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[6379] マブラヴ ~新たなる旅人~ 夜の果て
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:47

 まえがき

 傑作揃いのマブラヴSSを読み漁っているうちに、自分も書きたい衝動が抑えられなくなり、人生初のSSに挑戦してみることになりました。ドリアンマンと申します。


 まずはじめに───作者は冥夜が大好きです。

 マブラヴは本当に大好きなのですが、物語の構造上純夏ルート以外に出口がないのがあんまりだと思ったので、この話を書こうと思い立ちました。
 そういうわけで、余りにもありがちな話であることは自覚しながらも、目指すはマブラヴオルタネイティヴ『冥夜ルート』です。

 話としては、オルタのその後、白銀武の三周目になります。

 オルタ本編での出来事には一切変更等はなし。桜花作戦の後、パラポジトロニウム光に包まれて、気づけばまたあの世界の2001年10月22日に目覚めたという(とりあえずありがちな)形です。

 オリキャラは三周目の必然として出てくる、ヴァルキリーズのリタイア組ぐらい。もし他にでてきたとしても、脇役です。
 オリジナル戦術機や兵器はなし。オリジナルBETAもなし。

 その中を、ヒロイン冥夜、というか武と冥夜のW主役で戦い抜く話になります。

 純粋にオルタ本編の続きなので、既にヒロイン=純夏からのスタートなのですが、頑張って覆します。

 そもそもオルタ本編の、純夏以外選択肢が無い状態に武を追い込んで結ばれるというのは、彼女にとっても不本意なわけです。
 その解決策のひとつの姿がFEXでありAF(オルタ最終章及びオルタードフェイブル)ということなのでしょうが、自分としてはやはり武にはあの世界で戦い抜いて欲しかった。
 その戦いの中でこそ、冥夜と結ばれて欲しかったんです。

 とにかく遅筆に鞭打ってなんとしても書き切る所存ですので、拙い筆でも読んでくださる物好きな方がいらっしゃるなら、ついでと思って感想を下さるととても有難いです。


 では、そろそろ開幕です。
 三周目とはいえ、BETAとの戦いはあまいものではありません。武にも冥夜にもおおいに艱難辛苦が降りかかりますが、彼らならきっと乗り越えてくれるでしょう。
 どうか見守ってくれますよう───




 初投稿 2009/02/06 01:34



[6379] 第一章 新たなる旅人 1
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 15:15

「あたしたちの敵は……宇宙人よ」


「冥夜っっ!!!」


「そんなヤツに仲間の命は絶対に預けない」


「オレも、死ねるよ……でも」


「SES009!」


「タケルはボクのこと…きらい?」


「リミット5分前。合格よ」


「死人が、何故ここにいる?」


「勝てない相手でも戦えって、まりもちゃんに教わってるんだよ!」


「この一発で、決めます!」


「そなたの命、私にくれ!!」


「あたしは聖母にはなれなかった……」


「軍とは、そういうところだ」


「───鑑純夏様」


「タケルちゃんにはわからない!!」







「地球と、全人類だ」


「これ、元の……BETAがいない世界で見たんだっ!!」


「道を指し示そうとする者は、背負うべき責務の重さから、目を背けてはならないのです。そして、自らの手を汚すことを、厭うてはならないのです」


「臆病でも構わない。勇敢だと言われなくてもいい。それでも何十年でも生き残って、ひとりでも多くの人を守って欲しい……。そして、最後の最後に……白銀の、人としての強さを見せてくれればそれでいいのよ」


「あんたはあたしにとって一番有能な駒だったわ」「……よわむし」


「───そなたは何者だ、名を名乗るがよい」


『タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん、タケルちゃん』


「オレは純夏を、愛していますっ!!」「しっかりやんなさいよっ! 白銀武!」


「今のは……みなに黙って行った分だッ!」


「生命とはとても素晴らしいものだ。だが私達は、自らの生命を愛しすぎてはいけない」


「テストが成功して凄乃皇弐型が正規配備されたら、弟たちは戦わなくて済むかな」


「陽動を志願しますッ───オレにやらせてください!」


「私も多くの先達と同じく、基地に咲く桜となって貴様達を見守る。何かあったら……桜並木に会いに来い」


「みんなそれでも勇敢に戦った。人類は全然ビビってなかったぜ」「……たくさん辛いこと……ありましたね」


「鑑は歩きながら、声を殺して泣いておったのだぞ?」


「ほんとのわたしを…………見せてあげる……」


「私も……伊隅ヴァルキリーズの一員……です……! みんなと一緒に戦わせてください!」


「───人類の未来は……任せてください……ッ!」「よく言った……白銀。やっと一人前の衛士になったわね」


「皆さんと一緒に戦えるのは……嬉しいです」


「乙女心がわかってないよ……最低だよ、もぅ」


「じゃあ───今度は私が、速瀬中尉とお姉ちゃんの話をするね」


「ここは我等に任せてもらおうッ!」「フランスを───ユーラシアを取り戻してくれッ!!」


「人類を、無礼るな!!!」


「せめて最期は…愛する者の手で…そなたに撃たれて逝きたいのだ……ッ!!」「冥夜……」


「あなたの、『この世界』での戦いは終わりました」「5分だけ……泣いていいか?」


「さようなら。ガキくさい救世主さん」








 長い───長い夢を見ていた。
 黄昏の世界。鉄と死のあふれる戦場。その中でなお、輝き煌く命の光。
 辛くて、悲しくて、愛しくて、燃えるように熱く、死のように冷たい。そんなかけがえのない、おとぎばなしのような───長い───夢。


「朝……か」
 柔らかい光を感じて、武は目を覚ました。くるまった毛布の中、まといつく微睡みが重たかったが、身に付いた習慣で身体を起こす。
 ぼんやりと目に映るのは、見慣れたはずの自分の部屋の光景。
 夢か───、などと一瞬思ってしまって、即座に思い切り首を振る。

 ───夢なんかじゃ、ない……ッ!

 たとえどんな夢よりも遠くにあっても、決して手の届かぬ彼方に去ってしまったとしても、あの世界は、あの戦いは現実だ。
 純夏、冥夜、委員長、たま、彩峰、美琴、伊隅大尉、速瀬中尉、涼宮中尉、柏木、まりもちゃん──神宮司軍曹。そして、彼女らと同じように人類の未来を信じて散っていった多くの将兵、偉大な先人達。
 夕呼先生、霞、涼宮、宗像中尉、風間少尉、月詠中尉、神代、巴、戎少尉、そして殿下。これからも、あの世界で人類の未来をつかむために戦っていくであろう多くの人達。
 オレは、みんなのことを、あの世界のことを決して忘れない。

 武は溢れる想いに目をうるませながら、それをこぼさぬように奥歯を噛みしめた。


「あ~、そういや学校行かなくちゃいけないんだよな」
 零れ落ちそうだった涙と胸のふるえをようやく治めてから、武は困ったように呟いた。
 もうこっちの勉強なんてまったくわからない。そろそろ三年も終わりだってのにこれからどうすりゃ。ていうか、そもそも適応できるのかな、オレ。まあ、またまりもちゃんに会えるのはすげー嬉しいけど。
 そんなことをつらつらと考えながら、思い出したようにふと時計を見る。
「って! もう8時過ぎてるじゃねーか! 純夏のやついったい───」
 思わず口にしたところで、 背中に猛烈な寒気が走った。

 冥夜がいない!?
 『あの』10月22日に帰ってきたはずなのに!!

 まさか……まさかまさかまさか!!
 あまりのいやな予感に吐きそうになりながら、武は部屋を飛び出して、階段を駆け下り、玄関へと走った。
 信じたくない考えに目を背けようとしながら、鍵を開けてドアノブに手をかける。
 しかし、実のところとうに確信していたのかもしれない。
 武のもう片方の手には、白陵柊の制服とゲームガイがしっかりと抱えられていた。



 ───そして

 外はやはり、見渡す限りの廃墟だった。



 愛する幼馴染の家を押しつぶす破壊された戦術機、撃震を前にして、武は声を嗄らして哭いた。
 かけがえのない仲間達が、数多の勇士が、命を燃やして掴んだはずの希望の未来。それが閉じた世界の歯車に巻き込まれ、こんなにもあっさりとゼロに還る。その理不尽さに絶叫した。

 わかっている。今までだって、何度も世界をゼロに巻き戻してきたはず。今回もその輪から抜け出すことができなかっただけ──そう武は考えようとした。

 ───でも違う!
 あの世界は、限りない絶望の果てにようやくつかんだ、かけがえのない世界だったんだ。
 それをつかみとるため、そしてオレを生かすために散らされたみんなの命、みんなの意思は、もうどうしようもないほどオレの一部だ。それが無意味だったなんて。しかもそうなったら『元の世界』は……。こんな訳のわからない展開でそんなこと───

「認められるかよおおおぉぉぉぉぉおおおぉぉおおォォォォ!!!!」

 その叫びは運命に対する怒り。
 胸に渦巻く憤怒の炎をすべて吐き出そうとするかのように、武は吼え続けた。
 精根尽き果てるようにしてその叫びが止まった後も、眦から涙がこぼれることはなかった。




「そう……だったな」

 絶叫が静まり、荒涼とした空気だけがその場に残ってからしばらくして───呟きが風に乗った。
「純夏、お前に約束したんだもんな。もう一度ループすることになったとしても、あきらめたりしないって。今度こそ、理想の未来をつかむためにがんばるって」
 言葉をつむぎながら武は立ち上がる。すでに、その瞳には不屈の輝きがよみがえっていた。

「純夏、お前やみんなの犠牲が無に還っちまったなんて、絶対許せねえ。でも、ここにオレが生きていて、みんなのことを覚えているなら、まだ全部終わっちまったわけじゃねーよな。この世界でこそ、必ず因果導体なんて運命ぶち壊してやる。もちろんBETAも根こそぎ地球から叩き出す。約束通り、すぐにこの世界の純夏に会いにいくから、見守っててくれよな」
 空を見上げてそれだけ言うと、武は制服に着替えて横浜基地へと歩き出した。

 まずは夕呼との対面だ。
 持てる情報と能力を示し、自らを駒でなく共犯者足り得ると認めさせねばならない。
 武は、また恩師と会えることをうれしく思いながらも、冷静に気持ちを引き締めた。








 第一章  新たなる旅人


 2001年10月22日


 国連太平洋方面第11軍横浜基地。

 記憶どおりの廃墟であった柊町を抜け、英霊達の眠る桜並木を登り、例によって大仰なレーダーにわずかな感慨を覚えながら、武はオルタネイティヴ4総本山の正門前にたどり着いた。
 ゲートには衛兵として歩兵が二人。これまた例によって、黒人と東洋系のあの二人だ。訓練兵の制服姿を見て、陽気に声をかけてくる。 
「外出していたのか? 物好きなやつだな。どこまで行っても廃墟だけだろうに」
「隊に戻るんだろう? 許可証と認識票を提示してくれ」

(ははっ、やっぱりあのときとおんなじだ)

 二ヶ月余り前に経験した通りのやり取りに、安堵を覚えながら言葉を返す。
「あー、すまないが、オレは許可証も認識票も持ってない。そういうわけで、ちょっと取次ぎを頼みたいんだが」
 とぼけた返答に、二人は即座に警戒を高め、小銃を構えた。
「動くな。両足を開いて両手を頭の上につけろ。ゆっくりだ。妙な真似はするな」
 武はおとなしく手を上げた。身体検査が終わるのを待って──ゲームガイは取り上げられたが──口を開く。

「改めて、香月博士に取次ぎを頼みたい。オレは白銀武。白銀武が純夏に会いに来た、と博士に伝えてくれないか。香月博士がらみのことは、どんな小さなことでも全部報告しろと命令を受けているだろう?」
 その言葉に二人は困惑の表情をみせたが、結局あきらめたように連絡をつけにいった。ややあって、『代われ』との言葉がかけられる。変わらず警戒されながら、武はゲート脇のボックスで通話機を手に取った。


『で、あんた誰?』

 耳を叩いたのは、ひどく不機嫌そうな声だった。普通の人間なら萎縮してしまうであろう、不穏な響きの詰問である。
 だが、それを受けた武はむしろ喜びに口元をゆるめた。艶よく響く低音は、紛れもなく香月夕呼の声だ。この頃は切羽詰ってるはずだしな、などと考えて、軽い調子で答えた。

「白銀武ですよ、夕呼先生」
『は? 先生? あたしは教え子なんか持った覚えないわよ?』
「オレにとっては尊敬する先生なんですよ。今までずっとそう呼んでたんで、その辺は勘弁してください」
『はあ?』
 呆れた空気の夕呼だったが、武はかまわず話を続けていく。

「連絡してもらったとおり、幼馴染の純夏に会いに来ました。今度は真っ先に会いに行くって、約束しちゃったんですよね。だから部屋まで通してもらえませんか」
 わけのわからない言動に──まあ、意図してやっているのだが──ますます呆れる、というかいぶかしむ様子の夕呼。だが、次の一言で空気が変わった。
「ついでにといいますか、4と5について有益な情報があります。4は行き詰まり、5はお空の上で大忙しでしょうから、聞いておいて損は無いと思いますが」
 通話越しにもあきらかな緊張が流れ、武はそこで言葉を切る。
 しばらく無言の間をあけて、夕呼が一転、冷たく硬質な声音で言った。

『あんた───シロガネタケルなのね』
 喰いついた! と内心喜びながら、武もキーワードで返す。
「解剖してシリンダーにでも入れますか?」
『───ッ! わかったわ、迎えをよこすからついていきなさい』

 一瞬の驚愕をにじませて、それを最後に通話は切られた。
 とりあえず以前よりは手早く話がまとまったが、もちろん本番はこれからだ。通話機を置き、武はあらためて気合を入れなおした。
 穏便に話がついたことで、衛兵たちも警戒を弛めたらしい。夕呼の言った迎えが来るまで、武は銃を下ろした彼らと話をした。陽気な二人とは馬が合い、短い間でもなかなかに話が弾んだ。
 そうして少しの間があって、迎えに現れたのはこれも見知った金髪の秘書官だった。






 数時間に及ぶ検査を経たのち、武は地下19階の夕呼の部屋───相変わらず散らかった書類まみれの執務室で、彼女と向かい合っていた。
 『前の世界』で別れたときと同じ、ブルーグレーの国連軍制服に白衣を羽織ったいつもの格好。しかし、その表情は全く違った。不審極まりない来訪者を前にして、やつれ気味の美貌を険しく固めている。
 その事実に複雑な想いを抱きながらも、武は自ら動くことはせず、向こうからの質問を待つ。
 双方そらすことのない視線の対峙がしばらくあったが、結局根負けしたように夕呼が口を開いた。

「───で、あんたは何者なわけ? どこまでオルタネイティヴ計画のことを知っているの? 望み通り二人っきりになってやったんだから、さっさと答えなさい」
 ほとんど敵意を含んだ詰問に、わずかな懐かしさを覚える。

「何度も言いましたが、オレは白銀武。先生に協力するために来ました。その見返りにいくつか頼みたいこともありますが……。オルタネイティヴ計画についてどれだけ知ってるかと言えば、ほぼすべてってとこですかね。もちろんオレは天才じゃないですから、理論についてはさっぱりですが。そのかわり、先生が知らないことについても、いくらかは知ってると思いますよ」
「ふ~ん、すべて、ね。じゃあ、何をどれだけ知ってるか、詳しく言ってみなさい」
 『白銀武』の名乗りには触れず、夕呼は試すように続きを促す。武は、まずは『特別』でないところからだな、と考え、「そうですね……」と口を開いた。



 この世界は現在、地球外起源生命体BETAによる侵略を受けている。
 火星から月、そして地球と、彼らの太陽系侵攻は止まることを知らず、今や人類はユーラシア大陸を失い、滅亡の危機にさらされていた。
 オルタネイティヴ計画とは、月面においてBETAとの敵対的接触が行われる以前、1966年から国連指揮下で秘密裏に開始された巨大計画の名称である。
 それは知的生命体と考えられるBETAとの意思疎通を図り、あるいはその生態、行動を研究し、様々な情報を収集することによって、悪化する一方の戦況を打開するための計画であり、戦争終結に繋がる決定的な打開策を見出すことこそ叶わなかったものの、人類が圧倒的な敵侵攻を遅滞し耐え抜く助けとなった、多くの成果を上げてきた。
 だが、そのオルタネイティヴ計画も第三次計画が1995年まで継続した後、追い詰められ困窮する人類の状況を象徴するかのように、世界各国の政治的対立を受けて、二つの計画に分裂する事態となってしまっていた。すなわち、予備計画として米国が主導するオルタネイティヴ5と、日本帝国の主導により今まさにこの横浜で行われている本計画、オルタネイティヴ4である。

 その二つ。まずは予備計画であるオルタネイティヴ5の地球脱出計画、その後に続くバビロン作戦についての話から始まって、本計画としてオルタネイティヴ3の成果を接収して開始されたオルタネイティヴ4についても、BETA相手の諜報活動というその目的、計画の焦点である00ユニット、その素体として集められたA-01部隊の存在などを、武はすらすらと並べ立てていく。
 気負いのないのは、この話が武にとってはあくまで小手調べにすぎないものであったからだが、聞いている夕呼は表情を硬くしていた。それも当然だろう。この時点ですでに、各国政府中枢の人間でもなければ知り得ないような情報が晒されていたのだから。
 ましてその上、明星作戦で横浜ハイヴから発見されたBETA捕虜の生き残り、鑑純夏のことまで詳細に知られており、「で、オレがその純夏の会いたがっている、幼馴染の白銀武ってわけです」と話を締められるに至っては、まさに絶句する思いだったことは想像に難くない。

 ここまでの話を聞いてどんな判断をしたのか、夕呼は視線を険しくし、懐に手を入れる。取り出した拳銃をまっすぐに武へと向けた。

「あらためて聞くわ。あなたが何者か、目的は何なのか。正直に答えなさい!」

 銃を突き付けられても、武は動じなかった。彼女が撃たないことはわかっている。力を抜いたまま穏やかに言う。
「ほんとに何度も言いますが、オレは白銀武本人ですよ。背後関係は何もありません。目的はオルタネイティヴ4の完遂とBETAの殲滅、人類の勝利。先生と同じだと思いますが」
「とても信じられないわね。あなたが反オルタネイティヴ派の工作員であるって方に、より信憑性を感じるんだけど?」

 ───『前回』はここで涙がこみ上げて、先生にくってかかったっけ。たしか半導体150億個の話を出したんだったな。

 嘲るような台詞に、かつての同じシチュエーションをしみじみと思い出す。
 今度は悲しみと怒りではなく、慕情がこみ上げて頬がゆるんだ。

「はは、こんなおかしな工作員がいるわけないでしょ。それより、そろそろ銃を下ろしませんか? 先生の腕じゃ撃っても当たらないでしょうけど、暴発とかしたらヤバいですから」
「……………………」
 しばらく無言で構えていた夕呼だったが、武の態度に脅しの無意味を悟ったか、あるいは腕が疲れたからか、意外にあっさり銃を机に置く。
 一瞬頬が赤くなったように見えたのは、素人だと見破られたからだろうか。肉体労働なんてバカにしてそうなのに、この人負けず嫌いだからなあ、などと聞かれたら怒りそうなことを武は考え、かすかに口元をゆるめた。そして、これからが正念場だと改めて心を据える。





「───じゃあそろそろ本題の、先生の知らない話に入ります」

 夕呼が銃を下ろすと、目の前の相手はそう言って、長い話になるからと着席を促してきた。今まさに銃口を向けられていたというのに、その様子には少しも怯んだところがない。
 夕呼はデスクに手を掛け、改めて不審な来訪者を睨め付けた。

 見た目はまだ若い───訓練兵の制服を着ていることもあるが、おそらく二十歳にもなっていないだろう。
 だが、ここまでの話は正真正銘最高機密のオンパレードであり、滅多な人間が知ることの出来るものではなかった。確かに諜報員や工作員としては不可解だったが、危険な人間であるのは間違いない。
 この男が名乗った『白銀武』という名前。計画の中枢たる『鑑純夏』に関わる存在として、その名前は知っていた。
 しかし、それが本名であるはずはない。計画の役に立つかもしれないと、その消息については調べさせてある。その名前を持った少年は、もうこの世にはいない。とっくに死んでいるはずの存在なのだ。
 正体不明の相手はなおも飄々と構え、こちらの動きを観察するようにしている。夕呼は息をついた。
 知らない話とやらを聞いてやろうと、執務椅子に座って足を組む。『白銀武』もまた、頷いて手近の椅子に腰を下ろす。
 そうして『本題』を切り出してきた。


「さっき、オレはオルタネイティヴ4完遂のために来たと言いました。ですが、このままだと第4計画はあと二ヶ月で打ち切りになります」
「───ッ! ……根拠は?」

 いきなりの断言に、夕呼は思わず息を呑んだ。
 彼女の進めるオルタネイティヴ4、第4計画の土台は、決して盤石のものとはいえない。次期計画たる第五計画派を始めとして、隙を見せれば即、足を掬おうとする勢力が数多くある。
 そんな中、計画の要たる00ユニットの研究が完成まであと一歩のところで行き詰まってしまっており、彼女は焦りを募らせていた。その急所を突かれたのだ。
 それでも、夕呼が動じたのは一瞬だけだった。わずか一呼吸で衝撃と苛立ちを呑み込み、冷静に先を促す。しかし、相手は更に爆弾を投じてきた。

「実際に体験したからです。今年のクリスマス、2001年12月24日にオルタネイティヴ4は打ち切られ、オルタネイティヴ5に移行しました」
 さすがに困惑を隠せなかった。呆気に取られているうちに話が続く。
「理由は簡単。オルタネイティヴ4は何の成果も残せなかったからです。それは───」

「ちょっと待って」
 夕呼はそこで言葉を遮った。
「つまり、あんたは……」

「ええ、オレは未来からきました」

 挟もうとした疑問を言い終えるまもなく、あっさりと答えがきた。普通なら与太話以外のなにものでもない話だが、彼女の因果律量子論に基づけば可能性は否定できない。
 夕呼がどう反応すべきか迷っていると、相手はその隙に、さらに突拍子も無い話を積み上げていった。

 自分が元は、『この世界』とよく似た、しかしBETAのいない世界で生まれたこと。
 平穏(?)な高校生活を送っていた最中、ある朝突然この世界で目覚めたこと。
 横浜基地に赴き、訓練兵となって衛士を目指したこと。
 この世界には、元の世界と同じ人間が違う役割をもって存在していたこと。
 そして二ヵ月後、基地司令からオルタネイティヴ4の打ち切りを告げられたこと。

「ちなみに、オルタネイティヴ計画のことを初めて知ったのはこの時です」
 そこで少し説明が止まった。反応を探るような相手の様子に、夕呼は呟く。
「つまり……あんたが『白銀武』ってわけね」
「そうです。『この世界』のオレはもう死んでますけど、オレは間違いなく、純夏が望んだ『白銀武』です」
 その解は、夕呼にとって納得し得るものだった。今までの情報に矛盾はなく、むしろ因果律量子論の仮説に当てはまる。
 過去、いや未来の自分が関わっているというのならば、彼女は答えを出したのだろうか。
 夕呼はそれを問おうとしたが、「ちょっと待って下さい」と遮られた。『白銀武』は先に話の続きを進めたいらしい。確かにその方が効率的だ。口にしかけた言葉を収め、聞くことにする。
 それは、彼女が失敗した後の史実だった。

 オルタネイティヴ4が打ち切られた後、夕呼ら計画の関係者は横浜から消えてしまった。
 しかし武たちはその後も基地に残り、国連軍の衛士として死にもの狂いで訓練を続けることになる。
 2年後、バーナード星系に向かって、地球を脱出した移民船団について。
 地球に残った人類が打って出た、G弾の大量運用による大反攻作戦。
 その後の記憶はおぼろげだが、気がつくと圧倒的な敗北感、喪失感とともに、再びこの世界の2001年10月22日に目覚めたこと。


「と、ここまででなにか質問は?」
 『一回目の世界』の説明を終えたところで、いったん話が止まった。
「ここまで、ってことはまだ続きがあるのね?」
「ええ、むしろこれからが本番です」
 そう言われて、ぐっと身構える夕呼だったが───

「ああ、忘れてました」
 ぽん、と手をたたいて武は話を変えた。思わず肩すかしをくらう。
「俺が持ってきた機械。ゲームガイっていう携帯用ゲーム機で、ただひとつ『元の世界』、俺が生まれた世界から持ち込んだ物です。この世界には存在し得ない代物でしょう?」

 そう言われて、夕呼は考え込んだ。
 確かにあの機械に使われている液晶技術は、この世界では考えられない高精度なものだった。
 もちろん開発することは不可能ではないが、すでに網膜投影技術が確立している以上、実用性の薄いそんな技術を巨額の予算と時間を費やして、しかも極秘裏に開発するなどまずありえない。そんな余裕は今の人類には無い。
 夕呼は唇を噛んだ。やはりこいつは───

 目の前の男が、自らの理論を体現する存在なのかと、ある種の戦慄に身を震わせる。
 押し黙る夕呼の様子に新たな質問がなさそうだと思ったのか、武は二度目の未来、『前の世界』のことを語り始めていた。

「細かく話していくとものすごく長くなるんで、とりあえず大筋だけまとめますけど───」

 そう前置いて武が話したのは、これから先、わずか二ヶ月間の物語。

 過去に遡った武が、未来を変えるために再び夕呼のもとを訪れたこと。
 夕呼の部下となり、未来情報を提供しながら衛士として戦ったこと。
 00ユニットが完成し、凄乃皇弐型を使って佐渡島ハイヴを落としたこと。
 そのわずか一週間後、桜花作戦が発令され、多大な犠牲を払いながらもオリジナルハイヴを落としたこと。
 そこで武は『この世界』を永遠に離れ『元の世界』へと帰ることになるはずだったが、なぜか今、みたびここにいること。


「───と、大体こんなところですね」
 淡々と語っていた武がそう言って話を締め、ようやく過去が『今』に追いついた。
 二ヶ月のこととはいえ詰めに詰めた話だったが、その中にあった重みは尋常ではない。聞き終えた夕呼は、自分の鼓動が高鳴っていることを意識していた。
 淡々とした口調に秘められた真実の重み。事実上違う世界のこととはいえ、自分は本懐を───少なくとも大きな一歩を踏み進めたのだ。
 まとまった話を終えた相手が、改めて質問はないかと待っている。夕呼は湧き上がる興奮を感じながら、しかし殊更冷静に思考を紡いだ。





「聞きたいことはありすぎるくらいあるけど───まず、『一回目の世界』では00ユニットは完成しなかったのに、『前の世界』では違ったのは何故? あなたは理論に関しては何も知らないと言ったはずだけど?」

 据わったような目をして考えに耽っていた夕呼が、おもむろにそう訊いてきた。
 『前の世界』の話については、我ながら少々端折りすぎたかと思った武だったが、さすがに天才のつっこみは的確だった。最重要ポイントだ。隠すつもりもない。
「先生は今、半導体150億個分の並列処理装置を手のひらサイズに出来ないって悩んでますよね。脳の人格データを数値化して移植する段階でつまづいてる、でしたっけ?」
 またも余人の知るはずがない情報を出されて、夕呼がわずかに口元を動かす。だが、もういちいち驚いてもいられないのだろう。無言で流し、話の続きを促してくる。
 しかし、武の次の言葉には、さすがに彼女も黙っていられなかった。

「その問題を解決するには、技術的なアプローチじゃ無理なんです。そもそも根本理論が間違ってるんですから」

「なんですってぇッ!!」
 思わず立ち上がって詰め寄る夕呼。
「あれが否定されるって、どういうことかわかってんの!? だいたい、あたしの理論が間違ってるってんなら、あんたの存在はどうなんのよ!!」
 今回はまだ初対面であるにもかかわらず、胸倉をつかんでガクガクと揺さぶってくる。

「落ち着いてくださいって。正確には間違ってるんじゃなくて古いんです。現在の技術で00ユニットを完成させるには、もっと進んだ、まったく新しい理論が必要なんですよ」
「どういうこと? あんたが考えたとか言ったらぶっ殺すわよ」

 ───うわ、向こうの先生とおんなじ台詞だよ。やっぱり同じ人なんだなあ。
 いかにも夕呼らしい物言いに苦笑しつつ、武は核心に入った。

「『元の世界』の夕呼先生が、オレの高校の物理教師だったってのは言いましたよね。理論を完成させたのは、そのあっちの先生です。だから数式を手に入れるためには、オレが『元の世界』へ行く必要があります。『一回目の世界』では、オルタネイティヴ4のことはまったく知らなかったから気がつかなかったんですよ」

 それを聞いて、夕呼は武をつかんでいた手を放した。少し考えて「なるほどね……」とつぶやく。
 さすがにピンときたようだ。
「わかったわ。すぐに世界転移の準備を整える。数式を回収してきたら、とりあえずあんたのことを信用してあげるわ。そういうわけで、先に聞いておきましょう。あんたの頼みごとってのは何?」


「ありがとうございます。じゃあまずはひとつ、これは頼みっていうかこっちからの提供でもあるんですけど、新しいOSを作ってほしいんです。戦術機の」
 その頼みを聞いて、夕呼は前回同様ひどくごねた。

 武は、この世界の衛士では決して発想できない、『元の世界』仕込みの自分の特異な機動制御技術が、BETAに対して非常に有効であること。
 その機動を誰でも出来るようにするコンボと、キャンセル、先行入力の概念。
 オルタネイティヴ4の産物である高性能並列処理装置を利用すれば、その概念を実用レベルで実現できること。
 XM3として実用化されたそのOSを使用した、207BやA-01の戦果。
 そのOSが普及すれば、衛士の死者は半分以下に減るだろうと評価されたこと。
 そして、そのOSの交渉のカードとしての有用性。
 それらを懇切丁寧に説明し、結果、後々シミュレーターで武の腕前を確認してから判断する、ということで決着した。


「二つめの頼みは、夕呼先生の庇護が欲しいってことです。知っての通り、この世界の白銀武はとうに死んでますから、先生に身分を用意してもらわないとどうにも動きようがありません」
 それなら簡単だ。少なくとも国連内部のことなら、夕呼の指示ひとつですぐにでも可能だ。
 しかし政府と城内省、特に城内省のデータ改竄となると、一朝一夕というような容易いことではない。
 夕呼がそう返すと、武は事も無く、という調子で答えた。
「冥夜についている斯衛、月詠さんたちのことですね。それなら問題ありません。前回もその前も怪しまれましたけど、そんなこと関係なくなるくらい彼女らから信頼を受けられるようになれば済む話です。その自信はありますし、月詠さんもおおごとにして騒ぎを起こしたりするほど馬鹿じゃありませんから」

 ───オレに冥夜を大事に思う気持ちがある限り、月詠さんは決して敵に回ったりしない。
 武は、『前の世界』で自分に頭を下げた月詠の姿を思い出し、その重さをかみ締める。

 武の言葉を聞いて納得したのかどうか、夕呼はその場で国連内部の白銀武の情報を改竄してしまった。


「あと欲しいのは地位ですね。まあどのみち先生の部下として働くことになるでしょうから、階級なんて飾りみたいなものですが───それでも、オレの大事な人たちをこの手で守るために、少しは足しにもなるでしょう」
 だから少しでも高い階級が欲しい、と言う武。
 これも横浜基地副司令にして実質的な最高責任者である夕呼なら、独断で何とでもなることだ。
 武のことが信用できてから───つまり数式を手に入れてから、という条件で夕呼は承諾した。



 そこまでは普通に交渉していた二人だったが、最後に、ということで武が発した頼みは、またも夕呼にとってG弾級の爆弾発言だった。

「オレを、『因果導体』でなくすために力を貸してください」 

 そう云って、武は説明を始めた。
 夕呼も関わるこの世界の過去、三年前の横浜を基点にした話を。


 まず語られたのは、1998年8月に起きたBETAの横浜侵攻。その際に、逃げ遅れた純夏と『この世界』の白銀武が彼らの捕虜になったことである。
 武は純夏の目の前で兵士級に食い殺され、残された純夏はBETAの手によって凄惨な陵辱、人体実験を受けた。
 実験の為に肉体を改造され、挙句の果てに快楽の為に不要と判断された部位はどんどん削り取られていき、ついには脳みそと脊髄だけの姿にされてしまう。
 そのような状態でも生かされ続け、自我崩壊の瀬戸際にありながら、ただ武への思いだけで彼女がながらえてきたこと。

 そして、1999年の明星作戦による横浜奪還。
 その際に投下された二発のG弾の爆発が、時空間に鋭い亀裂を作り、そこに反応炉が共鳴する。ハイヴに貯蔵されたG元素が消費されて莫大なエネルギーを生み、反応炉によって変換、増幅された純夏の思念、『タケルちゃんに会いたい』という強い意思がそれらの事象を統合して、今の武をこの世界に連れてくることになったということ。

 純夏の受けた仕打ちを語るのは断腸の思いだったが、そこまで話して武はいったん言葉を切り、夕呼を見つめる。
 苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「鑑純夏が何らかの実験を受けていたことはある程度わかっていたけど、そんなことまでされてたなんてね。やつら人間を生命体と認めてないくせに、なめた真似してくれるじゃない」
 夕呼のこめかみを震わせていたのは、BETAへの怒りか、あるいはひとりの少女への哀れみか。
 彼女の優しさを知る武は、それには触れずに頼みごとの説明を再開した。


 今の武は、『元の世界』と呼んでいる世界を含む、数多の世界の白銀武から集められた因果情報によって形作られた統合体であり、世界間の因果をつなぐ『因果導体』であること。
 その数多の世界の発生した分岐基点がまさに今日この日、2001年10月22日であり、それが重い因果情報となってこの世界の理を狂わせている───すなわち、武がやってきたこの日を起点とし、武の死を終点として、無限に確率分岐していくはずの世界が閉じてしまっていること。
 ループの際には、純夏の無意識の嫉妬心が武の恋愛がらみの記憶を削り取っており、おそらく武は覚えていないだけで『一回目の世界』を無数に繰り返しているはずだということ。
 ループからの解放条件は、武と純夏が結ばれることだということ。

「『前の世界』で純夏は00ユニットとなり、オレは純夏と結ばれました。そのときに純夏の無意識領域が解放され、あいつは全てを知ったんです。自分の嫉妬がみんなを苦しめていたと知り、そのせめてもの償いにと、あいつはオリジナルハイヴへ赴いて───そこで、死にました。甲21号作戦の後、佐渡島の残存BETAに横浜基地が襲われて、反応炉を破壊せざるを得ませんでしたから、もう自分が助からないことを知っていたんですよね」
 武にとってはわずかに二日前のことだ。その目蓋には彼女の死に顔が、その手には最期のぬくもりが、まだはっきりと残っている。

「純夏がオレをループさせる力を失い死んだことで、オレは『元の世界』に帰ることになるはずでした。みんなが命を擲った『この世界』でこれからも戦い、その果てに『この世界』で死にたいとオレは望みましたが、原因が消滅すれば結果もまた消滅すると……。純夏が死んだ次の日、オレはパラポジトロニウム光に包まれて───なのに、長い長い夢を見たような感覚の後、気がつけばまた今日に戻っていました」

 そこまで話して武が目を移すと、夕呼は情報処理中だった。その脳の中には、現在洪水のように情報や理論が渦巻いているのだろう。邪魔をしないようにと、武は一旦話を止める。
 数分後、ようやく戻ってきたらしい様子なのを確認して、再び口を開いた。


「『前の世界』で、オレは散々先生に利用されました。まあ、オレが甘ちゃんで利用されるぐらいしか能がなかったんだから自業自得ですが、おかげで地獄を見させてもらいましたよ」
 そう言って、これまで穏やかだった視線が、射抜くような鋭さになる。
 対峙する夕呼の視線も、また同様に鋭くなった。

「00ユニットとなった純夏に自我を取り戻させるために、先生は因果導体であるオレを『元の世界』へ戻す必要があった。そしてオレは、『元の世界』でまりもちゃんを死なせ、冥夜の記憶を失わせ、純夏に最悪の重傷を負わせました。挙句オレの持ち込んだ死の因果は、いずれあの世界で50億の人間を殺すことになるかもしれないと」
 さらに強くなった視線。しかし、夕呼は全く表情を変えなかった。
 それを当然と思って武は続ける。
「それを知らされたオレは、自分を因果導体でなくし、世界を再構成するために、向こうの夕呼先生の助けでこっちに戻ってきました───」

 拳をふるわせ、立ち上がる武。その声音には、必死の感情がありありと篭められていた。

「───まだ、手遅れじゃないかもしれない! あの世界を救うため、先生の力を貸してください!! オレの情報が真実なら、それだけの価値はあるでしょう? ついでにオレの命も先生に預けます。足りなきゃ好きなように使ってください!! オレが死んだらやり直しなんて世界、先生にとっても願い下げでしょう!?」

 初めて声を荒げて願う武。
 その気迫に気圧されたように、夕呼の言葉はわずかに詰まった。
「…………なぜ、そうまで言うの? あんたを利用して、あんたの世界を滅茶苦茶にしたのは、あたしなんでしょう」

「夕呼先生が───いえ、あなたが、オレなんかとは比べ物にならない地獄を歩んでいると知っているからです。そして、あなたの覚悟と優しさを、知っているからです」
 激情から一転して穏やかな声。真摯で優しく、そしてどこか悲痛な眼差し。
「何も感じなくなったら、感情を捨てたらBETAと同じだって、前の世界であなたに言われました───感情をコントロールして、決して道を誤るなと。あなたは誰よりも厳しく惨い道を選びながら、優しさを捨てることはない。人類のために、永劫苦しんでいく人です。だからオレはその力になりたい───頼みごととは別の話として」

「あんたみたいなガキに、本音をみせるようなあたしじゃないわよ。なんか勘違いしてるんじゃないの?」
「そうでもないと思いますよ。『前の世界』で、死に際に伊隅大尉が言ってました。あの人は計画の機密保持は徹底してるが、自分の感情を隠すのは案外下手だって。オレも大尉に同感です」

 二年間腹心を勤めてきた部下の名を出され、夕呼は虚を突かれたようだった。
 思い浮かべるように視線をさまよわせ、少しの間沈黙する。
 そうして、苦笑するように口の端をゆがめた。

「わかったわ、あなたという人間は信用してあげる。でも約束どおり、頼みごとを聞くのは数式を回収してあんたの情報が正しいって証明されてからよ」
「───! 霞に確認してくれましたか?」
 結論を出した夕呼に、武は勢い込んで聞く。夕呼の口から、今日幾度目かのため息が落ちた。

「はあ……やっぱりあの娘のことも知ってるわけね」
「そりゃ戦友ですから」

 社霞。オルタネイティヴ3で生み出された最高のリーディング能力者にして、数少ない実験体の生き残りである。
 当然最初からモニターされていると知っていたので聞いたのだが、結論を出した理由は違ったようだ。夕呼がきつく武を睨みつけた。 
「みくびらないでよね。今のあんたの目を見せられりゃ、信用できるかどうかなんて嫌でもわかるわよ。で、条件はそれでいいわけ?」

 ぶっきらぼうな言葉だったが、どうやら最低限の信用は得られたらしい。
 武は安堵してうなずき、手を差し出した。
 握り返されはしなかった。




[6379] 第一章 新たなる旅人 2
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:35

「さて、あんたこの後どうするの?」

 話がまとまったところで、夕呼からIDカードを渡され、今日これからの予定を尋ねられた。
 もともとしようと思っていた話であり、武は即座に答えを返す。
「そうですね。最初に言った通り、まず純夏と霞にあいさつを。それから207Bのみんなに会いたいです。訓練兵として編入の手続きをとってもらえませんか?」
「訓練兵~? あんた、話通りの腕なら、あいつらに混じって訓練なんて時間の無駄でしょうが。やってもらうことは山ほどあんのよ? だいたいあんた、地位が欲しいんじゃなかったの?」
 眉間にしわを寄せ、眇めた目で睨んでくる夕呼。
 だが、武にとっては大事な理由のあることだ。きっぱりと押し通した。

「あいつらは大切な仲間ですから。あいつらのおかげで、オレは『前の世界』でオリジナルハイヴを攻略し、生きて帰ってくることができました。衛士としての力はもちろん、最善の未来を選び取る力も───先生流に言えば、最高の00ユニット適性を持ったやつらです」

 その彼女達ですら、最善の結果を勝ち取るために命を擲たなければならなかった『前の世界』。
 大きすぎる犠牲を払ったオリジナルハイヴでの戦いを───その手で仲間を撃ったことを思い返し、武は瞑目する。
 笑って命を差し出した彼女たちのためにも、誇りを持って語らねばならない。

「これからの戦いの為に、絶対に必要な戦力です。けど、今のあいつらは色んなしがらみに縛られてその力を発揮できていない。だからオレが訓練兵として仲間になって、引っ掻き回してきます。一週間もあればなんとかなるでしょう。そのころにはそろそろ数式も回収できる目処が立ってるでしょうし、約束通り昇進させてもらいます。さすがに総戦技演習まで参加してる暇はありませんからね」

 夕呼は納得した様子だった。
 彼女らの厄介な政治的立場については言わずもがなだし、適性の高さについても思うところがあったのかもしれない。
「話はわかったわ。まりもには伝えておくから、あいさつとやらを済ませたら、グラウンドに行きなさい」
 そう言うと、夕呼はもう武には興味無いかのように、パソコンに向かってキーボードを叩き始めた。もう話しかけても聞こえなさそうだ。
 ある意味いつものことなので、武は邪魔をせぬようにと、黙って踵を返した。







 夕呼の部屋を出た武は、青白い光に照らされた廊下を歩いていた。
 純夏のいる部屋に続く廊下。きわめて頑丈に造られた通路を照らす光には、目指す部屋を満たす光と似通った印象がある。
 まさかこんなことでハイヴの機能を利用しているというわけでもないだろうが、ある種の諧謔だったりするのだろうか。
 鼓動が高鳴るのを感じながら武は歩を進め、その部屋の前に着く。
 滅多な人間では入れないセキュリティレベルだが、スライドドアは問題なく開いた。

 通路の照明と同じく青白い、しかしより深く、まるで息づくような光が零れ出た。
 機材やパイプ、いくつものコードが入り混じる部屋は、しかし広さの割りに殺風景で、中央に青白く光るシリンダーがある。

 部屋には少女が『二人』いた。
 まずは、シリンダーの前にひとり。
 そして、シリンダーの『中』にひとり。

 脳みその浮いたシリンダー、その光に照らされた薄暗い部屋。 
 普通の人間が見れば薄ら寒くなるような景色だったが、武は温かい気持ちを覚えながら、シリンダーの前の少女に話しかけた。

「はじめまして。オレは白銀武。君の名前は?」

 もちろん、よく知る少女だったが、武は敢えてそう訊いた。
 『前回』は話しかけようとしたら逃げられたものだが、今回はそうはならなかった。
 それでも返事はなかなかもらえなかった。ウサギの耳がぷるぷるふるえている。
 『二ヵ月後』の毅然とした彼女との対比を楽しみながら待っていると、ようやく返事があった。

「……はじめてじゃ……ないです」
 確かに、武にとっては初めてではない。けれど。
「うん、たしかにオレにとって、君は大事な家族みたいなもんだ。でも、やっぱり『この世界』では会うのは初めてだからさ。自己紹介はきちんとやりたい。あらためて、オレは白銀武、君の名前は?」

「…………………………」

「…………………………」

「……社……霞です。……霞、で……いいです」

 今度は呼び名まで先回りしてきた。
 驚きながら、武も返事をする。
「わかったよ、霞。もう『観てる』だろうから知ってると思うけど、オレは別の世界出身で、おまけに未来から来た。これから夕呼先生の下で働くから、霞とは長い付き合いになるだろうけど、またよろしくな」
 そう言って手を差し出した武に、霞は「……はい」と答えておずおずと握り返す。
 その顔はほのかに嬉しそうだった。本当にほのかで、普通の人間ならわからない程だっただろうが。

 その顔を見て──霞の表情鑑定技能を鍛え抜いてきた武だから、もちろん嬉しそうなのはわかった──武は思う。
 今度はもっと楽しい思い出をいっぱい作ろう。前に果たせなかった、一緒に海に行くという約束もきっと果たそうと。
 その思いは、BETAを地球から叩き出し、この星にかつての美しい姿を取り戻させるという意志を、よりいっそう強くするものだった。


 霞との初対面の挨拶を終えて、武はシリンダーの方に向き直った。不思議な質感の表面に手を当てて、『前の世界』のことを思い返す。

 ───純夏。

 オレがおまえと話したのは、桜花作戦の出撃前が最後になっちまった。
 207Bの仲間をみんな失って、それでもおまえだけは生きててくれてると思ってたから、帰ってきて真実を知ったときは、本当に悲しかったよ。
 おまえも辛かったよな、純夏。
 だから約束する。
 精一杯、本当に精一杯戦ったおまえの分まで、『この世界』の純夏には未来をやる。
 00ユニットっていう重い運命を背負わせるのは避けられないけど、それでも生きていける未来を。
 必ずだ。

 今の純夏は目も見えず、耳も聞こえない。だから、武は心の中でのみ誓った。
 それは運命すらも変えうるほどに強い誓い。
 固く定まった意思の下、時間までが固着するように思えた。



 さて、あまりもたもたしていると207Bの訓練が終わってしまう。
 しばらく身じろぎもせずにいたあと、そう考えて突いていた手を離し、武は純夏のシリンダーに背を向けた。
 霞に純夏とずっと話し続けてくれたお礼を言って、スライドドアの前に立つ。
 最後に振り向き、「またな」と言って外へ出た。

 ───なお、今度も霞は、一度で「……またね」と返事をした。すごい成長(?)だと思う武だった。








 すでに陽も傾きかけたグラウンドで、武は神宮司まりもと対面していた。

「貴様が連絡のあった白銀武だな?」
「はっ、神宮司教官! このたび207B衛士訓練分隊に配属となりました、白銀武訓練兵であります!」

 ───神宮司軍曹。まりもちゃん。

 かつてその厳しさによって育てられ、その優しさに慰められ、その死によって鍛え上げられた、武にとって無二の恩師。
 今目の前にいる女性は、彼女らとは別人ではあるが同じ人間でもある。武にとって尊敬すべき先達であることには何の変わりもない。
 いまや一人前の衛士となった武は、もう自分以外に知る者の無い彼女らへの恩返しとばかりに、万感の思いを込めて敬礼し、姿勢を正した。


 一方、答礼をするまりもは内心驚いていた。

 「207B分隊にひとり新しく編入させるから」と、腐れ縁にして上官の香月夕呼から言われたのは、まさについさっきだ。
 横浜基地の副司令である夕呼の命令では逆らいようもないが、総戦技演習を控えたこの時期にいきなり訓練兵を追加すると一方的に通達されて、不安に思ったのは確かだった。
 事情があって徴兵を免除されていた『特別』な人物だと聞かされたが、『あの』207B分隊に編入されてくる人物となると、自然『特別』の意味もその類かと考え、一ヶ月足らずで鍛え上げねばならないとなると忙しくなりそうだと、覚悟を新たにしていたのだ。

 だが今目の前で敬礼をした少年を見て、まりもは考えを改めた。

 軍に入ったばかりの訓練兵とは思えない堂に入った敬礼。
 制服の上からでもわかる、鍛えられていながら無駄な肉は全くついていない肉体。その隙のない身ごなし。
 そしてなによりもその眼だ。
 自分の目を見つめるその視線は強く、揺るがぬ覚悟を秘め、それでいて若さに似合わぬ落ち着きを備えていた。

 ───文字通り、『特別』な力の持ち主なのかもしれない。

 まりもはそう考え、少しの間武の目に魅入られていたことに気づいて答礼を解いた。
 そうしながら、彼の目がわずかにうるんでいることに気付く。
 まるで旧知の人に会った様な──初対面のはずだが──目にごみでも入ったのだろうか。

 ……と、埒のあかぬ思考だ。
 まりもは雑念を振り払い、声を上げた。



「分隊集合───ッ!」


 まりもの号令で、207B分隊のメンバーが訓練を中断して二人の前に集合した。

「紹介しよう。新しく207B分隊に配属された、白銀武訓練兵だ」
 彼女達が整列したところで、まりもが武のことを紹介する。
「見ての通り男だ。こんな時期に編入ということでいささか驚いただろうが、とある事情によりこれまで徴兵免除を受けていたものだ。白銀、分隊のメンバーを紹介しよう。右から分隊長である榊千鶴訓練兵───」

 ?

「───白銀」
 まりもに名を呼ばれて、武は我に返った。考え事に浸って半分話を聞いていなかったようだ。
「どうした白銀。いきなり驚いたような顔をして」

「はっ、申し訳ありません。分隊の隊員は5人と伺っていたものですから」

 オレの行動が、いきなり未来に影響を与えたのか?

「ああそうか、香月博士から聞いていたか。確かに、本来はあと二人紹介する隊員がいるはずだったのだが、現在ともに入院中でな」

 だが、たいしたことじゃないのかもしれない。

「鎧衣美琴訓練兵は、訓練中の怪我で検査入院中。一週間後には退院の予定だ」



 いや、何か違う。大事の予感がする。これは───




「そして副隊長である御剣冥夜訓練兵は、今朝の訓練中に突然倒れて意識不明。とりあえずこの基地で入院中だが、未だ意識が戻らず、原因も不明だそうでな───」




[6379] 第一章 新たなる旅人 3
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:36

「───彼が、今日から新しく隊に配属された訓練兵の白銀武。白銀、彼女が鎧衣美琴よ」
「よろしく~。あ、ボクのことは美琴って呼んで。その代わりきみはタケルね」
「わかった、美琴。退院が一週間後ってのは残念だけど、戻ってきたらよろしく頼む」
「うん、まかせて。あ~、でもほんとあと一週間も入院なんて大げさだよ。そんなにたいしたことないのになあ」


 新たに入隊した武を含めた207B分隊のメンバーは、訓練終了後、意識不明の冥夜を見舞いに病棟へとやって来ていた。

 病棟に着くなり、「あ~、みんなひさしぶり~~。あれ、見慣れない人がいるなー」と合流してきたのは、入院中の鎧衣美琴。
 ラペリング中の事故で足を怪我したということで一応松葉杖を突いているが、本人に言わせれば全然たいしたことはないそうで、非常に元気な様子だった。
 合流してすぐさま初対面の武や他の皆に脈絡なく話しかける美琴だったが、その彼女を分隊長である榊千鶴が黙らせて二人の自己紹介を済まさせ、武達は意識不明で入院中という御剣冥夜の病室へと向かったのだ。


 見舞いにいった病室では、確かに冥夜が眠っていた。
 脳波や体電位などを測定するためか、体にコードが貼り付けられ測定機器やモニターが動いていたが、彼女自身は血色もよく、武にはただ眠っているだけのように見えた。

 美琴やたま──優しい天才狙撃手、珠瀬壬姫──が「冥夜さん」「御剣さん」と呼びかけるが、まったく目覚める様子はない。
 ここに来るまでに武がみなから聞いた話だと、冥夜は今朝の訓練、ウォームアップのランニング中に突然倒れたようだ。ずいぶん派手に転んで、あげくまったく立ち上がる様子がなく、彩峰が確かめると意識を失っていた。はたこうが何をしようが目覚めないので、慌てて軍医の所に担ぎ込んだということだ。
 転んだ拍子に頭を打ったのかと皆思ったが、医者の話では頭部には外傷は見当たらず、脳波等も正常だそうで、なぜ意識をなくしたかはわからずじまいだったらしい。
 怪我もかすり傷ばかりだったので、とりあえず入院して経過を観察ということになったそうだ。

 その後、皆が冥夜に呼びかけたがやはり反応はなく、いつまでも病室にいたところで出来ることもないので、とりあえずこれからPXに向かおうということになった。
 少なくとも、現状冥夜に差し迫った危険はないらしいことを確認して、武はほっと息をついた。



 病棟の入り口まで全員で戻ったところで、まず美琴とはお別れとなった。彼女はまだ武に色々と質問したい様子であったが、榊が無理やり自分の病室に戻らせたのだ。
 松葉杖姿の背中を見送ってから、分隊長は言った。
「じゃあ珠瀬と彩峰、先にPXに行っててちょうだい。私は白銀に基地を案内してくるから」
「あ、悪い。ちょっと病室に忘れ物したみたいだ。基地の案内は昼間のうちに受けたから、みんなは先にPXに行っててくれないか?」
 せっかくの申し出であったが、武は頭を下げて断った。勝手知ったる横浜基地で案内を受ける必要はないし、ここにきて、ひとつ内緒でやるべきことができたからだ。
 怪訝な顔をする榊であったが、結局はその返答を受けて先にPXへと向かった。ひとり残った武は、難しい顔をして病棟を振り仰ぐ。

 ───やるべき事。
 先ほどの見舞いの時には、遠慮してくれていたのか、やや離れて控えていた人物に関することだ。
 すなわち、冥夜の護衛である斯衛の衛士、月詠中尉に、神代、巴、戎の3少尉たち。
 武は夕呼に、いずれ信用を得られるから問題ないと言ったが、今の状況は良くない。
 初日からいきなり顔を会わせることになるとは思っていなかったし、今の武は、冥夜が突然倒れたその日に事前通告もなく突然入隊した訓練兵という不穏な立場である。おまけにその素性は『死人』であり、その事実は今後すぐにも知られてしまう。これでは彼女らがどう思うか。
 冥夜が倒れている以上、好感を得るような術もなく、今後の経緯如何では武は彼女らに消されかねない。いや、まあさすがにそれはないとしても、騒ぎ立てられてこの時点で目立つことになるのは好ましくない。気は進まないが、それならむしろさっさと釘を刺しておいた方がいい。
 そのように考えて、武は先ほど出てきた病室に舞い戻った。


「先ほどは自己紹介もせず、申し訳ありませんでした。今日から207B分隊に配属された、白銀武訓練兵です。帝国斯衛軍第19独立警護小隊の月詠中尉ですね」
「───貴様に名を教えた覚えも、名を呼ぶ許しを与えた覚えもないが」
 病室を再訪した武に、いきなり名前を呼ばれた赤服の女性、月詠真那は、冷たい声と刺すような視線で応えた。
 先に分隊全員でいた時も、武の一挙手一到足に厳しい視線が注がれていたが、武ひとりで訪れた今や完全に殺気が混じっている。
 その後ろに控える3人の気配も同様だ。

「失礼しました。お名前は香月博士から伺っていましたので、つい。なにぶん礼儀知らずなもので、お許しください」
 そう返しても、揺らぐ気配もない張り詰めた空気。
 武の方も、礼儀知らずと吹いた通り、言葉とは裏腹に恐縮する素振りもなく続ける。
「先ほどはみなさんの探るような視線が非常に痛かったもので、今後の為に釈明に参りました。あと、少々伺いたいこともあるのですがよろしいですか?」
 月詠の口は開かなかったが、しばらく睨んだ後、わずかに頷いたように見えた。
 それを見て、武はベッドに眠る冥夜に目を移す。

「月詠さんたちは、突然編入してきたオレが、彼女に危害を加える存在なのか警戒しているのでしょうが、まずそれだけはないと誓っておきます」
 今度は『月詠さん』呼ばわりに後ろの三人が色めき立ったが、当の月詠が制した。

「月詠さんは彼女の護衛であると同時に、城内省と第4計画の橋渡しの役目も負っているはずですよね」
「───ッ! 貴様、なぜそれをッ!」
「オレは、その第4計画の中核メンバーです。極秘のね。最近研究に関して大きなブレイクスルーがあり、計画は今急速に進展しています。すでに完成も間近。大陸奪還の為の反攻作戦は、早ければ年内にも開始される見通しです」
「馬鹿なッ! 今までそんな報告は微塵もッ───」
 驚く月詠達。武はそれが去らないうちにと、皆まで言わせず言葉を続けた。

「反攻作戦が現実になれば、現在の207B分隊のメンバーには、第4計画直属の実行部隊で一翼を担ってもらうことになります。彼女達はそれだけの資質を期待されて集められた。しかし実際のところ、今の彼女達は政治的なしがらみのせいで、総戦技演習の合格も危うい状態です。だからそれを打破し、短期間で彼女達を鍛え上げるために、香月博士の命令でオレが配属されたんです。それにオレには、個人的にも彼女達を守りたい理由がある。だから彼女達が生き延びられるように、少しでも強くなってもらいたいという気持ちがありましたからね」

 色々とほらを吹いた武だったが、結果としてはほとんど真実である話であり、その真実の重みが月詠たちを沈黙させた。
 武に対する剣呑な視線も、随分やわらいだようだ。寝耳に水の情報で、呆気に取られているからかもしれなかったが。

「今話したことを知っているのは、横浜基地でも香月博士とオレを含めて、5人に満たない数です。それを月詠さんたちに話したのは、オレの経歴にちょっと問題があるからでしてね。オレの経歴を調べて、危険視した挙句監視したりってのは……まあ構わないんですが、あまりおおっぴらに騒がないでいただきたいんです。これからオレの動きに制限ができてしまうかもしれませんし、そうなればそれは第4計画の損失になってしまう。
 G弾によるBETA殲滅を目標とする第5計画派、ひいては米国は、第4計画の失墜の機会を虎視眈々と窺っています。帝国のため、そして人類のため、彼等を利するようなことはしないで下さい。もちろん、ここで話したことも他言無用でお願いします。どこに米国の手の者が潜んでいるか知れませんからね。まあ、我ながらこんな得体の知れない人間からの情報を鵜呑みにして報告するほど、迂闊ではないと思いますけど───」


 とりあえず話すことは話した武が見ると、月詠は訝しげにしながらも迷っている様子だった。
 それも当然だろう。話したことにしても、武のことにしても、彼女からすれば得体の知れないことばかりなのだ。
 確かめようのない疑念に縛られて動けない月詠に、武は改めて質問をしようとした。

「月詠さんは冥夜に───」
「貴様ッ、冥夜様を呼び捨てにするなど!!」「うおッ───!」
 武の台詞に、反射的に三人が反応して怒声を発した。さすがにびっくりした武だったが、月詠が抑えたこともあり、すぐ平静に戻って話を続ける。

「冥夜の素性や月詠さんたちとの関係は聞いてますけど、仮にも同じ分隊の仲間なんですから、畏まるつもりはありませんよ。オレは礼儀知らずだって言ったでしょ。彼女が起きたらあらためて許可をもらいますよ。まあそれはともかく月詠さん、冥夜には長く仕えてるんですよね。今までにもこんな風に倒れたことはあったんですか?」
「いや、一度もない。むしろそちらに一服盛ったのかと聞きたいところだ」
 細めた目で睨みながらそんなことを言う月詠。
 やっぱり疑われてたのかと武は思い、苦笑して肩をすくめた。


 話すべきことは話したし、聞くべきことも聞いたので、武は礼を述べて背を向ける。
 ドアを開けて、出て行こうとしたところでふと振り向いた。

「───オレが言うことじゃないでしょうけど、冥夜のこと……よろしくお願いします」
「まさに貴様に言われるまでもないことだな」

 返答はこの上なく冷たい声音だった。








「───遅かったわね、白銀。やっぱり案内したほうが良かったんじゃないの?」
「もうみんな食べ始めちゃいましたよ、白銀さん」

 月詠達と話した後、PXまで全速で駆けてきた武だったが、長話がたたってすでにみなは食事を始めてしまっていた。
 PXはそれなりに混んでいたが、幸いカウンターはもう空いていたので、武はさっさと合成さば味噌定食を大盛りで──なにしろ朝から何も食べてない──もらって207B御用達のテーブルに着く。
 縦に長いテーブルには、武を含めて4人だけ。周りの席は概ね埋まっているのに。
 その光景に、武は腫れ物扱いである207Bの難しさを感じると同時に、この横浜基地の弛んだ空気も感じ取っていた。

 ───今日命を失うかもしれない。

 そんな最前線であるという自覚がもっときちんとしていれば、こんな偏見など影をひそめようし、みんなももっと早く結束を深められたろうに───

 武はそう思うと同時に、この空気を吹き払おうというなら、やはりあれをやらなければならないのかと考え、かなり気持ちを沈み込ませた。



「……早いね」

 気持ちを切り替えようと大きく息を吸い、「いただきます」のひと声とともに武は猛然と食べ始めた。食べ終わりかけていた三人に、みるみるうちに追い付いていく。
 結局四人ほとんど同時に食べ終えることになって、彩峰が驚き、あるいは感嘆のコメントを発した。

「白銀さん……ちゃんと噛まないとのどに詰まりますよー」
「ちゃんとかんでるさ。粗末にはしないから安心しろって。まあ普段はもうちょっとゆっくり食べるけど、早飯は軍隊の基本だろ。いつ何が起きるかわかんないんだからさ」
 心配する壬姫に、武はA-01いちの早飯喰らいと呼ばれた女性を思い出しながら笑って答える。壬姫は感心したようで、うんうんと首を振って頷いていた。


「白銀、こんな時期に配属されたあなたのことを、みんな疑問に思ってる。だから単刀直入に聞くわ───」
 食べ終わって一息ついたところで、榊が武に質問を投げかけた。眼鏡の奥の瞳は真剣だ。
「───あなた……期待していいの? 神宮司教官からは『特別な人物』だと聞かされているけれど、それは私たち……いえ、ひいてはこの国の、この星のためになる『特別』なのよね?」

 榊の問いかけ。今回は冥夜がいないが、『前の世界』でも、その前、『一回目の世界』でも受けた問いだ。
 最初は答えられなかった。
 二度目は応と答えた。
 三度目の今回は───

「ああ、そういう意味でなら、オレはすごく特別だ。期待してくれていい。なにしろ昔は、人類の救世主って呼ばれたもんだからな」

 ───笑って前よりさらに大口を叩いた。

 聞いた三人はぽかんとしていた。というか、内ふたりは『こいつ大丈夫か』という視線を向けてくる。
 まあ当然か。
 武はそう考え、答えに続きを加えた。

「言っとくが掛け値なしに本気だぞ。今まで軍に所属した経歴はないけど、それ以上に波乱万丈の経験をしてきた。特にここ三年はな。その『特別さ』で、今も訓練兵の傍ら夕呼先生───香月博士の特殊任務を請け負ってる。もっとも、ほんとのところ『特別』な人間なんて、この世のどこを探してもいないとも思ってる」
 打って変わって真剣な目に穏やかな口調。引き込まれる三人の聴き手。

「なあおまえら、守りたいものあるか? 大事なもの、守りたいものがあれば、人は強くなれる。オレは自分の手で全てを守ろうとして強くなった───」
 大事な仲間たちを守ろうと必死で戦った『前の世界』。

「───でもな、最後には逆にみんなに守られてたことに気がついた。どんなに強いやつも、どんな天才も、みんなそうさ。ひとりで戦えるやつなんていない。『特別』な人間なんていやしない」
 純夏、冥夜、霞、委員長、たま、彩峰、美琴、みんなを守ろうとして、みんなに守ってもらってた。
 みんなに生き残らせてもらった。
 あの夕呼先生だって、ひとりではいつか倒れる。
「だから、衛士になろうってんなら一番大事なのは、個人の技量よりもチームワークだ。安心して背中を、命を預けられるぐらい、仲間を心の底から信頼できているかどうかだ。おまえら自信もって大丈夫だって言えるか?」

「───ッ!」
 武の言葉に思わず詰まる榊たち。
 当然そういう反応が返ることはわかっていた。だからここで畳み掛ける。

「あまり自信ないみたいだな。オレはおまえらとそういう仲間になりたいし、なってもらわなきゃ困るんだ。だから、当たり障りなくなんてやってられない。というわけで、榊、おまえこれから委員長な」
「はあ?」
「昔、おまえにそっくりなやつが学級委員長をやっててな。だからこれから、おまえのことは委員長って呼ばせてもらう。で、おまえはたま、おまえは彩峰な」
 次々に指をさして、問答無用に呼び名を決めていく武。規律にうるさい榊は不満そうだったが、武としては『元の世界』からずっと続けてきた呼び名だ。これを譲ることはできない。
 結局なし崩しに押し通してしまった。

「オレのことは白銀でもタケルでも好きに呼んでくれ。あ、でもたまだけはたけるさんって呼んでくれるとうれしいな」
「わかりました。えっと……『たけるさん』。……これでいいですか」
「ああ。でも敬語はやめてくれ」
「あ……うん、わかったよ、たけるさん!」
 おまけに例によって、自分の呼び名も押し付けるが、壬姫は満面の笑顔で応えてくれた。

「……はあ。自分の呼び方まで指定する人なんて、初めて見たわよ……」
「……しかもひとりだけ。……差別」
「ん、何だ彩峰。自分だけ普通で拗ねてんのか? なんなら立派なあだな考えてやるけど?」
「……いい。すごくいい」
 完全に疲れた様子の榊に、こちらも呆れた様子の彩峰。
 しかし、その断り方は字面だけ見るとどっちだかわからないぞ、と武は思ったりする。
 苦虫を噛んだような表情を見れば一目瞭然ではあるが。


 その後はあまり深いところには突っ込まず、軽く自己紹介がてら話をしていた武だったが、そろそろ切り上げねばならないことに気づいて席を立った。
 夕呼との約束で時間に遅れたりしたら後が恐い。

「悪い。来たばっかりでやることがたまってるんで、続きはまた明日ってことで」
「大変ですねー。あ、たけるさん、ミキなにかお手伝いしましょうか?」
 壬姫がつぶらな瞳で申し出てくる。

(あはは、やっぱたまは優しいな。でも……)

 嬉しいけど、さすがに夕呼のもとへ一緒に行くわけにもいかない。

「ありがとう、たま。でもひとりでやらなきゃいけないことでさ。代わりにオレの言ったこと、よく考えといてくれるとうれしい。委員長、彩峰、おまえらもな」
 武の振った話に、壬姫はうんうんとうなずいたが、残りの二人はまだ煮え切らない風だった。

「……口だけなら何とでも言える」
「そうね。あなたの言いたいことはわかったけど……」

「まあすぐにできるとは思わないさ。とりあえず、明日からの訓練でオレの『特別』の片鱗を見せてやる。そうすりゃ、少しはオレの言葉も聞く気にもなるだろ。じゃ、また明日な」

