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[246] 見上げる空はどこまでも朱く【エヴァ】
Name: haniwa◆59b7f436
Date: 2009/11/30 10:37
 はじめまして、haniwaといいます。

 この作品はエヴァンゲリオンの二次創作、一応再構成ものとなっています。

 オリジナル要素が強く、また過激な表現、グロテスクな表現があります。また、このSSはシンジ君がダークになる予定です。そしてそのダークになる過程をシンジ君の幼少時代から詳しく書いていこうという思い付きから始まっています。
 更に、皆様の認識されているようないわゆる【ダーク物】または【痛いもの】とは多少違ったものになるかもしれません。明るい話もありますが、大半が暗いお話、またはシンジ君がひどい目に遭うお話です。
 こういったものがお嫌いな方は、閲覧の際にご注意ください。もし、目を通していただいた方の中でご気分の悪くなった方、また不快な思いをされた方は、メール、感想版のほうにお知らせいただければ直ちに変更、場合によってはhaniwa自身で削除いたします。またその際は、不快に感じた部分の具体的な箇所を教えていただけるとありがたいです。
 また、ダークな物がお好きな方へ、この作品はいわゆるアンチ物、ヘイト物にはなりません。ご了承ください。
 利用規約には違反しないよう気を配ったつもりです。

 これから、ちょろちょろ皆様のお目をお汚しすることになりましょうが、できれば暖かく見守っていただけるとうれしいなと。
 後タイトル適当に決めたので「どこか別の作品とかぶってんぞこのヤローが」なんてことがありましたら教えていただければすぐに変更いたしますので連絡を下されば幸いです。
 長くなりましたが、どうぞこれからよろしくお願いします。
















プロローグ 








 真っ赤な夕日が印象的だった。
 この日も暑い日で、夏がずっと続いてる、この日本でも特に暑い日だったと思う。
 僕は一人、俯いて歩いていた。あたりに人は見受けられなかった。
 そこが住宅街という場所のせいか、それとも夕暮れ時という時間帯のせいなのか、

 それとも……

 ふと気づくと、いつの間にか目の前に男の人が背を向けて立っていた。その背中の向こうは夕陽が沈みかけていて、その背中は真っ黒な影のようにしか見えなかった。

「ねぇ、お父さん……」

「……」

 僕はその人を父と呼んだ。でもその人は特に振り返るわけでもなく、黙ってたっていた。このとき自分が五歳くらいの時の姿をしていることに気がついたが、特に気にならなかった。
 不意に男の人が歩き始めた。僕もその人について行った。その人は僕がついてくるのにかまわず、歩幅を狭めるでもなく、どんどん歩いていってしまう。

「どこに行くの?」

 僕は必死にその人に、父と呼んだその人について行こうとした。おいていかれたくなかった。一人にしてほしくなかった。

「……」

 聞いてもその人は答えてくれなかった。その歩く速さも変わることもない。

「……ねぇ、」

 どうやら僕をどこかに連れて行くと言うわけではなさそうだ。

「……」

 いくら呼びかけてもその人は振り返りもしない。むしろ僕のことを……。
 僕は今、胸を締め付けるかのように湧き上がってきた考えを振り払うかのようにさらに質問をしたようだ。

「……お母さんはどこに行ったの?」

 その質問は少しおかしかった。だって母さんはもう、

「! ……」

 初めてその人は、歩く速さをゆるめ、こちらを少し向いた。

「あそこからまだ帰らないの?」

 あそこってどこだったっけ? 確か……

「……シンジ……」

 その人やっとたちどまって、僕の方を向いた。僕は少しうれしかった。

「なぁに?」

「……明日から、叔父のところで世話になれ」

 でも、その人の口から出た言葉は僕の予想外のものだった。声色も僕を突き放すようなものだった。

「……どうして? お父さんは?」

 一緒じゃないの? ……ううん、それよりも僕のことが……

「私は仕事がある」

 その人はまた背を向けようとする。僕は必死でその人を繋ぎ止めようとした。

「違うよ! そうじゃない!! ・・・・お父さんは僕が必要じゃないの?」

「……」

 その人は答えない。僕の方をみてくれない。まるで見えない壁があるみたいに。そう、きっとその人と僕の間には見えない壁がある。なにもかも跳ね返し、閉ざし、吸収して何もかも無効に通してくれない、何も返してくれない。

 そんな絶対の壁が

「……ねぇ」

「話はそれだけだ」

 そんな壁が確かに、僕とその人の間には存在した。その人は元通り背を向けて歩き始めてしまった。さっきよりも早く。もう僕の足ではついて行けない、追いつけない。

「……いかないで、お父さん。僕も一緒に連れて行ってよ……」

 僕は泣きながら言葉をかけ続けた。僕も連れて行ってほしかった。

「……」

 でもその人は答えない。

「……なんで」

 僕がいくら言いつのっても、

「……」

 答えてくれなっかたね、……父さん。

「どうして、お父さんは、僕をみてくれないの?」

 だってその人は、あの人しか見ていなかった。

「……シンジ」

 いつの間にかまた、その人はこちらを向いていた。……あれ? このときその人は……

「どうしていつも、いつも僕をおいていってしまうの?」

 僕は気づかずに質問し続けていた。




 ……そうか、これは――――




                   ―――――夢だ。




「おとうさんは……」

 あの人なあのまま立ち止まらなかったし、

「……シンジ」

 僕の名前を呼ぶこともなかった、僕はそのひとの言葉を待ちもしなかった。

「……」

 そしてその後のその人の言葉は、僕が自分でたどり着いた結論だったはずだ。

「おまえが私に何を感じ、何を求めているか知らんが……」

 うん、知ってる。あなたは僕をみなかったし、理解もしなかった。そしてそれは僕も同じ。

「そんなものは、幻想にすぎん。そんなありもしないものを私に求めるな。……迷惑だ」

 そういって夢の中のあの人は切り捨て、再び僕に背を向けた。
 あるいは僕の勘違いだったかもしれない。
 でも僕にはその背中が、すべてを振り切って過去を見続けるその人の背中は、確かにそういっているように見えた。そうして僕は掛ける言葉も見失い。ただ泣くしかなかった。


 そう、……ごめんね? あなたを困らせた


 でも実際に切り捨てたのは僕の方

「そんな…モノ…?」

 子供の僕はゆっくりとその言葉をかみしめるように呟いた。その今の僕がたどり着いたその言葉を、あのときの僕が、あの人の口から聞けたならどんな反応をするのだろう。そんな願望が、僕にこんな夢を見せたのかもしれない。それはきっと悪夢ではないはずだ。

 だってそのことに気づけた今の僕は、とっても幸せで、間違っても不幸ではない。

 そんなモノ。

 でも僕がそのことに気がついたのは、そのすこしあとで、もう少し人を信じて裏切られることを繰り返した後だったんだ。

 夢の中のその人は、、二度と振り返らなかった。

 僕はもうその後ろ姿を見つめることしかできなかった。日がすっかい落ちて辺りが暗くなっても僕は立ちつくしたままだった。

 そして僕は暗闇の中を歩き始めた。

 不安を胸一杯に押し込めて、けれど自分でも気づかないくらいの小さな希望を抱えてどこへつくかとも解らない道を、歩き始めた。




 そうして、一組の親子は、お互いに別の道を歩み始めた。

 その道が再び交わるときがあるのかは、誰にも解らない。


※(11/30) チラシの裏に移動



[246] 見上げた空はどこまでも朱く
Name: haniwa
Date: 2006/07/23 17:23
はじめまして

この作品はエヴァンゲリオンの再構成を碇シンジくんが小さいころからの話からやってみようとしているものです。エヴァファンの皆様には不快な思いをさせるかもしれませんし、序盤は、余りエヴァっぽくないものです。それらご理解いただいてこれからお付き合いしていただければ幸いと思っております。


ではhaniwaの初めての書き物、『見上げた空はどこまでも朱く』をご覧ください。
見上げた空はどこまでも朱く




弟1話




一期一会  前編




「おいみてみろよ、あれ。ずいぶんと大変そうだな」

 ふと、自分の相方の声が上がった。その指が指す方向をみてみると、駅前の人ごみを見た。昼を少したったこの時間帯ではそんなに人は多くないが、忙しそうな人が何人も歩いている。そこに隠れているかのように、一人の小さな男の子がいた。年はいくつくらいだろう?その小さな体には少し不釣り合いな大きな荷物を抱えていた。自分たちのいる喫茶店からそれほど距離は離れていないがその表情をみることは出来ない。しかし、大きな荷物を抱え、きょろきょろしている。なんだかとても困っているように見えた。

 とてもじゃないが、みていられない。

「そんなこと言ってないで、声かけてきてあげなさいよ。もしかしたら迷子かもしれないでしょ?」

 早速、自分の相方を向かわせることにした。というより、向かわせてあげることにした。

「しかたねぇな。」

 しぶしぶといった感じで自分の相方はその子のほうへ走っていった。

心配だったくせに。

 ああ言ってもあいつはいいやつだから、自分に促されなくとも助けに行ったことだろう。その後姿が自分にはすこし誇らしかった。

 彼があの子のもとについて、何か話している。どうやら道を教えているようだ。連れて行こうとしたのだろう、その子の荷物に手をかけようとしたとき、男の子がすごいいきおいで首を振り出した。しかも必死で自分の荷物を抱きしめている。彼もなんだか気まずくなったんだろう、男の子と少ししゃべって別れ、こちらにもどってきた。

「ちょっとどうしたの?」

「ありゃダメだ。」

「?」

 もどってきた彼に聞いてみたら、帰ってきた返事にさらに私は混乱した。彼もなんだか納得がいかないって顔をしていたけど。

「なんだかよ、迷子ってわけじゃないらしいけどバス停はどこかって聞かれたから、連れってってやろうとしてあのケース持ってやろうとしたんだ。そしたらがんとして離そうとしないんだよ。よっぽど大事なものがはいってんだろうな。もうその後はずっと「大丈夫です一人で行けますから」ってさー。」

 そうか、だからあんなに首を振っていたのか。それにしても、ちょっとがっかりした。

「それで?何であんたここにいるのよ?」

「は?」

「バス停までつれてってあげればいいじゃない。よくほっといてそのまま帰ってきたわね。あの子いくつよ五歳かそこらじゃないの?」

 そこが少し気に食わなかった。

「いや、八つだと、ってそうじゃない。あのなぁ、あいつあの荷物離さないんだぞ?。そんなのと一緒に歩いてたらまるで俺がいじめてるみてぇじゃんか。あいつも一人でいけますからって、逆におれ追い返されたんだぞ?」

 まさかその程度で見捨てて帰ってきたなんて。私はもう一度あの男の子のほうを見てみた。教えてもらったバス停に向かってあのおきな荷物をほとんど引きずるような格好で歩くあの子の姿が目に入った。

「そんなのあんたの顔が怖かったからでしょ。もういい私が行ってくる。」

 私はもう座っていられなかった。ボーッと突っ立てるあいつに目で、付いて来い!!というと、もうそれから振り返らなかった。

「おい、まじかよ・・・」






「ねぇ、ぼく。」

私は、自分に出せる精一杯の優しい声で、その子に声をかけた、

「!・・・はい?」

 それでもその子はびっくりしたようで、肩を震わせ、ゆっくりとこちらに振り向いた。目がパッチリしててとってもかわいい男の子だった。でもすぐにうつむいてその顔を隠してしまった。

 でも少しだけ見えたその顔が半分泣きそうな顔をしていた。よっぽど不安だったんだろう。私はこれ以上この子を不安にさせないように気をつけながら、質問を続けた。

「一人?」

「・・・・・はい」

 男の子は戸惑い俯いたまま、静かに答えてくれた。

「どこまで行くの?」

「そこの・・・・バス停までです。」

「その先は?」

「○×町までですけど・・・・」

「迎えの人・・・遅れてるの?」

「いえここからひとりで・・・・あの・・・」

 話すにつれ、その子は少しずつぽつぽつと呟く様に、少し舌足らずな口調になりながも、私の質問にちゃんと答えてくれていた。

 しかしある程度、質問を続けていくとその子は、なんだか決意を固めたような顔をしてさっとその顔を上げた。

「なぁに?」

 何の決意を固めたのか、私には分からなかったが、その必死な顔を見るとそれ以上聞き返すわけにもいかず、なるべくその決意がなえることがないようにと先を促した。

「さっきの男の人の・・・・お友達ですか?」

「ええ、私の彼氏。ごめんね。手伝わせなくて。あの人怖かったでしょう?」

「・・・・いいえ。シンセツにいしてもらいました。バス停もおしえてもらいました。もうひとりでいけますからっ・・・すみません・・・その・・。」

 しゃべりだすとこめた決意がみるみるしぼみ、顔は不安に彩られ、またうつむいて一人、バス停に向かおうとする。


 なるほど、こりゃてごわいなぁ。


 私は先ほど、彼が追い返された理由をなんとなく実感し始めた。ここまで申し訳なさそうに断られたら、なんだか悪いことをしている気分になる。

 それでも私はこの子の事をどうしてもほうって置くことがどうしてもできなかった。

「あのねぇ、そんな不安そうな顔でなにいってんの。ついってってあげるわ。」

「そんなっ!!・・・めいわくでしょう?・・・その・・・・」

「いいの!!、私が決めたんだから。」

 そう私が決めたことだからなんとしてでも着いていくわよ!!。そして、そこにさらに増援がきた。


 心強いかは別として。


「そうだぞ、そんな顔されたまま行かれたんじゃこっちが不安で買い物も楽しめない。」

 男の子の前にかがみこんで、彼はこんなことを言った。
なんてことを言うんだろう、この子はただでさえこちらのことを気にして遠慮しているというのに。

「ちょっとなにいってんのよ、かわいそうでしょ。」

 そんな私の発言を無視してこいつは男の子の方に向かってさらに言葉をかけた。

「いいか、おまえ一人で出来ることなんてたかがしれてんだ。ちったぁ大人を頼れよ。」

「・・・・・すみません。」

 これまでで一番小さな声でつぶやくと男の子は完全にうつむいてしまった。

 彼の言っていることは私も賛成だった。なぜこの子はこんなにまで、私たちを見てくれないんだろう?彼のほうも困ってしまったようだ。

「・・・・・あやまんなよ。その荷物、おまえの大事なもんなんだろ?もうおれも持ってやるなんてことは言わないから。俺たちはただふらふらしたおまえが心配だから勝手についてくってだけだ。それならいいだろ?」

「・・・・・」

 少しだけまた顔を上げて男の子は私たちのほうを見てくれた。するとそこにタイミングよくバスが来た。

「ほらバスがきたわよ?どうする?」

 今度の変化は劇的だ。男の子はバッと顔を上げるとバスのほうを見た。そしてバスを確認するとこんどは私たちのほうを見る。そしてまたバスを見て、なんてことを何度か繰り返していた。男の子には悪いがその様子は思わず微笑んでしまうほど、なんともかわいらしいものだった。

いじめたら楽しそう。

「「ほーら、どうする?」」

 私たちが声をそろえてダメ押しをする。

 そんなに困るなら、私たちなどにかまわず、バスに乗ればいいのに。この子はそれができない。優柔不断という人もいるかもしれない、しかしそれは、この子の優しさからなんだろうなと思うと、それがまたなんとも愛おしかった。

「!!!・・・・・・・・・・・お願いします。」

そしてとうとう観念した。私たちは、顔も見合わせて思わず笑いあった。

「よし!ほら、いそげ!バスがいっちまう。おまえも行くぞ。」

「うん!!」

「・・・・・」

 男の子の顔は相変わらず困った様子だったけど、少なくともさっきまでのあの泣きそうな顔ではなかったことに私は安心した。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く
Name: haniwa
Date: 2006/07/23 17:15
第二話


一期一会  後編


 今俺たちは、当初の予定にはなかったバス乗っている。もう乗ってからだいぶたっていた。利用者もあまり居ないのか、乗っているのは俺と俺の彼女、駅前で拾ったこの子の三人だけだった。この子はとても静かな子で、こちらから話しかけない限り、ほとんど何も話さなかった。それを気にしてか、彼女は先ほどからその子にたわいもないことを質問していた。

「ねぇそれって何なの?楽器なんでしょ?」

「・・・チェロです。」

「へぇ・・・思ってたよりも小さいのね。」

「いえ・・・これは小さい人用なんだそうです。」

「そうなんだ。ってゆうか、チェロってサイズの違いってあったんだねー。すごいねぇ、それ弾けるんでしょ?」

 先ほどからこんな会話が続いていた。子供のほうはまだおずおずといった感じは残っているが、最初のころの不安いっぱい、というような顔はもうしていなかった。顔をあげて、節目がちだった目も開いて彼女と話をしていた。しかし、なぜか俺と話すときは会話が続かないので、彼女とばかり話している。なんだか自分が蚊帳の外と居た感じだ。
へっませがきが
・・・別にすねたりしているわけではない。・・・たぶん。
だから俺は先ほどから黙って二人の会話に耳を傾けていた。

「いいえ、まだ基本しか習って無くてこれからです。」

「ふーんこいつもねぇ、ギター弾けるんだよ。」

 ほっといて会話を聞いていたら、とんでもないことを言い出した。他のやつはどうだか知らないが、なんだか同じ弦楽器でも、チェロなんて代物と、おれが見栄で始めたギターとを引き合いに出さないでほしかった。それにこの子がチェロを大事にしていることから伝わってくる雰囲気はなんともいえない、僕は真剣にチェロが大好きですっていう説得力のようなものが伝わってくる。それがまた俺をいたたまれない気分にさせた。

「おい、やめてくれよ。ずいぶん長いことやってないんだぞ。」

 俺は、なんとかこの流れを断ち切ろうとしたが

「ギターですか。・・・・かっこいいですね。」

 そこ子は俺を尊敬のまなざしで見つめてきた。やめてくれ。頼むから。君の瞳はまぶしすぎる。

「そ、そうか?」

 俺は適当にごまかすことにした。

「はい。お兄さんに似合ってると想います。」

「おまえもな。」

 俺は何とかそう返して、流れを変えようとがんばった。でも、ギターの話のおかげで俺もこの子と話が弾むようになった。






 少しして、この子もずいぶんと自分のことを話してくれるようになった。それから話は何故駅に一人でいたかというものにになった。

「でもどうしてあんなところで一人でいたの?」

「・・・・・今度こっちの学校に転校するんです。」

 心なしかまた少年の雰囲気が暗いものになってしまった。

「じゃあお父さんとお母さんは?」

「・・・・・お父さんはおしごとがいそがしいから、ここにいるおじさんのところにお世話になります。お母さんは・・その、もうどこにも・・・・」

 随分と気まずいことを聞いてしまった。俺も彼女も目を合わせてどうしたらいいか分からなくなってしまった。

「あーごめんなさい、・・・いやなこと聞いちゃって。」

「いえ・・もう前のことですから。・・・・それにお母さんの思い出はいやなことなんかじゃありませんから。」

 こいつは本当にいいやつだと、俺は思った。俺と彼女はしんみりとしてしまって、そのあと少し、会話が途切れてしまった。

「そのおじさんは?何で迎えに来てくれなかったの?」

会話が再開されたのは、彼女がこの雰囲気を消そうとしたことからだった。

「・・・・・・おじさんはせんせいなんだそうです。せんせいはいそがしいらしいので、むかえにはこれないって・・・・、それにこっちに来るのも急に決まったことなので仕方ないと思います。」

寂しそうにそう説明してくれた。

「そうなんだ・・・。君も大変だね。」

 話題を変えようとしたものの、失敗してしまったようだ。再び暗い空気が立ち込めようとしたとき、

「いいえそんなことは在りません・・・・・すみません。」

 少年が突然誤って切り出した。俺は何のことだか見当が付いたが、彼女はそうではなかったらしい。

「どうしたの?」

「・・・・・お姉さんとお兄さんはお買い物の途中だったんでしょう?それなのに、・・・」

 この子はまた、距離を置いたような口調に戻ってしまった。

「いいのよ!!、きにしないで、ねぇ?」

 彼女は慌てて俺にそういって同意を求めてきた。この子はこんな空気になってしまったことが自分のせいだと思い始めているようだ。

「ああ、もういいさ。さっき駅でもいったろ?気にすんなって。」

 俺はできるだけ明るく返してやった。それにしても、こいつはどうしてこうも・・・・

「でも・・・」

 また謝ろうとしていることは俺にも彼女にも目に見えていることだった。俺はそれを言わせまいとさらに続けた。

「ああもうそんなくらい顔すんなって、そんなんじゃおまえの親父さんも叔父さんも心配するだろう。俺たちもなんか悪いことしてるみたいだ。」

「!!・・・・すみません。」

 しまった、失敗した。俺たちに悪いことをさせている。と感じたこの子はとうとうまたその言葉を再び口にしてしまった。こんな顔をさせたくて、俺たちはこの子についてきたわけではないのに。

「ああ!!!もう!!!」

 俺はもう我慢できなかった。それは彼女も同じだったようだ。俺たちはそこで目があい、そして俺は目を合わせて合図する。

「?」

少年は突然俺が声を出したことに驚いたまま俺に声をかけるわけにもいかず、俺のことを見ていた。


「「それだ!!」」


俺と彼女は息をそろえて少年に詰め寄った。

「!!?」

その子は再び驚き、もう少し涙目になっている。

「せっかくいうんならよっ」

しかしそれにかまわず俺たちは続けた。

「ありがとうって言って?。」

 なんせ俺たちは怒ってるわけではないのだから。ただ、この子をこのままにしておくのが心配だった。

「そうそう、そんなんじゃ新しい学校で友達が出来ないぞ?」

 最後にそういって少年にわらかけた。

 そしてできることなら、この子の口からあの言葉を聴いてみたいと思った。ただ、それだけだった。

「・・・・・・・・はい、わかりました。」

 少年の顔はさっきよりも明るくなった。

「よし」

 それでもいいと俺たちは思い、再び顔を見合わせて笑った。
バスもそろそろ終点で、その子の降りる駅が次になったときだった。

「あ、そろそろつくね。忘れ物はない?」

「・・・・はい・・・」
 
 俺たちは、少しだけさびしい気持ちになった。それはその子も同じだったと思う。

「あのっ・・・」

 何かあったのか、自分からは話しかけなかったその子が切り出した。

「ん?どうしたの?」

「なんだ忘れもんか?」

「いえっ・・・・・あの、その・・・・」

 どうも、どもっててよく聞こえない。まるで駅前であったときに戻ってしまったようだ。でもその子の顔はそのときの暗いものではなくて、少し顔も赤くなっていた。


 ??どうしたんだろう?腹でも痛くなったのか?


 その時少年が顔を上げなければ、俺は本当にそう聞くところだった。

「・・・ほんとはぼく、不安だったんです。」

 少年はぽつぽつと話し出した。半分泣いているような声だった。

「・・・これ、死んじゃったお母さんが買ってくれたもので、とっても大事なんです。だから・・・だから・・・お兄ちゃんが声を掛けてくれたとき、とってもうれしかったけど、・・・僕、不安で・・・、不安だったんです・・・・・。」

 ところどころ声を詰まらせながらも、一気に吐き出すように少年は話した。俺たちを見るその顔は最初の暗そうな影は見ることはできなかった

「そっか。それじゃあしかたねな。よしゆるす。だからきにすんな。」

「・・・はい、ごっ・・・。ううん、ありがとう、お兄ちゃん、お姉ちゃんも。」

 少年はにっこりと笑ってそういってくれた。






 そしてとうとう少年の目的地についてしまった。

「じゃあながんばれよ、」

最後にまた声をかける。なんだか寂しいもんだな。

「はいほんとうに・・・・ありがとうございました。」

「本当に一人でいける?」

「はいっ、もうここからすぐですから心配しないでください。」

 そういってまたにっこりと笑いかけてくれた。それだけでなんだか安心できた。

「そっか、じゃあねげんきでね」

「はい、お姉ちゃん、お兄ちゃんも。さよなら!!」

「ばいばーい」

 そういって俺たちと少年は分かれた。




 少年と別れた後、俺たちは終点に向かうバスの中、あることについて気まずい空気を作っていた。俺は席に座って天井を見ていた。彼女は通路を挟んで反対側に座りこちらも天井を見上げていた。
あいも変わらずバスには誰もいないので特に気にする必要もなかった。

「ねぇ、」

「んー?」

 彼女が切り出すのを、おれは生返事と視線をそちらに向けることで答えた。彼女も俺も、夕日に照らされたせいだけではないと一目で分かるほど、顔を赤くしていた。

「あの子『おとこのこ』よね?」

「・・・多分な。ちょっと自信がなくなった。」

 そう、最後に見せてくれたあの笑顔がこの空気の原因だった。

 とてもかわいらしくて、その後まともに対応できたことが不思議なくらいだった。

 今思い出しても、顔が緩むのがとめられない。

「かわいかったなぁ」

 それは疑いようのないことだった。彼女のほうも顔がふやけている。

「ああ。」

 すると彼女はしっかりとこちらを見て、こういった。

「・・・私もあんな子供ほしい。」

「まだはええ、」

 そんなことがあったせいか、あの子の名前を聞きそびれたことに落胆するのは、もう少し後だった。








僕はバスを見送った後、おじさんのうちに向かってある出だした。

 疲れているはずだったけど、今朝、今まですんでたお家を出たときより、荷物が軽いように感じていた。

「ほんとうにいい人たちだったな。」

 駅からの道のりを思い出すと、自然とその言葉はつぶやかれた。
これからのことはまだまだ不安だった。

 あのときのようにどこまでも赤い夕焼けはあの日のお父さんを思い出すけれど、


 くらくなっちゃだめだ。うん、・・・・・がんばろう。


 今日のあの二人組みとの出来事は、僕にそう思わせてくれた。お父さんもこんな僕を見たら怒るかもしれない。心配するかも知れない

 お父さんに怒られたくはないし、心配もさせられない。

 さあいこう。

 山川のおじさんのおうちはもうすぐそこだもの。



[246] 見上げた空はどこまでも朱く
Name: haniwa
Date: 2006/08/12 02:52
第三話







「」の先に見えたもの







前編






 それは多少、奇異な光景だったかも知れない。

 その場のみをたとえていうならば、


 閑静な住宅街


 それ以外の言葉を見つけることが難しいほど、普通の町並みだった。夕方の遅くなっており陽も沈みかけている。街灯もとうの昔に灯されて、周りの家もそれに習うかのように明るかった。そこから読み取れるものは、夕飯の準備にいそしむ主婦の忙しい気配や、その夕飯の香り、またはテレビを見ている音など、騒がしいがおだやかなものだった。

 その外を歩いているものといったら、部活で遅くなった学生が走って帰る様子や、今晩の夕飯は?、なんてなんでもないことを考えながら家路につくサラリーマンなどが、時々見て取れる程度のもので、おおむね閑散としていた。

 そこに、自分の体より少し大きすぎるくらいのケースを抱えた小さな少年、碇シンジはいた。

 あれから時間がたっていたのに彼がまだ目的地にたどり着けないでいたのは、道に少々迷ったからだ。これまで、かなりの距離を移動してきたために、その雰囲気全体に疲労の色が見て取れた。

 しかし、その顔は、さっきまで道に迷っていた不安の陰はなく、足取りもしっかりしている。どうやら目的地が見て取れるところまできているようだ。


 しばらくしてその足を止めた。


 その家は普通の家にしては少し大きめで、広い庭もあった。普通の家にくらべるとやや門も大きく、小さな来訪者を威圧した。しかしそれすらも、今のシンジの目には、別のものに写った。

「やっと・・・・ついた・・・・・。」

 今までの道のりを一言で表した。単純な独り言だったが、本人にはとても感慨深い一言に感じていた。後は自分がついたことを中の人に気づいてもらうだけ。そうして、インターホンに手を伸ばした。




         ピンポーン




 緊張しながら、そして温かく迎えてくれることをほんの少し期待しながら、インターホンから声がするのを待った。

 ガチャっ!!
「・・・どちらさまですか?」

 しかし、受話器が少々荒々しくとられた音の後に聞こえてきた声は、予想とは裏腹に幼く少し険を含んだ声だった。期待を裏切られ、投げかかけられた声の、その言葉の淡白さに、シンジは固まってしまった。

「・・・・・あっ、あの・・・・、その、・・・・・」

 声もろくに出せないほど、シンジは頭の中が真っ白になってしまった。

「・・・・?。ちょっと聞こえないわよ!!。」

 シンジが何も言わないため、その声はますます苛立ったものになった。まずい、そう思ったシンジは慌てて返事を返そうとした。

「!!あのっ、・・・・・・」

「・・・・まったく、いたずらかしら。」

ブツ!!

 そう思ったときはすでに遅く、受話器は先ほどよりも荒々しく切られ、シンジは少し途方にくれてしまった。

(いけない、早くもう一度・・・、今度はちゃんと挨拶をしよう。中に入れてもらわないと。)

 そう思い直しもう一度呼び鈴に手を伸ばそうとする。

(そうしよう、早くしよう。でないと、でないと僕は、)
 はたと、     その手が止まってしまった。
気づいてはいけないことに気がつこうとしていた。これは何だろう?



(もう、どこにも・・・・・・・)



 それは、考えないように考えの隅でふたをしていたものだった。

 だめだ考えるな、


(どこにも、)


 気づいたらだめだったら、




(・・・・・どこにも、行く・・・場所が・・・・・・「ない。」




 最後の言葉を思わずつぶやいてしまった。その自分の声に体が、思考が、そして心が、一瞬とまってしまった。

 そして改めてゆっくりと、その家の門を見る。

 門の放つ威圧感は、だんだんとシンジを締め付けていく。

 バス停からここまで、道に迷いはしたものの、あの二人とのやり取りと出来事はシンジを不安から包み込むように守っていた。そのおかげでここまでの道も涙を流すことなくここまでこれた。これまでの自分を振り返ると、珍しいことだった。

 しかしその守りが薄れ、ここである懸念が、シンジの脳裏を掠めた。

 僕は、受け入れてもらえるだろうか?

 そして蓋はとうとう開いてしまった。シンジの頭はそのことでいっぱいになった。そして、ふと顔を上げた、その目にうつったものは、




 そこには「あの日」と似た、



 暗くなった朱い空



 そうして、思い出される、父のあの背中




 膨れ上がる不安がシンジの体いっぱいに広がり、この場から逃げてしまいたい気持ちが膨らんだとき、あの二人組みの見知らぬ男の一言が思い返された。



 『ああもうそんなくらい顔すんなって、そんなんじゃおまえの親父さんも叔父さんも心配するだろう?。』



 そういったあの顔は、自分のことを本当に心配してくれている顔だった。不思議と、その一言を思うだけで、不安が和らぎ、脳裏に浮かんだあの日の父の背中も消え去った。

(大丈夫、きっと大丈夫だから。)

 何とかそう思えるようになった。

(ここに来るのもずいぶんと遅くなってしまった。きっとそのせいだ。自分を心配してくれているかもしれない。)

「よし!!、」

 そう、自分に言い聞かた。しっかりと前を向いて、今度はどんな声がかかってもちゃんと挨拶をすると、覚悟を決めながらもう一度、呼び鈴を鳴らした。
ピンポーン

ガチャっ
「はーい!!どちらさまですか。」

 呼び鈴を押した瞬間、ぐっと体を硬くしてかけられる声をまっていた。しかしインターホンから聞こえてきた声は、先ほどとは違う女性の声だった。シンジは肩の力が抜けかけたが、先ほどの二の舞にならないように、すぐに言葉を返した。

「ぼく!!、碇シンジです!!。今日からこちらにお世話になることになった・・・・、その・・・あの・・・」

 自分のことを一気にしゃべった後最後のほうはまたぼそぼそした声になってしまったが

「あらっ!!ちょっとまっててね!!」

 そういうとインターホンは切れた。そうしてすぐにシンジを威圧し続けていた門があっさりと開かれた。

「ごめんなさい!!、ちょっと料理で手が話せなくて。さっ、どうぞあがって頂戴。」

 出迎えてくれたのはシンジの叔母だった。望んでいたとうり暖かく、笑顔で迎えられた。先ほどまでのことを忘れてしまうくらい、シンジはうれしかった。あまりにうれしくて少しなきかけたがそれを見られたくなくて、少し下を向く。

「はい!!、しつれいします。」

 それでも迎えてくれた叔母にはしっかりと返事をして、シンジは家の中に迎えられた。
「大変だったでしょう?少し座って待ててくれる?もうすぐご飯にするし、あの人も返ってくると思うから。」
荷物はそこにおいてね。

 そういって叔母はシンジを家の中へと案内した。

「はい、では失礼します。」

 シンジはまだうつむいたまま、目に見えるほど緊張しながら婦人についていった。

「ふふ、そんなに緊張しなくてもいいのよ?。これからはあなたもこの家に住むんだから。」

「・・・・はい・・・」

 居間に着き、シンジが落ちついたことを確認した叔母は台所に向かおうと足を向けたが、思いついたように止まると振り返ってシンジに声をかけた。

「まだすこし時間があるから、さきにおふろに入ってもらえるかしら?場所はわかる?そこから出て左の突き当たりだから」

「はい、それじゃあ先に入らせてもらいます。・・・ありがとうございます。その、・・・・おばさん。」

 玄関でのことやここまで案内してくれたことのお礼のつもりだったが、叔母のことをどう読んでいいか戸惑いながらやっとのことでシンジはいった。婦人は礼の意図までは理解できなかったが、シンジの心の内を察してか、

「・・・・むりはしなくてもいいのよ。おばさんでいいから。さぁ、早く入ってきなさい。」

と返した。

「・・・はい」

 シンジはその言葉にほっと息をつき、お風呂に向かった。



 居間を出てお風呂場に向かう途中、奥からシンジと同い年ぐらいの女の子がこちらに歩いてきた。髪の毛は黒く、セミロングの髪を後ろでくくっている。なにやら周囲に明るい印象を与えることのできるきれいな容姿だった。シンジは驚いて少女に見とれてしまった。向こうもこちらに気がついたようだ。驚きから、落ち着いていないながらも挨拶をしようとすると彼女は、すっとシンジに詰め寄り、じーとシンジのことを眺めた。

「あっあの?」

「ふーん。」

 年から考えると、シンジは小柄なほうだったので、少女からは見下ろされる形になった。困っているシンジをよそに、少女はあっさりとはなれ、シンジが声をかけるまもなく横を通りすぎ玄関にある階段をのっぼって二階に行ってしまった。

 シンジがポカーンとしていると、居間からおばがやってきた。廊下で階段を見ながら突っ立ているシンジに不思議そうに声をかけた。

「どうかしたの?」

「いえ、その、・・・・・かわいい、女の子がいたんですけど・・・・」

事情を説明しようにも、あっという間の出来事だったので動揺したままのシンジは、少女に関する印象をそのまま口にしてしまった。

「あら、それはありがとう。かえってたのねあの子。シンジくん、あの子がうちのユカリなの。仲良くしてあげてね?」

「はぁ・・・」

 叔母の言葉も幾分しか耳に入らず、いまだ驚きの抜けきらないシンジは、自分の少し恥ずかしい言葉にも気づかず、しばらく立ち尽くした。 その後ボーっとしたまま、再び風呂に入るべく奥へと歩いていった。



[246] 見上げた空はどこまでも朱く 第四話
Name: haniwa
Date: 2006/08/12 02:56
「いまかえった。」

「お帰りなさい、あなた。」

「ただいま、あれはもうついたのか?」

「はい、もうお風呂にも入れましたし、あなたのことを居間でまっています。」

「わかった。すまんが、先に風呂に入らせてくれ。」

「はい」










見上げた空はどこまでも朱く






第四話








「」の先に見えたもの 中編







 おじさんが帰ってくるまでにお風呂に入ったあと、休んで待っているように言われた。でも、初めての家で緊張していたぼくは少しでも紛らわせるために、夕飯のお手伝いを申し出た。叔母さんは休んでていいよと言ってくれたけど、何かしていないと落ち着かなかった。

 しばらくして、テーブルに食器を並べていたら、玄関に人の気配がした。夕飯の準備をしていた叔母さんがそちらに行った。どうやらおじさんが帰ってきたようだ。そうしてすぐに鞄を持った叔母さんを連れておじさんがやってきた。おじさんはお父さんと同じくらいの身長でお父さんよりも肉付きのいい男の人だった。高校の学校で先生をしているからかな。その口調も無口な父とは比べられないほど明るいものだった。

「やぁシンジ君ひさしぶりだね?この前会ったのは去年だったかな、おおきくなったねぇ」

「あっ、おじ・・・さん・・・えと・・・その、お、おじゃましてます。」

 そんなおじさんの態度にも僕は緊張してしまったが、どもりながらも何とか返事を返すことが出来た。でも返事をした後になんだか気恥ずかしくなってしまって思わず俯いてしまった。でも叔父さんはそんな僕に気を悪くしたわけでもなくこういってくれた。

「おいおい、シンジ君、今日から君もこの家の人間になるんだ、そんなにかしこまらないでくれ。」

「はっ、はい!!すみませっ・・・・いえ、ええと・・・」

「どうしたんだい?」

「そっ、その、ありがとう・・・ございます。」

 その叔父さんの気遣いに報いたかった。でも、何とか謝るんじゃなくお礼を言うことが出来てほっとした。

「んっ、気にしないでくれ。そうだ、ゆかりにはもう会ったかい?」

「はい、さっき見かけました。」

「ゆかりは、・・・挨拶しなかったろう?」

「いっいえそんなことは、・・・・」

 まさか詰め寄られてじっと観察されました、なんてことは口が裂けても言えないし、恥ずかしい。

「いや、いいんだ。あのこは、はずかしがりでね。しかも、君が来ることになったのも急なことだったから、そのことも昨日説明したばかりなんだ。そのことが少しばかり気に食わないらしい。」

 叔父さんの話を聞いて先ほど自分に起こったことを詳しく思い出した。あんなにかおををちかずけられておどろいた。でも、叔父さんが言うほど恥ずかしがり屋だとは想わなかったけれど。

「・・・そうなんですか、そんなこと無かったですよ。確かに挨拶は出来ませんでしたけど、僕は・・・気にしていませんから。」

 あのときは驚いただけでなにも考えられなかった。あらためて思い出し手みるとそれだけで顔が朱くなってしまった。本当にかわいい子だったと思う。あのときちゃんと挨拶が出来なかったから今度はしっかりしよう。
 
「そういってくれると助かるよ。じゃあこの後ちゃんと紹介しよう。あれと仲良くしてくれると私もうれしいよ。」

「・・・はい・・・叔父さん。」
 それから叔父さんはお風呂に入るために居間から出て行き、僕は夕飯の準備のお手伝いを続けた。ほとんど準備が終わったところで叔父さんがお風呂から上がり、居間で新聞を読んでいた。しばらくの間、居間と台所には時々僕と叔母さんが話す声と食器を運ぶ音、それから叔父さんが新聞をめくる音とても静かだったけれど、なんだか穏やかでゆっくりと時間が過ぎていく。僕は少し幸せだった。もうそろそろ夕飯の準備が終わってしまうことが残念だった。

「じゃあ、これ運びますね?」

「ええ、おねがいね。」

 最後のお皿を僕我はこび終わると叔父さんはそれを確認して、二階にいる誰かを呼んだ。

「ゆかりー、ごはんできたぞー」

「・・・・・・」

 二階から降りてきたその子は、・・・いつの間にお風呂にはいたのだろう。先ほど結んでいた髪を下ろしていた。叔父さんが言うには僕と同い年らしい。なんだか僕よりずっと年上に見えた。そしてやっぱり・・・・その、きれいな子だった。でもなんだか少し不機嫌けれど、きっと笑えばもっときれいなんだろと思うと少し残念だった。



さぁ、僕はいまから大変なことをしなければならない。



 この子の目の前に改めて立ち、自分のことを紹介しなければならない。これはぼくには大変な難行だ。僕は今日何度締めたかわからない腹をを今一度締め直し挨拶をした。

「あの・・・、はじまして、碇シンジです。その・・これからよろしく。」

「・・・ふんっ」

 それでも僕の細い腹をいくら締めても出たのはこれくらいだった。彼女の返事は当然のことだったろうけど僕は二の句を告げないでいた。すると見かねた叔父さんが助けに入ってくれた。

「こらゆかり!!ちゃんと挨拶しないかっ」

「あら、これから家族になる人に、そんなもの必要なの?」

「屁理屈を言うんじゃない。ちゃんと挨拶をしなさい。」

「・・・・はじめましてっ。これでいいでしょ!。ママ、ご飯にしてよ。」

 渋々、そんな感じが抜けきらないそんな挨拶だったけどちゃんと僕の顔を見て彼女はそういってくれた。

「だったらゆかりも少しは手伝いなさい。シンジ君は手伝ってくれたわよ。」

「知らないわよあんなやつ、なんかくらそうでさっ。」

「すまんな、シンジ君。あの子にはあとで・・」

「いいえ、・・・いいんです。いきなりきて、ここにいるのは僕なんですから・・・・。」

 そうして少し会話の中にとげを残してしまったけれど、山川家での初めての夕飯はこうして始められた。
 食事が始まって少したった後も、僕はあの子に話しかけられないでいた。食事の手を進めながら人と話をすることがこんなに難しいと思わなかった。僕は叔父さんや叔母さんにいろいろ聞かれるごとに、箸をおいて話を返していた。彼女にも質問はされたけれど、何を言って返したかよく覚えていない。質問の内容は、



 学校はどこなのか、どこから来たのか、何かやっているのか、背が低いのね、勉強では何が得意か、自分はこうだとか、etc、etc。




 彼女なりに気を使ってくれているんだと僕は思った。僕はご飯を食べるのをとめてでも質問に答えた。




 学校はたぶんこの近所の小学校です。受験なんてしてませんから、神奈川県のほうから着ました、チェロが少し弾けます、前の学校でも低いほうでした(泣)、算数と音楽です、国語と社会ですかすごいですね、などなど、




 会話も食事も進められ、そろそろ食べ終わるころになってもまだ僕は一度も彼女のことを呼べず、こちらから話しかけられもしなかった。これではまずいと思った。一緒に住むことになるこの子となるべくなら仲良くなりたかった。

「あの・・・山川さん?。」

 呼び方を気にして彼女のことを姓で呼んでしまった。

 あははとおじさんとおばさんが笑う。

「シンジ君、私も山川なんだが?」

「そうよ?私も。」

 そういわれる可能性を考えなかったわけじゃないけど精一杯ここまでだ。

「えぅ・・・・じゃあなんて呼んだらいい?」

「名前もう知ってるんでしょう、そっちでよびなさい。」

「ええ!!」

 彼女はとんでもないことを言う。無理だ、僕は女子どころか同い年の男子でさえ名前で呼んだことがなかったからだ。

「うう・・・・ゆ、ゆかりさん?」

「さんいらないわよ。なんで同い年のこにそんな風に呼ばれないといけないのよ?」

「・・・・ごめんなさい。人を呼び捨てとかしたこと無いので」

 何とかそれで許してもらおうと苦肉の策が、彼女ゆかりさんには聞かず、あっさりそのことを話す羽目になった。うぅ・・・・なさけない。

「あんた、暗いわねぇ。こんなのと一緒に暮らさないといけないなんて、先が思いやられるわ。」

「うう・・・ごめんなさい。」

「こらゆかり、シンジ君をいじめるのはやめないか。」

「ふんっ、こいつがくらいのがわるいのよパパ。」

「・・・・その、叔父さん、僕なら気にしていませんから。」

「そういうことじゃ無いんだが、シンジ君がそういうんならここはよしとしよう。・・・・・ところでシンジ君?」

「はい?」

 今度は先生が、なんだかいたずらっぽい顔になって僕に話しかけてきた。

「もしかして私のことも呼びにくいかい?」

「いえそんなことは、無い・・・・ですけど。」

 そんなに僕は呼びにくそうにしていただろうか?おばさんとゆう言葉の響きはそれほど違和感は感じない。でも、僕は叔父さんとこれまでこんなにこんなに話すことはなかったし、叔父さんくらいの年の男の人と言ったらお父さんか、学校の先生くらいだった。そのせいか確かに少し叔父さん、そういった呼び方に不慣れだった。

「そうかい?でも呼びにくかったら、なんと呼んでもいいからね。そうだな、先生なんてどうだい?僕も呼ばれなれているし、シンジ君も呼びやすいだろう?」

「・・・・はい、じゃあ先生、うん。僕もこの方がお呼びしやすいです。」

「じゃあ決まりだ」

 あははと満足したように先生はわらった。




 たわいもないやりとりだったろう。それでも僕には夢にも見たこと無い楽しい食事。

 そんな団欒はゆっくりと終わりに向かっていた。

 僕にはそれが少し残念だった。



[246] 見上げた空はどこまでも朱く 第五話
Name: haniwa
Date: 2006/08/12 03:05









見上げた空はどこまでも朱く






第五話







「」の先に見えたもの     後編






 とてもにぎやかな夕食だった。と言うよりも誰かと会話をしてこんなに楽しかったことが初めてのことだったかもしれない。

 こんなに人と話をしながら人と食事をしたのも初めてだった。僕は一人だけ夢の中にいるような気分だった。

「ごちそうさま」

 ゆかりさんの食事を終える一言に、はっと目が覚める。ゆかりさんはお休みと僕をを含めた居間にいる全員に言いながらさっさと二階にいってしまったようだ。僕もあわてて手をあわせ食事を終えた。

「ごちそうさまでした。」

「おそまつさま。」

「じゃあシンジ君、君の部屋に案内するよ。」

「はい。」

 そういって先生は席を立った。

「荷物は本当にあれだけかい?」

「はい、どうしてですか?」

「いや、ゆかりと比べるとずいぶん少ないと思ってね。やっぱり男の子だからかな。」

「僕は、ものがたくさん在ると落ち着かなくて。」

 話してみてわかったけれど、ゆかりさんはすこし気が強そうだったし、彼女の部屋なら引きこもりがちな僕の部屋よりも、確かに華やかでものは多いだろう。でも僕は音楽が聴けてチェロが弾ければほかは、特にほしいものはなかった。ものがたくさんあると落ち着かないと言うのも嘘ではなかった。

「そうなのか、しかし必要なものがあればいいなさい。君のお父さんからは養育費や何やらをきちんと預かっているんだし、遠慮することはないから。」

「はい・・・」

 お父さんがそんなことをしてくれていることを僕ははじめて知った。

 じゃあ何で僕を先生のうちに預たんだろう。ふとした先生の言葉に、だんだんと自分の思考に沈みかける。それをを先生の声が引き上げた。

「シンジ君?どうしたんだ?。」

「あっ、すみません。ちょっと考え事をしてしまいました。」

「そうか、何か聞きたいことが在れば言ってくれればいいんだよ?」

先生は、心配そうに僕にそういってくれた。

「・・・・はい。・・・その、すみませんでした。」

「いやいいんだ。じゃあいこうか。」

「あのっ、片付けを・・・・」

「手伝ってくれるのはかまわないけれど、あんな大きな荷物でくるんだもの疲れているでしょう?今日はいいから、もう休みなさい。」

「ん?じゃあなんであのケースは自分で持ってきたんだい?あれも送ればここまでくるのも楽だったろうに。」

「あれは・・・・その、大事なものだったので。」

「そうなのか。いやすまない少し気になっただけだから。」

「いえいいんです。じゃあ先生いきましょう。」

 そうして僕と先生は居間を出て家の置くの部屋に向かった。




 案内してもらった部屋は僕一人で使うには少し広い部屋だった。

「結構広いですね」

 家具もなく、部屋にあるのは僕が前の家から送った荷物のはいている段ボールと部屋の隅には真新しいベットがあるだけの清潔な壁の白い部屋だった。大きな窓もついていて、カーテンが閉められている。この部屋が使われていないなんて信じられないくらい素敵な部屋だった。僕は少し澪とれてしまった。たとえる何だろう、夏の日の麻、晴れた日、誰もいない電気のついていない体育館、でも窓から入る光でほのかに明るい。そんな感じかな。

「気に入ったかい?」

「・・・はい、なんだか僕にはもったいないきがします。本当に僕なんかが使っていいんですか?」

 本当に、ほぅと、ため息が出るくらい簡素化もしれないけれど素敵な部屋だった。

「元々客間だったからそんなに家具を置いていないが、何か必要なものがあれば言いいなさい。遠慮せずにね。」

「はい、ありがとうございます。」

「じゃあまたあした。明日は日曜だけど転校先の小学校へ挨拶に行かなければいけないから、今日はもう寝なさい。」

「はい、先生。おやすみなさい。」

「お休み。」

 そうして僕は一人、今日から僕の部屋になった、少し大きな部屋で今日一日を終えようとしていた。
 明日の準備をしてベットにはいった。でも目をつむると今日起こったことが思い出される。今日は本当にいろんなことがあった。本当にいいことがたくさんあった。その一つ一つの出来事が今の僕にはとても大切なものになるような気がした。明日も今日みたいに、ううん、これからはきっとといいことがたくさんある。今日の出来事は僕にそう思わせてくれたし、きっとそうなると信じさせてくれた。そんなうれしさがこみ上げてくるのを止められない僕は興奮して寝付けないでいた。
 興奮してのどが渇いた僕は居間に水を飲みに行った。するとまだ電気がついている。どうやらまだ先生と叔母さんが起きているようだ。何を話しているんだろう?

 いけないと思いつつもそっと隙間からのぞこうとして、



 次に聞こえてきた言葉に僕は固まった。



「それで、いつまであれを引き取ってるつもりですか?」



 『あれ』?『あれ』って僕のことだろうか?

 それは冷たく、吐き捨てるような言い方だった。叔母さんの言う『あれ』って言うのが、なぜかすぐに僕のことだとわかった。

 いやそれよりもこの声は叔母さん?・・・・・本当に?全然知らない人みたいな声だった。それくらいさっきとは比べられないくらい冷たい響きのこもった声。

「あいつが引き取りに来るまでだ。それまでやつも金を送るといってきている。」

 今度は先生?そっと、本当にそっとドアの隙間から確認する。でもそこにいたのは本物の叔母さんと先生だった。さっきまであんなに明るい食卓だったテーブルで、別人みたいに冷たい顔をした先生と叔母さんが、食事の時と同じ席に座って、同じように向かい合って座っていた。

「それもいつまで続くかしら。」

「何が言いたいんだ。」

「あんな子を引き取るのは、反対だったんですと言ってるんです。」

 叔母さんはさっきまで僕が座っていた席を、まるでまだ僕がいるかのように見据えながらそういった。その目を見ると、僕はこれがどういうことかを悟りだした。



 なぜかそこで、ふとあの日の朱い空を思い出した。



「それは私も同じだ。あんな無愛想なやつと関わり合いになどなりたくわなかったよ。ましてやその息子を預かるなんてな。」

 先生はそう吐き捨てた。もう叔母さんの言葉を聞いたときからそこから動けなくなっていた僕の体を、ますます硬くした。



 そして思い出す父の硬い背中



「それにあなた、碇がなんて言われてたか知ってる?『妻殺し』って言われているのよ。」

 ここにいることがばれるんじゃないかと思うくらいびくっとふるえた。僕はあの眼で直接みられているような気持ちがした。右手で左腕を、左手でズボンをきゅっと掴み、寒くもないのに震える体を押さえつけた。



 先ほどからなぜかあの日の空の朱さと父の背中が見え隠れして離れない。



「そりゃもちろん人の噂ですけど、あの人無口でしょう?周りに何のいいわけもしないものだから、ほんとに殺したんじゃないかって噂なのよ?そんなとこの子供を引き取ったんじゃ、ご近所からなんて言われるか。何たって『妻殺しの息子』がいるんだもの、噂なんて広まるときはあっという間なのよ?」

「ふんっ。あの男ならやりかねんな。もし本当にそうだとしても私はおどろかんよ。」

「そんなことじゃないんです、ゆかりがかわいそうでしょう、そんな子と一緒にいるなんて。」

「今日のあの子の態度をみていなかったのか?確かに物珍しさからいろいろきて多様だが、なぁにすぐに相手をしなくなるさ」

 もう先生たちの方に顔を向けられない。下を向いて、けれど目を見開いて僕はそこからまだ動けなかった。さっきからずっとこの場所から逃げたいのに。



 まるであの日と同じ様に・・・・・・・



「で、いつまで?」

「だからわからんと言ってるだろう。金は送られてくるんだ、それでいいだろう。」

「あなたはそれでいいかのしれませんけどね、その『妻殺しの子供』の世話をするのは私なのよ?私の苦労も少しは考えてください。」

 もう聞いていられない。そんな言葉を聞きたくない。ここにいればもっと聞きたくない言葉を聞かされる気がする。



 あの日の父の背中の本当の意味がわかってしまいそうだから・・・・・



「それは・・・・」

「それにこれからのこともあります。ゆかりはどうなるんですか?小学生のうちはいいかもしれませんけど、中学生になったときにどうするんです?何か間違いがあったときには私は知りませんからね!!。」

「・・・・・ゆかりには事情を隠して部屋に鍵をつけさせる。あれは、そのうち庭にでも部屋を作ろう。」

「ゆかりはともかく、シンジくんの方はそれに従います?」

 おどけるように夕飯の時の言葉遣いで、僕の名前を会話に出す叔母さん。その言葉に込められている意味とあのときと同じやさしい口調。さらに心が締め付けられる。


 僕と一緒にいたあのときも、


 同じことを


 叔母さんは考えていたのだろうか。



 その可能性はもう確かなものだった。先ほどのの楽しい時間が、みるみるあの日と同じ朱い色の『何か』に変わっていく。

「なに心配いらんさ。おまえもみただろうあの気の弱さ、こちらから何を言ってもあの子は従うことしかできんさ。それにチェロだったか、そのための部屋だと言い聞かせれば断る理由も無いだろう。心配することはなにもない。」

「・・・・わかりました。そこまで考えがあるのでしたらこのことはお任せします。」

 渋々納得した様子の叔母さんと先生は、その後も何か話を続けていたけれど。もう先生たちの言葉を僕の耳に入れたくはなかった。何とか引きはがすように足を動かすと、ただゆっくりと先生たちに気づかれないように部屋に戻りベットに入った。



 ふるえが止まらない。



 寒くて、寒くてたまらない。



 のどがからからで飲み込むつばどころか、流す涙もないみたいだ。



 あの眼が消えない。もう二度と見たくなかった、あんな目で見られたくなかった。あんな目で見られることなんてもう無いと思っていたのに。そう思えばこそこちらに来ることも少しは楽になれたのに。

 顔に押しつけた布団が、少しかびくさい。明日晴れたら布団を干そう。そう、だから早く寝よう。目をつむって必死に僕は寝ようとした。

 先ほどの会話を早く忘れたくて。『受け入れてもらえてなんかいなかった』ことをわすれたくて、そのことから逃げたくて。

 ああ、でもまたあの夢を見てしまいそうだった。あのことを思い出してしまったから。

 でもつらい、こんなつらいことよりましなはずだった。夢の叶ったと思った後の裏切りはこれまでの何よりもつらいものに感じた。
そうして僕のここでの最初の夜はすぎていった。






「希望」、「願望」、「信頼」、それらの先に見えたもの、


希望は、明日に歩けると思える道標

願望は、暖かく楽しい家族の団欒

信頼は、新たに出来た絆



標に従いたどり着いたのは、暗い明日。



近くにいたと思った人は子供のらくがきで、




絆は結び目だらけですぐに切れた。





 「」の先に見えたものは






 突き落とされるような裏切りだった。









次回予告






朱い夕日、朱い空。


なにも語らない父の背中、


僕を指さし物影で笑う黒い人たち、


一人の僕、



巨人、



朱い・・水?




溶けて消える、






・・・・お母さん?







そして思い出される消してしまいたい過去。





次回、「その音色が奏でるものは」

ご期待してくだされば幸いです。








書こうとしても書けない後書き。

haniwaです。なんか変に長くなりました。最初のいい雰囲気が好きだった方、すみません。すべてはこのためです。今回も結構勢いで書きました。誤字、脱字、又は「ファンとしてはこの設定のミスはゆるせねぇ。」等ございましたら、遠慮無く知らせてください。haniwa に出来る精一杯の速度とボキャブラリーを持って対処していきたいと思います。特に今回、シンジ君は今第二東京にいてその前は今の鎌倉あたり、後の第三東京にいたってことにしています。ここらあたり間違っていたら教えてください。
では皆様に喜んでいただければ歓喜の極み。



[246] 間幕
Name: haniwa
Date: 2006/07/23 18:03
間幕


白い清潔な廊下にいた。

女の人とそこを歩いていた

隣を歩くその人は僕の手を取り、歩幅を合わせ、ゆっくりと歩いている。

これからどこへ行くのかはわからない。

僕は幸せだった。

その道程は、幸せだった。

僕はきっと笑ってて、

隣を歩くその人も笑ってた。

そして大きな部屋に出た。

白く、たくさんの人がいるところだった。

僕を連れてきてくれた女の人は、一番年上らしい人とお話をしていた。話している内容は僕にはよくわからない。

女の人はとても誇らしげに話をしていたように思う。

話がわからなくて視線を周りに向けた。

僕はたくさんの人の中に一人の男の人を見つけた。

僕はその人に走り寄る。

男の人は僕をちらっと見ると、その手を僕の頭に乗せた。

なでられている僕はなんだか気恥ずかしかったけれど、うれしかった。

視線をあげるとその人は、もう僕の方はみていなかった

女の人に向けられている。

女の人を見る顔は、いつもと変わらないように見える。

やがて女の人が僕と男の人に何かを言って部屋を出て行った。

僕が男の人に行き先を聞いても、いつも道理なにも答えてはくれなかった。

やがて壁が動き出した。

そこに見えるのは大きな水槽。

でもそこにあるのは水ではなかった。

なんだかオレンジ色に近い色、でも濁ってるわけではなくて、透き通っている。

海の色が青色のように、この水はきれいなオレンジ色だった。

壁が完全に開ききったそのときにあいつはその姿を見せた。

まるで巨大なロボットのような姿だった。角のついたその顔を見れば、子供がみればそういってはしゃいだかもしれない

でも僕は怖くなって男の人の足にしがみついてた。

男の人はそれにかまわず真剣な顔で手元の作業を続けていた。

僕に声が向けられる。

大丈夫だよとその声は言った。

すると、僕を呼ぶ声がする。そちらに目を向けると先ほどの女の人が画面に映っていた。

女の人は水着のような格好で水槽と同じ水で満たされた、コックピットみたいなところにいた。

あそこはどこなんだろう?

そして何かが始まった。


周りの人の動きが先ほどよりもあわただしくなる。


聞こえてくるアラーム音


回る赤色灯、


うなり始めた巨人、


ガラスの向こう、


聞こえないずのその声は僕の耳にはっきり届いた。


その中で僕は女の人から目を離さなかった。


その人は、僕をみると困ったように、にっこりと笑った。



そして、



その手が



体が、



顔が、



ゆっくりと水に溶けるように




消えていこうとしていた。




そして、




消えかけているその口で




何かを喋ろうとして




それが言い終わる前に





お母さんは消えてしまった





お父さんがお母さんの名前を叫ぶ。





それに答える人はもう、





朱い水にとけてしまったあとだった。






僕は母が消えていくのを止められず、
父のように母を呼ぶことも出来なかった。


そこで、僕は目が覚めた。






アトガキ

こんにちは?こんばんは?haniwaです。
六話を楽しみにしてくださっていた方、すみません。今回、次に行くのにどうしてもワンクッションおきたかったんです。
でも全く関係ない話ではないので、お目を糖していただくだけでもありがたいです。
ではでは。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く   第六話
Name: haniwa
Date: 2006/07/23 18:24
 そうしてはっと目を覚ます。


 とても嫌な夢だった。


 久しく見なかった母の最期。


 そしてあの人達の白い目。


 久しぶりにあんな夢を見てしまったのは、


 きっと夢にしてしまいたい、


 あんな出来事があったから


 そして、あれは決して夢などではなく、


 紛れも無い現実。





第六話




その音色が奏でるものは 





 日曜日の朝は、たいてい平日よりも静かなことが多い。誰もが皆、いつもよりも一時間ほど長く幸せな布団の中でまどろんでいる事が多い。昨晩に羽目を外して遅くまで起きていることもあるだろう。この日曜もいつもと同じ、平日ならばこの住宅街の道は通勤するサラリーマンや、登校する学生で賑わう道も不自然なほど静かだった。

 そのうちの一軒の前に碇シンジはいた。その手には箒を持ち玄関の掃除をしているようだ。その手つきは手馴れたものだ。もしその場に他の人がいればそんなシンジの様子はどんな風に映ったことだろう。必死で、昨日来たばかりの他人の家を掃除するその姿を見た者は、その生い立ちを知ればその目に涙を誘う姿だったかも知れない。

 しかし、近くで俯いた顔を上げさせれば、ただ事ではないことに気づいたことだろう。

 その何もその眼に映すこともなく、ただ手を動かすその姿は声を掛けることすら躊躇われるものだった。
 あらかた掃除の終わって一息ついたシンジのその背中に声がかけられた。

「おはようシンジ君、ずいぶんと早いんだね?」

 びくっ、とシンジは一度だけその小さな肩を震わせ、手に持った箒を握り締めた。シンジに掛けられたその声は、昨日の夕食のときと同じ穏やかな声だった。

「あっ先生。おはようございます。」

 俯いたまま、シンジは自分の叔父へ体を向けた。顔は上げないまま。

「君は召使いじゃないんだ。そんなことはしなくていいんだよ?」

 いつも間にか、叔父はシンジのしていたことを見ていたようだ。

「いいえこれくらいは・・・それに前の家でそしてまししたし。それにもう終わりますから。」

「そうかい?すまないね。あまり無理はしないようにね。昨日の今日だ。疲れも抜けきらないだろうから。」

 そういってシンジに近づきその肩を叩く。シンジはもう一度その肩が震えそうになるのを体を硬くして堪えるとつぶやくような返事をした。

「・・・・はい・・・・・・すみません。」

「じゃあ朝ご飯にしようか。といっても僕も家内も起きたばかりだから準備はこれからだけどね。」

 まるで昨日の夜の出来事が夢のことだったように、その声は優しいものだった。

「あっ、手伝います。」

 しかし、シンジは顔を上げない。上げないままさらに朝食の手伝いを申し出た。その行為の意図するものは何だっただろう。

「いいんだよ玄関もきれいにしてもらったし・・・」

「いえっあの・・・お料理、作れるようになりたいんです。」

「それはまたどうして?」

「・・・・・・お父さんに、つくってあげたいんです。」

「そうか、じゃあ僕の方から頼んであげよう。」

「はい・・・・、すみません。お願いします。」

 父にご飯を作ってあげたい。そんな機会は来るかどうかも分からない。シンジ自身そのことは良く分かっていた。




 朝食の用意を進めると山川家の人間が一人足りないことに気づく。台所で朝食の準備を進める叔母、居間で新聞を読みながらコーヒーを飲んで朝食ができるのを待っている。そして、・・・

「あの、・・・ゆかりさんは?」

「あのこならまだねてるわ。昨日あれから遅くまで起きてたのかしら。」

「そう・・・なんですか。」

 正直、シンジはこの場に彼女がいないことに安堵した。彼女には今の自分の不自然さを見抜かれてしまいそうだし、もし彼女が昨日のようにシンジの前に立てば今度は自分が彼女のことを疑いの目で見ずにはいられなかったろう。シンジは隣に立つ叔母に悟られぬように安堵のため息をそっとついた。

「シンジ君、卵焼き大丈夫?」

「え?あああ!!」

「ふふ最初はみんなそんなものよ?」

 目の前で煙を上げる卵焼きに慌てて手をつけようとするシンジ。しかしそれを何とかしようとすればするほどかなしい結果にしかならなかった。

「これからがんばりましょうね?」

「・・・はい、すみません。」
 
 優しい声を掛けてくる叔母は本当にあの時と同じ人なのだろうか。そうシンジは思い至ったが、あの冷たい目で今も自分を見ている叔母がいる気がしてシンジは顔を上げて確かめることはできなかった。

 結局、ゆかりはシンジが食事を終えても姿を見せることはなかった。




 その後、朝食を終えたシンジは叔父と二人、転校先の学校へと挨拶に行くための準備をしていた。

「シンジ君そろそろ行くよ。」

「はい。」

 玄関で靴を履きながら奥にいるシンジに呼びかけた。奥から出てきたシンジの手には、彼がこの家にきたときと同じ、彼には大きすぎるチェロのケースが在った。

「それを持って行くのかかい?」

「はい。先生のお家に置かせていただいても、弾くときに煩いでしょうから。これからは学校の方でおかせていただこうかなと思ったんです。」

 シンジの主張はどこにも不自然なところもないまっとうなものだった。矛盾しているが、それこそ不自然なくらいに。

「・・・そうか。」

 叔父は何か考えるように少し黙ってしまった。

「あの、・・・先生?」

 シンジはそこで顔を上げてしまった。叔父はすいつもの穏やかな顔でシンジの考えに賛同する言葉を続けた。

「いや、ここから学校まで歩いていければ、シンジ君も学校までの道を覚えられると思ったんだがそれなら車で行こうか。」

「・・・・お気を使わせてすみません。」

「いやいいんだそうした方がゆかりや妻も何も言わないだろうからね。」

「・・・・はい・・・・・。」

 シンジはその場をすぐには動けなかった。

 シンジはしっかりと叔父の顔を見てしまった。あの出来事が現実だったことを思い知った。一瞬だったがシンジは再び見てしまったのだ。自分を見下ろす冷たい目を。またその顔が穏やかなそれに変わる瞬間も。人はあんなにもあっけなく、嘘の自分を作り出して平気で他人と向き合えるものなのか。


 体と心をさらに堅いものにしてシンジは叔父の待つガレージに向かった。




 車でさほど時間も掛からなかった。歩いても二十分と掛からないところにその小学校は在った。大きな校舎、大きな校庭、大きな体育館のある普通の学校だった。校門をくぐり、正面のホールを右に進んでいくとすぐに職員室はあった。

 叔父は慣れたように違和感なくその扉を開け、近くにいた一人の教師に声を掛けた。

「中野先生?」

「これは山川さん。お待ちしていました。お変わりないようですね。」

「ああこれはどうも中野先生。いつもゆかりがお世話になっています。」

 簡単な社交辞令を述べるとその教師はシンジに視線を移した。シンジは背が小さい方だが、立っている子供を座ったまま見下ろしてしまうほど背が高いことが解る。髪は短くよく似合う丸い眼鏡を掛けていた。人柄が良さそうな顔で十人に十人が彼が教師であることに納得するだろう。

 それでもシンジにはその目が自分を品定めするような目に見えてしまった。シンジは一度だけ中野教師の顔を見ると目を合わせることもなく、すぐにまた俯いてしまった。

「その子が例の?」

 中野教師の言葉にシンジは少し反応した。この先生は自分のことを叔父からどんな風に聞き及んでいるのだろうかと言う不安からだった。

「ええ今度から私の家で預かることになった碇シンジ君です。」

「よろしく、碇君。」

「はい・・・・・よろしく・・・お願いします。」

「・・・・君は今度の月曜から私の担当する二年二組の生徒になる。何か、・・・聞きたいことはあるかな?」

 中野はそう言ったっきり、怯えたように黙って俯いてしまったシンジに、座っていてもシンジを見下ろしてしまう自分の背を屈めシンジの顔をのぞき込むように優しく聞いた。自分が彼を威圧するような体が、彼を怯えさせてしまわないように。

 シンジは、初対面の優しさに臆病になってしまっていたが、この教師の態度にほんの少し安堵したかのようにそっと口を開いた。

「は・・・い、あの、」

「ん?」

 やっと話し出したシンジの意志が潰えてしまわぬように、中野は先を促し、シンジは続けて自分がここに来た一番切実な問いをした。

「この・・・・学校には、弦楽部はありますか?」

「残念ながらそういったものはないね。碇君は・・・ヴァイオリンか何かやってるのかい?」

「はい、その・・・・チェロをやってます。」

「そうか。それは残念だね。・・・・楽器は持ってる?」

「はい、・・・・・自分の物があります。先生・・・いえ、山川の叔父さんのお家では皆さんの迷惑になって練習は控えたいので、学校でもしそんな部活が在れば、そこで練習できるんじゃないかなって思ったんですけど・・・・。」

 そこまでシンジの話を聞いた中野教師は、少し考える。シンジの喋り方は、最初はかなり堅いもので今も一向に自分に目を合わせてはくれない。ここで彼がつっかえながらにも今までで一番長くしゃべりなにやら必死な様子で提案してきたことを潰してしまっては、彼はまた最初の状態に戻ってしまうだろう。この先この子が学校でやっていけるのだろうか。シンジのこの先を案じた中野教師は、シンジにこう提案した。

「そういった事情なら、音楽の先生に部屋を使わせていただけるように後でお願いしてみようか。今日はたまたま、音楽の黒田先生がいらしているから。楽器は今日持ってきてる?」

「!!。はい!、叔父さんの・・・車で運んでいただきました。」

 シンジは中野教師の提案にこれまでとは違いすぐに答えた。そこまで話が進んだとき、シンジの横で話が進むのを聞いていた叔父か会話に加わった。

「あー中野先生?シンジ君の転校の手続きはもう終わりですか?」

「あぁ、すみません。はい、今日は僕との顔見せということだったので手続き自体はこれで終わりです。」

「では私は少し高校の方で仕事が残っているのでこれでお暇しようかと。シンジ君。」

「・・・・はい。」

「こういうことだからすまないけど、ここから一人で帰れるかい?」

「はい・・・。結構近かったですから。道も覚えています。」

「そうか。もし解らないようなら学校の方で電話を借りて家に連絡しなさい。番号は知っているね?」

「はい・・・・覚えています。」

「よし、じゃあ先生、彼をよろしくお願いします。」

「解りました。ご苦労様でした。」

そこまで言うと叔父はさっと行ってしまった。

「じゃあ碇君、黒田先生のところに行こうか?」

「・・・・解りました。」

そうしてシンジ達も席を立った。





「ええ、いいですよ。ちゃんと戸締まりが出来るんだったら音楽室を使わせてあげるわ。楽器は隣の準備室の空いているところを使ってくれればいいし。」

 音楽室にて授業の準備をしていた黒田教師に中野教師が話を通すと、まだ年の若い音楽教師は快くシンジの願いを聞き届けてくれた。

「すみません。良かったね碇君。」

「はい、」

「碇君?でいいのかしら。」

「・・・はい。」

「今日はどうするの?別にこれから使いたいんだったらかまわないけれど?。」

「・・・・少しだけ教室を使わせてもらっていいですか?」

「ええ、かまわないわ。」

「それなら碇君、僕は職員室に戻るから。」

「・・・はい。中野先生・・・わざわざすみませんでした。」

「ん?・・・あはは、いいんだよ気にしないでくれ。じゃあ碇君明日からよろしくね。」

「・・・・はい。」

 そういうと中野教師は音楽室から出て行った。音楽室にはシンジと音楽教師の二人だけが残された。シンジは改めて目の前に立つ人物を見た。女性にしては背の高い人で化粧は薄く、背中に掛かるくらいの髪を背中で一つにまとめている。外見にはあまりこだわらない人物のようだ。

 黒田教師はは荷物をまとめ帰り支度をすませるとシンジの方を振り返り彼に鍵を渡しながらこういった。

「じゃあ私はこれで帰るから、ここの戸締まりもお願いね。家には連絡してあるの?」

「!!。そんなに・・・・遅くなりませんから。」

 チェロの準備をする手を止め、何となく黒田教師のことを見ていたシンジは振り返った黒田教師の申し出に少し目を逸らし気味に答えた。

「そう。じゃあ一応学校は五時までだから。それじゃあね。」

「はい・・・先生?」

「ん?、まだ何か在るの?」

「いえ、その・・・ありがとうございました。」

 シンジは、今日初めて人にそう言うことが出来た。

「あら、ちゃんとお礼も言えるのね。いいえ、気にしないで。・・・・帰るときにここまでしてくださった中野先生にもお礼を言っておきなさい」

「はい・・・。」

 そこまで言うと黒田教師は、しっかりと気づいていたように少しシンジをたしなめるとそういって音楽室を後にした。





 一人っきりになった音楽室は、生徒がいるときとは違い、日曜の学校の中でも一番静かな場所だった。ほかの教室よりも少し広いその教室には、大きなグランドピアノや、楽譜を置くための普通とは作りの少し異なった机、見本として置かれているのか、または吹奏楽部なら在るのかトランペットなどの管楽器など物があるだけだった教室の奥は、ある程度の人数が集まっても合唱などを行う場合もそれに困らない程度の少し広いスペースが在った。

 シンジはそのスペースの真ん中に椅子運びチェロのケースを引き寄せてそこに座ると、ふぅと一息ついた。



「やっと・・・・一人になれた・・・・」



 そう呟くシンジの顔には特にうれしさを表すでもなく、悲しみにふけるでもない、先生達とのやりとりの合間で見せた少し困った表情でもない。



 ”何も映していない”としか言いようのない表情だった。



 『叔母は出会ったときと同じ優しい声だった。』


 『叔父も自分の体を気遣ってくれた。』


 『新しい学校の先生達はまるであのときの二人組のように親切だった。』


 『その優しさに身を委ねてしまえばどれだけ楽だったろう。』



 しかし、そう言うわけにはいかなかった。



 シンジは傍らに置いてあったケースを手に取った。ケースを開き、中にあるチェロを確認する。中に入っていたチェロはケースの大きさから見て取れた通り、155センチ以上の人が扱う7/8サイズに区分される胴長72センチ程度のチェロがしっかりとそこにあった。使い古されたそのチェロの本来の持ち主に合わせたものだったので仕方のないことと言えた。身長が135センチほどしかないシンジにはやや大きい。

 弓を傍らに置き、チェロの弦の張り具合を確認、駒の位置を調節するなど、一昔前の気候の変化が激しい日本でその手の楽器を扱う者には欠かせない調整を一通りおこなった。季節の狂った今の日本ではあまり行われなくなったその手順を、チェロの手触りを確認しながら進めていく。

 作業する手はかすかに震えている。ここまで、一人っきりになるまでにずっと気持ちを凝らせてきた。そうしなければ耐えることが出来そうになかった。途中何度も優し言葉を掛けられる度崩れそうになり、それら流されないよう堅くした体は、いまだ固まったままだ。
 作業が終わるともう一度先ほどよりも少し大きく息を吐く。目の前にチェロを置き、何をするでもない。ただぼうっとチェロを眺める。

「最近弾く暇もなかったからな。」

 そっと呟く。動かしにくいままの体でそっと弓を取り、感触を確かめるように弓を弦に当てる。もう一度少し短く息を吐く。シンジの体はここまでの作業も簡単にこなしてはくれなかった。

「ちゃんと弾けるかな。」

 すーと弓を弾く。

 チェロはしっとりとシンジに音を返した。強ばっていた体が少しずつ解れていく。

 シンジは続けて弓を動かした。それはただ音を出すだけの、音を確かめるなんて高尚なことではなく、ただチェロの音を出すだけの行為だった。左手も添えずにチェロを支えるだけにとどめ、チェロの弦一本一本の音をただ鳴らし続けた。その音色はシンジが母にチェロを教えてもらったときの音を、そのときのまま変わることのない音を弓を引く度、ただただそれを淡々と奏でる。

 外は晴れ渡った空で、日本唯一の季節となってしまった夏を今日も繰り返す。蝉が鳴き、太陽が昇り、風がそよそよとながれ開けられた窓から流れ込む。その風は少年の髪を優しく揺らし、太陽に光は窓からわずかにその白い肌を照りつけ、音は少年の奏でる音と相まって自然の音楽のように聞こえる。その中で少年はその手に持つ弓をただ動かし続ける。

 その姿は本当に侵しがたく、そして儚げだった。

 しかしもし、そこに人がいたならば迷わずシンジの演奏を止めに入ったことだろう。それほどシンジの今の姿は今にも消えてしまいそうな幻のようだった。

 小一時間ほどその静かな演奏は続けられた。

 朝からざわつき、それを押さえるために凍らせた心の動きがシンジに戻ってきていたが、その瞳は光を映さないままだった。

 彼は、それだけでは誰にも演奏と呼ばれない行為を、ただ繰り返した。

 チェロはシンジの動きに合わせ、他人に何かを伝えるでもない音をシンジ本人に返し続け、シンジが出せると信じた音をシンジの信頼に応えるように奏で続けた。それは単純な行為だった。

 端から見ても誰にもその心中が伝わることのない。シンジ自身の心が凍っているのだから。

 それはゆっくりと、けれど確実に、シンジ本人に伝わり、凍らせていたシンジの心を溶かしていった。凍った心では判断することが出来なかった朝からの自分を思い返し、その行動の理由を理解していく。

 体を硬くし、優しさに身を委ねなかったのは、再び裏切られることが、傷つけられることが怖かったから。

 だから自分を決して裏切らない音色を聞きたかった。

 もう手が届かないところに母は逝ってしまったけれど、自分の手を取るように慰めてほしかったから。

 自分のそばには誰もいない。
 
 そばにあるのは今弾いている母からもらったこのチェロだけ。

 だからその行為に意味はなく、誰の理解も得られない。それは碇シンジのみに意味があり、碇シンジにしか理解もできない。

 ふっとその場の音が消えた。周りの音が消えたのか、それとも演奏が終わったのか。どちらが先とも解らない。手を止めたシンジは、ほぅと息をついた。このときやっと強ばる体の力を抜くことが出来た。



 そっと・・・・、ゆっくりと・・・・、辺りが・・・・、当たり前のように・・・・、静寂を取り戻した。



 ふいに顔を上に向ける。幼いせいか男とも女ともつきにくい中性的な顔立ちを歪めることなく、すっとその顔を涙だが伝う。未だ、何も映そうとしないその瞳からただ一筋だけこぼれたそれは、頬を伝って、顎に一瞬とどまり、すぐに其処から滴り落ちて服を濡らし跡を作った。

 それからはもう涙は止めようもなく溢れてきた。

 何が合図だったと言うわけでもない。一度切れてしまった堰からは後から後から涙が続いた。

 こぼれる涙を、拭おうともしない。声も上げることもなく、ただただ、はらはらと涙を流す。先ほどとは違い今の姿は現実の苦しみをぐっと体の中に押し込めた、幻などではない、どこまでもリアルな、痛々しい姿だった。

 シンジはチェロから手を離し床に置くと、自分の体を抱きしめた。寒さで震える体を温めるように。

 そこで初めて、ゆっくりとシンジのその瞳に感情の光が灯り始める。くしゃっと音がしたかと思うほどその顔を歪めた。

「・・・ぁぁ・・・・・・・うああぁぁあっぁ・・・・・・・・・ひぅ・・・・・ぅっく・・・・・・・・うわぁっ・・・・・・・・・ひうぅぅぅ・・・・」

 知らず、シンジの両手は口に当てられている。嗚咽に震える体を、椅子の上で丸めてそれに耐える。噛み殺しきれずに時々漏れて聞こえるその声を聞く者は傍らにあるシンジのチェロだけだった。


そしてゆっくり日は昇る。






後書き

すみません。

明るいとこまでいけませんでした。なんだか繋がり方の悪い文章ですが今の自分にはこれが精一杯です。次はちょっと明るい話にしたいです。

S.Iさんへ、すみません今回の話で間幕の話はあまり生かせませんでした。

みのさんへ、シンジ君が救われませんでした。ごめんなさい。

他、これを読んでくださっている皆々様、暗い締めですみません。これからも頑張ります。



[246] 世間話
Name: haniwa
Date: 2006/07/23 03:37
世間話






白い目って知ってるかい?


え?いやいや、あれって本当に瞳を白目だけにして人を見てるって訳じゃないよ


あはははは、実際にそんな目で見られても可笑しいだけだからね。


ん?


じゃあ実際はどんなかって?


そうだなぁ・・・・たとえば、


晴れた日の昼間、近所のおばさま達がいたとしよう。


ここは広くない街だし、安くて便利な商店街もある。


当然、道の真ん中でばったり合うこともあるだろうさ。


もちろんそのときの話題は、おばさま達の大好物のうわさ話だ。


?・・・・どんな内容かって?


んーー・・・・


例えば、・・・・そうだなぁ


聞きましたか奥さん、この先の角の山岡さんとこの痴話げんか。

ええ聞きましたとも奥様。お盛んなことですわよねぇ。


とか、


先週この通りで引ったくりがあったんですってよ奥様。

まぁ、こわいわねぇ奥さん。


とか、


先週、お寺の住職さん沖縄のほうにまで旅行されたそうですよ。

いいわねぇこのご時世に。


とかとか。


なかなかうまいものでしょう?


そこで噂のご当人達が奥様達の前を通ったりするんです。


旅行鞄を持った人が通れば、羨ましそうな目で見たり。


必死に鞄を抱えている人を見れば、哀れみの目で見たり。


顔に痣作った3丁目の角のご主人が通れば、可笑しそうな目で見たり。


こんな感じでね?


様々な反応を示してくれるわけです。


そこでおばさま達は決して、直接当人達を指さしたりジーと見たりはしないんだ。


噂の当人達には気づかれたくはないからね。


自分たちは噂の外の傍観者でいたいのさ。


でも、噂の当人達はそのことに気づいてる。


なぜかって?


目は口ほどに物を言うってしってるでしょう?


あれと同じさ。


黒眼は、伝えたいことを映すけど、白眼には本音が映るのさ。


話し相手には黒眼が向いてるけれど、


白眼が別の相手を見ているのさ。


その視線を人はばっちり感じ取れる。


不意に、居たたまれなくなったり、気恥ずかしくなったり、不安に駆られたりするのは、


自分もそんな視線に晒されているせいかもしれないね。


でもこれは、白目で見られるってことじゃないんです。


ん?


ああ、まあこれも白い目で見られてるってことには違いないね。


でも、段違いなのさ。


籠められている感情の質ってやつがね。


白い目で人を見るときは、黒眼もまっすぐその人を見てる。


でもその黒い瞳には何も映っていない。


黒い黒い瞳のまま、何も映らないんです。


でも、白眼の部分では人はその心の内を垣間見せている。


黒い黒い瞳で蓋をした、どこまでもよどんだように白くて白い心の内。


でもそれは蓋をしようとすればするほど、漏れだしてしまうんです。


そうすることで密度が増していく。


嫌悪する何かを見つめるときの目つき、


人が人じゃない者を見る目つき、


よーく想像してみてください。


人形のように何も言わない瞳のはずなのに、確実に何らかの感情を抱いて自分を見てる、瞳。


それは本当に人か、


それとも・・・・・・
それとも違う何かか
ん?


ああごめん、少し脅かしすぎたね。ごめんごめん。


普通に生きていれば、そんな瞳に晒されることなんてほとんど無いさ。


ねぇ、機嫌を直して。


ほら俯いてる顔を上げて、ね?。


なんだか別れ話をしているみたいじゃないですか。


そんなつもりじゃなかったんだけどなぁ。


え?


んーー・・・・、そう言う瞳に晒される時のうわさ話か・・・・・・。


ああ、ちょうどあそこを歩いてるあの男の子知ってるかい?八百屋で買い物してるあの子。


家の近所の子なんだけど。


最近、あの子のお母さんが亡くなったんだそうです。


でも、そこの親父さんが無愛想な人でね。他の人に何の事情も話さないもんだから、
【自分の妻を殺したんじゃないかって噂なんだ】
何でそんなこと知ってるんだって?、家の母さんがその手の話好きでね。


名前?もちろん知ってるよ。えーと確か


碇、だったかな?


本当の話なんだってば。


確か葬式にも遺体が無かったらしいしって、どうしたの?


・・・いやだって、聞いたのは君じゃないか。


君が恐がりだってのは知ってるけどさ。


あっ、ちょっとまってよ。


すいませーん、お勘定お願いしまーす。






関係者各社のお詫び

本編書かずにこんな話書いてすみません。ここら辺、ちょっと補足しておきたかったものですから。シンジ君が「あの眼」を怖がる理由です。ちょっと欠ききれなかったんでここに差し込む形と相成りました。楽しんでいただければ幸いです。

P・S うぅ、今度こそ、コンドコソ明るい話にしたい。ごめんなさい。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く  第七話
Name: haniwa
Date: 2006/07/24 19:51








ぷるるるるっ、ぷるる「ガチャっ」

「あっ・・・、叔母さん・・・ですか?」

『どちら様ですか?』

「・・・・すみません。僕です。碇シンジです。」

『あらどうしたの。今学校でしょう。』

「はい・・・あの、ちょっと学校を見て回りたいので、・・・帰るのが少し遅くなります。」

『・・・・そうなの。お昼はどうするの?』

「どこかその辺のコンビニですませようかなって・・・」

『んー、あんまりそう言うのは進められないけれど。お金は在るの?』

「はい、持ってきています」

『わかったわ。あまり遅くならないようにね。』

「はい・・・・」







『あっあの・・・。』

「まだ何か?」

『・・・・ゆかりさんはおきましたか?』

「ええ。あの子ったら食パン加えてすぐ遊びに行っちゃったの。」

『そうなんですか。』

「じゃあそろそろ切るわね。仕事が残ってるの。」

『あっすみません。夕飯前には帰りますから。』

「じゃあね。」







「ふんっ。」







見上げる空はどこまでも朱く





第七話




その身に打ち込まれる痛みのない楔






 はぁ




 誰もいない職員室で叔母への連絡をすませたシンジは一人ため息をついていた。職員室には今、シンジ以外誰もいない。少し冷房が効いているのだろうか、太陽の位置が高くなり日にさらされた廊下を歩いてきて少し汗ばんだシンジの頬を、さらっと冷たい風がなでる。日曜日の学校という物は普段のそれからは想像も出来ないくらい静かだ。生徒達が廊下を走る音もしない、校庭でいくつかのグループが遊んでる声も聞こえない。その奈々シンジが動かなければ今は静かに脈打つ心臓の音さえ聞き取れてしまいそうだ。生徒や教師達が居ない学校はただ大きな建物でさながらその空気は廃墟に似ていた。

 まだ少し叔母と話をするのはつらかった。他の人と話すことも今の自分には難しいだろう。

 シンジは置いた受話器に手を乗せたままじっと電話を見つめた。シンジの体のほんの少しだけ取り戻した温もりは、今叔母や叔父の言葉や表情に隠れた冷たさにほんの少し晒さらされただけで消えてしまいそうなほど、わずかな暖かさだった。シンジはやっと取り戻した体温が部屋の涼しさにさえ奪われてしまいそうになるのを押さえるように、シンジはもう一度その体を自分の両腕でそっと抱きしめた。

 シンジの顔には、もう先ほどまでの冷たすぎる雰囲気はない。その出で立ちは確かに明るい雰囲気は無いが、今は先ほどよりもしっかりとした存在感があった。憑き物が落ちた、そこまでは行かないにしてもその方に掛かっていた荷物が少し軽くなって、やっと今休んでいる。そんなところかもしれない。

 中野教師はもう帰ってしまったのだろうか。シンジは朝見た中野教師の机の上を見る。そこでふと、整理された机の上にいろんな写真が張ってあるのが目に映った。それは中野教師ととその他の生徒達の集合写真だったり、数人とのふざけてとったものだったりした。そのすべてが笑顔によって彩られている。

 シンジは己でも気づかぬうちにそれらに手を伸ばしていた。写真の中の人たちは、シンジがそっと、その一つ一つに指をはわせても、変わらぬ笑みをシンジに向けている。

 その中の一つにも手を伸ばそうとしたところで、その手が止まった。

 中野教師の家族の写真だった。他の物とは違い3人しか映ってない。中野教師と、彼と同じくらい年齢のベットに横たわっている女性がその腕に生まれたばかりであろう赤ん坊を抱いている様子が映っている。写真の雰囲気を見ると2・3年ほど前の物のようだ。映っている中野教師夫婦は他の写真同様、二人とも笑顔だった。シンジは他の写真よりもずっと長くその写真にふれていた。

 まるでそれが自分の思い出であるかのように。

 ゆっくりと手を離す。知らぬ家に、シンジは微笑んでいた。

 シンジは中野教師の机に背を向けると職員室の出口に向かった。その足取りに重い陰はない。



 もう一度、あの音楽室へいこう。今度は心からチェロが弾きたい。



 きっと今弾けば悲しいだけの音なんかでないから。






 音楽室にシンジはまた一人、先ほどと同じように弓を握っている。其処に硬さはなく、幻のような雰囲気もない。ただの八歳の少年としてのシンジがいた。
 
 添えていなかった左手を、今度は少々大きいチェロに何とか回してきちんと添える。そこでちょっとだけ、きゅっとチェロを抱きしめる。涼しい教室の日陰に置いていたはずのチェロは、シンジが抱きしめることにほっとする暖かさを返した。

 冷房はつけていない音楽室の中も涼しい。校舎の陰にあるせいで今は陽が入らない。窓は開け放たれていて風も入ってくる。

 シンジはそんな中、そっと周りの音に耳を傾ける。


 さわさわ、さわさわ。


 ミーーン、ミーーー・・・


 それだけで様々な音が聞こえる。それだけで素敵なメロディに聞こえる。その音をじゃましないように、融け込むように、と祈りながらシンジはゆっくりと弓を現に当て動かした。

 最初は先ほどまでと同じ、ただ弓を引くだけだった。一つ一つの音を今一度確認した後、音を一つずつ出すだけではなく音の切れ目無く弾きだした。決まったフレーズなんてどこにもない、流れるようにそれは奏でられた。聞こえてくるメロディにはシンジがテレビで聞いた音楽や街角で聞こえてきた音楽だったりした。それらを思いつくまま、よどみなくシンジは引き続けた。

 これが先ほどまで心を締め付けるような音を奏でていた物と同じ楽器だろうか。悲しみなんてどこにもない。小さな歓び、ただそれだけ。その音を聞く人が在ればそれはとても凡庸な弾き方、凡庸な表現だったことだろう。ちゃんとした一つの音楽ですらないのだから。けれど籠められている思いは決して凡庸の一言に尽きない深みのある物だったろう。

 シンジは思い出していた。

 初めて母にチェロをさわらせてもらった瞬間を。母に手を添えてもらい初めて自分で音を出せたときの感動を、自分出だしたい音を望み、自分の音が出せたときの感動を。


 思い出の中の母はいつも微笑んでいた。


 自分に、


 そして、いつもそばにいる父に。



 怒った所なんて見たことがない。声を荒げた所なんて聞いたことがない。その手を挙げる所なんて想像すら出来ない。


 母はとても穏やかな人だった。


 いつも、少女のように微笑んで、楽しそうな笑い声を上げ、自分の頬を撫でてくれるその手が、


 シンジは大好きだった。


 だから母が死んだとき、眼の前で居なくなってしまったときは、泣くことも忘れるほど悲しんだ。


 いつまでもいつまでも明けることなんてもう無いんだと思うくらい目の前が真っ暗になった。


 それは父も同じだったろう。


 僕にはこのチェロがあったから、真っ暗な夜を歩き続け、また朝を迎えることが出来た。


 お父さんはどうだったんだろう。


 父も母が大好きだったはずだ。それは自分がよく知っている。


 もしかしたら父は今も傷つき、暗い道を歩き続けているのかもしれない。


 じゃあ今度、お父さんにお母さんの曲を聴かせてあげよう。だからしっかり練習しなくちゃ。



 シンジは少し弾き方を変える。今まではただ指を動かして音を出すだけの、とぎれないように弓を引く素朴な響きがあるだけのものだっただった。それが少し一つのメロディを持とうとし始めた。其処に滑らかさは失われ、無理矢理弾こうとしたために、耳障りな音を出してしまうこともあった。

 今までの一つ一つの音を大切に弾き、流れだけを気にした物ではない。決められた流れを弾こうとしていた。それは、すぐにはちゃんとした音にはならない。弾こうとしている音と、シンジの技量に差があるからだ。

 シンジは必死にその差を埋めるために、何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、弓を動かし続けた。

 もう記憶にあるだけの母の曲を必死にたぐる寄せるように、そうすることで目の前にいない父に追いつけるように。メロディが一つ合うようになる度に、父に一歩、歩み寄れている気がして、止まることなく手を動かし続けた。





        今は亡き母を求め、幻想の父を追いかける





 その行為を人はむなしいと、決めつけるかもしれない。

 思うように母の曲が弾けない。思い出せない。最後に母がシンジにこの曲を聴かせたのはもうずっと前のこと。記憶に引っかかっているそれを何度も同じところを弾く。思うように進まないその作業はだんだんシンジの不安を煽りだした

 しかし、シンジには作業に固執するしかなかった。後ろを振り返り、その手を止めてしまえば追いかけてくる暗い不安の闇にとらえられそうな気がしていた。必死になればなるほど、シンジは自分の中の暗闇が晴れてく気がしたから。何かに夢中になることで不安を忘れることが出来た。

 だからその手を止めることが出来なかった。


 シンジがその手を止めたのは、次第に最初の目的も忘れ始めた頃、やっと一節、かすかに記憶にある母と同じように弾けたときだった。

 どれほど弾き続けていただろうか。音楽室の時計を見てみると、時間はもう少しで四時を半分まで回ろうとしていた。

 最後に、ざぁっと強い風が吹いた。教室の中にはき出したシンジの心の澱みをなぎ払っていくように、シンジの目の前の窓から入り、後ろの窓へと吹き抜けていった。その風をシンジは少し驚いたような顔をして見送った。

 ほっと息をつく。そこで自分が少しだけ泣いていることに気づく。本当に少しだけで、もう乾いて跡になりかけている。本当に最後の澱みがさっきの風で流された跡だったかもしれない。

 左手でその跡を拭おうとしたとき、





ズキッ「イタッ」





 突然、左手に痛みが走る。手を見てみると指先が赤くなっていて、チェロの弦にも血の跡がついている。ずいぶんと必死で弾いていたんだなと、他人事のようにシンジは思った。

 痛みにかまわず左手を握りしめ、その手をじっと見つめる。




「いたいなぁ。」




 シンジはその痛みを口にする。決して無視できる痛みではない。 

 必死だった。必死になって、例え幻想だとしても父の陰を追いかけた。分かり合いたくて、必死になった。この痛みはその証拠だ。

 シンジはこんな自分を知らなかった。時間を忘れるほどチェロを弾ける自分も、痛みを忘れるほどチェロを弾き続けた自分も。そんな自分を驚きながらも好意的に受け止めている自分も。

「もう・・・、先生のうちに・・・帰ろう。」

 今なら、なんとか先生達の前に立てそうな気がした。体も、演奏を続けたせいか、熱いくらいだ。それにここは自分でも知らなかった自分がいる。もしかしたらあの冷たさにも耐えられる自分がいるかもしれない。

 それに、いつまでもここにいるわけにもいかない。

 音楽室の戸締まりをしっかりと行い、チェロを準備室にしまう。少し寂しい。チェロを学校に置くことに決めたのは、庭に追い出されたく無かったからだ。学校に置いておけば叔父もその理由が無くなるだろうと思った。シンジは名残惜しく、寂しく感じながらもチェロをしまった。

 さあ帰ろう。『あの瞳』にさらされることもこれからは学校がある。手伝いを申し出ているとはいえ、先生たちに向かい合う機会は少なくなるだろう。きっと大丈夫。




 自分にそう言い聞かせ、彼は家路についた。







「ここどこ?」

 そして即座に道に迷っていた。

 最初のうちはその足取りも軽いものだった。今から帰ろうとしている家にも、新しい望みを胸にしたシンジにはそれほど悲観するようなものでもなかった。ただ明るい可能性だけに目を向けることが出来た。ただ問題なのは、

 目の前の道に見覚えがなったことだろうか?それとも、希望が出来たことがうれしくて、よく知らない道を走って帰ろうとしたことだろうか?

