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[17259] 【FFT】The Zodiac Brave Story【長編】
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 19:24
はじめまして。湿婆(シバ)と申します。
FFTのストーリーを基にした長編を書かせていただきます。
なるべく原作に忠実に書きたいと思いますが、独自の解釈やオリジナル設定・キャラが多分に含まれると思います。
あらかじめご了承ください。


2012/9/7追記:自サイト開設にともない、全般に段落下げや誤字修正を行いました。内容に大きな変更はありません。以降、自サイトとの同時更新になります。
サイト名:最下層-depth-(FC2ホームページ)





 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 




~デュライ白書を紐解くにあたって~


 イヴァリースには現在に至っても数多の神話や伝承が存在するが、中でも英雄王ディリータ・ハイラルに関する一連の記述は、私の最も興味を抱くところである。彼の輝かしい業績の数々は、自叙伝『ハイラル公記』に詳しいが、その記述は彼が英雄王となったのちの記録が主であり、平民階級出身の彼が英雄王と呼ばれるようになるまでの軌跡に関しては、彼の死後に多くの脚色がなされており、『英雄王の生涯』といったほとんど神話的なものを始め、その多くが信憑性に乏しいものであった。
 しかし、五年前、グレバドス教会が公開したある文書の登場によって、そうした状況は一変した。長らく畏国政府最重要機密文書としてオーボンヌ修道院の地下書庫に眠っていた『デュライ白書』である。私はこの文書の著者であるオーラン・デュライの子孫として幸運にも最初にこの文書に触れる機会を得た。私は五年の歳月をかけてこれを精読し、考察を重ね、その英雄王に関する記述が、獅子戦争の史実と照らし合わせてもなんら矛盾しないことを確認した。もっとも、グレバドス教会が四百年の長きにわたってこの文書を隠蔽し続けてきたという事実からも、その真実性と政治的・教義的危険性は明白であるが。
 あらためて、火刑の憂き目に遭いながらも、純白の真実を後世に伝えんとした我が祖、オーラン・デュライに敬意を表すとともに、全イヴァリース国民が、国史に重大な足跡を残した真の英雄を見極められんことを切に願ってやまない。
 
───畏国暦一四二五年金牛月五日 アラズラム・D・J・デュライ記す











[17259] 序章
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/10/10 10:28


──我ら罪深きイヴァリースの子らが、神々の御力により救われんことを──



 オーボンヌの古びた寺院の屋根には、折から滝のような雨がざあざあと叩きつけていた。
 ここ三日ほど、際限なく降り続いている大雨である。南方の土地ならではの長い雨季ではあるが、続けて三日も陽の目を見ないというのは、陸央に比べて大分乾燥した気候帯に位置するイヴァリース半島では珍しいことであった。
 ラムザ・ベオルブは、廊下の隅の柱に寄りかかって、その雨音にぼうっと聞き入っていた。
 叩きつける風雨は、分厚い石壁越しにくぐもって聴こえる。
 途切れることのないその音は、何故か彼に故郷のライナス河の流れを思い起こさせていた。彼岸が霞んで見えないほどの大河は、さながら海のようで、その清く涼やかな浅瀬の流れのなかで、彼はよく親友のディリータ・ハイラルと泳ぎを競いあったものだった。
 そして岸辺には、その光景を微笑ましげに見守る父の姿があった。父は野駆けの装いに身を包んではいるが、その腰には、父がかつて「ガリオンヌの白獅子」の異名で畏れられ、金色(こんじき)の鎧兜を身につけていた頃と同じように、ベオルブ家秘伝の宝剣レオハルトを提げていた。
 ラムザは、ふと、今は自分の腰に収まっているレオハルトに目をやった。刀身は北天騎士団のそれのような、扱いやすい短いものではなく、彼の身の丈七分はゆうにあろうかと思われる大剣であった。本来なら背に挿してもよさそうなものだが、彼は父がそうしていたように、この長物を腰に提げていた。
「ラムザ……とかいったな」
 言われて彼は、はっとわれに返った。見ると、ルザリア聖近衛騎士団の女騎士、アグリアス・オークスであった。軽装の鎧に身を包み、聖騎士の証である白銀の聖剣を佩いている。その後ろに、彼女の部下とみえる二人の女騎士を連れている。
「なかなかよい得物だな。貴公の家に伝わるものか?」
「……そんなところです」
「そうか。そいつを抜くようなことが無ければ良いのだが」
 一応の準備は怠らぬようにと、あとはそれだけを告げて、女騎士たちはつかつかと奥の礼拝堂に入っていった。
「けっ、ドレスでも着てひらひら踊ってりゃあ、かわいげもあるものを」
 女騎士たちが去ると、そういって不機嫌に罵る声がある。ラムザとは少し離れた石床に一群の男たちが座りこんでいた。彼らは統一感のない革製のキュイラスに身を包み、戦斧だの大鎚だの、各々の身の丈にあった武具を身につけている。
 そのなかに、一対の牛角をあしらった革冑をかぶり、任務中であろうとお構いなしに、腰に提げた酒瓶のぶどう酒を豪快に呷っている鬚面がある。北天騎士団の傭兵部隊を率いている騎士で、名をガフガリオンといった。背には、見るからに恐ろしげな血吸の妖剣を挿している。
「面子はあらかた揃ったみてえだな。それじゃあ行くとするか」
 本来荒っぽい気質に今日はよけいに機嫌が悪いものだから、いっそう手がつけられない。
 神聖な場での狼藉を心中許しがたく思うラムザであったが、雇われの身であることを案じて、黙ってガフガリオンの後に続いた。
 石造りの古い礼拝堂は冷え冷えとして薄暗く、天井は暗闇に呑まれていて、その高みを窺い知ることはできない。正面の壁には、円形に十二星宮を配した巨大なステンドグラスが嵌め込まれ、グロテスクな色彩を放っている。
 中央に置かれた祭壇を前にして、アグリアスと部下の女騎士二人が膝を折って祈りを捧げていた。彼らの前にはさらに二人の人物があった。一人はゆったりとした法衣を身にまとった老司教で、名をシモンといった。もう一人はうら若い少女で、質素な修道衣をまとってはいるものの、それと見てすぐ貴家の息女とわかる気品を漂わせている──現国王、オムドリア三世の異母妹にして養女、オヴェリア・アトカーシャその人であった。ラムザたち傭兵部隊が雇われたのは、ほかならぬこのオヴェリア姫をイグーロスまで無事に送りとどけるためである。
「我らも聖アジョラに祈りを捧げましょう」
 ラムザは小声でガフガリオンに言うと、祭壇に向かって跪いた。傭兵たちは、ラムザの提案にあからさまに狼狽えた様子であったが、ガフガリオンがちっと舌打ちしながらも渋々膝を折ると、彼の子分たちもぎこちなくそれに倣った。
 そもそも、もっぱら己が剣と盾のみを信ずる彼ら傭兵たちにとって、神に祈りを捧げるなどという行為は甚だ馬鹿馬鹿しいことであった。彼らの多くは、主君に見放され、味方に見放され、ついには今まで信じて疑わなかった神にさえも見放された者たちであった。
 ──そういう者たちの中にあって、剣士ラムザはある意味特異な存在であった。彼はまだ若いが、荒くれ者のガフガリオンでさえも、この青年には一目置いていた。それはラムザが、ガリオンヌ領の名門、ベオルブ家の出であるからではなかった。傭兵たちは暗黙のうちに、お互いの過去の詮索はしないことにしているし、もとより彼は自分の姓を偽り、そうとは知れないようにしていた。
 知略に長け、剣の腕も立つが、それ以上に彼はベオルブ家の末弟であること、殊に天騎士の称号を与えられた亡き父、バルバネス・ベオルブの子であることに誇りを持っていた。今は理由(わけ)あって姓を変えてこそいるものの、それによって彼の誇りが損なわれるようなことはなかった。
 そのあたりが、誇りも名誉も捨て、明日の生活のためだけに命を鬻(ひさ)ぐ者たちとは違っていたのかもしれない。


 さて、彼らの無言の祈りは尚も続いた。時折、地面の下で雷のゴロゴロと鳴り響く音がする以外は、礼拝堂の中は静寂そのものであった。
 ──が、その時。
 荒々しい物音とともに、突如として神聖な沈黙は破られた。
 一同、何事かと振り向くと、満身創痍の騎士がひとり、礼拝堂に転がり込んできた。その者は寺院の外で見張りについていた近衛騎士団の剣士であった。総身に矢をうけ、血と泥にまみれている。
「敵が……!」
 そこまで言って、剣士はこと切れてしまった。開け放たれた両開きの樫の扉の外から、嵐の音の他にも、ただならぬ騒音が礼拝堂の内にも聴こえてくる。
「シモン殿、オヴェリア様をお頼みします!」
 真っ先に立ち上がったのは、聖騎士アグリアス・オークスら近衛騎士たちであった。
「アリシア、ラヴィアン、いくぞ!」
 言うが早いか、アグリアスと部下の女騎士二人は礼拝堂を飛び出していった。
「やっと仕事だ。俺たちも女どもに遅れをとるな!」
 ガフガリオンら傭兵部隊も我先に発った。
 後に残された王女オヴェリアと老司教シモンはというと、暫くは事態の急変に茫然としていたが、やがて、王女は再び祭壇に向き直ると、
「皆さまの勝利をお祈りしましょう」
 シモンとともに再び祈りはじめるのであった。


 寺院を出ると、そこはすでに百近い数の敵兵に囲まれており、そこかしこに、赤地に黒獅子の紋をあしらった軍旗が掲げられている。王家の紋章である双頭の獅子の片方、黒獅子の紋章を染め抜いた、南天騎士団の戦旗である。
「ゴルターナ公の手のものか……」
 アグリアスが黒獅子紋の旗を見て呟いた。
 寺院の正門からは、敵が、重装騎兵を先頭に続々と侵入してくる。そのなかで、指揮官らしい騎兵が一歩前に進み出て、
「無駄な抵抗はやめて、おとなしく王女の身をこちらに渡せ!」
 と、聖堂に向かって大声で呼ばわった。騎士アグリアスがそれに応えて、
「畏れ多くも王室に剣をむけんとする者は、我らルザリア聖近衛騎士団が容赦なく切り捨ててくれる! 覚悟せよっ!」
 と、剣を抜くなり敵に向かって跳びかかっていった。そっちがその気なら、と敵もすかさず弓矢で迎え撃ってくる。
「なんのっ!」
 アグリアスは剣で乱箭を払いのけ、敵の面前に躍り出ると、聖騎士剣の一閃を見舞った。剣先から稲妻かと見紛うほどの閃光が迸(ほとばし)ったかと思うと、派手な音をたてて数名の敵兵が一度に吹き飛ばされた。人間離れしたアグリアスの剣技を目の当たりにして、寄せ手はあからさまに怯んだ。
「女相手にびくついてどうする! かかれッ、かかれッ!」
 指揮官に叱咤されて、さらに数名の騎士がアグリアスにうちかかっていったが、彼女が一度、二度と剣を振るう度に敵は片っ端から打ち払われていく。
 敵中に舞を舞うがごとき女騎士たちの戦いぶりを見て、騎士ガフガリオンも、
「こっちも金がかかってるンだ! ものども続け!」
 と、戦いの真っ只中に雪崩れ込んでいった。
 その傭兵部隊の活躍も、また目覚しいものであった。ラムザも、ガフガリオンとともに先頭に立って戦った。 異様な妖気をまとったガフガリオンの暗黒剣は、剣を受けた敵の生気を次々に奪い取っていく。ラムザのレオハルトも、うなりをあげて敵の鎧兜や盾を打ち砕いていったが、不思議と刃こぼれひとつしなかった。
 近衛兵は王室の誇りをかけて、傭兵は報酬をかけて、と各々その目的は違えど、皆懸命に戦ったので、兵力の差はまったく問題にならなかった。鉄壁の守備部隊を前に恐れをなし、逃げ出す敵の数は知れなかった。
 雨中、戦闘は小一時間に及んだ。
 ラムザは正門の近くで戦っていたが、その最中(さなか)、どさくさに紛れて寺院に近づこうとしている敵兵を見逃さなかった。
「おのれ、小癪(こしゃく)な!」
 ラムザは一刀のもとに、その敵兵を切り伏せた。
 ──その時。
 開け放たれた寺院の扉の内から、甲高い悲鳴があがった。
「しまった!」
 彼は寺院のほうを見た。アグリアスも悲鳴を聞き逃さなかった。
「オヴェリア様!」
 二人は一目散に寺院へ向かった。 
「手を離しなさい! 無礼者っ!」
 二人が寺院に駆け込むと、礼拝堂の中で王女の声がする。また、
「ええい、おとなしくしないか!」
 と、もうひとつ男の声もする。その声を聞いて、ラムザはなにか妙な感覚にとらわれたが、深く考えている暇はなかった。アグリアスとともに礼拝堂に飛び込み、見ると、シモン司教が祭壇の前に力なく倒れ伏している。護衛に残った手数も、ことごとく物言わぬ骸となり果てている。
 そして、礼拝堂の奥にある裏口から、金色(こんじき)の鎧を身につけた騎士が、ぐったりとした王女を抱きかかえて、今まさに逃げ出さんとしていた。
「待てっ!」
 アグリアスが叫ぶと、騎士は、ちらと二人のほうを見た。
 ──刹那。
 稲光に照らされて、男の半顔が浮かび上がった。
「!」
 ラムザはその顔を見て驚愕した。
(ディリータ……?)
 騎士はすぐに向き直って飛び出していった。
「おのれ!」
 アグリアスは騎士の後を追って裏口から飛び出した。
 ──が、時すでに遅し。
 騎士の姿は、もうそこには無く、ただ、寺院の裏手にある森の中から、チョコボの蹄の音が遠ざかっていくのが聞こえた。アグリアスは茫然と、その場に立ちつくした。
「オヴェリア様……」 
 ──王女は奪われた。
 アグリアスは、すぐさま部下を引き連れて騎士の後を追ったが、とうに彼の行方は知れなかった。


「むぅ……してやられたか」
 寺院を包囲していた敵は、目標を果たしたとみるとすぐに撤退したらしい。戦いを終えた傭兵たちも礼拝堂に戻って来て、状況を察したガフガリオンが唸った。
「悔やんでも悔やみきれん」
 シモン司教は後ろ頸を押さえながら言った。彼もまた姫を奪われまいと抗ったというが、例の騎士にしたたか打たれて気絶させられてしまい、今しがた目を覚ましたところであった。
「よもや、こうも易々と姫の御身をさらわれようとは」
「……申し開きの辞もございません」
 アグリアスも口惜しげに唇を噛んだ。
「けっ、暢気に祈りなんて捧げてないでさっさと姫君をお連れすりゃよかったンだ」
 荒々しい北方訛りで、ガフガリオンがふてぶてしく言った。
「貴様……敬尚の志無き者に神の救いは無いと思え!」
 その髭面をねめつけて、近衛騎士のラヴィアンが彼の不敬の言を咎めた。
「なら、せいぜい祈り続けるンだな。それで姫君が戻ってくるなら苦労はしねぇ」
「貴様……!」
「なんだ? 小娘風情がこのガフガリオンとやり合おうってか?」
 ラヴィアンが剣の柄を握ったのを見て、ガフガリオンは威圧的に前へ進み出る。
「ラヴィアン! 止さないか!」
 アグリアスは、半ば剣を引き抜こうとしていた部下の手を抑えて、一喝した。
「聖地を血で汚す気か。それこそ不敬というものだぞ」
「……くっ」
 アグリアスに諌められてラヴィアンが引き下がると、ガフガリオンは不機嫌に鼻を鳴らして、部下の者どもを引き連れて礼拝堂から出て行ってしまった。ラムザも、愛想がつきたとばかりに嘆息し、その後に続いた。
「ああいう連中の言うことをいちいち気にとめることはない」
 去っていくガフガリオンの背を、今にも切りつけてしまいそうな剣幕で睨みつけているアリシアとラヴィアンを見兼ねて、アグリアスが言った。
「あのような不敬の輩の力を借りる必要などありません。我ら近衛騎士団のみでオヴェリア様をお救いいたしましょう!」
 アリシアも熱っぽく言う。
「できることならな。しかし、我らは南天騎士団を敵に廻してしまっているのだ。今は味方がひとりでも多いほうがよい。たとえそれが、ならずものの寄せ集めであってもな」
 常は冷静に沈んでいるアグリアスの眸にも、今日ばかりは悔しさの色が滲み出ているのを見て、部下の二人もさすがに口を噤んだ。


 寺院の外は、風は幾分収まったものの、相も変わらず海をひっくり返したかのようなどしゃ降りであった。傭兵たちは、寺院の裏手に林立する松の大木の枝に雨避けの布を張って、夜営の支度をしていた。
「これからどうするのです」
 ラムザは松の木の根本にもたれ掛かって、酒に浸っているガフガリオンに問うた。
「どうもこうもねえ。俺たちの任務は姫君をイグーロスまでお連れすることだった。その姫君が敵に連れ去られたンだ。任務は失敗だ」
 ガフガリオンはそう言って酒瓶をひといきに飲み干した。報酬が望めないとなると、騎士ガフガリオンの不機嫌はまさに頂点に達していた。
「ここからは契約外だ。あとはお嬢様方の好きにさせればいい」
「…………」
 ラムザは王女を連れ去った騎士のことを考えていた。
(あの男は間違いなくディリータ・ハイラルだった。しかし、どうして彼が南天騎士団に?)
 ラムザは夜営の火を見つめた。
 一年前の、あの夜。
 しんしんと雪の降るなか、堅牢な石造りの砦は燃え盛る焔に包まれていた。
 その光景が、今も彼の瞼の裏に焼き付いて離れない。
 あの時、ディリータ・ハイラルはその火中にいた。そして、その場にいた誰もが、ディリータを死んだものとみなしていた。
 ──ところが、今日。
 ディリータ・ハイラルは再び自分の前に姿を現した。かつて兄弟の契りを結んだ友は、あの業火の中を生き抜いていたのである。
「おい、ラムザ。どうかしたか?」
 ガフガリオンが酒瓶の入った木箱をまさぐりながら言った。彼の周りには、空になった瓶がいくつも無造作に転がっている。
「あっ、いえ、なんともないです。ただ……」
 ラムザは、つと目を横にそらした。
「ただ、オヴェリア様を連れ去った騎士のことを考えていたのです」
「なんだ、お前、心当たりがあるのか?」
「……ええ」
 ラムザは口ごもった。
 今日再びまみえた友の姿は、亡霊でも幻影でもなく、ディーリータ・ハイラルそのものであった。しかしその姿は、ラムザのよく知っているそれでありながら、どこか違っているような気もした。
 彼は過去と決別したのであろうか。
 それとも──
 やがて夜は更け、酔いつぶれた傭兵たちは思い思いな場所に身を投げ出して、深い寝息を立てていた。
 雨足はいったん遠のいたようである。
 ラムザはひとり夜営の残り火の前に屈み込んで、相も変わらず思案に暮れていた。
 ラムザはガフガリオンの木箱から傭兵部隊御用達のランベリーを一本取り出すと、それをいっきに飲み干した。
 赤葡萄の芳醇な香りが鼻腔を満たし、俄に肢体が火照ってきたが、ラムザは全く酔いを感じないどころか、かえってその頭は冴えるばかりであった。暫くじっとしていたが、様々な考え事が頭のなかを渦巻いて、一向に気分は晴れないので、ラムザはその場にどっと身を横たえた。
 そのまま目を閉じると、森の木々のざわめく音や、蛙の鳴く声などが、いやに大きく聞こえる。
(ディリータ……君は今、どこへ向かっているんだ?)
 やがて、疲労の波に呑まれるようにして、ラムザはゆっくりと夢の中へ沈んでいった。


 目の前に、一面に広がる草原が、晩秋の夕日に照らされて黄金に輝いている。
 ラムザとディリータは、窪地の斜面に腰かけ、例えようもなく美しい夕焼に見とれていた。
「きれいだな。ティータもどこかでこの夕日を見てるのかな……」
 ディリータが言った。
 ラムザは暫く無言で夕日を眺めていたが、ディリータのほうを向くと、
「大丈夫だよ、ディリータ。ティータは無事さ」
 と、答えた。つかの間、二人の間に沈黙が流れた。やがて、ディリータが、おもむろに口を開いた。
「違和感は感じていたさ。ずっと昔からな」
 そう言って、ディリータは目を閉じた。
「どんなに頑張っても、くつがえせないものがるんだな……」
 ラムザは答えに窮した。友の痛みは、誰よりもよく分かっているつもりだった。しかし、いざその苦痛を言葉にされると、現実は否応なく彼の前に立ちふさがるのであった。
「そんなこというなよ。努力すれば……」
 そう言って、ラムザは目を逸らした。
 ──努力? ディリータは、誰よりも努力してきたじゃないか。それこそ、血のにじむような努力を。
 再び、気まずい沈黙が流れた。
「努力すれば将軍になれる?」
 ディリータは自らに問いかけるようにして言った。
「この手でティータを助けたいのに、何もできやしない。僕は"持たざる者"なんだ」
「…………」
 ラムザには何も言えなかった。父上ならこんな時、何と言われるだろうか。
 二人はそうして暫く、沈みゆく夕日を眺めていた。巣に帰る野鳥の群れが、夕日を背に、悠々と飛び去っていく。風は少し冷たく、冬の気配が、すぐそこにまで迫っているのが感じられる。この地方では、そろそろ初雪の降るころである。
「おぼえてるか? 父上に教わった草笛を」
 ディリータは、足元に生えている雑草の葉をひとつむしりとると、それを器用に丸めて、口元に押し当てた。ツー、と小気味よい音をたてて、草笛が鳴った。ラムザもそれに倣って、葉をむしりとると、草笛を作って鳴らした。ラムザの草笛は、少し上ずった音がした。
 二人は笑みを交わすと、交互に草笛を吹き鳴らした。
 ツー、チー、ツー……
 さながら二羽の小鳥が互いを呼び合うように、二人の草笛はいつまでも鳴り止まなかった。



[17259] 第一章 持たざる者~1.骸の騎士
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:45
~第一章の主な登場人物~

ラムザ=ベオルブ・・・名門ベオルブ家の三男。本作の主人公。
ディリータ=ハイラル・・・ラムザの親友。後の「英雄王」。
バルバネス=ベオルブ・・・ベオルブ家の棟梁。天騎士の称号を持つ五十年戦争の英雄。
ザルバッグ=ベオルブ・・・ベオルブ家の二男。北天騎士団長。
ダイスダーグ=ベオルブ・・・ベオルブ家の長男。イグーロス執政官。
アルマ=ベオルブ・・・ベオルブ家の長女。ルザリア王立女学院に通う。
ティータ=ハイラル・・・ディリータの妹。アルマの親友。
ウィーグラフ=フォルズ・・・「骸旅団」の首領。
ミルウーダ=フォルズ・・・「骸旅団」の一員。ウィーグラフの妹。
ギュスタヴ=マルゲリフ・・・「骸旅団」の参謀。
アルガス=サダルファス・・・ランベリー領出身の見習い騎士。
ウルフ・・・幻の聖竜を探して旅する放浪の騎士。

~黄道十二宮暦(Zodiac Calendar)~

1月→磨羯月/カプリコーン・山羊座
2月→宝瓶月/アクエリアス・水瓶座
3月→双魚月/ピスケス・魚座
4月→白羊月/アリエス・牡羊座
5月→金牛月/タウロス・牡牛座
6月→双児月/ジェミニ・双子座
7月→巨蟹月/キャンサー・蟹座
8月→獅子月/レオ・獅子座
9月→処女月/ヴァルゴ・乙女座
10月→天秤月/リーブラ・天秤座
11月→天蠍月/スコーピオ・蠍座
12月→人馬月/サジタリウス・射手座




 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 



 ──オーボンヌの襲撃事件より時を遡ること約一年。
 畏国歴一〇二〇年双児月四日、父バルバネスが病に倒れたとの知らせを受けて、ラムザ・ベオルブは、サドランダ街道を西へ向かっていた。
 ベオルブ家の邸があるイグーロス城下までは、魔法都市ガリランドからチョコボ(チョコボというのは、屈強な足を持つ陸鳥のこと)の足で三日はかかる距離にあったが、ラムザは不眠不休で軍用の黒チョコボを駆り続け、一日にして、すでにマンダリアの丘にさしかかろうとしていた。
 マンダリア平原は、ガリオンヌ領の南部に広がる大草原地帯で、街道はマンダリアの丘と呼ばれる小山の頂を通り、麓を流れるライナス河へと続いていた。さらに、大河に架かるカシェ大橋を渡れば、イグーロス城はもうすぐ目の前である。
 マンダリアの丘の頂には古い砦の跡があり、そこの古井戸からは、まだ滾々と清水が湧き出ていて、街道を通る旅人たちの恰好の休憩場所となっていた。もっとも、近頃では「骸旅団」をなのる盗賊の輩が国中のいたるところに出没し、暴虐の限りをつくしていたから、行商人などの姿もすっかり見られなくなっていた。
 午後の日は、すでに西に傾きつつあった。街道は緩やかな上り坂となって、頂につづいている。
 頂に近づくにつれ、チョコボの歩みが少しずつ遅くなっていった。丸一日走らされていたせいで、持久力に優れた黒チョコボも、さすがに息が上がってきたとみえる。
(これ以上は無理か……)
 ラムザは、例の古砦でチョコボに休息をとらせることにした。彼自身も、慣れない遠駆けだったので、だいぶ疲労を覚えていた。ラムザは鞍から降り、手綱を引いて歩き出した。
 しばらく行くと、砦の外壁が見えてきた。古い石作りの壁は、ところどころ崩れ落ちていて、周囲の岩とさして見分けがつかなくなっていた。
「む……?」
 一瞬、ラムザは、その外壁のところで人影が動いたように見えたので、ふと歩みを止めた。
 ──その時。
 ひゅん!
 と、一本の矢がラムザのすぐ脇をかすめていった。
「!?」
 続けざまに、二本、三本と、矢はうなりをあげて飛んでくる。と、そのうちの一本がチョコボの羽に刺さった。驚いたチョコボは、逃げ出そうとして、どこにそんな力が残されていたのか、とにかくものすごい力でラムザを引っぱったので、ラムザは思わず手綱を離してしまった。
「あッ……」
 という間に、チョコボは、ふもとの木立のほうへ駆けていってしまった。
 なおも飛んでくる矢を避けつつ、ラムザは道端の岩に身を隠した。見ると、抜き身の剣を持った数人の男が出てきて、
「北天騎士団か!」
「いや、ひとりきりだったから、ただの旅人かもしれん」
「しかし、あの黒いのは軍隊のやつだぞ」
 などと口々に喚きながら、こちらに向かってくる。
「まずいな……」
 多勢に無勢である。しかも相手は、かの悪名高き骸旅団かもしれない。隙をみて逃げ出すしかない。
 ラムザは剣を抜き、片方の手に石(いし)礫(つぶて)を握った。
「やい、そこにいるのは分かってんだ! おとなしく出てきやがれっ!」
 男が岩を覗き込もうとしたところに、ラムザは、
「えいっ!」
 と、石礫を見舞った。
「ぎゃっ!」
 ラムザの石礫は見事に男の顔面をとらえていた。男は、鼻頭をおさえて屈みこんでしまった。相手が、ラムザの意外な反撃に気をとられている隙に、彼は一目散に丘を下っていった。
「あっ、しまった、逃げられたぞ!」と、盗賊どもは逃げるラムザを追ってくる。ラムザも、捕まるまい、と懸命に走った。
 しかし、逃げることに夢中になるあまり、彼は足元がおろそかになっていた。次の瞬間、
 どすん!
 何かに足をとられて、派手にすっ転んでしまった。彼はそのまま、ごろんごろんと転がり落ちていって、木立の木にしたたか頭をぶつけた。
「痛ッ……!」
 天が地に地が天に、ラムザの目はぐるぐると回った。彼は頭を左右にふってから、見ると、追っ手がすぐそこにまで迫ってきている。
(これまでか……)
 と観念しかけたときだった。先ほど躓いたあたりの草むらから、何かがむくっと起きあがって、追っ手の前に立ちふさがった。なんとそれは、人間の男であった。
「なんだ、貴様は!」
 賊が問うと、
「なんだとはなんだ! 人がいい気持ちで昼寝をしていたというのに!」
 みすぼらしいなりをした騎士らしき男は、盗賊たちを睨みつけた。
「うるさいっ、俺たちを骸旅団と知ってかっ!」
 言うなり、賊の一人が男に切りかかっていった。
「ええい、面倒な奴らだ」
 男は賊の剣をひらりとかわし、鞘に収まったままの剣の柄で相手の鳩尾(みぞおち)をすとん、と打ちつけた。すると、賊の体は糸を切られた操り人形のように、その場に崩れ落ちてしまった。
「ム、こやつできるぞ」
 男の手際よさを見て、賊たちは用心して、安易に手を出そうとしなかった。一部始終を見ていたラムザはというと、頼もしい助っ人の登場に心から感謝していた。
(この隙に……)
 ラムザはそっと立ち上がろうとした。
 ──が、その時。
 頸すじに何か冷たいものが走るのを感じて、彼は動きを止めた。見ると、彼の頸に剣が宛がわれている。
「動くな」
 冷ややかな女の声がして、木の陰から、ひとりの騎士が姿を現した。その後に続いて、数人の弓使いが現れた。
 助っ人の方はというと、俄に現れた弓兵に囲まれて、こちらも身動きがとれないでいた。男はぐるりと周囲を見回して、こちらが不利とみるや、
「あはは……参った。このとおりだ」
 と、あっさり剣を投げ捨ててしまった。

 
 囚われの身となった二人は、古砦の柱に縛り付けられていた。
「貴様ら、北天騎士団の斥候かっ!」
 大柄な騎士が、二人の捕虜にむかって大声で怒鳴りつけた。他にも数人の、いかにも屈強そうな戦士が、二人を囲んで睨みを利かせている。
「違います! 私は、父が病に倒れたという知らせをうけて、イグーロスに向かっていたところです。この人は、たまたま、あの場所に居合わせただけの、旅の方です。断じて北天騎士団の斥候などではありません!」
 ラムザは毅然として言った。
「そうだ! そのとおりだ!」
 と、男も同調する。
「何とでも言うがいい。ともかく、ミルウーダが戻るまでは、ここにいてもらうからな」
 騎士は、フンッと鼻を鳴らすと、仲間を引き連れて行ってしまった。
 ミルウーダとは、あの若い女騎士のことだろう、とラムザは思った。彼女は、捕虜の尋問を部下の者に任せて、自身は偵察に出ているらしかった。
「やっかいなことになっちまったな……」
 独りごちて、男はうなだれた。
「申し訳ありません。私のせいであなたを巻き込んでしまって……」
 ラムザが詫びると、
「いや、気にすることはないさ」
 と、男は苦笑した。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。俺の名はウルフ。よろしくな」
「私はラムザです。こちらこそ、よろしく」
 やがて、日が暮れた。
 砦の中には、見張り番の骸旅団の賊たちが、焚火を囲んで、各々酒を飲んだり、楽を興じたりして、思い思いにたむろしていた。大方の者が騎士の身なりをしているが、中には長いローブを纏った魔道士らしき者もいる。ただ、全員が一様に、マントやローブなどに、骸旅団の結束の証である、兜をかぶった髑髏の紋章を縫い付けていた。 
「全員落ち武者、か」
 盗賊たちの夜宴を遠目に見ながら、ウルフが、ぼそっとつぶやいた。
「え、なんです?」
「どいつもこいつも落ち武者だって言ったんだ。前(さき)の五十年戦争で、骸騎士団は平民の義勇兵として貴族のお坊ちゃま方以上の働きをしたのに、結局畏国は負けちまって、戦争が終わったとなりゃ、もう用済みだといわんばかりに、ぽいっ、だ。そりゃたまったもんじゃないだろうさ。お前ら貴族のために死んでいった仲間の命はどうなるんだ、てね」
「…………」
「あんたもどこぞの貴族の御曹司か知らんが、奴らの怒りは本気だ。ただじゃすまないかもな」
 ラムザには何も言えなかった。この男が何者なのかは知らないが、おそらく言っていることは正しいのだろうと思った。このままいくと、本当に身包みはがされて、彼らの恨みの剣で八つ裂きにされてしまうかもしれなかった。
 砦の屋根は、とうの昔に焼け落ちてしまったのか、見上げると、雲ひとつ無い満天の星空である。その星のひとつひとつが、ラムザを恨みのこもった目で見下ろしているような気さえした。
 ──僕はちがう。いや、誇り高きベオルブの家の子は、貴族という身分の安寧の上に胡坐(あぐら)を掻くようなことは断じてしない。
 戦争中、ラムザの父バルバネス・ベオルブは、絶体絶命の窮地に陥っていたところを骸騎士団の義兵に救われたことがあった。その義兵こそが、ラムザの無二の親友である、ディリータ・ハイラルの父、オルネス・ハイラルであった。彼は、撤退するバルバネスの本隊の背後を守る、殿(しんがり)の役目を自ら買ってでたのである。殿は必死の役目であった。バルバネス配下の将の中にも、この役目を敢えて引き受ける者はなかった。
 しかし、オルネスは見事にその役割を果たし、骸騎士団の同志たちと、そろって討ち死にした。バルバネスは、殿部隊の全滅を聞き、陣中にあって大いに涙したという。
 イグーロス城に無事の凱旋を果たすと、バルバネスは全軍の指揮権を子のザルバッグに委ね、自らは第一線から退いてしまった。
 戦争がおおよその終息をみた後、バルバネスは名も無き戦死者たちの御霊(みたま)を弔うために、各地に碑を立て、残された妻子の生活の糧にと、ベオルブ家の財を惜しまずなげうった。譜代の重臣やラムザの兄たちは、さすがにやりすぎではないか、とバルバネスを諫めたが、彼はまったく耳を貸そうとしなかった。
 そんなさなか、バルバネスはついにオルネスの子を探し当てた。その子──ディリータとティータの兄妹は、病で早くに母を亡くしており、父も戦死してしまったので、どこにも身寄りが無かった。バルバネスは自らガリオンヌ領内の寂れた農村に赴き、幼いふたりの兄妹に、父オルネスの忠義を説いて聞かせた。
 そしてついに、
「この子らはベオルブ家が引き取ることにする」
 と言って、イグーロスの邸にハイラル兄妹を連れ帰ってきてしまった。
 これを聞いた臣下の者どもは色を失い、長兄ダイスダーグも、
「お戯れもほどほどになさってください」
 と、諫めたが、
「なに、わしが手ずから、この子らを貴族の子にも負けないほど優秀にしてやるから、案ずるな」
 そういって、息子の諫言を笑い飛ばしてしまった。
「父上の器の大きさは測り知れん」
 ダイスダーグは驚き呆れて、その後は父の行動に口を出すことはなかった。
 バルバネスは、ハイラル兄妹を我が子同然に扱い、彼の実の子らとも分け隔てなく接した。
 殊にラムザと妹のアルマは、ハイラル兄妹と歳が近かったこともあり、幼いころから互いに良き遊び相手となっていた。
 ラムザとディリータが士官学校に入学できる歳になると、バルバネスは、ディリータを北天騎士団総帥の特別推薦者として、ラムザとともに、畏国屈指の名門校である、ガリランド王立士官学校に入学させた。ここに通う生徒は、名のある貴族や王族の子弟と決まっていたから、平民階級出身であるディリータの入学は、まさに異例中の異例であり、創立二百年を誇るガリランド王立士官学校の歴史を顧みても、前例のないことであった。
「人は身分を持ってこの世に生まれ出るのではない。身分は人間が後から勝手に作り出したものだ。人は身分に縛られているのではなく、自らを身分に縛りつけているのだ」
 と、父は言った。ラムザも、身分という垣根を取り払えば、人々はもっと歩み寄れるはずだ、と常々考えるようになっていた。
 ラムザは、一刻も早くこの場を抜け出して、父のもとにゆかねば、と気ばかり急って、その夜は一睡もすることができなかった。


 夜明けごろ、櫓(やぐら)にいた見張り番が、
「ミルウーダが戻ってきたぞ!」
 と、呼ばわった。
 やがて砦の外から蹄の音が聞こえてきたかと思うと、赤羽のチョコボに跨った女騎士が、数騎の騎兵を引き連れて砦の門から入ってきた。ミルウーダと呼ばれた女騎士は、さっとチョコボから飛び降りると、そのまま石壇のほうへ歩いて行って、その上に立って、ぐるりと周囲を見渡した。骸旅団の者どもは石壇を取り囲むようにして立ち、ミルウーダを見上げた。
「聞け、同志たちよ」
 騎士ミルウーダは、声を張り上げるでもなく、よく通る声で言った。
「先刻、敵将ザルバッグ・ベオルブ率いる北天騎士団の兵、千あまりは、ライナス河を越え、その後隊を三つに割き、今も旧街道を南下している。ここはもう間もなく、北天騎士団に包囲される」
 周囲がにわかにざわめいた。ラムザは兄の名を聞き、わずかに希望を取り戻したが、と同時に、むざむざ敵に捕らわれて、ここにこうして縛りつけられている自分を情けなく思った。
(兄上に知れたら、なんと言われるだろう)
 ラムザは不安に駆られたが、どうすることもできなかった。
「皆、この戦を最後と思って、ひとりでも多くの敵を冥土への道連れとしようぞ!」
 ミルウーダが剣を掲げると、一同それに習って、喚声をあげた。
 やがて朝日が顔を覗かせるころ、マンダリアの砦は、ザルバッグ率いる北天騎士団軍に、すっかり囲まれてしまった。
「よかったな。もしかすると助かるかもしれんぞ」
 ウルフが、ラムザに顔を寄せて囁いた。
「ええ……そうなると良いですね」
「なんだ、お前、うれしくないのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
 そこへ、女首領ミルウーダが長身の騎士を一人連れてやってきて、
「聞いてのとおり、我らはこれから決死の戦いに臨むこととなった。したがって、捕虜があっても仕方がないから、君たちを釈放することにした。レッド、お二人の縄を解いてあげて」
 と言って、隣に立っている男に目配せすると、レッドと呼ばれた騎士は前に進み出て、短剣を引き抜き、二人を縛っていた縄を断ち切ってしまった。
「いいのか? こちらのお坊っちゃんは、見たところ、なかなか賎しからぬ御身分のようだが」
 ウルフは思いの外、あっさり解放されてしまったので、拍子抜けして言うと、ミルウーダはラムザを一瞥して、
「子どもの命まで取ろうとは思わない。あとは君たちに任せる」
 それだけ言って、立ち去ろうとした。するとラムザが、
「この手勢で、本当にザルバッグ・ベオルブと戦うおつもりですか?」
 と、ミルウーダの背にむけて言った。
「逃げることもできまい」
「全滅しますよ」
「もとより覚悟の上だ」
「…………」
 このミルウーダという女騎士は、たかだか盗賊の一頭目で終わる人物ではあるまい、とラムザは思った。今の北天騎士団に、はたして、ここまで潔い戦士があるだろうか。
 ──なんとかして引き留められないものか。
「あまりに無謀です!」
 ラムザは意を決して、言った。
「私の兄は、貴女方に反抗させる隙も与えず、あっという間に殲滅してしまうでしょう!」
「……なに?」
 ミルウーダとレッドは同時に歩みを止めて振り返った。ウルフも、思わぬ告白に驚いた様子で、ラムザのほうを向いた。ラムザは、まっすぐにミルウーダの目を見て、
「ですから貴女方は、私の兄、ザルバッグ・ベオルブに、一人残らず殺される、とそう言ったのです」
 つかの間の沈黙が流れた。やがてミルウーダが、おもむろに口を開き、
「君は敵将の弟だと言うのか?」
 と、聞くと、ラムザは、
「そうです。私の名はラムザ・ベオルブ。ベオルブ家の末弟です」
 と、はっきり応えた。
「何を証しにそんなことを」
 俄には信じられぬ、といった風のミルウーダの表情である。
「信じてくださらないのなら、私を人質に取り、兄のザルバッグに使いをたてて、全軍をライナス河の向こう岸まで退かせなければ、弟の命はないとの旨、お伝えください。さらに使いの者に私の剣を持たせれば、剣にはベオルブ家の紋が打ってありますから、兄も信じてくれるでしょう。兄が軍を退いたのを見届けたら、貴女方は何処へなりとも逃げればよいのです」
「戦わずして逃げろ、と?」
「そういうことです。貴女ほどの人ならば、このままでは犬死になることぐらい、お分かりのはずでしょう」
「どういうつもりだ?」
「私はただ、安易に命を捨てるものではない、と言っているだけです。死んでしまったら、志を遂げることは、永遠に叶いませんから」
「…………」
 ミルウーダの目は、尚いっそう疑り深くラムザの真意をえぐり取ろうとしているようであった。
 ──そんなにうまくいくものか?
 そうやって身構えてみる一方で、彼女にしてみれば、ラムザの策を用いるより他に、この窮地を脱する方法はなさそうではある。
 レッドが顔を寄せてミルウーダに何言か囁き、彼女はその言に耳を傾けながらしばらくの間黙考していたが、やがてひとつ小さく頷くと、
「……わかった。やってみよう」
 終にラムザの策を容れた。
 ミルウーダは、レッドをザルバッグへの使者とし、レッドはラムザの佩(は)いていた剣を受けとると、早速、敵陣に赴いた。


 時に、北天騎士団を率いるザルバッグ・ベオルブは、 街道に程近い高台の上に陣取って、愛用の黒羽に跨がり、丘上の砦を眺めていた。
 折ふし初夏の風は爽やかにマンダリアの野を渡り、丘を三方から囲んでいる北天騎士団の青地に白獅子の戦旗は、青天に揚々とはためいている。
「奴等は降(くだ)る かな?」
 ザルバッグは、彼の横に銜(くつわ)を並べている老騎士に訊いた。老騎士は、その名をマルコムといい、ザルバッグの右腕、則ち、北天騎士団副団長である。ベオルブ家譜代の忠臣のひとりで、ザルバッグのよき知恵袋となっている。
「いえ、おそらく、我らに一矢報いんと、決死の覚悟で打って出てくるでしょう」
「そうだろうな」
「しかし将軍。追い詰められた鼠は猫の手をも噛むといいます。ゆめゆめ油断はなりませぬぞ」
「ははは、ぜひとも噛みつかれてみたいものだな」
 ザルバッグの蒼眼は、子供のように輝いていた。彼は根っからの武人で、面倒な駆け引きを嫌い、常に命懸けの決戦を望んだ。二十も半ばを過ぎ、その血はいよいよたぎって歴戦の英雄の器にすら収まりきれぬものがある。
「む、"草"が戻ってきたようですな」
 マルコムはチョコボの首を巡らすと、此方へ駆けてくる軽装の兵を待ち構えた。
 "草"というのは、主に斥候や伝令の任を負う者たちのことで、軍の情報戦の主力である。
 草から報告を受けとったマルコムは、戻って来くると、
「将軍。敵方から遣いの者が参ったようですぞ」
 と、伝えた。
「なんだ、もう降ってしまうのか」
 ザルバッグは報告を聞いて、さも面白くないというような顔をしたが、冑を脱いで、黒羽から降りると、
「すぐに連れて来させろ」
 と、マルコムに命じた。
 まもなく、使者は二名の兵士に引き連れられてきた。使者はザルバッグの前に来ると、その場に拝跪した。 
「面を上げろ」
 ザルバッグは、彼の足許に跪いている遣いの騎士にむかって言った。
「はっ」
 応えて、騎士はザルバッグを見上げた。ミルウーダの命を帯びてきたレッドである。
「ふむ。なかなかいい面構えをしている」
 ザルバッグはレッドの人相をじっくりと観察した。
「で、要件はなんだ。手短に言ってみろ」
「つきましては、貴軍にご退去願いたく、まかり越しました次第でございます」
「……?」
 ザルバッグは、意外な返答に驚いて、マルコムと顔を見合わせた。
「なんだと? そんな馬鹿げた要求があるか! 貴様には、三方を我が軍に囲まれている、あの砦が見えぬのか!」
 マルコムが丘上の砦を指して凄んでも、レッドは全く臆する様子もなく、
「しかと、見えております。私は、なにも、妄言を吐いているのではありません。ただ、軍をお退き願えないのであれば、弟君のお命が虚しくなりますが」
「なに? それはどういうことだ」
 ザルバッグが問うと、レッドはことの次第を具(つぶさ)に話した。
 レッドが話し終えると、ザルバッグの顔はみるみるうちに色を失っていき、
「つまり、我が弟は自ら進んで人質になったと?」
「そういうことです。そしてこれは……」
 レッドはラムザの剣を取り出し、恭しく捧げ持った。
「弟君が、この剣を将軍にお見せすれば、自身が囚われの身となっていることを信じてくださるであろうと、私に託されたものであります」
 ザルバッグは、その剣をレッドから取り上げると、鞘から剣をひき抜いて見分した。疵ひとつない細身の刀身の付け根に、ベオルブ家の獅子頭の紋が打ってある。
「むむ、確かにこの剣は、ラムザが士官学校に上がるとき、父バルバネスがルザリアの名匠に鍛えさせたものに相違ない」
 ザルバッグは剣を鞘に納めてから、
「マルコム、全軍撤退だ。狼煙(のろし)をあげよ!」
 と、直ちに命じた。何事も決断の早い男である。
「将軍、よろしいので?」
「致し方あるまい。撤退といったら撤退だ。ぐずぐずするな」
 ザルバッグは黒羽に飛び乗ると、レッドを見下ろして言った。
「使者の方。貴殿の主人に、宜しく申し伝えよ。撤退の儀、しかと承った。我らがライナスを越え次第、しかるべく我が弟、ラムザ・ベオルブの身柄をこちらに引き渡すように、とな」
「はっ、必ず」
「身代金は求めないのか?」
「はい。そのようなものは、もとより我らの目的とするところではありませんので」
「そうか、ならばよい。行け」
 レッドはザルバッグにむけて一礼すると、急ぎ砦に引き返していった。
 やがて中空高く、白煙が上がった。それと同時に、丘を囲んでいた北天騎士団は、一斉に動き出し、本隊に合流し始めた。
 丘上の砦からその様子を見ていた骸旅団の兵たちは、俄に喚声をあげた。
「悔しいですな。あの程度の砦、一刻もかからず捻り潰せるものを」
 マルコムが口惜しげに歯噛みすると、
「なに、弟の命には代えられんよ」
 ザルバッグは黒羽の首を反し、本隊の先頭に向かって走り去って行った。マルコムは、なお名残惜しげにマンダリアの丘のほうを向いていたが、
「えい、ままよ」と、捨て台詞を吐いて、すぐに主人の後を追った。


 かくして、一撃の剣槍を交えることも、一滴の流血を見ることもなく、北天騎士団の大軍は、古砦に籠る骸旅団の小兵を前に、全軍引き揚げとなった。
「これほどの珍事が、いまだかつてあっただろうか……」
 ミルウーダは楼の上に立って、今や完全にライナス河の彼岸に撤退して、蟻の群れのように蠢(うごめ)いている北天騎士団の大軍を眺めていた。
 そこに、使者として敵地に赴いていた、レッドが戻ってきたとの知らせが入った。兵士たちは、歓声をもって、彼を迎え、その労をねぎらった。
「首尾よく運んだようね」
「ええ。全てはラムザ殿のおかげです」
「まったく。図らずも、敵の斥候かと疑って捕らえた者に命を救われようとは」
 ミルウーダとレッドは、笑顔で互いに手を握り交わした。
 ミルウーダは、直ちに撤退の触れを出した。ラムザとウルフには、チョコボがそれぞれ一頭ずつ与えられた。
「君の機転がなければ、今頃我らは、ひとり残らず北天騎士団に討ち取られていただろう。どうか、先日の非礼を赦されたい」
 ミルウーダが詫びると、ラムザはとんでもない、とばかりに、
「私は貴女という人物を信じ、命を預けたまでです。それに、我が兄の寛大さがなければ、きっと戦になっていたにちがいありません」
 あくまで謙遜して言った。
「それはそうかもしれないが、私は、腐れきった貴族ばらの中にも、君のような公平な心を持った君子がまだいるということを知って、素直に嬉しく思っているのだ」
 そういって、ミルウーダはラムザとも固く手を握り交わした。
 時に、日は西の地平にさしかかり、空を茜に染めていた。
(いつか、貴族も平民もなく、誰もが皆こうして手を取り合える日がくるのだろうか……)
 丘を下っていく骸旅団の兵士たちを見送りながら、ラムザは内心そんなことを思っていた。そこに、ウルフがチョコボを寄せてきて、
「盗賊の頭にしておくのはもったいないお方だよな」
 妙に真剣な顔をして言った。
「ええ、私もそう思いました」
「へえ、ベオルブのお坊ちゃんでも、見るべきところはちゃんと見てるんだな。いや、まったく、王都の酒場にあんなきれいな踊り子がいたらなあ」
「…………」
 ひとり頷いて納得している様子のウルフを見て、ラムザは呆れて返す言葉も無かった。
 二人は丘の頂上で別れた。ウルフはついにその素性を明かすことなく、
「俺は幻の聖竜を探す旅を続けることにする。聖アジョラのお導きあらば、またどこかで会うとしよう!」
 わけのわからぬことを言って、街道を東に去っていった。
(なんとも不思議な騎士だな……)
 その姿を見送ってから、ラムザはチョコボの横頸を叩いて、兄の許に急いだ。


 ラムザが北天騎士団の夜営地に着いたころには、辺りはもうどっぷりと夜の闇に浸っていた。ライナス河の畔には、ここかしこに、木の骨組みに皮布を張っただけの、簡単な仮小屋が設(しつら)われ、羊肉や川魚を焼く煙が、もうもうと立ちこめていた。
 ラムザは芳ばしい薫りに、たまらなく 空腹を覚えた。思えば二日前、父急病に倒るの知らせを受けてガリランドを飛び出してきて以来、まともなものを口にしていなかった。
(兄上は、たいそうお怒りのことだろう)
 仮小屋の群れの少し奥まったところに、屋根の先端に大将旗を掲げた、一際大きい小屋がある。ラムザが小屋に近づくと、入口を守っていた兵士が、手に持った槍を同時に胸の前に掲げ、敬礼の態をとった。兵士の一人が、
「将軍が中でお待ちかねであります」
 と言ったが、ラムザは頷いただけで何も答えずに、中へ入っていった。
 小屋の中では、諸将が円卓を囲んで、少しばかり酒気を帯びた議論を催していた。ザルバッグは、隣席にある老臣マルコムと、なにやら熱心に話しこんでいたが、ラムザが入ってきたのに気づくと、
「おお、弟よ無事に戻ったか!」
 といって立ち上がった。諸将も、
「ラムザさまだ!」
「ラムザさまが戻られたぞ!」
 口々に言って、これを迎えた。ラムザは少し面喰らったものの、
「ただ今戻りました。この度は、不覚にも敵に囚われるところとなり、兄上には多大なるご迷惑をお掛け致しました」
 と、丁寧に謝辞を述べた。同時に、なにやら奇妙な音がして、ラムザは顔を赤らめた。円卓の上に載った、見るからに旨そうな肉や果物にそそられて、ついこらえきれずに腹の虫が鳴いたらしい。
「なんだ貴様、戻ってきたばかりだというのに、気の早いことだ」
 ザルバッグが言うと、諸将はどっと声をあげて笑った。
「まあ、細かい経緯は後程聞くとして、まずは空腹を満たすとしよう」
 ザルバッグは、真っ赤になってその場に縮こまっているラムザを、自分の隣席に招いた。マルコムは自分の席を譲りながら、
「兄上に、しかとお叱りを受けねばなりませんな」
 赤ら顔をにやつかせながら言った。ラムザは所在無げに、兄の隣に収まった。
「さて、皆の者、勇者の凱旋を祝そうぞ!」
 ザルバッグが盃を掲げると、皆、
「勇者ラムザに乾杯!」
 と、それに倣った。
 宴はいよいよ本格的となった。ラムザは食事を前にして、最初のうちはなんとなくためらっていたが、
「なにを遠慮しているのだ。さあ、食え食え」
 兄ザルバッグはもうしたたか酔っている様子なので、だんだんとうち解けてきたのであった。
 宴も酣(たけなわ)となった頃、ラムザは父の容態をザルバッグに尋ねた。ザルバッグは快活に笑って、
「父上なら心配には及ばん。ここ数日臥せっておられたようだが、なに、病などにやられるお方ではあるまいよ」
 といって、盃の酒を豪快に飲み干した。
「そうですか……。早くお会いしたいものです」
 ラムザがそういって俯くと、
「なんだ貴様、父上の身を案じて、わざわざこんなくんだりまで参ったのか」
 ザルバッグは呆れ顔で言った。
「よもや、父が恋しい歳でもあるまいに」
「そうですが、ただ、不吉な感じがしたものですから」
「なに、不吉とな」
「はい。漠然とではありますが……」
 父バルバネスは今年で齢六十を越えるが、いまだ筋骨たくましく、前線を退いた後も、毎日の鍛練を欠かすことはなかった。それこそ、風邪ひとつひいたことはない、と自身豪語し、我が子らに健康増進を説くほどであった。
 ──その父が病に倒れたと聞き、ラムザは、それはただごとではあるまい、と一心不乱にここまで駆けてきた次第である。
(なんともなければよいが……)
 空腹に久々の美酒美食をもってしても、ラムザの心中の、霧のようにもやもやした感じは晴れなかった。そこに、
「そういえば」
 傍らにいて兄弟の話を聞いていたマルコムが口を挟んだ。
「ディリータ殿はどうされたか? 彼のもとにも、バルバネス将軍の急病の知らせは届いておったはずだが」
「あ、ディリータはガリランドに残りました」
 と、ラムザは答えた。
 知らせの届いた夜、ラムザは早急に親友にもその旨を伝えたのであったが、ディリータは、
「父上は病に負けるようなお方ではない。わざわざ心配して見舞いにいくまでもないだろう」
 と、いたって落ち着いた様子であったので、ラムザ一人で来たのである。
 ザルバッグはそれを聞いて、
「さすがに父上の見込んだ男子だけのことはある。武人たるもの、何事に対しても、そのくらい大きく構えていなければなあ」
 ラムザを横目に大声で言った。ラムザは、暗に馬鹿にされた感じがして、渋い顔をしていたが、その様子を察したマルコムは、
「いやいや、将軍。武人には、時に母のごとき優しさも必要ですぞ」
 ラムザを弁護するようなことを言ったが、
「ははは、確かに、君は母親に似たのかもしれんな」
 ザルバッグはさらに大きな声で言って、ラムザの背を平手でばんばんと打った。ラムザは兄になされるがままに、苦笑していた。本人に悪気はないのだが、ザルバッグにはこうして人のことをいじり回して喜ぶ悪い癖があった。
 ──母といえば。ラムザとザルバッグは異母兄弟である。ザルバッグと長兄ダイスダーグの母は、王族の流れを汲む名門貴族の娘で、その母が病で急逝した後に後妻として迎えられたのが、ラムザと妹のアルマの母である。先妻と比べて、その出自は、ガリオンヌ領の一地方官吏の家という大分劣ったものではあったが、先妻との結婚がいわば政略的結婚であったのに対し、後妻は、バルバネスが若い時分から思いを寄せていた女性(ひと)であったので、彼は殊更にこの女性を寵愛し、やがて生まれた二人の子らも、大そう可愛がった。
 しかしその後妻も、アルマを産んで間もなく流行病にかかって空しく逝ってしまったので、そのころまだ幼かったラムザは、ほとんど母の面影を覚えていなかった。
 父はというと、その後妻のことが忘れられないらしく、
「おまえの母は、たいそう慎ましく、優しい心をもった女性であった」と、度々ラムザとアルマに言い聞かせていた。
 ラムザは、幼心にそんな母の姿を浮かべて恋い慕いつつ、やはり年長の兄たちと比べると、どうしても温厚柔和にすぎる自身の性格をなかなか好きになれずにいたところもあった。
 そんなラムザの心中を知ってか知らずか、父の口からも
「おまえは多分に母に似たのだ」
 と、言われた覚えもある。
 が、それは決して女々しいという意味ではなく、ラムザの持つ生来の優しさのことを指しているのだと、その心を解かれてからは、
「母に似ている」
 と、言われたところで、別段悪い気はしないラムザなのであった。



[17259] 第一章 持たざる者〜2.遺志を継ぐ者
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/12 02:41

 夕暮れ時に始まった宴は、夜が更てもなお続いた。
 行軍中の軍隊がこんなにも浮れているのは、先日、ザルバッグ将軍指揮のもと、大々的に行われた骸旅団殲滅作戦において、最大の反抗勢力であった旅団長ウィ-グラフ率いる反乱軍を見事、壊滅せしめたためである。
 この作戦の戦果により、ガリオンヌ領を荒らしまわっていた骸旅団の大半は、その中心的勢力を失い、路頭に迷うこととなった。
 マンダリアの砦に立て篭っていたのは、掃討作戦で敗走した骸旅団の残党であり、ザルバッグがいとも簡単に敵の条件を呑んだのは、第一に実の弟の命を救うためであったが、しばらくは大した反抗もできまい、という彼の余裕でもあった。
 兎も角も、先日の大勝利もあって、ラムザが今回、敵の人質に取られた挙句、残党とはいえ、敵をむざむざ逃してしまったという大失態に対する責任は、とりあえず不問となった。
 明くる早朝、ザルバッグ軍は、昨晩の酔いも冷めやらぬままに、イグーロス城への帰還の途についた。
 行軍は滞りなく進み、日が大分高くなったころになって、ザルバッグ率いる北天騎士団は、イグーロス城下に凱旋を果たした。城へ続く道々、英雄ザルバッグの雄姿を一目見ようと、大勢の人々がひしめき合い、各々手を振ったり、喚声をあげたりしていた。自慢の黒羽に跨ったザルバッグ将軍は、誇らしげに胸を張り、その蒼眼は真っ直ぐ前を見据えていた。
 城門に着くと、鼓笛隊が整然と列を成し、華やかな凱旋のファンファーレを奏でた。城からは、ガリオンヌ領主のラーグ公爵が直々に出迎えに現れ、大いにその労をねぎらった。
 ラーグ公爵に戦果を報告したのち、兄弟は父を見舞うため、ベオルブ家の邸へと向かった。
 邸に着くと、侍従の者が出迎えに現れ、バルバネス将軍は寝室にて静養中であると述べ、二人を案内していった。
 寝室の前に来て、従者が兄弟の来訪を告げると、
「入ってきたまえ」と、中から小さく返答があった。二人はちょっと顔を見合わせてから、おもむろに室内に踏み込んだ。
 寝室の窓は開け放たれ、午後の陽光とともに、初夏の涼やかな風が、梢のそよめきを内へ連れ込んでいた。
 父はベッドの上に半身を起こし、静かに書物を捲っていたが、兄弟が部屋に入ってくると、書物に落としていた目を此方に向けて、無言で微笑んだ。
「父上……」
 と、ラムザがいった。我が子を前に敢えて明るく繕ってはいるが、頬は痩け、膚は青白く、その表情に往年の雄姿はほとんど見られなかった。兄弟は、久々に対面した父の変わりように、動揺を隠せずにいた。
「急病と聞いて、ガリランドより飛んで参りました。お健やかなご様子でなによりです」
 ラムザは、努めて健気にいった。
「うむ。無用な心労をかけてしまったな。このとおり、今は床を出ることもかなわん。わしも老いたものよ」
 バルバネスはやや自嘲ぎみにいった。
「気弱なことをおっしゃる。父上には、まだまだ頑張ってもらわなくては」
 ザルバッグが、そんな父の弱気を諫めた。
「いやいや、畏国が大戦の荒廃から立ち直るためにも、今は若い力こそ肝要である。それ故に、わしは北天騎士団の全指揮権をそちに預けたのだからな」
 言い終わると、バルバネスは二、三度咳き込んだ。ラムザはすぐに、ベッドの傍らの水差しを手に取ると、グラスに水を注いで父に渡した。すまぬ、といってバルバネスはグラスの水を一息に飲み干した。
「──ときに、ザルバッグよ。前(さき)の戦の首尾はいかに?」
 身は病床にあっても、天騎士バルバネスが戦場を忘れることはないらしい。バルバネスが先日の戦果を問うと、ザルバッグは胸を張って答えた。
「我らはレアノール野の決戦において、賊将ウィーグラフの反乱軍一万を徹底的に殲滅いたしました。いま一歩のところでウィーグラフの身は捕り逃しましたが……まあ、貴奴らは当分の間、盗賊紛いのことは続けても、大規模な反乱を起こすことはありますまい」
 そこでラムザのほうを横目でちらと見やると、
「その後、我が軍はマンダリアの丘にある砦跡に立て籠った賊の残党を囲みましたが……まあ、敵の数もそう多くはありませんでしたので、小勢相手に時間を費やすのも無駄と思い、包囲を解いて、逃がしてやりました」
 と、多少事実をぼかして言った。
「そうかそうか。逃がしたとな」
 バルバネスは、眼尻にしわを寄せて頷いた。
「骸旅団とて、今でこそ盗賊の輩と目の敵にされてはおるが、前の畏鴎大戦の功績は何も我ら北天騎士団のものばかりではない。そちも、わしも、今こうして生命を保っておるのは、ひとえに、ディリータの父オルネスと、骸騎士団の名もなき兵卒の犠牲の上にあること、ゆめ忘れてはならんぞ」
 どこか、幼子を諭すような口振りである。
「それはよく心得ております。此度は、敵が敗残の少兵であったこともあり、多少の恩をかけてはやりましたが、ウィーグラフはこの混乱期におよんで徒(いたずら)に国土を踏み荒らし、自らを平民の代弁者などと標榜しながら、かえって民草を苦しめております。ガリオンヌの治安を司る北天騎士団を任されたからには、草の根分けても貴奴を探しだし、処刑台にかけてやらねばなりません」
「うむ。そちの言うことはもっともであるが、賊将ウィーグラフとて、身は平民の出でありながら、前の大戦においては、能く兵を用い、その武勇は北天騎士団の名だたる将に勝るとも劣らなかったという。ベオルブの家の子たる者、彼らの言い分を聞いてやるくらいの器量も、持ち合わせておらねばならんぞ」
「は……」
 血気盛んなザルバッグは、やや表情に不服の色を隠せないようであったが、父の身体を気遣って、これ以上は敢えて言わなかった。
 久々にまみえた親子は、それから暫しの間積もる話題を崩しあい、やがてザルバッグは公務があるといって、その場を辞した。
 二人きりとなったラムザとバルバネスは、窓外にまもなく沈もうとする夕陽を黙って見つめていた。
「美しいな」
 バルバネスがしみじみといった。ラムザは微笑みながら、父の横顔を見つめていた。その顔には、かつてない穏やかさがあった。またそこには、何かを悟ったような、あるいは諦めにも似た色が窺える。
「ディリータは元気にやっておるかね」
「ええ、相変わらずですよ。ホランド家の方々も、とても良くしてくださってますし」
「そうか。ディリータとは仲良くな。あの子は将来、きっとお前の良き助けとなってくれる」
「時々、くだらないことでけんかはしますけどね。兄上から父上がご病気との便りを受け取った時だって、僕がなんと言っても、あいつは動こうとしませんでしたし」
「ハハハ。奴らしいの」
 ラムザも、父につられて笑う。
「いやまったく……ホランドに便りをよこしたのは、ダイスダーグの老婆心であったのだが……正直、おまえがイグーロスまで駆けつけてくるとは思わなんだ」
「いや……それは」
「復活祭の休暇までには、まだ間があろうに」
「心配でいてもたってもいられなかったものですから」
「くくく……」
「なにがおかしいんです?」
「いや、なに。やはりおまえはローサに似たのだと思ってな」
「え、母上に?」
 ローサは、バルバネスの後妻、つまりラムザとアルマの母の名である。しかし、父の口からその名が発せられたのを、ラムザは初めて聞いた。
「兄にもいわれました」
「そうか。だが、それでよいのだ。おまえは」
「…………」
「不服か? しかし、わしもこの歳になってあらためて思う。やはり武人は、ときに母のごとく優しき心、慈悲深き心を持ち合わせておらねばならんのだと」
「…………」
「そして、そういった心は、およそ英雄と呼ばれる者に欠けている素質でもある」
「そうでしょうか」
 開け放たれた窓からは、冷え冷えとした夜風が入り込んできている。
 今や落日は西の山々の稜線にその姿を隠し、薄紫の雲間には宵の星々が瞬き始めている。
 ラムザは立ち上がると、両開きの窓をゆっくりと閉めた。
 バルバネスは、息子の背中をを無言で見つめていた。
「ラムザよ」
「はい、父上」
「…………」
 バルバネスはラムザに、椅子に掛けるよう目で促した。ラムザはそれに従って、先ほどまで腰かけていた椅子に座った。と同時に、何かただならぬ雰囲気を感じ取って、ラムザは無意識に身を引き締めた。
「本来ならば、この儀については、然るべき遺言状を以ておまえに伝わるはずであった」
 一息の間をおいてから、バルバネスはおもむろに切り出す。
「しかし今日、図らずもわしはこうして親子水入らずで語り合う機を得た。この際、わずらわしい文書は抜きにして、わし自らの言葉を以て、おまえにこの儀を伝えようと思う」
「……?」
 ラムザは咄嗟に思考を巡らした。遺言状とは? 遺言状で伝えねばならぬほどの儀とは? 父はすでに自らの死期を悟っているというのか?
 唐突な父の言葉を前に、ラムザは戸惑いの色を隠せない。そんな息子の混乱をよそに、バルバネスは淡々と言葉を続ける。
「おまえは末の男子ながら、今やベオルブの名に恥じぬ立派な騎士となった。もはや、わしの跡目を継いだとて、先祖のお怒りはこうむるまい」
 しかし次の瞬間、電撃に打たれたかのごとく、ラムザの思考は停止していた。
「……え?」
 ──跡目を継ぐ?
 父の言を額面通りに受け取るならば、それは有能な兄たちを差し置いて、胎違いの三男坊にすぎぬラムザが畏国の武門の棟梁を引き継ぐということである。
「なにをおっしゃるかと思えば……。お戯れもほどほどになさってください」
「いや、戯れでいっているのではない」
 バルバネスは、ラムザの顔をまっすぐ見据えた。その目に、もはや先ほどまでの穏やかさは見られなかった。物言わでも、父の決心の程が窺えるかのようであった。
「勇者ザハラムより代々ベオルブ家に伝わる宝剣、レオハルトをおまえに託そうと思う」
 暫しの間沈黙が流れた。閉ざされた窓越しに、庭の木々の葉が、気まぐれな風に誘われてざわざわと囁きあった。
「しかし父上、それは……」
「そうだ。レオハルトを継ぐ者、それすなわちベオルブを継ぐ者となる。ラムザよ。おまえは、このわしに代わって、ベオルブ家の当主となるのだ」


 その夜はゆるりと明けた。
 結局、ラムザは一睡の間も得られなかった。朝の小鳥たちの囀りも、今日のラムザには妙に遠く霞んで聞こえた。頭の中も何となくぼうっとしていて、昨日父が言ったことを反芻してみる気さえ起らないのであった。
 彼はそのまま着替えを済ませ、朝食の席に降りて行った。
 食堂に入ると、兄二人はすでにあわただしく食事を始めていた。広間の中央に置かれた長机のいちばん上手の席は空いており、そのすぐ右手の席に坐っている長兄ダイスダーグは、食事の合間に彼の隣りに立っている秘書官にあれこれ政務に関する指示を与えていた。長兄に向き合うように坐っている次兄ザルバッグはというと、そんな兄には眼もくれず、黙黙と食事を続けていたが、ラムザが広間に入ってきたのに気づくと、にこりと笑って、「おはよう」と陽気に挨拶した。ラムザはその声に一瞬ギクリとしたものの、「あ、おはようございます、兄上」と、やや笑顔を取り繕って、そそくさとザルバッグの隣りに収まった。そこでやっと弟の存在に気づいたのか、ダイスダーグも、「お、ラムザか。おはよう」と手短に言ったが、すぐに秘書官とのやり取りに戻ってしまった。
「久々の我が家はどうだね。よく眠れたか?」
 ザルバッグが言った。
「はい、それはもう」
「そうか。私も昨日は久々によく眠った。ここのところ戦続きだったからな。やっぱり我が家はいい」
「…………」
 ともすると途切れがちな会話をなんとか保とうとするばかりに、ラムザの食事は一向にはかどらなかった。彼の頭の中で、思考が昨日の父の言に向かうのを必死に拒んでいるかのようであった。
「今朝はいやにおしゃべりだな、お前は」
 弟がルザリアの踊り子の話題を持ち出したところで、ザルバッグもさすがに不審に思ったらしい。普段はわりと寡黙なほうのラムザではある。久々の家族の団欒とはいえ、何となくぎこちない弟の様子に、彼が違和感を覚えたのも無理はない。ここで秘書官が退出し、ダイスダーグが二人の会話に加わったのがせめてもの救いであった。
「オムドリア王のご容態が、ここのところどうも芳しくないらしい」
 ダイスダーグが深刻な面持ちでいった。
「明日、ラーグ大公がお見舞いに赴かれる。私もお供することになった。ゴルターナ卿はすでにルザリアにあって、陛下に謁見したとも聞くしな」
「ほう、南天公がね……」
 ザルバッグが意味ありげに笑みを浮かべた。
「そいつは穏やかならぬことだな」
「ともかく……支度を急がせねばならん」
 ダイスダーグは席を起ちかけて、そういえば、とラムザのほうを向いていった。
「アルマとティータが父上の見舞いに帰るそうだ。昨日オーボンヌのシモン司教から手紙があってな。来月にはイグーロスに帰るはずだ」
「え、アルマとティータが?」
 ラムザの妹アルマと、彼の親友であるディリータ・ハイラルの妹ティータは、五つの時に王室領ルザリアにあるオーボンヌ修道院に入っており、以来ほとんど時期をそこで過ごしていた。そのオーボンヌ修道院の司教、シモン・アスールは、グレバドス教会から最高司祭の栄誉を授かったほどの人物で(最高司祭とは、布教活動や神学研究などにおいて、著しい成果を残した者に与えられる、グレバドス教皇に次ぐ高位である)、王室との関わりも深く、オリナス王子ご誕生の折、政治的理由により、現国王オムドリア三世の異母妹君で養女でもあらせられるオヴェリア・アトカーシャ王女も、同院に入られたことはよく知られている。
 朝食の後、ラムザはひとりぶらぶらとイグーロスの城下に繰り出した。
 アジョラの復活祭で賑わう大通りからは少し外れて、彼はひときわ薄暗い裏路地に入っていった。妖しげな匂いを漂わせる薬問屋や浮浪者のうごめく酒場などをいくつか過ぎると、急に開けた所にひっそりと佇む修道院がある。
 ややくすんだ石壁に歴史を感じさせる礼拝堂の裏手に回ると、そこにはベオルブ家先祖代々の霊を祭った墓がある。やや奥まった所にある一番大きな墓石の前に跪き、ラムザはしばしの間黙祷を奉げた。
(もはや、わしの跡目を継いだとて、先祖のお怒りはこうむるまい)
 昨日の父の言葉が、ラムザの脳裏によみがえる。
(ラムザよ。おまえは、このわしに代わって、ベオルブ家の当主となるのだ)
 武門の家の継嗣は、およそその家の嫡男をもって行われるというのが世の習いである。ましてベオルブ家の場合、長兄ダイスダーグが、母の血筋、またその素質という面からしても、後継者たるにふさわしいということは、誰の目に見ても明らかである。
 ──無論ラムザも、その道理を父に訴えた。それに対し父は、
「表向きの後継ぎは、おそらくダイスダーグとなるであろう」
 としながらも、
「──但し、真の後継たる証、すなわちレオハルトの剣は、そちに託さねばならん」
 と、あくまで正式な世継をラムザとする自らの意思を明確にした。
 また、レオハルトの剣に関しては、
「邸の宝物庫にあるは贋物で、真の剣はルザリアの刀匠、ルドルフの許にある。然るべき時来たらば、その者を訪ねよ」
 というのである。
 その家の世継たる証として、何かしらの具体物を代々受け継ぐという風習は、武門の家に限らず、いわゆる貴族階級の家のあいだでは、特に珍しいことではなかった。そして、王族はもちろんのこと、ベオルブのような古い家柄になるほど、「後継の証」はかなりの重みをもって扱われる。
(これは、そちにのみ残す遺言。たとえ身内の者であっても、他言は一切無用であるぞ)
 この決断が、父の気まぐれでも、愛する妻の子に対する単なる偏愛によるものでもないことだけは、はっきりしていた。何か測り知れぬ大きな理由あってのことに違いないが、父は「今はまだわからぬでもよい」として、詳らかにはしなかった。
(何故? いったい何のために?)
 答えの無い疑問は、あぶくのように次々と湧き出でては消えていく。彼にはまだ、何の心構えも、準備もなかった。街道をゆく道々、彼をせきたててやまなかったあの不吉な感じは、まさにこのことであったのだろうか?
「そこにいらっしゃるのは、もしや、ラムザ様ではありませんか?」
 不意に聞き覚えのある声がして、ラムザは目を開けてそちらを振り向いた。見ると、質素な麻の修道衣をまとった少女が、そこに立っている。
「あ、やっぱりラムザ様だ」
 何か美しい調べにでも導かれるようにして、少女はラムザのほうにつと歩みをよせる。
「やあ。エリザ、こっちだ」
 ラムザは、空をまさぐっている少女の手を取り、彼の存在を知らしめた。
「ああ、お久しゅうございます」
 エリザは少し小首を傾げるようにして、顔を綻ばせる。たしか幼い頃に患った熱病の所為であったか、その瞳に光はなかった。
「一年ぶりくらいかな」
「そうですね。昨年の復活祭の折にもいらっしゃったのを覚えております」
「ああ。その時はディリータもいたっけか」
「ディリータさまは、今日はいらっしゃらないのですか?」
「うん。あいつは今ガリランドにいるよ」
 二人は傍の石垣に腰をおろした。
 ラムザと幾つも歳の違わないこの修道女は、ここの司教が営む孤児院の出で、ベオルブ家の墓がこの修道院にあることもあって、二人は幼い時分からよく知り合っていた。ディリータとティータの兄妹は、ベオルブの家に入る前、一時的にここの孤児院に預けられており、その頃から、エリザはよき遊び仲間となっていた。士官学校に上がってからは自然と会う機会も減ったが、休暇などの折を見ては、ラムザはちょくちょくここを訪れていた。
「ベオルブ家の方々さまもお変わりなく?」
「いや、それが……」
 ラムザは父の急な病のこと、その知らせを受けて、先日帰郷したばかりだということをエリザに話して聞かせた。
「そうでしたか……父上様がご病気に」
 エリザは少し眉を曇らせて、うつむき加減にいった。
「いや、剛毅な父のことだ。心配はいらないよ」
 そう言いながら、ラムザは一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
 昨日久々にまみえた、あの父らしからぬ蒼白な顔。ただの病でないことは、素人目にもわかった。
 ──そして、あの遺言。
 父は、自らの余命幾許もないことをすでに悟っているようでもあった。武人として、病床に命尽きることがいか程に口惜しいことか。それを思うだけで、若いラムザの心は疼いた。そして、今は更なる重みが、彼の両肩にのしかかっていた。
「……ラムザさま?」
 自然とこぼれ出てくるものを、ラムザはそっと拭った。折々に見せる彼のこんな姿を、兄たちは「女々しい」というのかもしれない。
「いや、なんでもない。大丈夫だ」
 ラムザは健気にもそう言って、笑ってみせた。エリザはその顔に微笑を絶やさず、ラムザの顔を見つめていた。彼女の盲(めしい)た瞳が、ラムザの面(おもて)を正確に捉えることはなかった。しかしその瞳には、表情のさらに向こう側を見透かすような、不思議な深みがあった。
「礼拝堂に参りませんか? 父上様のご快癒を共にお祈りいたしましょう」
「ああ、そうだね。そうしよう」
 二人は連れ立って、礼拝堂に向かった。
 建物の外見の割に広い印象を受ける礼拝堂の内には、午後の参拝客の姿がまばらにあった。復活祭の月ということもあり、いつもは人っ子一人いないというのが当たり前な礼拝堂にも、わずかながらの活気があった。
 ラムザとエリザは、正面に据えられた祭壇の前に跪き、グレバドス聖教の作法に則った拝礼を施した。そのまま黙祷に入り、無言の祈りは始まる。
 ──すべてを「無」に帰して、ありのままの自分に対面すべし。
 これが、聖アジョラの導きの詞である。「神は己が心内にあり」というのがグレバドス聖教の一般教義であり、雑念煩悩の一切を払い、無垢なる自己に対面することで初めて神への祈りは通ずると、そう信じられている。細かい規律を定めた教典などもなくはないが、多くの民草に受け入れられているのは、
「神は己が心内にあり」
 という、この一念だけであった。
(余計なことは考えるな。頭の中を真っ白にして、自分自身に向き合うのだ)
 ラムザが初めて剣を取った日、父はまず最初にそういった。
「わからないよ」
 幼いラムザが言うと、
「理解できるものではない」
 と、父は答えた。
「実際、わしにもよくわからん。理屈で説明するのは難しい。あえて言うならば……」
(己を見失わぬこと)
 ラムザは心の中で復唱した。己を見失わぬこと。己を見失ったとき、その剣は狂気にとらわれ、無用な殺戮を生み、果ては己が命を奪い去る。
 祈りを終えると、ラムザは静かに立ち上がった。エリザはまだ祈りを続けている。祈りに決まった長さはないが、今のラムザにとって、心を白にするという業は容易ではなかった。しかし無言の祈りは、彼の気持ちを新たにするに十分な時間を与えてくれた。
「ありがとう。貴重なひと時だった」
 去り際に、ラムザはエリザの手を取っていった。
「私はいつもここにおります。またいつでもいらしてください」
 エリザはそう言ってほほ笑んだ。その無垢な笑顔を前に、ラムザは少しだけ痛みを分かち合えたような心地に浸っていた。
「ああ、きっと。父上の病が治るまで毎日祈りに来よう」
 ラムザも笑顔で答えた。


 それから二週間あまりが過ぎ去った。季節の色も、心なしか青青と、夏の気配を帯びてきている。
 ラムザは日々、武芸に励むかたわら、夕暮れ時には城下に出て、例の修道院で祈るといった一日を繰り返していた。あの日以来、父は主治医を除いては、一家のうちの誰とも面会しようとしなかった。
 ラムザは気持ちを整理しながらも、心のどこかで覚悟を決めようとしていた。その一方で、現実を受け入れようとしない自分がいるのも、彼はよく承知していた。
 別れの時は無情にも刻一刻と迫ってくる。
 ラムザがイグーロスに戻ってから一月あまりが経った巨蟹月三日、バルバネスは終に危篤状態に陥った。
「父上は、もう長くないそうだ」
 ラムザは、この日イグーロスに帰ってきたばかりのアルマとティータに、そのことを冷静に伝えながらも、内心では堪えきれないものを人知れず、そっと流した。若い彼にとって、その別れはあまりに早すぎたし、その背に負うた宿業はあまりに重すぎた。
「兄さん、ここにいたのね」
 庭の一角であった。高台に位置するベオルブの邸からは、イグーロスの城下を一望することができる。ラムザは背の低い石塀に腰をおろし、そこで独り、遠い目をしていた。
「アルマか」
「さっきから姿が見えないものだから……」
 アルマは、砂利を手で払ってから、兄の隣に座った。
「こんなときに……お兄様たちはどこにいるのかしら」
「ダイスダーグ兄さんは、ラーグ公のお供でルザリアに行ってる。ザルバッグ兄さんは、北部で起こった反乱の鎮圧に向かうといっていた」
「そう……」
「父上の様子は?」
「まだ意識が戻らないの。でも、声をかけると、何かおっしゃろうとするの。ずっとお側にいたかったけれど、お医者様が治療なさるというので……」
「そうか」
 この季節特有の、湿っぽい空気が顔をなでる。イグーロスの上空に広がる青天は、遠くマンダリアの草原地帯に差し掛かったところで、切り取られたように黒々とした雷雲に変わっている。時折稲光を見たかと思うと、少し遅れて、ドロドロと戦鼓を轟かすような雷鳴が、地面を伝わってくる。
 傍らでアルマのすすり泣く声が聴こえたが、ラムザはそんな妹を慰めてやることもできずに、ただ俯いていた。
 ラムザより三つ年下の妹は、今年で十三になる。ひと周りもふた周りも歳の離れた兄たちに比べ、同じ胎の産まれである妹のアルマは、彼にとってずっと親しみやすい存在であった。そして妹も彼と等しく、いや、もしくはそれ以上に父親の愛情を一身に受けて育ってきた。
 その愛すべき父との別れが目前に迫っているのである。まだ幼いとはいえ、もう十三になる娘には、その現実を現実として受け止めるだけの、十分成熟した分別がすでに備わっていた。
「女学院にはもう慣れたかい?」
 久々にまみえる兄妹の会話である。ラムザは、努めてありふれた話題に持ち込もうとした。
「……ええ」
 アルマも袖で涙を拭って、それに応える。
「友達もたくさんできたわ。でも……」
「でも?」
 アルマは妙に言葉を濁して俯いてしまった。気になってラムザが問いただすと、「ディリータには言わないで……」と、少しためらいがちに話し始めた。
「ティータのことなんだけれど……」
 ラムザが先ほど言った「女学院」というのは、ルザリア王立貴族女学院のことであり、畏国じゅうの名門といわれる貴族の息女で、この「女学院」の門を出ないものはなし、というくらいの名門校である。
 アルマとティータも昨年そこに入学したばかりなのだが、アルマによれば、そこの同窓たちから、ティータが陰湿ないじめを受けているのだという。
「そうか……ティータが」
 おおよそ想像できないことでもなかった。ガリオンヌ領における武門の棟梁、名門ベオルブ家の養女とはいえ、ティータが平民階級の出であることは、自然、「女学院」の学生たちのあいだにも知れ渡っていたにちがいない。殊に、そこは畏国じゅうの名門という名門の女子たちの集う学び舎である。彼女たちの過剰なまでの自意識が、その場においては例外中の例外ともいえるティータの身を遠ざけたのも、別段不思議なことではない。
「私がそばにいるときは、誰もそんなそぶりはみせないの」
 アルマは、あたかもそれが自己の責任であるかのようにいった。
「でもね、ある子がわたしにいったの。『どうしてベオルブ家のあなたが、あんな汚らしい子と一緒にいるの?』って……。わたし、そのとき初めて知ったの。ティータが、わたしの見ていないところで辛い目に遭ってるって」
 アルマは両膝に顔を埋めて、肩を震わせた。兄たるラムザは、そんな妹の肩に手を置いて、表情に困惑の色を浮かべていた。
「自分を責めることはないさ。誰に何といわれようが君たちは親友、そうだろう?」
「…………」
 アルマがしゃくりあげながらも、大きく頷くのがわかった。
 誰の責任でもない。寛大なる父は、ダイスダーグやザルバッグの反対に遭いながらも、ハイラル兄妹を実の子らと分け隔てなく、同じ学校に通わせようとした。結果として、社会の風潮がバルバネスの理想を受け入れなかったまでのことである。
 ラムザの通う王立士官学校でも、平民の出である親友のディリータは、何かにつけて僻みや嫉みの対象となっていたが、ディリータには、そんな陰口などものともしない強さが元々あったし、だいいち学内では、彼はどんな名門貴族の御曹司にも引けを取らない優秀な士官候補生であった。
 優秀という面では、妹のティータも幼い時分から学問を好み、「女学院」での成績は、アルマよりもむしろ良いくらいなのである。
 しかし、多感な時期の少女の心は、硝子細工のごとく傷つきやすく、繊細で、脆いものである。
 いつしかティータは、アルマの前でもあまり笑顔を見せなくなったという。
「わたし……ティータが……かわいそうで……辛くて……でも……何もいえなくて……」
「…………」
 今のラムザには、そんな妹の悲しみを無言で抱き止めることしかできなかった。否、むしろいかなる慰めの言葉も、この際何の役にも立たないように思えた。
「もう、家に戻ろう。嵐が来そうだ」
 二人の頭上には、いつの間にか分厚い灰色の雨雲が、低く垂れこめていた。一陣の生ぬるい風が通り過ぎたかと思うと、ぽつりぽつりと、滴が落ちてきたのを肌で感じた。
「……さあ」
 ラムザは、涙に暮れる妹の肩を抱きかかえるようにして立ち上がると、屋敷のほうにむかって歩き始めた。



[17259] 第一章 持たざる者~3.牧人の村
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:46

 ──天騎士バルバネス死す。
 との訃報が畏国全土を駆け巡ったのは、夏もいよいよ盛りと見える、巨蟹の月は六日のことであった。
 これでまた一人、畏国は五十年戦争の英雄を失ったことになる。わけても、バルバネス・ベオルブは一代の英傑として、民草にもっとも慕われた将ではなかったかと、貴賤を問わず誰の胸にも思い出される。慣例に従うならば、死後に贈られるべき「天騎士」の称号を生前に賜った者も、後にも先にもバルバネス将軍だけであった。
 なんにせよ、幾多の合戦で圧倒的な勝利を収め、泥沼化した戦争を終結に導き、その生涯を戦と民の平安に捧げた勇者の最期にしては、その死は実に穏やかなものであった。葬儀は内々に、しめやかに執り行われ、棺はベオルブ家代々の墓に納められた。
 家長となったダイスダーグは、定めどおりに伝家の宝剣レオハルトを受け継ぎ──もっとも、これが表向きの家督継承にすぎぬことは、世間の想像の及ばぬところであるが──これを以て正式にベオルブ家の後継となったことを国王に奏上した。
 その後、もともと政治家肌であるダイスダーグは、そのままイグーロス執政官の役職に留まり、北天騎士団総帥の座は、新たに聖騎士に奉ぜられた次兄ザルバッグが引き継ぐこととなった。
 巨星墜つとも、武門の棟梁ベオルブの名は、依然盤石に見えた。
 ──その一方で、今や国家の疲弊は頂点に達していた。
 北天騎士団による大規模掃討作戦で一時はなりを潜めていた骸旅団も、近頃では次第にその勢力を盛り返し、畏国各地で比較的規模の大きい反乱が散発するようになっていた。彼らは、もっともらしい文句を並べ立てて貧困に喘ぐ民を扇動し、中にはおおっぴらに王室に対する叛意を掲げるものもあった。
 しかし、そういった混乱のほとんどは、およそ大義も名分も無い無秩序な略奪と暴力の繰り返しであり、神にすがるほかない多くの弱者は、いつ果てるとも知れぬ不安と恐怖に脅える日々を、ただ連綿と明日へ繋いでいた。
 殺人・暴行などは日常茶飯事、押し寄せる治安悪化の波は、地方に留まらず、法と権力の庇護下にあるはずの大都市にも、次第に及び始めていた。
 ──そしてこの地、魔法都市ガリランドとて、その例外ではなかった。
 ガリランドは、イヴァリース半島の南部を走るサドランダ街道の、ちょうど中間部に位置する城塞都市である。
 外縁に堅固な城壁を巡らした市街地と、城壁の外の一段低くなった土地に無秩序に拡がるスラム街から成る都市構造は、他の主要都市と較べてみても大して変わりばえしないものであるが、このガリランドだけは、なぜか"魔法都市"と、昔から呼び習わされていた。
 魔法都市といえばガリランド、ガリランドといえば魔法都市、というほどである。
 その名の云われは様々に考えられるが、ひとつに、千年の昔に魔族の支配からこの街を解放した初代都督サガリアス・ガリランドに始まり、現在その席にあるマットパス・バラフォム卿に至るまで、都督の任に就いた者は例外なく有能な魔術士であったこと(ふつう都督や領主を務めるのは、その土地の有力貴族か武家である)、もうひとつには、五十年戦争の英雄・魔道士エリディブスを輩出したことで知られる王立魔法学院を筆頭に、白魔法、黒魔法、召喚魔法、妖術、風水術など、幅広い分野の魔術を教授する学校が数多く門を開いており、魔術を志す者が畏国じゅうから集まってくることなどが、その主たるものであろう。
 ともあれ、その学園都市的気風からして、長らく暴動・略奪などとは無縁の土地であったガリランドにも、大戦後のスラム拡大に伴い、そういったものの影がちらほら見られるようになっていた。
 現状を憂慮した現都督バラフォム卿は、老朽化した城壁の修繕と警護の強化を命じ、スラムと市街区の間の行き来を制限することで、なんとか上界の治安を維持しようとした。
 そうした対処が功をなしてか、市街区内に限っては、今のところ大した問題も起きていなかった。


 その日の早朝、ガリランド都督府の門前には、市場の商人たちが殺到していた。
 マットパス・バラフォム卿は、急を知らせる政務官の大声で目を覚ました。
「何事だ、こんな朝早くに」
 肥えた半身をベッドの上に起こし、愛用の鼻眼鏡を手探りしながら、バラフォム卿は唸った。
「学会まではまだ間があろうが」
「これでございますか? 都督」
 若い政務官は、サイドボードに置いてある鼻眼鏡をバラフォム卿に手渡した。
「おお、すまん、これだ……よし。で、何が起こったのだ?」
「それが……」
 政務官は、今朝の騒動について語り始めた。
 商人たちが口々に訴えるのは、「キャラバン隊が定刻になっても到着する様子がない」ということであった。
 キャラバン隊の大部分は問屋商人であり、毎朝近隣の漁港や農村などから、都市部に新鮮な品物を送り届けることになっている。
 が、普段ならもうとっくに着いていてもおかしくない時刻になっても、今日に限っては荷車ひとつ現れない、というのだ。
 もっとも、近頃になって盗賊匪賊の類が増えてきてからは、無傷でキャラバン隊が到着するということのほうが、むしろ珍しいくらいなのだが、さすがに荷車ひとつたどり着かないのはおかしいと、不審に思った商人たちが城門の衛兵に事情を聴けば、
「昨晩遅くから、街道沿いの村落付近に骸旅団と思しき輩が出没している」
 とのことであった。
 で、さっそく調査隊を派遣してもらうべく、商人たちはそろって都督府まで訴え出に来たわけである。
「品物が届かなければ商売ができない、というのです」
「そりゃ……そうだろうな」
「いかがいたしましょう」
「とりあえず原因を探らねばなるまい。今すぐ動ける手勢はあるのか?」
「アルマルクとかいう者が率いる北天騎士団の一隊が、昨日より兵舎に詰めておりますが」
「数は?」
「五十騎ほどかと。イグーロスのザルバッグ将軍の遣(よこ)した治安維持部隊だそうで」
「まあ、よかろう。その、アルマルクなるものを呼んで参れ」
「承知いたしました」
 政務官が足早に出ていくのを見届けてから、バラフォム卿はのろのろと床を抜け出し、身支度を始めた。寝室の窓から外の正門を見やると、なるほど、数十名はあるかと思われる商人の一団が、門や柵にへばりついて、何事か喚いている。すると、先ほどの若い政務官が庭先に出てきて、商人たちに対応しだした。
 そんな様子をぼんやり眺めつつ、支度を済ませたバラフォム卿は、大欠伸ひとつ、階下へと降りていった。
 いつもよりだいぶ早い朝食を終え、食後の豆茶(ソイ・ティー)を喫しているところに、若い政務官が大柄な黒髪の男を引連れて入ってきた。
「あ、お食事中でしたか」
「かまわん、もう済んだ。で、そこにおるのが……」
「アルマルクであります」
 黒髪の男が名乗った。不精髭を生やし、生々しい傷痕の残る面構えなどを見ても、いかにも歴戦の兵(つわもの)といった風体である。
「うむ。朝早くに呼び出してすまなんだな。で、アルマルクよ。さっそくだが、君の率いる部隊に、街道の偵察任務に就いてもらいたい」
「と申しますと、今朝のキャラバン隊の一件で?」
「お、聞いておるなら話は早い。いかにも、その一件で朝っぱらから商人(あきんど)どもが騒いでの。ひとっ走り行って様子を見て来てはくれぬか?」
「は、かしこまりました」
「ついでに骸旅団のネズミを二、三匹ひっとらえてくれば、やつらもつべこべ言うまいて」
 ぐいとひといきに豆茶を飲み干して、バラフォム卿は満足げに笑みを浮かべた。
「以上だ。頼んだぞ」


 兵舎に戻ると、アルマルクはこの辺りに土地勘のあるもの数人を選り抜き、自身それらを率いてガリランドの城門を出た。
 街道を少し行ったところで、右手に小高い丘が見えてくる。アルマルクはチョコボの首をそちらに向けると、一気に丘の頂に登り詰めた。
 その場で小手をかざすと、街道はずっと東へと伸びていって、やがて黒々としたスウィージの森に達している。街道から北のほうに視線を反らしていくと、ここから三クェータ(一クェータは約一、六キロメートル)あまり離れた谷あいに、一群の人家がある。
「あれに見えるのは?」
 アルマルクは傍らの部下に訊いた。
「は。たしか、この一帯で牧(まき)を営むものたちの部落であったかと」
「ふむ……」
 谷間を囲む草地に、ぽつりぽつりとゴマ粒のような家畜の影が見える。
 村落へは、街道から枝分かれた細い小道が一本、うねうねと続いていた。
 アルマルクは、部下の中でもいちばん年若と見える騎士を此方へ呼び寄せて、
「あの部落へ行って、何か変わった様子がないか探ってこい」
 と、命じた。
 半時あまりすると、若い騎士は戻ってきて、偵察の結果を報告した。
 ──その騎士の所見によれば。
 村は平穏そのものにみえたが、よく見ると其処此所に怪しげな騎士や魔道士らしき者の姿があり、用心深く谷間の外を窺っているさまからして、どうもその村の者とも思えないという。
「ううむ……」
 アルマルクは眉根を寄せた。彼の眸は、じっと彼方の村落を見据えている。
 彼自身、キャラバン隊の大行列は幾度となく目にしている。
 総勢およそ三百人、荷駄を負う力自慢の茶羽チョコボと、それを引く人夫、隊を野盗や魔物から守る傭兵などが延々、列をなして街道を練り歩くのである。
 ──その大行列が骸旅団に襲われたのだとしたら?
 当然、何かしらの痕跡はあってしかるべきである。しかもキャラバン隊は無防備ではない。地方の大富豪が資産にものをいわせて雇った精鋭が、油断なく荷駄を護っているのである。骸旅団が荷を奪おうとしたなら、彼らとの戦闘は絶対に避けられない。
 そして、今。
 彼の見える限りでは、そうした異変の痕は見られない。
(どこかで足止めを喰らっているのでは?)
 アルマルクの熟練した状況判断能力を持ちだすまでもなく、そう考えるのが自然である。
 一方で、先ほどの物見の報告も無視できない。なにしろ、神出鬼没の骸旅団である。本当に何の痕跡も残さずに、荷駄を奪っていったということも考えられなくはない。それに、彼ら治安維持部隊の任務は本来、骸旅団の検挙にある。とりあえず、かの村落に骸旅団の影が見えた以上は、これを見過ごすわけにもいかない。
 アルマルクは先ほどの物見役に、今度は街道を東に、コロナス河の岸辺に至るまで偵察を続けろと命じた。
「街道およびその周辺に、何か異変のあった痕跡を見つけたらたらすぐに知らせろ。その他の者は、これより一旦ガリランドへと引き返し、兵を増員したのち、かの牧人の集落の捜索に当たることとする」
 やがて、物見を言いつかった騎士は街道を東へ、アルマルク以下は西へとチョコボの首を向けて駆けていった。

 ガリランドに帰りつくと、アルマルクは五十騎二隊を編成し、例の村落へ向かった。
 都督府が五十騎ほどと見積もっていた北天騎士団治安維持部隊の兵数は、実際のところ百騎以上はあった。
 この部隊は都督府直轄ではないから、政務官でも正確な数を把握していなかったようである。
 ともかく、これほどの大部隊がガリランドに駐留するのは、過去にないことであった。
 その全騎を率いての大捜索である。
 日ごろ、城門の衛兵や市中の警備兵くらいしか見たことのないガリランド市民の目には、物々しく武装した騎士の群れが街のど真ん中をものすごい勢いで突っ切っていくその光景は、さぞかし異様に映ったことであろう。
「いったい何の騒ぎだ?」
「どこぞで戦でも始まるのかい?」
 彼らも気が気ではない。
 当の商人たちも、予想以上に大規模な動きに度肝を抜かされていた。
「骸旅団はそんなに大勢現れたのか?」
「これじゃあ、品物も無事では済まないだろうなあ」
 などと、口々に囁きあっている。
 ──これこそ、世に"平和ボケ"というやつであろうか。
 今や、暗澹たる情勢下にあるイヴァリースにも、中には安穏と「自分たちは守られている」という甘い考えに浸って、実際その身に事が及ぶまで、自分が素っ裸でいることに気づかない者もいる。
 ましてガリランドは、前の大戦でも戦禍を免れている。その上、市街区の封鎖政策も相まって、彼らの多くは足下に広がるスラムの惨状に対してさえも、知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。
 そんなガリランド市民を尻目に、アルマルク率いる兵(つわもの)どもは、早くも城門を飛び出して、莽莽たる草原を疾駆していた。
 ──骸旅団の徹底殲滅。
 これこそが、北天騎士団新総帥ザルバッグ・ベオルブの掲げた一大方針であり、各主要都市に派遣された治安維持部隊にも、
「その影あらば逃すべからじ」
 との通達が行き渡っていた。
 はたして谷あいの一村落は、蟻の一匹も逃すまいと徹底的に包囲され、アルマルクを頭に、騎士は続々と村の敷地内に侵入してくる。
 牧原の民はただ呆然と、突如として現れた大勢の客人を前に声も出せずにいた。
 その中から、村の長とみえる老人がアルマルクの跨がる軍用チョコボの前に進み出て、
「あの……あなたがたは?」
 と、恐る恐る訊ねた。
「お前がここの長か?」
 アルマルクはチョコボの上から老人に訊いた。
「はい、左様でございますが」
「我等は北天騎士団治安維持部隊である。今朝がた、ガリランドに向かう途上のキャラバン隊が、その消息を絶ったという話は聞いているか?」
「いえ、そのようなことは何も」
「ならば、骸旅団らしき者どもの姿がこの辺りで目撃されているのだが」
 今度は、事の成り行きをじっと見守っていた村人たちに質問が飛んだ。
「誰か知る者はおらんのか?」
 ──が、誰も応えない。
 人々の表情は皆一様にこわばり、周囲を見回すアルマルクの視線を避けるように、目を逸らすばかりである。
(ム、何かあるな?)
 アルマルクの勘が、機敏に違和感を感じ取った。彼の目は、今や鋭く周囲の村人たちの上に注がれていた。
「我等は、骸旅団の賊どもがキャラバン隊を襲撃したものと見ている。キャラバンは相当の大所帯であるというが、その荷がひとつ残らず奪い去られたのだとしたら、奴等はまだそう遠くへは逃れられずにいるはずだ」
 彼の追及はなおも続く。
「ちょうどこの辺りの集落などは、大量の荷を一時的に隠しておくのにはちょうどよいところと見えるが?」
「わしらが賊を匿っていると?」
 村長が憤慨した様子で問いかける。
「そんなことは言ってない。我々はただ、ここの住民が賊に脅されて、仕方なく村を隠れ場所に利用させているのではと、そう考えているのだ」
「…………」
 村長は顔を伏せて押し黙ってしまった。
(妙だな)
 と、アルマルクは顎を擦る。
 彼らが脅されているのなら、直ぐにでも賊の身柄を譲り渡してもよいはずである。ここの住民が賊を庇ったところで、彼らには何の益もないのだ。
(ほんとうに何もないというのか?)
 しかし偵察によれば、確かにこの村で、怪しい騎士や魔道士といった者の姿が認められているのだ。それに、ここで引き下がっては、都督への面目も立たないし、だいいち、わざわざ百騎もの大部隊を引っ提げてきて、仰々しくこんなちっぽけな村を囲んでおきながら、やっぱり何もなかったでは済まされない。
「もう良い。念のため、村の中を調べさせてもらうぞ」
 アルマルクが部下に目配せすると、強制捜査は直ちに開始された。


 彼の心配を他所に、半時もしないうちに騎士らしい男がひとり、引き連れられてきた。そのあとも次々と、騎士だの魔道士だのといった身形をした者どもが、民家の屋根裏や地下倉庫などから見出だされ、終いにはその数二十余名に及んだ。
 その中には、深緑色のマントやローブに、骸旅団の結束の証たる兜をかぶった髑髏の印章をあしらったものを身につけている者もいた。
「やはり骸旅団の仕業か」
 アルマルクは髑髏の印章を見ていった。
「なぜ庇いだてした?」
「それは……」
 アルマルクの詰問に、村長は困惑して答えに窮していた。自らの意志で賊を匿ったのなら、それを罪に問われても不思議ではない。
「深手を負った者がおりましたので……見捨てるのも酷と思い、手当てをしたまでにございます」
「なに?」
 みると、たしかに相当な深手とみえる傷を負った者もいる。負傷者の額や腕には清潔な布が巻かれており、懇ろに手当がなされてある。
(どうも、この者たちがキャラバンを襲ったものとみて間違いなさそうだが……?)
 アルマルクは、賊の傷を見ながら考えた。負傷者がいるのも、キャラバンを護っていた守備部隊との間に、小競り合いがあったからに違いない。
「まあよい。お前たちの行いを咎めはすまい」
 結果として、今回の捜索は十分な成果をあげたといえる。アルマルクも、村人たちの純粋な親切心まで罪に問おうとは思わなかった。
 ──あとは奪われた荷を取り戻すのみ。
 骸旅団の構成員は数珠つなぎにされ、はや観念した様子で処置を待っている。
 が、その中に一人、従然(しょうぜん)と胡坐をかいている者がある。
「おい、お前」
「…………」
 アルマルクがその者の目の前で呼びかけても、男は眉ひとつ動かさない。
「名は?」
「レッド。レッド・アルジール」
「お前が頭か?」
「そうだ」
「奪った荷をどこへやった?」
「そんなものは知らん」 
「しらをきるつもりか。今朝がた問屋商人のキャラバン隊を襲撃して荷を奪ったのは、お前たちであろうが」
「全く身に覚えがない」
(こやつ……)
 アルマルクは腰に佩いた長剣をすらりと抜き放つと、その切っ先をレッドの鼻先に向けた。
「手荒な真似はしたくない。荷をどこへやったか。言え」
「…………」
 剣を向けられてもなお、レッドは全く動じない。それどころか、余裕綽綽たるその態度は、むしろアルマルクを圧倒しているようでもある。
「この村をひっくり返そうが掘り起こそうが、無いものは無い」
 レッドは、差し向けられた剣の刃よりも鋭い双眼でアルマルクの顔を見返して、言った。
「たしかに我らは、巷に骸旅団と呼ばれているものに違いないが、今ここにいる者たちは誰ひとりとして、あなたのいう追い剥ぎには加担していない。そのことは誰よりも、ここの牧人(まきうど)たちがよく知っているはずだ」
 レッドの眸に揺らぎはない。
(どうなのだ)
 抜き払った剣はそのままに、アルマルクは横目で村長に訴えた。
「……は。彼のいうことに間違いは無いかと」
 やや躊躇の色を見せながらも、村長はアルマルクの視線に応えていった。
「彼らがこの村に助けを求めに来たのは、三日前のことでございます。それ以来、彼らはひたすら警戒した様子で、今日までじっと身を潜めておりましたから」
「三日前だと?」
 アルマルクは無心にその険しい顔を村長のほうへむけた。村長はその表情にたじろぎつつも、さらに言葉を続けた。
「はい。三日前の早朝でした。盗賊を匿うべきではないと言う者も当然おりましたが、わたくしの一存にて、怪我人の面倒だけでも看ようと決めたのでございます。はじめのうちは、わたくしどもも用心しておりましたが、彼らは略奪することも、村人に暴力をふるうこともありませんでしたし、それどころか、われわれの手当てに対しては礼を以て応え、昨日などは、牧の家畜を狙ってきたクァールの群れを彼らに追い払っていただきました。それに今朝とて、村を出た者はありませんでしたし、まして略奪した大量の荷なども見た覚えはございません」
 そこまで言って、村長は固唾を呑んで心配げな目をレッドのほうへ向けた。
 アルマルクは、再びレッドの方に視線を戻した。目下に縛められている騎士は、尚もその綽然たる態度を崩していない。彼は、刃の先にある男の顔をしばらく鶚視(がくし)していたが、やがておもむろにその切っ先を下ろすと、長剣を元の鞘に収めて、
「荷がほんとうに隠されていないか、もう一度調べろ」
 と一言、部下の騎士に指示した。
 で早速、村の至るところで土が掘り返され、倉の中身が掻き回されたが、一向に奪った荷らしいものが出てくる様子はない。
 そしてついに、
「懸命に捜索しましたが、それらしいものはどこにも……」
 と、捜索班も音をあげてきた。そんな様をみて、レッドは口元に薄ら笑いすら浮かべている。
「わかった。もういい」
 アルマルクは深く溜め息をついて、荷物捜査を打ち切った。
 どちらにせよ、ここに繋がれている者共は国家認定の過激派集団である。犯罪の証拠が挙がらなかったとはいえ、今後どんな火種になるとも知れない連中をここで野放しにして置くわけにはいかなかった。
「貴様らが追い剥ぎに加担していないというのは確かなようだ。が、身柄はこのままガリランドに送還し、都督閣下の検断を仰がねばならん」
「わかっている」
 レッド以下、骸旅団の者たちに抵抗の意思は見られない。
 アルマルクが命ずると、すぐさま北天騎士団の騎士たちが駆け寄ってきて、骸旅団の構成員を村の囲の外まで引っ立てていった。 
 アルマルクは踵を返して、軍用チョコボの上にひらりと跨ると、
「騒ぎだてしてすまなかったな。今後骸旅団の輩を見かけたら、ただちに北天騎士団に知らせるように」
 と、村長を見下ろしていった。
「彼らはどうなるのです?」
 村長は、騎上のアルマルクに問うた。盗賊の輩にも、牧人たちの温情は移るものらしい。連行されていく骸旅団の騎士を見送る村人たちの眼にも、どことなく憐みに近いものがあった。
「処断は都督どのが下される。彼らが追い剥ぎの下手人でないことは、いちおう私から都督どのに申し上げるが……骸旅団に対する処罰は近頃容赦なきものとなってきている。市民の面前での公開処刑となるもやむをえまい」
「そんな……」
 アルマルク自身、北天騎士団の骸旅団に対する弾圧は、近頃行き過ぎているように思えなくもなかった。
 が、そんな情け心が胸に芽生えたところで、どうこうできる彼の立場でもなかった。
 青ざめる村長の顔を眼の隅に残しながら、アルマルクはチョコボの横頸を叩いた。
(いったいどうなっている? 荷は? キャラバンはどこへ消えたのだ?)
 彼は、納得のゆかない顛末に首を捻っていた。
(やはり、街道のどこかで足止めをくらっているとしか……)
「ん?」
 その時、アルマルクを乗せたチョコボの足下をととと、と駆けていく小さい影を捉えて、彼は咄嗟に手綱を引いた。顧みると、この村の子供らしい少年が、虜囚の列の先頭を曳かれていくレッドに近づき、何事か囁いている。
「おい、そこの坊主!」
 騎士のひとりが少年に気づいて引き離そうとしたが、少年は素早くその腕をかいくぐると、次の瞬間にはもう村の中に消えていた。
「なんだあれは」
 騎士がレッドに訊くと、
「世話になった家の子供だ」
 と、レッドは平然と答えた。騎士はアルマルクの方を見て判断を仰いだが、アルマルクは首を横に振っただけで、すぐ前に向きなおった。
 谷間を抜けて街道の枝道に入ると、村を囲んでいた騎士たちも続々と一行に合流した。
「村を抜け出した者は?」
 アルマルクは、包囲作戦の指揮に当たらせた者に訊いた。
「ありませんでした」
「そうか。ご苦労だったな」
「お、これはまた、ずいぶんな数を挙げられましたな」
「うむ。が、キャラバンの荷は取り戻せなかった」
「……? こやつらの仕業ではなかったのでありますか?」
「ああ。どうやら、レアノール殲滅戦で落ち延びたものたちらしい」
 そこで、ふと見た西の空に眼を留めて、アルマルクはチョコボの歩みを止めた。街道の先、ガリランドの方角である。
「隊長っ! あれを!」
 他にも異変に気づいたらしい騎士たちが、西の空を指差している。
「ああ。私にも見えている」
 一筋の煙であった。それもただの煙ではない。北天騎士団の間で用いられている、緊急を知らせる赤い狼煙であった。



