嗚呼、
迫り来るそれに
僕は何が出来るだろう
見上げる空はどこまでも朱く
第十五話
Lost in the red
And
Given by the red
【 Ⅲ 】(改訂稿)
「ただいまー」
ユカリがそう言って玄関を開けると、すぐに居間から慌てた様子で出てきた彼女の父親が出迎えた。そして玄関に立つユカリを見てほっとため息を吐くと、すぐに母親に視線を向ける。
「お帰り、もう大丈夫なのか?」
「はい、ただ明日は学校を休んで様子を見たほうがいいって病院の先生は・・・・」
「もう! 大丈夫だったら!」
ユカリは隣に立つ母の言葉に不満の声を上げる。しかし、その言葉には普段の彼女の勢いは無く、どこか弱弱しさを感じさせた。
「でもあなた、自分がどれだけ寝てたかも分かってなかったじゃない」
そんなユカリを、母親はやんわりと窘めた。
「だからー、もう大丈夫だってば・・・」
「ははっ。まぁ、心配してたより元気そうで安心したよ」
「・・・うん」
窘められたユカリはまた声を上げるが、父親はユカリの頭を撫でながらなだめた。
「・・・あの、パパ?・・・」
ユカリはそんな優しく自分の無事を喜ぶ父親を見上げると、彼女にしては本当に珍しく、気まずそうに隣に立つ母をちらりと見上げた後、父親に視線を戻し、何かを言いかけて口ごもった。
「うん? どうしたんだい?」
その様子に気づいた父親は、その場にしゃがみ、その動きに合わせて俯いてしまった彼女の顔を覗き込み視線を合わせた。優しく促された彼女は、それでもなお躊躇いながら父の眼を見て口を開いた。
「その、・・・碇は?」
「ユカリ!」
「! でも!!」
彼女のその言葉に、母親は先ほどまでと違い、若干のとげを含ませた声を上げて彼女をたしなめようと声を上げた。その声の大きさにおびえたユカリは、ピクリとその肩を震わせが、それでも引かない態度を見せる彼女に母親は言い聞かせようとしたが、ユカリの目の前にいた父親が視線を動かさず片手を向けてそれを制した。そして再び俯いてしまったユカリの顔をそっと両手で包み顔を上げさせ、彼女に告げた。
「シンジ君は、今学校だよ」
「・・・帰ってきてないの?」
「ああ、そうじゃなくてね。鞄を学校においてきたんだそうだ。少し前に出て行ったから。遅くなっても夕飯までには帰ってくるように言っておいたから。なに、すぐに帰ってくるよ」
「そうなんだ・・・」
父親のその言葉に安心したのか、ユカリは不安に強張らせていた肩をゆっくりおろした。
「碇、元気?」
「ああ、シンジ君は今のユカリよりも元気だったよ。だからユカリが気にすることなんて無い」
ユカリは父親の言葉をほっとしたように、けれどもどこか残念そうにため息を吐きながら聴いた。その後ろに立つ彼女の母親は、険しい顔つきでそれを見ていた。
「ほら、もう今日は部屋で休んでいなさい」
「そうよ、ユカリ。ご飯になったら呼んであげるから」
「・・・分かった」
若干、納得の行かない空気をまとわせながらも、父親にその背中をやさしく押されて、ユカリは素直に自分の部屋に向かった。
それを、見送った彼女の父親は、母親同様わずかに険を含んだ眼差しで彼女の後姿を見送った。そして傍らに立っていた母親に視線を送ると、その思考にまとわりつく感情を頭から追い出すように軽く振りながら、二人は家の奥へと入って行った。
陽はまだ高く、空が夕陽に染まるにはまだ幾分時間があった。
ピンポーン
それは突然の休校で、暇な時間をテレビゲームでつぶしていた、一人の少年の家でのことだった。