 もともとそんなに方向感覚もないうえ、ここは昨日始めてきた場所なのだ。そのときも散々迷い、バス停から歩いて十分も掛からないところから、一時間も迷った。そのときも、重い荷物を抱えてあるこのがやっとで、周りの道を覚えるなんて器用な真似はシンジには出来なかった。

 日もだいぶ沈みかけている。赤い夕日は、道に迷って不安なシンジの心を否応なしにかき乱す。

「うぅ・・・・、うぇっ・・・・」

 半分以上その表情には泣きが入っている。その思考もあっという間に暗いものに変わっている。


あーあ、何でいつもこうなんだろう。そういえば、幼稚園のときも初めてみた海に感動して浮き輪で沖に出ちゃったことがあったな。あれは怖かったなー。何せ周りが海しかなくて、先生たちが遠くのほうで蟻みたいに小さくなってたよなー。自力で戻ろうとしても波に流されてちっとも岸に着かなかったし。ようやく戻れたと思ったときは、お昼ご飯が終わってて、そのときいなかったせいで幼稚園の先生にものすごく怒られたし、事情を話したらもっと怒られたし。小学生になったっても、山の遠足のときに靴の紐が切れちゃって何とか結んで応急処置をして、気づいてみたらみんなどこかにいってるんだもんな。もう山を降りちゃったのかなと思って、急いで道を下っていったら誰もいなくて。どうしようどうしようって考えてもいいことが思いつかなくて。結局まだ山の上にいた先生たちが降りてくるまでその場に座り込んでたんだよな。そういえば玄関でお父さんのことを待っていたことがあったな。その日は帰ってくるのがいつもよりもだいぶ遅くて、なぜか知らないけどお父さんが迷子になっちゃたんじゃにかって思ってもうだいぶ暗くなってたのにサンダルで外を探しに行ったんだっけ。結局今みたいに迷子になって知らない日とだらけの中を歩くのも怖かったけれど、その後誰もとおらなくなっちゃったときは僕もう本気で帰れないんじゃないかって思った。結局おまわりさんに捕まって家に連れて行ってもらったんだ。そしたらお父さんが玄関でったって待ってたんだよな。あの時は怒られるんじゃないかって怖かったけど、お父さん、僕が泣きながら謝っても何にも答えてくれなかったんだ。やっとただいまって行ったら遅かったなって。それだけなのお父さんなんて、なんだかまた悲しくなってそのままげんかんでなきとうしたっけ。そういえばお母さんがまだいたとき・・・・・・・・・・



 延々とシンジの頭の中でそれらの愚痴は繰り返される。それでも足を引きずる様に動かし、ここが何処だか解らないにもかかわらず家へと向かおうとした。

 そのとき、

「あれ?碇、こんなとこで何してんの?」

 意外な声がシンジの背中にかけられた。

「・・・・ゆかりさん?」

「だから、ゆかりさんは辞めなさいって行ってるでしょう。」

 ゆかりは沈みかけている太陽を背にしてそこに立っていた。ロゴの入った白いシャツに青いジーンズという、活発は雰囲気を持つ彼女にとてもよく似合っていた。その顔には意外な人物に出会ったことへの驚きと、なぜこんなところをその人物が歩いているのかという疑問が浮かんでいるのが逆光の眩しさにくらむシンジにもよく見て取れた。

「で?、あんたはいったいこんなところで何をしているのかしら。今日は朝から学校にいってたんでしょう?何だってこんな時間にこんなとこ歩いてるの?」

「・・・うん、その・・・」

 シンジは今時分が置かれている状況を、目の前にいる同居人の少女に話そうかどうか悩んでいた。ありのままを話してしまうと、自分がとっても情けなくなると思った。

「ちょっと、この辺を散歩に。ほら!僕まだこの辺のことに詳しくないから・・・・」

「ふーん。」

何とかごまかそうとしたものの、彼女は初めて出会ったときと同様、なにやら観察するような目でシンジのことを見つめる。

「な、なんですか?・・・・」

「別に~。私はてっきり、道に迷って泣きべそかいてたのかなあーと思ってたもんだから。」

「!!み、見てたんですか?」

「あら、やっぱそうなの?ばかね~。」

 あきれたようにゆかりは目の前にいるシンジを見ていた。

 あっという間に手玉に取られてしまうシンジ。そこにはもう逃げ場は存在していなかった。まだからかわれるんだろうなと考えていたシンジをよそに、ゆかりはきびすを返した。

「なにやってんの?ほら、帰るわよ。」

「!?。案内してくれるの?」

 ボーっと突っ立ったままのシンジに、ゆかりは背を向けたままそういった。シンジは意外そうに目の前を歩いていこうとする少女を見た。

「当たり前でしょう?あんた、誰んちに昨日から住み始めたか、今日になってもう忘れたの?」

「う、ううんそうじゃないけど・・・・」

「なら早く帰るわよ。もうすぐ夕飯なんだし。私おなか減ったし。」

「・・・・そう、ですね。帰ろうか。」

 そういって二人は同じ道を歩き始めた。シンジは照れたように笑った。その顔を見たゆかりは少し驚いていた。

「・・・・あんた笑えたのね。顔の筋肉、その暗そうな顔のまま神経切れてんのかと思ってたわ。」

「・・・・そんなことない、ですよ。ひどいなぁ。」

「だってあんた昨日の夕食んときもずっとくらーいまんまだったじゃない。」

「ああいうのにまだなれてなくて・・・・その、」

「うわっ、やっぱあんたって、暗ーい。何いってんのよ、あれくらい何処でもフツーでしょうが。」

「・・・・うん。そう・・・ですね。」

「?」

 シンジは俯き、その顔にはそっと暗い影が出来た。ゆかりのいう暗い顔というものとは違う、より深刻なものだ。

 ふいっとゆかりは視線をシンジから離した。しばらくの間、二人は黙って歩き続けた。

 次に沈黙を破ったのはゆかりからだった。

「ねぇ、碇!!。」

 その一声は少しいらだっているようにも聞こえた。

「はっはい?」

「あんた、何でそんなに暗いの?」

 何の気なしに出した言葉。ただの世間話を始めるためのきっかけ。シンジは少し驚いたものの、ゆかりの言葉の意味をそう受け止めた。

「・・・・そんなことを言われても。僕はまえからこんなだし・・・」

「あーーくらい。顔はうつむいたままだし、声も小さいし。」

「・・・・・」

 あんまりな言葉に、シンジが二の句を告げないでいると、シンジが彼女の口から一番聞きたくない言葉が聞こえてきた。







「こえれじゃぁ、パパやママがあんなこと言うのも無理ないかも。」







 さっと、世界が音を立てて崩れていくのがシンジには聞こえた。視線を地面に向けたまま顔を上げることができない。

「・・・・どういう・・こと?」

「あら?あんたも昨日の晩聞いてたじゃない、パパとママの話。」

「・・・・・・・・どう・・・して!!、・・・・君が知ってるの?」

 あなたには知られたくなかったのに。シンジの動揺した様子が気に入ったのか、ゆかりはシンジの反応を楽しむように言葉を続けた。

「あの時わたしもねぇ、階段のところにいたんだよ?」

「!!!・・・・・・・」

「だからねー、勝手に耳に入ってきちゃっさー。」

 何でもないことのように彼女は明るい口調のままそういった。

「・・・・・」

「そうだ、このこと明日みんなに聞いてもらおうかなー。」

「!!」

 彼女の一見無邪気な一言は、シンジに決定的な影を落とした。シンジの脳裏に『あの目』で囲まれて見られている自分が思い浮かぶ。学校という逃げ道までふさがれてしまうのか。シンジに暗い影が追いつき、その足を止めさせ目の前を暗く閉ざしてしまう。

「ねぇ、碇シンジ君?どうするー?」

 明るい彼女の声がシンジの耳が届く。それはとても楽しげで、シンジの心を抉る。もう自分にはこの流れを止めることもできない。逃げ道もふさがれてしまった。引くことも進むこともとどまることも叶わない。

「・・・・・・ぃで・・・・」

「ん?なーにー、よくきこえないよー?。」

「ぉ・・・ぃ・・・・・・わないで・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・・」

 どんどん声の小さくなるシンジに、ゆかりは耳を近づける。

「お願い、・・・・・みんなには、言わないで・・・・。君の言うこと、何でも聞いてもいいから・・・・・・・・お願い。」

 シンジは俺だけを言うとそのまま黙ってしまった。もうそれしか、自分が助かる道はないとでも続けるように。

 自分の身など、どう使われてもかまわない。あの頃のように『あの瞳』で見られ続けるくらいならいっそ・・・・・。

 ゆかりはシンジのその言葉を聞くと、さっとシンジから身を離した。シンジは顔伏せて気がつけないが、その顔は驚き、次第に険しいものとなっていく。

「・・・・・・・・・・・・」

「お願い・・・・・・・」

最後にシンジがそう呟くのを聞き届けると、引き金を引かれたようにゆかりは、シンジに背を向けて怒鳴った。




「・・・・・・・つまんない!!。」

「・・・・え?」





 シンジは驚いて思わずゆかりの背中をみる。しかしそれ以上は視線を上げることは適わなかった。もしゆかりが振り返り、その瞳を見ることがあればその瞳はきっと物言わぬほど黒く、自分を見つめることだろうと思い怖かった。それに、

「言ったりしないわよ。あーーでも、言うことは何でも聞いてもらおうかしら?」

「・・・・・・」

 彼女の次の言葉はきっと自分にとってよくないものだろうと、シンジは身を硬くして彼女の次の言葉を待った。





「笑いなさい。」


「・・・・・・・え?」





 然し、またもや彼女の言葉はシンジを驚かせた。シンジは戸惑ったままその真意を測りかねていた。

「あんたもっと笑いなさい。そんな辛気臭い顔ばっかされたんじゃこっちまで暗くなるんだから。いいわね!!まだまだいっぱい在るけど、いまはこれだけにしといてあげるわ。わかった?」

「・・・う、うん。」

「言ったそばから・・・・。顔上げなさいよ。」

 そっと顔を上げる。まだシンジは怖かった。記憶にある『あの目』でシンジのことを見ているゆかりがいるのではないかと。だから顔を上げても彼女の顔は見れなかった。

 それを見届けたゆかりはさっさと歩き出してしまった。シンジがその足取りを、ボーと見送っているとそれに気づいたゆかりがシンジのへ振り返った。

「ん?ほら、あんた私の言うこときくんでしょ?ならさっさと付いてきなさいよ。」

 ゆかりはシンジにそう促した。思わずシンジは彼女の顔を見、その瞳を、彼女を見た。

 そこにいた彼女は、あの『朱い空』の下にいるのにもかかわらず、今まで見たいと思っていた、きっと綺麗だろうなと思っていた笑顔をその顔に浮かべていた。しかしその笑顔の真意も今のシンジには理解できなかった。

 彼女の後ろに見える太陽はさらに沈みかけ、より一層その輝きを増している。それでも彼女の瞳は強くなる逆光の中でも目に見えるほど輝いて、シンジが考えていた暗いものなんて微塵もなく、見とれるほど澄んでいた。

 そして戸惑うシンジと、微笑んでいるゆかりは家路に着いた。

 そうして、陽は沈んでいった。








 彼女はそっと僕の心に何かを打ち込んだ。


 それは痛みを伴わず、重さだけを残してそっと心に残った。


 僕はそれをどうしたらいいのかわからなかった


 もう、どうなってもいいと感じたその体は軽くて、


 どこまでも飛んでいってしまいそうだった。


 だけどその楔は


 そうして何処かに行ってしまいそうな僕の体をこの場所に止め続けた。


 それがどんな意味を持つのかは、今の僕には解らない。




[246] 見上げる空はどこまでも朱く  第八話
Name: haniwa
Date: 2006/08/16 15:28
 これまで『見上げる空はどこまでも朱く』の雰囲気が面白いといってくださった皆様、申し訳ありません。今回の話は少しこれまでと違った雰囲気になっています。あんまり暗くありません。どういった話になっているかはいえませんが、haniwaはつらいシンジ君を書くのにちょっと疲れたとだけ言っておきます。最後にもう一度すみません。こういう話も書いてみたかったんです。
では、第八話をお楽しみください。





































「おい、聞いたか。今日転校生が来るってよ。」

「えー、男?それとも女?」

「あー其処まで調べてないや。」

「なんだよ肝心なことがぬけてんな。」

「そうだなー。今男子が来てくれれば女子より男子の人数が多くなるんだけどな。」

「そうだな。いい加減女子にでかい顔させてられねえもんな。」

「いや一番手強いのは山川だからな。相当強そうな奴が来てくんねぇと話になんねえよ。」

「最悪、女子でないことを祈ろう。」

「レクリエーションでドッジボールが出来るようになるかなー。」

「転校生次第だな。」

「でさ、今日のあれどうする。」

「まだやんのかよ。いい加減先生もひっかからねえって。」

「いや、今回は転校生が来てるから油断してるかも。」

「なるほど。」

「で、今回はさー・・・・」











「ねえ聞いた?今日転校生が来るんだって。」

「へー、女子?男子?」

「あっ聞き忘れてた。」

「あんたまたなのー?いっつもそんなじゃなーい。」

「しょうがないじゃん。聞いたときびっくりしたんだから。」

「女子だといいですね。いい加減クラス会で、女子対男子の言い合いなんて疲れますから。」

「まあ均衡は崩れるねー。」

「あれ?ゆかりちゃんは?こういう話一番好きそうなのに。」

「なに?」

「転校生のこと気にならない?」

「別にどうだっていいわよ。そんなことよりあいつ等、まだあんなことしてるわよ。」

「あー今週もやるんだ。いい加減先生も賭のことなんて忘れてるのにね。」

「もう手段が目的になってるって感じかしら?」

「どういうこと?」

「あいつ等がバカだってことよ。」












それはシンジが教室に着くまでに、二年二組でされた会話のほんの一部である。












第八話







初めての夕焼け       日ノ出編







 シンジと中野教師は普段の喧噪を取り戻した学校の廊下を、中野教師が先導するように進んでいた。その道すがら、今日の予定について中野教師はシンジに説明していた。今、廊下にはシンジ達の他に誰もいないが、まだ教師が着いていない教室から生徒達の雑談の声やふざけ合う雰囲気などが廊下にまで届き、休日の廊下とは比べものにならないほど賑やかだ。

 階段を上がってすぐ、二人は目的地の二年二組の教室にたどり着いた。もう他の教室では朝のホームルームが始まっているのだろう。先ほどまでの生徒達の騒ぐような声は聞こえない。目の前の教室はまだ先生が着いていないのにも関わらず聞こえてくる声は静かだ。

 教室の前で二人は立ち止まり、最後の確認をするために中野教師はシンジの方へ振り返った。

「じゃあシンジ君、まず僕は先に入って後から君のことを呼ぶから、そのときに入って来てくれるかな?」

「ハイ、解リマシタ。」

「あはは。そんなに緊張しなくていいんだよ?教室には行ったら自己紹介をして、その後、教える席に着いてね?。」

「ハイ、解リマシタ。」

「・・・・・」

「・・・・・」

 感情のこもっていない声でシンジは答えてた。振り返り見る中野教師ともさりげなく視線をそらし、目を合わせようとはしない。

 それだけではない。

 二人の間には、妙な緊張感が漂っていた。其処にある違和感にわざと眼をそれしているようなよそよそしさがある。

 二人は教室に着くまでの間、事務的なこと以外はほとんど話をせず、目も合わせることもなく廊下を歩いていた。中野教師はなるべくシンジの方を見ないようにしていたし、シンジは人目に付かないように体を小さくし、前を歩く中野教師の後ろに隠れるように歩いていた。そして一度話しかけられればすぐに返事を返して会話を終わらせる。自分に向けられる意識をすぐにでも断ち切るためだ。

 そのため二人に会話はなく、その崩し難い均衡を保ったまま職員室から二年生の教室を歩いていた。

「・・・・・シンジ君、二つほど質問してもいいかな?」

「・・・・・なん・・・・でしょうか。」

 その疑問は今日の朝、シンジが中野教師の前に立ったときから彼の中で生まれていたものだった。それをずっとため込んでいたのは、中野教師自身シンジにこの質問をすることが躊躇われたからだ。

 シンジはなるべく顔を上げないように、上目遣いで辛うじて中野教師の顔を見た。もちろん中野教師とは目を合わせないように。

「いや、たいしたことじゃないんだけどね。?」

「・・・・・・・・・・・・・・」

シンジの雰囲気はなにやら必死だったため、中野教師は少々たじろぎながらも言葉を続ける。

「・・・・・・・・・シンジ君、今日はなんだかずいぶんと・・・・いや男の子に言うことではないと解っているんだけど・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 言っていいものか、暗い雰囲気をますます濃くしていくシンジに戸惑いながら、二年二組担任教師生活七年目、中野はその最後の言葉を口にした。







「・・・・・・・・・・・・・・・・ずいぶんと、可愛らしいね?。」

「!!!」






 その一言で、シンジの時間は止められた。

 堅さものはあるものの、昨日より中野教師と普通に接していたシンジの動きが一瞬にして固まってしまった。みるみるその顔が羞恥によって赤くなっていく。
 
 今のシンジ格好は、少しだけ長めな前髪を左右にヘアピンで留め、服装がオーバーオールにティーシャツという普段のシンジは着ないような、なかなか活動的な服だった。問題はヘアピンも服も、かわいらしい花柄の模様がワンポイントで入って入りことだ。左右のヘアピンにはそれぞれ色の違う花の飾りが、オーバーオールにはその胸元に派手すぎないが、ひっそりと自己主張する花の模様が一つ二つ、刺繍されている。

 はっきり言うと、その服装は中性的なシンジの雰囲気をさらに性別の判断が難しいものにしていた。

 これ以上赤くならないだろうと思わせるほど顔を赤くしたシンジは、しゃべるのも恥ずかしいといった様子で、目の前の中野教師に呟くように話した。

「・・・お願い、です先生。・・・・・・そのことについては、・・・・・・・・・そっとしておいてください。」

 シンジは追いつめられたような、もしくはすでに諦めが入り始めているような様子で中野教師にそう伝えた。なにやらただごとではない雰囲気を感じ取った中野教師は最後にもう一つだけ、目の前の少年の核心をついてしまう言葉を着いてしまった。









「じゃあ二つめだけど、・・・・・・・・・・・・・・・・・・山川君かい?」

「!!!」







 そして、再びシンジの時は止められた。

 シンジが明らかな動揺を見せ、赤かった顔から今度は血の気が引いていく。中野教師から視線をそらし挙動不審になっていき、答えを言うか言うまいかいかという彼の中の葛藤が聞こえてくるようだ。どうやら堅く、口止めされているらしい。

そのとき目の前の教室から少しだけささやくような会話が聞こえてきた。








ざわざわ・・・

「・・・・なんだよ山川、転校生のこと気にならないのかよ」

「べつにー。そう言う訳じゃないけど?」

「じゃあ何で?なにか知ってるの?」

「・・・・・・・・・・楽しみに、してなさい。」

くっくっくっ・・・・・・・・

ざわっ

しーーーん








廊下に、少々の賑やかさを伴った平穏が、何ともいえない重圧感と共に戻ってきた。

「「・・・・・・・・・・・・・・・」」
 
 眉を困ったように歪め、再びその顔を赤くし、堅く無言を貫くシンジ。その様子をどうしていいか戸惑うように見つめる中野教師。

 しかし、教師生活七年目の中野教師はそんなシンジの心の動きを見事にとらえ、シンジの置かれている状況を正しく理解してしまった。そして今、自分が出来る最大のアドバイスをこの目の前にいる、迷える己の生徒に与えることにした。

「シンジ君。」

「はい?」

優しく自分の名前を呼ばれ、シンジはもう一度上目遣いで、すがるような気持ちで中野教師の次の言葉を待った。

「・・・・・・・・・」

「・・・・・・・・・」

 しばらく、そのまま見つめ合う二人。一方はこの先の打開策を目の前の男が与えてくれると信じて、然しもう一方は、改めて目の前の少年を見つめ、考えを改める。

(・・・・・・・・・かわいいねぇ。・・・・・・・・・似合ってるから、まぁいいかな?)

 この状況を甘んじて受け入れ始めていた。そうしてそのしばしの逡巡の後に、その口から放たれた言葉は






「・・・・・・・がんばってくれ。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい。」






 力強くも、現在のシンジの状況を打破してくれるものではなかった。

 残念なことに自分ではこの子の悩みを解決出来ることは出来なかったようだ。そう中野教師は悟り、教師としての自らの腕をこれからも鍛え続けることを目の前の少年に心の中で誓った後、






 それまでのことを無かったことにした。






 これが、今の自分に出来る男の、否、漢の情けであると信じて。

 例え目の前の少年が落胆に顔を伏せているとしても。

 誰もいない廊下で行われたこの水面下でのやり取りは、このような形で終わった。中野教師は気持ちの中で仕切り直し、改めて自分の担当するクラスの教室に入ろうと、その手を扉に向けた。
 
 しかしふと、その手は扉に届くことなく空中で止められた。中野教師はなにやら思案顔で目の前の扉を見つめている。

 落胆に顔を伏せていたシンジは中野教師が教室にはいることなくその動きを止めたことを不思議に思い、様子を見守っている。中野教師はその事にはしずく様子もなくすっと自分の体を扉の右側にずらした。どうしたんだろうという思いを強くしたシンジはその背中に声を書けようとするが、中野教師は改めてその扉に手を掛け、一気に引き戸を引いた。

バァン!!

 鋭く、はじけるような音と共に、先ほどまで中野教師が体をおいていたところにそこそこの勢いの付いた掃除用の箒がバネ仕掛けのように起きあがりそして廊下側に倒れてきた。中野教師が普通に教室の扉を開けていれば、その箒は中野教師の顔があった場所を通り過ぎていき、廊下に転がった。

「あぁーーー・・・・・・・」

企みが失敗したことによる落胆の声が教室から聞こえてくる。もはや中野教師が標的だったことは明らかとなった。

「ふぅ、全くあの子等も懲りないな。」

 自分に対して仕掛けられたであろうそのトラップを何事もなく目の前で見送り、中野教師はそう感想を漏らした。

「よし、みんな残念だったね。じゃあ今日もしっかり席について。僕の話を聞いてください。日直の人、号令をお願いします。」

 驚いて目を見開いてるシンジをよそに、中野教師は箒を回収しながらそのまま教室に入っていった。

 その一連の流れをシンジはただ見送っていた。










 中野教師が出席をとり、ホームルームもある程度進んだあと、一人の生徒の声が流れを断ち切った。

「せんせー、そんなことよりさー転校生が来てるってホントですかー?」

 教室はその話題をなかなか切り出さない担任にいらいらし、その不満が高まっていた。その一言は、不満を一気に解放し、教室にあったなけなしの秩序をあっさり崩壊させた。

「えー!!、そうなの?わたし聞いてなーい。」

「先生!!それ男!?男ー!!?」

「どんな奴かなー?」

「どんな子だろうねー」

「わははーー、早くでてこーい。」

「はやくはやく!!」

 あふれ出す声は様々で、それぞれの主張を思い思い荷口にする。止まる気配を見せないそれらの言葉の中に一人の声が響いた

「みんなっ!!静かにしなさい!!」

「・・・・・・・・・」

 あっと言う間もないほど、大きいわけでもない声はけれど確実に皆の耳に響き、教室は静けさを取り戻す。

「どっどうしたの?ゆかりちゃん?」

「おまえだって楽しみにしてたじゃん。」

 ゆかりは先ほどの騒ぎの中一人だけ静かに担任の言葉を待っていた。それは静かに獲物を待つ肉食獣のような気配だったかもしれない。然しいつまで経っても獲物はこない。ゆかりは教室にいるどの生徒よりも待ちこがれ、そして苛立っていた。だからつい彼女らしくも無く口を滑らせてしまった。

「だからっていつまでも騒いでたらあの子いつまで経っても入ってこないじゃない。」

「??あの子って、やっぱり何か知って・・・・・」

 そしてその苛立ちは、少し声を出しただけでは治まるはずもなく、不用意に声を掛けてしまった一人の少年に牙を剥いた。

「あら、田中君。私静かにしてねって言わなかったかしら?」

「うっ・・・・・・・」

(あー、田中もいちいち山川につっこむから・・・・・)

 哀れな田中君はぴたりと動きすら止めてしまう。ゆかりは、そのきれいな顔立ちを苛立ちで歪めることはない。いつもクラスで振りまいている笑顔を浮かべ、その相手の方を見た。直接その笑みを向けられたもの以外にはその微笑みは可愛らしいものだったかもしれない。然し、それなりに彼女との面識があるものにはその笑みは背筋の凍るような思いのする笑みだった。

 教室の生徒には先ほどの言葉が別の意味に聞こえた。もし先ほどの言葉に副音声をつけるとするならこういった意味になったことだろう。


(だまらねぇと、・・・・・解ってるわよね?田中ぁぁぁあl!!!)


もうそれ以上ゆかりに意見をしようとする気概のあるものはいなかった。


「ふん!」


一人の生徒を凍らせ、周りの現状に満足したように一息つくとゆかりは担任の方を向き、その場を仕切り直した。

「では先生、後はお願いします。」

「ん、山川君いつもすまないね。」

「いいえ、気にしないでください。」

そのやり取りはいつも道理の優等生なゆかりに戻っていた。中野教師も何も言わない。ただこれ以上、場があれなくなれば特に気にはならないようだ。

「じゃあ碇くーん。入ってきなさい」

 中野教師が廊下に向かい声を掛けた。少し間が空いたあと、ゆっくりとその問いビラは開かれ覗き込むように廊下にいたシンジは顔を出してた。

がらがら・・・・・

ひょい、

「あーーー・・・・・・」

 シンジを見た瞬間、一方の集団が残念そうな声を上げ、、

「やったーーーー!!」

 もう片方は、まるで勝利の雄叫びのような声を上げた。

 シンジはその声に驚き、思わず首を引っ込めてしまった。

「あー、みんな静かに。碇君、恥ずかしがらずにちゃんと入ってきなさい。」

 中野教師はもう一度、廊下に戻ってしまったシンジを呼ぶ。シンジは先ほどよりも時間を掛けて扉を開き、今度は勢いをつけて一気にその体を教室の中にいれ、扉を閉めた。勢いが付きすぎて扉が大きな音を立てる。その音に自分で驚きながらもシンジはさっと教壇の真ん中辺りまで歩き教室にいる生徒達の正面に立った。一連の行動はすべてシンジ自身が己の逃げ道をふさぐためだ。

 そして意を決して、自己紹介をしようとしたところ、

「みっ。みみっ、皆さんはじめましたっ。あっ」

 見事に空回りしてしまった。そのまま頭が真っ白になってしまったシンジは辛うじて上げていた顔を伏せ、耳まで真っ赤になりながら黙りこくってしまった。

「・・・・・・・ぷっ」

「あははははははは・・・・・・・・・・・・」

 そんな様子のシンジを見てクラスの一人が吹き出した。そのあとはもうシンジ一人で形作っていた緊張した空気はあっという間に崩れ去り教室にどっと笑いが起きた。

「はーいみんな静かに。碇君、続けて。」

「・・・・はい、すみません。」

 蚊の泣くような声まま、シンジは答えた。其処からなかなか言葉を続けろことが出来ないシンジを教室の生徒全員が待った。自分を急かすでもなくそっと待ってくれる雰囲気も今のシンジには緊張を悪化させるものにしかならなかったが、ふと別の意志がこもった視線を感じ取りすこしだけ顔を上げた。

 其処にはたいそう機嫌を損ねた顔をしたゆかりがシンジを見つめていた。

(ひぅっ)

 もう少しで悲鳴を上げてしまいそうなほどその瞳は力強くシンジを見つめていた。シンジはさっと顔を下げてしまった。其処にどんな葛藤があったかは伏せられた顔からは察することは出来ないが、シンジはそのままゆっくりと自己紹介を再会させた。

「はっ初めまして、・・・・碇シンジです。今日から皆さんと一緒に勉強することになりましたっ。よろしく・・・・・・・お願いします。」

 シンジは紹介を進めながらゆっくりと顔を上げていき最後にはぎこちないがにっこりと笑ってそれを終えた。

「よし、じゃあシンジ君あの席が空いてるからそこに・・・・・」

 手はず道理に、シンジの席を示し誘導しようとする中野教師に一人の生徒から提案の声が上がった。

「せんせー、碇『さん』に質問タイムはないんですかー?」

「ん?そうだな・・・・」

「!!」

 自分にとっては大仕事を終えたシンジはほっと息をついていたが、安心したのも束の間、とんでもない提案がなされた。誰がそんな提案をと再び顔を動かすと、






 其処には、手をまっすぐに挙げ、にっこり微笑まれているゆかり嬢がいた。






 シンジは焦り、提案を受けた担任ががどう返事をするのかとそちらの方に視線を動かした。なにやら悩んでいるようだ。

「んーーーーーーーーーー」

(先生やめてくださいお願いです。)

 シンジはじっとそんな様子の担任を見つめ、通じないテレパシーに己の命運を賭けた。

「まぁいいか。じゃあ算数の時間を使って碇君の歓迎もかねた質問タイムとしよう。」

「「「やったー!!!」」」

(そっそんな!!)

そして見事にシンジのテレパシーは弾かれ、届くことの無かった心の声は生徒達の歓声によってかき消された。

「じゃあ質問のある人ー」

「・・・・・・・・・」

 そんなシンジの様子を悟るでもなく、むしろ嬉々として質問を受け付け始めた担任に、シンジは届かないと判っている恨みの念をその胸に抱いた。しかし次の瞬間シンジの思考は、連続して投げかけられ始めた質問によって支配された。

「はーい。碇さんはどこから転校してきたのー?」

これは目の前にいた女子から、

「あっ、えっと神奈川の方からです・・・」

「今どこに住んでるの?」

次に教室の廊下側の前から三列目に座っていた女子から

「ええ!!・・・○×町です。」

「得意な科目は?」

次に正反対に座っていた窓際の男子から

「あわわ・算数・・・が得意です。あっ後音楽が好きです。」

「体育は?」

その後ろに座っていた同じく男子から

「運動はあんまり・・・・」

「兄弟っている?」

次に廊下側の女子、

「一人っ子です・・・」

「趣味ってなーにー?」

また反対側の男子、

「ええええと楽器ができますからそれです。」

「なんて楽器?」

教室の真ん中に座っていた女子、

「ええっと、チェっ、チェロが引けます。」

「ねえ、チェロってどんなの?」

「あーー、わたし知ってるバイオリンのデッカイやつだよね!!。もってるの?」

次に後ろのほうの別々の女子二人から

「うわ、あわわ、はっはい。」

 次々と発せられる質問に顔をいちいち向けながら混乱しながらも答えを返していった。あちらこちらから掛けられる質問にシンジの頭は忙しく動かされた。

「「「おーーーー」」」

「あわわわ!!」

そして帰ってくる反応一つひとつに混乱していた。

「すごいねー。」

「今年の音楽会はもらったな!!」

「おぅ、うちのクラスには山川もいるしな。」

「去年は歌はよかったけど、楽器の方はどっかの誰かさんが途中でくしゃみなんかしたからねー」

「なんだよ!!、お前だって間違えたくせに!!!。」

「そんなことより、好きなアイドルは?」

「あいどる?・・・・スミマセンあんまりテレビとか見ないから・・・」

「えーそうなの?K○T-T○Nとかかっこいーのに。」

「そりゃあんたが好きなだけでしょうが!!」

「えへへ、ばれた??」

「それにしても、シンジって変わった名前だね?」

「え?そっそうかな・・・・・」

 自分の名前にそういった評価をされたことがなかったシンジは困惑の色を隠せない。自分の名前は、男の子としてはそう珍しいものではないと考えていたからだ。

「そうそう、それにテレビ見ないってのも。」

「・・・・そう?」

「そうだよー。やっぱり流行には敏感でなくっちゃ。おくれちゃうよー?」

「・・・・・?」

 そこで、引きずっていた疑問の形が微妙な変化を始めた。シンジ自身はそのことにはまだ気がついていない。

「今日の服は可愛いけどさー、やっぱり・・の子なんだし・・・・」

「あれ?」

 その言葉にシンジは耳を疑った。彼女は今なんと言っただろう。視線を動かし質問に答えることに精一杯で、質問以外の言葉がうまく耳に残らなかった。

「そうだ、碇『さん』の歌のパート決めとかないと。」

「やっぱ、ソプラノかな?」

「そりゃそうでしょうー、碇さん声高そうだしー。」

「あっ、あのぅ、ちょっと・・・・・」

「あっあとで学校案内してあげるねー。この学校ね、なんか他のとこと違ってトイレの位置が男子と女子逆なんだって。」

「間違えて男子の方にはいっちゃだめよ。」

 シンジは先ほど自分がなんと呼ばれたか悟りだした。先ほどの彼女はこういったのだ。








『今日の服は可愛いけどさー、やっぱり【女】の子なんだし・・・・』








 シンジは愕然と、己に掛けられた言葉に見つめなおした。違和感の正体とは、つまり・・・・・クラス全員の自分の性別に対する認識の間違いからきていた物だった。その事に思い至ったシンジはただ呆然とし、続ける言葉を見いだせないでいた。ただただ自分の性別が女と間違えられているにも関わらず、事態はスムーズに進行していくことを自分にはもう止められないと悟りながら。







「・・・・・ぷっ」







 シンジが事実にショックを受けているところに、場違いな笑い声が上がった。

「あっははははは、ひっく、ひひっ。あははははははははは」

「「「「「???」」」」」

 その様子に、クラス全員は会話を中断し、窓際の一番後ろの席で一人笑い続けるその生徒に視線を向けた。ゆかりは視線にかまわず、いつもの自分のキャラクターも忘れ一人だけツボに入ったような笑い声を上げていた。ゆかりの様子に恨みがましい視線を向けシンジは呟く。

「・・・・・ひどいよ、山川さん・・・・・」

「あはは、ごめんごめん。でも・・・・」

「「「「「?」」」」」

「似合ってるわよ【碇ちゃん】。・・・・くく。あーはははははは」

「うぅーー」

 釈明もろくに行えないほど、ゆかりは自らの企みの成功にその他のものを気遣う様子も見せずに笑い続けた。教室のその他の生徒達はここに来てやっと笑い続ける同級生を観察することを中断し先ほどのやり取りについての糾弾をはじめた。

「ちょっとゆかりちゃんどうゆうこと?」

「なんだよ山川、やっぱ碇さんのこと知ってたんじゃないかよ。」

「ええ、知らないわ。『碇さん』、なんて。」


 質問に対してもゆかりは笑いをこらえきれないせいか、それともただ焦らしているせいなのかはっきりした答えを出さないままゆかりは諭すような答えを、未だ混乱からぬけきらない生徒達に返した。笑い続けたい衝動をこらえつつ、ゆかりはこの答えによって皆が真実に気づき驚くことを予想しながら皆の反応を待った。然し返ってくる反応は未だ混乱したままの生徒達の気配だけだった。







「「「「「??」」」」」




「えっ!!」







 さすがにこの反応は予想外だったのかゆかりは少し焦った声を出し、皆を見渡す。その行動も皆の混乱を煽るだけに終わった。教師をのぞく生徒全員の頭の上に大量の疑問符が浮かぶ。

「ちょっ、ちょっとみんな?ホントに分かんないの?」

「「「「「???」」」」」

「・・・・・碇、気をしっかりね。ぷふっ、くくくくっ」

「ううぅっ・・・・・・・」

 ここまでくるとこらえてきた衝動も抑えきれなくなった。まさか自力で気づくものが出てこないほど己の策略が完璧だったことにゆかりは笑みが止まらない。少しもったいない気がするがシンジの瞳に本格的な涙が浮かびはじめているのを確認したためこの騒動をお開きにするべくゆかりは言葉を紡いだ。

「だから!!いったいどういいうこと?」

「あはは・・・・・碇はねぇ・・・・、」








男よ!!








 じゃぁーーーん。そんな言葉が聞こえそうなほどゆかりは教室のみなに手を広げ高らかな宣言と共に種明かしをした。驚愕に目をむくであろうみなの表情をその脳裏に浮かべて。







「「「「「・・・・・・・・・はっ?」」」」」







 然しその反応は鈍いものしか返ってこなかった。それどころかゆかりのことを未だに疑問の目で皆は見ていた。これまた予想外の反応にゆかりは本格的に焦りだした。さらに言葉を重ねてみるが・・・・

「だから!!、碇はお・と・こ・の・こ。男の子なのよ!!!」

「ゆかりちゃん。」

「山川。」

クラスメイトは冷静に、そしてゆかりを責めるような目で女子男子ともに、ゆかりに対して諭すように話しかけた。

「なによ!!!」

「それはやりすぎじゃない?」

「そうだぞ。まさか転校してそうそうにいじめるなんて。」

「そっそれは・・・・」

 一向に自らの思い通りの反応を返さないクラスメイトに苛立ちを覚えはじめていたゆかりはその言葉にのどを詰まらせた。実際にしんじに意地悪をしたことは確かだったためその後ろめたさを見事に射抜かれた気がしたが、クラスメイト達は、まだ何も解っていなかった。







「「いくら、碇『さん』が可愛いからって・・・」」

「は?」







 それがどうやら男子女子の共通の意見だったらしい。クラスの気持ちは一つになっていた。とんでもない誤解を含んだまま。事態は暴走しはじめようとしていた。

「そうそう、ゆかりちゃんは、また違ったかわいさがあるんだから。いきなり目をつけちゃかわいそうよ。」

「なかよくしなきゃなー。」

「・・・・あんた達・・・・・・まだ解ってなかったのね。」

「・・・・だから、やめましょうって、ぅっく、言ったのに、ひっぐ・・・・・」

 種明かしをした時点でやっと誤解が解けると安堵していたシンジは、一向に溶ける気配を見せないこの現状と、それを引き起こしているのが己の容姿のせいだという自己嫌悪が相まって、再び泣きが入ろうとしている。なけなしのの思いでゆかりに抗議した。

「えーと、・・・・・・マジでごめん。」

 さすがにこの展開では罪悪感が勝ってしまったゆかりはひねくれながらもシンジに詫びた。まさかここまで皆の勘違いが暴走するとは思いも付かなかった。

「え?碇さん・・・・」

 クラスメイトは目の前で行われたやり取りに事態の見直しを迫られていた。然しそれも真実に至るものではない。シンジは自分で視線の先に座る同居人が引き起こし、そして自らが実行犯となってしまったこの一連の騒動に自らの手で決着をつける必要を迫られていた。

 そしてゆっくり、シンジは破滅の呪文を口にした。







「皆さん・・・・・僕、本当に・・・・本当に男です。」

「「「「「は?」」」」」

会心の一撃!!









「「「「「はーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」」」」」

こうかはバツグンだ!!!


 そして再び教室は混乱を取り戻し、事態はようやく終演に向かっていた。

「ウソだーー」

ホントです・・・・

「こんなに可愛いのに??」

うれしくないです・・・

「こんなに女の子っぽいのに??」

うれしくないです!!

「「「「「こんなに小さいのにーーーーー!!!!!」」」」」

うれ・・・・・

「うっ、うわーーーーーーーーん。」







そうして、一人の少年の心に今日もまた、苦い思い出が刻まれていくのを、窓際の少女は哀れみのこもった目で見ていた。














日ノ入編に続く。弁明という名の後書きもそちらに。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く  第九話
Name: haniwa
Date: 2006/08/08 16:49
『いい!この格好で学校に来るのよ!!』

『え!!いっいやだよこんな・・・・』

『何よ、私の言うこと何でも聞くんでしょう?』

『そっそれは・・・・・』

『あと、自己紹介の時、ちゃんと笑いなさいよ。じゃあ私先に行くから。』

『あっ、待ってくださいよ・・・・ゆかりさーん!!』

これが、本日の朝の山川家、シンジの部屋での出来事だった。










初めての夕焼け      日ノ入編









はぁーーーー



 その深い深いため息は放課後の音楽室で出されたものだった。ため息を吐いた人物はその胸にいったいどんな思いを抱き、そしてはき出しているのだろうか。そう思わずにはいられないほど、シンジの吐いたため息は深く、重たいものだった。

「今日はなんだか・・・・・・・・・・つかれたなぁ・・・・・・」

 シンジはもう一度記憶さえもはき出すように息を吐いた。






はぁーーーーーーーーーーーーーー







 結局、あのあとも騒ぎは収まらず、シンジが女か男か、当のシンジ本人をほっぽり出したクラスで話し合いになった。もちろんシンジも必死に弁明した。頭につけていたヘアピンをとり、これでどうだと言わんばかりに皆を仰ぎ見た。然し返ってくる反応は一様にして同じで、シンジを女子だと思っている陣営からは

「やっぱり、女の子じゃない!!」

と返事が返りもう一方、半ばシンジのことを男と改めようとしていた陣営からは

「あれ?・・・・・・、ちょっと自信なくなってきた・・・・」

と、場を振り出しに戻しかけて終わった。

 チャイムが鳴って1時間目が終わりを告げてもその議題は解決することなく、皆授業をほっぽり出して議論が交わされ、放課後のホームルームにまで持ち越された。そしてシンジはとうとう最後の手段に出た。

 男子だけを引き連れ、教室の外に向かったのだ。

 そこで行われたことにはその後一切男子は口にしなかった。ただ



「碇は男だ。」



という認識のみが広がりそこで事態は力業で終焉を迎えた。顔を赤くしてシンジが出てきた時、ゆかりは中で何があったのかとシンジに問いただした。この騒動の陰の首謀者としてか、それともシンジの様子を印パいに思ってか。教室の隅に連れて行きそっと耳打ちして聞き出そうとした。

「ちょっと、どうしたの?」

「・・・・・すみません、聞かないで・・・・・・もらえませんか。」

 ぽつぽつとシンジはゆかりに顔を背けたまま答えた。よそよそしいその態度が気に入らなかったのか、ゆかりがさらに強く問いただすとシンジはようやく何があったかを口にした。

「さっき・・・・・トイレで、その、・・・・ぼそぼそ」

「・・・・あっあんたなんてこと耳元で言うのよ!!!」

「ゆかりさんが聞いたんじゃありませんか!!!」

「だからってねぇあんた・・・・・!!!」





ぎゃあぎゃあ、





 事態はとても終息を迎えたと言い難くも、その日は終わりを迎えた。








 そうして一人シンジは音楽室に至る。

 何をするわけでもない。ぼーと昨日と同じ場所に座り、傍らには同じようにチェロもある。特に弾きはじめるわけでもなく、ただ目の前の窓から差し込む日の光を浴びながら外の風景を眺め、シンジは今日の出来事を振り返っていた。

 とても騒がしい一日だった。とてもじゃないがもう一度あの雰囲気の中には立ちたくはない。

 シンジは一人きりになった今、改めてそれらの出来事を思い出していた。


 もう一度同じ体験はしたくない。


 然しなぜだろう。もう少しあの場にいたかったな、と思う自分のこの心は。


 シンジはとても疲れていた。いつもならチェロのこともガマンして、あの家に帰ってしまっていたことだろう。例え辛い現実に直面してしまうことが在るとしても。それほどシンジはこれまでにない疲労感に包まれていた。


 これまでにないくらい不安だった、緊張したし、恥ずかしかった。


 でも、今も帰らず学校に留まっているのは、何でだろう?


 あまり人とは接したくなくなっていた。人と対面するのが恐くなっていた。でも今は、出来るならまたクラスのみんなとあんな風にさわいでみたいとも思っていた。

 だから僕はまだ学校にいた。過ぎ去ってしまったあの喧噪の余韻に浸っていたかったから。

「ふふっ」

 シンジは其処まで思い至ると少しそんな自分を笑った。きっとこれはいいことなんだろうなと感じながら。

 少しだけチェロを弾こう。この気持ちを少しでも確かなものにするために。

 そうして、今日もシンジは弓を握った。










「あら、碇何やってんのよ、こんな誰もいないところで。」

「・・・・・ゆかりさん?」

 音楽室の入り口に山川ゆかりが立っていた。走っていたのだろうか、少し息が荒く感じられた。

「あぁチェロ引いてたのね。あんたホントに弾けたんだ?。」

「ゆかりさん、まだ残ってらしたんですか?」

「私はね、演劇部のことで少し残ってたのよ。」

「演劇部なんですか?」

「なによ似合わない?」

「いいえ、そう言う意味じゃ無いんですけど・・・・」

「そう言う碇はどっかはいらないの?。吹奏楽なら確かあったと思うけど。」

「いえ、僕はそういうの苦手ですから・・・」

「なによまた暗いわねー。」

「・・・・・・・・・・・」

 自然と途切れることなく会話が続いた。ゆかりはシンジと会話しながら、一番風が入ってくる窓の近くの背の低い窓際の棚に移動しその上に腰掛けた。そこで改めてゆかりは静かに、シンジに話しかけた。

「ねぇ、碇。」

「何ですか?」

「チェロ、聞かせてくれない?」

「ええ!!」

 ゆかりの突然の提案は、シンジを十二分に驚かせ、同じくらいの混乱を引き寄せた。

「なによ!!いやだっての?」

「いえそういう訳じゃないんですけど、そんなにうまい訳じゃありませんから・・・」

 そういいよどむシンジをゆかりは軽くにらみつけるようにそ動向をうかがい、さらに畳み掛けた。

「そんなの期待してないわよ。いいから弾きなさいって。」

「でも・・・恥ずかしいですから・・・へたくそですから人に聞かせられませんし・・・・」

「あのねぇ、下手だったら人に聞かせちゃいけないの?うわー、きっとあんたへたくそな人を影で笑うタイプだわ。」

「そっそんなこと言って無いじゃないですか・・・・・・」

「そういってんのよあんたは。いいから弾いてみなさいって。」

「・・・・・・・・しりませんからね。」

 結局シンジはそこで折れて弓を握り直し、シンジはチェロを弾きはじめた。

 弾きはじめた曲は、最近よく耳にする曲だった。JーPOPのはずなのにシンジの弾き方では初めて聞くクラシックのようだ。

「・・・・へぇ、チェロって結構高い音が出るのね。もっと重たい音かと思ってたけど。」

「うん、・・・・・僕も・・・・そうおもった。」


 シンジはゆかりの漏らした感想に、自分の思いをそっと乗せて答えた。ゆかりはそういったきり何もしゃべらなくなった。

 シンジもいつしか聞かれたいるという認識が薄れ、己の世界に埋没するかのように演奏に集中した。

 そうしてしばらく、音楽室にはチェロの音色だけが響いた。

 人にこうして自分の演奏を聴いてもらうのは本当に久しぶりだった。

 昔は母に聞いてもらい、父に聞いてもらった。母は上手になったねといってくれた。父はあんな人だから何も言ってくれなかったけれど、きちんと最後まで自分の演奏を聴いてくれた。



 今目の前にいるこの人は、いったいどうな反応をしてくれるだろう?



 シンジは沈んでいた己の意識から浮かび上がった欲求に答え、そっと視線を動かし、チェロだけに向けていた意識をゆかりにも向けた。





 思わず、シンジは弓を落としそうになった。





 ゆかりは窓際の棚に腰掛けているのでシンジより高い位置からシンジのことを見下ろしていた。

 今ゆかりは昼間結んでいた髪をほどいている。さらさらと、開け放たれた窓から教室に入ってくる風でその髪が揺れていた。

 その全身が、傾いた太陽に照らされて、彼女の髪が揺れるたび、まるできらきらと輝きを放っているように見える。その瞳は閉じられていて、そっとシンジの演奏に耳を傾けている。







 (・・・・・きれい、・・・・・だな・・・・・・・・) 







 シンジは演奏は続けている。止められるはずもない。彼女のこの姿をずっと、見ていたかった。

 いばらく、シンジはそんな彼女の姿を見たまま演奏を続けた。そうしていると不意に彼女が口を開いた。

「~~~~~~♪」

 シンジの演奏に合わせ、ハミングで歌い始めた。

 彼女の声はとてもきれいな声で、自分の演奏が何か別のものに変わってしまったかのような錯覚さえ覚えるほどに。

 そっと彼女の目が開かれシンジに向かって微笑んだ。自然と自分もそんな彼女に微笑み返していた。

 其処から様々なメロディをシンジのチェロは奏でていく。彼女もそれに合わせ、自分の響きを変化させていく。

 シンジのチェロと、ゆかりという楽器が奏でるその音楽はまるでジャズのセッションのようにその姿を様々な形に変化させていく。

 ゆかりがシンジの演奏に合わせるように歌い、ゆかりから帰ってくる反応を楽しむようにシンジは弓を動かした。逆にゆかりが先行し、シンジを導くように歌う。

 どちらがどちらを支配するでもない。どちらがどちらにあわせるわけでもない。其処に生まれる不思議な一体感はシンジとゆかりを包み込んでいた。

 シンジは最後に母のあの曲を弾いてみた。まだ完成には至っていないが、どうしても彼女がどう返すのか知りたかった。

 突然変わった曲調に少しだけ歌うのをやめたゆかりがシンジをしっかりと見た。二人の目が合い、シンジが少しいたずらっぽく笑った。その様子にゆかりは戸惑っていたが、すぐにシンジの真意をくみ取り、演奏を聴き、少し考えたあと再び歌い出した。それは先ほどまでのハミングではなく、ちゃんとした歌だった。









空から照りつける太陽


あなたは何を見てるの?


毎日さんさんと輝いて、時々うっとおしく思うけれど


みんなあなたのことが大好き


みんなに元気を与えてくれる





空を漂う雲


あなたは何を見ているの?


毎日ふわふわ漂って、時々邪魔に思うけれど


みんなあなたのことが大好き


みんなに自由を感じさせてくれる





空に灯る星


あなたは何を見ているの?


毎日きらきら輝いて、時々見えずらいけれど


みんなあなたのことが大好き


みんなに希望を与えてくれる






そして、空で眠りゆく月


あなたは私をみてくれている?


一日だけどこかに行って、不安にさせるけれど


私は、あなたのことが大好き。


私に安らぎを与えてくれる。






ひとを空から見続ける


空を過ぎゆくあなた達


私達はあなた達のことが大好きだけど


あなた達は何を想うだろう。


その想いが聞けたなら、


私たちはもう少し


優しくなれるのに









 そうしてゆかりの歌は終わり、シンジもその手を止めた。


 ぱちぱちぱち・・・・・


 どちらが先というわけでもない。二人はいつの間にかその手をたたいていた。

「すごいじゃない碇!!とっても上手!!。」

「・・・・・ゆかりさんも、とってもきれいな声だったよ」

 シンジは未だ夢心地のまま、素直な感想を漏らした。

「歌詞は、・・・・・いつ考えたの?」

「ああ、あれ?今練習してる劇の主役の人の台詞ちょっとアレンジして、最後の曲にとってもあってる気がしたから。」

「・・・・・・うん、とってもきれいな歌詞だった。」

「ねぇ最後のなんて曲なの?」

「あれは、お母さんが好きだった曲なんだ。・・・・・・よくこのチェロで聞かせてくれた。」

 シンジは、少しゆかりから視線をそらし、窓の外を見つめながらそういった。ゆかりはシンジのその様子を見て自分が少し不用意なことを言ってしまったことに気が付いた。

「そう、なんだ・・・・・。ごめんね、そんな大切な曲に勝手に歌詞つけちゃって。」

 申し訳なさそうにゆかりはシンジに詫びた。

「ううん、いいよ。とってもきれいな歌詞だったから。・・・・・・・母さんに聞かせてあげたら喜んでくれたと思うよ。」

 シンジは気にしてはいなかった。歌詞をつけてもらったことも、母の曲がより明確な形を持ったような気がしていた。ゆっくりとゆかりの歌詞を思い出していた。

「ふふっ」

そこでシンジは思わず笑ってしまった。

「なに?」

 笑うことはシンジにとってはいいことだと思いながら、ゆかりはシンジが笑い出した意味がわからない。

「だって、太陽や雲がうっとおしいとか邪魔だとか、ふふふっ」

シンジの自分の歌詞に対する評価だと気がついたゆかりは、歌って上気した頬をさらに少し赤くした。

「うっ、うるさい!別にいいでしょう。」

「うん、いい歌詞だったよ?」

 そうしてシンジはまた微笑んだ。からかわれたことにゆかりは、ぷいっとそっぽを向き、シンジはそれを見てさらに笑った。ゆかりはそんなシンジ様子を目の端で捕らえながら、少し笑っていた

「聞いていい?」

「何?」

 しばらく笑いあったあと、ゆかりはシンジに視線を戻さないまま、急に態度を静かなものに変えた。シンジはその雰囲気に驚きながらもゆかりの次の言葉を待った。

「碇のお母さんってどんな人だったの?」

「・・・・・・どんな人、だったかな。とってもきれいで優しい人だった・・・・・。ごめんあんまり覚えてないんだ。」

「そうなの?」

「うん、顔もお父さんが写真全部捨てちゃって。そのあともお母さんのこと全然話さなくなちゃってさ。」

「何で、・・・・・・・死んじゃったの?」

「それは・・・・・・」

 シンジは戸惑うような気配を見せた。

「あっ・・・・・ごめん。思い出したくないよね、ホント・・・・ごめん。」

「ううん、もしよかったら、聞いてくれる?」

 ゆかりはすぐに思い直し、自分の言葉を撤回しようとした。けれどシンジは意外にも、己のトラウマに向き合うことになることを承諾した。

 なぜかシンジには、ゆかりにこのことを知ってほしいと思っていた。一人で多く、自分の周りに母のことを知ってほしかったからかもしれない。それが例え母の最後の姿であったとしても。

 だからシンジは逆にゆかりに母のことを聞いてくれるように頼んだ。

「・・・・・うん」

 ゆかりはシンジのその意図にはもちろん気が付かない。然し振り返ったシンジがさびそうに笑いながらのお願いを断ることが出来なかった。

 そうしてシンジは母の最後を語り出した。



「・・・・お母さんは、神奈川にある研究所で働いてたんだ。お父さんも一緒に。」

「夫婦で研究所にって、めちゃくちゃ頭良かったのね。」

「うん、そうみたい。そういえばお父さんとお母さんが話してるのを聞いたとき何のことかよく分かんないことが多かったよ。」

「ふーん」

「それでね、よく僕も研究所に連れて行ってもらってたんだ。」

 そこで再びシンジはどこに焦点を合わせるでもなく虚空を見つめた。どこか遠くを見つめるその横顔にゆかりは薄ら寒いものを覚えた。

 シンジはそんなゆかりに気づくこともなく話を続けた。

「あの日も、そんな日の一つだと思ってたんだ。」

 シンジの瞳はゆかりも、夕焼けの音楽室は映っていない。その脳裏には『あの日』の出来事が鮮明に蘇っている。


 
 ゆかりは、そんなシンジをじっと見守っている。今すぐにでも目をそらしたかった。でもいまシンジは今、目を離してしまえば、消えてしまいそうで・・・・・・・・・



それでもシンジは、語り続けた。



「お母さんは、なんだかプールみたいな場所にいて、」




そこで何かが始まったんだ。




何が起こったのか僕には解らなかった。




突然辺りが真っ赤になって、




辺りの人が、なんだか解らないことを言ってた。




お父さんは何も言ってくれないし。




なんだかとっても恐かった




でも母さんは僕を見て笑ってた。




いつもならその笑顔だけで僕は安心できたのに




不安な気持ちが止まらなかったんだ。




それで、





お母さんは






水に溶けて






消えちゃった。






どこにも居なくなっちゃった。






どんなにお母さんのことを呼んでも









おかあさんは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・









「碇!」

 そこで咄嗟に、ゆかりはシンジを抱きしめシンジに呼びかけた。

「もういい、もういいから!!もうやめて!!!」

 その声は必死だった。必死にシンジをこちら側に引き止めるため、ゆかりはさらにシンジに呼びかけ、腕の力を強める。
 
 シンジの視界はまるで、靄がかかったかのように目の前にいるはずのゆかりを捕らえられないでいた。

 しかし、ゆかりの声は、のどを詰まらせたように濁っている。あんなに綺麗な声なのにと、場違いなことにしか思考が回らなくなっていた。

「ゆかり・・・・さん?どうしたの?泣いてるの?」

「泣いてない、泣いてんのはあんたでしょう。」

「ぼく?」




 いつの間にか。はらはらと流れる涙にシンジはその頬をぬらしていた。


 シンジは自分の顔に手を当ててその手がぬれていることでやっと自分が涙を流していることに気がついた。




「ほんとだ、ぼくないてる。なんで?あはは、かっこわるいなぁ。」

「碇、かっこわるくなんか無いから、泣いちゃいな。」

 そういいながら、シンジは目に手を当てて、泣くのをこらえようとしが、ゆかりの言葉がシンジの手を止めさせた。

「?・・・・なん・・・・・で?」

「そのままため込んでてもいいことなんて一つもないからさ。」

「?」

「ね?ここなら、誰も見てない。私しか・・・・・いないから。ね?」

「・・・・・・・あ、あれ?・・・・・ははっ?・・・・・・・・・・・・・・・・うぇっ、・・・・・・・・・・ひぅ、うわっ、うああああああああああああ・・・・・」




そうしてシンジは、初めて声を上げて泣いた。







 ひときしりないた後、シンジはそっとその体をゆかりから離した。その目はまだ赤くはれていた。

「ごめんなさい。」

 心配そうに、シンジのことを見ていたゆかりは、突然の謝罪に驚いた。

「いいのよきにしないで。私こそあんな辛いこと・・・・」

「いいえ、ゆかりさんは悪くありません。それに僕うれしかったですから。」

「え?」

「あんな風にお母さんのことはなせたの、本当に久しぶりでしたから。」

 シンジそっと顔を上げ、ゆかりと目を合わせると、そういってぎこちなく笑った。その笑顔は痛々しさを感じさせるものだったが、ゆかりはそんなシンジにこれ以上言い募ることはできなかった

「そう、なんだ。」

「はい。・・・・でも・・・・」

「ん?」

「なんだか・・・・・・恥ずかしいなぁ。」

「ふふっ、いやー碇ちゃんはかわいいわねー。」

「ううーー・・・・。ふふっ」

「あははっ」

最後はそういってお互いの恥ずかしさをごまかして笑いあった。







 夕日が沈みかけた道を、シンジとゆかりは隣り合って歩きながら帰り道についていた。音楽室での出来事の気恥ずかしさからか、お互い顔を合わせようとせず無言のまま歩いていた。







「ゆかりさん。」

 シンジがゆかりに話しかけたのは、そんな道でのことだった。急に立ち止まりそれに気づかないゆかりに後ろから呼びかけた。

「なーにー」

「何でですか?」

「?」

 ゆかりはとなりで歩いていたシンジの声が、後ろから聞こえてきたことで神事が立ち止まっていることに気づいた。そこで気のない返事で答えたゆかりはシンジの質問の意味がわからず、沈黙で答えた。シンジはそんなゆかりの様子にかまわず言葉を言葉を続けた。

「なんで、ゆかりさんは僕にこんな風に接しててくれるんですか?」

「・・・・・・・・・」
 
「僕のこと、お父さんがなんていわれてたか、聞いているんでしょう?・・・・・」

「碇・・・・・」

「何でですか?」

 シンジにとってそれは切実な問題だった。ゆかりは自分に対して、あのことを知らない人たちと同じように接してくれている。このままこの状況を甘んじて受け入れてもよかった。

 目の前の彼女を信じてもよかった。

 しかしシンジはもう、そのまま他人の善意を受け入れることができなくなっていたから。このことをゆかり本人に聞かずにはいられなかった。







「・・・・・それは、そんなに重要なことなの?」

「!!」







 ゆかりの言葉は、意外なものだった。

「碇のお母さんは、事故で死んじゃったんでしょう?あなたはそのことを受け入れているじゃない。」

「・・・・・・・」

 ゆかりは、自分の考えを目の前で固まって動かないシンジに淡々と言い聞かせた。まるでこんな質問をしたシンジが許せず、しかしその苛立ちを抑えるように、。

「そうね。たとえば、本当にあなたのお父さんがお母さんを殺していたとする・・・・・・・・・」

「!!!・・・・・・・」

 シンジの体がその言葉に少しだけ反応した。次にゆかりが放つ言葉に耐えるためにと、体をこわばらせた。






「それでもそれは、あなたには関係ないじゃない。・・・・少なくとも、私はそう思うし、そう思ってるわ。」

「・・・・・・・・」






 それでもゆかりの言葉はシンジを拒絶するものではなく、こわばる体を解きほぐしてゆく言葉だった。そこでシンジはゆかりの目を見る。そこには、その後ろで輝きを放つ太陽に負けないくらい、強い光を放っているゆかりの瞳が在った。

「いい?次ぎこんな質問したら今度こそ本当にみんなに話してやるからね!!」

「・・・・・うん」

 それで話は終わりだといわんばかりにゆかりはシンジを置いて再び前を向き歩き出した。シンジはその背中を眩しそうに見つめていた。

「ふん!!分かればいいのよ。ほら、遅くなっちゃったんだから早く帰るわよ。」

「うん!」

先を行くゆかりに追いつくためにシンジは駆け出した。









しばらくして、ゆかりの後ろを恥ずかしそうに歩いていたシンジは前を行く背中に声をかけた。

「ゆかりさん?・・・・・・」

「今度は何よ!!」

 先ほどのことを思いかえして、顔を赤くしていたゆかりは今度はシンジを振り返らずに返事を返した。シンジはその背中にそっと微笑みながら、







「ありがとう・・・」





といった。





「!!・・・・どういたしまして!!。」





そして、一瞬驚いたゆかりも、シンジには見えなかったが、今日一番の笑顔で答えた。














そうして、今日の陽は沈む。

















謝罪、お詫び、申し開き、贖罪、弁明、いいわけ、その他様々な意味を込める後書き。

 すみません・・・・・。エヴァンゲリオンのえの字も入っていない。その他の方にこの作品移動した方がいいかな?なんて考えはじめている、どうもお久しぶり、ぼくhaniwa。

 ただでさえ、オリジナル色濃厚だったこのお話、不快に思う人もさぞかし多かったことと思います。申し訳ありません。プロローグあとの後書きにその旨を伝える文章を追加しました。

 今回はかなり、自分の作品からも、イメージが離れてしまうような話にしてしまいました。これまでこの作品を気に入っていただいていた方にも本当に申し訳なく思っている次第です。ですがどうか、「だったらこんな話書いてんじゃねーよ」等のお言葉は、ご容赦してください。もしそのような言葉をいただいても真摯に受け止める次第ではありますが、これもこの作品の一つの大事な流れであると受け取っていただけるとありがたいです。

追伸?;あー!!自分で考えた詩自分できれいとか言っちゃったーー。はっ恥ずかしい。(悶絶)すみません!!



[246] 見上げる空はどこまでも朱く  第十話
Name: haniwa
Date: 2006/08/10 17:13
誰もいない休日



誰もいない朝



誰もいない彼女の部屋



誰もいない食卓



誰もいない庭



誰もいない心



何人の進入も許さない鍵



その存在はすべてを拒絶する



のばした手をはねのけられた心には



歓びもなく



怒りもなく



悲しみもなく



それらを表す器さえない



その心には、ただただ暗い、闇が広がる



その心の内を照らすものは



彼女の真実か



母の音色か



今は、ただ闇が広がるだけ






見上げればどこまでも朱い空


第十話






約束






 その日も暑く晴れた日だった。

 空には太陽がさんさんと輝き、沈むことすらなくなってしまったかのようにその存在を誇示していた。雲はなく、強すぎる陽光をさえぎるものは何もない。

 人々は、そのほとんどが、涼しくクーラーを効かせた部屋の中でその時をすごしていた。

「はぁ~・・・」

 そのため息が聞こえてきたのは、そんな部屋の一つ、賑やかに騒ぐ声の響くとある小学校、2年2組の教室で聞こえるものだった。

 ため息は周りの声に埋もれてしまうような静かなものだったが、とある少女の耳には確実にそれが耳に入ってきた。

 それは彼女の気に障るものだった。教室にいる皆が楽しく談笑している中で、そのため息は見過ごせないほどに暗い雰囲気を放つそれはある少女、山川ゆかりの眉間を少しゆがめさせ、談笑していた友人との会話をやめ、視線を動かすのに十分な理由となりえた。

「?」

「はぁ~~・・・・」

 今また、ため息をついた少年、碇、シンジはそんな自分をじっといぶかしく見据える視線にも気がつかずに、さらにため息をついていた。

 その行為が幸せを逃がしてしまうものなのだとしたら、シンジは今まさに幸せをすべて逃がし尽くすほどの深いため息を吐いている。

 シンジは、己のうちからにじみ出ているのではないかと思うほど不幸のオーラをその身にまとい、教室の黒板の両端にある掲示板を見つめ、ただひたすらに唸っていた。

 その様子を見ていたゆかりは怒鳴りつけてやろうとした言葉を飲み込み、シンジに普通に声を掛けることにした。

「どうしたのよ、碇?暗い顔して。」

「あっ、山川さん・・・・。」

 シンジはどんよりと暗い表情をゆかりに向けた。この様子では直接なにがあったかは聞きだすことは困難だろう。

 ゆかりはシンジの表情から、なにがこのくらい少年をさらに暗く追い込んでいるのかを推察することにした。


「なんかあったの?あぁ、また男子に女の子ってからかわれたんでしょ!!」


「えっ・・・・そんな」

 まずは一つ目から、己の作った少年のトラウマから攻めてみることにした。

 シンジがこのクラスにきてからはや三週間が経とうとしていたが、いまだにシンジはクラスの男子と一部の女子から外見についてからかわれていた。

 それはいつもシンジが朝教室に入るといつも行われていることでゆかりはシンジ自身にも原因があるとして、特に気にしていなかったが、どうやらシンジは毎回そのことについて時々頭を抱えている様子だった。

 シンジは、ゆかりの指摘に戸惑った様子を見せた。

「まったく、だからまえから言ってんでしょ!!その前髪切りなさいって!!」

「あっ・・・えぇっと、山川さん?そうじゃなくてですね・・・・」

 どうやら違ったらしい。

 シンジの表情も晴れる気配を見せない。

 ゆかりが話しかけてきたことで、暗い雰囲気は消えている。

 しかしゆかりがシンジを無理やりにはっぱ掛けようとしている勢いがシンジにいやおうなしに伝わり、逆にシンジを先ほどよりも追い詰めていた。

 シンジは己に対しての誤解を解こうと目の前の少女に話しかけるが、彼女の勢いは止められない。


「ん?じゃあ何?上級生に音楽室でからまれた話?」


 シンジは、暇があればとりあえず音楽室に行っていた。

 チェロの練習をすることがほとんどだったが、時折ボーとしていることもあった。そんなときに上級生からほぼ言いがかりに近い苦情を受けたのだ。そのことでシンジは最近は放課後にしか音楽室に顔を出していなかった。

「あんたねぇ、だからとりあえず軽音楽部に入っときなさいって言ったじゃない。」

「・・・・・・・山川さん、話を聞いてください。」

「?なによ、さっさと言いなさい」

 やっとシンジが自分に何かを言おうとっしていることに気づいたゆかりは、とりあえず話を聞いてみることにした。

「ぼくは、みんなにからかわれたわけでも、上級生の人にからまれたわけでもありません・・・」

「じゃあ何でため息なんてついてたのよ。いってあるでしょ、辛気臭い顔してたらこっちまで気分悪くなるって・・・・・・」

 ゆかりが言い終わらぬうちに、シンジはすっと己が見ていた先を指差した。ゆかりはそれにつられてシンジが先ほどまで恨めしげに見ていた掲示板に目を向けた。

「あれ・・・・・」

「ん?」

 そこには二年二組のプールの日程が書かれた紙と健康面に関する注意事項等が書かれている。それ以外には学級新聞など特に目に付くものはそれくらいでゆかりの目にはシンジの憂鬱の原因となりそうなものは内容に思える。

「来週から・・・」

「ああ、水泳が始まるわね?」

「・・・・はい・・・・」

「なによ、それがどうかしたの?」

「・・・・・・」

「碇?・・・・」

 シンジはそれきり黙ってしまい、話を続けようとしない。


 何なんだろう、相変わらず暗い性格が直らない。これは今一度脅しておく必要が・・・・。ゆかりはそこまで思い至るとふと思考を戻した。あの掲示板で見えたものは何だったか?学級新聞、くだらない男子の落書き、健康についての注意書き、そして、プールの日程表・・・・・・、なるほど。


「ひょっとしてあんた・・・・」

「!」

 にんまり、といった表情を浮かべゆかりはシンジとの距離をつめた。

 彼女のこういった時の笑顔もかわいらしいとシンジは思っていたが、この三週間でゆかりがこういった表情を浮かべた場合、決まってよくないことが起こることをシンジは悲しいことに自らの経験を持って知っていた。

 ゆかりはシンジが暗い表情を浮かべていた理由にきがついた。そしてそのことについてシンジが話したくない理由も察してしまった。

「んっふっふっふ・・・・。どおしたのぉ~~いかりちゃ~ん?」

「うぅ」

 シンジもゆかりが気がついたことを察して、ゆかりが詰め寄ってくるのに下を向いて視線を合わせないようにすることで逃げようとしていた。

 これまでのシンジとゆかりのやり取りを見守っていたクラスメイトたちは全員が同じ思いを抱いていた。

(あー、またはじまったよ。)

 そう、このようなシンジとゆかりのやり取りはこれが初めてではない。ゆかりはシンジのことを何かとあれば先ほどのような問答を繰り返し、シンジの弱みを見つけ、最終的にこのように詰め寄ってシンジが困るさまを楽しむという、趣味の悪い事を日課としていた。

 しかし、最初のときのようにシンジが泣き出すまで追い詰めたりしないのでクラス中が黙認している有様だった。

 そうしているうちにゆかりが詰めに入っていた。

「んっふっふっふっふっふー・・・・あんたー、もしかして・・・・・」

「あ・あぁゆかりさ・・・・」

 ゆかりに最後の一言を言わせないために、学校ではゆかりを名前で呼ぶことを控えていたシンジがゆかりを名前で読んででもとめようとしたが






「泳げないの?」

「!!!」






 最後の一言は無常にも、彼女の口から放たれてしまった。その一言でシンジの動きは石のように固まってしまった。然し表情には焦りの表情を貼り付けている。

 もちろんこの事実を、聞き耳を立てていたクラスメイトが聞き逃すはずもなく、即ざま反応してきた。

「えー碇君泳げないのー。」

「・・・碇ーそれはおまえなさけないぞー?」

「ちっちがうよ!!」

「なにがちがうのー?」


にやにや


 ああ、クラスの皆がゆかりさんとおんなじ表情になってる・・・・

 シンジは事態の収拾を図ろうとするも、ゆかり化しているクラスの生徒たちはシンジの弁明を言葉半分にしか聞いていない。はっきり言って酔っ払いのようにたちが悪い集団と化していた。

 それでもシンジはこの状況の打破のため、精一杯の強がりで切り抜けようとした。

「ぼっ僕泳げます・・・」

「へー」

 もちろんそんな言葉では追及の手を緩めるようなゆかりではなかった。

「ほんとですよ!!信じてください!!」

「べつに嘘なんていってないじゃない?」

「うぅ・・・・」

「んで?ちゃーんと泳げる碇ちゃんは、何メートルおよげるのかなー?」

「ううぅ・・・・・、・・・ートル。」

「んーきこえないなー」

「・・・・・メートル。」

「きーこーえーなーいー。」

「・・・・・・・・・・・・・。」

 少々やりすぎただろうか、シンジはとうとう顔を伏せたまま何も言わなくなってしまった。その体もかすかに震えている。

 それでもゆかりはにやにやとした笑いをやめずシンジがどんな反応を示すのか楽しそうに待っていた。しかしそうしているとシンジの体の振るえが止まり、突然その顔を上げ正面のゆかりを見据えた。その表情は決意に満ちている。反撃ののろしを上げた。


「・・・・・・もういいでしょう!おっ、泳げるったら泳げるんです!!」

(おお、新しい展開だ・・・・・・・だいじょうぶか?)

 クラスメイトたちは、今までにないシンジとゆかりの新しい展開に目を見張っていた。もちろん当事者であるゆかり本人もシンジのこの強気な反応には驚いていた。

「あ、あんた・・・・」

「はっ」

 しかし次の瞬間にはシンジ我に帰り、己の言葉を省みてしまった。目の前の少女がどういった少女なのかを考慮に入れなかった先ほどの自分の言動を悔いた。

 みるみるシンジはしぼんでいった。その姿はむしろいつも以上に弱弱しい。優勢になたと思われた戦況はあっという間に元に戻っていった。

 シンジはそっとゆかりの表情を確認すると、そこには先ほどのにやついた顔ではなく、自分に逆らった愚か者を見つめる冷笑だった。

「ふーん・・・・・、碇ちゃんはー、ちゃーんと泳げるのねー・・・・・」

「や、山川さん?。」

「へー・・・・ふ~~~~ん・・・・・・。」

 ゆかりの突然の変化に戸惑うシンジ。ゆかりは意味深な言葉を残し、まるですべるように動き、後ろ向きに歩きながら、教室から出て行った。

 最後にゆかりはシンジに笑顔を向けたが、それは向けられた者の背筋が凍るような邪悪なものだった。その笑みにこめられたものは、そう

(おぼえてなさいよ)

 そしてゆかりは教室を後にした。

「ゆ、ゆかりさーん」

(あーあ)

 教室には、我を忘れたシンジの叫び声と、クラスメイトたちのため息のみが聞こえてきた。






「こういう時って、なんて言うんだったっけ?」

「ゴシュウショウサマ?」

「「「「「それ!!」」」」」

合掌・・・・・・








 それから、ゆかりの方からは特にシンジに対して何をするわけでもなく、穏やかに一週間という日は流れ、とうとうプール初日を迎えてしまった。

 そのころのシンジはプールのことで頭がいっぱいで、ゆかりとの出来事を思考の隅に追いやり、いつの間にか忘れ去っていた。

 そのため、憂鬱ながらもシンジは今、曇ることを知らぬ太陽の真下で平均よりも白すぎる肌をちりちりと焼かれながら、準備体操にいそしんでいた。

 シンジの今の格好は、標準の小学生の水着をはき、きっちりと水泳用のキャップをかぶり、長めの前髪もその中にきっちりとしまわれている。

「はーい、みんなきっちり準備運動したかなー?」

 担任の中野教師が、準備体操を終えクラスメイトたちに呼びかける。

「「「「「はーい」」」」」

「・・はぁい」

 生徒たちのほとんどがそれに元気よく答えた。一部の生徒はすでに暑いだの早く水の中に入りたいだのと文句を言うものもいる。シンジも返事は一応するが、その声にはいつも以上に覇気がない。

「よーし、それじゃあまずは・・・・・」

 そんな様子も、中野教師にはいつもどうりの光景に映ったのか、満足げにうなずくと準備運動をプールの中の運動に移した。




ばしゃばしゃ・・・

 いま二年二組の生徒たちは、プールサイドに腰掛けて水面をけっていた。

「はぁ・・・・・」

 とうとうここまできてしまった。

 シンジはまだ水をけっているだけでこれからの授業のことを考えて憂鬱に拍車をかけていた。そんなときに隣で同じことをしている男子の一人がシンジに話しかけた。

「碇ー、まだうなってんのかよ。」

「だって・・・・」

「大丈夫だって今日はたぶんプールで遊ぶだけで、タイムはかったりするのはまだ先だって。」

「いや、うん・・・・」

 シンジはゆかりとの問答の後、何とか泳げるということだけは信じてもらえたが、体育全般があまり得意ではいこと自体は隠しようがなかった。

「ところでさぁ、何で山川は碇にちょっかいかけるんだろうな?」

「あー、それ俺も聞きたかった。最初っから仲良かったよなー。」

「前から知り合いだったみたいだし。」

「なんか親戚かなんかなん?」

「えっ、えーと・・・・」

 シンジは口ごもった。ゆかりとシンジとの関係は実はクラスのほとんどが知らなかった。

 シンジは特にゆかりから口止めをされているわけでもないが、そのことについてはクラスの誰にもしゃべらなかった。

 家に遊びに行かせてほしいというお願いも習い事や、家の手伝いなどを理由に断り続けている。

 そのためシンジにはゆかり以上に親しいクラスメイトというものはいなかった。そしてそのことがシンジとゆかりの関係をほかのものとは違うものに見せてしまったかもしれない。

 シンジはすこし迷った様子を見せた後、ゆっくりと話し始めた。

「僕今、お父さんと離れて暮らしているんです。」

 母が死んでいることは、もうクラスメイトのほとんどが知っていた。母がいないことについては、詳しいいきさつはゆかり以外には話していないが、すでにクラスの全員に質問されたことだったからだ。

 そのことに関してシンジが普通に答えられたのは、三週間前の出来事のおかげだったかもしれない。

 実は、他のクラスにも片親がいない生徒が少なからずいた。



 セカンドインパクト。



 原因不明の災害、一般に隕石の落下によるものではないかとされている、地球規模の異常気象のため、南極の氷はほとんどが溶けてしまい、日本も海抜0メートルの場所はすべて海の底となった。


 2,3年ほど世界の中の治安が荒れてしまっていたり、病院などの機関がうまく機能していなかったことが大半の理由としてあげられた。今も発展途上国では、細かな紛争が絶えない。


 そのためシンジが特別同情されるようなことはこの学校では希だった。

「へー、そうだったのか」

「ん?じゃあ今一人暮らし?」

「バカ、んな訳ねーだろ。」

 横で聞いていたほかの男子たちが話しに混ざってきた。

「あははっ。それで今は親戚の人のところでお世話になってるの。ゆ、・・・や、山川さんとは家が近所だったからそのときちょっと知り合ったんです。」

 どうやらここまできてもシンジはゆかりとのことは話す気がないようだ。少しだけついたうそを悟られないようにか、そっと視線を隣からはずした。

「へーそうやったんかー。いや山川ってやーちょっと堅いとこあるやん?せやからずっと不思議やったんやけど。」

「そ、そうなんですか?そんなふうには・・・・・」

「あっ、じゃあ碇の父さんって何してる人なんだ?」

「あ、お父さんは、いま神奈川で・・・・。」

 シンジはその質問には素直に答えようとした。

「おっ、知ってるか?神奈川県に今度、新第3東京都市ができるんだってさ。」

「えー、じゃあここは?前の・・・・長野県だったっけ?それに戻るのかな?」

「んーそのまんまじゃねぇ?せんせーに聞いてみれば?」

「おまえ等、邪魔すんなって。で碇の父ちゃんは何してる人なんだ?」

「え?ええと、けっ研究所で働いてる人だよ・・・・。」

「へー、頭いいんだなー。」

「ばか、そんなレベルじゃねぇって、むちゃくちゃいいんだよ。なっ!」

「う、うんたぶん・・・」

 父がどういった人か、シンジはあまりそのことについては考えたことがなかった。シンジにとっては、気難しくも、母を愛した父の姿しか記憶になかった。しかし、こういった父の評価は、聞いていてうれしかった。

「あー俺の父さんが言ってたけど、神奈川の研究室ってもしかして・・・・・えーと何つったっけなー」

「あ、あの言われても僕よく分かんないから。」

「んー・・・・、とにかくすげーんだな!!碇の父ちゃん。」

「・・・・うん、たぶん。」







 それからしばらくして、水に慣れるための運動を終えた二年二組の生徒たちは、それぞれが自由に水の中に入っていた。その中でシンジも恐る恐る水の中に入り、つかの間の浮遊感を心なしか楽しんでいた。

 そこに中野教師の次の指示が聞こえてきた。

「はーい、それじゃあみんな今日は水になれるってことで、これから自由行動だよー」

「「「「「やったー!!」」」」」

「くれぐれも危ないことはしないようにねー」

「「「「「はーい!!!」」」」」

 隣に座っていた男子の言ったとおり今日は自由に過ごしてもいいようだ。

 シンジはほっとして、うれしそうに少しだけその体を水の中に沈めた。ぶくぶくとあぶくを出して遊び、水の感触を楽しんだ。水に触れること自体は嫌いではないのだ。

「ぶくぶく・・・・・ぷはっ、あはは・・・ぶくぶく・・・・・」

 何とも幸せそうな様子で水の中を歩いて遊んでいた。しかし、

「碇ー!!」

びくっ

 そんなシンジの小さな幸せは聞こえてきた彼女の声で打ち切られた。シンジは、鼻まで水の中に隠れている。

 ゆっくりと声がした方へ視線を向けると、ゆかりはプールサイドに立ち、シンジのことを見下ろしていた。女子用の水着も彼女には似合っているが、シンジは素直にその感想を言う気にはならなかった。

 その顔は満面の笑みでシンジにほほえみかけている。シンジは、はっきりと今の彼女には近づきたくはないと感じていた。彼女のあの表情はいつも何か良くないことが自分に怒ることの前触れだ。

 いや、一つだけあった。そのとき一週間前の出来事を思い出した。あのとき彼女は今以上に機嫌が悪く、しばらくシンジと家でも口を聞かなかった。然しそれはプールの日が近づくほど良くなっていたため、シンジも忘れていたのだ。

 このタイミングで、いったい何をされるんだろう?

「・・・・・・」

「何してんの?早くこっちきなさいよ!!。」

「えぇっと、その・・・」

 シンジは近づくにも恐くて近づけず似ずの中でおろおろしていた。そうしていると、遠目でも解るほどみるみるゆかりの顔が険しいものになっていく。

「「「碇・・・・」」」

「え?」

 そんなとき後ろから声がかけられた。

 いつの間にか何人かの男子がシンジの後ろに集まっていた。どうやら先ほどまでのシンジとゆかりのやり取りを見ていたらしい。

 そのうちの一人がそっとシンジの肩に手を乗せた。何事かとシンジも混乱している。シンジはしばしゆかりのことを忘れて、なにやら哀れんだ目でこちらを見るクラスメイト達の言葉を待った。

「?」

「「「・・・・・・・・逝ってこい」」」

「・・・・・・・・・・・・」

 どうやら友情とは儚いものらしい。






「もう何やってたのよ。呼んでんだからすぐ着なさいよね!!」

「・・・・・どうかしたんですか?」

 幸せな水の中から言葉で引き出され、シンジはぐったりと陸に上がった。

 そんな様子のシンジをよそにゆかりはとても上機嫌だった。

「競争しましょ!!」

「ええ!!」

 上機嫌なゆかりの口から出てきた言葉はシンジが今もっともさけたい内容だった。

「なによ、泳げるんでしょ?」

「・・・はい」

然し逃げ道はすでに自分でふさいでしまっていた。

「じゃ、いくわよ。みんなーちょっとコースあけてー。」

「うぅ・・・・・」

 ゆかりは暗くなるシンジをよそに、喜々としてコースの準備を進めていた。







「それじゃあ、位置についてー」

(うう、逃げ出したい。)

 クラスの女子が手を前に出してレースを仕切る。シンジもいやいや水の中にいた。クラスのほとんどがプールのコースを明けるどころか、勝負をよりよく見守るため、プールサイドに並んでいる。

 誰も止めようとはしない。

「さあ、下克上なるか、第1コース碇シンジ!!」

「「「「「おおお!!」」」」」

「二位年二組の支配権はやはり彼女の手に治まり続けるのか!第2コース山川ゆかり!!!」

「「「「「おおおお!!!」」」」」

 それどころか司会者までもうけ、事態をさらに煽る始末だった。

 ゆかりは、笑顔で声援に答えているがシンジにはそんな元気はない。

 ちらりと横にいる彼女を盗み見る。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 互いに目があっても何も話そうとはしない。ゆかりの顔には余裕の笑みが見て取れるだけ。シンジはますます憂鬱になったが無情にも火蓋は切って落とされる。


「よーーーい、どん!!」


ばしゃっ

 鋭い飛沫を上げてゆかりは勢いよくクロールで飛び出した。さすがに早い。あっという間に五十メートルプールの中ほどにまで泳いでしまう。その姿にクラスメイト達は釘付けになった。

「おおさすがだな。」

「ゆかりちゃんはやーい!!」

「い、碇は?」

 そこで一人がその哀れな存在を思い出した。クラスメイト達もシンジが泳ぎが苦手なことはとっくに察しガ付いていた。然しこの一週間、ゆかりの牙が見え隠れし、今このときもシンジに手をさしのべることが出来なかったのだ。

 もっともゆかりに便乗して事態を楽しんでいるものがほとんどだったが。

 一人の一言で皆がシンジの姿を探した。然し十五メートル付近にもその姿は見つけることが出来ない。

「あれ?どこだ?」

「あ、あそこ・・・・・」

 一人の指し示す方向に皆が目を向けた。スタート付近、プールで一番深いところだった。其処には微かに気泡が浮かばせながら消えるように沈みゆく碇少年の姿があった。

 もう水の中でもがく様子すら見えない。

「碇ーーー!!」

「せんせー碇君が、碇君がーーー!!」

 ゆかりがその事に気が付いたのは、ゴールしたあとのことだった。









「ううん・・・・・」

 うなされながら目を覚ましたシンジはつんとした臭いに顔をしかめながら目を覚ました。頭がずきずきと痛む。

 その目には真っ白な色しか映らない。

「あ、気が付いた?」

「あれ・・・・・?、ゆかりさん?ここは・・・・」

 すぐ横に座っていたゆかりは目が覚めたシンジにすぐに声をかけた。

 シンジは未だ痛む頭に手をあて、きょろきょろとあたりを見渡した。周りは白いカーテンに囲まれており辺りをうかがうことが出来なかった。

「保健室よ。」

 さぁ、っと右側にいたゆかりがそういいながらカーテンを開けた。其処には様々な薬品がしまわれている棚と、カルテのようなものやバインダーなどが立てかけられている机などが目に入ってきた。どうやら先ほどの臭いは消毒液の臭いらしい

「あんた何があったか覚えてる?」

 ゆかりが頭にて当てて俯いているシンジを心配そうにベットのそばから覗き込んだ。

「えーと?確かプールで・・・・・・あれ?」

 シンジは少し頭振って記憶を探ろうとする。然し記憶にはもやが掛かっており何があったか思い出すことが出来ない。

 シンジの様子を心配そうに見ていたゆかりがそっとこぼすように呟いた。

「溺れたの・・・・。」

「あぁ・・・・そうなんですか。」

 シンジは未だぼぅッとする頭でのんきに答えた。その事実を自分のこととして受け止めることが出来ないでいた。

「そうなんですか・・・・じゃないわよ!!びっくりしたじゃない!!このー!!」

 そんなシンジの様子が気に入らなかったのか、ゆかりはベットの脇から身を乗り出してシンジの両頬をつまんだ。そのしぐさには手加減をする様子はない。

 シンジの柔らかい頬が左右にぎゅうっと広げられる。

「いひゃい!いひゃいでひゅ、・・・・ひゅみまひぇん・・・・・」

「まったく、変なとこで見栄はるからよ。おかげで国語の時間出れなかったじゃない。」

 シンジの聞き取りづらい謝罪の声を聞き届け、ゆかりは最後に今までで一番頬を広げるとぱっと手を離した。

 シンジは少し赤くなった頬を両手でさすりながら、少々恨めしそうにゆかりを見た。

「うぅ、いたい・・・・」

「ふんっ!!」

 そんなシンジの様子をゆかりは気にもとめていない様にぷいっとそっぽを向いた。

 然し横目でしっかりとシンジの様子を確認していた。もうシンジは大丈夫なようだ。ゆかりはシンジに見つからないようにそっと息を吐いた。

 シンジはそんなゆかりの様子には気が付かず、そっと自分の正面にあった壁に掛けられている時計に目をやった。午前最後の授業だったプールの時間から2時間近くが経とうとしていた。

 シンジはゆかりに視線を戻した。
 
「あ・・・・あの、ずっと、付いててくれたんですか?」

「!・・・そ、そうよ!」

 不思議そうに時計を見ていたシンジを心配そうに見ていたゆかりは突然のシンジの指摘に少々あわてた様子を見せる。

 ところが、シンジもあわてていた。確か午後の授業はゆかりの好きな国語の時間であったことに今気が付いた。

「え!えええとその、・・・・すみません」

 シンジは必死に謝った。自分のために付き添ってくれたゆかりに対してとても申し訳なく感じてしまったからだ。

 しかし、そんなシンジの態度はゆかりの気には召さなかったようだ。

「ふん!!何よ、せっかく人が・・・・したのに・・・・。」

「え?」

「何でもない!!」

「はっはい!」

 取り付くしまもない。

 ゆかりはそうしてシンジを黙らせるとさっさと事務的なことを話し始めた。

「あんた今日はここで寝てなさいって。別に息が止まったりしてないから大丈夫だと思うけど、体がびっくりしてるだろうからって保険の先生が言ってたから。」

「はい・・・・」

 それきり、二人は黙ってしまった。

 シンジからはゆかりには話しかけられない。未だゆかりからはなにやらいらいらした雰囲気が伝わってくるからだ。

 ゆかりはシンジのベットの横においていた椅子に足をぶらぶらさせながら座り、少しうつむき加減だ。

 少し高い位置にあるシンジの目線からは、その表情は伺うことは出来ない。

「・・・・・・・あ、暑いですね。今日も・・・・」

「・・・・・・・・・」

 とりとめもない話で事態の改善をはかろうとしたが効果は上げられなかった。

 ゆかりは顔をシンジに向けないまま黙り込んでいた。

 ゆかりに対してシンジは負い目を感じ始めていたシンジにはこの場の空気は少々辛い。




 しばらくの間、白い保健室には蝉の鳴き声だけが遠くで響くだけだった。

 保健室の窓から見える校庭には誰もいない。

 空には当然のように雲が無く、

 心なしか傾きかけている太陽が、未だ高い位置にあり校庭をちりちりと焼いている。

 窓から見える校門もゆらゆらと蜃気楼のように揺らめいていた。

 外は未だ暑そうだ。
 




 
 シンジが少しだけ窓の外に気をやりながら、ゆかりに再び話し掛けるか、掛けないかの迷いに落ちいている間に、ゆかりはすっと席を立った。

「それじゃ、私教室に戻るわね。帰りにまた寄るから。今日はチェロ、あきらめなさい。」

「・・・・すみません。」

 その時、ゆかりの顔をシンジは見た。

 いつもの元気がない顔を見たシンジには、謝罪の言葉しか口にすることが出来なかった。

 ゆかりはシンジに背を向けて保健室の扉に向かった。

 思わずシンジは引き留めようと手を伸ばしたが、引き留められる理由がないことにその手は途中で止められる。シンジは寂しげにゆかりの背中を見送ろうとしていたときに、扉に手を掛けたゆかりがその歩みを不自然に止めた

「・・・・あのね、碇・・・・。」

「はい?」

 ぽつぽつと、まるでいつものゆかりらしくない話し出しに、シンジは言葉をそれ以上挟むことが出来ない。

 静かにゆかりの次の言葉を待った。ゆかりはシンジに背を向けたまま、話し続けた。

「うちってね、毎年この時期に土日に泊まりがけで海に行くの。」

「?」

「だからさ、そこでさ、・・・泳ぎの練習しよう!!。」

「!」

「今年はシンジも一緒に、ね?」

「・・・・・・」

 ゆかりがくるっとシンジに方に振り返りながらシンジにそういった。その表情は先ほどとは違い、晴れやかな笑顔が浮かべられている。

 シンジはゆかりの言葉が理解できずに固まったままその笑顔に見とれていた。

「特別にこのあたしが教えてあげるってんだから光栄に思いなさい!」

「・・・・・・・・」

 どんっとゆかりは自分の胸をたたき、ふふんと鼻で笑った。

 それでもシンジは、ゆかりの勢いついて行けず、ベットの上でどういうことかと首をひねっていた。

「ちょっと!聞いてんの!!約束よ!!わかった!!」

「は・・・い・・・・・」

 気の抜けたように惚けているシンジにゆかりは、無理矢理返事をさせ、約束を取り付けた。

「なによ、気のない返事して。忘れたりしたら、酷い目に遭わせてやるからね!!」

「はっはい!!。」

 理不尽な怒りが降りかかりそうになり、シンジは慌ててはっきりと返事を返した。

 その様子にゆかりは満足げにうなずいた。

 やっとそこで落ち着いたのか、ゆかりは自分の言動を思い出した。さっとその顔がほんのりと赤く染まる。

「じゃ、じゃあそれだけだから、またあとでね?」

 そういってゆかりは慌てた様子で保健室から出て行った。

 がらっ!!ぴしゃ!!

 鋭いととを出しながら保健室から出て行った。

 それでも恥ずかしさは紛れなかったのか、ぱたぱたと走る音があっという間に廊下から聞こえなくなった

「・・・・・・・・。」

 ゆかりの様子に唖然としつつ、ゆかりが元気になって良かったと思いながら、シンジは閉じられた扉をしばらくの間眺め続けていた。


















続く






ちょっとだけ後書き

お久しぶりです。haniwaです。

エヴァンゲリオン・クロニクル買いました。そのため少し話を書き換えたところがあります。シンジ君が居たのは鎌倉ではなく、神奈川にしました。

次回、覚悟してください。(そんなたいしたことでもないかも)



[246] 見上げる空はどこまでも朱く  第十一話 前編
Name: haniwa
Date: 2006/09/12 00:34
覚悟はいいですか?
