[17259] 第一章 持たざる者~4.獅子と狼・上
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:48
 騎士アルマルク指揮の下、大々的に骸旅団の集団検挙が敢行された件(くだん)の村──
 牧人たちがささやかに営むこの谷合の一村落は、土地の人間からはコロヌルだとか、クヌールだとかいう名で呼ばれており、いずれも、この地方の遊牧民の古い言葉で"水の出るところ"というような意味を持つらしい。
 それにしては、この村に水らしい水は見あたらない。井戸はあるが、目に見える形での水気は一切ないのである。
 しかし、この美しい谷を形成したものが、悠久の水の流れであることは疑いようもなく、ここに人が移り住むようになるずっと前、コロナス河が現在よりもっと西側を流れていた時代には、この地から豊かな流れを滾滾と大地に注ぎこんでいたのである。
 その頃の名残らしきものが、今日も谷の奥深くに窺える。
 それは、真っ暗な空洞であった。
 その入口は、空を仰ぐような格好でほぼ真上に口を開けており、周囲は背の高い灌木で覆われているため、この竪穴の存在を知る村人以外の者なら、うっかり足を踏み外して滑り落ちかねない。
 だから、村人たちは、よそ者にはここに近づかないよう忠告することにしていた。現に村人でも、ここに転げ落ちて怪我をする者が今だあとを絶たないのである。
 内部は意外と広く、ずんずん下に降りて行けば、やがて巨大な地下水脈に達する。
 どういう自然の悪戯か、はるか昔は地上を穿っていた流れが、今は地の底に潜っているのである。その流れに逆らうように洞窟をひたすら上っていくと、やがてベルベニア山系の一角、レウス山の中腹に出る。
 が、そこに出るまでの道のりが容易ではない。
 この穴ぐらは半ばゴブリンの巣と化しており、よほど腕っ節が良いか、さもなければ洞窟の住人たちを黙らせるのに十分な威嚇魔法を扱えなければ、およそ彼らの熱烈な歓迎を避けて通ることはできないのであった。
 そんな危険極まりない魔の巣窟のヌルヌルした壁を、ちらちら照らしながらゆっくりと進んでゆく二つの明かりがあった。
「ミルウーダ、この辺で少し休みにしませんか? 今朝からずっと歩きっぱなしだ」
 二つの明かりのうち、後ろをついていくほうの影がいった。まだ幼さの残る少女の声だ。その声が、洞窟の壁に幾重にもこだまして、やがて奥の暗がりに吸い込まれていく。
「しっ! ゴブリンどもに感づかれるとまた面倒だ」
「……すみません」
 松明に照らされて、壁に映し出されたシルエットが少し縮こまる。
 その輪郭は、実に奇妙な形をしていた。
 ちょうど人間の頭にあたる部分が、竜騎士の扱う長槍の先端よろしく円錐形をなしているのである。
 むろん、それは頭そのものではない。
 この少女は、黒魔道士なのである。
 頭の尖りは、世に黒魔道士と呼ばれる者たちが古より身につけている、共通の衣装なのであった。
 この奇妙な装束の正式な呼び名も一応あるにはあるが、見たまま"三角帽子"だとか"尖り帽子"などと呼ばれる場合がほとんどであり、長いローブを纏い、"尖り帽子"を目深に被るのが黒魔道士たちのいわば"正装"であった。
 そして今、この狭苦しい洞窟を行く少女もまた、その例に漏れず身長の半分以上もある尖り帽を被り、薄汚いローブを地面に引きずってビショビショにしていた。
 そのローブをいまいましげにたくしあげながら、松明を片手によちよち歩くさまは、相当な難儀に見えた。
 自然、前をゆくミルウーダとの距離もどんどん開いていく。彼女が後ろを振り返ると、黒魔道士の少女の松明は、だいぶ下のほうにいた。
 溜息ひとつ、歩みを止めてミルウーダは少女が追い付くのを待った。同時に、周囲の壁の隙間や破れ目に注意を向けるのを忘れなかった。洞窟ゴブリンの光る二対の目が、此方を狙っているかも知れないからである。
 ようやく、少女は顔が認識できるくらいの距離まで登りついた。もっとも、その顔は"尖がり帽子"の幅広のつばと、ローブの深襟に隠されて、まったく見えないのであるが。
「エマ、そのローブはなんとかならないのか?」
 少女はエマというらしい。肩で息を切らして前屈みになっているエマを見下ろして、ミルウーダが呆れ顔で言った。
「ごめんなさい。ミルウーダを守るためについてきたはずが、完全に足手まといになってますね」
「だからそのローブをなんとかしろと」
「これですか? これはだめです。これを着てないと、黒魔道士じゃなくなっちゃいますから」
「…………」
 まだ息の揚がっているエマを差し置いて、ミルウーダはまたずんずん歩き始める。
「ちょっと待って……」
 エマはあわてて後を追う。
「この先に、地上から陽の光が射しているところが見える。そこで少し休もう」
 ミルウーダは、エマに背を向けたまま言った。
 ほどなくして、急に開けた空間に出た。
 空間の中央には地下水脈から供給された水が溜まっており、ちょっとした洞窟湖を成している。その湖面に、天井の破れ目から射す光が反射して、周囲の岩壁に水の揺らぎを仄白く映し出している。
 二人は湖の縁まで降りていって、松明を地面に突き刺すと、その場にあった石の塊に腰を下ろした。
「この水は汚れていないようですね」
 エマが水面を覗き込んでいった。そのまま前のめりになって、危なっかしく水をすくいとると、それを帽子とローブの間に流し込んだ。
「ミルウーダも、どうです? 雪融け水みたいに冷たくておいしいですよ」
「そうね……いただこうか」
 と、ミルウーダもエマの隣に屈みこむと、片手に水をすくい取って口に含んだ。
「ん、たしかに」
「でしょう? あの村の井戸水がとってもおいしかったのも、きっとここの地下水を汲み上げていたからですよ」
 言いながら、もう一度すくって飲む。
「ああ、そうだ、水筒に詰めて持っていきましょう。ポーションの材料にもいいかもしれない」
 エマは懐から、首かけ紐付の牛革水筒を引っ張り出すと、それを湖に浸していっぱいにした。
「これで……よし、と」
 最後に袋の口を紐で固く縛ると、エマは大事そうにそれを懐にしまった。
 衣装のせいで見えないが、きっと満足げな笑みを浮かべているに違いない、と、エマの姿を横目に見ながら、ミルウーダは内心でそんなことを思っていた。
 本人は、「ミルウーダを守る」などと言って張り切っているが、駆け出しの魔道士はいえ、こんな年端も行かぬ少女までをも争いの渦中に巻き込んでしまったことに、少なからず責任を感じずにはいられないミルウーダではあった。多くの同志たちを残してコロヌルを離れる決心をしたのも、一つに、エマに対するこの責任感があった。
 北天騎士団があの村にやってきた時、ミルウーダも当然、ここまで連れ添ってきた同志たちと運命を共にする気でいた。
 そんなミルウーダを諌めたのは、彼女の最も信頼を置く同志である、レッド・アルジールであった。
「あなたは、ここで捕らわれるべきではない」
 レッドは言った。
「マンダリアで幸いにも拾いえた命を、ここで無駄にするおつもりか」
「しかし……」
 ミルウーダは、友を見捨てる非情をどうしても割り切れずにいた。
「だめだ。君たちを置いて、私だけ逃れるなど……」
「あなただけではない」
 レッドは頭(かぶり)を振った。
「同志の内に、エマという黒魔道士がいるでしょう。ほら、ドーターのスラムで拾った孤児の」
「ああ、知っている」
「あの娘を連れて行くべきです。彼女はまだ若いし、将来もある。しかるべき場所で、そろそろ別の人生を歩ませるべきだと思うのですが」
「それは、私も考えていた。いかんせん、当人にその気はないようだが」
「あなたに惚れこんでいますからね。でも、やはりここで捕まるべきではない。あなたにしても、ウィーグラフどのと合流し、共に再起の旗を揚げていただかねば」
「兄は無事でいるだろうか……」
「きっと。どこかで、あなたとの再会を切望しておられるに違いない。ギュスタヴが離反した今、ウィーグラフどのが頼れる者は、実の妹であるあなたを措いて他にないのですから」
「…………」
「できることなら、我らもお供したい。ですが、怪我人もおりますし、この人数ではどうしても足が遅すぎる。また敵に見つかるのも時間の問題でしょう。ここはいったん身軽になって、一刻も早くウィーグラフどのとの合流を果たし、味方の士気を高めるのが先決です」
 あらゆる点において、レッドの言は的を射ていた。
 さらには、事態が彼女に一切の予断を許さないこともあった。
 終に、ミルウーダは仲間と袂を分かつ決心をした。
 村の子供に案内させてこの洞窟に入ったのは、今朝早く、北天騎士団が強制捜査を始めた頃であった。ミルウーダはその子供に、
「生きて再び見えん」と、レッドへの言伝を頼んで、エマと共に竪穴の闇に潜ったのである。
 ──そして、今。
 かくのごとく地下の深みに追いやられ、ミルウーダは自身の行く末に、果ては「生ける骸たち」の名のもとに集った同志たちの行く末に、暗澹たる思いを抱かずにはいられないのであった。
(我らの志は……)
 ミルウーダは胸に手を当て、今に至る軌跡を反芻してみる。


 骸旅団を取り巻く状況の悪化を決定づけたのは、二月前、レアノール野の決戦における大敗であった。
 この敗戦は、長らく骸旅団の団結を支えてきた基盤に、致命的な歪みをきたしたのである。
 決戦の日は、畏国暦一〇二〇年金牛の月二十九日。
 骸旅団の精鋭ニ千に、各地で蜂起した土民を合わせると、義軍はおよそ一万。対する北天騎士団は、多目に見積もってもせいぜい一千ほどの小勢。兵の常識からすれば、負けるはずのない戦であった。
「この一戦に勝利すれば、世の中は変わる」
 義軍兵の誰もが、そう信じて疑わなかった。
 ラッツ砦での誓い以来、骸旅団、ひいては畏国全土の窮民の向心力たり続けた騎士ウィーグラフ・フォルズもまた、必勝を目前に半ば驕りを禁じ得なかった。
「北天騎士団を率いるは、畏鴎大戦の雄、ザルバッグ・ベオルブ。相手にとって不足はなし」
 と、戦を前にその黄金色の双眸を輝かせていた。
 彼もまた、前(さき)の畏鴎大戦、すなわち五十年戦争においては、骸騎士団の一志士として最前線で剣を振るっていた者である。
 そんな彼にしてみれば、ザルバッグ・ベオルブという男は、単に仇敵としての存在だけではあり得ず、かつては祖国のために同じ旗の下に集った戦士として、あるいは尊敬に近い念もあったに違いない。今はこうして敵味方に別れて睨みあっているのも、それは、ひとえに生まれついた"運命(さだめ)"の違いでしかなく、このウィーグラフも、その武勇と才覚からして、それなりの門に生まれ出でていたならば、ザルバッグとも肩を並べるほどな英雄となっていたかもしれないのである。
 無論、そういった考えにとらわれて、己の出自を呪ったことも一度や二度ではない。
 ウィーグラフと、彼より九つ年下の妹ミルウーダは、ルザリア王室領内の農村に生まれた。
 いちおうその辺りの農家では一番大きな耕地を有する家であったし、平民階級にしては比較的高い生活水準にあったこともあり、子どものうちから働き手として駆り出されるのが当たり前な一般的な農家の子らとは違って、幼くから、その地方の富裕層の子弟などに混じってしばしば学問をする機会などもあった。
 そういった特異な素質もあって、畏鴎大戦末期に於いては、開戦当初から平民の義兵団として一大勢力を誇っていた骸騎士団に参加し、当時にして二十歳を少し出たばかりの若年の騎士ウィーグラフは、めきめきとその頭角を現していった。
 そして、ここにいま一人、非凡なる勇と才覚を兼ね備えた青年が登場する。
 その名をギュスタヴ・マルゲリフといい、ウィーグラフよりもふたつばかり年下であったが、騎士団に参加した時は既に、百名あまりの山賊どもを従えていた。
 一見するに、上背はそれほど高くなく、剣士というよりは狡猾な策士を想わせる風貌であった。シルバーブロンドの長髪と灰褐色の切れ長な瞳は、周囲の者に荒野を彷徨く"狼"を連想させた。
 人の見かけというのはなかなか裏切らないもので、やはり彼は騎士らしい、正面きった華々しい戦法には拘らず、伏兵や巧みな罠を用いた奇襲作戦を得意としていた。
 対するに、騎士ウィーグラフの信条は、ひたすら猛進的な正攻法にあった。戦の趨勢を全て、己が統率力と士気の鼓舞を以て決してしまうのである。そして、回りくどい策など用いずとも、あまたの戦闘において、彼は例外なく勝利を収めてきた。
 その武勇はまさに「獅子」の如しであり、骸騎士団における若き実力者として、「狼」のギュスタヴと好対照をなしているふうであった。
 自然、志士たちの人気は、"狼"よりも、この"獅子"の方に集まっていくのであったが、かといって、ギュスタヴがつまらぬ嫉妬心に駆られるようなことはなく、「すべては、骸騎士団のため」と、ギュスタヴは喜んで裏方に回り、汚れ役に徹してきた。
 こうした二人の若い力により、骸騎士団は、戦争末期に至ってからも、正規軍たる北天騎士団・南天騎士団にも劣らぬ戦闘能力を有し得たといわれている。
 しかし、この度のレアノール野の決戦を前にして、それまでうまく作用していた二本の軸が微妙にぶれだしたのである。原因は、敵将ザルバッグにあった。ここへきて、首領のウィーグラフが、ザルバッグとの決戦に拘りはじめたのである。
 長らく、"宿命の好敵手"と自ら位置付けてきた男が、目の前に陣取っている。しかも、ラッツ砦での蜂起からレアノールに至る諸戦で、反乱軍は負け知らず、その勢力も、蜂起時の数倍に膨れ上がっている。
「勝負を決するなら、今をおいて他にない!」と、彼が俄然意気込んできたのも無理はない。五十年戦争で使い捨てられた戦士たちも、積年の恨みを今晴らさんと意気込んでいる。
 この時、反乱軍は炭鉱都市ゴルランドをその手中にいれていた。王都ルザリアはもう目前である。
「友よ、聞いてくれ」
 ギュスタヴは、決戦を前に異様な昂りをみせている作戦会議の場において、あえてウィーグラフに意見した。
「もはやここまで来れば、対等に貴族議会と渡り合える。これ以上無用な戦を続けて、我らにいったい何の利があるというのだ」
「なんだと?」
 ウィーグラフは、なにを言っているのかわからないとでもいうふうに、興奮した目をギュスタヴに向けた。
「我々はゴルランドを取った。奴らの心臓を握ったのだ。あとは、目前の北天騎士団を蹴散らして、ルザリアを目指すのみではないか」
「そうだ。我らは心臓を握った。だからこそ、あえて今は軽率な行動を慎み、反乱軍は解体して、我々に有利な状況のまま和平交渉に持ち込むべきではないのか?」
「馬鹿な!」
 ウィーグラフは憤慨していった。
「貴様の目は節穴か? この圧倒的兵力差が見えぬとでも?」
「わかっている。しかし、相手はあのザルバッグ・ベオルブだ。だいいち、この兵力差もおかしい。相手に何か策があるのかもしれん。今部下に探らせているから、うかつに前に出るべきではない!」
「ほう、ここへきてギュスタヴどのは怖気づいたと見える」
「まさか! 俺は同志たちの行く末を思って……」
「そんなに怖いなら、貴様だけここに残って、満足のいくまで貴様の従順な犬どもに敵を嗅ぎ回らせておけ!」
 会議はこのまま、ウィーグラフの主戦論が貫かれ、多くの者が彼に賛同した。一方ギュスタヴは、僅かな同志を募り、情報が出そろうまでゴルランドに残ることとなった。
 ウィーグラフ指揮の下、ただちに総攻撃の準備が開始され、二十九日の早朝、反乱軍総勢一万は、朝靄のレアノール野に続々と繰り出した。
「やっとこの時がきた!」
「今こそ、貴族どもの肥えた腹に、我らの恨みの剣を突き立ててやるのだ!」
 全軍の士気は、今や奮えんばかりである。
「…………」
 ギュスタヴは、人種も装備もバラバラな土民兵の群れを目下に、複雑な心境を面に隠せずにいた。
(いくら数を増やそうと、所詮は烏合の衆ではないか)
 彼の抱く不安の多くは、この点にあった。今までの戦も、ほとんど勢いだけで押し切ってきたといってよい。天才的な統率力を持つウィーグラフでさえ、この雑軍を扱いきれていないことは、とうに彼も見抜いていた。
「ギュスタヴ」
「お、ゴラグロスか」
 見ると、分厚い毛皮の鎧を身につけた大男が足早に歩み寄ってくる。不精髭を生やしたいかつい顔に、なにやら深刻な様子を見せている。
 ギュスタヴ以上に、剣士らしからぬ風貌をもつこの男は、その名をゴラグロス・ラヴェインといい、もとはベルベニア地方の山間を縄張りとしていた山賊の頭目であったが、あるとき、なんの前触れもなく一味の根城に現れた浪人に説かれ、大挙、一味を引き連れて骸騎士団に参加することとなった者である。
 その浪人というのが、ギュスタヴであったことは言うまでもない。
 以来、互いの実力を認めあい、今日まで支えあってきた仲である。
「ウィーグラフはザルバッグ将軍との決着に逸っているようだな」
「ああ。いちおう説得は試みたのだが」
「やはり駄目か」
「うむ。獅子が目前に肉塊を置かれたとなっては……で、"草"のほうは?」
「それなんだが……」
 ゴラグロス配下の「草」は、昨晩遅くに敵本隊の背後に回り込み、王都に通ずるカルバラ峠の山道付近に探りをいれていたのである。レアノール野と王都ルザリアとの堺にあたるこの峠は、旅人たちの間でも難所として知られ、起伏の激しい複雑な地形をなしている。
 で、浪人として畏国じゅうを遍歴した経験から、諸国の地理に詳しいギュスタヴは、レアノール野が決戦の地と決まったときから、この峠に注目していた。
「兵を極めたザルバッグ将軍なら、この地形を利用しないはずがない」
 彼は直感的にそう判断した。
「まず将軍みずから寡兵と見せかけて我らの目前に陣取り、こちらが総攻撃を仕掛けたところを巧みにこの地に誘い込み、伏兵を以てこれをせん滅する。狭地では大軍も役にはたたない。そうなれば、我らはなすすべもなく敗北を喫するだろう」
 と、こう予見を立てて、その危険を昨日の作戦会議で説こうとしたのだが、大将のウィーグラフをはじめ、誰一人聞く耳を持たなかったのは、先ほど述べたとおりである。
 案の定、ゴラグロスの"草"の報告によると、伏兵そのものは確認できなかったものの、カルバラの峠近辺に北天騎士団の哨戒部隊がうろついており、しきりに警戒の目を光らせていたのだという。
「間違いない! 敵は奇計を用いる気だぞ!」
 確証を得たギュスタヴとゴラグロスの二人は、さっそくチョコボに飛び乗ると、ウィーグラフのもとへ駆けて行った。
「だが、伏兵そのものは見当たらんのだな?」
 ギュスタヴが常ならぬ熱弁をもって諭すと、ウィーグラフはやっと彼の警告に耳を傾けた。
「ああ。しかし、伏兵はあると思っていて間違いはない。うかつに攻めたてて深追いするな」
「心得ておこう」
 いちおう危機は伝わった。
 あとは、ウィーグラフの指揮が復讐に猛る兵たちをうまく抑えきれるかにかかっていた。


 日がレアノール野の東の地平線を完全に離れた時、ついに決戦の火蓋は切られた。
 兜を被った髑髏の戦旗が蒼天に翻り、北方出身のつわものが吹き鳴らす巨大な角笛に、野蛮な雄叫びが応える。
 過半数は歩兵であった。装備も満足に整っていない者がほとんどである。手に手に曲刀だの鍬だの樵(きこり)の斧だの、さまざまな得物を持ち、真っ直ぐ敵にぶつかっていく。
 迎え撃つ北天騎士団は、揃いも揃って白銀の鎧兜に長柄の槍を持ち、整然と隊伍を組んでいる。もちろん、全員が騎兵である。狂った獣のように迫ってくる大軍を目の前にしても、身じろぎひとつしない。
 これぞ、世に名高き"白鷲隊"であった。
 前の大戦より、ザルバッグ将軍手ずから育てあげた、北天騎士団の誇る精鋭中の精鋭である。
 その陣頭に立つザルバッグ将軍は、黒鉄の鎧に身を固め、愛用の黒羽に跨り、白一色の編隊の中にあって、さながら両翼を広げた白鷲の"眼"のごとく、一際異彩を放っていた。
「いざ!」
 彼が白銀の騎士剣を目の前に掲げたのを合図に、横一列の隊伍は、両翼の先端部分を先行させるような格好で、怒涛の進撃を開始した。
 この偉容を前にして、流石の狂兵たちも怯みをみせる。
 レアノール野のちょうど真ん中あたりに、深いところでも大人の腰がつかるくらいの浅瀬がある。
 両軍は、そこで激突した。
 といっても、正面きってぶつかったというよりは、反乱軍は巨大な鷲の翼に包み込まれるようにして、左右から猛烈な攻撃を受けた。
 この陣形は、遥か東方の異国より伝わった兵法に倣ったものだという。
 北天騎士団の騎兵たちは、混乱する敵の歩兵たちを長槍でもって優々と串刺し、思う存分殺戮を加えたあと、途中で味方とすれ違い、十分離れたところで引返し、再び左右から挟撃する。この一連の動きを繰り返すのである。
 俯瞰するに、それは巨大な猛禽の羽ばたきに似ていた。
 鷲が羽ばたく度に、反乱軍の兵士たちは水飛沫となって、浅瀬の流れを血の色に染めていく。
 そうした一方的な攻勢が、しばらく続いた。
「まずい!」
 ウィーグラフはようやく自軍の危険を感じとったが、もはや退くに退けない状況にあった。
(しかし……数ならばまだこちらが圧倒している!)
 獅子の血が、彼の体内で沸沸と煮え始める。
「兄さん!」
 副将格のミルウーダが、栗色の髪を振りかざしてウィーグラフのチョコボに並んだ。白い顔が、血と汗にまみれている。
「このままでは危ない! いったん退いて……」
「無理だ。今退いたならば、味方は完全に崩れる」
「しかし……」
「だまれっ! それでも退くというなら、我が妹とて容赦はせんぞ!」
「くっ……」
 ウィーグラフは気合の一声とともにチョコボの横腹を蹴りこむと、敵味方の入り乱れるなかを単騎突入していった。
「ザルバッグ何するものぞ!」
 彼は、手近な敵の騎兵を力ずくで引きずり下ろすと、その長槍を奪って、次々と騎上の敵を叩き落としていった。
 まさに獅子奮迅の活躍である。
 その雄姿を目の当たりにして、反乱軍の戦士たちも俄然士気を盛り返してきた。
「ウィーグラフに続け!」
 との声に、これまでに無かった連携すら見せ始める。彼らの雑草根性とでもいうべきものは、こういう時に異様なまでの生命力を発揮する。
 瞬く間に、形勢は逆転した。
 もとより数で勝る反乱軍である。こう俄かに団結されると、殲滅戦に優れた陣容も容易には効かなくなってくる。
(ひとまずはこんなところか)
 ここで軍(いくさ)の趨勢を見極めたザルバッグは、騎士剣を頭上高く突き上げると、その切っ先をまっすぐ北へ向けた。
 と同時に、敵に撹乱され散り散りになっていた騎兵たちは、ザルバッグの元に収束をみせはじめた。
「逃がすか!」
 当然、勢いづいた反乱軍はその背を追いかける。
 その追撃を適当にあしらって、追いつかれるでもなく引き離すでもなく、北天騎士団の精鋭たちは退却を続ける。
「いかん……追うな!」
 その時、後方にあって冷静に敵軍の動きを見極めていたギュスタヴは、彼の危惧していたとおりのことが、今まさに行われようとしていることに気づいた。
「罠だっ! 引き返せ!」
 しかし、誰一人足を止めるものはいない。
 彼らにとって、この戦は、自らを塵芥の如く掃き捨ててきた者たちに一矢を報いる、またとない好機なのである。積年の怨みつらみが、今や彼らを盲目的な追撃へと駆り立てていた。
「ウィーグラフ! どこだ!」
 もはや反乱軍は、完全にその統制を失っていた。堰を切った濁流は、きわめて物理的に、カルバラ峠の入口に流れ込んでいった。ここへきて、"白鷲隊"は急激にチョコボの脚を速め、みるみるうちに反乱軍の追手を引き離していった。
「だめだ……追ってはならん……追っては……」
「ギュスタヴ!」
 猛牛の群れのような反乱軍の前方から、ゴラグロスが息を切らして駆け戻ってきた。毛皮の鎧のあちこちに折れた矢が立っている。
「やはり敵の奇計だ!」
「どうした?」
「峠道に味方が差し掛かったところで、いきなり足元がぬかるみだした。そのまま身動きが取れなくなって……あとは矢の嵐だ!」
「風水士(自然の力を利用するのに長けた戦士)か」
「俺はなんとか逃れたが、先頭の味方は壊滅した! このまま闇雲に追えば全滅するぞ!」
 見れば、敵の術中から辛くも逃れ出た兵士たちが、死に物狂いで此方に敗走してくる。その泥人形のような姿を追って、林間に潜んでいた北天騎士団の伏兵も続々と姿を現す。
「くっ……」
 流石の"狼"にも、焦りの色がみえる。
 軍の統制を司る者の姿も見えぬとあっては、作戦上の退却すらかなわない。
 もはやこれまで、と観念したものか、ギュスタヴとゴラグロスは、チョコボの首を巡らすと、ゴルランド方面を目掛け、必死に鞭を振るっていた。
「ひとまずはゴルランドまで退いて……」
 というのが、両名の胸中であったに違いない。
 が、そんないちるの望みも、はやゴルランドの城壁が見えてきたところで、虚しい塵となり果てた。
「あれは……」
 絶句する二人の目線の先にあったのは、もうもうと黒煙を上げるゴルランド市街区の姿であった。
 総崩れの隙を突き、北天騎士団の副将マルコムが、別動隊を率いて迅速にこれを奪還したものである。
「こうなってしまっては……」
 ギュスタヴは力なく項垂(うなだ)れた。
「もはや貴族議会との交渉も望めん。何もかもおしまいだ」
 と、やむなく進路を変え、あとはどこをどう逃げたものか、皆目見当もつかなかった。



[17259] 第一章 持たざる者~5.獅子と狼・下
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:50
 かくして、レアノール野の決戦は、正午を待たずにその決着をみた。
 反乱軍にしてみれば、あまりにも惨めな敗戦であった。
 当初一万近くあった兵員も、最終的に生き残った者は千にも満たなかった。
 さらには、反乱軍の首領たるウィーグラフの生死も不明、ギュスタヴも、ゴラグロスも、その後の行方を知るものはなかった。
 ミルウーダは辛くも死地を逃れ、僅かな味方と共にガリオンヌ方面へと敗走した。
 そして、六日かけてマンダリアの古砦にたどり着き、そこに籠って北天騎士団の追撃部隊に最後の抵抗をみせたのが、双児月四日のこと。
 ここで北天騎士団の包囲に遭いながらも、偶然捕らえたベオルブ家の末弟の献策で、なんとか窮地を脱し得たのは、不幸中の幸いとでもいうべきか。
 その後、北天騎士団の目をかいくぐりながら各地の砦跡や洞窟を転々とすること約一月、ミルウーダ一行はやっとの思いで骸旅団の根拠地、"蔓草砦"に入った。
 この"蔓草砦"というのは、その昔、ガリオンヌ南方を治めていた有力貴族が築いたといわれる小規模の山城で、度重なる戦乱を経て、いつしか密林の奥深くに忘れ去られていた遺構である。正式な名称を知る者はなく、ただ古びた城壁のあちこちに蔓草が巻き付いているので、骸旅団の者たちの間では、"蔓草砦"と呼ばれていた。
 ミルウーダも、落ち延びた者は皆いったんこの"蔓草砦"に集まるだろうと予測して、またあわよくば、兄ウィーグラフとの合流も果たせるものとして、まずはここを目指して来たのである。
 案の定、"蔓草砦"には、その数百名にも満たないものの、レアノールから落ちてきた者たちが避難していた。その中には、ギュスタヴやゴラグロスの姿もあった。しかし、ウィーグラフの姿は見られなかった。
「兄は……?」
 と、ミルウーダはその安否をギュスタヴに問うた。彼は頸を振って、「わからない」と答えた。彼の目元にも、疲労の痕がありありと刻まれていた。
「死んだ、と言う者もいる。が、確かな事は分からん。俺も、ここまで落ち延びてくるのが精一杯だった」
「…………」
「しかし、今のところ何の情報も入ってきていない。おそらくは、どこかで生き延びているものと思われる」
 ギュスタヴ一行が"蔓草砦"に入ったのも、ミルウーダ一行の到着するほんの五日前のことであった。敗走する途中、味方とはぐれたり、魔物の群れに襲われたりしながら、ようやく砦にたどり着いたものの、皆憔悴しきって、立ち上がることすらままならないような状態であったという。
「さんざんな敗北を喫したあげく、首領のウィーグラフまでも行方知れずとなっては、これからどうしたものか と、誰もが途方に暮れていたところだ」
 ゴラグロスが言った。
「そんなところへ、あんたが生きて戻ってきてくれただけでも、皆だいぶ気を持ち直すことができたはずだ。ひとまずは休息をとって、それから今後の方針を話し合おうじゃないか」
「…………」
 ミルウーダは無言の頷きを返し、その場を辞した。
 兄に会えなかったことの落胆もあるが、とにかく今は身心ともに疲れきっていた。
 身体じゅうの傷も、今さら思い出されたかのように疼きだしていた。
「みんな、今はゆっくり休んで」
 ミルウーダは、レッド以下、ここまで連れ添ってきた同志たちにも休息をとるように言い、自身、久々に身を横たえて束の間の眠りに落ちた。


 翌朝早く、蔓草砦の地下室には骸旅団の主だった者達が集い、今後の活動方針が話し合われていた。
「まずは、活動資金の工面からだ」
 口火を切ったのは、ギュスタヴであった。
「装備を整え、糧食を確保するのにも、先ずは金が要る。問題は、その金をどうするかだが……」
「ゴルランドで炭坑夫でもやるか?」
 ゴラグロスが冗談をいうと、その場にいたギュスタヴの取り巻きたちが、どっと沸いた。笑いながら、それでも棘のある彼らの視線は、ミルウーダに向けられていた。
「…………」
 ミルウーダは、その視線を痛いほど感じていた。どんな言い訳をしてみても、結果的に、ギュスタヴの忠告にほとんど耳を貸さなかった兄ウィーグラフの失策によって、ゴルランドを奪い返されたばかりか、再起不能なまでの損失を被ったという事実は、やはり疑いようのないものであった。
「まあ、それはともかくとして」
 ギュスタヴは、両の手でその場を収めながら、続ける。
「我らは、これまで、崇高なる使命のもと集い来たった志士団たるを自負してきたし、今をもってその信ずるところは何ら変わるものではない……しかし一方で、我らは現実も見なくてはならない。我らも人間だ。生きなくてはならない。志は高くとも、それが叶うのは、生あっての上だ」
 と、前置きしてから、彼なりの現状打開策を打ち出した。
「今や我らを取り巻く状況は、明日をも知れぬものとなっている。ザルバッグ・ベオルブが、この蔓草砦を見つけるのも時間の問題だろうし、もはやここに身を潜めて機が熟すのを待つ余裕もない。かくなる上は手段も選んではいられないが、かといって物盗り追い剥ぎを続けたところで、日々食いつなぐのがやっとだろう。我らの目標は、あくまで再起の旗を立てることにある。そのためには、効率良く、かつ大量の軍資金をなるべく短期間に集める必要がある。そこでだ……」
 彼がここで一倍声を落とすと、一同は額を寄せて、その言葉に耳を傾けた。
「…………」
 一呼吸置いて、彼は計画の核心を披露した。それを聞いて、面々の表情は一瞬凍りついた。
「……誘拐?」
「そうだ」
「いったいだれを?」
「候補は複数ある。が、どれも貴人や、権力者の身内の人間だ」
「うまくいくのか?」
「必ず」
 ──すなわち。
 現在、相当な地位家柄を持つ貴人、及びその身内を誘拐し、莫大な身代金を求める。誘拐計画はなるべく少人数で実行し、万一失敗した時のリスクを抑える。
 実働可能な人員が極端に少ない今、綿密な計画さえあれば、最も効率良く大量の軍資金を調達できる可能性があるのが、この"貴人誘拐作戦"というわけである。
 この突飛な作戦は、けっしてギュスタヴの"やけくそ"などではなく、すでに彼の脳内で、綿密な構想が出来上がっているようであった。しかしその詳細は、あえてこの場では伏せられた。作戦実行までに、徹底的な秘密主義を貫くためである。
 ギュスタヴ派の者たちは、この計画に一縷の望みを託したようで、うち揃って賛成の声を同じくした。
 その中にあって、あからさまに顔色を曇らせていたのは、他ならぬミルウーダであった。
「無理に協力しろとは言わん。君たちには君たちのやり方を通してもらってかまわんが?」
 押し黙っているミルウーダの様子を察して、ギュスタヴが落ち着きを払った声で言った。ギュスタヴ派の面々も、ミルウーダの表情に半目を注ぐ。
(人の道に外れた行為だ……!)
 声にならぬ声を、彼女は内で噛みしめていた。かといって、彼女はそれを女の身ゆえの甘さとは思っていなかった。
 ──やがて。
「そうさせてもらおう」
 と、ミルウーダはそれだけを言って、席を立った。
「ここより他に行くあてはあるのか?」
 去ってくミルウーダの背を、ゴラグロスのだみ声が追った。
「兄と合流し、ともに再起を図る。それまでのことだ」
「そうかい。では、せいぜい死なぬようにな」
 ギュスタヴを取り巻く者たちは、呆れ顔を隠そうともしなかった。「兄妹揃って、手に負えぬ頑固者よ」とでも言わんばかりである。
「…………」
 ギュスタヴはというと、眉ひとつ動かさず、円卓上の蝋燭の炎をじっとその瞳に映していたが、一言、
「ウィーグラフによろしくな」
 と、言ったのを聞いたか聞かずか、ミルウーダは足早に石の階段を上って行った。


 その日のうちの夜半、ミルウーダにつき従う僅かな人数は、蔓草砦を去った。
 ミルウーダは、己の考えがギュスタヴの方針と相容れぬものであることを、これまで連れ添ってきた者たちに説き、選択を各々の判断に任せた。
 彼女自信、ギュスタヴの策が現状もっとも理にかなっていることくらいは、重々承知していた。ただ、彼女の中にある良心とも正義ともつかぬものが、容易にそれを受け入れないのであった。
 しかし、もっと単純な理由で、多くの者たちはギュスタヴと行動を共にすることを選んだ。
 それはすなわち、"生きたい"という甚だ人間らしい本能であった。彼らは、ミルウーダほど潔く大望に殉ずることができないのであった。
 もっともミルウーダには、彼らの意思を咎めるつもりなど毛頭なかった。
「星々のお導きあらば、再び見えることもあろう」
 砦に残ることを選んだ者たちにそう告げると、ミルウーダは赤羽の背に跨り、レッド以下二十名ほどの同志を引き連れ、月の仄暗い空の下を北へ向け、ひた走っていった。
 マンダリア平原の南端を突っ切り、間もなく東の空が白んできた頃には、一行はガリオンヌ領の広大な盆地を見下ろす丘の頂に立っていた。目下には、魔法都市ガリランドの尖塔群がそびえ立ち、南北を走るフォングラード街道と東西を横切るサドランダ街道とが、ここで交わっている。
「ガリオンヌ領内は、どこも北天騎士団の目が光っています。まずは、ルザリアへ入りましょう」
 とのレッドの意見に従い、一行は山麓の密林地帯の道なき道を東の領境を指し、黙々と進んだ。
 半日ほどで、一行はライナス河の支流のひとつ、コロヌル川へぶち当たった。川幅はさほど広くないが、底が深く、流れも速いので、チョコボの脚ではおろか、泳いで渡ることもできそうにない。
 ミルウーダは、この川縁で暫時休息をとらせ、その間、レッドともにこの川を渡る方策を考えていた。
「一番近い橋は?」
「たしか、ここより北へ一クェータほど上ったところに、古い石橋がひとつあったかと」
「それしか、渡れそうな橋はないのか?」
「私の知る限りでは」
「そこも、敵に抑えられているだろうな」
「おそらくは」
「しかし、この川を渡るより他にルザリアへ出る道はない。レッド、すまないが、その橋の様子を見てきてくれないか?」
「心得ました」
 レッドは二、三人足の強そうなのを従えて、川縁の森を北へ向かった。
 ほどなくして、レッドは目標の石橋を発見した。
 木立に身を隠して観察すると、案の定、北天騎士団の一隊が橋を固め、そこを通る旅人を検問していた。
 レッドは急ぎミルウーダのもとへ戻り、次第を報告した。
「やはりな」
「ですが、たいした人数ではありません。その気になれば強行突破できるかもしれません」
「旅人に扮して、ごまかすことはできないだろうか」
「そのような用意があればともかく……今の状態では危険でしょう」
「…………」
 日は間もなく暮れようとしていた。
 ミルウーダは意を決して、奇襲作戦を敢行することにした。
 夜が更けるのを待って、一行は移動を開始した。目標地点に到達すると、ミルウーダは弓使いを西岸の森の中に配し、自身の合図を以て一斉に石橋の敵兵へ向かって矢を射かけさせた。
「やっ! 敵襲だ!」
「敵はどこに!?」
 突然の襲撃に北天騎士団の騎士たちが大混乱に陥っているところへ、レッド率いる白兵部隊が、喚声をあげて検問所の突破を開始した。
 弓兵の援護射撃の下、レッドたち白兵部隊は立ちふさがる敵を次々となぎ倒し、川の流れに放り出し、あっという間に向こう岸へ渡り終えた。
 それを見届けて、
「今だ!」
 とばかりに、今度はミルウーダの後方部隊が、剣を引き抜き、まだ橋の上に残っている敵を蹴散らして、間もなく対岸のレッド隊との合流を果たした。
「よし! あとはひたすら走れ!」
 ミルウーダ一行も当然無傷では済まなかったが、橋上の北天騎士団の損害は甚だしかった。
「追え! 逃がすな!」
 と、部隊長が追撃の指示を出したころには、もうとっくにミルウーダたちの影は見えなくなっていた。
 林間の闇に紛れ、一行は駆けた。
 ようやく、追手を巻いたとみえたところで、ミルウーダは手頃な横穴を見つけて、一行を休ませた。
 ミルウーダは横穴の壁に背をあずけて、松明の明かりで照らし出された面々を一通り見やった。
「…………」
 やはり手傷を負った者も多く、脱落者も少なくない。
(このまま強行軍を続けては……)
 さすがのミルウーダも、この先が案じられてきた。ルザリアはまだ遠い。どこかで糧食の補給と、負傷者の手当てをする必要があった。
 ──と、そこへ。
 長弓を背負った少年兵がミルウーダのもとへ寄ってきて、
「あの……」
 と、何事か物言いたげな目をこちらに向けてきた。
「どうした?」
 ミルウーダが視線を合わせると、少年はちょと照れたように眼を伏せる。
「おれ、このへんのコロヌルって村の生まれで……そこで、あの、貧しい村ですが……もしかすると、そこで食いものを分けてもらえるかもしれないです……はい」
「え、それは本当か?」
 ミルウーダは、愿朴(げんぼく)な少年の言葉の端に光を見出したかように、瞳を輝かせた。
「はい、それに、けが人の手当ても……村長を説得できればですが」
「できそうか?」
「はい、やれるだけやってみます」
 少年は、ミルウーダの想像以上な好反応に少々まごつきながらも、
「では……すぐに行ってきます!」
 と、一躍、風のように夜の闇に消えていった。
 翌早朝、ミルウーダ一行は、少年の案内でコロヌルの村へ入った。
 少年は、村長の説得に相当難儀したというが、ミルウーダの人となりを説き、その窮状を訴えたところ、
「少しの間なれば」
 と、ようやく滞在の許しを得たのであった。
 牧人たちは、警戒の色を目端に潜めながらも、十分に温かくミルウーダ一行をもてなした。
 豆のスープにヤギのミルク、干した果物など、決して贅沢なものではないけれど、一行は久しく忘れかけていた人間の味を舌に触れ、涙しない者はなかった。
 牧人たちは、そんな彼らの様を見るにつけ、次第に警戒心を緩めていき、重傷者には進んで手当てを施した。
「このご恩は、けっして忘れません」
 荒海に漂って流木を掴むの思いである。この厚遇に対し、ミルウーダは感謝の意を深くする一方で、いつまでもこの地に留まってはいられないという焦燥に駆られもしていた。
 一両日は療養に費やすとし、外への警戒も怠らなかったが、早くもこの日、北天騎士団の一隊来たるの報せがもたらされた。
「はや、これまでか」
 と、皆が覚悟を決めるなか、レッドの言に依り、ミルウーダはエマと共に、コロヌルの村人たちだけが知っているこの地下の抜け道に、降りたのである。
 幸い心配された敵の追跡もなく、地下に巣食う洞窟ゴブリンどもにも出遭わず、二人は暗く湿った長大な洞窟をようやくここまで進んできた。
「…………」
 ミルウーダは、神秘的な蒼さを湛える洞窟湖の水面を、ぼんやりと瞳に映していた。
 思えば長い道のりであった。まったくもってそれは、一条の糸を渡るに等しい道であった。
 レアノールでの敗北以来、幾度となく死地を潜り抜け、最後には、ミルウーダ自身もっとも頼みとしてきたレッドと、自分に運命を託してくれた同志たちを見捨てることとなっても、彼女はまさに骸同然な体(てい)となって、際どい生命を今日まで繋ぎ止めてきたのである。
(これでよかったのか?)
 ここに至っても、ミルウーダの心の隅には、決別した同志たちのことが、黒い染(しみ)みたいな跡を残していた。
 たとえ兄ウィーグラフとの合流を果たせたとしても、再起を図れるほどな兵力が集まるとも限らず、そもそも、兄が生きているという保証もない。
 かといって、ギュスタヴ派の勢力が思想的に離反した今、頼れる人間は兄を措いて他にない。無論それは、兄の立場にしてみても同じことであろう。レアノールでの失策は、結果的に彼への信頼を大きく削ぐこととはなった。しかし、兄の支えとなりえるのも、今は肉親たるミルウーダを措いて他にないのである。
「行こう、今は!」
 まだ片付きそうにない胸の内に強引に蓋をして、ミルウーダは立ち上がった。
「エマ、できるなら今日じゅうにレウスへ抜けたい。歩みを速めるぞ!」
「休憩はもうおしまいですか?」
 湖に足を浸して、すっかりくつろいでいたエマが、悲痛な声をあげる。
「そうだ。ここも安全ではない。一刻も早く地上に出なければ!」
 二人は松明を手にすると、再び歩き始めた。
 地下道は、湖を底にするようにして次第に登り坂となっていた。
「出口は近い……!」
 先を行くミルウーダは、微妙な空気の変化を表皮に感じ取っていた。



[17259] 第一章 持たざる者~6.蛇の口にて
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2014/09/17 09:45
 ギュスタヴ一派の動きは、なかなかに迅速であった。
 ガリランドに駐屯していた北天騎士団治安維持部隊の陽動に成功すると、ゴラグロス率いる実働部隊は直ちに計画を実行に移した。
 彼らの目標は、すなわち、ガリランド都督マットパス・バラフォム卿その人の身柄であった。
 市街区の建物に次々と火を放ち、警邏の兵の目をそちらに引き付けながら、ゴラグロス以下十名ほどの工作員は、目に付きにくい裏路地を縫うようにして、都督府の建物を目指し、最短の距離を駆けていった。事前に、ガリランド市街区の地図は、完璧に彼らの頭の中に入っていたのである。
 そして、目標の都督府の門前までは難なくたどり着いた。衛兵をすばやく黙らせると、工作員は次々と塀を乗り越え、都督府の内部に踏み込んだ。
 突然の来客に慌てふためく政務官や雑用係には目もくれず、ゴラグロスは、最上階にある執務室前に来ると、その両開きの扉を勢いよく蹴破った。
 ──が、正面の執務机には誰もおらず、広い室内を見回しても、都督らしい姿は無かった。
「ちっ、勘づかれたか?」
 室内の箪笥や調度品の影を調べても、抜け道や隠れ場所は見出せない。間もなく、都督府内の他の部屋を捜索していた部下たちも戻ってきて、
「目標は見当たりませんでした」
 と、報告してきた。
 執務室の長窓の外を見やると、北天騎士団の兵舎あたりから、すでに緊急を知らせる赤い狼煙が立ち昇っていた。誘き出した北天騎士団の部隊が戻ってくるのも、はや時間の問題かと知れた。
 ゴラグロスは踵を返すと、
「退くぞ!」
 と一言、駆け足で執務室を出て行った。階段を降りながら、ゴラグロスは考えていた。
 事前に計画が知られていたとは考えにくい。そうであれば、北天騎士団が総出で失踪したキャラバン隊の捜索に向かうことはなかったはずだ。
 ギュスタヴの誘き出しは、完璧だった。
 朝のうちに、街道付近に骸旅団が出没しているとの噂を流布し、工作部隊の手によって、コロナス河に掛かる橋を落とす。これにより、キャラバンの大隊を足止めし、本当に大勢の骸旅団が現れ、キャラバンを襲撃したかのように見せかける。
 ガリランドに駐屯する北天騎士団の頭数もあらかじめ調べてあり、ギュスタヴは、おそらく外の騒ぎの鎮圧に兵員のほぼ全てを差し向けるだろうと予測し、結果、見事にガリランドは手薄となった。
 そして、都督誘拐というもっとも肝心なところは、ゴラグロスら腹心の同志に任せたのである。
「北天騎士団は、我らの殲滅に必死になっている。陽動は上手くいくとは思うが、それでも作戦実行に多くの時間は割けない。ぬかるなよ」
 そういって別れたギュスタヴ本人はといういと、彼は陽動部隊の方の指揮に当たっていた。こちらの数を合わせても、作戦実行に関わったのは、せいぜい三十名ほどであった。
「やはり、そう上手くはいかないか」
 ゴラグロスは、口惜しげに都督府の建物を見上げながら独りごちた。
「すまないな。ギュスタヴ」
 ギュスタヴの紡ぎ出す作戦は、いつも一糸の綻びもないものであった。それを自分の不手際によって破綻させてしまった。ゴラグロスの自責の念は、相当なものであったに違いない。
 しかし、今回の件については、完全に彼の運がなかったというほかない。
 骸旅団の進退を賭けた「要人誘拐作戦」であったが、今回彼らの標的の一人となったマットパス・バラフォム卿はというと、彼はこの日に限って、たまたまガリランド王立魔法学院で開かれた魔法学会の最中にあり、難を逃れえたのは、まさに不幸中の幸いといえた。
 都督がようやく事態を把握した頃には、すでにガリランド市内の騒ぎは鎮静に向かいつつあった。
 北天騎士団治安維持部隊も戻ってきて、アルマルク指揮のもと下手人の捜索が行われたが、この時にはもう後の祭りであった。


 この顛末を見ても、失敗に終わったとはいえ、骸旅団の少数精鋭による疾風迅雷ぶりに比べて、ガリランドの軍事行政の鈍は、目に余るものがあった。
 ──が、この騒ぎの中で、ささやかな活躍を見せた者もあった。
 ガリランド王立士官学校の、士官候補生たちである。
 事件当時、彼らは訓練の真最中であったが、アロー戦線還りの鬼教官として知られるボーアダム・ダーラボンの指示で、警邏部隊が対応に移るよりも早く、すでに独自の行動をみせていた。
 まずは混乱する市民を屋内に非難させ、次に市内の要所要所に即席のバリケードを築き、襲撃に備えた。あちこちに上がっていた火の手に対しては、黒魔道士見習いたちが水魔法で消火にあたり、被害の拡大を防いだ。
 さらには、計画が失敗に終わり、撤退に移った骸旅団の工作員数名を、彼らの手によって捕らえていた。
 ようやく厳戒態勢が解除されたのち、その捕虜を連れて、ダーラボン教官と数名の士官候補生は、北天騎士団治安維持部隊の兵舎を訪れていた。
「本当に、よくやってくれた」
 骸旅団の捕虜を牢に入れ終えると、アルマルクはダーラボンに向かって慇懃に礼をいった。彼なりに、負い目に感ずるところもあったのだろう。
 キャラバン隊捜索時、彼がコロナス河方面へ偵察に遣った騎士が「街道途中の橋が落とされており、キャラバン隊は、北へ大きく迂回するを余儀なくされている」と報告してきたのは、ガリランド襲撃が知れた後だった。彼らは、まんまと敵の陽動に引っかかったことになる。
「なんのなんの、我らはガリランド市民として当然の行動をしたまでです」
 ダーラボンは、アルマルクの姿勢に対し、あえて謙遜して言った。
「しかし、このひよっこどもは本当によく働いてくれました。特に、ここにいる二人は、勇敢に戦い、みごと賊を捕らえてご覧にいれました」
 そういうと、ダーラボンは、彼の後ろに控えていた二人の若者を差し招いた。二人は、ぴんと背を伸ばしたままアルマルクの前まで来ると、握り拳を胸にあて、北天騎士団の作法に習って敬礼を施した。
 アルマルクはそれに応え、改めて二人の若者の顔を見た。
「ガリランド王立士官学校騎兵科所属、ディリータ・ハイラル」
 まず名乗った方は、名門貴族の子らの集う王立アカデミーには似つかわしくない、野性味みたいなものを感じさせる風貌の持ち主であった。美男ではあるが、膚は浅黒く、眼(まなこ)には、なにか容易に人を寄せ付けぬものがある。
「同じく、ラムザ・ベオルブ」
 対してこちらは、一見して貴族の子息と分かる気品を漂わせている。名門ベオルブ家の名を聞かずとも、それなりの家に生まれついた身であろうことは、その容姿から想像できる。長いブロンドを結い、武家の子にしては柔和な面立ちをしている。しかし、その碧眼に緩みはなく、確固たる意思を感じさせるものがある。
「ほう、君は、あのベオルブ家の」
 アルマルクは、ラムザの顔を見ていった。彼の胸には、つい先日の悲報があった。
「亡きバルバネス公は、世に二つとなき英雄であらせられた。謹んでお悔やみを申しあげる」
「……は」
 アルマルクの弔辞を受けて、ラムザの眸が、心なしか揺れた。
「父は星に召されましたが、その遺志は、私とともにあります」
 が、ラムザは気丈にも、そう答えた。
「それに、私には、優秀な兄たちと、愛する妹、そして──ディリータという頼もしい友があります」
 ラムザがそういうと、その言葉の端に何を思ったか、傍らにいたディリータは、ふと、その表情を綻ばせた。
「これは、なんとも頼もしい。さすがは白獅子の子よ」
 アルマルクはそういって頷くと、再び敬礼を施した。
「異国の将来は、君たち若者の肩に掛かっている。これからも励んでくれよ」
 二人は無言でそれに応えると、ダーラボンの後ろに下がった。
「では、我らはこれにて」
 他にもいくつかの報告を終えたあと、ダーラボンと士官候補生は、兵舎を去っていった。
 ──これで、ひとまず一難は去った。
 しかし、捕虜の尋問から分かった今回のガリランド襲撃の目的は、アルマルクの肝を冷やすのに十分であった。
 彼は、早速、イグーロスの総司令部に遣いを送って、事件のあらましを報告した。
 この時すでに、ガリランドの北天騎士団治安維持部隊には、イグーロスのザルバッグ将軍から、新たな指令が下っていた。
 その内容はというと、
「近日、ガリオンヌ領主ラーグ公爵と、ランベリー領主エルムドア侯爵が、会談のため、非公式にガリランドを訪問する由。万一の事態に備え、至急ガリランド、及びその周辺の警戒を厳にせよ」
 とのことであった。
 非公式会談とはいえ、この機を骸旅団が逃すはずがない。
 そう懸念し、アルマルクは、骸旅団が"要人誘拐"という暴挙に打って出たこと、首謀者は今だ逃走中であることを踏まえ、イグーロスに対し、増援の急派を求めたのである。
 イグーロスからの返答は、一日を待たずして届いた。
 すなわち、
「警備の補強要員として、さらに百騎を増派する。また、捕虜に関しては、全員をイグーロスに護送せよ」
 との追命であった。
 捕虜とは、今回の事件で捕らえた工作員数名と、コロヌル村に潜伏していた二十数名のことである。皆、同様に北天騎士団の兵舎の獄に繋がれ、処断を待っているところであった。
 直ちに処刑せよとの厳命ではなかったことに、アルマルクは、ひとまず安心した。
「が、おそらくは……」
 彼は、コロヌルで捕縛したレッドという騎士と、彼らを匿った牧人たちのことを、ふと、思い出していた。
「私としたことが……情が移ったとでもいうのか?」
 そう独りごちて、アルマルクは自嘲した。もはや、彼らに情けを掛ける余地はない。彼らは、追い詰められたあげく、ついに"人攫い"という人の道に外れた行為に及んだのである。この罪に対しては、極刑を以って臨まなければ、民への示しがつかない。彼自らの手を汚さずに済んだだけでも、幸いとせねばなるまい。
 その捕虜の護送であるが、新たに百騎の増援があるとはいえ、警戒に当たる兵をそちらに割くわけにもいかなかった。
(どうしたものか)
 と、思案しているうちに、彼は先日の士官候補生に思い至った。実戦訓練として、彼らを護送任務に就かせてはどうか、と考えたのである。非常時に士官候補生を駆り出したという前例も、戦時には無くはない。
 早速、アルマルクはダーラボン教官に、この案を持ちかけた。
 ダーラボンは、
「うむ、学長に掛け合ってみよう」
 と承諾し、間もなく許可は下りた。そして、ラムザ・ベオルブが護送部隊長に任命され、以下、十数名の有能な士官候補生が、任務に当たることとなった。その中には、ディリータ・ハイラルの名もあった。
「なにせ皆若いからな。捕虜に舐められはせんかの」
 ダーラボンは、鬼教官らしからぬ心配な目で教え子たちを見ていたが、
「ご心配なく。家に帰るつもりで行って参ります」
 と、ラムザは頼もしげな笑顔を見せ付けていった。


 出発日の早朝、ラムザとディリータ、以下士官候補生の十数名は、北天騎士団治安維持部隊の兵舎に来ていた。
 兵舎の前には、すでに数名の捕虜が数珠繋ぎにされて、護送車の到着を待っていた。
 彼らの扱いは、さほど酷いものではなかったらしく、皆、それなりに血色の良い顔をしていた。
 ──が、最後に引っ立てられてきた男だけは、なにか、様子が違っていた。
「おい、しっかり歩かんか!」
 ふらつく歩みに手こずって、長身の男を引き連れる騎士は、そう言って、強引に手枷の紐を引っ張った。騎士になされるがまま、男はへたり込むようにして、数珠に加わった。
 男は、他の捕虜たちと同じく、黙然と座していたが、ふと、その顔を上げて、ラムザの方を見た。
「……?」
 ラムザも、その男の視線に気づき、目をそちらに向けた。
 垢で黒ずんだ顔はやつれ、髭も髪も伸び放題になっていたが、ラムザには、その男の顔に見覚えがあった。
 二人はしばらく無言で視線を交わしていたが、男は口元を少し歪めて、面を伏せてしまった。
「護送車が来たようだな」
 ディリータが、そういったのを聞いて、ラムザは視線を戻した。
 護送車は、二頭のチョコボに牽かれて来た。
 護送車といっても、荷車の荷台に日差し避けの屋根が取り付けられたような簡素なもので、捕虜の二十名あまりは、その狭い空間に無理矢理詰め込まれる形となった。
「牛乳瓶以下の扱いだな」
 すし詰めにされた捕虜たちの様を見て、ディリータが皮肉めいたことを口ずさんだ。ラムザは、ディリータが、どういうつもりで、そういう言葉を口にしたのかは分からなかったが、あまりいい気分はしなかった。
「彼らも人間だ」
 ラムザがそう言うと、
「当然だ」
 と、ディリータは無表情で答えた。
「が、これが敗者の姿だ」
「…………」
 ラムザは、初の実戦訓練に意気込む反面、この任務の内容に、どこか受け入れがたいものを感じてはいた。
 自分に与えられた責務であることは理解していても、それが、はたして正義を為すことなのかどうかは、割り切れずにいた。
「気負うことはないさ」
 ディリータは、ラムザの肩に手を置いていった。
「僕らの任務は、捕虜を無傷でイグーロスまで護送すること。それだけだろう?」
「わかってるさ」
「君は優しすぎるんだ。敵は情けなんてかけてくれないぜ?」
 ──知った風なことを
 と、言いたい気持ちを微笑みのうちに押し込めて、ラムザは、「ああ」と、一言だけを返した。
 ディリータの、こういう現実的なものの見方は、学ぶべきところなのかもしれない。
 ラムザは、護送部隊の先頭に立つと、出発の号令を発した。
 護送車がガラゴロと動き出し、それを取り囲むようにして、士官候補生たちが歩みを進める。
 ラムザを含め、皆、正式に騎士に叙任される前の、「見習い騎士」という身分であった。
 が、その装備を見ると、剣に弓、杖、さらには、武器らしいものは何も身につけていない者など、さまざまである。
 ──イヴァリースの軍隊の戦術概念には、"専門職(ジョブ)" というものがある。
 各々に、剣術、射術、魔術、工術など、自分のもっとも得意とする戦術を持っており、「騎士」に叙されて初めて、それぞれの専門職(ジョブ)として、さらに上級の技術を身につけていくというのが、この国の戦士の、一般的なキャリアの積み方である。
 この護送部隊をざっと見ても。

 ──剣術(主に剣による近接戦闘術)を得意とする、ラムザ、ディリータ、ラッド、アレックス
 ──工術(アイテムによる後方支援術)を得意とする、リリアン、ジョセフ、ニール
 ──射術(弓、弩による遠距離戦闘術)を得意とする、イザーク、カマール、イアン
 ──魔術(魔法による遠距離戦闘・支援術)を得意とする、フィリップ、ローラ
 ──闘術(体術による中近距離戦闘術)を得意とする、ポポ

 といった具合に、実に多岐に渡っている。これらのジョブをバランス良く組み込むのが、必然、良い部隊編成の条件となってくる。
 これらのジョブの多くは、近代以降の武器の進化によって、ほとんど失われてしまうのであるが、当時の戦士たちにとって、己のジョブを極めることは、その者の生き甲斐といっても差し支えないものであった。
 ──さて、話を元に戻して。
 一行は、ガリランドの北門を出て、フォングラード街道を北へ指して行った。
「暑いな」
 ラムザは、小手で額に滲む汗を拭っていた。
 季節は、もうすっかり夏であった。
 南中にさしかかった太陽が、容赦なく大地を灼(や)いていた。西部の平野には木陰も少なく、それだけで、辛い行程だった。
 間もなく、フォングラード街道は二手に分岐し、一方は、サドランダ街道へ接続する枝道、もう一方は、そのまま北上し、レナリア台地を抜け、フォボハム領へと続いている。
 護送団は、ここで枝道の方に入り、西へ針路をとった。
 ラムザの計画では、今日中にこの枝道を抜け、夕方には、サドランダ街道沿いの宿場街に入ることになっていた。まともな寝床が得られそうなのはそこだけで、宿場を出てからは、イグーロスまで、しばらく人家もろくにない道が続く。
 春の終わりに、父を見舞いにイグーロスへ帰った時は二日もかからなかった道も、護送車を牽いてゆく此度の旅路は、遅々として進まなかった。
 そのうえ、この暑さである。
 ラムザは、護送車に押し込まれた捕虜の体調を気遣って、ちょくちょく足を止めた。
「イグーロスに着くまでに、全員ミイラになられたら困るからな」
 ラムザは、水筒を捕虜に手渡しながら、そんな冗談を言った。捕虜はたちは、たった一つの水筒を廻して、各々に口を濡らした。
 ただ一人、例の男だけは、水筒に口をつけようとすらしなかった。
「大丈夫なのか?」
 と、ラムザが訊いても、男は何も答えず、別の捕虜が、
「北天騎士団の牢屋にいるときから、あの調子だ。言うだけ無駄さ」
 と、言ってきた。
「…………」
 男は目を閉じて、眠っているのか、じっとして動かない。ラムザはひとつ溜息をついて、再び出発の合図を発した。
 やがて、辺りがどっぷりと暮れた頃。
 ラムザは目前に、宿場街のわずかな灯りを見出していた。
 少し進むと、やがて、見張り小屋付のこじんまりした門が現れた。
「僕が行ってこよう」
 といって、ディリータが見張り小屋に走っていった。
 小屋の中には、この宿場の自警団の者らしき中年の男がいて、屈強そうな体躯をもてあましていた。
「我らは、イグーロスのザルバッグ・ベオルブ将軍の命により、骸旅団の捕虜を護送中の部隊である。開門を求める!」
 というと、見張りの男は、ディリータの顔を見てから、小屋の窓から身を乗り出し、外の様子を伺った。
「あの車に、捕虜が乗ってんのかい?」
 護送車のほうを見ながら、見張りの男が訊いた。
「そうだ」
「へえ、そいつはいい」
 男は再びディリータのほうへ視線を戻すと、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「ずいぶん若い騎士さんだな」
「騎士ではない。ガリランド王立士官学校の士官候補生だ」
「ほう、貴族のお坊ちゃま方が、また、どうしてこんな所に」
「北天騎士団は骸旅団の殲滅作戦中で、どこも人手が足りてないんだ」
「へえ、そうかい。前に、この宿場が骸旅団に襲われた時は、北天騎士団の方々は、いらっしゃらなかったがねえ……まあ、人手不足なら致し方あるめえか?」
 男はそういって奥へ引っ込むと、やがて、ギシギシと音を立てながら、門が開き始めた。
「すまない」
 戻ってきた男に、ディリータは礼を言った。
「"蛇の口"へようこそ。酒と女は上等だが……どっちもほとんど残ってねえな。盗賊の連中はいい見せモノになるぜ」
「…………」
 ディリータは何も言わずに小屋の前を離れると、護送団の後に続いて、門をくぐった。
 見る限り、宿場街としては大きい方である。が、閑として活気がない。 
 ここでいったん、捕虜たちは護送車から降ろされ、手頃な空家にまとめて収容された。
 ラムザは、数名を見張りに立たせ、残りの者には休息をとるよう言い渡した。
 で、彼自身はというと、空になった護送車の荷台に腰掛け、何やら思案に暮れていた。
 ──間もなく、夜は更けて。
 そこには、空家の内に入っていくラムザの姿があった。
 見張り役の者は、彼の行動を訝しんだが、ラムザは気にも留めず、照明用の蝋燭の弱い光を頼りに、人いきれのする、暗い室内を見回していた。
 捕虜たちは、手枷をつけられたまま、深い寝息を立てている。その中に、あの男が、部屋の隅っこで、じっと頭(こうべ)を垂れている。
 ラムザが、その男の傍に腰を下ろすと、その気配に気づいたのか、男は僅かに面を上げた。
「あなたは……レッド?」
「…………」
 男は目を伏せ、何も答えない。が、この男は、マンダリアの古砦で出会った、あの、ミルウーダという女騎士とともにいた者には、違いなかった。
「あの女騎士──ミルウーダは、どこへ?」
 マンダリアでの一件以来、ラムザは心のどこかで、かの女騎士の行く末を気にかけていた。
 本来ならば、敵となすべき相手と結び交わした、あの手のことを、彼は忘れてはいなかった。
「君には……感謝している」
「え……?」
 途切れ途切れに、ようやくレッドの口から洩れた声は、しかし、ラムザにとっては意外な言葉であった。
「あの時……我らは……かけがえのないお人を……失うところだった」
「…………」
「彼女もきっと……君に……感謝していることと……思う」
 ──感謝?
 その言葉は、奇妙な響きをもって、ラムザの頭蓋にこだました。
 ミルウーダも、自分に感謝しているだろうと、レッドはいう。しかし、今のラムザは、骸旅団に仇なすものとして、その責務を果たさんとしている。
 それでも、彼らは自分に感謝するというのか──
「あの時はただ、彼女を無駄死にさせてはならないと……そう思ったまでです」
 ラムザは、本心から、そう述べた。
「そうか」
「彼女は、ミルウーダは無事なのですか?」
「そうだと信じている」
「…………」
 ミルウーダという女性は、この、レッドという騎士にとっても、特別な人なのだろう。
 彼の口ぶりから、ラムザはそんなことを感じていた。
「君は……真(まこと)の骸と化していた……我らに……希望を……与えてくれた」
「希望?」
 ここで、レッドは、初めてラムザの眸を見た。
「そう……われわれは……話し合える……」
 その言葉を聞いて、ラムザは、はっと表情を変えた。
 ──われわれは、話し合える
 それは、亡き父の理想であり、ラムザの理想であった。
 そして、ミルウーダと手を握り交わしたあの時、確かに、その希望の片鱗みたいなものを、ラムザは感じ取っていた。
 レッドは苦笑いを浮かべ、再び面(おもて)を伏せた。
「なぜ食事を口にしないのです」
 レッドの足元に、捕虜全員に支給されたパンが手付かずで転がっているのを見て、ラムザが訊いた。
 レッドは、静かに首を振った。
「無駄なことだ……本意ではないにせよ……身内のしでかしたこと」
「…………」
 ──都督誘拐未遂。
 骸旅団によるガリランド襲撃の本当の目的は、都督の誘拐と、その身代金の要求であった──その事実は、ラムザの耳にも届いていた。
 未遂に終わったとはいえ、その凶悪犯罪の実行犯たる骸旅団の者たちには、おそらく極刑が下されることとなる。
「今さら……生にしがみついたとて……何になる」
「しかし……」
 ラムザは、苦い顔をして、顔を背けた。
 必然、その法の裁きを下すのは、イグーロス執政官ダイスダーグ・ベオルブということになる。そして、ラムザの良く知るダイスダーグという人間が、情に流されて、処断に迷うなどということは、ありそうもないことであった。
 そうとは分かりきっていても、このまま死の道を歩む人間を見捨てることができないのが、これまた、ラムザという人間の優しさというべきか、甘さというべきか。
「まだあきらめるのには、早いですよ」
 ラムザは、最後にそれだけ言って立ち上がると、空家から出て行った。
 夜風は涼しく、満天に星は瞬いている。
 ふと、背後に気配を感じて、振り返ると、そこにはディリータがの姿があった。
「休まなくていいのか?」
 と、ディリータが言う。
「そうだな。少し眠るよ」
「そうしたほうがいい」
「君は?」
「僕は見張り番の交代に来たんだ」
「そうか」
「ラムザ」
「なんだ?」
「あまり気負いしすぎるなよ」
「そんなふうに見えるか?」
「昔からな」
「…………」
「君はベオルブの子だが……それ以前にラムザなんだからな」
「え?」
「いや、なんでもないさ」
「…………」
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 片手を挙げて、ラムザは宿の方へ歩いていった。
 その友の背を見送ってから、
「あまり気負うなよ」
 ディリータが、もう一度つぶやいたその声は、誰に言った言葉か、夜風に乗せられて、何処へともなく運ばれていった。



[17259] 第一章 持たざる者~7.急使
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:53
 ──明けて、任務二日目。
 護送部隊の面々は、捕虜たちを引き連れて、昨日入ってきた門とは反対側の門の前に集まっていた。
 骸旅団の捕虜たちは、再び数珠繋ぎにされて、早朝の薄明かりに、その惨めな姿を晒していた。
 ラムザは、護送車に押し込められていく捕虜の列を遠目に眺めていたが、その中に、レッドの姿を見とめていた。
 レッドの態度は、昨日と変わりなかった。
 亡者みたいに上体を低く下げ、ぼさぼさに伸びきった髪に遮られて、その表情は窺い知れない。
 ガリランドを出てからこっち、水一滴口にすることなく、おそらく昨晩の様子からして、ろくに眠ってもいない。
 まだ生命活動を続けているのが、不思議なくらいである。
 彼のいったとおり、その姿は、とっくに魂の抜け去った骸のようであった。
 ──と、そこへ。
 何かが、こつん、と、レッドの頭に当たって、彼は、はたと歩みを止めた。
「こいつっ!」
 と、どこからか声がして、さらにもうひとつ、今度は別の捕虜の肩を掠めて、それは地面に転がった。
 なんのことはない。
 子供の掌に収まるくらいの、石礫であった。
 捕虜の"搬入"に当たっていた、ジョセフという士官候補生が、石礫の飛んで来た方向を見やると、まだ五つかそこいらの童が、民家の前に立って、次の一撃を拾いあげたところであった。
「姉ちゃんをかえせ!」
 と、それを、めいっぱい振りかぶって、捕虜たちの列に向かって、投げる。
 それは、大きく外れて、護送車の日差し避けに当たった。
「おい、やめろ!」
 と、叫ぶジョセフは知らぬふりで、そこらに落ちている石ころを拾っては、次々と投げてくる。
「くそっ」
 と、たまりかねたジョセフが、その童の方へ歩いていくと、民家の戸口から母親らしき女が出てきて、抗う童を無理やり、家の中に引っ込めてしまった。
 民家の壁越しに、童の泣き喚く声が、その場にいる誰の耳にも聞こえる。
「…………」
 その光景を、いちばい複雑な表情で見つめていたのは、ほかならぬディリータであった。
「あそこンちのガキはな」
 彼の傍らに、いつの間にか、昨日の見張り小屋の男が立っていた。
「姉貴を骸旅団の連中に攫われたのさ。この前の襲撃でな」
「…………」
「今ごろ、どこかに売り飛ばされているんだろ。かわいそうにな。面倒見のいい、良い娘だった」
 ディリータは、黙って男の話を聞いていたが、やがて
「僕にも、妹がいます」
 と、一言、ぽつりと呟いた。
「ほう」
「両親は幼いころに亡くしましたが……それいらい、たったひとりの肉親です」
「名前は?」
「ティータ」
「ティータ、か。いい名だな」
 男は、太い腕で頭をボリボリ掻きながら、最後に、
「大切にしなよ。兄貴」
 といって、門の方へ去っていった。
 まもなく、やかましい音をたてて、サドランダ街道方面へと出る門が開いた。
 思わぬ足止めをくらったものの、捕虜はようやく収容され、あとは出発を待つのみとなった。
「世話になりました」
 ラムザは、見張り小屋の男にそう告げて、全員揃っているのを確認すると、出発の合図を出した。それに合わせて、護送車を牽く二頭の茶チョコボが、同時に歩き始めた。


 "蛇の口"を出ると、一行はそのまま枝道を抜け、サドランダ街道に入った。
 目前には、広大なマンダリア平原が横たわっている。街道は、大平原を突っ切って、はるか彼方に見える小山 ──マンダリアの丘に続いている。
 平野部を走る街道が、わざわざこんな峠を通っていくのは、かつてそこにあった砦のためであろう。
 古い記録によると、それなりの規模を誇る砦であったそうだが、使われなくなってから久しく、今は廃墟となって静かに平原を見下ろしている。
 丘を避けて通る道が作られてもよさそうなものだが、マンダリアの丘の頂に湧き出る清水と、野宿できる場所を求め、ここを立ち寄る旅人が今でも絶えなかった。人の足でマンダリア平原を越えようとすると、どんなに急いでも丸一日以上はかかるから、廃墟と化した現在でも、恰好の旅の中継地として機能しているというわけである。
 ラムザはひとまず、以前もそうしたように、この砦跡を目指すことにした。
 一行は黙々と歩く。
 辺りには、魔物の気配もない。この一帯は、クァールと呼ばれる、きわめて好戦的な野獣が棲息することで知られるが、街道を大きく外れない限りは、めったにその群れに出くわすこともない。
 それでも注意するに越したことはないが、夏の陽光はいよいよ高く、さすがのクァールも、この暑さにはへたばっているのか、平原を見渡すかぎり、それらしい姿はどこにも見られなかった。
 頭上には、大トンビが一匹、奇怪な声をあげて旋回している。
 初の実戦訓練という気負いも、いつしか茫漠たる意識の果てに薄れ、今はおぼつかぬ足取りを、士官候補生たちは半無意識のまま運んでいた。
 道は峠へ向って、やや上りにさしかかったところであったか。
 部隊の最後尾に付いていたカマールという弓使いが、今までになかった微かな物音をその耳朶に感じ取っていた。
「何か来る!」
 カマールの声に、一同は何事やと、その歩みをいったん止めた。カマールは斥候術に優れた戦士であった。それだけに、人一倍、五感も鋭い。
 音は後方から来ているらしかった。カマール以外の者には聞き取れなかったその音も、次第に、誰の耳にもはっきりと伝わってきた。
「チョコボの蹄の音か?」
 ラムザは小手をかざし、音のするほうにじっと目を注いだ。弓使いの三人──イザーク、カマール、イアンは、すばやく弓に一矢を番(つが)えていた。
 やがて、ゆらゆらと揺れる地平に、チョコボに跨った騎兵とわかる姿が浮かびあがってきた。その姿はみるみる大きくなっていって、早くも、騎手の顔が判別できるくらいの距離に迫っていた。
「単騎らしいな」
 ディリータが言う。
「何者だろうか……旅人にしては、妙に急いでいるような?」
 そういって、ラムザは弓使いたちの横に立つと、そこで騎手を待ち構えた。相手もこちらに気づいたらしく、手綱をひくと、十歩ほど離れたところで停止した。
「何者か!」
 ラムザが訊くと、騎手はチョコボの背から降りて、こちらに歩いてくる。
「害意はない!」
 というと、騎手は両手を挙げて、自らの意思を示した。それを見て、ラムザがひとつ頷くと、弓使いたちは構えていた弓を下ろした。
 若い男であった。騎士の形(なり)をしてはいるが、ラムザたちとも、そう歳は変わるまい。
 臙脂の革鎧にマントといったいでたちで、腰には、一振りの長剣を佩いている。いずれも、北天騎士団の一般的な装いとは異なっている。
「どこの所属のものか」
 ラムザはまず、その素性を訊ねた。
「ランベリー領、近衛騎士大隊所属」
「名は?」
「アルガス。アルガス・サダルファス」
「ランベリー領の者が、なぜこんな所に?」
「急使である。イグーロスへ向かう途中だ」
「イグーロスへ?」
「そうだ」
 ここでアルガスは、なにやら苦しげに、眉を寄せた。
「イグーロスの、ダイスダーグ・ベオルブ殿に、至急お伝えせねばならぬ儀がある」
「……?」
 ラムザは、不審に思った。
 ランベリー領は、イヴァリース半島の東部に位置する領地で、ガリオンヌとは、王室領ルザリアを隔てており、お互い滅多に行き来もしない。
 そのような土地から、わざわざ遠く離れたガリオンヌ領の成都イグーロスへ急使とは、そも、いかなる大事か。
 ラムザが、そのように質すと、アルガスはいよいよ窮まった様子で、
「ことは、ガリオンヌ領内で起こった。だから……」
 と何か口の中でいいかけて、ひとつ、奇妙なよろめきをみせると、突然、その場に昏倒してしまった。
「おい!」
 ラムザは驚いて、すぐにその体を抱き起こした。
「おいっ! しっかりしろ!」
 呼びかけても反応はなく、アルガスは、すっかり意識を失ってしまっている。そして、その額からは、尋常でない量の汗が噴き出している。
 ラムザは辺りを見回し、適当な木陰を見つけると、そこへ行って、アルガスの体を横たえた。
 アルガスは、汗にまみれた顔に、なおも苦悶の表情を見せている。
「リリアン! ローラ! 彼を診てやってくれ!」
 ラムザは、医術や白魔法の心得のあるものを呼び寄せると、彼らにいったんその場を任せて、自身は木陰の外に出て、その処置を見守っていた。
 そこへディリータが駆け寄ってきて、
「いったい、どうしたっていうんだ?」
 と訊いたが、ラムザは、わからない、といったように首を振った。
「急に倒れたんだ。そういえば、何か様子が変だったような気もするけど」
 救護に当たる二人は、ポーションを口に流し込んだり、簡単な白魔法をかけたりしていたが、アルガスが目を覚ます様子はない。
「ガリオンヌ領内で何かあったといっていたな?」
「ああ」
「…………」
 ディリータは口もとに手を当て、しばらく思考を巡らせていたが、やがて、
「彼がランベリーの近衛騎士なら、エルムドア侯爵の身に何事か起こったのかもしれない」
 と、切り出した。
「エルムドア候に?」
 ラムザが訊き返すと、ディリータは、やけに深刻な顔をして頷いた。
「ああ。そうでもなければ、近衛騎士たるものが、主のもとを離れるとは考えにくい」
「たしかに」
「侯爵は、ラーグ大公と、ガリランドで非公式に会談を行う予定だったと聞いている。もしかすると……」
「…………」
 恐ろしい予感が、二人の間で、徐々にたしかなものへと変わりつつあった。
 二人の胸には、当然、つい先日の都督誘拐未遂事件があった。現に、実行犯のほとんどは逃げおおせていたし、首謀者と目されるギュスタヴなる男の動向も不明なままであった。彼らがまだあきらめずに、次なる標的として、エルムドア侯爵の身を狙ったとしても、なんら不思議ではない。
「まさか……」
 ラムザは、困惑した視線を、力なく横たわるアルガスの方へ向けていた。
 しばらくして、アルガスの救護に当たっていたリリアンが二人のもとに来て、
「いちおう、できるかぎりのことはしたわ」
 と、報告してきた。
「ただ、何かしきりに、うわごとをいっているの」
 リリアンは怪訝そうに、木陰に横たわって、なおも白魔道士のローラの回復呪文を受けているアルガスの姿を見やった。
「うわごと?」
 ラムザが訊くと、彼女は再びこちらを向き直って、
「ええ。『侯爵様』と、何度も」
 といった。それを聞いて、ディリータとラムザは、ちらと目を見交わした。
「ひどく衰弱してるわ。命に別状はないと思うけど、はやくきちんとした場所で治療しないと、危ないかもしれない」
「そうか。彼の意識が戻ったら、また知らせてくれ」
 ラムザがいうと、リリアンは「わかった」といって、再びアルガスのもとへ駆けていった。
 ラムザは、いったん護送車のところへ戻って、皆に状況を説明したあと、この場で休息をとるよう指示した。
 ただでさえ遅れぎみの行程に、思わぬ足止めをくらう形となったが、病人を引きずっていくわけにも、また、この場に捨て去っていくわけにもいかないというのが、ラムザの判断であった。
 彼は道端の岩影に僅かな日避けを見出して、ディリータと並んで、そこへ腰を落ち着けた。
「やはり、侯爵の身になにか起こったとみて、間違いなさそうだな」
 ディリータが言った。
「ああ、もし誘拐されたのなら、これは大変なことになる」
「骸旅団は、法外な身代金をふっかけてくるだろうな」
「…………」
 ラムザは、それには答えず、何か納得のゆかぬ気持ちを、その眉にみせていた。
(人の道に外れた行為だ)
 骸旅団の犯罪行為を、そうやって非難してみる一方で、彼の胸のうちには、今は捕虜となっているレッドと、あのミルウーダという女騎士との出会いが思い出されていた。
 目的のためならば、人の命を金に替えるという非道も厭わない。それが、「骸旅団」という組織のやり方ならば、ラムザがマンダリアの砦で捕えられたあの日、彼らはその方針に従って、ラムザの命と引き換えに、多額の身代金を要求することもできたはずである。
 しかし、騎士ミルウーダは、それをしなかったばかりか、捕虜を解放し、自らは大敵の前に打って出て、その志に殉じようとしていた。
 たとえ志のためとはいえ、安易に命を捨てるというのは賛同しかねるが、ラムザは、彼女の、その"覚悟"に、胸を打たれていたのである。
「どうかしたのか?」
 先ほどから押し黙っているラムザを訝しんで、ディリータがいった。
「いや、なんでもない」
 そう答えて、ラムザはどこか遠くの方を見据えていた。その目線の先に、ぼんやりと、碗を伏せたようなマンダリアの丘の姿が浮かんでいる。
「大戦時、骸騎士団は義のため死したと、父上はおっしゃっていた」
 ややあって、ディリータが言った。
「それなのに、その志を継いだはずの骸旅団は、今や、単なる野盗集団の類に成り下がっている」
「…………」
「やつらは平民の味方などと吹きまわって、その実、弱い立場にある者から略奪を繰り返している。そして今度は、人攫いだ!」
「…………」
「今の彼らに、"骸"の騎士を名乗る資格はない。そうは思わないか?」
 ディリータの向ける真剣そのものな目に、ラムザは直ぐに答えることができなかった。
「しかし……」
 と、言葉を詰まらせて、面を伏せる。
 ──自分の考えは、やはり甘いのかもしれない。
 今の骸旅団の中にも、ミルウーダやレッドのように、誇り高き志士がいることも事実だ。しかし、彼らとて、"骸旅団"という集合の一部分であることに変わりはない。
 そして、"社会"という無慈悲な神は、その"部分"には目もくれず、"集合"として、彼らに審判を下す。それは翻って、ラムザという個人がどうあろうとしたところで、結局のところ、自分は、傲慢で、平民を搾取し続ける"貴族"という集合の中に含まれる者として、"社会"に認知されるということでもある。
「彼らの中にも、潔い戦士はいる」
 と、ラムザはいった。今のラムザには、そう答えるしかなかった。それを聞いて、ディリータはついと目を背けて、表情に不服の色を隠そうともしなかった。
「やっぱり、君は優しすぎるんだ」
 そういって立ち上がると、ディリータは護送車の方へ去っていってしまった。
「…………」
 ラムザは、その背を黙って見送ってから、ひとつ、大きな溜息を漏らしていた。


 アルガスが目を覚ましたのは、日もだいぶ落ちてきて、夕風の涼しく感じる頃であった。
 彼が倒れたのは、多分に疲労のせいもあるようだが、ほかにも、背に矢疵を負っており、そこからくるらしい発熱もあった。
 這ってでも行こうとするアルガスを、やっと落ち着かせ、ラムザとディリータは、彼から詳しい事情を聞きだそうとしていた。
「そういえば、まだ名前をいってなかったな」
 ラムザは手を差し出しながら、
「僕はラムザだ。ラムザ・ベオルブ」
 と、名乗った。
「ベオルブ?」
 アルガスのほうは、ラムザの手をとりながら、何かに惹かれたような表情をみせ、
「ベオルブとは……北天騎士団を率いる、あのベオルブ家?」
 と、わずかに身を乗り出す。
「そうだけど?」
「ほんとうか!」
 その顔に、にわかに明るさを取り戻して、
「おれは、ついてる!」
 と、アルガスは、もう片方の手も添えて、ラムザの手を握った。
「まさか、ベオルブ家の者に出会えるとは!」
「ちょっと、落ち着いてくれ」
 うろたえるラムザに宥められて、アルガスは、手負いの体を思い出したように身を引く。
「で、いったい何があったのか、教えてくれないか?」
 気を取りなおしてから、ラムザが訊くと、アルガスは苦い記憶を噛みしめるように、
「侯爵様が、エルムドア様が骸旅団に攫われた」
 と、事のあらましを語りだした。
 ──昨日の、夜中。
 ランベリー領主、エルムドア侯爵を乗せた馬車は、アルガスら近衛騎士団の兵に護られて、魔法都市ガリランドへ向う途上にあった。
 そして、スウィージの森を抜ける手前、一行は、突如現れた武装集団に囲まれてしまった。
 確認できただけでも、その数二十あまり。対する近衛騎士の人数は、十に満たなかった。 
 彼らは必死の抵抗を試みたが、あえなく打ち破られ、そのままエルムドア候の身を奪われてしまったという。
「おれは、賊の矢を受けた衝撃で、気を失っていたらしい」
 アルガスは、悔悟の念を、その眉間に刻んでいる。
「他に、生き残った者は?」
 ディリータが訊くと、アルガスは力なく首を振って、
「いない。おれだけが助かった」
 といって、うなだれた。
「下手人は、骸旅団とみて間違いないんだな?」
「ああ。ただの追いはぎだったら、手出しはさせなかったさ。奴らは明らかに、その道に通じた者たちだった」
 そういって、アルガスは唇を噛んだ。
「その後、なんとかガリランドにたどり着いて、北天騎士団の治安維持部隊に、下手人の捜索を依頼した。だが……おれは捜索部隊に加えてもらえなかった」
「どうして?」
 ラムザが問う。
「おれが……よそ者で、半人前だったから」
 アルガスは、その眸に、いっそう悔やみの色を濃くする。
「半人前?」
「そうだ。おれは、まだ、正式な騎士に叙される前の、見習い騎士だ。今回の護衛任務も、初の実戦だったんだ」
「…………」
「それで、いてもたってもいられなくなって、イグーロスのダイスダーグどのに、直訴しようと思ったんだ」
 なるほど、ベオルブの名を聞いて、アルガスが過剰な反応を見せたのも、このためであったかと、ラムザは合点した。
「他領の見習い騎士が、ダイスダーグどのに取り次いでもらえるあては?」
 ディリータが、落ち着いた口調で、意見を差し挟んだ。──もっともなことではある。が、突っかかるようなディリータの物言いに、アルガスは、ぴくりと目の端を振るわせた。
「ああ、分かってるさ。でも、この一大事に、じっとしていられるわけないだろう。侯爵様が攫われてしまったのも、おれに力が無かったからだ」
 そこで、アルガスは懇願するような目をラムザに向けて、
「だから、ここで、ベオルブ家の人間に会えたのは、何かの縁だ。頼む、執政官どのに……ダイスダーグどのに、会わせてはもらえないか?」
 取りすがるようなアルガスの表情に、ラムザは戸惑いの色をみせた。
 イグーロス執政官の実弟とはいえ、身分のうえは、単なる士官候補生にすぎないラムザなのである。この件について、兄の耳に入れることは出来たとしても、それ以上、事に関わらせてもらえるとは到底思えなかった。
 なにしろ、ランベリー領主の誘拐という、重大事件である。一介の見習い騎士の手に負えるものではないし、そこに私情を挟み込む余地もない。だいいち、兄ダイスダーグは、ガリオンヌじゅうに張り巡らした"目"や"耳"から、とっくに、この事件の詳細を把握していることだろう。
 ──が、その道理をいったところで、すんなり聞き分けしそうなアルガスでもない。
「いちおう、兄上には取り計らおう。が、あまり期待はしないでくれ」
 とだけいって、アルガスには、とりあえず納得してもらうほかなかった。


 日はとうに暮れていたが、ラムザは遅れを取り戻すためにも、歩き続けることにした。
 アルガスは、目的地も同じということだし、何より怪我をしていたから、このまま護送部隊の列に加わった。
 深夜のうちに、一行はマンダリアの砦跡に到着した。ラムザは、実際にここで襲われた経験から、事前に斥候を遣って砦跡の安全を調べさせたが、人の気配はないという報告を受けて、やっとここに部隊を入れた。
 ──これで、全行程にして三分の二は来たことになる。
 ここでいったん全員に仮眠をとらせ、朝方、ラムザは再出発の号令を発した。
 この時、捕虜の一人が、暑いなか護送車の中に押し込められるのは辛いといって、
「歩ける者は歩かせてくれ」
 と、頼みいれてきた。
「どうします?」
 ジョセフがラムザの指示を仰ぐと、
「いいだろう」
 と彼はいって、捕虜の要請を容れた。
 一方、この措置に難色を示したのは、ディリータとアルガスであった。
「逃げる気かも」
 と、ディリータがいったが、ラムザは決定を曲げようとはしなかったので、彼は不承不承、従った。
 半数以上の捕虜が、自分の足で歩く方を選び、レッドや、その他の負傷者は、護送車に残った。徒歩(かち)で行く捕虜は、手枷をされたまま、それぞれに部隊の人員が付いた。
 ようやく、護送部隊は任務三日目の行程に入る。
「…………」
 ふと気になって、ラムザは、ちらと、アルガスの様子を盗み見た。
 アルガスが骸旅団の捕虜たちを見る目には、先ほどから、尋常ならざるものがあった。
 主人を、彼らの仲間によって攫われた身としては、ごく自然な態度といえなくもなかったが、その目に、なにか薄ら寒いものを感じずにはいられないラムザであった。
 ──怪我さえしていなければ、切り捨ててやるものを──とでもいいたげな、それくらいの剣幕であった。
 やがて、峠は下り終えて。
 街道は、まばらな雑木林へと入っていく。右手は緩やかな土手になっていて、木々の合間に、ライナス河から発する靄が、かすかに白かった。
 曇天に日輪はおぼろげで、蒸々と暑い。これはこれで、各々の体力をじわじわと削っていく。
 長旅の疲れもあった。終点も間近となって、若い士官候補生たちには、少し気の抜けていたところもあったかもしれない。
 ──そこを、突かれた。
「あッ!」
 殿(しんがり)を歩いていたラッドという見習い騎士が、咄嗟に声をあげた時には、すでにその捕虜は、脱兎のごとく、土手を駆け下りていた。
「脱走だ!」
 誰かが叫んだのを聴いて、先頭を歩くラムザが、反射的に、
「捕らえろ!」
 といったのと、何か鋭い音が、ひょうと林間を駆け抜けていったのとは、ほぼ同時だった。直後に、
 ──ドスッ
 という、鈍い音がして、脱走した捕虜の姿が、追っ手の視界から消えた。
 追っ手が、捕虜の消えたあたりの草むらに駆け寄ると、そこには、麻の囚人服を朱に染めた、捕虜の背(せな)があった。
 至近から放たれた一矢は、過たず、捕虜の心臓を捉え、その背につき立っていた。
 唖然として、一同の目は、その矢羽から、それが放たれたほうへと移っていった。
「……アルガス?」
 と、ラムザが言った。
 当人は、ふう、とひとつ、息を吐き出してから、弓手(ゆんで)を降ろしていた。彼の跨るチョコボの足元には、弓使いのイアンが蒼白な顔をしており、その手には、あるはずの弓がなかった。
「どうして、殺した」
 ラムザが、咎めるような目をアルガスに向ける。
「捕らえろ、と言ったはずだ」
「すまん、足を狙ったんだがな。少し外れたらしい」
 平然と、そういって、アルガスは、彼の足元で棒立ちになっているイアンに、長弓を放ってよこした。
「こいつが、もたもたしていたんでな。あやうく逃げられるところだった」
「…………」
 ラムザの向ける視線を、アルガスは、しらと受け流して、
「だからいったんだ。手枷だけして捕虜を歩かせるなんて、正気の沙汰じゃない」
「…………」
「ああ、捕虜を殺したのは謝るよ。けどな、捕虜が捕虜として扱われるのは、おとなしく捕まっている間だけだぜ。逃げ出したら、殺されても文句は言えない。そうだろう?」
 淡々としたアルガスの言葉を、ラムザは無言で受け止める。
 アルガスの言うことは、道理である。ラムザに油断があったことも、否めない。
 しかし──
(これは、実戦だ)
 ラムザは、心にそう念じながら、それでも、自身の甘さゆえの失敗を許せなかった。
 アルガスの非道を咎めたところで、どうにもならない。不思議と、怒りよりも、情けなさのほうが、ラムザの胸に広がっていった。
「これは、僕の責任だ。誰か、彼を埋めてやってくれ」
 そういってから、ラムザはアルガスの姿を視界から追いやった。
 殺すことはなかったが、アルガスの行動は正しい。やはり、自分を含め、ここにいる誰もが、実戦というものに対する、責任と覚悟が、足りていなかったとしか、いいようがない。
 気まずい空気が、ひとしきり流れたあと、何名かが、捕虜の死体を埋葬するために、土手を下りていった。
 死んだ捕虜は、ガリランド襲撃の折に捕らえられた、工作員の一人であった。
 手かせは断ち切られており、手には、鋸の刃のように、先端を削った石が握られていた。監視の目を盗んで、ここまで来る間に、少しずつ、そこらで拾った石ころを細工しておいたものらしい。
 ディリータの提案もあって、捕虜は再び、護送車で運ばれることとなった。
 ディリータは、すっかり気落ちしている友の肩に手を置いて、
「あんまり気にするなよ」
 と、励ますようなことをいったが、ラムザは何も答えず、埋葬が終わると、直ぐに出発の合図を出した。