彼が一週間前から進めていたそのゲームは、ようやく終盤までシナリオが進んでおり、ゲーム内での盛り上がりも最高潮となっている。それは学校で起こった嫌な事を彼の意識の外へ追いやるにはちょうどいいものだった。半ばやけくそになっていたかもしれない。
来訪を告げるそのベルの音は、そうして集中力が散漫になっていた彼の耳にも届いた。そして彼は嫌な予感を覚える
「あら? お客様かしら。ユウくーん! ちょっと出てくれないかしら!」
「えー」
台所で手の離せない作業に取り掛かっていた彼の母親は、ベルが告げる来訪者の対応を、彼に頼もうとしたが、当然彼も不満の声を上げた。
「もう! ゲームばっかりして! 学校がお休みになったんだったら、ちょっとはお母さんのこと手伝って頂戴」
「突然休みになったからこそだよー」
台所で母親を脳裏に浮かべながら、彼は気の無い返事をその声に返し、コントローラーを操る手を休めなかった。
「・・・コンセント、抜いちゃうわよ?」
「わー!! 分かった、分かったから」
母親の脅しに、少年はようやく慌てた様子でコントローラーを放り投げた。
ピンポーンピンポーン
「ほら、さっさと行ってきて。新聞の勧誘だったら、今お母さんいませんって言いなさいね」
「はーい」
母親がゲーム機に触れないか気にしつつ、彼はいまだ呼び鈴の響く玄関へと向かい、のぞき窓も見ず彼は玄関を開けた。
「どちらさまですかー」
「こんにちは」
その先に立っていたのは、黒いスーツを着た女性だった。勢いよく玄関を開けた彼は、逆に彼女に迎えられる形になった。月末になれば必ずやって来るしつこい新聞勧誘のオジサンだと考えていた彼は、スーツを着たその女性の穏やかな微笑みに面食らってしまった。
「こ、こんにちは・・・」
軽い混乱の中にあった彼は、いつもの決まり文句を彼女に対してそのまま使ってしまった。
「あの・・・お母さん、今でかけてて・・・」
「あはは! 新聞の勧誘とかじゃないから安心して?」
「・・・うん」
当然それは見抜かれて、彼女は『楽しげ』に笑った。
「それに、本当に用事があるのはあなたなの」
「え!」
その一言に、彼は言い知れぬ不安を感じた。けれども、目の前の女性は微笑を崩さない。
「大丈夫、たいしたことじゃないから」
「?」
彼には目の前に立つ女性の意図が掴めずにいた。それにかまわず、彼女は言葉を続けた。
「碇シンジ君、知ってる?」
彼女のその印象的な赤い唇が醜く歪んだように彼には見えた。
それはどこかの打ち捨てられた建物の一室。
裸電球だけで照らされた薄暗い部屋の中に、二人の男がいた。
二人は小さなテーブルに向かい合わせに腰掛ていた。机の上には吸殻が山のように押し付けられている灰皿と、何かのプログラムを処理しているノートパソコンが置かれているだけだった。
男のうち、パソコンの画面に視線を注いでいる男は、部屋が薄暗いのにもかかわらずサングラスをかけており、椅子には背もたれに体重を預ける事も無く、背筋をまっすぐ伸ばして座っていた。
もう一人はその口にタバコをくわえ、しなだれかかる様に背もたれに寄りかかっていた。しかし、その腕は胸のところで組まれ、瞑想しているかのようにその瞳は閉じられていた。
容姿の違いとしてあげられる特徴は、彼らにそれ以上のものをあげる事は難しく、二人とも黒いスーツにその身を包んでいた。
やがて、そのノートパソコンから何かを知らせるアラームが短く鳴り、それがすぐに止むと再びその部屋には沈黙が訪れた。タバコくわえていた男がその音に目を開き、タバコがずいぶんと短くなっていることを目にすると、灰皿にそれを押し付けた。そして新しくタバコを取り出しながら目の前に座っているサングラスの男に口を開いた。