 いつも通りに反抗的な彩峰と、頑なな榊の返答を、むしろうれしく感じながら武はPXを後にした。








 武が夕呼との約束に向かった先は、油圧式の足を持った箱がいくつも立ち並ぶシミュレーターデッキ。
 そこにはすでに、白衣姿の夕呼がひとり腕を組んで待っていた。

「遅いわよ、白銀! あたしを待たせるなんていい度胸してるじゃない」
「ちょっ、待ってくださいよ! まだ時間前ですって。先生こそ横柄のかたまりみたいな性格のくせに、先に来て待ってるなんて、らしくないですよ」
「あんたねえ……。ま、いいわ。さっさと本題にいきましょう。時間は限られてるんだし、一つ余計に聞きたい事が増えたしね」
 仏頂面で組んでいた腕を解き、肩をすくめて言う夕呼。
 武も言いたいことはすぐに察した。

「───冥夜のことですね」
「そうよ。さっき報告が届いたわ。朝倒れたときは訓練中にちょっと倒れたってだけのことだったし、その後はあんたのことでドタバタしてたからね」

 まったく、あんたのせいで忙しくてかなわないわ───とでも言いたそうに大きく息をついて、夕呼は続けた。

「普通なら、御剣が訓練中に倒れようが何しようが、政治的な問題になるだけなんだけど───」
 横目で武をじろっ、とねめすえる夕呼。
「───あんたの与太話が本当だとしたら、今日この日に原因不明で倒れるなんて、偶然とは思えないわよね。あんたの記憶ではこんなことなかったんでしょ?」
「ええ。今日はもちろん、覚えてるだけで冥夜とは二年以上一緒に生活してきましたけど、倒れたりしたことは一度もありません。さっき月詠さんにも確認してきましたけど、やっぱり今まで一度もこんなことはなかったそうです。それと、与太話扱いはやめてください」

 おまけのように突っ込みを入れて、武は答えた。加えて、今の冥夜の状態を尋ねる。

「特に言うことはないわ。CTスキャンでもMRIでも異常は見つからなかったそうよ。脳波も異常なし。全くの健康体ね。ただ眠っているだけ」
「それなのに起きる気配はない、ってわけですか」
「そう。ま、今夜にも目を覚ますかもしれないんだし、今はそれよりもやらなきゃいけないことがたくさんあるからね。とりあえずほっとくしかないわ」

 そう言って、お手上げというように腕を開く。
 武も冥夜のことは心配だったが、確かに焦眉のことはたくさんある。
 今は考えまいとして、本来の用件を切り出した。

「わかりました。じゃあ約束通り、オレの腕を確認してもらいましょう。まずは───」






「…………とんでもないわね…………」

 一台だけ稼動していたシミュレーターの情報を映し出すオペレータールーム。
 その中で、武の行ったシミュレーションの結果に、夕呼は息を呑んでいた。

 行ったテストは二種類。
 ひとつは光州作戦のデータを基にしたBETAとの遭遇戦。
 状況は乱戦。司令部は既に壊滅しており、データリンクも機能していないという設定だ。
 そしてもうひとつは、ヴォールク・データを使用したハイヴ突入シミュレーション。

 どちらも極めて過酷な状況設定であったが、武は共に驚異的な、というより信じ難い成績を叩き出してみせた。

 遭遇戦では、自分一人生き延びるために精一杯のはずの乱戦の中で、レーザー属の存在をものともせずにBETAの間を跳びまわり、大隊規模以上の一群を一手に引き付ける陽動をしてのけた。
 あげく、その状況で的確に僚機の援護までし、隙あらばレーザー属を屠って漸減させ、多大な損害を出しながらも、ついに増援が合流するまでその場で持ちこたえてしまったのだ。

 ヴォールク・データの方は更に脅威だった。
 選択されたのはS難度の実戦モード。フェイズ4ハイヴに単機で突入というありえない設定でありながら、武の駆る不知火が到達した深度は実に440m。
 A-01連隊第9中隊、すなわち夕呼の直属イスミヴァルキリーズの、部隊単位での最高記録に迫る勢いだ。しかも強化装備のフィードバックデータもほぼない状態で。

 世界中探しても、こんなことができる衛士がほかにいるとは考えられない。
 その機動制御技術、戦闘運用は、世界でも並ぶ衛士はいないのではないかと思わせる。
 というか、発想のベクトルがこの世界既存の戦術機機動とは全くの別物だ。これでは比べる意味がない。
 新OS。XM3と言っていたか。
 確かにこの機動が誰にでもこなせる様になるのなら、対BETA戦術は大転換を迎えることになるだろうと夕呼は思った。
 なるほど、交渉のカードとしても充分すぎるほどの価値になる。
 そう考えながら夕呼はオペレータールームを出た。いつの間にかやってきていた霞を一瞥して頷き、シミュレーターから出てきた武を出迎える。



「あんたがほら吹きでないことは、よーくわかったわ。約束通り、すぐに新OSの開発に取り掛かることにするから、あんたにも働いてもらうわよ」

 夕呼の言葉を、当然という表情で受け取る武。
 しかし、実のところ内心では、武は自らがたたき出した結果に驚きを禁じ得ないでいたのだった。

 武が『前の世界』で最後に戦術機に搭乗したのは、横浜基地防衛戦の際だ。あれから主観時間で数日しか経っていないのに、格段に技量が増していると感じていた。
 もとより甲21号作戦では、BETA相手に単独陽動を果たし、たった一人で23体の要塞級を含む無数のBETAを屠ってみせた武だ。ヴァルキリーズの後衛もまともに援護し切れない超変則機動を誇る武にとって、単機での戦闘はむしろ最もその本領を発揮できるものと言えるかもしれない。

 しかし、それもこれもXM3があってのことだ。
 旧OSに比べて30%増しの即応性と、操作を劇的に簡略化して反射速度を高めてくれるコンボ、キャンセル、先行入力の概念。それに熟練した人機一体の動きは、生身の肉体の反応速度すら凌駕する。衛士が操縦して動かす鎧でありながら、だ。
 武は自らの機動力、反射速度が桁違いに図抜けていることをしっかりと自覚していたが、それでもそれのみを頼って旧OSでこの結果を出すのは、到底不可能だと断じざるを得なかった。 
 ならば何がそれを可能にしたのか。

 ───それは眼だ。

 今の武には、BETAの動きを見切る予知能力じみた眼力が備わっていた。
 こちらを呑み込もうとするBETAの群れ、その流れがはっきりと『視える』、感じられるのだ。
 BETAの中に孤立し、目前に死の手を躱し続けるような修羅場にあっても、同時に全体の状況も正確に掴めており、その情報に腕は的確に反応する。
 凄乃皇という戦略機の視点で100万のBETAの海を掻きわけてオリジナルハイヴを進攻するという、余人には想像もできないような経験がその力を与えたのだろうが、一体どれほどの才能なのか。

 直感的なもので理論立てて説明できるものではないが、これは『この世界』を戦い抜くにあたって強力な武器になると確信して、武はひそかに胸をふるわせていた。
 もっとも、いかに一度の実戦はその百倍の訓練に勝ると言われていようと、わずか二日前の経験がこうもしっくりと『身について』いることを不思議に思う気持ちは存在したが───


「ありがとうございます。ただ注文させてもらってよければ、転移装置の方は後回しにしてでも、最優先で新OSの開発を行って欲しいんですが」 
「なんでよ? ちゃんと理由あるんでしょうね」
「はい、二つほど」
 夕呼の承諾を得たところで、内心の驚きはとりあえず置き、武は先程あえて話さなかった重要事を持ち出した。

「まずは転移装置の方なんですが、こっちは……まあ早くクリアしておくにこしたことはないにしても、あまり急いでもというか。理論を持ち帰れば確かに00ユニットは完成するんですけど、運用するためにはひとつ、解決しなけりゃならない問題があるんです。ほっとくとかなり致命的なのが」

 なによそれ? と問う夕呼に、武は従来の常識を覆すBETAの命令系統の箒型構造、反応炉が通信機能をも備えたハイブリッドコンピューターでもあること、そして本命、その反応炉とつながった純夏から、オリジナルハイヴの上位存在──『創造主』たる珪素系生命に造られた奉仕機械の親玉──へと彼女の持つ全情報がだだ漏れになることを伝えた。


「…………」
「ODLの浄化が反応炉に頼らずできるようになれば何の問題もないんですけど……、『前の世界』じゃ目途はまったく立ってない様子でしたからね……」
 徹底的に苦い表情で沈黙する夕呼に、武もさすがに意気を下げた調子で続ける。

「XM3を餌に、なんとかオルタネイティヴ5の発動を引き伸ばして、その間にどうにかできないかとか考えてたんですが───」
「無理ね。簡易型の浄化装置じゃこれ以上の性能向上は理論上望めないし、反応炉の機能なんて、あたしにとっても未だに謎だらけなのよ。どれだけ時間がかかるかわかったもんじゃないわ」
 ため息をつきながら、否定の回答を返す夕呼。
「やっぱりそうですか。しかしそうなると、バッフワイト素子でリーディングを制限して、非接触接続もできないようにして、なんとか致命的な情報が流れるのを阻止するぐらいしかないですね。それで純夏が安定したら、一気に桜花作戦までもっていってオリジナルハイヴを落とす───やっぱり綱渡りか」

 大きく息を吐くように言った武だったが、言葉のわりには、その表情は先ほどよりもずっと晴れていた。
「……なによ、がっかりするかと思ったら、ずいぶん楽しそうじゃないの」
「まさか。でも状況がどうあれ、やるしかないとなったらやるだけですからね。道が見えてるだけいいですよ。それに色々わかってる分かえって不安になりますけど、『前の世界』よりはよっぽどましな状況なんですから」
 吹っ切ったように言い抜ける武に、夕呼も大きく息をついて肩の力を抜いた。
「そうね、あんたの言うとおりだわ。無意味に恐れてもしょうがない。やるべきことをやるだけよね。で、ふたつめの理由は?」


「ああ、そっちですか。それは単に、一日でも早くXM3を完成させておきたいってだけです。『前の世界』では20日後ぐらいに、オレの未来情報を基にしてヴァルキリーズの作戦行動が行われたんですが、その時はまだXM3がなかったんで結構な犠牲が出たそうです。だから今度はそれまでに習熟しておいてほしいので。ただ……」
「ただ?」
 口ごもった武に、反射的なつっこみが入った。
「いえ、ちょっと冥夜のことを考えてて。いきなり初日からあんなアクシデントが起きているとなると、今回どれだけ未来情報があてになるのかと不安になりまして」
 207Bのみんなと対面した時のこと、『前の世界』の夕呼のことなどを考え、武の頬が緩む。自嘲と敬意、その二つが混ざった顔は、どこか愛嬌があった。

「なんか先生の言っていたことがわかった気がします」
「なによそれ」
「いえ、『前の世界』で先生は、未来の事件については起きる直前まで話を持ってくるなって言ってたんですよ。脳のリソースが無駄になるって。我ながら情けないですけど、オレ今日冥夜のこと聞いたとき、相当動揺しちゃったんですよね。そういうことなのかなって」

 先生はもともと未来のあらゆる展開を想定して、事前に様々な手を打っておく人だ。
 けれど確定の未来情報なんかが提示されたら、それに反する手を打ちづらくなる。せっかくの天才の思考にも枷が嵌められるってことだ。
 選択肢一つに万全に準備を固めすぎて、もしそれが外れたら、あるいは予想外の事態が起きたら、臨機応変な対処が難しい。事態が大きければ、それが致命傷になってしまうかもしれない。先生はそれを嫌ったんじゃないだろうか。
 しかし、そうなると今回もまずいのか? すでに相当話してしまってるわけだけど、もう少し絞った方が良かったんだろうか───

「大丈夫よ」
 武の思考を読み切ったように、ピタリと夕呼の言葉が挟まれた。考え込んでいた武の顔がぱっと上がる。
「何もわからずに、何が起こるかだけを知っていた前のあんたの言うことと、今のあんたの情報じゃ、情報の精度が違いすぎる。聞いたとしても、こちらの足枷になるようなことはないわ。確かにあんたの未来情報がどれだけ正しいのかは、しっかり検証する必要があるけどね」
 まさにずばり考えていたことを見抜かれて、さすがにこの人は、と舌を巻く武。それに構わず、夕呼は話題を元に戻した。

「ま、それはともかく新OSを早く完成させたいってのはわかったわ。要求通りそっちを優先してあげるわよ。こっちとしても、伊隅たちの戦力が上がるのはありがたいわけだしね」
 武の要求を容れるや、夕呼は今にも開発に入ろうかという空気を纏ったが、一応「他に言っておくことはない?」と一言いれてきた。武は少し首を捻る。

「いえ、もう特に切羽詰った話は───ああ、総戦技演習の日程を早めて欲しいんで、合わせて美琴の退院を早めるように手配してください。それと、できるだけ早く不知火が一機欲しいです。それぐらいですかね」
「わかったわ。じゃあもう今日はやることないでしょうから、さっさと休んで体力養っときなさい。α版ができたら、データ取りに散々働いてもらうんだからね」
「はいはい、仰せのままに」




「───社、なにかわかった?」

 夕呼に邪魔者扱いされた武が、霞に「大変だけど頼むな」と告げて出ていった後、夕呼も、今まで黙ってそばに控えていた霞に声を掛けた。

「……いえ、めまぐるしくイメージが移り変わっていて、ほとんど……」
 力不足を嘆いているのか、あるいは別の理由か、答えは普段よりやや詰まり気味の様に聞こえる。
「そう……。でも、それだけでも十分有益な情報だわ。少なくとも、やはり白銀絡みであることは間違いないようね」
 そうつぶやいて考え込む夕呼だったが、ふと、まだ何か話したそうな表情の霞に気がついた。促してみると、しばらく逡巡していたが、やがて決然とした表情で話し出した。
 その内容は───



「───たいしたもんね」

 話を聞き終えた夕呼は、感嘆の吐息をもらしてそう言った。
「……はい……うらやましいです」
 ひとりごとのような夕呼の言葉に、何かに耐えるような憂いの眼差しで答える霞。その意味を知る夕呼が、不憫に思わないはずもない。
「安心しなさい。このままならそのうち、うらやましがる余裕もないほど働けるわよ」
 そう慰め(?)る夕呼だった。その上で、深刻な表情で付け加える。

「それはそうと、今はまだ開けようとしちゃだめよ。言うまでもないけど、あまりに危険すぎるからね。できればずっとそのままでいて欲しいんだけど……でも、開けなきゃならないときがきたら……頼むわね」
「……はい」
 霞もまた、真剣な表情で答える。

 話を終えると、二人も新OSの開発のため、武を追うようにシミュレーターデッキを出ていった。







 一方、休んでおけと言われて先にデッキを出た武は、強化装備から着替えて、今は夜空の下を走っていた。
 『前の世界』の10月22日に比べて随分忙しい一日ではあったが、体力に関してはまだまだ余っていたからだ。
 抜群の戦術機特性を持つ武にとっては、いかに強化装備のデータがないといっても、今日程度のシミュレーションでは堪えるということはない。むしろ、あの程度で済ませていたのでは体がなまってしまうというものだ。
 そういうわけで、気を遣ってくれた夕呼には悪いが眠る前に自主訓練をしておこうと、こうして息を弾ませていたのである。


「───目的があれば、人は努力できる……か」

 走り始めて30分余り、かなりの速度であったがさして苦もなく10kmを走り切り、腰を下ろして武はつぶやいた。
 夜の自主トレは冥夜の日課だ。『前の世界』でも早々にかち合い、夜空の下で話をしたのだった。
 かつて冥夜から教わり、時を越えて今度は武から彼女へと伝えられた言葉。今は眠る彼女のことを心に浮かべたら、自然と唇からこぼれだした。つられるように、思考はあのときの会話へとぶ。

 この星……この国の民……そして日本という国。
 あのとき冥夜が言った、護りたいもの。
 殿下の影として生まれた冥夜のその言葉には、どれほどの意味が込められていたろう。

 そして、それに自分が応えた言葉。オレの護りたいもの。
 地球と全人類。

 今思えば、恥ずかしいを通り越して情けなくなる。
 あれはたった二ヶ月前のことなのに、心の内はまったく変わってしまった。今のオレは、とてもあんな風には思い上がれない。
 でも、オレの護りたいもの──その答え自体は、今でもほとんど変わらない。
 地球と全人類。それに『特に仲間たち』という注釈が加わっただけだ。

 自分ひとりにできることなど高が知れていることは百も承知。
 運命がいかにままならないものなのかも、これまで散々刻み込まれてきた。

 だが、それでも叶えられると信じている。
 自分ひとりでは無理でも、最高の仲間たちと背中を合わせて戦えば、不可能なことなどないと信じている。


 そのためにも、早く207のみんなをまとめなければ、とそこまで考えたところで、武は立ち上がって訓練を再開した。もう息は整っている。
 星の光の下、力強く地面を蹴る音がしばらくこだましていた───




[6379] 第一章 新たなる旅人 4
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:36

 2001年10月23日


「───ごめん、霞」

 新しいループに入って二日目の朝、目を覚まして早々、武は目の前の少女に手を合わせていた。
 といっても、何か悪いことをしたというものではない。出会った次の日から早速起こしに来てくれた霞より、武の方が早く起きてしまっていたというだけだ。
 しかし、明らかに徹夜明けという様子の彼女に、頬をぷーっと膨らませて(武視点による拡大解釈)にらまれてしまっては、武としては謝るしかなかった。


「……また……あした」
 平謝りに謝って、明日からはちゃんと霞が起こしに来るまで寝ているからと、それはどうかという約束を交わして、ようやく機嫌を直した霞は、まりもが点呼に来る前に部屋を出ていった。仕事の続きに戻るのだろう。
 忙しいなか、わざわざ起こしに来てくれたことを感謝して、武も自分のできることを頑張るべく、居住まいを正して教官の到着を待った。







「よし次! ケージにあるあの装備を担いで10キロ行軍だ!」
「りょ、了解です……」

 午前のグラウンドに教官の声が響く。
 それに体力的には207B最下位の珠瀬壬姫が、今10キロを走ったばかりのへたり気味の声で返事をする。
 『前の世界』でも二日目に見た光景だ。

 朝の一幕の後、これまた前回同様に国連軍への入隊宣誓を済ませ、武の207Bでの訓練が始まった。
 もっとも、当然のごとく今の武にとってはちょろいメニューだ。まずは10キロのウォーミングアップをぶっちぎりでとばしてゴールし、そのまま全員が終わるまで走りながら休んだ。
 かつて『一回目』のときは、今にも倒れそうにへたばった武が走り終えるまで、他の皆も連帯責任で走らされたものだった。ほとほと迷惑を掛けたものだと、まりもの声を聞きながら前回同様懐かしんだ。

「教官! 自分は完全装備で行軍してよろしいでしょうか」
「ほお……白銀、貴様徴兵免除で体力が有り余っているらしいな。いいだろう、ならばついでに分隊支援火器のダミーも担いでいけ!」
「了解ッ!」

「すごいですね……いしょっ!」
 『二回目』と同様に──今度は自ら志願だが──完全装備で行軍しようとする武に、壬姫が感嘆の声を漏らす。
「ん、なんでだ?」
「だって、自分から完全装備でやるなんて言い出すなんて……ミキなんかこれでもいっぱいいっぱいなのに」
「体力はすべての要だからな。衛士だって最後は体力勝負なんだから、たまもこれぐらい軽くこなせるようにならないと、一人前の衛士にはなれないぞ」
 体の小さなたまには大変だろうと思いながらも、武は語調を強めてはっきりと言う。
 これから彼女らが戦うであろう過酷な戦場で、体力の有無は極めて重要だ。体力がなくなれば、いずれ集中力も保たなくなる。ひしめき群れなすBETA相手の戦闘で集中力を切らせば、それは即、死につながるのだ。自分か……あるいは仲間の死に。

 ましてこれから彼女達が乗る戦術機は、最初からXM3搭載となるのだ。XM3で可能になる武の機動は、有効な分体力の消耗も激しい。
 後衛のたまは前衛に比べればずっとましとはいえ、体力はあればあるだけいいことに変わりはない。
 多くは語らなかったが、その意は汲んだのか、彼女は真剣にうなずいた。

 たまはやっぱり素直でかわいいなぁ──と思いながら武もまた頷き返し、次いで素直でない二人の方に振り向いた。
 かわいくない二人はやっぱりたまほど素直でないようで、まだまだ武を認めているという様子ではない。
 が、それでもどちらかというと、体力派の彩峰の方が視線は柔らかいだろうか。指揮官タイプの榊は、体力バカなだけでは認められるものかと思ったか、むしろ視線が厳しくなったようだ。彩峰嫌いの反映だろうか───

「貴様らぁ! なにくっちゃべってる! さっさと始めんかあ!!」

 と、武が思ったところで、ひよっこ達の尻を叩く教官の怒声が響いた。





 結局その日の訓練は滞りなく──珠瀬などは入れ込みすぎたか、かなりへたばっていたが──済み、すでに夜遅く『二日目』も終わろうとしていたが、冥夜が目覚める気配は未だなかった。
 新OSの開発に没頭しているのか、あるいは別の謀を巡らしているのか、夕呼からの連絡も無く、武は改めてこれからどう動くべきなのかを考えていた。

 とはいえどうしても夕呼頼みな事柄が多い以上、今の武にとっては不確定に過ぎて見通しが立ちにくく、いつの間にやら想いは『前の世界』の戦いに跳んでいた。
 つらつらと逝ってしまった仲間達のことに想いは至り、次第に気持ちが重くなる。
 自らの手で撃った冥夜のこと、あ号標的に辱められたたまの亡骸、自分の死を知っていた純夏、道を切り開いて散っていったヴァルキリーズの仲間達。

 ───って、なに後ろ向きに思い出してるんだ!

 逝った人達のなかにヴァルキリーズの突撃前衛長(ストームバンガード・ワン)速瀬水月の顔を見出し、同時に彼女に叩き込まれた衛士の流儀も思い出す。パンッと頬を叩いて、武は暗い気持ちを振り払った。
 今はこれ以上思い返すまいと、ベッドに身を横たえる。
 考えまいとするのには努力が必要だったが、じきに睡魔が彼を眠りにいざなっていった。


 ところで、静かに眠る武だが、彼が感じた重さは死んだ仲間達への感傷だけではなかったのかもしれない。
 『この世界』でただ武のみが知る『救われた世界』。その先例がありながら、それ以上の結果をつかめなかったとしたら、その責は究極的には武ひとりの肩にかかると言ってもいい。
 いかに人ひとりにできることなど少ないとはいえ、それがただひとり時と世界を渡り歩く『特別な』人間に降りかかる呪いなのだろう。
 その呪いとともに、一握の希望があることを願いたい───




 一方、眠り続ける冥夜の病室では、明かりを消した中で彼女のそばに寄り添いながら、月詠真那が武について思案していた。

 今日も訓練部隊の者たちと共に、冥夜様の見舞いにと称してやってきたあの男。
 城内省のデータを調べてみれば、かのBETA本州侵攻の際に、この横浜で家族もろとも死亡しているという結果であった。
 無論、BETAの侵攻で踏みにじられたというなら死体が確認できたわけではないが、あの地獄のような状況では、事前に避難を完了していない限り生き延びられたとは思えない。また生き延びていたとしたなら、その後の記録が全くないはずがないのだ。
 当時の白銀武はまったく平凡な一中学生だ。今改めて城内省情報部にさらに詳しく調べさせているが、もしそれが正しかったならば、足跡を消す理由も、その手蔓もあろうはずがない。
 ならばやはり顔を変え、名前を騙っているのだろうか。
 いや、それも理由がわからない。なぜわざわざ顔を変え、すでに死亡した名もない一学生に化ける必要がある? しかも城内省に記録が残っていると自ら知っていて。
 わからぬ。
 だが、いずれにせよ冥夜様を害そうというならば、必ずや我が手で地獄の底へ送り返してくれる。

 そう決意して、月詠は思案を止めた。
 未だ目覚めぬ主の姿に乱されながらも、心を静めて目を瞑る。
 調息の音が、夜の静謐に長く響いていた。







 2001年10月24日


「……で、アジ化鉛が雷汞の代替品となる。以上が爆破物の種類」

 三日目、約束通り霞が来るまで眠っていた武は、ユサユサとベッドを揺する彼女に起こされて、朝食の後に座学を受けていた。
 二日続けて徹夜のようで、あからさまに目に隈を作っていた霞だったが、その甲斐があったのか、新OSのα版はもうすぐ完成というところまで漕ぎつけたそうだ。「完成したら一眠りするから、207の訓練が終わったらデータ取りに来なさい」との夕呼の伝言を受け、その仕事の速さにびっくりするやら感謝するやらだった武は、待ち遠しい思いで訓練に臨んだ。

 自分の知る未来の再現性を確かめる為もあって、あえてカリキュラムの変更を夕呼に要請せずにいた武だったが、冥夜がいないだけで、ここまで訓練の内容も食事のメニューも、更にはニュースの内容なども一切変わりがない。
 そうなると、正直衛士としてやっていく上ではあまり必要ない今の内容の座学をこなすのは、時間の無駄という気持ちが大きくなる。207Bの皆は優秀だから座学に関しては手直しの必要もなく、ましてや三度目の武となればなおさらだ。
 総戦技演習の予定を大幅に早めてもらうつもりなのだから、やはりこれからは座学は省略して実践訓練にシフトしてもらうべきか───

「……白銀っ!」

 などと武が考えていると、案の定まりもに目をつけられた。考え事の内容こそ違え、前回と全く同じ展開だ。
 考え事をしてる余裕があるなら簡単だろう? と皮肉られて、例題作戦に関しての説明を課される。
 これまた前回と全く同じ問題だ。別の問題であったとしても答えに困ることはないが、ここまで展開が乱れないのは安心材料には違いなかった。
 それでも、予想外の事態はいつ起こるかわからない。心構えを改めて意識し、武は立ち上がって説明を始めた。
「この例題は───」




「ほんっと凄いよたけるさん!!」

 この日の訓練を終えた武たちは、今日もまた冥夜の見舞いにと病棟へ向かっていた。
 座学を首尾よくまりもの叱責なしで切り抜けた武は、続いての小銃組み立て実習でも、前回同様彩峰の記録をぶっちぎりで更新。他にも力を見せつけて、さすがの榊と彩峰も敗北宣言といった様子だ。
 もっとも、榊など「いずれ必ず勝ってやるから見ていなさい」と付け加えてくるあたり、負けず嫌いなのもこれまた変わらない。
 どうやら信頼も得られてきたようだし、そろそろ榊と彩峰の関係改善計画に着手しようかなどと応答しながら武は考えていたが、少し引っかかっていることもあった。
 小銃の組み立てや他の様々なことで、わずかなものではあるが、確実に腕が上がっているのだ。いや、上がっているというより馴染んでいるといった感じだろうか。小銃の組み立てなど武はもう一月以上やっていないのに、少し前にみっちり訓練し直したかのような馴染み方だったのだ。
 いったいどういうことなのかと自問するが答えは出ず、そうこうするうちににぎやかな美琴が合流して、相変わらず空気を読まない言動にツッコミを入れながら歩くうちに考えが逸れてしまう。


 と、そのときだった。
 武たちが歩く先から、「冥夜様!」と喜色にあふれた叫びが聞こえたのは。

 扉越しにもはっきりと聞こえたその声の、意味がわからないはずもない。何を言わずとも皆悟って、一斉に廊下を駆け走った。
 一番にドアに取り付いた武を先頭に、押し合うようにして部屋に飛び込む。病室にはあるまじき乱暴さに、武は押し出されて派手によろめいた。
 うわわわっ、と思わず声を上げて倒れるようにベッドの前まで転げ込み、慌てて顔を上げる。
 目の前には、三日ぶりに意識を戻した冥夜がその身を起こしていた。

 ゆったりとした紫色の寝衣はわずかに寝乱れて。
 普段きっちりと結ってある黒髪は、無造作に、しかし麗らかに背に流れている。
 目を覚ましたばかりの冥夜の姿はあまりに無防備で、武が良く知る凛々しい彼女とは別人のようで、目を合わせた武は思わず顔を赤らめた。

 盛大に音を立てて扉が開けられた後、ふたりが見つめ合ったまま、病室に奇妙な静寂が訪れる。
 偶然現出した奇跡的な調和にみな手を出しかね、声を掛けかね、武もまた『初対面』である冥夜に対し、どう反応すればいいかわからなかったのだ。


 わずかの時間が流れ、固まりかけた空気を動かしたのは冥夜だった。

 ぼーっとしているかの様子で目の前の武を見つめたまま、両手でゆっくりとその手を握る。
 その瞳が徐々に焦点を取り戻し、それとともに眦からは一筋の涙がこぼれ落ちた。

 そして次の瞬間、握った腕を引いて武を引き寄せるや、その胸にすがって子供のように泣き出したのだ。


「タケルッッ!!」


 と、その名を呼んで───




[6379] 第二章 衛士の涙 1
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2016/05/23 00:02
 最期にこの目に焼きついたのは、すべてを埋め尽くすような、白い、あまりにも白い光だった。

 それは怨敵を打ち砕き、人類の未来を切り開く閃光。

 自らその一部となり、BETAを撃ち滅ぼす剣として果てることが出来たのだ。

 元より影として生を受けたこの身なれば、それは過ぎたる名誉。

 だが、ただあの者のことだけが。

 タケルのことだけが、私の心に悔いを残した。

 墓まで持っていくつもりだった想いを、最後まで黙する事の出来なかった私の弱さ。

 タケルに想われる鑑に、そして同じ想いを持ちながらそれを抱えたまま逝ったみなに、ただただ済まない。

 そして何よりも愛する男に、あの優しすぎる男に、仲間を撃たせてしまった事があまりにも悔やまれる。

 それは撃たせなければならなかった私の未熟。そして私の我侭だ。

 愛する者の手で逝けた事は、このうえない喜び。タケルは今にも壊れそうだった私を救ってくれた。

 だが、きっとタケルは悲しみ、自分を責めるだろう。それが辛い。最後まで守られるばかりだった自らの不甲斐無さが悔しい。

 もしも私がもっと強かったなら、もっともっと強かったなら、違う結末があったのだろうか。

 最期のとき、白い光の中で、私はそう考えていた。





 ……

 …………

 ………………

 ……………………

 そう……考えて、いた……

 …………考えて……いた……?

 いま、私は考えている……?

 私は……死んだ……はずでは……

 これは……死に際に見る、夢……なのだろうか……


 そう思った途端、閉じた瞼に光を感じた。

 耳にもかすかな音を感じる。
 自らが息を吸い、吐き出す音が。

 体の感覚も戻ってくる。
 自分が眠っていることがわかった。
 そのそばに誰かがいることも気配で感じる。

 いま、私は眠りから覚めようとしている。
 ならば、私は生きているのか?
 そんな、はずは……。


 そう思いながらも、生きるものが本能に突き動かされるが如く、私は体を動かそうとした。

 かつて覚えのないほどに体が重い。
 まるで金縛りにあっているかのようだ。
 なんとか自由を取り戻そうと苦闘する。
 どれぐらいかかっただろうか、ようやく意思に応えて指先が動いた。

 少しでも神経が通ったなら、後ははやい。
 すぐに全身に血が通う様に感じ、私は一息に起き上がろうとした。

「冥夜様!」

 そんな言葉が聞こえたのは、その瞬間だ。
 一息に起き上がろうとしたが、実際にはずいぶん緩慢な動きだったらしい。
 起き上がる途中でその声は挟まれた。
 まだ耳が遠いのか、殷々とした響きだったが、違えようもない。
 起きると同時に開いた目にも、幼き頃から親しんだ顔が映った。

「月、詠……?」

 私の言葉に、その顔が笑み崩れる。
 見れば、傍らには神代、巴、戎の三人もいる。
 みな同様に、非常な安堵と喜びをないまぜた表情を浮かべている。
 一体何がどうなっているのか、彼女らに尋ねようとした時、盛大な音を立てて部屋の扉が開いた。
 あまりにも聞き覚えのある声が上がる。


 ふり向いた私は、目の前に見た。

 あの時、この世の誰よりも生きて欲しかった者の姿を。白銀武の姿を。

 やはり、これは夢なのだろうか。
 あの期に及んでなお、この先も共に歩めればどれ程に嬉しいかと思った私の、死を前にしたあさましい夢なのだろうか。

 私を見つめるタケルの目に引き込まれるようにして、私は思わずかの者の手を取っていた。

 温かい手。
 流れる血が脈を打ち、私の掌にその熱を移してくる。
 その熱は私の体に染み込み、心の臓まで昇ってきて、その温かさに私は理解した。

 これは夢ではない。
 私はまた、タケルに会えたのだ。
 何故なのかはわからない。だが、その事実だけで充分だ。

 目頭が急に熱くなる。
 目の前の顔が、ぼやけてわからなくなる。
 気がつけば私は、タケルの手を引きその胸に飛び込んでいた───








 第二章  衛士の涙


「タケルッッ!!」

 湧き上がるような喜びに満ちた声が、人の集まった病室に響いた。
 集まった者たちは皆、唖然として動けないでいる。男の胸にすがって、大泣きに泣く冥夜──という考えられない図を前に、それぞれ理解が追いつかなかったのである。
 その中で、ただひとり武だけは何か起きたのか薄々分かってはいたのだが、やはり同様に動けなかった。
 麗しき少女にその胸で泣かれたりしたら、何も言わずに落ち着くまで抱きしめる以外に何ができよう。
 ついでに言うと冥夜の薄い寝衣の下はノーブラで、押し付けられた躰はとても柔らかくて無防備で、おまけにとてもいい匂いで、武としても思い切り混乱していたのである。

 とにかく病室には、誰も止めることのないまま「タケル……ぅっ、あぅ……zっ、タっ…ケルぅっ」と、冥夜の嗚咽が響き続けていた───



「タケル───」
 何度も何度も鼻声で武の名を呼んで、泣けるだけ泣いて、ようやく冥夜が胸に埋めていた顔を上げた。
 まだ抱き合ったまま、呟くように言葉をつむぐ。
「そなたも……生きていて、くれたのだな。あの時が、今生の別れと思っていたが……」

 そこまで夢見るように言って、今更ながらはしたない真似をしていると気付いたらしい。ようやく落ち着いた顔をまた赤らめて、「す、すまぬ……」と一言し、冥夜は体を離した。
 真っ赤になった目と、涙をこぼしにこぼした顔を袖で拭って、そこで初めて武の後ろの四人に気付く。ある意味、それまでで一番愕然とした様子でつぶやいた。

「そ……そなたたちも……」
 生きていたのか、と続けようとして、真っ先に聞かねばならないことがあったことに思い至った。
 傍らの武に振り向いて、切羽詰ったように

「タケルッ! オリジナルハイ───ぶはっ」

 言おうとして、途中で口を塞がれた。
 さすがに、ここでこれ以上しゃべられるのはまずいと気付いたのだろう。我に返った武が押さえ込んだのだ。
 いきなりのことに慌てる冥夜を抱え込むように立たせ、周りを窺う武。月詠たち斯衛の四人などは、まだ混乱から立ち直ったわけではなかろうが、それはそれとして「き、貴様!」と臨戦態勢をとる。
 四人が武と睨み合って固まりかけた空気の中、口火を切ったのは美琴だった。

「ねえねえ、タケルと冥夜さんってどういう関係なの? ひょっとして生き別れの恋人? うわー、すごい。ロマンチックだねぇ───」

 ……………………。
 さすが空気読まない美琴。
 一瞬で緊迫した空気が霧散した。

 そうなると彼女に続けとばかりに、「そ、そうよ。一体あなたたちどういう関係? 白銀、あなた御剣に会った事があるだなんて言わなかったじゃない!」「うんうん。あ、でも恋人だとしたらお似合いかも」「……あつあつ」「ちょ、ちょっとあなたたち、なに言ってるのよ!」などと、詰問やらなんやらが207Bの仲間から飛んでくる。
 武は「後でみんな説明するから」と返し、抱え込んだ冥夜の耳元に囁いた。それを聞いて冥夜がとりあえず頷くと、武も抱えていた手を放す。
 月詠を見て冥夜が言った。

「月詠中尉、今はどうしても二人で話さねばならぬことがあるのです。後に必ずご説明申し上げますゆえ、今はどうかこの者と二人きりにしてはいただけませぬか」
「し、しかし冥夜様、その者は……。それに私どもにそのような言葉遣いはおやめ下さいと」
 月詠たちに対して話す冥夜の言葉は、斯衛の彼女たちにとって主の命。
 しかし、死人たる目の前の男はあまりにも怪しすぎる。主に害為す者なら、その命に背いてでも。
 そのように思ったか、迷うそぶりを見せる月詠たち。それでも引く気はないようだったが、迷いを見せただけでも充分だった。

「委員長、悪い!」

 隙を作った斯衛を尻目に、冥夜の手を引いて、開け放たれたままの扉から一目散に逃げ出す武。直線上にいた榊を押しのけて脱兎のように。
 鮮やかな逃亡劇にあっけに取られた月詠が、二人を追って外に出たときには、もうその姿はどこにも見えなかった。
「くっ、追うぞ! 神代、巴、戎!」
 と、号令をかけて彼女らが病室を駆け出た後には、ぽつん、という擬音が聞こえそうな様子で、207Bの4人が残されていた。
「もうっ、いったいなんなのよ! 後でちゃんと説明してもらうからね!」
 突き飛ばされた榊の怒声が、もう誰もいない廊下にこだましていた。






 さて、冥夜を連れて脱出した武は、夕呼のもとへ向かうつもりでいた。
 この『説明』には、夕呼と霞も交えるべきだと考えたのが理由のひとつで、もうひとつはゆっくり話ができる場所がそこぐらいしかなさそうだったからである。
 病棟からは抜け出して、一旦は月詠たちを撒いた二人だったが、なにしろ冥夜の姿が寝衣一枚と目立つことこの上ない。基地内で聞き込まれれば、すぐに居場所は割れてしまうだろう。
 そういうわけで、機密区画への通路近くまで走った武は、そこにあった内線で夕呼に連絡を取っていた。冥夜のIDではB19フロアには入れないし、そもそも今の彼女はカードも持っていないので、連れて行く許可を得ないといけないからだ。

 一方、冥夜はとても途惑っていた。
 そもそも自分が生きているのが何故なのかわからなかったし、月詠たちや榊たちの(彼女らもどうやって生き残ったのか)態度もおかしい。
 この横浜基地もそうだ。
 あの時のBETA襲撃で壊滅的な被害を受けたはずなのに、今走ってきた限りでは、基地は全くもとの通りに見えた。
 先ほど「桜花作戦の事とかはみんなにしゃべるな。後で説明してやるから、とにかく今は月詠さんたちを遠ざけてくれ」と言われたから、武は事情を知っているのだろうと考えられたが、とにかく何がなんだかわからない状態だったのである。

「タケル、よいか?」
「うん?」
「いや、私は……一体どれだけの間眠っていたのだ?」

 そんな状態だったから、武とともに夕呼の部屋まで向かう途中、冥夜はこらえきれずに問うていた。
 とりあえず、ここまでで考えた合理的な説明がそれだったのだ。
 あの状況で奇跡的に助かったとして、あの時自分は既にBETAに浸蝕されていた。それを治療する間、一年、あるいはそれ以上の年月を、眠ったままこの横浜基地で過ごしていたのではないか。
 そう考えると、ほとんど忘れてしまったが、眠っている間にとても長い───とてつもなく長い夢を見ていたような気もする。
 榊らの態度だけはわからぬにしても、これなら概ね説明がつくと考えて尋ねたのだが、武からは「オレにもよくわからないんだ」とはぐらかすような答えが返ってきただけだった。

 とにかく「夕呼先生なら説明してくれるかもしれない」と言われて、混乱の解けない冥夜だったが、武の真剣な横顔を見るとそれ以上は言えず、黙って後についていく。
 カツンカツン、ぺたぺたという足音(なにしろ冥夜は裸足だったので)だけが、B19フロアの通路に響いていた。






「おはよう、御剣。しばらくぶりのお目覚めだけど、気分はどう?」

 冥夜が初めて来る部屋に入ると、二人の人間が待っていた。
 横浜基地副司令である香月夕呼博士と、彼女と、そして武とも関わり深いであろう銀髪の少女、社霞である。

 とりあえず夕呼の質問には「はっ、体調には問題ありません」と答え、冥夜は霞に声を掛けた。
「久しぶりなのかな、社。そなたも生きて帰ったようで何よりだ。また会えて嬉しいぞ」
「…………はい」
 それに対して、表情を変えずに答えを返す霞。
 冥夜にとってはあまり良く知る相手でないことは確かだが、例のあーんの件は印象的であり、共にオリジナルハイヴで戦った仲間であるのは確かなので、その態度に先ほどの病室でのことと同様の違和感を感じた彼女だったが、夕呼が話し始めたのでそちらに傾注した。

「さて、白銀から簡単に話は聞いたわ。起きて早々混乱しているでしょうけど、まずはこちらから質問させてもらいましょう。桜花作戦のこと、覚えてるそうね?」
「は? ……はい」
「そう。じゃあ、それについて覚えてるとおりに話してちょうだい。かいつまんででいいから」
 またもおかしな質問をいぶかしむ冥夜だったが、副司令の命令だ、問われて最後の記憶を思い起こそうとする。
 ややあって、人類史上最大の作戦が、その当事者の口から語られ始めたのだった。



「じゃあ、とりあえず先生が桜花作戦の発令をしたときからでどうだ? BETAの基地襲撃を凌いで……一段落ついた後の」

 どこから話すべきか迷っていた冥夜に、夕呼の目配せを受けた武がそう言った。
 なお、冥夜が考えている間に、その肩には武の上着が掛けられている。「あんたいつまでもそんな格好させてるんじゃないわよ」と夕呼の叱責を受けた武が、慌てて夜着一枚の冥夜に着せ掛けたのだ。
 その上着の暖かさを感じながら、冥夜は話を始めた。
 速瀬中尉と涼宮中尉、他にも多くの人間が一夜にして命を失った後、何かをせずにはいられなくて京塚曹長に頼み込み、生き残ったみなにスープを配って───その後集められたブリーフィングルームで語られたことを。

「……あのとき、副司令がオリジナルハイヴ攻略を我等に命じられ───榊が甲20号目標の攻略こそが先決ではないのかと意見して、新たに判明した反応炉の機能と戦術情報伝播モデル、オリジナルハイヴを唯一の頂点とした箒型構造の命令系統について知らされました。凄乃皇を含めた人類の全戦略戦術情報がオリジナルハイヴに渡った可能性が高く、数日のうちにオリジナルハイヴのコア、あ号標的を破壊しなければ人類に未来はないと───」

 そう、あのときまさに人類は滅亡の淵にあった。
 桜花作戦が失敗に終われば、即座にトライデント作戦──同じく明かされたオルタネイティヴ5から、星系外惑星移民計画のみを取り除いたユーラシア全ハイヴへのG弾による一斉攻撃作戦──が発動される。
 そうなれば、作戦が失敗すれば言わずもがな、たとえ成功しようと、ユーラシア大陸は未来永劫死の大地となるだろう。
 そのようなこと、決して肯んずるわけにはいかない。
 冥夜がそう思ったように、その思いは皆同じだったのだろう。誇り高きA-01部隊の生き残り、元207Bの仲間達は一も二もなく、人類史上最も過酷な作戦に身を投じたのだ。

 時折夕呼が武や霞に確認を取るような様子を見せる中、冥夜の話は続いていった。

 あまりにも不備な作戦の成功率を僅かでも高めるため、月詠中尉達から武御雷を借り受けたこと。
 訓練の合間に行った、速瀬中尉と涼宮中尉の部隊葬。
 神宮司軍曹や伊隅大尉が眠る桜の木の下で、みながそれぞれの思いを語り、ひとり横浜に残る涼宮に勝利を誓ったこと。
 そして2002年1月1日午前7時、ラダビノッド司令の言葉を餞に横浜を発ったこと。


「───衛星軌道上で降下開始時刻を待っていましたが、先行した部隊は予想以上に被害が深刻で、結局予定を繰り上げ、先行部隊が健在なうちに一斉降下を行うことになりました。ですがBETAはAL弾をほとんど迎撃せず、凄乃皇にレーザー照射が集中して、それを防がんと駆逐艦部隊が全艦我等の盾となり───そうしてなんとか、目標のゲートSW115に───」

 もとより速度に劣る部隊は置き去りにするつもりだったとはいえ、ハイヴ突入前に先行した部隊が全滅してしまったため、なんらの陽動もなくなった状態での進攻は苛烈を極め、ほとんど奇跡的にひとりの犠牲も出さずに主広間(メインホール)へと到達はしたものの、状態は万全とは程遠いものだった。
 それゆえ副司令の策定した当初のプランは破棄し、武達の乗る凄乃皇をなんとかあ号標的ブロック手前の横坑まで進めて待機させ、冥夜達は荷電粒子砲発射の為の時間を自分達で稼ごうとした。 

 榊と彩峰は後続のBETAを足止めするため、手前の横坑を崩落させに向かい、珠瀬と鎧衣も横坑前の隔壁を死守するためにぎりぎりまで残ろうとしたのだ。

「あのとき、決してタケルには言えぬ事でしたが、我等はみな生きては帰らぬ覚悟でした。そしてそれがタケルの足枷とならぬよう、副司令から申し送られた欺瞞プログラムを使って……。いかなる仕儀か、皆が無事だったとなれば笑い話のようなものかも知れぬが……タケル、改めてすまなかった」
「いや……」

 横に座った武に対して、冥夜は頭を下げて詫びる。
 それを受けて、武の表情が複雑に歪んだ。
 さもあらん。その言葉の意味を、当の彼女だけが未だ知らないのだから。

 そして、冥夜の報告はいよいよ最期の瞬間へと近づいていく。


 先にあ号標的ブロックに進んだ凄乃皇を追い、閉じられた隔壁の上から壁面を破って飛び込んだ冥夜。
 飛び込むや否や、凄乃皇があ号標的の触手に捕らわれているのを見て取り、それを斬り飛ばした。
 振り仰いで武に通信すれば、主砲の発射はおろか、制御系も入力を受け付けないと答えがあり。
 復旧の時間を稼ぐ為に前面に出て、再び襲い来る触手と打ち合うも主脚を失い、もはや───

 ───はぁっ……はぁっ……。

 そこまで話して、急に冥夜の言葉が止まった。
 息は荒く、顔色は真っ青になり、じっとりと脂汗をかいている。

「ど、どうしたっ、冥夜!」
「……い……いや、なんでも……ない」
 そう答えて武の手を拒む冥夜だったが、肩を抱いて息を荒げる姿は、到底大丈夫とは思われない。
 あの最期のときに行われたBETAの浸蝕。そこまで話が及ぶに至り、冥夜の脳裏には、その時の記憶がまざまざと蘇っていたのだった。


 あの時、主脚を失いもはや時間稼ぎもままならぬとわかった私は、自らの中の生きて帰ろうという思いを完全に断ち切った。人類の為、タケルの為に、最後のS-11での自爆に一縷の望みを託そうとしたのだ。
 だが、タケルの止める声を振り切って吶喊した最後の望みもあえなく破れ、私はS-11のタイマーを起動したまま、凄乃皇へと縫い付けられてしまう。
 悔しさに狂いそうになりながらも、なんとか一瞬機体の制御を奪い返したが、それも全くの無為に終わる。すぐに層倍するあ号標的の触手に貫かれ、完全に機体が破壊されてしまったのだ。

 そして、その触手は機体を侵蝕し、私の躰をも犯しはじめた。

 ぐずぐずに腐った膿が躰の中を這い進んでくるような感覚。
 余りにも容易く、手足の自由が奪われる。ありったけの力を込めて振り払おうとしたが、私の意志など何の意味も無いかの様に、体はピクリとも動かなかった。

 そして、汚泥はなおも、私の躰の中心へと歩を進めてきた。
 その手が触れた肉が腐り、骨が腐り、内臓が腐っていく。
 そこにあったのはおぞましい限りの苦痛と……それを埋め合わせ、なお遥か余るような圧倒的な───快感。
 熟れ切って地に落ち、腐りかけた果実の様な肉を奴等の指がえぐる。甘く柔らかく煮込まれた様な骨に奴等がむしゃぶりつく。その度に、頭の中が真っ白に染まり、全てを忘れそうになる。
 私は血を吐くような思いでタケルの声にすがり、削り取られていく正気を辛うじて繋ぎ止めていた。

 だが、それすらも嘲笑うように、奴等は、私の心まで犯そうとした。
 心の内、私だけのものであるはずの領域にまで、おぞましい手が容赦なく捻じ入れられてくる。
 大切な記憶が、譲れぬ思いが、奪われ、踏み躙られ、陵辱されて───


「あ、の……とき……、あ、のと、き……はっ、はぁ……わ…たし、は───」
「もういい!!」
 極寒の中にあるように震え、涙を流しながらも、憑かれたように話を続けようとする冥夜を、武は止めた。砕けんばかりに奥歯を噛み締めて、震える肩を抱き締める。
 目の前の冥夜が、純夏と重なって見えた。彼女と結ばれた日、垣間見たあの記憶。冥夜もまた同じ、あるいはそれ以上の思いをしたのだと、聞かずともわかってしまった。

「もういいんだ。もう思い出さなくていい。忘れるんだ冥夜───」
 あの時、自分自身に掛かる重さを考えて撃つ事を迷った自分に殺意を覚えながら言った武に、冥夜はその腕の中で変わらず前を見つめたまま答えた。

「……うれ、しかったのだ……。私が、壊される、前に……御剣、冥夜……の、ままで……救って、くれて。嬉しかったのだ……タケル───」

 武は何も答えられず、冥夜もそれ以上続けなかった。
 肩を抱き、抱かれる二人が沈黙する間、その前に座る二人も動かない。
 霞は冥夜と同じ様に顔色を真っ青にしており、同じものをたった今観たのだとわかる。夕呼もまた、武から聞いた純夏の実験の話から悟ったのだろう、厳しい表情のままでただ待っていた。

 静寂の中、武の腕の中で徐々に冥夜の震えは治まっていった。



「悪いけど、質問を続けさせてもらうわよ」

 ようやく冥夜の血色が戻り、武がその手を放すと、夕呼はすぐに話を再開した。武は思わず睨んだものの、冥夜が何事もなかったかのように答えようとしたので、それを呑んで自らも無理やり気持ちを落ち着かせた。
 改めて前の世界で起こった出来事について質問(もっとも、輪郭を確かめる程度の簡単なものだったが)をしていく夕呼。冥夜も澱みなく答えていって、最後の質問は「白銀と初めて会ったのはいつ? それ以前に会った事があるような記憶はない?」というものだった。

「2001年10月22日。会ったのは間違いなくその日が初めてです。このような男にかつてまみえる事があったのであれば、どうして忘れるはずがありましょうか」
 今までの奇妙な質問の中でも殊更おかしな質問に、いくらか考えるそぶりを見せたものの、冥夜はきっぱりと答える。
 それを聞いて夕呼は質問は終わったとばかりに席を立ち、「事情の説明はちょっと待ちなさい」と言って、武を引っ張って隣室へと消えた。



「どうやら、あんたが言うところの『前の世界』の御剣そのままのようね」
 武を隣室に引っ張り込んだ夕呼は、声をひそめて武に話しかける。武も夕呼の考えが聞きたくてすぐに合わせた。
「ええ。何故かはわかりませんが、今の冥夜はオレと同様に『前の世界』の記憶を全て持っている。どういうことなんでしょう。あいつも因果導体にされちまったって事なんでしょうか」
「可能性はあるわね。あんたの話じゃ、あんたは『前の世界』じゃ死ななかったはずなのに、今こうしてループしている。だとすれば、あんたの死ではなくて、彼女の死がループのトリガーになったのかもしれない」
 夕呼の答えを聞いて、冥夜までそんな運命に、と暗澹たる気持ちになる武。しかし、すぐに夕呼は続けて言った。

「まあ他にも仮説はいっぱい考えられるし、検証してみないことにはどうしようもないから、今はそのことはいいわ。それより事情をどう話すかよ。どう考えてもまともなら信じられない話だし、機密が絡みすぎるくらい絡むわけだしね」
 あんたどう思う? と話を投げてきた夕呼に、武は思うところを告げる。夕呼の許可は取らなければならなかったが、この部屋に来る前からそのつもりだった答え。

「全て話すべきだと思います。誤魔化しようのない話ですし、こうなったら機密を盾に口を塞ぐより、全部話して共犯者になってもらう方がいいでしょう。先生だって、全部わかってる駒は貴重なんじゃないですか?」
「……そう、ね。あんたと違って、御剣じゃ消すって訳にはいかないし───」
 さらっと怖いことを言う夕呼。それに続けて武に結論を告げた。
「わかったわ。オルタネイティヴ4の機密も含めて全部話しましょう。ただし、あんたが別の世界から来たってことだけは今は秘密。それ以外は何を話してもいいわ。御剣への説明はあんたがしなさい。あんたの方がむしろわかってるでしょうからね」


 協議を終えて、二人は元の部屋に戻ってきた。
 霞と二人っきりでいくらか居心地が良くなさそうにしていた冥夜に、これから事情を説明するよと武は告げる。どう話すべきか少々考えたが、結局核心から口火を切った。

「冥夜、いきなりだけど───あの桜花作戦で生き残ったのは、オレと霞の二人だけだ。純夏も、委員長も、彩峰も、たまも、美琴も、みんなオリジナルハイヴで死んじまったんだ」
 武が厳しい声音で話した真実。しかし、それは真実であるがゆえに余りに突拍子もなく、聞かされた冥夜はまさに呆けたような面持ちだった。
 らしからぬ表情でしばらく固まっていた冥夜だったが、我に返ると慌てて反論した。
「ま、待て! そなた何を言っているのだ? 榊らは先程病室にいたではないか。そなたも先程委員長と呼びかけていたぞ! いや、そなたと社の……ふたり……?」
「ああ、そうだ。お前も死んだはずだったんだよ。覚えているんだろう、オレが、この手で、お前のことを撃ったんだから……」
「……た、確かに目覚めたときには、私はあの時死んだはずと思いはしたが、今の私はどう考えても幽霊などではないぞ! 呼吸もするし、血も通っている! それとも、今見ているのは私の未練が生んだ死者の夢だとでも言うのか?」 
 再び顔色を蒼くして言い募る冥夜。幽霊というのはまさに言い得て妙だな、と何度も死んだはずの自分に重ね合わせながら、武は異常な説明を続けていく。



「落ち着けって。死んだはずだって言っただろ、今のお前はちゃんと生きてるよ。そうだな冥夜、さっき、自分がどれだけ寝てたのかって聞いたよな。お前が眠っていたのは実際のところ三日足らずだ。今日は一体何月何日だと思う?」 
 その質問にあっけにとられた冥夜は、さっきまでの疑問は棚に置いて単純に考えた。桜花作戦から三日なら今日は1月4日か5日? 反射的にそう口に出すと、
「はずれ。今日は10月24日だ」
 という解答が返る。
 ふむ、それなら基地が元に戻っているのも納得できる、と鈍った頭が色々なものを無視した考えを綴っていると、武から解答の続きが告げられた。

「ただし、2001年のな───」

 …………………………。
 その4桁の数字の意味を冥夜が理解できるまで、しばらく時間が掛かった。
 呆けていた彼女がようやく意味をつかんで反論しようとするが、その前に夕呼が先を取る。

「御剣、白銀の言っていることは本当よ。あんたは過去に遡ったの。たぶんね」
「……い、いや、そんな……いくらなんでも非現実的な…………からかっておられるのでしょう……?」
 副司令の言葉とはいえ、あまりの内容にさすがに信じられず、おずおずと言葉を返す冥夜。しかし夕呼は容赦しなかった。
「あんたが信じようが信じまいが、それが現実よ。なんなら伊隅や速瀬に会わせましょうか。今日は基地にいるからね」
 と、先程の問答で話の出た確実な戦死者の名を挙げる。ヴァルキリーズの元隊長二人の名を出され、さすがに冥夜も考える顔になる。
「……本当……なの、ですか?」
 半信半疑に思いながらも、そう言葉をつむいだ。
「そうよ。ちなみに未来の記憶を持ってるのはあんたと白銀の二人だけ。御同類って訳だけど、白銀の方が先輩ってことになるわね。あんたより前から何度も時間を遡っているそうだから」
 そう聞いて、弾かれたように武の方を振り向く冥夜。
 訓練兵とは到底思えなかった、あの卓越した技能。時折見せた、以前から自分達を知っていた様な態度。副司令のもとに従事する特殊任務。そのような事が頭の中を駆け巡り、冥夜に言葉を符合させた。

「そうか……そなたの『特別』とは……」
「ああ。オレは全てを失った未来から来たんだ。だから冥夜とももう長い付き合いだよ。何もできなかったオレを、お前らやまりもちゃん───神宮司軍曹が鍛え上げてくれたんだ。もうオレ以外誰も知らない未来でさ。だから今度は全てを救おうとして───」
「タケル……」 
「結局またみんな失っちまった。あれだけの犠牲を出して、やっと会えた純夏まで死なせて、なんとか破壊したオリジナルハイヴも元通り。……でもな、なんて言えばいいのかわからないけど……冥夜、お前が生きていてくれて、みんなのことを覚えていてくれている事は……」 
 そこまで話して、武は言葉を詰まらせる。思いを表す言葉が見つからなかったのだろう。
 しかし、冥夜は自分を見つめる武の瞳から、感情に震える声音から、その思いを充分に汲み取った。ただ嬉しいという一言では言い表せない万感の思い。それはそのまま、自らの愛した男の魂の重さから生じたものだった。

「わかった、タケル。そなたの思いも、ここが過去の世界だということも、よくわかった」
 武の言葉で真実を悟り、落ち着きを取り戻す冥夜。
「さすがだな。オレなんて、初めてのときはいつまで経っても現実を認められなかったってのに……」
 そんな彼女に武は畏敬の眼差しを向ける。その視線が面映くて、冥夜はふと思いついたことを口にした。

「そ、そうだ、タケル……鑑はどうなっているのだ? 今は鑑も生きているのだろう。居場所はわかっておるのか?」

 誤魔化すように発された言葉。思わずその名を出してしまい、冥夜は複雑な気持ちになってしまったが、動揺は武の方が大きかった。
 あからさまに揺れた反応を見せ、しばらく考えるようにして夕呼の方を見る。目配せあった後、夕呼が頷いた。

「そうね、鑑なら今この基地にいるわ。全部話すつもりだったんだし、見せておいた方がいいでしょう。御剣、話の続きは彼女のところでするから、ついてきなさい」







 あとがき

 とりあえず最低限形が見えるところまで書けたので、まとめて初投稿といきます。
 ようやく冥夜が起きました。
 しかし難しい。冥夜の言葉とか行動とか。すごい時間がかかっちゃいました。

 まあとにかくようやく話も動き始めると思うので、こんなありがち過ぎる話でも良ければ、感想よろしくお願いします。




[6379] 第二章 衛士の涙 2
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:38

 蒼い光に照らされた通路に、カツンカツンぺたぺたと四人の足音が響く。
 それぞれに硬い表情で歩く三人の後に続きながら、冥夜は不安に心を乱していた。これから鑑にまみえようというところで、一体どのように自身を処すればいいのかわからなかったのだ。

 白銀武と鑑純夏。
 二人がどれだけ想い合っているかなど、恋愛ごとに疎い冥夜にしても明らかだった。
 かつて、すでにこの世にいないのだ、と幼馴染のことを語った武。それは失ってなお、その相手を深く想っている男の姿だった。
 そして、オルタネイティヴ計画という中にあっての奇跡的な再会。しかしようやく出会えた少女は、重い病を押しながら人類の為に最前線で重責を担わねばならない立場だった。
 結果、時すらも越えて巡り会った恋人とも、その逢瀬は僅か一月足らず。それが武にとってどれほど重いことだったのか、冥夜には推し量ることすらおこがましいと感じられた。

 ───時を遡って、ともに戦った事実が失われても、相求め合ったふたりの関係はなんら変わらない。その絆の深さも、その関係の長さもかけがえなさも、私など遠く及ばぬ。だというのに、死に逝く己にせめてもの慰めが欲しいと甘え、私は分を弁えずタケルに想いを告げてしまった。
 斯様な私が、どの面下げて鑑に会おうというのか───

「ここよ」
 自責に沈む冥夜の意識を夕呼の声が覚ました。迷いの晴れるひまもなく、早々に目的の部屋へと着いてしまったのだ。前に進むのを躊躇う冥夜の思いとは裏腹に、スライドドアは至極滑らかに開いた。



 開かれたドアの先には、蒼い光。
 その光を発する奇妙なシリンダーを囲むようにして、部屋中にケーブルが走っている。
 冥夜は目の前に見える光景と自らの予想との隔たりに、戸惑いを隠せずにいた。

 ───鑑は、今は病重い身ではなかったのか? あの時、副司令はそう仰っていたはず。

 『前の世界』で初めて純夏に会ったときの事を思い出して、そう考える冥夜。
 しかし、眼前の部屋はどう見ても病人の療養するような場所ではない。そもそも今開いたドア以外に出入り口のない、ひとめで見渡せる程度の部屋だというのに、明らかにその中には人の姿などないのだ。 
 部屋へと入る三人に続きながら、冥夜は入り口の影や部屋の隅に目を遣っていた。中央のシリンダーに脳髄が収まっているのは見て取っていたが、彼女の意識からは逸らされていたのだ。あるいはそれは、無意識に不吉な予感を感じていたがゆえの逃避であるのかもしれなかったが。

 ドアからやや入ったところで、武が足を止めた。
 部屋の中央をじっと見つめるその姿に冥夜が気付き、その視線を追って同じものを見る。そこには、ひとり夕呼がシリンダーの傍まで歩み寄っていた。


「紹介するわね。彼女が───鑑純夏よ」


 『それ』に触れようとするように、シリンダーに手をついて言った夕呼の言葉は、冥夜の予感を完全に実体化させた。
「そ……それ、が……?」
 目覚めてから余りに衝撃の強い事実に曝されすぎたせいもあるだろう、普段の気丈さを忘れ果てたようにか細く震えながら、冥夜はかろうじてつぶやく。それに答えたのは横にいた武だった。

「BETAにやられたんだ……」
 その言葉で隣に振り向く冥夜。彼女が見た横顔は、静かな怒りを滾らせていた。
「三年前の横浜侵攻で、純夏は奴等の捕虜になった。地球侵略の邪魔になる、人間という存在を研究するための実験材料としてな」
 武は前を見つめたまま、淡々と言葉を紡いでいく。

 捕らえられた純夏が、BETAの手で様々な人体実験を受けたこと。
 その果てに身体を、器官をどんどん削り取られ、最終的に脳と脊髄だけの姿、目の前のシリンダーに浮かぶ姿になったということ。
 捕虜になって一年、明星作戦によって横浜ハイヴが制圧された際、同様に脳だけの姿にされた人間が数多く見つかったが、生存していたのは彼女ひとりだけだったこと。

 そこまでを聞いた冥夜は、今にも倒れそうな状態だった。
 武の説明は夕呼に話したときとは違い、冥夜を思って実験の内容に関してはあえてぼかしたものだったが、そのあえてぼかしたという事実から、そして自らの経験から、純夏が何をされたのかは嫌でも理解できてしまったのだ。
 それを一年。なんという───

 冥夜が畏れに体を震わせていた最中も、武の言葉は続いていた。
「───この部屋は、BETAの実験施設をそのまま使っているんだ。反応炉に繋がったあのシリンダーの中にいる事で、かろうじて純夏は命を保ってる。今はそれ以外にあいつを生かす方法はない」
「……ま、待て! そ、それでは私が知っている鑑は一体何なのだ!? 生きて、歩いて……タケル、そなたとて───」
 たまらず反論する冥夜だったが、その言葉を夕呼が遮った。ここからはあたしが説明するわ、と言って冥夜の疑問に答えていく。オルタネイティヴ計画についてはやはり夕呼が専門なので、武はおとなしくそれを任せた。


「あんたの知ってるっていう鑑が何なのか、ちゃんと説明しようとすると、結構長くなるんだけどね。まず言っておくと、あの明星作戦でBETAの捕虜という状態から唯一生還した鑑は、オルタネイティヴ計画にとっては最重要の実験素体なのよ」
「な──ッ!」
 まるでBETAと同じような扱いであるような夕呼の言い様に、思わず声を上げる冥夜だったが、夕呼は全く構わず話を続けた。そんなことは何でもないことであるような冷徹さに、冥夜も口を噤まざるを得ない。
「00ユニット───。オルタネイティヴ4の目的は、BETA相手の諜報活動を可能にする事にあるわ。00ユニットはその為に絶対必要な装置」
 そこまで言って、急に夕呼は冥夜に質問を投げかけた。

「御剣、BETAという存在そのものについて、今人類が知っている事はどんなものがある? ああ、『前の世界』であたしが話した事は別として」
「は…………、BETAが炭素生命体であることや、人類を生命体とみなしていないこと……などでしょうか」
 話題が変わったせいか、冥夜の震えもややおさまった。問われた事の意味を少し考えて、いくらかは力強く答える。
「そう。本質的にはそれが全て。オルタネイティヴ4の前身である1から3までの計画では、なりふり構わずBETAにコンタクトを取ろうとしたのだけど、たったそれだけの情報を得ただけでみな失敗に終わった。オルタネイティヴ4はその失敗を受けて、あたしの発案を基に始められたのよ」

 薄暗い部屋の中、脈動する蒼光に照らされながら、夕呼は前身の計画、特にオルタネイティヴ3について詳しく話していった。

 人間の思考を読むリーディング・プロジェクション能力者達、人工ESP発現体の存在。
 彼等にBETAの思考を読ませるため、人工授精で大量生産し、能力を高めていったこと。
 最終段階では彼等は戦術機に乗ってハイヴに突入したものの、生還率僅か6%という犠牲を出しながら、計画は失敗に終わったこと。
 すなわち、BETAに思考があることだけは証明されたものの、奴らは人間を生命体と認識しておらず、人類側からの一切のコンタクトが拒否されたという事である。
 そして、それならば大戦初期にBETAが見せた反応に鑑み、コンタクトする側が人間ではなく機械であればどうだという考えで始まったのがオルタネイティヴ4だということ。

「00ユニットは、その目的の為にオルタネイティヴ4で開発している超高性能のコンピューターよ。オルタネイティヴ3の成果を接収して、リーディング能力とプロジェクション能力を付与し、BETAから情報を盗み出す事を目的としているわ。ちなみに00ユニットって名前の由来は、生体反応ゼロ、生物的根拠ゼロというその特性からね。今はまだ完成していないけど、あんたが『前の世界』で聞いたBETAの戦術情報伝播モデルや、オリジナルハイヴを含めた地球上の全ハイヴのマッピングデータ、BETAの初期配置情報などは、稼動に成功した00ユニットによってもたらされたものなのよ」

 そこまで一息に説明されたオルタネイティヴ計画の経緯と、『この世界』ではまだ得られていないその成果。
 しかし、冥夜はその内容については驚愕を伴いつつ理解したものの、それが純夏とどう繋がるのかが理解できず、思わず疑問を口にしていた。

「リーディングというのは対象から読み取った概念を翻訳する作業だからよ。その作業を行う事は、ただの機械にはできない。人間的な思考を持っている必要があるの」
 その意味が正確に理解できているかは自信がなかったが、とにかく質問の答えを聞いて、冥夜は今日幾度目になるかという不吉な予感に身を包まれた。
 それを取り払うどころか、濃くしていく勢いで夕呼の説明は続けられる。

「00ユニットの根幹は、量子電導脳という超並列コンピューター。それはあたしの研究している、因果律量子論という理論に基づいて作られている。詳しい説明は省くけど、それは要するに無限に存在する並行世界をつなぐ事で機能する装置なの。ただの一機で、現在地球上に存在する全てのコンピューターを足し合わせても及ばない程の演算能力を持っているわ」 
「は、はあ……」
 いきなり聞いた事もない理論の名が出て、説明はオカルトじみた方向に傾き、更に00ユニットの途方もない性能を聞かされ、さすがに冥夜も困惑する。それを見て取ったか、夕呼は少し話を変えた。

「御剣、ちょっと手を上げてみて」
 そう言われて、思わず右手を上げる冥夜。いきなり何なのかと思っていると、すぐに説明が入った。
「今あんたは右手を上げた。右利きならそれが自然なんでしょうけど、気分によってはたまたま左手を上げることがあったかもしれない。今の瞬間、世界は『御剣冥夜が右手を上げた世界』と『御剣冥夜が左手を上げた世界』に分かれたのよ。世界はそんな風に常に確率分岐していて、無限という表現が馬鹿馬鹿しくなるほど膨大な、あらゆる可能性の並行世界が存在しているの。わかる?」

 夕呼の説明は、SFやマンガの溢れる『元の世界』出身の武には聞き慣れたものでも、娯楽の乏しいこの世界で生まれた冥夜には少々つかみづらいものだった。理解するのに四苦八苦しているのは周囲の三人の目にも明らかで、なんとか把握して夕呼が再び話し出すまでしばらくかかった。

「その数多の世界からは、常に情報が世界の狭間、虚数時空間に漏れ出している。そして人間は誰しも、無意識のうちにそれを捉える能力を持っているのよ。虫の知らせとか、予知能力者とか、強運の持ち主なんてのは、因果律量子論的にはみんなその能力の高さを表しているものなの。それは世界と世界をつなぐ能力。00ユニットはその能力を利用して稼動するのよ」
 ここまで来ると、武でも理解するのが大変だった領域だ。冥夜がきちんとイメージ出来ているかは極めて怪しかったが、今度は夕呼は時間を待たずに話を続けた。

「で、鑑の事に話は戻るんだけど、彼女はBETAの捕虜になって人体実験を受け、脳と脊髄だけの姿になりながらも生還した。その奇跡的な幸運……いえ、悪運と呼ぶべきかしらね。とにかくその強運は因果律量子論的に極めて高い能力を示しているわ。また、彼女はBETAの捕虜となっていた事から、BETAにコンタクトする際に奴等の興味を引く可能性も極めて高くなる。00ユニットの素体として、まさに最高の適性の持ち主だったのよ」
「00ユニットの……そ、たい……?」
 もはや不吉な予感は、黒い靄の如く冥夜の心を覆っていた。
 そして、火の点いた導火線がその長さを縮めていくかの如く、夕呼の言葉は淡々として止まらない。

「そうよ。あの脳と脊髄だけの姿から、まともな人間に戻す事なんかできないのはわかるでしょ。00ユニットっていうのはね、量子電導脳というコンピューターに人間の脳の情報を全て転写し、炭素原子を一切使わずに組み上げた機械の躰をあてがって動かさせたもののことなのよ。あんたが会った『鑑純夏』はそれってわけ」
 夕呼の言葉は余りに辛辣だった。理解を拒むには余りにも明快だった。
 その言葉に塗り替えられたかのように、冥夜の記憶の中にある純夏の姿が一瞬何かおぞましいものに変わった気がして、震える唇から、決して言ってはいけない言葉が溢れ出てしまった。

「そ……そんな……。それでは、あれは……人間、では……」

 ─────────ッ!