[17259] 第一章 持たざる者~8.さすらい人・上
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:54
 慣れぬ目に、新緑がまぶしい。
 ミルウーダとエマは、地下洞窟をやっと抜け出し、今、レウス山の中腹に立っていた。
「やっと出られましたね」
 エマが、尖がり帽のつばを持って、ぐいぐいと回した。
「これから、どこへ向かうんです?」
「まずは、休める場所を探す」
 ミルウーダが先導し、横穴の出口から、急な斜面を降りていく。
 ここ、レウス山に連なるベルベニア山系は、ちょうどルザリアとガリオンヌの領境になっており、峰の東側づたいに下りていけば、そこは王室領ルザリアである。
 北天騎士団は、本来ガリオンヌ領の軍隊組織であるから、管轄外のルザリアでは、その目も多少緩かろうと、前にレッドの言ったとおり、ミルウーダは、そこを目指していた──といっても、その先に、なにか明確なあてがあるわけでもなかった。
 岩壁にへばりつく蔦や、岩の割れ目から突き出す樹木の枝を手掛かりに、一歩一歩、足場を確かめてゆく。落ちれば、まず助からない高さである。
 エマは怖気づいて、横穴の近くで、まだ足踏みしている。
「なにしてる、早く来い!」
 ミルウーダが、崖下から呼びかける。それでも、エマは動かない。
 もういちど呼ぼうとしたところ、ようやく、彼女は最初の取っ掛かりに足を下ろし始めた。
 しかし、そこからが、なかなかはかどらない。
「そのローブを脱げ! 死にたいのか!」
 エマの装束のことを言っているのである。洞窟を歩くだけでも邪魔になっていたそれを身に着けたまま、この急な崖を下りようというのは、たしかに無理がある。
「いやです!」
「ローブの下は裸というわけでもあるまい! 邪魔なんだから、脱いで、身軽になりなさい!」
「いやです!」
「落ちても知らないぞ!」
「落ちるのもいやです!」
「なら脱げ! その帽子もだ! それでは足元もおぼつかないぞ!」
 そんなやり取りが何度か続いてから、エマは渋々、上に羽織ったローブと、尖がり帽を外して、背に負った荷物にしまった。これでだいぶ身軽になったものの、これまた黒魔道士の装束である、途中で大きく膨らんだ長ズボンが、どうにも、かさばって見えた。
 黒魔道士に限らず、魔術を専ら扱う戦士が装束にこだわるのは、伝統やしきたりというのもあるが、なにより、身を守るためである。
 魔法は、自然界に漂うマナ(魔力の源泉となるもの)を操る術であるから、それを扱うためには、まず、マナに敏感でなければならない。優れた魔術師は、このマナに対する感覚が鋭く、少ないマナからでも、強力な魔法を創り出すことができる。
 同時に、マナに敏感であるということは、その影響も受けやすいということである。魔術に特化した者が、長い間マナに身を晒していると、拒絶反応や、精神障害を引き起こすこともある。こういった副作用を防ぐために、魔力的に強化されたローブや帽子といった装束が、彼らには必要となってくるわけである。
 もっとも、並の魔術師ならば、そこまでマナに影響されるということはなく、まして、駆け出しの黒魔道士であるエマなどにとっては、装束の心配など、取り越し苦労にすぎないのではあるが──
 幾度か、ひやりとさせられる場面もあったが、エマは、なんとか崖を下りきった。
「もう、二度とこんな道のりはごめんですよ」
 エマが、装束を元通りにしながら、言う。
「なら、置いて行くまでだ」
「あ、ひどい!」
「ふふ、冗談よ」
「…………」
 エマは、ムッとした表情を、同時に被った尖がり帽で隠した。その一挙一動が、なにかおかしくて、ミルウーダは、クスクスと、いつまでも笑っていた。
「なにがおかしいんです」
「いや、なんでも」
「ほんとうに、ミルウーダは人が悪い」
「そうかな?」
「そうですよ。 いっつも人を小馬鹿にして」
「そんなつもりはないが」
「つもりがなくてもです」
「さ、行くよ」
「あ……ちょっと」
 先に行こうとするミルウーダを追おうとして、エマは、ローブの端を踏んずけて、はでにすっ転んだ。
「──きゃっ!」
 一緒に荷物もぶちまけて、地面に突っ伏したまま動かない。そんなエマの姿を見て、ミルウーダは、今度こそ腹を抱えて笑った。
 惨めさのあまり、面も上げられないエマ。目に涙を浮かべて、笑いこけるミルウーダ。
 ──こんなに笑ったのは、いつぶりであろうか。
 長い戦いと逃走の日々に身を置きながら、いつしか忘れていた感情が、彼女の中で、にわかに湧き上がってきたのだった。
 エマも幼いが、ミルウーダとて、まだ二十歳は出ていない。こんな世でなければ、春を謳歌していてもいいくらいな年頃である。
 残酷な環境は、しかし、そんな乙女たちからも、人間らしい当たり前な感情を、容赦なく奪い取っていく。
 ただ、日常の、何気ないこんなひとときだけが、つかの間のやすらぎを、彼女らに与えてくれるのだった。
 いつしか、日は西に傾き始めていた。
 二人は、そのまましばらく緩やかな斜面を下っていって、やがて突き当たった沢で、小休止をとった。
「この沢に沿って、このまま進んでみよう」
 ミルウーダがいった。沢の流れに、導いてもらおうというのである。
「これで、さっきみたいな危ない道は、通らなくてすみますね」
「それは、行ってみないとわからないが」
 岩がちな川べりを、二人はゆっくりと進む。
 山は、静かだった。
 岩にすすがれる水音と、小鳥の囀りばかりが、無常の音楽を奏でている。
 川幅は次第に狭まっていき、いつしか、沢は渓谷の底を這うような流れに変わっていた。
「あっ、あそこに!」
 エマが、何かに気づいた様子で、前方を指差す。
「つり橋か?」
 ミルウーダの目にも、それは見えていた。渓谷の端から端を、長さにして五十エータ(約七十メートル)はあろうかという、板橋が渡っていた。
「道が、あるかもしれませんね」
「そうだな。行ってみよう」
 二人が近づいていくと、案の定、そのつり橋は、狭い山道を繋いでいるのであった。
 二人は、つり橋を渡って、その道を下ってゆくことにした。
 ところどころ、倒木や土くれに塞がれてはいるが、道なき道を行くよりかは、はるかに足が速かった。
 ──やがて。
 やや開けた場所に出た。
 ここだけ日の当りが悪いのか、草木の背も低く、ところどころ地面がむき出しになっている。木の天蓋に覆われた窪地は、まもなく夕闇に沈もうとしていた。
「今日はここで休めそうですね」
 エマが、先だって窪地に下りていく。そして、真ん中辺りまでいって、何かに気づいたのか、ふと歩みを止めると、エマはその場にしゃがみこんだ。
「あれ?」
「どうした?」
「なんだろう、これ」
「……?」
 ミルウーダも近寄ってみると、浅く穿った地面に小石が溜まっており、その上に被せられた柴や葉から、わずかに煙が燻っている。またその周りに、木の実の殻や果物の皮なんかが、無造作に散らばっている。
「人が、いたらしいな」
 痕跡からして、さほど人数は多くないだろう。ミルウーダは、さっと、周囲に警戒の目と耳を廻らした。
 こうした山中の開けた場所に、山賊どもが仮の宿を営むのも珍しくはない。そして、そういった輩が、狩を終えて帰ってこないとも限らない。
 窪地を取り囲む木立の合間は黒い闇ばかり、辺りは寂として、葉ずれの音もない。
「ミルウーダ、どうしたの?」
「ここは、やめておいたほうがいい」
「なぜ?」
「なぜって……ん?」
 ミルウーダが、妙な気配を感じて、後ろを振り返った、その時だった。
 足元の土が舞い上がり、何かが飛び出した。
「!」
 ミルウーダとエマの両足は、あっというまに、その何かに絡め取られていた。
「きゃああああ!!」
 エマが、甲高い悲鳴をあげる。
 見るとそれは、植物の蔦のようであった。頑丈な蔦は、二人の両足を締め付け、頑として離さない。
「──くそっ!」
 ミルウーダが剣を引き抜き、生き物のように蠢く蔦に向かって、二度三度振り下ろしたが、表皮に傷をつけるばかりで、まったく手ごたえがない。
 そうこうしているうちに、こんどは別な場所からも土飛沫が上がって、さらに数を殖やした蔦が、意志を持ったようにくねって、彼女たちの両手の自由も奪ってしまった。
 二人はそのまま、磔にされたみたいに、手足を突っ張っる格好となった。
 ミルウーダは、まだ自由の利く首だけを左右に動かして、仕掛け人の姿を探していたが、やがて、四方から、がさごそと葉の擦れる音がして、数人の男たちが、ぬっとその姿を現した。
「これはこれは」
 山賊の頭らしき男が、邪悪な薄笑いを浮かべて、縛り付けられた二人のほうへ歩み寄ってくる。
 手には反りの深い曲刀を握り、のっしのっしと巨体を揺らして歩くさまは、鎧を着た穴熊そのものである。
「さっきから、この辺をうろちょろしている奴があると思ったら……」
 頭は、ミルウーダが抵抗できないのをいいことに、その毛むくじゃらな面(つら)を、彼女の鼻先に突きつけて、
「まさか、こんな"野うさぎ"だったとは」
「…………」
 ミルウーダは、男の肉叢(ししむら)から沸き立つ、獣のような臭いに鼻を衝かれながら、鋭い敵意を含んだ眼差しを逸らそうとはしなかった。
「へへ、そんなおっかない顔すんなよ……べっぴんが台無しだぜ」
 頭が、分厚い掌で、ミルウーダの頬をぺちぺちと撫でる。それから、彼女の手に握られていた長剣を取り上げると、それを向こうへ放りやってしまった。
「さてと、こちらは……」
 言いながら、今度はエマのほうへ寄っていき、尖がり帽をひっ掴んで取ると、それも放ってしまった。
 エマは、あらわになった面を伏せて、必死に涙をこらえているようであった。
「お、こっちの娘もなかなか、かわいげな面(つら)をしているじゃねえか。ほれ、よく見せてみろ」
 頭は、エマの小さい顎先をつまんで、ぐいと持ち上げる。
「ひっ!」
 と、小さく声を漏らして、エマは恐ろしさに、うち震えながら、ぎゅっと目をつむる。
「その子に手を出してみろ……ただでは済まないぞ」
 ミルウーダが、呪うような目で頭を睨めつける。頭は、その醜悪な笑みをさらに歪めて、
「心配すんな。こんなガキに興味はねえ」
 と、いってから、ミルウーダのほうへ向き直る。
「おれは、あんたくらいの女が、いちばん好みでね」
「なにを……」
「しかも、そこらの安宿なんかでは、とてもお眼にかかれねえ上玉ときた」
 そういって、卑猥な眼を、ミルウーダの肢体に這い回らせる。取巻きの獣(ケダモノ)たちも、その本能に取り付かれたような眼を、自分の肉体に向けているのを感じて、ミルウーダは、女の、もっとも触れられたくない部分をひた隠すように、戦慄した。
「しかしまあ、小汚いこと」
 頭は、ミルウーダの股座(またぐら)の前で、わざとらしく顔をしかめると、ひらひらと掌を扇いだ。
「なっ……!」
 取巻きたちが、どっと沸き、ミルウーダは、怒りと、羞恥とで、顔を染めた。目の前の下郎を、打ちのめしたいという衝動は、しかし、両手足に絡みついた蔦の枷に阻まれた。
「貴様……!」
「まあまあ、そう噛み付きなさんなって。なに、おれたちだって、犬畜生じゃあないんだ」
 そういいながら、ミルウーダの姿を見る頭の目には、もはや人間の持つ理性など、欠片も残されてはいないように見えた。
「女子供を手打ちにしたりはしねえよ。丁重に扱ってやるから、その間、ちょっと、おとなしくしてくれてりゃあいいのさ」
 頭が、なにやら粉のようなものの入った巾着を取り出し、それを、ミルウーダの鼻面に近づける。──眠り粉か、痺れ粉か。いずれにせよ、それでミルウーダを手篭めにしようとするものらしい。
 ミルウーダは、それを拒んで、あらん限りの力を振り絞る。
「くっ……!」 
 刺激臭が、巾着の口から漂い出る。
 もう一度、腕に力を込める。
 ──と、にわかに、今まで彼女の四肢を縛して離さなかった蔦が、するりと外れた。
「!」
「なっ──」
 頭が、反射的に身を護ろうとするより早く、ミルウーダは、素早く屈めた両の足をバネに、頭の懐に、強烈な体当たりを見舞っていた。
 どうん!
 と、頭の巨体は弾き飛ばされ、背から地面に叩きつけられた。
「やっ!」
 と、取巻きたちも、一息遅れで臨戦態勢に入る。
 ──が、その眼の前を、昼間のように明るい閃光が掠め通って、賊どもは怯みをみせる。蔦地獄から解放されたエマが、雷属性の黒魔法《雷撃(サンダー)》を放ったのである。
「小癪な!」
 賊の一人が、曲剣を振りかざして、エマに向かって突進する。
「まばゆき光彩を刃となして……」
 エマは慌てて次の詠唱を始めるが、間に合わない。振り落とされた白刃は、しかし、エマの肉を切り裂くことなく、寸前で、静止していた。
「!?」
 エマ自身はもちろん、他の賊どもにも、何が起こったのか分からなかった。エマに仕掛けた男は、その姿勢を保ったまま、石と化していたのである。
「貴様らっ! 他人(ひと)のねぐらで何をしているっ!」
 大声がして、木立の間から、一人の騎士が躍り出た。その手に握られた抜身の長剣は、何やら異様な、青白い光を纏っている。
「か弱き女人に、かくも不埒な行いをしようとは……捨ておけん!」
 などと言って、その長剣を構えるのである。
 それを見て、
「あいつが先だ! やっちまえっ!」
 と、二三の賊がまとめて掛かったが、騎士は余裕の笑みすら浮かべて、
「喰らえっ! 《石化(ブレイク)》!!」
 長剣の切っ先から、それと見て魔法と分かる光弾が発せられ、その直撃を受けた賊の体は、みるみるうちに冷たい石と化していく。
「な……」
 物言わぬ石塊となって、地面に転がっている仲間の姿を、賊たちは呆然と見つめている。
「こいつはまずい……退くぞ!」
 直ぐにわが身の危険を察したのか、残りの賊どもは、脇目も振らずに逃げ出した。
「助かった……」
 賊の姿が見えなくなると、エマは、緊張の糸が解れたように、ぺたんと、その場にへたり込んでいた。
 ミルウーダはというと、ひとり取り残された賊の頭に剣先を向けて、月のように青白い顔をしていた。
「たのむ、命だけは……」
「…………」
 彼女の、その静かな怒りは、直ぐにでも、頭の喉下を突き刺しそうなものであった。
 それだけ、彼女の受けた恥辱は大きい。
 ──ややあって。
「……行け」
 ミルウーダは、そう云った。
「へ?」
「失せろといっている。二度はいわんぞ」
 ずいと、切っ先を押し付ける。
 頭は、「わっ!」と、まろび出るように、その場から逃げ出した。
「…………」 
 頭の図体が闇間に消えるのを見届けてから、ミルウーダは、静かに剣を納めた。が、怒りまでは、なかなか収まりそうになかった。
「なんで逃がしたんだい? ミルウーダ嬢」
「……?」
 ミルウーダは、思いがけず、聴きなれぬ声音に自分の名を言われたので、ちょっと驚いたように、そちらへ顔を向けた。
 助太刀があったのには気づいていたが、それからのどさくさで、助っ人の顔にまでは注意がいっていなかったのである。
 が、今改めて、その助っ人の面立ちを窺えば、なるほど、どこかで見知った顔には違いない。
「あ、あなたは」
「覚えていてくれたかい? そいつはうれしい」
「マンダリアの砦で」
「そうそう、あんたに縛り上げられた」
 その騎士は、ミルウーダたちがマンダリアの砦に立て籠もっていたあの日、同士の者が捕らえた、二人組のうちの一人なのであった。
「ウルフだ」
 名乗って、騎士は手を差し出す。
「ウルフ……助けてくれてありがとう」
 礼を言って、ミルウーダはそれに応じる。
「あれ、お仲間は?」
 ウルフにそう問われて、ミルウーダは、はっと表情を曇らせた。
「いや……あれから、いろいろあってな」
 そう言葉を濁しているところへ、尖がり帽をかぶり直したエマが来て、
「あ、先ほどは、危ないところを、どうも、ありがとうございました」
 と、丁寧に礼を述べた。それから、なにやらウルフの剣のことが気になるらしく、
「あの、その剣は、いったいどうなっているんです?」
 今は鞘に納まっているそれを、しげしげと観察しながら、訊くのである。
「ああ、これかい?」
 ウルフは、ベルトの留め金具から剣の鞘を取り外すと、それを、エマの目の高さに掲げ持った。
「この剣は、その名もずばり、"魔法剣"という」
「へえ、それで、さっきみたいな魔法が打てるんですか?」
 エマは、じっくりとそれを検分する。特別、意匠が凝っているというわけでもなく、見てくれは、ごく一般的な鉄のロングソードである。
「そういうことだ。もっとも、誰にでも扱える代物ではないがね」
「ふうん……古い魔導書で見かけたことはあるんですが、まさか、実物があるとは思いませんでした。たしか、古のテンプルナイトの長が身につけていたとか」
「う、うむ」
「そんなものを、どうしてあなたのような、さすらい人が持っているんです?」
「いや、それはだな」
 ウルフは、なにか不自然な焦燥をみせてから、剣を、元の金具に留め直してしまった。
「あなた、もしかして盗んだんじゃ……」
「まさか! これは、れっきとした、おれの持ち物だ」
 ウルフが奇妙に大きな声で言ったのを、エマはいつまでも訝しんでいた。
「とにかく──もう、だいぶ暗くなってきたし、お前らには特別に、おれの寝床を貸してやるから、野営の準備を手伝ってもらうぞ」
 そういって、向こうへ歩いていってしまった。
「……怪しい」
 エマが、ウルフの背を見ながら、呟く。
「いや、悪人ではないようだ」
 と、ミルウーダはいう。
「でも、なんか怪しいですよ!」
「たしかに、素性はよく分からないが……それでも、危ないところを助けてもらったんだ」
「そりゃあ、そうですが」
「それに、いちおう顔見知りだし」
「え、そうなんですか?」
「覚えていない? マンダリアで、ベオルブの坊ちゃんと一緒に、あの騎士も捕らえられていたのを」
「そういえば、そんな騎士がいたような」
「まあいい、万が一、あの騎士が妙な考えをおこしても、こんどは、さっきみたいな下手は打たないから」
「う……」
 エマは、例の山賊どもに、ミルウーダがひどいことをされたのを思い出して、口をつぐんだ。
 ウルフは、どこからか大量の柴葉を運んできて、それを纏めて、石溜まりの上に置いた。
「おい、そこの黒魔道士」
「エマです!」
「ああ──エマ君、ちょっと、お得意の黒魔法で火を熾してくれんか」
「そんな薪を燃やすのに、黒魔法なんていらないですよ」
「いいから、そう、もったいぶらずに」
「…………」
 エマは渋々、詠唱のいらない簡単な炎魔法を唱えると、柴葉の山は、あっという間に燃え上がった。
「へえ、便利なもんだ」
「魔力だって、限られているんです」
「使い切ると、どうなるんだ」
「あなた、魔法剣を使うくせに、そんなことも分からないんですか?」
「おれのは、魔法というよりかは、剣術に近いからな。で、どうなるんだ?」
「すごく、疲れます」
「それだけ?」
「そうですよ! それはもう、歩けないくらいに」
「へえ」
「だから、こんなつまらないことに使いたくないんです!」
「あはは、そうかそうか」
「…………」
 ウルフは笑いながら、岩陰に隠してあったらしい兎の死骸を引っ張り出すと、慣れた手つきで、それを捌き始めた。



[17259] 第一章 持たざる者~9.さすらい人・下
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/12 02:41
 地も、草木も、今はひっそりと眠っている。
 星ばかりが明るい夜天だ。
 野営の残り火が、ときどき、ぱちっと爆ぜて、羽虫みたいな火粉を舞わせていた。
 エマだけが、尖がり帽を両の手に抱いて、無垢な寝顔をみせている。そこにひとときの平穏を感じながら、ミルウーダは自分のマントを脱いで、エマの体にそっと掛けていた。
「それで──その娘を、どうするつもりなんだ?」
 ウルフが、赤熱した石溜めを木の枝で引っ掻き回しながら、訊いた。
 ミルウーダは先ほどまで、ウルフに、これまでのいきさつを端的に話していたところであった。
「…………」
 ミルウーダは、片手を眠っているエマの背中に置いたまま、押し黙ってしまった。
 無論、このままエマを争いの渦中に巻き込むつもりはなかった。エマがなんと言おうが、彼女には、戦争にかかわらない、まっとうな人生を歩んでほしいと、ミルウーダは切に願っていた。
 しかし、エマはまだ幼すぎた。この荒んだ世に、独りきりの少女が心安らかに暮らせる場所など、あろうはずもなかった。かといって、ミルウーダの傍にいる限りは、争いの影は、どこまでもついて回るのであった。
「私の田舎に預けようかとも思った」
「ご両親のもとへかい?」
「ああ。しかし、私が兄とともに骸旅団に参加したことを、両親は快く思っていない。縁を切られた、といってもいい。そんなところへ、今さらおめおめと頼っていくわけにもいかない」
「…………」
「孤児院へとも考えたが……下手なところへやって、身売りに出されるようなことがあってもかなわん」
「こんな世の中じゃあな」
 ウルフはそういって、深い溜息をもらした。
「…………」
 その姿を横目に見ながら、こんなさすらい人でも、俗世を憂うことがあるものかと、ミルウーダは、感心ともなんともつかぬ気持ちを抱いているのであった。と同時に、
 ──ただものではあるまい
 という、直感めいたものも、彼女の内にはあった。当のウルフはというと、しかしそんな素振りは微塵も見せず、よくよく見れば涼しげな目元も、今はだらしなく緩みきっているのである。
 ミルウーダの眼差しに気づいたのか、不意にこちらに流したウルフの目と合ってしまい、「あっ」といって、ミルウーダは慌てて視線を横に逸らした。
 彼女のそんな仕草に、なにを思ったのか、ウルフは、微笑みを口元にたたえて、
「おれにいわせりゃ、あんただって、戦場に身を置くのには、まだ若すぎると思うがね」
「…………」
「それに……」
 そこで言葉を途切って、コホンと、小さく咳払いをする。
「きれいだ」
「え?」
 ミルウーダは、何を聞き違えたのものかと、眉を寄せた。
「いや、おれの目は確かだぜ。マンダリアで、ひと目見たときから、おれはあんたに惚れていた」
 すまし顔で、言うのである。
「は……?」
「ははは、そんな顔しなさんなって。おれは、真心から言ってるんだ。星の数ほど女を見てきたが、その中でも、あんたは飛びぬけて美しい」
「な、なにがいいたいの?」
「いったとおりのことさ。あんたはきれいだ。もっとも、まだ自分の魅力には気づいていないようだが」
 そう語るウルフの眸は、潔いほどに真っ直ぐである。ミルウーダは、唖然と、その眸を見返していた。
「それに、あのベオルブの坊ちゃんも、相当あんたに惚れ込んでいたと思うぜ」
「え?」
「それも、かなりマジでな。あいつは、若造のくせして、おれ以上に女を見る目があるらしい。初(うぶ)だが、あれはきっとモテるぜ」
「…………」
 ミルウーダには、ウルフという騎士のことが、ますます分からなくなっていた。本気なのか、それとも、人をおちょくっているのか──判然としない。
 一方で、彼女の純粋な部分は、確実に、この一騎士の人となりに、惹かれ始めてはいた。
「あなたはいったい、何者なの?」
 との質問に、ウルフは黙って焚き火の火を見つめていたが、
「おれは、一介の浪人にすぎない」
 と、答えただけであった。それでも、納得のゆかぬげなミルウーダの表情を見て、ひとつ笑みをこぼすと、
「べつに隠すつもりはないが……」
 手に持っていた枝を二つに折って、それを、だいぶ火の乏しくなっていた焚き火に放り込む。
「そんなこと、訊いてどうする」
「あなたのことを信頼したいだけ」
「そうかい」
 ひとつ、溜息をついてから、
「たしかに、昔は、それなりの地位にあった。自分でも、優秀なつもりでいたらしいし、心に決めた女性(ひと)もいた。それが……あるとき、上司の不審を買ってね」
 どこか、他人ごとのような口ぶりである。
「きっかけは、本当にくだらないことだったんだが……おれは、お役御免とあいなって、地位も名誉も失って……でも、そんなものは正直、どうでもよかったんだ。おれには、もっと大切なものがあった。その大切なもののために、おれは名も捨てて、放浪の旅に出た」
「…………」
「ホーリー・ドラゴンって、知ってるか?」
「え?」
「ホーリー・ドラゴン──この国のどこかにいて、"巡礼者"として認められた者の願いを、ひとつだけ叶えてくれると云われている、幻の聖竜さ。おれは、そいつを探しているんだ」
 ミルウーダは、いよいよ、この男の正気が知れなくなっていた。そんなお伽噺を、本気で信じているというのか──
「おいおい、おれは真面目な話をしているんだぜ?」
 ミルウーダの表情を見て、ウルフは言うのだった。
「まあ、信じろという方が、無理な話だけどな」
「…………」
「でも、おれは信じている。こうしてレウスの山に入ったのも、この山のどこかにあるらしい古い遺跡に、聖なる竜の伝承が残されていると聞いたからだ」
「…………」
「おれは、ぜったいにホーリー・ドラゴンに会って、願いをかなえてもらう。そして、"大切なもの"を取り戻すと、神に誓ったんだ」
 そういって、ウルフは拳を握り締める。どうやら、ふざけているのではないらしかった。彼の眸は、まだ見ぬ聖地を見据えるかのように、爛々と輝いていた。
「ちょと、熱くなりすぎたな」
 照れ隠しに、後ろ頭を掻く。
「おれという人間は、だいたいそんなところだ。もう、眠ろう。疲れが残ってはいかん」
「……ありがとう」
 それは、ミルウーダの口から、自然と、こぼれ出たものだった。
「……?」
「いや、話してくれて」
「なに、つまらん話さ」
「ふふ……」
「お、それだよ、それ」
「なにが?」
「その、笑顔だ。それが見たかったんだよ」
「え……」
「女の子は、そうやって笑っているのがいちばんだ。いっつも、しかめっ面ではいかん」
「余計なお世話だ」
 ぷいと、そっぽを向くと、ミルウーダは、ウルフに背を向けて寝転んでしまった。
「あ……」
 取りつく島もない背中を向けられて、ウルフは焚き火のほの明かりに、困り顔を浮かべていた。


 ──それから、どのくらい眠ったであろうか。
 ミルウーダが目を覚ましたのは、ようやく夜が白みがかってきた頃であった。
 山の空気は澄み切って、草木は、朝露に濡れている。
 焚き火はすっかり燃え尽きて、黒い炭ばかりになっていた。エマは、その側で、まだくうくうと寝息をたてている。
「よう、お目覚めかい」
 ウルフだった。片手で書物を捲りながら、梨にかぶりついている。
「ほれ、食いなよ」
 といって、荷物から梨をもう一個取り出し、ミルウーダに放ってよこす。
「すまない」
 といって、それを受け取る。ウルフは、口をもぐもぐいわせながら、なおも書物に没頭している。
「それは?」
 ミルウーダが訊く。
「ん?」
「その、本だ」
「ああ、これ」
 ウルフは、芯だけになった梨を放り捨てると、本を閉じて、ミルウーダに手渡した。
「バイブルだ」
「教典?」
「そう」
 端の擦り切れた頁を捲りながら、ざっと、目を通す。相当古い言語で書かれているらしく、内容は読み取れなかった。
 ──が、表紙の見開きに戻ると、そこには、見知った一節が書かれていた。

 "黄道十二宮ノ勇士(ゾディアックブレイブ)"
 
 黄道十二宮ノ勇士(ゾディアックブレイブ)、混沌ヨリ、出デキタリテ、悪(ルカヴィ)ヲ除キ、世ニ、再ビノ平安ヲ、モタラサン

 敬虔なグレバドス教徒でなくても、畏国民ならば、おそらく、だれもが知っている一節である。
 ──ゾディアック・ブレイブの伝説。黄道十二宮を司る、十二人の勇者の物語。
 世が乱れるたび、星々に選ばれし十二人の勇者が現れ、"ルカヴィ"と呼ばれる悪の根源を取り除き、地上に平安をもたらす──と、そう伝承は語っている。
 しかしそれは、神話や伝説というよりも、半ばお伽噺として、庶民の間には受け入れられていた。文字もろくに読めぬ農村の小童でも、さまざまに節をつけて、これを諳んじているほどである。
「その本に書かれているのは、聖アジョラの遺した長大な奇跡の記録の、ほんの一部にすぎない。おれは殊に、聖アジョラと、ゾディアック・ブレイブに関する説話を気に入っていてね。こうして、教典の写本を、持ち歩いているわけだ」
 ウルフは、大事そうに、その冊子を懐にしまいながら、
「こんな世の中だしな。"ゾディアック・ブレイブ"の出現だって、信じてみたくもなるのさ」
「本当に世が乱れていたら、彼らは現れるものなのか?」
「さあな。所詮は伝説、だ。世の中は、やっぱりおれ達人間の手で、何とかするしかないと思うが?」
「…………」
 ミルウーダのすぐ脇で、エマが、大きく伸びをした。
「あれ、みなさん、お早いですね」
 などと言って、ねぼけ眼(まなこ)をこすっている。
 ミルウーダは、ひとつ嘆息して、梨の皮に、新しい歯形をつけていた。


 三人は、仕度を済ませると、窪地を出て行った。
 その淵に行き着いたところで、エマが、「キャッ!」と、小さい悲鳴をあげていた。
 尻もちをついたエマの前には、彼女とちょうど同じくらいの高さの岩があった。よく見るとそれは、"人間"そのものであった。地べたに両の手をついて、見開いたままの目は、窪地のほうを凝視している──昨日、エマとミルウーダを襲った山賊の、今は冷たい石像となった姿なのである。
 ウルフは、その石像と向かい合うようにしゃがみ込んで、
「──昨日、君たちを蔦で縛り上げていた風水士さ」
 と、いった。
「死んでるんですか?」
 恐る恐る、エマが訊ねる。
「いや、そのうち魔法が解けて、もとの姿に戻るさ。こうなっている間に、鎚か何かで叩き壊してしまえば、それこそ、お終いだけどな──といっても、魔法で作られた石だから、そう簡単には壊れないが」
「…………」
 エマは、その恐ろしい術に掛かった人型を、尖がり帽のつばの影から、じっと見つめている。
「魔法ってこわいですね」
「ははは、黒魔道士たるものがなにをいう」
「私には、まだこんな魔法は扱えませんが……これからは、もっと気をつけて使いたいと思います」
「ウム、それにこしたことはない。剣も、魔法も、人を傷つけるが、護ってくれもする──ようは、扱いようだからな」
 ウルフは、立ち上がって、
「とにかく、今はここを離れよう。こいつらの仲間が、また懲りずにやってくるかもしれんしな」
 そういって、深い緑の中へ、先だっていくのだった。エマは、その背にくっ付いてゆく。
「…………」
 が、ミルウーダだけは、その場に突っ立ったままでいる。
「ミルウーダ、どうしたんですか?」
 エマが呼ぶと、彼女は鳥にでもつつかれたように、
「いや、なんでもない……行こうか」
 硬い笑顔をみせてから、エマの横に並んで歩き始めた。
 今日はなにやら、浮かぬ横顔のミルウーダである。
「昨日はよく眠れました?」
 エマが、その横顔に訊く。
「ああ。おまえほどじゃないが」
「私だって、疲れていたんですよ」
「そうか」
「ほんとに大丈夫?」
「うん。なんともない」
「なら、いいんですが」
 それきり、二人は黙ってウルフの後について行った。
 道はらしい道はないが、柴草に覆われた斜面は、ずっと下っていくようだった。
 そのまましばらく行くと、急に視界が開けて、一行は眩しさに、目を瞬かせていた。そこは、山肌から突き出た崖のてっぺんであった。目下に広がる大平原は、中空に漂う断雲の影を映して、まだらに流れている。
 一行は息を呑んで、つかの間その絶景に見とれていた。
「──いま目前に開けているのが、ルザリア平原。そして、あれが……」
 ウルフが、地上の一点を指差す。
「王都だ」
 その指す方を見れば、地上の遥か彼方に、王都ルザリアの白亜の城壁が、午前の陽光を受け、真珠のように輝いている。
「……すごい」
 エマが、感嘆の息を洩らす。
「おれは、このまま山を下りずに、遺跡を探すつもりだ。あんた達はどうする?」
「…………」
「どこか、行く当てはないのか」
 ミルウーダが、静かに首を横に振る。ウルフは、むぅと唸って何か考えていたが、
「この峰のふもとに、ハドムという街がある。とりあえず、そこへ行ってみてはどうか」
 と、言うのである。
「さすがの北天騎士団も、そんなところにまで出張ってはいないだろう」
「…………」
「不安なのか?」
「……いや」
「ならば、行ってみるといい。いちど、きちんとした宿で休んだほうがいい」
「…………」
「なに、黙ってんのさ。なんなら、このままついて来たって構わないんだぜ?」
「なぜだ」
「え?」
 ミルウーダは、何か思いつめたような眼差しを、ウルフへと向けていた。
「私たちは、国家に追われている身。このまま、北天騎士団に引き渡すことだってできる。それなのに、どうして……」
「ははあ、そんなことで、ミルウーダ嬢はウジウジしなさっているのか」
「あなたも、罪に問われるかもしれないのよ? 加担者として……」
「別にかまわんさ」
「え……?」
「あんたが何者だろうが、知ったことか。おれは、ミルウーダという、一人の女に惚れたんだ」
「わ、私は」
 ぽん、と、ウルフの大きな掌が、ミルウーダの頭の上に乗った。呆気にとられて、ミルウーダは、心なしか潤んだ眸で、騎士の顔を見上げていた。
 間近に見ると、思っていたよりも、ずっと高い背丈。
 そして、どこか、兄の面影を思わせなくもない、目と眉──
「いい顔してるぜ」
「なっ……!」
 ミルウーダは、その手を払いのけて、自然と零れ落ちてきたものを、拭っていた。
「素直じゃないなあ」
「…………」
 ──この、胸に焼きつくような気持ちは何なのだろう。それは、彼女がいまだかつて味わったことのない、たしかな、一個の感情であった。
「なにイチャついてんですか!」
 見ると、エマが腰に手をあてて、頬を膨らませている──のは、帽子と襟に隠れて見えないのであるが。
「ハハハ、すまんすまん。そんなつもりはなかったんだが」
「何しらばっくれてんですか! 惚れたの腫れたのいっておいて」
「ま、それは、挨拶みたいなもんでな」
「そんな挨拶があってたまるもんですか!」
「誤解してくれるなよ? おれには、心に決めた女性(ひと)がいるんだ」
「なら、とんだ浮気者ですね」
「いや、これは参ったな」
 ウルフは、うなじを掻きながら、暢気に笑う。その朗らかな笑い声を聴きながら、ミルウーダは、長い間、心の奥底で冷え固まっていたものが、すうっと溶けていくような、そんな感覚を味わっていた。いつしか、その口元にも、柔らかな笑みがこぼれていた。
 結局三人は、そこからしばらく下ったところの分かれ道で、進路を別にすることとなった。
 ──その、別れぎわ。
「こうして再び相まみえたのも、アジョラのお導きか──あるいは、世の中というものは、存外狭いものらしい」
 ウルフが、もったいぶって言う。
「まあ、これを最後といわず、縁あらば、またどこかで会うとしよう」
 そういって、手を差し出す。
「ありがとう」
「なんの、礼には及ばん」
 ミルウーダとウルフは、固く手を握り交わす。
「それから、お譲ちゃん」
 ウルフは、次にエマのほうを向いて。
「君は歳のわりに、しっかり者のようだ。この頑固者を、どうか支えてやってくれ」
「言われるまでもないことです!」
 エマが得意げに、尖がり帽の先をぐいと持ち上げる。
「しかし、君はまだ若い。くれぐれも、命だけは粗末にしてくれるな」
「もちろんです!」
「ウム、頼んだぞ」
 ひとつ頷いてから、
「では」
 と一言、片手を掲げると、二人に背を向けて、彼は山の奥へと続く道を歩き始めた。それを見送ってから、
「それじゃ、私たちも行きましょうか」
 と、エマが先立って、麓へ向かう道を下り始めた。──が、ミルウーダは、その場にじっと佇んだまま、動かない。
「ミルウーダ?」
「…………」
 彼女の目は、去っていくウルフの姿を、まだ見つめているようだった。──やがて、
「ウルフ!」
 と、間もなく木々の合間に消えようとしていたその背を、ミルウーダの声が追っていた。
 ウルフの姿が、はたと歩みを止めて、振り返る。ミルウーダは、少しためらうように息を呑んでから、
「名を……あなたの本当の名を教えてはもらえないか?」
 と、その姿へ向かって、言った。
「……?」
 彼女の意外な質問に、ウルフは戸惑いの色をみせる。風に誘われて揺らめく木漏れ陽の下で、目と目で繋がった糸だけが、ぴんと張り詰めていた。
「あなたは、名を捨てて、さすらい人となったと……そういった」
「…………」
「その名を、私に教えてほしい」
 曇りない、ミルウーダの眼を見つめて。どこか、憂いを秘めたような笑みを浮かべながら。
「…………」
 ウルフは、しばしの間逡巡していた。
 ──やがて、
「……ベイオウーフ」
 と、彼はそう名乗っていた。
「ベイオウーフ・カドモス。それが、おれの本当の名だ」



[17259] 第一章 持たざる者~10.隠れ家
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:55
 レウスの東の麓、アズバール伯統治下の城下町・ハドム──
 全人口にして五千人ほどと、王室領ルザリア内では、それなりに大きな街である。
 そのはずれにある酒場"角笛館"は、旅籠屋も兼ねており、上質な麦酒も出るというので、旅人や、その日暮らしの傭兵たちの溜まり場となっていた。
 その人いきれとパイプ草の煙に曇った薄暗い店内の隅で、怪しげな風体の男が二人、小さい丸机を挟んで座っていた。
「兄者」
 と、若いほうの男がいう。その見た目も、落ち窪んだ眼窩と、灰色のねっとりした髪のせいで、年齢よりもだいぶ老けて見える。
「…………」
 兄者と言われたほうは、むっつり黙って、麦酒の入ったマグを傾けて、茶色い口髭を濡らしている。
「兄者、聞いてますかい?」
「ん? ああ、聞いてるとも」
「こっちは、大事な話をしてるんです」
「…………」
「ちと、今日は飲みすぎじゃありませんかね」
「そうでもないさ。これっぽちで……」
 ひとつ、汚い音を鳴らすと、空になったマグを脇に置く。
「んで、何の話だっけか」
「はあ」
 若いほうが、大げさに、深いため息をつく。
「先ほどから、何度も申し上げとりますがね」
「ん」
「聞いておりますかい?」
「聞いとるがな」
 どうにも、酒のほうに呑まれているらしい兄者の耳に近づくようにして、若いほうはひじをつくと、ぐいと前に身を乗り出す。
「それで、ひげの親父どのは何をしておるのかと、このごろ若い衆が騒ぐのですよ」
「そうだってな」
「だから、何をお考えなんです」
「何をとは」
「兄者は、今は機を待てという。ウィーグラフどのが立たれるのを」
「そうだ」
「しかし、その機というのは、レアノールでの敗北以来この二月あまり、待てど暮らせどやってこない」
「…………」
「いつまで、死人の旗揚げを待たねばならんのかと、みな業を煮やしているんですよ」
「死んだかどうかは、まだ分からんだろうが」
「そう言われますがね、たとえどこかで生きていたとしても、彼にはもう、かつての熱意も志も無くなっちまったのではと、皆が口をそろえていうのですよ」
「ううむ?」
「なにせ、あの大敗北のあとです。流石のウィーグラフどのも、ぽっきり折れちまったのだろうと、そう思われても不思議ではありませんぜ」
「…………」
「兄者が、騎士団にいた時分から、ウィーグラフどののことを慕っておられたのは、よく分かっとります。ですがね、どんなに立派な人物でも、死んでしまってはおしめえなんですよ」
「だから、死んだとは……」
「諦めちまったのなら、そいつは死んだも同然です」
「む……」
「いつまでも、そんな幻を追っていないで、目を覚ましてほしいと、皆そう言ってんのです」
 若いほうは腹立ち紛れに、椅子に寄りかかると、マグの麦酒を一息に飲み干した。
「目なら覚めとるがな」
「そうですかい?」
「…………」
「何か遠大な計画でも、あるといわれるなら、お話をうかがいますがね」
「…………」
「あの隠れ家に籠りっきりでは、なにひとつ、始まりもしませんぜ」
「それくらい、分かっとるさ」
「…………」
 兄者のほうは、手招きして店主をこちらに呼び寄せると、さらに大きなマグを二つ、持ってこさせた。
「今は、まあ飲まんかい」
 といって、そのひとつを、若いほうに差し出す。
「…………」
 若いほうは何も言わず、勧められるままに、マグを受け取る。が、それを抱えたきり、口にしようともしない。
「ところで兄者は、エルムドア候誘拐の話を聞かれましたかい?」
 ごくごくと、豪快に咽を鳴らしている兄者を暗い目でみながら、若いほうがいう。兄者のほうは、マグを下ろすと、袖で口をぬぐって、
「なんだって?」
 と、その太い眉を寄せて、伏し目がちな弟分の顔を見やる。
「ランベリーのエルムドア侯爵が何者かに攫われたって、三日ほど前から、その話題でもちきりでさあ」
「…………」
「知ってましたかい?」
「いや、初耳だ」
「今、北天騎士団が血眼になって下手人の捜索中だって」
「うむ、それが?」
「で、その下手人というのが……」
 ここで、若いほうは一段と声を低くすると、周囲を見やりながら、
「どうも、ギュスタヴと、その一派らしいんで」
「…………」
 兄者のほうは、さっきまでになかった真剣な面持ちをみせて、
「確かなのか?」
 と、訊き返していた。
「ええ。他にも、ガリランドの都督の身柄を狙って都督府を襲ったとか、何かと物騒な話を聞きましたがね。どれもギュスタヴが一枚噛んでいたようなんです」
「ふうむ」
「で、兄者はどう思われます?」
「何が?」
「ギュスタヴのことですよ」
「いや、貴人誘拐とは……大きく出たな」
「まったくです。大した人数もおらんでしょうに。よくもまあ、そんな大それたことをやってのけたもんです。さすがは、"狼"のギュスタヴというべきか」
「つまりお前さんは、ギュスタヴの一派に加わりたいと」
「そのとおりです! どこかにいっちまったきり音沙汰なしのウィーグラフとちがって、ギュスタヴは行動を起しているんです! そして、現にうまくいっている」
「そりゃ、そうだがよ」
「てまえらも、ギュスタヴに協力すべきです! 人数が増えれば、もっとでかいことだってできる」
「しかし……人攫いなどは、ウィーグラフどのが認めんだろうな」
「他になにがでっきるってんです? ギュスタヴのやり方は理にかなっている。違いますかい?」
「…………」
 ──カランコロン
 店の扉に掛っていたベルが、来客を知らせたのだった。兄者は、何とはなしに、今しがた店に入ってきた客のほうを見やって、次の瞬間、あっと目を丸くしていた。
「……?」
 弟分のほうは、兄者の様子が変わったのに気づいて、
「どうしたんで?」
 と、眉をひそめていた。
「今来た客」
「へい?」
「あそこに立ってる……見てみろ」
 兄者が指すほうを、弟分も肩越しに見やると、入り口付近に、外套を纏った旅人らしい姿がひとつと、その連れとみえる、黒魔道士の尖がり帽が目に入った。
「女……ですかい?」
 他の客からも注がれる視線の合間を縫うようにして、カウンターへと向かう二人の姿を目で追いながら、弟分が囁く。
「見覚えないか?」
「ええと……」
「ありゃ、ミルウーダだよ」
「えっ!」
 と、兄者のほうを振りかえる。
「ミルウーダってえと……ウィーグラフの妹の」
「そう」
「レアノールで死んだとばっかり」
「いや、俺の目に狂いはねえ」
「しかし、どうしてまたこんな所へ」
「事情は知らんが……おそらく、ガリオンヌから落ち延びてきたのだろう」
「…………」
 二人は、それきり無言でカウンターのほうを見ていたが、ひしめく客の陰にミルウーダの姿は隠れていた。
「…………」
 兄者が、何を思ったか、ふいにのっそり立ち上がったので、弟分が、どうしたのかと質すと、
「外で待つ」
 とだけ言い置いて、兄者のほうは店を出ていってしまった。


 酒場は、獣の群れのように、どやどやと、息苦しい熱気に包まれている。そこへ急に現れたミルウーダとエマの姿は、岩の上に花でも咲いたみたいに、周囲の目を惹きつけていた。
「あんたら、旅の人かい?」
 カウンター越しに立ったミルウーダに、店の主が訊いていた。
「部屋をひとつ借りたい」
 ミルウーダは聞かぬふりをして、要件だけを述べた。店主は目を細めて、
「一泊十ギル」
 と、いったとおりの額を、ミルウーダは無言で手渡す。
「こういっちゃナンだが……」
 店主は受け取った硬貨を数えながら、
「女の二人旅ってのは……感心しねえな」
「どうして?」
「どうしてって……」
 金を懐に納めて、カウンターに身を乗り出す。
「奴らの目を見てみろ」
「…………」
 店主は客席のほうを顎でしゃくったが、ミルウーダは振り向くまでもなく、店に入った時からその汚らしい視線を体じゅうに覚えていた。
「奴らは飢えた獣だ。……用心棒はつけられねえぜ?」
「その必要はない」
 ミルウーダが、腰のモノをカチャリと鳴らしたのを目端にとらえて、店主は眉を吊り上げた。
「ほう、心得はあるようだな」
「部屋は?」
「別棟だ。店を出て裏手に回ったところにある」
「ありがとう」
 礼だけいってニコリともせず、ミルウーダはカウンターを離れた。
 店に充満した客は、女二人だけの姿を見ながら、にやけ顔をうかべたり、額を寄せてひそめき合ったりしている。
「目を合わせるな」
 傍のエマだけに聞こえるように、ミルウーダがいった。エマはすっかり怯えた様子で、ミルウーダの後を黙ってついてゆく。
 酔った客が、卑猥な言葉を投げかけるのを無視しつつ、ミルウーダとエマは、店の入り口を指して、ひた歩く。
 ──ッ!
「ギャッ!!」
 刹那、何か物凄い音がして、何事かと、音のしたほうを見れば、店の真ん中で客の男がひとり、仰向けにひっくり返っていた。
 男の手首はミルウーダに捻り上げられて、危うい方向へひん曲がっている。苦痛に歪む男の顔を、ミルウーダの鋭い軽蔑の眼が見下ろしている。
「は、放して……」
 男が、情けない声を洩らすと、ミルウーダはその手を、乱暴にはたき落とした。
「うう……」
 男は自分の手首を庇いつつ、その場にうずくまっている。その姿を尚も見下しながら、ミルウーダは、怒りに息を荒げていた。
「その……汚い手を……私に……触れてみろ……」
 ミルウーダの吐き出す言葉のひとつひとつが、刃の鋭さをもって、男に降りかかる。
「次は……その腕を……切り落としてくれる」
 彼女の全身から湧き立つものは、もはや殺気に近い。
「ひっ!」
 と、その棘に触れたように、男が小さい悲鳴をあげる。
 ミルウーダはエマの手を牽くと、踵を返して、店から出ていった。
 店内は水を打ったように静まりかえって、後には、男のすすり泣く声と、扉のベルだけが、空しく響いていた。


「ちょち、そこをゆくお嬢さんがた」
「……!」
 店を出た途端、そう呼びかけられて、ミルウーダは反射的に、剣の柄に手を掛けていた。
「お……おい、そんな物騒なもんはしまっとくれ」
 見れば、口髭を生やした五十がらみの男と、それよりはいくらか若く見える、人相の振わない、長髪の男の二人組がある。両の手を晒して、丸腰であることを強調してはいるが、警戒の眼差しを、ミルウーダは緩めようとはしない。
「あんた、ミルウーダだろう?」
「……!」
 ミルウーダは、見知らぬ人間に自分の名前を呼ばれて、さらにその態勢を低くした。口髭の男が、そんなミルウーダを宥めでもするように、ひきつった笑みまで浮かべて、
「まあ、まずはお互い、信頼しようじゃないか」
 そういって、おもむろに近づいてくる。
「何者だ」
 という、ミルウーダの問いには答えず、男は、二の腕に巻いた麻布をするすると解き始めた。
「ほれ」
 男は、周囲の眼を気にしながら、太い二の腕を、ミルウーダに見えるように、ぐいと近づけた。
 ──刺青がある。角付きの兜を被った、髑髏の紋章。その下に、交差した二振りの剣。
「最近は、堂々とこれを晒して歩けんようになったからな」
「同志の者か?」
「いかにも」
 男は、すぐに腕を引っ込めると、麻布をもとのように、晒しに巻きつけてしまった。
「おれはハマ。んで、こっちがルーファスだ」
 紹介されて、若いほうの男が軽く頭を下げる。ミルウーダは、ようやく警戒の糸をほぐして、話を聞こうという態を見せた。
「で、貴女はウィーグラフどのの妹、ミルウーダ嬢とお見受けしてよろしいですな?」
「…………」
 ミルウーダは、無言で頷く。ハマと名乗った男は、その返答に、とりあえずは満足したものとみえ、
「いちおう、兄君とは知己の間柄にあったつもりだが……まあ、妹のあんたが知らんでも無理はない」
 こんどはエマのほうを向いて、
「そっちのお嬢さんは?」
 と訊くので、エマは人見知りするようにミルウーダの背に隠れたまま、
「エマ」
 と、小さく答えた。
「エマくんね。君も同志の一人かね?」
「そうです」
「ほう、若いのに大したもんだ」
 感心したように鼻を鳴らす。
「とにかく、こんなところでおしゃべりするつもりはないんでな」
 いいながら、懐から羊皮紙の切れ端のようなものを取り出して、
「こいつを」
 と、ミルウーダにそれを手渡した。見れば、簡単な地図と、その下に、汚い字で何か走り書きされている。
「そいつには、おれらの隠れ家の場所と、合言葉が書いてある。もし、協力してくれるというなら、明日の朝一番、そこに書いてある街外れの小屋まで来てくれ。その小屋にいる爺さんに合言葉を言えば、隠れ家に通してくれるはずだ。爺さんには、こっちからも話しておくが……このごろ、どうも忘れっぽくてな。いちおう合言葉を忘れんでくれ」
 言うだけ言って、ハマはルーファスと連れたって、夜の街へ消えていった。
「どうします?」
 先ほどハマに渡された紙切れと、にらめっこしているミルウーダの横顔を見て、エマが言った。
「今は、とにかく味方が欲しい。それに、兄のことも何か知っているかもしれない。行く価値はあると思う」
 紙切れをポーチにしまってから、ミルウーダはそう答えた。
「さて……宿に向かおうか。地べた以外の場所で眠れるのは久しぶりだ」


 翌朝は、まだ明けきらぬうちに、二人は連れ立って、昨日渡された羊皮紙の切れ端を頼りに、ハドムの街区を抜け、うっそうとした森が覆う山の裾づたいを歩いていた。
「この辺りのはずだが──」
 視線を上げた先に、ゆらゆらと、白い煙がたなびいている。間も無く、やや開けた場所に古ぼけた樵小屋を二人は見出していた。細い炊煙は、その屋根の煙突から吐き出されている。
 小屋の入り口に立って、ミルウーダが、コツコツと戸を叩いて訪いを告げたが、返事はない。もう一度、今度はさっきよりも強く叩いたが、相変わらず、誰かが出てくるような気配もない。
「留守、みたいですね」
 エマが、ミルウーダの横顔を見上げていった。
「煙は出ているが?」
「あ、たしかに変ですね。合言葉を言ってみるとか?」
「それなら、むこうから言ってくるのが道理だろう」
「ですよね……」
「山羊の好物は何だったかの」
「……?」
 不意に背後から、しわがれた声がして、二人は同時に振り返っていた。そして、その声の主を確かめるのに、二人はやや視線を下げる必要があった。
 そこには、やけに小柄な爺が一人、自分の背丈くらいの斧を支えに、ぽつんと立っていた。小さい目は白いふさふさとした眉にほとんど隠され、顎には、すすけた鼠色の長い髭をたくわえている。
 ミルウーダとエマの二人は、呆けたようにその爺の姿を見つめていたが、
「聞こえんかったかの。もいちど言うぞ、山羊の好物はなんだったかの?」
 と、爺がいうのを、二人はわけも分からず答えに窮していたが、やがてエマが、「あっ」といって、
「合言葉ですよ!」
 ミルウーダに囁くと、
「ああ、そうか」
 ミルウーダは、思い出したように、手に持っていた羊皮紙の切れ端を横目にちらと見て、
「ええと……豆のスープに、羊のミルク?」
 確かめるように言うと、
「いかにも」
 爺は満足げにうなずいて、
「ついて来なさい」
 といって誘うので、二人はひょこひょこ歩く樵の爺の後を、黙ってついて行った。
 小屋をぐるりと巡って裏手に出ると、爺は手に持っていた斧を小屋の壁に立てかけて、
「こっちよ」
 と、小屋の背後に迫る森の暗がりを指して言った。よくよく見れば、確かに細い獣道が一本、森の奥へ伸びている。
 爺は、見てくれの歳からは想像できない軽快な足取りで、ずんずん先を歩いていく。途中から道は途絶え、ほとんど胸の高さにまで達する下草を掻き分けるようにして──すっかり下草に隠されてしまっている爺の姿を見失わぬように──二人は、必死になって歩いた。
 そんな調子でしばらく歩き続け、やっと、目の前に岩壁が立ちはだかったところで、爺は足を止めた。
「まさか、ここを登るとかいうんじゃないでしょうね」
 エマが、息を切らしながら、そそり立つ岩壁を見上げた。爺は、何も言わずに岩壁に絡まる蔓草を掴んで、それをつたって岩壁をよじ登るのか──と思えば、そんなことはなく、蔓草を払いのけるようにして、
「ここが、"隠れ家"の入り口だよ」
 と言うので、見れば、いつのまにか、むき出しの岩肌に頑丈な木の扉が出現していた。同時に、ミルウーダの傍らで、エマが安堵の息を洩らすのが聞こえた。
「どうもありがとう」
 ミルウーダが爺に向かって礼をいうと、爺は聞いているのかいないのか、むにゃむにゃと何やら呟きながら、もと来た森の方へ消えていった。
「…………」
「いったい何者でしょう」
「さあ……しかし話しかけられるまで、正直、まったく気配に気づけなかった」
「ただ者ではなさそうですね」
「ああ。それじゃあ、行こうか」
 ミルウーダが両の手で押すと、思いのほか容易に、両開きの扉は開いた。そこから先は、石の階段が、ひたすら地下へともぐっている。
 トンネル自体は人工のものらしく、等間隔に木の支柱が組まれており、その脚の部分に、松明がついているので、足元は十分に明るかった。そのまま少し歩くと、右手の壁が消えて、眼下には、巨大な竪穴が穿たれている。天然の石の柱に、木の足場が組まれ、そこここに、隠れ家の住人たちの姿が蠢いているのが見える。
「ずいぶんと立派な隠れ家ですね」
 階段を下りながら、エマが正直な感想を述べた。ミルウーダは黙っていたが、明らかに、目の前の空間に圧倒されているようであった。
 階段は、竪穴の底に達したところで終わり、そこで、二人を待ち構えていたように、若い男が歩み寄ってきて、
「ミルウーダさんですね?」
 と訊くので、黙ってうなずくと、
「お頭がお待ちです。どうぞ、こちらへ」
 丁寧な物腰で、二人を奥へと誘っていく。途中何人かとすれ違ったが、誰も彼も手持ち無沙汰な様子で、物珍しげな目線を二人へ向けてくる。しかし中には、昂奮した様子で、議論を交わしている者たちもあるし、脇目も振らず、武器の手入れに徹している者もある。
「なかなか大きな所でしょう?」
 案内役の男がいった。
「うちのお頭が、廃棄された資源採掘場を貰い受けたんです。一から、こんな大きな隠れ家は作れませんからね」
 男の説明を聞いて、なるほど、と、ミルウーダは得心していた。よくよく見れば、採れた鉱物を運ぶのに使われていたものらしい荷車や滑車が、そこいらに、そのまま放置されている。が、そこに積まれているのは、今や鉱物ではなく、食料や、武器の類であった。
 二人は導かれるまま、竪穴の壁に無数に開いた横穴のひとつに入っていった。少し進むと、案内役の男は、髑髏の紋様を縫い付けた深緑の旗が、両脇に掛けられている扉の前で立ち止まった。彼はノックをしようと扉に近づいたが、内側から、思いがけず扉が開かれたので、とっさに、脇へ退いた。
 部屋の中から現れたのは、昨日、ハマと一緒にいた若い男──ルーファスであった。簾ののような髪の間から、今来たばかりの客人の方にその暗い眼を向けたかと思うと、何も言わず前に向き直って、大股で歩き去っていった。
 その様子から、何かただならぬものを感じたのか、案内役の男は、しばし呆然と、去っていくルーファスの背を眼で追っていたが、やっと、役目を思い出したように、
「あ、すみません。こちらです」
 慌てて二人を中へ誘った。ミルウーダは、微妙な空気を感じつつも、黙って部屋の中に足を踏み入れた。
 長方形の室内には、二十人掛けほどの細長い木の机が置かれ、その上座で、ハマが独り、腕組みして座っていた。二人が入ってきたのに気づくと、ハマは渋い顔を無理に明るくして、
「やあやあ、よくぞおいでくだすった!」
 立ち上がると、両手を大きく広げて、二人を迎え入れた。エマとミルウーダは、招かれるままに長机の席に着き、ハマは、案内役の男に何か飲み物を持ってくるように言いつけてから、上座に着かせたミルウーダの脇の席におさまった。
「昨日は、あのような形で、きちんとしたご挨拶もせず、まことに失礼をいたしました」
 ハマはまず、そう申し置きしてから、ハマと、その一味の身の上を、ぽつぽつと語り始めた。
 ハマという男もまた、ウィーグラフらと共に骸騎士団の一志士として、前の大戦に参加した者であった。戦後、恩賞の不行き届きと度重なる増税に堪えかねた不平騎士を集い、ウィーグラフの旗揚げに際しても、いち早くその旗下に参じたという。
 そして、此度のレアノールでの敗戦後、落ち延びてきた者どもをこの隠れ家に匿い、以来、ここで再起の日に備えているものである――
「しかし、かの決戦よりこの二月あまり、いま再びウィーグラフ立つとの音も聞かれず、一同、行く末も定まらぬていでして……。そんな折、角笛館であなたさまを見た時にはもう、身も奮えん思いがいたしましたもんで」
 ハマは、やけに興奮した様子で、どんぐり眼(まなこ)をぱちぱちさせている。ハマの話を聞くうちに、ミルウーダも、今やすかっり彼とその一味を信用する気になっていたが、自分にかけられた期待の想像以上に大きいことに、やや戸惑いを感じてもいた。
「ご覧のとおり、今は女の二人身ばかり。たいした力になれるとも思えないが」
「とんでもない! わしらにしてみれば、万の兵を得たも同じ心境です!」
「そんな……」
「うちの若い連中を見たでしょう? レアノールでの敗戦以来、どいつもこいつも意気消沈しちまって、再起の旗揚げに備える者なんぞ、これっぽっちもいやしない。しかし、今日、ここに英雄ウィーグラフどのの妹君が舞い戻った!」
「そういってもらえると嬉しいかぎりだが……私には、兄のような達見もなければ、武勇もない。あなた方の期待に添えられるとは……」
「ご謙遜を言いなさる! 人を惹きつける才能というものを、あなた方ご兄妹はお持ちである。わしのような凡下の身には、それがない。レアノールの戦いに、あれほど多くの義兵が集うたのも、ご兄妹のお力無くば、到底叶わなかったことです。ハドムにミルウーダ在りと聞けば、地方に落ち延びた同志たちも、きっと我らの旗下に馳せ参じることでしょう!」
 どこまでも前向きなハマの言葉である。少し大仰ではあるが、ミルウーダも、聞いていて悪い気は起きなかった。
 かといって、骸旅団を取巻く情勢の今や安からぬことは、ミルウーダ自身重々承知しているし、同志たちとて、一枚岩ではないことは、この眼で嫌というほど見てきているのである。
 そうした種々の懸念を踏まえたうえで、ミルウーダは、あくまで冷静に、ハマと意見を取り交わした。
 早々に再起を図るべきとするハマを抑え、今は兄ウィーグラフとの合流を果たすまで、力を蓄え、また、ギュスタヴ派の動静も見極めるべきだとした。
 キュスタヴの名を出した所で、ハマの表情が曇ったのを、ミルウーダは見逃さなかった。
 ハマの話を聞いて、ギュスタヴ一派によるエルムドア候誘拐の事実を、彼女は初めて知ったのだった。
「まさか、本当にやってのけるとは」
「わしも、その話を聞いた時は正直驚きました」
 ハマは、運ばれてきたばかりの豆茶をひといきに飲み干した。
「ギュスタヴの計画はご存知だったんで?」
「ああ。レアノールの戦いのあと、私はいちど彼に会っている。そのときに、要人を誘拐するという計画を持ちかけられた」
「そうでしたか。知恵者だということは知っとりましたが、あの狼のような男が、ここまで大それたことをしでかすとは、夢にも思いませなんだ。実をいいますと、うちの若い衆にも、ギュスタヴに協力すべきだという者が、少なからず出てきとるもんで」
「無理もないだろうな」
 ミルウーダの脳裏に、先ほどのルーファスの顔がちらついた。彼との間で、一悶着あったであろうことは、ハマの様子からも容易に想像できた。
「ギュスタヴとて、私利私欲であんなことをやったんではないでしょうが……しかし、やり方がちといただけない。我らの志は、まず戦──すなわち、人間同士、命を懸けて果たすべしというのが、ウィーグラフどののご意思でもありましょう」
「異論は無い」
「しかし、こういっちゃあナンですが、若い衆には、それが綺麗事に聞こえるようでして。なにせい、明日の生活をも知れぬ状況です。目前の大金に眼が眩んじまうのも、人間として仕方のないものでさあ」
「…………」
「ですが、人攫いをしてまで、わしは貴族どもに勝とうとは思わんのです。畏国の民も、そんなやり方は認めてくれんでしょう」
 兄ウィーグラフとともに、五十年戦争を戦い抜いた戦士らしい、実直さであった。兄も、ギュスタヴのやったことを聞けば、怒り狂うであろう──人攫いなどは、武人として、騎士として、恥ずべき行為であると。しかしそれは、ウィーグラフという男の甘さであるとも、思えなくはないミルウーダであった。
 現実は、想像以上に厳しい。人間は動物のようにはなれない。が、時として、人間は獣のように貪欲に、生にしがみつこうとする。それを当然のものとするか、忌むべきものとするか──この分裂を引き起こした根本には、そういった思想的相違があるようにも思える。
 この日から二週間あまりを、ミルウーダは、ハマの同志たちの説得に費やした。あえて非道を用いずとも、必ず勝利はもたらされると。
 多くの者は、彼女の言葉に耳を傾け、協賛の意を表してくれた。そこに、ミルウーダ自身の人間的魅力というものが、多分に作用していたことは疑いない。もちろんそれは、彼女の外見的なものだけではなく、言葉のひとつひとつに自然と勇気づけられるような、ある種の魔力とでもいうべきものであった。


 大方が、ミルウーダとの再起という方向に傾く中、ただ一人、ルーファスという男は、やんごとなき思惑を引っ提げて、単身、ハドムの街を治めるアズバール伯の館に赴いていた。
 後日、ルーファスの出奔を知ったハマも、あえてそれを重大な裏切り行為とはしなかった。
 ルーファスが、思想は異なるにせよ、同志には違いないギュスタヴのもとにではなく、"国家"という、正真正銘の"敵"のもとに下ろうなどとは、この時、彼も夢想だにしていなかったのである。




[17259] 第一章 持たざる者~11.疑心の剣
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/11 18:57
 ガリオンヌの成都、イグーロスの城壁は、高い。
 今は北天公ラーグ公爵の住まいとなっているイグーロス城は、もとは、アウレスという小山に立つ城郭であった。千年の昔、その天然の絶壁を人の手で固め、足元に整然たる街区が形成された。その街区をまるまる囲って、珊瑚石を百エータも積み上げた分厚い城壁が聳え立っている。
 王都ルザリアの白亜の城壁にも劣らぬその威容を、古の詩人は"珊瑚の都"と称えた、そのままのたたずまいを、イグーロスの都は現在に伝えている。
 はたして、勇者ザハラムの代よりこの地に根を下ろした名門ベオルブ家の館は、山の頂に立つイグーロス城よりは少し下がってもなお、成都イグーロスを眼下に一望する山肌に建っていた。
 広々とした前庭にはアウレスの山から湧き出る天然の流れをを引き、飾り気のない石の館は、武人の家にふさわしい素朴な趣をみせている。
 この庭と館とを営んだのは、先代バルバネスの曽祖父にあたる人物だといわれている。やはりこの家には、単なる武骨者の一族にはない、貴人の風格ともいえるものが、昔から備わっているらしいことが、こういったところにもよく顕れている。
「…………」
 月下、その歴史ある庭に一人佇むのは、今やこの家の主となったダイスダーグ・ベオルブであった。
 一瞥しただけで並の人間を竦み上がらせるその眼光は、今は瞼の裏に隠され、長髭(ちょうぜん)を涼やかな夜風に遊ばせている。イグーロス執政官としての一日の政務を終えた彼は、床に就く前にここにこうして足を運んで、せせらぐ水の流れに耳を傾け、日中の暑さも冷めやらぬ夜に、ひとときの涼をとっているのであった。
 とはいっても、彼の表情には、まったく、くつろいだ感じはない。眉間には深く縦皺が刻まれ、何かしきりに思案しているふうであった。
「……まだお休みにならないのですか?」
 そこへ、艶のある声がして、ダイスダーグは静かに瞼を持ち上げた。
「アリーシャ、まだ寝ていなかったのか」
「寝室に姿が見えなかったものですから」
 ダイスダーグの正妻アリーシャは、寝間着姿のまま夫の傍らに歩み寄ると、化粧が落ちて眉の薄くなった顔をダイスダーグの横顔に向けた。
「お風邪を召しますよ?」
「まさか。暑くて眠れんくらいだから、こうして夜風に当たっているものを」
「夜風は思いの外冷たいものです。疲れたお体には障りもありましょう」
「心配ない」
「そうですか。このところ、ろくにお休みになられていないようでしたから、ご心配申し上げたのですが」
「色々と混み入っておるのだ」
 ダイスダーグは、気の進まぬ会話を断ち切るように、いい加減な応(いら)えを返した。
 アリーシャの指摘するとおり、彼はいささか疲労を覚えてはいた。
 先日のガリランド襲撃事件と、立て続けに起きたランベリー領主エルムドア候誘拐事件は、積み重なる平常の政務の上に乗っかって、彼の頭を大いに悩ませているところである。
 しかし、それを偽って強がりをしてみせても、十年付き添った正妻の眼は誤魔化せない。
「あまりご無理をなさらぬように」
 素直になれない夫の態度をからかいでもするように、アリーシャは口元に微笑すらたたえている。
 ダイスダーグは、そんな妻の顔をちらと横目に捉えてから、再び両の眼を閉じた。
 ――正直なところ、彼はこのアリーシャという女が苦手であった。
 およそ他人に弱味というものを見せないダイスダーグであるが、あえて彼の弱点を挙げるとするならば、それは正妻アリーシャということになるかもしれない。
 夫として当然の愛情は今だ褪せていないし、恐妻家といわれるほどではないが、彼は心のどこかで、アリーシャに対する恐怖心に近いものを感じているのである。
 王室とも所縁(ゆかり)の深い名門ミル家の出で、妻としてはこの上なく美しく聡明であったが、同時に、彼女が相当な野心家であることをダイスダーグは夫婦(めおと)となって間もない頃から見抜いていた。
 ベオルブ家の奥方という地位には納まらず、実家の縁を使って、中央の官吏とも密接な関係を持っており、権威を毛嫌いしていた先代バルバネスの存命中に、その多くを失ってしまったベオルブ家の政治的地位を取り戻そうと、いろいろと暗躍しているようである。また、ダイスダーグ自身に意見することもしばしばで、王室の継嗣問題が浮上してからは、後見人の座を狙うラーグ大公からも大いに頼りとされている。
 文武両道にベオルブ家の栄華を取り戻さんとしているダイスダーグにとって、アリーシャは強力な武器となりえたが、同時に、その威力の過ぎたるを大いに警戒してもいた。
 その昔、時の畏国王に取り入って戦乱を招いたガルバディアの魔女の例を取り出すまでもなく、女が政治に深入りしすぎることを良しとしない風潮は、今でも根強い。それだけに、外聞を憚るところでもあるし、何より、女の本来持つ欲深さというものを、ダイスダーグは恐れているのである。
「お前もたいがいにしろよ」
 ダイスダーグが溜息混じりに、こう本心の一角を覗かせると、
「何をです?」
 と、この女はすっとぼけている。抜け目の無いダークブラウンの瞳は、夫の心の内を見透かしているかのように、妖しげな光を湛えている。
「いや、なんでもない」
 ただでさえ疲れているところに、またあれこれ言われては敵わんと、館のほうへ戻りかけたその背中を、
「あ、そうそう」
 と、妻の声が追った。
「ラムザ坊ちゃんがお戻りだそうですよ。なんでも、北天騎士団の任務を仰せつかったそうで、士官学校(アカデミー)のお仲間たちと一緒に、ガリランドで捕らえた骸旅団の捕虜を護送してきたとか」
「ああ、聞いている」
 またこんな話を、いったいどこから仕入れてくるのか。畏国じゅうに"目"と"耳"を持つと言われているダイスダーグでさえ、妻独自の情報網の広さと伝達の速さに、驚かされたこと一度や二度ではない。
「そうでしたか、いらぬおせっかいをいたしましたね。今日はお城の兵舎に泊まるそうですから、お許しが出たら、明日お会いになってあげてくださいな。お父様のご葬儀からこっち、お顔を会わせていらっしゃらないのでしょう?」
「そうっだったな。まあ、あっちから顔を見せるだろうよ」
 弟の顔を思い浮かべて、ダイスダーグはまたひとつため息を洩らした。彼の苦手とする人間は、父バルバネスと正妻アリーシャであったが、いま一人、亡き父の生き写しともいえるこの胎違いの弟の存在は、近ごろ彼の中で大きなものとなってきていた。
「また厄介ごとが増えたな……」
 ベッドに身を横たえながら、ダイスダーグは、そう独りごちていた。


 翌日、イグーロス城でラーグ公爵との昼食を兼ねた談義を終えてから、ダイスダーグが城内の執政官執務室に戻ってくると、そこには、待ち構えていたかのように、弟のラムザの姿があった。秘書官の不在を見計らって、ここにもぐり込んできたことは明らかであった。
「何の用だ」
 ダイスダーグは、弟の顔を見ようともせず、机の上に山積みにされた書類に目を通し始めた。まず目に入ったのは、司法局からの上申書であった。
「お久しぶりです。兄上」
「ああ」
 話す気はないという語気を言外に滲ませてみても、目の前の頑固者は、そう簡単に引き下がりそうもなかった。
「お忙しいところかとは存じますが、早急にお話したい儀がありましたので、無礼を承知で、ここでお待ちしておりました」
「…………」
 ダイスダーグは、執務眼鏡ごしに多少威圧感を含めた視線を送ったが、全く動じていない弟の顔が、そこにはあった。父の葬儀いらい久しく目にしていなかった弟の顔は、急に大人びたように見え、その面影が、ますます父に似てきたことに、少なからぬ動揺をおぼえた彼は、すぐさま書類の上に目を戻していた。
「これを、見たのか」
 ダイスダーグは、今目にしている羊皮紙を少し持ち上げた。
 余白の多い書面には、ガリランドから護送されてきた骸旅団の捕虜の名前と出身地、年齢などの情報が羅列され、その下に、本日中に全員の公開処刑を行う旨が簡潔に記されており、すでに司法局長による認印が押されていた。
「はい」
 ラムザの表情には、悪びれた様子もない。
「お前というやつは」
 ダイスダーグは執務眼鏡を外すと、おもむろに席を立った。そのままラムザに背を向けるようにして、執務室の長窓の前に立つと、真昼の逆光を受けて、その姿は切り取られたように黒い影となった。
「まず言っておくが……」
 そこに毅然たる態度を装いながら、
「イグーロス執政官として、本日の処刑を中止する意向はない」
「…………」
 こう鎌をかけてみるまでもなく、弟がここに来た理由は明らかであった。
 ガリランドの警備体制強化にともなう人手不足を補うため、捕虜の護送任務に士官候補生を当たらせたという報告は、すでにザルバッグから受け取っていた。そのときから、弟のラムザがその任に抜擢されるのではないかという予感はしていたのである。
 案の定、ラムザは指揮官に任ぜられ、初の実戦にして捕虜の護送という難しい仕事をやってのけた。
 それだけのことなら、兄として大いにその労をねぎらってやりたいところなのだが──
「いかなる理由であれ、捕虜と言葉を交わすのは重大な軍規違反だ……それは分かっていような?」
「分かっています」
「では、なぜそのような軍規が定められているのか……分かるか?」
「…………」
 目を向けないでも、弟の挑むような視線を背中にぴりぴりと感じる。狡猾な元老院議員を前にしても臆することを知らぬダイスダーグの鉄の心が、どういうわけか、この若い弟を相手どると、小さくさざ波を立てている。
「無用な情け心を起こさぬようにするためだ」
 ダイスダーグはゆっくりと振り返り、弟の視線をまっすぐに受け止めた。ラムザの表情に、あからさまな感情の顕れは見て取れない。おそらく彼の感情のすべては、一個に、その眼光に凝縮されているのであった。
 その眸が父と重なるのを、はっきりと意識しながら、ダイスダーグは弟の口上を待った。それくらいの余裕はあった。
「父上なら、別の道を採ったでしょう」
 やがて、落ち着きを払った声で、ラムザが言った。
 ダイスダーグはその言葉を咀嚼しながら、口元で嘲っていた。
「そうであろうな」
 ──亡き父、天騎士バルバネス・ベオルブならどうしたか。
 あらゆる罪を赦し、等しく罪人(つみびと)に語りかけ、その大いなる徳をもって、救いようの無い邪心をも更正してしまったであろうか──
「が、私は父ではない」
 ダイスダーグは、自分自身に言い聞かせるように、そう言った。
「私は……父とは違う」
「ならば、赤の他人だと言われますか」
「……!」
 バチン、と火花が爆ぜたように、二人の視線と視線がぶつかり合う。常は穏便なラムザの口から出たとは思えぬ、棘のある言葉であった。
「兄上もベオルブの子であれば、誇り高き者には、等しく誉れをもって報いるべしと教えられたはず」
「……ならず者に与える誉れはない」
「ならず者と言われる、その人間たちのことを、あなたは少しでも知ろうとなさいましたか?」
「知っているとも。徒(いたずら)に人心を乱し、国家の転覆を図る逆賊どもだ」
「それは彼らの罪だ! あなたは人間を見ていない! 知ろうとしない!」
「その罪を犯したのは人だ! 人を裁くをもって罪を裁く──そこに何の誤りがあろう!」
「それは人の傲慢です! 本来人は、話し合わなければならない──もっと分かり合おうとしなければ……!」
「まだそのような絵空事を言うのか! 我々は時に、厳然たる正義を示さねばならぬ。それは我ら──万民を導く者の努めでもある!」
「権力を振りかざして無実の人間を裁くことを、兄上は正義だといわれるのか!」
「だまれっ!」
「……っ!」
 これ以上の反論を許さぬ、渾身の一喝であった。怒気は濛々と、ダイスダーグの全身から立ち上っている。
「貴様の言うことは、単に父の言葉をなぞっているにすぎん! この私に口答えするのなら、せめて自分の言葉でものを言えるようになることだ!」
 その気迫を前にして、兄を相手に普段にない強気を張っていたラムザも、さすがに口を噤まざるをえなかった。
「…………」
「…………」
 にわかに日が翳(かげ)ってきて、部屋の中を薄暗くする。不気味な沈黙が、狭い空間を満たしていた。
「話はこれでおしまいだ」
 しばらくして、ダイスダーグは何事もなかったかのように執務机の椅子に戻った。彼は鷲羽のペンを手に取ると、その筆先をインク瓶に漬けた。
「軍規違反に関しては、兄弟の情けによって沙汰なしとしよう」
 言いながら、例の上申書に、さらさらとサインを施す。
「その代わり、一ヶ月の謹慎を命ずる。……存分に頭を冷やすことだ」


 この日の午後、イグーロス城下の中央部に位置するオークランド広場にて、レッド以下二十四名の公開処刑が行われた。
 ラムザは、処刑場を取り囲む群衆に紛れて、その一部始終を見届けていた。
 広場のシンボルである巨大なオークの木の隣に絞首台は設置され、執行人の司法局長官が、朗々と罪状を読み上げたあと、六名ずつ、計四回の処刑が淡々と執行された。
 レッド・アルジールは、その最後の一組に入れられ、他の者が祈りの詞を呟いたり、絶望の涙に暮れたりする中で、運命を受け入れたように、最期まで安らかな笑みを浮かべていた。
 公開処刑場が撤収され、群集が引いてからも、ラムザはオークの木の根元に立って、青葉の茂る梢の合間から、暮れなずむイグーロスの空を見上げていた。
 不思議と、その目に涙はなく、何か決然とした意思の表れが、彼の表情に浮かび上がっているようだった。
 ラムザは、今一度考えていた。
 亡き父は、自分という人間に何を託したのか。
 それは、真の後継の証たる本物のレオハルトの剣だけではないはずだ。
 優秀な兄にではなく、自分にしか託せなかったもの。
 それは、ベオルブ家の後継ぎ以上に重みのある、"何か"には違いなかった。
 父は、ついにその真意を明らかにはしてくれなかったが、ラムザは今、その"何か"を、自身の手で見出さねばならぬという使命感に駆られているのであった。
 ──君は我らに希望を与えてくれた。
 あの時のレッドの言葉が、ラムザの胸の内によみがえる。
彼は、少しずつ変わろうとしていた。
 当人にも気づかれないような大きな変化が、訪れようとしていた。
 この日、その変化の一端が始まったのは、間違いない。


 ──その夜。
 ダイスダーグ・ベオルブは、ベオルブ家の館の自室で、伝家の宝剣レオハルトに相対していた。
 それは、壁面の飾り棚に掲げられ、抜身の刃は、室内の明かりを映して、鈍い光を放っていた。
 半エータに達するアダマンタイト製の刀身には傷ひとつ無く、刃の付け根に彫られた獅子頭の紋が、剣の格式の高さを物語っている。それは紛れも無く、ベオルブの祖・勇者ザハラムが、時のイスティンヌス帝より下賜され、以来、この家に代々伝わる後継の証であった。
 ダイスダーグはその柄に片手をかけると、もう片方の手を刃に添えて、これを慎重に、飾り棚から下ろした。
 ずっしりとした剣の重みが両の手に伝わり、大剣といっても差し支えないその姿は、一見してこの上なき業物(わざもの)であった。
 ダイスダーグは利き腕に剣を預けると、おもむろに八の字を切った。刃が空を切る音が耳元を掠め、数回振りぬいたあと、刀身と向き合うようにして剣を掲げ持つ。
 鏡のように磨きぬかれた刃が剣の持ち主の顔を映し出し、ダイスダーグは、剣の向こう側の自分と、しばしの間見つめ合っていた。
「…………」
 やがて何を思ったか、ダイスダーグは部屋の壁に取り付けられた燭台を外すと、その炎でもって、レオハルトの刀身を炙りだしたのである。
 そのままじっと経過を見ていると、やがて、炎に撫でられていた部分に、薄っすらと、黒い煤のようなものが浮かび上がってくる。
(やはりな)
 ダイスダーグは、その結果にさして驚いていないようであった。が、明らかに、その表情には落胆の色が窺えた。
「この剣は贋物だ」
 黒い染みのように酸化した部分を恨めしげに見つめながら、彼はそう呟いた。
 アダマンタイトは、多量のマナを含んだレアメタルと、万年亀(アダマンタイマイ)の成獣の甲羅から採れる天然物質を合成することによって得られる、きわめて貴重な合金であるが、あらゆる金属に勝るその強度はもとより、耐火性能において、これを凌ぐ物質はこの世に存在しないとまで言われている代物である。
 アダマンタイトで鍛えられた剣をベルベニア活火山の火口に投げ入れても、その刀身を保ったという逸話が示しているとおり、並の火力では、熱も持たないような金属なのである。
 まして、燭のともし火に炙られた程度で、反応が現れるはずもない。
 ──それが本物のアダマンタイトならば。
 ダイスダーグは偽のレオハルトを元の飾り棚に戻し、頬杖をついて、その姿を見上げていた。
(この剣は偽物ではないか?)
 こう直感したのは、父の葬儀が執り行われた日、継嗣の儀の場にてラーグ大公から剣を賜った、まさにその時であった。
 はっきりとした根拠があるわけではなかった。
 初めてこのレオハルトを目にした時、彼はどういうわけか、この剣に全く魅力を感じなかったという、それだけのことである。
 この程度の得物なら、もっと良いものをいくらでも見てきた。天下一の名品と伝えられるレオハルトの剣が、こんなに"安っぽい"はずがない──
 剣を見る目には自信のあるダイスダーグである。審美眼ならば、武骨者のザルバッグや老臣マルコムにも、けっして引けを取るまい。
 そう自負するほどなダイスダーグの眼をもってしても、この剣からは、アダマンタイトの煌(きらめ)きとか、千年の歴史の重みというものを、微塵も感じられなかったのである。
 ──あえてひとつ、根拠を挙げるとするならば。
 彼は生まれてこの方、伝家の宝剣レオハルトの姿を、一度も目にしたことがなかった。無論、その存在自体は父バルバネスより聞かされていたが、父は、この剣を飾るということはせずに、天命を終えるその日まで、館の宝物庫に、これを納めたままにしていたのである。
 歴代のベオルブ家当主は、このレオハルトを身辺に置いておくのを慣わしとしていたが、バルバネスだけは、家督を継いで間も無くすると、家来に命じて、レオハルトを宝物庫の中に納め入れてしまったのだという。
 当主の行動をいぶかしんだ家来の者が理由を尋ねても、バルバネスは、「傷をつけたくないから」などという、いい加減な返事をするばかりで、家名に関わることだから、どうか飾っておいてほしいという近臣の懇願にも、まったく聞く耳を持たなかった。
 稀代の変わり者と言われてきたバルバネスの行動にしても、これはあまりに奇怪に過ぎると、当初は大いに物議を醸したものらしいが、年を経るにつれ、周囲の者もあまり気にしなくなってくると、将来、この宝剣を受け継ぐこととなる嫡男のダイスダーグには、逆にこのことが気になりだし、それとなく父に剣を見せてくれるよう頼み入れること数度に渡ったが、そのたび適当にはぐらかされ、ついに今日に至るまで、これを拝見する機会を得なかったのである。
 ところが妙なことに、弟のラムザが誕生すると、父はルザリアの刀匠に命じて、レオハルトそっくりな剣を鍛えさせたのだ。この得物は、バルバネスの出征に際しても携行され、戦地においては、贋作にも関わらず、本物のレオハルトを思わせるような冴えを見せたのだという。
 戦地より帰還してからは、「なに、わしの扱いが良かったからよ」などと嘯(うそぶ)いていたが、並の剣ならば、五十年戦争の、あの激戦を耐え抜けるはずがない。
 今にして思うに、父と五十年戦争を供にし、前線を退いてからも、その腰に提げられていた偽のレオハルトこそ、実は"本物"で、父が鍛えさせたという"偽物"は、密かに、宝物庫にあった"本物"と入れ替えられていたのではないか。
 そして、父の言うところの"偽物"は、彼の死の三年ほど前、ドーターのさる貿易商に「譲った」のだという。
 "本物"の方は、館の宝物庫にあるわけだから、誰ひとりとして、このことを気に留める者はなかった。が、おそらくダイスダーグだけは、父のこの行動にどこか引っかかりを覚えていた。
 ──そして、今。
 目の前にあるレオハルトは、"偽物"であるという確証を得た。
 家督を継いで以来、何度も試そうとして、「もし本当に偽物だったら?」という恐怖心から試せなかったものが、今日にしてようやく思い切ることができたのは、やはり、改めて弟ラムザの存在を意識してのことである。
(どうする?)
 この事実が知れれば、ダイスダーグの信用は地に墜ちる。いや、それどころか、ベオルブ家の名に傷がつくことも免れない。
 このことはおそらく、遺言か何かの形で、ベオルブ家の内の誰かに伝えられているはずである。おそらくはラムザに──
(どうして? なぜ?)
 ──どうにも腑に落ちない。
 たしかに、父バルバネスとは意見がぶつかることもしばしばであったし、ことに晩年は、自身の多忙もあって、疎遠になっていたところもあった。
 かといって、名実ともにベオルブ家の家督を継ぐに相応しい者として、主家の公爵家にも、父自身にも認められていたはずの自分が、よりにもよって、胎違いの三男坊に、その"実"を奪われようとは。
 ダイスダーグにとっての父バルバネスは、最期まで、乗り越えるべき巨大な壁でしかなかった。その一方で、年が離れているとはいえ、ラムザに対する父バルバネスの一方ならぬ愛情は、素直に妬ましく思うこともあった──
 静かな黒い焔は、メラメラと、ダイスダーグの中で燻り始めていた。
 これは、あまりにひどい仕打ち。
 この火種を捨て置けば、厄の炎はダイスダーグ一人の身に止まらず、必ずや千年の歴史を有する家門の上にも燃え広がることとなるだろう。
 父バルバネスにどんな思惑があったかは知らないが、武門のベオルブの名を、たった一代の当主の気紛れで失うわけにはいかない。
 "実"はなくとも、ベオルブ家の現当主として、この火は何としても消し止めねばならぬ。
 たとえ、血を分けた弟と相争うこととなっても──
 



[17259] 第一章 持たざる者~12.忠心
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:56
 庭に面した書斎の窓は開け放たれ、午後の陽光とともに若草の薫りが柔らかな風に運ばれてくる。
 耳を澄ませば、どこからともなく笛の音がしている。
 その調子のいい音色にあわせて、鈴を鳴らすような唄が楽に興を添えていた。

 ──春は今日この日
   陽は朝を向かえ
   朝はふたごの刻
   丘は露にみちて
   ひばりは春の歌をうたう
   蝸牛枝(かたつむり)は朝露に
   星々はそらに常夜を想う

「暢気なものだな」
 出張った長窓の縁に寄りかかるようにして膝に置いた書物を捲っていたラムザは、不意にした声のほうに顔を向けた。
 書斎の入り口に、いつの間にかディリータの姿があった。
「ティータとアルマかな」
 いいながら部屋に足を踏み入れる。もともと浅黒い彼の肌は、日中の任務を経て、さらに黒く日に焼けていた。
「今日のお役目はもう終わり?」
「なに、衛兵長の気紛れで早めにあがらせてもらったのさ」
 ディリータは執務椅子の背を引くと、見習い騎士の軽鎧姿のまま、そこに深くもたれかかった。
「平和なもんさ、こんなご時勢に。喧嘩話のひとつでもあれば張り合いもでるんだが」
「楽でいいじゃないか」
「そうだねえ。真昼間からこんな所でのんびり書物を漁っているご隠居さまほどじゃないけどな」
「言ってくれるなよ。好きで謹慎してるわけじゃない」
「ハハハ、そうだったな」
 皮肉たっぷりといった表情で、ディリータは白い歯をむき出しにした。
 ディリータを始め、先月骸旅団の捕虜をイグーロスまで護送してきたガリオンヌ王立士官学校の面々は、引き続き北天騎士団の支援任務を命じられていたのである。といっても、彼らの主な役割は、骸旅団の殲滅作戦のために出払っている正規軍に代わって、イグーロスの都城の警護と治安維持に当たるというものであった。
 その中でひとりラムザだけが、先日の一件のあと、こうして自宅謹慎に甘んじているのである。
「人手不足じゃなかったのか?」
「うん。まあ実を言うと、先日ザルバッグ将軍の大部隊がイグーロスに帰還してな。それで警備の人員にも余裕ができたのさ」
「兄上が? 聞いてなかったな」
「そうなのか? そりゃあ、ひがなこんなところに引き篭もっていれば、聞いてなくても無理ないか」
「庭に出て稽古するくらいはできるさ」
 ラムザはいちいち突っかかってくるディリータの顔を横目でジロと睨んだ。その反応を面白がるように、ディリータは「いやあ、すまんすまん」などと空謝りをする。
「何か変わったことは?」
「まあ相変わらず、といったところさ」
 ディリータは、嘆息して両の眉を吊り上げた。
「北天騎士団は骸旅団の残党狩りに八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍だが、いまだ賊軍を根絶やしにするには至ってない。ザルバッグ将軍の部隊もまた大勢の捕虜を連れてきたが、その大半は食いあぐねた地方のごろつきどもが盗賊に身をやつしたような素人連中ばかりで、この前エルムドア侯爵を攫ったギュスタヴや、首領のウィーグラフといった骸騎士団時代からの中心メンバーは、残念ながらまだほとんど捕まっていない」
「で、その捕虜たちの処分は?」
「ん? ああ」
 ラムザの面に、にわかに影が差したのを見て取って、ディリータは少し言葉を詰まらせた。
 ディリータは、ラムザが実の兄から謹慎処分を受けたといういきさつを耳にしてはいたが、その詳細については、まだ直接本人に訊かずにいた。
 が、長年連れ添った友の心情は、誰よりもよく理解しているディリータなのである。
 おそらくは、先月にイグーロスの城下で行われた捕虜の公開処刑について、立場をわきまえずに意見でもしたのだろう──と、大方の想像はついていた。
「ほとんどは鉱山送りだろう。罪状は乱暴狼藉らしいしな。貴人誘拐とか、国家転覆の謀事とか、そんな大それたことをしでかしたわけじゃあない」
「そうか」
「…………」
 なおもラムザの表情は晴れない。ディリータは内心で、「やっぱりな」と、彼の考えが正しかったことを確かめつつ、
「兄上との間に何があったかしらないが、またあんまり気負いすぎるなよ」
 そう言って、鬱屈しがちな友の気を何とか紛らわそうとした。
「べつに気負ってなんかいないさ」
「そうかい?」
「ああ。ただ、厳しく罰するばかりじゃ駄目だと思っているだけだ。……兄上にもそう申し上げた」
 ラムザは溜息とともに書物を閉じると、窓外の庭に目を流した。
「聞き入れてもらえなかったけど」
 窓の外では、先ほどの歌声はいつの間にか止んで、二人の少女の可憐な笑声が聴こえてくる。
 若い二人は、しばし無言でその声に耳を傾けていた。
「ティータとも久しく話してなかったな」
 ディリータが、遠い目をしてポツリと呟いた。
「時間もできたことだし、修道院のエリザにでも顔を見せに連れて行ってやるかな」
 ディリータは立ち上がると、間接をパキパキ鳴らして大きく伸びをした。
「そうするといい」
 ラムザは、ふと、以前女学院でのことについてアルマから聞いたことを思い出した。──アルマの知らないところで、ティータが陰湿ないじめをうけている──同じ兄としての気持ちを考えると、ラムザは針を飲み込むような思いがした。無論、そんなことを面と向かって言うことなどできるはずもなかった。
「そういえば、お前はまだ謹慎中の身なんだっけな」
「ああ、うん、気にしないで」
「心配すんな。アルマの面倒も見てやるさ」
「任せたよ」
「おう。着替えたらさっそく行ってくるよ」
「あ……」
「ん? どうした?」
「ティータの話、よく聞いてやってね」
「それはもちろんだが……ティータがどうかしたのか?」
「いや、なんでもないさ」
「そうか。たまには体も動かせよ」
 ディリータが書斎から出て行くのを見送ってから、ラムザは再び書物を開いたが、とうに興は削がれていたのか、すぐに閉じてしまうと、それからは、いつまでもぼうっと窓外の景色を眺めていた。やがて、山の斜面に続いている庭の木立のほうから、小さくディリータ、アルマ、ティータのものと分かる姿が、館の正門に向かって歩いていくのが見えた。


 北天騎士団の本営はいま、イグーロス城の郭内に位置する近衛士府に置かれていた。
 先日ザルバッグ将軍が帰還していらい、衛士府の建物には昼夜を問わず人の出入りが絶えなかった。その多くは、ザルバッグ直々の命を帯びて各地に散っていた伝令や隠密――"草"と呼ばれる者たちであった。
 彼らがもたらした情報は全て幕内に集められ、審議され、すなわち新たな命令となって再び彼らの頭上に下った。
「なかなかありませんな」
 また一人、“草”を送り出したところで、溜め息混じりにそうつぶやいたのは、ザルバッグの右腕、老臣マルコムであった。
「…………」
 ザルバッグは腕組みして、円卓上に広げられたガリオンヌ領の略地図を睨み付けている。その表情は、常になく険しい。
「が、先ほどの伝令がもたらした情報は、ちと気になりますな」
「うむ、ハドムのアズバール伯からであったか」
「左様で」
「ふうむ……」
 作戦地図上の視点は、ガリオンヌ領内から東、ベルベニア山系に沿って引かれた王室領ルザリアとの境界線に移っていった。
 南北に長い山脈のちょうど真ん中あたり、レウスという峰の東側のふもとに、ハドムの街は見いだされる。
 そこはルザリア領内でも有数の宿場街として知られるが、先月末、その街を治めるアズバール伯のもとに行商人を名のる一人の男が現れ、いわく――ハドム近郊の廃鉱跡に骸旅団の残党が潜伏している――とのことであった。
 さらに詳しく話を聞くと、その残党軍を率いている者というのが、骸旅団の首魁ウィーグラフ・フォルズの妹と称する、女騎士であるらしい。
 さっそく、この報告が審議の皿の上に乗った。
「はて、ただの旅商人のもたらした情報にしては、妙に詳しいような?」
 誘きだしのための風説にちがいない、という声がまずあがった。それに対しマルコムは、
「いやいや、これは骸旅団内部に分裂が起こった証。離反者による密告であろう」
 との見解を示した。
 レアノール野の決戦以降、骸旅団は明らかにその統制を欠いていた。
 前のエルムドア侯爵誘拐事件も、ギュスタヴら一部の構成員による単独行動とみえる節がある。そんな非常手段に訴え出ねばならぬほどに、骸旅団を取り巻く情勢は逼迫していると、マルコムはそう考えたのである。
 ザルバッグも、これに意を同じくした。
「やつらはそうとう切羽詰まっているのだろう。己の身をかわいがる者が一人くらいいても不思議ではない」
 その声に、多くの者が納得したようであった。ザルバッグ自身もうなずいて、
「組織がバラバラとなってしまっては、彼らの行動規範にもはや一貫した思想性はない。したがって、ウィーグラフの妹なる人物も確かに大物にはちがいないが、侯爵誘拐事件の線に繋がっているとは考えにくい。その者はその者の意志に従って行動しているものと思われる」
 とりあえず、この件に関してはこういう方向でまとめられた。
 ハドムへは調査隊を遣ってしばらくは動静を窺うこととし、主題は、目下最優先事項とされる侯爵誘拐事件へと移った。
 この案件についてはまだ有益な情報が集まっておらず、捜査も行き詰まりをみせていた。
「まだアジトは割り出せそうにないのか」
 ザルバッグはかなり苛立っていた。諸将も、これには閉口するしかなかった。
「北天騎士団の総力を挙げて捜索中ですが……いかんせん数が多すぎるものでして」
 捜索部隊の指揮を任されている騎士アルマルクであった。彼の他にも、各主要都市の治安維持部隊を率いていた者の多くが、侯爵の捜索任務に駆り出されていた。
 事件発生以来、北天騎士団はガリオンヌ領内から北はフォボハム、東はルザリアに至る広範囲に捜査網を敷き、骸旅団の潜んでいそうな場所を虱潰しに探してきたが、依然として主犯と目されるギュスタヴの足取りを掴めずにいた。彼らは、ときにに敵の流した偽の情報に翻弄され、無駄足を踏まされること幾度にも及んだ。
「増員はまだ可能だ。この件には我ら北天騎士団の面子がかかっている。そのことを忘れるな」
「は」
 アルマルクは青い顔をして面を伏せた。
 これはガリオンヌ領だけの問題ではなかった。攫われたのは、他領の、それも領主である。非公式訪問中であったとはいえ、領内の治安を司る北天騎士団の負うところは決して小さくはない。
「もとより身代金を支払うつもりはない。我らの手で、なんとしても逆賊の首級を挙げるのだ。……おのおの心してかかれよ」
 ザルバッグの眼光を受けて、一同、決意を新たにしたところで、いったんこの場は解散となった。
 諸将が退出していく中、入れ違うようにして一人の騎士が幕内に馳せ参じた。その騎士は、"草"の者ではなかった。
「城衛門に詰めておる者ですが」
 騎士は何やら困惑の色を浮かべている。
「何事か」
 マルコムが応対すると、騎士は「は」とかしこまってから、
「エルムドア候の近習と申す者が詰所に来ておりまして」
「なんだと?」
 マルコムは不審に眉を寄せた。
「アルガス・サダルファスという名です。身なりは騎士ですが……私の見る限りではまだ子どもです」
「サダルファス……ランベリーの旧家に、たしかそういう名があったような気もするが」
「他にも、ベオルブ家のラムザさまとも面識があるといっておりました」
「なに? ラムザ坊ちゃんと?」
「は、なんでも、マンダリア平原で命を救われたとか」
「で、何用あって将軍の陣所へ?」
「それが、北天騎士団の捜索部隊に加えてほしいというのです」
「エルムドア候の捜索にか?」
「は」
「…………」
 マルコムは髭を撫でつけながら思案していたが、
「とりあえず詰所に留めておけ。追って沙汰いたす」
 騎士が退出すると、彼は早速ザルバッグにもこの次第を告げた。
「素性は確かなのか?」
 ザルバッグは円卓に頬杖をついて、片方の手は地図に置かれていた騎兵の駒を弄んでいる。
「尋問してみないことには、なんとも」
「何か情報が得られるかもしれんな」
「ですが、まだ子どもだといっております」
「ラムザに会ったと言っていたのだろう?」
「左様で」
「ならばラムザに素性を検(あらた)めさせよう」
「坊ちゃんはイグーロスにいらっしゃるので?」 
「ああ。人員補填のために士官学校の生徒を駆り出したのだ。……実戦訓練という名目でな。今は館にいるはずだ」
「ははあ、左様でありましたか」
 コツン、と固い音を立てて、象牙製の騎兵が地図の上に立った。そこはちょうど、イグーロスの真上であった。
「今日のところは下がらせておけ。ラムザには私が直接話をつけておく」
「承知いたしました」
 マルコムは本営を後にすると、チョコボに跨って城衛門の詰所へと向かった。
 城門を出てすぐの所にある詰所の前には、見慣れない臙脂の皮鎧に身を包んだ若い騎士が一人、手持ち無沙汰な様子で立っていた。
「貴公がアルガス・サダルファスか」
 マルコムが騎上から問うと、アルガスは不意を衝かれたように佇まいを直し、その場に跪いた。
「ランベリー近衛騎士団少年挺身隊所属、アルガス・サダルファスであります」
「見習い騎士か?」
「は」
「捜索部隊に加えてほしいと申し出たそうだな」
「不肖の身ではありますが、必ずやお役に立ってみせます。何とぞ、行軍の端に加えていただきたく……」
「それについては後ほど命が下ろう。今日のところは下がりなさい」
「……は」
「故郷(くに)に帰る気はないのか?」
「エルムドアさまの御身を取り戻すまでは……故郷の者に顔向けできません」
「ふむ……」 
 アルガスは目に涙を湛えて肩を震わせている。その切実なる想いは、マルコムの心にも確かに響いていた。素性を検めるまでもなく、目の前の少年がエルムドア候の近習として、誰よりも主君の身を案じているということは、言わでも伝わってくるのであった。
(あっぱれな忠心よ)
 マルコムは素直に感心していた。彼の古臭い騎士道精神は、純粋にアルガスの殊勝ぶりに共感を覚えるのであった。
「案ずるな。将軍は今、益有る情報を求めておられる。そちの証言は必ずや将軍のお耳元に届くであろう。そののち、場合によってはお取立ということもあるかもしれぬ。わしからも、よく申し上げておこう」
「あ、ありがたき幸せに存じます!」
 アルガスは、地面にすがりつかんばかりに深く拝跪した。
 マルコムは目を細めてひとつ頷くと、チョコボの横腹を蹴った。
 マルコムが去ってからも、アルガスはその場に跪いたまま、いつまでも立ち上がろうとはしなかった。