「奴さんは見つかったんかよ?」
「あぁ、やはり彼に接触を計っていたようだ」
タバコの男は砕けた話し方で、サングラスの男はそれに対して気にする風もなく答えた。
「ふん。やり方のエゲツナイコトだな」
タバコの男はふざけるように言葉の一部を強調して話し、その喉を可笑しそうにクツクツと震わせた。サングラスの男はそれを見て小さく鼻を鳴らすと、サングラスの位置を直した。
「それは、私たちもだろう?」
「いえてるな」
「やれやれ、人類を守るための立派なお仕事がこれか?」
「愚痴るなよ。ただでさえ気が滅入ってるんだ。これ以上、やる気を削いでどうすんだ」
「それにしてもだな・・・」
「もっと気楽にやれよ。どこ行ったって、俺たちみたいな腐れ仕事を片付ける手合いってのは必要なのさ」
「しかし・・・月並みな台詞かもしれんが、お前はこんなやり方に誇りをもてるのか?」
「これも月並みなセリフだがよ、セ・イ・ギ・カ・ンなんてご大層なものはそこらへんの腹空かしてる犬にでも食わせろよ。腹壊しても俺は知らんが?」
それを言うと、タバコの男はまた喉の震わせ、タバコを深く吸い込むと、天井に向かって紫煙を吐き出した。サングラスの男は自分の相方のそうした態度が気に障ったかのように眉をしかめるが、結局は何も言わずにディスプレイに視線を戻した。そしてさらに眉を寄せる結果になった。
「・・・まずいな」
「なーにが」
相棒のその言葉に視線を天井に固定したまま、タバコの男は言葉をかける。サングラスの男はなにやらキーボードを操作しながらディスプレイに現れた変化を知らせた。
「ターゲットが彼のほうに移動している」
「あー? 気づかれたんじゃねーの?」
「いやそれは・・・」
「お喋りはそこまでにしろ」
そこへ、もう一人の男が薄暗い部屋のさらに奥から現れた。その顔は電球の光の届かない暗闇の位置にありどのような人物かは見る事はできない。聞こえてきた声の深さから、同年代と思われていた先の二人よりも、やや年が上ということだけが窺い知れた。
「「失礼しました」」
二人は、暗闇から現れた彼に対して、かしこまったようにその場で身を正し、敬礼をしようとしたが彼はそれを片手で制した。
「用意しろ、ターゲットを確保する」
「「了解」」
二人は声をそろえると、それぞれが迅速に行動を開始した。
タバコを押し付け、パソコンを閉じ、電球のスイッチを切る。
、そしてそこには、暗闇だけが残った。
嫌な天気。
その日の空を見上げた人は、恐らく誰しもがそう思ったことだろう。
晴れた空が好きだという人は多い。雲ひとつ無く、太陽がサンサンと輝くその光景は、見るだけならば心地のいいものだろう。
雨の空はどうか。厚い雲が空を覆い隠し、時に静かに、時に激しく、雨が降る。その光景に人は昔から、悲しみに覆われ涙を流す自らの心を思い起こし、またはその冷たさに恐怖を覚えることすらある。やはり雨の空が好きだという人は少数派だろうか。実は以外にもそうではないことが多い。人々は自らの暗い気持ちをその空に想起させる。だからこそ、それを嫌うわけだが、雨が上がり、雲が流れ、空が晴れ渡っていくその光景に、自らの心も同じく晴れ渡っていくような感覚を覚える。
止まない雨は無く、雲はその動きに合わせて流れて消える。雨が上がった空には時折、その雲の隙間から待ち望んでいた太陽の光が射し込み、運がよければ空に掛かる虹を見ることもできるだろう。その瞬間を待ち望むからこそ、雨が好きだという人は多い。
では、今日のような曇り空に、人はなにを思うだろう。
