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[7800] 真・恋姫†無双 ~天人・曹仁伝~ [完結]
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2018/05/12 13:03
はじめに

曹仁を主人公にした恋姫無双のSS作品です。
作者の初作品なので、文章やテンポが悪いところがあるとは思いますが良かったら読んでください

曹仁を主人公とした理由は

①史実で曹仁はその武勇を天人(天上の人)の様だと称えられる

②仁って名前が日本人にも普通にいる


です。


文章を書くのも練習していきたいので、変だなと思ったらドンドン指摘してください。
ではよろしくおねがいします。



注意

1)原作の正史・外史の設定が分かりづらくて、個人的にあまり好きではないのでそこら辺はオリジナル設定になると思います。

2)あとがきは本文と別にしたいので、書きたいときは感想の方に投稿直後に投稿します。



設定集

登場人物紹介

曹仁(字:子孝)
 主人公。名馬白鵠を駆り、騎馬隊の指揮に優れる。
>振り向いたその顔は、普通の人間のものだった。額にこれ見よがしに“天”と書いてあることもなければ、眩いばかりの後光を身にまとっているわけでもない。強い意志を湛えた大きな眼。スッと通った鼻筋。(第3話)

*曹仁の年齢について
 本作の設定では、曹仁は曹操、夏侯姉妹の年下の従兄弟です。ただし、曹操より年上設定の劉備、関羽とはほぼ同い年と設定してもいます。これはこの作品の開始時は恋姫におけるキャラクターの年齢設定が不明であったため、曹操は外見は幼いけれど袁紹と同い年で、劉備らとも同い年か年上であると想定していたためです。
 その後、萌将伝で明かされた年齢順は 劉備≒孫権>曹操 ですが、まことに勝手ながら当作品に置いては、 孫策≒夏侯姉妹>曹操≧劉備≒関羽≒曹仁≧孫権 という年齢順であることをご理解ください。
 ちなみに史実においての曹仁は曹操より十以上も年下です。


白鵠(びゃっこう)
 曹仁の愛馬。白毛の名馬。
>白鵠は曹仁にとって友であり、師でもあった。華琳の挑発に乗って、馬術を教えるという幸蘭たちの申し出を断った曹仁に、ならばと幸蘭が譲ったのが名馬・白鵠だった。白鵠と意を通じ合わせることだけに心を砕く日々が長く続いた。
結果、曹仁は余人に真似の出来ない人馬一体の馬術を習得した。(第3話)

*史実の白鵠
 曹洪の愛馬として登場。曹操が徐栄に大敗した際、馬を失った曹操に曹洪が譲る。ただし正史三国志、三国志演義ともに記述はない。白鵠という名は恐らく仏典に登場する極楽浄土の六鳥が由来と思われる。実在の鳥で言うと白鳥あるいは鶴を指す。


牛金(真名:角)
 曹仁の副官。巨漢の侠客。
>牛金という名の副官は、男性としては小柄な部類に入る曹仁の隣に並ぶと、頭1つ以上も抜き出る巨体の持ち主だった。顔面に刻まれた大きな傷痕が、その体躯と相まって独特の迫力を持たせている。しかし低く胸に響いてくる声には不思議と人を落ち着かせるような響きがあった。(第3話)


曹純(字:子和 真名:蘭々)
 曹仁の義理の妹。騎馬隊の指揮に天性の才能を有する。
>肩の辺りで切り揃えられた色素の薄い髪は、光を反射して自ら輝いているように見える。天の御遣いである曹仁とは血の繋がりはないのだろうが、利発そうに輝く大きな瞳は少し彼のものと似ている。(第3話)


曹洪(字:子廉 真名:幸蘭)
 曹仁の義理の姉。曹仁と曹純を溺愛している。
>「当然じゃないですか。私は仁ちゃんのこと、大好きですよ。戦場で槍を振るう格好いい姿も、普段の子供っぽい笑顔も大好きです。もちろん、華琳さまにいじめられている時のちょっと情けない姿だって」(第10.5話)
>色素の薄い幸蘭の髪が、光を反射して金色に近い輝きを放った。蘭々にも言えることだが、華琳と幸蘭の髪質は良く似ていた。性格的にも、夏侯姉妹よりも曹家の姉妹の方が華琳に近いという気がする。もっとも華琳と幸蘭では、すらっとした手足に反した要所要所の肉付きの良さに雲泥の差がある。(第4章 第1話)

*曹家の年齢順
幸蘭>春蘭=秋蘭>華琳>曹仁>蘭々


褚燕(字:不明 真名:駿)
 若き義賊の頭目。
>今一度そう名乗った男は、曹仁よりも1つ2つ年下に見えた。鈴々ほどではないが、まだ若い。
幼さの残る顔立ちの中、こちらに向ける瞳だけが憎悪に燃え、浮かび上がる様に強烈な印象を与えてくる。(第10話)


盧植(字:子幹 真名:未登場)
 劉備の学問の師。大学者だが戦もこなす。
>盧植はそういうと、胸を張って背筋を伸ばした。女性としては非常に大柄と言っていい彼女がそうして居住まいを正すと、それだけで場全体が引き締まる感じがする。(第11話)


皇甫嵩(字:義真 真名:美愛)
 後漢王朝屈指の名将。
>口を開いた女性は盧植のように巨躯というわけではないが、ただそこに座っているだけで強烈な威を放っている。おそらく彼女が皇甫嵩だろう。盧植もそうであったが、将軍にしては若い。30をいくつか過ぎたぐらいだろうか。(第11話)


高順(字:子礼(本作オリジナル) 真名:順?)
 呂布に拾われた戦災孤児。
>曹仁は子供に視線を向けた。存外可愛らしい顔をした男の子である。身にまとった襤褸は、元の色が判らないほどに汚れている。ところどころが破れているのは、古くなったというだけでなく、成長した体を収めきれなくなったからだろう。(第2章 第2話)


張繍(字:不明 真名:照)
 董卓、賈駆の幼馴染。董卓を武力面で補佐する。無双の騎馬隊を鍛え上げた。
>右には中肉中背の男。曹仁と同じか、少し年上だろうか。2人の少女とは異なり、しっかりと具足を着込み、槍を手にしている。男の表情からは特に張り詰めた様子は見られない。しかし、その全身からは強烈な威圧感が放たれている。その向かう先が自分であることに曹仁は気付いた。(第2章 第3話)


太史慈(字:子義 真名:楼)
 袁術に仕える軍人。
>男であるという欠点に目をつぶってでも、旗下に加えたいと華琳に思わせる人材だった。こうして実際に目にしてみても、堂々たる体躯に似合わぬ寡黙さで、一歩引いた態度を崩そうとはしない。それは、華琳の好む軍人としての美徳のひとつだった。(第3章 第2話)


馬騰(字:寿成 真名:藍)
西涼の雄。
>翠と並べば姉妹と見紛うほどに若々しく、生命力にあふれていたかつての姿はここ数年で鳴りを潜めている。一度大病を患い、完治した今も床に伏せる日が少な くない。頭の後ろで一房にまとめた髪が風に揺れる度、陽光を弾く。まだ四十前だというのに、髪には白いものの方が多いくらいだ。顔つきも肉が削げ、年齢相 応のものに変わった。凄惨さが加わったその姿を、以前より美しいという者もあった。龐徳は、以前の健康的で力強い美しさが好きだった。(幕間 西涼)


龐徳(字:令明 真名:廉士)
馬騰軍の武将。幼少時より従者として馬騰に付き従う


黄祖(字:不明)
江夏郡太守。かつて孫堅を討ち取った。
黄祖は、疲れ果てた老人のようだった。桃香が想像していた豪傑然とした姿からはかけ離れている。(第8章 第2話)


張郃 (字:儁乂 真名:優)
袁紹軍の武将。堅実な用兵と軍人らしい思考の持ち主。
 特に長身というわけではないが、姿勢が良いためか張郃の背はすらりと伸びて見えた。顔立ちも整っているが、兵と大差ない軍袍と具足を着込み、派手者の多い袁紹陣営にあっては際立った印象はない。(第8章 第7話)


陳矯 (字:季弼 真名:無花果)
曹仁の従者。文官志望であったが、白騎兵の活躍に目を奪われ軍に志願。


司馬懿 (字:仲達 真名:春華)
 漢朝の名門にして洛陽の大富豪司馬家の次子(養子)。かつては残兵と呼ばれる暗殺部隊に所属した。
>女性としては長身の部類に入るだろう。細身ながらも女性らしい丸みも帯びた身体つきで、すっと伸びた背筋と、わずかに傾げて見せた顔が、独特の色気を感じさせる。(第7章 第5話)


作中年表兼あらすじ

*最新話までのネタバレ含む。作中時系列を強引に年号に当てはめただけなので、若干の矛盾あり。

176年:曹仁、恋姫世界に招かれる。当時8歳
183年:曹洪、県長に任官。曹仁、曹純と共に任地へ(番外編 一年前)。
184年:黄巾の乱勃発。本編開始。曹洪、曹操軍に合流(第1話)
     曹仁、劉備達の義勇軍に加勢。劉備達と出会い、同盟を結ぶ(第2~4話)
     曹仁と劉備達、公孫賛と再会。趙雲と出会う(第5話)
  二月:曹仁、公孫賛の領地に滞陣。(第6~8話)
     VS褚燕(第9、10話)
  六月:各地を転戦
     諸葛亮、鳳統を仲間にする
     劉備、盧植と再会(第11話)
     皇甫嵩と合流。波才を撃破(第11話)
     曹仁、曹操と1年半振りの再会(第12話)
  七月:広宗の戦い。黄巾の乱終結へ(第13、14話)
     曹仁、洛陽へ
  十月:何進死亡(第2章第1話)
     曹仁、呂布、陳宮、高順との出会い(第2章第2話)
 十一月:董卓上洛(第2章3話)、廃帝し陳留王(劉協)即位
 十二月:劉備、安喜県を出奔する。趙雲を配下とし、流浪の軍へ(第2章第3.5話)
185年:張譲失脚。曹仁、天子と会う(第2章第4話)
  二月:残兵討伐(第2章第5,6話)
  五月:董卓連合結成、汜水関へ進軍。曹仁、張繍奇襲。(第3章第1話)
     呂布、張遼、華雄奇襲(第3章第2話)
  六月:汜水関陥落。華雄負傷(第3章第3話)
     虎牢関陥落。皇甫嵩負傷(第3章第4話)
     洛陽の大戦(反董卓連合VS董卓軍)(第3章第6、7話)
     張繍殿軍。袁紹軍を後退させるも戦死(第3章第8話)
  七月:洛陽より董卓ら脱出。(第3章第9話)
     曹仁、曹操と対するも敗北。董卓、賈駆は曹操軍に捕らえられる。
     洛陽陥落(幕間)
  十月:華琳、兗州牧へ(第4章第1話)
186年:曹操軍VS青州黄巾(第4章第2~4話)
     曹仁、華琳への臣従を胸に期す
  三月:袁紹、公孫賛軍を破り幽州を支配下に(幕間 白蓮)
     孫呉独立。太史慈、孫軍に降る(幕間 太史慈)
     曹嵩死去。(第4章第5話)
     曹仁、華琳を諌める(第4章第6話)
  四月:曹仁、徐州にて劉備、呂布らと再会(第5章第2話)
     曹仁、張闓を討伐
  七月:呂布軍、徐州を制圧(第5章第3話)
     劉備軍、曹操軍と合流
  十月:曹操軍、予州を制圧
187年:袁紹軍、兗州へ侵攻。呂布軍の北進によってすぐに撤退(第5章第5話)
  三月:呂布軍、曹操軍の領域を侵犯
  四月:曹操軍VS呂布軍開戦(第6章第2話)
     曹操軍本拠陳留、呂布の赤兎隊によって陥落(第6章第3話)
  五月:曹操軍、呂布軍に勝利(第6章第7話)
     曹仁、天の御使いを名乗る(第6章第8話)
  六月:曹操軍、本拠を許に移す(第7章第1話)
  七月:曹操軍、車騎将軍楊奉の要請を受け、洛陽に進軍(第7章第3話)
     曹仁と華琳が天子に謁見(第7章第4話)
  九月:孫策軍、第一次荊州侵攻(第7章第6話)
 十一月:桃香、曹操軍を出奔(第7章第8話)
188年:曹仁と華琳が交際を開始(幕間)
    :袁紹軍、中原への侵攻準備を整える(第8章第1話)
  二月:孫策軍、第二次荊州侵攻
     桃香と雪蓮会談、反曹操連合を結ぶ(第8章第1、2話)
     孫策軍、荊州より撤退
  三月:袁紹軍、曹操軍へ決戦を申し込む
     劉備軍、徐州にて挙兵
     孫策軍、中原侵攻開始(第8章第4話)
  四月:官渡の戦い開戦
     曹操軍、袁紹軍と決戦。連環馬を用いて大勝(第8章第5話)
     華琳、劉備軍、孫策軍を連続して退ける(第8章第6話)
     曹仁、袁紹軍連環馬を大破(第8章第7話)
     高順、漢中・西涼を訪れる(第8章第8話)
  五月:麗羽、真情を吐露し、袁紹軍結束を深める(第8章第8話)
     官渡にて曹操軍と袁紹軍決戦(第8章第9話)
     霞、蹋頓単于を捕縛(第8章第10話)
  六月:麗羽、華琳に降伏を申し出る(第8章第11話)
     官渡の戦い終戦
     桃香、逃避先の荊州にて愛紗達と合流(幕間 再起)
     曹操軍、洛陽へ凱旋(第9章第1話)
  七月:曹仁と華琳、結ばれる(第9章第2話)
  八月:馬騰・馬超・馬岱入朝。公孫賛雍州牧に(第9章第3話)
     雪蓮暗殺未遂(第9章第4話)
  九月:劉備軍荊州入り(第9章第5話)
  十月:曹操軍北伐(第9章第7話)
 十一月:曹操軍凱旋、蹋頓・楼班朝具(第9章第8話)
     曹仁と華琳の交際が明るみとなる
 十二月:洛陽郊外にて巻狩り。華琳暗殺未遂(第9章第9話、10話)
     馬騰、長安にて弘農王を天子に擁立
     張衛、五斗米道軍を率いて西涼軍と合流(幕間 張衛)
     司馬懿、曹操軍に出仕(第10章第1話)
189年:西涼遠征軍第一陣出立。潼関にて馬超軍と交戦(第10章第2話)
     華琳、荊州へ軍を進発。桃香、20万の民を率いて逃亡開始(第10章第4話)
     厳顔、劉備軍へ帰順(第10章第5話)
     荊州、曹操軍へ帰順。華琳、劉備軍の追撃開始(第10章第6話)
     長坂橋の戦い。鈴々、一千人斬り(第10章第7話、8話)
     雛里、華琳に決死の急襲を仕掛けるも捕縛される(第10章第9話)
     桃香江陵に入城。城門前にて華琳と舌戦(第10章第10話)
  二月:西涼遠征軍第二陣が潼関に到着。西涼軍を急襲し大勝(第10章第3話)
     曹操軍と西涼軍決戦、曹操軍勝利(第10章第11話、12話)
     曹操軍と西涼軍再戦、曹仁、馬超を破る(第10章第13話)
     馬騰討死。西涼軍降伏(第10章第14話)
  三月:韓遂横死、長安落城。馬超は漢中へ(第10章第15話)
     劉備軍、江陵を孫策軍に譲渡し益州に入る(幕間)
  四月:桃香、巴蜀を手に入れる(第11章第1話)
  五月:曹仁、荊州都督に就任
  七月:曹操軍、宛城支城建造(第11章第2話)
  八月:馬超、劉備軍に帰順(第11章第3話)
  九月:劉備軍、漢中へ侵攻。秋蘭、漢中へ進軍(第11章第4話)
     曹仁、長安へ駐屯。張燕、漢中へ進軍(第11章第5話)
  十月:定軍山の戦い。張燕戦死
190年:華琳、魏王となる(幕間)
  三月:桃香、漢中王となる(第12章第1話)
  四月:孫呉、江陵を撤退。曹操軍、烏林に布陣(第12章第2話)
  六月:赤壁の戦い(第12章第4話)
     江陵(襄陽)へ撤退(第12章第5~7話)
     曹仁、長坂橋にて関羽と趙雲との一騎打ちの後、消失(第12章第7話)
  八月:孫劉連合によって襄陽および樊城陥落、前線は宛城に
  九月:決戦。戦場に曹仁が降臨し、曹操軍を勝利に導く(第13章第2、3話)
  十月:曹操軍、柴桑を占拠。(第13章第4話)
    :曹仁、天の国へ帰還



198年:?




[7800] 第1話 主人公不在
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/04/04 14:20
黄巾賊討伐に当たっている曹操の元へ、二千の兵を引き連れた曹洪は合流した。

着陣後すぐに通された天幕はさしたる広さもなく、曹操が私室として使用しているもののようだった。

「よく来てくれたわね、幸蘭」

「はいっ。お久しぶりです、華琳様」

曹洪―――幸蘭は、長らく合わずにいた年下の従妹に対して、跪拝して初めての臣下の礼を示した。

曹操―――華琳はそれを当然のこととして受け、幸蘭に立つよう促した。

「・・・・・・」

「・・・・・・」

しばし互いを見つめあう。華琳は挑むような視線で。幸蘭は探るような視線で。

「品定めは済んだかしら?」

「うふふ、気が付きました?」

「当然じゃない。私を誰だと思っているの?」

「曹孟徳。一門の頭領にして、我が主君」

「それは合格ということかしら?」

「はい。最も私は初めから華琳様の器を疑ってなどいませんでしたよ。」

「あなたの所の天の御遣いのため、というわけかしら?」

「その呼び方をすると、仁ちゃん怒りますよ」

「いいのよ、怒らせておけば。それで、あの子はやっぱり来ないって?」

「はい。仁ちゃんからその件に関して手紙を預かってきています。」

「そう、見せて頂戴。」

「はい。」

「華琳様っ!」

その時、一人の少女が天幕に勢いよく駆け込んできた。

「あら、そんなに慌ててどうしたの、桂花?」

「そ、それは。・・・ま、まもなく軍議の時間となりますのでお知らせに」

「ふーん。それだけかしら?」

「は、はい」

桂花と呼ばれた少女は、やや上気した顔をうつむけつつ答えた。

その視線は窺うように華琳と幸蘭の間をさまよい、また地面へと戻っていく。

(・・・華琳様の女の子好きは相変わらずですか。)

「・・・そう。でもちょうど良かったわ。春蘭と秋蘭もあの子のことは気になっていたみたいだし、手紙は軍議の後にみんなで

見ましょう」

「はい。わかりました」

「それと桂花とは初めてだったわね。二人には今後我が軍の中枢を担ってもらうことになるわ。お互いのことをよく理解しあっ

ておきなさい」

「はい。私は姓は曹、名は洪、字は子廉。華琳様に真名を許されているみたいですし、私のことも幸蘭と、真名で呼んでくださ

いね。」

少女は姓は荀、名は彧、字は文若と名乗ったまま、じっとこちらを見ている。

「・・・」

「・・・」

(・・・なるほど、そういうこと)

幸蘭は少女に近寄ると、その耳元でそっと囁いた。

「私と華琳様は女と女の関係ではないから、安心してくださいね」

「なっ!」

少女は真っ赤になって一歩後ずさると、こちらから目を逸らしつつも答えてくれた。

「真名は桂花よ。好きに呼んで頂戴。」





3人で本陣中央に設けられた大きめの天幕に移動した。

「幸蘭。久し振りではないか」

「お久し振りです、春ちゃん、秋ちゃん」

幸蘭は勢いよく駆け寄ってきた春蘭を抱きとめ、その後ろからゆっくりと歩み寄ってくる秋蘭に微笑みかけた。

「この1年、顔も出さずに何をしていたのだ?」

「姉者、知らないはずはなかろう。幸蘭は県長として任地に出向いていたのだ」

「お、おお、そうだったな」

「ふふ」

1年前と変わらぬやり取りに、幸蘭は思わず笑みをこぼした。

「さて、全員揃ったことだし軍議を始めるわよ」

「はっ。し、しかし華琳様、仁のやつがまだ・・・」

「その話は軍議が終わってからしましょう。いいわね?」

「はあ」

春蘭が所在無げに視線をさまよわせる。それを秋蘭が愛おしげに眺めている。

「ふふ」

これもまた1年前と同じ光景だった。




(・・・へぇ)

軍議は桂花を中心に進められていた。桂花は幸蘭の想像以上に優秀な軍師であった。
幸蘭軍合流によって、変更を余儀なくされた行軍計画、軍編成、兵糧問題は既に組み直されていた。
各地で兵を募りつつの行軍であった。着陣するまで正確な兵数の把握が不可能だった状況を考えると、桂花は着陣後の短期間で

これを行ったということだろう。

(華琳さまが真名を許すのもうなずけますね。あとは戦略、戦術面ですけど・・・)

その点に関しては、幸蘭には何の心配もなかった。この軍には春蘭と秋蘭、比類なき武勇を持つ猛将・夏候惇と智勇兼備の将・

夏候淵がいる。そして彼女達を率いるのは、軍事の天才といっていい華琳なのだ。
事実、華琳は挙兵から幸蘭が合流するまでの1月足らずの間で、いくつもの戦果を挙げていた。
距離を置いてみて初めて分かる事もあるということか。本人の前で言ったとおり元より華琳の器、才覚を認めていた幸蘭ではあ

ったが、他者の口からもたらされる彼女の評判は、傍にいた頃とは違う響きを持ってその耳に届いた。そして曹孟徳という大器

に幸蘭は改めて忠誠を誓い、華琳と対等であろうとした曹仁はさらに距離をとることを選んだ。


「それでは、これで軍議は終わりとしましょう。各人、持ち場に戻りなさい」

華琳の言葉に将が散会していく。とはいえまだまだ小さな軍だ。将の数も決して多くはない。すぐに天幕には数人を残すだけと

なった。去っていく将を無言で見送る華琳、その華琳の傍に控える桂花、落ちつかない表情でこちらを見ている春蘭、それを楽

しそうに見つめる秋蘭、そして幸蘭。

「華琳様、幸蘭、仁のやつは?」

「ええ、来ないそうよ」

「そんな!?どうしてですか?」

「それを今から聞くところよ、幸蘭。」

「はい」

幸蘭は華琳の前に進み出ると、2本の竹簡を取り出した。

「あら、2本もあるのね。けっこうな長文なのかしら」

「いいえ、2種類あるんです。こちらが出立前に華琳様へと託されたもの、そしてこちらが仁ちゃんの部屋のゴミ箱から漁った

ものになります」

「ふふ。相変わらず意地が悪いわね、幸蘭」

「うふふ、華琳様こそ、楽しそうです」

「ええ、よくやったと褒めてあげるわ、幸蘭」

「ふふふ」

話が飲み込めずにいる桂花、呆れた様な表情の秋蘭、焦れて落ち着きを失いつつある春蘭を尻目に、2人は意地の悪い笑いをこぼ

した。

「ふふ。それではどちらから読みますか、華琳様?」

「そうね、まずは建前の方を読ませてもらいましょうか」

「では、こちらを」

華琳は出立前に渡されたという竹簡をうけとると、春蘭の方へ視線を送った。春蘭は期待を込めた瞳で華琳を見つめていた。

「仕方ないわね」

やれやれ、と一息つくと華琳は読み上げた。

「曹孟徳殿へ
この度、賊軍討伐の任に当たられると聞き及びました。
不肖、私もすぐにでも馳せ参じて貴方様のために存分に槍を振るおうと、心に期すところがございました。
しかし貴方様の下で槍働きを行うには、まだまだ私には役不足だと痛感してもおります。
そこで、今回のところは参陣を見合わせ、自身の力量に磨きをかけるべく鍛錬を積みたいと思います。
それでは、十分な力量を磨き再び合える日を楽しみにしております。
曹子孝」

「・・・あの、華琳様。この曹子孝とやらは、ただの馬鹿なのでしょうか?それとも・・・」

役不足という単語を誤用しているのか、それともわかっていてあえて用いたのか判断が付かず、桂花は難しい表情で尋ねた。

「馬鹿なのは確かだけれど、これはわかっていて使っているのでしょうね」

「なっ、なんて無礼な!」

「いいのよ、桂花。この子の無礼はある程度許しているのよ。」

「そんな!」

「うふふ。その方が後で色々と楽しめるじゃない」

華琳が浮かべた底意地の悪い笑みに、桂花は言葉を失った。

「なあ、秋蘭」

「・・・今のは姉者には難しかったな。あまり気にしないことだ」

「そ、そうか」

幸蘭はそんな様子をただ楽しそうに眺めていた。

「それでは、本音の方も読んでみましょうか」

「はい」

竹簡を渡そうと近づく幸蘭を、華琳が手で制する。

「せっかくだから、あなたが呼んで頂戴。できるだけあの子の声音でね」

「はい」

「うふふ、建前でさえ綺麗事だけでは終わらなかったのだから、楽しみね」

「それでは、
華琳へ
お久し振りです。
今回、黄巾族討伐のために挙兵すると聞きました。
曹家一門の頭領として、姉ちゃんも、春姉も秋姉もあなたに付き従うと聞きました。
あなたは確かに盟主足りうる優れた人物だと思います。
しかし俺はあなたに仕えるつもりはありません。
確かにあなたは兵法に通じ、恤民の心も篤い。その上個人の武にも優れ、統率力もある。器量もいいから人を引き付ける魅力も

ある。
しかし、あなたは●●●●●●●●●●●●
―――この部分は何度も斜線で消されてますね。華琳様の欠点が思い浮かばなかったみたいです」

「・・・」

「どうしました、華琳様?お顔が赤いですよ」

「いいから続けなさい」

「はい、では続けますね

「しかし、あなたは――――胸が小さい」

「・・・」

場の空気が一気に下がった気がした。

「続けますね
それに背が低いから大人の魅力に欠ける。それゆえに包容力が足りない。
そんなわけだから、俺は華琳に従う気になれない。
俺は俺でやらせてもらう。
また会おう。
曹子孝」

「・・・」

「・・・」

誰も何も言わなかった。春蘭はおびえた表情で華琳を見ているだけだし、桂花ですら曹仁の無礼を責め立てることなく凍えきっ

た空気に耐えるのみだった。秋蘭は何かを諦めた様な表情でため息をついている。唯一普通にしている幸蘭も微笑を浮かべなが

ら華琳を見つめているだけで何も言わずにいた。

「ふ、ふふ」

「華琳様?」

「ふふふ、再会が本当に楽しみになってきたわね。」

華琳は底意地の悪い、もうほとんど邪悪といっていいような笑みを浮かべた。

「幸蘭」

華琳のそんな様子を楽しそうに眺めていた幸蘭に、秋蘭が声をかけた。

「楽しんでいないか?」

「まさか。仁ちゃんがどんなお仕置きをされてしまうのか、考えただけで胸が痛いです」

幸蘭は嬉しそうにそう答えた。



[7800] 第2話 主人公は遅れてやってくる
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/04/05 23:51
「愛紗ちゃん、このままだとっ!」

「わかっていますっ、桃香様!」

眼前の敵を斬り伏せながら、愛紗は義姉にして主君でもある少女に視線を向けた。
後方で待機しているはずの桃香は愛紗とともに前線に立っていた。

(いや、前線がここまで押し込まれてしまったのだ)

元々が無謀な戦いだった。義勇軍の求めに応じてくれた200名ほどは、士気高く、こちらの指示にも出来る限りの反応を返してくれているが、十分な調練も行えてはいなかった。対する敵軍は5倍近い兵力を持ち、戦というよりは略奪を繰り返してきただけとはいえ、武器を振るって人を殺すという行為に慣れていた。
しかし、村を襲おうと進軍する軍を前にただ手を拱いているなど、桃香はもちろん、愛紗にとっても不可能な話であった。

愛紗が青龍刀を振るうたび、数人の賊徒が斬り倒され、あるいは打ち飛ばされていく。しかし既に疲労の色は濃い。このままでは数の力に飲み込まれてしまうのは時間の問題だろう。

前方に視線を送ると、ほぼ全軍が歩兵で構成される敵兵の中、数騎の騎兵の姿が目に付いた。

(あれが、敵軍の大将か)

こちらを包囲するように兵が動いているせいか、その距離は意外に近い。あそこまで斬り進んでいくことも不可能ではないと、愛紗には思えたが、集の力を前にここまで前線が押し込まれてしまった事実を考えると、やはり不可能に近いことなのだろう。

「鈴々!」

「な、なんなのだ、愛紗?」

少し離れた位置で同じく前線の維持に奮闘していた義妹に声をかける。一騎当千の武勇の持ち主とはいえ、やはり声には疲労の色が含まれている。

「桃香様の守護を頼む!私はこれより敵大将を討ちにいく!」

「ちょ、ちょっと愛紗ちゃん!?」

「桃香様、このままでは全滅は時間の問題。他に手はありません」

「で、でも、そんなの無茶だよ」

「鈴々、任せたぞ!」

「・・・わかったのだ、愛紗!」

「鈴々ちゃんまで・・・。そんなの駄目だよ」

「桃香様、我が武をお信じ下さい!」

「あ、愛紗ちゃん!」

愛紗は桃香の静止の声を振り切り、敵兵の中に飛び込んだ。桃香の声はまだ聞こえてくるし、桃香なら後を追うようなこともしかねないが、鈴々がうまく止めてくれるだろう。鈴々は単純なところもあるが、それだけにここぞというときにするべきことを見失うようなことはない。うまく導いてやれば、自分などよりよほど優れた将になる資質を持つと愛紗は思っていた。そして彼女を導く役を為すのは自分であると、軽い独占欲を伴いつつ考えてもいた。

(私は、こんな時に何を考えているのだ)

まるで今から死に逝くものの言ではないか。馬鹿なことを考えるのはよそう。

(今はただ、我が武を振るうのみ)

左右から槍が突きかけられる。思わず下がろうとする本能を抑え込み、前に踏む込み、槍と槍の間に身を滑り込ませる。正面からも敵。さらにその左右からも。無防備な状態にある左右の二人を仕留めている余裕もない。別に構わない。この混戦だ、槍をもったまま反転してこちらを攻めてくることはないだろう。それよりも今は正面の敵だ。多少なりとも心得があるのか、先の二人の様には無防備に突きかかってこない。その左右から二人。こちらは先の二人よりさらにひどい。がむしゃらに槍を振り回しながら突っ込んでくる。正面の敵はこの二人に対処する隙を突くつもりだろう、油断なく槍を構えている。

「はあっ!」

左右の二人は無視して正面の敵を一気に斬り伏せる。驚愕の表情を浮かべて倒れる敵。油断なく構えを作ろうが、多少の心得があろうが関係ない。体を反転させながら後方にひと振り。がむしゃらに槍を振るっていた二人の体がそれぞれ二つにに分かれる。余勢を駆って前方にも一凪。二人斬り倒す。倒した分は確実に前に進む。そして決して後退はしない。しかし、まだまだ騎馬の姿は遠い。





「あ、愛紗ちゃん!」

敵兵の中に飲み込まれていく愛紗の姿に、桃香は思わず後に続こうと駈け出した。

「待つのだ、お姉ちゃん!」

いつの間にか正面に回ってきていた、鈴々の小さな背中から静止の声が響く。桃香は構わず進もうとする。

「!」

大きく振りぬかれた鈴々の蛇矛にさすがに足を止める。それは敵兵を斬り倒すために振られたものであったが、ただそれだけのために振られたものでもなかったようだ。

「お姉ちゃんが行っても足手まといになるだけなのだ!」

「だからって、愛紗ちゃん一人を危険な目にあわせるなんて、私には」

「お姉ちゃんの仕事は、愛紗を信じて待つことなのだ!」

桃香に語りながらも、鈴々の手は止まらない。敵兵を確実に斬り倒していく。いつもは猛々しく大きく見えるその小さな背中が、今は実際以上に小さく見えることが、言葉以上に桃香の胸を打っていた。

(鈴々ちゃんも、本当は愛紗ちゃんと行きたいんだ)

「うりゃりゃ~っ!」

桃香は前に進むことを諦め、ただ鈴々の背中を見つめていた。自分を守れという愛紗の言い付けを守るために、ただ矛を振るうその背中を。

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!)

「鈴々ちゃん!」

「にゃっ!危ないのだ、お姉ちゃん!」

「良いこと思いついちゃった!」

突如思い浮かんだ名案に、桃香は思わず鈴々に飛びついた。





呼吸が定まらない。振るう青龍刀もわずかに狙いから逸れる様になってきた。

「くぅ!」

愛紗は突きかかってきた槍を寸でのところで避け、敵兵を斬り倒す。倒れた敵の影から、すぐさま敵があふれ出る。前に進む余裕がない。敵将に近づくほど敵兵の練度が上がっているという気もするし、ただ自分が疲れ果てているからだという気もする。

このままでは敵将まで届かない。それだけではない。ここで自分が死ねば、もはや我が軍に打つ手はないのだ。なんとしても敵将をこの手で討ち果たさなければならない。

「・・・・・・?」

疲れて目がおかしくなったか、と愛紗は思った。もう一度見直す。

「・・・・・・!」

敵将までの距離は近づくどころか、むしろ遠のいていた。そこまでは起こり得る事だと、愛紗も想定していた。自分の奮戦に気が付けば、敵将が距離を取ろうとすることは十分考えられたことだ。おかしいのはそこではない。兵の数だ。後退した分、敵将後方に控えていた兵力を間に差し込んでくることは十分考えられたし、実際後方の兵は半分ほどに減っている。しかしそれにしても多すぎる。これではまるで全軍を挙げて自分だけを包囲しようとしているようではないか。これではさすがに―――

「!」

深い絶望と物思いに捕らわれた隙をついて、敵兵が一斉に突きかかってきた。

(しまった!)

避けきれない。そう思った瞬間、目の前に影が走った。小さな影だ。

「うりゃりゃりゃりゃ~~~っ!」

影が矛をひと振り、敵兵の姿は視界から消えていた。

「愛紗、こんなやつら相手になにやってるのだ」

「愛紗ちゃん、助けにきたよ」

「り、鈴々、桃香様!」





「一緒に愛紗ちゃんを助けにいこう!」

桃香は、自信有り気に自らの考え出した妙案(?)を鈴々に披露した。

「鈴々ちゃんのお仕事は、私を守ることでしょう?なら、愛紗ちゃんを助けにいく私を守ってくれるよね。鈴々ちゃんが一緒なら、愛紗ちゃんの足手まといにもならないし。ね、一緒に行こう!」

「わかったのだ!」

即決であった。

「行くよ~!」

「にゃ~!」

二人が敵兵に飲み込まれていく姿に、兵たちも奮い立った。

「桃香様を死なせるな~!」

「敵本陣、みんなで行けば怖くねえだぁ~!」

義勇軍全軍による、決死の突撃部隊が誕生していた。





「なるほど。ふっ!!」

愛紗は迫る敵兵を斬り倒しながら、冷たい視線を二人に送った。

「あ、あの~、愛紗ちゃん?お、怒ってる?」

「ええ、もちろん。鈴々、お前が付いていながら」

「にゃ?鈴々、ちゃんとお姉ちゃんを守ってきたのだ」

「はぁ。少し前の自分が恨めしい」

敵兵が増えた理由もはっきりした。正面で義勇軍に当たっていた敵兵も反転させ、突撃する全軍を包囲するよう兵を動かしたのだ。特に前面には重厚な布陣がなされたらしい。

「うう~。お姉ちゃん。愛紗が怖いのだ」

「あ、愛紗ちゃん。ごめんね」

「はあっ!」

一息で三人斬り倒す。疲れてもう動かないと思っていた体がよく動く。

「あ、愛紗ちゃん」

「・・・もう起こっておりませんよ、桃香様。それに鈴々も。」

「ほんとに?」

「ほんとか?」

「ええ、ただ呆れているだけです」

「うう」

二人の顔を見ただけでこんなにも力が湧きあがってくる自分自身に、と愛紗は心の中で付け足すとさらに青龍刀を振るった。多勢に無勢なうえ、包囲まで完了されてしまっている。そう長くは持たないだろう。桃香様も死なせてしまうかもしれない。それでもこの瞬間だけは、幸せな思いが胸に満ちていた。

「愛紗、うれしそうなのだ」

「そ、そんなことはないぞ!私は怒っているのだ!このまま我らは全滅するかもしれんのだぞ」

「う~~。やっぱりまだ怒ってるのだ」

「ごめんね、愛紗ちゃん。わたしのせいで」

「うっ。まだまだ勝負はわかりませんぞ!なんといっても桃香様には天命がおありです。こうしている間に天の助けが」

「あ、愛紗ちゃん、それ無茶ありすぎ」

「ううう」

「・・・そうでもないのだ」

「鈴々ちゃんまで」

「あれを見るのだ」

鈴々が指さす先、敵将のいるあたりに向かって砂塵が迫っていた。





「・・・」

戦場から少し離れた丘の上から、曹仁は戦の成り行きを見つめていた。

「兄貴、まだですかい?」

「まだだ。今行けばこちらも共倒れするだけだ」

同じく戦場を見つめる牛金に急かされても、曹仁は首を縦には振らなかった。こちらは全軍騎兵とはいえ、わずか20騎しかいないのだ、慎重に機を窺わなければならない。もし付き従う者のない自分一人だったなら、すぐにでも駆け込んでいるだろう。しかし今の曹仁には、自分を慕い、従ってくれる兵がいる。そして、今戦場で戦う気骨ある義勇兵達を一兵でも多く救える道を選ばなければならない。
戦場には変化が見られている。賊軍の中央で凄まじい武を振るっていた者に引っ張られたのか、義勇軍全軍が一丸となって突撃を仕掛けていた。すぐにでもあの勇敢な義勇兵達を助けに行きたいという思いと、彼らを死なせてなるものかという、二つのよく似た思いが拮抗することで、曹仁はなんとかこの地に留まることができた。機はもうすぐだ、とも感じていた。

「兄貴、そろそろ」

「・・・」

今度は曹純が声をかけてきた。この血のつながらない妹は、兵の影響で日々口が悪くなっている。いつもなら注意するところだが、今はそんな余裕はない。戦場に変化が見られていた。それも、待ち望んでいた変化だ。賊軍後方に控えていた兵が、前方へと投入されていく。

「良し。全軍、俺に続け。」

大声は出さない。仲間にも敵兵に30歩の距離に迫るまでは、鬨の声をあげないよう厳命してある。わずか20騎の軍隊だ。大声を出さずとも声は届くし、これ以上鼓舞する必要などないほどに士気は高まっている。それならば敵軍に奇襲を直前まで気付かせずに、一気に動揺を誘いたい。
愛馬・白鵠もこちらの意を組んで静かに、それでいて他を引き離す勢いで駈け出した。目指すは賊軍の将。ちょうど賊軍後方に位置しているこの丘を駆け下りれば、もう目と鼻の先だ。

丘を駆け下りる。あと100歩。まだ敵は気付いていない。

あと80歩。数人がこちらに気付いたようだ。もう遅い。

あと60歩。敵兵が騒ぎ始める。

あと40歩。敵軍の騎兵がこちらを向いた。

あと30歩。騎兵を観察する。全部で5騎。

あと20歩。騎兵が1騎を守るように移動する。敵将と判断。

あと10歩。後方から鬨の声。兵もあと30歩の距離まで到達したようだ。ならば俺も名乗りを上げよう。

「我は、曹子孝!我が槍を受けよ!」

曹仁は敵陣へと突入した。








[7800] 第3話 曹子孝、劉玄徳に出会うのこと
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/04/11 14:01
曹仁は敵軍に突入した。
正面には槍をこちらに向けて構える敵兵の集団。白鵠は速度を落とさない。曹仁の槍が振るわれる。捕らえたのは敵兵ではなく、その槍だ。こちらに向けられた槍を逸らしてやるだけで十分。無防備な状態の敵兵を白鵠が蹴散らしていく。
速さこそが肝要となる。兵を動かされれば、こちらの勝機は失われる。その前に一気に敵陣を切り裂いて敵将まで到ることが出来たなら、勝利はこちらのものだ。

「ふっ!はっ!」

進行の邪魔になる敵だけを狙って討っていく。討つべき相手は白鵠が教えてくれる。後方には牛金たちがいる。自分たちはただ前へ進むだけでいい、と曹仁は思い定めていた。そしてその思いは白鵠にも伝わっている。人と馬はただ前だけを見据えた。




「野郎共!兄貴に続け!」

先行して敵軍に突入した曹仁にこれ以上引き離されぬよう、牛金は馬を急がせた。
曹仁の槍が突き出される度、敵軍に道が拓いていく。無造作に突き出しているように見える槍が、まるで吸い寄せられるように確実に敵兵を捉えていくのだ。まるで妖術のようだ、と牛金は思った。曹仁は撃つべき時も、その相手も白鵠が教えてくれる、と調練の度に語ってくれた。しかし牛金には馬の声は聞こえなかった。曹仁と白鵠だから出来ることなのだ。

「はぁっ!」

手にした大刀を振り回して、曹仁の拓いた道をさらに切り開いていく。曹仁は後を一切振り返らず、ただ前へ前へと突き進んでいく。信頼されている、と牛金は思った。そして恐らくは他の兵たちも。胸の奥から沸々と湧き上がるものを感じる。

「お先!」

曹純が牛金の脇を駆け抜けていく。牛金も負けじと馬を走らせた。




突然現れた騎馬の一隊が、敵軍を切り拓いていく様を、桃香はただ呆然と眺めていた。愛紗の言ではないが、降って湧いたような一団の出現は、天祐だとしか思えなかった。集団の先頭で白馬を駆る男の姿が、陽の光を受けて輝いて見える。

(曹子孝って、確かにそう名乗ったよね)

桃香にはその名に聞き覚えがあった。そもそも桃園にて愛紗、鈴々と義姉妹の契りを結んでより、ただ当てもなく志だけを胸に彷徨ってきた3人が、この地での挙兵に踏み切ったのは一つの噂に背中を押されたからだった。曰く、曹家の天の御遣いが曹家を離れこの地で義を行っていると。

「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、あの人!」

「ええ、まさに天の助けです」

「なのだ!」

曹家の天の御遣いの名を最初に聞いたのはもう5,6年も前、愛紗とも鈴々とも出会う前の話になる。
初めに広まった噂は、大長秋にまで上り詰めた大宦官・曹騰の一族のものが、天の御遣いを手に入れたというものだったらしい。その話自体はただの流言飛語の類として対した広がりをみせず、当時まだ幼かった桃香の耳にも入ってはこなかった。この話が中原全体に広まるにいたったのは、これによって引き起こされた政変によるものだった。これを理由として叛意を問われ、当時太尉になったばかりの曹騰の娘・曹嵩が罷免されたのだ。太尉の地位自体が金で買ったものであり、ほんの一時高位に就くために大金を支払ったと、当時は物笑いの種にされたものだった。

再び その名を耳にしたのは、時を置いた最近になってからだった。

「はぁっ!」

「きゃあ!」

桃香の眼前を、愛紗の青龍刀が走った。天の御遣いに目を奪われているうちに、敵兵に目前まで迫られていたらしい。

「桃香様!天の助けはあれど、ここはまだ戦場であるということを忘れないでいただきたい。」

「ご、ごめん。愛紗ちゃん」

そう言いつつも、桃香の眼は再び、曹仁に向けられていた。
曹仁は既に敵将に迫りつつあった。敵軍の騎兵のうち2騎が、その行く手を塞ぐ様に進み出る。曹仁は速度を落とすことなくそのまま突き進んでいく。曹仁が槍を構えなおすのが見えた。その穂先に弾かれた陽の光に、一瞬桃香は目をつぶった。

次に見たのは、乗り手を失った2頭の馬と、残った騎兵のうちの一人に槍を突き付ける曹仁の姿だった。目をつぶっていたのはほんの一瞬に過ぎなかった。桃香は戦場に在って何か神聖なものを見た気になっていた。





曹仁は歩兵の波をかき分け敵将に迫った。敵将と思しき男は兵を動かす時間ももうないと悟ったのか、こちらを見据えている。騎兵の中から2騎が駈け出してくる。槍を構えなおす。

「しっ!」

突き出した槍は狙い過たず一方の男の胸に吸い込まれた。馬上からその姿が消える。その間にももう一騎の男は馬を駆り、間合いを詰めてくる。片割れが一合も交えずに討たれたというのにわずかの動揺も見られない。初めからどちらか一方が捨て駒になるという覚悟を決めていたのかもしれない。もう槍の間合いではない。男が刀を振るう。その軌跡が乱れ、曹仁の脇を過ぎ去る。白鵠が男の馬に体当たりを加えていた。体勢の崩れた男に、短く構えなおした槍を繰り出す。

残る騎兵は3騎。中央にいる敵将と思しき男と、その左右に1人ずつ。落ち着いた目でこちらを見据える中央の男に比べ、左右の男は怯えた様な表情でこちらを窺っている。先ほどの二人といい、将の男といい、存外肝が据わっている。黄巾党は侠客を取り入れ、その力を増してきたという。この男達もその類の者かもしれない。曹仁は侠客という人種が嫌いではなかった。今率いている者たちの大半も、その類の出身だった。
曹仁は左右の2人は無視して、中央の男に槍を突き付けた。黄巾党の軍は狂信者と飢えた民からなるという。将を討ってそれで収まるとは限らない。出来れば将の口から敗北を認めさせたい。

「俺の名は曹子孝。あなたは?」

「張牛角」

「では張牛角殿、あなたの兵に武器を下すように言ってもらえるか?」

「断る!」

叫ぶと同時に、張牛角は曹仁の槍を両手で握りこんだ。槍から凄まじい膂力が伝わってくる。一瞬でも力を抜けば奪われると感じた。

「今だ、行け!」

「くっ」

左右から騎兵2人が斬りかかってくる。とっさの事に反応が遅れたが、斬りかかる二人の動きも鈍い。白鵠が動こうとする。その動きに合わせることだけを考える。槍を自ら放し、半歩下がって攻撃を透かし、大きく一歩踏み込んで張牛角の真横につける。ここまでわずか一呼吸にも満たない。手綱捌き無しに意を通い合わす曹仁と白鵠だから出来る機動だ。瞬時にこれほどの動きを見せる騎兵など考えたこともなかったのだろう、張牛角は自身の武器も取らずに曹仁の槍を掴んだまま、反応できずにいる。その首を刎ねた。振るったのは張牛角自身が佩いていた剣だ。

馬首を返す動きに合わせ、膂力を失った両腕から槍を奪う。残る騎兵2人はまだ馬首を返そうと手綱を繰っているところだ。曹仁はゆっくりとそれぞれに槍と剣を突き付けた。

「君たちは彼の副官だな?それではもう一度だけ言おう。兵たちに武器を下すように言ってもらえるか?」

二人は顔を見合わせると、まずは自分たちの武器を下すことから始めた。




「黄巾の同志たちよ、武器を下せ!この戦、我らの負けだ!」

「勇敢なる義勇軍の戦士たちよ、勝鬨を挙げよ!この戦、君たちの勝利だ!」

黄巾族の副官と、曹仁の口より戦いの終わりが告げられた。
義勇軍の兵士達の歓声が聞こえる。

曹仁は張牛角の亡骸に目をやった。凄まじい膂力の持ち主であった。白鵠の鬣を撫ぜた。白鵠無しには勝ち得なかったかも知れない。
白鵠は曹仁にとって友であり、師でもあった。華琳の挑発に乗って、馬術を教えるという幸蘭たちの申し出を断った曹仁に、ならばと幸蘭が譲ったのが名馬・白鵠だった。白鵠と意を通じ合わせることだけに心を砕く日々が長く続いた。
結果、曹仁は余人に真似の出来ない人馬一体の馬術を習得した。

「兄貴!」

「角、被害は?」

牛金――角が馬を寄せてきた。そちらに馬首を返しながら問う。

「戦死者3名。負傷者2名。あとは怪我とも言えないような手傷を負ったものが何人か」

「そうか。死んだのは誰だ?」

「金汜、聞寧、伊惇です」

「・・・・・・」

それぞれに思いを馳せ、その名を胸に刻みつける。当初30人以上いた仲間もこれで半数ほどに減ったことになる。天の御遣いとしてではなく、曹子孝という一人の人間に従うと、そう思ってくれた最初の者達だった。いつの日か大軍を率いることになれば、兵一人一人の名や顔を把握するなど不可能だ。しかし、彼らの名と顔は決して忘れないだろう。

「兄貴!早く義勇軍の大将に会いに行こうぜ!兄貴も見ただろ?すっげえ活躍してるやつがいたの」

沈黙を破り捨てるように、曹純が馬を寄せてくる。

「・・・蘭々」

曹仁は手招きをすると、曹純―――蘭々を招き寄せた。

「痛っ!いきなり何すんだよ、兄貴」

無防備に近づいていた頭に軽く拳骨を落とした。

「言葉使い」

「な、なんだよ。俺がどんな言葉使いしようが、兄貴には関係ないだろ」

「ないわけあるか、俺が姉ちゃんに殺されるだろうが!つーか、俺だけは本当にやめろ」

「兄貴も使ってるじゃないか!」

「俺はいいんだよ、俺は!お前は一応女だろうが!」

「一応!?兄貴こそ女みたいな面してるくせに!」

「なんだと!」

「知ってるぞ。こっちに来たばっかりの頃、華琳の姉貴に女装させられて町を連れまわされたって!」

「それを言うな!」

「あの~」

「姉貴言ってたっけなぁ~、お人形さんみたいで可愛かったって!」

「蘭々!」

「すいませ~ん」

「角、知ってるか?兄貴ったら昔さぁ」

「もういいから!俺でも僕でも吾輩でも、好きに使ってくれていいから!」

「聞いてくださ~~~~い!!!!!!」

突然響いた大声に、蘭々の口が止まる。助かった。曹仁は救いの声がした方に振り向いた。
そこには3人の少女が立っていた。






振り向いたその顔は、普通の人間のものだった。額にこれ見よがしに“天”と書いてあることもなければ、眩いばかりの後光を身にまとっているわけでもない。強い意志を湛えた大きな眼。スッと通った鼻筋。

(・・・確かに女装が似合いそうかも)

頭を過ぎった思いを、桃香は頭を振ってかき消した。

「?」

そんな桃香の様子に不思議そうにしながら、曹仁が馬を下りて近づいてくる。

「えっと、義勇軍を率いていた方々ですよね?軍とも言えないような少人数ですが、私がこの騎馬隊を率いる曹子孝という者です」

そう言う曹仁の声には若干取り繕うような響きがあった。

「はい、劉備って言います。率いているというよりは、みんなが私を助けてくれてるって感じですけど」

「・・・劉備?」

「はい」

曹仁の表情に驚愕の色が混じる。

「字は、玄徳?」

「ええ!どうして知ってるんですか!?」

「それでは、そちらは関羽殿に張飛殿?」

「なんと!我らの名までご存じとは。」

「にゃはは、当たりなのだ。すごいのだ」

近隣の村で義勇兵を募ったのだ、ある程度は名も広まっているだろうが、まさか天の御遣いの口から自分たち三人の名が出るとは。

「あー、えーと。情報は戦にとって何よりも大事ですからね。」

「なるほど」

曹仁の言葉は桃香にはなんとなく言い訳がましく聞こえたが、愛紗は納得いったようだった。愛紗は自分たち3人が志を同じくする義姉妹であると、うれしそうに付け加えた。
曹仁は傍にいた二人を桃香達に紹介した。牛金という名の副官は、男性としては小柄な部類に入る曹仁の隣に並ぶと、頭1つ以上も抜き出る巨体の持ち主だった。顔面に刻まれた大きな傷痕が、その体躯と相まって独特の迫力を持たせている。しかし低く胸に響いてくる声には不思議と人を落ち着かせるような響きがあった。
先ほどまで言い争いをしていた少女を、曹仁は妹と紹介した。肩の辺りで切り揃えられた色素の薄い髪は、光を反射して自ら輝いているように見える。天の御遣いである曹仁とは血の繋がりはないのだろうが、利発そうに輝く大きな瞳は少し彼のものと似ている。

「俺は曹子和。一応、弟じゃなく妹ってことになってる。姉ちゃん達、よろしく」

口をついて出る言葉とは裏腹に、そう言って頭を下げる仕草や、こちらに向けられた微笑みからは育ちの良さが感じられた。

愛紗と曹仁はそのまま兵の被害状況について話し始めた。兵たちの状況については、桃香より愛紗の方がよく理解している。桃香はただ耳を傾けることにした。曹仁は義勇軍の被害を気にかけてくれているようだった。

曹仁との話が一区切りついたところで、桃香は愛紗に声をかけた。

「愛紗ちゃん、どうかな?」

「はい。私はその、好ましいものを感じました。桃香様がよろしいのなら、私に否やはありません」

「鈴々ちゃんは?」

「鈴々もいいと思うのだ!」

「?」

曹仁が不思議そうな顔でこちらを見ている。三人頷き合う。

「曹子孝様に、お願いがあります」

桃香は一歩前に進み出て、曹仁の瞳を真っ直ぐに見据えながら言葉を続けた。

「この乱世を鎮めるため、私達と一緒に戦ってください」






[7800] 第4話 天の御遣いと劉玄徳
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/04/16 21:43
曹仁は自身が天の御遣いと言われるのが嫌いだった。日本―――この世界では天の国と云われる場所から、この世界にやってきたばかりの頃は、特にそのようには感じていなかった。その名のおかげで、新しい家族に拾われた。周囲の人々も良くしてくれる。便利な肩書きだと曹仁は思っていた。華琳には苛められたが、次第にみんなと仲良くなった。本当の家族になれたと思えた。そんな時、自分のせいで曹嵩が太尉の任を解かれた。天の御遣いなどと言われても何もできない自分に気づいた。曹嵩はそれでも曹仁に優しかった。それがまた、曹仁に自分というもの、天の御遣いというものについて考えさせた。曹仁は自分には何もないと気づいた。もし自分以外の人間がこの地に降り立っていたとしても、自分とそっくり同じ地位に就き、曹家の家族として振る舞うのだろう。曹仁は天の御遣いと呼ばれることが、自信の存在を否定されているようで怖くなった。
そうして思った。天の御遣いとしてではなく、曹仁という一人の人間としての身の証しを立てねばならないと。日本で両親より授かった名・仁、この世界で出来た家族の姓・曹、自分のせいで不幸に見舞われながらも変わらず可愛がってくれた曹嵩が付けてくれた字・子孝。その名を持つ一人の人間として何が成せるのか、それを探し続けているのが今の曹仁だった。






「・・・・・・はっ?」

突然の申し出だった。曹仁には間の抜けた声を上げることしか出来なかった。

「お願いします、曹子孝様!」

「一緒に戦うのだ、お兄ちゃん!」

関羽と張飛の二人もにじり寄ってきた。勢い込んで迫ってきた2人の迫力にたじろぎながらも、曹仁は何とか答えた。

「いや、俺はまだ誰かに仕えるするつもりはないのですが」

「仕えるだなんて、とんでもない!」

「そうです、子孝様。われらの主となって頂きたいのです」

「・・・・・・はっ?」

またも間の抜けた声が漏れた。

「お願いします、ご主人さま。私達と共に乱世を鎮めましょう」

後に天下に名を轟かすだろう英傑3人が自分の旗下に入ると言っている。3人の顔を順番に見つめていく。一様に真剣な視線が返ってくる。曹仁は胸が熱くなるのを感じた。
また、現実問題として曹仁に従う騎兵隊は既に20を下回っており、今回のような奇襲以外にまともな軍事活動を行うことは出来ない。そこに劉備の集めた義勇兵の兵力、関羽・張飛の武勇が加わってくれるというのなら、断る理由はない。受けようと曹仁は思った―――

「お願いします、天の御遣い様!私達にはあなたのお力が必要なんです!」

―――劉備の口から、その言葉を聞くまでは。急速に冷めていくのを感じた。

(・・・・・・そういうことか)

求められているのは、曹仁自身ではなく天の御遣いという存在。いつものことだ、と思いつつも期待が大きかった分だけ、曹仁は軽い失望を覚えた。口を開く。

「おことわ―――」

「兄貴!」

断わりの言葉は、背後から飛びついてきた蘭々に阻まれた。





曹仁が口を開いた瞬間、蘭々は飛びついてその口を塞いでいた。劉備が天の御遣いを持ち出したことで、曹仁が申し出を断るだろうことは蘭々には分かりきったことだった。

曹仁がこの世界にやってきて、蘭々の兄として暮らすようになってからもう随分経っていた。ここ1,2年は、侠客の真似事をして暴れまわる曹仁をただの無頼漢であるとか、仁義溢れる好漢であるとか評すものが多くなってきた。そうした中で自然と、曹仁の侠気や武勇に魅せられた者が集まって出来た集団が、今ここにいる騎兵隊だった。曹仁がそうした評価や仲間達を、自分自身が勝ち取った何よりも大切なものと感じていることを、蘭々はよく知っていた。
そんな曹仁が再び天の御遣いだと騒がれ始めたのは、ごく最近になってだった。
ある高名な占い師が、乱世を静めるものとして天の御遣いが流星とともに舞い降りる、という占いをしたことがことの発端だった。光とともに曹仁がこの地に舞い降りた瞬間を目の当たりにしたのは、華琳や幸蘭などの極近しい者達だけであったが、多くの者がその日流れ落ちる星を眼にしていた。それは時を経た今になっても強烈な印象をそのまま残すほどの、強い光を放つ流星だった。曹仁の意思とは無関係に、曹家の天の御遣いの噂は再び広まっていた。

「もが、くっ、は、放へ・・・・・・」

ちょっと相談させてほしい、と劉備たちから距離をとる。暴れる曹仁を引っ張っていくのには、角が協力してくれた。十分な距離を置いて、ようやく戒めを解くと、曹仁は肩で大きく息をした。

「殺す気かっ!」

頭を狙って落としてくる拳骨を、一歩下がって避ける。そうなんども殴られるつもりはない。曹仁は空を切った拳を見つめながら、不満そうに言った。

「一体何なんだよ、蘭々。角まで一緒になって」

「兄貴、今断ろうとしてただろ」

「うっ。・・・まあ、そのつもりだったが、何か問題でも?」

「大ありだろ」

「くっ」

曹仁も理屈では共に戦うべきだとわかっていたようで、言葉を失う。

「角、お前も同意見か?」

「俺は兄貴が決めたことに従います。しかし、このままの兵力で戦い続けるのは無謀だとは思いますぜ」

「・・・でもな、俺は俺だぞ。俺を天の御遣いと見て、命を預けてくる人間の遇し方を俺は知らない」

事実、曹仁が兵を挙げる際、天の御遣いの名を慕って集まってきた兵が多数いた。そうして集まってくれた者たちを、曹仁は受け入れることはなかった。結果残ったのは昔なじみの仲間達30人だけだったのだ。

「だから、姉貴が兵を雇えってくれようとした金を受け取っとけばよかったんだ」

「あの倹約家の姉ちゃんから、あんな大金受け取れるわけないだろう」

「・・・・・・」

曹仁は知らないことだが、その倹約家の幸蘭が“仁ちゃん預金”と称して大金を貯め込んでいることを蘭々は知っていた。最も、同じく“蘭々ちゃん預金”なるものが存在することには蘭々も気付いてはいなかった。

「どちらにしても、義勇兵なり金で雇うなりして兵を増やす必要があるのは確かですぜ」

角が理を説く

「姉ちゃんほどではないにしろ、俺だってそれなりに金なら持ってる。それで・・・」

「それで何人くらい雇えるんだ?」

「に、2,3人は」

「・・・」

冷たい視線を送ってやる。曹仁は視線を避けるように俯いた。もとよりこの兄が言って聞くような人間ではないことはわかっていたが、少しいじめてやろうという気になっていた。

「・・・・・・ふふ」

俯いて立ちつくしている曹仁を見る自分が、自然と笑みをこぼしていることに蘭々は気が付いた。そういえば華琳や幸蘭も曹仁のこういった姿を見る度にうれしそうにしていたこと蘭々は思い出した。これが血のなせる業か。なんとなくいけないものが目覚めそうな気がして、蘭々は口を開いた。

「はぁ。・・・ったく、しょうがないなぁ」

大仰な溜息とともに肩を竦めてみせる。

「俺もいくらか持ち合せがあるし、兵のことはまた後で考えるか」

曹仁が受け取らなかった“仁ちゃん預金”の一部を蘭々は預かってきていた。あの吝嗇な姉の顔を思い出すと、おいそれと手を出す気にはなれないものであったが仕方がない。

「ああ!そうしよう」

「・・・はぁ」

うれしそうに顔を上げる曹仁を見て、蘭々は溜息をついた。今度は演技ではなく、この兄につい甘くなってしまう自分自身に対して出たものだった。





曹仁が、牛金と曹純を引き連れて戻ってくるのが見えた。

「受けてくれるかな、ご主人様?」

桃香の口から不安が漏れた。曹仁こそが乱世を鎮める天の御遣いだと見定めた思いの彼女の口からついて出る言葉は、すでに彼を主として扱っていた。あの瞬間、戦場で感じたものはまさしく天啓というものであったと桃香は感じていた。

「どうでしょう、何やら揉めているようでしたが」

「大丈夫なのだ」

声色に不安の色を滲ませる愛紗とは対照的に、鈴々は能天気に断言した。

「・・・」

曹仁との距離が縮まる。
そして、その口が開かれた。










初めての軍議が開かれていた。

「・・・」

「・・・」

沈黙が流れる中、曹仁がこちらに何か合図を送っていることに桃香は気付いた。

「・・・」


「・・・」

どうやら進行を促しているらしい、と気付くのには更に時を要した。

「ええっ、わたしが司会するんですか!?ごしゅ――曹仁さんがやってくれんじゃないんですか」

ご主人様と言おうとした瞬間注がれた曹仁の厳しい視線に、桃香は思わず身を竦めた

「同盟の盟主は劉備殿ということに決まったでしょう?」

「あぅ、でも~」

劉備軍と曹仁軍の間で同盟が結ばれていた。
臣従の意を示した桃香達3人に対して、曹仁は首を縦には振ってくれなかった。当然の如く言いつのる3人に対して曹仁は言った。天の御遣いである以前に自分は自分だと。天の御遣いであるという理由だけで無条件に預けられる命に、俺は答えることが出来ないと。
ならばと、桃香が持ちかけたのが両軍の同盟関係であった。せめて天の御遣いとしてではなく、曹仁自身を見極めるための時間を与えてほしいと。今度は曹仁も首を縦に振ってくれた。
そうして同盟が結成された。矢面に立つことで天の御遣いの名を慕った兵が集まることを嫌った曹仁が固辞したことで、盟主は桃香が務めることとなった。

「はぁ、わかった。俺が代わりに進行しましょう」

曹仁が呆れたように溜息をつきながらも、司会を代わってくれた。桃香はほっと胸を撫で下ろした。その様子を見て、愛紗からも溜息が漏れる。

「では、角。捕らえた黄巾兵達から何か判明したことは?」

「はい、まずこれまでわかっていたことの確認になりますが。黄巾党の兵は、彼らの中で会員と言われる狂信者達と、飢えに苦しんだ民たちの2種類の兵に分かれています。将としては国を憂える侠を引き込み、その任に当てています。今回捕らえた連中もご多分にもれずその2つに当てはまっています。」

「ふむ。その口ぶりからすると、新たに分かったことも何かあるのか」

「はい。捕虜の中に紛れ込ませた者の報告によると、会員の者が身に着ける黄巾にはそれぞれに小さく数字が刺繍してあるそうです。これは会員番号と呼ばれているらしいんですが」

「・・・まるでファンクラブみたいだな」

「ふぁんくらぶ?」

耳慣れない言葉に桃香は思わず聞き返した。

「いや、なんでもない」

曹仁は頭の中に浮かんだ考えを打ち消すように、数度頭を振った。

「つまり、会員とそうでないものを区別することが出来るということだな」

「はい」

「やつらの首魁・大賢良師張角については何かわかったか?」

「それがなにも。会員間であっても敵地では張角のことを話すのは禁じられているようです」

「それでなお士気を落とさず、結束も保つか。なかなか大した人物みたいだな、張角という男は」

「会員からの慕われ方は尋常じゃありませんね」

「何か他に報告があるものは?」


その後も軍議は滞りなく続いていった。隣にいる愛紗は時に自らの意見を述べ、積極的に軍議に参加している。その隣の鈴々は退屈そうに視線を彷徨わせている。桃香は軍議を進める曹仁の横顔をのぞき見た。曹仁は軍議に集中しているのか、こちらの視線に気づかない。初めて間近で見た時も思ったが、大きな眼が印象的だ。その瞳に強い意志を秘めていると感じるのは、自分が彼を主と見定めたが故の錯覚だろうか。その瞳が、じっとこちらを捉えている。正面から。

(・・・正面から?)