 取り返しのつかない言葉を吐いてしまったことに気づいた冥夜は、体を竦ませ、怯えた目で傍らを振り向く。目を合わせた男の瞳は、深い悲しみをたたえていた。
 その目が自分を弾劾しているように感じ、冥夜の思考が渦を巻く。


 人類の仇敵の手で、この世の地獄のような陵辱を受け、あのような姿にされた鑑。
 00ユニット、機械、作り物、コピー、紛い物。
 凄乃皇を駆る鑑。
 泣き腫らしていた鑑。
 プレゼントの相談を持ちかけてきたタケル。
 タケルと笑いあう鑑。
 オリジナルハイヴで、何度も我等の命を救ってくれた鑑。
 私は、私は───


 目に見える景色が歪み、冥夜の意識が途切れる。
 気が付いたときには、床に跪いて武と霞に介抱されていた。周囲には、空っぽの腹から出せるだけの胃液が吐き散らかされていた。
「……大丈夫、ですか?」
 震える背に小さな手を添えて、霞が声を掛ける。息を荒くしながらも、冥夜はなんとか大丈夫と答えた。
 二人の手に包まれて、徐々に呼吸はおさまっていく。蒼い光は変わらず彼らを照らしていた。



「まあでも、あんたの意見は正しいわよ、御剣」
 ようやく落ち着いて、しかし未だ膝を突いて俯いたままの冥夜だったが、その彼女に対して夕呼の話は容赦なく再開された。
「たとえ人間のように見えても、00ユニットの思考は元の人間の思考をデジタルでエミュレートしているに過ぎない。あんたの知っている鑑純夏は人間じゃあないわ。ただの作り物。ただの擬似生命。まあ量子電導脳に人格を転写する際に元の人間は死んでしまうから、あんたが彼女に会った時には、本物の鑑純夏はもうこの世にいなかったってことね」

 最後に示された事実を知って、冥夜は反応した。俯いていた顔を上げてシリンダーに収められた脳髄を見つめ、次いで武に顔を向ける。
 00ユニットである『鑑純夏』が生まれれば、すなわち本物の『鑑純夏』が死ぬ。そして、もちろん武はそれを知っている。

「それで……それで、タケルは……よいのか? 鑑、を……」

 搾り出すようなその言葉を聞いて、武は淡雪のような微笑を浮かべた。泣き笑うような表情だった。
「苦しくないって言ったら嘘になるよ。けど、人類の為には必要な事なんだ。それに、あんな状態で生きていくより、たとえ作り物でも自分で選べる未来があった方がいい。純夏もきっとそう思ってる───」
 冥夜の隣に座った霞が、コクン、と頷く。
「───ただ生かされているのでは意味がない。そこに自分の意思があり、それが反映されて、初めて人は生きていると言える。冥夜、おまえの───いや、おまえの知らないおまえの言葉だよ」
 それは、かつて武が天元山で聞いた言葉。今の冥夜にはわからなくても、それが重く刻まれた言葉であることはわかった。

「そして、何よりもオレが純夏に会いたい。会って話して、この手で抱きしめたいんだ。身体や心が機械だろうと、そんなことオレにとっては何も関係ない。純夏は純夏だ。本物も偽者もない。かけがえのないオレの半身なんだ」

 迷いない瞳でそう語った武の言葉を聞いて、冥夜は強く複雑な思いに駆られていた。

 ───何が自らの及ぶべくもない二人の絆か……っ。何も知らずに、何もわからずに、そのような安い言葉で彼等の絆を測ろうなどと。なんと愚かな女なのだ、私は……。

 そう自らを責め、しかし同時にそう語る武に、その武に想われる純夏に、まぶしさとも言うべき感情を抱いて胸を熱くしていたのだ。

 そんなところだったが、水を差すように夕呼の声が掛かった。
「さて、あたしが話す事は大体済んだし、そろそろ失礼させてもらうわ。あとは白銀、あんたが話しなさい。まあ積もる話もあるでしょうからね」
 そう言って部屋を出ていく夕呼。彼女が出ていくと、その後は随分と静かになってしまった。



 その後しばらくして。冥夜が色々と考え込み、武も話しかける切っ掛けが見つけられず、霞はもとより無口で、そろそろ沈黙が重くなっていたところで、突然スライドドアが開いた。
 びっくりして三人が顔を向けると、そこには先ほど出ていった夕呼が大きなトレイを持って立っていた。

「予想通り雰囲気重そうねえ。あんたたちみんな夕飯食べてないでしょ。腹が満ちれば少しは気分も軽くなるだろうから、厨房行って頼んできたわ」
 そう言って、三人に食事を渡す夕呼。三日間眠っていた冥夜にはおかゆを、武と霞にはさば味噌定食、あとは緑茶。もちろん合成だが、京塚印の食事だ。
 見るとまだ湯気が立っていて、夕呼がここまで急いで持ってきたのがわかる。武は丁寧に礼を言って頭を下げた。
 照れ隠しにか何事か軽く悪態をついて、今度こそ夕呼は執務室に戻っていったのだった。


「ごちそうさまでした」
 三人が食事を食べ終わり、夕呼の言葉どおり空気が柔らかくなったところで、武は冥夜に声を掛けた。

「なあ冥夜、つらい事思い出させるようで悪いんだが、もし良ければ、委員長達のことを聞かせてくれないか。あいつらが主広間でどう戦ったのか、オレはほとんど知らない。それを語り継ぐ事はできないかもしれないけど、どうしても知っておきたいんだ。S-11で主広間のBETAを根こそぎ吹っ飛ばした後、みんなはどうなったんだ?」
 その言葉を聞いて冥夜は居住まいを正す。武と純夏のこと、00ユニットのことは、未だ整理出来ようはずもなく胸の中にわだかまっていたが、大事な戦友の事となればまた別次元の話だ。
 今日会った仲間達が自らの知る彼女らと別の存在であることは、もう理解できている。となれば仲間の死に様を、ひいては生き様を語るのは衛士の務め。そう思って了解し、冥夜は語り始めた。


「───あのとき、主広間のBETAを殲滅した後、優に10万を超える増援が崩落させた後方の広間を抜けて迫ってきていた。そこで私が横坑の構造力学的な弱点を算出して、残った二発のS-11で横坑を崩落させて足止めをしようと提案したのだ。タケルもデータは見たであろう?」
「ああ、崩落の振動が伝わってきたときにな。それを見て、一目で冥夜の作戦だと思ったよ。ハイヴの話じゃないけど、前の未来で丁度同じような作戦をおまえが考えたからな」
 答えて笑う武を見て、冥夜も唇の端を吊り上げる。
「ふふ、まあ提案者であるのだから、彩峰のS-11も持って私が設置に行くと言ったのだが、あやつが自分が行くべきだと異論を申してな。言い争いになってしまったので、榊の事は指揮官だと認めて従ったのに、副隊長である私はいまだに認められていないのかと言って黙らせた」
 そう言われて悔しそうに黙り込む彩峰を想像して、武はぷっと吹き出す。冥夜も笑い話のような口調で先を続けた。

「ところが、これで話は決まったかと思ったところで榊が横槍を入れてきてな。隊長権限で私から役目を奪い取っていったのだ。トライアルの時の事を引き合いに出して、自分の指揮する部隊では、白銀を助けに行くのは副隊長の仕事だなどと言いおってな」
「委員長……」
「これ幸いとばかりに彩峰も尻馬に乗って、結局二人が爆破に、私がタケルのもとに向かう事になった。まったく、ああいう時だけは息が合うのだからな、あやつらは……」
 冥夜の冗談に、一旦信頼し合えば誰よりも息の合ってた二人だよ、と心の中で突っ込んで、武はわずかに瞑目する。冥夜もそれを見て、武が目を開くまで話すのを止める。
 その間、二人の脳裏には榊と彩峰の様々な姿が浮かべられていた。そばで話を聞く霞もまた、二人の思いからその姿を感じ取る。温かな空気が流れた。

「これ以上は私も知らぬ。ただ崩落後第一隔壁でいくら待っても、結局二人は帰ってこなかった……。おそらく、本隊から先行するBETA群に邪魔されてS-11の設置がままならず、爆破ポイントに陣取って自爆して果てたのだろう。ふたり同時にな……」 
「そうか……。きっと、一世一代の息の合わせ方だったんだろうな……やっぱりすごいよ、あいつらは」
「………………うむ……」
 再開した冥夜の話はまたすぐに途切れた。けれど、今度は沈黙は続かなかった。

「……立派な……人たち、だったんですね……」
 そう霞がつぶやくように言ったからだ。
 「ああ」「うむ」と、言葉少なにうなずく二人。
 それを区切りに、話は珠瀬と鎧衣のふたりに移っていった。


 第一隔壁の脳で開閉作業をしていたふたりを守っていた冥夜だったが、横坑の崩落を機に、美琴に「先に第二隔壁に行け」と言われたこと。
 渋る冥夜に、武も知っていた通り遠隔制御装置の設定ミスという理由が告げられた。
 しかし、いざ冥夜が第二隔壁まで到達してみれば、設定ミスなどないどころか、第一隔壁の脳に設置してあるはずのS-11までそこにある。みなに気遣われていたのは、武だけではなく冥夜も同じだったという事だ。

 苦々しそうに、しかしどこか嬉しそうに冥夜はそう語る。武も同じ立場として胸に染み入る思いだった。

 ともあれ武を誤魔化してふたりのもとまで舞い戻り、美琴を問い詰める冥夜。そうしてみれば、主広間のBETAをS-11で吹き飛ばしたとき、その余波で珠瀬の開閉装置が故障したからだと言う。
 修理できる保証がない以上、第一隔壁の閉鎖はできない前提として追撃してくるBETAを改めて吹き飛ばす為に、最後のS-11を横坑内に置いてきたのだと。
 それはすなわち、首尾よく修理が叶えば隔壁を閉鎖した後、鎧衣ひとりが外に残り、脳をその手で破壊する。つまりその場で死ぬつもりだったということだ。
 そして、幸か不幸か修理は叶った。
 「タケルのもとに行け」という言葉に抗えず、隔壁閉鎖前に横坑に飛び込んだ冥夜だったが、美琴はおろか、完全閉鎖の直前まではここを守ると言っていた珠瀬まで後をついてこない。
 そんな中、ハイヴの壁を破って大規模なBETAの増援が直接主広間に現れた反応があり、ついに隔壁が完全に閉鎖された。

「その状況でも、横坑内にふたりの反応は無かった……。あれだけの増援を相手に、弾薬も尽きかけたあの者等二人だけではどうしようもあるまい。だが、その後時間がたっても、隔壁が開く事はなかった。鎧衣と珠瀬は……雲霞の如くBETA共がひしめいていたであろうなか、見事脳は破壊してみせたのであろうな……」

 決して犬死にはしない、というヴァルキリーズの隊規。それを守り切った仲間達の戦いを冥夜が語り終えたとき、武の目からは、大粒の涙が後から後から流れ落ちていた。それはこの新たな世界に来て以来、武が初めて流した涙だった。
「……タケル……、そのように、涙を流すのは、衛士の流儀に反するであろう……?」
 そう言う冥夜の目からもまた、熱い涙が零れていたが、武はそれには触れずに言い返す。

「ばか……これは、嬉し涙、だよ……。みんなが、最後まで……立派に戦い抜いたって知って、嬉しいんだ。……嬉しいときにも泣いちゃいけない、なんて、そんな流儀……オレは、誰からも習っちゃいない…………」

 それを聞いて、泣きながら、笑いながら沈黙する冥夜。
 静かに涙を流す三人を、ただ蒼い光が照らしていた。





 ややあって、ようやく全員涙がおさまり、くしゃくしゃになった顔を拭き終わった頃、武がぽつりと漏らした。

「ところで冥夜、明日説明はどうする?」

 それを聞いて、意味がつかめず、どうするとは? と聞き返す冥夜。
「いやな、委員長達や月詠さん達への説明をどうするかってことだよ。おまえが起きたとき、オレの名前呼びながら抱きついて、思いっきり泣き腫らしたからな。まさか真実を話すわけにもいかないし、一体どうすれば辻褄合わせられるかって」
 途端に冥夜の顔が耳まで真っ赤に染まる。あわあわと慌てふためく彼女に武は、特に月詠さん達が厄介だ、と言って自分が記録上三年前の横浜で死んでいる事や、二日前に彼女らに色々と余計な情報を漏らしてしまったことなどを伝えた。
 そうして、明日どう対処するかを話し合う三人。一長一短の案が数々出たが、結局武の案で無理やり押し通そうということになった。


 その後も、武と冥夜は様々な事を話し合う。
 武が知ったBETAの正体と目的、そのとき晒された珠瀬の亡骸、横浜に戻って、短い間に会った人たちのこと、あるいはもっと日常的な『前の世界』の出来事など。
 冥夜にとって胸の一部に重石のような思いはあったが、それでも話の弾む話題は尽きる事がなく、霞が途中で眠ってしまった後も(執務室から毛布をもらってきて、シリンダールームで眠った)、二人の話は翌日の朝、彼女が起きるまで続く事になった。




[6379] 第三章 あるいは平穏なる時間 1
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:38

『いいなずけええぇぇぇぇーーーーーーーーー!!?』


 夕食後の食堂に、みなさんの叫びが大きく響きました。

 驚きが半分、後の半分は納得というイメージを感じます。

 腰を上げかけた榊さんなどは、驚きが強くて、すこし憤慨しているようです。


「い、いや、違うのだっ。許嫁といっても───」


 周りのテーブルから注目を集めたみなさんの声に、御剣さんが慌てて説明します。

 昨日白銀さんと決めたとおりだったのですが、御剣さんは本当に恥ずかしがって困っています。

 でも、白銀さんも一緒になって説明した結果、なんとかみなさん納得……は、してくれたみたいです。苦しい説明だったので、白銀さんも御剣さんも、内心少し動揺していましたけれど。


 それはそうと、今日は一日大変でした。

 衛士のみなさんは、毎日あんな大変な訓練をしているんですね。

 でも、みなさんが優しくしてくれて、大変でしたけど楽しくもありました。これが楽しいということなんですね。

 白銀さんも、私だけの思い出だと言ってくれました。もうひとりの私のものではない、新しい思い出です。

 そう、今日の朝博士に───








 第三章  あるいは平穏なる時間


 2001年10月25日


 その日の朝、御剣冥夜は三日ぶりに神宮司まりもの前に立っていた。
 かつて卒業した次の日に失った恩師の姿をその目で見て、自分が過去の世界に来たことを改めて認識する。失った仲間達の姿をそうと知って見たこともあり、冥夜の瞳はわずかにうるんだ。
 その教官が、傍らに立つ野戦服姿の少女を教え子達に紹介する。

「───今日から香月博士の研究の一環として貴様らの訓練に加わる事になった、社霞臨時少尉だ。少尉殿、分隊のメンバーを紹介します。右から───」

 まりもの紹介に対して榊らが思わずざわめく。なにしろ目の前の少女は、どう見ても13、4歳程度。そんな(珠瀬のことはおいておくとして)女の子が少尉で、何故か訓練部隊に加わるというのだ。いぶかしく思うのは当然だろう。
 ざわめく彼女らをまりもが一喝する中、冥夜と武は考えていた。
 今朝、夜を徹して話し込んでいた彼らのところに、今日から207Bの訓練に霞を加えるから、二人で面倒を見てやってくれと夕呼が言ってきたのだ。
 霞の素性や武の出自を知らない冥夜は、博士は何故このようなことをなさるのだろう、と。
 対して理由については見当が付いている武は、それにしたって少尉はないだろう、少尉は、何の悪ふざけだよ夕呼先生、と。

 二人がそれぞれ考えている間に、お互いの紹介が終わる。最後に霞が「……よろしく、お願いします」と頭を下げて、その日の訓練は開始された。




「目標、距離100mのターゲット! セレクター・フルによる指切り点射! ───てっ!!」
 まりもの号令とともに、横一列に並んだ訓練兵はアサルトライフルのトリガーを引いた。
 風のそよぐ射場に軽い銃声が響き、みなが当然のように的を捉える。と思いきや、一人だけ例外がいた。
 霞である。
 彼女は弾丸を撃ち出した反動で銃口を跳ね上げてしまい、気が付いたときには20発の弾倉を空にしてしまっていた。

「あがー」
 なにやら悲しそうな表情で、そう漏らす霞。それを見て、武は「霞、霞」と声を掛けた。
 軍事訓練を受けた経験の無い霞なので最初にレクチャーはされたのだが、いかんせん実践はそれだけでなかなか上手くいくものではない。
 武はかつての自分を思い出して懐かしい気持ちを憶えながら、あらためて彼女に射撃のコツを構え方から教えていく。

 ───左手はできるだけ手前に。
 ───肘は体につけて、脇を締める。
 ───とにかく反動は腕ではなく、体全体で抑え込む。

「……あのー、たけるさんは社少尉と知り合いなんですか?」
 そんな風に教えているところで、珠瀬がそう質問してきた。最初に来るのは榊かと思っていた武は、驚きつつも喜んで答える。

「ああ、香月博士の下で一緒に働いてるから。まだ14歳だけど、博士の研究のサポートとして欠かせない天才少女なんだよ。あの人にとっては娘みたいなものかもしれない」
「へえ~、すごいんですねー」
 説明を聞いて、珠瀬が素直に驚きの表情を作る。武が横を見れば、霞の方は照れたように顔を赤らめていた。例によって微かにではあるが。
 その様子を微笑ましく思いながら、武は珠瀬のみならず207Bの全員に向かって説明を続けていった。

「今まで研究畑一筋だったけど、これからの研究にあたって、多少なりと軍人としての経験があった方がいいってことで、オレもいることだし、短い間だけど神宮司教官に預けられたんだ。それに境遇が境遇だから、今まで友達もいなくてな。みんななら仲良くしてくれるかもって───ほら、たまなんか見た目霞と同い年ぐらいだし」
「あーー、たけるさんひど~い。結構気にしてるんですよー!」
 武の冗談に、半分怒り、半分笑って珠瀬が突っ込む。
 武はごめんごめんと謝り、そんなわけでみんなに霞と友達になってやって欲しい、名前も堅苦しく『少尉』なんてつけないで呼んでやって欲しいと頼んで、話を終えた。

 語られた配属の理由自体は嘘八百だが、武の霞に対する気持ちは本物だ。真情溢れる頼みに、また霞本人もそう頼んだこともあり、珠瀬はもちろん、彩峰も、規律にうるさい榊も頷き、「社さん」「社」と呼んで握手をし、あらためて自己紹介を交わした。



 その後は教えられた通り、霞も弾を撃ちつくすことなくなんとか的を捉えられるようになった。
 武は覚えの良いその姿に、オレなんかよりずっと優秀だなあと思いながら、射撃場での訓練に慣れた撃ち方になってしまっている皆を矯正したり、珠瀬に極東最高の狙撃の腕前を見せてもらったりしていく。
 三周目の世界でもその腕は変わらず見事なもので、武が感心し、霞がびっくりしているのを見て、榊などは誇らしげな様子だった。珠瀬本人の方は照れまくっていたが。

 午後になって、武の要求により数日退院の早められた美琴も合流し、あらためて霞の事を紹介する。まあなにしろ美琴なので、色々と念押しなどするまでもなく、あっという間に遠慮なく話しかけるようになって、霞は慌てていた。
 その後も霞を伴って訓練は続く。
 霞はがたがたになりながらも必死でついてきていて(行軍なら装備なしという具合に逆ハンデ付きだったが)、冥夜も朝方は硬かった動きが自然になっていた。
 武はもちろんぶっちぎりでみんなを引っ張り、その残るみんなは、明らかに聞きたい事を我慢しながらも、確実に訓練メニューをこなしていく。
 そうこうするうちに、10月の陽が傾き、この日の訓練が終了した───








『いいなずけええぇぇぇぇーーーーーーーーー!!?』

 夕食後のPXに7人中4人の驚きの声が響き渡る。
 仲間達が聞きたがっていた武と冥夜の関係については、話が長くなるだろうから、ということで今日の訓練が終わってから話す、と約束していたのだ。
 そういうわけで、食事を終えたみなが約束通りと冥夜に詰め寄り、追い詰められた彼女が「タケルとは結婚の約束をした仲なのだ。つまりいいなずけだな」とやって、一斉に叫び声が上がったというわけである。

「い、いや、違うのだっ。許嫁といっても子供の頃の───」
 覿面の反応を受けた冥夜は、真っ赤になって弁明する。切り出し方を失敗したが、慌ててその後、武の発案である用意された馴れ初めの話を続けた。


 かつて幼い頃、何故かひとりはぐれて迷い込んだ公園で、初めて武と出会ったこと。
 迎えが来るまで武に引き回され、散々遊び倒したこと。
 その中で、ふたりで結婚の約束をしたこと。

「もちろん子供同士の他愛のない約束に過ぎぬことだ。もとよりそのような自由のある身ではないしな。だが、長じてもあの日の思い出は、私の中で薄れることなく輝いたままだった」

 冥夜が話す姿を、武は横でじっと見ていた。
 この話は、武が取り戻した『元の世界』の記憶をモデルに創作した偽の物語ではあったが、冥夜は随分役に入り込んでいる。世界が違っても、幼い頃の冥夜の境遇はある意味似たようなものだ。こちらの彼女にも共感するものがあったのかもしれなかった。
 武が何かを思い、残りの皆も注目する中、話は続いていく。


 10年近くの時がたち、ふとしたことで武と再会した冥夜。
 しかし、案の定約束はおろか、冥夜のことも武は覚えてはいなかった。

 このあたりで猛烈に湿気た視線が武に向けられるが、当の本人は黙殺。冥夜も気にせず話を続けていった。
「幼き頃に会ったことは覚えておらずとも、タケルは得がたい友人だった。私の素性など一切気にせず、ひとりの友として扱ってくれたからな。タケルといるときだけは、私もこの身の宿命などは忘れていられて、その後も時折忍んで会いに行ったものだ……。三年前のあの時まで───」

 その言葉で周囲の空気が固まる。
 三年前。実に当時の人口の30%、3600万人の死者を出したBETAの日本侵攻は、それをかろうじて押し返した今もなお、佐渡島ハイヴという致死の刃を傷口に残し、日本人の心に絶望の影を落とし続けていることだったからだ。

「タケルは、まさにハイヴの造られた横浜、この柊町に住んでいた。BETA共が帝都を目前に急な転進を見せたゆえ、その矛先となった横浜は大混乱。進攻が止まった後になって必死に調べたが、タケルも、タケルの家族もどこにもいなかった……。もうタケルは死んだのだと、そう思ったら心に穴が開いたかのようで……そのときになってやっと気付いたのだ。タケルがどれだけ、私にとって掛け替えのない存在だったのかを……」



 冥夜の話はそこまでだった。
 そうやって、死んだと思っていた武に再会したのが昨日だったというわけだ。
 もちろん嘘話もいいところなので、普通なら信じ込ませるのは厳しいところなのだが、もしも今武を失ったら、と思えば自然と冥夜の胸は締め付けられて、話のさなかにはその思いが言葉から滲み出ていた。結果として聴衆は引き込まれ、話は既定のものになろうとしている。
 それでも丸め込まれまいとする本能か、榊が武に対して質問をしてきた。

「……白銀、あなたが御剣とのことを私達に話さなかったのは何故? 子供の頃の事はともかく、前から懇意だったんでしょう。信頼しあえる仲間になりたいと言ったのに、あなたの方は隠し事なわけ?」
「本当に知らなかったんだ。……三年前、両親も友達もみんなBETAに殺されて、オレだけが生き残った。でも、どうしてオレが生きていたのかは全く覚えていなくて、それ以前の記憶もひどく混乱してた。冥夜のこともそれで思い出せなかったんだ。三年も経ってるし、寝顔だけじゃな。それに……そもそも名前が違った」
「名前?」
 様々な理由であろう苛立ちを瞳にのせて糾す榊に、武は降参というように手を上げて答える。その内容に関しては、冥夜が補足を付け加えた。
「武に対しては『ひなた』と名乗っていたのだ。子供の頃には普通に名乗ったのだが、すっかり忘れていられたのが少々癪だったのでな。それに……冥夜という自らの名前を重荷に思うことが、決してなかったとは言えぬゆえ……」

 訳あり揃いである207Bのメンバーは、今まで仲間同士で干渉しあわないように振舞ってきたが、冥夜の素性については、その顔を見れば当然大方予想が付いていた。
 それゆえ、その話を出されて、皆反射的に口を噤む。普段空気を読まない美琴もそれに倣った。
 その場の重い思いに、霞もなにやら嫌そうに顔をしかめる。



「さて───」

 流れた重い沈黙を、一転凛とした冥夜の声が吹き払った。
 集中したみなの視線を受けて、大きく息を吸い、冥夜は改めて言葉をつむぎだす。
 これから話すことは、彼女にとっても大事の話。心せねば、と思い定めて吐いた言葉は、重く落ち着いた響きがあった。

「昨夜、様々なことをタケルと話し合ってな。昔の思い出や、これまでのこと、そして今と、これからのことを。それで今の我等の関係について散々諭された。お互い詮索しないのが暗黙のルール。そのような甘いことを言っている輩が、一人前の衛士になどなれようかと」

 そう言って言葉を切り、全員を見遣る冥夜。よりにもよって冥夜がそのような話題を切り出したということで、見渡した顔はみな驚きに満ちていた。
 しかし武と冥夜にとっては、これは充分に話し合った末の予定の行動である。むしろ今までの説明は話の枕であり、この場での本題はこれからだった。
 207Bの成長を阻害する様々なしがらみ、特に榊と彩峰の関係を、冥夜のループというイレギュラーを機に、できるだけ早く解消してしまおうと考えたのである。これまでの嘘説明も、榊たちを説得するためというよりは、これからの話に多少なりと繋げるために用意したといえるものであった。

 落ち着いていながらも力ある視線を向けられ、榊や彩峰は身構え、珠瀬などはやや落ち着かない様子になる。美琴はあまり変わらない顔をしていたが、それでも静かに聴く態度を取った。
 それを確認して、冥夜は話を続ける。私達は何かを変えなければならない。だから、まずは自分から話そう、と。


「この世に生まれ落ちたとき、私には双子の姉上がいた───」

 ここまで訓練の後にへとへとの霞を介抱し、夕食も真っ青な彼女が食べ終わるのを待ったりしていた為、かなり時間が経っていた。その間にPXも大分空き、彼等のテーブルの周りにはもう誰もいない状態だったが、冥夜はさすがに小さく抑えた声で言う。だが、それでもその言葉は聴き手の間にしっかりと響いた。 

「───だが私に姉上がいたのはそのときだけだ。私はすぐさま家族と引き離され、なきものとして扱われた。双子は家を分けるという言い伝えがあったのでな。まあ昔のことならば文字通りなきものにされたのやもしれぬが、私は遠縁の御剣家に預けられることとなった。本来なら、そうして元の家とは関わりのない人間として一生を過ごすはずだったのだが───」

 話しながら冥夜は、その身の遍歴に思いを飛ばしていた。
 次代の将軍の影として生まれ、そのさだめに殉じて育ち、そしてあのクーデターを機に影としての必要性を失った。
 姉との繋がりを絶たれ、ただの御剣冥夜として生きていくと思い決め、しかしその生の意味もつかめたかわからぬまま、命を落とした。
 そして今、思いもかけず拾った命とともに、再び影としてこの過去の世にある。
 だが、たとえ未来の歴史が掻き消されたとしても、もはや自分は影としてのさだめに殉じることはできないと冥夜は悟っていた。
 そのような器用な真似ができる自分ではない。影としての存在から解き放たれ、ただひとりの人として生きた時間は僅か一月にも満たなかったが、その間に得たものは、学んだものは、限りなく重く大きい。いまさらかつての自分に戻れようもないなら、あの世界で逝った偉大な先達や仲間達の残してくれたものを、この身を以って育み伝えていくのが、数奇な運命に生かされた自分の進むべき道だろう。
 そう考えて、冥夜は武の頼みを受けたのだった。存在しない、存在してはならない姉のことを話すという頼みを。


「───そして、今私はここにいる。私にとって選べる道は限りなく少なかったが、それでも私が今ここにあるのは、私が道を選んだ結果だ。だからこそその道で行き会ったそなた達とは、真に意を通じ合いたい。それが私の望みだ」


 話し終えた冥夜が息をつく。
 煌武院の名、将軍家という言葉こそ出さなかったが、あきらかにそのようなものは不要だったろう。時を越えてきた事実以外、語れる素性は全て語った。

 ただひとたびも顔を会わせた事のない双子の姉。
 姉妹に与えられた名前の意味。
 対BETA戦争の中で、揺れ動いてきたふたりの立場。
 今の自分が人質としてこの横浜にいること。
 そして、そのなかで感じてきた自らの思い。

 聞き終えた榊達は、さすがに話の重さに静まり返っていた。
 しかし、冥夜も武もそれ以上口を開く様子がない中、静寂に耐えかねたか、珠瀬がおずおずと問う。

「あの……、私たちにそんな話を聞かせちゃって、御剣さん、大丈夫なんですか……?」
 もっともな問いに、冥夜はうすく笑って答えた。
「もちろん、良いはずがなかろうな。私には双子の姉など存在しないのだから。だが───」
 いったん言葉を切って、改めてみなを見渡す。
「───ここにいる者は、皆似たような立場であろう。そもそも私の顔を見ただけでおおよそ事情はわかっていように、お互い知らぬふりというのも滑稽極まりないではないか。他言無用としてくれればそれでよい」

 冥夜が答えた後には、また更なる沈黙がその場に降りた。
 その言葉の意味は明らかだったからだ。もっとも重い事情を抱えた冥夜がそれを語ってみせ、みな似たような立場と言うからには、仲間としてこれから共に戦うつもりなら、残った者達も自らの事を語れというのだろう。
 それが特に鬱屈した事情を抱え、常に火種となっている二人、榊と彩峰に向けられたものだということは明らかだった。しかし、いまの彼女らにそれが容易くできようはずもなく、重い空気に珠瀬と美琴も口を開けない。
 そんな中で沈黙を破り響き渡ったのは、武の意外な言葉だった。


「光州(クアンジュ)作戦の悲劇───」


 光州作戦。その名を聞いて、彩峰が思わず体を震わす。武は静かな瞳で彼女の目を見つめ、淡々と、しかし力強く言葉を続けた。
「極東国連軍と大東亜連合軍の朝鮮半島撤退支援を目的としたあの作戦で、彩峰中将は敵前逃亡罪の判決を受けて投獄、処刑された。彩峰中将には娘がひとりいたそうだけど、彼女はそれを目の当たりにして、何を感じたのかな」
 当の娘を前に、他人事のような語り口。

「……まあその娘さんが何を感じたかはともかく、実際のところ真実は違う。彩峰中将は敵前逃亡はおろか、脱出を拒む現地住民の避難を優先する大東亜連合軍と共に、最前線に残ってBETAと戦ったんだ。だけど、中将の勇戦の結果として、現地住民の避難と大東亜連合軍の撤退は成功したものの、逆に国連軍司令部が壊滅。指揮系統の大混乱で、国連軍は多大な損害を受けた。彩峰中将は人身御供として敵前逃亡の罪を着せられ、その責任を取らされたんだ。国連側を納得させる為に」
 そこまで話して武は一呼吸置き、うつむいて震えを強くする彩峰から、榊に視線を移した。

「───そうさせたのは当時の、って今もだけど、日本国首相、榊是親。なるほど、どっかの二人が仲悪いのもわかろうってもんだよな」
 見る者からすれば、にやにやと、と表現したくなる顔で揶揄する武に、榊が震える声でつぶやいた。
「……どうして……あなたが、そんな……」
 だが、そんな榊の呟きは無視して、またも武は他人事のような口調で秘事をつむぐ。

「でも、それだって当然国の為、人類の為の苦渋の決断だったんだ。国連は彩峰中将の国際軍事法廷への引き渡しを要求していた。その要求に従えば、軍部の反発は必至。その場でクーデターにでも繋がってたかもしれない。だけど、当時の日本は人類の未来を決める秘密計画を誘致して、水面下で激しく米国と争っていた。絶対に国連との関係を悪化させるわけにはいかなかったんだ。だから榊首相は最前線を預かる国家の政情安定を人質に、国内法による厳重な処罰っていうギリギリの線で、軍部と国連双方をかろうじて納得させた。立派な政治家だよ、本当にな」

 噛み締めるようにして武は話を結んだ。ここまでの話は武がこれまでのループで得た知識と、将軍の影として育てられた冥夜の知識、そしてオルタネイティヴ4の中核として、政治的なことも心得ている霞の話を総合して組み上げたものだ。
 限りなく真実に近いであろう話をし終えて、武は『前の世界』の記憶に跳んでいた。
 あのクーデターで親父さんを殺された委員長。そのときまで、委員長は長く話もせず、父親を疎んじていた。
 そんなんでいいはずがない。あいつはあきらかに誤解してる。
 そう考えていたところで、今度は冥夜が口を開いた。

「───タケルが話した処罰に先立ち、榊首相は彩峰中将を密かに訪ねたそうだ。その際、日本の未来を説いて土下座する首相に対して、中将は笑顔で人身御供となることを快諾し、帰路の車中、首相は中将の高潔に心打たれ、静かに涙したという」
 気高い二人をいとおしむような、冥夜の優しい声音が、俯いていた榊と彩峰の顔を上げさせた。それに乗じるように、武がまた話題を変えて言葉を重ねる。


「話変えるけど、委員長。おまえ徴兵免除を蹴って国連軍に入ったんだよな。でも、なんで国連軍なんだ? 本当は帝国軍に入りたかったんじゃないのか?」
 嫌な話題を振られたとみたか、榊の太い眉が顰められる。目を少し伏せながら、苦い声で返答してきた。
「……私は帝国軍に志願したのよ。けど、父が手を回したんでしょうね。いつの間にか最後方の国連軍横浜基地に回されていたわ……。そもそも徴兵免除の手続きも、私が知らない間に勝手に取られていたのよ。今のこの国で、そんな風に身内だけ特別扱いしようなんて許されない! 権力を持った人間であればこそよ。白銀がどう思っているか知らないけど、私の父はそんな人間なの!」

 ぼそぼそと話し出した榊は、乗せられて語った打ち明け話に自らあてられ、最後にはこぶしを握って声を荒げていた。
 『一回目の世界』でも、同じ事を聞いたな───武はそう思いながら、激して肩を震わす榊を見つめる。だが、その叫びには答えず、視線を彩峰に移した。

「……彩峰、どうした、ぼおっとして。いざとなったら逃げ場のあるお嬢様とでも思ってたか?」
「……う」
 言葉の通りぼおっとしていた彩峰は、まさに図星を突かれて硬直する。
「まあ、親の七光りでこんなところにいるって思うのも自然だからな。でも委員長、やっぱりおまえ間違ってるぞ」
「間違い?」
「ああ。徴兵免除はともかく、横浜基地への配属には親父さんは関わってないよ。誰が好きで大事な娘をこんな地獄に放り込むもんか」
「地……獄……?」
 唐突に出てきた物騒な単語に、険悪だった榊の気が削がれる。のみならず彩峰も、ここまでオロオロおたおたしていたりで、口を挟めなかった珠瀬や美琴も、思わぬ不吉な言葉の意味をつかめず、何やらキョトンとした表情になった。
 言葉の響きが浸透するのを少し待ち、武は話を続ける。

「そうだ。まあ、横浜基地を最後方とか言ってる時点で平和ボケもいいところなんだが、それは置いとくとして。この207隊は、夕呼せんせ……香月博士が特に選別して集めた、一種の実験部隊なのさ。政治的事情はおまけに過ぎない。いざ訓練課程を卒業して衛士になれば、オレ達はとことん危険な任務に投入されることになる───」



 真剣に話す武の横では、冥夜が昨夜聞いた話を思い出していた。

 武が話してくれた、A-01部隊の本来の役割。
 00ユニット候補として生命を削るふるいにかけられ、時には実験台となって死んでいった多くの先任達。
 『前の世界』で人類の希望を目の当たりにした冥夜にしてみれば、彼等は決して無駄に死んでいったわけではない。
 だが、そのありようは、まさしく言葉の通りに地獄であろう。

 その渦中にあって、タケルは、香月副司令は、伊隅大尉は、どれほどの覚悟を以って任に当たっていたのか。
 冥夜はそう考え、この過去の世に目覚めて以来、自らの小ささを思い知らされるばかりだと、胸に痛みを感じていた。



「───言いたい事はこれでおしまい。どう捉えるかはおまえら次第だし、何をしろとも言わない。ただ、よく考えるんだな」
 冥夜が考えている間に、武の話は終わっていた。
 今、この横浜基地は人類の未来を担う重要な位置にあり、207隊もそのピースのひとつだと言われ、またそれをめぐって国連や各国の様々な勢力が、日本を中心に蠢いていると告げられたのだ。そのようななかでは、榊達の政治的事情などちっぽけなものに過ぎないと武は言い放った。
 ぼかした内容ではあったが、榊達は大きな衝撃を受けたようだ。すぐには動けもしないような様子であったが、武が「じゃあ、オレはまだやることがあるから」と席を立とうとしたところで、かろうじて彩峰が声を掛ける。

「……白銀、あんた……何者?」
「ん? 最初に言ったろ、元人類の救世主だって───」

 その当然の質問に結局のところはぐらかした事実のみを答え、武はテーブルに背を向ける。すぐにその後を冥夜が追った。
 ほとんど人がいなくなり、ガランとなったPXを出口に向かって歩きながら、これで何かが変わればいいけど、と武は考えていた。

 全員複雑な背景を背負った207Bのみんなだけど、委員長と彩峰は特に面倒だ。一旦相克を乗り越えて理解しあえば最高のコンビなのだが、『前の世界』でそうなれたのは、あのクーデターを経たというのが大きい。
 光州作戦の悲劇を背負って立った狭霧大尉。彼に殺害された榊首相。そしてあいつらの親父さんに大きく関わる殿下の話。
 今回の未来がどうなるかはわからないし、いつ何が起こるかわからないのだから、今こうしてあんな話をした。クーデターの経験には及びもつかないだろうが、二人の視野を広げる役には立つはずだ。あいつらの一番の問題は、背負っているものの重さに囚われすぎて頑なさが過ぎることだろうから───

 と、お互い色々考えているうちにPXを出ていた武と冥夜だったが、そのあたりで猛烈な殺気に当てられて我に返った。
 PXの外で、今にも斬り殺そうかという様な視線で武を睨みながら、月詠以下、斯衛の4人が待っていたのである。




「───冥夜様、その男がどのような人物なのか、お聞かせ願えましょうか」

 張り詰めた廊下に、抑えつつも激情を孕んだ声が響く。殺気を向けられているのは当然主に決定的な不審人物たる武の方なのだが、その余波は勢い余って傍らにまで向けられていて、冥夜は思わず身をすくめた。
 なんとか「わかった」と答えるが、その際無意識に武を頼るような仕草を見せたものだから、ますます月詠の殺気は膨れ上がる。プチッとかブチッとかいう音が、こめかみから聞こえてきそうな具合だった。

「……白銀さん、香月博士の仕事があります……行きましょう」 
 武が冥夜と共に震え上がっていると、後ろから声が掛けられた。振り向けば、体が痛いのかやたらとギクシャクした動きで、霞がこちらにやってくる。
 武と冥夜より少し遅れて、彼女も席を立ってきたのだ。
 なお、あの場では一度もしゃべらなかった霞だが、最後に榊達に向かって、
「……白銀さんも御剣さんも、みなさんを頼りにしています……。その価値があることを……みせてください」
 と言葉を残して去ってきている。ふたりの思いを感じた霞の、精一杯の言葉であった。

「わかった。じゃあシミュレーターデッキに行こう。冥夜、そういうわけだから、説明はよろしく頼む」
 霞の言葉を幸いとばかりに、さっそくその場から逃げ出そうとする武。当然、「待てっ、それはない。私をおいて逃げようというのか、タケル!」などと冥夜が詰め寄ったのだが、その台詞を聞いて、月詠の青筋はますます増えていた。


 結局、今の月詠達の様子を見るに、武がいても話がこじれるばかりであろうこと。XM3の開発任務は今日のところは基本的なコンボの入力作業で、冥夜に働いてもらうのは明日以降からだということで、武と冥夜はここで別れる事となった。
 月詠としては逃がすものかという気持ちがあっただろうが、確かに武の顔をこれ以上見なくて済むなら願ったりでもあったのだろう。結局それを承諾することになる。

 武と霞がそそくさと、しかし頭を下げながらシミュレーターデッキに向かった後、冥夜は基地内に用意された、月詠の部屋へと連行されていった。








「そのような話で、我等が納得できるとお思いですか!」

 冥夜が連れて行かれた部屋には、人数分の座布団が敷かれていた。
 そのなかで位置的には上座に座りながらも、冥夜は主従の立場が逆転したかのように責められていた。
 だが、それも無理もないと言えよう。なにしろ昨夜徹夜で話し合っていた武と冥夜だったが、結局月詠にどう言い訳するかは、良い案を見出す事ができなかったのだ。
 検証しようのない榊達が相手なら先程のような説明でも良かったが、月詠達が相手ではそうはいかない。なにしろ長年そばに仕えてきた彼女らだ。たとえ軍務で離れていた時期があろうとも、どのみち冥夜のそばに護衛がいないときなどあろうはずがない。ならば白銀武という人間が月詠の知らない内に冥夜と接触し、ましてや再会に涙を流すような親密な関係を築くなど、普通に考えてありえないはずなのだ。

 結果として、月詠の追求に対して冥夜の話は、言えない、話せない、だが信じてくれ、に終始し、如何に主の言葉とて、彼女としてはそれで納得することはできなかった。
 それゆえ、月詠は武の例の素性を冥夜にぶつける。

「冥夜様、あの男は死人です。三年前、この横浜で死んでいるのですよ」
「それはタケルから聞いた。記録上そうなっているということはな。現に生きているのだから、そのようなこと気にせずともよいではないか」
 冥夜の答えを聞いて、月詠は唇を噛み締めて思った。そんな言葉を鵜呑みにするような冥夜様ではなかったはずなのに、と。
 忸怩たる思いを抑えて、月詠は話を続ける。

「三年前以降、白銀武が生きていた痕跡は一切認められておりません。冥夜様が白銀武とやらと、いつどこで知り合われたのかはこの際置きますが、今この状況でそんな男が、まして死人が降って湧く筈がございません。ありていに言って、何らかの目的で冥夜様を利用する為、顔を変えて近づいた諜者としか───」
「───月詠」 
 弾劾の句の中に、冷え冷えとした冥夜の声が挟まれた。さすがに興奮した月詠も居住まいを正す。
「そなたは私が旧知の者を、ましてや自分が最も頼みとする者を、上辺だけで見違えるとでも思っているのか?」
 そう言って睨み据える冥夜の視線は、月詠をして震え上がらせるほど苛烈なものだった。思わず頭を下げて、前言を詫びる。しかし、その後の言葉は止められなかった。

「申し訳ありません。……ですが、あの男が例え冥夜様の知る本人であったとしても、冥夜様を利用する為に今近づいてきた可能性は捨て切れませぬ。冥夜様もお立場上、よく理解されているはず。そのように信用なされては───」


 ───ダンッッ!!


 その場に鈍く大きい音が響き渡った。
 冥夜が握り締めた拳を、床に力いっぱい叩きつけた音だった。

「……もうよい」
 叩きつけた拳を震わせて、俯いたまま冥夜が言う。
「……信じろとは言わぬ。そなたたちの申すことはもっともだし、タケルも今信じてもらおうなどとは望んでいなかったゆえな。だが、私の思いは変わらぬ。タケルが望むなら何でもしようし、タケルの為なら迷わずこの命も捧げよう。仔細を話せぬことは済まぬと思うが、いまこれ以上、あの者を侮辱するような話を聞きたくはない」

 怒りを滲ませた沈鬱な声で言うと、冥夜は月詠たちを一瞥もせずに立ち上がり、部屋から出て行ってしまった。
 主の逆鱗に触れたことを悟って、月詠たちは声も出せずそれを見送る。
 神代たちが右往左往する中、月詠は血が出るほどに奥歯を噛み締めていた。

 冥夜様があのようなことを口にされるなど、考えられん。
 何かを───あの男が冥夜様に何かをしたのだ。
 倒れる前の冥夜様はなんら変わられた様子はなかったのに、このような変わりようはありえぬ。
 冥夜様は誑かされているのだ。
 昨夜の冥夜様は朝帰りで───駄目だッ、そのようなことは考えるな!

 冥夜は心強く、聡明でもあるが、同時に純粋で騙されやすくもある。
 月詠はそれを知っていたがゆえに、冥夜が武に誑かされているのだと考えていた。
 だが、今の冥夜の様子では諫言は逆効果としか思えない。
 ゆえに、まずは冥夜と武の過去の接点を徹底的に洗うことを決めていた。
 そして、いざとなればその首を───








「───あのような言い様をするつもりではなかったのだがな」

 月詠の部屋を飛び出してきた冥夜は、のぼった血を冷まそうと、夜のグラウンドに佇んでいた。
 武のもとへ行こうとも考えたのだが、今の自分の顔を見せたくないという気持ちが勝って、結局ひとりで外に向かったのだ。 
 そうして夜の冷気に晒されながら、冥夜は先程のことを考えていた。

 月詠の言ったことは昨夜のタケルとの話し合いで予想されていたことだし、納得してもらえるとも思ってはいなかった。
 月詠の立場なら当然のことだ。自分のことを思うが故の諫言と、充分に承知していた。
 なのに、あのようにタケルを悪く言われるのが我慢できず、気づけばあのような真似を。
 一体私はどうしてしまったのか。


 追憶を振り切り、冥夜は走り出す。
 いつもの日課だ。体を動かせば、もやもやした気持ちも紛れよう。
 そう考えて、冥夜は加速をかけていく。

 地の月に代わるかのように、天の月が躍動する麗姿を照らしていた───







 あとがき

 今回霞が207B入りしましたが、霞が少尉であることには意味はありません。理由はありますけど。
 衛士として戦う霞も格好可愛いと思いますが、霞って衛士適性あるのかなあ?




[6379] 第三章 あるいは平穏なる時間 2
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:39

 2001年10月29日


 乾いた風が吹きすさぶ大地に、二機の戦術機、青い塗装の不知火が対峙していた。
 距離を取って睨み合うその腕には、互いに一本の長刀が握られている。
 廃墟の中、風音と裏腹に高まり張り詰める緊張感。

 その緊張がいよいよ最高潮に高まろうとしたとき、機先を制して片方の不知火が動いた。
 跳躍ユニットが高音の唸りを上げ、膨大な推力が瞬く間に機の速度を押し上げる。
 相手の周囲を旋回するように距離を詰め、突如急角度でターンすると、絶妙の間合いで横合いから襲い掛かる。

 地面すれすれに高速で迫る不知火を、しかしもう一機の不知火は完全に捉えていた。
 練達の足捌きで迫る相手に向きを変え、長刀を振り上げて迎撃の構えを取ると、自らも足を踏み出し間合いを詰める。

 両機の間には回線が通じている。
 裂帛の気合を絡ませながら、交錯する二機の不知火。


 一閃。


 雷光の如き迎撃の太刀は、完璧なタイミングで振り下ろされた───








「ふう。ギリギリだったな……」
 ハンガーで不知火から降りた武が、大きく息をついた。首を回して体をほぐす武に、背後から声が掛かる。
「なにがギリギリなものか。私の完敗だ」
 武が後ろを振り向けば、黒の強化装備姿で冥夜もハンガーに降りてきていた。火照った吐息が、冷たさに白く凍える。

「……そなたなら躱すとは思っていたが、まさか次の太刀があれほど迅いとはな」
 ため息をつくように冥夜はそう言ったが、その表情はある種嬉しそうに感じられる。
「タケルと一対一で仕合うなど初めてのことだからな。全力で挑んだのだが……まだ壁は高かったか」
「よく言うよ。中距離で仕止められなかった時点でオレの負けみたいなもんだ。最後だって紙一重もいいところだし、まったく、こっちは二年以上キャリア上だってのに。泣けてくるよ」

 おどけたように答える武だったが、紙一重というのは掛け値なしの本音である。今の冥夜は戦術機に乗り始めてから二ヶ月と経っていないというのに、その技量と気迫には武も凄まじい圧力を感じた。最後の斬りあいにしても、もし冥夜の機体が武御雷だったならば勝敗は逆になっていただろう。
 これなら今日の本番も充分に目はある。
 そう考えて、『今回』初めて邂逅することになる先達達に思いを馳せる武だった。



 このとき、日時は10月29日の正午前。
 25日から武が動作入力を始めたXM3(まだ『新OS』だが)だったが、昨日ようやくβ版が完成をみた。武と冥夜の二人がかりの作業であったわけだから、本来ならもっと早く完成してもよかったはずなのだが、207Bの訓練が終わった後限定であったし、またその間夕呼がしょっちゅう武を呼び出しては様々な質問をしてきたので、幾分か遅れてしまったのだ。更に言えば、冥夜がシミュレーターに乗って開発に参加しているのを月詠たちに隠しておく為のごまかしにも時間をロスしていた。
 ともあれ今日は、207Bは自主訓練とし、すでに二機(手回し良く冥夜の分も同時に)搬入されていた不知火にXM3を搭載して、ヴァルキリーズへのお披露目をする予定である。
 その午後の本番を前にして、二人は実機の慣熟の為、演習場を跳び回っていたというわけだ。


 そして、その仕上げにと行なった一対一の模擬戦。その戦いは完全な真剣勝負となった。
 序盤は機動力、総合能力で上を行く武が中距離の機動砲撃戦で攻勢に出る展開となるが、冥夜もぎりぎりのところで射軸をかわし、決定打を凌ぎ続ける。業を煮やした武は、これ以上弾薬を消耗すれば一転自らが不利となる段階に入ったと見て、突撃砲をマウントし近接格闘戦を誘ったのである。

 共に長刀を抜いて対峙し、満を持しての勝負。
 武の突撃を完全に見切って迎撃の一太刀を繰り出した冥夜だったが、武はそれを掻い潜ってみせた。
 迎撃の剣が早いと見るや長刀を右に振り出し、水平噴射跳躍(ホライゾナルブースト)から四肢を動かして無理矢理体勢を崩す。
 同時に右のブースターをカット。体捌きと合わせて縦軸反転で急旋回し、切り落としを紙一重で躱しつつ脇をくぐり抜けて背後に回り込む。

 並の衛士なら消えたとしか見えない機動であっただろうが、冥夜も即座にこれに反応。
 躱されたと見た刹那、斬撃を中途でキャンセルし、そのまま握った長刀を背後に斬り返した。

 それはまさに神速と呼ぶべき反応速度であったが、それでもなお、武の方が一歩早かった。
 斬り返しが背後に届く前に、武の長刀は右旋回の勢いをそのままに、冥夜の不知火に叩きつけられていたのだ。


 わずか後に「御剣機、致命的損傷。大破」の報が告げられ、模擬戦は終了。真剣勝負の緊張から解放されて息をついた二人は、それで慣熟を終了してハンガーに戻り、不知火を整備兵達に任せて感想を戦わせていたというわけだ。
 その後は軽い口調で午後の戦いに向けて互いに確認をする武と冥夜だったが、心身の高揚は隠せない。穏やかながらも確かな熱を持った、密度の濃いやり取りが二人の間で長く続いた。








「───本日午後、第4計画で新たに開発された新装備の運用評価の一環として、ヴァルキリーズで実機演習を行うこととなった」
 基地内の一室、ミーティングルームにA-01部隊長、伊隅みちるの声が響く。室内には、隊長である伊隅以下、部隊の衛士12人と専任のCP将校(コマンドポストオフィサー)である涼宮遙、合わせて13人が揃っていた。

 場面は、武たちが慣熟訓練を行っていた午前中の時間帯である。
 当日であるこの日の朝になって、直属の上官である副司令香月夕呼から運用評価演習の命令を受けた伊隅であったが、夕呼の急な命令はいつもの事だ。命がけの任務でないこともあり、特に気負う事もなくそれを受けた。その辺りは、今話を聞いた隊員達にしても同様だ。
 だが、伊隅が話を進めるにしたがって、彼女達の間にかすかなざわめきが巻き起こった。

 それを引き起こしたのは、まず第一に今回の演習が極秘任務部隊であるところのA-01部隊のみで行われるものではなく、他の部隊を相手取った模擬戦であること。更に、件の新装備を運用するのが彼女達ではなく相手側の方であるということ。
 しかし、より大きなざわめきを起こしたのは第二点。敵側の戦力だ。
 オルタネイティヴ4の直属として横浜一の戦力、錬度を誇るヴァルキリーズ一個中隊に対して、敵戦力はエレメントひとつ、わずか不知火二機で当たるというのだ。


「───ちょっと大尉、本気ですかそれ?」
 そこまでを聞いて、ヴァルキリーズのNo.2、突撃前衛長の速瀬水月が声を上げる。
 呆れたような、憤慨したような口調で噛みつく速瀬だったが、答えをもらう前に横からの新たな声に遮られた。

「その新装備の情報はいただけないのですか? わずか二機で我々全員を相手にしようというのなら、余程常識はずれの代物なのでしょう?」
「残念ながら私も詳細は聞かされていない。わずかなりとは聞いたが、正直演習の意図は掴めなかったというのが本音だな」
 先に上げられた声は無視して、伊隅は後の質問に答える。
 続けられた説明に、聞き入りながら考えているのは雪村沙織中尉。
 質問をかぶせられた速瀬に「またあんたは~」といったような視線を向けられてもどこ吹く風の彼女は、ヴァルキリーズA小隊のNo.2であり、隊長である伊隅の副官を務める古株だ。
 突出した特性は持たないが、バランスよくまとまった技能の持ち主であり、なにより思慮深く常に冷静さを崩さない優秀な衛士である。

 続けられた伊隅の説明は、夕呼から限定的に聞かされた『新装備』についての事柄や、演習のルールについてのものだった。

 まず第一には、その新装備が直接的な火器、武装の類ではないこと。
 また相手方の不知火も、機体はなんら特別なものではないこと。
 模擬戦の舞台は市街地演習場であり、作戦領域には最初から二機の不知火が潜伏済み。
 ヴァルキリーズ側の勝利条件は、制限時間内での敵戦力の捕捉、殲滅。逃げ切られた場合は、味方に損害がなくともヴァルキリーズ側の敗北となること。


「───と、こんなところだが、どう思う雪村?」
 伊隅がとりあえず話を終えて、副官に改めて所見を問う。
「その条件からすれば、新しいステルス装置か妨害装置のテストのように聞こえますが、いまいちしっくりきませんね。市街戦なら最初からレーダーは役に立ちませんし、そもそも対戦術機戦専用の装備などというのは第4計画の目的にそぐわない気がしますし……」

「そもそもの話を言うなら、副司令が提示したルール自体、到底鵜呑みにはできないでしょう。あの人の話は、嘘でなくても何か裏があると考えた方が自然です。我々の果たす任務には、容易いものなど何一つないというのが相場ですからね」
 首をかしげながら答える雪村に続けて発言したのは、ヴァルキリーズのNo.3、C小隊の隊長を務める宗像美冴中尉だ。皮肉げな笑みを湛えながら、己の考えを述べる。
 黒い意見に隣りに立つ相方、同隊の風間少尉が「──美冴さん」と諌めるが、本気の様子はなかった。むしろ周りの先任は皆、「さもありなん」とでも言いたそうな表情を浮かべている。それぞれ夕呼の性格はよくわかっているということだろう。

 伊隅も軽く笑いながらその意見を肯定し、話を続けた。
「まあ『万が一』負けるようなことがあったら、全員一から鍛えなおしてもらう、とは言われたがな」
「つまり、副司令は負かす気まんまん、ってことですかね?」
「どうかな。副司令自身も、結果がどう転ぶか楽しみにしているふしがあったが」
「ですが、そうだとすると───」


 夕呼の裏を読むという話題には興がのったか、やや脱線と言えることに話し込む伊隅ら三人だったが、それを止めたのは短気な速瀬の大声だった。
「だ~~っ、そんな細かいことはもういいですよっ! 副司令が何考えてようが、新装備とやらがなんだろうが、たった二人でうちらを相手にしようってなめたヤツらを全力で叩き潰す! それだけでしょう!?」
「……単細胞」
「あんですって雪村~?」
 内容も豪快な大声に、ぼそっと呟く雪村。当然聞き逃さず、即座に噛み付く速瀬だったが、相手は顔も向けずに言葉を続けた。
「ですが、まさに速瀬中尉の言う通りですね。もとより予断を持って戦いに臨むのは禁物。我々が為すべきことは、ただ全身全霊をもって戦い勝利することなのだから、そのためにこそ心を砕け、ということでしょう」
 悪口の後に持ち上げられ、速瀬は怒りの矛先をそらされる。わずかに顔を赤らめてそっぽを向くその姿を見て、伊隅は「ふっ」と頬を緩めた。

「そうだな。速瀬の言う通り、余計な詮索は演習が終わった後にしよう」
 そう言って、伊隅は用意していた作戦の説明に入る。途端に隊の空気が変わり、締まったものとなった。
 説明の間に活発に意見が挟まれながら、用意された作戦案がシェイプされていく。同時に戦乙女達の士気と集中もまた高まっていった。
 油断も、怖れも、そして気負いもない状態。
 その空気を感じた伊隅は、これなら滅多な事はありえない、と自らの隊を誇る。同時に、その自分達を相手取ろうという二人と新たな装備を想像し、楽しみにしていた。
 副司令もその二人の技量と新装備の性能に、相当な自信を持っているのだろうと見たのだ。


 だがその想定も、異世界のゲーム知識から生まれたOSと、ある意味この世界でもっとも実戦経験に長けた衛士という存在に対しては、実のところまだまだ足りない。
 それを伊隅は、そしてヴァルキリーズの面々は、この日の演習で思い知ることになるのだった───








「───そろそろ接敵するぞ、冥夜。準備はいいか」
「万端だ。そなたの方こそ遅れるでないぞ。私ひとりで囲まれるようなことになれば、さすがにもたせる自信はないからな」

 第二演習場。演習開始から三十分経過。
 ここまで一発の砲火も交わすことなく、息を殺して潜んでいた武だったが、いよいよ戦況の動く頃合いと見て取り冥夜に通話を繋いだ。即座にウインドゥが開き、冥夜が落ち着いた声で答えを返してくる。
 その表情は穏やかでありながらも覇気に満ち、それを頼もしく思うと同時に、翻って武は自らのわずかな緊張を感じ取った。
 必ず勝つ、改めてそう念じて大きく息を吸う。微かな震えも治まった。

「それならまかせろ。でもそっちこそあまりもたもたしてないでくれよ。速瀬中尉とぶち当たったりしたらひとりじゃ怖い。きっと怒ってるだろうからな」
「ふっ、それは確かに怖いな。まあそなたが泣き出すまでには駆けつけるよう心掛けるから、安心して戦うがよい」
「わかった。必ず勝つぞ!」
「うむ」

 自然に冗談を返した冥夜が笑って頷き、それとともに窓が閉じて残影を落とす。その残った陰が、武にひとつの夢を思い出させた。
 それは、横浜での戦いの後に見た一抹の夢。
 武に後を託して逝った、安心したように笑う先達たちの姿だった。

 勝利を誓った二人だったが、実のところこの演習で勝利する必要性などは特にない。
 というより、このような模擬戦をすること自体、特に必要のないことなのだ。
 XM3の評価は既に『前の世界』で固まっている。運用評価も何も、正式採用はとうに規定の事実なのだ。
 二週間先に迫った新潟での戦闘に備えて、少しでも彼女達の錬度を引き上げるため、最初にできるだけ強いインパクトを、という建前はある。しかし、武も冥夜も彼女らのことはよくわかっている。
 伊隅大尉率いるヴァルキリーズが、ひとたび触れてもXM3の価値がわからぬほどのめくらであるわけがない。このような模擬戦を行わずとも、慣熟に手を抜く彼女達であるはずもない。

 しかし、それでも武と冥夜には戦う理由があり、そして是が非でも勝つつもりであった。

 『前の世界』でヴァルキリーズの一員として、彼女達に多くの教えを受けた。
 人類の命運を賭け、苛烈な戦をともに戦った。
 その死を見送ってきた。
  
 胸に刻みつけた彼女達の生き様、壮烈な散り様があったからこそ、今の自分達がある。それは武と冥夜にとって確かな真実だった。
 だが、『この世界』と『前の世界』の歴史は別のものだ。『なかったこと』をこの世界で語り継ぐことはできない。
 だからその代わりに、衛士として今日の戦いを、勝利を捧げるつもりだった。彼女達に育てられた自分達がここに『ある』ことを、この世界に示すのだ。
 いまやふたりだけが知る、彼女達への餞として。

 もっとも、ヴァルキリーズ12機一個中隊を相手にただ正面からぶつかったのでは、いくらXM3対旧OSでも、まずもって勝ち目はない。サークルワンで適当な陣地に構えられでもしたら、もはや手の出しようもなくなる。
 それゆえに勝利条件にハンデをつけ、相手から動かざるを得なくしてもらったのだ。ついでにいくつか夕呼から、ミスリーディングを誘うための情報を伝えてもらってもいる。
 卑怯な手段を使って勝っても意味は無いが、12対2ということを考えればその程度は許容範囲内であろう。


 冥夜との通話を終えた後、わずかに伊隅たちへの思いを脳裏によぎらせながらも、武の目と思考は淀みなく戦域情報を汲み取っていた。
 模擬戦開始後から、ヴァルキリーズは隊を6つのエレメントに分け、索敵行動をしている。
 各エレメントを正五角形の形に配置し、中央にはおそらく指揮官機として(今回の演習ではCP将校の補佐はない)伊隅大尉のエレメント。索敵の効率を高め、かつ短時間で合流できる距離を保ったまま、連携して動いていた。
 確実に戦闘域を虱潰しにし、いざ接敵あるいは奇襲を受けた場合には、接敵したエレメントが防御的に対応する間に、位置を特定した僚機で包囲殲滅する戦略だろう。この演習のルールからすれば、それ自体は武の想定の範囲内であった。

(とはいえ、さすがは伊隅大尉。油断は全くしてくれてないな)

 制限時間内に相手を捕捉殲滅せねば敗北となる以上、突出したエレメントが奇襲を受けることは、むしろ相手の位置を知る為には望むところとも言えるはずだが、実際にはノイズメーカーを大量にばら撒きながらの慎重な行軍だった。
 市街地でレーダー索敵の有効度が低い以上、これでは正確な奇襲は難しく、まして隊全体の位置をつかむのはなお難しい。対して味方側はデータリンクで完全に僚機の位置を把握しているのだから、いざ誰かが接敵すればそこで確実に包囲殲滅できるという計算だろう。

(だけど大尉、申し訳ないですがその計算は間違ってるんですよ)

 ビル影に身を隠しながら、武は心の中で伊隅にわびていた。
 伊隅の作戦はリスクと効率を秤に掛けた最適戦略と言えたが、今武の網膜に映る戦域情報には、ヴァルキリーズ全機の位置が完璧に網羅されている。
 XM3を走らせる、オルタネイティヴ4謹製並列処理装置の力だった。
 この新型CPUの処理能力は、従来のCPUとはまさに桁が違うものだ。武たちが先に演習場に潜伏し、本来XM3の機動制御に使われる処理能力を戦域情報処理に回せば、ノイズメーカーによる攪乱など何の役にも立たない。冥夜機とのデータリンクにより得た二点からの音紋情報により、索敵の為に動き回るヴァルキリーズ各機の位置は演習開始の時点から筒抜けだったのだ。

 そして、武の見ている光点は、いよいよ冥夜のものと重なろうとしている。
 すぐにも戦端が開かれるというところで、武もレバーを握る手に力を込めた。



「オーディーン2、エンゲージオフェンシブ!!」


 コックピットに冥夜の声が響く。接敵したエレメントに奇襲を掛けた。戦闘開始だ!