太陽の光をさえぎり、雨を降らせることも無い、時間とともにその暗さを増しつつある灰色一色の雲に覆われた空。風が吹くこと無く、天候が移り行くことを忘れ、まるで永久に続くのではと錯覚させる。それでいて、何時なにがきっかけでそれが終わるかも分からない。
碇シンジは、そんな空を見上げていた。
誰も居ない二年二組の教室の中、彼は窓際の自分の机の上に座り込み、窓越しに空を見上げていた。雲の流れを観察しているわけでもなく、変わらない色を睨みつけているわけでもなく、ただ空を見ていた。瞳には、喜びも怒りも、悲しみも苦しみも、映してはいない。けれども、感情の光がまったく消えてしまったわけではない。ただ空を見上げ、その瞳に映る雲のように、ただ一つの感情を映し出し、その他一切をを身の内に押し込めていた。
そして唯一見せている感情も、シンジがその空を見てどんな心を想起させているかも、例え彼の傍に誰か居たとしても、それを読み取る事はできない。
シンジの傍らには、彼の鞄があった。訪れた理由がそれを取りに来ることなら、すでに果たされた後だった。彼がここに来てからすでに一時間以上が経過しようとしていたが、それでも其処を動こうとする気配は無かった。
今学校で人が多く居る場所である職員室の喧騒は遠く、教室までは届かない。シンジの心臓の音さえ聞こえてきそうな静寂の中に、彼は危険なほど溶け込んでいた
けれどもそこへ、入り込む人物がいた。
「シンジ君?」
その声に、初めてシンジは動きを見せた。窓から視線を動かすと、教室の入り口に立って自分の名前を呼んだその人物を見た。
「・・・中野先生」
「どうしたんだい? こんなところで」
「いいえ・・・、もう帰ります」
そういうと、シンジは特に慌てた様子も無く、傍らにおいてあった自分の鞄を背負うと、中野とは反対側の扉から出て行こうとした。
「待ちなさいシンジ君」
中野はそんなシンジを呼び止めた。その声は、厳しく、半ば叱りつけるような響きすら伴っていた。シンジはその声に足を止め、呼び止めた中野は、すでに教室の扉まで来ていたシンジの傍まで行くと、その大きな体を丸めて屈みこみ、シンジに視線を合わせようと努めた。
「何ですか?」
「・・・」
「・・・先生?」
「鞄を取りに来たの?」
「はい」
「もう、平気なのかい?」
「はい」
シンジは下を向いたまま、中野から視線を逸らしつつそれに答えた。シンジの反応を見て、中野は眉間に皺を作ったが、それをすぐに消すと彼はその場に立ち上がった。
「シンジ君、少しお話しよう。いいかな?」
「・・・はい、分かりました」
中野のその言葉に、シンジは迷うようなそぶりを一瞬だけ見せかけるが、すぐに頷いた。中野はそんなシンジの手をとると、教室の机を寄せてスペースを作り、椅子を二つ辺りから引き寄せ、窓を見る形でベンチのように横に並べ、そこへ二人して座った。体の大きな中野は、その体に見合ったとても大きな深呼吸をしながら椅子に座った。彼の左側にシンジも静かに腰掛ける。
ある程度の数瞬の間をおくと、中野は普段の彼らしくも無くらしく、少し砕けた調子でシンジに話し始めた。
「君も、今日は大変だったね」
「いえ、そんなことは・・・」
「僕は大変だったよ。学校へ電話はひっきりなしに掛かってくるし、警察の人はあれやこれやと聞いてくるし、校長の小言は聞かなきゃならないし」
「・・・そうですか」
「でね、これがまたくだらないことで、自分んとこの奥さんが帰ってこないって僕に泣きつくんだ。こっちはそれどころじゃないってのに」
「・・・」