「・・・劉備殿?」

「はっ!?・・・な、なんでもないですよ!」

気付くと曹仁と目が合っていた。ずいぶん長い間見つめ続けていたようだ。

「えっと、話聞いてました?」

「あ、あの、その、ご、ごめんなさい!」

「・・・もう一度説明しますね。捕虜の中から、生活に苦しみ仕方なく黄巾党に入った者たちだけを選び出します。劉備殿にはぜひ、彼らを説得し、我らの仲間に引き入れてもらいたいのです」

「は、はい!任せてください」

隣にいる愛紗からの無言の圧力に押され、桃香は曹仁の話の内容も理解せぬままに、勢い込んで返事をしていた。





捕虜にした兵の内、約半数の300人ほどの前に劉備が立っていた。万一に備え左右には関羽と張飛が控え、その後方から曹仁は様子を窺っていた。

「うう、わたしに出来るかなぁ」

「桃香様、自信を持ってください」

「お姉ちゃんなら大丈夫なのだ」

「あぅー」

劉備が曹仁の方をちらちらと伺ってくる。曹仁は大きく頷くと答えた。

「劉備殿、あなたは人を惹きつける魅力をお持ちだ。気取らず思いの丈を彼らにぶつけてください」

「・・・はい!」

劉備は覚悟を決めた様に、前を見据えた。そう、彼女が劉玄徳ならばその人気は人々を惹きつけて止まないはず。
劉備は大きく息を吸って、言葉を紡ぎ始めた。

「皆さん、いくらお腹が減っていても、他の誰かから食べ物を盗るのはいけないことです!」

最初に発せられた言葉は、そんな気の抜けたものだった。


「お疲れさまです」

上気した顔でこちらに向かってきた劉備に、曹仁はねぎらいの言葉をかけた。

「はあぁ~、き、緊張したよぅ」

気の抜けた始まり方をした口舌は、時には劉備自身のこと、時には民のこと、そして時には天下のことにまで及び、総じて何を話したいのか今一つ伝わらないという間の抜けた内容であった。華琳の理路整然とした弁を聞きなれた曹仁には特にそう感じられた。

(―――しかし、熱い)

劉備の言葉を聞くうち、曹仁は自らの胸が熱く滾っていることに気が付いた。華琳の言葉は、ぐいぐいと聞く者を引っ張る力に溢れている。対して劉備の言葉は、それ自身は何の力も待たないが、聞く者に自ら動き出す力を奮い起させるようだった。
実際、捕虜になっていた者達は、次々に義勇軍への参加を申し出ている。しかし今思い起こしてみると、肝心の兵にと勧誘を促すような言葉を、劉備は一言も口に出してはいなかったのではないだろうか。

「見事です、劉備殿」

未だ冷めない胸の滾りを視線に込め、劉備を真っ直ぐに見つめて曹仁は口を開いた。多くの思いが胸を駆け廻っていたが、口から出た言葉は簡単だった。

「あぅ・・・そんなに見つめられると照れちゃうよぉ~」

劉備は顔を赤らめると視線を逸らした。

「この分じゃ、ほとんど全員が仲間に加わりますぜ」

角も興奮した様子でこちらに寄ってきた。

「兵糧、それに新しい装備も必要だな」

黄巾族が使っていた武具は粗末なものだった。軍として機能させるなら、統一させたものを一揃え用立てる必要があった。

「金ならあるぜ」

蘭々も上気した顔を赤らめながら声を挙げた。

「金はあるか。問題はどこで買うかだな」

この戦時中だ。どこであれ、武器は必要とされている。これだけのまとまった数を一度に手に入れるのは難しい。

「この辺りを治めている者にでも、掛け合ってみるか」

「この辺りを治めている者というと、確か公孫賛殿ですね。騎兵戦に優れた一角の人物だと聞きますが」

「公孫賛・・・あっ!そういえば白蓮ちゃんがこの辺りに赴任するって言ってた!」

関羽の言葉に、劉備が声をあげる。どうやら知り合いらしい。曹仁にとっても幾分親しみのある名だった。

「公孫賛・・・・・・伯珪殿か」

当面の目的地は決まった。
目の前ではまだまだ義勇兵に名乗りを挙げる者たちが後を絶たずにいた。



[7800] 第5話 公孫賛との再会と趙雲との出会い
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/04/27 19:08

「桃香!ひっさしぶりだなー!」

「白蓮ちゃん、きゃー!久しぶりだねー♪」

白蓮の居城へとやってきた桃香たちは、すぐに玉座の間へと案内された。盧植の私塾を卒業して以来、3年振りにあった白蓮は太守の地位についていたが、以前と変わらず桃香を友達として歓迎してくれた。

「3年間どうしてたんだ? 全然連絡が取れなかったから心配してたんだぞ?」

「んとね、あちこちで色んな人を助けてた!」

「ほおほお、それで?」

「それでって?それだけだよ?」

「……はあーーーーーーーーーっ!?」

「ひゃんっ!?」

「ちょっと待て桃香! あんた、盧植先生から将来を嘱望されていたぐらいなのに、そんなことばっかやってたのかっ!? 桃香ぐらい能力があったなら、都尉ぐらい余裕でなれたろうに!」

まるで責める様に白蓮が詰め寄ってくる。

「で、でもね、白蓮ちゃん。私……どこかの県に所属して、その周辺の人たちしか助けることができなっていうの、イヤだったの」

「だからって、おまえ一人が頑張っても、そんなの多寡が知れてるだろうに……」

「そんなことないよ?わたしにはすっごい仲間たちがいるんだもん♪」

「仲間? そうか、義勇兵を率いているんだったな。それに…」

白蓮が、曹仁達の存在にようやく気が付いた。桃香がそれぞれ紹介する。義妹である関雲長、張翼徳。同盟を結んでいる曹子孝にその妹曹子和。城外で兵をまとめていてここには来ていないが、曹仁の副官牛金。

「曹仁!?」

「お久しぶりです、伯珪殿」

「おーおー、ひっさしぶりだな!いるなら早く声掛けろよぉ」

曹仁は白蓮が盧植の元を卒業し、洛陽に居を移した頃に知り合ったらしい。

「劉備殿と伯珪殿の再会に水を差してはいけないと思いまして」

「……堅苦しいなあ。私のことは白蓮でいいぞ」

「えっと、いいんですか?」

「ああ、お前には前から真名を許してもいいと思っていたんだ。麗羽のやつがうるさそうだから言い出せなかったけどさ」

「ああ、麗羽さんが。なるほど。」

納得したように一つ頷くと、曹仁は一歩前へ進み出て白蓮の正面に立った。ちょっと居住まいを正してから口を開く。

「それじゃ、改めてよろしく、白蓮さん。俺には真名がないから、今まで通り曹仁と呼んでくれてもいいし、好きなふうに呼んでくれ。」

「うっ、なんだか、こっぱずかしいな。……それじゃ、これからは仁と呼ばせてもらうよ」

(……いいなぁ)

桃香はそんな二人に羨望のまなざしを向けた。隣にいる愛紗も難しい表情を浮かべている。桃香達3人は、未だ曹仁に真名を預けられずにいた。主と見定めた人物であり命の恩人でもある曹仁に、桃香としてはすぐにでも真名を預けたい気持ちがあった。それは愛紗達も同じだろう。しかし最初に臣従の意を断られてから、なんとなく言い出し難く、ずるずると時間だけが過ぎ去ってしまっていた。

「お前の馬、白鵠は元気か?」

「もちろん。城内にまで付いてこようとするから、止めるのが大変だったよ」

「相変わらずべったりなんだな、お前たち。別にあいつなら中に連れてきても良かったのに」

「白蓮さんが良くても、さすがに拙いだろ」

2人の会話が盛り上がりを見せ始める。桃香達を完全に取り残したまま、話は白鵠の話題を皮切りとして、馬術、騎兵戦のことにまで及んでいる。

(……そういえばご主人さまって、白馬に乗ってて、馬術も巧い。それに顔も可愛…格好いい)

それは白蓮の理想の男性像なのではないだろうか。桃香は胸にモヤモヤとしたものを感じた。

(うぅ、なんだろ、この感じ)

「兄貴、そろそろ本題に移ろうぜ」

曹純の言葉に、二人の話がようやく途切れる。胸のつかえが取れた思いの桃香が曹純の方を窺うと、彼女は不機嫌そうに頬を膨らませていた。そんな彼女に桃香はなんとなく仲間意識のようなものを感じた。

「おっと、そうだったな。白蓮さん、一つお願いがあるんだが」

「なんだ? 私に出来ることなら、出来る限り手は尽くすぞ」

曹仁に視線で促されて、桃香は慌てて後を引き取った。

「ええっとね、白蓮ちゃん、わたし達、武器と兵糧がいっぱい必要なの」






この辺りも戦時中ということで、白蓮の城にも余分な武具はやはりなかった。白蓮はすまなそうにすると、城下街の鍛冶屋の顔役という男に使いを出してくれた。






「ほぅ、そのように長い槍、如何に使われる?」

「おわっ、せ、星」

やってきた鍛冶屋の男にいくつか注文を出していると、白蓮の後ろから覗き込むようにして一人の少女が顔を出した。曹仁の側からは近づいてくる彼女の姿が良く見えていたが、気配を消してやってきた彼女に白蓮が動揺した。少女はそんな白蓮の姿を楽しそうに見ている。

「白蓮さん、そちらは?」

「おっと、これは失礼をした。私は趙子龍と申すもの。白蓮殿の下で客将をしている」

趙子龍。これも聞いた名だ。劉備、関羽、張飛に続き、今度は趙雲。曹仁は何かが動きだした、と感じた。それは一つの時代、乱世の幕開けなのかもしれないし、ただ自身の人生にとっての分水嶺なのかもしれない。

「私は―――」

「曹子孝。曹仁殿、でしょう?白蓮殿の口からお名前はよく伺っておりましたぞ」

「ちょ、ちょっと、星!」

「なんでも、馬術が相当にお得意だとか。調練の度引き合いに出すものですから、我が軍の騎馬隊にあなたの名を知らぬ者はおりませぬぞ」

「わーー、わーー! 星、ちょっと!」

「して、曹仁殿。これほどの長槍、兵達がたやすく扱えるとは思えませぬが。如何なご存念か?」

騒ぐ白蓮を無視して、趙雲が続ける。

「無理に扱う必要はない、とでも申し上げておきましょうか」

「ほほぅ。何か面白い考えがお有りのようだ」

「ま、詳しいことは出来てからのお楽しみということで。実際に見た方が早いと思いますしね」

「それでは、その時を楽しみに待たせてもらおう。では」

言うと、趙雲は劉備達の方へと歩いていった。劉備達3人と趙雲の出会い。少し、いやかなり興味はあるが、颯爽と去っていく趙雲の背中は何とも格好良く、付いて行くのがなんとなく無粋に感じられた。

「な、なぁ、曹仁」

「ん? なんだ、白蓮さん?」

「べ、別に、いつもお前の話をしてるわけじゃないからな! ただお前の馬術がすごいって、目標にしろって、兵達にそう言ってるだけで」

そう慌てた様に言いつのる白蓮の顔はなぜか真っ赤に染まっていた。

「ああ、分かってるよ。俺も白蓮さんにそう言ってもらえて、うれしいよ」

白馬揃えの騎馬隊で名を轟かせる白蓮からの賞賛に、曹仁は本心からそう答えた。白蓮はホッと安心したような、それでいて少し残念そうでもある複雑な表情を顔に浮かべていた。

こうして―――
曹仁達は戦の準備が整うまでの間、公孫賛の居城で過ごすこととなった。







[7800] 第6話 張飛拠点イベント
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/04/27 19:51
白蓮から城外での野営及び調練の許可を得ると、曹仁はすぐに調錬を開始した。装備が整っていなくてもやれることはいくらでもある。兵達には3日の調錬の後、1日の休息を与えることに決め、3日間は厳しく調錬を行った。そして今日はその最初の休日であった。曹仁は頼んでいた武器の試作品が完成したという知らせを受け、街までやってきていた。白蓮は城内に居室を用意してくれていたが、曹仁は城外の野営地で兵達と寝食を共にしていたため、街の中を落ち着いてみるのは初めてだった。
活気のある街だ。白蓮の統治は上手くいっているようだ。街並みを眺めながらしばらく歩くと、目的の鍛冶屋が見えてきた。

鍛冶屋の男から槍を受け取ると、曹仁は軽く振ってみた、普段自身が使っているものより2倍近くも長い。趙雲の言ったとおり、扱うにはかなりの困難を伴うだろう。曹仁自身も自在にとはいかない。今度は静かに構えをとって、正面に穂先を向ける。重心が槍の中心よりかなり根元の方にあり、長さの割りに意外なほど構えは安定する。

「うん。いい感じだ」

そう感想を漏らすと、鍛冶屋の男は意外そうな表情を浮かべた。

「いいんですかい?かなり扱いにくいと思いますが」

「ええ、良い出来です。同じものを全部で200本、お願いできますか?」

「わかりました、少し時間はかかりますが。」

「お願いします」

一礼すると、曹仁は鍛冶屋を後にした。
通りを歩いていても、頭の中にはまだ先ほど手に取った槍のことがある。長さ、重心ともに曹仁が注文してあった通りの出来だった。あれだけ長柄の槍だ、兵達は初め途惑うだろう。
そんなことを考えていると、一人の少女の顔が思い浮かんできた。彼女ならあの槍も手足の如く軽々と扱いそうだ。

「お兄ちゃ~~~~~~~んっ!」

ドドドドッと慌ただしい足音と共に、ちょうど今頭に思い浮かべていた少女の声が、通りに響いた。

「探したのだ、お兄ちゃん!」

一直線にこちらに駆けてきた少女は、キキッと音でも聞こえてきそうな急停止を見せると、曹仁に笑顔を向けてきた。

「張飛殿、何かあったか?」

その様子に、なんとなく頭にやった手で撫ぜながら曹仁は問いかけた。

「にゃはは。今日は調錬はお休みって聞いたから、お兄ちゃんを遊びに誘いに来たのだ。鈴々、今日は1日お兄ちゃんと遊ぶ日なのだ」

気持ち良さそうに撫でられながら張飛は答えた。曹仁は少し頭を悩ませた。調練は確かに休みだがやることは多い。明日からの調練のために兵を隊分けしなければならないし、兵糧や武具の調達にかかる軍資金を考え、計算したりと、他にも細々とした雑務が貯まっている。

「……だめなのか?」

表情に出てしまっていたのか、張飛ががっかりと項垂れる。

(……ま、夜やればいいか)

こういった人間が自分の泣き所だ、と曹仁は思った。こうして真っ直ぐに感情をぶつけられると、つい期待に応えて嬉しそうにする姿を見たいと思ってしまう。

「それじゃあ、今日は一緒に遊ぼうか」

「~~~~♪」

張飛の表情が、パアッっと晴れわたる。その様を見て曹仁は、大剣をとれば敵無しと言われる従姉のことをなんとなく思いだした。





「お兄ちゃん、次はこっちなのだ!」

目的地目指して駆けだした張飛に手を引かれ、曹仁も足を急がせた。街の中のことをまだほとんど知らない曹仁のために、張飛は街の案内を買って出てくれた。

「ここ! ここのラーメンはすっごく美味しいのだ。特にチャーシューがばつぐんに美味いのだ。鈴々のおすすめなのだ!」

「そ、そうか。えっと、さっきの店は何が美味しいんだっけ?」

「さっきの店は餃子! もう、お兄ちゃんしっかりしてほしいのだ」

「すまん」

(…ええと、その前に行った店が肉まん?で、その前の前もラーメン?だっけか。前の前の前は……)

記憶を辿る曹仁の手を引っ張って、張飛が店の中に入る。

「おじちゃ~ん、鈴々盛り2つ!」

「鈴々盛り!? いや、俺は普通盛りで」

「お兄ちゃん、ちょっぴりしか食べないのだ。おなか痛いのだ?」

「い、いや、大丈夫。ところで張飛殿、次はどこに案内してくれるんだ?」

「にゃ? う~ん、お兄ちゃんは何食べたい? 点心でも炒飯でも麻婆豆腐でも、鈴々におまかせなのだ。あっ、点心はね、肉まん、餃子、焼売、春巻、それぞれ美味しい店が違うから要注意なのだ。それともそろそろ甘いものが食べたいか?」

「えっと、そろそろ食べ物屋以外のところも見てみたいんだけど……」

「食べ物屋以外かぁ。……それはなかなかむつかしいのだ」

「そっか、難しいかぁ」

張飛は難しい顔をしてうんうんと頭をひねっている。その表情に思わず頬が緩む。

「へい、鈴々盛りに普通盛りお待ち!」

そうこうしている間に、注文の品が来た。

(…注文しなくてよかった)

鈴々盛りは常軌を逸した大きさだった。曹仁は先ほどの自分の判断に、ほっと胸をなでおろした。そもそも普通盛りでさえ、すでに完食出来るかどうか微妙な腹具合いである。

「……あっ、ひとつ良い所思いついたのだ!」

張飛がラーメンをすすりながら、思い出したように声を挙げた。

「おお、じゃ次はそこに行こう」

「そうと決まれば、腹ごしらえなのだ。おじちゃん、点心ちょうだい、カゴにてんこ盛りで!」

「……」

懐は痛むが、ほっぺたを一杯に膨らませた張飛の微笑ましい姿に、曹仁は満足感を覚えた。





「お兄ちゃん、勝負なのだ!」

「おお、来い!」

球門目掛けて駆けてくる張飛の前に立ちふさがるようにして曹仁は立った。兄ちゃんがんばれ、と周囲から曹仁を応援する声が聞こえてくる。右に避けるか、左に避けるか。張飛の動きを注視する。

「とりゃ~~!」

「なっ!」

張飛は両足で鞠を挟み込むと、そのまま跳躍して曹仁の頭上を飛び越えた。この世界にあってなお群を抜いた身体能力。完全に虚を突かれた形の曹仁が振り返った時にはもう遅い。

「にゃ!」

「……やられた」

球門に鞠が吸い込まれていた。


張飛が案内してくれたのは子供たちが集まるちょっとした広場だった。そこではちょうど子供たちが集まって蹴鞠をしていた。蹴鞠といっても曹仁が日本にいたころにイメージしていたものとはまるで違う。球門と言われるゴールに鞠を蹴りいれた点数を競う、サッカーに近いものだ。元は軍事訓練の一つだったが、子供たちにも人気の遊戯の一つとなっている。
張飛は昨日一昨日と遊戯に参加し、加入した組に圧勝をもたらしたらしかった。今日は曹仁が別の組に入ることで拮抗した勝負が期待されたが、まるで歯が立たずにいた。

「もう、兄ちゃんしっかりしてくれよ」

「すまん」

同じ組の少年の言葉に曹仁は素直に謝った。組同士の力は互角か、少しこちらが上だと曹仁は見ていた。曹仁が張飛を止められるかどうかで勝負が決まると言っていい。

「にゃはは、また鈴々の勝ちなのだ! お兄ちゃん情けないのだ」

(うう、憎らしい)

先ほどまで微笑ましいものであった張飛の笑顔が、今は苛立たしい。大人げないとは分かっていても、沸々と沸き起こるものが止まらない。自身でもはっきり自覚出来る程に、曹仁は負けず嫌いだった。

「次は止める! 来い、鈴々!」



「はぁ、はぁ、はぁ……」

曹仁は天を仰ぎながら、弾む息を整えた。惨敗であった。化け物じみた身体能力に加え、無尽蔵な体力、こちらの虚を巧に突いてくる動き。どれをとっても超が付く一級品でこちらが付け込む隙は皆無であった。それでも後半はある程度喰らいついていた、と曹仁は思いたかった。

「兄ちゃん、大丈夫か?」

初めは煽り立てるような調子だった子供たちも、今は気の毒そうな顔で覗き込んでくる。

「う、うるせい。はぁ、はぁ……もう一試合するぞ」

子供たちは顔を見合わせると気まずそうに、そろそろ帰らなければならない、と伝えてきた。そういえば既に日は落ちかけている。街灯の一つもない時代だ、親も心配するだろう。

「わかった。4日後。4日後にもう一度勝負だ。今度こそ勝つぞ」

はーい、と元気に返事をすると子供たちは散り散りに帰っていった。

ようやく息が整った曹仁が身を起こすと、隣で鈴々が去っていく子供たちの方を見つめていた。その横顔がなんとなく気になって、曹仁も鈴々の視線を辿った。視線は一組の親子に注がれていた。曹仁と同じ組にいた少年だ。心配した母親が迎いに来たのだろうか、手をつないで二人歩いている。少年がそっぽを向いて照れくさそうにしているのが、後ろから見ていてもよく分った。そういう年頃なのだろう。

「……」

鈴々はそんな様子をただじっと見つめていた。
不意に、曹仁は思った。そういえば、この子の両親はどうしたのだろう。一騎当千の強者といえども、まだまだ親に甘えたい年頃のはずだ。少なくとも志なんてものを持って戦場を駆けるにはまだまだ幼すぎる。何か、志を胸に抱かざるをえないようなことでもあったのだろうか?





「よっと」

脇に差し込まれた手に持ち上げられ、鈴々は曹仁の肩の上へと下ろされた。

「わっ、お兄ちゃん。いきなり何するのだ?」

「えっと、…敗者は勝者を肩車して、その勝利を称える。俺の国の風習だよ」

「お兄ちゃんの国って、天の国のことか?」

「うっ、まあ、そんな様なとこだよ。……嫌か?」

「ううん、なんだかあったかい感じがするのだ。」

鈴々はそう言うと、ギュッと曹仁の頭にしがみついた。

「そっか」

「うん。いい習慣なのだ」

「じゃあ、家族のところに帰るか」

「家族?」

「ああ。劉備殿と関羽殿は、鈴々の家族だろ」

どんな時も優しくて、一緒にいると暖かい気持ちになる桃香。いつも厳しいことを言うが、誰よりも鈴々のことを思い、見守っていてくれる愛紗。

「……うん!そうなのだ。二人は鈴々の大切な家族なのだ!」

「……それじゃあ帰ろうか、鈴々」

「あっ」

「どうした、鈴々?」

「真名」

「へっ?……あっ、すまん。俺、いつから」

いつから真名で呼ばれていたのか、鈴々自身も気付いていなかった。それは、あまりに自然だったからだろう。

「いいのだ!」

「えっ?」

「お兄ちゃんには、鈴々のこと真名で呼んで欲しいのだ!」

「そっか。それじゃあ、改めてよろしく、鈴々」

「うん! よろしくなのだ、お兄ちゃん」

暮れゆく街並みを、鈴々はいつもより高い視点で眺めた。





[7800] 第7話 関羽拠点イベント
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/05/19 22:53

「……んーーっ」

曹仁は幕舎から出ると、ひとつ大きく伸びをした。早朝、まだ夜明け前と言ってもいい時間である。白蓮の許可を受けて城外に敷いた野営地はひっそりと寝静まっていて、兵達が起き出してくる気配はない。

曹仁は槍を取ると、静かに構えを作った。手にした修練用の槍は、実戦用のものよりかなり長く、一回り太い。前に突き出した左腕は動かさないように意識し、柄元を持って腰で溜めている右腕は極力脱力を心掛ける。
曹仁は朝晩4刻(2時間)の修練を日課としていた。この世界に来て、華琳という少女に出会い、その武を目の当たりにしてから始めたこの習慣は、1刻(30分)より始まり少しずつ長さを増していった。
左手の位置は固定したまま、右腕と腰の溜めで槍を押し出す。左手の内でしごくように滑らせながら突き出した槍を、今度は逆の動作で引き戻し、構えに戻る。“繰り突き”と呼ばれるこの槍術の基本中の基本が、曹仁の武の根幹をなすものである。
一呼吸に一回ずつ、ゆっくりと槍をしごいていく。繰り返し、繰り返ししごく。体の各部位の動きと槍の動きが完全に連動したと感じると、今度は一呼吸に2回に増やし、また繰り返す。次は一呼吸に3回。4回。……。
左腕全体が熱く痺れた様になり、構えの固持も難しくなると今度は逆に構える。右腕を前に、左腕を腰に溜める。再び一連の動作を繰り返す。……。


(……そろそろかな)

修練を開始して2刻(1時間)ほど経った。昨日はもう少し遅かったが、一昨日よりは早かった。そして一昨日は、一昨昨日よりも早かった。
じゃり、と砂を噛む音に曹仁がそちらを振り向くと、予想していた人物の姿が目に入る。

「おはようございます、関羽殿」

「お、おはようございます。今日もお早いですね、曹仁殿」

関羽が少し照れくさそうにしながら近づいてくるところだった。
劉備達3人と蘭々は、城内で起居している。曹仁にも城内に居室は用意されているがほとんど使うことはなく、野営で過ごすことが多い。兵達と寝食を共にすることで信頼関係を築く、というのが最大の理由ではあるが、何より曹仁は野営というものが好きだった。幕舎を建てる。歩哨を立てる。火を焚いて飯を作る。何か狩猟での獲物がある場合は、自ら腕を振るって皆に振る舞ったりもする。時には火を囲んでわずかな酒を飲む。そういったこと一つ一つが曹仁を妙に高揚させるのだった。要は子供なのであり、それは曹仁自身自覚するところであった。野営に寝泊まりする曹仁に、最初劉備達も付き合おうとしたが、曹仁の方から城内で起居してくれるよう頼んでいた。そういった子供っぽい思いが根っこの部分にあるため、劉備達を野営に付き合わせるのは申し訳なく思ったのだ。蘭々に関してはそんなことを気にするような間柄ではないが、野営で兵達と寝食を共にすることでますます悪くなっていく彼女の言葉使いに歯止めをかけるため、城内で起居するよう申し付けたのだった。

「関羽殿、今日も付き合ってもらえますか?」

「ええ、もちろんそのつもりです」

関羽が青龍刀を構える。曹仁も修練用の槍を置き、実戦用のものに持ち替える。ただし、既に穂先は外されている。関羽の構える青龍刀も刃が返され、峰の側がこちらを向いている。修練の仕上げとして関羽と模擬戦を行うのが、このところの曹仁の習慣となりつつあった。



「ふっっっ!」

繰り突きを3つ。突く速さよりむしろ引く速さを意識して繰り出す。関羽は最小限の動きでそれを捌くと、こちらに一歩踏み込む。

「はぁ!」

踏み込み様の斬撃を飛び退いてかわすと、着地と同時に槍を繰り出す。捌かれる。関羽が踏み込む。飛び退く。突く。捌かれる。……。

関羽はやはり尋常ではない強さの持ち主であった。少なくとも曹仁が知る1年前の春蘭よりも上だろう。それはつまり曹仁が今まで手を合わせた者の中で最強だということだった。実力でいえば曹仁より一段上だろう。それでもお互いに決め手を欠いたまま、20合、30合と交わされていく。
槍の長さを最も有効に使える繰り突き。打ち合わずに常に自分の間合いを維持するための歩法。この2つを組み合わせた戦法が、この世界で身に付けた曹仁の武の骨子となるものである。自分より強い相手と戦うことを前提に組み立てたこの戦法が、関羽に決め手を許さず互角に近い勝負を可能にしていた。
とはいえ、相手はあの関雲長。互角の勝負は展開出来ても、曹仁が最後に決め手を取れるのはせいぜい5本に1本であった。

(……我ながらつまらない戦い方だが、今日こそは勝つ)

修練を終えるまでおよそ2刻(1時間)。昨日までの調子だと15~20本ほどの勝負になるだろう。今日こそ勝ち越してみせる、と曹仁は強く思った。―――しかし、やはり関羽の武は曹仁を凌駕するものだった。

「っ!」

機をずらしての踏み込みに虚を突かれた曹仁は、関羽の打ち込みを槍の柄で受ける。
槍の間合いから青龍刀の間合いに。そして何より、関羽のたたみ掛けてくる連撃の対応に追われ、構えを取ることができない。構えが取れなければ、頼みの繰り突きも使えない。

「くっ!」

打ち込みに対応しきれなくなった曹仁の頭上で、ぴたりと青龍刀が止まった。





「はぁ、まいった」

振り下ろした青龍刀を寸前で止めると、曹仁が悔しそうに口を開いた。

「よし、次は取るぞ!」

気を取りなおしたようにそう一声入れると、曹仁は槍を構えなおした。曹仁のこの切り替えの早さと、前向きなところは愛紗にとって好ましいものの一つであった。また、同時に曹仁が持ち合わせている負けず嫌いな性格も、この数日で愛紗は身に染みて感じていた。しかし自分より幾分年下で、未だ幼さの残る彼の表情を見ていると、そんなところも微笑ましく感じられる。
愛紗も青龍刀を構えなおす。そんな子供っぽさに反して、目の前で槍を構えるその姿は、実に堂に入ったものであった。

(……この構えがやっかいだ)

こちらに向かって真っ直ぐに突き出された槍は、実際の距離以上に曹仁を遠くに感じさせる。そのうえ、この構えから繰り出される彼の突きは、最小の動きで最短の距離を通って真っ直ぐこちらに伸びてくるのだ。

(……馬上の勝負ならば、あるいは)

曹仁の馬術は、愛紗の目から見ても異彩を放っていた。間合いを測ることを白鵠に委ね、槍を繰ることだけに曹仁が専念した時、今と同じように勝てると言い切る自信は愛紗にはなかった。とはいえ―――

「ふっ!」

曹仁の突きを捌きながら前に踏みこみ、斬撃をみまう。慌てて飛び退く曹仁にさらに追いすがるようにして青龍刀を振るう。そう、馬上でない現状においては、負けるつもりは愛紗には毛頭なかった。





「反転!すぐに駆け足! ………そこ、遅れてるぞ!」

愛紗の前を、曹仁の率いる200名の兵が隊列を保ったまま駆け抜けていく。
調練が開始されていた。
初めの3日間、ただただ走らされ続けた兵は、1日の休養の後にいくつかの隊に分けられ、隊ごとの調練へと移行した。
曹仁の率いる200名の兵は陣形を組んだままでの移動を教え込まれている。兵達にとっては単調なだけに最も辛い調練だろうが、隊列の乱れに目を配りながらも率先して先頭を走る曹仁の姿に、不満の声を挙げる兵はいなかった。その横で白鵠が退屈そうにその様を見つめている。
曹仁達のさらに向こうでは、牛金が馬に乗れるものを集めて騎馬隊の調錬をしている。牛金を除いて、曹仁の率いていた騎馬隊の者の姿はない。黄巾賊から新しく義勇軍に加わった兵達の情報を元に斥候に出ている者や、解放した黄巾の狂信者達に紛れ込んで諜報を行っている者など、様々な軍務に当たっている。
桃香と鈴々、それに曹純は街の警邏を行っている。駐屯を許してくれた公孫賛への恩返しという意味合いもあるが、それ以上に城外に野営する軍に不安を抱くであろう住民への対応という面が強い。あの3人が軍を率いる者たちだと知れば、確かに住民の不安はかなり払拭されるだろう。
次第に軍として機能しつつある、と愛紗は感じた。愛紗自身が担当するのは、150名ほどの兵へ武器の扱いを教えることであった。なかでも、積極的に選抜された弓の扱いに資質があるもの50名に対しての指導が、特に重要な役割となっていた。黄巾軍に弓を使う部隊は少ない。それだけに一から教え込まなければならないわけだが、弓兵隊が完成した際の効果もその分大きいだろう。残りの100名ほどには、それぞれ得意の武器を持たせることとなっていた。こちらは兵達の中にもそれなりに使える者が多く、それほど難しい事ではなかった。





野営地は活気に満ちていた。3日間の調練を終え、明日1日は休息となる。そのことが兵達の心を常よりも騒ぎ立てているようだ。加えて曹仁は兵に椀1杯ずつの酒を許していた。
愛紗としては戦時中に酒など不謹慎だと反対したいところであった。しかし、兵達の楽しそうな表情と、それに倍して楽しそうにしている曹仁の姿を目にすると、1杯程度の節度ある飲み方ならと譲歩せざるを得なかった。

兵達の中で率先して騒ぎ立てていた曹仁が、その輪から抜け出すとゆっくりとした足取りで愛紗の方へと歩いてきた。

「調練お疲れ様です、曹仁殿」

「関羽殿こそ、お疲れ様です」

愛紗の隣に曹仁が腰を下ろした。目の前で繰り広げられる兵達の賑わいに目を向けながら、曹仁が口を開いた。

「劉備殿や鈴々も呼べばよかったですね」

「…むぅっ」

いつからか、曹仁は鈴々のことを真名で呼ぶようになっていた。調練が休みの日には一緒に何処かしらに出かけて行くのもよく見かける。

「? どうかしましたか、関羽殿?」

「い、いや、なんでもありません。わ、我が軍も、だいぶ軍隊らしくなってきましたね。曹仁殿の立てた調錬計画のおかげです」

「まあ、知り合いの天才軍略家の見様見真似ですけどね」

曹仁は照れくさそうに笑いながらそう答えた。桃香はもちろん、愛紗にも軍を率いた経験というものがなかった。そのため、県長である姉とともに軍を率いた経験を持つ曹仁が調錬の計画を一手に担っていた。
調練は計画通りうまく進んでいるし、桃香の人柄に触れた街の人々の中には義勇軍へ参加する若者達や、軍資金を都合してくれる商人達まで現れ始めている。全てが上手い方向に転がり始めていた。愛紗は、曹仁が敵軍を裂いて現れた、あの日感じた天命のようなものを今強く確信していた。

(鈴々ばかりに先を越させてなるものか)

まずは曹仁に真名を許そう。そして民や天下、志について語り合おう。愛紗はそう思い定めた。

「あ、あのですね、曹仁殿」

「? なんでしょうか?」

「えっと、ですね」

いざ切り出そうと思うと、緊張からか喉がひりついて、言葉が上手く出てこない。愛紗は眼前に置かれていた椀を手に取ると、中の液体を一気に飲み干した。





「ごくっ、ごくっ、ごくっ、………ぷはぁっ」

「……か、関羽殿?」

突然椀の酒を一気飲みした関羽に面喰っていると、その顔が見る間に真っ赤に染まっていく。

「……」

「関羽殿?」

「……」

「あの、ひょっとして、酔ってますか?」

「わらひは、酔ってなどおりまへん!」

突然の大声に、回らない呂律。完全に酔っぱらいのそれであった。

(……うわぁ、なんか新鮮)

完璧にザルな幸蘭と蘭々、一緒に飲むと確実に曹仁が先に潰れる春蘭と秋蘭、気付くとこちらばかりが飲まされている華琳。そんな女性陣に囲まれて育った曹仁にとって、関羽の酔った姿はかなり新鮮なものがあった。

「曹ちん殿はぁ、鈴々と仲がおよろしいれふね!」

「そ、曹ちん。……蘇とか沮に拾われなくて良かった」

「曹ちん殿! 聞いておりましゅか!」

「は、はい!……あと、鈴々の方がそのままで本当に良かった」

「うぅー、……曹ちん殿は、そうやってすぐ鈴々、鈴々と!」

「いや、今のは関羽殿が」

「うぅぅーーーー!」

関羽が唸り声をあげて、幼子のように不満を表している。普段凛とした彼女が見せるその姿は、問答無用に可愛らしかった。

「関羽殿っ」

「うぅぅーーーーー!!」

「かん――――」

「うぅぅぅーーーーーー!!!」

(だめだ、会話にならない。………泣かしてしまったらどうしよう)

「……すん」

関雲長ともあろう者がそう簡単に泣くはずがない、とは言い切れなかった。既に関羽の瞳は潤んでいるし、わずかだが鼻を啜るようにしている。刺激しないように静かに様子を見守っていると、ようやく関羽が口を開いてくれた。

「ろうひて、ちんりんはちんりんで、わたひは関羽殿のなのれすか!」

ようやく掴んだ会話の糸口は、えらく哲学的な問いであった。そしてかなり危なかった。

「えっと、それは俺にもよくわからないけど、つまり鈴々は鈴々であり、関羽殿は関羽殿なんだ。…って、我ながら何言ってんだ。そのまんまじゃん」

曹仁はあまりの難問に、つい珍回答を返してしまっていた。その回答が気に入らなかったのか、関羽は肩を震わせている。その様は、涙をこらえているようにも、怒りに震えているようにも見える。あるいは、その両方なのかもしれない。関羽が口を開く。罵声が飛ぶのか、泣き声が響くのか、曹仁は覚悟を決めた。

「それは、つまり、わらひのことは、真にゃで呼んでくれないということれふか!?」

「へっ?」

(真にゃ。……いや真名か)

関羽の言葉の意味を理解した瞬間、彼女の先ほどまでの態度にも合点がいっていた。

(関羽殿と、そう呼び掛けたから会話にならなかったのか)

曹仁は関羽の前でかがみこむと、その眼を覗き込むようにした。

「か、……あなたさえ許してくれるのなら、俺はあなたを真名で呼びたい。……許していただけますか?」

曹仁の問い掛けに、関羽はまだ不機嫌顔を保ったまま、しかしコクンと頷いてくれた。

「それじゃあ、これからもよろしく。―――愛紗さん」

愛紗、と真名を呼ぶと、ようやく機嫌を直してくれた彼女が、魅力的な笑みを浮かべながら答えてくれた。

「こちりゃこそ、よろしくお願いします、曹ちん殿」





朝靄の中、ガンガンと痛みを発する頭に悩まされながら愛紗は野営地を訪れた。曹仁が槍を繰っているのが遠目に写る。愛紗はゆっくりとした足取りでそちらに歩を進めた。

(……今日こそは。いつまでも鈴々ばかりに先を越させておくものか)

昨日も似たような思いを抱いた気がするが、どうやら酒にやられてしまったらしい。調練の後の記憶が定かでない。

(やはり酒などは、大望を果たす為の邪魔にしかならん)

曹仁は近づいていく愛紗に気付いたようで、構えを解くとこちらに向き直った。そして口を開く。

「おはよう、愛紗さん」

「おは、――って、えぇっ! そ、曹仁殿!?」

早朝の野営地に、愛紗の声が響いた。






[7800] 第8話 劉備拠点イベント
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/05/19 23:07
「今回の討伐、俺たちにも手伝わせてくれないか、白蓮さん?」

「いいのか? そりゃあ、そうしてもらえると私としては助かるけど」

「ええ、劉備殿とも既に話し合った結果です。愛紗さんに鈴々も、いいよな?」

「はっ、お任せください。黄巾の賊徒どもに我らの力を見せつけてやりましょう」

「鈴々にまかせるのだ!」

曹仁、愛紗、鈴々へと順に送られた白蓮の視線が、桃香の前で止まる。桃香は大きく頷いた。

「白蓮ちゃん、私たちもお世話になったこの街のために力になりたいの。だからお願い、手伝わせて」

「……ありがとう、みんな」

急遽、軍議が催されていた。曹仁の放っていた斥候からの情報で、周囲にある賊徒の拠点が判明したのだ。さらに時を同じくして、朝廷から黄巾賊討伐軍への参加命令が白蓮の元に下っていた。賊徒の拠点を残したままに街を留守にするわけにはいかない。白蓮は早急に賊徒の討伐に踏み切らねばならなかった。そんな白蓮に、曹仁は賊徒討伐への助力を申し出ていた。そのために集まった義勇軍である、桃香にも否やはなかった。

「それじゃあ、まず斥候からの情報を詳しく説明しよう。賊はここの山中にある放棄された砦を根城としている。兵数は少なく見積もっても1000以上」

曹仁は近隣の地形が描かれた地図の一点を指し示した。

「……それだけの人数が領内の砦を占拠しているのに、気付かなかったなんて」

「いや、砦はかなり前に放棄されたものらしいので、赴任したばかりの白蓮さんが知らなくても無理はないよ。それにやつら、ただの賊徒にしてはなかなか用心深い。山中には罠の類も多く仕掛けられていたとか」

「なるほど。容易に踏み込むわけにもいかないのですね」

「ああ、出来れば引っ張り出して野戦にもっていきたいな。白蓮さんの騎馬隊も活かせるし」

軍議は細かい戦略の話に移り始めた。そうすると、桃香は暇を持て余す形となった。白蓮、曹仁、愛紗の3人が話し合い、それに相槌を入れるだけという格好だ。鈴々も同じように手持ち無沙汰な感じで、視線をきょろきょろと彷徨わせている。白蓮の客将である趙雲の姿はない。呼びにやった者が彼女を見つけられずに戻ってくると、白蓮はいつものことだ、と呆れた風にこぼしていた。

「砦から釣り出すのは俺たち義勇軍でやるから、白蓮さんにはここ、この丘の陰に兵を伏せておいてほしい」

「お前たちがうまく賊徒を誘い出してきたら、丘の上から逆落としに攻めかかると。……私の方はそれでいいけど、結局どうやってやつらを引っ張り出す積もりなんだ?」

「う~ん、いくつか考えはあるけど、まだまとまってない。白蓮さんの方も準備があるし、すぐに出撃ってわけにもいかないだろ? 後で角と蘭々も入れてもう少し練ってみるよ。愛紗さんに鈴々もそれでいいか?」

牛金と蘭々は、曹仁と愛紗に代わって調練の指揮に当たっていた。

「はい、問題ありません」

「う~んとね。鈴々、よくわからないから、考えるのはお兄ちゃん達に任せるのだ」

「こらっ、鈴々!」

「にゃうっ!」

「お前というやつは、我らは兵達の命を預かっているのだぞ」

「……まあまあ、愛紗さん。その辺で」

(……うぅ~、いいなぁ、愛紗ちゃんたち。)

軍議中ではあるが、目の前で繰り広げられる光景に、桃香の思考はつい脇道へと逸れていった。
白蓮の居城に着いて以来、桃香は曹仁と話す機会をほとんど持てずにいた。曹仁は野営で過ごすことが多いうえ、お互い警邏と調練という別々の任に当たっていため、仕方のないことではあった。共に警邏をする蘭々から曹仁のことを聞いて、少しでも彼を理解しようと、桃香は初め前向きだった。

「しかし、曹仁殿」

「鈴々には後で俺から言っておくから」

「……まったく、曹仁殿はすぐにそうやって鈴々を甘やかす」

そんなある日、曹仁が義妹を肩車して城へと送ってくることがあった。そしてその日から、曹仁は義妹のことを鈴々と、真名で呼ぶようになっていた。義妹の方は、相変わらず曹仁をお兄ちゃんと呼んでいた。しかしその響きには、自分をお姉ちゃんと呼ぶ時と同じ、親愛の情の様なものが含まれ出したように桃香には感じられた。曹仁もそんな鈴々を可愛がって、よく一緒に遊んでいるのを見掛けるようになった。

「ふーんだ、愛紗、お兄ちゃんの前だからって真面目ぶってるのだ」

「鈴々!」

「落ち着いて、愛紗さん。鈴々も挑発しない」

「はーいなのだ」

「むむぅ」

「愛紗さんが兵の皆のことを真剣に考えていることは、ちゃんと分ってるから」

「……曹仁殿」

もう一人の義妹も、気付けば曹仁に真名で呼ばれるようになっていた。毎朝早くに野営地に行って、曹仁と修練を共にしていることは聞いていた。そうした日々が続く中、義妹が調錬に行ったまま帰らず、夜更け過ぎに曹仁に担がれて戻ってきたことがあった。飲めない酒にやられたらしい。曹仁が義妹を愛紗と、真名で呼ぶようになったのはその頃からだった。共に兵を調練した武人同士で何か通じあう部分があるのか、桃香には理解できない妙な信頼関係が二人の間にはあるようだった。

「劉備殿も、それでよろしいですか?」

「……はい」

自分に対してのみ余所行きのものになる曹仁の口調に、桃香は暗澹とした思いのまま返事した。

「それじゃあ、今日のところはこんなもんかな。仁、作戦の詳細が決まったら報告に来てくれ。……良し、軍議を終ろう」

「―――伯珪様!」

白蓮が軍議の終わりを告げると同時、計ったように兵士が一人駆け込んできた。





「華蝶仮面?」

「なんだそれ?」

愛紗が不思議そうに声をあげた。曹仁も初めて聞く単語に疑問が口をついて出た。

「ああ、私もまだ実際に見たことはないんだが、最近街で暴れまわっているやつの名だ」

白蓮がため息交じりに答える。

「鈴々は見たことあるのだ! すごくカッコいいのだ。ねっ、お姉ちゃん」

「うん。それに、すっごく強いんだよ。どこからともなく現れて、悪い人たちをあっという間に倒しちゃうの」

「へえ、正義の味方ってやつか」

まるでテレビのヒーローみたいだ、と曹仁は心の中で付け足した。

「しかし、兵の報告では其奴が暴れているという話では?」

「そうなんだよ、聞いてくれよ、関羽!」

「は、はあ」

白蓮は如何に華蝶仮面が迷惑な存在なのか、声を大にして語り出した。真面目に働いている警備の者が街の者に軽視される。姿を見ようと聴衆が集まるから、道が混雑するし、無駄に人々を危険な目にあわせることになる。なにより派手に立ち回るものだから、逆に被害が大きくなることがある。

「なるほど。確かに街の治安を預かる者としては、そのような無法者を野放しにしておくわけにはいきませんな」

「おお、分かってくれるか、関羽! 桃香達はその辺りまったく理解してくれないんだよ」

(……そうだよな。ヒーローっていうのは警察とか体制側とは相容れないものだよな)

愛紗とはまた違った意味で、曹仁はうんうんと頷いた。

「そ、そうだ! 興味があるなら一緒に見に行こう、曹仁さん!」

そんな様子を見ていたのか、劉備は両手で曹仁の手を取ると、多少上擦った声でそう誘いかけてきた。

「い、いや、俺は調錬に戻らないと。角がいるとはいえ、蘭々に任せておくのはちょっと不安だし」

「うぅ。…………愛紗ちゃん」

劉備は曹仁の手を放さないまま、愛紗へと視線を送る。何かを懇願するような表情と、わずかに潤んだ瞳に、自分に向けられたものではないというのに、曹仁は落ち着かないものを感じた。

「…………はぁ、先に抜け駆けしたのは私ですしね。今回は譲りましょう」

「やった」

「?」

意味の通じない二人の会話に曹仁が付いていけずにいると、愛紗が何か諦めた様な、それでいて少しの悔しさを含んだ表情で口を開いた。

「曹仁殿、今日の調練は私にお任せください。曹仁殿もたまには街の警邏に当たるのもいいのでは?」

「うーん、でもなぁ」

華蝶仮面というヒーローの存在は確かに気になるが、進軍が決まった以上、調練は最重要の任務である。

「私に任せるのは不安ですか、曹仁殿?」

「いや、それはないよ。愛紗さんのことは信頼してる」

「…………ならば、たまの息抜きがてらに」

愛紗の顔がわずかに赤らむ。自然に口を突いて出た言葉だが、思い返すと曹仁も少し照れ臭く感じた。

「むぅ~。……えいっ」

「わっ」

劉備が豊満な胸の谷間に挟み込むように、曹仁の腕を抱え込んだ。思わぬ不意打ちに、曹仁の鼓動が一気に高まる。

「ね、行こっ」

そして、息のかかるような距離から、上目づかいに覗き込んでの一言。桃色がかった髪の中から覗くのは、わずかに濡れた瞳。これは断れない。

「う、うん。それじゃあお言葉に甘えて、行ってみようかな」

「決まり♪」

劉備は、パアっと笑顔の花を咲かせると、抱え込んだ腕で曹仁を引きずるようにして歩き出す。

「鈴々も行くのだ!」

「おっと」

曹仁の肩に重みがかかる。鈴々の声が聞こえた瞬間に何となく予感されたので、曹仁は体勢を崩すことなく、飛び乗ってきた彼女を肩の上に座らせる。初めて肩車をして以来の鈴々のお気に入りで、すでに曹仁と共に行動する際の定位置と言っていい。

「それじゃあ行きましょうか、劉備殿。……劉備殿?」

「……うぅ」

急に足を止めた劉備を窺うと、先ほどの花が咲いたような笑顔はどこへやら、ぷくー
っと頬をふくらませて如何にも不機嫌顔だった。

「それじゃあ、私も一緒に―――いや、なんでもない。政務に戻らないとな」

「わ、私も調練の方に向かいますね」

白蓮と愛紗がそれぞれ理由をつけて去っていく。

「? お兄ちゃん、お姉ちゃん。早く行かないと、華蝶仮面見逃しちゃうのだ!」

「あ、ああ、そうだな。行きましょう、劉備殿」

もう一声かけると、劉備は頬を膨らませたままではあるが、ゆっくりと歩き始めてくれた。





「華蝶仮面?もうとっくに悪党どもを懲らしめて、姿を消したよ。兄ちゃん、もっと早く来ないと」

桃香達が華蝶仮面が現れたという場所に着いたころには、すでに人ごみはまばらになっていた。その場に残っていた職人風の男に曹仁が声をかけると、呆れたようにそう返された。

「はあ、そうですか。ありがとうございました」

「あーあ。お姉ちゃんがもたもたしてるからなのだ」

「えへへ、ごめんなさい♪」

ここまで来る間に桃香の機嫌は直っていた。そもそも曹仁には何の落ち度もないし、鈴々とて悪意があったわけではないのだ。何より―――

「おや、劉備様。今日は御亭主も一緒かい?」

「えへ♪」

「あらあら、ずいぶん頑張ったのねえ。こんな大きな子を連れて。」

「えへへ♪」

曹仁と腕を組んで歩いていると、警邏で知り合った街の人達が耳に心地いい言葉を掛けてきてくれるのだ。
初めは訂正していた曹仁も、その余りの多さに諦めたのか愛想笑いを浮かべている。

「もう、お姉ちゃん。はんせーの色が見えないのだ」

「ごめんなさい♪」

「華蝶仮面もいないことだし、これからどうするか?」

「―――おや、これは珍しいものを見た」

「あっ、趙雲なのだ」

「星さん、こんにちは」

「―――!」

背後から声を掛けられ、曹仁が振り返る。その腕にしがみついている桃香はちょっと引きずられるようになったが、そんなことより気になることがあった。

「曹仁殿も隅に置けませんな。このような昼間からそのように」

「いや、これはその」

「ははは。そう照れることはありますまい、ねぇ、劉備殿」

「……」

「劉備殿?」

「……むぅ」

「……なるほど。お邪魔をしてしまったようですな。……しかしそうなると」

「ん? なんなのだ」

趙雲が鈴々に視線を向け、次いで桃香へと移す。桃香を見つめたまま、しばし考え込んむようにしている。その視線に、桃香は少し居心地の悪さを感じた。

「曹仁殿、一度劉備殿をお借りしますぞ。」

「わわっ、趙雲さん!?」

趙雲は曹仁にここで待つよう言うと、桃香の手を取り建物の陰へと引いていく。突然のことに、桃香は為すすべもなく引かれていく。曹仁にくっつけていた体が、妙に肌寒く感じた。





「あの、趙雲さん。いつの間に曹仁さんと仲良くなったんですか?」

劉備を曹仁からは見えない場所まで引いて行くと、それまで無抵抗だった彼女が、おずおずと口を開いた。

「いやあ、曹仁殿の話には参考になることが多いもので。特にひーろーのはな……げふんげふん、まあとにかく偶に酒など酌み交わしながら話すことが多いのですよ。姉上に鍛えられたとかで、酒の方もそれなりにイケる口ですしな」

「うぅ、そうですか」

星はなんとなく劉備の手助けをしてやりたい気分になっていた。

「ご心配召されるな。あくまで友としてのことです。別に劉備殿から彼を奪うつもりはありませぬよ」

「う、奪うだなんて、そんな。別に曹仁さんは、わたしのものじゃありませんし、……ただ、わたし達のご主人さまになって、共に乱世を鎮めるために戦ってもらいたいだけで」

「ほぅ」

関羽からも同様の話は聞いていた。曹仁という人間はなかなかに面白いし、調練を覘いた感じでは将としても優れているようだった。星もそういった部分を認めたからこそ、真名を許したし、得難き友になるのではないかとも思っていた。しかし主君として仰ぐに足る人物かと聞かれると、甚だ疑問であった。曹仁には、劉備や関羽のように明確な志をもって、それに突き進もうという意思が感じられない。義侠心に富んではいるが、この乱世そのものを自分の手で鎮めてみせるという気宇の壮大さは持ち合わせていないように星には感じられた。

(仕えるならば、劉備殿の方が良い)

言葉にこそしてはいないが、星は劉備の持つまっさらな志に惹かれるものがあった。劉備ならば決してぶれずに志を持ち続けてくれる気がしていた。そして中心にぶれない一点があるからこそ、将は存分に戦場で槍を振るえるのだ。

「あのう、趙雲さん。大丈夫ですか?」

劉備の顔を見つめたまま、少し考え込んでしまっていたようだ。怪訝そうに劉備が声を掛けてきた。

「おっと、すいません。……この趙子龍、貴方に力を貸しましょう。」

「力を貸す?」

「ええ、曹仁殿を二人きりになりたいのでしょう?」

劉備は頬を真っ赤に染めながら、少し迷ったふうにしてから、こくりと頷いた。





劉備と星が物陰から出て、こちらに向けて歩いてくるのが見えた。

「一体、なんだったのだ?」

「さあ?」

頭上からの問い掛けに簡単に返す。本当は、なんとなく思うところがないわけでもない。曹仁はそこまで鈍感なつもりもなかったし、愛紗の件もある。しかし自分から切り出すのは、自意識過剰のようでためらわれた。

「お待たせしましたな、曹仁殿」

「ああ、お帰り」

「……」

劉備は無言で寄ってくると、先ほどまでと同じように曹仁の腕をとった。この体勢にもようやく慣れかけたところだったが、一度離れたことでまた振り出しに戻り、またも曹仁の鼓動が乱れる。

「何をしてたのだー?」

「うむ、実はな、劉備殿に呼有好夢に付き合って欲しいと思ったのだがな」

「こありずむ?」

「おや、張飛殿はご存じないのか。夜那とかいう将が舞踏を組み合わせて作った仙術の鍛錬法でな」

「仙術? 面白そうだな」

元の世界では胡散臭すぎる話だが、こちらの世界では現実に仙人なんてものが存在していると聞いていた。寡聞にして曹仁は未だ出会ったことはなかったが。

「うむ、それで劉備殿も共にと思ったのだが、副作用が問題で断られてしまったのだ」

「副作用?」

「胸がな、大きくなるのだ」

「!」

肩の上で鈴々がピクリと反応したのが伝わってきた。

「劉備殿はこれ以上の胸は必要ないということでな。……二人組でやった方が効果があるのだが、困ったな」

「鈴々がやるのだ!」

「おわっ」

曹仁の耳元で鈴々が大声を挙げる。

「ほぅ。つらい鍛錬になるが、耐えられるか?」

「まかせるのだ!」

とんっと、曹仁の肩から鈴々が飛び降りる。曹仁の前に立つその背中からは、やる気が満ち溢れている。

「ならばいっしょに来るがいい、張飛殿。」

「鈴々でいいのだ。趙雲、いいやつそうだから真名で呼んでくれていいのだ」

「う、うむ、そうか。ならば私のことも星と、真名で呼ぶが良い」

「うん、わかったのだ、星」

「それでは曹仁殿、鈴々を借りていきますぞ」

そう言うと、星は曹仁に微笑みかけた。その微笑みが意味深なものに思えるのは、気のせいではないのだろう。

二人の姿が遠ざかっていく。雑踏にまぎれ、その姿が完全に見えなくなったところで、無言だった劉備が口を開いた。

「そ、そそそれじゃあ、わたし達も行こうか、曹仁さん」

調練に戻る、などと言うほど曹仁も無粋ではなかった。





一応街の警邏という名分を与えられているので、二人は軽く見回りをしながら街を歩いて回った。街の人たちからは引き続き冷やかしを受けているが、桃香は曹仁の腕を放さなかった。

「ん? どうかしたか、劉備殿?」

街を見ずに、曹仁の顔をじっと覗き込むようにしていた桃香に気付いて、彼が声を掛けてきた。
曹仁の自分に対する口調や態度が、気が置けないものになりつつあることに桃香は気付いた。これも散々に冷やかしてくれた街の人達のおかげだろか。桃香は改めて街の皆に対する感謝の思いを胸にした。

(あとは、わたしが勇気を出すだけだよね)

二人の姉妹と同じように、まずは真名で呼んでもらいたい。断られるはずはないと思ってみても、やはり勇気は必要だった。主従でも夫婦でもない男女間で真名を許すというのは、その相手がよほど特別な相手だということだ。そしてあらゆる意味で、今の桃香にとって曹仁ほど特別な存在はいなかった。

「曹じ―――」

「あ、兄ちゃんが女連れて歩いてる!」

突然の声に桃香は息をのんだ。男の子達が二人を取り囲むように集まってきた。

「兄ちゃん、それ彼女か?」

「えっと、なんて言えばいいのか」

「兄ちゃん、顔が赤いぞー」

ワァっと男の子たちが歓声を挙げる。

「あーもう、うっせえ! 散れ散れ」

「逃げろー」

曹仁が追い立てるように身を乗り出すと、子供たちは楽しそうに笑いながら離れていった。

「はあ、まったく」

「……曹―――」

「おや、劉備様。今日は男連れかい?」

「……うぅ」

この辺りは普段桃香達が警邏で回る道であり、道行く人はほとんどが見知った顔ばかりだった。多くの人が桃香に声をかけてくれたし、先ほどの様に曹仁の知り合いの男の子が集まってきたりもした。掛けられる言葉は嬉しいものばかりだし、それに助けられてもいたのだが……。

(……こんなことなら、もっと人気のない場所に行けば良かったかも)

「……」

「劉備殿、どうかしたか?」

「い、いや、へ、変な意味でじゃなくてだよ!」

「へ?」

「……あぅ。なんでもないです」





夕日が街を赤く染め上げ始めた。日が暮れるに従い、曹仁達に話しかける者も減ってきた。その分、家路を急ぐ人が増えている。
暮れていく街並みを眺めながら、先ほどまでの百面相とは打って変わって真面目な顔で劉備が口を開いた。

「この街の人達みんなのために、今度の戦、頑張らないとね」

「そうだな」

「それが終わったら、いよいよ世の中を変えるための戦いだね」

「世の中を変えるため、か。劉備殿は立派だな」

曹仁はそこまで先のことを考えたことはなかった。天の御遣いの名から逃れたい自分。華琳に対して負けたくないと思う自分。そんな自身に突き動かされて戦ってきただけな気がしていた。そこには天下も民もなく、自分しかなかった。

「立派だなんて! わたしなんか何も出来なくて、いつもみんなに助けられて。この先の戦いだって、きっとみんなに助けられてばかりで」

「だけど、その戦いを闘い抜くだけの強さを持っている。それは俺にはないもので、きっと愛紗さんや鈴々ですら劉備殿無しには持ち得ないものだ」

そして、腹立たしいことに華琳はそれを持っている、と曹仁は心の中で付け足した。

「う~ん、そんなこと言われても、わからないよ」

「ははっ、そんなものなのかもしれないな。…………そろそろ城に戻ろうか?」

「あうっ」

曹仁が城の方へ足を向けると、劉備が困ったような表情を浮かべた。劉備がさっきから何か言いかけていたことには気づいていた。その内容にも察しはついている。こちらからは言い出しづらい内容だったし、拗ねてみたり、赤面したりする劉備が可愛らしくて、つい気付かないふりを続けてしまっていた。

「……劉備殿」

「は、はいっ」

曹仁の側から声をかけた。照れ臭さにわずかに赤らんだ顔を隠すように、前を向いたまま、足も止めずに続ける。

「あなたのこと、真名で呼んでもいいかな?」

言ってみて初めて、自分がそうしたいと強く思っていたことに曹仁は気が付いた。それが今日1日の間に育った思いなのか、初めて会った頃、あの捕虜への呼びかけを聞いた時から胸中に眠っていた思いなのかは、曹仁にも分からなかった。





「ただいまー♪ 愛紗ちゃん」

調練を終えて戻ってきていた愛紗に桃香は声を掛けた。

「お帰りなさいませ、桃香さま。どうでしたか……って、その様子では聞くまでもないようですね」

「んふふ♪ わかる? 今度の休みも、また二人で街に出かける約束しちゃった」

「なっ」

「うふふー」

「……ずるいですよ、桃香さま」

「抜け駆けしたお返しだもーん♪」

「うううぅ~~~」

悔しげな声を漏らす愛紗を余所に、桃香は次の休日へと思いを馳せた。





[7800] 第9話 褚燕 前編
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/05/24 11:10
少年は夢を見ていた。

少年の両親は腐敗しきった役人に有りもしない罪を着せられ殺された。ほんのわずかな金のためだった。少年を拾った商人の男は彼に美衣美飾を与え、学問もさせてくれた。感謝する気にはなれなかった。こちらを見る目がいやらしい男で、嫌悪すらしていた。今にして思えば自分を‘女’として傍に置くつもりだったのだろう。役人に媚びへつらい、汚い商売をする屑の様な男だった。そして、そんな男に養われている自分自身にも嫌悪感を覚えた。次第に、今ここにいる自分は本当の自分ではないと思うようになっていた。
商人の屋敷に盗賊が押し入ってきた。商人は一人、部屋と部屋の間に作られた隠し部屋で震えあがっていた。少年は不思議と怖いとは思わなかった。殺されるかもしれない。しかしここにいるのは偽りの自分なのだ。少年は生気のない瞳で盗賊達を見つめ続けていた。
盗賊達が蔵を壊し始めた。体が震えた。何故か、蔵が壊される度、偽りの自分も壊れ、内から本当の自分が姿を現すように感じた。蔵が完全に壊された。体はまだ震えていた。少年は自分が怖がっていることにようやく気が付いた。
盗賊達は、家の者に手は出さなかった。商人の男だけはしきりに探していたが、隠れ場所を知っているのは自分だけだった。盗賊の中から一人の男が進み出て一人一人に声を駆けて回っている。男は他の盗賊達から御頭と呼ばれていた。自分の順番がきた。商人の居る場所を教えようと思ったが、震えて声が出なかった。男は自分たちは義賊だと言って、少年の肩に手を置いた。義賊という言葉が、少年の胸に妙に残った。
盗賊達は諦めて引き上げていった。声は出なかったが、体は動いた。美衣を脱ぎ捨て、盗賊達の後を追って駆け出していた。
1年後、自分を囲っていた商人の男の首を、自身の手で刎ねたとき、真に偽りの自分に終止符を打てたと少年は感じた。



「御頭、起きてますか!?」

褚燕はまだ眠い目を擦りながら、上体を起こした。明かり取りからの光が、もう昼過ぎであることを教えていた。ここのところ、昼夜の感覚が完全に狂ってしまっていた。

兄貴が死んだ。
あの日、商人の屋敷で初めて兄貴に声を掛けられた時、褚燕はただ震えることしか出来なかった。義賊の仲間に入って半年ほど過ぎたころから、自分の何を気に入ったのか、兄貴に義弟として扱われるようになっていた。そして兄貴が死んだ今、皆を束ねるのは褚燕しかいないと、兄貴に代わって自分が御頭と仰がれる立場に立っていた。

「御頭!」

「いいぞ、入れ」

褚燕は寝台から降りると、部屋の外から自分を呼ぶ声に答えた。男が一人入ってくる。

「白繞か、どうした? 何かあったか」

「はい、黄巾党の奴らが」

「また、あいつらか。今度は何だ?」

黄巾党と組むと決めたのは兄貴だった。今まで手をつけられなかった巨悪を、国の腐敗を打ち倒す力を手にするためだった。黄巾党から兵と共に送られてきた副官2人は、腐敗した役人どもと同じようにしか褚燕には見えなかった。二人が近くの村から兵糧を奪ってこいと言ってきたときは、殺意すら覚えた。兄貴も最初は断っていたが、現実に多くの兵を抱えてしまっていた。黄巾党に物資を送るよう要請しても、返事は返ってこなかった。
兄貴が出兵を決めた。役所やそれに繋がる商人を選んで襲い、無辜の民に手を出させないために、兄貴自らが兵を率いた。褚燕は留守を守るように言われた。気の乗らない戦に自分を巻き込まないようにしてくれたのだろう。兵を率いて砦を出た兄貴は、そのまま帰ってこなかった。付いていった黄巾の副官2人は、傷一つ負わずに帰ってきた。
兄貴の死そのもの以上に、望まぬ戦で、黄巾の賊徒として死んでいったことが褚燕には何より悲しかった。

「なんでも、官軍の補給部隊が近くを通るそうで、物資を奪ってこいと」

「官軍の?」

村を襲え、などという前回に比べたらずいぶんとましな話ではあった。しかし、あの2人の言う通りにする気にはならなかった。

「てめえらで勝手に兵を率いて奪ってこいと、あの二人に伝えろ」

「それが……」

「なんだ?」

「あいつら前回の敗戦でビビっちまったみたいで、もう戦には出たくないとかぬかしてやがります」

「ちっ、屑が」

「……俺が行きましょうか?」

目の前の男、白繞は兄貴が生きていたころからその副官をしていた者で、今は褚燕の副官だった。褚燕が加わる以前から義賊として戦ってきた男で、年齢も褚燕より10以上も上だろう。
頭領の地位に就いてからは、白繞も含め皆が褚燕に意図的に敬語を使うようになっていた。

「ああ、任せた。必要なだけ兵は連れて行っていい」

「わかりました」

白繞は十分に一軍の指揮を執る実力がある。部屋を出ていくその背中を見送ると、褚燕は再び横になった。





「長槍隊、構え!」

曹仁達が釣り出した敵兵は、白蓮が伏せる丘の前で足を止めた。曹仁が補給物資を装って運ばせていた長槍を兵達に構えさせると、さながら眼前に刃の壁が出来た様で、止まらざるを得なかったのだ。先鋒の敵兵が急に足を止めたことで、敵軍の陣形に乱れが生じた。その隙に全軍が陣形を固めていく。作戦を決めてから、何度も調練した動きだった。曹仁は安心して眺めることが出来た。縦に5、横に40並んだの長槍隊の横陣。その後方に50の弓兵隊と曹仁を含む30の騎馬隊。長槍隊の左右を守るようにそれぞれ50ずつの遊撃隊。そして後方に目を向けると、桃香を囲むように本隊が円陣を敷いていた。
桃香が心配そうに送る視線には、今は気付かない振りで前方に目を戻した。もはや同盟という態は失われつつあったが桃香は盟主であり、なにより紛れもなく義勇軍の総大将だった。彼女を慕って結成された軍なのだ。曹仁は囮となるような今回の作戦には桃香を参加させたくはなかった。出来れば白蓮と共に丘上に伏せていて欲しかった。しかし、それを是としないのが桃香であり、そんな彼女だからこそ義勇軍がここまで大きくなることが出来たのだろう。

「前進!」

構えを保ったまま長槍隊を前進させると、敵兵の乱れはさらに大きなものとなった。後方の兵に押されるような形で、幾人かの敵兵が槍衾の餌食となっていく。
追い討ちをかけるように、そこに矢が降り注ぐ。弓兵隊の指揮は、その調練を取り仕切った愛紗が行っている。彼女の武勇の無駄遣いになるが、他に弓兵隊の指揮に適した者がいなかったのだ。白兵戦の際には彼女の武勇を存分に奮ってもらわなければならない。その際に代わりに指揮をする副官は、愛紗自身が選出していたし、いずれは弓兵隊の指揮自体をその者に任せることになるだろう。長槍隊の頭上を抜けて敵軍に次々に矢が降り注いでいく。
矢の脅威に曝され陣形が乱れることで、槍衾による被害はさらに増えていく。

「全軍、後退せよ! 陣形を乱すな、乱せば隣の同胞が死ぬぞ!」

敵陣の中から声が上がる。その言葉に、敵兵の動揺がわずかに収まる。的確な指揮だった。しかし―――

「おぉぉぉぉーーーーーーっ」

鬨の声が上がる。その声に再び敵兵に動揺が走った。
丘上から逆落としの勢いを持った白蓮の騎馬隊が、敵陣向けて一直線に押し寄せていた。





「残っている兵全員に戦闘態勢を取らせろ。400は砦の守備を、400は俺と共に出陣するぞ」

報告を受けたのは白繞の背を見送ってから6刻(3時間)以上も経って、日も陰り始めた頃だった。白繞が立てた伝令兵の話を聞くと、褚燕はすぐに出陣を決意した。
官軍の補給部隊と思えたものは罠だった。罠に嵌った仲間たちは半ば潰走しつつあるらしい。

「くそっ」

黄巾党から送られてきた副官達からの言葉を、特に考えもせずに聞き流してしまった自分の招いた失敗だった。きっと兄貴なら裏を取ることをしただろう。

「褚燕殿、どうなっているのだ」

戦闘態勢を整える兵達の様子に慌てたのか、その二人の副官が姿を現した。

「あんたらの教えてくれた官軍の補給部隊は、罠だった。俺は今から兵を率いて仲間の退却を援護する。あんたらは砦に残って守備に当たってくれ」

自分たちは出撃しなくて良いことに安心したのか、二人は安堵の表情を浮かべた。

「御頭、白繞から次の伝令が!」

「通せ」

伝令兵が持ってきた情報は、白繞が潰走しつつもなんとか200ほどの兵を集めてこちらに退却してきているということと、敵軍の情報だった。

「……そうか。敵軍の中に、……居るのか」

敵軍を率いる者達の名を聞いて、二人の副官は震えあがっている。褚燕は暗い笑みを浮かべた。

「全軍に通達しろ!守兵は置かん、全軍出撃だ!」

「な、何を考えているのです、褚燕殿!この砦を放棄するお積りか」

「勝って戻ればいい。兵力はむしろこちらが上、負けるとは限らん」

兵数という意味での兵力が上なのは事実だが、褚燕自身勝てるとは思っていなかった。精鋭の騎兵部隊を含む敵軍に対して、こちらの軍はほとんどが歩兵で、お世辞にも精兵とは言い難いのだ。

「し、しかしですな」

二人がさらに言い募ってくる。どんなに言葉を弄そうと、褚燕の胸には響いてこない。立てるべき義を失ったこんな軍は、潰れてしまえばいいとすら褚燕は思っているのだ。

「―――そうか。兵を残さねば、あなた方を守る者もいなくなってしまうな」

「わ、我々はそういう意味で言っているのでは―――」

「なら、守る必要の失くしてやろう」

2つの首が同時に飛んだ。床に落ち、転がる頭には、殺されたことにも気付かずにいる間の抜けた顔が張り付いていた。





「追え! この地を脅かす賊徒を討ち、この地に平穏をもたらすのだ!」

曹仁達義勇軍と白蓮率いる騎馬隊は追撃に入っていた。

戦はほぼ曹仁の立てた作戦通りに事を進めていた。逆落としの騎馬突撃に見舞われた敵軍は、散り散りに潰走するよりなかった。
誤算があったとしたらむしろ、作戦が図に当たり過ぎたということだった。敵軍の兵力を確実に削ぐためには、出来るだけ多くの敵兵を討ち取るか、捕虜にするかしたいところだった。しかし今回は敵軍の潰走が早過ぎたため、満足のいく戦果は逆に得られていなかった。散った敵兵はいずれ山中の砦へと戻るだろう。

「曹仁殿、あれを」

愛紗が指さす先では、200ほどの兵が再び一つになりつつ、砦の方へと引きつつあった。あの潰走から、よくぞあれだけの兵をまとめあげたものだと、曹仁は敵将に感心すら覚えた。しかし、兵がまとまってくれるのは、こちらとしては好都合だった。

「山中に入られると厄介だ。騎兵だけで一気に追うぞ。桃香殿と鈴々、それに角は歩兵を率いて後から続いてくれ」

「えー、鈴々も一緒に行きたいのだ」

「駄目だ。鈴々は桃香殿の護衛。行くぞ、愛紗さん、蘭々」

「はい」

「おお」

「みんな、気を付けてね」

「うぅー、二人だけずっこいのだ」

鈴々がまだ何か言っていたが、曹仁は桃香の気遣いを背に白鵠を走らせた。愛紗、蘭々を含む義勇軍の騎兵30騎もそれに続く。遅れて、白蓮の率いる300騎の騎兵隊も続いてくる。先頭を駆ける100騎は全騎白馬であり、隊列も見事なまでに整っている。その中から抜け出して、星がこちらに馬を寄せてくる。

「見せてもらいましたぞ、長槍隊。確かに効果的ではありますな」

星の表情から、わずかに不満の様なものが覗いていた。曹仁には星の気持ちもよく分ってはいた。

「気に入りませんか、個人の武勇を排除するような戦い方は?」

星はちょっと驚いたような顔をした。
個々人の槍働きを否定する集団での戦いだった。曹仁自身も、兵として長槍隊の中で戦いたいとは思わないのだ。戦に勝って名を上げようという軍ではなく、桃香の天下を想う思いに惹かれて集まった義勇軍だからこそ出来た戦い方だろう。そして、元々は民であり、いずれはそれぞれの生活へと戻っていく義勇軍の被害を、最小限に抑えたいという思いから出た戦法だった。

「うむ、私の様な武人の立場から見れば、あまり気持ちのいい戦い方とは言えませぬな。愛紗よ、お主はどう思っているのだ?」

「わ、私は、曹仁殿の作戦に不満などない。こちらの兵にはほとんど被害も出ていない、完勝ではないか」

愛紗が慌てた様に一瞬言葉を詰まらせながらも答えた。愛紗にもやはり好ましい戦い方ではないらしい。こちらの被害を最少で抑えられる戦い方だけに、兵を大切にする愛紗には複雑な思いがあるのだろう。

「ははっ、まったくお主は正直者だな」

「どういう意味だ!」

二人が言い合いを始めた。この二人の関係が、曹仁には羨ましく感じることがあった。出会ってほんの1月ほどしか経っていないが、お互いに深く理解し合っているように思える。頻繁に諍いを起こしているが、その中にも相手を思う気遣いがあるように感じられる。二人を見ていると、親友という言葉が浮かんでくる。

「兄貴! ニヤついてないで前見ろ」

「っと、すまん」

蘭々の言葉に前方に注意を向ける。逃げる敵軍の向こうに、わずかに砂塵が巻き起こっているのが見えた。





「全軍止まれ! 白繞の部隊を招き入れた後、敵に備えよ!」

褚燕は陣の中ほどを開ける様にして、そこに白繞の軍を合流させた。その軍はそのまま後方に移し、開けた道はすぐに左右から兵を寄せて埋める。
騎馬隊が猛烈な勢いで、直ぐ側まで迫って来ていた。満足に陣形を整える間もない。しかし如何に堅陣を敷こうと、練度の低い自分達の軍ではその勢いを止めることは不可能だろうことを、褚燕は理解していた。

「「うぉぉぉぉーーーーーー!」」

敵味方双方の鬨の声が重なる。
瞬時にして、味方の陣が崩れる。こちらの陣の中に突入した騎馬隊は、陣内を駆け廻り、兵を分断していく。

「……」

褚燕は駈ける敵騎兵を注視した。
10騎ごとの集団が、30から40ほども駆けている。いずれの隊も精強だが、特に目を引くのは三つの隊。
1つは黒髪の女が率いる一隊。彼女が黒髪を靡かせ青龍刀を振るう度、こちらの兵の首が飛んでいく。
次に、白衣を身に纏う、青みがかった髪の女が率いる一隊。真っ赤な刀身を持つ槍を舞うように振るい、こちらの陣形を切り崩していく。
最後の1つは白馬を駆る男が率いる一隊。他にも白馬に乗るものは多いが、中でもひときわ美しい光をその馬体から放っている。先陣を切って味方の陣を崩したのもこの男だった。今もこの隊が最も縦横無尽に駆け廻り、こちらの軍を混乱させている。

「……あれか。よし―――」

褚燕は狙いを定め、指示を出した。白繞の率いていた軍を他の兵に紛れる様に静かに前進させ、件の一隊にぶつける。潰走の中、行軍体勢を組み直しここまで退いてきた兵達である。他の兵よりも練度は高い。それをわずか10騎にぶつけるのだ。

「! なんだ!?」

まるでこちらの思惑を察したかのように、騎馬隊の動きが変わった。騎馬隊は再び一つに固まると、こちらの陣を真っ二つに割る様に駆け、陣外へと抜けた。白繞の軍は一隊に近付く間すらなかった。

「くそっ! 全軍反転して、騎馬隊の再突入に備えろ! 騎馬の者は俺と共に来い、やつらを後方から追い討つぞ!」

「御頭! 敵の歩兵隊が迫ってきます!」

振り返ると、確かに歩兵隊が直ぐ側まで迫りつつあった。駆け廻る騎馬隊にばかり気を取られ、歩兵隊の存在を失念していた。いや、気が付いたところでどうにかなるものでもなかっただろう。そもそも指揮官である褚燕の目的が戦に勝つ方向に向かっていないのだ。
騎馬隊の方に視線を戻すと、すでに反転し、挟撃の機を窺っているようだ。

(……戦の勝敗などは幾らでも譲ってやるさ。しかし、貴様の首だけはこの地に置いて行ってもらう)

褚燕は騎馬隊を見据えると、そう心に強く念じた。



「御頭、やつら、なぜ攻めてこないんでしょう?」

「わからん。とにかく迎撃の構えをとっておけ」

歩兵隊、騎馬隊共にこちらを挟み込むように陣を敷いたまま、沈黙を保ち続けていた。何度か二つの隊の間で、早馬のやり取りがあったが、こちらはじっと陣を固めて待ちに徹することしか出来なかった。兵数ではこちらが勝っているとはいえ、先ほどの騎馬隊の威力に、兵達の間には既に悲壮感が漂いつつあった。
褚燕はただ、騎馬隊が突入してきた際に、恐らくその先頭を駆けてくるだろう男の首を飛ばすことだけを考えた。兵の配置も、そのために組み直してある。あとは秋を待つだけだった。

「歩兵隊から誰か出てきました」

褚燕は騎馬隊を見据えていた目を、歩兵隊へと転じた。女が二人、進み出ていた。一方は子供と言っていい年齢に見えるが、大人の背丈よりもさらに長大な矛を手にしている。もう一方は腰に剣を佩いているようだが、鞘に納めたまま抜くそぶりは見えない。
二人は歩兵隊と、褚燕の敷いた陣の中心あたりで馬を止めた。剣を佩いた方の少女はそこからさらに一歩馬を進めると、口を開いた。

「みなさん、悪いことはやめて、わたし達と一緒に、世の中を変えるために戦いませんか!?」

降伏勧告とも採れる言葉に兵達がざわめく。さらに少女が言葉を続ける。要領を得ない話し様ではあるが、不思議と引き込まれる声だ。

(……何を考えている、俺は)

すぐにその考えを打ち消す。兵達の間に動揺が走っている。なんとかせねばならない。

「お前ら、まどわ―――」

「みんなぁ! 劉備様のいうとおりだ! こっちへ来て一緒に戦おう!」

褚燕の声を遮るように、敵軍の歩兵隊の中から声が上がる。何人かが、その中から進み出てきた。

前列の兵達の間で大きなざわめきが起き、それが波紋のように広がっていく。進み出た男は、かつてはこちらの仲間だった者達らしい。それだけではない。歩兵隊を構成する者の多くがかつての同胞であることに、兵士達が気付き、ざわめきは際限無いものとなった。

「御頭、これはもうどうにも……」

「……兵達には好きにさせろ」

褚燕は一度天を仰ぐと、騎馬隊へと向き直った。そのまま馬を進める。

「御頭、どこへ」

答えず、褚燕は馬を進めた。兵の中には、既に武器を置くものも見え始めている。もはや、兵に頼ることは出来ない。黄巾党を妄信する者達は自ら降りはしないだろが、褚燕ではなく二人の副官の私兵という感じがあった。あの二人がいない今、士気も低く、大した役に立つとは思えない。
自陣を抜け、さらに進み出る。憎悪に濁りきっていた思考が、少しずつ澄んでいくのを感じる。

(そもそも、大事な仇を黄巾の兵達に譲ろうなんて、俺も馬鹿なことを考えたものだ)

さて、一気に斬り込むべきか。それとも……。先ほどの女の姿がまだ目に焼き付いているためか、おかしな考えも浮かぶ。

(この戦況で、受ける馬鹿はいないよな)

そう思いつつも、女たちの正反対の位置、自陣と騎馬隊の中心に辿り着いたとき、褚燕は口を開いていた。

「曹子孝! 一騎打ちが望みだ! 臆さぬならば、出て来い! ―――我は、張牛角が義弟、褚燕なり!」







[7800] 第10話 褚燕 後編
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/05/30 13:23
「曹子孝! 一騎打ちが望みだ! 臆さぬならば、出て来い! ―――我は、張牛角が義弟、褚燕なり!」

その声が響き渡ると、先ほどまでのざわめきが嘘のように戦場を静寂が支配した。
曹仁の意を汲んだ白鵠が進み出る。

「そ、曹仁殿、まさか受けるお積りですか!?」

愛紗が慌てた様に追いすがる。

「そりゃあ、受けるだろう」

「し、しかし、危険です。もはや戦は勝ったも同然。無駄な危険は避けるべきでは! そ、そうです! ここは私が」

「向こうは俺を御指名だ。ここは退けんだろう」

「し、しかし」

「愛紗よ、少しは曹仁殿を信じてみてはどうだ? それともお主は曹仁殿を替え玉を立てるような腰抜けにしたいのか?」

いつの間にか近くに寄って来ていた星が、愛紗の横に馬を並べた。曹仁に一瞬意味ありげな視線を送る。

「せ、星!私はそういうことを言っているわけではない! 大将自ら一騎打ちに出るという軽挙を言っているのだ」

「おやぁ、お主らの大将は桃香殿ではなかったのか? 」

「そ、それはそうだが、曹仁殿とて我が軍には大切な存在だ」

「まったく、自分にとって大切だと、何故素直になれないのか、この娘は」

「な、ななななにを言うか! 私は―――」

「いいのか、愛紗よ。そんなことを言っている間にも、一騎打ちが始まりそうだぞ」

「ああぁっ!」

二人の挙げる喧噪を背にしながら、曹仁は褚燕まで10数歩の距離まで進み出ていた。

「待たせたな、俺が曹子孝だ」

名乗った瞬間、褚燕の眼に炎が燃え立ったように感じた。曹仁はこれまでに感じたことのない、明確な殺意と憎悪をその視線から感じた。

「……褚燕だ」

今一度そう名乗った男は、曹仁よりも1つ2つ年下に見えた。鈴々ほどではないが、まだ若い。
幼さの残る顔立ちの中、こちらに向ける瞳だけが憎悪に燃え、浮かび上がる様に強烈な印象を与えてくる。

「張牛角を、兄貴を殺したのは、お前だな」

「そうだ。……ただの賊徒とも思えない男だったが、お前の様子を見るに侠客か何かだったのかな?」

瞬間、褚燕から送られてくるものが弱まった。褚燕自身、急速な気持ちの変化に驚いているのか、戸惑ったような表情を浮かべている。

「義賊だ。黄巾の力を使って、この国の膿を吐き出すつもりだった」

「そいつは大した志だな。……それで、俺を恨んでいるのか」

「わからん。さっきまでは貴様を殺す事しか考えていなかったんだがな。考えてみると、もっと憎むべき相手がいるし、そいつらはもうこの手で殺したしな。…………あの女の間の抜けた言葉を聞いているうちに、毒気が抜かれちまったのかもな」

褚燕は、自陣の方に顎をしゃくった。そのさらに後方にいる桃香のことを言っているのだろう。

「それじゃあ、やめにするか、一騎打ち?」

「いいや。どちらにせよ、お前は兄貴の仇だからな。けじめだけは付けさせてもらおう」

「よし、ならば来い! 曹子孝、受けて立つ!」

「張牛角が義弟、褚燕! 参る!」


褚燕は刀を抜き放つと、こちらに向けて真っ直ぐに、猛烈な勢いで馬を駆る。曹仁は白鵠のゆったりとした動きに合わせた。褚燕が脇をすり抜ける。

「っ、……双刀だったのか」

曹仁の肩からわずかに血が迸る。
馬首を返すと、こちらに馬を駆ろうとする愛紗をなだめる星と蘭々の姿が小さく見えた。
脇をすり抜ける瞬間、繰り出した槍を受けた刀の陰から、もう一刀が現れ、身を乗り出すようにして振るわれた。白鵠が十分に余力を残していたので皮一枚のところで避け得たが、こちらも本気で馬を駆っていたら危なかったかもしれない。
褚燕の持つ刀は二本の刀の刃と刃を合わせることで、一つの鞘に納められる双刀だった。斬り付けてくるその瞬間まで、曹仁は一本の厚めの刀としか認識していなかった。

「避けたか、運のいい」

「運かどうか、試してみな」

馬首を返した褚燕が再び馬を走らせる。今度は白鵠も足を速める。二騎が馳せ交う。褚燕が一刀で槍を捌きながら、残る一刀で振るう斬撃が曹仁の胸の辺りを掠める。わずかに血が零れる。馬首を返してさらに、2度、3度と馳せ交う。その度に、曹仁に傷が刻まれていく。何れも浅手ではあるが、確実に曹仁を捉えている。疾走する馬上にあって、攻防一体の見事な刀法だった。さらに馳せ交う―――褚燕の持つ双刀の一方が宙を舞った。
曹仁は槍を構えた、その後ろ手の手首をわずかにひねっただけだった。構えさえ崩さなければ、柄元を持つ後ろ手の小さな動きは、穂先では大きな動きを生み出す。槍を捌きにきた刀を、そのわずかな手首のひねりだけで巻き込み、跳ね上げたのだった。