 奇襲の利によって近接格闘戦に持ち込めば、旧OS機ではXM3搭載機の敵にならない。まして今の冥夜の腕なら尚更だ。あっという間に敵の光点がひとつ消え、ほどなくしてもうひとつの光点も消え去った。
 さすがにヴァルキリーズの動きにも動揺がはしる。だが、それでもここまでは予定のうちなのだ。全機が噴射跳躍で冥夜の位置に移動を始めた。

 そして、それに合わせて武も動く。
 もともと武と冥夜はエレメントを組まず、距離を離して潜伏していた。まさにこのような状況において、二重の奇襲を掛けるためだ。

 武が隠れるビルのそばを、全開噴射跳躍で二機の不知火が通過しようとする。
 それに対して、武はビル影から飛び出し横合いから襲い掛かった。

 警戒が足りない、207Aの新任だな。そう思いながら武は突撃砲を斉射する。
 敵は二機とも目的の地点にいると思っていたのだろう。二機の位置関係が近過ぎた。結果として、36mmの雨は容赦なく二人をまとめて捉える。JIVESの仮想映像上で盛大に火花が散った。
 もっとも、一機はなすすべなく撃墜となったが、もう一機はかろうじて攻撃を防いだ。どうにかかざした盾、92式多目的追加装甲のおかげだ。

 それでも突然の砲撃にバランスは崩した。その隙に武は全開噴射で距離を詰める。
 盾を持った側の死角から変則機動で回り込み、あっという間に背後を取って長刀を一閃。早々に二機を片付けた。

「あと八機!」

 一旦戦端が開けば速度が命だ。叫んだ武は、即座に次の目標に向けて宙を翔ける。
 見れば、さすがに二度目の奇襲を受けてヴァルキリーズの動きが止まっていた。垣間見えたわずかな逡巡。それでもすぐさま最初の予定通りに冥夜の位置に向けて合流しようとするが───もう遅い。冥夜はすでに新たなエレメントに襲い掛かろうとしている。
 武の方も、今の状態なら合流される前に各個撃破ができる態勢だ。

 跳躍ユニットが、獣の咆哮の如く唸りを上げた───








 演習開始から三十余分。
 武は崩れかけたビルの上に降り立ち、視線の先に4機の不知火を見据えていた。

 武と冥夜が速攻でさらに4機の敵機を墜とし、残ったヴァルキリーズの不知火はもう目の前の4機のみとなっている。
 もっとも既に奇襲の優位は消えていた以上、簡単に流せるほど容易い戦いではなかったのだが、それでも武も冥夜も無傷で勝ち残っていた。

 武が見据える4機の不知火の向こうには、冥夜機が挟み撃ちの態勢で構えている。
 装備と動きの癖などから判断して、合流を果たした生き残りのヴァルキリーズは、冥夜の側に速瀬機、柏木機。武の側に隊長である伊隅機と、ふたりの知らない隊員の機体(装備は突撃砲と長刀、追加装甲という突撃前衛装備である)、という内訳だった。

 ここまで運良く武たちの理想通りに回って、2対4の状況まで持ち込めた。
 相手の方も合流を果たした以上、もはや小細工なし。ただ真っ向勝負あるのみだ。
 巨人の鎧から漏れ出したような緊張感が、廃墟のミニチュアを思わせる演習場に漂う。何かが動けば即座に銃火が交差するであろう場面で、武と冥夜は僅かな感慨を共有していたかもしれない。


 一方、対峙する相手の方には、そんなふたりの思いはわからない。
 しかし、伊隅もまた常ならぬ思いは抱いていた。
 それはどんな感情か、背筋を這い上がるモノがある。

 新装備の内容、提示されたルール。
 夕呼の言葉を真に受けたわけではないが、このようなことで嘘をつくような人ではないこともわかっている。実際、今目の前にいる不知火を凝視しても、目新しい武装の類は装備していなかった。
 長刀二本と突撃砲二門。ごく普通の強襲前衛装備だ。武装はおろか、外見を見る限りなんら自分達と変わった装備は見受けられない。

 だというのに、これまでに接敵した隊員達はみな墜とされた。
 防御的対応を徹底していたにもかかわらず、寸刻を待たずにだ。しかも全て二対一の状況で。
 どのような装備がそれを可能にしたのか。それがわからず、伊隅たちも軽々に動く事はできなかった。

 だが、残ったメンバーはほぼ現在のA-01における最精鋭。オルタネイティヴ4の中核を担う特殊任務部隊として、たったふたりを相手に負けるわけにはいかない。
 各機に対応を指示しながら、伊隅の戦意は沸々と高まっていった。




「オーディーン1、フォックス・スリー!」
「オーディーン2、フォックス・スリー!」

 実際に動きを止めて互いが対峙していた時間は長いものではなかった。
 少しの間過去への想いを胸の中で遊ばせると、武と冥夜は頷きを合図に挟撃を開始する。同時に挟まれた4機も弾かれたように動いた。


 雄叫びとともに武は近い二機に牽制射撃を放ち、同時に噴射跳躍でビルから前方に跳ぶ。
 伊隅もその場から飛び退きながら斉射を返すが、その先に既に武はいなかった。

 噴射跳躍から即座に反転噴射降下で高度を落とし、地表すれすれを全開加速で突き進む。
 だが、突撃前衛装備の一機が盾を構え、長刀を握って同じく加速全開で迫ってきていた。

 突出しすぎだろう!
 武はとっさにそう思う。このまま機動格闘戦にもつれこめば、伊隅大尉はもう満足な援護もできない。
 が、後方に引く伊隅機の姿を見て、すぐに答えを導き出した。

(狙いは冥夜か!)

 一機が武を足止めし、残る三機でまず冥夜を潰そうというのだろう。
 XM3の機動性と反応速度をもってしても、三機で囲んでの連携射撃となるとそうそう躱せるものではない。
 ならば、こっちの狙いは伊隅大尉だ。

 武はそう考えて、地面すれすれから再び宙に舞い上がった。
 盾をかざした相手は体当たりを狙うかのように突っ込んでくるが、武は空中をバッタのように跳ねてその脇をくぐり抜ける。




「なんだ、あの機動は!?」

 僚機が抜かれたのを見た伊隅は、冥夜の方に向かおうとしていた足を止めた。垣間見た超絶機動に目を疑いながらも、突撃砲を構えて迫る相手を迎撃する。
 だが、武は鋼の稲妻を思わせる機動で弾雨を躱し、伊隅機に迫っていく。
 先にかわした相手は、反転時に速度を殺してしまいまだ追いつけない。突撃砲に持ち替えるまでに伊隅機の懐に飛び込めば、さっきとは逆の立場で援護ができなくなる。

 武の意図に気付いたのであろう。伊隅も跳躍ユニットに火を入れ、機体を宙へと羽ばたかせた。
 しかし高速で迫る武の不知火から逃げ切るには遅い。一気に距離を詰められ、近接格闘戦に持ち込まれてしまう。

 同じ不知火とは思われないような速さに戦慄を覚えながらも、伊隅はすぐに考えを切り替えた。
 隊長として迎撃後衛を務める伊隅だが、オールマイティーの彼女は近接格闘戦の技量においても隊内トップクラスだ。
 役目が代わっただけ。自分が足止めをして、その間に三機掛かりでもう一機のほうを仕留める。そこまでもたせれば、たとえ自分が墜とされてもこちらの勝ちだ。
 そう考えて命令を下し、伊隅は限界域の高機動でドッグファイトに入った───


 だが、結果としてその判断は甘かった。

 敵機の方が自分より数段格闘戦能力に優れている。
 それはここまでの武の動きを見ただけで、彼女もわかっているつもりだった。
 それでも時間稼ぎに徹するだけなら。そう考えていた。
 しかし実際には伊隅は、攻撃はおろかまともな防御行動すらとれないでいたのだ。

「───ッ、化け物かッ!!」

 体を軋ませる高Gの中、伊隅は荒い息で吐き捨てた。
 伊隅が自らの全技能を駆使して機体を振り回しても、武は確実にその機動についてくる。
 逆に伊隅は相手に照準を合わせるどころか、武の機体をまともに眼に捉えることすらできないのだ。
 むしろ未だに墜ちていないのが奇跡といえる程だった。

 歯を喰いしばりながら、伊隅はどれだけ時間を稼いだかと考える。
 最後に見たとき、速瀬と柏木は上手く連携を取って相手を押していた。
 三機掛かりなら倒せる。だが、自分はそれだけの時間を稼げたか。
 答えは否だ。
 追い込まれた高機動戦闘の中で早くも時間感覚は曖昧になっていたが、それでも寸刻の時間も稼げていないことはわかっていた。
 そして、今この瞬間にも自分は墜とされる。それはもはや確信だった。


 鳴りっぱなしのアラートが、ひときわ高く危険を告げる。
 速度を同調され、完全に背後を取られた。
 もう何をしても間に合わない───そう直感しながらも、咄嗟に振り向いた伊隅は、まだ自分が撃墜されていないことに気が付いた。

「高原っ!?」

 突如目に入った意想外の光景に、思わずその名を叫ぶ。
 まさに今自分を撃ち抜くはずだった武機の更に背後で、もう一機の方に回ったはずの高原機が、長刀を振りかざして必殺の一刀を加えようとしていたのだ───




 その瞬間、武は背筋が凍るような感覚を覚えた。
 アラートを聞くまでもなく、勘が危険だと騒ぎ立てる。

 ───背後を取られた!? 旧OSでオレの機動の背後を取る!?

 バカな! と思いながらも、武の腕は即座に危機に対応した。
 伊隅機への止めの砲撃は即時キャンセル。
 レバガチャのごとき非常識な速度で、次の行動を入力する。

 ───戦術機は戦闘機じゃないんだ! 後方円錐域(ヴァリネラブルコーン)を取ったって、絶対じゃないぜ!!
 そう心の中で吼えながら、武は何とか一撃を避けようと動いた。

 握った長刀と突撃砲は投棄。
 元の加速度と体捌き、跳躍ユニットの変則噴射によって、錐揉みの様な三軸回転をみせる。
 同時にマウントしていた突撃砲を斉射し、挟まれた形となった伊隅機を牽制。
 その上で振り下ろされた長刀に左腕をぶつけ、見事に必殺であったはずの一撃を逸らした。
 JIVESの映像上で左腕が斬り飛ばされたが、武は構わず動き続ける。雄叫びを上げながら、左の回し蹴りを下方から敵機に叩き込んだのだ。
 甚大な衝撃が双方に奔り、空中で弾かれたように二機が離れる───


 先に地面に落ちたのは武の方だった。
 錐揉み回転中に左腕を切り飛ばされ、おまけに敵機と空中衝突などということがあれば、普通ならバランスを取り戻せず墜落必至というところだが、変則機動においては他の追随を許さない武とXM3の処理能力があれば、空中で体勢を立て直すことも充分に可能だ。
 実際武は見事に立て直して着地すると、キャンセルと先行入力によりタイムラグ無しでその場を飛び離れる。

 と、そのすぐ後を36mmの斉射が薙ぎ払った。
 伊隅の突撃砲による攻撃である。成り行きに驚きながらも伊隅は何とか体勢を立て直し、千載一遇のチャンスとばかりに、防ぎようがないはずである武機の着地直後の硬直を狙ったのだ。
 XM3の特性と武の判断の前に無効と化してしまったが、そのあくまでも冷静な判断に武は舌を巻いた。
 だが、それでも結果は結果。武は再び稲妻のごとき機動で斉射を躱しながら、右腕で新たな長刀を抜いて、左腕を斬り落とした相手へと宙を駆ける───




 地面に落ちた高原の前に、長刀を抜いた不知火が迫っていた。
 勝ったと思った瞬間に衝撃を受けて空中を吹き飛ばされ、意識が朦朧としている。

 隊長の命令を受けたとき、あの相手には時間稼ぎもままならないと本能的に判断した。
 だから命令を破ってチャンスを待った。重石になるだけの追加装甲を投棄し、長刀を構えて機を窺う。
 あの敵機の機動は読めない。だが、伊隅大尉の機動なら別だ。それを先読みし、奴が止めを刺そうとする瞬間にその背後を捉える。
 そう考えて行動し、高原はまさにその機をつかんだ。
 しかし、勝ったと思って油断した報いか、彼女の機体は地面に倒れ伏している。
 戦場で意識の空白は致命的だ。揺れる視界の中で、もはや敵機は至近にまで迫っている。もう勝てないとはわかっていたが、震える手で高原はレバーを握り締めた。

 ヴァルキリーズの誇りがある。
 突撃前衛としての意地がある。
 こんなところで萎えているようでは、守りたいものも守れないのだ。

 普段の寡黙な彼女からは思いもつかぬ雄叫びを上げて、不利な体勢のまま、長刀が横薙ぎに繰り出された───








「ヴァルキリー1、コックピットに被弾。致命的損傷、大破。ヴァルキリーズ全滅判定により、模擬戦は終了。全機演習開始位置まで後退せよ」
 今回の演習でオペレーターを務めていたピアティフ中尉の声が淡々と響き、演習場に静けさが戻る。


 最後に残った伊隅機は、結局冥夜の手による狙撃で墜ちた。
 武の長刀が高原機を斬り裂いたすぐ後、武ひとりに意識を奪われた伊隅機を、横合いから狙い済ました砲撃が襲ったのだ。

 速瀬と柏木のエレメントは、始めは連携によって冥夜を押していた。
 しかしやはり経験不足が響いたか、徐々に後退する様子を見せた冥夜機につられ、柏木が深追いして距離を詰めすぎ、一瞬の隙を突かれ喰われてしまう。
 援護も入れられない問答無用の速攻に、速瀬の勝気が顔を出した。
 時間を稼ごうとせずに真っ向から一騎打ちを仕掛けた結果、粘りはしたが武の方よりも早く決着が付いてしまったのである。
 その時点で武は高原機をしとめようとしているところであり、伊隅機はその武機に目を奪われて隙だらけだった。
 武や大尉には悪いが、隙を見せたなら全力で突くのが礼儀であろうと冥夜は思い、36mmを数発胸部に叩き込んだのだ。


 あっさりついた決着に伊隅が動けないでいる中、勝利者の二人は一足先にハンガーへと戻っていく。
 『前の世界』の皆への餞は済んだ。これからは彼女達と背中を合わせて戦うのだ。
 そう心を定めて、武と冥夜はコックピットの中で敬礼をする。

 二人が去った後には、冷たい風の音がやけに大きく響いて聞こえた。








「完敗ね~、伊隅。感想はどう?」

 ほうほうの体で開始位置まで戻ってきたヴァルキリーズに、直属の上官である夕呼から通信が繋がれた。
 相変わらず格式張ることとは無縁の言いようで、ずばりと聞きづらいことを聞いてくる。

「12対2でここまでやられては、完敗という言葉すら恥ずかしくて吐けません。あれ程の衛士を見たのは初めてですよ」
 日頃から無意味なことはするなとうるさい夕呼だから、伊隅も率直に感想を述べる。それでも敬礼だけはしたので、夕呼の眉が顰められていたが。

「あのような機動、想像すらできないような技術でした。オルタネイティヴ4に属する衛士なのですか?」
「そうよ。まあ負けたからってそんなに気に病むことはないわ。なにしろあいつら、ある意味『この世界で最も実戦経験豊富な衛士』だからね。そもそも下駄も履かせてあるわけだし」
 夕呼の言葉を聞いて、各員が驚きの表情を作り、声が洩れる。『最も実戦経験豊富』の部分に反応したのだろう。
 しかし伊隅としては、自分と格闘戦を戦ったあの技量から人類トップクラスの衛士であることは確信していたので、それよりも後の単語が気になった。

「下駄……新装備のことですね。副司令、新装備というのはもしかして、新しい戦術機用のオペレーションシステムのことではないのですか? 確かにあの衛士の技量は凄まじいものでしたが、あの反応速度や様々な動きは、それだけでは説明がつけられません」
「さすがねえ伊隅、その通りよ。オルタネイティヴ4で開発した新型CPUと、全く新しい発想によって生まれた新OSのセット。全ての戦術機のOSをこれに換装すれば、人類の戦術機戦力は倍以上になると言ってもいいでしょうね」
 にやりとばかりに笑いながら発したその大言に、驚きの声はいっそう大きくなった。その声には希望と喜びの色が隠し切れず、それに圧されてひとりが声を上げる。

「副司令! その新OS、私たちも使わせてもらえるんですか!?」
「涼宮! 上官の会話に口を挟むな!」
 我慢しきれぬ様子で質問した涼宮茜を、副隊長の速瀬が叱責した。首をすくめ、上気していた顔から色を退かせる茜だったが、速瀬が言葉を続ける前に夕呼が遮る。
「あ~、別にいいわよ速瀬。まあ涼宮の質問に答えるなら、明日までにあんた達の不知火全機、新OSに換装するからってところかしら」

 そこで上がった歓声は、まさに見もの、いや聞きものであった。
 単純な喜びのみならず、様々なプラスに類する感情が入り混じった声。それ程に今日の演習が、彼女らに与えた影響は大きかったということだろう。半ば無理やりに模擬戦を戦った武たちの我侭も、意外と満更ではなかったのかもしれない。


「『万が一』負けたら一から鍛え直しってのは聞いてるでしょ。明日から新OSの考案者が惨めな敗北者達に使い方をみっちり叩き込んでくれるから、一日でも早く今日の屈辱を晴らせるように頑張ることね」


 最後にそれだけ言って、夕呼は通信を切る。
 色々とひどい単語が混じっていたにも関わらず、残ったヴァルキリーズの通信から喜びの声が途絶えることはなかった。








 一方、明日からみっちり叩き込むことになる教導官は、昼に続きハンガーで冥夜と話を弾ませていた。
 今回の模擬戦ではお互いの戦いぶりを見ることができなかったので、どんな戦いをしたか、どんな相手と戦ったのか、それを事細かに開陳し合っていたのである。
 その話は、最終的にやはり最後の戦いに収斂した。

「しかしタケル、そなたともあろう者が、片腕を飛ばされるほど追い詰められるとは驚いたぞ。伊隅大尉は無論だが、もうお一方もそれほどに手強かったのか?」
 最後の戦いは同じ戦場にいたが、冥夜も速瀬中尉との一騎打ちを演じていた中でのことだったので、その場面を見て取ることなどできなかった。それでこうして質問をしたわけなのだが、やはり超常の経験をしてある種吹っ切れたところがあるのか、冥夜にしては珍しく、好奇心を隠しもせずに聞いてくる。
「ああ、すごかったよ。伊隅大尉もやっぱり強かったけど、もう一人もほんとすごかった。大尉とのドッグファイト中に完璧に背後を取られたんだ。オレ100%本気で戦ってたんだぜ。それを旧OS機で……。一瞬でも反応が遅れてたら、間違いなくやられてたよ」

 身振り手振りを交えながら、戦いの様子を解説する武。
 伊隅大尉の機動格闘戦や冷静な射撃、戦術。
 いまだ見知らぬ突撃前衛の技量、最後に見せた執念。
 感じ入ったことを様々に話してみせた。

「あんな凄腕がオレ達の知らない隊員の中にいたんだなあ。オレ達が会ったことないってことは、トライアルまでにリタイアしたってことなんだろうけど……」
 最後にそう言って、武は押し黙る。
 あれ程の衛士でも、当たり前のように戦場に散っていくこの世界。それを思って唇をゆがめた。

 だが、すぐに気を取り直し、笑顔を取り戻す。
 悲しい世界に嘆いていてもどうにもならない。それならば微力でも動いて、世界を変えてみせればいい。

「タケル、そなたなら大丈夫だ。人類の救世主なのであろう?」

 武の心の内を読み取ったかのように、冥夜が笑顔で声を掛けた。冥夜の思いを受けて、武も頷く。それを最後に二人は話を切り上げた。
 忙しい事だが、これからまだ夕呼の任務が詰まっているのだ。
「じゃあ、シャワーを浴びて着替えたら、地下でな」
 そう言って武はひとまず冥夜を別れてドレッシングルームに走っていった。



 今日これから、武は例の数式を入手するための転移実験を行うのだ。
 自分が壊してしまったあの平和な世界を思うと、いつも武の胸は太い針をねじ込んだように痛む。自らの失敗ゆえとすべてを受けいれる覚悟はできていたが、その辛さは変わらない。

 武は制服に着替えると、その重さに耐えられるように心を引き締めた。
 いつもどおり機密区画であるB19フロアに降り、実験室の扉を開ける。
 巨大なコイルのような装置が、微かな唸りを上げていた。




[6379] 第四章 訪郷
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:39

 ───風が吹いた。


 舞い降りた異邦人を歓迎するかのように、その丘を一陣の風が吹き抜けた。

 緑なす丘をなびかせ、木々の葉を宙にさらったその風を受け、武は思わず目をつぶる。


 ───葉ずれの音がやわらかく響いた。

 ───冷たい風のはずなのに、とてもあたたかく感じた。

 ───そしてなによりも、満ち溢れるような生命のにおいがした。


 その一瞬に、複雑な想いが胸をよぎる。が、すぐさまそれをしまい込んで、武は空を見やった。
 すでに太陽は沈みかけている。時刻は16時半近くだろうか。
 急がないとと考えながらも、その目は空から移り、丘から望める風景に注がれていた。

 眼下に広がる赤らんだ街並み。その中で一ヶ所、不自然に開けたとある区画。横浜港を挟んで、橘町の観覧車もベイブリッジも見える。
 道にはおかしな様子もなく人が行き交い、風に乗って車の音も聞こえてくる。

 変わらない。何も変わっていない。
 何が真実かはまだわからなかったが、それでも武はわずかに安堵した。

 そして、武が安堵の息をついたそのとき、ただひとつ『前回』と違う声が掛かる。
 先程から、武の左腕にしがみつくようにして傍らに寄り添う少女。
 その少女は、流れる黒髪を風に揺らしながらゆっくりと周囲を見渡し、そして口を開いた。


「───ここは……一体どこなのだ?」


 呟いたような冥夜の声は、しかし風の中でもふるえて消えることなく、武の耳に届いた───








 第四章  訪郷


「やっと来たわね、白銀」
「おそかったではないか、タケル」

 武が扉を開けると、早々にそんな声が掛けられた。
 部屋の奥には、はや唸りを上げている実験装置。そしてその足元には、夕呼を含めて三人の人間がすでに揃っていた。
 装置の調整をしていたらしい夕呼と霞のふたりはともかく、さっき別れた冥夜まで自分より先に到着していることには、おいおい何でだよ! と思う武だったが、早速夕呼が説明を始めたので黙って耳を傾ける。
 もっとも、その話自体は今の武にとって特に目新しいものではなかったし、夕呼にしてもそれがわかっているからか、説明は随分簡単なものであった。

 まずは確率の霧実験に関する簡単なおさらい。
 今回は武の話から解析して、必要な実験条件はほぼ整っているから、試験運転はなしだということ。
 当然の事だが、向こうでは不用意な人との接触は避けること。
 その程度の話が終わったところで、武は小型のケースを渡された。必要な証拠書類が収められたものだ。

 ───『前回』はとんでもない欺瞞書類だったな、これ。
 武が受け取ったケースを複雑な思いで眺めていると、それを読み取ったか、夕呼が言葉を挟んでくる。

「今回は余計なことは書いてないから心配しなくていいわよ。同じ手なんか陳腐でしょ」
「そんな心配はしていませんよ、いろんな意味で。ほんの少し引っかかっただけです」
 軽く答えて、ケースを脇に抱えた。それを見て夕呼は肩をすくめる。
「オッケー、じゃあさっさと始めましょう。実験条件が同じということは、結果はあんた次第なんだからね。一発で決めなさいよ」
「わかってますよ、先生。意志の強さが決め手、でしょう? 問題ありません」

 『向こうの世界』には様々な負い目のある武だったが、もはやそれを理由に逃げるような惰弱さは持ち合わせていなかった。霞にも浅からぬ負担を強いることになる以上、無駄を踏むつもりは毛頭ない。
 しかし、そう考えて意志を固めていた武も、夕呼の次の一言には一瞬真っ白になった。つまり───


「あ、そうそう、『向こう』には御剣も連れてってもらうから」

 という一言だ。
 さすがに慌てて聞き返す。

「はぁ!? ちょ、ちょっと、何言ってんですか!?」
「だから御剣も連れてけって言ったのよ。聞こえなかった?」
 飄々と繰り返す夕呼の様子に、聞き違いや冗談でなかったようだと悟り、武は考えをまとめてから改めて反論した。

「……待ってください。冥夜を連れてけって、オレ以外は無理って話じゃなかったんですか? 『向こう』の正確なイメージができない、座標が掴めないからって」
「ああ、『前の世界』のあたしがそう言ってたと。そうね。もしもあたしが行けたんなら、何もあんたを遣いに出す必要もないものね。でも、あたしが直接行けない理由はそれだけじゃないのよ。そして、御剣なら話は別かもしれないってこと」
 あっさりと答えて、夕呼は一旦言葉を切る。自らの名が出て何事か聞きたそうな冥夜の方に目を遣り、少し話題を変えて再び話し始めた。

「あんた達が何故またループしたのか、どうすればその原因を取り除けるのか、いくつか仮説は立ててるんだけどね。実験してみないことには検証も確定もできない。これはその為の実験のひとつよ。どうせ数式を取りに行かなくちゃいけないんだから、一石二鳥というもんでしょ。だから四の五の言わずにやんなさい」
 実験のついでに冥夜に武が別の世界出身であることを説明する事にした、と称して彼女をここに呼んだというのに、これは不意打ちもいいところだと武は思う。自分の過ちでまりもを死なせ、純夏を傷つけたあの世界に、たとえ可能であったとしても冥夜を連れていくのは、正直躊躇する感情もあった。
 だが、ループの解明、およびそれからの解放は、武にとってBETA殲滅と並ぶ最優先の課題である。確かにそれを出されれば否と言う余地はない、と口をつぐんだが、そうすると今度は冥夜が思案気に口を開いた。

「……正直話がつかめないのですが……、副司令、要するに私は何をすればよろしいのでしょうか」
「特に難しい事はないわよ。白銀から離れないように、あいつのことだけ考えていればいいから。簡単でしょ?」
「は、はぁ……」 
 あっさりとそう返されて、冥夜は生返事しかできずわずかに頬を染める。そのように言われても訳がわからないのだが、更に質問をできる雰囲気ではなかった。


 そんな冥夜の背中を押し、有無を言わせず武の腕にしがみつかせると、夕呼は二人を転移装置の前に押しやる。改めて集中するよう告げると、霞にもなにやら確認を取った。霞も真剣な表情で頷き、ふたりの方を見る。
(そうか、冥夜も一緒に送るつもりだったから、霞を207Bで訓練させたんだな)
 スケッチブックを抱えた霞と目を合わせた瞬間、武はそれに思い至った。
 だが、「それじゃあ、そろそろいくわよ」との夕呼の言葉で、雑念を振り払い集中するべく目蓋を閉じる。訳がわからない様子だった冥夜も、この上ない真剣な空気を感じて表情を引き締め、武にぴたりと寄り添った。
 制服越しに冥夜の体温を感じる。その温かさに支えられながら、武は『あの世界』の記憶を掘り起こしていった。


 ───活気に満ちた横浜の街。

 ───三年間通った白陵柊。

 ───委員長、彩峰、たま、尊人。向こうの世界の友人たち。

 ───送り込まれた因果に命を奪われたまりもちゃん。

 ───記憶を失い、冷めた目で自分を見ていた冥夜。

 ───バスケットゴールに押し潰され、血にまみれた純夏。

 ───最後に自分を送り出してくれた、夕呼先生の力強い笑顔。


 平穏な記憶も、辛い記憶も、ただ生のままによみがえらせ、『あの世界』へと跳ぶべく強く願う。夕呼の檄を再び心に染ませたところで、過去の記憶と共振したように世界が歪んだ。
 全てがかき混ぜられるような感覚を覚えて、武の意識が遠くなる。
 ただ、寄り添う冥夜が抱きしめる腕に力を込めたのと、最後に呟かれた夕呼の言葉は覚えていた。

「───気をつけなさい。行く先があんたの知っている世界とは限らないわよ」

 それは、やけに苦い声であったように───








 バラバラになった存在が急速に再構成され、ふたりは夕暮れの丘に意識を醒ます。取り戻した感覚はまず始めに、冷たくもあたたかな秋の風を受け取ることになった。
 吹き抜ける風と平穏な風景に感慨を覚え、しばし動きを止める武。その武に腕を絡めたまま、ゆっくりと辺りを見渡して、冥夜は呟く。

「───ここは……一体どこなのだ?」

 いましも陽が落ちようとしている時刻。その丘から望める街並みは、日本の風景に見えた。
 しかし、それでも空気が違った。いまやBETAの侵略によって滅亡の危機に瀕している国のそれとは違う、確かにのどかな空気があった。
「……随分と栄えている街だが、東北の何処かか? しかし、今の日本でこのような……」
 感じた疑問を押し出すように冥夜はそう口にするが、答えが返らず、促すように傍らを見上げる。そうすると、まさに目と鼻の先で驚く武と目が合い、あわてて冥夜は腕を解き、突き押すようにして体を離した。

「すす、すまぬ、タケル」
「……いや、なんていうか。……あまり驚かないんだな、冥夜」
 今まさに薄暗い地下の実験室から瞬間移動してきたというのに、随分と落ち着いた物腰で周囲を確認し問うてくる冥夜に、武はいささか呆気にとられていた。
 答えの代わりに口をついたその感想に、冥夜は鼓動を鎮めるように深呼吸し、あらためて心外そうな表情を作って言葉を返す。

「ふぅ……。言ってはなんだがタケル、そなたとともに過去の世に舞い戻るなどという、前代未聞の経験をした後だぞ? おまけにあれだけ目の前で怪しげな会話をされれば、何か面妖なことが起こると覚悟できて当然であろう。なればいまさらこの程度の不思議で驚けるものか」

 ため息とともに吐かれたその言葉に対して、それもそうか、とも思えば、何か違う、とも思う武だったが、冥夜が不可解さを呑み込んで対応してくれるなら、助かることは確かだった。

 ここが『あの世界』のその後であるなら、夕呼は白陵柊にいない可能性が高い。なにしろ武とふたりで原子炉を有する実験施設への不法侵入をやらかしているのだ。
 教師をクビになっているどころか、現在MPならぬ警察や公安に逮捕拘禁中であって全くおかしくない。もしそうであれば、連絡を取るのも一苦労だろう。
 だからといって、こちらの世界に長くとどまれば、それだけ50億の死の因果をばら撒く危険性が高くなる。となれば今回の渡航で、最低夕呼の居場所程度はつかんでおかねばならない。
 今の自分と冥夜のふたりなら、少々の荒事は問題ない。最悪『あちらの世界』から装備を持ち込めば、警察署や拘置所の一つくらい制圧、占拠も可能だろう───

 と、武がそんな物騒な考えに思考を傾かせていたところで、冥夜の声が強く掛けられた。改めて「ここはどこなのか」と聞いてくる。
 これからのことを考えて没頭していた武は、冥夜の問いで現実に帰った。とにかくまずは行動しよう、と決めて、簡単に答えを返す。
「ここはオレの故郷みたいなもんだよ。詳しく話すと長くなるから、説明は後で。今はとにかくついてきてくれ。会わなきゃならない人がいるんだ」
 それだけ言って武は速やかに歩き出す。返された答えはむしろわからないことを増やしただけであったが、武の真剣な横顔に、冥夜も黙って頷き後に続いた。








「───タケル、ここは国連の訓練施設の類か?」

 ふたりが校舎裏の丘から白陵柊──白陵大学付属柊学園高校──の正門を望める位置に移動したところで、冥夜がそう質問してきた。正門からは、今のふたりと同様の服装をした少年少女がちらほらと出てくるところだったからだ。
 武はその質問に「まあそんなようなもんだ」と返事をしながら、どう潜入するべきかと頭を悩ませていた。

 人目につかないようにして校内に入るだけならもちろん簡単なのだが、なんといっても夕呼の居場所を確認しなければならない。
 だが、自分は『この世界』で夕呼とともに犯罪行為を犯した身である。『この世界』の武が今どうしているかはわからないが、校内でおおっぴらに顔を晒すのはどう考えてもまずい。
 隠密に潜入して夕呼の自宅の連絡先をなんとか入手するか、それとも冥夜に聞き込みに行ってもらうか、いや、それはいくらなんでも……

 ───ッ!!

 正門の見える位置で物陰に身を潜め、これからの方針を考えていた武だったが、その瞬間視界に現れた少女の姿に思わず目を見張り、体を竦ませた。

 白地に青の線が引かれた制服を着て、颯爽と歩くその姿。
 日本人形の如く整った顔立ちに浮かぶ、凛々しい表情。
 頭上にくくり上げられた黒髪は、それでもなお、長く艶やかに背を流れる。
 武があまりにもよく知るその少女。それは、『この世界』の御剣冥夜の姿であった。



 自らを鏡に映したようなその姿を認めて、冥夜もまた武と同様に体を固めていた。視野から流れ込んだ混乱が心を掻き乱し、思わず声を上げそうになってしまう。
 が、その叫びは出かけたところで遮られ、それ以上響くことはなかった。
 一瞬の硬直から逃れた武が、寸でのところで冥夜の口を塞いだからである。
(わ、私!? い、いや、まさか姉上? い、いやそんな……しかし───)
 冥夜が武の腕の中で惑乱している中、ふたりの視界に納まったもうひとりの冥夜は、背後に向かって声を掛けた。
 彼女が呼んだ名前に応えて聞き慣れた声が上がり、新たな人影が正門に姿を現す。

 すらりとした長身に白の制服。短くそろえた髪に、やはりなかなか整った顔立ち。
 これまた二人のよく知った顔ながら、もう一方に比べればいくらか締まりや深みの足りない表情だろうか。
 新たなひとりの少年。つまるところ、『この世界』の白銀武が現れたということである。



 もうひとりの武の出現によって、冥夜の混乱はますます増したようだった。口元を押さえられているにもかかわらず、今にも振り払って大声を上げそうな様子だ。それを感じて、武は慌てて耳元で強く囁く。
「静かにっ。落ち着いて気配を消せ。月詠さんに気付かれるぞっ」
 見当たらないが、冥夜のそばには確実に彼女がついている。もしもこの場で見つかったりしたら、大変な事になってしまう。
 囁く声は必死だった。冥夜も武が本気なのはわかったのだろう。唐突に出た月詠の名にますます混乱した様子があったが、言われたとおり、無理やりにでも体の力を抜いて気配を抑え込んだ。
 そうして、おとなしくはなったが未だ目を回している冥夜を抱えながら、武は夕呼の言葉を思い出していた。
 記憶をなくしたはずの冥夜が、『この世界』の自分と話している。つまり、『この世界』は───


「タケルちゃ~ん、御剣さ~ん、ふたりとも待ってよ~」


 武が考えをまとめ切る前に、さらに重ねられたその声が、予感を確信に押し上げた。三人目の姿を目にして、武は更なる戦慄にその背を総毛立たせた。
 もういちいち描写するまでもない。因果の流入によって瀕死の重症を負ったはずの、武にとってかけがえのない幼馴染───鑑純夏の姿だった。


 その幼馴染が息を切らせて合流したあとには、更に四人、こちらでは本当の委員長である榊千鶴、彼女とは犬猿の仲の彩峰慧、大きな鈴を鳴らして歩く珠瀬壬姫、そして屈託なく笑いながら、バスケ部の柏木晴子が一行に加わった。
 七人は仲良く、一部は角を突き合わせながら、正門を離れ、並木道をくだっていく。
 彼らの会話に耳をそばだてながら、武は冥夜を押さえ込む指先を、抑え切れぬ戦慄にわななかせていた。




「───タケル! いったいなんなのだ!? なんなのだ、あれは!?」

 あまりにもよく知る七人の姿が見えなくなり、ようやく武が冥夜を押さえていた手を放した。すぐさま冥夜は勢い込んで尋ねる。武の胸元をつかんで、ガクガクと揺すりながら問い詰める姿は、つい先程とは打って変わった取り乱しようだった。
 だが、対する武も抵抗なく揺すられるままでろくに反応がない。張り詰めていた顔を力なく歪め、ため息と共に半ば無気力に答えた。

「……見たとおりだろ。冥夜もよく知った顔揃いだったはずじゃないか……」

 そう、まさに見たとおりだ、と武は思う。
 今見たとおり、『この世界』は『あの世界』ではない。少なくとも『あの世界』のその後ではない。洩れ聞こえた会話から、『今』があの球技大会の三日前であることがわかった。ならば、12月17日に離れたはずの『あの世界』の続きではあり得ない。
 なるほど、それなら夕呼への接触は先程までの懸念とは裏腹に、いとも容易くなったといえる。だが、武にとってそれは決して歓迎すべき事態ではなく、むしろ最悪のことだった。
 新たな世界に来訪したということはすなわち、死の因果が流れ込む先を、またひとつ新たに作ってしまったということだからだ。
 自分に『あの世界』から逃げたい気持ちがあったからではないか。無意識にそう望んだから、こんなことになったのではないか。武はそう考えて奥歯を噛み締める。
 自らを苛む記憶が、自分を責める感情が、野火の如く武の心に広がっていこうとしていた───


 そう、広がっていこうとしていたのだが───武の目の前には、そんなことを許してはくれない相手が彼を睨んでいた。



 ついさっきの台詞はなんとやら、垣間見た不可思議に盛大に動転していた冥夜だったが、虚無的ともいえるような武の様子を見て、逆に落ち着きを取り戻した。
 正直何が何やら全くわからない。だが、今の武が纏うものには既視感を覚えた。神宮司軍曹が死んだ日の空気に似たものを、わずかに感じたのだった。

 いけない、と冥夜は思う。
 かつての記憶が心に蘇る。あの時、何の力にもなれなかったこと。
 結局武は自分ひとりの力で苦しみを克服したが、助けになれなかったことを、どれだけ不甲斐なく思ったか。
 過去にして未来の記憶、それに伴う想いが鮮明に蘇り、冥夜の胸に火をともす。
 その火はたちまち熱を持ち、気が付けば、腕は勝手に動き、言葉は迸っていた───



「しっかりせよっ!! タケルッ!!」

 パンッ!! という衝撃音と共に、大音声が耳を貫く。
 両頬に感じた熱い痛みと脳まで響く衝撃。一瞬意識が真っ白になり、後にじんじんとくる疼痛とともに、見えていなかった視界が晴れてくる。
 白黒となる武の目には、射抜くような目をした冥夜の顔が映っていた。
 小気味よいといえるまでの大音を響かせた両掌は、そのまま頬を挟み込んでいる。燃え立つ黒炎のような瞳で武を睨みすえたまま、斬り込むように言葉は続いた。

「何があったのかは私には全くわからぬ。だが、そなたがそのように沈み込むのだ。何か途方もなく悪いことが起こったのであろう。しかし、いや、だからこそ───後ろを向いてはならぬ!! 前を向け、タケル! そなたが前を見据えて進めば、この世に為せぬことなど何一つなかろう!!」

 言い放った冥夜はじっと動かず、放たれた大言は冷たくなっていく大気に残響する。
 その残響が風に呑まれたときには、代わりに笑い声が響いていた。

 最初はかすかに。だんだんと大きく。
 呆気にとられたような顔をしていた武から、自然と漏れ出した笑いだった。

 聞く者の心を和ませるような、爽やかな笑い声。
 穏やかに、しかしとても楽しそうに笑いながら、武は涙が出るような思いだった。
 まだ誰が死んだわけでもないのに、何を最悪のことだけ想像して鬱になっているのか。『この世界』に来てしまった原因だってまだ全くわからないっていうのに、本当に自分は成長していない、と武は思う。
 さっきまで心を覆おうとしていた、粘りつくような黒雲。そんなものは、冥夜がただの一振りで吹き払ってしまっていた。
 『前の世界』での、宗像中尉の言葉が思い出される。


 オレの弱音に耳を傾け、必要な時に苦言を呈し、道を誤れば躊躇なく殴り倒してくれるような───

 ───そんな『尊い存在』。

 まったく───本当に冥夜にはかなわない。


 武が心の底からそう思い、笑い声が止まったときには、冥夜もいつの間にか手を放していた。
「ごめん、冥夜。いつもいつも心配をかけちまって。それと、ありがとう。おかげでやるべきことを思い出せたよ」
 そう言ってあらためて微笑む武に、冥夜は頬を赤らめながら「気にするでない」と返す。しかし、そのあとには表情を引き締めて続けた。

「だが、礼というのなら聞かせてもらいたい。あれは……いったいなんだったのだ?」

 真剣に求める様子の冥夜に、武もまた真摯に、しかし簡潔に答える。

「あれは『この世界』のオレ達だよ。冥夜、おまえが目を覚ましたとき、夕呼先生がちょっと言っていた事を覚えてないか? ここは別の可能性の世界、無限に存在する並行世界の一つなんだ。ここはBETAが存在しない世界の横浜。オレ達は00ユニット完成の為に、『この世界』の夕呼先生に会いに来たんだ───」








 その日、白陵柊の物理教諭である香月夕呼は、窓の外も暗くなってきた物理準備室で、珍しい二人組の訪問を受けた。
 ひとりはしょっちゅう顔を出すバカだが、もうひとりの顔をここで見るのは初めてだ。だが、そういう珍しさ以上に、なにやら普段と様子が違う。
 「良かった……いてくれた」と呟いて入ってきたバカ──白銀武は、なんだかやけに折り目正しく、普段より随分大きく見えた。
 対して、いつも自信満々なもう一人の少女──御剣冥夜は、きょろきょろと辺りを見回して落ち着きのない様子だ。
「お久しぶりです、夕呼先生」
 覚えた違和感に目をすがめ身構えていた夕呼は、そう言って頭を下げる武の姿を見て、思わず言葉を発していた。

「……あんた、いえ、あんた達───誰?」



 何者か? と詰問されたにもかかわらず、武は嬉しそうに目を細めた。どの世界でも変わらぬ洞察力を持った夕呼を確かめられて、安堵する思いだったのだ。
 「それについては後で」と断り、『前回』同様、まずは証拠の品として向こうの夕呼から受け取ったケースを渡す。
 いぶかしむようにそれを受け取った夕呼は、中身を読み進めるうちに、鬼気迫るように様相を変えていった。


「白銀! なのよね。……あんた、これどこで手に入れたの? あんたがまとめたなんて言ったら、即行車で跳ね飛ばすわよ!」
「……お察しの通り、別の世界の夕呼先生がまとめたものです。『因果律量子論に基づく多元宇宙の実証考察』、でしたっけ?」
 ケースの中身にざっと目を通すや否や、胸元に詰め寄って問い詰めようとする夕呼に対し、武はさらっと答えを返す。そして、なおも言い募ろうとするところを、「これから事情を説明します」と制した。
「すごい長い話なんでかいつまんで話しますけど、とにかく時間がないんで、質問は話が終わってからにしてくださいね」

 そう断りを入れて、武は雑然とした準備室で椅子に座る。同様に席に着いた二人は、これからの話を聞き逃すまいと、非常に真剣な様子だった。
 そんな二人を見て、さてどこから話すか、と武は考える。
 全くの最初から話すことになるとは思っていなかったので少々迷ったが、とりあえず思いつくところから話すことにした。夕呼が信じてくれることはわかっているのだから、余計な前置きは抜きで切り出す。

「まず、オレは先生から見て未来の時間軸から来た白銀です。少し違う気もしますが」
 まずはそう話して、武は夕呼の反応を見た。目だけで続きをと促され、身近な話題を繋げていく。
「……もともとオレは『この世界』で普通に暮らしていました。純夏がいて、みんながいて、まりもちゃんはいつも先生にいじめられていて……10月22日には冥夜が加わって、普通にというには随分どたばたでしたけど。今日は11月6日ですよね。三日後のはずの球技大会も楽しかったです。オレの一喝が功を奏してチームは一致団結。決勝で見事D組の涼宮達を打ち破って───」
「ちょっと! あたしがあんたごときに負けるわけないでしょ。未来の事象だからって勝手に捏造してんじゃないわよ!」
「──って、いきなり茶々入れないでくださいよ! 事実なんだからしょうがないでしょ。とにかく本当に時間ないんですから、静かに聴いててください!」

 まりもの有明行きを賭けた勝負の敗北を予言され、早速突っ込んできた夕呼。なんとか抑えて、武は先を続けていく。
 それは、長い長い遍歴の記憶だった───



 生まれ育った平和な世界で過ごした、とても賑やかで輝かしい日常。
 そこから一転、悪夢のように突如放り出された、人類の敵BETAが蠢く、死と狂気の世界。
 なんの力も覚悟もなく、狂った現実を認められずにいながらも、仲間達と過ごした厳しい訓練の日々。
 その果てに見て、体験したはずの人類の終焉。自らの死。

 そして、新たに目覚めることとなった『二回目の世界』。
 垣間見た絶望を胸に空虚な使命感に燃え、不完全な記憶を以って『特別』と思い上がり、自分が世界を救おうと思い上がり、挙句の果てには思い知らされた自らの弱さに耐えられず、全てを捨てて逃げ出したこと。
 そして、逃亡者に下された報いの刃。因果導体という律。
 犯した罪の重さに命を絶とうとしたところで、夕呼に示された世界再構成の希望。
 彼女の助けを得て『向こうの世界』に戻り、00ユニットとなった純夏と再会したこと。
 そして、数多の犠牲を払った熾烈と言うも生温い戦いの末、BETAの中枢オリジナルハイヴを落とし、因果導体という運命からも解放されて、再構成された世界へと帰ることになるはずだったこと。

 ところが、パラポジトロニウム光に包まれて意識を失い、再び目覚めた先は、またもあの黄昏の世界における10月22日であったこと。
 『三回目の世界』での新たな異状。最後の戦いで命を落としたはずの冥夜の存在。
 そして今、あらためて00ユニット完成のため、新理論の数式を求めて自分達が夕呼の前に立っていること。



「───白銀、あんた……この世界を離れてから、どれくらい経ってるの?」
「3年ってところですね、主観時間で。本当のところはどれだけ経ってるかわかったもんじゃないですが」

 武が簡潔に、しかし要点を押さえながら全てを話し終えてからしばしの時を待ち、考えていた夕呼がゆっくりと口を開いた。
 『前回』の夕呼はキスの雨を降らせてくれたものだったが、今回は出した話の重さが桁違いだ。態度に浮かれたものは無く、口調も真摯なものであった。
 横に座った冥夜がなんともいえない表情で見つめる中、武はやや苦く、だが穏やかに笑って答える。
 その表情に、夕呼も強張らせた体から力を抜いた。

「そう……。ねえ、白銀。あんた……元の世界に……帰りたい?」

 静かで寂しげな、そして優しい声での問い掛け。
 それに動揺したのは、問われた武よりも冥夜の方だった。はっとした表情で武を見つめ、何かを言いかけながらも言葉にできず口を噤む。その顔に葛藤と怖れが滲んで見えた。
 そんな冥夜に目をやりながら、武は夕呼の問いに少しの間押し黙る。
 答えを考えていたわけではない。かつてと同じ問いを受け、自らの変容に思いを馳せていたのだ。
 目を閉じて静かに一呼吸し、武ははっきりと答えた。

「いいえ」

 揺るがぬ眼差しと、突き通すようにまっすぐな声音。

「桜花作戦が終わったとき、みんなが逝ったあの世界で戦い抜き、骨を埋めたいと心底から思いました。今も同じです。オレにとって、いまやあの狂っていたはずの世界こそが故郷なんです」

 力強い言葉が、冥夜と夕呼の心に染み入る。
 しかし、武は一転寂しそうにその後も続けた。

「……だけど、もしオレのそんな思いが、終わったはずのループを続けさせてしまったのなら……今度はその未練を断たなければならない。壊してしまった世界に償うために───」




 答えは全て返されて、それ以上続くことはなかった。
 夕呼は色々なものを呑み込み、冥夜は何かを胸に渦巻かせたままだったようだが、それからは他の話。

 求めた新理論の数式は、今論文をまとめている途中だから、一週間後に受け取りに来てくれということ。
 新たに来訪することになった『この世界』は、まず間違いなく武が干渉した世界の過去ではなく、また別の並行世界のひとつであるだろうという話。
 「あんた達が来たせいで、すっかりラクロス対決が色褪せちゃったわよ」という愚痴。

 そんな話をしているうちに、突然武と冥夜の体から、白い光が溢れ出した。
 パラポジトロニウム光! と武は思い、とっさに部屋の隅の時計を見る。
 まだ18時半、二時間しか、と思いながらも、二人で渡航したことで計算違いが起こったんだなと思い至る。

「すみません。時間みたいです」
 そう言って、武は自然と背筋を伸ばし、敬礼をしていた。それを見て、冥夜もまた同じ様に手を額に添える。
 まさに絵のようなふたりの姿に、夕呼は感嘆の思いを噛み締め、ただ一言「じゃあまた」とだけ呟いた。

 膨れ上がる光に、夕呼は思わず手をかざしてその目をつぶる。
 瞬きの後、部屋には夕呼ひとりだけが残されていた───








 二時間の旅路から帰ってきたふたりを、夕呼と霞が出迎えた。

「大丈夫か、霞」
「……大丈夫、です。白銀さん」

 二人を観測し続けた霞を心配して駆け寄った武に、銀の少女はしっかりと答える。抱えたスケッチブックには、稚拙だが、仲良く寄り添う男女の姿がたくさん描かれていた。
 ありがとう、と武は霞に頭を下げ、それから夕呼に報告をする。

 任務は成功して、数式は一週間後に受け取りに行く予定だということ。
 そして、辿り着いた世界は、以前の『あの世界』とは別の並行世界であったこと。

 夕呼はそれを転移の前から予想していた。報告を夕呼が了承してから、何故なんですか、と武は問う。
 しかし、その質問に対する答えは返らなかった。
「それは内緒。まだ確証が取れてない話だからね。今回の実験で確かめられて、わかったことはひとつ。御剣があんたと一緒に転移できたということよ」
「そういえば、それもどういうことだか聞いてませんでしたね」
 武と冥夜を前に並べ、夕呼は真剣な顔で講義を始める。

「いい? 数式を手に入れるために目的の世界へ転移するには、あんたというナビが必要。ナビはひとつあれば充分で、今回御剣はあんたの付属物としてついていったってことになるのよ。けど、誰でもそれが出来るわけじゃないわ。安定を求める世界の力に逆らって他の世界に跳ぶなんてことは、口で言うほど簡単じゃない。少なくとも、こんな急拵えの装置でできるものじゃないのよ。なのに御剣にはできた。それがどういう意味か、ふたりともわかるかしら?」
 ふたりをねめつける夕呼の視線。しかし、武も冥夜も首を傾げるばかりで答える声は上がらず、まったくこれだから凡人は、などと言いたそうな表情で、夕呼は答えを口にした。

「『この世界』は、あんた達の言う『前の世界』の過去ではないっていうことよ───」

 その言葉の意味するところを本能的につかんだか、武は大きく目を見開く。

「───そうでなければ御剣が転移できた理由が説明できない。閉じた世界がループしたというのなら、たとえ未来の記憶を持っていても、今の御剣が『この世界』の御剣であることに違いはない。けれど転移が可能だったということは、今の御剣、あんたは純粋な『この世界』に生まれた存在ではないということになるわ」

 据わった瞳で冥夜を見据えながら、夕呼はなおも話を続けた。その声音に得体の知れないものを予感したか、冥夜の背に脂汗が浮き出す。

「でも、白銀と違ってあんたの場合、もとから『この世界』に存在していたことは確実。なのに今のあんたは『この世界』の存在ではない。つまり、あんたと白銀は過去に遡ったのではなく、『前の世界』から極めて似通った別の並行世界である『この世界』に転移してきた……。そして、白銀はともかく、あんたはその際に『この世界』本来の御剣と融合し、その意識を乗っ取ったということになる」

 それを聞いて抑えられぬ激情を抱いたのは、しかしむしろ武の方であった。自らが『前の向こうの世界』で、その世界の白銀武に対して犯した罪を想起したのだ。
 だが、全てを放り捨てて逃げ出した自分とは違い、冥夜にはなんの責任もない。なのに何故わざわざそんなことを話す? と、夕呼に対して憤怒の感情を覚える。
 だが、冥夜であれば話しておくべきことだったのかもしれない。そうも思って、前に踏み出しかけた足を押し止めた。
 それに他に気になることもあった。
 『この世界』がループした過去でないなら、『前の世界』は、『前の向こうの世界』は一体どうなったのか。
 それを聞こうとした武だったが、その前に夕呼がまた話し始めた。

「ま、あたしにとってはどうでもいいどころか、好都合ってもんだけどね。そうそう、『前の世界』とかがどうなったのかとかはまだわからない。でも、次の実験を経ればもっといろんなことがわかるでしょう。これ以上の質問はそれからにしなさい。白銀、あんたは明日からヴァルキリーズの教導。御剣は明後日から総戦技演習なんだから、今はそれに集中することね」

 そう言って、夕呼は霞を連れて部屋を出て行こうとする。
 自分からあんな話を振っておいてなんて言い草だ、と思いつつも武は黙って見送り、傍らの冥夜に話しかけようとした。
 だが、その矢先に「すまぬ。なにやらひどく疲れていてな。今日はもう休ませてはもらえぬか」と断りを入れられ、その方がいいか、と考えて頷く。
 結局そこで、冥夜は自室に、武は明日からのXM3教導を詰めるべくシミュレーターデッキに向かい、二人は話すことなく別れることになった。








 自室に戻った冥夜は考える。
 武が憤ったのに比べて、『この世界』の御剣冥夜を乗っ取った、と言われても彼女はあまり思い悩んではいなかった。余りに実感が持てない話であり、まだそこまで考えが到達しなかったということであろう。

 それよりも考えていたのは武のこと。
 BETAのいない平和な世界から、こちらの世界に放り出されたというその素性。それはいったいどのようなことなのか。
 平和というものがどんなものなのか、生まれ落ちたときからBETAに蹂躙される世界に暮らしてきた冥夜には、思い描くことができなかった。
 翻ってこの世界の狂気も、それがどれだけ狂ったものなのか、判断することができなかった。

 だが、理解しなければならない。タケルの本当の『特別』、タケルの優しさの根源は、きっとそこにこそある。
 そんな世界に生まれ、理不尽にその幸せを奪い取られながら、この黄昏の世界をこそ故郷と言ってくれた意味を、私は理解しなければならない。

 殺風景な部屋の中、想い続ける冥夜の目には、いつしか涙が浮かんでいた───




[6379] 第五章 南の島に咲いた花 1
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:40

「ね、千鶴は大きくなったらなにになりたい?」

「ちづるはねえ、おおきくなったらとーさまみたいなりっぱなせいじかさんになるの!」

「あらあら、お嫁さんとかにはならないのかしら?」

「ならない。だってちづるがおよめさんになったら、とーさまないちゃうでしょ」

「あはは、そういえばそうねえ。でも立派な政治家さんになるなら、いっぱいいっぱいお勉強しなきゃいけないわよ」

「だいじょうぶ。ちづるおべんきょうとくいだもん。もうたしざんもひきざんもできるんだから!」

「あらすごい。じゃあ───」






「───ッ!」

 息を乱しながら、榊千鶴は浅い眠りから目を覚ました。
 おっとりと上品で優しそうな女性の笑顔と、幼い少女。そんなショットが頭をよぎる。
 だが、無意識にそれを振り払おうとするうちに、夢の名残は淡雪のように消え、なにか嫌な夢を見たという思いだけが彼女の中に残った。寝汗にしめったタンクトップが、冷えた肌触りでその印象を裏付ける。
 穏やかだったはずの夢に、なぜそう思ったのだろうか。


 武と冥夜の話を聞いて以来、榊は心を乱していた。

 彼女の知らかった父の話。この横浜を中心とした国連の秘密計画。一介の訓練兵の口から出るとは到底考えられない、突拍子も無いとすら言えるその話。
 けれど武の度外れた技量。副司令との関係。将軍の影である冥夜。そして何よりも、それを語った二人の瞳。
 たとえ詳しくは話されなくても、彼女は信じてしまった。そして、信じたがゆえに心を乱していた。
 人類の為に、帝国の為にと軍に志願したのは、父への反発からだったから。その父が私心なく人類の為に尽くしてきたというのなら、自分は理由を失ってしまう。
 だから信じても信じなかった。
 その頑なさは長く共にあったものであり、もはや彼女自身の手ではほどけぬほどに絡みきっていたのだ。


 そう、榊は幼い頃から長く、頑固で規律正しい己を通してきた。
 とはいえ、その気質がすべて生まれついてのものかというとそれは違う。

 彼女の父は時の内閣総理大臣、榊是親。榊家が代々政治に携わる家系であったこともあり、若くから政権党の中枢で辣腕を振るい、日本の舵取りを担ってきた実力者である。
 しかし、掛け値なしに有能な政治家である彼であったが、対BETA戦争という人類史上未曾有といえる危難の時代にあって、その舵取りは様々な意味で困難を極めるものだった。

 BETA。すなわち『Beings of the Extra Terrestrial origin which is Adversary of human race』、人類に敵対的な地球外起源種。
 太陽系外から飛来したと思しきそれが、火星および月の侵略を経て、ついに地球へと到達したのが1973年。
 中国はチベット、新疆ウイグル自治区カシュガルに落着したBETAの着陸ユニットに対し、中国は国連軍の受け入れを拒否して独力での制圧を強行。戦闘は当初優勢に推移したが、開戦から二週間後、突如出現した光線属種の攻撃によって航空戦力を無力化され、敗走する結果となる。
 その後の戦術核による焦土戦術も虚しく中央アジアは完全に制圧され、以来BETAの地球侵攻は、瞬く間にユーラシア大陸を膨大な命と共に食い荒らしていった。

 悪化する戦局に従って、1980年には日本でも徴兵制が復活し、国民の教育も生活も軍事色に傾いていく。
 そうして軍の規模が大きくなり、権限も強くなれば、文民支配の下、後方にあって軍への命令権を保持する政府と対立が深まるのは、歴史を鑑みてもある意味当然のことだ。
 そんな政府に対して不満を持つ若い兵士とは、すなわちごく普通の家庭の若者であり、その不満は軍人の礼賛とともに国民の間に広まっていく。
 まして、政府が大陸への帝国軍派遣を決定して以来、ただただ増えていく遺族にしてみれば、その思いも一際重いものであっただろう。

 そのような世情に育って、聡明な少女がそうした目に見えぬ思いに気付かぬはずはなかった。
 だから彼女は大好きな父母の名誉のために、誰よりも正しく優秀であろうとした。良きリーダーであろうとした。
 頑なに思いを固めて年月が過ぎるうち、母が病で天に召され、その後も父は多忙を極めていく。それでも立派な娘であろうと振舞い続け、娘の立場として政治の世界とも関わってきた。
 知らず政治の醜い面も見るうちに、たった一人の家族として父と心交わすことは少なくなっていき、徐々に徐々に父と政治への反発は高まっていった。幼い頃の思いとは裏腹に。


 そして、その反発が決定的となったのが1998年。
 遂に日本への侵攻を開始したBETAによって、列島が血と怨嗟に塗れた時だ。
 日米安保条約を一方的に破棄して極東から撤退した米国に、残された国民の不満は爆発した。そして、その後もなお米国におもねるがごとき姿勢を変えなかった内閣にも、同様に厳しい視線が向けられたのである。
 培ってきた榊の正しさ、潔癖さはそれを許せなかった。
 開いてしまった距離は、父の真意を思わせなかった。
 その上で自分に徴兵免除の手続きが取られていたことを知り、その時、彼女の中で父に対する決定的な何かが切れた。軍に志願したのはそれがためだ。

 しかし今、彼女に再びの転機が訪れていたのかもしれなかった。








 第五章  南の島に咲いた花


 2001年10月30日


「───予定を繰り上げ、明日から総合戦闘技術評価演習を実施することとなった。急のことではあるが、当然準備は整っているはずだな!」

 その朝、総戦技演習の急遽の実施を伝えるまりもの言葉を、冥夜はなにやら茫漠とした気持ちで聞いていた。
 他のみなは突然の話に驚いているようだったが、冥夜にとってはすでに知る話だったし、昨日垣間見た異世界、武の故郷の事で頭がいっぱいであり、ひどく現実感を欠く心持ちだったのだ。
 そんな冥夜をよそにして、周囲の様子をうかがいながら、珠瀬がまりもに質問をする。

「……あ、あの、教官。たけるさ……、白銀さんと社少尉はどうしたんでしょうか」

 武の名前を聞いて、冥夜はふと我に返った。慌てて集中し、首を傾けて動揺した様子の珠瀬に目を向ける。
 珠瀬の疑問も当然だ。現在の隊にとって最重要の話であるはずなのに、この場には問われた二人の姿がないのだから。
 問われた教官は、自身僅かに釈然としない様子で珠瀬の質問に答えた。

「社少尉は当然もとより参加しないわけだが、白銀も今日から少尉と共に、香月博士の特殊任務にしばらく従事せねばならないそうだ。したがって、白銀は今回の総戦技演習には参加しない。お前達が無事総戦技演習に合格すれば、戦術機教習課程で改めて合流するそうだ。全員合格してまた会えることを信じている、と伝えてきたぞ」

 武は11月11日の新潟でのBETA迎撃に向けて、ヴァルキリーズの教導に時間を使うため、今回の総戦技演習には参加しない。武はこの世界ではすでに死んでいる人間であり、その経歴は夕呼がでっち上げたものである。衛士となるために、馬鹿正直に正規の訓練課程を経る必要はないのだ。
 とはいえ、伝えられた口上は無茶苦茶な話ではある。あまりにもあからさまに武が掟破りの存在であることを告げたようなものだが、意外にもと言うべきか、隊員達はさして驚きはしなかった。二人がこの場にいない理由さえ聞けば、あとはごく自然に受け入れている様子だった。

 それも当然か、と冥夜は思う。
 あまりにも訓練兵離れした武の技量に加えて、触りだけとはいえ話したオルタネイティヴ4のこと。さらに、思い出すのも恥ずかしいが、自分が目覚めたときに武に対して取ってしまった行為。
 たまたま加わった一訓練兵と思えという方が無茶というものだろう。

 ともあれ部隊最優秀の一人が抜けることよりも、総戦技演習が明日からであるということの方が、みなに不安を残しているようだった。

 この辺は冥夜と武の失敗というべきか、5日前に打ち明け話をしてから、隊の信頼の醸成が思うように進められていなかったことが原因である。
 一石を投じたつもりが、思いのほか榊や彩峰に生じた迷いは大きかったようで、あれ以来訓練は普通にこなしていても、隊の空気は以前よりなお当たらず触らずの有様だった。どうにかしようにも武と冥夜にはXM3の開発があって時間が少なく、これ以上は本人達の問題だとも思っていたので、あえてそれ以上踏み込むことをしてこなかった。
 そうして、じきになんとかなるだろうと楽観的に構えて今日まできてしまったのだが───


 考えながら、冥夜は問題のふたりを見る。
 この数日、榊は表面上変わらぬ態度を取り、逆に彩峰は明らかに憂いた様子で口数も少なくなっていた。
 だが、今の時点では目に見えて変化をみせた彩峰の方が吹っ切りかけているようであり、取り繕った榊の方がより深みに嵌っているように見える。
 なにしろ頑なに普段どおりに振舞おうとするものだから、周囲もそれに対して口を出しづらかったのだ。
 冥夜と武にはあまり時間がなかったし、普段なら逆撫でしそうな彩峰は静かで、珠瀬は本当に手を出しかね、美琴などがいくらか話題を振ったが、榊は答えず逸らしてしまって、それ以上を続けさせなかった。
 今も普通に質問をしているが、このような状態ではいつ深刻な問題が噴き出すか。

 ───いや、疑うまい。12・5事件では、あれほどの状況でも乗り切ってみせた榊だ。総戦技演習程度、どうにでもしてみせよう。
 それに二人の問題についてどう対応するかは、もう武と話し合っておおむね決めてある。ならばそれを信じるだけ。武のことも『向こうの世界』のことも、まず演習に合格してから考える。どの道今考えても答えなど出なかろう。

 そう考えて、冥夜はあらためて心を集中させた。

 説明を終え、まりもが訓練開始の号令を掛ける。
 返事とともに動き出す訓練兵達。雲を運ぶ強風が、彼女らより一足先に、南へと吹き抜けていった。








 一方、207Bを抜けた武は、霞、夕呼とともに基地内を歩いていた。
 教導官として今日、ヴァルキリーズのメンバーと『初対面』を果たすことには、喜びとともに胸の高鳴るものがある。しかし、同時に自分抜きで総戦技演習を迎える冥夜たちのこと───特に榊のことが気掛かりで、心配に思う気持ちもあった。
 だが、後者についてはもう自分にはどうにもできないことが明らかだ。そうしたことで心を乱し、集中を欠いては話にならない。
 ならば、あとは仲間を信じるしかない。目指す部屋の扉を目に留めて、武は首を振り、意思を定めるべく頬を叩いた。