そうして僕は自分に言い聞かせる


悲しくはない


うれしくない


怒りもないし


楽しくもない


感情すらない。


この心は


何も感じないのだと


ほんとうの気持ちなんてわからない


こんな暗いところで


捜し物なんて


見つかるはずがない


それが何なのかが解らない


自分に言い聞かせる。


自分に言い聞かせ、


何も解らなくなる


そのことに気が付かない振りを続ける









見上げた空はどこまでも朱く




第十一話






ヒビワレ    虚像


前編






 二週間が経った。

 その日は、珍しく曇り空だった。空に大きく広がるそれは、太陽の光を遮り、街全体が何かに沈められてしまったような重たい雰囲気が辺りに漂っていた。

 そんな日でも碇シンジの朝は早い。

 六時半にはベットを出て、朝の勤めをはじめる。

 朝の空気に身をさらし、体の熱が奪われていくような感覚が気に入っていた。だから暗い曇り空の時でさえその朝の始まりの行為を欠かさなかった。

 朝早くに、家の前を歩くご近所さんにも頭を下げるだけの挨拶をする。

 玄関をきれいに掃除して、ポストから取り出した新聞を居間のテーブルに置いておく。読みやすいようにチラシを別にすることも忘れない。

 お湯を沸かしてポットに移しささやかながら朝食の準備をすませる。

 山川家の人々は、全員が二階で寝ていた。七時までに誰もおりてこなければそれを起こしに行くのもいつの間にかシンジの役割となっている。

 その日もシンジは、足音を立てないようにゆっくりと階段を上がった。

 シンジは朝のこのような場合と、叔母の手伝いで洗濯物を取り込んだりするとき以外は、ほとんど二階へは上がろうとしない。

 二階と一階との距離がは今のシンジにはとおすぎた。

 叔父達の部屋に行く途中にゆかりの部屋がある。

 シンジは二階に行くときはかならすそのドアに一瞬だけ目を向けた。

 ドアに目を向けるたびに、ゆかりの名前が書かれた名札の掛かっているいつもと変わりないドアノブに、気づかないうちに安堵のため息をこぼす。

 ゆかりの部屋を素通りして、さらに奥にある叔父の部屋の前にたつ。

 もう何度目になるか解らないのに、それでも慣れない様子でそのドアをたたいた。

コンコン

 申しわけ程度に二階だけたたく。

「先生?もう朝です。起きてますか?」

 それを何度か、返事がドアの向こうから聞こえてくるまで繰り返す。

「ん・・・・・?シンジ君?」

「はい、先生。時間は大丈夫ですか?」

「ああ。もうこんな時間か、おい公恵。起きろ。」

「では先生、僕は下におりてますね。」

 その様子を聞き届け、すぐに下におりようとドアに背を向けたシンジを叔父の声が呼び止めた。

「ああ。ゆかりは・・・・」

 問いかけにシンジは振り返らぬままドアに向かって答える。

「まだおりてきてないので、寝てると思います。」

「そうか。いや、ゆかりは私が起こすからシンジ君は下におりててもらえるかい?」

「はい、わかりました。」

 その会話をすべてドア越しにすませてしまう。そんなやり取りも、シンジがこの家に着てからたびたび行われているものだ。

 毎日そうしてシンジの一日は始まっていた。





「先生、どうぞ。」

 運んできたコーヒーをそっと新聞を読んでいる叔父の前に置く。

「ああ、すまないね。シンジ君。」

 居間のテーブルの上にはすでに朝食の準備が整っていた。叔父はいつもの場所に座り新聞を読んでいて、叔母はまだ台所でフライパンなどを洗っている。時刻はすでに七時半を回ろうとしていた。

 シンジは未だ、何か運び忘れはないか、台所と居間の間を行ったり着たりしていた。

「シンジ君、あなたも学校でしょう。早く朝ご飯食べてしまいなさい。」

「はい」

 そんな様子のシンジを見かねた叔母が食事をするようにと促した。

 そこでゆかりが居間に現れた。なぜか朝食もまだだというのに、その背にはすでに、彼女によく似合う赤いランドセルが背負われている。

「・・・・・・」

 また、夜更かしでもしていたのだろうか。居間に遅れて現れたゆかりは、まぶしそうに居間と台所を一度見渡すと、シンジと目があった。眉間に刻まれたしわが少しだけ深くなる。

 彼女は寝起きがいつも機嫌が悪く、朝は大抵こんなものだった。

 シンジがまだこの家に着たばかりの頃、その事に気が付かず朝からゆかりに過ち倒し、だんだん目が覚めていったゆかりがその事に困惑しているとゆう事態が何度かあった。

 ゆかりと目のあったシンジはいつものように朝の挨拶をした。

「あっ、ゆかりさん。おはようございます。」

「・・・・・・」

 ゆかりは、返事をしなかった。シンジを交わして居間にゆくと、朝食のサンドイッチを一つつまんで口に頬ばると、今度は玄関の方へと歩き始めた。

「?」

「ママ、わたし演劇の練習があるからもういくわ!!」

 シンジの前を、さっさと通り過ぎながらゆかりは台所にいる叔母にそう声を掛けた。

 その時、シンジのことを見ようともしない。

「ちゃんと食べていきなさい!ちょっと、ゆかり!」

 叔母が止める声も聞かず、ゆかりは玄関に向かい、扉の開く音が聞こえるとそれっきり静かになってしまった。

 シンジはそんな様子を見送りながら、自分の席に着いた。

「ゆかりさん、どうかしたんですか?なんだか機嫌がよくなさそうですけど。」

「ははっ、あの子の機嫌が悪くなるのはいつものことだよ。全く女の子って言うのはいくつでもわからないもんだ。」

「はぁ・・・・」

 シンジの目の前に座っている叔父が笑いながらそういい、その話は終わってしまった。

「ところでシンジ君、今週末に何か予定はあるかい?」

「いいえ、どうしてですか?」

 叔父が、新聞を傍らに置きながら、シンジに話をそらすように新しい話題を切り出した。

「いやたいしたことじゃあ無いんだが。・・・・・実は週末から、私は出張でね。公恵も泊まりがけで同窓会が在るんだ。」

「・・・・・・」

「それが、今週の土曜からでね、ゆかりの方は演劇部の合宿なんだそうだ。」

「合宿ですか?」

 シンジは最近、ゆかりとはよく話をするようになっていた。未だクラスメイト達とは表面的なつきあいしかできていないシンジは自然とゆかりとの接点が増えていった。しゃべる話題は、ゆかりの部活動についてや、シンジの音楽室での過ごし方など。

 だから、ゆかりからそんな話を聞いていなかったシンジは、その言葉に少し驚いた。

「ああ、あの学校は熱心でね、毎年やってるそうなんだ。」

「そう・・・・なんですか」

「それでシンジ君には土日に一人で留守番ということになってしまうんだが、かまわないかな?」

 少しうつむき加減になっていたシンジに叔父が覗き込むようにしながら聞いた。それに気づいたシンジは慌てた顔を上げた。

 然し、視線は目の前の叔父のそれとは合わせていない。

「あっはい、大丈夫です。叔母さんにお料理も習いましたし、ご飯も大丈夫ですから。」

「ははは、そうかい?大変だったらお金を渡しておくから、出前でも取るといいよ。」

「はい。」

 シンジは叔父の目を見ない。ちょうど叔父の動きを見るように視線をその口に向けられていた。

 その話し方は、何とかシンジがこの家の中で暮らして行くには不可欠なものだった。実際、この話し方を身につけてから、人付き合いが多少楽になった。


 ただ、他人との距離を遠くに感じる。今までよりも人との距離が近くなったはずなのに。


 ただ、この方が楽な気がした。これなら叔父達とも話が出来そうな気がして。


 でも、ちゃんと話が出来ているはずなのに、一向に冷さ解けていく気配はない。


 目の前にいる人との距離がさらに開いていくような気がする。


 それは当然だった。


 意思疎通のないコミュニケーション。そんな表面だけのやり取りで感じられるほど、眼前の人の心はシンジにとって暖かくはなかった。



 食事を終えて、シンジは玄関に立っていた。

「では、行ってきます。」

 当然のように、返事は帰ってこない。

 そうして今日もシンジは学校に向かった。





 午前中の授業がすべて終わり、昼休みの今、シンジは六年生の教室の前に着ていた。

 何の用事があるのだろうか、教室から出てくる生徒に声を掛けようとしては思いとどまり、また掛けようとしては怖がって逃げる。なんてことを繰り返していた。

 そんなことを繰り返していたから、いつの間にか昼休みも終わろうとしている。シンジはますます慌てて道行く生徒に声を掛けようとするが、満足に声が出ていないせいか誰もシンジに気が付かずシンジの前を通り過ぎていく。

 シンジは廊下のすみで困り果てていた。

 もうあきらめて帰ろうとしたとき、シンジに声が掛けられた。

「ん?きみ一年生?」

「あ!えっと。」

 それはシンジよりも頭二つ分ほど背の高い六年生だった。

「何でこんなとこにいるの。」

 その背の大きさに怯えていたシンジだが、その六年生はかがみ込んでシンジに優しく聞いた。

「あ、あの・・・・・・、演劇部の関係者のひとはいませんか?」

「ああそれならあそこにいる彼女が部長だよ。ちょっと待ってて、呼んできてあげるから。」

 彼は、シンジの探している人物と知り合いだったようで教室の中に入っていった。

 良かった、親切な人がいて。

 シンジがほっと緊張をほぐすためのため息を吐いていると、先ほどの彼が演劇部の部長だという女子を連れてきた。

「誰君?」

 少々女の子らしくない口調の人だった。見た目からのギャップのある話し方のせいでシンジはまた緊張してしまうが、時間がもうほとんど無いことも手伝ってすぐに話し始めた。

「あ、僕二年二組の碇シンジといいます。」

「ありゃ、きみ二年生か。ごめん。」

 男子生徒がッ先ほどのことをシンジに謝った。女子生徒の方はシンジの自己紹介を聞いてなにやら考え込んでいた。

「二年、二組・・・・・、あぁ、もしかしてゆかりちゃんと同じクラスの子?」

「はい、その・・・・少し聞きたいことがあって、その・・・・・」

「ん、いいよ。何が聞きたいの?」

 言いにくそうにしているシンジに、女子生徒はそういって先を促した。

 シンジはせかせかと話し続けた。

「あの、演劇部って今週合宿をやるってホントですか?」

「ああ、ホントだよ。合宿といっても学校でのお泊まり会みたいなものだけど。それがどうかしたの?」

「いいえ!、あっあのそれだけですから、えっと、しっ失礼します!!」

 そうか、学校でやるのか。

 シンジは一人、何かしらで納得しているところに、突然聞き返されたことに驚いたようだ。慌てて二人の前から逃げるように掛けだしていった。

「なんだか・・・忙しない子だなぁ」

 その様子を見て、演劇部部長はぽつりと感想を漏らした。





「あっの・・・・、ゆかりさん?」

 午後、最初の授業が終わったあと、シンジはゆかりに話しかけた。ゆかりは自分の席に座って相変わらず、不機嫌な表情を浮かべていた。

 今日一日、ゆかりはこんな調子だった。他のクラスメイトが話しかけてもぞんざいな返事しか返していなし、そもそもシンジにそんなゆかりに声をかけることなんて出来なかった。

 そんな調子だったからいつもは誰かと必ず一緒に居るゆかりの周りには今日は誰も寄りつかず、授業が終わると同時にほとんどの生徒が教室から出て行った。

「何よ?」

 そんな中でも、ゆかりは態度を改めることもなく、シンジの方を向かないまま声だけでぞんざいな返事を返した。

 ゆかりの少し問いつめるような話し方は、いやでもシンジの罪悪感を揺り起こした。ゆかりに内緒で部活のことを調べたこと、シンジには確かに後ろめたさがあったからだ。

「・・・・・・・・・・・・どうかしたんですか?」

「何が?」

 ゆかりの返事には熱がこもっていなかった。

 言い方を変えれば、まるで知らない他人に対するような冷たさだとシンジは感じた。

 普段の彼女なら、決してこんな風に人と接したりしない。

 なんだかんだで面倒見のいい彼女は、そういう理由でも皆から慕われている。それが今では見る影もない。

「いっいえ・・・・、ゆかりさん、なんだかいつもと様子が違ったんで、どうしたんだろうと思って・・・」

 そんな様子は、例え声を荒げなくとも、シンジを威圧するには十二分な迫力があった。シンジはうまく喋ることが出来ず、思わずどもった口調になってしまった。

「そんなこと、あんたに関係ないでしょ!!」

「そっ、そうですよね。すみません・・・・。」

 そんなシンジの様子が気に障ったのか、ゆかりはとうとう押さえていたものをはじけさせるように声を荒げた。

 その言葉も、今のシンジを突き放そうとする

「ふん!!何よ。いつまでたっても暗いんだから。」

「・・・・・すみません。」

「・・・・・ほっんとうに!!どうしようもないほどくらいわね。あー!!気分が悪い!!。・・・あんたどっか行ってくんない?」

「!!そんな・・・・・・・・」

 吐き捨てるようにそういった。はっきりと悪意がこもったゆかりの言い方に驚いたシンジは思わず後ずさった。

 違う、ゆかりさんは、こんな・・・・・・

「はん!!なによその目は!!言いたいことがあるんならいいなさよ!!」

「・・・・・・・・・・・・」

 ゆかりはその場に立ち上がり、さらにシンジに詰め寄った。

 自然とゆかりの方が視線が高くなり、見下すようにシンジをにらみつける。

 そんなゆかりをシンジは覗き込むように見上げた。その瞳は、意地悪だけど優しい彼女の、豹変したような姿が、悲しみと困惑の感情と共に映っていた。

 少なくともシンジには、目の前の少女がまるで別人のように映った。

「なによ。あんた、言いたいこともいえないわけ?そんなだから女男ーなんてからかわれるのよ。」

「・・・・・・・・・・・・」

 『・・・・・碇、気をしっかりね。ぷふっ、くくくくっ』

 脳裏にはあのときの彼女の笑顔が思い出される。だからその時以上に、今の彼女の態度が悲しかった。

 けれど、シンジがその事で涙を流したりすることはない。

「だいたいねぇ、女にもあんたみたいな女々しいやつなんかいないわよ。」

「・・・・・・・・・・・・」

 なぜなら彼女の最初の一言で、シンジは【あの日の叔父達】を目の前にしたように、感情が止まり掛けていた。

 胸が苦しくて息をすることさえままならない。右手で左手を、左手でズボンを掴む。

 彼女の目を見ることが出来ない。


 『笑いなさい。』


 そういってくれたときの彼女のあの一言は確実に自分の中の何かを変えてくれたのに。

 そんな彼女の目なら、彼女の、まるで自ら輝きを放っているような瞳なら、いつでも、いくらでも見ることが出来た。見続けていたいと思ったのに。今は恐ろしくて見ることが出来ない。

 もし見上げた先に、彼女の瞳が【あの目】のように、熱を失ったまま自分を見ていたら。きっと、自分の【何か】が終わってしまうような気がしたから。

「ほーら碇ちゃーん、言いたいことがあるんなら、言ってみなさいってのよ!!」

「・・・・・・・・・・なんで・・・・・・・・」

 ゆかりがさらに声を荒げて詰め寄るのに対して、シンジが何かを言いかけた。ゆかりは少しだけシンジの語気をゆるめ、言葉を待った。然し、それきりまたシンジは黙り込んでしまう。煮え切らないシンジの態度にゆかりは再び苛立ちを覚え、言いつのろうとした

「だからそんなんじゃ、きこえな・・・・」

「何でそんなこと言うんですか。」

 突然シンジが、はっきりとしゃべった。



 シンジは、自らに問いかけていた。


 何故か、と。


 何故、こんな気持ちになるのかと。


 何故、こんなにも真っ暗なんだろうと。


 何故、自分が行く道はこんな風に閉ざされてしまうんだろうと。


 何故、先生は僕を受け入れてはくれなかったんだろうと。


 何故、彼女に、突然自分にここまでの敵意を向けさせてしまったんだろうと。


 何故、なぜ、ナゼ・・・・・・・・・




 そんな湧き出すような疑問は、シンジの心を、荒く削り取っていった。




 滅裂な思考は、感情さえバラバラに引き裂く。

 そうして、増大する負荷に耐え切れず、感情が焼ききれてしまったんじゃないかと思わせるほど、それはシンジの声からは感情の消えてしまっていた。

 シンジは気がついたら、それを口に出していた。

 それはゆかりに対して放った言葉ではない、自分に向けた言葉だった。

「・・・・・・・・・・・」

「ゆかりさんに何があったかは知りません。でも・・・・・」

 ゆかりはシンジの様子に驚いていた。何も反応を返すことができない。

 端から見ても、シンジが身を固くしていることは見て取れる。

 けれど、見える肌からはすべて血の気が引き、白い顔で呟く様子は、思わずそれを見ている者にまで冷たい何かを感じさせる。

 シンジはゆかりを見ないまま、まるで独り言のように、ゆかりに問い続けた。

「でも、なんで何ですか。」

「・・・・・・・・・」

 バラバラだったシンジの思考が一つの形を取り始める。

「何があったか、教えてもらえませんか?」

「・・・・・・・・・・」

「僕が、なにかしてしまいましたか?」

「・・・・・・・・・・」

 ゆかりは答えない、じっとシンジの様子を見ている。

「ねぇ、ゆかりさん、答えてください。」

 最後の問いにだけ、シンジの心が戻っていた。俯いたままだったが、ゆかりに対してこの言葉は投げかけられた。

 しばらく、たったまま静かな時間が流れた。

 その沈黙を今度はゆかりが先に破った。


「・・・・知らない。」


 感情が戻ってきたのは、ゆかりも同じだった。

 然しそれは聞き取りにくく、腹の底で響くような声だ。

「え?」

「あんたなんか知らないって言ったのよ!!。」

 然し次の瞬間には再び感情が爆発した。

 思わず、シンジの視線が上がる。

「そんな・・・」

「何かしたかですって!!自分の胸に手を当てて考えてみなさいよ!!」

 そう吐き捨てると、シンジを押しのけて教室の外へと向かった。

「ゆっゆかりさん!」

「ついてこないで!!!」

 シンジはゆかりを引き留めるため後を追おうとした。

 その時初めて、シンジはゆかりの表情を見た。

 怒りの表情を、苛立ちの表情を隠さず浮かべているものだと思っていた。

 確かに彼女からは、怒りと苛立ちの感情が見て取れた。然しそれだけではない。眉間にしわを寄せにらみつけている。睨みつけているはずなのにはずなのに、その眉は潜められていて泣き出すのをこれ得ているような深い悲しみの感情が見て取れた。

 それを見てしまったシンジは、彼女の拒絶の言葉の前に、彼女を引き留めるのをやめてしまっていた。

 そのまま彼女は教室を出て行き、教室にはいつの間にかシンジ一人になっていた。

 彼女の先ほどの表情の意味が、シンジには理解できずにいた。

 彼女の出て行った扉を見つめ教室で立ちつくすしかなかった。







 二日後。

 シンジは玄関先に立ち、出かける準備をする叔父達を見送っていた。

  その日の天気はいくつか雲が浮かぶ晴れ。快晴とは言いがたい。天気予報では、夕立があるかもしれないとのことだった。今は太陽が雲に隠れていて見えない

「じゃあねシンジ君。留守番、頼んだよ。」

「はい。」

 週末までの時間はあっという間に過ぎ去った。

 あれからゆかりとシンジは一言も口をきいていない。

 とても、お互いに話しかけられる雰囲気ではなかった。

 シンジは気まずさから、ゆかりの姿さえ見ることが出来ず、ゆかりもシンジを見かければそっぽを向いて視界にさえいれようとしなくなっていた。

 そうしてシンジが玄関の前で立ち尽くしていると、奥からゆかりが出てきた。彼女には珍しく、アイボリーホワイト、ノースリーブのワンピースに麦わら帽子という、夏らしい出で立ちでシンジの横を何も言わず通り過ぎた。

 シンジはその背中をさびしげに見つめることしかできない。

 ゆかりは道路に出してある車のそばまで行くと、出かける準備をしているおじに何か話しかけていた。

 彼女も叔父と一緒に家を出発する。

 荷物とあわせて彼女をを学校まで送ることになっていた。叔母も駅まで行くのに叔父に送ってもらうので、山川家の人々は、一度に車で出かけることになる。

 シンジはその様子を、眩しいものを見るように眺めていた。

 シンジの視線は先ほどからゆかりに注がれていた。彼女の表情はうかがうことはできない。麦藁帽子を目深にかぶり、叔父の作業を見つめているせいで、シンジにはその背中しか見ることができない。

 不意に、雲から太陽が顔を出した。照りつける日の光は一瞬でアスファルトを焦がした。その熱気は地面の空気を揺らめかせる。

 手を伸ばしても、声を掛けても、彼女には近づけない。

 シンジはその陽炎の先に見える彼女が、遠い存在になってしまったように感じていた。


 そんなゆかりが、突然シンジに振り返った。


 シンジと眼があう。

 ゆかりは、驚いて目を見張っていた。そしてその口が何かを言いたげにわずかに動いている。

 シンジは驚き、ゆかりから視線をそらすことも忘れて、しばらくの間ゆかりと見つめあった。

 シンジはそっと手を伸ばす。今ならゆかりに自分の声が届くんじゃないかと感じた。

 然し次の瞬間、ゆかりの表情はくしゃっと悲しみに崩れ、口をかみしめるように閉じてしまうと帽子の縁を掴みさらに深く帽子をかぶり直す。

「・・・・・・・・ゆかりさん」

「・・・・・!」

 ゆかりは、シンジが話しかけるまもなく顔をシンジから背け、そのまま車に乗り込んでしまった。

 やり場のない手を上げたまま、シンジはその様子を見送った。

「どうしたのかしらね、ゆかりったら。」

 そこに最後の荷物を運んできた叔母が奥から出てきてシンジに声を掛けた。

 シンジは、ゆかりが乗り込んだ車に視線を向けたまま、叔母に答えた。

「いいんです。きっと僕が悪いんでしょうから。」

「何かあったの?」

「いいえ、僕にはわかりません。でもきっと僕が悪いんです。」

 なにを聞いても、シンジは自分が悪いとしか言わない。要領を得ない会話を叔母は早々に切り上げる。

「・・・・あとでちゃんとゆかりと話し合ってね。」

「・・・・・はい。」

 再び雲が太陽を隠す。あたりが巨大な雲の陰に多い尽くされ、シンジは空を見上げた。

 雲が風に流されていく。その動きは早く、雲はその形を刻々と変化させている。


 シンジはその様子を見て、なにを想うのだろうか。


 荷物を積み込み終わった車は、そんなシンジを家に残して、出発した。

 山川家の人々を見送った後、シンジはしばらくの間、車の去った道をさびしげな瞳で見つめていた。






 シンジは家に入ると、朝食の後片付けを始めた。

 手を動かしながら、考えることはゆかりについて。

 シンジには本当に、ゆかりがあんな態度をとる理由に、シンジは本当に心当たりがなかった。


 どうしてなんだろう?


 彼女に、あんな態度を【とらせてしまう】ようなことを自分はいつしてしまったのだろう。


 シンジには、自分が悪いという考えしかなかった。それほど、シンジにとってゆかりのあの態度は、不自然なものだった。

 あんな風に人に優しくできる人が、あんな風に笑える人が、怒れて、泣いてくれる人が、理由もなく、人にあんな風に接するはずがない。

 だから、理由があるとするならば、きっと自分が何かしてしまったに違いない。

 しかしシンジは、そう思っていながらもゆかりに対して、未だ態度を決めかねていた。

 彼女は叔父のように、心の裏に冷たい壁など隠していなかった。

 ありのままで接してくれた。

 態度を変えず

 心を変えず

 不思議なくらいに・・・・・・・・・

 そう、不思議だった。

 何故、彼女は変わらぬままでいてくれるのか。

 あんな言い方をしながらも、自分に向き合ってくれる彼女を僕は信じてもいいのかと。

 彼女は言ってくれた。

 ”そんなことは関係ない”

 僕は僕、お前はお前、君は君、碇シンジは碇ゲンドウではないと。初めて自分を肯定してくれた他人だった。

 『・・・・・それは、そんなに重要なことなの?』

 『それでもそれは、あなたには関係ないじゃない。』

 『・・・・少なくとも、私はそう思うし、そう思ってるわ。』

 こちらがどう感じているかはわかっていないが、自分の考えに自信を持ち、そしてそれを誇るかのような言い方は、とても彼女らしいものだったけれど。

 だからこそ、自分は彼女を信じてみることが出来るんじゃないかと。

 しかし、

 いや、だからこそ、

 別の疑問も同時にあった。

 【それ】はシンジの心の暗い部分からにじみ出てくるように現れ、今では先ほどの考えと、頭の中を二分するほどに膨れ上がっていた。

 洗いものを終えて、シンジは居間で一息つき、孝策をゆっくり再開させる。

 その時、改めてその疑問は姿を現す。


 本当に?


 本当に彼女を、このまま信じていいのか。


 彼女も所詮、自分を受け入れてくれなどしない。


 彼女も、叔父たちと同じように、影では自分のことを、


 疎ましく思っていたのではないか?


 本当は彼女も・・・・・・


 「ホントウハ・・・・・・・・・・・・・」




「ちがう!!」

 気がつくと、シンジは誰もいない居間で声を上げていた。目は見開らかれ、一瞬頭をよぎった疑問をを全力で否定してた。

 空調を切ってある部屋は蒸し暑い。そんな中、シンジは汗ばんだ胸を両手で強く握り締めた。その胸に不意に自分で落としてしまった黒い影を握りつぶして消し去ろうとするかのように。

 違う。

 彼女にそんな冷たい部分があったのだとしたら、僕の心はあの時、間違いなく砕け散っていた。

 けれどそんなことにはならなかった。

 彼女の瞳にはそんな暗い部分などひとかけらもありはしなかった。見とれるほどに自ら輝きを放っていた彼女に瞳にはそんなもの、在りはしなかった。

 だからこうして僕は彼女を信じて、僕の事を置いていった父のことも信じていられるんだ。

 朱い夕日の思い出に、宝物のような一ページを刻み付けてくれたから。

 自分にそう言い聞かせ、シンジは無理やり【その考え】に蓋をした。

 乱れた息を整える。

 二度とそんな考えが浮かばないように、深く息を吸い込み、思考の中に深く沈める。

 思考を切り替えるために、シンジは今日の予定を考えた。


 部屋の掃除をする。買い物に行く。宿題を済ませる。お昼ごはんを食べる。このまま一人で家にいる。



 普段から、活動的でないシンジにはそれだけしか思いつくことができなかった。

 それすらも、

  部屋の掃除は昨日一通り終わらせてしまっていた。これ以上すると、床が磨り減ってしまう。

    冷蔵庫には、昨日僕がお使いに行って食材はそろっている。

      その後、やることもなかったので、宿題は昨日のうちに終わらせた。

        お昼にはまだ早いし、そもそも食欲がない。

          このまま一人でいるには、あまりにこの家は静か過ぎる。

 あっという間に、選択肢がなくなった。

 思わず笑いたくなってしまうほど、シンジにはやりたいことがなかった。

 チェロを弾くにも、あれは今、学校の準備室にある。

 そして学校には、ゆかりがいる。

 「はぁー・・・・」

 シンジは自分の行動範囲の狭さを呪った。

 「はぁー・・・・・・」

 ため息をついて天井を見上げた。

 学校にいるゆかりのことを想う。

 もうひとつ、シンジには気に掛かっていたことがあった。

 ゆかりは、何故あんな悲しそうな顔をしていたのだろう。

 シンジの視線が天井で固定された。

 シンジの目には白い天井や、シャンデリアじみたおしゃれな蛍光灯は目に入ってはいない。

 ゆかりの、悲しげな瞳が浮かんでは消える。

 「・・・・・・よし!」

 シンジは、その一呼吸でソファから立ち上がると、、戸締りを確認して玄関へ向かった。

 玄関を出るとそこには、輝く太陽と、晴れ渡った空が広がっている。







 人気のない広々とした正面ホール。

 日も入らないせいか、廊下はひんやりとしていて、休日にある学校の静寂にまるで出つの世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こさせる雰囲気を付け足していた。

 そう、シンジは今学校に来ていた。

 その足取りは重く、視線は辺りをうかがうように絶えず動いている。

 (こない方がよかったかな・・・・・)

 いまさらながらに、後悔していた。

 どうしても、彼女のあの顔が離れなかった。

 自分が何かしたのなら、たとえまた彼女からひどい言葉が掛けられても、彼女にあんな表情はさせられない。

 まずは、明るくなってみよう。ゆかりさんが常々僕にそうなるように言っていた。それにはまず、自分から行動できるようにならなければ。

 その思いだけでシンジはいま此処に立っていた。 

 しかし、実際にきてみても演劇部の練習場所がわからず、学校の中をうろうろする始末だった。

 勢いもすっかり萎れてしまっている。それどころか突然ゆかりに遭遇してしまわないように、先ほどから、周囲を警戒していた。

 そんな、怪しさ丸出しのシンジに声が掛けられた。

「あ、きみ!!」

 びくっ、見つかった!!

 シンジは驚いて声のしたほうへ振り返ると、そこにはいつぞやの演劇部部長が立っていた。

 ほっと安堵を抱きつつ、きちんと挨拶を返した。

「あ、今日は。」

「うん今日は。今日も暑いね?」

「はい。・・・・・その格好は?」

 ふと落ち着いて目の前に女生徒を確認すると、シンジは彼女の格好が目を引くほどおかしいことに気がついた

 彼女は、少し変だった。おそらく演劇の衣装なのだろうが、この暑い中、先端に白い飾りのついた赤いニット帽に、同じく赤と白の上下の服を着ていた。

 その格好から、彼女に与えられた配役を想像するのは簡単だった。

「ああ、これ?二ヵ月後に公演する、『季節はずれのサンタクロース』のサンタ役なんだ。似合うかい?」

「あはは・・・・、ええ似合ってると思います。」

 相変わらず、周囲とは違った空気を持ってる人だった。先ほどまで練習があったのか、少々息が荒く、その肩は心なしか上下している。

「君は、何をしているの?」

「ちょっと、音楽室に用事があって・・・・・」

 シンジは咄嗟に、言い訳を考えた。

「ふーん?きみって軽音楽部?見ないけど。」

「僕、先月転校してきたんです。軽音楽部には入っていませんけど、時々音楽室を使わせてもらってるんです。」

 そこで、彼女は首をひねった。

「ん?じゃあ君は何か楽器でも出来るとか?」

「はい、チェロが弾けるんです。」

「あーいつの間にか準備室においてあったあのチェロか!」

 そして、シンジの特技に手をたたいてうなずく。演劇部員だからだろうか、反応がいちいち大げさなところがあった。

「あ、それ僕のです。」

 彼女の反応に戸惑いながらも何とか会話を続けた。

「へー、ああいうのって高いんだろう?すごいなぁ。良かったらこのあと聞かせてくれない?」

「えっ!」

 それはゆかりに対面することをを意味していた。

「やっぱりダメかい?」

「そ、そんなにうまくありませんから」

「いいじゃない、聞かせてよ。」

 決心してここまで来ていたはずなのに、ここに来る間にすっかりしぼんでしまったシンジには今、ゆかりの前に出て行く勇気がなかった。

 なんとしてもここは断りたかった。

「恥ずかしいですから・・・・」

「ああ、ゆかりさんのこと気にしてるんだろう?それなら大丈夫だよ。」

「?・・・・・どういうことですか?」

 目の前の人の言ってる意味が解らなかった。

「だって・・・・・」




彼女、今回の合宿には参加してないから。




     世界に   ヒビワレが   走る。


「え?」

 さぁっと、血が引いていく音が聞こえてきた。

 彼女から伝えられた事実はまったくの予想外の言葉だった。

「あれ?知らなかった?」

「・・・・・・は・・・・い。けっけど、そんなはずは!」 

 思わずシンジは演劇部長との距離をつめた。

 その表情には困惑以上に驚きに彩られ、色を失っていく。

 彼女は確かに朝、出かける様子を自分は見ている。それに彼女がここにいると信じて自分はここまで足を運んだんだ。

 突然、シンジの様子が変わったことに驚きながらも、彼女は彼女の持つ真実だけを彼に告げた。

「彼女はきっとこれからの演劇部を支えてくれる子だと信じてるんだけどね。今日はなんだか用事があってこれなかったんだって。」

「どこに・・・・・どこかに出かけるとか、言ってましたか?」

 シンジは焦り気味にゆかりの行方を聞いた。

「いいや、家の事情だって言ってたけど。でもどうして?」

 そこで、シンジは目の前の先輩に失礼なことをしてしまったことに気づいて、頭が冷えた。

「いいえ・・・・なんでもないんです。失礼・・・・・しました・・・・・。」

 それだけを言うと、シンジは背を向けて、その場を跡にした。

 その顔は、陶磁のように白い。




 すでに、彼は、歪められ、ヒビワレた真実にそれとは知らずに手を掛けていた




 『ソレ』は、   容赦もなく、   慈悲もなく、    受け入れることしか彼には許されていない。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く  第十一話 後編
Name: haniwa
Date: 2006/09/12 00:36
見上げる空はどこまでも朱く




第十一話






ヒビワレ    虚像


後編






 正午を少し回ったころ、シンジは家に戻っていた。

 すでに乾いた洗濯物を取り込んで、冷蔵庫の中身を確認し、お風呂のスイッチを入れる。

 そしてそれ以上、することがなくなった上で自分の部屋にむかう。

 部屋に着くと、ちょうど音楽室でするときのように、一人で使うには広すぎるスペースの真ん中に置いたイスに座っていた。

 その傍らには、あの後学校から持ち帰ったチェロが置かれ、ケースからはすでに取り出されている。

 然し、シンジがそれを手に取る気配はない。

 カーテンを開けた窓の外を眺めている。

 また、空には雲が出ていて、窓で区切られた小さな空を、とぎれることなく流れてゆく。

 シンジは、ゆかりのことで頭がいっぱいになっていて他に何かをやろうとする気力が沸かなかった。

 そんな様子のシンジがゆかりのことで今一番気に掛けていたことは、ゆかりが嘘をついていたことだった。

 ひとつの嘘は、その他すべてにも疑いの根を広げていく。

 夕焼けの中での出来事も、音楽室での出来事も、保健室でのあの約束も、

 そのすべてが疑心の念に彩られ、シンジを責め苛んだ。

 思考が再び滅裂になり、心がバラバラにされていく。

 思い出のぬくもりが薄れていく。思い出すことが、感じることができなくなるほどに。


  本当に彼女を、このまま信じていいのか。


 彼女も所詮、自分を受け入れてくれなどしない。


 彼女も、叔父たちと同じように、影では自分のことを、


 疎ましく思っていたのではないか?


 本当は彼女も・・・・・・



 心の蓋が開いてゆくのをとめられない。響く声はさまざまなだ。

 父の声で、叔父の声で、叔母の声で、先生の声で、クラスメイトの声で、あのときの二人組みの声で、そして、


 ゆかりと、自分の声で。


 シンジは乱暴に傍らにあった母の形見を手に取る。

 この声を消してしまいたかった。母のぬくもりを思い出したかった。ゆかりと初めて協奏したあの瞬間を思い出したかった。

 心は乱れていても、無意識のうちに弦を動かしてゆく。

 なにを弾いているのか当のシンジにすら解らない。

 時にメロディのない音の羅列で、シンジが聴いたことのある曲の断片。順番はめちゃくちゃで、音も酷いものだった。時折耳障りな音をさせてしまうこともあった。

 それにもかまわず、シンジは弾き続ける。

 音で耳をふさぐように。

 外の音と、内の声。それらが曖昧になって、わからなくなってしまえばいいと思った。


ガリッ


 けれど弾くたびに、自分の世界と外の世界の境界線、それがはっきりとシンジの中で壁を創っていく。


ガリッ


 それにあわせて、内なる声が大きくなってゆく。


ガリッ


 もうシンジのチェロからは、雑音しか出ていない。それでもシンジは演奏をやめなかった。


ブツッ・・・


 心の声が聞こえなくなるまで。


ブツッ


 人のぬくもりを思い出すまで


ぷつ・・・


 けれど、


ピチャッ・・・・・


 シンジが弦を弾くたびに、心の声はまた増え、大きくなり、


ブツッ


 チェロが音を響かせるたびに、シンジからぬくもりを奪っていく。


ブツッ


 そんな悪循環。

ブツッ
ブツッ
ブツッ・・・・・・・・・

そうして何かが削られてゆく。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






 シンジの演奏がとめられたのは、日がだいぶ傾きはじめた頃だった。

 薄暗い部屋の中、シンジの影がふらふらと揺れている。

 まだ、シンジは演奏を続けようとしていた。何故其処まで引き続けようとしているのかは、もう覚えていない。唇をかみしめ、震える手で弓を握り直し、弦にあてがい、弾く。

 ぷつん

 ガタン!!

 弦が切れ、チェロがシンジの体から離れて床に倒れた。
 
 正確には演奏をやめたわけではなかった。もう弦も、チェロ本体も支えることさえ出来なくなってしまっただけ。

 今、最後の弦が切れてしまったことで、弾くこと事態が不可能になった。

 そこで、はっと目を見開き、夢から覚める。

 すでに弓さえ握っていられないのか、その右手が小刻みに震えている。震えながら指を開くとまめが出来て真っ赤になっていた。

 シンジは、活力を根こそぎ奪われたようなひどい疲労感を感じ、肩で息をし、椅子に座っていることさえ困難になっていた。両手をだらんと伸ばし、その手から弓が落ちた。

 「はぁー・・、ぅぐっ、はぁ・・・・・・・」

 苦しげに、息を飲むように吸い込み、けれどため続けることが出来ずに抜けていくように吐く。そうして呼吸を整えた後、現状をだんだんと把握していく。

 ぼうっとする頭で、倒れたチェロを見た。弦がすべて切れてしまい、交換しなければ弾くことが出来ないだろう。

 指を置く、指板に目をやると不自然にてらてらと光っていた。ぬめりけのある輝きは、チェロの胴の部分まで続いており、胴に行くに従って光を反射しなくなっている。

 それは何かと思い、シンジは左手を伸ばした。

 左手が視界に入ったとき、それが何か解った 

 左手は、右手よりも酷い状態だった。親指以外、すべての指に裂傷がいたるところに出来ている。

 それが、指板から伝って、チェロ全体を赤く彩っている。

 シンジの背中に向けて窓から入ってくる日の光だけが、辛うじてチェロを照らしていた。

 薄闇に見えるそれは、シンジの血で汚れ、もとの落ち着いた雰囲気は見る影もない。

 シンジは、そこで動きを止めた。

 結局あれからずっと弾き続けていた。弓を引き、弦をはじいた。いつものように・・・・・・

 しかし、それはシンジが声に打ち勝てたわけではない。その証拠にシンジの体は震えている。


 声は消えた。


 その代わり、温もりも消えた。


 シンジが動きを止めたのは一瞬で、震える手でそれを拾い上げると大事そうにケースにしまった。


 バタン・・・・・・


 両手で蓋を閉め、その音が部屋に響く。

 心の声は消えている。シンジの心には何者の声もない。 

 「寒い・・・・・」

 両手でそっと自分の体をかき抱く。血まみれの左手で服が汚れることなんて気にならない。とにかく寒いのに疲れた体は緩慢にしか動かず、シンジはイスの上から動くことも叶わない。

 シンジは何とかベットに入ろうと体を動かした。ゆっくりと体を動かしながら、窓際のベッドへ歩いた。然し其処までたどり着くことは出来ず、膝から崩れてしまう。

 ぱた・・・・・

 そのままシンジはフローリングの床に体を横たえた。そのままぴくりとも動かない。

 床は太陽の光を受け、シンジの体暖められる程度の熱量があった。

 「ふぅ・・・・・・・・・」

 僕は何をしているんだろう

 こんなことをしても何も変わらない。

 自分を痛めつけて、チェロを壊しても、目の前の現実は少しも変わってはくれない。

 シンジはまた唇をかんだ。心が重くて仕方ない。出来ることならこんなもの遠くへ投げてしまええればどれだけ楽になれただろう。

 心の底には不安が、ヘドロのようにたまって其処にあった。


トクン・・・・


 床板から伝わってくる自分の心音を聞きながら、このまま静かな部屋で寝てしまおうと目をつぶろうとした。

 其処に


トゥルルルルル・・・・・・・・・


 シンジの部屋のすぐ向かいにある電話が鳴った。

 こんな時くらい僕をそっとしてほしかった。

 然し電話はそんなシンジの気持ちなど考慮にうちに入れてくれるはずもなく鳴り続けた。


トゥルルルルルルルルルルルルル・・・・・・・・・


 電話は2分以上鳴り続けた

 しつこい・・・・、いったい誰なんだろう。

 シンジは重たい体を引きずるように動かして、耳障りな音を静かにさせるため電話を取りに行った。






ガチャ・・・


「・・・・・・・」

 電話に対応するつもりはなかった。

 すぐに切ろうとして受話器を置こうとした。

 が、聞こえてきた声は意外な人物の者だった。

『あ、もしもし碇?』

「!!。ゆかりさん・・・・・ですか?」

 ぼうっとしていた頭が急速にクリアになっていく。慌てて受話器を持ち上げて両手で包み込むように耳に当てた。

『そうよ。私以外誰がいるっていうのよ。』

「今・・・・どこにいるんですか?」

 彼女は今どこにいるのか、家に帰ってきてから頭の中を占めていた疑問が吹き出してくるようだった。

『はぁ?あんた、なにいってんのよ?。』

「?」

 シンジの必死の問いかけも、電話の先にいるゆかりには届かなかったのか、真剣さのない普段のゆかりの声が帰ってきた。

 そう、あのときのようなとげとげしい者ではなく、いつも道理のゆかりの声だった。

 シンジが聞きたかった声、シンジが取り戻したいと想ったゆかりが、どこか解らない電話の先に存在している。

 先ほどまでの不安が少しずつシンジの中から消えていく。

 疲労感などそれだけで消えてしまった。

『それよりも、さ。』

 ゆかりが話を変えようとして、黙ってしまったシンジに呼びかけてきた。

 シンジがそのまま黙っていると、ゆかりの方も黙ってしまった。なにやら雰囲気が妙だ。

「・・・・・・・・・ゆかりさん?」

 切り出しておいて黙ってしまった彼女を、シンジは聞き返した。

『ごめん。』

「・・・・・・なんのことですか?」

 シンジに、ゆかりのその謝罪は不可解に聞こえた。

 シンジがゆかりの答えを待っていると、彼女には珍しくぽつりとした様子で話し出した。

『・・・・・あんたに、ひどいこと言っちゃったこと・・・・・』

「!!」

『わたし、碇にあんなこと言うつもりじゃなかった・・・・・・。』

「・・・・・ゆかりさん・・・・」

『碇が、水が恐いって気持ちが、私よくわからなかったから・・・・』

「・・・・・・・・・・・」

『動いてる水の中で、動けなくなることがあんなに恐いものだとは思わなかった。だから、碇の気持ちも、考えることが出来なかった。』

 ゆかりの告白は、シンジの心を軽くしていく。

 相変わらずシンジには彼女の話の繋がりが見えてこなかった。

 けれど、そんなこととは関係ないところで、彼女の言葉はシンジの心に響いてくる。

 シンジは、返事が出来ず、そっと眼をつぶってゆかりの言葉に聞き入っていた。

『実は、私もね、さっきおぼれかけたの。』

「だっ大丈夫だったんですか?」

彼女のとんでもない言葉に素直に驚く自分。

『うん、すぐ助けてもらったから。』

「良かった・・・・・」

 またこんな関係に戻れたことがシンジは嬉しかった。

 本当に・・・・・・

『それでね、碇もきっと同じ気持ちだったんだなって思ってさ・・・・』

「本当に・・・・・良かった。」

『碇?』

「もういいんです、ゆかりさん。僕、もう気にしていませんから。」

『・・・・・・許してくれるの?』

「もちろんです!」

 思わず、大きな声でそういってしまった。

「あっいえ、違うんです。きっと悪いのは僕の方だったんです。ゆかりさんは気にしないでさい・・・・すみませ・・・」

 シンジはいつもの調子で、ゆかりに謝りかけた。

『碇が謝る必要はないの!謝らないで。』

「へ?」

 ゆかりのおおきな声がそれを遮った。更に一拍置いた後、ゆかりは続けた。

『碇がそこで謝ったら、私の気持ちがうそになっちゃう気がする!』

「あっ・・・」

 シンジは、はっとして何も言えなくなった。

『だから、碇は素直に謝られてなさい!』

「・・・・はい・・・・」

 大きな声にも、彼女なりの理屈にもシンジはいつも驚かされてばかりだった。

『よし!!』

 けれどそれが、

 馬鹿みたいにうれしくて

 馬鹿みたいに心地よかった。

「・・・・・あははは」

『あははははは・・・・』

 電話越しにしばらく笑いあった。




「ところで、ゆかりさん。今どこに・・・・・」

 ゆかりは、どうやら公衆電話からこちらに電話しているようだ。

『あんたさっきからなにいってんの?』

「?」

 先ほどからシンジがゆかりに居場所を尋ねても同じ答えしか返ってこなかった。

「いえ、ですから・・・・・」

 シンジが詳しく説明しようとすると聞こえるはずのない声が聞こえてきた。




『ゆかり、誰に電話してるんだい?』




『あ、パパ。』


「・・・・!」


 あまりの驚きに、シンジの反応が一拍遅れる。

 驚きにシンジの目が見開かれる。


 なんでせんせいがゆかりさんといっしょにいるんですか・・・・・・


『あんなことがあったんだから、今は休んでいなさいと・・・・・』

 遠く叔父の声が聞こえる。おそらく、ゆかりが溺れた事についてだろう。

 ゆかりと叔父の会話が電話の向こうでかすかに聞こえるが、シンジは今、それどころではなかった

 せんせいは、きょうのあさ、ゆかりさんと【いっしょに】でかけた・・・・・はず?
 
 どういうこと?

 わからない。

 わかんない

 ワカリタクナイ




『碇?聞こえてる?ちょっと碇?』

「は・・い・・・。聞こえて・・・・ます。」

 ゆかりの声で、シンジは混乱した思考から帰ってきた。しかしシンジはいまだ現状に混乱していた。

 いったいどうなっているのかがまるでわからない。

『ちょっとパパが話があるっていうから変わるね。』

「あっ、ゆかりさ・・・・」

 叔父よりもゆかりの口から、今の状況を教えてほしかったが

『シンジ君。』

「!・・・・・・は、い・・・・」

 すでに相手が代わっていた。

 突然の叔父の声に、シンジはのどを詰まらせる。

 叔父はそんなシンジにかまわず話を続けていた。

『いや、悪いね。君一人で留守番をさせて。』

「・・・・・・・・・・」

『海が恐いのも解るけど、”君も”くれば良かったのに』

「・・・・・・・・・」

『ちゃんとご飯食べてるかい?』

「・・・・・はい。」

『そうか、いや、”安心したよ”』

びくっ

 叔父の言葉に、こめられた意味に気づき、シンジの方が震える。

 右手は受話器を、左手は痛むのにかまわずズボンを握り締める

 叔父の声は、いつもとかわらない。しかしシンジには解った。叔父はきっと【あの目】で、目の前の公衆電話に向かって話をしているだろう。

 あたかもそれがシンジ自身であるかのように。

 電話から体をそむけ、目もつぶった。

 叔父と直接話しても、目をそらせば自分をどんな風に見ているか解らなくなる。

 けれど今はしっかりとそれがわかる。

 自覚してしまえば、記憶の中の叔父がシンジのことを見つめている。

 胸が締め付けられる。

 心臓の鼓動が勝手に早くなるのに、誰かの手で無理やり止められているような、叔父の手に自分の握られているような。

 血の巡りが遅くなり、体がゆっくりと体温を失っていくのが解った。

『戸締りはちゃんとしなさい。』

「はい・・・・」

 つばを飲み込む。 

 叔父は、声色を変えず、まるで今シンジがどんな状態なのかわかっているかのようにシンジに言葉を掛ける。

『あんまり夜更かししちゃだめだよ?』

「はい・・・・」

 その一言一言で確実に、シンジを弱らせていくかのように。

 飲み込むつばもすぐに乾く。。 

『それから・・・・・』

『ちょっとパパ!もうそれくらいでいいでしょう!』

 ゆかりの声が聞こえて、叔父の声が聞こえなくなった。

 シンジは目を開く。

『・・・・ああ、わかったわかった。じゃあシンジ君?』

「はい・・・・・・・」

 最後にとつけたして、

『ゆかりに変わるけど”気をつけて”、ね?』

「は、・・・・い」


 シンジに止めを刺した。


『じゃあ、』

『碇?』

 ゆかりの声が聞こえてきた。


 うれしい、またあなたのこえがきけて。


 シンジはもうすべてを理解していた。

「ゆかりさん・・・・今海にいるんですね。」

『そうよ。あんたが海が恐いからって、パパに行かないって言ったんでしょう?。』

「ははは・・・・そうでしたね・・・・・。」

 掠れて、乾いた声しか出なかったが、シンジはなるべく明るく聞こえるように話をあわせた。

『なによ、それくらいでって思ってたから、碇が約束破っちゃったんだって・・・・・・・』

「約束?」

『ほら、約束したでしょう?海で泳ぎ方教えてあげるって。』

「あ・・・・」

『それなのにあんたってば、あのとき何も言わずに、私に何でなんて聞くんだから。私との約束なんてどうでも良かったんだって。そう思ったら、碇の気持ちを考えられなくなっちゃって。碇からしてみれば、まだ泳げないのにそこで練習なんて、考えたくもないよね。それなのに私は、あんなこと・・・・・・・・』

 それであんなにおこっていたんですね。

「もうその事はいいですよ、ゆかりさん・・・・・・」

 もういいんです・・・・・

『ねぇ碇?』

「何ですか?ゆかりさん?」

『こんどさ、プールにでも行こうね?そこでなら、碇も大丈夫でしょう?』

「うん、お願いします。」

 あなたはウソをついていなかった。

 ぼくは、もうそれだけでじゅうぶんなんです。

 なのにあなたは、まだこんなぼくとのやくそくをまもろうとしてくれているんですね

 そのやさしさが、

 いまのぼくにはちょっとつらいみたいです。

「あっすみません、こっち、雨が降って来ちゃったみたいです。洗濯物取り込まないと。」

 いつのマにか、ゆかにすいてきがおちていますからきっとすごいあめなんですよ。

 ほら、ぼくのかおまでぬれてしまっているんです

『あっ、そ、そう?じゃあまた電話するね?』

「はい・・・・」

『おみやげ、期待してなさいよ!じゃあね。』

がちゃ・・・・・・

「はい・・・・・」

 電話を握ったままシンジは立ち尽くす。

「・・・・ははっ」

 ゆかりが嘘をついていなかったことがうれしかった。

「・・・・・・あはははは・・・・ふふ・・・・・・」

 叔父が嘘をついていたことが悲しかった。

「ふふふっ、くふっ、あっははははははははは・・・・・・・・」

 ゆかりのことが誤解だったことがわかってほっとした。

「あっはっはっはっは、げほっ。」

 ゆかりに嘘をついてしまったことが、苦痛だった。

「・・・・・あはっ、あははははははははっは・・・・」 

 もう寒くはない。

「あーーははははははは・・・・・・・・・・・」

 寒いのかさえわからない。

 どの感情が本物で、どの感情が嘘のなのか。

 どれをあらわして、どれを心に秘めていればいいのか。

 たくさんの感情が入り乱れて、心の中が真っ黒に押しつぶされそうだ。

「あーーー・・・・・・・、」

 シンジは、感情をわすれたような表情を浮かべ、二階へとむかった。

 階段を一歩一歩、ゆっくりと上ってゆく。

 二回の廊下を少し行くと、ある部屋の前で立ち止まった。

 ゆかりの部屋だった。

 彼女が、部屋にいないことはわかっている。

 ただ来てみたかった。部屋に入るつもりはない。ドアに触れるだけ。

 彼女の温もりのわずかな残り火だけでもいいから感じたくて。

 暗く重たい心に、一筋でいいから光を当てたくて。

 けれどそのためにドアに向かって伸ばされたては途中でとめられる。

 シンジはそこに信じられないものを見てしまった。




彼女の部屋のドアには、何人の侵入も許さない無骨な南京鍵が掛けられていた。




ピシッ




 シンジの脳裏に、【あの日】の叔父の言葉が思い出された。

 『ゆかりには事情を隠して部屋に鍵をつけさせる。』

 シンジが恐れていたことのひとつが今、現実になっていた。

「あっ・・・・・・・・・」
 
 シンジはゆっくりと後ずさり、壁に背を預け、床に座り込んだ。

 鍵を見てしまった瞬間に、何かが欠け落ちた音がした。

 シンジはふと、顔からきらきらしたものが落ちていることに気がついた。

 それは、自分から欠け落ちてしまった大事な物のような気がした。

 壁から背中を引き剥がし、それを拾い集めようのろのろと手を伸ばした。

 目の前の床に手を広げ、水底を這うように辺りを探る。

 しかし一向に、落ちてしまったものは見つからない。

 いくら、手を動かしても、それが手にあたる感触がしない。

 それでもシンジは必死になって手を動かした。

 手につかめるのは空気ばかり

 落ちたものが何かはわからない。

 いや、

 欠けたモノに気がついていても、解らないわからない振りを続ける。

 日がすっかり暮れて暗くなってしまった廊下の真ん中で、

 力なく座り込んだまま

 見つかるはずのない探し物を続ける。










 あーあつい!!何で毎日こうも暑いのかしら。シンジのお土産のスイカがすっかり生温くなっちゃったじゃない。しかもなんだか縞の部分が、熱くなってない?

 最悪・・・

 私は家につくと、私の頭くらいあるスイカだけ抱えて車から飛び降りた。

「こらゆかり!ちゃんと荷物運び手伝いなさい!」

「はーい、ちょっとまってー。いーかーりー?」

 ママの返事もそこそこに、家の玄関を開けた。

 きっと一人で暗くなってるシンジを、またいじめてやらなくては。

 勢いよくドアを開けて家の中に入った私は、家の中のどこにいても聞こえるくらいの大きな声でシンジに私が帰ってきたことを告げた

「ただいまー、碇ー?いないのー?」

 家の中は電気がついておらず、少し薄暗かった。

 それでも太陽に溶かされているアスファルトが空気を熱く焼いている外に比べて、家の中は格段に涼しい。

 私が靴を脱いでいると、居間から出てきた人物が私を迎えてくれた。

「おかえりなさい。」

 その声は静かに、私の帰還を迎え入れてくれた。

 靴をあわてて脱ぎ終わった私は、躓きそうになりながらもその声の主に顔を向けた。

 「あっ・・・・」

 一瞬、目の前で微笑を浮かべる人物が誰だかわからなかった

 私は不覚にもドッキリして声を出してしまった。

 あいつは薄暗い廊下に立っていた。あいつには珍しく、その顔ににっこりと微笑を浮かべて。

 あいつ・・・シンジはその手に何かを乗せたお盆を持って、本当にうれしそうに私を迎えてくれた。そのことも私は二度驚いた。

 ずっと家の中にいたのだろうか、

 海で日焼けしてしまった私と違って、その肌は真っ白だ。

 驚いたことはもう一つある。

「あ、碇、ただいま・・・・・。髪、どうしたの?」

「これ、変ですか?」

 私は正気に返ると、彼の一番目に付く変化に対して質問をした。

 シンジは、笑みを崩さないまま、ひとつまみ髪を掴みあげると、また照れたように笑った。

 シンジの髪の毛は、わたしが出かけていった時よりも短くなっていた。鼻に掛かるほど長かった前髪が、その白い額にわずかに掛かるほどしかない。全体的にばっさりと短くなっていた。

 所々バラバラで、それでもシンジの髪質のせいだろうか、その柔らかい髪は、はねることもなく、まるで濡れたカラスの羽のように黒く、しっとりと寝かし付けられしていた。

 私は、薄暗い廊下にたたずんでいるそんなシンジが、まるでほのかに光っているんじゃないかと思うくらい綺麗に見えた。

 そんなシンジに見とれていることがばれただろうか?

 シンジが不思議そうに首をかしげている。


 笑顔のままで。


「どうしたんですか?ゆかりさん?外は暑かったでしょう?、はいこれ、冷蔵庫で麦茶冷やしておいた麦茶です。」

「う、うん。ありがとう・・・・・これ、お土産。」

 そう、そういってシンジが持っていたお盆に載せていたお茶を受け取った私は、もう片方の手で持っていたスイカをシンジに差し出した。

「わぁ、すみません。わざわざ。気にしてくださらなくてもよかったんですよ?。」

 あ!ありがとうって言ってほしかったのに。

 そのことを言おうとしたらシンジの視線が上に動いた。

「やあ、シンジ君。ただいま。」

 振り向くと、そこにはパパが立っていて私が邪魔で家に入れないでいる。

「先生。お帰りなさい。」

 シンジは、パパの顔を見て、私に向けたものと同じ微笑を向けている。パパの顔をまっすぐみて。

「あ、ああただいま。」

「先生もいかがですか。」

 シンジは左手で、パパにもコップを差し出した。

 その手には、いたるところに絆創膏が張られている。

「うん、もらおうか・・・・」

「じゃあ、はいどうぞ。荷物を運ぶの、ぼくも手伝います。」

 パパが飲み干したコップを受け取りながら、シンジはそういった。

 その間、シンジはずっと笑顔だ。

 私はだんだんとそのことに疑問を抱き始めていた。シンジの笑顔はとてもきれいだ。きれいだけど、今のシンジの微笑み方は、何故かわわたしの呼吸を苦しくさせる。

「碇・・・・」

 外に荷物を運びに行こうとするシンジの背中を私は呼び止めた。

「どうかしましたか、ゆかりさん?」

 相変わらずの笑顔で、私に聞いてくる。

「あんた、大丈夫?その・・・手、大丈夫?」

「あっこれですか?ぜんぜん平気ですよー。ちょっと料理のとき失敗しちゃって。」

 あはは、と傷だらけの手を目の前で忙しく振りながらシンジは笑っている。

「もういいですか?」

「あっ、うん・・・・ごめん、引き止めちゃって。」

「いいえ、気にしないでください。」

 そしてシンジは私に背を向けて、太陽の下に歩き出した。アスファルトの熱が地面の空気を揺らしている。

 シンジがその中に立つと白い肌がますます光って見えた

 わたしが何を言っても今のシンジには何も届いていないような、

 シンジの姿がおぼろげに、不確かなモノに変わっていくような、

 そんな不安が止まらなかった。

 行かせたくなかった。



  どさ!!



「ど、どうしたんですか?」

 気がつけば、わたしはシンジに駆け寄り、シンジを後ろから抱きしめていた。

 そんなわたしにびっくりしたのか、シンジは驚いて顔だけでちらりとわたしの方を見た。

 「ううん、・・・・・なんでもない。」

 わたしは自分でも思いもしなかった自分の行動が恥ずかしくて、頭半分ほど低いシンジの頭に額を押しつけるようにして、少し屈み気味になりながらもシンジに抱きつき続けていた。

 腕の中に収まったシンジは、ほんとうに小さくて、芯から冷えているんじゃないかって思うほど、その体は冷たかった。

 当然、シンジからすれば居心地の悪いことだろう。先ほどからわたしの腕をはずそうともぞもぞと動いていた。けれど決して無理矢理離そうとせず、そっとわたしの腕に自分を離してくれるように促すように触れるだけ。

 その手さえ、震えている。

 でも、そんなことではわたしは碇を離しはしなかった。

 「碇?」

 「・・・・はい。」

 「碇・・・・」

 「・・・・はい。」

 わたしが、シンジの名前を呼んで、碇がそれに答えてくれる。それだけでわたしの不安は消えてくれた。

    トクン・・・   トクン・・・

 シンジの胸に当てている手からシンジの鼓動が伝わってきた。

「どうして・・・・・」

 シンジが耐えかねたように、シンジがわたしに聞いてきた。もうシンジは偽りの笑顔なんて浮かべていてないだろう。

    それでいい。

 シンジの問いかけにはきっといろんな意味が込められていただろう。その一つ一つにわたしは答えも持ち得なかったが、一つだけ理由があった

 でもそれは言うことが出来ない

 理由をこたえることが出来ない。

 いえるわけがない。

 抱きしめてシンジを引き留めた理由

 あのままシンジを行かせたら、

 まるで消えてしまいそうだったからなんて・・・・・

 いえるわけがなかった。

 口にしてしまえば、ほんとうに今、目の前にいるシンジがほんとうに消えてしまいそうな気がしたから。

「碇。」

「・・・・・・・・・・・ゆかりさん?ほんとうに、もう離し・・・・」

「ただいま。」

 ぴくんと、小さくシンジの体がはねる。

「ただいま、シンジ。」

 ゆっくりと、シンジの体が暖かくなってきている。

 きっと、今ならわたしの声が届く。

「ただいま・・・・ね?シンジ。」

「・・・・」

 わたしはシンジの返事を待った。

 けれどシンジはいつの間にか俯いて、黙り込んでしまった。わたしはシンジの正面に立とうとして腕を離そうとした。

 けどそれは、わたしの腕がシンジに捕まれることで離すことはなかった。

「シンジ?」

「・・・・・・・さい。」

 小さな声で、何か言っていた。わたしは捕まれた腕をそのままに、シンジに耳を近づけた。

 そのじれったい言い方には、わたしは何も言わない。わたしは静かにシンジの言葉を待った。

「なーに?」

「おか・・えりなさい、ゆかりさん・・・・」

 ほっとはき出すような、シンジらしい言い方で、そういってくれた。

 わたしはやっと、ほんとうのシンジに迎えられたような気がした。

「うん!ただいま。」

 シンジの言葉は今度こそほんとうのシンジの言葉だった。

 シンジはわたしの腕を掴んでいた手に力を抜いた。わたしはシンジからゆっくり腕を放した。その手のひらに残ったシンジの体温の暖かさが、なんだかうれしかった。

 わたしがゆっくりと離れるとシンジは振り返ってわたしを見た。

「もう、ほんとうにどうしたんですか?」

「えへへ、なーんでもないの。」

 ふふっと、シンジと私は笑いあった。シンジは少し困ったような笑い方だったけど、さっきのよりもずっといい。

「シンジくーん、ちょっといいかーい」

「先生が呼んでますから、僕は行きますね?」

 道路の向こうから、パパの呼ぶ声が聞こえると、そう言ってシンジはまた、パパの方へと駆けだしていった。

 けれどすぐに、立ち止まって、ゆっくりと私の方へ振り返った。私が不思議そうに、シンジを見ていると、そのことにシンジは気がついたのか、また、先ほどと同じ少し困ったような、けれどどこか遠くて、眩しいものを見ているような目で私のことを見ていた。

 けどそれは一瞬で、すぐにシンジはパパの下へ走っていった。

 なぜだろう、私はそのとき、もう一度彼のことを引き止めたくて仕方がなかった。

 彼は、もう陽炎の中に揺らぎ続けるものでも、その中に融けて消えてしまいそうなのもでもなく、確かにそこにいる彼なのに、

 けれども彼はもう、私の手の届かないところまで行ってしまった。

 私は、光の下に走り行く彼の、何かを振り切るような背中を、もう見ていることしか出来なかった。





       ふと、顔を上げてみる。




 空には雲が出始めている。


   だんだんとその数を増やしながら


     太陽の輝きを隠しながら


       それらはゆっくりと、気持ちよさそうに流れている


          汗ばんだ頬をなでる風が気持ちいい




 今日も夕立が降りそうだ。















次回予告

許さない


絶対許さない


何が在ろうと許さない


絶対絶対許さない


あいつがどんな弁明をしようとも


あいつがどんないいわけをしようとも


許さない


例えどんな理由が在ろうとも


例えどんな過去が在ろうとも


絶対に許さない。


どんな釈明も、


どんな謝罪も、


どんな贖罪も


今の私には通じない


絶対に許してなんかやらない。



別に泣かせたい訳じゃない


別に悲しませたい訳じゃない


別に怒ってるわけでもない


でも許さない



ホントはそう、


悲しいのはわたし


落胆したのもわたし


期待していたのもわたし


楽しみにしていたのも、


ほんとうはわたしの方。


あいつは何にも悪くない。


だけど、



なんだか許せない。


次回

「 ヒビワレ    真実 」



[246] あとがき
Name: haniwa
Date: 2006/08/14 20:35
こんにちは、haniwaです。
みなさまお忙しい中、私の作品に目を通していただき、ありがとうございます。

今回、実は二部構成で、十一話、十二話でひとつのお話にするつもりでした。詳しくは、十二話のあとがきでお話します。
ただ、思わぬところで、十一話が長くなってしまったので申し訳なく思っています。少しだけ種明かしをすると、十一話の大半がシンジ君の視点で、最後にゆかりの視点でした。次はその逆です。

では、この場を借りて、感想のお返しを。

Cold大王さん、黒衣さん、カシスさん、みのさん、S.Iさん、ユッケさん、ご感想ありがとうございました。

Cold大王さんへ、感想ありがとうございます。Cold大王さんのご指摘はいつもhaniwaの執筆の糧となっております。ええ、彼女はどSです。先生陣に「教師」とつけるのは、中野教師がはじめて出てきたときに、叔父が一緒にいて、しかも軽くシンジ君が視点でしたから、混乱を避けるためにです。変ですかねやっぱり・・・・

黒衣さんへ、はじめまして、感想ありがとうございます。これからよろしくお願いします。明るくデスカ?。ゴメンナサイ。でもhaniwaは、ハッピーエンドが大好きです。でも、H○Hもすきです・・・・

カシスさんへ、感想ありがとうございます。そうですね。きっと彼は、人のことが好きで、優しすぎるんだと思います。だから、人に裏切られたとき、人よりもショックが大きいのかもしれません

みのさんへ、いつも感想ありがとうございます。あー実は人によってはそんなでもないかもしれませんけど、今かにの話は、いつもよりもじわじわ来る感じ?かも知れません。

S.Iさんへ、おかえりなさーい!!。話の雰囲気を少し変えてしまったので、いやになっちゃったのかなと心配してました。また書いてくださってうれしいです。まだ伏せているところがいくつかあります。ゆかりがあれほど怒った経緯、海での出来事、そしてシンジが一人で過ごした夜の間のシンジの心の動き。十二話でちゃんとと書くことが出来ればいいなと思います。

ユッケさんへ、はじめまして、感想ありがとうございます。本編でのゆかりとシンジの関係ですか・・・・・。実は第三東京編、最初のほうのあらすじは出来上がっています。そのときゆかり嬢は・・・・。いまはまだ、何もいえません。お楽しみに。

では、第十二話「ヒビワレ  真実」のあとがきでまたお会いしませう。

つけたし:あと、十話を超えることが出来ました。これもすべて、私の作品を応援してくださっている読者の皆様のおかげです。これからもよりいっそう頑張っていきますので、よろしくお願いします。



[246] 見上げれる空はどこまでも朱く 第十二話 前編
Name: haniwa
Date: 2006/09/12 00:27
許さない


絶対許さない


何が在ろうと許さない


絶対絶対許さない


あいつがどんな弁明をしようとも


あいつがどんないいわけをしようとも


許さない


例えどんな理由が在ろうとも


例えどんな過去が在ろうとも


絶対に許さない。


どんな釈明も、


どんな謝罪も、


どんな贖罪も


今の私には通じない


絶対に許してなんかやらない。



別に泣かせたい訳じゃない


別に悲しませたい訳じゃない


別に怒ってるわけでもない


でも許さない



ホントはそう、


悲しいのはわたし


落胆したのもわたし


期待していたのもわたし


楽しみにしていたのも、


ほんとうはわたしの方。


あいつは何にも悪くない。


だけど、



なんだか許せない。









見上げる空はどこまでも朱く






ヒビワレ    真実


前編






 保健室での私からの無理矢理といってもいい約束から一週間と六日目の夕方

「パパ!!それってどうゆうこと!!」

 私の家で机を叩く大きな音とともにイスから立ち上がり、私は先ほど目の前にいる父が言ったことに納得がいかなくて、演劇で鍛えた自分が出せる一番大きいんじゃないかと思うほどの大きな声を出して、父にくってかかっていた。

 別に突発的な反抗期が訪れたわけではない。これにはちゃんとした理由がある。

 理由のひとつは、今シンジがこの家にはいないこと。あいつは私が帰ろうと誘うのも気にしないでさっさと音楽室へといってしまった。きっと今は時間も忘れて演奏に熱中していることだろう。じゃあ、私もそれに付き合えばよかったじゃない、なんて考えもあったが、私の予定を曲げてでもシンジに付き合うのは、なんだかその・・・・・しゃくだったからだ。

 そして、もうひとつの理由が先ほどからの続きだ。

「いや、仕方がないだろう。シンジ君が・・・・」

「碇がなんて言ったの!!」

 思わず睨み付ける様にパパを見据え、吼えた。私の大きな声と強い視線にに、きっと予想外だった私の反応にパパは困った様子を隠す暇もなく続ける。

「いや、だからシンジ君は今週の旅行には行かないと・・・・」

「それって、しん・・・碇がそういったの!!」

 私は再び前に座っているパパに身を乗り出すようにしながら問い詰めた。

 そう、私が今までにないくらいパパに対して迫っている大きな理由だった。

 今私とパパは毎年催している旅行の打ち合わせなるものをしていた。

 私の家族は毎年この時期に海に行く。一泊二日のささやかな家族の親睦を深めることを兼ねた旅行だ。毎年同じところに泊まって、海に行って、泳いで、夜には花火をして、一晩泊まれば次の昼にはもう家に帰っている。事前の話し合いなんて必要ないくらいなれたことだった。

 なんだかんだで忙しいパパが、私のことを気遣ってくれて毎年行われている山川家の行事の一つだった。

 はっきり言って、つまらない。毎年同じところに行くこともそうだが、パパは忙しい体を休めるためにほとんど私のことはかまってくれないし、ママは日に焼けるから、水着さえ着ない。そんな中で、子供一人私だけどうしてはしゃげるだろう。

 しかし、今年は違った。

 碇シンジ

 今年は彼が家族の一員として、一緒に海に行くことになるだろうと思っていたからだ。そうすればやりたいことがたくさんあった。

 彼は泳げない。まったく泳げないわけではないが、その水泳能力は一言で言うと、中途半端に泳げるだけ、かわいそうなものだった。それでも海で出来ることは何も泳ぐことだけではない。

 砂の山を一人で作らなくてもいいし、二人がかりならパパを砂の中に埋める計画も実行出来たろう。

 はっきりいうと楽しみにしていた。

 そこへ突然、シンジが参加しないと告げられたのだ。

 まだ自分の感情を押し殺し、隠すことを知らない私は、楽しみを突然失った事に対して素直に感情を爆発させてしまった。

 それに、彼とはひとつ約束があった。

 確かに一方的な約束だったかもしれない。

 シンジは気が弱くて、きっと私に直接断るなんてことは出来ないだろうということも知っていた。

 シンジがそういったことを断れないことも、そんなシンジの性格を利用したことも、私は自覚していた。

「どうして・・・・」

 でも、こんな風に他人を通して断るなんて、そんなことはできない、いやしないやつだと思っていたのに。

 こんな風に私から逃げるなんて・・・・

 私の中にはそんな悲しみもあったかもしれない。

 私は目の前にいるパパを置き去りに、テーブルに叩きつけた両手をそのままに、顔を伏せて、ひとり思考の渦に沈んでいた。

 俯いて、時々つぶやくように言葉を漏らすような私を見かねたのか、パパが話を切り出した。

「ゆかり?どうしたんだい?」

「なんでもない・・・」

 私は、私のことを気遣ってくれるパパにも気を向けず、首を振って答え気もそぞろな返事をした。

 しばらく、そのまま考え込んだ後、顔を上げてパパに質問をした。

「・・・・・・・・・碇は何で海に行かないって言ってた?」

「うん?ゆかりも学校の授業で知ってるだろう?シンジ君が泳げないことを。」

もちろん知ってる。だから、あの約束を・・・・

「・・・・・これは、彼もやっぱり男の子だね。格好悪いからゆかりには話さないでくれといわれたんだけどね?」

「・・・・・なに?」

 内緒だよ?と、パパには珍しく”楽しそうに”そのことを話し出した。私はそんなパパの話し方に多少の苛立ちを覚えながらも話の続きを聴いた。

「彼は海で溺れたことがあるそうなんだ。まだ、彼のご両親がそろって健在だったころにね。」

「・・・・・・・」

「そのせいで、彼は、海が怖いんだそうだ。」

 聴いたことのない話だった。私は軽い驚きで顔を上げると少し目を見張ってパパを見た。

 彼の過去に、私はほかの人よりも触れる機会が少し多かったように思う。だから少し、彼のことを一番知っているのはきっと私だという、妙な自信があった。

 私の知らないシンジをパパが知っているということが、シンジのその体験に共感することを阻んでいた。

 確かにそのことはシンジにとって怖い体験だったことだろう。

 でも・・・・私は納得できなかった。

「・・・・・それだけ?」

「それだけ・・・ってゆうと?」

「碇は”それだけ”の理由で行かないってゆってたの?」



 ”そんなこと”、理由にならない!!



「碇は・・・・なんていってたの?」

 私は湧き上がる感情を静かに押さえつけた。こういうとき、演劇の経験は役に立つ。

「?・・・・どういうことだい?」

 しかし、曖昧な私の質問に、パパは混乱している。私の意志が届いていないかのような様子は私の薄い心の蓋をあっという間に沸騰させかける。

「だから!!、パパに断るときなんか言ってなかった?私のこととか。」

 私はまた声を荒げそうになるのを堪えながらことの詳細をパパから聞き出そうと思った。

 認めたくなかった。”そんなことで”シンジが私の存在を忘れるなんて。

「・・・・いいや、なにもいっていなかったが・・・・」

 少し考えた後パパはそう答えた。

 私は今度こそ、はっきりと怒りにも似た困惑を自覚した。

 そんなはずはないと。

 百歩、いや一万歩譲ったとしても、あいつの中で私の存在抜きにこのことを片付けられるはずがない。

 私にはそんな確信があった。

 そして、そのことに思い至った。

 (あいつ!!約束のこと忘れてんな!!)

 きっとそうに違いない。机に置いた手に新たに力をこめて握り締める。

 もうそれしか考えられなかった。もし、約束のことがなかったにしろ、私に一言の相談もなしに海への参加を拒否したあいつにはそれだけでもう・・・・・

 (お仕置き決定・・・・・)

 彼が帰ってきたのはそんな私の意識が固まったまさに絶好のタイミングだった。

 「ただいま帰りました・・・・」

 その声はいつもどうり、おどおどと玄関でしばらく立ち往生するシンジの様子がありありと想像できるものだった。

 いつもなら私は居間に待機して、帰ってきた彼を一笑のうちに迎えるか、何かしら心理的なトラップを仕掛けてその反応を楽しむという、兄弟がいるならどの一般家庭でもあるようなやり取り(少なくとも私はそう思う)を行うのだが、今回は違う。

「あ、シンジ君が・・・・・・ゆ、ゆかり待ちなさい!!」
 
 私は走り出した。

 先ほどの決定を実行に移すために。

 突然走り出した私に驚いているパパを居間に置き去りにして。

 居間を出て右に曲がり廊下をけば、すぐに玄関へつく。私は急に走ったことで髪が乱れることも気にせずに、未だ玄関で突っ立っているシンジの前に立った。

 「あっあれ?ゆかりさん、どうしたんですか?」

 突然、目の前に私が現れたように見えたであろうシンジは当然のごとく驚き、その同年代の男の子よりも大きな目を少し長ったらしい前髪の奥でぱちぱちとさせている。

 しかしその様子はただただ、突然私が玄関に現れたことに驚いているだけで、隠し事が苦手なシンジにしては、先ほどのことを断った割に、そのことについて、私に対する後ろめたさも感じない。

「どうしたじゃないでしょう・・・・、このっ!!」

 吐く息に胸に渦巻く余分な熱を放出させ、私は言葉を吐き出して次の言葉のために語気を強めかけたとき、目の前に立つシンジに視線を送った。

 私が怒っている理由など想像もついていないだろう。私はさらに大きな声を上げそうになっていたが、シンジのきょとんよした様子は私を一瞬冷静にさせた。

 ちょっと待った、と。

 このまますべてを吐き出してもシンジは謝り倒すだけで之までとそう変わらないままだ。

 私の部屋を埋め尽くさんばかりにある蔵書の中に、いい言葉がひとつあったはずだ。

 それは、

 (復讐という名の料理は、時間を掛ければ掛けるほど、そして・・・・・冷たければ冷たいほどおいしい。)

 これだ。

 少々、この言葉を考えた人とは私のこの感情は違っているかもしれない。が、私との約束を見事に忘れてくれたシンジ君にはそれ相応の代価を支払っていただかないと。

 にやり・・・

「!!!」

 突然の私の笑みにシンジは目に見えて驚いている。失礼な。

「あら、お帰りなさいイカリクン。遅かったのね?しーんぱいしたのようぅ?」

「あ、あああああそうなんんんですか、す、すみません!!」

 私はシンジとの距離をつめ、一段高くなっている場所からシンジを見下ろした。シンジの身長は私よりもさらに低い。かなり高めな位置から見下ろすこととなり、今も震えるシンジという少年をを大層威圧したことだろう。

 それほどシンジは面白いほど動揺してくれた。

 下味の準備は良好。このまま頂いてもいいかもしれない。

 しかしまだ足りない。これくらいなら日常茶飯事のレベルなのだから。

 もっともっと、最後には泣いて海に連れて行ってくださいというまで追い詰めてやる。

そのとき私にひとつのビジョンが思い浮かぶ。





  『ああっ約束を忘れて申し訳ありませんゆかり様あああぁぁぁぁぁ・・・』

   私の前にひざまずくシンジ。

  『そんなことで許してもらえると思ってるの!!この根暗がぁぁぁぁ!!!』

   まるで女王様のように、それを足蹴にする私。

  『ふぇぇぇん!!どうか、どうかそうおっしゃらず、今一度私にあなた様のご教授(泳ぎの)をこの身に受けるチャンスをぉぉぉ・・・』

   それでも縋り付くシンジ。

  『ふーんしかたがないわね、これっきりよ!』

   【寛大な心】でシンジを許す私。

  『ははー、ありがたき幸せー』

   そして私にひれ伏すシンジ。




    ゾクっ




 私は己の脳裏に浮かんだ、なんとも甘美な未来予想図に目の前にいる当人に気づかれない様に身を震わせる。

 私の様子をずっと眺めていたシンジの顔が心なしか青く見えるが気にしない。

 「そんなところでなにしてるのー、早くお風呂に入って。もうすぐ夕飯よ?」

 「あっ、すみません。そっそれじゃあ。」

 私がやさしーく声を掛けると、シンジは心なしか慌てた様子で靴を脱ぎ、私の横を走りすぎていった。

 うふふ・・・・

 私はその後姿を、愛おしいものを見るように見つめ、彼が部屋に入るまでを見送った。

 逃げるように走り去るその様子を見て、私はこう思った。

 (ニガサナイ・・・・・)

 うふふふふふ・・・・・・・・・


 そうして、その日はいつもよりむしろ明るい私と、私のことをすこーし青い顔で不思議そうに見るシンジという形で過ぎていった。




 そうして次の日の朝。私は眠い目を擦りながら階段を下りていた。家の中だというのに、蛍光灯の光さえ今の私には目をつくような眩しさだ。

 今日の私は特に寝不足だった。きっと今の私は酷い顔をしているに違いない。ついつい考え事ついでに夜遅くまで本を読んでいたせいだ。

 つり上がり気味と認識している私の目は母によく似ている。そのことで損だなと思うのはこんな風に目を細めているといやおうなく他人に威圧感を与えてしまうことだ。

 しかし、今日のような日には丁度よい。

 これから行う作戦には一役買うことだろう。

 走行考えているうちに居間のところまで来ていた。

 私は不機嫌そうに見える顔を治そうともしないまま、居間の扉を開けた。

「あっ、ゆかりさん。おはようございます。」

「・・・・・・」

 いつものように、シンジはそこで一番に私に挨拶をする。昨日のおびえようはどこへ行ったのか、理不尽と感じつつも腹が立つほどいつもどうりだった

 私はそれに返事をせず、今のテーブルに並べられた朝食をさっと見渡すと、シンジを肩でかわしてテーブルに近づきサンドイッチを一つまみ手に取るとさっと身を翻し、足を玄関に向けた。

「ママ、わたし演劇の練習があるからもういくわ!!」

 その間、シンジが私を不思議そうに見ていることを確認しつつも目を合わせることはしない。ここでは思いっきりいつもの私とは違うことをシンジに印象づけなければならないからだ。

「ちゃんと食べていきなさい!ちょっと、ゆかり!」

 ママが掛ける声を自分の背に受け止めつつ、私はそのまま玄関を出た。

 学校へ続く道すがら、私はシンジを追い込む作戦の第一段階が成功したことを静かに喜んでいた。




「さあ、焦がして!!どうせ見捨てるならばいっそ、海の向こうへ休む前に、その輝く御身で私たちを・・・・・物言わぬ消し炭に変えてほしい!!!そうすれば・・・」

 私は丸めた台本を片手にもち、一人分の照明を浴びながら体育館の壇上の上で自分の台詞を読み上げている。長い台詞だがひとつしかないのでそれなりの気合が入っていた。

 今私たちが練習している演目は『季節はずれのサンタクロース』。

 これはセカンドインパクト後、異常気象による食糧難、紛争やテロ、政治不安など混乱を極める世界を想う一人の絵本作家が書き上げた絵本のお話だったらしい。大筋のストーリーは、サンタの格好をした変な男の一言でそれも耳にする人々が人を想うことを思い出し、世界が平和になる、といったものだ。はっきり言って本自体はあまり日の目を見ることがなかったが、それを後々、ある役者が目に留めそれを演じたことで世間の目に触れることとなった。だから寧ろ劇の題目としての知名度のほうが高かった。

 私に役は本当に劇の最初、たった一人で台詞を読み上げる場面。私はその劇の中でも、神様に恨み言を言う人の役。人々が苦しみ、死んでいく中でも変わる事のない世界を空の流れに例え、そしてそれを神様の行いと考えた名もない一人の『女性』。けれど『彼女』は神様のことが好きだから、信じていたかった。だからこれ以上、天を呪う前にいっそ殺してくれと懇願している。 

 その後、サンタが現れるという形で劇が続いていく。

 先輩からの受け売りだが大体がこんな感じ。私には実感の沸かない事ばかりだった。

 そもそも信じているのだとしたらなぜ、文句を言う必要があったのか?それに・・・・

 「ハーイそこまで。そろそろ時間だよ?。」

 私が自分の役作りに悩んでいるところへ、ちょうど反対側で衣装合わせをしていたサンタ役の先輩が、体育館を使っている生徒全員に声を掛けた。私は悩むのを一時中断し壇上から降りまだサンタの格好をしている先輩の元へと走った。

「お疲れ様です。」

「うん、お疲れ様。ゆかりちゃん、今日はなんだかとっても雰囲気があってよかったね。どうした?」

「そうですか?」

「うん。何だろう、自分の気持ちに気がつけない『彼女』の、もどかしい位の心情と同じくらいの胸を締め付けるものが合ったと思うよ。」

 身振り手振りを加えて、私の先ほどの演技がいかにすばらしいものだったかを当の私自身に説明しようとする先輩。相変わらずオーバーな人だ。

「そ、そうですか・・・」

 あまりに多大な評価に、思わず腰が引けてしまう。

「でも、私は『彼女』の気持ちがよく解らなくて悩んでいるんですけど・・・」

「ん!それはいけないね。いいかいゆかり君!!」

「はい・・・・」

 思わず、頭を垂れてしまいたくなる。どうやら、まずいときに声を掛けてしまったらしい。先輩の何かに火をつけてしまったようだ。

「このような劇を演じる場合、私たちはどうやって役になりきればいいだろうか、それは誰もが悩むところだ。登場人物たちは悩み、苦悩している。そして大抵は話の進む中で彼らは答えを見つけ、そして終盤へと向かっていく。一から順に十を学び取っていくわけだ。」

「・・・はい・・・・・」

 まずい、挫けそうだ。

「だがしかし、それを演じる私たちはそれではいけない。最初から一から十までを知っている必要がある。知っている立場から寧ろ登場人物たちよりも深く答えを理解する必要がある。君はおそらく今現在、『彼女』と同じ位置にいるんだ。それは貴重なことだよ?」

「はぁ・・・・・・」

「つまりだ、私は言いたいことは、大いに悩めということだけさ。大いに悩んで自分の答えを出すんだ。そうして答えを出した君だけが演じられる『彼女』を楽しみにしているよ。」

「は・・・・い」

 そこまで言うと先輩はさっさと片付けに向かってしまった。相変わらずパワフルな人だ。

 話の内容を整理しようとしても言っていることが所々飛びすぎていてよく解らない。しかしこれ以上問いかける気にもなれない。なんだかどっと力が奪われてしまった。私は先輩に見えないように少しだけ肩を落とした。

「ところでゆかりちゃん?」

「!!はい!!!」

 びっくりした。先輩はいつの間にか振り返り再び私に声を掛けてきた。もう勘弁してほしい。

「現実に、『彼女』のような状況に陥ったら・・・・」

「・・・・・」

 ところが、振り返り私を見る先輩の顔には芝居がかった様子はなく真剣な切れ味を持った顔で私に話し出した。それを見た私はさらに緊張の度合いを増した。

 ところが、次の瞬間には一部の女子に大変人気のあるにこやかな笑顔で顔を崩した。

「素直になるといいよ。」

「は?」

 そういうとさっさと体育館から出て行ってしまった。わけが解らない。

 先輩は自分の講釈に満足し、片づけを終えると体育館から出て行った。

        キーン コーン カーン コーン

 予鈴の鐘の響く中、私も急いで体育館を後にした。




 私は教室に入ると、わざわざシンジの席の前をとおり、私の不機嫌そうな顔を確認させる。そうして何も声を掛けず、すぐに自分の席に座った。

 シンジは何か言いたそうにしていたが、もちろんこちらからは声を掛けない。ここからじわじわとシンジにプレッシャーをかけていく。

 作戦の全容はまず、シンジを徹底的に無視することから始められる。第一段階は朝に終了し、次に今のように私がいることを確かめさせつつシンジだけを無視し続けること。

 こうすれば、シンジは私の不機嫌の原因が、自分にあると考えざるを得ないだろう。

 シンジの気質から言って、恐らくもって二時間目の休み時間ぐらいだろうか?私からのプレッシャーにシンジがそれほど長く耐えられるとは思えない。

 さて、耐えられなくなったシンジが、私の不機嫌の原因について声を掛けてきてからが、今日本当の勝負だ。私の予想では、学校に着いてそろそろシンジも気づき始めているだろう。

 それを私は冷たくあしらう。計画は二日がかり、焦ることはない。今日は静かに彼をあしらい、畳み掛けるのは明日だ。未来予想図の完成は明日。

 私は笑い出しそうになるのを必死に堪えた。私から斜め後ろにいる彼からは私のそんな様子は見えることはないが、雰囲気すらも厳しくしておく必要がある。そう、勝負はこれからなんだから。

 それまで私は、今日まで鍛え上げた演技力を遺憾なく発揮する必要がある。それまで、・・・それまで・・・・・

                   ふふっ




「ん?な、なあ、なんか寒くねぇ?」

「それがさっきっからゆかりの方から冷気が・・・・・」

「何かしら?田中君?私に何か御用?」

「イイエ、ナンデモナイデス・・・」

「そう?」





 そして、一時間目が終わり、私はすぐに席を立ち教室から出て行った。

 シンジは席に座ったまま、私を追いかけようとはしない。授業中もずっとそうして私に視線を向けていたことは感じ取れていた。けれどまだ、まだだめだ。これじゃあ足りない。

 今回は私から切り出すんじゃなくて、シンジのほうから来てくれないと意味がないんだから。

 そして、二時間目。

 シンジからの視線をあまり感じなくなった。確認したいが授業中だし、何より今シンジと目が合えば計画が狂う。それにもし目が合おうものならこちらから怒鳴りつけてしまいそうだったから。

 我慢しなきゃ。




 そのまま、二時間目三時間目四時間目と時間は過ぎていき、とうとう昼休みになってもシンジは私に話しかけてこなかった。それどころかシンジは給食を早々に食べ終わると急いで教室から出て行った。私に視線を向けることもなく。

 私は本当にいらいらし始めていた。仕方なく予定を変更し、出て行ったシンジを探し出しこちらから働きかけることにした。






 どこにもいない、あいつが、シンジがどこにもいない。教室、図書室、職員室、体育館、そのどこにもいなかった。音楽室なんて一番最初に行ってみた。

 私は人目を気にせず廊下を走った。時々人にぶつかった。それも気にせず私は走った。

 何で私がこんな風に、シンジなんかに振り回されているんだろう。なんでこんな風に走り回ってるんだろう。何で・・・

      こんなに悲しいんだろう。

 理科室、家庭科室、放送室、果ては体育倉庫まで、私は走り回った。

 どこだろう、彼はどこへ行ってしまったのか。もう一度教室に戻って探そうとしたとき、私は見つけた。

 何で六年生の教室なんかで突っ立ってるんだろう。あいも変わらず、おろおろとしていた。

 さぁ、ここまで私を走り回らせた付けを払わせて、約束を破りかけていることもあわせて、叩いて伸ばして丸めてポイしてやる。

 そう意気込んだ私はいざ足を踏み出したところで足を止めた。いや、足は自然に止められた。

 シンジに誰かが話しかけている。とても親切そうな人がシンジに。

 どうしてだろう、さっきまでシンジを見つけたら、一目散に飛んでいって文句を言って、謝らせて、

 海の話をして、

 泳ぎの練習の話をして、


 ありがとうって、シンジに言ってもらいたかったのに。


 私はただ、シンジともう一人の誰かが話をしているところを見続けることしかできなかった。
 
 そうしているともう一人シンジに話しかけている人がいた。あの女部長だ。わたしは解くからその様子を聞いていたけれど、聞こえてきたことは二つだけ。

「・・・・・・ゆかりちゃんと同じクラス・・・」

「・・・・・・・・・聞きたいことがあって・・・・・・・」

 シンジの言葉が聞こえた時点で畑氏はその場から駆けだした。

 裏切られたような、そんな気持ちがした。






 午後の授業が終利を迎えたとき、あいつは私に話しかけてきた

「あっのゆかりさん?」

 相も変わらず、それしかできないこのようにおずおずと言った声を聞いたとき私はまたイラッとした。

 結局、こいつは昼休みが終わった後も、私に話しかけることもなく、私のいらいらはさらに募った。

「何よ?」

 私はそんな心の苛立ちを我慢することなく吐き出した。横目で見ていてもそれだけでシンジがおびえている様子がありありと伝わってきた。

「・・・・・・・・・・・・どうかしたんですか?」

 それでシンジは私に話しかけるのをやめない。

「何が?」

 私はそんなシンジが今ここで私の近くにいることが苦痛でしかなかった。突き放すような言い方と判っていたけれど、とめるまもなく私はそういっていた。

「いっいえ・・・・、ゆかりさん、なんだかいつもと様子が違ったんで、どうしたんだろうと思って・・・」

 ああ、あんたってばまだ判ってなかったのか。そうよね。あんた見当違いにも部活で何かあったんじゃないかと思って部長にまで聞きに言ってたもんね。


 私との約束なんて・・・・、


 私は歯をかみ締めて、言葉をついた。

「そんなこと、あんたに関係ないでしょ!!」

「そっ、そうですよね。すみません・・・・。」

 それだけで、あっさりシンジは引き下がる。すぐに謝る。目を私からそらす。そんな様子が私には、なぜかたまらなく悔しかった。

「ふん!!何よ。いつまでたっても暗いんだから。」

 何も言い返そうともせず、俯いて黙り込んでしまったシンジに、さらに言い募ってしまう。いつもなら、いつもの私ならここでやめるはずだった。

 シンジは本当に、自分が悪いと思っているから謝っているんだと、私は知っているから。ありがとうというべき場所でも謝ってしまうのは、他人に自分のことでいやな思いをさせてしまったと本気で思っているからなんだと。

 彼は、本当に優しくて、けれどその優しさを支えるだけの強さがまだ備わっていないのだと。

 私はわかっていたはずなのに。

「・・・・・すみません。」

 俯きこれだけしかシンジは言ってくれない。

「・・・・・ほっんとうに!!どうしようもないほどくらいわね。あー!!気分が悪い!!。」

 私の言葉は止まらない。止まってくれない。止められない。どうしようもなく、悔しさが湧き上がってきて仕方がない。それはこのまま溜め込んでおくには今の私には大きすぎる感情だった。

 だから

 私からその言葉は止めるまもなく吐いて出てしまった。

「・・・あんたどっか行ってくんない?」

「!!そんな・・・・・・・・」

 シンジの声が、明らかに大きく息を呑む音と共に聞こえてきた。

 その時ちらりと、シンジの表情が見えた。私の一言に傷つき、そして私はそんなことを言わないと信じていたのに裏切られた。そんな驚きに満ちた顔だった。

 そこで私の意識だけが正気に戻った。

 違う!、私は、・・・・・・・こんなことが言いたかったわけじゃないのに。

「はん!!なによその目は!!言いたいことがあるんならいいなさよ!!」

「・・・・・・・・・・・・」

 けれど口からは、止まらないままの感情が言葉を続けてしまう。


 なにか言ってほしいと。


 私は思わず立ち上がり、シンジの小さい声さえ聞き逃さないようにその距離を詰めた。自然と身長の高い私がシンジを見下ろす形となってしまった。

 そんなことをすればますますシンジがものを言えなくなるなんてことは、用意に考え付くことなのにその可能性さえ考慮のうちに入れることができないほど、私は自分で自分を追い詰めていた。

「なによ。あんた、言いたいこともいえないわけ?そんなだから女男ーなんてからかわれるのよ。」

「・・・・・・・・・・・・」

 ひどいことを言っている。そんな意識があるのに、私は私を止められない。止めてほしい。

 誰かに。

 シンジに。


 なにか言って。


 なにか一言、言ってくれれば止まれるのに。


 もう・・・・・



「だいたいねぇ、女にもあんたみたいな女々しいやつなんかいないわよ。」

「・・・・・・・・・・・・」

 だけどシンジは顔さえ私に向けてくれない。私に目を向けてくれない。


 『・・・・そう、ですね。帰ろうか。』


 あの時、はじめてみたシンジの笑顔を何度でも見たかったはずなのに。

 今、目の前にあるのはきっと傷ついたシンジしかいないだろう。

 シンジは、顔を私から背けるように伏せ、右手で左手を、左手でズボンを掴んでいる。

 私の意識はそれを冷たく見ていることしかできない。

「ほーら碇ちゃーん、言いたいことがあるんなら、言ってみなさいってのよ!!」

 あぁ、『彼女』もきっと、私と同じ気持ちだったに違いない。

 もう・・・・・・


もうこれ以上・・・・・・・あなたを傷つけるような言葉を言わせないで!!”



「なんで・・・・・・・・」

 やっと一言、シンジの声が聞こえた。それはとても小さくて、距離を詰めていなければ、聞き取れなかっただろう。私はしんぞの言葉を待った。

 次に聞こえてくる言葉が、例え私を罵倒する言葉でも否定する言葉でも、かまわない。

 それがシンジの本当の気持ちなら。

 けれどシンジはまだ顔を伏せたまま、次の言葉を言おうとしない。私は少し言葉を弱めながらも、ジンジに先を促そうとする言葉を言いかけた

「だからそんなんじゃ、きこえな・・・・」

「何でそんなこと言うんですか」

 突然シンジが、はっきりとしゃべった。

 今度は私が体を固くする番だった。

 シンジの言葉には、私が帰ってくると思っていた言葉より、声の大きさも、込められている意味も弱いものだった。普段シンジが使っている言葉と同じといっていいくらいだ。

 けれど、その言葉にはどこまでも熱がなかった。一世代前のパソコンの音声のほうがまだ暖かみがあると思えてしまうほど、脈打つ心臓を今も、もっていいるはずの、シンジから発せられているとは思えないほど抑揚のない言葉だった。

 感情が消え、シンジという人格が消え、まるで別の何かが私の前に突然現れた錯覚さえ起こさせた。

 冷気さえ漂ってきそうなくらい、突然変わったシンジの雰囲気に私は言葉を続けることが出来なくなった。

「・・・・・・・・・・・」

「ゆかりさんに何があったかは知りません。でも・・・・・」

 それでもシンジは、その言葉を口にした。私が何についてシンジに問いかけているか、何に気づいてほしいのか。

 何故よりによって、私に聞くのか!!

「でも、なんで何ですか。」

「・・・・・・・・・」

 シンジは一言も、私に言い返そうとしない。先ほどまでの言葉には確かに傷ついているだろう。それでも。

 私は答えない。それがいったいどういうことなのか、シンジの意外な熱を帯びない言葉で、次第に落ち着きを取り戻した私にはわかるから。

「何があったか、教えてもらえませんか?」

「・・・・・・・・・・」

 そうやって言い続ければ、傷つくのは結局シンジだけなのに。それでもシンジは・・・・・・ シンジは、また自分の過失と思っているならなおさらのこと、

 答えるわけにはいかない。それが私を本気で心配してくれていることの裏返しだとわかるから。

 だからこそ、また別の思いが生まれてくる。


 何で!!


「僕が、なにかしてしまいましたか?」

「・・・・・・・・・・」

 答えるわけにはいかない。

 どうしてそこまで私のことを、考えてくれているのに、あの約束は思い出してくれないのか。

 朝からずっとこの胸にあって、つい先ほども浮かんできた最初の想いが再び静かに持ち上がってきた。

「ねぇ、ゆかりさん、答えてください。」

 最後に一言、シンジはそういった。その一言には熱が戻ってきていた。

 少しの間、私たちの間に静かな時間が流れた。

 その短い時間にも、私は再びわきあがってきた想いに、感情も、意識も満たされていた。

 だから、次の言葉を、自分の意識と感情と想いを載せてシンジに言った。


「・・・・知らない。」


「え?」

「あんたなんか知らないって言ったのよ!!。」

「そんな・・・」

 私は、迷いを振り払うように大きな声を出した。その声にシンジは顔を上げている。私はなぜか顔を背けてしまった。けれど、私はそのまま、シンジに言葉をその勢いのままぶつけた。

「何かしたかですって!!自分の胸に手を当てて考えてみなさいよ!!」

 そこまで私はシンジをよけて教室の扉に向かった。ここには、苦しくてもう居たくなかった。

「ゆっゆかりさん!」

 けれどそんな私をシンジは引きとめようと声を掛けてくれた。そこで私は立ち止まるべきだったかもしれない。

「ついてくんじゃない!!!」

 けれど私はその場にとどまれなかった。

 感情がもうめちゃくちゃで、意識なんかとっくに頭の外。シンジに一言言っただけでこの有様だった。だからもう、一刻も早くシンジの前からいなくなってしまいたかった。

 私は、今できる精一杯、シンジをにらみつけ、教室に彼を視線で縫いとめる。その時目に入ったシンジは、驚いたような、傷ついたような、おそらくはその両方を織り交ぜた顔をしていた。

 そして私は、シンジのその表情を振り切るために、廊下に出たら一気に走り出した。



[246] 見上げれる空はどこまでも朱く 第十二話 後編
Name: haniwa
Date: 2006/09/12 00:30
見上げる空はどこまでも朱く




第十二話






ヒビワレ    真実


後編






 シンジとけんかしてから二日後。

 けんかと呼ぶにはいささか一方的だったかもしれないが、結局あの後私とシンジは何も話すことなく、それどころか目を合わせることもほとんどなく二日が経ち、今私はパパの運転する車に揺られて海へと向かっていた。

 天気は晴れ。文句のつけようのないくらい晴れ渡っている。出かけるとき少々雲が多いんじゃないかと思ったが、絶好の旅行日和となったようだ。

 すでに車に乗って二時間ほどが経過していた。クーラーの効いた車内で、当たり障りのない会話を続けることにもいささか飽きた私は外の風景に視線を移していた。

 窓枠に肘を置き、顔に手を付き、流れる風景を視界に捉えながらも、私の目に映っていたのは今日、出かける際に見たシンジの顔だった。






「じゃあねシンジ君。留守番、頼んだよ。」

「はい。」

 玄関先でシンジがパパと話をしているのが聞こえてきた。私は一瞬だけ廊下で立ち止まると勢いをつけて玄関を出た。

 シンジの視線を感じ取りながらも、私がをそちらを向けるはずもなく、やや駆け足で私は、曇り空の下に出た。

 境界線を潜り抜けたように、外と家の中との温度差を感じながらもそれに感じ入るすきまもなく私はシンジを横にかわして、彼を意識しないようにゆっくりとした動きで車に乗り込もうとしたとことへ、荷物を運び込んでいたパパが私に話しかけてきた。

「あぁ!ゆかり、ちょっと待ちなさい。」

「・・・なに?」

「いや、たいしたことじゃないんだが、シンジ君と何かあったのかい?」

「!!」

 私は、その一言に目を軽く見開いた。

 冷静になって考えてみれば、それは当然の質問だったろう。私とシンジは家の中でも結構話をするようになっていた。(主に私が一方的に話してシンジがそれを聞くという形ではあったものの)

 それがここ二日で目に見えて会話がなくなったのだ。何かあったと思うの普通だろう。

 それでも私が驚いたのは、私が無意識にシンジのことを聴かれたくないと思っていたせいだろうか。

 「何でも、・・・・ない。」

 私は帽子でパパの視線をさえぎり、さらに顔を少しそらすころで会話を打ち切った。

 そのとき、辺りが少し明るくなった。きっと太陽が雲を抜けたのだろう。辺りの気温が急に上がった気がした。その熱気は車の陰にいた私でさえも感じることが出来るほどだった。

 そこで、ふと玄関に視線を向けてみた。

 私は、そのときのことをたぶんずっと忘れないだろう。


 そこには、まるで遠くを見るような視線で私のことを見ているシンジがいた。



 シンジは、地面が揺らめくほどの熱量にさらされながらも、身じろぎひとつせずに私のことをじっと見ていた。その肌は太陽の光にさらされ、今にも消えてしまいしそうなほど白く輝いているようだった。

 いつから・・・・・・

 いったいいつから、私のことを、そんな今にも泣きそうな顔で見ていたの?

 シンジ・・・・・

 シンジのほうも私に声を掛けるでもなく、そのまま私とシンジは少しの間見つめあった。

 そのとき私の口は、私の意思に反して開きかけていた。

 一緒に行こう。そう声を掛けたかった。たった三メートル強しか離れていない私たちの距離。声を今出せば、きっと彼にも届くだろう。

 けれど、出かけた声は、私の喉をひゅうと、鳴らすだけにとどまった。

 私にはそんな勇気も、それどころか資格すらないのだといまさらながらに気が付いてしまったから。

 シンジはただ、悲しげに私を見ているだけ。

 私は、シンジにひどいことを言ったのだ。自分で言っておきながら、耳をふさいでしまいたくなるほどの、否定の言葉を。

 私は、でかかった言葉も無理やりに飲み込むと、その気ぐるしさと悔しさに顔をゆがめた

 すると、シンジがゆっくりとこちらに手を伸ばそうとしているのが目に入ってきた。私はあわてて帽子をつかみ、それを引き下げた。なにをしているのだろうと、自分でも思いながら。

 せっかく、彼が歩み寄ろうとしてくれたのに、私はまた彼を拒絶するのかと。

「・・・・・・・・ゆかりさん?」

「・・・・・!」

 シンジが私の名前を呼んだ。そこまでが限界だった。私はとうとう体ごとシンジから顔をそらすとそのまま車に乗り込み、出発しても、再びシンジと顔を合わせることはなかった。






 そして、私はくそムカつくほどの天気の下で、車の中で自己嫌悪の真っ只中にいるというわけだった。

 もう何もかもが、世界そのものが灰色に見えてしまいそうほど、私のテンションはローギアいっぱいだった。

 とてもじゃないが、家族旅行で海なんて楽しめる気分ではありえなかった。

 風景も見飽きて、車内に視線を戻す。特に見ることがないことに気が付いて、視線をひざに落とす。目に入ってきたのは、めったに着ないワンピースの裾。しかも、アイボリーホワイトなんて汚れたら目だって仕方がなくなるような、いつもなら絶対に着ないような服を着ていた。

 そこでもう一度私は、深く、深くため息を付いた。

 何で私はこんなものを着てるんだろう。

 私は、自分にそう問いかけて、そして理由を思い出して今度は顔が熱くなるのを自覚しながらまたへこんだ。今度は深く頭を抱えて。もう体育館の隅に捨ててあるピンポン球も軒並み裸足で逃げ出すぐらいのへこみっぷりで。


 あっ、ピンポンだまには足なんかないよねぇ。


 違う違う!!、そうじゃなくて、この服を選んだのは、いつもと違う服でなら気分も変わってシンジと話できるんじゃないかなって思って、けど、そうはならなくって、

 結局、シンジとは、話は出来なくって。




 だから!!そうじゃなくって!!!