話をしようと持ちかけた割にその話し方は、少しシンジの返事を無視したようなしゃべり方だった。それでも彼は勝手にしゃべり続けた。内容は一貫しておらず、まさに取り留めの無いことを、気の赴くままにと表現するほか無いものだった。それでもシンジは、話の内容には文句を言わず、けれど返事を次第に少なくしながらも、しゃべり続ける中野の横に座り続けた。
「でね、シンジ君。・・・これは、まだ内緒なんだけど」
中野がしゃべり、それをシンジが黙って聞くという形がそうして整いつつあったとき、急に中野はシンジに視線を隣のシンジに向けた。シンジは話し方と共に、体勢を変えた中野を思わず見上げていた。シンジがそうして自分を見ていること確認すると、中野は話を続けた。
「飼育小屋を取り壊すことになってしまいそうなんだ」
「! ・・・そう、ですか」
「残念だけどね」
シンジはその言葉に肩を震わせ、初めて感情の動きの一端らしいものを見せ始めた。
「・・・どうして」
「ん?」
「どうして、それを僕に教えてくれたんですか?」
「・・・どうしてかな」
そうして言葉が途切れると、再び中野はシンジから視線を逸らし、窓から見える暗い灰色の空を見た。
しばらく、二人の間に沈黙が訪れる。
しかし、それを破ったのも中野だった。
「なぁ、シンジ君」
「はい」
「本当に、もう大丈夫なのか?」
「・・・はい、僕はもう・・・」
中野はシンジに最後まで、その決まり文句になりかけていた言葉を言わせなかった。シンジの右肩に手を置き軽き、何度か優しく叩いた。そして今度は強くその肩をつかむと、大声で怒鳴りつけた。
「そんなわけ無いだろう!!」
「!」
びりびりと、窓ガラスが震えるような大声だった。普段は決してそんな風に生徒を怒鳴りつけたりなどしない彼に、シンジは驚いたように眼を見張っていた。
中野は席を立ち、シンジの前に立った。中野の動きを目で追っていたシンジは彼が目の前に立つとすぐに顔を伏せようとしたが、シンジの頬を中の両手が包み、優しく顔を上げさせた。シンジは中野と目が合った。中野の目は、優しく微笑んでいた。
「君は、強いな」
「・・・」
「それに比べて僕は、君にどんな言葉をかければいいのか分からない」
中野は、彼の中にある迷いをそのまま口にした。シンジはその言葉を静かに聴いた。
「でも、君がもし望むなら、望んでくれるなら、僕はいつでも君のことを待っているし、君はいつでも僕を頼っていいんだ。」
中野はその声を荒げたりせず、一言一言を、言い聞かせるように、シンジに語りかけた。
「君は、そんなに強く無くていいんだ」
シンジの両頬を包み込むそ大きな手は、とても暖かいものだった。
シンジは中野から視線を逸らし、何かを迷うようなそぶりを見せる。けれどもやがて、シンジが自分から絞り出すように声を漏らし、視線を上げる。
「・・・先生」
「なんだい」
それを待ち望んでいた中野は、シンジの次の言葉を待った。
次の言葉はすぐには続かなかった。シンジの表情は中野が見る限りでも、先ほどまでのシンジには見られなかった様々な感情が、浮かんでは消えてゆく。
しかし、シンジは、そのどれをも中野へ向ける事は無かった。
一度だけ、目を瞑ると、次に目を開けたとき、シンジは微笑んでいた。
「・・・ありがとう」
その表情は、まるでヒビワレた鏡に映ったような歪さを、隠しきれていなかった。けれどその歪さが中野の目に映ったのは一瞬で、彼の前にはいつもどおりの、シンジの柔らかな明るい笑顔が、そこにあった。
そう、彼は後一歩、シンジの心には踏み込めなかった。
柔らかな拒絶。
震える声で告げられた感謝の言葉。
それを目の当りにし、それを耳にした中野には本当にもう、シンジに掛ける言葉を見つけることができなかった。