「ちっ」

褚燕は舌打ちすると、構わずこちらに馬を飛ばしてくる。疾駆する馬の速度を上乗せした強烈な一撃も、曹仁に届くことなかった。褚燕に残されたもう一方の刀も、跳ね上げられて宙を舞った。

ゆっくりと馬首を返すと、褚燕は無手のまま、先ほどまでと同じ勢いで向かって来ていた。交差する瞬間、曹仁は咄嗟に槍を放すと、褚燕と組み合っていた。馬の勢いそのままに、褚燕は曹仁を押し倒しにかかる。曹仁はその力に逆らわずに、自身の体の上に乗せる様にして褚燕を投げ飛ばした。かろうじて受け身を取って立ち上がる褚燕に、曹仁も白鵠から降り立つ。
褚燕が獣のような動きで曹仁に飛び掛かった。速い。が―――

「ぐぅっ!」

その胸に曹仁の順突きが突き刺さった。曹仁が元いた世界で云うカウンターの間を捉えた打に、褚燕の息が詰まる。

「悪いが、俺は元々こっちが本業でね」

曹仁はこの世界に来る以前は、家伝の徒手を中心とした武術の修練を積んでいた。そして何より、こちらの世界で習得した槍術も拳術と一体となったものであった。槍術の構えはそのまま順突きに、繰り突いた形は逆突きに対応する。曹仁は繰り突きを武の根幹に置き、その鍛錬を誰よりも繰り返してきたと言っていい。必然、無手での突きに関しても屈指の使い手にまで成長していた。

「っ!」

褚燕は呼吸も儘ならない状況で、尚も拳を振るってくる。その打撃は曹仁のそれを凌ぐ“速さ”を持っているが、最短の距離で突き刺さる彼の打より“早く”相手を捉える事は出来なかった。
既に勝敗は決したと言っていいが、褚燕は止まらない。曹仁の放った打撃のうちの何発かは、顎先やこめかみにまともに当たっている。いずれも意識を刈り取るに十分な威力を秘めた打だ。にもかかわらず、褚燕は動き続ける。あるいは意識を超えた何かが体を突き動かしているのかもしれない。

「!」

褚燕の拳を紙一重のところで曹仁は避けた。褚燕の打から無駄が減り、振りが小さくなってきていることに曹仁は気付いた。意識した動きとは思えないが、曹仁の打に対してもわずかに身を捩って急所を避ける様になってきている。
褚燕は戦いの中で少しずつ成長しつつあった。その事実は曹仁に動揺を生み出した。
褚燕の拳が曹仁の顔面を捉えた。両陣営から声が上がった。中でもひと際大きく愛紗の声が響き、曹仁の耳に届いた。

(まったく、心配し過ぎだよ、愛紗さん)

その声が、逆に曹仁に落ち着きを取り戻させた
曹仁は、自然な動きで褚燕の打ったその手を捕らえていた。その手を引き寄せることで、褚燕に次なる一撃の溜めを許さない。同時に自身は半身になって褚燕の懐深く入り込む。半歩踏み込んだ、その瞬間には既に褚燕の肘関節の逆を取っていた。褚燕の重心が崩れる。曹仁は肘を極めたまま、褚燕を投げ飛ばした。
家伝の流派では関節を決めながらの投げ技を総じて、捻投と呼び慣らわしていた。今回打った投げはこの世界の技法である擒拿術で関節を取った、複合技だった。関節を極めた側の肩から頭にかけてを真下に落とす、受け身不能の投げ技だ。

「……普通なら、死んでいてもおかしくないんだけどな」

褚燕が立ち上がっていた。
曹仁は満身創痍の褚燕に対して、一部の油断も見せずに構えを取った。

「いいぜ、こうなったらとことんやろ―――」

「おおおぉぉぉーーーーー!!!!」

曹仁の言葉を遮るように、敵陣から鬨の声が上がった。





「……っ!」

後方から響く鬨の声が、褚燕の意識をわずかに引き戻した。立ち上がっている自分に不思議を覚える。頭から地面に叩き落とされた瞬間、これで終わりだと思った。その自分が今こうして二本の足で地に立っていることが信じられなかった。
後ろから響く喚声は、尚も続いている。むしろ大きく、近づいてきているようにも感じる。褚燕の未だ朦朧としたまま晴れない頭では、それの意味するところが分からない。ただ、そこに含まれる声の一つ一つがどれも慣れ親しんだものである気がして、褚燕は振り向いた。

「駿(しゅん)!」

白繞が馬を駆って眼前まで迫っていた。その後ろには2,30騎の騎兵と、それに倍する数の歩兵が続いている。褚燕―――駿の未だ思考の定まらない頭は、兄貴が死んで以来真名を呼ばれるのは久しぶりだ、などと場違いなことを思った。駆け抜け様、白繞が駿に手を伸ばした。
気付くと、駿は白繞の腕の中にいた。白繞が剣を振るう。金属音がして剣が弾き返される。ようやく正常な思考が戻って来ていた。騎馬隊は自陣と敵陣の間を駆け抜けている。どれも見知った顔、義賊として共に戦ってきた、本当の意味での仲間だった。

「うおぉぉーーー!!!」

後方から響く喚声と激しい金属音に、身を捩って後ろを振り向く。そこには敵騎馬隊の本陣向けて切り込む歩兵達の姿があった。すでに距離が離れつつあったが、彼らも義賊の同志であるとわかった。

精兵揃いの敵騎馬隊の中でも特に最精鋭が集まっているであろう本陣である。味方の歩兵達が次々に倒れていくのが見える。

「白繞、馬を返せ。仲間が死ぬ!」

命令系統を乱し、兵を率いる将を足止めすることで、騎馬隊への追撃を遅らせるための本陣急襲だろう。駿は仲間の身を案じながらも、頭の中の冷静かつ冷徹な部分で瞬時にそこまで考えを巡らせた。

「駄目だ。ここで引き返せば全員が死ぬだけだ。分かりきったことだろう、駿」

「仲間の命を捨ててまで生き延びて、何の意味がある!」

「……ようやく、本来のお前に戻ったな」

「はっ?」

白繞は、そう言いつつ仲間に指示を出している。それは、追撃に対する足止め役を演じる順番決めであった。そして、そうこうしている内に、最後の一人の歩兵が槍に突かれるのが、遠目に移った。

「白繞!」

「意味ならあるさ。お前さえ生き残れば、俺たちは終わりじゃない」

「戦はもう負けたんだ! 今さら大将首一つ残ったところで何になる」

「そういう話じゃない。戦の話じゃないんだ、駿。俺は志の話をしている」

「……志?」

白繞の言わんとしていることが理解出来ず、駿はとまどいを覚えた。
すると、まるでその瞬間を狙ったかのように、5騎が反転し駆け去っていく。

「お前ら、行くな! 命令だ! ……白繞、やめさせろ!」

「くっ!」

腕の中で暴れると、白繞が顔を歪めた。

「! 白繞、それは!」

「さすが、御頭を討ち取り、お前をぼこぼこにするだけはある。あの一瞬で刀を拾って、反撃までしてくるとはな」

白繞の脇腹に、駿の双刀の一本が深々と突き立っていた。





白繞の傷を気遣ってか、駿がおとなしくなった。
白繞は口を開いた。伝えるべきこと、伝えたいことは山ほどあった。時間はそれほどない。

「すまなかったな、駿。御頭が死んだ時、学も有って武術も強い、指揮をさせれば御頭も舌を巻くような用兵を見せたお前以外に、御頭に代わる人間が俺たちには思い浮かばなかった。」

まずは、謝らなければならないと思っていた。駿はただ黙ってこちらを見つめてくる。

「でも、そのせいでお前は、一人立ち続けなければならなくなった。そしてまた、俺達に初めて会った時のように、偽りの自分を演じなければならなくなったんだよな」

本来の闊達な部分を失い、日々鬱々として、自分達と出会った頃の駿に戻っていく様な、そんな姿を白繞たちはただ見守る事しか出来なかった。

「お前は、御頭だけじゃなく、俺たち全員の弟分みたいなもんなんだからな。いくらお前がすごい奴だからって、お前を頼りきるなんてことしちゃあいけなかったんだ。お前から逃げ場を、頼るべき相手を、奪うべきではなかった」

全身から力が抜けていくのを感じる。気付けば、周囲にはもう5騎を残すだけとなっていた。

「でもな、御頭が立て、俺たちが夢見た志を、義の旗印を、継げるのはお前だけだと、確かにそう思ったんだ。だから、駿―――」

―――お前はお前のまま、我らの志を継いでくれ

一番伝えたかった思いは、言葉になることはなかった。





目の前には、指揮する者を失った1000名ほどの兵がいた。逃走した20騎ほどの集団を、白蓮旗下の騎馬隊200騎が追撃していた。それでこちらの兵力はかなり低下しているが、それでも目の前の兵達からはすでに反攻の意思は見られなかった。

(……あいつ、逃げ切ったかな)

愛紗の手当てを受けながら、曹仁は逃走した褚燕に思いを馳せた。
曹仁は、追撃の失敗を、褚燕の逃走を願っている自分に気が付いた。
一騎打ちの相手に、情けをかけるつもりはなかった。しかし、曹仁は張牛角と云う自ら討ち取った男に、わずかながらではあるが好意すら感じていた。そしてその義弟である褚燕の、一騎打ちを望む際の堂々とした名乗り様や、決して諦めずこちらに向かってきた不屈の精神に、曹仁は彼を好きになりかけていた。出来れば殺したくないというのが曹仁の本音であった。

「聞いていますか、曹仁殿?」

「ああ、すまん」

「まったく、あなたは、御身を何だと考えているのですか。そもそもですね…」

先ほどから延々続いている愛紗の説教に、曹仁は再び意識を戻した。蘭々と星がいたずらっぽい表情で、その様子を眺めている。

「そうだよ、曹仁さん。無茶しちゃ駄目だよ」

「おわっ!」

声と同時に腕に押しつけられた胸の感触に、曹仁は思わず声を挙げた。見ると、曹仁の腕に抱きつくようにして桃香と、その隣には鈴々もいる。

「桃香さん、いつの間に?」

正面を見ると、敵陣が不自然に真っ二つに割れている。まるで人が通るために道を開けた様だ。

「……まさか敵陣を突っ切ってきたのか?」

「えへへ♪」

「……俺よりよっぽど無茶してると思うぞ」

横目で軽く睨んでやった。

「桃香様! いかに戦意を失った敵とは言え、なんという無茶を!」

「うぅぅ。でも、みんなもう武器を捨ててくれてるし、鈴々ちゃんが一緒だったし」

「そうなのだ。鈴々がいれば大丈夫なのだ」

「そういう問題ではありません!」

愛紗の怒りの矛先が桃香と鈴々へと逸れた。愛紗は曹仁の腕に抱きついていた桃香を引き剝し、本格的に説教を始める体勢である。
愛紗に代わって蘭々が曹仁の手当を始めた。

「痛っ、おい、蘭々もう少し丁寧に」

「……そんなに桃香さんのおっぱいが良かったのか?」

愛紗と違って乱暴な手つきの蘭々に、曹仁が文句を言うとよく分からない返答が返ってきた。

「鼻血」

蘭々に言われ、初めて曹仁は鼻からの出血に気付いた。

「いや、これはさっき打たれ―――もがっ」

「……」

蘭々はほとんど殴るような勢いで曹仁の鼻に布を詰めると、何も言わず手当を続けた。その手つきがさらに乱暴なものになっていた。この妹が、姉や春蘭、秋蘭(の胸)に対してしばしば羨望の眼差しを向けていたことを知っている曹仁は、下手に刺激しないよう口を噤むことにした。

「一騎打ちの邪魔をされたというのに、あまり気にしていないようですな」

そんな曹仁に、星が声をかけてきた。

「……まあ、そうですね。俺だって戦っているのが蘭々で、奴らと同じ状況に置かれたら、きっと乱入ぐらいするだろうと思いますからね」

「ほう」

「あ、兄貴なにを」

「それだけ、褚燕という者が奴らにとって大切な存在だったということでしょう」

「曹仁殿が気にしていないというのなら、私が何か言う事でもないでしょうな」

「……」

蘭々は何も言わず、ただその手つきだけが少し優しくなった。そのことに触れると、また元の乱暴な手つきに戻るだろう。曹仁は黙って、追撃を受ける褚燕のことへと再び思いを巡らせた。





「……曹っ……子孝っっ!!」

駿は一人天を仰いだ。胸の内には憎悪だけが渦巻いている。

すべてを失っていた。それでも、馬を駆けさせていた。曹仁への憎悪だけが、駿の体を支え、動かしていた。
何としても生き残り、仇の、曹子孝の首を獲るのだ。

張牛角が弟と呼び、白繞達が御頭と仰ぎ、命を賭けて守った駿の姿はそこにはなかった。
白繞の思いは届くことなく、義賊褚燕の姿はどこにもなかった。
ただ復讐に狂う男が一人いた。






[7800] 第10.5話 幕間
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/06/05 18:48
「幸蘭、蘭々は何と言って来てるんだ!?」

軍議が終わると、春蘭は勢い込んで幸蘭に詰め寄った。手にする2本の書簡に、軍議中から春蘭がちらちらと視線を送って来ていたことには、幸蘭も気付いていた。
定期的に連絡を取るというのは、曹仁に付いて行った蘭々に、幸蘭が出した条件の一つだった。今朝、飛脚の手によってその第3報が届けられた。
手紙を届けにきた飛脚は、幸蘭が動かす諜報部隊の一員である。各地に設けられた駅と呼ばれる情報集積所と、それを繋ぐ連絡網の管理を幸蘭は一手に担っていた。
元々は資産家である幸蘭の実家がその運用のために築き上げた情報網であった。それに曹仁の着想を元にして、幸蘭が改良を加え、今の形が作られた。元来は資産運用を目的としたものだったが、現在は並行して軍事目的で使われ、情報収集の要となりつつある。
その過程で副産物として生まれた飛脚による書簡の郵送は、今は家族や親しい者達の間を繋ぐのみだが、幸蘭は行く行くは独立した商売として成立させるつもりだった。現在はある意味、試験運用中と行ってもいい。


「それでは読みますね」

逸る春蘭をなだめつつ天幕から人がはけるのを待つと、幸蘭は言った。その場に残るのは華琳、春蘭、秋蘭、桂花、そして最近軍に加わったばかりの許褚―――季衣だ。春蘭に懐いている季衣は、彼女がいるからという理由でこの場に残っているのだろう。これから何が始まるのか分からず、不思議そうな表情を浮かべている。

「ええ、始めて頂戴」

そう答える華琳は楽しげな表情だ。蘭々の書く手紙はお世辞にも巧いとは言えないが、不思議と人を引き込む勢いがあった。

幸蘭は読み上げ始めた。
まずは戦勝報告から始まった。曹仁が立てた作戦通りに事が運び大勝したこと、そしてその後の彼の一騎打ちの様子が事細かに述べられている。曹仁の描写にはいくらか過剰とも思える表現が含まれているが、戦の空気が良く表現されていた。

「さすがは、仁ではないか! なあ、秋蘭」

「うむ、そうだな」

「まあ、公孫賛の騎馬隊と、劉備という者の集めた義勇軍の力が大きいとはいえ、よくやっているわね」

「ですよね、華琳さま! 季衣はどうだった?」

「はい、曹仁って人、すごいですね。素手で騎兵を蹴散らしちゃうなんて」

「そうだろう、そうだろう。お姉ちゃんは鼻が高いぞ」

その部分は明らかに脚色が入っていると幸蘭は思ったが、お姉さんぶって上機嫌の春蘭を見て、つまらないことを言うのはやめておいた。実際には、初めから退却を目的としていたのではないだろうか。華琳や秋蘭も呆れた様な、それでいてどこか微笑ましいものを見るような、微妙な表情を浮かべている。曹仁に会ったことのない桂花は、何となく納得のいかない様子だが、敢えて口を挟んでは来ない。蘭々の描く曹仁は、過大あるいは過少に表されることが多い。なんとなくそうしてしまう気持ちは、幸蘭にも理解出来た。要は、曹仁が二人にとってこの上なく近しい存在、家族であると言うことだった。

「……しかし、劉備というのはなかなかの人物のようね。それに付き従う者達も優秀なようだし」

華琳は劉備に興味があるようだった。蘭々からの書簡以外にも、義勇軍に関してはいくつもの情報が集まってきている。それらの情報を取りまとめる幸蘭にも、劉備は今後益々名を挙げ、天下の一雄となり得る人物に思えた。

「欲しいわね。全員引き連れて帰って来ないかしら」

「「か、華琳さまぁ」」

春蘭と桂花がすがるような表情を浮かべて、上目使いで華琳を見つめている。普段はいがみ合っているが、こういう時だけは息が合う。伝え聞く劉備達の容姿が、別の意味でも華琳の食指を動かしそうなので不安なのだろう。

「それで、書簡は最後まで読み終えたのかしら?」

そんな二人を無視して、華琳が言った。

「もう少しだけ続きがありますね。あら、華琳さま宛てみたいですよ」

「あら、なにかしら? 続けて頂戴」

「はい。追伸、華琳さまへ。兄貴が桃香さんのでっかいおっぱいに挟まれて、鼻血を吹いていました」

「…………………………………………………………そう」

長い沈黙の後、華琳が一言そう漏らした。

「そ、その、華琳さま? わたくしめにひと言ご命じ下せれば、いくらでも揉み育ててさしあげます」

春蘭が空気も読まずに、むしろ期待のこもった表情でそう言った。秋蘭は呆れた様な顔をし、桂花は馬鹿にしたような表情を浮かべた。

「……春蘭。あなたは、私の胸に何か思うところがあるのかしら?」

「い、いえっ、決してそのようなことはっ!」

春蘭は華琳の引きつった笑みにようやく己が失言に気付いたようだった。桂花が楽しそうにその様を見ている。

「お仕置きが必要ね。今夜、私の幕舎に来なさい」

「は、はいっ!」

「そんなっ!」

華琳のその言葉で、春蘭と桂花の表情が一変した。春蘭は喜色を浮かべて頬を上気させている。対する桂花はそれを悔しそうに睨みつけている。

「で、蘭々からの報告は、それで終わりかしら?」

華琳が気を取り直したように、そう言った。

「はい」

答えて、幸蘭は書簡を再び巻き戻した。そこに緩んだ表情のまま春蘭が声をかけた。

「幸蘭、そのもう一本ある書簡はなんなのだ?」

「ああ、これは仁ちゃんからの書簡です」

「何っ、仁からの!」

曹仁から書簡が届けられたのは今回が初めてだった。

「それは読まんのか?」

「う~ん、これはどちらかというと私個人に宛てたもののようなので。用件を書いただけで、体裁も整っていませんし。春ちゃんがどうしてもと言うのなら読みますけど」

「当然、どうしてもだ!」

「そうですか」

幸蘭は曹仁からの書簡を開いた。華琳は黙ってこちらを見ている。その表情がすでに強張って見えるのは気のせいだろうか。

「お、おい。姉者」

「なんだ、秋蘭。まさか、お前は仁からの書簡を聞きたくないのか?」

「いや、そんなことはないが。しかし嫌な予感がするぞ」

「嫌な予感?」

「では読みますね」

二人の従妹の会話を流して、幸蘭は読み始めた。

「最近、蘭々が胸の発育のことで悩んでいるみたいなんだ。姉ちゃんからも言ってやってくれないかな、華琳と違ってお前はまだまだ先があるんだから、そんなこと気するなって」

いつかと同じように、場が凍りついた。今度ばかりは春蘭も、怯えたような表情で口を噤んでいる。

「……」

「ひゃふっ! か、華琳さまっ!? こ、こんなところで」

華琳はそんな春蘭に無言で手を伸ばすと、その胸を揉みしだいた。

「…………こんなもの、人の器量には何の関係もないんだから」

小声で何かを口走りながらも、その手は休まず動き続けている。

「ひゃあんっ! ちょっ、華琳さま!? そんな胸を! き、季衣が、見ていますから」

嬌声とも非難ともつかない春蘭の声は完全に無視され、華琳は一層強く揉みしだいた。名を挙げられた季衣は、よくわかっていないのか、戸惑うような表情を浮かべている。

「そうよ! むしろ、大きい方が邪魔になるくらいでしょうよ」


「……幸蘭」

「なんですか、秋ちゃん?」

その様子を眺めていた幸蘭に、秋蘭が話しかけてきた。

「一応聞いておくが、お前、仁のことが嫌いなわけではないんだよな」

「当然じゃないですか。私は仁ちゃんのこと、大好きですよ。戦場で槍を振るう格好いい姿も、普段の子供っぽい笑顔も大好きです。もちろん、華琳さまにいじめられている時のちょっと情けない姿だって」

「……そうか」

秋蘭は納得顔で頷いた。自らと姉である春蘭の関係に思い至ったのかもしれない。そう言った意味で、この従妹は一族の中で一番自分に似ていると幸蘭は思っていた。

「うふふ、再会が楽しみですね♪」

その日はそう遠くない、幸蘭は理由もなくそう思った。





「どうしました、曹仁殿」

突然白鵠を止めた曹仁に、愛紗が馬を寄せてきた。

「いや、なんでもない。何となく悪寒というか、嫌な予感がしただけだ」

「嫌な予感?」

「まあ、ただの―――」

「申し上げます!」

曹仁の声を遮って、別の声が響いた。声は周辺に放っていた斥候の一人のものだった。

「どうした?」

「農民を襲う黄巾賊を発見! 前方4里の地点です!」

「数は?」

「約200!」

「……よし、騎兵のみで急行する! 角、蘭々、鈴々は俺と共に騎馬隊を指揮。桃香さんと愛紗さんは歩兵を率いて後から追って来てくれ」

50騎以上に増強された騎馬隊に、自分と角、蘭々、そして鈴々の武があれば十分だと判断した曹仁は、すぐさま指示を飛ばした。

「わかったのだ! 鈴々、前回は見てるだけだったから、その分大暴れしてやるのだ!」

「はあ、仕方ありませんね。鈴々、曹仁殿をくれぐれもお守りするのだぞ」

「騎馬隊全軍、行くぞ」

相変わらずの愛紗の心配性ぶりに苦笑をもらしながらも、曹仁はあえて反論はせず、馬を駆けだした。今は時間が惜しい。

「民の嘆きを察知されるとは、さすがは乱世を鎮めるべきお方だ」

愛紗のその囁きは、騎馬隊の巻き起こす音にまぎれ、曹仁の耳には届かなかった。




[7800] 第11話 官軍の将軍
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/06/12 20:51


黄巾の狂信者の中に紛れ込ませていた密偵が、一枚の紙を持って帰陣した。軍議に使われる少し広めの天幕には、主だったものが集まっている。

「ここに書かれた地に、この日程で張角が現れるのか?」

公演日程、と大きく書かれたその紙を見ながら曹仁は尋ねた。そこには日付と地名が並んで箇条書きされていた。書かれた日付の大半は過去のもので、下から数えて3つだけがこれからのものだ。そして地名の方はどれも黄巾党の大規模な拠点のある地である。

「はい。渠帥と呼ばれる指揮官と極々一部の上級幹部にのみ配られているものです」

こちらが情報を得たことは気付かれてはいないはずだが、一度その地を襲えば、その後の日程は変更されてしまうだろう、と密偵の男は疲れ果てた表情で続けた。元々は曹仁と共に江湖を渡り歩いた好漢である。それだけに大胆な潜入もやってのけたし、侠客出身者が多い黄巾の幹部連中にも受けが良かっただろうが、この手の男には辛い任務である。

「お疲れ」

曹仁は必要なことだけ聞き出すと、短く労いの言葉をかけ、退室を許可した。角が男の肩を軽く叩いている。後で二人で酒でも持って苦労話のひとつも聞きに行こう。


「さて、機会は一度だけか。…………朱里に雛里、二人の考えは?」

「は、はひ。私たちですか!?」

「あわわ」

「むっ」

新参の二人に話を振ったことに不満があるのか、愛紗がわずかに眉をひそめた。曹仁は気付かないふりで、二人に紙を渡した。しぶる愛紗を押し切って、二人を軍議に参加させたのは曹仁だった。


褚燕率いる賊徒討伐後、曹仁達は白蓮に別れを告げ、各地を転戦した。
名を挙げたことによる志願兵の増加と、敵兵の吸収を繰り返すことで、義勇兵はすでに兵数2000近くまで膨れ上がっていた。
朱里――諸葛亮と雛里――鳳統も劉備の盛名を慕ってやってきた者達だった。農民達と共に黄巾賊に襲われていた二人を助け、仲間に加えたのはつい最近のことである。


曹仁が二人に抱く期待を知らぬ当人たちは、いきなり意見を求められるとは思ってもみなかったのか、激しく狼狽して二の句を告げずにいる。

「はぁ。落ち着いて、自分の考えを言うといい」

愛紗がこちらに向けていた視線を、二人に移すとため息交じりに言った。

「「は、はひっ!」」

愛紗の言葉はむしろが逆効果の様でもあったが、二人は何度か深呼吸を繰り返すと、口を開いた。






官軍と連携して張角包囲網を敷く、という朱里と雛里の提案を入れた桃香達は、北中郎将の盧植を訪ね冀州までやって来ていた。桃香の師である盧植は、左中郎将皇甫嵩、右中郎将朱儁と共に、黄巾討伐のために任命された3将軍の1人となっていた。盧植が陣を構えるという魏郡へと向かう途中、桃香達は囚人を護送する一団と出会った。


「盧植先生!」

恩師の姿を目にするや、桃香は駆け寄った。

「お主は……玄徳か!?」

「はいっ! 先生、お久しぶりです」

三年ぶりの再会を果たした師弟の間には、二人を分かつように鉄格子が張り巡らされていた。盧植は罪人を移送する檻車に乗せられていた。一団が捕らえていた囚人とは盧植のことであった。

「お主の最近の活躍、我が耳にも入っているぞ」

「そんなことより! どうして先生がこんな目に?」

表向きの事情は、檻車を護衛する兵達から聞いていた。黄巾賊討伐の任を放棄した罪に問われているというのだ。兵達も先日まで盧植の指揮下で賊徒と戦ってきた者たちだ。誰一人としてそれを信じる者はなく、桃香達の面会にも目をつぶってくれている。

「こうして獄に繋がれてはいるが、私には天に対して何ら恥ずべきことはない」

盧植はそういうと、胸を張って背筋を伸ばした。女性としては非常に大柄と言っていい彼女がそうして居住まいを正すと、それだけで場全体が引き締まる感じがする。

「何があったんですか?」

桃香がさらに尋ねると、盧植は苦笑交じりに話し始めた。

事の始まりは、帝が気まぐれに発した、宦官達による戦場の視察である。宦官達は各地を回りながら賄賂をかき集め、ここ冀州にも一人やって来ていた。盧植は部下たちに何を言われようと、決して賄賂を贈ったりはしなかった。小黄門の左豊というその宦官には、その本来当然と言っていい行動が、自分への冷遇と感じられたようだった。都に取って返した左豊は、直ぐに盧植を貶める讒言を帝の耳に囁いたのだった。

「そんなことって!」

「仕方ないさ。これも漢室に仕えていながら、ここまでの腐敗を許してしまった私自身の責任でもある」

「そんな! 先生は悪くありません!」

盧植がどれだけ民を想い、国を想ってきたか、彼女の不遇時代を知る桃香にはよくわかっていた。桃香は盧植に学問ではなく志を、紙に書かれた知識ではなく、何かを考えるということを教わったと言っていい。盧植もまた桃香に、学問を覚えこませるのではなく、国や民の在り方を考えさせることに時間を費やした。今の自分を形作る多くのものを、盧植から教わったと桃香は思っていた。

「まあ、いきなり死罪となるわけでもない。あまり心配するな。……ところでお主らは、一体ここで何を? もっと南の方で活動していると聞いていたが」

「あなたに、お力を借りに来たのです」

いつの間にか寄って来ていた曹仁が、憤りの冷めやらない桃香に代わって答えた。落ち着かせるように肩に置かれた曹仁の手が、少しだけ桃香の興奮を治めてくれた。


お互いに軽い自己紹介を交わした後、朱里と雛里の口から盧植へ現状が説明された。時につかえながらではあるものの、理路整然としたその話に、状況整理を兼ねて桃香達も耳を傾けた。

「なるほど。……ならば、 ―――皇甫嵩の元に行くとよい。今は長社にある城で、黄巾賊10万と対しているはずだ」

「左中郎将、皇甫義真殿ですか」

曹仁が納得したように頷きながら返している。皇甫嵩の勝ち戦の噂は、いくつか桃香の耳にも入っていた。

「うむ。天下も民も想わぬ俗物だが、戦争は天才的だ。その軍略は天下に並ぶもの無しと言っても過言ではなかろう。」

盧植はそこまで言うと、今一度居住まいを正した。
そして、曹仁達に向けて頭を下げた。その大きな体が小さく縮こまって見える。

「曹仁殿、それに皆さん。玄徳は出来の悪い弟子ですが、誰よりも心根は真っ直ぐです。今こうして良き仲間達に恵まれている姿を見られて、安心いたしました。玄徳のことを、これからもよろしく頼みます。」

「……先生」

顔を上げた盧植は手を伸ばすと、鉄格子越しに桃香の頭を撫でた。桃香は目を閉じ、されるままにした。大きな手を、暖かく感じた。





長社の城はいくらか補修されてはいるものの、いつ崩れてもおかしくない様な古城であった。そこに3万の兵を率いて皇甫嵩が籠っていた。対する10万の黄巾賊は城を包囲することなく、100里ほど離れた位置で陣を敷いていた。義勇軍はなんの妨害も受けることなく、城へと辿り着くことが出来た。

曹仁と桃香はろくに用向きも聞かれぬまま、その一室に案内された。明かり取りの窓が一つあるだけの、薄暗いその部屋に二人の女性が待っていた。

「盧植に紹介されて来たとか?」

相手は官軍の将軍である。もっと面倒な手続きが必要かと思っていたが、どうやら直接皇甫嵩の元へと案内されたらしい。口を開いた女性は盧植のように巨躯というわけではないが、ただそこに座っているだけで強烈な威を放っている。おそらく彼女が皇甫嵩だろう。盧植もそうであったが、将軍にしては若い。30をいくつか過ぎたぐらいだろうか。
もう一人の女性は特に緊張感もなさそうに、その横に立っている。にこやかに笑みすら浮かべているが、そのたたずまいには一分の隙もない。剣を佩いているが、かなり使いそうだと曹仁は感じた。

「はい、わたしは劉玄徳といいます。盧植先生の弟子です」

「俺は曹子孝」

曹仁は放たれる威に負けぬよう、短く、意識的に口調を強めて答えた。官軍が上、義勇軍が下という図式を作りたくはない。

「ほう、聞いた名だな。私が皇甫嵩だ。……で、用件は何だ?」

やはり正面に座る女性が、左中郎将皇甫嵩であった。

「黄巾賊に関する重要なじょ―――」

「先生を助けてください!」

曹仁の言葉は、桃香から発せられた、叫ぶような声に打ち消された。

「助けろ、とな。一応話は聞いているが」

「お願いします、皇甫嵩さん! 先生は悪くないんです」

「まあ、落ち着け。あやつが悪くないことなどわかっているし、心配せずともあやつなら大丈夫だ」

「本当ですか!?」

「ああ、大将軍の何進めが、そう簡単にあやつを手放すまい。私も政治の話には疎いので詳しいことは分からんが、あれは何進の大事な手ごまの一つのようだからな。あやつにしてみれば、不本意なことかもしれんがな」

「良かった」

桃香が安堵の声を漏らす。見ているこちらまで幸せな気分にさせてくれる様な、笑みがこぼれる。

「あやつめ、弟子に恵まれおったな。私の弟子とは大違いだ」

皇甫嵩はそれを優しげな表情で見つめている。

「……しかし、良いのか。そんなことまで俺たちに話してしまって?」

曹仁は当然の疑問を口にした。

「かまわんさ。私には直接関係のない話だ」

皇甫嵩は、本当に何でもない事の様に言ってのけた。

「……こちらも、もったいぶらずに胸襟を開いて話した方が良さそうだな。……あと二人、呼んでいいか?」

信頼できる、何となくそう思った。曹仁は掴んでいる情報を包み隠さずに全て明かすことに決めた。詳細の説明をするのは、自分より朱里と雛里の方が適任だろう。



「なるほど、それで私というわけか」

「何でも、天下に並ぶもの無きほどの軍略の持ち主だとか」

「ほう、盧植のやつがそう私を称したか?」

「ええ、それに俗物だとも」

「ちょっ、ちょっと、曹仁さん!?」

「くくっ……あーっはっはっは! あの大女め、言いよるわ」

桃香は慌てているが、皇甫嵩は気持ち良さそうに大笑した。そして、こちらを覗き込むようにして言った。

「それで、実際に会ってみて、お前はどう思う?」

「確かに俗物。俺も人のことを言えたもんじゃないが」

「あははっ!」

「軍略の方はまだ目にしていないので、何とも」

「あーっはっはっは! 今のところはただの俗物というわけか! 面白いな、お前。私はお前が気に入ったぞ」

「それは気が合いますね。俺もあんたが気に入ったよ」

「むぅ」

「はわ」

「あぅ」

二人見つめあうと、左右から不満そうな声が上がった。

「しかし、よくこんな情報集められたものね。官軍でもそこまでの情報を集めた者はいないというのに」

剣を佩いた女性が、初めて口を開いた。

「俺たちは官軍ほどお行儀が良くないからな。ああいった連中のなかに入り込むのは、あんた達よりは一枚上手さ」

「なるほどね。……私は孫策、字は伯符。私も朱儁将軍の元からこちらに移ってきたばかりよ。劉備に曹仁、それに軍師の二人も、お互い新参者同志よろしくね」

「はい。よろしくお願いします、孫策さん」

「江東の虎と言われた孫文台殿が娘、孫伯符殿か。こちらこそよろしく」

「は、はひ。わ、私は諸葛亮って言います。字は孔明です。よろしくおねがいします。」

「ほ、鳳統でし! よ、宜しくです!」

二人の愛らしい自己紹介に場の空気がなごむ。なんとも可愛らしい。

「他にも紹介したい者がいるのだけれど、生憎今出ているの。―――あらっ、ちょうど戻ったかしら?」

窓の外を覗きながら、孫策が言った。曹仁も並んで覗きこむと、200人ほどの集団が、こちらに向かって来ていた。

「曹子孝」

声に振り向くと、不敵な笑みを浮かべた皇甫嵩がこちらを見ていた。

「我が軍略、早速見せることが出来そうだ」







官軍の奇襲部隊により、10万の兵力を維持する兵糧がほとんど残らず焼かれていた。

波才は、兵の損耗を嫌って攻城戦を避けたことを悔いていた。相手は黄巾党討伐の命を受けた官軍である。いつまでも城に籠っていることは出来ない。必ずいつか城を出て合戦を挑んでくるはずである。3倍近い兵力での野戦。これなら練度の低い自軍であっても、最小限の犠牲で勝利を収められるはずだ。
しかし、奇襲により兵糧を焼かれた。わずか200ほどの兵だったという。それだけの寡兵に兵糧を焼かれたうえ、ほとんど無傷で離脱されてしまっている。滞陣が続くなかで兵達の間に生まれていたゆるみを見抜けずに放置した、自身の失策であると波才は感じていた。
周囲に10万の兵を養えるだけの蓄えがあるような、大きな集落はない。もはや城の兵糧を奪う他、道は残されてはいない。兵糧は残り少ないが、逆にそのことで兵達に緊迫感が戻っている。城は朽ち果てたものを補修して、何とか体裁を整えているにすぎない。犠牲さえ恐れなければ、崩すべき隙はいくつでもある。そして兵力は3倍。3日以内に城を落とす。波才はそう思い定め、兵を走らせていた。





「あれね」

木々の切れ目から、敵軍が見えてきた。実に10万にも達しようという大軍である。隊列も満足に組まぬまま、ただ移動するだけでも威圧感がある。

「まだこちらには気付いていないようだな」

隣で冥琳が言った。その言葉通り、こちらの存在に気付いた様子はない。
何の警戒もなく、平野を突き進んでいる。山間を縫うように走る間道を通るこちらが、見えていないようだ。

「留守番で貯まった鬱憤を、晴らさせて貰いましょうか」

「仕方あるまい。策殿に隠密活動は難しかろう。それに、冥琳の行軍には逆に鬱憤が貯まるばかりじゃったぞ。儂も暴れ足りんわい」

昼は潜み、夜間だけ隠れる様に進んだという。確かに自分には耐えられないかもしれない。

「それじゃあ祭、一緒に暴れましょうか♪」

朱儁の元から抜け、皇甫嵩に付いたことに大した理由はなかった。皇甫嵩の元にいた方が手柄が立てやすい。何となくそう思ったのだ。あえて言うならば、勘である。戦に関する自分の勘には天性のものがあると、幼い頃から言われ続けてきた。勘を働かせるとき、その答えに行きつく自明の理が孫策にはあった。だから、正確には勘ではなく、他の者がそれを理解せぬだけだと思っていた。しかし、今回は違った。何の理由もなく、ふと思いついたことだった。本当の意味での勘だった。果たしてそれが当たるのか。不安を感じ始めた頃、天の御遣いと噂される男が現れたのだった。

「敵軍を崩す! 全軍突撃!」

皇甫嵩の声が響いた。孫策は一番槍を取るべく、馬を駆けた。





「下がるな! 方陣を組め!」

地から湧き出る様に、突如現れた敵軍だった。自軍がほとんどなんの抵抗もなく切り崩されていく。波才は悪夢でも見ているような気分で、その様を眺めた。
こちらに比べれば、決して大軍ではない。今見えているのは5000に達するかどうかの騎馬隊だけだ。歩兵隊の姿はまだ見えない。いったいどこから現れた軍なのか。決まっている。この付近でこれほどの兵を持つのは、皇甫嵩率いる官軍のみ。

「くそっ、斥候は何をしていたのだ」

ここでの野戦は予想外の事態だが、斥候は十分に出していたのだ。あれだけの兵数だ。幾ら間道を通ってこようとも、一度ぐらいは斥候に発見されているはずである。
また、城の周辺に置いた監視の者からも何も言ってきていない。波才が最も恐れていたのは、城を放棄して退却されることだった。そうなれば兵糧は手に入らず、餓えた10万の兵を抱えることになるのだ。城の周辺には多くの監視の者をつけていた。その者達からの連絡も来ていないのだ。
波才が思考に囚われている間にも、騎馬隊のみで構成された5000騎によって、自軍が崩されていく。騎馬隊は縦横無尽に駆け回っている。―――騎馬隊。

「……まさか」

波才は一つの結論に行き当たった。信じ難いことだが、他には考えられなくもあった。

皇甫嵩は斥候よりも速く、騎兵のみで駆けて来たのだ。20倍の兵を有する、この軍を目掛けて。





曹仁は丘の上から、敵軍の動きを観察していた。周囲には、曹仁率いる義勇軍の騎馬隊300騎がいる。そしてすぐ隣には、皇甫嵩の姿があった。
敵軍に一当てした後、その中を突っ切る様に駆け抜けて離脱し、周囲を一望できるこの丘に陣取ったのだった。5000騎の騎馬隊は、現在孫策と彼女の部下の周瑜と黄蓋が率いている。兵糧の襲撃の指揮もしていたこの二人は、半日ほどの休みをとると、この作戦にも参加してきていた。
兵糧の奇襲と、その後の急襲。皇甫嵩率いる官軍30000、孫策率いる私兵団を含む官軍10000、そして曹仁達義勇軍2000。総勢42000の兵力のうち、作戦に参加しているのは騎馬隊5000のみである。相手の戦意の間を外した、大胆な作戦であった。

辛うじて応戦を試みていた敵軍も、騎馬隊の何度目かの突撃で、霧散するように潰走を始めた。騎馬隊の先頭を走る孫策の剣を振るうところ、まるで屍山血河が出来るようである。虎の子はやはり虎であった。

「……あれか」

隣で皇甫嵩が声を出した。

「どれだ?」

皇甫嵩が、曹仁にも解るように戦場を指でさした。指の示す方を追って注視すると、潰走する敵兵の中に、他と比べ足並みのそろった集団がある。わずかずつだが周囲の敵兵がそちらに向けて集まっているような動きも見える。

「見えたか?」

「ああ」

「では行くぞ。お前達の軍だ。お前の呼吸で動かせ」

その声に含まれる、こちらを試すような響きを、曹仁は聞き逃さなかった。私は軍略を見せた。次はお前の番だ、と。

「見てろよ。―――敵軍の大将、波才を討つ! 全軍続け!」





曹仁の率いる騎馬隊は精強だった。曹仁や関羽といった将はもちろん、兵の練度も官軍の精鋭である自身の軍に負けていないと皇甫嵩は思った。
進路上の障害となる敵兵のみを討ち、真っ直ぐ目標目指して突き進んでいく。

目標の集団は、すでに1000人ほどが集まりつつあった。やはり間違いない。敵将波才はあそこにいる。

「行くぞ!」

曹仁が馬を加速させた。曹仁の駆る白馬は、周りを突き放すように集団目掛けて駆け抜けた。

「おおおおおおぉぉーーーーーっ!!」

それに遅れまいと、騎馬隊から喚声が上がる。曹仁が敵軍に突っ込む。続いて関羽達が、そして兵達が敵軍にぶつかった。
皇甫嵩は剣も抜かず、騎馬隊の中ほどで隊の動きを見つめた。
曹仁が、まるで初めからそこに有ったもののように、敵軍に道を作っていく。それを関羽達がさらに斬り開いていく。すぐに敵将の前まで到達していた。

曹仁が駆ける。敵将に寄り添うようにいた騎兵二人が、遮るように前に出る。その間を曹仁が駆けた。二人の姿が馬上から消えた。曹仁は手傷一つ負ってはいないが、進路を逸らされたようだった。敵将のかなり離れた場所を駆け抜けている。
曹仁が馬首を返す頃には、代わって関羽が敵将に斬り掛かっていた。青龍刀を真っ直ぐに振り下ろす。受けようとした剣ごと、頭から腹部までを斬り下ろし、ようやくその勢いは治まった。

「敵将波才、劉玄徳が一の家臣、関雲長が討ち取った!!」





「俺たちの義勇軍はどうだった?」

追撃の指示を出し、捕虜への対応を指揮していた皇甫嵩が、馬を寄せてきた。曹仁は自分から声をかけた。

「正直言って驚いた。よくぞあそこまでの精兵に育て上げたものだ」

「……」

曹仁は正面からの褒め言葉に、何となく照れ臭く感じて無言で頷き返した。自分が育て上げた兵を褒められるというのは、何とも言えないこそばゆさがある。まるで父親の心境とでも言うのだろうか。

「ま、お前自身は少し格好悪かったな。勢い込んで敵軍に乗り込んでおいて、大将首は結局関羽に奪われた形だからな」

「うっせえ」

「くくっ。で、お前から見た私の評価はどうなった?」

「俗物。…………で天才……かも」

「はははっ」

皇甫嵩が楽しそうに笑い飛ばした。



[7800] 第12話 再会と1つの別れ(?)
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/06/21 08:05

「曹仁、いるか?」

「ここだ、将軍」

川沿いに集まる義勇兵達の中に、手を振る曹仁の姿を認め、皇甫嵩はそちらに足を向けた。

「お前、何をしている?」

「見て分からないか?」

川の中には何かの縄の様なものが浮かんでいて、それを兵達と共に洗っているようだった。辺りには鼻を突く強烈な臭いが漂っている。血の匂いも混ざっているようだ。

「それは内臓か?」

「そうだ」

「人間のではあるまいな」

「まさか。孫策殿と黄蓋殿が獲ってきた猪の腸だ」

そう言って、曹仁は持っていた内臓をちょっと持ち上げて見せた。人の物とそれがどう違うのか、見せられたところで皇甫嵩には分からなかった。

「で、お前は何をしている?」

「料理の下ごしらえだ。見れば解るだろう」

「ほお。お前、料理など出来るのか」

「まあな。野営で作る雑多なものだけだが、これでも結構自信はある。まずいものを出すとほんとに食わない女に鍛えられたからな」

「ふむ」

昼飯時まではまだ少し時間がある。今から準備をすれば、ちょうどいい時間になるのだろう。辺りには到底食欲を喚起することない臭いが満ちているが、空腹自体は感じている。

「で、用件は?」

作業の手を休めてこちらを見る曹仁を、皇甫嵩は見つめ返した。

「…………」

「…………食いたいなら、向こうで待っていてくれ」

曹仁が指さす先には、孫策に黄蓋、それに義勇軍の将達が集まってこちらに視線を送っていた。



波才を撃破してから、10日程が経過していた。皇甫嵩達は、未だ長社の地に留まっていた。決戦の地と思い定める広宗までは、500里以上も離れている。最も城内の兵は少しずつ彼の地に向けて進発させている。曹仁達の義勇軍2000の出発は、最後と決まっている。義勇軍は進発する少数部隊と、無人と成りつつある城を覆い隠すように、城の周囲に陣を敷いている。

「いいところにやってきたな、嵩殿」

寄っていくと、黄蓋が声をかけてきた。自分と近い年齢の彼女とは、すでに気の置けない関係となっている。江東の虎孫堅に従い、今はその娘孫策の私兵のような立場にある彼女だが、もし官軍の下で功を積み続けていれば、自分と同じ地位にいてもおかしくはない。皇甫嵩はそう思うほどに黄蓋の実力を買っていた。もっとも、ただ漫然と功を積み、今や将軍の地位にいる自分と彼女、どちらが充実した人生を送っているかは定かではないが。

「随分と大猟だったのではないか、黄蓋殿」

内臓を洗い終わった曹仁が兵達と共に肉を切り分けている。10頭分近くはありそうだった。水を張られた大鍋が20ほど火に掛けられていて、そこに解体された猪の骨が放り込まれていく。同時に、香草や野菜のようなものもいくつか入れられている。

「うむ。曹純と張飛から、曹仁が野営地で作るものが旨いと聞いて、作らせようと思ったのだがな。あやつめ、義勇兵全員の分がないと作らんと言いおってな」

皇甫嵩も野営では兵達と同じものを食べる様にしていた。それで、兵達の状況が頭ではなく体で少しは理解出来るのだ。曹仁にそこまでの考えがあるかはわからないが、少なくとも急造の義勇軍を良くまとめてはいた。精神的な支柱として劉備がいて、実際的なまとめ役として関羽と曹仁がいる。そしてもう少し兵に近いところに張飛や曹純、牛金がいる。良い軍だった。

眺めていると、鍋の中に肉と内臓が入れられていく。肉は入れる前に軽く火で炙っている。肉が入るものと内臓が入るものの二つが別に作られているようだ。山菜や茸、野菜も次々に切られ、鍋に入れられていく。猪の解体には参加していなかった諸葛亮と鳳統もそれを手伝っている。なかなかに手際が良い。可愛らしい外見と相まって、まさに女の子という感じだ。曹純と牛金は最初から手伝っていたし、劉備も危なっかしい手つきで野菜を切っている。

「二人は手伝わんのか?」

皇甫嵩は傍らに座る関羽と張飛に尋ねた。張飛は待ちきれないという表情で料理の様子を見つめていた。対する関羽は居心地悪そうに小さくなっている。

「は、はいっ!?」

「んにゃ? 鈴々は食べる係なのだ!」

狼狽する関羽と、無邪気に微笑む張飛。関羽がふてくされた様に続けた。

「ひ、人には得手、不得手というものがありますから」

「なるほど。ま、私も料理などは出来ん。適材適所というものだな」

関羽が、我が意を得たり、とばかりに深く首を縦に振った。

「そろそろ出来るみたいよ」

孫策の声に視線を戻すと、曹仁が一つ一つの鍋を回って、何か香料の様なものを加えている。食欲を刺激する良い匂いが、ここまで漂って来ていた。



「曹仁、この汁は中に何か溶かし込んでいるようだが、脳か? それとも肝か?」

「両方だ。良く分ったな。ひょっとして黄蓋殿は料理をするのかな?」

「意外か?」

「いや、そうでもないな」

「何じゃ、つまらん反応じゃな」

「猪がちゃんと血抜きされていたからな。そうじゃないかとは思ってた。まあ、理想を言えば抜いた血も持ってきてくれると良かったんだけどな。煮込む時に少し混ぜると味が深まる」

「ほぅ、次からはそうしよう」

「まあまあ、おいしければ何でもいいじゃない。お酒にも合うし」

孫策が、曹仁と黄蓋の間に割り込むようにして言った。皇甫嵩も同感だった。とろみのある汁で煮られた内臓が皇甫嵩は気に入った。内臓を洗うところを見なければ、なお良かったのだが。





食事を終え、城内に戻ろうとする孫策達を、曹仁は呼びとめた。

「これは何?」

「肝臓の腸詰だ。周瑜殿に。癖があるから嫌いかもしれんが」

「冥琳に?」

「ああ。あんたら二人が朝っぱらから狩りに行って、将軍もここにいるってことは、割を食ったのは彼女だろ」

孫策、黄蓋と皇甫嵩が食べたとはいえ、結局狩りの獲物はほとんど全てが義勇軍の腹の中だった。昼間からそれを肴に酒を飲んでいる3人には感謝の気持ちも沸かないが、その尻拭いで働いているだろう周瑜に対しては別だった。

「へぇー、なかなか気が利くのね。……お酒に合いそうね」

「どんだけ飲むんだ、あんたは。周瑜殿にだぞ。あんたら二人で食べるんじゃないぞ」

「……冥琳は私のだからあげないわよ」

変に邪推されていた。
孫策も華琳と同じで女好きなのだろうか。それとも周瑜だけは特別か。とりとめのないことが頭に浮かんだ。

「それとも、あなたがわたし達の軍に来る? 歓迎するわよ。もちろん料理人としてじゃあなくて」

「孫策、貴様!」

続く孫策の言葉に、曹仁が何か答えるより早く、愛紗が詰め寄っていた。

「なあに、関羽? 聞けば、あなた達ただ同盟を結んでいるだけだそうじゃない。私が曹仁を誘うのを、あなたに止める権利があるのかしら?」

孫策は冷ややかな表情を浮かべている。

「うっ、それはそうだが。しかし、曹仁殿は我々の――」

「盛り上がっているところ悪いんだが」

曹仁は二人の間に割って入るようにして、口を開いた。

「俺はまだ誰にも使えるつもりはないよ、孫策殿」

「あら、残念」

言って孫策は、愛紗に向けいたずらっぽく微笑むと、あっさりと城へと向かって踵を返した。冗談半分に口にしただけだったのだろう。

「周瑜殿にだぞ!」

孫策は手だけを振ってこちらに答えると、真っ直ぐ城へと引き返していった。それに付き従う様に、黄蓋も戻っていく。

「…………」

後には微妙な空気だけが残った。

「そうだ、将軍。あんた、俺に何か用があるんじゃなかったか?」

曹仁は気を取り直すために、思いついたことを口にした。

「おお、すっかり忘れていたわ。……お前に、使者を頼みたいのだ」

「使者? 俺に?」

思いの外重要な話に、曹仁は意表を突かれた。皇甫嵩がのんびり食事などしているから、大した要件ではないと思っていたのだ。

「ああそうだ」

「俺は、何の官位も持っていないんだぞ」

「分かっているさ。しかし今回はお前が適任で、そしてお前たちの軍師の策を実行する上で必要な任務だ」

朱里と雛里の策に必要なことなら、否やはなかった。

「そういうことなら引き受けるが。……で、どこに行けばいいんだ?」

「うむ、それはな―――」










「良く来たわね、仁」

久し振りに会った華琳は、にこやかな表情で言った。それと分かっていてもつい見惚れてしまうような、見事な作り笑いだった。
曹仁が使者として送られたのは、決戦の地広宗より西に300里ほど言った地点、華琳が本営を置く場所だった。通された幕舎で待つことしばし、華琳が供も連れず一人でやって来たのだった。騎兵10騎に鈴々と蘭々を伴って来ていたが、ここには曹仁一人だけが通され、鈴々は兵をまとめて外で待機している。蘭々は到着するや、幸蘭に会いに行くと言って何処かに行ってしまった。
幕舎は、華琳が私室として使っているもののようだった。うず高く兵法書の類が積まれているかと思えば、詩集が列をなしてもいる。そんな中、これ見よがしに机上に置かれる一本の竹簡に、曹仁はすぐに気付いた。捨てたはずのものである。いったいどうやって手に入れたのか。間諜でも家に潜り込ませていたのだろうか。あえて目立つ場所に置いてある以上、わざと見せてつけていると考えるべきだろう。

「お久しぶりです、曹孟徳殿」

「仁?」

意図的に出した硬質な声に、華琳の表情がわずかに険しくなる。曹仁は構わず続けた。

「旧交を温めたい思いはありますが、我が身は左中郎将皇甫嵩殿の使者。公私は分けねばなりません」

「ふぅん、そういうやり方。……ならばこちらも、相応の対し方をする必要があるわね。このような私室に通してしまった非礼をお詫びします、使者殿。しばしお待ちください」

華琳は意地の悪い笑みを浮かべながら、幕舎から出ていった。馴染み深いその笑顔を見るのは、実に一年半ぶりであった。あの笑みを前に、自身が無事に済んだことはないのだ。曹仁は背筋に冷たいものを感じた。



「おおっ、仁! やっと帰ってきたか!」

「……」

「おいっ、仁!」

「……」

「仁! お姉ちゃんを無視するやつがあるか!」

案内の者に連れられてやって来た幕舎は、華琳が私室として使っていたものと比べかなりの広さがあった。そこには華琳に春蘭、秋蘭、そして幸蘭と、彼女に寄り添うようにして蘭々の姿もあった。幕舎内に入ると、早速春蘭が声をかけてきた。曹仁は久しぶりの再会に沸き立つ心を押さえ、口を開いた。

「…………夏候元譲殿。私は皇甫嵩将軍の使者として来ています。私事に費やす時間を持ち合せておりません」

「はっ!? 何を言っているのだ、お前は」

「駄目よ、春蘭。曹仁殿は官軍の将軍様からの大切な使者の任に当たっているの。私語は慎みなさい」

「し、しかし、華琳さま!」

「曹仁殿、皇甫嵩将軍からの指示を聞かせて頂戴」

「はい」

「華琳さまぁ~、仁~」

「姉者、使者殿の御前だ。静かにしろ」

「うぅ~」

曹仁は、まず現在行っている作戦計画についての説明を行った。その間も春蘭の拗ねた様な声が何度となく耳に届く。その度に、秋蘭と幸蘭がわざとらしくも慇懃に春蘭を注意する。

「なるほど。挟撃に備えて周囲の黄巾党の拠点を私達で押さえて欲しい、そんなところかしら?」

「さすがは曹孟徳殿。その通りです」

曹仁は持っていた地図を開くと、具体的な作戦指示を行った。華琳には必要のないことだろうが、こちらの意図を理解した上ではずしてくるというのも、いかにも彼女がしそうなことだった。いざという時に、そんな指示は聞いていないでは困るのだ。

「うぅ~~、仁~」

「駄目ですよ、春ちゃん。お仕事の邪魔をしては」

(聞こえない、聞こえない)

曹仁は自分に言い聞かせた。



「それでは、皇甫嵩将軍からの指示は以上です」

「やっと終わったか!」

「駄目ですよ、春ちゃん。家に帰るまでがお使いです」

「そうだぞ、姉者。黙って見送ってやれ」

「部下が失礼をしたわね、使者殿」

春蘭の最後の攻勢に備えていた曹仁は、肩透かしを喰った思いだった。

「そ、それでは曹孟徳殿、作戦の方お願い致します」

「ええ、また会いましょう、曹子孝殿」

「そんなっ! 華琳さまぁ!」

「……蘭々、戻るぞ」

曹仁は蘭々を呼び寄せると、踵を返した。背後からは春蘭のすがる様な声が聞こえてくる。その声に後ろ髪を引かれ、曹仁は一歩が踏み出せずにいた。

「うぅ~、仁~」

「……」

「久しぶりに会ったというのに、どうして話してくれないのだ~」

「……」

「兄貴、行こうぜ」

「……ああ」

一歩踏み出した。

「うぅ~~、仁~~。…………ひっく」

「……」

春蘭の鼻にかかった声に思わず再び足が止まる。ゆっくりと振り向くと、春蘭と目が合った。合ってしまった。その目にはわずかに涙が溜まっている。

「ぐすっ、仁~」

曹仁の負けだった。

「……任務は終わったよ、春姉」

春姉、そう呼ぶと春蘭の表情が晴れ渡った。これで良かったんだ、曹仁がそう思っていると、春蘭の表情が再び一変した。視線から怒気が感じられる。

「お姉ちゃんを無視するとは何事だ!」

「ぐはっ」

飛んできた拳を、曹仁は避けずに受け入れた。もっとも、避ける気があっても避けられるとは限らない、本気の拳だったのだが。

「仁」

吹き飛ばされた体を立て直すと、いつの間にか華琳が目の前に立っていた。

「くっ!」

退路を求め振り返る。幕舎の出入り口。走った。

「幸蘭!」

「はいっ!」

「!」

一瞬の浮遊感。気付くと曹仁は地面に倒れ伏していた。足元を見る。右足首に軟鞭が絡み付いていた。30以上もの短鞭を鎖で繋ぎ合わせたその武器は、幸蘭の得意とする得物である。その先に視線を走らせると、やはり彼女の姿があった。

「うふふ。逃げられませんよ、仁ちゃん」

「姉ちゃん! どうして!?」

「今の私は華琳様の家臣ですから。……楽しそうですし」

「なっ!」

「それに仁ちゃん。蘭々ちゃんの言葉遣い、あれはどういうことでしょう? 蘭々ちゃんは仁ちゃんに許可はもらったと言っていましたが?」(*第3話参照)

「……そ、それは」

最近ではすっかり馴染んで、失念していたことだった。家を出るまでは、自分のことを“わたし”と言い、曹仁のことを“お兄さま”と呼んでいたのだ。

(…………あの頃の蘭々は可愛かったなぁ。今だって可愛いけど、また格別というか。またお兄様って呼んで―――)

「仁」

曹仁の現実逃避は長くは続かなかった。華琳が近づいてくる。

「お仕置きが必要ね」

「くっ! しゅ、秋姉、助けて」

「……骨は拾ってやるぞ、仁」

秋蘭の言葉が、無慈悲に曹仁に突き刺さった。





戒めを解いてやると、曹仁はその場に頭から崩折れた。打ちひしがれる曹仁の姿に、華琳は満足感を覚えた。
曹仁の私生活を丸裸にした「仁ちゃん日記(作:曹子廉)」の、幸蘭による朗読。これは良かった。話自体も興味深いものだったし、縛りあげられ猿轡を噛まされた曹仁の表情も最高だった。またやろう。

「うう、もうお婿に行けない」

「心配するな、仁。その時はお姉ちゃんがもらってやる」

「「「「!」」」」

その余韻を、春蘭の一言が吹き飛ばした。

「……春蘭、あなた、仁のことが好きなの?」

春蘭が曹仁を実の弟の様に可愛がっているのは知っていたが、そこまでの感情を抱いているとは思ってもみなかった。

「か、華琳様、顔が怖いですよ。何か怒ってらっしゃいます?」

「いいから答えなさい。仁のことを男として好きなの?」

「男としてどうかと聞かれますと、ぐじぐじと女々しく思い悩むところとか、直してほしいところもありますが」

「そ、そうよね」

「でも、私の知る男の中では一番好きですよ。いずれは私も曹家の未来を担うような子を作らねばですし、これから先、仁より好きな男が出てくるとも思えません」

「それで仁を婿にもらうと」

「はい!」

「……そういうこと」

自分にとっての曹仁の評価も、似た様なものであった。気の置けない家族であり、それなりに優秀な人材。男としては評価の対象外ではあるが、最も近しく、唯一愛情の様なものを感じる男でもある。その感情はあくまで家族に対するものではあるが、春蘭の考えも分からなくはない。

「ほぅ、姉者は時に真理をつくな。しかしそうなると、私も仁を婿にもらわねばならんな」

「なっ、秋蘭!」

「私と蘭々ちゃん、それに華琳様だってそうですよ~」

「ちょ、ちょっと姉貴!」

「幸蘭! 私がどうして仁なんかと」

図星を刺され、華琳は自分でも声が上ずっているのに気付いた。

「へぇ、華琳様。うちの仁ちゃんより素晴らしい男性とお知り合いなんですかぁ?」

「そ、それは知らないけど。ちょ、ちょっと幸蘭、顔が怖いわよ」

華琳は幸蘭の剣幕に思わずたじろいだ。この従妹は、時に自分に対しても強気に出ることがある。もっともそれこそが、春蘭や秋蘭には無い、幸蘭を傍に置く最大の利点であった。自身の在り方に厚みを持たせられるし、何より面白い。

「うふふ、よかったですね~、仁ちゃん。よりどりみどりですよ」

幸蘭に釣られて、先程から一言も口を開いていない曹仁へと目をやる。

「…………あれ、仁ちゃん?」

そこには、先ほど解いた縄と猿轡が置いてあるだけだった。

「……逃げたわね」

「なんとっ! 我らに悟らせず逃げ去るとは!」

それだけ腕を上げたということか。それとも、自分達が思った以上に狼狽していたということか。

「追いますか、華琳様?」

秋蘭が聞いてくる。一人冷静に見える彼女も、内心は動揺していたのだろうか。

「まあいいわ。十分に楽しめたし、使者としての要件は済んでいるのだからね」

春蘭は不満そうな表情を浮かべているが、今はここまでで良いと華琳は思った。いずれは必ず自分の元に帰ってくるのだから、少しぐらいの勝手は許そう。その方が次に会う時の楽しみが増えるというものだ。

「そ、それじゃあ、お――私も、ここら辺で」

蘭々がおずおずといった感じで言うと、出口へと向かった。幸蘭がその前に立ち塞がる。

「あ、あの、何かな? あね――お姉さま」

「蘭々ちゃんは少し残って、行儀作法の復習をしていきましょうね」

幸蘭の浮かべる笑みに、華琳まで背筋が凍えるのを感じた。





「お兄ちゃん、今、蘭々の叫び声が聞こえたのだ!」

「振り返るな、鈴々!」

曹仁の耳にも、確かに蘭々のこちらに助けを求めるような悲鳴は届いていた。その情景も思い浮かぶ。今の曹仁ほど、怒った曹子廉の恐ろしさを知る者はいないのだ。

(すまない、蘭々。強く生きろよ)

曹仁は心の中で謝罪すると、白鵠を駆った。






[7800] 第13話 広宗の戦い1
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/07/05 14:39
「ほわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっーーー!」

「うわぁ、今日もいっぱいだねぇ」

上の姉、天和が舞台袖から客席を眺めて言った。

「ちぃの魅力で、みんなメロメロにしてやるんだから」

下の姉、地和が自信満々に口を開く。
城外の練兵場に設けられた会場は、今日も大入りである。
南華老仙の太平要術を手に入れてから生活が一変していた。売れない旅芸人に過ぎなかった自分達が、何万、何十万もの人に支持されるようになり、気付けば黄巾党の教祖張角、張宝、張梁として大陸に知らぬ者のない存在となっていた。そしてこの地、広宗は事実上黄巾党が支配する街なのだ。

「えぇー、お姉ちゃんの魅力だよー」

「ちぃの魅力!」

そんな状況に、人和は心中不安を拭い去れずにいたが、二人の姉はそんなものとは無縁のようだった。ただ、何も考えていないだけかもしれないが。

「二人共、けんかしないの。私達三人、力を合わせて歌でこの大陸を制覇するんでしょう?」

「そうだね。大陸中の人達が私達の歌を待っているんだもんね」

「そうね。ちぃ達の魅力で、大陸中の人をメロメロにしてやるんだから!」

二人のどこまでも前向きな姿勢。こういった部分は敵わないな、と人和は思った。それが、二人の人々を引き付ける華のようなものを生み出しているのかもしれない。それは自分には無いものだと、人和は常々感じていた。真っ直ぐに夢に向かう二人を支えるのが自分の役目だ。それで、南華老仙の教えに手を出したのだ。誰よりも人和自身が一番、二人の姉の持つ華に惹かれているのだから。

「それじゃあ、行きましょう。ちーちゃん、れんほーちゃん!」

「ちょっと、何してるの、人和。行くわよ!」

「……ええ!」

人和は二人の背を追って、舞台に飛び出した。





500の兵を率いて、曹仁は小さな林に伏せていた。右に見える岩山には鈴々率いる200が伏せているし、左に見えるこちらよりやや大きな林には愛紗が率いる1000が伏せている。後方の丘には、桃香が残る300ほどを率いて、朱里、雛里と共に伏せている。皇甫嵩率いる官軍や孫策の軍も、遠く見える山中や林に伏せているはずだ。
前方に視線を移す。10里ほど先に、目標となる集団―――公演に集う5万近い数の黄巾党の者達が見えた。埋伏可能な最も近い位置に、夜の内に移動したのだ。目標まで視界を遮るものは何もない。一度、黄巾賊の斥候らしき者が近づいてきたが、ここまでは来ずに引き返していった。斥候兵の質の低さは、組織として未成熟な軍である黄巾賊の弱点の一つであると言っていい。しかしここは、4万以上の兵を埋伏させるという離れ業をやってのけた、皇甫嵩の統率力を褒めるべきだろう。
既に包囲網は完成していた。
今はまだ目が粗い網であるが、皇甫嵩の合図で一斉にそれを絞り込み、2重、3重の包囲へと移行していくのだ。5万の中には非戦闘員も多く含まれているようだが、兵力差は大きくない。こちらの動きに呼応して、素早くひとまとまりに動かれれば、包囲が破られることも十分考えられる。皇甫嵩は、散り散りに潰走されて張角を取り逃すという最悪の事態を避けるために、城内に逃げこんだ敵との攻城戦も想定しているようだ。そのために周囲の黄巾党の拠点を他の官軍に攻撃させて、援軍を断つという算段も立っている。しかし、曹仁は最初のぶつかり合いで終わらせられるという、確信に近い思いを抱いていた。兵達は武装こそ解いてはいないようだが、軍としてそこにいるわけではない。突然の襲撃に、命令系統が正常に機能するとは思えない。曹仁は敵軍を見据えて、気を引き締めた。

「ほわぁぁぁーーーーーっ」

視線の先の集団から、意味をなさない喚声の様なものが響き、遠く曹仁の耳にまでその残滓を伝えた。

「兄貴、聞こえたか?」

ここまで声が届いたのは、何度目だろう。初めは空耳かとも思ったが、どうやら目標の集団が発しているもので間違いないようだ。会場は、大変な盛り上りを見せているらしい。あそこに、漢朝400年を転覆させかねないほどの反乱に民を導いた人物がいるのだ。想像を絶するような求心力を有しているのだろう。華琳や桃香、そして孫策とも少しは語る機会があった。視線の先にいるはずの張角は、自身を慕う民にどのようなことを語って聞かせているのだろうか。

(……考えても詮無いことか)

曹仁はもうひとつ気になっていた問題に思考を移すと、視線も蘭々に移した。

「? なんだよ」

「……お兄さまは?」

「誰が呼ぶか!」

華琳達の本営から帰って来た当初は、蘭々の言葉遣いは昔の礼儀正しいもの戻っていた。曹仁のことを、お兄さまと呼んでくれていたのだ。しかし、幸蘭の元に生け贄の様な形で残してきたことで、蘭々の機嫌は悪く、曹仁はほとんど無視されているような状態だった。そして機嫌が治るのに呼応するように、言葉遣いも再び乱暴なものへと変わっていったのだ。結局数えるほどしか、お兄さまと呼ばれることはなかった。
それどころか、最近では桃香達の前で、幸蘭から聞かされた曹仁の私性活もとい私生活をちらつかせることで、こちらを屈服させようとしている節がある。

「……何だかお前、華琳に似てきたか?」

「ん? そりゃあ従姉だからな。似てもおかしくないだろ」

「どうせ似るなら春姉に似て欲しかったぞ」

「兄貴、春姉みたいに馬鹿愛い(ばかわいい)のに弱いよな」

「思い切った造語だな。春姉の可愛さをよく表わしてはいるが。本人が聞いたら怒―――っ! 行くぞ! 全軍前進!」

遠く見える山の頂に、旗が立ち、2度大きく振られた。曹仁は無駄口を切り上げ、兵に指示を出した。





気が付いた時には、包囲を受けていた。周囲の監視に当たっていた兵も、公演に気を取られ、気付くのが遅れたようだ。5日に一度の休養日である1万を除いた、3万の兵には武装をさせていた。まさにこういった事態に備えてのことであるが、ここまで見事に急襲を受け、そのまま包囲まで受けてしまうというのは想定外であった。命令系統を確認し、軍の体裁を整え終えた頃には、既に半里ほどの距離で対峙する形までに、包囲網は絞り込まれていた。

「馬元義さん、状況はどうですか?」

人和が話しかけてきた。不安そうな表情だ。馬元義はそんな顔をさせてしまっている自分を恥じた。

「ご安心下さい、人和様。何としても御三人は守り抜いて見せます」

「……お願いしますね」

人和は、ぺこりと頭を下げた。馬元義は闘志が沸き立つのを感じた。馬元義は元々は天和派だったが、三姉妹の側近として働くうち、最も触れ合う機会が多く、こちらを気遣ってもくれる人和のためなら、命もいらぬを思うようになっていた。
人和にも知らせてはいないことだが、三人の替え玉を用意していた。背格好の良く似た者を信者の中から選んだだけだが、それだけに三人の細かな容姿が官軍に知られることのないように気を使ってきた。この地が知られたということは、ある程度の情報は漏れているのかもしれないが、実際に三人を目にしたものでもない限り騙し通せるはずだ。

城を背にして正面を見据えた。“漢”の旗が見える。自身が率いる2万を先頭に、まずは一度そこにぶつかる。5000は退かずにそこに残って、追撃を食い止める。残りは反転して張曼成率いる本隊1万を先頭にひとつとなって突き進み、そのまま城内になだれ込む。三姉妹は本体の中ほどだ。敵中に残した5000は全滅することになるだろうが、とにかく三姉妹を城内に逃がすことだけを考えた。騎兵を用意しておかなかったことが悔やまれた。騎馬隊があれば、包囲を抜け、歩兵が壁を作って、三人を逃がすことも可能だったろう。三人の公演を直接見た後である。歩兵達は喜んで死兵となって、敵を食い止めたことだろう。
武器を持たない兵は、5000ずつ分けて、それぞれに加えた。死んだ味方や敵兵から武器を奪うように言ってはあるが、どこまで役に立つかは分からない。兵以外の者も1万ほどいたが、彼らには特に指令を出さなかった。こちらで招待した街の有力者達は、本隊で三姉妹と共に保護している。他の者は逃げるに任せるしかない。それが敵軍への撹乱にもなってくれるはずだ。

「よし、行くぞ!」

漢旗目掛けて駆けた。包囲網にぶつかる。ほとんど何の抵抗もなく、敵陣を押しやる。脆い。官軍などこの程度のものなのか。あるいは、三姉妹と共にあることが、我が軍に力を与えてくれているのか。このまま敵将の首を討てるかもしれない。そうすればそのまま勝ちに乗ることも可能だ。馬元義の胸に、淡い期待が湧きあがった。
その思いが、視界を狭めたのか。気付くと、前を進む兵が詰まっている。敵の抵抗が増しているのだ。前線がほとんど進めていない。否、逆に押し込まれつつある。それでも勢いのついた軍は、前へ前へと進み、隊列が崩れていく。左右に目をやると、こちらを押し包むように敵軍が動き始めている。兵を退く機を逸した。馬元義はようやくそのことに気付いた。

「くそっ、退け、全軍退け!」

言って後ろを振り向く。兵達が慌てて向きを変えている。混乱が起こる。今はとにかく、城に向けて駆けることだ。敵への備えも何もなく、ただ兵達を駆けさせた。兵が、横から、後ろからと斬りつけられ、命を落としていく。前方にわずかに開けていた城への道が、敵兵によってゆっくりと塞がれていくのが見えた。
自分が率いていた2万と5千はほぼ全てが取り囲まれてしまったようだ。しかし、城側の張曼成の本隊にいた三姉妹は抜けられたはずだ。
後方からの兵達の喚声が大きくなった。馬元義は振り返った。包囲の一部が開き、そこから騎馬隊が突撃を仕掛けてきていた。

「馬元義隊、止まれ! 周囲の敵兵を殲滅するのだ! 我らの奮闘が、張角様達の御身を守るのだ!」

騎馬隊に抜かれれば、そのまま本隊まで襲われかねない。ここで止めるしかない。ここで戦い続ければ、本隊に向かう敵兵も減らせるはずだ。

元来、侠客とは名ばかりのただの暴れ者に過ぎなかった。人より少しは頭が切れて、人々を煽動するのは得意だった。それを活かせる場などなく、どこかで野垂れ死にするのだろうと思っていた。三姉妹の公演を始めてみたとき、全身に稲妻が走ったようだった。彼女達のために何かしたいと、無秩序に増え続ける信奉者達をまとめ上げた。しかし、次第に暴走し出す者達を抑えきれなくなった。気付けば叛徒として、官軍に追われる立場となっていた。そのことで、世直しを叫ぶ侠客達が仲間に加わり、組織としては強固なものへと変わっていった。三姉妹の本来の目的から外れてきてしまっていることは、馬元義自身が誰よりも理解していた。しかし、一度朝敵と見なされてしまった以上、他に道はなかった。そのことだけが、心残りだった。
三姉妹に出会えて、初めて人生を生きていると思えたのだ。人和のために死ねるのなら悪くない。馬元義は、そう口中で呟いた。





皇甫嵩の軍が、一瞬押されたと思った。しかしよく見ると、兵に犠牲がほとんど出ていないことに曹仁は気付いた。そして、突出してきた敵軍を包み込むように、兵が動いて行く。騎馬隊が切り離されて、大きく回って勢いをつけると、そこにぶつかっていく。囲みこんでいた歩兵は、自然な動きで騎馬隊に道を開ける。騎馬隊の中に、孫策達も混ざっているのが見えた。
囲み込みから脱した敵軍に向けて、残る兵は追撃をかけている。これも、包囲を狭めるような動き方だ。曹仁達にもそちらの敵軍を追うようにと、伝令が来た。曹仁も初めからそのつもりだった。張角を討てば、この反乱は治まるのだ。こちらの包囲網に突撃を仕掛けた時、逃げる敵軍は堅陣敷いたまま、ほとんど動かなかった。それで囲い込まれずに済んだとも言えたが、張角がいると、教えているようなものでもあった。