「あーーもう!!何だってのよーーー!!!」

「ゆかり!?」

「ゆ、ゆかり?どうしたんだ?」

 私はとうとう耐え切れなくなり、暴発した。突然大きな声を出した私に驚いてパパとママが振り返る。

「パパ!!ハンドル!!」

「ん?、うわっ!!」

 慌ててハンドルを握りなおす。少し車が揺れたが、ドライブは先ほどまでの穏やかさを取り戻す。

 私も大きな声を出して、いろいろ吹っ切れてきた。

 私は心配そうに私を見る両親をよそに、クーラーの効いた車の窓を開ける。

 機械で調節した風じゃない、自然の空気が勢い良く私の顔に当たる。車の進むコースは道沿いに。香る風は潮風で、海が近いことが解る。

 そこに見える空は、あいも変わらず、くそムカつくほど晴れている。






 そして今、

 私は浜辺に立っていた。

 私の真上には照りつける太陽。

 空を漂う雲はない。

 吹く風は、潮風で湿っている。

 打ち寄せる波は、引くも返すも穏やかだ。

 踏みしめた砂の感触が足の裏で一粒一粒が自己主張しているかのようにちくちくする。

 すでに私は水着に着替え、こうして母なる海と対面を果たしていた。

 着ている水着は学校で着るようなものじゃなく、色は紺ではなく青、フリルのような飾り気のようなものはなく、全体的なシルエットは学校指定のそれとほとんど同じなのだが、、背中が大きく開いているのが特長だった。

 クラスの女子には、上下に分かれたビキニに近いものを着たがる子が多いようだが、私はあまりああいったものは好きになれなかった。

 どう頑張っても、授業で日焼けしてしまうのだ。それなのにくっきり色の分かれた肌を、人前にさらすような気分にはなれなかった。

 この水着を選んだ理由は、それだけではないけれど、不愉快なことを思い出しのそうなので記憶の隅に追いやることとした。

 私は改めて、目の前に広がる海を見渡した。

 ここに立つと、いつも思うことがあった。


 なぜここに砂浜があるのかと。


 セカンドインパクト後、南極の氷がすべて解けてしまい、世界中の海抜ゼロメートルの場所は海に沈んだ。島国である日本は、被害のあった各国の中でも大きな被害を受けた国のひとつ、ということはすでに学校の授業でも習った。

 ではなぜ、砂浜は軒並み海の底となってしまったはずなのに、今こうしてここにあるのか。

 それはここが人口の砂浜だからだ。比較的穏やかな平地を整理して砂を敷き詰めた。ただそれだけのことだった。

 私は、自分の足元に敷き詰められた砂に目をやると無造作に蹴り上げた。

 パパの年代の人たちは、皆口をそろえてこう言う。

 ”あれは酷い時代だった”

 そして、もひとつ

 ”それでも地球の自然環境は目に見えて回復した”

 空を今一度見上げる。

 もう、お昼過ぎなのに、まだ西の空にうっすらと、白い月が見ることが出来た。

 空気が澄んでいるのだと、パパはよく言う。


 セカンドインパクト。


 それには様々な憶測が流れていた。隕石、某国の核実験、地殻変動による噴火、迫り来ていた温暖化の末路、中には真面目に恐怖の大王が舞い降りて人々に恐怖ももたらしたのだと。もっともこの後、怪しいカルト団体の勧誘文句が続くのだけれど。

 私はそのどれでも、良かった。世界の人々は約五分の二の命を奪われ、残った人口は洪水、噴火の異常気象と、その後に起きた内戦などのためにさらに元の半分にまでその数を減らした。それだけは変わらない事実だった。

 けれどいくら人が死んでも、気候が変わっても、きっと世界は今と同じくらい綺麗だったんだろうなと思う。

 人々はいろんなものを失った。そこで初めて今の私のように空を見上げることを思い出しただけなんじゃないかって。

 私は、太陽に手を伸ばし、指の隙間から零れ落ちる光に目を細めた。

 少々、気も晴れて落ち着いてきたようだ。
 
「パパー、私泳いでくるからねー。」

「あ~~気をつけるんだよ~~」

 パパは海岸についてすぐ、パラソル、シート等々を設置した後すでに力尽きていた。普段からデスクワークが多いといいわけしているが、ただ単に運動不足なのだろう。

 忙しい仕事の合間を縫ってくれているのは解っているけど、ここまできたなら、もうひとがんばりしてほしいと思ってしまうのはいけないことだろうか。

 ママは広げたシートの上で本を読みながら昼食の支度をしていた。ママは最近、また仕事に戻ることを考えているらしい。私が大きくなって手がかからなくなってきたとパパと話しているのを聴いたことがあった。 

 私は一度その様子を確認すると、海へと駆けだしていった。




 特に泳ぐわけでもなく、波が打ち寄せて私の足跡を消してしまうような波打ち際を、取り留めのないことを考えながら海岸沿いに歩いていた。

 宿題のこと、

 今日の昼食のこと

 泊まるところ

 久々にきた海のこと

 明日のこと

 つらつらと、思考を移しながらそれらの議題は浮かんでは消えていく。

 宿題は、楽しむべき時間を楽しむためにすでに済ませている。

 今日の昼食は海の家の焼きそばなどを交え、ママの作ったお弁当が軒を連ねることになるだろう。

 毎年同じ旅館、同じ部屋に泊まる。こんなことを考えても面白みが薄い。    

 あいも変わらず、ため息が出るくらい代わり映えがしないが、どうやら人工浜の化けの皮が最近はがれてきたのか、砂がどんどん沖へと流されることが最近ここいらに住む人の悩みらしいことを先ほど耳に挟んだ。

 明日の昼にはもうすでに家に帰っているだろう。そして・・・・


 シンジと、また顔を合わせることになるだろう。


 ・・・・・・

 私はそこで足を止めた。

 こんな事になるなら、海に行くのを断って学校の合宿にいくほうがずいぶんとましだった。けれど今は部長の顔をまともに見れる自信もなかった。

 振り返ると、パパたちのいるところがとても遠くに見えた。ずいぶんと遠くまで歩いてきたようだ。

 どうしても、ほかの事を考えてそのことを忘れようとしても、寧ろそのせいで彼に関することが浮き出てくるように私の中に残っていて、けして、消えてはくれない。

 私は、海方へ体を向け、膝まで海に入った。

 どうして、こんな事になったのか。あんな風にシンジを傷つけて、シンジを遠ざけて、シンジを拒絶して。

 腰まで水につかる。一掬い水を掬うと、ぱっと広がるように腕を振って自分の目の前にまいた。

 (本当は、シンジとこんなことがしたかったなぁ。)

 今一度、浜辺に振り返る。浜辺ではほかにもいろんな人がいる。パパのように寝転んで肌を焼く人、ママのようにお昼の用意をする人、そして、はしゃぎながら浜辺を走っていく私と同じくらいの女の子と、男の子。

 それらを目に入れると、私はもう一度海岸沿いに腰まで海に沈めたまま、波に翻弄されるようにゆっくり歩き出した。

 (そもそもなんで、こんな事になったんだろう。)

 私は、横目に光を反射して深い青に輝く海を眺めながら考えた。

 事の発端は、彼が海へはいかないとパパに言ったことにあるはずだ。

 何で、そのことを私にも言ってはくれなかったのかと。それは私の勝手な憤りだったかもしれないが、決して譲れないものでもあった。

 それは私の勝手な想いで、シンジには責任はないかもしれない。けれど、私に何も言わないということは、シンジの中で私の占める割合はそんなに狭いものだったのだろうか。シンジの思考の深いところでは、私という存在はそれほどまでに少ないのか。

 結局、私はそれがずっと悲しかったんだと思う。

 (それで、私はシンジにあんなことを・・・・・・・)

 私は膝を折って、一気に頭まで海にもぐった。再び浮かび上がるもやもやした気持ちを、洗い流してしまいたくて。

 きらきらと輝き、波でうねる水面の様子は、水中眼鏡もしていない私には、その様子はぼやけたようにしか映らなかった。

 それを見た私は、潜ったまま、スィっと足で水を押し出し、ゆっくりと泳ぎ始めた。

 潜水したまま、くるりと体を横に回し、ゆらゆらと波にもまれながら、そうして見える水面は、ぼんやりとしか見えないのに本当に綺麗で、私の中に浮かんでくる言い知れない不安さえ、一緒に包んでしまいそうなくらい優しい輝きをはなっていた。

 一つ、二つと口から気泡を出して、その変化を楽しんだ。

 そうしていると、息が続かなくなってきた。そんな環境から出て行くのを私は少し残念に思いながらも、水面に顔を出した。

 「ぷはっ!」

 思っていたより苦しかった。

 少しの間、私は肩で息をし、しばらくそのまま立ち尽くした。

 (おぼれるってゆうのは、やっぱりもっと苦しいんだよね。)

 そんなことを考えながら、私は髪にまとわり付いた水気を切りながら、パパたちの待つところへ、歩き出していた。

 (シンジに、謝ろう。)

 私は、自然とそう思っていた。

 私に、全面的に非があるなんてもちろん思っていない。シンジにも攻められるところはあるし、私にもある。それだけだ。けれどこのまま、シンジとこんな関係が続くほうがいやだ。

 (それに・・・・ね)

 思い出したのよ。

 私は、シンジにあんな悲しい顔をさせたくて、シンジに泳ぎを教えるなんて言い出したわけなんかじゃないって。

 私は、シンジとここにきたいって思う前に、シンジと一緒に泳ぎたいって思う前に、


 シンジに、もっと笑ってほしかったんだって。


 うん、そうよ。あんな悲しい顔をさせたかったんじゃない。あいつの暗い顔を、時々見せてくれる気持ちのいいくらいの笑顔にさせたら、ずっと笑っていられるように出来たら、きっと楽しいだろうなって、きっと綺麗だろうなって。


 そんなあいつを私のものに出来たらなって。


 「よし!!」

 私は一息そうやって勢いを込めると、パパたちの待つほうへと泳ぎだした。

 まだ私は、すべてに納得したわけじゃないけど、シンジが海が怖いくらいで私についてこなかったことを、私が笑い飛ばして、シンジを引っ張っていってやるくらいじゃないと、きっとあいつは変わってはくれない。

 (さぁ。家に帰って、仲直りしたら、これからどんな風にあいつをいじめてやろう!!。)

 私は、なんだか楽しくなってきた気持ちをそのまま表情に表して、私はパパたちの元へと急いだ。






 「ずいぶんと、んしょ!!・・・・遠くまで来てたのね・・・」

 私は歩いていったところから、ずっと泳いでパパたちのところまで戻ろうとしていた。泳いでいこうとすると格好な距離で、三分の二のとこまで着ただろうか、私は力尽きそうだった。

 思えば、ここまで海で遠泳に近いことをしたのは初めてだったかもしれない。最初は気にならないほどだった波が次第に体力を奪い、気を抜くと、引く波に体をとられそうになる。

 少し休んで、残りの距離を確認する。浜辺は途中で緩やかなカーブを途中でとぎらせ、途中、もう一つのカーブへつながる時に少しだけ海にせり出しているところがあった。

 (ちょうどいい、そこまで泳いで、後は岸に上がって歩いていこう。)

 目先の目標を決め、私は再び泳ぎ始めた。

 泳ぐのは私は好きだった。昔の小学校では、日本にまだ四季があったせいで夏しか体育にプールの授業がなかったが、いまでは体育の授業では水泳は多くとりいれられるようになったそうだ。

 (だからシンジも、泳げるようになったほうが楽しいと思うよね~)

 同時に、シンジの特訓のプランも考えながら、もうすぐ目標の位置までたどり着こうとしていた。

 そこに、すこし大きめの波が私に向かっていた。

 それくらいの波なら、足元を取られることもないだろうと気にせずにおいた私は、そのまま泳ぎ続けた。

 そうして私が、せり出した浜辺のところまで来たとき、




 何かに、海へ引きずりこまれた。




(な!!・・)

 なにが起こったか、私には解らなかった。

 突然激しい流れが私の体を沖へと引きずり込み、その激しい流れに私は抵抗するまもなく、あっという間に足が付かないところまで流されていった。

 必死に足をつこうとして、ただ水をむなしくかくことしかしないその感触に私はぞっとした。

(いや・・・・)

 岸に向かおうと思っても、水の勢いは私のそれよりも大きく、それは徒労に終わってしまう。

 それもつかの間、すでにつかれきっていた私は、すぐに抵抗できなくなってしまった。

 とうとう、水の中に沈んでしまった。一瞬だけ、先ほどもみたきらめくみなもが見えたけれど、次の瞬間飛び込んできた光景は私の想像を超えるものだった。

 私が見たのは、私が流される先。

 そこには、日の光さえ飲み込まれているんじゃないこと思うほどの暗い蒼。

 それは、どこまでもどこまでも、天から射す光を飲み込み

 今まさに、

 私のことを飲み込もうとしていた。

(イ・・・・ヤ・・・・・・)

 しかし、私は抵抗できない。

 流れる波は今もなお、私をつかんで離さない。

 岸へ、岸へ、

 進もうとする私を、

 沖へ沖へ

 黒い流れは連れて行こうとする。

 そのとき私は怖さを感じる間もなく、その流れに弄ばれた。

 確実に私にも解るくらいの、濃い死の影がそこにあった。

 (助けて)

 パパの顔が浮かび、暗い闇に消えた。

 (タスケテ)

 ママの顔が浮かび、激しい流れの中に消えた。

 (たすけて) 

 そして・・・・



シンジの顔が、光る水面に浮かんだ。



 「ぷは!!!」

 いつの間にか、少し沖に流されたものの、私は水面に浮かんでいた。

 呆気ないくらい、先ほどまでの流れは消え、波は先ほどまでの穏やかさを取り戻していた。

「ゲホっ!!ゴホ!!」
(いったい、なにが・・・・・)

 息を整えることが精一杯で、思考にまで酸素が追いつかなかった。

「ゆかり!!」

 だから、パパに体を支えられた私は次の瞬間意識を手放した。






 途切れ途切れに、その会話は聞こえてきた。

「いったいなにがあったの?」

 ママの声。なんだか少し怒ってるみたい。

「波にさらわれたそうだ。」

 そんなままに少しこわばらせたパパの声が聞こえた。

「どうして!!、今日の波はそんなに荒れていなかったでしょう?」

「離岸流というものらしい。」

「??」

「波は押し寄せるだけでなく、押す波と同時に、ところどころで岸から離れる波がある。それが離岸流だ。あまり知られていないが、毎年これでおぼれる人が結構いるんだそうだ。」

 そこで、一つ、パパは話に区切りをつけた

「ゆかりが近くにいたせり出した浜辺があったろう?あれは離岸流が砂を沖へ運んだ跡なんだそうだ。そういったところでは・・・・」

「解ったわ、もういい。」

「ん?そうか・・・・」

「ゆかりは大丈夫なの?」

「ああ、先生が言うにはそんなに水も飲んでないし、あまり波に抵抗せず、寧ろ波に任せて流されたのが良かったらしい。普通は岸に取り付こうとして力尽きてしまう場合が多いんだそうだがゆかりはまだ小さいし、それまでに泳いで疲れていたんだろうね、波に身を任せて流されたようだったからね。」

「そう・・・・」

 そういってママの手が私の額に触れたのが解った。

 そのとき、私はそのときのことを思い出した。

 怖かった。

 ほんとに怖かった。怖いということが解らなくなるくらいに、怖かった。心がああして止まってしまうことが、あんなにも恐ろしいことだなんて、思いもしなかったから。

 もう、こうしてママに触れてもらえないと思った。

 だから、

 またこうしてママに触れてもらうことがうれしかった。

 「ママ?・・・」

 「あら、ゆかり気がついた?あなた、おぼれたのよ?覚えて・・・・いいえそれより今はもう少し寝ていなさい。」

 「・・・・うん。ごめんなさい」

 そういうと、ママはもう一度私の額をなでてくれた。

 私はその気持ちよさにもう一度私は目を閉じた。

 (ごめんね、・・・・シンジ・・・・・)






 陽がだいぶ沈み始めたころ、私は旅館のロビーにいた。

 すでにお風呂に入り、浴衣に着替えた私は、パパとママの目を盗んでここに来ていた。

 あんな事があった後だから、パパもママも私を一人にしてくれなくて困った。私は一刻も早く、シンジの声が聴きたかったから。

 けれど、すでに公衆電話のあるロビーにまで進むことが出来たのに、私はいまだその受話器をとることが出来ないでいた。

 (シンジにまずなんと声を掛ければいいだろう。)

 私は困り果てていた。

 あんな事があった後で、脳みそにいまだ酸素が足りないのか、血中の酸素濃度が極端に下がって言うrんじゃないかと自分で思うほど、頭の中がそのことでぐるぐるしていた。

  (私よ!!碇!!)

    だめだ、言い方がきつすぎるこんな風に声を掛けたらシンジは萎縮してしまうだろう。

  (はぁーい!!碇元気?ー。わ・た・し・よ?)

   誰だ、こいつは。そもそも、今碇が元気なわけがないだろう。

  (もしもし、碇君?山川ゆかりです。)

   面接?だめだ、なんか硬すぎる。

  (二番!!山川ゆかりです!!)

   オーディション?

 あー!!たった二日であいつとどんな風に話をしてたかわすれるなんてー!!

 グシグシと、私は人目もはばからず頭を抱えた。

 頭を抱えたまま、そっと目の前にたたずむ古めかしい公衆電話をにらみつけた。注意書きを見ると、どうやらこの旅館にセカンドインパクト前からある年代物らしい。

 問題はもう一つあった。今、私は財布を持っていなかった。手元にあるのはもう残りの度数が少ないテレホンカードだけ。

 いっぱいいっぱい話したいことがあるのに、その時間が限られてるなんて酷い話。掛け難い上に、掛ける時間は限られている。ぐっと、今一度公衆電話をにらみつけた。

 いや、違う。私が恐れているのはそんなことじゃない。いざ、シンジと離したとき、シンジが許してくれるかが怖い。

 ううん、きっとあいつは許してくれるだろう。でもそれは、シンジの本心じゃない気がして怖いんだ。

 シンジの心がこのまま私から、離れてしまうのが怖い。

 けれどそこへ、先輩の言葉を思い出した。

 『素直になるといいよ。』

 素直に・・・・・・・

 そう思うと、私の手は自然と受話器へと伸びた。

 カードを射し込み、市外局番から自分のうちの電話番号をプッシュする。

 もうそれだけで、私の心臓が止めると思うほど、脈打っていた。

     ぷるる・・・・ぷるる・・・・・

 呼び出し音が、私の耳を打つ。

     ぷるる・・・・ぷるる・・・・・

 その音はまるで宣告前の、早鐘の様に、

     ぷるる・・・・ぷるる・・・・・
 
 私の鼓動をさらに早くする
 
     ぷるる・・・・ぷるる・・・・・

 さらに早く

     ぷるる・・・・ぷるる・・・・・

 さらに・・・・

     ぷるる・・・・ぷるる・・・・・

 はや・・・・・・・・・・

     ぷるる・・・・ぷるる・・・・・ぷるる・・・・ぷるる・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・

     ぷるる・・・・ぷるる・・・・・ぷるる・・・・ぷるる・・・・・




 「はやくでなさいってのよーー!!!」




 がーっと沈黙を続ける受話器に向かって私は吼えた。そのとき、

 がちゃ

「!!!」

 静かにその音は聞こえてきた。それに続く声はない。

 私は、受話器の向こうへ届かないように深呼吸をした後、シンジに声を掛けた。

「あ、もしもし碇?」

『!!。ゆかりさん・・・・・ですか?』

 息を呑むような音が聞こえてきた後、受話器にとどいた声は、私の想像よりも暗く沈んでいた。わけを知らない人が聞いたなら、何事だろうと思うほど。

 私は、自分がしてしまったことの重要性を再確認しつつ、なるべく普段どうりを装ってシンジに話し続けた。

「そうよ。私以外誰がいるっていうのよ。」

 六十点。こんな高飛車な物言いしか出来ない自分が悲しくなってくる。

『今・・・・どこにいるんですか?』

 頓珍漢なことを聞いてくるシンジに私は続けて、

「はぁ?あんた、なにいってんのよ。」

『?』

 三十点。困惑しているであろうシンジの様子がありありと想像できる。

 でも、私は少し安心していた。シンジの戸惑いは感じるものの、またこうしてシンジと言葉が交わせてよかったと素直に思えた。

 たとえ、受話器越しであろうとも、今シンジの意識は確かに私のほうを向いてくれている。

 しかし、そんな気分に浸りつふけていくわけには行かない。

「それよりも、さ。」

 このままではシンジをいじめてるいつもと変わらない。

 流れを変えるべく、そして本来の目的を達成するべく、私は、少し黙り込んでいしまったシンジに話しかけた。

 けれどそこからどうしていいのか、真っ白になってしまった。事前に考えた言葉なんて何の役にも立たない。

 次の言葉が、出てこない。

『・・・・・・・・・ゆかりさん?』

 シンジの声にはっとした。そっと、先を促してくれたシンジの声に、私はその言葉を言うことが出来た。

「ごめん。」

 零点・・・・・

『・・・・・・なんのことですか?』

 ほら、シンジには何も伝わっていないじゃないか。さぁ、向き合うべきはシンジだけじゃない。私自身とも向き合わなければ。

「・・・・・あんたに、ひどいこと言っちゃったこと・・・・・」

『!!』

「わたし、碇にあんなこと言うつもりじゃなかったの。」

『・・・・・ゆかりさん・・・・』

「碇が、水が恐いって気持ちが、私よくわからなかったから・・・・」

『・・・・・・・・・・・』

「動いてる水の中で、動けなくなることがあんなに恐いものだとは思わなかった。だから、碇の気持ちも、考えることが出来なかった。」

 私は、シンジが付いてこれていないだろうなと、感じてはいたけれどとめられなかった。素直に、私の心をシンジにぶつけるしか今の私には出来るころはないと、そう信じて。

 そうして、私たちの久しぶりの会話は始まった。

「実は、私もね、さっきおぼれかけたの。」

『だっ大丈夫だったんですか?』

 シンジの声がはねるように大きくなる。その様子が受話器越しでもありありと目に浮かんで、私のことを心配してくれてるんだなぁと感じられる自分がいる

「うん、すぐ助けてもらったから。」

『良かった・・・・・』

 ホッと、息をつくような、本当にそう思ってくれていることがこちらにまで伝わるシンジの言い方は、本当に私を安心させてくれた。

「それでね、碇もきっと同じ気持ちだったんだなって思ってさ・・・・」

『本当に・・・・・良かった。』

「碇?」

『もういいんです、ゆかりさん。僕、もう気にしていませんから。』

 シンジのその声には、本当の自分を閉じ込めているような、そんな後ろ暗いものはなかった。だけど、私は聞かずにはいられない。

「・・・・・・許してくれるの?」

『もちろんです!』

 シンジは普段よりも大きく、はっきりした声でそういってくれた。

 私は不覚にも、うれしくて涙をこぼしてしまいそうになた。

 シンジは、自分でも驚いたのだろう。慌てて取り繕うとした。

『あっいえ、違うんです。きっと悪いのは僕の方だったんです。ゆかりさんは気にしないでさい・・・・すみませ・・・』

「碇が謝る必要はないの!謝らないで。」

 咄嗟に私はそういってシンジの言葉をとめた。

『へ?』

 止めた私も、どうしていいのかわからない。こういうときに謝っちゃうのはシンジの口癖みたいなものなのに。

 私は今、シンジにこのことについて、謝ってほしくなかった。

 だって・・・・・・・

「碇がそこで謝ったら、私の気持ちがうそになっちゃう気がする!」

『あっ・・・』

 一瞬、シンジの声に我に帰るがここまで言ってしまったらもう引き返せない。後はその場のノリと根性だ!!

「だから、碇は素直に謝られてなさい!」

『・・・・はい・・・・』

「よし!!」

 今までのように、私が振り回し、その一つ一つに大げさに驚くシンジ。

 そんな関係がまた戻ってきたんだなと思うと、

 馬鹿みたいにうれしくて、

 馬鹿みたいに心地よかった。


『・・・・・あははは』

「あははははは・・・・」

 そうして私たちはしばらく笑いあった。






『ところで、ゆかりさん。今どこに・・・・・』

「ゆかり、誰に電話してるんだい?」

 シンジが何かまた言いかけたところで、私はとうとう見つかってしまった

「あ、パパ。」

 受話器から、シンジの声が聞こえなくなったことを私は不振に思いながらも、少し受話器から顔を離してパパのほうを振り返った。

「あんなことがあったんだから、今は休んでいなさいと・・・・・」

「ちょっとシンジが一人で心配だったから。」

 すこし、負い目に感じながらもこういった言い訳が浮かぶのは演劇のおかげだろうか。

「・・・・・ゆかり、シンジ君に電話をかけているのかい?」

 そうしてパパは私の持っている受話器に目を向けると、少し眉根を寄せて聞いてきた。

「うん、そうだけど。パパも碇に用事?」

「ん?あ、あぁそうなんだ。ちょっと変わってくれるかい?」

「うん、ちょっと待って、シンジ?」

私は受話器を持ち直し、再び電話口のシンジに意識を向けた。

「・・・・・・・・・・」

 しかしシンジは呆けていたのか、すぐには答えない。

「シンジ聞こえてる?ちょっとシンジ?」

『は・・い・・・。聞こえて・・・・ます。』

「ちょっとパパが話があるっていうから変わるね。はいパパ。終わったら変わってよ。あと、残りの度数内からすぐに終わらせてね。」

「解った解った。」

そうして私は受話器をパパに渡した。そのとき残りの度数を確認したら、後15しかなかった。

「シンジ君。いや、悪いね。君一人で留守番をさせて。海が恐いのも解るけど、君もくれば良かったのに・・・・・・ちゃんとご飯食べてるかい?・・・・・そうか、いや、安心したよ」

 パパのゆったりした話し方に、私は思わず苛立つのを止められなかった。

 ここまでで後残りあと12

「戸締りはちゃんとしなさい。」

 あと11

「あんまり夜更かししちゃだめだよ?」

 あと10

「それから・・・・・」

 ああ!!もう!!

「ちょっとパパ!もうそれくらいでいいでしょう!」

「ああ、わかったわかった。じゃあ、シンジ君?・・・・・ゆかりに変わるけど”気をつけて”、ね?・・・・・じゃあ。」

 そうして私はパパからひったくるように受話器を取り戻した。

 残りは9

「碇?」

『ゆかりさん・・・・今海にいるんですね。』

 シンジは先ほどよりも、心なしか明るい声でそういった

「そうよ。あんたが海が恐いからって、パパに行かないって言ったんでしょう?。」

『ははは・・・・そうでしたね・・・・・。』

 軽く笑ってシンジはそういった。

 残りは7

「なによ、それくらいでって思ってたから、碇が約束破っちゃったんだって・・・・・・・」

『約束?』

「ほら、約束したでしょう?海で泳ぎ方教えてあげるって。」

『あ・・・・』

 むっ!!やっぱりわすれてなのかなぁ。

「それなのにあんたってば、あのとき何も言わずに、私に何でなんて聞くんだから。私との約束なんてどうでも良かったんだって。そう思ったら、碇の気持ちを考えられなくなっちゃって。碇からしてみれば、まだ泳げないのにそこで練習なんて、考えたくもないよね。それなのに私は、あんなこと・・・・・・・・」

 話し出すともに、私はまた暗い気分になりそうになってしまった。

『もうその事はいいですよ、ゆかりさん・・・・・・』

 けれどシンジは、今一度そういってくれた。

 残りは4

「ねぇ碇?」

私はこれが最後のなると思って、切り出した。

『何ですか?ゆかりさん?』

「こんどさ、プールにでも行こうね?そこでなら、碇も大丈夫でしょう?」

『うん、お願いします。』

 やっと、シンジに電話をかけてから、初めて一息ついた、そんな気がした。たぶん、私の気持ちをすべて伝ええることが出来たんだと思う。

 残りの度数は1

『あっすみません、こっち、雨が降って来ちゃったみたいです。洗濯物取り込まないと。』

「あっ、そ、そう?じゃあまた電話するね?」

『はい・・・・』

「おみやげ、期待してなさいよ!じゃあね。」

ぷつっ

つーーーつーーー

 そこできりよく電話は切れた。受話器を置いて、吐き出されて残りの度数がゼロになったカードを取り出す。

 そして私は、お土産コーナーに目を向けると、軽くなった体でそちらに駆け出した。



[246] 後書き
Name: haniwa
Date: 2006/09/12 00:32
あとがき、

ARCADIAよ!!私は帰ってきた!!

皆さんおひさしぶり!!僕、haniwa!!

十二話「ヒビワレ  真実」をお送りしました。いかがでしたか?遅れてしまって申し訳ありませんでした。後、大変申し上げにくいんですが、「ヒビワレ」もう一話やらせてください。思ったよりゆかりパートが長くなってしまいました。でも、雰囲気も変わるので、ここで一区切りとさせていただきます。あと、実は十一話を少し変更しています。そちらの方もどうぞよろしくお願いします。

今回、意外と難航しました。話の筋も、台詞も全部決まってるのに、ここまで難しいとは。SSは奥が深いことを再認識しました。あと、予告したわりにあんまり酷いことにはなりませんでしたね。期待させてすみません。ヒビワレ 虚像(A面) 真実(B面)となっていますが、どうだったでしょうか?まったくおんなじ話を二回続けているようにはならないように気を配ったつもりです。B面は、後四分の一ほど残っていますが、それを次の話として乗せる予定です。

 では、感想のお返事をここに書いておきます。

TOMさん、GYUSYAさん、カシスさん、フィーアさん、Cold大王さん、ジェネさん、ark623さん、ttさん、サンコンさん感想ありがとうございました。

TOMさんへ、十二話はB面という形でしたがいかがでしたか?TOMさんの期待にこたえられていたらうれしいんですが。ところで、もしかして感想ナンバー28のtomさんですか?だとしたらお久しぶりです。これからもよろしくお願いします。

GYUSYAさんへ、はじめまして。感想ありがとうございます~。これからよろしくお願いします。こういったストレートな感想でもうれしい限りです。

カシスさんへ、お久しぶりです。カシスさんの感想は毎回細かいのでうれしいです。今は、今は耐えてください。haniwaが書くこれからのシンジ君はすべて本編突入時のためです。そしてゆかり嬢は、今のところシンジクンの最後の心の糸です。見守っていてください。

フィーアさんへ、はじめまして。ふふっ。なるほどそういった展開も面白そうです。参考にさせていただきます。感想ありがとうございます。

Cold大王さんへ、と言うより大王様へ。申し開きようもが座いません。即訂正させていただきました。うぅ・・・毎回、大王様にはこんな訂正を書かせてしまって本当に申し訳ないです。ですがどうか、こんなhaniwaを見捨てず、最後までお付き合いいただければと願うしだいでございます。あと・・・どうか、精神年齢の件につきましては、お見逃しいただければ・・・なんて。ダメ?

ジェネさんへ、お久しぶりです!!最新話はいかがでしたか?十一話が平気な人はそうでもないかもしれませんが。シンジ君の人生は、きっと他人の思惑に満ちた罠がこれからも待ち受けています。これからもご期待に沿えるよう頑張ります。

ark623さんへ、はじめまして、感想ありがとうございます。自分自身、シンジクンの子供時代の状況が違ったらといった物は好きなんですが、その次の場面では第三東京となっているものが多かったので、子供時代も読みたいなと思って、自分で書き始めました。第三東京編まで書けるよう頑張ります。

ttさんへ、はじめまして。感想ありがとうございます。がっ頑張ります。あ、あのですね、「もちろん期待ageして荒らしsageですよ。」ってどういう意味ですか?

サンコンさんへ、いただきました!!星四つです!!(マチャアキ風)。はじめまして、感想ありがとうございます。こういった評価は初めてなので嬉しいです。頑張ります。

では、ここで軽く予告を。実は、小学校二年生編は、後2話です。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十三話
Name: haniwa
Date: 2006/09/24 21:57
 人は確かに持っている。


 虚像と真実


 其れは決して混ざり合うこともなく


 されど離れてしまうこともなく


 確かな境界線のもと


 互いを侵すことも無い


 その絶対矛盾を抱えながら


 自分の中に


 他人の中に


 彼女の中に


 彼の中に


 あの人の中に


 亡き人の中に


 確固として存在する。


 人は皆、


 気が付きながらも


 傷つきながらも


 その境界を彷徨わずにはいられない。


 光を曲げるガラスのように


 光を返す鏡のように


 光に溶ける氷のように


 今にも崩れそうなその儚さに迷う


 其れが


 あぁ!!其れこそが・・・・・・・・・・・・








 見上げる空はどこまでも朱く


 第十三話

 ヒビワレ    その狭間






 陽が暮れて時間も久しく経ち、その暗闇に沈んだ町並みには、ただ住宅地らしい静けさがあった。

 週末の連休ということもあってか、まるで暗い海の底に沈んだような静けさが、その小さな町を包んでいた。

 そんな町の一角をなす山川家では、ある一室のみ、明かりがともされていた。

 明かりがともされたその部屋からは、雨のようなさらさらとした、それでいて何かを伝いまとまって地面に落ちているような、ばしゃばしゃとした水音が聞こえてくる。

 そこは浴室だった。

 家主の拘りだろうか、浴室の室内は床に白いタイルが敷き詰められており、それに合わせて、壁や天井も白で統一されていた。

 備えられているバスタブは、一般的な壁と一体化しているモノでなく、大きな水瓶のような形で、その縁に備え付けられた蛇口からお湯を満たすタイプの物が置かれており、またその上にはシャワーがつけられている。

 浴場は広めにとられており、また壁には、姿見と見間違いそうになる大きな鏡が備えられていた。

 浴室全体には無駄な装飾は一切なく、バスタブから手が届くところに、これまた白に統一された棚に、命の洗濯を行うための道具が、四人が住んでいる家の浴室だということを考えると、それは本当に必要最低限のものしか置かれていなかった。

 浴室は、ただ白く、それ故に、湯気に光が揺れて淡く輝くように白かった。

 そんな空間に、碇シンジはいた。

 すでにバスタブには、人一人が入るには十分なお湯が満たされており、それでも未だ、蛇口からお湯が注がれ続けている。

 シンジはその中、裸で、その両手をだらりとさせて鏡の前に立っていた。

 鏡が湯気で曇り始めていたのだろうか、一度体をバスタブに向けると、両手でお湯をすくい、鏡に向けて撒いた。

 曇りが取り払われた鏡には、まだ幼いシンジのほぼ全身が映った。

 シンジは、日本人にしては色素が薄い。一昔前の北国の人のように、例えるならば雪のように白いとも評する人もいたかもしれない。陽に焼こうとしても、ひどく肌が赤くなってしまうだけで、一向に小麦色になることはなかった。

 故に、肌の色が極端に変わっているようなところはなく、全身がくまなく白いといえた。

 然しそれは、シンジが本来持つ肌の白さだけでなく、もう一つ別の理由があった。

 シンジのいる浴室を、もしそのまま見ることがかなう人物がいたとするならば、その様子をどのように評することだろう。

 大理石の床、白い壁に白い天井、白いバスタブに 白い棚、それらの白を映す鏡がある空間を、まるで損なうことのない白い彫像がただ其処にある。

 そんな印象を与えずにはおかなかっただろう。

 それほどまでに今のシンジには、白く、冷たく、血の気がなかった

 自分の姿が、鏡に映ることを確認したシンジは、ふとその顔を歪めた。目を細め、口角を持ち上げ、白い歯をのぞかせる。

 それを時折、左手でもむように動かし、さらに整えようとした。

 シンジは、鏡に向かって何か表情を無理矢理作ろうとしていた。

 然しその努力は一向に形をなそうとはしていないようだった。

 眉は不自然に曲がり、眉間にもしわが出来ている。鼻筋も奇妙な筋が浮かび、それがどのような表情を作り出そうとした結果なのかはわからなかった。

 その事にシンジも気が付いたのだろう。左手で顔を触ることをやめ、再びあきらめたように鏡の前に立ちなおした。

 シンジは改めて鏡の中にいる自分と見つめ合った。

 その口は一文字に固く結ばれており、顔の全容は、もうすぐ鼻にまで掛かりおそうな前髪に隠れている。その奥に隠れている目はじっと鏡を見据え、唯一悲しそうに寄せられた形の良い眉だけが、シンジの今の感情を表していた。

 シンジは思う。何度見てもクラスの男子のような男の子然とした雰囲気が、確かに自分には薄い。

 けれど、皆がよく自分に言うように女子のようにも見えないとも思った。

 ならば、自分はいったい何なのだろう。

 どちらにも付かない、付くことが出来ない自分はいったい何なのだろう。

 シンジは鏡に映る自分へ手を伸ばした。顔に触れ、そっと撫でる。手に少し水滴が付いただけだった。そんなことをしても自分の顔がはっきり男のようになるわけでも、女の子のモノになるわけでもなかった。

 中途半端な自分。

 中途半端な立ち位置

 はっきりしないそんな自分にシンジは、初めて嫌悪を感じていた。

 こんな自分だから、父は自分を連れて行かず、ここに置いていった。

 こんな自分だから、叔父達には受け入れてももらえない。

 こんな自分だから、彼女にあんな態度をとらせた。

 鏡に触れている手に、知らずに、力が込められる。

 あぁ、そうだとも

 こんなことでは


 こんな自分では、彼女の前に立つことすら叶わない。


 シンジの、欠け落ちた心が、その一歩手前で、踏みとどまったのは、その内に一つだけある思いが浮かんだからだ。

 けどそれは、今までの自分では出来ない。

 彼女の望むことさえ出来ない自分に、腹を立てていた。

 知らぬうちに両の手で拳を作り、鏡に打ち付けていた。それでもまだ足りなかったのか、さらに額を、体を倒れ込みさせるようにぶつけた。

 それらの行動には、鏡を割るためといった類の力は込められておらず、ただ鏡の中の自分に体を預けるような、鏡にもたれかかるような力しか込められていなかった。

 そのまま力なく、鏡に両手と額を擦り付けたまま、まるで跪くようにシンジは鏡の前に座り込んだ。

 床は、バスタブからすでにあふれ出したお湯で濡れていた。

 それすらもう気にならないのか、シンジはそのまま動こうともしない。座り込んだまま、額と両手を鏡に預けたまま、シンジはもう一度鏡の自分を見た。

 鏡の中の、訴えかけるような、しかしそれでいて何も映していないような目をした自分と視線が合う。

 ふっと、腕に掛かっていた力が抜けた。鏡をそっと押しやり、体をそれから離す。

 「・・・・・・・そう・・・。」

 顔も鏡から離し、俯いたままのシンジの口の端から、こぼれるような声が聞こえた。

 「・・・・・そう、君も・・・・・」

 その声は、指向性もなく、静かな浴室によく響いた。

 「・・・・君も・・・・・・・・そんな目で、僕を見るの?。」

 涙で震えているような声は浴室に響き、まるで地の底から聞こえてくるような暗い空気を、それを耳にする者に届けたことだろう。

 然し彼は一人。まさに一人。どこまでも一人。

 故に彼の言葉を聞き届ける者はいない。

 彼を見つめるのも、声をかけるのも、その震える肩に手を回すのも、彼自身しかいない。

 今、鏡の中の彼自身は、彼の姿をそのままに映し出し、彼の弱さをそのまま彼に見せつける。

 「・・・・てやる。」

 シンジはその場に立ち上がった。

 「・・・・・してやる。」

 そして、浴室の隅にあった必要最低限の器具しか置いていない棚に近づいた。

 無造作に置かれていた、使い捨ての物よりも大きめなカミソリに右手を伸ばした。

 一瞬、その冷たさに手を引きかけたが、改めて手に掴んだ。

 それも叔父の趣味なのか、それは機能性を重視したものではなく、片刃の切れ味のみを鋭くしただけの無骨なカミソリだった。

 それは幼いシンジの手にはずっしりと重く、気を抜けば取り落としてしまいそうになる。しかし、見た目にも明らかなその切れ味は、シンジの視線を捕らえて放さない。

 そっと、その刃に左手を添えた。

 浴室の暖かさを拒んでいるかのように、それは冷たい輝きと共に、それにふさわしい熱のなさだった。

 その危うさは、刀剣類すべてが持つような、つい見入ってしまう不思議な魅力があった。

 しばし、そのまま見つめてしまうに任せた。

 そうしてしばらくした後、シンジは再び鏡の自分へと向き直った。

 「・・・・・・・・消してやる。」

 確固たる意思を持って。

 カミソリを右手で持ち、左手で前髪を一房、乱暴につかみあげた。視線は、鏡の自分からそらさないまま、引っ張られた髪にカミソリの刃を当てて、一気に引いた。

 ブチッ!

 まるで引きちぎったような音とともに数本のシンジの黒い髪が、周りに散らばった。

 さらに、掴んでいた髪を振り払うかのように床に捨てた。

 床に落ちた髪は、そこに流れる水とともにゆっくりと排水溝へと移動していく。

 そんなことは気にも留めずに、シンジは鏡から視線を動かさなかった。

 無くなった前髪の部分から、隠れていた右目が露になっていた。

 それにかまわず、シンジは更に左手で髪をつかみあげた。

 それをまた、右手に持ったカミソリで乱暴に切り取る。

 左手でつかみ、右手で切り取る。

 黙々と繰り返されるその作業は、心無く行われ、むしろその行為自体がシンジの心を刈り取る儀式のように、切り取った髪の量が増えるにつれ、その作業はより円滑に行われるようになっていった。

 シンジは、その行為を繰り返すたび、自分の中の何かが変わってゆくことを感じていた。


 一房、髪を掴む度、心が強く


 一房、髪を切り取る度、心が鋭く


 一房、髪を離す度、心が軽く


 その行為を繰り返す度、弱い自分が目の前から消えていくような


 そんな気がした。

 やがて、掴み上げることが難しくなるほど髪を切ってしまうと、シンジは初めてその手を止めた。

 シンジの髪は、所々まばらなところはあったが、全体的に五センチほどの長さになり、その顔の半分を隠していた髪はそのほとんどが切り取られていた。

 辺りにはシンジの黒い髪が白い床に散乱している。シンジはその中心に立ったまま、未だ鏡を見続けていた。

 やがて、シンジは振り返ると浴槽に向かった。流しっぱなしにしていたシャワーを止めると、不自然なくらい辺りの音は消えた。

 そして次に聞こえてきた音はシンジがその中に身を浸し、真だを図下に子取れていたお湯がさらに勢いを増して溢れ出した時のものだった。

 溢れ出したお湯は、床に散らばった髪の毛をさっと押し流した。

 その様子を、シンジは横目で見ながら湯船に体を横たえた。
 
 髪を切るとき、知らぬうちに強ばっていた体が、その温もりでゆっくりと解されてゆくのを感じながら。

 湯船は、縁一杯にお湯が貼られているため、シンジはぎりぎり鼻で息をすることができる程度しか顔が出ていない。

 そうしてぷかりと顔だけ出して、乱れていた思考を小さく整理する。

 そう、

 僕は自分に言い聞かせる


 悲しくはない


 うれしくない


 怒りもないし


 楽しくもない


 感情すらない。


 この心は


 何も感じないのだと


 落ち着いて考えれば、どうということでもない。

 先生はただ、叔母さんとゆかりさんと一緒に海へ行きたかっただけ。

 そこに、僕の居場所なんて無い。

 突然紛れ込んだ僕なんて、きっと邪魔だったんだ。

 いや違う、邪魔だとかそういったものですらなく、それが当然なんだ。

 だからぼくは、平気なんだ。

 探し物は結局見つからなかった。

 当然だ

 何もなくしてなんかいない

 恐くなんか無い

 寂しくなんて無い


 僕は、壊れてなんかいない


 だから僕は、彼女の望みどうり、”笑える”ことだって出来るはずなんだ。


 弱い自分にそれが出来ないなら、そんなもの切り捨ててしまえばいい。

 そう、いま切り捨てたのは、髪の毛なんかではなく、弱い自分なんだ。

 そうすることで決意を、自分自身に示したかった。

 シンジは湯につかったまま、それらの考えを一つ一つ指を折り数え、やがてまとめた事柄に自分の指が足りなくなると、考えることすらやめた。

 シンジは、まるで音を立てないように気を遣っているかのように、けれどごく自然な動作で、音もなく湯船から出た。

 室内に響くのは、シンジの指先や、髪の毛の先からしたたり落ちる、わずかな水滴のみとなった。

 しばらく、間が空いてしまったせいだろう。シンジが再び対峙した鏡は曇りきっていて、朧気にしかシンジの姿が見えない。

 シンジは鏡に手を伸ばすと、さっと一拭きした。

 ちょうど顔しか映る程度の範囲の曇りが取り払われ、シンジの顔が映し出された。

 そしてもう一度、目を細め、口角を持ち上げ、白い歯をのぞかせる。

 そうして浮かべられたシンジの表情は、先ほどのような歪なところは何所にも見あたらず、むしろ

 和ませるような 

 見ほれてしまいそうな

 心に残ってしまいそうな

 心が冷え切ってしまいそうな、

 欠けているモノなんて何もない、完璧な『笑み』だった。






 麦茶も冷やしてあるし、今日も天気が良くて太陽がまぶしいから、居間のクーラーを効かせて涼しくしてある。もちろん設定温度は二十五℃、暑い外から帰ってくる先生達の体に負担の掛からない温度(たまたまテレビで言っていた)にしてある。


 まだかな・・・


 僕は、居間の窓からそっと外の様子をうかがった。事前に、先生は昼には戻ると言っていたことを思い出して、慌てて出迎える準備をしていた。

 その時、窓に僕の顔が映ってるのに気が付いた。

 映った僕に、笑いかけていたことに気がついたけれど、そうしていることに何も感じなかった。

 そんなことをしていたら、いつの間にか先生の車が家の前に止まり、ゆかりさんは帰ってきた。

「こらゆかり!ちゃんと荷物運び手伝いなさい!」

「はーい、ちょっとまってー。いーかーりー?」

 そんな会話と、ゆかりさんの明るく楽しげな声が居間にまで聞こえてくると、僕は台所へ行きお茶の用意をした。

 帰ってきたゆかりさんを、きちんと出迎えなくちゃ。

 勢いよくドアを開けて家の中に入ったゆかりさんは、僕が家の中のどこにいても聞こえるくらいの大きな声で自分が帰ってきたことを僕に告げた。

「ただいまー、碇ー?いないのー?」

 返事をしなかったせいだろうか、ゆかりさんは僕がいることを確かめるようにもう一度僕の名前を呼んだ。

 僕は、手に持ったお茶がこぼれないように、そっと玄関へ向かった。

「おかえりなさい。」

 僕が玄関のゆかりさんへ声をかけたとき、ちょうどゆかりさんは靴を脱ぎ終わるところだった。

 そして、彼女は僕を見た。

 「・・・・」

 一瞬、外から差し込む光に顔をそらしてしまいそうになった。

 彼女は、珍しく微かに驚いたような表情を浮かべて、日の光がわずかに差し込む玄関に立っていた。

 その手に網に入った小さなスイカを抱えて、驚いたように僕を見ていて、思わずその表情に見入ってしまいそうになった。

 海では、きっと天気が良かったのだろう

 その肌は、僕と違ってほんのりと小麦色になっていた。

「あ、碇、ただいま・・・・・。髪、どうしたの?」

「これ、変ですか?」

 しばらくボーとしていただろうか、彼女のその質問で目が覚めた。

 何でもないんですよという意味を込めて、僕はひとつまみ髪を掴みあげた。

 その間、僕はゆかりさんを見ていると、ある疑問に気がついた。

 ゆかりさんは、いつもどうりのゆかりさんだった。

 いつも僕をからかって、変わらない態度で僕に接してくれる、仲直りできて良かったと本当にそう思えるはずの、いつも道理のゆかりさんだった。

 でも、


 じゃあ何で僕は、ゆかりさんの前に立ていることに、何も感じていないんだろう?


 いや、ある違和感を感じることは出来る。

 まるで、本物の前に並べられた偽物が感じるような居心地がする。

 当然それは、嬉しいとか、楽しいと言ったものとは、程遠いものだった。

 なぜだろう、僕はこうして、ゆかりさんに会いたかったはずなのに。

 でも、今の僕はそんなことでは決して崩れたりはしない。

 だってここにいるのは、強い僕のはずだから、弱い僕なんて消してしまえたはずだから。




    僕はもう、なにも感じないはずだから・・・・・




 あれ?今何かおかしな・・・

 いつの間にか黙り込んでしまった。気が付くと、ゆかりさんがこちらを見ていた。

「どうしたんですか?ゆかりさん?外は暑かったでしょう?、はいこれ、冷蔵庫で麦茶冷やしておいた麦茶です。」

「う、うん。ありがとう・・・・・これ、お土産。」

 僕は、持っていたお盆に載せていたお茶をゆかりさんに手渡し。するとゆかりさんが、もう片方の手で持っていたスイカを僕に向かってつきだした。

「わぁ、すみません。わざわざ。気にしてくださらなくてもよかったんですよ?。」

 そうしているうちに、先生が玄関に立っていた。

「やあ、シンジ君。ただいま。」

「先生。お帰りなさい。」

 僕は、まるでゆかりさんから逃げるように先生に視線を移した。

 けれど、先ほど抱いた疑問は消えない。

 それでも僕は、笑顔を崩さなかった。

「あ、ああ、ただいま。」

 先生はそんな僕に戸惑った表情を浮かべながらも、僕にそういった。

「先生もいかがですか。」

 僕はゆかりさんの方を極力見ないようにしながら、先生に残っていたコップを渡した。

「うん、もらおうか・・・・」

「じゃあ、はいどうぞ。荷物を運ぶの、ぼくも手伝います。」

 僕は先生にそう申し出ると先に玄関を出た先生を追って、外へと出ようとした。

 先生に、そうして対応することに、ゆかりさんの時のような違和感はなく、僕は何の疑問も思い浮かばない。

「碇・・・・」

 ゆかりさんが、僕を呼び止めたのはそのときだった。

「どうかしましたか、ゆかりさん?」

「あんた、大丈夫?その・・・手、大丈夫?」

 どうやら、先生にコップを渡すときに、ゆかりさんに見られたらしい。目の前でぷらぷらと振って見せ、

「あっ、これですか?ぜんぜん平気ですよー。ちょっと料理のとき失敗しちゃって。」

 僕はあらかじめ考えておいた言い訳をつかった。

 そんな風に、本当に僕を心配してくれているゆかりさんに、僕はうそを吐いて答える。

 そうすると、また先ほどの疑問と違和感が顔を出す。

 むしろ、居心地の悪さは先ほどよりもひどくなっている。

 これはいったい何なんだろう。

 しかし、それがいったい何なのか表すことが出来ない。

 まるで、ほかのやり方をわすれてしまってしまったみたいに。

「もういいですか?」

「あっ、うん・・・・ごめん、引き止めちゃって。」

「いいえ、気にしないでください。」

 そうして、ゆかりさんとのやり取りを終えると、僕は玄関を出た。

 日陰と、日向の差だろうか、影を踏み越えるだけでむっとするような熱気が僕を包んだ。

 けれど、僕はそんなことは気にも留めなかった。

 なぜか、一刻も早く、早く、ゆかりさんから、離れ、距離をとりたかった。

 ゆかりさんのそばにいると、強くなった僕がいなくなってしまいそうな。

 僕は、笑えてるんじゃない

 そうすることしか出来なくなってるんじゃないか




        僕自身が、気がついていることに気づいてしまうんじゃないか




 今考えたことの異常さは気にならない。

 疑問は、その姿を明確にし始めた。そして、その事への回答を僕に強要するように、僕の中で大きくなってゆく。

 僕はそれから目をそらした。けど、それから目をそらすと周りのすべてが見えなくなりそうだった。

 そして、その原因となったゆかりさんが、だんだん『怖くなってきた』



  どさ!!



 だから、背中に襲ってきた衝撃に耐え切れず、無理やり現実に引き戻された。

「ど、どうしたんですか?」

 一瞬だけ、何が起こったか解らず、ぐるぐると頭の中に渦巻いていた声さえ消えてしまった。

 少しだけ振り向き、背中を確かめると、ゆかりさんが僕に覆いかぶさるように抱きついていた。

 僕は、彼女の表情を見ることは出来ない。

 ただ、背中に伝わる、彼女の体温が『怖かった』。

 「ううん、・・・・・なんでもない。」

 そういいながら、彼女は更に僕の体に手を回して抱きついてきた。

 その手は、突き刺すような日差しの下でも暖かく感じることが出来た。

 けれど、


 だめだ


 早く、この腕を


 解いてしまわないと


 突然、訳もわからず、僕はそう思った

 けれど、僕の体はゆかりさんに捕まったときから、うまく動かなくなっている。

 胸に回された手を押しのけようとしても、なぜかそれ以上、その手を拒むことが出来なかった。

 そして、不意に頭に重たいものがもたれかかってきたと思ったら、すぐ耳元から、ゆかりさんの声がしてきた。

 「碇?」

 ゆかりさんは、僕の名前を静かに呼んだ。

 「・・・・はい。」

 振りほどこうとしていた彼女の手にふれたまま、僕は返事を返した。

 「碇・・・・」

 「・・・・はい。」

 ゆかりさんも、自分さえも偽る必要のないそのやり取りは、本当に静かに続けられた。


    トクン・・・   トクン・・・


 背中越しゆかりさんの鼓動が伝わってくる。


 まるで、僕の胸を打つように。


 心の扉を叩くように、


    深く


         深く


 小さく、それでいて力強く、


 暖かく。


 切り捨てたと言い訳して、奥に閉じ込めていた弱い自分を呼び覚ますように。


「どうして・・・・・」


 どうして、わざわざ『それ』を起こすのか。


 どうして、また連れ戻そうとするのか。


 このままほうっておいてくれれば良かった。


 このまま何も感じなければ良かった。


 傷だらけの心は重たいから、


 まっすぐ見ることが苦しいから、


 自分でものぞくことが出来ないようなところに置いてきたのに。


 今にもこの手からまた零れ落ちてしまいそうになっているのに。


 なぜあなたはそれ手を拾い上げ、


 そっと僕の中においてゆくのか。


「碇。」

 そして彼女は、僕の名前を呼ぶ。

「・・・・・・・・・・・ゆかりさん?ほんとうに、もう離し・・・・」




           もうそれ以上、僕の中に入ってこないで。



 
 けれども彼女は次の瞬間こういった。




「ただいま。」




            そしてその言葉が、決定的だった。




「ただいま、シンジ。」

 彼女の言葉で、僕はそのことを認めざるを得なかった。

「ただいま・・・・ね?シンジ。」

「・・・・」

 僕は、すぐに答えることが出来なかった。

 そのとき僕は、自分の間違いに気がついたから。

 彼女の心臓と繋がってしまったかのように、背中から彼女の体温が僕の体に広がってゆく。

 もうそれを怖いとは感じなかった。


 僕は、弱さを切り落としたのではなく、覆い隠しただけ


 真実に向かい合う心算で、うそに身を浸した。


 自分の心からも目を逸らして、自分が何を感じていたかもわからなくなったから、


 今後ろにいる彼女が怖かった


 すっと、彼女の体が離れていこうとしているのが解った。

 僕は、自分でも気がつかないうちに、ゆかりさんの腕をつかむ手に力を込めていた。

 今すぐに、彼女に返さなければならない言葉があるから

「シンジ?」

「・・・・・・・さい。」

 ずっと、本当の言葉を押し殺していたから、吐き出した声は少しかすれていた。

「なーに?」

 彼女はもう一度、僕の返事をせかすでもなく、もう一度、僕を抱きしめ、包み込むように僕の言葉に耳を傾けていた。

「おか・・えりなさい、ゆかりさん・・・・」

 そうしてくれた彼女にしか聞こえないような小さな声しか出せないことが悔しかったけれど、今の僕にはそうすることが限界だった。

「うん!ただいま。」

 そんな僕の言葉でも彼女は満足げ受け止めてくれた。

「もう、ほんとうにどうしたんですか?」

「えへへ、なーんでもないの。」

 彼女は少しはにかんだようにわらった。

 そんな彼女に、僕も少し笑った。不格好だけど、先ほどまでの貼り付けただけのもでは無く、心から自然に。

 そして、そうしている間にも、背中に残った彼女の体温が、少しずつ薄れていくのを感じながら。

 僕は、はっきりと、それが悲しいことだと感じることが出来ていた。

「シンジくーん、ちょっといいかーい」

「先生が呼んでますから、僕は行きますね?」

 先生の声が、少し離れたところから聞こえてきたのはその時だった。

 僕はそちらをちらりと確認すると彼女にそう告げ、先生の方へと歩き出した。

 けれど、すぐにその足は止まった。

 そして、一度後ろに振り返った。

 ゆかりさんはまだ玄関の前に立っていた。

 僕のことを見ていたのか、少し見つめ合うような形になってしまった。そしてその目に映る僕がいることを何故か、この距離からでもはっきり解った。

 それは不思議な感覚だった。

 そこに映っていたのは、先ほどまでの薄っぺらい皮をはがされた、空っぽの僕だった。

 それは、先ほど消えてしまったはずだ。なのにどうしてまだいるのか。

 ここにいるのは、弱いままだけれど、本当の僕のはずなのに。

 そこで、ふと気づかずにはいられない


 もしかして


 弱いだの、強いだのにこだわっていた僕こそが嘘で、


本当の僕は、


  彼女の瞳に映ったとうりの、


  空っぽの僕なんじゃないか?


 さっと、彼女から視線を煽らして、今度は立ち止まらずに先生の元まで走った。

 なぜだか、その事実が、ふるえが止まらないほど恐かった。

 けれどその時は、ッその事をまた胸の中に押し込んで、それを忘れようとした。




       ふと、顔を上げてみる。




 空には雲が出始めている。


   だんだんとその数を増やしながら


     太陽の輝きを隠しながら


       それらはゆっくりと、気持ちよさそうに流れている


           流れる風が、不安を吹き消してゆく




 今日も夕立が降りそうだ。












次回予告劇場

 二期二会




 俺はバイトから帰ってくると、着替えもそこそこに、壁に立てかけてあったギターに手を伸ばした。

 あのなんともかわいらしい笑顔を向けてくれた少年の一件で、自分にもそういった趣味があったことを思い出した俺は、押入れで見事に埃をかぶっていたそれを引っ張り出し、ある程度手を加えると、又昔のように弾き始めるようになった。

 はっきり言って、とても他人に聞かせられるような腕前ではなかったが、それを手に取っている時間は、昔のように俺の大切なひと時となっていた。

 新しいコードの練習をしていると、オンボロアパートの階段を駆け上がるリズミカルな振動が俺の部屋に響いてきた。

 ギターのある生活を取り戻したことで変な癖がついた。

 こうして俺の部屋に伝わってくる足音の振動で、いったいどの部屋の客か、なんとなくわかるようになった。

 おかげで、勧誘をいちいち気にしなくてすむようになった。

 そして、今まさに俺の部屋の前に来ようとしているのは、俺の騒がしい彼女だろう。

 予想道理に、彼女はノックをすることもなく俺の部屋に入ってきた。

「あっ!お帰りー」

 何故か、俺の部屋なのに彼女はそういう。悪い気はしないが。

「おう」

「ねぇーちょっと聞いてよ!!」

 どうやら機嫌がいいらしい。俺は手に持っていたギターを脇に置くと、今にも喋りたそうにしている彼女に向かいあった。

「何があったんだ?」

「えへへー、実は今日デパートで、またあの子に会ったの!!」

「あの子ってバスの時のアイツか?」

「そうそう!髪形変えててさー。あぁ、かわいかったなぁ・・・。」

 そうか、彼女の様子だと元気にやっているらしい。

「でね~、なんと彼女連れだったのよ。」

「そうなのか?なかなかやるなぁ」

「二人ともかわいくってさ、思わず攫いそうになったね!!」

「それはやめとけ。」

 あの一件以来子供好きになった彼女はどうやら、少々暴走気味らしい。

 そこで俺は、あることに思い至り、彼女に聞いた。

「で?、あの子の名前、ちゃんと聞けたのか?」

「あ!!!」

 喜色満面だった彼女は、俺のその下世話な一言で見る間にしぼんでいった。

 俺はその方を、優しくたたかずにはいられなかった。

「あー、よしよし」

「あぁ~~、私ってバカ?」

 できることなら、名前を聞いてお友達にと、彼女はずっと言っていた。俺も同じ気持ちだったが。

 ぜひ、彼のチェロを聞かせてほしかったから。

 彼女の落胆も大きなものだろう。

「又いつ会えるかわかんないのに・・・」

「まぁ、また会えるって。結構近いとこなんだから、な?」

「でーもー・・・」

 そういって彼女は机に突っ伏した。

 その様子を、俺はため息を吐きつつ眺めていた。

 どうやら、今夜の酒の肴は、このことで持ちきりなりそうだ。

 そう思いながら、俺は冷蔵庫へと手をのばした。




 次回、

 見上げる空はどこまでも朱く

 第十四話

 休日とお小遣いの使い方

 お楽しみに?








あとがき

 近況報告:先日、別のSSを書いたところ、その感想にて、見事に『腐女子』の称号を手に入れました。
 どうも、お久しぶり。僕、haniwa。
 もし、私が男だったりしたらこの場合どうなるんでしょう?腐男子?もしくは汚宅とか?もちろん私がどちらかは、皆さんの想像にお任せします。

 「ヒビワレ」最終章でしたがいかがでしたか?実はこの時点でもあまり納得がいくものにできませんでした。無駄に長くなってしまいましたし、話の内容もなんだか蛇足の気がします。あと、影の議題が、私のアプローチでの「ヤマアラシのジレンマ」だったりします。この議題については又チャレンジしたいと思います。

 では、感想のお返事を。

 カシスさん、Cold大王さん、SIさん、黒衣さん、感想ありがとうございます。

 カシスさんへ、今回いろいろと自分なりに工夫を凝らしてみたつもりです。おかげで、新しい話でもないのに変に時間かかりました。次の話は、ちょっと道にそれますが、明るい話にしたいです。カシスさんには朗報かも。

 Cold大王さんへ、滅相もありません!!こういったアドバイスを受けることは大変励みになっています。大王様のご指摘を受けましたが、十三話も見事に失敗してる気がします。もう、一人称で話を進めるものには手を出しません。毎回、大王様を申し訳ない気持ちにさせてすみません。これからも頑張ります。

 SIさんへ、ナルト板からようこそ。感想ありがとうございます。その言葉には深い意味が込められてると受け止め、これからも頑張らせていただきたいと思います。

 黒衣さんへ、はじめまして、この身に過分なお言葉、大変恐縮であります。強く、していきたいとは思っています。けれど周りの環境が。ところで・・・?[46]の黒衣さんですか?もしそうなら、お久しぶりです。これからもどうぞよろしく。


では、十四話でお会いしませう。


P.S次回は、明るい話にします。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十四話 前編
Name: haniwa
Date: 2006/10/09 10:45
外伝としてお楽しみいただければいいなと思います。はっきり言って流れ完璧無視なんです。イメージだだ崩れです。むしろ、見ない方がいいかもしれません。でも明るい話です。こんな日もあったんじゃないかなと、何も考えず読んでみていただけたらいいなぁと。ああ、そしてまたオリジナル99%です。ごめんなさい。
















「碇ー!!」

 どたどたと、廊下で物音がしたと思うと、シンジの部屋のドアは、ユカリによって勢いよく開け放たれた。

「ど、どうしたんですか?」

 静かな部屋の中、ぼんやりしていたシンジはその様子に驚いた。

「私ねー、さっきパパからお小遣いもらったの。碇は?」

 その手に何か握りしめているユカリは、シンジにそう聞いた。よほど急いできたのだろう、少々息が上がっているようだ。

「はい、僕も、もらいました」

 シンジも、ユカリが持っているモノと同じ、封筒のようなモノを引き出しから取り出し手に取ってみせる。それを見たユカリは、なにやら面白そうな計画をすでに立ててるように、楽しそうに話し始めた。

「何に使うか決めた?」

「え、使っちゃうんですか?」

 しかし、シンジのその一言に、ユカリは水をかぶせられたように勢いを弱めた。

「あんた、まさか今までのお小遣い全部・・・・」

「はい、これに」

 今度はシンジが、うれしそうに傍らから何かを取り出した。

「・・・・」

「・・・・・可愛いでしょ?」

 シンジの手にあったのは、陶器で出来ている豚の置物だった

 いや、よく見るとその背中には五㎜程度の切れ込みのある、豚の貯金箱だった。陶器で出来ており、中にお金を入れると割って取り出すしかない古いタイプのモノだ。

 それをシンジは、大事そうに、うれしそうに取り出すと、そっとユカリに手渡した。豚の顔にはつぶらな瞳が描かれており、じっと自分を手に取っているユカリを見つめている。ユカリ本人にはそう感じられた。

 シンジは、その様子をにこにこと見ていた。

「・・・・・・・・・・・」

「・・・・・・ユカリさん?」

 しかし、次第にユカリが、何かを耐えかているかのように、小刻みに震えだした。

 そして・・・

「・・・・・ふん!!」

「ああ!!」

 一息と共に、豚を堅いフローリングの床へと落下させた。

 勢いをつけて床にたたきつけられた陶器の豚は、まるでオオカミに吹きとばされた木の家のごとく、当然の結果として、バラバラとなって砕け散った。そして、その体の中に守っていたモノを、ユカリという名のオオカミの前にさらけ出した。

「あっ、結構貯まってるじゃなーい」

「ああぁ・・・・、僕の、豚の次郎さんが・・・・」

 シンジはというと、そんなユカリの横で、まさに滂沱と評するにふさわしい涙を流し、目の前で繰り広げられた惨劇を悲しんだ。

 悲しみに暮れながら、シンジは砕け散ったかけらを拾い集める。

 ユカリは少々、その様子に胸が痛んだが、それでも譲れないモノがこちらにもあるかのごとく、その光景を見つめていた。

 そして、シンジが思わずこぼしてしまった言葉を聞き逃していなかった。

「あんた貯金箱に名前付けてんの?  それに次郎って・・・・ん?」

「はっ!!」

 シンジは涙を止め、ユカリの様子が変わったことに反応し、その体を硬くしていた。

「碇くん」

 そしてユカリが、次にシンジに掛けた言葉は、それこそ本当に花のようと評していいくらいの笑顔から放たれた。

「は・・・い」

 しかしシンジは、その陰にあるモノを感じ取っていた。

 そう、まるで蛇の前に、自分からうっかり飛び出てしまった蛙のような気分だった。

「豚の次郎さんにはあと何匹、ご兄弟がいらっしゃるのかしら?」

「・・・・お兄さんと、弟の三人兄弟です・・・・」

「そうなの。・・・・・・・・すてきね?」

「はい・・・・」(何がですか・・・・)

 だから、シンジの眼にはそんなユカリの姿はむしろ、血なまぐさく映り、その気配に気圧され、あっさり獲物の存在を教えてしまった。

 その様子に満足げにうなずくと、ユカリはシンジから視線をはずし、改めてシンジの部屋を見渡した。

「・・・・・」

「・・・・・」

 そして、シンジの部屋には痛いほどの静寂に包まれた。

 ゆっくりと動かしていたユカリの視線が、すっと押し入れに固定されたとき、シンジの体がびくりと反応した。

 ゆっくりと、シンジがユカリの方を見てみると、こちらの反応をしっかり察知していたユカリと、当然のように目があった。


                 「うふふっ」


       「あははっ」


 そんな、一歩踏み込めば、身を切っていまいそうな空気の中その笑い声は乾いたようにその部屋に響き、

「さあ!! 一郎さんと三郎さんはどちらかしら!!」

「や、やめてください!! てゆうか何で名前をご存じなんですかー!!」
 
「解らいでかーーー!!」

「いやーーーーーーーーー!!!  にげてーーーーー!!」

 ユカリは、押し入れに向かってその進軍を開始した。

 シンジは、なけなしの勇気を振り絞ってその腰にまとわりつき、その歩みを止めようとした。

 すでに火蓋は切っておろされており、事態は嵐のように進行し、そして、悲しみの下に集結した。




 その後

 シンジの豚は、オオカミに食べられてしまいました。

 そのオオカミは、ワラの家どころか、煉瓦の家さえモノともしない恐ろしい生き物だった。

 それは、雲一つ無い、まさに買い物日和な、晴れた日の午前のうちに起こった

 平和な出来事?。






見上げる空はどこまでも朱く






 第十四話   前編


 休日とお小遣いの使い方






 休日のその日、二人は大きなデパートの前に来ていた。

「さー、まずはどこから回ろうかしらねー」

 晴れやかな天気を写し取ったような表情を浮かべ、目の前にある建物を見上げる山川ユカリ嬢はいった。

「ううぅ。一郎さん・・・・・・」

 しかしその横には、いまだ悲しみに暮れ続ける碇シンジ少年の姿があった

「・・・・・あんたまだいってんの。」

「次郎さん・・・・」

 そんなシンジに気分を害されたのか、ユカリは多少、棘の付いた言葉を信じに投げつけたが、シンジはその悲しみの大きさからか、今は亡き者に思いをはせた。

 その思い人が豚の置物であるという事実が、全く同情を誘わない。

「・・・・・・・・もっとかっこいい貯金箱買えばいいじゃない!!」

 その一言に、シンジはハタと、悲しみ震えるのをやめ、その胸に組まれていた手をほどき、ユカリを見た。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

 そしてまた、しばらく見つめ合うと、シンジはあきらめたようにふうっと息を深く吐くと、今一度胸に手を合わせた。

「・・・・・・三郎さん、あなたのことは忘れません・・・・・」

「いい加減にしなさいよ」






 六階  


 書籍売り場「紅茶堂○×店」にて


 そこは、デパートの中にあるそうした物の中にある店としては、なかなか大きな本屋だった。

 ワンフロアすべてを使い、大きな棚がひしめき合うよう並び、様々なジャンルの本がそこにはそろえられていた。

 そういった場所は、独特の雰囲気を持つ。

 車が走る外の音が、遠くに響き、また別の階の騒がしさもこの場所には届かない。

 他の階のように、音楽も流れることもなく

 人が歩く、本をその手に取る、本を静かに置く、時々レジから聞こえてくる人々のやり取り。

 それらが、此所でのやり取りのすべてで、誰もそれを不思議に思わない。

 静かな空間で、黙々と行われる。

 二人はそんな、外は切り取られた空間の中心に立っていた。

「大きな所ですね」

 周囲を見渡す。

 そんな空気に飲まれてしまったのか、隣に立つユカリにシンジは、声をひそめて話しかけた

「迷子になっちゃダメよ」

 そんなシンジをよそに、彼女の言葉は、むしろこの場の空気を楽しんでいるかのようだった。

 しかしシンジは、そんなユカリの言葉に、ひっそりと息をのんだ。

 確かに、ここなら、いくら碁盤目状に棚が配置されていようとも、五分で迷える妙な自信が、シンジの中で芽生えていた。

 いや、それよりも、もしこの棚のうちの一つでも倒れてこようものなら、自分など容易く生き埋めになるだろう。

 その想像にいたり、シンジは今一度息をのんだ。

「何を買うんですか?」

「ん~、今月もいろいろあるのよね~」

 ふと横に立つユカリに、シンジが視線を移すと、彼女にしては珍しくキョロキョロと、忙しなく視線を動かしていた。

 その目は、普段よりも輝きを増している。

 ご馳走を目の前にした小型犬のような雰囲気だった。

 尻尾があれば、ひっそりと振っていただろう。

「本、好きなんですよね」

 あははと、半笑いであきれながらその様子を見ていた。

「うん。でも、有名どころはほとんど読んじゃったから、困ってるのよね。あと、この空気ね」

「??」

「真新しい紙の臭い、インクの香り、そしてその奥に息づく数々の知識や物語!!」

 芝居がかったしぐさで、今この場に立っている歓びを、その体全身で表現するユカリ、シンジはその様子を、何故か舞台下手で出番を待つ脇役のような気持ちで見守った。

 その肩は心なしか落ち込んでいるようにも見えた。

「・・・・・」

「というわけで、さぁ!! いくわよ!!」

 そんなユカリに手を取られ、シンジは本は本の海へと引きずり込まれた。






 ベストセラーコーナーにて


「そういえば・・・」

 並べられた、各ジャンルの本を物欲しそうに選んでいたユカリが、思いついたようにシンジに振り返った。

「どうしたんですか?」

 シンジは、その隣にあった雑誌のコーナーでクラッシク関連の雑誌に目を通していた。

 その表紙には「今週の特集:ベートーベンのナポレオンへの怒り」とあった。

「あんた、何読んでるのよ」

「え?これですか、・・・・・面白いですよ?」

 げんなりとした視線をシンジに送ったあと、ユカリは気を取り直し、話を進めた。

「それより、世界で一番売れてる本ってなんだと思う?」

「え!・・・・えーと、・・・・・・えぇーーとぉ・・・・」

 シンジは手に持っていた雑誌を、元の場所に戻しながら考えた。

 思いつかないのか、こめかみに手を当ててみたり、顎に手を当ててみたり、ひとしきり人が悩むためにとるポーズを試した後、腕を組んだ形で固まった。

 そっと、ユカリのほうを見上げる。

「・・・・あと十秒」

「!!!んんーーと・・・・」

 その様子が思いの他、気に入ったのか、はたまたより追い込みたかったのか。

 ユカリは、そういってシンジを悩ませた。

「あっあれですか、ハ○ー○ッター?」

 シンジはそうして、やっとのことで一つの回答を言うことが出来た。

「ぶー、違います」

「・・・じゃあ何なんですか?」

「答えは、聖書よ」

「聖書?」

「ほら、キリスト教の。あれって、プロテスタントとかカトリックとか、いろいろあるけど大まかにまとめると聖書ってそれこそ世界中にあるのよ。」


 聖書には、旧約聖書、新約聖書、またはユダヤ聖教、キリスト教カトリック、プロテスタント、それぞれにかかわるものが様々な形で、本となり、ポケット聖書、電子聖書なるものまであり、一般に販売もされる図書としては、その変化の仕方、解釈の仕方共々に他に類を見ないほど多様な物がある。


 ユカリのいう聖書というのは、そういった物をすべて一括した場合の話だった。

「そうなんですか」

 シンジは、その解答とともに、提示された知識に目を白黒させた。

「そういうの知らない? 最近も確かその中東のほうで発見された本があるのよ?」

「なんていうんですか?」

「死海文書って聞いたことない?1947年に発見されて、最近解読が終わって、確か・・・・・2001年?に本にもなったわ。なんでも世界で一番古い聖書で、内容が旧約聖書とその外典らしい・・・・シンジついて来れてる?」




 死海文書、

 その名の通り1947年にイスラエルの湖「死海」付近のクムラン洞穴で発見され、その内容は旧約聖書とその外典であった。

 本の状態と科学鑑定の結果から、現存する最も古い聖書とされ、キリスト教誕生とほぼ同時代の書物であり、キリスト教発生に関しても重要な資料となることが解った。このことに対して一番反応を示していたのが、キリスト教の総本山ともいえるバチカンといわれている。

 その発見と解読に当たる際、かなりの横やりが入ったことから内容の隠蔽、又は書き換え等などの噂がかえってこの本の存在を世界に広く知らしめる結果となり、2001年には、全写本が出版され、またその解釈について書かれた本も多岐にわたり、いまだ論議が続けられている。


        それは、また別のお話





 ユカリはシンジは眉根を寄せて、少々、うつむき加減にユカリに向き直った。

「・・・・・ユカリさんが、なにを言ってるかさっぱりわかりません・・・・」
 
「大丈夫・・・・・・、実は私も良くわかんないの。だって私たちが生まれる、それこそセカンドインパクトより昔の話よ?解るわけないじゃない」

 ユカリは恥ずかしさを隠すかのように、照れたように笑った。

「ただそれが、世界で一番古い本らしいのよ。そういうの憧れるでしょ?」

 一般には解らない、本好きとしてのロマンがそこにはあるのだと、ユカリはいうが、シンジはそういったことに大変疎かった。

「はぁ・・・・そういう物ですか。それ読んだ事あるんですか?」

「うん、何のことかさっぱりわかんなかったけど、面白い話があった」

「どんな話ですか?」

「えーと、ほら、アダムとかイブとか聞いたこと無い?」

「?」

「昔々に、神様が最初に作ったのがアダム(ADAM)って人なんだって。んで、一人だけじゃ寂しいからアダムの・・・・あばら骨、だったかな?それから、イブ(EVE)を作ったんだって」

「・・・・」

「んで、神様が作った庭で楽しく暮らしてたんだけど、神様に食べちゃダメっていってたリンゴを食べちゃったから、そこから追い出されて、今私たちが生きてるこの場所で生きることになったんだって。それが人としての私たちの最初の罪だとか何とか・・・・」

「はー・・・・・」

「でもリンゴ食べたくらいで追い出すなんてひどい話よねー・・・、って面白くない?」

「・・・・・よくわかりません」

 そういった類の話を耳にする機会がないシンジには、ユカリの話している内容は全て初めて聞くことばかりだった

「こういうお話って知ってると面白いのよ?。例えば、その時食べたリンゴがのどに詰まって、アダムにはのど仏が出来たとか、イブは胸で詰まってこう、おっぱいになったとか。」

「・・・・リンゴなんですか?」

 身振り手振りでユカリは、シンジに一所懸命に説明し、自分の喉を指さし、そして自分の胸に手を当ててそれを表した。

 シンジは思わず自分の、そういった体の変化はまだ見られないのどをさすった。

 一瞬だけ、大人になったら一度はリンゴが喉に詰まるのかと、見当はずれなことまで考えてしまった。

「そうじゃなくって、あくまで聖書の中での話なのよ。英語だと、今でものど仏のこと” Adam’s apple ”(アダムのリンゴ)っていうらしいし、あっ、でも女の人の胸のことを”イブのリンゴ”とは言わないのよね。何でだろ?」

「はぁー・・・・」

 ゆかりがそこまで話すと、シンジは、何か思うところがあるような、驚きを含ませたため息を吐いた。

「何よ」

「いえ、・・・・ユカリさんはすごいですね」

「何よ突然。こんなのただ知ってるだけじゃない」

「うん。そうなんですけど・・・・・」

「じゃあ、碇も今日から覚えたんだから、碇もすごくなったわね?」

「え?・・・・」

 ユカリは、いたずらっぽくシンジを覗き込むようにそういった。

 その様子と、彼女の言葉の意味が判らず、シンジはしばらくその場に立ち尽くした

「えへへ」

「・・・・あはは」

 ユカリは、驚いたように自分を見ているシンジに視線を合わせると、照れたように笑った。

 その笑顔を見て、シンジはユカリが自分に何を言わんとしているのかを悟り、その笑顔に答えるようにシンジも笑った。

「あっ、あとねぇ、そのリンゴを食べたおかげで、人は知恵を身につけて、アダムは男の人として、イブは女の人としての”違い”が出来たんだって。さっきの喉と胸の話ね」

「それがどうかしたんですか?」

「よく考えなさい。それまで二人とも、すっぽんぽんで神様の所にいたのよ?」

「えっ!!そうなんですか?風邪とかひかなかったのかな?」

「んーと、神様のいるとこって楽園らしいから、暖かかったんじゃない?んでその時突然変わった自分の体を相手から隠したんだって」

「何でですか? それまでお互い裸で平気だったんでしょう?」

「それまで、二人の体は見た目には全く一緒だったんだからじゃない? だから、突然相手と違う体になったら、自分が変になったんじゃないかって不安になったんじゃないかしら?だからそこを葉っぱ、イチジクだったかな?で隠して・・・・」

 そこでユカリは言葉に詰まった。

 次の言葉を言いにくそうに口ごもっている。

「どこですか?」

 今まで、それこそ雄弁に言葉を紡いでいたゆかりの口が止まったことに、シンジは不思議そうにゆかりの言葉を待った

「・・・・・・・」

「・・・・・・・」

 ゆかりは、信じられないモノをみるようにシンジを眺め回したあと、目を半分閉じ、ぽつりと最後の言葉を吐いた。

「・・・・スケベ」

「ええ! 何でですか!!」

「知らない!!」

「ゆかりさん!!」

 シンジが予想もしていない言葉を残しつつ、顔を赤くしたゆかりはその場にシンジを置いて、本棚の奥へとすすみ、シンジも慌ててその後を追った。




「ゆかりさん、決まりましたか?」
 
「まって、もうちょっと」

 シンジは、隣にで本をにらむように吟味しているユカリに声をかけた。

 ユカリは視線を動かさずに返事を返した。

「・・・・さっきから同じ本しか見てないですけど・・・」

「どっちにしようか悩んでんの・・・・」

「どれですか?」

「これとこれ」

 そうすると、ユカリは目の前においてあった二冊の本を、手に取った。

 右手にハードカバーの青い本、左手には文庫本サイズの赤い本。

 両者ともタイトルがアルファベットで書かれていたのでどういった本なのかはシンジには判らなかった。

「はぁ・・・」

「どっちがいいと思う?」

「僕に聞かれても・・・」

「そうよねぇ。いい?こっちは私が大好きな作家さんの新作で、こっちは、これまた私の大好きなシリーズの新刊。碇ならどっちにする?」

 ユカリは、右手、左手の順番にシンジの前に本を突き出すと、その間から自分の顔をのぞかせてシンジに聞いた。

 その目は真剣だった。

「んーーー」

「・・・・・・・・」

 適当にどちらかを指さそうとしたシンジだったが、悩んでいる間片時も目を離さず、さぁどれだといわんばかりに本を突き出スユカリに、適当なことはいえなくなっていた。

 けれど、優柔不断なシンジに、ユカリにとって最良の本を選ぶという判断は出来なかった。

「・・・・えっと、どっちも買う、じゃダメですか?」

「・・・・・」

 ユカリは無言もまま、本の裏に書いてある値段に目を落とすと、そのまま静かに動かなくなった。シンジは、それだけで何が起こったか察した。 

「・・・・・・お金が足りないんですね?」

 こっくり

 ユカリは何も言わず首だけを動かした。

 心なしか、暗い影がその頭上にうずまいているようにも見える。

「困りましたね・・・・」

「んー・・・・」

「・・・・・じゃあ、こっちは僕が買います」

「え!!」

 物欲しそうに、本を元の場所に戻せないでいる彼女に、シンジは青い本をユカリの手からとり、表情に苦笑を交えながら、そう提案した。

 ユカリは、ぱっと顔を輝かせるが、シンジと目が合うと、次に申し訳なさそう視線を手に残っているもう一冊の本に目を落とした。

「読みたいんでしょ?」

「・・・うん。でもいいの?」

 顔半分を隠すように赤い本を両手で持ち、ユカリはそっとシンジに視線を合わせた。

「はい。一郎さん達のおかげで、僕はまだお金に余裕がありますから」

「ありがと!!」

 その視線から、シンジは目をそらすことなく答え、誇らしそうに胸に手を当てて答えた。

「じゃあお礼に、新しい貯金箱は私が選んであげるわ!!」

「・・・・それは遠慮します」

「えー何でよーー」






 屋上、


 休憩所にて



 休日の昼だというのに、そこにはシンジとユカリ以外に人影はなく、休憩所自体も、自動販売機とその脇にベンチがあるだけというさびしいものだった。

 喫茶店などの飲食店はそのすぐ下の階にまとまっているため、ここまで足を運ぶ人がいない。

 ユカリはベンチに腰掛けて、飲み物を手にしながら退屈そうにしていた。

「で? 碇は何買うの? 貯金箱だけ?」

「え・・と元々何も買うつもりもなかったんですけど・・・」

 シンジは、自動販売機の前に立って、何を買うか決めかねていたため、ユカリのほうを振り向かずにそう答えた。

「えー、つまんない」

 ぶらぶらさせていた足をよりいっそう大きく動かして、ユカリは不満をあらわにし、手に持っていたジュースを一気に飲み干すと空き缶をゴミ箱に投げた。

「せっかく、こんなとこまで来たんだから、なんか見ていけばいいじゃない」

「・・・そう・・ですか?」

「んじゃ、一つ一つおりながらいろいろ見ていきましょう」






 8階


 おもちゃ・ゲーム・その他アミューズメントフロア。


「騒がしいとこね・・・」

「はい」

 展示用のおもちゃがひしめき、ゲームのデモムービーがテレビを彩り、そこかしこから音楽が響くその雰囲気が、二人は御気に召さないようだ。

 ユカリは騒がしい周りに目をやってはそれが興味を示すようなものでないとわかると、すぐに視線をよそに移した。その横でシンジはユカリとは違う意味でキョロキョロとあたりに目をやっていた。

 はっきり言ってこういったところにくるのはほとんど初めてだったからだ。めまぐるしく目の前で展開されるゲームの進行に目をやり思わず見入ってしまい、立ち止まったところをユカリに引っ張られたり、パズルゲームを手にとっては、やり方がわからず途方にくれてみたり、右からはクラシック、左からヒップホップが聞こえてくる事態に、どちらにも耳を傾け、目を回してみたり。

 シンジなりに、騒がしく居心地がさほどいいとはいえないこの場所を、楽しんではいた。

 そして、ボードゲームがおかれているコーナーに来たときユカリがそのひとつを手にとって声を上げた。

「あ!!これカ○ムだ!!」

 少しはなれたところで、ルービックキューブを相手に格闘していたシンジはそれを置いてユカリの下へ走った。ユカリはひとつの大きなケースをものめずらしそうに眺め、いろいろな面からそのは個を観察していた。ユカリがそれを動かすたびになにやら中でこすれるような音が聞こえてきた。シンジからは、それがどういった使い方をするものなのかは予想できず、不思議そうにその様子を見ていた。

「・・・・・何ですかそれ?」

「私もよく分かんない!!」

 彼女は自信満々にそう言い切った。なぜか興奮気味のようだ。

「・・・・・」

「でも、一部の地域でしか売ってないこれが何でこんな所に・・・・、ミステリーだわ!!」

「はぁ・・・」

 どうやら、ユカリが持つ豊富な知識の中にそれがあったのだろう。輝く宝石のようにそれを眺めていた。

 一方シンジは、今のユカリに近づくことは危険だと判断し、別のブースへと視線を移した。

 するとそこには、雑貨のコーナーがひっそりと設けられていた。シンジはそのうちのひとつの商品に目を留めた。

「あ!! ゆかりさん貯金箱がありますよ!! 豚さんもあります」

「却下。」

 しかし、ユカリはうれしそうなシンジの呼びかけを、そちらを振り返ることなくたたき伏せた。

「ど・どうしてですか?」

 シンジがそういうと、ユカリは手に持っていた箱を元の場穂に戻しシンジへ振り向いた。そして貯金箱を突き刺すように指差すと断定するように言い放った。

「そいつに四郎なんて名前、付けさせないわ!!」

「そんな・・・・」

「どうせなら、こっちのロボットにしなさいよ、これなら蓋が付いてるから、いちいちバラバラにしなくても中身出せるじゃない」

「でも、ほら、見てくださいこの豚さんの訴えかけるような目を・・・」

「陶器の、ましてや豚の訴えかけを受け止めるほど私の心は広くない!! 却下ったら却下」

「そんな・・・・・・」

 打ちひしがれるシンジを無視し、ロボットの貯金箱を手に取りながら、ユカリは歩き出した。

「ほら、これ買って次に行くわよ!!」

「・・・・・」

「返事は!!」

「はい・・・・・」

 シンジは財布を開きながら、豚の貯金箱を名残惜しそうにみつつ、その場を後にした






四階


 電化製品フロア


 場所を移した二人は、その階の売り物のである大きなテレビの前に立っていた。物によってはシンジたちの頭にまで届きそうになるくらい大きなテレビは、激しいアクション者の映画の映像を流しており、その音と映像は二人を圧倒した。

「わぁー」

「大きいテレビですねー」

「でもこんなに大きかったら、なんだか目がシパシパするわね。買うの?」

 何気なく、視線を下に落としてみる。

「ゆ、ゆかりさん、値段を見てください」

「うわ、何これ。ホントに電化製品?」

「・・・・」

「・・・・」

「むこう、見に行きませんか?」

「そうね」

 当然、それはシンジがいくら節約家としてお金をためようが、届くはずもない途方もなく高い値段だった。それは当然なことなのだが、なぜか二人は奇妙な居づらさを感じ、そそくさとその場を離れた。




 そのまま、フロアをうろついていた時、ユカリはあるものに目をつけた。そしてそれをシンジに示してみせる。

「あっ、碇これなんていいんじゃない?」

「何ですかこれ」

「これがあれば好きなときに音楽聞けるわよ?」

「はぁ」

 それは音楽プレイヤーで、新商品らしく大きな試聴コーナーが設けてあり、シンジたちはちょうどその前に立っていた。

 シンジが値札見目をやってみる。値段は、シンジのような小学生が買うにしては少々値が張るものだったが、シンジの予算から足は出ていない。

「なんですかこれ?」

「えーと、『新発売、次世代携帯型デジタル・オーディオテーププレイヤー”SDAT”、今ならお買い得価格・・・・』だって」

「はー・・・・」

 たいそうな売り文句を、ユカリがすらすらと読み上げていくのについていけないシンジは、たかがオーディオ機器を、これほどまでに言葉で飾れることに感心していた。

「ほら、聞いてみなさいよ」

「うわ!!」

 ユカリは、たいして反応を返さないシンジがつまらなかったのか、試聴用の大きなヘッドホンを無理やりシンジの耳にかけた。すでに再生されていた音楽がシンジの耳を打ち、シンジを驚かせた。

「どう?」

「・・・・・・・・・・・」

「・・・・碇?」

「・・・うわぁ・・・・」

 黙り込んだシンジをユカリは身をかがませて覗き込んだ。ヘッドホンはカバータイプで、シンジの耳をすっぽり覆いつくし、外部の音を完全に遮断していた。そしてシンジはその隔絶された音の世界へと沈んでいた。

「いかがですか?」

「へ?」

 そうしていると、売り子の店員が二人に近づいていた。当然ながら小学生の二人よりもずっと背が高く、いぶかしげに二人のことを見ていた。

「い、碇・・・」

「・・・・・・」

「ねぇ、ちょっと!」

 ユカリは一人でその大きな男の人を対応するのが怖くなり、シンジの袖を引っ張って彼を呼ぶが、シンジは気がつかなかった。

「ん?君たち、お父さんとお母さんは何所なの?」

「えっと・・・その」

「それ展示品だから、解る?」

「・・・・」

 壊したら弁償できんのか、といったニュアンスを秘めたその言い方は意地悪く感じられ、ユカリはそれに対してはっきりと嫌悪感を感じたが何も言うことが出来なかった。

「ゆかりさん」

「碇?」

 なにやってんのよと言いかけたゆかりはシンジのほうに振り返った。いつの間にかヘッドホンをはずし、一つの商品を手に取ったシンジがいた。手に持っていたのは先ほどシンジが聞いていたオーディオと同じものだった。

「僕、これ買います」

「え!買うの?」

「君ねぇ、これいくらか解って・・・・」

「はい」

「・・・・・」

 初めて触った音楽プレイヤーは、シンジをずいぶんと感動させたようだ。購入を決めた彼はすでに、レジに行く前に消費税まで計算し、一円単位で用意しておいたお金を、その店員に突き出すように見せた。ユカリはその横でそんな彼を驚いたように見ていた。

 店員は、シンジが手に持っているお金とシンジとを、交互に確認した後、慌てた様子で接客態度を改めた。

「あ、ああちゃんと持ってたんだ。申し訳ございませんでした。じゃあ、こっちに来てもらえますか」

「はい」

「ちょっと待ちなさい」

「? な・何ですか?」

 店員の誘導に従ってレジへと向かおうとしていたシンジにその少し硬い響きが感じられる言葉がかけられた。そこには、さきほどまでの店員よりも少し年齢が上に見え、少々白髪が混じり始めている別の店員がいた。そのシンジを見る表情は、険しいものだった。

 彼は、一方的にシンジを呼び止めると身をかがめることなく、威圧的にシンジに話しかけてきた。

「これは君のお金かい?」

「はい」

「嘘はいけない」

「え!! ・・・嘘なんかじゃありません!」

「そうよ!!」

 その店員がかけてきた疑いは、シンジにもユカリにも、身に覚えのないことだった。しかし、その中年の店員は取り合わず、ますます疑いの念を強くした声でシンジに告げた。

「こんな大きなお金、君たちみたいな子供がもらえるはず無いだろう。ご両親は?」

「「・・・・・」」

「見たところ、君たちまだ小学生だろう?ちょっとこっちに来なさい」

「!! い、いやだ!」

 大きな手が、シンジの腕をつかんだ。その店員はシンジが小さいことをまるで無視し、まるでつるし上げるように引っ張りあげてシンジをつれてゆこうとした。シンジはそれに抵抗するが、知らない大人に掴まれた腕の感触が、シンジに言い知れぬ不安感を与えていた。

「やめてよ!! シンジを離しなさいよ!!」

「君も来るんだ!」

「や・・・」

「ゆかりさん!!」

 ユカリはそんなシンジを助けようとして、その手人につかみかかろうとしたが、逆にもう一方に手につかまり、連れて行かれそうになる。その様子を見ていたシンジは自分のことを忘れ、ユカリが連れて行かれそうになっていることに、今度ははっきりとした恐怖を覚えた。

 しかし、そのとき、

「あら、こんな所にいたんだー。だめよ、あんまり動き回っちゃ」

 二人に声が掛けられた。

 その声は優しく親しげで、混乱していたシンジをそっと包み込んだ。

 首だけでシンジはそちらを見ると、その声の主が目に入った。女性で、背は中年店員と同じくらいあり、女性としては高いほうだろう。ジーンズのスカートに、白いブラウスと、更に上に青いベストと言ったラフな格好だが、後ろで束ねた長い黒髪のおかげだろうか、だらしないと言った印象は受けない。

 その女性はシンジにとって、とても印象に残っている人だった。

「!、あ、お姉ちゃん・・・・?」

「?」

 ユカリは、その瞳に薄く涙を浮かべていたが、シンジの様子を見ると何かを考え始めた。そして、二人の手をつかんでいる中年店員は現れた女性を警戒しながらも話しかけた。

「君は?」

「この二人の保護者ですけど? この子達が何かしました?」

「い・いや、この子達が迷子かと思いましてね。今からセンターに連れて行こうかと」

「あらー、それはお手数をおかけしました」

「い・いえ、職務ですから」

 彼女はそんな店員に臆することもなく、しれっとした態度で身分を偽った。そして彼女がシンジたちに近寄ると、店員はようやく手を離した。シンジとユカリはさっとその店員から離れると彼女に駆け寄った。彼女も迎えるように膝を折り、シンジたちに視線を合わせた。

(・・・・お久しぶりです)

(それは後、ね?)

「??」

 店員には聞こえないように、小さな声でシンジは女性に告げた。彼女もそれに応じたが、二人の関係を知らないユカリは二人を交互に見て、今の状況に一人、混乱していた。

 そして、彼女は一息に立ち上がるとシンジに親しげに話しかけた。

「それに決めたの?」

「え? あああはい。今からお金を・・・・」

「あっ、それは・・・・・」

「ああ、これですか?」

 シンジがお金を、若い店員に渡していると、中年店員は、何か言いたげに声を漏らした。女性は、シンジに人差し指を自分の口の寄せる動きを見せたあと、

「これは、この子が小さい頃から貯金していたモノでしてね? 子供には結構な大金でしょう? だから私がついてきたんですけど。どうかされました?」

「い・いえ、何でもございません」

 女性がそう説明すると、その店員は何もいえなくなった。そして此所で成り行きを見守っていたユカリが、何を思いついたのか、突然目の前の女性に抱きついた。

「わーん、お姉ちゃーん!! この人、とっても怖かったのー」

 泣いているような声を出し、けれどしっかりとその中年店員を指さした。

「あらあらそうなの?」

「むりやりー、手捕まれてー、とってもいたかったのー・・・」

「そう・・・でも、もう大丈夫よ?」

 よしよし、とその女性はユカリの頭を撫でた。

 しかし、シンジは見ていた。

 彼女が、なでつけた猫のような声を出している反面、その顔を擦り付ける振りをしている際に、表情は歪んだ笑みを浮かべ、なおかつ舌を出していることを。そして、視線を落とした女性とアイコンタクトを取り、女性のほうも得心したように小さくうなずくと、こちらも店員からは見えない位置で、いたずらっぽく笑った。

 何故だろう、畏怖を覚えずにはいられない。

「そういえば・・・・」

 女性は、声のトーンを二つほど下げて、中年店員に視線を移した。

 少々その目が据わっている。

「な・何でしょう?」

「先ほど、いやがるこの子達を、無理矢理連れて行こうとしているように見えたんですけど? このデパートでは、こんな小さい子供達に、いつもあんな対応をしてらっしゃるのかしら?」

「め・滅相もございません!!」

「そうですよね? 『安心便利で楽しい買い物』。あなた達のうたい文句は私も信じていたいですわ。」

「・・・・・・」

 その女性はあくまでおしとやかにそう告げると、その店員は悔しそうに視線を逸らした。

「では、私たちはこれで。さあ行きましょ」

「はぁーい」

「・・・・・・・」

 女性は、目の端でシンジの会計が終わるのを確認すると、商品を代わりに受け取り、シンジとユカリを促すと、店員に視線を向けることもなく歩き出した。ユカリはそれに素直についていくが、シンジはそっと後ろを振り返りと、済まなさそうに自分を見ている中年店員が目に入り、申し訳ない気持ちになってきた。

 それは、自分の横で親指を天に向かって突き出しあい、してやったりと笑いあっているユカリと女性を見たせいだけではないだろう。




 ・・・・・たぶん。






[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十四話 後編
Name: haniwa
Date: 2006/10/02 15:13
見上げる空はどこまでも朱く






 第十四話 後編


 休日とお小遣いの使い方




 シンジとユカリ、そして女性の三人は、デパートから少し離れた喫茶店に入り、やっとそこでお互いを確認した。シンジとユカリは、女性と向かい合うようにすわり、女性に進められるまま飲み物を頼んでいた。

「久しぶりね?」

「はい。その・・・・さっきはすみませんでした。」

「あれ?まだその謝っちゃう癖、直ってなかったの?」

「ああ!!ごめんなさい・・・・あっ」

「あはは、相変わらずみたいだね。どうだった?私の考えた言い訳。」

「・・・・・ほぼそのとうりです。」

「だめよー。こういうのは、ぱーと使っちゃわないと。もったいないじゃない。」

「はぁ・・・・」

「そういえば、髪切ったのね。かわい・・・じゃなくて、似合ってる。」

 会話は、和やかに進められた。蚊帳の外にユカリを置いたまま。

 そこまでが限界だったのか、ユカリは目の前の女性に気づかれないように机の下からシンジの足をつついた。

(ちょっと!、この人誰?)

「え・・っと、この人は、僕が、こっちに来るときにちょっとお世話になったんです。」

「それだけ?」

 はっきりと声を出して、ユカリはシンジに詰問した。しかしシンジは、その質問の意図がつかめず、困惑をそのままに首をかしげる。

「?」

「その割には仲、良さそうね!」

 いつの間にか、目の前に座る人を無視して話をしてしまったが、ユカリは気にも留めず、不機嫌そうに、ふいっとシンジから視線を逸らし、手に持っていたコーヒーを一気に飲み干した。

「あら、あなた達には負けるわよ?」

「今日、お兄さんは?」

「あの人は今日仕事なの。君があれからちゃんと家につけたか心配してたわ。そっちの子は・・・・もしかして彼女?」

 にっこりと、楽しい遊びを見つけた猫のような笑みを浮かべて、彼女はわらった。

 シンジは、まだ中身の残るコーヒーカップを両手で置き場所に困ったように手に持っていたが、その一言に思わずそれを落としそうになった。

「そっそんなんじゃありません!!彼女は先生・・・叔父さんの所の人で、僕とはその・・・」

「ああ、わかった、わかったから。・・・・彼女、怒ってるわよ?」

「え!!」

「あら、どうしたの?顔色が悪いわね?」

 シンジは全力で否定したが、なぜかそれがまずかったらしい。促されて隣を見れば、空っぽのコーヒーカップを今だ手に持ち、むしろにこやかに答えるユカリ。

 ああ、しかし、その後ろに般若のような顔が思い浮かぶのはなぜだろう。

「・・・・・」

「そろそろ、帰りましょうか?お姉さん、ごちそうさまでした。」

「え、ええそれじゃあ。」

 女性にも、その幻は見えたのだろうか、多少その頬を引きつらせていた。

 ユカリが席を立ち、それに続こうとしたシンジはふとその足を止め、再び女性に向き直った。

「お姉さん。」

「なぁに?」

 ちらりと、自分の先を行き、もう出口へと差し掛かっているユカリに視線を送ると、シンジは告げた。

「彼女を助けてくれて、本当にありがとうございました。」

 にっこりと、本当の笑みをたたえて、ぺこりと頭を下げた。

 【自分たちを】ではなく、【彼女を】助けてくれて、と彼は言った。

 あぁ、やっぱり、彼はあのときのままなんだなと思い、大いに嬉しく、少し悲しく感じながら、そんな彼を彼女は見つめた。

「んん、気にしないで。二人っきりでああいう所に行くのは、もう少し大きくなってからにしなさいね?」

「はい。」

「なにやってんの!!いくわよ!!」

「ああ!!まってくださいよ。」

 出口から、あの少女の声が響いた。そして少年は、慌てた様子でもう一度、女性にお辞儀をすると、今度こそ振り返らず出口へと駆けていった。

「・・・・・・・・・・・」

 窓から見える彼らを、想うところがあるかのように見つめながら女性は、見送った。

「・・・・・・・・やっぱ、かわいい。」

 ぷつりとつぶやいたその言葉は、彼女自身以外、聞くものはいなかった。




「ゆかりさん?大丈夫?」

「・・・・・・・なんでもない。疲れちゃった。」

 二人は、帰りのバスに乗っていた。二人がけの席に深く腰を沈めていた。もう陽もくれ始め、夕日が足の速い雲に見え隠れしながら空を照らしていた。バスの細かな振動が、二人の体を揺らしているが、疲れた体にはその振動は邪魔にならず、むしろ眠気さえ誘うものだった。

 喫茶店を出てからバスの乗り込んだ後、ユカリは口を聞かず、ぼーっと前を見ていた。しかし、不意にポケットに手を入れると何かを取り出して、シンジの前に突き出した。

「碇。」

「・・・・?」

 不意に自分の名前を呼ばれ、シンジは改めて視線をユカリに向けた。

「手、出しなさい。」

「はい?」

「はいこれ、」

 まるで、お手のようだなとぼんやり考えながら、シンジは突き出されたユカリの手の下に手を広げた。すると、ぽんとその手を打つようにユカリは自分の手を置き、そこに何かを残した感触があった。

 ゆっくりとユカリが手をどけた後に残ったものは、陶器で出来た小さな豚のキーホルダーだった。

「これは、いいの?」

「それ百円だけど・・・・。」

「・・・・・すみま、じゃなくってー、ありがとう。」

「ん、よろしい。」

 ユカリは眠そうに目を擦りながら、けれどどこか、申し訳なさそうにいった。シンジも半分目が瞑りかけながらも、そう返した。そして、手に残ったキーホルダーを、目の位置まで持っていくとほぐれるように笑った。

「名前は何にしようかなぁ。」

「やっぱ、名前付けんのねー・・・」

「ゆかりさん、何がいいと思う?」

「あんたが、ふわ~・・・・決めなさいよー」

「せっかくゆかりさんがくれたんですから、お願いです。」

「んーじゃあ・・・・・」

 シンジは寝ぼけなまこになりながらも、一生懸命に考えるユカリを見つめていた。シンジたちが座っているのは、右側の列窓から山の中腹に日が沈む様子が良く見える席だった。そこに照らされたユカリの目を伏せて、少し眉根を寄せた顔をシンジは呆けたように見ていた。

「んーーーーーーーーーー」

「・・・・」

「・・・・・・こ」

「こ?」

「こ、小五郎なんて、どおー?」

「・・・・」

「・・・・だめ?」

「ゆかりさん・・・・」

「なによー」

「・・・・・いい名前ですねー」

「えへへー、そうでしょー」

「確かに彼には五郎さんです。でも小さい。だからこそコゴロー。ゆかりさんのセンスは・・・・すばらしいです」

「あははー、ごめん。ぜんぜん嬉しくないー・・・」

「えー、なんでですかー」

 二人とも、瞼がそろそろ限界なのか、もうほとんど落ちてしまっている。そしてそれは、冷房の効いた車内に、夕日の差し込む具合が、二人にはすばらしく心地よく、眠気は更に深まってゆく。

「ゆかりさん・・・」

「・・・なぁにー?」

「今日は、・・・・ゆかりさんのおかげで楽しかったです。」

「・・・・そう」

「僕、こんな風にお買い物したのも・・・・・お出かけ・・・したのも、本当に初めてです。」

「・・・・・・・そっ」

「はひ。」

「・・・・・・・・」

「・・・・・・・・」

「ゆかりさん?」

「んー?」

「・・・・・また一緒に来てくれますか?」

「まー、別に・・・・誘われてあげてもいいわよぅー。」

「ふぁい。」

 空気を口に含むような、妙に間延びした会話はそうして途切れ、二人は寄り添うように、ゆれるバスの中で、とうとう眠り込んでしまった。

 バスは、そんな二人を乗せて、彼らを家まで送り届けた。








次回予告


 逃げていた


 彼は逃げていた


 逃げる彼には


 前は見えておらず


 後ろしか見えていない


 その道を振り返ることは叶わず


 先を見ることは恐ろしくて出来ない


 But no one's getting out here !!