[17259] 第一章 持たざる者~13.将軍直命
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:57
 宵の口に差しかかったイグーロス城下でも、昼間の賑わいの衰えないのがここルマール商業区である。
 殊に中央広場は、連日お祭りのような活況をみせている。
 管弦楽隊の即興演奏は止むところを知らず、若い男女が番いになって踊りまわる様子があちこちで見られる。それを囲んで、麦酒や葡萄酒の注(つ)がれたマグを手に手に持ち、酔った市民が大声で囃し立てる。
 隙間無く立ち並ぶ露店をちょっと覗けば、色とりどりの野菜や果物、肉の燻製、妖しげな香料にいかがわしい装飾品の数々。どれもこれも、べつだん大した品ではないだろうが、それでも、黄昏時に浮き立つ夜店の店先に並ぶと、どういうわけか、こういう品々でさえ煌びやかに映えて見えるのだから不思議なものである。
 ディリータもいま、数ある飾り物屋のなかでも、賑わっている広場の中心からは一歩外れて、ひっそりと品物を広げている露店の前に立っていた。
 べつに彼自身は、身飾りなどに興味はないのである。
 先刻、アルマとティータを連れて城下の修道院を訪れたとき、そこの修道女のエリザが、ティータに誕生祝いの贈り物をした。それは修道院の所蔵する貴重な書物で、幼いころから学問好きなティータの性分をよく知る司祭の好意によって、特別に譲り受けたものであった。
 で、兄たるディリータはというと、妹の誕生日のことをすっかり失念していた。親友のアルマからはとっくに贈り物がされていたようで、彼はその場で遅ればせに祝いの言葉を述べ、贈り物を準備できなかったことを素直に詫びた。
「べつにいいのよ兄さん」
 ティータはそう言ったが、兄たる身としては、この上ない恥に思えるのであった。
「ほんとうに……ほんとうに、すまなかった」
 そう何度も繰り返しながら、多少値は張っても、今年は良いものを買ってやろうと心に決めたのである。
 何がいいだろうかとあれこれ考えて、年頃の娘にはやっぱり何か身を飾るものが必要だろうと、露店をあちこち歩き回ったがあげく、ふと目にした品が気になって、この店の前に足を止めたのである。
「これはいくら?」
 ディリータは、絨毯の上にこまごまと並べられているアクセサリのひとつを指差して、店主に値段を訊いた。
「…………」
 店主は、ぼろきれのように擦り切れた灰色の外套をはおり、フードを目深に被って、黙然と座している。それだけ見ても、客寄せに愛想を振りまいている他の店のあきんどとは、明らかに様子がちがっていた。
 並べられている商品も、市井の女が好んで身につけるようなキラキラした飾り物はひとつも無く、どれも古代の呪術でも掛けられていそうな、禍々しい雰囲気を醸し出している物ばかりなのである。
 そんな品々の中でディリータの眼を惹いたのは、ひとつの首飾りであった。
 その首飾りだけが、骨董品店のような品揃えの中にあって一際浮いていたというのもある。
 銀製の首掛け部分の真ん中に、小指の先ほどの宝石が付いており──それが何という石なのかはディリータには分からなかったが──ただ、彼はその海のように深い青色が、格別に美しいと思ったのである。小洒落た意匠などは無いが、この控えめな美しさが、何より妹に似合うに違いないと、彼はそう確信した。
 そして、財布の中身などは深く考えずに値段を訊いたのだが、
「五千ギル」
 といった店主の応えに、ディリータは思わず「うっ……」と声を洩らしてしまった。小銭袋の口を開けてみるまでもなく、今の彼には手の届かない値である。
「もう少し安くできないのか?」
「…………」
「……無理か」
 店主が応えないのを、ディリータはそう受け取った。
 肩を落として、なお名残惜しげにその場でもたついていると、
「あれ、兄さん?」
 背後で声がしたので、振り返ると、ティータであった。アルマも一緒である。
「やぱっり。姿が見えないと思ったら……」
「ん、ああ」
 ディリータは、落ちつきなく眼をきょろきょろさせる。
「何を見てるの?」
「いや、ちょっと……」
「あら」
 二人して、身飾り屋の前にしゃがみこむ。ディリータは髪を撫でつけながら、何気ないふうを装っている。
「ディリータって、こういう趣味があったの?」
 アルマが、棘々しい飾り付けのされた売り物の一つをつまみあげながら、しげしげとそれを眺めている。
「意外ね」
「べつに、ちょっと見ていただけさ」
「ふうん……」
 悪戯げに笑みをこぼしながら、アルマは品物をもとあったところに戻す。賢しい少女の瞳には、何か含んだものがみえる。一方のティータはというと、こちらは黙って、瞳は一点を見つめていた。
「ティータ、何か気に入ったのがあった?」
「これ……」
「え?」
 ティータが指差したのは、ディリータが今しがた値を訊いた、まさにその首飾りであった。
「これ、きれいだなって思って」
「まあ、ほんとに」
 首飾りに付けられた蒼い宝石が、何か見えざる力に反応したかのように、妖しく煌めいて見えた。その光が、魔女の瞳のようにも思えて、ディリータはうすら寒いものを感じた。
「もう日も暮れたし、ぼちぼち帰ろうか」
 ディリータは、二人の背に向けていった。
「そうね。ティータ、帰りましょ」
「うん」
 二人は立ち上がると、もう歩きだしているディリータの横に並んだ。
 宵の街の喧騒が、路地の先の明るいほうから漏れてくる。石畳の路面に落とされた三人の影法師が、長く引き伸ばされて揺れている。
「何も買わなかったのか?」
 ディリータが、二人の荷物の増えていないのに気づいて言った。アルマは手ぶらだが、ティータは両手に修道院でもらった分厚い書物を大事そうに抱えている。
「ラム肉の串焼きをティータと分けて食べたわ」
 アルマが、にこやかに答えた。
「それがティータったら、もう一本食べようっていってきかなかったのよ」
「アルマ!」
 ティータが、頬を赤らめて、アルマを肘で小突く。
「余計なこと言わなくていいの!」
「だって、本当に食べたそうだったじゃない」
「それは……おいしかったもの」
「ははは、ティータは普段そんなものは食べないからなあ」
「そしたらディリータ、いつの間にかいなくなっちゃうんだもの」
「いやあ、すまんすまん」
 ディリータとしては、妹に気取られずに誕生日の贈り物を手に入れようと考えていたのである。首飾りには手が届かなかったが、それには見切りをつけることにして、あとでもっと手頃な品を探すことにした。
「…………」
 でもどういうわけか、あの首飾りのことが、彼の頭から容易に離れないのであった。
 美しい首飾りを身につけて、少し大人びた妹の姿が幻のように、ふわふわと彼の額に浮かんでいるのであった。
 なんとなく後ろ髪引かれるような思いで、来た道をちらと見やるも、先ほどの露店商の姿はとっくに建物の陰に隠れていた。
 そんなわけで、彼は前方から足早に近づいてきた人影をとっさに避けることができなかった。
 ──あっ、
 前を向いたときには、すでに肩と肩がぶつかりあっていた。
「失礼」
「……?」
 すれ違いざまに目に入った横顔に、ディリータは見覚えがあった。
「あ、おまえは」
「あれ?」
 先方も、ディリータの顔を見て立ち止まっていた。
「アルガス……サダルファスか?」
「ディリータ・ハイラル?」
 アルマとティータが、急に立ち止まったディリータのほうを振り返って、
「お友達かしら?」
 と、アルマが訊いた。
「護送任務の途中で一緒になってな。ランベリーの見習い騎士だ」
「まあ、そんなに遠くから」
 ディリータに紹介されると、アルガスは無愛想を緩めもせずに、アルマとティータに向かって軽く会釈した。
「アルガス・サダルファスだ。そちらは……」
 アルマとティータは、ちょっと顔を見合せたが、ディリータが二人の返辞を引き受けて、
「こっちは僕の妹のティータだ」
 紹介されると、ティータが、片ほうの手でスカートの端をつまんで、チョンと軽くひざを折る。
「で、こちらのお嬢さんが、アルマ・ベオルブ嬢。北天騎士団を率いる、ベオルブ家の御息女だ」
 アルマもティータと同じように淑女の挨拶をすると、アルガスはあからさまに怯みをみせた。
「え、では君も、ベオルブ家の?」
「ええ、そうですけど。ハイラル兄妹だって、ベオルブ家の一族よ?」
 アルマは、大多数の人間がみせるこういった反応に慣れているのか、しらとして受け答える。
「一族?」
 釈然としない様子で、アルガスがディリータにいう。
「まあ、なんだ。昔、色々あってな」
「下人とかではなく?」
「失礼な方ね!」
 アルマが、憤然とアルガスの前に進み出る。
「ディリータもティータも、私の兄妹よ!」
「いいんだアルマ。名門ベオルブの一族などとは、そんなに容易くかたれるもんじゃない。アルガスがそう思うのも無理ないさ」
 ディリータは、ことハイラル兄妹の身分のこととなると、弁護に熱くなりがちなアルマを抑えて言った。
 こういう傾向は、アルマの兄、ラムザにもしばしば表れるのである。士官アカデミーなどで級友たちと喧嘩沙汰になりそうになると、そのたび、彼は友をなだめる必要があった。同時に、ベオルブ家の養子とはいえ、一平民にすぎぬ我が身をここまで気にかけてくれるアルマとラムザに、心から感謝してもいた。
「詳しい事情は知らないが……失礼を言ったようならお詫びする」
 可憐な少女にあるまじき剣幕に少々気圧されながらも、アルガスは素直に非礼を詫びた。
「おれは君たちの兄上に命を救われたんだ」
「え、ということは、ラムザ兄さんとも会ったの?」
「ああ。兄君には何度か見舞にも来ていただいた」
 アルガスはやっと、表情をほんの少し弛めた。
「怪我の具合はもういいのか?」
 ディリータが訊くと、アルガスはぐるぐると肩を回しながら、
「おかげさまで、この通りだ」
「それは結構だが……今日はまたどうして、そんな格好で?」
「北天騎士団の本営に行ってきたところだ。捜索部隊に加えてもらおうと思ってな」
 言ってから、ディリータが、さっと表情を硬くしたのを見て、アルガスは「あっ」と不味い顔をした。
 エルムドア侯爵誘拐事件は、まだ公にはされていないのである。領民の不安を煽らぬためでもあるが、大方は、北天騎士団に対する不信を増長させぬためであった。ようは、彼らの面子である。
 それでも、耳賢いアルマは不審に眉を潜めたが、深く詮索するようなまねはしなかった。まだ幼くとも、彼女は武門の家の子としての分をしっかりとわきまえていた。
「じゃあ、おれはこれで失礼するよ。機会があれば、またどこかでな」
 そう言うと、アルガスはそそくさとその場から立ち去ってしまった。
 彼の背が見えなくなってから、
「行きましょ」
 と、アルマは何事もなかったかのように再び歩き始める。
 まもなく、三人はルマールの街区を抜けて、ベオルブ家の館へ続く上り坂に差し掛かった。
(思っていたよりも忠義に厚い男のようだ)
 ディリータは、アルガスという人間の一面を垣間見た気がした。
 今日ばったり出会うまで、とうに故郷のランベリーに帰ってしまったものと、勝手に思い込んでいたディリータなのである。
 護送任務の道中、手負いのアルガスから事情を聴いたとき、彼がラムザの家柄に目の色を変えたのをディリータは見逃してはいなかった。
「主人思いではあるが、程度のしれた男」
 これが、正直な第一印象であった。
 他所の土地から来た見習い騎士など、この期に及んではあまりに無力。ベオルブ家という強力な伝(つて)にすがろうとするのは無理からぬことではあるが――
 いちおう侯爵誘拐事件の現場に居合わせた生証人として、イグーロスに到着してから一通りの尋問を受けたようだが、本人が気絶していたというからには、これといって有力な情報は引き出せなかったのであろう、その後の彼の音沙汰はとんと耳にしていなかったのである。
 風説の流布を防ぐため、北天騎士団に身柄を拘束されていてもおかしくないものだが、事件の噂が広まるのも時間の問題であろうし、騎士団にしても、他領の見習い騎士ごときにそこまで手を回す余裕も無かったのであろう。
「――へえ、大したもんじゃないか」
 翌日、ディリータがアルガスに会ったことを話すと、ラムザは感心したようにそう応えた。
「見舞に行ったというじゃないか」
「ああ、兄上と喧嘩する前に何度か――ねっ!」
 言うなり、訓練用の棒剣を握った利き手が素早く下段の突きを繰り出す。
 ディリータはそれを器用に受け流しながら、淀みない足運びで元の間合いをとる。
 謹慎中に体が鈍るのを防ぐため、ラムザは毎朝の鍛錬を怠らなかった。本日非番のディリータは、こうして友の稽古に付き合わされているのである。
「どうしてまた?」
「どうしてといっても……」
 ディリータが踏み込むと同時に、こんどは正面からまっすぐ降り下ろす。ラムザは、さっと受けの構えをとる。
 カン、と小気味よい音をたてて、二人の棒剣が交わる。
「心配だったからさ」
「あ、そう」
 ディリータが、呆れたように嘆息し、ぐいと相手を引き離す。
 ラムザという人間には、おそらく打算というものがない。彼の行動原理は、何時もきわめて純粋であった。
「ダイスダーグ殿に会わせてくれってせがまれたけどね……それは出来ないって言ったんだ」
「仕方ないさ」
「弟の僕だって、執務中には会わせてもらえないんだから。あの日だって、秘書官の目を盗んで忍び込んだくらいだし。でも、冷静に立場をわきまえて自分にできることをやろうとした彼はすごいと思うよ」
「頭に血が昇って謹慎をくらった誰かさんとはえらい違いだな」
「はいはい」
 ラムザは首を振って、棒剣の構えを解いてしまった。
「もういいのか?」
「十分だよ。喋りながらやっても意味ないし」
「あ、そう」
「…………」
 棒剣を放り出すと、二人は並んで庭の隅の木陰に腰をおろした。二羽の雲雀(ひばり)が、無邪気に囀りながら二人の頭上を飛び回っている。
「ティータには何か買ってあげたの? 誕生日はとっくに過ぎたよね?」
「いや、まだ」
「だらしのない兄貴だなあ」
「うるさい」
 皮肉を言い返せたのに満足して、ラムザは仰向けに脚を投げ出した。
「捜索部隊、か……僕らにも何かできないかな」
「政(まつりごと)が絡んでいるからな……見習い騎士なんぞが関わらせてもらえるとは思えないな」
「そうか、そうだよなあ」
 二人の座っている場所からは、館の裏側と、召使いが主に用いる勝手口が見える。
 今しがた、その木戸を押して、日ごろ館に出入りしている顔馴染みの商人が、食材を載せた荷車を引いて敷地内入ってくるのが見えた。厨房の煙突からは、朝餉(あさげ)の支度の煙がもうすでに立ち昇っていた。
「ぼちぼち朝食の時間だな」
 ディリータが、その白い炊煙を遠目に見ながら言った。
「そうだね……あれ?」
 ラムザの視線の先では、先ほどの商人が、ちょうど館のほうから歩いてきた人物に向かって、低く頭(こうべ)を垂れて挨拶をしているのであった。その人物は、片手を挙げて快活にその礼に応えていた。
「毎朝ご苦労!」というようなことを言ったのであろうその声は、ザルバッグ・ベオルブのものに違いなかった。
「兄上、散歩かな?」
 ザルバッグは、そのまま大股で裏庭を横切って、二人のいる方へ歩み寄ってきた。
「朝から精の出ることだな!」
 広い庭に、彼の声はよく響く。
「おはようございます。兄上」
「館からお前らが稽古をしているのが見えたのでな。もう止めてしまったのか?」
「いや、その、そろそろ朝食かなと思って」
「今商人が来たばかりだ。もう少し間があろう」
 ザルバッグは、二人が放置していた棒剣を拾い上げると、くるりと回して先端をラムザの方へ向け、
「どれ、久々に私が稽古をつけてやろう」
 と、言い出した。
「えっ、よろしいのですか?」
「もうじきアカデミーも卒業だろう? どれだけ腕を上げたのか見てやるから、二人ともこっちへ来い」
「は、はいっ!」
 思いがけず北天騎士団総帥と手合わせすることとなり、二人は嬉しさ半分、恐ろしさに身もすくむ思いで、ザルバッグのもとに駆け寄った。
「二人同時に相手してやりたいところだが……あいにく剣は二本しかないからな。ほれラムザ、お前からだ」
 ラムザが棒剣を拾い上げると、ザルバッグは、きっ、と鬼の目を剥いた。戯れの試合とはいえ、決して手を抜かないのがこの男の信条である。
「よろしくお願いします」
「うむ。どっからでもかかってきたまえ」
 刹那の睨み合いの後、「やあっ!」と掛け声一番、躍りかかかったラムザの剣戟(けんげき)は、疾風に巻かれたように、あっけなく弾き返された。
「どうしたっ! もう一本っ!」
 ラムザは二の腕の痺れを押さえながら両手に持ち変えると、大きく息を吸い込み、
「はっ!」
 と、吐き出した勢いで、低めの構えから二撃目を繰り出す。
「おうっ!」
 今度は、二合、三合と撃ち合うも、やはり太刀筋を見切ったザルバッグの方が、あっという間にラムザを死に体にもっていってしまう。
「まあ、こんなものか」
 全身にみなぎる気を抜くようにして、ふう、と一息ついてから、ザルバッグは剣を下ろした。あっという間の出来事であったが、ラムザのほうは額に汗し、息を切らしていた。
「ま、参りました」
「筋はなかなかよろしい。あとは地力(パワー)をつけることだな」
「……はい」
 ラムザは肩を落として、ディリータに棒剣を手渡した。
「よろしくお願いします」
 次はディリータが構える。
「よし、来い」
 ザルバッグの剣が、再び気を纏う。
 ラムザに比べると、ディリータの型はやや大振りだが、一撃一撃には力があった。
 それでも、所詮はザルバッグ・ベオルブの相手ではなかった。力を以ては、そのさらに上の力でねじ伏せられる。
「……畏れ入りました」
 数合撃ち合ったのち、ディリータの棒剣は真っ二つに叩き折られてしまった。
「ディリータはちと力みすぎだ。だが、剣にはこのくらい殺気があってもよい」
「……は」
「ははは、二人ともしばらく手合わせせぬうちにずいぶんと腕を上げたな」
「お恥ずかしいかぎりです」
「なに、このまま鍛練を怠らねば、いずれよい働きができよう。柔と剛、この上なき組み合わせだ。伝説の双剣、ファールシスとビローもかくありなん――だがいかんせん、二人ともまだ血を知らぬ剣と見える。本当の命の駆け引きにおいては、稽古ごとなど役にたたぬものだ」
 言いながら、ザルバッグは持っていた棒剣をラムザに手渡す。木の棒切れが、鉄の剣のように熱を帯びているように感じるのは、気のせいではあるまい。
「剣に魂を奪われぬこと。常に理を以て刃を制すこと。狂気に囚われた剣は無用な殺生をはたらくばかりでなく、使い手の命を奪うこととなる」
「父上の教えでありますね」
「そうだ。父の教え――それすなわちベオルブの教えだ。心せよ」
「はっ!」
 ラムザとディリータは背筋を伸ばして敬礼した。ザルバッグは、期待の篭った目で若い二人の顔を交互に見やりながら、
「こんなに活のいい剣を錆び付かせておくのはもったいないな。どうだ、北天騎士団のためにひと働きしてみる気はないか?」
「えっ、それは……」
 意表を突かれたように、ラムザが目を丸くする。
「城の警護など退屈であろう? 謹慎などではなおさら」
「骸旅団殲滅作戦に加えていただけるのでしょうか?」
 ディリータが黒い瞳を輝かせる。
「と、言いたいところではあるが、見習い騎士を戦場に送らねばならぬほどには、我らもまだ困窮してはいない。貴様らにやってほしいのは、そうだな……情報収集だ」
「情報収集、でありますか」
「うむ。こういう仕事は、子どもにやらせると思わぬ成果を生み出すものだ。何人も、子ども相手には気を許してしまうものだからな」
 先ほどまでの鬼のごとき気迫はどこへやら、ザルバッグは無邪気な笑みを浮かべている。若い二人は、北天騎士団総帥直々の命令ということに心踊らせる反面、緊張で顔面を強張らせていた。
「二人だけで行かせるつもりはない。イグーロスにいるアカデミーの面々と……あと一人、ランベリーから来たという見習い騎士も一緒に行かせよう。先日、北天騎士団の本営に現れて、侯爵の捜索部隊に加えてほしいと申してきた者だが──ラムザ、お前とは顔見知りだと言っていたが?」
「はい、アルガス・サダルファスという者でしょうか」
「たしか、そういう名であったな。諜報部が尋問をしたそうなのだが、私のもとへは報告が来ていなかったようだ――よもや、侯爵の近習の者が生きているとは思いもしなかった。年少ながら忠義厚き者としてマルコムからも是非にと言われている。捜索部隊に入れてやることはできないが、お前たちと行動を共にすれば、侯爵をお救いするのに有力な手掛かりが得られぬとも限らない。歳も近かろうし、協力して任務に当たってくれ」
「承知いたしました」
「ラムザの謹慎処分については、ただちに解除していただくよう私から兄上に申し上げておこう。次に活動地域についてだが──」
 近頃、骸旅団と見られる不逞の輩の動きが活発化しているのは、
 一つ、貿易都市ドーター周辺域
 一つ、王領ルザリアとの領界
 定かではないが、ドーターでは骸旅団の首領ウィーグラフの目撃情報がもたらされている。また、ルザリアとの領境にあるハドムという宿場町では、ウィーグラフの実妹と称する人物の消息が確認されており、こちらは敵の内通者からの情報とされているから、より確かなものであった。この両者が合流を果たすようなことがあれば、再び反抗勢力の増長を招く恐れがある。
「部隊長はラムザ・ベオルブ、副長はディリータ・ハイラル、任務開始は三日後とする。報告は、アラグアイ方面に展開する第八遊撃隊に随時行うように。やり方は一切任せるが、北天騎士団の一員たることを自覚したうえで任務に当たれ。以上だ」



[17259] 第一章 持たざる者~14.形見
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:57
 ──コンコン
「どちらさま?」
「ディリータだ」
「どうぞ」
 応(いら)えを聞いてから、ディリータはおもむろに扉を開ける。
 小奇麗に片付いた寝室はいかにも乙女の部屋らしく、調度に染みついた甘い香りが鼻腔に心地よい。二つ並んだ小型のベッドの端に、寝間着姿のアルマとティータは向かい合いに腰掛けて、アルマは解いたブロンドを櫛で梳いていた。
「あ、やっぱりまずかったか?」
「なにが?」
「いや、その……」
 どぎまぎしているディリータを訝って、アルマが眉をしかめた。
 生地の薄い夏の寝間着は、いよいよ花開こうとする乙女の輪郭をぴったりと映し出しているのであった。その絶妙な顕れに無自覚なのも、またこの年頃の少女らしい。
 それとなく目線を遊ばせながら、ディリータは手に持っていた小さな箱を妹に差し出した。
「これ、遅れてすまなかった」
 ティータが、兄から受け取った箱を開けると、そこには見覚えのある首飾りが収まっていた。それは、先日、ディリータが目を惹かれながらも手の届かなかった、蒼い宝石の首飾りであった。
「あ、これ……」
「誕生日おめでとう、ティータ」
 ティータが首飾りを持ち上げると、その宝石は月夜の湖面を思わせる青白い妖光を湛えた。
「きれい……」
 アルマが、櫛を動かす手を止めて、その光に見入る。
 ティータは、ゆっくりと首の後ろに手を廻して、鎖をつなぎとめた。彼女の胸の上に落ち着いた宝石は、その鼓動に合わせるように、ひとつ、生物的な揺らめきをみせた。
「すごくきれいだよ。ティータ」
「この光……魔法?」
「ティータがそれを身につけるにふさわしいってことさ」
 ディリータは満足げに笑みを浮かべる。
 こうして見ると、我が妹ながら、もうすっかり一人の女であった。
 親を持たぬディリータの中では、早くも兄妹愛を越えたある種の父性ともいえるものが、芽生えつつあるのだった。
(いずれ良い人を見つけてやらんとな)
 ――もうそんなことまで考えているディリータなのである。
「兄さん、ありがとう」
「大事にしてくれよな」
「うん、一生の宝物にする」
「いいなあ、ティータは。私のお兄様方なんか、そんな気のきいたもの、くれたためしがないわ」
 アルマが呆れたように嘆息する。無論、本心からの羨望ではあるまい。彼女なりに、兄としてディリータを立ててやっているのである。
 五千ギルの首飾りなど、ベオルブ家の財からすればものの数にも入るまい。大事なのは、ディリータ自身の手で贈り物を用意することであった。――が、実のところ、彼はこの首飾りを手にするのに一ギルも落としてはいなかった。
 ザルバッグから直々の命を受けた翌日、彼は旅支度もほどほどに、再びルマールの街区へと赴いていた。
 イグーロスを発ったら最後 、次に妹と会える時はいつになるか分からない。妹への贈り物を手に入れられる日は、この日をおいて他になかった。
 彼は、城の警護番で支給された、わずかばかりの手当てをかき集め、財布の許す限り高額な品を買ってやろうと、目ぼしい店を見て回った。
「本にするか……いや、エリザと同じでは兄として面目が立たない。アルマは服を贈ったというし……となる と、やっぱり身飾りしかないか」
 ぶつくさ言いながら、彼は、一昨日、あの蒼い石の首飾りを売っていた露店のあったところまで来ていた。
「あれ、たしかここだったよな?」
 あの、みすぼらしい身なりの身飾り屋の姿は、そこにはなかった。人気の少ない路地を見回しても、他に店を広げている者はなかった。
(刻が悪かったか?)
 今は昼間である。が、仮にあの身飾り屋がいたとしても、だいぶ値切ってもらわなければ、首飾りにも手が届かぬ懐具合に変わりはない。
 逡巡して、しばしその辺をうろうろしたのち、
(あまりこだわっても仕方なし――!)
 やっと踏ん切りをつけて、その場を立ち去ろうとすると、
「――もし、そこのお若い方」
 と、どこからか声を掛けられたので、ディリータは思わず踏みとどまって、振り返ると、路地の両側に建ち並ぶ建物の隙間の闇から、煤けた鼠色のローブを纏った姿が、音もなく現れた。
「えっと、僕?」
「いかにも」
 フードからはみ出している薄汚れた長い髭を見ても、相当な年寄とわかる。そそ、と此方に歩み寄ると、フードの陰から濁った黄色い瞳が覗いて、ディリータの顔を見上げる。
「あ、ひょっとしてあんた、一昨日ここで店を出してた身飾り屋か?」
「うむ」
「ちょうど探していたんだ。あの蒼い首飾り、まだ持っているのか?」
「やはりあの時のお客さんでしたか」
「そうだ。ぜひあの品を譲ってほしいんだが、あいにく手持ちが少なくてな。もう少し値切ってはもらえないだろうか」
「…………」
「せめて、三千」
「あの娘さん」
「え?」
「お客さんと一緒におられた、あの黒髪の娘さんは?」
「ティータのことか? 僕の妹だが」
「ほぅ、ティータといわれるのですか」
「そうだけど……妹がなにか?」
「あの首飾りは、贈り物かなにかで?」
「そうだ。誕生祝いに、妹へ贈るつもりだった」
「ふむ……」
 身飾り屋は背負っていた荷を下ろすと、売り物が入れられているらしい革袋をごそごそやってから、両の掌に乗るくらいの小箱を取り出した。それを無言で差し出すので、ディリータはわけもわからぬまま小箱を受け取る。
「これは?」
「開けてみなされ」
「……?」
 蓋を開けると、小さな群青色の宝石が、目に入った。海のように深い青。紛れもなく、あの首飾りであった。
「持ってお行きなさい」
「いいのか?」
 老人は、静かにひとつ頷く。ディリータは、にわかには信じられず、
「でも……いったい、どうして?」
「どうしてかのう」
「……?」
「あの娘さんに、石が反応したんだよ」
「はあ」
「その石は古い霊石の欠片でな。さる魔導師からそいつを譲り受けたときには、もう本来の力を失っておった」
 霊石とは、より純度の高いマナ鉱物のことをいう。マナそのものの結晶をクリスタルというならば、きわめてそれに近い物質ということになる。その高密度のマナを媒介として、身につけた者の魔力を増強したり、協力な魔法を石自体に封じ込めたりすることができる。当然、マナの失われた霊石は、そこらに落ちている石ころと何ら変わりない。人為的に精製する技術もあるが、長い年月をかけてマナを蓄えた天然の霊石は、より貴重なものとされた。
「──わしも、見たことのない光だった。どうしたもんかと思ったが、あんた方はすぐに行ってしまったんでな」
 あのとき、ディリータが目を付けていた首飾りに、ティータも興味を示したのだった。
 それがティータに反応したものであったのかは定かではないが、その蒼い宝石が、不思議な光を宿したように見えたのは、気のせいではなかったらしい。
「ただの石ころだと思っとったもんが、あんたの妹さんに見留められて、にわかに息を吹き返した。つまり、そりゃわしの持ち物じゃないってことよ。案の定、その首飾りを求めて、あんたはまたここへもどってきた。それなら、わしは石の本望に従うまでよ」
「しかし、無料(ただ)というのでは……」
「なに、気にしなさんな」
「でも……」
「それじゃあの」
 身飾り屋の老人は荷を背負い直すと、いつの間にか、少し離れた場所に立っていた用心棒らしき大男と連れたって、さっさと広場のほうへと歩いていく。
「あっ……」
 ディリータは、しばし呆然とその背を見送っていたが、すぐに思い出したように、
「ありがとう、妹もきっと喜ぶだろう!」
 そう大きな声で言ったのを、聞いたか聞かずか、その低い背中は、連れの男とともに街区の建物の角に消えていった。
 ディリータは、今しがた自分のものとなった首飾りを手にとって見ながら、
「まさか、呪われているんじゃないだろうな」
 などと、埒も無いことをつぶやいた。蒼い石は、底知れぬ魔魅を無垢なる表情の裏に潜めて、ほくそ笑んでいるかのようであった。
 なんにせよ、兄としての務めを果たしたディリータは、足どりも軽く、妹たちの寝室をあとにした。
(これで、任務に集中できるな)
 今の彼は、もうそのことしか頭に無いのであった。


 ―─一方、その日のまだ昼ごろ。こちらはイグーロス城下の修道院。
 その裏手にある墓地に、ラムザの姿があった。
 彼はベオルブ家の立派な墓石の前に膝を屈し、先ほどから黙祷を捧げているのである。その静寂を紛らわさぬよう、細心の注意を払いながら、質素な修道衣を纏った年若い修道女が、手に持った白いリーンの花束を墓石に献じている。
 その後、彼女もラムザの傍らに膝を屈し、黙祷を始める。
「…………」
 修道院に隣接する孤児院から、童(わらべ)のはしゃぎまわる声が、かすかに聴こえる。そのほかは、野鳥の囀ずりばかりが喧(かしま)しい昼下がりの墓所である。
 ――四半刻あまり経って。
 ラムザが黙祷を終え、おもむろに立ち上がる。
 その目もとには、なにか水で濯いだような爽やかさがある。
「エリザ、すまないな」
 墓石に花が献じてあるのを見つけて、ラムザが足元に跪く修道女エリザにいった。
「いいえ、私も、ラムザさまの御身をお守りくださるよう、お祈りしたのです」
 彼女も立ち上がり、ラムザの声のするほうへ、その盲た瞳を向ける。
「北天騎士団の仕事を任されたと言ったら、父上はたいそう喜ばれたよ」
「そうでしたか」
「明日、出発する」
「お帰りはいつごろに?」
「まだわからない。場合によっては、一年以上先になるかもしれない」
 その声音に、エリザの耳は不安にも似た揺らぎを感じ取った。
 彼女は光を通さぬ瞳を閉じると、全身に、若草の青い匂を吸いこんだ。そこに、青年の瑞々しい香りが、ほのかに混じる。
「このあいだ、ディリータさまがいらっしゃいましたよ。アルマさんとティータさんを連れて」
「そうだってね。僕は行けなかったんだけど」
「ディリータさまったら、誕生日の贈り物を用意し忘れたといって、何度も何度も、ティータさんに謝っていたんですよ」
「ははは、あいつらしいなあ」
「ほんとうに。お変わりないようで、なによりです」
「今ごろ、必死になって贈り物を探しているよ。発つ前に、父上にご挨拶申し上げようって誘ったんだけど、どうしても大事な用があるからってね」
「それほど、ティータさんを大切に思っているんですよ」
「あいつはもう、兄貴というより、父親みたいなものだからね」
「ラムザさまだって、アルマさんを愛しておられるのでしょう?」
「そりゃそうだけど……最近、あいつも小生意気になってきたからな」
 ラムザは鼻づらを掻きつつ、はにかんでみせる。エリザも、口もとに手をあてて、くすりと笑う。
「孤児院(うち)の子どもたちが、ラムザさまに会いたがっています。お顔をみせてやってください」
「もちろん! そういえば、この頃あまり遊んでやれてなかったね。みんな元気?」
「それはもう。司教さまと私の手には、とても負いきれません」
「アルマとティータが手伝いに来てくれるさ。今は休暇中だからね」
「ほんとうに、助かります」
「いいんだよ。どうせ暇なんだろうし」
 孤児院は、この修道院が今よりもずっと大きかった時代に、修道士たちが寝泊まりしていた宿舎をそのまま転用して、ここの司教が営んでいるものである。
 それだけに、石造りの建物はなかなか立派なものだが、長い戦争と流行り病、飢饉や増税による困窮から、孤児(みなしご)の数は増える一方で、この建物にもそろそろ収まりきれなくなっていた。
 ベオルブ家の墓を守っているということもあり、先代のバルバネスも、この孤児院には格別な支援を施していた。ハイラル兄妹も、ベオルブ家に迎え入れられる準備が整うまでの一時期を、ここで過ごしていたこともある。
 見込みのある者は、ベオルブ家の取り立てで騎士に叙されることもあり、エリザのように、修道を志す者もあった。
 彼らは、世間一般からすればまだ恵まれているほうで、畏国では、孤児院と称して平然と人身売買を行っているような所も少なくないのである。
「あ、ラムザさまだ!」
 その姿を孤児院の門前に見出して、庭で遊びまわっていた孤児たちが、一斉にラムザの周りに寄り集まってくる。
「ラムザさま! ラムザさま!」
「おいおい、一度にそんなに大勢とは遊べないよ」
 すっかり囲まれてしまったラムザは、困り顔で後ろ頸を掻いている。エリザは、子供たちの嬌声に耳を傾けながら、くすくすと笑っている。
「よしっ! 最初の相手は誰だっ!」
 そう言って、だっと駆けていくラムザを追って、子どもたちも我先に走り出す。
「わーい! わーい!」
「おい、こら、一人ずつだって言ってるだろ!」
 首やら肩やら、思い思いなところへぶら下がってくる子どもたちを慣れた所作であしらいながら、ラムザは鬼っごっこをしたり、ちゃんばらの相手をしてやったりする。
 庭の隅にたたずんで、子どもたちの笑い声を聞いていたエリザは、しばらくすると、何か思い立ったように孤児院の奥へ引っ込んでしまった。
 やがて彼女が戻ってくると、遊び疲れたラムザが庭の真ん中にへたり込んでいた。
「もうだめ、降参!」
「えー、もっと遊んでよぉーラムザさまぁー」
「痛い痛い! 腕を引っ張らないで!」
「アハハハ! ラムザさま、おもしろーい!」
 さすがのラムザも、子どもたちのあり余る元気の前では押されぎみである。エリザは、ため息をついてそこへ歩み寄り、
「みんな、ラムザさまは明日から大事なおしごとがあるのです。無理をいってはいけませんよ」
 そう言うと、子どもたちは、
「はーい」
 と、気のない返事をして、渋々ラムザから手を離す。すると、五つくらいの女の子が、
「じゃあエリザ、お歌うたって!」
「え?」
「ほら、いつもうたってくれるやつ!」
「ああ……」
 ラムザの存在を意識したのか、少し恥じらうような表情を見せたエリザに、
「僕も聞きたいなあ」
 と、ラムザがいうと、子どもたちは、もう期待に無垢な瞳を輝かせている。
「わかりました」
 喉を整えてから、やがて、その唇から不思議な旋律が紡ぎだされていく。

 ──アリーアーダモルテ……イル・アヴェーラ・ル・モルテ……ヴィーアエーラ・ウム・ゴーリナーテ……

 呪文のようにも聞こえるその詩は、遥かな異国の言葉であろうか、あるいは、失われた古い言語であろうか。
 美しく尾を引く韻律は、やがて子どもたちを安らぎの極致へと誘い、どこか懐かしさにも似た感情を、聴き手の中に呼び起こすのであった。
 ラムザの意識は、悠久の時を越え、無窮の宇宙(そら)に、解き放たれていくかのようであった。
「…………」
 歌が終わってからも、しばらくはその余韻に浸って、声を発するものはなかった。
「ありがとう」
 ラムザが言うと、しんみりしていた子どもたちも、
「エリザ、ありがとう!」
 といって、惜しみない拍手を贈る。エリザは、ちょっと照れたように頬を赤らめながら、その瞳には、子どもたちの弾けんばかりの笑顔が、しかと映し出されているかのようであった。
「それじゃあみんな、遊んでいらっしゃい。夕食時になったら、また呼びますからね」
 やがて子どもたちは、それぞれの遊び場に戻っていく。
 ラムザとエリザは、庭に面した孤児院の入口の石段に腰掛けて、無邪気に駆けまわる子どもたちを見守っていた。
「ラムザさま、ありがとうございました」
 エリザが、こう慇懃に礼すると、ラムザは、とんでもないとばかりに、エリザの手をとる。
「子どもたちのおかげで、こっちが元気づけられたよ。僕のほうこそ、ありがとう」
 エリザと話す時、ラムザはこうして、彼女の手に触れることがある。それは、盲目の相手に対しての、彼なりのいたわりであった。そうとは分かっていても、年頃の娘には、やはり気にするところもあるのだろう。
 エリザは少し俯き加減に、指をそわだたせている。惜しいかな、こういうことに疎いラムザは、そういった微妙な乙女心の顕れに、まったく気づいていないのであった。
「あの子たちは、ラムザさまのことが、ほんとうに、大好きなのです。ラムザさまのお話をすると、みんな喜んで聞くのです」
「へえ、なんだか照れくさいなあ」
「…………」
 ラムザが手を離すと、彼女は胸の鼓動を抑えるように、両手をぴったりと合わせる。ラムザのほうは、相変わらず能天気な顔をして笑っている。
「あの歌、とっても良かったよ。誰に教えてもらったの?」
「それが、よく覚えていないんです。物心ついたときから知っていて、詩の意味を調べたりもしたんですが、今でもよく分かっていないのです。司教さまは、とても古い歌のように聞こえるとおっしゃっていました」
「古い歌、か。でもそういう歌って、母親が教えてくれるものじゃないのかな」
「私もそう思うのですが……私がここに預けられたのは、三つか四つのころですから。もうほとんど、母の顔は覚えていないんです」
「ふうん。それじゃあ、僕と同じだね」
 ラムザの母ローサも、彼が五つになる前に病死している。彼もまた、母親というものをよく分かっていないのだ。
 ──カーン、カーン……
 獅子(レオ)の刻を告げる鐘が辺りに鳴り響く。日は西に傾きはじめていた。
「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。明日の準備もあるしね」
「あ、……」
 立ち上がったラムザの手に、こんどはエリザのほうが手を探り寄せてくる。ラムザは、その動きに気付いて、そっと彼女の手を取った。
「ん、どうしたの?」
「あ、あの、これ……」
 そういって、エリザは手を離す。
「?」
 ラムザが掌を開いてみると、そこには、人差し指ほどの長さの小刀があった。薬師(くすし)や錬金術師が、調合の材料を刻むのに使うような物であろう。年季の入った木製の鞘には、精緻な彫刻が施されており、なかなか、良さそうな品である。
「これは……」
「私からの、選別です。そんなものしかありませんが、よろしければ、旅のお供に添えてやってください」
「でも、大事なものなんじゃないのか?」
「私が、ここに来た時から持っていたものです」
「ってことは、母親の形見かもしれないじゃないか。そんな大切なもの、受け取れないよ」
 ラムザが、薬刀をエリザの手に握らせようとすると、彼女はそれを押し返して、
「いいんです。どうか、わたくしの気持ちと思って、受け取ってくださいまし」
「しかし……」
「では、差し上げるのではなく、お預かりする、ということにしてください。その小刀とともに、どうかご無事に、イグーロスへお帰りください」
 これ以上言っても聞かなげなエリザの頑なさである。ラムザは容易に受け取りかねて、掌に置いたまま、その小刀をじっと見ていた。
「……?」
 よくよく見ると、小刀の柄の部分に、小さく文字が彫られている。模様のようにも見えたが、はっきりそれは、

 ──D.からF.へ

 と、読める。ラムザが、これは何かと訊くと、最初から、そこへ彫られていたものだという。
「このD.とF.というのは、名前の頭文字(イニシャル)かな」
「おそらくこの小刀は、そのD.という方から、私の母に贈られたものなのでしょう」
「ということは、このF.というのが、エリザのお母さん?」
「ええ。ですが、母は私を司教さまに預けたとき、自分の名を名のらなかったのだそうです。それどころか、子どもの名前も伝えずに、去っていってしまったのだといいます。私のエリザーベトという名も、司教さまがくださったものなのです」
「そうっだったのか……長い付き合いなのに、ぜんぜん知らなかった」
「私は、自分がどういう生まれの人間なのかも分からないのです。そんな怪しい身分の者が、ベオルブ家のような貴いお家柄のお方と、こうして親しく言葉を交わすことなど、本来許されぬことなのです」
「そんなこと言わないでくれ。君と僕は、こんなに小さいときからの友だちじゃないか」
「お友だちなどと……畏れ多いことでございます」
「畏れ多いことなんて何もないさ。これは受け取るから、今まで通り、友だちでいてくれるかい?」
「ラムザさま……」
 澄んだ瞳に、涙が溢れ出る。ラムザは、エリザの小さい肩を抱き寄せてから、
「ここの子どもたちと、それから、父上のことを頼んだよ」
 そう言い置いて、門へと歩いていく。
「ラムザさまー! またねーっ!」
「みんなも、元気でね!」
 子どもたちが、その姿へ向かって手を振り、ラムザも、大きく振り返す。
(ラムザさま……どうか、ご無事で)
 爽やかな風が吹き去っていった方を、エリザは、いつまでも見つめていた。




[17259] 第一章 持たざる者~15.家の名
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:58
「無茶しないでね」
 出発の日の早朝、館の門の前で兄たちを見送るティータの胸には、ディリータから贈られた首飾りが、仄かな青い光を放っていた。
「ああ、留守は頼んだ」
 ディリータは妹の小さい肩を抱き寄せ、その額に軽く口づけする。
「ディリータ、兄さんのこと、くれぐれも頼むわよ」
 アルマが妙に真剣な顔をして言うので、ラムザは癇に障ったのか、
「僕は部隊長なんだぞ! いちおう」
「はいはい。いつもみたいにボーッとして、そのへんの石ころに躓かないようにしてくださいね、部隊長さん」
「かわいくないなあ。ティータみたいに、ちょっとは素直になったらどうなんだ」
「あら、十分心配しているつもりだけど。私にも、お別れのキスをしてくださる?」
「まったく、生意気なやつ」
 嘆息しつつ、ラムザも妹の額に口づけする。
 年頃の兄妹にありがちなそんな光景を横目に、ラムザの世話女房役をいいつかったディリータも苦笑する。
「前線に駆り出されるわけでもなし、そんなに危ない目には合わないはずだが」
「だといいんだけど。でも、相手はあの骸旅団だしなあ」
「前に奴らに捕まった時は、うまく切り抜けたそうじゃないか」
「あれ、ディリータ、あの事件のこと知ってたの?」
「ザルバッグどのから、しかと聴取済みだ」
「流石だな。父上にも、あえて言わなかったのに」
「父上はむしろそういう話、お聞きになりたかったんじゃないのか」
「…………」
 ラムザの胸に、レッドの最期の姿と、マンダリアの砦跡で手を握り交わした、あのミルウーダという女騎士の顔が思い起こされた。
「彼らがただの盗賊だったら、僕は人質にされていたか、なぶり殺しにされていたさ」
「ねえ、さっきから、何のお話?」
 会話の要領を得ないアルマが、すかさず首をつっこむ。
「いや、なんでもないさ」
 ラムザが、後ろ首を掻きながら答える。
「気になるじゃない」
「帰ったら、話してあげるよ」
 妹の頭に、ポン、と手を置いて、
「ティータ、こいつのこと、よろしく頼むよ」
「はい、ラムザ兄さんも、どうかお気をつけて」
「アルマ、ティータにしっかりと勉強を教えてもらえよ」
「余計なお世話です! まったくもう」
「お目付役がいないと、すぐサボるくせに」
「そんなことないわよ」
「そうかい? じゃあ僕らが帰ってくるまでに、教典の一冊くらいは覚えておけよ」
「わかってます! もう、早く行ったら?」
「はいはい」
 最後までそんなやりとりをしてから、もう一度抱擁を交わし、兄妹たちは、ようやく別れた。
 去っていく二人の背中(せな)へ、いつまでも手を振っているアルマに、ラムザも、その姿が見えなくなるまで、手を振り返していた。ディリータは、あえて振り返るということはせずに、黙々と足を運んでいた。
 それから、集合場所に定められている北天騎士団の兵舎まで、ラムザとディリータは並んで歩いていった。
「あの首飾り、よく似合ってたじゃないか」
「ん? ああ」
「君にしては、なかなかいいセンスだと思うよ」
「そりゃ、どうも」
「ティータ、嬉しそうだったね」
「そうかな?」
「うん、アルマみたいに、やかましくないからね、あの子は。でも、本当に嬉しそうだったよ」
「かわいい妹のためさ」
「言うじゃないか、兄貴」
「まあね」
 やがて二人は、イグーロスの巨大な城門を通り抜け、城の外郭に置かれている北天騎士団の兵舎に到着する。
 青地に白獅子の軍旗のもとに、護送任務を共にしたアカデミーの面々と、彼らからは少し距離を置くようにして、兵舎の壁に寄り掛かっているアルガス・サダルファスの姿があった。
「やあ、遅くなってすまなかった」
 ラムザが、手を挙げて遅刻を詫びる。といっても、出発時間の白羊(アリエス)の刻までは、まだ余裕があるはずだった。
「妹が、なかなか離してくれなくって」
「大丈夫ですよ。われわれも、今しがた揃ったところですから」
 サドランダ地方の荘園領主の息子で、ラムザとディリータとは同期生でもあるラッド・オールビーが答えていう。
「イグーロス出身の者以外は、みんな兵舎泊まりでしたからね。のんびりさせてもらいましたよ」
「急な召集だったから、驚いたんじゃない?」
「いえ、城の警備で退屈していたところですから、みんな張り切ってますよ」
「それは、何よりだ」
 構成員が勢揃いしたところで、北天騎士団の騎兵長、マック・アールマンが、改めて総帥の指令を言い渡す。
「諸君に当たってもらうのは、ドーター地区における諜報任務である。近頃、ドーターのスラム地区およびその周辺区域において、略奪行為を盛んにしている一集団の動向を探り、逐次情報をアラグアイ方面第八遊撃隊を率いるミランダ・フェッケラン隊長に報告してもらう。また、万一目標と遭遇した場合は、これを討伐することを許可する」
 ここへきて初めて実戦を意識したように、一同の面(おもて)が強張る。討伐を許可する──ということは、敵と命のやり取りをすることもあり得るのだ。全員、一通りの訓練を受けてきた者たちではあるが、実際に命をかけるとなると、そこではまた別の覚悟が必要となってくる。
 そんな若者たちの中で、アルガス・サダルファスという男は、堅い表情の内にも、何かギラギラしたものを宿していた。
 彼は、一歩前に進み出ると、マック騎兵長に相対して、
「ドーターでは骸旅団の首領、ウィーグラフ・フォルズの目撃情報があると聞いております。こちらについては、どのように対処すればよろしいでしょうか」
 差し迫ってくるような眼をして、こう進言してくる異国の見習い騎士を、訝しむように見てから、マック騎兵長は全員に向かって言い渡す。
「確定情報ではないが……もし、彼の消息について何らかの手掛かり掴んだ場合は、速やかにフェッケラン隊長に報告するように。しかし、諸君の目標は、あくまでドーターに潜伏している不逞集団である。ウィーグラフは、君たちの手に負えるような相手ではない。くれぐれも深入りはせぬように。……以上だ」
 諜報活動時の組分けなどを決める最終ミーティングを終え、イグーロスの南門に向かう道中、ディリータは、それとなく最後尾に付いていくアルガスに歩調を合わせて、彼の胸中を問うた。
「どういうつもりだ?」
「何が?」
「ウィーグラフのことさ。僕たちのような半人前が関わっていい問題じゃないことは、お前にだって分かっているだろう?」
「ああ」
「もしかして、ウィーグラフの筋から、侯爵どのの情報を得ようとして?」
「それもあるが……」
 アルガスは、半ば睨むようにして、ディリータの目を見る。
「お前は、手柄が欲しいとは思わないのか?」
「手柄?」
「そうだ。お前については、ガリランドのアカデミーの連中から、色々聞いているぞ。……お前、平民出身なんだってな」
「…………」
 ディリータは、感情を表に出さぬように、静かな黒い眼(まなこ)を、アルガスの褐色の瞳に向けていた。
 やがて、ゆっくりと前を向き直ると、
「その通りだ。僕も、妹のティータも、生まれはガリオンヌ領内の貧しい農家だ。ベオルブ家の世話に与れたのは、父のわずかばかりの奉公に、先代のバルバネス公が、ご慈悲をもって報いてくださったおかけだ」
「ベオルブ家の一族だと言ったのは、そういうわけか」
「一族などと、言うつもりはない。どうあがいたって、僕も妹も、所詮は貧民の子。お前の言った通り、下人として仕えさせていただくだけでも、喜ぶべきところだ。それをバルバネス公は、我が子同然に迎え入れてくださった。僕はラムザと机を並べて学び、同じ屋根の下で眠った」
「それで、お前はどうするつもりなんだ?」
「どうするつもり、とは?」
「これから先のことだ。貴族には、平民どもを家畜ほどにも思っていない人間がたくさんいる。ベオルブ家の者がなんと言おうと、多くの人間は、お前とラムザを対等には扱ってくれないだろう。このまま、末っ子でうだつのあがらないラムザの下にくっ付いて生きていくのか、それとも、ラムザを利用して手柄をたて、自らのし上がっていくのか、ということだ」
 歯に衣着せぬアルガスの物言いに、ディリータは閉口した。彼の目は、前を行くラムザの背を追っているようで、遥かその先を見据えているようでもあった。
 黙りこくったまま、いつまでたっても答えないディリータに、アルガスが問い直そうとしたところへ、
「フ、フフ」
 ディリータは唇の端を歪めたかと思うと、
「ハハハハ!」
 突然、大きな声で笑いだした。前を行く者たちが、いったい何事かと振り返り、アルガスもディリータの心境を測りかねて、
「おい、どうしたんだ?」
 と、その正体を疑ったが、ディリータは尚も、くつくつと腹の中で笑っている。
「いや、なに、あんまり面白いことを訊かれたんでな」
「べつに、おかしなことを言ったつもりはないぞ!」
「すまない。自分からのしあがろうなんて、考えもしなかったことだ。……お前は凄いよ」
「おれは、真剣な話をしているんだ」
 アルガスは、神経質な眉尻をいっそうピリピリさせて、プイと、そっぽを向く。
「"家の名"の重みがない者には、分からないだろうな」
「どういうことだ? 今の身分では不満なのか?」
「平民と一緒にするな。おれは、歴史ある家の子だ。サダルファス家も、昔はベオルブ家みたいに、皆から尊敬される家柄だったんだ」
「昔は?」
「そうさ。おれが生まれる前、祖父の代までは、サダルファス家はエルムドア侯爵家随一の旗本として、三千騎を任されていたんだ。家柄の格としては、侯爵家にもけっして引けを取らなかった。──それが、五十年戦争の時、鷗国の術中に嵌った祖父さんは、あろうことか、自分だけ助かるために味方を敵に売ったのさ」
「…………」
 ディリータも、耳に覚えのある話であった。
 五十年近く拮抗してきたゼラモニア※五十年戦争の主戦場。二百年以上にわたり鷗国の属州であったが、統治権を争う内紛に畏国が介入、宗主国たる鷗国と対立したことが五十年戦争(ゼラモニア戦役)の直接の契機となった。同、是領。 における勢力図が、にわかに畏国側不利の形勢に塗り替えられてしまった原因のひとつとして、当時、是領南部に一大勢力を保持していた薔薇騎士団の内部分裂があったとされる。
 薔薇騎士団は、エルムドア侯爵家の私設軍団で、侯爵家の親族のみで固められた精鋭部隊である。その歴々たる名家の中に、サダルファス家も名を連ねていた。
 内部分裂というのは、どうやら、親族同士の内輪揉めに端を発するものであったらしい。それも、単なる見栄の張り合いであったようで、鷗国軍は、これを好機とばかりに餌を撒き、功を焦って突出してきたサダルファス家の軍団を難なく包囲、アルガスの祖父で、当主のアドルノ・サダルファスの身柄を拘束した。
 ここからの話は、揣摩臆測を多分に含んでおり、未だ一致した見解を得られていないのであるが、一説に、アドルノは味方の救援を待たずに敵に恭順の意を告げ、自身の解放を要求したのを、末端の兵士が「サダルファス将軍は己の身かわいさに味方を売った」と曲解し、解放され自陣に帰還したアドルノを狂剣のもとに斃した、というのである。
 事実関係はともかく、多くの者にはおおよそこのように受け取られたとみえ、サダルファス家の名は失墜、所領の大半を没収されたあげく、薔薇騎士団からも除名されてしまう。
 この事件を境に、親族間の不審感が高まり、結果として、薔薇騎士団の結束を弱めてしまったというのが、事のあらましである。
 後年の史家の言説に、サダルファス家と主座を争っていたマーズ家の陰謀であるとするものもあるが、それも定かではない。
「父上の尽力のおかげで、おれもエルムドアさまの近習にお仕えするくらいまでにはなったが……それでも、かつてのサダルファス家の栄光を取り戻すためには、もっと名をあげ、父祖の汚名を濯がねばならない。エルムドアさまをお救いできずに故郷(くに)へ帰るようなことになれば、おれは、また自分だけ生き残ろうとした卑怯者だといわれ、後ろ指をさされることになる」
 腹いせ紛れに、アルガスが、コーンと蹴っ飛ばした石ころが、数人の頭上を飛び越えて、ラムザと並んで先頭を歩いていたラッド・オールビーの後頭部に当たった。
「痛っ!」
 石の当たったところをさすりながら、ラッドが振り返っても、アルガスは悪びれた様子もなく知らぬふりをしている。
「そんな事情があったなんて知らなかったんだ。笑ったりしてすまなかったな」
 ディリータの詫びに、アルガスはむっつりと黙って答えない。
 ディリータは、ひとつ肩を上下させてから、足を速め、先頭のラムザに歩を並べる。すると、さきほどアルガスに石を当てられたラッドが、
「なあ、ディリータくん」
 と、ディリータのもとへ言い寄ってくる。
「なんだい」
「あのよそ者は、なんでまた僕たちに付いてくるんだ?」
「ザルバッグ将軍の命令だ。しかたあるまい」
「だとしても、なんか、感じ悪いんだよなあ」
「そうか?」
「護送任務のときだって、助けてもらったのに、妙に態度が大きかったじゃないか? そのうえ、あっさり人を殺しちゃうし」
「実戦というものを、きちんとわきまえているんだろ」
「にしたって、もう少しうち解けようとはしないもんかな。これから共に戦う仲間なんだしさ」
 そこへ、ラムザが口をはさむ。
「物見遊山に行くわけじゃないんだ。それに彼だって、主君のエルムドア候をお救いしようと必死になっているんだろう。そういう覚悟は、僕たちも見習うべきだ」
 ラムザの口からこう言われてしまうと、ラッドも口を噤まざるをえない。
 ディリータは、その言いぶりにちょっと驚いたような目をして友の横顔を見ながら、
(へえ、こいつも言うようになったな)
 などと、感心していた。
 護送任務の時は、少し頼りなげに見えたその横顔が、ここへきて、急に逞しくなったように思えた。
 幼い時分より、その温厚な性格をよく知るディリータも、友の中で、何かが急激に変化しつつあるのを感じていた。
「……? ディリータ、僕の顔になんかついてる?」
「いや、なんでもないさ」
 ディリータは慌てて目を反らす。
 見上げれば、晴れわたった晩夏の空に、巨大な鷲が悠然と羽を広げている。
(のし上がる、か)
 ディリータ・ハイラルは、空の王の雄姿に、しばし見とれていた。



[17259] 第一章 持たざる者~16.革命の火
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 18:59
 乾ききった砂を敷き詰めた大地が、延々と続く。
 夜天の砂丘は星明かりに照らされて、表は白く、陰は暗い。その暗いほうを縫うようにして、荷を満載した二頭の黄チョコボが、砂塵を撒いてひた走っている。
 騎手は二人。厚手の外套を着こんでいるのは、夏とはいえ夜は冷え込む砂漠を渡るうえでは必須の装備であった。
 しばらくは一定の距離を保っていた二騎であったが、にわかに、後ろに付いていたチョコボが速度をあげて、前をゆくほうに並んだ。その騎手が、フードを少し持ち上げて、もう一騎のほうへぴったりと寄り添う。どうやら、言葉を交わそうとするものらしい。
「旦那、聴こえましてか」
 後ろを走っていたほうが、フードの陰に黄色い目を覗かせて言う。彼は向かい風に、鼠色の長い顎髭を靡かせている。
「チョコボではあるまい。もっと大きい」
 一方の男は、喉を潰したようなだみ声でこう呻く。
「臭いもしますな」
「面倒だな。相当速い」
 そうこうしているうちに、二騎の後方から砂を蹴る爪音と、荒々しい鼻息とが、すでにはっきり聞こえてきている。
 男が、肩越しに後ろを見やる。二騎とは、二十エータと隔てていまい。巨大な魔物の影が、双の白眼をギラつかせて猛然と差を縮めてきている。
 身に迫りくる脅威を目にしても、男は大して驚きもせずに、視線を前に戻す。
「おそらくチョコボを狙っているのだろう。とっ捕まれば我らとて、骨も残されまいが」
「どういたします?」
「おっぱらえ。ギュスタヴに"土産"を持ち帰らねばならん」
「ちと目立ちますがの」
「かまわん」
「そいなら……」
 髭の男は、チョコボの背にくくりつけられている荷の中から拳大の玉を三つほど取り出すと、それにフッと息を吹きかけた。玉はにわかに白煙を上げ出し、香木を焦がしたような匂いが辺りに立ち込める。
 魔物の影は、もうひとっ飛びで爪の届きそうな距離にまで近づいてきていた。彼は、その鼻づらめがけて、手に持った三つの玉を「えいっ」とばかりに投げつけた。
 ──カッ
 まずは閃光がほとばしり、続いて耳をつんざくような爆音が炸裂する。
 突如として発生した巨大な火球は、魔物の耳やら鬣(たてがみ)やらを灼(や)いたが、それよりも魔物を驚かせたのは、音と光であったらしい。
「グォオオオオオン!!!」
 腹の底を震わせるような雄たけびをあげたかと思うと、瞬間的に視力を奪われた魔物は前後の足をもつれさせ、のけざまに一回転してから、あとはがむしゃらに、あさってのほうへ逃げだしていた。
「やりましたぞ! 旦那!」
 白い煙と粉塵を残し、魔物が逃げ去って行ったのを確認すると、髭の男は高らかに喜声をあげた。もう一人の男も満足げに笑みを浮かべている。
「ベヒモスを退がらせるとは……こいつはいい土産になりそうだ」
 ベヒモスは砂漠に棲息する魔物の中でも、ひときわ凶暴なことで知られる。手だれの者でも、十人が束になってかからねば歯が立つまい。
 そのベヒモスをあっけなく撃退した"爆弾"が、チョコボに載せられた荷物いっぱいに詰められているのだった。
 髭の男は、この異端の武器の扱いと製法に長けた異国の妖術師で、老ヤンと名乗っていた。
 骸旅団の参謀ギュスタヴ・マルゲリフの片腕、ゴラグロス・ラヴェインは、イグーロスでの仕事の最中に、遠くロマンダ大陸から海を渡ってきたという、この妖術使いの噂を聞きつけた。そして、城下の商業区で異国の装飾品を商っている老人こそが、その老ヤンであると人づてに知り、自ら行って声をかけたのである。
 ゴラグロスの必死の説得ののち、北天騎士団に売り込むつもりでいたというその爆弾を、骸旅団に提供してもらうこととなった。騎士団はそうした異端の技術を快く思っていないから、売り込みに行ったところで相手にしてもらえないだろう、と諭したのである。老ヤンは、
「それもそうか」
 と、利益よりは、ギュスタヴという男のほうに興味を抱いたらしく、ゴラグロスとともに骸旅団のアジトのひとつ、ここゼクラス砂漠にある"砂ネズミの穴ぐら"を目指して、こうしてやって来たのである。
 目前に"爆弾"の威力を見せ付けられ、ゴラグロスは今、期待に胸を高鳴らせていた。
(これで侯爵の身代金が手に入れば……)
 彼の仕事とは、イグーロス行政府に宛てた身代金要求の最終通告を高札に掲げてくることと、北天騎士団を率いるベオルブ家の館を偵察してくることであった。これらの仕事は、常に一歩先の手を読んでいるギュスタヴの指示に従ったまでのことであるが、"爆弾"の収穫は、自らの手柄として盟友に誇れるものと、彼は考えていた。
 先には、ガリランド都督の誘拐を成しえなかった身でもある。この収穫を、自らの失策の償いとするだけでなく、骸旅団再起の一助にしたいものと、ゴラグロスは望んでいるのであった。
 やがて二騎は、岩場の中へ分け入っていく。
 左右には巨大な岩壁がそそり立ち、その狭間を砂利を含んだ風が唸りをあげて吹き抜けていく。
 迷路のように入り組んだ岩石地帯をしばらく行くと、少し開けた場所に出る。周囲を岩山で囲われた空き地の真ん中に、半ば砂で埋もれた集落がある。
「あれだ」
 ゴラグロスが老ヤンに告げる。
「ほお、こんなところに」
「数ある我らの根城の中でも、かなり大きなものだ」
「でしょうな」
 かつては、このあたりの小部族が暮していたものらしい。集落の中ほどに古い井戸があり、まだ清水が湧いていた。
 周囲の岩山には洞窟が穿たれ、ところどころに木の足場が組まれている。こういった施設は骸旅団があとからつけ足したものであろう。松明の灯火の影に、夜番の見張りの姿がうごめいていた。数こそ多くないが、弓弩を手にした見張りの目に油断はない。
 ゴラグロスが片手をあげると、櫓上に立っていた見張りもそれに応える。集落の門がわずかに開かれ、二騎はその隙間を通り抜けていく。
 ここで二人がチョコボを降りると、廃墟の一つから松明を手にしたモンク風の男が迎え出る。
「ご苦労様で!」
「おう」
 ゴラグロスは外套に付いた砂埃をはたいてから、革袋に残っていた水をいっきに飲み干す。
「どうでしたか」
「うむ、イグーロスの役人どもは今ごろ顔を青くしていることだろう」
「そいつはよかった」
 モンクの男は、ゴラグロスに伴われてきた人物に目をとめ、「そちらは」と問う。
「ん、妖術師老ヤンという者だ」
 ヤンは軽く頷いて、
「よろしく」
 とだけ言った。
「どういった御仁で?」
「妖しの術を心得ている商人だ。なに、おもしろそうなモノを作れるというから、取引に来てもらったまでよ」
「あ、ひょっとすると、先ほど西の方で怪しげな光が見えたと見張りの者が言っていたのは、その方の術だったので?」
「まあ、そんなところだ。で、ギュスタヴは?」
「今、"あのお方"とお話ししとります。自分から報告しときますから、ゴラグロスさんは、ゆっくり休んどいてください。……妖術師さんも」


 ──"あのお方"とは。
 集落の中でも、ひときわ大きい建物──かつては部族の集会所か、礼拝堂であったのだろう──そこは、屈強な戦士たちによって周囲を物々しく警備されている。
 その建物の地下の一室に、"あのお方"──今は囚われの身となったランベリー領主、メスドラーマ・エルムドア侯爵の姿はあった。
 戦時には"銀髪鬼"の異名を馳せていた美丈夫も、長引く幽閉生活のうちに、今は見る影もなくやつれ果てていた。
 手足こそ自由を許されているものの、日も当たらぬ地下の小房は、けっして彼の身分に相応しいものではなかった。
 部屋にあるものといえば、大小の木箱と棚、埃を被った長机に、彼が腰かけているような丸椅子くらいなものである。
 他に都合の良い監禁場所がなかったというのもあるが、盗人同然に牢獄に繋がれるよりは、はるかに紳士的な扱いであると――ふてぶてしくもそう言ってのけたのは、彼の目の前に立っているギュスタヴ・マルゲリフという男であった。
「イグーロスの行政府に最終通告をいたしました」
 無駄な挨拶などはせずに、こういきなり本題から入るのは、ギュスタヴという男の流儀らしい。口調は淡々と事務的で、取りつく島もないが、必要最低限の礼節は欠いていない。
「七日以内に芳しい返答なき場合、お命を頂戴することになる」
「それで?」
 メスドラーマは、未だ冴えを失っていない切れ長の眼をギュスタヴの深い眼窩に向ける。睨みつけたのではない。醒めたような、どこか余裕すら感じさせる眼なのである。
「覚悟しておけ、とでも?」
「…………」
 メスドラーマとて、決してギュスタヴという男を軽んじているのではなかった。
 彼自身に油断はあったにせよ、スウィージの森での襲撃時、ギュスタヴは"銀髪鬼"メスドラーマ・エルムドアをして、かの名刀"正宗"を抜かしめる隙を与えなかった。
 その見事なまでの手際に、メスドラーマは賊の手に絡め捕られるという屈辱を味わいながらも、正直に、
 ──おもしろい
 と思った。彼の治下ランベリー領にまで、「骸旅団」の名は聴こえていた。なるほど、その規模だけでなく、ギュスタヴのような人物を擁しているからして、凡百の盗賊団ではあるまい。
「お心置きを」
 それだけ言って立ち去ろうとするギュスタヴに向けて、
「まあ、待たんか」
 と、メスドラーマは彼の性急をたしなめた。
「何か?」
 ギュスタヴは怪訝な眉をする。メスドラーマは薄ら笑みを浮かべながら、
「ここに連れ込まれてから、ろくに言葉も交わしていないではないか。私とて、このまま黙って貴様らの剣下に首を晒すのも面白くないからな。かかる大事をしでかしたからには、貴様らにも相当の覚悟があることだろう。その心内を聞いてやるから、この際、貴賎の立場なく懐を割って語らおうではないか」
 そういって、机を挟んで彼の正面にある椅子を顎でしゃくるのであった。ギュスタヴは囚人(めしうど)からの意外な提案に去就を決めかねていたが、やがて、固い表情のまま椅子に就いた。
「よろしい」
 メスドラーマの様子を見るに、この期に及んで命乞いをしようというのではないらしかった。彼は宵の酒席にでも臨むかのように、綽々としている。
「我がランベリー自慢の葡萄酒を振舞いたいところだが、あいにくこんな場所なのでな。いささか口寂しいが……君は酒を嗜むかね?」
「多少は。この頃は滅多に口にしていませんが」
「こんな状況ではな。君も一度、本物の味というものを知るといい。物の見方が変わる」
「…………」
「もっとも、今の君たちの手には届かぬであろうが、真の名品は、一国一城にも換えられる値打ちがある。本物とは、そういうものだ」
「いつか拝んでみたいものですな」
「ハハハ、まさか君らとて、美酒美食のために金を得ようというのではあるまい。首尾よく私の身を売ったとして……いったい、いくらになる?」
「我らが要求した額は、総じて五千万ギル」
「ふむ、私の値打ちとはそんなものか。はたして、ガリオンヌのお歴々はその額を受け入れるかな? 鷗国との戦で、どこの台所も大そう厳しいと聞く。むろん、我がランベリーとて例外ではないが」
「おそらく、彼らは要求を呑むものと思われます」
「そう思うか」
「必ず」
「もし呑まなかったら?」
「ですから、先ほど申し上げたとおり、お命を頂戴することになります」
「私を殺したとして、君たちに何の得がある?」
「金は手に入りませんが……あなたは領民からの信望も厚く、もし他領の地で領主が命を奪われるようなことになれば、民の怒りの矛先は当然、そこの為政者に向けられるものと思われます。我らはもとより無法者ですから、この責任は、すなわちガリオンヌの法を司るイグーロス行政府と、治安を司る北天騎士団の負うところとなる。そうなれば、古くからランベリー領主とのよしみ深き南天公も、肩を持つ形で、北天公を大いに煽り立てることでしょう」
「南北両大公が王室の後見人の座を争っていることを、お前は知っているのか?」
「はい。今は互いに、敵味方を見極めているところかと思われます。あなたが前触れもなしにガリランドに向かっていたのも、ラーグ大公との会見の席に招かれていたからでしょう? ラーグ公は来る決戦の時に備えて、今のうちにゴルターナ公寄りのあなたを懐柔しておく腹だったのでしょうが、その目論見は、我らによってあえなく挫かれてしまった」
「いかにも、私はラーグ大公から、個人的な会談を申し込まれてれていた……が、こうなってしまえば、彼らは多少無理をしてでも身代金を用意し、ランベリーに恩を売っておこうとするわけだな」
「ご明察です。エルムドア候がガリオンヌ領内で命を落とすようなことになれば、ランベリー領を敵に回してしまうばかりでなく、南天公に格好の口実を作らせてしまう。南北の対立が表面化すれば、北天騎士団も、骸旅団などに構ってはいられなくなる。二大勢力が睨みあっているうちに、我らはじっくりと戦力を蓄えればよい」
「お前は、全て計算していたと?」
「まさか。あなたは我らの目標リストには入っていなかった。スウィージの森で、よもやこんな大魚をすくい上げようとは思いもしていなかった。我らの計画では、ガリランド都督あたりを拐(かどわ)しておけば、イグーロス行政府もそこそこの額をあっさり支払ってくれるだろうと踏んでいたのです。しかし作戦は失敗、スウィージの森に潜伏していたところへ、なんと一国の領主様が大した護衛も連れずにやってきた。おかげで随分と話がややこしくなってしまったが、結果としては、我らの有利に事が運んだわけです」
「なるほどな」
 メスドラーマは、値踏みするようにギュスタヴの顔を見ていた。
 彼の率いる薔薇騎士団にも兵法に明るい将は数多あるが、机上の兵談は得意でも、実際の戦場ではまるで役に立たぬ者ばかりであった。
 比して、目前の、この狼のような男はどうか。
 目的のためなら手段を選ばぬ。いかな汚い手を用いようとも、もっとも合理的な方法を編み出し、自らそれを実行する。
 一軍の将たるべきは、本来こういう男なのではないか。彼の薔薇騎士団が往年の実力を失くしてしまったのも、将たちが各々自己の体面を引きずってばかりで、将として為すべきことを為さなかったからではないか。あるいは、将自ら手を汚さずとも、こういう役回りの者が傍らにあれば、軍隊はより有効に機能するはずである。
「フフ……」
 省みて、その男に捕えられたのだという事実に思い至り、メスドラーマは自嘲した。
 しかし、こうしてギュスタヴの脳内の版図を垣間見たからには、いま少し、彼の見識を検めてみたくもなった。
「それで、身代金を得たとして、兵を調えて、そのあとは?」
「貴族議会と、あらためて対等な交渉の場を設けます」
「ちがう。もっと先のことだ」
「……は?」
「今の議会などをあてにしていては、何も変わらんぞ。傾いた王政を正し、自ら政(まつりごと)を執るのか、さもなくば、王室を廃し、まったく新しい治世を築くのか」
 臆面もないメスドラーマの物言いに、さすがのギュスタヴも狼狽の色をみせた。
「侯爵どののお言葉とも思えませんな」
「真面目な話をしている。なに、かかる牢屋なれば、憚る耳目もあるまい」
「あいにく、そこまでの先見は持ち合わせておりませぬ」
「何も考えていない、というわけでもなかろう」
「私に、天下を治める器量などはありません。今一人、その資格ありと見込んでいた男がおりましたが……今は袂を分っております。私は舞台を用意するのみ。あとは天命に従い、しかるべき役者が王道を歩むことでしょう」
「分をわきまえているということか」
「そのつもりです」
「ならば訊くが、今その王道を歩む者とは、誰と心得るか」
「私には、なんとも」
「ラーグ北天公か、ゴルターナ南天公か。あるいは、天騎士バルバネスの子ダイスダーグ・ベオルブか、雷神シドルファス・オルランドゥか。それとも、草莽に伏す名もなき英雄か」
「人の身ではないかもしれません」
「ほう、ならば聖アジョラの再来を期するか、はたまた天上のオキューリアに、再び人の世を託すのか」
「侯爵ご自身はどうなのです」
「私か? 私も貴様と同様だ。その器ではない」
「そうですか」
「ハハハ、少し話が過ぎたようだな。もうよい、このあたりで終いとしよう」
「ですな」
 ギュスタヴは、相変わらずその固い表情を崩さずに、席を立った。
「イグーロスからは良い返事を期待しているぞ」
「…………」
 その言葉には応えずに、ギュスタヴは部屋をあとにした。彼が出て行ったあと、すぐに鉄の扉に閂の掛けられる音がした。
 狭い部屋を照らしているのは、机上に置かれた蝋燭の小さな灯だけであった。その薄明かりに、メスドラーマ・エルムドアの青白い面は、幽鬼のように浮かび上がっていた。


 岩場に囲われた砂地に、真新しいチョコボの死骸が置かれている。
 その血の臭いに誘われて、鬣を黒く焦がした一頭のベヒモスが、岩のてっぺんにのっそり姿を現した。
 腹を空かした魔獣は、涎を垂らしながらゆっくりと獲物に近付いていく。未知なる兵器の威力がよほどこたえたものか、用心深く周囲を窺いながら、ようやく、獲物に到達する。
 ──と、反対側の岩山の影で、何かがうごめく気配がして、同時に、香木を焦がしたような臭いが、辺りに立ち込める。
 もともと知能の高いベヒモスは、その臭いだけで、瞬時にあの爆弾のことに思い至ったらしい。獲物を口にくわえて、すばやく身を翻そうとしたところへ、轟音とともに、大地がめくれ上がった。
 ──ゴオオオォォォン!!
 砂と火と煙が入り混じり、間もなく、空き地はもとの静寂をとりもどす。
 そこらに、大小の赤黒い肉の塊が転がっていた。巨大な猛獣の姿は跡型もなく、煙ったい空間に、肉の焦げる臭いと、火薬の臭いが充満している。
 やがて、岩場の隙間から、松明を手にした人影がいくつか這い出てきた。
「すばらしい破壊力だ!」
 爆弾が炸裂したあとの光景を目の当たりにしながら、こう感嘆の声をあげたのは、ギュスタヴであった。彼の両隣りにあるのは、ゴラグロスと、妖術師老ヤンである。他の者は、音と光のすさまじさに腰を抜かしていた。
「これさえあれば、城攻めをするのに、もはやバリスタや投石機などは用を為さなくなるというわけだな」
 ゴラグロスも唸る。砂ネズミの穴ぐらへ向かう途中、彼が目にした、たった二、三個の爆弾の威力でも大したものであったが、それを今度は木樽いっぱいに詰め、地面に埋めておいたのである。あとは、導火縄に火打ちで点火すればよかった。
「どうやって作る?」
 ギュスタヴが、傍らの老ヤンに訊く。老ヤンは応えて、
「材料だけならば、ボムの欠片と、黒灰石、それに硫黄があればよろしい。そこから火薬をうまく精製するには、ちょっとした秘術が要りまするが」
「ボムの欠片はともかく、黒灰石と硫黄の多く採れる場所は知っている。ガリオンヌの北方に、ジークデンという山がある。そこに、たしかうち捨てられた古い砦があったから、そこに人を遣ってさっそく作らせよう。ヤンどの、協力してくれるか?」
「もちろんですとも。資金とお時間さえいただければ、より強力な爆弾を作れるやもしれませぬ」
「金なら心配ない。時間はたっぷりとあるから、明日にでもジークデンに向かってくれないか」
「承知いたしました」
 ベヒモスの肉は、その日の夕餉となった。固くて臭みのある肉だが、今の彼らにしてみれば馳走にはちがいない。
 久々の夜宴を横目に見ながら、ギュスタヴは爆弾を手に弄んでいた。兵法家として、新たな材料を手に入れた男の脳内には、これを有効に用いるための戦術が、盛んに思い描かれているようであった。
 ゴラグロスも、盟友のそんな様子を見るにつけ、髭面に満足げな笑みを浮かべていた。
 翌早朝、老ヤンは数名の供を連れて、砂ネズミの穴ぐらを発った。
 それを見送りながら、ギュスタヴは独り物思いにふけっていた。
 ──我は舞台を用意するのみ。
 そう己の天分をわきまえながらも、彼の心に点いた革命の火は、容易に消えそうもなかった。



[17259] 第一章 持たざる者~17.白雪・上
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 19:00
 イグーロスを発ってから五日あまり、ラムザ一行はスウィージの深い森に入っていた。
 スウィージの森は、ガリオンヌ領南部を東西に走るサドランダ街道の途中、魔法都市ガリランドからみれば東方に広がる大森林地帯である。
 整備された街道を通っていけば、貿易都市ドーターの港口までは一日とかからない距離。が、この度は少しばかり事情がちがっていた。
 街道が、森林を東西に分かつコロヌル川の渡しにぶち当たったところ。そこには本来、頑丈な石橋が架かっているはずであった。その石橋が、今は橋脚の石材だけを川面にのぞかせて、無惨に破壊されているのであった。
「修理中」
 の立看板がみえるが、工事が行われている様子もない。
「どうしてこうなった?」
 ラムザが、立看板の隣で暇をもて余している衛士に事情を聞けば、いわく、
「一月前のことさ。ガリランドで襲撃事件があったろう? ここを通るキャラバン隊を足止めするために、骸旅団の工作員が橋をぶち壊したのさ」
 思えば、ガリランド襲撃の際。北天騎士団の治安維持部隊を陽動するために、ギュスタヴ・マルゲリフ一派の工作員が、ここで破壊活動を行っていたのである。
 それなりの規模の橋であったが、風水士の術をもってすれば、頑強な石材もたちまち風化させることができる。
 このために、街道を利用するキャラバン隊や旅人は、川に沿って大きく北へ迂回するを余儀なくされていた。
「それにしても、まったく普請が進んでいないように見えるが?」
 ディリータが、わずかに残った橋端部を見ながら言った。一月もあれば、仮の吊り橋くらいは架けられそうなものである。それが、工事の跡はおろか、作業に当たる人夫の姿もみえない。
「命令が下っていない」
 と、衛士は説明する。
「普請を始めるには許可が要る。この橋の管轄はガリランドの都督府だが、普請の命令どころか、修繕の必要なしとのご沙汰だ。……なあ?」
 と、もう一人の仲間の方へ振り返る。こちらは、切り株に腰掛けて、ひとつ大あくびを呑んだところであった。
「ああ。俺たちはこの近くのコロヌルって村の自警団の者だが、北天騎士団から、ここで旅人の案内役をするよう仰せつかっているのさ。川を渡るんだったら、少し街道を戻った所にある枝道から北へ十クェータあまり行くと、やがて小さい吊り橋に出るから、そこを渡ってくれ。あと、魔物が出るから気をつけな」
 そう言いながら、彼らが率先して道案内をする様子はない。二人の衛士の役割は、あくまで通行人に迂回路を教えるだけのことらしい。
 ラムザは、ディリータに目配せして、肩をすくめた。
 速い流れを泳いで渡るわけにもいかず、言われたとおり、一行は川岸から街道をニクェータほど戻った。そこから、整備された街道からすると、ほとんど獣道のような枝道に入った。
「どういうわけだ」
 道を遮る柴草を剣で打ち払いながら、アルガスが愚痴をいう。
「侯爵どのにお供してガリランドへ向かっていた時も、あの橋で足止めを食らったんだ。あれからだいぶ経つのに、まだ修理していないなんて」
 ランベリー領主メスドラーマ・エルムドア侯爵を乗せた馬車が骸旅団の兇徒に襲われ、侯爵自身、誘拐の憂き目に遭ったのは、まさにこの森の中でのことであった。
 その忌まわしい事件の当事者であるアルガスにとって、このスウィージの森は嫌な思い出の場所にはちがいなかった。
「それで周り道を強いられて……街道をそのまま行っていたら、賊に襲われることもなかったはずだ」
 こういう時には、どうしようもない運命すら呪ってしまうのが、人間の性というものらしい。アルガスは、腹の底に溜まった鬱憤を吐き散らすように、通行の邪魔になっていない枝木までも、片っ端からぶった切っていた。
「おい、刃を痛めるぞ」
 ディリータにそう言われてから、アルガスはやり場のない憤りを噛みしめるようにして、やっと剣を収めた。ディリータは、やれやれといった具合に、肩を落とす。
 この日も、アルガスとディリータは隊の殿(しんがり)を歩いていた。二人がこの位置を任されたというよりは、ガリランドの士官学校仲間と微妙に距離を置くようにして歩いているアルガスが、隊から孤立してしまわぬよう、自然とディリータが付き添っている格好なのである。さらには、功を焦って、アルガスが先走った行動をとらぬとも限らないので、目を付けておこうというディリータの心づもりもあった。
 それからしばらくの間、二人は黙って歩いていたが、やがてディリータが口を開いた。
「おそらく橋を架け直さないのは、交通をなるべく不便にして、骸旅団の残党が領外に逃げにくくするためだろう」
 アルガスはその推論を鼻で笑って、
「単に普請の金がないだけじゃないのか?」
 にべもない物言いに、ディリータは眉を吊り上げた。
「まあ、それもあるかもな」
「だいたい、ちゃんとした道があったって、蛇の道を行くような連中だろう」
「まったくだ」
「が、どこへ逃げようと関係ない。一人残らず炙り出して、主君を辱めた罰を与えるだけだ」
 そういって、アルガスは強く剣の柄を握りしめている。その所作を見ながら、
 ──面白い奴。
 と、ディリータは思うのだった。
 功だの何だのと言っておきながら、アルガスという男は、結局のところ純粋に、主君への忠誠心で動いているように見えた。少々感情的になりすぎるきらいはあるものの、それも、強い忠誠心の裏返しと見えなくもない。
(僕は、どうだろうか)
 省みて、ディリータは自身の胸に問う。
 己の主君とすべき人間は誰か。我が命を賭してまで、守るべき主君とは。
 それは、ラムザ・ベオルブにはちがいなかった。二人は義によって結ばれた兄弟であるが、同時に主従でもあった。
「あれの傍(そば)にあって、支えてやってくれ」
 亡きバルバネスにも、託された役目である。その役目を今日まで、忠実に果たしてきたという自負が、ディリータにはあった。ラムザが窮地に陥った際は、それこそアルガスのように、なりふり構わぬであろう自分の姿を容易に想像することができた。
 一方で、ディリータ・ハイラルという人間には、もうひとつ大切なものがあった。
 他でもない、それは妹のティータであった。
 ラムザとは、義で繋がってはいても、血の繋がりはない。この世で、血を分けた肉親は、ティータを措いて他にないのだ。血の繋がりというものは、人間としての役割以上に、特別なものである。早くに親を亡くしたディリータには、なおのことその思いが強い。
 その意思を胸に確かめたところで、彼は懐のうちに、また、物質的な重みを感じてもいた。
(ティータ……)
 それは五日前、イグーロスを発つ日の朝。
 騎士としての初陣に臨む兄の袂に、ティータは、使い込まれて表面のてかった、牛革の鞘に収められた一振の短剣を寄せていたのである。
「これは……!」
 長さにして握りこぶし三つ分ほどの刀身を両の掌に載せて、ディリータは、驚きと、さらに幾ばくかの懐かしさを込めた目で、この古い短剣を見つめていた。
「そう。私たちの、お父さんのものよ」
 私たちの、お父さん――
 ハイラル兄妹が父と仰ぐ人間は、二人ある。
 一人は、身寄りのない幼い兄妹を引き取り、実の子らのように育ててくれた、今は亡き養父バルバネス・ベオルブ。
 いま一人は、言わずもがな、先の大戦時、平民の義勇兵として骸騎士団に参加し、バルバネスの旗下にその命を散らした実父オルネス・ハイラル。
 そしてこの短剣は、実父オルネスのものであった。
 ティータが、「私たちの」といったのは、まさにその通りの意味であった。オルネスは、ハイラル兄妹だけの父親であり、ラムザや、アルマの父親ではない。
 ティータに託された短剣は、ガリオンヌ北部の片田舎にある牛小屋よりも小さな生家とともに、父オルネスが我が子らに遺した物であった。
 この短剣の存在だけは、ラムザもアルマも知らぬはず。ティータとディリータとのあいだに、密かに共有されていたものである。
 べつに隠していた、というわけではない。ディリータは父の残した、この唯一の面影をなかなかに使い難く、なるべく人の目に触れぬよう、長い間仕舞っておいたに過ぎない。最近では思い出すことも少なくなっていたが、久々にこれを手にとってみると、さまざまな思い出やら感慨やらが、彼の中に湧きあがってくるのであった。
 ティータはまだほんの赤子であったから、実父の顔や人となりなどは、ほとんど記憶にあるまい。かくいうディリータも、それほど数多くの思い出があるわけでもなかった。
 ただ、おぼろげながらも、その大きな背中(せな)と、朴訥とした人柄は、父オルネスを形作る像(イメージ)として、今でも、たしかにディリータの脳内に張り付いている。
 もう一人の父であるバルバネス・ベオルブの、超人的な武勇と、圧倒的なまでの存在感などとは比ぶべくもないが、一人の人間としては、オルネスは、はるかに自分に近い存在であると、ディリータには思えるのだった。
「見習いではなくて、騎士としての、初めてのお仕事でしょう?」
 ティータは言った。騎士として、などというのはあくまで名目上のことにすぎないのだが、それでも、愛する 妹の口から"騎士"と言われては、兄たる身として悪い気は起こらない。
「だから、お父さんに、護ってもらって」
 ディリータは迷わず、父の形見を帯びてゆくことにした。
「必ず、帰ってくるよ」
 ディリータは妹の肩を抱き寄せて、そう誓ったのだった。
 初陣といっても、偵察任務や後方支援が主であるから、はたから見れば大げさな選別に見えるかもしれない。それでも、まだ若いディリータにとっては、一代の大仕事には違いなかった。また、
(あわよくば……)
 とも、今のディリータは思っていた。
 ──手柄が欲しいとは思わないのか?
 アルガスの言葉に、触発されたところも少なからずある。たとえそれが、ディリータ自身のものとならずも、ラムザの名を上げるような勲功を立てることができれば、それは大いに後生の頼みとなることだろう。
 立身出世などという考えは、まだ頭にないディリータではあるが、
 ──僕はどこまでやれるのか?
 自身の可能性を、この機に試してみたいという気持ちも、あるにはある。
 そんな思考に耽っているところへ、
「もし、仮にだぞ」
 アルガスが、急に真剣な顔をして言う。
「何がだ?」
 またこいつは、何を言い出すのかという期待半分に、ディリータは訊き返した。
「もし仮に、ウィーグラフの消息を掴んだら、どうすべきだと思う?」
「どうすべきって……」
 なるほど、やはりアルガスという男は、偵察や後方支援だけで、安易に今回の任務を終えてしまうつもりはないらしい。
 ディリータは、まさに自分と同じようなことを考えていたアルガスに親近感のようなものを覚えつつ、また同時に、つまらない冗談を言われたみたいに口元を歪めながら、
「とっつかまえて、主君を辱めた罰を与えるんじゃないのか?」
 と、ついさっきアルガス自身が言った詞をそのまま借りて、皮肉めいた物言いを返した。
「真面目な話だ」
 アルガスは、あからさまに気を悪くしたような眉を寄せた。
「そんな簡単に扱える相手ではないだろう」
「なんだ、分かっているじゃないか」
「しかし、報告するというだけではな……」
「下手に探りを入れたりして、警戒されたらどうするんだ。それどころか、反撃されて皆殺しにされるかもな」
「そんなに強いのか? ウィーグラフという男は」
「とるに足らない人物なら、聖騎士ザルバッグ・ベオルブが北天騎士団を総動員したりはしないさ」
「う、うむ」
「だいたい、お前は知っているのか? ウィーグラフの人相を」
「知るわけがないだろう。ラムザか、お前は、どうなんだ」
「僕は……」
 当然、「知らぬ」と言うべきところを、何かつっかかりを覚えて、ディリータはその言葉を呑みこんだ。
(……?)
 ──実に、奇妙な感覚であった。
 知るはずのないものを、知っているという感覚。骸旅団の首領ウィーグラフ・フォルズと、その悪名は天下に轟いているといえど、一見習い騎士にすぎぬ自分やラムザなどに、そんな大物との接点があろうはずもない。
「どうなんだ?」
 ディリータがはっきり言わないので、アルガスが問い直すと、
「いや、知らん。たぶんラムザも」
 と、ディリータは一応答えた。が、彼の心に引っかかった何かは、容易に取れなかった。
「なんだ、誰も知らないんじゃねえか」
 アルガスは、さもつまらんとばかりに粗野な言葉を吐いた。ディリータは上の空で、この奇妙な感覚の正体を突きとめようとしていた。
(どこかで人相書を見たのか……?)
 ──いや、違う。
 自分はたしかに、ウィーグラフに会っている。まさか、夢に見たというわけでもあるまい。それは砂粒のような記憶にすぎないが、おそらく、幼い頃の記憶だろう。
(いつ? どこで?)
 ウィーグラフという男の、目と、眉を見、そして彼は自ら名乗った。が、その時と場所とを、ディリータはどうしても具体的に思い出すことができなかった。では、顔だけは鮮明に覚えているのかといわれると、そうではなかった。おそらく、実物と突き合わせれば、そうと判るかもしれない、という程度の記憶である。
(なぜだ? どうして思い出せない?)
 ひとつ、思い当たることがある。
 彼の記憶に靄をかけているのは、ウィーグラフに会ったその時、どうも彼は、全く別な事象に気を取られていたらしいということである。
 ウィーグラフという男の素性などは、その事象の前では些細な情報にすぎなかった。それは、何だ。
 無心に、胸元に手を宛がったところで、
 ──あ、
 ディリータは一条の光を見た気がした。宛がわれたその手は、皮の胸当ての向こう側に、父の形見の短剣を感じ取っていた。
 確信が、はっきりとした形となる前に、騒々しい物音が彼の思考を遮った。
「なんだ!?」
 それは何か、鳥獣の喚き声のように聴こえた。一同は、その場に踏み留まり、周囲に警戒を走らせた。先頭のラムザがすかさず手を挙げると、事前に示し合わせたとおりに、全員がそれぞれの得物を手にした。
 物音は前方からする。思えば先刻、壊れた橋を守っていた衛士から、「魔物がでるから気をつけな」などという、甚だ無責任な忠告を頂いていたのではあった。
 ラムザが前方を指差すと、一行はやや腰を下げるようにして、ゆっくりと前進を開始する。
 街道の枝道のはずが、すでに道らしい道は姿を消していた。きちんと舗装されていないのはもちろんのこと、背の高い柴草やら木の枝やらが行く手を阻み、人が踏みならした跡らしい、かろうじて道と判る地べたも、太い木の根っこがあちこち顔を出しており、足元に注意を向けていないと、うっかり躓いてしまいそうなものである。
 道はやがて、木立のまばらな原っぱに入っていく。その少し手前で、ラムザは茂みの陰に身を屈めて、原っぱの様子を窺っている。他の者たちもラムザに倣い、野草の合間から目を覗かせる。
 彼らのすぐ目の前を、大きな生き物の影が横切っていった。巨大な趾(あしゆび)を持ち、白っぽい羽毛に覆われた姿をみれば、すぐにチョコボとわかる。独特の甲高い鳴声をさかんに発していたのは、どうもこのチョコボらしかった。
 チョコボがこういう声を発するのは、身の危険を感じ取った時である。すなわち、周囲の木立から、この白羽チョコボを追ってきたものらしい数匹の小鬼(ゴブリン)どもが、次々と姿を現した。
 体長にして、人間の子どもくらいしかない小鬼どもは、それぞれが、小弓だの槍だの石斧だの、一丁前に武装している。群れのリーダーらしき者は、どこで拾ってきたものか、身の丈に合わぬ人間用の胸当てなど付けて、腰には小ぶりな角笛を提げ、額には、動物の頭蓋骨のようなものを被っている。
 小鬼の頭領は、言語と聴こえなくもない喚き声を発して、子分に指示を出しているらしく、子分どもは、それなりに統制の取れた動きをみせて、あっという間に白羽を囲んでしまった。
 そこへ、ディリータがラムザの隣に寄ってきて、
「どうやら小鬼の縄張りに踏み込んでしまったらしいな」
「そのようだ。それに、あのチョコボ……」
「うむ、野生ではなさそうだな」
 見れば、小鬼に囲まれている白羽チョコボの背には、なかなか立派なものと見える鞍が置かれている。人間の足代わりとして、すっかり定着しているチョコボとはいえ、野生のものまで背に鞍を置いているなどという道理はない。おそらくは、ごく最近まで誰かに飼われていたのが、主人の手を離れ、森に迷いこんでしまったものらしい。
「どうする? ラムザ」
「助けよう」
「助けてどうするんだ」
「荷物運びにでも、なってもらうさ」
 友の横顔を見るに、反論を挟む余地はなさそうだ。ラムザはすでに、弓使いのイザーク、カマール、イアンに指示を出している。
「あっ、あのチョコボ!」
 と、アルガスが、ラムザとディリータの肩越しに顔を突き出した。
「どうした? アルガス」
 ラムザが訊くと、
「まちがいない。あの白羽、侯爵さまの、"白雪"だ!」



[17259] 第一章 持たざる者~18.白雪・下
Name: 湿婆◆3752c452 ID:470354c8
Date: 2012/09/07 19:00
 アルガスいわく、"白雪"は、五十年戦争をエルムドア侯爵とともに戦い抜き、以来、どこへ行くにも連れて行かれるほど、寵愛されていたチョコボであった。一月前のガリランド訪問の際もお供に加えられ、スウィージの森で襲撃を受けた時に、はぐれたのだという。
「それから一月もの間、森の中で生き抜いていたというわけか」
 ディリータが、感心したようにいった。
「傷を付けてくれるなよ」
 アルガスが、ラムザに向かって言う。
「承知した」
 ラムザは、頼もしげな笑みを浮かべて、弓使いの三人に目で合図を送った。
 ──ヒュンッ!
 と、風を切る音がして、狙い澄まされた三本の矢は、一度に三匹の小鬼(ゴブリン)を仕留めた。
「よし、行けっ!」
 掛け声とともに、剣を抜いたラムザたち白兵部隊が飛び出していく。奇襲をうけて怯みをみせている小鬼どもに反撃の隙を与えず、見習い剣士たちは、鮮やかに小鬼の首や胴を払っていく。
 白雪は、瞬時にラムザたちを味方と判断してか、すぐさま攻勢に転じ、
「クエッ!」
 と一声、反撃の蹴りを小鬼の頭領に見舞っていた。一倍体の大きな頭領も、これにはたまらず吹き飛ばされ、地面の上を毬のように一つ二つ跳ね転ぶはめになった。
「さすがは、侯爵さまの愛鳥だ」
 アルガスが白雪のほうへ駆け寄っていき、怪我がないか確かめる。純白の羽毛のあちこちに枝葉がくっ付いていたり、土埃で汚れていたりはするが、目立った傷はなさそうだ。
 白雪に蹴り飛ばされた小鬼の頭領は、ガバと起き上がると、猪(い)のように上を向いた鼻を荒げて、腰に提げた角笛を口元へもっていった。
 ──ブォォォォォォン……
 角笛の音は、長く尾を曳いて、森に木霊す。
「なんだ!?」
 他の小鬼との闘いに気を取られていたラムザたちは、不意に鳴った音の出処へ注目した。
「仲間を呼んだのか!」
 咄嗟に、イザークが放った一矢が喉元を射抜き、小鬼の頭領は角笛を咥えたまま倒れて、動かなくなった。
「こいつは面倒なことになったぞ」
 目の前の小鬼を勢いよくなぎ倒してから、ディリータが言った。間もなく、周囲の森の中からただならぬ物音が聴こえてくる。
「多いな」
 隊の中でも一番耳のよいカマールが言う。
「どうするんだ、隊長!」
 白雪にくっ付いているアルガスが、ラムザに判断を仰ぐ。
 ラムザは、周囲に意識を集中させていた。
「たぶん、もう囲まれている」
 彼がそう言ったのとほぼ同時に、木立の一角から、先ほど倒された小鬼の頭領と似たような格好をした、やや身体の大きい小鬼が現れた。右手に石斧、左手に大きな岩石のようなものを引きずっている。続けざまに、ざっと見ただけでも三十匹はあろうかという数の小鬼が、あちこちから、わらわらと湧いて出てきた。中には、飼い慣らされたクァールの姿なども見える。
 小鬼どもは、口々に何か罵りながら、手に手に持った得物を打ち鳴らしている。そうすることで、仲間を害した敵に対して、彼らなりの義憤を表しているのらしい。
(どうしたものか……)
 ラムザは、冷静に状況を見極めようとした。かくなる上は一点突破を図るしかないが、そのためにはまず、最適な箇所を突き崩すきっかけが必要であった。
 そして、ふと目を遣った先に、アルガスと白雪の姿があった。
 ──よし、と心に決めてから、
「アルガス!」
 ラムザは大声で呼ばわった。
 アルガスは、隊長からの意外な指名に驚いて、
「な、なんだ?」
「一点突破を図る。先鋒を頼む!」
「俺が!?」
「そうだ! 白雪に乗って、行けっ!」
「しかし……」
「ぐずぐずするなっ! 行けっ!」
 普段のラムザとも思えぬ気迫でこう言われると、
「わ、わかったよ」
 さすがのアルガスも、素直にならざるを得ない。主の愛鳥に傷をつけることに懼れもあったのだろう。
 とはいえ、ひらりと白雪に跨れば、彼も騎上の勇士であった。
「皆っ! 俺に続けっ!」
 気合い十分に、白刃を煌めかせて、一番手薄そうな処へ突っ込んでいく。小鬼どもは、あわててそちらに手を廻すも、"白雪"の猛進撃を前に、あっけなく蹴散らされていく。
 そこへ出来た綻びに向かって、ラムザたちも、突破を試みる。行く手に塞がる小鬼の身体を剣で薙ぎ払いながら、必死に駆けていけば、思いの他あっさりと、全員が囲いを抜けることができた。
 人間が相手ならば、こう簡単にはゆくまいが、兎も角も、若い戦士たちは木々の間を走り続けた。当然、小鬼どもは後から追っかけてくる。小鬼の短弓から放たれた小さい矢がときたま傍をかすめていくが、ろくに狙いを定めていないので、当たる様子もない。
 すると、逃走する一行の頭上を、何かが、ポーンと飛び越えていき、先頭を走るアルガスの前に、それは、ボトッと落ちた。アルガスはかわし損ねて、咄嗟に手綱を引き、白雪を急停止させた。後から付いてきた者たちは、アルガスが立ち止まっているのを見て、何事かと、その場に足を留めた。
 それは、小鬼の頭領が引きずっていた岩石のようなものだった。最初は黒い炭の塊のように見えたそれは、ボンっと爆ぜるようにひとつ黒煙を上げると、にわかに燃え盛る炎を纏ったのだ。そのまま、ふわりと宙に浮かびあがると、真っ赤な炎の面に、それと見て目や口と分かる破(わ)れ目が生じて、その隙間から、黒い炭の部分を覗かせるのだった。
「ボムか」
 ディリータが、目の前に立ちふさがった異形の魔物を見て、その名を口走った。ボムは、古い世紀に人の手によって作り出された、生物兵器だという。それが、今や自律する魔物となって、方々で爆発による被害を出していた。
「下手に刺激するな!」
 ラムザが注意を喚起しつつ様子を窺っていると、ボムは一段と炎の衣を燃え上がらせて、火の粉を撒き散らしながら、猛然と体当たりを仕掛けてきた。
「あぶないっ!」
 見習い騎士たちは、すんでのところでそれを回避する。と、同時に、木の幹に体を思いきりぶつけた反動で、ボムが地面を転がっている隙をみて、
「今だ!」
 とばかりに、再び駆けだした。間もなく態勢を立て直したボムも、再び宙に浮きあがり、追跡を開始する。
「もう少しで吊り橋に出るはずだ。そこまでがんばれ!」
 ラムザがそう言って、皆を励ます。すぐ後ろには、地形の起伏に影響を受けない追跡者が、ぴったりとつけている。どのみち、この厄介な追手を上手く巻く方法を考えねばならなかった。至近距離で自爆でもされたら、ひとたまりもない。
 やっと、前方に吊り橋が見えてくる。高さ十エータはあろうかという渓谷の上に、それは架けられていた。木製で、全長は五十エータほど。幅は、大人二人が並んで歩けるくらいにはあった。
 まずは白雪に乗ったアルガスが、吊り橋を渡りきる。アルガスと白雪が渡る間じゅう、木の吊り橋はいやな軋みを立てていたが、今にも落ちてしまうという気配はなかった。
 続いて、ラムザたちが吊り橋を渡り始める。
 なおも、ボムはしつこく着いてくる。そのまた後ろには、小鬼の軍団が、まだ追いかけてきているはずだった。
 ラムザは、橋を落としてしまおうかとも考えたが、それでは小鬼どもを巻くことはできても、謎の浮力で、宙に漂っているボムを出し抜くことはできない。
(さて、どうするか……)
 と、思案しているところへ、見習い騎士の一人で、フィリップという者が、自分に任せてほしいと言ってきた。フィリップは、黒魔法の心得のある戦士であった。
「黒魔法でうまくやれそうなのか?」
「はい、ポポと協力して、なんとかしてみます」
 ポポというのは、こちらは体術の秘伝を代々受け継いでいる名家の跡取りで、武器に頼らない武術を身につけている者である。
 ラムザはフィリップの申し出を頼りとして、この場を二人に任せることにした。
 橋を渡り終えると、ディリータが、
「どうするつもりだ」
 と訊いてきたが、ラムザは、
「フィリップとポポに任せる」
 とだけ言って、足を止めようとはしない。ディリータが走りながら背後を見やると、その二人が、橋を渡りきったところで、ボムを待ち構えていた。
「二人だけで大丈夫なのか?」
「ああ、僕は信じているよ」
 万が一、二人がボムの排除に失敗した時のことを考え、ラムザたちはできるだけ距離を稼いでおく必要があった。フィリップとポポの足止めが上手くいっているのか、今のところボムが追ってくる様子はない。
 さて、殿(しんがり)を任された二人は──
 まずフィリップが前に一歩進み出、黒松の杖を構える。
「ポポ、いいね」
「おう」
 あらかじめ手筈は整っているらしく、短いやりとりのあと、フィリップは魔法の詠唱を始める。ポポはその後ろで、精神を集中させる。
「岩砕き、骸崩す……」
 ボムは、すでに橋の中ほどに迫っている。さっきよりも、一回り体の大きくなっているように見えるのは、気のせいではない。ボム類の一貫した特性として、ある程度の大きさに達すると、周囲のものを巻き込んで大爆発を起こす。それを知らぬフィリップでもあるまいが、詠唱の詞を聞けば、明らかに炎(ファイア)系のものである。氷(ブリザド)や水(ウォータ)系ならば、ボムの纏う炎を弱める効果も期待できようが、炎をもってこれに当たれば、結果は推して知るべしである。この至近で自爆されたら、二人とも爆発から逃れることはできない。
 彼岸には小鬼の軍団が続々と集まってきていて、我先に吊り橋を渡ろうと押し合い圧し合いしている。途中で群れに加わったものもあるらしく、黒い集団はさらに膨れあがっていた。
 ボムは二人の目前で、体当たりを仕掛けようとするものか、ボンボンと弾みをつけている。
 ――そして、
 グワッと跳びかかってきたところへ、
「赤き炎となれ! ファイア!」
 フィリップの突き出した杖先から、紅蓮の炎がほとばしる。
 もとより炎の弾丸と化しているボムに対しては、薪(たきぎ)に松明を放るがごとく。全く効き目がないどころか、いよいよ炎の衣は厚みを増し、口と見える破れ目が無益な抵抗を嘲笑うかのように両側へ引き裂ける。
(きた……!)
 フィリップは、ギリギリのタイミングで脇へさっと避けた。思ったとおり、ボムは膨張の臨界点に達しても直ぐには爆発せず、数秒間は点滅を繰り返している。
 彼の背後に控えていたポポは、この時を待っていたとばかりに、重心を下半身に沈め、両脇を閉めて、深く息を吸い込み、
 ――破ッ!!
 気合いとともに、渾身の横上段蹴りをボムの黒い破れ目部分に叩き込んだ。
 慣性と抗力との、刹那のせめぎ合いは、やがて大きな反発力となって、明滅するボムの体を中空高く吹き飛ばした。
 それが弧を描きながら、彼岸から此岸へ、渓谷の上空を越えてくるさまを、小鬼どもは呆然と見上げていた。そして、彼らが凄惨な結末を予感した時には、すでにボムの体は集団のど真ん中に着弾し、最期の閃光を発しいていた。


 地を震わすような轟音が背後にしたところで、ラムザたちは同時に走ってきた方角を振り返った。
「しくじったか?」
 ディリータが食いしばった歯の間からこう漏らすと、ラムザは息を切らしながら、
「いや……」
 今しがた上がり出した黒煙を見つめる目は、二人の無事を確信しているようだった。
 しばらくすると、ガサガサと草むらを掻き分ける音がして、そこから、フィリップとポポの顔が覗いた。
「やってくれたか!」
 ラムザが真っ先に駆け寄り、アカデミーの級友たちは、喚声をあげて殿の二人を迎えた。
「ポポが決めてくれました。もう追ってくることはないはずです」
 フィリップがそう言うと、
「なんの、フィリップくんの知識のおかげです」
 ポポはあくまで譲って、フィリップの機転を褒めた。
 魔獣学に精通しているフィリップは、知っていたのである。旧世紀において、ボムが兵器として活用されていた時代は、わざとこれを火中に投じて、点滅し始めたところを敵陣に投擲するという戦法が、しばしば採られていたということを。そして、ボム類の、この兵器としての特質が、ほとんどが野生化した今でも個体に残されているということを。
 さらには、ボムの自爆攻撃がある程度は時限式であり、点滅を開始してから爆発するまでのおおよその時間までも、彼は心得ていた。
 殿二人の英雄的なまでの扱いを遠目に見て、白雪から降りたアルガスは、不満げに眉をしかめていた。
(どいつもこいつも……血路を開いたのは、この俺じゃないか)
 それが、ラムザに指示されての行動であったことや、彼自身というよりは、名鳥白雪の武威に頼るところ大であったことなどは、棚に上げているらしく。
 遡れば、ことの発端であったはずの白雪はというと、彼女は我関せずとでもいうふうに、薄桃色の嘴を地面に突っ込んで、蚯蚓(みみず)を引っ張り出すのに余念がない。
「もとはといえば」
 いつの間にやら、ディリータが白雪の横に立っており、その白く柔らかい羽毛を撫でつけている。
「こいつを助けようって、ラムザが言いだしたんだけどな」
「ああ、おかげで、危ない目にあった」
 アルガスは腕組みして、そばの木の幹に寄りかかる。ディリータは小首を傾げて、
「侯爵さまの愛鳥を助けなくてもよかったのか?」
「いや、それは……」
「侯爵さまをお救いするんだろう? 幸先いいじゃないか」
「なんとでも言えるさ」
 そうは言ってみても、白雪がたくましくも生き延びていたという事実は、この上ない吉兆であると──そう思えなくもないアルガスであった。
 ただその心情を、人前で──なんとなく、鼻もちならない存在であるディリータの前ではなおのこと──素直に表出できないのが、アルガスという人間の性質であった。
 ドーターへの行程は、皮肉にもこの逃走劇のおかげで、一段と早まる結果となった。当初は森の中で一夜を明かす予定であったが、完全に危険が去ったわけでもなし、足を速めれば日没前には森を抜けられるものとして、ラムザは引き続き隊を率いていった。
 ようやく、枝道がもとの街道に合流したところで。アルガスは、おそらく出発以来初めて、自らラムザの横に並び、言葉を交わした。
「感謝する」
 アルガスから、ぶっきらぼうにこう謝辞を述べられると、ラムザは返答に迷った。
「ええと……一隊を率いる者としては、軽率な判断だったかなと、反省しているところなんだけど。みんなを 危ない目に遭わせてしまったし」
「いや、普通なら、無視していてもいいところだ。お前たちが協力してくれなかったら、白雪は小鬼どもの晩飯にされていた」
「あの様子では、君一人でも助け出すつもりだったんだろう?」
「当然だ。侯爵さまが、心底大事にしておられたチョコボだからな」
「だよね。どのみち、あの事態は避けられなかったようだ」
「まあな。でも、いい肩慣らしにはなったさ」
「そう言ってもらえるとありがたいよ」
 二人は、どこかぎこちなくも、笑みを交わした。
 道中、白雪はアルガスの手に牽かれていった。鞍には、逃走中に足をくじいてしまったという、見習い騎士の一人で、ローラという者が乗っていた。
「すごい、ふかふかね! このチョコボ」
 騎上では、ローラが白雪の首に抱きつき、顔を埋めている。
「私、チョコボの臭いってどうも苦手なんだけど、このチョコボは、なんだかいい匂いな気がするわ」
「侯爵さまが愛をこめて、御自ら飼育してこられたからな。そこいらの野チョコボなどとは、わけが違う。血統も、純粋な白羽種だ」
 アルガスが、我が事のように物語る。
「本来ならば、お前のような者が跨るなど、許されぬところだ。気高き白雪姫に振り落とされないだけでも、ありがたく思えよ」
「はいはい。まあ、ほんとにいい子ね!」
 ローラは、アルガスの言うことなどまるで意に介さず、絹のようにしとやかな羽毛に頬を擦りつけている。当の白雪は、まんざらでもない体で、嘴をツンと上に向けていた。