「───さて、そういうわけでこいつが例の新OSの考案者。今日からあんた達の教官役よ。白銀、まずは自己紹介しなさい」

 ミーティングルームに整列する、隊長の伊隅を含めて13人の戦乙女達。
 黒と青を基調とした国連軍制服に身を包んだ彼女らは、夕呼の言葉を受けて、傍らに立つ武に目を向ける。好意、疑義、好奇───その視線はそれぞれに様々な色を含んでいたが、等しく興味津々であることには違いがなく、昨日の模擬戦の衝撃がいかほどのものであったかが窺えた。
 そして、そんな注目の対象となった武は、なにやらくすぐったく、そして懐かしい思いを抱く。あたたかい感情に思わず頬を緩めかけたが、彼女達とは初対面だと意識して、襟を正し気を引き締めた。隊長である伊隅大尉に向けて敬礼し、深く息を吸ってから言葉をつむぐ。

「みなさん、昨日は急の模擬戦、御苦労様でした。件の新OS、仮称XM3の考案及び開発担当を務めました白銀武であります。本日より、新OS慣熟についての教導官として着任させていただきます」

 発された口上に、伊隅以下全員の表情がぴくりと動いた。いきなり昨日の大敗北の話を持ち出す挨拶もともかくだが、改めてあの新OSの考案、開発担当と聞いて、その若さに驚いたようだった。
 なにしろ新任少尉達と同じ年齢である。まあ技術者ならばこのご時世、若き天才は決して珍しくはないものだが。
 わずかに揺らぐ面々をちらりと見て、武は自己紹介を続けた。

「新OS、XM3はオルタネイティヴ4謹製のハードによる情報処理能力の上昇、機体の即応性向上もさることながら、ソフト面での革新性が従来OSとの決定的な相違点となります。その新たな操縦概念を理解していただかなければ、XM3の真価を発揮することはできません。いかに横浜基地最強の特殊任務部隊であるA-01部隊、ヴァルキリーズの皆さんであっても、自力のみではそこまでの把握は相当に困難であると考えられますので、自分が一から慣熟訓練に参加させていただくことになりました」
 XM3の特性について端緒を語り、そこで少し浸透を待つ。新任まで含めてそれなりに噛み砕けた様子になったのを確認し、武は更に続ける。
「一応教導官という名分ではありますが、指導という柄ではありませんし、現在ゆえあって正式な階級もない若輩の身なので、部隊の新米少尉ぐらいの感覚で扱ってもらえると助かります。ちょうど年齢も同じですし……。とりあえず自分からはこの辺で───」

 武がとりあえず自己紹介を終え、肩の力を抜いたところで、夕呼が「じゃあ次はあんた達の番ね。伊隅、紹介頼むわよ」とあとを継いだ。

「ところで白銀~、あんたあたしが堅っ苦しいの嫌いって知ってんでしょ。なんでそんな似合わない話し方してんのよ?」
「あ~、すいませんね、夕呼先生。最初だけはどうしてもと思ったんで。これからは普通に話させてもらいますから、勘弁してくださいよ」
 おまけとばかりに渋い顔で付け加えられた文句に、武は手を振りながら返して、改めて伊隅に頭を下げる。副司令である夕呼と随分気心知れた様子なのを見て驚いたようだが、伊隅は言われたとおり隊長として部隊の紹介を始めた。


「A-01連隊第9中隊の隊長を務める、伊隅みちる大尉だ。貴様の考案したという新OS、XM3だったか。その有用性は、昨日の模擬戦で我々全員散々思い知らされた。その考案者に一から教えてもらえるとなれば、願ってもないというものだ。貴様の教導官着任、心から歓迎させてもらう。まあ、教導官とはいえ折角のそちらからの頼みだ。一刻も早く慣熟を達成するためにこき使わせてもらうから、覚悟しておけよ、白銀!」
「望むところです、大尉!」
 にやり、と笑いながら名を呼ぶ伊隅に、武はこちらも抑えきれぬ笑みをこぼして、勢いよく答える。
 それを見てなお笑いを深めた伊隅は、続けて立ち並ぶ部下達に目を遣った。
「では中隊のメンバーを紹介していこう。右から、CP将校の涼宮遙中尉───」




「次はB小隊のNo.2、高原今日子少尉だ」
「よろしくお願いします!」
「高原は一期前の任官だが、突撃前衛として、速瀬に匹敵する技量の持ち主だ。口数は少なくて無愛想だが、根は優しいやつだからな。安心して話しかけるといい」
「……よろしく」

 ヴァルキリー・マム、涼宮中尉を筆頭に、『前の世界』と同様に各小隊長から紹介が続けられる中、伊隅大尉の副官、女性秘書のような趣の雪村沙織中尉に続いて紹介された女性を見て、武はこの人が、と思った。
 昨日の模擬戦前には、あえて現ヴァルキリーズのデータを調べるようなことはしなかったが、『元の世界』から帰った後に、模擬戦のデータともども未だ知らない隊員の情報にも目を通してある。

 波打つショートの髪は明るい茶色。
 170近い身長は女性としては高めだが、速瀬中尉あたりと比べると、体自体はずいぶん細身だ。
 ヴァルキリーズの御多分に漏れず整った顔立ちの美人だが、伊隅大尉が無愛想と評したとおり、常に眉間にしわを寄せたような表情と非常に強い視線で、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
 涼宮姉妹と同様に、姉妹でヴァルキリーズに所属している口で、『元の世界』のラクロス対決でD組のチームにいたはずの高原明日香の姉。
 そして昨日の模擬戦で最後の4人に残り、武機の左腕を斬り飛ばした相手であった。

「昨日はどうも。まさかXM3を使って、ドッグファイトで追い詰められるとは思いもよりませんでした。背後を取られた時は肝を冷やしましたよ」
「なんですってえ!!」
 思わず話しかけた武だったが、その台詞に反応を返したのは、目の前の相手ではなく小隊長の方だった。
 大声を張り上げた突撃前衛長、速瀬水月がずかずかと武に詰め寄ってくる。

「聞いてないわよ! 昨日の相手ってあんただったわけ!?」
 今にも武の胸倉を掴み上げそうな格好の速瀬だったが、他の皆もまた一様に驚いていた。
 昨日の相手はあれ程の凄腕であり、また、夕呼から歴戦の勇士、正確には『ある意味この世界で最も実戦経験豊富な衛士』と聞かされていたので、目の前の相手とは結びつかず、武の事は技術者だと思っていたのだ。

「ここで会ったが百年目ぇ~」

 武が肯定するや、先程の自己紹介での笑顔が嘘のように目尻を吊り上げる速瀬。鬼のような形相に武は慌てて手を上げ、矛先を逸らすべく答えた。
「ちょっ、待ってください! オレは高原少尉に腕落とされた方ですって。速瀬中尉とやったのは相棒の方です。因縁つけるならオレじゃなくてあっちにしてください!」
「ほ~~、じゃあ因縁つけに行ったげるから、どこのどいつか教えなさいよ!」
「すいません、それは勘弁してください。機密なんで相棒の素性を明かすわけにはいかないんです。伝言承りますから、それで勘弁してもらえませんか?」
 あんまりな言い草に怒気をそがれたか、脱力する速瀬。大きく息をついて、ついでのように言葉を継ぐ。

「機密じゃしょうがないわね。次は負けない、とだけ伝えといて。……あ~、ところでそいつもあんたと同じぐらいの歳なわけ?」
「はい、同い年ですよ。いずれ紹介できるかも知れませんから、そうなったら気の済むまで再戦してください。今度はハンデなしで」
 冥夜ごめん、と心中手を合わせながら武は答え、速瀬が引き下がったところで改めて紹介中だった相手に振り向く。まっすぐに目を見て言った。
「高原少尉。XM3の慣熟が終わったら、オレもあなたと再戦願いたいです。お受け願えますか?」
 決闘の申し出に高原は少し目を見開いて、それから頷く。その瞬間、かすかに頬が緩んだように武には見えた。
 そんなところで、今度は伊隅から声が掛けられる。

「白銀、本当に昨日私と戦ったのが貴様なのか? 副司令が『この世で最も実戦経験豊富な衛士』などと評していたから、もっと年嵩だと思っていたが……。それに加えて、新OSの考案と開発も貴様が……?」
 さすがに信じられないような話に伊隅も言いよどむが、武は頷いて補足した。

 考案、開発といっても、自分はあくまで基礎となる簡単な概念を考案し、基本の機動を入力しただけであること。
 プログラムを行ったのはあくまで夕呼と霞──社臨時少尉であり、技術者としてのスキルは有していないこと。
 昨日の戦闘はあくまでXM3という大ハンデあってのものなので、実力の程については大きく割り引いて考えて欲しい、などと並べ立てる武。しかし───

「先生~。なんですか、その『この世で最も実戦経験豊富な衛士』って。誇大広告もいいところじゃないですか」
「別に間違っちゃいないと思うけど? あんた達のような経験してる奴が、この世にそう何人もいたらたまんないわよ」
 最後にじーっと睨む武に、夕呼は肩をすくめて飄々と答える。
「そりゃそうかもしれませんけど、実戦出撃の数なら先任の皆さんの方がよっぽど上ですよ」

 二人のやり取りを受け、なにやら詳しく聞きたそうなヴァルキリーズの面々であったが、武は先に頭を下げた。
「すいません。オレの戦歴については、それも機密なのでお話できないんです。それより伊隅大尉、申し訳ありませんがそろそろ紹介を続けましょう。このままじゃいつまでたってもXM3の訓練に入れません」
 その言葉を聞いて、伊隅は少し呆けていた顔を引き締める。改めて高原少尉の次から、隊員の紹介を進めていった。


 ひまわりのような笑顔の小柄な女性。突撃前衛、高坂夏姫少尉。そして、武も良く知る部隊の良心、風間祷子少尉。
 あとは新任、元207Aのメンバー。涼宮茜、柏木晴子、麻倉優、高原明日香、築地多恵。全員少尉。

 知った顔もあり、知らない顔もあった。しかし、どちらにせよみな武にとって初めて会う人たちであり、同時に大切な仲間である。
 これから信頼しあうべく絆を深め、そして共に戦い、願わくば皆で生き抜く。武はそれを胸に誓った。





「なんっなのよ! このピーキーな操縦性は!」
「はいはい! そこはどうしようもないので、早く慣れてくださいとしか言えません。とにかく慣れてください! 遊びが無い分繊細に扱うんです!」
「あんたねえ! 簡単に言ってんじゃないわよ!」
「たっ、倒れちゃいますぅ……!」
「だから踏ん張れ! 慣れろ!」

 各操縦席と通信で繋がれたオペレータールームに、速瀬中尉の怒声やら、麻倉少尉の悲鳴やらが鳴り渡る。それに応えて武も声を張り上げ、隅では夕呼が笑い転げ、霞はコンソールに張り付きデータを取る。
 現在XM3搭載のシミュレーターに搭乗して悪戦苦闘中なのは、速瀬以下、高原今日子、高坂、麻倉のB小隊、突撃前衛の4人。

 自己紹介を終えた後、すぐにシミュレーターデッキに移り、武はまず適性の最も高いであろうB小隊の面々をシミュレーターに放り込んで、残った全員でオペレータールームに入った。
 12人全員を一人で見ることなどできないので、真っ先に最も上達の早いであろう連中に操作を覚えてもらい、彼らを例としながら、オペレータールームで残りの隊員に概念の説明を行うつもりだったのである。
 なにしろ『前の世界』の207Bと違い、ヴァルキリーズの面々は武の操縦を参考に戦術機の技能を磨いたりしたわけではない。最初にきっちりXM3の概念を叩き込んでおかなければ、熟達には余計な時間がかかってしまうと考えたのだ。

 しばらくすると、突撃前衛の猛者達は思いのほか早く繊細極まる操縦性を克服し、自由に機体を動かせるようになった。武がいまや旧OSの操縦などもどかしく思っているように、XM3の動きにそれぞれ歓声を上げている。
 彼女達が充分に慣れたと見たところで、武はその腕を止めさせた。速瀬などは「え~!? 今いいところだってのに!」などとぼやいていたが。


「───さて、速瀬中尉以下突撃前衛の皆さんには満足いただけているようですが、今の段階では、機体の即応性が従来より30%アップし、それに伴って緻密な操作ができるようになっているに過ぎません。それだけでも充分に優位と言えますが、XM3の真価は別のところにあります」
 武はそう言って、異質な戦術機動概念の説明を始める。

 まずは、使用頻度の高い連続動作や、非常に特別な操作を必要とする特殊な機動などを登録、あるいはパターン集積により随時更新し、簡易な操作で実行できるようにする『コンボ』。
 OS側の判断により状況に応じての自動修正も可能にしている為、一握りのエースのみが可能にしていたようなオリジナル機動すらも誰でも使用が可能になり、また、劇的な操作の簡略化をもたらす。

 次に『キャンセル』。
 着地時や転倒時、またはある種の動作、機動などの際に現れる硬直、操作不能状態。および受身やその他の各動作の際に、統計的に選択される決まった予備動作。それらを文字通り、衛士側の操作でキャンセルすることができる。
 言うまでもなく、いままで不可避であった決定的な隙を回避したり、コンボとの組み合わせにより、従来の常識を圧倒する動作選択の自由度を得ることができる。

 そして『先行入力』。
 従来入力不可だった硬直時、あるいは特定の動作時に、先行して次動作の入力を行うことによって、硬直、あるいは先の動作が終了した瞬間に、改めて動作入力を行うことなく次の動作に移ることができる。
 キャンセルとはある意味正反対の機能であるが、両者を組み合わせることにより、発展性は更に高まる。
 コンボ、キャンセルに比べると地味に思えるが、極めれば戦術機の迅さは格段に上昇し、ひいては衛士の生存率を飛躍的に高めてくれるといえる機能だ。


 それぞれの機能を速瀬達に試してもらいながら説明し、各人が慣れたら戦闘プログラムを起動し、戦場における各機能の意義、有用性を解説する。
 質問を受け付けながら各機能の説明を終え、最後は各機能、及び新型CPUの性能を総合したXM3そのものの意義。それは武がずっと考え続けていたことであった。

「───XM3の各概念を完全に理解し、総合的に運用した場合に、最も上昇するのは戦術機の戦闘能力ではなく生存性です」

 多くの死を目前に見てきた『前の世界』を思い出し、武は力を込めて言った。

「戦術機戦闘のレベルで考えるなら、物量に勝るBETAとの戦闘はある種詰め将棋的と言えるでしょう。レーザー属種が戦場に存在し、噴射跳躍による離脱がかなわない場合。そうでなくても、戦略上撤退がかなわない場合。ある一定の状況に追い込まれた時点で、生存が絶望的になるからです」
 それは聞いているヴァルキリーズの各員、特に先任達にとっては重々承知のことである。特に、隊長として孤立した仲間を見捨てる判断を繰り返してきたであろう伊隅は、唇を噛みしめ目を細めていた。
 だが、武の話はそこで終わりなのではない。

「つまりそのような状況に追い込まれないことこそが、これまでの戦術機戦闘における戦術の骨子だった。ですが、XM3の搭載、その完全な理解を前提にすれば話は違ってきます。基本のコンボに登録してあるオレの変則機動をフルに駆使すれば、レーザー属種の存在するBETAとの密集戦であっても、限定的ながら噴射跳躍で宙を翔ぶことができます。即応性のアップ、硬直のキャンセル、先行入力による切れ目ない動作。それらも全て合わせれば、たとえ単機でBETAの群れの中に孤立したとしても、独力で切り抜けられる目さえある。詰め将棋の前提条件がひっくり返ります」

「───つまり、我々のするべきことはただ衛士としてXM3に熟達するだけではなく、衛士のXM3への熟達を前提とした、新たな部隊戦術を組み立てることだと言いたいのですか?」
 指先で細身の眼鏡を持ち上げる仕草をしながら、雪村中尉が言葉を挟む。
 あまりに的確に答えを告げるその言葉に、武は笑って頷いた。

「その通りです。全人類の先駆けとして、それを行ってもらいたい。まあ、まずは慣熟に専念してもらわなければなりませんけどね。いままで染み付いた癖を捨ててもらわなければならないことも多いですから、やはりなかなか大変だと思います。必死でやってもらいますからね!」

 そう言って、全員にシミュレーター搭乗を命じる。
 皆がオペレータールームを出て行くなか、武は冥夜達のことを心に浮かべた。

 明日の予定を考えれば、今日はもう話せないかもしれない。だけど大丈夫だ。
 強い意志が未来を作る。二度も失敗するなんて、あいつらの負けず嫌いが許すはずない。
 冥夜、委員長、彩峰、たま、美琴。
 今回は先に行って待ってる。早く追いついてこい。
 オレはおまえ達と一緒に戦いたいんだから───




[6379] 第五章 南の島に咲いた花 2
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:40

 2001年11月1日


 密林に闇の帳が下りる。
 樹冠高くに喧しかった鳥達はその声をひそめ、小さな虫の音が聞こえてくる。
 空には熱く照っていた太陽に代わって、月と星々がその座を占め、澄み渡った満天に冴え冴えとした輝きを映した。
 月光に照らされる林冠の間には、海からの風が吹き抜けて、日中に溜まった暑熱を払う。

 美しい夜だった。滅びに瀕する星の上とは思えぬほどに。



 そんな夜の下、樹林の一角に一つの灯火があった。
 周囲から目立たぬよう設えられた灯り。そのそばには、ひとり少女の姿がある。
 暗赤の炎に照らされながら、彼女はじっと動かない。肩を落とし、膝を抱えてうずくまり、ひどく憔悴した様子だった。

 パチッ、パチッ、と焚き火に枝が弾ける音が響き、そのままでしばらく経っただろうか。
 赤い光の届く端、葉陰近くから、押し殺したような声が掛けられた。


「予定より大分遅れてる……」

 発された声は思いのほか響いたが、少女は反応しない。

「このままじゃ間に合わない……」

 無反応を見て取り、続く一言。太い眉がぴくりと動いた。

「わかってる?」
「……わかってるわよ」

 三度掛けられた声に、今度は無視できず怒気を込めて返すが、正直覇気には欠けた。抑揚のない声だった。
 揺らめく光に浮かぶのは、軽装のBDU(野戦服)姿。207B分隊、榊と彩峰の姿である。
 総合戦闘技術評価演習で訪れた南洋の孤島。そこで示された敵拠点を破壊するため、榊と彩峰は共に行動していた。
 なぜ犬猿の中であるはずの二人がそんなことになっているかというと、冥夜の提案があったからである。




 演習初日、日も昇り、じりじりと熱くなっていく砂浜に集合した榊達は、教官のまりもから演習内容を告げられた。
 課題は戦闘区域である島からの、丸6日、144時間以内での脱出。及び島に点在する三ヶ所の目標の破壊。したがって、まずは5人を三組に分ける必要がある。
 そこで、与えられた白地図の右下を指差しながら、冥夜が言った。

「このB地点は私ひとりに任せてはくれないか? 本来なら鎧衣が適任だが、総戦技演習の実施が早まったゆえ、今はまだ病み上がりの身だ。ならば残った者の内では、総合的に見て私の役目だろう」

 どの道誰かがひとりで行動しなければならない以上、それは妥当な提案であり、榊も全員を見回して承認する。
 だが、では残りのチームは、といったところで冥夜がもうひとつ提案をしてきた。榊と彩峰で組むべきだ、と言うのだ。
 さすがにそれは、という空気が流れる中、冥夜はじっと榊を見つめてさらに言う。

「榊、今のそなたは迷っている。根が深く、深刻であろうことも推察できる。本来時間の掛かることなのかもしれぬが、もう総戦技演習は始まってしまったのだ。リーダーであるそなたがそのような状態では、我ら皆合格などままならぬ。私とタケルが、あのような話をしたのが原因なのだろうから心苦しいが、なんとしてもさっさと吐き出してもらわねばならんのだ。その為に、そなたは彩峰と共にゆくべきだと思う。賭けかもしれぬが、それが一番良いと思うのだ」
「私はそんな───」
 冥夜の言葉に反発して、反論しようとする榊だったが、迷いがあるのは事実である。なおじっと目を見られて、それ以上言葉を続けることができなかった。
 榊が口を閉ざすと、今度は冥夜は彩峰を見遣り、さらに考え込む珠瀬や美琴などにしばらく視線を巡らせる。そうして一転懐かしむように、少し笑って言った。
 きっと本当は、二人は誰よりも息が合うと思うぞ、と。
 その笑顔はとても暖かみがあり、その言葉にはこの上ない重みがあった。
 武が隊に入って、生まれ素性を明かして以来、本当に人が変わった、と全員が思う。ついこの間まで、冷静といえば聞こえはいいが、何事にも距離を取っていた冥夜だというのに、今は本当に気持ちよく笑う。ひとを想う気持ちもまるで隠せていない。

 結局珠瀬と美琴が賛成し、彩峰も消極的に認め、渋面の榊も押し切られた。その結果として現在夜の森の中に榊と彩峰の姿があるのである、が───




 冥夜が賭けと称して組ませたチームは、ここまではまったく上手くいっていなかった。
 地図上は北東の端、C地点に向かった二人だったが、迷いを持ち込んだ榊は本調子を欠いた。本格的な不調などとはいえないわずかなものであったが、密林の行軍はその差に意味がないほど甘くはない。
 その上もとよりいがみ合い続けてきた二人だ。彩峰の心境の変化か、売り言葉に買い言葉とはならず、決定的な対立は起こらなかったが、それでも息は合わず、細かな意思の行き違いは始終のことだった。
 結果としてトラップには足を取られ、熱帯雨林の行程、その熱気と湿気が体力を消耗させ、関係の悪さはストレスとなる。全てが絡んだ悪循環に、道行きは遅々として進まなかった。

 ようやく目標のC地点に到達し、破壊したのがすでにして2日目の夜間。
 仲間との合流予定は3日目の夜だというのに、合流地点までの距離はまだ半分以上を残していた。このままでは3日目はおろか、下手をすれば最終期限の4日目にも間に合わなくなる。いや、このままではまずそうなるだろう。
 空回る焦りは焦りを呼び、体力は余分に消耗し、ふたりは、特に榊は、すでに相当に疲弊していた。


 密林の一角に寝床を設え、最低限の食事を取ったが、気持ちは休まらない。
 そんな中、彩峰は榊から距離を取り、樹木に背を預けながら冥夜の言ったことを考えていた。

(御剣は私達に話し合えって言ったんだと思う……。ていうか、あれは多分白銀の差し金。白銀は信頼しろって言った……。
 でも無理。どうやればいいのか……私にはわからない)

 人の話を聞くなんて柄じゃない。そう考えながら、彩峰は武のことを思い返す。
 会っていきなり、『人類の救世主』と大言壮語……なんだこいつは、と思った。
 けれど翌日から訓練を共にして、その尋常じゃない技量に驚いた。
 そして否応なしに感じさせられる言葉の重さ。言ってることは理想主義の甘ちゃんみたいなこともいっぱいあったのに、いつもの自分なら冷めた目で見ていただろうに、その言葉はすごく心に響いた。
 そして御剣が目を覚まし、次の日のあの話。
 父さんの話。けして知らなかった話じゃない。でも、ずっと逃げてた自分に向き合う切っ掛けをくれた話だった。

 そこまで考えて、次に自然と彩峰は冥夜のことに思いを向ける。
 目を覚まして、武と再会して一夜。冥夜は本当に人が変わったようだった。その変わり様には、冥夜の武を想う気持ち、その尋常ではない強さが感じられた。
 その姿は、翻って自分の家族のことを思い出させてくれ、自分に過去と向き合う勇気をくれるものだった。

 あれから数日、考えて、想って、思い出して───まだ迷いが晴れたわけじゃない。でも、やっと前を向けた気がする。いままで自分は何していたのかっていう、いい気分だ。
 だから、ふたりには借りを返さなきゃならない。そう思って彩峰はうずくまる榊に目をやった。

 大嫌いな相手だったし、今でも嫌いだ。
 でも、今ならなんとなくわかる。こいつが自分と同じような悩みを抱えてたんだって。
 それを抱えたままうじうじされたら、なにかすごい心に障る。なにかすごい頭に来る。

 よし───!

 話せって言うならそうしてやろう。
 彩峰はそう決心して、半分は冷静に、半分は本当に何かに怒りながら、炎のそばに向けて声を掛けた。





 三度掛けられた声に、だんまりを決め込んでいた榊が我慢し切れずに返事をする。
 背後の木肌に寄り掛かったまま、彩峰はなおも続けた。
「……わかってない」
「何がよ!」
「この演習は、私達には最後のチャンスってことが」
「そんなことわかってるに決まってるでしょ! なんとしても合格するわよ!」
 続く問答に少しは調子が戻ってきたのか、榊の声が苛つきを含んで大きくなる。
 彩峰は炎のそばに歩み寄って、榊もそれを見て立ち上がった。

「それがわかってないって言ってる……。問題は榊、あんたのことなのに、この期に及んで目をそむけてる。白銀や御剣の話、なに聞いてた? それともやっぱり、いざとなったら逃げ帰れるお嬢さまだから、こんな演習より、みんなのことより、自分のプライドの方が大事?」
「彩峰!! あなた……!」
 辛辣になじるような彩峰の声に、榊の頬が炎の赤になお赤く染まった。ギリッと歯を噛み鳴らして、詰め寄る榊。

「私に帰るところなんてないわよ! あなたみたいに自分勝手な人に、何がわかるって言うの!?」

 彩峰の父親が投獄、処刑されていることを知りながら、言葉は止まらなかった。胸倉を掴んで、榊はなおも言い募ろうとする。
 と、そこで、彩峰の左手が、榊の眼鏡に添えられた。そのまますっと外してしまう。
「な……」
 なにをするのよ! と続けようとして、榊は続けられなかった。

 ゴスッ!! という音、鈍い衝撃と共に、意識を一瞬とばされたからだ。


 気が付くと、炎の赤が顔の横にある。左の頬がジンジンと熱を持ち、痛みがじわじわと湧いてきた。
 草土の匂いとともに、殴り倒されたのだと思い至って、頭と視界がカッと色づく。
 次の瞬間には、跳ね起きて相手に殴りかかっていた。

 バシッ!! ゴズッ!!

 顔を狙った榊の拳は彩峰の掌に受け止められて、その代わりに腹部に強烈な膝蹴り。前屈みになる榊を、彩峰はそのまま蹴り剥がす。
 そうして再び這いつくばった榊に、彩峰は上から言葉を投げた。

「私だってあんたみたいなお嬢さまのことなんてわかりたくもない。合格する気がないんなら、逃げ出す前にここに埋めてってあげるよ───」

 挑発に乗った榊が、呻きながらまた殴りかかって、それから先は泥仕合だった。
 お互い殴り合い、つかみ合い、痣を作りながら、泥まみれになりながら、倒れ、立ち上がり、ぶつかり合う。演習中だということも忘れて、罵り合い、雄叫びを上げながら転げ回った。
 その末に、負けず嫌いの榊がようやく倒れ伏したときには、彩峰も力が入らず膝を落とす。
 ふたりの荒い息づかいだけが、木々の間の狭いリングになお残っていた───





「───私は父さんが好きだった」

 ふたりが動かなくなってからしばらくして、静寂が戻った森の下草に仰向けに寝転びながら、彩峰はふと呟いた。
 見上げた樹上は意外と隙間が空いている。その間隙に夜空を眺めながら、彩峰は話を続けた。

「でも、父さんが敵前逃亡罪で投獄されて、卑怯者だって、父さんのせいで負けたって、みんなが言って、わからなくなった。父さんは何も話してくれなかったから───」

 その声は喧嘩の後とは思えないほど柔らかく、静かな夜に心地良く響いたが、言葉は返らなかった。
 けれど相手が聞いていることはわかったので、彩峰は心の赴くまま、取り留めなく話していく。

「そのうち自分でも父さんのしたことを恥じるようになって、自分だけは絶対に撤退しないって思うようになった。でも軍じゃ指揮官が無能なら逃げるか負けるか。だから榊のことは大嫌いだった。規律バカで石頭で、私の考える無能な指揮官そのままだったから───」
「…………悪かったわね」
 穏やかな悪口に、初めて拗ねたような答えが返る。ごく自然に相手もそれを見ていることが感じられて、なにやら不思議な気持ちになった。


 そしてたまに合いの手を挟みながら、話は続いていく。

 人は国のためにできることを成すべきである。そして国は人のためにできることを成すべきである。
 ただひとつ自分の中に残された父の言葉。
 父に助けられたと会いに来た、大東亜連合軍の人たちのこと。
 それを聞いても、今更と思って何も信じられなかった。そんな自分の前に現れた武のこと。語られた話。変わった冥夜。


「───あの話を聞いて、考えて、何かが自分の中で吹っ切れた。別に白銀の話を信じたわけじゃない。真実がどうかじゃなくて、ただ大好きな父さんならそのまま信じればよかったって、あのふたりを見てそう思った」
 そこまで言って、彩峰は「いたた」、と洩らしながら体を起こす。そして榊を見つめながら言った。

「でもひとつだけ。あのとき父さんが全てを私に話してくれていたら、馬鹿な私でも誤解なんかせずに、今違う自分だったんじゃないかって思う。もちろん白銀の話通りなら、話せるわけがないことだけど。……榊、話さなきゃわからないこともある。あんたはあんたの父さんと、ちゃんと話をしたの?」


 最後を質問にして彩峰は口を閉じ、また声が途絶えた。
 そのまま虫の声や、小動物の動き回る音、梢を鳴らす風の音が辺りを埋め、時間が過ぎる。
 樹冠の隙間を月が少し動いて、じっと待っていた彩峰に、独り言のように榊が話し掛けた。

「───私も父が好きだったわ」
「うん」

 顔を向けずに話す榊に、彩峰はしっかり返事をする。

「好きだったから、娘として誰にも後ろ指をさされないようにって、誰よりも正しくあろうとした。そう思って努力してそうなって……だから、あなたみたいな自分勝手な人間は大嫌い」
「うん」

 彩峰と同じ様に穏やかな告白。だから自然と頷いた。

「でも、ずっと肩肘張って生きてるうちに、母さんが死んでたったひとりの家族になった父にまで、いつの間にか堅苦しい話しかできなくなった。お互い心が見えなくなっちゃったのよ。それでBETAの本州侵攻があって、父はその後一部じゃ国賊なんて呼ばれて、結局私は家を飛び出した。あなたの言うとおり、何も話はしなかったわね」

 そこまで言って、榊も体を起こす。散々殴られた跡は痛んだが、体を動かして、彩峰が後に影響が少ないようにしていたことがわかった。
 格好悪いわね、と思い、力なく、でも嬉しそうに榊は笑う。

「今度帰って、膝突き合わせて話し合ってみようと思う。お互い言いたいことが溜まってるでしょうからね。……でも、それはこの演習を合格してから。でないと胸を張って会いにも行けない。だから彩峰、あなたの力を貸してちょうだい───」

 すでに炎はその光を失い、熾き火の赤さだけを残している。
 わずかに辺りを蒼く染める月光の下、真摯に目を見つめて出された榊の言葉。彩峰はまた言葉少なく、一言だけで頷いた。
 それで充分。榊はそのまま体を倒して目をつむる。けれど、最後にひとつ付け加えた。


「ところで彩峰……白銀ってほんと嫌なやつよね」
「?」
「御剣の言ってたことって、あいつの差し金でしょ?」
 突然の話に驚いた彩峰も、その後の言葉で納得する。榊もやっぱりそう思ったか、と考えて唇を吊り上げた。
「いきなりやって来て、偉そうに言いたい放題言って、散々引っ掻き回したあげく、総戦技演習には参加しない? おまけに私達はこうして手の平の上? もう、いずれ鼻を明かしてやらなきゃ気が済まないわ!」

 早口で怒ってみせた榊の言葉には、しかし怒気はまるで感じられなかった。だからこれは本心であり、また言葉遊びだ。そう受け取って、彩峰も乗った。
「……同感。あんた何様、だね。若造のくせに態度でかいと、あとで苦労するって教えてやらないと」
「その通りね。だいたい───」

 その後、しばらく悪口を叩き合ったところで、榊は急に静かになった。彩峰が耳を澄ますと、穏やかな寝息だけが聞こえてくる。それを確認して、彩峰も大きく息をつき、次いでその目を閉じた。
 そうすると、彩峰の身にも転がるような睡魔が降りてくる。気が付けば意識を手放していた。
 二人の眠りは、熱帯の森の中とは思えないぐらいに、とても、とても深いものだった。








 2001年11月3日


「───御剣さん。榊さんと彩峰さん、大丈夫でしょうか……」

 珠瀬が半ばひとり言として、自分の心配を冥夜に洩らす。

 総合戦闘技術評価演習4日目。
 すでに冥夜、珠瀬、美琴の三人は、3日目のうちに合流地点に集合し、全ての準備を整えていた。
 高所の岩場で周囲を見張りながら、すでに4日目の太陽は西に大きく傾いている。心配になるのも当然の状況であったが、冥夜は落ち着いて答えた。

「心配するでない、珠瀬。あの者達なら大丈夫だ」
「でもでも、榊さんと彩峰さんのふたりだとやっぱり……。どこかでケンカとかしてるかもしれませんし……」
「むしろそうなってくれていればありがたいかもしれぬ。力一杯ぶつかれば、絆も深まろうというものだからな」
 争い事が嫌いな珠瀬があたふたと慌てる素振りを見せる。

「ケンカは良くないですよ~。御剣さんはほんとに心配じゃないんですか?」
「あの者達を信じているからな。どの道心配したところで、いま我らにできることはない。慌てたところで得る物はないぞ」
 冥夜は笑いながら答えた。珠瀬はまだ眉根を寄せて心配そうな様子を見せていたが、あまりに落ち着き払ったその様子に、自然と強ばりもほぐれていった。

 もっとも、掛けた言葉が嘘というわけではないが、冥夜にしても全く不安がなかったわけでもない。最悪想定以上の遅れも考慮して、未来情報(どうも厳密には違うようだが)からのマージンをとってある故の余裕でもあった。
 要するに、冥夜が一人で前回武が選んだB地点に向かったのは、武と相談の上、安全策として考えたことなのである。

 前回の武は、水筒が空になることを嫌って、B地点で発見した軽油の入手を諦めた。その結果ヘリポート崖下に係留してあったボートが動かせず、最短での合格を逃してしまったのだ。
 あとでまりもに、ボートの使用こそが最良の回答であったことを聞き、武は歯噛みしたものだ。
 そういうわけで、今回の冥夜は過去の教訓に学び、ここまで必要量の軽油を携行していた。水筒を使うのではなく、入手したシートを切り裂いて、軽油を保持できる油袋としたのだ。

 これなら最悪、榊達の到着が明日の夜まで遅れても対応できる。珠瀬達ふたりにどう言うかが問題ではあるが。
 冥夜がそんな風に考えていると、今度は先程まで見張りに立っていたはずの美琴が質問をしてきた。
 もっとも榊達の事に関してではない。今度の問いは暇つぶしというか好奇心というか、つまり───


「───ボクずっと気になってたんだけど、冥夜さんとタケルって、ほんとはどういう関係なのかなあ?」
 というような質問で、耳にした瞬間、冥夜は思わずふいた。
 おまけにそれを聞いた珠瀬までが、先程までの心配顔はどこへやら、「あ、ミキもっ、ミキも知りたいです! 結局恋人同士なんですか!?」と、詰め寄ってきた。詰め寄られた冥夜は、真っ赤になって反応する。

「い、いやっ、そ、そんな仲ではけっしてっ。た、確かに私自身は憎からず……い、いや、そうではなくっ、い、許婚というのは子供の約束だと申したであろう!」
「ええ~? でも、タケルも冥夜さんのことすごく大事に思ってると思うけどなあ」
「うんうん! 絶対ただならぬ感じだよ!」
「で、ほんとは───」
 珠瀬が移ったように、あたふたと手振り身振りして慌てる冥夜だったが、盛り上がる二人の追及は止んだりしない。
 しかし天の助けというものは存在するのか、追い詰められた冥夜が、誰か助けてくれと内心で懇願するとともに、密林に救いの神が舞い降りた。

「───何やってるの? あなた達」「コント?」

 なにやらもみくちゃになっていた三人のもとに、ようやく榊と彩峰が到着したのだった。



「榊さん、彩峰さん!!」「千鶴さん! 慧さん!」
 ふたりの姿を認めた珠瀬と美琴は、冥夜を解放して、満面の笑顔でふたりに駆け寄った。けれど、近寄ったところでびっくりして足を止める。
 何故なら、大分腫れはひいてはいたけれど、ふたりの顔は青痣でひどい状態だったからだ。

「───どうやらふたりとも、仲違いは解けたようだな。随分派手な有様だ」
 珠瀬と美琴が固まって言葉を掛けられないでいたところに、助かった、と胸を撫で下ろしながら、冥夜が歩み寄っていった。
 痣は作っていても、重荷を下ろしたような表情のふたりを見て、『前の世界』の彼女達を思い出す。なにか温かな想いが胸を満たし、声を掛ければ自然と笑みがこぼれた。
 榊と彩峰も、至極自然に、遅れてごめんなさい、とみなに謝り、怪我なら心配いらないと笑って言う。
 それで珠瀬も美琴も緊張を解いて、全員無事を喜び合った。


 一通り喜んだ後には、それぞれの情報を寄せてこれからの計画を立てる。といっても脱出地点が書かれた地図は珠瀬達が見つけていたし、予定に遅れた一日を使って、美琴は周囲の探索を済ませており、特に話し合うこともなかった。
 辺り一帯のトラップはすでに解除してあったので、陽のあるうちに進めるところまで進もうと、復調した隊長が決定する。遅れは少しでも取り戻すべし、ということだ。

 そうして一行は、夕陽に染まったジャングルを進み出す。その出掛けに、榊と彩峰が冥夜にそっと一言。
「白銀には、いずれ借りは返すって伝えてちょうだい」
「覚えとけ、って言っといて」
 それだけ言って、二人はそのまま歩き出した。
 冥夜は少し目を丸めて、それから肩をすくめる。お見通しだったか、と思って、あとが怖いかも知れんぞ、タケル、と横浜の相手を意識した。
 はたして、教導任務中の武はこのとき、背筋に寒気を感じたであろうか。








 2001年11月5日


「───回収ポイント確保、総員全方位警戒」

 タイムリミットまで優に24時間以上を残す朝、207B分隊はヘリポートに辿り着いた。
 演習も後半に入って、ジャングルはいよいよ濃く、トラップはますます増えていったが、美琴の先導と榊の的確な指示などで、道行きはなべて滞りなし。『前回』人工の崖で降られたスコールも時機をはずし、冥夜がなにか口を出すこともなく、ライフルもロープも温存したまま、特に無理をすることもなくのゴールである。

 もちろん、ここは偽の脱出ポイントであるのだが、冥夜からしてみればすでに終わったも同然の結果が見えている。だからつい油断して、冥夜は武のことに思いを巡らせていた。

 『BETAのいない世界』からやってきた武。
 その武が何故、このような世界で命を掛けられるのか。
 神宮司軍曹が目の前で殺されたあの時、武は逃げ出したといった。
 帰ったときには、どのような顔で会えばよいのか。
 きっともう一度赴くことになるであろう『武の故郷』。

 想像もつかない答えを求めて、思考は宙を彷徨う。
 周りも目に入れずに没頭していた冥夜だったが、聞こえてきたヘリの音にふと気を取られた。

 ───ヘリの……音……?

 そう考えた瞬間、冥夜は自らの油断に気付く。
 慢心は未来を知る者に回る毒なのか、なぜ意識から抜け落ちていたのかと、暑熱の中で凍るような寒気を味わう。
 危機感に重くなったような時間感覚の中、振り向いたヘリポートの中央には、喜んで発炎筒を振る珠瀬の姿があった。

 「戻れっ、珠瀬!!」と声を張り上げ、岩の陰から全力で走り出す。

 きょとんとした顔で振り向く珠瀬。
 近づく脱出用のヘリ。
 泥の中を走るような錯覚を覚えながら、なんとか冥夜は珠瀬の腕に手を掛けた。

 力一杯引き倒すように引いて、投げるように来るはずの砲撃から逃れる方向へと飛ばす。


 だが、よし! と思った瞬間、冥夜はバランスを崩した。


 自分も逃げようとして、しかし一歩目が踏み出せない。



 耳に響いた轟音。



 そしてそれに続いたのか、それとも先んじたのか、冥夜の躰に灼熱の衝撃が奔った───







 あとがき

 南の島に血の花が咲きました。
 でもこの場にメディックはいません。緑髪のひととか出てきても嫌ですが。
 あと残り一日強。冥夜には頑張ってもらわなければ……。




[6379] 第五章 南の島に咲いた花 3
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:41

 右足に走った痛みに、力が抜けそうになった。
 だが、ここで止まれば死ぬ。その一念で歯を食いしばり、大地を蹴りだす。
 身を翻したすぐ後ろにぞっとするような気配。くくっていた何かが弾けとんだ。
 轟音とともにヘリポートが削れていく。それを尻目に、放心したような珠瀬の手を取って必死に駆ける。

 信じられないほどに息が苦しい。

 大岩の陰に転げ込んで、安堵にか、痛みにか、体の力がどっと抜けた。
 気がつけば、砲撃の音は止んでいた───




「御剣!」「冥夜さんっ!!」

 岩陰に走り込み倒れこんだ冥夜に、すぐさま榊と美琴が駆け寄る。
 荒く息をつく冥夜の右腿が真っ赤に濡れていた。急いでBDUパンツを脱がせようとして、冥夜がぐうっ、と呻きを上げる。その傷の酷さにふたりは揃って息を呑んだ。
 太腿の中ほど、外側から前部にかけて、ごっそりとえぐられたように肉が吹き飛んでいる。血塗れの断面に骨がのぞいていないのが不思議なほどだ。
 わずかな逡巡にふたりが動きを止めたその時、コール音が鳴った。ベルトキットの中、榊の通信機───非常連絡だ。

「───くっ。……鎧衣、彩峰、応急処置を頼むわ! 早くっ!」
 目の前の傷の深刻さに非常連絡もひどく邪魔に思えて、榊は一瞬躊躇した。だがコールを受けないわけにもいかない。
 榊は通信機を掴み取り、美琴と彩峰に指示を出す。この状況でもしっかりと周囲の警戒をしていた彩峰が走り寄るのを見て、一呼吸してから通信を受けた。

「こちら第207分隊」
 何事かを抑えかねた声で応える榊に対して、返された教官の声は冷然としたもの。
「榊か。隊に損害はないか?」
「御剣が右足を負傷しました。それ以外に損害はありません。あの砲撃は?」
「貴様らの現在地点から、北東の離島にある砲台が稼動してしまっているようだ。自動制御のため、こちらからでは停止できない。したがって───」

 そう言ってまりもは、新しい脱出ポイントの場所を指示した。そこまで行くには、もと来たジャングルを引き返す必要がある。だがそれは───と榊は絶望的な思いで、止血の処置中、歯を食いしばって痛みを堪える冥夜を見た。

 榊の思いに合わせるように、医療班が待機中であることが告げられて、短い通信が切れる。
 まりもの最後の言葉はわずかに感情的な様子を見せた、躊躇したような声だった。当然モニターはしているのだろう。冥夜の負傷が重大ならば、もう合格の目はない。すぐに通信して救援を呼び、彼女の治療を、ということか。最後のチャンスを失う教え子らに、掛けづらかった言葉なのだ。



 通信機をしまって、応急処置が終わるのを待つ榊。熟練の手早さで美琴はほどなく手当てを終わらせ、榊の方を振り向いた。
「鎧衣。傷の具合は?」
 なんとかなりそうか、と暗に問う榊の言葉に、美琴は渋い表情を作る。わずかに迷いを見せ、それから話し出した。
「……少なくとも、最悪の状態じゃないよ。直撃してれば、脚どころか身体ごと吹っ飛んでるところだったのをかすっただけだったし……。骨は折れてないし、重要な神経も大きな血管も傷ついてない。ほとんど奇跡的だよ。でも……」

 でも、の意味は明白だった。今すぐに命の危険はなくとも、演習を続けることは、まして時間内に新たな脱出ポイントに辿り着くことはとうてい無理だと、声の弱さが言っていた。
 だが、そうして言葉を詰まらせたふたりに、「待て!」と強い声が掛かる。痛みに表情を強張らせた冥夜が、荒い息を吐きながら、しかし鋭い目をして身を起こしていた。

「───私は……続けられる、ぞ……ッ。ここまで……走れたのだ。ただ、痛むだけ……。この先も動かせる……歩けるッ!」
「む、無茶だよ、冥夜さん! その傷じゃ完全な止血はできない。止血帯で止めてるだけなんだよ。例え歩けても、丸一日以上なんてもちっこない! 死んじゃうよ!?」
「まだ……そのような、状態では……ない。全力を尽くさずに……諦められる、ものか! そなた達ならば……、こんな、傷、ごときで……仲間の道を、閉ざすことに……納得がいくとでも言うのか!!」

 冥夜の言葉に反対の声を返せるものはいなかった。そのように言われて、否と答えられるはずがない。
 緊迫した沈黙がその場に流れる。
 そして、それを破ったのは榊の決断だった。


「……わかったわ、演習は続行しましょう。でも御剣、本当にあなたの命が危険になったら、そこで終わり。すぐに救援を呼ぶわ。それで、いいわね」

 まっすぐに目を見て言われた言葉に、冥夜は決然と頷いた。他に反対するものもいない。
 それを確認し、榊は即座に「出発準備!」と号令を掛ける。
 美琴が杖を作るため森に走り、その間、冥夜は破壊されたヘリポートを睨んでいた。焼け付く脚よりなお痛む、痛恨の思いを呑み込みながら考える。

 足を負傷したこと以上に、まずかったことが一つあった。冥夜はあの砲撃で、せっかく携行してきた軽油もなくしてしまったのだ。あそこで弾き飛ばされたのは、自作したシートの油袋。あれがあれば、足の負傷があろうとほとんど問題なくゴールできたというのに。
 この足では新たな脱出地点はあまりにも遠い。自分の油断、それが招いた失敗。こんなことで不合格になろうものなら、皆にも武にも顔向けできない。
 冥夜はそう考え、なんとしてもそれを覆さんと、頭蓋に響くような痛みを堪えながら決意を固めた。








「───珠瀬……、ライフルの、スコープを……貸してくれぬか?」

 午後に入り、すでに日暮れも近くなった時刻。突然冥夜に声を掛けられて、珠瀬はビクッと背を震わせた。
 あわてて頷いて、ライフルからスコープを外す。
 それを受け取った冥夜が、木々の間に見える対岸の崖を調べるのを、珠瀬はただぼーっと眺めていた。


 朝のヘリポートからここまで、歩いた距離からすれば非常に時間がかかってしまっていた。言うまでもなく、遅れている原因は冥夜だ。
 杖を突き、あるいは榊や彩峰に肩を借りながらここまで歩いてきた冥夜は、酷い状態だった。
 堪える痛みに脂汗を流し尽くし、止血帯をゆるめるたびに生乾きの傷から血を滴らせ、歯を喰いしばっているというのに、いまや顔色は蒼白だ。そんな状態で、ただでも厳しいジャングルの行軍である。もはや体力も限界に見えた。

 そして、冥夜がそんな怪我を負ったのは自分のせいだと、珠瀬は自分を責めていた。
 冥夜も皆も何も言わない。けれど明らかなことだ。
 自分のせいで。御剣さんも、みんなも───
 血に塗れて歩く冥夜を横に、珠瀬はずっとそんなようだった。


「───せ! 珠瀬ッ!」
「───は、はいッ! な、なんですか榊さんっ」

 目の前の出来事を見ながら目に入れず、自責に沈んでいた珠瀬を、榊が気付ける。
 「しっかりしなさい」と一言し、冥夜が向こうの崖にレドームを発見したと説明がされた。
 砲台の目である可能性が高いレドーム。それを潰すために、珠瀬に狙撃をしてほしいと。

「……あ、で、でも……わたし……」
 説明を聞いて、珠瀬は震え上がった。
 ただでさえ間に合わないこの状況。ここでレドーム破壊に失敗すれば、もはや完全に可能性が失われる。そして一発しかない弾丸。自分のせいで負傷した冥夜。
 そんな事々が頭の中で踊り、生来の弱気が顔を出す。
 私には無理。私のせいなのに。まるで当てられるイメージが───


「───珠瀬」

 そうして答えられずうつむく珠瀬に、冥夜が名を呼びかける。
 痛みに顔をしかめたまま。整えきれない息。しかし、それでもなお毅然とした声だった。
「優しいそなたの、ことだ……私の、怪我を、自分の責任と思って……背負い込んで、いるのだろう。だが、違うぞ。決して、そなたの責などではない。全ては私の油断……失敗ゆえのこと。皆まで、巻き込んでしまって……謝らねば、ならぬのは私のほうだ」
「そ、そんな。あれは私が……っ」
 泣きそうな顔で否定しようとする珠瀬を制し、冥夜はなおも言葉を続ける。

「そなたを、気遣っての……言葉などではないぞ。掛け値、なしの事実だ。だが、それを償おうにも、今この場で、私にできることは、何もない……。だから……頼む、珠瀬!」
 そう言って頭を下げる冥夜。ハッとする珠瀬に対し、冥夜は追い打つように強く詰め寄る。
「撃ってくれ……ッ! そなたしか、いないのだ。私に、次に繋がるチャンスをくれ! そなたの為の道でもあるはずだ!」
 
 それはあまりにもまっすぐな頼みだった。その冥夜の必死さ、強い眼差しに押され、気が付けば珠瀬は頷いていた。
 考えて頷いたわけではない。勢いに押されただけだったというのに、なぜか弱気な気持ちは吹き飛んでいた。先程までが嘘のように、自然とイメージが湧いてくる。
 そんな珠瀬を見て、冥夜は微笑んだ。

「ありがとう……、珠瀬。そなたに、感謝を……」




 巨大な対物狙撃銃(アンチマテリアルライフル)を抱え、珠瀬がプローンに構える。
 対岸を望む崖の際、周囲は夕陽に赤く染まりかけていた。珠瀬以外は付近の警戒などで、彼女の位置からその姿を見てとることはできない。
 あがり症を心配してくれたのだろうと珠瀬は思い、トリガーに指を添えた。

 弾丸は一発きり。これをはずせば合格は絶望的だ。
 プレッシャーはまだある。むしろ今までに感じたことがないほどにある。自分のせいだと責める声もまだ消えない。
 けれど指は震えなかった。心は怖じけなかった。
 ありがとうと言ったときの冥夜の笑顔が思い浮かぶ。
 脂汗を浮かべて、すごく痛いはずなのに、透き通るような微笑みで声が出なかった。
 思い出すだけで心が落ち着く。穏やかになる。

 ───御剣さん。

 スコープを覗き、呼吸を整えながら、必ず当てる、と珠瀬は念じた。
 感覚が研ぎ澄まされてゆき、周囲の音が聞こえなくなる。意識が広がり、当てるという思いは、当たるという確信に変わっていった。
 銃と目標の間だけが世界になり、光のラインが結ばれる。ここまでの世界は初めてだと珠瀬は思い、そしてすぐにそんな意識も消えていった。
 トリガーが引かれる。目標が沈黙する。そのふたつは全く同じ意味で、それを俯瞰で確認した瞬間、珠瀬は我に返った。

 命中を告げる珠瀬の声が、ジャングルの中に響いた───








 珠瀬が狙撃を成功させても、いまだ合格が極めて厳しい状況に変わりはない。ますます悪くなる冥夜の状態を気にしながらも、隊は陽が落ちるまで前進を続けた。
 それでも足りないところだったが、折悪しく夕方から上空は曇天に包まれ、月明かりも期待できない。無理をしようにも、これ以上の移動は不可能だと判断せざるを得なかった。
 そうして隊に野営の指示を出す榊。しかし、そこに再び冥夜が待ったを掛けた。彩峰に肩を預け、苦しそうに、それでも全く退かずに言う。

「それでは、駄目だ……、榊。そなたも、わかっておろう。ここで、止まって、いては……もう到底、間に合わぬ……ッ。進まねば───」

 もはやかすれた声しか出せない冥夜。しかし、その言葉は正しい。その正しさに唇を噛みながら、それでも榊ははっきりと言葉を返した。
「無理よ。たとえ万全の状態であったとしても、月明かりもない夜の森は進めないわ。ましてあなたはもう限界よ。やっぱりこれ以上は……」
「私の、ことなどいい……ッ! 灯り、があれば……、よいのだろう……?」

 そう言って冥夜は一旦押し黙る。
 極度のあがり症である珠瀬が、それを押して一縷の望みをくれたのだ。その優しさに応える為に、もう手段を選んではいられない。
 そう思って珠瀬に視線を移し、心を固めて、冥夜は改めて言葉を続けた。低く、重い声で。


「……この少し、先に……、ラテックスの、群落がある……。樹液を、集めて松明、を……作ればよい。それで充分に……灯りは確保、できよう……」


 その言葉の内容に、聞いた全員が呆気に取られた。彩峰が冥夜の肩を落としてしまい、慌てて支える。
 少しの沈黙の後、「あなた……それは一体……」と榊が言いかけるが、横合いから美琴がそれを遮った。
「それでも無理だよ冥夜さん。松明だけじゃ、ぼくでも夜の森でトラップを見つけるのは難しい……。だったら夜の間に少しでも体力を回復させて、明日に賭けるべきだよ」

 現実的ともいえる美琴の意見。しかし、裏には冥夜を心配する思いが見えた。
 出血は今も止まり切っておらず、休んだところで体力の回復など望めぬことは明らか。だがそれはつまり、これ以上無茶をすれば本当に命が危ないということである。
 冥夜の頑なさを慮って、美琴はそういう言い方をしたのだろう。言われた冥夜も充分感じ取ったが、それは聞けない相談だった。再度あり得ない言葉で美琴に答える。

「このルートなら……、この先、橋を、越えてからの……地雷原以外ほとんど、トラップは……ない。何も、問題はない」
「ちょっと、御剣───!」
「不正云々などと……言っていられる、場合では、なかろう。私は、ひとりでも……行くぞ……ッ、榊……!」

 合流後からここまで、設置されたトラップなどは全て、『前の世界』で冥夜が経験した通りのものだった。それを信じての言葉、血を吐くような言葉は真剣の如くで、全員に疑う余地を与えない。
 それでもむしろ一番の問題は冥夜自身の状態だったのだが、疲労と出血、激痛に塗れながら、その目だけは異様に精気を漲らせた彼女の姿に、榊達はもう何も言うことができなかった。




 はたして207隊の進んだ先には、冥夜の予言通りラテックスの木の群落があった。

 それを目にして榊はさすがに驚く。
 トラップのことだけならば、武から伝えられていたということで納得できる。冥夜が不正と言った通りだが、武の『特別』ぶりを思えばありそうな事だ。
 しかし、これは全く話が違う。孤島とはいえ充分に広大なジャングルの中で、小さなラテックスの群落の場所なんて、一体どうして知っていたのか。考えるほどにわからなくなる話だった。
 しかし、榊が驚いていたのはわずかの間。それは今考えることではないと首を振って、同様に驚いていたみなに、樹液を集め、松明を作るよう指示を下す。


 一方、その間に冥夜の手当てをしようとした美琴だったが、「その前に」と冥夜から頼みを受けた。松明のものとは別に、薪を集めて欲しい、と言われたのだ。
 訝しい頼みだったが、それを言うならこの状況全てが訝しい。手早く集めて小さな焚き火を設える。集められた樹液もいくらか放り込み、火力の高まったところで、冥夜は自分のハチェットを抜いた。
 燃え盛る炎にくべて、刀身を熱する。
 包帯代わりに右足に巻いた服地をその手で取り去る。
 そこに到ってようやく、美琴は冥夜のやろうとしていることに気が付いた。

「ちょっ、待って、冥夜さん!」
 慌てて止めようとする美琴を一睨みで制する。荒げた息で、けれど口端を吊り上げて、冥夜は笑ったように見えた。
「鎧衣……。そなた、の言った通り、だ。これ以上、血を失えば……明日まで、もたぬ。だから……」

 そこまで言って、冥夜は取り去った布地を噛み締め、真っ赤になったハチェットを手に取る。美琴に動く隙も与えないまま、一息に傷口に押し当てた───


「ぐううぅぅっッッ!!」

 文字通りの焼けた鉄の熱さ、激甚な痛みを味わいながら、冥夜は砕けんばかりに奥歯を喰いしばって手を動かす。
 ただの傷ではない。クレーターのように抉れた傷口を、焼き鏝でまんべんなく焼いていくのだ。それを自分の手で行うというのは、並大抵の精神力でできることではない。

 抑えきれない呻きとともに、肉の焼ける匂いが周囲に漂い、そばに立つ美琴と、そして彼女の叫びを聞いて集まってきた榊らがその身を震わせる。
 全員が陰惨な拷問の如き光景に目を奪われた。
 赤い炎に照らされたそれは、凄烈で、見る者を引き込むようで。呑まれた気が戻ったときには、もう冥夜の作業は終わっていた。



「はあっ、はぁっ……、ふうッ、ふうぅ……ッ」

 実際にはほとんど時間の掛からなかった作業。しかし、それを終えた冥夜は、体力を絞り尽くしたかのように喘いでいた。
 焼け焦げた傷口からは、もう血は流れていない。それでもその痛みはいかばかりか。冥夜の呼吸が幾らかでも治まるまではしばらく時間が掛かり、そこで初めて美琴が声を掛けた。

「冥夜さん……、大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ……。気付けにも……、なった。これで、明日までは……眠らずに、いられよう……」
 おずおずと尋ねる美琴に冥夜は答え、ぎこちなく笑ってみせる。笑えない冗談だったが、未だ気力が尽きていないことは皆がうかがえた。
 だからそれ以上は何も言えず、美琴は焦げた傷口の手当てをして、残る榊らは準備を再開する。

 目指す脱出地点まで、道行きはまだ長い───








 2001年11月6日


「はっ、はっ、はぁッ───」


 総合戦闘技術評価演習最終日。207隊が最後に渡った離島の丘に、彼女達の苦しげな呼吸と、大地を蹴る足音が木霊していた。
 昨夜から降り出した雨は既にやんでいたが、濡れてぬかるんだ地面は、疲労の著しい少女達から残り少ない体力を更に削り取る。
 もはやほとんど足も動かず、意識も朦朧とした冥夜を支え続ける榊と彩峰、ひとり昨夜から一睡もしていない美琴など、冥夜の負傷は雪だるま式に隊の負担を増やし、多少なりと体力に余裕があるのは、珠瀬ただひとりという状態だった。その珠瀬にしても、他の皆から装備を一手に引き受けており、もとより体力に於いては他のメンバーに劣る彼女が苦しくないはずもない。

 それでも、絶望的と思われた状況で、彼女達はもうゴール間近まで到達していた。
 時間はまさにギリギリ。もう時計を見る余裕もなく、ただただ気力を振り絞って足を動かす。
 先頭の美琴が地雷の場所を確認し、榊と彩峰は二人で息を合わせて、冥夜を抱えるように運ぶ。珠瀬がそれぞれをつないで連携し、残る距離と時間は、ともにじりじりと少なくなっていった───





 笛の音のような擦れた息が、苦しげで荒い呼吸が、耳に綿でも詰めたかのように遠く聞こえる。
 肩を借りているのは榊だったか、彩峰だったか。
 自分の足は動いているのか。打ちつけるような激痛すらも、自分の痛みと感じられない。

 それでもただ足を前へ。ただそれだけを念じる。
 まだだ、まだ動ける。ほとんど目の前も真っ白でも、まだ。

 ふと、前にもこんな事があったような、と思った。
 自分ではなく、誰かが───


 ───タケルは……。タケルは、本当はもうとっくに限界だったんだよ……。

 ───ふざけるなよ! オレは……オレはまだやれる!


 誰かがそう言って───


 ───今日合格しなければ、私達は……。

 ───オレはお荷物なんかじゃねえッ!