 No one's breaking loose from the beautiful world.




 次回

 見上げる空はどこまでも朱く

 第十五話

 Lost in the red
 And
 Given by the red








おまけ。




二期二、五会

「でねー・・・その親父がムカつくわけよー・・。あのこの手を捕まえてさー・・・しかも女のこの方も無理やりつかんでさー・・・・・」

 酔っ払った彼女は、はしで皿を叩きつつ、不満をぶちまけていた。

「おまえそれ、三回目だぞ?」

「なによー・・・まだ!!三・回・目・でしょ!!何回でも聞きなさいよ~。」

「あー、解ったから、おまえ明日仕事だろうが、ほら水のめ。」

 ちゃぶ台に顔を乗せた彼女にコップを近づけるが、風呂を嫌がる犬のようにコップから顔を背ける。

「あ~・・・さけもってこーい。」

「ビール一本でべろべろになるやつにこれ以上飲ませられるか!」

「なによーけちー・・。別れるわよぅ~。」

「・・・・・・・(それもいいな)」

 恥も外聞もなく、ごろごろと机の上に自分の顔を転がす彼女を見ると、どうにもげんなりしてしまう。

「なによぉ、なんかいいなさいよう~・・ひくっ」

「あーそれで、そっからどうなったんだよ。」

 明日は仕事を休ませようと考えながら、俺は彼女をいなすことに専念した。

 また、自分の話を聞いてもらえるのが嬉しいのか、彼女は酒でほんのり紅くなった顔をにっこりと動かし机を軽く叩きながら話を再開させた。

「えー・・・、えへへーそれでね、喫茶店でーすねちゃうその子が、まーたかわいいわけよー。」

「あーあー」

「んで、そのよこで困ってるあの子もかわいくてー・・・」

「ほー・・・」

「もうこれは、お持ち帰りするしか!!」

「すんな!!」

「えー・・・・」

「えーじゃねぇ。」

「じゃー・・・・作る?」

「頼む。もう勘弁してくれ。」

 俺の頭が今痛いのは、決して酒が入ってるからじゃねえと確信しながら、その陽の夜は更けていった。






後書き、

 おはようございます。仕上げを書き上げたとき、なぜか空が白んでいました。
 どうも、寝不足の僕、haniwa。

 今回、またオリジナル99パーセントです。でも、なぜかプチ知識を無理やりッぽく差し込んでみました。あと、SDATに関してですが、確か、昔のパソコンの記録装置は磁気テープ型だったから、きっとエヴァンゲリオンの世界ではメモリースティックができる前に、今より進んだテープ型記録媒体ができたんじゃないかななんて思いついたんです。たぶん、2015年でもテープ型記録媒体は時代遅れになってるけど、シンジ君は思い入れがあるから使ってるんじゃないかなと思いついたんです。ほかにもいっぱい言い訳したいところもありますが、今はここまで。あと、十五話で二年生編終わりです。でもまだ、第三東京には行けません。

※Cold大王様へ、すみません直しました。直ってないところ(最後のシンジたちの会話)は、haniwaのつたない演出と思ってください。ご忠告ありがとうございました。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 Ⅰ 】
Name: haniwa
Date: 2006/10/19 16:56
本文中には、グロテスクとも取れる表現が含まれています。そういった表現が苦手な方、またはお嫌いな方には、今回のお話はお勧めできません。もし、目を通していただいて方の中で、ご気分が悪くなった方がいらっしゃいましたら直ちにメール、感想板のほうへお知らせいただければ、直ちに変更、場合によっては削除いたします。利用規約には違反しないように考慮したつもりです。長くなりましたが、十五話をお楽しみください。最後に、ゴメンナサイ。




















 続けばいいと思っていた

 続いてほしいと願っていた

 続くわけが無いと気が付いていた






見上げる空はどこまでも朱く


第十五話


Lost in the red
And
Given by the red


      【 Ⅰ 】






 碇シンジは、よく笑うようになった。

 親しい友達とお喋りの中、彼が男子と楽しそうに話している様子をちらりと目にし、山川ユカリはそんなことを考えていた。

 例えば今、音楽祭に向けて、放課後に行われた練習が一段落した後の休み時間、こんな会話がされる。

「シンジってさー、あんな楽器、本当に弾けたんだなー」

「ほんまや。しかも一週間でここまで弾けてる様になってるやなんて、おもうてなかったわ。なぁ?」

「そうそう。びっくり」

「それにうまかったしな」

「うんうん」

 こんな風にからかわれても、以前の彼なら、からかわれていることにも、純粋に褒められていることにも気がつかず、おろおろとするだけだったろう。

「あはは、そんな事ないですよ」

「ほんとだって!」

 そう笑い合う。

 ユカリは、そんな彼を目にするたび、うれしくなる反面、胸にちくりと射すものがあることも感じていた。

 シンジが、そんな風に友達と話し合っているこの風景は、とても自然なもののはずだ。少なくとも、これは彼に対して向けられたものではない。

 原因のわからない苛立ちは、この際無視しておこう。

 ユカリはそう決めると、友達との会話へ意識を戻そうとした。

 しかし

「ところでさー・・・」

「はい? 何ですか、田中君」

「碇ってさ、山川のことどう思ってるんだ?」

「えっ!! な・何でですか?」

「いやー、なんであんな性格きっついやつと碇が仲いいのかなーと思ってさ。知ってるか? あいつ握力45キロ以上あるらしいぞ?」

 そんな会話が、また彼を囲んでいる集団から聞こえてきた。やっぱり、ああして困ってるほうがシンジらしいなぁと、思っいながらその会話を聞いていたユカリの頬杖をついていた手が、ピクリと動く。

「ゆ・ユカリちゃん?」

「なーに?」

「な、なんでもない・・・・」

 そんな自分に欠けられた言葉にユカリはかわいらしい笑顔で答えたつもりだったが、声を掛けた友達は顔を少し青くしながら彼女から視線を逸らした。

 そんな友人を気にする様子も無く、ユカリは再びシンジたちの方をちらりと見た。

 表情には微笑が浮かべられている。

「ちょっと、いいかしら?」

「う、うん」

 ユカリは友人にそう断って席を立った。そしてゆっくりと標的に近づいてゆく。

 しかしそれに気がつかず、彼らは話を続けていた。

「なんだかんだでさ、碇が一番仲いいの山川だしさ~。山川のほうもまんざらでもなさそうだしさ~」

「そ、そんな事ないと思いますよ?」

「えー、絶対にそうだってー、なぁ?」

「せやっ・・・、いや~~・・・そうでもないんちゃうかな・・・」

 そんな中、一人がその場の異変に気がついた。少し、シンジをいじめ気味にからかっていた田中は、そちらに気を向けた。

「ん?どうしたんだよ、声裏返ってんぞ?」

「田中、後ろ後ろ」

「あ?うしろって・・・・」

「た・の・し・そ・う・・・・・ね?」

 彼が振り向いたそこには、まぶしいほどの笑みを湛えているユカリ嬢がいた。

 もちろん、その場にいる全員が、その笑顔の意味をいやになるほど知っている。ユカリはちらりと、目の前に座っている田中に視線を落としていた。シンジはそれにつられるようにそちらを見ると、声が聞こえた瞬間に固まり、今は助けを求めるようにこちらを見ている彼と目が合った。

(助けてくれ!)

 そんな彼の声が聞こえてくるようだ。そこでシンジは、ちらりと視線を上に向け、ユカリの表情を盗み見た。彼女とは目が合わなかった。けれど彼女の表情を確認するや否や、さっと眼を逸らした。

 それによって、彼の処遇はほぼ決定した。

 そこに、ユカリから声が掛けられる。

「田中君?ちょっとお話があるの。(副音声:ちょっとそこまで面かせや)」

「ココジャダメデスカ?」

「いやん、ユカリこんなところでお話なんてできなーい。ねー? (副音声:ええからこいゆうてるやろコラ!!)」

 聞く者すべての体を弛緩させるような、それでいて縛り付けるようなその声は、田中君の中に残っていた最後の抵抗する力を奪い取った。

「・・・・」

「じゃあね。皆さんごきげんよう」

 ユカリは教室を出る時一度だけ振り向き、田中君はまるで見えない糸で操られるようにユカリに付き従い、みなが見守る中教室を後にした。

 シンジの隣にいた男子生徒は、何も言わず祈るように手を合わせた。

「碇。お前も手を合わせろ」

「・・・・はい」

「せめて祈ろう。やつの無事を」

「そうですね」




 二年二組が割り当てられている掃除場所は、教室以外に三つほどある。

 中庭、校舎西側の階段二階から三階にかけて、そして、当番制になっている朝昼夕方の飼育小屋の掃除、これには飼育小屋で飼われている動物の世話も仕事のうちに入っている。

 飼育小屋の外観は、大きめに作られたトタンの倉庫のようで、外から中の様子を見ることが出来る網で囲われた場所がある。裏側にあるドアから中に入ってみると、掃除道具などをしまってある部屋にでる。そこには荷物等をおいておくスペースなどもあり、中に入って掃除などを行う場合、そこに手荷物を置けるようになっている。そして次のドアを奥へと進むと、まるで小さい公園のようなつくりの飼育スペースに出る。天井は半分だけ網で覆われた吹き向けになっていて、飼っている動物が逃げられないようになっていた。

 中で飼われている動物は、亀が二匹、鳩が五羽、それからウサギが六羽。飼育小屋は、その動物たちそれぞれのエリア三つに分かれており、グループのメンバーはそれぞれ手分けしてそこを掃除、または餌をやるなどの世話を行う。

 飼育小屋は、校舎から離れたところに立てられており、掃除の際に行う作業も多く、作業時間もより多く掛かってしまうことから、その役目を押し付けあう生徒も多くいる。あえて決まった役員を決めず、クラス単位で生徒全員にその役目が回るようになっていたのは、『生徒全員に生き物と触れ合う機会を』との売り文句によるものだったが、残念ながら失敗に終わっていた。

 つまり、あまり人気のない場所だった。

 今月は二年二組の当番で、ローテーションが組まれている。

 その日は、碇シンジと山川ユカリが含まれるグループの番だった。
 
「じゃあ、さっさと終わらせましょう!」

 放課後の時間帯でやる気が極端に低下しているクラスメイトたち。そんな中でもユカリは、箒をたかく掲げ皆を促した。シンジもそれにならって自分の持ち場の掃除を始めた。

 シンジが割り当てられたのはウサギのエリアだった。そこでの掃除は、まず彼らを小屋の隅に設けられたスペースに追い込まなくてはならない。

「こっちにきてください・・・、あっ、そっちは違います。あああ・・・」

 ある程度人になれているとはいえ、右に左にと、気ままに動き回るウサギたちを追い込むのは容易な事ではない。そんなウサギたちを、シンジはまるで人に接するように話しかけながら追いかけている。

 箒で道をふせいでみたり、思い切って大きな声を出してみたり、あの手この手で何とか穏やかに彼らを追い込もうとした。その際、シンジはけっしてウサギには直接手で触れようとはしなかった。不意に、ウサギがシンジのほうへと移動しようものならシンジは飛び上がるように逃げた。当然、終始そんな調子なものだから、シンジの掃除は皆よりも遅れていた。

「碇くーん、私たち終わったけど?」

「あぁ! すみません。お疲れ様です」

「まだ終わらない?」

「あははは・・・、ごめんなさい僕のほうはもう少しかかっちゃいそうです」

「私たち、この後塾があるんだ。先に帰っちゃっていい?」

「はい、後は僕でやっておきます」

「じゃあねー、またあしたー」

「またあしたー」

 別のエリアを掃除していた彼女たちをシンジは朗らかと言っていいくらいの明るい表情で見送った。

 ふぅ、と息を吐く。

 シンジは、別のエリアで掃除していたクラスメイトたちをそうして見送ると、再び作業に戻った。やっと、すべてのウサギをスペースに追い込むことに成功した。これから本格的な掃除を開始しなくてはならない。

 ふと、先ほど追い込むことに成功したウサギたちが目に入った。茶色いものや、ブチのもの、毛の長いものや、耳が垂れているもの、小学校で飼うにしては豊富な種類が飼われている。そのなかの一匹がシンジの目をひいた。そいつは真っ白なウサギで、ほかのウサギよりも少し大きい。心なしかほかのウサギ達も慕うように周りを囲んでいるようにも見える。シンジは、箒につかまるように身をかがめると、そのウサギに視線を合わせた。

 そのウサギは真っ赤な目をしていた。大きく、瞬きをすることもなく。ほかのウサギがせわしなく周囲を見回しているのに対して、そのウサギはシンジから目を逸らすこともなくシンジをじっと見ていた。大きく、赤いその目からシンジが思い出せるものは、唯一つのはずだったが、シンジもそこから目を逸らすことは無かった。

 シンジは、右手をゆっくりとウサギたちへと伸ばした。白いウサギを囲んでいたウサギたちは一斉にその手から逃げたが、その白いウサギだけは微動だにしなかった。シンジは、その他のウサギたちが急に動いたことに驚き、一瞬手を引きかけたが、一匹だけ逃げないウサギを見ると、そちらへと再び手を伸ばした。

 ゆっくり、ゆっくりと、その距離は縮まっていった。

 そしてついに、その距離がゼロになろうとしたとき、シンジの指に熱湯を浴びせられたような痛みが走った。

「っ!!・・・・・・」

 ぱっと、その手を引くと、中指から出血していた。ウサギにかまれたのだ。シンジはその傷を、その血を、その赤を、まるで初めて目にしたかのように見つめると、視線をウサギ達へと戻した。

 いつまにか彼らは、皆シンジのほうへと頭を向けていた。視線をシンジに送っていた。


「・・・・・・そうか」


 シンジはつぶやく。


「そうか、君たちも・・・」


 誰もいない飼育小屋の中、ウサギたちを前にして一人、言葉を落とす。


「・・・・君たちも、そんな目で僕を見るの?」


 知らぬうちに、箒そ握る手に力を込めていた。見つめる視線も更に強いものになる。

「あっ・・・・・」

 そしてもう一言、言いかけたそのときに彼女がそこにたった。

「あれ? 碇?」

「・・・・・ユカリさん?」

「みんなもう帰っちゃったよ? まだかかりそう?」

「いいえ、後はもうごみを集めるだけです。」

 ウサギのエリアの扉を開けながらユカリはその中へと入ってきた。シンジは立ち上がりながらユカリを迎えた。

「また、月さんたちに手こずってたんでしょう?」

「あはは、その通りです」

 シンジは笑ってユカリに対応しながら、ユカリに気付かれない様に右手をユカリから隠した。

 月さんとは、先ほどの白いウサギの名前だ。本当の名前は月丸と言うが、命名した後でメスであることが判明した。そして彼女は、体も大きく、人にも大変なれているため、なぜか生徒たちからも人気があり、月さんという愛称で呼ばれていた。実質、彼女は飼育小屋のボスであり、ひそかに恐れられてもいる。一説によると、鳥を食べようと飼育小屋に進入した野良猫を、見事に撃退したとゆう。ユカリは、ウサギたちが隅に寄せられているのを確認すると、満足げにうなずいた。

「うん、何とか寄せてはあんのね。じゃあ、ちゃっちゃと終わらせるわよー。今日練習無いんでしょ?」

「はい。今日は黒田先生が、出張で学校にいらっしゃらないそうなので」

「ふーん、でもあんたカギもらってなかった? 私が付き添うけど?」

「ええ、そうなんですけど、今日は先輩方が教室を使うそうです」

「まあこの時期だから、仕方が無いか」

 二人は話しながら掃除を再開させた。せかせかと、少し急ぎながら二人は掃除を進めた。

「はい、ですから家に持って帰って練習しようとも思ったんですけど・・・・」

「それはダメ」

「何でですか?」

「ちょっとは休みなさい。黒田先生にも言われてたじゃない。」

 ユカリは、箒をいったん脇に置いてまで両手で大きな×印を作った。少々大げさな動作だった。その口調はユカリ自身気がつかぬうちに、咎める様な物になっていた。

「ほら、早く終わらせてかえろ! 暗くなっちゃうから」

「はい」

 ユカリは会話をそういって区切り、シンジに背を向けて箒を動かした。ユカリが加わったことで、ウサギ小屋のごみはあっという間に集まり、二人はそれを指定された場所へ捨て、ウサギたちの餌をおき、しっかりと戸締りを確認してから、帰路に着いた。

 そのころには、もうすっかり日が暮れ始めていた。




 この町では坂道が多い、と言うよりも日本に限らず、町は標高の高いところにある。

 セカンドインパクト後の大きな世界の変化の一つとして、海面の上昇、それに伴う海抜ゼロメートル付近、すべての水没が挙げられる。そのおかげで各国の主要都市は、標高の高いところにその中枢をすえており、日本ではその国土の狭さからか、ひしめき合うように役所、銀行、警察署に果ては郵便局までが高いところへと避難する形となった。もちろん学校という機関さえその類にはもれない。都市機能がそうして移動していくのにつれて、その他の生活機能、デパートや人々の住む場所まで、それに引っ張られていくように建設されている。

 山の向こうに夕日の沈むその光景を、遠く離れてところから見れば、水を恐れて、喘ぐ様に逃げる人の群れのようにも見えるかもしれない。

 そんなことは知る由も無い二人は、夕日を背に受けながら学校から続く坂道を下っていった。

「月さんたち、また肥ってたわねー。こう、何てゆうか恰幅が良くなってるってゆうか・・・」

「ふふふ、そうでしたね」

「看板も立てたのに、まだ勝手に餌やる人がいるのかしら」

「そうですね」

「みんな、餌だけはやりたがるんだから!」

 ユカリはぷつぷつと、不満をこぼしながら、シンジは、そんなユカリの感情の起伏に富んだ不満を聞くだけで楽しいのか、特に自分の意見を返すでもなく、ユカリの言葉に耳を傾けていた。最近はこうして一緒に帰ることは少なくなった。シンジもこちらの生活になれ、ユカリも部活が忙しくなっている。けれど二人の間に会話がなくなったわけではなかった。ユカリは、シンジが一人でいるときに声を掛けにいったし、シンジが自分から話しかけてくることも多くなった。基本的に話をするときは、ほとんどがユカリがしゃべり、シンジが聞き手に回るという一方的なものだったが、なぜか話題は途切れることなく、会話は進む。


          おしゃべり続けながらの帰り道は、今日も夕日に照らされていた。


 そんな帰り道、シンジはふと、後ろを振り返った。

 坂道をずいぶんと下りてきたその場所は、一戸建てや安アパートなどが立ち並ぶ、居住区ともいえる場所だった。今は、あまり人の姿は見られない。小学校の生徒たちは、ずいぶんと前に帰宅しているし、サラリーマンなどの労働者たちがこの道をにぎわせるのは、もう少し陽が傾いてからだ。坂道の上に立っている学校の校舎や、更に山の頂上付近に立ってるビルが、山の向こうへと沈みかけている夕日に照らされていた。ビルは、シンジたちのいる居住区の近くにまでその長い影を伸ばしていた。広い道路の一部や、すぐ横に目に入る脇道には、すでに夜の気配が漂っていた。

 昼なのに夜、夜なのに昼。逢魔が時とも言われるその境は短くて、普段ならあっという間に過ぎてしまう時間。だけどそれに気がついてしまった人には、なぜか長く、悠久の時とさえ感じられてしまう。そして、まさに魔に逢ってしまうときさえある、その不思議とも、不気味とも取れる雰囲気は、夜が来て、自身が消え去ってしまう時を静かに待ち、けれど確実にそこに息づいていることを感じさせた。

 その光景に、シンジは自分でも気がつかないうちに息を呑んでいた。それなのに、なぜか見入ってしまう。

「碇? どうしたのよ。早く帰んないとママに怒られるんだから」

「! えへへ、ごめんなさい」

 ユカリの声が耳に届くと、シンジはすぐにそちらに向き直り、照れたように笑った。

「急ぎましょうか」

 そうして、シンジは先ほどよりも足を速めて歩き出した。ユカリを引き離してしまいそうになるほど早く歩き出したシンジに、競争かと勝手に勘違いしたユカリが、シンジがそういった冗談をしてきたことが嬉しくて、なりふり構わず走り出し、逆にシンジを追い抜いてしまった。自分の横を、すごい勢いユカリが走り去るのを見て、シンジも慌てて走り出した。

 遠目から見るその光景は、酷く楽しげだった。


 けれど時折、シンジは後ろを振り返った。


 その瞳は、覗き込んだものを不安にさせるほど暗い何かに揺れていた。






 次の日、

 何事もも無くその日は過ぎ去り、今日割り当てられた教室の掃除も無事終えたシンジは、教室で教科書を鞄に詰めていた。

「碇、ちょっといい?」

「はい?」

 そこへ、少々慌てた様子のユカリが、シンジに駆け寄りながら声を掛けてきた。

「私ね、ちょっと今日は遅くなっちゃうの。だから今日は先に帰ってて」

「劇の練習ですか?」

「うん。発表、近いから」

「僕も、今日は音楽室に残ってますけど・・・・」

「ダメ」

 彼女は開いていた両手をすばやく交差させ、大きな×を作った。それは昨日の掃除のときよりも箒を持っていなかったせいか、より早く、シンジには口を挟む余地を与えなかった。

「私、六時くらいになるのよ? あんたの練習は、二時間までっていう約束でしょ。五時にはちゃんと帰んなさいよ」

「はい・・・」

 少しさびしげにシンジはうなずいた。

「ごめん、もう行かないと」

「あっ、頑張ってください」

「うん、アリガト!」

 ユカリはシンジにそう言い残すと、駆け出していった。




 傾き始めた日の光が差し込む音楽室には、シンジの演奏するチェロの音色が響いていた。

 その曲はもともとは歌謡曲だったが、シンジが音楽教師の黒田にチェロでの演奏は出来ないかとお願いした。幸いなことに、黒田には弦楽器を演奏した経験が豊富だったため、曲自体はすぐに出来上がった。若干のアレンジが加えられたその曲は、歌詞のないまま聞くとまるで違う曲を聴いているかのようだった。

 加えられたアレンジは、シンジの技量ではまだ扱いこなせないらしく、テンポの速い曲調に付いていけず、一つ二つ音を落とした。しかし演奏に没頭しているシンジは、そこで手を休めたりなどはしなかった。悪戦苦闘し、顔をしかめながらもシンジは弓を動かし続けた。

 時に激しく、時に優しく、強く弓を引いたかと思えば、次の瞬間には静寂が待っている

 そしてそれはやがて終わりを迎える。

「はい!そこまで」

 ぱん、と切れの良い一拍の拍手で演奏は終わった。

「ふぅ」

 シンジはそこでやっと弦から弓はなした。少々肩で息をしながらも、自分の演奏に納得いかなかったのか、その眉根が少し寄せられていた。そんな彼の様子を察してか黒田から声が掛けられた。

「碇君、だいぶ上達したわね」

「・・・・たくさん間違えちゃいました。」

「気にすること無いわ。この時期にこれだけ弾ければたいしたものよ?」

「すみません」

 黒田は、そういってシンジを励ましたが、シンジは顔を上げないまま楽譜に視線を落とした。その様子を半ばあきれように見つめ、一息つくと諦めたように続けた。

「じゃあ、今日はこれでおしまいにしましょうか」

 そういって、黒田は手に持っていた本を閉じ、席を立った。

「あっ、先生。僕、一人でもう少し残ってもいいですか?」

「・・・・構わないけど、約束の時間まで、後三十分よ?」

 黒田はその一言を予想していたのか、少々あきれ気味に腕時計を見ながらシンジに確認した。

「はい、解ってます」

「あまり詰めてやっても、良くないわ。この前みたいになるわよ?」

「けど! ・・・・・あと、もう少しだけ。お願いします」

 すこし語気を強めながら、ほとんど叱るように彼女シンジに諭そうとするが、けれどもシンジは一向に諦める様子を見せなかった。黒田は大きくため息を吐いた。

「・・・・仕方ないわね、それなら戸締りお願いね。五時にはちゃんと止めるのよ?」

「はい、さようなら」

 シンジは、片づけを終えて音楽室から出て行く黒田を椅子に座ったままの姿勢で見送ると、再び楽譜と眼を向け、弓を取った。




 もうすぐ時計の針が六時を射しかけたとき、練習を終えたユカリは下駄箱へと向かっていた。練習で疲れているためか、その足取りは重たげだったが、表情には疲労の色は無かった。しかし彼女が下駄箱についたときその表情は驚きに、そして次の瞬間には怒りを含んだものへと変化した。それは彼女よりも先に下駄箱で靴を履き替えていた人物が、この時間にこの場所にいるはずの無い人物だったからだ。

 彼女は一転して歩調を速めるとその人物に鋭く声を掛けた。

「アンタなにしてんのよ!!」

「あ、ユカリさん・・・」

 その声に驚いて慌てて振り返ったのは、紛れも無く碇シンジだった。きょとんとした表情の次に、気まずい表情を作り、彼女から視線を逸らした。それが更に癪に障ったのか、ユカリは更にシンジをきつく睨みつけ、声を荒げて問い詰めた。

「約束、破ったわね!」

「ち、違いますよ!」

「問答無用。明日、黒田先生に言いつけてやるんだから。」

「違います、ユカリさん。ちゃんと練習は五時でやめました。」

 一言では収まらず、ユカリはおおいにシンジを追い詰める言葉をたたきつけた。シンジはそれに慌てて弁明する。

「・・・・・・じゃあ、こんな時間まで何してたのよ」

 シンジの訴えかけに、ユカリは少しだけ、ほんの少しだけ態度を緩めた。そして更にシンジに問いただした。語気の強さは依然として強いままだったが、そこに込められた感情は決して怒りだけでなく、むしろ相手を気遣うあまりの悲しみとも取れるものだった。

「え・・・と、その・・・・」

「・・・・約束したわよね、碇君。『自主練習は、二時間まで、それ以上は、許さない』」

「・・・・・」

 ユカリの教師が生徒に対してしかりつけるような態度はシンジを言いよどませた。そして更にユカリがシンジに思い出させるように、一字一句区切りながらシンジに詰め寄った。

「・・・・・・・本当に、違うんです・・・」

「じゃあ、何してたか言いってみなさいよ!」
 
「・・・・・」

「・・・・ほら! 何も言えないじゃない」

 シンジがやっと搾り出した返事は、それでもただ否定の言葉だった。ユカリはもどかしさを隠さずに、更に問い詰めよるが、シンジはそれきり俯いたまま黙り込んでしまった。ユカリはそんなシンジを視界からはずすと、自分の下駄箱に向き直った。

「明日は覚悟しなさい。先生と一緒にお説教なんだから!」

 靴を履き替えたユカリはそのまま出口へと向かおうとしたが、シンジの気配がないことに気が付き振り返ってみると、彼はまだ下駄箱の前でうなだれていた。その姿はユカリから見るとなんとも言えない情けない姿で、まるで雨の中に捨てられた小型犬のようだ。その姿を見て、ユカリは諦めたように手を差し伸べた。

「なにしてんの?」

「え?」

 シンジは差し出された手と、ユカリの顔を交互に見つめた。ユカリは、先ほどとはうって変わって憮然とした表情で、シンジから視線を逸らしながら更に手を突き出した。

「一緒に、帰るんでしょ?」

「・・・・・・、はい」

 そして、その日も、ユカリとシンジは、いつもと変わらない夕陽に照らされた帰り道を歩いた。




 次の日の朝、ユカリは、なぜかいつもよりもかなり早く目が覚めた。もう一度寝なおそうかと思ったが、カーテンの隙間から見えた窓からちらりとのぞいた空が、寝てしまうのがもったいないと思えるほど晴れていたこと、もうすでに起きているだろうシンジをびっくりさせれば面白そうなことが、ユカリを惰眠をむさぼるには最適な布団から決別する決意をさせた。

「ふぁ・・・」

 布団を出たユカリは、眠い目を擦りながら着替え、一階へとおりっていった。

 今の時間なら、シンジはまだ玄関前の掃除だろう。

 驚かせる前に顔を洗おうと、居間の扉を通り過ぎて家の奥にある洗面所へと向かおうとしたところ、かすかに台所から何かが焼けた、いい匂いがした。ユカリはそちらが気になると、奥へと向かっていた足を止め、居間の扉を開けた。

 するとそこには、三人分の朝食が用意されたテーブルがあった。どうやらにおいの元は、ユカリが好きなベーコンの匂いだったらしい。一度、朝食の用意ならほとんど一人で出来るようになったシンジが、初めて整えた朝食のベーコンに、もっとカリカリに焼いたものがいいと文句を言った折、自分の好物だといったこと思い出した。辺りを見渡すと、ユカリの両親の姿は無かった。どうやらまだ起きてないらしい。しかし、これを用意したシンジがこの場にいないのはなぜだろうか。

「あ・・れ? 碇?」

 不思議に思い、見渡してみたが、彼は居間にはなかった。それどころか、ユカリが居間を出て探しにいった先の玄関にも彼の姿は無かった。

「何処、いったのかしら」

 見上げた時計は、七時を回ったばかりだった。

「掃除の当番?・・・・は一昨日だし、何しにこんなに早く?」

 首をかしげて、いまだ眠気が抜けきらない頭で考えた。とりあえず、冷めてしまう前にせっかくの朝食を済ませてしまおうと席に着き、コーヒーを一口含んだところでユカリは閃いた。

「まさか! あいつ・・・・」

 学校に行ったのかもしれない。

 カフェインで目の覚めたユカリの行動はすばやかった。トーストとベーコンをあっという間に平らげると、部屋に戻ってかばんをとり、両親の部屋のドアを思い切り叩き、返事を聞かぬまま階段を駆け下り、そのままの勢いで外へと飛び出した。

「現場を取り押さえて、今度こそこってり絞ってやるんだから!!」

 朝のひんやりとした空気を頬に受けながら、ユカリは学校への道を駆け出していった。




 学校に着いたユカリは、一度下駄箱の前で呼吸を整えると、まっすぐ音楽室を目指した。あいつはそこにいるはずだ。

 しかし、いざ音楽室にたどり着き、その扉に手をかけたとき、扉はビクともしなかった。

「あれ? いない・・・」

 扉に、耳を押し付けて中の様子を探ってみる。けれど何の音もしなかった。

(何処いったのかしら)

 教室に行ってみると、彼のランドセルはキチンと彼の机の横に立てかけられていた。

 ユカリはそこで、隣のクラスや、トイレ、そしてもう一度音楽室へと、シンジを探しに走った。しかし、彼は何処にもいなかった。誰もいない音楽室を前に、ユカリは仕方なく教室へと戻ろうとしたとき、一昨日の夕方の帰り道、シンジとの会話を思い出した。

 「あそこか!」

 身を翻らせると、ユカリは飼育小屋へと駆け出した。




 ユカリは校庭に出ると、ちょうど校庭をはさんで向かい側の隅に設置されている飼育小屋にむかった。遠めで見た限り飼育小屋の前に人影は見えない。シンジは中にいるようだ。ユカリは唯一飼育小屋の中から外の様子が伺える場所から隠れるように迂回しながら、飼育小屋の裏のドアへと向かった。

 飼育小屋の裏は、木々植えられていて、天気のいい日でもほとんど陽が射さない。そのためいつでもそこは湿り気があって気味が悪い。ユカリがそんな飼育小屋の裏にたどり着いてみると、木の陰に隠れてドアが半分開いていた。どうやらユカリの目論見どおり、シンジは中にいるようだ。

 ユカリは中に入ろうとドアノブに手をかけた。

 ぬるっ

 しかし、ドアノブに嫌なヌメリ気を感じ、何かとそれに眼をやった。そこには木の陰に隠れて日当たりの悪いところでもわかるくらいに濡れていた。ユカリがその匂いを何の気なしにかいでみると、ドアノブの鉄さびの酷い匂いがした。少しはしたないが、ユカリはそれを服の裾でぬぐうと、ふたたびドアに手をやり、今度はかまわず中に入った。

 しかし、ドアを開けた途端、その場に立ち止まった。

 「なに・・・これ・・・・」

 目に入った光景に驚いた。そこは薄暗く、中の様子ははっきりとはわからないが、掃除用具の入っていたロッカーがめちゃくちゃに壊されていて、中に入っていた箒はすべてが折られていた。かなり荒らされていることがわかった。無事なものは何も無い。

 驚きに足が止まり、いつの間にか震えていたユカリは、こんなところにシンジがいるのか、と思いもしたが、更に奥の、飼育スペースにつながる扉が、わずかに開いていることに気が付いた。

 ユカリは、震えるからだを押さえつけた。そして意を決すると、物音を立てないように、恐る恐る奥のドアへと近づいた。

 しかし、ユカリがある程度進んだ矢先、パキッと何かを折るような音がした。

「ひっ!」

 静かな用具室ではその音はやけに大きく響き、その乾いた音に心臓が跳ね上がり、ユカリは思わず声を上げてしまった。

 その場所の薄暗さから気が付かなかったが、散らばっていた箒の破片の一つを踏んでしまったようだ。身を硬くし、今すぐにこの場所から逃げ出そうとしたとき、中から声がした。

「だぁれ?」

 少し幼く、感情の起伏が感じられない声だったが、それはユカリのよく知る人物の声だった。

「シンジ?」

 ユカリはその声に、ほっとした。

 彼が中にいるということは、少なくともここを荒らした犯人がもうここにはいないことを意味していたからだ。するとすぐにあれほど取り乱した自分が恥ずかしくなってきた。カッと体が熱いことを感じさせるほど、いまだにユカリの心臓は鼓動を早めたまま、大きく脈打っていた。

「もう!! びっくりさせないでよ!!」

 そう大きな声を上げ、恥ずかしさをごまかし、自分の鼓動の大きさを、扉の向こうにいるシンジに気づかれないように隠した。

 ユカリは今度は物音を気にすることなく壊れたロッカーをよけながら奥へと進み、




          最後の扉を開けた。




「え?」


 ユカリは、それが何か解らなかった


 視界いっぱいに目に飛び込んできたのは、赤色。


 地面も壁も、その赤色に塗りたくられていた。


 何かいやな匂いが鼻についた。


 ユカリはその中を進んだ。


「なに・・・・・・これ・・・・・・」


 一歩進むたびに、先ほどまであんなに早く脈打っていた心臓が、だんだんと熱を失いながら、静まって行くのを感じた。


 それどころか、まるで冷水を頭から浴びせられたかのように手先の感覚がしびれ、震えが止まらない。


 何処までも同じ色しか見えないその世界に、別の色を探そうとしたとき、ユカリは彼を見つけた。


 彼は飼育小屋の真ん中にいた。


 校庭の見える場所から入ってくる光に照らされながら、


 地面に直接腰を下ろし、


 その手の中にあるものに視線を落としていた。


 表情は陰になっていて、よく見えない。


 「シンっ・・・」


 彼の名前を呼ぼうとしたとき、彼が手に持っているものが目に映った。


 彼の名前の最後の一文字をを呼ぼうとした空気は、掠れて言葉にならなかった。


 それはウサギだったもの、


 首が切り取られ、


 耳が引きちぎられ、


 足がすべてむしり取られていた。、


 それがウサギだと解ったのは、彼の前で元の位置に並べられていたからだ。


 元は白かったその毛皮は、


 周りの景色と同様に、色で汚れていた。


 ユカリは自分の手を見やった。


 そして、そこで初めて、自分の手についたものが、同じ赤だと気が付いた。


 立ち込めていた匂いは、酷く錆びた鉄の匂いで、


 辺りは、『赤』一色の世界を作っていた。


 「ユカリさん?」


 この場おいて、不自然な程に落ち着いたその声に、返事をすることは出来なかった。


 ただ、体がびくりと反応しただけ。


 心臓の鼓動さえ、もう脈打っているかどうかさえわからない。


「ぼく、わからないんです」


 そう、解らない。


「こんなとき、ぼくは、どんな顔をすればいいんでしょう?」


 ユカリは、こわばっていた体を、ゆっくりと動かして、彼を見た。


 シンジは、いつの間にかユカリを見上げていた。


 その表情に、感情の色を浮かべることも無く。


「ユカリさん?」


 そんな彼が、ユカリに手を伸ばそうとした。


 その手は、自分と同じように、


 『血』に濡れていた。


 それに気が付いた彼女は、


「イヤアアアアアアアア!!!!」


 己の魂をすべて吐き出すような悲鳴を上げた。






To Be Continude 【 Ⅱ 】



[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 Ⅱ 】
Name: haniwa
Date: 2006/11/14 22:26






そして

僕は逃げられない








見上げる空はどこまでも朱く


第十五話


Lost in the red
And
Given by the red


      【 Ⅱ 】






『ただいま入ってきたニュースです。大変痛ましい事件です。本日午前七時三十分ごろ、第二東京都、○×町、○山第二小学校で、飼育小屋の動物がバラバラになって殺害されているとゆう事件が発生しました。第一発見者は、その小学校のまだ二年生の児童二人で、飼育小屋の様子を見に来ていた際にその現場を発見したとのことです』

『酷い事件ですね』

『はい、特に発見したのがまだ二年生の児童であるということでしょうか』

『警察は、犯行の手口から、学校の関係者、特に卒業生、元職員の犯行と見て捜査を進めています』

『学校側は、犯人が特定できていない状況から、本日を休校とするとともに、今後集団下校を実施し、このような事件が起きないように体制をとること、今回の事件で傷ついた生徒たちの心のケアも行ってゆくとしています』

『早く犯人が捕まると良いですね』

『では、次のニュースです』







 走っていた。

 ちらりと見上げる太陽は高く

 けれど見渡す周りには誰もいない

 長い長い学校の廊下を

 息をちりぢりに切らせながら

 まるで飛んでいるような気分で

 走る理由はただ一つだけ

 探し物

 何かは思い出せない

 でも、その足を止めることは無い

 止まってはいけないような気がするから

 見つけられなくなる気がするから

 気が付くと、知らない場所だった

 そこは明るいけれど、何も無いところ

 不思議には思わない

 探していた何かが気になった

 それはなんだったんだろう。

 それは何処だったろう。

 それは誰だったんだろう

 『シンジは何処にいったんだろう』

 ふらふらと

 ゆらゆらと

 霞む先を目指す

 やがて気が付く

 彼はすぐそばにいたことに

 私は彼に振り返る

 どうしたの、早く帰ろう

 私はそう手を伸ばしたけれど

 彼がそれを握り返すことは無かった

 だって、シンジの手は、

 真っ赤に濡れていたから






「――――っ!!」

 ユカリは声にならない声を上げて眼を覚ました。

「っ! ・・・・・っはぁー、ひぁっ・・・、はぁー・・・・」

 ひどい息苦しさを感じて、思わず体を起こして肩で大きく呼吸した。胸元をつかみ必死に息苦しさと、気持ち悪さに耐えた。すると、服をつかんだ感触がおかしい。見てみると自分が、入院患者が着ているような薄い服を着ていることに気がついた。気がついてしまうとそれはとても着心地が悪かった。

(ここ・・・・、どこ?)

 徐々に鮮明になっていく意識の中、彼女は服から視線を動かすと、恐る恐る周りを見渡した。そこは明るく、見上げた天井の広さからとても広い部屋であることがわかるが、自分が寝ていたベットの回りが真っ白なカーテンでぐるりと囲まれ、小さな白い棚と、ベットに備え付けられている白い机以外、辺りを確認することは出来なかった。まるで世界がその色だけになってしまったかのように感じられた。

 それは、不思議な感覚だった。

 何時からここで寝ていたのか、何故こんなところに居るのか、何故こんなにも胸が苦しいのか。

 前後不覚になったように考えが定まらず、記憶を辿ろうとしても、そのすべてが辿る道を閉ざすように霞がかっている。

 その行き先の見えなくなりそうな不安から逃れるため、ユカリは辺りを見渡した。

 そうして眼を向けた先、白い棚の上に手提げ鞄が置かれていることに気がついた。ユカリはそれをすぐさま手に取った。何でもいい、今現在自分がこの場所に居る手がかりになる物がほしかった。ユカリは乱暴に中身を引きずり出した。

「なに・・・・これ・・・」

 引きずり出した瞬間、辺りに錆びたような鉄のひどい匂いが立ち込めた。

 しかし、彼女はそれを手に取ると、その異様さに目がそらせなくなった。

 広げられたものは彼女の服だった。それは黒いペンキを跳ねさせたように汚れ、皺ができていた。けれどもまるで水彩絵の具をしみこませたような汚れ方だった。そっと、その汚れをなぞった。それはいまだ乾ききっておらず、ユカリの指にいくらかの湿った感触を返した。手についたそれが気持ち悪くて、指を擦ると、指の上で拡がったそれは先ほどまでの黒などではなく、

 黒ずんだ赤い色をしていた。

 次の瞬間、それが何であったかが、自分の身になにが起こったのかを、打たれるような閃光とともにユカリの脳裏によみがえった。

 その赤い色も、この立ち込める匂いも、それが何であるかも。

 次の瞬間、服を思い切り投げつけた。

 けれど、消えない。

 手についた赤黒い『血』は、消えてくれなかった。

 今も脳裏の甦る、あの赤い世界は消えてくれなかった。

「アァ・・・・・」

 彼女は、自らの頭を締め付けるように抱え、唐突によみがえった情景が去ってくれることを祈った。

「ユカリ?! 目が覚めたの!」

 その白い世界を割って入るように、さっと目の前のカーテンが開かれ、公恵が飛び込んできた。彼女はユカリのベットのそばによると、震える彼女を抱きしめる。

「もう大丈夫、・・・・・大丈夫よ」

「ママ? ・・・・ママ!!」

 ユカリは母に抱きついた。そして、決して離すまいと更に強く、自分へと引き寄せる。そんな彼女に、何度も声を掛けながら、キミエはあやすように頭をなでた。胸に顔をうずめたユカリの頭を、包み込むようになでるその手はとても暖かく、ユカリの不安を拭い去っていく。

「怖かったわね。もう大丈夫よ」

「うぁ・・・、うぁあああああ・・」

 大声を上げるような勢いは無く、抱きしめられた安心感に包まれて、ユカリはそのまま母の腕で、ゆっくりと息を吐くように泣きだした。




 締め切られていたカーテンはすでに開けられ、そこでようやくユカリは自分が学校からそうはなれていない病院に居ることがわかった。ユカリが母に聞くと、自分はあの飼育小屋で悲鳴を聞きつけた事務員に見つかったときすでにその場で倒れており、その姿が血まみれだったことから大怪我をしていると勘違いした事務員が慌てて救急車を呼んで現在に至ることがわかった。

 改めて広げられた服を見て、そう思われても仕方がないと誰もが思うほど、その服はユカリが倒れて時についてしまった血で汚れていた。そして先ほどまでと違い、今度はじっとそれを見つめているユカリにキミエは言葉をかけた。

「落ち着いたみたいね」

「うん、もう大丈夫」

 それが、精一杯の強がりである事はユカリの服を握る手が震えていることですぐ分かった。しかし、キミエはそれ以上ユカリに声を掛けようとしなかった。

 強い子だと、キミエは我が子のその姿を眺めていた。思い切り母親に不安をぶつけた後、ユカリは自分で立ち上がろうとしていた。

 脳裏に焼きついた恐怖は、今だ消えてはいない。しかし先ほどとは違い、その瞳にはすでにその恐怖を克服しようとする強い意思が宿り始めていた。

「今日は、学校はお休みになるそうだから、これに着替えたら家に帰りましょう」

「うん」

 彼女から汚れた服を取り上げて、着替えの服を手渡した。ユカリは素直に従った。それを確認するとキミエは病室から出ようとした。病室の扉へと手が掛かったときにその背中をユカリが慌てた様子で呼び止めた。

「ママ!」

「なぁに」

「シンジ・・・碇は何処にいったの?」

「! ・・・・・・」

「ママ?」

 カーテンが開かれ、ユカリが改めて見渡したその部屋にシンジの姿はなかった。その部屋には、ユカリが寝ていた物をあわせてベットが六つあり、けれどもユカリが寝ていたもの以外の五つには誰もいない。ベットの上には綺麗にたためれたシーツしかなく、誰かが使っていた形跡さえない。

 故に、何も触れずに部屋を出ようとした母に、ユカリは気まずそうに、そして聞かずにはいられない質問をした。

 しかしキミエは、その質問にすぐに答えなかった。病室の出口で足を止め、振り返ることさえなかった。やがて、一時の静寂の後、キミエは振り返らぬまま、先ほどまでと比べわずかに熱を失った声でユカリに告げた。

「・・・・シンジ君は、警察のところにいるわ」

「な! なんで!」

 それは、ユカリにとってあまりにも意外なことだった。その驚きは、あの場に居ただけでもどれほどの衝撃があったか自分自身が体感して知っていて、その結果として今時分がこの場にいること、そして警察にシンジが連れて行かれたことで、ユカリの中で一つの可能性が生まれていた為だった。

「ユカリ、あなたが気にすることじゃないの」

「どうして・・・・」

 ユカリは、一度母から視線を逸らした。再び自分の手を見つめるた。そこには今だ服からついた血に汚れた自分の手があった。彼と同じように。

「シンジは、・・・シンジはあそこにいたのよ!」

「そう、シンジ君が一番最初に『あそこ』にいたからよ」

「でも・・・でもなんで碇が警察なんかに・・・」

「仕方が・・・無いでしょう?」

「でも碇は!!」

「いい加減にしなさい!!」

「!!」

 静かにユカリの詰問に答えていたキミエが、とうとう大きな声を上げた。

「・・・・この話は、もうお終い。解ったわね」

「・・・・」

 そういって彼女は、ユカリの居る病室から出て行った。最後まで振り返らぬまま。ユカリは一人、納得の行かぬままの心を押さえつけるように、しばらくの間その手を強く握り締め続けた。






『えー、今朝の○山小学校での事件について続報が入っています。現場の山崎さん?』

『はい、現場の山崎です』

『そちらの詳しい状況を教えてください』

『はい。こちらが、事件のあった飼育小屋になっています。今は鑑識も終わり現場の清掃も終わっていますが、今だ現場にはこのような血の後が、生々しく残っています。事件発見当初、二人の児童はこの中で、飼育されていたウサギなどの動物たちがバラバラにされているところを発見したという事です』

『その二人の児童というのは?』

『はい、男子女子の二人の児童はすぐに現場で保護され、女子児童は現場で気を失っていたということで、すぐさま病院へと搬送されました。男子児童は、少々心神喪失状態だったとのことですが、意識もはっきりとしていて、駆けつけた警察官の質問にしっかりと答えていたそうです』

『犯人については、何か分かった事は在りますか?』

『現場検証の結果から、犯行は昨日の夕方から深夜、または明朝の間ということが分かっています。飼育小屋の中はひどく荒さ荒れており、またその手口の残忍さから、学校、またはその関係者に対してひどい恨みを持っている者の犯行ではないかと警察関係者は捜査を進めているようです』

『分かりました。以上、現場から山崎でした』






 時間は少し遡る。

 そこは警察署の中にある広い部屋の一つだった。頂点に達し、傾き始めた陽の差し込むその部屋は、本来ならばある程度の人数がまとまって会議を開くために使われる場所だ。実際先ほどまでは大勢の人が居たと考えられる痕跡が多々あった。そこらかしこに資料の山が築かれており、更には飲み物や弁当の空き箱など、活気のあった様子を窺い知ることができるが、人気のなくなったその場所はただ雑多な印象を与えるにとどまっていた。

 シンジはその部屋に一人で居た。

 テーブルが配置され資料の山もうず高く積まれている場所からは少し離れ、敷居で区切られたその場所は、ソファと、そこに座った大人の膝の高さも無いテーブルがおかれた接客する場に使われるようなスペースだった。彼は周りから隠れるようにそこに座っていた。彼の周りだけ少し、物が無かった。そこだけ整理されているというわけではなく、周りと同様に雑然と置かれていた物を無理やりに寄せてスペースを作っているだけ。彼を中心に綺麗にされているその様子は、まるで周りの雰囲気が彼を避けているようにも見えた。

 シンジはそんな中、行儀よく背筋を伸ばしてソファに腰掛けていた。彼のすぐ正面の角に設置され点けっぱなしになっているテレビに目を向けたり、きょろきょろと辺りを見渡したりなどはしない。与えられたその空間でじっとしていた。彼の目の前には飲み物の入ったコップと、いくらかのお菓子を載せたお皿が置かれていた。それにさえ手をつけた様子は無かった。

視線を、ただ一点に固定し、微動だにもせず。

 やがてそこへ、一人の警察官がその手に資料らしきものを抱えて、少し慌てた様子で入ってきた。制服を着込み、帽子をしっかりとかぶっているが、走り回っていたのだろうか、雰囲気全体はくたびれた印象を与えていた。

 彼は部屋の中を見渡して、シンジが、一時間前彼が部屋を出たときと変わらぬ姿、変わらぬ位置に居ることに安堵し、少し驚いていた。そんな彼にシンジは気がついているはずなのに、そちらに意識を向けているような仕草は、一切見せなかった。

 小さく、硬く、

 その態度を崩さないシンジに、彼はゆっくりと近づいた。

「そろそろ、いいかい?」

「はい」

 正面に立ち声を掛ける警官に、シンジは顔を向けることなく、俯いたまま返事を返した。警官はその様子を、まだショックが抜けきらない子供の反応と割り切ってシンジの向かいに腰掛け、手に持っていた資料らしきものを傍らに開きながら話を始めた。

「じゃあもう一度、お兄さんに今朝のこと話してくれるかな?」

「・・・・・」

「シンジ君?」

「先程、お話した通りです」

「・・・・・君は学校に用事があって、今日はいつもより早くに家を出た。そしてその用事は予定よりも早く済ませてしまったので、ウサギを見に行きたくて飼育小屋へ行った」

「はい」

 休憩前に、シンジが話した内容を確認するように警官は資料に目を通しながら確認した。そこには乱雑に書き込まれたメモや、様々な写真が挟まれていた。

「そこまでで、何か変わった事は無かったかな?」

「いいえ」

 会話が途切れる。

 シンジはここに着てからこれまで、聞く者尋ねてくる者に対してこの簡潔な態度を崩さない。一言一言を完結に、短く、無駄な言葉は一切無い。こちらが質問を続けなければ、すぐにその口を閉ざしてしまう。気持ちが落ち着かないせいだろうと、休憩を取ったものの、その効果は薄いようだ。

 喚いたり、泣かれたり、必要以上にこちらに頼られても困るが、これは一体どうしたものか。

 彼はため息を着きながら資料を開く手を止め、一度シンジに向き直った。そして静かに言葉を続けた。

「・・・・君に、辛いことを聞いている事は解ってるんだ」

「・・・・」

「でも、これも君たちの動物たちを、あんな目に遭わせた奴を捕まえるためなんだ」

「はい」

「どんな些細なことでも良いんだ。何か気になった事とかは無い?」

「いいえ」

「・・・そうか」

 卑怯な言い方だとは思った。自分は結局この子心を開くことができないまま、大義名分を掲げて、歩み寄るようなそぶりを見せて、再びこの心を傷つけようとしている。そのことをしっかりと自覚した上で、彼は身をかがめて視線を低くし、シンジに語りかけ続けた。

 しかしそれすらも見破られていたんじゃないかと思ってしまうほど、この子の態度は変わらなかった。自己嫌悪にすら駆られつつ、取っ掛かりをつかもうとした自分のたくらみはあっけなく通用しなかった。

 もういい。

「じゃあもう一つ」

 彼は、一息ため息を吐くと資料を閉じた。彼は、彼の仕事を忘れる事にした。かぶっていた帽子を取り、ネクタイを緩めた。くたびれた印象は、更に深まったが、着込んだ制服が形作っていた堅い雰囲気も、ともに崩れた。

「えーと、その」

「・・・」

 いざ、自分自身で彼に向き直りはしたものの、すぐに言葉は出なかった。警官としてではなく、こうして被害者とも言えるこの少年にどう向き合えばいいか分からなかった。彼は口ごもり、しかしやがて意を決したように口を開いた。
 
「君の、・・・・その、用事ってのはなんだったんだい?」

「チェロ、・・・・楽器の練習です。」

「そうか、きっと上手なんだろうね?」

「質問の意味がわかりません」

「い、いや、たいしたことじゃないんだ。ちょっと気になってね。」

 それにもシンジは、逡巡も無く即答した。その簡潔さは問いかけた警官が逆に言葉に困るほどの迷いの無さ、起伏の無さだった。付け焼刃ではどうにもならない、高い壁がその警察官とシンジとの相田に確固として存在しているかのようだった。

 そしてまた、二人の間には沈黙が訪れた。

 警官はもう、白旗を振るしかなかった。

「・・・じゃあ、今日はこれで終わりにしよう。君も疲れただろう」

「・・・はい」

「また、君に話を聞きにいくかもしれないけれど、何か思い出したことがあったら、いつでもここに知らせに来てくれ」

「はい」

 警官は諦めたように三度目のため息を吐いて席を立った。シンジは警官の言葉を聞くと、すぐに出口へと向かって行った。立ち上がったその姿は、ところどころ黒く汚れている。しかしシンジはそんなことを気に留めるそぶりすら見せず、振り返ることなく警官が入ってきた扉を開き出て行った。

 結局、シンジが警官の顔を見る事は、シンジが警察署に来てから一度も無かった。

 シンジが部屋から出て行く様子を無言で見つめることしかできなかった警官は最後にそっと思った

(気味の・・・悪い子だったな)






 シンジが警官といた部屋から出てすぐ、警察署の受付の先にある様々な部署の部屋に続く廊下の先に、叔父が待っていた。シンジがその存在に気づき顔を上げると、その表情は険しいものだった。彼はシンジに気がつくと、まっすぐ彼に近づいて、表情の険しさもそのままにシンジに声を掛けた。

「・・・もう、終わったのか」

「はい、先生」

 その叔父に視線を合わせていても、シンジは視線を逸らすことなく、先ほどまで同じように簡潔を持って答えた。叔父は一瞬その様子に息を飲んだ。以前のシンジなら、言い淀み他人からはすぐに視線を逸らしてしまっていた様子は微塵も無い。かといってそこに強さは感じられない。

 その眼は、覗き込んだ叔父が一瞬奈落のそこを垣間見た心地にさせるほど、何も映していなかった。

「・・・・・それに着替えてきなさい。私は車を出してくる」

「・・・」

 先に視線を逸らしたのは叔父だった。彼はシンジに着替えを投げ渡すと、さっさと建物の出口へとシンジを残して出て行った。

 そして、誰も通る人の無い廊下でシンジはまた一人、その場に立ち尽くした。






 彼女がシンジに声を掛けてきたのは、シンジが再び先ほどの部屋に戻って着替えをしようと足を向けたときだった。

「ちょっと、いいかしら?」

「・・・?」

 彼女は足を止めたシンジの正面に回りこみ、彼の前に立った。足元しか見ていないシンジには、その赤いハイヒールしか見えていない。

「あっ! 私はね、新聞記者やってて、ちょっと君に聴きたいことがあるんだけど、いい?」

「・・・」

「君が今朝の第一発見者、でいいのよね?」

「・・・・・違います」

 彼女は、シンジの反応を待たずぺらぺらと勝手にしゃべり、またシンジも彼女を相手にせず、すぐさまその場を離れようとした。

 しかし彼女から伸びた手が、シンジの腕を捕まえた。シンジは思わず自分をつかんでいるその手を見た。赤いマニキュアを施した爪がシンジの腕に食い込んでいた。

「・・・・はなし・・て」

 その声は先程までと違い、消え入るような声だった。彼女の手は人としての熱はあったが、シンジの腕からは彼女がつかんでいるその場所から熱が奪われるかのように冷えていった。

「どうして嘘を吐くのかしら? 君が最初に飼育小屋にいたって、学校の先生は言ってるんだけどなぁ」

 遠慮なく、シンジの腕を掴むその手の主は、その場を離れようとしていたシンジを無理やりにその場に引き止め、シンジの嘘を咎めることなく、むしろ楽しんでいるかのように笑い声さえ滲ませてシンジに言葉を浴びせた。

「・・・何を、聞きたいんですか?」

「今朝のこと、詳しくおねぇさんに教えてもらえない?」

「・・・・・・」

「君が学校に来たとき、誰か見なかった? もしくは、何か気づいたこととか。例えばほら、変なオジサンがうろついてたとか、いつもとは違って変な車が止まってたとか」

「・・・・・全部、警察の人にお話しました」

「ああいう人たちって、お姉さん達にはなーんにも教えてくれないのよ~。だから、ね? お話聞かせてくれないかしら?」

「・・・・・・・」

「あらら、だんまり? ご機嫌斜めかしら?」

 彼女はシンジの腕をつかんだまま、シンジの顔を覗き込もうとした。濃い化粧の匂いが鼻につき、シンジは更に顔を彼女から背けた。彼女は、シンジの反応を観察しながら、楽しそうに明るく言葉をかけ続ける。その声は終始明るく、幼い子供に話しかける話し方そのものだったが、

 だからこそ

 シンジは彼女から一刻も早く離れようとした。この手の人種が、どんな言葉を使って自分を裏切るか、シンジは恐らく彼と同年代の誰よりもわかっていた。彼女の手に恐る恐る手を伸ばし、自分の腕から離そうとするが、その赤い爪はますますシンジの服に食い込んみそれを阻んだ。

「しょうがないなぁ~。じゃあ話を変えましょうか」

「・・・・・・・」

 シンジは彼女が続ける言葉にも沈黙を守った。しかし彼女は、そんなシンジの様子をますます楽しげに、まるで歌うように言葉を続けた。

 そう

 彼女は、シンジの想像を超えるほどの残酷さを持ち合わせていた。




「お父さんはお元気かしら、『碇』、シンジ君?」




「!!」

変わらぬ調子で浴びせられたその声に、払いのけようと動いていた腕が止まり、シンジはそこで初めて自分の腕を掴んでいる彼女を見た。その瞳は、信じられないものを見るように見開かれている。

 掛けられた言葉の意味は、誰よりもよく分かっていた。

「あっ、やっとおねぇさんの方を向いてくれたわね。『碇』君」

 シンジが見上げたその顔は、綺麗な女性だった。二十代後半だろうか、シンジを見下ろしているせいでその長い髪は豊かにゆれ、その奥にある厚めの化粧をした顔に、真っ赤な口紅を差した唇をゆがめて笑っていた。

「どうして・・・・」

「あら、さっき教えてあげたでしょう? 私は新・聞・記者。当然、君のお父さんの『事件』も知ってるわ」

 彼女はますますその笑みを強くし、切れ長の眼を細めた。

「離して・・・ください」

 シンジのその声はすでに震え始めていた。彼女はシンジのその様子に満足したようにもう一度笑みを浮かべると、ゆっくりと手を離した。そして身をかがめて再び俯いてしまったシンジの顔を覗き込んだ。その身につけた香水の香りがシンジにも移りそうになるくらいの距離までその顔を近づけて、わずかに真剣さを増した口調で彼に向き直った。

「どうして、あなたがこんなところに? 碇ゲンドウは、あなたのお父さんは、まだゲルヒンで『あの』研究を続けてるって聞いてるんだけど?」

「・・・僕は、」

「お父さんとは、離れて暮らしてるの?」

「・・・・・」

「ずいぶんと叩かれていたものね、あなたのお父さん。公式の場に出てこないって思ったら、案外こんなところに隠れてたのかしら?」

「僕は、・・・何も知りません」

「・・・本当に?」

「何も知りません」

 除きこむ彼女の視線から逃げるように、顔だけを背けた。もう腕は掴まれていないのに、シンジの体はその場から動くことができなかった。すると彼女は、肩にかけていた鞄から何かを取り出して彼の前に広げた。

「・・・・わたしね、ずっとあなたのお父さんの事件について調べてるの。ほら・・・」

 彼女がシンジの視界に割り込ませて見せたものは、少しくたびれた古い新聞の切抜きだった。そのところどころに赤い線で言葉をポイントしてあった。




 【非人道的な計画】




  【人体実験】




 【事故死を装った殺人】




  【妻殺し】




 志向性のない悪意を伴ったそれらの言葉が、シンジの目に飛び込んできた。それらはかつて、シンジが耳にしてきた言葉だった。

 シンジはすぐに視線を逸らした。

「・・・・シンジ君」

「・・・・」

 それをシンジの前に出した女性は、まるで自分がしたことを忘れたかのように、その切抜きを傍らに片付けると、シンジの両肩に優しく手を置いた。そしてゆっくりと、彼の耳元でささやいた。

「私はね、何もあなたのお父さんが犯人だと決め付けて、こうして調べてるわけじゃないのよ?」

「・・・?」

「キチンと、真実を突き止めたいの。それには、あなたの協力が必要なのよ」

「・・・・・・」

「あなたが話を聞かせてくれれば、もしかしたらお父さんが無実だと証明できるかもしれないわ」

 そのささやきは、いまやシンジを甘く包み込みかけていた。その言葉は、シンジがいつでも伸ばしてほしいと思っていた手に似ていたから。そして、シンジはゆっくりと彼女を上目遣いに見上げた。

「こうして会えて、とっても嬉しいわ」

 彼女は、そんなシンジの様子に満足したかのように微笑んでいた。

「それにしても、君がこうして事件に巻き込まれてなかったら、私も第二くんだりまで来てなかったわ。不謹慎だけど、犯人に感謝かしら?」

 血液が、心臓から直接体から抜けていくような感覚が、彼を襲った。

 彼は気がついてしまった。今も自分をにこやかに彼女の真意に。

 その細められた瞳の奥に映る冷たさに、

 シンジは気がついた。

「・・・僕に、触るな・・・」

「え?」

 今までとは違い、一切のためらいをなくした意思をもって、シンジは今だ自分の方にかかっていた彼女の手を払いのけた。

「どうかされましたか?」

「あ、いいえお構いなく・・・、あっ!! ちょっと!!」

 そこへ、一人の警官が揉め事かと思いシンジたちに声を掛けた。女性はすぐさまそちらを向き、シンジに向けたものより幾分か華やかさを増した笑顔でその警官に対応した。

 シンジは、彼女の自分への意識がわずかでもそれたその直後、廊下を出口へと向かって走り出した。

声を掛けてきた警官を追い払い、廊下を走り去ってゆくシンジが建物の出口へと差し掛かってゆく様子を見ていた。そしてふっと息を吐くと、彼女もゆっくりとその後を追った。

「逃げられちゃったか・・・」

 その歩調はゆっくりで、すでに建物から出て行ったシンジに追いつこうとしているものではなかった。彼女はなにやら思案させると、その長い髪をめんどくさそうにかきあげると、再びシンジに向けたような笑顔を浮かべた。

「まっ、いっか、まだまだこれからだもの」






「もう、逃さないわ」

 再び細められたその瞳は、もうここから走り去ったしまったシンジの後姿を、確実に捉えていた。






To Be Continude 【 Ⅲ 】



[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 Ⅲ 】
Name: haniwa
Date: 2006/11/22 10:01






嗚呼、

迫り来るそれに

僕は何が出来るだろう








見上げる空はどこまでも朱く


第十五話


Lost in the red
And
Given by the red


      【 Ⅲ 】(改訂稿)







「ただいまー」

 ユカリがそう言って玄関を開けると、すぐに居間から慌てた様子で出てきた彼女の父親が出迎えた。そして玄関に立つユカリを見てほっとため息を吐くと、すぐに母親に視線を向ける。

「お帰り、もう大丈夫なのか?」

「はい、ただ明日は学校を休んで様子を見たほうがいいって病院の先生は・・・・」

「もう! 大丈夫だったら!」

 ユカリは隣に立つ母の言葉に不満の声を上げる。しかし、その言葉には普段の彼女の勢いは無く、どこか弱弱しさを感じさせた。

「でもあなた、自分がどれだけ寝てたかも分かってなかったじゃない」

 そんなユカリを、母親はやんわりと窘めた。

「だからー、もう大丈夫だってば・・・」

「ははっ。まぁ、心配してたより元気そうで安心したよ」

「・・・うん」

 窘められたユカリはまた声を上げるが、父親はユカリの頭を撫でながらなだめた。

「・・・あの、パパ?・・・」

 ユカリはそんな優しく自分の無事を喜ぶ父親を見上げると、彼女にしては本当に珍しく、気まずそうに隣に立つ母をちらりと見上げた後、父親に視線を戻し、何かを言いかけて口ごもった。 

「うん? どうしたんだい?」

 その様子に気づいた父親は、その場にしゃがみ、その動きに合わせて俯いてしまった彼女の顔を覗き込み視線を合わせた。優しく促された彼女は、それでもなお躊躇いながら父の眼を見て口を開いた。

「その、・・・碇は?」

「ユカリ!」

「! でも!!」

 彼女のその言葉に、母親は先ほどまでと違い、若干のとげを含ませた声を上げて彼女をたしなめようと声を上げた。その声の大きさにおびえたユカリは、ピクリとその肩を震わせが、それでも引かない態度を見せる彼女に母親は言い聞かせようとしたが、ユカリの目の前にいた父親が視線を動かさず片手を向けてそれを制した。そして再び俯いてしまったユカリの顔をそっと両手で包み顔を上げさせ、彼女に告げた。

「シンジ君は、今学校だよ」

「・・・帰ってきてないの?」

「ああ、そうじゃなくてね。鞄を学校においてきたんだそうだ。少し前に出て行ったから。遅くなっても夕飯までには帰ってくるように言っておいたから。なに、すぐに帰ってくるよ」

「そうなんだ・・・」

 父親のその言葉に安心したのか、ユカリは不安に強張らせていた肩をゆっくりおろした。

「碇、元気?」

「ああ、シンジ君は今のユカリよりも元気だったよ。だからユカリが気にすることなんて無い」

 ユカリは父親の言葉をほっとしたように、けれどもどこか残念そうにため息を吐きながら聴いた。その後ろに立つ彼女の母親は、険しい顔つきでそれを見ていた。

「ほら、もう今日は部屋で休んでいなさい」

「そうよ、ユカリ。ご飯になったら呼んであげるから」

「・・・分かった」

 若干、納得の行かない空気をまとわせながらも、父親にその背中をやさしく押されて、ユカリは素直に自分の部屋に向かった。

 それを、見送った彼女の父親は、母親同様わずかに険を含んだ眼差しで彼女の後姿を見送った。そして傍らに立っていた母親に視線を送ると、その思考にまとわりつく感情を頭から追い出すように軽く振りながら、二人は家の奥へと入って行った。

 陽はまだ高く、空が夕陽に染まるにはまだ幾分時間があった。





ピンポーン

 それは突然の休校で、暇な時間をテレビゲームでつぶしていた、一人の少年の家でのことだった。

 彼が一週間前から進めていたそのゲームは、ようやく終盤までシナリオが進んでおり、ゲーム内での盛り上がりも最高潮となっている。それは学校で起こった嫌な事を彼の意識の外へ追いやるにはちょうどいいものだった。半ばやけくそになっていたかもしれない。

 来訪を告げるそのベルの音は、そうして集中力が散漫になっていた彼の耳にも届いた。そして彼は嫌な予感を覚える

「あら? お客様かしら。ユウくーん! ちょっと出てくれないかしら!」

「えー」

 台所で手の離せない作業に取り掛かっていた彼の母親は、ベルが告げる来訪者の対応を、彼に頼もうとしたが、当然彼も不満の声を上げた。

「もう! ゲームばっかりして! 学校がお休みになったんだったら、ちょっとはお母さんのこと手伝って頂戴」

「突然休みになったからこそだよー」

 台所で母親を脳裏に浮かべながら、彼は気の無い返事をその声に返し、コントローラーを操る手を休めなかった。

「・・・コンセント、抜いちゃうわよ?」

「わー!! 分かった、分かったから」

 母親の脅しに、少年はようやく慌てた様子でコントローラーを放り投げた。

ピンポーンピンポーン

「ほら、さっさと行ってきて。新聞の勧誘だったら、今お母さんいませんって言いなさいね」

「はーい」

 母親がゲーム機に触れないか気にしつつ、彼はいまだ呼び鈴の響く玄関へと向かい、のぞき窓も見ず彼は玄関を開けた。

「どちらさまですかー」

「こんにちは」

 その先に立っていたのは、黒いスーツを着た女性だった。勢いよく玄関を開けた彼は、逆に彼女に迎えられる形になった。月末になれば必ずやって来るしつこい新聞勧誘のオジサンだと考えていた彼は、スーツを着たその女性の穏やかな微笑みに面食らってしまった。

「こ、こんにちは・・・」

 軽い混乱の中にあった彼は、いつもの決まり文句を彼女に対してそのまま使ってしまった。

「あの・・・お母さん、今でかけてて・・・」

「あはは! 新聞の勧誘とかじゃないから安心して?」

「・・・うん」

 当然それは見抜かれて、彼女は『楽しげ』に笑った。

「それに、本当に用事があるのはあなたなの」

「え!」

 その一言に、彼は言い知れぬ不安を感じた。けれども、目の前の女性は微笑を崩さない。

「大丈夫、たいしたことじゃないから」

「?」

 彼には目の前に立つ女性の意図が掴めずにいた。それにかまわず、彼女は言葉を続けた。




「碇シンジ君、知ってる?」

 彼女のその印象的な赤い唇が醜く歪んだように彼には見えた。






 それはどこかの打ち捨てられた建物の一室。

 裸電球だけで照らされた薄暗い部屋の中に、二人の男がいた。
 二人は小さなテーブルに向かい合わせに腰掛ていた。机の上には吸殻が山のように押し付けられている灰皿と、何かのプログラムを処理しているノートパソコンが置かれているだけだった。
 男のうち、パソコンの画面に視線を注いでいる男は、部屋が薄暗いのにもかかわらずサングラスをかけており、椅子には背もたれに体重を預ける事も無く、背筋をまっすぐ伸ばして座っていた。
 もう一人はその口にタバコをくわえ、しなだれかかる様に背もたれに寄りかかっていた。しかし、その腕は胸のところで組まれ、瞑想しているかのようにその瞳は閉じられていた。
 容姿の違いとしてあげられる特徴は、彼らにそれ以上のものをあげる事は難しく、二人とも黒いスーツにその身を包んでいた。
 やがて、そのノートパソコンから何かを知らせるアラームが短く鳴り、それがすぐに止むと再びその部屋には沈黙が訪れた。タバコくわえていた男がその音に目を開き、タバコがずいぶんと短くなっていることを目にすると、灰皿にそれを押し付けた。そして新しくタバコを取り出しながら目の前に座っているサングラスの男に口を開いた。

「奴さんは見つかったんかよ?」

「あぁ、やはり彼に接触を計っていたようだ」

 タバコの男は砕けた話し方で、サングラスの男はそれに対して気にする風もなく答えた。

「ふん。やり方のエゲツナイコトだな」

 タバコの男はふざけるように言葉の一部を強調して話し、その喉を可笑しそうにクツクツと震わせた。サングラスの男はそれを見て小さく鼻を鳴らすと、サングラスの位置を直した。

「それは、私たちもだろう?」

「いえてるな」

「やれやれ、人類を守るための立派なお仕事がこれか?」

「愚痴るなよ。ただでさえ気が滅入ってるんだ。これ以上、やる気を削いでどうすんだ」

「それにしてもだな・・・」

「もっと気楽にやれよ。どこ行ったって、俺たちみたいな腐れ仕事を片付ける手合いってのは必要なのさ」

「しかし・・・月並みな台詞かもしれんが、お前はこんなやり方に誇りをもてるのか?」

「これも月並みなセリフだがよ、セ・イ・ギ・カ・ンなんてご大層なものはそこらへんの腹空かしてる犬にでも食わせろよ。腹壊しても俺は知らんが?」

 それを言うと、タバコの男はまた喉の震わせ、タバコを深く吸い込むと、天井に向かって紫煙を吐き出した。サングラスの男は自分の相方のそうした態度が気に障ったかのように眉をしかめるが、結局は何も言わずにディスプレイに視線を戻した。そしてさらに眉を寄せる結果になった。

「・・・まずいな」

「なーにが」

 相棒のその言葉に視線を天井に固定したまま、タバコの男は言葉をかける。サングラスの男はなにやらキーボードを操作しながらディスプレイに現れた変化を知らせた。

「ターゲットが彼のほうに移動している」

「あー? 気づかれたんじゃねーの?」

「いやそれは・・・」

「お喋りはそこまでにしろ」

 そこへ、もう一人の男が薄暗い部屋のさらに奥から現れた。その顔は電球の光の届かない暗闇の位置にありどのような人物かは見る事はできない。聞こえてきた声の深さから、同年代と思われていた先の二人よりも、やや年が上ということだけが窺い知れた。

「「失礼しました」」

 二人は、暗闇から現れた彼に対して、かしこまったようにその場で身を正し、敬礼をしようとしたが彼はそれを片手で制した。

「用意しろ、ターゲットを確保する」

「「了解」」

 二人は声をそろえると、それぞれが迅速に行動を開始した。

 タバコを押し付け、パソコンを閉じ、電球のスイッチを切る。

、そしてそこには、暗闇だけが残った。






 嫌な天気。

 その日の空を見上げた人は、恐らく誰しもがそう思ったことだろう。

 晴れた空が好きだという人は多い。雲ひとつ無く、太陽がサンサンと輝くその光景は、見るだけならば心地のいいものだろう。

 雨の空はどうか。厚い雲が空を覆い隠し、時に静かに、時に激しく、雨が降る。その光景に人は昔から、悲しみに覆われ涙を流す自らの心を思い起こし、またはその冷たさに恐怖を覚えることすらある。やはり雨の空が好きだという人は少数派だろうか。実は以外にもそうではないことが多い。人々は自らの暗い気持ちをその空に想起させる。だからこそ、それを嫌うわけだが、雨が上がり、雲が流れ、空が晴れ渡っていくその光景に、自らの心も同じく晴れ渡っていくような感覚を覚える。

 止まない雨は無く、雲はその動きに合わせて流れて消える。雨が上がった空には時折、その雲の隙間から待ち望んでいた太陽の光が射し込み、運がよければ空に掛かる虹を見ることもできるだろう。その瞬間を待ち望むからこそ、雨が好きだという人は多い。

 では、今日のような曇り空に、人はなにを思うだろう。

 太陽の光をさえぎり、雨を降らせることも無い、時間とともにその暗さを増しつつある灰色一色の雲に覆われた空。風が吹くこと無く、天候が移り行くことを忘れ、まるで永久に続くのではと錯覚させる。それでいて、何時なにがきっかけでそれが終わるかも分からない。



 碇シンジは、そんな空を見上げていた。



 誰も居ない二年二組の教室の中、彼は窓際の自分の机の上に座り込み、窓越しに空を見上げていた。雲の流れを観察しているわけでもなく、変わらない色を睨みつけているわけでもなく、ただ空を見ていた。瞳には、喜びも怒りも、悲しみも苦しみも、映してはいない。けれども、感情の光がまったく消えてしまったわけではない。ただ空を見上げ、その瞳に映る雲のように、ただ一つの感情を映し出し、その他一切をを身の内に押し込めていた。

 そして唯一見せている感情も、シンジがその空を見てどんな心を想起させているかも、例え彼の傍に誰か居たとしても、それを読み取る事はできない。

 シンジの傍らには、彼の鞄があった。訪れた理由がそれを取りに来ることなら、すでに果たされた後だった。彼がここに来てからすでに一時間以上が経過しようとしていたが、それでも其処を動こうとする気配は無かった。

 今学校で人が多く居る場所である職員室の喧騒は遠く、教室までは届かない。シンジの心臓の音さえ聞こえてきそうな静寂の中に、彼は危険なほど溶け込んでいた

 けれどもそこへ、入り込む人物がいた。

「シンジ君?」

 その声に、初めてシンジは動きを見せた。窓から視線を動かすと、教室の入り口に立って自分の名前を呼んだその人物を見た。

「・・・中野先生」

「どうしたんだい? こんなところで」

「いいえ・・・、もう帰ります」

 そういうと、シンジは特に慌てた様子も無く、傍らにおいてあった自分の鞄を背負うと、中野とは反対側の扉から出て行こうとした。

「待ちなさいシンジ君」

 中野はそんなシンジを呼び止めた。その声は、厳しく、半ば叱りつけるような響きすら伴っていた。シンジはその声に足を止め、呼び止めた中野は、すでに教室の扉まで来ていたシンジの傍まで行くと、その大きな体を丸めて屈みこみ、シンジに視線を合わせようと努めた。

「何ですか?」

「・・・」

「・・・先生?」

「鞄を取りに来たの?」

「はい」

「もう、平気なのかい?」

「はい」

 シンジは下を向いたまま、中野から視線を逸らしつつそれに答えた。シンジの反応を見て、中野は眉間に皺を作ったが、それをすぐに消すと彼はその場に立ち上がった。

「シンジ君、少しお話しよう。いいかな?」

「・・・はい、分かりました」

 中野のその言葉に、シンジは迷うようなそぶりを一瞬だけ見せかけるが、すぐに頷いた。中野はそんなシンジの手をとると、教室の机を寄せてスペースを作り、椅子を二つ辺りから引き寄せ、窓を見る形でベンチのように横に並べ、そこへ二人して座った。体の大きな中野は、その体に見合ったとても大きな深呼吸をしながら椅子に座った。彼の左側にシンジも静かに腰掛ける。

 ある程度の数瞬の間をおくと、中野は普段の彼らしくも無くらしく、少し砕けた調子でシンジに話し始めた。

「君も、今日は大変だったね」

「いえ、そんなことは・・・」

「僕は大変だったよ。学校へ電話はひっきりなしに掛かってくるし、警察の人はあれやこれやと聞いてくるし、校長の小言は聞かなきゃならないし」

「・・・そうですか」

「でね、これがまたくだらないことで、自分んとこの奥さんが帰ってこないって僕に泣きつくんだ。こっちはそれどころじゃないってのに」

「・・・」

 話をしようと持ちかけた割にその話し方は、少しシンジの返事を無視したようなしゃべり方だった。それでも彼は勝手にしゃべり続けた。内容は一貫しておらず、まさに取り留めの無いことを、気の赴くままにと表現するほか無いものだった。それでもシンジは、話の内容には文句を言わず、けれど返事を次第に少なくしながらも、しゃべり続ける中野の横に座り続けた。

「でね、シンジ君。・・・これは、まだ内緒なんだけど」

 中野がしゃべり、それをシンジが黙って聞くという形がそうして整いつつあったとき、急に中野はシンジに視線を隣のシンジに向けた。シンジは話し方と共に、体勢を変えた中野を思わず見上げていた。シンジがそうして自分を見ていること確認すると、中野は話を続けた。

「飼育小屋を取り壊すことになってしまいそうなんだ」

「! ・・・そう、ですか」

「残念だけどね」

 シンジはその言葉に肩を震わせ、初めて感情の動きの一端らしいものを見せ始めた。

「・・・どうして」

「ん?」

「どうして、それを僕に教えてくれたんですか?」

「・・・どうしてかな」

 そうして言葉が途切れると、再び中野はシンジから視線を逸らし、窓から見える暗い灰色の空を見た。

 しばらく、二人の間に沈黙が訪れる。

 しかし、それを破ったのも中野だった。

「なぁ、シンジ君」

「はい」

「本当に、もう大丈夫なのか?」

「・・・はい、僕はもう・・・」

 中野はシンジに最後まで、その決まり文句になりかけていた言葉を言わせなかった。シンジの右肩に手を置き軽き、何度か優しく叩いた。そして今度は強くその肩をつかむと、大声で怒鳴りつけた。

「そんなわけ無いだろう!!」

「!」

 びりびりと、窓ガラスが震えるような大声だった。普段は決してそんな風に生徒を怒鳴りつけたりなどしない彼に、シンジは驚いたように眼を見張っていた。

 中野は席を立ち、シンジの前に立った。中野の動きを目で追っていたシンジは彼が目の前に立つとすぐに顔を伏せようとしたが、シンジの頬を中の両手が包み、優しく顔を上げさせた。シンジは中野と目が合った。中野の目は、優しく微笑んでいた。

「君は、強いな」

「・・・」

「それに比べて僕は、君にどんな言葉をかければいいのか分からない」

 中野は、彼の中にある迷いをそのまま口にした。シンジはその言葉を静かに聴いた。

「でも、君がもし望むなら、望んでくれるなら、僕はいつでも君のことを待っているし、君はいつでも僕を頼っていいんだ。」

 中野はその声を荒げたりせず、一言一言を、言い聞かせるように、シンジに語りかけた。

「君は、そんなに強く無くていいんだ」

 シンジの両頬を包み込むそ大きな手は、とても暖かいものだった。

 シンジは中野から視線を逸らし、何かを迷うようなそぶりを見せる。けれどもやがて、シンジが自分から絞り出すように声を漏らし、視線を上げる。

「・・・先生」

「なんだい」

 それを待ち望んでいた中野は、シンジの次の言葉を待った。

 次の言葉はすぐには続かなかった。シンジの表情は中野が見る限りでも、先ほどまでのシンジには見られなかった様々な感情が、浮かんでは消えてゆく。



 しかし、シンジは、そのどれをも中野へ向ける事は無かった。



 一度だけ、目を瞑ると、次に目を開けたとき、シンジは微笑んでいた。

「・・・ありがとう」

 その表情は、まるでヒビワレた鏡に映ったような歪さを、隠しきれていなかった。けれどその歪さが中野の目に映ったのは一瞬で、彼の前にはいつもどおりの、シンジの柔らかな明るい笑顔が、そこにあった。


 そう、彼は後一歩、シンジの心には踏み込めなかった。


 柔らかな拒絶。


 震える声で告げられた感謝の言葉。


 それを目の当りにし、それを耳にした中野には本当にもう、シンジに掛ける言葉を見つけることができなかった。

「中野先生?」

「! い、いや・・・いいんだ。僕こそごめんね、大きな声を出してしまって」

「いいえ」

「・・・もう帰りなさい。こんなところで一人で居ちゃいけない」

「はい」

「だいぶ前に君の叔母さんから、ユカリ君が気がついたって連絡も着てたから、もう家についてると思うよ」

「! そうですか、ユカリさんが・・・」

 それで、彼らの会話はその目的を終えた。中野は腕時計を確認すると、学校の見回りから職員室を出てから、予定よりも時間がたっていることを知った。

「しまった! じゃあねシンジ君、僕はまた戻って仕事をしなきゃいけないんだ」

「はい、じゃあ僕も失礼します」

「うん、気をつけてね」

 そういって二人は別れた。教室の前の廊下を、それぞれ反対方向に。二人とも足を止めることも無く、振り返ることも無く。教室には、二つ並べられた椅子だけが残った。








 中野と別れた後、シンジは飼育小屋の前に立っていた。

 中野と別れた後、まっすぐここへ着ていた。

 飼育小屋の周りには、”立ち入り禁止”と書いてあるテープが、そこら彼処にまきつけてあって、飼育小屋を近づくものを拒んでいた。辺りにはたくさんの人が通った足跡や、何かを引きずった跡がシンジの周りにたくさんあった。シンジはそれを一つ一つくぐり、飼育小屋に近づいていった。

 飼育小屋の前にたどり着くと、シンジはフェンスになっているところから中を覗き込んだ。



 朝とは違って、赤くなく、

 そして、

 昨日と違って、何も居ない。



 今はもう、この建物だけが、ここに何かが存在していたことを伝えている。けどそれすらも、この建物が消えてしまうことで分からなくなってしまうだろう。それはまるでここに『何か』が居たことを最初から無かったことにしてしまえとでも言うように。そしてそれはシンジが中野から聞いたとおり、現実のものとなってしまう。

 
 どうしてここまで変わっちゃうんだろう。


 シンジはその光景を見て、想う。シンジが自分の右手を見てみると、そこには『ウサギ』に噛まれた傷が今もあった。そしてもう一度、飼育小屋に眼を移すと。彼の指を噛んだ『ウサギ』は、そこにはもう居ない。




 どうして?

 あの『ウサギ』は、何て名前だったっけ?

 気がついたときには、傍にユカリさんが居た。僕はいつものように教えてほしくてユカリさんに聞いた。でもユカリさんは答えてくれなかった。ユカリさんは大きな声を上げるとその場に倒れてしまった。

 僕がどうしていいか解らずにいると、何時の間にか回りにたくさんのおまわりさんがいた居た。おまわりさんたちは僕の質問に誰も答えてくれなくて、僕に質問ばかりする。そして僕が黙ってると、いつの間にか一人にされた。僕は一人になってもずっと考えてた。けれども答えは出ない。

 そして、あの赤い女の人が居た。

「! う・・・ぁぁ!」

 あの女の人を思い出すと、また胸が苦しくなって、僕は胸を押さえつけた。それでも、どうしようもないくらい胸が痛い。

 あの人は、僕に何ていった?

 思い出せない

 違う、違う、思い出したくない? だから思い出せない?

 僕はもう一度、さっきと変わらない灰色の空を見上げた。今は何時だろう、さっきよりも、もっと暗い色になっていた。


 変わらない空、変わらない校舎、変わらない教室。


 そこにずっと居たかった。『変わらない』場所に居たかった。


 どうして変わってしまったんだろう。


 どうして先生は、僕にあんな事を言ったんだろう。



 どうしてユカリさんに、僕なんかが会うことができるだろう。



 どうして僕が、あの人以外の他人を頼ることができるだろう。



 だって僕は、



 だって! 僕が・・・・!!