「中野先生?」
「! い、いや・・・いいんだ。僕こそごめんね、大きな声を出してしまって」
「いいえ」
「・・・もう帰りなさい。こんなところで一人で居ちゃいけない」
「はい」
「だいぶ前に君の叔母さんから、ユカリ君が気がついたって連絡も着てたから、もう家についてると思うよ」
「! そうですか、ユカリさんが・・・」
それで、彼らの会話はその目的を終えた。中野は腕時計を確認すると、学校の見回りから職員室を出てから、予定よりも時間がたっていることを知った。
「しまった! じゃあねシンジ君、僕はまた戻って仕事をしなきゃいけないんだ」
「はい、じゃあ僕も失礼します」
「うん、気をつけてね」
そういって二人は別れた。教室の前の廊下を、それぞれ反対方向に。二人とも足を止めることも無く、振り返ることも無く。教室には、二つ並べられた椅子だけが残った。
中野と別れた後、シンジは飼育小屋の前に立っていた。
中野と別れた後、まっすぐここへ着ていた。
飼育小屋の周りには、”立ち入り禁止”と書いてあるテープが、そこら彼処にまきつけてあって、飼育小屋を近づくものを拒んでいた。辺りにはたくさんの人が通った足跡や、何かを引きずった跡がシンジの周りにたくさんあった。シンジはそれを一つ一つくぐり、飼育小屋に近づいていった。
飼育小屋の前にたどり着くと、シンジはフェンスになっているところから中を覗き込んだ。
朝とは違って、赤くなく、
そして、
昨日と違って、何も居ない。
今はもう、この建物だけが、ここに何かが存在していたことを伝えている。けどそれすらも、この建物が消えてしまうことで分からなくなってしまうだろう。それはまるでここに『何か』が居たことを最初から無かったことにしてしまえとでも言うように。そしてそれはシンジが中野から聞いたとおり、現実のものとなってしまう。
どうしてここまで変わっちゃうんだろう。
シンジはその光景を見て、想う。シンジが自分の右手を見てみると、そこには『ウサギ』に噛まれた傷が今もあった。そしてもう一度、飼育小屋に眼を移すと。彼の指を噛んだ『ウサギ』は、そこにはもう居ない。
どうして?
あの『ウサギ』は、何て名前だったっけ?
気がついたときには、傍にユカリさんが居た。僕はいつものように教えてほしくてユカリさんに聞いた。でもユカリさんは答えてくれなかった。ユカリさんは大きな声を上げるとその場に倒れてしまった。
僕がどうしていいか解らずにいると、何時の間にか回りにたくさんのおまわりさんがいた居た。おまわりさんたちは僕の質問に誰も答えてくれなくて、僕に質問ばかりする。そして僕が黙ってると、いつの間にか一人にされた。僕は一人になってもずっと考えてた。けれども答えは出ない。
そして、あの赤い女の人が居た。
「! う・・・ぁぁ!」
あの女の人を思い出すと、また胸が苦しくなって、僕は胸を押さえつけた。それでも、どうしようもないくらい胸が痛い。
あの人は、僕に何ていった?
思い出せない
違う、違う、思い出したくない? だから思い出せない?
僕はもう一度、さっきと変わらない灰色の空を見上げた。今は何時だろう、さっきよりも、もっと暗い色になっていた。
変わらない空、変わらない校舎、変わらない教室。
そこにずっと居たかった。『変わらない』場所に居たかった。
どうして変わってしまったんだろう。
どうして先生は、僕にあんな事を言ったんだろう。
どうしてユカリさんに、僕なんかが会うことができるだろう。
どうして僕が、あの人以外の他人を頼ることができるだろう。
だって僕は、
だって! 僕が・・・・!!