「曹仁隊、行くぞ! 狙うは張角の首一つ! ここで長かった戦いを終わらせるぞ!」

曹仁は500を率いて駆けだした。500の兵の指揮であれば、相手が誰であっても負けるものではないと思っていた。義勇軍が2000を超える様になって、動きにもどかしさを感じるようになった。隅々まで血が通わなくなった、そんな感じだった。たった今目にした皇甫嵩の用兵は、曹仁の眼に衝撃的だった。万を超える軍を手足のように自在に扱っている。経験を積めば、自分もあそこまで見事に兵を動かすことが出来るのだろか。曹仁には、そんな自分が想像できなかった。
城側を包囲していた官軍と黄巾賊のぶつかり合いが始まった。官軍が押されている。今度は実際に犠牲も多く出ている。逃がすなら城側にと皇甫嵩が考えていたため、他の部分の包囲網より幾分薄いのだ。包囲を抜けられれば、3里も駈ければ城門だった。城にはまだ兵も残っているはずだ。ここまでの早い展開に対応できていないようだが、救援を出されると面倒だ。

「騎馬隊のみで駆けるぞ!」

白鵠が速度を上げた。敵軍との距離が、見る間に詰まってく。左右を見ると、官軍も騎馬隊を切り離して駆けだしている。包囲網が抜かれるのが見えた。そして城門が開いた。だが遅い。

「よし、間に合うぞ。―――!」

進行方向にいた20人ほどの集団を避ける様に、白鵠が迂回した。武器を持っていない。どころか、女子供も混ざっていた。突き崩せばいいと気にも留めていなかったが、他にもいくつも似たような集団がある。どう見てもただの民間人であるが、彼らはこちらの進行を阻止するような動きを見せていた。集団のなかに、指示を出しているような人間も見えない。ならば、彼らは自発的に張角を守ろうと動いているということか。

「曹仁殿!」

「お兄ちゃん!」

愛紗と鈴々も騎馬隊のみで駆けよって来た。二人の率いる隊も、民間人の集団を避けるために大きく蛇行した縦列となっている。

「曹仁殿、これは」

「ああ。厄介だが、避けながら進むしかないな」

隣に馬を寄せてきた愛紗に答えた。武器を持たない民間人と戦うことなど、義勇軍には出来ない。そしてそれは、皇甫嵩の官軍にも言えることのようだった。どの騎馬隊も民間人の集団を避ける様に進んでいる。

「くそっ、間に合うか!?」

白鵠が駆けた。最小の回避動作で、うまく速度を落とさずに駆けてくれている。後続も同じ進路を通って駆ける。愛紗達将校が乗る馬は、何とか離されずに付いて来ている。曹仁が元から率いていた10数騎も付いて来ている。しかし、他は徐々に距離が離れていく。
城門から敵兵が救援に向かってくるのが見えた。しかし間に合う。少なくとも自分と後続20騎ほどは、合流前に喰らい付ける。敵はほとんど陣も組まずにただ城門に向けて駆けている。形としては方陣に近い。数は2万に少し足りないほどだろうか。張角が中央付近に居るとすれば、100人も抜けば辿り付ける。追撃の形で100人。愛紗に鈴々もいてくれる。他の騎馬隊が追いついてくれば脱出も難しいことではないだろう。いけると、曹仁は思った。
敵軍を注意深く見据えた。目を凝らすのは中央付近。張角の位置。それを確認出来れば、躊躇なく飛び込んでいける。
張角、張梁、張宝の三人については未だ謎の部分が多い。腰まで伸ばした髪と、それより長く伸ばした髭をもつ大男、という情報は流れている。しかし掴まされた情報という感じもする。一つ、旅芸人の女だという情報があった。曹仁達が独自に黄巾党に潜入させていた者からの情報だった。それが、曹仁には気にかかっていた。
あれか。中央付近に、他と足並みの揃っていない集団が見えた。兵ではない。100人ほどの集団だ。そこにいたとして、正確に張角達を見つけられるのか。駆ける馬の勢いが失われるまでに見つけられなければ、押し包まれてこちらが討たれる。一つの賭けではあった。考えているうちに、もう敵軍は目前まで迫っていた。

「!」

白鵠が急激に速度を落とした。先ほどの迂回と違い、今度は急停止だ。民間人が、反転して壁を作っていた。その数1000人以上。

「迂回……は、間に合わないか」

敵軍の先頭は、既に救援の隊と合流しつつある。今から迂回して突っ込めば、そのまま城内まで共に侵入することになるだろう。さすがに城内からの脱出は無理だ。張角を生け捕れれば不可能ではないだろうが、本人を特定出来ない以上、さすがに分が悪すぎる賭けだ。

「民の力に負けたか」

否、民を動かした張角に負けたのか。曹仁はその思いは言葉にせずに胸の内に仕舞った。言葉にすると、悔しさが込み上げてきそうだった。





「張角は討てなかったみたいね」

「……ああ」

孫策が声を掛けてきた。民間人も含め大量の捕虜を得ていたが、不満が残る結果であった。

「ふふ、悔しそうね」

「……あんたは上機嫌だな」

「まあね、馬元義の首を取れたし」

孫策が上機嫌にそう答えた。馬元義といえば、黄巾党結成時からの張角の腹心だ。実質的な黄巾党のまとめ役だとも言われている。その価値は大きい。彼女のことだ、馬元義を討ち取って、そのまま突き進んで張角の首も取るつもりだったのではないだろうか。それは、馬元義隊の力戦に阻まれたようだ。しかし、自分の様に執着はしていないようだった。

「悔いていても仕方ないか。次に頑張るさ」

そんな孫策の姿に、曹仁も気持ちを切り替えることにした。広宗の城に視線を向けると、こちらに向けて歩いてくる皇甫嵩の姿が見えた。城の包囲の指示は終わったようだ。皇甫嵩の官軍も、馬元義の率いた隊の奮戦に少なくない犠牲を出していたが、すぐに編成が組み直され、城の包囲が始められていた。

「城の包囲はどう?」

「ああ、完璧だ」

孫策の言葉に、皇甫嵩が自信満々に答えた。こうも自信有り気に答えられると、彼女の力量を知る者としては信じざるを得ないのだが、曹仁は疑念を口にしてみた。

「将軍。聞くけど、あんた、攻城戦の経験は?」

「ん? 数えるほどしかないな。羌族との戦は、野戦ばかりだったからな」

想像通りの答えが返ってきた。皇甫嵩は涼州の一郡を任された太守だったはずだ。野戦経験は豊富だろうが、城攻めの経験はないのではないかと思っていたのだ。孫策も呆れ顔だ。

「なんだ? 私が信じられないのか?」

皇甫嵩は悪びれもせず、真っ直ぐに聞いてくる。この自信が、時に大胆な作戦を成功に導くのかもしれない。

「まあ、あんたのことだから、きっと大丈夫なんだろうけどな」

曹仁は不安を拭い切れないまま、広宗の城に視線を戻した。





[7800] 第14話 広宗の戦い2
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/07/20 23:10

籠城戦が始まって20日が経過していた。朝靄の中、張曼成が城壁に上ると、守備兵達が直立して居住まいを正した。それを手で制して休ませると、張曼成は一人一人の兵に労いの言葉を掛けて回った。どの兵も疲労の色が濃い。そしてそれは張曼成自身にも言えることだった。張曼成は憂鬱な気分で、眼下に広がる敵陣を眺めた。
広宗の城は東方に川を持つため、3方向から攻撃を受けることとなった。官軍は、まず防備をしっかりと固めた上で攻撃を開始した。既に城周囲の堀は完全に埋められ、城壁に向けて直接攻撃が繰り返されている。
元々、張角達が居ることで兵の士気は高いのだ。何度攻め立ててきても退けてみせるという自信があった。しかし攻撃は思ったほど苛烈なものではなく、半日以上続けられることはなかった。ただ、こちらの隙をついて攻めかけてくる。夜襲からそのまま夜を徹して攻撃してくることもあれば、夜更け前に一当てだけして去っていくこともある。守備兵の交代の瞬間を狙って攻めてくることもあった。こちらの士気をうまく逸らされている。ぶつける相手もいないままに士気は少しずつ落ち、兵達は気が休まる間もなく少しずつ消耗していっている。
張曼成は少し身を乗り出すようにして、城壁の壁面に目を送った。3か所、大きな割れ目が見えた。それは張曼成が立つ上辺にまで続いている。小さなひびは数え切れないほどだった。城門も大きく歪んでいる。他の2面を同じようなものだった。あと何回、衝車の直撃に耐えられるだろう。陥落は時間の問題だった。張角達3人だけは何としても守りぬかねばならない。それが馬元義に代わって指揮を執る自分の、最重要の任務であった。
視線の先で、敵陣が動いた。

「張曼成様!」

「ああ、わかっている。火矢の用意をしろ! 来るぞ!」

楯を並べた兵に守られながら、衝車と雲梯(梯子車)が近寄ってくる。





強引な力攻めは一度だけで良い。皇甫嵩は緩急入り混ぜた攻撃を意識した。兵達には十分な休息を与えつつ、最小の犠牲で最大の効果を得られる機を狙って攻撃を仕掛けた。敵軍の士気は、異常とも言えるほどに高かった。相手の援軍は既に絶っている。皇甫嵩は無駄に兵を失わずに済むよう、皇甫嵩は散発的な攻撃を繰り返すことで、敵兵の士気と体力を摩耗させるつもりだった。防備だけを固めて、相手の兵糧が尽きるのを待つという手もあったが、先の奇襲で敵軍の兵数は大きく減っている。兵糧にはまだ十分に余裕があるだろう。そして何より、今の朝廷の状況を思うと、あまりのんびりと構えてもいられない。盧植の例もある。皇甫嵩自身、帝の傍に仕える宦官たちからの評判が良いと言えない。つまらないことで首をすげ替えられないとも限らないのだ。

雲梯と衝車が、城壁に近づいていく。衝車は城門だけでなく、城壁自体にもぶつけている。それが、敵の守備を分散させている。
雲梯は、城内に乗り込むためではなく、衝車を援護するために使われている。城壁の上の敵兵が、雲梯から降り注ぐ矢に倒れていく。
攻城兵器は豊富に取り揃えられていた。洛陽に移送された盧植が用意していたものも回してもらったのだ。
大気を震わすような大きな音が響いた。衝車が城壁にぶつかった音だ。音の大きさからして、ほとんど抵抗も受けず、かなりの速度を維持したままぶつかった様だ。続いて、他の場所からも音が響く。城壁に走るひびは、すでに相当に深いものとなっていそうだ。その数も多い。一つ所に割れ目が生じても、皇甫嵩はそこに執着はしなかった。しかし守備側は、そこを重点的に守らざるを得ない。兵の配置に偏りが出れば、その分他が攻めやすくなるのだ。
抵抗は明らかに弱まっていた。皇甫嵩は、時が来たのを感じた。





曹仁は、広宗の城に攻め寄せる官軍を眺めた。今回の攻撃は官軍のみによるもので、義勇軍は休息をとっていた。
皇甫嵩の城攻めは、心配した自分が馬鹿に思えるほど巧みだった。ここまで、味方の犠牲は攻城戦という戦況を考えれば、最小限と言っていいほどしか出ていない。それでいて、敵軍の力は確実に削いでいた。大胆な奇襲をするかと思えば、こういった手堅い戦も無難以上にこなしてみせる。やはり、皇甫嵩の軍略には目を瞠るものがあった。
しかし、今日の攻めはいつもより長い。明け方から始まって、すでに日は暮れようとしている。少し攻め込んでみる気になったのだろうか。
それでも、こちらの被害は多くはなさそうだった。雲梯からの援護と楯に守られながら、衝車は着実に城壁へとぶつかっていく。そして楯を失えば、無理せずに退いてくる。雲梯もそれは同様で、火矢から燃え移る炎が大きくなれば、速やかに下がる。
ひと際大きな音が腹に響いた。

「はわっ!」

「あわっ!」

城壁にまたも巨大な割れ目が走った。そこに衝車を集めれば、と曹仁は思うが、皇甫嵩はそうはしなかった。そしてそれが、大した被害も出さないままに、城壁全体を崩しかけている現状に繋がっているのだろう。
曹仁は、隣に視線を向けた。先ほどから衝車が城壁にぶつかる轟音が鳴り響くたびに、はわあわ言いながらも、朱里と雛里が真剣な表情で戦場を見つめていた。時には、手にした竹管に何か書きこんだりしている。攻城戦にて卓越した戦果を上げた楽毅を尊敬していると言っていた彼女たちも、実際にその現場を目にするのは初めてのはずだ。それも指揮をしているのは、もはや当代きっての軍略家であることは疑いようのない皇甫嵩だ。学ぶところは多いのだろう。最も、歴史に特に詳しかったわけではない曹仁にとっては、皇甫嵩はもちろん楽毅の名も、この世界に来てから知った名であった。楽毅や皇甫嵩の名を抑え、後世において自分達が中国史における名軍師の代名詞になるなどと、今の二人は想像してもいないだろう。

「兄貴」

角が、官軍の伝令兵を伴ってやって来た。曹仁は視線で伝令兵を促した。

「曹仁殿と劉備殿、それに義勇軍の将校の皆様を将軍がお呼びです」

「わかった。すぐ行くよ」

戦闘中の呼び出しなど初めてのことだった。戦況を動かす気になったということだろうか。曹仁は伝令兵に答えを返しながら、腰を上げた。







夜明け近くまで続いた攻撃がようやく止んでいた。攻撃は、ほとんど丸一日続いたことになる。3方から攻め寄せる官軍に、こちらも総力を当てて戦った。
張曼成は周囲を見渡した。これまでにない苛烈な攻めに、兵の死傷も多く、城壁の被害も甚大だった。しかし、凌ぎ切ったという思いが強い。兵達の疲れ切った表情にも、どこか満足気なものが混ざっている様に見える。
張曼成は肩の力を抜くと、ゆっくりと腰を下ろした。兵達の間に流れていた緊迫した空気も、少しずつだが緩んでいく。
自身も目を閉じ、深呼吸を繰り返した。兵達に言葉を交わす余裕が戻ってきたようだ。張曼成の耳に、兵達の声が少しずつ届いてくる。
張曼成は立ち上がると、しばしこの場を離れることにした。指揮官がいない方が、兵達の気も休まるだろう。

―――あれは?

背中で聞いた兵の声に、妙な響きが混ざった気がした。張曼成は向き直った。
その眼に、上りつつある狼煙が移った。
何のためのものなのか。考える前に、官軍に動きがあった。兵達の間に、絶望感が漂うのが分かった。張曼成自身、投げ出してしまいたい気分だった。

「官軍の馬鹿どもは、まだ懲りていないと見える! 再び奴らに、我らの力を見せつけてくれようぞ!!」

思いを振り払うよう、声を張り上げる。再び詰め寄って来た官軍を、張曼成は睨み付けた。

かつて堀があった場所を、敵兵が難なく駆け抜けてくる。
張曼成自身も弓を取ると、狙いを定め、放った。衝車を守る兵の持つ楯に、火矢が突き立った。1本では敵兵の歩みを止めることは出来ない。しかし、2本、3本と当たれば兵はその楯を放さざるを得なくなる。張曼成は次の矢をつがえた。

「張曼成様!」

弓を引き絞ったところで、背後から名を呼ばれた。思わず放した矢は狙いを大きく反れて飛んでいく。

「なんだ!」

張曼成は苛立ちの表情を隠せぬままに振り返った。声を掛けてきた兵は、それに気付いた様子もなく続けた。

「街で火が上がっています!」

「―――! そうか、あの狼煙!」

今まで攻撃や撤退の合図に狼煙が使われたことはなかった。今回に限って何故使ってきたのか。気に掛かってはいたが、眼前に迫る敵兵の姿に、放置してしまっていた。

「くそっ!」

一体何人入り込んでいる? 火を消し止めるのは住民に任せるとしても、侵入者を捕えるのは兵でなくては無理だ。こんな時だというのに、内側に対する備えもしなくてはならない。
如何に兵を割り振ればいいのか。張曼成は絶望的な計算を始めた。





孫策を乗せた雲梯は順調に城壁までの距離を縮めていた。敵兵に動揺が見られる。目を凝らすと、城内から火が上がっているのが孫策の眼にも映った。
城内には、皇甫嵩配下の間諜が10人ほど入り込んでいた。元々、奇襲を警戒していたわけでもない。交戦前であれば、街に入り込ませることはさして難しいことではなかった。しかしその信仰ゆえか、広宗の民の横の繋がりは強固なものがあった。これ以上多くの者を潜ませることは難しかった。この人数では内側から城門を開けるというのは難しいだろう。しかしそれでも、十分な働きをしてくれているようだった。

大した抵抗も受けないままに、雲梯が城壁まで3丈(6m)の距離まで近付いた。敵兵の動きに混乱が見られる。今まで、雲梯は衝車の援護にしか使って来なかったのだ。それでも何人かは、こちらに向けて矢を放ってくる。孫策は飛んでくる矢を剣で払い落した。祭が、弓を構えている者を狙い撃った。瞬く間に4、5人が倒れ伏す。

「祭、援護お願いね!」

孫策は、そう言い捨てると雲梯から跳び出した。槍が阻む様に突き出された。空中でそれを薙ぎ払うと、孫策は敵兵の真ん中に降り立った。
近い方から2人が、孫策が剣を向けるまでもなく祭の矢に倒れた。
孫策も負けじと、3人を一息で斬り倒す。その隙にも雲梯はさらに近づき、祭が、孫家の兵達が、こちらに飛び移ってくる。
孫策はひとつ大きく息を吸うと、高々と剣を掲げ、名乗りを上げた。

「我が名は孫伯符! 黄巾の賊徒よ! 我が前に立つ勇有らば、掛かってまいれ! 
孫家の勇者達よ! 官軍の精兵達よ! 義勇軍の同志よ! 我に続け!」





「おおおおぉぉぉーーーーーー!!」

喚声が巻き起こる。城壁に立つ孫策の雄々しい姿と、勇ましい号令に兵達は奮い立っている。それは孫策の私兵や官軍だけではなく、義勇軍にも言えることだった。

「我らも続くぞ!」

曹仁は工作兵を率い、城門を攻め立てていた。衝車がぶつかる轟音が鳴り響く。
孫策達が城壁上で敵兵を引き受けてくれているため、降り注ぐ火矢は目に見えて少なくなった。狙いも反れているものが多い。曹仁は楯を持つ兵の数を減らして、衝車を押す兵に加えた。兵達は衝車を勢いよくぶつけることだけに集中している。
さらに大きな轟音が鳴った。城門が大きく揺らぐ。

「もう一度!」

衝車を退くと、今度はより遠くからさらに勢いを付けてぶつけさせた。
轟音。しかし、先ほどまでとは違う音がそこに混ざっているように聞こえた。城門が、ゆっくりと城の内側へと向けて傾いでいく。

「工作部隊は下がれ! 歩兵隊、前へ!」

まるで地面そのものが揺れたような重厚な音をたて、城門が倒れた。
一瞬の間を置いて、そこから敵兵が湧き出てくる。工作兵と入れ違う様に前へ出た歩兵が、それに当たる。歩兵部隊を率いる鈴々が先頭で蛇矛を大きく振りまわしている。

「たあっ、やっ、たっ!」

その一振り一振りで、3,4人の敵兵が宙に舞う。
曹仁も先頭に進み出て槍を振るった。
城門前の敵兵を一掃するのに、そう時は掛からなかった。





城門が破られると、張曼成はその場を部下に任せ、10人ばかりの手勢を率いて三姉妹がいる宮殿へと急いだ。三姉妹だけは守りぬかねば。それだけを考えてひた走った。角を曲がる。宮殿が視界に入った。

「あれは!」

宮殿は炎に包まれていた。愕然として、頭が真っ白になる。体だけは何とか動いてくれていた。炎の中、張曼成は宮殿に飛び込んだ。

「張角様!」

煙をかき分けるように真っ直ぐに駆け抜けると、その姿を見つけることが出来た。駆け寄る。血だまりの中、倒れ伏す3人の元へと。
うつぶせに倒れる張角を、抱き上げる様にして仰向けた。ずっと触れることを夢見てきたその体は、温もりを失いつつあった。まず、その喉元に目がいった。短刀が突き立つその場所は、もはやあの美しい調べを奏ではしない。次いで、視線を上げる。

「―――これは」

少女の、その安らかな死に顔を見て、張曼成はようやく思考を取り戻すことが出来た。
振り返ると、部下たちが泣き伏せていた。

「お前たち、立て!」

顔を上げる者はいなかった。

「官軍に、我らの無念を見せつけてやるのだ! 張角様の仇を討つのだ!」

その言葉で、全員が顔を上げた。その顔はどれも等しく憎悪に満ち満ちていた。

「行くぞ!」

張曼成は先ほど駆け抜けた廊下を、今度は逆方向に駆け抜けた。心の内も先ほどまでの絶望感とはまるで違ったものになっていた。部下達は、無言で後ろに付いてくる。

宮殿の入り口を抜けると、周囲には官軍の兵が充満していた。張曼成は部下を止まらせると、1人そこへと近付いた。

「官軍の指揮官はいるか!」

張曼成は声を張り上げた。その声に一歩進み出た者がいた。

「私だ。左中郎将、皇甫義真という」

いかにも歴戦の将軍という感じの、堂々とした名乗り様だった。ならば自分も、その責務を果たそう。

「俺は張曼成。―――張角様の仇、討たせてもらう!!」

言って、馬上の皇甫嵩目掛け、跳び上がった。

「くっ!」

振り下ろした刀は、皇甫嵩の剣に阻まれ、その身を傷つけることはなかった。しかし、皇甫嵩の体勢は大きく崩れていた。部下も怒号を上げて駆けてくる。張曼成は再び跳びかかった。部下に本当のことを告げなかったことに、少し心が痛んだ。そう簡単に死を覚悟出来る者ばかりではないのだ。判断に間違いはない。この痛みも指揮官の責務の内だ。
刀を振り下ろす。皇甫嵩は体勢を立て直せていない。とった。そう思った瞬間、左右から何かが走り抜けた。
首を飛ばされ、胸を穿たれた自身に、張曼成が気付くことはなかった。










戦いから数日が経過していた。
張角達3人は遺体となって、炎を消し止められた宮殿から見つけ出された。それは、孫策に首をはねられ、曹仁が胸を刺し貫いた張曼成の遺体と共に洛陽へと移送されることとなった。
見つけ出された張角達は、やはり女、それも曹仁と同じような年頃の少女達だった。そんな少女達が、如何にして数十万の民を動かしたのか。激戦の跡が色濃く残る城壁から移送部隊を見送りながら、曹仁はそんなことを思った。

「ここにいたか」

皇甫嵩が城壁に登って来ていた。

「劉備が探していたぞ」

「そうか」

特に意識をしているわけではなかったが、桃香達と出来るだけ合わないようにしている自分に曹仁は気付いた。気付いてみると、その理由にも思い当たるものがあった。

「そういえば、お前に礼を言っていなかったな」

皇甫嵩が隣で、移送部隊を眺めながら言った。

「礼?」

「張曼成に襲われた時、助けられただろう」

「ああ、そのことか。あんた、剣の腕はそれなりでしかないんだから、不用意に前に出るなよな」

「ふむ。まあ、気には留めておこう。何にしても助かったぞ。……ありがとう」

皇甫嵩が礼の言葉を口にした。面と向って礼などを言うような人間ではないと思っていたし、実際その通りなのだろう。意外な思いで曹仁が見やっても、少し照れくさそうに眼下を見据え、決してこちらと視線を合わせようとはしない。その様子に曹仁も照れくささを感じる。

「…………」

「…………」

しばし、静寂が流れた。移送部隊はもはや小さな点としか見えない。この場には皇甫嵩と自分しかいない。いい機会だと、曹仁は思った。

「……感謝してくれているなら、実はあんたに1つ頼みがあるんだが。」

「頼み?」

「ああ。――――――」

曹仁は頭の片隅にずっとあった思いを口にした。それは、桃香達を避ける様にしてしまっていることとも、密接に係ることであった。







「疲れたー。お姉ちゃん、もう歩けなーい!」

「ちぃも、もう限界」

「……はぁ、姉さん達、こんなところで座り込まないで」

人和は地面に座り込んでしまった2人の姉の手をとった。目的とする街までは、あと半日は歩き続けなければならない。そこもすでに官軍の手に落ちているかもしれないが、水も食料もわずかしかない現状では、他に取るべき道もない。
宮殿で震えていた自分達の元に3人の少女達がやって来たのは、もはや落城寸前という状況であった。自分達の替え玉であると名乗った3人は、城壁の一角、官軍の攻撃がない川沿いに作られた坑道へと三姉妹を案内した。坑道は軍が用意したものではなく、三姉妹の信奉者である町人達が作り上げたものだった。そこから城外へ抜け出て、葦に紛れて小舟で対岸に渡ってから、既に2日間歩き通しだった。

「ほら、立って」

手を引くと、渋々といった感じで2人は立ち上がった。以前は歩いて移動することが当たり前だったが、最近は馬車に乗ることがほとんどだった。2人の気持ちもよくわかるが、座っていてはいつまでたっても目的地には辿り着けない。

「さあ、行きま……っ!」

正面に土煙が舞い上がっていた。次いで馬蹄の音が聞こえてくる。騎兵のみで駆けているようで、すぐにその距離は縮まった。“曹”と書かれた旗が見える。人和は官軍を率いる曹操の名に直ぐに思い至った。

「ど、どうしよう、二人とも」

「か、隠れる場所なんてないわよ」

「大丈夫よ。私達のことは知られていないはず」

自分の心臓の音が耳にうるさいほど聞こえた。それでも2人を落ちつけようと、人和は努めて平静を装った。

半里ほど距離を置いて集団が止まった。騎兵の数など見ただけでは分からないが、1000以上はいそうだった。
集団から抜け出し、200騎ほどがこちらに向かって駆けてくる。全員が揃いの鎧を身にまとった、いかにも精強そうな一団だ。

「ちょっと、こっち来るわよ!」

「ど、どうするのー」

「姉さんたち、落ち付いて。普通にしていれば大丈夫だから」

一団は3人の前で綺麗に整列すると、中から2人が進み出てきた。自分達とそう年も変わらなそうな少女達だ。

「あなた達、広宗から来たのかしら?」

「!」

金色の髪を左右に結わえた少女の言葉に、人和は声を失った。髑髏を模した髪飾りが、鈍い光を発している。

「そう怯えなくてもいいのよ。あなた達に何かするつもりはないわ。広宗の街の様子を聞きたいだけよ。戦は終わったと聞いたのだけれど」

やはり城は落ちたのか。人和は何とか頭を落ちつけると、口を開いた。

「すいません。わたし達は戦をしていると聞いて、広宗には立ち寄らずに迂回してきましたので。街が今どうなっているかはわかりません。そうですか、戦は終わったのですね」

「そう。無駄に呼び止めてしまって悪かったわね」

「いいえ、それでは私達はこれで」

「あーーーーーーっっっ!!!」

その場を立ち去りかけた瞬間、もう一人の少女が声を上げた。自分よりも年下に見える、まだ顔にあどけなさが残る少女だ。

「突然大きな声を出して。どうしたの、季衣?」

「はい、思い出したんです!」

季衣と呼ばれた少女は1歩、こちらに馬を進めてきた。

「お姉ちゃん、張角さんだよね?」

「「「っ!」」」

真っ直ぐに天和を見据え、少女が言った。

「確かなの、季衣?」

「はいっ、華琳さま! ボク、3人が歌っているところ見ました」

「あっ、わたし達の歌、聞いてくれたんだね―。どうだったー?」

「ちょ、ちょっと姉さん!」

「あっ」

「…………はぁ」

自らの生死に関わる緊迫した状況であるにもかかわらず、人和は思わずため息をこぼしていた。先ほどまでの緊張が嘘のように、開き直ったような気分だった。天和は失言に気付き、しまったという表情を浮かべている。地和は慌てて何か言い訳をしようと捲し立てている。しかし、疑いを持たれた時点で言い逃れる術などなかっただろう。反乱軍の首謀者ともなれば、疑わしいというだけで捕らえる理由には十分だろう。

「……姉さんたち、諦めましょう」

「人和……」

「れんほーちゃん……」

姉2人が、すがる様な瞳を向けてくる。抵抗すれば殺されるだけだろう。投降すれば、自分達が重罪人であるだけにすぐに殺されるということはないはずだ。その間に何か手を考える。妙案が浮かぶとも思えないが、今ここで殺されるよりはましだった。

「ふふっ、良い判断ね」

少女が、不敵な笑みを浮かべた。





[7800] 第15話 それぞれの歩み
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/08/06 22:08
広宗落城より5日が過ぎた。孫策は右中郎将にして郷里の名士でもある朱儁の軍に再び合流すべく、広宗を辞することにした。張角が自害して果てたとはいえ、黄巾党の残党や乱に乗じて起った賊徒は多い。張角の死は洛陽を中心に全土に知れ渡るだろうが、まだまだ世の乱れは続くだろう。ここでさらに名を上げ、かつ朱儁に恩を売っておくことは、自身の宿願の大きな助けとなってくれるだろう。

「曹仁、私達と共に来る気はないかしら?」

城外まで見送りに来た曹仁に、孫策は言った。以前誘いをかけた時には邪魔に入った関羽は、少し離れたところで祭と話している。孫策は真っ直ぐ曹仁の目を見つめて続けた。

「あなたの武勇と指揮能力。そして、あなた自身は嫌っているようだけれど天の御遣いという肩書き。どれも私達にとって得難いものだわ。それに、私はあなたのことを気に入っている。我が軍に来なさい、曹仁」

視線に力を込めた。断れば殺す。そんな思いすら込めた。実際、自身の元に来ないならここで殺しておいた方が良いように思えた。味方でないのならば、乱世の中で自分が起つ上で邪魔にしかならない。天の御遣いの名とその名に恥じぬ曹仁の武勇は、それほどに重い。
視線に込められた思いに気付いていないのか、曹仁が特に気負った様子もなく口を開いた。



「ふられたな、雪蓮」

「聞いていたの、冥琳?」

曹仁達に別れを告げ、しばし軍を進めたところで冥琳が馬を寄せてきた。

「お前が曹仁に斬りかかるのではないかと、冷や冷やしたぞ」

「さすがに私だって、そこまで無茶はしないわよ」

この親友と比べれば、自分に思慮の足りないところがあることは孫策―――雪蓮自身自覚していた。しかし、義勇軍を率いて乱の鎮圧に大功を上げた人物を、衆人環視の中で斬り捨てる様な愚はさすがに自分でも犯さない。

「それに彼を気に入っていると言ったのは本心だもの」

「そうか。私としても味方に欲しい人材であったな。我らの軍には騎兵を率いる者が絶対的に不足しているからな」

海賊退治で名を馳せた母の代より、孫家の軍は水軍に比重を置く傾向がある。長江を抱く当時の統治区域を考えれば、それは理に適ったことであった。しかし、今やその統治区域も袁術に奪われて久しい。また、乱世に名乗りを上げることを思えば、今後の戦は平原での野戦が中心となってくるだろう。騎馬隊の精鋭を組織することは急務であった。曹仁は騎馬隊の隊長には当にうってつけの人材だった。

「まあ、騎兵は私が率いればいいじゃない」

「…………はぁ」

冥琳がため息を漏らした。自分が前線で戦うことを、冥琳は心良く思わない。騎馬隊を率いて戦場を駆け廻るようなことはせず、本陣で腰を落ち着けていて欲しいのだろう。自分が先頭に立って戦ってこその孫家の軍だ、と雪蓮は思ったが口にはしなかった。口では冥琳に敵わないし、自分を気遣うその思いは素直にうれしい。雪蓮は話題を戻すことにした。

「仲間になってくれるなら妹をあげる、くらい言えばよかったかな」

「おいおい、本気か」

「半分ね。本人たちの意思を尊重した上でなら、悪い話じゃないわ」

言葉にしてみると、本当に悪くない手だと雪蓮は感じた。
曹仁を仲間に出来れば、彼を慕う劉備達5人も引き入れることが出来るかもしれない。彼女達の力は孫家にとって大きな力となるだろう。そして、孫家に天の血を入れることが出来れば、ぐっと天下が近付くように思えた。そう、天下だ。

「何にしても、まずは独立を果たすことだな」

冥琳の言葉で雪蓮は現実に引き戻された。曹仁達を引き入れるにしても、この身も今は袁術の客将に過ぎないのだ。

「そうね。まずは我らの地を取り戻しましょう」

孫策は、果たすべき宿願、天下への第一歩へと思いを巡らせた。





広宗に朝廷の使者が来たのは、孫策達が去って数日が過ぎた頃だった。未だ焼け跡の残る宮殿に仮設された謁見の間で、曹仁達は使者と対面した。
使者の口から告げられた勅命によって、皇甫嵩は冀州の刺史に、桃香は中山国安喜県の県尉に任命された。

「皇甫嵩殿! これは一体どういうことですか!」

謁見の間から使者が退室すると、直ぐに愛紗が皇甫嵩に詰め寄った。曹仁が視線で制さなければ、使者に掴み掛かっていたかもしれない。

「ふむ。すまんな。お前たちの武功を思えばもっと良い官職を授けられて当然なのだが、私も十常侍共には警戒されているからな。私と親しい者が高位に就くのを嫌われたのかもしれん。賂を使うのも好かんしな」

「そのことではありません!」

「そうですよ、皇甫嵩さん。私の官職なんてどうでもいいんです。それよりも、どうして曹仁さんに官職が授けられないんですか?」

桃香も一緒になって、皇甫嵩に言い募った。功績を考えれば、与えられた官職は如何にも低過ぎるものだが、それも気にならないようだ。
皇甫嵩が助けを求めるような表情で、それでいて責め立てるような視線を曹仁に向けて送ってきた。実際、ここまで説明せずにいた曹仁自身に非はあった。

「二人とも落ち着いてくれ。俺に官職が授けられないのは当然のことなんだ」

「何故ですか!?」

「二人も俺のせいで曹家がどういう目にあったか、知っているだろう?」

「! ・・・・・・なるほど」

「どういうこと?」

納得がいったのか、愛紗が不快げに顔をしかめた。対して桃香はまだ首を傾げたままだ。二人の後方では朱里と雛里が神妙な顔で頷き合っている。端から難しい話には興味がないとばかりに、暢気そうに欠伸を浮かべている鈴々と見事な対比が出来上がっている。

「えーと・・・・・・、朱里、雛里。頼む」

自分ではあまり語りたい話でもない。朱里は一歩前に出ると、こちらを気にする様子を見せながらも口を開いた。

「桃香様、曹仁さんの叔母に当たる曹嵩さんが大尉の任を解かれた話はご存知ですよね?」

「あっ」

朱里の後を雛里が継ぐ。

「そうです。漢室は曹仁さんの天を認めていません。むしろ相容れないものとして捉えています」

「でも、せっかく頑張ったのに、そんなことでなかったことにされちゃうなんて」

「ある意味、漢室にとって俺は黄天を掲げた張角達と変わらない存在なわけだからな。官職が欲しくて戦ってきたわけじゃないし、こうして乱が終わったのなら、別に構わないさ。それは、桃香さん達も同じだろう。」

捕えられ、首を刎ねられてもおかしくない立場だといえる。それがこうして生かされているし、曹嵩退任後は華琳や幸蘭たち家族の者も再び官職が得られている。それで十分だった。漢室に忠誠を誓う気など微塵もない自分が、敢えて官職に就く意味もない。

「それはそうだけど……」

桃香はまだ納得いかない様子で、難しい表情を浮かべて考え込んでいる。
しばらくそうしていたかと思えば、桃香はぱっと顔を上げて曹仁を見た。

「それじゃあ、曹仁さんはこれからどうするの? よければ、……ううん、是非、わたし達と一緒に―――」

「俺はしばらく将軍に付いて、軍略を学ぶつもりだ」

桃香の言葉を遮って、曹仁は己が決意を口にした。





広宗に使者が訪れた次の日、義勇軍は解散された。桃香に与えられた官職では、とても兵を養うことなど出来ないのだ。何度もこちらを振り返りながら、名残惜しそうに去っていく兵達の姿を、曹仁は桃香達と共に見送った。その姿が点としか見えなくなった時、曹仁は口を開いた。

「さて、そろそろ俺たちも行こうか」

「……曹仁さん」

誰にともなく言った。ここからは別々の道を行くこととなる。

「うぅ~、ほんとにお兄ちゃん、一緒にこないのか?」

「ああ、ごめんな」

力無く鈴々がこぼした言葉が、曹仁の胸を締め付けるようだった。

「曹仁さん、わたし達のことを受け入れてくれて、ありがとうございました」

「…………」

「二人とも、元気でな」

軍師として認められたことに礼を言う朱里と、涙目でこちらを見つめてくる雛里の頭に、曹仁は手を伸ばした。

「曹仁殿が乱世を鎮めるべく起つ日を、我らは心待ちにしています」

「……そうか」

真っ直ぐこちらを見つめて言ってくる愛紗に、曹仁は少し目を逸らしながら答えた。

「曹仁さん」

「……桃香さん」

桃香が曹仁の手を取った。

「初めて曹仁さんを見たとき、わたし達を助けるために、天上から遣わされた人だと感じたの。曹仁さんはこんな言い方は嫌かもしれないけど、わたしにとって、あなたは確かに乱世を鎮める天の御遣いです。民のため、天下のために生きていれば、必ずまた一緒に戦う時が来ると信じているよ」

「そうだな。また会おう、桃香さん」



「……蘭々」

「…………」

皆と別れの言葉を交わし終えた曹仁は、隣で不機嫌そうにしている蘭々を促した。昨夜、華琳や幸蘭達の元に一度戻るように言って以来、曹仁とは口も聞いてくれない。しかしそれは、今、この別れとは関係のないことだった。桃香や鈴々とはかなり親しく付き合っていたのだ。このまま挨拶もなしに別れては、後で必ず後悔するだろう。

「蘭々」

鈴々が蘭々の元に駆け寄った。

「蘭々ちゃん」

桃香も後に続いた。そして鈴々ごと、蘭々を抱きしめた。

「うにゃ」

「ちょ、ちょっと、桃香さん!」

曹仁はそんな3人の姿を、いくらか罪悪感を持って眺めた。







官軍は義勇軍のように、その場で解散というわけにはいかない。皇甫嵩はこれから、洛陽に向けて軍を率いての凱旋となる。幾分兵力を失ったとはいえ、それでも3万近い兵数を誇る官軍である。先陣はすでに洛陽に向けて進発していたが、皇甫嵩のいる本隊は未だ城内に待機していた。
曹仁の仲間も本隊と共に城内に控えていた。黄巾党討伐に参戦した当初から苦難を共にしてきた者達だ。戦死した者。故郷で再び一介の侠者に戻るべく、義勇軍と共に去っていった者。残る者達の数は10人に満たなかった。彼らは蘭々と共に華琳達の元に行くことになっていた。幸蘭の、あるいは蘭々が軍を率いるのなら彼女の元で働けるよう、手筈は整っていた。それぞれが歴戦の猛者と言っていい。彼女達の元でも存分に力を発揮してくれるだろう。もっとも、幸蘭から届いた書簡によると、華琳はしばし故郷である沛国の譙県で雌伏の時を過ごすつもりらしい。しばらくは小さな私兵団の中で彼らも過ごすこととなるだろう。
蘭々が曹仁に一瞥をくれ、彼らの元へと駆けて行った。その集団の中にあって1人抜きん出て大きな男が、こちらを気遣わしげに見つめている。角には今までも、そしてこれからも苦労を掛けることとなるだろう。曹仁は角1人だけは伴って行くことに決めていた。


「別れは済んだか」

気が付くと、皇甫嵩が隣にやって来ていた。らしくもなく神妙な顔つきだった。ひょっとしたら気を使われているのかもしれない、と曹仁は思った。

「これで良かったのか、曹仁?」

「ああ、これでいい」

桃香達のことは好きだった。短い間だったが、共に戦えて幸せだったと言ってもいい。これからも共に、という気持ちは曹仁にも確かに在った。しかしこのまま彼女達の主となるというのは、違うと思った。自分は桃香ほどに民を想っていない。華琳ほどに天下を見ていない。孫策ほどに明日を望んでもいない。もし彼女達と共に夢を見るなら、それは断じて主としてではなく、下からその夢を支える者としてだ。

「将軍こそ良かったのか? あの5人の力、欲しくないわけではないんだろう?」

皇甫嵩の元で学ぶと曹仁が告げた時、ならば自分達も付いて行くと桃香達は主張した。その説得には、皇甫嵩の手助けが大きかった。当の本人に言われては、桃香達も無理に押し掛けることなど出来なかったのだ。

「ま、冀州に行くのなら、連れて行きたいがな。お前も解っていると思うが、洛陽は駄目だ」

皇甫嵩は凱旋後、すぐに冀州へ赴任するのではなく、しばらくは洛陽の守護に当たることとなるらしい。その命の出処がどこなのか、否、どちらなのかは曹仁には判然としなかった。

「まあ、そうだな。これから洛陽で始まることを思うと、彼女達には似つかわしくないな」

曹仁の元には、幸蘭の飛脚によって情報が頻繁に伝えられていた。都である洛陽の情報などは特によく流れてくる。洛陽では今、大将軍の何進を中心とした一派と、十常侍を中心とした宦官達との間で激しい権力闘争が巻き起こっていた。
だからこそ、曹仁も蘭々を華琳達と共に故郷に帰すことにしたのだ。皇甫嵩の元で軍略を学びたいというのは、あくまで曹仁自身の願望でしかない。そんなもので彼女を危険な目に遭わせるわけにはいかない。戦場での危険であればいくらでも守ってやれるし、蘭々自身にも自らを守るだけの力はある。しかし今度の戦いは、曹仁の力の及ばないところにある。

「……政争か」

それも、血で血を洗うような凄惨なものとなるだろう。そして、馬鹿げた争いだ。どちらが勝ったところで、大乱に疲れ切った漢朝はさらに疲弊する。華琳はそうと知って、闘争の場から距離を置くこととしたのだろう。蘭々にもそんなものには関わって欲しくはない。無論、桃香達にも。皇甫嵩は何進の息の掛かっていない数少ない将軍格の者の1人である。これから両陣営から手が伸ばされてくることだろう。

各地を襲った反乱の炎は鎮火しつつあったが、今まさに漢朝の中心で大火が上がろうとしていた。




[7800] 番外編 一年前
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/08/16 19:22
新しい県長(一万戸以下の県の知事)が赴任してくる。その話を牛金が聞いたのは1月ほども前のことだ。大宦官曹謄に連なる一族の者という話だった。曹謄の養子である曹嵩は、金の力で大尉の地位にまで登っている。叛意を疑われてその地位自体はすぐに失ったが、つまりは、この国の腐敗の象徴の様な一族ということだ。
牛金が物心つく頃には、既に官位は金で売り買いされるものとなっていた。そのために費やした財貨を取り戻すため、役人は民に重税を強い、私腹を肥やす。不正を働かない役人など、どこにも存在していなかった。
今の県長の左進も、この地の民より搾り取った金でより高位に就くという。そしてさらに、左進はこれを最後とばかりに、民の骨の髄までしゃぶり尽くそうとしていた。臨時で求められた税は、民を餓死させるつもりだとしか思えないものであった。



「兄貴、来ました!」

「全員並べ!」

遠く、200人ほどの集団がこちらに向かってくるのが見えた。県長に金で雇われた私兵団だ。権威を笠に好き勝手暴れると、民からは恐れられていた。その数は聞いていたより幾分多い。こちらの話を聞きつけて、新たに雇い入れたのかもしれない。
牛金は私兵団の進行を遮るように、村の前に仲間を並べさせた。こちらはわずか50人。その全てが歩兵だった。兵力差は大きい。それも、牛金の連れである10人ほどを除いて、普段は鍬を持つその手に、今日は武器を持ち替えただけの農民達に過ぎなかった。唯一勝っているのは、一人一人の覚悟だろう。ここで退けば、飢えて死ぬのを待つだけなのだ。村人たちは自ら、侠客である牛金の元を訪ねて来たのである。それも、ただ助けを求めるのでなく、自分達も共に戦うという意思を持って。牛金は村人の中からさらに、名も無き死を恐れぬ者と身内を持たない者だけを選び抜いた。ここで県長を追い返したところで、戦った者達は叛徒として追われかねないのだ。

こちらから50歩ほど離れた位置で集団は止まった。200人の中心辺りに、20騎前後の騎兵がまとまっている。そしてさらにその中心に馬車が1台。車上の男が立ち上がった。華美な装飾に身を包んだ、肥えた男だ。

「私は県長の左進だ。決壊した橋の改修のために、この先の村に臨時の徴税に参るところだ。道を開けい!」

車上の男、左進が言った。牛金は一歩前に出て、左進と200人を睨み据えた。

「我が名は牛金! いったいどこに決壊した橋などあるというのだ! 村には貴様の懐を肥やすために支払う、如何なる物もありはしない! 早々にこの地より立ち去れ!!」

200人にわずかに喧噪が起こる。牛金の名は県内ではそれなりに知られている。多少の脅しにはなったはずだ。それでも、喧噪はやがて静まっていく。数を頼む気持ちが強いのだろう。たった一人の勇名にいつまでも怯んでいてはくれない。実際、数の差はあまりに大きかった。牛金が先頭で勇を奮って仲間を勢い付かせ、それに乗じてそのまま県長を討ち果たす。そのわずかな勝機に賭けるつもりだった。

左進は周囲が静まるのを見届けると、肥え太った体には立っているのも辛いのか、倒れる様に再び腰を下ろした。そして、周りを固める騎兵に何事かを指示している。
―――抗弁し、言い繕おうという気もないのか。
牛金の胸に複雑な感情が湧きあがった。腐敗しきったこの国の民であることがそうさせるのか、それは羞恥にも似た思いだった。

気が付くと、県長を守る様に固まっていた騎兵の一騎が動き出していた。一際大きな白馬に乗る男だ。一本の長い棒を持っている。まだ若い、いっそ幼いと言ってもいい年頃に見えた。人波を強引に押し分ける様にして進んでくるその姿は、何故かひどく自然なものと見える。

「夏侯恩! 貴様、何のつもりだ!」

男が集団を抜け出たところで、ようやく県長が詰問の声を上げた。夏侯恩。それが男の名だろうか。男はその声を無視して、尚も真っ直ぐに馬を進める。こちらまで10歩ほどの距離を残したところで男は馬を止めた。そして馬首を返す。まるで牛金達の先頭に立って、200に対峙しているような構えだ。

「義は彼らの側にある! 俺はこちらに付かせてもらおう」

「貴様、裏切るか!」

県長が声を荒げて何事かを捲し立て始めた。牛金はそれを無視して、背後から男に声を掛けた。

「お前、死ぬ気か?」

「死ぬ気はない」

振り向いた男の顔に浮かんだ笑みからは、やはり幼さが感じられる。稚気を含んだその幼い正義感のために、この若者は死ぬのか。そう思うと、牛金は居た堪れない気持ちに襲われた。思わず何かを言いかける。

「や―――」

「勝つ気だ。それに、あんた達の誰一人として死なす気はない」

牛金の言葉は遮られた。自分でも何を言うつもりだったのか分からなかった。そして、男が何を言ったのかも理解出来なかった。
男はすでに正面を向き直っている。その背中が言った。

「機を逃すな」

男の姿が見る間に遠くなった。馬を駆けさせたのだと理解するのに数瞬を要した。それほど凄まじい、まるで飛ぶような走りだった。
瞬く間に、男は敵中に躍り込んでいた。槍のようにして棒を使い、瞬時に2、3人を突き倒している。人と馬ではなく、一つの何か全く別の生き物としか、牛金には思えなかった。200の集団が唯の一騎に断ち割られていく。

「―――っ! 行くぞ、お前ら!」

機。男の言葉が甦り、牛金ははっと我に返った。思わず男の戦いに見とれていた自分を、牛金は奮い立たせた。





牛金はひとつ大きく息を吸って、乱れた呼吸を落ちつかせた。周囲を見渡す。倒れ伏す者達の中に、仲間の姿は一人も含まれてはいなかった。夏侯恩の言う通り、1人も損なうことなく、50人以上を討ち倒した。その大半は夏侯恩と牛金自身の手によるものだ。夏侯恩が騎馬の一団を突き崩したことで、残る者も散り散りに逃げていった。

馬蹄の音が騒がしく響いた。一人、追撃に出ていた夏侯恩が戻って来ていた。肩や背などに数ヶ所浅い斬り傷があるが、血はすでに止まっているようだ。夏侯恩を除いて、こちらには手傷を負ったものすらいなかった。まさに完勝である。しかし、牛金達が突っ込むのがもう少し遅れていれば、夏侯恩の傷はこの程度では済まなかっただろう。不思議とそんなことは考えもしなかったが、そもそも突然仲間になると言ったところで、こちらが信用しない場合もあるのだ。囲い込まれてじわじわと斬り刻まれていた可能性は十分に考えられた。

「ずいぶん、無茶をするな。俺たちがお前を疑う、とは思わなかったのか?」

牛金は近付いてきた夏侯恩に声を掛けた。

「それは思い付かなかったな。今なら奴らを崩せる、そう感じただけだ」

夏侯恩は事もなげに答えた。

「初めから、こちらに付くつもりだったのか?」

「ああ。道案内にはちょうどいいだろう?」

夏侯恩が不敵な感じの笑みを浮かべた。まだあどけなさを残したその顔には、あまり似合っていない。
牛金は夏侯恩のことを好きになりかけている自分に気付いた。

「……で、その馬は?」

牛金は、夏侯恩の背後に居並ぶ馬群に目を向けて尋ねた。数は20頭ほど。ちょうど左進の私兵団にいた騎兵の数と同じくらいの数である。よく見ると、馬群の中には無人の馬車を引いている馬が1頭いた。間違い無さそうだ。

「左進には、歩いてお帰り願うことにした」

「はははっ!」

肥え太った体を必死に揺らして歩く左進を想像して、牛金は声を上げて笑った。背後からも笑い声が響く。初めて聞いた村人たちの笑い声だった。

「馬は村の者の好きにするといい」

笑い声が止んだところで、夏侯恩が言った。

「左進の奴が、何か言って来ないかな?」

「もう2、3日もすれば、新しい県長が来る。後のことは彼女に任せるといい。あんた達にも手を出させないように手を打ってくれるはずだ」

2、3日。それは牛金が聞いていた話よりもずっと早い。しかし、役人が一体何をしてくれるというのか。

「……新しい県長ね」

「彼女は信用出来る。俺が請け負おう」

牛金の言葉から何か感じ取ったのか、夏侯恩がそう続けた。その言葉に、牛金は一つの考えが思い浮かんだ。

「夏侯恩。…………夏侯氏か」

夏侯恩の顔にわずかに狼狽の色が浮かんだのを牛金は見逃さなかった。
新しくやってくる県長の一族は、夏侯氏とも血縁のはずだった。数年前にとある噂で騒がれた一族であるから、その辺りのことは牛金も知っていた。夏侯“恩”、その名には聞き覚えがなかったが、“惇”や“淵”といった名の者達は、その主の名と共に最近になってからも何度か聞いたことがあった。

「……いや、待てよ。そもそも、その白馬は」

「―――っ! お、俺はそろそろ行くぞ」

言って、夏侯恩と呼ばれていた男は馬首を返した。その背が、やはりすぐに遠ざかる。村人たちの呼び止めも、感謝の言葉も聞こえていないのか、振り返りもせずに駆け去っていく。
その背を見つめながら、牛金は一つの名に思い至っていた。それは、夏侯恩という名ではなかった。もし、彼が牛金の思った通りの人物であるのなら、立場上、今は名を伏せたいという気持ちもわかる。最近では、純白の愛馬に跨って悪を討つというその雄姿が、侠客達の間でも話題となっていた。

「……そうか。あれが―――か」

牛金は、そうひとりごちた。





新しい県長が赴任したという噂は、朗報を伴って、すぐに牛金の耳にも入って来た。赴任するや直ぐに、県長が左進だった頃に幅を利かせていた不正役人達を一斉に処分したのだという。同時に、帳簿を確認し、左進が過剰に取り立てていた分の税は今後の徴収から減じる、という告知もなされていた。

何かが始まった。牛金は訳もなくそう思った。




[7800] 第2章 第1話 洛陽の日常
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/08/16 19:16

「将軍、起きているか?」

朝の修練をこなして、朝食まで作り終えると、曹仁は皇甫嵩を起こしにかかった。

「…………ああ」

「……」

「……」

「……入るぞ」

躊躇うことなく戸を開けると、曹仁は室内に踏み込んだ。目の前に広がる皇甫嵩の私室兼寝室は、脱ぎ散らかされた衣服と、読み散らかされた書簡と、飲み散らかされた酒器に溢れて、つまりは散らかっていた。

「…………うぅ」

寝台の上で皇甫嵩が身悶えた。はだけた服に、蹴り飛ばされた布団。それで肌寒いのか、皇甫嵩は自身の体温を逃がさぬように、何かを抱きしめるように体を丸めている。あられもない姿ではあるが、それも含めて、すっかり見慣れた朝のこの部屋の風景だった。

「……やっぱりか」

曹仁は自分でも無遠慮と感じる足取りで寝台に近付くと、手にした桶から水を一掬い、皇甫嵩の顔に滴らせた。





曹仁が洛陽へやって来て、3月ほどが経過していた。曹仁は皇甫嵩が洛陽に用意した屋敷に、彼女と2人で暮らしていた。角は屋敷暮らしは性に合わないと言って、町人達に混じって暮らしている。曹仁の元には1日1回は顔を見せに来る。
屋敷には家宰はもちろんのこと、使用人の1人も雇われてはいなかった。大功を立てた将軍の住む屋敷としては如何にもおかしな話であるが、1年の大半を任地や戦地で過ごすのだから必要ない、というのが皇甫嵩の言である。そうは言っても、皇甫嵩自身が台所に立って包丁を振るうことや、箒を手にすることはなかった。必然的に、家中のことは曹仁が1人担う事となった。家事や来客への応対に追われる中、皇甫嵩の調練に付き従う。それが曹仁のこの3ヵ月間の過ごし方だった。
とはいえ、気軽な2人暮らしであり、家事の方はさして負担ではなかった。広大な屋敷ではあるが、使用していない部屋に関しては荒れるに任せてしまっているのだ。問題は来客への応対である。燦爛たる功績を掲げた皇甫嵩に近付こうとする者は実に多かった。皇甫嵩の立場と天の御遣いという曹仁の存在を考えれば、客人への対応には誰か別の人間を当てるべきなのだが、本人にはまったく気にする様子がない。偽名を使うという曹仁の提案も、不要として却下されていた。

「おーほっほっほっ! 失礼しますわ。曹仁さんはいらっしゃって?」

「こんにちは、麗羽さん」

袁紹―――麗羽もそうして訪れる客人の一人だった。大将軍何進の使いとして、皇甫嵩を引き入れることが目的である。もっともその目的を持って訪れたのは最初だけで、最近ではすっかり目的がすり替わっていた。

「曹仁さん。例の件、考えて頂けたかしら?」

「何度も言っている通り、俺はまだ誰かの部下になるつもりはないよ。麗羽さん」

初めて屋敷を訪れたときには、何進の使者をやらされる事に対する不満がありありと顔に表れていた。名族の生まれである自分が、市井の出身である何進にいい様に使われることに耐えられない、といったところだろう。しかし、今では3日と空けずに顔を出していた。曹仁を部下に引き抜いて、華琳の悔しがる顔を見る。それが麗羽が皇甫嵩の屋敷を訪れる主たる目的となっているようだった。
麗羽は華琳とは幼馴染であり、曹仁自身も以前から面識がある。当時から熱心に引き抜きを受けていて、真名まで許されていた。曹仁自身、華琳に対して多かれ少なかれ劣等感を持っているので、麗羽のそうした気持ちも理解出来なくはない。

「あらあら、いくら私が名族の者だからといって、恐縮することはなくてよ。おーほっほっほっ!」

「そうだぜ、曹仁。名族の生まれって言ったって、姫自身はそんな大したもんじゃないんだからさ」

「猪々子さん、それはどういう意味ですの!?」

「あー、もう! せっかく曹仁を説得しようとしているのに、邪魔しないで下さいよ、姫。」

「ちょ、ちょっと、姫、文ちゃん! こんなところで喧嘩しないで下さいよぅ」

言い争いを始めた麗羽と文醜を、顔良が止めに入る。文醜と顔良の2人は袁家の二枚看板として名を知られた武将である。

「猪々子さん、あなた、私に何か不満でもありますの!?」

「そんなこと言ってないでしょう! 姫は態度はでかいくせに、細かいことを気にし過ぎなんですよ」

「キーッ! なんですって!」

「姫も文ちゃんも、どっちも落ち付いてよぅ。曹仁さんが呆れてますよ」

麗羽と文醜の口喧嘩はなかなか終わりを見せなかった。顔良が助けを求める様な視線をこちらに投げ掛けて来ている。洛陽を包み込む不穏な空気に反して、長閑な情景だった。
皇甫嵩は何進と十常侍のどちら側にも与する態度をとっていない。洛陽に張り巡らされている謀略の網は、今の曹仁には遠い所の出来事でしかなかった。唯一、何進の使いである麗羽の訪問がそれを感じさせるものであったが、最近ではこのような調子である。洛陽に来る前に胸に抱いていた漠然とした不安が、馬鹿らしく思えるほどであった。





「袁紹達は帰ったのか?」

「ああ」

結局麗羽は皇甫嵩に会うことなく、曹仁に言いたいことを言うと帰っていった。

「そうか。まったく、あやつは本来の目的を完全に忘れているな」

「なんだ? 何進に協力する気になったのか?」

「その気はない」

想像通りの簡潔な答えが返ってきた。
現在、皇甫嵩が洛陽守護の名目で抱える兵力は5千。大将軍の何進が率いる兵力は倍の1万であるが、練度という点では皇甫嵩の軍より遥かに劣るだろう。皇甫嵩の軍は黄巾の乱を戦い抜いた兵達の中から、さらに選りすぐった精鋭の集まりである。
洛陽に現存する兵力として他に挙げられるのは、まずは皇帝直属の西園軍(近衛軍)の1万。これは、皇甫嵩の軍にも匹敵する精鋭を集めて新たに作られた軍である。華琳や麗羽を含む西園八校尉に指揮権があるが、8人の筆頭は十常侍の1人蹇碩である。実質宦官側の勢力であると言っていいだろう。そもそも華琳に至っては、肩書きこそ有したままではあるが、洛陽内に存在すらしていない。
他に、執金吾の丁原などが率いる1千以下の部隊がいくつか。その大半は何進によって地方から呼び集められた者たちで、当然彼女に与している。
兵力で何進、練度で十常侍。2勢力の武力は拮抗していた。皇甫嵩が加わった側が、単純な武力では圧倒的に有利になるというのが現状だった。

「……前から気になっていたのだが、将軍はどうして何進に協力しないんだ? 外戚だからか?」

「そういうことは関係ない。何進はなかなかの人物でもあるしな」

「そうなのか?」

1度、麗羽と共に何進が屋敷を訪れたことがあった。応対の際に数語話しただけの曹仁には、派手好きで露出の多いねーちゃん、という印象しか残っていない。

「袁紹、あやつが何進本人の前だからといって、彼女にかしずくような態度をとっていると、お前は思うか?」

「……確かに」

麗羽に限らず、そもそも何進の元に集う者達の多くは、宦官だけでなく外戚に対しても強い反感を持つ、清流派と称する者達だった。何進はそれを、十常侍という共通の敵がいるとはいえ、一つにまとめ上げているのだ。それも、十常侍達と違い、恐怖によって下の者を付き従わせているという話も聞かない。出自が重要な意味を持つこの時代、この世界で、肉屋などと陰で罵られながらもそれだけのことをやっている何進には、何かがあるのだろう。

「見た目があれだから、ただの色物かと思っていた。……なら、それこそどうして何進に協力しないんだ?」

「やり方がな。洛陽に兵を集め、宦官を1人残さず皆殺しにしようとしている。それが気に食わない」

「あれ? 将軍は宦官に好意的なのか?」

曹仁には意外なことだった。曹仁自身は宦官から出た曹家の一員でもあり、宦官に対して悪意はなかった。だが、それはあえて悪意を持たないように努めてきた結果である。また、この世界に来たばかりの頃に数度会った、生前の曹騰が高潔な人物であったことも影響している。しかし、公正に見て、今の宦官が多くの人の敵意に晒されているのは、致し方無い事と言えた。特に、皇甫嵩は麗羽の袁家ほどの名家ではないとはいえ、代々朝廷に忠誠を誓ってきた一族の出である。当然、宦官に対して敵意を持っているものと曹仁は思っていた。

「好意的というのとも少し違うが。彼らには皇帝と宮中だけが全てと言って良い。それだけに宮中での権謀に腐心する者もいるが、忠心の塊のような者もいる。曹騰殿もそうだったと聞くぞ」

「確かにな。曹騰様は帝のために全てを捧げたような方だったな」

「それに私は幼い頃、梁冀の苛政を体験しているからな」

「あぁ、なるほど」

梁冀。立場で言えば今の何進とよく似ている。皇后の兄であり、それ故に大将軍の地位にまで登った人物。当時の幼帝を毒殺までしながら、その後も10年以上も専横を振るった、権力の怪物。その間、政事は梁冀の私邸でこそ行われ、朝廷はただの飾りに成り果てたのである。怪物の最後は、起ち上がったわずか5人の宦官の手によるものだった。そう、宦官は皇室にとって最後の楯とも成り得るものなのだ。

そうした忠義の者達まで殺してしまうのは忍びない。つまりはそういう事のようだった。戦場では勇猛にして果敢でありながら、皇甫嵩にはそういうところがあった。大義よりも情義を重んじてしまうようなところが。それは皇甫嵩の欠点でもあるのだろうが、それが故に曹仁は彼女を好きだった。





白鵠の嘶きで曹仁は目を覚ました。外はまだ暗い。深夜と言っていい時間である。

すぐに曹仁も異変に気が付いた。
曹仁はこの世界の住人より遥かに、気配や殺気といったものに対して鈍感であった。曹仁自身と同程度の力量を持つ武人と比べれば、雲泥の差があると言っていい。それは、平和な、少なくとも曹仁自身の周辺では戦や命を失う様な争いのない世界で生まれ、そこで幼年期を過ごしたことによるのだろう。しかし今回の相手は初めから潜む気がないのか、耳を澄ますとわずかに物音のようなものまで聞こえてきた。白鵠の声には危険を知らせるような響きはなかった。曹仁は枕元の小刀を手に取ると、音を立てないようにゆっくりと部屋を出た。
気配を辿って廊下を歩くと、決して小さくない物音が耳に届くようになってきた。音がするほうに、さらに足を進める。

「「「「あっ」」」」

正面から行き逢った。

「……お、おーほっほっほっ。お邪魔していますわよ、曹仁さん」

「よう、曹仁。邪魔してるぜ」

「ふ、二人とも、声が大きいよぅ」

少しばつが悪そうにしながらも大笑する侵入者と、能天気に挨拶してくる侵入者を、1人慌てた様子の侵入者が押し留めていた。





曹仁と皇甫嵩は3人の話に耳を傾けた。詔勅によって麗羽の屋敷は官軍の包囲を受け、顔良、文醜の奮戦でもって辛くも逃れてきたらしい。何進の状況は3人も把握出来ていないらしいが、麗羽に兵を向けたということは、既に討たれたか、同じく兵に包囲を受けているかだろう。

「あんなもの、偽勅に決まっていますわ! 夜が明け次第、宮中に赴いて直ぐに撤回させてみせますわ!」

「偽勅であっても勅は勅だ。行けば抗弁の機もなく、有無も言わせずに首を刎ねられるぞ」

「うぅっ」

皇甫嵩の冷静な返しに、麗羽が色を失った。

――――その時だった。曹仁の耳に、再び白鵠の嘶きが届いた。

「…………」

「どういたしまして?」

無言で立ち上がった曹仁を、麗羽が怪訝そうに見つめた。

「お客さんみたいだ」

「お客さん? こんな夜中に、失礼じゃありませんこと?」

深夜の不法侵入者の発言には目を瞑って、曹仁は皇甫嵩に目をやった。今の白鵠の声には、先ほどには無い警戒の響きがあった。

「…………3人共、この部屋から絶対に出るなよ」

皇甫嵩は立ち上がると、戸口へと向かった。曹仁は皇甫嵩を守るように一歩前に出て、共に戸口に向かう。3人を見捨てるつもりはなかった。それは皇甫嵩も同じなのだろう。

戸の前まで行ったところで、曹仁は不安を感じて1度振り返った。

「顔良さん、くれぐれも、2人が出て来ないようにしっかり見といてくれよ」

一度念を押して、外へ出た。廊下に面した中庭で白鵠が待っていた。その口に咥えられた槍を受け取る。穂先は修練の時にはずして、そのままになっていた。

「軍が動いている気配はしないな」

皇甫嵩の言葉に辺りを窺う。確かに大勢の人間が動いているという気配はない。高度に訓練された精鋭の部隊であれば、自分と皇甫嵩を欺くことは不可能ではないだろう。しかし。

「…………」

曹仁は白鵠の首筋に手をやって、その視線を辿った。その向かう先は、屋敷の外ではない。もっとずっと近い。

「……将軍はここで待っていてくれ」

白鵠に跨る。鞍は付いていないが、特に問題はない。戦場以外では、付けずに乗ることも多いのだ。白鵠がゆっくりと歩を進めた。
庭の中ほどまで来た。曹仁にはまだ何の気配も感じられない。曹仁は周囲を探るのを止め、目をつぶった。白鵠と意識を通わせることだけを考える。白鵠はゆっくり、しかし淀みなく歩を進めていく。
白鵠が足を止めた。すでに曹仁と白鵠の呼吸はぴったりと合致していた。曹仁は閉じた目もそのままに、槍を突き出した。

硬く重いものを打つ、鈍い音が尾を引いた。槍が流れ、体勢がわずかに崩れる。すぐさま槍を引いて構え直しながら、曹仁は目を開いた。

「他人の家に勝手に上がり込むとは、何者だ?」

「……」

目の前には1本の大木とそれを囲む灌木。灌木の中、こちらの言葉に何の反応も示さずに、1人の男が立っていた。男の両腕の肘から先は、丸みを帯びた巨大な鉄甲で覆われていた。その鉄甲を構え、上体のほぼ全面の防御を固めている。鉄甲の持つゆるやかな曲線が、曹仁の槍の軌道を自然と外に逸らしたようだ。鉄甲の拳側には爪を模したように、刃が5本並んでいる。

「……!」

男は無言のまま踏み込むと、鉄甲を振るった。狙いが低い。まずは白鵠を討ち、馬上の利を奪うつもりか。曹仁は槍を地面に突き立てて、1撃目を防いだ。続く2撃目は白鵠が自ら1歩下がって透かす。
下がりながらも跳ね上げた槍の、穂先のないその先端が、男の顎を捉えた。男の顔が苦痛に歪む。一瞬の間を置いて、ふらりと男の体勢が崩れた。そのまま数歩、定まらない足取りで後退する。曹仁は白鵠を前に出した。槍を繰り出す。

「!」

瞬間、白鵠の馬体が沈み込むように動いた。曹仁は咄嗟に、繰り出した槍を途中で引き戻すと、そのままの動きで上方の虚空を払った。金属を叩く冷たい音が耳に、軽い反動が腕に響いた。

「気付いていましたか」

大木の葉が生い茂った辺りから、声がした。

「俺じゃなく、こいつがな」

曹仁は白鵠の鬣を梳く様に撫で付けながら答えた。自身の意思ではなく、白鵠に振らされた一槍だった。
大木から影が一つ躍り出た。それは音も無く地面に降り立つと、人の形をとった。その形には、本来あるべきものが欠けていた。
隻腕のその男は、鉄甲の男の隣に並んだ。鉄甲の男は、最初に潜んでいた潅木に倒れこむ様にして、何とか立った姿勢を維持している。

「申し訳ない。皇甫嵩殿の屋敷に用があったわけではないのです」

隻腕の男が言った。

「そちらの男は、抗弁も無しに襲いかかってきたが?」

もっとも先に手を出したのはこちらだが、と曹仁は心の中で付け足した。

「この男は耳が聞こえないのです。貴殿の誰何の声も届いてはいません」

言って隻腕の男は、鉄甲の男の方を向いて、口を動かした。声は出ていないのでその内容までは分からないが、隻腕の男の口が止まると、鉄甲の男は曹仁に向けてひとつ頭を下げた。少しは回復したのか、その動きからはぎこちなさが抜けつつあった。鉄甲に隠れて、先ほどの曹仁の口の動きは見えなかったということか。

「で、お前たちは何者だ?」

「言えません。しかし、そちらにおわす皇甫嵩殿には、想像がついているのではないですか?」

隻腕の男の視線が、廊下に立って、事の成り行きを見守っていた皇甫嵩を捉えた。曹仁はその視線を遮り、男と皇甫嵩の間に来るように、白鵠を動かした。

「では質問を変えよう。如何な用があってこの家に侵入した?」

「この屋敷に、袁本初殿が参ってはいませんか?」

「袁本初? ああ、麗羽さんか。こんな真夜中に来ているわけがないだろう」

「先ほど貴殿ら2人が出てきた部屋を見せて頂きたい」

我ながら悪くない演技だったのだが、隻腕の男は全くひるむ様子もなく、歩を進めてくる。曹仁は横を抜けようとする男の進路を、槍で塞いだ。

「……皇甫嵩殿」

男は槍を持つ曹仁ではなく、皇甫嵩に向け批難する様な視線を送った。

「すまんが、室内は少々乱れていてな。人様に見せられるような状況ではないのだ」

「我らを敵に回すおつもりですか?」

「深夜に無断で屋敷に侵入し、男女が共に過ごした寝所を覗かせろとは、無礼にも程があるのではないか?」

「…………」

「…………」

2人の間に緊張感が走った。曹仁はただ、男の隻腕のその腕を注視した。行く手を塞ぐ槍を片手に、もう片手は腰に差した小刀に添えてある。妙な動きを見せれば即座に斬り伏せる心算だった。

「我らも、ただ帰るというわけにはいきません」

「……たったの2人。それとも、もっと伏せっているのか? どちらにせよ、この私の、皇甫義真の男に、勝てると思うのか」

「…………」

男が曹仁へと視線を移す。曹仁は余裕有り気に、微笑んで見せた。実際には二人が連携して攻めてくれば、なかなかの難敵であると言わざるを得ない。

「後悔しますよ、皇甫嵩殿」

「さて、それはどうかな?」

「……我らはこれで失礼いたします」

男は踵を返すと、鉄甲の男を手振りで促し、駆け去った。まるで獣か何かのように、軽々と塀を乗り越え、闇の中にその姿が消えた。

「…………………………で、奴らは何だったんだ?」

白鵠が警戒心を解くまで、しばしの間を置いてから、曹仁は尋ねた。

「隻腕と、もう一人は耳が聞こえないのだったな?」

「ああ。そっちの男は、手首から先も無かったな」

鉄甲に覆われた両腕の欠損を、先ほどの攻防で曹仁は見て取っていた。武器をその手に持てないが故の、あの鉄甲なのだろう。

「ふむ。……恐らくは、残兵」

「残兵? なんだ、それは?」

「そういう名の、負傷兵ばかりを集めた部隊があると言う話しを聞いたことがある」

「部隊? 官軍のか? あんたが知らない部隊なんてあるのか?」

「官軍ではない。張譲の私兵部隊だ。それも、唯の軍隊ではなく、暗殺専門の部隊だという話だ」

「っ! 張譲の……」

張譲。先帝から我が父とまで言わせしめた、十常侍の筆頭である。ある程度覚悟していたことではあるが、これで皇甫嵩は反宦官反十常侍の者と見られることとなる。それも、十常侍と対抗できるだけの権勢と、彼ら以外で唯一帝を動かし得る力を持つ何進は、既に亡いかもしれないのだ。

「こうなると、何進には是が非でも生き延びていて欲しいものだな」

そんな期待を、特に何ということもないという調子で、皇甫嵩が口にした。

「……はぁ、あんたの慌てた顔ってやつを一度ぐらいは見てみたいもんだな」

曹仁は本心からそう返した。





何進とその与党の首が市に晒されたのは、翌日のことであった。





[7800] 第2章 第2話 天下無双の居る日々
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/08/30 10:42

「ふっっっっっ!」

曹仁は屋敷の中庭で、いつもの朝の修練に勤しむ。槍を構え、繰り突き、また構えに戻る。その一連の動作を、一呼吸の内に出来る限界まで、ただただ繰り返す。
槍が奔る。曹仁が自身に課している朝の修練4刻(2時間)はとうに過ぎていた。今日は槍が良く奔る。曹仁は時を忘れて槍を繰った。手、肘、肩、腰、股、膝、足首、足指、その全てがしっかりと意識され、それでいて散漫になってはいない。どんなに速く槍を繰り出しても、型が崩れない。心気は澄みきっていた。
曹仁は一度呼吸を落ち着かせ、大きく息を吸った。

「………………ごはん、まだ?」

「っ! …………はぁぁ」

渾身の連撃を繰り出すべく溜めた呼気は、一人の少女の登場で、ため息へと消えた。

「今すぐ作るから、少し待っていてくれ、恋」

「……ん」

こくりとうなずく、その少女の真名は恋といった。姓名は呂布。字は奉先。天下無双の呼び声高い、飛将軍その人だった。





何進の死より、すでに10日が経過していた。

今に至るまで、皇甫嵩の将軍職が解かれるということは無かった。その気になれば皇甫嵩を罷免させることなど、張譲には容易い事だろう。しかし現状においてそうなっていないのは、当の張譲が皇甫嵩の最大の庇護者となっているためだった。何進亡き今、洛陽における最大兵力を要する蹇碩に、武力でもって対し得る者は皇甫嵩のみとなっている。十常侍も外から見るほどに一枚岩ではないと言うことだろう。

7日前、つまり何進の死から数えて3日目に、麗羽は洛陽より脱出した。すでに洛陽の侠客達に一目置かれつつある角の伝手で、城壁の門番に顔が利く大商人の協力を得られたため、それはいともたやすく成功した。大商人と言われる者達のほとんどは、役人と結託することで金儲けに走っているというのが現状であった。しかし、盛んに金銭を要求してくる不正役人を憎み、まっとうな商売をしようとする者も、少数だが確かに存在しているのだった。また、意外なことに麗羽自身の、洛陽の民からの評判が決して悪くなかったことも、彼らの協力を得られた要因の一つだろう。唯我独尊を絵に描いたような麗羽ではあるが、ただ自分自身が格別に貴いと思っているだけで、あえて民に悪逆を働くような人物ではない。多くの者にとって憎悪の対象である十常侍と敵対していることも手伝って、麗羽の存在は洛陽の民から思いのほか好意的に受け止められていた。もっとも、愉快なおバカという評判は本人に聞かせられるものではないのだが。