 シンジの中を、ぐるぐると得体の知れないものが駆け巡る。いつの間にか目の前にあったフェンスの網を握り締めていた。フェンスに指が食い込んで痛むことも気にならない。指に込める力をより強くした。

 曇り空で蓋をした、その奥の奥、誰も踏み込むことのできないそこにあったものがシンジの中で暴れていた。

 押さえつけようとしても、もう止まらない。

 もう一度、空を見上げても、同じ気持ちにはなれない。戻れない。こんな事になるのなるのなら、あの手をとってしまえればよかった。

 ”その優しさに身を委ねてしまえばどれだけ楽だったろう”


        その手をとる資格など無いくせに。


 そうして、シンジが自分を蝕もうとするものに、必死で耐えているところへ、彼らはやってきた。

「碇・・・」

 シンジを呼ぶ声のほうへ、彼は眼を向けた。

「どうしたの、みんなして」

 そこには、シンジのクラスメイト人たちがいた。立ち尽くしている者や、その後ろに隠れている者、顔を上げている者に、伏せている者。その出で立ちは様々だったが、唯一つ共通していたのは、その全員がシンジを見つめていた。一番前にいた顔も伏せず、まっすぐシンジに立ちはだかっている男子が、自分の後ろに立っているものたちに視線を送りながら離し始めた。

「お前に、みんな聞きたいことがあるんだ」

「・・・なに?」

 シンジは、いまだじくじくと痛む胸を押さえつけながら、その質問を待った。今日は本当に質問されることが多い日だと、意識の端で考えながら。

「・・・」

「・・・」

 最初にしゃべった男子は、今日何度もシンジに質問を浴びせた者たちと違って、すぐに質問を始めなかった。きょろきょろと、自分の周りに居る皆に眼を合わせてる。皆も、その子と目があうと、こくんと一つだけ頷いて、さっきよりも強くシンジをにらみつけた。その子が全員にそうするのを、シンジはまった。

 そして、一度眼を閉じると、その子はもう一度シンジを見て、その口を開いた。

「ウサギを殺したのはお前か?」

「・・・・・・・」

「答えろ」

 その声は、少し震えてた。シンジは一瞬その質問の意味が分からなかった。てっきり、警官や今日自分に質問を浴びせた人たちと同じようなことを聞かれるものだとばっかり思ってた。

 やがて、その質問の内容を理解しつつも、なぜかその言い方や言葉にひどく懐かしさを覚えていた。

「なん・・・で?」

「お前なのか!」

「・・・ちがう」

 そうして思わずもれたシンジの言葉を、誤解して受け取ったクラスメイト達は一気に沸き立った

「昨日、夕方お前が此所を彷徨いてたのを見てる奴がいるんだよ!!」

「何しとったんや!!」

「掃除を・・・」

「昨日は碇の番じゃないだろう」

「それに私がが見かけたときは、もう五時過ぎだったのよ!」

「みんなが帰るのを待ってたんじゃないのか」

「どうなんだよ、碇!!」

「何であの時間此所にいたんだ!!」

「答えろ!!」

 一番前にいた男子の後ろに居たクラスメイトたちが次々と前に出て、まるでシンジを取り囲むように近づいた。かわるがわる、クラスメイト達がシンジに言葉をぶつけた。シンジにはその半分も聞き取れず、矢継ぎ早にぶつけられた質問にシンジは戸惑いながらも答えた。

 彼らはじりじりと、シンジを追い込むように近づき、シンジはそれから逃れるように少しずつ後ずさった。けれど、飼育小屋を背にしていたシンジは、やがて下がる場所がなくなった。

 背中に、フェンスの感触、カシャンとフェンスの擦れる音。

 追い詰められたシンジと、彼を追い詰めたクラスメイト達。

「・・・僕じゃない」

「・・・」

「僕じゃないよ」

「・・・」

「お願い、みんな信じて・・・」

 皆を見渡しながら、シンジは言った。その声は皆と同じように震えている。

 けれどもそれを遮る声が、クラスメイト達の後ろから上がった。

「信じられるかよ」

 その声は吐き捨てるような響きさえ含まれていた。クラスメイト達はその声を聞いて自分たちの後ろに居た彼に道を作った。彼はその道をゆっくりと進んだ。

「田中君、どうして・・・?」

「お前、俺たちに嘘付いてただろう?」

「どう・・・いうこと?」

 彼は、戸惑いを抱いたままシンジを取り囲んでいたクラスメイト達とは違い、その歩みに迷いは無く、顔には笑みさえ浮かべていた。彼は場違いなほどに楽しげにシンジの前に立った。

「俺、知ってるんだぜ」

「何・・・?」

「お前の親父、研究者っていってたよな」

「・・・」

「それ嘘だろ」

「・・・何を言ってるの?」

「だって、今頃刑務所の中のはずだろ?」

「なにいって・・・」

「だから、知ってるっていったろ」

「・・・や・・」

 シンジは、気がついた。彼の浮かべているその笑みが、あの赤い女性とまったく同じものだと。しかし、シンジがそれに気づいて、彼の言葉をとめようとその手を伸ばしたときには、もう遅かった。




「お前の親父、人殺しだもんな」

「!!!!」




 その場に居た全員が、息を呑んだ。そして次の瞬間、爆発した。

「!! 何だよそれ!!」

「・・・碇、それ本当かよ!!」

「俺たちに嘘、付いてたのか・・・・」

「何とかいえよ碇!!」

「ちが・・・う」

「じゃあこれは何だよ」

 そういって彼は、田中ユウは、手に持っていたそれをシンジによく見えるように突き出した。それは少しくたびれた新聞記事だった。突きつけられたその記事に書かれていた言葉は、シンジが警察署で、あの新聞記者に見せられたものと、同じものだった。

 何故彼がそれを持っているのか。

 シンジには知る由も無い。

 それを持つ彼は、あの女性と同じ、楽しげな笑みをよりいっそう深くし言葉を続けた。それが、弱いものをいたぶるような嗜虐心に満ちたものだということは、その場にいる者は気がつかない。

「また嘘付くのか碇? もう調べてあんだぜ。

『碇ゲンドウは、妻ユイを、危険と承知の上で実験の被験者とし、故意に事故死させた疑いがある』

つまり、事故に見せかけて殺したってことだろう?」

「・・・どうして、それ・・・」

 それを聞いて、周りのクラスメイト達はざわつき始める。

「碇、ゲンドウって、まさか碇君のお父さん?」

「まじかよ」

「碇、これお前の親父のことか?」

         「そんな!」

「私たちをだましてたの?」

     「ひどい」

         「なんで、ウサギを」

「みんなで、世話してたのに」

 もう止められない。

 自分を取り囲む彼らの声を聞いていたシンジは、断片的に聞こえてくるその声を、シンジは遠く離れた場所から届いてくるような気持ちで聞いていた。まるで切り離されたその場所から、他人事のようにそれを眺めている自分がいる事を、不思議にも思わなかった。



     そうか



          「前から何考えてるか分かんない奴だったけど」



     そうか、違わない



          「まさか、俺たちのことも・・・」




「・・・何も違わない」

「じゃあ、何で嘘付いてたんだ!!」

「・・・」

「なんで,月さんを・・・あんな風に」

 遠くで見ていた自分の意識を引き戻す。灰色の空で蓋をすることも忘れない。そうすれば、これからのことにも耐えられる。

         さぁ、始めよう。




「そうだよ」




 その言葉は、ざわついたその場にもはっきりと響いた

 ざわめいていたクラスメイト達が、突然聞こえたその言葉に動きを止める。一番最初にその異変に気がついたのは、シンジの正面に立っていた田中ユウだった。

 彼は、シンジから一歩遠ざかった。彼の動きに合わせて、シンジを見てしまったクラスメイト達も同様にしてシンジから離れる。

 シンジは顔を上げていた。ひとつの表情をその顔に貼り付けて。

 ヒビワレた鏡に映ったような微笑を。

 そして、それはもう崩れない。

「殺したんだ」



    僕に出来ることなんて何も無い、


         ただ


             受け入れることしか


「僕が、ウサギを殺したんだ」






To Be Continude 【 The End 】








※Cold大王様へ、見つけたところは直しました。ご忠告ありがとうございます。会話文中の変な変換につきましては(例えば一部が片仮名になっていたりなど)、どうかhaniwaのつたない演出と思ってお見逃しください。なお、この文は作品の雰囲気を阻害する恐れがあるため、次のお話を載せ次第消そうと思います。後書きにて改めてお詫びいたしますので、どうかご了承ください。   haniwaより。

※Cold大王様へ、すみません直しました。ご忠告ありがとうございました。本当にありがとうございます。・・・詩話ってなんだ? 本当にごめんなさい。ちょっと完成を急いだせいで完成度(もともとそんなに高くもないくせに)を下げてしまいました。しつこいだなんて滅相もない!! ここまで自分の作品を読んでくださっていることに感謝以外の念を送ることができません。本当にありがとうございます。ちなみにこの分も後々消しますが、このことについてはまた改めて御礼を申し上げるしだいです。ご了承ください。    haniwaより。



[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 The End 】
Name: haniwa
Date: 2007/01/09 21:32
消し去ることは叶わず
覆い隠すことは叶わず
忘れ去ることは叶わず
否定することは叶わず


打ち勝つことは到底敵わず
重ね積むことは無論適わず


手を伸ばすことを撥ね付けて
声を上げることに意味はなく
瞼を閉じることは許されない


朽ちることはない
諦めることはない
篝火を絶やすことはない


理解せずともその身を蝕み
経験を以てしても抗えない


そして


諦めたそのときに
耳元で、そっとささやく






城山 タイゾウ著「目録」より






見上げる空はどこまでも朱く


第十五話


Lost in the red
And
Given by the red


      【 The End 】






 曇りにもかかわらず、空が次第に明るくなっていくことをどこか不思議に思いながら、彼は椅子に体を預け窓から見える空を眺めていた。その表情は曇り空を写し取ったかのように不機嫌そうで、いささか近寄りがたい雰囲気を漂わせていた。しかし、彼と同じような顔をした同僚たちが、今も鳴り止まない電話の対応に追われていて、そのことを咎める者などにもいなかった。
 彼は、そんな光景をどこか、遠いところにいる自分を見ているような気分で眺めながら、やがてそれから視線を逸らすと、目の前にあった自分の携帯電話へと手を延ばし、どこかに電話をかけた。
 短縮ダイヤルを操作すると、すぐに呼び出し音が聞こえ始める。

 プルルルル、プルルルル、プルルッ、カチャッ

『はい、中野です。』

 数回の呼び出し音の後に聞こえてきたのは、落ち着きのある女性の声。

「……僕だよ」
『あら、どうしたのあなた? 今忙しいんじゃありません?』
「あぁ、その通りなんだ。保護者からの電話がひっきりなし。ちょっと疲れたよ」
『ははぁん? それで仕事中にも関わらず、愛しい私の声が聞きたくなった?』
「…まぁ、そんなところだ」

 彼は、女性の明るい声にやや落ち込んだ声で答えた。

『……どうしたの? 何かあった?』
「まぁ、いろいろとね。教師の辛い所だってことなんだろうけど」
『…』
「……ちょっと、愚痴ってもいいかな?」
『ええ、聞いて差し上げます』
「あはは、…ありがとう」

 そして彼は、この電話をかけるに至った経緯を女性に語りだした。






『そう、そんなことが……』
「……なぁ」
『なぁに?』
「僕は……、自分をこんなに無力だと感じた事は無いよ」

 それは自分に対する苛立たしさを隠さない、棘を持った言い方だった。

『いいえ、あなたはその子に向き合おうとしたじゃない』
「けれど、それは彼に拒絶されてしまった。あんな顔で、あんなことを言われてしまっては、正直もう、どうしていいかわからない」
『……私が思うに、あなたはやり方を間違えただけだと思うわ」

 彼の苦悩が滲み出してきそうなその声とは裏腹に、女性は一瞬の沈黙のあと、明るい声でそう言葉を続けた。

「というと?」
『手を差し伸べてあげるんじゃなくて、そういう子は引きずり回してあげるのよ』
「……は?」
『だから、その子が悩んでる暇も無いくらい引きずり回してあげればいいわ。そして言ってあげるの、「あなたは一人ぼっちじゃない」って』

 自分の思い悩んでいた事を、さも問題でないと言わんばかりの突拍子も無いその考えは、数瞬、彼の思考能力を奪った。そしてその言葉に驚き、嗚呼そうかと納得させられている自分がおかしくなった。

「……あはは! 君は、ちっとも変わらないな」
『あらそうかしら。その分あなたは老け込んじゃったんじゃない?』
「違いない」
『とにかく、その子ともう一度話をしてみたら?』
「いや、僕なんかより、もっと適任がいるよ」
『?』
「彼女も、……傷ついている。けれど、自分が立ち直るついでに皆を引っ張っていくことくらい、軽くやってみせるだろうね」

 電話の向こう側にいる女性には、何のことだか分からない。しかしすぐに、彼が何を言おうとしているのかは察しがついた。

『……その子は、強い子なのね』
「あぁ、強い。彼女には時々僕もはっとさせられることがあるよ。ただ……」
『どうしたの』
「……ただ一つ、気がかりな事があるんだ」
『何?』
「……いや、これは杞憂だろう。じゃあ、仕事に戻るよ。悪いけど、帰りは遅くなりそうだ」
『ええ、どうぞごゆっくり。……あまり根をつめないでね』
「ああ、分かってる。じゃあね」

 そうして、彼は電話を切った。その表情を見ると幾らか気分も晴れたようだ。しかし、机に向かい本来の自分の仕事に手をつけようとしたとき、先ほど言いかけた不安の種が、ちらりと彼の脳裏に過ぎる。

 それは、

 (彼女は確かに強い。そして同じくらい優しい子だ)

 (しかし)

 (彼女の、強さと優しささえ、彼には重荷になってしまうんじゃないか)

 (もし、そうなら)


 (彼は誰にも救えない)






 広い校庭のあまり整理されていない、今や人を寄せ付けない雰囲気を持ってしまった飼育小屋の前。とあるクラスの殆どのメンバーがそこに集まり、一人の少年を取り囲んでいた。彼らは皆一様に顔をこわばらせ、先程から飼育小屋の背にして自分たちの前に立つ少年を凝視していた。

 どうしてそうなってしまったのか。

 すべてはその少年が呟いた、たった一言が原因だった。
 いつもの空の下、いつもの教室、いつものやり取り、いつもの日常の中でなら、それをクラスで一番人気のある少女の影に、いつも隠れている少年の珍しい冗談だと受け流したかもしれない。それほどまでにその言葉の持っていた意味は、少年のイメージからかけ離れていたからだ。

 けれども今は違う。

 曇り空、飼育小屋の前、一方通行な言葉、それらに包まれている非日常の中で、それは起こった。その少年、碇シンジは、その一言を口にした。

「僕が、ウサギを、殺した」

 言葉の持つ冷さとは裏腹に、ざわめくクラスメイト達の耳へと届いたものは、とても暖かく柔らかな響きをもっていた。そしてその一言で、無秩序に動いていた彼らの口は言葉を発することを止めた。ゆくっりシンジに向けられたその視線には、シンジがどこかで自分達の言葉を否定してくれることを、ほんの少し期待していたのかもしれない。しかしそんな彼らの思惑は続くシンジの言葉によって打ち砕かれる。

「足をバラバラにして、お腹を切り裂いて」

 言葉が持つ暴力的な響きに酔いしれるわけでもなく、あくまで穏かに、ささやくように、シンジは告げる。その破壊力は、クラスメイト達の理解能力を微塵に破壊し、その意味を把握することすら許さない。
 故に彼らは、シンジの言葉に、聞き返すような反応しか示すことができず、口を挟むことも、その場から逃げ出すこともできずにいた。
 シンジの言葉が一つ区切られるたび、クラスメイト達の体が戸惑いから小さく震えている。シンジは彼らのそんな様子に目を細め、さらに言葉を続けた。

「首を捻じ切って、耳を掴んで振り回して、壁に叩きつけて、引きちぎって、鳥は翼をもぎ取って、もがいている所を踏みにじって。真っ赤な血がたくさん出て、辺りが血で真っ赤になって、僕の手も真っ赤になった。服にも付いて気持ちが悪かった。そんな風にして、みーんな『僕が』殺したんだ」

 祈るように両手を合わせてそれをこすりあわせるように捻る。握りこぶしを同じように擦り合わせながら今度は力を込めて引き離す。何かを掴んで振り回しているかのように腕を動かすと地面に叩きつけて、まるで本当にそこに何かがあるかのように踏みにじる。
 やがて、言葉を重ね、身振りを重ね、視線を一つ動かすごとに、いつしかシンジの声が、慈悲でも嗜虐でもない感情に震えだす。その表情に、歪みが徐々になくなり、不自然さが無くなってゆく。

 この状況では一番不自然な微笑を浮かべて。

 普段ですら目にすることも稀なそんなシンジの笑顔と、その口から紡がれる行為。徐々に、浸み込むように、恐怖と共にその意味を知る。クラスメイト達は、まるで今朝の出来事が今まさに自分たちの目の前で起こっているような錯覚に陥っていた。




 辺りが血に染まり

 飛沫が降り注ぎ

 自分たちは

 それを払うどころか

 腕一つ動かすことができず

 その情景に魅入られたかのように

 息を呑むことすら忘れて……




 不意に、シンジの右手が、彼らに見せ付けるように彼らの前に差し出された。その手は血に染まり、その赤が自分たちの瞳に飛び込んできたような感覚に襲われた。

「ほら、見て……」

 今迄で、一番優しげな声。
 その一言に、今まで反応しなかったクラスメイト達の瞼が一瞬閉じられる。彼らが次に、ゆっくりと目を開けると、そこには少しも血など一滴もついていないシンジの小さな右手があるだけ。しかし、その手は治りかけのものを含めて様々な傷跡があった。シンジは自分を取り囲んでいる誰もがその傷を目にできるように彼らの前に広げてみせる。

「この傷、白いウサギに咬まれた傷なんだ」

 その言葉を聞いたクラスメイト達が、声に出さずとも、衝撃を受けていることが、シンジには手に取るように解った。
 シンジは言いながら右手を胸元に引き寄せ、ゆっくりと傷跡を撫でる。その右手は震えだし、シンジは左手で押さえつけようとするが、それは収まらず、ついにはその小さな体全体が小刻みに震えだす。そして、とうとう堪えきれなくなった。

「あはっ、あははっ! ……あっっはははははははははははははははははははははは!!!」
 
 右手をその胸に抱いたまま体を折り曲げ、震える体の中から湧き上がってくるものを、そのまますべて吐き出すような笑い声を上げる。肺の空気が空っぽになり、掠れて聞こえなくなるまで。その突然の笑い声に、クラスメイト達はびくりと一度だけその身を震わせた。

 まるで夢のよう。

 シンジは、体を起こし、空気を求め喘ぐ意識の底で、そんな自分を困惑と恐怖の入り混じった眼差しで見ているクラスメイト達をぼんやりと眺める。




 僕は、ずっと怖かった。

 怖くて、怖くて、仕方が無かった。

 みんなの目が、みんなの言葉が、みんなと一緒に居る事が、怖くて怖くて。

 いつ、みんなの目が僕に向けられるか判らなくて
 いつ、みんなの言葉が僕に向けられるか判らなくて
 いつ、みんなと離れることになるのか判らなくて

 でも、もう怖くない。僕は、みんなが望んだものになればよかったんだ。言いつけられたとおりに、ただその通りにすればよかったんだ。今までずっと、言いつけどおりに出来ていなかったから、怖かったんだ。

 だから、今は何も怖くなんかない。

 僕は、スポットライトに照らされた舞台に立ってる。みんなと同じ、舞台の上に。台本どおりの台詞をしゃべって、台本どおりの結末を迎える。

 僕は、もう結末を知ってる。

 だって、何度も繰り返してきたのも

 この光景、立ち位置、彼らの言葉、これからの最後

 全部、

 見慣れた、

 僕の世界




 歪んだ喜びにシンジの体が震える。

 まるで永遠に続くと思ってしまうような夢。

 シンジ自身も囚われていた。シンジは、自分の思うがままにその中を進む。

「彼女は!!」

 弾けるようなシンジの声。それでも笑みを崩さず、言葉は続く。

「あの白い奴は、きっと一番抵抗してたよ。みんなを守ろうとしたのかな。そのほかの皆が一目散に逃げていくのに、彼女は僕の前に出てきたんだ。だから彼女は一番最初に、一番時間を掛けて殺した。動かなくなるまで蹴ったあと、振り回して彼女の体を引きちぎった」

 クラスメイト達は、もはやその表情を蒼白に変えていた。

 シンジの言葉から紡ぎだされるその情景から、クラスメイトの誰もが、その恐怖からどうにかして逃れるために、思考をめぐらせていた。あるものは耳に手を、あるものはその瞳を堅く閉じた。
 そんな中、彼らの中の一人の女の子が、その涙の浮かんだ瞳をシンジから逸らした。そしてその先にあったものにまた目が留まる。『ウサギに餌を与えないでください』との文字と下手糞なウサギの描かれている看板。今や、そこに在ったモノの存在を唯一示すそれに、乱暴に拭った血の跡がついていた。彼女は釘付けになる。それは、シンジの言葉が決して夢ではなく、現実に、ここで起こったことであることを示していた。
 彼女の中の最期の堰は、そこで崩れ落ちた。

「白い奴が殺されちゃったら、みーんな大人しくなった」

「……て」

 やがて、その小さな唇が震えながら動き出す。けれども、喉も振るえていて一つ目は言葉にならなかった。

「僕に殺されるのを順番に、何の抵抗できず、何の抵抗もせず。そんな彼らを、僕が引き裂いたんだ」

「……めて」

 二つ目はその隙間から漏れ出すような音にしかならない。
 もう一度、深く息を吸い込み、先程よりも力を溜め込むために唇を噛む。

「それから……」

 目をつぶり、耳を手で押さえ、自分を世界から閉ざし、目の前にある光景をすべて否定して、シンジの言葉をもうそれ以上聞けないようにして、やっとその言葉は彼女の口から飛び出した。

「もうやめて!!」

 一瞬だけ響く叫び声。

 びくりと、その場の全員の体が跳ね上がる。シンジさえ例外ではなかった。

 その大きな一声で、全員が息を吹き返した。シンジ以外の全員が、忘れていた呼吸を取り戻す。静まり返る中、自分の心臓の音を聞き、まだその場で生きていることに安堵し、どっと全身に汗が流れていくのを実感する。

 「もう、やめ……やだぁ……うぁ、うわぁぁぁぁぁ!」

 大きな声を上げたその女子は、体から力が抜けて行く感覚のままにその場で泣き始めた。そうして一人が泣き出すと、一人二人とその人数は増えていく。しばらくあたりにはそんな彼らの泣き声と、思い出したかのように鳴きだした蝉の声だけが響き、辺りを満たした。

 シンジは、何人かの涙を流すクラスメイトに、にっこりと笑いかけた。

「どうしたの?」

 優しく、柔らかく、静かに質問する。
 その声に、泣いている何人かの表情が再び凍りつく。
 しかし彼らも、もはや黙っているだけではなかった。かろうじて、自分を取り戻した彼らの何人かは、シンジをきつく睨みつけた。

 碇シンジは一人きり。自分たちはたくさん。碇シンジはウサギを殺した犯人で、自分たちはそれを問い詰めに来たのだと。よして何より、自分たちの【正しさ】は揺るぎようもなく、立場もこちらが有利。

 その中で一番に気がつき、一番に行動を起こしたのが、彼らの一番前に立っていた田中ユウだった。

「ッの野郎!! 笑ってんじゃねぇ!!」

「……ぁ…ッ!?」

 その声がしたとき、シンジの額に無理やり視線を動かされるほどの重い衝撃が襲った。思わずよろけながらもシンジが自分の足元を見ると、先程まではなかった小さな石が転がっていた。
 それをシンジに投げつけた田中ユウはさらに叫ぶ。

「シンジを捕まえろ!! 誰か、先生呼んでこい。碇、……そこを動くなよ!!」

 彼は、シンジを取り押さえるため声を張り上げる。
 けれども、誰もシンジの傍には寄ろうとはしなかった。先程までの余韻が、シンジを睨み返すという自由しか許さなかった。そして田中ユウ自身も、そんな自分たちを眺めるシンジから、視線を逸らせず、自分を動かそうとする【正しさ】と、引きとめようとする恐怖がせめぎ合っていた。

 シンジと彼らとの間に、不思議な膠着状態が出来上がりかけていた。

 シンジは、心臓の鼓動にあわせてジクジクと痛む額を、右手でそっと押さえながら、自分を睨みつけるクラスメイト達をぼんやりと眺めた。

 もう終わる、もうすぐ終わる、やっと終わる。

 そして、繰り返す。

 これは、期待か、それとも諦めか。

 けれども、それは叶うことはなかった。






「皆、なにしてんの?」





どんな夢も、やがて目覚めが訪れる。



例えそれが、



自ら望んだ悪夢だとしても。
 





「……ユカリさん?」

 そんなはずはないと、否定の言葉を期待してその名を呼ぶ。
 しかし、クラスメイト達が振り返った先にあったその姿は、シンジにもすぐに確認できてしまった。

 彼女は確かにそこに居た。そこに居るのが当たり前のように。
 訝しげな面持ちで、シンジを含むみんなの顔をきょろきょろと見回していた。そうしてユカリは、シンジを見つけると、彼のほうへ近寄ってきた。

「ちょっと、碇何やってんの? てゆうかどうなってんの? 鞄取りに行くのに何時間掛かってんのよ。おかげでお腹ペコペコじゃない。私朝から何も食べてないんだからね! あっ、朝といえば、ベーコンの焼き加減、あれは焼きすぎよ。もう一歩手前くらいがいいのよ。あんたもまだまだね」

「え? ……どういうこと? 何でユカリちゃんのベーコン、碇君が焼いてるの?」

「あれ、知らなかったっけ? コイツうちに住んでるのよ」

「え? って! ええ!!!」

「知らない知らない!!」

「聞いてない聞いてない!!」

「まーまー、それについてはまた今度話すから……」

 あははと、ユカリの笑い声が上がる。途中何度か軽い混乱の中にあったクラスメイト達の質問に、ひらひらと手を振りながら答えながら。やがて、ユカリは、二、三歩間をあけてシンジの前にたどり着いた。

「ほら碇、帰ろ」

 ユカリは、シンジに手を差し出す。その何気ない動作に、シンジがびくりと震えた。

「……碇? どうし……」

 自分が出した手に、シンジのまるで怯えているような仕草に、ユカリは眉をひそめるが、次の瞬間大声がその場に響いた。

「山川!! ソイツから離れろ!!」

 その声とその意味に、ユカリは少しだけシンジから意識を逸らしてその声に返事を返した。

「・・・なんで?」

「こいつがウサギを殺したんだ!!」

「!」

 ユカリは声の方へ振り返った。そこには射殺さんとするようにシンジを睨みつけている田中ユウがいた。そして彼の言葉によって、ここでなにが起こっていたかを思い出したクラスメイト達がそれに続いた。

「ソイツが、月さんたちを殺したんだ!」

「そうよ!! ユカリちゃんあぶないから早く!」

「ソイツから離れて!!」

「……」

 皆は、状況が解っていないであろうユカリに必死に呼びかけた。しかしそんな彼らに対して、ユカリの反応は意外なものだった。

「……ぷっ、あっははははははは!」

 彼女は耐えかねたかのように笑い始めた。拍子抜けさせられてしまうような普通の笑い方。

「あはは、なにそれ。あんなにウサギが好きだった碇に、そんなことできるわけないじゃない」

「なっ!!」

 そして、後に続く言葉は彼らに苛立たしささえ感じさせるほど、彼らの予想とは外れたものだった。

「で、でも、みんな知ってるんだぞ! 月さんたち碇にちっとも懐いてなかったじゃんか」

しかし、ユカリは、そんな彼らを無視して、おかしそうに自分の脇へ指を突き出した。

「……それ、誰が作ったと思う?」

「……」

 大半が目を向けた。そこには先程のへたくそな看板が目に付くだけだった。

「へたくそでしょ? 私もやめときなさいって言ったのよ? でも碇ったら聞かなくってさ」

 その言葉の意味することは、もう一度彼らを驚かせた。

「これ、……碇が作ったのか?」

「いつの間にか立ってたから、あたし……先生が造ったと思ってた」

「そうなのよ。指もたくさん切って、それでも嬉しそうにたった一人で。懐かないからウサギが嫌いなんてていってる奴に、こんなことできないでしょ?」

 そのときのことをを思い出してか、ユカリはまた楽しそうに笑った。ユカリはそれですべてが片付いた気でいたが、事はそう簡単に済む話ではなかった。

「それがどないしたゆうんや。ええか? 昨日、ここで碇を見たゆう奴もおるんやぞ」

「あー、それね」

 彼女は一度看板に視線を送った後、何か考えるそぶりを見せた。ちらりとシンジを見てみると、彼はもはやユカリすらも見ていなかった。どこか辛そうに足元に視線を落としている。
 仕方がない、どこか諦めたかのようにユカリは溜息を吐いた。

「……昨日はね、碇は遅くまでチェロの練習してたの。ただでさえ遅くなってたってのに、その後、こっそりウサギに餌上げに行ってたのよ。たぶん、見たのはそのときね」

「……」

 クラスメイト達全員が彼女の言葉に耳を傾けていた。しかしユカリの、シンジを擁護するような言葉には誰も納得していない。その視線は険しく、それに気がついたユカリはその意味を取り違えてしまった。

「みんなは知ってるんでしょ? 碇が、月さんたちに手渡しで餌あげたことなかったの。あ! でも、碇がそんな風に餌あげたの、それが初めてなのよ? それにね、碇ッたらそのとき初めて月さんに触れたって、もうすっごい嬉しそうで、……その、……だから、勝手に餌上げたのは許して欲しいなぁって」

 見つかったいたずらを、ごまかすような苦笑いを浮かべながら、ユカリはあたふたと言葉を続けた。
 その様子は、いつものユカリの姿だった。彼女は、当の昔に壊れてしまった日常を、こともなげに連れてきて、その場の空気をそこに居るだけで変えてしまった。それが不快なものでないだけに、クラスメイト達は容易くそれを受け入れ始めていた。
 もし、そのまま彼女のもたらした日常を受け入れたなら、何もかもそこで終わったかもしれない。

 しかし、彼らの恐怖の残滓は、それを許さなかった。

「……ソイツは自分で言ったんだ」

「え?」

 彼らのうち、誰かがポツリと噛みしめるように呟いた。ユカリはそれをはっきりと聞き取ったが、理解はできなかった。そして、その声は一つでは終わらなかった。

「ソイツは、自分がやったって言ったんだ!」

「どうやって……殺したかも!」

「ここにいるみんなが、それを聞いてたんだ」

「ソイツの右手を見てみろよ! そのとき咬まれた傷だってあったんだ」

「あんな、ひどいことを平気で……」

「だから、ユカリちゃん、こっちに来て!」

「そんな奴から、早くはなれて!」

 まるでそうしていないと呼吸が止まってしまう焦燥感に駆られているかのように、彼らはユカリが言葉を差し挟む間もなくまくし立て、おぼれるものが皆そうするように手を突き出し、そんな様子に混乱する彼女を引き寄せようとした。
 しかし最後、その混乱さえ奪ったのは、たった一言だった。




「そうだよ」




 グチャグチャに線を引いた紙を、消しゴムで一気に白紙に戻したような感覚。
 その一言で、無秩序な声は止まった。ありえないほどの静寂がその場の全員を縛りつけた。
 まとわりつくそれをゆっくり拭うように、ユカリは振り返って彼の名を呼んだ。

「……碇?」

 ユカリの声は、やけにはっきりとその場に響いた。そして、続いたシンジの言葉も。

「僕、なんだ」

 相変わらず伏せられたその顔は、シンジよりも背の高いユカリからは見る事はできない。
 けれど、ユカリはその姿に見覚えがあった。それはつい最近で、その記憶は夕陽に照らされていて……






 それはいつもと同じ帰り道でのことだった

 何度も、同じ道を行き、同じ道を帰った。

 その日の彼女は幾らか不機嫌で、すっかり茜色に染まっている空に、愚痴を吐き出しながらその道を歩いていた。その二、三歩後ろを歩いていた彼は、そんな彼女を困ったように微笑みながら見つめていた。
 彼らはそうしてお互いの顔を見ていなかったが、おしゃべりに支障はなかった。

「みんな、餌だけはやりたがるんだから!」

「そうですね」

 もっとも、おしゃべりといっても彼女の愚痴に、彼が相槌を打つという一方通行なものだったが、彼らにはそれで十分だった。

「あー、でもご飯食べてる月さんたちは可愛いんだけどね」

「……はぁ」

「こう、なんていうのかしら。一生懸命になって食べてくれるのよね。あげてる餌をさ、まるで私の手から奪うような勢いで食べるんだから。引っ張られて、いつも途中で手を離しちゃうのよね」

「……はぁ」

「どうしたの?」

 話題を変え、うっとりとその情景を説明する彼女に、彼は息を吐くような返事しか返さなくなった。前を歩いていた彼女は、足を止めて振り返った。地面を向いて歩いていた彼は、突然、意気揚々と自分の前を歩いていた赤い靴が、自分のほうを向いたことに驚いて、思わず彼女の顔を見上げた。

「い、いえ……何でもないんです」

「ん~~、本当に?」

「……本当ですよ?」

「ふ~~ん」

 歯切れの悪い返事を返す彼に、彼女は静かに詰め寄った。彼女の顔が近づくにつれて、彼は顔を彼女から逸らした。もちろんそれで彼女の追求が弱まるわけも無く、何度か彼の正面に回り込もうとするが、彼はことごとく逃げた。

「……」

「……」

「……ほーら、私の目を見なさい?」

「! ……」

 止めと言わんばかりに、彼女は声を落として静かに言う。彼女のこういった話し方はそれを向けられたものに、多大なプレッシャーを与える。しかしそれでも、彼は頑なに彼女のほうを向こうとはしなかった。
 当然、彼女はおもしろくない。不機嫌な顔を隠そうともせず、いまだ目を合わせまいと、自分から顔を逸らす目の前の彼を見つめた。
 しばらく、無言で道の真ん中に立ち尽くした。

 一方は目の前に立つ人物から気まずげに視線を逸らしている彼。方や、そんな彼を、眉間に幾らかの皺を作りながら見下ろす彼女。

「……」

「……ウサギ」

 彼女の呟きに、ぴくっと彼の肩が動いた。彼女はそれを見逃さなかった。

「餌」

 ぴくっ

「手」

 ぴくっ

「食べる」

 ……

 これは違うかと本格的に腕を組み、キーワードのようなもので彼の様子を探っている。まるで犯人を追い詰めた刑事のようだ。

「……食べさせる?」

 ぴくっ

「……、あーーー」

 そしてなにやら得心いったようにうなずくと、不機嫌だった顔を崩し、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「そっかぁ、ふーん」

「な・なんですか……」

「あんた、……月さんたちに手渡しで餌あげたこと無いわね!!」

 びし!! と空気のはじける音が聞こえそうなほど、力強く右手の一指し指を突き出した。

「……」

「どうよ!! アタリ? あんたも度胸が無いわねー。あーんなに可愛いのにぃー」

 彼女は、それがどういうことなのか良く考慮する前に、彼の考えていることを、自分が見事言い当てたであろうことに、その身をくるっとひるがえらせて、無邪気にはしゃいだ。
 しかしすぐに、いつもの反応が無いことに気がつく。もう一度、彼に振り向いてみると、いつものように困ったような顔でなく、すこし悲しそうな表情を浮かべている彼がいた。

「ちょっと?」

「……はい」

「……ごめん。気にしてたの?」

「あ……、違うんです」

「?」

 彼女の謝罪を聞くと、彼は首を振りながら困ったように笑った。彼は、そうっと覗き込む彼女の視線から、今度は目を逸らさなかった。

「あげようと、した事はあるんです。けど、……食べてくれませんでした。それに、僕、触ったことすらありませんし……」

「……」

「えへへ、それだけなんです」

 まるで恥ずかしいことなんだと言わんばかりに、自分のことを笑った。帰りましょうと、彼は彼女をを促すように自身が歩き出した。寂しそうな、悲しそうな笑顔を浮かべたまま。
 それを、彼女の良く通る大きな声がさえぎった。

「違うわよ!」

「え?」

 その声に驚いて今度は彼が振り返ると、夕日を背にした彼女は、それを見た彼がびっくりするほどのキレイな微笑を浮かべていた。そんな彼女が、穏かに口を開いた。

「知ってる? ちょっと前の話しなんだけど。月さんねぇ餌を蹴っ飛ばして、ひっくり返しちゃったことがあるの。しかもそれに口もつけずに。今までそんなことなかったのに、おかしいなぁって先生ってたわ」

「……」

「それでね、落ちてた餌を、いろんな人に見せてみたんだって。そしたら、給食の小母さんがね、これ痛んでから、昨日ごみに出したやつだよって。」

「……」

「食べてたらきっと、お腹壊してたろうねって言ってたんだって。うーん、月さんはすごいわね! もう半分化けウサギかも!」

 あはは、と彼女は声を上げて笑った。あさっての方向へ喋っている言葉は、独り言のようで、それでいて、目の前に立っている彼に向けてその言葉は放たれていた。彼は彼女の意図には気づけてはいなかったが、彼女のその声は、とても優しかった。

「だから、ね? 違うのよ」

 彼女は一端そこで言葉を区切ると彼に、もう一度その輝く夕陽にも負けない笑顔を向けた。

「月さんは、シンジのこと、嫌ってなんかいないわ」

「!」

「今度、ニンジンでも持っていってみようね。皆に、内緒で。」

「……」

「ね?」

「……はい」

 そうして彼女、山川ユカリは人差し指を口に当てて、彼、碇シンジに向けてもう一度微笑んだ。
 一瞬呆気にとられていたシンジも、つられてぎこちなく微笑んだ。二人の間には、いたずらの計画を一緒に立てているような、心地よい連帯感が生まれる。ユカリは、シンジの返事に満足げに頷くと、もう一度シンジに笑いかけた。

「まったく、せっかく明るくなってきたって思ってたらこれだもの。相変わらず暗いんだから。」

「……えへへ、すみません」

 そうした、やり取り。和やかなやり取り。


 いつまでもこんな日が続けばいいと思っていた。


 そして後ろを振り返り、夕陽が作る闇を見て思う。


 何時までもこんな日が続くはずはないと。


 でもこんなに早く、終わりが訪れるなんて。


 こんなにあっけなく崩れ去ってしまうなんて。






 どうして


 僕は、もう諦めたんだ! 受け入れたんだ!!


 繰り返しの中に、貴方はいないのに!!


 なのに、どうして……


 どうして、あなたがそこにいるんだ!




 ズキリと額に走る痛みが、シンジの意識を飼育小屋の前に連れ戻す。彼の前にはユカリがいて、クラスメイト達がいる。

「碇?」

 ユカリが、シンジの名前を心配そうに呼ぶ。
 その声に、歯の根が震えそうになる。
 早まり続ける心臓の鼓動にあわせ、ズキズキと額が痛む。
 だからシンジは、震える声を誤魔化すように、声を張り上げる。

「僕が! 僕が! ウサギが、彼女があんな風になったのは僕の……」

「……あんた、なにを……」

 けれども、彼女が自分をどんな風に見ているか想像しかけて、言葉が止まってしまった。
 【それはどれだけ恐ろしいか】と、
 また、額がズキリと痛む。
 じゃりっと砂を踏む音が聞こえた。ユカリが、シンジへと振り返り、そちらへ駆け寄ろうと踏み出した音だった。

 胃の中身をすべてぶちまけてしまいそうなほどの悪寒が足元からせり上がってくる。

 絶叫を上げて、それを振り払う。

「近寄るなぁ!!!」

 ばっと、前に右手を向ける。それは先程と同じように、ユカリを含めその場の全員に、その掌の内が見えるように広げられた。
 ひっ、と誰かが息を呑む声が聞こえる。
 再び、辺りの音が消える。砂を踏む音も、すすり泣く声も、僅かに吹く風どころかその場にいるクラスメイト達の呼吸さえ聞こえなくなる。聞こえるのはただ、荒く、深く、空気を求める自分の呼吸だけ。
 右手で抑えていたところから、なにか温い物が額を伝い、地面に落ちる。それは、地面に落ちると、小さく、赤い、染みを作った。そしてその右手からも、僅かながら血が滴っていた。
 しかしシンジはそれにかまわず、声を張り上げた。今度こそ、自分の中に再び湧き上がってきたソレを消し去るために。

「僕が殺した! 僕が! 殺したんだ!!」

 自分の血にまみれた右手を、更に前へと突き出しながら、もはや悲鳴に近い声で叫ぶ。

「僕が彼女を引き裂いて! 僕が彼女を赤くした! この手を赤くして! 血まみれにして! 血まみれになって!」

 もはやその声に、先程のような歪んだ喜びは影もなく、まるで追い詰められた人間のそれだった。
 肺の中の空気をすべて絞りつくして、叫んだ。空になった空気を求めて肺が大きく動く。それにあわせて首から耳の後ろ、そしてこめかみにかけて、ドクンと大きな鼓動を感じる。そしてまた、ズキリと額が痛んだ。

「……シンジ」

 再び、ユカリがシンジの名前を呼ぶ。もはやその場では、彼女しか呼ぶことのなくなった彼の名前を。
 それはとても静かな声だった。静かだけれども冷たさはなく、けれども先程の明るい声とも違った。ユカリの予想とは違った変化に、クラスメイト達は再び息を呑んだ。
 じゃりっと砂を踏みしめる音。それは彼女が再びシンジに近づこうとする音。シンジは、またビクリとその身を震わせた。
 ズキリと、額の痛みが全身をしびれさせる。

「私を見なさい」

 彼女がどんな表情をしているかは、その背中を見ているクラスメイト達にはわからない。下を向いてるシンジにも解らない。けれども決して顔を上げる事はできない。
 その言葉を自分に向けるユカリが、どんな表情で自分を見ているかシンジは知っていたから。
 恐ろしくて、顔を上げるなんてできなかった。

「あんたじゃないわ」

 シンジは息を呑み、

 肺の空気は圧縮され、

 心臓が悲鳴を上げて、

「あんたじゃない、あんたが、……そんなことする分けないじゃない」

 ズキリと、額が痛む

 じゃりっと砂を踏む音が近づいてくる。ユカリが、シンジにゆっくり近づく。シンジの言葉を否定し、シンジ自身を肯定する言葉をあたりに響かせながら。

「私は知ってるんだから。あんたがどれだけ、一生懸命世話をしていたか、掃除をするときだって、餌をあげてるときだって。看板作ってるときのあんたが、どれだけ嬉しそうにしてたかも」

   ズキリ

 ユカリが一歩進むたび、目に見えない何かに押されるように、シンジは一歩後ろに下がる。

「……違う、……違う違う違う! 彼女なんて大きらいだった! いつも僕の手を噛むんだ。僕になついてくれなくて、いつも皆にばかり触らせて。月さんなんて、大きらいだったんだ! だから、……だから!」

「私は!!」

   ズキリ

 カシャンと、シンジの背中でフェンスの擦れる音がする。
 シンジの視界に、近づくユカリの靴が映り、もはや逃げ場を失ったシンジには顔を逸らすことでしか、それから逃れる術はない。

「……私は、ちゃんと知ってるんだから。シンジが、どれだけ月さんが好きだったか、知ってるわ。何度手を噛まれても、どんなに蹴られても、毎日毎日月さんに話しかけて。昨日の夜だってあんなに、あんなに嬉しそうに、初めて触らせてもらったんだよって、いってたじゃない」

   ズキリ

「知らない、そんなの知らない! 僕は知らない!」

 目を堅く閉じ、耳を強く押さえつけた。けれど、いくら首を横に振っても、彼女の言葉を否定しても、ユカリの存在はシンジの前から消えてくれない。
 もはや彼女の呼吸すら肌に感じ取れるほど、彼女の存在を近くに感じるというのに。

「私は、知ってる」

   ズキリ

 彼女の声がこんなにも、力強く聞こえてくるというのに。

 耳を塞いでいても聞こえていた砂を踏む音が、唐突に消えた。
 シンジは、さらに強く身構えた。
 次にくる彼女の、どんな言葉にも、どんな想いにも耐えられるようにと、より硬く、より強く。なにものをも通さない絶対の壁を思い浮かべて。


 あの日、父の背中を思い浮かべて。


 けれどもそんな彼が次に感じたものは、そっと手に触れる温かさだった。

 そして、ユカリはシンジに囁きかけた。

「……だから、だからお願い。そんな悲しいこと、……言わないで」




 ズキッ




 その暖かさに続く言葉は、耳元でささやかれなければ消えてしまいそうなほど、細く、小さく、弱弱しい声だった。
 シンジは、ハッと目を見張った。
 ユカリとの距離が、それこそ触れ合うほどまでに近づいたことで、シンジはそれを感じ取れた。
 彼女の呼吸、彼女の声、そして何より今も自分の手を、自分の血で汚れた手を掴んでいる彼女の手が、僅かに震えていることに。
 そこで、初めて顔を上げる。
 そこには、ユカリの顔があった。シンジが見たこともないほど、悲しそうに、辛そうに歪められた彼女の顔が。けれどもシンジと目が合った瞬間、安心したように微笑んだ彼女の顔が、そこにあった。


 その目は、やっぱり、とってもキレイだった


 シンジの体から、ふっと力が向けていく。自分の手に触れている彼女の手を、そっと握り返した。
 あぁ、やっぱりだ。
 シンジは、そんな彼女の瞳の奥を見つめて思う
 自分をまっすぐ見つめる彼女が、自分は何よりも恐い。
 もはやその恐怖は、額の痛みさえ凌駕し、全身の感覚のみならず、感情すらも麻痺させていく。






 繰り返しの中にいるという、諦めの中の安心はもはやそこにはなかった。
 ユカリがここに現れたせいで。
 シンジの繰り返しの中に彼女はいない。彼女のような存在はいない。

 以前とは比べようもないくらい、あまりにも明るい日々の中で忘れようとしていた。

 それは、ここに来る前のこと。

 誰かがどこかで泣いていれば、それは自分のせいだった。
 誰かがどこかで怪我をすれば、それは自分のせいだった。
 教室で何か物が無くなれば、それは自分のせいだった。
 どこかで何かが壊されれば、それは自分のせいだった。

 逃れようとしたこともあったけれど、それは無駄で、受け入れるしかなかった。
 認めて、
 謝って、
 殴られて、蹴られて、物をぶつけられて、
 無視されて、独りぼっちにされて終わる。

 どうすればいいのかなんて解りきっていたのに

 行き先が決まっていれば、恐いものなんてなにもない。
 結末が決まっていれば、恐いものなんてなにもない。
 そこに何があるかわかってる暗闇なんて、光に照らされているのと同じだと信じた。

 それなのに、ユカリさんはこうして僕の前に立っている。
 あの時と同じような、微笑を浮かべて。僕に手を差し伸べてくれた、あの日のままの。

 どうして、この手はこんなにも温かいのだろう

 どうして、この人の瞳は、今も自分をまっすぐ見てくれるのだろう

 どうして、この人の温もりがこんなにも恐いんだろう

 どうして……






「……どうして、ユカリさんは、そこまで……」

 数瞬の、麻痺してぼやけた思考の後に、シンジは今も自分の目の前にいるユカリに、小さく問いかけた。もはやそこには錯乱めいた様子はなく、その口調も穏かな問いかけだった。
 ユカリは、顔を上げたシンジの額に、今も血を流している傷を少し不安げに確認し、それほど深くはなかったことに安堵していた。そこへ、先程のシンジの声が聞こえてきた。

「理由なんて、必要ないじゃない」

 ユカリは当然のように言い切った。
 その瞳はシンジの怪我を気遣いながらも、その視線を外すことはなかった。 

「……どうして」

 まるで眩しいものを見上げるように目を細め、ユカリの視線を受け止めながら、シンジは先程よりも短く質問を繰り返した。
 ユカリは、少し驚いたような表情を作り、何かを考えるそぶりを見せた後に、楽しそうに語り始めた。

「んー……、シンジは、ここに来る前に教室に鞄を置きに行ってるわね?」

「はい」

「そして、私がここに来るまで、ここにいた。一歩も外へは出ずに」

「……はい」

「それで十分なのよ」

「どうしてそれだけで?」

 シンジが、不思議そうに聞くと、ユカリは得意げに胸を張りながら、そこで一度言葉を切った。

「ふっふ~ん、甘いわねワトソン君。それじゃあ、どうして【外側のドアノブに血の後がついてたのかしら?】」

「……ぁ、あぁ、そうか、……そうですね」

「そういうこと」

 ユカリは、種明かしをするときのような、いたずらっぽい笑みを浮かべて、嬉しそうに言った。シンジは一瞬だけ目を細め、僅かに考える様子を見せた後、彼もまた困ったように微笑んだ。
 不意にシンジが、自分の手を握っているユカリの手に視線を落とした。


 そして、静かに口を開いた。


「……でもね、ユカリさん」

「なーに?」

「やっぱり、月さんたちを殺したのは、僕なんですよ」

 そう言った後、ユカリを見上げた顔は、困ったように眉をよせた、いつものシンジの笑顔だった。

「!」

 ユカリは目を見張った。それは、シンジの言葉の内容に対してだけでなく、その声はどこか抑揚が欠けていて、覗き込んだその瞳が、ガラスのように澄んでいたから。
 何かを言おうとして、何か言わなければと口を開きかけて、そんな彼に掛ける言葉を見つけられず口をただ動かす。
 そんなユカリを、シンジは首を横に振って止めた。

「だって、僕は、ユカリさんに信じてもらえるような奴じゃない。……だって、僕は……」

「碇は、俺たちにずっと嘘付いてたんだ」

 勝ち誇った声が、シンジの言葉を遮った。






  ユカリとシンジの成り行きを見守り、最後は気まずそうに二人から視線を逸らしていたクラスメイト達とはちがい、田中ユウだけはシンジを睨み続けていた。
 そして、彼は自分の中の【正しさ】をいまや確固たるものと位置づけ、笑みすら浮かべて。

「そいつの親父、今刑務所にいるはずなんだ」

「……なんで?」

 ユウの言葉を聴いたユカリは、視線を僅かにそちらに向け、静かに訊いた。

「碇の親父が、人を殺してるからさ」

 それに対してユウは言葉を続けていた。

「それも、ただ殺しただけじゃない、人体実験だ。そいつの親父はイカレてんだよ。いいか? 親父がそんな奴なんだ。こいつだって同じようなこと考えてたに違いないんだ。気味が悪いんだよ。そんな奴が、ずっと同じクラスに居たなんて。……キモチワルいんだ」

 ユウはユカリからシンジに視線を移し、最後の言葉をことさらに強調して、彼にぶつけた。
 シンジの体が小さく跳ねる。
 そしてそれは、その手を握っているユカリにも伝わった。

「……もしかして、みんなもこれを聞いたから、シンジが犯人だと思ったの?」

 ユカリは、ほんの少しだけ、先程よりも体を彼らに向けつつ彼らに問いかけた。
 田中ユウを除くクラスメイト全員が、先程までの笑みを消したユカリの視線から、気まずげに目を逸らすことでそれに答えた。

「……あぁ、そういうこと。なんだかおかしいと思ったのよ。私も、ちょっと勘違いしてたみたい」

 堅く瞼を閉じ、ユカリは一度彼らを視界から完全に消した。その溜息混じりの呟きには、明らかな落胆の色があった

「ところで、どうして【アンタごとき】が、そんなこと知ってるの?」

 そして、次にユカリが田中ユウに視線を戻したとき、口調は優しく、声も穏かに、しかしその内容は完全に彼を見下していた。

「ッ! これだよ。見てみろよこの新聞記事。これだけじゃないんだぜ? 俺が頼めば、あの人まだ証拠を見せてくれるって……」

 彼は一瞬たじろいだが、その手に握り締めていたものを、まるで今思い出したかのように広げてみせた。
 ユカリは、くしゃくしゃになった紙切れを無感情に流し見ると、一度だけ、深く大きな溜息をついた。そして、彼らを見ずに自分の手と、シンジの手に視線を落とした。
 シンジの手は、もう握り返すこともなくただ震えるだけだった。

「アンタが、それをみんなに、……シンジに見せたのね」

「……それがどうしたんだよ」

「シンジの手、見た?」

「あぁ、見た。ここにいる全員が見た。ソイツが言ったとおりウサギに咬まれた傷だらけの手が、どうかしたのかよ」

「……あんた、自分がやってることの意味、ちゃんと解ってんでしょうね」

「何だよ、何が言いたいんだよ! はっきり言えよ!」

「あんたは、…………お前は、どうしようもない馬鹿だっていってんのよ」

「な!」

 ユカリはそう吐き捨てると、その言葉に顔を引きつらせている田中ユウから視線をはずした。

「シンジ」

「……はい」

 ユカリの声に、シンジは小さく答えた。

「『左手』見せなさい」

「あ!、……ィヤ!!」

「いいから、見せなさい」

 自分の左手に手を伸ばしたユカリの手からシンジは体ごと隠した。

 しかしユカリは、そんなシンジには一切かまわずシンジの左手を開かせながらみんなの前に突き出させた。

「皆、ちゃんと見えてるかしら。これ何か解る?」

「切り…傷?」

 突き出されたそれを目にしたクラスメイトの一人が言った。
 シンジの左手は、右手に劣らずボロボロだった。
 一番目立つ指先には幾筋もの赤い切り傷のような傷がいくつもあり、指の付け根には、分厚く堅くなったマメがいくつもあった。

「うぅん、違うわ。これ火傷なの。チェロを早く弾きすぎたり、弦を強く抑えすぎたり、長い時間弾き続けたりするとこんな風になっちゃうの。ここなんかマメになって何回もつぶれてるし。みんな、何でか解る?」

「……」

 ユカリは、そこでシンジの手を離した。シンジは今度こそ、左手を腕ごと隠すように胸で抱きしめた。
 クラスメイト達は、ユカリが何を聞こうとしているのか解らず、彼らの一番前で彼女に対峙しているはずの田中ユウは、ユカリが自分を否定した理由が解らずにいた。
 そして、シンジだけがユカリが言おうとしている事を理解できた。

「ユカリさんやめてくだ……」

「シンジは黙ってて」

 ユカリはシンジの制止を、静かな声で遮った。
 そして再びクラスメイト達に向き直ったとき、その口は笑みを形作ろうとしていたが、その目は険しく彼らを見据えていた。

「今までずっと避けてきたのに、家にチェロを持ち帰って、パパやママに怒られても夜遅くまで練習して。けど、重たい楽器を学校まで背負っていくところを見られたくなくて、毎日毎日早起きして学校に行くの。お昼休みも、放課後も、ずっと音楽室に篭って」

 声が震えて、言葉にならなくなってくると、一度大きく息を吸った。

「みんなは知らないでしょ? シンジね、この前音楽室で倒れたの」

 それでも震えが止まらなくて、今度はぐっと胸をむしり取るような勢いで掴み、震えを無理やり止め、深く深く、声を震わせていた感情を体に押し込める。もう皆を安心させるための笑みを作る努力すらしない。

「こんなに小さいくせに、根性無いくせに、柄にも無く頑張るもんだから、とうとう目を回して倒れちゃった。私、黒田先生にすっごい怒られたんだから。『二組の人は、碇君だけにこんなに練習させて何してるのか!』って。あの先生怒るとすっごく怖いの。……何でか、解る? シンジが倒れるほどチェロの練習してた理由が、あんたに解る? みんなに解る? 私、シンジに聞い たの。どうして、そんなに頑張るのかって。でもシンジ、答えてくれなくて、みんなには言わないでって、それだけしか言わないの。言ってくれないの」

 記憶を思い起こして、そのときの無力感がユカリの中で呼び起こされる。それでも彼女は言葉をとめなかった。止められなくなっていた。
 そんなユカリを前にして、彼らは何も言えず立ち尽くしていた。
 ユカリは、そんな彼らをもどかしそうに睨み続ける。

「……みんな、シンジにチェロを頼んだとき何て言ったか、覚えてる? 『任せた』、『期待してる』、『碇君なら大丈夫』。……シンジはね、みんなのそんな言葉だけで、みんなの期待に応えようとしただけで、倒れるまでチェロが弾けちゃう、そんな馬鹿なのよ。……そんなシンジが、アブナイ? キミガワルイ? キモチワルイ?」

 押さえつけすぎた言葉は、何かを目の前にいる彼らにぶつけようとしては、まるでユカリが自問しているかの様だった

「シンジにも、悪いところはあったかもしれない。でも、……それでもよ!! どうしてシンジを信じてあげなかったの!」

 ユカリは叫ぶ。

「あんたこれでも! あんたたちこれでも!! シンジに何を言ってるのか判らない?  シンジがあんた達に何かしたの!! シンジがあんた達を傷つけた? 今までシンジの何を見てきたのよ!!」

 ユカリはギリギリと歯が鳴るほどに噛み締めた。その瞳が目の前の彼らを射抜くように睨みつける。感情に振り回されるままに叫び続け、息が上がっていた。肩で大きく息を整える。激昂がそうしてほんの少しの間を置いたとき、ユカリの服の袖が遠慮がちに引っ張られた。

「ユカリさん」

 それだけでは振り向いてくれないユカリに、シンジは小さく声を掛ける。

「……なに、シンジ?」

 目の前のクラスメイト達を、今だにきつく睨みつけたまま、返事をした。シンジは彼女の陰に隠れたまま、ポツリと言った。

「もういいんです」

「よくないわ。何が、いいのよ! ……徹底的にやってやる」

「ケンカ、……しないで」

「……」

「ユカリさんが、みんなとケンカしちゃったら、僕、きっと悲しいです」

 ガラスにさす光が歪むように、透明なしずくが、僅かな赤をにじませながらシンジの頬を伝い地面に落ちてゆく。
 振り返ったユカリは、それが地面に小さな染みを作るのを見た。
 シンジは、ユカリの服を握り締めながら言う。

「僕、嬉しかった。皆に、任せたって言ってもらって、上手だねって言ってもらって。本当に嬉しかった、月さんに触れて、ちょっとだけ好きになってもらったような気がして。本当に、嬉しかった」

「シンジ……」

「……でも、僕はそんな奴じゃない。今朝だって、本当はだめだってわかってたくせに、餌を上げに行きたくて。また、僕の手から、食べてもらいたくて。でも、当番の人より早く行かないと、月さんたちもお腹がいっぱいで食べてくれないと思って。やっぱり、僕は、皆に、月さんに、……好きになってもらえるような奴なんかじゃないんだ」

「……そんなことない。そんなことないったら!」

「僕が、……殺したんだ! ……僕が、月さん達を……」

「あんた達、シンジに何いったの」

 そんなシンジを見ていられず、ユカリは気まずげにたたずむ彼らに振り向いた。
 しかしそれを、

「違うんです!!」

「なにがよ!!」

 更に強く、ユカリの服を引き寄せたシンジに止められる。
 ユカリはシンジの手を振りほどきながら、シンジに振り返った。振り払われた勢いで、シンジはフェンスにぶつかった。

「あ……」

「あっ」

 重なったその声は、カシャンと響くフェンスの音にかき消される。
 肩を抑えるシンジにユカリは思わず手を伸ばそうとするが、

「……違うんだ」

 ぶつかった肩や、今も僅かに血が流れる額とは比べ物にならないような痛みに耐えるように声を震わせながら呟いたシンジの言葉に、ユカリは口を開くことすらできなかった。
 涙で汚れた瞳は、もはやガラスの様とは形容しがたく、黒い何かに歪んでいた。
 彼は、恐怖と、悲しみと、そのどちらでもない感情を、一度に表に出した。
 そして、次のその言葉も、耐えられない何かに押し出されるかのように彼の口からこぼれ出た。

「……僕は、昨日わざと……、今日も、月さんたちに餌を上げたくて、わざと……鍵をかけなかった」

「……」

 それは事実。
 もはやシンジには意味のない。隠そうとして、受け入れようとして、結局はこうして彼女の前にさらけ出すしかなかった、もう終わったこと。

「僕がちゃんと……戸締まりをしていれば、あんなことには、月さんや、他のウサギがあんなことにはならなかったはずなんだ。死ななくて良かったはずなんだ。あっあんな。……僕の、僕のせいだ。僕の、せいだ。僕が、僕…が、……ぼくがぁ」

 視線をあらぬ方向に止めたまま言葉を漏らすシンジは、爪を立て、皮膚を引き裂かんばかりに自分の腕を抱いた。そして凍える体を温めるように身をかがめる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、月さん。ごめんなさい!! ごめんなさい!!!」

「……あんたのせいじゃない、シンジのせいじゃないから!」

 そういって、ユカリがシンジに手を伸ばそうとする。

「知ってますか? 死んじゃったのは、月さんたちだけじゃないんです」

 シンジが、さっと顔を上げる。痛々しいまでに歪んだその視線に捕まったユカリは、それから目を逸らすことはできず、そしてシンジに伸ばしかけた腕は行き場を失う

「月さん、赤ちゃんがいたんです。……ボク、大きくなったお腹も、触らせてもらったんです。……とっても暖かかった」

 血に汚れた右手と、キレイな左手を見比べる。

「ユカリさんみたいに、優しくて、心臓がトクン、トクンって、暖かくて。……でも今朝は、月さんも、赤ちゃんも冷たく……冷たく、て」

 シンジは、自分に向かって伸ばされていたユカリの手をとる。そこにある温もりを確かめるように。

「何でだろうって、月さんを『集めた』んです。でも起きてくれなくて。いつもみたいに、ボクの指を見ても噛まないんです。真っ赤な目が、ボクを確かに見てるはずなのに、ちっとも起きてくれなくて、それで、……それで、……ごめんなさい、皆を騙してるつもりはなかったんです」


でも、違うんです。


「……お父さんは、お父さんは! ボクの! お父さん、は…………ボクは、お父さんが大好きです。お母さんが大好きでした。お母さんもお父さんが大好きでした。お父さんもお母さんが大好きでした。きっと、今も一番はお母さんです。だから、お父さんをそんな風に言うのはやめてください」

……お願いです。だから、お父さんをいじめないで


 お父さんは、人殺しなんかじゃありません


 お母さんは、【人】じゃありません


 ボクの【お母さん】だ。


 だからお父さんはお母さんを殺してなんかいない


 どうしてみんな、お父さんのことをひどく言うの?


 お父さんのことを、何も知らないくせに!!


 お母さんのことを、何も知らないくせに!!


 知らない……くせに


 勝手なことを言うな!!




「ボクは知ってる」




 そうだ、知ってたはずだ

 お母さんの写真を焼いたのは、心の中にあるお母さんを一番にするためでしょ?

 お母さんの服を捨てたのは、そこにいたはずのお母さんを忘れないためでしょ?

 お仕事に、一生懸命になったのは、悲しくて仕方がなかったから

 何を言われても言い返さないのは、自分を責めているから

 ボクを見ないのは、お母さんを思い出すから、

 僕を預けたのは、【ボク】が邪魔だから?

 お話を聞いてほしいとき、助けて欲しいとき、ほめて欲しいとき、怒って欲しいとき、

 傍にいて欲しいときに

 傍にいてくれなかったのは、

 ボクが、

 ……?






「あ? あぁ……、アァァッ! ア゛ァ゛ァ゛ァァァァァァァァァァァァァ!!!!」 

 シンジがユカリの手を投げつけるように離し、自分の頭を抱え込むようにして抱くと、耳にした者すべてを竦みあがらせるような絶叫をあたりに響かせた。
 目の前にいる彼が上げている声だろうか。
 ユカリさえ例外にせず、誰もがまずそれを疑った。

 突然目を見開き自分たちを見つめるシンジ。耳を澄ましてやっと聞こえる小さな声で話し始め、ついにその声さえ聞こえなくなったとき、シンジの上げたその声は、本当にシンジから聞こえてくるのかと。

 そんな彼らが我に帰ったのは、肺の空気を本当にすべて絞りつくしたシンジが、呼吸に苦しみ出してからだった。
 一番近くにいたユカリがシンジの肩を揺らす。

「シンジ! 落ち着いて、ゆっくり息を・・・」

 苦しみに体を丸めていたシンジの顔を上げさせて無理やりにでも呼吸させる。
 ユカリは、シンジの半ば溺れた者のように混濁しかけていた瞳を心配そうに覗き込んだ。

「シンジ?」

 一度、一瞬だけ、シンジとユカリの視線が重なった。

 そして次の瞬間

 シンジは、ユカリを突き飛ばした。

「きゃっ!!」

「ユカリちゃん!!」

 ユカリは、予想以上に強い力を受けて地面に倒れた。
 すぐに彼女の傍に、今までユカリとシンジのやりとりを見守っていたクラスメイト達の二人の女子が彼女に駆け寄った。
 そんな彼女に目を向けることなく、シンジは自分を取り囲んでいた同級生達をせわしなく、追いつめられたように彼らを見回した。
 シンジからは、彼らの顔は見えていなかった。
 まるで、黒で塗りつぶしたように顔を見ることが出来ず、彼らが誰か、シンジには解らなくなっていた。
 そして、ユカリを突き飛ばしたことで、それまで彼女の体で遮られていた光が、シンジの黒い瞳に、吸い込まれるように差し込んできた。シンジは目を細めることもなく、顔を背けることもなく、瞬き一つせずその視線の先に映った光景に魅入られていた。

「ちょっと、碇君!」

「何するのよ!」

「ひどいじゃない!!」

「やっぱり、おまえ!!」

「ユカリちゃんに謝りなさいよ!」

「みんな? 私は大丈夫だから……」

 クラスメイト達はシンジに近寄ることなくシンジに言葉を浴びせる。それまで動けなかった気持ちをすべてシンジにぶつけて。

 それは罪悪感だった、それは不安感だった。それは正義感だった。そして、それは恐怖だった。
 直視できない、自分たちと同じ存在とは思えない、排斥せねばならない、同じ空間にいたくない。
 ユカリが、理不尽に突き飛ばされた。
 もはや彼らに残された、最後の【正しさ】が、彼らを動かしていた。
 
 しかし、そんな声は、シンジの耳には入っていなかった。
 自分にぶつけられている言葉が、誰が言っているのかさえ、シンジにはわからなくなっていた。
 シンジの視線は、その存在に釘付けになっていた。

 それは

 彼らの後ろからまばゆい光を放ち、
 今も空の大半を覆い隠す雲を、
 波立つ様子を下から照らし出し、
 彼らから個性を奪い
 シンジに迫りくるように、その手を伸ばす
 それは、




 赤く、紅く、緋く、




           どこまでも朱い、空




 深く、厚い、この雲に覆われていたはずのこの空に、しかしそれはその姿を垣間見せていた。
 まるで、シンジをじっと盗み見るように、
 あざ笑うかのように、
 雲と、山の、歪な地平線の間に出来た、ほんの少しの隙間から。






逃げなくちゃ……




逃げなくちゃ、早く、ここから、逃げなくちゃ


逃げなくちゃ

逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃ逃げなくちゃにげなくちゃにげなくちゃにげなくちゃにげなくちゃにげなくちゃニゲナクチャニゲナクチャニゲナクチャニゲナクチャ…………


 どこへ?

 どこに?

 どうでもいい

 ここではないどこか

 ここに居ちゃいけない、ここに居ちゃいけない!!

 そうだ、あの時と同じように

 ここから、逃げなくちゃ・・・




 そして、ボクは、

 朱い空に背を向けた。












To Be Continude 【 For Begin 】



[246] 見上げる空はどこまでも朱く 第十五話  【 For Begin 】
Name: haniwa
Date: 2007/01/09 21:41
 あの時もそう思った。

 今もそう思う。

 この光景はまるでビルが、ボクを追い詰めているようだと。

 そう錯覚した。

 もはや錯覚ですらない

 だから、

 夕陽を背にして、決して振り返ることなく、

 走っていた。

 一人で歩いた道、彼女と歩いた道、買い物帰りに歩いた道を、

 ボクは走っていた。

 闇雲に走った挙句、人にぶつかっても、見たこともない道に迷い込んだとしても、決して振り返らず、引き返すこともなく、

 ボクは走り続けた。

 何処へとも着かない、何処に行こうとしている訳でもない、何処かへたどり着こうと考えているわけでもないのに、

 ボクは走り続けていた。

 ただ、足を下ろしている場所から、

 一歩でも遠くへ

 ただ、次に足を下ろす場所から

 一歩でも先へ

 あいつの目の届かない

 光の届かない

 夕陽の作り出す闇の中へ

 そして、ボクはそんな闇の中へ自ら望んで進んでいった。








 飼育小屋の前に立つ二年二組の生徒たちは、すでに夕陽も沈みかけているにもかかわらず、その場から動けずにいた。
 すでに彼らがここにいる目的はない。
 シンジはもうここにいない。自分たちに背を向けて、何もかもを振り切るように、何処かへ走っていってしまった。
 もう、シンジに抱く心情は、決して彼に対しても辛いものではなくなっていた。しかしそれは、決してシンジに対して甘いものでもなかった。
 シンジが口にした言葉、本当にしたこと、嘘をついていたこと。これらをすべて目の当りにしたからこそ、彼らの中に生まれた葛藤がそうさせていた。同情かもしれないし、憎しみかもしれない。ただ単純に悲しいだけなのかもしれないし、怒っているのかもしれない。
 そして何より、シンジが最後に見せたあの表情は何を意味していたのかが、解らない。
 自分たちを見回した後、ほんの一瞬見せた最後のあの表情は。
 いまだ彼らがその場を動けないでいたのは、シンジの最後の表情を一番近くで見ていた彼女が、今も座り込んだままその場を動こうとしなかったから。どう声を掛けていいかも解らず、どうすればいいかも解らなかったから。

 だってシンジの怯えた表情は、何より彼女を恐れているように見えたから。

 彼らは途方にくれて、その場にたたずんでいることしか出来なかった。

「ねぇ、みんな」

 だから、呟きのようにしか聞こえない彼女の声に、彼らはすぐに気がつくことができた。

「ねぇ、みんな。聞いて、欲しい事があるの」

 誰も返事をしなかった。

「聞いて欲しいの。本当は、言わないでねってお願いされてるんだけど、みんなには聞いて欲しいの。……シンジのこと。」

 彼女は振り返った。
 もう随分と沈んでしまった夕陽に淡く照らされた目は、ほんの少し、赤くはれていた。

「……この話を聞いた後は、もうみんなの好きにすればいい。だから聞いて欲しいの」

 彼らのうち、一人だけがこくんと頷いた。

「ありがとう」

 それを見て、僅かに微笑んだ。

「じゃあ、みんな、……碇シンジの、話をしましょう」

 そういって、山川ユカリは話し始めた








 口の中が気持悪い。
 何かがひっきりなしにこみ上げてくる。それを何度も飲み下すように喉を動かして耐える。
 それでもまだ、シンジは走り続けていた。もうここが何処だか解らない。ただ入り組んでいる道を、前も見ずに、がむしゃらに走り続けた。
 先程から、心臓に何かが突き刺さったように痛む。肺に穴でも開いたような空気をいくら吸っても満たされない、そんな息苦しさ。足が木の棒を引きずるようにしか前へ進まなくなっていても、それが今の彼の限界の速度で、その意識は今も走っていると感じていた。そうして、何故走っているのか判らなくなっていても、彼は足を前に出し続けた。

 そんな風に自分を追い詰めても、人は考えることを完全にやめる事はできない。




 どうして、ボクはこんな風に走り続けているんだろう。

 クラスメイト達から逃げるため?

 いいや、違う。

 彼らがボクの前に立った理由は解りきっている。
 ボクがウサギを殺したから。
 ボクが嘘をついていたから。
 ボクが同じように彼らを傷つけるから。
 知ってる。理由は知ってる。
 でもその【意味】は、知らない。
 何故ボクは、走り続けてる?
 彼女がその場にいたから。ユカリさんがいたから。
 どうして?
 彼女は、またボクに手を差し伸べてくれたじゃないか。また、一緒に帰ろうと言ってくれたじゃないか。
 どうしてその手をとることが出来なかったんだ?
 その手を取ることが出来ないと解っていたからだ。

 どうして?


 彼女は、ボクだから。


 そしてボクは、……お父さんだった。






 ぴたりと、その足が止まった。今、何気なく思いついた言葉に目を見開いて。視線の先に見えた道は、薄暗かった。
 恐る恐る、本当にゆっくりと、シンジはそれまで振り返ることのなかった後ろを振り返った。

 陽は、すでに堕ちていた。そのまま顔を上げると、そこには満天の星。

「……あぁ……」

 思わずそう声が漏れてしまうほど、シンジはその光景に見とれてしまった。そして、星が出ている、そのことにもう一度驚いた。
 もう、走らなくらなくていい。あたりは真っ暗で、夕陽はとっくの昔に山の向こうへと消えていた。
 シンジは走るのをやめた。やめたと言うよりも、もう一歩も足が前へ進んでくれない。そして、もうその必要はない。

 逃げた

 もう逃げ切った。

「―――ははっ!」

 へとへとだった。もう、動けないほど疲れていたけれど、かまいやしない。もう逃げる必要な無いんだから。

 その場に両足を投げ出して寝転がる。堅いけれど、冷たいアスファルトの感触が心地よかった。

 辺りはあまりにも静かで、大きく脈打つ心臓が今にも爆発してしまいそうで、耳に届くその音が川の流れる音のように聞こえて、肺が今にも擦り切れてしまいそうで胸が苦しく、呼吸のし過ぎでかすれた喉が痛む。
 その苦痛と、泥のようにまとわりつく疲労感すら、気にならない。

 逃げ切った。

 そう、逃げ切れた。

 周りはもう真っ暗で、ここが何処だか見当もつかない。随分と遠くまで走ってきたように思える。

 それでも、恐怖も焦燥も感じることはなかった。

「ははは……」

 シンジは力なく笑い続けた。




 どうして、ここまで逃げてきたか?

 そんなモノ、どうだっていい。

 もう、どうでもいい

 どうでも、……いいから、

 もうこのまま、何処までも落ちてゆけそうな気分のまま、

 静かに、消えてしまえれば……




         ――――――!!




    胸の楔がドクンと軋み、

    ズキリと、額が痛む。

 すばやく体を起こす。

 温いものがゆっくりと額を伝い、目をよけて、頬から顎を伝って、ぽとりと地面に小さなシミを作った。

 シンジは誰かに、名前を呼ばれたような気がした。

 きょろきょろと、辺りを見渡す。

 そして、今まで自分が進んでいたほうへ視線を向けると―――――










 ――――――――――――――碇シンジは、死んだ。

 心臓が止まり、肺が空気を吐き出し、瞳孔は開ききった。
 そう、一度そこで死んだ。
 シンジが完全に逃げ切ったと思って顔を向けた先に、逃げ切ったと思っていたものがその先で待ち構えていた。
 それだけなら、シンジはまた逃げれたはずだ。足は疲労がたまって震えている。けれど、そんなことは関係なしに今まで走ってきた。
 しかし、シンジに追いついたそれは、シンジのそんな意識のかけらさえ、根こそぎ奪い取った。
 もう立てない。

 もう逃れられない。

 それは何か。






 どこまでも細く、どこまでも薄く、

 血のような色をした、下弦の月。

 なりふり構わず、逃げることしか出来なかったあの朱が、そこにあった。






 ゆっくりと、瞳孔が引き絞られ、肺が冷たい夜の空気で満たされ、弱弱しいくも心臓が鼓動を取り戻した。

 その理解は唐突で、しかしそれにシンジは戸惑う事はなかった。




 ―――――あぁ、そっか。……そうだった。




 彼女は、ボクだ。

 彼女はボクを知っていた。ボクはお父さんを知っていた。

 彼女は、ボクに手を伸ばしてくれた。ボクは、……お父さんから逃げた。

 だから、ユカリさんが恐くて仕方がなかった。

 そのことに気がつきたくなかったから

 ボクは、ここに来ることになったとき、お父さんと離ればなれになるとき、ほっとした。
 もう、皆につらいことを言われずにすむ、あんなつらい毎日はもう終わるんだって。
 お父さんがどんなに悲しい思いをしていたかボクは知っていたのに。
 ボクだけはもう、つらい思いをしなくて済むんだって、お父さんと離ればなれになることを、喜んでいたんだ。
 心の底から。

 だから、きっと罰なんだ。
 みんながあんな風にボクの前に立ったその意味が、やっと解った。
 月さんが死に、あの女の人が僕の前に現れ、先生が僕に声を掛けて、ユカリさんが手を伸ばしてくれた。そして、その手をとることができないと理解してしまっていることも。
 きっと、お父さんがあの時振り返ってくれなかったのも。
 きっと、ぼくの罰なんだ。

 だから

 だから、あの月は

 そんなこともわからずおろおろと逃げ回ってる

 ボクを、哂ってるんだ








「……キレイだな」








見上げる空はどこまでも朱く


第十五話


Lost in the red
And
Given by the red


      【 For Begin 】






 彼女には時間がなかった。自分が追いかけているものは、きっとこんな小さな自分すらも逃しはせず、容赦もしないことも彼女はわかっていたから。
 だから、彼女は小さな子供に発信機を取り付けるなんてことも、小さな子供に余裕をなくさせるため、彼の過去を彼の同級生の一人に教えるなんてことも平気で出来た。それを、自分が追いかけているもの同様容赦も慈悲もないことだと、気がつけなかった。
 そして、彼の住んでいるところから突然彼が消えてしまったことに焦りを覚え、あわてて飛び出した先、走り回った挙句、隣町の坂の上で彼を見つけたときは迷わず声を掛けた。最後の仕上げをするために。

 街灯の光に僅かに照らされながら、彼女と、その小さな子供は再び出会う

「あら? シンジ君。また、会えたわね」

 そういう彼女に、その子供は振り返らなかった。ただ、顔の左側だけを向けて、空を見上げていた。けれども、彼女はそんな些細な事は気にならない。

「そうそう、あなたのお友達に、あなたのこと聞かれたから教えてあげたんだけど、気に入ってもらえたかしら?」

 彼女はその子供の反応を探る。ピクリともしない。しかし、自分の声は、聞こえているはずだ。周りには人も車も通らず、こんなにも静かなのだから。だから、自分は最後の仕上げをするだけでいい。

「……あの日、なにがあったか教えてほしいの。あなたは知ってるでしょう だって――――――」

 最後のこの言葉を、自分はこの追い詰められた子供に告げるだけでいい。

「――――――あなたはその場にいたんだから」

 ピクリと、薄暗い街灯の下でその小さな肩が震えた。

「あら? もしかして大当たり?」

 予想通りとはいかなかったものの、彼は確かに反応を見せた。彼女にはそれで十分だった。今までの苦労が実ったのだと、彼女は心の中で勝ち誇った。そして、それは到底胸のうちに仕舞い込んでおけるものではなかった。

「どうしてそれをって? 苦労したのよ~。その日のあなたのスケジュールを調べたり、当時の研究員を探し出して、今みたいに『お話』を聞きに行ったり、ね? それでも、私みたいな情報を扱う人間としては、まだまだあの研究所の管理は穴だらけなのよね。第七世代有機コンピューターだかなんだか知らないけれど、入館パスさえ何とかしてしまえば、後は館内の端末から―――……」

 彼女は、上機嫌に自分のしたことを、この追い詰められた哀れな子供にすべて語って見せた。

 いつの間にか、彼が彼女を、薄闇の中からその左目で見つめていたというのに。

「―――いやー、せっかくこのことを突き止めたときに、君居なくなってるんだもの。お姉さん困っちゃったー」

 それに気がつかず彼女はゆっくりと彼に近づいてゆく。

「でもこうして、あえてとっても嬉しいわ」

 そして彼女の手が、伸ばせばすぐにその子供に届くところまで彼女が近づいたとき、

「あなたは、だぁれ?」

「……え?」

 どこか感情を自分の言葉に乗せることが下手な、小さな子供のような口調で、彼は初めて口を聞いた。

 そして、彼は顔を彼女に向けた。

「―――ヒッ!」

 彼女は小さく悲鳴を上げて後ずさった。

 彼女に向けられた彼の、まだ男の子とも女の子とも判別のはっきりとしない幼い顔は、その半分が無かった。ただ、限界まで見開かれたその右目が、まるで闇に解けた右半分の顔から取り残され、そこに浮いているように見えた。

「あなたはだれ?」

 残った左側も、感情らしいものを一切欠落させた虚ろな表情がそこには張り付いていた。彼は、おぼつかない足取りで彼女に近づいてゆく。
 彼女は、更に後ろに下がり彼から逃げた。追いすがるように、彼はその後を追った。

「……おとうさんをしりませんか?」

 やがて、彼が、街灯の真下に来たとき、その正体に気がついた。
 彼は、その額に怪我を負っていた。ただ、もうその血は止まりかけ、乾いたところが赤黒く変色している。

「おとうさんが、どこにもいないんです……おかあさんは、ずっとまえに、しんじゃったんだけど」

 彼は、自分のその傷にまったく頓着する様子を見せず、今も彼女に腕を伸ばす。その様子は、ただの子供だった。

「あなたは、おとうさんをしってる? ぼくを、おとうさんのところへ、つれていってくれる?」

「……えぇ、連れて行ってあげる」

 僅かに気後れしながらも、彼女がそういうと、彼は僅かに微笑んだ。
 それは、その他の感情がすべて消えかかっていたからこそ、浮かび上がってきた、小さく、本当に儚い笑顔。
 それを見た彼女が、自分はいいことをしているんだと感じてしまうような、そんな本当に嬉しそうな笑顔。

 彼女は彼に手を伸ばし、彼がその手を取ろうとしたとき、

「おっと、そこまで」

 彼女が最後に聞いた声は、タバコの吸い過ぎでややかれた声だった。






「失礼」

「はいはい、おっ疲れさん」

 街灯の作り出す光の領域の外から腕を伸ばした黒服は、服装を赤で統一したその女性をしっかりと抱きとめた。その隣で、彼女を気絶させた黒い棒をくるくるとその手で回しているもう一人が溜息をつく。シンジは、その様子を見ていることしかでできず、伸ばしたその手は誰にも捕まれることのないまま、空中で行き場を失った。

「だれ?」

「碇シンジ」

 シンジの問いかけに、その腕は答えることもなかった。しかしシンジのすぐ隣に、その頭に幾らか白いものの混じり始めた男の人が立っていた。彼は高いところから、身をかがめることも無くシンジに高圧的に言った。

「この女に何かしゃべったか?」

「……」

「分からないならいい」

 それだけ言うと、シンジの正面に立っていたもう一人の男の人から気を失った女性を受け取ると、いつの間にかそこにあった車にさっさと行ってしまった。
 そして、残った二人もそのあとを追おうとした。

「……まって……まって!! もしかしておとうさんのことしってるひと……なの?」

「……」

「ぼくもつれていって! おとうさんのところへ!」

 親愛はその場を去ろうと足を進めていた彼らを、必死に呼び止めた。一人はそれをさっさと無視し、手に持っていた黒い棒を手のひらで弄びながら車に向かっていた。しかし、もう一人がその足を止め、シンジのいるところへ引き返した。
 彼は暗闇の中でも決してはずすことの無かったサングラスを懐にしまい、身をかがめ、シンジの肩に優しく両手を置くと、しっかりと彼に視線を合わせながら口を開いた。

「それは、……できないんだ」

「って! おい!」

 それを見たもう一人がそれを咎める。しかしそれを無視して、その人はシンジに語りかける。

「いいかい? 君のお父さんは、人類を守る立派な仕事をしているんだ。だから……」

「……そんなのしらない!!」

 しかしシンジは、そんな彼の言葉を全身で拒んだ。彼を睨みつけるシンジの瞳には、すでに涙で濡れていた。 

「そんなのぼくはしらない!! もう、そんなうそはたくさんだ!! おとうさんにあわせて!!」

 嘘、と強く断じられたことに彼は目を見張った。シンジはそんな彼の当惑をよそに、自分の肩に置かれた大きな手を爪を立てるように掴む。

「どうしたらいい? ねぇ! ぼくはどうしたらいいの! どうしたらゆるしてもらえるの? どうしたら……おとうさんにあえるの?」

 それを見ていたもう一人の黒服は、めんどくさそうにタバコに火をつけた。

「おとうさんに、ぁって、ぼく、あやまらなくちゃ……ごめんなさいって。……おね…がぃ、……おとうさんに、あわせてぇ……」

 消え入りそうなその声に、彼の顔が苦渋に顔をしかめていたとき、

「おい! 面倒はごめんだ!」

 くわえていたタバコを苛立たしげに踏み消し、タバコの男は二人に近づいてきた。

「分かってる。しかし……」

「……チッ! おめぇは、ホントに面倒くせぇな!!」

 はっきりとした返答が出来ずにいる相方を通り過ぎ、今も男の手を泣きじゃくりながら握り締めるシンジを、彼は容赦なく蹴り飛ばした。

「ぅわ゛ぁ!!」

 鈍い音をさせて、シンジは道路に蹴り飛ばされ、体のあちこちをぶつけながら硬いアスファルトの道路に転がった。ようやく勢いが収まったところで、お腹を押さえてその場に苦しそうにうめく。しかし、それでもなお、タバコの男はもう一手をくわえるべくシンジに近づこうとした。
 それを見ていたサングラスの男は慌てて彼を止めた。

「止めろ! 相手は子供だぞ!!」

「関係あんのかよ? 邪魔するんなら、全部片付けちまうだけだ」

「あるだろう! この状況を作り出したのは俺たちじゃないか!」

「おぅよ。あそこの糞アマとっつかまえるためにな」

 タバコの男は、自分を止める相棒に向き直り、車を顎で示して見せる。

「だったら、なおさら……」

「おぉっと、てめぇそれ以上喋んじゃねぇぞ?」

 それでも彼を止めようと、口開きかけた彼は、タバコの男が懐から取り出したものを突きつけられる。

「台無しにするつもりかよ? んなことになったら、消される前に俺がてめぇをぶっ殺してやんよ」

「……お前は、本当にそれで平気なのかッ!!」

「いったろ? くだらねえモンは全部犬にでも喰わせろってよぉ!」

 目を血走らせ、にらみ合いながら対峙する。ガチリと、金属の擦り合わせられるような音が聞こえる。

 お互い一歩も譲らず、サングラスの男は突きつけられたものに気を払うわけでもなく、むしろそれに触発されたようにタバコの男に詰め寄る。タバコの男は、相棒が一歩も引く様子を見せないことに更に苛立ち、手に持っているものにますます力を込めようとしたとき、

「ゴホッ!……」

 今も地面にうずくまるシンジの咳き込む声が聞こえてきた。

 タバコの男がちらりと、うずくまるシンジに眼をやる。苦いものを飲み下したような表情を作ると、彼はその視線を胸ポケットに引っ掛けてあったサングラスで覆い隠した。
 そして、呻くように口を開いた。

「……てめぇが、んなことしてるせいでな、全部が無駄になんだよ。いーか、全部がだ!! 俺たちがこうしてることも、てめぇが口先だけで助けようなんて思ってるそこの餓鬼のことも全部だ!! 俺より頭良いんだからよ、それくらい解んだろうがッ!」

 一括し、その声があたりに響く。そしてゆっくりと手に持っていたものを再び懐に戻すと、自分の頭を少し小突き、バツが悪そうに相棒から視線を外した。

「……ワリィ、ちょっと頭に血ぃ上ってたわ」

「……すまん」

「だんなが睨んでる。いくぞ」

「あぁ」

 そうして彼らが、上司の待つ車へとその足を向けたとき、這いずるような音と共に、シンジの声が聞こえてきた。 

「まっ…て……」

 しかし、二人は、今度こそ振り返る事は無かった。

「どうして……」

 故に、シンジの意識が暗い闇に落ちる前に呟いたその声を、聞くものはいなかった。



[246] エピローグ《Ⅰ》
Name: haniwa
Date: 2007/01/09 21:47
 気がつくと、彼女は見知らぬ車内にいた。車内といっても、目隠しをされ、猿轡もされている。それと解ったのは、車独特のいやな匂いが鼻についたからだ。

 ぼんやりとここがどこか思いをめぐらせていると、突然静かだった車内から声が上がる。

「……あーあ!! 気分わりぃ!!」

 それはすぐ真上から聞こえてきた。どうやら自分は椅子に寝かされているらしい。

「だいたいよぉ!! コイツが【科学者】に手を出すからわりぃんだよ。合理的判断なんて糞くらえだ!! 【母親】か、せめて【女】しときゃぁいいものをよ!!」

 パンっと男の手が遠慮なく彼女の顔を殴った。思わず彼女がうめき声を漏らす。

「お! 目が覚めたかよ? ちょっと早くねぇ? 開発部に電圧上げるようにいっとかねえとな」

 男は、耳元でわざと自分を怯えさせるように話しかけ、タバコ臭い息を吐いた。思わずくぐもった悲鳴を上げそうになったが、次の瞬間無理やり体を起こされた。

「……残念だが、君に黙秘権は無い。我々の管理下にあるうちは、人権も剥奪される。洗いざらい、すべてを喋ってもらおう」

 そして、後ろから聞こえてきたその声の冷たさに、悲鳴すら出なくなった。

「戦自か、政府か、はたまたどっかのお偉いさんか。まー、海か、山か、実験材料かは選ばせてやるよ」

 ひひひっと、野卑な笑い声を最後に、彼女の意識は再び暗い闇へと落ちていった。








エピローグ






「大丈夫かい?」

 その小さな部屋に入ってきたときに、今だ額を押さえていたその子に聞く。僕に気がついた彼は慌てた様子で押さえていた手を離すと、大丈夫ですといった。




 その子を巡回中の新米が発見したとき、額から血を流していため、何も聞かずに慌てて病院へと連れて行き、処置が終わってから、そいつはどうしていいか解らなくなった。そこで事情を聞いておけばよかったものを、慌ててたそのアホは、何も聞かずに署にまでつれてきた。
 するとそこでその少年が、今朝の事件で事情を聞くために連れてこられた少年であったことが判り、上の人たちがてんやわんやになった。
 似顔絵を描くために人を呼べとか、落ち着かせるためにお茶か? 紅茶か? いやコーヒーはまだ早いだろうとか、いらんことで人を引っ掻き回してくれた挙句、改めて誰にやられたのか聞くと家出の途中で車がはじいた石にぶつかったと言う事らしい。すると、あっさり興味をなくされた上の方々は、この子を少年課押し付けて、今は事件現場の写真を見ながら、コーヒーでも啜っている事だろう。
 すると今度は、少年課の中で誰がこの子の対応をするかでもめる羽目になりかけて、最近著しく頭頂部の過疎化が激しく、いつも機嫌の悪いうちの上司はオマエがやれと僕に白羽の矢を立てた。
 またあの子の相手を僕がやるのかと、いささか気が乗らなかったが、僕の前に連れてこられたその子が僕のことをじっと見つめていることに気がついて、どうしようもなくなった。

 どうも、昼間のときと様子が違うと、思ってしまったから。




「痛かったら、ちゃんと言ってくれよ。怪我したところは頭なんだから、気をつけないと」

 ちょっと、言い方がきつかっただろうか。それでも彼は昼間と違って、ちゃんと僕の顔を見て、はいと返事をしてくれた。

「お父さんの名前は?」

 その子は、小さな声で答えてくれた。
 僕は、それを手元の用紙に記入していく。
 昼間も繰り返した作業だから、すぐに終わると思っていたら、彼は昼間とは違う人の名前を言った。けどそれは、彼の苗字と同じ名前だったからとりあえずそう書いておいた。

「・・・碇、ゲンドウっと どっかで聞いたことある名前だなぁ」

 僕が少し引っかかったものを感じていると、彼は少し前にお父さんはテレビに出ていたことを、自分から教えてくれた。

「へー、君のお父さんもしかして有名人?」

 小さく、はいと答えてくれた。昼間のときよりもその反応は普通の子供みたいに素直だったので、僕もとてもやりやすかった。けれど、彼が次に教えてくれた住所に目を見張ってしまった。

「連絡先は……、君、ずいぶんと遠いところから家出してきたんだね?」

 僕は、あまり大きく驚くとその子の不安を無駄に大きくしてしまうだろうと思って、半分冗談っぽく彼に確認してみる。もちろんそれは嘘の住所だと思った。今日彼を引き取りに来た彼の叔父の住所とはぜんぜん違う。
 けれども僕はそこで、ふと思いついた。この子が家出してしまった原因は、もしかしたらお父さんに会いたいからじゃないのかと。
 僕がそんなことを考えていると、さっきの僕の質問に、その子はそうですかと聞いてきた。

「あぁ、その歳でこの距離は記録的だよ。友達に自慢しな」

 もう一度、僕が冗談めかしてそういうと、その子は、昼間決して見る事は叶わないだろうと思っていた笑顔を見せてくれた。けれどそれはどこか寂しそうな影を残した、儚いものだった。

「すぐに、連絡してあげるから。きっとすぐに迎えに来てくれるよ」

 はいと、その子は小さく返事をした。そんな彼の様子を見て、僕は決めた。警察は民事不介入だ。起こったことにしか対応できない。けれども、それでも、こんな小さな少年の小さな嘘を真に受けることぐらい、してもいいんじゃないかと思う。

 そして僕は、その子にちょっと待っててねと告げると、彼から聞いた住所が書いてある書類を手に席を立った。

 あぁ、どうか、ばれても始末書だけは勘弁してくださいと、いつも不機嫌な上司の顔を思い浮かべながら。






 もっどって来た警官とシンジが、ささやかながら談笑しているその小さな部屋に入ってきた人物は、目の前に座っていた警官が対応しようとするのを振り切ってシンジの脇に立った。
 そして、一拍もおかずにシンジを音高く殴りつけた。大人の堅い手のひらと、子供の柔らかい頬が鋭く、そして重くぶつかる音がその部屋に大きく響く。小さなシンジはそれに耐えられずパイプ椅子からはじき落とされ、それでも勢いは止まらず、狭い室内の壁に頭をぶつけた。
 驚いた警官は、半ばその人物を羽交い絞めにして、なだめようとした。

「ちょ、ちょっとお父さんいきなりそれは・・・」

「私はこれの父親などではない!!」

「は?」

 返された大声に、警官は思わず竦みあがりそうになる。それにかまわず、シンジを迎えに訪れた叔父はシンジを憎々しげに睨みつけた。

「これは、預かっている子供だ!! 断じて私の子供などではない!!」

「い、いや、それでも、いきなり殴りつけるなんて……」

 叔父は、警官の拘束を乱暴に振り払うと、そのせいで少々乱れた衣服を正した。

「警察は、民事不介入だろう? それにこれは暴力ではありません、躾です。関係ないあなたには黙っていてもらおう」

 そう言われて、二の句が告げなくなってしまった警官に一瞥をくれてやると、叔父はシンジに向き直った。

「何をしている。立ちなさい!」

「……はい」

 ぶつけた頭を抑え、多少ふらつきながらシンジは言葉通りに立ち上がった。

「まったく、面倒ごとを起こしてくれるね、君は」

「すみません」

「それに、何故私のところに連絡をよこさなかった!」

「……」

「ふん! 帰るぞ。ついて来なさい」

「はい、先生」

 ふらつく視線で、しかし目の前の人物をしっかりとその視界に捕らえながら、シンジは、はっきりと答えを帰した。
 そして、いまだ出口で立ち尽くしていた警官にまるでぶつかるような勢いで出て行った叔父のあとを追った。
 しかし、ふらつく足取りで急いだためか、倒れていた椅子に躓き転びそうになる。
 
「ぁ……」

「危ない!」

 それを、警官が咄嗟に支えた。

「! ……すみまっ、せん」

「大丈夫かい?」

「はい」

 警官の腕を頼りに、シンジは倒れそうになった体を起こした。
 警官がその体に触れたとき、その体温は高く、息は荒かった。
 彼はその姿に、唇を噛んだ。

「もし……、もし何かあったらすぐに……」

「いいえ―――」

 自分を支えてくれていた腕から手を離しつつ、シンジは警官を見上げた。

「―――ありがとう」

「……ぁ…!」

 どこか困ったような笑み。そして、自分の体を支えていた警官の腕を、弱弱しい力でそっと押しのけた。

「何をしてるんだ! 早く着なさい!!」

「はい、先生」

 自分から離れようとするシンジの腕を警官が掴みかけたところへ、怒声に近い声。
 シンジは、その声に動けなくなった警官を、さっとよけて部屋から出て行った。警官の腕は何かを掴みかけた形のまま、




 掴みそこなった体温だけが残った。








 先生のお家に戻ると、僕はすぐに部屋に引っ張られました。

「入りなさい。当分、部屋から出る事は許さん!! いいね、これは罰だ!」

「はい、解っています」

「行きなさい」

 先生が僕の背中を押して、暗い部屋に押し込めようとしたとき、

「シンジ! 帰ったの?」

 階段を降りきらず、慌てた様子で手すりから顔を出すユカリさんがそこにいました。でも僕は、そのまま部屋に入ろうとしたところを、すごい勢いで階段を駆け下りてきたユカリさんに腕を掴まれてしまいました。

 あぁ、つかまっちゃった。

「ユカリ! 今日はもう寝ていなさいとあれほど……」

「パパは、黙ってて!!」

 僕もびっくりしてしまうほど、彼女の声は大きかったです。振り返ると、驚いた顔でユカリさんを見る先生と、そんな先生を睨みつけるユカリさんがいました。

「シンジ!」

「ユカリさん?」

 ユカリさんは僕に向き直ると、ちょっとだけ悲しそうな顔をしていました。

「……」

「……」

「……お帰り」

「……」

 そして彼女は、僕に笑って、そういってくれました。

 でも僕は、どうやって答えたらいいか、解らなくて。そして、そんな彼女の笑顔に少し見惚れてしまいました。

「何よ、私がちゃんとお帰りって言ってあげてんだから、あんたも言うことがあるでしょうが」

「……僕は、」

 僕は、ユカリさんに聞かなくてはならないことがありました。

「僕は……ここに、居てもいいですか?」

ゴンっ

 鈍い音が、廊下に響きます。
 あぁ、先生が、見たことないような驚いた顔をしています。

 彼女が、無言で僕の頭を殴ったみたいです。
 とっても痛かったです。
 あの人に蹴られたお腹も、先生に殴られた頬も、その痛みがわからなくなるほど、ジクジクと痛みました。

 でも少しだけ、すっきりしました。

「もっぺん言ったら、鼻血が出るまで殴ってやる」

 彼女は、目の前で拳を固めて僕を睨みつけていました。その手は、少しだけ赤くなっています。
 僕のせいで。
 それが僕は悲しい。
 きっと痛いだろうな。殴るなら、顔かお腹にすれば言いのに。
 ほら、そんなに痛そうな顔をして。
 もう一度聞いたら、貴方はもう一度、僕を叩くんでしょうか。
 困りました。
 あなたには痛い思いはして欲しくはないけれど、

 僕には、聞かなくてはならないことがあったから。

「僕は、ここに居てもいいですか?」

 ゆっくり振りかぶられたその動きは、たぶん頬を狙っているんだろうとわかりました。だから僕は目をつぶって、それを待ちました。

ぺち

 けれどそれは、覚悟していたほど痛くはありませんでした。そして、彼女は先程よりも痛そうな顔で、僕を見つめた後、

「私は、お帰りっていったわ。……アンタは、まだその答えを言ってないわよ」

 きっと、それが彼女の答えでした。
 だから僕は、僕が正しいと思える、
 僕が言いたかった言葉を口にしてみました。

「ただ……いま」

「声が小さい!」

「ただいま」

「よし!」

 にっこりと笑って
 そして彼女は、
 僕をぐっと引き寄せて、
 ぎゅっと、
 抱きしめてくれました。
 その腕は温かくて、柔らかくて、 

「心配したんだから……もう、シンジが帰ってこないんじゃないかって」

「……」

 その声は、優しくて、

「みんなには私が話しつけといたし、あのボケはボコボコにしといたわ」

 その声は、どこか悲しそうで、

「また、……シンジのチェロ、聞かせてね」

 その声は、どことなく嬉しそうで、

 だから、それを受け取った僕の心は、温かくて

「…はい」

 だから僕は……彼女を、ゆくっり引き離しました。

「シンジ?」

「ありがとう、ユカリさん」

 僕は、彼女がいつか、僕に言ってくれたとおりに、笑顔を浮かべようと努力しました。でも少し息が苦しくて、少し胸が痛くて、上手くできたか少し不安でした。

「あ、……うん」

 ジクジクと痛む胸を押さえて、これ以上息が苦しくなる前に、後もう一つ、言っておかなくちゃいけないことがあります。

「先生」

「な、なんだ」

 僕が振り返ると、先生は少し慌てた様子でした。

「お話があります」

 解っています、先生。

 僕はもう逃げません。逃げる無意味さを、空しさを、僕はよく理解しました。

 だから、僕はもう逃げません。


 僕は誓います。


 お母さんに


 お父さんに


 そして何より、ユカリさんに、


 そして、


 見上げた空の、




             あの朱に








      No one's getting out here

――――――――誰一人としてここから逃げられない


      No one's breaking loose from the beautiful world.

――――――――誰一人としてこの恐ろしい世界から逃げられる者はいない














次回予告

 彼のいた部屋

 彼のいた教室

 彼のいた音楽室

 けれど、シンジはもうここには居ない。






次回、見上げる空はどこまでも朱く

 第一部  二章

 第十六話

 「【 】い空の下」
























おまけ

外伝予告劇場!!

ミソラージュ   その一






 カンカンカン

 私はボロアパートの錆びた階段をリズム良く登ってゆく。行く先はもちろんあいつの部屋で、右手には私の手料理、左手にはお酒と柿ピー。

「ふん、ふん、ふーん……」

 階段を上りきり、すぐ手前に彼の部屋はある。この位置だと人の通りが激しくて、最近またギターを始めたあいつにとっては、あまりいい環境ではないだろう。
 引っ越さないのかと聞いた事がある。それに対して、彼の返事はこうだ。

「駅から近くて、コンビにも傍にある。それになりよりここは安いんだ」

 つまり、彼にとっては居心地がいいらしい。

 そんなことを考えていると、あっという間に彼の部屋の前。しかし、私の両手はふさがっていて、なおかつ目の前の扉は老朽化によってとても開けずらい。
 しかし心配要らない。
 私が扉の前に来ると同時にその扉は開く。

「……お帰り」

「うん、ただいま」

 私が散々ここを襲撃するせいか、彼も最近観念してきたようだ。
 どうやら、誰が来るか、足音で解るらしい。回覧板をまわしてきた近所のおばさんの足音まで聞き分けるのだから、ちょっとげんなりする。
 でも、呼んでも無いのにこうしてで迎えてくれるのが私はちょっと気に入ってたりもする。
 私は持っていた荷物を全部彼に渡すと遠慮なく、部屋の中に上がった。

「今日は遅かったな?」

「まーねー。別に残業ってわけじゃないんだけど、ちょっと、ね」

「どうせまた、駅前うろついてたんだろ?」

「うぐ…」

 図星だった。どうしても、暇があるとまたあの子が駅前で困ってやしないかと心配してしまう。

「お前なァ、止めろっていったろ?」

「だって、またあの子がいるかもしれないじゃない!」

「しかしなぁ、この間みたいに職務質問されるのはさすがに……」

「だー! うるさい!」

 ちぃ、イヤナコトを……

「まあ、お前がいいんならそれでもいいんだが、さすがに待ち合わせに来ない彼女を交番に迎えにいくってのはもうカンベンしてくれよ」

「……その節はお世話になりました」

「うん、素直でよろしい」

 そういって、部屋に私を残して、彼は私の持ってきた荷物を手に台所へと向かった。
 
 ちくしょう、今日はなんだか負けてる気が…

 そう思って、何か逆転のアイテムを探していた私の目に彼のギターが映った。どうやら練習中だったらしい。
 何気なく、それを手にとって爪弾いてみる。

ポロロン、ポロロロロン

 なんとなくハワイアン。
 その音色に、先程の敗北感も薄れてゆく。しかし、

ブツン!

ミョン、ミョン……

 弦が切れた。激しく切れた。どうしようもなく切れてしまった。成す術も無く、呆然と見やる私を、あざ笑うかのように切れてしまった弦が目の前でゆれている。

「どうしよう……」

 困った。私には弦の交換なんてできない。せいぜい、彼にこれを引かせて、カラオケ代わりにするくらいだ。そういえば、最後にこのギターの音色で歌ったのは、もう何年前だろう。

 そうして、私が現実逃避しているところへ、暖めた料理を持って、彼が戻ってきた。

「もってきた……よ?」

「あ……」

 絡まる視線、早まる呼吸。けれど、ぜんぜんどきどきしない。彼も呆然と、私の手の中で弦の切れたギターを見つめている。
 どうやら、今日は完全に私が負けこむ日らしい。

「……ごめんなさい」

 素直に謝った。けれどもなかなか返事が返ってこない。恐る恐る彼を見上げると、彼はなにやら先程よりも驚いていた。

「あ―――、いや大丈夫だから」

「でも、ギター……」

 ミョンミョン

「大丈夫だって」

「……でも!」

 ミョンミョン

「んーーー、よし!」

「?」

 揺れる弦と、私を交互に見つめた後、彼は何か思いついたように笑った。

「明日、暇か?」

「? うん、暇だけど?」

「よし、じゃあ明日は――――――






――――――――――――買い物にいこう!」






つまり、次はそんなお話です。












久々の後書き

「目録」という本を書いてる城山タイゾウなんて人はいません。私の捏造です。調べた人がいたらごめんなさい。

 十五話を終えてまず言いたいこと。……長いよ! 重いよ!! 訳が解らないよ!!!

 改めて、皆様にお礼を。何とか無事に一章を終えることができました。これもひとえに皆様の応援と、暖かい感想とご指導のおかげです。これにどれだけ励まされたことか。初めての書き物、誤字脱字だらけの文章、勉強不足による設定の不備。突っ込む所だらけの私の書き物をここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

 十五話は、本当に難しかったです。なめてましたねSSってやつを。文章が短くなってもいけないし、皆様に推理の幅を残さないといけない。……途中からバレバレでしたけど。それから、本文中ではあまり触れていませんが、【ウサギを殺した犯人は誰だと思いますか?】それから、【どうして黒服は赤い女性の現れる場所が第二東京だとわかったのでしょう?】。わかりますか? つまりはそういうことなんです。というわけで難しかったけど書いていとっても楽しかったです。

 実は、haniwaは、プロット段階では台詞しか書きません。そのため、今回たくさんの没ネタが生まれてしまったため、どこかで生かせないかと思い、没ネタコーナーを作ってしまいました。この作り方だと、これからも増えてゆくでしょう。皆さんお気づきでしょうが、実は【End】に入れた帰り道の回想シーン、本当は没ネタのつもりでした。理由はやっぱり、話が明るいから。しかもその前は、順番どおりに【Ⅰ】にぶち込むはずでした。あと、本当にどうでもいいんですが、【End】の冒頭部分の詩、タイトルは「罪悪感」だったりします。ホント、どうでもいいんですよ?

 シンジ君がユカリ嬢を恐れた理由。それは、父が辛いときに手を伸ばせなかった自分と、自分が辛いときに手を伸ばしてくれた彼女。彼女は手を伸ばすことが出来た。では、何故自分は、父に手を伸ばせることが出来なかったか。それは、自分が逃げたかったからに他ならない。それに気がつくのが怖かった、ということです。判りにくくてすみません。

 第一章でやりたかった事は、シンジ君に逃避することを諦めさせ、内罰的性格の形成の種をまくことです。上手くいったかな? さて、第二章についてですが、第一部は第三章まであります。すこし先走ると、第一章から三年後、原作からは三年前です。あとは秘密です。ちょっとは、原作に触れる部分が多くなるかな?

 外伝の名前が決まりました! 【見上げる空はどこまでも朱く、外伝】では長いので、見空朱と書いて、ミソラージュ。…………ごめんなさい。ちょっと疲れてて。…………でも、やったもん勝ちかな、なんて……。

 次は小学校五年生編です。では、皆様、よいお年を。



[246] 第十六話
Name: haniwa
Date: 2007/03/19 16:50
 そいつがまさに諸悪の根源だと、私は常日頃から考えていた。


 人が幸せな時間を過ごしているのにもかかわらず、押しつけがましい親切を向けてくるその存在は、もはや許し難い。
 いや、考えるに、この存在自体が人の罪の現れなのだと言うことすら出来るだろう。
 それほどまでにこいつの存在は私には我慢ならない。
 何故、他の人たちはこの存在を許しておけるのだろう。
 目を背けようと努力したこともある。慣れてしまえば自分も周りの人と同じようにこいつと接してやれる。そう信じていたこともあった。


 でも、もう無理。できない。あり得ない。


 きっとこいつは私のことを憎んでいるに違いない。なぜなら私がこんなにもこいつのことを憎んでいるのだから。
 だからこいつは攻撃の手をゆるめないし、むしろその勢いを強めつつある。
 だけど、私は負けない。負けてなんかやらない。
 こいつがやる気なら、私もそれ相応の対応をしてやるまでだ。
 だから、
 私は、こいつに容赦なく攻撃を加えることが出来る。

 そう、この振り上げた右手を、何の躊躇もなく――――




ピピピッ ピピピッ ピ――バチィ!!