[17259] 第一章 持たざる者~19.花売り
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/07 19:01
 季節は、まだ夏であった。暦は変わり、処女月(ヴァルゴ)に入っていた。収穫の月である天秤月(リーブラ)にもなれば、ようやく冬の入口が見えてくる。
 イヴァリースは、わりあい季節のはっきりした風土である。広い世界には、夏ばかりの国だとか、年中地面の凍っている国などがあるらしいが、そういった土地に比べれば、三方を海に囲われ、暖かく湿った海洋性の風が吹き渡るおかげで、極端に寒くも暑くもならないのがイヴァリース半島の気候であった。
 自然、人の住みやすい処へは、さまざまな人種が集まり、文明が起こり、国が生まれる。
 畏国もそうだ。まだ十数もの王が並び立ち、互いに覇を競っていた遥かな時代より、言葉も宗教も違う人々が、大陸から海から、こぞってこの土地を目指した。その結果、幾たびも衝突し、血で血を洗う戦争の歴史を繰り返してきた土地でもある。
 そして今日も、たくさんの人間が、海を渡ってやってくる。
 商人、雇われ戦士、異教の宣教師──
 皆それぞれの目的を持って、この土地にやってくる。ことに近年では、戦の臭いを嗅ぎつけて、異国の言葉を操る怪しげな風体の武器商人やら、赤銅色の鎧のような肉体をテカらした南方出身の闘士やらの姿が、ここドーターの港にも目立つようになってきた。また、民の不安に付け込んで、いかがわしい辻説法を開く旅の坊主みたいなのもあった。
「世はまさに、無窮の闇に覆われんとしております!」
 何某の預言者だという、汚らしい法衣を纏った坊主の周りには、ちょっとした人だかりができていた。人々は息を詰めて、その説法に聞き入っている。
「天魔は人心の暗がりに付け込み、疑心を植え付け、やがて果てなき争いを引き起こすでしょう。天魔に心を許してはなりません! 甘い吐息のような囁声が聴こえたら、念じるのです! そして唱えなさい! メイ・ファーと!」
 こう高らかに言い終ると、袈裟に提げた布袋の中に、布施が投げ込まれる。坊主は当然の報いのようにそれを受けながら、今度は一人一人の言葉に耳を傾けはじめる。
「……ばかばかしい」
 そんな光景を遠目に見ながら、板張りの屋根の上に脚を投げだしている一人の騎士の姿があった。
 放浪の騎士ウルフ──もとい、ベイオウーフ・カドモスは、梨の実にかぶりつきながら、巨大な幌を張った貿易船の往来に目を移す。荷や人を満載した船は、澄み切った青空のもと、ドーターの鉤状の湾を悠々と滑っている。桟橋は人でごった返し、人混みはベイオウーフのいる港町の入口付近まで続いている。
「さて、ついに海に出ちまったが、これからどうしたものか」
 ベイオウーフがドーターに着いたのは、つい先日のことであった。
 レウスの山でミルウーダという骸旅団の女騎士に再会し、名残惜しい別れをしてから、彼は聖竜(ホーリー・ドラゴン)に所縁ありと伝わる古代の遺跡を探して、レウスと、それに連なる山々を七日あまり彷徨ったのである。
 ようやく、それらしいものを見出すも、さしたる収穫は得られず、落胆していたところへ、ミルウーダと、その連れの少女を襲った、あの山賊の一味に再び出食わし、その猛烈な復讐をかわして、命からがら山を下りてきたのであった。
 そんなわけで、ドーターにこれといった宛てがあるわけでもなく、ここにこうして、無為に時間を費やしていたものである。
 当面の目的を失ったベイオウーフの眼は、一段高い場所から。
 海を見、空を見、人を見、船を見──
 変化に事欠かない国の玄関口であるが、さすがに半日も見ていると飽きがくる。その目はいつの間にやら、人混みに紛れた花々を物色していた。
「おっ、」
 一輪の花に目を留め、思わず彼は半身を前に乗り出していた。
 小さな花束をいっぱいに詰めたバスケットを腕に提げ、地味な色合いの上下に、薄汚れた白い前掛けといった姿。しかしその容貌は、明らかにその辺の野暮ったいのとは違っていた。
 品性といおうか、それも宮殿の庭先にあるようなものではなく、路傍にひっそりと咲くような、そういった類のものである。
 まだ十五、六といったところであろう。長い栗毛を結い、雪のように白い肌は、およそ町娘とも思えぬ無垢な美しさをみせていた。その姿は行き交う人々の間を縫い、港町の方へ抜けていく。
 よっぽど声をかけようかとも思ったが、変に人目を引くのも憚られ、ベイオウーフは屋根の上から跳び降りると、見失わぬよう、ほどほどに距離を置きながら、花売りの少女の背を追った。
 ドーターに花売りは多い。それも、うら若い乙女ばかりである。
 まさか、花を売るだけで得られる利益などは、たかが知れている。つまるところ、彼女たちは花売りという身を借りて、己が春を鬻いでいるのである。
 夕暮れ近くになると、花籠をぶら下げた少女が宿場街に繰り出し、道行く男たちの袖を引いて、「花はいかが?」という。心得ある男は、言い値の額を支払い、その花を買う。もちろんそれは、花一束どころの額ではない。男のほうはそれも了承済みで、この上辺の手続きのあと、連れたって、そこらの安宿や、人目のつかぬ路地裏の暗がりに入ってゆく。
 こうしたやりとりが、ドーターだけでなく、主要な都市部の下町などでは、よく見られた。花売りの少女は、おおよそは戦災孤児か、貧しい農村から出稼ぎに来たような娘たちであった。戦争のあと、その数は増える一方で、行政の手にも負えない状況であった。
 むろんベイオウーフも、花売りの実情はよく心得ていた。
 しかし彼にも、一騎士としての矜持がある。
 年端もゆかぬ乙女の純潔を金で買うような男も、また、そういう商いそのものの存在も、良しとはしていなかった。
 彼は無類の好色ではあるが、女を金で買った例はない。これと見定めた女には、敬意をもって、自らの言葉を捧げる。女の方から要求されても、けっして金は支払わない。言葉と言葉のやり取りのみで、あとは惚れさせるにしても、体よくあしらわれるにしても、彼は自分なりのやり方を曲げたことはない。
「待たれよ、そこをゆくお嬢さん」
 混雑の途切れたあたりで、ベイオウーフは少女を呼びとめた。少女は、ちらと後ろを振り返ったが、自分が呼ばれたとは思わなかったのか、足を止めようとはしない。
「そこの、花籠を持った、君だよ!」
 もう一声呼び掛けると、少女はようやく歩みを止めた。振り返ってベイオウーフの姿を見とめると、彼女は、
「何か?」
 と、短く応えた。
 その瞳に射とめられて。ベイオウーフの心臓は、ひとつ、大きく跳ね上がった。そして、
「なんと美しい……」
 無意識に、こう言っていた。
「は?」
「いや、その、美しい花だね」
 少女が警戒するように眉をひそめるので、ベイオウーフは、あわてて訂正した。
「買ってくれるの?」
「いやっ、断じて、そんなつもりはない!」
 当然、それを花売りの通例に則る口上として受け取った彼は、強く否定した。けっして、汚らしい野心があって、声掛けした彼ではない。
「たった一ギルよ」
「な、なにっ!?」
 が、こう返されると、彼は己の耳を疑った。この道の習いに従えば、それは彼女の春をたった一ギルで買うということになる。どんな事情があるにせよ、そんな理不尽な商売が成り立ってよいはずがない。
「君は、普段からそんな額で売っているのか?」
「そうだけど」
「しかし、いくらなんでもそれじゃ……」
「だって、花束ひとつじゃない。こんなものでしょう?」
「え?」
 その言葉を聞いて、ベイオウーフは思い直した。少女の言葉を聞く限り、どうやら、彼女は本来の意味で"花売り"をしているものらしい。
「じゃあ、君は、つまり、その……」
「あなたが何を欲しがっているのかは知らないけど、花を買ってくれないのなら、もう行ってくださる?」
 少女は男の下心を見透かしたように、冷たい目をベイオウーフに投げかけると、さっさと行ってしまおうとする。
「待ちたまえ!」
 ベイオウーフが、少女を引き留めようとして、急に腕を取ったので、「キャッ」と、彼女は小さく声をあげて、ベイオウーフの手を振りほどこうとする。
「あ、すまない」
 あわてて手を離すと、少女は今度こそ警戒心を剥き出しにして、ベイオウーフの顔を睨め据えた。
「人を呼ぶわよ」
「誤解だっ!」
 ベイオウーフは憤慨して、身の潔白を訴える。
「もういちど言うが、断じて、そんなつもりはない!」
 彼は懐から小銭袋を取り出すと、その中から、一ギル硬貨を取り出して、少女に差し出す。
「ほら、これで、一ついただこう」
「…………」
 少女は、なお疑り深く、差し出された硬貨と、ベイオウーフの顔を交互に見やる。
「花束だけよ?」
「むろんだ」
 少女はようやく、ベイオウーフから硬貨を受け取ると、交換に、籠の花束を一つ、彼に手渡した。
「どうもありがとう」
 少女は、機械的に礼を述べる。
「君……」
「まだ、何か?」
 少女から買った花を見つめながら、ベイオウーフは釈然としない表情を浮べている。
「失礼を承知で訊くが……君はどうして、花売りなんかをしているんだ?」
 女性の身には、あまりに不躾な質問であった。が、彼がどうしても分からないのは、巷で"花売り"という名の身売りが平然と行われている事実を知りながら、何故あえて、こんな商いをするのか。その上、これほどの美貌の持ち主なら、そういう商売をしている者と思われても、文句はいえまい。
 野菜売りでも魚売りでも、女の身ひとつでやっていける商売はいくらでもある。生活の必需品でもない花などを売って、それだけで糊口をしのぎ得るとは考えにくい。
「どうしてって……」
 少女は言い淀み、目を伏せる。
「花が、好きだから」
 あまりに単純明快な理由に、ベイオウーフは拍子抜けしたように、目を丸くする。
「花が……好きだから?」
「そう」
「それなら、自分で育てていればいいじゃないか」
「そうなんだけど、でも、この花はね、とっても珍しい花なの。私だけが知ってる、秘密の場所にしか咲かない花なの」
「これが?」
 ベイオウーフは、手に持った花をもう一度よく見てみた。白く小さな花弁には、まさに少女のような、ひかえめな美しさがある。かといって、草花には詳しくないベイオウーフにも、この花がさほど特別なものには思えなかった。その辺の野山にでも生えていそうな、ありふれたものにしか見えなかった。
「何という花なのだ」
「私は、ルマって呼んでいるわ」
「そんなに珍しい花なのか」
「そうよ。だから、たくさんの人に買ってもらって、世界中にルマの花を咲かせてほしいと思っているの」
 そう言って微笑んだ少女の顔は、純粋に、輝いて見えた。それはたしかに、穢れなき処女(おとめ)の笑顔であった。
「だから、大事にしてね。水をやらなくても、三日はもつわ」
「ああ、……」
「それじゃ」
 去っていく花売りの少女の背を呆けたように見送りながら、ベイオウーフの網膜には、可憐な一輪の花の綻んだ絵が、いつまでも焼き付いて離れなかった。
「しまった、名を訊くのを忘れた」
 しょんぼりと萎れて、ベイオウーフは来た道を戻っていく。少女から買ったルマの花は、彼のベルトに挟まれて、たおやかに揺れていた。


 が、再会の機は、早くもその翌日、彼のもとへ訪れることとなった。
 朝一番、下町の安宿を出たベイオウーフは、ドーターの朝市通りをぶらぶら歩いていた。
 そして、ふと目にした屋台の軒先に、見覚えのある栗毛と、白い頬があった。
「あっ、昨日の!」
 草花には疎いが、ことこういう識別においては、彼の目は冴えている。急いで駆け寄るものの、その姿は、すぐに雑踏の中に紛れてしまった。
「どちらへ……」
 爪先立ちに、彼は人混みの合間を探した。すると、今しがた、脇道に入っていく栗毛頭を目端に捉えた。
「あそこか」
 人波を掻きわけ、彼は脇道の入口を目指す。やっと辿り着くと、彼は迷わず薄暗い路地に踏みこんでいく。
 下町の路地裏は、迷路のように、土地勘のない者を惑わせる。途中、道端にうずくまっている乞食を踏みつけそうになったり、家々の裏庭の塀を乗り越えたりしながらも、彼は少女の残した芳香に導かれるようにして、淀みなく足を運んでゆく。
 会ってどうするつもりもなかったが、この男は昨晩、少女から買った花を自らの体重で押し潰さぬように、枕元に置いて眠ったほどなのである。それだけに、ベイオウーフにとっては、忘れ得ぬ出会いであったに違いない。
「きゃああああ!!!」
 かすかに、悲鳴と分かる声を聴いたのは、もう何度目かわからぬ角を曲がった時であった。
 嫌な予感に胸を突かれ、ベイオウーフは声のした方へひた走っていく。
 少し行ったところで、木造の家屋の間に引っ込むようにして、ひっそりと佇む小さな礼拝堂がある。
「やめてっ! お願いだからっ!」
 先ほどよりも、そうはっきりと聴こえた声は、半ばに開かれた礼拝堂の扉の内から、外に漏れ出ていた。
「おのれっ」
 ベイオウーフは、内部を検めるまでもなく、礼拝堂内に踏み込んだ。
 まず目に入ったのは、緑色の頭巾を被った数名の男たちの姿であった。その足元で、両の手に顔を埋めて、へたり込んでいるは、かの花売りの少女であった。
 状況判断などという辞句は引かれる余地もなく、ベイオウーフには、それが恐しい暴力の図に見えていた。
「貴様らああああ!!!!」
 血に任せて、ベイオウーフは鉄拳を振りかざしていた。「あっ!?」と、手前の男が振り向いたときには、その拳は、男の下あごにめり込んでいた。
「げあっ!!」
 骨の砕ける鈍い音がして、男の体が、ふわりと宙に浮く。
 刹那、時が止まったように、凍りつく面々と、雪のように舞い散る白い花弁。
 そのまま、すさまじい物音をたてて、男の上半身は脆い板張りの壁に突っ込んだ。
「野郎っ!」
 それを合図に、男たちは懐に収めてあった短剣を抜き払う。
「おう、どっからでもかかってこい!」
 ベイオウーフも両手を構える。
「その腰のものは飾りかーっ!」
 一人が、勢いよく突きだした短剣をギリギリでかわしつつ、ベイオウーフは男の腕をひっ掴むと、捻りざまに投げ飛ばした。男は床に落下して、不様に手足を伸ばしたまま気絶してしまった。
「ごろつき相手に、わが秘剣を抜くまでもないわ!」
 ベイオウーフはボキボキと指を鳴らしながら、余裕の笑みを浮かべる。
「こいつ、なめやがって!」
 続いて振り抜かれた白刃を後ろ跳びにやり過ごし、反撃の拳を男の顔面にめり込ませる。
「ぐはっ」
 たまらず、この男も床面を転がる。さらに二人が一度に飛びかかったが、これも唸る鉄拳を前に、あっさりと伸されてしまう。
 あまりに一方的なやられっぷりに、さすがにこの闖入者の実力を思い知ったものか、
「おい、待て」
 リーダーと思しき者が、まだ諦めつかずに噛みつこうとしている他の数人を押しとどめる。そして、ベイオウーフのほうへ向かって黄色い歯を覗かせながら、
「どこのどいつか知らねえが、ムアンダ一味にたてつくたあ、いい度胸をしてやがるじゃねえか」
 言葉だけで凄んでみせても、体の方が追っついていないのは目に見えて明らかである。他の者も退き際を察知したとみえ、そそくさと、ベイオウーフの反撃を喰らって伸びている者たちを介抱しだした。
「ムアンダ?」
 聞き覚えのない名を出されて、呆けたような顔をしているベイオウーフを見て、
「狙った獲物は決して外さねえ"必中"のムアンダの名をご存じねえとな?」
 リーダーらしき男は、こめかみに青筋を立てながらいう。
「知らんなあ。聞いたこともない」
「まあいい。じきにその名を思い知ることになるだろうさ」
 ペッと床に唾してから、「退くぞ!」と一声、男たちは荒々しい足どりで礼拝堂から出て行った。
「非道い連中だ」
 男たちが去ったあとの床には、白い小さな花弁が散乱していた。花売りの少女は、へたり込んだまま、まだ啜り泣いている。
 よく見ると、少女の膝元には床板が無く、そこだけ円状に地面がむき出しになっている。そして、その地面を埋め尽くしているのは、昨日、ベイオウーフがこの少女から買った、あのルマの花であった。
 建物の中に花畑があるという光景自体驚くべきものだが、さらにこの花畑は、暖かい光の輪に包(くる)まれているのである。不思議に思って目を上げてみれば、礼拝堂の屋根には、ぽっかりと大きな穴が口を開けており、そこから、花々の上に燦々と陽光が降り注いでいるのであった。
「なるほど、君の言っていた"秘密の場所"とは、ここのことだったのだな」
 その言葉を聴いて、少女は両手に埋めていた顔を上げ、ここで初めて、見覚えのある男の容貌を、その視界に収めていた。
「あ、あなたは……」
「先日はどうも。怪我は無いかい?」
 こくりと頷いてから、少女が目をやった先には、無残に踏みにじられた花々があった。ベイオウーフもそれを目にして、痛々しげに眉を寄せた。
「いったいどういう連中なのだ。さっきの奴らは」
「ムアンダという男の一味よ。最近になってドーターの下町を仕切り出した、やくざものなの」
「なぜこんなことを」
「知らないわ。いきなり踏み込んできて、地代を払えって。それで、払えないのなら、その……」
「それ以上は言わなくていい」
「…………」
 ベイオウーフの気遣いを受け入れて、そのまま言葉を呑んだ少女は、白い手の甲で涙を拭った。
「ありがとう。助けてくれて」
「礼には及ばん。なに、たまたま通りかかったところで、悲鳴を聞いたものでな」
 咳払いをして、実のところ彼がここまで少女の跡をつけてきたことなどは、無かったことのように誤魔化した。
「そういえば、まだ名前を聞いていなかったな。おれの名はウルフ。さすらいの騎士だ」
「エアリスよ」
「エアリス、か。良い名だ。聞き慣れない名だが、生まれはこの辺りなのか?」
「よく覚えてないの。物心ついたときには、もうこの辺りの孤児仲間と一緒に暮らしていたわ」
「そうか。なんにしても、君の身体が無事でよかった」
「ええ。お花はこんなになっちゃったけど、ルマは強い花だから、きっと元通りになってくれるはずよ」
 ようやく、エアリスと名のった少女の面(おもて)に笑顔が戻った。その可憐さに、ベイオウーフの目はまた、無意識のうちに惹きつけられていた。
 ──ふと、こちらに向けられた視線を感じ、彼は我に返って、緩んでいた頬を引き締めた。
 礼拝堂の入口とは反対側に、もうひとつ、小さな勝手口がある。そこに、いつの間にやら一人の男が佇んでいた。視線は、この男から発せられたものであった。
「あ、おじさん!」
 エアリスがそう言ったのからして、その男とエアリスとは、既知の間柄にあるらしい。しかし、さすらい人の目にも、その男の姿はいかにも胡散臭く見えた。
 歳は、ベイオウーフとさして変わるまい。かなりやつれており、髭なども伸びきっているせいか、実際の年齢よりもかなり老けて見えるのかもしれない。
 眼光ばかりがギラギラとしていて、全身に、ただならぬ雰囲気を纏っている。放浪のうちに多くの人物を見知ってきたベイオウーフにしてみても、
 ──油断ならぬ男
 と、瞬時に思わせるほどの何かが、この長身の男からは感じられた。と同時に、その面影にどこか見覚えのあるような気もしたが、男の発する威圧感によって、この僅かな感覚もすぐに消し飛んでしまった。
「何者だ?」
 男は、探るような視線をベイオウーフに向けたまま、エアリスに訊く。
「さっきムアンダの手下が押しかけてきて、乱暴されそうになったのを、この人に助けてもらったの」
「騎士か?」
 男が言ったのを、こちらに訊いてきたものと受け取って、
「そうだ」
 と、ベイオウーフは一言で答えた。
「北天騎士団か?」
「ちがう。放浪の騎士だ」
「…………」
 男は、なおも疑り深い視線を向けてくる。そうしてしばらく男の目を見返しているうちに、ベイオウーフは無性に腹がたってきた。
 だいたい、大の男がすぐ近くにありながら、なぜエアリスを助けに出てこなかったのか。あの騒ぎが聴こえなかったわけでもあるまいし──と、きわめて妥当な疑念が浮かんでくる。
 そして、思ったとおりのことを問い正すと、男は目を反らして、
「すまなかった」
 と、小声ながら素直に謝った。
「いいのよ。おじさんは怪我をしているんだし」
 こうエアリスが擁護するのも、かえってベイオウーフの嫉妬心のようなものを呼び覚ましたらしく、
「もし、おれがいなかったら、どうしたんだ」
 などと、感情に任せて、恩着せがましいことを口にしていた。
「エアリスも稚児ではない。こういう場所で生きていくためには、自分で自分の身を守る方法くらい、きちんと心得ていなくてはならん」
 男のほうも、もっともらしい言い分を返す。
「あんなに大勢の男に、少女一人で立ち向かえるとでも思っているのか?」
「貴様は助けてやったつもりだろうが、奴らに因縁をつけられたら、困るのはエアリスのほうだ」
「なに……」
「一時でも手を差し出したからには、自分の行動に最後まで責任を持つのが道理というものだろう」
「…………」
 今になって、のこのこ現れた得体の知れぬ男に諭されるのも癪だが、そう言われてみると、そうとしか思えないベイオウーフであった。
 おそらく奴らは、今度はもっと大勢を引き連れて、ここにやってくるに違いない。現に自分は危害を加えてしまっているわけだし、その分、彼らの復讐も苛烈なものとなるだろう。
 こうなっては、ベイオウーフとて引き下がってはいられなかった。
「いいだろう。この件に関しては、しっかりと、このおれが落とし前をつけてやる。剣に誓って、エアリスはこのおれが護ってみせる」



[17259] 第一章 持たざる者~20.記憶の糸
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2013/01/14 19:07
 ドーターに到着してから一晩、宿で旅の疲れを癒し、翌日、ラムザたちはさっそく聞き込みを開始すべく、ドーターのスラム地区へ赴いた。
 ──ドーターのスラム地区およびその周辺区域において、略奪行為を盛んにしている一集団の動向を探り、逐次情報をアラグアイ方面第八遊撃隊を率いるミランダ・フェッケラン隊長に報告せよ。
 これが、彼らに与えられた任務であった。
 貿易都市ドーターは、対外交易や海運業を生業とする商人の街である。
 この街では、在ドーター執政官よりも、商人ギルドの総元締めとして絶大な発言力を有するヴァイス商会のほうが、実質的な権力を掌握している。また、富裕層は、そのほとんどが貿易海運業で財を成した商家であり、他の都市のような貴族階級の名家ではなかった。
 つまり貿易都市ドーターは、平民階級による自治支配を実現した数少ない都市の一つなのである。
 ──というと、少しばかり聞こえが良いが、実際には、他のどの都市よりも厳しい格差社会が、そこにはあった。
 富は集まるところに集まるばかりで、競争に敗れた負け犬は、どこまでも負け犬という社会。しかも、他の都市にあるような、権力者による弱者の庇護なども、ここでは望めない。
 生まれという超越不能な障壁は無いまでも、財力というものも、そう簡単に覆せるものではなく、そうした実情は、街全体の約七割をスラム地区が占めるというドーターの都市構造そのものがよく物語っている。
 そしてスラム地区には、街の治安を守る衛兵団の目も届かない所が多く(そもそも彼らは商家の金で雇われた私兵である)、そうした場所は、略奪や人身売買といった犯罪の温床となっているという。
 そんな中、近頃ドーターのスラムで勢力を伸ばしつつあるのが、"ムアンダ一味"だという。
 ムアンダという男は、先の大戦で功があったという傭兵崩れのごろつきで、彼に従う大勢の子分が、「地代」と称して、貧民たちから金やら何やらを巻きあげているのだという。
「どうか、私がこの話をしたことは、ご内密に」
 街の酒場で、ムアンダ一味についての情報を提供してくれた店の主人は、ラムザに保身を訴えた。
「先日も、一味の機嫌を損ねた男が吊るし揚げられましてね……よそから来た者らしいのですが、奴らの恐ろしさを知らんかったのでしょう。勇敢に立ち向かっておりましたが、数にはかないませんがな。殺されはしなかったようですが、ひどいもんでしたよ」
「できれば、その男から詳しい話を聞きたい。彼は今どこに?」
 ラムザが訊くと、店主はさらに声を潜めて、
「北天騎士団の方といっても、奴らにたてつくのはお勧めしませんがね」
「これが務めだ。居場所は分からないのか?」
「しかし、お若い騎士さんが、しかもそんな人数では」
「分からないのなら、他を当たるが」
「…………」
 ラムザがまったく怖気づいた様子をみせないので、店主は感心したようにその柔和な面立ちを見ていた。
(どう見たって、よいとこのお坊ちゃんにしか見えんが)
 彼らを頼りとしてよいものかどうか、値踏みしている様子であった。
 しかし、年老いた酒場の店主にも、この若者の眼差しの向こうに、力強い意志のようなものが感じ取れた。それはたしかに、彼が普段から接している人種には無いものであった。この辺りに住む人間は、老いも若きも、皆一様に死んだような目をしているのだ。
 やがて店主は、観念したように嘆息してから、話そうというそぶりをみせた。
「いくらだ」
 ラムザの傍らに立っていたディリータが、最初にもそうしたように、情報料の硬貨を取り出そうとするのを、店主は手で押しとどめた。
「いや、けっこうですわい」
「いいのか?」
 ラムザが、意外そうに言う。この街の住民は、嘘か真かも分からぬような些細な情報にも、いちいち金をせびってくるのだ。
「はい。ですから、この件はきっと、あなた様方にお頼みしますぞ」
「もちろんだ」
「では、紙などいただければ」
 店主は、ラムザの差し出した羊皮紙の切れ端に、簡単な地図を書き記した。
「ここに行ってみてくだされ。昔から、よからぬ者が集まる地域の一角ですわ。一味の者が自慢げに話しておったのを聞きましたのでな。たしかな情報ですわい。今はうち捨てられた古い礼拝堂がありますがな」
 ラムザはそれを受け取り、
「協力に感謝する」
 と礼を述べ、酒場を出た。


 外では、アルガスや他の士官候補生たちが待っていた。
「何か掴めたのか?」
 アルガスが問うと、ラムザは頷き、
「今からこの地図にある場所へ向かう。みんな、ついてきてくれ」
 そういうと、路地を歩き始める。一行も、その背に続く。
 ディリータはラムザに並んで歩きながら、
「どうするつもりだ」
 と、友の横顔に訊いた。
「できれば、僕らの手で解決したい」
「任務は報告までだぞ」
「目標に遭遇した際の交戦は認められている」
「しかし、この人数では……」
「相手の勢力を把握したうえで、判断するさ。だが、僕は潰す気でいく」
「本気か?」
「めずらしく弱気じゃないか、ディリータ。君も見てきただろう? このスラムの惨状を」
「…………」
「ほうってはおけない。それに、アラグアイの部隊に報告したとしても、彼らが協力してくれるとは思えない」
「たしかに、彼らはアラグアイの森に潜伏する骸旅団のゲリラにてこずっているというから、こちらにまで手を廻す余裕はないだろうな」
「だから、僕らだけでやる」
「そうか、わかった」
 ディリータは、友の意志を確認し、それ以上は口出ししなかった。
 ディリータとて、けっして弱気になっているわけはない。が、それ以上に、ラムザの変わりように少し戸惑ってもいた。
(貧民の救世主にでもなるつもりか?)
 ラムザが積極的に功を上げようとしてくれることは、ディリータにとっても喜ばしいことではある。だがラムザの場合、それは明らかに彼自身のためではなく、虐げられた民のための行動であった。
 救民の志士というのも、それはそれで良いのかもしれない。
 そう思う一方で、ディリータは恐れてもいる。
 ことによれば、ラムザは自身の名を汚してまで、民に尽くそうとするのではないか。ディリータは、ラムザの純心を良く知っている。それだけに、ラムザが、なんとなれば苦しむ民のために、平気でその身を捧げようとするのではないかと、そのことを恐れているのだ。
(やはり、こいつは父上の子だ)
 先代バルバネスが、まさにそういう人であった。
 バルバネスは、家門の繁栄を度外視してまで、民に尽くした英雄であった。おかげで、ベオルブ家に対する民の信望は今も厚いが、引き換えに、他門との関係性をないがしろにしてしまったことで、ベオルブ家の政治的地位は、バルバネスの存命中に大きく揺らぐこととなった。
 その安定を取り戻そうと、当主ダイスダーグは必死にラーグ大公の信頼を得んとし、バルバネスの意見を聞かずに、中央と繋がりの強い名門貴族の息女、アリーシャを妻に娶った。
 反面、「先代様に比べ、ダイスダーグ様は徳の浅いお方」という民の声もしばしば耳にすることがある。
 これを見ても、民の信頼と、政治的権力とを一手に握ることの困難が、良く分かる。
 家名を取るか、民心をとるか──
 この思想の相違が、ラムザとダイスダーグを対立させた背景にはあったのかもしれない。
 一方で、
(あるいは、ラムザなら──)
 とも思うディリータであった。
 ラムザの振る舞いが、いつしか平民からも貴族からも、認められる時がくるかもしれない。
 そのどちらでもない者として、ディリータは、今しばらく友の歩みを見守ることにした。


「ここか」
 半刻あまり狭く入り組んだ路地を歩いて、ラムザたちは、ようやく酒場の店主の示した礼拝堂の建物に辿り着いた。
 礼拝堂は相当に古いものらしく、外装の板張りはあちこち剥げ落ち、長らく手入れされていないのであろう門前は、雑草が伸び放題になっている。
「行こう」
 ラムザが古びた両開きの扉を手で押す。嫌な軋みをたてて、扉は徐々に開いていく。
 内部を見ると、そこには異様な光景が広がっていた。
「花畑……?」
 アルガスが、唖然としていう。
 床板が剥がれて地面がむき出しになっているところに、白い小さな花が無数に敷き詰められている。そこらの床には、白い花弁が、さながら雪のように散らばっている。
「なんだか、不思議なところね」
 工術士のリリアンが、ほっと息づく。なるほど、建物の中に花畑があって、屋根の破れ目からその上に燦々と陽光が注がれているさまは、ある種現実離れした神秘的な雰囲気を醸し出している。
「誰かが世話しているのかしら……?」
 白魔道士のローラが花畑の隅にしゃがみこんで、奇異の目で花々を観察しながら言った。
 すると、
「うぅ……」
 奥の方から、かすかな呻き声が聴こえる。皆、一斉に声のした方へ顔を向ける。
「誰かそこにいるのか?」
 ラムザが問うと、礼拝堂に並ぶ長椅子の一つから、むくりと人影が起き上がるのが見えた。
「何者だ」
 人影が、警戒心を含んだ声を発する。
「北天騎士団だ。先日、ムアンダなる者の一味に私刑を受けたというのは、そこにいる者か」
「…………」
 人影はおもむろに立ち上がると、屋根から差し込む光のもとに、その姿を晒し出した。
 騎士らしき格好をした男は、片腕を布で釣っており、片足も引きずっている。顔には青黒い痣ができているが、その面立ちに、ラムザは見覚えがあった。
「あれ、あなたは」
「ん? あ、お前は」
 手傷いの騎士──ベイオウーフと、ラムザは互いを指さす。
「たしか……ウルフさんでしたか」
「そういう君は、ベオルブの御曹司!」
 かれこれ、もう二か月以上前になる。
 放浪の騎士ウルフとラムザは、マンダリアの丘で、あらぬ疑いから骸旅団の女騎士、ミルウーダの手に捕らわれたのであった。
 状況が呑みこめずに戸惑っている周囲に向かって、ラムザは簡単に二人の出会った経緯を説明した。マンダリアでの事件について知っていたのは、ザルバッグの口から直接事件のことを聞き出していたディリータだけであった。


「本当に、世界は思いのほか狭いものらしい」
 リリアンとローラに怪我の手当てをしてもらいながら、ベイオウーフは感慨深げに言う。
 思えば、彼はレウスの山中でミルウーダとも再会している。
 ベイオウーフがそのことについて触れると、ラムザはことのほか驚いた様子で、
「あの騎士は生きているんですね!」
「ああ、彼女に会ったのはつい十日ほど前だ」
 ラムザは、立場を異にする者と少しだけ分かりあえたあの瞬間を、今一度胸に思い描いていた。同時に、最期までミルウーダの事を想いながら死んでいった、騎士レッドのことも思い出された。
「そうか。彼女はまだ生きて……」
「で、骸旅団の女の命を助けた上に、逃がしたわけか」
 その話を傍で聞いていたディリータが、鋭い指摘を入れる。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! おれは別に、骸旅団に肩入れしているわけではないぞ」
 ベイオウーが両手を振って否定する。
「あの、じっとしていてくださる?」
 足の傷に回復呪文をかけていたローラに注意されて、ベイオウーフは慌ててその場に居直る。
「なら、その女騎士の行方を教えてもらおうか」
「う、うむ……」
 ディリータの理に押されて、ベイオウーフは黙りこむ。
「ディリータ、この件については、あとで詳しく聞くことにしよう」
「…………」
 ラムザに言われて、ディリータは不満げに腕を組みながらも、さらに追及しようとした口を噤んだ。
「それで、どういうわけで、ムアンダという男を敵に回したんです?」
 ラムザが問うと、ベイオウーフは苦しげな表情を浮かべて、面を伏せた。
「全ては、このおれの責任なんだ」


 過日、花売りの少女エアリスを少々荒っぽい方やり方で窮地から救ったベイオウーフであったが、あの後、一味の報復からエアリスの身を守るために、彼は用心棒としてエアリスの行く先々に同行することにした。
 エアリスは、「そこまでしてもらわなくていい」と遠慮したが、「エアリスを護る」などと宣言してしまった以上、彼は彼なりに、行動で示そうと考えたのである。それに何より、彼は自分の腕に自信を持っていた。
 ──が、圧倒的多数を相手どっては、ベイオウーフの秘剣も及ばなかった。
「ゆうに五十人はいただろう。しかも全員が完全武装ときたもんだ」
 ドーターのスラム街で一番広い通りの真ん中で、ムアンダの手下どもは、ベイオウーフとエアリスの二人をすっかり囲んでいた。
 むろん助太刀などは無く、彼は孤軍奮闘したが、数の暴力に対しては、さすがのベイオウーフも防戦一方にならざるをえない。
 どう見ても勝ち目のない戦いを見せつけられ、ついにはエアリス自ら、
「私が質になるから、どうかこの人の命はとらないで」
 と、申し出た。
「なにを馬鹿なことを!」
 ベイオウーフはエアリスの無謀を咎めたが、彼女は聞く耳を持たない。
 ムアンダ勢のほうも、なかなか屈服しない相手に焦れていたところであった。仇はもう十分に痛めつけたことだし、エアリスというこの上ない戦利品を獲得したところで、彼らは意気揚々と引き揚げていった。
「おれが不甲斐ないばっかりに……」
 ベイオウーフは歯噛みして、拳を震わせている。その様を見て、ラムザたちも、やるかたない思いに目を伏せる。
 結局、ベイオウーフひとりが立ちはだかったところで、寄る辺を持たぬ少女の、無力なことに変わりはない。彼らの魔手にかかった時点で、もはやどこにも逃れようはなかったのだ。
 それが、このドーターという街の、理不尽な現実であった。
「事情はよく分かりました」
 長椅子に腰かけてベイオウーフの話を聞いていたラムザは、静かに立ち上がる。
「助けるつもりか?」
 隣に座っていたディリータが、友の姿を見上げて言う。
「当然だ。それに、ムアンダには相当の報いを受けてもらうことになる」
 毅然としたラムザの態度に、ベイオウーフもすがるような眼を向ける。
「本当か! 協力してくれるか!」
「これが我らの務めです」
 そして、仲間の顔を一通り見渡してから、
「みんなも、協力してくれるか」
 若い隊長の意志を受け止め、全員が力強く頷く。
「隊長殿の、ご指示とあらば」
 アルガスも、不敵な笑みを浮べつつ、乗り気をみせる。
 ──と、そこへ。
 礼拝堂の扉が軋みを立てて開かれたかと思うと、外の光を背に受けて、一人の男の姿が、白い隙間に浮かび上がった。
 一同、何事かと、そちらへ目を向ける。
「あ、貴様!」
 すかさず、そう言ったのはベイオウーフである。男は無言のまま礼拝堂に踏み込むと、ラムザたちの前で足を止めた。
「こいつらはなんだ」
 男が訊いたのに構わず、
「今までどこにいた! エアリスがムアンダの一味に捕まったんだぞ!」
 ベイオウーフが責めるように言い放つ。
「エアリスが?」
「そうだ! あれからお前は姿を見せないし、結局おれ一人で戦って、それで、エアリスは奴らの手に……」
「…………」
 男は険しい表情をして、黙りこんでしまう。
 その眼を、眉を。
 ディリータはただ一人、愕然として瞳に映していた。
 ──この男は!
 スウィージの森で、アルガスからウィーグラフの人相について尋ねられた時。彼は、知るはずのないウィーグラフという男の人相を、何故か知っている気がするという奇妙な感覚に襲われた。
 ──どうしてだ?
 己の胸に問ううちに、彼は幼いころの記憶に行きついていた。
 懐に収められた、父オルネスの形見の短剣。
 そこから導き出されたのは、彼の生家のある、ガリオンヌの農村の光景であった。


 牛小屋よりも小さな家の前で、幼いディリータは呆然と立ち尽くしている。
 彼の前には、背の高い騎士の姿がある。
 騎士の身につけている鎧や、深緑のマントは、泥や黒い染みで汚れている。騎士はベルトから革の鞘に収められた短剣を引き抜くと、それをディリータに手渡した。
「騎士オルネスは、最期まで立派に戦った」
 騎士は言う。
「オルネスは同志である私に、この短剣を託した。故郷に残してきた息子と娘に、きっと届けてくれるようにと」
 幼いディリータは、父の短剣に眼を落したまま、微動だにしない。すると、家の内から、妹のティータが出てきて、
「ねえ、ねえ、このひと、だあれ?」
 兄の服の裾を引っ張りながら、無邪気に問いかける。父の永遠に帰らぬことを理解するのには、彼女はまだ幼すぎた。
「お兄ちゃん……泣いてるの?」
 いつしか、ディリータの頬には涙が伝っていた。
 騎士はティータの頭をやさしく撫でてから、
「妹を、大切にな」
 それだけを言い残して、その姿は、索漠とした寒村の景色の内に消えていった──。


 男はふと、ただならぬ視線を感じて、それが発せられている方へ顔を向けた。そこには、ディリータの顔があった。
「……?」
 男もまた、不思議な感覚を覚えていた。
(この少年は……)
 しばしの間、見つめ合う二人。二人の間には、かすかな記憶の糸によって結ばれた空間が、たしかに存在した。
「ディリータ、どうかしたか?」
 友の異変に気付いたラムザが訊くと、
「いや、なんでもない」
 ディリータは、どこか上の空で、そう答えた。
 一方で、彼の中では、もやもやとしていた疑念の渦が、確かな形をとろうとしているのだった。
 彼は無心のうちに、胸に手を宛がっていた。
 ──父の死を告げられた、あの日。
 その衝撃のあまり、頭の隅に追いやられていた記憶。
 あの時、騎士は確かに、こう名乗った。
「……ウィーグラフ・フォルズ」
 小さく呟いたその声は、その場にいた誰の耳にも届くことは無かった。



[17259] 第一章 持たざる者~21.関門
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/17 21:38
 夢を見ていた。
 ミルウーダの故郷、王領ルザリアの南部にあるレダリア庄の懐かしく穏やかな風景だ。
 ──はたして、こんなにも美しい場所であったか。
 今の彼女には遥かな異郷の地のようにも思え、そこには、もはや帰るべき家もない。それは、今や離れ離れとなり、お互い消息も知れない兄ウィーグラフにとっても同じことであろう。
 村の門前には、見送りの住人たちが小さな人だかりを作っていた。見送られているのは、そう──兄のウィーグラフと、他に二、三人の村の若者であった。
 平民の義勇軍、骸騎士団に志願することとなった彼らは、一丁前に鎧を着込んで、腰には、なかなか見栄えのする鉄製の長剣(ロングソード)まで提げている。
 しかしそんないでたちも、村を見下ろす丘の上に建つ領主の館からは、具(つぶさ)には見えないのであった。
 ミルウーダは小さなバルコニーに立ち、兄たちの見送りの様子をじっと見つめていた。今すぐにでも兄のもとに駆け寄っていきたかったが、この時のミルウーダには、兄の肩を抱いて見送りのキスをすることすら許されていなかった。
 あの人だかりの中には、父母の姿もあるはずだ。妹である自分も、これで最後となるやもしれぬ兄の雄姿を、この目に焼き付けておきたい──そう願っても、籠の中の小鳥に等しい彼女の身には、かなわぬ望みであった。
 さりとて、戦地に赴く兄の無事を祈る彼女の思いまでもが、伝わらぬ距離ではないはずだ。
(兄さん、どうか生きて帰ってきて)
 どれほど遠くにあっても、深い絆で結ばれた兄妹の心は、いつでも互いに通じ合っている。
 そう、今だって──
 思い出とも幻想ともつかぬ夢はやがて途切れ、ミルウーダは静かに瞼を開く。まどろみの中で、現実が、ゆっくりと立ち上がって目の前に現れる。
 そこは、ルザリアとガリオンヌの領境に横たわる森の中であった。
 急ごしらえの雨よけの内から這い出ると、朝靄に包まれた小さな野営地に、他にも数個の寝床が設えてあるのが目に入る。見張りの者が、ミルウーダの姿をみとめて、軽く会釈する。
「おはよう」
 と、ミルウーダは短くそれに応え、大きく伸びをする。
 その姿も、今や骸旅団の剣士の装いではなく、長めのスカートに歩きやすい皮のブーツ、上は草木染めの麻布服に地味な色合いのスカーフを巻きつけている。どこをどう見ても、そこらの百姓娘か、市場の売り子にしか見えない。
 それらは全て、半月もの間、ミルウーダとエマが身を寄せていた、ハマ一味の隠れ家で調えたものであった。
 親分のハマと一味の指針について意見を違えたルーファスが、ハドムのアズバール伯を通じて隠れ家の所在を北天騎士団に密告したらしいということが分かってから、一味はやむなく旧採掘場にあった隠れ家を放棄することとなった。
 では、どこへどう逃れるかという段になって。
「一味はいちど、解散することとしよう」
 ハマは、これまで信じて疑わなかった同志の裏切りに打ちひしがれながらも、こう提案してきた。
 逃げるにしても、一味の者全員が一緒に行動すれば嫌でも目立つから、一旦数人ずつに分かれて、所定の場所で再結集しようというのであった。ミルウーダも、彼の意見に賛成の意を示した。
 ルーファスが出奔してからも、数名が、やはり密かに隠れ家を抜け出したらしいことが分かった。それでも、全体からすれば出奔者はごく少数に止まったといえる。ミルウーダの声掛けが功を奏したわけだが、ひとまずは、現段階で残っている者は信用してよいと思われた。
 一味は四、五人単位に分かれ、それぞれ行商人などに扮して、再結集地を目指し順次ハドムを発つ運びとなった。
 再結集地をどこに定めるかについては少々意見が割れたが、ガリオンヌの南西に位置する蔓草砦を集合の地とすることで、最終的に一致をみた。そこは一時、レアノール野の決戦に敗れたミルウーダやギュスタヴたちが、落ち延びていた場所であった。絶対安全な隠れ家とはいえないものの、仮に北天騎士団に見つかったとしても、籠城してある程度持ちこたえられそうな基地は、ここより他にないというのが現状であった。
 ガリオンヌ領内ではさらに北天騎士団の警戒も厳しくなるが、骸旅団の根拠地のほとんどは今もガリオンヌにあることだし、さらには、貿易都市ドーター周辺に旅団長ウィーグラフの消息ありとの未確認情報も、もたらされていたところである。
 かつてほどの求心力は失くなったとはいえ、ウィーグラフ・フォルズここにありと聞けば、今でも馳せ参じる同志の数は決して少なくないだろう。再起の旗を掲げるのは、やはり彼の手にこそふさわしい。
 今朝がた故郷の夢を見たのは、もしかすると吉兆かもしれない。そう思わずにはいられないミルウーダであった。
 おそらく兄は、今も自由に身動きが取れないでいるのだろう。なんとしても、こちらの動きを伝えたいところであるが──
「あ、ミルウーダ。おはようございます」
 間の抜けた声のしたほうへ目をやれば、エマが、今しがた寝床から抜け出してきたところであった。
「ああ、おはよう」
 相変わらず緊張感の足りない連れに愛想をつかしつつ、ミルウーダはため息交じりに答えた。
 エマも今は、ミルウーダと似たような格好をしている。どうしても人目につく尖がり帽子や長いローブといった黒魔道士の装束は我慢してもらう他なく、これにはエマも渋々承知したのであった。
「うーん、いい朝だ」
 ミルウーダと同じように、エマも小さな体を存分に引き伸ばしている。その姿を横目に見ながら、彼女の今後についても、そろそろ真剣に考えなくてはいけないなと、ミルウーダは内心で考えていた。
 ミルウーダは朝食の最中、エマの今後について、それとなく本人の意思を検めてみた。
「なにいってるんですか! 地獄の果てまで、お供しますよ」
「…………」
 やはり、エマの考えは変わっていない。それどころか、以前にも増して、その従順ぶりを強めているように思える。
 これから先の戦いは、より熾烈を極めることとなるだろう。はたして、年端もゆかぬ少女が、己の命の危険を、どの程度現実として受け止めているのか。
 この場にいる者は皆、運命共同体である。死なばもろとも、という覚悟で動いている。
 エマの存在が、その覚悟を鈍らせるということも考えられる。
 そうなる前に、無理やりにでも、誰か信用に足る人物のもとに預ける必要がある。それは何より、エマ自身のためでもある。
 しかし、その信用に足る人物というのが、すぐには浮かんでこないのであった。
 同志ですら信用ならないということは、ミルウーダ自身、身をもって実感している。その上で赤の他人など、どうして信ずることができようか。国家を敵に廻している身では、なおさらのことである。
(では、誰に……)
 ふと、彼女の脳裏に、いつしかマンダリアの丘で出会った、少年の顔が浮かび上がってきた。
「ラムザ……ベオルブ」
 思わず口からこぼれ出たその名を、隣に座っていたエマが拾い聞きして、「え、何ですか?」と訊いてきた。
「いや、何でもない」
 ミルウーダは慌てて誤魔化す。
「そうですか」
 エマはとくに気に留める様子もなく、兎肉のスープをすすりだした。ミルウーダも、兵糧用の乾パンをひとつかじる。
 ──ラムザ・ベオルブ。ミルウーダたちが、最も憎むべき敵としている一族の子。
 しかしあの時、彼は揃って討ち死にしようとしていたミルウーダたちを抑え、彼女たちを窮地から救い出すために、自ら人質となった。そして、見事に北天騎士団の包囲を解かせしめ、最後には、彼にとっても敵であるはずのミルウーダと、固く手を結びあった。
 その手の感触から伝わる熱と、強い意志を秘めた碧い瞳を、ミルウーダは今なおはっきりと覚えている。そう、それはまさに、彼女の理想とする騎士(ナイト)のような──
(何を馬鹿な)
 そこまで思い至ってから、ミルウーダは頭(かぶり)を振る。ひょっとしたら、彼となら分かりあえるかも──という可能性の光明を、彼女はただちに揉み消していた。
(所詮は彼も貴族の子。奴らはいつも気まぐれで、私たちの生死を弄ぶ)
 そう、あの時だって。彼は思いつきの偽善で、死にぞこないの鼠を逃がしてやったくらいにしか思っていないだろう。ああして善人ぶって民に媚を売る貴族が、もっともたちの悪い連中だと──兄もそう言っていたではないか。
 乾パンの最後の一欠片を口に放り込むと、恨み言と一緒にそれを噛み砕いて、胃に収める。それから立ち上がって、
「出発だ。今日中には街道に出たい」
 ミルウーダの号令を聞き、全員が各々の食事を片づけ、野営の後始末を始める。
「あ……ちょっと待ってください」
 残ったスープを慌てて掻き込んでいるエマを一瞥して、
「何をしている。早く支度を始めろ」
 常よりも少しきつい口調で言い放つと、ミルウーダは行李のまとめにかかった。


 ミルウーダ一行はそのまま森を南下していき、日が西に傾き始めたところで、ようやく街道に出た。街道を西に行けば、その先に領境の交通を監視する北天騎士団の関門がある。
 山肌に小規模な砦を構える関門には平時より多数の衛士が詰めているが、骸旅団殲滅作戦に北天騎士団がその全戦力を注いでいる今、それを越える人員が配置されているであろうことは容易に想像できる。
 ここを避けて通るには険しい山越えをせねばならず、現在のミルウーダたちの装備では現実的な選択肢とはいえなかった。
 そもそもが、この関所をどう越えるかに重点を置いた装いである。要は、旅の商人一行に扮して衛士の目をやり過ごそうという、きわめて単純明快な作戦であった。検視の目は厳しかろうが、こうするより他にガリオンヌへ出る道はないというのもまた、現実である。
「うまくいきますかね……」
 エマが不安げな声を洩らすのを、ミルウーダは意に介さず聞き流していた。
「お前が余計なことを言わなければな」
 そう毒づいてみせることで、彼女自身、きっと上手くいくと、自らに言い聞かせているようでもあった。
 あからさまにお荷物扱いされたエマは、ムッと頬を膨らませて、
「わかってますよ! おとなしくしてればいいんでしょう?」
 そう返して、傍らを歩くミルウーダの横顔から目を反らした。そんな常からのやり取りでさえ、今のミルウーダには小さな励ましに思えた。
(さて、ほんとうに上手くゆけばよいが……)
 実際のところ、苦し紛れの策であることは重々承知していた。北天騎士団はもはや、「怪しきは罰せよ」という態勢で動いている。最悪、身の潔白が証明されるまで拘束されるということもあり得る。しかし、兄ウィーグラフとの合流という大目的を果たすまで、ここで歩みを止めるわけにはいかない。
 遠目に、関門の上にそびえる砦の石壁が見えてきた。辺りはすっかり夜の闇に包まれているが、そこだけは大量の篝火に照らし出されて、黒い山肌にぼんやりとほの赤く浮かび上がっていた。
「夜中に通るのは怪しまれる。ここで夜を明かすぞ」
 ミルウーダの指図通り、一行の者はその場で木に寄りかかってつかのまの眠りに就き、翌早朝、さっそく関門に向けて歩き始めた。


 果たして、関門を守っていたのは、騎士アルマルク率いる部隊であった。
 先日まで魔法都市ガリランドの治安維持部隊を任されていた彼であったが、スウィージの森でエルムドア侯爵が誘拐されたことに痛く責任を感じ、まっさきに捜索任務に名乗り出たのであった。しかし、一向に成果を上げられず、間もなくガリオンヌ・ルザリア領境の関門守備に補され、泣く泣くこの任に就いたところであった。
 ガリランド襲撃事件の際も後手後手に回ってしまったこともあり、ここへきて、アルマルクはめっきり落ち込んでいた。
 かといって、仕事の手を緩めるほど、歴戦の兵(つわもの)は甘くはなかった。あわよくばこの地で大きな首級をあげてみせんと、かえってその眼は炯炯(けいけい)としていた。
 部下へも、
「関門を通る者は全て私自ら検分する。勝手に通すことはまかりならん」
 と厳命し、朝から晩まで、ひっきりなしに連れてこられる通行人を一人一人尋問し、少しでも素性の怪しい者は、素っ裸にして徹底的に調べ上げた。
 そしてアルマルクのもとへも、ハドムのハマ一味の情報は届いていた。さらには、その一味の中に骸旅団の主要メンバーが含まれているらしいということも伝わっており、
「あるいは、ガリオンヌの勢力と合流するために、ここを通ることもあるやもしれん」
 こう予測した彼は、いよいよ警戒を厳にしていた。
 今日もまた、朝一番、検問所となっている砦の一室に座し、今日最初の通行人が連れてこられるのを待ち構えていた。
 さっそく、衛士の一人が、
「商人の一行が通行許可を求めています」
 と報告してきた。
「よし、通せ」
 というと、間もなく四、五名の旅商らしき姿の者たちが連れてこられた。ざっと面子を検めてから、
「代表のもの、前へ」
 と彼が指示すると、思いのほか、若い女が前に進み出て、自分が代表だと名乗った。
 アルマルクは、しばらくの間、じっとその女の面を観察していた。その場にいた他の衛士も、アルマルクとは違った好奇の目で、女の顔を見ていた。
 装いこそ、ありふれた市井の娘のそれであったが、誰の目にも、女の器量の際だって良いことがわかった。男ならば、一目見て、胸を高鳴らせざるをえないほどの魅力が、確かにその女には備わっていた。
 惜しむらくは、その長い栗毛はほとんど手入れされておらず、白い肌も、旅の垢ですっかり汚れていた。が、かえってそのことが、男たちの中に潜む奇妙な嗜好を刺激する向きすらあった。
 生来の堅物であるアルマルクにも、女の容姿には、正直に目を惹かれるものがあったが、けっして心まで奪われるようなことはなかった。その観察眼は、よこしまな下心をひた隠しにしている部下たちとは違った部分を見ていた。
 しばしの観察の結果、
(この女はただものではあるまい)
 彼の直感は、こう告げていた。その上で、あくまで事務的に、まずは女の名を問う。
「名は?」
「ルザリア領コルムのミーラ・カナイと申します」
 もちろん、一行の者以外に、ミルウーダ・フォルズという彼女の本当の名を知る者はいない。アルマルクはさして関心を払わずに、訊くべきことを淡々と尋ねていく。嘘であれば、このような情報は何の意味も為さない。
「用向きは?」
「毛皮と織物を少々、ガリオンヌの問屋商に卸(おろし)に参りに」
「公認の通行証はあるか?」
「ここに」
 ミルウーダから差し出された領主発行の通行許可証を受け取ると、アルマルクはざっとそれに目を通す。偽装の跡のないことを確かめてから、ミルウーダの手に戻す。
 ここまで聞けば、とりあえず旅の商人として疑いの余地はない。一方、アルマルクの方は、一層ミルウーダへの疑念を深めていた。
 そこらの街娘らしからぬ美貌はさておき、その眼つきからして、まず隙がない。いうなれば、鍛えられた剣士のそれだ。商人(あきんど)特有の愛想良さのようなものは、微塵も感じられない。
 衣装を変えてみても、人間に染みついてしまった癖というものは、なかなか誤魔化せるものではない。並の人間ならばともかく、それなりの場数を踏んできたという自負のある戦士には、そういった戦士にしか分からぬ"臭い"とでもいうべきものがある。目の前の女は、まさにその"臭い"を発していた。
 無論、彼女が偽装しているということを裏付ける客観的な事実があるわけではない。以上のものは、アルマルクが経験で培った勘にすぎない。
「ふうむ……」
 アルマルクは指で硬貨を弄びながら、どうしたものかと、思索に暮れていた。その時、荷物を調べていた衛士が戻ってきて、
「怪しい物は、これといって見当たりませんでした」
 と報告した。アルマルクは頷いただけで何も答えず、なおも考えに耽っている。
 検問所内にいる他の衛士は、彼女たちを"徹底的に"調べよという指示が出されることを、密かに期待しているようであった。ミルウーダは、自身の体験から、検問所内に立ち込める淫靡な雰囲気を敏感に感じ取ったものか、ややいら立ちを露わにして、
「これで、もう通していただけますか?」
 先ほどから何の沙汰もよこさないアルマルクに向かって、問いただした。
「そういえば、前にも、こんなことがあったな」
「は?」
「いや、こっちの話さ」
 過日、アルマルクが失踪したキャラバン隊の捜査に当たっていた中、コロヌルという村で骸旅団の一団を捕えて尋問した時のことを思い出して言ったのである。その時捕えられたのが、ミルウーダのかつての同志、レッド・アルジールであったことなど、今の彼女は知る由もない。
 戸惑いの色を浮べるミルウーダの顔を見ながら、アルマルクは、ひときわ高く、弄んでいた硬貨を弾きあげた。その場にいる誰もが、無心に、宙を舞う硬貨の方へ惹きつけられる。
「!」
 次の一瞬の一部始終を、意識が散漫していた者たちは、すっかり見逃していた。見れば、ミルウーダが片手を顔の前で握りしめており、ほぼ同時に、アルマルクは先ほど弾き上げていた硬貨を右手で掴み取っていた。
「おみごと」
 ミルウーダの手にも、いつの間にか硬貨が握られていた。アルマルクは右手で一枚の硬貨を弾き上げている最中に、左手で、もう一枚の硬貨をミルウーダ目がけて打ち放っていたのである。ミルウーダは迫りくる物体を視認するまでもなく、反射的に硬貨を掴み取っていたのだ。
 この早業には、周囲の衛士だけでなく、エマたち一行の者もまた、舌を巻いた。と、同時に、この若い娘がただの商人ではないということが、誰の目にも明らかとなってしまった。偶然にしても、手際が良すぎる。
 ミルウーダは、反射的に手を出してしまった自身の愚かしさを噛みしめるようにして、アルマルクの顔に鋭い視線を注いでいた。
 その様子を見て、
「こ、硬貨の扱いには慣れているんです!」
 エマが苦し紛れを言ったが、誰も耳を貸そうとはしなかった。衛士たち全員が、呆然とアルマルクの方を向き、無言で処断を仰いでいる。
「そっちは君にやろう」
 アルマルクは口元に苦笑を浮べつつ、硬貨を懐に収める。ミルウーダは、アルマルクの顔を睨めつけながら、硬貨を強く握りしめていたが、つとめて平静を保とうとしていた。
「何か、問題でも?」
「いやなに、物騒な世の中だからな。商人にだって、それなりの心得はあって当然だろう」
「…………」
「構わん、通ってよし」
 アルマルクの言葉に、衛士たちは我が耳を疑った。
「よろしいのですか!?」
「ああ、通行証もあるし、特に咎めるべきところはない。……君は良い剣士になれそうだ」
 アルマルクは、そう言ってミルウーダに微笑みかけた。含みのある言葉に何事かを読み取ったらしい衛士たちは、互いに目配せしてから、ミルウーダたちに退出を促した。ミルウーダはアルマルクに向かって軽く会釈してから、衛士の誘導に従い、検問所から出て行った。
 一行が退出してから、アルマルクはさっそく衛士の一人を手招きした。
「草を遣って、後をつけさせろ」
 衛士の方に顔を寄せ、小声でアルマルクがいう。
「は、……」
「大物かもしれん」
「しかし、この場で捕えなくてもよろしいので?」
「ああ。大物は、大物を引き寄せる。しばらく泳がせてみて、他の大物の尻尾も掴めたところで、まとめてしょっぴく」
「なるほど。ただちに草を呼びます」
「頼む」
 衛士が出て行ってから、すぐに次の一行が検問所に招き入れられた。
 アルマルクは検問に当たりながらも、先ほどまでには無かった確かな手応えを感じていた。
(今度こそ、"当たり"かもな)
 彼の表情は、近頃すっかり失調していた自信を取り戻しつつあった。



[17259] 第一章 持たざる者~22.闘技場
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/07 19:04
 巷に傭兵と呼ばれる戦士たちが、畏鴎大戦後どうやって暮らしているのかといえば、騎士団に取り立てられて碌を食めるようにった者などは、かなり幸運な部類の人間であった。そこから外れた大多数にしても、まっとうな者は、商人に身を窶(やつ)して日々の糧を得たり、寒村の自警団職に収まったりしていた。
 が、大抵の者は、そう上手くはいかなかったということが、ドーターの街の実情だけ見てもよくわかる。
 ムアンダ一味なる不逞の衆がドーターの下街を荒らしだしたのは、世に"河原の口約束"などと揶揄される「アロー河の講和条約」が成り、実質的な畏国の敗退という形で、バルバネス・ベオルブ将軍率いる北天騎士団の大軍団が是領より故国凱旋を果たした後の事である。
 依然アロー河の西岸一帯に軍を留めている南天騎士団につき従う兵たちは別として、北天騎士団の戦力に加えられていた「骸騎士団」を含む平民の義勇兵は、帰国後、満足な恩賞も与えられず、その多くは職も失い、路頭に迷うこととなった。
 政府の救済措置も功を奏さず、半ば自暴自棄となった彼らは、あるいはウィーグラフ・フォルズの呼びかけに応じ、「骸旅団」となって政府に反旗を翻し、あるいは匪賊と化して、暴虐を欲しいままにした。
 政府はこれら不満分子を力でもってねじ伏せ、結果、当初は義軍として一応のまとまりを見せていた骸旅団を解体に至らしめ、以降、彼らの活動は匪賊の行いとさして変わらぬものとなっていた。
 そうした中、
「ドーターでうまいことやっている連中がいるらしい」
 との噂が、「骸旅団」という最後の寄る辺も無くした者たちの耳を掻きたてたのは必然のことであった。
 すなわち、その"連中"というのが、"ムアンダ一味"である。
 "必中のムアンダ"なる通り名を、大戦に従軍した者の中には耳にしたことのある者もいた。
 畏鷗大戦における骸騎士団の戦いぶりは諸史録に詳しいが、ウィーグラフやギュスタヴといった骸旅団の中核をなしていた人物をはじめ、このムアンダという男も、しばしば諸戦の記録に登場している。
 それを見れば、
「千エータ隔てた騎上の敵将の冠を射落とした」
 とか、
「千本の矢を立てても斃れぬといわれたトロル兵の喉笛を射抜き、一撃で仕留めた」
 とか、嘘だか真だか分らぬ類のものではあるが、そうした伝説が作られるからには、それなりの使い手であったろうことが推察される。
 彼の得物は、「クロスリカーブ」と呼ばれる大型の弩(いしゆみ)であった。
 余人の手にはおよそ扱えぬであろうこの巨大な弩は、ムアンダという男そのものであるかのように、畏怖と崇敬の対象となっていた。もっとも、ムアンダはどこへいくにもこの「クロスリカーブ」を背に負っていくから、それ自体が彼の体の一部といってもよさそうなものではある。
 はたして、この南方人が、どのようないきさつでドーターの下街(ダウンタウン)を牛耳ることとなったのか。
 そもそも、ムアンダはギュスタヴ・マルゲリフと縁深く、戦地においても、互いに命を預けあう仲であったという。
 戦地より帰還したのち、骸旅団旗揚げの際には、ギュスタヴより真っ先にその意中を問われたのだが、同時に彼は、北天騎士団傭兵部隊からも、その腕を見込まれて、「是非にも」という誘いを受けていたのである。すなわち、この選択は、戦友であるギュスタヴの敵となるか、同志となるか、の選択でもあったともいえる。
 結論から言うと、ムアンダはどちらの誘いも受けなかった。
「国のために死ぬのも、義のために死ぬのも、やっぱり俺の柄じゃないね」
 そう言って、若い時分に世話になった船乗りのつてを頼り、単身、港町ドーターへと向かった。この時はまだ、船の用心棒職にでもありつこう、というくらいの腹であった。
 そもそも、骸騎士団に参加したのも、恩賞目当てであって、国のために死のうなどという気はさらさら無かったムアンダなのである。
 また再び傭兵となって、泥沼の戦地に狩りだされても堪らぬし、かといって、友に義理立てするつもりもなかった。彼が自慢のクロスリカーブを引き絞るのは、いつ何時も金のためだけである。
 ムアンダが「親父さん」と呼んで慕ったかつての船乗りは、大戦により需要の高まった武器交易で財を成し、街を取り仕切るヴァイス商会の中でも重きを置くほどの豪商となっていた。
 彼は船乗り時代よりかわいがっていたムアンダとの再会を大いに喜び、ムアンダを彼の私兵団の長に推挙した。
 思わぬ形で自由に扱える駒を手にしたムアンダは、さっそく、形ばかりとなっていた都督府直属の自警団を下町から追い出してしまう。また、他の商人の有する私兵団も次々と吸収していき、瞬く間に、一味の人数は膨れ上がっていった。
 さらには、下町に一味の根城を構え、そこで自治めいたことまで始めたのである。
 後見人の名を振りかざし、"地代"と称して、貧しい民から巻き上げた金を、彼は"闘技場(サークル)"なるものの建設費用に充てた。
 "闘技場(サークル)"とは、つまり、人間の命を賭けた賭場のことである。
 頑丈な鉄製の網を周囲に張り巡らしたリングに魔物も人間もいっしょくたにぶち込まれ、血みどろの殺し合いが演じられる。見物人は誰が生き残るかを賭け、眼下に繰り広げられる殺戮ショーに熱狂する。
 "闘技場(サークル)"は、開設から一月もたたぬうちに商人の間で大人気の娯楽となった。近頃では、闘技場目当てに市外からわざわざお忍びで訪れる貴族の姿すら見られた。
 ここで産出された利益は、街を牛耳る豪商たちと、商家と癒着した都督府の役人の懐に流れ込み、ムアンダの悪逆非道は、まったく看過されている形であった。


 はたして、ドーターの下町のほぼ中央に位置する闘技場(サークル)は、今日もその盛況ぶりを場外にまで響かせていた。
 時刻は双子(ジェミニ)の刻を少し過ぎたところで、薄曇りのドーターの下街は昼間なのにもかかわらず、そこらの路地や民家の軒先は、じめじめとして薄暗い。
 闘技場の建物自体は、周囲の家屋とは比較にならないほど巨大な木造建築物であった。今しがた、外套に身を包んだ男が一人、その門をくぐろうとしたところを門番が引きとどめた。
「おっと、旦那。何かお忘れじゃありませんかね?」
「…………」
 男が黙っているのを門番は訝って、
「入場料! きっかり五百ギル、元手も払えないならお帰り願うが、それとも闘士として出場するんなら、登録は裏手でやってるぜ?」
 男の身なりが浮浪者のごとくみすぼらしいのと、腰に長剣を佩いているところを見て、案内を付け加えたのである。行きずりの浪人が食うに困って、人間の最後の元手である命まで捧げにこの闘技場に来ることなど、最近では珍しくもなかった。
 男はやはり無言であったが、懐から布袋を一つ取り出すと、門番の胸にそれを押し当ててていた。
「うおっ」 
 門番が両の掌でそれを受け取ると、袋の中身がジャリと鳴って、その重みからしても、相当な額であろうことが察せられた。
 門番は浮浪者のような男の懐から出たとは思えない金袋の中身を確かめながら、
「よし、通んな」
 と、二言もなく男に道を空けた。
「ムアンダは中にいるか?」
 男が突然そう訊いたので、金を数えるのに夢中だった門番は、びくりとして顔を男に向けた。
「何者だ、あんた」
「ムアンダはいるのかと訊いている」
 フード越し覗いた眼光に射られ、門番は獅子に睨まれた野鼠のように身をすくませた。
「し、仕合を見てらっしゃると思うが……」
「結構」
 颯爽と賭場に入っていく男の姿を見ながら、門番はうすら寒いものを背筋に感じていた。と、同時に、妙な感覚にとらわれてもいた。
(さっきの男、どこかで……?)
 門番の頭上で、またひとつ獣の雄叫びがあがり、その上にばかでかい喚声がのっかって、それはまさに今始まった"仕合"の熱狂ぶりを外に伝えていた。


 大の大人の身長の、ゆうに三倍はあろうかという体躯を捻りあげたかと思うと、"牛鬼"と呼ばれる魔物は、手に持った巨大な鉞(まさかり)を振り落とした。その攻撃を受ける方はというと、こちらは裸に皮の腰巻と鉄製の兜を身に付けただけの、生身の人間なのである。
 慌てて盾を構えるも、自分の体重の何倍もある相手から繰り出された渾身の一撃をまともに受けては、どんなに屈強な闘士とてひとたまりもない。金属のぶつかり合う鈍い音がして、闘士の体は、あっけなく吹き飛ばされ、闘技場を囲む金網に叩きつけられた。
 その瞬間、ひときわ高い喚声が発せられ、仕合場を見下ろす観客席は熱を帯びた狂騒に包まれた。
 先ほどの闘士を見れば、盾は無残にひしゃげ、それを持つ手も力なくぶら下がっていることから、腕の骨も粉々になっていることがわかる。それでもなんとか立ちあがろうとしているところへ、牛鬼は追撃の鉞を容赦なくを叩き込む。
 ──二度、三度、四度。
 鉞が振われるたび、金属音とは異なる生々しい音が上がる。牛鬼の足もとで、かろうじて闘士の姿とわかる塊がピクリとも動かなくなってから、ようやく仕合終了を告げる鐘が打ち鳴らされた。
 再び喚声が巻き起こる。勝者となった牛鬼は、興奮した様子で二対の角を振り回している。
 誰の目にも明らかな、一方的な殺戮劇であった。
 観客たちは安全な場所にいて、無力な人間が引きちぎられていく様を見、嗜虐的な喜びに酔いしれる。賭けといっても、余興のついでといったものでしかなく、あるいは、この地獄絵図を間近に見るための謝礼的な意味合いも、その中には含まれていた。
 こうした絵を、実際の戦場の血生臭さを知らぬ者たちは、つまらぬ日常に程よい刺激を与えてくれるものとして、尊重しているらしかった。
 仕合後の余韻に浸る観客席をざっと見渡せば、海洋民風の派手な装束を身に付けた豪商らしい姿がほとんどで、わずかに、瀟洒な衣服に身を包んだ、どこぞの領主の放浪息子といった風情の若い連中の姿が目を引いた。
 やはりそうした連中の一人で、いかにも上流市民といった感じの若者が、彼の隣席の妙に物静かな男が気になり、声をかけていた。
「あんた、ここは初めてかい?」
 気さくに話しかける若者に答えるそぶりも見せず、男は金網に囲まれた目下の仕合場をじっと見つめている。さっき門番に金袋を突き付けた時と変わらず、薄汚いフードを目深に被り、腰に佩いていた長剣は観客席の椅子に立てかけられている。
 若者は、「耳が遠いのだろうか?」とでも言いたげに首を傾げてから、なおも言葉を続ける。
「いやあ、やっぱり異種戦はいいね。人間のほうが勝つことは滅多にないけど」
「…………」
「ていうか、ここ(サークル)では一度もないかな? たまに強そうなのがいたらそっちに賭けることもあるんだけど、結局駄目だなあ」
「…………」
「この前なんか、三人掛かりでベヒモスに挑んでたけど、まったく歯が立たなかったからなあ」
「…………」
 若者は横目を使って、ちらちらと男の反応を窺っているらしかったが、依然男はむっつりとしたまま口をきかないので、だんだん不機嫌な色をにじませてきた。大人を相手に通ぶりたいのが、この年頃の青年らしい。
「あんた、随分汚い格好をしているけど、浪人か何かかい?」
「…………」
「あ、それともあれか、仕合に出る前に下調べをしているんだな? その剣は、見せかけじゃないんだろう?」
「…………」
「そうなら、さっきも見ていた通り、異種戦だけはやめときなよ。配当は人間相手とは比較にならないくらいデカいけど、まあ、まず勝てないだろうからね」
「…………」
「そうそう、今日はこれから"餌場"をやるらしいんだ」
「……餌場?」
 そこで男がようやく食いつきをみせたので、若者は得意になって話を続ける。
「知らないのかい?」
「ああ」
「ふふーん、"餌場"とはその名の通り、魔物の餌場のことさ。これも異種戦の一つなんだけど……」
 若者は、不気味な光を湛えた眼を男の方に向け、にやりと口元を歪める。
「女が出るんだ」
「女?」
「そう、若い女。正直、僕はまだ直接見たことはないんだけど、すごいらしいんだ」
「…………」
「友人から聞いた話なんだけどね、丸腰の女に、人食いグールを襲わせるらしいんだ。ほら、分かるだろ? グールはきちんと調教されていて……その、"やっちまう"こともあるらしいんだ」
 若者はうっとりとして、闘技場に目を移す。
「それを今日やるらしいと聞いてね。故郷から、一晩で飛んできたのさ」
「…………」
 男は、フードごしに、若者の横顔をじっと見据えていた。何を考えているのか、どことなく、憐れみのようなものを含んだ視線ではあった。
「どうだい? あんたも見てみたいだろう?」
「どうかな」
「何だよ、こんな所にまで来ておいて、堅気ぶるつもりかい? ムアンダは、本当に最高の男さ」
「ムアンダを知っているのか?」
「え? そりゃあここらじゃ知らない者はいないだろう。こんな素晴らしいショーを拝めるのも、彼のおかげなんだし」
「今日は、ここへ来ているのか?」
「ああ、いつもいるよ、あそこに」
 若者は向かいの観客席の、さらに上の方を指さす。そちらへ目を向ければ、四階分くらいの建物の一番上の階にバルコニー席が設けられており、確かに、遠目からも数人の人物がそこに置かれた席に座っていることが分かる。
 その中でも、際立って図体の大きい、肌の黒い南方人の姿がある。この人物こそが、"必中"の名を巷に轟かせているムアンダその人であろうことは疑いようもない。彼の名と共に名高いクロスリカーブの所在までは、この距離からしかと認めることはできないが、おそらくは、彼のすぐ手元に置かれているとみて間違いなかった。その気になれば、彼の大弩は、あの高みからこの闘技場のどこへでも狙いを定めることができそうなものである。
「なるほどな……」
 男はそう呟いて、しばしムアンダのいます高御座(たかみくら)を見つめていた。若者はそんな男の様子を不思議そうに見ながら、
「あんた、彼とは知り合いなの?」
 と、訊ねた。
「古い仲間だ」
「へえ、やっぱりあんた、堅気じゃないね」
 若者は、男がなんとなくただならぬ雰囲気を漂わせていることに今さら気付いたとみえ、
「じゃあ僕はこれで。もっと近い席に友人がいるのが見えたから、そっちへ行くことにするよ」
 慌ただしく、観客席の前の方へ去って行った。
 ちょうどその時、何やら観客がぞよめきだし、全員の視線が、金網の中へ注がれた。
 見れば、砂の敷かれた仕合場の真ん中に、小さい人影が、よろよろと進み出たところであった。
 粗末な麻布服に包まれた身体は先ほどの闘士などとは比較にならないほど小さく、か細いものであった。長い栗毛はぼさぼさにかき乱れ、白い肌に汚れが目立つ。
 誰の目にも、その人物は、まだ子どもといっていい年齢の少女にしか見えなかった。
「"餌場"だ……」
「"餌場"が始まるぞ……」
 周囲の観客は歓声をあげることもせず、これから繰り広げられる狂宴の卓上を固唾をのんで見守っている。
(あの娘は……!)
 先ほどまでとはうって変って静まりかえった客席に在り、文字通り"餌"として送り出された少女の姿を見る男の目は険しかった。
 ムアンダの特別席から、騒々しく鐘の打ち鳴らされる音が聞こえ、その調子に合わせるように、徐々に観客は熱気を取り戻していった。やがて、それは大きな歓声となって会場全体を包み込んだ。
 間もなく、二つある仕合場の門のうち、少女が出てきた門とは反対側の門から、彼女の"相手"となるグールが、その姿を現した。
 グールは、前の牛鬼よりずっと身体が小さいものの、容貌はより人間に近く、潰れた鼻に尖った耳、額にはこぶのような一角、太くて長い腕には、樫の棍棒を持っていた。
 醜悪な面相に並ぶ黄色い二対の目が獲物を捕え、だらしなく開かれた口から、点々と唾液を滴らせている。
 一方の少女は、恐怖に顔をひきつらせ、じりじりと後ずさっていく。その様子を見て、狂騒はいよいよ高まる。
 ──いつの間にか、男の姿は観客席から消えていた。仕合場では、すでにグールが少女を金網まで追いつめていた。
「犯れ!」
「喰う前に犯っちまえ!」
 恐ろしい野次が飛び交う。グールは彼らの言葉を理解しているのか、いきなり食らいつくようなことはせず、少女の細腕をひっ掴むと、容赦なくその場に引き倒した。
 同時に、悲鳴とも喜声ともつかぬ声があちこちからあがり、場の興奮はいよいよ最高潮に達しようとしていた。金網にへばり付くようにして観戦する客の姿もあって、その中には先ほどの若者の姿もあった。彼の表情もまた、狂喜に歪んでいた。
 少女は、このまま好きにされては堪らないと、必死にグールの手から逃れ出ようとする。グールの面にも、明らかに笑みと分かる表情が形作られていた。逃げようとする少女の足を掴んで力任せに引き寄せると、麻布服が足元からめくりあがり、白い両脚が露わになった。その上に、グールの唾液がぼたぼたと落ちる。
 グールは、ついに少女の上に覆い被さった。少女は観念したものか、きつく両の脚を閉じて、目を瞑っていた。
 ──と、にわかに、仕合場で行われている狂事に対するものとは、全く別な声が上がりだした。観客の内の幾人かは立ち上がって、グールと少女のいる方とは全く違う方向を指さしている。
 次の瞬間、"餌場"に夢中になるあまり、会場の、そうした一部の変化に気付かなかった者たちも、状況を理解することとなった。
 何かと思えば、グールは恐ろしい悲鳴をあげており、圧迫から解放されたと分かった少女は、すぐさまその身体をグールの陰から逃がしていた。
 見れば、棍棒を持っていたグールの腕は肩口から切り落とされ、真新しい切り口から赤黒い血が噴き出している。すかさず振り返ったグールの眼は、何かが素早く動いたのと、きらりと光が一閃したのを捉えたが、その刹那、彼の視界は宙に舞っていた。
 仕合場の真ん中に、ぼとり、とグールの首が落ちると、離れ離れとなった胴体は、地面に引きつけられるようにして、その場に倒れた。
「エアリス! 逃げろっ!」
 一部始終を見ていた少女は、突如乱入してきた剣士に自分の名を呼ばれ、また、フードを脱いだその顔が見知った男のものであることを確認すると、大きく頷いてから仕合場の門へ走った。
 闘技場内では、罵声の嵐が吹き荒れていた。宴を台無しにされた腹いせに、酒瓶やらマグやら石ころやら、金網の内へ次々と物が投げ込まれていく。
 そんな中、男はというと、観客の発する怒気とは全く別の、あからさまな殺気を周囲から感じ取っていた。
 そしてその殺気が、自分に向けられたものだけでないことを、すぐに悟った。
「伏せろっ!」
 門に辿り着き、ちらとこちらへ振り返ったエアリスに向かって、男は叫んでいた。
 間一髪、頭を下げたエアリスの頭上を、太いボルトが、ひょうと掠めていった。外れたボルトは仕合場の地面に突き刺さり、矢羽を震わせている。
 確認するまでもなく、それはムアンダの特別席から放たれたものであった。ムアンダは特別席のバルコニーから身を乗り出し、逃げ出したエアリスめがけてクロスリカーブより一矢を放っていたのである。
 ムアンダは指を鳴らし、悔しがるような素振りをみせた。エアリスは自分が狙われたことも分からず、その場に頭を抱えて縮こまっている。
 弩はその構造上、次の一矢をつがえるまでに時間がかかる。それとて、弩の達人であるムアンダの手にかかれば、僅かな間でしかない。
 男はこの隙にエアリスの方へ走り寄り、彼女の頭を胸に抱き寄せると、その身を庇うようにして門を潜った。
 ──が、二人の向かわんとする先には、すでに立ち塞がるものがあった。
 "餌場"の前の異種戦において、人間の闘士を一方的に虐殺した、かの牛鬼であった。鉞を構え、鼻息荒く二人の方へにじり寄ってくる。
「くそっ……」
 彼一人ならまだしも、今はエアリスを庇った状態であり、仕合場に引き返せば、今度はクロスリカーブの的にされてしまう。
 しかしその最悪な状況も、闘技場に現れた新たな闖入者のおかげで、すでに一変していた。
 男が異変に気付き仕合場の方を見ると、数人の弓使いが、バルコニーのムアンダに向かって矢を浴びせかけていた。さすがのムアンダも、弓の数と速射性を相手どっては、一人では抗しきれず、周囲にいた子分どもと共に建物内へ身を隠してしまった。
 にわかに始まった場外戦を前にして、観客たちは大混乱に陥り、我先に闘技場外へ避難し始めていた。男はクロスリカーブの脅威の無くなった仕合場へ引き返すと、エアリスを引き連れ、今度は反対側の門へと向かった。
 そちらからは、さらに数人の剣士たちが駆け込んできていた。どれも男には見覚えのある顔だった。彼らは先日、エアリスの礼拝堂に突然現れた北天騎士団の若者たちに違いなかった。さらにもう一人、エアリスを窮地から救ったがためにムアンダ一味から恨みを買い、私刑を受けたウルフとかいう名の放浪の騎士の姿もあった。
 彼は男の腕に庇われたエアリスの姿を認めると、
「エアリス!」
 と叫び、まっさきに駆け寄ってきた。
「怪我はないか?」
 ウルフの問いに、エアリスは頷いて、
「ええ、おじさんのおかげで」
「そうか、よかった」
「おじさん、助けてくれてありがとう!」
 男はエアリスからの感謝にも眉一つ動かさず、
「あとは頼んだ」
 とだけ言って、ウルフの手にエアリスの身を預けた。
「お前……」
 ウルフは一瞬戸惑いの色をみせたが、すぐに頷くと、
「今度こそ、任せておけ」
 エアリスの肩をしっかりと持ち、大きく頷いて見せた。男は無言でそれに応え、今度はラムザの方を向いて、
「あの魔物を頼む。私はムアンダに用がある」
 と、親指を後ろへ向けた。反対の門から出てきた牛鬼は、角を振り上げて雄たけびをあげている。さらに牛鬼の背後から、ムアンダの子分たちと思しき戦士たちが、仕合場に続々と繰り出してきている。
 ラムザはひとつ頷き、
「協力感謝します。どうやら先にアジトへ踏み込んだ我々の見込み違いだったようですね。ことが済んだら、また後ほど」
「ああ」
 男は曖昧に答え、ちょうど、仕合場に駆け込んできたディリータと眼を合わせた。
「…………」
「…………」
 先日、礼拝堂で二人が対面した時の感覚が、そのまま再現される形となった。目を見合わせたのもつかの間、互いに黙ってすれ違おうとしたところで、
「あなたは──」
 と、ディリータが何か言いかけたのを無視して、男は足早に仕合場の門へ歩き去って行った。





[17259] 第一章 持たざる者~23.ドーターの乱
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/07 19:06
 ドーターに突如現れた若い騎士の集団が、ムアンダ一味の行いについてあれこれ訊き回ったあげく、ついにその根拠地に踏み込むらしいという噂は、瞬時に下街全体に広まった。中でも騎士の一隊を率いるラムザ・ベオルブという若者の名は、特別な響きを伴って人々の関心を集めていた。
「ベオルブっていやあ……北天騎士団の、あのベオルブ家か?」
 そう尋ねるのは、朝から酒の注がれたマグを傾けている飲み屋の客。そのラムザから直々に聞き込みをうけたという店主は、うむうむと頷いて、
「たしかに、そう名乗った。ぱっと見は、いかにもよいとこのお坊ちゃんにしか見えなんだが、よくよく見りゃあ、なるほど、スッと筋の通った凛々しい面構えは、あの天騎士バルバネスさまの御曹司に違いねえ」
「しかし、大した人数でもないのに、あのムアンダにたてつくつもりかよ。いくら北天騎士団とはいえ……」
「それがよ」
 店主は周囲を気にしながら、一段と声を落とす。
「鍛冶屋のボロヴィンが、結構な人数を募っているらしい」
「まさか、ムアンダ相手に吹っ掛ける気かよ」
「うむ」
「もう幾度、奴に歯向かおうとした奴らが血祭りに上げられたか知れねえというのに」
「だがよ、あのバルバネスさまの御曹司が大将となりゃ、これまでとはわけが違う。大義はこちらにある!」
「…………」
「ボロヴィンの嫁さんが、あの闘技場でグールの餌にされたというのはお前さんも知っておるだろう」
「ああ、うむ」
「あいつだけじゃない。ムアンダの手に掛って憂き目に遭った人間は数知れねえ。今こそ、悪行の数々の報いを受ける時が来たのさ」
「大義……そうか、大義か」
 そう呟いた客は、酔いもすっかり覚めた様子で、真剣な眼差しをマグに注いでいた。ちょうどその時、騒々しい物音をたてて男が一人、店に飛び込んできた。
「たいへんだっ!」
 何事かと、店にいた客は一斉に入り口の方に視線を集める。男は興奮にせき込みながら、今しがた見聞きしたことを早口に伝えた。
「ボロヴィンの奴らが、ムアンダのアジトに殴りこんだぞ! 例の若い騎士たちも一緒だ!」
 ざわと、男の興奮が伝染したように、狭い店内はどよめき立つ。もっと詳しい話を聞こうと、様々な声があちこちからあがる。人数はどれほどか、ムアンダは捕まったのか──。
 その熱気の中にあって、カウンターで店主と会話しながら立ち飲みしていた客は、マグを一息に飲み干すと、何か決然とした面持ちで、飛び込んできた男のほうへ歩み寄っていく。そして、茫然としている周囲をぐるりと睨み渡してから、
「おれは行くぞ!」
 酔いに任せたとも思えぬ口調で、こう宣言した。一瞬の間を置いてから、あちこちの席を蹴って、
「おれもっ!」
「おれも行くぞ!」
 次々と、客の宣言に続いて、終いにはその場にいた全員が、一個の決起集団となって店を後にしていた。
 こうした動きは、この酒場に限らず、下街のあちこちの辻で見られた。皆一様に興奮した面持ちで、手に得物を持った者も少なくない。集団は一気に膨れ上がり、目標のアジトを指して、大通りを行進していく。
 大勢の人間が目指していく方向には、ちょうど戦いの狼煙が上がったかのように、黒い煙が立ち上っていた。どうやら、先にアジトに踏み込んだボロヴィンたちが火をつけたものらしい。木造の建物がひしめき合うドーターの下街だけに火災が心配されたが、もはやそんなことに気を留める余地もない暴徒の勢いである。
 これまでバラバラに埋もれていた憤懣の芽が、ベオルブの名の下に、一挙に実を結んだ形であった。
 ──が、当のラムザはというと、彼自身は、自分の家名がドーターの窮民たちにかくも絶大なる影響を与えていることなど、まったく自覚している様子はない。ムアンダの悪行を正すべく、また、捕らわれたエアリスの身を取り戻すべく、彼は純然たる正義を掲げ、巨悪の巣食う根城に赴かんとするのである。
 そのラムザの傍らにあって、ディリータは当初の偵察任務からはおよそかけ離れた隊長の決定に難色を示した。


「本気か? ラムザ」
 アジト立ち入りの前日、ディリータはいま一度ラムザの意志を問い糺した。ラムザは礼拝堂の石床に胡坐を掻いて、手前にドーターの地図を広げている。
「本気だよ、ディリータ」
 地図から離れ、ディリータに向けられたラムザの蒼眸に惑いの色は無い。
「僕らの任務はあくまで偵察だぞ」
「わかっているさ」
「ザルバッグどのには何と説明する気だ」
「騎士として為すべきことをするまでだ」
「だが、僕らは軍隊の一部でもある。与えられた役割はきちんと果たさねばならない」
「当然だ。だが、役割を果たしさえすれば、それでいいのか?」
「それは……」
 礼拝堂の古い長椅子に背をあずけ、ディリータは深くため息をついた。ラムザは再び地図に目を戻し、思考を再開している。
 ディリータはそんな友の姿を視界から外し、目を瞑って握りこぶしを眉間に押し当てていた。
 普段は花のように穏やかなくせに、一度こうと決めたら揺るがない岩のような一面をも併せ持つ友の性格を、ディリータはよく心得ていた。
 それだけに、友の決定を曲げる気などは端からないし、今までもそうしてきたように、彼の役割は、ラムザにとって最も良い結果を導くために、最善の助力をすることである。
「なあ、ディリータ」
 ラムザは地図に目を落としたまま話しかけてくる。ディリータは、なおもぐりぐりと拳で眉間を揉みながら片目を開く。
「どうした?」
「ムアンダはアジトにいると思うか?」
「そうだな……市民の話では、奴は闘技場(サークル)とかいう賭場で仕合を観戦していることもよくあるらしい」
「アジトか、闘技場かということか……隊を二手に分けて当たってみようか?」
「いや、ただでさえ少ない人数だ。どちらかに的を絞るべきだと思う。奴の取り巻きはほとんど奴から離れることなくどこへでも付き従っていくというから、どちらかにまず当たってみて、外れならもう一方へ当たるというやり方でも大丈夫だろう。あと、できれば増援も欲しいところだ」
「増援か……しかし、この下街の自警団は、ほとんどムアンダに買収されているというから、期待はできないね。むしろ敵と捉えるべきだ」
「その通りだな。できれば武力に訴えたくはないが、やはりいざというときの戦力にどうしても欠ける」
 二人が考えこんでいるところへ、
「私も協力しよう」
 と、意外な声がして、その方へ目をやると、例の正体不明の剣士が、腕にさらしの布を巻いているところであった。
「エアリスには随分と世話になった。それに、ムアンダには個人的な用向きもある」
「…………」
 男の顔に、ディリータは嫌疑の眼差しを向ける。
 ──この男にも、訊きたいことが山ほどある。"牡羊(アリエス)"などと一応名乗りはしたが、もしかすると、ウィーグラフ・フォルズその人かも知れない男なのである。
 が、安易にその正体に迫るようなことをして、万一敵に廻せば、まず自分たちの手には負えない相手である。手傷いとはいえ、皆殺しにされてもおかしくはない。一方で、それほどの実力を持っているかもしれない剣士が自ら協力を申し出てくれたのだから、ここはひとまず利用しておくに越したことはないという考え方もある。
「牡羊どの、協力には感謝しますが……怪我の具合はよろしいのですか?」
 そう言うラムザのほうは、よも牡羊と名乗るこの剣士が、ウィーグラフ・フォルズであるかもしれないなどという疑いは微塵も抱いていないようである。とはいっても、牡羊が、相当な実力者であることは、彼もまたしかと見抜いていた。
「心配には及ばん。エアリスの手当てが効いて、もうだいぶよくなってきた。剣を振うのに何ら差し支えはない」
「それはよかった。でも、無理はしないでください。私たちと共に来てもらって……」
「いや、私は一人で行動させてもらう。闘技場の方へは私が向かおう。騎士が大人数で踏み込むようなことがあれば、徒(いたずら)に混乱を招くことになる。もしムアンダを見つけたら、お前たちが合流するまで逃がさぬよう見張っておこう」
「…………」
 ラムザとディリータは無言で目と目を見合わせる。それを返答と受け取ったものか、
「では、アジトの方は任せた」
 と、勝手に結論づけて、牡羊はそのまま礼拝堂から出ていってしまった。
 腑に落ちない表情のディリータに対して、ラムザは案外にさっぱりとした顔で、その場に立ち上がる。
「よし、闘技場は彼に任せて、僕らはアジトに踏み込もう」
「あの剣士、信用できるのか?」
「一人でも味方が欲しい今は信用するしかないだろう? 君も牡羊どのが相当な使い手であることは分かっているはずだ」
「それは、そうだが……」
 まさか、牡羊はウィーグラフかもしれないなどとは口に出せないディリータである。
「それに、彼はエアリスに助けられたと言っている。その恩に報いることは、騎士として当然の態度だ」
 ラムザのお人よしは今に始まったことではない。もう少し他人を疑うということを知ってもよさそうなものではあるが、そこを咎めてみても詮ないことなので、ディリータは、ひとまず牡羊に対する疑惑は棚に上げておくことにした。
「君の考えはよく分かったよ、ラムザ。皆を呼んで、今後の方針を確認しようじゃないか」


 その日の夕刻、ディリータは工術士のニールに偵察任務の報告書を託し、アラグアイに展開中の北天騎士団の遊撃隊を率いるミランダ・フェッケランへの早馬を任せた。スウィージの森で拾ったエルムドア侯爵の愛鳥"白雪"の足ならば、ドーター・アラグアイ間は往復に一日と掛らない。
 報告書の内容としては、ムアンダ一味の動向とそれへの対応について、ドーターの惨状を鑑みるに早急なる処置が必要と判断した旨に加え、未確認ながら、骸旅団長ウィーグラフ・フォルズらしき人物と遭遇、今後慎重に監視を続ける旨を記した。
 後述の案件については、実のところ隊長のラムザにもまだ伝えていないのであるが、ディリータとしては、北天騎士団本営の指示を仰ぎたいこともあったし、また後々確証が得られれば、ラムザにも牡羊なる剣士の正体について早々に知らせる心づもりではあった。
 ディリータとウィーグラフとの、本人にしてみても意外な繋がりについて、すぐにでも親友であるラムザに伝えてもよかったのではあるが、現状貴重な戦力と頼んでいる牡羊に対してこれ以上余計な疑惑を植えつけるのも憚られるし、今は彼の胸の内にのみ秘め置くこととした。
「お、来たな」
 夜も更けてから、ディリータの姿は、礼拝堂近くに流れる小川に掛けられた小さな石橋の上に見出される。
 欄干に寄りかかったその影に向かって、橋の両端から二、三の影が近づいていく。月明かりに照らし出された面子を見れば、剣士ラッドと闘術士(モンク)のポポ、それにアルガスの顔もある。
「言われた通り──」
 アルガスが無愛想な表情のまま言う。頬がほんのり紅みがかり、少しばかり酒臭いのは気のせいではない。
「天騎士バルバネス・ベオルブの子、ラムザ・ベオルブどのが明日旗揚げし、ムアンダ一味を叩き潰す作戦に おいでになると、そこらじゅうの酒場で言いふらしてきたぜ──ヒック!」
 豪快にげっぷをかまして、そのまま体重を欄干に預ける。
「ご苦労だったアルガス。その様子からして十分な働きぶりのようだな」
「そいつは──ヒッゥ! どうも」
 ディリータは苦笑いを噛みつつ、他の二人に目を向ける。こちらの二人は、アルガスほど酔った様子もない。
 ポポの話では、街なかのある酒場で飲んでいた鍛冶屋の一集団が、ムアンダに対し相当な恨みを募らせていたという。
「中でもボロヴィンという男は、つい最近、自分の妻を例の闘技場で見世物にされた上、大衆の面前で無惨に殺されたそうです。ほかの鍛冶屋たちも、店であげた利益をムアンダ一味に地代として取り上げられているようで、相当に恨みをもっているようでしたよ」
「で、ラムザの旗揚げには食いついたか?」
「それはもう、下街じゅうの鍛冶屋に呼び掛けて、明朝にも決起するそうです」
「そいつは脈ありだな。他には?」
 ラッドからも、以前に一度ムアンダへの反抗に加わったことのある人物に話を通せたと聞き、ディリータは満足げに頷いた。
「よし、ここまで煽っておけば十分だろう」
 ベオルブ家の名を利用し、ムアンダの暴政に虐げられてきたドーター市民の反抗心を実際の暴動に結びつけようという考え──むろんこのアイディアは、ディリータ一人の頭から出てきたもので、ラムザ本人の指示よるものではない。
 家名を勝手に利用された当人はというと、作戦に先んじて親友がこうした根回しを行っていることなど露知らず、ディリータほか数名は、万一の戦闘に備えてポーションなどを買い揃えてくるのだという話を信じきっている。
 ディリータは、このアイディアがラムザの耳に入れば、まず咎められると分かり切った上で、内密に工作活動を行ったまでである。
 結果として、ディリータのこの事前工作は、抗ムアンダ戦線に十分すぎる戦力を加えることとなる。
 翌早朝、礼拝堂の前には、昨晩の話に上がっていた鍛冶屋のボロヴィンを中心とした一団に、「ラムザ・ベオルブ旗揚げ」などという大仰な宣伝文句に釣られた男女が随分と加わり、その時点で五十名を超える勢力となっていた。
「これはいったい……」
 その光景を目にして、一番驚いているのは他ならぬラムザである。
「あんたが、ラムザ・ベオルブさんかい」
 集団の先頭に立っている、がたいのいい中年男が、ラムザの前に進み出る。ラムザは、自分より頭一つ分高いところにある男の顔を見上げながら、こわばった笑みを面に張り付けている。
「そうですが……あなた方は、いったい?」
「おれは鍛冶屋のボロヴィン。ここにいるのは同じギルドの連中で、日頃からムアンダの野郎に一矢報いたいと機を窺ってきた者たちだ。昨晩、いつものように仲間と自棄(やけ)酒飲みをしていたら、あのベオルブ家の御曹司が、ムアンダ相手にひと戦起すと聞いてな。いてもたってもいられなくなったというわけよ」
「そんな話を、いったい誰から聞いたのです」
 言いながら、ラムザは傍らに立っているディリータをジロりと睨みつける。ディリータは知らぬ振りを決め込んで、すっとぼけた表情をしている。
「──んで、戦を起すというのは本当なんだろうな?」
 すでにやる気満々といった態のボロヴィンと他の大勢を見、ラムザはやれやれと深いため息をつく。
「あなた方がどういうつもりでここへ来たのかは存じませんが、いきなり戦などというのは、早まり過ぎではありませんか。まずはムアンダという男と話をして、行いを改めるよう説得する必要が──」
 ラムザの言葉を聞き終わらぬうちに、ボロヴィンは、馬鹿馬鹿しいとばかりに鼻を鳴らし、指先をラムザの鼻先に突きつける。
「説得するだと? フン、話して分かる相手なら苦労はしねえさ。俺たちの受けた仕打ちはなあ、どんな暴力を使ったって、足りねえくらい酷いもんなんだ!」
 血走った眼に涙まで浮かべて抗弁する男の姿は、悲壮というより他ない。ボロヴィンの同志たちの表情にしても、同情だの共感だのという、安直な感情の顕れでは決してない。
「お前さんに分かるか? 金持ちの道楽に、かみさんを嬲り殺しにされた夫の気持ちがっ!」
「…………」
 ボロヴィンは滂沱の涙に肩を震わせ、無念の情を食い縛っている。聞き込みから得られた情報には無い、当事者の熱の籠った陳情であった。
「あなた方の訴えはよく分かりました。しかし、恨みに任せた暴力によって失うものはあっても、得られるものは何もありません。そのことをどうか、忘れないでください」
 そうは宥めてみたものの、一度火のついた人々の復讐心をこの一言で抑えきれるとは到底思えない。
 一行がムアンダのアジトへ向かう道中、ラムザはディリータを追及していた。
「彼らをけしかけたのは君だろう?」
 先頭を行く若い騎士団の後ろに付き従って、ぞろぞろ歩いてゆくボロヴィンら反抗勢力の一団は、出発した時よりもさらに数を増しているようである。
「僕はただ、ベオルブ家の御曹司がムアンダを相手に一戦起こすらしいと吹いて廻っただけさ。彼らは自らの意志で決起したまでで、こちらが協力を仰いだわけじゃない」
 ディリータは何食わぬ顔で言う。
「それをけしかけたというんだ。僕は戦を起こすなんて一言もいっていないぞ」
「じゃあ聞くが、いったい君は、どうやってムアンダの勢力を潰す気でいたんだ? まさか、本当に説得が通じるとでも?」
「やってみなければ分からないじゃないか。それに、もっと穏便にムアンダの身を捕えて、民に裁きを委ねることもできた」
「そう簡単に捕まる相手とも思えないが」
「君はアカデミーで何を学んできたんだ? これでは本当に戦になってしまう!」
「なに、その時はその時さ。多少の痛みを伴うことになっても、彼らに自らの手で自由を勝ち取ってもらおうじゃないか」
 そこへ、二人の後ろで会話を聞いていたアルガスが口を挟む。
「ディリータの言うとおりだな。まったく、"ベオルブ"の名を聞いただけで、これほどの人間が動くんだ……大したもんだよ」
 最後の一言は、どことなく皮肉めいた響きをもっていた。アルガスもまた、改めてベオルブの名の持つ影響力の大きさを実感したものらしい。自身の境遇と比較して、多少卑屈を感じてしまうのも無理ないことではある。
「おい! この集団はいったいなんだっ!」
 出し抜けにそう言って、ラムザたちの前に立ち塞がる一団がある。ちょうど用水路に掛る板橋を渡ろうとしたところであった。
 ラムザが先日見た地図によれば、この板橋を渡った先にムアンダのアジトがある。どうやら、用水路の向こう側は全て一味の縄張りとなっているらしい。
 そのいでたちを見れば、ベイオウーフと一戦を交えた末、エアリスの身を攫っていった者たちに違いない。
「貴様ら……」
「ウルフさん!」
 あの時一方的に打ちのめされた借りを返さんと、剣を抜こうとしたベイオウーフをラムザが制す。さすがにベイオウーフは踏みとどまったが、その目は爛々と燃えている。
「我らはムアンダという人物に会いに行くところです。そこをどいてください」
 ラムザの要請を、先頭に立った男は鼻であしらって、
「お前みたいな小僧がムアンダと会って何を話そうってんだ? 物騒な奴らを大勢連れやがって」
「私は……」
「話すことなんてありゃしねえ! 俺たちは戦をしに行くんだ!!」
 ラムザの返答を遮ってボロヴィンが大声をあげると、それに同調するように、周囲の者たちも口々に喚きだした。こうなると、もはや威嚇しあう獣のの集団に異ならず、人間らしい言語による交渉は望めそうもない。
 罵倒の応酬の末、ついに相手が剣を抜いたのを合図に、ボロヴィン始めとするドーターの民たちは、堰を切ったように立ち塞がる集団に打ちかかっていった。
(こうなっては……)
 ラムザたちも、やむなく剣を抜く。彼らの目前では、すでに大乱闘が始まっている。
「ラムザ、どうする?」
 ディリータが判断を仰ぐ。こうして武力衝突が起ってしまった以上、混乱を鎮めるためには、怒れる民の面前にムアンダを引きずり出すしかない。
「ここを突破し、アジトへ向かう!」
「了解!」
 姿勢を低くして、若い騎士たちは暴動のさなかを突き進んでゆく。
 敵は思いのほか多く、用水路の向こうからも騒ぎを聞きつけたムアンダの一味が数名駆け寄ってくる。
「このっ!」
「!」
 ラムザが、斧を振りかぶってきた戦士の手首をすかさず剣で薙ぎ払う。バランスを崩した戦士は、頭から用水路へ落ちていったが、ラムザは目もくれずに次々と迫りくる剣戟をかわしていく。
 合間に、目にもとまらぬ速さで彼の黄金の髪をかすめるものがある。
「矢に気をつけろっ!」
 周囲の家屋の屋根や窓から、弓兵が弩で狙っているのである。目に見える敵には弓使いたちが対応するも、走りながらではなかなか当たらない。
 物陰に隠れてしばしやり過ごしながら、ラムザは遠距離攻撃可能な弓使いや黒魔道士をこの場に留まらせ、弩を引きつけるよう命じた。そして頃合いを見計らい素早く物陰から飛び出すと、白兵部隊はラムザを先頭に、木造家屋を何層にも積み上げたような形をした建物を指して走ってゆく。
 アジトの建物は、元は貿易商の共同倉庫だったものをムアンダが引き受け、好き勝手に増改築したものである。地上に限らずあちこちに開いた入口の一つから用心深くその内部に踏み込むと、そこは木の丸テーブルと椅子代わりの樽が置かれた食堂のような部屋であった。
「──っ!」
 一瞬、机の陰で人影が動いたのをラムザは見逃さなかった。ラムザが反応するよりも早く、空気を割るような音とともに視界を奪う閃光が放たれたが、雷撃はわずかに外れ、入口の横の壁を少し焦がしただけであった。次の瞬間には、ディリータが机を飛び越えて人影に跳びかかっており、やや揉み合ったあと、彼は相手に馬乗りになってその襟首を押さえつけていた。
「こ、殺さないでくれ……」
 ディリータに組み伏された魔術師らしき風体の男は、情けない呻き声をあげて命乞いした。
「殺しはしない。質問に答えろ」
 ディリータは、あくまで事務的な調子で詰問する。
「ムアンダはどこにいる」
「お、お頭は、今はいねえ」
「いない? アジトにはいないということか」
「そうだ。今朝、さ、闘技場(サークル)に行かれたのよ」
「仲間も一緒か」
「ああ、取り巻き連中はほとんどくっ付いていったよ。いつものことさ」
「間違い無いな?」
 男は何度も頷いてみせる。ディリータは、掴んでいた襟首を掴みあげると、男をその場に無理矢理起たせ、強引に壁に押し付けた。すかさず工術士のリリアンが駆け寄ってきて、男の手足を頑丈な縄できつく縛りあげてしまった。
 男が身動きとれなくなったのを確認してから、ディリータはラムザの方を振り返って、
「……ということだ」
 と、眉を吊り上げてみせた。ラムザの指示を待つまでもなく、次の目標は闘技場ということになる。
 ドーターの下街には、すでにベオルブの御曹司がムアンダのアジトに踏み込んだという噂が広まっているにちがいなく、暴動をこれ以上広げないためにも、一刻も早くムアンダの身柄を確保する必要があった。現にアジトの外では、先ほど始まった乱闘にさらに人数が加わり、手がつけられないほどの激しさとなっていた。
 しかしラムザたちには、今一つ為さねばならぬことがあった。それは他でもない、ムアンダ一味の理不尽な要求に抗い、ベイオウーフの奮闘むなしく奪い去られた、かの花売りの少女エアリスの身の奪還である。
 ラムザがベイオウーフに目配せすると、彼はひとつ頷いてから、手足を縛られ床にうずくまっている男に近寄る。
「おい」
「……?」
「エアリスが……エアリスという少女が先日ここに連れ込まれはずだ」
「エアリス? はて、ここに連れ込まれる女は多いからなあ」
「減らず口をたたくな。栗毛の、十五、六かそこらの目を見張るような美しい娘だ」
「ああ、あの花売りの娘か」
 男は、何か思い出したように顔を上げ、不敵に唇をゆがめる。
「お頭は一目見て気に入ってたみたいだよ。いやあ、俺もおこぼれにあずかりたかったもんだが」
「貴様……」
「へへ、えらい強情な娘でな。──素直に股開いてりゃあんな目に遭わずにすむものを」
「……!」
 人間性を疑うような発言に周囲が息を飲む間に、男の身体は二、三エータばかり吹っ飛んでいた。
「ぐあっ!」
 壁に叩きつけられ、男は思いきり蹴りあげられた痛みにむせかえっている。「ウルフさん、落ち着いてください!」というラムザの声も、おそらく今のベイオウーフの耳には届いていない。
「エアリスは……エアリスはどこにいるっ!」
「闘技場さあ。へへっ、今ごろグールの餌にされてらあ」
「なに……!」
「お頭は嫌がる女を無理矢理犯すのはお好きでねえ。あの娘は、お頭のご不興を買ったのさ」
「下種どもめ」
 エアリスのことに関して、誰よりも重く責任を感じているベイオウーフである。彼は身を翻すと、真っ先にアジトを飛び出していってしまった。
「ウルフさん!」
 ラムザたちも、急いでその後に続いてゆく。
 どの道、目標は闘技場にある。アジトからはさほど離れていないが、そこへ向かう道々にも、自警団(という名のムアンダの私兵)とドーター市民との小競り合いがそこここで演じられていた。石ころやら甕やら鍋やら、さまざまな物が飛び交う下を潜り抜け、しばしば乱闘現場を回避するための迂回を余儀なくされながら、ラムザたちは何とか闘技場に辿りついた。
「牡羊どのが、この中にいるはずだが」
 闘技場の前にも、すでにいくつかの市民の集団がたむろしており、攻め時を窺っているようであった。この状態では、ムアンダとてたやすく逃げられそうもない。たとえうまく逃れ得たとしても、彼のアジトが市民たちに制圧されるのも時間の問題であろう。その証拠に、アジトの方角から黒煙が上がり始めている。
「いくぞっ!」
 ベイオウーフの合図とともに、若い騎士たちは闘技場への突入を開始した。