そうして麗羽が無事に洛陽より去ったその日だった、曹仁が恋と名乗る生き倒れの少女を拾ったのは。
彼女が“あの”呂布であることを知ったのは、さらに2日が経過してからだった。恋の所在を探し当て、彼女に心酔する陳宮という少女が訪ねて来たのである。
恋の主君であった丁原自身が、何進に呼ばれて洛陽に来たばかりであった。そのため、いくら武勇名高い呂布といえども、その顔は皇甫嵩も知らなかったのだ。
呂布を見出したその丁原もまた、何進と共に首を刎ねられ晒されていた。その日、兵舎に設けられた私室に在った恋は、洛陽内の異変、兵が動く気配に気付いたのだという。しかし、恋が丁原の屋敷に駆けつけた時には既に彼は討ち取られた後であったらしい。恋自身は、飛“将軍”などと呼ばれてはいても、実際は丁原個人に使われる私兵のようなものであった。官位と言えるようなものを持っていたわけではない。そのため、今回の十常侍による何進達の誅殺に名を連ねることは無かったのだ。
恋は丁原に預けていた家族を屋敷から連れ出すことには成功したものの、丁原の擁していた兵は解散させられていた。その後は、行く当ても無く彷徨うしかなかった。手持ちの金も底をつき、途方に暮れているところを曹仁が見掛けたのだった。空腹でへたり込んだ恋と、彼女を囲む家族―――犬猫の大群の姿は周囲の目を引き付けて放さなかったが、あまりに異様な集団に声をかける者もいなかったのである。その様を実際に目にした曹仁は、都会の人間はいつの時代も冷たい、と批難する気も起きなかった。曹仁自身からして、彼女に声を掛けるには、非常な勇気を必要としたのだった。





厨房に付くと、曹仁はさっそく朝食の準備を開始した。厨房の中を忙しく立ち回る。恋は手持ち無沙汰な様子でとてとて付いて来ては、偶に袖を引いて、まだ、と上目づかいで聞いてくる。下拵えは昨夜の内に済ませてある。そう待たせずに済みそうだ。

「ほら」

恋と一緒になって、足元にまとわりついてくる犬猫の群れに、豚骨を放った。昨晩から熾火でじっくりと煮込んで、豚骨から出汁を取った湯(スープ)は良い香りを放っていた。将軍の地位に在りながら碌に贅沢もしない皇甫嵩の、無駄に貯め込まれた資産にものを言わせて集めた高級食材である。ほとんど肉の残っていない豚骨といえども、ただ捨てるには惜しい。1番に飛びついたセキトが、短い足を器用に使って骨を押さえ付け、肉をこそぎ取っている。これが鶏肋だと、骨が鋭利な割れ方をして危険なため、もったいなくても捨てるしかないのだが。

「………………」

「もうすぐ出来るから、将軍と音々音を起こして来てくれるか」

「…………………………ん」

そんな犬猫に向ける恋の視線に不穏なものを感じ取った曹仁は、恋を厨房から遠ざけることにした。恋は長い間の果てに頷くと、厨房から出て行った。その間と、去り際に犬猫――より正確に言うなら犬猫の齧っている豚骨――に向けた視線が怖い。

(……少しは人間らしい行動ってやつを教え込んだ方がいいのかな)

しかし、それで恋のあの自然体が失われてしまうのは惜しい。自然体こそが恋の強さの源である。それが、恋が呂布であると知って以来、何度も立ち会ってきた曹仁の得た答えだった。そしてその自然体故に、陳宮―――音々音が訪ねて来るまで、曹仁は恋の実力に気付けなかったのだ。

(それになにより、可愛いしな)

そう、恋の自然体が生み出しているものは、何も強さだけではなかった。犬の健気さと猫の気紛れを併せ持つ、その可愛さもまた天下無双の域だった。
考え事をしながらも、料理をする手は休まず動かしていた。もう直ぐ完成だ。自然と、恋が美味しそうに料理を食べる姿が思い浮かんでくる。頬が緩む。

「ちんきゅーきーーーーーーーーっく!」

「っと」

背後からの飛び蹴りを、曹仁は寸でのところで避けると、そのまま蹴り足を掴んだ。せっかくの奇襲も、自分から声を出して相手に教えてしまっては台無しである。思考が緩み切っていなければもっと余裕があっただろう。

「わわっ、は、放すのです」

足首を持たれ、吊り下げられた格好の音々音が、じたばたと暴れる。曹仁は慣れた手つきで蹴りに来る音々音の足を捌いた。実際、すでに両の指では数え足りないほど繰り返されたやり取りだった。半ズボンの様な形状をした、丈の短い下衣の隙間から水色が覗いた。今までの傾向からして、どうやら淡い色合いの下着を好んで着用しているようだ。

「張々、助けるのです」

音々音の呼び声に応じて、骨を齧っていた張々がのっそりと寄って来た。張々は恋の家族の一員の大型犬で、その姿はどう見てもセントバーナード犬である。そして、恋の一番の親友であるセキトは、コーギー犬であった。その辺りを深く考えることを曹仁はもはや放棄していた。考えて答えが出ることとも思えない。

「…………」

「わっっ、何するですか、張々! ちょっ、肉臭いです。ううっ」

張々は音々音をしばし無言で見つめると、その顔を舐め上げた。音々音の抗議の声も全く無視して舐め続ける。

「よっと」

さすがに哀れみを覚えた曹仁は、足を掴んでいた手を離した。離す瞬間、微妙に力を加えて補助してやると、音々音は器用に中空で半回転して足から着地した。非力ではあるが、生来の思い切りの良さも手伝ってか、なかなか身体能力は高い。曹仁に向けて再三放って来る飛び蹴りも、出鱈目ながらもその跳躍力は相当なものだった。

「で、何のようだ、音々音?」

「ねねに対して働いた無礼に関しては、後でたっぷり謝罪と賠償を要求するとして、まずは! 使用人の分際で、恋殿に指図するとは何事ですか!?」

恋に自分と皇甫嵩を起こすように頼んだことを、音々音は怒っているらしい。

「俺は使用人じゃないと、何度も言わせるな。そんな記憶力で、よく軍師が務まるもんだな」

「むぅぅ、減らず口を。おま―――」

「………………ごはん」

さらに何か言い募ろうとしていた音々音が言葉を詰まらせた。くいっくいっと、上衣の裾を引かれて曹仁が振り向くと、恋が真っ直ぐにこちらを見つめてきていた。その後ろには、まだ眠そうな顔をした皇甫嵩の姿もある。

「すまん、恋。音々音が邪魔するから、まだ出来てないんだ」

「ああっ! ねねだけ悪者にする気ですか!?」

「実際そうだろ?」

「こら。邪魔したら、ダメ」

「う!」

恋が音々音に軽く拳骨を落とした。



「モグッ、モグ、ングッ、モグモグモグ」

贅を尽くした高級食材。そして、食材の良さに鍛えられ成長著しい、曹仁自身の料理の腕前。料理はどれも自信作である。

「モグ、ングッ、モグモグ……コクン」

「………………」

「…………曹仁、箸が進んでいないぞ」

「…………ああ」

皇甫嵩の言葉に、気のない返事をする。視線は恋に釘付けだった。実に美味しそうに食べてくれる。そして、可愛い。この子のために一生料理を作り続ける人生も有りだ、と本気で考えてしまいそうになる。

「恋殿をヨコシマな視線で汚すなです!」

食卓の下で、音々音が曹仁の脛を蹴り上げていた。

「いてっ、…………この!」

曹仁も蹴り返す。十分に手加減はしているが、最近音々音の扱いが多少ぞんざいになっていることは、曹仁自身自覚するところであった。

「くっ! やりましたね!」

音々音の反撃をかわす。食卓の下を見るまでもなく、上半身の動きだけで蹴りの軌道はだいたい想像がつく。

「このっ! このっ! このぉっ!」

連続して繰り出される蹴りもすべて避ける。

「くーーーっ、ねねの怒りにふれましたね!」

痺れを切らしたのか、音々音が今度は拳を握って、曹仁に殴り掛かってくる。

「こら」

曹仁が避けるまでもなく、それは恋が手を伸ばして止めていた。

「とめないで下さい、恋殿! こいつが!」

「………………ねね、曹仁嫌い?」

「うっ」

恋は悲しそうな顔で言った。これはきつい。嫌いだ、とも言えず音々音が言葉を詰まらせる。見るに忍びない。曹仁は口を開いた。

「れ、恋、俺の国の言葉にこういうのがあるんだ。…………喧嘩するほど仲がいい」

「…………曹仁とねね、仲良し?」

「ああ」

音々音もこくこくと、何度も頷いて見せている。すごく嫌そうな表情で。

「ん」

恋はひとつ大きく頷くと、残されていた最後の肉まんを手に取り、半分に割った。割れた2つをじっと見つめ、大きい方を皿に戻し、もう一方をさらに半分に割る。

「……ん」

手にした4分の1ずつの肉まんを、それぞれ曹仁と音々音に向け、突きだす。

「ありがとう、恋」

「ありがとうございます、恋殿」

「んっ」

恋はもう一度満足そうに頷くと、皿の上の肉まんに手を伸ばした。ああ、残りの半分は自分で食べるんだ。
肉まんを頬張る恋を見ながら、曹仁と音々音も肉まんを口に運んだ。心温まる。これを機に、音々音とも少しは仲良くやっていけるかもしれないと、曹仁は思った。……のも、束の間のことだった。

「―――ぐっ!」

「ふふん」

音々音が曹仁の足を踏み付けていた。偶然なのか、狙ったのか、踏み締める踵は曹仁の足の小指を正確に捉えている。いくら音々音の体重が軽いとはいっても、これは相当に痛い。

「…………?」

「な、なんでもないぞ」

疑問符を浮かべて小首を傾げる恋に、曹仁は何とか笑顔で返した。音々音、許すまじ。





朝食より数刻、中庭にて曹仁は恋と対峙していた。両者の手には、それぞれ棒が1本ずつ。先端には布が何重にも巻かれて保護されている。棒とほぼ同じ感覚で扱える曹仁の槍と違って、恋の本来の得物である方天画戟と棒では重心がかなり異なる。方天画戟を使えと、そう言いたい気持ちを曹仁はぐっと押し殺した。これまでの数日間、その本来と違う武器を使った恋から一本も取れていないのだった。

いつも通り万全の構えを取る曹仁に対して、恋は何の構えも取っていない。内面、気持ちの上でも、特に構えた様子がない。

「…………」

「…………」

武人の目で改めて見た恋は、術を磨き、武を極めんとする曹仁とは全く正反対の強さを秘めていた。生まれながら身に備わった武、むしろそれは暴力と言い換えてもいいものだ。生まれたままの自然体での強さ。武の目指すところもその自然体であるといっていい。しかしそこには自然体を目指すという不自然、矛盾が存在している。恋の自然体には不自然なところなど一切無かった。それ故に、出会った当初、曹仁は恋の異質さは感じても、それが強さとは認識出来なかった。しかし、こうして対峙して見ると、その認識の誤りがはっきりとわかる。子猫が虎に、否、それ以上の強さを身の内に宿す化け物へと変貌していた。

じり、と曹仁は足指の動きで少しずつ間合いを詰める。同じ長さの棒を使えば、戟の要領でその中程を持って振るう恋より、槍のようにそれを繰り出す曹仁の方が、間合いはずっと長い。
まだ、曹仁の間合いにも入ってはいない。曹仁は呼吸を読まれない様に、静かに、しかし十分に深く息を吸った。そして、一気に自分の間合い―――恋からは届かない―――まで踏み込んだ。

「ふっっっ!」

上段、中断、また上段。今朝の好調はまだ続いている。前に突きだした左手の、有るか無きかの動きだけで高さを変えた3連撃。
それを恋は―――。
1撃目。首を傾げる様にして透かした。2撃目。わずかに腰を引いて避けた。
そして3撃目。2撃目で腰を引いたことで、恋は頭を前に突き出したような体勢だ。当たる。

「!」

次の瞬間、曹仁が感じたのは両の手に走る痺れだった。そして視界一杯には、恋の持つ棒の先端に巻かれた布の白。曹仁の突きを跳ね上げ、その眼前に棒を突き付ける。それを恋は無造作に、それでいて一切淀みがない動きでこなしていた。
曹仁の棒は、その手の内より離れ、大きく真上へ飛ぶと、そのまま二人の中間に落ちた。

華琳と初めて立ち会った時、曹仁はいつか必ず勝ってみせると心に誓った。春蘭との立ち合いでは、持って生まれた天稟の差を嘆いた。それでも、いつかは自分もと、そう信じて強くなる努力を続けてきた。そうして築き上げてきた武の成長を、春蘭と同等以上の強さを持つ愛紗との立ち合いで、実感することが出来た。
恋との立ち合いでは何の感情も浮かんでは来なかった。悔しいという思いすら胸を過ぎることはない。恋が動くと、その一手で勝負が決してしまうのだ。格が違った。差などという言葉では言い表せないほど、隔たりがあった。人は龍に敗れることに悔しさを感じることが出来るものだろうか。
駄目だ。弱気な思いに流されるな。どんなに強大な相手だろうが、いつかは必ず勝ってみせる。その思いが我が武の原動力だ。

「もう一本頼む」

「ん」

傍らで、音々音が野次を飛ばしている。それも、負けた悔しさへと変える。曹仁は地に落ちた棒を拾うと、軽く振るって埃を落とした。同時に心も奮い立たせる様に。








翌日のことである。夕刻、セキトにせっつかれた恋が、犬猫の餌を求めて厨房に顔を出した。それはいつものことで、曹仁は用意しておいた餌を渡した。餌をあげにいく恋に付きあって、曹仁も厨房を出る。これもいつものこと。今日1日、何となく恋の態度におかしなもの―――こちらを窺うような、あるいは避けているような―――を感じていたのだが、それも思い過ごしかと、曹仁は先を行く彼女の背中を追った。
恋に犬達が群がる。その犬を2本の手で押し退ける様にして、恋の手から餌を犬食いする男の子。いつもの長閑な風景だった。

「………………うん?」

おかしなものを見た気がした。

「……疲れてるのかなぁ」

曹仁は目を閉じて、目頭を軽く揉んだ。深呼吸をひとつして、再び目を開ける。
やっぱりいた。犬を両手で押し退けて、餌を独占している人間の子供が。

「恋」

「…………ん?」

「その子、どうしたの?」

「…………拾った」

「拾った!?」

男の子は、曹仁が思わず出した声の大きさに驚いたのか、飛び退いて距離をとった。目を向けると、こちらを睨みながら、威嚇するように低い唸り声を上げている。その様は獣と変わらない。が、どう見ても人間である。

「……朝、散歩のとき」

どうやら、恋が毎朝している犬の散歩の途中で拾ったということらしい。確かに今までも、散歩から帰ってくると犬の数が増えていたことは何度かあった。しかし、今回は人間である。捨て置くわけにもいかない。

「ええーと、ボク、名前は?」

「…………がうっ!」

「おわっ!」

中腰で視線を合わせて問いかけた曹仁の顔面目掛け、子供が歯を剥いて飛び掛かった。咄嗟に仰け反りつつ、子供の肩を抑えつけてそれを避ける。

「がうっ! がうっ!」

子供は肩を掴まれながらも、必死に首だけを伸ばして曹仁に噛み付こうとしている。

「噛んだら駄目」

そう言って、恋が子供の脇に手を入れて持ち上げ、曹仁から引き離した。

「謝って」

「……ごめんなさい」

「なんだ、言葉は喋れるのか」

狼にでも育てられたのかと思ったが、恋の言葉には素直に従うようだった。その後も恋に促され、少しずつ身の上を語り始めた。
少年の姓は高、名は順といった。高順は、いわゆる戦災孤児であり、もう3年以上も獣同然の暮らしをしてきたのだと言う。セキトを捕らえて食べようとしているところを恋に見つかり、取り押さえられたらしい。

「……家に置いてあげていい?」

恋が上目づかいで聞いてくる。いいよ、と反射的に答えそうになるのを、曹仁はグッとこらえた。

「犬猫じゃないんだぞ。ちゃんと世話出来るのか?」

「…………ん」

「本当に出来るのか? 最初だけそんなこと言っても、結局全部お母さんがやることになるんだから!」

「???」

「すまん。冗談は置いておいて、将軍には聞いてみたのか? うちの家長は将軍だからな」

「ん。…………曹仁がいいって言えば、いいって」

「そうか」

今まで言い出せずにいたのは、やはり恋にも人間は不味い、という思いがあったのだろう。しかし、結局こうしてなし崩し的に合わせてきたのは、考えるのが面倒になったというところだろうか。
曹仁は子供に視線を向けた。存外可愛らしい顔をした男の子である。身にまとった襤褸は、元の色が判らないほどに汚れている。ところどころが破れているのは、古くなったというだけでなく、成長した体を収めきれなくなったからだろう。

「ぐるるるるるるる」

「こら」

「痛っ!……うぅぅ」

喉を鳴らして曹仁を威嚇するのを、恋が拳骨をくれて止めさせた。それで、反抗するでもなく静かになった。本当に彼女の言うことは良く聞く。

「…………とりあえずは風呂だな。それに、服も用意しないとな」

言うと、恋の表情に変化が見られた。感情表現の乏しい彼女だが、これは嬉しいときの顔だ。曹仁はそれが分かる自分に満足感を覚えた。
薪は残っていただろうか。服は、買いに行かないと駄目だな。忙しくなる、曹仁は奇妙な楽しさを伴ってそう思った。





[7800] 第2章 第3話 動き始める洛陽
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/10/04 17:11

正面には恋が率いる騎馬隊500。恋を先頭にして楔形の陣形を取っている。曹仁が率いているのも同じく騎馬隊500。隊形も同じく楔形である。

恋が駆けた。真正面から向かってくる。騎馬隊も楔形を維持したまま一斉に動き始めた。

「よし、行くぞ」

曹仁も白鵠を走らせた。こちらも陣形は崩さず、そのまま突き進む。まずは正面からのぶつかり合い。それで力を測る。
先頭同士、曹仁と恋の距離が縮まる。馳せ違う瞬間、白鵠が、続く騎馬隊に合わせて抑えていた速度を一気に爆発させた。その加速を槍に乗せて突き出す。白鵠との連携の妙でもって相手の虚をつく、曹仁のし得る最高の一撃だった。しかし、恋はやはりその上をいく。彼女の想像を超えたものであるはずの速度と威力を前にして、わずかに体勢を崩しながらも、しっかりとそれを跳ね除ける。曹仁は速度を落とすことなく、その横を駆け抜けた。そのまま、続く騎馬隊の中に躍り込む。

500同士全隊が馳せ違った。

そのまま少し走って、半円を描いて反転する。自軍を眺める。馬だけになったものが30頭ほど。恋の率いる500に目を向ける。あちらは10騎ほどしか失っていない。そのうち3騎は曹仁が自ら打ち落としたものだ。両軍の中央付近に、馬を失った者たちがいた。やはり40前後。死者は出ていないようだ。他の者に肩を借りている者もいるが、全員が自分の足で立っている。そして、戦いの邪魔にならないように丘の方へと歩いていく。

曹仁と恋の2隊に分かれての騎馬隊同士による模擬戦。その最初の衝突は恋に軍配が上がった。

曹仁と恋、2人が率いているのはどちらも皇甫嵩旗下の騎馬隊であり、本来持っている力に差はない。地形は高低差のほとんどない平地。ただし少し離れた所に小高い丘がひとつ。馬を失った兵たちが向かった先だ。そこに皇甫嵩が歩兵4000を布陣して、文字通りの高みの見物を決め込んでいる。
洛陽に来てからの騎馬隊の調錬では曹仁が率いることが多かった。だから、隊としての能力は手に取るようにわかっている。また、兵達も皇甫嵩の客将に過ぎない曹仁を、共に黄巾の乱を戦い抜いたこともあってか、慕ってくれている。そこは恋より曹仁がはっきり有利な点だ。
副官として曹仁には角が、恋には音々音が付いている。ただし、音々音は戦闘そのものには参加せずに、声が届く、そう遠くない距離に控えて、軍師として恋に助言を与える役に徹するようだ。騎馬隊同士のまともなぶつかり合いともなれば、軍師が策を弄する余地はほとんどない。副官として勇猛の士である角を連れていることも、曹仁に有利だった。

恋の隊に、動く気配は無い。馬を失った者たちがある程度離れるまで待つつもりだろう。曹仁にも異存は無い。死者が出ていないのは、よく訓練されている証しだった。騎馬隊同士で模擬戦をすれば、落馬と、後続の馬による死者は、どんなに注意したところで出てしまう。馬からの落ち方と、迫る馬群から身をかわす術に長けることも、無事に一人前の騎兵になる上で大切なことだった。乗るものを失った馬達にも怪我は無さそうだ。調練ではよほどのことが無い限り、馬同士のぶつかり合いまではさせない。馬と馬が掠める様な距離をお互い駆け抜けたのだ。

「兄貴」

角が後方より馬を寄せてきた。最初のぶつかり合いに限り、殿について全体を把握するように命じていたのだ。
角からの報告では、こちらの被害30のうち、10以上は恋の手に掛かっていた。曹仁の奇襲の一撃で体勢が崩れていなければ、その数はもっと増えていただろう。しかし、それを差し引いても被害に差が有り過ぎだった。恋が率いることで隊自体が強くなっている、そんな感じだった。

曹仁は騎馬隊を2つに分けることに決めた。特に動きの良いもの50騎と、残る約400騎。50騎は曹仁自身が、400騎は角が率いる。今回の模擬戦の勝敗は、将か、もしくは兵の半数を討ち取ることで決する取り決めである。飛将軍呂布と兵250。狙うべきは兵だろう。500騎全てで当たったところで、恋を討ち取れるとは曹仁には思えなかった。恋をまともに戦わせないこと。それが勝つための絶対条件だった。





「うぅむ」

丘の上から騎馬隊の調錬を見つめる皇甫嵩は、思わず感嘆の声を漏らした。恋に対してである。
もちろん曹仁も悪くない。どころか、皇甫嵩が目にして来た騎馬隊の指揮官の中でも、最上の一人と言っていい。敵として騎馬民族である羌族を見、彼らに対するため精強な騎馬隊を有する涼州の官軍に身を置いた皇甫嵩がそう思うほどである。それが、本格的にこの軍を率いたのは初めてといっていい恋に押されていた。正面からの単純なぶつかり合い。それだけに隊列の組み方、そしてそれを動きの中で如何に保つことが出来るかという、地力の部分がものを言う。それは本来、調練を繰り返す中で築かれていくものだ。しかし恋の隊に綻びは見られなかった。それどころか、恋が先頭にいる、ただそれだけで隊としての強さが跳ね上がったようだった。

「……今」

「ん? 何か言ったか、順」

隣からの呟き。真新しい衣服に身を包んだ高順がそこにいた。馬に跨るその姿に危ういところはない。本人は記憶にないと言っていたが、恐らくかつて馬術を習ったことがあるのだろう。存外良い家の生まれなのかもしれない。曹仁の教育で、人とも獣ともとれないかった高順は、急速に人間らしさを身に付けつつある。あるいは、取り戻しつつあると言うべきか。

「今行けば、恋さんの勝ちだ」

高順がもう一度口を開いた。言われて皇甫嵩は、曹仁の隊へと視線を移した。そこにわずかな緩みが生まれていた。隊形を微妙に変化させているようだ。正面の恋からは気取られない様な動きだ。丘の上の高みからでも注視して初めて気付く程度である。少なくとも調練を初めて目にする人間が気付くような変化ではない。

「ほお」

皇甫嵩の口から再び感嘆の声が漏れた。恋の隊が今、先ほどの勢いでぶつかれば、確かに曹仁の隊の対応は遅れ被害は甚大だろう。高順は誰に何を教わるでもなく、それを見て取ったということか。戦感がある。皇甫嵩にはそう思えた。
高順は軍人に興味を持っているようだった。軍人に囲まれて生活を送っているのだから、それも必然と言えた。曹仁は高順を軍人にはしたくないようだった。皇甫嵩が許可し、高順が願っても、調練に連れてくることには反対をしていた。結局は1人で家に残すのはかわいそうだという恋の思いに折れたが、納得はしていないようだった。高順が戦争で家族を失ったことが気に掛かっているのだろう。侠客の真似事の様なことをしているかと思えば、存外細かいところのある男なのである。

調練場に動きがあった。恋の隊は先ほどと変わらず真っ直ぐに前進。曹仁の隊も同じだが、駆けながら前後2つに分かれていく。無理のない動きだった。恐らく前の隊に良い馬と、その扱いに長けた者を集めたのだろう。前は50騎ほどで、小さくまとまっている。後ろの400ほどは逆に少しずつ散って広がっていく。
ぶつかる瞬間、曹仁の50騎がさっと進路を変えた。くさび型の恋の隊の外側を擦る様に、斜めに駆け抜ける。続く400騎はそのまま真っ直ぐ駆けたが、さら散ってほとんどすり抜けるように恋の隊と馳せ違った。双方被害なし。
曹仁の50騎が、いち早く反転し、恋の隊に向かった。切り離した曹仁自身の400騎や恋の500騎とはやはり動きが違う。騎馬隊の動きはどうしても最も動きの悪いものに合わさざるを得ない。そうしなければ隊としての力を失ってしまうのだ。恋の隊が反転して対応しようとするも、間に合わない。曹仁の50騎が斜め後ろから突っ込んだ。そのまま真っ直ぐに駆け抜けて、恋の隊が2つに断ち割られる。分断された一方、恋のいる300騎ほどは曹仁の50騎に追いすがった。しかし、馬の差は大きい。2つの集団の距離は徐々に広がっていく。そして残された200騎。未だ混乱が収まらず、率いる者もないその集団に、牛金の400騎が襲い掛かった。
直ぐに気づいた恋が、引き返して残る兵を吸収したが、50騎ほどは失っている。

「仁兄、すごい」

隣で、高順が興奮を隠しきれないという表情で、馬から身を乗り出すようにして訓練場に見入っている。
曹仁の隊は、変幻に動き回っては、恋の隊のかく乱を続ける。そうして出来た隙を突いて、牛金が突撃を掛ける。恋が後手後手に回らされている。牛金の用兵も悪くない。曹仁や恋のような鋭さは無いが、その分だけ厚みのある用兵とでも言うところか。案外、歩兵を率いさせれば2人以上にうまく扱うかもしれない。
自分が恋なら、と皇甫嵩は考えた。こちらも2隊に分ける。それが最も無難な手だった。しかし、曹仁と違って兵を把握し切れていない恋では、状況に適した2隊に分けるのは難しいだろう。それに、そうして出来たもう1隊を率いる指揮官もいない。騎馬隊は100騎ずつ組み分けされ、それぞれに長となる者がいるが、牛金ほどの指揮は望むべくもない。音々音もそれが分かっているから、その指示を出せずにいるのだろう。ならばどうするか。

「皇甫嵩将軍」

思案に耽る皇甫嵩に声が掛けられた。歩哨に当たらせていた隊の者だ。調練中、こうして軍を1ヵ所に留まらせる場合は、歩哨の兵を立て、斥候も放つ。それも大事な調練のひとつである。
皇甫嵩は、慌てた様子のその兵に手振りで先を促した。





勝てる。曹仁はほとんど確信に近い思いを浮かべた。恋の隊は数を減らし、残りは350騎ほどだろうか。曹仁の隊はまだ400騎以上は残している。特に曹仁自身が率いる50騎はほとんど欠けずに残っていた。正面を避け、常に自分達に有利な位置取りから攻撃を掛ける。それで、恋の力を抑えきっていた。

恋の隊が、角の隊を目掛けて駆けた。兵力は同程度だが、角は無理をせずに隊を散らしてやり過ごす。駆け抜ける恋の隊の、無防備な横合いから曹仁は突撃を掛けた。再び恋の隊を分断する心算だった。
一瞬、恋と目があったような気がした。直後、恋がこちらに向けて強引に馬首を返した。曹仁の隊と真正面からぶつかる、その形に持っていこうと言うのだろう。しかし、そのためにはほとんど直角と言っていいほどの急な方向転換が必要なのである。
さすがにそれは無理だ。騎馬隊の力量を把握する曹仁にはそのことが良くわかっていた。
見事な馬術で恋が曲がりきる。それは予想していたことだった。恋一人ならば、隊を分けて避けることも容易だ。そして、避けたその先には無理な動きに隊列を乱した騎馬隊があるはずだった。

「っ! 全員、散れっ!」

そんな曹仁の思いを裏切る様に、恋の後に続々と騎兵達が随った。そのまま、さして隊列を崩すこともなく向かってくる。曹仁はありえないものを見る気分で、その様を眺めた。続々とこちらへと向きを変えていく、その瞬間の動きが曹仁の眼を惹いた。馬の動き。まるで馬が自らの意思で持って曲がってくる。そんな動きだった。ありえないことだ。その考えが、恋ならあるいは、という思いに押しやられていく。
恋が真っ直ぐ曹仁目掛け駆けてくる。散るのが間に合わない。350騎と50騎のまともなぶつかり合いとなった。






曹仁は汜水関の城壁の高みから、眼下の軍団を眺めた。兵力は約10000というところだろうか。
隣では皇甫嵩、恋、音々音も、同じようにその軍容に視線を送っている。高順も付いてきたがったが、さすがにそれは許可出来なかった。曹仁が言うと、渋々ながらも高順は帰路に付いた。初めの内は恋の言う事しか効かなかった高順も、今では曹仁と皇甫嵩の言葉にも従うようなっていた。音々音とはそりが合わないのか喧嘩ばかりしているが、以前のようにいきなり噛みつくという様なこともない。幸蘭が自分や蘭々に対して行う躾を模倣した、曹仁の高順に対する教育は劇的な効果を上げていた。曹仁は幸蘭に対する畏敬の念を、敬意とそれに倍するほどの畏怖を、新たにしたのだった。

曹仁と恋の模擬戦の終幕はあっけなく訪れた。核となる50騎の大半を失った曹仁が攻め手を欠き、恋が勢い付いたところで、終了の鐘は鳴らされたのだ。救援を求める汜水関からの急使と行き会ったためだ。皇甫嵩は朝廷の指示も待たずに、すぐさま進軍を開始した。洛陽守護という本来の任務に沿った行軍である。汜水関は外敵から洛陽を守る関所の一つであり、その様相は城砦と言って良い。左右の切り立った崖は迂回を許さず、真正面からの攻城以外の道を相手に与えない。さらに、たとえ汜水関を抜けたところで、その先にはそれ以上の堅固さを誇る虎牢関が待ち受けている。南北を山に囲まれ、東に虎牢関、西に函谷関、加えて漕運(水上運搬)による食糧確保の容易さ。漢王朝の首都洛陽は、まさに攻めるに難く守るに易い、要害の地であった。
軍団に動きはない。風にたなびく旗だけが、唯一動いていた。“董”と大きく書かれた牙門旗。そう、目の前に布陣する軍は、あの董卓が率いるものであった。
董卓軍10000の内の4000ほどを占める騎馬隊も、身じろぎ一つせずに、兵馬共に良く訓練された部隊であることを誇示していた。騎兵の割合が高いのは涼州の軍の特徴である。野戦での強さは官軍随一と言っていいだろう。曹仁が言うまでもなく、皇甫嵩はその強さを誰よりも熟知しているはずだった。とはいえ騎馬隊という兵種自体が城攻めには無用の長物である。

騎馬隊、特にその中核と思われる一団が、こちらに向けて前進を始めた。500ほどが一糸乱れぬ足取りで進んでくる。まさに精鋭だった。これが董卓か。馬術を好み、騎射を良くするという、武人としての高い技量は曹仁の耳にも聞こえている。また、黄巾の乱の鎮圧で諸将が功を競う中、一人静観を決め込み、力を蓄えたと言う。一筋縄でいく相手ではないだろう。

騎馬隊がぴたりと一斉に止まった。そこからさらに城壁近くまで進み出てくるのは、わずか3騎。真ん中にいるのが董卓か。想像していたよりもずっと小さく、遠目にも儚げな印象を受ける少女だ。しかし、その少女が洛陽の民を地獄に叩き落すかもしれないのだ。

「開門っ!」

突然響いた声に曹仁が見やると、いつの間に城壁から降りたのか、皇甫嵩が城門前でただ1騎開門を待ち受けていた。

「……まったく、あの将軍は。恋、いざという時の指揮は頼むぞ」

言い捨てて、曹仁は城壁を駆け下りた。白鵠がすぐに駆けよって来る。

「将軍!」

「どうした?」

「前にも言っただろ。一人で前に出るような真似は寄せ」

「ふむ。なら付いて来るか?」

「当たり前だ」

開け放たれた城門を、皇甫嵩と二人抜ける。
相手も官軍の将軍格の者の一人だ。本来ならば心配など無用なのだが、董卓の名は曹仁を警戒させるに十分なものであった。
軋みを上げて、背後で城門が再び閉ざされた。董卓軍の騎馬隊との距離を思えば当然のことなのだが、これでいざという時に城内に逃げ込むのが困難になったのも事実だった。如何な精鋭が相手でも、自分だけ―――自分と白鵠だけならば、逃げ切る自信が曹仁にはあった。しかし、皇甫嵩を守りながらとなると難しい。緊張感が高まる。

董卓の顔がはっきりと見えてきた。遠目の印象を裏切らず、触れれば壊れてしまうそうな、はかなげな少女だ。こちらを圧してくるような威圧感もない。董卓。専横を振るい、暴虐の限りを尽くした人物。三国志の知識に乏しい曹仁でも知っている、歴史上の人物。自身の住まう洛陽の人々の顔が脳裏によぎる。じわり、と曹仁の心に殺意にも似た思いが湧き起こった。その思いを振り払うように、曹仁は視線を移し変えた。
彼女の左右には一歩遅れて、対照的な2人が付き従っている。
左には、彼女と似たような背格好の少女。眼鏡を掛けた、その下の表情は険しい。具足の類は身に着けず、文官風の衣装に身を包んでいる。
右には中肉中背の男。曹仁と同じか、少し年上だろうか。2人の少女とは異なり、しっかりと具足を着込み、槍を手にしている。男の表情からは特に張り詰めた様子は見られない。しかし、その全身からは強烈な威圧感が放たれている。その向かう先が自分であることに曹仁は気付いた。
皇甫嵩と曹仁、董卓と2人、両者の距離が近付いていく。白鵠の一跳びで槍が届く、その間合いに董卓が入る寸前、男が速度を上げて董卓の横に並んだ。そのまま距離は詰り、馬同士の鼻面がぶつかり合う様な近さまで近付いた。曹仁の中で緊張感がさらに募っていく。

「久しいな、月」

「はい、お久しぶりです、皇甫嵩さん」

「は?」

緊張感を覚えていたのは曹仁だけだったのか、皇甫嵩は親しみの篭もった声を董卓に掛けた。対する董卓も、嬉しげな表情で返す。

「お久しぶりです、皇甫嵩殿。…………詠、お前も挨拶をしないか」

槍を手にした男も恭しく頭を下げた。そして、不機嫌そうな顔で横を向いている眼鏡を掛けた少女を促した。

「ふん。久しぶりね、皇甫嵩。黄巾賊討伐での活躍は、涼州まで聞こえているわよ」

視線を合わせないままに、その少女も一応の挨拶の言葉を口にした。

「詠に、照、二人も変わりないようだな」

皇甫嵩が鷹揚に頷き返す。そのまま積もり積もった話でも始めてしまいそうな空気である。

「……あのぅ、皇甫嵩さん。そちらの方は?」

何となく居づらさを感じていた曹仁に救いの手を差し伸べてくれたのは、董卓と思しき少女だった。皇甫嵩からは月と呼ばれていた。おそらくそれが真名なのだろう。周りに気配りの出来る、良い子だった。

「おお、すっかり忘れていた。こいつは私のところで家宰をしている、曹仁だ」

「家宰? 家宰がどうしてこんなところに?」

「食客だ。もしくは客将。ついでに弟子と言えなくもない」

眼鏡の少女の当然の疑問に即座に答えを返す。皇甫嵩と男からは詠と呼ばれていた少女だ。というか、将軍。音々音だけでなく、あんたまでそう思っていたのか。……家宰とは家長に代わって家政を取り仕切る者のことで、早い話が使用人頭に近い。

「そういえばそうだったな。で、そっちのさっきから小生意気そうなのが、賈駆。……考えてみると、曹仁、お前の姉弟子だな」

「ふん。ボクはあんたなんかに弟子入りしたつもりはないわよ」

その言葉に本気で否定するような響きはなかった。皇甫嵩の弟子。鎧も付けていないことを合わせて考えると、董卓軍の軍師といったところだろうか。不機嫌そうにしているが、皇甫嵩との再会を喜んでいるようでもあった。そして、曹仁の人生初となるボクっ娘との遭遇であった。

「なによ、じろじろ見て」

「いえ。……曹子孝です。よろしくお願いします。えっと、……賈駆姉さん」

「ふ、ふんっ」

一瞬悩んだ末、年下とも思えるその少女に、姉さんと呼び掛けた。同門の姉弟子に対する呼び方だ。賈駆は満更でもないといった表情で口を噤んだ。

「で、そっちの男が張繍」

皇甫嵩が、楽しそうに賈駆を見遣る視線は動かさずに、男を指差して言った。

「張繍です。よろしくお願いします」

「曹仁です。こちらこそよろしくお願いします」

挨拶を交わし終えると、自然と視線はお互いの得物に吸い寄せられた。張繍は明らかに曹仁を警戒しているようだった。賈駆と挨拶を交わした先ほどから、肌を刺すような視線がぶつけられていた。曹仁が董卓に対して一瞬抱いた、殺意にも似た感情に気付いたのだろうか。
張繍の槍は柄の部分に金属を巻いて補強されている。戦場での戦いを何よりも重視した、実戦的な武器であると言っていい。本質的には、槍は遠間から突く為の武器である。しかし戦場においては、叩く為の武器として扱われることがほとんどだった。具足を身にまとった多数を相手にする場合、そうした方がずっと効率がいいのだ。必然的に戦場で振るわれる槍は太く、重量のあるものが良いと言うことになる。
対して曹仁の槍は、柳の一種で良くしなる白蝋の幹をそのままに、先端に小さな穂先を付けただけのものだった。曹仁の槍術は、戦働きではなく、1対1で強者を負かすため磨かれたものである。その場合、槍は本来の使い方、突く為の武器として扱われることとなる。突くためには重さは邪魔にしかならない。
もう一つ、腰に佩いた剣に、曹仁は視線を移した。槍を持つそのもう一方の手が、そっとその柄に添えられている。槍とは対照的に剣は薄く、細い。戦場で振るって具足にでもぶつかれば、角度によっては一度に折れてしまってもおかしくはない代物だった。だが、それだけに剣速は侮れないものがありそうだ。1対1の勝負で、用心すべきはむしろこちらだろう。

「…………」

「…………」

お互いがお互いを探り合う、妙な沈黙が流れた。

「…………へ、へう。わ、わたしは」

2人の間に流れる不穏な空気を変えようとしてか、月と呼ばれていた、董卓と思しき少女が割って入った。やっぱり良い子だ。

「彼女が董卓だ」

少女の後を次ぐ様にして、皇甫嵩が言った。やはり、この子が董卓。

「よろしくお願いします、曹仁さん。皇甫嵩さんとは、以前何度も一緒に戦わせてもらって、それ以外でもよく御世話になっています」

董卓は、礼儀正しく一礼すると、にっこり微笑んだ。天使の様な、そんな形容が似合う女の子だった。少し儚げな印象が、月という真名によく似合っている。彼女が董卓とは俄かには信じ難い話だった。しかし、董卓と言えば確か呂布と共に都で専横を振るった人物だったはず。登場人物は揃い、場所も合っている。状況も整いつつあると言っていいだろう。

「? どうかしましたか、曹仁さん?」

当惑が顔に出ていたのか、董卓が怪訝そうに尋ねてくる。張繍がその隣で油断なくこちらを窺っている。

「えーと、…………そう! 将軍はあなた達のことを真名で呼んでいるみたいですが、あなた達の方からは呼んでいないのですね」

曹仁は苦し紛れに、何となく引っ掛かったことを聞いてみた。思い返してみると、恋や音々音に対してもそうである。師弟関係や役職上の上下関係で、下の者が一方的に真名を許すというのは珍しいことでもないが、皇甫嵩の性格上それは考えにくい。

「へ、へう。そ。それは」

「ま、まあ、そんなことはよいではないか」

「将軍?」

「あら、皇甫嵩。弟子なんていってるのに、ひょっとして曹仁に真名を教えてないの? 駄目よ、ちゃんと教えなきゃ」

賈駆が妙に楽しそうに言った。事実、曹仁は皇甫嵩の真名をまだ知らなかった。皇甫嵩との関係の近しさを考えれば、とっくに真名を許されていてもおかしくはない。しかし、自身に真名がないため、曹仁には自分から真名の話を切り出すという習慣がなかった。また、恋と音々音の真名は気付いた時には呼んでいたし、高順に至っては真名を覚えていなかった。親からも順と呼ばれていたと言うから、あるいはそれが真名で、名は別にあったのかもしれない。

「別に必要ないだろう。呼び方なんて、相手の特定さえ出来ればいいのだからな」

「いや、出来れば教えてほしいな。もう4ヶ月近くも一緒に暮らしてるんだしな」

賈駆から送られる意味深な視線を汲み取って、曹仁は言った。彼女とはなかなか良い姉弟関係を築けそうだ。

「うっ」

「もうほとんど家族みたいなもんだろう? 頼むよ、将軍」

「ううっ。……………………………………………………………………………………みあ」

「みゃー、いや、みあか。なんだ、そんなに変な真名でもないじゃないか。ちょっと猫っぽいけど。字はどう書くんだ?」

「……………………………………………美辞麗句の美と、偏愛の愛で、みあ」

「ええと、……美愛、か。…………美しい、愛」

「……言うな」

印象の悪い言葉をあえて選んだのだろうが、それで誤魔化せるものでもなかった。つまり、その真名で呼ばれるのが恥ずかしくて、教えはしても呼ばせはしないということの様だった。いや、良い真名だとは思うのだが。

「で、どうするつもりだ、詠? いかにお前の頼みと言っても、ここは通すわけにはいかんぞ。見たところ、攻城の用意も碌にしていないようだが、この私が指揮に当たる、この難攻不落の汜水関、どう抜けるつもりだ?」

皇甫嵩が何事もなかったかのように、話を本題に移した。しかし、その頬はやや紅潮したままだ。賈駆はまだまだからかい足りないとばかりに、少し不満そうにしながらも口を開いた。

「力押しだけが軍師の仕事ではないわ。外から開けられないなら、中にいる連中に開けさせればいいだけのことよ」

「ほぅ。……よく見ておけよ、曹仁。この姉弟子はいやらしい影働きをさせたら右に出る者はいないぞ」

「ふん。なんとでも言いなさい。―――――――ちょうど来たようね」

賈駆の視線を追って、曹仁は城門を振り返った。賈駆の言葉通り、中からゆっくりと城門が開いていく。開いたその先には、華美な車と、それを囲む同じく華美な衣装を身にまとった者達の姿があった。集団の中で、1本の旗が翻っている。それは天子直々の使者であることを表す、節であった。





[7800] 第2章 第3.5話  流浪の大器
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/11/06 21:37
 200人の兵士を、10隊に分けて警邏をさせた。そのうちの一隊を愛紗は自ら率いた。自分が警邏をすると、兵はもちろん、民にもわずかに緊張が走るのが愛紗にはわかった。これが桃香ならば、民は気安く話しかけてくるのだろう。それを少し寂しく感じながらも、こうして全体を引き締めるのは、自分にしか出来ない必要な役割である。主である桃香や他の仲間たちの顔を思い起こして、愛紗はそう割り切ることにしていた。

冀州中山郡は、王族である劉暢に下賜され、現在は郡国となっている。全部で13の県からなり、桃香が県尉として赴任した安喜県もそのひとつであった。
安喜県の県令は無害な男だった。波風を立てずに職務をこなす。それだけを考えているような男で、民政にも興味を持たなかった。一度愛紗が睨みを利かせてからは、税を着服して私腹を肥やすというようなこともなくなっている。事実上、県は桃香を中心として、民政を朱里と雛里が、軍事を愛紗と鈴々が担うと言う形でまとまりつつあった。200という県尉が動かすには大きすぎる兵を動かすことも黙認されている。
 住民も、すでに桃香を県の主と認めているようだったし、感謝もされているようだった。実際、桃香が赴任してからの数ヶ月で、民の暮らしは目に見えて改善していた。朱里達は、物流を整えて物価や収益を安定させただけで、根本的な改革はこれからだと、事も無げに語っていたが、民の受けた恩恵は大きい。
 県境を超えての黄巾賊残党の討伐が許されたのも、朱里達の手腕によるものだった。もちろんそこには、黄巾の乱における義勇軍の力戦を知り、桃香達を利用しようという他の県令達や相(国王の代理で行政を取り仕切る役職)の計算もあるだろう。しかしそんなこととは関係無しに、安喜県だけでなく近隣の県からも賊を駆逐し、その被害を抑えることが出来たのは愛紗達にとっては喜ぶべきことだった。土地に縛られず、困っている人がいれば助けたい。それが今も変わらぬ桃香の思いであり、そんな彼女に惹かれて集まったのが今の仲間達だった。



「関羽様!」

 他の隊の兵が、慌てた様子で駆け寄ってくる。
彼らの担当地区でよそ者数人が酒家の主に乱暴を働き、止めに入った周囲の店の者も巻き込んで大きな騒ぎを起こしたらしい。民の暮らし向きが向上し、治安が良くなったとはいえ、逆に仕事を求めて集まってくる人間は増えている。そこまでなら良くある事だし、兵達だけでも十分に対処できる。問題はそこに妙な仮面をした女が介入してきたことだった。彼女は絶妙な槍捌きで瞬く間によそ者達を叩きのめしてみせた。その行為自体は正義の行いとはいえ、怪しすぎるその人物、治安を預かる兵達としては看過するわけにもいかなかった。頑なに素性を明かそうとしない彼女との間で口論が始まり、ついには武器を取っての争いにまで発展してしまったのだと言う。

「これは」

 兵に案内され、愛紗が現場に到着したときには、既に争いは終結していた。倒れ伏す20人ほどの兵達に、大きな怪我はないようだ。商家が軒を連ねる路地の真ん中、地に伏した兵達に囲まれる位置に、こちらに背を向けて、女がひとり立っていた。

「我が兵を痛めつけてくれたのは貴様か!」

 女が振り向く。特徴的な形状の、真っ赤な穂先を持つ槍。胸元の大胆に開いた、真っ白な衣。蝶をかたどった華美な仮面から除く瞳が、愛紗を射抜いた。

「その黒髪。あなたが高名な関雲長殿ですかな? いや、お噂通り美しい髪ですな」

「私の名を!? 貴様、一体何者だ」

「それでは名乗らせて頂こう!」

 言って、女が槍を構え直す。戦うための構えというよりは、大道芸や見世物小屋などで見る、人目を惹きつけるためだけの大仰な構えだ。しかしその立ち姿に、愛紗は隙を見出せなかった。女が口を開く。

「可憐な花に誘われて、美々しき蝶が今、舞い降りる! 我が名は華蝶仮面! 混乱の都に美と愛をもたらす、正義の化身なり!」

「っ! 貴様が! 一体ここに何の用だ!」

 かつて幽州の一郡、公孫賛の領していた地で聞いた名だった。中山国は冀州の北辺の一郡であり、幽州とは州境を接しているとはいえ、容易く行き来出来る距離でもない。

「言ったはずだ。可憐な花に誘われてやって来たと」

「訳の分からぬことを」

「おや、分からぬか―――」

 すっと、自然な動きで華蝶仮面が迫る。何ら敵意を感じさせない動きに、愛紗も攻撃の機を掴めずに、ただ接近を許していた。

「お主に誘われてやって来たと言っているのだがな」

 言って、華蝶仮面が梳くように愛紗の黒髪を撫ぜた。

「戯言を!」

青龍偃月刀を斬り上げた。命を奪うつもりまではない、峰打ちの一撃。しかし、間合いも速度も十分な一撃のはずだった。

「っと」

「なにっ!」

 商家の屋根に華蝶仮面が降り立った。偃月刀に残るかすかな重み。華蝶仮面は、振るわれた青龍偃月刀の、その斬撃の力を利して跳躍していた。愛紗をして驚嘆せしめる、凄まじい技量の持ち主であった。

「おおっ、こんなところまで飛ばされるとは。さすが、噂通りの怪力」

「っ! 誰が怪力だ!」

「ふふっ。それでは、いずれまた」

 華蝶仮面が背を向けて駆け出す。

「くそっ、逃がすか!」

「はーっはっはっはっ!」

 その姿は、すぐに屋根の陰に隠れた。



「愛紗」

 声を掛けられたのは、兵と別れ、役所へと戻る帰路でのことだった。結局、懸命の捜索もむなしく、再び華蝶仮面の姿を捉える事は出来なかった。不機嫌な顔で振り返ると、見知った顔がそこにあった。涼しげな双眸。真っ白な服に、一度見れば忘れられない特徴的な形の穂先を持つ槍。

「おおっ、星ではないか。久しいな」

 常山の龍、趙子龍がそこにいた。

 役所の一室へと、愛紗は星を招き入れた。同室しているのは雛里一人だ。その雛里も、頬を真っ赤に染めてうつむいてしまっている。星と名乗り合った際にからかわれたことが、まだ後を引きずっているのだろう。
折り悪いことに、桃香は、県の監査に来た督郵の応対に追われていた。鈴々はその護衛に、朱里はその補佐に付いている。同じ軍師とは言っても、朱里は雛里に比べて文官寄りの仕事を担うことが多い。朱里は主に内政、雛里は主に軍事というように、2人の間では大まかな役割分担がなされているようだった。

「で、星。ここに来たのは公孫賛殿の命か?」

「白蓮殿には関係がないこと。私は彼女の元をすでに辞しているのだからな」

 聞けば、黄巾の乱が一応の終息を見ると共に、星は公孫賛の元を去ったのだと言う。元々が、旅の空の気まぐれに手を貸していただけで、いつまでも留まり続けようとは思っていなかったらしい。

「そうであったか。公孫賛殿は今や、幽州の刺史。そのまま残っていれば栄達も思いのままであったろうに、惜しいことをしたな」

「心にもないことを言う。お主らとて、栄達のために桃香殿を戴いているわけでは有るまい。白蓮殿は善人で、何事も無難にこなす普通に優秀な人材ではあるが、生涯を捧げる主とするには、それこそ我が槍が惜しいというもの」

「ひどい言い草だな。それでは、公孫賛殿の元を去って、今まで何をしていた?」

「うむ、それはな」

 星はこの数ヶ月の自身の行動を語り始めた。自分の槍を捧げるに値する、英雄足り得る者を探し、各地を回っていたのだという。今は官を辞している曹操に、揚州の袁術と、その客将で愛紗達にも馴染み深い孫策。政争に破れ洛陽を追われた後も、名族の声望を元に徐々に力を盛り返しつつある袁紹。荊州刺史の劉表に徐州刺史の陶謙。雛里は各地の情勢が気になるのか、時に質問を交えながら、熱心に聞き入っている。

「最後に、黄巾賊討伐に大功を挙げた皇甫嵩将軍と、相国の董卓」

「っ! そうか、洛陽にも行ってきたのか。それで、様子はどうであった?」

「ふむ。……遠目に見ただけだが、董卓は、評判と違って覇気に欠ける感じがしたな」

 星が、もったいぶった感じで口を開いた。

「そ、そうか。それで?」

「…………皇甫嵩殿には、曹仁殿の伝を頼って、会って話もした。なかなか面白い御仁ではあるな」

「それで?」

「それで、とは? 一応これで私の話はお終いだが。旅の終わりと言うつもりで、洛陽を出た後、直接ここまでやって来たのだ」

 星が悪戯っぽく微笑みながら言った。何度となく見た、星らしい笑みだ。

「あう、ちょ、趙雲さん。そ、曹仁さんは、どうしていましゅたか? あぅ」

「ふふっ、鳳統殿は本当に愛らしいな。それに素直だ。どこぞの猪武者にも見習ってほしいものだ」

「くっ、星~~~!」

「どうした、愛紗? なにもお前のこととは言っていないのだがな?」

「貴様っ」

「はははっ、お主は本当に弄りがいがあるな。話すから、とりあえず落ち着け」

「むぅ」

 その言い様に不満を感じながらも、ひとまず愛紗は星の言葉に耳を傾けた。

「もっとも、私も一度会って話をしただけだ。たいした話は出来ないのだがな」

 曹仁は皇甫嵩の元で、今も兵法を習う日々だという。調練で実際に兵を率いることもしているし、かつて愛紗がそうであったように、武術を挑める相手もいる。そんな、充実した日々を送っているらしい。

「当人の口から聞いた話は、そんなところだな」

「そうか。……お変わりないのだな」

 愛紗は、ほっと胸を撫で下ろした。伝え聞く洛陽の情勢は、血なまぐさい闘争と粛清の嵐であったのだ。先ごろ、ついに帝が廃され、新たにその妹である陳留王がその座についたという。廃帝の伯母にあたる大将軍何進の死が大きいのだろう。その政に不満を覚えながらも、いまだ漢室への尊崇の念が篤い桃香や朱里は、大きな衝撃を受けたようだった。曹仁の話は、彼女達の心をいくらか晴らしてくれるだろう。

「他にも、街で聞いた話だが、なかなか面白い噂話が流れていたぞ」

「うわさ?」

「ああ。曰く、天の御遣い曹子孝は、皇甫嵩将軍の情夫」

「なっ」

「あわわ」

「他にも、餌付けした女を連れて歩いているとか、いつの間にか子持ちの主夫になっていたとか」

「そ、曹仁殿。あなたは一体何を……」

 愛紗は天を仰いだ。



積もる話も尽きかけた頃、どたどたと騒がしく人の通る気配がした。それが、役所の入り口の方へと抜けていく。愛紗が様子を伺うと、ちょうど督郵の男と供の者数人が、役所を出て行くところのようだった。桃香達も、見送りに出てきている。その背中に何か違和感を覚え、星を残して愛紗は桃香達を追い掛けた。

「いかがされたのですか、桃香様?」

「…………」

 桃香は無言のまま、馬車に乗り込む督郵を見つめている。にらみつけていると、言ってもいいかもしれない。

「……朱里?」

「……はぅ、それが」

「これが最後だ! 本当に良いのだな、わずかなものを惜しみ、県尉の地位を失うことになっても!?」

 車上の督郵が、恫喝するような調子で言った。それで、朱里が説明するまでもなく、愛紗にも合点がいった。辺りをはばかる事すらしない男の口調が、この国の腐敗をはっきりと物語っていた。

「わたしの答えは変わりません!」

 桃香らしからぬ、苛立った声。督郵は一度舌打ちすると、御者に馬車を進めさせた。横目で桃香に送る視線には、軽蔑の色すら感じられた。
遠ざかる馬車を睨み付けて、愛紗は青龍偃月刀の柄を、きつく握り締めた。

「うう~~~! あいつ、むかつくのだ!」

鈴々が地団太を踏んで騒ぎ出す。手をあげていれば、官職を失うどころか、咎人として手配されていただろう。よくぞ耐えてくれていた。朱里と雛里も浮かない顔だ。そして桃香は、複雑な表情で、馬車の去った方を見つめていた。督郵個人に対する憤りよりも、もっと大きくて深いものを胸に抱えている。愛紗には桃香がそう見えた。

「志を遂げる道を求め、また、流浪の日々となりますね、桃香様」

努めて明るく、愛紗はその背に話しかけた。督郵に睨まれた以上、じきに新しい県尉が赴任してくるだろう。いつまでも桃香達が留まる事は無用の争いの元になりかねなかった。

「……うん、そうだねっ!」

一瞬の間の後、桃香は強く頷き返してくれた。

「朱里ちゃん、雛里ちゃん。険しい道のりになるけど、二人ともついて来てくれる?」

「はいっ、もちろんです!」

「がんばりましゅ! あぅ」

朱里と雛里も、強く返す。鈴々と2人、義姉妹の自分達には、桃香は問いかけることをしなかった。それが愛紗には嬉しく感じられた。1年前、黄巾の乱が起こり、義勇軍を組織し、曹仁と出会うことでつながった道。それは、ここで一旦途切れたが、得たものも多い。朱里と雛里、2人の軍師もそのひとつだし、名も得ていた。確実に、前へと進んでいるのだ。

「よーし、みんな、頑張ろう!」

 桃香が微笑む。気付けば、沈んだ表情を浮かべる者はいなくなっていた。何故か、愛紗にはむしろ飛躍の時とすら思えた。この地に縛られているよりも、何か大きなことが出来るような気がする。

「よろしいのですか?」

そんな高揚感に水を差すように、言葉が投げかけられた。いつの間にやって来たのか、愛紗の隣に星がたたずんでいた。

「星ちゃん!? どうしてここに?」

「お答えください、桃香殿。わずかの間に、安喜県は驚くほど住みやすくなったと、すでに噂になっております。朝廷では、先頃あなたの師にあたる盧植殿も復職しています。このまま善政をしき続ければ、必ずや一郡を任される日も来るはず。本当に、これでよろしいのですか?」

「悪いことは、しちゃいけない。わたしは、当たり前のことをしただけだよ」

「それでは、不正を憎むものは出世の道を断たれ、いつまでもこの国が良くなることはない。より良き明日のため、ここは民に一度犠牲になってもらうべきでは? 安喜県はこの通り、あなた方の尽力で栄えております。少しぐらいの徴収には十分耐えられるでしょう。いま少し、民には苦しんでもらい、上を目指すべきでは? そうすれば、結果としてより多くの民を救えると言うもの」

口を挟もうとする朱里達と、自分自身を、愛紗はとどめた。星と桃香、二人で話させるべきだと、何となく感じていた。自分を茶化す言葉の中で、旅の終わりにと、そう星が言っていたのを愛紗は思い出していた。

「今、苦しんでいる人たちは、今しか助けられないから。…………星ちゃん、わたし、欲張りなんだよ。いま苦しんでいる人がいたら助けるし、いつか苦しむ人がいるなら、そんないつかなんて失くしちゃいたい。わたしは、どっちも助けたいの」

「出来ますかな、そのようなことが? あれもこれも全てを、つかみ取るようなことが」

桃香は一瞬、考え込むように顔を伏せた。再び顔が上げられたとき、愛紗は桃香の瞳に映り込む自身の姿を目にしていた。その視線ははっきりと自分に、自分達に向けられている。

「うん、きっと出来るよ。だって、わたしには頼りになる仲間が、みんなが、いるんだもん」

星は、満足気にひとつ頭を縦に振った。



 出発は、それから5日後となった。騒ぎを聞きつけ集まってきた住民には、留まる様に懇願された。しかし最悪、せっかく作り上げたこの県の平穏を、自分達が原因で壊してしまうかもしれないのだ。それは、何としても避けたいことだった。
出発までの間、朱里と雛里は、今までの民政の成果を今後も維持できるように、有力者や商人達とともに策を講じていた。
愛紗と鈴々は、兵の調錬を重ねた。200の兵のほとんどと、若者を中心に多くの者達が、同行を願い出ていた。今回の流浪の旅は、兵を引き連れてのものとなった。これも、義姉妹3人で旅した以前とは違う、この1年の成果だった。安喜県だけでなく、近隣の県からはるばるやってきた者も多い。しかし、戦をして、終われば帰ってくるという軍ではない。行く当てもない旅路となるのだ。残される家族の生活や、本人の覚悟と資質。結局、朱里と雛里が認めた者を、さらに愛紗がふるいに掛け、500人ほどが兵として同行することとなった。
 そして桃香は、住民たちとただ語らっていた。自分の出奔を嘆く民を励まし、時には逆に励まされながら、時を過ごす。星は、何をするでもなく、その様を見つめていた。

 そして5日後、多くの民に見送られながら、500の集団がゆっくりと進んでいく。まずは中山国を抜ける。そしてそのまま州境を超えて、幽州まで北上するつもりだった。幽州では、張純という頭目が率いる賊徒が暴れ回り、公孫賛も手を焼いているらしい。困っている人達を助ける。その桃香の思いは変わることはない。

「いったいいつまで我らと共に来るつもりだ、星?」

 先頭を行く桃香の後ろで、2人並んで馬を進めながら、愛紗は星に問いかけた。

「ふむ、そうだな」

「主探しの旅には戻らないのか?」

「ちょ、ちょっと、愛紗ちゃん。そんな言い方は」

 桃香が、咎めるように口を挟んでくる。もちろん、愛紗も星を追い出したいなどとは思っていない。ある確信を持っての言葉だった。

「良いのです、桃香様。どうせこやつは――」

「待て、愛紗。その先は私の口から言わなくてはな」

 星が、馬を駆けさせた。桃香を追い抜くと、馬を降りて、その正面に立つ。愛紗は全軍を停止させた。
500の兵が見つめる中、桃香はきょとんした表情で、星を見つめている。そんな桃香に、星はどこまでも真剣な眼差しを返す。その口が、言葉を紡ぎ出した。





[7800] 第2章 第4話 暗闘
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/12/05 10:51

張譲が董卓に与えた官位は、相国。漢朝開闢の功臣である簫何と曹参以来、400年空位であった行政の最高位である。といえば聞こえはいいが、その職掌は丞相に引き継がれた後、その丞相も廃止となって久しい。三公(司徒、司空、太尉)を最高職として、それぞれ行政、建設、軍事と役割を分担している現状では、実際にはただの名誉職に過ぎなかった。強権を発動させることも出来るが、それも帝の意に沿った形でなくてはならない。帝の意向あっての権威と言っていい。そして、今上帝の信頼は張譲にあった。先帝を擁した何進ら外戚の手から、自らを守ってくれた存在という思いが強いのだろう。皇子であった頃から英明であるとの評が高かった帝だが、まだ幼い。狡猾な宦官達の欺瞞を見破ることは不可能に近い。董卓の地位は、張譲の手の平の上にあるものと言って良かった。

董卓―――月が、天子の手を引いて廟堂に姿を現した。皇甫嵩は居並ぶ廷臣と共に、その様子を眺めた。
月は、玉座のある高みまで共に上り、腰を下ろした天子の横にそのまま侍る。廷臣が、一斉に拝礼する。
 月が、一歩前に踏みだした。天子の前に立ち、廷臣を見降ろす格好だ。再び、一斉に拝礼する。今度は、天子にではなく月に対してだ。月が、一座を睥睨して鷹揚に頷いた。その視線が、皇甫嵩の顔の上で止まる。

「義真」

 一人頭をさげずにいた皇甫嵩に、月が呼びかける。わずかに瞳にたまる涙を、皇甫嵩はただ立ちつくしたまま眺めた。皇甫嵩は、軍の調錬には欠かさずに顔を見せながらも、再三の朝廷への召集はこれまで病を理由に拒み続けていた。こうして朝議に顔を出すのは、先帝が廃されてからは初めてのことである。

「ぎ、義真」

「おお、これは失礼した」

 皇甫嵩は、ようやく気付いたとばかりに拝礼した。魔王、と誰かが零した小さな声が耳に届いた。
 その日を境に、皇甫嵩は閉門して屋敷にこもり、朝議はもちろん、調練にも姿を現すことをやめた。





 曹仁は、息の詰まるような居心地の悪さを感じていた。
卓を挟んで向かい側には、賈駆と張繍。董卓の使者と、その護衛だった。これまでにも何度か、同じように皇甫嵩の屋敷を訪れている。そして訪れる度に、この居心地の悪さは増していくようだった。賈駆は難しい顔をしているし、張繍は曹仁に対する敵意を隠していない。唯一隣に座る皇甫嵩だけは、いつも通りの泰然とした様子だが、それがまた曹仁を苛立たせた。
朝廷内での皇甫嵩の扱いは、難しいものになっているようだった。かつて張譲は、十常侍内で唯一直接的戦力を有する、蹇碩への牽制として皇甫嵩を利用した。しかしその蹇碩も、先の廃帝の折りに罪を着せられ誅殺されていた。
さらに、復職した盧植が、帝に近付きつつある。廃帝には強硬に反対した盧植だが、実際に擁立されてしまえば、今上帝に対する忠誠心にも揺るぎ無いものがあった。それでいて、媚びというものとも無縁だった。まだ幼い今上帝は、大学者として知られる盧植に、守役に対する様な思いを抱いているようだった。朝廷の様子を曹仁に伝えてくれているのも、主に盧植である。
 張譲や彼を後ろ盾にする者にとって、盧植と皇甫嵩は危険な存在となりつつあるのは間違いのないことだった。2人共、朝廷内での権力争いに興味を持つような類の人間ではない。しかし、自ら権力を欲する者達には、そうは見えないのだろう。旧知の間柄である2人が手を組むことで、帝の信望と武力が一体になることを恐れているはずだ。

「失礼します」

沈黙を破って、室外から声が掛けられた。高順が部屋に入ってくる。茶を持ってきてくれたようだ。まず、客人である賈駆と張繍の前に、次いで皇甫嵩、曹仁の前にも茶を並べていく。少々ぎこちない動作でそれをやり遂げると、高順は安堵の表情を浮かべた。

「順」

 退室しようとする高順を、曹仁は呼び止めた。

「せっかくだ、名乗っていけ」

 高順は緊張した面持ちでひとつ頷くと、2人の前に、ピシッと背を伸ばして立つ。

「私は、姓を高、名を順、字を子礼と申します。よろしくお願いします」

 高順はそう名乗ると、礼儀正しく頭を下げた。2人も名乗り返すが、高順は気もそぞろな様子で曹仁を伺っている。曹仁が満足げに頷くと、高順はたちまち破顔した。

「次からはちゃんと、相手の名乗りも聞くようにな」

「うん、わかった」

 今度は年相応な口調で答え、高順は部屋を出て行った。

「曹仁、今の字は?」

 大きな音を立てて戸が閉まった。わずかに顔をしかめた曹仁に、皇甫嵩が尋ねた。

「ああ、俺が付けた。順って名は、どうも真名みたいだからな。いつまでもそれだけってわけにもいかないだろう」

「ふむ。なんというか、無難だな。お前と同じ子の字に、お前の願望で礼の字か」

「いいんだよ、無難で」

「どっかの誰かみたいに、名乗れないよりはいいんじゃない?」

 賈駆が、実に楽しそうな笑みを浮かべ言った。

「むっ」

 緊張感が解け、そのまま、しばし他愛もない会話が交わされる。
 張繍は、会話に参加しつつも、やはり曹仁への警戒の構えを解いてはいない。初めて会った時、董卓に向けた殺意に気付かれたことが、今も後を引いているようだった。
智でもって董卓を支える賈駆とは対称的に、武でもって彼女を支え続けてきたのだという。董卓のものとして流れる武勇伝の数々を打ち立てたのも、張繍であるらしい。まさに、滅私奉公。己を捨てて主君に尽くしているわけだが、皇甫嵩に言わせると、妹二人を放っておけないお兄ちゃん、というのが実状らしい。3人はいわゆる幼馴染同士で、ひとり年上の張繍にとって、董卓と賈駆は可愛い妹分なのだそうだ。
 ふと、自分に対して敵意を隠さないこの男が、存外嫌いでもないことに曹仁は気付いた姉妹から離れ、自分の好きなことをしている曹仁にとって、張繍は何となく気後れする相手だった。目の前にしていると、恥じ入る様な思いすら浮かんでくる。それが、不快ではなかった。

「さて、と」

 賈駆が、仕切り直すような声を上げた。そして、再び真剣な表情を作ると、本題に入るわよ、と言葉を続けた。





曹仁にとって、宮中に入るのは初めてのことだった。とはいえ、通された一室は薄暗い小部屋で、想像していた煌びやかな宮殿とは程遠いものがある。広大な宮中の奥まったこの部屋までは、陽の明りも届かないようだった。
賈駆が、皇甫嵩だけでなく自分まで宮中に召し出した意味は何だろうか。皇甫嵩と二人きりの室内で、曹仁は考えを巡らせた。皇甫嵩は、特に気にもならないのか、いつも通り泰然としていた。大物然とした佇まいだが、彼女の場合、本当に何も考えていないだけのこともあるから性質(たち)が悪かった。

「おや、一人ではないのか?」

 老人が、訪いも無しに室内へと姿を現した。老人とよく似た服装をした、若い男がそれに続く。

「これは、張譲殿」

「っ!」

 張譲。これが、宮中に巣食う権力の権化か。
 こちらの正面で立ち止まった張譲に、曹仁は視線を張り付けた。顔面に刻まれた、まるで傷跡の様に深い皺は、長い時を感じさせる。しかし背筋は伸び、足取りもしっかりとしていた。
 張譲がひとつ顎をしゃくると、隣に控えていた若者が進み出た。装束からして、この男も宦官ということか。身のこなしに隙はなく、張譲の護衛といったところだろうか。男の手で皇甫嵩の眼前に、一振りの剣と、手のひらに乗る位の小さな壷が置かれた。

「陛下よりの賜りものだ」

 曹仁は息を呑むと、皇甫嵩を見遣った。顔色からは、さして動揺の色はうかがえない。武骨な拵えの剣と簡素な作りの壷。宝剣と名器を下賜されているわけでは当然ない。自刃するか、毒をあおるか、好きな方を選べということだろう。
 曹仁は、皇甫嵩に囁いた。

「どういうことだ? あの姉弟子殿は、何を考えている? まさか、その剣1本で、ここを斬り抜けろってことか?」

 ここまでの皇甫嵩の行動は、全て賈駆の指示によるものだった。政争に乗り気ではなかった皇甫嵩も、弟子の頼みならと、渋々ながらに従っていたのだ。ここまでの董卓の動きは、盧植、皇甫嵩を敵とすることで、まずは張譲の信頼を勝ち取るというものだった。張譲に取り入るため、彼に代わって朝廷での怨嗟の声を一身に集めることまでしている。対して親しいわけではない曹仁にも、あの儚げな少女には荷が勝ち過ぎる役目のように思える。しかし、こうして張譲が勅命を操る様を見れば、ここまで賈駆がとってきた方針は、不満はあっても理解せざるを得なかった。
しかし、この状況。張譲は曹仁が来ることを把握していなかった。自分に、どうにかしろということなのか。剣を取って血路を開く。その程度のことしか曹仁の頭には思い浮かばなかった。

「あるいは、ここで張譲を道連れに死ねということかもな」

「おい、あんたの弟子だろ!?」

「あれは昔から、月のためなら手段を選ばんところがあったからな」

 ここで皇甫嵩と張譲が共に死ぬ。董卓の権力を盤石のものとするには、それが最良に思える。張譲を殺させるために、自分も召し出されたのか。
室外からも人の気配がする。具足がぶつかりあう音が聞こえるからには、正規の装備を整えた兵が囲んでいるのだろう。

「何をしている? 勅命に抗うつもりか」

 張譲が焦れた調子で言う。
 やるしかないか。賈駆の思考を追うのはやめ、ただ生き残るために行動する。曹仁は腹を決めると、重心を移し、下肢に力を溜めた。皇甫嵩の眼前に置かれた剣をとり、一足で張譲を質に取る。理想はそれだ。実際には護衛の宦官の邪魔が入るだろう。そこに手間取れば、室外に控える兵が寄せてくる。槍もなく、白鵠もいない現状では、兵の包囲を斬り抜けるのは至難の業だろう。
 ざわっと、喧騒が起こる。囲みの兵達の方からだ。何が起こったのかは分からない。ただ、張譲と護衛の宦官の視線が、皇甫嵩と曹仁から離れた。好機。

踏み出しかけた曹仁の足を止めたのは、愛らしい少女の声だった。

「張譲。そのような勅、わらわは、ち、朕は、発した覚えはないぞ」

「陛下!」

「陛下?」

 張譲が、驚愕の声を上げる。
室内に、巨大な影が差した。影の主、見覚えのあるその姿は、盧植だった。そして、その巨躯に隠れる様にして、小柄な、というよりは単純に幼い、少女の姿があった。

「知っていたのか、将軍?」

 特に驚いたそぶりも見せない皇甫嵩に、曹仁は問いかけた。

「詠が月の為に立てた策で私が死んだとなれば、月はそれはそれは悲しむだろうからな。何か手は打ってあるとは思っていたさ。まさか陛下まで己が策に組み込むとは思っていなかったがな」

 部屋を囲んでいた近衛兵が、矛先を変え張譲を連行していく。少女は何か言いたげな表情で、それを見送った。張譲の姿が長い廊下の闇に消えてからも、その方角を見つめ続けている。
 しばしの間、呆然としていた少女は、頭を大きくぶんぶんと振った。長い髪が揺れる。わずかに赤みがかった髪色が、桃香のそれと似ていることに曹仁は気付いた。

「お主が、曹子孝だな。わら、朕は、劉協と申す者じゃ」

 少女は気を取り直したように曹仁に駆け寄ると、そう名乗った。





 後になって話を聞いてみれば、あの日の曹仁は、帝を誘い出すための餌であった。政争のどさくさで天子に祭り上げられた今上帝は、戦場を駆ける天の御遣いに強い関心を持っていたらしい。実際に曹仁と交流をもつ盧植を傍に置いたことで、その思いはさらに強まっていた。後は、賈駆から曹仁が宮中に登っていることを知らされた盧植が、その耳元で囁くだけだった。公明正大で謀略などを嫌う盧植も、実際に曹仁が宮中に居り、皇甫嵩と共に命が危ういとなれば、動かざるを得ない。

 張譲は獄に落とされることとなった。勅を偽るという、本来ならば死罪で当然の大罪を犯した張譲の命を救ったのは、董卓による助命願いだった。元より張譲に敬愛の念を持つ帝は、相国の願いを一も二もなく聞き届けていた。

「はめられましたね」

 宮中での騒動から数日後、張譲に下された沙汰を曹仁が告げると、音々音が言った。朝の台所には曹仁と音々音の他に、恋と動物達もいて賑わっている。恋はそんな話には興味がないとばかりに、視線は料理をする曹仁の手元に釘付けになっている。

「はめられた? どういう意味だ?」

「張譲は暗殺をよくする部隊を抱えているのでしょう?」

 残兵。曹仁は実際にそのうちの2人と手合わせをしている。両者とも、武人としても相当なものがあった。
 音々音が言うには、賈駆の狙いは皇甫嵩と盧植を残兵に対する囮とすることらしい。2人を亡き者とすれば、まだ盛り返せると張譲は思っているだろう。残兵は組織として2人の暗殺に動くはずだ。それも、2人が権力を盤石なものとしてしまわないように、時を置かずに動くだろう。もし、今の時点で張譲が死罪となった場合、彼らは野に下ることとなる。中には復讐の機会を狙う者もいるだろう。そして張譲に代わって権力の高みに上る董卓が、裏で手引きしたことに気付く者もいるかもしれない。張譲が生んだ暗殺集団。恐らく、こと暗殺にかけては並ぶ者のないだろう組織を、あえて敵に回したくないと思うのは当然のことだった。残兵を始末するまでは、董卓達は張譲に従順な態度を崩さないつもりなのだろう。