「むぁ?」

 そうして私の一撃で、憎いらしいあいつ、目覚まし時計の息の根を止めてやった。








 見上げる空はどこまでも朱く


 第一部 二章


 第十六話  


 【 】い空の下










「……空しい勝利だったわ」


 すでに沈黙したデジタル式の目覚まし時計を手に、私はベットから上半身だけを起こして一人つぶやく。
 しかし、こいつもなかなかの強者だった。甲高い電子音は、どうしてこうも耳障りに聞こえるんだろう。布団に潜っても確実に音は耳に届くし、私の幸せな眠りを妨げる。しかもこいつは、ご丁寧なことに時間がたてばたつほどにその威力を増していくという小憎らしいことまでしてくれる。
 そんなことを考えていると、思わず四角いこいつを持つ手に力が入ってしまう。
 まえに使っていた、ベル式の目覚まし時計は良かった。
 無駄な装飾の無いあの丸くて古臭いデザイン。きらめく銀色のボディの安っぽさ。そして何より、布団にくるんじゃえば簡単に聞こえなくなるひ弱さ。しかし、結局そのひ弱さがたたって私がたたき壊したことを思い出して、また悲しくなる。
 持っていた時計をベットの上に放り投げ、改めて自分の部屋を見渡した。
 右を向けば本棚。左を向いても本棚。おまけに正面を向いても、ベットの脇にある机の上にも本棚。
 そのすべてに隙間なく本が並べられている。
 古い本や真新しい本まで、いろんな本がそこにはある。その薄暗い部屋を照らし出すのは、机の正面にある窓から差し込む朝日の光だけ。
 わずかに舞い上がっている塵が、その光を空間に映し出していた。その光景に、私はいつもの朝が始まったことを理解しはじめた。
 さて、今日は何着ていこうかな。
 まだ抜けきらない眠気から少しふらふらしながらベットから立ち上がり、私の部屋の中で唯一女の子らしい場所、ドレッサーに向かった。
 少し大きな鏡には、まだ眠そうな女の子が映っている。肩まである髪はぼさぼさで、その目はまだ半分しか開いていない。

「……おはよう」

 ゆっくりと表情を作りながら、まずは今日の自分に挨拶をしてみる。


 それが私、山川ユカリの一日の始まりだった。


―――――――――――――――


 結局、いつもどおりズボンと適当なシャツに着替え終わった私は、カバンを持って、すでに人の気配の無い一階に下りた。
 居間のテーブルには、少しくしゃくしゃになった新聞がたたんで置いてあった。パパはもう出かけたみたい。
 最近、パパはいつも朝が早い。以前なら朝稽古のおかげで顔を合わせることも多かったが、パパが高校で担任のクラスを持ったことと、演劇部がちょうどこの間公演が終わって、練習がなくなったことで、最近ではあまり顔をあわせていない。
 次に、誰もいない台所。
 そこにいてもいいはずの、ママの姿はそこにはない。
 そういえば、今日がママの仕事の日だっけ。
 ママは、私が五年生に上がってからまた以前のように本格的に仕事を始めた。今日みたいに朝から家を空けることが多くなっているけど、ママはとっても楽しそうだから、私の事もかまっては欲しいと思うこともあるけど、がんばって欲しいとも思う。


 だからもう、この時間に家には誰もいない。


 ただ静かに、朝食だけが私を迎えてくれた。
 今日のメニューはハムと卵のサンドイッチ。まるで喫茶店に出てくる品物のように三角に切られ、皿に盛り付けられている。少しはしたないが、冷蔵庫から出した牛乳をコップに注ぎながらそれを手早くつまんでいく。パンにはさまれた卵の甘みを楽しみつつ、牛乳で流し込んみさっさと食事を終える。
 お皿とコップを流しに運んで、水につけておく。
 蛇口をひねってザーと水が流れていく音。蛇口をきゅっと閉める音。そして台所から見える居間を振り返ると、カチコチと壁に掛けられた時計の音。


 そこで、もう一度誰もいない家の中を見渡した。


 なぜか、心の中に、何かを置き忘れたような、小さな空白があるように感じた。


 私は、私が動かなければ時計の音しかもう聞こえてこない部屋の中で立ち止まった。
 少し寂しい朝食。少し寂しい私の朝。けれど、それにはもう慣れてしまった。
 ちょっと昔の私なら、こんなのは嫌だと駄々をこねただろうか? 文句を言う相手が目の前にいない以上言っても仕方の無いことではあるけれど。
 だから、突然私の胸の中にストンと落ちてきたこの言いようのない空白は、きっと別の理由があるはずなのに。
 徐々に登校時間に針を進める時計を見ながらそんなことをぼんやりと考えた。
 少し早いけど、もう出かけよう。
 カバンを背負いながら、居間を出て、玄関に向かう。

「行ってきます」

 そうして私は、何が欠けているか解らぬまま、静かな朝の光景を後にした。


―――――――――――――――


「おはよう」

 学校に着いて、五年二組の教室の扉を開けると、また誰かがパネルを操作したらしく、クーラーの効きすぎた部屋は外と違ってひんやりとした空気が流れてきた。教室を見渡すと、そこにはすでにクラスメイトが何人かいた。
 目のあったクラスメイトたちに挨拶をしていると、一際元気な返事をする二人組みがいた。

「あっ! ユッカリちゃーん、おっはよー!」

「おはよーさーん」

 私が自分の机にカバンを置いて一息つくと、その二人組みは嬉々として私の傍に近づいてくる。

「大変よ! 大変!」

「かとちゃん、どうしたの?」

「こないだ、学年統一のテストがあったでしょう? あれ今日帰ってくるんだって!」

「あー、あれね」

 少々忙しく話すこの子は加藤さん。本人いわく、ツインテールとちょっと厚めの唇がチャームポイントらしい。

「うち、ぜんぜんできんかってん。憂鬱やわー」

 私の机にあごを乗せて座り込み、関西弁で愚痴るこの子は佐藤さん。こちらも本人いわく、ショートヘアとつり気味の目がチャームポイントらしい。
 二人とも私が五年生にあがってから同じクラスになった。
 なかなかに個性的なこの二人はとても仲がいい。なぜかその個性がぶつかり合うことも無く、よく二人で私に絡んでくる。
 私はそんな二人を横目で見つつ、鞄から荷物を散りだした。

「そんなに気にすることないんじゃない?」

「「……」」

 そうして、先ほどの話題を投げやりにかわしていたら、二人がなにやら不穏な目で私を見つめていた。
 加藤さんは座っている私を見下ろし、佐藤さんは上目遣いに私を見ている。なにやら、いたたまれない気分にさせる嫌な目つきだった。

「ンマ! お聞きになりまして奥さん」

「んもーばっちりですがな奥様」

 今にもオホホと、おば様笑いをしてくれそうな勢いだ。

「な、何よ」

「そりゃ、ユカリちゃんはいいよねぇー、成績優秀で、スポーツもそこそこ。……あたしらみたいな劣等生の気持ちなんて……ねぇ?」

「辛いなーかとちゃん? もう、うち眩しゅうてユカリちゃん見らへんわ」

「あたしもよさっちゃん!」

「かとちゃん!」

 なんとも卑屈に態度を全身で表しながらも、その口元に笑みを作りながらお互いの肩に手を置く二人。
 私はその様子を少々あきれながら見ていた。

「あんたらねぇ……」

「えーんよえーんよ気にせんといて? うちらみたいなのんと違て、ユカリちゃんはそのままインテリブルジョアジーな人生あるいとったらええわ」

 私がその小芝居に一言物申そうとすれば、手のひらを私に向けて佐藤さんはそれを遮った。
 その指の隙間からちょっとだけ見えた表情はなんとも楽しそうだ。

「なによ、インテリなブルジョワって。意味判って使ってる?」

「知らんでもえーの、この場合。嫌がらせなんやから」

「「ビバ! 何ちゃって英語知識!」」

 二人で声を合わせ、両手を掲げ胸を張ってこんなことを言う。事前に打ち合わせでもしていたんじゃないかと疑いたくなるくらい息がぴったりだった。
 二人はそばで見ている私が本気であきれるくらい仲がいい。

「はいはい……。ちなみに、ビバはイタリア語よ」

「「え゛!」」

 私の最後の一言に、手を上げたままびしりと固まる。
 二人はこんな時も、とても仲がいい。
 空しくも、今度はとても楽しい優越感を味わいつつ、私は朝のホームルームが始まるまでそうして時間をつぶした。


―――――――――――――――


「じゃあこれからテストを返します。名前を呼ばれた人は順番に取りに来てください。まず国語から、飯田さん」

「はい」

「加藤さん」

「は~い」

 そうして中野先生が順番に名前を読み上げていく。私は自分の順番を、目の前でテストを受け取った人が点数を見たときの一喜一憂する表情を楽しみながら待った。
 ふと、テストを受け取って席に戻っていく人の流れの中に、先ほどの二人がいるのを見つけた。点数を見せ合った後お互いに肩を落として、その頭上に暗い影を作っている。その一つ一つの動作が大袈裟で、どんな結果だったかよくわかる。
 その光景を見ていてふと、その場所から気持ちがどこか離れていくように感じた。


 やっぱり、何かが足りない気がする。


 目に映る、教室の何気ない光景の中で、何かを忘れているような


 埋めきれない空白があるような―――――



「―――川さん! 山川ユカリさーん」

「あっ、はい」

 思考の中に落ちていた意識を慌てて教室の中に戻すと、いつの間にか私の番になっていた。
 ぼーっとしている間に何回名前を呼ばれたんだろう、クラスの生徒全員が勢いよく立ち上がった私を見ていた。見られることには慣れているけれど、こういう時の視線はさすがの私も気恥ずかしく感じた。
 テストを受け取って後、点数を確認せずに席に戻った。同時に背後に不振な気配を感じる。

「わ! ユカリちゃんすごい! 百点!」

「ほー、すごいー」

「まぁ、得意だからね。って! 後ろから勝手に見ないでよ!」

 いつの間にか肩越しに覗き込んできた声に、あわててテストを隠す。振り返って見ると、先ほどまで前で見せ合いをしていた加藤さんと佐藤さんがいた。
 私は二人に文句を言ったが、彼女らは悪びれる様子も無く続けた。

「えーやん減るもんじゃなし。……ちょっとその点数分けて!」

「そしたら減るじゃない。で? さっちゃん達は何点だったわけ?」

 そういうと、二人はすうっと息を吸い込んだ後、目を見開いて叫んだ。

「うち四十一点!」

「あたし四十点!」

「「二人合わせて八十一点!」」

 今度は、突然叫んだ二人にクラス全員の視線が集まり、何ともいえない空気が流れる。
 中野先生は名前を読み上げるのを止め、テストをすでに受け取った人もまだの人も、二人を見ていた。
 クラスの全員がこの成り行きを見守っている。
 何となく、落ちが読めてしまった私を含めて。
 そう、二人の作戦には重大な欠点がある。

「八十…一点? ……あれ?」

「負けてるわね」

 一瞬、時が止まったかのような沈黙の後、

「ぐはっ!」

「っ! さっちゃーん!」

 突然佐藤さんが胸を押さえてその場に倒れ、加藤さんがそれを支えた。
 何故か息も絶え絶えになりなった佐藤さんは、加藤さんに手を握られて、口を開く。

「ごめん……な、かとちゃん。うち、うちもうあかんわ」

「何弱気なこといってるのよさっちゃん! ……大丈夫、大丈夫なんだから! あと一人、私たちと一緒に立ち向かってくれる仲間さえいれば……」

 突然部屋が暗くなり、二人にスポットライトが当てられているかのような、そんな錯覚に陥りかける。が、しかし二人のキャラクターのせいか、すぐにそこが教室であることに立ち返る。
 そして二人の小芝居は最終局面に入ろうとしていた。

「ええねん、うち、かとちゃんといっしょで、たのしかっ……た」

「……さっちゃん? ねぇ、さっちゃん目を開けて!」

 がくりと力なく佐藤さんが崩れ落ちた。その表情は何かやり遂げた、誇らしい表情だった。

「……助けて。誰か……誰か! 誰か助けてください!」

 何故かそこで、先生を含めたクラスの全員の視線が私に注がれていることに気が付いた。その視線に含まれている意味も、私には十分すぎるほど理解できてしまった
 どうやら、私にこの小芝居を終わらせろと言うことらしい。


 ……やだなぁ


 でも仕方ない。先ほどから目の前の二人もつこっみを待って、ちらちらとこちらを見ていることだし。
 私は、この状況に最も適した言葉をこの二人に送ろう。

「ネタが古いわよ」

「「ぐはっ!!」」

 今度は本当に苦しそうに崩れ落ちる二人を見つつ、私はみなの望み通りの役目を果たした。


―――――――――――――――


 次に帰ってきたテストは算数だった。
 私は返された自分のテストを先ほどと違い、やや苦い思いをしながらにらんでいた。

「むー」

 そうしていると先ほどと同じように佐藤さんが私のテストを覗き込んできた。

「ユーカーリーちゃーん。算数何点やったー?」

「……六十点」

 小さくつぶやいてから、しばらく静かな空気が流れた。
 おやと、不思議に思う。何かしらの反応を示すはずの彼女から、何の変化も無い。
 何事かと思って佐藤さんに振り返ると、彼女は何度も私のテストと自分のテストを見比べていた。
 そして私が彼女を見ていることに気がつくと、口の端をゆがませにやりと笑い、自分の相方に振り返った。

「かとちゃーん! ニュースニュース!」

「どーしたの?」

「うちユカリちゃんに算数で勝ったで!」

「え! ちょっとさっちゃん何点?」

 聞いた私にさっちゃんは自分のテストをドンと突き出した。

「六十一点!」

「なんだ、一点だけじゃない」

「ふっふーん。勝ちは勝ちやもーん。ほーら、ほぉ~らぁ」

「くっ!」

 たかが一点。そう切り捨てることもできたが、面の前で鼻を膨らませてふんぞり返っている彼女には何の効果もないだろう。
 私と佐藤さんがそうしてにらみ合っていると横から加藤さんがやってきた。

「どーしたの? ユカリちゃんにしては珍しい点だね?」

 私は手握りつぶしたい気持ちを抑えつつ、手元のテストに目を落とした。

「……算数って苦手なのよ。特に分数の割り算。何でこいつはひっくり返るのよって思わない?」

「えー、しゃあないやん。きっと昔の偉い人が考えたんやろし、そこら辺は割り切らんと」

「でもね? 6を2で割ったら3でしょ? じゃあなんで二分の一で割ったら十二で増えるのよ?」

「あー、それわやなぁ……」

「さっちゃんそれ以上言ったらだめだよ」

 佐藤さんが得意げに説明しようとしたところを、その肩に手を置いて加藤さんが止める。加藤さんはまるで私から隠れるように、ひそひそと佐藤さんに耳打ちした。

「なんでな、かとちゃん?」

「ゆかりちゃんのスイッチが入ったら面倒くさいから」

「……あー」

「何よスイッチって! さっちゃんも! 何納得してんのよ」

「あわわ、聞かれとった!」

 わざとらしく大袈裟に驚いてみせるところがますます腹立たしい。私は思わず立ち上がると、二人を正面に見据えた。

「いい? 私が言いたいのはねぇ、分数の掛け算割り算なんてそもそも社会に出た時に―――――」

 そして私は、二人を目の前に並ばせて、分数の存在が如何に無意味な物であるかという話をはじめた。


「……かとちゃんのあほ」

「……ごめん」

「ちょっと! 聞いてるの!」

「「……はい」」


―――――――――――――――


 お昼休み。
 給食も食べ終わって、教室には私と何人かのクラスメイトしか残っていなかった。私は自分の席に座ったまま窓から外を見ていた。
 小さな雲が遠くに一つ二つ浮かんでいて、今日はそんなに風も強くないから、ゆっくりと流れていく、とてもよく晴れている空。
 閉じた本を机の上においてぼんやりとその光景を眺めながら、朝から引きずっている奇妙な空白、仲のいい二人を見ていると、ふっと湧き上がる、そんな言いようのない気持ちについて考えていた。


 私は今まで観じたことの無い、この不思議な気持ちを持て余していた。
 それはどこかもやもやとしていて、せっつくような感じは無いけれどちょっとした時に後ろを振り返らせるような、いつまでも胸に残って離れない。これは、どうしたらいいんだろう。
 そもそもこの気持ちの原因は何だろう。
 別に今日忘れ物があった訳じゃない。宿題もちゃんとやってあったし、体操着も持ってきてた。誰かとの約束をしてたわけでもなかった。
 この不安にも似た空白の原因になるような物は、何一つないはずなのに。
 それとも、今見てるこの景色のせいなのかな。
 今日と、昨日の違いはなんだろう。きのうも確か晴れだった。遠くまで見通せるほど澄み切っていて、雲は無かった。でもこんな気持ちにはならなかった。たった二つ、雲が浮かんでいるだけでこんな気持ちにはならないと思う。
 その前はどうだったろう。別に、今日と変わらない空だったと思う。その前は珍しく雨が降って少し気持ちが落ち込んだかもしれない。それでもこんな空白は、私の胸の中には生まれなかった。


 なのに――――




 ――――違う、何かが違う。




 止めよう。
 こんな時はふて寝しよう。うん、そうしよう。こんなことでうじうじ悩んでるなんてちっとも私らしくないって思うけど。
 もう、どうしていいかわからない。

「うっだぁ~~……」

 ぐったりと机に突っ伏してみる。クーラーの効いた部屋で少し冷えたほっぺたを、日の光が当たってるところにくっつけるとほんのりあったかかった。それにつられて、少しだけ気持ちがほぐれたような気がした。
 そこへ、

「なーにふてくされてるの、ユカリちゃん」

「んー? ……なんだ、かとちゃんたちか。ちょっとねー」

 私がへたれているところへ声が掛けられた。
 首だけを声のほうへ向けてみると、バレーボールを持った加藤さんと佐藤さんがいた。私が気だるげにしていると、佐藤さんは私の前に回りこみ、心配げに覗き込んできた。

「なんやぁ、そんなにうちに算数で負けたん悔しかったん?」

「ちがうわよ。でも、ちょっと説明できないんだけど……」

「あたしら今から校庭に遊びに行くけど、ユカリちゃんも一緒にいかない?」

 加藤さんが両手に持っていたボールをくるくると回しながら言った。けれど、もう動く気にもにもなれなかった。

「せっかくだけど、遠慮しとくわ」

「なーに? 本格的に元気ないね。五月病ってやつ?」

「そーなんか。ほーらユカリちゃん元気出してー」

 正面にいた佐藤さんが私の肩を揉んでくれた。
 それでも顔を上げない私を見かねたのか、

「そんな時はあれだ、気分転換にすこし少し動いたほうがいいと思うよ?」

「……そうね。私もそう思うんだけど……」

 加藤さんの言葉に、もう一度外を見る。
 窓に切り取られた、相変わらずの晴れた空が見えた。
 気の無い返事しかしない私にとうとう諦めたのか、佐藤さんは肩を揉むのをやめ、加藤さんがため息をついた気配がした。
 こんな時に気遣ってくれるのは正直うれしかった。しかし、

「せやけど、あれやな。こないに元気の無いユカリちゃんも珍しいなー」

「そうだねー。でも……」

 言葉の途中で加藤さんが思案気に言葉をとぎらせた。

「でも?」

「……なんか落ち込んでるユカリちゃんもかわいい。ハッ! そっかこれが萌えってやつなんだね!」

 まるで役者のように高らかに吼えたりもする。私を元気付けるためなのか、それともただふざけたいだけなのか。
 またさっきみたいに子芝居を始められても、次は止められそうにない。

「また、何を―――」

 馬鹿なこと言って、と続けようと顔を上げたとき、何故かわなわなと震えている佐藤さんが目に入った。
 佐藤さんは、加藤さんをまるで信じられないものを見るかのような目つきで見た後、さっと目を伏せた。
 相方の異変に気がついた加藤さんが振り返った。

「って、あれ? さっちゃん?」

 声を掛けられた佐藤さんは、先ほどまでと違いおずおずと口を開いた。

「……ごめんな、かとちゃん。うち、そっちの趣味はないねん。でもかとちゃんは、……かとちゃんは友達やから……ごめん!」

「ちょっ! ちょっとさっちゃん! 違うの、誤解だってばー!」

 言い終わると佐藤さんは私の手を取った。そして悲しそうな目で私をまっすぐ見て言う。私はあっけにとられて何も言うことができなかった。

「ユカリちゃん、うちらは清い仲でおろな?」

「もー! 違うんだってばー!」

「きゃー、よーごーさーれーるー」

「まてー!」

 そうして二人は私の目の前で追いかけっこをはじめてしまった。ばたばたと教室を駆け回る二人を目で追いながら、私は掛ける言葉を見失っていた。
 やがて二人は教室の外へと向かう。しかし、そのまま出て行かず途中で二人して私に振り返った。

「ほなねユカリちゃん」

「元気出してね」

 何とかひらひらと手を振って見送ると、あっという間に二人は教室から姿を消した。いたずらが成功した時のような笑い声と共に。
 廊下に響いていた二人の足音さえ聞こえなくなって、私はいつの間にか、何かをする元気が少しだけわいていることに気がついた。


 やられた。まったく、一体いつの間に打ち合わせしてるんだろう。


 私は、二人の心遣いに感謝しつつ、一回だけ息を吐いてから席を立った。


―――――――――――――――


 屋上は一般生徒立ち入り禁止となっている場所だった。


 当然、普段は屋上に続く扉にも鍵が掛かっている。
 でも、それは代々上級生から受け継がれているある方法で簡単に開けることができる。といっても、そんなに大げさなものじゃなくて、引き戸になっている扉と扉の隙間から細長いもので鍵金をいじってやるだけなんだけど。屋上に続く踊り場はちょっとした物置になっているから、少し丈夫な細長い棒を見つけるのにも苦労しない。
 そうして結構簡単に屋上に来ることはできるけど、実際にここまで来る人は少ない。
 先生に見つかったら怒られるし、何より屋上には本当に何も無いから。


 それでも、私は屋上へと続く階段を上っていた。


 屋上は私の好きな場所の一つだった。
 大きな声で発声練習をするとき、気分を変えて本を読むとき、ちょっと一人になりたいとき。
 そんな時、私はときどき此処に来る。
 階を一つ上がる毎に、踊り場やそれぞれの階に居る生徒の影が減っていく。廊下越しに聞こえてくる、校庭で遊んでる人たちのはしゃぐ声が、だんだん遠くなる。
 そしてそれも、少しづつ聞こえなくなっていく。
 屋上に続く階段、その踊り場に響く上履きの音が、大きくはっきり聞こえるようになっていって、もう屋上が近いことが分かる。
 そこまでの道のりは、とても素敵だと思う。
 一つ上るたびに薄暗く、人の気配も薄れていく階段は、先に何があるのかほんの少し不安にさせる。
 そして一番上、屋上へと続く扉を前にして、本当はいけないことなのにと思う気持ちと、扉に手をのばす時の少しだけわくわくする気持ち。


 そう、今、扉を前にした私の気持ち。


 その気持ちの前に、ほんの少しだけ不思議な空白は薄れた気がした。
 扉の前の踊り場には、相変わらずいろんなガラクタがそこら中に散らばっていた。
 どこかのクラスの出し物に使った看板、演劇に使う背景、誰かの忘れ物た傘。
 古くなったペンキにも似た匂いがするその場所は、物がたくさんあって賑やかなはずなのに、どこか寂しげだった。
 積み上げられたガラクタの中から適当な棒を見つけようとしたとき、髪にふわりと風が吹いた。
 風が流れてるほうを見ると、扉がすでに開いていた。
 誰だろう?
 私みたいな物好きはあんまりいないと思ってたんだけど、どうやら私より先にここへ来た人がいるみたい。
 少しがっかり。せっかく気分を変えたくて、一人になれる此処に着たのに。あぁでも、ここまでわざわざ来たのはどんな人なのか少し気になる。


 そうして私は、少し迷いながらも、屋上への扉へ手を掛けた。



「きゃ!」

 扉を開けた瞬間、さっきまで弱かった風が一瞬大きくなり私を外へと一気に押し出した。
 バランスを崩したけれど、何とか転ぶことは無かった。ただ、先に来ていた人を驚かせたんじゃないかという焦りと恥ずかしさからに、すぐに顔を上げた。
でも、視線の先には誰もいなかった


 だけど、そこには色があった。


 この学校は、少し高いところにある。周りに校舎よりも高い建物は無くて、だから私と空の間には何も無い。
 その背の低い手すりに囲まれた屋上は、容赦の無い太陽に照らされているはずなのに、さらさらと流れる風がその熱を遠くへと運んでいく。


 その場所で、見た。


「わぁー……」

 自然と、ため息交じりの声がこぼれた。
 目の前に広がった光景は一瞬で私の焦りも恥ずかしさも、誰かの存在すらも消し飛ばした。


 私は見た


 扉の向こうには別世界が広がっていた。
 髪を撫で付けるように優しく吹く風。
 遠く、少し傾き始めた太陽にきらきら光る水平線。
 教室からも見えた二つの雲は、さっきよりも流された場所に浮かんでた。
 平地に続く町並みの、そのすぐ上に見える雲は、私のいる校舎からあまりにも遠く離れているせいか、地面すれすれに浮かんでいるみたい。
 雲は地面に大きな影を作りながら、今も風に流されてゆっくりと動いている。
 そんな光景は、まるで自分が空に浮かんでいるような気分にさせる。


 そして、見た。


 それは自然と目に映る。
 手を伸ばせば届くかもしれない。届いても、やっぱりその手にはつかめないかもしれない。
 でもそれを見た人には、その先に何があるのか考えずにはいられない。その先を目指さずにいられなくなる。


 そんな


 どこまでも【青】い空を


 私は見ていた


―――――――――――――――


 しばらくその光景に魅入ってしまった。
「んー……」
 ぐーっと空に手を伸ばして、わずかに残った夢見心地な気分を追い払う。
 不思議な空白は、まだ私の中でくすぶってる。それでも、此処に来るまでよりもずっと軽くなっていた。
 うん、やっぱりこんな天気のいい日に悩んで教室でじっとしてるなんて、私らしくなかった。今ならそう思える。ふて寝してた自分が馬鹿らしくなる。
 そうして体をあちこち動かしながらふと、此処にもう一人誰かがいることを思い出した。
 けれど、周りを見渡しても、屋上には誰もいなかった。そこで改めて屋上にあるものが目に入る。
 誰かが打ち上げた野球のボールや、しぼんだ風船、テレビのアンテナ、それらが点々と散らばってる。この前来たときよりもあまり代わり映えはしてなかった。
 そして、私が出で来た扉がある建物。それ以外もう屋上には何も無かった。やっぱり誰もいないのかな。


 ―――いや、いた。


 半分あきらめて視線を動かそうとした時、建物の上にある給水塔のすぐ下に、ちいさな靴が裏側をこちらに向けているに気がついた。
 建物の影になって私からはその足しか見えなかった。どうやら塔の下で座っているらしい。私に気がついてないのか、少しも動く気配が無い。
 一体誰なんだろう。
 何故こんなに気になるんだろう。
 一人だと心地いい場所は、ほかの誰かがいるとなんだか気まずくなる。だから、いつもの私ならさっさと別の場所に移動してるはずなのに。
 屋上は滅多に人が来ない。少なくとも、私はひとりで此処に来て誰かに会ったことは無かった。だからこんなに気になるのかもしれない。それとも、此処に来た理由を聞いてみたいのかも。
 給水塔の下に続くはしごは、扉のすぐ脇に見つけることができた。私は音を立てないようにはしごに近づいた。
 はしごに手を掛けた時、ゆっくりとそれを上る時の胸の高鳴りは、屋上の扉に手を掛けた時とは比べ物にならない。
 それでも私は呼吸の音さえ押さえつけて上り続けた。
 建物はそんなに高くなかった。はしごもすぐに終わりが見える。
 そうして私はそっと、学校で最も高い場所を覗き込んだ。




 ―――あぁ、なぁんだ




 見つけた。
 風はそよそよと優しくて、ひんやりとした塔の陰に太陽の温もりの届くその場所で。


 そいつは静かに目を閉じていた。


 起こすのが可哀想な位静かな寝息は、私が近寄っても少しも乱れなかった。
 そっと、ヘッドフォンをつけたまま傾げる顔を覗き込む。
 男の子の癖に、女の子みたいに長いまつげ、目に掛かるくらい長い前髪がさらさらと揺れてる
 本当に馬鹿らしい。こんなことで悩んでたなんて。
 そんな自分がおかしくて、笑ってしまいそうになる。


 パズルの最後のピースは見つけた。
 後は空白を埋めるだけ。


「おはよう」


 ぴくりとまぶたが動く。
 静かに、閉じられていた瞳が開き、私を捕らえる。私はそっと手を伸ばして髪の毛を払ってあげる。
 そして、もう一度


「おはよう、シンジ」

「……おはようございます、ユカリさん」


 寝ぼけながら、シンジはにっこりと笑った。私もつられてしまう。でも、ちっとも嫌じゃなかった。
 だって、私は、こうして欠けていたモノを見つけることが出来たから。

 風は今も優しく、日差しは暖かい。








 次回予告

 いつかくるかもしれない

 その時を

 私は

 僕は

 待ち続ける






 次回、見上げる空はどこまでも朱く

 第十七話

 「思い、果てなく」











あとがき

 お久しぶりです、haniwaです。
 ほぼ二ヶ月ぶり。……ごめんなさい、リアルで忙しくてパソコンに向かうことさえ出来ませんでした。しかもこんなにお待たせしたのに、山場ゼロ、葛藤ゼロ、オリキャラ満載、シンジ君の台詞一行、エヴァ度ゼロ。いい加減にしろと自分に言いたい。
 十六話は2章のプロローグ的な位置づけです。がんばって久しぶりに一人称です。読みにくいですが、自分としてはギャグを結構いれたつもりです。あと、少し文章の書き方を変えてみました。変なところが在ればご指摘頂けるとうれしいです。
 では、感想のお返事を。

Cold大王さん、イドゥケスさん、カシスさん、カエルさん、感想ありがとうございます。

 Coldさんへ、暴走気味でしたのでちょっとのりが軽くなりすぎたかなとも思いましたが、気に入っていただけたようでうれしいです。ゲンドウ、でるかなぁ。話の流れ次第ですね。もし誰か出してほしい原作キャラがいたら教えてください。限定一人くらいで。……追伸についてですが、しまった! そっちのほうが面白そうだ! でも違う人なんです。キャラの書き分けができてなくてすみません。

 ィドゥケスさんへ、そうですね、人が目指してる平和の姿って言うのはそんなに変わらないはずなのに、ほんの些細な違いだけで悲しい結果になってしまいます。人は一生その間で苦しむ悲しい生き物なのか? 原作ではここにもふれているような気もします。少し細かいところにまで気づいてくださったようで、書き手としてはうれしい限りです。

 カシスさんへ、良かった、本当に安心しました。それまでの話がありにも暗かったので軽すぎるぐらい軽くしてやろう思って書きましたが、リクエストしてくださったカシスさんに気に入って頂けるかどうか不安でした。黒服の彼・彼女については現在外伝2を製作中です。話の内容は真っ黒ですが、楽しみにしててください。

 カエルさんへ、はじめまして、感想ありがとうございます。エヴァのSSを書く上で、オリキャラは敷居が高く、受け入れがたいという人が多いと思っていましたが、カエルさんのような感想を書いてもらえると大変励みになります。二章では原作との違いが一番出る場面がありますので、どうかお楽しみに。……ユカリの扱いですが、何も言えません。彼女の扱いを話すとそのままエンディングを話すことになるからです。どうか見守っていてください。これからよろしくお願いします。

 次回は最低2週間以内には完成させたいです。どんどん筆は遅くなりますが、haniwaはこの話をなんとしても完結まで持って行きたいと考えています。どうかお付き合いください。

 追伸:ひっそりと没ネタを更新しています。どんなお話かは見てのお楽しみ。どっかで見たこと在るって人は教えてください。



[246] 第十七話
Name: haniwa◆5c9c4c4c
Date: 2007/06/25 11:38
 間幕




 ―――ここは、どこだろう


 ―――何で、こんな所に


 そこは静かで
 人々の雑踏からも遠く
 辺りを照らす街灯すらなく
 時間の流れのような光の尾を引く車の行き交うこともない
 静かな、暗闇
 ただ目の前に、一本の道だけ
 まるで浮き上がっているかのように見て取れた
 グニャグニャに曲がった
 けれど、確実に先へと延びる道
 何も変化することのないその場所で
 ただ立ちつくしていた
 暗闇に飲み込まれた、その先を見据えたまま


 妙に、体が重くて
 立っているのがとても辛くて
 顔を上げていることも
 息をしていることも
 苦しいと考えていることさえ
 それでも
 ちりちりと後ろ髪を焼かれる
 心臓を握りしめられ
 今にも引きずり出される
 焼け付き、それでいてどこか冷たい何かを
 立ちふさがる暗闇に見つけようとして


 ふと気が付くと
 耳障りな音が聞こえてきた
 そちらへ、
 自分の体へ、
 本当にほんの少しだけ、目を向ける
 そこには、鎖
 周囲に融け込んでしまいそうな、黒い鎖
 腕や、足に巻きついたそれがジャラジャラと擦れ合っていた
 それは重く、厳しく、冷たく
 何もかもを投げ出して、目を閉じてしまいそうになる


 だけど、
 それは僕を決して離さない


 そして、
 僕はそれを絶対に離さない


 ―――ああ、そうだ。


 ―――そうだった。


 そのためにここにいる。
 あの日、あのときの夕闇からずっとここにいる
 それが僕の覚悟
 あの日の誓い
 決して、目を逸らしたりしない
 もう、それしかない
 この先に居るのがあなたなら
 いつかこの道からやってくるのがあなたなら、
 たった一つの、あなたとの繋がりだから


 でも


 鎖のあまりの重さ
 先の見えない暗闇
 足がすくみ、その場に倒れ、耳をふさいで、堅く目を閉じてしまいたくなる
 どうしてと、誰かに聞いた
 どうしてと、誰にも届かなかった
 だけど、僕は答えを掴んだ
 僕はもう知ってるんだ
 理由、正体、何もかも
 なのに何故、止まってくれないの?
 顔を上げろ、前を見ろ、逃げるな、……さぁ! 早く!
 僕の胸を灼く、その声は止まってくれなくて―――


「――――」


 声が、聞こえた


 さっきまでとは違う声


 一瞬で周りの景色が変わった


 たった一言
 別の場所からその声が届いただけで
 どこまでも暗闇の続く場所のはずなのに
 陽だまりみたいに暖かくて
 たった一言
 うれしさに弾んだその声が聞こえただけで
 月のない夜のような暗闇が
 目を開けられないほどの光の世界に
 だけど、その光はあまりにも眩しくて
 その人を見つけられない
 あそこから引き上げてくれた
 あの声の主を見つけられない
 暗闇にも耐えられた心が
 この暖かい、光あふれる場所では耐えられない


 ―――どこ? 


 ―――どこなの?


 もう少しで声を上げそうになったとき


 さっと、視界に影が差し


 ふわりと、額に触れる暖かい手の感触 


 ―――あぁ


 通りでいくら遠くを見渡しても見つからないはずだ
 その人は近くに
 彼女はこんなにも近くに
 顔を少し上げて
 目を開いた、そのすぐ傍にいてくれたんだから




「――――、シンジ」

「……おはようございます、ユカリさん」




 僕がそう答えると

 陽だまりのような笑顔を浮かべて

 彼女は笑った




――――――――――――――――




 しばらく、私は屋上で見つけたシンジを観察していた。
 そもそもこんなところで何をしていたんだろう。
 シンジの傍には、風に飛ばされたのか、やたら走り書きの多い紙が、そこらに散らばってる。
 元々その紙がおいてあったらしい場所をたどると、何とも不格好なキャラクターの模様がちりばめられたナップサック。そしてそこから、ヘッドホンへつながるコードも伸びてる。
 解ったことは、そんなことだけだった。

「で?」

 視線をシンジに戻して直接聞いてみることにした。
 その言い方は、目の前でポヤポヤとにやけてるシンジに、こんな風に笑う男の子に向けるにしては、少しトゲトゲしかったかもしれない。

「はい?」

 案の定、シンジは少し驚いたように、いまだに眠たげな眼を少しだけ見開き首をかしげた。
 うん、かわいい。
 サイズの大きなヘッドホンの重さに耐えきれず、少しよろめいているしぐさが何ともいえない。
 今なら少しだけ、加藤さんと分かり合えそうな気がする。
 ほんのちょっとだけ。
 でも、私はすでにこのとき、ここまでの道のりを十二分に振り返り、彼の重大な過ちに気づいてしまっていたから。 
 私のその後の行動は早かった。

「はい? じゃないでしょ!」

 ガシィ!

「ひぁ!」

 一握りの容赦もなく、右手でシンジの顔を掴み、力を込め、ギリギリとそのこめかみを締め上げる。
 シンジは手足をばたつかせ面白いように驚いていた。
 傍らにあったシンジの荷物が音を立てて散らばった。
 シンジからしてみれば、突然目の前が暗くなりこめかみに痛みが走った位しか分からないだろう。
 突然私がそんなことをした理由なんて想像もつかないはずだ。
 それでも私は手に込める力を緩めはしない。
 むしろ、未だに混乱から抜け出すことの出来ないシンジの慌てた様子に、嗜虐心さえわき上がってくる。
 だから、私は手を離さない。それに私は怒ってるんだから。
 あわてふためくシンジから、そっと片耳だけヘッドホンをはずして、露わになったその耳元にそっと顔を近づけて、怒鳴りつけそうになるのを押し殺し、むしろ穏やかな口調でシンジにささやいた。

「それでぇ、シンジ君はなぁんで私をおいて先に学校にきてんのかしらぁ? おねぇさんとっっっても不思議ィ」

 ぴたりと、シンジの抵抗が止まった。
 ほんの少しだけ、シンジのこめかみを締め上げている手にふるえが伝わってくる。
 それだけで十分に、シンジが自分がどんな間違いを犯したか気づいたことは伝わるけれど、まだ離してあげない。
 ぐりぐりと、彼のこめかみを締め上げている右手に強弱をつけて、シンジに先を促す。

「ねーシンジくーん? 不思議よねぇ、朝起きたら誰もいないんだもの。どぉしてかしらぁ」

 なるべく、普段私が出さないような猫なで声でシンジの恐怖心をくすぐってみる。
 そうしてようやく、まるでさびたブリキのおもちゃのようなぎこちない動きでシンジは口を開いた。

「そ、それはですね、……き・今日はとっても天気がいいじゃないですか?」
「えぇそうね。本当に、気持ちがいいわ」

 声をわずかに震わせて、視線を私から逸らすシンジ。
 けれど私は、それには従わずにさらにシンジの瞳を覗き込んだ
 そんなことではごまかされないと意思表示しながら。
 やがてそれに気が付いたシンジが私と目を合わせたところで、さらにその先を促す。

「で、ですから、こんな日は朝早くにチェロを弾けたら気持ちがいいだろうなぁって思いまして……」

 ふっと、指先から力が抜けそうになる
 あきれた。
 こめかみの痛みに耐えながらシンジがいったその理由は、私を脱力させるのに十分だった。
 普段からあきれるほどいじくり回してる癖に、まだ足りないのかしら?
 あぁ、でもこういう奴だった。
 意外と思いついたらそのまんま行動しちゃう、そんな奴だ。
 何より、私がそうした。
 これは喜ぶ所かな? 苦笑いを浮かべてこういうことをするようになったシンジを、私は笑って許してあげるべきかしら?

「ふぅん、それで?」
「えっと、その、……以上です。えへへ」

 私がやや力を弱めて脱力していたことに少し安心したのか、私の声色が先ほどより黒くなっていることに気が付かない。
 私の手に隠された手の裏でへらへらと笑ってる気配が伝わってくる。

  ―――あぁ、でも

「そう? よかったわねぇ」
「はい」

 ―――お仕置きは必要よね?

「で? 覚悟はいいかしら?」
「え?」
 
 私は、シンジを掴んでいた右手に、さらに左手を添えて、深く深く深呼吸した。
 そういえば、前に全力をふるったときはどうなったんだっけ?

 メシィ!!!

 何かを引き絞るような音のあと

「―――ぃひゃたたたたたあ!!!」

 そうそう、今のシンジみたいに、可愛らしい悲鳴を上げてくれたわ。
 でも、お仕置きはこれからよ、シンジ?







見上げる空はどこまでも朱く


第十七話


思い、果てなく






「うー、まだくらくらします」
「ふん! あんたが悪いんでしょ」

 こめかみを押さえて呻きながら、給水塔に寄りかかって頭を冷やしながら恨めしげに覗き込むシンジをよそに、その隣へ腰掛けながら私は言った。
 だってホントのことだもの。

「それよりも、こんなとこで何やってたのよ」

 言いながら、私は改めてシンジの周りに目をやった。
 そこには、さっきは気が付かなかった筆記用具の入った筆箱や、そこらに消しかすの山が在った。
 どうやら、ただの気分転換に音楽を聴きにここへ来た訳じゃないみたい。
 そうして私が、もう一度シンジの周りの観察をしてると、シンジは押さえてた頭から手を離し、急に慌てた様子でガサガサと紙の束をあさりだした。そしてすぐに、そのうちの一枚を探し出して私に突きつけた。

「これです」

 気のせいか、シンジが胸を張っているように見えた。こういうとき、大抵シンジのやることはろくでもないことだったりする。私は少し疑わしげにシンジのつきだした紙を受け取った。それはなにやら書き込まれた紙の中でも、一際汚い紙の一枚だった。あっちこっちに走り書きがしてあって、それもコンクリートの上で書いてあったからミミズが這ったような字になってる。
 でもよく見てみると、規則正しい五本線ががきれいにいくつか並んでて、シンジはその上に、ドレミがカタカナで所々記され、おたまじゃくしの出来損ないや、独特の記号も見て取れた。
 一人静かな場所で、お気に入りのプレイヤーに耳を傾けながら、紙に何か書く。
 そこでようやく、シンジがここで何をしていたか解った。

「また楽譜に起こしてるの?」 
「今回はちょっと大変でした」

 私は、やっぱりあきれながらシンジに言った。それでもシンジはうれしそうに、さらに胸を張って私に答えた。

「それで? 今月に入って何曲目?」
「三曲目です、……あ!」

 何気なく続けた私の言葉につられてシンジは得意げに答えるが、次の瞬間両手を押さえて、しまったという顔を作る。
 もちろん私は聞き漏らさないし、見逃さない。

「三曲目ぇ?」 
「あぅ……スミマセン」

 まだ、今月に入ってから、一週間経っていないのに。
 私がじろりとシンジをにらむと、シンジは気まずげに視線を泳がせた。それでも私からの視線がゆるまないことを悟ると、さっきまであさっていた紙を自分の後に隠した。
 しかし、その弾みで、シンジが首に引っかけていたヘッドホンが引っ張られ、落ちて転がった。そして同時に本体のスイッチが入ったようで、そこから音が聞こえてくる。その音は、ほんの少し離れた私にも十分に聞こえてくるほど。
 私はシンジがそれを慌てて拾おうとするのを素早く遮り、それを手に持ちながら膝立ちでシンジに詰め寄った。

「しかもこんな音量で聞いて! 耳、悪くなるって言ってあったでしょ! だいたいねぇ、いくら先生に許可もらったからってこんな所にまできて聞いてるのはルール違反! せめて放課後まで我慢しなさい!」

「…………ゴメンナサイ」

 私が責めるように怒ると、シンジはますますしぼんでいき、膝を抱えてしょんぼりと肩をとした。
 その姿があまりにも情けなくて、私は深くため息を吐いた。


 シンジの数少ない趣味の一つ、といえば聞こえはいいかもしれない。
 何時か手に入れたあのミュージックプレイヤーで、それこそ暇さえあれば、シンジは音楽を聴いていた時期があった。少し行き過ぎと感じたこともあったけど、その時のシンジは、幸せそうで私は何も言えなかった。きっとそれはシンジにとって、私が本の世界に没頭してるのと同じような物だろうと、その時は思った。まさか音楽聞いてるだけでまた倒れたりしないだろうって。
 でもその時私が忘れてた。シンジは、ちょっとお馬鹿だったこと。
 私がその違和感に気が付いたのは、シンジに内緒でプレーヤーをいじってみたときだった。
 一本のテープに同じ曲が、何曲も何曲も何曲も、延々と続いていた。
 その時は、少し変だなとしか感じなかった。けれど故障ではなかったし、よく見ると全曲リピートの設定になっていた。
 それでも私は、シンジが音楽を聴いてるときにテープを入れ替えているのを見たことがない。
 試しに、いつもならどこかにシンジを連れ回すところをぐっと我慢して、休みの日に一日中見張って(観察)みることにした。
 結果、ずーーーと音楽聞きっぱなし。しかもテープを交換もせず。
 その時はさすがにめまいがした。でも本当に驚いたのは、その事を聞いたときのシンジの言葉だった。
 何故、同じ曲を延々と聴いているのか、その答えは

「楽譜にするんですよ?」

 またもや小首を傾げて、何でそんな当たり前のことを聞くのかって感じで、逆に問い返された。
 気に入った曲を飽きるほど聴き、そして聴きながら大ざっぱなドレミを覚えて、楽譜に起こす。
 まぁ、まだそこまではよしとしよう。その時私はものすごく驚いたけど、シンジの特技、そう思えば本当にすごいことだなってうれしく思ったくらい。
 私がすごいねってシンジをほめて、他にどんな曲があるのって聞いていろいろ見せてもらって、音楽の話をしたのも楽しかった。知らない知識が、シンジの口からすらすら出てくるのを、今度は楽しく聞くことが出来た。
 最後に、今度はこの曲楽譜にするのってシンジが言ったから、早く見せてねって言ってその日は終わったんだっけ。
 でも、それがいけなかった。
 その数日後、またシンジが倒れた。原因は、……寝不足。
 
 あぁ! 今思い出しても恥ずかしい!
 何で倒れた後、寝言で、

「―――ユカリさーん、出来ましたよー」

 何て言うのよ!
 先生を含めたクラス全員の視線が私に集まったときどれだけ恥ずかしかったか!
 確かに早く見せてって言ったけど、何も徹夜で書き上げなくてもいいでしょうに。


 思い出した出来事に煮えるような思いを抱いて私は頭を押さえた。
 それが収まった頃にもう一度、ため息を吐いてちらりとシンジを見る。
 膝立ちになった私を、下からそっと覗き込むように見上げていたシンジと目があった。

「……えへへ」

 たったそれだけで、シンジはまた困ったような笑顔を作った。
 その笑顔が、また情けなくて、不器用で。
 でも、そに笑顔につられて、いつの間にか私まで頬がゆるんでいることに気が付いた。
 次の瞬間、そのにやけ面にチョップを食らわせる。

 ズビシ!

「あいた!……なんで?」

「何となくよ」

 そして、鼻を押さえながら聞いてくるシンジから、あさっての方向に顔を背け、赤くなった顔を隠した。




――――――――――――――――




「まったく! それで、今何聞いてるの?」

 私はシンジの隣に座りなおしながら聞いた。
 シンジは少し考えるようなそぶりを見せた後、そっと私にヘッドホンを差し出しながら言った。

「聞いてみますか?」

「うん、じゃあちょっとだけ」

 そういってシンジからヘッドホンを受け取る。
 私はこういうのにあまり詳しくないけれど、このヘッドホンはシンジにしてはとてもいい趣味だと思う。
 どこかレトロな雰囲気と、アンティークの香り。手に取ってみても、安っぽいプラスチックなどではなく、堅い金属の感触のするそれは、着けてみるとちょっと重たい。でもしっかりと私の頭を押さえた。
 これから音楽を聴こうとするんだけど、身につけただけで満足してしまいそうになる。
 私が準備をすませると、それを待っていたシンジにうなずいて見せた。
 シンジはそれを見て、いきますよと断ってから本体の電源を入れた。
 そして私は聞こえてくる音楽に耳を澄ませる。
 しかし、次の瞬間私は眉を寄せた。

 聞こえてきた音楽は、
 思わず耳を押さえたくなった。ヘッドホンが邪魔で出来なかったけど。きっとこれが街角で流れてきたらきっとそうする。
 楽器を奏でていると言うより、ただ鳴らしてる。
 歌っていると言うよりも、ただ叫んでる。
 歌詞の意味はさっぱり分からない、というよりも何を言ってるのか解らない
 よって私の評価は、

「うわ! 何これ? うるさいだけじゃない」

 最後まで聞き終わるまでもなく私はヘッドホンをはずして、私を見ていたシンジに叫んだ。
 シンジは不思議そうに私を見上げてた。

「そうなんですか?」
「そうなんですかって、あんたわかんないのに聞いてたの?」

 私があきれていると、今度は手に持っていた楽譜をなにやら難しい顔を作って見ていた。

「”ろっく”を研究中なんです」
「……この曲はやめときなさい」

 いやよ、シンジがチェロでデスメタル弾いてるとこなんて見たくない。てゆうか弾けるの?
 それにこんなに雑音が混じってるのに音なんて拾えるのかしら。
 ああ、だからあんなに紙が汚かったのか。
 そうして私が一人納得していると、シンジはいつの間にか広げていた物をナップサックの中にしまい、私を見ていた。

「でも、どうしてユカリさんはここに?」

 グッと、息を呑みかける。
 本当のことなんて、格好悪くていえるわけないじゃない。
 それでもシンジは不思議そうにこちらを見つめ続けている。
 ほんの数瞬、私だけ一方的に気まずい思いでシンジと見つめ合った。
 何とか気を逸らさないと

「な、何でもないのよ!? 強いて言うなら、探し物かしら」
「何を探してたんですか? 僕もお手伝いします」

 私が普段よりもだいぶ上ずった声で答えたのは逆効果だったらしく、シンジはさらに心配そうに聞いてくる。
 それどころか立ち上がろうとまでしていた。
 私はそれを慌てて引き留めた。

「ううん! もういいの! 見つけたって言うか、気づいたから……」
「?」

 あぁ、もう! 心配そうにこっち見ないでよ。
 さっきまでの自分の考え思い出して恥ずかしくなってくるじゃない。

「あっ! そうだテスト、シンジも帰ってきたでしょ? 何点だった?」
「え?」

 私は何とか別の話題を思い出すことが出来た。
 ずいぶんと苦し紛れだったけど、どうやらシンジの気を逸らすことが出来たみたい。

「えーと、算数は百点でした」
「ぐっ!」

 だけど、次の瞬間後悔した。
 自分が振った話題とはいえ、少し挫けそう。

「ユカリさん? どうかしましたか?」
「……なんでもないわよ」

  悔しさとも、恥ずかしさとも付かない複雑な気持ちが私にシンジから顔を逸らさせた。

「あぁ、ユカリさん算数苦手でしたっけね」

 うつむいた私の顔を少し覗き込むようにしながらシンジが言う。
 その顔はなんだか先ほどまでの情けない顔に代わり、にやにやと勝ち誇った笑いを浮かべていた。
 ちくしょう、こいつ調子に乗ってるな。

「ふん、いいのよ。私は国語百点だったもの。あんたは?」
「……」

 返事がない。
 今度は私がシンジを横から覗き込んでみると、今度はシンジがうつむき、さらに肩をふるわせていた。
 悔しさを紛らわせるために言った一言は、予想以上に効果的だったみたい。
 そう、何を隠そう、シンジは国語が苦手だった。私はそれをとてもよく知っている。
 なんせ、私が算数を苦手としている以上に、シンジは国語が苦手なのだ。

「シ・ン・ジ・くーん、国語は何点だったのかな~」

 ここぞとばかりにシンジを追いつめてみる。
 点数の優劣で喜ぶような趣味はないけど、今回は別。
 さーて、シンジ君は何点だったのかしら?
 五十点? 四十点? はたまたギリギリの三十点かしら!
 私がそうして、シンジの次の言葉を楽しく想像していたとき、シンジがぽつりと肩越しに呟いた。

「……十五点、です」

 ……聞き間違いかしら?
 なんだかとっても悲惨な数字が聞こえてきたけど。
 もちろん一番最初に疑ったのは、さっきのものすごい音楽のせいでまだ耳が本調子じゃないこと。
 でもそれも、改めてシンジを横から見たとき、その小さな肩に背負った暗い影を見て間違いじゃないことを思い知らされた。

「……え、えーと、その、そうよ! どーせこんなの他人の勝手な評価なんだから……あれよ? 母国語なのにそんな破滅的な点数とったからって気にしちゃだめよ」
「はぅ!」

 あ、シンジがまたへこんだ。どうしよう。失敗しちゃった。
 気付いたときには、肩に暗い影を背負ったシンジと、その姿にさすがに罪悪感を感じるも、その原因を作った私が、それ以上どう声をかけていいか解らなくておろおろしているという図ができあがっていた。
 もう一度慰めようとしても上手くいきそうにないし、かといっていつもみたいに、一方的にシンジが暗いと責めることもできない。
 
「シンジ?」

 そーっと、膝を抱えたままのシンジを横から覗き込んだ。

「……違うんです。文章問題ばっかりだったんです。苦手なんです。……接続詞って何ですか? 五段活用ってどんな方程式? 『その』が示している部分はどこでしょう? 解らないとダメですか? 別にそれが解らなくても明日のご飯には困りません。卵焼きに必要なのは適度な油とフライパンを熱くしすぎないことです。でも―――」

 私にはちらりとも目を合わさずに、シンジはなにやら愚痴っていた。
 それもだんだん小さくなって聞き取れなくなっていく。
 でも、その小さな愚痴の中に、意外にも私が算数をけなすときに使うようないいわけが混ざっていたことが、少し面白かった。
 だから私は、ほんの少し息を吐いて、落ち込んでいるシンジの頭に手を置いた。

「もう、しょうがないなぁー」
「ユカリさん?」

 ポンポンと気安く叩いた後、顔を上げたシンジが戸惑いながら私を見上げていることも無視して、その柔らかい髪をそっとなでた。

「お姉ちゃんが、かわいそうなシンジ君に国語の楽しさを教えてあげましょう」

 さも得意げに言わなくちゃいけない。でないとシンジは絶対に遠慮する。
 教えてあげる、じゃなく教えさせろと含ませて。これが最初の予定通りということは気づかれないように。
 もちろん、このままじゃシンジは萎縮する。私の嫌いな、申しわけなさそうな顔、自分が私に迷惑をかけているんだと悲しそうな顔をするに決まってる。
 問題はここから。私が最後の台詞を言えるかどうかに掛かってる。
 今度は目をそらしてごまかすわけにもいかない。
 シンジは今も私の言葉を待ってるんだから。
 少し動きをぎこちなくしながら、それでも私は言うことが出来た。

「だから、……算数、教えて」

 あー、私きっと顔が真っ赤だ。鏡を見なくても解る。今も柔らかく吹く風が私の頬を撫でるとき、とても冷たく感じたし、何より自分でわかるくらいに心臓がドキドキしてる。
 それでも、言わなきゃ良かったとは思わない。
 だって、私に頭を撫でられてるシンジが、今は困ったように笑ってるから。

「……はい」

 私の言葉にシンジはそう答えてくれたから。

「髪、伸びたね」

 そういってもう一度手をシンジの髪に通す。
 指の隙間から抜けていくシンジの髪の感触が楽しくて、何となく手のひらの中で弄んでみた。シンジもされるがままになってくれた。

「また切ってあげなきゃね。それとも、ちょっとのばしてみる?」
「ユカリさんがいじめるからいやです」
「えー、似合うのに。ねーシンちゃん?」
「もう!」
「あはは、ほらほら」

 逃げようとするシンジの頭をくしゃくしゃになるまでなで回して、その触感を思う存分に楽しんだ。

       キーン コーン カーン コーン

「あ、ほら予鈴ですよ」

 チィ、いいところだったのに。
 私の手から逃げ、くしゃくしゃになった頭を整えてたシンジに向き直る。

「シンジ、今日は放課後どうするの? 確か今日は、シンジがご飯作る日でしょう?」
「そうですねぇー、夕飯の買い物に行かなくちゃ。今日は音楽室も使えませんから、そのまま帰ります」
「じゃあ私も一緒に行くから、ちゃんとまってなさいよ」
「はい、判りました」

 散らばった紙を集めていたシンジがしっかりと答えるのを確認してから、私は給水塔の建物のはしごを下りた。
 私の後に続いて下りはじめたシンジが、そんなに高くないはしごを、必要以上に怖がりながら下りるのをからかったり、今度くるときは私も誘いなさいよと言ったり、そのやり取りは前に戻ったみたい。

 そう、五年生に上がる前、シンジとクラスが別になる前の。

 もちろん、家に帰ればシンジはいる。家に帰れば普通に話したりもする。
 でも、こうして学校で話す機会は極端に少なくなってしまったから、私は久々にシンジと話したような気さえした。
 そんなことをうれしく思ってる自分が少し恥ずかしくなって、私は未だはしごでもたついていたシンジを置いて、屋上の入り口へ歩く足を少しはやめた。
 うん、学校だからって、別に遠慮することはない。別のクラスになったからって、シンジに話しかけちゃいけないってこともない。
 クラスが別になったからって、別に私とシンジの距離が変わった訳じゃない
 それを今日、再確認できた。
 今度は私からシンジをここへ誘いに行こう。
 今度は何か演劇の台本でも持ってくれば楽しいかもしれない。
 そんなことを考えながら、屋上のドアをくぐった。
 さっと、空気が変わった。
 風が吹いて、涼しくてもどこか柔らかな暖かさを感じた外から、コンクリートの冷たさと、扉から強い風が今も入ってくるのに、どこか乾いた埃っぽい空気に変わった。
 まるで一枚、薄い膜を通り抜けたような感触。
 それが、楽しい時間の終わりを私に感じさせた。
 シンジは、どう感じたんだろう。
 私はすでに階段にまでたどり着いていた足を止め、今さっきくぐった屋上への扉へと振り返った。

 そこに、シンジは居ない。

 まるでそれ当たりが前みたいに、振り返った先には踊り場に散らかったがらくたと、今も扉から流れ込んでくる風、埃っぽい空気、誰もいない出入り口、ひとりぼっちの私。
 それだけ。
 風の音と、私自身の浅い呼吸の音、それ以外にはまるで耳が痛くなるような静かさ。
 ふっと、なにかが頭をよぎる。
 言いようのない空白、見つけた青、満たされてゆく心。
 あれは、全部夢だったんじゃないかって。
 本当はここに来てからずっと一人だったんじゃないの?
 私はこの後、当たり前のように階段を下りて教室に戻って、あの騒がしい二人組とふざけあったり、クラスのみんなと今度のクラス会の出し物の練習をしたりする。
 そして放課後になって、また一人で家に帰って、一人でご飯を食べて、少しだけのつもりで本を手にとって、でも結局は遅くなってから眠りにつく。
 そうしてまた、ひとりぼっちの朝がくる。
 本当はシンジなんて居なかった。私はずっとここで一人で居た。
 そう、シンジなんて人間は最初から居なかった。
 堅くて冷たいはずのコンクリートの床が、ぐらぐらと揺れはじめたような感覚がした。
 全部、嘘。
 シンジの点数を聞いたこと、勉強を教えてもらう約束、教える約束。
 シンジのすごいところを見つけられたうれしさと、シンジを心配したときの悲しさ。
 それだけじゃない。
 自分の手のひらに視線を移して思う。
 シンジの寝顔、柔らかい髪の毛の感触、そして、困ったようなあの笑顔も。
 手に入れた物すべてが私の夢? 本当に全部が嘘だったの?

 違う。

 絶対に違う。
 気が付いたときには、私は走り出していた。
 扉から吹き込む風に逆らって、再びその向こう側へ飛び出して、

「シンジ!」

 まるで悪い夢から覚めたときの叫びのように、彼の名前を呼ぶ。
 開けた屋上はさっきと変わった様子は無かった。
 ただ一人、そこに立つ人影があった。
 さっきまでの私のバカな考えを否定するように、がらくたが転々と転がる広い屋上の真ん中で、シンジはナップサックを肩に担いだまま立ちつくしていた。
 ほら、やっぱりシンジはここにいた。どこにも行ったりはしない、シンジはここにいる。
 でもシンジは私の声が聞こえていなかったように、ただぼんやりと立ち続けていた。

「シン―――」

 もう一度シンジを呼ぼうとして、声がとぎれてしまった。続けようとした言葉も、私の思い通りにならずに飲み込まれていく。
 今も、私はシンジに振り向いてほしくていろんな言葉を作ろうとしてる。
 でもそれは全部胸のところでつっかえて声になってくれない。
 直接シンジの肩を掴もうとしても、足がそれ以上進んでくれなかった。
 どうして?
 シンジの、顔を見てしまったから。
 さっきまで私が見上げていた空を、シンジが見ていたから。その横顔を見てしまったから。
 その目を、見てしまったから。

 その目が何時の日か、陽炎に揺らぐ先に見た、ひどく遠くを見つめる目だったから。

 私はあの日を忘れない。忘れられない。
 初めてシンジとけんかしたから。もちろんそれもある。
 でも、一番あの日のことを私に刻みつけたのはもっと別の物。
 まるで、自分をとても遠くに置いたような、まぶしい物を見るような、あの瞳。 
 もし、私に振り向いたシンジがあの瞳のままだったら。私はもう二度と、あんな瞳でシンジに見られたくなかった。
 だから、シンジに声をかけることが出来ない。
 恐いんじゃない。シンジの眼が恐いなんてことじゃない。ただ空を見上げてるシンジに私が怖がる部分なんて在るはずがない。
 きっと、私は怒るだろう。あんな目で私を見たシンジに、きっと怒り狂うにちがいない。怒鳴りつけて、さんざんに殴り飛ばして、むりやりにでもあの顔をやめさせたくなる。
 そして、きっとそれが出来ないから。
 私はその場を動けない。
 そして今、シンジはその瞳で、今にもつかめそうだと私が感じたあの空を見つめていた。
 シンジにとっては、それは自分からは遠い物なんだろうか。
 そうおもうと、胸を詰まらせている物の重さが増えた。
 シンジに、私ですら踏み込めない何かが在ることを意識させられた。
 駆け寄ればすぐにでも手に届く距離にいるシンジが、とても遠い。
 それでも、私は―――


 コロコロ、コロコロ……


 私の耳にその小さな音が届いたのは、そんなときだった。
 それは屋上に少し強めの風が吹くたびに聞こえてきた。
 どこか堅い物がぶつかっているような、それでいてどこかくぐもったような音。
 屋上のがらくたが出してる音ではないことはすぐにわかった。
 それでも私は辺りを見渡してその音を探した。
 何故かその音はどこか懐かしく、そして儚くて、すぐに気づいてあげないと、今にも消えてしまいそうだったから。
 でも、がらくたばかりの屋上をいくら見渡しても何も見つけてあげることが出来なかった。
 今屋上に在るのは、空と風と私と、シンジ。
 そう、シンジだ。


 コロコロ、コロコロ……


 デニム生地の短パンと、一山いくらで売ってそうな青い横縞のシャツ。クラスでも前から数えた方が早い小柄な体は、それでも少し背が伸びたほうだった。
 ナップサックは肩に背負ってた。いくらかの紙と筆記用具、ミュージックプレイヤーが入って歪にゆがんだナップサック。
 荷物がすこし重めなのか、それとも右肩だけでそれを担いでるせいか、少しだけ肩ひもが肩に食い込んでる。
 それだけじゃない。
 本当に小さな物が、そのナップサックの肩ひもを繋いでいるところで揺れていた。
 それは今も、屋上に強い風が吹くたびに小さく自己主張していた。
 私は、その時初めてシンジの全身をみた。
 空を見上げてる横顔だけじゃない。肩に食い込ませたナップサックの肩ひもと、それを支えようともしないで左肩の袖を握りしめてる右手。
 そして私からは見えない左手は、きっと震えながらズボンを握りしめてるに違いない。
 私にはわかる。だって、私は知ってるから。
 きっとそれは全部じゃない。ほんのかけら。碇シンジを形作ってるほんの一部だけど。
 それだけが、私の知ってるシンジのすべてが、それを教えてくれたから。
 足は、自然と前に出てた。
 いつの間にか、胸のつかえはきれいさっぱりなくなっちゃってた。

「シンジ」
「はい」

 やっぱり震えてたその肩を軽く引き寄せて、私は彼の名前を呼んだ。

「なぁにぼーっとしてんのよ。ほら、いくわよ」
「ああ! まってくださいよ」

 今度は振り返らない。階段を下りて、教室の前に着くまでたぶん振り返らない。
 シンジの足音は私のすぐ後を着いてきたし、何よりあの小さな音は、今度ははっきりと聞こえてきたから。
 私の足取りは軽い。
 さっきまでの不安を、今は違う物として受け止めることが出来た。
 でも、それは後々の楽しみにとっておこう。




 いつか、シンジに聞ける日が来るかな。
 シンジが見ている空は、何色?




 小さなキーホルダーが、またコロコロと鳴った。




――――――――――――――――




 その日の晩ご飯は私のリクエストでカレーだった。
 私も久しぶりに準備を手伝ってみた。材料を切って居る横で、小麦粉のようなもの物がシンジの操る鍋の中でちゃんとしたカレー粉になっていく様子は、なかなか面白かった。
 当のシンジはというと、鍋を振って居る横ですでに準備していた、少し変わった形の鍋をにこやかな顔で見ていた。
 学校の帰り道でカレーがいいと言ったときに思ったよりすんなり聞き入れた理由は、その鍋を試したかったというのが本音らしい。
 できあがったカレーは、一晩寝かせてない割には、掛かった時間に見合って、なかなか上手に出来た。
 そうして今、私たちは香ばしい香辛料の匂いをわずかにさせながら、本に囲まれた私の部屋で勉強会を開いていた。

「―――だから、かけ算と割り算は順番を変えても答えが同じになるでしょう? だったら分数もその形になる前の1割る2の形に崩して計算しても答えが同じになるはずじゃないの?」

 教科書とノートを小さなテーブルの上に開いて書き込みながらシンジに聞く私。

「んーと、そうじゃなくてですね、この場合それをすると問題が最初に聞いてることを無視しちゃってるんです」

 そこへ訂正を書き込みながら私を覗き込むシンジ。

「何?」

「たとえば、6÷2の時に答えは3じゃないですか。これは、二つ言うことができます。ひとつは2に何を掛ければ6になるか、これは掛け算表がある程度頭の中に入っていればできます」

 シンジは3×2、2×3とそれぞれ書き込んでからその答えを6と書き込む。
 そこを手に持った鉛筆で指しながらさらに続けた。

「もうひとつは、6の中に2の塊がいくつあるかって考える場合です。6をそうして2の塊に分けていくと、やっぱり答えは3になるんです」

 次に、定規みたいに五本の縦線を書き込んだ一本の線を、目盛りごと二つに囲んでいき三つの固まりにした物を書き込んでいった。

「うん。それじゃあ、さっきの割り算の場合は、6の中に二分の一がいくつあるかって聞かれてるって事?」
「はい」
「むー……」

 シンジの教え方はそこそこにわかりやすいとは思う。
 今やってることだって、三年生四年生の時に算数が苦手な私でも、それなりにやり込んだ部分でもある。
 けれど、

「なんだか気持ち悪い」

 それが分数の問題になると、なんだか飲み込みきれない部分が少し残った。
 私がノートをにらんでいると、シンジはそこへさらに何かを書き込みはじめた。

「この場合、問題が聞いていることは、数の中に隠れている塊の「個数」なんです」
「つまり?」
「例えば、6cmの中に、二分の一㎝がいくつあるか、二分の一「㎝」の「個数」を聞かれてるんです。多分ユカリさんは、知らないうちに6を1の塊の個数として考えてるんです。でも、一以下の数字で6を分けるんですから、分けたあとの個数が増えるのは当然でしょう? 答えは12【㎝】じゃなくて、12【個】なんです」
「あぁ、そっか、なるほど」
「納得できました?」
「うん、何とか」

 書き込まれたノートを見返しながら、私は自分の答案用紙を見なおしながら、間違えた問題に取り組みはじめた。






 算数の次は国語の時間、つまり私の時間になった。
 私の手元にはシンジの答案用紙がある。何というか、なかなかの威力を持った答案用紙だった。

「うわー、これは何とも。漢字以外全滅って言うのもすごいわね」

 文章問題関係が全滅。特に後半の短い文章についての問題に至っては、部分点すらなしのひどい有様だった。
 答案用紙から視線をシンジに戻してみると、拡げた国語の教科書を難しい顔つきでにらんでいるシンジが居た。
 ちょっとした単語の活用の部分を見なおしてるみたいだけど、シンジの答案を見る限りそれは焼け石に水っぽい。

「シンジってさ、けっこう物事考えてるのに、なんでこんなに国語苦手なの?」
「んー、算数って答えがひとつですから、自信を持って、答えられるんですけど……」
「国語もおんなじゃない。漢字だって覚えてたのをそのまま書くだけだし、文章問題なんて、答えが全部そこに書かれてるのよ?」
「はぁ、……解りました」

 コクコクとうなずきながら、私から答案を受け取ると改めて問題に取り組みだした。
 私はあえて何も言わずにそれを見守ってみたけど、シンジの手はうごかない。いや、動いてはいる。さっきからノートの上を行ったり着たりして、何かを書こうとしては止め、止めてはまた何かこうと動かすを繰り返してた。
 それをある程度繰り返すと、あきらめたようにため息を吐いて、まるで私に助けを求めるように上目遣いに見上げきた。
 こみ上げてきた笑いをそっと押さえ込んでから、私はもう一度シンジの答案を手に取ってシンジの答案に目を通した。

「シンジはさ、書かれてないことまで想像して、お話を勝手に創造しちゃうのよ。登場人物の気持ちとか、こうなったかもしれないとか」
「はい」
「まぁ、本を読むときはそれも楽しいんだし、自分で楽しむ分にはそれでいいと私は思うけどね」

 私は、何度も書き直された後のある文章問題をシンジに示しながら、どう答えたらいいのかを簡単に説明した。
 シンジは私の言葉一つ一つにうなずきながら、ノートに書き込む手を進めた。
 ある程度私が導かなくても答えを書きこめるようになった頃、シンジはふとその手を止めた。
 どうしたのと、私がきく前にシンジは顔を上げて私を見ていった。

「どうしたら、ちゃんと解るようになるんでしょう」
「何が?」
「えっと、その……、本に書いてあることと、自分の考えの境界線、です」

 つっかえながらシンジが聞いてきたことは、私にとってはある意味簡単ではあった。
 だけど、それを口に出して説明するということは出来ない。こればっかりは。
 その時私の目に入ったのは、私の部屋の中に無数にある本だった。

「んー、それは……はい」
「?」

 私はその中から、少し分厚く読み応えのある物を選んでシンジに手渡した。

「それを見つけたいのなら、やっぱりたくさん本を読まなくちゃ。だからそれ貸してあげる。たぶん面白いと思うんだけど」

 国語のテストでいい点を取るための才能と、本を楽しく読む才能は全然違うものだとは思うけれど、それでもやっぱり、この二つは目に通した文章の量が物を言う部分が大きい。
 これは実体験から得たものなので結構自身があった。
 けれど、思ったよりもシンジの反応が薄い。
 手渡した本、答案用紙、私の順番でくるくると視線を動かしていた。

「ちょっと、なんか言いなさいよ」

 その動きをシンジの額をぺちっと軽く叩いて止めさせた。見てるこっちが目が回りそうになるし、ほっとくと何時までもそうしていそうだったから。
 そうしてようやく、シンジは目が覚めたように一瞬目を見張ると、本の重みを確かめるように持ち直して、改めて私を見た。

「あっ、うん。……ありがとう、ユカリさん」
「うん、よろしい」

 なんか期待してた反応より態度が暗いけど、まるで新しい曲を見つけたときのようにシンジがうれしそうに笑ってたからこれで良しとしよう。

「お礼に、明日の朝はベーコンにしますね」
「カリカリよ?」
「はい、カリカリで」

 そういって、私たちはまた笑った。
 そんな小さなやり取りが何故か無性に楽しくて仕方なかった。
 その後は、勉強会なんかいつの間にか忘れて、最近あまり話をしていなかった学校のことなんかを話した。
 私は新しいクラスであの変に仲のいい二人組のこと。担任の中野先生や別のクラスになっちゃった人のその後の様子とか。
 シンジは、なんと五年生になってから副学級委員になったらしい。
 あんたに出来るの? と聞いてみれば、案の定クラスの推薦で任命されたとのこと。面倒事を見事に押しつけられた訳だ。
 それでもせっかく任された仕事だからと、シンジにしては珍しくそういったことにやる気をだしているようなのでそこはいったん退いた。
 けれど、もう一つ気になってることがあった。

「田中のアホは元気にしてる? たしかあんたと同じ一組よね?」
「? どうしたんですか」

 私が出した名前を、特に気にする風もなくシンジは聞き返した。どうやら私の不安はいい意味で無駄だったらしい。

「なんか一組で威張り散らしてる奴といっしょにバカやってるってよく聞くし、HRのときうるさいのよね」
「あー、すみません」
「あっ、ちがうのよ、別にシンジを責めてる訳じゃ―――」

 学級委員の責任感から落ち込みはじめたシンジを慰めようとようとしたとき、突然シンジの顔が上がった。
 その動きがあんまりに早かった事と、シンジが少し真剣な表情で私から目をそらしたので、私も慌ててシンジの視線を追った。
 そのさきには私の部屋の窓があった。外はもう同然のように暗いはずだった。けれど街灯の光にしてはいやに明るく光が差し込んでいた。
 けれどそれは、まるで家の前を通り過ぎるように消えていった。よく耳を澄ましてみると、小さく車のエンジンの音が聞こえてきた。そしてそれは少しずつ大きくなってる。

「パパ、帰ってきたみたいね」

 家の横にあるガレージの開く音も聞こえてきた。たぶん間違いない。

「……もうそんな時間ですか。じゃあ僕はそろそろもどります」

 シンジは自分の荷物をさっさと片づけてもう立ち上がっていた。
 私は、さっきまでも楽しい気分が終わるのが少し寂しかった。

「あら、明日は休みなんだから、泊まってってもいいのよ?」

 ドアに向かっていたシンジが不自然に止まった。奇襲は成功したみたい。振り返ったシンジの顔が赤い。

「……からかわないでください」
「あははは、照れてやんのー」
「もー! ……じゃあ、おやすみなさい」

 私の冗談をそうやってかわして、シンジはドアノブをひねった。

 ガチャリ。

 当然のように部屋に響いたその音は、とても冷たく、とても厳しく、とても重たくて

「シンジ」

 とっさに立ち上がって、シンジの腕を掴んでシンジを引き留めた。
 シンジの服を掴む手は、自分でもびっくりするくらいの力で、彼の服を握りしめていた。

「なんですか―――」
「本当に、泊まってもいいのよ?」

 戸惑うシンジにそれ以上質問させない性急さで、私はもう一度シンジに聞いた。
 私は今どんな顔をしてるんだろう。考えたくもない。
 でもシンジは、いつものように困ったような笑い顔を浮かべてて、

「……いいえ、いいんです。それに、これは僕が決めたことですから」

 自分の服を握りしめる私の手にそっと触れて、その最後の戒めをほどいた。




「お休みなさい」

「……うん、お休み」




 ガチャリ、バタン
 
 そうして彼は、ドアの向こうに消えた。




――――――――――――――――




 ユカリの部屋のドアを、細心の注意を払ってゆっくりと閉めたつもりなのに、なぜかその音は大きく聞こえた。
 ドアを閉じた後も、シンジはすぐにその場を動けなかった。
 叔父は今すぐにでも玄関を開けて二階へと登ってくる。自分はそれまでに一階に下りていなければならない。それは解っていたのに、その場を動けなかった。
 さっきまで、彼女が握り締めていた服の袖にシンジの手が伸びた。まだわずかに彼女の体温が残っていた。そしてそのわずかな温もりがはっきりと感じ取れるほど、自分の手が冷たくなっていることにも気がついた。
 そうしてようやく、シンジは彼女の部屋の前から階段へと足を向けた。
 
 階段を折りきったところで、気だるそうに玄関のドアを開けた叔父と鉢合わせた。
 そのまま靴を脱ぐ準備をする叔父のそばへシンジは近寄った。

「先生、お帰りなさい」

 パンっ

 言葉を最後まで言い切ったところで、シンジの視界が乾いた音と共にぶれた。
 数瞬の後、シンジは頬のじわじわとした痛みと共に、靴を脱ぎ終わった叔父が振り向きざまに自分の頬をたたいたのだと気がついた。

「シンジ君、今は何時かな?」

 その声は、ひどく優しげだった。
 幾ばくかの沈黙の後、目の前にたつ叔父のその声に、まるで今目が覚めたように背筋を伸ばしてシンジは立ちなおした。

「はい、先生。今はもう九時過ぎです」
「いけないなぁ。こんな遅くまで起きてちゃいけないじゃないか」
「はい、ごめんなさい」

 優しげな口調のまま言葉をかける叔父に、まるでしかられているようなきびきびとした態度で、シンジは答えた。
 叔父はシンジのそうした態度に満足したように彼から視線をそらした。

「キミエは?」
「叔母さんは、まだお帰りになっていません。御夕飯でしたら、僕が作ったカレーがあります。すぐに準備できます」
「いや、私が自分でやろう。君はもう部屋に戻って寝なさい」
「はい。お休みなさい」

 シンジは、そのまま玄関に向かった。
 もう、階段の下のあの部屋は、シンジの部屋ではない。
 玄関を出てすぐ、扉が閉じる音と共に、ガチャンと鍵の掛かる音が聞こえてきた。
 扉の脇の曇りガラスに、玄関から去ってゆく人影が見えた。それもすぐに玄関の明かりが消えて見えなくなる。
 シンジは、本当に何気なく空を見上げていた。
 今日は満月だった。
 丸い月が、何事も無かったかのようシンジを見下ろしていた。その日の月光は、まわりの星が見えなくなるほど明るい。けれどその月明かりの向こう側の空は、凝った夜に相応しい暗闇だった。
 【明る】い。けれども果ての見えない【暗】い空。
 そんな夜の空気は冷たく、シンジが口から吸い込んだ空気の冷たさが、じんわりと肺にまで伝わった。 
 シンジは昔、こんな空が嫌いだった。
 丸い月、星のきらめくことのない夜。
 何で、あそこに丸い物が浮かんでるなんて、昔の人は気が付けたんだろう。どうしてこの景色をキレイだなんて思ったんだろう。

 ぼくはこのそらがこわい
 きっと、あれはまあるいほしなんかじゃなくて、のぞきまど。そしてこのそらは、だれかがまっくろなクレヨンでかいたラクガキなんだ。
 ときどきぼくたちをのぞいて、ぼくたちをじっとみてるんだ。

 シンジがそのことを話した二人はそれぞれ違った反応を示した。
 一人は特に興味なさそうにシンジを見ただけだった。
 もう一人は、シンジが必死に話す様子を見て、シンジが寝付くまで肩をさすった。そして、すぐに先の一人もそれに加わって。
 それは遠い遠い記憶だった。シンジがまだこの町に来る前の、遠い記憶。
 月は丸いもの、夜はやがて明けるもの。
 そう解った後では、もう意味のなくなったはずの記憶だった。

 でも、今はもう違う

 さすがに体が冷えてきた。
 昼間はあんなに暑いのに、夜になると肌寒くなるほど冷える。
 シンジは、少し自分の腕をさすりながら、玄関から庭へと足を向けた。
 その先には大きめ物置のような物があった。

 シンジが【あの日】、叔父に願い出たことは、こうして果たされていた。

 普通の家の庭に置くには、少し大きめの倉庫のような小屋。
 それが、今のシンジの部屋だった。
 鍵はいつも掛かっていない。シンジはそのままドアに手を掛けた。
 そのドアを開けた瞬間に、中に詰まっていた少しよどんだ空気が漏れ出し、外の空気と交じり合い、まるで体にまとわりつくような流れを作り出す。シンジは、それを気にとめずに、引き込まれるように部屋に入った。
 パタンと、軽い音がしてドアを閉める。
 中はそれほど暗くはなかった。申し訳程度に備えられていた庭側に向いた窓から、月明かりが差し込んでいる。
 その淡い光が照らした部屋を、シンジはぼんやりと眺めた。
 六畳ほどの広さはあるだろうか。
 窓に向き合うように備え付けられた机の上に、デスクトップのパソコンが鎮座して、わずかに埃をかぶっていた。音楽編集用に使っているもので、それ以外にはほとんど使わないせいだ。
 そして、部屋の一番奥にベットがあり、その枕元にあまりこの部屋に似つかわしくないチェロ。
 それらが、シンジの部屋にあるもののすべてだった。
 シンジは手に持っていた荷物を机の上において、奥のベットに腰掛けた。ベットのスプリングがきしみ、金属がこすれ合う嫌な音。
 そこで深くため息をついた。目を閉じると、今日の出来事が鮮明に湧き上がってきた。




 大丈夫。

 僕は大丈夫。

 大丈夫。

 だってこれは罰だから。

 だから僕は逃げたりしない。

 ここから二度と、逃げたりしない。

 何時かお父さんが迎えに来てくれるまで

 いつか、お父さんに会う日まで、

 僕は絶対、目を背けたりしない。

 逃げたりしない




 だから……




 最後にまぶたの裏に浮かんだ夜は、いつか夢に見た道に似ていた。
 ゆっくりと、目を開ける。
 暗闇に目が慣れたせいか、さっきよりも部屋が明るく見えた。
 窓から見える、あの空を見上げた。

「キレイだな」

 そう、思う。そう思えた。そして思う。

 ふと、先ほどおいた本が気になった。 適当に投げ出された荷物の一番上に、ほかのものより分厚い本があった。
 それを手に取ったまま、ベットに寝転がった。ハードカバーの本で、それなりの厚みがあった。
 ぱらぱらと、ページをめくってみると、古びた紙独特の、少しかび臭いにおいがした。
 一通り目を通し終わると本を閉じ、そのまま腕の力が抜けていくように胸に抱く。
 シンジは本を抱いたまま、ゆっくりと目を閉じた。
 かび臭さの奥に、わずかに陽だまりのにおいを感じながら。




 何時か聞ける日が来るといいな
 ユカリさんが見ている空は、何色ですか?












次回予告




信じてた

信じてた、知ってた

信じてた、知ってた、解ってた

信じてた、知ってた、解ってた、待ってた

信じてた、知ってた、解ってた、待ってた、受け入れる。

ようこそ

知ってる? 僕は――――




第十八話

「 」の中でそれは嗤う












あとがき

 シンジ君が使ってるヘッドホンはRP-○TX7です。……haniwaがこれ好きなだけです。
 お久しぶりです、遅くなってすみません。本文は結構削りましたが、十八話にて補完する予定です。忙しいくて、ホントすみません。
 感想の形式がどうやら変わってしまったらしく、前回までの感想に対して返信できません。感想を書いてくださった方、本当にごめんなさい。さて、十五話にて、シンジ君が最後に救われていると感じている方が結構いらっしゃるようです。本当にそうか、その答えを次のお話でお見せできればと考えています。
 短いですが、今回はこれで失礼します。では十八話でお会いしましょう。



[246] 第十八話 前編
Name: haniwa◆94692c13 ID:a72fab1b
Date: 2008/06/01 16:46
 ユーアーウェルカム!
 ラジオの前のレーディースアンドジェントルメン! いい子にしてたか?
 癒し系音楽がはびこってる中、
 空気も読めねぇロックジャンキーな俺たちの時間だぜ!
 俺たちに必要なのは押し付けがましい誰かの優しさか?
 ノー!
 知ったかぶりな理解者か?
 ノー!!
 金か? 女か? ドラッグか?
 NO!
 そう、何もいらない。
 ただそこにCoolな音さえあればいい。

 はじまるぜ、Postal of the ROCK にようこそ!

 さぁてまずはラジオネーム”いつも見てます”さんからおくられた腹立たしい手紙を読み上げよう。
 どこがむかつくかって?
 聞いてっか? いつも見てますさんよぉ

 ……ここはPostal! お前が書いてんのはHospital!
 使い古したギャグぶりかえすんじゃねぇよ オツムのお薬でも処方してもらってくれ
 お前でちょうど百人目だよ……、オメデトウゴザイマス!
 つかスタッフ! よく届いたなコレ!

 んん? 何でそんなやつの拾ったかって?
 ……まじで百人目ということももちろんある。
 悔しいことにリクエスト曲がいいセンスしてんだよ
 まぁ、俺の嫌いなJ-Hopなトコが気になるんだが、食わず嫌いはいけねぇなと考えさせたれた一曲だ。

 さてはて、あんたたちは自分が変なやつだって自覚はあるかい?
 自分にとって普通なことが、他人にとっては奇妙なことに映る、そんな経験は?
 俺がいつも言うように、常識ってなんだ?
 こんな番組毎回聞いてるようなやつにまとも何はいねぇって突っ込みはノーサンキューだ。
 たまには頭を使ってみようぜ。
 自分たちの頭の中にある常識から、一歩出ればそこは異世界だ。
 そこには人間はいるが、自分と同じイキモノとは限らない。
 腹のそこでは何を考えているのか、そいつらの目には自分はどんな風に見えているのか。

 そんなことを考えながら聞くと、けっこうおもしろいかもしれないぜ?

 常識の扉を開けてみな! Knock! Knock!  意外と向こうからやってくるかもな?

 J-Hopきっての癒し系バンドが、ぶち切れたとしか思えない異色のロックナンバー!

 ……覚悟はいいかい?





 さぁ、どんな「   」を上げようか






見上げる空はどこまでも朱く


第十八話


 「 」の中でそれは嗤う   前編






 教育用に使用されるテレビ番組、又はその他の映像作品は、総じてそれを見る対象の子供達が興味をひくような構成となっているはずだった。
 可愛いキャラクターがゴミ処理施設の解説をし、やたらと声を張る女性が科学の実験をする。
 大袈裟な表現を伴ったそれらは、扱う事柄をほどよくかみ砕いた物でわかりやすく、理解する楽しさがあり、何より派手な見た目は、普段は教師の言うことをろくに聞かない生徒ですら勤勉な生徒へと変える。
 しかし、何事にも例外は存在する。
 今、とある小学校の教室、五年一組の生徒が受けている図工の時間に作品紹介という名目で、やや古めかしいテレビに映し出されている映像は、まさしくその類のものだった。
 映し出されている映像は、それはそれは美しい絵画、ゆっくりと細部にわたって見せつけてくれる。
 小学生には、まず理解できないようなそれを。
 複雑難解な抽象画は、普通の小学五年生には自分たちでも描けそうな落書きにしか見えない。
 ただでさえつまらないモノを見せられて、授業に対するやる気も興味すらも失っているところへとどめを刺すのは、その絵を一つ一つを懇切丁寧に説明するナレーション。
 語り口は紹介作品に先入観を与えないためにひどく無機質。昼休み明けのクラス全員を教師生徒の区別無く、穏やかな眠りに誘いゆくに十分だった。
 結果、その教育用映像作品をまじめに見ている生徒はごく少数だった。
 そしてその少数の一人に、藤元カナミはいた。

 (もう、先生まで)

 カナミはちらりと、ゆっくりと船をこいでいる担任教師を盗み見た。
 彼女は常日頃から、学級委員の一人として、一部のクラスメイト達の素行の悪さを何とかまとめさせるために日々心を砕いていたが、その一端は実はこの担任に在るのではとも考えていた。
 寝ている生徒を注意してほしい。図工の先生がお休みだからってこんな風に手を抜かないでほしい。
 一通り文句を思い浮かべた後、彼女はその元来の気の弱さから、それらすべてをため息に変えて吐き出した。
 カナミは、自分が学級委員に選ばれたときも、こんな気分だった事を思い出した。
 まとまりがないクラス。
 そんなクラスの学級委員に他のクラスメイト達に、示し合わせたように一致団結したクラスメイト達に推薦され、そのまま就任させられた。
 少しサイズの合わない大きな眼鏡。後ろできっちり一つに結んだ髪。学校で決められた位置に正しく着けられた名札。
 カナミのそんな容姿が推薦の理由だというのに、担任教師は何も言わずその日のホームルームを終了した。
 なってしまえばそれ以上文句も言えず、結局は学級委員をやる羽目になっていた。
 自分の周りに流されやすい性格と気の弱さにため息を一つ吐いた。
 もっと物事をはっきりと言える強さが自分に在ればと、願わずにいられない。
 そう、例えば隣のクラスの山川ユカリのような。

 (あんな風に、はっきり言えたらなぁ)

 彼女は背も高く、男子にも見劣りしない。成績もいいし、運動だって男子にも負けない。
 けれど、彼女のすごいところはそんな外見によるところだけじゃない。
 文化祭で上級生達に混じり華々しく役を演じ、音楽会で率先してみんなを引っ張って、体の大きな男子に物怖じすることなく意見を言える。
 そのどれもが自分にはまぶしすぎる姿、自分からは遠すぎる姿。
 別に学級委員でも何でもない彼女は、それでも義務や責任など無いのに率先してそういうことが出来る。
 自分とは違って。

 結局は無い物ねだりなのよねと、心の中で呟いてもう一度吐いたため息とともに吐き出し、カナミは意識をつまらない授業に戻した。
 相変わらず、テレビにはよく分からない絵が映っていて、まじめに見ているのは彼女を含めて十人程度。
 他の生徒はほぼ全員が、ノートと筆箱を枕にすでに眠りこけている。
 こんな状況では、まじめにやっていることがバカのように思えてくる。
 よく見れば、未だ起きている生徒も眠たげに口を大きく開いている者が居る。
 それにつられて、今まで我慢していた欠伸をしかけたとき、カナミの視界にある生徒の背中が映った。
 カナミは慌てて欠伸を噛み殺した。
 彼は、カナミよりも前に座っているのだから気が付きようがないと言うのに、大きく口を開きかけたことが恥ずかしくなった。
 少し赤くなった頬を押さえ、わずかに高まっていた動悸が収まってから、カナミはもう一度、彼に視線を戻した。

 その生徒は、小さな男の子だった。

 彼の名前は、碇シンジ。

 今も、この怠惰な空気が流れる教室の中、カナミとほとんど変わらない小さな背筋をまっすぐ伸ばして、ただ画面に見入っている。
 周囲の気だるさを感じさせないその様子に、カナミは少しばかり見とれていた。
 カナミにとって学級委員で一つだけいいことがあったとするなら、シンジがそのもう一人だということだった。
 シンジもカナミと同じような理由から学級委員になった。
 けれども、シンジはその事に文句を言おうとする素振りさえ見せなかった。それどころか嫌な顔一つせず、「自分で良ければ」とさえ言っていた。
 その後も学級委員の仕事をしている際に、カナミはシンジが不平不満を言っているところを聞いたことがない。
 いついかなる時も、シンジは笑顔で人に接している。
 学級委員になったときも、誰かに何かを頼まれたときも、誰と居るときでも、彼は少し前髪に隠れたその笑顔を崩さない。
 自分はきっとあんな風に振る舞えないと、どこかシンジと自分を隔てる壁のようなモノをカナミは確かに感じていた。
 
(でも、碇君は違う)

 シンジの小さな背中を改めて見直して、カナミは思う。
 ユカリと自分の間に感じた絶望的ともいえる距離感を、彼には感じない。
 はっきりと自覚したのは、つい最近のことだった。
 あれはそう、今も色あせずに思い出すことが出来る。




───────────────




 風が強い日だった。
 その日、カナミは例によって例のごとく、クラスメイトの頼みごとを断りきれず遅くまで学校に残っていた。

「うぅ、みんなひどいよ。私一人に実験のまとめ任せるなんて」

 プリントの束を抱えなおしながら、カナミは一人放課後の廊下で呟いた。
 すでに他の生徒達は下校して、学校に残っているのは先生かクラブ活動にまじめな生徒だけになっているような時間。
 カナミはやや駆け足で教室へと向かっていた。
 すでに日はだいぶ傾き、今歩いている廊下でさえ少し薄暗く気味が悪く、見慣れているはずの教室は、そのほとんどが電気が消えて人の気配が無い。
 明るくて当たり前の場所、人がいて当たり前の場所が、どこかに迷い込んだかのような、昼間とは違う印象をカナミにに思い起こさせ、さらにその足を速めさせた。
 カナミが五年一組の教室に辿り着いたときには、すっかり息が上がっていた。
 やはりその教室も明かりはすでに消えていて、人の気配は感じられない。荒く呼吸を整える自分の声が妙に大きく聞こえた。
 それでも少し、目の前の扉を開けることを躊躇ってしまった。
 教室のドアには曇りガラスが張られていて、中の様子をうかがうことは出来ない。

「ま、まだ夕方だし、お化けさんだって出てくるのはもう少し遅くなってからだよ、ね?」

 少し上ずった声で自分に言い聞かせた。
 動機が収まり、ほっと一息吐いたところでようやく教室の扉に手を伸ばしたとき、

「――――」

「っ!」

 誰もいないはずの教室から、わずかに音が聞こえた。
 けれど、それは確かに人の声。
 なんとか手に持っているプリントを落とさず、上げそうになった悲鳴をこらえる事だけは出来た。

「だ、誰か居るの?」

 呟くような小さな声が原因か、それとも本当に教室に人はいないのか、返事は無い。
 
(ど、どうしよう)

 このまま帰ってしまいたかった。
 しかし、カナミの鞄は未だ教室の中にあり、加えて今日はたくさん宿題が出されていた。
 わずかに目に涙を浮かべて、カナミは教室前で立ちつくしていた。
 カナミがそうして迷っている間も、時折吹く風がざわざわと木々を揺らし、開いた窓から入り込み恐ろしげな悲鳴を上げ、さらに陽は刻々と傾き人気のない廊下が暗がりをましてゆく。

(鞄、とってこないと宿題が出来ないし、でも中にはいるのは恐いよぅ。でもでも早く帰らないと塾に間に合わないし、ママにも怒られるし。でもでもでも中に入ってお化けが出てきたら――――)

       キーン コーン カーン コーン

「っ!!」

 一部ループしかけた思考にふけっていたカナミは、突然鳴りその響いた鐘の音で、身を飛び上がらせ、驚きすぎて喉がつまった。

『下校の、時間になりました。学校内に残っている、生徒は速やかに帰宅しましょう。繰り返します。下校の――――』

 しばらくまた、扉の前で呆然としていた。
 鐘の音に続いた少しぎこちないアナウンスが、カナミに多少の余裕を与えた。

「あははは……、はぁーー。」

 カナミの乾いた笑いと深いため息が、薄暗い廊下に響いて消えていく。
 目の前に在るのはただの扉。その先に広がるのは、変わらぬ教室の風景だけ。
 今度はそう自分に言い聞かせ、カナミはようやく教室の扉に手をかけた。

 ほんの少しだけ扉を開ける。
 隙間から漏れてきたひんやりとした空気が、カナミの汗ばんだ頬を撫でた。
 その感触にまたドキリとしながらも、教室を覗き込んだ。
 誰も、いない。
 教室の教壇側の開けっ放しにされた窓から入り込だ風がカーテンをはためかせ、夕日が差し込んで茜色に染まった教室の中には、誰もいない。
 物言わぬ机が少し乱雑に並べられ、教室の床一杯に、細長く、歪な陰を作っている。
 カナミは音を立てないようにそろそろと中にはいると、まっすぐ自分の机に向かう。
 廊下側から二列目、前から五番目の席。カナミの荷物はきちんと机に掛かっていた。
 それは当然で、当たり前のことなのに、カナミはその事に廊下でのことを忘れるくらい、酷く安堵していた。
 鞄に必要な物を詰め込むと、さっと教室を見渡した。
 
 (窓、しめなくちゃ……)

 鞄を手に持ったまま、机をよけて開けっ放しになっていた窓に近づこうとした。
 しかしそこへ、ひらりと風に運ばれてきた何かが彼女の目に留まる。
 一枚の紙が、カナミのすぐ足下に飛んできた。
 それは何度も書き直したせいで書くところが無くなるくらい真っ黒に汚れた紙だった。
 何気なく飛んできた方向を見やると、そこには床に直接座り込んだ誰かの足が見えた。

 「!」

 限界を超えた呼吸が今度こそ上げそうになたったカナミの悲鳴を押しとどめさせた。
 足に主は、乱雑に並んだ机の陰に隠れて見えない。
 しかし、まさに開け放たれた窓のすぐ下にそれはいる。
 カナミは鞄を盾のように構えながら机の間を縫うように、さらに近づいた。
 一枚、二枚と床に散らばる紙が増えていき、やがてそれはカナミの前に現れた。

「! ……碇君!?」
 
 机の陰に隠れ、紙に埋もれるようにして教室の床に座り込んでいた彼女のクラスメイト、碇シンジは、カナミに気が付かないまま少し俯き気味に耳に付けたヘッドホンに聞き入っていた。
 その彼から、わずかにメロディが聞こえてくた。

「~~♪」

 鼻歌。
 シンジは聞いている曲を口ずさんでいた。

(……つまり、これはどういう事なのかしら?)