 誰かが───


 そう思った瞬間、浮かび上がった光景は、白日夢のように冥夜の脳裏から消え去った。
 その途端に、踏み出した足の痛みが頭まで突き抜け、意識がわずか現実に立ち戻る。
 戻った視界に映った緑の丘。もうゴールは近い。
 朦朧とした意識に喝を入れ、冥夜は両肩を支えられているのに気が付いた。
 榊と彩峰。二人三脚のように、ふたりでひとりのように息が合っていた。
 腕を引く二人についていこうと、冥夜は最後の力を振り絞る。横浜で待つ武の顔が心に浮かんだ。








 ひた走る少女達が向かう先。ヘリポートを備えた脱出地点。
 神宮司まりもは医療班の衛生兵数人とともに、教え子達の到着を今や遅しと待っていた。
 しかし、丘の向こうに人の姿が見えても、まりもはひと言も発さない。彼女達が自力でゴールに到達するのを、拳を握り締めてただじっと待つ。
 そうしてどれだけ待ったか。遂に最後尾の冥夜達三人が自分の前に辿り着いたところで、弾かれたようにまりもは動いた。

 ゴールするとともに気を失い、崩れ落ちた冥夜を抱え上げ、衛生兵に指示を出してすぐ後ろの大型ヘリへと運び込む。
 完全武装の兵士20人以上を乗せられる軍用ヘリには、衛生兵とともに手術用の設備が用意されていた。
 冥夜がそこに運び込まれるや、すぐさま輸血の準備が始められる。まりもも一緒に入っていって、外には訓練兵の四人だけが残された。



 そうして三十分ほどが経っただろうか。
 残された榊たちは、冥夜の身が心配で、しかし自分達の方も限界まで疲労していて、すでに日差しが覗いた空の下、思い思いにうずくまっていた。
 そこにようやくまりもが顔を出す。

「冥夜さんは大丈夫なんですか!?」
 と、一番に駆け寄りそう質問したのは、4人の中でも最も疲労しているはずの美琴だった。顔に濃い隈を浮かべながら、厳しい表情で教官に詰め寄る。
 そんな美琴に、また同様に詰め寄る教え子達に、まりもは笑って「心配するな」と言った。

「血を大量に失って極度に疲労してはいたが、あれだけの怪我を負って、丸一日以上ジャングルを行軍してきたとは思えぬほど、状態は良好だそうだ。傷の処置をしたのは鎧衣だな? 医薬品もない状態で見事なものだと、衛生兵たちも感心していたぞ」
「いえ、そんな。ボクなんて何もできなくて……」
「そんなことないよ、鎧衣さん! 鎧衣さん夜通し御剣さんの看病して、真夜中にひとりで薬草も探しに行って───!」
「うん。鎧衣がいなけりゃ、御剣も私達もここまで来れなかった」
「そうね。あなたがいなかったら、御剣は今頃本当に命が危なかったかもしれない。胸を張るべきよ」

 目の前で冥夜に自らの傷を焼かせた美琴は、苦い声でまりもの褒め言葉を否定しようとしたが、仲間達がそれを更に否定する。
 そう。美琴が昨夜一睡もしていなかったのは、彼女が一晩中冥夜のために動いていたからだ。
 強い雨で歩みを止めた榊達が野営して休息を取る中、美琴は雨中のジャングルを駆けずり回り、冥夜のために薬となる植物や食べられる果物などを集めてきた。
 その上で焼き付けた傷の痛みで眠れない冥夜に付き添い、状態が悪くならないよう、休みなく傷の手当てをしてきたのだ。
 皆それを知っているから、美琴への言葉は優しい。その言葉を聞いて、また、冥夜に命の心配がないと知って、美琴も少し微笑んだ。


「───ところで教官。総戦技演習の結果はどうなったのでしょう」

 冥夜のことは心配ないとわかったところで、今度の質問は榊だった。真剣な眼差しで、自分達の行く末を問い尋ねる。
 その問いに、まりもはひとことだけ答えた。

「5分前だ」
「は?」
「聞こえなかったか? 到着はリミット5分前。合格だ。正直あの砲撃の時点で無理だと思っていたが、本当によくやったな」
 その答えを聞いて、珠瀬が真っ先に歓声を上げかける。が、榊の変わらず真剣な様子がその声を萎ませた。
 少しの間を置き、意を決したように榊が口を開く。

「教官。私達は不正を働きました」
「榊さん!?」
「御剣は、今回の演習の内容を事前に詳しく知っていました。最後の一日、彼女からそれを聞かなければ、私達は絶対に間に合わなかった。ですから、裁定はそれを踏まえてお願いします」
 あまりにも馬鹿正直な榊の言葉。珠瀬達は絶句していたが、まりもはじっと榊の目を見詰めていた。
 答えはもうわかっているというような、揺るぎない瞳。ふっと笑ってまりもは言った。

「合格は変わらんぞ。演習の内容を知っていたがどうした? ひとたび戦場に赴けば、それも単なる条件の一つに過ぎん。有利な条件を利用して、貴様等は脱出という目的を果たした。それが全てだ。ま、馬鹿正直に言うのもなんだと思うから、他では口にするなよ」

 まりもの答えを聞いて、榊がふっと口元をゆるめた。けれど、残りの3人は表情を強張らせたまま、なかなか動かない。
 熱帯の太陽の下に生まれたおかしな静寂。それに思わず吹き出したまりもが、改めて「どうした? 合格だぞ、喜べ」とひとこと加え、ようやく時が動き出した。


「やったーーー! 合格だよ、榊さん!」
 珠瀬が飛び跳ねて榊に抱きつき、美琴もそれに習う。彩峰が後ろから「馬鹿……」と一発どついて、あとはもうもみくちゃになった。
 そうして思いっきり喜んで、けれど一番一緒に喜びたい相手がいなかったから、そのうち自然と言葉が出た。

「教官、冥夜さんはこの後どうするんですか?」
「うん? ああ、充分に輸血をして命の心配はもうないが、右足の方は再生治療を施さなければならないからな。このままヘリで横浜に送ることになる。向こうに帰るまで起きることはないだろうが、お前達はどうする? 本来演習後には一日休日があったわけだが───」

 美琴の言葉に答えて、逆に意思を聞くまりもだったが、答えは予想通りのものだった。冥夜がいないのでは意味がない、と全員が横浜への帰還を希望する。
 幸いヘリの収容定員には余裕があったので、仮設キャンプでシャワーを浴びた後、全員でヘリに乗り込む事になった。



 過酷に過ぎた最後の一日があった分、喜ぶ少女達の笑顔はまるで花が咲いたようだった。その笑顔があまりにまぶしかったので、まりもは余計に彼女達の行く末を案じてしまう。
 教育者を目指した彼女の想い。奇しくもそれは、未来を知り、時を越えた武と冥夜の抱くものとよく似た想いだった。




[6379] 第六章 平和な一日 1
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:42

 飛び込んできた報告を聞いて、月詠真那は思わず息を呑んだ。
 南海の孤島で行われた総合戦闘技術評価演習。その演習中に冥夜が砲撃を受けて重傷を負ったという知らせだったからだ。
 最近絶えず離れなかった不安が、形となって現れたような気がして表情を強張らせる月詠だったが、少なくとも命に別状はないそうだと続けて聞かされ、ほうっと息をつく。おどかすなと力無く笑って、息せき切って駆け込んできた神代巽に続きを促した。

 自ら大事は無いと伝えながらも、いまだ冥夜の意識は戻らず、その身も搬送中で海上にある状態とあって神代はひどく心配そうな様子であったが、残る報告はそれを抑えて事務的に行った。
 とはいっても、伝えるべきことは冥夜の横浜到着予定時刻と、彼女の演習合格という結果程度。短い上に月詠たちにとってあまり喜ばしい事でもないので、自然と事務的な報告になったというところだったが。



 短い報告を済ませた神代を下がらせて、月詠は殺風景な自室にひとりきりでたたずむ。
 不吉な知らせの後に冥夜の無事を知って気が抜けたのか。やるべき事はあるはずなのに、どうにも心が奮わず頭が働かない。動かなければと思いつつも脱力感に抗えず、ふらふらとベッドに倒れ込んだ。
 一度横になってしまうと、体は鉛のように重く感じられて、身を起こそうという気力も湧かなくなってしまう。重くなった瞼が落ち、濁ったまどろみが押し寄せてくる。鈍った頭の中で、形にならない不安と焦燥が渦巻いていた。
 常在戦場。例え日常にあっても、常に気を張って有事に備えることは、斯衛として当然の心得である。その点まさに斯衛の鑑といえるような月詠からすれば、考えられないようならしからぬ状態だった。

 無論、彼女とて主である冥夜が重傷を負ったと聞けば、動揺もすれば胸を痛めもする。
 そもそも政治的意向で冥夜が国連に身を預けていること自体が、彼女に仕える月詠たちにとっては不本意極まりないことなのだ。飼い殺しに等しいようなこの状況で、なお必死で力を尽くそうとする冥夜のことを思えば、心痛もいっそう深くなろうというもの。

 とはいえ常の彼女ならば、たとえどれだけ心を痛めても、しっかりと感情をコントロールして、このような醜態を晒すことなどなかっただろう。
 だがしかし、今このとき月詠の心はひどく弱っていた。
 この二週間というもの、今までに経験したことのない不可解と不安、言いようのない負の感情に苛まれ続け、じりじりと、しかし確実に消耗していたのである。
 今まではそれを表にあらわさないよう気を張ってきたが、深刻な疲弊は誤魔化しきれない。ここにきて張り詰めていた気が殺がれ、膝を抜かれるように倒れてしまったのだった。



 そうしてしばらくの間、月詠はぐったりと、うなされることすらなくベッドに臥していた。身じろぎもせず、屍のような有様は本当にまるで生気を感じさせない。
 彼女自身、このままいつまでも動けないのではと重い頭でぼんやり感じていたのだが、意外と力が戻るのは早かった。

 倒れてから20分余り経った頃か───激しく全身を震わせ、月詠は唐突に跳ね起きたのである。

 前触れは何もなく、まるで部屋の中に雷が落ちたかのように突然だった。
 月詠が動こうと思って動いたわけではない。服の中に多足の蟲でももぐり込んだかのような、半ば自動的、反射的な反応である。

 飛び起きた月詠の様子は、それまでとは打って変わった乱れ様だった。
 見開かれた瞳に、浅く速く乱れた呼吸。分泌されたアドレナリンは胸の鼓動を倍以上に速め、脳裏にはうるさいほどに音が響く。
 そのような反応を人にさせるものは多くない。驚きか恐怖、あるいは怒り、そのいずれかの感情だ。そして、今の月詠が感じていたのはみっつめの感情───体を芯から震わせるような、激烈な怒りだった。
 まどろみの中で見た悪夢、あるいは悪夢のような何かが、彼女にそれをもたらしたのだ。泥に沈んだようだった気だるさを、一瞬で吹き飛ばすような怒りを。


 とにかく、感じた思いがなににせよ、月詠はつい先程までとは別人のように精気を漲らせていた。
 我を取り戻した彼女は、深く息を吸って呼吸を整え、頭に上った血を冷まそうとする。
 しばらくそれを続けてようやっと落ち着いてから、自分を激発させた原因について考えを巡らせた。
 たった今、陥った無気力から抜け出す力をくれた存在。だが、それは皮肉にも、この二週間月詠が苦しむ原因となった存在でもあった。

 白銀武。それがその悪夢の名前。

 その男が現れた瞬間から、大事な主は、月詠の知る冥夜は変わってしまった。不可解に。あり得ないとしか言えないほどに。
 二週間前からこれまでの間、冥夜に起こった異変、それらは全て武が関わっていると月詠は確信していた。
 だがその手段が、その目的が、その他あらゆることがわからない。
 これまで幾度も考えながら、全てまともな結論が出ず苛立ちを溜めるだけとなっていた思考に、月詠はまた迷い込んでいった。


 あの男、白銀武とは何者なのか。冥夜にとってどのような存在なのか。いかなる目的を持って今現れたのか。

 それらは冥夜を護るため、月詠が絶対に知らなければならない事だった。
 しかし、あまりの手掛かりのなさに、今までいつもそうだったように考えはまとまらず、却ってその隙間に記憶が──思い出すだけで頭の後ろがちりちりと痛む記憶が切れ切れに入り混じり、頭の中に余計な感情を焼き付けてしまう。


 二週間前、突然倒れて原因不明の昏睡状態に陥った冥夜の姿。
 その同じ日に現れ、怪しすぎる話を語っていった男、白銀武。
 目覚めた冥夜。生き別れた恋人が劇的な再会を遂げたかのような場面。
 考える事も忌々しいが、どんなに低く見積もっても旧知の間柄。
 逃げ出した二人。
 そして──触れてしまった主の逆鱗。

『タケルが望むなら何でもしようし、タケルの為なら迷わずこの命も捧げよう』

 冥夜はその時そう言った。その言葉こそが、月詠にとって最も信じられない、信じたくないものだった。


 将軍家に生まれついた者ならば、その身その命はすべて国のものであり民のものであって、自らのものではない。
 影の身として生まれながらも、その宿命を、その命の重さ、その身に宿る責の重さを誰よりよく知るはずの冥夜が、私で命を捧げるなどと。
 それでは国に、民に、そして殿下へと捧げた誓いと誇りはどうなるというのか───

 彼女の知る冥夜ならば、決して口にしない、口にするはずもない言葉だった。
 まだ戯言であったならばいい。しかし、その言葉は紛れもなく冥夜の本音、真実の言葉だった。それもわからなければよかったのに、それだけは確かにわかってしまった。
 将軍家の誇りさえ捨てさせるほどに、あの男は冥夜にとって大事な存在なのだと。
 あり得ない事。だがそれでも現実に目を背けるわけにはいかない。
 心中に歯ぎしりをする思いで、月詠は冥夜の想う相手、『白銀武』のことを考える。だがそちらの道筋は、月詠にとってさらに謎の深い迷い道だった。


 冥夜の逆鱗に触れたあのときから、月詠は動かせる限りの手を使って武の素性を調べさせた。斯衛の赤である彼女は、その気になれば軍人としてのものとは別の、相当に大きな権限を使うことができる。
 しかしどれだけ調べても、三年前のBETA本州侵攻以降の武の足跡は一切掴めず、対してそれ以前の武に関しては、ごく普通の一般人であるという結論以外出てこなかった。
 冥夜との接点など全く存在しない。警護の記録から冥夜の過去の行動全てを総ざらいしても、やはり結論は同じだった。武はおろか、素性の知れない人物との接触自体がないのだ。
 だが、言うまでもなくそれでは冥夜の行動に説明がつかない。『白銀武』と冥夜の間には、過去によほど大きなつながりがあったはずなのだ。

 ならば、考えられるのは記録の改竄か。
 月詠も武が語った話を鵜呑みにするつもりなどなかったが、目を覚まして以来、冥夜が武と共に頻繁に横浜基地の機密区画に出入りしている様子なのを考えると、武がオルタネイティヴ4の中枢メンバーであるということは真実なのだと思われた。
 ならばその背後で糸を引いているのは、この横浜基地の副司令であり、実質的なトップである香月夕呼博士。研究者としてはもちろん、政治的駆け引きにおいても神がかった辣腕を誇り、加えて横浜の牝狐と仇名されるとおり、日本人でありながら帝国への忠誠心など欠片も持たない人物でもある。
 そのような人間がついているなら、過去の改竄も充分に───

 だが、そこまで考えてやはりまた壁に突き当たる。
 確かに国連のデータベース上で『白銀武』の記録は改竄されている。しかし、冥夜に関わる記録はそれとは事情がまるで違う。そのように簡単に改竄可能な電子データではなく、連ねられた紙の記録であり、警護に当たった人間の記憶でもあるのだ。ましてそれらは、月詠たち自身も多く関わっていること。形跡すら残さず改竄するのは不可能だと考えざるを得なかった。


 ───だとしたら、あとはどう考えれば説明がつくのか。

 冥夜様がこの横浜基地に来られてから知り合った? 我等も不審な人物が接近してこぬか目を配っていたとはいえ、香月副司令が背後にいるならば、その目をくぐることも不可能ではない。
 ……やはり違うか。それでは今までの冥夜様の態度に矛盾がありすぎる。あの日倒れて目覚められるまで、冥夜様にはなんら変わるところはなかったのだ。冥夜様はまっすぐで正直な御方。傍に控える我等が変化に気がつかぬなど、目覚められたときの泣きはらしたさまに鑑みれば、あり得ないとしか言いようがない。
 ならばまさか洗脳か? 第4計画で開発した洗脳装置でも使われたのか?
 しかし冥夜様が倒れてから目覚めるまで、我等はお傍を離れなかった。その間にどのような細工ができる? 医療機器はごく普通のものとしか……だが、いやそれはいくらなんでも───


 そこまで考えて、月詠はハッと我に返った。あまりにも思考が迷走していたことに気が付いたのだ。
 いくらなんでも馬鹿げている。主に対して一体何を考えていたのか。
 月詠はそう反省し、首を振って袋小路に陥った思案を振り払った。わからないことは無視して、確かなことだけを考える。

 確かなこと。
 それはたとえ何があっても、冥夜は冥夜であるということ。月詠にとって、この世で誰よりも大事な存在であるということ。
 からくりはわからず、目的もわからなかったが、本物か否かはともかくあのような男を用意してきたのだ。この『横浜』が冥夜を利用しようとしていることは明らかだった。
 本音を言えば、一刻も早くこのような魔窟から冥夜を遠ざけたいところであったが、そのような権限は月詠にはない。
 ならばせめて、この身の及ぶ限り全力で冥夜を護り、そして諌める。それが斯衛としてなすべきこと。

 月詠は斯衛の初心ともいえる誓いを、改めてその胸に深く刻み込んだ。そうして、乱れてしまった紅い軍装を直して立ち上がる。
 苛立ちと不安はまだ心を揺らしていたが、前を向いたその瞳には、もう彼女らしい強い光が戻っていた───








 第六章  平和な一日


 横浜基地に搬送された冥夜が、すぐさま担ぎ込まれた特別治療室。
 冥夜を含めた207Bのメンバーが横浜に到着したのは、まだ夕方というには早い時刻であったが、武と霞がそこに足を運んだのはそれよりもずいぶん後、夜も深夜に近くなってからであった。
 遅れてきたふたりに対して、すでに長く待っていた207Bの皆から口々に声が掛けられる。武はそれに返事をしながら、霞と共に輪に入っていった。

「ずいぶん遅かったじゃない、白銀。『許嫁』が怪我をしたっていうのに」
「悪い。特殊任務でどうしても抜けられなかったんだ。心配はいらないって、先に教官に聞かされてたし。ま、オレなんかに心配されるほど冥夜が柔じゃないってことはよくわかってるからな」
 ソファーに座った榊から、妙に『許嫁』にアクセントをつけた皮肉げな詰問がされた。武は神妙に、けれど少し口元を緩ませて答える。
 ごちそうさまとでも言いたそうに肩をすくめる榊。武は一旦息を継ぐと、改めてみなの方に顔を向けて続けた。

「美琴。おまえが徹夜で冥夜の手当てをしてくれたんだってな。それがなけりゃ危なかったかもしれないって、教官が言ってた。ありがとう、本当に……」
 そう言って深く頭を下げた武に、美琴は慌てて首を振る。自分は何にもしてないと言い張る美琴に、武はそれ以上言わなかった。そうして今度は全員に対する。

「あと───」
 襟を正して息を吸った。敬意を込めて言葉をつむぐ。
「みんな、総戦技演習お疲れ様。そして……合格おめでとう。また一緒に戦えるって信じてた」
「……みなさん、おめでとうございます」
 隣で霞もそう言った。嬉しそうな声音だと、武にはわかった。


 自分の参加しない総戦技演習。ある意味武にとっても初めての経験だった。冥夜達なら大丈夫だと信じてはいたが、心配に思う気持ちは消せなかった。5日目を過ぎても合格の報告が入らないとなればさすがに不安を覚え、冥夜が重傷を負ったと聞いたときには、図らずも月詠と同様に顔色を蒼くしたものだ。
 自分では何もできないことが辛かった。だからみなの合格を知った時は、『前の世界』の醒めた思いとは格別の喜びがあった。その思いは、傍にいた霞にもうつったのかもしれない。
 榊たちも、武の言葉に偽りないその気持ちを感じたのだろう。一様に面映いような、なにやらきまり悪げな様子だった。


「───ありがとう、たけるさん。でも……私たちが合格できたのは、御剣さんがいたからだよ。御剣さんがいなかったら私は……」
「そうね。もしも御剣がいなかったら……、きっとみんな早々に諦めていたでしょう。御剣がいたからこそ私達も頑張れた。……怪我をしたのもその御剣なんだから、おかしな話だけどね」
 しばらくの沈黙のあと、珠瀬が最初に言葉を返した。まだ伏し目がちに話す彼女の小さな声。それを榊が優しく遮る。最後は少し笑い混じりだった。
 その言葉に、彩峰も「そだね」と呟いて同意し、美琴も静かに頷いた。

 珠瀬を気遣う榊。それを見て取り従う彩峰。美琴まで何も言わずにそれに合わせて、その優しく纏まった空気に武は目を見張る。隣では、霞もウサ耳をぴょこんとさせて驚く様子だった。

「……冥夜もきっと同じ気持ちだろうな。みんながいたから合格できたって───」

 きっと誰一人欠けても駄目だった。詳しいことは知らなくても、武にはそんな気がした。
 その場にいられなかったことが少し悔しい。

「───改めて、合格おめでとう。で、冥夜はまだ目を覚まさないみたいだし、せっかくだから詳しい話聞かせてくれないか? 冥夜の武勇伝を、みんなの口から聞いておきたい。駄目か? たま」
 すこしおずおずとしたその言葉に、少し間をおいて珠瀬は「うん! 喜んで!」と笑って頷く。
 そうしてみんなが次々に話し出した。扉の向こうで眠る仲間の話を。





 その後、しばらくいろんな話に花を咲かせたあと、武は榊たちを自室に戻らせた。
 ヘリでの輸送中から夕方まで眠っていた彼女達だったが、今も疲労の溜まっている状態には違いなく、きちんと休まねばならないのはあきらかだったからだ。
 「朝までオレがついてるから」ということで納得させ、今は武と霞の二人だけが残っている。
 その静かになった廊下、明かりは非常灯だけが残った薄暗い廊下で、武はポツリと呟いた。

「ほんと……冥夜らしいな」

 反響するようによく響いたその呟きに、傍らでわずかな反応があった。武は続けて、今度はそちらを向いて話し掛ける。

「そう思いませんか? 月詠さん」

 少し離れて置かれた椅子に、斯衛の赤い制服姿。今この場にいる最後の一人、月詠中尉だった。
 呟き声も響き渡る静けさの中である。呼ばれた名前が聞こえないはずもないが、月詠はこめかみをぴくりとさせただけで、武には一瞥もくれなかった。
 ついでに、榊らがいる間には抑えていた殺気も露わにして、寄るな触るな話しかけるなという尖った気配があきらかだったが、武はめげずに言葉を続ける。

「いつだって全力なのが冥夜のいいところですけど……その分心配させてくれますよね。月詠さん達も、昔から大変だったんじゃないですか? まあ───」
「黙れッ! 貴様と語る口など持たん! さっさとその軽い口を閉じろ、さもないとそのよく回る舌ごと斬り飛ばすぞッ!!」
 その言葉を途中で遮り、今まで散々憤懣を溜めさせられてきた月詠が爆発した。ガタンッ、と椅子を蹴るように立ち上がり、炎のような眼で武を睨み付ける。
 地獄の鬼もかくやという形相だったが、武は内心おののきながらも引かなかった。飄々とした態度を崩さず、よく回るといわれた舌を動かす。

「そう言われても、こっちには話すことがありまして。とりあえず聞いといてもらわないと困る事が。お互い冥夜の味方なんですから、そんなに刺々しくならなくても……話をするくらいはいいでしょう?」
 もろに月詠の怒りに油を注ぐような言葉。案の定、怒気は膨れ上がり、笑顔で受け止める武との間に圧力が高まる。間に挟まれた霞が、うさ耳をふるふると揺らしてほとんど怯えていたほどだった。



 そんな状態がしばらく続いて、ある意味で根負けしたのか、先に口を開いたのは月詠の方。やたらと低い声だった。

「……そんなに話したいというのなら、こちらからも聞いてやろう。前にも問うたが……貴様は何者だ? 『許嫁』などというふざけた寝言は一体何だ!? 答えてもらおうか!」
「ちゃんと聞いてるじゃないですか。……許嫁は単なる方便ですよ。207のみんなに冥夜が起きたときのことを説明しなけりゃならなかったんで。月詠さん達相手じゃ通用しない手だから使いませんでしたけど。知ってるでしょ、オレと冥夜は、以前に会ったことなんて一度もないんですから」

 真っ直ぐに目を見て言われた武の答えに、月詠は強く唇を噛む。
(情報操作は完全だとでも言いたいのか。こちらが手を出せないと思ってふざけたことをっ)
 そんなことを思って握り締めた拳を震わせる月詠に、更なる追い打ちがかけられた。

「そういうわけで、オレの過去をいくら調べても何も出ませんから、そろそろ情報部の人達動かすのやめてもらえませんか───月詠さん」

 そう言った武の顔は笑っていたが、声音はずっと冷ややかだった。月詠も一瞬肝を冷やすが、かまをかけるつもりかと訝って表情は崩さない。しかし、武の言葉はなおも続いた。

「あんまり騒がないでくれって言ったじゃないですか。城内省の情報部を大動員して、『白銀武』の過去の知り合いや血縁者、その生き残りを片っ端から調査。冥夜の方も生まれたときから洗って、おまけに第4計画の周辺や、香月博士の過去まで探ってる。派手に動かしすぎですよ。城内省に関しては米国の諜報機関も手薄ですから、まだ大事ってことはないでしょうけど、これ以上無茶されるとどんなイレギュラーが起きるかわからない。重ねて言いますけど、そうなれば帝国のためにもならないんですからね」

 この男、一体どこまで、と戦慄に月詠の背筋が総毛立つ。武はそんな月詠をじっと見上げていたが、ややあってすっと立ち上がった。

「すいません、月詠さん。オレも冥夜も事情は話せないんです。話したところで信じてももらえないでしょうし……。でもひとつだけ。オレは、冥夜を裏切るような真似は絶対にしません。あいつはオレの命の恩人で、掛け替えのない仲間で、相棒で、そして───誰よりも『尊い存在』ですから」

 それは武の精一杯の言葉。
 結局それは何も話していないのと同じ事で、冥夜の話も受け容れられなかった月詠が信じられるはずもない。
 けれど冥夜の言葉、そして武の言葉。そのふたつはぶつかって重なって、少しだけ月詠の心を迷わせる。
 答えは聞かずに、武はソファーに座り直した。
 廊下の窓から夜空が望める。いつの間にか、東から月が昇ってきていた。
 わずかに赤く染まった下弦の月。その鈍い光は、まるで月詠の心を映しているかのようだった。








 2001年11月7日


 ソファーの背もたれに頭を預けて眠ってしまっていた武は、霞に揺り起こされて目を覚ました。
 瞼を開けば、窓の外は薄明。夜と朝の狭間の時間帯である。
 「……おはようございます。朝ですよ、白銀さん」と肩を揺すって挨拶をする霞の笑顔(武主観)は、淡い光に包まれて見えた。
 考えてみると自然の光の中で目覚めるなんてことは、武がこちらに来て以来、ほとんどあのジャングルの中くらいしか経験がない。毎朝起こしてもらっていたというのに、こんな霞を見るのは初めてかもしれない、と武はぼんやりと思った。

 わずかに後、起き抜けの頭がはっきりしたところで、特別治療室の扉が開いた。担当の軍医が出てきて、治療の終わった冥夜が目を覚ましたことを武達に告げる。これから病室に移送するという事だった。
 武と同時に目を覚ました様子の月詠とやっぱり少し離れて、武と霞はしばらく扉の前で待つ。ややあって、中から一台のストレッチャーが運び出されてきた。

「冥夜っ!」「冥夜様っ!」

 思わずぴたりと揃った声を上げる武と月詠。それに対して、すぐに台の上から「タケル! 月詠! 社もか!」と嬉しそうな声が返る。寝巻き姿の冥夜がそこにいた。
 名前が呼ばれたその順番と、籠もった声の響きに思うところはあったかもしれないが、月詠は足早に駆け寄ってストレッチャーの脇に付く。

「冥夜様、お体の具合は───、足の傷はもう大丈夫なのですかっ」
「……大丈夫だ。傷はもうふさがったし、痛みもない。そなたには心配をかけたな。許せ、月詠」
「そのような……もったいないお言葉でございます……」
 上体を起こした冥夜の答えを聞いて、月詠はこの場に来て初めて表情を緩めた。微笑む冥夜の様子は確かに大事ないようで、武もようやく安心する。どう言っていたとしても、やはり顔を見るまでは心配だったのだ。

 主従の交わりに武が一歩引いている間に、一行は病室に到着した。意図したものか、それとも偶然か、そこは倒れた冥夜が三日間眠ったあの病室で、その場に少々複雑な空気が流れた。
 もっとも、移送の作業はそれとは関わりなしに滞りなく終わり、医師達はベッドに移した冥夜を最後に診察したあと、速やかに帰っていった。



 病室に落ち着いた冥夜だったが、演習に合格した事は目を覚ましたときに聞いていたらしい。
 しかし詳しい事情はもちろん知らず、最後の日などは自分の記憶もほとんどないということで、今度は武がそれを話すことになった。昨夜皆から聞かされた冥夜への思い、それをそのままに伝え直す。聞かされる側にすれば、非常に気恥ずかしい話だっただろう。

 武の話はしばらく続いて、その間冥夜は頷いてみせたり、顔を真っ赤に染めてわたわたとしてみたり、ずっと嬉しそうに聞いていた。けれど会話が一段落つくと、苦く笑って話をひとつ否定する。
「しかしなんというか……合格できたのは嬉しいし、めでたいことだが……あまりよく言われると心苦しいな。あの者たちに助けられたのは、私の方なのだぞ。私が油断したせいで累を及ぼしてしまって……あやうく……」
「まあそう言うなって。とにかく合格できたんだから、細かい事考えずに喜んじまえばいいんだよ。反省は後ですればいい。それにさ、あっさり合格するよりずっと良かったんじゃないか? 昨日の夜あいつらと話して……一週間前とは別人みたいだって思ったよ。まるで───」

 冥夜の微妙な心情を、脳天気にばっさりやってしまう武。しかし、最後だけは少し遠い目をしていた。
 「まるで───」の後に、『前の世界』の仲間達を思っていたのだ。月詠がいたので口には出さなかったが、冥夜もその思いは同じのようだった。静かに頷いて淡く微笑む。
 武もそれを見て冥夜と笑いあい、そして改めて言葉を続けた。

「ま、それはいいや。それより冥夜。こう言っといてなんだけど、やっぱり無茶するのはなるべくやめてくれよな。おまえらしいとは思ったけど、すげえ心配したんだからな」
「それについてはすまなかった。許すがよい、タケル。もっとも、言われる程無茶をしたつもりはないのだが。大丈夫だと判断したからやったのであってだな……」
「……一体どの口でそんなことを。そりゃ押し通さなきゃ不合格だったんだから、オレだって多少の無茶はするだろうけどさ───」



 さて、そのような調子で談笑を続ける武と冥夜だったが、少し離れて控える月詠は、ふたりとは正反対に苛立ちを深めていた。ふたりが笑いあう『仲睦まじい』様子が、月詠の堪忍袋を散々に刺激していたのである。
 それはもう理屈よりも感情の問題。昨夜は一瞬迷いを持ったが、やはりこの男は絶対に認められない。
 渦巻く怒りとともに、改めて月詠がそう決意していると、ノックもなしに突然部屋の扉が開いた。

 入ってきた人物を認めて、月詠は警戒もあらわに身構える。対してベッドのそば、武と冥夜は自然体で来客を迎えた。
 先程出ていった霞が呼んできた見舞い客。いつもどおり、オルタネイティヴ4仕様の国連軍装に白衣を羽織った香月夕呼であった。
 霞を引き連れて病室に入ってきた夕呼が、「どうやら元気そうね、御剣」と声を掛ける。その間に月詠は、思わず身構えてしまった感情を抑え姿勢を正した。
 だが、続けて月詠の方を振り向いた夕呼に、「あ、護衛のあんた。これから内緒話するから、部外者はちょっと外に出ててくれないかしら? そんなに長くはかからないから。ああ、あとついでに誰か来たら遠ざけといてもらえるとありがたいんだけど」と言われたところで、また怒りが沸騰しそうになる。
 しかし、いかに月詠が黒幕と目していようと、相手はこの横浜基地の副司令。その言葉を聞かないわけにはいかず、おまけに冥夜にまで「すまぬが月詠……」と退出を促されてはどうしようもなかった。
 月詠は頷いて背中を向ける。斯衛の赤い軍装に、さらに渦巻く紅い炎が重なるような、そんな背中だった。





「───さてと、社、いったかしら?」
「……はい。扉からは離れて待っています」
「そ……律儀でいいわね。じゃあ、さっさと話をしちゃいましょうか」

 月詠が部屋を出ていった後、夕呼はそう言って話を始めた。
 まずは最優先の事項。武と冥夜に明日、11月8日の朝に、『向こうの世界』へ跳んで数式を回収してきてもらうということ。
 それを聞いて武はえっ、と驚く。それは確かに少しでも早く済ませなければならない事であるが、冥夜はまさに一昨日重傷を負ったばかりだ。砲撃で足の肉をごっそりと削られるような怪我をしたというのに、そんなに急で大丈夫なのか、と武は聞いた。

「白銀ぇ、あんたこっちの医療技術なめんじゃないわよ。御剣が運び込まれてから今まで、培養槽で筋肉の制御培養してたんだから。御剣の足はもう元に戻ってるわよ」
「早っ!」
 あんまりな答えに、すかさず武から驚きの突っ込みが入る。夕呼はそんな武の反応に肩をすくめて、「もっとも見た目だけだけどね」と続けた。

「神経や血管はまだろくに通ってなくて、とりあえず肉の塊を貼り付けて傷を塞いだようなものだから。新陳代謝を大幅に加速させて、それでも元に戻るまでリハビリに三週間ってところね。ただ、幸いあの怪我でも重要な神経や腱なんかには損傷がなかったし、鎧衣の処置も良かったから、もともと歩く程度なら大して支障なかったって話よ。だいたいその怪我してる足で、丸一日ジャングルを歩き通したんでしょ。何を今更」
「それでもすごいですけど……。まあ擬似生体とかも考えてみたらとんでもないし……それくらいはいいのか?」


 なんだかなあと武が考え込むのをよそに、夕呼は話を進める。
 まずちょっと話が変わって、これからの207Bの活動予定と、それに関する武と冥夜の新しい位置づけについて。
 そこから話を戻して、例えて言うなら遠足のしおりのような、二度目の渡航についての注意点をいくつか。
 時折質問を交える冥夜の方はともかく、武にとっては概ね知っている話であって適当に聞いていたのだが、最後に夕呼がなにやら不機嫌そうな、話しづらそうな表情を見せたのが引っかかった。何か隣に座った霞のことを気にしたように思ったのだ。
 「どうかしましたか?」と尋ねる武。夕呼は、軽くため息をついてから答えた。

「別に……。ちょっと悪い話が出てきたってだけのことよ」

 軽く言われたその言葉だったが、不吉な響きは聞き捨てならない。武と冥夜が無言で先を促す。

「……まあ簡単な話なんだけどね。あんた達が前回『向こうの世界』へ行ってから今日まで、記憶の流入がないのよ」
「はい?」
「だから『前の世界』と条件が同じなら、『向こう』のあたしから記憶の流入があるはずなのに、それがないのよ」
 簡単な話と言われても、冥夜はもちろん武にだって意味がわからなかった。首をかしげるふたりに、毎度の事ながら『これだから凡人は』的視線を向けて、夕呼は詳しく説明する。

 前回、武は『向こう』の夕呼と接触をした。無論二人の間に恋愛感情はないにせよ、短い時間でも極めて深い接触だったことは確かだ。
 『前の世界』の話通りなら、武に関する記憶が相当量流入するはずなのに、この8日間記憶のバックアップとの照合を続けたが、流入の痕跡が一切認められない。
 つまりそれは、『前の世界』で武を苦しめた、世界間での重い因果と軽い記憶の交換が起きていないということ。
 理由はわからないが、大きなイレギュラーが起こっているのだ、と。

 話を聞いてしばらく考えた武は、つまり今回は『向こうの世界』に死の因果が流入する危険がないということか? と理解して、「それっていいことなんじゃないんですか?」とこぼす。夕呼はまた深くため息をついた。

「まあ、あんたにとってはそうかもしれないけどね。『向こうの世界』はよくてもこっちはどうなるのよ。『前の世界』のあたしがあんたを『向こうの世界』に逃がした理由、忘れたの? 00ユニットを完成させるために、壊れた鑑純夏の精神を埋める『向こう』の鑑純夏の記憶が必要だったからじゃない。それがなければ、鑑純夏は00ユニットにしても役に立たない。まあ今回は、あんたが素直に同じことをしてくれるわけは最初からないわけだけど……」

 非常に重大な夕呼の言葉を聞いて、なんで今頃気づいたんだと武の顔が蒼くなる。この辺り、いまいち理解できていなかった冥夜も、武の様子に事の重大さを悟ったようで、一方霞はなにか思いつめるような表情をしていた。
 『向こうの純夏』の記憶を奪わなければ、こちらの純夏は人間性を取り戻せない。しかし、武にしてみればそんなことはもう絶対にごめんだったし、そもそも今の夕呼の話が確かなら、やりたくても記憶の奪いようがないことになる。

「───じゃ、じゃあどうすんですかッ!! このままじゃオルタネイティヴ4は……ッ!」
「落ち着きなさい、白銀。何のためにA-01の連中がいると思ってんの。いざとなったら、伊隅なり速瀬なりを素体に使うまでよ」
 八方塞がりに思えた状況に、思わず武が叫んで、それを冷徹な夕呼の声が押さえ込んだ。考えてみればある意味当然の結論に、武と冥夜が揃って息を呑む。
 純夏を00ユニットとすることは決断できても、武にとって他の人間のことはまた別の話だった。改めて夕呼の強さを思い知らされる。しかし、それでも武は拳を握り締めて、「……でも……ッ」と口に出しかけた。
 それを夕呼は「待ちなさい」と手で遮る。

「いざとなったらって言ったでしょ。あたしだってできればそんなことはしたくないわよ。他に手はあるから安心しなさい。ただ、ある意味危険だし、成功するとも限らないからね。そうなったときは……」
 夕呼はそこで言葉を止めた。透徹するような眼の光に、武は今度こそ黙り込む。
 本当にいざとなったら───夕呼は躊躇なく、言った通りに実行するだろう。そんなことが起きるときというのは、すなわち純夏が使えないと判断されるときでもある。
 それだけは嫌だ。武は我知らず何かに祈った。善なる運命とでもいうべきものに。



 その場の空気が落ち着いた後、記憶と因果の相互流入が起きていない理由について、夕呼が講義を始めた。
 やはり研究者気質というものか、態度をがらりと変え、どこか嬉しそうにして語った仮説は二つ。

 ひとつは、武がもう因果導体ではなくなっているという説。
 武が『前の世界』で聞いた通り、武と純夏が結ばれることで武は因果導体という鎖から解放され、それとは何か別の原因で今この世界にいるという考えだ。
 だが、夕呼は詳しく説明しなかったが、武がこの世界に転移してきた原因を仮定していくと、この説は真実である可能性は少々低いという。

 そして、もうひとつ。今、より真実に近いと考えられるのは、『この世界』と『向こうの世界』に因果の高低差が存在しないからという説だ。
 双方に因果の高低差がないから、因果導体である武が接触して両世界にパイプが通っても、そこに交換される物がない。
 そもそも、同一次元上にあるはずの、しかも極めて近い並行世界間で、なぜ『前回』のような極端な因果の高低差が存在したのか。
 夕呼は、武の繰り返したループがその原因なのではないかと考えていた。
 おそらく武が繰り返したであろう無数のループ。武自身については、観測者たる純夏がその記憶を毎回漉しとって消去していたが、武以外の、世界の記憶、宇宙の記憶はどうなっていたのか。
 もしもその記憶、その因果が消去されることなく、認識されない影として新しい世界に堆く積み上がっていっていたとするなら、他の世界に比べて非常に高い因果の高度を有していたのも納得できる話だ。
 そして、今回の世界ではそれがないから、因果や記憶の流入が起こらない。


「───だから、もしかしたら白銀だけじゃなく御剣も、『一回目の世界』の記憶を持っているのかもしれないわね。それも、ほとんどの記憶を消去されているはずの白銀よりも、ずっとずっと多くの記憶を持っているかもしれない。心当たりはない?」
 説明を終えた夕呼はそう締めくくって、神妙な顔をして講義を聴いていた冥夜に問いを投げ掛けた。
 話を向けられた冥夜は「いきなりそんなことを仰られても……」と困惑するが、何かが頭に引っかかったような様子で考え込んでしまう。が、結局少ししてから首を横に振った。

「ふうん。ま、それはいいいわ。でも残念ね。一度記憶の流入ってのを体験してみたかったんだけど。たとえ因果の高低差がなくたって、二つの世界が接触してるんだから、あたしに00ユニット適性が少しでもあれば、多少なりとも『向こう』の記憶を拾えたでしょうに……」
「……え?」
 冥夜が首を振ったのを見て、少し残念そうにした夕呼が洩らした半ばひとり言。それを聞いて、武は間抜けな声を上げてしまう。

「00ユニット適性……って、A-01のみんなが持ってるやつ、ですよね。最良の未来を選び取る力。先生……ないんですか?」
 ───A-01部隊を率いる、オルタネイティヴ4のトップが……? それってプロ野球の監督を素人がやってるようなものなんじゃ?
 虚を突かれて混乱し、自分でもわけの分からない考えを浮かべる武を、夕呼はじろっと睨んで言った。

「悪かったわね。あたしはあんた達みたいな超能力者じゃないのよ。まあこの美貌とスタイルと、人類史上最高の頭脳まで併せ持ったあたしも、そこまでは手が回らなかったってこと。持ちすぎて神様に嫉妬されちゃったのかしら」
 あんまりな夕呼の言い草に、おい! と武は心の中で突っ込む。だが実のところ、心中は信じられない気持ちで一杯だった。武にとって、夕呼の行動は未来を読んでいるとしか思えないような、感嘆するとしか表現できないものだったからだ。しかし───

「ある程度なら検査で判断できるからね。疑いようもなく才能ゼロよ。00ユニットになるには、ゼロが一個足りなかったわね。だいたい考えてもごらんなさいよ。あたしほどの天才がそんないかさまじみた超能力まで持ってたら、人類を救うのにあんたの手を借りる必要なんてないじゃない。他の世界のあたしが、喉から手が出るほど必要な理論を思いついてるのよ。なのに無数に繰り返したはずの『一回目の世界』では、おそらくただの一度もあたしはそれを思いつくことができなかった。結局あんたの助けがなけりゃ、一度も本当に欲しいものを手に入れられなかったのよ……」

 ───あたしは聖母になれなかった。

 武の脳裏にあのクリスマスの光景がよぎった。べろんべろんに酔っ払って、自分の力不足を嘆く夕呼の姿。あのときの夕呼も、自分にそんな才能があれば、と思っていたのだろうか。
 そして今、おどけた言葉の中に垣間見えた大きすぎる絶望と意思。夕呼は、誰よりも強い意志と、誰よりも優れた頭脳だけで、地獄の道を歩んできたのだ。
 あらためて総身を襲った戦慄に、武は何も言うことができなかった───




「───みっともないとこ見せちゃったわね」

 軽口から飛び出てしまった激情の欠片。それをしまい直して、夕呼は言った。

「御剣、思いっ切り働かせてるあたしが言うのもなんだけど、本来は三日ぐらいは安静にしてなきゃいけない状態なんだから、今日はしっかり休んどきなさい。先がどうあれ、新理論の数式は絶対に必要な以上、明日は失敗してもらうわけにはいかないんだから」
 武と同様、夕呼の激情を垣間見て息を呑む冥夜に命令し、続けて武に顔を向ける。
「ずいぶん時間がかかっちゃったから、あんたもそろそろ行かなきゃならないんじゃない? 朝から仕事があるんでしょ」

 その言葉に我に返ったらしく、武はそういえばそうだったと手を叩く。「また夜に見舞いに来るから」と冥夜に言って立ち上がった。
 少し寂しそうな冥夜を後に残して夕呼と霞、武が外に出ると、部屋の外で待っていた月詠の他に、その部下の三人、そして榊たち207Bの全員が待っていた。武は彼女達に挨拶し、少しだけ話をしてから、自分の仕事のために駆けていく。

 それを見送った彼女達が病室に入っていって、その場には夕呼と霞だけが残された。
 武が走っていった後を追うように歩き出して、夕呼は前を向いたまま霞に尋ねる。

「どうだった、社?」
「……間違いないみたいです。意識はしていませんが、確かにイメージが」
「そう。わかったわ」

 夕呼の後ろを速足でついていきながら、霞がはっきりと答えた。それを了解すると、夕呼は吟ずるように呟く。

「───未来を知っても、状況は変わりなく厳しい。いえ、未来を知ったからこそ……かしらね。ならば打てる手は全て打たなければならない。パンドラの箱から、希望を掘り起こすまで……」

 その朗詠は、聖母のように、あるいは魔女のように、彼女達以外聞く者のない廊下に響いた。








 2001年11月8日


 地上ではまだ太陽も昇らぬ未明から、その部屋はかすかな唸りを上げて稼動していた。
 時刻は午前5時過ぎ。武と冥夜は、再びその実験室を訪れていた。

「来たわね、二人とも」
 前回と同様、訓練兵の制服姿で現れたふたりに夕呼が声を掛ける。冥夜の右足は、本当に歩く程度なら支障はないらしく、武の横に並んで夕呼の前に立った。夕呼は「数式はこれにでも入れときなさい」と武にザックを渡して、最後の説明をする。

「ま、だいたい昨日説明したし細かいことはいいわね。とにかく、『向こう』に行ったらまず状況を確かめること。『前の世界』じゃ『向こうの世界』の白銀と一体化したらしいけど、今回はどうなるかわからない。二人ともそうなるかもしれないし、逆かもしれない。あるいは二人が別れ別れになるかもしれない。今回は、時間はおそらく16時間ぐらいあるはずだから、そうなったらまず合流を考えること。数式のことはそれからよ───」

 夕呼が説明する横では、霞が小さな手でコンソールを操作していた。
 いつ見ても、どの世界でも、武にとって小さな姿で、その彼女に負担を掛けねばならないことを思うと胸が痛んだ。戦いたいと願う霞の心は知っていたが、やはり精一杯遊ぶ楽しさを教えてやりたいと思うのだ。

「───数式を手に入れたら、あとはバカンスにしていいわ。昨日話した通り、因果情報の流入は起こらないはずだから。ま、他所様の世界であんまり暴れ回ったりはしない方がいいと思うけど」

 そう言って夕呼は説明を締めくくった。ちょうど霞も転移装置の調整を終えて、夕呼の隣に並ぶ。
 じゃあそろそろ準備を、と夕呼が言いかけたところで、冥夜が待ったをかけた。何かしら? と譲ってくれた夕呼に礼をして、冥夜は霞に話し掛ける。


「社、実は昨日武と話し合ったのだが、『向こうの世界』でそなたにおみやげを買ってこようと思うのだ。演習では私が気を失って、そのまま横浜に帰ってきてしまったゆえ、何も持参できなかったのでな。武の話では、『向こうの世界』はこちらとは比較にならぬほど娯楽の類が盛んらしい。探せば何でも揃うそうだ。そういうわけで、何か希望はないか、社?」

 思わぬ提案に霞は目を丸くしていたが、黙ったまましばらく考えて、やがて口を開いた。

「……うささん」
「?」
「……うささんがいいです」

 そう言われて武は霞お手製の怖いうさぎを思い出し、吹き出しそうになった。首をかしげる冥夜に頷いて、霞にわかったと告げる。あいつに可愛い妹をつけてあげよう、と。
 もっとも、格好つける武にはオチがついた。夕呼から代金はどうするのか、という突っ込みが入ったのだ。
 武も冥夜も『向こう』の紙幣など持っていない。どうするつもりだったかというと、要するに『向こう』の夕呼に借りるつもりだったのだ。
 借り倒す気満々な姿勢に夕呼から呆れた視線が飛ぶが、武はどこ吹く風で逸らした。


 結局話はうやむやになって、予定の時間通りに転移装置が起動する。
 武は『向こうの世界』の姿を、そしてその腕に寄り添う冥夜は武の姿を強く思い描いて、白い光が奔った。
 それが二回目の渡航の合図だった───




[6379] 第六章 平和な一日 2
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:44

「───綺麗だな、タケル……」
「ああ……」

 人気のない夜の丘に、静かな呟きが響いた。
 そろそろ枯れ色の混じってきた芝の上に、並んで座る人影がふたつ。もちろん武と冥夜のふたりだった。

「先ほどまで、あの光の中にいたのか……。まばゆさにまだ目が眩んでいるような気さえする。まるで夢の中にいるようだったな……」
「それは大袈裟すぎだろ。それに───」

 ふたりの視線の先には、今日一日周遊した横浜の夜景が光り瞬いている。ずいぶん遠くだというのに、その輝きは強く目を惹きつけた。
 ぼんやりと紡がれた言葉を聞いて、武は横目で冥夜を見やる。月のない夜空の下でも、街の灯りがその横顔を浮かび上がらせた。

「───夢の中、ってほど楽しそうな顔してないぞ。むしろ……」

 むしろ、瞬く光を見つめる横顔は、武には悲しそうにすら映った。
 つぐんだ言葉は冥夜にもわかったのだろう。振り向いて力なく笑ってみせる。

「……夢のように楽しかったのは本当だぞ。ただ……一夜限りの夢だと思うと、余計にな……。そなたは、何故……、いや、よそう……」

 冥夜はそこで言葉を切り、ゆっくりと視線を夜の景色に戻した。そうして、今度はちゃんと楽しそうに、今日あった出来事を話し始める。
 最後に冥夜が何を言い掛けたのか、武にはわからなかったが、話を変えた意図はわかった。新しい話題に乗って言葉と笑いを交える。
 思い出して、語らって楽しいのは本当だった。今日という平和な一日には、それだけのものが詰まっていたのだから───








 まだ星の輝く空の下、武と冥夜は再びその世界に降り立った。
 実体化と共に広がった白い光が薄れて消え、急速にふたりの体に感覚が戻ってくる。
 さすがに冷たく感じる空気のなか、ふれあった腕が温かさを伝えた。旅の伴侶が傍らにあることを教えた。

「……合流に苦労する必要はなかったみたいだな、冥夜」
「うむ……よくわからぬが、私も見知らぬ異郷でそなたとはぐれるというのは、正直ぞっとしない。離れ離れにならずにすんで、ほっとしたぞ」
 まず最初にお互いの存在を確認し、武と冥夜は顔を合わせて笑いをもらす。冥夜が腕を放し、いまだ夜の暗さが残る周囲を見渡して言った。

「暗くてわかりづらいが……タケル、この丘は前のときと同じ場所か?」
「ああ。校舎裏の丘だ」

 武は冥夜の問いに、手持ちの品や着ている制服を確認しながら答える。
 東の空から、わずかに青く染まりかけた夜空。眼下に見渡せる街並みは、灯りも少なく静けさに覆われている。そして、辺りの木々から聞こえはじめた鳥達の声。
 夜明け前の時間であることは明らかだ。
 となれば、そんな時間帯にこちらの自分達がこんな場所にいるとは思えない。つまり、『前』と違い一体化は起こっていないのだろう。それでも念の為、武は今の自分達が『向こう』を出たときと同じ状態かどうか確かめていた。

「大丈夫……みたいだな」

 夕呼から受け取ったザック。白陵柊のものではない訓練兵の制服。冥夜の装いも確認して、武は自分達がこちらの自分達に一体化していないと結論づけた。もっとも、こちらの自分達をその目で確認するまでは、確かな事とは言えなかったが。
 とはいえ、確かめようとして好んでこちらの自分達と顔を会わせることもない。せっかく陽もまだ昇らない早朝についたのだから、相手には迷惑を掛けるがさっさと数式を受け取ってしまうべきだ。
 そう武は考えて、冥夜を連れて校門まで坂を下っていった。
 見上げれば、歩みとともに紺碧の星空が刻々と青さを増していく。思わず足を止めそうになるほど、その光景はなぜかふたりの眼に沁みるものだった。





 朝の六時前だというのに、グラウンドにはすでに掛け声とともに汗を流している部活があった。武はそれを横目にしながら堂々と校舎に入り、物理準備室を目指す。
 途中で夕呼と打ち合わせてあった隠し場所から鍵を取り出し、首尾よく誰にも見咎められずに部屋に滑り込む。改めて鍵を閉めて、夕呼の自宅に電話をかけた。

「───はい、香月ですが……」

 しばらくの間コール音を鳴らした後、カチャっといって受話器が取られる。夕呼本人の応答があった。

「夕呼先生ですか? 白銀です……あっちの」
「……待ってたわ。今学校かしら?」

 武が名前を告げた途端、夕呼はそう言って確認してくる。抑えていながら、言葉通りに待ってましたというような嬉しげな調子だった。武が答えると、「すぐに行くわ」とだけ言って通話が切られる。
 雑然とした中で座って待っていた冥夜に頷いてみせ、武は受話器を置いた。


 夕呼が来るまでは、まだ少し時間がかかる。お茶でも入れようかと、武は電気ポットを取り出した。
 武にとって、入り浸るとまではいかずとも、それなりに長く時間を過ごした部屋だ。勝手知ったる手早さで、棚の奥から茶葉やお茶菓子を用意する。夕呼の分も含めて三人分。
 そうしている間に11月の朝日が昇り、さーっとひと息に空が白んだ。窓を開け放ってみれば、澄んだ匂いとともに清冽な風が吹き込んでくる。
 部屋の空気を一新する朝露の薫りに、武と冥夜は思わず深く息を吸う。と、そんなとき、微かな異音がふたりの耳に入った。
 風に乗って届いたその音は、聞いているうちにどんどんはっきりと近づいてくる。

 ───エキゾーストビート?

 高音の唸りのような音に、武はそんな言葉を連想した。
 はたして正解。校門に続く地獄坂の方向からは、最早エンジン音と明らかな甲高い音と、タイヤを削るようなコーナリング音が響いてくる。
 その音源は急速に近づき、最後は校内に飛び込んで凄まじいブレーキ音を立てて止まった。焼け付くような痕を地面に描いて。

 物理準備室の窓から、武は呆れた顔でそれを見下ろしていた。隣にはすでに冥夜も顔を覗かせている。ただ、日が昇ったばかりの早朝に非常識な登場をかましたのは、予期していた車とは違うもので、武は少し訝しんだ。
 予想の黄色とはかけ離れた赤いボディ。跳ね馬のエンブレムが見て取れる。
 そのドアがおもむろに開き、澄ました顔で夕呼が車を降りてきた。駆る車は違っても、武には当然予想通りの姿だったが、冥夜の方は結構驚いている。すぐ行くと言っての実際すぐの到着だったのだから、夕呼だというのはわかっていたのだろうが、『向こう』の彼女とのギャップに戸惑ったのかもしれない。
 とにかく、到着した夕呼は自分の方を見ているふたりを確認し、手をひらひらさせてそのまま校舎に入っていった。



「早朝から煩わせてすいません、夕呼先生。でも、朝っぱらから押しかけたオレ達が言うのもなんですけど……なんですか、あれ? あんなに急ぐ必要なんてないのに。鷹嘴さんと勝負でもしてたんですか?」
「バカねえ。あんた達がいつまでこっちにいられるか……どんな不測の事態が起こるかわからないから、少しでも早く数式渡してあげようとして急いであげたんじゃない。そんな文句言わなくてもいいでしょ」
「……スピード違反で捕まったりしたら、それこそまさに不測の事態じゃないですか」

 無造作にドアを開けて入ってきた夕呼に対し、武は挨拶代わりと文句をつける。お約束の受け答えが交わされたが、わりと本気でため息をついたせいか、ごめんごめんと夕呼が折れた。
 前回はろくに時間がなかったから、今度はたっぷり聞きたい事を聞こうと、ずっと楽しみで待ちきれなかったのだと謝る。
 そんなふたりに、横で手を動かしていた冥夜が、「まずは一服いたしませぬか」と声を掛けた。


「あら、おいしい───」

 冥夜の淹れたお茶を一口飲んで、夕呼は意表を衝かれたように呟いた。
 こう見えて、茶器も茶葉もいいものを揃えていたりする夕呼だ。ちゃんとわかっている淹れ方だったので驚いたらしい。
 お世辞抜きで褒める夕呼に、冥夜はこの程度は当然の嗜みだと恐縮するが、続く言葉を聞いて複雑な顔になる。

「こっちの御剣とは大違いね。てっきり家事の類は何ひとつできないのかと思ってたけど」
「そういや、おにぎりを作ろうとして調理器具とか爆発させてたっけ。あんま良く覚えてないけど」
「そこまで? ……筋金入りの家事音痴ね」
 夕呼の言葉に思い出したように武が付け加え、それに答える夕呼の口調にいたっては、もう揶揄するような調子だった。冥夜は顔を赤くして、武に食って掛かる。

「こちらの世界の私の話とはいえ、さすがにそれは聞き捨てならんぞ。というかタケルっ、そなたまさか、私のことをずっとそんな粗忽者だとでも思っていたのか!? さすがにそれは侮辱が過ぎるぞッ!」
「思ってない思ってないっ! 冥夜の料理音痴の話なんて、今まで思い出しもしなかったって!」
 慌てて首を振り、掛けられた疑いを否定する武。眉を吊り上げて怒る冥夜がなんとか落ち着くまで、少しかかった。
 息をついた武は感慨深げに述懐する。

「……まあ、別の世界で環境が違うんだから、同じ人間でも違って当然だよな。なにしろこっちにはBETAがいないんだし。それでもオレなんか、冥夜はどの世界でも変わらないな、なんて思ってたんだけど……、そんなわけなかったってことなのか。いや、別に料理音痴に限らず───」
 遠い目で話すその姿に、まだふてくされ気味だった冥夜も胸を衝かれたらしい。お互いにどんな思いが去来したのか、目を見合わせて押し黙る。
 が、そんな風に流れた少ししんみりした空気を、夕呼がぱんぱんっと手を叩いて吹き払ってしまった。


「はいはい。そういうのはふたりっきりの時にやってちょうだい。さっさと本題に入りましょう。はい、白銀───」
 そう言って夕呼は、懐から取り出した封筒を武に差し出す。オルタネイティヴ4の要となる、ブレインキャプチャー理論の数式だった。
 いきなり空気を乱されて、面食らう武と冥夜だったが、差し出された品は今回の渡航の目的。規定路線とはいえ最重要の代物には違いない。
 武は神妙にそれを受け取り、しっかりとザックにしまい込む。冥夜も気を引き締めて姿勢を正した。それを待って、夕呼が本題と称した続きに入る。

「───で、前回渡された書類の中身だけど。この一週間検証した限りじゃ、不審な点は見つからなかったわ。絶対とは言えないけど、おそらく細工はされていない。それでいいかしら?」

 細工を施された書類。それは、『前のこちらの世界』に凄惨な事態を呼び込んだ策謀の象徴。夕呼の言葉は、今回その心配がないことを告げるものだったが、武は淡々とそれを聞いていた。その上で新たに昨日夕呼が話した『悪い話』について、その仮説と共に詳細を語り、夕呼に所見を求めた。
 書類の検証は武が頼んだものだったので、淡白な反応に夕呼は少々面食らう様子だったが、新たな課題を提示されて真剣に考え込む。しばらく顎に手を当てて黙り込み、そうしておもむろに口を開いた。


「……少なくとも、あたしの認識している限りではあんた達に関する記憶は失われていない。その仮説も、現状の事象からみて矛盾の無い妥当なものだと思える。『向こう』のあたしが持ってる情報は明らかにこっちより多いから断言はできないけど、今回死の因果とやらが送り込まれる心配はないというのは事実でしょうね。今の時点でそんな嘘をつくメリットがあるともあまり考えられないし……。
 あと、00ユニットのこと。『向こう』の鑑の人格を取り戻すための別の手段、というのはさすがに手掛かりが少なすぎて想像つかないわ。ただ、鑑が非常に高い00ユニット適性、世界間の壁を越えて因果記憶を収集する能力を持っているのなら、何もせずともじきに記憶と人格を形成できるとは思うんだけどね。因果導体による強制的な因果と記憶の交換なんてなくても、微細な記憶の欠片は常時数多の世界から虚数時空間に流れ込んでいる。それを取り込んで集積すれば、いずれ自然にひとりの人間としての人格ができあがるはず。もっともどれだけ時間が掛かるかわからないから、そっちの世界の追い詰められた状況じゃ、それを待ってる余裕は無いでしょうけどね」

 導き出した結論を語り終えて、夕呼は武の顔を見据える。相変わらず淡々と聞いていた武だったが、話を聞き終えると静かに答えた。

「話はわかりました。いや、要するに何もわからないってことですけど、きっと大丈夫。それだけはそう思います。なにしろ夕呼先生ですからね。それこそどんな手を使ってでも何とかするでしょう。ただ……できればオレが危険を引き受けられるようなことならいいんですけど」
 複雑な表情で『向こう』の夕呼について話す武。穏やかに語られた言葉に、こちらの夕呼が茶々を入れる。

「わっかんないわねぇ。あんた向こうのあたしが嘘ついてるか疑ってるんじゃないの? それとも信用してるわけ? 話聞く限りじゃ、かなりの極悪人みたいだけど」
「信用してますよ? 最初から、嘘ついてるなんて思っていません」
 なにかからかうような調子の問いに、武は迷いなく答える。流れるようにすっと出た言葉に、改めて自分の思い、その心象を胸のうちに探った。
 長かったのか短かったのか、深かったのか浅かったのか、いまだにわからない夕呼との関わりを観想し、言い表す言葉を探してゆっくりと口を開く。

「上手く言えませんけど……オレにとって、夕呼先生は夕呼先生なんです。今さっき、同じ人間でもどうこうなんて言っててなんですけど、どんな時でも、どんな世界でも」
「………………」
「傍若無人ではた迷惑で、腹黒で隠し事は山ほどしてるだろうし、まるで油断ならない。だけど正真正銘の天才で、誰よりも強い意志を持ってて……でも本当は優しくて、シートの保護ビニールを破るのが好きな───信じられる人です。信じて裏切られたとしても、最後まで信じたことを後悔しないだろうって思える人です。
 裏を取ろうとしたのは、自分が先生を信じたいからじゃなくて、オレが先生に信頼される為にですよ。たとえどんなに信じていたって、考えなしに従っていたんじゃ絶対対等の存在にはなれませんからね。先生が本気で信頼してくれるのは、そういう自分と対等の存在だけですから。……そうでしょ、先生?」

 熱のこもった、しかし穏やかな話。最後に武は、にっと笑って『こちら』の夕呼に結論を振った。

「……あんた、『向こう』に行ってから、恋愛原子核がパワーアップしてんじゃないの?」
「え?」
 小さく呟かれたその声は、武には聞き取れなかった。わずかに頬を染めた夕呼は、なんでもないと払って、「ま、シートの保護ビニールを破るのは好きよ、確かに」とだけ答える。
 答えはそれで充分だった。武と夕呼は堪えきれずに笑いあう。そこには確かに、あるいは信頼というかもしれない絆が見えた。



 ───敵わぬな。いや、わかっていたはずではないか。一度命を落としたあの時まで、私はタケルのことを何も知らなかったのだぞ。そんな私が、あのふたりの関係に張り合えるはずもない。だが、しかし……。

 笑いあうふたりの姿に、冥夜は胸が締め付けられるような思いを抱いた。
 武は自分よりも夕呼のことを信頼し、理解している。新しい世界に目覚めてから知った武の経験を考えれば当然のこととも思えたが、それでも息の詰まる思いだった。
 純夏の代わりになれない冥夜の想い。その想いの行き場をさらに閉ざされたような───自身は気付いていなかったが、それが正しく今の彼女の心情だった。
 それでもその強い意志は、もやもやとした感情を強引に封じ込め、心の平衡を取り戻す。惑乱の時間はわずかなもので、夕呼が再び話し始めたときには冥夜の調子はもう元に戻っていた。








「───そういえば、さすがにそろそろおなかがすいてきたわね。朝も食べる暇なかったし」

 ふと気が付いたように夕呼がそんな声を上げたのは、すでに正午も近い時刻だった。これまで休みなく喋り通しだったところに、たまたま会話の空白と武の腹の音が重なったのだ。

 本題と称した用事の話が終わった後、夕呼はここまで5時間近く、武と冥夜を質問攻めにしてきた。
 なにしろ、因果律量子論の研究者である夕呼にとって、目の前のふたりはよだれが出るほど貴重なサンプルである。今日という日が過ぎ去れば二度とは会えないであろう相手に対し、遠慮するような性格の彼女ではなかった。
 転移実験の様子や向こうの夕呼のこと。向こうとこちらの世界の違い、現在のBETAや戦術機などはもちろん、それ以前の歴史の食い違いや、同じだけど違う人間達について。その他、並行世界がらみだけでも様々な質問の数々。例えば───


「───政威大将軍に五摂家ねぇ。五摂家って公家じゃなくて武家よね? 大政奉還に続いて五摂家が制定されたってことは、要するに徳川家と討幕派雄藩の連合政府が成立したのかしら? それで徳川に薩長土肥辺りが家名を変えて五摂家になったとか。もしかして煌武院って徳川の系譜?」
「は、はあ……。確かに煌武院家は徳川の末ではあります。五摂家同士で、大分血は混ざってはいますが……」
「徳川が現在まで勢力を保ってきたっていうなら、歴史も随分変わってそうだけど。新撰組とかどんな風な扱いなわけ? 太平洋戦争とか普通に起こってるのも、どう繋がってるのかわからないんだけど───」

 とか、

「───こっちに転移してくるとき、確率の霧から存在が確定するときって、どんな感じがした?」
「そう言われても……突然目が覚めたっていうか、意識だけ起きてて感覚がない、って感じですかねえ。それからだんだん五感が戻ってくるって感じで」
「私も同じ様に感じたな。だがあえて言うなら、感覚というより体そのものが戻ってくるというように感じたが」
「ふうん。興味深いわね。そもそも意識というものが何から───」

 とか、

「───鬼軍曹のまりも……あんまり想像できないわね。こっちのまりもとそんなに違うの?」
「うーん、オレ達はかなり丸くなったっていうまりもちゃんしか知りませんから。昔は狂犬って呼ばれてたそうですけど」
「狂犬……ッ! うわ、嫌な事思い出させんじゃないわよ。それって───」


 などというように、なんでもありで回し続けてきたのだ。もちろん、今日の夕呼の授業は全て自習。もっとも、それは夕呼の場合しょっちゅうのことなので、武もあまり気にしなかったが。
 とにかく、ここまで休みなく話題を移していく夕呼との会話につきあわされ、さすがに頭も疲れてきた武と冥夜だったので、折り良く挟まれた休憩はありがたかった。気づけば確かに空腹は感じていたので、そろって夕呼の言葉に同意する。そんなふたりを見て、夕呼はよしっと立ち上がった。

「出前でもとって、時間までここで話を続けるってのも悪くないけど───」

 それを聞いて、これ以上は勘弁してくれという顔をする武。嫌な顔を見せるのは抑えた冥夜も、顔色の冴えなさは隠せない。ひとり元気な夕呼だったが、さすがにそれを見て肩を竦める。

「ま、それもちょっとね。そういうわけで、情報料代わりにあたしが奢るから、橘町にでも食べに行きましょうか。ここに篭もってて、何かの弾みにこっちのあんた達と鉢合わせたりしてもなんだし」
 そう言って夕呼は、「昼休みにならないうちにさっさと行きましょう」と歩き出した。武もザックだけを引っ担ぎ、冥夜と一緒に後に続いた。

 校舎を出た途端にチャイムが鳴り出し、にわかに中が騒がしくなる。
 速足で車まで歩き、振り向いて武は、かつて馴染んだ教室にあまりに見覚えのある仲間達の姿を確認した。その中に、この世界の自分達の姿もある。
 ただ、まりもの姿はそこには見えなかった。武は、最後にひと目会っておきたかったかなと思いつつも、余計なことは慎むべきだと戒めて、ただ深く礼をする。『あの世界』のまりもとの果たせなかった約束。その欠片なりと思いを込めて。








「……これが、こちらの柊町か」

 夕呼の運転する(今は安全運転だ)車、フェラーリ・モンディアル──何故いつものと違うのかと聞けば、「あれじゃあんた達を積めないでしょ」という答えが返ってきた──に同乗して、辺りの景色に目をやりながら、冥夜はため息をつくようにそう漏らした。
 かつて、武が『一回目の世界』で廃墟となったあちらの柊町を探索したとき、その跡にはこちらの町ととてもよく似ていたであろう面影が否応なく見て取れた。そして今、冥夜は時を逆にして同じものを見ている。
 冥夜は武と違って横浜の出身ではないが、訓練の課程で廃墟の柊町を巡ったことはある。戦術機の訓練で周囲を回ったこともある。しかし、そこに人の暮らす息吹が備わると、見覚えなどというものは全くなくなってしまった。
 町が生きているということを、冥夜は無意識に実感し、それがため息となってついてでたのである。



 冥夜が周りの景色に目をとらわれているなか、一行は順調に橘町へと入っていた。
 「せっかくの記念に、横浜で一番おいしい店に連れてってあげるわ」と夕呼が言い、こうして走ってきたのだが、車は現在、最も開けた臨海のMM地区とは逆方向に向かっている。どうみても住宅街なので武は疑問に思っていたのだが、ほどなくその住宅街の中で車が停まった。

「さ、ついたわよ。横浜で一番おいしい店」

 夕呼はそう言って車を降りる。武と冥夜も続いて降りて、そこで気付いた。
 あまり周囲の住宅と変わらない佇まいだったのでわからなかったが、そこはこじんまりとした一軒のフランス料理店だったのだ。

 中に入ってみれば、テーブルはわずか4脚ほどの、予想通り小さな店構えである。
 ドアを開けるとすぐに、立派なあごひげをたくわえた細身のギャルソンが三人を出迎えた。すでに予約が取られていたらしく、ついでに夕呼はこの店の常連らしく、いつものお席と案内される。

 フランス料理などほとんど経験のない武だったが、この店はとてもアットホームな雰囲気で、戸惑うこともなくくつろげた。冥夜も問題なく椅子につき、夕呼が食前に白ワインを注文する。
 しばらく軽い会話を交わして、一皿目のオードブルと一緒にワインがテーブルに並んだ。真っ昼間から、しかも制服姿であり、当然お酒はと断る武と冥夜だったが、「最初の一杯くらい付き合いなさいよ。あんたたち軍人でしょ?」とわけのわからない理由で押し切られてしまう。
 ギャルソンも気にせず注いでしまうし、今は他に客の姿もなくというわけで、結局開き直るふたりだった。


「教え子と飲むってのは……まして巣立った教え子と一緒にってのは、教師冥利に尽きるってものよねえ。ま、御剣はもちろん、白銀も厳密にはあたしの教え子ってわけじゃないんだろうけど───」

 まるで飲む前からほろ酔い加減のような機嫌の良さで、夕呼はふたりに話しかける。嬉しそうに、でも少し寂しそうに目を細めて、淡い芳香を放つグラスを手に取った。

「似たようなものだし、いいわよね。それじゃ、あんた達が今ここにいる奇跡に、そして、あんた達の未来に───乾杯」

 そう言って、夕呼はふたりとグラスをあわせた。硬質な音が響き渡り、わずかの間時が止まる。次の瞬間には、もうグラスは傾いていた。
 辛口で爽やかな飲み口に、夕呼が堪えきれないというような息を洩らし、武と冥夜も後味のよさに目を丸くする。続けて三人はナイフとフォークを手に取り、並べられたオードブルに手をつけた。


「──────ッ!!」

 その瞬間、武と冥夜の味覚に衝撃が走り抜けた。
 ただ美味いという言葉では、到底言い表せないような舌への衝撃。
 口の中から広がった波に背筋が総毛立ち、脳が快楽物質で満たされる。

 そのまま痺れたように固まっていたふたりだったが、しばらくしてようやく動き出した。操られたようにのろのろと、ふた口めに手を伸ばす。また同じ様に全身に痺れが奔った。
 『向こうの世界』では、ずっと合成食材の食事だった武と冥夜だが、これはもう天然がどうこうとかいうレベルの話ではない。たとえ言い尽くせなくても、ただただ美味いとしか言葉が出てこなかった。
 一皿目のメニューは人参のムース。
 徹底的に煮詰めた人参のムースを、魚介のコンソメで仕立てたものだ。それにウニとズワイガニ、さっと熱を通したオクラとトマトが添えられている。
 とにかく、それぞれに絡んだ複雑で繊細で、それでいて重みのある味が素晴らしく、加えてとろけるような食感と、絶妙な温感がとんでもなくレベルの高いハーモニーを奏でており、おまけに色彩豊かな見目もまた美しかった。