「…………」

「何です? 馬鹿みたいな顔をして。あっ、すいません。いつものことでしたね」

 呆然と話に聞き入っていた曹仁に、音々音が容赦のない悪態を飛ばす。

「……いや、お前が頭の良さそうなことを言うから。まるで軍師みたいだったぞ」

「ちんきゅーきーーーーっく!!」

「おっと。……お前な、包丁とか危ないから、料理中はやめろと言っているだろうが」

「私を何だと思っていたのですか!?」

 音々音は慣れたもので、蹴り足を掴まれ、宙吊りの体勢のままに怒声を浴びせてくる。

「なにって、そりゃあ」

「うるさいチビ」

 いつの間に現れたのか、高順が曹仁の言葉を継いだ。

「誰がチビですか、誰が! お前だって」

 足を持った手を離してやると、勢い込んで音々音が高順に詰め寄った。高順と音々音の諍いを耳に、曹仁は一人の少女のことを思い出していた。
朕という一人称に慣れず、何度も言い直していた。あるいは慣れないだけではなく、恥じてもいたのかもしれない。お声を賜ったというべきなのか、わずかに会話しただけだが、ただ愛らしい少女という印象が強い。華琳の様な覇気も感じなければ、桃香ほどに気宇の大きさも感じなかった。

『また会おう』

 最後に掛けられた、何気ない一言だけが強く頭にこびりついていた。それまで話していた少女の声と、同じようで、まったく異なる声。それは、幼い少女の声のようでも、しわがれた老人の声のようでもあった。そして、どこか聞き覚えが―――

「…………ん」

 くいっ、くいっと袖を引かれて、曹仁の思考は妨げられた。

「手、止まってる。お腹、へったよ」

 宮中での争いも、暗殺者の存在も関係無しに、皇甫嵩の屋敷は今日も平和だった。






[7800] 第2章 第5話 残兵 上
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2009/12/20 15:04
 総勢400騎からなる残兵討伐部隊が、洛陽城外を進軍していた。曹仁が率いる皇甫嵩軍の精鋭300騎と、張繍率いる董卓軍の精鋭100騎からなる混成部隊である。
 守りに徹するのではなく、こちらから攻める。それが残兵に対する皇甫嵩の基本戦略だった。詠もそれには賛成だったし、張繍自身もそれしかないと考えていた。組織だった集団による暗殺を延々と防ぎ続けるよりは、こちらから攻めて殲滅する。皇甫嵩らしい作戦でもあった。
 本来なら、皇甫嵩と盧植が始末を付けるまでは、月はもちろん、張繍や詠も表に出るべきではない。全てが台無しになる可能性もあるのだ。しかし張繍は今回、詠に無理を言って、討伐軍に加わっていた。
 皇甫嵩が月や詠を裏切るようなことはない。張繍はその一点には疑念を差し挟む余地はないと思っていた。だが、曹仁はどうだろうか。
 張繍は前を行く曹仁に視線をやった。見事な白馬に跨るその背は、小柄な身長の割には広い。相当に槍の修練を積んでいるものと見えた。重装備を好まないのか、具足は最低限のものだけをまとっている。
 曹仁のことを、詠は気に入っているようだった。姉弟子として立てられることに、気を良くしたらしい。詠が嫌っていない以上、月も悪感情を抱いてはいないだろう。そして、皇甫嵩が認めている以上、能力も間違いないものなのだろう。
張繍は判断しかねていた。敵対関係に近い状態だったとはいえ、初めて会った時に月に対して向けられた真っ直ぐな殺意が引っ掛かっていた。それは、未だ矛も交わしていない敵将に向けられるものというよりは、もっと明確に指向性を持ったものに感じられた。それはすぐに覆い隠されたが、張繍の印象には強烈に残っていた。少なくとも、月を敵に売ることもあり得るのではないか、という疑念を持たせる程度には。

「二人の護衛に付いていなくて良かったのですか?」

 曹仁が張繍を振り返って言った。

「ええ、信頼できる者に任せてありますので」

 月と詠には、華雄が付いていた。董卓軍が大きくなっていく過程で自然と台頭してきた生え抜きの武将で、それだけに月に対する忠誠心は篤い。単純で軍略に欠けるところがあるが、その分かりやすさが兵達に慕われているようでもあった。張繍が月の護衛にあたり、詠が謀略を巡らせている時は、軍の調錬は華雄に任せている。実戦では華雄は歩兵の指揮を執ることが多かったが、ときに騎兵も含めた全軍を率いることもあった。その場合、張繍は月直属の旗本500騎を率いた。500騎は、戦場での月と詠の護衛のために張繍自らが鍛え上げた一団で、極めて精強である。張繍の意のままに動くし、それぞれが高い判断力を有してもいる。張繍は大軍を率いるよりも、この500騎と駆けることの方が好きだった。今回率いてきた100騎も、そこから選抜した者達である。

「あれか」

 曹仁が声を上げた。洛陽城外のすでに使われなくなった練兵場。そこに併設する営舎が、目的とする残兵の本拠だった。
 残兵の本拠は意外な形で明らかになった。張譲と連絡を取るため、彼らの方から月達に近付いてきたのだ。いかに優れた暗殺集団とはいえ、獄内の張譲と連絡を取り合うのは不可能なことのようだった。その際の交渉の中で、詠が本拠を聞き出したのである。

 曹仁が、徐々に馬の足を速めていく。張繍もそれに合わせる。兵も自然に付いてくる。張繍の100騎だけでなく、曹仁が率いる300騎もさすがに調練が行き届いている。営舎からもすでにこちらが見えているだろう。しかし、普段の調練でも、この辺りを騎馬が駆けることはよくあることなのだ。異常に気が付くのはまだ先だろう。そして気付いた時には、営舎の包囲は完成しているはずだった。





「やあ、これは珍しい客人が」

「久しいな、美愛」

 高順に来客を告げられ、皇甫嵩が客間に赴くと、そこには懐かしい顔があった。

「お久しぶりです、張奐様」

 張奐。字を然明。かつて異民族の侵攻から北方の国境線を守った英傑である。皇甫嵩にとっては、これも名将の誉れ高い叔父の皇甫規の友人でもあった。もう一人の叔父、という思いもある。張奐と皇甫規に、段熲を加えた3名は、全員が涼州出身で字に明の字を含むことから、涼州三明と称された不世出の軍人達だった。張奐は軍務を離れて久しいが、いまだに匈奴や烏丸の兵はその名を聞くと恐れおののくと言われている。この国の歴史の中、戦場で一時代を築きあげた武人の一人と言っていいだろう。齢60に届こうとしているはずだが、筋骨隆々とした巨躯には、衰えをいうものが感じられない。

「今、盧植の奴も屋敷に滞在しています。呼んできましょうか? 確か、何度か会ったことがありましたよね?」

 この一月ほど、盧植は皇甫嵩の屋敷に滞在していた。残兵に対する備えである。何と言ってもこの屋敷には、天下無双の呂奉先がいる。護衛としてこれほど心強い者もいない。武人としては相当な域にあるはずの曹仁が、恋を前にしては手も足もなくひねられる様を、皇甫嵩は何度も目撃していた。その様子は、無聊を囲っている最近では良い酒の肴でもあった。

「いや、よい。まずはお前と積もる話をしたい」

 張奐に促され、皇甫嵩も腰を下ろした。
すでに亡い叔父の話、皇甫嵩がまだ幼かった頃の話などが、数語交わされる。しかし、結局は二人の話は戦の事へと帰結した。張奐が過去の異民族との戦の話を語れば、皇甫嵩は黄巾賊討伐の話をした。

「あの、張奐様」

「なんだ?」

「よろしければ、軍務に戻れるよう、私が手配致しましょうか?」

 戦の話をするときの張奐の楽しそうな表情と、その顔色に時折混じる寂寥感のようなものに、思わず口を吐いて出た言葉だった。直後、皇甫嵩の心を後悔が襲った。幼少時からの、皇甫嵩の憧れの人物であったのだ。自分程度が口にして良い言葉ではなかった。

「……いや、いい。未練はない」

少しの間を置いて、張奐が答えた。
張奐は生涯唯一となる敗戦の後、軍務を解かれていた。それまでの張奐の功を思えば、ただ一度の敗戦で任を解かれることなどあり得ないのだが、同時に起こった政争の煽りを食らったのだった。

「……そうですか」

 いまだに体を鍛え、そんなものまで持ち歩いているというのにですか? 再び口を吐きそうになった言葉を、皇甫嵩は今度は飲み込んだ。しかし視線は、張奐の背負う2本の大斧から外すことが出来なかった。

「それでは、盧植殿も呼んで、話そうか」

「はっ、それでは呼んでまいります」

「いや、天気も良い。先ほど少し覗いてみたが、庭も良く手入れがされているようではないか。亭(ちん=東屋、休憩所)があったようだし、そこで」

「わかりました」

「それと、この屋敷には天下無双と名高い呂奉先がいると聞いているぞ。私も10数年前は、最強と謳われたこともあったものだ。是非、会ってみたい」





「もぬけの殻、か」

 集まってきた兵からの報告に、曹仁は呟いた。
速やかに包囲網を完成させると、曹仁は角と、特に腕の立つ兵30人を選んで営舎内に踏み込んだ。張繍も10人ほどを連れて続いた。反撃はまったくなかった。営舎内を一通り見て回ると、今度は兵を入れて細かく調べさせた。同じ造りの個室が4列に分かれて並ぶ、その一室一室を調べさせる。そうして上がってくる報告はどれも同じだった。

「聞き出した情報が偽りだったのか、あるいは」

 すでに出兵した後なのか。

「っ!」

 張繍も曹仁と同じ思考に行き着いたのか、馬に飛び乗るや、駆けた。曹仁も後を追った。白鵠が、ひと駆けで張繍の前に回り込む。

「邪魔をするつもりか、曹子孝っ!」

 張繍が叫んだ。顔には焦燥がにじみ出ている。
ただ偽りの情報をつかまされた。その可能性ももちろんあった。しかし、ここが残兵の本拠であるにせよ、そうでないにせよ、誘き出された、その公算は無視出来ないほどに大きい。そして張繍をここまで焦らせているのは、この瞬間、この機が狙われたということだろう。情報を聞き出した董卓達が、それを皇甫嵩に伝える。それを見越しての計画だと考えないわけにはいかなかった。

「乗って行け。その馬も悪くはないが、白鵠ほどではない」

 白鵠から飛び降り、言った。白鵠と鼻を突き合わせて、鬣を撫でる。白鵠は一点をじっと見つめた後、鼻を鳴らした。

「いいのか?」

 張繍も馬を降り、白鵠の隣に立つ。

「大切な家族なのだろう、張繍? さっさと行け」

「…………」

 張繍が、迷いを振り切る様に白鵠に飛び乗った。

「照だ。そう呼べ」

そう一言言い捨てると、張繍は曹仁に見向きもせずに駆け去っていった。

「…………良かったのですか? 屋敷にも何人か送られていると思いますが」

 たちまち小さな点となった張繍―――照を見遣る曹仁の背に、角が声をかけた。

「問題ないさ。天下無双が守りについている」

 そもそも皇甫嵩というのは、殺しても死なない類の人間だろう。心配するだけ馬鹿をみるというものだった。

「それにな。……どうやら因縁の相手というやつが、残っているらしい」

曹仁は、去り際に白鵠が見据えた先に視線をやった。営舎の脇の木立。背の低い灌木と、その中で一本抜き出た大樹。

「隠れ方に工夫が見られないぞ、お前ら!」

 大樹から音もなく一人の男が降り立った。そしてもう一人、今度は対照的に、音を立てて木立をかき分けながら、男が姿を現す。隻腕の男と、両腕に巨大な鉄甲を身に付けた男。いつぞや屋敷に侵入した2人組は、まるであの夜を再現するかのように、よく似た場所から姿を現していた。

「俺がやる。角、手を出すなよ」

 曹仁は静かに槍を構えた。

「あの白馬無しに、一人で我らを相手にされるお積りか?」

 隻腕の男の手に、いつの間にか短刀が握られていた。あの日、白鵠の手を借りて打ち払った飛刀と同じものだ。もう一人の男も、構えを取った。上体を鉄甲で守る、馬上からの曹仁の突きを一度は弾いたあの構えだ。

「ああ、そのつもりだ」

 曹仁は微笑んで見せた。あの日の虚勢を含んだ笑みとは違う、本心からの笑みだった。





「張奐様っ! なにを!?」

 振り下ろされた大斧が、皇甫嵩の鼻先で辛うじて止まっていた。横合いから差し込まれた恋の方天画戟が無ければ、今頃皇甫嵩の体は真っ二つになっていただろう。

「残兵の隊長。それが今の私だ」

「…………っ、やはり、そうでしたか」

「ほう、その言い様からすると、勘付いてはいたようだな。―――っと」

 恋が斧を弾いて、そのまま横薙ぎに戟を振るった。張奐は、それを飛び退って避ける。

「何故です、張奐様? 貴方は宦官による政治を嫌っていたはずだ」

 残兵に対して反攻に出た、この機を狙ったかのような訪問に疑念を抱いてはいた。しかし、信じたくはなかった。恋をあえて呼んだ。だから、やはり思い過ごしであったのだと、そう安堵していたのだ。

「私に戦いの場を用意してくれる者は、張譲殿だけだった。ただ、それだけの話だ」

「やはり、戦場が忘れられないのですね」

「当たり前だ。全てを捨てて、戦場に身を投じて来たのだ。身を引けと言われて、それで簡単に忘れられるものか」

「……残兵は負傷兵ばかりを集めた隊だと聞きましたが」

「正確には、負傷などの理由で戦場に出ることの出来なくなった者達だ。私が、選び出したのだ。戦場を奪われ、なおも戦場を求めずにはいられぬ者たちを。私も、戦歴に傷を残したことで、戦場を去らねばならなくなった者だ」

「だからと言って、暗殺など―――」

「言うな、美愛。確かにここは本来私が求めた戦場ではないかもしれん。しかし、今の私は刺客、そしてお前はその標的。それだけのことだ」

「っ!」

 突き放すような口調に、皇甫嵩を二の句を継ぐことが出来なかった。
 張奐が斧を大きく振るった。遠心力の付いた大斧の一撃は、受けた戟ごと恋の体を吹き飛ばす。

「さあ、来い! 呂奉先!」

 張奐の顔が生き生きと輝いた。筋肉が張り詰め、肉体も若々しく躍動する。やはり、暗殺者などしてはいても、張奐の本質は武人なのだ。暗殺などではなく、存分に腕を振るいたいはずだった。だから恋を呼び出した、ということなのだろう。そう思うと、皇甫嵩はわずかに救われたような気持ちになった。

「何事ですか!?」

 音々音と高順が騒ぎを聞きつけ、駆けよって来る。盧植に音々音、高順、恋に自分。これで屋敷の者は皆、この庭に集まったことになる。

「張奐殿、一つお聞かせ願いたい! この屋敷を的としているのは、張奐殿お一人ですか?」

 盧植が言った。言われて、皇甫嵩も感傷から抜け、はっと我に返った。
残兵は2,30人の部隊と言われていた。過去に彼らが関わったとされる事例から推測するに、少なくとも10人以下とは考えられない。しかし、張奐と同時に襲いかかっても来なかったし、援護に現れる様子もない。

「ああ。私だけで十分だし、本命は別にある」

 張奐は一度構えを解いて、言った。皇甫嵩は恋を見遣った。

「……ん、たぶん、本当。……こーじゅん、敵いそう?」

 恋は一度こくりとうなずいた後、高順へ問いかけた。獣同然の暮らしをしてきた高順は、敵意や殺気をいったものに恋以上に敏感らしい。

「うん。いないと思う」

高順はひとしきり周囲をキョロキョロと窺い、言った。それで何故わかるのか、皇甫嵩には理解の外だったが、恋と高順の2人が何も感じないというのなら、実際に敵はいないということだ。それでは、残る残兵はどこに行ったのか。

「本命が、別にあると言いましたね?」

 問うまでもないことを、皇甫嵩は問うていた。
 張繍が討伐隊に加わると聞き、一応の手は打ってあった。しかし、残兵のほぼ全ての戦力があちらに―――月達に回されるとなると。
 自分の命を狙う暗殺者として立つかつての憧れと、弟子達の危機に、皇甫嵩の心は千千に乱れた。




[7800] 第2章 第6話 残兵 下
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2010/01/05 23:20

「ふんっ!」

 張奐は左の大斧を真っ直ぐに振り下ろした。斧の重量を存分に使ったその一撃を、呂布は最小限の動き、半身になることで避ける。

「せいっ!」

 そこに右の斧を横薙ぎに振るった。呂布は方天画戟を真っ直ぐに立てて、それに対した。多くの敵兵をその武器ごと、具足ごと葬ってきた一撃が、戟の柄へと叩き込まれる。呂布の体が、吹き飛ぶ。

「っ、やるな」

 派手に宙を舞って呂布が着地する。反して、張奐の斧にはほとんど打ったという衝撃が残っていない。
 呂布の方天画戟は、まずは業物をと言っていい出来だが、張奐にはそれを断ち割れる自信があった。だが、実際にはそうはならない。呂布が巧みに斬撃の衝撃を逃しているのだ。一見派手に吹き飛ばしているようでも、その実、呂布自身が衝撃に逆らわずに跳躍しているようなものであった。

「しかし、どうした呂奉先! 守っているだけでは、私に勝つことなど叶わぬぞ!」

 そう、呂布は一向に攻撃の手を出そうとはしなかった。ただ受けに徹している。そして一撃を見舞う度に、呂布の宙を舞う距離は増し、張奐の手に残る衝撃は減っていく。より完璧に、張奐の一撃を殺しつつあるのだった。

「…………」

 呂布は何を思っているのか、答えず、ただ顔をしかめた。

「ならばっ!」

 張奐は斧を持つ両の手を垂れ下げたまま、一気に間合いを詰めた。全身が、無防備にさらけ出されている。
戟の間合い。攻撃はやはり来ない。そのまま足を止めずに踏み込む。

「はあっ!」

 両の斧を横薙ぎに振るった。左右からの挟撃。これなら先ほどまでのように威力を殺すことも出来ない。
 呂布が飛び退る。斧の切っ先が、腹部を撫でた。赤い線が2筋、呂布の腹に走る。

「どうした? 絶好の機であったろうが。何故攻撃しない?」

「……いいの?」

 困ったような表情で、呂布が言った。その視線は張奐を飛び越し、その背後にそそがれている。また、呂布が口を開いた。

「いいの、こーほすー?」

 カッと頭に血が昇るのを、張奐ははっきりと感じた。

「こ、この、私も、舐められたものだ」

 声が震えた。体も震えている。
張奐の心をかつてないほどの屈辱が襲っていた。生涯唯一の敗戦も、その後の軍人としての死も、今この時に比べればいかほどの事もない。自分が手心を加えられるとは。それも、戦友の姪に対する情けで。
 張奐の震える手から、斧が離れようとした。

「恋!」

 庭先に響いた声に、張奐はあわやというところで斧を握りなおした。

「残兵を率いる、敵将張奐に死を! 軍人として、武人としての死を与えよ!」

 軍人の声だった。とたん、長閑な庭先が、血に染まる戦場に変わった。張奐が追い求めた、本物の戦場の空気が場に満ちていく。

「……わかった」

 対するは千軍万馬。呂布が構えを変えた、その瞬間、確かに張奐は抗いがたい大軍の息吹にも似たものを感じた。

「美愛」

 大軍を前にしながらも、張奐は一度後ろを振り返るという欲求を抑えることが出来なかった。百戦錬磨の将軍の顔が、そこにはあった。

「良い軍人になったな」

 言ってすぐに、呂布に向き直る。自分の一言で、官軍の堂々たる将軍皇甫義真の顔が、かつて胸に抱いた幼子のものに戻ってしまうことを、張奐は恐れた。心温まるその顔を、今だけは見たくはなかった。せっかく生まれた戦場の空気が、霧散してしまう。

「さあ、来い! 呂奉先! 今度こそ本気の勝負だ!!」

 張奐は千軍万馬の大軍へと身を乗り出した。





「馬鹿、な。これほどの腕だとは」

隻腕の男は驚愕の表情で膝を落とした。胸元に穿たれた傷穴からは、止め処なく血が流れ出ている。

「この数カ月、天下無双に修練をつけてもらっていたんでな。前より少しばかり強くなったのさ」

 肩に刺さった飛刀を、曹仁は引き抜いた。鉄甲の男に、一度視線を向ける。男はすでに事切れているようで、地に伏せ微動だにしていない。

「頼みがある」

 隻腕の男の声。口調は、意外なほどしっかりとしていた。曹仁は視線を正面へと戻した。すでに焦点の定まらない瞳が、それでも曹仁を真っ直ぐに見つめてくる。

「軍師殿の命を、お助け願いたい」

「軍師殿?」

「軍師殿は、我らに拾われて日も浅い。我らに言われるがままに策を練りはしたが、朝廷での諍いも知らぬし、張譲様とは会ったこともない。頼む、命ばかりは」

 言い切った男の体から、力が抜けていく。膝立ちの体が、ゆっくりと前へ倒れた。曹仁は、その背をしばし見つめていた。

「……出てこい」

 2人が隠れていた木立が揺れていた。曹仁の声に、それが収まる。そのまま、何の反応も返しては来ない。気付かれていない、そう思っているのだろうか。

「…………」

 曹仁は無言で、槍の柄で木立を叩いた。木立が音を立てて揺れ動く。

「ひゃあっ」

 そこから、影が一つ飛び出した。影はそのまま真っ直ぐに駆け―――

「ふぎゃっ!」

 営舎の壁にぶつかって倒れた。





「はぁっ!」

「くうっ!」

 呂布の振るう一撃を、両斧を叩きつけて弾く。柄を握りこんだ拳から肩まで衝撃が抜け、腕全体が痺れたようになる。

「ふっ!」

 返す方天画戟に、斧を持つ両手は痺れたまま、動いてはくれない。

「っく!」

 地面に転がって、その一撃を避ける。
どんなに見苦しくても構わない。まだこの空気を、待ち望んだ戦場の空気を吸っていたかった。だから立ち上がる。全身に刻まれた傷は、大小合わせて20以上。そのうちいくつかは、致命傷と言ってもいい。それでも立つ。痺れた両の腕も、決して握り込んだ斧を取り落としはしない。
 気力を振り絞って、今度はこちらから踏み込んだ。斧を振り下ろす。呂布はそこに、真っ向から方天画戟を叩きつけにくる。柄ではなく刃の部分。断ち切れるか。

「ぐっ!」

 打ち負けて体が泳ぐ。これでは武器を断つことなど出来ない。逆に張奐の斧の刃がひしゃげた。
些かの誇張も無く、目の前の武人は正しく天下無双だった。天下の武人全てを見比べたというわけではない。ただ、武人の本能が、コレより上はないと、そう告げていた。
だから、この時間をもっと。崩れた体勢のまま、もう一方の斧を振るった。狙いは粗く、威力もない。ただ追撃をかわし、少しでもこの時間を長引かせたい。その一心であった。
さらに10合、20合と打ち合った。限界を超えて、打ち合った。
全体重を乗せるように、体ごと両斧を叩き落とす一撃に、呂布が方天画戟を斬り上げて対する。

「あっ」

 瞬間、斧の重みが両腕から消えていた。ここにきて、得物を取り落としたか。否、違う。振り下ろした両腕の、手首から先が失われていた。
返す方天画戟が振り下ろされる。それが、妙にゆっくりと感じられる。だが、体は動いてはくれない。
 方天画戟の刃が、ゆっくりと体に入り込んでくる。張奐は他にすることも、出来ることもなく、戟を振り下ろす呂布を眺めた。その額に光る汗に、初めて張奐は気付いた。顔も、苦悶の表情を浮かべている。疲労の極致。そんな表情だ。

「なんだ。まだまだ私も捨てたものではない」

 口を開いていた。その瞬間、時の流れが正常に戻った。だから、言葉の後半は、倒れながらだった。倒れ込んだ張奐の眼前に、跳ね飛ばされていた二本の斧が突き刺さる。

「張奐様!」

声が響いた。斧の刃に、こちらに向けて駆ける美愛の姿が映ったような気がした。泣き腫らした顔は、とても将軍のものではない。戦場の空気が晴れる。それでいい。もう、惜しくはない。

「ああ、満足だ」

 斬り飛ばされてなお、斧を掴んで離さない己が両手を見つめ、張奐は呟いた。





 白馬は風のように駆けた。遮る城門の守兵を飛び越え、城内に入っても速度を落とすことなく駆ける。洛陽の人ごみを駆け抜け、屋敷を目指す。
 剣戟の音が張繍の耳に届いた。屋敷の門。開け放たれている。騎馬のまま中に突っ込んだ。
 門前の広場。まず目に飛び込んできたのは、屋敷の護衛に当たっていた兵の亡骸。張繍が育て上げた、月の旗本の精兵達だ。そして、兵達に混じって見知らぬ者達の死体もいくつか転がっている。
馬足を落とさずに、庭先に点々と続く死体を追う。月の私室のある方へと続いている。剣戟も、その先から聞こえてきている。

「張遼殿!?」

 3人を相手取り、大刀を振るう張遼の姿が、直ぐに張繍の目に飛び込んできた。

「はぁっ!」

 一瞬、張繍に気を取られた1人を、張遼が斬り下げた。袈裟掛けにその身体が両断される。

「何人か抜かれた! ここはええから、はよう、行き!」

「はっ」

 張遼の言葉に、張繍はその脇を駆け抜けた。彼女ならば、残る2人を相手に遅れを取ることもないだろう。
 張遼は、元々は呂布と共に丁原の配下であった。何進と共に丁原が処断された際には、洛陽を離れ、十常侍と対抗するための徴兵に各地を回っていた。行き場を失った張遼は、皇甫嵩が張譲と対立していることを知って、彼女の元へとはせ参じてきたのだった。今ここにいるのも、皇甫嵩の指示だろう。
張繍はさらに馬を駆けた。中庭に面した一室の戸口に、人影が群がっているのが見えた。月の私室だ。馬蹄の音に何人かが振り返って、こちらに向かってくる。

「はぁっ!」

 槍を振るった。その瞬間、白鵠が強引に馬体を傾けた。その力が槍先に乗った。寄せてくる3人は残らず、その一撃に飲み込まれていた。
槍を振った張繍自身が、一瞬茫然とした。白鵠は止まらず、月の私室目掛けて駆けた。張繍はもう一度槍を振るった。先ほどの一撃に警戒を強くしたのか、戸口に寄せていた敵が弾けるように散った。

「張繍殿、よくぞ来てくださった!」

 入口を守る様に戦斧を構えて、華雄が言った。肩で大きく息をし、体中に無数の傷が刻まれている。

「華雄殿、よくぞ2人を守り抜いてくれた」

 華雄の背後、室内に月と詠の姿を認め、張繍はほっと胸を撫で下ろした。

「月、詠、無事か?」

「遅かったじゃないの、照」

「は、はい、照兄さん。華雄さんが守ってくれました」

 月を背にかばう様にして立つ詠と、逆にその詠を背後から支えるようにしている月。血の気の失せた顔色こそ蒼白だが、傷を負っているというのではなさそうだった。

「俺が来た。もう安心しろ。…………華雄殿。2人のそばを離れず、引き続き護衛を」

 張繍は、中庭を向き直った。初めて、落ち着いた心地で敵を見据える。
 残るは4人。遠巻きに構えたまま、じっとこちらを窺っている。槍が2人に、剣が2人。槍の2人は一見して大きな負傷のようなものは見受けられないが、剣の2人はどちらも片腕を欠いている。そして、それを補い合う様に、肩を並べて立つ。構えからは隻腕と侮り難い威容が漂っている。槍の2人も、相当に使うと見えた。こうして対峙してしまえば、先程のような奇襲も通用しないだろう。しかし。

「…………月と詠を殺す、か」

絞り出すように言った。憤っていた。なにより、猜疑心から2人の元を離れた自分自身に、張繍は憤っていた。何もない虚空に、一度、大きく槍を振るった。

「ならば、ここより先は貴様らの死線、そして我が槍の届くうちは、貴様らの死地と心得よ!」

月と詠を背に、張繍は大喝した。敵が、気圧されたように後退る。張繍は槍を高く構え、じりじりと馬を前に進めた。何かに圧されでもしているように、4人がさらに後退る。
 すっと、槍を下げた。同時に、半歩馬も退く。槍の1人が、たまらず前に踏み出した。

「せっ!」

 槍を撥ね上げた。合わせて、白鵠も退いた半歩分を踏み出していた。馬の勢いも乗せた一撃。打たれた敵の体は、馬上の張繍の頭上を越えるほどに跳ねていた。
残る3人が、さっと距離を取って構え直す。1人が討たれても、それで動揺は見られない。やはり、敵も相当な手練のようだった。こうした状況に慣れてもいる。それでも、負ける気がしなかった。愛しい者達を背に、千里の名馬を預けられた、この地、この時において、張繍は自身の勝利をほとんど確信しているといってよかった。

「さあ、死線をくぐり、死地を踏み越え、我に一手馳走して見よ!」

 張繍は距離を詰めた。





「なんだ、一人で飲んでいるのか?」

 庭の東屋で、皇甫嵩は一人、杯を干していた。いつもは大抵、曹仁や張遼―――霞が、誘われる。

「俺にも一杯くれよ」

「あの娘をどうするか、決まったのか?」

 曹仁と角が屋敷に戻ると、董卓達をはじめ、今回の件に関わった人間が勢揃いしていた。首尾を話し合うべく、集まってきたらしい。心配された董卓と賈駆には、負傷らしい負傷もないようだった。皇甫嵩が霞を、2人の護衛に送っていたことも、曹仁はその時になって知った。照が討伐隊に加わると聞いての判断らしい。政争はともかく、闘争における皇甫嵩の勘どころはやはり大したものだった。残兵はこれでほぼ全員討ち取ったと見てよいだろう。
犠牲も出ていた。董卓の護衛に当たっていた兵30名ほどが死傷している。自ら鍛え上げたという照は、やはり口惜しそうにしていた。
 各々の報告が済むと、角の陰に隠れるようにして屋敷までついてきた残兵の軍師だという盲目の少女―――間近で残兵2人を討ち、隠れていた彼女を脅しつけた曹仁は非常に怖がられていた―――の扱いが、その後の議題となった。皇甫嵩はそれには参加せず、好きに決めるよう言い残してその場を去っていた。

「ああ。姉弟子殿や照は、いかにも不満そうだったがな」

 後顧の憂いを断つべきだという意見は、肝心の董卓によって却下されていた。

「いつもの夜の鍛錬は?」

「今日は実戦もこなしたしな。それに」

 曹仁は、肩に巻かれた包帯を指差した。動き自体に支障はないが、傷口はふさがってはいない。明日もそう激しい鍛錬はできないだろう。

「そうか。……傷に障るぞ」

「じつは、傷が痛んで眠れそうにないんだよ。酔ってパッと寝てしまいたいんだ」

「そうか。……ならば杯を―――あっ」

 皇甫嵩と卓を挟んで反対側、無人のその場所に置かれた杯を、曹仁は取った。なみなみと注がれた酒を一気に飲み干す。

「うん、あいかわらず良い酒を飲んでいるな。もう一杯」

 何か言いたそうにしている皇甫嵩に、杯を突き出した。

「はぁ。…………まずは私からだ」

ひとつ深い溜息を吐くと、皇甫嵩が杯を振った。すでに杯の中は空だった。曹仁は卓の中央に置かれた器を取ると、うっすらと琥珀色をした液体を、そこに注ぎ込んだ。それを、皇甫嵩は一息であおる。

「おい、俺のは?」

「お前の方が一杯先に飲んだだろう。これで五分だ」

「あんたはそもそも先に飲み始めていただろうが」

 言いながら、曹仁は自ら酒を注いだ。再び突き出された皇甫嵩の杯にも、悪びれないその顔を一度睨みつけた後、酒を注いだ。

「盧植にでも、聞いたか? それとも恋か?」

「何の話だ?」

「この私を気遣うなど、10年早いというものだぞ、曹仁」

「だから、何の話だ?」

「ふっ、まあ良い」

 皇甫嵩は、また一息に酒を仰ぐと、曹仁に杯を突き付けた。曹仁は、皇甫嵩の杯になみなみと酒を注いだ。





獄中の張譲が、どこからか入手した毒をあおって自害したのは、その3日後のことである。




[7800] 第3章 第1話 反董卓連合
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2010/01/22 16:30
「これは」

 轡を並べた照の口から、感嘆の声が漏れた。諸侯の軍。総勢20万を超す敵軍の進撃は、それほどに圧巻と言ってよかった。

「だが、隙も多いな」

 混成軍だけあって、前方を行く敵軍は1つの陣形として機能しているとは言い難かった。それぞれの軍が、思い思いに移動しているに過ぎない。16人の諸侯と、他にも豪族から義勇軍の類まで終結しているのだ。指揮系統を一つにまとめるというのはほとんど不可能なことであろうし、兵の質も様々だった。しかし、それにしてもお粗末な進軍と言ってよかった。ただ並んで進んでいるだけにしか見えない。曹仁達に見える後軍は、自分達を後詰め程度にしか思っていないのか、弛緩した空気すら感じられる。実際、切り立った崖に左右を阻まれた虎狼関の地形を考えれば、戦闘に参加する軍は前軍の一部のみということになる。そこに、士気の高い軍は集中しているのだろう。
曹仁は後方に視線を送った。丘陵の陰に隠れるように騎馬隊が整然と居並んでいる。前方を行く敵軍と見比べれば、その士気の差は歴然だった。

「おい、曹仁。いきなり本陣まで突っ込もうなんてするなよ。こっちは2000しかいないのだからな」

「わかっているさ」

 目的はあくまで兵糧。酸棗に集結した連合軍が進軍し、再び陣を布くまでの移動中を狙っての奇襲だった。移送隊は有難いことに最後方を進んでいる。それも、ただ輜重のために遅れているだけといった様子である。袁の旗が翻っている。総大将に就いたという袁紹旗下の武将か、あるいはその従妹にあたる袁術の軍だろう。30万の軍である。兵站の大事を考えれば、身内に任せたいと考えるのも当然だった。

「もう少し近付くぞ」

 照が手を振った。草鞋を履いた騎馬隊が、音も無く丘陵の陰を縫うように進む。
 2000騎は、黄河の流れに乗って秘密裏に運ばれた。2000というのは、作戦の秘匿性や、埋伏のための地形、補給の難を考えた上で出された最大の数だった。兵糧や武具の類も、船により運搬され、黄河の流域のいくつかの場所に分けて隠されている。2000の内、400騎が照の指揮で、全体の指揮官も照ということになっていた。曹仁は残る1600騎を率いる。

「あの娘のことが気になるのか?」

 先程からずっと押し黙っていた角が、ハッとしたように顔を上げた。残兵の軍師であった盲目の少女のことを言っていた。

「ほとんど毎日、屋敷に通っていたのだろう?」

 少女は、牛金の知人だという商人の屋敷に預けられていた。黄巾の戦乱の中で両親と光を失い、行き場もなくさまよっていたところを張奐に拾われたという。固く閉ざされた双眸から、本当に視力が失われているのかは判然としない。両親が暴徒の手に掛かる姿を目にし、それ以来両の眼が開かれることはなくなったという。そういった事情から、少女は黄巾賊討伐に功のある皇甫嵩や曹仁、牛金に対してほとんど恨みらしい感情を見せはしなかった。ただ、身を潜めた間近で残兵の2人を討ち取った状況が、かつての暴徒の姿に重なり、曹仁に対しての恐怖心は拭い去れないほどに大きかった。だから、皇甫嵩の屋敷に置くには問題があったのだ。

「ええ。張繍殿達から頼まれてもいますし、あの娘も、屋敷の子供達も俺を怖がりませんからね」

 曹仁の問いに返しながら、牛金は顔面に張り付いた傷跡を指でなぞった。
屋敷の主は、麗羽が張譲に追われ洛陽を脱出する際、協力してくれた男だ。商人とはいっても、元々は漢朝の名家と言っていい家柄の者で、剛毅な性格と利を度外視した商人らしからぬ行動でも知られていた。戦災孤児などを多く養っていて、中には実際に養子とした者もいる。ゆくゆくはあの少女もその家の養子となるのではないかと、伝えられていた。

「……あの子は美人になるぞ。俺が保証する」

 胡乱な視線をぶつけてくる角を無視して、曹仁は続けた。

「俺は、少女が絶世の美女へと育っていく様を、何人も見届けてきている。なかには発育思わしくなく、少女の姿のままで居続けている者もいるが、悔しいが美少女ではある。その俺の目が、そう告げている」

「軽口は終わりだ、曹仁」

 さらに言い募ろうとした曹仁を、照が制止した。同時に、手を上げて進軍も止める。照が黙って馬を下りると、全軍も続いた。一斉に馬の草鞋を外し始める。曹仁と角も会話に執着することなく、それに倣った。元々、半分はこれから20万の軍勢に先制を掛ける兵達に、将の余裕を見せることで要らぬ緊張を解こうという気持ちがあった。もっとも、董卓軍、皇甫嵩軍から選び抜いたこの精鋭達に、そんな気遣いは本来無用でもあった。だから、半分はただの冗談だ。少女の角に対する懐き様は、曹仁にそういった冗談を言わせるだけのものがあった。

「出撃」

 照の声が響いた。決して大きな声ではないが、それは2000の隅々まで響き渡ったようだった。一斉に動き始めた。同時に、旗も立てられる。“董”の旗。曹仁は、その旗にしばし視線を遣った。





 反董卓連合20万。袁紹の檄文に、16の諸侯と、豪族、義勇軍が酸棗に終結していた。廃帝に、清流派の廷臣の排斥。亡き張譲の残した悪行の矢面に、月が立たされたという格好だ。
 対する董卓軍も総勢20万。涼州より呼び寄せた元々の董卓軍と、相国の名の元に徴収した官軍。兵力は拮抗していた。月はなおも話し合いによる和解の道を模索していたが、時ここに至っては、どんな言葉も空しいだけである。
 皇甫嵩は、汜水関の城壁から眼下を見つめた。視界の先に広がるのは、切り立った崖と崖がなす狭道。酸棗より敵軍が進軍を開始したと斥侯から報告されてはいるが、まだ視界の端にもその姿はとらえられてはいない。狭道の入口に着くまでに、通常の進軍で後半日はかかるだろう。20万の大軍、しかも連合軍である事を考えると、実際に到着するのは2日後といったところか。

「ウチも外に出て戦いたかったわ」

「私もだ」

「…………」

 隣で、霞と華雄がつまらなそうに言った。無言でたたずむ恋も、これから始まる籠城戦に、あまり気乗りした様子はみられない。照と曹仁を別働隊として城外に送り出すと決めたのは、皇甫嵩と詠だった。理由はいくつかある。一つには、城内にいなくとも不審に思われないということ。照は、董卓軍の将として名を連ねてはいるが、その武功は全て月自身のものとして奏上されている。董卓軍の外では、その名を知る者自体がほとんどいない。曹仁は、あくまで客将であり、いつ皇甫嵩の元を去ってもおかしくはない立場だし、今回は相手が相手である。戦闘に参加しないという選択は十分にあり得た。また、別働隊は一度城外に出てしまえば、こちらとの連絡はほとんど取れず、独立した軍として動かなければならないということも理由の一つだ。恋や霞、華雄は優れた将ではあるが、今まで独自の判断で軍を動かすという経験をしてきてはいない。照は実質、董卓軍全体を指揮していたと言ってもいいし、曹仁は義勇軍とはいえ黄巾の乱で戦歴を重ねていた。その経験を買ったのだ。

「そろそろかな」

 騎馬隊による奇襲。
 連合軍は、狭道の直前に陣を敷き、数万単位の軍を攻城にあてると考えるのが妥当だった。全軍が狭道の中に進軍しても、実際に攻撃に投入出来る兵力は一部だ。かえって各軍の動きが妨げられるだけだし、状況によっては挟撃で一網打尽にされる可能性もある。そのような愚は犯さないだろう。陣を敷かれえしまえば、2000の兵力での奇襲は難しい。だから、奇襲をするなら進軍中の今しかなかった。





 400騎をひとまとめにして、移送隊の中を駆け抜けた。敵兵はほとんど何の抵抗も示さずに、輜重を残したまま、ただ逃げ惑っている。400騎が斬り開いた道を、油壺と火矢で武装した曹仁率いる1600騎が続く。
張繍の率いる400騎は、月の旗本の騎馬隊である。残る100騎は、洛陽で月と詠の護衛についている。張繍自らが心血を注いで育て上げた董卓軍の中核をなす500騎である。良馬を産出する涼州でさらに選りすぐられた馬と、同じく騎馬隊の練度の高い涼州軍より選りすぐられた騎兵。その精鋭達をもってして5人に1人が脱落するというような、過酷な調練を課したのだ。少なくない数の死者も出ていた。月のみならず詠ですらそれには難色を示したが、張繍は決して譲らなかった。月と詠を守る旗本には、常に自分の納得のいく兵だけを置き、最強の部隊でなくてはならない。それが張繍の考えであり、妥協をするつもりはなかった。そしてそれはそのまま、兵の誇りにもつながっている。実際、本領の騎馬ではない状況下で、ひとりひとりが相応の武人であった残兵10人近くを見事討ち取ってもいる。現状、騎馬隊としては中華最強の部隊ではないかと張繍は自負していた。それだけに、残兵との闘争で欠けた30名ほどの補充は思うように進んでいないようだった。戦場においても、500名が一度にこれほど欠けることはなかったのだ。だから、張繍の率いている400騎は、より正確にはそれに少し足りていなかった。
移送隊の先頭まで辿り着いた。移送隊の端から端まで、一直線に駆け抜けたということだ。反転すると、炎燃え盛る道が出来ていた。張繍は、100騎ずつ3隊を副官に任せた。それぞれが無人の野を行くが如く、自由に駆け回る。70数騎を率いて張繍も敵軍をかき混ぜる様に縦横に駆けた。
 袁の旗が見えた。旗の下、1500ほどの歩兵が堅く方陣を組んでいる。張繍は旗目掛けて真っ直ぐ馬を駆けた。ぶつかった。士気は決して低くはない。しかし、練度は天と地の差があった。突き崩す。

「っ!」

 飛来した矢を、張繍は紙一重のところで弾き落とした。続けざまに射込まれてくる2矢目、3矢目も、弾く。凄まじい強弓である。弾く槍を握る腕が痺れた。
 正面を見遣る。歩兵の陣の中心。そこに騎馬の一団があった。袁の旗もそこに立っている。矢はその中の一人が放ったものだ。長身の男だ。長大な鉄弓を構えている。男が、再び矢をつがえた。手には他に2本の矢が握られているようだ。
 的を小さくするため、楔形の陣形から、1列の縦列へ移行させる。それを、蛇が這うかのように波打たせて進めた。
 1矢目。弾いた。距離が狭まった分、先程より重い。見定める時間も短い。矢継ぎ早に射掛けてくる2矢目、3矢目を、ほとんど勘だけで張繍は捌いた。蛇行させていた縦列を、真っ直ぐに騎馬の一団目掛けて駆けた。一団が、小さくまとまった。次矢をつがえる間はないと判断したのか、弓の男が、鉄弓を槍でも使う様に構えた。
 そこに、ぶつかった。張繍の槍と、男の鉄弓がぶつかる。槍と打ち合わされたところから、鉄弓がしなる。そのまま、駆け抜けた。敵の騎馬の一団を崩し、歩兵の方陣を抜ける。
 振り返る。綻びを繕おうと、歩兵が陣を組み直し始めていた。

「振り抜けなかったか」

 張繍は槍を握り直した。矢を弾き続けた腕の痺れが、振るう槍の勢いを殺いでいた。

「照!」

 曹仁が、100騎程を率いて駆けてくる。

「見ていたぞ」

 言って、曹仁は自身の髪を軽く撫でた。張繍も、自らの頭に手をやった。軽装を好み、元より兜を被らない曹仁と同じく、髪を撫ぜる。

「ああ、飛ばされた」

 男のしなる鉄弓が、張繍の顔面に伸び、兜を飛ばしたのだ。

「火矢も油壺も尽きたぞ」

 曹仁が、歩兵の陣を一度見遣った。退くか、それとも方陣を組む歩兵を突き崩して敵将を狙うか。視線で問いかけてくる。
 騎馬の一団の中に、年端もいかない少女の姿を張繍はみとめていた。伝え聞く容姿からして、あれが袁術だろう。曹仁と2方向から攻めれば、弓の男の抵抗をかわして少女を討つのは容易い。

「退こう」

 兵糧を失うという大失態を演じた袁術を、連合軍総大将である袁紹はどう扱うであろうか。厳しく糾弾するか、それとも身内に対しては甘い顔を見せるのか。いずれにせよ、火種にはなるはずだ。望むべく最高の戦果は得た。張繍は撤退の鼓を打たせた。敵陣を駆けまわっていた騎馬隊が、一斉に元来た丘陵地帯へと向けて動き出す。張繍も馬を駆けた。

「……太史慈と呼ばれていたな」

 張繍は口中で呟いた。ぶつかり合いの中、恐れ慄く袁術がそう口にしていた。張繍はその名を胸に刻みつけた。





 先陣を行く曹操軍に奇襲の報が入ったのは、すでに敵が去ってからの事だった。かなりの量の兵糧が、焼き払われたらしい。華琳は進軍を止め、続報を待った。
 歯噛みする思いで、後方を睨みつける。意識して見ると、わずかにそこが煙を上げているように、見えなくもなかった。
難攻不落の城塞と名高い汜水関を前に、どこかで自身の考えが硬化してはいなかっただろうか。斥候の報告によれば、守将は黄巾の乱で大功を上げ、今や官軍最強の将軍と言っていい皇甫嵩。そこに、音に聞こえた猛将である呂布、張遼、華雄が補佐をしている。城塞を頼りと篭る大敵を、如何に突き崩すか。そこに思考の大半を奪われていたのではないか。あるいは、何の進展も見られない、無意味な軍議の日々に倦んでいたのか。だから、麗羽が袁術に兵糧の移送を一任すると言った時も、深く考えることもしなかったのか。

「……ふふっ」

 自然、華琳は笑みを浮かべていた。
 さすがは常勝将軍皇甫義真。それでこそ、戦いがいがある。さらに、前線にこそ出てきてはいないが、その背後には魔王董卓。董卓の名は、以前から聞いていた。戦死した父の後を継ぎ、常に外敵の侵攻にさらされる涼州の治安維持に尽力する良将。武勇一辺倒の人物ではなく、時には羌族と交わることで、彼らが漢民族に対して持つ敵愾心を抑えたという。歴戦の猛者と、まだ見ぬ強敵を向こうに回し、華琳の胸は高鳴った。

「さすがは華林様。素晴らしい慧眼です」

 華琳の笑みを別の意味にとったのか、桂花が言った。連合軍である。各軍それぞれに、独自の輜重を有してもいた。曹操軍は、特に多くの兵糧を用意させていた。軍の生命線と言っていい兵糧を、他者に、それも袁術のごとき無能に任せたくないと思ったからだ。それが、功を奏していた。だが、刺史や太守である諸侯の軍とは違い、私財を投じて作り上げた軍だ。総勢5000に過ぎない。単独で戦い続けることなど不可能だった。連合軍の中で、華琳が使えるとみた劉備の義勇軍と、孫策の軍も、同じく小勢だった。しかも、各々の事情ゆえに完全に兵糧は袁術任せである。兵糧は、どれだけ燃え残ったのか。続報を待つしかなかった。





「おい、照」

「ああ、わかっている」

 姿こそ見せてこないが、追って来る軍があった。当然騎馬隊。それもかなり速い。一定の距離を保ち続けている。つまり、曹仁の率いる1600騎と変わらぬ速さということだ。

「3つ先の丘」

 言って、照がまっすぐ前方に右手を向けた。一斉に400騎の速度が上がる。旗手だけが残って、曹仁と共に1600騎の先頭まで下がった。400騎との間が広がっていく。3つ先の丘。埋伏のために、この辺りの地形は調べ抜いてあった。
1つ目の丘を駆け上がる。振り向くと、追いすがる騎馬隊の姿が、はっきりと目に映った。3000騎ほどか。
 2つ目の丘。駆け上がって、今度はその頂で1600騎を反転した。ちょうど1つ目の丘の頂に姿を現した敵軍と、同じ高さでにらみあう形となった。こうなると、お互い容易には動けない。先に動いて丘を降りれば、相手の逆落しの攻撃を受けることになるからだ。ただ、両軍の旗が、風にたなびいていた。

「角」

 400騎を前進させた。角率いるその部隊は、丘と丘の狭間、最も低くなっている場所で動きを止めた。さて、どう動くか。

「なにっ!?」

 見極めるつもりの曹仁を嘲笑うかのように、敵3000騎全軍が一切の躊躇なく丘を駆け降りた。逡巡する間はなかった。旗を一振りすると、400騎が馬首を返し、丘を駆け戻ってくる。同時に、曹仁は残る1200騎と共に丘を駆け降りた。
 敵3000騎が、400騎の最後尾に喰らいついた。敵軍の先頭で槍を振るう女。その槍の行くところ、ひとり、ふたりと味方の兵が馬上から姿を消していく。だが、逆落しの勢いはだいぶ失われている。そこに、曹仁は先頭切って突っ込んだ。
 女と馳せ違う。瞬間、曹仁は肌が泡立つのを感じた。そのまま、3000騎を削り取る様に、斜めに駆け抜ける。勢いはこちらが上でも、兵力差がある。正面からのまともなぶつかり合いは避けたかった。
駆けながら、曹仁は確認するように自らの首筋を撫でた。十文字の刃を持つ槍が、曹仁の突きを払い除け、そのまま首を刈りにきた。白鵠の駿足無くば、今頃は胴と首が1つにつながってはいなかっただろう。
 3000騎が反転して追って来る。角の400騎は、2つ目の丘の頂まで引いている。1つ目の丘に昇るのを阻まれたという形で、曹仁は1200騎を2つ目の丘の方へ引いた。当然、敵も頂の角の400騎を警戒している。丘から離れた位置を追って来る。それで、曹仁の1200騎と少し距離が開いた。そのまま曹仁は3つ目の丘の横を過ぎる。

「反転っ!」

 小さな半円を描いて、1200騎を反転させる。後ろを取られた状況を嫌っての、わずかに開いた距離を恃んでの強引な用兵と見えたはずだ。精鋭達は指揮をする曹仁が驚くほどに見事な動きを見せてはいたが、それでも隙は隙だ。3000騎が押し寄せる。
 曹仁の1200騎の斜め前方には、3つ目の丘。先の二つの丘と比べて険しく、頂の様子はつかめないが、そこには照が率いる400騎がいるはずだ。実際にはその5倍の兵力にも相当するほどの騎馬隊だ。
 勝った、そう確信に近い思いを浮かべた瞬間、またも曹仁を嘲笑うかのように、敵騎馬隊が動きを止めた。そのまま転身し、駆け去っていく。曹仁は唖然とした思いで、その背を見送った。
 照が、逆落しの備えを解いて、丘から下りてくる。敵軍の姿は、丘上からも見て取れないほどに離れたらしい。

「俺の400騎が先行していることに、気付けたとは思えないのだがな。さすがに、獣並に勘が良い」

 勘。確かに、そうとしか考えられないところがあった。奇襲による混乱の中、こちらの総勢を正確に把握することなど不可能に近いことだろう。

「旗には錦とあったが、知っているのか?」

「錦とくれば、錦馬超だろう」

「錦馬超」

「ああ、中原ではどうだか知らんが、涼州では、呂布殿に勝るとも劣らぬほどの武名だな」

「……恋なみの武名」

 十文字槍の女の姿が思い浮かぶ。おそらく、彼女が馬超だろう。確かに、こちらの意表を突く用兵は、恋に通ずるものがあった。兵も間違いなく精強。だが、騎馬隊は攻城戦においてはあまり用をなさない。紛れもなく精鋭でありながら後方を進軍していたのはそのためか。いずれにせよ、敵の後方を乱そうとすれば、今後もあの軍が出てくるだろう。

「厄介な相手だ」

 騎馬隊が駆け去ったその先を見つめ、曹仁は呟いた。




[7800] 第3章 第2話 英傑達
Name: ケン◆f5878f4b ID:d801a213
Date: 2010/02/10 19:42
「それでは、さっそく進軍しましょうか。兵糧も残り少ないことだし、時間が惜しいわ」

「ちょっと、華琳さん! そういった命令は総大将である、この、袁本初が、下すものですわ」

 騒ぎ立てる麗羽を無視して、華琳は袁術を見遣った。

「なんじゃ、曹操? 妾の顔に何か付いておるか?」

「きっと、美羽様の可愛さに見惚れてしまっているんですよ」

「うむうむ、そうであろうそうであろう。苦しゅうないぞ。もっと見ても良い」

 冷やかな視線も、袁術にはまるで効果がないようだった。袁術軍の武将で、彼女の守人でもある張勲が煽ることでさらに増長していく。

「本当に、素晴らしい面の皮をしているわね。感心するわ」

「うははー。妾は気分が良いのじゃ。蜂蜜水を持ってくるのじゃ」

「あら? 蜂蜜水は無事だったのね」

 孫策が皮肉気に言った。彼女は袁術の客将という立場だが、思うところがあるのだろう。

「うむ。蜂蜜水の移送には太史慈をはじめ、妾の軍団の中でも精鋭を当てておる。妾に抜かりはないぞ。うははー」

「よっ、さすが美羽様。厚顔無恥! 大陸一の恥知らずめ!」

「うははー、もっと妾を褒めるのじゃー」

「…………」

 あきれた思いで、華琳は袁術の傍らに侍る太史慈に視線を転じた。太史慈は、連合軍の軍議に席を与えられるような地位にはいないが、奇襲に立ち会った現場指揮官として参加している。黄巾の残党を相手に名を上げた人物で、弓の腕前は様々な逸話とともに広く聞こえていた。男であるという欠点に目をつぶってでも、旗下に加えたいと華琳に思わせる人材だった。こうして実際に目にしてみても、堂々たる体躯に似合わぬ寡黙さで、一歩引いた態度を崩そうとはしない。それは、華琳の好む軍人としての美徳のひとつだった。その生粋の軍人に与えられた任務が、蜂蜜の番である。

「……まさに宝の持ち腐れね」

 華琳の呟きは、袁術の馬鹿笑いにかき消された。



「華琳様、いかがでしたか?」

 諸侯との軍議を終え自陣に戻ると、本営の幕舎には主だった者達がすでに集結していた。秋蘭の問い掛けに、華琳は桂花に顎をやった。軍議には、軍師である桂花一人を伴っている。他の諸侯も供は一人で、麗羽だけが袁家の2枚看板と呼ばれる顔良と文醜の二人を伴っていた。考えようによっては総大将の立場を誇示しているととれなくもないが、恐らく本人は何も考えていないだけだろう。そもそも二人が二人とも軍議で役に立つような類の人間ではない。
 桂花は一歩進み出ると、軍議の内容を説明しはじめる。
 全軍の兵糧の、実に3分の2程度が焼き払われていた。元々は20万の兵が3ヶ月の滞陣に耐えられるだけのものが用意されていた。30日の間に汜水関、虎牢関2つの関を抜き洛陽を落とす。それはほとんど不可能と言っていい。軍議では、連合軍に参加しなかった諸侯や豪族達に兵糧の供出を促すという方針が決められた。袁家の声望と、今後の保身を考えれば、集まりは悪くないはずだ。同時に、新たに買い入れもする。その資金は兵糧を失った責任をとるということで、袁術が負担する。結局、兵糧は袁家の声望と財力に頼るしかないということだった。それで、表立って今回の袁術軍の失態を批難する者もいなくなった。せめてもの皮肉も、解する頭を持たない袁術を相手にしては、ただの徒労であった。

「それにしても、騎馬隊による襲撃ですか。……たぶん、そこにいますね」

 幸蘭が言った。

「まあ、そうでしょうね」

 襲撃を受けた袁術と追撃を掛けた馬超から、指揮官らしき2人についても報告されていた。その内の1人は、見事な白馬を乗りこなしていたという。後方で座して備えるという様な性格ではない。まず間違いないだろう。

「? 誰の話ですか、華琳様?」

「そういえば、桂花はまだ会ったこともなかったわね。……曹仁。家出中の我が家の天の御遣いよ」

 自分に敵対する。それは許し難い行為だが、攻め込まれる洛陽を曹仁が見捨てるはずがないとも思っていた。それにそれは、華琳の美意識にも引っ掛かるものがあった。

「なっ! 華琳様の元に馳せ参じなかっただけでも許し難い不忠だというのに、まさか裏切ったのですか!? なんて恥知らずな! これだから男と言うのは下賤で下等で低俗で低能で!」

「―――桂花ちゃん」

 まるで地の底から響き渡るような、そんな声がした。満面の笑みを浮かべた幸蘭が、桂花へと歩み寄る。

「いけませんよ、男の人をひとまとめにして侮辱するなんて。いいですか、およそ男性というものは、二種類に分類することが出来ます」

「な、なによ。低俗と低能?」

「いいえ。仁ちゃんと、それ以外の何か」

「なによそれ。結局、どっちも低俗で低能じゃない」

「……桂花ちゃんとは、一度ゆっっっくりと、話し合う必要がありそうですね。うふふふふっ」

 蘭々が、何かに脅える様に身を震わせた。春蘭も、普段犬猿の仲の桂花に対して、珍しく同情的な視線を向けている。曹仁が絡むと、幸蘭は華琳にも御しきれないところがある。

「あの子のことはとりあえず、放っておきましょう。前線の私達と直接ぶつかるということもないでしょうし」

 奇襲部隊は今後、連合軍の兵站線を切るために動くだろう。輜重隊には十分な護衛をつけ、そして遊軍として馬超が動き回る。北方涼州の英傑馬謄の長子で、錦馬超と呼ばれている。馬謄は、華琳が一度は会ってみたいと思う武人の1人である。国境線の緊張が高まっているという理由で、連合軍には名代として馬超を送り出してきた。病が篤いという噂も聞こえている。

「華琳さま、わたしがひっ捕らえて」

「駄目よ。あの子のために兵を割く余裕は、我が軍にはないわ」

「うう~、仁のやつ」

 春蘭が不満気にうなり声を上げた。
 5千という諸侯と比べ劣る兵力を、2分するわけにはいかなかった。だからと言って、後軍に下がるつもりもない。
 ここは、自分が今後の乱世に如何に立つのかを決定づける分水嶺なのだ。曹孟徳の進むべき道は常に前にある。後軍に下がることで得るものがあったとしても、それは我が覇道には必要のないものだ。華琳は、そう自身に言い聞かせた。



 連合軍は、汜水関へと続く狭道へと進軍を開始した。12万は狭道の手前5里のところで陣を布き、8万が実際に関の攻撃軍となる。
 奇襲を警戒し、さすがに今回は隊列を組んで進んだ。とはいえ、先頭から曹操軍5千、袁紹軍3万、劉備率いる義勇軍1千を含む公孫賛軍1万5千、袁術軍2万、孫策軍1万の計8万。麗羽と袁術の、前後に盾となる軍を置きたいという願望が透けて見える隊列だった。その上、最大兵力を有する袁紹軍と、次に兵力の多い袁術軍が間に入ることで、前後の動きがかなり限定されてしまっている。一抹の不安を感じながらも、先陣を行く華琳は進軍を続けた。

 2刻ほども進むと、汜水関が視界の先にうっすらと見え始めた。さすがは難攻不落と呼ばれるだけあって、遠目にも威容を感じさせる城塞だ。

「華琳様、城門が!」

 初めに気付いたのは秋蘭だった。弓使いの鷹の目が、異常を捉えていた。言われて、注視することで、ようやく華琳の目にもそれとわかった。

「開いていく?」

 ぞくり、と寒気が走った。直後、城門で何かがうごめき、あふれ出した。直ぐに、馬蹄の響きが耳に届いた。続いて喚声。真紅の呂旗。さらに張と華の旗もそれに並ぶ。

「呂布、それに張遼に華雄。いきなり3枚まとめて使ってくるなんてっ」

 桂花が悲鳴のような声を上げた。

「鶴翼に陣を布く!左翼、夏侯惇2千! 右翼、夏侯淵2千! 残る1千と虎豹騎は中軍! 私自らが率いる!」

「華琳さまっ、危険です! せめて私をおそばに」

「時間がないわ、早く陣形を組みなさい!」

 華琳はなおも縋ろうとする春蘭を追い立てた。
進軍隊形から陣形への移行は、何度も繰り返してきた。瞬く間に鶴翼が整えられる。
 騎馬隊の勢いは凄まじいものがあった。見る間に距離が詰められていく。その数およそ3千。鶴翼は、後方に控えた中軍を餌に、前方に張り出した両翼で敵軍を包囲するための陣だ。包囲の成否は、中軍の踏ん張りに掛かっている。
 ぶつかる直前、華琳は歩兵を左右二つに割った。そもそも、5千で受け止めるには無理があった。他の軍と比べて兵力の少ない曹操軍が功を上げるには、自軍の犠牲を如何に抑えるかが重要なのだ。麗羽の3万を巨大な中軍と見立てて、5千全軍で包み込む。初めからそのための鶴翼だった。200騎の虎豹騎と20騎の華琳の親衛隊だけが、元々の中軍の位置に取り残された格好だった。

「華琳さま、俺たちは退かないのですか!?」

 叫ぶように言う蘭々を華琳は手で制した。蘭々には、華琳直属の精鋭重騎兵である虎豹騎の指揮を任せていた。まだまだ未熟だが、騎馬隊の指揮には光るものがある。華琳が直接虎豹騎を率いるときは、その副官だった。
 さらに距離詰まる。華琳は、スッと息を吸い込んだ。

「―――我に続け!」

 真っ直ぐ騎馬隊目掛けて駈け出した。親衛隊は、一騎も遅れることなく付いてきている。虎豹騎は、本来の指揮官である蘭々の戸惑いからか、わずかに遅れた。ただ愚直に華琳の身を守ることを任とする親衛隊との差だった。戸惑いが生じるのは、将として頭を働かせている証拠だった。悪いことではない。その後の判断の遅れは、蘭々にとって今後の課題だろう。
 騎馬隊が迫る。華琳も、何も本当に騎馬隊とぶつかるつもりはなかった。遠目にも精鋭であることがうかがえる騎馬隊を、音に聞こえた猛将3人が率いているのである。如何に虎豹騎と言えど、まともにぶつかれば壊滅は免れようがない。ただ、重騎兵が直前でわきを過る。それだけでも騎馬隊の勢いは幾分殺がれるはずだった。
 華琳の目が、騎馬隊の先頭を駆ける将の姿をはっきりととらえた。赤い髪に、漆黒の戟。

「―――っ!」

 華琳は己の過ちを覚った。呂奉先。どこかで、曹家最強の武を誇る春蘭を基準に考えていた。天下無双とは言っても、自分とそれほどの差があるはずはないと。その考えが、一目見ただけで覆された。人の形をした武そのもの。その武威が、率いる騎馬隊全体を覆っているようだった。
 たったの3万、それも麗羽の軍で、受け止められるはずがない。自軍の犠牲を恐れず、立ち向かうべきであった。麗羽が、総大将が、討たれる。この戦は負ける。
 逡巡は、一瞬だった。華琳は“絶”を握り直した。間合いの内に入りし者の命を刈り取る大鎌、絶。鎌と戟。重騎兵と軽騎兵。我が天命と呂布の武威。いずれか勝るか。
 呂布。視線があった。そこから、まともにぶつかろうとする意図を読み取ったのか、一瞬怪訝そうに眉をしかめる。そんな変化も見て取れるほどに、近い。背後で、蘭々が何事か叫んだ。

―――ぶつかる。

「はぁっ!」

 絶を振るった。そのまま駆け抜ける。騎馬隊が、通り過ぎていく。

 華琳は、手振りで虎豹騎を止めた。自身は馬を御し切れず、数歩進んでから、轡を握る季衣の手で止められた。くずおれ、馬に突っ伏しそうになっている自分に華琳は気付いた。
 鎌と戟。ふれあう様に、わずかに掠めただけだった。それだけで、自分の中にある、何か闘志のようなものが打ち砕かれていた。

「……季衣」

「ご、ごめんなさい、華琳さま」

「いいえ、よくやってくれたわ。蘭々も」

 本当なら、死んでいた。
 ぶつかる瞬間、季衣に馬の轡を引かれ、華琳は方向転換を余儀なくされていた。蘭々の指示だ。それで、一命を取り留めたに過ぎない。

「負けたわね。……でも、生き長らえた。―――我が天命は未だ尽きず!」

 自分に言い聞かせる言葉が、最後には叫びのような大声となって溢れ出していた。失われていた闘志も、一緒に湧き出してくる。
 馬首を返した。3万の袁紹軍を騎馬隊が断ち割っていく。ほとんどぶつかる様な近さまで虎豹騎が迫ったことで、勢いはかなり殺げたはずだ。それでも、麗羽まで届く。それは確信に近い思いだった。ならば、どうするか。
 沸々と湧き上がる闘志も、今度は華琳の思考を鈍らせはしなかった。華琳は努めて冷静に、最良の選択を模索した。





 大軍を前にしても、気負いを一切感じさせることなく、恋は無造作に飛び込んでいく。霞は恋の背を追いながら、後方の曹操軍の動きに注意を払った。騎馬隊は、1つのかたまりのように見えて、3つの隊に分かれている。
 第1隊は恋が率いる500騎。ただ総大将目掛けてひた駆ける。
 第2隊は華雄率いる500騎。第1隊の切り開いた道を押し広げる。
 第3隊が霞率いる1000騎。退路の確保と引き際の見定め。それが霞に委ねられた任である。後方にも常に気を配る。前方では華雄が、前へ前へと駆けていく。猪突猛進なところのある華雄には任せられない任務だった。
 進軍隊形からの移行も済んでいなかったのか、3万の袁紹軍は、魚鱗ともただ縦列に兵を並べただけともとれる陣形をとっている。その、ほぼ最後方に袁の旗。恋が進むところ、面白いように敵兵が蹴散らされていく。
 さすがに、袁旗に近付くにしたがって、兵の練度が上がってくる。百、2百単位で隊列を組み、それが連係した動きを見せる。騎馬隊の勢いを殺しに来る。大軍の中で勢いを失えば、騎兵は力を発揮できない。

「はあっ!」

 だが、止まらない。恋が方天画戟を一振り二振りするだけで、兵だけでなく、隊列そのものが崩れていく。同じ将としてはゆゆしきことだが、恋が先頭を行くこの騎馬隊を止められるものなど存在していないとすら思えた。
 袁旗はもう間近だった。金色の光を放つ派手な具足を身にまとった袁紹の姿も、旗の下にあった。第1隊、恋の牙が、届く。

「でりゃああああっ!」

「たああっ!」

 左右から大剣と大金槌、2つの超重量が恋を襲った。袁家の2枚看板、顔良に文醜。

「はあっ!」

 ただの一振りで弾いた。巧い。もちろん人並み外れた膂力あったればこそだが、攻撃に重さが乗る、その直前を狙っている。弾かれた得物の重量を支えきれずに、小さな悲鳴を上げて2人が馬上から姿を消す。それで、袁紹軍全体に衝撃が走ったのが霞には感じられた。方天画戟を振るうまでもなく、恋が駆けるだけで、向かう先の敵兵が潰走していく。
 袁紹。その顔が恐怖と驚愕にゆがむのが、霞からでもよく見えた。恋が方天画戟を、振り上げ、振り下ろした。

―――戦場に金属音が鳴り響いた。

 打ち消すように、今度は凛とした声が響き渡る。

「魔王董卓に与する義無き刃よ! 劉玄徳が一の家臣、関雲長がお相手致そう!」

 龍を模った偃月刀が、袁紹を狙った恋の一撃を受け止めていた。
 あり得ないものを見た。そんな思いにとらわれた霞は、偃月刀を手にするその黒髪の少女に目を奪われた。





「袁紹さん、こっちへ!」

 桃香の声に、青龍偃月刀と方天画戟の下、呆然としていた袁紹が馬を返して後方に下がる。
 潰走しつつある袁紹軍を押しのけるようにして、後方には義勇軍が陣を布いている。袁紹軍にしっかりと陣を組まれていれば、義勇軍のここまでの前進は不可能だったろう。それは不幸中の幸いと言ってよかった。

「逃がさない」

「貴様の相手は私だと言っている!」

 追いすがろうとする呂布の無防備とも思える身体に、愛紗は青龍偃月刀を叩き込んだ。

「くっ! お前、邪魔」

 呂布は、人間離れした反応でそれを防いだ。ようやく、愛紗と相対するように馬を向ける。
 愛紗と呂布を置き去りにして、騎馬隊が駆け抜けていく。鈴々と星が、袁紹の後退を援護しているはずだが、それを確認している余裕は愛紗にはなかった。
 対峙する呂布から、人間のものとも思えない強烈な武威が発せられている。濃密な空気がまとわりついてくるような錯覚を、愛紗は感じた。体も、いつもよりもずっと重い。

 「はぁっ!」

 それを吹き飛ばすように、自分から打ち込んだ。当然のように防がれる。だが、それで体は軽くなってくれた。
 それでも、そこからは防戦一方だった。突きを弾き、払いを受ける。虚などなく、実のみの連撃。ただ、どの一撃をとってみても、速く、重く、正確で、なにより的確だった。攻めに転ずる機が与えられない。常に最悪を想定し、それに備えることで何とかしのいでいた。
 首を突きにきた戟を、払いのける。横腹に隙。間髪入れず、そこに横薙ぎが飛んでくる。

「っく!」

 受け止めた。 刃先がわずかに腹部に触れる。そんな紙一重を繰り返し、さらに十合、二十合と命をつないだ。
 ふっと、攻撃の手が弛んだ。好機。

―――息を吸って、呼吸を整えろ。

 生死の境に置かれ続けた体が訴えた。振り切って、攻めに転ずる。が、一瞬の迷いに好機は逸していた。
 呂布の馬が、棹立ちになった。馬の体重、勢いものせた上段。
 咄嗟に、愛紗は青龍偃月刀の峰に腕を当てて、担ぐように構えた。まさに天地が引っ繰り返るような衝撃が、その身を襲った。
 気付けば、呂布を見上げていた。呂布の一撃に耐え切れず、馬が地に伏せている。馬が潰れなければ、間違いなく押し負け、斬り下ろされていただろう。
 立ち上がり、馬から離れる。呂布からの追撃は来ない。その意思も感じられない。油断なく構えつつも、愛紗は初めて少し落ち着いた気持ちで、呂布の顔を見つめた。先程までの武威はなく、むしろ保護欲をそそる様な弱り切った表情がそこにあった。

「……しまった」

「しまった?」

「馬に、悪いことをした」

「はあ?」

 気の抜けるようなその言葉に、張り詰めていた愛紗の緊張の糸もほどけた。その間隙を突くように一騎が駆けよってくる。

「恋、退くで! 曹操軍が汜水関に向けて進軍しおった。城門前に布陣されると、さすがに面倒や」

 馬上の女が言った。隙のない身のこなしは、尋常の武人ではない。彼女が張遼、あるいは華雄か。女は、愛紗に視線を転じると、楽しそうに笑いながら口を開いた。

「あんた、やるなぁ。恋相手に、あないに戦える武人は初めて見たわ。関雲長ゆうたな。その名前は曹仁から聞いてるで」

「っ!」

―――なぜ、曹仁殿を。否、知っていて当たり前なのか。今はどこに。奇襲部隊を率いていたというのが、やはりそうなのか。なにより、なぜ、董卓に味方をするのか。

「ウチは張遼。字は文遠。次はウチとやろうやないか」

 曹仁の名に思考を奪われた愛紗を残し、張遼と名乗った少女が駆け去っていく。呂布も、それに続いた。

「待てっ! 曹仁殿は―――」

 その背は、直ぐに隊列を組み直しつつある袁紹軍の中へと消えていった。馬は、骨こそ無事の様だが、足を挫いたのか、直ぐには走れそうにない。追うことはかなわなかった。

―――曹仁殿は、なぜ董卓の元に。

 もう一度思った。さらに、思いが募る。
 呂布は、心気に澄んだものを感じさせる少女だった。張遼も、気持ちの良い武将と見えた。帝を廃し、硬骨の士を幾人も処刑した悪逆の魔王董卓。なぜ、曹仁や彼女達が味方するのか。
 愛紗は、戦場にあってそんな思いにとらわれた。





 汜水関前に、着々と攻囲陣が布かれていく。華琳は、本陣に築かれた高台からその様子を眺めた。
 陣は3段に組まれ、それぞれの前面には騎馬隊による反攻を防ぐため、馬防柵が立てられている。その後方に本陣が控える形だ。
 最も兵数の多い袁紹軍を2つに分けて、全部で6隊とする。各隊1段ずつの3隊で交互に入れ替わりながら攻撃を続け、約半日ほどで残る3隊と交代する。これで、1日の半分を兵達の休息に当てつつ、間断なく1日中攻撃を続けることが出来る。
 兵力が少ない曹操軍に、袁紹軍あるいは袁術軍の兵を連合させるという話もあったが、それは華琳が断っていた。調練は十二分に積ませてある。下手に練度の低い軍と組めば、こちらの力まで殺がれかねなかった。曹操軍5千だけで、2倍、3倍の敵と対し得る自身が華琳にはあった。
 しかし、劉備の義勇軍1千、あの軍の強さは一体何なのだ。
 関羽は、あの呂布と百合近くも打ち合ったらしい。そして、その武勇もさることながら、軍としての働きはそれ以上だった。3千騎の精強な騎馬隊の突撃を、見事に受け止めている。
 関羽が呂布の動きを抑えていた。袁紹の3万を抜けたことでかなり騎馬隊の勢いが落ちていた。後方に公孫賛の1万5千の圧力があった。そうやって、理屈はいくらでもつけられる。しかし現実として、旗下の5千から選び出した1千を率いて、同じ真似が出来るだろうか。華琳は自信を持って首を縦に振ることが出来なかった。

 天下の義軍。いつ頃からか、そんな名が民の間で囁かれるようになっていた。黄巾の乱の鎮圧に大功を上げ、不正を憎み官を辞した清廉の士。悪を憎み、賊あるところどこにでも現れ、それを討つ義の軍。
 民の噂などと言うものは得てして大袈裟に誇張されるものだが、華琳は幸蘭が全国に張り巡らした情報網を通して、義勇軍のかなり正確なところまでを把握していた。そこには、自分のすぐそばで育った曹仁が英雄と見た人物、劉玄徳に対する個人的な興味があったと言っていい。少なくとも、現状に置いては警戒を要するような勢力ではないのだ。
 なんの報酬も無しに、賊徒の鎮圧に奮戦する義軍。その評判は概ね正しかった。そんな軍が餓えもせず戦い続けることが出来たのは、多くの民と、利で動く商人達までが、彼女らを支援したからだった。それが劉玄徳の魅力、あるいは能力と言い換えても良いものなのだろう。そして、もうひとつ言えることは、この1年ほどの間、将兵共にもっとも多く戦場に立った軍だということだった。
 反董卓連合の先にあるもの、それを見据えたとき、最も注意を払わなければならないのは、劉備の義勇軍かもしれない。所詮は小勢と、そう思いながら華琳は、その考えを捨て去ることが出来なかった。