シンジの中を、ぐるぐると得体の知れないものが駆け巡る。いつの間にか目の前にあったフェンスの網を握り締めていた。フェンスに指が食い込んで痛むことも気にならない。指に込める力をより強くした。
曇り空で蓋をした、その奥の奥、誰も踏み込むことのできないそこにあったものがシンジの中で暴れていた。
押さえつけようとしても、もう止まらない。
もう一度、空を見上げても、同じ気持ちにはなれない。戻れない。こんな事になるのなるのなら、あの手をとってしまえればよかった。
”その優しさに身を委ねてしまえばどれだけ楽だったろう”
その手をとる資格など無いくせに。
そうして、シンジが自分を蝕もうとするものに、必死で耐えているところへ、彼らはやってきた。
「碇・・・」
シンジを呼ぶ声のほうへ、彼は眼を向けた。
「どうしたの、みんなして」
そこには、シンジのクラスメイト人たちがいた。立ち尽くしている者や、その後ろに隠れている者、顔を上げている者に、伏せている者。その出で立ちは様々だったが、唯一つ共通していたのは、その全員がシンジを見つめていた。一番前にいた顔も伏せず、まっすぐシンジに立ちはだかっている男子が、自分の後ろに立っているものたちに視線を送りながら離し始めた。
「お前に、みんな聞きたいことがあるんだ」
「・・・なに?」
シンジは、いまだじくじくと痛む胸を押さえつけながら、その質問を待った。今日は本当に質問されることが多い日だと、意識の端で考えながら。
「・・・」
「・・・」
最初にしゃべった男子は、今日何度もシンジに質問を浴びせた者たちと違って、すぐに質問を始めなかった。きょろきょろと、自分の周りに居る皆に眼を合わせてる。皆も、その子と目があうと、こくんと一つだけ頷いて、さっきよりも強くシンジをにらみつけた。その子が全員にそうするのを、シンジはまった。
そして、一度眼を閉じると、その子はもう一度シンジを見て、その口を開いた。
「ウサギを殺したのはお前か?」
「・・・・・・・」
「答えろ」
その声は、少し震えてた。シンジは一瞬その質問の意味が分からなかった。てっきり、警官や今日自分に質問を浴びせた人たちと同じようなことを聞かれるものだとばっかり思ってた。
やがて、その質問の内容を理解しつつも、なぜかその言い方や言葉にひどく懐かしさを覚えていた。
「なん・・・で?」
「お前なのか!」
「・・・ちがう」
そうして思わずもれたシンジの言葉を、誤解して受け取ったクラスメイト達は一気に沸き立った
「昨日、夕方お前が此所を彷徨いてたのを見てる奴がいるんだよ!!」
「何しとったんや!!」
「掃除を・・・」
「昨日は碇の番じゃないだろう」
「それに私がが見かけたときは、もう五時過ぎだったのよ!」
「みんなが帰るのを待ってたんじゃないのか」
「どうなんだよ、碇!!」
「何であの時間此所にいたんだ!!」
「答えろ!!」
一番前にいた男子の後ろに居たクラスメイトたちが次々と前に出て、まるでシンジを取り囲むように近づいた。かわるがわる、クラスメイト達がシンジに言葉をぶつけた。シンジにはその半分も聞き取れず、矢継ぎ早にぶつけられた質問にシンジは戸惑いながらも答えた。
彼らはじりじりと、シンジを追い込むように近づき、シンジはそれから逃れるように少しずつ後ずさった。けれど、飼育小屋を背にしていたシンジは、やがて下がる場所がなくなった。
背中に、フェンスの感触、カシャンとフェンスの擦れる音。
追い詰められたシンジと、彼を追い詰めたクラスメイト達。
「・・・僕じゃない」
「・・・」
「僕じゃないよ」
「・・・」
「お願い、みんな信じて・・・」
皆を見渡しながら、シンジは言った。その声は皆と同じように震えている。
けれどもそれを遮る声が、クラスメイト達の後ろから上がった。
「信じられるかよ」
その声は吐き捨てるような響きさえ含まれていた。クラスメイト達はその声を聞いて自分たちの後ろに居た彼に道を作った。彼はその道をゆっくりと進んだ。
「田中君、どうして・・・?」
「お前、俺たちに嘘付いてただろう?」
「どう・・・いうこと?」
彼は、戸惑いを抱いたままシンジを取り囲んでいたクラスメイト達とは違い、その歩みに迷いは無く、顔には笑みさえ浮かべていた。彼は場違いなほどに楽しげにシンジの前に立った。
「俺、知ってるんだぜ」
「何・・・?」
「お前の親父、研究者っていってたよな」