[17259] 第一章 持たざる者~24.取引
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/18 20:10
 つい先ほどまで、獣の狂宴に色めきたっていた闘技場の様相は一変していた。
 "餌場"を演じるはずだった食人鬼(グール)はすでに斃され、仕合場では、今や人獣混然となった戦闘が繰り広げられている。
 観客たちは、自分たちの席にも流れ矢が飛んでくるのにたまらず、そのほとんどが場外に逃げ出していたが、中には、これもまた一興と、ふてぶてしくも観戦を続ける者もいた。
 謎の剣士と、続いて踏み込んできた騎士の一隊によってショーを台無しにされたあげく、矢まで浴びせかけられた狂宴の主催者はというと、彼は、彼の子分ともども特別観戦席の奥に緊急退避を余儀なくされていた。
 狂宴の主催者――ムアンダは、脇に愛用のクロスリカーブを抱え、渋い顔をして座っていた。
「なんてこった……」
 そう独りごつ彼の表情は、楽しみを邪魔されたことに対する苛立ちのほかに、少なからぬ驚きもはらんでいた。
「おれの目に間違いがなければ、あの剣士は……」
「おい、ムアンダ」
 彼の取り巻きの一人が、いつまでたっても逃げる素振りも見せない首領を訝っていう。
「見たところ、奴らは騎士だぞ。ひとまずアジトに引っ返そうぜ」
「もうお遊びもしまいかな」
「え、何だって?」
「逃げたいなら好きにしろ。おれはここに残る」
「……?」
 首領の意外な言葉に、取り巻きどもは訳もわからず目を見合わせる。それから口々に、
「なに弱気を吐いてるんだ! あんたらしくもねえ」
 と、一人が言い、
「そうだっ! あのくらいの人数、なんてことはない、思い知らせてくれようぜ!」
 と、また一人が言う。
 ムアンダは、そうした取り巻きどもの熱弁にも意を介さず、
「だから、好きにしろと言ってんだろ。おれも好きなようにやらせてもらう。いつもどおりにな」
「…………」
 常は怖いもの知らずで通っているムアンダが、こうして何物かに対して気後れするような態度を見せていることに、取り巻きたちは言い知れぬ不安を覚えたようである。彼らは、それ以上ムアンダの去就にこだわることなく、めいめい観戦席から降りていった。
 結局、ムアンダの取り巻きどもは、闘技場を出たところで、場外にたむろしていた市民の集団に取り囲まれ、袋叩きにされることとなったが、独り特別観戦席に残ったムアンダは、そんな身内の不幸を知るよしもない。
 やがて、みしり、みしり、と梯子を登ってくる音がして、ヌッと姿を見せた人影を目端に捉えたムアンダは、おもむろにクロスリカーブを構え、その人影に矢先を向けた。
「歓迎されていないようだな」
 人影が言ったのに対し、ムアンダは口端をわずかに持ち上げて、
「乱入したまでは、よかったんたがな。ああいうのは、いつでも歓迎だ。だが、せっかくの"餌"を持ち逃げされちゃあ困るのよ……こっちも商売でね」
「貴様の汚い商売など知ったことか。私は騎士としての務めを果たしたまでだ」
「あんたの"騎士さまごっこ"に付き合ってやれるほど、おれもお人好しじゃあないぜ」
「…………」
「しかしまあ、本物の騎士さまのお友達ができたようで何よりじゃねえか……盗賊の親玉がよ」
「貴様は相変わらずのようだな、ムアンダ」
「おれは、今も昔も自分の好きなように生きているだけさ。そっちはずいぶんと無様になっちまったようだな――ウィーグラフ」
 人影の眼窩で、相眸がギラリと光る。並の人間ならば、竦み上がってしまいそうな気迫である。――が、流石、かつては骸騎士団の義勇兵として五十年戦争の死線を潜り抜けてきただけのことはあり、獅子を前にしても、ムアンダは臆することを知らない。
 それでも、彼のクロスリカーブはウィーグラフの心臓にしっかりと狙いを定めており、そこからは一寸の油断も隙も感じられない。
「さっきは外したが、今度はこの距離だ――あんたの首を北天騎士団に差し出せば……さて、いくらになるかな」
「悪い冗談と受け取っておくぞ」
「どうかな? たしかに、あんたはかつての戦友でもあるし、義理も無いではない。だが、おれは誰よりも手前のために生きているもんでね……手前が良い思いをするためなら、友の首を売るくらい、なんてことはないぜ」
「貴様がそうしたいのならば、そうすれば良い」
「なんだと……?」
「だが私の首をとったところで、貴様はここから逃れることはできんぞ」
「どういうことだ」
「ドーターの市民が暴動を起こしている。彼らの目標は──ムアンダ、貴様だ」
「市民が……」
「そうだ。しかも、彼らの旗印となっているのは、あのベオルブ家の御曹司だ。この上ない大義を得て、反乱軍の士気も尋常ではない。貴様の命運もここで尽きたというわけだ」
「…………」
 ムアンダの眉間が、いっそう険しくなる。むしろ、弩を向けられているウィーグラフの方が、平然と構えているようにすら見える。
「私はなにも、衆前にその身を晒して懺悔しろと言いに来たのではない。昔のよしみと頼み、貴様に協力を願い出に来たのだ」
「協力? 言っておくが、あんたの道楽に付き合うつもりはないぞ」
「結構。私が求めているのは情報だ」
「情報?」
 ウィーグラフは、大弩の存在など気にもとめず、堂々とムアンダの方へ歩み寄る。ムアンダは警戒して手に持つクロスリカーブをぐいと持ち上げたが、ウィーグラフはその矢先の真ん前で立ち止まり、ムアンダの汗ばんだ顔を見据える。
「ギュスタヴ一派に支援を行っていること、間違いないか」
「…………」
 その問いに、ムアンダは答えない。そのまましばらくウィーグラフの眸を見つめていたが、
「フッ……フフフ」
 何がおかしいのか、くつくつと笑い出したかと思うと、
「なるほどな、あんたがわざわざこんなところへ姿を現したのは、そういうわけか」
 どういう料簡か、今までウィーグラフに突き付けていたクロスリカーブをあっさり下ろしてしまう。ムアンダの心変りに、ウィーグラフも怪訝な眉をする。
「私の首を取るのではなかったのか」
「もう、どうでもいいわ」
「……?」
「あんたが、どういうつもりでここへ来たのか、確かめたまでだ」
「貴様を殺すつもりで来た、とでも?」
「まあな。さんざん、ここの貧乏人から巻き上げてきたからな……ウィーグラフ・フォルズともあろうお方が、見逃してくれるとは思えんさ」
「貴様を誅するのは市民の手だ。私の手ではない」
「そうさな……少し遊びが過ぎたようだ」
 ムアンダは、つがえていたボルトも外して、それを、トン、と床板に突き立てる。
「いかにも、おれはかつての戦友ギュスタヴにいくばくかの支援を行っていた──もっとも、おおっぴらに骸旅団への支持を表明したことはないが。つまらんことで騎士団に目をつけられてもかなわんからな──いたって内密に、物資やらなにやらを遣していたのは事実だ」
「ギュスタヴから頼まれてのことか? それとも何か見返りが?」
「いや、おれにしては珍しく、純粋に義理でやっていたことだ」
「ほう」
「戦争の時から、おれは奴に一目置いてきた。骸旅団からの誘いを一度は断ったが、それはあんたの掲げる正義やら何やらが鼻についたからさ」
 ムアンダの歯に衣着せぬ言い方に、ウィーグラフは眉の端をピクリと反応させる。が、彼の気分を害していることなど気にもとめず、ムアンダは言葉を続ける。
「ギュスタヴは純粋に戦を楽しんでいる。思想だの何だのは一旦置いて、自分のやり方がどこまで通用するのかを確かめようとしていた。おれは奴のそういうところを気に入っていた──だから、あんたらが北天騎士団に大負けしたときも、ギュスタヴの消息を尋ねて支援もしたし、奴の下にいた輩をうちで預かりもした」
 ウィーグラフ本人を前にして、ギュスタヴを一方的に擁護するような口振りである。
 よりにもよってムアンダのような無頼漢が、ギュスタヴに相当いれこんでいるという事実を知り、ウィーグラフは、内心に複雑な感情を抱いているようであった。そうした彼の心中を目ざとく見抜いたムアンダは、何か得心したようにほくそ笑んでいる。
「どうやら、獅子と狼が仲違いしたというのは本当らしいな」
 ウィーグラフは表情を固くして答えない。その反応だけで、十分な答えとはなっているが。
「ギュスタヴは何処に潜伏している?」
「奴に会って、どうするつもりだ?」
「貴様には関係のないことだ」
「そうかい。ま、それもそうだわな。おれは所詮、部外者にすぎん」
 言いながら、ムアンダは一度下ろした矢無しのクロスリカーブを構えなおし、こんどは彼の目の前にある木の支柱を的に見立てて狙いをつけている。
「いちばん最後に物資を送り届けた先は──アザラーンの異人村の北、ゼクラス砂漠のど真ん中にある"砂ネズミの穴ぐら"だ」
「砂ネズミ……?」
「いくらあんたでも知らんだろうなあ。脚の強いチョコボと、地元民の案内は必須だぜ」
 ──砂ネズミの穴ぐら。
 そこは、ウィーグラフにとって、全く心当たりのない場所、というわけでもなかった。
 いつしか、彼は骸旅団の中心拠点をどこに置くかということについて、ギュスタヴと議論したことがあった。ギュスタヴは、浪人時代の諸国遍歴の経験から、軍事拠点としての運用に適した場所を数多く知っていた。中でも砂ネズミの穴ぐらは、北天騎士団の主要拠点からも離れており、砂漠のど真ん中という立地の特性も手伝って、隠れ家としても、また天然の要害としても、申し分ない機能を備えていた。反面、補給に難があるため、あまり多くの兵をここに留め置くことはできないとして、候補から外されたのではあるが。
「その物資を送ったというのは、いつの話だ」
「ほんの五日前さ。まだ動いちゃいないとは思うがね」
「案内というのは?」
「アザラーンに一軒だけある酒場にロウっちゅう傭兵がいる。おれの名を出せば間違いない」
「…………」
「なんだよ、嘘じゃないぜ?」
「ずいぶんと素直なものだな」
「あんたが協力してくれっていうから、素直に協力してやってるのに、その言い種はないだろ」
「まあいい。それから、いまひとつ」
「……?」
 まだ何かあるのか――とでも言いたげに、ムアンダは眉をひそめる。ギュスタヴに関すること以外に、ウィーグラフにとって有益な情報があるとは思えない。
「貴様、ヴァイス商会のもとで働いていたことがあるな」
「ああ、おれが昔世話になった人の下でいろいろやっていたことはあるが」
「ヴァイス商会とウォージリスのバート商会の間で、"石"なるものを巡り、不和が生じていると耳にした。このことについて何か心当たりは?」
「"石"? はて……バート商会なら、たしかに少し前、胡散臭い連中を大勢雇って何やら盛んに動かしていたみたいだが、直接ヴァイス商会とぶつかったという話は聞いてないな」
「では、表面的な衝突はまだ起こっていないのだな?」
「あ、そういや半年ほど前、ヴァイス商会からの依頼で、バート商会と取引しているゴーグのブナンザとかいう機工士の家に探りを入れたことはあったな」
「ゴーグのブナンザ家?」
「そうだ。その時はバート方と特に怪しい取引は無かったが、あの仕事が、あんたの言う"石"とかいうものに関係していたのかどうかは分からん」
「ふむ……」
「で、何なんだ、その"石"ってのは。お宝か何かか?」
「個人的な興味だ。気にするな」
「そうかい、ま、おれもあまり面倒なことには関わりたくないからな」
 厄介事に対する引き際をわきまえているムアンダは、それ以上下手な追及はしない。
「おれからも、一つ聞いていいか」
 と、こんどはムアンダの方から質問する。
「なんだ」
「どうしてまた、あんな小娘に情をかけたんだ? ここらの女どもは、どの道ろくな生き方はできねえってのに」
「…………」
 この時、ウィーグラフが脳裏に描いたものは何であったか。
 豊かな栗毛に白く麗しい頬の横顔。それは、今は互いに行方も知らぬ妹、ミルウーダの幼き頃を思わせるものも、あるいはあったかもしれない。
「あの娘には随分と世話になった。それに、あのような鬼畜外道の所業を捨て置くわけにはいかん」
「ははは、所詮あんたも人の子か」
「当然だ。そして人の道を外れた貴様は、その報いを受けるというわけだ」
「どうやら逃れられそうもないしな。……ま、地べたに這いつくばってでも命乞いしてみるさ」
 そう言うムアンダの顔には、これから命乞いをする人間とはとても思えぬ不敵な笑みが浮かんでいた。


 ウィーグラフと若い騎士たちの乱入で始まった戦闘は、早くも収束に向かいつつあった。
 ムアンダの部下たちは一人残らず倒され、斬られたのか、あるいは伸されただけなのか、仕合場のあちこちに転がっていた。残る牛鬼だけが、数人の騎士に囲まれながらも、手に持つ鉞を振り回しているが、こちらも相当に弱ってきているらしく、いまひとつ迫力に欠いていた。
 そしてついに、渾身の力で振り下ろされた鉞の一撃をかいくぐり、ベイオウーフ・カドモスが素早く突き出した魔法剣によって、牛鬼は耳を聾する断末魔とともに、どうとその巨体を仰向けに倒した。
「まったく、手こずらせやがって」
 ベイオウーフは牛鬼の喉首から剣を引き抜き、赤黒い血を払ってから鞘に収める。
「あとは親玉だけか……」
 そう言って、櫓の上に置かれた特別観戦席の方を見やった。そちらへは、牛鬼の相手をベイオウーフたちに任せ、さきほど、ラムザ、ディリータ、アルガスの三人が向かったところである。
 ベイオウーフがもっとも気に懸けていた花売りの少女エアリスはというと、幸いにも怪我といった怪我はなく、ただ、恐ろしい目に遭ったことでかなり気が参ってしまったらしく、リリアンとローラの手に守られながら、人気の無くなった観戦席に避難し、そこで介抱を受けていた。
 ──一方、ラムザたちは櫓の真下に来ており、特別観戦席の床下を仰いでいた。
「牡羊どのはムアンダの身を確保できたのだろうか……?」
 ラムザが言うと、はなから牡羊のことを疑っているディリータは、
「急ごう」
 と一言、さっそく梯子を登っていく。それに続いてラムザが登り、最後にアルガスが登りきる。
 屋根付きの特別観戦席の内部は少し薄暗いが、仕合場の方へ開いた窓のそばに、二人の男の姿がみとめられた。一人はもちろん牡羊で、彼の足もとに胡坐を組んで座っている南方系の大男が、ムアンダに違いない。
「遅かったな」
 牡羊がラムザの方へ歩み寄り、手に持ったムアンダのクロスリカーブを彼の手に預ける。
「ご苦労でした」
 それを受け取ったラムザが労いの言葉をかけると、彼は堅い面の口元を少し緩めた。
「この通り、ムアンダは観念している。あとの処置は君たちに任せよう」
 ムアンダは、手足こそ縛(いまし)められてはいないものの、ふてくされたような横面をこちらへ向けている。それでも、逃げ出すつもりはないらしい。
「ムアンダの身柄は、我ら北天騎士団が責任をもって拘束します。私の立場では感謝の言葉をさしあげることしかできませんが……後日、本件に関しての恩賞を求められるのであれば、必ず証言しましょう」
 ラムザの慇懃な言葉を、牡羊は自嘲気味に笑って受け流し、
「そんなつもりはない。これはあくまで個人的な用件だ」
 そう言って、ちらとムアンダの方へ目をやる。この場でムアンダが、牡羊の正体をばらしてしまうということも考えられたが、今のところそのつもりはないとみえる。いちおう釘を刺しておくこともできたが、牡羊があえてそれをしなかったのは、彼がムアンダの腹づもりをよく理解していたからであろう。
「私はこれからドーターを去るつもりだ。──エアリスにくれぐれも、牡羊が感謝していたと伝えてくれ」
「わかりました」
「またどこかで見(まみ)えることもあるかもしれん。さらばだ、ベオルブの子よ」
 そう言うと、牡羊は観客席に続く梯子を降りていった。
「…………」
 三人の中で一人、ディリータだけは、牡羊の去っていった梯子をじっと見つめていた。
「ディリータ、どうかしたか?」
 ラムザが聞くと、ディリータは友の問いには答えずに、黙然と座しているムアンダの方へ歩み寄っていった。
「あの剣士と、何を話した?」
 ディリータの問いに、ムアンダは両の眉を吊り上げる。
「何を、とは?」
「お前と個人的な話があると、彼は言っていた」
「ん、ああ、それなら」
 ムアンダは、どこか含みのある笑みを見せて、
「奴はおれの義兄弟でな。そんで、ドーターでおれが好き勝手やっているのを聞きつけて、今すぐこんな悪行は止めろと、むかし兄弟の契りを結んだ者として、おれを諌めにきたわけだ」
「…………」
「さすがのおれも、兄弟の忠告を聞いては心を入れ換えずにはおれんでな。だからここで、大人しくお縄を頂戴しようってわけだ」
 ――もっともらしい話ではある。
 たしかに、あれほどの悪逆非道をほしいままにしてきた男にしては、ずいぶんと聞き分けよく捕まってしまった感はある。それも、あの牡羊という剣士が諭したからだというのか。もし牡羊の正体がウィーグラフなのだとしたら、ムアンダとウィーグラフとは、相当深い繋がりがあるということか。その場合、ムアンダがウィーグラフの身をかばうということも当然考えられる。
 そもそも、ディリータが牡羊と名乗る剣士をウィーグラフではないかと疑ったのも、幼少時の僅かな──それでいて鮮明な──記憶を拠り所にしているにすぎない。 
 しかし、牡羊の面影が、実父の死を告げた男のものと重なったという確かな感触は、今でもディリータの内面を支配している。
「ムアンダ、あなたはこれから、民の面前で裁きを受けることになる。よろしいですね?」
 ラムザが前に進み出て、ムアンダに宣告する。ムアンダは、ラムザの碧眼をじっと見据えながら、
「裁きは甘んじて受けるつもりだ。──だが、頭に血がのぼった市民の前に引きずり出されたら最後、このおれを嬲り殺しにしなければ、連中は気が済まんだろうなあ。……それは果たして、公正な裁きといえるのかね?」
 ムアンダの言い分に、アルガスがつっかかる。
「当然の報いだろう! ここまでしておきながら、今さら命が惜しいとでもいうのか?」
「惜しいね。連中に非道いことをしたという自覚はあるが、犬畜生のように殺されるのはごめんだ」
 ムアンダのあまりにふてぶてしい物言いに、アルガスは言葉を失ってラムザの横顔を仰ぐ。ラムザもアルガスと考えは同じようで、
「お前の罪は、ドーターの民の手で裁くのが道理だ。その上で命を奪われたとしても、文句はいえない」
 ラムザの言に、アルガスも大きく頷く。
 ムアンダは、今度はディリータの方へ向いて、
「なあ、兄ちゃん。取引しないか」
 突然、こう持ちかけるのである。
「取引?」
 ディリータは、怪訝に眉をひそめる。
「そう、取引だ。おれが情報を提供する代わりに、おれの身の安全を保証してほしい」
 何を馬鹿な、とアルガスが言いだそうとするのを制して、ディリータが次を促す。
「情報とは?」
 思惑通り、ディリータが食いつきをみせたので、ムアンダは、したり顔に笑みを浮べる。
「骸旅団の親玉ウィーグラフと、その右腕、ギュスタヴについての情報だ」



[17259] 第一章 持たざる者~25.指令書
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/19 21:39
「お、出てきたぞ」
 最前より、闘技場を囲んでいた市民の一集団である。彼らが指差している方を見れば、今しがた騎士の一隊が出てきたところであった。
 ラムザ・ベオルブを先頭とし、市民たちが、これまでてぐすねひいて待っていた目標の人物――ムアンダは、若い騎士たちに囲まれ、後ろ手に縛られた格好ではあるが、その態度は捕虜とも思えぬふてぶてしさであった。彼に向けられている市民の恨みのこもった視線など、どこ吹く風といった様子なのである。
「ようよう、待っていたぜ」
 そういってラムザの前に進み出たのは、ムアンダのアジトの方を攻めていた鍛冶屋の親父ボロヴィン。長い鉄の火掻棒のようなものを肩にかつぎ、皮の前掛けは血糊やら土埃やらで黒く汚れている。
「アジトの方は大方片付いたぜ。あとは、そこにいる親玉にこれまでの罪を償ってもらわにゃならん」
 彼の左右に、この日を待っていたと言わんばかりに上気した市民たちが並び立ち、ラムザたちに迫る。
「あんたのおかげで、ムアンダの悪行もここに潰えるというわけだ。勝どきのひとつでも上げたいところだが、それはそいつをとっちめてからとしようか」
 ボロヴィンの左右も、異存はないといったふうに頷く。
「我らは務めを果たしたまでです。私などがいなくても、あなた方にはもともと現状を覆すだけの力があったということでしょう」
 ラムザがいうと、ボロヴィンは声をあげて笑い、
「実は、おれたちも驚いているところだ。今までも何度か起ち上がろうとしたが、そのたび奴らに潰されてきたからな……皆が心をひとつにできたのも、ベオルブの名あってのことだ」
「…………」
 ボロヴィンの言葉を、ラムザは頬笑みをもって受け止めた。
 ベオルブの名――そう、彼らの結束を可能にしたものは結局、畏国に轟く武門の名であって、ラムザ個人の人徳によるものではない。しかしそれは、ラムザ自身、もっともよく理解していることだし、そもそもベオルブの名を勝手に利用して市民を煽動したのは、彼自身ではなく友のディリータである。
「それじゃあ、ムアンダをこちらに渡してもらおうか」
 ムアンダを裁く権利は当然、市民にあるものとして、ボロヴィンが手を差し出す。しかしラムザは答えず、代わりにディリータが前に進み出る。
「それはできない」
 ディリータがきっぱりそう言ったのを、ボロヴィンは悪い冗談と受けとめたように、左右と示し合わせる。
「そいつはいったい、どういうことで?」
 ボロヴィンは、こわばった笑みをディリータに向ける。
「だから、あなた方にムアンダの身柄を渡すつもりはない、といっている」
 さっきまで純粋な期待感に包まれていた雰囲気は一転、険悪な感情が場の空気を支配する。
「どうして……おれたちがそいつに、どれだけ苦しめられたか分かっているのか!」
 市民の一人が、堪らず声を上げる。「そうだ! そうだ!」と、周りも同調する。ディリータは動じることなく、言葉を続ける。
「ムアンダは我ら北天騎士団が拘束した。よって、この者が法のもと、厳正なる裁きを受けるまで、我らが責任をもって護送する」
「おいおい、ムアンダの一味を追い詰めたのはおれたち市民だ。それなのに、肝心のムアンダを自分らの手柄とばかりに持っていこうってのかい?」
 ボロヴィンが、ディリータの鼻面に指を突きつけていう。
「あなた方に協力を要請した覚えはない。我らは北天騎士団総帥直々の命により、ドーターを荒らし回っている不逞の輩を取り締まるため、この地に派遣されたもの。その任務を遂行したまでで、あなた方の私情などは、もとより我らの感知するところではない」
 とりつく島もないディリータの言葉である。ボロヴィンは苛立ちの感情を、こんどはラムザの方へ向ける。
「これが、あんたの考えかい? ベオルブの御曹子さんよ」
 ボロヴィンの鋭い視線を冷静に受け止めながらも、ラムザの表情には、どこか心苦しさが滲み出ていた。
「ディリータが申し上げた通りです。あなた方のお怒りはもっともなことですが……しかし、今は堪えてください。この男は厳正なる裁きにより、きっと相応の報いを受けることになりますから」
 市民が、大義ここにありと頼んだ旗手の口からこう言われては、さしものボロヴィンも怒りのやり場がない。
「そんなバカな……」
 甚だ憤慨した様子で、
「今ごろになってのこのこ出てきやがって……任務だか何だか知らんが……おれたちは長い間辛苦を嘗めてきたってのに、その間、あんたらがいったい、何をしてくれたってんだ?」
「…………」
 ラムザには申し開きの辞もない。ボロヴィンの言うことは、いちいちもっともなことであった。
 全ガリオンヌ領の治安を司る北天騎士団とはいえ、領内にあまねくその監視の目が行き渡っているかといえば、現に、ここドーターの下街のような社会の底辺では、ムアンダ一味のごとき無法者の徒党が、自治の名目で暴虐を欲しいままにすることなどは珍しくもなかった。
 ラムザは以前、イグーロスへの捕虜護送任務の途中に立ち寄った"蛇の口"なる集落でも、盗賊の略奪に苦しめられていた民の実態を目の当たりにしているが、ここへきて再度、騎士団の盾の全能ならざるを認識させられることとなった。
「けっ、天下の北天騎士団といっても、所詮は貴族の番犬か。おれたち貧乏人が生きるも死ぬも、奴らの知ったことではないのさ」
 市民の群衆を後に去っていく騎士たちの背に向かって、ボロヴィンが恨み言を吐く。彼らの中に、もはや自らの手で自由を勝ち取ったという自負は無かった。
 革命といってもいいほどの大事を成し遂げながら、しかし彼らには、北天騎士団に刃向かってまで仇敵の身を奪おうという勇気は起こらなかったのである。
 かくして、市民による八つ裂きの運命を逃れたムアンダの、その余裕ぶりときたら、彼を護送していくラムザたちが、王の侍従か近衛騎士かとみえるほどであった。
 ムアンダが身の安全の保証と引き換えに提供した情報――それは、骸旅団の首魁ウィーグラフ・フォルズと、ランベリー領主エルムドア候誘拐の主犯ギュスタヴ・マルゲリフの動向に関する、きわめて重大な手掛かりであった。
 ギュスタヴ・マルゲリフはゼクラス砂漠にある"砂ネズミの穴ぐら"なる隠れ家に潜伏中、さらに近日中、ウィーグラフ・フォルズがその隠れ家に現れるという。そして、ラムザたちの任務に協力し、ついさっきまで目の前にいた牡羊なる騎士こそが、他ならぬウィーグラフ本人であった――
 ムアンダのもたらした情報が確かならば、これは北天騎士団の臨時要員にすぎぬラムザたちには手に余る案件である。
 あとは情報の信憑性についてだが、これには一応、考慮すべき裏付けが無いではなかった。
 それとは、ディリータの胸の内に秘匿されていた、彼の幼少時の記憶であった。


「ちょっと、すぐには信じがたいけど……」
 夜も更けた頃。ドーターの市街区(アッパータウン)にある、貿易商の営む比較的大きな宿屋を北天騎士団の権限で貸し切って、ラムザたちはここに一旦足を留めていた。
 士官候補生たちは随時休息をとっており、ラムザとディリータは今、燭台の置かれた卓を挟んで向かい合いに座っていた。
 ディリータから今しがた、彼の故郷に父の死の知らせをもたらした骸騎士団の帰還兵と、かの牡羊なる剣士が、よく似ていたということ、さらには、その帰還兵が自らウィーグラフ・フォルズと名のったという、彼の幼少時の記憶の一端を聞かされたところである。
「君の思いこみ、なんてことはないんだよね?」
「ああ、間違いないさ……あの日のことは、けっして忘れない」
 ディリータの掌には、出立の日にティータから託された実父オルネスの形見の小刀が握られていた。その小刀を亡き父より託され、故郷に残されたディリータとティータのもとに届けた骸騎士団の騎士こそが、あのウィーグラフ・フォルズなのだという。
「じゃあ、最初から君は牡羊どののことを疑っていたわけだ」
「まあな。しかし、相手がもし本当にウィーグラフだったらと思うと、下手な詮索はかえって危険だと思ったんだ。いずれ君にも話そうとは思っていたが、結局今ごろになってしまった」
「でも今は、ムアンダからの証言を得た。骸騎士団で活躍していたウィーグラフが、君のお父上と戦場で知り合っていたとしても不思議じゃないし、幼い頃の記憶とはいえ、ディリータが確かだというのなら、僕はそれを信じるよ」
 そう言って微笑むラムザの表情に、不満の色はなさそうである。
 ムアンダより持ちかけられた取引に、いちどは難色を示した彼であった。ムアンダの話が真実かどうかも疑わしいし、ムアンダの罪は市民の手で裁くのが妥当だと彼は考えていたのだ。
 しかし、情報の正確性について妙に確信を持っていたディリータに諭され――その根拠はたった今彼の口より明かされたのであるが――さらにはアルガスまでが、主君を拐かしたギュスタヴの名を聞くや、にわかに意見を翻し、ウィーグラフを追うようラムザに迫ったために、さすがの彼も事の重大さを受け止め、情報と引き換えにムアンダの要求を呑んだわけである。
「で、どうするつもりなんだ?」
 そう言って、ディリータが両の眉を吊り上げる。
 突き放したような友のこういう物の聞き方は、何だか試されているような感じがして、ラムザはあまり好きではない。
「どうするって……」
 ラムザは口ごもり、ディリータから目をそらす。
 どうもこうも、最初にあんな取引に乗ったのはディリータの方であり、かくも重大な情報を得てしまった以上は、彼の肚(はら)も知れたものである。
 ドーターの下街全部を巻きこんだ今日の暴動といい、北天騎士団が血眼になって探している要人の情報を、ちゃっかり手に入れてしまったことといい、万事につけて、ディリータの掌の上で弄ばれているような感さえある。
 ――底が知れない。
 そういう感覚が、ディリータのことをよく知っているつもりのラムザにさえ、つきまとっている。
「明日には伝令が戻るだろう。アラグアイ本隊の指令を待って、判断はそれからだ」
「真面目なんだな」
「無茶はもう、十分やっているさ」
「手柄が欲しくないのか?」
「アルガスみたいなことを言う」
「ははは、あいつはもう、砂漠に行くつもり満々だけどな」
「早まったことをしないよう、君も注意しておいてくれ」
「分かってるよ」
「僕は一眠りする。君も早めに休んでおけよ」
「ああ、おやすみ」
 ラムザは寝台に就くべく、食堂を出た。廊下を歩いていると、突き当たりにある階段から、ちょうど誰かが降りてくるところであった。
 小さな燭台が足元を僅かに照らしているだけの薄暗がりにラムザの姿を認めて、はたと立ち止まったその人物の顔を見れば、アルガスである。軽鎧に身を包み、腰には剣をはき、肩より皮袋を提げている。見るからに、出立のいでたちなのである。
「アルガス! その格好は――」
「なんだラムザ、お前か」
 アルガスは、バツの悪そうに顔をしかめる。
「見てのとおり、おれはこれから砂漠に向かう」
「本気か!? たった一人で……」
「大勢で出向いても目立つだけだ。潜り込むなら一人の方が都合がいい」
「そんな危険な真似、認めるわけにはいかない!」
「危険は重々承知の上だ。こうしている間にも、侯爵さまのお命は危うくなる。金がもらえないと分かったら、奴らは平気で侯爵さまのお命を奪うだろう。そうなれば北天騎士団は、おれたちランベリーの民を敵に回すことになる。侯爵さまと好(よしみ)深きゴルターナ南天公も黙ってはいないだろうな。奴らにとっては願ってもないことだろうさ!」
「君の気持ちはよくわかるよアルガス。だけど、僕の兄は絶対に奴らの思い通りにはさせない。エルムドア侯爵の御身もきっとお救いしてみせる。だから、ここはどうか堪えてくれ」
「兄上がどんなにご立派か知らんが、これまでまんまと巻かれてきたじゃないか! だが今、おれたちは奴らの尻尾を掴んだ! こんな好機を、みすみす逃すつもりか!」
「っ……!」
 ディリータの言ったことは、どうやら正しかったようである。
 ただ、ラムザが考えていた以上に、アルガスの行動は性急であった。
 アルガスの主君に対する忠義の厚さは、マンダリアで偶然に出会った時より分かっていたこと。彼の忠心には、ラムザも素直に敬服する一方で、どうもその腹中には、純粋な忠義以外のものが窺える。
「そうだぞ、ラムザ――これはまたとない好機だ」
「……?」
 振り返ると、そこにはディリータの姿があった。アルガスとディリータの間に立って、ラムザは板挟みにされるような形となってしまった。
「このままみすみすウィーグラフを逃がすなんてのは、阿呆か能無しのすることだ。僕たちにだって、奴の尻尾を掴んでおくくらいのことはできるはずだ」
「ディリータ! 君までそんなことを……」
「役割を果たせばそれでいいのか──そう言ったのはお前だぞ、ラムザ」
「それは……」
 それは、ムアンダ一味に虐げられていたドーターの民の窮状を目の当たりにし、感情のまま口にした言葉であった。具体的な戦略や事後処理などは、頭に無かったといってよい。
 今日の一件にしても、ディリータの根回しが無ければ、正直どうなっていたかわからない。
 さらなる一大事を目前に突き付けられた今、ラムザは、自分の判断いかんによって、仲間の命運が左右されるのだということを、あらためて肝に銘じ、軽はずみな決断を下せずにいるのだ。
「ご意見番のディリータどのも、こう言っておられる。隊長どのも肚を決めたらどうだ」
「…………」
 そんな隊長の苦悩も知らず、心強い味方を得たように、アルガスはさらに強気に出る。
「おい、アルガス。おまえ独りきりで侯爵を救出しようというのは、いくらなんでも無茶がすぎる」
 さすがのディリータも、ここはアルガスの性急はたしなめる。
「手柄を立てたいのは分かるが」
「手柄? そんな独りよがりなものじゃない! 全ランベリー領民のため、おれは侯爵さまをお救いしなければならないんだ!」
 変にむきになることからも、アルガスの本心は透けて見える。没落した自家の名誉回復こそが彼の本願であり、侯爵救出などは、それを決定づける手段でしかないのだろう。
「まあ、動機は何にしても、だ……隠れ家まではどうやって行くつもりだ」
「白雪がいる! 砂漠や荒地越えなどは何ともないさ!」
「そうじゃなくて、場所も分からずに、どうやって辿りつくつもりだ」
「そ、それは……」
「それに、他領の人間とはいえ、今は北天騎士団の一員だということを忘れてもらっては困る。勝手な行動は隊全員の命を危うくする。それでも行くというのなら、少々荒っぽい手段を講じることになるが?」
「くっ……」
 単なる脅し文句でないことは、ディリータの眼を見れば分かる。ディリータが頭の切れるだけの人間でないことは、短い間にもアルガスはよく理解している。
 彼は結局、肩に提げていた荷袋を手荒く足元に下ろした。
「いいか、いつまでもモタモタしているようなら、おれはディリータを薙ぎ倒してでも行くからな!」
「理解してくれてうれしいよ、アルガス。お前も大事な戦力……いや、仲間なんだからな」
「ふん、余計な口添えはよせ。戦力で結構だ」
 つっけんどんに言い放ち、アルガスは大股に階上へと去って行った。
 その背を見送りながら、ラムザはなおも悩んでいた。
「全てはお前の決定しだいだぞ、ラムザ」
「ここまで煽っておいて……結局、僕がどう判断するかなんて、分かり切っているくせに」
 ラムザが恨めしげな視線を送ると、ディリータも苦笑いを返す。
「まあな。でも、これは本当にチャンスなんだ。兄上が、君の謹慎を解いてまでこの任に就かせてくださったのは、単に人手不足を補うためじゃない。兄上は、君を試しているんだ」
「僕を……試して?」
「そうだ。さらに言えば、ウィーグラフにしても、だ」
 ディリータは、彼が持論を弁じる時にいつもそうするように、腕組みして壁に寄り掛かる。
「奴とムアンダの関係はよく分からないが、その気になれば、彼の正体を知るムアンダを口止めすることもできたはずだ。あえてそれをしなかったのは、僕らを試しているからとは考えられないか?」
「捕まえられるものなら捕まえてみろ、ってこと?」
「まさにそれだ。ここでもたついて、再び彼を取り逃がすようであれば、北天騎士団の結束も知れたもの、という魂胆さ」
「へえ、ずいぶんと余裕なものだな」
「べつに骸旅団を擁護するわけではないが、ウィーグラフはそれだけの人物ということさ。実際、いくら僕らが若造の集まりとはいえ、追われる身でありながら、北天騎士団の手の者と分かり切った人間に手を貸したんだからな」
「まったく、あまりにも堂々としていたから、まさか、牡羊どのがウィーグラフとは思いもしなかったよ」
「並の人間ならば、あそこで逃げ隠れするのが普通だろう。そうはせず、彼はエアリスを助けることを優先した」
「…………」
 ディリータに言われてみれば、確かに、ラムザにも思うところがある。牡羊として接したかの騎士は、少なくとも、貴族の間で宣伝されているような悪人ではなかった。むしろ、我欲に溺れた盗賊のような人相は、貴族方にこそ多いのではないかとさえ、考えることもある。
 マンダリアで出会った骸旅団の女騎士──あのミルウーダほどの人物が、同志を束ねる者として彼を認めているのだとしたら、ウィーグラフとは、はたしてどれほどの器を持った人間か。
 忽然と、ウィーグラフという人物に対する興味が、ラムザの心中に湧きあがってきた。
 今一度相まみえて、お互いの立場を分かった上で、きちんと話をしてみたい。剣を交えるにしても、和するにしても、ウィーグラフ一人の意志も問い質さずにおいては、彼らの持つ不満を汲み取ることなど、永遠にできないだろう。
「──ともかく、今は本隊からの指令を待つ」
 この場では、ラムザはそう答えた。ディリータは、全て織り込み済みであるかのように、それ以上ラムザの意志を追求することはなかった。


 ──翌日。
 南中の時刻を待たずして、アラグアイ方面第八遊撃隊を率いるミランダ・フェッケラン隊長からの指令を帯びたカマールが戻ってきた。
 ラムザはその書状を開き、内容を検めた上、簡単なミーティングを催してから、さっそく出発の指示を出した。
 ラムザ隊の次なる目標はすなわち──砂ネズミの穴ぐらである。
 昨日の彼の渋り様は何だったのか、きわめて迅速な判断であった。
 それというのも、ミランダ隊長からの指令は、彼らの去就を決するに当たり、まったく用を為さなかったのである。
 指令内容の一端には、こうある。
「ドーターにてウィーグラフと思われる人物に接触したとの由、当方では真偽を判断しかねる。現在、我がアラグアイ方面第八遊撃隊は骸旅団のゲリラ部隊と交戦中、その規模・統制から判断するに、ゲリラ部隊の背後にウィーグラフ・フォルズありとの見方強し。併せて確証の得られたる後、しかるべき対処を検討するものである──」
 この内容を見たディリータなどは、
「何だこれは」
 と一言、呆れを通り越して、書状を破り捨ててしまいそうなほどの怒りに震えていた。
 つまるところ、ミランダ隊長は、ラムザたちのよこした情報などは端から信用せず、自分たちの相対している敵の背後にこそウィーグラフはいるのだと主張しているのであり、ラムザ隊への指示に関しては、「引き続き情報収集に当たるように」とあるのみで、何ら格別の対応はしていないのである。また、"砂ネズミの穴ぐら"に関しては、おいおい北天騎士団本営に"草"の派遣を要請するとあるだけで、こちらも迅速な措置とは言い難い。
「ようするに、面子を保ちたいだけじゃないか」
 さすがのラムザも、これには遺憾の意を隠せない。
 もとよりラムザ隊は、ミランダ隊の配属下にあるわけではなく、名目上は、北天騎士団総帥直属部隊ということになっている。したがって、本来ならば総帥ザルバッグ・ベオルブの指示を待つべきところではあるが、そこは、「一切任せる」との特令を承っていることもあり、ラムザは気兼ねなく、「ウィーグラフ追跡及びエルムドア侯爵救出作戦」をここに開始することとした。


 ところで、アラグアイ方面第八遊撃隊を任せられている、このミランダ・フェッケランという人物。
 彼女は、代々ガリオンヌ近衛騎士隊長を輩出している武官の名門フェッケラン家の出で、女性の身ながらガリランド王立士官学校を首席で卒業、若くして北天騎士団の一大隊を任されるなど、その履歴には燦々たるものがある。
 その新進気鋭の女騎士が任されたこのたびの大役には、相当気負うところもあったのだろう。
 アラグアイの森に潜伏する骸旅団のゲリラ部隊殲滅作戦を開始してから一月あまり。
 一向に捗々しい成果を上げられず、徒に時を過ごすばかりとなっていた彼女の、唯一の心の支えとなっていたのが、「ゲリラの背後にウィーグラフあり」という、この一大目標であった。
 苦戦続きも、あのウィーグラフ・フォルズ相手とすれば言い訳もつく。もしウィーグラフの身を捕らえられれば、それこそ獅子勲(国家のための戦において、特別な働きのあった者に国王より授与される最高勲章)に値する功績となる。
 そこへもたらされたのが、ラムザ隊からの報告であった。
 こちらもまた、ガリオンヌ領の名門ベオルブ家の若君からもたらされた「ウィーグラフと接触」などという情報は、もう後がないミランダにとっては甚だおもしろくないものであったに違いない。
「我が相対する敵こそウィーグラフ」と信じて疑わぬ若き女騎士は、臨時登用にすぎぬラムザ隊を軽んじ、その隊よりもたらされた情報も、取るに足らぬものとして一蹴してしまったのである。


 ラムザは今、昨晩泊った宿からほど近い場所にある個人医の邸宅を訪れていた。
 出発前の諸々の準備をディリータたちに任せ、今は彼一人きりであった。
 ここの医者には、ムアンダの闘技場より救い出されたエアリスの看護を依頼してあったのである。
 医者は、下街の人間であるエアリスを受け入れるのを快くは思わなかったが、ラムザが軍資金の一部を切り崩してこしらえた額を提示したことで、心身回復までの入院を一応は承諾してくれた。
 ラムザが狭く陽当たりの悪い一室に入ると、部屋の半分くらいを占めている簡素なベッドに、白い布服に袖を通したエアリスが静かに横たわっていた。
 彼女の寝耳を騒がせぬよう、ラムザはベッド脇に置かれた丸椅子に腰かけた。すると、人の気配に気づいたエアリスは薄目を開き、わずかに首をこちらに向けた。
「あれ、ウルフさん……?」
 か細い声で、エアリスが言う。
「違うよ、僕はラムザという者だ。起こしてしまってすまないな」
 ラムザはにこやかに答えた。今この場に姿は見えないが、ウルフにはエアリスの付き人を頼んであったのだ。
「あ、あなたが」
 エアリスは目の前にいる人物がラムザだと知って、あわてて身を起こそうとした。
「かまわないから、横になっていてくれ」
 ラムザが制止しても、エアリスは半身を起こし、
「ウルフさんから、あなたが私をここに預けてくださったと聞きました。もう、何とお礼をすればいいのか……」
「お礼なら、僕じゃなくて、ウルフさんや牡羊どのにするべきだ。牡羊どのも、あなたに感謝していたよ」
「おじさんが? おじさんは、今どこに?」
「彼は昨日ドーターを去ったよ」
「そう、お別れを言いたかったわ。怪我はもう良くなったのかしら」
「…………」
 エアリスは心底牡羊の身を気遣っているようにみえる。
 ウルフには、牡羊の素性についてはエアリスに何も伝えないよう言ってあるが、たとえそれを知ったとて、態度を翻すような邪(よこしま)さも、エアリスは持ち合わせていないようであった。
 それだけに、ウィーグラフという人間の一面を垣間見るのに、エアリスの素直な感想を聞いておく価値はある。
「牡羊どのは、いつからあの礼拝堂に?」
「ええと、一月くらい前だったかしら。いつものようにお花の世話をしに行ったら、知らない人がいて。それ で、怪我をしていたから、傷によく効く薬草を分けてあげたの」
「それからは、ずっとそこに? 君が世話をして?」
「ええ、だいたいは礼拝堂にいたみたい。でも、お世話というほどのことはしてないわ。私の持っていく薬草にも、きちんとお金を支払ってくれたし。食べ物も、自分で調達していたようだし」
「どうしてあの礼拝堂にいたのかとか、話はした?」
「わからないわ。でもなんとなく、身を隠しているような様子だった。最初は正直、怖そうだなって思ったけど、私に遠慮して出て行こうとするものだから、かまわないって言って引きとめたのよ。それからは、いろいろお話をしたわ」
「それは、どんな?」
「この辺りの生活の様子だとか、草木や花のこととか、私にはそんなお話しかできないの。それでも、おじさんは興味をもって聞いてくれたし、とっても楽しかった」
 話しながら、エアリスは顔を綻ばせた。その表情は、印象的な思い出話をするときの、純真な少女そのものの笑顔だった。
 その可憐さに、ラムザは思わず息を呑んでしまった。つかのまの後、彼は我に返って質問を続けた。
「あ、えっと……彼は何か、自分のことは話した?」
「ええ、色々と。おじさん自身のことというよりは、故郷の話とか、家族の話とか、そういったものだったけど」
「家族?」
「そうよ。妹さんがいるんだって。今は離ればなれになっているみたいで……とても心配しているようだった」
「そうか……牡羊どのに、妹が」
 ラムザは視線を落とし、心はどこか、遠い場所に惹かれていった。
 ウィーグラフとて人の身である以上、肉親はあっても不思議ではない。それでもラムザが意外に思ったのは、ウィーグラフにもまた、憂うべき妹という存在があり、自分との共通点を持っているということだ。
 かといって安易に親近感を抱けるほど、ラムザはまだ彼のことを知らなかったが、世間では、ある種の超人として扱われているウィーグラフが、妹に煩悩する姿など、ちょっと想像に難いものがある。
「ありがとう。無理にいろいろと聞き出してすまなかった。──その後、調子はどうかな?」
「おかげさまで、だいぶ落ち着いてきたわ。こちらこそ、本当に、どうもありがとう」
 ちょうどそこへ、外出していたウルフが、果物やパンの詰め込まれた袋を抱えて戻ってきた。
「おや、ラムザくんが来ていたのか」
 ベッド脇の小机に食糧を置き、ウルフは二人の顔を交互に見た。
「見舞いか? ムアンダの件はもう大丈夫なのか?」
「ええ、市民の混乱は沈静化しつつあります。ムアンダの方はまだ色々と、ややこしいのですが。ウルフさんには力になってもらって、本当に感謝しています」
「とんでもない、そもそも君らを頼ったのは、おれの方だ。こちらこそ、礼を言わなきゃならん」
「こういうときはお互い様ですよ」と、ラムザは笑顔でウルフの礼に応えた。
「──それで実は、間もなくドーターを発つことになりました。ウルフさんは今後、どちらへ?」
「ずいぶんと気が早いんだな。おれは五日後、ザーギドス方面に向けて出発するキャラバンに付いて行くことにした」
「ザーギドスへ?」
「うむ──」
 そこでウルフの言葉を引き継ぎ、エアリスが口を開く。
「あの、私、ドーターを出ようと思うの」
 ラムザは意外なことに目を見張り、エアリスの方を見る。
「……? どうしてまた、急に」
「ザーギドスに大きな薬問屋があって、そこで奉公させてもらうよう頼みに行こうかと思って。それで、私もキャラバンに付いて行くことにしたの」
 ウルフは大きく頷き、
「おれはもとより、古の聖竜を探すということ以外、これといってあてもない放浪の身。エアリスを危険に巻き込んでしまった責任もあるし、もうしばらく、護衛をさせていただくことにしたのさ」
 そういって、ウルフは自身の胸板に親指を突きつけた。
 エアリスを攫われた時にはしょげきっていたウルフが、にわかに生き生きとしてきたのも、なるほど、そういうわけかと、ラムザにも頷かれる。
 しかし、ウルフは十分信頼に足る人物だし、実力も確かである。一度はその身を危うきに置かせてしまったとはいえ、エアリスのことは彼に任せておいて、まず心配はないだろう。
「わかりました。道中どうか、お気をつけて」
「そっちも、まだ任務は続くんだろう?」
「ええ、まあ」
「…………」
 すると、何か神妙な面持ちで、ウルフはラムザの方へ額を寄せてきた。そして、声を落とし、
「なあ、この前、おれがレウスの山で骸旅団のミルウーダに偶然再会した話をしたろう?」
「ミルウーダ──」
 ラムザは、いつも心のどこかで引っかかっている名を聞いて、眉を開いた。
「たしか、彼女は味方とはぐれていると」
「そうだ。それに、年端もいかない黒魔道士の娘を連れて、まだ戦う気でいるらしい」
 ウルフは、ふうと大きくため息を吐く。
「おれは別に、骸旅団に肩入れしているわけではないと、あらてめて言っておくが──」
「それは、分かっています」
「戦の趨勢は、誰がどう見たって明らかだ。ウィーグラフの尻尾も掴んだことだし、骸旅団が壊滅するのも時間の問題──だがきっと、あいつは最後まで戦い抜くつもりだろう」
「…………」
 ラムザはマンダリアの砦で目にした、あの堅い意志を纏った横顔を思い出していた。それは、どこか儚げな、美しい線を描いていた。
「もし戦いの中で彼女と出会うことがあれば……お前の力で、何とかしてやれないだろうか」
「戦をやめるよう、説得しろと?」
「うむ。それができるのは、お前だけだ」
「貴族である僕の言葉など──聞いてくれるでしょうか?」
「お前の言葉なら、きっと彼女の心に届く。こんな馬鹿げたことはやめろと、そう言ってやってくれ」
「…………」
「頼んだぞ」
 そう言ってラムザの肩に置かれたウルフの大きな手の重みが、医者の邸宅を出てからしばらくたった今も、まだ残っているように感じられた。
 ドーターでの出来事は、剣と血の中に我が身の置かれていることを、否応なく実感させるものであった。
 そしてこの先、自身の迷いが、望まぬ者の流血を生みかねないことを、ラムザは密かに恐れているのだ。



[17259] 第一章 持たざる者~26.来客・上
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/07 19:08
 三月前、レアノール野決戦における大敗で散り散りとなり、一時はそのまま歴史の藻屑となって消え去るかと思われた骸旅団の諸勢力は、なおしぶとく、今や局地的な反抗でも、無視できないほどの数と規模になっていた。
 アラグアイの密林にて、北天騎士団の新鋭ミランダ・フェッケラン率いる遊撃部隊を散々手こずらしているゲリラ部隊などは、まさにそうした局地的反抗勢力の一角であるし、その統率力の背後には、失踪中のウィーグラフ・フォルズがいるに違いないなどという憶測が、まことしやかに囁かれていた。
 加えて、悪徳官吏を捕縛して身の代を要求したり、騎士団の拠点に焼き討ちをかけたりといった小事件が度々報告され、それらの対処に回す人員の不足が、いよいよ浮き彫りとなってきていた。
 やむを得ず、ザルバッグ・ベオルブ将軍は傭兵部隊を動員し、事態の収集に充てた。背に腹は変えられない。とはいえ、彼らに支払う報酬は当然ガリオンヌ領府の財政を圧迫する。すると、資金繰りのための増税が重ねられる。そのたび、領民の不満は募る。民の不満に乗じて、骸旅団はますます増長する――
 負の連鎖が、ここに生じてきた。
 ウィーグラフの蜂起からレアノール野決戦までの一連の戦いのような、戦らしい戦はほとんど無いものの、かえってその事が、総帥ザルバッグの頭を悩ませていた。
 今の状況も戦には違いないが、騎上にあって剣を振るうには無双といえる彼の武勇も、この種の戦には用をなさない。いっそ大挙して押し寄せてくれた方が、彼にとっては都合がよいのである。しかし骸旅団の動きは、この点において以前とは全く違っていた。
 骸旅団は今や、かつてのウィーグラフ軍のような一大勢力を持たない。その代わり、規模の上では遥かに小さな勢力でも、突発的かつ予測不能な作戦を展開し、北天騎士団を翻弄した。
 こうしたやり方が、誰かの指示によるものなのかは定かでない。むろん、そこには砂ネズミの穴ぐらに潜伏中のギュスタヴ・マルゲリフの意志が少なからず働いていたが、かといって、彼の意志があまねく各地の骸旅団勢に行き渡っていたとは考えにくい。さながら、頭をもがれた蜘蛛が、手足だけで這い回っているかのようであった。
 はたして、蜘蛛の手足を動かす養分は、どこから摂取していたのか。
 ランベリー領主エルムドア侯爵の命という最大の切り札を突き付け、一挙に大金を得んとするギュスタヴの策略以外にも、ドーターのムアンダのような、骸旅団外の者からの影の支援も案外に多かった。何より、戦を糧とする武器商人の類は、骸旅団を格好の取引相手とし、格安の値で武器の提供を行っていた。
 単に支持者という意味では、たびたび骸旅団と称する賊徒による略奪に苦しめられ、これを恨みに思う者たち以上に、為政者より課せられる理不尽な苦役に反抗すべく、骸旅団を今生の頼みとする窮民は、さらに多かったようである。
 ともかくも、彼らの活動において、実質の支援というものが、説得力のある大儀よりも差し迫った問題であることは、隠れなき事実ではあった。
 そして、そのことを誰よりもよく理解していたのが、ギュスタヴ・マルゲリフであった。
 彼もまた一端の思想家であり、また憂国の志士でもあったが、それ以上に、一貫した現実主義者であった。
 "生なくして志なし"というのがギュスタヴのモットーで、彼に言わせれば、どんなにご立派な思想も、日々食いつなぐ糧に値するものではないのだ。そうした現実主義から導き出される方法論が、これまでウィーグラフの足りない部分を補ってきたともいえるし、一方で、ウィーグラフの掲げる方針と真っ向から対立することもあった。
 現にウィーグラフの理想主義が失敗に終わった今となっては、ギュスタヴの現実主義に寄せられる信頼も大きい。かといって、自身の実力を過信することも彼はしなかった。
 同志の内ではウィーグラフ不用論もすでに盛んだが、一人ギュスタヴの中では、まだウィーグラフに対しての評価は変わっていないのだ。それとて、古くからの戦友を贔屓しているわけでは決してなく、客観的に見て、自身に足りないものをウィーグラフもまた持っているのだということを、素直に認めているからにすぎない。
 だから、こうして一月あまりの時間を乾ききった荒野の真ん中で雌伏の時に費やしている間も、
(金を手に入れた暁には、ウィーグラフとともに再起の旗を)
 と、彼一人は律儀に考えていた。砂ネズミの派閥の中でも、
「ウィーグラフはもはや、死んだも同然」
 とする者は多くあったが、ギュスタヴは決して、それらの意見に心から同意することはなかった。
 そういう彼の煮え切らない態度を、腹心の部下であるゴラグロス・ラヴェインさえも歯痒く思っていた。
「ギュスタヴのやり方は、誰もが認めている。彼に比べれば、ウィーグラフなどは威勢の良い獣(ケダモノ)にすぎん」
「そうよ、その威勢すらも無くした今となっては」
「ギュスタヴこそが同志を率いるに最もふさわしい者だと、皆が言っている」
「彼にその気はあるのか」
「さあな。奴には奴の考えがあるんだろうが……」
 今、ゴラグロスと、モンク隊を率いるカッツォという名の男の二人は、照りつける真昼の日射しを避けて、皮張り屋根のテントの下に座りこんでいた。二人が視線を送る先には、先ほど到着したばかりの荷車を検めるギュスタヴの姿があった。
「ギュスタヴはこれからどうするつもりなんだ?」
「侯爵の身代金が手に入れば今の状況も変わる。そうすればいよいよ、我らが骸旅団の中心勢力となり、ギュスタヴは名実ともに骸旅団を率いる者となる」
 ゴラグロスは立ち上がると、テントを出て、ギュスタヴのもとへ歩いて行った。


「ジークデンの方は、はかどっているようだな」
 ギュスタヴは荷車に積まれた樽から何やら黒い物体を取り出し、それを片手に持って眺め回している。それは、東方の妖術師老ヤンに造らせていた"爆弾"であった。荷車は、現在その製造工場となっている北のジークデン砦から"爆弾"の試作品を運んできたのである。
「これらは、どこへ?」
 御者の男がギュスタヴに訊いた。
「そうだな、なるべく湿気の少ないところがいい」
「それじゃあ、西の食糧庫にでも。──今はほとんど空だしな」
「うむ、そうだな。そこがいい」
 言いながら、ギュスタヴの眉が少し曇る。食糧庫に向かう荷車を見送りながら、彼は後ろ頭を掻いていた。
「例の"爆弾"か?」
 ゴラグロスが、ギュスタヴのほうへ歩み寄って訊いた。
「ああ。試作品がジークデン砦から届いたところだ」
「なるほどな」
 ゴラグロスは溜息をついて、落胆したように肩を下げる。
「でも、爆弾は食えないよなあ」
 そう呟いたゴラグロスの方をギュスタヴは横目でちらと見遣り、「うーむ」と低く唸った。
 砂ネズミの穴ぐらに潜伏を始めてから一カ月余り。その間、彼らがどうやって食いつないでいたのかといえば、野生のチョコボを狩ったり、ベヒモスの固い肉でこしらえたステーキを食べたりなどはしていたが、もともと食糧庫にあった干し果やら小麦やらの保存食に、だいぶ助けられもしていた。水は古井戸から調達できるとして、もうひとつ欠かせない食物である"塩"は、海の方、すなわちドーターの港町からの支援に頼ってきたのである。
 その"塩"を含め、かなりの分量の食物を工面していたのが、かつての骸騎士団の同胞、ムアンダであったのはいうまでもない。
 その支援物資が、ここ数日ぱったりと途絶えていた。
 そんなところへ、「ドーターにてムアンダ捕われり」との情報が聞こえて来たのは、つい昨日のこと。もともと蓄えてあった糧食はすでに尽きはて、これまでの支援物資から余分にとっておいた分も、残すところあと僅かとなっていた。
 狩りをするにしても、もとよりここは砂ばかりの荒地。獲物はけっして多くはなく、労力の割に安定した成果は見込めない。
 ──そして、何より。
 ムアンダが北天騎士団に捕われた以上は、この隠れ家の存在が彼らの知るところとなったとみてまず間違いない。
「これからどうする?」
 ゴラグロスが傍らのギュスタヴに問いかける。ギュスタヴの視線も、今は遠い。
「食い物が無い。たしかにそれは現実問題だ──そしていま一つ」
「身代金か」
「…………」
 ギュスタヴは無言で歩きだす。ゴラグロスもその後に続く。
「身代金引き渡しの期限まであと三日。少なくともその期日までは、ここに留まらねばならん」
「その間に、地下の侯爵どのがくたばっちまわねえか?」
「いや、それが、まったくもってお健やかでおられる。ろくに食事もとっておられぬはずだが……さすがは、"銀髪鬼"の異名を馳せたお方なだけはある」
「ふむ。で、イグーロスのダイスダーグからは何の音沙汰もなしか」
「ああ。ぎりぎりまで侯爵奪還をあきらめないつもりなのか、それとも、とっくに見切りをつけているのか――」
 二人は、この隠れ家に一つだけある井戸の前に来て、順番に喉を潤した。
「しかし、この場所がバレちまった以上は……」
「相手の出方による。それに、この場所が北天騎士団につきとめられたと決まったわけではない。まあ、あのムアンダが義理堅く口を閉ざすとも思えんが」
「どっちにしろ、長居はできんだろう。食糧をやりくりするのにも限界があるし、もういっそのこと、侯爵を殺(や)っちまって……」
「それで?」
 ギュスタヴが、冷たい視線を投げかける。その眼を見て、ゴラグロスは少したじろいだ。この計画の完遂を危ぶむ本心が、ふと口をついて出てきてしまったのである。
「いや、なに、侯爵が殺されれば、北天騎士団の面目は丸つぶれになる! それに、前にお前が言ったとおり、エルムドア侯爵と縁深い南天公が、これを口実に北天騎士団に戦をふっかけるということも十分考えられる!」
「それはあくまで希望的観測にすぎん。たしかに、王の後見人争いは表面化しつつあるが、現国王存命中の今では、すぐさま戦になるとは限らん。そしてお前は北天騎士団の面目を潰せると言うが、少なからぬ畏国の民は、誉れ高きエルムドア候の命を奪った卑劣な輩と、我らを謗るであろう」
「侯爵を攫った時点で、おれたちに面目も何もなかろうが!」
「だからこそ、侯爵どのは生かしたまま、身代金の獲得を第一に考えねばならんのだ!」
「…………」
 ゴラグロスは言葉を呑んで、ギュスタヴの顔を見つめた。ゴラグロスの眼にも、骸騎士団以来絶大なる信頼を置いてきた同志が、人並み外れた智謀で骸旅団を影から支えてきた男が、これまでにないほど追い詰められているのが分かった。
 正直なところ、身代金獲得の見込みは薄いものと、ゴラグロス自身も考え始めているところなのだ。しかしそのことは、だれよりもギュスタヴが最もよく理解しているのではないか。にもかかわらず、彼が身代金にこだわるのは、他に有効な手だてが無いということの証左なのではないか。
 そう考えてみたところで、ゴラグロスの手中に、指すべき次の一手があるわけでもなく。
「じゃあ、"穴ぐら"を捨てる気は無いんだな?」
「今のところはな。わざわざ敵の網に掛かりに行くこともあるまい。仮に囲まれたとしても、ここには十分な備えがある」
「そして最期には枕を並べて、か?」
「犬死にするつもりはない。あくまでも、生き残るつもりで戦っている」
「それは、そうだが……」
 ゴラグロスは暗澹たる気持ちを抱きつつ、井戸の底の暗闇に目を落とした。
 ──全ては、あのレアノールでの敗北で決していたのだ。どうあがいても、骸旅団は滅びゆく運命(さだめ)にある──
 現実の囁きが、否応なく耳を聾するたび、それでもギュスタヴならばと、ここまで付き従って来たゴラグロスなのである。骸旅団を率いるべきは、ウィーグラフではなく、ギュスタヴであると──そう信じて疑わない彼だけに、その男が目の前で明らかに憔悴しきっている様を見るのは、辛いものがあった。
「ギュスタヴ」
「なんだ」
「お前は……」
 ゴラグロスは、井戸の底から視線を上げ、傍らのギュスタヴに目を向ける。
「お前はまだ、諦めてないんだな?」
「…………」
 ギュスタヴは何も言わずに釣瓶を引き上げ、水をひとすくい、喉を鳴らして飲んだ。それから、口元にこぼれた水を手で拭い、
「当然だ」
 と、彼はきっぱり答えた。
 それは、ともするとただの強がりに聞こえなくもない言葉であった。しかし、今のゴラグロスにとっては、十分な答えには違いなかった。
「そうか」
 その一言にささやかな勇気をもらった気がして、ゴラグロスは一つ、大きく頷きを返した。
「頼りにしてるぜ」
 同志の言葉にギュスタヴも微笑み、小さく頷きを返す。
「おい! ギュスタヴ!」
 その時、テントの方から、モンク隊のカッツォが何やらひどく慌てた様子で駆けてきた。
「いったい何事だ?」
 ゴラグロスが、カッツォのただならぬ様子を見ていう。カッツォは、二人の顔を交互に見ながら、息を調え、
「ウィ、ウィーグラフが来た!」
 と、その急を告げた。
「……!」
 思いもよらぬ来客の知らせに、ギュスタヴとゴラグロスの二人は目を見交わし、つかの間、ただ唖然としていた。その隙間を、乾いた砂埃が、びゅうと吹き抜けていった。



[17259] 第一章 持たざる者~27.来客・下
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/19 23:22
 その来客を、酒場にたむろしていた輩は、一様に不審の目で見た。といっても、特別その客の何が不服というのではなく、彼らは誰しも、見慣れぬ者に対しては同じような態度をとるのである。
 来客の男は、一見して放浪の騎士か、傭兵か、いずれにせよそういった血なまぐさい類の人間に思われた。
 酒場は、よろずの儲け話を紹介する斡旋窓口も兼ねており、その男もまた、そうした仕事を引き受けにきた者であろう。他の客たちは、やがて興味を失い、各々もとの雑談や賭博の興に戻っていった。その中でただ一人、酒場の隅の席に座り、薄汚れたフードを被った男だけが、パイプの煙の陰から、来客の挙動にじっと目を注いでいた。
 客の男は、まっすぐカウンターに近づき、店の主を呼んだ。主が「ちょいと、お待ちを」と、他の客に酒を出している間に、男は外套に付いた砂埃をはたき落していた。男の肌は、荒地渡りの所為か少しばかり日に焼けてはいたが、その顔は紛れもなく、数日前にドーターを発って以来、一路ここアザラーンの異人村を目指してきたウィーグラフ・フォルズその人なのである。
「始めて見る顔だな」
 目を上げると、そこには店主の浅黒い髭面があった。頭に白いさらし布をぐるぐると巻きつけているのは、この辺りの男たちが皆そうしているように、アザラーンの地に住み着いた異人たちの風俗なのだろう。こうした風体の男は、ドーターの港町でもちらほら見かけたものだ。彼らもまた、南の海を越えた先にある遥かな大陸より、野心を抱いてイヴァリースの地に渡来してきた者たちなのである。
「見たところ傭兵か何かのようだが、酒か? 儲け話か? それとも両方か?」
「人を探している」
 ウィーグラフは手短に切り出した。
「ロウという名の傭兵がここにいると聞いてきた」
「えっ、するってえと、あんた、ムアンダのお使いか?」
「使いではないが、そのロウなる男に道案内を頼みたい」
「ムアンダのお知り合いってなら悪いようにはしねえが、あいにく、奴は別の儲け話に出払っていてね、順調なら、明日には戻ってくると思うが……」
「そうか、ならば明日、改めて伺うとしよう」
「あ、ちょっ……」
 ウィーグラフはそれ以上余計な会話をする気もなく、さっさとカウンターを離れた。名前までは明かさずとも、骸旅団との関わりを必要以上に勘ぐられるのは、何かと憚られた。
 ウィーグラフが店を出た後、先ほどからその様子を窺っていたフードの男は、そっと席を立ち、すぐ彼の後に続いた。


「そこの御仁」
 露店が軒を連ねている往来を抜け、脇道に入ったところで、ウィーグラフは背後から呼びとめられた。顧みると、フードを被った長身の男の姿がそこにあった。
 実のところ、酒場に入った時から妙な視線は感じていたし、自分の後をつけてくる者があるのにも気づいていたウィーグラフではあったが、向こうから接触してくるまで、あえて放置しておいたのである。
 ドーターで逢ったベオルブの御曹司を軽く弄ぶつもりで、自分の素性と行く先については、ムアンダを特に口止めしておくこともしなかったが、その情報が伝わって追手が差し向けられたとしたら、彼の想像以上に迅速な対応といえる。だが、最悪の場合の心構えも、彼はとうに出来ていた。相手の出方によっては、少々周囲の目につく措置も辞さないつもりでいる。
「何用か」
 用心深くウィーグラフが問うと、男はフードを払い、素顔を陽光のもとに晒した。
 見たところ、中年というには少しばかり早いかと思われるくらいの歳格好である。なかなか隙のなさそうな面構えではあるが、何より、眉間から左頬のあたりにかけて刻まれた古傷が目を引く。立ち振る舞いからしても、それなりの心得のある者には違いなく、外套の陰から、腰に佩いた長剣(ロングソード)の柄が少し覗いている。
「ひょっとして、"砂ネズミの穴ぐら"に向かわれるので?」
「……!」
 ウィーグラフはピクリと眉の端を震わせた。これはいよいよかと、注意深く相手の動きを見ていたが、意外なほど不用心に、男はつかつかとウィーグラフの方へ歩み寄ってくる。
 ウィーグラフが何も答えずにいると、男は彼の二、三歩手前で立ち止まり、
「案内が必要とあれば、この私が承る所存だが」
「……?」
 男の提案に、ウィーグラフは少なからず困惑した。こんなことを言い出すからには、とりあえず騎士団の手の者ではないということか。にしても、"穴ぐら"までの案内を引き受けることになっているロウなる傭兵は、現在他の用件で出向中との話であった。
「どうしてそのことを?」
「いやなに、酒場の主から、聞いたものでね」
「では、貴様がロウか?」
「うん、まあ、そう呼んでもらって構わないが」
「…………」
 この男が、そのロウなる傭兵なのだとしたら、店主の話と噛み合わない。だいいち、店で感じた視線が彼のものだったとしたら、ロウはもともとあの場にいたことになる。
 色々と腑に落ちない点はあるが、ひとまず、ウィーグラフはロウと名のるこの男から話を聞くことにした。
 二人は連れたって、往来の雑踏に戻っていった。日は地平に近づきつつあったが、まだまだ人通りは多い。アザラーンは、魔物狩りや古代の遺跡に眠る財宝目当てにゼクラス砂漠を目指す冒険者たちの拠点となっており、街の規模の割にはけっこうな賑わいをみせている。現に、二人がこうして通りを歩いていくうちにも、さまざまな武器防具をみにつけた戦士たちと何度となくすれ違っている。
「"穴ぐら"へ向かうからには、砂漠でひと儲け、というわけでもないんだろう?」
 ロウが訊ねるのを、ウィーグラフはうんともいやとも応えない。彼のそういう態度を、ロウの方も別に気にかけることはしない。
「まあ、あれこれ詮索するのは傭兵家業の主義に反するがね。出発はいつごろに?」
「早ければ早いほどいい。別に今すぐにでもかまわん」
「ふむ、お急ぎのようだが、それなりの備えというものが必要だぞ。分かっているとは思うが」
「ならば、さっさと済ませるまでだ。目的地へはどれくらいで着く?」
「順調に行けば、チョコボの脚で一日とかかるまい。せいぜい、ベヒモスに出くわさないことを祈るまでだ。最近、"鳥喰らい(チョコボイーター)"種が増えているそうでね」
「魔物などは問題ではない。貴様がきちんと案内さえしてくれればな」
「ははは。了解、了解」
 二人は"鳥屋"でチョコボ二頭を借りつけ、その背に水やら食糧やらを積み込んだ。数日間に渡るハンティングを想定した場合と違い、装備は必要最低限である。防寒用の厚手のマントを羽織り、街の北門で、二人は騎上の人となった。すでに日は落ち、これから出発しようという集団も周囲には見られない。
「あそこに──」
 ロウが、北北東の方角、角笛座の下あたりに黒々と横たわっている岩山を指差した。
「岩山が見えるだろう。ひとまずは、あそこを目指していく。そのあとは、ちと入り組んでいてね。岩石地帯まではオアシスもないから、休まず走るぞ」
「心得た」
「では出発!」
 掛け声一つ、二騎はなだらかな乾いた岩の斜面をまっしぐらに下っていった。


 二人がアザラーンを発ってから五刻ばかりが過ぎた頃。東の空は仄かに白み始め、藍色の夜空に隈無き星々は瞬いていた。
 街の南門では、この時間には珍しく二組の集団が開門を待っていた。一つは、三頭の黄羽チョコボそれぞれにたくさんの革袋を負わせた冒険者らしき一団。もう一つは、純白の美しい羽毛を持ったチョコボを一頭引き連れた身なりの良い一団で、装備からは騎士と見られるが、どの顔にもまだ幼さが残っている。が、その中に一人だけ、どうにも顔ぶれに馴染まぬ南方系の巨漢が混じっているのが、やけに目立つ。
 やがて通行許可が下りたとみえ、両開きの門が軋みをあげて開きはじめた。二組の集団を通してから、門は再び閉じられた。
 二組はやや間を空けてしばらく同じ方向へ歩いたあと、若い騎士の集団は、街で一番大きい宿へ入っていった。もう一組の冒険者の集団は、街に一軒だけある酒場"邪道館"の前で足をとめた。
「お、戻ってきたね」
 店の前には、主の男が立っていた。
「戦果はどうだった?」
「上々だよ」
 冒険者の一人が上機嫌に答え、親指でチョコボの方を差し、宝物の詰まった袋の数を誇示する。
「おお、こりゃまたずいぶんと」
 店主は目を見開いて、戦利品をしげしげと眺めた。
「遺跡はまだ手つかずだったよ。地下にはアンデッドどもがうようよしていたが、腕のよい傭兵のおかげでなんとか切り抜けられた」
「言ったろう、ロウの腕は折り紙つきだと」
「いやまったく、報酬は弾ませてもらうよ」
 冒険者が言うと、ロウと呼ばれた傭兵の男は豪快に笑い、
「お役に立てたようで何よりだ。また儲け話があった時は、よろしく頼むぜ」
「そうさせてもらうよ。──ほれ親父さん、今回の紹介料だ」
 冒険者は気前よく、硬貨の詰まった革袋を店主に手渡す。
「これはこれは、毎度どうも」
「さっそく祝杯をあげたいところだがね、皆疲れ果てているんだ。今日のところはゆっくり眠りに就くとするよ」
「そうしたがいい。せっかく手にしたお宝を不届き者に奪われんようにな」
「心配はいらないよ。抱いてでも眠るつもりさ」
「ははは、そりゃ結構だ。今晩は極上の葡萄酒を用意して待ってるぞ」
「楽しみにしてるぜ。じゃ、また後ほど」
「はいよ、ゆっくり休みな」
 冒険者たちが去ろうとしたところへ、
「あ、そうそう」
 店主は傭兵のロウを呼びとめた。
「何だい親父さん」
「お前が出払ってるところに、ドーターのムアンダの知り合いだとかいう男が来てな」
「え、ムアンダの?」
「うむ。なんでも、例の"穴ぐら"まで案内を頼みたいと言ってな」
「そうかい、それで、その男には何と?」
「明日また来るってさ。名前もいわず行ってしまったが」
「骸旅団の関係者だろう。そう簡単に名乗れはしまいさ」
「それもそうか。ま、そんだけだ。あんたもゆっくり休みな。店には明日顔を出してくれ」
「はいよ」
 短く答えて、ロウは先に宿へ向かった冒険者たちの方へ足早に去っていく。
 店主は大きく伸びをしたあと、金の入った袋をじゃらじゃらいわせながら、店の裏手に引っ込んでいった。


 朝日は中天に向かって、だいぶ高くなってきていた。
 砂を敷き詰めた大地はじりじりと焼かれ、陽炎(かげろう)がゆらゆらと立ち昇っている。
 ロウとウィーグラフは、すでに岩石地帯に入っていた。両脇には巨大な赤色岩の層がそそり立ち、枯れたような色をした木の根が所々にへばりついている以外は、植物らしい植物もほとんど見られない。
「へばってないか?」
 少し前を行くロウが、肩越しに後ろを振り返っていう。
「まさか」
 強がりではなく、このくらいの強行軍は何とも思っていないウィーグラフである。昨晩アザラーンを発って以来、それこそ寸暇も惜しんでここまで走り続けてきたのだが、二人とも全く疲れた様子をみせていない。
「もうじきオアシスに着く。そこでチョコボの脚を休ませよう。それに、我らとて気付かぬ疲れは溜まっているものだ」
「うむ」
 ロウは再び前に向き直り、チョコボの脚を進めた。その背を、ウィーグラフの両目は暗い眼窩の下からじっと見つめていた。
 ウィーグラフはここへきて、ますますこのロウなる男の事が気にかかってきていた。
(この男、何者だ?)
 骸騎士団時代にも数々の手練れを見てきた彼だが、およそ、そうした功利に飢えた者たちとは異質な雰囲気を、この男は纏っている。かといって、騎士団の者たちのような畏まった佇まいとも違い、言ってみれば、旅の巡礼者のような、ある種の気ままさを持ち合わせているようにも見える。
(あのような酒場で雇われている者とは思えんが)
 が、いちいちその素性を疑ってみたところで、傭兵とは本来、さまざまな背景を持っているものである。かつては一軍を率いた将が、戦いに敗れて傭兵に身をやつすなどという例も、別に珍しいことではない。
(私とて、このままではいずれ……)
 我が身を省みて、ウィーグラフは自嘲した。もし再起をはたすことができなければ、素性を隠し、名誉も志も捨てて、己も彼らの同族となるより他ない。それよりはいっそのこと、潔く志に殉ずるべきか──
 ほうと息づいて、ウィーグラフが瞼を閉じたその時、であった。
 
 ウォオオオオオオオオオン──

 岩山を震わせるような咆哮に耳朶を打たれ、彼はすぐに目を開いた。
「何だ、今のは」
 ロウも駒を止め、上空を見上げている。
「ベヒモスか、あるいは……」
「近そうだな」
「うむ。しかし、今は先へ進むより他あるまい」
 二騎はそれからやや足を早め、オアシスを目指した。
 迷宮のように入り組んだ岩場を駆けていく途中、二、三度先ほどの咆哮が聞こえたが、その主の姿は見えなかった。それもどうやら、複数の魔物が発しているものらしい。
「あそこだ」
 急に開けた場所に、そこだけ草木の青々と茂る空間があった。その中心に、池というよりは、大きめの水溜りといった風情の水場があり、大小の鳥や獣たちが水浴びをしているのが望まれる。
 二人はそこへ降りて行き、水辺近くにぽつんと一本だけ立っている幹の折れ曲がった木のところで立ち止まり、そこへチョコボを繋いだ。
「ひとまずは、ここで休憩としようか」
 チョコボの背に括りつけてある荷を解きながら、ロウが言った。ウィーグラフは木に寄りかかって座り、腕組みして池を眺めていた。そこから見える光景は平和そのもので、行水している動物たちも、人間に警戒する素振りは見せない。
「さっきの吠え声が、気になるか?」
「…………」
 ウィーグラフは黙して答えない。
 しばらくは風の音も無く、動物たちの動きに合わせて、水面に小さくさざ波が立っていた。ロウも解き終えた荷物を木の根元に置き、池の方へ目を移していた。
「ベヒモスの啼き声には違いなかったと思うが」
「うむ」
「縄張りが近いのか、それとも……」
「ここも縄張りの内、か」
 ウィーグラフが呟いた。
 ──と、にわかに、それまで水をつついていた鳥たちが、何かに反応し、大きな羽音を立てて一斉に飛び上がった。それと同時に、池の周囲にいた動物たちも、首をそろえて同じ方向を見つめた。
「……!」
 今度はもっと近くで例の咆哮が発せられ、オアシス全体に木霊した。続いて、オアシスを見下ろす崖の上から、黒い影が一つ、飛び出した。
「来たか!」
 ウィーグラフが地面を蹴って立ち、ロウもさっと構えをとる。
 地に降り立った影は、黄色い二対の眼をこちらに向けて、低く唸り声をあげている。四、五エータはあろうかと思われる巨躯の、頸から背にかけて生えている豊かな鬣(たてがみ)がそそけ立ち、鋭い双角は前方に向けられている。それは紛れもなく、砂漠の獣王ベヒモスの姿であった。
「少し小さいな。子どもか?」
 ロウが落ち着きを払った声でいう。たしかに、大きい物では十エータに達するといわれるベヒモスにしては、その身体はやや小ぶりに見える。
「それに、毛並みの色も少し違う。やや黄味がかっていることからすると、鳥喰らい(チョコボイーター)種か」
「なんでもいい。それより、一頭と見るか? それとも──」
「あれが子どもだとすれば、近くに親がいる可能性は高い。いずれにせよ、奴の狙いはこのチョコボであろう」
 木に繋がれた二匹のチョコボは落ち着きなく羽をばたつかせ、怯えた声を上げている。ウィーグラフはそちらを一瞥し、
「欲しがるならくれてやれ。構っている暇はない」
「そうか? ならば──」
 と、ロウは含み笑い、剣を抜き払うと、横薙ぎにチョコボを繋いでいた綱を断ち切った。解放された二匹のチョコボは、恐怖に任せて、ばらばらな方向へ逃げ出す。ベヒモスはその動きに反応し、一方へ狙いを定めると、疾風のごとく駆け出した。
 逃げる獲物を追う獣は脇目もふらぬ。鳥喰い(チョコボイーター)が獲物に気を取られている隙に、二人は、ロウが解いておいた荷を引っ提げて、オアシスの外へ駆けだした。
「脚を失ってしまったな」
 走りながら、ロウが言う。
「あんなものにいちいち狙われていては、かえって面倒だ」
「たかが獣(ケダモノ)一匹、貴公の相手ではあるまい」
「他にもいるかもしれんと言ったのは貴様だろうが」
「こちらも二人、だが?」
「…………」
 ロウが怪しく微笑むのをウィーグラフは無視した。言うとおり、この男と二人して相手をすれば、ベヒモスなどは物の数ではあるまい。彼の口ぶりは、むしろ戦いを望んでいる風にすら聞こえる。
「獣と遊んでいる暇はない」
「ごもっともで」
 オアシスから十分に離れたところで、二人はようやく足を止めた。走ってきた方角からは、犠牲となったチョコボの甲高い悲鳴と獣の唸り声が、まだ響いてきている。
「目的地まではあとどのくらいだ」
「順調に行けば、三刻ほどかと」
「そうか、ならば走るぞ」
 ウィーグラフの言葉に、ロウは少し驚いてみせたが、
「了解」
 と、呆れたように一言答え、二人は再び走り出した。



[17259] 第一章 持たざる者~28.三枚の羽
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/07 19:10
 ラムザ一行が"穴ぐら"を目指し、アザラーンを発ったのは、昼も過ぎた頃だった。
 色々と準備に手間取ったのもあるが、彼らの"案内人"の話では、その頃に発てば夜には目的地に着くだろうとのことであった。
 ドーターの一件で、図らずもウィーグラフの足取りをつかんだ彼らは、アラグアイ本隊の指令に構わず、独自に行動を起こしたのであった。
 軍規に違反することはラムザとて重々承知だが、他ならぬ北天騎士団総帥が「判断に任せる」といった言葉に、彼は従ったまでである。それに、安穏と上の指示を待っていては、ウィーグラフの追捕はおろか、エルムドア侯爵奪還のまたとない好機を逃すことになる──と、口上はどうあれ、若い騎士たちの胸それぞれに、ほのかな功名心があったことも確かである。
 "穴ぐら"までの彼らの"案内人"とは、何を隠そう、ドーターで捕虜となったムアンダのことである。
 ドーター市民の反攻に遭い、絶体絶命の危地に立たされた彼は、"穴ぐら"の情報と引き換えに、自身の保護をラムザたちに要求したのだった。そして、自ら"穴ぐら"までの案内役を買って出ることで、その約定を確固たるものにした。
 流石というべきか、長年裏社会を渡り歩いてきた男らしい、巧妙な身のこなしではある。
 すぐにウィーグラフの跡を追いたいラムザたちは、引き下がる他なく、市民の恨みの眼を背に受けながら、捕虜であるムアンダの身の安全を守るような形をとらされることとなった。
 両手を縄で括り、道々二人がかりで引いて行ったが、ムアンダの表情には、捕虜らしいみじめさも見られない。ドーターからアザラーンまでの道のりも、彼は粛々と足を運び、一応の恭順ぶりを示してはいたが、
「油断するなよ」
 と、ディリータは、護送係の注意喚起を怠らなかった。ムアンダはというと、そうやってピリピリしている若い騎士たちの顔を横目に見ながら、舐めきったように薄ら笑いまで浮かべていた。
 アザラーンの宿に入ってからも、ディリータはムアンダに寝ずの番を付けた。ムアンダは、若い騎士たちの過剰なまでの警戒ぶりを鼻で笑い、
「逃げるわけねえだろ。そうやって睨みつけられてたら、おちおち寝られもしねえ」
 などと言って、大いびきをかいていた。


 一行は今、アザラーンの"鳥屋"で借りたチョコボにそれぞれ跨り、荒涼とした砂の大地を駆けていた。
 道らしい道もなく、休める場所もない砂漠渡りは、チョコボの脚で行くのが定石である。軍資金の節約のため、これまでは徒歩(かち)で来たラムザたちだが、今は先を急ぐ旅でもあるし、ゼクラス砂漠からはチョコボを借りることにしたのである。
 ただ、ひとつ問題があるとすれば、捕虜のムアンダにもまた"脚"を与えねばならないということである。
「忌々しい奴だ」
 隊の先頭をラムザと並走するムアンダの背中を睨みつけながら、アルガスがぼやく。彼の隣りには、ディリータが並んで走っていた。
「もうしばらくの辛抱だ。いずれ本軍の部隊と合流したら、そっちに引き渡すつもりだ」
「しかしなぜ、あのような下郎を高貴なる"白雪"が背に乗せねばならんのだ」
「…………」
 見れば確かに、美しい白羽に南方系の巨漢を乗せた不釣り合いな姿が、そこにあった。
 こうなったいきさつはというと、アザラーンを発つ際に、ムアンダが「あの白羽に乗せろ」とごね始め、先を急ぐ今は言い争っている暇はないと、猛反発するアルガスをなだめて、ムアンダの要求をディリータが承諾したのである。
「下手に機嫌を損ねて、全く違う道を案内されても困るしな。なにせ油断ならない相手だ」
「なぜおれたちの方が捕虜のご機嫌を窺わなければならない?」
「それはたしかに不本意ではあるが……全てはウィーグラフを捕え、侯爵どのの御身を取り戻すためだ」
「ああ、分かっている。分かっているさ」
 アルガスは口惜しげに奥歯を噛みしめている。そんな彼の横顔を、ディリータは少し気の毒げな顔をして見ていた。
「それにしても、白雪はよくあんな男を素直に乗せたな」
「白雪は"淑女(レディー)"だ。たとえゴブリンを乗せたって、無礼な真似をしない限り、ふるい落とすようなことはしない。ただし、彼女が真に忠誠を誓っているのは侯爵さまお一人だけだ。すました顔をしているが、いつ何時裏切られてもおかしくない」
「なるほどな……」
 ディリータは感心して、疾駆する白雪の尾羽を眺めていた。
 アルガスの話によれば、白雪は前の大戦の際も、エルムドア侯爵に伴われ、戦地を駆け巡ったという。"銀髪鬼"の異名を馳せた侯爵をその背に戴いた姿は、さぞかし勇壮であったことだろう。
 そして彼女は、侯爵を乗せる際に、決まって"礼"をするのだという。誰に躾けられたのでもなく、自然と、そういう振る舞いをするのだという。
(賢いんだな)
 ディリータは、任務を円滑に進めるためとはいえ、ムアンダのわがままを聞き入れてしまったことを申し訳なく思った。
 今のアルガスにとって、白雪は、侯爵そのものに等しい存在といって良いのだろう。スウィージの森で保護した時から、献身的に白雪の世話をしているアルガスの姿を、ディリータはこれまでずっと見てきたのだ。
「すまなかったな」
 ディリータは前を向いたまま、小さく謝った。
「謝るべきは、おれにではなく白雪にだろう」
 アルガスは、いっそう眉間の皺を深めて、そっぽを向く。
「…………」
「…………」
 それきり、二人は言葉を交わさなかった。アルガスは、
(無礼な真似をしたらただでは済まさんぞ)
 と言わんばかりの敵意の眼を、ムアンダに注ぎ続けていた。


 道のりは順調であった。
 陽がまもなく沈むころ、獅子(レオ)の刻には、一行は岩石地帯に入っていた。
 ラムザは、ほどよい広さの袋小路を見つけ、そこで小休止をとることにした。慣れない道程であったためか、皆相当に疲れを見せ始めていたのだ。
「お坊ちゃん方はもうお疲れかよ」
 ムアンダが冷やかしを言っても、実際その通りでもあるし、皆返す言葉もない。
 ムアンダは砂地に胡座をかいて、やはり後ろ手に括られていた。徹底したディリータの用心ぶりだが、さすがにチョコボに乗る際は、手枷を外さざるをえず、実に、捕虜とは言い難い扱いではある。
「ここまではなんとか来れたが――」
 ラムザの隣に腰を下ろしながら、ディリータが言う。
「問題はここからか」
「このまま"順調"に行けば、夜明け前には目的地付近に着けるらしいけど」
 溜息をつきつつ、ラムザが答える。
「彼を信用するならね」
 ムアンダは今のところ、不気味なほど従順であった。
 敵地に向かうラムザたちに対し、ムアンダには、得意先に伺うくらいの余裕があるのだろう。それに目的地の"穴ぐら"は、彼にとって格好の"逃げ場"でもある。
「"穴ぐら"に近づけば近づくほど、奴が逃げるチャンスは広がるってわけだ」
「最初からそのつもりだろうね。だからかえって、正しい道を案内していると信用してもいいんじゃないかな」
「そうかもな」
「問題は、いつ逃げ出すつもりなのかということさ」
「僕らがきちんと見張っている限り、絶対に逃がしはしない」
 ディリータの眼差しは厳しい。
 思えば、捕虜護送任務も彼らにとっては二度目のこととなる。
 二ヶ月前、ガリランドで捕らえた骸旅団の捕虜をイグーロスまで護送した際は、捕虜一名に脱走を許し、やむなく殺害に至ったという経緯がある。その時の苦い失敗経験を、ラムザはもちろん、ディリータも忘れてはいない。
 今回の捕虜はムアンダ一名のみだが、前回とは比較にならないほど扱いの難しい相手である。しかも独断で捕虜にした以上は、彼を生かしたまま法の裁きにかける責任がある。
「そうだね。また同じ失敗を繰り返すわけにはいかない。ドーターの人たちにも申し訳が立たない」
 ラムザが言った。それから何気なく、ムアンダの方に視線を移すと、彼は石に寄りかかりって大あくびをかいていた。そんな捕虜の様子を見て、ラムザはもう一度、安心と不安の入り混じった溜息をもらした。


 休憩に入ってから半刻あまり過ぎたころ。
「おいっ! 貴様っ!」
 不意に怒鳴り声がして、そちらを見ると、アルガスがムアンダの眼の前に立って、指を突きつけている。ムアンダの方は、何事かと、眼を丸くして、アルガスを見返している。
「その腰に挿しているものは何だ!」
 アルガスは、さらに声を大きくする。
「ん? 何のことだ?」
 対してムアンダの反応は、いたって鈍い。
「ふざけるなっ! それは白雪の羽だろう!」
「ああ、これ」
 両手を縛られているムアンダは、首だけ腰の方へ向けてから、薄ら笑いを浮かべて、アルガスの顔に向き直る。
「あんまり、上等だったもんでな。白羽は珍しいし、高く売れるのさ。なに、二つ三つむしったくらいで、そう目くじら立てなさんな」
「貴様っ……!」
 アルガスがムアンダの襟首に掴みかかったところで、駆けつけたディリータが慌ててアルガスの体を引き離そうとした。しかし、アルガスはなかなか手を外そうとしない。
「離せっ!!」
「おちつけっ! アルガス!」
 ようやく、アルガスは突き放すようにムアンダから手を離し、ついでに、彼のベルトに挿(はさ)まれていた三枚の純白の羽を素早く抜き取った。
「今度また舐めた真似しやがったら……」
 アルガスの顔面は、怒りのあまり蒼白になっている。
「命は無いと思え!」
 冗談とも思えないアルガスの剣幕である。が、ムアンダは歯牙にもかけない。
「もともといつ殺されてもおかしくねえ身の上だ。別におれは構わねえがよ、困るのはあんたらの方じゃねえのか?」
「なにを……!」
「この"砂漠の迷宮"は、一度踏み込んだら最後、戻るのも進むのも容易じゃねえ。おまえらなんざ、せいぜい歩き回って干からびるか、ベヒモスの餌になるのが関の山だろうよ」
「こいつ、言わせておけば……!」
「アルガス!」
 アルガスが振り上げた拳を、ディリータがすかさず掴んで引きとめる。
「おまえの気持はよく分かる。だが、相手はこれでも捕虜だ。相応の扱いをしなければならない」
「このような下郎を、高貴なる白雪に乗せてやるのが相応の扱いだと?」
「だからそのことは、すまなかったと言っている!」
 アルガスは乱暴に、ディリータの手を振りほどいた。諍いの様子を、隊の他の者たちは息を飲んで見守っていた。一人ムアンダだけは、薄ら笑いをうかべたまま、他人事のようにそのやりとりを見ていた。
「アルガス」
 ラムザが、アルガスの前に立つ。彼のまっすぐな視線を反らすように、アルガスは、ふてくされた横顔を向ける。
「ぼくの対応が甘かったのは謝る。ここからは、君が白雪に乗ってくれ」
「…………」
「不本意だけど、ムアンダの案内はどうしても必要だ。分かってくれるよね?」
「…………」
 ラムザはそれから、隊の者たちの方へ振り返り、
「休憩は終わりだ! 皆、出発の準備に取りかかってくれ」
 と指示を出し、ムアンダへは、
「分かったな?」
 とだけ言った。ムアンダは、「はいはい」と気のない返事をし、
「んじゃ、こいつをさっさと外してくれ。まさか、このままじゃチョコボには乗れないぜ」
 態度は、あくまで不遜であった。
 ディリータの目配せに応えて、ラムザがひとつ頷きを返すと、ディリータはムアンダの両手を束縛していた革の手錠を外しにかかった。隊の者たちも、各々に出発の準備に取りかかっていた。
 ――まさに、その時。

 グオオオオオオオオオン――

 咆哮が、地を震わせた。
「!!」
 咄嗟に、周囲を見回す。
 彼らが休息地とした袋小路は、高い岩壁に囲われていた。その上に、いつの間にか――視認できるだけでも三つの――巨大な黒い影があった。そして、それらは、一対の黄色い眼を持っていた。
「来たな」
 ムアンダが、不敵な笑みを浮かべる。
「みんな、下手に動くな!」
 ラムザが指示を発し、隊員は、それぞれに得物を構えた。
 影たちは呻き声をあげ、今にも飛びかからんとしている。袋小路の入り口に並べて繋がれていたチョコボたちは、落ち着きなく足踏みし、羽毛をそわだたせている。
 その中に一頭だけ、泰然と薄桃色の嘴を上向け、少しも恐れを見せていないものがある。――白雪だった。
 ムアンダの目は、先ほどからその白羽のチョコボの方へ向けられていた。それから、ちらと、今しがた自分の手枷を外したディリータの様子を窺った。
 これまで、ムアンダへの警戒心を一切緩めなかったディリータも、さすがにこの時ばかりは、一瞬、突然の襲撃者の方へ注意を反らしていた。しかし、すぐさま、彼は自分が最も警戒すべき事態を思い出していた。
「あっ――!」
 だが、わずかに、彼の機転は遅れをとってしまった。
 その時すでに、彼の許にムアンダの姿はなく、一瞬の隙をついて逃走を図ったムアンダは、一目散にチョコボの方へ駆けていた。
「くそっ!」
 ディリータは舌打ちして、ムアンダの後を追う。まもなく、ラムザとアルガスも、ムアンダの逃走に気づいた。
「ディリータ!」
 ラムザが叫び、
「野郎! 逃がすかっ!」
 アルガスがディリータに続く。
 猛獣たちが攻撃を開始したのは、まさにその時だった。地上に降り立ったその姿を見れば、どれも双角に豊かな鬣を持った、まごうことなきベヒモスである。
 襲ってきたのは三頭。そのうちの一頭が、ムアンダを追うディリータの前に立ち塞がった。ディリータはとっさに足を止めて、敵に相対する。
「くっ……!」
 こうなっては、下手に動けない。が、ベヒモスがディリータに引きつけられている間に、アルガスがムアンダを追っていた。


 ムアンダはすでに、白雪に跨り、一人危地を脱していた。
「おれはついているぞ」
 ほくそ笑まずにはいられないムアンダである。さすがの彼も、ベヒモスの襲撃は予測できなかったが、ここまで素直に捕虜に甘んじ、逃走の機を窺ってきた甲斐があったというものだ。しかもその機会は、彼の思っていたよりもずっと良い形でやってきた。
「若僧どもは気の毒だが、せいぜい抗って、生き残るんだな」
 あとはこのまま、ギュスタヴ一派が潜伏している"穴ぐら"を目指すだけである。こういう時のために、今までギュスタヴに貸しを作ってきたといっても過言ではない。自分一人の身を匿うくらいのことは、やってもらわねばならない。
 白雪の脚は、きわめて軽快であった。そのまましばらく走り続けていると、後方から、何やら喚き声が聞こえてきたので、ムアンダは舌打ちしつつも、肩越しに背後を見やった。
「追ってきやがったか」
 五十エータほど隔てて、追ってくる一騎の小さな姿がある。が、白雪の快速に及ぶべくもなく、二騎の差は一向に縮まらない。
 すると騎上の追手が、何やら奇妙な動きを見せた。
「!」
 反射的に、ムアンダは身を屈めていた。その直ぐ上を、ひょうとかすめ通っていったものがある。
「野郎、撃ちやがったな」
 続いて、びゅうと、二つ目がムアンダの真横をかすめる。
「調子に乗るなよ!」
 ムアンダは逃走の際に、弓使いの乗っていたチョコボに括りつけてあった予備の弓と矢筒を手に入れていた。彼の得意とするクロスボウとは勝手が違うものの、もとより"必中のムアンダ"を伊達に名乗っているわけではなく、弓を取らせても、彼の腕は一級品である。
 ムアンダは急に駒を巡らすと、一矢をつがえ、追手に向けてふり絞った。そのすぐそばを、追手の放った矢が三度、通り抜けていった。
 ムアンダは、ぎりぎりまで的を引きつけた。四度目の矢をつがえようとしている追手の顔をよく見ると、先だって、白雪の羽をむしったことでムアンダに噛みついてきた、アルガスとかいう名の若者である。
「なんだよ、大事なチョコボに矢が当たったらどうするんだ」
 呆れて、ムアンダがつぶやく。そこまで考えが及んでいるのかいないのか、アルガスは、ムアンダが応射しようとしているのに気付くと、あからさまに怯みをみせた。
「腕は悪くねえがよ……まだまだだぜっ!」
 必中の距離に的を捉えたムアンダの弓手から、一矢が勢い良く放たれる。アルガスは反撃もままならず、ほとんど無意識に、手綱を引っ張っていた。
 ムアンダの放った矢は、仰け反ったチョコボの喉首に立った。甲高い断末魔を上げて、チョコボはアルガスを乗せたまま崩れ落ちた。
「ちっ、運の良いやつめ」
 騎手に当たりこそしなかったが、追手の脚は完全に奪うことができた。無残に落馬したアルガスは、地面に這いつくばって苦しげに呻いている。
「待て……ちくしょうっ……!」
 アルガスの情けない姿を見て、ムアンダは高笑いを上げる。
「ははは、ざまあねえぜ! ──安心しな、こいつはおれが大事に使ってやる。それにほれ、この通り、おれによくなついているぜ」
「ばかな……白雪が……貴様になど……」
「お仲間のところへ戻った方がいいんじゃねえのか? もっとも、そのざまじゃ足手まといにしかならんだろうが」
「だまれっ……! 下郎っ……!」
「上等だぜ、まったく。そこでひっくりがえってりゃ、ベヒモスどもの餌にならずにすむかもな。まあ、もし生きてたら、隊長殿によろしく云っといてくれ。──あばよっ!」
 ムアンダはアルガスを後に残し、勢いよく白雪の横腹を蹴った。──しかし、彼女は一歩も前に進もうとしない。
「おい、どうした! 進めっ!」
 ムアンダがもう一度強く蹴っても、白雪は微動だにしない。これまでの従順ぶりが嘘のような頑なさである。
 が、やがて、何かに素早く反応し、彼女は頭を上空に向けた。
「いったい、どうしたってんだ──」
 つられてムアンダが上を見上げたのと、何か大きな影が、右手にある岩壁の上から降ってきたのは、ほぼ同時だった。
「!?」
 一頭のベヒモスが、ムアンダの目の前に降り立っていた。しかし、通常のベヒモスよりは一回り小さく、毛並みも全体的に黄味がかっている。
「なんだ、子供じゃねえか」
 ムアンダは少しも臆することなく、落ち着き払って一矢を弓につがえた。
 威嚇の構えをとっているベヒモスの双角の中間、頭蓋のど真ん中に狙いをつけて、ムアンダは弦を引き絞る。
「この距離なら、間違いはないぜ……!」
 限界まで弓をしならせ、矢を放たんとした──その時。
「!!」
 下から突き上げるような衝撃を受けて、ムアンダはもんどりうった。矢はあらぬ方向へ飛んでいき、そのまま彼の身体は地面に放り出された。
「ぐあっ!」
 鈍い音がして、ムアンダは呻き声をあげた。
 落下の際に、足をくじいてしまったらしい。痛む右足首を押えながら、彼はようやく、自分が白雪に振り落とされたのだと理解した。
「なんで──」
 呆然とするムアンダの脇を、白雪は何事もなかったかのように駆け抜けてゆく。その白い姿を追うように繰り出されたベヒモス──鳥喰い(チョコボ・イーター)の鋭い爪の一撃を、ムアンダはまともに食らった。
 弾き飛ばされたムアンダの身体は、堅い岩壁に叩きつけられ、そのまま地面に落下した。
 が、動かなくなった肉塊には目もくれず、鳥喰いは追撃を始める。その目標は、あくまで白雪であった。
「白雪っ!」
 アルガスは必死の思いで、疾駆する白雪の頸にすがりついた。すると、今度は拒否することなく、彼女はすんなりとアルガスに背中を許した。アルガスは抱きつくような格好で白雪にしがみつき、そのまま身を任せた。
 鳥喰いは、逃げる白雪を追おうとしたが、先ほどムアンダの矢に当たって斃されたチョコボの死骸を見つけると、それを屈強なあごで挟み込み、どこかへ走り去ってしまった。
 やがて白雪が立ち止まってから、アルガスは鳥喰いが追ってきていないと分かり、ほっと胸をなでおろしていた。そこへ、向こうから、アルガスを呼んでいるらしい声が聞こえてきた。
「アルガス! 無事か!」
 チョコボに乗って駆け寄ってきたラムザたちは、見たところ無傷のようであった。アルガスも派手に落馬はしたが、幸い怪我はなかった。
「無事だ。そっちは?」
「無事だよ。ベヒモスどもは《暗闇(ブライン)》状態にして、なんとか巻いてきた。でも時間稼ぎにしかならない。一刻も早くここから離れないと」
「そうか」
「ムアンダは?」
「死んだよ」
「……!」
 ラムザは一瞬言葉を失い、それからすぐに訊き返した。
「君が殺したのか?」
「ちがう。ベヒモスにやられた」
 アルガスはそういって、白雪の頸を撫でながら、
「白雪に、裏切られたんだ」
 と、小さく付け加えた。それを聞いたか聞かずか、ディリータが前に進み出て、
「ともかく、今は急ぐぞ」
 ラムザも頷き、
「詳しい話は後で聞こう。《暗闇》状態が解ければ、奴らはまた追ってくる。急ごう」
 彼を先頭とし、若い騎士たちは、案内人を欠いたまま、暮れなずむ砂漠の迷路を進み始めた。


 ようやく、ベヒモスを完全に巻いたと分かってから、ラムザたちはチョコボを並足に戻した。
 そこからの道々、ラムザはアルガスから、ムアンダ逃走の顛末について詳しい話を聞き出していた。
 アルガスは、ムアンダの受けた仕打ちに心底満足しているようであった。隊を率いるラムザとしては、同じ失敗を繰り返してしまったことは素直に反省しなければならないが、無用な負担が減ったことで、少し気が楽になったのも確かである。
 だが結果として、ラムザたちは、案内人としてのムアンダの利用価値を認めざるをえなくなった。
 幸い、再びベヒモスに遭遇することこそなかったが、実に三刻以上の間、一行はあてどなく岩石地帯をさまようはめになったのである。
 前に"砂漠の迷宮"などといったムアンダの表現は、あながち誇張でもなかった。
 狭い空から覗くわずかな星を手掛かりに方角を定めても、すぐに岩壁にぶち当たってしまい、方向転換を余儀なくされる。そんなことを繰り返しているうちに、辺りはどっぷりと夜の闇に呑まれてしまった。
 やっと見慣れない景色に出会ったのは、それからさらに二刻以上さまよった末のことである。
「ここは──オアシスか?」
 眼の前に、星空を映した鏡のような水面が広がっていた。その周囲には、植物が群生しているのも確認できる。何にせよ、この発見に一行は大いに励まされた。
 ラムザはここを夜営地に定め、念のために、ざっと周囲を調べさせた。
 調査開始後しばらくしてから、斥候のイアンが、気になるものを見つけたとラムザに報告してきた。
「え、チョコボの死骸があった?」
 不穏な報告に、ラムザは眉を曇らせる。
「はい。比較的新しいもので、捕食された痕跡がありました。あと、鞍が置かれていました」
「鞍?」
「ええ。つまり、野生のものではないということです。ついこの間、冒険者がここに立ち寄り、"鳥喰い(チョコボ・イーター)"に襲われた可能性があります。さっき襲ってきたベヒモスの中にも、一頭鳥喰い種が混じってました」
「あの黄色いやつだね。つまり、縄張りが近くにあるってことか」
「もしくは、ここも縄張りの内かもしれません」
「そうか……どう思う? ディリータ」
 ラムザが傍らのディリータに意見を求めると、彼は少し考えてから、
「こんな所まで冒険者が来たのか?」
 ディリータは、飼いチョコボの死骸があったという報告の方に、ひっかかりを覚えたらしい。たしかに、冒険者たちの拠点となっているアザラーンの街から、ここはあまりに離れすぎている。
「もし、そのチョコボに乗っていた者が、骸旅団の関係者だとしたら──」

 ──ドンッ!