 輜重隊襲撃から5日、洛陽からの伝令が張繍の元へと届いた。内容自体には特筆すべきことは何もなかった。こちらからの奇襲成功の報を確かに受け取ったという確認に過ぎない。連合軍による汜水関攻撃もすでに始まっているはずだが、そもそもこの伝令はそれ以前に発されたものだろう。黄河を使っての伝令の往復には、洛陽とでも丸4日は必要だった。

「董卓様と賈駆様より、張繍様にこれを預かってまいりました。忘れ物だということです」

 最後に伝令兵から、巻き取られた一幅の布を手渡された。それが何なのかは、考えるまでもなく解った。

「曹仁、お前か?」

 布を広げた。“張”の字の大旗。白地に黒で大きく書かれた張の字の縁取りは、金糸で縫い取られている。これは、“繍”の字を表しているのだろう。
 今度の戦で掲げる様にと、月と詠から贈られたものだった。この戦に勝てば、乱世は一応の終息を見る。今後は、各地に散った連合軍の諸将を各個討伐するという、天下の主催者としての戦が続くことになるだろう。だから、これほどの大戦は今回で最後だ。最後に名を成せ、というのが2人の思いだろう。
 しかし、将としては華雄が育ってきているし、今後の戦では呂布や張遼も使えるだろう。自分が名を成す必要など、どこにもないのだ。それならば、董卓軍としての武功を積み上げた方がいい。月が軍を発すれば、歯向かう者などいない。そういった状況を作り上げてやることが、自分の役割だと張繍は思い定めていた。
 だから、張繍は2人の思いだけを胸に、旗は洛陽の軍営へと残していた。その張旗が、今、目の前にあった。

「ああ、そうだ」

 曹仁は事も無げに答えた。その態度に、苛立ちが募る。隠してこそいないが、偶然2人の目に留まるような場所にも置いては来なかったのだ。曹仁からの連絡がなければ、2人が知ることもなかっただろう。

「余計なことをするな」

「お前はもっと自分のための戦をすべきだ。それに、お前が少しは名を成さないと、困るのはあの2人だぞ。釣り合いってものがあるからな」

「釣り合い? 何の話をしている?」

「はぁ」

 曹仁は肩をすくめる大袈裟な動作で、演技がかった溜息を吐いた。

「まあ、お前のことだから本気で言っているんだろうな」

「? とにかく、余計なことだ」

 言いながら、張繍は旗を見つめた。自然と、気持ちが安らぐ様だった。金糸の刺繍は、月が自ら針をとったという。きれいに縫いあげてある。そんな中、歪にゆがんだ部分もわずかにあった。本人は何も言わないが、多分詠が縫ったのだろう。昔から手先だけは不器用なのだ。
 持つだけ持っておけ、そう告げて張繍は旗手に旗を渡した。旗を前に悪戦苦闘する詠と、柔らかい笑みでそれを見守る月の姿が、張繍の脳裏に浮かんでいた。

 月と詠も、出会った当初から仲が良かったというわけではない。
 元々、涼州は豪族が強い土地柄だった。洛陽の都からは遠く、常に異民族からの侵攻を受け続ける位置にあったことが、その原因だろう。民の根底には、中央から見放された存在だという気持ちがある。中央からも、時に反乱を企てる危険な地域と見られていた。お互いの折衝役というのが、月の父の役割だった。
 涼州の裏切り者の娘。初めて会った時は、詠はもちろん張繍にも幼心にそんな不信感があった。月の愛らしい性格にも、むしろ懐疑心を抱いたほどだった。それでも、月の純心を前に、いつまでもそうしていられるものでもなかった。詠が月にほとんど骨抜きと言っていい程になるのも、時間の問題であった。
 月の父は、豪族の反乱を鎮め切れず、逆に戦死する結果となった。残された月は、幼くしてその後を継いだ。多くの豪族を取りまとめていた馬謄や韓遂などは、月に従うことを良しとはしなかった。涼州には、味方も多いが、それ以上に敵が多い。月が中央で権力を握れるように詠が画策したのも、理の当然であった。
 そして、今度のこの戦だ。詠は謀略だけで終わらせられなかったことを悔いているが、とにかく、これですべてが終わるのだ。勝って、月が治めるという形で乱世の終結をみる。その秋(とき)は、もはや目前まで迫っていた。





[7800] 第3章 第3話 華雄
Name: ケン◆f5878f4b ID:9f82f8cd
Date: 2010/03/01 20:29
「ええぞ、撃てっ!」

 華琳の見つめる先、李典の号令で投石機より放たれた石は、大きく弧を描いて城塞内へと姿を消した。どっと、投石機をあやつる工作兵から喚声が上がる。初め、投石の狙いを定めるのには3発が必要で、4発目からようやく城塞内へと届いた。それが昨日は2発目から、そして今日は1発目から見事汜水関を捉えていた。

「よっしゃあ! 次いくで。次は高さはそのまま、向きを少し変えよか」

 飛距離も高さも、従来の投石機は汜水関の城壁を超え得るものではないが、李典の工夫によってそれを克服していた。工夫と言っても単に発射地点を高くする台を設けただけだが、効果は十分だった。投石機の軸構造自体に手を加え、さらに飛距離と威力を高めることも可能らしいが、その工夫は華琳が自分のところで留め置いている。現状では味方とはいえ、他の軍には秘しておきたいことだった。
 李典は黄巾賊討伐の折に華琳に臣従することとなった者で、今は校尉の扱いである。今後、曹操軍が大きくなった暁には真っ先に昇進させて将として取り立てるつもりだった。李典と同郷の出で、同時に曹操軍に加わった楽進、于禁も同様だ。それぞれに得意分野の異なる三人の個性は、曹操軍の軍略に厚みを持たせることとなるだろう。
 三人に先立って、黄巾党が姿を現す以前に旗鼓に加わった許褚―――季衣には、いずれは親衛隊の隊長を任せたいと思っていた。それは彼女がもう少し多くのことを学び、判断力を養ってからということになるだろう。
 人材は揃いつつあった。新参の将達の上には、絶大な信頼を置くことの出来る春蘭ら親族集団がいるし、軍師としては桂花がいる。兵力も今は少ないが、徴兵の算段はすでに整っている。乱世を勝ち抜く、その用意はすでに完成しているのだ。だが、それもここで連合軍が敗れ、董卓の世を迎えることとなれば全てが無駄に終わる。
 董卓が天下への階の最後の一段を昇り切るのか、それとも自分を含む諸侯達がその最初の一歩を進めるのか。劉備の義勇軍を除けば連合軍中最弱の兵力しか持たない華琳だが、それ故にこの戦の持つ意味を誰よりも正確に、そして深刻に捉えていた。

「撃てっ!」

 李典の号令で放たれた投石を目で追いながら、負けるわけにはいかないのだと、華琳は心中決意を新たにした。
 攻城開始からはすでに十日が経過している。引き続き昼夜を問わず攻め続けていた。兵に支給される糧食は半分に減らしてあるが、士気は依然として高いまま維持されている。元より守る側に比べて攻める側の方が士気を維持しやすいものであるし、兵達自身が董卓の悪行に対して義憤を感じてもいるのだった。この士気はそう容易く崩れはしない。
 逆に士気に不安を抱えているのは、董卓軍側だろう。元々の董卓軍も涼州守護の官軍であることには違いないが、中央の支配の及ばない彼の地においては、将兵共に漢朝の官軍というよりは董卓の私兵という思いが強い。だから、正規の官軍と董卓子飼いの涼州軍の連合という形だった。両軍の軋轢は今のところ感じられないが、苦しくなってくれば必ず表面化してくる。
 いくら負けられない勝負とはいえ、ただ我武者羅に力押しすれば良いという訳でもなかった。袁紹や袁術の軍は真正直に城門や城壁を打ち壊すというような攻めを繰り返しているが、曹操軍は極力自軍の損耗を抑えつつ、敵兵に圧力を掛けるという戦へと移行させている。城塞内への投石もそのひとつだ。孫策軍や公孫賛軍も同様で、時に舌戦を交えての攻めを見せ始めている。それは城塞ではなくそこに籠る将兵を敵と見定めた証だろう。
 董卓軍に動きがあるなら、兵力の少ない自分達か、舌鋒鋭く挑発を繰り返す孫策軍が包囲第一軍に配された時だろう。華琳はじっとその時を待っていた。





 守兵は5万に達していた。対して、連合軍は8万。残る12万は後軍として関へと続く狭道の前で陣を張っているようだ。
 5万は、汜水関の構造から考えると、多すぎるほどだった。守備面、敵軍に取っての攻撃面は、一面だけしかない。そもそも大軍でもって守らなければならない城塞など、存在の価値はないだろう。そうした意味でも、汜水関はやはり優れた城塞だった。5万は、兵力差に兵の士気が下がることを懸念しての数だった。適正な兵力は2万から3万といったところで、残りは余剰の兵力と言っていい。
 篭城は十五日目を迎えていた。攻撃は昼夜を問わず、間断無く続けられている。攻める軍は日に何度か交替しているようで、常に気力に満ちた敵兵が向かって来る。こちらも守備に当たる兵は交替して休ませてはいるが、攻める側とは違って、兵達の気が休まるということはなかった。城壁を超えて飛び込んでくる投石も、兵に必要以上の緊張を強いている。

「一度、関を出て大きく攻めるべきでは?」

 華雄が、もう何度目かになる、同じ進言を繰り返した。皇甫嵩は無言で首を横に振った。

「しかし、このままでは兵の士気が!」

 華雄の言も、間違ってはいなかった。城外で矛を交え勝利すれば、それで兵の気力は奮い立つだろう。いくらか押し込むことが出来れば、兵に休息の時間も与えられるかもしれない。しかし、賭けだった。陣を固められてしまった今となっては、涼州騎馬隊の機動力を生かした戦いも出来ない。連合軍側も騎馬隊には特に警戒を払っているようで、攻囲側とは思えないほど幾重にも馬防柵を張り巡らせている。そうなると、歩兵による正面からのぶつかり合いをするしかないのだ。連合軍を押し込めるだけの兵力を投入すれば、当然兵の回収も難しい。

「駄目だ」

「くっ!」

 華雄が踵を返し去っていく。足取りからははっきりと不満がにじみ出している。

 少し、兵に近すぎるな。皇甫嵩は思った。華雄は兵を率いさせれば勇猛で果敢でもあるが、兵ひとりひとりを見過ぎるところがあった。自分が先頭に立っての突撃は命じられても、得意の戦斧の振るいようのない場所でただ兵が苦しみ続けている様を見続けるのはつらいのだろう。それは人間としての美徳ではあっても、軍人としての美点とはなり得なかった。だが、それがゆえに、多くの兵が華雄を慕ってもいるのだろう。

 どこかで賭けに出る。それは皇甫嵩自身の好む戦のやり方でもあった。騎馬隊による二度の奇襲、それが今回打った賭けだ。一度目の賭けは成功。二度目の賭けも、敵総大将を討ち取るまでには至らなかったが、その意気を幾分挫くことはできたはずだ。後は、篭っていれば確実に勝てるのだ。敵がこれほどの力押しを続けてくるのは、兵糧が残り少ないためだろう。
 兵站線を乱す別働隊からの報告も届けられていた。連絡には、洛陽を経由して黄河の水上路が使われている。狭道の入口から汜水関までは十五里しか離れてはいないが、さすがに伝令が行き来するような隙はなかった。
 汜水関から虎牢関までは二十里で、虎牢関を抜けて五里も進むと狭道が終わり、広大な平地が広がる。その平地のほぼ中心に位置する首都洛陽までは、さらに五十里ほどだ。汜水関から洛陽までは馬を飛ばせば四刻も掛からないが、そこから船が別働隊の元に行き着くまでには丸一日以上は掛かる。さらに実際には、縦横に駆け回る別働隊と伝令が行き会うには、もう少し時が必要だろう。逆に別働隊からの連絡は、黄河をさかのぼる分、船足が落ち、最低二日は必要だった。
 それ以外にも狼煙を使った通信も可能だが、複雑な連絡には不向きだし、中継地点が取れないため汜水関からでも別働隊の目に届くぎりぎりの距離だった。当然虎牢関からでは使えない。関を放棄する時は赤みがかった狼煙を、攻城軍が撤退する時は黄色みがかった狼煙を上げることが決められているだけだった。
 もうすぐ、黄色の狼煙を上げる。攻城軍の攻撃が激しい分だけ、その時はそう遠くは無いと皇甫嵩は感じていた。



 華雄指揮下の校尉数人が兵を率いて出陣したという報告を受けたのは、翌未明の事だった。皇甫嵩が城壁に駆けつけると、すでに城門は堅く閉じられていた。城壁上にはすでに華雄がいて、じっと眼下を見据えている。皇甫嵩は黙って、その横に並んだ。
 攻囲軍第1段に翻る旗には孫の一文字。孫策軍のものだ。それが、今回の暴走の引き金にもなったのかもしれない。孫策の母孫堅と華雄の間には、過去の因縁があるという。そのことと絡めての挑発が繰り返しなされていた。挑発に乗らぬよう華雄自身には良く言い含めてあった。そして、華雄を慕う董卓軍の兵達が挑発に応じようとしない皇甫嵩に対する反感を強めている、という報告も上がってきていた。兵達の方が続く挑発に耐え切れなくなったのかもしれない。
 一千名程の一団が、小さくまとまって突き進んでいく。狙いは居並ぶ攻城兵器の数々のようだ。正面の雲梯に群がっていく。ゆっくりと、雲梯が傾いていく。迎撃する敵軍の中に、それは倒れた。敵兵に衝撃が走る。一団は次なる獲物を求め、駆ける。雲梯。一斉に飛び乗っていく。倒れた。今度は横に並ぶ別の雲梯を巻き込んでいる。これで3つ。攻囲軍が後退していく。それをさらに押しやるように、一千が突出していく。

「むっ、いかん」

「何がいかんというのだ。敵第一陣はもはや壊滅寸前ではないか。ここは我らも続くべきだ」

「孫策はそこまで甘い将ではない」

 皇甫嵩の言葉を合図にでもするかのように、敵軍の動きも統制だったものへと変わっていく。一千を包み込んで、絞り上げていく。こうなると、兵力差がものをいう。一千は円陣を組んで必死の抵抗を試みるも、その円は周囲から削り取られるように小さくなっていく。

「華雄!」

 駆け出した華雄を呼び止める。

「どこへ行くつもりだ?」

「知れたこと。あの兵達の救援に向かう」

「駄目だ。認めるわけにはいかん」

「……眼前の一千を切り捨てて、確実な勝利を得る。それが上手い戦というものなのだろう。私の指揮ではこうはいかない。いたずらに突撃を繰り返し、犠牲ばかりが増えるだけだ」

「ならば―――」

「だが! あの一千のしている戦は、正しく私の戦だ! なればこそ、私が私の戦をしないでどうする!」

 叫ぶように言うと、華雄が駆けだした。皇甫嵩は、今度は止めることが出来なかった。





「開門っ!」

 馬に跨り、戦斧を振りかざすと、華雄は言った。城門が押し開けられていく。敵兵が、殺到してくる。

「おおおおおおっっっ!!」

 そこに突っ込んだ。戦斧を大きく使った。敵兵が、まとめて2,3人と吹き飛んでいく。5回も戦斧を振るうと、城門前の敵兵は一掃された。

「今だ! 城門を―――」

背後を振り返って、華雄は口を開いた、その時だった。

「おおおおおおおおおおっっっっっーーーーー!!!」

 閉めろ、と続けるつもりだったその声は、背後から響く喚声にかき消された。そして、視界一杯には、駆け寄ってくる兵達。
 無謀な戦をしようという自分に、付いてきてくれるのか。自分の暴走に、この兵達を巻き込んでも良いのか、そんな迷いが華雄の中で生じた。
 兵の一人が、旗を掲げた。漆黒の華一文字。それが、華雄の迷いを打ち払った。
 正面を向き直った。窮地に陥った兵達を、視界の中心に据える。行く道を遮るように孫策軍が布陣を始める。その動きはよどみなく素早い。

「華雄隊、前へ! 我らが同胞を救うぞ!」

 陣形が完成される寸前に、華雄は正面から兵をぶつけた。当然、先頭に立つのは華雄自身だ。
 未完成の陣形、しかもその内に敵を孕んでいるというのに、反発は驚くほど強かった。単純に兵一人一人が剽悍で、練度も高い。陣形は未完成のままでも、巧みに左右の兵と協力した動きを見せる。負けじと華雄は大きく戦斧を振り回して、真っ直ぐ包囲された一千へと突き進む。
 8の字を横向けたような軌道を描いて、間断なく戦斧を振るう。重心が極端に先端に寄った戦斧を混戦の最中で使うには、一時も止めないということが肝要だった。止めてしまえば二の撃を放つまでに大きな隙を生み、無駄に体力も消耗してしまう。一撃を振るったその勢いを、止めるのではなく向きを変えてやることで次なる一撃に繋げるのだ。振るえば振るうほどに、戦斧の勢いは増していく。
 華雄の戦斧が作り出す刃圏のいくところ、敵兵の首が、腕が、上体そのものが、空を舞った。その光景に、さしもの孫策軍の精兵達も及び腰となっている。包囲された味方の軍までの距離を、華雄はぐんぐんと縮めていった。もうすぐだ。すぐに助け出してやるぞ。戦斧を握る手にも、自然と力が入った。

「華雄!」

 女が、立ちはだかる様に長剣を構えた。人目を引くような装飾は無くとも、その吸い込まれるような刀身には確かに見覚えがあった。

―――孫策。

 そのすぐ背後に、孫家の軍に圧されようとしている董卓軍の兵。包囲された軍と救援に向かう軍、その両軍に挟撃を受けかねない、そんな危険な位置に孫策はいるということだ。母の孫堅と同じく、果敢な戦をする。華雄の脳裏に、一敗地にまみれた苦い記憶が甦った。その娘が、今、自分と兵達を遮っている。
 あれは、孫策だ。同じ剣を持ち、よく似た容貌を持ってはいても、孫堅ではない。同じように、自分もかつての自分とは違っている。あの時は、主君董卓とも未だ巡り合ってはいなかったのだ。以前の自分なら、簡単に挑発に乗って自ら城を出ていただろう。忠誠を捧げる主君に出会ったことで、自分は変わったのだ。
 華雄は董卓を胸の内に想った。次に、自分を慕ってくれる兵達を想う。

「……まったく、私が耐えていたというのに」

 華雄は呟いた。自然、口元がほころぶ。自分を想っての兵達の暴走。それを嬉しく思ってしまう自分は、やはり将としては未熟なのだろう。
 すっと大きく息を吸った。

「―――そこをどけぇっ!!」

 兵達と自分を遮る孫策へと、華雄は大喝した。

「敵将華雄! その首、孫伯符がもらい受ける!」

 華雄の武威を真正面から受け止め、孫策が馬を寄せる。

「子猫の分際で吠えるなっ!」

 叩きつける様に振るった戦斧が空を切った。すり抜ける様に避けた孫策が迫る。手を伸ばせば触れられるような距離で、一瞬視線が絡み合った。かつての孫堅を想わせる強い瞳。

 馳せ違った。すぐに、自軍の兵達。辿り着いた。

「…………? どうした、お前達」

 静かだった。救援に湧く歓喜の声も、士気を掲げる鬨の声もない。まるで時が止まったような、不思議な空間が現出していた。戦場にあって、ただ、静かだった。
 どうしたのだ。もう一度、今度は兵ひとりひとりの顔を覗き込むようにしながら華雄は問い掛けた。直後、兵達の顔が悲痛に歪んだ。

「華雄将軍っ!」

 どこからか声が上がった。それを皮切りとして、先程までの静けさが嘘のように、怒号が巻き起こる。それは、慟哭だった。まるで答える様に、ふらり、と大地が揺れた。

「虎の子は、やはり虎か」

 右のわき腹。大地を確かめようと走らせた視線が、そこで止まっていた。あふれる様に、血が流れ出している。命、そのものだ。命が、流れ出している。他人事の様に、そう思った。ふらり、とまた大地が揺れた。自分へ向けてせり上がってくる地に、華雄は否応なく身を投げ出した。





 真っ直ぐに向かってくる二千騎が、ぶつかる瞬間五つに分かれて散った。馬超は躊躇なく董の旗が立つ一隊を追った。二千の中核となる四百騎。この四百騎だけは、口惜しいことに自分の育て上げた騎馬隊よりも上だと認めざるを得なかった。だが、それだけにそこさえ潰してしまえば、後は何とでもなる。
 四百騎は、こちらを挑発するように蛇行しながら駆けていく。それでもなお追いつかない。馬の差は如何ともし難かった。

「お姉様、後!」

 従妹で副官の馬岱が叫んだ。

「ああ、わかってる! ちょこまかと、面倒くさい戦をする奴らだ」

 分かれた五隊の内の、前を行く一隊を除く四隊が後方で一つにまとまって、追撃を仕掛けて来ていた。
 馬岱に二千騎を、馬超自身は一千騎を率い左右に分かれた。後続の千六百騎が、錦の旗が立つこちらを真っ直ぐ追ってくる。前を駆けていた四百騎も、反転して向かってくる。一千騎で敵軍二千騎に追われる形だが、その後ろから馬岱の二千騎も戻ってきているはずだ。つまり、先程とは逆にこちらが敵軍を挟んだ格好である。
 しばし駆けると、やはり敵軍の四百騎が突出して追い付いてくる。
ここ数日、似たような展開が続いていた。本格的にぶつかり合うことなく互いに機を計りながら、機動力と攻撃力に優れた敵軍の四百騎によって、自軍が削られる。少しずつだが確実に、劣勢へと追いやられていた。三千騎は、実際にはすでに二千八百騎ほどまで減らされている。逆に敵軍は、ほとんど減っていない。特に四百騎に関しては馬超自身が三騎を討ち取っただけだ。
 馬超は、一千騎の最後尾まで下がった。四百騎。すぐ目の前まで迫っていた。

「一か八かだ、行くぞ!」

 一気に、馬首を返した。真正面からのぶつかり合い。それもこちらは馬の駆ける勢いが使えない。状況は不利だった。それでも、少しずつ削られ続け、いつしか取り返しのつかない状況に追い込まれるというよりはましだ。
 馬超は鋭気を漲らせた。それをくじく様に、四百騎が左右にぱっと別れた。正面からは千六百騎。精鋭四百騎ではなく、数で押すつもりか。しかし、ここでわずかに踏ん張れば馬岱の二千騎が背後から千六百騎を食い破ってくれる。やはりここが正念場か。

「っ!」

 槍を握り直した馬超の視界の片隅に、左右から入り込んでくるものがあった。先程二つに分かれた精鋭二百騎の二隊が、大きく弧を描く様にして再びこちらに向かってくる。ちょうど馬超軍一千騎の先頭、自分のところで千六百騎と合流する進路だ。
 千六百騎から見覚えのある白馬が一騎、すっと前に抜け出た。左方の二百騎からも同じく、こちらは何の変哲もない一騎。しかして相応の武人であることを馬超の肌は感じ取っていた。敵将二人。その気勢が、鋭く突き刺さる様に馬超を射抜いた。

「最初から、狙いはあたし一人ってわけか。……面白いっ! 我が白銀の槍捌き、その身に受けよ!」

 二将が迫る。ほとんど同時。わずかに、白馬の方が前に出た。馬超はそちらに槍を向けた。ぶつかる瞬間、白馬が今度は急激に速度を落とした。備えをいなされ、一瞬、馬超の鋭気が向かう先を見失う。そこに、左方から風を巻いて槍が迫った。

「くぅっ!」

 馬超は槍を立てて、紙一重でその一撃を防いだ。しかし、下半身の備えが不十分だった。勢いを殺しきれずに押しやられ、体勢が崩れる。そこに、白馬の将の槍が、真っ直ぐに伸びた。





「あの馬術、というよりも馬そのものも、お前と白鵠に負けていないな」

 照が歩み寄って来て言った。
駆け続けの馬のために、小休止中を取っていた。戦場からひと駆けした丘の陰で、周囲には敵の気配はない。見晴らしの良い丘上に伏した兵が警戒にも当たっていた。

「……そうだな」

 照の豪槍に体勢が崩れたところに放った曹仁の突きを避けた動き。確かにそれは馬超自身の意図したものというよりは、馬が彼女を守るために取った回避運動というように思えた。それは自分と白鵠の動きと同質のものであることを、曹仁も認めざるを得なかった。

「本来の目的は果たした。馬超を討ち取るには至らなかったが、それで良しとしよう」

 馬超というのは、ただそこにいるだけで軍の格とでも言うべきものが一段跳ね上がる、そんな類の武将だった。そういった人間を曹仁は幾人か記憶している。従姉である春蘭がそうであったし、愛紗や鈴々、孫策もその類の将だった。そしてその最たるものとして恋がいる。逆を言えば、馬超一人を討ち取ってしまえば騎馬隊の圧力はぐっと落ちる。副官として馬超によく似た少女の姿を何度か確認しているが、馬超ほどの鋭気は感じられなかった。だから、騎馬隊同士のやり合いでは、常に馬超の首を狙っていくというのが照の決めた方針で、曹仁にも否やはなかった。
 今回、かなり惜しいところまで馬超を追い込んだが、その首を落とすまで至らなかった。しかし、馬超の一千騎は潰走させることが出来た。というよりも、馬超自身がそう導いたのだろう。すぐに散ったことで、討ち取った敵兵の数は数えるほどだった。一千騎はほとんど無傷のまま残っていると見ていい。ただ、馬超が兵をまとめるまでの間隙をついて、騎馬隊が護衛していた輜重は焼き払うことが出来た。兵站線を乱す。それがこの別働隊の役割である。

「しかし今回はうまくいったが、あの馬超がいる限りそう何度も続かないぞ。やはりどこかで討ち取るしかない」

 改めて、曹仁は方針を口にした。

「今回の様な一瞬の交錯でなく、一度どこかで腰を据えてやり合う必要があるかもしれないな。しかし、一対一では分が悪い。俺でも良くて五分」

 曹仁の突きをかわし様に放ってきた、苦し紛れのはずの一振りにも必殺の威力が込められていた。自分でも照でも分が悪いというのは曹仁も同感であった。しかし、照の言葉には引っ掛かるものがある。

「その言い様、俺よりも自分の方が上だって言っているように聞こえるな」

「模擬戦での勝率は俺が上だろう」

「それは地に足をつけての勝負だろう。馬上なら俺の方が上だ」

「まあ、確かに白鵠は良い馬だし、お前との呼吸の合わせ方も尋常じゃないことは認めるが」

「不服そうだな。何ならここで―――」

「張繍将軍!」

 丘上から見張りの兵が、ほとんど転がり落ちるような勢いで駆け下りてくる。

「どうした!?」

「狼煙が!」

 何色だ、と曹仁が問い質そうした時には、すでに照は丘を駆け上がっていた。曹仁も自らの目で確認するべく、その後に続く。
 昇る丘の坂道が、妙に険しく曹仁には感じられた。





[7800] 第3章 第4話 心戦
Name: ケン◆f5878f4b ID:ece1c451
Date: 2010/04/26 20:11

 攻城の手が一瞬とまった。直後、兵の波をかき分け、巨大な衝車が姿を現した。台車の上に乗せられた丸太は、通常の衝車のものよりも二回りほども大きいだろうか。衝車を引く兵の数も、当然相応に多い。

「如何にも袁紹らしいやり方だな」

 巨大な衝車で一息に城門を打ち破ろうというのだろう。攻城軍が掲げた袁の旗を見つめながら、皇甫嵩は呟いた。
 あれ程の大樹となれば、探すのも一苦労であっただろう。元より一本の丸太にこだわらずに、複数の丸太を組み上げれば良いだけの話だが、そうはしないところも袁紹らしいと言えた。
 無謀とも思えるような力攻めを、袁紹軍は繰り返している。総大将として連合軍を束ねる立場にありながら、ここまで活躍らしい活躍を見せてはいないことが袁紹を駆り立てているのかもしれない。実際、戦が始まってより将兵の間から聞こえてくるのは、劉備軍の精強さであり、曹操の戦術眼であり、孫策の武勇であった。
城門に向けて衝車が動き始めた。馬鹿げた代物ではあるが、実際あの大きさの衝車が充分な速度でもってぶつかる衝撃には、如何に堅牢な虎牢関の城門といえどもそう何度も耐えられるものではない。
 衝車を援護する形で、井蘭から矢が放たれる。移動式の矢倉である井蘭は、高みから矢を降り注ぐための攻城兵器だが、この虎牢関を相手とするには高さが足りていなかった。弓勢の落ちた矢をかいくぐって守兵が放つ高みからの矢が、衝車を引く兵に降り注ぎ、一人また一人と欠けていく。それでも、並走する兵の持った楯に身を隠しながら、前へ前へと衝車が引かれる。袁紹の焦りが伝わったのか、兵達にも鬼気迫る勢いがあった。
 一度ぐらいの衝突は覚悟しなければならないか。皇甫嵩がそう思い始めたとき、恋が、弓を手に城壁から身を乗り出した。特に狙いを定めるという感じもなく、無造作に矢が放たれる。その一矢は、敵兵の持つ楯へと真っ直ぐ吸い込まれていく。本来ならば捕らえ得るはずのないその神速の軌跡が、皇甫嵩の目にはっきりと見て取れたのは如何な奇跡か。
 その勁矢は、文字通り敵兵の持つ楯へと吸い込まれた。すでに幾本もの矢が突き立ったその楯に、新たに一矢が加わることはなく、ただひとつ、貫き通された一穴が加わるのみだ。
 敵兵は自身が射られたこと気付いてすらいないとでもいう様に、楯を持ったまま数歩駆けた。それから、ゆっくりと崩れ落ちる。守兵から喝采が上がった。
 しかし、そんな喧騒を打ち払うように、衝車を引く兵は愚直に駆け続けた。城門までもう距離がない。間に合うか。

「恋、右側だけを狙え!」

「んっ」

 皇甫嵩の言に疑問を差し挟むことも無く、恋はまさに矢継ぎ早に矢を放った。楯を持つ兵が、続け様に倒れて伏していく。城壁から降り注ぐ矢に、身を守るすべを失った衝車を引く兵達も次々に倒れていく。さらに、引く者が片側だけに集中したことで制御を失い、衝車の動きに乱れが生じ始めた。それは、城門へと迫る動きが止まるほどではない。だが、引く兵と楯を持つ兵の動きに齟齬を生じさせるには十分であった。楯から身をさらけ出した敵兵に、矢が降り注いだ。



 汜水関の守兵五万の内、無事虎牢関へと無事たどり着いたのは四万七千程だった。三千の犠牲を多いと感じるか、少ないと感じるかは人によるのだろう。
虎牢関にて合流した月は多いと感じたようだった。失った兵の大半は華雄率いる董卓軍の者たちである。月にとっては涼州から長く自分に付き従ってきてくれた兵達である。その心痛は想像に難くない。
 同じく合流を果たした詠は、少ないと感じたようだった。実際、地勢や状況を考えると驚異的な少なさと言っていいだろう。大軍の移動に不向きな狭隘な地形。そして虎牢関に辿り着いたところで、五万の大軍の入城は容易いことではない。二万、三万の兵が敵軍と自らを守るはずの城塞に圧殺される可能性も十分に考えられたのだ。
 三千で済んだのは、その三千の献身あったればこそだった。先に城外に出て包囲された兵達、そして華雄に従った兵達。合わせて約三千の兵が、一歩も引かぬと言う殿軍の構えも見せたのだ。結局、彼らの内で生き残った者は意識を失った華雄を送り届けた数人の兵達だけだった。
 その三千を、月は多いと感じ、詠は少ないと感じた。そして皇甫嵩は、やはり多いと感じていた。自ら軍を率いた戦でこれ程の犠牲を出したのは、皇甫嵩にとって初めてのことだった。そもそも将軍と呼ばれる地位に就いてより、敗戦らしい敗戦というものを経験したのも初めてのことである。
 皇甫嵩は、珍しく幾分弱気になっている自分に気が付いた。

「戦況はどう、皇甫嵩?」

「詠。……それに月までいるのか。ここは危険だぞ」

 詠と月が、城壁に姿を現した。月を庇う様に詠が立ち、さらにその周囲を楯を持った兵が囲み、飛矢を防いでいる。巨大な衝車を打ち払ったことで、攻城軍の動きは小康状態となっているが、矢や投石は変わらず飛び交っていた。皇甫嵩の傍らにも、常に楯を持った兵が緊張した面持ちで控えている。

「わかっているわよ」

そう返しながら、詠が不機嫌そうな横顔を一瞬月に向けた。視線に気付くことなく月は、集まってきた兵達へと温顔を向けている。彼女がどうしても前線の兵を励ますと言って聞かなかった、というところだろうか。
 もっとも、二人の周囲を守るのは照が育てた月の旗本の兵達だ。他に例のない、まさに精強無比な一団と言っていい。注意を促しはしたものの、二人の身に危険が迫ることはまずないだろう。皇甫嵩も月にならって、兵達に目を向けた。
 月の姿を目にして、一部の兵達が気勢を上げている。一方で、その様に冷やかな視線を送る兵達もいた。
 董卓軍と官軍。両者の溝はもはや埋めようがない程に深刻なものとなっていた。





 城門前で巨大な衝車が、炎を上げて燃え盛っていた。制御を失い横倒しになったところを、すかさず油を撒かれ火矢を射かけられたのだ。それが、炎の壁となって攻城を妨げている。袁紹軍の兵が回収に当たっているが、守兵の矢に狙い撃ちにされている。撤去にはもう少し時が掛かりそうだった。
 満を持してとでも言う様に麗羽が持ち出した衝車の、その成れの果ての姿を、華琳は連合軍の本陣に築かれた高台から見下ろしていた。傍らに控える春蘭を除き、高台には人の姿は無い。駆ける衝車を興奮気味に見つめていた春蘭も、今は悄然としていた。
 前方に広がる戦場では袁紹軍と孫策軍の総勢四万が攻城に当たっていた。汜水関攻めの時の様に三段に分けての攻撃ではない。前線の兵を絶えず入れ替えながら、全軍が一斉に攻城に参加していた。
 兵に配られる糧食は三分の一にまで減らされている。兵の餓えは極限まできているだろう。ここに来ての力押しも、兵達に苛立ちをぶつける先を与えるという狙いがあった。本来自分達将校に向かうべき不満の矛先を逸らしているに過ぎないが、他に取るべき手段も無かった。後方部隊による兵糧の確保も、想定していたほどの成果を上げてはいない。曹仁が率いていると思しき敵騎馬隊が、兵站線をかき乱しているためだ。二十万を維持する兵糧の確保というのは、やはり容易いことではない。現状では遊ばせているだけの十二万も、虎牢関を抜いた先のことを考えれば、解散させるという訳にもいかない。董卓軍が野戦による決戦を選ぶにせよ、洛陽に籠城するにせよ、その際には少なくとも拮抗した兵力が必要なのだ。

「あっ、曹操さん」

 気の抜けた声に振り返ると、劉備が高台に昇って来ていた。ぴったりと寄り添っているのは、呂布との一戦で名を上げた関羽だ。

「劉備。……こうして余人を交えずに話すのは初めてね」

 軍議の場以外で、こうして顔を突き合わせるのは初めてのことであった。お互い傍らには春蘭と関羽がいるが、春蘭は華琳にとって自らの右腕も同然であるし、劉備とは義姉妹だという関羽もそれと同等の存在なのだろう。劉備も特にそのことには言及せず、相槌を打つと、にこりと微笑んだ。

「―――っ。……ふふっ、蘭々の言っていた通りね」

その無防備な微笑みは、対峙する相手の警戒心までをも取り除いてしまうようであった。 ごく自然に、同じく無防備に微笑み返そうとしている自分に気付いた華琳は、誤魔化す様に皮肉気な笑みを浮かべた。

「黄巾賊討伐の折には“うち”の仁が、世話になったみたいね」

「お世話だなんてとんでもない。曹仁さんはわたし達のご主人様になっていただく人ですから」

 劉備が、顔の前でぶんぶんと手を振りながら言った。華琳の言葉にまるで対抗するかのような発言だが、敢えて“うち”と強調した華琳とは違い、極めて自然な口調である。
 対して、後方に控える関羽は華琳の意図を察したのか、色めき立った強い視線を向けてくる。そんな様子に持ち前の苛虐嗜好を刺激された華琳は、わずかに口端をつり上げながら言った。

「それなら貴方達は、いずれは陪臣として私のために働いてくれるということかしら?」

「桃香様と曹仁殿を主と仰ぎ、天下の民のために働くということだ!」

 鼻息も荒く詰め寄ってきたのは案の定関羽だった。割って入ろうとする春蘭を手で制しながら、華琳は続けた。

「仁には臣従を断られたと聞いているけれど?」

「くっ。……しかし、それは貴様とて同じであろう、曹操。曹仁殿は曹家を離れ、独立独歩の道を進んでおられるのだから」

「うふふっ、仕方ないわ、あの子はまだまだお子様だから。反抗期が長引いてはいるけれど、いずれは帰るべき場所が“家族”の元を置いて他にないことを悟るわよ」

 今度は“家族”を強調しながら、余裕有り気な笑みを浮かべて告げた。曹仁のことは家族である自分達の方が遥かによく理解しているのだと、そう言外の意味をたっぷりと匂わせる。華琳の言葉を後押しするように、隣では春蘭がうんうんと大きく首を縦に振っている。関羽は不快気に眉を顰めながら押し黙った。

「ふふ。…………劉備」

「ふぇっ!?」

 華琳は関羽の様子に満足を覚えると、劉備へ話を向けた。劉備は調子外れな声を漏らして、慌てふためく。

「黄巾賊鎮圧の功績で得た官職を捨て、義勇軍を率いて各地を転戦していたそうね」

 関羽をからかっていた時とは違う真剣な表情で華琳は言った。劉備は急な話題の転換に戸惑ったのか、しばしの沈黙の後、はい、と不安げな表情で小さく答えた。

「漢室から定められたというだけで土地を治めるのは難しい時代になっているわ。貴方達ほどの実力と盛名があれば、召抱えたいという有力者はいくらでもいるでしょう? 何故、放浪の様な事を?」

 劉備は一瞬だけ考えるように目を瞑ると、いまだ戸惑いを引きずりながらも、迷いのない口調で言葉を紡ぎ始めた。

「今、世の中は乱れ、国中のみんなが苦しんでいます。県尉になって、その土地のみんなのために働いて、みんなの笑顔を見ることが出来て、それはすっごく幸せなことだったけど―――」

 劉備は、そこで一瞬言葉を止めた。真っ直ぐな視線が、華琳を射抜く。吸い込まれる様なその瞳に負けぬよう、華琳は眉間に力を込めた。

「わたしは、困っている人達みんなを、この国のみんなを助けたいんです」

「――――――っ」

 思わず華琳は息を飲んでいた。土地に縛られず国中の民を救うために各地を放浪していたのだと、そう劉備は真摯な瞳で告げていた。
 目先のことだけにとらわれた馬鹿げた考えだと、一笑に付すことも出来た。しかし、そんな当て所も無く彷徨い義を成す劉備軍を、民が英雄視し始めていることも、兵は離れるどころか集まり増え続けていることも、華琳は知っていた。

「あの子の目も、節穴というわけではないみたいね」

 劉備を英雄と見た従弟の姿を、華琳は思い浮かべた。
少なくとも自分は劉備と同じような真似はする気も無いし、それ以上に出来はしないだろう。劉備は自分には無い何かを持っているのだと、華琳は認めざるを得なかった。

 劉備と関羽はしばし戦況を見据えると、その場を後にした。高台にはまた、華琳と春蘭の二人だけとなった。

「人を見られたというだけでも、連合軍に参加した意味は大きいわね」

 脈絡も無く囁いた言葉に、どう返したものかと春蘭が口ごもる。華琳は連合軍の結成からこれまでに出会った者達に思いをはせた。
 なかでも、華琳の胸中に強烈な印象とともに居座りつつある者が二人いた。その背を見送ったばかりの劉備と、ほんの一瞬交錯したのみの呂布である。前者はその存在の不可思議さがゆえに、後者はその武ゆえに、両者共に華琳には測り得ないものがあった。
 武を言うならば傍らに侍る春蘭もまた華琳よりも優れているが、さりとてそれは手が届く範囲の話であり、自身の武を物差しとすることで十分に推し量ることが出来た。しかし、呂布の武は自分や春蘭のそれとはまるで存在を異にしていて、ただ例外的な強さだということが分かるだけだった。自分には呂布の武を推し量るだけの武が不足しているということだ。他者と比して自らに不足を感じるということ自体が、華琳にとっては新鮮な驚きであった。
 他に気になる人物としては孫策がいた。華のある武人、という表現がしっくりくるだろうか。大軍略家である孫武の後裔を名乗ってはいるが、理屈よりも直感で戦をしているように思える。そして、戦は間違いなく強い。黄巾の乱での功績を思えば、他の連合軍に参加した諸侯と並ぶ立場にあってもおかしくはなかった。それが、未だに袁術の客将などという地位に甘んじている。古くは遠祖孫武、そして母である孫堅が親しんだ地への拘りが、孫策の飛躍の妨げとなっているように思えた。華琳をしてそれを惜しいと思わせるものが、孫策にはある。

「華琳様、まもなく時間です」

 振り返ると、幸蘭がいつもの感情の読み難い笑顔で立っていた。辺りは夕闇に沈みつつある。攻城軍交代の時間だった。





「皇甫嵩!」

 兵舎での仮眠を終え、真っ直ぐ城壁へ向かうその背を、詠は呼び止めた。

「詠か。どうした? 月は一緒ではないのか?」

「……いまさらボクが言うまでもないことだろうけど、将兵の間に互いへの不信感が募っているわ」

 兵糧も残り少なく、連合軍ゆえにまとまりも悪いはずの敵軍よりも、難攻不落の城砦にこもる自軍の方が逆に精神的に逼迫しつつあった。
 一人で来たのは、別に月に状況を秘しておきたいというのではない。涼州では長く敵意に囲まれたような暮らしをしていた月である。他人から向けられる好意にも悪意にも、人一倍敏感にならざるを得なかったと言っていい。当然、兵達の間での諍いも察知しているはずだった。ただ、何でも一人で抱え込もうとするところのある月の前では、負担となるような話題は避けたかったのだ。

「わかっている。心配するな、一応手は考えてある」

「一応、ね。大丈夫なの?」

「賭けだが、うまくいけば一手で戦況は決するし、失敗しても時間稼ぎ位にはなるだろう。……お前は、董卓軍の手綱をしっかりと握っておいてくれればいい」

「ふんっ、そんなことわかっているわ」

 強い口調で言い返しはしたものの、照と華雄という最上位の将軍二人の不在は深刻な問題だった。
 華雄の後任には徐栄を当てている。軍略においては華雄を凌ぐだろう彼女を、詠は高く評価していた。ただ、華雄ほどに驍名を誇る将ではない。そこは、兵の士気に強く影響してくる。洛陽に搬送された華雄に代わって、月と共に虎牢関で軍と合流したのも、兵を鼓舞するためである。結果、董卓軍の将兵の士気は盛り返したが、月を中心にまとまることが官軍との確執を深めることにつながってもいた。月を守ろうとする気持ちが暴走しているのだ。兵に慕われてはいても、それを先導する力が月には不足していたし、詠自身は兵からはあまり良く思われてはいない。それは元々の性格というのもあるが、照を含めた三人の間で自然と出来上がった役割分担でもあった。敬慕の対象である月の元、照が厳粛に命を下し、詠がそこから生じる不満を引き受ける。それで、董卓軍の均衡は保たれてきた。最近では華雄が台頭してきたため、照も今回のように本陣に縛られずにある程度自由に戦場を駆けることが出来るようになっていた。しかし、その華雄も今はいない。

「……洛陽からは何か言ってきたか?」

 顔色でも読んだのか、皇甫嵩が何の前置きもなく聞いてくる。詠は軽く首を横に振って、それに答えた。
 華雄が一命を取り留めるかどうかは微妙なところだった。意識が戻る気配がまるでないのだ。それが、落馬時に頭を打ったためなのか、失血のためなのかは判然としなかった。安静にしようにも、投石や矢が降り注ぐ虎牢関ではそれもままならない。それで、華雄は洛陽に運ばれていた。華雄の意識が戻れば、連絡がくる手筈になっている。あるいは彼女のことだから、怪我を押してでも自ら馳せ参じるかもしれない。

「そうか。……私はもう行くぞ。作戦の詳細は追って伝える」

 一瞬苦い表情を覗かせた皇甫嵩は、気を取り直したように別れを告げると、再び城壁へ向けて歩き出した。その背がいつもより小さく見えるのは、やはり先の敗戦が響いているのか。
 報告された当時の状況に、詠は拭いがたい違和感を覚えていた。
あえてすぐに城門を閉ざすことなく、華雄に従う兵を行くに任せていたようにも思える。それが、敵軍に城門を押さえられるという結果を招き、汜水関を放棄する一因となっていた。
 皇甫嵩らしくない、とも言い切れない。時に無謀と思える策をとるのが、皇甫嵩の常勝たる所以でもあった。しかし詠の知る皇甫嵩は、そんな時必ず自軍を大勝へと導いていた。
 皇甫嵩は連合軍に通じていて、あえて砦を放棄するような戦をしたのではないか。そんな噂まで董卓軍の兵達の間では囁かれていた。涼州の兵にとって皇甫嵩の名はやはり絶対的なものがある。その反動が疑念を後押ししているのだろう。
 常勝を誇る皇甫嵩が負けた。自分も、だから違和感を覚えているだけなのか。遠ざかる皇甫嵩の背が、詠の瞳には妙に不確かなものに映っていた。





 夜間でも、城壁の上には多くの篝が並び、守兵の姿を照らし出していた。さらには城壁の外、華琳達が攻める側も、炎が闇を払っていた。大量の火矢が惜しげも無く射込まれ、時に松明や油の入った壺が投げ落されてくるためだ。対峙する城塞は漢朝の都洛陽を守る虎牢関である。物資は豊富に蓄えられているだろうし、洛陽からの補給も容易い。麗羽や袁術は愚直な攻めを繰り返しているが、物量戦となれば遠征軍である連合側の不利は覆し様がない。実際、袁紹があの巨大な衝車を持ち出してから数日が過ぎているが、戦況には何の変化も見られていない。

「桂花、例のものは準備出来ている?」

「はい、ここに」

 差し出されたのは、一枚の紙片だった。華琳はそこに書かれた文面にざっと一巡目を通した。

「あまり、気は進まないけれど。……秋蘭、頼めるかしら」

「はっ」

 差し出した紙を受け取ると、秋蘭はそれを矢にくくり付けた。いわゆる矢文である。兵から松明を受け取ると、秋蘭は虎牢関へ向けておもむろに馬を進めた。
遠ざかる松明の明かりは存外早く動きを止めた。城壁の高みから放たれる敵兵の矢も届かない距離。そこから城内まで矢を射込むことが出来るのは、曹操軍にあっては秋蘭唯一人であろう。松明が合図でも送る様に、二度三度大きく振られた。
 文には、虎牢関に詰める官軍の内応を臭わせることが書かれている。
 桂花の策だった。皇甫嵩のような相手とは、そういった権謀術数を交えず、純粋な軍略を競い合いたいところではあった。しかし、連合軍中最小の兵力しか持たない今の華琳には、それは望むべくもないことだった。

 戦場に動きがあったのは翌日のことである。
攻城を再び袁紹軍と孫策軍とに交代した華琳は、城門が静かに内側より開かれていく様を、本陣の高台より眺めていた。
 城門へと向けて、袁紹軍が押し寄せる。遅れずに孫策軍も動き始めているが、城門正面に陣取っていた袁紹軍に阻まれる格好だ。
 矢文の効果が現れるにしては、早過ぎないか。あるいはそれとは関係なく、また敵軍の将士が暴走したのか。華琳の胸中に一瞬疑念が生じた。袁紹軍の布陣に目をやる。
 三段に陣を敷いた汜水関攻めの時とは違い、実際に攻城に当たる軍勢と本隊を分けているのは馬防柵一段だけだ。袁の牙門旗は、馬防柵後方の本隊に掲げられている。その大半を攻城に当てているため本隊の兵は少なく、攻城の軍が城門に詰め寄せたことで孤立した格好だ。
 しかし、敵軍が本隊を突くにしても騎馬隊は馬防柵とそれを守る兵に阻まれるはずだし、歩兵ではそもそも城門に攻め寄せる攻城軍を突破出来ないだろう。手を講じて馬防柵を取り除くにしても、その間に本隊を後退させれば良い。
布陣には特に不備はないと思えた。武功を袁紹に譲る形になるのは不快だが、これで虎牢関を抜けられるはずだった。





「全軍進軍しなさい! 難攻不落の砦虎牢関を落とすのは、名族袁家にこそ相応しいですわ!」

 戦場にあっても名族としての余裕を常としてきた麗羽だが、珍しく声を荒げていた。
 虎牢関を落とすのは、自軍でなければならない。従妹美羽の失策と、汜水関で自ら曝した失態が、麗羽を駆り立てていた。現状、武功を上げているのは美羽の客将に甘んじている孫策であり、兵たちの間から聞こえてくるのは義勇軍に過ぎない劉備軍の精強さだった。
 劉備軍の精強さは、実際に目の当たりにした麗羽としては認めざるを得なかった。しかし、孫策はただ幸運に恵まれただけに過ぎない。敵軍の暴走が、たまたま孫策軍が攻城に当たっている時に訪れたというだけだ。そしてその幸運が、今度は自分の身に訪れていた。
 完全に開かれた城門から覗くのは、真紅の呂旗。
眼前まで迫った呂布の方天画戟が、その瞬間の恐怖が、麗羽の脳裏に鮮やかに蘇った。
 しかし、如何に呂布の騎馬隊といえども今回は張り巡らせた馬防柵がその進撃を許しはしない。明らかな失策だった。
 呂布の騎馬隊が動いた。それだけで、城門に寄せていた兵達の動きが威圧されたように鈍るのが分かった。そこに騎馬隊が突っ込んでくる。自軍が面白いように断ち割られていく。

「呂布は放っておきなさい! まずは左右から迫って城門を確保するのです!」

 斗詩と猪々子、二人の腹心が率いる軍が、左右に分かれてそれぞれ城門へと向かった。
その間も、呂布の騎馬隊は駆ける。すぐに本隊前の、馬防柵まで到達した。そこで、止まる。やはり、馬防柵で進軍を抑えられている。柵のこちら側から突きだされる槍に、柵自体に近づくこともままならずにいる。麗羽はほっと安堵のため息を漏らした。

 直後、馬防柵の上に、一つの影が身をもたげた。





 恋が馬防柵に飛び移り、弓を引き絞った。

「――――――っ!」

 何の前触れもなく巻き起こった突風に、城壁の上で事の成否を見守っていた皇甫嵩は、思わず顔を背けた。
 狭道を抜けた先、洛陽のある平原は風と黄砂に常に悩まされる土地だが、ここ虎牢関は風向きの関係で強風に襲われるということは滅多にない。それだけに狭道を抜けて城壁の上まで吹きつけた強風は、戦場の動きを数瞬止めた。
皇甫嵩が再び視線を戦場に戻すと、ちょうど恋が馬防柵から馬に飛び乗ったところであった。視線をさらに先に、袁紹の本隊、掲げられた牙門旗の元へと延ばす。

「……うまく、行ったか?」

 旗の下、空馬が一頭跳ね回り、周囲の兵達が騒然としていた。
 先日恋が披露したもはや神域にあると言っていい弓の腕に頼った、策とも言えないような手だった。馬防柵に上り高みから狙いをつけたところで、袁紹へと続く射線は常人の眼には皆無だろう。かすめでもすれば兵の士気は大きく上がるだろうし、失敗しても敵将にとっては大きな脅威であり攻城の手も鈍るであろうと、そんな軽い心算で打った手である。それが、図に当たったようだった。
 城壁の上に喝采が起こった。恋が騎馬隊を率いて駆け戻ってくる。開かれた城門は汜水関の時とは違い、相当数の兵に守らせている。恋の騎馬隊が背後を襲えば、城門に詰め掛けている攻城軍も潰走するだろう。皇甫嵩は、ひとつ大きく頷いた。

「皇甫嵩将軍」

 喝采の中、背後から声が掛けられた。温度差を感じさせる冷えた声に、皇甫嵩は眉をひそめた。話しかけてきた兵の顔には、わずかに見覚えがある。

「確かお前は―――」

 負傷した華雄を運んで無事撤退してきた者だった。どうした、そう続けようとした。
 無言の剣が、それを遮った。
 とっさに、皇甫嵩は地面に身を投げ出した。そのまま転がって、距離を取る。立ち上がった時には、すでに剣を振るった兵は、城壁を守る兵に取り押さえられていた。

「何のつもりだ?」

 右肩が熱かった。斬られた。傷は浅くはないようで、血が滂沱と溢れだしている。兵が駆けよってきて、出血を抑えに掛かる。

「城門を自ら開くとは。文にあった内通者というのは、やはり将軍御自身であったのだな」

 地に押しつけられた兵が、絞り出す様に怨嗟の声を上げた。
 作戦に齟齬を生じさせないため、守兵を官軍で固めたのが逆に災いしたようだった。狙いが漏れては賭けにもならないような手だけに、決行を知る者は最小限に留めてもあった。董卓軍では詠と徐栄ら数人の将軍のみで、官軍でも実際に作戦に参加するもの以外には秘してあった。兵はまるで状況が飲み込めないままに、疑心暗鬼にとらわれたまま暴挙に移ってしまったようだ。
ただ一点、兵の言葉には気になる単語があった。

「文? 何の話だ?」

 皇甫嵩の問いかけには答えずに、すっと兵は息を吸った。まずい、そう思った時には既に遅かった。

「董卓軍の兵よ! 城門を奪い返せ! 官軍は敵にまわったぞ!」

 叫ぶような声が、虎牢関に響き渡った。










*衝車について
 作中にも出ている一般的にイメージされる丸太に台車を組み合わせた攻城兵器は、撞車(とうしゃ)というのが本来正しいようです。
 実際に衝車と呼ばれていた攻城兵器は、台車の上の櫓を組んで、その各階層から攻撃を加えるという井蘭に似たものらしいです
 本作品では一般的なイメージに合わせ、前者の丸太と台車の組み合わせを衝車と表現しています。




[7800] 第3章 第5話 決戦前夜
Name: ケン◆f5878f4b ID:258254a5
Date: 2010/05/09 18:54
 敵陣には“曹”の字や“劉”の字、“孫”、“公孫”など、曹仁にとって懐かしい旗印が居並んでいた。ひと際大きくたなびいているのは“袁”の牙門旗だ。他にも、つい数日前まで幾度となく矛を交えてきた“錦”の旗も見える。後軍として汜水関前に陣を布いていた諸侯達の旗も林立している。

 虎牢関を失った董卓軍は、野戦による決戦を選択していた。東に汜水関と虎牢関、西に函谷関、南北に山岳と、要害に囲まれた平原の中心にそびえる洛陽の都自体は、防衛に適した城邑とは言えなかった。四方に城門をもつ開かれた都であり、攻めるに易く守るに難い。四方を要害に守られているとはいえ、簒奪の憂き目を経験した王朝がこのような城郭を築き上げたのは、後漢朝の祖、光武帝劉秀の稀有な人格の表れと言っていいかもしれない。あるいはその遺徳こそが、何にも増してこの都を守っていたのだろう。今日の状況を鑑みるに、その遺徳も外戚の重用や宦官の横行による政道の乱れにすり減り、黄巾の乱と言う大規模な民衆蜂起が発生した時点で底をついたと言えよう。

 洛陽から二十里ほどの位置に布かれた陣に、すでに曹仁も合流していた。汜水関と虎牢関のある狭道と洛陽の中間地点より、やや洛陽寄りの位置だ。対して狭道寄りに陣を布いている連合軍とは、十里も離れてはいない。
 別働隊の指揮は角に任せてある。錦を掲げた騎馬隊、馬超の軍勢が決戦のために狭道を抜けたことを確認したためだ。別働隊には千六百騎を残し、自身は先駆した照に代わって董卓の旗本の四百騎を率いての、黄河を船でさかのぼっての合流だった。馬超の騎馬隊さえいなければ、千六百騎で十分に対処できると判断してのことである。
 旗本の四百騎はすでに照に返していて、曹仁の指揮下には新たに騎馬隊一千騎が置かれている。官軍の騎馬隊は他に、霞に三千騎、恋に一万騎が与えられている。他に一万の騎馬隊が官軍にはあって、それは皇甫嵩が直々に指揮するが、状況によっては恋の指揮下に入る。兵馬の質としては、曹仁の一千がもっとも高く、次で霞、恋、皇甫嵩と続く。数と質の違いはそれぞれの担った役割による。恋の一万は大勢を決し得るような大打撃を与えるための騎馬隊であり、曹仁の一千は細かく動き回って歩兵と歩兵のぶつかり合いを優位に進めるための騎馬隊である。
 今は斥候も兼ねた調練として、その一千騎を駆けさせていた。

「よし、戻るぞ」

 一度、敵軍の旗印が容易に確認出来るほどまで迫ると、曹仁は馬首を巡らした。騎馬隊による奇襲を数度経験しているだけあって、敵軍の警戒は厳重である。騎馬隊のみで敵陣近くに長く留まるのは得策とは言えない。
 最後に振り返って、曹仁はもう一度たなびく旗印を視界におさめた。その胸の内に走る疼きを振り切る様に、騎馬隊は駆けた。


 自陣に戻り、厩舎代わりに設けられた幕舎に曹仁が足を踏み入れると、そこには霞の姿があった。自らの愛馬に目を遣っている。
 馬の世話を手ずからやるというのは、良い騎兵の条件であると曹仁は考えていた。騎兵を率いては神速の異名を取る霞も、その例外ではない。もっとも、曹仁の知る最高の騎兵隊長である恋は、その辺りぞんざいであった。可愛がっていることは確かだが、その扱いはセキト達と同じである。つまりは愛玩動物に対するそれに近い。屋敷では曹仁か、最近では高順がその世話を代わっていた。

「霞」

「なんや、曹仁か」

 背後から声を掛けると、気の無い風に霞は言った。曹仁の方を見向きもしない。

「……虎牢関でのこと、気にしているのか?」

 意外なことに、虎牢関の戦いでは恋の騎馬隊の損害が大きかった。奇襲より帰還する際に、城門という限られた空間の中で押し合う兵の波に機動力を失ったところを、孫策軍の歩兵部隊に襲われたらしい。袁紹軍の兵の間をすり抜ける様に駆けては攻撃を繰り返す、軽装かつ俊敏な隊だったという。恋の補佐として騎馬隊を率いた霞には忸怩たる思いがあるようだった。

「あいつ、甘興覇とか名乗とったな」

 霞が愛馬の背を撫でやりながら、忌々しげに言った。鬣(たてがみ)が、わずかに斬り落とされている。二人いた将の一人にやられたらしい。馬体は傷ついてはいないようだが、少し見栄えは悪い。

「そういえば、曹仁は黄巾党鎮圧の時に孫策軍と共闘しとるんやったな。知っとる奴か?」

「いや、記憶に無いな」

 甘興覇という名に聞き覚えは無かった。霞の乗る馬に白刃を迫らせるほどの者が、軍中にあって無名で居続けるとは思われない。最近になって孫策軍に加わった者か、あるいは今回の戦場には孫策の妹である孫権も参加しているというから、彼女の配下の将なのかもしれない。

 霞に別れを告げて厩舎を後にすると、曹仁はその足で本営へと向かった。“漢”の大旗に、寄り添う様に“皇甫”と“董”の旗が立ち並ぶ。

「失礼します」

 幕舎内には、皇甫嵩の他に副将である照と徐栄、幕僚扱いの音々音の姿もあった。徐栄が自ら組んでくれた床几に、礼を言って曹仁は腰掛けた。徐栄は、主君である董卓、上官である賈駆と照と親交の深い曹仁を立てる態度を崩そうとしない、落ち着きを感じさせる女性だった。年齢は曹仁や照よりもひとつふたつ上だろうか。軍議における発言の端々からは、皇甫嵩への強い尊敬の念がうかがえる。それも、曹仁に対する態度の一因であろう。

「で、どうであった?」

「ああ、やっぱり健在のようだ」

 敵陣の動向を通じて麗羽の現状を探ることが、斥候の一番の目的だった。敵陣には動揺は見られなかった。それすなわち麗羽の健在を意味しているというわけではないが、総大将の不在を隠し切れるほどに、連合軍は一枚岩ではないだろう。名族袁家の当主である麗羽がいればこそと参加した諸侯も多い。総大将の討ち死は、元々士気が高かった汜水関虎牢関攻めに参加していた軍や、他のいくつかの軍を残しての、連合軍の瓦解へとつながる可能性が大きいのだ。

「やはり無事であったか。まったく、悪運の強い」

 恋の報告と、大した混乱も無く虎牢関の占拠が成し遂げられたことから、予想はついていたのだろう。さして落胆した様子も無く皇甫嵩は言った。
 恋の口から語られた事の顛末は、真面目に策を考えることなど馬鹿らしくなる様な、そんな内容であった。
 突然の強風に負けることなく、恋の放った勁矢は狙い過たずに走った。しかし、それでいながら矢はむなしく空を切ることとなる。強風に煽られて身動ぎした馬から、麗羽が身を支え切れずに落ちたというのだ。さらには、落馬したことで周囲の騎兵に紛れてしまって、高みに登ったところでもう姿を確認することも出来ない。如何に恋といえども、それでは狙いようがあろうはずもなく、二矢目は断念するしかなかった。
 これを悪運と言わずして何と言えようか。皇甫嵩の口調にこもる、驚きも呆れも通り越して感心したとでもというような響きに、曹仁も同意するほかなかった。

「そういえば、あやつは張譲による粛清の軍からも、残兵による暗殺の手からも逃れたのであったな」

 皇甫嵩は他人事のように続けたが、麗羽の洛陽からの脱出行の成功には、曹仁や角の尽力はもちろん、彼女の力添えも大きい。とはいえ、恋や音々音、霞の主君であった丁原をはじめ、何進に加担していた者達ことごとくが誅殺の憂き目にあっている。唯一免れた麗羽は、やはり相当な悪運の持ち主と言っていいのだろう。
 事情を聴かされている照はわざとらしい視線を皇甫嵩と曹仁に向け、徐栄はそれを不思議そうに眺めている。

「……それで、陣立てはどうだった?」

 地図を広げながら、照が気を取りなおしたように言った。そこには、既に自軍と敵軍の陣容が書き込まれている。ほとんど起伏のない平地が続くため、地形に関する書き込みは少ない。ただ、風が吹くと黄砂が舞うため、実際に駆けてみると地図から受ける印象ほどに視界は広くは無かった。

「……地図の通り、変化はないな」

 しばし地図をねめつけてから、曹仁は答えた。
 連合軍は1つにまとまって、巨大な魚鱗の形で駐屯していた。総勢十八万の大軍である。恐らく進軍する時も各軍の配置に大きな変化は見られないだろう。

「総大将の前後を厚く固めた横陣、とも取れますね」

 徐栄が、控え目な口を開いた。

「連合軍は指揮を執れる将が多い。横に大きく構えることで戦端を広げ、こちらの手が回らない状況を作りたいのだろうな」

 皇甫嵩の言を皮切りに、しばし敵陣の解析が行われた。
 魚鱗は通常の正三角形よりも、底辺の長い二等辺三角形に近く、横に広い。皇甫嵩の言う通り、戦端を広く取ることで、各軍が敵に当たる構えを作ったと見るべきだろう。連合軍の弱点と成り得る連係の甘さを下手に補うのではなく、最初から連係自体を切り捨てた構えとも取れる。
 また、総大将を底辺に置く通常の魚鱗とは違い、“袁”の牙門旗は中軍中程に立てられていた。これは、後方からの騎馬隊による強襲に対する備えだろう。

「―――ふぅ」

 話しの間隙を突く様に、皇甫嵩が蒼い吐息を漏らした。顔色も、蒼白と言っていい。

「……曹仁」

 音々音が小声で囁いた。照と徐栄に視線をやると、二人も軽く頷き合う。

「将軍、今日はそろそろ休もうか」

「まだ、―――っ! 乱暴だな。私は一応怪我人だぞ」

 有無を言わせぬ勢いで腕を取ると、曹仁は皇甫嵩を立ち上がらせた。

「怪我人なら、大人しく今日はもう休め」

 そのまま、右肩の傷に触れない様に支えながら、幕舎の外へと連れ出す。皇甫嵩も抵抗しても無駄だとすぐに悟ったのか、大人しく身をゆだねてくれた。曹仁は、 皇甫嵩の私室代わりとなっている幕舎へと、足を向けた。

 一応怪我人、などと言うものではなかった。
 同士討ちと、その混乱に乗じた連合軍の攻撃に晒される中、皇甫嵩はまず董卓と賈駆を洛陽郊外に展開していた残存部隊まで退去させた。その後、董卓軍の将である徐栄と協力することで、混乱を最小限に抑えつつ、自ら殿軍に立っての退却を敢行した。皇甫嵩はそこで、恋の騎馬隊の威を武器として、兵をまとめ上げてからは追撃による被害をほとんど出さないという用兵の妙を発揮している。連合軍も、虎牢関の守備兵以外に十万以上の兵力を有する董卓軍を相手に深追いは避け、後軍との合流を選んだ。これが、虎牢関での敗戦の顛末である。
 その後、皇甫嵩は徐栄と共に不穏な空気の流れ続ける董卓軍、官軍の慰労に努めた。賈駆の伝令で呼び戻された照が合流して董卓軍を掌握することで、ようやく一時の安寧を得ることが出来たのだ。
 皇甫嵩の傷は相当に深く、治療の遅れも手伝って、右腕が元通り動かせるようになる可能性は低いということだった。加えて出血による体力の低下も深刻で、本来ならば安静にしていなければならない状態にある。
 しかし、皇甫嵩が怪我を押して大将として立ち、それを副将として照と徐栄が支えることで、官軍と董卓軍がまとまりを取り戻しているという現状が、それを許さなかった。代わりに大将を務められる者としては、立場上董卓が適任ではあるが、それでは官軍の将兵は納得しないだろう。董卓と賈駆は、余計な混乱を招かないため、今は洛陽に戻っていた。
 官軍の将としては恋と霞がいるが、二人が如何に将才優れた英傑とは言っても、元々は丁原の私兵に近い立場である。官軍の中では新参であった。その立場が大将に登ることを許さない。曹仁に至っては未だ皇甫嵩の客将に過ぎないのである。曹仁は自らの無力に歯噛みする思いであった。





「それでは麗羽、またね。……くふっ」

 麗羽の口から軍議の終わりが告げられ、諸将が席を辞していく。華琳は麗羽に、別れ際の一言を投げかけた。

「……華琳さん、何か言いたいことがありまして」

「いいえ、何も。くふっ、ふふふっ」

「華琳さんっ、人の顔を見て笑うだなんて、失礼じゃありませんこと!」

「あははははっ」

 麗羽が声を荒げた。合わせて、その金髪が揺れた。頭に巻かれた包帯を押しのける様にあふれ出る、その豊かな金髪が。華琳はこらえ切れずに、声を放って笑っていた。
 落馬の折に打ったという麗羽の頭には、大袈裟に過ぎるほどに包帯が巻かれていた。落馬は、ひとつには麗羽の馬術の拙さによるが、それ以上に乗りこなせもしない悍馬をただ体躯が立派であるという理由だけで選んだ浅はかさによるところが大きい。それが故に一命を取り留めたことを考えれば、あるいはその悪運の強さを褒めるべきところなのかもしれない。とにもかくにも、袁紹軍が虎牢関を一番に抜くという名誉と共に、戦場に置いて落馬をして命を拾うという不名誉を得たというのが、今の麗羽であった。

「ははっ―――ふっ、くふっ。……いえ、ごめんなさい、麗羽。何でもないのよ。」

 華琳は笑いをおさめると、あとには麗羽と自分、その供だけが残る幕舎を辞した。金切り声を背に、自陣へと足を向ける。

 会戦は、使者を送って白日の下に堂々と行われることで決定された。当然、麗羽の言い出したことだが、華琳にも否やは無かった。桂花や、孫策の軍師である周瑜、劉備の軍師である諸葛亮には思うところもあるようだったが、天下の帰趨を占う一戦とはかくあるべきであろう。
 なにより、相手はあの呂布を有する歴戦の名将皇甫嵩である。小細工を弄するのはもう十分だった。華琳は生まれて初めて、他者に挑むという感覚を味わっていた。結果として連合軍は汜水関、虎牢関の二つの要害を抜いてはいるが、兵糧を狙った奇襲と、麗羽の命を狙った二度の強襲には、華琳は完全に思考の虚を突かれたと言っていい。むろん負けるつもりはないが、もはや皇甫嵩が自身よりも格上の将であることを認めるに、華琳はやぶさかではなかった。

 自陣に戻ると、騒然とした空気が流れていた。

「華琳様、ちょうど良いところに」

 何事かと問い質すより先に、駆けよってきた蘭々が腕を取って華琳を引き摺り始めた。隣で桂花が色を成したのが分かったが、華琳はされるがまま蘭々に着いていった。従姉妹の中で唯一年下の少女である蘭々に対しては、華琳も多少甘くなってしまう自身を自覚していた。

「落ち着け、姉者」

「ええい、離せ、秋蘭。今ならまだ―――」

「春蘭!」

「っ! か、華琳さま」

 抱き止める秋蘭の腕を振り解きに掛かっていた春蘭は、華琳の一喝で途端小さくなった。事のあらましは、引き摺られながら蘭々の口から聞かされていた。
 物見の兵が、敵騎馬隊の接近を捕捉していた。遠目にも鮮やかに抜けた白色が、その隊を率いていたという。報告を聞くや出陣すると色めき立った春蘭を、秋蘭以下皆が引きとめた。さすがに華琳の不在中に無断で兵を動かすのは不味いと春蘭も理解したのか、今度は単騎でもって追い縋ると言い出したのだった。

「いい加減にしなさい、春蘭!」

「しかし、華琳さまぁ。仁のやつが……」

「あなた一人が行ったからといって、どうなるものでもないでしょう」

「ううぅ」

 春蘭は目を潤ませて唸った。
 春蘭が曹仁を必要以上に可愛がる理由ははっきりしていた。春蘭は従姉弟の中では幸蘭に次いで年長でもあるし、得手不得手はともかくとして生来の性格は姉御肌に近く面倒見もいい。一族の年長者として下の者の世話を焼くのは当然だと思っているし、それを好んでもいる。しかし、華琳自身も含め一癖も二癖もある女性陣の中では甚だ分の悪い話であった。最近では、従姉弟の中で最年少の蘭々も、一族の血を色濃く見せ始めている。春蘭がお姉ちゃんぶれる相手というのは、すでに曹仁しかいないのだった。

「うぅぅ」

「…………はぁ。しかたないわね。今は駄目だけれど、戦場で仁と対することがあれば、春蘭、あなたがその手で捕らえなさい。私の眼前に引き立ててくるのよ」

「っ、華琳さま! はっ、わかりました。必ずや引っ立ててまいります!」

 泣く子と春姉には勝てない、とはかつての曹仁の言であるが、泣いた春蘭にはさしもの華琳も敵わないのだった。

「―――でも、そう、来ているのね、この戦場に」

 血のつながりこそ無いとはいえ、蘭々と同じく年下の従弟である曹仁に対しては、やはり華琳もどこか甘いのだった。自軍に迎え入れたいという思いは、春蘭にも負けずある。もっとも曹仁自身は人一倍厳しく扱われ、ほとんど苛められているとすら感じているだろうが。

 華琳は、迫る大戦へと思いを馳せた。







[7800] 第3章 第6話 勇将達の戦場
Name: ケン◆f5878f4b ID:258254a5
Date: 2010/07/11 19:45
「董仲穎は漢室の臣にあって君を弑し、政道を乱せし逆賊なり! 彼の者を討ち果さずば、天は割れ、地は震え、民に怨嗟の声が満ちよう! 連合軍の将兵達よ! 天地の鳴動を聞け! 民の嘆きを聞け! 大義は我らに在り! 我らの手にて、天下万民に安寧を取り戻しますわよ! おーほっほっほっ!!」

 董卓の非を打ち鳴らし、連合軍の正当を叫ぶ麗羽の声が、戦場に響き渡った。

「大将向きの良い声だな」

 董卓軍と連合軍、両軍が構えたその中程まで進み出て声を張り上げる麗羽を見据えながら、皇甫嵩が人事のように言った。

「感心していないで、言い返さなくて良いのか?」

 確かに、張り上げてなお耳障りな響きを伴わず、それでいて十分な声量を有する麗羽の声音には名族を自認するだけの風格が感じられる。華琳にやり込められてはかん高い叫び声を上げる彼女の印象が強い曹仁には、意外なことであった。最後に―――おそらくは用意された台本とは違う―――地のお嬢様口調とお嬢様笑いが出たことだけは減点といきたいところだが、連合軍から巻き起こる喊声を聞くに、それすらも不思議と兵の士気を鼓舞しているようだ。

「そうは言っても、私はああいうのは苦手だからな」

 苦手なのではなく、嫌いなだけだろう。曹仁は心中反駁した。乱戦の中にあっても、皇甫嵩の指揮は戦場によく通る。その気になれば誰よりもうまくやってのけるだろう。

「照、徐栄。お前らがやるか?」

 副将二人に、皇甫嵩は話を向ける。二人は曖昧に首を横に振った。
 徐栄はそれこそ性に合わないだろうし、大将である皇甫嵩を差し置いて出張るなど考えられもしないことだろう。照は、董卓を支えるために影に徹し続けて来た男だ。一軍を率いるために将の地位に就いてはいるが、本来それすら無用と感じているだろう。

「なら、……曹仁、お前が行くか?」

「そんなわけに行くか」

「お前はこういうのは上手そうな気がするのだがな」

 ぼやきつつも、さすがに本気で客将である曹仁に任せるつもりはなかったのだろう。皇甫嵩は伝令兵に何事か伝え、走らせた。伝令兵の向かう先は、本隊前に居並ぶ騎馬隊である。