 感動を隅まで味わい切るようにゆっくりと、しかしいつの間にか食べ終わっていたと気が付いて、武と冥夜は我に返った。夕呼がそんなふたりに、にやにやと笑いながら説明する。

 とあるフランス帰りのシェフが開いているこの店。
 マスコミ嫌いのシェフが半ば趣味でやっているような店なので、ほとんど知っている地元の人間しか食べに来ない。
 今ふたりが体験した通りの超絶の美味さでありながら、食材自体は特に高級なものは使っておらず、値段はお手頃。
 シェフは夕呼の古い知り合いであり、開店したときから通っているのだという。

 「御剣の──こっちの御剣のお抱え料理人達が束になっても、まったく引けは取らないわよ」と夕呼が自分のことのように誇り、武と冥夜が感嘆の息をつく。そうして、もちろんそれからもコースは続いた。


 ランチのメニューということで一皿の量は少なめだが、皿数は夜のそれと変わらない。オードブルの二皿めはゴボウとそら豆、トリュフを添えたフォアグラのソテー。ポルト酒のソースで整えたそれは、定番ではあったがまさに王道の味だった。
 それからメインは、魚料理がえびのムースの舌平目包み。肉料理がフライしたベーコンと蓮根、蒸したキャベツをつけ合わせたピゴール豚のソテー。スープは、生クリームを一切使わず煮詰められた、甘い甘い冷製コーンスープ。

 どれもこれも涙が出てくるような味の代物で、というか事実、武と冥夜の目尻には涙が浮かんでいた。
 けれど、それはただ超絶の味の数々に感動したというだけではないと、武も冥夜も思っている。なにか懐かしいような、まるで食べ慣れたおふくろの味のような、そんな感覚をかすかに感じていたのだ。


 その謎はコースの最後、コーヒーとデザートがテーブルに並んだところで解けることになった。そこで豪快な声が夕呼に掛けられたからである。

「───あらあら、夕呼ちゃん! 大事なお客って言ってたから誰かと思ったら、こんな時間に学生さんなんか連れてきていいのかい? いくらあんたが不良教師でも、教え子まで巻き込んじゃいけないよ!」

 背後から聞こえたその声は、思いもかけず聞き慣れたものであり、武と冥夜は反射的に後ろを振り向いた。そうして揃って驚きの反応を示す。

「───ぶっ!!」
「───京塚曹長ッ!?」

 武は含んでいたコーヒーを吹き出しかけ、冥夜は驚きに思わずその名を呼ぶ。そう、そこにいたのはどっしりと貫禄のある中年の女性。シェフコートに身を包んだその女性は、まさに武たちがPXのおばちゃんとして知る、京塚志津江その人であった。
 そんなふたりの反応に、志津江は「曹長?」と一瞬首をかしげるが、特に気にもせず笑って話を続けた。
 一方、武と冥夜の反応を見てなるほどと理解したらしい夕呼は、「こちらこの店のオーナーの京塚夫妻」とシェフとギャルソンのふたりを改めて紹介し、また武と冥夜のことも自分の教え子だと二人に紹介する。

「いやー、初めまして学生さん。武ちゃんと冥夜ちゃんかい? おいしく食べてもらえたみたいでうれしいけど、あんま夕呼ちゃんの真似しちゃいけないよ! ほんっと不良教師なんだから。でも、ふたりともいい体してるねえ! なんかスポーツやってるのかい?」
 初対面だというのに、志津江はふたりの体をバンバン叩いてそう言った。こちらでも変わらないその態度が嬉しく、またそれに安心して、武と冥夜はいつもどおりに口を開く。

「格闘技とかクロスカントリーとか、あとはロボットの操縦なんかを少し。それはそうと、すげー美味かったです。ほんと生まれてから今まで、これ以上のものは食ったことがないってくらい」
「私もです。最近はともかく、これで味には少々こだわりがあるのですが、これほどのものは食した記憶がない。圧巻でありました」
「そんなに褒められると照れちまうねえ! でも嬉しいよ。食べてくれた人が喜んでくれることが、料理人の一番の喜びだからさ」

 そうしていきなり打ち解けたように会話の輪ができて、夕呼とギャルソンの旦那さんも加わり、勢いよく話が続いた。いつまでも話していられそうな調子だったが、やはりそれにも終わりが来る。
 デザートを食べ終わろうという頃には、次のお客が入ってきて、名残惜しくも団欒はそこでお開きになった。
 少しの間片付けられたテーブルで休んで、三人は席を立つ。支払いを終えて外に出て、外の空気が火照った肌に心地よかった。
 改めて思わぬ知り合いとの邂逅に、武と冥夜は込み上げる笑いを吐き出して語り合う。

「ふふ、達者なのはわかっていたが、本来の京塚曹長はあれ程の腕前だったのだな」
「ああ。まあこっちとあっちじゃ違うけど、でもたぶんそうなんだろうな。あ、でも向こうじゃフランスに料理修行なんて行ってるわけないか。欧州はBETAに根こそぎやられてるもんな……」
 そんな武の言葉に、少し悲しげな空気が漂う。けれどすぐにそれを振り払って、武は「これからは横浜見物に行きましょう!」と宣言する。冥夜が笑みを浮かべ、夕呼も肩をすくめて笑った。

「オッケー、行きましょ。午前の情報料は私的にまだ余ってるから、デート代くらいは奢ってあげるわ。ま、これ以上のサプライズは、もうなかなかないでしょうけどね」

 そう言って、夕呼は近くに空きのタクシーを探す。これからが、短いバカンスの始まりだ。
 ただ、夕呼の言葉は意外と簡単に覆される。さして時間を置くこともなく、武と冥夜はまたこちらで知り合いに顔を会わせることになるのだった───




[6379] 第六章 平和な一日 3
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:44

 真夏のそれのような青の濃さはないが、かわりに透き通るような深さをみせる澄んだ空。
 その蒼に、特徴的な秋の雲が儚く薄く広がって、浮き上がるような白波を描いている。

 ───まるで海を見下ろしているみたい。

 煉瓦造りの駅舎から外に出て、雑踏とざわめきの中、少女は空を見上げてふとそんなことを考えた。
 見つめていると吸い込まれてしまいそうな高殿の深み。
 短めに整えられた明るい赤毛が、肩口を撫でる穏やかな風にそよぐ。
 爽やかな空気を胸一杯に吸い───

「───茜ちゃん、茜ちゃん! 置いてくよー、茜ちゃーん!」

 と、そんなところで声が掛かって、少女は我に返った。
 見れば一緒に来た友人達は駅で待ち合わせた一人を加え、彼女を置いて先の交差点まで歩いていってしまっている。

「あ、ごめんごめん! ちょっとぼーっとしてた!」

 慌てて答えて、名前を呼ばれた少女は走り出す。
 照れたような表情は快活で、躍動する動きは水面に跳ねる魚のよう。軽やかにひらめく白い制服が、そんな彼女にとてもよく似合っていた。




 ちょうど11月も半ばを過ぎ、そろそろ年の瀬も近く感じるこの日は、涼宮茜にとってひさしぶりのオフの日であった。
 こう言うとまるで芸能人の話のようだが──ついでに言えば、彼女はそんじょそこらのアイドルなど顔負けの美少女であるが──それは違う。彼女は一流のアスリート、横浜の名門白陵柊に通う高校生スイマーである。
 三年のこの時期、部長を務めた水泳部はとうに卒業していたが、すでにアメリカへのスポーツ留学が決まっており、近い将来にはオリンピックでの活躍も期待される彼女にとっては、厳しい練習に励む日々に変わりはない。今日はその練習がしばらくぶりに休みなのであった。

 そんなわけで、茜は仲の良い級友らと一緒に橘町に出てきていた。もちろん遊びに、そして幾らか用事を片付けに。


 橘町の駅で待ち合わせたひとりと合流し、会話に花を咲かせながら茜らがやってきたのは伊勢佐木のモール。入り口である帆船のアーチをくぐって、歩行者天国に入る。
 そこは半ば観光名所となっている綺麗な通りであり、11月とは思えないような陽気の良い週末とあって、普段以上に人があふれて明るい活気に華やいでいた。
 とはいえ、茜にとっては通いなれた場所であるわけで、当然特に珍しく眺めるようなことでもない。変わらずみんなと話しながら、予定の買い物のために目当ての店へ向かおうとしたのだが、そこでふと視界の端、通りの一角に目を引き寄せられた。

 別段人垣ができたりしているわけでもないのだが、そこには茜のみならず、周囲の視線が自然と集まっている。どうもその視線に誘導されたらしい。
 当然何があるのか気になったが、今の位置からでは人込みが邪魔で直接見ることができなかった。ならばとばかり、茜はすぐさま確かめようと駆け出す。これで意外と好奇心旺盛な性格なのだ。
 そうして人波を躱しながら近いところまで走ってみれば、そこにいたのは笑い合う三人の男女。意外なことに、そのうちの一人は彼女がよく知る相手だった。

「……香月先生」

 茜は思わずそう呟く。陽気がいいとはいえ、完全に季節(以外にもいろいろと)外れのやたらと露出の高いボディコン姿。けれど抜群のスタイルに派手な容姿で、それがしっかりはまっている。紛れもなく彼女のクラス、3-Dの担任であるエキセントリックな天才物理教師、香月夕呼であった。

 しかしその不良教師は、今日一日授業もHRも全て自習と宣い、物理準備室に籠もりきりだったはず。よくわからない研究に没頭している時にはままあることなので気にしていなかったのだが、あれでまったく責任感のない教師というわけでもないと茜は知っており、こんなところで見かけたことが少々疑問で首をひねる。
 もっとも実のところ、その引っ掛かりはごくごく些細なものにすぎなかった。茜の注意の大半は、担任の姿よりもむしろ、彼女と話している二人の方に向けられていたからだ。

 茜からすると、いくらか年上に見える若い男女。服装などは決して目立つものではないが、纏う空気が明らかに違う。とにかく並外れた姿の良さが印象的で、自ずと光を放つ威風とでも呼ぶべきものを直観した。
 これは人目も集めるはずよね、と少し離れた木陰で茜は思う。もっとも普通に美男美女なので、そうでなくても目立っただろうが。

 茜が二人を眺めながらそんな風に考えている間にも、そばを通り過ぎる人たちは皆ちらちらと彼らに目をやっていく。少し離れたところでは、茜と同じように立ち止まって眺めている者もおり、そこかしこで二人について話すひそひそ声も聞こえてきた。だというのに、彼らはそれを気にするそぶりも見せない。
 その落ち着きぶりに、一体何者なのかと思ったところで、ふと茜の脳裏に何かが引っ掛かった。
 あの二人、どうも見覚えがあるような……。いや、こんな目立つ人間なら忘れるはずはないのだけど──そう考えたところで、眇めた視線に反応したかのように、唐突に相手が首をめぐらせた。
 横顔が正面を向き、一瞬見せた驚いたような表情。茜の前後から名前を呼び合う声が響く。

「涼宮! 柏木!」
「あれま、白銀君に御剣さんじゃない。香月先生と一緒になにやってるの?」

 背後から声を掛けたのは、一緒に来ていた友人の柏木晴子。
 その彼女が名前を呼んで初めて、茜は目の前の二人が誰であるかに気が付いた。

 白銀武と御剣冥夜。
 親友である榊千鶴が気に掛けている男と、彼女のクラスである3-B(晴子のクラスでもある)に突然転入してきて嵐を巻き起こしている少女として、茜も話は良く聞いていた。ついこの間行われた球技大会絡みでいくらか直接話もしたし、冥夜とは決勝戦で戦ってもいる。ほんの一週間ばかり前の話だ。

 だというのに、何故気が付かなかったのか。というか、名前を聞いても二人の姿、そのイメージが一致しない。
 確かに今は二人ともカジュアルな私服姿で、冥夜の方は普段の武士然とした髪形も変えてあるため、学校での印象と食い違うのも当然かもしれない。
 しかし、それを充分考慮に入れたとしても、茜の目に二人の印象は違いすぎた。
 二人のその表情、その声音、その物腰、その姿勢。どれをとっても同い年とは思えない重みと落ち着きがあり、どうかすると哀愁さえ感じさせる風情だ。

 対して以前のふたりはどうだったか。
 親友から散々吹き込まれている『ろくでもないこと』はともかく、茜が自分の目で確かめても、以前の武を一言で言い表すとしたら、『お調子者』以上に適当な言葉はなかった。冥夜は冥夜で、威風は感じても、今のような細やかなしとやかさは見て取れなかった。有り体に言って、今の方がずっと綺麗で魅力的だ。
 男子三日会わざれば──とは言うものの、随分とこれは……。

 わずかの間にそれだけ考えて、茜は思わずにんまり笑った。これはなんだか面白そうだと、脇を抜けて歩み寄る晴子に続く。
 とりあえず、共通の話題を切っ掛けにしようと話しかけた。




「こんにちは、白銀君、御剣さん。決勝戦で戦って以来だね。今日は先生と一緒にどうしたの?」
「あはは、奇遇だよねえ。ていうかおふたりさん、私が出てきたときまだ教室にいたはずなのに、先回りしてるなんてずいぶんはやいよね。いつの間にか服まで着替えてるし───」


 見知った二人をその場に見つけて、一瞬驚きを顔に出した武だったが、話し掛けられたときにはもうもとの様子に戻っていた。
 もっとも、内心では「やっべえ、どうしよう」などと慌てている状態だったのだが、なかなかそうは見えない自然な態度である。

 舌鼓を打ったランチの後、武達はタクシーでこのイセザキモールに直行した。
 約束した霞へのお土産を選ぶのと、夜まで横浜の街を巡るなら制服姿のままではまずいので服を揃えた方がいいから、という理由だ。
 到着して早々、適当なブティックに入ると夕呼の見立てで服を選び、続けて霞への贈り物も折良くちょうど良い物が見つかって、さて、これからどこを回ろうか、というところで茜達に捕まってしまったのである。
 服を替えたのは一応、知り合いの目に止まるのを避けるためという意味合いもあったのだが、この広い横浜でいきなりかち合うとは、武にとっても予想外だった。まあ、因果流入の危険がないらしいということで、正直真剣に警戒はしていなかったのだが。

 とにかく、茜たちに話し掛けられて武は困っていた。

 京塚のおばちゃんであれば、こちらでの知り合いではない以上、接触してもたいした問題ではないとも思えたが、今度のこれは話が違う。
 晴子は武達と親しいクラスメートであり、茜は榊と親友同士だ。下手な対応をすればかんぐられようし、そうすると後々『こちらの世界』の自分達や純夏らに迷惑を掛けてしまうおそれもある。
 それは嫌だと思う武だった。できれば穏便に、明日以降彼女達の話題にも上らない程度の薄い印象でさよならしたい。

 BETAを相手にした命がけの戦いや、撒き散らしてしまった死の因果のことを思えば、それは小さなこだわりかもしれない。
 それでも、大事なことだと思う武だった。

 そういうわけで、何とか前に出ずに済ませられないかと、武は隣の教師に目で助けを求める。
 だが、まさに軽い話だからと面白がっているのか、夕呼は露骨に知らぬふりを決め込んだ。これはダメだと一発で理解して、武は軽く舌打ちする。
 かといって、他に頼れる相手もいなかった。まさか、いきなり冥夜を矢面に立たせるわけにはいかないのだ。
 仕方ない。とりあえず誤魔化しながら様子を見よう。
 ざわめく雑踏の中、そう決めて武は息を吐く。乾いた唇を湿らし、頭の中でさっと話をまとめて口を開いた。


「───夕呼先生が送ってくれたんだよ、全速力のスピード違反で。知り合いの女の子に誕生日プレゼント買いに来たんだ。夕呼先生の親戚でさ、ほら」
 そう言って武は、右手に提げていた大きな紙袋を掲げてみせる。袋の口からは、真っ白ふわふわなウサギの耳がのぞいていた。

「わぁ、かわいい! 御剣さんが選んだの?」
「あ、いや……私は……」
「選んだのはオレ。冥夜はそういうの疎いから───」
 顔をほころばせた茜の問いに、武が横から割り込んで答える。冥夜に話が向かないようにと、一息置いてそのまま言葉を続けた。

「そもそもその娘のリクエストなんだけどな。ウサギのぬいぐるみ。前に夕呼先生が贈ったのはあまりかわいくなかったから、今度はかわいいのがいいって言うんで。どうだろ、大丈夫だと思うか?」
 そう問いかける武に、笑顔でお墨付きをくれる茜と晴子。あながちただ話をそらす為の問いというわけでもなく、結構本気で気になっていたことなので、その答えを聞いて武は頬をゆるませた。

「そりゃよかった。オレもあんま自信なかったから安心したよ。やっぱプレゼント贈るなら、喜んでもらえる物贈りたいもんな。……ところでオレが言うのも何だけど、柏木達の方はどうしたんだ? わざわざ橘町まで」
「ああ、それは奇遇っていうかね。私たちも───」

 攻守を変えて質問を返した武に、晴子が答えようとする。しかし、その言葉は途中で遮られた。
 人混みを割って、新たに三人が武たちに声を掛けてきたのである。先ほど茜がモールの入り口においてきた三人だった。


「おーい、茜ちゃーん。だれだれ? その人たち友達~? って、夕呼先生?」
「こらっ、あーちゃん。失礼でしょ。言葉遣いはきちんとしなさいっ」
「わっ、ごめんごめん、お姉ちゃん。ちゃんとするってば~!」
「……香月先生。今日授業全部すっぽかしたのに、こんなところでなにやってんですか?」

 そんな風にかしましく加わってきた三人を見て、武は驚きつつも半ばなんとなく、やっぱりなと思う。茜、晴子に続いて、向こうで言うところの残る207A分隊メンバーの登場だった。
 『前の世界』では出会うことのなかった、知り合ってわずか一週間あまりの相手であるが、武にとって大事な現在の仲間であり、またある意味、初めての教え子であるとも言える相手だ。こうして『こちらの世界』でも出会うというのは、なにか感慨深いものがあった。
 ふっと思いついて振り返ってみれば、冥夜もまた似たような表情を浮かべている。そんな彼女の方は、さらに複雑な思いだったかもしれない。
 同期としてともに衛士を目指して訓練をし、一足早く先に行かれて、追いついてみればそこにはもういなかった相手なのだ。
 それに冥夜は、新しい世界ではまだ彼女達に顔を合わせていない。懐かしさとともに、皮肉な寂しさとでもいうようなものが、その瞳によぎったように思えた。

 それはそうと新たに現れた三人だが、全員ともに207Aの少女達というわけではなかった。高原明日香と麻倉優はいるが、最後の一人、築地多恵だけは見当たらない。代わりに一人だけ、私服姿の女性が混じっていた。

 スラリとした長身を包むのは、薄手のセーターと足元まであるフレアスカート。淡い色で揃えられたそれらに、緩やかなウェーブのかかった明るく長い髪がよく映えている。
 柔らかで気持ちの良い笑顔や、心地よい声音と相まって、穏やかで明るい雰囲気の女性だった。

 そんな彼女が、武に微笑みかけてくる。反射的に頭を下げて、はて誰だったかと考えた。
 見覚えがある気がするのだが、ど忘れでもしたように、どうも記憶のファイルが引き出せない。詰まっていたところで、今更ながら目前で交わされた会話が蘇る。
 ごめんごめん、お姉ちゃん、と彼女に───

 ───って、高原しょ……ッ!

 思わず驚きの声を上げそうになり、それを何とか喉元で押し止めた。
 けれども息を詰めた武を、茜が興味深げにじろじろと見つめてくる。それからいたずらっぽくにっと笑って、武はなにかいやなデジャヴを覚えたが、茜はそこでくるっと振り返り、普通に仲立ちとして紹介を始めた。


「優と明日香は知ってるよね。ラクロスの時のこっちのチームメイト。あと、明日香のお姉さんで高原今日子さん。私たちより一つ年上で、今は白陵大の文学部に通ってる先輩だよ。今日子さんは───」

 ───やっぱり高原少尉……いや、高原先輩か。

 茜がお互いの紹介を続ける傍ら、武は会話に応じながら彼女を注視していた。
 わかった上で見れば、確かに向こうの高原少尉と同じ顔をしているのだが、そうでありながらあまりにも違う。
 向こうにあっても初顔合わせから一週間程度の関係とはいえ、あの模擬戦での一件から、高原今日子は武にとって印象深い相手だ。『前の世界』から知る隊員達ならいざ知らず、新たな仲間の中では間違いなく一番目を惹かれていた。
 そんなわけでこの一週間、彼女には自然と注意がいっていたのだが、その武をして、彼女が笑ったところなど一度も見ていない。訓練中の最低限の応答以外、ほとんど声を聞いたこともない。たとえ妹相手でも、気安いところなど全く見せなかった。

 ところがこちらでは、それらが全て逆さまである。
 表情はころころと柔らかく変わり、落ち着きはあるがよくしゃべるさまは、雰囲気的には全くの別人としか思えない。
 姉妹仲も睦まじいのは明らかで、妹をとても可愛がっているのがよくわかった。
 またそのせいなのか、姉ほどではないにせよ妹の明日香も、『向こう』に比べて随分明るげな性格をしているように見て取れる。
 世界の違い。実際に別の人間なのだとはわかっているが、不思議なものだと武は思った。


「───で、私たちもみんなで誕生日プレゼント選びに来たってわけ。だから奇遇だなあってさ」

 武が思いにふけりながら受け答えている間にも、話は普通に進んでいた。先ほど武の話を聞いて、奇遇だねと話しかけた晴子が、改めて橘町に来た理由を説明してくれる。
 知り合いの先輩の誕生日祝いが目的だったらしい。まだ少し日にちは先だが、茜のお休みなどを考えて今日やってきたそうだ。
 話の中で名前は出ず、あえて聞きはしなかったが、またヴァルキリーズの知り合いかな、などと武は思う。
 そうだとしたら、『向こう』でも近く誕生日を迎える仲間がいるわけだが、『前の世界』ではあまりそういうことに頭が回らなかった。『一回目の世界』で基地内クリスマスパーティーをぶち上げた自分を考えると、もはや隔世の感がある。
 しかし、向こうでだってやっていけないことじゃないだろう、とも思った。

 こちらよりもはるかに死を身近に感じる世界だけど。
 生きる為に命がけで戦わなければならない世界だけど。
 決してただ殺伐として苦しいだけの世界じゃないと信じている。
 余裕がないのは確かだけど、派手に誕生パーティーなんかやってみるのもいいかもしれない。
 ヴァルキリーズのみんなとなら、きっとすごく楽しいだろう。

 そんなことを考えて、武はついと視線を上向けた。思い浮かべた場景に口元がほころぶ。
 隣では、その様子を冥夜が静かに見つめていた。想いを汲み取ろうとするかのように。




 そんなこんなでお互いの紹介が終わった後、語らいはしばらく続いた。

 初めのうちは、適当なところでさりげなく切り上げようと構えていた武だったが、いつの間にかその足を休め、腕を下ろしていた。
 なんとか違和感の出ないようにと最低限気を配ってこそいたが、無理矢理話を切り上げるには、その場は居心地が良すぎたのだ。
 冥夜もまた、途中から自然と会話の輪に加わっていた。世界は違っても、茜や晴子などは『向こう』の彼女らとほとんど雰囲気が変わらず、話しやすかったこともあるかもしれない。
 当たり障りのない語り口ではあったが、むしろこちらの彼女よりも、よほど空気を読んで話をしていたのがおかしかった。

 それはただの日常の会話。何の変哲もない会話。
 けれど前にこちらに戻った時とは、感じるものがまるで違う。
 諸々の些細な事が、ことごとく武の胸に響いた。


「───あ~~、でもアメリカに留学って、茜ちゃんうらやましいなあ。ハリウッドとかディグミーワールドとかニューヨークとかグランドキャニオンとか……あたしも遊びに行きたいなあ!」
「も~、遊びに行くんじゃないんだよ、明日香? 結構大変なんだから。手続きとかいっぱいあるし、練習は忙しいし、英会話とかも覚えなきゃいけないし。そりゃ向こうに行ったら少しは観光ぐらいしたいけど……」
「あははは。そりゃ遊ぶのはほどほどにしとかないと、オリンピックなんて無理だもんねえ」
「金メダルくらい取ってもらわないと、友達として自慢し甲斐がないから、観光とか禁止……」
「あ、の、ね~。……まったくもう───」


 ───屈託なく話される明日の話。


「───ねえねえ冥夜ちゃん。冥夜ちゃんのこと、冥夜ちゃんって呼んでもいい?」
「あーちゃん、それ順番が違うから! ……あ、ごめんなさいね、御剣さん」
「いや、姉上殿、お構いなく。しかし、冥夜ちゃんとは。どうも慣れぬゆえか、少々こそばゆいな。だが───」


 ───なにか懐かしげな、はにかむような冥夜の顔。


「───そうそう、千鶴が珍しく白銀君のこと褒めてたよ」
「……なんか雪でも降りそうな話だけど、なんて?」
「うん。君がいなけりゃD組には勝てなかった。感謝してるって。考えなしで勢いだけでバカだけど、そういう人間にしかできないこともあるみたいね、だって」
「あっははは、榊さんらしいねえ。でも、私もほんとそう思うよ。ね、白銀君」
「褒められてる気がしないっての! ていうかそれ、明らかに馬鹿にしてるじゃねえか───」


 ───手放しで笑える昨日の出来事。


 その優しさは、『向こうの世界』では有り得ないほど希少なものだったはず。

 『前の世界』でこちらに来たとき。
 武はこちらのみんなとの間に言い知れぬ空気の違いを感じ、拭い難い違和感を覚えた。
 なのに今は違う。
 以前にはぬるま湯のようなと感じ、苛立ちと隔意が募ったはずのその空気が、今は冬山に熾した焚き火のように暖かく感じる。
 もしかして、これが平和ってものなんだろうか、と武は思った。
 実体はないけれど、とても貴重で大切なもの。そう、命や人間と同じくらいに。
 かつて霞がそう言った。泣き笑うような、けれど毅然とした顔で。
 振り捨てた今になって、彼女の想いが理解できたような気がする。
 だからこそ、目の前の暖かさにもっと手をかざしていたかった。

 けれど。


「───悪い! オレ達まだ予定あるから、もう行かなきゃいけないんだ。切りよくなくてすまないけど、この辺で」

 けれど、さすがにそういうわけにもいかない。
 すでにして長居をしすぎている。このままここにいて、さらに誰かが、あるいは万が一にも自分達と出くわしでもしたら、もう目も当てられない。
 名残を惜しみながらも、武は会話の隙間に声を差し込む。顔の前で申し訳ないと手を合わせ、急いた調子で暇を乞うた。

 その慌てた様子に、茜達も頷いて話を切り上げる。そう言えば自分達も用事があったのだと思い出した風だった。
 武にとっては一期一会、ここで別れれば二度とは会えないであろう人達であり、袖すり合っただけとはいえ多少なり心も残る。
 隣の冥夜も同様なのだろう。突然会話を切り上げられて、珍しくぽかんとした様子だ。
 しかし、当然向こうからすればそうではないわけで、色々と面白がっていた茜にしても、いくらか残念そうな顔はしたが、それでもあっさり「わかった。じゃあまたね、白銀君、御剣さん。あと先生も」と答えを返してきた。

 最後にお互い軽く礼を交わし、武は冥夜と夕呼を促して背を向ける。茜らの方もさっさと元々行く方へ、武達とは逆方向へ向かって歩き出した。
 それを見て、とりあえず無難に済んだか、と考え、武は胸を撫で下ろす。
 ついつい長く話し込んでしまったが、幸いあれ以上の闖入者もなく、不自然な会話も交わしていない。これなら大した問題にもならないだろう。武はそう考えて安心し、元々の思案、次はどこに向かうかを考え始めた。


 もっとも実際のところ、そう思うのは少々楽観的なことだった。
 いくら当たり障りなく振る舞ったつもりでも、武は決して演技達者な人間ではない。茜らに何ら違和感を持たせなかったなどと思うのは、武も自分自身の変化について過小評価が過ぎるというものだろう。
 最初に茜がひとめで普通でないと感じたように、もうこちらの白銀武とは中身が違い過ぎるのだ。言及はしなかったし、態度も全く変えなかったが、クラスメートの晴子だって当然のようにその変化に気がついていた。
 さすがにまさか違う人間だなどとは思っていなかったから、あえて、あるいはたまたま、ここでは話題がその件に及ばなかったというだけのことである。

 そういうわけで、今回の邂逅は週明け以降こじれて拡大し、バタフライ効果よろしく回り回って一騒動、というか嵐を巻き起こすことになるのだが、それはまた別の話。違う世界のものがたりである。








 スタジアムの脇を抜け、武と冥夜がその通りに入った途端、左手から一陣の風が吹きつけた。 
 秋晴れの木漏れ日が周囲に燦めく中、その風は金色をまとって、二人の髪を大きくなびかせる。
 思わず手を翳し、目をつむる武と冥夜。わずかに後、吹き抜けた風の向こうには、見事に黄色く染まった大銀杏の並木通りが伸びていた。

「───これは、すごいな……」

 その美しさに冥夜は思わず息を呑む。
 しばらく惚けたように金色の景色を眺め、そうして感嘆の吐息とともに小さく呟いた。

「ああ。初めて見たけど、確かにこれはすごい。なんか圧倒されるな……」

 傍らに立つ武が同じ響きの声でそう答え、そこでようやく冥夜が視線を動かす。

「……初めて? そなたの薦めで来たのではないか。地元なのであろう?」
「いや、来たこと自体はあるんだけど、考えてみればこの時期に見たことってなかった。まあ地元の名所なんて結構そんなもんだろ───」


 ふたりがそんなやり取りを交わしている場所は、横浜は橘町の名所の一つ、日本大通り。県庁舎ほか、瀟洒で歴史ある建物が並んだこの通りは、銀杏の多い横浜にあっても随一の名所として有名である。
 先程まで二人がいたモールからは駅を挟んでそう遠くない距離にあり、横浜巡りをするならまずここからだろうと武が決め、今まで歩いてきたのだった。

 だが、今この場にいるのは武と冥夜の二人だけで、夕呼の姿は見当たらない。茜達が去った後すぐ、彼女ともその場で別れてしまったのである。



「───さて、涼宮達も行ったことだし、あたしもそろそろ帰らせてもらうわ」
「え? オレ達が帰るまで付き合うんじゃ。貴重な観察対象じゃなかったんですか? ていうか、先生がいないとオレ達こっちじゃ一文無しなんですけど……」
「あんたねえ……。いったいどこまで図々しいのよ」
 モールの入り口を抜けたところで、夕呼は不意に別れを切り出した。驚いた武が聞き返しついでに茶々を入れ、夕呼は渋い顔で肩を竦める。
 けれどすぐに口元をゆるめ、軽い口調で答えた。
「ま、ちょっと閃いたことがあったからね。さっさとまとめておかないと。それにこれ以上デートの邪魔をするのも野暮ってもんでしょ?」

 その言いように、どう答えるべきか武は迷った。その数瞬に、夕呼が何かを投げてよこす。
 思わず手を出して受け取って、何かと手元で見てみれば、それは重みのある黒革の財布だった。

「……先生?」
「一文無しなんでしょ? 持っていきなさい」
「あ、いや、さっきのは冗談だったんですけど……」
「情報料の残りよ。それとあとは餞別。あっちじゃ意味ないんでしょうけど、社って娘以外にもお土産とか買っていったら? 大事な仲間とか、戦友って言うのかしら……いるんじゃないの?」

 軽かった口調が、少し真剣味を帯びた。その目は正面から武を見つめていた。瞳の奥の優しい光に、武は続けようとした反駁の言葉を呑み込む。
「……わかりました。遠慮なくいただきます。もう返せって言われても聞きませんからね」
 代わりにそう言って、武は夕呼に目礼を返した。込めた想いは伝わったのだろう、夕呼もささやかな微笑みを返す。

「じゃ、これでお別れね。『あちらの世界』の絶望がどんなものなのかはわからないし、あたしにはしてあげられることもない……。だけどせめて、あんたたちの幸運だけは祈っておいてあげる。死ぬんじゃないわよ」
「わかってます。これでも命の尊さは身に染みてますから。先生も元気で。あんまりまりもちゃんをいじめないであげてくださいね」
「あれはまりもも喜んでるんだからいいのよ。ま、多少は善処しましょう。ああ、あと御剣」

 武の言葉を軽く笑っていなし、夕呼は冥夜の方を向いた。武のそばから離して、小声で話しかけた。
 最後にあんたにも忠告を。そう称した話を聞いて、冥夜の顔が赤く染まる。けれど冥夜は慌ててそれを振り払った。わたわたと受け答えをした後、真剣な、けれど少し寂しげなまなざしで頷く。

「香月教諭のお心、まことにありがたく存じます。教諭の忠告、何よりの金言としてこの胸に刻みましょう。我が名に懸けて、最期の瞬間まで忘れませぬ。教諭もどうかお健やかに……」

 堅く誓って、お互い目で笑い合った。
 それで終わり。
 最後に並んだ二人をまぶしそうに一瞥し、夕呼はあっさりと背を向けた。振り返らずに人混みに消えた。



 そうして自分達だけとなって、武と冥夜は今ここにいる。
 並木としては珍しく、大きく横に張り出した枝振りをした、今が盛りの銀杏のアーチ。
 はらはらと黄色い葉が舞い落ちる風情の下、穏やかに話しながら歩いていた。

「───しかし銀杏って、こうしてみると面白いよな。枯れ葉のはずなのに、全然枯れてる感じがしないぞ。むしろこれから花でも咲かしそうな勢いだ」
「ふふ、確かにそうだな。同じ秋の風物だというのに、嵐山の紅葉などとは随分趣が違う。あの燃えるような赤さは、悲しくすらあったものだが……」
「嵐山……、京都か。宗像中尉が一番好きだったっていう……」
「ああ、そなたも聞いたのか。失礼ながら、初めに聞いたときは中尉らしからぬ話と驚いてしまったが……」
 並んで歩いていたふたりが、顔を見合わせてくすりと笑う。
「……良い理由だった。私も一応は帝都……京の生まれだからな、あの景色が愛されるのはわかる。そうか、こちらではあの場所も失われてはいないのか……」

 出征を前にした想い人に、彼女が見せた一番好きな風景。今は失われたその景色を、いつか取り戻すという固い決意。クールで奔放な態度の下で、その真情が胸に沁みる。
 先達の戦う理由を辿って、その後はしんみりとした声が響いた。海からの風がさらさらとした葉擦れの音を奏でる中、ふたりとも失われたもの、失ったものに思いを馳せる。
 その思いと重ね合わせるように、方々に視線を巡らし、けれど沈黙は長く続かなかった。どちらからともなく口を開き、穏やかに会話が紡がれていく。

 陽光に燦めく黄金色の木々と、それに染め上げられた美しく落ち着いた街並み。浮き立つように行き交う人達と、ここではとてもやわらかな車の音。
 暖かく光にあふれ、まったく陰を感じさせない目の前の風景は、『向こうの世界』には決してない、しかしいつの日か得られるかもしれないもの。
 黄葉が散り落ちるその道には、心を震わす歓びがあった。黙って感傷に浸るには、そこは少し明るすぎたのだ。


 そうした中で、ふと舞い落ちた葉っぱの一枚が武の目の前をよぎった。反射的に手を動かし、二本の指でその葉をピタリと摘み取る。思わず足を止め、まじまじと見つめてしまい、並んで歩いていた冥夜がそのまま幾歩か前に出た。
「……タケル?」
 冥夜がくるっと振り向く。
 手元から前に視線を移し、目に入ったものに武ははっと息を呑んだ。
 黄金の回廊を背景にして、不思議そうな表情で立つ冥夜。柔らかな陽の光を正面から浴びて、普段の彼女からは考えられないほど力を抜いている。

 ───きれいだ。

 と、武は思った。その瞬間、飾りなく純粋にそう感じた。

 先の別れ際、夕呼は「デートの邪魔を───」と口にしたが、デートと言うには冥夜の服装自体はあまり華やかなものではない。
 真っ白なカッターシャツにごく普通のジーンズ、足もとはスニーカーという簡素な格好。一応の防寒具代わりにと、光沢ある白のストールをサッシュのようにして腰に巻いている。髪は時代がかった普段の髪形ではなく、下ろして銀の飾り紐で簡単にくくっていた。
 これならば元の制服姿の方が、よっぽど華やかというか可憐な格好である。『こちら』の冥夜だったならば、加えて宝刀皆琉神威も常時携帯しているわけで、インパクトにおいても大きく上回ろうというものだ。

 だが、秋の陽に照らされた冥夜の姿は、武の目に久しく見た覚えがないほど可愛らしく映った。いつも凛とした印象の彼女が、今はとても柔らかく思え、湧き上がった感情が強く胸を打つ。
 そうして何かがよぎった。それは久しく前には見ていたはずの何か。胸を疼かせる何か。
 けれど、武はそれを追いかけはしなかった。刹那の内に溶けて消えた。
 それはきっと、削り取られた記憶の影なのだろう。かつて自分にとってとても大事なものだったであろうことはわかっていたが、そうせざるを得なかった純夏の気持ちを思えば、もう必要のないものだと考えていたから。

 気がつけば、冥夜はもう普段通りの冥夜だった。武が尊敬する、凛々しく強い彼女だった。
 並木道を越えた先に、山下公園の入り口、横浜の港が見えていた。








「───タケル、……その……そなたにひとつ、聞きたいことがあるのだが……」

 日も落ちて刻々と群青色を濃くしていく空を窓の外に眺め、冥夜は向かい合って座る武に、か細い声で切り出した。
 ふたりが座る椅子の間に机などは挟まれず、その距離はとても近い。それもあって冥夜は顔が赤らむのを感じたが、その場の暗さが覆い隠してくれていた。


 ここまで短い時間であったが、冥夜は武のガイドで横浜の街を周遊してきた。

 豪華客船や帆船が停泊し、沖には大小様々な船が浮かぶ横浜の港。
 そこに軍艦の姿が見えないことに今更ながら驚き、武の話を聞きながら埠頭の公園を散策して、戯れる恋人達の姿に少し羨ましさを感じたりもした。
 そのまま極彩色に彩られ、人波と活気でごった返した横浜中華街に入り、見慣れぬ店や風物に目を回しながら歩く。中華街を抜けてからも、買い物と寄り道を、発見と驚きを繰り返しながら半ば迷うようにビルの間、雑踏の中を歩き回り、日の沈む時刻にはちょうど見通しの良い川縁にいた。
 燦めく水面を挟んだ西の空。渦を巻くような薄雲が夕陽を彩り、地平の山際から上空まで、複雑で鮮烈なグラデーションを描く。
 その美しさにしばらくの間見入っていた二人だったが、雲に映った朱の色が薄れてきたところで、武が「そうだ、次は遊園地に行こう」と言ったのである。


 そこもまた、冥夜にとっては初めて見るものばかりの場所だったが、武は珍しがる冥夜に色々と説明しながらも、進む先は決めていたようだった。
 園の中央に立つ巨大な骨組み。その内部を登って──階段は冥夜が難儀したので、武がその手を引いて登った──ゆっくりと動く小さな籠に乗り込む。
 つまりは定番の観覧車だ。橘町のシンボルである、かつては世界最大の大きさを誇った観覧車、コスモクロックである。

 黙り込んでいた冥夜が問い掛けたのは、それが直径100メートルに及ぶ円周を昇りだしてから少し経ってからのこと。「なんだ、冥夜?」と、外を見ていた武が聞き返して、冥夜は意を決したように言った。

「その、私のことを教えてほしいのだ! そなたとどんな関係なのか!」
「……は?」
 ぽかんとした顔になる武。言葉を間違えたことに気がついて、冥夜は真っ赤になってわたわたと続ける。
「い、いや、違う! いや、違わないのだが……わ、私のことではなくて……その、つまり、こ、こちらにも私がいるのであろう? この間こちらに来たときに確かに見た。そのこちらの私は、そなたとどんな関係だったのかと……。いや、べ、別に何か他意があってのことではなくて……その、今まで話に聞かなかったものだから、つい……」

 しどろもどろになりながら、早口で溜まった言葉を吐き出す冥夜。何故こんなことを口にしてしまったのかと、言葉にしてから後悔したが、こぼした水はもう返らない。
 くらくらとなって惑乱していた冥夜だが、今日の日に感じていた引っ掛かりを言葉にできて、少しすっきりしていたのは確かだった。

 心に引っ掛かっていた一本の棘。それはおそらく、鑑純夏という名前。
 今日この異郷の横浜を巡る間、武は思いつくまま冥夜と様々な話をした。平和なこちらの世界の話。あちらで経てきた戦いの話。どちらにしても、この輝かしい幻想郷では響きは優しいものになる。
 ただ、武が故郷の思い出を語るとき、横浜の街を語るとき、その話には端々に幼馴染みの名前が付いてきた。
 それが嫌だったわけではない。自分の分は弁えている。ただ、少しだけ胸に引っ掛かった。ときに207Aの仲間達の名前まで出たというのに、自分の名前だけは出てこなかったことも少しだけ引っ掛かった。
 だから今、ゆらゆらと揺れる籠の中で、お互いの息づかいも感じる近さに押されて、つい口が弛んでしまったのだ。

 そう自分に弁明して、火照った頬から少しは熱を取って、冥夜はうつむいていた顔を上げた。そうしてすぐそばにある武の顔を見る。
 そうしてみれば、武の方も普通ではない。眉間に手を当てて顔をしかめている。呆然としたような様子でもあった。


「……どうしたのだ、タケル?」
「……いや、なんでもない。ただ……、ちょっと知らなかったことを思い出しただけだ……」
「む……?」
 心配した冥夜の言葉に、武はわずかに苦い顔で答える。だが、次の言葉を続けたときには、もう普段の武に戻っていた。

「こっちの冥夜の話か……。純夏とは生まれたときから隣同士で、ずっと一緒に育ったけど、冥夜とは付き合いが短かったんだ。一緒に過ごした記憶は二ヶ月もないくらいだから」
 それを聞いて、冥夜は少し悲しげな顔になる。けれどそこで、武は小さく笑いを漏らした。
「それでもまあ、絶対忘れられないような濃い二ヶ月だったよ、冥夜が一緒にいた時間は。橘町での思い出となるとあまり関わらなかったけど、この遊園地なら一緒に遊びに来たな。迷子の男の子に懐かれちゃってさ。この観覧車にも二人で乗ったぞ、昼間だったけど───」

 笑い含みで語った話を皮切りに、武はこちらの冥夜との思い出を広げていった。

 全ての始まりとなった10月22日の出会い。
 押し掛けてきた学校での、天井知らずの奇行と世間知らずっぷり。
 突っ込みどころいっぱいの料理対決。

 冥夜がまたもや真っ赤になったり、笑ったり、あきれたりしながらそこまで聞いたところで、武がふっと言葉を切る。窓の外に目を遣って、残りの話は後にしようと言った。
 いつの間にか、ふたりの乗る籠は頂点近くまで達している。
 西の空には燃えさしの炎のような鈍い赤みがまだ残り、対して天頂は夜の群青に染まっていた。
 横浜湾に架かるベイブリッジには青い光でライトアップがされ、連なる車の灯、浮かぶ船の灯が星のよう。陸地に目を転じれば、人の営みを伝える都市の灯りが、高みから見通せる地平の先まで続いている。

 それは幻想的な美しさであり、同時に命の温かみを感じさせる光景だった。影の中にまとまった光を指さし、武があれは何々、これは何々、と解説してくれる。
 自分が本当は何を聞きたかったのか、何を求めていたのか、冥夜にはわからなかったが、少なくとも、もう胸の疼きは消えていた───








 観覧車を降りた後、武達はそれ以上遊園地にはとどまらず、すぐ近くにそびえる横浜の目印、超高層ビル、ランドマークタワーに向かった。この際だから夕呼の勧める通り、向こうの仲間へのお土産として、買える限りの物を揃えていこうと思い立ったのである。
 もっとも、あんまりなオーパーツを持ち込んでも夕呼と霞以外には渡せないので、品目は結構偏ったものになった。要するに飲食物関係中心である。驚かれるものではあるかもしれないが、向こうでもあるところにはあるもののようだから、それほどの問題はないだろうと思われた。
 あとはそれ以外で、工夫すればなんとか誤魔化せそうな小物の類をいくつか。
 そして、オーパーツであっても夕呼に渡す分には問題がないということで、かのゲームガイのような、向こうには存在し得ない代物もやはりいくつか。使い道は後で考えればいいと選んだ。


 そうして八時を過ぎ──なにしろ財布には三十万円以上入っていたので、買い物には随分時間が掛かったのだ──そろそろ約束の時間という頃合いで、武と冥夜は今朝のスタート地点、校舎裏の丘へと帰ってきていた。
 抱えてきた荷物をそばに下ろし、視線を遠く、後にしてきた橘町の夜景を眺める。
 昼間の暖かさもさすがに去りゆき、吹き抜ける風は朝と同様に冷たい。武は自分のジャケットを冥夜に着せかけて、彼女の隣に腰を下ろした。

 楽しかった一日の反動か、何か力が入らない。ぼーっと街の灯りを見つめていてしばらく、呟くような冥夜の言葉に醒まされた。
 夜の帳の中ではやはりしめやかになるものか、冥夜もまたもの悲しそうな様子で街に目を向けている。お互いしんみりと言葉を紡ぎ、けれどそこで話を変えた。
 気持ちを明るく立て直して、今日の思い出を語り合う。途中で、丘から見えるなぜか灯りの見えない一角についての話題も挟まれた。これもまた、冥夜の呆れたような憤ったような、面映ゆい表情が見ものだった。


 木々の静寂の中に笑い声が響き合い、いつの間にか別れの時間が来た。
 星の光の下に、柔らかく真白い光がこぼれ出す。

「……時間、か」
「そうだな……。我らの世界に戻るときだ」

 光の合図とともに下ろしていた土産を抱え、ふたりはよっと立ち上がる。敬礼をするには荷物が重かったが、尊い世界に敬意を込めて目礼した。
 膨れあがる光の中、まず感覚が薄れ、次第に意識も薄らいでいく。
 そして最後に光が弾けて、二人の異邦人はこの世界から消えた。一時の休息を終え、自らの戦場に赴くために。








「───もお、夕呼ったら。こんな時間にいきなり呼び出して、しかもどこに行くでもなくこんなところで待機って。一体どういうつもり?」
「黙っときなさい、まりも。あんたは見ておくべきだと思ったから連れてきたのよ。どうせひましてたんでしょ」
「う……それは言いっこなしよ。だいたいだからといって───」


 武と冥夜が消えるその少し前。校舎裏の丘を見渡せる目立たない路地に、一台の車が止まっていた。
 イエローボディのスポーツカー。香月夕呼の愛車、ランチア・ストラトスである。
 座席に見える姿は、夕呼と彼女の親友神宮司まりもの二人。今回は定員オーバーではないので、普段の愛車を駆ってきたらしい。
 呼びつけられて車に乗せられたあげく、こんなところで30分は停車中とあって、当然まりもの剣幕は厳しい。それを適当にいなしながら、夕呼は時間を待っているようだった。

 そしてその時、丘の上に光が点る。
 徐々に強く明るく広がっていく光の中に、小さく二つの人影が見えていた。

「ゆ、夕呼! なんなの、あれ!?」
「……あれを見せに連れてきたのよ。意味はわからないでしょうけど、教え子の門出なの。教師としては見送ってあげないとね」

 突然の異常現象に動転するまりもに、夕呼は落ち着いて答える。もっとも言葉通り意味のわからない話だったが、代わりにその口元に浮かんだ微笑が、まりもの心を落ち着かせた。
 危険なものではないのだろう。そう思って、まりもも前方の光に顔を向ける。その時には、光の中の人影はもう薄れて見えなくなりかけていた。
 しかし、まりもはそこに誰かがいたことを、その誰かと自分が目を合わせたことを、不可思議な知覚で直感した。得も言えぬ気持ちが胸に溢れる。

 知らず目尻に涙の粒が滲んで、気がつけば光は消えていた。
 溜まった涙が頬をこぼれ落ち、ハンカチでそれを拭ってから息をつく。
 何が起こったのかはまったくわからなかった。けれど、大事なことだったと思った。

 答えてはくれないことに確信があったのか、隣に座る友人にまりもは何も尋ねず、夕呼も黙ってエンジンを掛けた。すでに何者もいなくなった丘を背にし、ランチア・ストラトスがスピードを上げていく。
 唸るような音の響きに隠れて、夕呼の唇が動いた。

 ───神様なんて信じない。だけど、願わくばあいつらの強い意志に祝福を。その生命に報いがありますように。




[6379] 第七章 払暁の初陣 1
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 19:08

 ある日の夜、武は霞とふたりで地下19階、鑑純夏の脳が収まったシリンダールームへと続く通路を歩いていた。

 それは、A-01部隊ヴァルキリーズがXM3の慣熟訓練を始めてから数日。武と冥夜が、『元の世界』で横浜の街を回ることになる日からは少し前。そんな日付のこと。
 もっとも、この日がなにか特別な日であったわけではなく、二人の行動も何ら特別なものではない。武と霞が彼女の部屋へ通うのは、何ほどのこともない、ふたりが毎日欠かすことのない日常の光景だった。

 冥夜が『この世界』に目を覚ました日。彼女と武、霞の三人は地下深い部屋、蒼い光の傍らで、『前の世界』を語り明かした。
 あのとき流した涙。森深い湖のように静かで、しかし熱く胸を揺らした喜び。
 大事な戦友たちの最期を知り、涙とともに呑み込んだあのときこそが、きっと武にとって、『この世界』が本当に始まったときだった。

 その夜以来、武と霞はこうして毎日純夏の部屋へと通っている。
 二人にとって半身ともいえる少女に、彼女が生身の『人間』としてこの世にあるうちに、最も大事な話を聞かせておきたい。そう思ったからだった。
 とはいえ、毎日そう長居することもできない。
 なにしろふたりともこの二週間というもの、山と積まれた仕事で非常にいそがしい身の上だったからだ。大事なことと思っていても、任務でもない私事にそうそう時間は割けなかった。

 武が『この世界』に来てから二週間。まずは207Bのメンバーとともに訓練兵として訓練を行ない、並行してXM3の開発。彼女らが総戦技演習で基地を離れてからはヴァルキリーズの訓練に、武は教導官、霞は開発担当として時間を費やしている。
 一番の時間を占めるそれらに加えて、折に触れては夕呼から『前の世界』や『元の世界』の情報についての詳細な聞き込みがあり、今後の計画、事件への対応についても頻繁に協議がある。
 教導官役を始めてからは書類仕事も多くなり、伊隅以下隊長たちとは訓練計画や新しい部隊戦術についてのミーティング、更に新潟の作戦についても細かく詰める必要があった。霞は霞で夕呼の研究助手としての仕事があり、やはり事情は似たようなものだ。
 無論、オルタネイティヴ4の責任者として様々な外部的折衝までこなしている夕呼のそれに比べれば、まだまだましというものであるが、それでも『前の世界』の同時期とは比べ物にならない多忙さであった。

 しかしそれでも、武と霞は毎日欠かさず空き時間を絞り出し、こうして足繁く通っている。
 それだけ大事と思うことであり、そしてまた、ふたりにとって楽しい時間でもあったからだった。
 そんなふうに考え事をしながら歩いているうちに、いつの間にか部屋の前へとついている。突き当たりでスライドドアが聞き慣れた開閉音を立て、いつも通りの燐光が目に入った。

「今日も邪魔するな、純夏」

 部屋の中央、蒼い光を抱くシリンダーに目を向けながら、武はそう声を掛けた。隣でぺこりと霞が頭を下げる。
 武はそのまま足を止めずにシリンダーのそばまで進み、あごに手をやって軽く首を傾けた。
 今日は何から話そうかとちょっと考える。話題選びにと思い出す今日の出来事。なんだかんだで一番に、今身近でもっとも賑やかな女性の姿が浮かんだ。
 色々と調子に乗ったあげく宗像中尉と雪村中尉の皮肉屋二人から十字砲火を受け、果ては泣きついた先の親友、涼宮中尉からもたしなめられるその様子。
 思わず武の口から笑いがこぼれる。吹き出した息とともに、自然と話も流れ出していた。



 一日に使える時間は短くても、二週間も続ければそれなりにたくさんのことが話せるというもの。『前の世界』や『元の世界』についての話は一段落つき、今は『この世界』での日々の出来事が話の中心になっている。
 武がXM3の教導官として着任してからは、自然この世界で出会った戦乙女たちについて話すことが多くなった。

 教導開始から数日、彼女たちの新OSに対する習熟の度合いは目覚ましいものがあり、その上達、順応ぶりは、武にとって嬉しい予想外だった。
 顔を合わせた最初に武が説明した通り、繊細な操作性能や即応性の向上は無論のこと、XM3の特性、その真価は、従来のそれとはまったく異なる戦術機動概念にこそある。
 『前の世界』の207Bと違い、ヴァルキリーズの隊員達は旧OS機での経験が豊富であるため、染み付いたその経験がかえって仇にならないか、武は気がかりだった。更に言うなら、そもそも自分に教導官など務まるだろうかということも大いに不安だったのだが、幸いどちらの懸念もほぼ無用のものとなった。
 そのふたつともに大きな助けとなってくれたのが、今日も一番賑やかな、と武が連想した部隊の副長、ポニーテールの黒髪が麗しい体育会系の凄腕衛士、速瀬水月である。

 部隊の突撃前衛長として隊内最強の戦闘力を誇る速瀬であるが、今回のXM3慣熟に於いても最高の適性を見せ、技倆の伸長著しいものがあった。
 もともと有り余る運動神経と無手勝流でならす衛士である。『コンボ』や『キャンセル』、『先行入力』といった異世界概念についても、その野生じみた勘でほとんど理屈抜きに呑み込んでみせた。
 その上でそういった新概念がとても性にあったらしく、一刻も早く修得して使いこなすべく一日中訓練に励み、とにかく頭抜けた速度でものにしていったのだ。

 そして、それが部隊全体にとっても大きなプラスとなった。
 まりもの教えようを思い出しながら務めた武の教導も、思いのほか目の届いたしっかりしたものであったが、やはりゲーム仕込みの武が感覚的なものをこちらの人間に伝えるのは簡単とはいかない。そこを自力でどんどん開拓していく速瀬が補ってくれたのである。

 もっとも、そうやって熱中した結果として誰よりも早くレベルを上げると、今度は一転勝負勝負と突っかかりだしたのが何とも。基本的に地味な訓練よりも派手な模擬戦などを好む彼女であるし、強い相手を放っておくことはできないとかで大変かまびすしい。
 雰囲気作りも多少あるかもしれないが、冥夜に一蹴されたのがすごく悔しかったのだろうな、と武は思う。素性不明の相棒についてはちょくちょく問い詰めてくるし、例の模擬戦についてもよくよく見直しているらしい。
 今の冥夜相手に旧OSで一対一。そりゃあ勝てるわけないなと思うのだが、負けず嫌いの彼女の気持ちはわかる。雪辱を果たしたいのも理解できる。しかしそうはいっても相棒の素性を話すわけにはいかず、そもそも冥夜は現在基地にもいないわけで、結局なんやかんやで矛先が武に向いてきたというわけだ。
 武とて衛士として試し合いの類は決して嫌いではない。が、今は忙しいし疲れもあるし、真剣勝負はちょっと遠慮しておきたいというのが本音だったので、詰め寄られるのは少々困りものだった。

 とはいえ、いい話だけで終わらないのは実に速瀬中尉らしいというか、ある意味むしろ安心できることかもしれない。
 『前の世界』で、彼女から胸ぐら掴まれて叩き込まれた衛士の流儀。次の機会、桜の木の下で胸ぐらを掴んできた酔っ払いは、その瞳に涙を浮かべていた。
 はっちゃけていながら、きっと色んなことを考えている。そんなふうに思って、武は尊敬する女性の姿を改めて心に描く。
 伝え語りは進んでいった。


 毎日忙しい武だったが、訓練中やミーティングの時などでしかヴァルキリーズの皆と関わらないというわけではない。食事や休憩などの時間でも、霞と共になるべく一緒に過ごせるよう意識している。
 その中で彼女達──特に『前の世界』で知り合わなかった人達と積極的に話をし、それなりに親交を深めてきた。
 それは戦友として彼女達との距離を縮めたいという素直な思いからでもあったし、衛士の流儀に従って、先に逝く仲間達の命を語り継ぐためということでもあった。すでに間近に迫っている作戦で、誰かが命を失わないとは限らないからだ。
 ただ、そういうことだけではなく部隊の教導官として、また作戦行動を共にする相手として、その気質をよく理解しておく必要があったということが第一の理由になるので、任務の内には違いなかったのだが。

 とにかくそういうわけで、『この世界』で初めて顔を合わせた彼女達のことも徐々に身近になってきており、そういった話題もおみやげ話の内に大きな割合を占めていたりする。

 例えば雪村中尉は生粋の軍人一族に生まれたそうで(なんでも祖父は帝国軍の元中将だそうだ)、幼い頃から彼女も軍人となるべく英才教育を受けてきたらしい。
 けれど生来のひねた性格からか、とは彼女の弁だが、とにかく帝国軍の忠義心とかそういったものにあまり馴染めず、かといって軍人となる以外の道も見い出せず、流れ流れて国連軍に居着いてしまって、今や家族とは疎遠なのだとか。
 彼女はそうした話も冷ややかな毒舌混じりで語り、決して怜悧な態度を崩さない。
 しかしそれでいて伊隅大尉の副官を務めているのは伊達ではないというか、とても気配りの細かい一面も備えていた。

 他の隊員達についてもここまでの何日かで色々と話をし、随分と印象を確かにしてきている。純夏に伝えた話も様々だ。

 詳しい事情はまだよく知らないが、今あまり上手くいっていないらしい高原姉妹のこととか、ひまがあれば昼寝やひなたぼっこにいそしんでいる高坂少尉のこと。麻倉が明るいわりに意外と気弱な性格してることとか、天然極まりないぼけ女、築地の武勇伝の数々とか。
 もちろん伊隅大尉や速瀬中尉ら、旧知の先任達についても同様だ。
 『前の世界』で聞き知っていたこともあれば、あるいは知らなかったこともある。新たな一面も見られたかもしれない。
 着任した日には、歓迎の余興にと風間少尉がヴァイオリンの演奏を披露してくれた。
 『前の世界』ではついに聴くことがなかったその音色。そもそも武には生でヴァイオリンの演奏を聴くなど初めての経験だったが、素人にもわかる素晴らしいものだった。
 夜の桜並木が目に浮かび、細めた視界が思わずぼやけた。
 そんな感動も、できうる限りそのままに純夏に伝えようと言葉を尽くした。

 そういう今の話をしながら、思いつけば『前の世界』や『元の世界』の出来事にも話題を伸ばす。感じた景色を心に浮かべながら、武はゆっくりと話していく。
 もちろん身体を失った純夏にその声を聞くことはできない。武が話しながら心に描いた記憶と想いを、霞が受け取って心伝えにしてくれているのだった。

 そして霞自身も通訳をしているだけではない。
 時折武が話をふって、口数少ない少女も自分の感じたことを語るようになっていた。
 207Bの訓練に参加して、ヴァルキリーズのみんなにも毎日可愛がられて、自分自身の思い出というものに少しの自信が持ててきたのかもしれない。
 たどたどしくも嬉しそうに(武視点)自分のことを話す霞を見ながら、武は優しい想いに目を細めた。


 穏やかな声を響かせながら時間が過ぎる。
 こうして話している間は、壊れかけた純夏の心もわずかなりとも明るく安定をみせているようだ。
 そうした報われる事実があり、話をすることは楽しく、過去を思い描くことは自分の戦う理由を革めてくれることでもあって、短い時間は武にとって貴重なものだった。

 しかし、それでも胸に疼きがはしるときはある。

 こうして話す純夏はまだ生きている。生身の欠片がここにあり、ほんの少しでも想いに動く心がある。
 オルタネイティヴ4完遂のため、その彼女を『殺さ』なければならない。最後の身体を奪わなければならない。
 とうに決めたこと、不可避の事実でありながら、やはりどうしても心にわずかな引っかかりがあった。
 この世界の純夏は、『前の世界』の純夏とも『元の世界』の純夏とも違う。けれど目の前に純夏がいたならば、どんな世界の純夏であっても幸せにしてやりたいと強く思う。そう誓った。
 だというのに、はたしてそれができているのか。過酷な運命を強いる罪を、純夏のためだと誤魔化しているのではないのか。
 そばにいることを気付くこともなかった自分。その命を守ることのできなかった自分。
 報い償う方法が、もっと他にあるのではないのか。

 どうしてもときに浮かんでしまうそんな考え。それをむしろ侮辱だと振り払う。
 たった数日の恋人は「ありがとう」って言い残した。
 その笑顔も、その涙も、強く強く心に焼き付いている。
 結末は悲しかったが、その生命は確かに輝いていたのだ。


 霞が何かを訴えるように、あるいは頷くように武を見つめていた。
 もう切り上げる時間だった。訓練の後に急いで寄ったが、次は夕呼に呼びつけられている。
 気持ちを切り替えて、「また明日な」とひとこと。霞を促して、武は蒼い光に背を向けた。




 さて、ここまでのところは武と霞にとって、この数日特に変わりばえのしない日常の一幕である。
 日々思いを新たにさせてくれる大切な時間ではあるが、ふたり以外の何かに係わるわけでもない。
 思わぬ変化があったのは、この後だった。


 元来た通路を戻って、武が夕呼の部屋に入ろうとしたとき。部屋の中には明かりが点いていなかった。
 呼び出しの時間にはぴったりだったのだが、当の夕呼はまだ来ていないらしい。
 仕方ない、部屋の中に入って待つか。そう考えて武は足を踏み入れ───そこで違和感を覚えた。

 室内に人の気配は感じない。変わったところはない。だが既視感があった。
 武は霞を背中にかばい、身構えながら口を開く。


「鎧衣課長……ですかね?」


 名指した言葉に暗がりで気配が乱れた。感じられた微かな戸惑い。少しの間があって、部屋の奥から歩み出てくる人影がある。
 通路からの光にあらわになったのは、案の定武の知った顔。忘れがたい飄々とした顔だった。今は総戦技演習で基地を離れている美琴の父親、世界を股に掛けて暗躍する凄腕の諜報員───鎧衣左近である。

 『前の世界』では、武が彼に初めて会ったのは11月の末、クーデターも間近の時期だった。比べると、『この世界』では一月近く早い対面となる。
 予想外に早い対面という意味では、月詠らに顔を合わせたときも同じだったが、そのときよりもずっと武は警戒の念を強くしていた。
 あからさまに殺気を発していた彼女達に比べて、今目の前にいる相手は一見穏やかだ。だというのに、その奥には遥かに剣呑なものを感じる。
 武は月詠達のことは知っている。何よりも冥夜のことを大事に思っているという、彼女達の芯の部分を知っている。だが、目の前の男のそれは知らない。何を考えているのか、目的は何なのか、『前の世界』での関わりからは結局何もわからなかった。
 だから『前の世界』では味方であっても、状況の違ってくる『この世界』ではどうなるかわからない。そしてその剣呑な男は、目的遂行の為には実の娘であっても犠牲を厭わず、都合の悪いものは排除するだけだと言い切る覚悟を持った人間なのである。

 怖い相手だった。
 だが、それでいてどこか憎めない相手でもある。
 仲間の父親として敵に回したくないという気持ちもあるし、そもそも美琴をパワーアップさせたような自由すぎる言動は精神的に脅威だった。応じる武にしてみれば、なかなか思いもひととおりとはいかない。


「───シロガネタケル……か。香月博士から聞いていたかね?」

 警戒する武を一瞥して確認し、鎧衣は問い掛けに答えまた問い返す。一見和やかな調子だが、ゆるめた口元とは裏腹に、目がまるで笑っていない。霞が武の裾をぎゅっと掴んだ。
 無理もないと武は思う。表面の戯けた態度に惑わされなければ、その下の静かな圧力がはっきりとわかった。心を読める霞なら怯えもするだろう。
 前の自分はそれもわからなかった。感じた苦さに唇を少し歪め、震えを押し殺して武は答える。

「ええ、帝国情報省外務二課の鎧衣課長。神出鬼没の煮ても焼いても喰えない人だって聞いてます」
「ふむ……そのように評されるとは悲しいな。麗しき博士のためならば、この身を捧げることもいとわぬ覚悟だというのに。我が身の不徳を嘆くべきか……」

 武の答えに肩をすくめて韜晦する鎧衣。しかしそうしながらも足は止めず、武が気付いたときにはもう懐に入られていた。
 身構えていながらあっさりと間合いを割られ、あらためて背を震わす武だったが、さすがに頬を抓もうとする腕は押さえた。あながち演技でもない息を吐いて言う。

「……勘弁してください、本物ですよ。あらためてはじめまして。極東国連軍……んん、香月副司令直属、白銀武です。そちらもオレのことは知ってるみたいですね」
「おお、これは失敬。帝国情報省外務二課の鎧衣左近だ。息子が世話になっているようだね、白銀武君」
「いえいえ、こっちこそ娘さんにはお世話になってます。勘の良さやサバイバル技術はほんとに超一流で、いざというときほど頼れる仲間ですよ。もっとも普段は誰かさん譲りらしい話の聞かなさ加減で困らせてくれますが───」


 なんとか戯言混じりの会話を渡り合う武だったが、軽い言葉とは裏腹に以前より与太話が少ないな、などと考えていた。そして、その分だけ笑顔の下のプレッシャーが強い。
 初めの対応で警戒させたのか、あるいは『白銀武』に関して得てきた情報が以前と違うのか。XM3の件や、まして転移実験のことなどが嗅ぎつけられているとは思えなかったが、この相手だけはわからない。
 そんなことを裏で考えながら、武は適当に会話を引き延ばす。そうしているうちに、ようやく武達を呼んでいたはずの張本人が姿を現した。

 入り口で話している武達を無視して、夕呼は部屋の明かりを点ける。相変わらず散らかった部屋に、地球を象ったオルタネイティヴ4仕様の国連旗が浮かび上がった。
 つかつかと歩いてその旗を背後にし、二人を睨み据える夕呼。