 彼の言葉はしかし、突如生じた轟音に遮られた。
「なんだ!?」
 最初は、地鳴りのようにも聞こえた。が、すぐに、この場所からそう遠くない夜空が、ぱっと明るく照らされるのが見えた。それから、赤黒い煙が、禍々しい狼煙のように立ち昇っていくのが、誰の目にもはっきりと見てとれた。
「爆発……?」
 ラムザは呟き、唖然として、思いがけず夜空に現れた、その怪異を見つめていた。



[17259] 第一章 持たざる者~29.正邪の道
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/07 19:13
 ギュスタヴ・マルゲリフは、二十人掛けの長机の上座に座り、顔の前で両手の指を組み合わせていた。
 天井の高い部屋には、壁掛け式の松明の明かりだけが、古い石壁の割れ目をいっそう暗く浮かび上がらせている。
 彼がじっと視線を注いでいる先、部屋のたったひとつの入り口である大きな木の扉の前には、長身の男が一人、無言でたたずんでいる。
「久しいな、ウィーグラフ」
 ギュスタヴの発した第一声には答えず、ウィーグラフは、部屋をぐるりと見まわした。
「なんだここは」
 彼は、誰に投げかけるでもなくそう言った。それから、長机に沿って歩きだし、その半ばで立ち止まると、机の上に視線を向け、そこに放置されていた食べ残しのパンをひとつ掴み取ると、無造作にそれにかじりついた。
「歓迎の宴でも催したいところだが……」
 ギュスタヴは、パンを頬張るウィーグラフを眼の端に捉えながら、言葉を続ける。
「我々も"ギリギリ"でね」
「…………」
「そこにあるものは好きなだけ食べてくれ」
「…………」
 ギュスタヴに言われるまでもなく、ウィーグラフは他の皿からすでに燻製肉の切れ端を手に取っていた。
「これでも久々のご馳走なのだ」
 ギュスタヴは、そばに置かれていた葡萄酒の瓶を手にして立ちあがると、手近にあった二つの空の杯に酒を注いだ。それから、それらを両手に持って、黙々と食べ続けるウィーグラフの方へ歩み寄った。
「せめてものもてなしだ」
 ギュスタヴが片方の杯を差し出すと、ウィーグラフはひったくるようにしてそれを取り上げ、まだ飲み込めずにいる食べ物と一緒に、一息に仰いだ。そして、食い物と入れ替わりになった空気を吐き出すとともに、空になった杯を、机に叩きつけるようにして置いた。
「大した食べっぷりじゃないか」
 ウィーグラフはしばらくの間、両手を机上について、一気に飲み込んだ食べ物が喉もとを通過するのを待っているようだった。そんな客人の様子を、ギュスタヴは呆れたような目で見ていた。
「待っていたのだぞ、ウィーグラフ」
「…………」
「少なくとも、私は」
「…………」
 ギュスタヴは、そばの椅子に腰かけると、一口、酒を呷った。
「酒はこれで最後だ」
「…………」
「水は井戸から汲めるがな」
 もう一口、仰ぐ。
「だがやはり、酒は欲しい」
 それきり、彼の杯も空になってしまったらしい。
「…………」
「…………」
 しばしの沈黙の後、ウィーグラフはおもむろに面を上げ、傍らに座っているギュスタヴを見下ろした。むろんギュスタヴは、彼を見上げる格好となった。
 間近で見ると、やはり、数ヶ月前にレアノールで見た彼よりも、いくらか痩せているのが分かった。目元が黒ずみ、髭が伸び放題になっているのを見ても、彼の潜伏生活もまた容易ならざるものであったことを窺い知ることができる。しかし一方で、レアノールの決戦を前にした気迫とは、また別の気迫が、そこに加えられているように、ギュスタヴには感じられた。
「侯爵はどこだ」
 ウィーグラフは一言、そう言った。べつに、脅迫めいた色は、その言葉には無かった。ただ彼は、骸旅団の首領として、当たり前の事実確認をしたにすぎなかった。それなのに、ギュスタヴは、獅子に睨まれたようなすくみを感じてしまっている自分に、気づいていた。
「ここに、いるのか」
 ウィーグラフは、言葉を重ねる。ギュスタヴは、思わず目を逸らす。
「……ああ」
「まだ生きているか?」
「ああ」
「身の代は?」
「まだだ」
「そうか」
 ウィーグラフは椅子の背もたれを引くと、そこに、どかっと腰を下ろした。両腕を胸の前で組み、視線は、空になった杯に注がれている。ギュスタヴは、横目でちらとウィーグラフのほうを見てから、すぐに、視線を机上で組んだ両手の指に戻していた。それから、彼は気ぜわしく、組まれた指を伸ばしたり縮めたりしていた。
「どうやってここまで来た?」
 こんどは、ギュスタヴが訊いた。
「ドーターのムアンダのつてを頼った」
「やはりな」
「奴から支援を受けているそうだな」
「ああ」
「奴は捕まったぞ」
「……!」
 ギュスタヴは指の動きを止め、ウィーグラフの方を見やった。
「本当か?」
「間違いない。私はその場に居合わせた」
「…………」
「そして"穴ぐら(ここ)"も、ベオルブ家の人間の知るところとなったとみて間違いない」
「つまり、騎士団の?」
「そういうことだ」
「…………」
 ギュスタヴは無言のまま、再び手元に視線を落とす。
 ムアンダ逮捕の現場に居合わせたなどという、ウィーグラフの不可解な証言はひとまず置くとして、ギュスタヴ一党の影の支援者であるムアンダが、北天騎士団の手に落ちたという情報は、これで確かなものとなった。それとはつまり、この"砂ネズミの穴ぐら"が、もはや隠れ家としての価値を完全に失ったことを意味している。
「ここに留まるつもりか」
 少し間を置いてから、ウィーグラフが言った。ギュスタヴは神経質に眉を寄せて、ひとつ、ため息をつく。
「敵はあらゆるところに網を張っている。自ら網にかかりに行くこともあるまい」
「恐れているのか」
「それは、そうかもしれない。だが、私なりに考えての判断だ。猪突猛進は私の性分ではない」
「ほう」
 この窮状を招いた、そもそもの要因であるウィーグラフの失策を暗になじったのである。その含意が先方にも伝わったものか、ウィーグラフは、なんでもないことのように、鼻をならして、ギュスタヴの皮肉を受け流した。さらには、今まで堅いヴェールに覆われていた面に、僅かな笑みを浮かべて、
「待っていた、と言ったな」
「ああ」
「それは、どういう意味だ」
「言った通りの意味だ。骸旅団の旗手の帰還を、待ち望んでいたということだ」
「ほう、しかし、この"歓待の席"には、貴様一人の姿しか見えないが。他の者どもの意思は、また違っているということか」
「皆、それぞれに考えがあるのだろう。私の意思に、偽りはない」
「本当に、そうかな?」
「……?」
 ウィーグラフは、ゆっくりと、ギュスタヴの方に眼を向ける。その穿つような視線を受けて、偽りなき本心を述べたはずのギュスタヴの胸中に、ヒヤリとした風が吹き込んだ。
 ウィーグラフは、再び視線を机上に戻し、そこに置かれていた空の杯を手にして、その取手をくるくると回し始めた。
「私は、貴様の意思を問い質しに来たのだ」
 ウィーグラフは言った。ギュスタヴは、少し頭をもたげて、彼の方を見た。ウィーグラフは杯を玩(もてあそ)びつつ、言葉を続ける。
「貴様らがここまで追い詰められているのも、私がこうして日陰を歩まねばならぬのも、全ては私のレアノールにおける大失態によるものだ。かといって、私はあの一戦で雌雄を決するという己の信念を貫いたまでで、そのことを今さら悔いるようなことはしない。だが、あの敗戦によって、骸旅団を壊滅寸前にまで追いやり、挙句それまでに築きあげてきた同志の結束を無に帰してしまったということは、隠れなき事実ではある。したがって、貴様の一派はもちろんのこと、各地に散らばる同志たちの心が、この私から離れてしまうのもまた、無理からぬことだ。──そして現に、侯爵誘拐という大事をしでかし、北天騎士団およびガリオンヌ領府の肝を大いに寒からしめたギュスタヴ・マルゲリフこそが、真に同志を率いるにふさわしき者と──誰もがそう思っても不思議には思わん。だが……」
 ここまで一息に言って、ウィーグラフは手に持っていた杯を机に置いた。ギュスタヴは何気なくその動作を目で追いながら、彼らしからぬ自省の念を覗かせ始めたウィーグラフの本心に注意深く耳を傾けていた。
 ウィーグラフは深く背もたれに寄りかかり、目を閉じて、なおも滔々(とうとう)と言葉を並べていく。
「しかし、だ。私は私の信念と理想のもと、骸旅団の旗を掲げた。むろん、その旗印を私物化しようなどとは、ゆめ思っていない。ただひとつ確かなことは、この旗印が、かつて骸騎士団の同志として、万民の平穏と畏国の繁栄のために命を捧げた者たちの、崇高なる遺志を継いでいるということだ。その誇り高き犠牲の象徴を、よも盗賊匪賊の輩の拠り所とするなどは、一同志として、看過すべからざる死者への冒涜行為であると──私は考える。これは、我一人の意思にあらず──すなわち、骸旅団総体の意思である。したがって、この旗を掲げる者は、何人であれ──その理念に従い、死者に恥じぬ正道をもって大望に殉じなければならない。──そこで、貴様に問う」
 ウィーグラフは半目を開き、横目でもって傍らのギュスタヴを見据えた。
「骸旅団を率いる者として貴様の歩む道は──正道や否や」
 ギュスタヴは、半ば硬直したように机上の一点を見つめながら、生唾を呑んでいた。
 仰々しく言葉を飾り立てるのは、ウィーグラフのよく用いる弁論術の特徴であるが、ここにおいて彼の言いたいことは、ただ一つ。
 ようするに、貴人を誘拐し身の代を得るというギュスタヴの策は、盗賊匪賊の行いに異ならず、ということである。いちおう、自問自答を促すような訊き方を繕ってはいるが、間違いなく、ウィーグラフ個人の胸中では、そう断定している。
 もし、首尾よく侯爵の身の代を手に入れられたとしたら、これに味をしめ、骸旅団は、ひたすら目前の利益を追うばかりの、兇賊となり果てる。そうなってしまっては、義のために死した、かつての同志たちに、申し訳がたたない──。
 ウィーグラフ自身の失敗は、あくまで正道を執った上での失敗であった。対し、ギュスタヴの執った道は、骸旅団の本来的な理念に反する邪道に他ならず、たとえ何らかの利を得たとしても、それは我欲を満たすために得た暴利にすぎない。──おそらくウィーグラフ・フォルズという男は、ここまで決めつけている。
 むろん、ギュスタヴは、道理でもって彼の言に反駁することもできた。すなわち、正道であれ邪道であれ、骸旅団にとっての利をもたらすものであれば、おのずとその道は正道となる──しかし、この理屈は、ギュスタヴという男の主柱を成している"現実主義"に立脚したものである。
 この点において、ウィーグラフの掲げる"理想主義"には、最初から、歩むべき正道は一つしかないのである。しかもそれは、利のための道ではない。究極的には、正道をもって世を正すこと──そのこと自体が、利なのである。そして、その利を得るためならば、死すら厭わない。
 ギュスタヴは、深く、長く溜息をついた。
 ──この二つの主義は、もはや衝突してすらいない。最初から、まるで違う方を向いている。
(相容れない──)
 否定しがたい事実が頭蓋に木霊し、ギュスタヴは、憮然とした。
 彼は、信じているのである。曲がりなりにも、かつては畏国のために戦った戦友として、そして畏国の将来のために手を結んだ盟友として。ひいては、世界を統べる、王たる器を持つものとして。
 事実その思いは、今も変わっていない。
 だからこそ、彼は、今まで真っ向からウィーグラフを否定できずにきたし、今もできずにいるのである。
(弱いな、おれは)
 骸旅団の旗印を捨て、我が道を突き進むことも、あるいはできたかもしれない。しかしギュスタヴ自身、骸の旗を捨ててもなお、己に、正義の士として同志を導いていくという自信がないことに、気づいていた。
 邪道は所詮、邪道。蛇の道を行くは、蛇。
 高潔なる理想を、現実的でないとして否定することは容易い。しかし、高潔なる理想を、高潔なまま持ち続けることは、存外に難しい。
「貴様が、私利私欲のために侯爵を誘拐したのでないことは、分かっている」
 ウィーグラフは、ギュスタヴの葛藤など、素知らぬ態で話しつづける。
「だがな、貴様を同志と頼む、他の者どもはどうだ。──あるいはゴラグロスなどは、真心から骸旅団のためを思って、貴様に協力しているのかもしれぬ。しかし、最近になって、食うに困って同志に加わったような端くれどもは、どうだ。事実として、かつて骸騎士団の一兵卒として共に戦った古い同朋たちよりも、そういった新参者は多くなっている。それでもレアノールでは、各々抱く義憤に従い、皆よく戦ってくれた。私の指揮の至らなかったがゆえに、彼らを路頭に迷わせた責任もある。──だが、往々にして、そうした者たちに、物質的な利益をちらつかせると、とたんに、彼らは、それまで内に抱いていた義憤も、大義も、全て忘れ果て、明日の生活しか、頭になくなってしまう──そういうものなのだ。貴様のような人間であれば、高潔な理想を保ちつつ、邪道を正道と成すこともできるのかもしれん。だがな、私の言っているのは、圧倒的大多数の人間のことだ。貴様になら、私の言わんとするところの意味が、分かるはずだ」
 ウィーグラフが、おもむろに立ち上がる。ギュスタヴは、彼の陰となってなお、やや俯いたまま、黙然としていた。
「明日、あらためて問いなおすとしよう。貴様と、貴様の朋ばらとで、よく話し合ったうえ、我を追放するというなら、それもやむなし。──しかし、それでもなお、道を変えぬというのであれば、我が一身を賭して、貴様らに報いねばならん。これは、骸となった同志たちの誇りを受け継ぐ者としての覚悟だ。──心しておけ」
 そう言うと、ウィーグラフは大股で部屋を出て行った。独り残されたギュスタヴは、獅子の気迫から解放された身体を椅子の背もたれに預け、静かに、暗い天井を仰いでいた。


 ウィーグラフ来(きた)るの報せがもたらされた時。
 訪れた首領本人を、いったん他所に留め置き、普段から食事を共にしている、この集会場にて、砂ネズミ一同による緊急会議が催されたのであった。
 ギュスタヴは、一人一人から、意見を聞いた。そして誰もが、口を揃えてこういった。
「ウィーグラフ、排すべし」
 彼らにも、十分、分かっていたのだ。ウィーグラフという男が、大義のためであれ、資金目的の人攫いなどは、決して許さぬであろうことを。
 そして今や、自分たちが、明日の生活をも危ぶまれる状況に置かれていることも、彼らは理解していた。
 彼らにとって、一攫千金の計は、一縷の望みである。彼らの信頼は、ギュスタヴにあり、ウィーグラフにはない。まして、骸旅団をここまで追い詰める元凶となった男の言など、金輪際、採るには値しない。なにより大事なのは、明日、さらにはその先、どうやって食っていくのかということである。
「ギュスタヴ、正しいのはあんただ!」
「そうだ! ここはおれたちの城。ウィーグラフなどは、つまみ出せ!」
「いや、もういっそのこと──」
「ギュスタヴ、同志を率いる人間は、お前しかいない!」
 彼らは、口々に迫った。
「わかった」
 ギュスタヴは、自分に詰め寄る同志たちの熱気を払うように、一言、そう言った。それから、とにかく、一度二人だけで話をさせてくれと頼み、その場はいったんお開きとなった。


 あたりは、すでにどっぷりと、夜の闇に覆われていた。星明かりだけが、青白く、集落跡の建物の壁をその中に浮かび上がらせている。
 骸旅団の進退を決する会談の終わりを、今か今かと待ちかねていた、ゴラグロスはじめとするギュスタヴ一派の者どもは、うち揃って、中央の集会所の建物を見守っていた。
 それから、半刻あまりが過ぎた頃。
「あっ、出てきたぞ!」
 一人が、建物の方を指さして言った。
 見ると、今しがた集会所より出てきたのは、ウィーグラフ一人であるらしかった。彼は、大股にずんずん歩いていき、やがて、彼がここへ来た時に待機させられた建物の内に、消えていった。
「ギュスタヴはどうした?」
「まさか、意見が拗(こじ)れて──」
「馬鹿な!」
「ともかく、行ってみよう」
 彼らは、一目散に、集会所へ駆けて行った。
 建物内にあわただしく踏み込むと、独り椅子に座っていたギュスタヴは、いったい何の騒ぎかとでもいうように、上気した面々を、冷静な面持ちで迎えた。
「おう、待たせたな」
「ウィーグラフは、なんと言った?」
 たまらず、ゴラグロスが口を開く。ギュスタヴは、頤(おとがい)に手を宛がい、「ウーム」とひとつ唸ってから、
「難しいことだ」
 答えとも、独り言ともとれるような言い方だった。一同は、何と言ったらよいか分からず、互いに顔を見交わした。
「難しいこととは?」
 ゴラグロスが、要領を得ないギュスタヴの返答に、やきもきしながら言う。ギュスタヴは、しばし考えこむような素振りをみせ、やがて、一同の方へ目を向けた。
「率直にいうと、ウィーグラフは、私のやり方を認めたくないらしい」
 ある意味、予想通りともいえる展開だが、一同は、一通り憤慨を覚えたらしく、
「やっぱり、奴はとんだロマンチストだ」
「あれだけの失態をやらかしておいて、ぬけぬけと」
「なに、ギュスタヴの成功を、妬んでいやがるのさ」
「素直に許しを請えば良いものを」
 こう口々に恨み罵った。その言葉を、ギュスタヴは、どこか上の空で聞いているようだった。その横顔に、心労の陰をみとめて、
「奴に、脅されたのか?」
 ゴラグロスは、ギュスタヴの隣席に腰を下ろしながら、彼に訊いた。ギュスタヴは、静かに首を横に振り、
「彼を前にすると、たじたじになってしまうのは、昔からだ。ことに今日は、常にない凄みがあった。まったく、情けのない話だ」
 そういって、自嘲した。
「ただ、彼なりに、反省はしているようだ」
「口だけだろう」
「いや、本心には違いない。だが、彼は、自分自身を否定することはしなかった」
「そういう人間だ。傲慢なのさ。なんなら、おれたちが否定してやればいい」
「まず、聞くまい。彼の強さは、剣のみではないよ」
「なぜ、そこまで奴に入れ込むのだ」
「なぜだろうなあ……負い目を、感じているのかもしれん。生まれ持った天分の差みたいなものをね」
「わけがわからん。お前には、おれたちが付いている。奴一人くらい、何の恐れることはない。骸旅団が変わる時が、ついに来たのだ!」
「…………」
 ギュスタヴは、静かに、ゴラグロスのいかつい顔を見やった。その眼(まなこ)は、いつになく研ぎ澄まされているように見えた。
「骸旅団が変わるとして──我らは、高潔な志を、持ち続けることができると思うか?」
 ゴラグロスは、漠然としたギュスタヴの問いに対し、戸惑いの色を浮かべた。
「どういうことだ」
「そういうことさ」
 釈然としないゴラグロスを尻目に、ギュスタヴは、さっと立ちあがる。そして、同志たちに背を向けたまま、
「明日、ウィーグラフも交えて、今後の方針を話し合うこととする。いいたいことがあるなら、直接彼に言うべきだ。──彼とて、理性を持たぬ獣(けだもの)ではない。理をもって説けば、動かぬ心もあるまい。それまでに、各々、先ほどの問いについてよく考えておいてくれ」
 それから、一同の方へ振り返ったギュスタヴの口元には、どこか萎えたような笑みがこぼれていた。
「少し、疲れた。休むとしよう」


 深夜。"穴ぐら"を囲む岩壁に穿たれた横穴の一つに、一味の者数名が集まっていた。
 狭い空間の真ん中に燭を置いて、男たちは額を寄せ合い、何やら神妙な面持ちを暗闇に浮かべている。
「さて、面子も揃ったようだし、本題に入るが」
 口火を切ったのは、ギュスタヴ一味随一の武闘派、モンク隊を率いるカッツォという男である。
 この場にいる面々を見ても、そのほとんどがモンク隊の者どもであった。彼らは、剣士たちとは違い、鋼のように鍛え抜かれた二の腕や腹の筋を、むき出しにしていた。まさしくこの肉体こそが、彼らにとっての"鎧"であり"剣"なのである。
 そんな者たちが身を寄せ合っているものだから、ただでさえ狭苦しい横穴の空気は、息が詰まるほどむさ苦しくなっていた。
「ギュスタヴは、あんな悠長なことを言っていたが──これは、死活問題だ」
 カッツォは息を調え、燭を囲む顔を見回す。どの顔も、額に汗を浮かべて、隊長の言葉に耳を傾けていた。そして、ここに集められた理由は、はや分かり切っているものか、各々、覚悟にも似た表情が窺える。
「侯爵の身の代は、総額五千万ギル……これは、ここにいる全員が、むこう二、三年は遊んで暮らせる額だ──わかるな。こいつをみすみす逃す手はねえ。ウィーグラフがギュスタヴのやり方を認めねえっつうのはつまり、せっかく捕まえた侯爵を解放しろっつうことだ。ギュスタヴは、そのことで去就を決めかねているのさ」
「ギュスタヴはどうすると思う?」
 輪の中の一人が、鼻息荒く肩を乗り出す。カッツォは、ジロリとその男のほうを見やって、
「新参のおれたちと違い、ギュスタヴとウィーグラフの義縁は深い。また、ゴラグロスや古参の奴らも、なんだかんだいって、おそらくギュスタヴの方針に従うだろう。ギュスタヴがウィーグラフの言うとおりにするってのなら、そうした連中も、おそらくそれに従う。その場合、いうまでもなく、五千万はチャラってわけだ。んで、さっきの様子からして、ギュスタヴは相当ウィーグラフのほうに傾きかけている。ギュスタヴは切れ者だが、ああ見えて義理堅い男だ。せっかくの好機をふいにしても、奴と再起の旗を揚げるつもりなんだろう」
「馬鹿げている!」
 別の男が、憤慨して鼻を鳴らした。他の者も、うんうんと首を縦に振る。カッツォ自身も大きく首肯して、言葉を続ける。
「そう、馬鹿げている。ウィーグラフは、お高い理想を突き付けるばかりで、他人のやり方を否定して、かといって、何か具体的な代替案を持ってくるわけでもねえ。奴に従っても、死ぬだけだ。そんなのは、まったく、馬鹿げている。死にたい奴は、勝手に死ねばいいさ──だがな、おれたちは、生きるためにここにいるんだ。騎士さまごっこに付き合わされて死ぬなんてのは、まっぴらごめんだ。──そうなれば、おれたちのとるべき道は、ただ一つ」
「…………」
 当然、次に来るべき言葉を予測して、一同は押し黙る。上気した場の空気に、ひとしきり、緊張の冷気が吹き込んだ。
「ウィーグラフを殺す」
 カッツォが、皆の予感を確かめるように、そう言った。誰かが、ごくりと生唾を飲んだのが聞こえる。風の悪戯か、横穴の外で何か物音がして、さっとそちらに警戒の目を走らせた者もいる。
 そのくらい、ピリピリとした空気が、人の輪を包んでいた。
「で、どうやって?」
 おそるおそる、カッツォに尋ねる者がある。カッツォは、「それよ」と、その者を指差し、
「何せ、相手はあのウィーグラフだ。ここにいるモンク隊とて、決して実力を卑下するわけではないが、おそらく、全員でまともにかかっても、無傷では済むまい。かといって、寝首を掻くというのも、我らの得意とするところではない──そこで、だ」
 カッツォが、息をひそめるようにして顔を寄せたのに倣い、全員が身を乗り出して、さらに輪を縮める。この時、横穴の外で、明らかに何かの影がうごめいたことなど、この場にいる誰も、気づいた様子はない。
「昼間ここに、例の"爆弾"の試作品が、運ばれてきた。それが今、食糧庫に保管されている」
 全員が、この情報に眉を開いたのを見て、ひとつ頷いたカッツォは、一段と声を落として言葉を続ける。
「いいか、その爆弾をこっそりと運び出し、ウィーグラフの寝所の周りに並べる。以前ギュスタヴが、あれでベヒモスを吹っ飛ばしたのを覚えているだろう? あの要領で導火線を引いておいて、頃合いを見計らい火をつける。そして──」
 両の掌をぱっと開いて、カッツォは暗殺計画の結末を示した。燭の炎が空気の動きに触れて、大きく揺らめいた。
「どうだ。こうやってウィーグラフを片づけちまえば、ギュスタヴの迷いも晴れるってわけだ。同時に、骸旅団のリーダーは、名実ともにギュスタヴとなる。かくして、五千万ギルの大金がおれたちの手に転がり込む」
 得意げに、カッツォの口元が歪む。異を唱える者は無かった。全員が、期待の光を、その眼に宿していた。


 それから半刻も経たないうちに、怪しげな一集団が、食糧庫から、例の"爆弾"のしこたま詰められた木樽を運び出していた。いうまでもなく彼らは、さきほど横穴の内で額を寄せ合って密議を交わしていた、モンク隊の者たちなのである。
「急げ、急げよ」
 一人松明を持った男──ウィーグラフ暗殺計画の首謀者であるカッツォが、仲間をせきたてている。
 いちおう、夜番の見張りの者には、「今晩、ギュスタヴから頼まれていた物資の運び出しをする」と言ってあるが、その見張り番は、とくに不審がることはしなかった。それでも、彼は相当警戒しているらしく、ときどき松明をめぐらして、しきりに周囲を気にしていた。
 その様子を、食糧庫から数エータ離れた、崩れかけの建物の陰より、じっと見守っている人影がある。むろん、カッツォはじめ、爆弾の搬出に懸命になっているモンク隊の者たちに、感づいた様子はない。
 やがてその影は、音もなく、漆黒の闇に消えていった。




[17259] 第一章 持たざる者~30.再─獅子と狼・上
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/07 19:14
 地も割れんばかりの轟音であった。
 集落跡の一房にて身を横たえていたギュスタヴは、おどろきざまに飛び起きると、剣を取り、外に転がり出た。
 すぐさま、炎に照らし出された異様な黒煙が目に入る。その方角には、たしか、ウィーグラフの寝所があったはずである。
(まさか……!)
 彼の脳内で、あらゆる不安要素が、瞬時に繋ぎ合わされていく。そして、最悪の結論を導き出したところへ、
「どこだっ!!」
 彼は、今しがた此方に走ってきた同志の男へ向かって、怒鳴りつけていた。
「ふっ飛んだ! ウィーグラフの寝所だっ!」
 その男は、夜番の見張りに就いていた者であった。ウィーグラフの寝所となっている一房で爆発が起こったのを目撃し、ギュスタヴに報せるべく駆けつけて来たのである。
「ウィーグラフ……爆発……」
 まさに、予感した通りのことが起きようとしている――いや、起きてしまったことを認識し、彼の思考は束の間、空白に舞い上がっていた。が、すぐに現実の闇に引き戻されるとともに、彼の身体は、事件現場へと向けられていた。
 ギュスタヴが駆け付けると、案の定、ウィーグラフが寝所としていた小屋は跡形もなく瓦礫と化しており、まだ黒煙が濛々と上がっていた。見れば、建物の周りの地面が大きく穿たれ、その暗い穴が、ただの火事ではない事件の異様さを物語っている。
 周辺には、同志の者数名が佇んでおり、興奮とも恐怖ともつかない表情で、炎を見つめていた。
 ギュスタヴは、その場にいたモンク隊のカッツォに詰め寄ると、
「どういうことだ」
 押し殺した声で、そう訊いた。
 どうしたわけか、振り返ったカッツォに取り乱した様子は無い。むしろ、ある仕事を成し遂げたという達成感が、その歪んだ笑みに顕れているのだった。
 カッツォの表情から全てを読み取ったギュスタヴは、その眉をいっそう険しくした。
「貴様が、やったのか」
「…………」
 すると、カッツォを取り巻くように、他の同志たちが無言で集まってきた。
 その面々を見ると、骸旅団旗揚げ以降に参加した者が大半であることに気づく。中には、まだ名前もおぼつかないような者もいる。
「そうか、そういうことか」
 ギュスタヴは恨めしげに、瓦礫の隙間を舐めている炎を見やった。
(貴様になら、私の言わんとするところの意味が、分かるはずだ)
 彼の脳裏に、昨晩のウィーグラフの言葉が甦る。
 ギュスタヴはこれまで、骸旅団に加わりたいと馳せ参じた者たちに、とくに選別らしい選別をしてこなかった。大志のために、命を賭する覚悟があるのであれば、老若男女問わず、誰でも採りたててきたのである。
 それは、ひとえに、"数"こそが軍(いくさ)の要であることを、ギュスタヴがよく理解していたからでもある。数で圧倒してしまえば、それがたとえ烏合の衆であれ、敵にとっては絶対的な脅威となる──その道理は、首領ウィーグラフも認めていたところである。
 しかし事実、その中には、氏素性の定かでない者はもちろんのこと、食いっぱぐれた浮浪者や、ごろつきまがいの者が、相当数混じっていた。
 彼らが、本心より、世直しの志あって骸旅団に加わったのかどうかは、はなはだ疑わしいものがある。あるいは、ただ糧食にありつかんがため、仕方なく心にもないことを誓った者も多くあろう。
 それも十重承知の上で、骸騎士団以来の古参の同志たちは、その目指すところを説き、彼らの士気を鼓舞してきたのである。往々にして、一種の単純さを持ち合わせてもいるこうした者たちは、古参の者たちの言葉に諭され、その戦いぶりを目の当たりにするにつれ、少なからず、当初なかった意志を新たにすることもあった。
 だが結果として、骸旅団は志半ばで敗北を喫し、そうした意志の芽を摘み取ってしまったばかりでなく、むしろより一層、彼らの生への執着を強めてしまったのである。
 そこへきて持ち出された、貴人誘拐というギュスタヴの計画は、彼らの眼の色を変えさせるのに十分な現実味を帯びていた。計画の最終目的が何であれ、"五千万ギル"という明確な"餌"を提示されたからには、彼らはもはや、生存本能に支配された獣になるより他なかったのだ。
 ウィーグラフの問いは、皮肉にも、彼自身の死という形で、その答えが示されることとなった。
 骸旅団は今や、獣の群れと化したのである。
「こりゃいったい……」
 現場には、異変を察知した他の同志たちも、続々と駆けつけてきていた。ゴラグロスは、ギュスタヴの傍らに立ち、呆然とこの有様を見つめていた。
「ここにはたしか、ウィーグラフの……」
「そうだ」
「死んだのか?」
「…………」
 ギュスタヴは答えず、カッツォの方へ向き直る。
「彼は、たしかにここにいたのか?」
「ああ。爆弾に火をつける前に、窓から覗いて、奴がいるのを確認した」
「しかと、本人だったか?」
「いや、そりゃ、形(なり)はどう見てもウィーグラフだったさ……ただ、顔をしっかり見たわけじゃないが。壁にこう、よっかかって、面を伏せていたからな。だが、間違いなく、ウィーグラフ本人だった。……なあ?」
 カッツォは、自信がないのか、協力者たちに同意を求めた。他の者たちは、はっきり応というでもなく、互いに目を見交わすばかりである。
「そうか、顔を見たわけではないのだな」
「だからなんだってんだ! 奴が替え玉を使ったとでも?」
「…………」
 当然と言えば、当然のこと。もとより眠れる獅子に近づく勇気があれば、このような非道を用いるまでもないことである。精悍な男たちが揃いもそろって、たった一人の寝込みも襲えぬという肝の小ささに、ギュスタヴは、ただただ落胆を覚えるばかりであった。
「おれたちはなあ!」
 カッツォが俄かに語気を荒げて、ギュスタヴに詰め寄る。
「いつまでも煮え切らねえあんたの代わりに、けじめをつけてやったんだ! だれも口には出さねえが、みんな、本心ではウィーグラフを邪魔に思ってたんだろう? これで今日かぎり、骸旅団のリーダーはあんたってことだ」
「どうかな」
「っ……!」
「私にはどうにも、あのウィーグラフという男が、そう易々とくたばるとは思えん」
「ばかな! 計画はここにいる連中だけで秘密裏に進めたんだ! 絶対に逃げられるはずはねえ! 協力者がいたというんならいざ知らず──」
「…………」
 ギュスタヴは、濛々と立ち昇る黒煙を見上げながら、つかの間、黙考していた。
(この責めは、負わねばなるまい)
 彼の意志にかかわらず、状況は動き始めている。彼に求められているのは、いつ何時も、現実的な判断であった。理想で人心を束ねるのは、彼の本分ではない。
「──ともかく。まずは、これをしでかした者たちの手で火を消すんだ。他の者は、敵襲に備えて各所を固めろ。急げ」
 ドーターのムアンダが北天騎士団の手に落ち、"穴ぐら"の場所を知られた可能性の高いことは、すでに全員に通達してあった。しかし、にわかに総出の守備に就けというギュスタヴの指示に、皆一様にうろたえた。
「敵はすぐに来るのか?」
 ゴラグロスが言うと、
「おそらく。この変事に引き付けられて、すぐさまやって来ないとも限らん。できるだけの備えはしておけ。私は侯爵のもとへ行く。異変があればすぐに知らせろ。いいな」
 ギュスタヴは踵を返すと、戸惑いの色を浮かべている同志たちをその場に残し、現場を後にした。
 まもなく、夜は明けようとしていた。
 彼は、煙のようにまとわりついてくる嫌な予感を振り払うように、集会所へ向かう脚を速めた。


 東の空が白みはじめる頃──水瓶(アクエリアス)の刻には、火は消し止められ、高い岩壁に囲われた"穴ぐら"は、不気味な静寂(しじま)の中に沈んでいた。
 しかし、穴ぐらに潜む砂ネズミたちは、誰一人、寝息を立てる者とてなく、むしろ息を殺して、まだ見ぬ脅威に対し、身を固くしているようであった。
 ──そして、今。
 隠れ家の各所を固めている衛士たちの、松明の明かりからは少し外れて、穴ぐら全体を見下ろす高い岩壁の上に、二つの人影が見える。
 一人は立ち、一人は胡坐をかいている。
 立っている方は、やや前に身を乗り出すようにして、しばらく眼下の集落跡を見下ろしていたが、やがて座っている方に振り向くと、
「手助けは必要ないんだな?」
 目深に被ったフードの陰から、そう問いかけた。座っている方の男は、ひとつ、ゆっくりと首肯を返し、
「見知ったばかりの人間に、これ以上借りを作るわけにもいかん」
 その答えに、フードからのぞく口元が、わずかに緩む。
「私は、そんなに小さい人間ではないよ」
「これは私の個人的な問題だ。部外者の出る幕はない」
「そうかね。私の警告がなければ、貴公はあの場で、肉片と化していたわけだが?」
「礼は言ったはずだ。だが、ここからは私一人でやる」
「どうやら本気のようだ。まあ、貴公の腕ならば、案ずることもあるまい。私はここで見物させてもらうとするよ」
 男はそう言って、眼下の集落跡に向き直ると、無心にフードを取り払った。そこから露わになった細面には、眉間から左頬にかけて、大きな古傷がある。
「骸騎士団の英雄、ウィーグラフ・フォルズの大立ち回り」
「…………」
「こいつは見物だ」
 やがて、二人の背後より、朝日が顔をのぞかせ始めた。
 その時を待っていたかのように、今、死地を逃れた一頭の獅子が、おもむろに立ち上がる。
 その獅子──ウィーグラフ・フォルズの右手には、抜き身の長剣(ロングソード)が引っ提げられている。
「いざ」
 切っ先をまっすぐ前に向け、ウィーグラフは言った。
「兇賊の手中より骸の旗を取り戻さん」


 ワーッという狂騒が、にわかに巻き起こったのを、ギュスタヴは集落中央にある集会所の建物内で聞いた。
(来たか……!)
 彼は椅子に座したまま、腰もとの剣の柄をもって、カチャリと鳴らした。
 北天騎士団の来襲か、あるいは――
 ほどなくして、ゴラグロスが、血相を変えて転がりこんできた。
「生きていやがった!!」
 息をひとつ飲み込んで、また、
「ウィーグラフだっ! 生きていやがったんだ!!」
 ゴラグロスの慌てぶりに反して、ギュスタヴは、全てを見通していたかのように、あくまで冷静であった。
「一人か?」
「えっ?」
「彼は一人なのかと訊いている」
「そ、そうだ、一人きりだ! いきなり現れて……」
「そうか」
 ウィーグラフが、暗殺計画を事前に察知して回避したのだとすれば、内外の協力者の密告があったはず──と、ギュスタヴは踏んでいたのだが、今届いた報告によれば、彼は単身突入してきたということである。それとも、協力者などは始めからおらず、彼は自身に反感を抱く者たちの行動を先読みし、自らの替え玉まで用意して危地を逃れたというのか──。
 いずれにせよ、自身に向けられた凶行に報いるべく、身一つで乗り込んでくるなどは、いかにもウィーグラフらしい行動ではある。
 ただ恐るべきは、復讐に猛る獅子の爪牙(きが)であった。
「ならば無闇に手出しするな。散らばらずに囲め。それから相手の出方をよく見るんだ」
「だがよ……手のつけられねえ暴れっぷりだ! ギュスタヴ、あんたが来てくれないと……」
「私でも本気になった彼は止められん」
「じゃあ、どうすれば……」
「戦えないのなら武器を捨てろ。そして彼の言い分を聞くんだ」
「降参するのか?」
「内輪で争って何になる。私はここで待っていると、彼にそう伝えろ」
「説得するつもりか!?」
「これ以上、彼の怒りを逆撫でしてはならん。こうなってしまった以上、決着はつけなければならない。彼もそのつもりで出てきたのだろう」
「…………」
 ゴラグロスは、ギュスタヴの言うとおりにすべきかどうか、迷っている様子であった。
 ともすればギュスタヴは、怖じ気づいているようにも見えるのだ。指図しておいて、自分から出ていこうとはしないからである。
 それでも、この状況では、彼が「決着をつける」と宣言した、その言葉を信用するしかなさそうではある。
 それが「説得」によるものなのか、文字通り「決着」をつけることなのかは、判然としないが。
 ゴラグロスは、納得いかなげな顔をしながら、それ以上何も言わずに集会所を飛び出していった。
 残ったギュスタヴの表情には、苦渋の色が見てとれる。
 実のところ、彼自身、どうやって「決着」をつけるべきかは、まだ決めかねているのである。
 このような事態を招いてしまったからには、話し合いで決着をつけられるとは、まさか思っていない。かの凶行は、自分の本意ではない、などと弁解したところで、いちど致命的な亀裂を来してしまった関係を修復できる見込みもない。
(かくなる上は──)
 ギュスタヴは、剣の柄を強く握り締める。
 己か、ウィーグラフか──
(二つに一つ)
 どちらが骸旅団を導くにふさわしい者なのか。それを今、ここで決めなければならない。
 ──その前に。
「…………」
 ギュスタヴは、無言で地下牢へ続く扉のほうを見やった。
 地下牢には、ランベリー領主エルムドア侯爵が囚われの身となっている。
(こちらも、けじめをつけなくてはなるまい)
 ギュスタヴとウィーグラフ──この二人の決別をもたらしたそもそもの原因が、ここにある。
 彼は、堅い意志と不安の入り混じった表情を浮かべたまま、地下牢へと続く狭い階段を下りて行った。



[17259] 第一章 持たざる者~31.再─獅子と狼・下
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/09 07:30
 カッツォの目の前で、数名の闘士がまとめて吹き飛ばされた。
 彼は慌てて、後ろ跳びに"対象"との間合いを取る。
(ち、畜生……!)
 カッツォらモンク隊は、十人掛りで"対象"に挑んだのである。それが今や、彼を含めて戦える者は三人しか残っていない。
 その"対象"──ウィーグラフは、たしかに一人のはずである。しかし、彼の振るう剣は、眩い閃光を発し、目に見える刀身の長さからは考えられないような範囲を攻撃してくるのである。
(これが"聖剣技"ってやつかよ……!)
 聖剣技──それは、古の神々に仕えた聖戦士たちが用いたという、剣の秘奥である。今でも、特別な修養を積んだ選ばれし剣士のみが扱えるというが、そんな伝説的な技を、どうしてウィーグラフが扱えるのかは分からない。ただ、ウィーグラフが聖剣技を使えるらしいという噂を、カッツォは耳にしたことがあるだけで、実際に目の当たりにしたことはなかったのである。
 血にまみれた長剣を手に提げ、骸の合間に佇むウィーグラフからは、鬼神のごとき覇気が発せられている。カッツォは今、"本気"のウイーグラフと相対しているのだということを自覚した。
「どうした」
 ウィーグラフはにやりと笑い、
「"爆弾"は使わないのか?」
 ──あからさまな挑発であった。しかし、そんな挑発に乗る勇気さえ、今のカッツォには無かった。もとより、直接手を下す勇気があったなら、あのような搦め手を使うことはなかった彼である。
 したがってカッツォは、上手くこの場から逃れることを第一に考えた。十人掛りで倒せなかった相手に、どう挑んだところで勝てるはずもないという、きわめて妥当な判断からである。
 カッツォの傍には、なお二人の仲間がいた。二人とも去就を決めかね、カッツォの判断を待っている様子でいる。
 そして互いに目を見交わし、いずれも同じ心境にあることを確かめ合った。
「まずおれが仕掛ける……あとは、いいな?」
 カッツォが小声で確認し、あとの二人は頷きをもって返す。そして、素早い合図のあと、三人のモンク兵は一斉に行動を開始した。
 カッツォが、まず真っ先にぶつかっていく。
 "聖剣技"を使うのに多少の硬直時間が発生することは、彼は一度で見抜いていた。もう一度同じ構えを見せれば崩す手立てもあるが、ウィーグラフは泰然と、反撃する素振りも見せず、あっさりとカッツォを間合いに入れてしまう。
 カッツォは、ここぞとばかりに素早い体術を繰り出すが、その蹴りも拳も、ことごとくかわされてしまう。
(遊んでいやがる──)
 カッツォとて、本気で当たっているわけではない。反撃を警戒し、いつでも離脱できる態勢をとっている。おそらく先方も、実の入っていない攻撃であることを見抜いているのであろう。
 さらに死角から二人目が技を繰り出すが、これも当たらず。
「どうした、本気で当たってこい!」
 ウィーグラフがようやく、剣を振り抜いたところで、二人は、出しぬけにその場から飛びのいた。
「……!」
 ――パンッ!
 短い破裂音がしたあと、にわかに白煙が生じ、ウィーグラフの周囲を取り巻いていく。
 二人が牽制を加える間に、三人目が煙玉を用いたのだ。
 この一瞬の隙に、カッツォはもう十エータ以上駈け出していた。
 虎口を逃れる思いで、彼は必死で走り続ける。煙玉が効くのは、ほんのわずかな間でしかない。
 ──ギャッ!
 と、背後で短い悲鳴が聞こえた。ほぼ同時に、何かが彼の頭上を飛び越えていき、前方の地面にボトッと落ちた。
「クソッ!」
 それが人間の腕だと分かった瞬間、カッツォは一歩足踏んで、すかさず走る方向を変えようとした。
「!」
 それを遮るように、低く身を屈めたウィーグラフの姿が、彼の目の前に飛び込んできた。
 反射的に攻撃の構えをとるカッツォ。
「遅い」
 だが次の瞬間、横薙ぎにウィーグラフの剣が走り、カッツォの胴を払っていた。
 平衡を損なったカッツォの身体は、二、三度地面を打って転がっていき、少し先のところで止まって、そのまま二度と動くことはなかった。
「腑抜けどもが」
 カッツォの骸に向かって、ウィーグラフが吐き捨てるように言う。
 怒れる獅子の牙は、逃げる獲物も逃さなかった。
 こんどは十数名の剣士がウィーグラフを囲んだが、必要以上に間合いをとり、誰一人として討ってかかる者はない。
「つまらん」
 ウィーグラフは、敵意をむき出しにした眼を周囲に振りまく。
「貴様らは、この私を亡きものにしたいのではなかったのか」
「…………」
 誰も答えない。
「ならば殺す気で掛かってこい! 逃げようとする者は皆、あのようになろうぞ!」
「ウィーグラフ!」
 そこへ、ゴラグロスが進み出る。彼一人は剣を収め、戦意のないことを示していた。
 ウィーグラフは、ギロリとそちらに眼を向ける。
「ゴラグロス・ラヴェイン! まさか貴様まで腑抜けになったか!」
「聞いてくれ! ウィーグラフ!」
「貴様らから聞くことなど何も無い! 貴様らが我を亡きものにせんとし、私はそれ相応に報いるまでだ!」
「わかった……わかったが、これ以上同士討ちをしても仕方あるまい?」
「そちらから仕掛けておきながら、何をほざくか! 子供でもあるまいに、自らしでかしたことに責任を持つこともできないか!」
「ギュスタヴ……ギュスタヴが、あんたに会いたいと言っている」
「そう、彼奴(きゃつ)こそ真の腑抜けよ! あの卑怯者の裏切り者め! 今すぐここへ連れてこい! そっ首たたき落としてくれる!」
「だがよ……」
 ──その時である。
 ひょう、ひょうと数回空を切るような音がしたかと思うと、その場にいた数名の剣士の身体に、矢が立った。
「なんだ!」
「敵襲だッ!」
 穴ぐらを囲む崖の上からである。かなりの距離があるが、矢は過(あやま)たず、標的を狙い撃ちにしてくる。
 守衛がウィーグラフの襲撃に気を取られた、その隙を突かれたのだ。
「やはり来たか! ベオルブの小童が!」
 ウィーグラフが岩壁を見上げ、彼に向って飛んできた矢を剣で弾く。
 それから彼は、混乱でばらばらになった包囲を抜け、集落跡の中央──集会所の建物のある方を指して駆けて行った。


「我が命を奪いに来たか」
 集会所の地下である。外の騒ぎとはうって変わって、ここにあるのは静寂そのものであった。
「…………」
「…………」
 ここでエルムドア侯爵と相対するのも、もう何度目かになるが、ギュスタヴは、この高貴な人質に対し、どうしても畏まった態度を崩せずにいた。
 今もそうである。しかも今回は、侯爵の命を頂戴しにきたのだ。
 だのにのっけから、こうずばり訪問の目的を言い当てられては、さすがの彼も、うろたえずにはいられなかった。
「そうであろう。我が命を奪うことで北天騎士団の名声を貶め、我とよしみ深き南天公が北天騎士団に仇なす口実を作るのだと、以前貴公は申していたな」
「……は」
「本当に、そうなると思っているのか?」
「……!」
 やや意表を突かれた質問に、ギュスタヴは表情を堅くする。対して侯爵は、この場を楽しむかのように、うっすらと笑みすらうかべている。
「ははは。まあ、貴公とて、それが希望的観測にすぎんことは重々承知しているか」
「…………」
 何から何まで見透かされている──そうした感覚が、ギュスタヴの決意をさらに鈍らせる。
 人質の殺害。それは、身代金の獲得が絶望的となった今、せめて貴族専制社会に一石を投じんと、彼なりに苦慮した上での決断であった。たとえ結果として、事が思惑通りに運ばなくとも、現時点において、もっとも理にかなった選択をする──それこそが、彼の変わらぬ行動規範である。
 判断に鈍りが生じるということはつまり、その規範に照らしても、それが疑問の残る選択であることを、ギュスタヴ自身が認めているということになる。
「この期に及んで命乞いをなさいますか。あなたのお命は、我が手中にあるのですぞ」
 疑念を振り払うように、ギュスタヴは、こんな苦し紛れを言った。エルムドア侯爵は、クククと乾いた笑声を洩らし、
「そうであったな……いやなに、私とて命は惜しいよ。戦場で散るならまだしも、このような牢獄で賊の手に掛かろうなどとは」
 "賊"という言葉に、ギュスタヴは、なお心臓を針で刺されたような痛みを覚える。
 なるほど、たしかにエルムドア侯爵にとって、骸旅団は金目当てに己を拉した、不埒な賊には違いない。それでもやはり、賊は賊でも、「義賊」であるという信念を、彼はまだ捨ててはいない。
「全ては、大義のためです」
「大義、か」
 侯爵は、少し思案するように、細い指を形のよい顎にあてがう。
「では、ひとつ訊くが──貴公は、本当に自分の意志で我が身を拐したと思っているのか?」
「どういう意味で……?」
 侯爵は、切れ長の眼をさらに細める。
「分からないか。ラーグ公はあの会談で、この私を懐柔する腹だったのだろうが、私は北天陣営に靡く気など毛頭ない。味方にならないのならばむしろ、ラーグ公は私の死を望むのではあるまいか?」
「…………」
「とはいえ、自ら手を下すのでは具合が悪い。そこで、貴公らの登場というわけだ」
「つまり我らは……利用されていると?」
「結果としてはな。貴公は身代金を得るつもりだったのだろうが、来たる戦のことを考えるとなると、他領の領主を自領で死なせるという不名誉を被ってでも、薔薇騎士団を擁する我がランベリー領から指導者の存在をなくせるのであれば、それは戦略上、かえって北天陣営に利をもたらすというわけだ。そのための"不慮の事故"は、願ってもないことであろうな」
 滔々とした侯爵の弁に、ギュスタヴは返す言葉もない。
 どう抗っても、所詮貴様らは貴族の掌の上で転がされている小さな虫にすぎないのだ──無慈悲なこの世の理(ことわり)を、ギュスタヴは容赦なく突き付けられた気がした。
「だがこの機に、貴公らの主義主張も、わが身をもって痛く知ることができた。──どうだね? 我が一命をつなぎとめてくれるのであれば、きっと、ゴルターナ公の御耳に貴公らの声を届けてみせよう。なんとなれば、南天公のご陣営に、貴公を加えることを進言してもよい。ゴルターナ公は、能力のある者ならば、身分に関わらず誰でも取り立ててくださるお方。そして、晴れて南天公の世が来たれば、貴公ら平民にとって、よりよい政(まつりごと)が敷かれることとなろう」
 これはもはや、助命の懇願などではない。完全に言いくるめられた形である。
 ギュスタヴは、なおも迷っていた──切るべきか、切らざるべきか。もっとも理にかなった道とは何か。
 もしかすると、自らの歩んで来た道は、最初から間違っていたのかもしれない。
 いつまでも煮え切らない──昨夜の爆発現場で、カッツォにそう言われたことを思い出す。
 しかし決着の時は、むこうからやってきた。
「私は……」
「ここにいたか、ギュスタヴ」
 不意に、背後で聞き慣れた声がした。ギュスタヴは、ゆっくりと部屋の入口のほうを振り返る。
 そこに、今、彼が最も向き合わなければならない人間の顔があった。
「来たか……ウィーグラフ」



[17259] 第一章 持たざる者~32.勘
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/09/23 13:11
 昨晩、轟音とともに突如現れた煙を目標(めじるし)にして、ラムザ隊がようやくたどり着いた"穴ぐら"は、そこが本当に敵の根城かと疑われるほど、無防備なありさまであった。
 斥候からの報告を受けて、敵基地の手薄なことを把握したラムザは、さっそく隊を二つに分け、イザーク、カマール、イアン、アルガスは、弓による援護射撃のため、集落跡を囲む岩壁の上に位置取り、他の隊員は、集落の入り口正面からの突入に回ることとなった。
 夜明けからは、一刻あまりが経っていた。周囲は、もう松明を要しないほどに明るくなっている。
 正面には木製の大扉があり、左右に見張り台が設置されているが、今は、その上に立っているはずの見張りの姿もない。
 大扉は堅く閉ざされているため、さっそく、工術師のジョセフ、ニールが、丈夫なロープを使って入り口の横の高い柵をよじ登り、内部への侵入を試みる。
 彼らが扉を開けてくれるのを、ラムザたちは数人ずつ、それぞれ扉の両側に立って待っていた。
「事前の偵察通り、内紛がおこっているのだとしたら、絶好のチャンスなんだけど」
 ラムザがいう。
「罠だったらどうしようか、ディリータ?」
 ディリータは、分かりきった質問にため息を吐きつつ、
「どうしようもなにも、ここまで来たらもう、引き返せないだろう」
「だよね」
 ラムザは、苦笑に唇を歪ませる。ディリータは、友の横顔をジロとにらんで、
「もし侯爵を奪還できたとして、兄上には何と説明するつもりだ?」
「ザルバッグ兄さんは、きっと喜んでくれるよ」
「ちがう、ダイスダーグ殿にだ」
「わかってるよ。僕らの動きなんて、ダイスダーグ兄さんには筒抜けだろうけど、まだ止められてないってことは、大丈夫だってことさ」
「そうなのか? なら、援軍をよこしてほしいところだが」
「下手に手助けして失敗したら、責任を問われるだろう? だから、たとえ知っていたとしても、我関せず、ってところだろうね」
「でも、実の弟が失態をやらかしたら、それこそ具合が悪いだろう?」
「そこは、僕らに賭けてくれてるんだろう」
「前向きだな」
「まあね。こんな状況ならなおさら、前向きくらいでないと」
 それから二人は、笑みを交わす。ディリータは、ラムザの世話女房という立場上、慎重な意見を述べているだけで、彼の表情にも、功名心の色は隠せていない。
 その時、ギギギ、という軋みを立てて、扉が開き始めた。
「じゃあ、いいね?」
 ラムザが、突撃部隊全員に呼び掛ける。
「目標は、侯爵殿の御身の奪還。侯爵殿は、中央の大きな建物内に囚われている可能性が高い。戦闘は最小限にとどめること。万が一敵の罠に気付いたら、真っ先に退避すること」
 全員が、大きく頷きを返す。どの顔にも、五分の不安と、五分の興奮が見える。
「よしっ! 作戦開始!」
 得物を引き抜き、全員が素早く行動を開始する。
 先頭は、ラムザ・ベオルブ。侵入開始後、すぐに、扉を開けに先行した工術師の二人が、隊に合流した。
「ジョセフ、ニール、ご苦労だった」
 ラムザが、ねぎらいの言葉をかける。二人は無言で頷き、ラムザの後に続く。隊長と隊員との、堅い信頼の絆が、目に見えるようであった。


 しばらくは、敵の姿も見えなかった。
 ラムザたちは、数人ずつに分かれて、建物の陰に身を隠し、安全確認をしながら、漸進する形をとった。
「前方が騒がしいな」
 ラムザが建物の陰から顔を出し、様子を伺う。彼らの進行方向、つまり集落跡の中心部で、何かが起こっているらしい。
 別働隊として崖の上に陣取っている四人には、独断での攻撃を許可してある。ひょっとすると、彼らとの交戦もすでに始まっているのかもしれない。
「!」
 前方に人の動きを確認し、ラムザは素早く全員停止の合図を発した。後から続いてきた隊員たちが、ラムザのいるところに集まり、動きを止める。
 ラムザ隊の後方からは、ディリータ率いる小隊が、少し間をおいて追従してきている。彼らも、先行するラムザ隊の動きに気付き、やはり少し後方で動きを止め、手近な建物に身を潜める。
 やがて、前方から、二人の男が走ってくるのが見えてくる。いずれも戦闘員らしく、長剣で武装し、皮の軽鎧を身につけている。
 相当焦っているらしく、興奮ぎみのやり取りが、ラムザたちの耳にも届いてくる。
「これからどうするんだ? ウィーグラフに従うか?」
「馬鹿を言え! ウィーグラフに従っても死ぬだけだ!」
「でもよぉ、ここから逃れたとして、どこかあてはあるのか?」
「知るもんか! こうなっちまったらもう、盗賊からは脚を洗って、まっとうに生きるしかねえだろ!」
 だいたいそんな内容の会話である。
 ラムザたちは、敵の剣士二人が、自分たちの身を潜めている場所を通り過ぎるのを、ひとまず待った。
 そして、後方で待機するディリータ隊が、ラムザ隊より先に、二人の前に立ち塞がる。
「!」
 二人は、突如現れた敵を前に、突破する構えすら見せず、すぐさま逃げの態勢をとった。むろん、そちらの方向には、ラムザ隊が待ち構えている。
「くそっ!」
 やけくそになったのか、二人は、やっと白刃を晒した。
「無駄な抵抗はよせ!」
 ラムザが、警告の一声を発する。二人は、あからさまにうろたえ、
「なんだお前ら、北天騎士団か?」
「そうだ」
「……!」
 相手が北天騎士団だと判ったとたん、剣士二人は、さらに追い詰められたように顔をひきつらせた。北天騎士団に捕まった仲間の運命を、彼らはよく心得ているのだった。投降したとしても、命の保証はない。
 こうなっては、追いつめられたネズミも同然である。
「う、うわあっ!」
 動物的な喚き声をあげ、二人はそれぞれ、ラムザとディリータに打ちかかっていった。
「僕が」
 ラムザが、スッと前に進み出、暴力的な一撃を剣で受け止める。と、同時に素早く繰り出された足技にすくいとられ、バランスを崩した剣士の身体は、仰向けに砂の地面に倒れていた。
 すかさず、ラムザの足は、剣士の利き腕を踏みつける。
「うぐっ!」
 悲痛な呻き声をあげ、剣士は得物を手放す。
 ディリータのほうに仕掛けた剣士も、そう時間をかけずに、やはり武装解除されていた。
「…………」
 二人は観念したのか、それ以上抵抗する素振りはみせず、ラムザの言うに従い、おとなしく後ろ手に括られた。


 それから二人は、すぐ近くの建物内に連れ込まれ、ディリータの尋問に曝された。
「ここで何が起こっている?」
 ディリータは、まずこう問いかけた。
「ウィーグラフが……」
 一人が言いかけたのを、「しっ!」と、もう一人が咎める。それにも構わず、剣士は続ける。
「ウィーグラフの野郎が、大暴れしてるんだ」
「ウィーグラフだと? なぜ骸旅団の首領が、仲間のアジトで暴れているんだ?」
「ギュスタヴと話しがこじれて……」
 饒舌な仲間を、もう一人が再度、「おいっ!」と咎める。
 しかし、ここまでの情報と、状況に照らし合わせて考えれば、事態把握には十分であった。
「仲間割れしたんだな?」
「…………」
 沈黙は、何よりの肯定である。
 やはり、骸旅団は本格的に内部分裂を起こしているらしい。それも、首領自らが粛清に乗り出さねばならないほどに。
 その時、外で待機していたフィリップが飛び込んできて、
「ディリータ! まだ敵が来るぞ!」
 と、告げてきた。
「すぐに行く」
 と、そちらに答えてから、ディリータは、最も重要な情報を聞き出すべく、作戦開始前にベルトに挿しておいた父の形見の短剣を抜き取ると、それを怯える剣士の喉首にあてがい、
「侯爵は?」
 無機質な表情を、剣士に向けた。剣士は、半身を仰け反るようにして、ひとつ生唾を飲み込んだ。
「集会所の地下……中央の」
「間違いないな?」
 ディリータは、もう一人の方に確認をとる。剣士は、顔を横にそらしながらも、小さく頷いた。
「よし」
 ディリータは短剣を剣士の頸から離し、腰の鞘に収めると、仲間とともに建物を出た。
「中央の建物だ! そこに侯爵がいる!」
 外で待機していたラムザたちは、ディリータの報告を受け、ただちに行動を開始した。
「まずは、ここを突破する!」
 ラムザが先陣を切り、ディリータ隊もそれに続く。新手も、やはり前方から逃げてくるようだ。人数は、五、六人といったところ。ラムザたちの姿を認め、あわてて臨戦態勢をとる。
 もとより攻めの姿勢で向かうラムザたちに対し、脅威から逃げてきたばかりの骸旅団などは、はなから敵ではない。
 ラムザは横薙ぎに一人切り、また、敵の攻撃をかわす体で一人切った。
 そこに生じた隙をついて、敵の剣士がすかさずラムザに切りかかったが、味方の剣士ラッド・オールビーの機敏な対応により、これを退ける。
 ディリータは、得意の素早い突きで、敵の急所を貫く。その視界の端できらめいたものを逃さず、抜き手の刃で弾き返す。同時に、腰の短剣を、ためらうことなく投げ返す。
 最後の一人は、ディリータの放った短剣を胸に突き立て、絶命した。
「見事ね、ディリータ」
 後方支援役のローラが、感心したように、ディリータの洗練された技を褒める。
「これくらいのこと……」
 敵の身体から短剣を引き抜きながら、彼はさりげなく地に倒れ伏している敵を検分した。
「器用なものだな」
 ディリータは、ひとりごちた。
 ラムザの切った敵には、まだ息がある。戦闘不能にしながら、致命傷は与えていない。
 対してディリータの剣は、殺人剣である。当然、生かしておいた敵はない。
「…………」
 ここへきても、ラムザのやり方は変わっていない。友は友なりに、自分の納得いく形で戦っている。
(慈悲をかけたつもりか?)
 甘すぎる、と思ったところで、そうしたラムザのやり方が、状況を動かしていることも事実である。彼の強い意思があったからこそ、自分たちは、北天騎士団を総動員しても成しえなかったことを成し遂げようとしているのだ。
 複雑な思いを抱きつつも、ディリータは、すでに先を走っている友の背を追った。


 中央の集会所周辺は、酸鼻を極めていた。
「これは……」
 一人として、息のある者はない。
 ラムザは戦慄した。これが全て、ウィーグラフ一人の手によるものだとしたら、自分たちの追う敵は、途方もない化け物ということになる。
 単純に剣の腕という意味で、ラムザの知るもっとも強い剣士は、彼の二番目の兄であり、北天騎士団総帥の座を亡き父バルバネスより継いだザルバッグ・ベオルブである。ウィーグラフという男は、もしかすると、その兄に匹敵する実力を持っているのかもしれない。
「容赦ないな」
 ディリータがラムザの傍らに立ち、深いため息を吐く。
「彼の目的は何だ? ここまでする理由は?」
 ディリータの目にも、畏れの色が窺える。
「分からない。でも、感情をむき出しにした剣だということは解かる」
「ああ。一片の慈悲すら感じられない」
 もはや、敵の襲ってくる気配もない。いずれも、ここで獅子の牙に掛かったか、運の良かった者は、逃げおおせたかのどちらかであろう。
「ウィーグラフは、この中にいるんでしょうか……?」
 ラッド・オールビーが、集会所の建物を見上げながら、つぶやく。他の隊員も、その存在の大きさに、震えを覚えぬ者はない。
 目標を前にして、若い騎士たちが足踏みしているところへ、アルガスら別働隊が合流してきた。
「ひどいありさまだな」
 額に汗を浮かべて、アルガスが言う。
「おれたちは、崖の上からウィーグラフの戦いを少しの間だけ見ていたんだが──」
「どうだった?」
 ラムザが、真剣な表情でアルガスに訊く。アルガスは戦いを反芻しながら、もったいぶるように腕組みし、
「それはもう、鬼のような強さだったさ。でもまあ、おれたちが攻撃を仕掛けたら、戦いをやめて逃げて行ったがな」
 得意げに、肩をそびやかす。
「彼はどこへ行ったんだ?」
 ディリータが、すかさずアルガスに詰め寄る。アルガスの勲功など歯牙にもかけないディリータの態度に、眉をひそめながらも、アルガスは続ける。
「はっきりと見たわけではないが……たぶん、この中だ」
「やはり……!」
 全員の緊張が、一気に高まる。
 あの、ウィーグラフが。北天騎士団が総力を結集して追い続けてきた男が、すぐ近くにいる。
 為すか、為さざるか。──一大決心は、隊を率いるラムザの身にゆだねられた。
「行くよ、みんな」
 彼は、きっぱりと言った。
 不思議と、今のラムザの心を支配しているのは、恐怖ばかりではなかった。
 ドーターの街で、彼とは知らずに、見た顔。そして、無力な花売りの少女を窮地から救った彼の行動と、また、彼と一月もの時間を共に過ごした少女の口から語られた、ウィーグラフという人物の片鱗は、必ずしも、冷酷無比な殺戮者の像には重ならない。
 何より、一軍を率いる将器ある者として、亡き父が認めていたほどの男。
 九分の恐怖に、一分の好奇が、ラムザにはあった。
「彼を捕えられなくてもいい」
 ラムザの言葉に、一同は、意外な顔を見せる。ただ一人、ディリータだけは、冷静な面を崩していない。
「どんな状況であれ、彼を絶対に刺激してはならない。僕らの目標は、あくまで侯爵殿の救出だ。そしておそらく、彼はそれを阻まない」
「どうしてそんなことが分かる?」
 アルガスが、困惑色を浮かべる。ラムザは、彼の方をみて、少し笑ってみせた。
「勘、かな」
「勘……?」
 アルガスは、呆気にとられたように、ラムザの笑顔を見返していた。
「ともかく、今はラムザを信じよう」
 ディリータが、皆に呼び掛ける。
 ラムザは、そう言ってくれた友に、力強く頷いた。ディリータも、わずかに笑みをこぼしてそれに応える。
 朝日はすでに高く、乾いた大地を照らし始める頃。
 ラムザを先頭に、若い騎士たちは、一斉に突入を開始した。




[17259] 第一章 持たざる者~33.自惚れ
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2012/10/10 16:11
「言い訳は──させてもらえないようだな」
 因縁の相手を前にした男の顔には、笑みがあった。覚悟か、諦念か──いずれにせよ、何かを超越した境地ではあったろう。
「貴様の腕次第だ」
 ウィーグラフが房内に一歩踏み込み、ゆっくりと剣の切っ先をギュスタヴに向ける。
「言語は無用。抜け、ギュスタヴ」
「…………」
 言われるがまま、ギュスタヴはスラリと腰に佩いた長剣を抜き払う。
 二人の間に、思考の余地は一切なかった。そこには、さまざまなものを背負った、一個の魂と魂だけがあった。
 薄暗い房内に、二つの殺気が漲る。
 獅子と狼──ついに相容れることのなかった二人の獣が、牙を剥き合う。異様な空気の中、独房の主たるエルムドア侯爵の姿だけが、路傍の石のごとく、静かに勝負の行く末を見守っていた。
「…………」
「…………」
 呼吸が困難なほどに空気が張り詰めた、一刹那。
 まず、ダッと勢いよく前に踏み出したのは、意外にも、ギュスタヴの方であった。
 言語を超えた、一種の咆哮のような雄叫びを発し、ギュスタヴは、全力でウィーグラフに切り掛かった。
 はたしてこれまでの戦いの中で、かくも果敢にウィーグラフに挑んだ者は、一人として無かった。
 ウィーグラフは、狡猾な狼らしからぬ気迫に対し、ここへきて初めて、恐怖を覚えた。


 舞い上がった砂埃の中に、二つの身体が、刺し違えるような格好で静止していた。
 見る者が見れば、勝敗は明らかであった。
 それでもなお、しばらくは時の止まったように、交錯したその姿は、切り結んだままの形を保っていた。
 ギュスタヴの深緑色のマントを刺し貫いて、血糊に濡れたウィーグラフの長剣の切っ先が、五分ほど突き出していた。
 ギュスタヴは、必死の形相で、なお振り抜いた剣から手を離していない。
 ──狼は敗れた。
 ウィーグラフが、一息に突き刺さった剣を引き抜くと、支えを失ったギュスタヴの身体は、その場に、どうと倒れ伏した。
 再び砂埃が舞い、明かり採りの小窓から差し込む陽光に、きらきらと煌めく。
 ウィーグラフは、抜き身の剣を手にしたまま、エルムドア侯爵の方へ向き直る。ただ一人の立会人である侯爵は、生死を賭けた決闘を目の前にしながら、顔色ひとつ変えていない。
「メスドラーマ・エルムドア侯爵閣下とお見受けする」
「いかにも」
「この通り、愚かなるギュスタヴ・マルゲリフは粛清されました。閣下の御身は、まもなく北天騎士団の者どもが助け参らせるでしょう」
「わからんな、ウィーグラフ」
「わからぬとは?」
「仔細は知らぬが、ギュスタヴとて才無き男ではない。なにも殺すことはあるまいに」
「…………」
 ウィーグラフは、足もとに倒れているギュスタヴに眼を落とす。自身の言葉に反し、彼の眸(ひとみ)に、ギュスタヴを蔑むような色は無い。
「この者は、自ら責めを負うたのです」
「責め?」
「これは私闘にあらず。骸の騎士の名のもとに、我はこの者を討ち果たしたまで」
「…………」
「しかし、ギュスタヴ・マルゲリフは、一命を賭して、自らもまた骸の騎士たることを示した」
「やはり、わからんな」
「下賤の身には下賤の身なりの道義というものがあるのです」
「ふむ、そんなものか」
 その時、地下室の外から騒々しい足音がして、直後、数人の騎士たちが房内に踏み込んできた。
 部隊を率いてきた若者をはじめ、幾人かの顔は、ウィーグラフの見知った顔である。
 彼らはウィーグラフの姿を認めると、一様に驚きの表情を顕にした。と同時に、それぞれ得物を構え、警戒の姿勢をとった。
「また会ったな、ベオルブの御曹司」
 ウィーグラフが、先頭に立つラムザに向かって言う。
 ラムザは、抜き身の剣を手にしているウィーグラフの動きに警戒しながら、それに答える。
「牡羊(アリエス)殿──いや、ウィーグラフ・フォルズだな?」
「ドーターでは世話になったな」
「侯爵殿を解放してもらおう」
「…………」
「侯爵さまっ!」
 アルガスが主君の姿を確認し、たまらず声をあげる。そして、真っ先に駆け寄ろうとしたのを、ウィーグラフは剣を向けて牽制した。アルガスは反射的に、その場に踏みとどまる。
「それ以上動くな」
 落ち着きを払った声で、ウィーグラフが警告する。
「きっ、貴様っ……!」
 角を立てようとしたアルガスだが、自身に向けられたウィーグラフの剣先から鮮血が滴り落ちているのを見、また、彼の足もとに剣士が一人倒れ伏しているのを見て、萎縮したように、一歩引き下がってしまう。
「侯爵殿は無事だ。イグーロスにお連れするがいい」
「ど、どういうことだ……?」
 ウィーグラフの言葉に、アルガスは困惑色を浮かべる。
「侯爵殿誘拐に、あなたは関係していないと?」
 次にディリータが、疑問を投げかける。ウィーグラフはディリータの方を見やり、
「誘拐は我らの本意にあらず。このまま私を行かせてくれれば、侯爵殿の御身はお返ししよう」
「…………」
「お前一人で、おれたちから逃げられるとでも?」
 と、また強硬に出ようとするアルガスを、ラムザが引きとどめる。
「よせ、アルガス。彼は本気だ」
「しかし……」
 主君の救出はもとより、骸旅団の首領の検挙という目前の勲功を、どうしても諦めきれずにいる様子のアルガスである。しかし、いくら人数で勝っているとはいえ、外で行われた凄惨な殺戮を、ただ一人でやってのけた人間を捕えようというのは、誰にも無謀な軽挙と思われた。
「賢明な判断をしたまえ」
 ウィーグラフの双眸に、いっそう険しさが加わる。貴様らを切り倒してでも、行くつもりなら行けるのだということを、言外に含ませている。
「侯爵殿誘拐が、骸旅団の本意ではないというのは、本当か?」
 慎重に、ラムザが言葉を発する。
「二言は無い。私があえてムアンダを口止めせず、貴様らに私の跡を追わせたのも、他ならぬベオルブ家の人間に、我らの真意を伝えようと思ったからだ。骸の騎士は、盗賊・匪賊がごとき手段は用いぬということをな」
「…………」
 その意思を確かめるように、ラムザの真っ直ぐな眸が、ウィーグラフの顔を見据える。ウィーグラフも、己を相手にし、いささかも臆していない若き騎士を値踏みするように、ラムザの眸を見返していた。
 やがて、ラムザが丁寧な口調で話し始める。
「私は以前、マンダリアの丘で、ミルウーダという名の骸旅団の剣士に捕らわれたことがあります」
「なに……?」
 ミルウーダという名を耳にし、ウィーグラフは意表を突かれたように眉を開いた。肉親の名を、まさか仇敵たるベオルブ家の御曹司の口から聞かされるとは、彼も思っていなかったのである。
 が、そんなウィーグラフの反応に気を留めることもなく、ラムザは、話を続ける。
「マンダリアの砦に立て籠もっていた彼女と、その同志たちは、我が兄、ザルバッグ・ベオルブの軍勢に対し、なお最期まで戦おうとしていました。なんとなれば、私を人質とし、全軍の退却と身代金の要求もできたはず。しかし、彼女はそれをしなかった。それどころか、最期の戦いに臨んでは、もはや捕虜も必要なしと、私を解放しようとしたのです」
「ほう、それこそ、真の骸の騎士たる者の振る舞いよ」
「私の兄たちは、あなた方を悪逆非道の賊徒とみなしている。もしあなた方が、本当に高潔な志をもった戦士たちならば、私は、その事実をありのまま伝えましょう。そうすれば、我が兄たちもあなた方のことを認め、互いの意思を尊重し合うこともできるかもしれない。彼女──剣士ミルウーダも、きっとそれを望んでいるはず」
「ハハハ、何を知ったふうなことを」
 ラムザの弁を、ウィーグラフは一笑に伏す。
「貴様の兄に認めてもらうだと? 戯言も大概にしろ! 我らは自らの剣を以って、傲慢な貴族どもに制裁を加えるのみ。貴様らの意思を慮(おもんばか)る必要など無い!」
「あなたの言い分はよく分かります。しかし、これ以上無益な戦いを続ければ、いたずらに民の平安を脅かすばかりです。我らは、今こそ互いに手を取り合わなければならない。どうかあなたにも、そのことを理解してもらいたいのです」
「ご立派な言われようだな、ベオルブの御曹司よ。それで、ミルウーダ・フォルズ──我が妹は、その地で立派に討ち死にを果たしたのだろうな?」
「!」
 今度は、ラムザが意表を突かれる番であった。
「──いえ、彼女はまだ生きているはず。マンダリアでは、私が自ら人質となり、北天騎士団による包囲を解かせたのです。まさか、ミルウーダがあなたの妹であったとは……」
「そうか。つまり貴様は、名誉の死を遂げようとしていた我が妹に対し、"慈悲"をかけて逃がしてやったというわけだな」
「慈悲などと、いうつもりはありません。私はただ、彼女のような気高い戦士が無益に命を散らすのを見捨てられず──」
「彼女の決意を、我らの戦いを、貴様は"無益"と言うか! つくづく高慢な奴だ。そうやって"持たざる者"の命を気まぐれで弄ぶ。死にかけのネズミを救ってやって、自分に酔っているのだろうが!」
「ちがうっ! 僕はそんなつもりじゃ──」
「自覚していないのならば、なおさら性質が悪い! 我が妹の命を救ったのだとすれば、それは貴様の実力ではない! 貴様の"身分"だ! それしきのことも理解していないような輩と、到底分かりあうことなどはできんよ! 意思を尊重し合うだと? 馬鹿馬鹿しい! ミルウーダもミルウーダだ! 君子面した坊主の甘言にすがるなどとは、呆れ果てた雌犬根性よ!」
 激昂したウィーグラフは、今にも切りかからんばかりの剣幕である。
「貴様らのような乳臭いガキどもとは、剣を交える価値もない! 死にたくなければそこをどけっ! 今すぐにだっ!」
 ウィーグラフが、ラムザの真ん前まで来て剣を突きつける。しかしラムザは、意地を張ってそこから動こうとしない。
「ラムザ! もうよせっ!」
 見かねたディリータが、友の腕を引っ張るようにして無理矢理下がらせる。
 結局、ウィーグラフの発する怒気に払われるようにして、若い騎士たちは、おずおずと道を開けた。
 そして、猛然と去っていくその背を、彼らはただ黙って見送るしかなかった。


「すまない、僕からウィーグラフを刺激してはいけないなどと、言っておきながら」
 エルムドア侯爵の救出を果たし、集会所の広間に戻ってきたラムザは、傍らに立つディリータに言った。
「一時はどうなることかと冷や冷やしたよ。でもまあ、目的は果たしたことだし、これからのことを考えようか」
「ああ、……そうだね」
 救出されたエルムドア侯爵は、長きにわたる抑留生活の疲れは見えるものの、自らの足で立つこともでき、実に一月以上の間、地下の独房に捕らわれていたという事実が疑われるほど、健やかな様子であった。
 今は長机の一席に腰掛け、食べ物を口にしながら、アルガスと言葉を交わしている。話し相手となっているアルガスの表情には、いつになく晴れやかな気色がある。
「アルガス、嬉しそうだな」
 その様子を遠目に見て、ディリータが言う。
「侯爵殿も無事でおられて、本当によかった」
 ラムザの顔にも、今は安堵の笑みがある。とはいえ、先ほどのウィーグラフの言葉が、まだ彼の心を曇らせていた。
(自らに酔っている? 僕が?)
 彼がこれまで、考えもしてみなかったことである。しかも、そのことに無自覚であると、ウィーグラフは言った。
 弱きものに救いの手を差し伸べる──そのこと自体は、貴い行いかもしれない。しかし、救世主のような振る舞いをすることそれ自体に、知らず知らずのうちに快感を覚えていたのだとしたら──まさにそれは、人の傲慢というより他ない。他人の意思や決断を、自らの価値観に照らし、否定する。そして、一方的な善意を押しつける。
(ミルウーダを救えたのは、僕にザルバッグ・ベオルブの弟という"身分"があったからだ。でもそれは、神より授かったようなもの。自ら勝ち得た力じゃない。僕はその力を、当然のように行使した。僕が"持たざる者"だったら、はたして彼女を救うことができただろうか──?)
「ラムザ、どうかしたか?」
 ディリータが、心ここにあらずといった様子のラムザに声をかける。
「いや、なんでもないよ」
「そうか」
 いつものようにそっけない態度だが、誰よりもラムザの心情を機敏に感じ取っているのが、このディリータという友の存在である。ラムザは、この短いやりとりだけで、心の内を全て、友に見透かされてしまったように感じた。
「ウィーグラフの言ったことなら気にするな」
「……うん」
「君は君の立場で、やるべきことをやればいい。それに助力していくのが、僕らの立場で、役目だ」
「君は賢いな、ディリータ」
「いちいち難しく考えないことさ。直感で動くことも時には大切だ。剣だってそうだろう? 君はいつだって直感で動いてきたし、現にうまくいっているじゃないか」
「失礼な奴だな。僕だって、ちゃんと考えてるんだ」
「まあとにかく、自分の意思を尊重しろよ。それで結果的に間違ったとしても、悔いることはない」
「取り返しのつかないことになっても?」
「その時は、その時だ。怖がっていたら、何も成し遂げられない」
「君は本当に、大人だな」
 ラムザは、なおも悶々としていた。ウィーグラフに言われたことの数々は、この先も、事あるごとに引き摺りそうな予感がする。
 一仕事終えたせいもあるだろう。事に当たっている時は脇目も振らないラムザだが、一段落ついて立ち止まったところで、あれやこれや考え始めるのが、彼という人間の習性なのだ。
 そんなところへ、
「ラムザ隊長」
 地下室へ続く扉から、工術師のリリアンが出てきた。
「どうだった?」
 ラムザは報告を受けるために、彼女の方へ顔を向ける。
「かろうじてまだ息はあるけど、手持ちのポーションだけでは難しいと思う」
「そうか……」
「ローラの白魔法も一応試してはいるけど……」
 集会所の地下室にて、ウィーグラフの手に掛かったと思われる侯爵誘拐事件の主犯、ギュスタヴ・マルゲリフは、実のところ、まだ命脈を保っていた。
 応急処置を命じたのは、もちろんラムザである。首領ウィーグラフが去ってしまった今、一連の事件に関する重要参考人であるギュスタヴから、事件の全容と、骸旅団の内紛に関する情報を引き出す必要があった。しかし、彼の傷は相当に深く、とても言葉を発せられるような容体ではない。
 とはいえ、内紛の原因に関しては、思想的相違によるものであろうと、おおよその予測はつく。ウィーグラフの言った、「骸旅団の真意」からして、ギュスタヴの実行した策が、ウィーグラフの方針と相容れぬものであったことが分かる。そうでなくても、レアノール野の決戦以降、骸旅団の大物二人による派閥争いが起こっていたことは、すでに盛んに噂されていたことでもある。
「街まで行くのには、時間がかかる。この場で、全力をつくしてもらうしかない」
「……わかったわ」
「頼んだよ」
 リリアンは、再び地下室へ戻っていった。ディリータは、ふう、と一つ息を吐いて、
「万が一助けられたとして──彼の罪は重大だ。わかってるよな?」
「ああ」
「中途半端じゃだめだ。もし"慈悲"みたいな心があるんだとしたら、それこそ自惚れだ」
「わかってるよ」
 やはりディリータは、完全にラムザの葛藤を見抜いていた。
 今は、やるべきことをやる──そういう決意の表れが、しかし明確な痛みを伴って、ラムザの表情を複雑なものにしていた。


 それから間もなくして、ギュスタヴ・マルゲリフは、静かに息を引き取った。結局、彼は最期まで言葉を発することはなかった。
 砂ネズミの穴ぐらには、骸旅団の兵士たちの遺体が無数に転がっていた。その全てを埋葬するというのは、時間的にも労力的にも難しいものがあった。ラムザはギュスタヴの遺体の埋葬だけを行うことに決め、残った遺体は、間もなくここを接収することとなる北天騎士団の後詰め部隊に任せることとした。
 彼らの次なる任務は、エルムドア侯爵を迅速にイグーロスまでお連れすることであった。
「おお、白雪か」
 出発に際し、アルガスは、スウィージの森からここまで大切に引き連れてきた白雪を、侯爵に引合わせた。
 アルガスはむろん、得意満面である。エルムドア侯爵も、アルガスの功を大いにねぎらった。
「よくぞ、戻ってきてくれた」
 白雪の純白の羽毛を、エルムドア侯爵は慈しむように撫でる。主との再会に、緊張しているのか、白雪はそわそわと落ち着かない。
「おい、白雪、お辞儀はどうした!」
 アルガスが叱っても、白雪は頸を左右に振るだけである。
 誰にそう躾けられたわけでもなく、エルムドア侯爵を乗せる際は、自然に頭を下げるという──白雪のその特異な習性を、故郷のランベリーでもよく古参の近衛騎士から聞かされていたアルガスである。それだけに、彼の抱く不審も一通りではない。
 とはいえ、お辞儀をする白雪を見たこと自体は、一度もないアルガスなのである。そういえば、先の大戦より帰還してからは、以前ほど白雪にお乗りにならなくなったとも聞かされていた。ただ、どこへ行くにも必ず連れて行かれるので、その一方ならぬ愛着の少しも失せていないことだけは、確かなようである。
「ははは、よいよい。なにせ、薄汚い今の私など、潔癖な白雪が嫌がるのも無理はない」
 そう言って、侯爵自身は気にする素振りもみせない。いくら賢いとはいえ、もとより鳥禽のこと。気まぐれがあっても不思議ではない。
 ただアルガスには、心なしか、白雪が怯えているようにも見えたのだ。
 それでも、白雪が主の身を拒むようなことはなく、騎手と一体となったその姿は、さすがに勇壮そのものであり、"銀髪鬼"の名の、いまだ色褪せぬことを周囲に知らしめた。
 アルガスは、騎上の人となった主君の姿を、畏敬の念を込めて、いつまでも見上げていた。そして、この貴いお方の御身を、自らの手で救い出したのだということを、あらためて噛みしめながら、感激にうち震えるのであった。





[17259] 第一章 持たざる者~34.兄弟と兄妹
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2013/06/08 04:54
 救出されたエルムドア侯爵を伴い、ラムザ隊がイグーロスに帰還したのは、天秤月一日、砂ネズミの穴ぐら突入より一週間後のことであった。
 ラムザがおおよそ予想していたことではあったが、見習い騎士の一隊によって侯爵救出が成されたという情報は、彼らの報告を待つまでもなく、早々にガリオンヌ領府のもとへ届けられていたらしい。到着の三日前、魔法都市ガリランドには、イグーロスより派遣された北天騎士団の精鋭部隊が、エルムドア侯爵をお迎えするために、うち揃って待機していたのである。
 ラムザたちは、ここで護衛部隊のお役御免となり、侯爵の御身をお迎え部隊の手に預けることとなった。
 その際、エルムドア侯爵は、拝跪する若い騎士たちに向かって言った。
「ご苦労であったな。貴君らの働きは、漏らさずラーグ公にお伝えしよう。はからずも他領の地で、このような若い勇気に出会えたことは、喜ぶべきことである。貴君らのこれからの活躍に期待する」
 全員が畏まる中でも、アルガスは、特に感激に堪えずといった感じで、肩を震わせていた。
「アルガス・サダルファス」
「はっ!」
「貴君の功は、大いに貴君の家の名を高めることだろう」
「ありがたき幸せに存じます!」
「さて、再び近衛騎士隊の任に就いてもらいたいところだが、この通り、大勢迎えの手があるゆえ、イグーロスまでは、今しばらくラムザ殿に従うがよい」
「ははっ!」
 当然のごとく、エルムドア侯爵の近習にそのまま加わろうと考えていたのであろうアルガスは、少々落胆の色を見せながらも、他ならぬ主君の命に、素直に従った。
 侯爵の言葉は、大いに若い騎士たちの心を励ましたが、一方で、一連の逸脱行動に対するお咎めが、イグーロスで待っているであろうことは、誰にも予測できた。
 とはいえ、彼らの功績は本物であるし、その成果はあまりにも大きい。
 イグーロスの門をくぐるころには、彼らの胸から、そんな一抹の不安も霧消していた。
 ラムザとディリータは、北天騎士団本営への帰参報告を終えた後、アルマやティータとも久々に顔を合わせ、この日は早々に床に就いた。そして翌日、二人はイグーロス城に召喚された。


 ラムザとディリータが通されたのは、城の中庭に面した書斎のような一室である。二人は部屋の真ん中に置かれたテーブルの両側に着き、窓側の席は空けておいた。
「閣下は間もなく参ります」
 二人を部屋まで案内してきた秘書官は、そう告げて退出した。
 何となく、物々しい尋問を受けさせられるのではと予想していたラムザは、思いのほか私的な面談となりそうなことに、ほっとしつつも、肩透かしをくらったような気がした。
「また謹慎とかに、ならなきゃいいけど」
 一月前、兄ダイスダーグに出過ぎた意見をしたことで、自宅謹慎を命じられたことを思い出し、ラムザは苦笑する。
「でもあの時、ザルバッグ将軍のお計らいがなかったら、僕らは城から出られず、侯爵殿の救出も果たせなかったんだ」
 腕組みしながら、ディリータが言う。ラムザは首を横に振り、
「僕たちがやらなくても、じきに誰かがやっていたさ」
「どうかな。情報なくして、あの砂ネズミの穴ぐらを発見するのは難しかったと思うが。まあいずれにせよ、骸旅団は自壊の運命を辿っていたろうな」
「運が良かったんだ。ウィーグラフがギュスタヴ一派を粛清していなければ、僕たちだけで侯爵殿を救出することは出来なかった。皮肉にも、敵のリーダーに助けられたわけだ」
「その敵のリーダーに、侯爵殿を救ってもらうなんてことになっていたら、それこそ北天騎士団の面目丸潰れだったな」
「まったく、恐ろしい人だ。ウィーグラフという人は」
 ラムザの脳裏に、あの凄惨な殺戮現場の情景が蘇る。あそこまでして、骸旅団の高潔を守らんとしたウィーグラフという男――彼の真意を、兄に伝えなくてはならない。
 べつに、ウィーグラフを擁護しようなどというつもりは、ラムザにも無い。ただ、それだけの覚悟と誇りを持って戦う者たちを、盗賊・匪賊の輩といっしょくたにして、片付けてよいものか。彼らの言い分に、少しくらい耳を傾けてあげる余地は無いのか。
 一月前にも、たしか同じようなことを兄ダイスダーグに意見して、まったく聞き入れてもらえなかったラムザである。しかも、兄と会うのは、まさにその時以来である。
 とはいえ今回は、ディリータという達弁の士が共にあり、その存在が、ラムザには心強く思われた。
 やがて、先ほどの秘書官を伴ったダイスダーグが、姿を見せた。席を立って迎えようとした二人を、ダイスダーグは両手で制しながら、
「よせよせ。身内話だ。堅苦しいのはなしにしよう」
 秘書官には、何事か指示を与えて、場を外させてから、席に着く。
「久しいな」
「お久しぶりです。兄上」
 ラムザがまず、にこやかに答える。
「お久しぶりです。閣下」
 と、次にディリータ。
「うむ。まずは、こたびの働き、見事でった。ラーグ公爵閣下はじめ、重臣の方々も、さすがはベオルブの子と、たいそう誉めておいでだ。私も、嬉しく思う」
 そう言いながら、ダイスダーグはラムザと眼を合わせようともしない。めったに感情を表に出さない人ではあるが、その鉄面皮ぶりが、前にも増して、人間味を薄れさせているように、ラムザには感じられた。
「──だが、あまりに軽率な行動であったな」
「申し訳ありません」
 ラムザが、素直に謝る。すると、ディリータが身を乗り出し、
「ラムザをそそのかしたのは僕です。手柄欲しさに、出過ぎた真似をしました。ラムザは、隊長としての責務を立派に果たしました」
 ラムザを擁護するようなことを言う。ラムザの方も黙っていられず、
「いえ、全て僕の意志です。ディリータたちは危険を承知で、僕の判断に従ってくれました。責任は僕にあります」
「当然だ」
 ダイスダーグが、静かに言い放つ。
「責任を負うのが、隊を率いる者の役目だ。誰がそそのかしたかは問題ではない」
 道理である。これに対しては、ディリータも何も言えない。
「いまさら、過ぎたことをとやかく言うつもりはない。まずは、侯爵殿救出に至るまでの経緯を詳しく話してもらおう」
 ラムザとディリータは、ドーターでの騒動の詳細と、そこでウィーグラフと接触したことも含め、包み隠さず兄に話した。そして、逮捕したムアンダを道案内とし、砂ネズミの穴ぐらへ赴いたこと、ウィーグラフとギュスタヴ一派との抗争(その際、ギュスタヴ側が首領ウィーグラフを暗殺しようとした形跡があったこと)、ギュスタヴの死、ウィーグラフの説く骸旅団の理念──そして、ラムザがウィーグラフより言われたことの全て。
 そこまで話したとき、ようやくダイスダーグの顔が、わずかに綻んだ。
「なるほど、賊の頭目の言いそうなことだ」
 ダイスダーグの反応は、それだけであった。その上、何を言っても受け付けてもらえそうにない、冷徹な兄の横顔である。
「ですが、兄上……」
 なお食い下がろうとするラムザを見かねて、ディリータが静かに首を横に振る。ここで再び兄との確執を深めるのも憚られ、ラムザは、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「奴の言う"正当"なやり方が、どういうものなのかは知らん。が、やり方にこだわって自滅するなどは、愚の骨頂だ。大望を成し遂げるためには、手段など、選んではいられん」
 最後の一言は、静かな語調の中に、やや感情がこもっていた。その情け容赦ない辣腕ぶりから、"剃刀(かみそり)ダイスダーグ"などと綽名(あだな)されている、彼らしい言葉ではあった。
「その点、ギュスタヴという男のやり方は面白い。奴から提示された要求がどんなものであったか──お前たちは聞いているか?」
 骸旅団の人物を評価するような兄の口吻に、ラムザは少し驚いた。
「いえ、詳しくは……身代金のことでしょうか?」
「そうだ。問題は、その引き渡し手段についてだ。奴は身代金の引き渡し役として、ベオルブ家の長女──すなわち、アルマを指定してきたのだ」
「アルマを!?」
 ラムザは、目を丸くした。仇なす家の人間とはいえ、年端もいかぬ少女までを大人の取引に利用しようというのは、まさに非道というべきである。しかしそれが、ギュスタヴという男のやり方であり、ウィーグラフと相容れなかった部分なのだろう。
「また、随伴は侍女一名のみとする──とあった。ここに、心得ある者を付かせることはできたが、力の弱い女に引き渡し役をやらせるというのは、こういう場合の取引では常識だ」
「そして、あわよくばアルマを新たな人質として利用する……」
 ディリータが、ダイスダーグの言葉を引き取って言う。ダイスダーグは、「その通り」と、頷いた。
「取引上、圧倒的有利な立場だからこそ要求できたことだが、自分たちの利益になりそうなことは、とことんまで追求する徹底ぶり。いやむしろ、北天騎士団擁するベオルブ家の人間を手に入れることこそが、奴らの真の目的だったのかもしれん」
「ギュスタヴは、アルマと侯爵殿の人質交換を目論んでいたということですか」
 ラムザが、青ざめた顔をして言う。
「しかも、身代金付きでな。侯爵殿の安否は、王家の後見人争いにも関わってくる。ギュスタヴは、そういった政治的な駆け引きも考慮していたのだろう。アルマというカードを手に入れることで、ベオルブ家に、さらに高額な身代金をふっかけることもできるわけだ」
「兄上は、アルマを行かせるおつもりだったのですか?」
「まさか」
 ダイスダーグが、不気味な微笑を見せた。その真意を悟ったディリータの表情に、さっと影が差す。
「……ティータを、身代りにするおつもりだったのですね」
 ディリータが、声を低めて言う。ラムザは、とっさに兄の正気を疑う視線を向けたが、ダイスダーグは平然としている。
「いかにも。こういう時のために、ベオルブ家の令嬢として相応しい教育を施してきたのだからな」
 ディリータの感情など、まるで意に介していないようなダイスダーグの口ぶりである。ラムザは愕然として、言葉も出ない。
「アルマは、最後まで自分が行くと言って譲らなかったが、ティータは、街に掲げられた高札──これは、奴らの要求を書き記したものだったが──それを見てすぐに、自分をアルマの身代りとして使ってくれと申し出てきたよ。私が命じたわけでもないのに、大した心がけだ」
「…………」
 さすがのディリータも、今は青い顔をしてうつむいている。ラムザが問い質すまでもなく、ダイスダーグは、ティータのために身代金を用意したりはしないだろう。ラムザには、一層、兄ダイスダーグという人が、底なしに恐ろしい存在に思われた。
「だが、身代金引き渡しのまさにその日、侯爵殿救出の報せを受け、全ては杞憂に終わった。お前たちの働きが、結果としてアルマとティータを救ったのだ。まあ、お前たちの話から察するに、放っておいても骸旅団は崩壊していたようだが。まったく、人騒がせな連中だ」
 ダイスダーグは、ゆったりと、先ほど秘書官が運んできた紅茶を口にする。ラムザとディリータの前にもカップが置かれていたが、それに手をつける気分には、なれそうもない。
 カップを置き、ダイスダーグが再び話し始める。
「さて、今後の話をしなければなるまい。逃したウィーグラフについては、引き続き動向に注視するが、孤立しつつあるのは間違いないようだ。彼の追跡よりも、領内各地で頻発している反乱の平定が目下の優先課題となる。だが、もっと賢いやり方は、反乱の芽あらば、前もって摘み取っておくことだ」
 何か、新たな指令が下されることを予期して、ラムザとディリータは、注意深くダイスダーグの言葉に耳を傾ける。ダイスダーグは、なおも事務的な口調で話を進める。
「──二週間前、ルザリア・ガリオンヌ領境の守備隊より、不審な商人の一隊が、関門を通り、ガリオンヌ領内に入ったとの報せを受けた。その商隊を率いていたのが、どうも、女らしい」
「女……?」
 それを聞いたとき、ラムザの胸中に、言い知れぬ不安がよぎった。
「一月前、ルザリア領ハドム宿にて、ウィーグラフの妹と称する人物の存在が確認されている。商隊を率いていた女は、仲間とともにハドムに潜伏していたウィーグラフの実妹――ミルウーダ・フォルズである可能性が高い。ラムザ、たしかお前は、ミルウーダの人相を見知っていたな」
「……はい。マンダリアの丘での一件ついては、ザルバッグ将軍からお聞きでしょうか」
「ああ。その時の失態を清算するチャンスを、お前に与えよう」
「僕の手で捕えろ、ということですか」
「そうだ」
「…………」
 ダイスダーグが、ラムザを試そうとしているのは明白である。ラムザは、両肩に、新たな重荷がのしかかるのを感じた。
「ガリオンヌに入ってからは、いまのところ、特に目立った動きは見せていないが、今後、大きな火種にならぬとも限らない。監視部隊が戻って来次第、詳細報告を受け、その後、部隊に同行してもらう。それまでは休息をとって、充分に鋭気を養っておけ」


 ダイスダーグとの会談を終えてから、ラムザとディリータは、城門を出るまで、一言も言葉を交わさなかった。騎士団の一員として新たな任務を与えられたにもかかわらず、二人の若い騎士の顔は、どうにも浮かなかった。
「君が気にすることはない」
 城下の中央通りに入ってから、ようやくディリータが口を開いた。ティータが、アルマの身代りにされそうになっていたことについて言っているのは、ラムザにもすぐに分かった。
「うん。……でも、侯爵殿は無事救出できたんだし、もう大丈夫だ」
「言っておくが、僕たち兄妹は、いつでも君たちの身代りになる覚悟でいる。そのために、ベオルブ家で生かされてきたんだからな。これから先も、ずっとだ」
「…………」
 友の横顔が、その本気のほどをよく示している。ラムザは何も言えず、ぼんやりと道の往来に目を移す。
 午後の中央街は、人通りが激しい。城に近いせいもあろうが、やけに、騎士の隊列や軍鳥の行き来が、多く見られる。 
「ティータが、自らすすんでアルマの身代りになろうとしたことは、兄として、素直に誇らしく思う」
「でも、そんなこと、とうてい受け入れられないよ」
「違う、受け入れなきゃいけないのは、僕ら兄妹の方さ。それが、役目でもある」
「だけど、命に代わる命なんて、あるわけない」
「どうかな。アルマのためなら、君は喜んで命を捧げるんじゃないか?」
「当然だ!」
「ほら、やっぱり」
「いや、そういうことを言ってるんじゃなくて……」
「じゃあ、どういうことさ」
「それは……」
 それきり、二人は、また口をきかなくなった。
 二人の歩みは、示し合わせたわけでもないのに、ベオルブ家の墓がある、城下の教会に向けられていた。
 教会に着くと、併設されている孤児院の中庭に、修道女のエリザと、アルマ、ティータの姿があった。そこに、孤児院の子供たちが寄り集まって、さかんに、何か騒ぎ立てているのが見えた。


「うわぁ、すごい!」
「かわいい!」
「さわらせて!」
 子供たちの、無邪気な喜声があがる。
 彼らの囲いの中には、ティータの姿があった。そして、彼女の豊かな黒髪の上には、何やら、奇妙な生き物が、ちょこんと座っている。
 その生き物は、全身を白く短い毛で覆われ、一見すると、兎か猫のようにも見える。大きさも、ちょうどそのくらいである。しかし、それらの獣と著しく異なっている点は、頭のてっぺんから、ゆらゆら動く小さな毛玉付きの触角のようなものが生えているのと、背中に、コウモリに似た小さな羽根をもっているところである。四肢はおそろしく短く、胴に比べて奇妙なほど頭部が大きいので、一種、人間の赤ん坊に通ずる愛らしさを、感じさせ無くもない。
 それは、人間の世界に本来生きている動物ではなかった。人の操る術によって、一時的に幻界より呼び出された妖精、"モーグリ"の姿なのである。
 子供たちが手を伸ばして触れようとすると、モーグリは、
「くぽ~、くるくる、ぴゅ~」
 といったような、甲高い鳴き声を上げ、小さな羽根をパタつかせながら、ティータの頭上を飛び回る。するとまた、子供たちの嬌声が沸き起こる。
 ラムザとディリータは、そんな微笑ましい光景を、遠巻きに見守っていた。
「すごいな、ティータは。もう、"召喚術"を扱えるなんて」
 ラムザが、感心の声を発する。妹を褒められ、ディリータも、誇らしげな笑みを見せる。
「僕も、正直驚いているよ。もともと、魔術の素質はあるって言われていたらしいけど、初歩的な精霊召喚術とはいえ、高等な魔術にはちがいない。それを、あそこまで使いこなせるようになっていたとはね。我が妹ながら、大したもんだ」
 魔術は一般的に、黒魔術や白魔術など、汎用性の高い術式から学び始めるが、召喚術ともなると、高位の黒魔法・白魔法に匹敵するマナ感性を要するといわれ、その上、幻界に通ずる転送結界を安定的に展開しながら、精霊との交信を図るという、高度な魔術を操る技量が求められる。この技を会得するのにはもちろん、長きにわたる魔術の修練が欠かせない。
 とはいえ、ティータはまだ十三の少女であるし、純粋に、彼女の資質に依るところも大きいのだろう。
「ティータはね、召喚術師になりたいんだって」
 ラムザがティータの方へ気を取られていると、いつの間にか、傍らにアルマが立っていた。
「うん、ティータならきっと、優秀な召喚術師になれるよ」
 ラムザが確信するように、大きく頷く。
「へえ、そいつは初耳だな。ずっと、魔法学に興味はあったみたいだが」
 ディリータが、意外な顔をする。
「それでね、ラムザの役に立ちたいって、言ってるのよ。毎日毎日、勉強とかお稽古の合間に、難しい本を読んで、練習しているわ」
 アルマは、ティータと子供たちの方を見つめながら、その場に腰を下ろす。
「ダイスダーグ兄さんと、お話したんでしょう?」
「……うん」
「じゃあ、兄さんたちが留守の間のことも、聞いたよね。ティータが、私の身代りになろうとしたこと」
「ああ、……」
 先ほどの、ダイスダーグとの会話を思い出し、ラムザとディリータは、気まずげに目を反らす。一方でアルマは、なかなか淡々としている。
「私ね、小さいころからずっと、ティータを守ってあげなきゃって、思ってたの。でもね、最近、思うの。守られているのは、私の方なんだって」
「…………」
「私、ティータを、心から尊敬してるわ。ティータは、女学院の誰にも負けないくらい優秀だし、礼儀作法も私よりしっかりしてるし、あんなすごい魔法使っちゃうし……ほんとに、どっちがベオルブ家のご令嬢か、分からなくなるくらいよ」
「まったくだ」
 ラムザが真顔で言うと、アルマは少しムスッとしたが、ため息を吐いて紛らす。
「でもね、少し頑張りすぎなんじゃないかって、思うこともあるの。そりゃ、私や兄さんと、全部同じようにはいかないだろうけど、だけど、ティータは、私にとって、大切な友達だし、家族なの。だから、自分を犠牲にするようなことは、してほしくないなって」
 アルマの葛藤は、ラムザにも、痛いほどよく分かる。大切な家族と思いながらも、やはり、そこには克服しがたい差異が存在することを、アルマもまた、直感的に理解しているのである。
 ティータの召喚したモーグリは、空中で一回転してから、煌めく燐粉のような光を周囲に振りまき、忽然と姿を消してしまった。子供たちは、ますます興奮して、光の粉の中を飛んだり跳ねたりしていた。
「ティータ! もう一回!」
「ねえ、もう一回、モーグリ出して!」
 子供たちが目を輝かせながらせがむと、ティータは困ったように笑い、
「うーん、けっこう難しいのよ、あれ」
「ええー」
「みんな、ティータお姉さんに、あんまり無理を言ってはいけませんよ」
 子供たちが、なかなか聞きわけないので、そばにいた世話役のエリザが、助け船を出す。
「そろそろ、お勉強の時間です。お堂に、行きましょう」
「ええ~」
 今度こそ、本当に不満げな声を上げるが、日ごろからきちんと躾けられているのであろう、不承不承ながらも、子供たちは、ばらばらと孤児院の建物の中に入っていく。
「ティータさん、お兄様方とは、久しぶりに会われるのでしょう? どうか、ゆっくり、お話しになってきてください」
「うん、ありがとう、エリザ」
 ティータは、エリザの手をやさしくとりながら、礼を述べた。
「あ、エリザ、待ってくれ!」
 そのまま、子供たちのあとに続いて建物に入っていこうとするエリザを、ラムザは慌てて呼び止めようとした。
 ラムザが任務に出立する前、エリザより託された大切な小刀を、彼は律義に返そうとしたのである。確かに、「イグーロスに無事に帰るまで預かる」というつもりで受け取った代物ではあった。彼は任務中、それをお守りにして、ずっと肌身離さず持っていたのだ。
 エリザは、当然ラムザの声に気付いていたはずだが、恥ずかしげに俯いたまま、建物の内に消えてしまった。
「あ……」
 無理に引き止めるのも気が引け、困り顔を浮かべるラムザの肩に、ディリータが、ポンと手を置く。
「乙女の気持ちは、素直に受け取っておけ」
「でも……って、あれ? エリザの贈り物のこと、君に話したっけ?」
「そのくらいのこと、なんとなく、わかるよ」
「…………」
 なんだか、釈然としない面持ちで、ラムザは手に握りしめていた小刀を、目の前に持ち上げる。
「きれいね」
 ティータが、小刀の鞘に施された精緻な紋様を見て言う。柄の部分に小さく施された、「D.からF.へ」というサインが、この品がエリザの母親の形見であることを示している。
「エリザの、大切な品物なんだ」
「そう、エリザの、……」
 ティータは、ラムザの横顔に、ちょっと目を移したが、すぐにきょろきょろして、
「あ、ええと、おかえりなさい。ラムザ兄さん、ディリータ兄さん」
「それは、昨日聞いたぞ。ティータ」
 ディリータが、いたずらっぽく微笑む。
「あ、そっか。そうだったね」
「なーに? 私にも見せてよ」
 アルマがせびるのをあしらって、ラムザは小刀を大切に、懐に収める。
「さあ、家に帰ろう」