「・・・」
「それ嘘だろ」
「・・・何を言ってるの?」
「だって、今頃刑務所の中のはずだろ?」
「なにいって・・・」
「だから、知ってるっていったろ」
「・・・や・・」
シンジは、気がついた。彼の浮かべているその笑みが、あの赤い女性とまったく同じものだと。しかし、シンジがそれに気づいて、彼の言葉をとめようとその手を伸ばしたときには、もう遅かった。
「お前の親父、人殺しだもんな」
「!!!!」
その場に居た全員が、息を呑んだ。そして次の瞬間、爆発した。
「!! 何だよそれ!!」
「・・・碇、それ本当かよ!!」
「俺たちに嘘、付いてたのか・・・・」
「何とかいえよ碇!!」
「ちが・・・う」
「じゃあこれは何だよ」
そういって彼は、田中ユウは、手に持っていたそれをシンジによく見えるように突き出した。それは少しくたびれた新聞記事だった。突きつけられたその記事に書かれていた言葉は、シンジが警察署で、あの新聞記者に見せられたものと、同じものだった。
何故彼がそれを持っているのか。
シンジには知る由も無い。
それを持つ彼は、あの女性と同じ、楽しげな笑みをよりいっそう深くし言葉を続けた。それが、弱いものをいたぶるような嗜虐心に満ちたものだということは、その場にいる者は気がつかない。
「また嘘付くのか碇? もう調べてあんだぜ。
『碇ゲンドウは、妻ユイを、危険と承知の上で実験の被験者とし、故意に事故死させた疑いがある』
つまり、事故に見せかけて殺したってことだろう?」
「・・・どうして、それ・・・」
それを聞いて、周りのクラスメイト達はざわつき始める。
「碇、ゲンドウって、まさか碇君のお父さん?」
「まじかよ」
「碇、これお前の親父のことか?」
「そんな!」
「私たちをだましてたの?」
「ひどい」
「なんで、ウサギを」
「みんなで、世話してたのに」
もう止められない。
自分を取り囲む彼らの声を聞いていたシンジは、断片的に聞こえてくるその声を、シンジは遠く離れた場所から届いてくるような気持ちで聞いていた。まるで切り離されたその場所から、他人事のようにそれを眺めている自分がいる事を、不思議にも思わなかった。
そうか
「前から何考えてるか分かんない奴だったけど」
そうか、違わない
「まさか、俺たちのことも・・・」
「・・・何も違わない」
「じゃあ、何で嘘付いてたんだ!!」
「・・・」
「なんで,月さんを・・・あんな風に」
遠くで見ていた自分の意識を引き戻す。灰色の空で蓋をすることも忘れない。そうすれば、これからのことにも耐えられる。
さぁ、始めよう。
「そうだよ」
その言葉は、ざわついたその場にもはっきりと響いた
ざわめいていたクラスメイト達が、突然聞こえたその言葉に動きを止める。一番最初にその異変に気がついたのは、シンジの正面に立っていた田中ユウだった。
彼は、シンジから一歩遠ざかった。彼の動きに合わせて、シンジを見てしまったクラスメイト達も同様にしてシンジから離れる。
シンジは顔を上げていた。ひとつの表情をその顔に貼り付けて。
ヒビワレた鏡に映ったような微笑を。
そして、それはもう崩れない。
「殺したんだ」
僕に出来ることなんて何も無い、
ただ
受け入れることしか
「僕が、ウサギを殺したんだ」
To Be Continude 【 The End 】
※Cold大王様へ、見つけたところは直しました。ご忠告ありがとうございます。会話文中の変な変換につきましては(例えば一部が片仮名になっていたりなど)、どうかhaniwaのつたない演出と思ってお見逃しください。なお、この文は作品の雰囲気を阻害する恐れがあるため、次のお話を載せ次第消そうと思います。後書きにて改めてお詫びいたしますので、どうかご了承ください。 haniwaより。
※Cold大王様へ、すみません直しました。ご忠告ありがとうございました。本当にありがとうございます。・・・詩話ってなんだ? 本当にごめんなさい。ちょっと完成を急いだせいで完成度(もともとそんなに高くもないくせに)を下げてしまいました。しつこいだなんて滅相もない!! ここまで自分の作品を読んでくださっていることに感謝以外の念を送ることができません。本当にありがとうございます。ちなみにこの分も後々消しますが、このことについてはまた改めて御礼を申し上げるしだいです。ご了承ください。 haniwaより。