「……あんた達、人の部屋で騒がしいわよ。白銀もそういう不法侵入者はいちいち話なんかせず、さっさと基地の外に叩き出しなさい。いちいち相手するから調子に乗るのよ」
「おやおや、つれないですなあ。博士のご機嫌を伺うために、はるばる地球の裏側から飛んできたというのに」
 あからさまな嫌味にも、鎧衣は全く堪えたそぶりを見せなかった。むしろ楽しげな声で応じる始末で、夕呼はますます眉間にしわを寄せた。

「真面目な話だったら聞いてあげるわよ。こっちは忙しいんだから、さっさと本題に入りなさい。今日は何しに来たわけ?」
 鎧衣は肩をすくめ、両手を広げて残念とばかりに息をついてみせる。
「ふう……潤いに欠けるというものですが、博士がそう言われるなら仕方がない。真面目な話ですがね…………実は最近、大西洋上に伝説の古代アトランティス文明と思───」

 言葉通りに笑みを消し、真面目そうに語り出す鎧衣だったが、最初のつかみを言い切ることもできなかった。
 与太話と判断した瞬間、いきなり夕呼が背を向けたのだ。思わず言葉を止めた鎧衣を尻目に、夕呼は部屋の奥へと歩いていく。
 デスクの引き出しから、黒光りする拳銃が取り出された。
 硬質な音を立ててスライドを操作し、夕呼はそのまま無言で帰ってくる。据わった目でひとことだけ言った。

「───で?」

 鎧衣の薄笑みがわずかに引き攣ったように見えた。
 大西洋上の古代アトランティスとやらは魔法のようにどこかへ消え失せ、一転しっかりと真面目な話が始まる。

 XG-70の引き渡し交渉は順調にいっていること。
 夕呼が行なった国連への打診。そこから推測されるオルタネイティヴ4の進捗。各勢力の反応。
 国連宇宙総軍への糸。工作のほのめかし。

 一ヶ月早いというのに、武達の前倒しのせいで内容は『前の世界』のそれと共通点が多い。重要な話ではあるが、やはり以前と同様に「それだけじゃないでしょ」と夕呼が問い詰めた。鎧衣は珍しく、本当に困ったような苦笑いを浮かべる。

「いやいや、実のところ本当に、香月博士のご機嫌を伺いに来たというのが本音なんですがね。なにしろ最近やけに慌ただしい。何が起こったのかと気になりもするでしょう。それに───」
 一拍置いた合間で横に滑る視線。本当に面白がっているのか、アルカイックな笑いなのか、読めない目で鎧衣は武を見据える。背中で霞が身体をこわばらせた。
「───噂の白銀武を一度見ておこうと思いまして。話してみればなかなか面白い若者だ。ですが、どうも幽霊には見えませんね」
「噂?」
 鎧衣の言葉に夕呼が問い返す。武も少々疑問に思った。死人である白銀武のことを鎧衣が嗅ぎつけているのはおかしくないが、言い回しからして何か妙な雰囲気だ。

「ええ。城内省の情報部が、彼の経歴を洗おうと相当派手に動いてますから。こちらの将軍家縁の娘、その周辺から号令が掛かっているようですが、どうもちょっと尋常でない様子でしてね。彼、一体何をしでかしたんです?」

 ───月詠さん……、何してくれてんだ。

 即座に原因を察して顔をしかめる武。夕呼が横目を寄越す傍らで、空気に構わず鎧衣が続ける。

「しかも埒があかなかったらしく、調査の対象が博士や第四計画そのものになってきてまして……。どうでしょう。計画も順調に動き出したようですし、迷惑なようならこちらからひと声掛けておきますが」
「はっ、よく言うわ。畑違いの連中に出張られて迷惑なのは、むしろそっちの方でしょうが。こっちには関係ないから、やりたければそっちで好きにしなさい」

 出された提案をあっさりと一蹴する夕呼だったが、相手は特に落胆した様子もなかった。当然というように軽く頷き、それでは本題も終わりましたし、と手短に話を切り上げて暇を告げる。
 土産と称して手のひらサイズのモアイ像を武に手渡すと、踵を返して出口に向かった。だが、そこで思い出したように肩越しに言い残していく。

「そうそう。どうやら近く、新潟でひとつ大きな実験をなさるそうで。もしも予言が当たることになれば、情勢が一変することになるかもしれない。期待させていただきますよ博士、それに、白銀武君───」

 最後に置いていった言葉は、まさしく不吉な予言のように殷々と響いた。



 不法侵入者が堂々と部屋を出て行ってから少しして。普段通りに三人が残った部屋で武は大きく息をつき、強張った肩の力を抜いた。
 見れば夕呼も凝りをほぐすように首を回しており、霞はようやく武の裾から手を離したところである。それぞれに理由の違いはありそうだが、誰にとっても疲れる相手であるのは確かなようであった。

 そうしてひと息ついた後、夕呼は思い出したように持ち出した拳銃を机に置く。装填した弾丸を抜く動作はそれなりに板についていて、武は少し驚いた。もしかしたら、ひそかに練習していたのだろうか。
 負けず嫌いだからな、と武が呆れたところで、手ぶらになった夕呼が話を始める。
 元々の用件と、闖入者が置いていった用件。
 といってもちょうど新潟の件で大方重なっており、そう手間が増えるわけでもなかったのだが、さすがに城内省のことは睨まれた。『前の世界』の未来情報を絶対視するわけではなかったが、余計な不確定要素だったことには違いないからだ。
 もっとも、「どうせ向こうがとっくに話を付けているから、これ以上考える必要もないでしょうけど」と夕呼が言うので、睨まれただけで特に対策などは講じられなかったが。


 夜空も見えない地下深く、元ハイヴの懐にあって、武と霞は南洋に戦う仲間達を想う。今このとき、人類の未来に最も近い場所で。
 総戦技演習で冥夜が重傷を負う、その前夜のことであった───








 第七章  払暁の初陣


 2001年11月9日


「───極東国連軍白銀武少佐、本日付をもって、A-01連隊第1中隊長として着任します。今更ではありますが、今後ともよろしくお願いします」


 敬礼とともに発されたその言葉はとても明確な内容であったが、それでも即座に理解できる者は少なかった。いつものミーティングルームに、少しの間沈黙が漂う。戸惑うヴァルキリーズの隊員達を前にして、しかつめらしくしながらも、武は胸の内でため息をつく気持ちだった。
 その様子を、部屋の隅で夕呼が愉しそうに眺めている。
 すぐには質問がこない様子なのを見て、そのまま説明を続けようとする武。階級なしから一気に出世することになって正直戸惑わされたのは武も同じだったが、それでも実情を考えればさほど想定外というわけでもない。
 とはいえ型破りには違いないよな、と武は昨夜のことを思い浮かべた───




 時刻は午後9時をやや回った辺り。武と冥夜は無事『向こうの世界』から帰還した。
 ふたりが実体化するや否や、駆け寄ってくる夕呼の姿。抱え込んだ大荷物に驚いた様子を見せるが、それよりもなによりもと、言葉もそこそこ武から目的の書類をひったくるように受け取ってしまう。あとはもうふたりには目もくれず、貪るように読み始めた。

 夕呼が自分の世界に入ってしまったので、ただいまの挨拶は代わりに霞に告げる。
 「……おかえりなさい」と、少女は夕呼の代わりに迎えてくれた。疲れにかいくらか顔色に翳りは見えたが、ほっとしたような表情は穏やかだ。
 ふたりの存在を捉え続けるために丸一日気を張り続けだったわけで、身体は大丈夫かと武は心配だったが、どうやら『前の世界』のときよりはいくらか余裕があるようだった。
 武の方もほっとして、下ろした大荷物から紙袋をひとつ取り、向こうで選んだ白いうさぎのぬいぐるみを手渡す。
 大きなうさぎを抱きかかえて、少しよろける霞。慌てて冥夜が手を出して支えた。
 ぬいぐるみを抱きしめながらありがとうございますと頭を下げて、その辺りが限界だったらしい。霞はふらふらと実験室に置いてあったソファーに身を横たえた。
 すぐに規則正しい寝息を立て始める。
 ぬいぐるみを抱きかかえた可愛らしい寝顔に、武と冥夜は思わず微笑みを浮かべた。まるで『向こうの世界』の続きのような、平和で穏やかな姿に思えたのだ。
 その眠りを邪魔しないよう、ふたりは音を立てずにそっと離れる。
 そうしてそのまま佇んでいた武と冥夜だったが、しばらくしてようやく夕呼が帰ってきた。今更ながら、ねぎらいの言葉を掛けてくる。

「ふたりともご苦労様。望み通りのものよ。これで00ユニットが起動できる」
「そりゃよかった。でも先生、その割には……」
「ええ、副司令。その割には顔色が優れぬ御様子ですが?」
 やけに淡々とした夕呼の様子に、そろって疑問を口にするふたり。問われて夕呼は軽く息をついた。
「まあ、わかってた結果だしね。さすが私だけあって、最高に興味深い論文ではあったけど、この先山積みの問題を考えるとあまり浮かれる気にもなれないわ。とりあえずは当面の───」

 『前の世界』での喜びようとは打って変わった夕呼の愁いた面。最重要であるはずの00ユニットに関してはひとことで流し、これからのことについて話を進めていく。
 まずは目前に迫っている新潟の作戦について、武と冥夜をどう扱うか。
 そう前置いて切り出されたのが、武を少佐としてA-01の隊長につけるという話だったのである。


「ちょっ、いや、……って、そんな無茶な!」

 寝耳に水な夕呼の言葉に、思い切り動揺する武。
 もちろん最初の対面の際にできるだけ高い階級が欲しいと願ったのは武の方であり、これは数式が手に入った時点で昇任させるという約束通りの話なのだが、正直おまけの願い事だったので半ば忘れかけていたのだった。
 その上伊隅大尉を飛び越して少佐、まして彼女の代わりにA-01の隊長などと、いくらなんでも無茶が過ぎてあっさりと呑み込めるわけがない。
 隣で聞いていた冥夜も似たような態度だ。
 自分のことではないので、武のように取り乱してはいないが、それでもそれはどうかと言葉を添える。
 当然のことだろう。『前の世界』で共に戦った時間は短かったが、伊隅みちるは武と冥夜にとって恩人であり、またこの上なく優れた指揮官であったのだ。
 たとえ別の世界の彼女相手であっても、そうそう代わりが務められるとも、そして務めようとも思えない。

 とはいえ、ふたりが渋っても夕呼は小揺るぎもしなかった。「何よ、あんたが持ち出した交換条件でしょ」とのたまい、もう決まったことだからと辞令を渡してくる。
 顔をしかめつつそれを受け取った武だったが、目を通して思わず呟いた。

「……A-01連隊第1中隊?」
「そうよ。第9中隊ヴァルキリーズはそのまま。別にあんたに伊隅の代わりをやれって言ってるんじゃないわ」

 武の呟きに答える夕呼。見てみれば意外と真剣な顔だ。

「今じゃ中隊ひとつしか残ってないけど、A-01はもともと連隊規模の編成。これまで数が減る一方だったけど、別に増やしたっておかしいことはないでしょう? あんたはそこのお飾り中隊長兼名目上の部隊長。00ユニットの完成が見えた以上、A-01部隊もじき表舞台に出る。そのときあんたを使うのに、このポジションだと色々都合が良さそうなのよ。そういうことだから、部隊指揮をする必要はないわけだけど、まだ何か問題ある?」

 説明する夕呼の目をまっすぐ見返して、武は力なく息を吐いた。どうにも不安な物言いだが、どうやら本気であるらしい。
 その不安の一つに促され、武は隣に立つ冥夜に目を向ける。少し間を置いて一段低い声。

「……先生、そのお飾り中隊はオレ一人ですか?」
「今のところ御剣とあんたの二人編成ね。とりあえず初仕事は新潟になるから」
 何気なく返された予想通りの答えに、武は眉をひそめる。
「冥夜は負傷中ですよ。リハビリに三週間必要なんじゃなかったんですか?」
「あたしの都合で参加してもらう必要があるのよ。走ることはできなくても、戦術機くらい動かせるでしょ? 足はペダル踏むだけなんだから。桜花作戦なんかに比べれば朝飯前の任務でしょうが。そのくらいこなせないんじゃ、この先とても使えないわよ。どう、御剣?」

 そう言って振る夕呼に対して、冥夜は少し押し黙った。垣間見せたわずかな逡巡。けれどすぐに顔を上げて、問題ありませんと答える。
 その横顔に陰りは見えない。しかし、武の胸から不安の雲は晴れなかった。
 確かに夕呼の言う通り、桜花作戦などとは比べるべくもないが、予定される新潟の作戦も決して気楽なものではないのだ。それでも冥夜がそう答えたならばと、武もそれ以上は口を挟まなかった。
 武が同じ立場なら同じように答えただろうし、命懸けなのは皆同じなのだ。むしろ技量や経験からして、初陣となる207Aの仲間達の方が、負傷している冥夜と比べてもなお危うい。そう理性では思える。

 涼宮茜、柏木晴子、麻倉優、高原明日香、築地多恵。
 死の8分。全員が無事であったなら、それはきっと僥倖であるのだろう。
 だがしかし、それでも彼女達に対しては、戦場から遠ざけようなどという考えは浮かびすらしなかった。
 とはいえ冥夜の方がずっと付き合いが長いし、怪我もしているし……最期に引いたトリガーは───




 話しながら頭の片隅に思い出した。
 向かいに並ぶ207Aの面々。
 冥夜はここにいなかったがその時の乱れた思いが連想され、武は回想を中断した。

 絡みついた糸くずのようなもやもやした引っ掛かり。冥夜に対する侮辱だとすら思える不安の種。
 後で考えて解きほぐそうと、あの時は脇に置いたそれだったが、そのまま今まですっかり忘れていた。新しい中隊と部隊長の話から、夕呼が次の話に切り替えて、そちらに完全に気を取られてしまったからだ。
 それはある意味何のことはない話。しかし武にとってはとてもとても重要な話。
 嬉しくもあったし、何かを失くしてしまったような、哀しみに似たものも感じた。
 それはきっと───と武が考えたところで、怜悧な声が掛かる。余所事が遮られた。

「───少佐、表向きの部隊長職であることは理解しましたが、そうすると少佐は作戦には直接参加しないということですか? それとも第1中隊に補充の人員が?」

 いつもの通り、有能な秘書然とした趣をみせる雪村中尉の問い。間近に迫った新潟での作戦において、武の立ち位置についての疑問である。
 今までの様子から、武は作戦に参加するつもりだと理解されていた。
 だが、ここにきて少佐に任官。とはいえヴァルキリーズの指揮を執るわけではなく、かといって指揮下にも入らないのなら、まさか一人で戦場に出るつもりなのか。それはいくらなんでも無謀に過ぎるだろう。
 冷静な言葉の中にそんな意図を感じて、心配されていることを意識しながら、しかし武は軽口混じりで答えた。

「……一人でもやってやれないことはないですけどね。ひとりで戦うわけじゃありません。今のところ補充人員はありませんけど、相棒が任務から帰ってきましたから、第1中隊はエレメントで出ます。相棒が訓練に参加するのが今日だけになるのは問題ですけど、オレの方でヴァルキリーズの力はしっかりと把握しましたから、それに合わせてくれるでしょう。オレ達は遊撃として勝手に戦わせてもらいますけど……大丈夫、一個小隊分くらいは戦えますから足手まといにはなりませんよ」
「…………」

 微笑みながらの返答は充分無茶なもので、質問した方が詰まってしまう。
 だが、武の言葉は冗談のようで重みがあった。冥夜の怪我は心配だったが、それでもなお確かな信頼と自負がある。控えめに言ったからこその軽さなのだ。
 そんな武に釣られたか、雪村も呆れたように口元をゆるめた。

「……わかりました。我々は我々で好きにすればいいということですね」
「ええ。こっちも余裕があれば適当にフォローします。まあ、初陣が慣れるまでカバーするくらいは」
「8分くらいは、ですか?」
「それ以上は過保護でしょう。どのみちBETA相手じゃみんなヤバいのは変わらない」
「……そうですね」
 含みながらの掛け合いがあって、それから少ししんみりとした口調になる。いったん言葉を途切れさす雪村。
 しかし神妙な表情はあまりもたず、彼女はまた皮肉げに口端を持ち上げた。
「ですがなににせよ、あくまで出向いた先に相手がいてこその話……ですからね。どんな与太話が根拠か知りませんが、首尾良く獲物がかかることを祈っておきましょうか」


 部屋の隅に立つ夕呼にも目を遣りながらの台詞。雪村はそれで言葉を止め、夕呼は肩をすくめている。
 武も上司を見ながら息をつき、それから前方に視線を戻す。今までのところで他に誰か聞きたいことは、と首を巡らせた。

 特に声は上がらない。
 今の掛け合いのおかげか、場の緊張も解けている。
 幾人かは何事かありそうな様子だったが、用件は別のことなのかここで手を上げる様子はなく、どうやら新しい少佐の着任については問題ないようだった。
 もっとも、もとより武は仮にも教導官。XM3の性能も衛士としての技倆も疑いようはなく、この十日間教導に関しても十分な働きをみせ、部隊にも溶け込んできた。現場指揮官が替わるわけではないのなら、少佐の地位は特に違和感のあるものではなかったということかもしれない。

 とにもかくにも了解が行き渡ったことを確認した武は、話を明後日に迫った作戦へと移す。


 武と冥夜の記憶に基づいた、新潟でのBETA迎撃作戦。
 この作戦の予定は、オルタネイティヴ4の研究成果によりBETAの行動予測が成立したものとして数日前には部隊に伝えられ、以来それを想定して訓練が行われてきている。
 目的はXM3の対BETA戦における実戦データを収集すること。加えてXM3の有用性を帝国軍に知らしめること。
 部隊の作戦とは関係ないが、もちろん未来情報を利用してオルタネイティヴ4の足場を固めることも含まれる。
 『前の世界』の場合と違い未来情報への信頼性は問題ないわけで、今回はそれを最大限利用するべく、オルタネイティヴ計画権限で真っ向から帝国軍上層部と話をつけてある。その結果、今日の時点で既に防衛線から抽出された帝国軍の迎撃態勢は組まれており、ヴァルキリーズの作戦予定地点には記録、実験用の機材が万全の状態で準備されていた。

 もっとも、今し方皮肉屋の副官が仄めかした通り、帝国軍にはかなり強引に要求を呑ませてあって、その感情はいささか悪化している。もとより帝国軍と国連は不仲の間柄だが、予知が外れた場合、その断絶は更に深くなってしまうだろう。
 武達のループが実はループではないこともあり、これだけ大規模に動くのは博打的ではあるのだが、これまで身近な部分で検証してきた武と冥夜の未来情報は確かなものであったし、どのみち00ユニット完成の目途は立っている。万一当てが外れても、オルタネイティヴ4の失墜などという最悪の事態には繋がらないだろうとの読みがあったのだ。

 なお、今回BETAの捕獲作戦は行なわれない。したがって、『前の世界』では痛恨の犠牲を出した、あの自作自演のBETA襲撃も起きえない。夕呼が『今回』は必要ないと判断したのだ。
 未来の指針がある以上、XM3のデモンストレーションの方が優先度が高いということだろう。
 それにあのBETA襲撃は横浜基地の引き締めが目的だったのだから、何も犠牲を出さずとも代替する手段はある。
 武としては、ある意味心置きなく作戦に臨める状態だった。


 もちろん、それについてはこの世界、今回の作戦には関係のない話。武も表に出しはしない。
 具体的な作戦内容については実際の指揮官である伊隅が担当し、タイムスケジュールや戦場の詳しい情報などが彼女の口から言い渡された。それを聞きながら、武は『この世界』で初めての実戦に思いを馳せる。

 侮りはないが、無用な怯えもまた身のうちにない。微かな恐怖とともに湧き上がってくる静かな高揚。
 いまだ横浜の地にいながら、戦場の空気が近いことを肌で感じる。
 未来は外れないだろう。そんな確信があった。
 守るべきものがあり、勝ち取らねばならないものがある。スライドの地図上に今は遠い戦場を見据え、武は拳を握りしめた───








 2001年11月10日


 夜天にばら撒かれた星々は超然と高みに瞬き、対するに地上では、人工の光の中で人々が忙しく立ち働いている。

 仮設の幕舎に指揮戦闘車両、戦闘ヘリ、更に戦術機を運搬する大型トレーラー───自走整備支援担架などが数多く並び、兵士達が走り回る前線司令部。
 新潟の地、佐渡島ハイヴを望む防衛線の後方に設けられた幕営地は、夜間にもかかわらず騒然としていた。


 その中心からは離れた場所、大分喧騒も薄れた山間のガレ場に、野戦服姿の人影、御剣冥夜の姿があった。
 張り詰めたような厳しい表情で、手に持った抜き身の刀をじっと見つめている。

 どれだけそうしていただろうか。
 夜気の冷たさが段々と身体の熱を奪い取っていく。大きく吐き出した息は白く染まり、鏡のような刀身を曇らせた。
 その様に冥夜はぎりっと奥歯を噛みしめて、いったん刀を下ろす。そこからまたゆっくりと正眼に構えを取り、柄を絞るように握り込む。
 深々と息を吸い込んでピタリと静止し、そうして一転、寸瞬の後には大きく動いていた。

 大上段に振りかぶっての斬り落とし。握りを返して刀を滑らせ、逆袈裟に斬り上げる。
 間髪入れず稲妻の如きに斬撃を重ね連ね、荒く強い呼気が、鋭く風を切る音が響き渡った。
 踏み込みはやや浅いが、それでも傷めているとは思えない、複雑で力強い足捌き。それを追うようにひらめきながら、体捌きは安定して揺るぎない。
 その揺るぎなさに、積み上げた業前の凄まじさが顕れていた。

 そうしてしばしの鬼気迫る舞。
 最後に一刀の突きが放たれた。
 裂帛の気合いが夜の闇を震わせ、冥夜は突き終えた姿勢で動きを止める。
 水平に貫かれた刃も、意思あるが如く空間に静止した。だが。

 ───荒い。

 心中でそう吐き捨てて、冥夜は眉間に皺を寄せる。見事な剣舞も、当の本人からすれば不本意なものだったらしい。
 と、そこで前に出した右足が膝から崩れた。はっとなって、冥夜は思わず地面に手をつく。堅い土の感触は冷たくて、自分の不甲斐なさが思い知らされるようだった。
 それを払い散らすように目をつぶって頭を振る。立ち上がって再び刀を構えた。
 振りかぶり、振り下ろす。振りかぶり、振り下ろす。
 余計な力はいらない。斬線のみを意識して、冥夜はただ一心に没頭した。



「───こんな時でも鍛錬は欠かさないんだな。でも、足は治ってないんだからほどほどにしとけよ?」
「……心配するでない、重々承知している。しかし、よく私がここにいるとわかったな」
「いや、会議が終わったんで出歩いていたらなんとなくさ」
「そうか───」

 背後から声が掛けられたのは、冥夜がもうずいぶん汗を流してからだった。
 近づいてくる気配には気が付いていたのだろう。冥夜は前を見据えたまま自然に答える。
 同じく自然に受け答えた武はその返事に表情をゆるめ、近くに転がる手頃な岩に腰を掛けた。そのままそれ以上は何も言わずに、ただ鍛錬に打ち込む冥夜を見守る。


 冥夜にとってしばらくぶりだったはずの昨日の訓練。武は冥夜の調子を心配していたが、どうやら負傷の影響は最小限で済みそうだった。
 最初こそある程度の違和感が拭えなかったが、XM3は一旦慣れさえすれば、旧OSよりもずっと操縦を簡易なものにしてくれる。機体側の最適化もあって、そう時間もかからずアジャストすることができた。
 だが、それでもやはり不安はあったのか、あるいは何か他の理由なのか、昨日から冥夜の様子が少しおかしい。なんとなく神経質というか、いつも毅然として落ち着いている冥夜らしくないなと武は感じていた。
 そういうわけで、この前線司令部まで出張ってきている夕呼や霞、ヴァルキリーズの皆との詰めを終えたところで、冥夜のことを探していたのだ。

 しかし、こうして今様子を見てみて、特に心配する必要はなかったかと武は思う。
 戦いを前にした昂ぶりからか、普段よりはやや荒く感じるが、冥夜の動きは怪我をしているとは思えぬほど芯の入ったもの。
 一心不乱に素振りを続け、荒い息とともに紅潮した肌から汗を散らし、冷たい夜気がそれらを白く染め上げる。


 武がそばに腰を下ろしてから二百ほどを数え、ようやく冥夜が素振りを終えた。
 刀を鞘に収めて武の隣にしゃがみ込み、取り出したタオルで流れ出る汗を拭う。そのまま無言でうつむいて、そうしているうちに荒れた呼吸も整ってきた。頬に添えられた手に隠されて、その表情は窺えない。
 なんとなく声を掛けかねて、武は夜の景色に目を移した。

 司令部の置かれた一角からはそれなりの距離があり、辺りはしんと静まりかえっている。
 夜空には満天に輝く秋の星々。
 人が飛ぶことを許されない空は、皮肉にも『向こう』のそれより澄み渡って美しかった。
 少しの間目をとどめて、武は果てない深淵に思いを馳せる。

 燦めく星から意識を戻せば、山間に吹く風はそれなりに強く、頬を冷たく撫でていく。
 意識をしてみれば、あらためて感じる少しおかしなことがひとつ。その風が強さのわりにとても静かなことだ。
 山の中だというのに、梢を鳴らすざわめくような葉擦れの音がしない。繁る木々が生み出す含んだような潤いにも欠ける。
 それはまるで、草原を渡る風のような静けさだった。

 だがそれもさもあらん。
 月明かりもない夜の山では目立たないが、今武達が望む景色には風を遮る木々の姿がほとんど存在しないからだ。
 原因は言うまでもなく、BETAの侵攻にある。
 佐渡島ハイヴ建設時に集中したBETA群は、山々の木々も人の街の営みも根こそぎ容赦なくなぎ倒し、その後にも度々の侵攻と帝国側の応戦が繰り返された。
 ハイヴの建設から早三年。結果としてこの新潟に残されたのは、山野を問わず荒れ果てた大地ばかりというわけだ。

 だがしかし、そんな惨状にあっても、ここはまだBETAの支配域ではない。
 蹂躙の爪痕にも、砲弾の惨跡にも、草花の種はたくましく根付いて芽を伸ばす。丈高い木々の姿は見えずとも、そこは決して死の荒野ではなかった。
 武の足元にはガレ場の小石を割って雑草が背を伸ばし、吹き付ける風はわずかでも生命の匂いを運ぶ。
 ハイヴの勢力圏でもなく、G弾の威力圏でもない。守るべき人類の居場所。それは───


「───タケル」


 冥夜から名を呼ばれて、武は考えに耽っていたことに気が付いた。
 押し殺したような重い呼び声。武は思わずはっとなり、慌てて横を向いて問い返す。

「……あっ、ああ……わるい、冥夜。なんだって?」
「…………、いや……」

 こちらを向いていた冥夜は沈んだ顔つきをしていた。目が合った途端、また押し黙ってうつむいてしまう。
 別のことを考えていたせいもあって、冥夜らしからぬその様子にどう対応すればいいのかわからない。
 武はしばらくおろおろして、ようやっとなんとか口を開いた。

「……えーと、その……冥夜。……足の怪我のこと気にしてるなら大丈夫だと思うぞ。充分乗れてたし、今だってあれだけ動けてたじゃないか。BETAをぶった斬るのに何の問題もないって」
「…………そうではない……」
「え?」
「……足のことは支障ない。万全ではないが、戦うには足りる」
 答えを聞いて武は首を傾げ、それからもうひとつ思いついたことを聞く。

「じゃあ先生に言われたことでも気にしてるのか? そりゃ気持ちはよくわかるけど……やっぱり言われたろ。今更気にしてもしょうがない。割り切るしかないことだぜ」
「違う。……いや、それも気にならぬわけではないが……、そうではない」
「それなら───」

 ───それなら何が?
 と武が口にしかけたところに、一際強く風が吹き付けた。
 その風の冷たさに、武は言い掛けた言葉を止める。冥夜が自らの手を顔の前にかざした。

 夜風が纏めた髪を揺らす中、じっと手のひらを見つめる冥夜。


「……震えて、いるな」

 独り言のように微かな呟きは、隣に座る武の耳にも届いた。けれど言葉ははっきり聞こえても、その内容がはっきりしない。
 惑う武の横で、冥夜はその手を握りしめた。苦いような、悲しむようなその横顔。虚空に紡ぐように、弱々しく言葉は続く。

「足の状態に不安はない。……だというのに……怖くて、たまらないのだ。恐怖で……身の裡の震えが止まらぬ。戦うことが、明日、この命を失うやもしれぬことが……。とうに覚悟などできていたはずなのに、一度は死んだ今になって、初めて……自分の命が惜しくなった。死ぬことが、怖くなった……」

 武に話そうとしているような、それとも迷う心が漏れ出ているような、そんな曖昧な言葉の連なり。

「今まで、自らの意思を貫くことこそが……生の意味だと信じてきた。それこそが命の重みだと信じてきた。……いや、その思いは今でも変わらぬ。だが、それでも私は、私こそが、誰よりも……命の意味を軽んじてきたのではないのか……?」

 そこまで言って冥夜はまた押し黙り、力なく細めた目で夜の闇を見つめる。その横顔は憂いに曇り、武もまた得体の知れぬ衝撃を受け息を乱していた。
 通り過ぎる風音だけが時を刻み、そのままどれだけたったか。冥夜がようやく武の方を向く。
 静かな、そして真剣な声音で尋ねた。


「タケル、そなたはあの平和な世界で生まれ育ったのであろう? そなたにとって、帰るべき場所であったはずだ」

 その瞳の悲しさは何を映したものか。

「その故郷を失ってまで、何故そなたは戦うのだ。平穏でいられたはずの自分を捨てて、何故このような世界で命を懸け……戦うことができるのだ? タケル、そなたは───」




[6379] 第七章 払暁の初陣 2
Name: ドリアンマン◆74fe92b8 ID:6467c8ef
Date: 2012/09/16 02:45

「───さて、部隊長の件はそれでいいとして。新潟の作戦についてはここでこれ以上話すこともないから、後は実験の報告をしてもらいましょうか。まずは向こうについた時のことを聞かせてもらうわ。白銀、今回実体化したときはどんな状態だった? 場所は? 向こうの自分との同一化は起こった?」

 武と冥夜が『向こうの世界』から数式を持ち帰った11月8日の夜。
 報酬と称して武に少佐の肩書きを押し付けた夕呼は、用意していた安っぽいパイプ椅子に腰を下ろすと、矢継ぎ早に質問を投げ掛けてきた。

 部屋の過半を占める巨大な転移装置からはすでに電源が落ち、実験室は静寂に包まれている。
 渡されたパイプ椅子に同じく腰を下ろして、冥夜は先程までとはまた表情を変える夕呼を見た。
 興奮気味のその様子はおそらく、話が主に彼女の個人的興味に係わるものだからなのだろう。そういう人なのだと、『この世界』に来てから冥夜にもわかってきていた。

「ああ、それオレも結構気になってました。えっとですね、実体化したときの感じは十日前の時と変わりなかったです。場所も同じ校舎裏の丘でしたし、冥夜もここで用意したときのまま一緒にいました。あと、向こうのオレ達とは別々のままでした。昼間に向こうのオレと冥夜の姿を、この目で確認しましたから。確実です」
「そう……、やっぱりね。御剣の方はどう? 何か身体の変調とか、前回と変わったところはなかった? 足の状態とかが向こうに行ったら変わったとか」
「…………いえ……、特に思い当たるような違いは……。右足も歩くだけなら支障はないといった具合で、変化はありませんでしたが」

 夕呼の質問に武は気軽にすっと、対して冥夜はいくらか考え込んでから答えた。結果として内容の揃った二人の答えに、夕呼は目を細めてふーんと呟き、ひとつ頷いてから話を続ける。

「わかったわ。出力は格段に上げたけど変化はなし。因果情報の干渉もなし。だとすればやはり……いや、まあいいわ。じゃあ次は、今日一日向こうで何をしてきたか、なるべく詳しく報告してちょうだい」
「そうですね。夜明け前に向こうについたんで、まずは予定通り、人目に付かないように学校に忍び込んで先生に連絡を取りました。それで数式を受け取って、あとは昼までこっちのこととかについて質問責めにあって……あ、そうそう! 昼飯は先生に奢ってもらったんですけど、すごかったですよ。横浜のフランス料理店だったんですけどね、まさかまさかで……京塚のおばちゃんのお店でした」
 笑いを含みながらの武の言葉に、注文通り目を丸くする夕呼。

「おばちゃんがフレンチ? あー、まあこっちでも元は横浜で料理屋やってたんだから、わかるっちゃわかるけど……。へえー、フレンチねえ。なんというか……当然おいしかったんでしょ?」
「そりゃあもう。マジですっげー旨かったですよ。な、冥夜」
「む……そうだな。あまりの見事さに驚かされた。しかし、京塚曹長は向こうでも何らお変わりなかったな。……いや、別人だとはわかっているのだが、こう、お人柄が……」
「あっはは、確かにおばちゃんこっちとそっくりだったな。オレの知る限り、向こうとこっちじゃ同じようで結構違いがあるもんなのに。きっと───」


 旧知の人の思わぬ話題に空気が和らぐ。肝っ玉おばちゃんの人徳か、おかげでその後の話は滞りなく進んだ。
 武が朝からの行動を逐一報告し、時折問われて冥夜が印象などを補足する。リラックスした様子の武を横目に、冥夜は今日の一日を思い出していた。
 膝の上、あちらで着替えたジーンズの青い生地に手を這わせる。そのざらついた、けれど質の良い手触り。
 それがなんだかとてもあたたかく感じて、冥夜はほうっと息をつく。両の指先をそっと絡めた。



 ───そう、ずいぶん前のような気さえするが、それはわずか半日前。
 今は静かなこの部屋が、重低音の唸りを上げていた。

 コンソールについた社がその小さな手で機械を操作し、博士が指示を出している。
 私は稼働する装置の懐でタケルの腕に手を絡め、感じる熱とともにその存在を強く心に思い描いていた。
 それだけに集中して、いつの間にか感覚とともに意識が途絶える。次に気が付き瞼を開けたときには、そこにはもう違う場所、違う世界の景色があった。

 足裏に踏む軟らかい土の感触。頬に感じる冷たい風の流れ。ゆっくりと目を開いてみれば、東の空はいまだ夜の暗さに包まれている。
 黎明を待たずに私達が降り立ったのは、以前と同じ、横浜の街を見下ろす小高い丘の上だった。

 違う世界とはいえ、同じ横浜の地。
 だがそうでありながら、その空気はあまりにも違って感じられた。はるかに穏やかで瑞々しく、生命に溢れて感じられた。
 それがタケルの故郷。そんな世界にタケルと時をともにしている。
 それはとても貴重なことなのだと。丘を下りながら、夜明けに差しかかり刻々と色を変えていく紺碧の空に思った。


 まずは何を措いても任務として香月教諭と接触し、目的の物を受け取らねばならない。タケルのおまけにすぎない身とはいえ、人類の未来に関わる任務として私も気を引き締めていた───のだが、結局目的の物は何の障害もなくあっさりと受け渡され、以降半日以上の時間が残されてしまった。

 だが、それを話すと香月教諭は余った時間の多いことを大いに喜び、午前の間は彼女からの絶え間ない質問を受け、タケルと共に話し詰めるはめになった。
 問われ答える中で自然と解ってきた、二つの世界の様々な差異。最も大きく致命的なBETAの存在以外にも、歴史の違いはそこかしこに存在するようであった。
 それだけの違いがありながら、異なる世界に同じ人間が存在していることが不思議に思える。
 『向こうの世界』の香月教諭。とても鋭く、楽しく、そして優しい方だった。
 オルタネイティヴ計画の重責を、そして人類の命運をその肩に背負うこちらの世界の香月博士とは、やはりずいぶん違って感じられた。けれど今こうしてタケルと話す様子をみれば、逆にとてもよく似ているようにも思える。
 そのようなことが何故か面白い。

 その後、教諭に連れられて横浜の街に出てからも、思わぬ人間との出会いが重なった。
 京塚曹長に涼宮茜ら元207Aの仲間達。そっくりだと言えるほど似た者もいれば、大きく印象を違える者もあった。
 違う世界。平和な世界。彼女らとの語らいは、その意味を確かな真実として私に教えてくれた。


 そして餞にと言葉をくれた香月教諭が去り、太陽が中天を過ぎてから。
 それからがある意味、この日の本番だと言えたのかもしれない。

 タケルとふたりきりであちらの世界の横浜、あの者の生まれ育った故郷を歩く。
 何が変わったわけでもないはずなのに、タケルに手を引かれて巡った街の姿には、それまでとは全く違った印象の記憶が残っている。
 なにかふわふわと浮き立つような、ときに地に足がつかず何もかも曖昧だったかと思えば、逆に非常な鮮明さで焼き付いている景色もある。時間はあっという間に過ぎ去った気もするし、あるいはタケルと共に何日もあの街にいたような気もする。
 初めての経験で言葉にしづらいが……ただ、とても、とても楽しかったことは確かだった。

 断片的ですらある記憶の一葉一葉。
 それは陽光に彩られた一面の黄葉であったり、潮風に混じる海鳥の鳴き声であったりした。
 穏やかで洗練され、それでいて活気に満ちた横浜の港。異国情緒に溢れた、騒々しいまでににぎやかな中華街。
 道端の露店で小さな装身具を買い入れ、ビルの合間に歩きながら知らずタケルの横顔を見つめていたり。様々に見慣れぬ風物を眺めては、何であるかと聞いたりしていた。

 そうしているうちに、いつの間にか秋の陽は傾いていた。真っ赤に染まった西の空を川縁に眺め、その後に乗った大観覧車。
 二人きりのその場所で尋ねたこと。とても頬が熱かった。天から見下ろす夜の港。光り輝く夜景。
 一周を終えて、その夜景の一角、一際高く輝いていたビルに立ち入った。
 吹き抜けの大ホールは昼日中のように明るく、内部に華やかな店が立ち並んで混み合う様子は、まるでそれ自体がひとつの街のごとくだった。みやげの品を選んでかなりの時間そこにいたはずだったが、まばゆい輝きに当てられたのか、その間何を話したかよく覚えていない。
 ただ、柄にもなくずいぶんと浮かれてしまったようで、後にしてみれば少々気恥ずかしい思いだった。


 そうして戻ってきた元通りの小高い丘。夜も深まって髪を梳く風もさすがに冷たく、浮き足立った心も落ち着いていた。
 二度と訪れることのないであろう街の灯火をぼんやりと眺める。過ぎ去った熱の後、己の世界とのあまりの違いにもの悲しさすら感じた。
 今日の一日をタケルと思い出し、語り合い、そうしているうちに別れを示す白い光が周囲に溢れ出す。

 私は立ち上がった。最後に目の前の景色をこの目に焼き付ける。
 膨れ上がる光の中に何もかもがぼやけ、消えていって、そして───



「───無事帰ってきた、と、こんなとこですかね。他にまだ聞くことありますか、先生?」


 武の報告が終わっていた。冥夜もまた、半ば沈み込んでいた長い幻視から我に返った。
 目に映るのは元通りの薄暗い実験室。報告を終えた武にとりあえず結構と答えて、夕呼が深く思考に入り込んだところだった。
 その様子に邪魔をしないようにと考えてか、武も口を噤み、何か思いに耽っている。
 そして冥夜もまた、つい先程までその手で触れていた世界の、その温かさと切なさに胸を疼かせていた。

 考えていたのは自分のこと、世界のこと、そして武のこと。

 今日の一日で『別の世界』という言葉を本当に理解できた気がしていた。
 平和という言葉の意味を肌で知り、翻ってその光は、自らが生きる世界の狂気をも浮かび上がらせた。
 たった一日過ごしただけの自分がそう感じるのなら、あの世界で生まれ育った武の思いは如何ばかりだろうか。
 そんな冥夜の思いにしかし答えは出ず、そうこうしているうちに、考えのまとまったらしい夕呼が口を開いた。


「……概ね予想通りではあったけど、なかなか面白い結果だったわ。因果律量子論の補強、あるいは進展に関わることもいくつかある。ま、今後にすぐ役立ちそうなものじゃないけど……。どうする? あんた達に関わりのあることもあるし、聞きたきゃ説明してあげるわよ?」

 抑えているがあきらかに嬉しそうな声音で言う。聞かないと答えても教え込まれそうな様子だったが、それなりに聞いておきたい話には違いない。
 頷く二人に対して、滔々と講義が始まった。


 まずは今回、武達に『向こうの世界』の自分達との同一化現象が起こらなかったことについて。
 これは夕呼にとってはもともと予期していたことだったらしいが、その予想を結果として確認できたことで、現在ふたりを取り巻く並行世界の状況をかなり確定できたという。
 だが、その結論を話す前に前提としてと、夕呼は『前回』武の身に起こった同一化現象の概要について説明を始めた。

 そもそもの話として、本来人間ひとりの存在を確率の霧状態に戻して別の並行世界に送ったとしても、実体化の際に転移した世界の自分と同一化するなどという現象は、通常ならば考えられない。
 確率の霧となった状態から実体を再構成する際に、別の世界からの因果情報の影響を受けて状態が変化する───武自身は認識していないが、『元の世界』で夕呼が築地を猫に変えてしまったそれである───ことはあっても、完全にひとり分の因果情報を、実体を持ったもう一人の人間に流し込んだりするなど無理がありすぎる。確率の霧状態とはいっても、存在の質量は変わらずそこにあり、下手をすれば双方の存在が飽和して自己崩壊を起こしてしまうだろう。
 とはいえ、『前の世界』では現実にその同一化が起こっている。考えられないことが起きたのは何故なのか。その疑問に夕呼は、武の存在としての特異性を原因として挙げた。

 それはすなわち、今の武が無数の世界───『元の世界』の10月22日から分岐した確率世界群───の白銀武から構成要素を集めて形作られた統合体であるという性質である。
 『前回』は、転移した『向こうの世界』が武の出身世界のひとつだった。つまりその世界の白銀武は今の武に構成要素を提供したうちの一人であり、二人に共通するそれを触媒とすることで、二人分の存在情報が一人の人間の中に収まる無理が軽減されたのだ。
 それであっても無理な話は無理な話なのだが、もとより同じ人間が一つの世界に別々に存在するということ自体、世界に過度の負荷を強いるものには違いなく、転移装置の出力増による重ね合わせの強化と併せて、『前回』は同一化という稀な現象が起こったのだ、と夕呼は言う。

 そこで少し話が途切れた。珍しく相手が理解するための時間をしっかりと待ち、改めて夕呼は目を細め二人を見つめた。


「───で、ここからがあんた達、まずは白銀の方に係わる話なんだけど……。今回の転移、実験条件はその『前回』と同様だったはずなのに、結果として同一化は起こらなかった。白銀、何故だかわかるかしら?」
 文字通り教師が生徒に提示するような問題。指名されたのは武だったが、冥夜もまた同じ問いを考えた。
 といっても考え込むほどのものでもなく、今までの流れから簡単に答えは予想できる問題だった。
 慣れない冥夜にも見当がつき、問われた武も戸惑うことなく答える。

「今回オレ達が行った『向こうの世界』は、『前回』オレが壊した『元の世界』でないのはもちろん、オレが知っているはずの───オレの元になったはずのどんな世界とも違う。そういうことですね」
「正解。まあ極めて近い世界ではあるんでしょうけどね。じゃあ次の質問。何故今回あんたは───というか今回じゃなくて十日前、一回目の転移の時ね───その知らないはずの世界を選ぶことになったのか。どう?」

 二つ目の問いは冥夜には難しかった。なにしろ行き先を選んだのは武であるわけで、考えようにも前提となるべき情報が決定的に足りない。
 早々に思考を中断して視線を向けてみれば、武は厳しい顔で眉根を寄せている。似た表情を見たことがあった。冥夜は初めて武とともに『向こうの世界』へ渡ったときのことを思い出した。

「……オレに強い意志がなかったから。あの世界が今どうなってるのか、それを知るのが怖くて、無意識に避けていたから……だから、ですか?」
 沈黙の間に何を思ったのか。武は苦みを呑み込むように答えて、しかしそんな武の深刻さを、夕呼は無造作に一蹴してしまう。
「ぶー、不正解。あんたが実際怖がってたかどうかは知らないけど、それだけなら他に無数にあったはずの別の『元の世界』、あんたの出身世界のどれかに辿り着いたはず。けれどそうはならなかった。それもそのはず。あんたがどれだけ強く思ったとしても、そもそも行く先の世界が存在しなかったからよ───」

 ふたりともすぐには意味をつかみかねた。水面に落ちた波紋のように、言葉がしんと染み渡る。
 残響が消える頃合いで、再び夕呼の唇が動いた。

「わからない? 要するに、あんたが逃げ出してきた『前の向こうの世界』は、今やもうどこにも存在しないってことよ。『前の世界』で聞いた通り、ばらまかれた因果が回収されて、鑑純夏の意思のもとに新しい、全く別の世界として再構築されたから。その際に、あんたの出身となった無数の世界も、全てひとつの世界に統合されたはず。そういうわけであんたの願い事、ひとつは聞いてあげられなくなったわ。なにしろ最初からかなってたんだからね」

 最後には肩を竦めるようにしながら、夕呼は結論をまとめてみせる。それを聞いた武の表情が見物だった。
 夕呼の言葉、その意味を理解するとともに、顰められていた顔から険が取れ、目元口元はほうけたように弛む。衝撃を受けたその様子は、ややあって噛みしめるような淡い笑みへと変わり、最後には何か遠くを見つめるような、哀しげにすらみえる顔に落ち着いた。

 一回目の転移実験で冥夜が並行世界に転移できたことから、『この世界』が『前の世界』とは別の並行世界であること、武達が過去にループしたのではないことは結論づけられていた。しかし、それだけでは『前の世界』や『前の向こうの世界』がどうなったのかまではわからないままだった。
 50億の死を撒いたあの世界を救うという、夕呼との約束。
 命に代えても、いや、たとえどんな地獄であっても生き延びて果たさなければならなかった約束が、今思わぬところで成就を告げられたのだ。想いただならぬことは想像に容易い。

 そんな武を夕呼は黙って見守っていたが、しばらくして落ち着いたと見て取るや、また皮肉げに言葉を掛けた。

「どうしたの、白銀? なんだか嬉しくなさそうな様子だけど。余計なことは聞かない方が良かったかしら?」
「……いえ、まさか。タイミングが一周遅れみたいな感じで複雑なのは確かですけど、あの世界が救われて、先生との約束が果たせて、こんなに嬉しいことはないですよ。ただ、あの世界が救われたってことは、本来関係なかったはずの世界がたくさんそれに巻き込まれたってことですから。純夏がきっと幸せな世界を作ってくれた、って信じられても、色んなことが全てなかったことになってしまったってのは……やっぱり厳しいです」

 全身から力が抜けたようだった武であったが、心配するかのような夕呼の言葉に笑って答える。その笑みは儚げだったが、それでも確かにうそではない。だから夕呼はそう、とひとこと呟いて、そうして自分も含み笑う。
 と、その反応に何かピンときたのか、武はふいと表情を変えた。今更ながら疑問に思ったという顔で質問をする。
「でも先生、とりあえず理屈は解りましたけど、なんていうかそれだけなんですか? いや、因果律量子論とかよくわかんないんでなんですけど、今回オレが同一化しなかったってだけで断言するのは色々と飛ばしすぎなんじゃ……」

 結論は疑ってないけれど、という体の武の疑問。それを受けて夕呼は「意外と鋭いじゃない」と返す。
 聞けば確かに武の感じたとおり、今回の結果は結論付けの傍証、裏付けに過ぎないと言う。詳細は内緒と語られなかったが、あの世界群が無事再構成されたという結論は、今回のそれとは別口の実験から得られたものらしい。
 武はそれ以上のことは聞かなかった。ここで話さないのなら、そうする理由があるのだろう。そんな思いを呑み込んだ、確かな信頼が窺えた。



 ここまでが『元の世界』の話だった。これに関しては係わりがあるのは武ばかりで、冥夜は少々蚊帳の外だったのだが、次の話はそうではなかった。
 今度はふたりがともに当事者である世界のことだったからである。

 すなわちそれは、数限りないリセットとループを繰り返し、その果てに武と冥夜がオリジナルハイヴを落とした『前の世界』についての話。
 『元の世界』と同様に、二人には去就の知れなかったその世界。冥夜にとっては故郷ともなる世界が、無事に閉じた輪から抜け出し、二人が世界から消え去った後も存在し続けている───それもまた確かめられた、という話だった。
 もっとも、『前の世界』が消滅したりループしたりしたわけではないというだけで、その世界の中で人類が窮地にあることは依然変わらず、あの先の未来に何の保証があるわけでもない。
 だが、それでも人類滅亡の崖っぷちからは遠ざかった。
 その後の苦難は残された者の責務だが、少なくともあんた達の戦いは無駄にはならなかったはず。そう言って夕呼はふたりをねぎらった。先に逝った死者として誇りに思えばいい、と。

 そんな話を聞きながら、武も冥夜も知らず『前の世界』のことを思い浮かべていた。
 それは例えば、かつて汗を流した教練の日々であり、搬入される自分達の吹雪を初めて見た時の気持ちなど。
 あるいは冥夜ならば、幼き日に自らの境遇を思い悩んだ夜があったことや、武から渡された古ぼけた人形に涙を流した想いであったりした。
 そしてもちろん、もはや彼らの血肉となっている、先に逝った者達に託されたもの。誇り高い仲間達の生き様が鮮明に思い浮かぶ。

 それらが語り継がれる世界が、今も確かに存在している。もうふたりには関わることの出来ない世界の話であっても、それは確かに嬉しいことだった。
 とはいえ、ふたりの受け取り方にも少々違いがあって、冥夜の場合武ほど明確な理解があるわけではなかったが───その辺りはキャリアの違いかもしれない。

 なににせよ『前の世界』の行く末を知らされて、武と冥夜は安堵していた。何かに一区切りがついたような、ほっとしたような悲しいような、少し気の抜けた時間が流れる。
 そうした空気の中で、夕呼が最後の話を切り出した。



「どう受け取るかしらと思っていたけど……まあ悪くもない様子で良かったわ。何にせよ、これで過去の思い残しには踏ん切りがついたとして、最後は今、『この世界』についての話よ。ふたりとも、ここまで説明した中でひとつ、今のあんた達の状態に矛盾する理屈があったことに気がつかなかった?」

 楽しげに、しかしなにか不安を抱かせもする声で聞かれる。
 三つ目となる問題に、武も冥夜も訝しみながら首を傾げた。揃っての反応に肩を竦める夕呼。

「『二人の人間が同一化するなんて、普通なら考えられない』って言ったでしょ。けど───」
 そう言って意味ありげに視線を動かす。武ははっとなった。
「あ、そうか……今の冥夜は……」
「そっ。今の御剣は、『この世界』の御剣と『前の世界』の御剣がひとつに重なった存在のはず。だけどいかにほとんど違いがなくても、『この世界』と『前の世界』は全くの別物よ。二人の御剣も全く別の存在。白銀のような同一化は起こるはずがない。ならば他の原因があるはずなのよ」
「他の原因っていうのは?」
「……あんた、少しは自分で考えなさいよ。そこが一番面白いんじゃない。脳みそのしわ減るわよ」
 間髪入れず身を乗り出す武に、夕呼は呆れた声で返した。が、憂い顔の冥夜を見て息を吐く。

「ま、いいでしょ。そうね、今はとりあえず御剣の不可解について話したけど、実のところ、白銀が今ここにいることも充分におかしな現象なのよ。だって、『元の世界』が再構築されたのなら、あんたはその新しい世界に帰ってやり直すことになるはずだったんでしょう? なのに実際には、あんたは今ここにいて、平和なんて無縁の世界で戦っている───」

 声の質が変わっていた。重く、厳かですらある低い響きに。
 すうっと細まった眼の光が、まるで透き通すようにふたりを射抜く。

「そのどちらの不可解も、原因は一点に集約される。───オリジナルハイヴよ。あんた達が『前の世界』であ号標的を消滅させたそのときに、ことが起こった」

 武も冥夜も知らず息を呑んだ。かの桜花作戦は、彼らにとっても最も重く、そして鮮烈な記憶を刻まれた戦いであったからだ。
 詰めた呼吸をそのままに続く言葉を待つふたり。だが夕呼はその前に、と別の話を挟んだ。
 それは『一回目の世界』で起こった出来事。
 武が黄昏の世界に流され、BETAとの絶望的な戦いに巻き込まれることとなった、そのそもそもの原因についての話だった。

 発端はBETAの日本侵攻。横浜の地で捕われた、こちらの世界の白銀武と鑑純夏。武は無惨に殺され、純夏は果てない陵辱の末に脳髄だけの姿とされる。
 そして明星作戦における二発のG弾の爆発。それによって作られた空間の裂け目。
 闇の中で、ただ『タケルちゃんに会いたい』という一念だけで存えてきた純夏の意思が、反応炉と繋がることで増幅され、そこに干渉する。すなわち、その空間の裂け目から異世界への道を繋ぎ、統合体となる今の武を自らの元へと喚び出したのである。


「───それが全ての始まり。そして、それと同様のことがオリジナルハイヴで起きたのよ。白銀が引き鉄を引いたその瞬間に、今のこの世界に繋がるいくつかの要因が同時に存在した」
 そこまで話して少し間を取り、夕呼は指を一本立てた。
 内緒話をするように唇の前に寄せ、ふっと息を吹きかける。

「そうね。ひとつはそのとき、御剣が脳の記憶野深くにまであ号標的からの侵蝕を受けていたこと───」
 立てた指をすうっと滑らして、夕呼は自らのこめかみをとんとんと叩く。
「───それは逆に言えば、御剣の意思が超巨大な反応炉であるあ号標的に対して干渉しうる状態にあった、ということよ。脳髄状態で横浜ハイヴの反応炉と繋がっていた、鑑純夏と同じようにね」
 本当にいろんなものが明星作戦の時と似ているのよ、と夕呼は更に指を立てながらその先を続けた。

 二つめの要因として挙げられたのは、停止していたはずのムアコック・レヒテ機関が起こした原因不明の異常臨界現象。
 オリジナルハイヴに貯め込まれた大量のG元素との、未解明の反応現象だと考えられるそれは、G弾の原理と極めてよく似た抗重力機関の暴走現象であり、周囲の空間を歪めるのに充分なものがあると推察される。

 そしてその状況にあって、冥夜が純夏と同様に極めて高い00ユニット適性───この場合因果時空に干渉する攻性の能力と意思力───を持った存在であったこと。

「───そういう条件が揃った中で、御剣の意思がそれらを束ねる鍵になった。最期の瞬間に何を思ったかしら。生きたいと思った? それとも未練があった?」
「…………」
「ま、何にせよ、その全ての要素が今に繋がっているのよ。明星作戦の時と同じように、増幅された御剣の意思が力を持ち、ゆるんだ時空の壁を越えてこの世界への道を開いた───」

 からかうような、面白がるような、それでいて降り積もるように響くその言葉。
 押し黙る冥夜の姿に少し間を置き、夕呼は軽く首を回して肩を揉む。そうしながらくすりと笑いをもらし、改めてすっと目を細めた。

「でも、そうやって道を開いただけなら、今御剣がここにいることはなかったはず。ただ世界を転移しただけでは、肉体の状態が変わることはない。あの時点でBETAに侵蝕されて死にかけだったあんたが『この世界』に流れ着いても、遠からず命を失ったでしょうし、どのみち二人の同じ人間が同じ世界に存在するような不安定な状態は長くは保たない。だからといってあんたの場合、本来白銀のような同一化現象は起こらない。さっき言ったようにね。じゃあ一体何があったのか───」
 その語り口は、段々と表情を冷たくしていった。夕呼はわずかに間を置いて、ちらりと武に目を移す。

「───答えはひとつ。あの時白銀は、あ号標的を消し飛ばすために御剣もろとも荷電粒子砲を撃った。御剣、あんたは奇跡的に生き残ったんじゃない。そのとき確かに……死んだのよ」

 殊更に抑揚の欠けたその一語。
 どうしたわけか、その静かな言葉はとても大きく冥夜の耳に響いた。
 あのときに果たして何を思ったか。死の間際、真っ白な瞬間が脳裏に蘇る。

「塵ひとつ残さず吹き飛んで、あんたは死んだ。けれど幽霊とか霊魂とか、そういうオカルトも馬鹿にしたものじゃないってことかしらね。少なくとも死後の刹那、わずかな時間、その場所に何かが……魂とでも呼ぶべき何かが残った。まあそんな大層なものじゃなく、命の残り火のようなものだったかもしれないけれど……。とにかくその完全に消滅する前の猶予、意識だけの存在になった瞬間に、あんたは唯一の機会を逃さず世界を渡って、この世界の自分に入り込み同化した。肉体という、構成情報のほとんどを失ったそんな状態だったからこそ、ふたりの人間がひとつに重なるという異状が成り立ったのよ。その結果として、幽霊となった御剣冥夜は今もなおここにあるというわけ」
「…………」
「そしておそらく、白銀が『元の世界』に帰れなかったのも、そうやって御剣がこの世界に道を作ったせい。鑑純夏という楔を失ったあんたは、どれだけ望もうと寄る辺ない世界に長く留まることはできなかった。けれど御剣の通した道があったから、最後の瞬間、それを頼りにあんたは『元の世界』の再構成に逆らおうとした。再構成される世界の吸引力は、本来決して抗い得ないほどに絶対的だったはず。けれど御剣が道を通し、あんたがしがみつこうとしたこの世界には、今まさに別の世界から『白銀武』を喚び出そうとする『鑑純夏』の存在があった。本来喚び出されるはずのまっさらな『白銀武』を押しのけて、あんたはその身を『この世界』に滑り込ませた。自分を呼び戻そうとする『元の世界』の力に抗うため、一度は開放されたはずの因果導体になることを自ら選んだのよ。無意識の選択とはいえ、ふふ……まさに因果なことよね……」


 途中から武の方に視線を移し、平坦な声のままに、夕呼は過去の事象を紐解いてみせた。
 それは冥夜と武が行った運命の選択。
 どう反応すればいいのかわからず、ふたりは動けなかった。
 夕呼は左手を額に当て、足を組んだまま蹲るように顔を伏せた。悩んでいるかのように沈黙する間、その表情はうかがえず、そのうちにだんだんと肩が震えてくる。そして。

「……ふふ、ふふふ……、ふ……、あーっははははははは!」

 あろうことか、堪えきれないというように笑い出した。

 愉快でたまらないというような哄笑だった。まったく遠慮なしの高笑いに、重い雰囲気だった聴き手ふたりが呆気にとられる。
 腹を抱えた笑いはそのまま続いて、ようやく収まったときには夕呼はずいぶん息を弾ませていた。

「……はー、久しぶりに笑った笑った。笑いすぎて涙出てきちゃったわ」
 ようやく落ち着いてひとりごちる夕呼に、武がおそるおそる問いかける。
「……あのー、先生。今の話、どこが笑いどころだったんですか? そんな話じゃなかったような気がするんですけど。それともどっきりかなんかですか?」
「どっきり? 何よそれ?」
 夕呼はきょとんとした顔を見せた。

「まあいいか。笑いどころもなにも、あんた達の人間離れしたとんでもなさ加減に笑いが止まらなかったのよ。あと、三人の似た者同士ぶりにもね」
「似た者同士……、三人?」
「それって純夏のことですか?」
「そうよ。あんた達と鑑純夏のこと。あんた達三人は揃いも揃って、『最善の未来を選び取る力』なんて範疇には到底収まらない、途方もない力を示したわ。望むままに因果を歪め、あり得ざる現実すら喚び起こす意思の強さ。しかも面白いのが、三人がそれぞれ望んだこと、それがある面で共通しているってことね。それぞれがギリギリまで追い詰められた、ある意味人生の最後で渇望した無意識の想い。それはあらゆる飾りを剥ぎ取った、あんた達の本質そのものを表していると言ってもいい」
 愉快そうな調子のまま、夕呼は話を進めていく。だが内容は心に切り込むようで、聞く方はただ軽く受け取ることはできなかった。

「似た者同士と言ったのはそのことよ。あんた達は三人とも、最後の想いに己のエゴを通した。誰かのためにとか、まして人類のためになんて考えず、それどころか誰かの願いや存在まで踏みにじって、ただただ自分の都合と欲望のままに世界を枉げた。……話に聞いたあんた達の仲間───伊隅や速瀬や、そしておそらく他の207Bの連中も───状況の違いはあったにせよ、おとなしく死んでいった彼女たちとは大違いもいいところね」

 そこまで言ったところで、またも笑いがこみ上げてきたらしい。言葉を切り、くっくっくっ、と今度は控えめに笑いをもらす。
 死者を引き合いに揶揄するような調子で言われ、武が体を強張らせた。顔を歪めながらも言葉に詰まり、それでも夕呼をキッと睨む。

「……オ、オレはともかく、冥夜には関係ない話でしょう? 死にたくないって思うのの、何がいけないって言うんですか! それだったらあいつらだって、みんなッ……、当然のことでしょう!?」
 声を震わせた詰問にも夕呼は動じない。笑みを浮かべたままにするりと流す。
「そうでもないわよ。少なくとも結果としては犠牲になった相手がいるんだし。それに説明しといてなんだけど、さっきの話は鶏と卵がどうも怪しいわ。時間の前後、因果の順逆が絡み合ってる。ねえ……御剣。あなたが最後に願ったことって……自分が死にたくない、なんてそれだけじゃ、そんなことじゃなかったんじゃない?」
「……それ、は」

 急所を突くような言葉と透き通すような視線に押され、冥夜は答えを返せずに目を伏せた。
 心に浮かんだのは最期の瞬間。白い光に凝縮された時間。
 因果も時空も飛び越えて、何を望み、何を掴もうとしたのか。


「───どうやら覚えがあるみたいね。鑑と違って自我を残していた分、無意識でなくある程度意識的に時空に干渉したのかしら。いずれ実験してみたいところだけど……」
 黙して沈む冥夜を見て、興味深そうに呟く夕呼。武はその言葉を渋い顔で聞き、冥夜も目を上げる。二人の視線を受けながら、ようやく夕呼がまとめに入った。

「もう話もだいたい終わり。『前の世界』や白銀の『元の世界』についてはきれいに片がついた───というより縁が切れたってところだけど、この世界はおそらく、新たに白銀を因果導体としてループに囚われている。『前の世界』と同様なら、鑑が00ユニットとして起動すれば自ずと解決するはずのことだけど、今回はあんた達二人が自分の意思でその環に介入しているわけで……、解放の条件はこれからの課題ね。
 ああ、それと今更だけど、さっきは悪く言ったんじゃないのよ? わがまま執着生き汚さ、むしろ大いに結構、大歓迎よ。今のこの世界は新しい『一回目の世界』。あんた達がおとなしく運命を受け入れて、今ここにいなかったとしたら……あたしの計画に先はなく、人類にも地球にも未来はなく、あげくわけもわからないうちに、いずれ全てをなかったことにされてしまったんでしょうから。───例えいつか、その繰り返しの果てにただ一度のチャンスがあるのだとしても……そんな無為の繰り返し、あたしはまっぴらごめんよ。知ってしまった以上は。だから……『今』チャンスをくれたあんた達には感謝してるわ」

 淡々とした話しはじめから、また軽く笑い含みになり、それからだんだんと研ぎ絞るような響きを加えて、最後には真剣な声音で礼を告げる。
 二人に向けた顔は静かで優しく、自らの無力を呑み込んでなお微笑むような───冥夜にとっては初めて目にする、武にとってはあるいは以前に一度見たかもしれない───そんな邪気のない、透き通った眼をしていた。
 次々に転じる話の流れもあって、冥夜はその場で少し固まる。

「……どうしたのよ」
「……いや、まさかというか……、まるでマジに感謝してるみたいじゃないですか。先生らしくないですよ」
 訝しむ声に、幾拍かおいて武が返す。夕呼は途端に渋い顔になった。
「マジで感謝してるのよ。らしくなくて悪かったわね」
「オレ達まだなんにもしてませんよ? 今からそんなこと言われたんじゃ、むしろ後が怖いんですけど……」
「あんたねえ。人が珍しく、素直に礼を言ってやってるってのに───」


 お決まりの掛け合いが始まっていた。その様子を流し見ながら、冥夜はもつれた話を顧みる。

 無限に存在する並行世界。その数多の世界に存在するという別の自分たち。
 鑑純夏の意思によって造り直されたという武の故郷、『元の世界』のこと。
 過去にして未来。生まれ育ち、戦い抜いたはずの『前の世界』。
 そこで命を落とした。拭えない未練があった。そしてその自分が、世界の理をも変えたという。

 あまりにも常識からかけ離れた、非現実的な話ばかりだった。
 だが、それでは常識とは、現実とは一体何なのか。
 宇宙からの侵略者、BETAによって滅ぼされようとしている地球と人類。平和な、あるいはまともな世界を垣間見た今、その現実を狂っていないと言えるだろうか。
 起こったことは、全て紛れもない現実だった。だから冥夜は考える。理を外れたという最期の刻に、自分が一体何をしたのか。
 おぞましい侵蝕とそこからの解放。凝縮された想いと記憶。不明瞭なビジョンが数知れず瞬いては消えていく。うなじに得体の知れない怖気が走り───そこで夕呼の声に引き戻された。

「───ここまでにしておけば、とりあえずきれいに終わるとこだったんだけど……そんなにあたしらしくないっていうなら、ついでにあとひとつ言っておきましょうか」
 ついでにと前置きながら、それは意味ありげで静かな口調。嫌な予感でも走ったか、武が口を挟みかけるが、夕呼は軽く手をかざして押しとどめた。そしてはっきりと、明確な意思を込めて言う。

「この世界は、あんた達の生まれた世界じゃあない」

 それはある意味で言わずもがなの事実。
 ただ、それが鍵だった。混沌とした何かに形を与えるものだった。
 夕呼がふたりを見据えて先を続ける。

「それは御剣にとってもそうだし、白銀にいたっては二重の意味でね。だからあんた達が今ここにあることは、この世界本来の流れじゃないわ。この世界には、あんた達の代わりに生きている人間がいるはずだった。要するに───」



 それはゆっくりと、しかし途切れなく連なる言葉。
 舞い落ちる雪のように、しんしんと降り積もる不吉な寓話。
 そして、何を変えようもない終わった話だった。

 けれど今夜の話で、その希望のない話が最も冥夜の心に根を張ることになる。
 形のない影は徐々に意味を確かにし、恐怖を絡みつかせて大きくなっていった。



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