[17259] 第一章 持たざる者~35.噂
Name: 湿婆◆3752c452 ID:d2321ec4
Date: 2014/06/22 22:42
 エルムドア侯爵の救出から二週間後、遥か一千ドーマの長路を越え、ランベリー領より迎えの部隊三百騎余りが、ガリオンヌ領の成都イグーロスに到着した。
 ランベリー領は遠国である。
 ガリオンヌ領とは広大な王領ルザリアを隔てており、主要な街道を通ったとしても、険しい山脈を二つも越えなければならない。
 自然、二国間の交流も限られたものとなっていた。
 イグーロスの市民は、普段見慣れた北天騎士団の装いとは、随分と意匠を異にしているこの一集団に対し、遠慮なしに好奇の眼を差し向けた。
 葡萄酒を思わせる臙脂色を基調とした軽鎧は、小さな板金を革紐で繋ぎ合わせて作られており、駒の動きに合わせて、それがシャラシャラと鈴のような音をたてた。身につけた得物を見ても、刀身がやや反った剣や、曲線的な鋭い刃をもった槍、大人の身長ほどもある長弓など、どれも独特な形状をしている。
 事実、イグーロスの衆目の大半にとって、それらは人生で初めて目にしたランベリー文化であった。
 それほどに、この二国間の隔たりは大きいのである。
 この度、エルムドア侯がラーグ公からの私的な会談要請に応えたのは、侯爵がちょうど王都に長期滞在中であったからで、さもなければ、侯爵自ら遠路を遥々越えてくることなどあろうはずもない。だいいち直接の会談自体、両者が自領の首長となって以来初めてのことであった。


 エルムドア侯爵帰国の前日、見習い騎士のアルガス・サダルファスは、イグーロス城内の迎賓館に滞在中の侯爵から呼び出しを受けた。
 アルガスは、にわかの声掛けに驚いた。というのも、彼はこの二週間、北天騎士団の下働きとして雑務をこなしていただけで、ほとんど主君の側近くに侍従することもなかったのである。侯爵御自身の救出に携わり、また、他領の地において、現状唯一の臣下であるこの身の扱いとしては、正直、あまりな不遇であるとの感を否めないながらも、彼はきわめて実直に、今日まで敬愛する主君の身を案じ続けてきたのである。
 そんな折、ランベリーから侯爵お迎えの大部隊が到着したという報せを聞き、これでようやく主君と共に故郷へ帰ることができると安堵していたところへの、今度の呼び出しであった。
「アルガス・サダルファス、参りました」
「うむ、よく来てくれた」
 久々に間近に見た主君の姿は、砂漠の廃墟の地下に監禁されていた時と比べれば、見違えるほどに元の壮健さを取り戻していた。アルガスは、同じ男性を見る目としては、少々熱っぽ過ぎる視線を無意識に注いでいた。
「お健やかなご様子で、なによりです」
「そうよな、イグーロスには腕の良い治療師も揃っているし、何より食がすこぶる良い。あと、酒もな」
 客室の円卓上には、色とりどりの果物を載せた銀の皿と一緒に、葡萄酒で満たされた硝子瓶が置かれていた。
 葡萄酒といえば、古くよりランベリー地方の名産品であるが、近頃では、ここイグーロスでも、土地に合わせて品種改良された葡萄を用いた酒造が盛んとなってきており、ガリオンヌ領の重要な交易品の一角を占めるまでになっていた。ランベリー産は、"ブラッド・ウォーター"とも呼ばれるとおり、血のような鮮明な赤色と、果実そのものといった豊潤な香りを特徴とする一方、イグーロス産は、深みのある紅色に、ランベリーよりは淡白ながらも、甘みのある香りを特徴としている。
「香りは我がランベリーの物には劣るが、これがなかなか、味の方も馬鹿に出来ん。ガリオンヌもこれほどの物を産するようになっていたとは、いやはや、思わぬ収穫であった……そちはもう、口にしたか?」
「いえ、私はまだ……」
 アルガスは、ようやく謁見に達しながら、主君がなかなか用向きを伝えてくれないことに、内心やきもきしていた。大の食通としても知られている主君であるから、その喜々とした話しぶりからも、ここ二週間のうちに、イグーロスの美酒美食をもって、長らく貧食に耐えてきた舌を大いに喜ばせていたことが窺われる。どこそこの産の有角牛のステーキが美味であったとか、ロマンダ地方から輸入された珍しい香辛料が気に入ったので、うちでも買おうとか、しばらくそんな話が続いた。
「お……ついついはしゃいでしまったな、私としたことが」
 エルムドア候は、ハハハ、と、壮年の男とも思えぬ品の良い笑い方をする。
「──さて、貴公には、まだきちんと礼をしていなかったな。こたびのそちの働き、まさに一千騎長の働きに値するものである。この功は、大いに貴公の家の名を助け、名門サダルファス家の名誉を取り戻す足掛かりとなろう」
「あ、ありがたきしあわせ……!」
 アルガスは、歓喜に耐えずといった感じで、面を伏せた。
 ゼクラス砂漠からイグーロスへの帰還途上、魔法都市ガリランドの地で主君より報恩の詞を賜った時とは、また違った感情が、彼の内で湧きあがっていた。もしやこのまま、かつてのような扱いに戻るのではないか──味方を敵に売った卑怯者の家の子として蔑まれる日々に戻るのではないか──と、ここ数日来、彼の心に沁み込んできていた不安は、しかし、ここで再度、確たる喜びへと変わっていた。
「いま再び侯爵さまの御もとにお仕えできますこと、心より嬉しく存じます。このアルガス、より一層忠勤に励んで参る所存にございます」
「結構なことだ。その心意気に見込んで、そちには、もう一働きしてもらおうと思う」
「はっ! いかなる御命にも心身を賭して励む所存です」
 アルガスは、ようやく本命が言い渡されることを予感し、無意識に気を引き締めた。しかし、次に主君より下された言葉は、喜び勇んでいた彼の若い心を、少なからず動揺させた。
「実はな、そちにはいましばらく、ここイグーロスの地に留まってもらおうと思っている」
「は……?」
 アルガスは当然、戸惑いを覚えた。彼の脳裏に思い描かれていたのは、主君を救い奉った忠功第一等の英雄として、祖国に凱旋を果たす自身の雄姿であったのだ。
 ──だのに我が主君は、遠い異郷の地にこのまま残れという。どんな下命にも従うと申上した手前ではあるが、さすがのアルガスも、その意図を測りかねた。
「おそれながら、……その、お役目というのは」
「それだが」
 エルムドア侯爵は手招きして、アルガスに対面の座席に着くよう促した。彼が遠慮がちに腰を下ろしたのを見届けてから、侯爵はいっそう声を落として言葉を続ける。
「そちも薄々聞き及んでいることとは思うが、畏国を取り巻く情勢は、いよいよ穏やかならぬものとなってきている。こたびの骸旅団の暴走は、近づきつつある激動の小さな予兆にすぎん──しかし、大きな動きは、王都を中心として、徐々に、そして着実に畏国全土に広がりつつある」
「…………」
 アルガスは、落胆の気持ちはひとまず置いて、主君の話に耳を傾けた。しかし、畏国の大情勢と自身の役割とが、どのように結び付くのか、今ひとつ明確に想像することができない。
「ここイグーロスはもちろん、我がランベリーとて、畏国を包み込まんとしている暗雲から逃れることはできぬ。いずれ来るべき時に備え、今各地の有力者が、互いの腹の探り合いをしているところだ……誰が味方で、誰が敵なのかということをな」
「では、侯爵さまも……?」
「ああ。想定外の事態によって今日まで引き延ばしにされてしまったが、ガリオンヌ公ラーグ・ベストラルダがこの私に"私的な"会談を申し込んできたのも、おそらくそのためだ。旧来ゴルターナ公寄りの私を懐柔するつもりだったのか、あるいは──」
「……?」
「亡き者にしようとしたか」
「えっ……!」
「ハハハ、驚くのも無理はない。だが実際、私は賊どもにこの身を奪われるという不覚をとった。──正直、嵌められたと思ったよ。待ち構えていたかのような手際の良さだったからな。あのダイスダーグ・ベオルブあたりが策を巡らせて、我を害さんがために賊を抱き込んでいたとしても、不思議ではない」
「そんなことが……しかし、侯爵さまは、そのことを御承知で?」
「真偽のほどはわからん。だが、彼らは友好を求めてきた。むろん、それを拒むつもりは無い」
「では侯爵さまは、ラーグ公にお味方すると?」
「それはどうかな。机上では笑顔で手を握り交わしていても、机下では互いの脚を蹴り合っているというのが外交というものだ」
「…………」
「ちと、前置きが長すぎたな。私は滞在中、何度かラーグ公と対談する機会があったが、その折に、友好の証として我が方から人質を一人、預けることを約束した」
「人質……ですか?」
「そうだ」
「…………」
 アルガスは、瞬時に、主君の心づもりを理解した。主君もまた、それが当然理解されるものと思っていることは確かである。
「つまり……私が人質としてイグーロスに留まる、ということですね」
 侯爵は微笑を絶やさず、静かに首肯する。アルガスは、素直に喜ぶ気にもなれず、目を伏せていた。
 人質といっても、外交上でやりとりされる人質の役割は、形式的なものにすぎない。この場合、ある程度の制約の他は、原則的に人質の自由は保障されており、平時は賓客として遇されることすらある。人質となった者は、異郷の地の文化や学問を学び、いずれは故郷にそれを持ち帰ることを期待されている。
 しかし、現在のように不穏な情勢下では、人質の立場も微妙なものとなってくる。万一、ガリオンヌ・ランベリー間の友好関係が破綻するような事態になれば、再び故郷の土を踏むことは難しくなるだろう。
「ランベリー侯爵家に連なる旧家の子であるそちならば、人質としての資格は十分だ。──とはいえ、立場としては一見習い騎士に過ぎぬ身。ラーグ公は人質受け入れを承諾して下さったが、これで真の友好関係が確約されたとまでは考えていないだろう。……むろん、私もな」
「では、私は、どうすれば……」
「案ずるな。そちは見習い騎士として、このまま北天騎士団に従ってもらう。そして、私がランベリーに帰還した後は、折に触れてガリオンヌ領の内情を報せてくれればよい」
「そのようなことをして、見咎められないでしょうか?」
「それくらいのこと、いちいち気に懸けるラーグ公やダイスダーグの器でもあるまい。──それと、いま一つ」
 言いながら侯爵は、銀の指輪をはめたひとさし指を立てる。こうした一挙動も、いかにも貴公士らしい。
「聞けば、そちはベオルブ家の末弟に命を救われ、私の救出まで彼と行動を共にしていたそうだな」
「はい、ラムザ・ベオルブは、私を部隊の一員として迎え容れ、侯爵さまの救出に協力してくれましたが……」
「彼は、どのような人物であったか?」
「人物……ですか」
 アルガスは、主君の唐突な質問の意図を測りかねながらも、とりあえず、今まで自分が抱いてきた、ラムザ・ベオルブという人間の印象に、もっとも近い表現を探した。
「武門の棟梁家の子とも思えぬ、何と言いますか──フワフワしたやつでした。いかにも、苦労知らず、といったような」
「そちは、そう見るか」
「はい」
「なるほど……」
 侯爵は、つと顎を引き、薄笑みに何かを反芻するような素振りをみせる。
「しかし、あのウィーグラフと正面切ってやり合う気概は、並大抵のものではあるまい。あれを見て、私は個人的に彼に興味を持ったのだ。彼が今後、どういった行動をとるのか──それを、そちに観察してもらいたい」
「……は」
 アルガスは、主君がラムザを一目置いているらしいことに、どういうわけか、無性に苛立ちを覚えた。自分がこれまで尽くしてきたあらゆる献身が、丸々無視されたような気さえした。
 とはいえ、時に女のような甘さを見せたかと思えば、危険をいとわず困難に立ち向かう頑なさを見せもするラムザ・ベオルブという人間の像が、彼の中で、いま一つ定まっていないことも事実ではある。ただ、そのことが、ラムザという人間に興味を持つということなのかどうか、アルガスには分らなかった。
 その翌朝、エルムドア侯爵は愛鳥白雪に跨り、三百騎の迎えの兵を引き連れて、イグーロスを発った。見送りには、在イグーロスの北天騎士団が総出で城門の両側に列をなした。
 アルガスは、深紅色のマントを翻し、臙脂の縅(おどし)に身を包んだ優雅なランベリー近衛騎兵隊の姿に見惚れながら、いつの日か、あの一団に加わる己の姿を夢想していた。


 かくして、侯爵誘拐事件は一応の収束をみた。
 この事件は、ガリオンヌ・ランベリーの両国間に少なからぬ緊張をもたらしたが、結果として、エルムドア侯爵は無事帰還、法外な身代金を支払うこともなく、主犯のギュスタヴは死亡という、おそらく考えうる中で最も望ましい形での幕引きとはなった。そのことには、北天騎士団の参謀部はもとより、ガリオンヌ領府上層部までもが、正直に胸を撫で下ろしたところでもある。
 さて、いうまでもなく、この一大事はラムザ・ベオルブという一人の若人の名を否が応にも世間に知らしめることとなった。
「侯爵殿を救出したのは、あのベオルブ家のご三男だということだ」
「というと、執政官殿とザルバッグ総帥殿の弟君か」
「まだ見習い騎士のご身分ということだが、これなら将来も有望というもの」
 そんな声が、あちこちで聞かれた。
 もともと、ガリオンヌ領府の要職に就く年長者二人とは腹違いということもあり、ベオルブ家におけるラムザの存在感は、従来かなり薄いものであった。ベオルブ家の内情に多少通じている者であれば、彼の存在くらいは認知していたであろうが、かの家のことをよく知らぬ世間では、今回の大手柄のことがあって、初めてラムザの名を知ったという者がほとんどであった。
「お手柄でしたな、弟君は。さすがはベオルブ家の御曹司」
「なに、若者の勇み足がたまたま良い方向に転がっただけです」
 ベオルブ家の長であるダイスダーグは、挨拶代わりに送られる弟への賛詞に対し、身内の人間として当然な謙虚さをもって返していたが、その表情は、なかなかに浮かばれなかった。
 彼自身としては、家の継嗣に関わる重大な鍵を握っているかもしれない弟のラムザが、必要以上に注目を浴びることは、どうしても憚られた。それに、将来的にラムザを担ぎ上げるような勢力が出てくることだけは、家の安泰のためにも、避けねばならないことであった。すでに、生前のバルバネスより厚恩を受けていた重臣たちは、まだ数こそ少ないものの、ダイスダーグの方針に反発しているという声も聞かれるし、そういう者たちに、万一後継の証であるレオハルトの剣の秘密を暴かれるようなことがあれば、彼の立場は一気に危ういものとなる。
「どうしたダイスダーグ、浮かぬ顔をしておるな」
 定例となっている会食の場で、主君であり、盟友でもあるラーグ公からそう言われて、ダイスダーグは咄嗟に笑みを取り繕わなければならなかった。
「一難去ったとはいえ、まだまだ問題は山積みです。賊どもを根絶やしにしない限り、そうそう浮かれてはおれません」
「まあ、それはそうだが。時には気を緩めんと、じきに参ってしまうぞ」
「お心遣いには感謝いたいます。ですが何分、こういう性分なもので」
「それはよく存じておる。──いや何、巷で妙な噂を耳にしたものでな。それが貴公を煩わせているのではないかと思ったのだよ」
「噂、ですか」
 "噂"と聞いて即座に、ダイスダーグは今現在把握している"妙な噂"のリストから、思い当たるものを探し当てた。日々更新されるこの長大なリストの中に、ダイスダーグ自身に関わる"噂"は、常にかなりの割合を占めている。
「──侯爵誘拐は私の謀略であったとかいう、あれですか」
「そう、それよ。やはりもう聞き及んでいたか」
「くだらん噂です」
「もちろんだとも。大方、ベオルブ家がこれ以上名を上げることを快く思わん者どもの放った流言であろう。もはや、貴公に問い糺すまでもあるまいが──」
「根も葉もないことです。子供でも、もう少しマシな噂を流すでしょう」
 ──彼の言葉に偽りはない。
 つい先日にも、王都ルザリアに外遊中の正妻アリーシャから、件の噂が早くも王都じゅうで流れているという事実を伝える文が寄こされたところである。そこには、ダイスダーグが、エルムドア侯爵とラーグ公爵の非公式会談の情報をわざと骸旅団に流した、というものから、大金を積んで、骸旅団の参謀ギュスタヴ・マルゲリフを侯爵謀殺の実行者として抱き込んだというものまで、好き勝手に装飾された噂のあらましが書かれていた。
 ダイスダーグは呆れつつも、こういう噂を作り出す連中にも、嬉々としてそれを口伝する連中にも、心底腹が立った。
 そして、そういう噂を流している連中のほとんどが、現実に、まずそういった陰謀や策略の糸に絡むこともない、取るに足らぬ者たちであることを、彼はよく心得ていた。
「仮にそのような謀を用いたとして、我らに何の利があるというのです。愚策というのにも及ばぬ愚策でありましょう」
「そうよな。しかし、本物の策士は、上策をあえて愚策に見立てることもあるという」
 何か含蓄のあるラーグ公爵の視線を、ダイスダーグは持ち前の鉄面皮でしらと受け流した。
「ありえぬことです」
「ハハハ、なに、つまらぬ冗談だよ」
 ラーグ公爵は、生真面目な友人をからかうように笑う。
「我らはランベリーに友好を求め、彼らはそれに応えた。盟友の危機に際しては、全力を尽くして救いの手を差し伸べる──そこに何の不義があろう」
 そう言いながら、公爵はイグーロス産の葡萄酒の注がれたグラスを一息に飲み干す。つと、彼の口元から垂れた赤い雫が、純白のシルクの前掛けの上に血のような染みを描いた。
「──ともあれ、こたびの弟君の活躍ぶりは見事であったな。方々、その噂でもちきりだよ……実際、貴公の耳を煩わせているのはそちらであろう?」
「ええ、まあ……」
 弟の話題を持ち出されるたび、ゆらと心に波が立つのを、ダイスダーグは嫌でも自覚しなければならなかった。
 公爵の言うとおり、その話題は散々彼の耳を煩わせているところである。しかし、弟ラムザと自身との間に横たわる真の懸念事項については、つまらぬ噂話に浮かれる世間はもとより、盟主たるラーグ公爵ですら、知る由もないことであった。
 ただ、彼が怖れているのは、自身の中にある"怖れ"が、相手に伝わってしまうことである。
 ダイスダーグ・ベオルブという人間は、常に"剃刀"のごとく、冷徹かつ無機質であらねばならぬ──
「弟のラムザには、一仕事与えてやったところです」
「ほう、それが貴公なりの労いというわけだ」
「今回のことは、多分に運に助けられたこともまた事実です。一度の幸運に恵まれたくらいで、いちいち図に乗ってもらっては困るのでね。私に認められたいのであれば、実力で示してもらわねば」
「さすが、"剃刀"ダイスダーグ殿は肉親にも手を緩められない」
「肉親たればこそです。兄として、また武門の長として、彼には真に騎士としての成長を期待しているのです」
「ふむ、美しき兄弟愛とはまさにこのことよ」
「お戯れを言いなさる」
「いやなに、──貴公と弟君は、"不仲"との噂もしばしば聞かれたのでな」
 ヒヤり、と心の隙間に冷気が吹き込んだことを、この時のダイスダーグは認めなければなるまい。
「……また噂、ですか」
「ハハハ、気を悪くしたのなら謝ろう。私など、上も下も女ばかりなのでな。男兄弟というものに憧れもあるのだよ」
「よいことばかりでもありませんぞ……血を分けた兄弟とて、男子たれば"敵"ともなりうる」
 そう言ってしまってから、ダイスダーグは少し言葉が過ぎたかと後悔した。
 同時に、ラムザを無意識の内に「敵」と認識していたことを、彼は自身の言葉によって初めて気づかされたのであった。
(何を怖れているのだ……私は!)
 冷静さを失いつつある己の心を、彼は厳しく戒めた。
 しかし、あの秘密を知った時生じた黒い炎は、ダイスダーグの冷たい鉄の心の中で、今なお燻り続けていた。




[17259] 第一章 持たざる者~36.死の街
Name: 湿婆◆3752c452 ID:8baadaae
Date: 2014/06/22 22:41
 雨上がりの集落は、夕闇の静寂(しじま)に沈もうとしていた。
 集落といっても、そこに住む人々の営みが失われてから、随分と時が経っている様子である。
 かつては、夕暮れ時に団欒の灯がともっていたのであろう家々の窓には、今や無造作に木の板が打ち付けられ、その板すらも、風雨に曝され半ば朽ち果てていた。古井戸の傍で立ち枯れになった樹木の枝には、奇妙に大きな体を黒々とした羽毛に包んだ怪鳥が一羽、不吉を抱かせる鳴き声を廃墟の石壁に響かせている。
 もはや、生ある者が足を踏み入れるのも憚られるほどに、その景色は”死”の気配に満ちていた。
 畏国各地にこうした”死の街”が増えだしたのは、十年前に大流行した”黒死病”の猛威によって、全人口の約三割が失われた時からである。特に湿潤な地方の被害は甚だしく、こうした小規模集落がまるごと全滅したなどという例も珍しくなかった。
 流行が収束してから復興を遂げた村もなくはなかったが、多くはこうしてうち捨てられたまま、いつしか刻まれる名もなき墓標のように忘れ去られていったのである。
 しかし、およそ生の気配の消え失せた場所にさえ、新たな住民はどこからともなくやってきて、廃墟の暗がりに息を潜めていた。人とも獣ともつかぬそうした魑魅魍魎にとって、”死の街”は、唯一の安息の地でもあった。
 そして、この集落にも、約一月ほど前から、宵闇に蠢く影がいくつか見られた。
 彼らは常に用心深く、日中は滅多に姿も現さないが、時折、彼らの仲間と思しき者が、足早に集落の外に駈け出して行ったかと思えば、数日してまた戻ってくるといった動きが見られるのだった。
 そして今夕も、薄汚れた外套を身に纏い、松明を手に持った姿が一人、集落の正門跡を足早に潜り抜けて、その内の廃墟の一つに消えていくのが見られた。


「戻ったか、ロッソ」
「おう」
 民家の裏口から髭面の中年男に迎え入れられ、ロッソと呼ばれた細身の男は雨水を滴らせた外套のまま屋内に踏み込んだ。
 そこは狭い台所のようであった。髭の男が戸口に閂を掛けるうちにロッソは外套を解き、そのあと二人は、冷たい石の床の隅っこに屈みこんだ。何かと思えば、そこの床には跳ね上げ戸が設えられており、地下へもぐる石段が続いているらしいのである。
 二人の男は背を折るようにして石段を降りていき、やがて広々とした地下室へ降り立った。
 食糧庫として使われていたらしい室内の真ん中には一台の長机が置かれており、それを囲んで数人の男女が小声で言葉を交わしていた。
 仲間が戻ってきたことに気付いた彼らはいったん会話を止め、無言で二人を席に迎え入れた。
「ご苦労だったな」
 まずそう言って労いの言葉を掛けたのは、思いのほか若い女の声であった。
「すっかり濡れ鼠だよ。戻る途中ひとしきり降られてな」
 女の声に答えて、ロッソは頬のこけた浅黒い膚の顔を引きつかせるような笑みを浮かべる。
 「難儀だったな。冷えたろうが、暖炉を使うわけにもいかんのでな。ハマ、あとで食糧庫に残っていた酒をロッソに分けてあげて」
 先ほど戸口でロッソを迎え入れた髭面の中年男が、片手を挙げて「合点」の合図をする。
「──それで、ウィングシェールの様子は?」
 女が身を乗り出した時に、その顔が卓上に置かれた燭台の灯に照らされて浮かび上がった。
 やや眦(まなじり)のつりあがった目にライトブラウンの瞳。豊かな栗色の髪は無造作に肩のあたりまで伸ばされている。
 飾り気のない、歳相応な乙女らしい美しさの中に、確かな経験に裏打ちされた用心深さと思慮深さを兼ね備えた、一種野性の”女狐”を思わせる風貌である。
 きびきびとしてそつのない話し方と振る舞いからしても、このうら若い女剣士が、廃墟の街に潜む一党を束ねる者であることは明白であった。
「二日前、北天騎士団の一隊が街に入った。今はウィングシェールの治安維持部隊と連携して情報を集めているらしい──敵の動きは予想以上に迅速だぞ、ミルウーダ」
 ロッソからの報告を受け、年若き女首領ミルウーダは、務めて平静を保ちつつ、「そうか」と一言答えた。
「数は?」
「百は下らないだろう。治安維持部隊と合わせれば二百近くにはなると思う」
「隊を率いている者は? 名の知れた者か?」
「それが……」
 ロッソは妙に深刻な表情で、声を落とした。周囲の者も、無意識に額を寄せる。
「それが、どうも、あのベオルブらしいぞ」
「……ベオルブ?」
 その場にいた誰もが、驚きとともにロッソの方を注視した。
「ベオルブ……北天騎士団を率いる、あのザルバッグ・ベオルブか?」
 髭面のハマが唸る。他の者も、真っ先にその名を思い浮かべたに違いない。それほどに、北天騎士団総帥の名は、彼ら骸旅団の主柱たるウィーグラフ・フォルズとはまた違った響きで畏れられているのである。かのレアノールの決戦にて、首領ウィーグラフ率いる骸旅団の"大群"を完膚なきまでに打ち破った将軍の存在は、彼らにとって思い出したくもない惨めな記憶であった。
「おちついて、皆」
 まだ見ぬ大敵の名を耳にしただけで、すでに恐懼している同志たちを見かねて、ミルウーダが静かに言った。
「北天騎士団総帥ともあろう者が、自らこのような辺境の地まで兵を率いてくるとは思えない」
 彼女の現実的な見方に、同志たちも納得した様子で、
「確かに、そう言われればその通りだな」
「聞き違いじゃないか? ロッソ」
 一転して、ロッソの報告に対する疑いの言葉を発しだした。むろんそれは、各々が自身を安心させるための方便であった。一方、懸命に集めた情報を仲間に疑われたロッソは、
「まさか! 治安維持部隊の連中が言っていたのを、たしかにこの耳で聞いたんだ。”ベオルブの御曹司が来た”ってな」
 若者特有の頑なさも手伝い、意地になって反論した。
「だが、姿を見たわけではあるまい?」
 すかさず、髭面のハマが年長者の落ち着きをもって指摘する。これに対し、若気に逸るロッソもさすがに思い直したのか、
「北天騎士団の駐屯地近くに探りを入れた限りでは、それらしい姿はなかったが……」
 と、自信を失くした表情を俯けてしまった。所詮、噂を耳にしたに過ぎない彼の情報は、事実を判断するには不十分なものであった。
 しばしの沈黙の後、ミルウーダがおもむろに口を開く。
「治安維持部隊の者は、”ベオルブの御曹司が来た"と言ったのだな?」
 ミルウーダの問いに、ロッソは大きく頷く。
「そうだ。むしろ連中の方が驚いていたくらいだ。何か、大きな戦でもあるのかとな」
「…………」
  おそらくミルウーダだけは、”ベオルブ”の名を聞いたとき、ザルバッグではない他の人間のことを思い浮かべていた。かのマンダリアの古砦で起こった珍事とともに、あるいはその時、期せずして交わした”友好”の握手とともに、その者の名は、以来いつも彼女の頭の片隅にあったのだ。
「ラムザ……ラムザ・ベオルブ」
 ミルウーダの口から無意識に発せられた聞き覚えのない名に、一同は怪訝な表情をする。
「ラムザ……?」
「聞いたことがないが……ベオルブの人間なのか?」
 首をかしげる一座の者たちに説明する素振りもなく、
「その名は、聞いていないの?」
 ミルウーダは、ロッソにそのまま問い返した。
「いや、俺は”ベオルブの御曹司”とだけ……」
「……そう」
「まあ、何にしてもだ!」
 ハマが、停滞しがちな場の雰囲気を断ち切るように、景気のよい声を上げた。
「ベオルブの人間が来たってのならむしろ好都合! 俺らがベオルブの手勢をぶちのめしたと聞けば、各地に潜伏している同志たちも再び奮起するにちがいねえ!」
 根拠はなくとも、こういう時にでさえ常に前向きなハマという男の性質が、これまで彼の一味の士気を支えてきたことは事実である。
 あるいは、かのハドムの隠れ家で、自ら率いる一味の内から裏切り者を出してしまったことに対する負い目もあるのかもしれない。しかし、荒波に漂う流木に等しい身の上にあったミルウーダとエマを迎え入れ、さらには、一味の旗頭に据えてまで従ってくれたハマの姿勢に、彼女自身、どれほど支えられたことか知れない。
 しかし、今のミルウーダは、単純に奮い立つことができなかった。
 その要因が、ラムザ・ベオルブという若者の存在であることも、彼女は自覚していた。
 続いて、首領の激励の言葉を期待していたのであろう、ハマの眼差しに反して、
「──みんな、備えを怠らないで」
 ミルウーダの、この素っ気ない一言で、会議は終いとなった。


「何かお悩みのようですね?」
 ミルウーダが、蝋燭の細い明かりのもとで剣を磨いていたところへ、身の丈に合わないローブを引きずった小さな姿が屈みこんできた。
 黒魔道士のエマは、お気に入りのとんがり帽を胸に抱えて、悪戯っぽく笑みを浮かべている。
 あどけない表情に、長い潜伏と逃亡生活の内に刻まれた疲労の跡が痛々しい。
「…………」
 ミルウーダは彼女の方を一瞥しただけで、再び作業に戻ってしまった。
「せっかくハマが威勢の良いこと言ってくれたのに、肝心のミルウーダがあの一言だけじゃ、みんなやる気出ないですよ?」
「そうかな」
「…………」
 取りつく島もないミルウーダの態度にめげず、エマはぐいぐいと彼女の方へすり寄ってくる。
「さっきミルウーダが言ってた”ラムザ”って人、マンダリアで助けてもらった人ですよね」
「助けてもらったわけではない」
「でも、あの人が機転をきかせてくれなかったら私たち、今ごろあの砦跡で亡霊(アンデッド)になってましたよ。間違いなく」
「…………」
 マンダリアの砦の話を知っている者は、ここではエマしかいない。
 腹心のレッド・アルジール始め、あの時命を長らえた他の者たちは、皆かの谷あいの村で北天騎士団の手に落ち、あえなき最期を遂げてしまった。
 とはいえ、北天騎士団の、それも仇の中の仇であるベオルブ家の人間に、ミルウーダたちの決死の愚を諭された挙句、”友好”の手を握り交わしたなど、ハマ達ハドム以来の仲間に言えるはずもなかった。
「ミルウーダの悩んでることは分かりますよ。つまり、その、ラムザって人は、貴族の割にはいい人かもしれないから、敵同士として戦うのは気が引けるってことでしょう?」
「別に、良い悪いという話ではなくて……」
「でも、どうなんでしょう。あの人は、そりゃ、いい人かもしれないけど、それは”貴族の割には”って話で……」
「だから?」
「だから、別にあの人だけが特別なんじゃなくて、その後、自分の身を犠牲にして私たちを逃がしてくれたレッドも、山で山賊に襲われた時に助けてくれた、あの怪しい騎士も、それから、二人ぼっちの私たちを仲間に入れてくれた、ハマも──みんなが助けてくれたから、私たちは今まで生きてこれたんですよね? ラムザって人が、特別いい人なわけじゃないんですよ」
「…………」
「あと、貴族ってのは、もの凄く”体面”ってのを気にするじゃないですか。きっと、ミルウーダがあの時、逃がしてやるなんて言ったもんだから、それじゃあ貴族として体面が保てないって思ったんでしょう。だから、兄上のお偉い将軍様に免じて、ミルウーダたちを助けてやろうって腹だったんですよ!」
 いつになく、熱い弁を振るうエマである。なにより、様々な経験を積むうちに、年端もゆかぬ少女であっても、このような思慮を持つものかと驚かれもする。
 今まで保護の対象でしかなかった者が、ここへきて急に頼もしい存在に思えてくるのだった。
「私は……迷っているのだ」
「え……?」
 ミルウーダは、しばし剣を磨く手を止め、その眼を土壁の暗がりに投げかけた。
「私の──いや、我らの敵は何なのかを」
「何言ってるんですか! そんなの、貴族どもに決まってるじゃないですか!」
「そう、貴族だ。だが、一口に貴族といっても、色々な者がいる」
「……?」
「中には民への仁政に尽くす者もいるし、財をなげうって祖国のために戦いながら、ろくな恩賞もなく没落した者もいると聞く。政府の小役人としてわずかな碌で食いつなぐ者もいるし、俸禄だけでは生活が成り立たず、商いに身をやつす者もいるとか」
「…………」
「その一方で、我ら平民の血と汗の結晶を当然のごとくかすめ取り、痩せ細った農夫に鞭を振るいながら、さらに私服を肥やす者どもがいる──これら皆、”貴族”であることに変わりはない」
「そう、それですよ!」
 エマが興奮気味に、手に持った三角帽を打ち叩いた。
「自分では何もしないくせに、平民を搾取するだけの”貴族”こそが、私たちの敵なんでしょう?」
「…………」
 エマの主張に否とも応ともいわず、ミルウーダは再び剣を磨く作業を始めた。剣を磨く彼女の瞳は、砥石を滑る刃のようにどこか冷たい光を宿している。
「……じゃあベオルブは?」
「えっ?」
「北天騎士団を率いるザルバッグ・ベオルブ、先代のバルバネス・ベオルブ共に、五十年戦争の英雄として民の覚えもめでたい。彼らは祖国のために命をかけ、?国(オーダリア)の侵略から畏国(イヴァリース)の地を守った──」
「それは、そうですけど……でも、命をかけたのは、なにもベオルブの人だけじゃないですよ。ウィーグラフたち骸騎士団だって、一緒に戦ったんです!」
「そう。北天騎士団と、我らの前身である骸騎士団は、いわば共に戦った"仲間"だ。貴族も平民もなく、祖国の危機に立ち向かった"仲間"なのよ」
 無意識に、剣を磨く手に力が入ったらしく、砥石が甲高い音を立てた。
 "仲間"という言葉が自らの口から発せられたのが、ミルウーダには意外に思われた。
 あのマンダリアの丘での一件以来、彼女の内でくすぶっていた疑問は、まさにこのことだったのかもしれない。
 自分は何と戦っているのか──
 戦いと流浪の日々の中、いつしか思考の枠外に追いやられていた本質的な問いが、期せずして再び訪れた(かもしれない)、かのベオルブの御曹司との対峙を前にして、より現実味を帯びた形で投げかけられたのである。
 エマは、なんとなく釈然としない顔をしかめながら、
「じゃあ、ベオルブの人たちは敵じゃないってことですか」
 ミルウーダの発した不可解な言葉に対し、純粋な疑問を返した。
 ミルウーダは頭(かぶり)を振り、
「そうは言っていない。ベオルブ家の人間は、祖国に多大なる貢献をしながら、ここへきて、畏国の富をただ貪り食うばかりの"豚ども"の剣となり、盾となることに、少しの疑念も抱いてない。──そればかりか、数々の暴虐に対し、正義の旗を掲げた者たちを"賊"として征伐することを至上の命としている!」
 滔々と、かく説きながら、疑念を言葉とし、感情を論理に組み替えるような口振りである。
 こういう弁説の仕種は、おそらく兄ウィーグラフを真似たのであろう。語句の一つ一つも、どこか借りてきたような響きをぬぐえない。
 しかし、いかに論を重ねようと、否、むしろ重ねれば重ねるほどに、その道理は、ミルウーダの本心から離れていくかのようであった。
 そのことに気付いてか気付かずか、黒魔道士のエマは、一心に剣を磨き続けるミルウーダの横顔を、暫くの間、じっと見つめていた。やがて、ぽつり、と呟くように、
「ミルウーダは……その……本当は、戦いたくないんじゃないですか?」
「……!」
 エマの一言に、ミルウーダは、思わず剣を研ぐ手を止めた。
「ベオルブと戦いたくない、と?」
「違います。"戦い"そのものです」
「…………」
「ごめんなさい、ちょっとそんな気がしただけです。ミルウーダの言ってること、お兄さんのウィーグラフにそっくりで、なんだか、その、無理してる気がして」
「私が? ……兄と?」
「はい。ウィーグラフの代わりにならなきゃって、無理してるんじゃないかって」
「そんなこと……」
「それに、ラムザって人とも、もしかしたら分かり合えるんじゃないか、もし本当に"仲間"になれたら、嫌な戦いをせずに済むんじゃないかって……」
「…………」
 ミルウーダは何も答えず、磨いたばかりの刀身に目を落としていた。
 その様子から、自分の言ったことがミルウーダの気に障ったものかと勘繰ったらしく、
「いや、やっぱり変ですよね。私が弱腰になってるみたい。戦いを止めたらいけないですよね。間違ってることを、そのままにしておいちゃいけない」
 うんうん、と、小さな体全体で頷いてから、エマはすっくと立ち上がった。
「ベオルブさんが、悪い貴族のために戦うというのなら、ベオルブさんは間違ってますよ。ベオルブさんに間違いを気付かせるためにも、私たちは戦い続けるべきです!」
「……そうだな」
 ミルウーダは自嘲ぎみな笑みを浮かべ、小さく一つ、ため息をついた。
「全部、お前の言うとおりだ。私は少し疲れた……できれば戦いたくない……のかもしれない。でも、それはみんな同じだ。誰もが、戦いのために戦っているわけじゃない。成し遂げなければならないことを成し遂げるために、戦うんだ」
 磨き上げたばかりの剣を目の前に掲げ、ミルウーダは、神に祈りを捧げる時のように眼を閉じる。
 脳裏に、今まで出会ってきた様々な人たちの顔が浮かんでは消えていく。
 兄ウィーグラフ、レッド、エマ、数多な骸旅団の同志たち──
 そして一瞬、夕日に煌めく金髪に、印象的な青い瞳を持った貴公子の顔がちらついた所で、彼女は反射的に両眼を開いた。
「──そうよ、私は戦う」
 決意の言葉は、祈りの詞のように、彼女の心の中で囁かれた。
 手に持った鋼鉄の剣を鞘に納めると、ミルウーダは颯(さつ)と立ち上がった。
「ベオルブは、我らの敵だ。ベオルブが民を虐げる輩の盾となるならば、私はそれを打ち砕く」
 見ると、そこには期待の光を宿した、エマの大きな瞳があった。
 ミルウーダは、健気なその姿に思わず笑みをこぼしながら、
「この戦いで、私たちは斃れ、野辺に骸を晒らすこととなるかもしれない──それでも戦うか?」
「はい! もちろんです!」
「本当は、お前には戦場に出てほしくなかった。──でも、お前は、自分で一生懸命考えて、自分の意思でここにいるんだな。私などより、ずっと強い意志で」
「当たり前じゃないですか! ミルウーダのお嬢様なんかより、ずうっと凄い修羅場を潜り抜けてきたんですからね!」
「ははは、まったくだ。私はまだまだお嬢様だったな」
 エマにそう言われると、途端に、今まで迷っていた時間が滑稽に思えてくる。
 あけすけで飾らない言葉は、何よりも物事の本質をよく言い表すものだ。
「兄との合流を果たせば、兄と一緒になれば──そうやって、今までずっと兄にすがろうとしてきた。そして、兄がいなくなったら、なれもしない兄のようになろうとして、空回りしていた──今度は、自分の意思で、自分の戦いをしなければ」
「それでこそ、私の大好きな、剣士ミルウーダです!」
「ありがとう、エマ」
 それからミルウーダは、一言二言、エマに何かしらの指示を与えた。
 指示を受け取ったエマの小さな影が、集落跡のあちこちを駆け回り、その後すぐ、各々休息をとったり、戦いに備えたりしていた者たちが、あわただしく、例の地下室のある民家に集まりだした。
 ミルウーダの声掛けで再び同志の会合の場が催されたのは、その日の深更であった。 
 皆の意志が固まるのに、そう時間はかからなかった。
 東の空が白みかける頃、死の街から骸のような影の集団が這い出し、一路、未だ夢深いウィングシェールの街へ駆け出した。
 



[17259] 第一章 持たざる者~37.ベオルブ来る
Name: 湿婆◆3752c452 ID:8baadaae
Date: 2015/05/16 07:24
 ガリオンヌ南西部に位置する小都市、ウィングシェールに北天騎士団の一隊が到着したのは、ミルウーダ率いる骸旅団の残党軍が出撃した日のまさに前日のことであった。
 ──その数、二百騎あまり。
 隊を率いるのはゴルカスという者で、彼の直属部隊は騎士団の中では斥候の精鋭として名を馳せており、情報戦のみならず、通常戦力としても大いにその実力を頼みとされている者たちである。
 ここ一月以上に渡って、ゴルカスは現地治安維持部隊との連絡を密に取りながら、ウィングシェール周辺に潜む骸旅団残党軍の動静を監視し続けていた。
 その気になれば直ちに討伐隊を派することもできたに違いないが、残党軍を率いるミルウーダという人物が、骸旅団の首領・ウィーグラフの実妹であるという確かな情報を掴んでいたため、敢えて泳がせておき、その他の主要メンバーを彼女のもとに引きつけてからまとめて殲滅せんとの意図のもと、これまで静観されてきたものである。
 案の定、ミルウーダの元には幾つかの小党が集まってきており、その中には古株のメンバーらしき人物も確認されていた。
「今が狩り時かと思われます」
 一週間ほど前、ゴルカスは総帥ザルバッグ・ベオルブにそう告げた。折しも、ゼクラス砂漠にてランベリー領主・エルムドア侯爵が無事救出されたとの報せが、イグーロスにもたらされていた時である。
「エルムドア侯誘拐の実行犯、ギュスタヴの一党は壊滅し、今骸旅団は内部より崩壊しつつあります。この期に他の有力者を叩き、ウィーグラフをさらに孤立させることが肝要かと存じます」
「いかにも」
 ザルバッグも、意するところ同じであったらしい。しかし、彼はその場で直ちに討伐に向かえとの命は下さなかった。
「ちと仔細あってな。出撃は今しばらく待ってくれ」
「……は。それはまた、どういったことで?」
「つい先程、執政官殿(ダイスダーグ)より、この件は自分に預けて欲しいとのお達しがあってな」
「執政官殿がですか」
「うむ。そういうわけだから、近々、執政官殿より何らかの命があろう。それまで、しばし待て」
「……承知いたしました」
 執政官からの直接指示で動くという状況は、斥候部隊である以上、まったく無いということもない。が、そういう時は大概、隠密工作的な任務であることが多いので、この度のような掃討任務において、彼の指示を仰ぐというのは、少し釈然としない。
 とはいえ、いちいち軍の総帥に命令の真意を問うなどというのは、軍人の作法に反する。
 よく心得たる騎士ゴルカスは、それ以上疑問を差し挟むことなく、ダイスダーグから別命のある時まで、イグーロスで待機することとした。
 ──此度の骸旅団残党勢力掃討作戦に際し、ラムザ・ベオルブ以下ガリランド王立士官学校(アカデミー)所属の見習い騎士十四名を同行させよ。
 ゴルカスのもとにこの特命が下ったのは、それから数日後のことであった。


「──というわけで、領境守備隊のアルマルク殿の機転により、商隊に扮したミルウーダ一党の尻尾を掴むことが出来たのです」
 イグーロスを立ち、ウィングシェールへと向かう途上、ゴルカスは轡(くつわ)を並べた年若い騎士に、これまで自身が請け負ってきたミルウーダ一党への対応の経緯を説明した。
 まだあどけなさの残る横顔は、彼の話に真摯に耳を傾けながら、逐一頷き、また色々と質問を返してきた。
「ではこれまで、特に目立った動きは見られなかったのですね?」
「はい。あちこち、歩哨を走らせてはいたようですが」
「……彼女の目的は何でしょう?」
「多く見積もっても百を少し超える程度の勢力です。他の勢力と合流しない限り、下手に動くこともできないはず。今はひたすら、その機を待っているものと思われます」
「……なるほど。しかし、私の知るミルウーダという人物は、少ない兵でも決死の戦いを挑む勇を持った戦士です。予期せぬ反撃に出ないとも限りません」
「…………」
 この年若い見習い騎士──現イグーロス執政官並びに北天騎士団総帥の実弟であり、今は亡き天騎士バルバネスの子息であるラムザ・ベオルブを共することが決まった時、ゴルカスは、まずあれこれと思案を巡らせた。
 彼が受けたのは、ただ「同行させよ」との命だけで、彼を護衛しろとか、はたまたその指示を仰げといったことは、一切言われていない。
 現地の治安維持部隊と併せれば、兵力は十分に足りているし、まさか見習い騎士を補強に寄越したということもあるまい。
 おそらく、余人には察せられぬ「御家の事情」があるのだろうが、実際に名門ベオルブ家の御曹司の「お守り」を押し付けられる身は、たまったものではない。もし万一のことがあれば、いつまでも自分の首と胴はつながっていないだろう──
 そんな現場指揮官の苦悩はありながらも、現実として、この貴き見習い騎士をどう扱って良いものか、ゴルカスはいまだ決めかねていた。
「──すみません」
 不意に謝罪の詞をいわれて、ゴルカスは思わずラムザの方へ目をやった。
「何を謝られますか?」
「いえ、立場も弁えず、あれやこれやとしつこく問い質してしまい、申し訳ないと」
「一軍の将たるお方が、戦を前に知るべきことを問うて何の不思議がありましょうや」
「……?」
 特に意識することなく、ラムザを"一軍の将"と呼んでしまっていたことに、ゴルカスはそう口にしてから気づいた。
「私は将ではありませんよ。この隊を率いるのはゴルカス殿です」
 ラムザが苦笑いを浮かべながら言った。
「いえ、他意はございません。他ならぬベオルブ家の御曹司。隊の者たちも、自ずからそのように見ておりましょう」
「それでは困るのです」
「……困る?」
「軍に二将はありえません。命を下すべきは誰か、従うべきは誰かを明確にしておかなければ、軍規は乱れます」
「…………」
「執政官殿の命とはいえ、とんだ厄介者を寄越されたとお思いでしょう」
「まさかそんな、厄介者などと……」
「ご迷惑をお掛けしていることは承知しています。しかし、我らも未熟者ながら、任務完遂のため、力を尽くすつもりです。どうぞ、いかようにもお使いください」
「…………」
「出過ぎた真似をいたしました。すぐに下がります。では」
 そう言って、ラムザは颯爽と隊列の後方に走り去って行った。その後姿を見送りながら、
(なんとも、不思議なお方だ)
 ゴルカスは、困惑顔にそう独りごちた。


 そうはいっても、いざウィングシェールの街に着いてみれば、そこはすでに「ベオルブ来る」の噂でもちきりだった。
 当初、噂を口伝する者たちの想像上にあったのは、ベオルブはベオルブでも、北天騎士団総帥ザルバッグ・ベオルブの方であったに違いない。が、どうやら到着した軍勢の中に彼の姿が無いことが分かってくると、今度は、実際そこに加わっていた"ベオルブの御曹司"の方へ注目が集まっていった。
 "北天騎士団総帥の実弟"、"天騎士バルバネスの秘蔵ッ子"、"エルムドア侯救出の立役者"──等々、言われ方は様々である。
「君も有名になったもんだな」
 街の外に設えられた兵営の一張の内で、ディリータが、そんな皮肉めいたことを言った。
 着到の儀をウィングシェール伯に報告してから、作戦会議の始まる夕刻までに、見習い騎士たちは、しばしの休息をとっていたところである。
 彼らの中には街に散策に出た者もおり、そこで仕入れたラムザに関する噂を、わざわざ土産話に持ってきたのである。
「何度も言うけど、僕たちはただの見習い騎士なんだからね」
 ラムザがこう正すと、
「君がそう思っても、周りはそう扱っちゃくれないさ」
「そうですよ!」
 見習い騎士のラッドが、ディリータに追従して言う。ラムザの噂話を持ってきたのは、ほかならぬこのラッドであった。
「ゴルカス殿の隊の人たちも、街の治安維持部隊の人たちも、皆心強く思っていますよ! ウィングシェール伯も、貴方のことはご存知だったのでしょう?」
「そうみたいだけど……」
 果たして、彼らの興味の対象が、ラムザという人間自体にあるのか、"ベオルブの御曹司"などという肩書の方にあるのか。それを考えると、ラムザの心は自然と曇った。
 はしなくも、砂ネズミの穴ぐらで、ウィーグラフから突き付けられた数多な詞が、脳裏に過った。
 ──我が妹の命を救ったのだとすれば、それは貴様の実力ではない! 貴様の"身分"だ!
 中でも、その一語が、彼の心に強く刺さっていた。
「僕はまだ、何も成し遂げちゃいないよ。みんながいてくれたのと、ちょっとばかり、運が良かっただけさ」
「…………」
 弱々しく笑う友の横顔を、ディリータは静かな眼で見つめていた。
「さあ、もうじき作戦会議が始まる。僕は行かなくちゃ」
 夕刻からの作戦会議に参加するのは、見習い騎士隊からは、隊長格のラムザだけである。
 彼は仲間たちを後に残し、兵営の中で一番大きいテントに向かって、足早に歩いて行った。


 会議の開始時刻までには、いま少し間があったが、そこにはすでに、ゴルカス隊の主だった面々が揃っていた。
「やあ、ラムザ殿。こちらへお座りください」
 下にも置かず、ゴルカスはラムザに自らの隣席を譲った。
 やや躊躇しながらも、ラムザは招かれるまま、そこに収まった。
 その他の面々も、興味津津といった様子で、やや場違いな風すらある若い騎士に、好奇の目を注いでいる。
 ラムザより少し遅れて、ウィングシェール治安維持部隊を率いるハンザという老騎士が加わってから、軍議は始められた。
 軍議の最中、ラムザはあえて前に出ることなく、聞き手に徹していた。立場をわきまえての遠慮もあるが、もとよりこの場に参加している者たちは、それぞれに経験を積んだ熟練の騎士であったし、一見習い騎士に過ぎないラムザにとっては、この上ない学習の場でもあったのである。
 そういったわけで、素人意見など差しはさむ余地もなく、気を遣ったゴルカスが、ラムザに意見を求めてきて、初めて彼は口を開く機会を得た。
「私も、大筋に異論はありません。ただ……」
「ただ?」
 すでに作戦の方針は決まっていて、体裁だけの意見伺いをしたのであろうゴルカスは、ちょっと意外な顔をした。
「いえ、少し気になったのが、ウィングシェールの街で、やたらとベオルブの名が騒がれていたことです」
「と……いいますと?」
 ラムザは、一つ小さく咳払いをしてから、先を続ける。
「知っての通り、骸旅団は去るレアノール野の戦いにおいて、我が兄ザルバッグにより、手痛い敗北を喫しています。また、イグーロス執政官ダイスダーグ──こちらも私の兄ですが──の掲げた方針により、捕らわれた骸旅団の兵たちには、情け容赦無い処断が下されています。以来、彼らの怒りの矛先はベオルブ家そのものへと向けられるようになり、その感情は、いよいよ強まってきているように思われます。──そこへきて、今度もベオルブ家の者が掃討作戦に参加していると知れば、彼らが積極的攻勢に出ないとも限りません」
 これは、ディリータが懸念していたことでもあった。今回のような掃討作戦においては、先手を打つことが大前提となる。もしベオルブの名に触発された敵勢力が、逆に先手を打って攻めてきた場合、思わぬ損害を被る恐れがある──と。
 出撃は、すでに明後日の早朝と決まったので、それよりも早くに敵の動きがあれば、すぐに察知できるよう、警戒を厳にすべしとの意見を、ラムザはこの場で述べたのである。
 結果として、彼の懸念が現実のものとなることは、ほんの数時間の後に明らかとなるのだが──
「なるほど。さすがはベオルブ家の御曹司」
 と、ゴルカスは通り一遍な賛辞を述べてから、
「ご懸念はもっともですが、何せ、一月以上に渡って、潜伏したまま動きもみせぬ敵。今さら打って出てくるとも思えません。それどころか、ベオルブの名を耳にし、かえって恐れをなして震えあがっているかもしれませんぞ」
 テントの中は、ハハハハ、と剛毅な笑い声に包まれる。ラムザもつられて笑みをこぼしながら、
「……それならば、よいのですが」
「心配召されるな。我がウィングシェール治安維持部隊の警邏隊が、敵の拠点周辺を絶えず哨戒しておりますれば」
 と、強気に言ったのは、治安維持部隊の長ハンザ。
「その通りです。何か動きがあれば、彼らがすぐに知らせに参りましょう」
「押しも押されぬベオルブ家のご子息。強気でおられなさい」
 ──すでに勝敗は決まっている戦。その点に、ラムザもほとんど疑いは抱いていない。
 ただ、かのマンダリアの砦で見たミルウーダという女剣士が、ベオルブの名に恐れをなすなどということは、到底考えられなかった。
 あの時以来、魔法都市ガリランドを襲ったギュスタヴ一派や、イグーロスで処刑されたレッドや、砂ネズミの穴ぐらで対峙したウィーグラフといった骸旅団の志士たちをこの目で見、あるいは言葉を交わしていく中で、骸旅団という一集団は、少なくとも単なる盗賊・匪賊の類ではなくなっていた。
 そして、彼らの剥き出しの敵意が、今や自らの家の名に向けられていることを思うと、かえって彼自身の方が、恐れをなさずにはいられないのであった。


 その夜は、ひとしきり通り雨の降った後は、雲一つない星空であった。
 出撃は明後日と伝えられ、兵営の内はどことなく弛緩した空気で満たされていた。
「心配ごとか?」
 声をかけられて、ラムザはそちらを振り返った。そこには、見慣れた友の顔がある。
 ラムザとディリータは、兵営の篝火からはやや離れた場所の、まだ少し湿っている芝の斜面に並んで腰を下ろした。
「……まあね。だって、こういう本格的な作戦は初めてじゃないか」
「それはそうだが、全然そんな感じはしないな」
「そりゃ、あんな大事に巻き込まれた後じゃね」
「まったくだな」
 ドーターから砂ネズミの穴ぐらにかけての一連の出来事を思い起こしながら、二人は笑みをこぼした。
「今回も、掃討作戦とはいえ、ほとんど戦らしい戦にはならないと思うがな」
「そうかな?」
「敵は孤立無援の残党軍、中心的勢力も壊滅した今、どこまで士気を保っているのやら。──それでもミルウーダは、攻勢に出ると?」
「何もせず捕まるような人ではないと思うよ。少なくとも、油断すべき相手じゃない」
「無論だ。万全を期すなら、明日には動き始めるべきだった」
「僕もそう思うよ。後続の増援部隊を待ってからというけど、そちらは街の守備に回して、僕たちは先行してもよかった」
「軍議ではそのことを?」
「……言わなかった」
「……そうか」
 ディリータは、ため息交じりに横眼でラムザの方を窺う。
「難しい立場なのは分かる。でもそういう時は、別に遠慮しなくてもいいと思うが?」
「遠慮……というか、ただ、言い出せなかったんだ」
「なるほどね。……まあ、君らしいや」
 ディリータは、立ち上がってから大きく伸びをし、僕はもう寝るよ、と言って兵営の方へ帰っていった。
 ラムザは、それからしばらくの間、満天の星空をぼうっと眺めていた。
 そうしていると、マンダリアの砦で捕虜になったあの日の夜、古砦の石柱に縛り付けられたまま見上げた星空が思い出された。
 運命は巡り、自分は再びミルウーダと相まみえようとしている。しかし、今度は明確な敵同士として。
 あの日から、彼女はどんな日々を生きてきたのか。どんな思いで、剣を取り続けているのか。
 ──君は、我らに希望を与えてくれた。
 ──われわれは、話し合える。
 蛇の口という村で、死地に向かう骸旅団の捕虜レッドが口にした詞。それはひょっとして、彼の"祈り"だったのかもしれない。
 そして今、ミルウーダと再び対峙した時。
 交わすべきは、剣か、言葉か。
 そんな迷いは、野営の床に就いてからも尚晴れず。
 ようやく、まどろみ始めた眠りは、しかし、騒々しいチョコボの蹄の音と、何やら喚き合う声にかき消された。
「ラムザ!」
 血相を変えたディリータがラムザのテントに駆け込んできたのと、彼が、がばっと身を起したのは、ほぼ同時だった。
「哨戒部隊が襲撃を受けたッ! 敵はすぐそこまで来ているぞ!」




[17259] 第一章 持たざる者~38.再─骸の騎士・上
Name: 湿婆◆3752c452 ID:8baadaae
Date: 2016/06/02 14:07
 東の端を仄かな薄明かりに染めた星空は、黒々とした野原の縁に切り取られていた。
 ややあって、その頂ちかい所から無数の人や陸鳥の影が突如として湧き上がってきたように見えた。
 その一群の足元には、そこかしこに大小の泥水溜まりを配した湿地が広がっており、その真ん中を突っ切っている街道はすでに一塊の軍勢によって横並びに固められていた。言うまでもなく、斥候部隊が骸旅団に奇襲されたことを受け、ウィングシェールの兵営から急遽出動してきた北天騎士団治安維持部隊の本隊である。
 しかし、街道を護る者たちが、予想外の方角から現れた一軍に対応するまでには、多少の混乱を要した。
「敵だッ! あそこに!」
 狼狽する騎兵たちの頭上に、まず乱箭が降り注ぎ、続いて鬨の声とともに軽快な戦士たちが防衛線の横面を駆け散らしていく。
 陣頭指揮を執る北天騎士団の騎士ゴルカスは、異変に気づくと、すぐさま陣容を変えるよう指示を下した。
 態勢の立て直しは素早く行われ、湿地の上で、本格的な戦いが始まった。
 この足場ではチョコボは役に立たないから、自ずと戦は歩行(かち)どうしの泥臭いものとなった。むしろ兵力で劣る骸旅団は、それを狙ってこの場に引き込んだ向きもある。彼らは周到にも、投げ縄を用いて、泥沼にはまった敵の足を掬い取るような真似までしてみせた。彼らの連携は散々北天騎士団を悩ませはしたが、もとより歴然としてある数の上での差は覆せるはずもなく、一人また一人と、泥水の中に斃れていった。
 乱戦の最中、ラムザはといえば、敵中にただ一人の人物を見出そうとしていた。
 無論、ミルウーダ・フォルズその人である。
 地形の難を頼みに、警戒の薄くなる方向を突くやり方などは、さすがウィーグラフの実妹と思わせるだけのものがある。捨て身の戦いではあるが、闇雲な突撃ではないことは明らかだった。
「おい! ラムザ!」
 彼を呼ぶ声がして、振り向くと、友のディリータが駆け寄ってきた。
「あまり独りで動かないほうがいい」
「どうして?」
 また"お守り係"の心配性か、とラムザは訝る。
「敵は追い詰められた鼠だ。わざわざ"餌"をくれてやることはない」
「僕が"餌"だって?」
「自分で言っていただろう。敵はベオルブの名に触発されるだろうと。これしきの数でできることといえば、せいぜい冥土の土産に君を道連れにすることくらいさ」
「そんなにやすやすとやられるもんか。──それに今の僕らは、ただの一兵卒にすぎない」
「…………」
 友の困惑顔を置き去りにして、ラムザはまたずんずん歩き出す。
 ──その時、後方で騎士団の角笛が鳴り響いた。
「集結の合図……?」
 ともかく、指示が出されたからには、街道を固める本隊の方へ向かわなければならなかった。
 途中、アルガスら見習い騎士隊の他の者たちとも合流した。
「隊長のくせに、今までどこへ行っていたんだ?」
 ラムザの顔を見るなり、アルガスは悪態をついた。
「すまない。何があった?」
「敵の別働隊が現れたらしい。街道の方から突かれたみたいだ」
「街道から……?」
 たしかに、今まさに街道の方で混乱が生じているらしかった。つまり、斥候部隊を奇襲したのとは別の部隊が他にあったということである。
「全部合わせたって大した数じゃないだろうに、わざわざ兵を分けるってことは、よほど兵の強さに自信があるんだろうな」
 アルガスの見立てに、ラムザも同意する。ひょっとすると、本隊を襲った方にミルウーダはいるのかもしれない。
 北天騎士団が集結を始めたことで、最初の攻撃を仕掛けてきた敵部隊はいきおい反撃に転じた。
 そちらの備えをディリータ中心とした幾人かの隊士たちに任せ、ラムザ自身はアルガスらと共に本隊の救援に向かうことにした。
 形勢がこうなってしまった以上は、なるべく被害を抑えるためにも、いったん退いて立て直しを図ることも一計である。そう断じて、ラムザはその考えを指揮官のゴルカスに伝えるべく彼の姿を探したが、どこにも見当たらない。
 そうこうしているうちに、複数の敵が彼らの前に立ち塞がった。
「フン、ガキか?」
 手に曲刀を提げた骸旅団の男は、そう言って鼻で嗤ってみせた。
「ロッソ、油断するな。そいつら騎士団の見習いどもかもしれねえ」
 仲間の一人が、横目で注意を促す。
「騎士だろうが見習いだろうが、ガキはガキだ!」
 ロッソと呼ばれた男は、言うなり曲刀を横薙ぎに繰り出した。
 ラムザは後ろ跳びに攻撃をかわし、自身もまた剣を構えた。
「…………」
「ちっとはやるみたいだな」
 が、二戟目に入る前に、思わぬ横槍が入った。正装の騎士たちが数人、ラムザを取り巻くようにして目の前に立ちはだかったのだ。
「ラムザ殿、お怪我は?」
 見れば、騎士の一人はゴルカスであった。
「はい、なんともありませんが……」
 まるで初陣の王侯貴族の子息のような扱いに、ラムザは少なからず自尊心を傷つけられた気がした。事実、そうした者たちと大して変わらぬ身の上ではあるのだが、ゼクラス砂漠までの経験が、世間が考えるよりも彼自身を大きな存在にしていたのである。
「ほう、ミルウーダが言っていたラムザってのはお前のことか」
「……!」
 敵がラムザの名を知っていたこともそうだが、ミルウーダもまたラムザの存在を意識しているということに、彼は少なからず驚いた。
(ミルウーダの狙いはやはり僕の命……!)
 ベオルブの御曹司という存在は、北天騎士団にさんざん苦汁を飲まされてきた骸旅団にとって、一番分かりやすい標的である。そんなことは、ラムザとて百も承知であったが、今の彼は、少しムキになっていた。
「そうだ、天騎士バルバネス・ベオルブの息子、ラムザ・ベオルブとは僕のこと。ゴルカスどの、僕は自分で戦えます。そこをどいてください!」
 ラムザは剣を構えたまま、ゴルカスの背中にうったえた。
「なりません! あなたの身に万一のことがあっては……」
「あったら、なんだというのです! 戦場で死ぬことは武人の本望です!」
「では、指揮官として命じる。あなたは下がっていなさい!」
「ぐっ……」
 こう言われては、ラムザも下がらざるを得ない。軍律の遵守を逆手に取られた形である。
 ゴルカスら正騎士たちは、ラムザに指一本触れさせまいと、剣と盾を敷き詰めあった。
 しかし、肉を目前に置かれた獣はそうやすやすとあきらめはしなかった。
 ロッソら骸旅団の戦士たちは、数と装備で勝る北天騎士団の正騎士たちを相手に、猛然とぶつかってきた。
 咆哮のような雄たけびと共に、刃が閃く。
「あっ──」
 敵の捨て身の攻撃により、正騎士の一人が斬られた。すかさず、ゴルカスらの反撃により、一人二人と続けざまに敵が斬り斃される。
 そのうちの一振りは間違いなくロッソをかすめたが、彼は地面に倒れるスレスレで踏ん張り、最後の力を振り絞って、ラムザに向かって来た。
 その必死の形相を、ラムザは真正面から受け止めた。
「しまった!」
 ゴルカスや、アルガスら他の見習い騎士たちが反応するよりも早く、一歩前に踏み出したラムザの一閃により、死力を尽くした獣の身体は、今度こそ地面に倒れ伏し、動かなくなった。
「……お見事」
 感心したように、ゴルカスが賛辞を送る。その口ぶりも何やら見くびられているようで、ラムザは気を悪くした。
「ゴルカス殿、無用な被害を抑えるためにも、ここはいったん退き、立て直しを図ってはどうでしょう?」
 つとめて何事もなかったかのように、彼は自身の考えを述べた。
「大戦(おおいくさ)ともなればそれも常道ではございましょうが、こたびはしょせん小勢どうしの戦。多少の痛手を負っても、このまま敵をせん滅するのがよろしいかと思われます」
「……わかりました。ただ、敵将ミルウーダ・フォルズは、少々因縁ある相手です。私に処置をお任せ願えませんか?」
「なるほど、先ほどの敵があなたの名を口にしていたのは、そういうことでしたか。……であれば、ラムザ殿にお任せ致しましょう」
「ありがとうございます」
 見返したいという気持ちが多少あったにせよ、ミルウーダの対処を任せろとまで言ってしまったのは、少々気が逸り過ぎたかとも思われた。
 それでも、彼女と直接剣を交えるべきは自分をおいて他にないと、彼はどこかでそう決めつけていた節がある。
 ラムザたちはその場を離れて、やや上り坂となっている街道をウィングシェール方面へ向かって駆けていった。主戦場はジリジリと後退し、すでにそちらの方に移動していたのである。
「いいのか? あんなことを言って……」
 アルガスですら、常にないラムザの強気に面喰っている様子である。
「前にも言っただろう。彼女とは少し因縁があるんだ」
「それは聞いた。つまり……お前の手でその女を殺すんだな?」
「そんなに簡単な相手じゃない」
「…………」
 その時、数名の骸旅団の兵士たちが、こちらに向かって来るのが見えた。
「ここは、我らにお任せを」
 すぐさま、前を行くゴルカスら正騎士の一団がそれに当たって行き、剣を交える。
 その場を彼らに任せ、先を進もうとしたところ、
「おいっ! あそこっ!」
 仲間のラッドが何かに気づき、ゴルカスらが戦っている場所から二、三エータ離れた所を指差した。
 そこには、両の手を天に掲げて、魔法の詠唱態勢に入っている一人の黒魔道士がいた。
 味方と示し合わせ、諸共に強力な黒魔法の餌食にするつもりらしい。
「させるかっ……!」
 すかさず、アルガスが弓に矢を番える。
 ラムザは、標的となった黒魔道士の、そのやけに小さな姿を見て、何となく嫌な予感がした。どう見ても、それは子供のように見えたのである。
「だめだ……アルガス!」
 咄嗟に制止しようとしたが、矢は既に放たれていた。黒魔道士の、特徴的な衣装であるとんがり帽子にそれは突き立ち、小さな身体は、あっさりとその場に崩れ落ちた。
「ふう……危ないところだった」
「…………」
「ん? どうかしたか?」
「いや……」
 ラムザは、しばし呆然と黒魔道士の斃れた場所を見つめていたが、
「まだ来るぞ!」
 というラッドの声に醒まされて、目を移した。
 見ると、さらに幾人かの敵が、あとから続いて来ていた。
 ゴルカスらは、まだ先ほどの敵と戦っていた。新手には、ラムザたちで当たる他ない。
 先頭には、手に鉞を持った大柄な髭面の戦士と、いま一人、その大男に比べると、大分身の細い、剣士の姿があった。
「……!」
 剣士の方を見て、ラムザは口を開きかけたが、それを遮るように、
「良い敵! 勝負ッ!」
 と、髭の戦士が挑みかかってきた。これに対し、ラムザ側はアルガスとラッドの二人が防ぎに立つ。ラムザは、髭の戦士に続いて仕掛けてきた三人もの敵を即座に斬り伏せ、その勢いを維持したまま、もう一人の剣士との間合いを詰める。
「ハアッ!」
 そのラムザの動きに対し、剣士は、軽く地面を蹴って、低めの姿勢から攻撃を仕掛けてくる。
 舞うような剣戟が二、三あってから、二人の剣士は再び間合いを取る。
「…………」
「…………」
 短い呼吸を置いて、剣先と剣先との間を、ピリピリとした空気が隔てる。
 このわずかな手合わせだけで、ラムザは、この剣士を相手に手心を加える余地などは、微塵もないことを理解した。
「もう、あなた方に勝ち目はない! 降伏しろ!」
 ラムザは剣士に呼びかける。無論、気後れしたのではない。この相手に対し、そのように通告することを、彼はあらかじめ用意していたのである。
 ──返答はない。
 剣士の──その振りかざした栗色の長い髪の間から、鳶色の鋭い瞳が睨め据えていた。


 鉞を持った大柄な戦士は、強かった。
 見習い騎士などでは、この手練れ相手に到底当たりえず、アルガスとラッドは大きく間合いを開けてしまった。
「騎士ともあろう者が、恐れをなしたか……! 覚えておけ、我こそはハドム党の頭にしてフォルズ兄妹の盟友、赤髭のハマだ!」
 戦士はそう名乗り、大鉞を振り上げて尚も見習い騎士の二人を追い回す。
 たまらず、アルガスとラッドは逃げの一手を取らざるを得ない。
「ラッド、お前が行け! その隙に俺が弓で奴を倒す!」
 と、アルガスが色を失った様子で喚く。
「無理だ! そんなの……わっ」
 横薙ぎに繰り出された一撃を、ラッドはなんとか小盾で凌いだが、その衝撃に耐えきれず、彼の身体は思い切り弾き飛ばされてしまった。
 それを見て、アルガスは今度こそ蒼白となった。元来、彼の得意は弓である。それは翻って、白刃を散らしての勝負に、彼が怖れをなしているということでもある。
「くそっ、こんな所で……ゴルカス隊長は……? ラムザは……?」
 もはや弓を構えるだけの間合いを取ることもできなくなった。アルガスは長剣(ロングソード)の柄を握り締め、この場をどう無事にやり過ごすかだけに全神経を注込んでいた。
 相手のハマは、肩で息をしながら、口ひげの間から白い歯を覗かせた。
「よもや、貴様なんぞがベオルブ家の御曹司ではあるめえよ。あのウィーグラフが、その名に恨みを抱くほどの家の子が、このような"腰ぬけ"であるはずが……」
「腰ぬけ……?」
「逃げたいのなら逃げろ。おそらくあの人が今、剣を交えている者こそベオルブ家の御曹司……おれはそっちを手伝わにゃならんからな」
 逃げ出したい思いと、貶められたままの名誉心とが、アルガスの中でせめぎ合っているのは明白であった。
 なおさら、ベオルブの名を引き合いに出されたことによる心理的影響は、無視できないものであったろう。
 そして、葛藤の末、彼自身すら思いもかけない言葉が漏れ出していた。
「ちがう、おれが……おれがベオルブ……ラムザ・ベオルブだ!」
 そう言ってしまってから、アルガスはぎこちない笑みを無理矢理顔に貼り付けた。
「ほう、あんたが?」
「そ、そうさ。おれの首が欲しいのだろう? 貴様ら死にかけの犬どもにできることといえば、せめてベオルブ家の人間を地獄行きの道連れにすることくらいだからな」
「ふん、口だけは達者のようだな……"御曹司殿"」
 アルガスの発した挑発がどのような結末をもたらすのかは、彼自身にも分かり切っているはずである。
 この期に及んで何故あんなことを口走ってしまったのか──彼は、人間の心理の不可解さを認めざるを得なかった。
「貴様のような"家畜"同然の輩に、むざむざくれてやる命はない!」
 不思議と、強がりだけは淀みなく出てくる。むしろ今の彼は、その虚勢を頼みにしているようですらあった。
「なに、おれが家畜だと?」
「そうだ。貴様ら家畜は、おれたち貴族に大人しく飼われていれば良いのだ。多くの平民どもが、口にせずとも本心ではそう望んでいるんだからな──それを貴様らは、平民の代弁者などとのたまって、盗賊まがいのことをしでかし、かえって罪のない民を苦しめている!」
「野郎……その下劣な舌を引っ込めねえなら、二度と口をきけねえようにしてやる」
「ほう、家畜の分際で飼い主の人間に逆らうつもりか? 貴族の中の貴族、ベオルブ家の一員である、この俺に?」
「だ、黙れ! ぐっ……!」
 耳まで紅にしたハマは、まさにアルガスめがけて跳びかからんとした。
 が、奇妙にも、その身体はバランスを欠いていた。
 アルガスの狂言は、結果として彼に寸余を与え、そのわずかな間に彼を窮地から救っていたのである。
 何故かといえば、ハマの背後から、低く、すばやく身体を差しいれてきた者があった。
 実のところアルガスは、ほんの数秒前から、その助太刀の存在に気づいていた。
「ディリータ! よくやった!」
「このぅ!」
 ハマの反撃を余裕を持ってかわしたディリータは、返す剣でさらなる一突きをハマの肩口に突き立てる。
 しかし、ハマはなおしぶとく、鉞を振り回す力もまったく衰えない。
「無駄なあがきはよせ!」
 形勢が逆転してからのアルガスの身の翻しぶりは、さすがといわざるをえないものがあった。
 手負いのハマに向かって、彼はさらにたたみかけるようにして言い放つ。
「残念ながら、おれはベオルブじゃない! ちょっとからかってやろうと思ってな……ムキになって周りが見えなくなるようじゃあ、お前もそこまでってことだ」
「おのれっ!」
「ははは、くやしいか? くやしいなら……」
 当然、こちらに向かってくると思われたハマは、突として、まったくあさっての方向へ駆けだした。
「なんだ!?」
 アルガスとディリータが、その意外な行動に気を取られている隙に、ハマは全力で新たな目標に食らいつかんとしていた。
 ほぼ反射的に、ディリータがその後に続いた。
「ラムザッ! 後ろだッ!」
 そこには、もう一人の剣士との死闘を繰り広げていたラムザの背があった。ディリータの必死の追撃も、わずかに及ばない。
「おおおおっ!!!」
 獣とも人ともつかぬ咆哮を上げた男の姿は、その手に持つ武器と渾然一体であるかのように見えた。
 ──が、すでにその歯牙にかかったかと思われたラムザの身体は、もうひとつの壁に遮られた。
 グシャっ、という金属と金属がぶつかり合う鈍い音が発せられ、二つの塊は、絡まり合って地面の上を転がった。
「ミルウーダあああああああ!!」
 ハマの最期の叫びは、はたして、その思うところの相手に届いたのであろうか。
 直後、彼の背には、一斉にとどめの剣が突き立てられていた。一度に三人もの騎士が、その一撃に加わっていたのである。
 内二人は、ゴルカスと共にいた北天騎士団の正騎士に違いなかった。そして、ゴルカス自身はというと──ラムザを守るため、その身を凶刃の前に曝け出した者こそ──他ならぬ、この熟練の騎士であった。



[17259] 第一章 持たざる者~39.再─骸の騎士・下
Name: 湿婆◆3752c452 ID:8baadaae
Date: 2016/06/02 14:07
(強い……!)
 ラムザは苦戦していた。
 細腕から繰り出されているとは思えぬほどに、その剣の一撃一撃は重い。
 いや、細腕などと言うのは、この相手に対しては失礼であろう。
 ラムザの常識では、腕力で劣る女性の戦場における役割とは、主に魔法であるはずだった。一般に、女性は男性よりも優れた魔術の資質を持っていると言われている。そのことが、男性に引けを取らぬ役割を戦場に与えているのだと──
 しかしながら、今この剛剣を振りかざす相手は、まごうことなき女性である。しかも、年齢もそれほど離れてはいまい。ラムザもまだ歳若く、割と痩身な方とはいえ、壮健な青年の肉体を持っている。
 何がその差を無くしているのか──
 その剣士、ミルウーダ・フォルズ。
 何が彼女をここまで強くしているのか──
「ハアッ!!」
「……!」
 気迫とともに、ミルウーダの剣が振り下ろされる。
 これもまた、重く、そして尚且つ疾い連撃だった。その何撃目かを、ラムザはようやく受け止め、鍔迫り合いに持ち込む。
 荒い息が、間近で感じ取れるような距離。
「あなたは……!」
 この後に及んで説得など、効くはずもないことは明白である。
 それでも、ラムザは対話の姿勢をやめない。
「ミルウーダ……貴女は、私の命を奪えば、それで良いのですか?」
「何を言っている」
「私一人を殺したところで、結局、あなた方は北天騎士団に潰される!」
「だから、"無駄"だと?」
「……!」
「確かあの時も、貴様はそんな事を言っていたな」
「死ぬと分かっていながら、何故」
「殺す気もないくせに」
「……?」
「自分の手は汚したくないってわけ? あなたの剣にはまるで"殺気"がない。私はこんなに本気なのに。あの時もそう。結局、あなたは、自分だけ綺麗なままでいたいんだ」
「そんな……」
 ラムザの気が緩んだのと同時に、鍔迫り合いはあっさり解かれる。弾かれるように、二人の剣士は再び間合いを取る。
「じゃあ聞くけど」
 ミルウーダの顔には、皮肉めいた、どこか病的にも見える笑みが浮かんでいる。
 先ほどから、彼女は"剣士"としての装いをすっかり脱ぎ捨てているように見えた。剣士らしい毅然とした振る舞い、言葉──それらの装飾を取り払った、一人の生身の女の姿がそこにあった。
「あなたは──何のために戦っているの?」
「僕は……」
 猛然たる獣の咆哮が、ラムザの背後から襲いかかったのは、その時だった。
 生命の危険は、彼の思考よりも速く身体を反応させた。刹那、ラムザの視界は、その獣の姿を捉えていた。
 ──殺される。
 そう感じ取った次の瞬間、何者かの陰になって、獣の目は隠れた。
 鈍い金属音。絡まり合う二つの肉塊。そして、絶叫。
 その断末魔の意味するところは、ラムザにも理解できた。
 無念──ただその一念のみを遺して、獣は斃された。
 そして、身を挺してラムザの命を救った者の身体もまた、地に横たわっていた。
 その者の身に着けている鋼の鎧に、獣の遺した爪そのものが食い込んでいた。いかなる怪力のなせる業か、その鉄の大鉞は、易々と分厚い鋼を引き裂いていた。
「ゴルカス殿!」
 ラムザは一瞥しただけで、自身の身代わりとなった人間のもとに駆け寄ることもかなわなかった。
 仲間が犠牲となって作り出した好機を逃すことなく、ミルウーダが追撃を加えてきたのである。
 満身を切っ先にしたような鋭い突きをギリギリでかわし、ほぼ反射的に、ラムザは返しの刃を閃かせた。
 それは間違いなく相手の命を奪う剣であった。
 が、ラムザの理性か──あるいは感情か──が、敵の喉を掻き切る寸前で刃を留めていたのである。
「…………」
「…………」
 ミルウーダの方は、もう微動だにできない。
 刹那の情動に突き動かされた攻撃が、結果的に勝負を決めてしまった形である。彼女の鋭い眦だけが、ラムザの横顔を睨み上げていた。
 今とばかりに、ゴルカス配下の騎士たちが殺到し、盾やら槍の柄やらで、ミルウーダの身体を滅多打ちにして、地べたに這い蹲らせてしまった。
「もうやめろッ!」
 ラムザが止めなければ、そのまま嬲り殺しにしてしまいそうなほど、苛烈な制裁であった。一通りの暴行の後、報復を行った騎士たちは、ミルウーダの手にする剣はもちろんのこと、身に着けているあらゆる武装を引き抜き、彼女の髪の毛を乱暴に引っつかんで膝立ちにさせた。
 戦闘員に男も女もない。それが戦争の掟である。
 とはいうものの、ラムザの純粋な心は痛まずにいられなかった。
 彼は一度息を深く吐き出し、ミルウーダとの命のやり取りで緊張と興奮の極地にあった神経を落ち着かせる必要があった。
「ゴルカス殿は?」
 隊長のゴルカスの元には、すでに他の配下の騎士たちが駆け寄り、介抱を行っていた。ラムザもゴルカスの容態を確かめたるため、そこへ割って入る。
「傷が深い。すぐに野営地に戻って手当てしないと」
 騎士の一人が、深刻な面持ちで言う。
 その時、ゴルカスの口から苦痛の呻きとともに小さく声が漏れた。
「ラ、ラムザどの」
「ゴルカス殿……!」
「ご無事なようで何よりです……不甲斐ない姿をお見せしてしまいました」
「そんな、私などのために……」
「何をおっしゃいますか。あなたは北天騎士団にとって、大切なお方。こんなつまらぬ戦場で万一のことがあっては」
「戦いに夢中になるあまり、周りが見えていませんでした……これでは騎士失格です」
「命あっての物種です。それより、私はこんな態ですので……あとの処置はラムザどのにお任せしてもよろしいか」
「はい、ゴルカス殿はすぐに治療を」
 ゴルカスは微かに笑みを浮かべて、小さく頷く。ラムザが騎士たちに目配せすると、彼らは上官の身体を支え合い、その場を離れた。
 もとより、因縁あるミルウーダの対処を任せてほしいとゴルカスに頼んだのは、ラムザ自身である。ただ、こんな形で隊の指揮を委ねられることになるとは、彼も予想していなかった。
 そこへ、ディリータが歩み寄って来、
「命拾いしたな」
 と、真面目な顔をして言った。
「うん、ゴルカス殿に救ってもらった」
 ラムザは、沈痛な面持ちで頷き返す。
「隊長どのは?」
「治療のために野営地に戻ることになった。以降の指揮は僕が執る」
「了解した。じゃあ報告するが、敵部隊の殲滅は完了しつつあるようだ。まだ詳細は上がってきてないが、うちの隊の連中が現在状況確認中だ」
「……そうか」
「予想外に苦戦したな……それで、あの剣士が」
「ああ」
 ラムザの視線の先には、突きつけられた槍の下で、頭を垂れるミルウーダの姿があった。
「どうするつもりだ?」との友の問いかけには答えず、ラムザはミルウーダの方に歩み寄る。
 ディリータの報告通り、戦闘はすでに収束に向かっているようで、彼の周囲ではほとんど戦の音も止んでいる。
 陽はすでに、中天に差し掛かろうとしていた。
 からりとした少し冷たい西風が、ゆるやかに戦の跡の野原を渡っていく。
「…………」
「…………」
 ついさっきまで剣を交えていた時のような張り詰めた空気は、とっくに消え失せていた。
 伏せられたミルウーダの顔から、ぽたりぽたりと血の雫が滴っているのが見える。
 ラムザの気配に気づいたのか、彼女はゆっくりと面をあげた。
 その鳶色の瞳に、先ほどまでの鋭さはない。戦場に似合わぬ長い睫が、血に濡れている。
 すでに運命を悟ったかのような、その冷めた瞳を、ラムザは以前にも目にしたような気がした。そう、かつてミルウーダの盟友として共に戦い、彼女を逃がすために北天騎士団に捕らわれ、むなしい最期を遂げたレッドという骸旅団の戦士がいた。
 北天騎士団の任務で、ラムザはその男をイグーロスまで護送したのだ。道中、一切の糧食を口にしなかった彼の目にも、こんな諦観の色があったのを覚えている。
 そして、死地に向かう男と一度だけ交わした言葉も、ラムザははっきりと覚えている。
 ──"われわれは話し合える"。
 言葉を解する種として生まれながら、まして意思を通じ合える共通の言語を持ちながら、"話し合う"ことのいかに困難であるかを、ラムザはこの数ヶ月の経験だけで幾度となく思い知らされてきた。
 数奇な運命は巡り、ラムザは再びこの女性と相対することとなった。
 ──"話せば分かり合える"。
 しかし、彼の体験は、容易にこれを受け入れられるほどの純粋さをもまた、奪っていたのかもしれない。それは言い方を変えれば、"分別"ともいえる何かかもしれなかった。
「やっぱり殺さないのね」
 結局、最初に口火を切ったのはミルウーダの方だった。
「こっちは命がけで戦っていたのに」
 ラムザは、逸らしたくなる目を必死でこらえた。仮にも指揮官を任された手前、努めて毅然たる態度を維持する。
「手心を加えたつもりはありません。できるわけがない。私の力では、あなたの剣を凌ぐのがやっとだった」
 それは本心である。最初の手合わせの時点で、ラムザはミルウーダとの実力差を把握していた。
「しかし、最後だけ、あなたは剣にとらわれていた。私があなたに及んだのは、その時だけです」
「なめられたものね」
「あなたは強い。あなたの──兄上も。私など到底及ばない」
 最後の一言は、苦い思い出とともに噛み締められた。砂ネズミの穴ぐらでウィーグラフと対峙した時は、剣を交えるまでもなく、ラムザは一人の人間として、完全に圧倒されてしまったのだ。
「ウィーグラフと戦ったのか?」
 冷めきっていたミルウーダの瞳に、わずかに熱が戻る。
「最初はドーター、そのあと砂ネズミの穴ぐらでも、貴女の兄君に会いました。一度目はむしろ助けられ、二度目は……剣を交えることさえ許されませんでした」
「兄は生きているのだな?」
「ええ、しかし……」
「奴は尻尾を巻いて逃げたんだよ」
 ラムザの言葉を遮ったのは、いつの間にか傍に来ていたアルガスであった。
 薄ら笑いを浮かべて、膝下のミルウーダに唾を吐きかけんばかりの見下し様である。
「俺たちの部隊に包囲され、奴は仲間割れで孤立していた。何やら高邁な捨て台詞を吐いて行かれたが、結局戦いもせず逃げて行ったよ……侯爵様を解放したのも、せめてもの強がりだったのだろう」
 あの時ウィーグラフと対峙したラムザたちは、獅子を前にした羊の群れのように、文字通り手も足も出なかったのである。そういう事実も、アルガスの話術にかかればこのようになる。
 仕方なく、ラムザが訂正しようとするより先に、
「孤立した相手を多勢で囲っておきながら、捕らえられなかったということだ」
 さらりと、ディリータが客観的事実を述べてくれた。
「フン、奴が捕まるのも時間の問題だ。兄妹そろって縛首とは見ものだな!」
 ディリータに自らの虚栄を暴かれた苛立ちから、アルガスはさらにそんな強がりを言う。
「お前らだけじゃない。貴族に逆らい、秩序を乱した輩は全員縛首だ。いっそのこと、この女もここで終わらせてやればいい」
「何──」
 ミルウーダの頬に、さっと紅みが差す。
「ならば殺せッ、殺すがいいッ!!」
 静かな憎しみを込めて、鋭さを取り戻した彼女の眼が、アルガスを睨め据えた。
「そんなに死にたいのか? あのハマとかいう男といい、家畜は家畜らしく、おとなしく貴族に飼われていれば殺されずに済むものを!」
「私たちは貴族の家畜じゃない! 同じ人間だッ!」
 ミルウーダの叫びに、アルガスの眉がピクリと動く。
「"同じ人間"だと──?」
「私たちと貴方たちの間にどんな差があるっていうの!? 生まれた家が違うだけじゃないの! ひもじい思いをしたことがある? 数ヶ月間も豆だけのスープで暮らしたことがあるの? なぜ私たちが飢えなければならない? それは貴方たち貴族が奪うからだ! 生きる権利のすべてを奪うからだッ!」
「……!」
 それは、誰もがこの世にあると知りながら、どこか当然と思い込んできたあらゆる欺瞞と歪みに対する告発であった。その言葉の前では、いかなる論理も方便も、薄っぺらい虚言に等しいとさえ思われた。
「……言いたいことはそれだけか?」
「もうよせ、アルガス」
 無論ラムザも、ミルウーダが暴いた欺瞞を正当化するだけの論理を持ち合わせてはいなかった。それはアルガスとて同じはずだが、論理はともかくとして、彼は完全に見下していた相手にここまで言われた手前、どうにも引っ込みがつかなくなっていた。
「生まれた瞬間から、おまえたちはオレたち貴族に尽くさねばならない! 生まれた瞬間から、おまえたちはオレたち貴族の家畜なんだッ!!」
「誰が決めたッ!? そんな理不尽なこと、誰が決めたッ!」
「それは天の意志だ!」
「天の意志? 神がそのようなことを宣うものか! 神の前では何人たりとも平等のはず! 神はそのようなことをお許しにはならない! なるはずがないッ!」
「家畜に神はいないッ!!」
「!!!!」
 ミルウーダの口から、続く言葉の代わりに、小さく息が漏れた。
「…………」
「…………」
 何か異様な空気が、しばし二人の間を埋めていた。
 それから、沈黙の呪文をかけられたかのように、ミルウーダは言葉を失ったまま、虚ろな目を地面に落とした。
「気が済んだか?」
 ディリータがアルガスの肩に手を置き、感情の無い声で言う。しかし、その双眸には、底知れぬ不気味さがあった。
「……フン」
 アルガスはその手を払いのけるようにして、憤然と、どこかに歩き去っていった。
 その場にいた誰もが、やるかたない思いに沈んでいた。
 やがてラムザが前に進み出て、撤収の指示を出した。
「骸旅団のミルウーダ、その他の捕虜は全員野営地に収容するように」
 臨時指揮官の指示を受け、ミルウーダを拘束していた騎士たちが彼女に立つよう促す。
 つい先ほどミルウーダを徹底的に打ちのめしたこの騎士たちからも、彼女に対する敵意は今やすっかり消え失せ、彼女を見る目には、どこか憐れみすらあった。


 その夜、ウィングシェールの野営地──
 ディリータは戦捷の宴も程々に、どこかへ足早に向かっていた。
 宴に使われていた大幕のテントからは少し外れた場所に、警備の兵が厳しく守る囲いがある。骸旅団の数少ない捕虜たちは、全員そこに繋がれていた。
 ただひとり、首領のミルウーダだけは、その囲いに隣接する独立したテントに収容されていた。
 ディリータは、ミルウーダのいるそのテントに近づいていった。
 彼の姿を見とめて、テントの守衛に立っていた見習い騎士のジョセフが、何やら血相を変えて、ディリータの方へ手招きしている。守衛は二人いるが、どういうわけか、もう一人は腹のあたりを押さえて、その場にうずくまっている。
「何があった?」
 聞きながら、ディリータは、テントの内で起こっている異変を察知していた。ただならぬ物音が、ここにいても聴こえてくる。
「ついさっき、騎士が三人でやってきて、無理やり通せって言うんだ。それで……」
 ジョセフの説明を最後まで聞かず、ディリータは入口の仕切りを払って中に踏み込んだ。
 捕虜となったミルウーダは、中央の柱に、手縄のみで括り付けられているはずであった。しかし今、その姿は三人の男の背中に隠されていた。
「ええい、大人しくしやがれ!」
 その男たちが、激しく抵抗するミルウーダを、三人がかりで押さえてつけているのである。
 片方だけ脱げた彼女のブーツが、一人の男の背後に放り出されていた。
「何をしている!」
 ディリータが問い質すと、男たちは、ハッとして彼の方を振り向いた。
 三人の顔は、いずれも彼の見知った顔ではない。
 ゴルカス配下の騎士ではなさそうなところを見ると、ウィングシェールの現地徴用部隊の者か。どの面も、明らかに素面ではない。
「なんだてめえは」
「ガキはお呼びじゃねえぞ!」
 相手が見習い騎士だとみて、完全に舐めてかかっている。
「今すぐ彼女から離れろ!」
「なあおい、せっかくの戦捷祝いだってのに、楽しまなきゃあ損だぜ?」
「二度は言わんぞ」
「脅すのか? 女も知らねえ小僧が」
 男の一人がおもむろに立ち上がり、ディリータに酒臭い顔を近づける。
「なあ、見ろよ。こんな上玉、そうそう抱けねえぜ? 少なくとも、街の旅籠にここまでのは一人もいねえ」
「お前たちは軍規を犯している。捕虜に対する暴行は重罪だ。この件は、ウィングシェール治安維持部隊長のハンザ殿に報告させていただく」
「へへっ、そうかよ──」
 そう言って離れると見せかけて、男は右手に持っていた酒瓶をディリータの横面に思い切り叩きつけた。
 ──が、男の腕は大きく空を切り、素早く身を翻したディリータが、その手首を捻り上げた。
「あっ!畜生、こいつッ!」
「…………」
 さらに捻りを強めると、男は悲鳴を上げ、
「イテテテッ!! お、おい、お前ら!」
 目に涙を浮かべて仲間に助けを求めたが、彼らが加勢するより先に、ジョセフが呼んできた救援の人数が駆け入ってきた。
 ディリータの指示で、不埒を働いた男たちは直ちに縛り上げられ、治安維持部隊の本営に連行されていった。
「……申し訳ない」
「…………」
 ディリータはミルウーダの前に跪き、身内の非礼を詫びた。
 彼女の顔にできた痛々しい痣と、胸元まではだけたシャツを見ずとも、許してくれなどとは口が裂けても言えなかった。
 ミルウーダは横を向いたまま、ディリータの方を見ようともしなかったが、頬には光るものが零れ落ちていた。
「……失礼」
「……!」
 ディリータは、彼女が拘束されている柱の裏に回り込むと、手縄をナイフで切断した。
「どういうつもり……?」
「…………」
 両手が自由になっても、ミルウーダは乱れた髪や衣服を直す素振りも見せない。
 怪訝な目で、そこに畏まっているディリータを見つめていた。
「実は、少しお話ししたいことがあって、ここに来たのですが……」
「話……?」
「その前に……しばし、お待ちを」
 ディリータは外にいた守衛に頼んで、椀一杯の水を持って来させた。
「よろしければ、これを」
 と、ミルウーダに勧める。
「…………」
 ミルウーダは少し躊躇したものの、黙ってそれを受け取った。彼女は暫くその水をじっと見つめていたが、やがて、少しだけ口を付けた。
「…………」
「…………」
 こういう時の気遣いをよく心得ないディリータは、なかなか話を切り出せず、まごまごしていた。
 その様子を察したらしいミルウーダから、「私はもう、大丈夫だから」と言われて、彼はようやく話し始めることができた。
「今日の戦のあと、友が貴女にひどいことを言いました」
「それを謝りに来たの?」
「それも、ありますが……」
「あんな暴言は慣れっこよ。さっきみたいのもね」
「…………」
 想像以上に強い女性(ひと)なのだなと、ディリータは思った。ラムザがこの女性を気にかけているのも、よく解る。
「……貴女は、ラムザ・ベオルブをご存知だったそうですね」
「ええ、まあ……」
「彼とは、幼い頃からの親友なのです。といっても、僕は平民の出なのですが」
「え……?」
「縁あって、妹と一緒にベオルブ家に引き取られました。以来、ラムザ・ベオルブとは本当の兄弟のように接してきました。同じ屋根の下で学び、毎日のように剣の稽古をしました。遊ぶ時も、眠る時も、いつも一緒でした。喧嘩もしょっちゅうしました。でも、どんなに親しくなっても、事あるごとに、超えられない壁を感じてきました」
 ディリータは、面を上げ、ミルウーダの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「"持てる者"と"持たざる者"の壁です」
「…………」
「人並み以上の努力をしてきたつもりです。でも、努力だけでは、その壁は超えられなかった。この先も、きっと超えられることはないでしょう。──壁そのものを破壊するような、大きな"変革"がない限り」
「……!」
「骸旅団が目指したのも、きっとその大きな変革であったはずです。でも、失敗した。僕は、貴女たちの目指すものには賛同しますが、貴女たちのやり方に、全て賛同することはできない。貴女たちの活動が、結果として民心を大いに脅かしたことは事実です」
「…………」
「ですが、骸旅団が立ち上がったことで、今や民の不満は、畏国各地で爆発しています。これは、大いなる変革への第一歩だと僕は考えています。ただ、貴女たちのようなやり方でこれ以上続けても、変革の次の段階に進むことは永遠にできない」
「……何が言いたいの?」
「この国をここまで腐らせている病巣は、真正面から戦いを挑んでも決して取り除くことが出来ない、もっと深い所に巣食っているのです。それをどうやって取り除けば良いのか、僕にはまだ分かりません。ですが──」
 ディリータはゆっくりと立ち上がり、暴力と涙の跡が生々しく残る、憐れな女剣士の顔を見下ろした。
「いつか、この手で、その変革を成し遂げるつもりです。貴女や貴女のお兄さんとは違うやり方で、成し遂げてみせる」
「貴方は……いったい……」
「僕の名はディリータ。ディリータ・ハイラル。骸旅団の剣士ミルウーダ・フォルズ、貴女は誇り高き剣士だ。その誇りに免じて、貴女を解放する」
「……本気なの?」
「僕は本気です。そしてこれは、我が友、ラムザ・ベオルブの意志でもある。でも、思い違いしないでもらいたい。これは決して、温情などではない。この国に真の変革が訪れる時、貴女にも力を貸してもらいたい。ウィーグラフ殿ではなく、貴女にです」
 ともすれば、ディリータの話は子供じみた空想に聞こえなくもない。
 馬鹿げた話だ──いつもの冷静な彼なら、そう思ったかもしれない。
 ただ、今の彼は、ある決意を持ってここに立っているのである。
 その決意と、ミルウーダという女性の死活は、直接的な関りがあるわけではない。それでも、今こうすることが、ある種の"禊"となるのだと、彼は信じている。
 その時、まだ血の滲むミルウーダの口元に、ふと笑みがこぼれた。
「私に、そんな力はないわ……買い被りよ」
「僕にだって、力などありはしない。でも、強い"信念"さえあれば、強大な力にも、深遠な知性にも打ち勝つことができると──僕が父として崇める、亡きバルバネス公はおっしゃっていた」
「…………」
「残念ながら、今の僕やラムザの力では、すぐに貴女方を仲間に引き入れることはできません。ですが、遠からず、貴女の力が求められる時が来ます。その時まで、どうか生き延びてもらいたい」
「……ずいぶんと、自信があるのね」
 ミルウーダは水の入った椀に、しばし静かな目を注いでいた。そこには薄っすらと、虐げられた惨めな女の像が浮かんでいる。やがて、その像を打ち消すように、彼女は一息にそれを飲み干した。
 それから椀を傍に置き、ミルウーダはゆっくりと立ち上がった。ディリータは、彼女の片脚が素足であるのに気づき、すぐに落ちていたブーツを拾うと、それを手渡した。
「……ありがとう」
 ミルウーダはブーツを履き直し、乱れた衣服を整えた。
「それでは……」
「貴方の期待に応えられるかは、分からない。私には、私の戦いがあるから。でも、貴方の言う"信念"には興味がある」
 すでに彼女の表情は、戦いに敗れ、運命に絶望した者のそれではなくなっていた。
「言っておくけど、私たちの敵は貴族よ。それは変わらない」
「分かっています」と、ディリータは、一つ大きく頷いてみせた。
「あまり時間はかけられません。お仲間もこれからすぐに解放します。さあ、こちらへ」


 ディリータが捕虜を収容してある囲いに近づくと、そこにいた守衛が、彼の前に立ち塞がった。
「イアン、捕虜を解放してくれ」
 収容場所の守衛に立っているのは、全員アカデミーの見習い騎士仲間だ。
 捕虜の扱いは、ラムザ隊の管轄となっていた。
 捕虜の管轄を決める際、北天騎士団の正騎士たちは若い彼らに任せることを渋ったのだが、指揮官のゴルカスが負傷していたのと、彼自らラムザに指揮権を移譲したこと、そして、ベオルブの家名も少なからず影響し、結局彼ら預かりとなったのである。
「本当にいいんだな?」
 イアンが尋ねると、ディリータは表情ひとつ変えずに、
「全ての責任は僕が取る」
 と、答えた。
 イアンは黙って頷き、囲いの扉の鍵を開けた。
 捕虜たちは当然、戸惑いの色を見せた。逃がしたところで、まとめて殺されるのではと疑う者もいたが、ミルウーダとディリータの説得により、最終的には全員が解放を受け容れた。
 その後、負傷兵の何名かが彼らに合流した。歩けない者を載せられるよう、荷車も用意された。
 全部合わせても、二十名に満たない。
 ──ハマの同志たちも、私に付いて来てくれた皆も、ほとんど死んでしまった。
 寂寥たる思いに駆られていたミルウーダの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできたのは、その時であった。
「ミルウーダ!!」
 ハッとしてその声の方を見ると、他の者よりいちばい小柄な少女が、こちらに駆け寄って来るところだった。
「エマ!!」
 ミルウーダの驚きも、ひとしおではない。あれほどの激しい戦である。幼い黒魔道士ではとても生き残れまいと、諦めかけていたところなのだ。
 エマは麻布のシャツ姿で、帽子も杖も持っていなかった。この姿では、そこらの街娘と何も変わらない。
「頭に矢を受けて──といっても、実は、帽子に刺さっただけなんですけど。それから私、さっきまでずっと気を失っていたんです」
「怪我はないか!?」
「うん、大丈夫。でも、ほとんどお役に立てなくて……ごめんなさい」
「いいんだ。生きてさえいれば。また会えて、本当に嬉しい」
「私もですよ! 言ったでしょう? 地獄の果てまで付いていきますって」
 ミルウーダは、エマの小さい身体を力いっぱい抱きしめた。
 自分にとって肉親といえる人間は、この娘だけになってしまった。兄とはもう、会うことは無いのだろうと、心のどこかで思っている。
 何より、エマが生きていてくれたことが、今のミルウーダにとって、どれほどの救いとなったことか。
 夜の闇に紛れて、彼らは野営地を抜け出した。ディリータたちの手助けも、ここまでが限界だ。
 あとはどこへ流れるも、ミルウーダ次第である。
「ラムザって人に、また助けられましたね」
「…………」
 夜の草原を足早に進みながら、エマがそんなことを言った。
 ミルウーダ自身、あのベオルブ家の御曹司のことが今も胸につっかえていることは、否定できない。
 客観的に見て、彼に命を救われたという事実は明らかである。それについては、マンダリア平原での一件も同様である。
 もっともその時は、彼の方が捕虜だったのだが。
 ラムザの姿は、結局最後まで見えなかった。ディリータという青年は、この処置は彼の意志でもあると言っていた。
 ──それは本当なのだろうか?
 平民出身だという彼には、どこか得体の知れないものを感じた。
 "変革"について語る男たちを、ミルウーダは何人も見てきた。もちろんそこには、兄ウィーグラフもギュスタヴも含まれている。
 その誰とも、彼は違っているように思えた。もっとも、あの年頃の青年特有の絵空事ということもありえるが。
(この国に真の変革が訪れる時、貴女にも力を貸してもらいたい。ウィーグラフ殿ではなく、貴女にです)
「……ミルウーダ?」
 何も答えないミルウーダを不審に思ったエマが、顔を覗き込んでくる。
「借りは返すつもりだ」
 それだけ言って、ミルウーダは後ろを振り返る。
 黙々と歩みを進める僅かな同志たちの隊列の向こうに、野営の火の明かりが小さく見えた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 実のところ、ディリータのこの行動が、本当にラムザの同意の元で行われたのかどうかは、今となっては判然としない。
 ミルウーダとの戦いのあと、アルガスが彼女に対し放った暴言が、そこに至るまでのディリータ自身のさまざまな経験と相まって、このような行動に駆り立てたのか。
 あるいは、極刑を免れないと知りながら、再びミルウーダたち骸旅団の捕虜を死地に導かねばならぬラムザの苦悩を慮っての行動だったのか。
 ともかく、独自判断による捕虜の解放という暴挙は、当然、この後北天騎士団の軍規に照らし、しかるべき説明と処分を求められるはずであった──。
 しかし、それを不問にしてしまうほどの、もっと重大な事態が、この時すでにイグーロスよりもたらされていたのである。

 ──"ベオルブ家令嬢、誘拐さる"

 時にして、畏国歴一〇二〇年天蠍月十日。
 未だ明けやらぬ野営地のテントの中で、青年ディリータが生涯を賭けての大事業に臨むことを決心したまさにその日。
 彼と彼の親友ラムザの運命の歯車は、イヴァリースの歴史と共に、大きく回り始めたのである。



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