 鞄を抱えて身構えていた自分、そんなことなど露とも知らず楽しげに音楽を聴いているクラスメイト。
 おそらく、廊下で自分が聞いた人の声というのも、目の前の彼が犯人だ。

(あぁ、わたしが廊下で悩んでたことはなんだったんだろう)

 結論に思い至ったカナミは、シンジに気づかれることの無いまま、一人肩を落とした。
 そして、じろりと恨めしげにシンジを見た。

(それにしても、楽しそう)

 時折首を揺らしながらリズムを刻み、メロディを口ずさんで。
 カナミが思わず前髪に少し隠れたその顔を覗き込もうとしたときだった。
 くるっと、シンジがこちらを振り向いた。

「……きゃぁぁ! っていったぁい!」

 カナミは今度こそ悲鳴を上げた。
 あまりに驚きすぎて足下に飛んできた紙を踏みつけ盛大にすっころんでしまった。
 
「うぅ」
「大丈夫ですか?」
「え! うん、大丈夫! あっでもお尻がとっても痛い……って、違うの! そうじゃなくって、えっと、えーとぉぉ……」

 ぶつけたお尻の痛みと、一人で慌てて転んだという羞恥が、カナミにその声が誰かを忘れさせた。
 いろんな物がないまぜになった感情がカナミを襲い、その瞳にはうっすら涙がにじむ。
 はっと、気がついたときには、彼女の足下にすっと小さな陰が重なっていた。

「はい、落ち着いてください」

 カナミが陰の主を追い視線を上げると、そこにはいつの間にか立ち上がったシンジが心配そうにカナミを覗き込んでいた。
 自然と、いつも前髪で隠れているシンジの顔を、カナミは見上げる形になっていた。 
 
 パッチリと開いている瞳が、ちょうど沈みかけた夕日に照らされた顔とともに、心配そうに自分を見ている。

 普段、微笑みの奥に隠れている瞳が、自分だけをまっすぐに。

 その姿を見たとき、混濁した感情が一瞬にして消え去った。
 変わりに降って沸いたものが、カナミの胸を熱くした。

「い、碇君!」

 沸騰した思考の勢いのまま、裏返った声も気にならずにカナミは声を上げていた。
 何かいいたいことがあったはずだ、それを早く目の前の彼に伝えなくては。
 そればかりが頭を埋め尽くし、肝心のものがさっぱり浮かんでこなくなってしまった。

 何を聞いてたの? 楽しそうだったね、私にも聞かせて――――

「何でしょう?」

 そんなカナミの様子を見かねてか、シンジが声をかけた。

「えっと、その……」

 パクパクと、伝えたい言葉が空気を震わせずにカナミの口から出て行った。
 ただ、苦し紛れに視線を泳がせた先に、教室の時計が視界に移り、

「……も、もう下校時間だよ!」

 とっさにそう叫んでいた。

「あれ?、もうそんな時間ですか。すみません」
「あっ」

 シンジの気をそらすことには成功した。
 しかし、

(そうじゃないのぉ~)

 自分の荷物を片付けているシンジを見ながらカナミは頭を抱えていた。

「どうしたんですか委員長さん、早く帰りましょう」
「あぅ……」

 一人葛藤を続けていたカナミを尻目に、シンジはあっという間に、あたりに散らばっていた紙を片付け、帰る準備を整えてしまっていた。
 シンジの手には彼の傍らにあったナップサックのほかに、先ほど取り落としたカナミの鞄まで携えていた。
 そして、輝く笑顔。
 カナミはひそかに心の中で白旗を振った。


//////


 見回りの職員がつけたのか、蛍光灯が妙に明るく見える廊下を二人は並んで歩いていた。
 言葉はなく、カナミは少し息苦しいと感じながら、隣を歩くシンジを時々盗み見ていた。
 先ほどと違い、シンジより少し背の高いカナミからは彼の表情は目が前髪に隠れて判然としなかった。
 ただ、自分をおいてゆくでもなく、遅れるでもなく同じペースで下駄箱までの道を歩いていた。

「ね、ねぇ、碇君」
「はい、何でしょう?」

 もしかしたら無視されるかも、と考えていたが、カナミがおずおずと話しかけると、まるでそれを待っていたような速さで聞き返してきた。 
 カナミは、思い切って整理された質問をぶつけてみることにした。

「教室で何してたの?」
「この間のアンケートをまとめていたんです。帰ろうとしたら先生に呼び止められて、今日までにまとめておくようにって」
「あっ、それってクラス委員の仕事? ごめんなさい! 私、化学室で頼まれごとしてて……」
「いいえ、時間は掛かりませんでしたから、そんなに謝らないでください」
「……ごめんなさい」

 カナミが申し訳なさに襲われて頭を下げた。

「あれ? それじゃあ、どうしてこんなに遅く?」
「え!? ……えー、とその……」

 頭を下げた姿勢のまま、カナミがシンジの顔を遠慮がちに覗き込むと、シンジはあからさまに身じろぎ、さらに軽く肩にかけていたナップサックを大急ぎで体の後ろに隠した。
 シンジの取り乱したその様子に、カナミはますます興味をそそられ、さらに聞いた。

「なんなの、それ?」
「これはその、……ちゃんと許可はいただいてるんですが、その……」

 シンジはいいにくそうに口ごもると、そろそろと隠していたナップサックをカナミの前に広げて見せた。


 そうして、歩きながらシンジは自分が教室でしていたことをカナミに説明した。
 誰もいない教室はとても静かで、しっかりと音を聞き取るにとても適していた。
 アンケートの仕事を終えた後、ついついそれが長引いてしまったこと。
 床に散らばっていた楽譜は日ごろの成果だということ。
 カナミはそれを目を輝かせながら聞いていた。

「へー、碇君ってそんなこと出来るんだ。すごいなぁ」
「そんなことありませんよ」

 シンジは照れたように頭をかいた。

「でも、こんな遅くまでやってちゃいけないと思うの」
「……はい、すみません」
「碇君、副委員長なんだから気をつけてね」

 正しい委員長としての態度で注意するカナミに、シンジは頭をかいていた手をそのままに、今度は頭を下げた。
 素直に自分の言うことに反応するシンジに気を良くしてか、カナミはいつの間にかお姉さんぶってシンジに接していた。

「あの、一つご相談があります、委員長さん」
「何でしょう?」

 カナミは、わざとシンジの口調を真似て答えた。

「このことは、クラスの人には秘密にして頂けませんか?」
「えっ? かまわないけど、どうしてなの?」

 しかし、先ほどまで少しふざけていた雰囲気をまったく消してこちらに向かい合うシンジに、カナミはたずねた。

「クラスの人たちに知られないと言うのが、これを学校に持ってきてもいい条件なんです。僕も、お昼休みと放課後以外、先生と約束したところにしまって、それ以外では決して触れないようにしています。今度は、こんなに遅くなったりしないよう気をつけますから、どうかお願いします」

 シンジは深々と頭を下げた。
 それは、いたずらが見つかった男子という類のものではなく、ましてや同級生に対して示す態度ではなかった。
 その態度は、彼にとって切実な何かがあることをカナミに気づかせた。

「うん、いいよ。じゃあ、碇君がそれをどこにしまってたかも、黙ってたほうがいいよね」
「はい、お願いします」

 カナミが快く承諾したことに安堵してか、シンジはほっと笑みを浮かべていた。

 下駄箱のある玄関まで、二人はそうして歩いていった。
 カナミは日ごろからは考えられないほど、シンジに話しかけた。
 内容はずいぶん表面的なものだった。
 今日の授業はどうだったか、お昼休みは何をしてたのか、この間のテストはむずかしかった、等。
 しかし、どの教科が好きで、何が苦手なのか、そうしたシンジ個人への踏み込んだ話題にまで発展させられなかった。
 シンジはカナミの話題をすべて聞き、決してそれを否定することなく受け答えはしてくれる。
 何でだろうと、カナミは考える。
 おそらくシンジは、話せば答えてくれるだろう。
 そんな確信がもてても、カナミはそこではいつものように踏みとどまってしまっていた。
 けれどもそれは、自分のふがいなさを感じるいつものもやもやとしたものが押し止めているのではなく、むしろ高鳴りを抑えきれず、言葉を選び、タイミングを計っているうちに、その機を逃してしまっていた。
 カナミは、これはいつもと同じじゃない、けれど何も変わってない、と自分でも整理のつかない思いを抱き始めていた。
 言いたいことはたくさんあるのに、失敗が怖くて、拒絶されることが怖くて、肝心のものは出てこない。
 下駄箱が近づくにつれて言葉もなくなり、シンジがそれを不振がっていないかとカナミが彼を盗み見ると、彼は迷うことなく玄関へと足を進めていた。
 次に彼女の胸中に生まれたものは結局、いつもと同じ自己嫌悪と諦めだった。
 
 やがて、シンジとカナミは玄関にたどり着いた。
 もう日もだいぶ傾き、正面の扉から入り込んだ日差しが下駄箱を照らし、玄関広場を赤く染めながら二人のところまで長い影を作っていた。
 二人は別れ、それぞれの下駄箱に向かった。
 下駄箱の間に敷いてあるすのこが、二人が歩いたせいでカタカタとなり、薄い鉄製の下駄箱は錆付いているせいか、キイキイと耳障りな音を立てた。
 一足早く靴を履き替えたカナミは、正面の下駄箱ごしにシンジがいるであろう方向に目を向けた。
 シンジは履き替えてる途中なのか、ごそごそと動いている気配が伝わってきた。

「……碇君って、結構話しやすいんだね」

 カナミは、冷たい校舎に響かないように、そっと声を出した。
 下駄箱越しに、動く気配が一瞬止まった。

「そうですか?」
「なんか今までクラスの仕事でしか話したこと無かったし、すごい人だなーって勝手に思ってた」

 直接シンジを見ていないせいか、カナミは自然と、いままで胸につかえていたことがうそのように、素直な気持ちを吐き出せていた。

「僕が、ですか?」
「うん。だって、めんどくさいこともいやなことも、みーんな引き受けちゃって、ちゃんと最後までやって、しんどそうなのに、でも笑えてる碇君はすごい人だなーって」

 変なことを口走っているという自覚はあった。
 しかし、今ここで言ってしまわないと、もうこんなことは二度といえない。
 そんな気がして、カナミは勢いに任せてくちばしった。

「そんなんじゃありませんよ、僕は。はっきり断れないだけなんです」
「あはは、わたしも……」
「僕、ユカリさんみたいにはっきりものが言えたらなって、いつも思います」
「えっ? ユカリさんって一組の、山川ユカリさん?」

 何気なくいったシンジの一言に、カナミは耳を疑った。

「はい」
「……そうなんだ。碇君も……」

 続けようとした言葉を頭に思い浮かべたとたん、カッと胸が熱くなった。

「も?」
「あっ! ううん、違うの今のは」
「?」

 カナミは見えてもいない相手にあわてて手を振り、ごまかした。
 一瞬、彼も自分と同じように山川ユカリにあこがれていたと考えたとたん、急に気恥ずかしくなっていった。

 シンジが靴を履き終えるのを待って、二人は校門へと歩いていった。
 再び横に並ぶとまた何もいえなくなってしまったカナミは、それでも何か言いたそうに時折シンジを盗み見ては小さくため息をついていた。

「きれいな夕日ですね」

 初めて、シンジからカナミに話しかけた。
 自分がため息をついていたことに気がつかれたのかと、一瞬体をこわばらせたカナミだったが、すぐに隣を歩くシンジを見ると、彼はただまっすぐ空を見上げていた。
 空は、少し夜の気配を漂わせていた。
 もうほとんど沈んでしまった夕日が、粒のような輝きを放ちながら、二人の歩く坂道の下に広がるビルが形作るいびつな地平線の向こうへと消えようとしていた。
 空には一番星がどれかもわからないほどのたくさんの星が、深い青に染まり始めていた空を飾り付けていた。
 カナミがその光景にすっと息を呑む。その空気さえにわかに冷たくなり始めていた。

「とってもきれい」

 素直にそういえた。

「よかった」
「えっ……」

 ふいに、横を歩いていたシンジがつぶやいた言葉に、わけもわからずカナミは振り向いた。
 
「藤元さん、なんだか元気がなかったみたいでしたから」 

 シンジは微笑んでいた。
 そのとき、カナミは気がついた。

 碇君は、本当に優しいひと。
 私は、誰にも嫌われたくないから、みんなが怖くて頼みを断れない。
 でも、やっぱり碇君は、私とは違う人なんだ。
 きっと、みんなのお願いを断れないのも、困った人の顔をみたくないからなんだ。
 だって、私を心配して笑ってくれたときは、こんなにも悲しそうな顔なんだもの。

 さぁ、帰りましょうと歩き始めたシンジの背中を見つめながら、カナミの胸は、また静かに熱くなり始めた。
 ただ、もう少しシンジと、同じ道を歩いてみたいと―――




───────────────





「―――元、藤元! ……藤元カナミ!!」

「は、はい!」

 カナミが名前を呼ばれて思わず立ち上がると、そこは美術室だった
 慌てて周りを見渡すと、いつの間にかビデオは終わっていて、慌てて返事をしたカナミを笑う声がいくつか聞こえてきた。

「何だ、寝てたのか? しっかりしろよ学級委員、号令」

「……はい。起立、礼」

 カッと顔が赤くなることを感じながら、カナミは小さくそう言うしかなかった。
 カナミの声にあわせて、クラスメイトたちが挨拶を終えると、担任はビデオの片づけを終えてさっさと教室から出て行ってしまった。
 その後に続くようにダラダラと生徒たちは移動を始めた。
 どことなくみなの足にやる気がなさそうに見えるのは次のロングホームルームに面倒が待ってるからだ。
 それを思うとカナミも思わずため息が出るが、自分も早く教室に戻らなければと、机の上に出していた道具を片付ける手を早めた。
 教室には、カナミのほかにまだ無駄話をしている生徒が何人か残っていた。
 カナミはその中で自分の斜め後ろを恨めしそうに見た。

「何だよー、結局今日ビデオ見ただけかー」

 そこに座っていた、クラスでも一番体の大きな男子が、何か細長いものを手に取りいじりながら、けだるそうに言った。

「せっかく木削んのにもってきたのに無駄になっちまったなぁ」
「うお、かっけー、どうしたんだよそれ」

 それを見ていた別の一人がその男子に駆け寄ってそれを覗き込んだ。

「親父が出張のおみやげにくれたんだ」
「ケンちゃんとこの親父って何してるんだ?」
「しらねー。いっつも家にいねぇし、たまに帰ってきても何も話しねえしな」
「なあなあ、それ、ちょっと貸してくんね?」
「あ? 何すんだよ」
「いいからいいから」

 覗き込んでいた男子は顔を上げ、あたりを見渡した。
 そして、カナミと目が合った。
 いやな予感がして、カナミはすぐに教室を出ようとした。
 カナミの後ろでガタッと机の動く音。

「逃げんなよ、いいんちょーう」

「ひぁ!」

 ぐっとつかまれた腕の痛みと、頬に押し付けられた物の冷たさにカナミは小さく悲鳴を上げた。 

「動くなよー。あんま動くと顔切れるぞ」
「ひっ……」

 嗜虐にあふれた声が耳に届き、ひたひたと頬をたたく冷たい感触。

「ほら、かっこいいだろ? ケンちゃんのなんだけどさー」

 すっと、それを突き出した。
 カナミの目の前に鈍色のナイフが現れた。
 
「何、びびってる? 委員長」

 それを見せ付けるように刃をきらめかせ、カナミがよけようと顔を背けるたび、ケタケタと笑い声を上げた。

「やめてやれよー、委員長かわいそうだろ」

 離れてみていた体の大きな男子も、面白そうにそういった。
 見渡せば、教室に残っていたほかの生徒も、自分がおびえる様子を面白そうに眺めるか、関わりたくないとそそくさと教室を出て行くものばかりだった。

 カナミは怖くなってきた。
 今も目の前を通り過ぎるナイフが、ではない。
 ナイフが目の前を通り過ぎるたび、つい想像してしまう。
 たとえば、今自分を捕まえている男子が、少し向きを変えるだけでいい。
 この冷たい刃が自分の皮膚に触れるところ。
 皮膚を裂き、肉に食い込み切り裂く。
 自分が母を手伝い台所に立ち、包丁で誤って手を切ってしまったときのように。
 ザリッと鶏肉を斬ったときのような手ごたえの後、冷たいのか熱いのか分からない鋭い痛み。
 そこから流れ出る生暖かい、血の感触。
 いつもは自分の失敗に厳しい母が血相を変えて手当てをしてくれた。
 でも、今時分を取り囲むみんなは、どうするんだろう。
 ふざけすぎたことを謝ってくれるかな。私を心配してくれる?
 私に刃物を押し付けてる彼を、私の代わりに怒ってくるれるのかな。
 それなら、私は救われる。
 今はこのナイフが怖いけれど、それならきっと私は救われる。
 そんな気がする。
 でも、もし。
 もしも、みんなが、血を流す自分を見て、笑い続けたとしたら。
 血を流す自分を面白そうに見るイキモノダトシタラ。

 ……こわい。

 
 こわいよ




 誰か、助けて





「あなたたち! 何してるの!」

「うわっ!」

 すぐ後ろから鋭い声が割って入ってきた。
 半ば自分の思考に没頭していたカナミは、自分を押さえつけていたクラスメートがびくりと体を振るわせたことを感じて、ゆっくり後ろを振り返った。
 声の主は教室の入り口に立っていた。
 すらりと背が高く、上下黒の服装と一くくりにまとめられた長い黒髪、そして一番印象的な切れ長のその目をさらにきつくしてこちらをみていた。

「やべぇ黒田先生だ…」
 
 誰かがそういった。
 黒田はそのとき教室にいた生徒を誰も逃がさないというかのように、一度にらみをきかせるとまっすぐにカナミたちの下へ近寄ってきた。
 すると、いつの間にか自分の後ろに隠れていた男子の方をつかみ自分の前に引きずり出した。
 その手にはまだあのナイフが握られていた。
 黒田は何のためらいもなく、それを素手で握り締めた。

「これは、何?」

「う、わ、」

 その場にいる全員が、すくみ上がるような厳しく、低い声だった。
 黒田が突然現れたときから、どこか呆然としていたカナミも、この声で目が覚めた。
 直接それを向けられた男子は、呼吸さえおぼつかなくなるほど動揺し、ナイフを持っていた手を反射的に振っていた。
 しかしそれでも、黒田は手を放さなかった。
 
「これは、いったい何? あなた達はいったい何をしていたの?」
「う、うっせーな! 関係ねぇだろ!」

 男子はその手から逃れようともがいたが、とうとう黒田にナイフを取り上げられた。

「これは没収します」

 その一言に、カナミの後ろで立ち上がる男子がいた。

「ちょっとまてよ!」

 カナミが振り返ると、先ほどケンと呼ばれていた男子が、にらみつけるような視線を黒田に向けていた。

「それ、俺のなんだけど」
「これは、あなたがもってきたの?」
「だから、俺のだってってるじゃん」

 何を言ってるんだといわんばかりの態度で彼は言い放った。

「これは返せないわ。没収します」
「はっ、何だよそれ、委員長とちょっと遊んでただけじゃん」

 おどけた態度をなおも崩さない彼に対し、黒田は一度カナミに視線を送ると、今まで握り締めていた手を開いた。

「ふざけても、やっていいことと、悪いことがあるのよ?」

 その手を見て、ケンの眉がピクリと動いた。
 ケンの前に突き出された手は、うっすらと赤く血をにじませていた。
 一瞬だけ、彼の目つきが変わり、気まずそうな表情を作ったが、すぐにそれを不機嫌なものに変えて、彼は黒田に背を向けた。

「はっ! 勝手にすれば?」
「返してほしかったら放課後に職員室に来なさい」
「…、おら! 行くぞ」

 ケンは、黒田にナイフを取り上げられた男子を蹴飛ばしながら教室から出て行った。
 教室には、いつの間にか黒田とカナミしか残っていなかった。

「あなたは大丈夫?」
「え! あっ、はい大丈夫、です。大、丈夫っ……!」

 答えながら、カナミの体は震えだしていた。
 今になって、黒田の血に汚れた手を見て、恐怖が現実となってカナミを襲っていた。

 あの掌のように自分も傷ついていたかもしれない。
 私の代わりに傷ついた先生になんといていいのか分からない。
 自分が傷つかなくてよかったと思ってほっとしている、そんな自分がいやでいやで仕方ない。

 恐怖と罪悪感と、加えていつもの自己嫌悪にカナミが押しつぶされようとしていたときに、そっと、頭に手が優しく置かれた。

「?」
「怖かったでしょう、もう大丈夫だから」

 黒田はそういって、カナミの頭をなでた。

 その一言だけで、やわらかく心が包まれていく気がした。
 その手の暖かさで、先ほどまでめぐっていた考えが、溶けて消えていくようだった。

 カナミが、ほとんど涙目になりながら黒田の手を見つめている

「ん? ああ、あなたが気にすることじゃないわ。。それよりも、早くお礼を言いに行きなさい」

「え?」

 黒田の言葉に戸惑いつつも、カナミは黒田のその言葉が、よりいっそう温かみを持っているように感じた。
 それはなぜか。

「碇君、あなたがいじめられてるって教えてくれたの。碇君も着いてくるつもりみたいだったけど、彼は先に教室に行ってるように言っておいたから、理由は分かってあげてね」

 一瞬、どういうことなのか分からなかった。
 ただ、冷たい何かが差し込みかけていた体の中に、何か暖かいものが生まれ、広がってゆく。

「さぁ、早くしないと次の授業に遅れるわよ」

「はい!」

 そう返事をして、教室から駆け出したカナミの表情には、暗い影はなくなっていた。




[246] ミソラージュ  その一
Name: haniwa
Date: 2007/01/24 14:51
外伝、ミソラージュを御覧になる方へ

1、これは外伝です。本編とは違い、明るいお話がメインです。
2、本編以上に原作から遠く離れています。オリジナルほぼ100%です。
3、本編のお話と、あまりリンクしていないかもしれません。
4、「あれ? あんなことがあった後なのにシンジ君がとっても明るい?」……気にしないでください
5、「何でこんなに楽器上手いの?」……気にしないでください
6、楽しいお話なので、haniwaが少々暴走気味です。

では、どうぞ御覧ください。


















 午後を、少し過ぎた頃。

 シンジは二階の叔父夫婦の部屋の前にいた。すでに開けられているドア。部屋の中では、鏡に向かい身支度を整えている叔母がいた。

「それじゃあ、行ってきます」

 その背中に向けて声を掛けた。

「今日は遅くなるの?」

 彼女は、振り返らぬまま彼に質問だけを返した。すでにその場を立ち去るために足を向けていたシンジは、その背中に少しだけ振り返り答えた。
 彼を呼び止めた叔母の顔が、彼女の向かう鏡に映って見ることが出来た。

「……修理に出しておいたチェロを受け取りに行くだけですから、そんなに遅くならないと思います」

「私はこれから仕事だけど、もし遅くなるようなら電話しなさい」

「……」

「何? 用が済んだのなら早く行きなさい」

「はい。……行ってきます」

 最後の言葉に返事はない。
 一度だけ、鏡の隅に映ったシンジに視線を送ると、すぐに視線を自分の顔に戻した。
 シンジは、それを気に留める様子も無く、そのまま階段を下りて玄関に向かう。
 降りきったところで、一度階段の上を見上げる。電気を消した階段の先に見えた二階の薄暗い天井が、僅かに見えるだけだった。
 そこから、シンジを見送ろうとする誰かが出てくる事は、無い。
 どのくらいそうしていただろうか。やがて彼は、再びその足を玄関へ向けた。




「あっ! シンジ、どっか行くの?」




 彼女が居間からひょっこり顔を出したのは、ちょうどそのときだった。










ミソラージュ   その一

 僕と、彼女と、二人組み







 商店街からほど近い、少々入り組んだ場所にあるその店は、少し古びた印象を受ける店構えだった。洋風なつくりの外壁には、少し枯れたツタがからみつき、古ぼけた印象に拍車をかけている。一瞬、もうここは廃墟なのでは、と周囲に思わせるほどだった。
 しかし、出窓のように壁からせり出したショウウインドーには、そこで扱われている商品が綺麗に陳列されていた。
 手入れの行き届いた楽器類。スタンダードな楽器から、特徴のある変わった楽器まで、様々なものがそこには置かれていた。そしてその楽器たちの隙間を縫うように、店内の様子を見ることが出来た。
 そこには、棚に陳列されている商品とにらめっこをしている少年と、店内に設置されていたテーブルに突っ伏しながらその少年をあきれたように見ている少女の姿があった。

「ねぇ~、シンジー、まーだー?」

 ごろごろとテーブルの上で頭を転がせながら暇そうに山川ユカリは聞いた。久し振りに穿いたスカートがめくれるのもかまわずに足をばたつかせた。それほどまでに彼女は暇だった。かれこれ二時間はこの店にいる。店内には静かなクラシックが流れ、落ち着いた雰囲気の中、彼女は持参した本をじっくり読むことが出来た。少年はユカリに話しかけることも無く、ゆっくりと店内をめぐり、ユカリはそんな彼を邪魔しないようにと気を使ったのが彼女の失敗の始まりだった。
 そんな状態が続いたのも一時間まで。彼女は最近習得した速読で、持参していた本二冊もあっという間に読みつくし、それから更に一時間経った今ではすでに禁断症状まで出ていた。しかし、何より彼女が機嫌の悪い理由は別のところにもあった。

「もうちょっとですから……」

 店内にそろえられていた商品は、彼の予想より数が多く、そして彼の優柔不断さはこんな所でこそ存分に発揮されていた。 テーブルからほど近い場所にある棚の前に立っている少年、碇シンジは、そんな彼女の険悪な雰囲気に気がつくことも無く、目の前の棚を戸惑いの表情で見ていた。
 しかし、その表情の奥に隠れている感情がどこか楽しげなものであるとユカリは睨んでいた。

 自分をほったらかしにして。

「さっきから何してんのよ」

「……いえ、弦を探してるんですけど、どれにしようか迷ってて」

「弦ってそんなに種類があんのー?」

 少しだけ、ユカリがこちらに興味をもってくれたことが嬉しかったのか、シンジはそれまでの表面だけの険しい顔をたちまち崩し、

「はい! それはもう! スチール弦にガット弦、ラーセン弦っていうのがあるんです。このラーセンって言うのが一番高いんですけどどうもしっくりこなくてスチール弦やガット弦にも表面にまいてあるものの違いでクロム巻銀巻スチール巻タングステン巻があって僕はラーセンを使ってたんですけど最近スチール弦に変えてみるとこっちのほうがしっくり来るんです。でもスチール巻かタングステン巻か悩んでてアマチュアの人はスチール弦のクロム巻で十分だって言う人もいるんですけどソロでやってる人のお話ではタングステン巻もいいって良く聞くんです。はぁー……ユカリさんはどっちがいいと思いますか?」

 一気にまくし立てた。
 普段の彼からは想像もできないほどの言葉の量。まるで取り付かれたかのよう説明し、一息ついてやっと向きなおると、そこには見事にシンジの言葉の圧力に潰され、ぐったりとテーブルにうつぶせになっているユカリがいた。

「ねーねー、ユカリさんはどっちがいいと思いますか?」

 ユカリのそんな様子を気に留めることも無く、シンジはユカリを揺さぶる。
 うつ伏せになったユカリの表情はわからない。しかし次第に、その肩が揺さぶられているものではない、何かを耐えるように細かく震えていることがシンジに伝わる。
 シンジは、思わずその手を止めるが、すでに彼女の肩の戦慄きは、すでに目に見えるまでに大きくなっていた。
 そしてその震えが突然止まったとき、彼女はポツリと呟いた。

「……どっちでもいい」

「え?」

「どっちでもいいって言ったの! もう! 他のお店しまっちゃうじゃない! いつまで此処で悩んでるつもり!」

 その場に立ち上がると、先程のシンジ以上の勢いで吼えた。シンジはそんな彼女を何とかなだめるためにぎこちなく微笑んで見せながら、話題を逸らしに掛かった

「……僕はここにいますから、ユカリさんは本屋さんに行っててもいいんですよ? ほら、ここの向かいは本屋さんですし」

「そ、それだと来た意味が無いじゃない……。それに! シンジをこんないかがわしい所に一人でおいて置けないし……」

「どうして? 此処はとってもいいお店ですよ? 確かに来たのは今日が2度目ですけど、チェロの弦の張替えと、駒の調整もこちらでしてくださるそうなので、終わるまでまだ時間がありますから」

「……」

 黙りこんでしまったユカリをシンジはそっと覗き込む。ユカリとシンジの身長差からすると殆ど見上げる形にしかならなかった。それでもシンジは、俯いてしまったユカリを不思議そうに見上げた。

「ユカリさん?」

「知らない! もういいわ! 私、ひ・と・り・で行ってくるから! あんたなんかここでカビが生えるまでうだうだやってればいいのよー!」

 そういうとそのまま、シンジと目を合わせることも無く、店の出入り口を目指した。入り組んだ棚の間を駆け抜けるように通り過ぎると乱暴にドアを開け、そのまま外へと出て行った。
 扉に着いた鈴の音が、ガランと大きく鳴り響き、再び店内に元の落ち着いた雰囲気が戻ってきた。

「…………ユカリさん、機嫌が悪かったのかな?」

 シンジ一人を、店内に残して。






「何よ、何よ、せっかく久しぶりに買い物にきったっていうのに! 自分の事にかかりっきりなんだから!」

 ユカリは一人店から出ると、正面の本屋には向かわず、不満の声を上げながら商店街に向けてその足を進めていた。
 こんな気分では大好きな本を読んでも落ち着かない。
 いらいらとした思考を、どうしてこうなったのかという解決の道を探すための方向に向ける
 せっかくの休みなのに、遊ぶ約束をしていた友人が突然の断りの電話をしてきた。それは仕方の無いことだったが、せっかくのお休みに何もしないのはつまらない。
 どうやってこの暇を潰そうかと思案していた時に、黙って出て行こうとするシンジを玄関先で捕まえられた事は、ユカリにとっては幸運なことだった。
 シンジの話をその場で聞くと、ユカリはすぐさま階段を駆け上がり、身支度をあっという間に整えると、母親への断りもほどほどにシンジの手を引っ張ってこうしてお出かけへと興じたのだ。
 きっと楽しいお出かけになると、彼女は意気揚々と家を出た。
 シンジの目的地に到着するまでは。
 着いたところは、元はおしゃれだったかもしれないが、壁のツタがなんともいかがわしい。店内の様子は清潔だったが、ずらりと楽器が並べられているだけのその様子は、何もわからないユカリにはつまらないものだった。
 しかしそれも、シンジがいればいろいろと楽しいだろうと、思いなおそうとした矢先、彼の様子は一変していたのだった。
 先程のように。
 ユカリの楽しい予想は、そうして見事に外れてしまった。

「何やってるんだろう、私」

 俯いた視線の先には、むなしくゆれるスカートの裾が目に入った。

 どうして自分は、こんなものを穿いているんだろう?
 どうして自分は、こんなところを一人で歩いてるんだろう?
 
 全部シンジのせいだ

「もう知らない! あんな音楽馬鹿!」

 いい切ると気分を変え、その辺をぶらつこうと足を向けた。
 そうしてユカリが進む方向を決めたとき、進んでいた道の先に、その男はいた。

(うわー……、でっかい人)

 それがユカリの最初の印象だった。
 その人物に目をつけたのは、道に人がいなかったという理由のほかに、彼が大きなギターケースを抱えていたことと、その身長のせいだった。
 離れていても、その身長が高いことがわかる。
 190センチはあるだろうか。裾の擦り切れたジーパンと、白いTシャツ。心なしかその方に背負われているギターケースが小さく見える。
 ユカリがそうして、ちらちらと視線を送っていると、僅かに電子音が聞こえてきた。
 すると男は、ごそごそとポケットから携帯を取り出すと、ユカリに気がついていないのか、少し大きめな声で話し始めた。

「あー遅れる? いいよいいよ気にすんな。店の場所知ってるだろ? テキトーに時間潰して先にスタジオに入ってるから。うん、……だからもう謝んなって。……もともとあの弦寿命でそろそろ変え時だなって思ってた……あ? いや、お前が珍しく自分から謝るから、黙ってたほうがなんとなく面白そうだなって……!! うわ! うっせーな、携帯で怒鳴るなよって、……きりやがったあの野郎……」

 いけないと判っていても、そうして聞き耳を立ててしまった。

「ん?」

 その視線に気がついたのか、その男はユカリのほうへ振り向いた。そしてユカリと視線が合う。

「ご、ごめんなさい!」

「……」

 そして、思わず大きく頭を下げながらあやまって、再び頭を上げることもそこそこに、反対方向へと走って逃げた。気恥ずかしさと会話を盗み聞きしていた後ろめたさから、彼女は振り返ることも出来なかった。
 そうして、彼女が走り去った後、自分の顔を撫でながらその大きな肩を小さくたたむ男の姿があった。






 残ったっ店内にて、シンジはいまだに商品について悩んでいた。

「おーい坊や」

 そんなシンジを呼ぶ声が聞こえてきた。一端手を休め、声のほうへと向かった。
 店の奥にある、作業場のようなカウンター。そこには白いひげを蓄え、丸いめがねをかけた人のよさそうな老人がいた。その手には大きな楽器、シンジのチェロを持っていた。
 それをカウンターに静かに横たえながらその老人はシンジを待っていた。

「はい、もう終わっちゃったんですか?」

 シンジはカウンターに着くと、もう殆ど仕上がっているように見えるチェロを見てそういった。

「うむ、もう殆ど終わっとる。じゃがなぁ、ほれ、此処の駒なんじゃが……」

 老人はそういうと、チェロの中ほどで弦を支えている駒を指した。

「はい、昔変えたことがあるんですが、良くわからなくて。お店の人のお勧めで変えてもらったんですけど」

「これはいかんよ、今時こんなものを使っとる奴はおらん」

「……そうなんですか」

 少し残念そうに肩を落とすシンジに、老人は見かねて声を掛けた。

「ふむ。いいかね? 君が今まで使っとったのはベルギー産のものでの、少々音が中に篭るんじゃよ。早い話があまり音がよくでん。フランス産のいいものがこの間入荷したからの、良かったらこれも変えておこう。まぁ、よしあしは後で弾いて確かめてみるといい」

「……えっと、此処でですか?」

「まさか。この下はスタジオになっておるんじゃ。……ところで、君はこれまでどこ弾いとったんじゃ?」

「自分の部屋でですけど、どうしてですか?」

「ふむ? もしかして、独学でやっとるのかね?」

 カウンターから少々身を乗り出して老人はシンジに問い詰める。

「はい。あっ、時々学校の先生に教えてもらってます」

「ふむ……」

 それきり、老人は少しの間考え込んでしまった。その視線はシンジからはずれ、その手元にあるチェロに注がれていた。

「あの……」

 シンジはその様子を不思議そうに覗き込んでいると、気がついた老人はにっこりとシンジに微笑んだ。

「いや、すまんね。君みたいに小さい子が、独学で、此処まで使い込むほど練習してるのが不思議でねぇ。修理を頼まれたときもびっくりしての。ほれ、この左手を置く場所なんじゃが、指板のところがひどく痛んでおっての。一体どうやったら此処まで使い込めるのかと……」

「……ごめんなさい」

「いやいや、別に怒っているわけではないよ。……良く練習しておるのが伝わってきての。感心しとったんじゃ」

「……」

 老人はその皺だらけの手でシンジのチェロを優しく撫でながらそういった。そして目じりを皺いっぱいにしてシンジに微笑んだ。なんとなく、その眼差しが気恥ずかしくて、シンジは目を逸らして俯いてしまった。

「しかしな、もしかしたら手入れの仕方を知らんのじゃないかね?」

「えっと、詳しくは……」

「ふむ、中に少々埃が溜まっとってな、この取り方なんじゃが、まずお米を一握り入れての……」

「はぁ……なるほど……」

 シンジはメモを片手に、老人の話に耳を傾けた。老人はその様子に更に目を細めた。






「これで一通り教えたんじゃが、後はためし弾きをしてもらわんと。しばらくはあまり思い通りの音がでんかもしれんが、弦がなじむまでしばらく掛かる」

「はい、いろいろありがとうございます」

 たくさん書き込まれたメモをポケットにしまいこみながら、仕上がったチェロを受け取った。

「じゃあ、これがスタジオのカギ……しまった。今日は珍しく予約がはいっとったのをすっかり忘れとった」

「あっ! いえ、今日はもういいんです。僕はかまいませんから」

「いや、こういうのは実際に弾き心地を試して調整をせんと……」

 シンジと老人がカウンター越しにそうしていると、来客を告げる扉の鈴がなった。

「おー、いらっしゃい。ひさしぶりじゃなぁ。元気にしとったか」

「まあまあだよ。ワリィね、また下、使わせてもらうよ」

「ああ、ちょうど良かった。いまそのことで話をし取ったんじゃ」

「ん? また修理の話か? なら俺は後でもいいよ、ってまさか……」

「お兄さん?」

 シンジが振り返ると、そこにはいつの日かシンジのことをバスで送り届けてくれた二人組の片割れが立っていた。その肩にはギターを担ぎ、白いシャツに裾の擦り切れたジーパンをはいていた。

「よー!! チェロの子じゃないか。久しぶりだなー。元気にしてたか? ちょっと背も伸びたみたいだな」

 シンジに気がついたその男性はぐりぐりとシンジの頭を撫でた。

「何じゃ、知り合いか?」

「ん、まーね。お! これ、あのときのチェロか。……触ってみてもいいか?」

「はい。えっと、どうぞ」

 カウンターにおいてあったチェロをそっと渡す。男性はそれを受け取ると、静かに弦を撫でた後、一本だけピンと弾いてその音を確かめた。

「ん、やっぱり、こういうのは手にしっくりくるなぁ」

「気をつけぇよ。それ、ホントにいいもんだぞ?」

 その様子を見ていた老人が、面白そうに男性の手の中にあるシンジのチェロを指差した。

「……いくらくらい?」

「お前さんのギターが、それこそ二十本は買える」

「げ!」

「しかも、フルスペックでな」

「これが……」

 ごくっと男性の喉がなる音が聞こえる。すると途端にその挙動が危なっかしいものになる。そしてぼそりと呟いた一言が彼を見つめていたシンジの耳に届いた.


「それだけあればローンが……」

 それを聞いて、今度はシンジの顔が青くなる。

「ご、ごめんなさい。か、返してもらえませんか……」

「いやいや冗談だって」

 笑いながら彼はシンジにチェロを返した。

「で、どうするんだ? スタジオはこの地下だから、すぐにでも弾けるけど」

「……お邪魔じゃ、ありませんか?」

「変わってないな。そんなことないって」

「でも、……」

「いいからいいから。それにほら、俺だってチェロどんなのか聞いてみたいし、な?」

「……」

 シンジは手元に戻ってきたチェロと、自分に微笑みかける男性の顔を困ったように、交互に見た。

「だめかな?」

「い、いいえ! えっと、その、……お願いします」

「ん、よろしい」

 そうすると、もう一度シンジの頭に手を置いて、ぐりぐりと乱暴に撫でた。






「うわぁ、結構広いんですね」

「だろ? ここなら思いっきり音出して弾けるから気持いいんだ」

 カウンターの脇にあった扉を開けて地下に降りると、そこには本格的なスタジオがあった。階段を下りて扉を開けた奥の部屋は、シンジが見ても解らない様々なメーターがついた操作盤のある部屋だった。操作盤の前の壁はガラス張りで、その向こうの部屋が見えるようになっている。シンジの前を歩いていた彼は、更にその奥へと進んだ。

「ほら、此処は編集をするところだから、それを弾きたいんならこっちに来て」

「あっ、はい」

 その部屋の雰囲気に飲まれそうになっていたシンジは、慌ててそちらのほうに駆けていった。

 そして彼に連れられて入った部屋は、先程ガラス越しに見えていた部屋だった。その部屋は先程の部屋よりも、少し印象の異なる部屋だった。備え付けられてたマイクやアンプのほかに、ドラムセットや何本かのギターやベースが少々乱雑に置かれたその場所は、清潔とはいえなかったが、その雑多な雰囲気はどこか不思議な雰囲気が漂っていた。
 そうしてシンジがそわそわと辺りを見渡していると、ギターを出して準備をしていた彼はそれをおかしそうに眺めていた。

「こういう所は初めてか?」

「はい。いつもは部屋か、学校の音楽室を貸してもらってるんですけど。なんだか、不思議な感じですね」

「あぁ、音が散らないんだ。だから演奏した自分の音がよく判る」

「へぇー……」

「ほら、早速聞かせてくれよ」

「は、はい」

 いそいそとケースにしまったチェロを取り出す。傍にあった椅子を引き寄せて座った。大事にしまわれたチェロを、そっと取り出す。シンジは、そのまましばらく手に取った感触を確かめた。つやつやとした感触と、しかしそれでいて手になじむ木の感触、磨きなおされた指板、張り替えられた真新しい弦。

 そして、静かに弓をそえる。一本一本の音を確かめるように、ゆっくりと動かした。その音は、シンジが耳慣れていた音よりもわずかに高い音だったが、気にならなかったそれよりも、今この手にあるこの楽器が、今また自分の手によって奏でられていることの喜びのほうが大きかった。
 しかし、そこで自分を見ている目があることを思い出してしまった。ちらりと自分を見る彼に目を向けると、彼はうれしそうにシンジを見ていた。彼は何もいわず、目を閉じると、そのままシンジの演奏を待った。
 シンジはそれに答えるために、再び弓を握りなおした。今度は音を出すだけではなく、しっかりとしたメロディを奏でるために。
 しかし、そうなると今度は上手く弾けなくなってしまった。緊張で手が震える。老人がさっき言っていた以上に自分の思い通りの音が出せない。
 するとそこへ、聞きなれない音が聞こえてきた。細かく震えるような音。少しだけ手を止めて顔を見上げてみる。するとそこには、目を閉じて、自分の楽器に集中している彼の姿があった。

 何も気負う必要は無い。ただ目の前にある楽器に集中すればいいんだよと、その姿は言っていた。

 シンジは深呼吸をして、再び弓を握りなおし、もう一度静かに弦にそえた。今度はやわらかく、その音は滑り出すようにその部屋に響いた。
 シンジのチェロの音と、彼のギターの音。シンジのチェロの音はチェロ本来の重厚で高すぎず、けれども決して低すぎることの無い静かな音。
 いつの間にかその音色に沿うように響いていたギターの音は、その音の発生は弦を弾いた一瞬のはずなのに、彼らを包む空気を震わせて、いつまでもその場に残ろうとした。
 その空気は、どこまでも心地のいいものだった。
 そうして二人とも各々の音楽を引き始めた。もちろん、最初はかみ合わない。無理にあわせようとして、シンジのチェロは不快な音を立ててしまったし、それにつられてギターの男性も少しだけ音をはずした。
 それでも次第にお互いの呼吸を覚え、目配せで合図を送るようになると、次第に奇妙な音楽が生まれだした。
 そんな二つの音は微妙にずれながらも、まるでジャズのセッションのように、即興で出来上がっていく音楽を、二人は思う存分弾き合った。

 そして最後、音を合わせてその演奏を終えたとき、ほんの少しだけ、お互いの心に寂しさを残して、二人は手を止めた。

「……」

「……」

 お互い顔を見合わせると、気恥ずかしい空気が流れ、お互いがそれをごまかすように話し始めた。

「いや!! 本当に上手だなぁ。恐れ入ったよ。チェロってこんなによく響く楽器だったんだな」

「いえ! 駒を変えてもらったせいだと思いますよ。本当にこんなに音が変わるなんて思いもしませんでした」

「いいもんだなぁ、チェロって……」

「お兄さんのギターもかっこよかったです」

「おう、サンキュー」

「……えへへ」

「……あはは」

 そしてそのごまかし方のほうが恥ずかしくなってくると、今度は二人とも顔を見合わせて笑いあった。






 そして、彼がシンジにギターの弾き方を教えているときだった。

 シンジは彼の膝の上に座らせてもらい、その手をとってもらってギターを弾いていた。

「―――んで、ここをこの指で押さえて」

「はい、あ、此処はちょっとチェロに似てますね」

「あぁ、そうなんだ。そういえば、ジャズバンドに、こんな風に弾いて演奏してるのを見たことがあるな。まぁ、チェロとはまた違う楽器だったけど、お前のでも出来るんじゃないかな」

「本当ですか?」

「あ、ああきっと、……たぶん」

 自分を振り向いたときの、そのシンジの目の輝きに、一瞬、彼は目をあわせられなかった。

「じゃあ、僕頑張ります!」

「あ、あははは……」

 シンジの純粋な言葉に、彼はまた、いつか感じたような何ともいえない居たたまれなさを感じた。
 しかし、そこでちくりと刺すような視線に気がついた。
 ガラス越しに、スタジオの入り口に目をやると、ちょうどそこに扉を開けて中に入ってきた一人の少女の姿があった。
 彼女は、彼がその姿をはっきりと確認する間もなくあっという間に録音室の扉までかけると、一気にその扉を開けた。
 その音に反応して、シンジがギターに向かっていた顔を上げる。そして、その視界に移った人物の名を呼ぼうとした。

「あ、ユカ―――」

「ちょっと! あんたこんなとこで何やってるのよ! 私外でずっと待ってたんだから!」

「うわぁ! ご、ごめんなさい!」

 しかし、シンジが口を開くまもなく、その場に現れたユカリは大声で黙らせた。
 彼は、その姿を見ておや、と思う。

「ん? きみはさっきの?」

「! さっきのでかい人! ……こいつをどうするつもりですか?」

 彼が声を掛けると、事情を知らないユカリは警戒心を露にして、彼からシンジを引き剥がし、自分の後ろに隠した。

「いや、どうするって?」

「あのー?」

 ユカリの後ろに隠れ、申し訳なさそうに身を縮めていたシンジが、おずおずとユカリの服の袖を引っ張った。

「なによ。だいたいあんたねぇ、知らない人にほいほいついていったらだめじゃない! あんたは早くそれ仕舞って! 逃げる準備しなさいよ!」

「いえ、その、話しを聞いてください」

「えーと、何か誤解があるようだが……」

「近寄らないで!!」

 誤解を解こうと、シンジがユカリの気を引いているときに話しかけたのが悪かったのか、振り向きざまに彼の手を叩き落としたユカリは、更に彼に向かって牙を剥くように睨み付けた。

「ああ……どうしよう」

 彼はその光景を前に呟く。
 そうして、シンジとユカリと彼による奇妙な膠着状態が生まれつつあったとき、最後の火種は訪れた。

「あー!! チェロの子がいるー! どうしてどうして!! ひっさしぶり! 元気だった? 彼女さんも」

 その場にいた誰もが、その声が聞こえたときに初めてその存在に気がついた。

「「お姉さん?」」

 そこにはいつかの日と同じように、ジーンズの生地のスカートに、白いブラウス、そして青いベストに身を包み、長い黒髪を後ろに束ねていた。

「たすかった……」

 男性はその女性の登場に、思ったままの安堵の言葉を口にしたが、ユカリの一言がそれを打ち砕いた。

「お姉さん助けて! この人、誘拐犯なの!」

「えっ、うそ!!」

 シンジを引っ張り、ユカリはいつかのようにその女性に駆け寄り、厳しい瞳のまま彼を指差した。
 ユカリの言葉に驚いた女性は、自分の彼氏と、自分にすり寄るかわいらしい女の子との間に挟まれた。そしてその視線は驚きに見開かれたまま、彼とユカリを何度も行き来した。

「ええ! ちょっと待て! いや、だから違うんだって」

 彼がそうして声を掛けると、女性は一度彼に視線を固定した。しかし、彼女は何も言わず、じっと彼を見つめるだけ。その表情は、どことなく疑わしげに見えた。
 何も言わずそんな表情で自分を見続ける彼女に痺れを切らし、彼のほうから切り出した。

「なぁ、黙ってないで。その子に説明してくれよ」

「……」

「おい、聴いてるか?」

「……ずるい……」

 そうして、彼女が再び口を開いたその一言は、彼の期待を大きく裏切るものだった。

「は?」

「あたしには、止めろとか何とか散々言ってたくせに……」

「おいちょっと待て。まさかお前……」

 ぶつぶつと独り言のように呟かれるその声は、その部屋にいるせいか、その場にいる全員に届き、更なる困惑を呼び寄せていく。
 そして、彼女はゆっくりと自分の一番近くにいたユカリを抱き上げ、

「え! ちょっとお姉さん!!」

 困惑するゆかりをよそに、彼女は男性に向かって、にやりと不敵に笑って見せた。
 その瞳を見た彼は確かに見た。
 彼女の瞳が、すでに理性を失っていることを。

「ずるい、ずるいずるいずるい!! 自分だけずるーい!! あたしもお持ち帰りするんだからーー!!」

 そう叫ぶと、彼女は出口に向かって駆け出した。

「キャーーーー!?」

「ま、まってー!!」

 担がれたユカリに、それをとめようと追いかけるシンジ。

「こ、このどアホー!! やめんか!!」

「あいた!」

 事前に危機を察知していた彼が傍にあったマイクを彼女に投げつけた。まっすぐ飛んでいったそれは見事に頭部に命中する。
 弾みでスイッチが入ったのか、キーンという厭な音が室内に響いた。彼女の肩に担がれたユカリや、それを追いかけていたシンジは耳を抑えた。
 彼女はその場に立ち止まった。心なしか痛みに耐えるようにその肩が震えている。さすがにやりすぎたと思ったのか気まずげに彼は言った。

「あ……す、すまん。つい力が……」

「ふふ……」

「……あ?」

 しかし、予想に反して、彼女の肩に手をかけたとき聞こえてきた声は、低い笑い声だった。

「ふははははは! この程度であたしを止められると思うなよー!!」

「うわ! うわーん!! おにいさん! 助けてー!!」

 そしてユカリを抱えたまま、彼を交わし、今度はシンジまでをもその手に抱え、彼女は再び走り出した。

 彼は、そっと天井を仰ぎ見る。




   あぁ、神様…………この野郎!




 そうして彼も走り出した。








 何とか事態が落ち着いたのは、子供二人とはいえ、それを抱えて走り回っていた彼女が疲れ、彼に捕まったということもあるが、最終的にはシンジがその場で泣き始めたことが試合終了の合図だった。

「えーと、すみませんでした」

「いやこっちも、このあほがとんだ迷惑を……」

 スタジオに戻ったユカリと彼がお互いに頭を下げた。その脇では、落ち着きを取り戻した彼女が、シンジをあやしていた。
 シンジを膝の上に乗せ後ろから抱きしめるようにしていた彼女は、その感触にご満悦だった。
 そしてシンジも、彼女の膝の上で、うれしそうにチェロの説明をしていた。

「へー、弦って、そんなに種類があるのね」

「はい」

 そんな風にうれしそうに話す二人を、ユカリは複雑な面持ちで見ていた。普段は穿かないスカートのすそを、弄んでは放している。
 それを見ていた彼は、彼女が以前に言っていたことを思い出した。


 ああ、なるほど。これは可愛い。


 彼は、ほころびそうになる顔を必死に抑えた。そして、ユカリがとうとう耐え切れなくなって動き出したのも、彼はしっかりと見ていた。
 彼女とシンジは、まだそのことに気がついていない。

「ねぇねぇ、何か聞かせてくれないかしら?」

「あっ、はい。えっと、じゃあ、何弾こうかな?」

 シンジが悩んでいると、その傍に来ていたユカリがシンジの手を引いた。シンジを彼女から引き離し、自分の前に立たせた。
 彼女は突然引き離されたシンジと、引き離したユカリを驚いた目で見た。
 そしてそれはシンジも同じだった。

「? どうしたんですかユカ―――」

「あれがいいんじゃない? ほら、いつか音楽室で聞かせてくれたヤツ」

 ユカリはシンジが驚いているのにもかまわず、シンジの言葉を遮るように言った。シンジはユカリの真意を理解できていなかったが、言わんとしていることはわかった。

「―――あれ、ですか? でもあの曲、本当はぜんぜん出来てないんですよ?」

「いいじゃない。あれだったら、私歌えるし」

「……歌うんですか?」

「歌うのよ。というか歌わせなさい」

「……はい」

 そういうと、シンジはチェロの準備を始める。彼女はその様子をあっけに取られたまま眺めていたが、ユカリがこちらを見ているのに気がついた。
 その表情は、どこか勝ち誇ったかのように、にやりと微笑んでいた。
 彼女はその様子の意味するところをすぐに把握できず、それを見ていた彼は、ユカリの仕草が、何ともかわいいくて、みなにわからぬように小さく笑った。

「では、いきます」

 そして、シンジの演奏が始まった。




 それは、いつかシンジが音楽室でユカリに聞かせた曲
 それは、いつかユカリが音楽室でシンジに聞かせた歌

 あの時と同じように、シンジは弓を動かし
 あの時と同じように、ユカリは喉を振るわせた

 シンジの演奏はその時と少し変わっていて
 ユカリの声は、その時よりもよく響いた

 互いが、互いの小さな変化に気づき
 驚きいて相手に視線を向けると、互いの目があった

 それがおかしくて、
 それが楽しくて、
 それがうれしくて、

 シンジはそれを弓に乗せて、
 ユカリはそれを歌声に乗せて

 そして、ユカリが歌い終わり、シンジがその手を止めた時、その演奏は終わった。




 いつの間にか、彼と彼女は目をつぶってその演奏を聴いていた。そして演奏が終わった時、二人が目を開けると、満足げに見詰め合っていたシンジとユカリがいた。
 彼と彼女は拍手を送った.。
 シンジとユカリは、その拍手に答えてお辞儀を返した。
 その様子が妙に芝居がかっていて、シンジとユカリは顔を上げたとき、目が合った彼と彼女と一緒に、小さく笑った。

「ふー……。やっぱり、久しぶりだと音忘れてるわね」

「そんな事ありませんでしたよ?」

「えへへ、アリガト」

 シンジとユカリが、そうして話をしているところへ、先ほどの歌を反芻していた彼女が、不思議そうに話しかけてきた。

「ねぇねぇ! さっきのなんていう歌なの?」

「あっ、名前はないんです」

「?」

 シンジが答えた。

「もともと、この曲は僕のお母さんがよく弾いてたもので、それに歌詞をつけたんです」

「その歌詞って、やっぱり君が考えたの?」

「いいえ、ユカ―――」

「私よ!!」

 シンジの言葉を遮って、ユカリが胸を張って答えた。彼女は納得したようにユカリに視線を移した。

「……なるほど。その歌詞って、もしかしてUnseasonable Father Christmas? あっ、えーと、【季節はずれのサンタクロース】?」

「!! どうして……」

「貴方の役って【彼女】でしょ? 私もね、その役やったことあるの」

「……」

 そういいながら彼女は椅子から立ち上がると、先ほどよりもさらに複雑そうに顔をゆがめているユカリの頭を、うれしそうになでた。なでられたユカリの顔をそっとシンジが覗き込むと、どこか悔しそうに下唇を突き出していた。
 シンジは、ユカリがどうしてそんな顔をするのか気にはなったが、こうなった時に下手に声を掛ければとばっちりが来るのを知っていたシンジは、ユカリをそっとしておくことにした。
 立ち上がった彼女は、ぐっと背伸びをすると楽しそうにシンジたちに向き直った。

「よーし! いいもん聞かせてもらっちゃったから、あたしも久しぶりに歌うかー! ……というわけだから、よろしく」

「よし」

 彼女が彼に視線を向けると、彼は心得たようにギターを握りながら立ち上がった。彼女は近くにあったスタンドマイクを引き寄せて、準備を整える。
 彼もギターを肩に掛け、本格的に準備を整えると、彼と彼女はお互いの肩に手を置き、二人だけの円陣を組む

 そしてほとんど額をくっつけるようにして顔を見合わせ、

「ロックに必要なのは!!」

「ソウルとビートだ」

「一発決めろ!!」

「Oh! Yeah!」

 大きく声を掛け合った。
 そして、二人は離れ際に手を打ち鳴らす。
 それが始まりの合図だった






 彼が傍らにおいてあったドラムを一度だけ、景気付けに叩く

 ドンと、空気を震わせるようなドラムの音

 空気の振動が収まるのを待たずに、肩にかけてあったギターを静かに弾き出す

 徐々に早められていくビート

 それにつられて鼓動も早まっていく

 もっと早く、もっと強く

 体の奥の破壊的な欲望のままに

 暴力的な音の波に飛び込んでくるように彼女の声はわって入ってきた

 その声は、周りの音に負けないくらい力強く、先程までの激しい音が、いつの間にか彼女のために在るもののように錯覚させる

 見事に彼女の支配下に、その歌声の導くままに

 そのあまりの統率力に、そのあまりの力の奔流に、シンジたちの思考は真っ白に吹き飛ばされていく

 掻き乱されるわけではなく、むしろその力の流れに、自分から身を委ねたいと、思ってしまうような

 自分の心の暗く淀んだところを、真っ白に吹き飛ばしてくれるような

 そんな、心地よさが

 それは、始まるのも突然なら、終わるのも突然だった。

 最後に大きくギターの弦が室内に鳴り響き、そこでその歌は終わった。

 はっと、辺りを見渡すと、そこは先程までいたとおりの、薄暗く、静かなスタジオの中だった。

 しかし余韻は、いつまでも部屋の空気を熱くしてその場に残った。






 演奏が終わってしばらく、シンジとユカリは目をしばたかせ、驚いたような表情を作り、演奏を終えた二人を見ていた。
 その様子を見た二人はひそひそと耳打ち合う。

「……やりすぎたんじゃないか?」

「や、やっぱり?」

 心配そうに、彼女はシンジたちを覗き込んだ

「ど、どうだったかな?」

 彼女に話しかけられたシンジは、ぱっと目が覚めたように背筋を伸ばし、あわてた様子で話し始めた。

「えっと、その! ……何ていうんだろ? ものすごく音が大きくて、ものすごく恐い気もしたんですけど……」

 シンジは困ったように隣のユカリに目を向ける。そして彼女も同様に、どこか気の抜けたようにシンジを見ていた。
 ユカリは、シンジが忙しそうに離すのとは対照的に、どこかまだ衝撃の抜けきらない面持ちのままポツリとつぶやく。

「……カッコイイ?」

「うん、とってもかっこよかった。でも、体が震えて、それが止まらなくて。何ていうか。……うん、止まらなくて」

 コクコクと何度も頷きながら体の震えを抑えるように自分の体を抱くシンジ。放心したようにどこか虚空に視線をやるユカリ。
 しかし次第に、その瞳に光が戻ってくる。

「何でだろ? 私も、私たちも、とっても歌いたい!」

「はい!」

 ユカリの言葉に、シンジが答える。

「うん、じゃあ、あんた弾きなさい」

「はい、じゃあ、歌ってください」

 にっこりと笑みを浮かべて顔を見合わせる
 今度はシンジがチェロを手に取り、ユカリが彼女からマイクをひったくる。そして二人で彼女を見据えて、

「負けないんだから!」
「負けませんから!」

 それぞれの手にマイクとチェロを構え、彼女に向き直った。
 その笑顔に、彼女はもう一度理性を失いかけるくらい、胸が躍った。

「よーし! じゃあ、カラオケ大会よー!!」

「「おー!!」」

 彼女が高々と拳を掲げ、シンジとユカリがそれに習った

「元気だなぁー」

 そんな三人に乗り遅れた彼は一人、ピックを握りなおした。






「くはーー! もう声が出ない~……」

 歌い終えた彼女は、喉を押さえてぐったりと椅子に座り込んだ。それを見たユカリは鼻で笑った。

「うふふ、甘いわねーお姉さん。次よ!」

 勝ち誇ったようにユカリはシンジへと振り返るが、そこには、彼女よりもぐったりと椅子に座り込んでいるシンジの姿があった。

「ごめ、んなさい……。僕、もうレパートリーが、ありません……あと、へとへとですー。腕がー、腕が、上がりません」

「な! もーー! だらしがないわね」

「っていうか、お前ら、いい加減にしろよ。何曲歌い倒したと思ってんだ。この時間なら、カラオケのほうがまだ安上がりだ」

 その様子を見ていた彼は、息を切らしながら腕時計を見た。

「あれ? 今何時?」

「八時半ぐらい……」

 それを聞いたゆかりの動きがピタリと止まる。そして、油の切れたロボットのような動作で彼に振り返ると、彼の掲げた腕時計を見て再び止まった。

「……やっちゃったーーー!! 」

「!!」

「え! なになに! 何があったの?」

「……むにゃ」

 持っていたマイクで思わず叫ぶ。
 彼は思わず耳を押さえ、彼女は椅子から飛び上がったが、シンジは委細かまわず眠りこけていた。

「ちょっと、あんた、なに寝てんのよ! 起きなさい! 帰るわよ!」

「えう? ……なんで?」

「いいから! 大変もうこんな時間! 早く帰らなくちゃママに怒られる! ていうか、怒られるの確実!!」

「……ありゃ?」

「もう! いつまで寝ぼけてんのよ!」

 いつまでも寝ぼけていたシンジに、ユカリは手に持っていたマイクで一撃を加える。

「あいたー!」

 シンジの声と、マイクの具使った音が再び室内に増幅されて響いた。ユカリはそれにかまわず、急いでシンジのチェロを仕舞い、シンジをほとんど引きずるように引っ張って出口へ向かった。

「それじゃあ、お姉さんにお兄さん。またねー!!」

「ま、またね~……お兄さんお姉さん~」

 がたがたといろんな音をさせながら、ユカリたちは会談へと消えていった。
 最後に見えた、ユカリに引きずられながら二人組みに力なく手を振るシンジが、なんとも印象的だった。

「……いっちゃった」

「……台風みたいな子だな」

 ユカリを呼び止めようとして、挙げかけたまま止まった彼と彼女の手が、その台風の激しさを物語っていた






 シンジとユカリの帰り道にて

 ユカリは、いまだ目をこすりながら歩くシンジの手をとって、すっかり暗くなった道を歩いていた。
 夜の冷たい空気を大きく吸い込むと、走ったせいで火照った体を冷やした。

「あー……、気持ちよかったねー」

「そうですねぇ~」

 隣を歩くシンジは、まだどこか眠そうな声で答えた。その歩調も危なっかしく、ユカリは一度足を止めた。目をこするシンジの顔をそっと覗き込んだ。

「まだ眠いの?」

「いいえ、大丈夫です。でも……」

「何よ」

 すっとシンジは夜空を見上げ、しみじみといった。

「……ロックってカッコイイですね」

 それは、眠たげな目のせいで瞳が潤んでいたせいだろうか。
 それとも夜空の星をその瞳に映したせいだろうか。
 その瞳はきらきらと輝いていた。

「えーと、碇君? やめときなさい?」

「ロックかー……」

 つぶやきながら、シンジはふらふらと歩き出した。

「シンジくーん? 聞こえてるー?」

 ユカリはそのあとを追った。この先、シンジの音楽性に危険な因子が入り込んでしまったのではないかと、少し不安に感じながら。






 彼と彼女の帰り道にて

 彼女は、楽器店を出たすぐ傍で、自動販売機で買った飲み物で歌いすぎで痛むのどを冷やしていた。

「ぷはー、久し振りに歌ったわー」

「……手が痛てぇ」

 その隣でつらそうに手をもんでいる彼は、そんな彼女を非難がましい目で見ていた。

「まぁ、いいじゃない。あのこのチェロも聴けたし、今日は楽し、かっ……た?」

 そんな彼を横目にもう一度ペットボトルを傾けようとしていた彼女の動きが不自然に止まった。

 何か気づいてはいけない事実があるような、ないような

 そして、今度はすがるような目つきで彼を見て口を開こうとした時、彼がそれに気がついた。

「あ、名前聞くの、また忘れたなぁ」

「わ、忘れたじゃないわよ! 何で訊いとかないのよー!」

「お前だって忘れてただろ、俺に噛み付くなよ」

 ほえる彼女に、彼は耳を押さえながら答えた。彼女は彼のそんな態度と言葉に対して、不満を顔いっぱいに表した。

「……明日も行く」

「お前、仕事だろ」

「ならあさっては」

「一緒だろ」

「じゃあ週末」

「俺、出張」

「じゃあ来週!!」

「……残念、今週であの店、なくなっちまうんだ」

「えっ! 嘘、なんで?」

 彼女は単純な落胆と、意外な事実に対しての驚きに目を見張った。
 そんな彼女の反応を見ながら、彼はさびしそうに続けた。

「おっちゃんさ、体がもうきついんだと。だからおっちゃんが店畳む前に、最後にお前と一緒に行っときたかったんだ」

「そう、なんだ」

 手に持ったペットボトルを両手で包み、寂しげに視線を落とす彼女に、彼は勤めて明るく振舞った。

「……そう落ち込むなって。今日みたいにまた会えたんだ。いつかまた会えるさ」

「でも……それっていつ? この前最後にあったのだって、もう三年も前なんだよ? 次いつ会えるかわかんないのにー」

「まぁ、チャンスを物にできなかったのはお前の責任だからな。俺は知らん」

「何よー! ぐれてやるー!」

「……その歳からだと、みっともないだけだな」

「チクショー! 飲み明かしてやるー!!」

「俺は付き合わんぞ。明日俺だって仕事だし」

「……」

「……なんだよ」

「脱げ!!」

「なに!!」

「今からつくる!!」

「いやー!! ……ってなにやらせんだ!!」

 まるで彼の胸を掴むように彼女は後ろから抱きついた。

「よいではないかよいではないか」

 それを振りほどき、彼は彼女と対峙する。彼女は両手をわきわきと動かし、じりじりと間合いを詰めてくる。その様子は先ほどまでの落ち込んだ様子はない。彼は彼女の手を警戒しつつ、少しだけ安堵するようにため息を漏らした。

「はぁー……、わかった。わかったから、付き合ってやるから……公共の場でこれ以上のセクハラは、カンベンしてくれ」

 彼が両手を上げて降参の意を表すと、彼女は満足そうに胸を張った。

「勝った」

「はいはい」

 そして彼が差し出した手を見ると、彼女はその腕に抱きつき、二人はその場から歩き出した。






 道こそ違えど、その二組は同じ空の下を、そうしてそれぞれの家路についた。






ミソラージュ その一

 僕と、彼女と、二人組み

 終わり




























 シンジとユカリは、楽器店をあわてて出発してからおよそ一時間後、ようやく家にたどり着いた。

「……あー、気が重いなぁ。きっとママ怒ってるんだろうなぁ」

「まぁ、仕方がありませんよ。ちゃんと謝りましょう」

「ふーんだ、あんたはそれでいいかも知れないけどね、私の場合おこずかいがもうピンチなのよ!」

「……また、本買ったんですか?」

「…………うん。だから、また、しばらくシンジの部屋に置かせてねー」

「はいはい」

 そして玄関をくぐると、そこでシンジは歩む方向を変えた。
 それに気がついたユカリは、すぐにシンジへ振り返った。

「……あっ、シンジ?」

「はい?」

 ユカリが振り返った先には、相変わらず微笑んでいるシンジがいた。

「えっと、その……」

「……大丈夫ですよ」

 不自然にシンジを呼び止めてしまったユカリは気まずそうに視線を泳がせていると、シンジが先に言葉を掛けた。

「そんな顔しないでください、ユカリさん。これは、僕が決めたことです」

「でも!」

「大丈夫です。これを置いたら、僕もすぐに行きますから、先に行ってください」

 シンジは担いでいたチェロを指差して、それでもまだ心配そうに自分を見るユカリに微笑んで見せた。

「……うん、わかった。でも、すぐに来るのよ!」

「はい」

 ユカリはそれでも不満そうにしていたが、最後にはシンジに釘を刺し、シンジを引き止めるのをあきらめた。

 そして、シンジは、ユカリが玄関に向かうのを見届けた後、庭のほうへ足を向けた。












 あとがき
 カシスさんリクエスト、あの二人組みの出てくるお話をお送りしました。二人組みの名前を明かすわけにはいかなかったので大変読みにくい……。スミマセン。カシスさんに喜んでいただければいいんですが。彼=男性、彼女=女性ということで文中では統一したんですが。読みにくいですよネェ……。スミマセン。あと、キャラクターがめちゃくちゃぶれてる気がする。スミマセン。
 最後の部分は、実はこれが五年生編の一部だったという罠を用意してみました。一応この部分はおまけということで。



[246] 没ネタ
Name: haniwa◆d03cb005
Date: 2007/07/10 13:49
没ネタ

 おはよう、こんにちは、こんばんは。皆様いかがお過ごしですか? 本編も書かずにこんなところでのんびりしているhaniwaをどうかお許しください。

 さて皆様、没ネタです。「あっ、更新しとるやんけー」と思ってここに来た方すみません。ここでは、今後陽の目を見ることは恐らくないとされてしまった私のノートから、このまま消すのはもったいないと思ったものをテキトーな感じでリサイクルし、皆様に楽しんでいただこう思ったものです。各お話の前についているタイトルは何処で使う予定のものだったかを、そして最後に没にした理由等々を書いています。明るめの話も増やしていくつもりですし、本編と何の関係も無いお話も時々載せるかもしれません。

 本編の暗い雰囲気を少し忘れたいと思った方、鬱になりそうな方、気分転換にどうぞ。

 本編の気分を壊したくない方、「早く本編に手ぇつけんかい!」とお怒りの方、御免なさい。

 ではでは、読んであげますよという方は、どうぞご覧ください。










十五話 【 Ⅰ 】の冒頭部分になる予定だったもの。

 次の日の朝、いつものようにシンジの朝は早かった。すでに習慣と化した朝の仕事も、すでに終えている。いまだ時計は七時を示そうとしているところ。まだまだ出かけるまでには、十分な余裕があるはずだった。簡単な朝食の準備も終わっていると言うのに、シンジはうろうろと居間を歩き回っていた。何かを悩んでいるようだ。

 時々立ち止まり、時計を見ては、何かを思い悩み、そしてまた思い直してうろうろするという動きを先ほどから十分ほど続けていた。そして時計が七時の鐘が鳴ならし、時がきたことを告げた。

 その鐘に突き動かされるように、シンジは動きを変え、二階へとむかった。そしてユカリの部屋の前に立った。鍵の無いドアを見て、一瞬、手をかけることをやめそうになるが、やがてそこへ手を伸ばし、ゆっくりとドアノブをひねった。

 カーテンが閉じられた彼女の部屋は薄暗く、部屋に散らばっている本につまずきそうになった。

 彼女の部屋に初めて引っ張り込まれたときは、まずその本の多さに圧倒された。広さは、自分の部屋とさほど代わらないはずなのに、所狭しと本棚が並べられ、そのすべてにぎっしりと本が詰め込まれていた。床に散らばった本たちは、整理整頓を心がけている彼女ですら、整理しきれなかったそれらが平積みにされ、しかし何かの拍子に倒れてしまったものだ。シンジがユカリに、何故これだけの本が大量にあるのかと聞いてみると、この本のほとんどは彼女の祖父が集めていたものだそうだ。彼女はそれをそくっりそのまま貰い受けて自分のものにしてしまい、本の面白さ見目覚め、現在では彼女のコレクションが増え続け、現在に至る。
 そうしてこの、まったくもって女の子らしくない部屋は完成した。
 シンジは改めて彼女の部屋を眺めると、ここ足を踏み入れた時のことを思い出しながら、その本の魔境の奥へと進んだ。彼女のベットは本に囲まれるように部屋の置くにある。そこで彼女は幸せそうに眠っていた。

 ユカリは青い本を腕に抱き、その顔にわずかに笑みを浮かべ、いまだ眠りこけていた。その表情は本当に幸せそうで、シンジはこんな彼女の眠りを妨げてしまうことに若干の罪悪感すら覚えたほどだ。それは元来備わっている彼の気弱さからも着ていたかもしれないが。

 シンジは優しく、彼女が本来の目覚めと変わらない自然な目覚めを促せるように、彼女の肩を揺すった

「ゆかりさん? 起きてますか?」

「むー?」

「起きてください。遅れちゃいますよ」

「・・・・ぶぁ? シンジ?」

「はい、僕です。おはようございます」

「えへへー・・・、おはよー・・・」

「ほら、ユカリさん。早く起きてください。もう時間ですよ?」

「・・・じ? 時か・・・ん、・・・・時間?」

「はい」

「・・・・今何時?」

「もう、七時です。早くご飯食べて出かけないと」

「? ・・・・なんで?」

「今日は当番の日ですよ?」

「あー・・・、あ?」

 シンジ、時計、カレンダーの順番で視線を動かし、ゆっくりと脳に血がめぐり始める。

「・・・あーー!!」

 どたどた。

 ようやく切羽詰っている状況に気がついたのか、彼女の意識の覚醒とともに放たれた大きな声で、部屋の隅でかろうじてバランスを保っていた本が何冊か落ちた。しかし、彼女にはそれを気にしている余裕はもはや残されていなかった。

「何でもっと早く起こしてくれないのよ!!」

「お・起こしましたよ!! でもゆかりさん返事しましたよ?」

「あーーー、間に合わないー!!」

「ちょっとユカリさん!! 何で服脱ぐんですか!!」

「ぎゃーー!! アンタ何時まで私の部屋にいんのよ!! 出てけーー!!」

「あいた!!」

 シンジを部屋の外へと蹴り飛ばすユカリ。

 シンジとユカリの何時もどおりの慌しい朝はこうして始まった。






 そして、七時三十分、学校の飼育小屋にて。

「おじゃましまーす」

「・・・・おはようございます」

 飼育小屋に挨拶をしながら入っていく二人。若干シンジには元気が無いようだ。

「あ、月さん。おはよー」

「つ・月さん・・・・・おはようございます。ご・ご機嫌いかがですか?」

「あんた、なんでそんなにウサギに腰が低いのよ」

「い、いえ」

「? ほら、そんなことより掃除始めるわよー」

 黙々と掃除をするシンジとユカリ。

「じゃ、あとはえさ上げて終わり」

「はい」

 そうして、籠に入っていた餌を手渡しでウサギに食べさせ始めるユカリ。それをうらやましそうに見ているシンジ。

「碇もあげてみたら?」

「え・・・・」

 ユカリの何気ない一言に、身を震わせて驚くシンジ。

「そんなたいしたことじゃないでしょ?」

「はい・・・、では」

 シンジはユカリから餌のキャベツを受け取ると、おそるおそる餌をあげてみる。

「月さん、どうぞ」

 シンジは伸ばした手を震わせながら、ウサギへと餌を握った手を伸ばした。

「わ、わ、あわわっわ」

「落ち着きなさいよ」

 震えるシンジの手で、餌を差し出されたウサギは逆にシンジから逃げいってしまう。シンジはそれを追った。

「こっち向いてください・・・・・。あいた!!」

 しかし、伸ばした手はウサギの後ろ足によって払われるように蹴られた。

「大丈夫?」

「はい・・・。月さん?」

 それでもシンジは、蹴られた手をさすりつつ、白いウサギへと手を伸ばしてみた。しかし、

 かぷ

「え?」

「あっ!」

 伸ばしたその手にウサギは見事に噛み付いた。思いがけずウサギをついらげてしまったシンジは一瞬呆気に取られた後、ウサギを話すために手を降り始めた。

「いたい! いたい!! 痛いです月さん離して!!」

「ちょっと碇大丈夫? 月さん! めっ!!」

 碇を離して離れるウサギ。

「はー・・・・、痛いです・・・」

 ウサギにかまれ、見事に赤くはれてしまった指をさするシンジ。

「・・・・もうちょっと頑張ろうね」

「・・・・はい」




没にした理由:話が明るいから









第??話 

シンジとカヲルが廃墟で出会うシーン(台詞のみ)




「君の言葉をあえて借りるなら、君は憎悪に値する。」

「・・・それはどうして」

「君は、これからも君の判断で、君の思いで、君の独断で、こんなことを続けるだろう。その厚意を受ける者が、その行為の最後にどんな思いを抱くかを抜かして」

「それくらい解るさ」

「なら、その猫は?」

「・・・死にたくないとでも考えていたんじゃないかな。もっと生きたいとか」

「へぇ、君はそう考えるのか」

「ん? 君は違うのかい?」

「ああちがうね。全く違う」

「君はなんて思ったと?」

「何も」

「?」

「だからその猫は、何もその心に抱かぬまま、何も感じぬまま、何も思わぬまま、君の手によって死んだ。もちろんこのことは僕の推察だ。妄想と言ってもらっても大いに結構だ」

「・・・・」

「でも、これだけは確かにいえる。君が奪ったのはそういったものだ。この先存在したかもしれないこの猫の心の動きを奪った。それは最後には苦しみだったかもしれない、悲しみだったかもしれない、悔恨の念だったかも、身悶えるような悔しさだったかもしれない。でも、もしかしたら歓びだったかもしれないんだ」

「・・・ずいぶんと詩的じゃあないか」

「はぐらかすんじゃない!! まだ解らないのか、君は・・・・」

「解ったよ。つまり君は、僕が子猫を殺した理由も、僕のことも気にくわないんだろう?」

「違う!!!」

「どこが違うんだい? だって君はそんなに・・・・・」

「・・・・」

「・・・なぜ、何故君は泣いてるんだ?」

「違う・・・」

「・・・」

「違うんだ。君が本気で子猫のことを、子猫のこの先を案じてこんなことをしたことは解ってるんだ。だから、だからこそだ。君にはもっと考える方向性を変えてほしいんだ」

「どんな風に?」

「もっと未来を見つめてくれ」

「?」

「もっと先をもっとこの先を君に見てほしい。何で君はそんな足元しか見えないような目をしてるんだ」

「・・・・・・」

「もっと君の周りを見てくれ。そして、その先にある可能性も。未来を、希望を。そんなに近すぎる者を見つめ続けているから、君は隣に立っている者達の本質にも気づかないんだ」

「・・・無理だ。それは不可能なんだ、碇君。」

「そんな事無い! 君はこんなにも優しいじゃないか! 君には明日を見る資格があるし、幸せになる権利だってあるんだ!」

「・・・」

「お願いだ、生きてくれ」

「・・・・」

「・・・・」

「それは・・・・」

「?」

「・・・告白かい?」

「何だってそんな事になるんだ」

「君は本当に好意に値するよ」

「ふん! やっぱり君は嫌いだ」

「ふふ、そんなことはないくせに」

「嫌いだと言ってるだろ」

「・・・」

「・・・」

「あまのじゃくッて知ってるかい?」

「うるさい! 黙れ!! ひっつくな!!!」




 没にした理由:台詞がなんだかくさい、BLの気配もするし。あと、シンジ君の性格をこんな風に書けない気がしたから。
























よく、ここに気が付きましたね。ようこそ。

注意! 十五話を読んでいない方には、この下のお話は訳がわかりません。妄想度120%です。御気お付けください。

どこにも載せる予定の無かったお話 ※ちょっとグロイです。イロンナイミデネ……






 カタカタと、キーボード叩く音が聞こえるその部屋は、どこか疲れた灰色だった。そこは書斎のような、応接間のような中途半端な部屋だった。部屋の両脇には背の高い本棚が据えられて、色とりどりのファイルが並べられていた。部屋の一番奥には机があって、その周りを囲むように書類が散らばっていた。そしてその正面に、殆ど机とぴったりくっつくようにソファが据えられて、そのソファの上にも書類が散らばっていた。その前に小さな丸いテーブルがおいてあった。

 キーボードの音は、その机から聞こえて着ていた。それを叩く人物は、黒い背広を脱いでいて、クシャクシャのワイシャツと黒いスラックス、そして黒い靴下。その傍らには黒いサングラスと、黒いネクタイと、まるで喪に服していた人のような出で立ちの男だった。その体を深く椅子に沈みこみながらも、ぼんやりと目の前のディスプレイを睨んでいた。
 手元の書類をがさがさとあさる。目当ての物が無かったのか、眉間の皺が更に深くなった。
 そして、ポツリと言う

「そこの書類とってくれ」

「あ゛いよ~」

 彼の目の前のあるソファの上に散らばった書類の下から、にゅっと白い手が伸びてきた。その手には何枚かの書類が握られている。そして、書類に埋まって、それを布団代わりに寝ていた人物は身を起こすと、その正体をさらした。髪はぼさぼさで、パンツ一枚、上半身裸のうえにワイシャツを羽織っただけという何ともだらしの無い格好だったが、本人も、その人物から書類を受け取った彼も気にしてはいなかった。手に持っていた書類を、椅子に座る彼に渡すと、眠たげに聞いた

「コーヒー、飲むか?」

「エスプレッソを頼む」

「……ん」

 彼はディスプレイを睨んだまま答え、ソファから立ち上がった人物は、胸元のボタンがいくつか外れているのを直し、がさがさと書類を踏みつけながら何処かへと向かっていった。
 やがて、戻ってくるとその手には二つのコーヒーカップが湯気を立てていた。その一つを、彼の前に置く。

「ああ、ありがとう」

 その置かれた手から、それを置いた人物を全容を見る。どうやら彼は、そのとき初めてその人物を見たようで、その格好をみて更に眉間の皺を深くした。その胸元は今だ大きく開いていたからだ。しかし結局、彼は何も言わなかった。
 その人物、彼の相棒は、彼に何かを言われた程度では、それを改める事は無いし、そんなことを言って自分が少し顔を赤くしてしまったことを悟られたくは無かったからだ。
 そうして彼が諦めを再確認していると、彼の相棒は手元にあった、先ほど自分が渡した書類を見て言った。

「……まだ、あのこと気にしてんのか?」

「……当たり前だろう」

「そう、だな」

 そういうと、相棒はまた、書類だらけのソファに戻り、がさがさと音が鳴るのもかまわずに、再びそこに座った。
 手に持っていたコーヒーを前屈みになりながら、音を立てて啜った。
 その様子を見ていた彼は、思ったままを口にした。

「……意外だな」

「何がだよ」

「お前が。そのことを気にしてるのは俺より、実際はお前のほうだろう?」

「うっせえ。黙って仕事してやがれ」

「お前もちょっとは手伝ってくれよ」

「俺は荒事専門なのさー」

「言ってて恥ずかしくないか?」

「べっつにー」

 少し間があいた。
 その少しの間、キーボードを叩く音も止まり、コーヒーを啜る音だけが響いた。
 次に、その静けさを破ったのはソファに座った相棒だった。

「―――なぁ」

 溜息のような声だった。
 けれど、またしばらく静けさは続いた。

「なぁって! 聞こえてんだろ返事くらいしろよ!」

「……なんだ。黙って仕事しろって言ったのはお前の方だろう。それにな、この報告書。本当はお前の仕事だろうが」

「そーんなん知りゃんせん。お前様の思い違いではあらしませんか? 手前にはとんと身に覚えの無いことでありんす」

「花魁言葉は止めろ。気色の悪い」

「んだと! 俺の母ちゃんの商売にケチつけるきか!」

「オ・マ・エ・に、似合わんから止めろと言ってるんだ」

「けっ! まぁ、……仕事しながらでいいからよ、ちょっと聞いてくれ」

「……なんだ、改まって」

「ちょっとした昔話さ」

「……」

 彼が黙ると、今度はそれを承諾と受け取った相棒は、両手でコーヒーカップを持ち直して話し出した。

「俺さぁ、小さいころ犬飼ってたんだ」

 恥ずかしそうに、相棒はがりがりと頭を掻いた。

「ダンボールで捨てられてんの見つけてさ。どーしても飼いたくて、母ちゃんに三日三晩拝み倒してやっと飼わせてもらったんだ。尾っぽの先が白いから、シロなんて名前つけてさ。可愛がってたんだ」

「……お前にも、そんな時期があったんだな」

「まーな。まだ俺が、八つかそこらの話。つまりな、あんときの餓鬼と、おんなじくらいのころの話ってことさ」

「……」

「そんな風に世話しだして一年位かな。あれが起きた。ドッカーンってな」

 両手を大げさに広げてみせる。彼には相棒のその声と、伸ばされた腕が見えるだけだったが、何を伝えたいのかは理解することが出来た。

「食うにも困ってさ、とてもじゃないが、シロを飼っていられなくなった。……どうしたと思う?」

 ゆっくりと、相棒はコーヒーカップあおり、中身をすべて飲みほすと、少しだけ背筋を伸ばして目だけ机の上にまで出すと、後ろに振り返った。その表情には、振り返った先にいた彼を試すような笑みを作っていた。

「捨てたのか?」

「いいや。ちっがうんだなこれが。お前も、まだまだお坊ちゃんだね」

「なんだ? お前、何が言いたい? そもそも、お前ちょっと酒が入って―――」






「喰ったんだよ」






「―――あ?」

 彼の言葉を遮って、相棒が伝えた事実は、彼予想よりも、ほんの少し残酷だった。

「喰ったんだ。昨日まで俺が、毎日毎日世話してたシロを」

 しかし、相棒は手元にあったタバコに火をつけながら、誇らしげにそれを言った。

「世話が出来なくなった。食わせられなくなった。喰うものがなくなった。母ちゃんが死んだ。いろんな理由があったけど俺が殺して、俺が喰った。筋張っててクソまずかったけど、残さず全部喰ったよ」

 天井に向かって溜め込んだ紫煙を一気に吐き出す。

「後悔なんてしてない。シロに悪いとも思ってない。喰う前にちゃんといただきますって言って、喰い終わったらご馳走様って言った」

 そして再び間が空く。
 タバコの煙は、窓から差し込んできた光を受けて、白く輝いた。
 相棒は、丸いテーブルに置かれていた灰皿にタバコを押し付けながら口を開いた。

「なぁ」

「なんだ」

「俺たちは、何のためにあのウサギを殺したんだ?」

「……俺より、お前のほうがよく解ってるだろう」

「ああ、そうだな。でも、お前の口から聞きたいんだ」

「……結局、あの女はどこの組織にも属していなかったが、あの女が食いつきやすいターゲットを【彼】に絞込み、彼の行動パターンを調べ上げ、そして最も効率がいいと下された作戦を、命令どおりに遂行した。俺たちの居場所を守るためだ。そして、それがいつか世界を守ることに繋がる、それを信じて、私たちはウサギを殺した」

「でもそれはさ、あの時、あの場所で、あの餓鬼には、なーんの関係ぇねえことだよな」

 彼の相棒は急に立ち上がると彼に振り返り、ソファを踏み台に机に乗り、積み上げられた書類を押しのけ、更にパソコンのディスプレイまで押しのけて彼の顔を正面に捉えると、にやりと歯を見せて、獰猛に哂った。

「あの餓鬼には、かわいがってたウサギが死んだだけ。そこには何の意味の無い。少なくとも、シロのような意味は、……無い」

「そうだな」

「俺は、生きるためにシロを殺して、シロを殺したからこそ、俺は生きなきゃならないと足掻いてきた。でもさ、あの餓鬼には何が残ったんだろうな」

 その瞳は彼の瞳、その奥の奥を見据えて、彼の何かを確かめるような瞳をしていた。

「……結局それは彼にしかわからん」

 手に持っていたコーヒーを一気にあおって、彼は相棒の目を見ずに答えた。飲み干したカップを机の上に置いた後、改めて相棒と視線を合わせる。その顔には先程のような獰猛な笑みは無く、どこか悲しげな表情を作っていた。

 しかし、彼はそれにかまわず今度は自分から、相棒に挑みかかるように顔を近づけた。

「しかし、だからこそこだ!」

 今度は、彼が相棒の驚いた瞳を射抜くように言った。

「だからこそ、なおさら俺たちはこの正しさを信じなければならない。彼を傷つけたからこそ、ウサギを殺したからこそ、それを意味の無いものにしないためにも、俺たちはもう一つ覚悟しなければならんことが出来た。……ただ、それだけだ」

「……」

 彼のその言葉は、堅くゆるぎないものを秘めて、目の前の自分を覗き込む人物を射抜いた。
 そしてその言葉聞いた相棒は、ほんの少しだけ驚きに目を見張った後、次の瞬間、

「ごーかくー」

「ぅむう!!」

 そういいながら、彼の唇を自分のそれでふさいだ。
 突然の出来事に、視界いっぱいに広がった自分の相棒の顔、その【彼女】の顔を驚きの目でしか見ることが出来なかった。
 椅子に座っていた彼に、飛び込むように行われたそれは、当然のようにバランスを崩し、二人して床に倒れた。
 ガチャンと椅子が倒れる音と、著類の束が床に散らばる音。そしてその後に、重なるように床に倒れた大人二人がごそごそと動く音。

「いたた」

「あははは―……」

「……お前、やっぱり酔払ってるな!」

「だーかーらー、そんなことありんせん」

「ったく、これで女というのが信じられん」

 顔を真っ赤にして、そうはき捨てる彼を、相棒はおかしそうに笑う。

「……気持ちよかったか?」

「っ! 黙れ! この酔っ払いがー!!」

 そう吼えると、自分の上に乗っかっていた相棒を押しのけて立ち上がった。相棒は、ごろりとそのまま床に転がった。

「まったく、いい加減服を―――」

「それでいい」

 そして、彼女を引き起こそうと腕を伸ばしたとき、逆に寝転がったままの彼女に腕をつかまれた。彼はそれに驚いて彼女を見ると、にっこりと優しく微笑んでいた。
 彼女の瞳には、驚いてそれを見ている彼の顔が映っていた。
 そして、寝転がったまま彼女はいつものように言った

「その覚悟を、ずっと持ってろよ。そしたら俺は、ずっとお前と組んでやれる。……ずっと、お前の背中を守ってやんよ」

「……ありがたくて涙が出そうだ」

 普段から、男の姿をもって任務に挑む彼女の覚悟に、見合うそれをもてるかどうか、不安を感じながらも、彼はそのまま腕を引き上げると、相棒を抱き寄せた。






没にした理由:
 没ネタですから。思いついたままに書き殴っただけですから。一応、後書きでの解答編ということで。でも、普通に書くだけだと面白くないから、裏設定流出……。ただ単に書いてたら段々変な方向に走り出して、面白……もとい、変なことに。
 Cold大王さん正解、カシスさん残念。でも、カシスさんの案も実は案2として在ったんです。
 すでにマークされていた女記者が、大義名分を掲げて堂々とシンジ君に近づくために、ウサギを殺して事件を起こし、どうにか近づいたけれども結局その動きすらも把握していた黒服達に捕まってしまう。女性記者の怖さが増して良かったかもしれませんが、黒服達の登場する意味が少し弱くなってしまう気もしたのでこちらにしました。……実は、このどちらでもない第三案が在ります。読みたいですか?








第???話(3/6更新)

ラストシーン:もし初号機に心が芽生えていたら






 サードインパクトは起こってしまった。
 けれどシンジは初号機を動かし、神となった自分を利用してフォースインパクトを起こし、人類を赤い海から帰還させるため、得た力を使い衛星軌道に向かおうとしていた。

 エントリープラグ内にて、シンジは必要な操作を行っていた。すでにS2機関を得た初号機はエネルギーに関しての問題は無かったが、赤い水から得た知識をフルに活用し、さまざま準備を行う必要があった。

 そしてその作業ももう終わろうとしていた。

「さぁ、初号機。君にもつきあってもらおうか。これは僕一人じゃちょっと大変だから」

 いざ、自分が得た力を使おうとした時、エントリープラグ内の明かりが落ちた。シンジは突然暗闇の中に置かれることになった。

「初号機?」

思わずシンジは問いかける。

「どうしたんだ! こんな時に!」

 ガチャガチャと手元の操作盤を動かす。シンジはあせった。神としての力を得たにもかかわらず、目の前で起こった現象を説明できなかったからだ。

「頼む、動け、本当にこれで最後なんだ、……僕にみんなを、守らせて。そのためなら、僕の何を持って行ってもかまわない。腕も、足でも、命だって、どこだって持って行っていいから。この心だって持っていってかまわないから!」

 再び涙がこみ上げてきた。すべてを失った時に流した涙、その時流しつくしたと思っていた涙。それも今はLCLに解けて消えていく。何をしても反応を返さない目の前の機械を殴りつけて、シンジは叫んだ。

 そして突然、シンジの正面に通信ウインドウが開いた。

『いいや、シンジ、それはテメエが持って行け』

 それは、シンジの声を借りた、別人だった。しかしそんな事ありえるはずが無かった。人類はLCLとなり、偽りの幸福の元にひとつとなったはずあのだから。

 自分ひとりを除いて。

 だからシンジには、目の前で起こっていることが一瞬わからなかった。けれどもシンジはたった一人だけ、その声の主に思い当たるものがあった。
 それはいつか自分を取り込み、自分の心を奪おうとしたものだった。
 シンジがぱっと顔を上げると、そこには予想通り、彼の親友と同じ髪と瞳の色を持つ、自分そっくりな少年が映っていた。しかし決定的に違うのはその容姿ではなく、皮肉げにゆがめられたその表情だった。
 その姿は、かつてシンジが彼に取り込まれた時に見たときの姿のままだった。

「初号機? 初号機なの? どうして……」
『なかなかぶっ飛んだことを考えるじゃねぇか! サードインパクトが起こったあとにフォースだって? ははっ、ぶっ飛んでるにもほどがある。やっぱてめぇはイカレヤロウだ!!』

 彼は小さな通信ウインドウの中で両手を大きく広げたりしながら、大げさにそれを表現していた。シンジはその様子を見ながら悔しそうに言う。

「……お前には悪いと思ってる。結局僕の道連れにするんだから」
『へっ、今に始まったことかよ。それよりいい話があるんだ。ちょっと聞いてけよ』

 画面いっぱいに彼の表情が写り、耳を寄せるようなジャスチャをする。シンジはそん彼のおどけた様子に焦燥感を抱いていた。今は決して時間を無駄にしていいときではないのだ。

「何だよこんな時に! あんまり時間がないんだ、早くして―――」
『そりゃ俺がやってやる。てめぇはかえんな』
「なっ!」 

 彼が、突然真剣な表情を作り、シンジに行ったことはシンジの想像を超えていた。

「お前に出来るわけないじゃないか! 心のないお前じゃ出来るはずがない!」

 そう、シンジの計画には【人の心】を持った存在が必要不可欠だったからだ。
 しかし、それを知ってか知らずか、彼はどこか傷ついたような表情を作りながら、その雰囲気をおどけた調子に戻した。そしてまたおおげさな動作をウインドウいっぱいに見せながらシンジに言う。

『おいおい、そりゃ一体いつの話だ? 心なんて、とっくに持ってるぜ? お前くれたんじゃねぇか」
「何を言って……」

 彼はうれしそうに自分の胸を指した

『はっきり言ってひどいもんだ。なんだこりゃ? どこもかしこも傷だらけで、考え方は偏ってっし、自虐趣味の固まりみてぇな心だ。きたねぇったりゃありゃしねぇ』
「うるさい! それでも僕は―――」
『ああ、それでも、あったけえ心だ』

 今度は大切なものを落とさないように、そこにあるものが本当に壊れやすいものであることを知っているからこそ、優しく自分の胸に両手を重ねた。
 その手つきは本当に優しげで、シンジは思わず自分の胸にも手を置いていた。
 彼は、今まで見せたことの無い、まるで本当に人のような、温かい心を持った一人の人間のような微笑を浮かべていた。

『ほんと、どうしようもないくらい、温かい心だ。おっと、返せなんて言うなよ? これはもう俺のもんだ、やっと掴んだ、やっと手に入れた、お前がくれた俺だけの心なんだからな?』

 ぱちりと彼はシンジにウインクして見せた
 そこで、がたんとエントリープラグ全体が振動した。シンジは彼が何をしようとしているのかを悟った。

「おまえ、まさか! やめろ、よせ!! お前はどうなるんだ」
『お前がそれを言うのかよ? 何だかんだ人に偉そうにいいやがって、テメエだって幸せになる権利も義務もあるんだぜ? かっこつけやがってよぉ』

 すでに電力供給は立たれているはずなのに、ウインドウは消滅せず、そこに映る彼は相変わらずおどけた様子で続ける。
 やがて、エントリープラグがすべて排出され、彼はそれゆっくりと横たえた。
 そしてだんだんと、ウインドウがざらつき始めた。
 シンジは消えそうになるウインドウに向かって叫ぶ。

「お前は、お前にだけそんなことさせられない! お前が心を持ったって言うのが本当なら、なおさらそんな事できない!」
『なーに、ちょいと宇宙旅行ってとこさ。見てきてやるよ。ここから見たお前達が、どんな風に映ってるかってな』
「おまえ……」
『そしたらさ、教えてやるよ。この空で、お前たちを見てるやつらが、どんなこと感じてんのかをさ。きっと、碌なことにならネェと自分でも思うがよ、……お前らにゃ必要だろ?』
「……」
『大丈夫さ、シンジ。俺がそれを持って帰れたら、みんなきっと優しくなれるんだから』
「初号機……」
『じゃあなシンジ! ……兄弟よ! さぁ、胸はって幸せになってこい!』

 その言葉と、とびっきりの笑顔を最後に、ウインドウは砂嵐しか映さなくなり、
 やがてそれも消えてしまった。
 シンジは慌てて手動で内側からプラグの外に出ると空を見上げた。
 そこには、三対の輝く翼を空いっぱいに伸ばし、宙に浮かぶ初号機の姿があった。
 その姿は先の戦闘でぼろぼろになっていた。装甲、拘束具のほとんどが剥がれ落ち、頭部もその半分を露出していた。
 だからこそ、シンジは彼の目を見ることができた。
 それは、この町に来たとき、最初に見たような獣の目ではなく、どこか優しさを湛えているような気がした。

 一瞬だけそうして目を合わせると、彼、初号機はあっという間にその身を翻し、空のかなたへと飛び立っていった。
 
 彼の姿が小さくなり、やがて消えていった。
 シンジはひとり、朱い海が波打つ海岸に一人残された。
 そして、彼が空に消えてからいくらかも経たないうちに、突然、赤しか存在しなかった世界にまばゆいばかりの閃光が走った。赤黒い雲を吹き飛ばし、よどんだ空気をなぎ払って、空に巨大な十字架があらわれた。シンジは彼の名を叫ぼうとした。彼が迷わず帰ってこれるように。
 嵐のような轟音に打ち消される。けれども、シンジは空に向かって何度も叫んだ。声がかれて、息が苦しくなっても、その名を呼び続けた。
 やがて、先行のあとを基点として、じわじわと、空が様変わりしていった。
 シンジは、その光景に叫ぶのをやめた。
 そのあまりの美しさに、息を飲むことすら忘れた。その光景はもう二度と見ることは叶わないとあきらめたこともあった。その空の色は、もう二度と変わらないのだと。
 けれども再び見ることが叶った。

 そう、

 絶望の赤ではなく、

 希望に満ちた青い空に。 

 その空を世界に取り戻させたのが、

 一人の少年と心を分け合った、

 一体の人造人間であることを、

 これから目覚めるだろう人類は知ることと成るだろうか?






 その最期を看取った、神話の少年とともに。












 没にした理由:別のエンディングを考えてるから。
 いや、このエンディングは無理があるだろうと。没だから別にいいかなーと。でも一生懸命考えたオチだから、誰かにこんなの書いて欲しいな、なんて。できれば、初号機の言葉に隠された本編での設定に気がついた人が、にやりとしてくれればそれで本望です。










本当にただの没ネタだよ?(7/10更新)






 アスファルトの道、

 私はこの道が嫌いだ。本当に大っ嫌い。

 私の知らないどこかの誰かが、

 私の知らないどこか誰かの都合で出来た、この道が大嫌いだ。

 だってそうでしょう?

 この道が出来る前、地面がこんな真っ黒な色に固められる前の姿、あなただって好きだったでしょう?

 そりゃ、砂利ばっかりで、水たまりだらけで、グニャグニャ曲がってたけど、

 舗装されてない砂利道を歩くのが好きだった。

 水たまりに映る青い空が好きだった。

 足の裏をさらさらと、ちくちくと、くすぐるその感触や、道ばたに咲いた小さな花が好きだった。

 好きなところで曲がることが出来たし、私たちはどこにだって行けたのに。

 今はどう?

 私の知らないどこかの誰かが勝手に決めた道筋を、

 私の知らないどこか誰かの望む通りに進まなくちゃいけない。

 そうして最後に行き着く場所は、誰もがみんな同じ顔した暗い夜。

 冗談じゃない

 だから私は嫌いだ

 私の好きだったあの道を、叩いて壊して押しつぶしたこの道が大嫌いだ




 でも、本当は違うの。




 私はいつでもこの道から外れることも出来るし、

 立ち止まって一生懸命探させば、小さな花もみつけることが出来た。

 それをしなかったのは何故?

 道を一歩、せめて一歩、たった一歩でもいいから好きな方向に向けなかったのは何故なの?

 答えは一つ

 私の望みも、あなたの希望も、みんなの願いも、それが出来ない理由はたった一つだけ。

 恐かったから。

 自分以外の人はいつの間にか、みんなで同じ行き先を進むことを躊躇わず、

 自分のことなんか見てもくれない。

 必死にその横に並ばないと、あっという間において行かれて、

 あっという間にひとりぼっち。

 きっと誰も振り返らない。きっと、誰も振り返ってなどくれない。

 本当はみんなも恐いのに

 本当は私も恐いのに

 本当は、あなたも怖がっていたはずなのに

 それに気がつけずにここまで来てしまったから。

 目の前に転がる小さな石に、躓かないように必死だったから。

 だから、私は止まれない。

 ひとりぼっちになりたくない

 だってこの黒い道は、夜になったらそこにあることすら解らなくなるから、

 誰かの手の温もりがないと、もう迷うことさえ出来なくなるから。

 だから、私は立ち止まらない

 つまずいても、

 転んでも、

 何時か無くした大切な物を視界の端に捕らえても

 堅い道を押しつぶすように踏み出して、

 辺りに罠がないか慎重に、

 けれども立ちふさがる壁をすべて叩き壊しながら。




 それでも何時か




 息切れで立ち止まってしまったら、

 そっと後ろを振り返ってみよう

 そうして何時か

 私の進んできた道を、振り返ってみよう

 振り返ったその道の中で

 瓦礫だらけになった道で

 転んだあなたに手を伸ばせたら

 振り返った私の道の中に

 瓦礫だらけになった私の道に

 もし、小さな花を見つけられたら――――




 いつかこの道を、好きになれる日が来るのかな?








 見まごう事なき没ネタですねー。使い処も見つけられない。ていうか、むしろその他板での載せろって感じですよ。
 ……ごめんなさい。

















 
如何でしたか? 本当はもっとあったんですけど、とりあえずこれだけ。また気が向けば、ちょっとずつ増やしていこうかなと考えています。では、本編の執筆頑張ります。


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