 董卓軍は、鶴翼に陣を布いていた。横陣に近い魚鱗に陣を組む連合軍に合わせて、両翼も中軍もやや横に間延びした形だ。真っ向からのぶつかり合いに臨む真っ当に過ぎる構えだが、中軍前面に置かれた騎馬隊だけがけれんみを放っていた。本来守備を固めて両翼の呼応を待つ鶴翼の中軍、その最前線に置かれた騎馬隊は言うまでも無く恋の率いる一万騎である。
 連合軍の動きによっては速攻も視野に入れているため、すでに恋も兵とともに待機していた。攻撃の判断は、恋に一任されている。

「おい、まさか恋にやらせるつもりか? それはいくらなんでも」

「戦場では言葉よりも雄弁なものがある」

「何を―――」

 恋が、方天画戟を真っ直ぐ中空に向け伸ばした。

 曹仁は問いかけた口を閉ざし、思わず息を呑んだ。先刻まで麗羽に注がれていた戦場の視線が、一斉に恋と、その得物に吸い寄せられるのがわかった。自然と、戦場が静けさに包まれる。曹仁も、恋から目を離せずにいた。
 すっと、方天画戟が振り下ろされる。音の絶えた戦場を、騎馬隊が一歩前進した。まるで巨大な一頭の獣が足を踏み鳴らしでもしたかのように、きっかり一歩分の馬蹄の響きが、戦場の静寂を破った。

 麗羽と、その左右に侍っている文醜、顔良の二人が慌てて引き下がっていく。自らが如何に危険な位置に身を置いているかを悟ったのだろう。
 ただ戟を掲げ、振り下ろす。それだけで一万騎の呼吸をひとつに合わせてしまったのか。
 自分が与えられた、より精強で数も少ない一千騎でもって同じことが出来るだろうか。味方でありながら、曹仁は思わず戦慄を覚えていた。同時に沸々と胸の奥に湧きあがるものも感じる。戦場にはなおも音がないが、董卓軍の将兵の士気が静かに燃え上がっていくのを曹仁は感じた。それは騎馬隊の運用など理解の外にある歩兵達の間にも、ゆっくりとしかし確実に伝播していった。そして―――

「おおおおおおーーーーーっっっ!!!!!!」

 関を切った様に大喚声が巻き起こった。





 宣戦が終わっても、両軍、一刻ほども睨み合いが続いた。受けの陣形である鶴翼をとる董卓軍は動かず、連合軍も呂布の騎馬隊に釘付けにされて陣を堅くしている。
 連合軍先陣を担う愛紗は、焦れた様にじりじりと軍を動かし始めた。正面に構える呂布の騎馬隊から放たれる威に、兵の緊張の糸が切れかかっている。逆を言えば呂布も、その瞬間を待っているのだろう。動かずにいるのは限界だった。

 連合軍の本隊を構成する袁紹軍の前面に、公孫賛軍から切り離された劉備軍が置かれていた。
 袁紹は一千の兵しか持たない劉備軍に対して、袁紹軍三万より一万もの兵を貸し与えた。虎牢関での戦闘に参加していない諸侯からは、義勇軍を重要な局面に置くことに反対意見も多かったが、袁紹が強引に意を通した恰好らしい。呂布の騎馬隊に対する防衛線としての働きを期待してのことだ。桃香や朱里達にしてみれば、先陣の栄誉を得たというよりは、困難に過ぎる役割を与えられたといったところだろう。愛紗は―――鈴々の様に手放しに喜ぶと言うわけではないが―――、やはり二十万に迫らんとする大軍の先陣に立つことに、将として、また武人としての高揚を覚えていた。
 義勇軍以外の主力となる軍の配置も、本隊である袁紹軍の付近に集中している。袁紹軍からみて直ぐ左には曹操軍、そのさらに左に公孫賛軍。目を転じて右側には孫策軍。後方には袁術軍。これら虎牢関攻めに参加した主力軍が中軍であり、残る諸侯たちの軍が両翼を担っている。
 董卓軍の陣形を見るに、この配置は的を射た布陣であったろう。やはり呂布の騎馬隊という、古今類を見ないほどの攻撃力を有する部隊が敵軍にある以上、総大将の居る本隊を厚く囲むのは必須である。
 愛紗が直接的に率いているのは袁紹より与えられた一万で、劉旗と共に袁旗も掲げられている。袁紹からの指図であった。劉備軍の指揮下にあるとはいえ、あくまで先陣は袁紹軍の兵が務めるということだろう。もっとも、自軍の一千を最前面に置かずにすむのは愛紗達としても望むところであった。
 連合各軍をそれぞれ巨大な鱗と見立てて構成された魚鱗の先陣に位置する劉備軍は、それ自体も魚鱗の陣形を取っている。五百に分けた小隊を鱗と見立て、二枚、四枚、六枚、八枚ずつが横に並ぶ四段の布陣だ。魚鱗の底辺には、鈴々と星がそれぞれ五百ずつを率いる本来の劉備軍一千が、横陣で控えている。
 一歩一歩という進み方で、堅陣を保ったまま確実に董卓軍との間合いを詰めていく。騎馬隊が力を発揮するために必要な距離を潰すためである。他の軍も離れ過ぎないように付いてきてはいるが、あくまで劉備軍に引きずられての動きだ。中軍だけが突出して、中でも劉備軍だけが一歩先んじた格好である。
 呂布も、こちらの意図には気が付いているはずだ。呂布がそれ以上間合いを詰められるのを嫌った時、あるいは何か些細な戦場の変化でも、戦端が開かれる切っ掛けとなるだろう。
 愛紗がまさにそう気を引き締め直した時だった。

「っ―――! なんだ!?」

 突如馬蹄の響きが、次いで怒号が、戦場を襲った。
 視線を巡らせると、左翼で混乱が起こっていることだけがかろうじて見て取れた。それ以上、注視する余裕は愛紗には与えられていなかった。

「―――来るぞっ!」

 一万騎が一斉に駈け出した。同時に、三千騎ほどのもう一隊も後方から駈け出している。こちらには張旗が翻っていた。
 一万騎の先頭には呂布。対する魚鱗の陣の頂点まで、愛紗は馬を進めた。両者の距離が見る間に詰まる。
 呂布が方天画戟を振りかぶった。愛紗は下段からすくい上げるように、青龍偃月刀を振るった。振り下ろす戟と斬り上げる偃月刀。開戦の一撃が交差する。

「っく!!」

 疾駆する馬の勢いを乗せた呂布の戟に、抗う術も無く愛紗の青龍偃月刀は打ち負けた。崩れた体勢を立て直した時には、すでに呂布は愛紗の横を駆け抜けていた。

「待てっ、呂布!」

 守りを固めた堅陣に、さしもの呂布といえども馬足が鈍る。追い縋る愛紗を振り切ることまでは出来ない。馬を並べての打ち合いになった。

「ふぅっ!」

「はぁっ!」

 我が身を狙う槍の穂先が林立する中に在っても、呂布の武は超然としていた。歩兵の並べた槍を最小限の動きで捌きつつ、愛紗の青龍偃月刀と互角以上の打ち合いを展開する。方天画戟の石突で歩兵の槍を弾きながら、同時にその刃が愛紗の身を襲う。計算し尽くされた様な動きを、あくまで無造作に繰り出してくるのだ。
 かわし様に、愛紗は斬撃を返していく。自分からの攻めは最小限に留めた、討ち取ることよりもただ一合でも長く斬り結ぶことを考えた戦い方だ。
今はこれで良い。こうしているだけで、確実に騎馬隊の勢いは殺いでいるのだ。

「―――関羽!」

 武人としての己を押し殺しながら偃月刀を振るう愛紗に、背後から声が掛けられた。三千騎が、一万騎とは別に斜めから魚鱗を断ち割り、迫っていた。その先頭を駆ける女の視線が、真っ直ぐ愛紗を射抜く。

「はぁ!」

 振り下ろされた大刀に、真っ向から偃月刀を打ち当てた。そのまま、刃と刃を擦り合わせての押し合いとなる。

「くっ、貴様、張文遠と言ったな」

「次はウチとやろう言うたやろ。アンタの相手はウチや!」

 じりじりと鎬を削り合う互いの得物の向こうで、張遼が楽しげに口元を歪めた。

「邪魔立てするなぁっ!」

 視界の片隅に、駆け去る呂布と行く手を阻んで立ちはだかる鈴々の姿が映った。愛紗は焦燥に駆りたてられ強引に張遼の大刀を跳ね上げ、斬り下げた。

「甘いっ!」

「くっ!」

 半身になってかわし様に、愛紗の斬撃にかぶせる様に張遼の大刀が振るわれた。大きく身を仰け反らしながら、かろうじて愛紗は大刀を弾き返した。代償に、身体が流れ、無防備に身を曝け出すこととなる。致命的な隙。―――討たれる。

「他のことに気を取られとって、ウチの相手が務まるとは思わんことや」

 張遼からの追撃は無かった。代わりに、大刀を下段に構え直すと、不敵な笑みで言い放った。

「……失礼した。関雲長、御相手いたす」

 対する愛紗は、義妹の身を案ずる思いを一旦胸の内に沈め、静かに偃月刀を肩口に構えた。

「おおっ。張文遠、参る」

「絶好の好機を見過ごしたこと、後悔するなよ」

「それだけは、死んでもせえへんっ!」

 偃月刀と大刀が、再び打ち合わされた。





「はわわっ、愛紗さんが! ……こうなったら星さん、お願いします!」

「二人掛かりというのは気が進まんが、やむを得んな。こちらの指揮は、雛里、お主に任せるぞ」

 愛紗が、敵一人に掛かりきりになっている。本来彼女が果たすべき役割を、代わる者が必要だった。

「は、はひっ!」

 上擦った声で返す雛里だが、引っ込み思案なその性格に反して兵の進退には天性のものがある。個人の武勇を必要とする役割ではなし、見事やり遂げてくれるだろう。

「星ちゃん、気をつけて」

「はっ! 桃香様、飛将軍呂奉先が首、必ずや貴方様に捧げて御覧に入れます!」

「はわわっ、せ、星さん! 時間を稼ぐだけで良いんですからね! 無茶はしないで下さい」

 主君の我が身を案ずる言葉に、星は勇ましく答え、馬を走らせた。背後からは、はわあわ言う軍師二人の声。行く先では呂布の方天画戟と鈴々の丈八蛇矛が今まさに打ち合わされんとしていた。
 鈴々の手にする蛇矛は、一丈八尺という常人の身の丈の優に二倍、年若い彼女自身にとっては三倍近い長さを誇る。それを思う様ふり回しては叩きつけるのだ。その衝撃たるや凄まじいものがある。それが、呂布目掛けて真っ向から叩きつけられた。

「にゃっ!?」

 呂布の方天画戟が、その一撃を容易く弾き返していた。巧い。蛇矛が勢いに乗る直前を叩いている。そのまま、呂布が鈴々目掛けて一気に馬を寄せる。

「せっ!」

 横合いから、星は突きを見舞った。いざ攻めるとなれば、二人掛かりであるとか、不意打ちであるとかいった些細なことは星の頭から締め出されている。躊躇など微塵もない、死角からの神速の双手突き。星の得物、二つの刃が絡み合い龍の顎を思わせる名槍“龍牙”が呂布に迫る。

「なっ!」

 到底避け得ないはずの一撃を、呂布は軽く身を逸らすだけでかわした。同時に、追撃を封じるように槍を持つ星の両手を狙って戟を振り下ろしている。星は構えを崩し、大きく腕を引いて避けざるを得なかった。
 だが、呂布の馬足を抑えることには成功している。立て直した鈴々の蛇矛が再び振り下ろされた。

「うりゃあっ!」

 星を警戒してか、呂布も今度は戟で弾くことなく蛇矛の間合いの外へと一歩下がる。これで完全に呂布の足は止めた。必然的に、一人先行した形の呂布と、彼女が率いる騎馬隊との距離が狭まる。

「鈴々、愛紗の代わりに加勢に来たぞ」

「うう~、ここは鈴々一人でも大丈夫なのだ!」

 鈴々は二人掛かりで戦うことに、不満も露わに言った。元より、姉妹二人で姉上のために働こう、という愛紗の言葉に一応の納得を示していただけなのである。当然と言えば当然の反応であった。

「気持ちは分かるがな、―――来るぞ!」

 呂布が、一息に間合いを詰める。星と鈴々、二人まとめて斬り払うような横薙ぎ。受け切れないと冷静に判断して、星は後ずさって避けた。鈴々は、真っ向から受けにいっている。押し遣られる。

「無茶をするなっ!」

 突き込んだ。容易く弾かれるが、落馬寸前まで押し切られていた鈴々は体勢を持ち直している。
 槍を引き際、龍牙の持つ二本の髭を模した装飾を、呂布の眼前で泳がせた。不快気に眉をしかめる。先頭の呂布が停滞は、そのまま騎馬隊全体の動きを抑えつけることとなる。馬を止めた騎馬隊は、歩兵の長槍の格好の的でしかない。呂布の表情から、焦りの色がうかがえた。

「……お前ら、邪魔」

 連撃。斬り上げ、斬り下ろし、横薙ぎ、そして星と鈴々それぞれに一つずつ突き。焦燥を感じてはいても、振るう刃に些かの迷いも無い。それぞれが、ほとんど同時に襲い掛かってくる。

「くっ! 愛紗め、よくぞこれほどの化物相手に一人で戦えたものだ」

 二人掛かりでも、攻勢に転ずる隙はほとんど見い出せなかった。じりじりと後退を続けていく。
 追い縋る呂布の足が突如止まった。次いで、追いついて来た呂布の騎馬隊も行き詰る形で動きを止めた。

「星さん、鈴々ちゃん、無事ですか!?」

 雛里の声に、背後を振り返る。眼前には防壁が広がっていた。

「ああ、二人とも無事だ」

 龍牙を掲げつつ、星は答えた。
 防壁の正体は補強された輜重車である。
 鈴々旗下の義勇軍五百と星旗下の義勇軍五百のちょうど境界に、二つの部隊を隔てる様に輜重車が並べられていた。

 輜重車を使った防壁というのは曹操の発案である。鎖で連結させるという雛里のさらに一歩進んだ発想を素早く現実のものとしてくれたのも、曹操軍の工兵の仕事だった。それによって素早い展開が可能となり、防壁としての堅固さも高められている。三頭の馬で、縦一列に連結された五台の輜重車を引かせる。目的の位置に配置後は、馬を外すことで無用な動きは抑える。残るのは騎馬隊の進軍を阻む障害物だけであった。さらにその後方から義勇軍の兵が長槍の穂先を防壁から突き出させて控えていた。本来星がとるはずだった兵の指揮は、雛里が替わっている。進軍中は展開出来ない防壁を配置するまでの時間を稼ぐために、呂布を足止めする必要があった。愛紗と鈴々の二人の役割だったが、その愛紗が動けぬ以上は星が代わるより他なかった。
 それでも、呂布だけならば防壁を乗り越えることは容易だろう。呂布と騎馬隊に前後から攻め立てられれば、即席の防壁はすぐにも崩されてしまうだろう。星と鈴々は、もう一度呂布の足止めを行わなければならなかった。

「飛将軍、呂奉先よ!」

 星が呼び掛ける。呂布の表情は動かない。

「これなるは我が主君劉玄徳が義妹にして、燕人張飛! 一騎当千を誇る豪の者なり!」

 星の言葉に、鈴々が胸を張って頭上で蛇矛を振り回した。

「そして我は、北方常山の趙子龍! 万夫不当の勇士なり!」

 さり気無く鈴々と差をつけて自賛しつつ、星は龍牙を構え直した。

「さあ、我ら二人を打ち破り、我らが楯を踏破して、我らが本陣にその名高き方天画戟が刃、果たして届くものか、存分に試してみるがよい!」

 なおも、呂布の表情は動かない。ただ、ぼそりと口を開く。

「……退く」

「は?」
「にゃ?」

 言い捨てて、呂布は馬首を返すと躊躇なく駆け去っていく。多少の混乱を起こしながらも、兵もそれに続いていく。

「―――しまった! 雛里、間に合いそうか!?」

 思わず呆然その背を見送ること数瞬、我に返った星が問うた。

「あう。……あの呂布さんが率いるとはいえ、一度勢いを失った一万騎の退却となれば相当な混乱が生じるはず。兵はかなりの数囲い込めると思います。ただ、呂布さんは―――」

 如何に精兵といえど、呂布を抑えることは不可能である。

「くっ、逃げられたか」

 星と鈴々による呂布の足止めには、二重の意味があった。ひとつは当然、連合軍本隊に向う騎馬隊の動きを抑えること。そして、もうひとつは呂布の騎馬隊の退路を断つべく展開中の輜重車のための時間稼ぎだ。
 輜重車による防壁で呂布の騎馬隊を囲い込んで、完全に動きを封じる。それが、最終的な目標だった。騎馬隊の突撃を一度弾き返したところで、その脅威を除いたことにはならないのだ。
 呂布はさすがに退き際を心得ていた。加えるに、無双の武人でありながら目先の勝ち負けにこだわらない質と見えた。
 挑発のために並べ立てた口上を流されて、星はわずかに頬が紅潮するのを感じた。





 激情に駆られた先の一撃とは打って変わって、関羽の剣戟に付け入る隙など微塵も存在しなかった。
 振り下ろす一撃の速さは天性のものであり―――

「っ!」

 ―――斬り返す一撃の早さは鍛錬の賜物であろう。
 関羽の連撃の合間に割り込ませようとした一撃、踏み込み掛けた馬の脚を霞は強引に押し留めた。斬り上げの一撃を、すんでのことでやり過ごす。そのまま、馬を一歩跳び退らせて、仕切り直しの距離をとった。
 関羽の構え。やはり、隙は無い。長い黒髪が、風に靡いた。

「せっ!」

 気勢と、馬首の動きだけで真っ直ぐ踏み込むと見せる。即座に斜めに大きく踏み込んで、関羽の馬の尻側に回り込む動き。関羽は、遅れず反応してくる。が、馬の動きは遅れていた。
 一撃目。関羽は上体を捻りながら、受けた。
 二撃目。馬を立て直しながら、これも受け止めた。
 三撃目。弾かれ、大刀が流れる。
 大刀を弾いた偃月刀を引かず、関羽はそのままそこから斜めに斬り上げた。馬ごと跳び退いて避ける。関羽が追い縋る。横薙ぎの一撃。馬体を沈めて避けた。霞の頭上を、凄まじい轟音が過ぎる。屈めた馬の脚を一息に開放させて、大きく跳び退った。同時に、引き戻した大刀で牽制の一振り。関羽の追撃の足を抑える。
 馬術も、馬の質も霞が上だった。だから先手を取って攻撃を仕掛けるのも、距離を取って仕切り直すのもいつも霞の方である。それだけの圧倒的な主導権を握りながらも、決め切れない。否、むしろ決め切れないという思いは、関羽の方が強いだろう。馬術で揺さぶっての初手から数合こそ優位に立てても、打ち合いが続くと関羽の攻めに次第に圧倒されていた。

「関羽、アンタほんまに強いな」

「お主が強いからこそだ。今の私に些かの油断も無い。どうした、先の好機を見過ごしたこと、後悔しているのか?」

「まさか。ただ、いつまでもアンタ一人にかかずらっているわけにもいかへん。そろそろ決めさせてもらおか」

 馬を止めて打ち合う。勝敗を決するにはそれしかなかった。霞の意が伝わったのか、関羽から放たれる武威が一層その圧を増した。空気が、まとわりつく様に重い。

「いくで」

 のまれぬ様に、霞は気負わず静かに告げると、一息に間合いを詰めた。
 連撃。間を置かず二撃、そして敢えて一瞬溜めて一撃。関羽の受けは強く正確だった。一瞬でも気を抜けば、大刀を大きく弾かれかねない。
 偃月刀と大刀の重量差もあって、剣速は霞の方が上である。霞はたたみ掛ける様に大刀を見舞った。三連撃。否、二撃放ったところで割り込まれる。斬り上げる偃月刀を、霞は身を逸らしてかわした。
 剣速はこちらが上、しかしそれ以外、狙いの正確性も、一撃の重さも、ここぞという時の機のとらえ方も関羽が上だ。ともすれば強引とも取れる攻めを、理に適った剣筋が裏打ちしている。人智の及ばぬところにある恋の武とは違う。人の宿し得る十全の才能と、鍛え上げられた肉体に、磨き抜かれた術理。人の到達し得る最高峰の武がそこにはあった。
 瞬く間に三十合ほども斬り結んだ。霞は、関羽の武に憧憬すら抱いている自身に気が付いた。打ち合う度、関羽の長い髪がはねた。吸い込まれる様な深い黒。美しかった。
 いつまでも打ち合っていたい。狂おしい程にそう思う。だが、終わりが近付いていることに霞は、霞だけは、気がついていた。
 大刀が軋みを上げていた。振り下ろす刃先が、霞自身にしか分からないほどに微妙にぶれる。鍔元に青龍を模した意匠をほどこされた、関羽の偃月刀。その超重量と撃ち合うには、霞の大刀は脆弱に過ぎた様だ。終焉の予感に、軽い失望を覚える。同時に、最後にして最大の勝機が訪れることを霞は悟った。

「はぁっ!!」

 ひと際強烈な、関羽の上段からの斬撃。霞は、真っ向から大刀をぶつけにいった。
 最後の役目を果たし、大刀が鍔元から折れた。わずかに逸れながらも、関羽の偃月刀は変わらず霞の肩口目掛けて振り下ろされる。剣先に迷いは無い。突然訪れた好機にも、関羽はほとんど動揺していないということだ。しかし、それすらも想定の内。

「終わりや!」

 霞は僅かに身を逸らす最小限の動きでかわし様、石突を跳ね上げた。狙うは顎先。あくまで想定内の窮地に立たされた霞と、想定外の勝機を得、それを逸した関羽。
 石突が関羽の顎先に吸い寄せられ、―――すり抜けた。

「なっ!?」

「はぁっ!」

 関羽の横薙ぎの一撃を、咄嗟に馬ごと飛び退いて避ける。
 油断なく構え直す関羽の頬に、うっすらと赤い線が走っている。石突の一撃を紙一重でかわし様の神速の斬り返し。馬の質に差が無ければ、偃月刀の切っ先が霞の胸元を深々と斬り裂いていただろう。

「ウチの大刀が壊れること、読んどったんか?」

「いや。ただ、お主は強敵だからな。私に油断はないと言ったはずだ」

 相手の得物を打ち壊し圧倒的優位に立ってなお、些かの気の緩みも無かったのか。

―――これは勝てない。

 そう思いつつも、霞は大刀を構え直した。失われた刃の替わりに、石突を前に向けて構える。関羽の打ち込みを、果たして何度受け切れるものか。

「…………」

「……なんのつもりや」

 関羽が静かに青龍偃月刀を下ろした。

「借りは作らん。行け。どうやらこちらの策は呂布に看破されたようだ」

 呂布の騎馬隊が後退し始めていた。霞がこの場に留まれば、自身は元より配下の三千騎も孤立して残らず討たれかねなかった。それだけは避けねばならない。

「……後悔せんことやな」

「無論だ。次こそはその首、貰い受けるぞ」

 霞は苦渋を飲んで馬首を巡らした。遠巻きにしていた兵達が、わっと寄ってくる。

「―――待て、張遼! ひとつ聞かせてくれ! なぜお主ほどの武人が董卓に付き従う? お主だけではない。皇甫嵩殿に、あの呂布、―――それに曹仁殿もだ」

 兵をまとめ上げた霞の背に、声が飛んだ。戦場で武人が口にすることではない。しかし、振り返って見据えた関羽の瞳は真摯そのものである。促される様に、霞も素直に言葉を返していた。

「そんなん月が、董卓が、ええ子やからに決まっとるやろ」

 世で語られる董卓の評からは予想だにしない言葉だったのだろう。絶句する関羽を残し、張遼は退却を開始した。






 連合軍左翼の敵軍を交えながら、曹仁の一千騎は錦の旗を掲げた三千騎と相争っていた。
 董卓の旗本の騎馬隊四百を含む最精鋭の二千騎で、ようやく五分の戦いが出来た三千騎である。今の曹仁が率いる一千騎も精兵揃いではあるが、錬度はほぼ同等とみていいだろう。つまりはそのまま三倍の兵力を有する敵ということだ。
練度の低い連合軍左翼の敵兵が、逆に曹仁の戦いを有利に進めてくれていた。本来こちらを包み込むはずの連合軍の歩兵を、一千騎で断ち割り、逆に三千騎に対する防壁とすることで、何とか戦闘の形を保っているという状況である。
 動きの悪い味方に足を引っ張られ馬超が焦れていることが、騎馬隊の動きから感じられた。単調で、力任せな用兵が目立つ。騎馬隊同士の戦いでは、涼州で生まれ育ったという馬超は曹仁に対して一日の長があると言っていいだろう。持って生まれた才覚という点でも恐らく曹仁よりも上であろう。ただ激しやすい性格が、騎馬隊の動きに如実に現れている。それが良い方向に向かうこともあるのだろうが、今はその激情が空回りしていた。

 本来は、膠着した戦線を大きく迂回し、連合軍本隊を衝くはずの騎馬隊であった。そして馬超も、同じことを狙っていたようだ。大きく迂回した先で、両軍は偶然の邂逅を果たしたのだ。黄砂による視界の悪さは軍の潜行を容易にし、斥候が三千騎の存在を報告してきたときには、すでに避けようもない程に両軍は接近していた。
 連合軍左翼を巻き込んでの戦いとしたのは苦肉の計であった。より警戒の厳しいだろう中軍を衝くための潜行してきた隊である。十分な公算あってのことではあるが、左翼の対応が早ければ挟撃される可能性もあったのだ。結果として、予想外の動きに馬超の騎馬隊の斥候を一時振り切り、直接的な騎馬隊同士のぶつかり合いを避けることが出来た。
 そしてこの動きが、董卓軍と連合軍全体の戦端を開く切っ掛けともなったのだ。

「曹仁様、あれを!」

 角の代わりの副官である校尉―――皇甫嵩の指名だけあって能力は確かであり、洛陽での調練を共にして気心は知れている―――が声を上げた。
 恋と霞の騎馬隊が下がっていく。損害は、董卓軍の誰の予想をも越えて大きそうだった。馬を失い徒になった者も、その逆も多く見受けられる。

「よし、我らも一度退くぞ!」

 曹仁も、他の騎馬隊と合流するように軍を退いた。馬超が冷静な判断を取り戻せば、三倍の兵力差とまともにぶつかることになる。長居は禁物だった。
 馬超の騎馬隊は一瞬追撃の構えを見せ、制止した。呂布の騎馬隊と入れ替わる様に、董卓軍中軍が前進し始めたためだ。鶴翼による受けの構えを捨て、両翼と横並びになって、さらに前進する。歩兵同士のぶつかり合いが始まる。騎馬隊のみでの深追いは危険だと馬超も判断したのだろう。やはり、冷静さを取り戻しつつある。
駆けながら、曹仁は連合軍の布陣をつぶさに観察した。
 連合軍最前衛、劉備軍が後退の遅れた恋の騎馬隊の一部を取り囲んでいる。その結果、劉備軍は大きく布陣を乱してもいる。失った兵も多そうだ。本隊を食い破るまではいかないまでも、恋の騎馬隊が連合軍中軍に与えた傷跡は大きい。それを押し広げるのが歩兵の役割である。
 歩兵のぶつかり合いを前に、連合軍側も乱れを補う様に、劉備軍の左右の軍が前進した。
 右翼側の軍には未だ曹仁の目には馴染み深い“孫”旗。
 そして左翼側。左翼を乱して退き上げる曹仁の騎馬隊にとっては、直ぐ真横の位置。そこには、馴染み深いなどという言葉では片づけられない、既に曹仁の血肉と化している一字が、風に戦(そよ)いでいた。





 眼前を行く騎馬隊の駆る馬は、遠目に見てもそれと解るほどに見事なものばかりだった。そんな中にあってもひと際目を引くのは、光を照り返す眩い白色だ。
 曹仁。視線が絡んだ。挑みかかるような瞳の光を、華琳は正面から受け止めた。
 先に視線をそらしたのは、曹仁だった。前を向き直って、駆け去っていく。もはや自分を一顧だにしないという意思とも、ただ自分から背を向けて逃げ出しているだけとも、華琳には感じられた。

「華林様っ! 右翼が」

 桂花の言葉に、右翼に視線をやった。陣形が乱れに乱れていた。まるで、騎馬隊に吸い寄せられるように、一部が突出し、全体がそれに引きずられている。

「……春蘭」

 華琳は瞬時に何が起こっているのか理解した。理解し、憤り、呆れ、そして安堵した。状況を考えれば無謀極まる突出だが、向かう先を考えれば春蘭の身にとりあえずの危険はないだろう。

「右翼の騎兵全ては夏侯惇に従いなさい。残る歩兵の指揮は夏侯惇の副官に取らせる。すぐに伝令を」

 幸い、というよりもこういった暴走の場合も想定してのことだが、春蘭の副官の韓洪は軍略にも明るく、兵を率いさせても遺漏が無い。華琳の要求には十分に答えてくれるはずだ。

「引き立ててこい、何て言った私が軽率だったかしら」

 対することがあれば、とも言ったのだけれど。華琳は溜息まじりにこぼした。
 視界の先では、曹仁率いる騎馬隊を目指して、夏侯の旗を掲げる騎兵小隊が単身での進撃を開始していた。






[7800] 第3章 第7話 力戦
Name: ケン◆f5878f4b ID:258254a5
Date: 2010/08/10 20:37

「待てっ、仁!」

 曹旗と、その主に思わず吸い寄せられた視線を前方に戻した曹仁は、背後から迫る馬蹄の響きと懐かしい声に、直ぐに再び振り返ることとなった。曹操軍から突出した五十騎ほどが馬を急き立てて追ってくる。
 曹仁は殺気立つ兵を手振りだけで鎮めた。騎馬隊の先導を副官に任せると、最後尾まで下がって、追い縋る五十騎の方へと白鵠を寄せた。五十騎からも、一騎が猛然と進み出る。

「春姉、一体何を考えている!? 早く戻れ! 危ないぞ!」

 それが敵軍の将に掛ける言葉か。思いつつも、言わずにはいられなかった。如何に今は敵対しているとはいえ、家族としての愛情に変わりは無いのだ。両軍合わせて三十万を超える歩兵同士のぶつかり合いが今まさに始まらんとしている。その戦場の真ん中で、ただの五十騎で孤立しようとしている従姉の暴挙を、曹仁が見過ごせるはずも無い。

「お前も一緒だ、仁! いつまでもつまらん意地を張っていないで、お姉ちゃんと一緒に帰るぞ!」

 言いつつ、春蘭はさらに曹仁に馬を寄せてくる。ほとんど並走するような距離だ。

「つまらない意地、か」

 否定することは出来なかった。何をやらせても自分よりずっと上手くこなす、年下としか見えない従姉に対する劣等感を伴った敵愾心が、曹仁の心の中に根付いていた。それが、彼女の担ぐ御輿として生きることを拒み、曹家から離れ独立不羈の道を選んだ理由の根底にあるのは間違いのないことだった。

「華琳さまには、わたしや秋蘭も一緒に謝ってやるから。さあ、帰るぞ」

 春蘭はさらに馬を寄せると、白鵠の轡を取ろうと手を伸ばした。ついっと首をそむけて、白鵠がその手から逃れた。

「むっ」

 もう一度伸ばした手を、またも白鵠が避ける。

「何が気に食わんというのだっ、白鵠!」

「俺がやらせているんだ、俺が」

「何っ!? お姉ちゃんの言うことに逆らうつもりか、仁!?」

 苦笑交じりに曹仁が告げると、春蘭の瞳が驚愕に見開かれた。苛立ちや憤りなどは含まれていない、ただ純粋に驚いたという表情だ。考えてみると、昔からこの従姉の願いはほとんど無条件に飲んできたという気がする。

「もう戦は始まっているんだ、春姉。今さら引けるかよ」

「むむぅ。…………ならば、戦場の流儀でやらせてもらおうか。力づくで連れ返らせてもらおう!」

 一瞬の逡巡を挟んで、春蘭が彼女らしい切り替えの早さで言い放つ。同時に、スラリと大剣も抜き放っている。七星餓狼と呼ばれるその大剣は幅広の片刃で、剣というよりもむしろ刀に近い武器だった。中心付近で一度婉曲する特徴的な刀身は、“く”の字に近い形状といえば分かりやすいだろう。

「わたしが勝ったら、一緒に戻ってもらうぞ、仁」

「……俺が勝ったら、春姉は何をしてくれるんだ?」

「わたしが、お前に負けるはずがないだろうっ!!」

「ふっ」

 あまりと言えばあまりな話ではあるが、春蘭らしいと言えばこの上なく春蘭らしい言い草に、思わず曹仁は頬をほころばせた。

「骨の一本ぐらいは覚悟してもらうぞ、仁!」

 言うと春蘭は、七星餓狼の刃を反し、曹仁に峰を向けて構えた。曹仁も、無言で槍を構える。
 周囲ではすでに歩兵同士の戦いが口火を切り始めていたが、兵達も曹仁と春蘭の対峙を一騎打ちと見て取ったのか、二人からは遠巻きに距離を取っていた。





 総勢三十万を超す兵のぶつかり合いが続いていた。
華琳はともすれば自軍の位置すら見失いかねないような、そんな不確かな感覚に襲われていた。精鋭を誇る五千は、三十万の大波に揺れる小舟のようですらあった。
 とにかく、正面の敵を崩すしかない。大軍同士の押し合いも、どこか一箇所の崩壊で一気に形勢が決することも多いのである。
 敵軍の用兵は変幻だった。正面同士のぶつかり合いで幾分押したかと思えば、横合いから、斜めからと押し返される。中軍だけを比べれば、兵の質は連合軍側の方が幾分上かと思えた。それでも押し切れない。
 華琳もただ力押しをするだけでなく、乱戦の中にあっても機を見て陣形を組み換え、敵軍の綻びを誘った。その都度、即座に的確な対応がとられる。
敵本陣からはひっきりなしに伝令が駆け、鼓笛が鳴らされ、旗が振られていた。加えて、現状の董卓軍の主力となる将、呂布や張遼、曹仁―――多少の身内贔屓も込みで―――は、いずれも騎馬隊の指揮に当たっている。
 あの劉備軍を、孫策を、そして自分を相手に、一人采配を振っているということか。正しく皇甫嵩は、漢朝の生んだ軍略の巨人と言っていいだろう。

「右翼、韓洪に伝令。中軍後方まで兵を下げよ。曹純、敵歩兵が右翼を追って突出を見せたら、虎豹騎総員をもって側面を衝きなさい。楽進、于禁の隊もそれに続け」

 偉大なる先達を向こうに回し、華琳も知略の限りを振り絞った。





 正面の敵歩兵が割れて、そこを騎馬隊が突っ掛けてくる。数は五百にも満たないほどだ。

「陣を固め、槍先を並べよ! 敵騎兵に備えるのだ!」

 取るに足りない少勢。しかし愛紗はすぐさま檄を飛ばした。騎馬隊の動き。侮り難いものを感じた。
 ぶつかる直前、騎馬隊がいくつもの小隊に分かれて散った。堅陣に対して、少勢をさらに分けるという愚行。しかして騎馬隊は、そんな兵法の理を無視するように極々自然に、無理のない動きで劉備軍の布陣へと踏み入った。そのまま、固めた陣形の中を縦横に駆け回る。
 愛紗が小隊に馬を寄せて斬りつけても、一人を討ち取ることすら難しかった。五騎一組の小隊の連係に、愛紗がむしろ攻め立てられることすらあった。
 呂布の騎馬隊は、呂布が率いてこそのものであった。だから、呂布の動きを抑えることが、そのまま騎馬隊の進撃を跳ね返すことにも繋がった。
 この騎馬隊は違う。僅か五騎ずつの小隊に分かれても、一隊一隊が時に連携し合いながらも独立した動きで駆け回っている。兵を討つことより、布陣そのものを乱すことを目的とした動きだ。良いように翻弄され、陣形が蹂躙されていく。そこに、敵歩兵も押し寄せてくる。

「んにゃあ! お前らずっこいのだ! 逃げてないで鈴々と戦うのだ!」

 鈴々も苦戦を強いられている。攻勢に出ようとする度、五騎がさらに散っては味方歩兵の中に紛れる。それで、長大な蛇矛を満足に振るうこともままならないようだった。
 危な気なく騎馬隊の攻撃を捌いている星も、攻撃に転じる余裕までは無さそうだ。
 騎兵の練度も馬の質も共に最上級のものと言えるが、何より一兵一兵に至るまでが常に周囲の戦況を把握して、自ら次の行動を選択して動いているとしか思えないところがあった。堅いところには無理に当たらず、いくつかの小隊が自然と集まって突き崩す。あるいは挟撃を仕掛ける。それで、ほとんど犠牲を出すことなく陣形をかき乱していく。

「くっ! 拙い、このままではっ!」

 愛紗の青龍偃月刀が、むなしく空を切った。





「ええーいっ、ちょこまかと!」

 春蘭が痺れを切らしたように叫んだ。
 やはり春蘭は、曹仁にとって未だ絶対的な強者のままであった。黄巾の乱での転戦、洛陽での刺客との死闘、そして恋や愛紗ら武を極めた者たちとの立ち合い。それら全てを糧として、自身が強くなったという曹仁の確信は揺るがなかった。それでも、届かない。
 負けない戦い方に徹するより、打つ手は無かった。白鵠の脚を頼りに、常に七星餓狼の間合いの外から槍を繰り突いた。槍は容易く避けられたが、それでも間合いを詰めようとする春蘭の出足を挫くことは出来る。春蘭は、攻性の武人である。一度攻撃に転じて “乗れば”、あるいはあの愛紗以上の力を発揮しかねないが、その出鼻を慎重に、繊細に、ことごとく曹仁は潰していた。

「仁っっ!! いつまでそうして逃げ回るつもりだ! これでは戦が終わってしまうぞ。逃げずに打ち合わんか!」

 春蘭が、構えを解いて苛立ちを言葉にする。決め手に欠いたまま、時だけが過ぎていた。

「そうは言っても、まともに打ち合ったら俺が春姉に勝てるはず無いしな」

「うむ! その通りだ! 打ち合いとなれば、三合とかからず打ち倒してくれるわ!」

 自信有り気に、春蘭が胸を張った。

「……本当に打ち合いたいと思ってるのか? …………思ってるんだろうな。だって、春姉だもの」

「?」

 呆れ気味に言い返しはしたが、いずれは打ち合わざるを得ないとも、曹仁は考えていた。
 集中力が、かなり磨り減っていた。春蘭の本能に任せた動きは、曹仁には読み難いところがある。武人として持って生まれたものには天と地ほどの開きがあるのだ。地に足を着けて戦えば、これ程長くはもたなかっただろう。間合いの取り方を白鵠に委ね、春蘭の動きに全神経を集中させることで何とか凌ぎ続けて来たのだ。
 同時に腕も限界に近い。繰り突きを中心に据えた曹仁の構えは、槍を突き出す後の腕よりも、位置を固持したまま掌中で柄を扱く様に滑らせる前の腕に疲労が蓄積する。曹仁は左右どちらの腕を前としても不自由なく戦えるように修練していて、春蘭の隙を見ては構えを入れ替えてはいるが、それも限界だった。かと言って、構えを解けば春蘭の動きには対応し切れないだろう。
 じりじりと敗北に向かっているのは間違いのない事だった。それならば、完全に力尽きる前に勝負に出た方が良いだろう。
 間合いを詰め、春蘭からの攻めを誘う。七星餓狼を振らせて、それに合わせる。それで、こちらの攻撃が当たる可能性もぐっと上がるのだ。

「……負けると分かっていて打ち合うほど馬鹿じゃないつもりだ」

 しかし今はまだ、その時ではない。誘いに乗って打ち合いなどしては、それこそ三合ともたずに敗れかねない。攻め込むのは玉砕覚悟ではなく、十分な勝機をもって挑まねばならない。曹仁は、好機が訪れるのをじっと待ち続けていた。

「むぅ」

 春蘭が不満気に唸った。かまわず、曹仁は槍を構え直した。





 劉備軍が崩されていく。
 騎馬隊に乱された劉備軍の陣形を押し退ける様にして進軍した敵歩兵の先陣は、すでに輜重車による防壁にまで到達している。あくまで騎兵に対する防壁である。歩兵の手に掛かれば、取り除かれるのも時間の問題だった。直ぐに、麗羽の本隊がさらけ出されることになる。
 本隊の危機にも、華琳に兵を割く余裕はなかった。劉備軍を襲った精鋭騎馬隊は、勢いを駆って連合軍中軍全域を蹂躙し始めている。曹操軍も陣形をかき乱され、完全に崩れずにいるだけで精一杯なのだ。じっと、耐え続けていた。
 今は左翼右翼の兵も一つにまとめて、華琳の指揮下に入っている。三段に構えさせた陣の二段目までは崩された。兵を引かせ、代わって三段目を前進させる。兵の動きは満足のいくものだ。潰走に近い状態の兵を上手く後方へと逃がしている。負傷が重い者を除いて、収容した兵をまとめて四段目とした。
 三段目。敵騎馬隊が、容易く陣形の中を駆け抜けた。五人一組の小隊だ。それ自体による乱れは、それほど大きいものではない。しかし、続く歩兵がその僅かな綻びに、楔を打ち込んでいく。
 三段目が崩れた。後は体力の損耗の激しい四段目と、華琳の率いる本隊だけだ。
視界の端で、麗羽の本隊と董卓軍がついに交戦を開始した。そちらに視線をやる余裕もほとんど無かった。華琳は四段目の兵と敵軍とのぶつかり合いを睨み据えた。
 自軍に後がない事を知る兵達は、持てる力のすべてでもって懸命に抗い続けている。手綱を握る華琳の手にも、知らず力が籠る。
 ふっと、敵軍から掛かる圧力が弱まった。正面の敵陣が薄くなっている。その分が麗羽の本隊への攻撃に回っているのだ。

「今よ! 騎馬隊は放っておきなさい! 全軍、前だけを見据え、一歩でも多く進め!」

 陣形は乱されるままに任せた。強引に前へ前へと軍を進める。如何に精鋭の騎馬隊と言えども、その数は僅かだ。進軍そのものを止めることは難しい。
 兵が喊声を上げた。軍略も何もなく、ただただ士気で押した。押し遣った。華琳のいる本隊前に空間が出来る。

「虎豹騎総員、私に続きなさい!!」

 騎馬隊が勢いを付けるには不十分な空間。だが今は贅沢を言っている状況ではない。この機を逃せば連合軍は瓦解しかねないのだ。
駆け出した。味方の歩兵が、左右に分かれて道を作る。駆け抜けた先、敵陣に突っ込んだ。
 虎豹騎の重騎兵二百騎。親衛隊の軽騎兵二十騎。共に曹操軍の最精鋭部隊だ。敵陣が崩れる。だが、やはり元々の勢いが足りていない。騎馬隊の動きが鈍っていく。
 混戦になった。騎馬隊に前に進む力はもうほとんど残されていない。駄目なのか。不安が過った。我が天命はここに尽きるのか。

「――――――っ!! ―――っ!!」

 言葉にならない兵達の喊声は、衰えてはいなかった。兵が、曹孟徳の天命にはまだ先があると、前へ前へと華琳を押し遣るのだった。
 華琳は絶を我武者羅に振るった。周囲の状況も、もう把握し切れていない。ただ背中を圧す兵達の存在を感じた。前だけを見据え、一歩一歩、のろのろと馬を進めた。

 ―――突如、眼前が開けた。

 抜けた。華琳は初めて背後を振り返った。兵も付いてきている。まずは親衛隊の軽騎兵が。続いて虎豹騎の重騎兵が。最後に喊声を上げて歩兵が。
 すぐそこには皇甫嵩の本陣。孤立している。だが、五千程の歩兵中心の本隊とは別に、一万騎近い騎馬隊も控えていた。

「曹操軍の精兵達よ、この曹孟徳の天命を信じよ! 我らが勝利を疑うな! 全軍、敵本陣を穿てぇっ!」

 もはや数は問題ではなかった。麗羽の本隊が崩される前に、敵本陣を突き崩す。華琳の号令に従って、全軍が駈け出した。
 後押しするように、右方からも喊声。連合の軍がもう一軍、敵陣を抜いていた。
孫の旗印。孫策軍一万。





 突き抜けた。敵本陣。遮るものは無い。

「勇敢なる孫呉の将兵よ! 血路は開かれた! 掌中の剣を握り直せ! 槍を構え、矢を番えよ! 我ら孫呉の武で、この戦を終わらせるのだ!」

 先頭で、雪蓮は声を張り上げた。ほとんど突出する勢いで自ら剣を振るい、斬り開いた好機だ。高ぶる思いを言葉に乗せた。

「―――――――っ!! ――――っっ!!!」

 兵達の喚声が、その思いに答えた。

「……雪蓮、軽率だぞ」

 静かに馬を寄せた冥琳が言った。言葉とは裏腹に、口調は熱を帯び、わずかに頬も紅潮させている。
 孫呉と、そう口に出して言ったのは、母が死んで以来初めてのことだった。断金―――二人が心を同じくすれば鉄をも断つ―――とまで評される固い友情で結ばれた冥琳や、妹達、母の代からの宿将祭の前でも口にしたことは無い。口にしてみるだけ、その語の秘めたる意味も、自身の思いも、薄れてしまうように思えたのだ。長い間、一人でいる時にそっと心の中で呟いてみるだけの言葉だった。
 呉―――遠祖孫武がその軍略を振るい、母孫堅が拠って立った地。
 その呉郡を含む揚州は、漢室からの正式な任命こそ受けてはいないが、今は実質袁術の領地となっていた。雪蓮は、その客将に甘んじている。
 旗下の一万の軍勢は、母の代からの孫家の兵と、孫策自身の呼び掛けに集まった者たちだ。袁術軍の兵は、そこに含まれてはいない。
とはいえ、袁術の手の者を完全に排除し切れてはいないだろう。孫呉と、そう雪蓮が言ったことも、直ぐに袁術の耳に届くだろう。冥琳は、それを案じているのだ。

「問題無いわよ。あちらも端から私達の意図を知った上で、利用しようとしているのだから」

「確かにそうだが」

 袁術の客将として戦うのは、これが最後と決めていた。次の戦は、独立のためのものとする。袁術の領する呉郡から、孫家の統べる孫呉へと。

 敵騎馬隊が動き出した。五千騎ずつ二手に分かれて、それぞれが孫策軍と、先を行く曹操軍へと向かって来る。

「さあ、行くわよ」

 ここで守りを固めるつもりは無かった。なおも先頭を行こうとする雪蓮に、一瞬冥琳が渋い顔を作ってみせる。雪蓮は笑顔で黙殺して馬を進めた。

「お供いたします」

 言って、朱桓が馬を並べて来る。ただし、決して雪蓮より前に馬を進めようとはしない。静かに付き従うという恰好だ。
 雪蓮直属の親衛隊隊長である。妹の蓮華にとっての甘寧と同じ立ち位置であるが、大人しく護衛を従えるという性格でない主を持って、その心労は比べ物にならないだろう。

「……」

 言葉で返す代わりに、雪蓮は無言で駆け出した。遅れずに朱桓は付いてくる。騎兵も歩兵も、喊声をあげて続いた。
 迫る敵騎馬隊の先頭数騎が、兵を失い馬だけとなった。後方から奔った矢の軌跡は、雪蓮の目をしてほとんど捉えきれないほどだった。風切り音だけが、耳に残る。

「さすがね、祭!」

 振り返るまでも無く、矢の主が誰かは知れた。これ程の矢を放つ者は中華全土を見渡したところで五人といないだろう。孫家にあっては彼女を置いて他にない。
 敵騎馬隊との距離が詰まる。その間にも敵兵が次々に落馬していく。
 かち合う瞬間までに、敵軍は先頭二十騎ほども失っていた。兵を失った馬のせいで、進軍隊形にも乱れが生じている。雪蓮は敵軍の中へと、真正面から踏み込んだ。

「はあっっ!!」

 馳せ違い様に、三つ首を飛ばした。
 傍らでは朱桓が鈎を巧みに操って、敵騎兵を馬上から引きずり下ろしている。普段は両手に一本ずつの双鈎を使っているが、馬上では単鈎を用いるようだ。
 鈎は、片刃の直剣の先端を鉤状に曲げたような武器で、斬り、引っかけるといった攻撃が可能だ。朱桓の振るうものには、さらに尖端に突き技のための剣先と、持ち手を覆う様に半月状の刃が備え付けられている。扱いこそ難しいが、広範な攻撃手段を持つ汎用性の高い武器である。
 雪蓮も、南海覇王を振るい続けた。母孫堅より受け継ぎし父祖伝来の宝刀。何の装飾も無い実戦本位の拵えの、ただの両刃の直刀である。己が身に流るる血ゆえか、それは初めて手にした瞬間から驚くほど手に馴染む。
 南海覇王をひとつ振るう度に、ひとつ首が飛んだ。敵騎馬隊を抜けるまでに、雪蓮は二十以上の首を跳ね飛ばしていた。
 そのまま、敵本陣へと駆ける。直ぐに五千の騎馬隊が取って返して来て、挟撃の形となるだろう。だが、ここは犠牲を恐れている場面ではない。曹操軍も、真っ直ぐ本陣へと向かっている。

「総員、――――突撃せよ!!」

 敵本陣目掛け、雪蓮は南海覇王を振りかざした。





 戦局は終盤も終盤、どちらの本隊が先に崩れるか、という段階に差し掛かっていた。
 照の騎馬隊と歩兵が連係して、連合軍本隊である袁紹軍を突き崩しにかかっている。一方で、曹操軍と孫策軍が後背を突く騎馬隊による犠牲を度外視した果敢な攻めで、皇甫嵩率いる董卓軍本隊を襲っていた。

「本隊中軍は陣を固めて押し返せっ! 左翼、右翼は前進!」

 皇甫嵩は横陣に組んだ本陣の兵を、鶴翼へと組み直した。兵力で曹操軍と孫策軍に劣るため包囲まではとても望めないが、両軍をひとつ所に押しやることは出来る。それで騎馬隊との挟撃の威力は一層高いものとなる。
 同時に、董卓軍全軍へも伝令を走らせた。
 やはり連合軍は中軍が強い。曹操軍の抜けた綻びを衝いて公孫賛軍も抜け出ようと果敢な攻めを繰り返している。それは、元々曹操軍と対していた兵達を充てることで抑えた。
 孫策軍に抜かれた後の兵は、劉備軍に横合いからぶつけさせた。劉備軍がまとまりを取り戻せば、中軍での優位は失われかねない。
 霞は、曹仁の騎馬隊一千騎も合流させて総勢四千騎を率いている。今は馬超の騎馬隊とお互い牽制し合いながらも膠着状態にあるが、些か動きに精彩を欠いている。関羽との一騎打ちでは危いところで命を拾ったというから、この戦場ではすでに死人と思い定めているのかもしれない。霞はそういうところのある武人だった。それでも、敵軍で最も警戒すべき一軍を殺してくれているのだから、十分な働きと言っていい。
 恋の騎馬隊は、敵右翼を潰走に近い状態にまで追い込んでいながらも、完全には崩し切れずにいる。劉備軍に一度大きな損害を与えられたことで慎重になっているのか、攻めにいつもの恋らしい苛烈さが無い。
 兵の指揮を離れた曹仁は、曹操軍の将夏侯惇との一騎打ちを繰り広げている。意図しての事か、将の数が絶対的に不足している董卓軍の急所をさらに抉られた格好だ。
 袁紹の本隊を崩すためのもう一手が不足している。そして、皇甫嵩は自身が率いる本陣には、それほど練度の高い兵を配してはいなかった。騎馬隊一万騎も、董卓軍の中では最も練度に劣る騎兵をまとめたものだ。ほぼ全軍が敵に当たるという総力戦である以上、精鋭は可能な限り前線へ投入したかったのだ。

―――少し、逸り過ぎているのか。

 無理押しをせずとも、照の騎馬隊と歩兵の連係を密にしていけば、中軍を崩すことは可能だった。あるいは、恋が右翼を潰走させるのを待つか。戦場はほぼ全局面において、現状董卓軍有利で進んでいると言っても良いのだ。着実に詰める術はいくらでもあった。
 しかして勝敗は、今やどちらに転ぶか分らないところにあった。





 ―――勝機。

 曹操軍が騎馬隊に後背を深々と突かれていた。
 曹仁と春蘭が刃を交えているのは歩兵と歩兵のぶつかり合いの渦中だが、孤立した格好の董卓軍本陣と曹操軍、孫策軍の動きは馬上からならよく見えた。
 春蘭の動きが、目に見えて乱れた。遠間から放った繰り突きへの対応が遅れて、具足を打ったほどだ。
 じっと待ち続けた好機を、逃すつもりは無かった。双手突きで槍を見舞いながら、半歩間合いを詰める。ぎりぎり、七星餓狼の間合いの外。
 もう半歩。春蘭の一撃をかわし様に石突を返して決める。

「っ!」

 びくりと、踏み出し掛けた白鵠の身体が膠着した。曹仁の頬に熱いものが奔った。

「――――――あっ、くうぅっっ!!」

 直後、春蘭が身を折って苦悶の声を上げていた。

「春姉っ!!」

 春蘭の眼、左眼に、矢が突き立っている。
 流れ矢。そう、まさに流れ矢だったろう。
 射線からして、明らかに董卓軍側から放たれたものでありながら、白鵠が反応してくれなければ曹仁の身に突き立っていただろう矢だ。何より、初めから己が身を狙った矢であれば、春蘭の野性が反応出来ぬはずもない。流れ矢が、曹仁の身が生んだ死角から奔った。それ故に避け得なかったのだ。

「寄るなぁっ!」

 詰め寄る曹仁を拒むように、七星餓狼が大きく振るわれた。

「っ! 何をっ!?」

「まだ、勝負が決まったわけではないわ! お前の手は借りんっ!」

「そんなことを言っている場合じゃ―――」

「黙れ黙れっ! これしきの傷、我が心胆を寒からしめるものではないわ! 見ておれっ! ぐ、ぐうぁあああああっっっ!!」

「春姉っ!」

 自ら矢を引き抜いていた。矢の先端には、先刻まで春蘭の身体の一部であったものが、突き刺さっている。

「天よ! 地よ! そして義に立ち上がりし全ての将兵達よ! 我が言を聞けいっ!!」

 春蘭の大喝が、戦場に轟いた。





 漢の大旗。寄り添うようにやや小さな皇甫と董の旗印。すぐ近くだ。だがその僅かな距離が、華琳には千里にも万里にも感じられていた。
 敵本隊の兵力はわずか五千で、孫策軍を合わせれば味方は一万五千。練度にも雲泥の差があった。それが、一歩進む度に押し戻されていた。敵本陣の兵は目まぐるしく動き回っている。押したかと思えば後方から入れ代わる様に新手が進み出て、押し返してくる。練度に劣る兵にこれほどの動きを取らせるとは、よほど命令がしっかりと行き渡っているのだろう。
 正面では一進一退の攻防が続き、後方からは騎馬隊が襲う。そんな、手詰まりの状況。

「―――――!! ―――――――――!!!」

 打ち破る様に、どこからか、春蘭の大音声が響いた。
 鬼気迫る怒号に、曹操軍の兵の士気は否応なしに高まっていく。
 華琳は、春蘭の発した言葉の内容に不穏なものを感じながらも、今は兵達の高ぶる士気を敵軍にぶつけた。

「総員、死力を尽くせ! ここが最後の死線と心得よ!!」

 将兵が喚声を上げ、一丸となって前へ出た。華琳も、絶で遮る者の首を飛ばし、馬の蹄に掛けた。
 押した。背後から敵騎馬隊の圧力をひしひしと感じながらも、それすらも前へ出る力へと変えた。皇甫嵩の用兵、前後の兵の入れ代えも、もう間に合ってはいない。
 漢の旗が、大きく揺らいだ。





 本陣が崩れた。先刻までの優勢が嘘のように、他の戦線も押し上げられていく。
 皇甫嵩の指揮なくば、十五万を超える軍勢同士のぶつかり合い、その戦線を維持することは現状の董卓軍には不可能だった。将が不足している。加えて、元々の官軍の兵達は皇甫嵩の存在があればこそ士気を保っていたのだ。
 張繍は、敵陣深く斬り込んでいた月の旗本の騎馬隊四百騎を下げると、集合させた。
 戦場のそこかしこでは、すでに董卓軍の兵が潰走し始めている。連合軍が追撃に入るのも時間の問題だろう。
 今は、一兵でも多くの兵士を洛陽に帰還させることだった。
 洛陽に残る守備兵は現在三万と、城郭の規模と性質を考えれば極端に少な過ぎる数である。十万でようやく満足に戦える数だった。
 幸いなことに、戦場から洛陽まではわずか二十里ほどしか離れてはいない。この距離ならば潰走した兵達も散り散りに逃げ続けるよりも、洛陽へと駆け込む者が多いだろう。
 だが同時に、追撃する連合軍にとっても、容易に駆け抜けることが可能な距離だった。兵の収容中に襲撃されてはひとたまりも無い。
 事ここに至っては、張繍のすべきことははっきりしていた。精鋭騎馬隊四百騎を中心に騎兵をまとめ殿軍に立ち、二十万に迫らんとする連合軍の追撃の足を止める。
 張繍は、連合軍を睨み据えた。二十万の大軍。さすがに、幾分気押される。
その時、気付いた。連合軍の遥か上方―――中天に、ぽっかりと浮かぶものがあった。太陽よりも弱く、しかしずっとやさしい光。

 ―――昼に見える月。

「……無様な姿は見せられないな」

 張繍は口中で呟いた。





[7800] 第3章 第8話 張繍
Name: ケン◆f5878f4b ID:258254a5
Date: 2010/10/19 00:01
「春姉っ、これ以上はっ!」

「はああぁぁぁっっ!!」

「くぅっ!」

 振り下ろされる七星餓狼を、頭上で寝かせた槍で受けた。全身が押し潰される様な衝撃。峰ではなく刃がこちらに向けられていれば、間違いなく槍ごと両断されていただろう。
 左目を失う傷を負ってなお、春蘭の動きは衰えることを知らなかった。失われた視界を補う様に、曹仁の攻め手を封じる猛烈な連撃を繰り出してくる。強引とも取れる剣も、攻めの武人である春蘭にとっては本領と言っていい。加えて、剣を振るう度に左目のあった場所から噴き出る血が、曹仁の動きを鈍らせた。

「どうした!? 攻めてこい、仁っ!!」

 味方は、総崩れとなりつつある。いつまでも春蘭一人にかかずらっている時ではない。解ってはいても、曹仁は受けに徹する事しか出来なかった。
 今、何をすべきなのか。思考は千々乱れていた。

「曹仁!」

「っ! 照か」

 張繍が、駆け寄ってくる。
 その背後、四百騎を中心に一千余騎が董旗の元に集結している。戦場を駆けまわって、敗走する歩兵の撤退を援護し、騎兵は吸収するということを繰り返しているようだ。

「……何をしている、曹仁?」

 照は、ちらりと一瞬だけ春蘭に視線を送ると、咎めるように曹仁を睨んだ。

「夏侯元譲といえば、お前にとっては大切な家族ではなかったのか? さっさと行け」

「っ! すまない、すぐに戻る」

 いつか、曹仁が照に送った台詞だった。
 迷いを振り切って、曹仁は春蘭に向き直った。照とのやりとりを黙って見守っていた春蘭が、剣を構える。動いていないと却って傷の痛みに襲われるのか、青い息を吐いている。
 照の言葉に背中を押されるように、大きく一歩、白鵠を進めた。
 間合いに入るや、七星餓狼が振り下ろされてくる。曹仁の頭頂部から真っ直ぐに正中線を抜く軌道。如何に峰打ちと言えど、免れようのない死を孕んだ太刀筋。
 回避運動に入ろうとする白鵠を、曹仁は腿を締めて抑えつけた。

「―――っ! 馬鹿者っ! 何のつもりだっ、仁!」

 ほとんど触れるような近さで止まった七星餓狼を手で押し退けると、曹仁はさらに間合いを詰めた。春蘭の馬の、轡を手に取る。

「―――行くぞ、春姉」

「何をっ、うわっ!?」

 春蘭の馬を、ほとんど引きずる様にして駆けた。

「おい、仁! 何のつもりだ!」

 目指すは曹操軍。最後に混戦を抜け出、勝敗を決する一撃を加えた軍だけに所在は明らかだった。後ろで喚き散らす春蘭を黙殺して、曹仁は駆けた。
 曹操軍。すでに追撃の体勢に入っている。曹仁は軍勢の中に飛び込んだ。

「夏侯淵殿! 夏侯妙才殿はおられぬか!?」

 春蘭の馬を引き、秋蘭の名を呼ぶ曹仁を敵だとは思わないのか、兵からの攻撃は無い。兵達は訝しげな表情を浮かべながらも、秋蘭の所在を口にした。左翼の前線近くに、秋蘭の姿はあった。

「秋姉っ!」

「仁か、どうしてここに、―――姉者!!」

 傷を負った春蘭に気付き、秋蘭のいつも涼しげな瞳が歪んだ。

「軍医の手配を!」

「っ! ああ」

 指令が飛ばされ、秋蘭の傍らの兵が直ぐに駆け出していく。

「おいっ、仁! わたしを甘く見るなよ。この程度の傷など。まだ勝負はついていないぞ」

 振り向くと、眼前に七星餓狼が突き付けられた。睨みつけてくるのは右眼のみで、左眼は光を失い空虚な洞が血を溢れさせているだけだ。
 傷口などは見慣れたものだった。それでも、家族と言って良い女性の面貌を抉る痕に、曹仁は一瞬眼を伏せた。

「頼む、春姉。まずは治療を受けてくれ。それまで俺は、戦えない」

「むぅ」

「次に対峙した時、戦いを挑まれれば必ず応じる。負ければ、春姉の条件も飲もう。だから頼む」

「……」

「姉者」

 なおも不満気な春蘭に、秋蘭が声を掛けた。諭すような響きに、秋蘭が一応の落ち着きを取り戻したことが知れた。

「こうなっては、仁は折れんぞ。どうしても戦うというのなら、無抵抗の仁を打ち据えるしかない。あきらめろ」

「……わかった、ここは目上としてわたしが引こうではないか。次に会った時こそ決着だ。約束だぞ」

 兵に付き添われ、春蘭が離れていく。向かう先には、いつの間に用意されたのか、日差しや黄砂避けに布を張り巡らせた仮設の天幕の様なものが設えられている。秋蘭の指示にはさすがに遺漏が無い。

「……仁」

 見えなくなるまで春蘭の背を見据えていた秋蘭が、曹仁に視線を向けてくる。曹仁は真っ直ぐ見返す事が出来なかった。秋蘭にとって最愛の姉である春蘭を、傷つけたのだ。

「私は姉者に付き添わせてもらう。……お前のその頬の傷。それも相当に深い。出来るだけ早く、治療することだ」

 秋蘭の腕が、曹仁の頬に伸びた。右手が袖越しに頬に押し付けられると、鋭い痛みが走った。曹仁は、左頬に受けた矢傷に初めて気付いた。血は、未だ流れ続けていて、上衣の半分を濡らすほどだ。それでいくらかでも矢の力が弱まってくれたと思えば、安いものだった。

「ではな」

 出血を止めるようにしばし押し付けられていた右手を離すと、春蘭が連れて行かれた天幕へと秋蘭は駆け去っていく。自身の血で汚れた袖口をしばし曹仁は見送った。

「…………すまない、春姉、秋姉」

「仁」

 小さくささやいて馬首を返し掛けた曹仁を、懐かしい声が引き止めた。





 歩兵は、総崩れといってよかった。すべての指揮を、皇甫嵩に委ねていたのだ。本隊が崩れては、戦線を維持出来るはずもなかった。
 騎馬隊の多くは、崩れることなく諸将の判断で動き始めている。
 呂布が三千騎ほどを率いて、突出した形の敵軍―――孫策軍と曹操軍―――を牽制しつつ、退却する歩兵を護衛している。孫策軍は本隊の潰走を喧伝するように、必要以上の喊声を発しながら追撃に入っていた。逆に本隊潰走の最期のひと押しを加えた曹操軍は、動きが鈍い。
 張遼は四千騎をほとんど散らすことなくそのまま指揮下に置いていて、引き続き馬超の騎馬隊の足止めをしてくれている。馬超の騎馬隊の機動力は、追撃を受ける側にとって最大の脅威のひとつだった。
 呂布と張遼が、それぞれに的を射た動きをしてくれていた。
 張繍の役割は、殿軍。敵歩兵十数万の足止めであった。率いるのは、董卓の旗本の四百騎と、戦場からかき集めた二千ほどの騎兵達だ。
潰走状態から組み上げた撤退戦の形としては、望むべくもないものが出来上がっている。
 張繍は、縦横に駆け回った。この戦場において最も機動力に優れた隊が張繍の従える董卓旗本の騎馬隊である。突出した敵軍をすかさず叩く。数度それを繰り返すと、敵軍は無理に足並みをそろえ始めた。敵歩兵の進軍速度が目に見えて落ちる。 それでも、両軍の距離は開いてはくれなかった。そこかしこで、小競り合いが続いている。
 張繍は一度兵をまとめると、四百騎を横一列にして、それぞれに数騎ずつ兵を付けた。それで、ぶつかっては引いてを繰り返す。
 前後の連携は無く、もろい陣形だ。しかも、敵陣を乱すだけだった先刻とは違い、進撃を止めるためにはまともにぶつかり合わなければならない。

「はぁっ!」

 敵軍に踏みこみ、張繍は槍を横薙ぎに一閃した。樫材を鉄板で補強した槍は、具足の上から打ちつけるだけで容易に敵兵の命を奪っていく。二度、三度と振るうと、前面の敵兵の足が止まった。追撃を続けようとする後続との間で、揉み合いが起こる。

「退けっ!」

 ぶつかる度、下がるのが遅れ、歩兵の波に取り込まれる者も出る。取り残された兵は、敵の槍に掛かっていく。初めは、練度に劣る二千騎から。次いで、失われた兵の分まで奮戦を余儀無くされた月旗本の四百騎から。
 手塩にかけた兵達が一人また一人と欠けていく。それでも、十数万の追撃を一時に食い止めるにはそれしかなかった。そして犠牲の分だけ、効果も大きかった。連合軍は、ほとんど前に進めなくなっている。
 ぶつかる。すでに何度繰り返したかも記憶にない。槍が、一斉に突き出された。連合軍の動きが変わってきていた。ただ追い縋るだけの進軍隊形とも言えぬ構えから、陣形を組み直し始めている。追撃を掛けることより、まずはこの騎馬隊を仕留めることを第一と考えた構えだ。
 兵をまとめ、連合軍から距離をとった。兵は、目を背けたくなるほどに数を減らしている。二千騎は半数以上を失い八百ほどを残すばかりで、月旗本の騎馬隊も二百騎に足りない。
 それでも、十五万を超す軍勢を相手取り、四百と二千騎で陣を厚くさせたのだ。 張繍は、天を仰いだ。中天には月。

―――見えているか。これが、董卓軍だ。これが、我らの力だ。

 満腔に、気が満ち溢れていた。獣が吠えるような、声にならない雄叫びが張繍の喉からもれた。





「華琳。いいのか、こんなところまで出張ってきていて?」

 追撃の指揮を取らなくて良いのかと、曹仁は華琳に問い掛けた。その傍らには蘭々と、もう一人見知らぬ少女の姿があった。

「もはや大勢は決したわ。今さら追撃戦でいくつ首を挙げたとか、攻城戦での陣取り争いなどに興味は無いわ」

 事も無げに華琳は言ってのけた。だが、それは労せずして功を立てる絶好の機会でもある。曹仁は、曹操軍全体がすでに進軍を停止している事に初めて気付いた。
 滞陣して春蘭の治療を待とうというのか。冷徹に見えて、激し過ぎるほどの情を抱えてもいるのが華琳だった。そして、時にその激しさを露とすることをためらわない。

「そうか。それは我らとしては好都合だ」

 曹仁は董卓軍を我らと呼んだ。

「負傷した我が軍の将をここまで連れて来てくれたこと、礼を言うわ」

 返す華琳は、曹操軍を我が軍と呼んだ。

「ああ。―――それでは」

「兄貴!」

 再び呼び止められる。声の主は、張り詰めた表情で馬を寄せてくる。

「蘭々」

「もう負け戦は決まった様なものだろう? 何も敗残兵の中に戻っていくことは無いじゃないか! 俺たちと一緒にいれば良い」

 どこにも行かせない、というように蘭々は曹仁の腕を取って堅く握りしめた。

「……お前、その口調。姉ちゃんに叱られないのか?」

「今はそんなことを話している場合じゃ―――」

「やめなさい、蘭々。あなたにだってわかっているのでしょう? 負けたからこそ、仁がいま私達の元に帰れるはずがないのだと」

「でも、華琳様」

「だいたい、ここで一人降伏を申し出るような将、我が軍に必要はないわ。こちらから願い下げというものよ」

 斬って捨てるように華琳が言った。蘭々はまだに何か言いたそうに唇をまごつかせているが、掴んだ腕は離してくれた。

「礼は言わないぞ」

「行きなさい。もたもたしていると、その首、討ち取って我が手柄とするわよ」

「それは敵わないな。退散させてもらおう」

 馬首を巡らした。蘭々が小さく声を漏らしたが、もう振り返りはしなかった。
 戦場は洛陽へ向けて移動している。すでに曹操軍は取り残されたという恰好だ。
 命ずるまでもなく、白鵠が駆け出した。





 張繍を先頭としたひとまとまりになって、敵陣に突っ込んだ。狙うは、袁紹軍。
一度とまって対峙してしまった軍である。総大将が狙われたとなれば、それを放って追撃を再開できるわけもない。
 敵陣は、面白いように崩れていく。
 もうわずかで、袁紹の牙門旗。深く踏み込み過ぎている。だが、袁紹さえ討ち取れれば。そんな思いが鎌首をもたげる。
 あるいは届くか、というところで堅いものにぶつかった。騎馬隊の進撃がとまる。
 袁紹の本陣前を守る様な形で、劉旗がひるがえっている。本来の劉備軍。わずか一千の歩兵だが精鋭。先の決戦でも、本隊前の最後の一線を守るこの軍勢がために、ほんのひと押しの差で連合軍に軍配が上がったと言っても良い。

「道を開けろ!」

 横合いから、歩兵をかき分け一騎進み出る者があった。

「我は袁公路が臣、兪渉! さぞや名のある御仁とお見受けいたした。一手、お相手願おうか!」

 袁術軍の将。すでに袁紹軍以外の兵もかなり集まり始めているようだった。
 正面には、槍の穂先をきれいに揃えた劉備軍。そしてその左右から溢れ出すように兵が殺到し始めている。整然と居並ぶ劉備軍と比べると、如何にも有象無象といった感じだが、その数は脅威だった。

「欲をかき過ぎたか」

 後方に眼をやると、袁紹軍の兵が退路を断ちに掛かっていた。兵装に差はほとんどないはずだが、かき集めた兵は無視して旗本の精鋭だけを囲みに来ている。見事な采配は袁紹軍の将のものとも思えない。あるいは、あれがあの呂布と打ち合ったという関雲長の指揮下の軍勢か。

「貴様、名乗らぬか!」

 兪渉と名乗った男が、苛立たしげに叫んだ。

「……名乗るべき名などない。来るなら早く来い」

 静かに告げ、張繍は槍を構え直した。

「作法も知らぬ輩か!」

 兪渉が馬を駆った。張繍は槍を静かに構えたまま動かない。男が戟を振りかぶった。張繍は、槍を振るう必要さえ感じなかった。槍先をわずかに傾け、馬を一歩前に進めただけだ。
 馳せ違い、馬だけが駆け去っていく。遅れて、張繍の槍に突き上げられた兪渉の躰が地に落ちた。
 戦場が、一瞬静まり返った。
 静寂の中、動きを止めた敵陣が乱れるや、一騎踊り出た。

「時間稼ぎは十分だろう。退くぞ、照」

「てっきり戻って来ないものだと思っていたぞ、曹仁」

 曹仁だった。かき集めの騎兵を指揮して、分断されかかっていた月の旗本との合流を果たしている。そのために押し広げた道が、すなわち退路でもある。

「すぐに戻ると言った」

「そうか、そうだったな。―――全軍反転! 洛陽に帰還する!」

 あえて敵軍にも聞かせるように、大きく命令を飛ばした。
 遮ろうとする軍には、力がなかった。劉備軍の動きはさすがに統制がとれているが、それも形ばかりと見える。敵全軍が、去るならば去ってくれという空気の中にあった。
 敵軍を抜けた。これで洛陽に、月と詠の元に帰れる。そして、その先は―――

「―――っ」

 張繍は背後を振り仰いだ。袁の牙門旗。その真上に浮かぶ月は、雲に翳っていた。





 洛陽に向けてひた駆けながらも、照はじっと追撃してくる十五万を見据えていた。時は、十分過ぎるほどに稼いでいる。だが、照の瞳には決して晴れぬものがあった。曹仁も、つられたように後方に視線を送った。
 一度は揃っていた足並みが、再び乱れ始めている。他の軍に先んじて洛陽の攻囲に取り掛かりたいという思いからか、相争う様な進軍だ。

「……月、詠」

 照が、小さく囁いた。
 直後、槍を掲げ、頭上で横に寝かせた。董卓の旗本の騎馬隊が、整然と足を止めた。

「照、何のつもりだ?」

 曹仁と、生き残った寄せ集めの騎兵達も遅れて馬を止めた。

「曹仁。お前に、月と詠のことを託してもよいか?」

「何を言っている?」

「これより、我らは敵総大将の首を討つ」

「―――っ! 確かに敵に隙は多いが、この寡兵では無謀と言うものだ。お前が育て上げた騎馬隊は天下に並ぶものも無い精兵だが、過信が過ぎるのではないのか」

「無謀は承知の上だ。このまま洛陽に籠ったところで、ただやがて来る敗北を引き延ばすことにしかならん。袁紹の首、それがあれば勝ちの目も出ると言うものだ。陣形を組んでいない今ならば不可能ではない」

 照が自嘲気味に口元を歪めた。それは笑みと呼ぶには弱々しく、微笑みと呼ぶには凄惨に過ぎる。
 事ここに至っては、総大将を失ったところで連合軍が解散するとも思えなかった。それでも、連合軍から今の勝利の勢いと、まとまりを失わせることは出来る。加えて、袁家の声望と財力によって今なおかき集められている兵糧にも滞りが出るだろう。
 確かに、ここで麗羽を討ち取っておけば、これから始まる籠城の意味は違ったものとなる。

「死ぬぞ」

「志は捨て切れん」

「俺にまで言葉を飾るな。あの二人のためだろうが」

「……ああ、そうだ。洛陽を追われれば、もう我らに行きつく先はない。天下を取る以外、二人が心安らかに生きる道はないのだ」

 元々、涼州の豪族とは折り合いが悪かったという。ここにきて馬謄の嫡子馬超が反董卓連合に加わったことで、それは決定的なものになったと言っていいだろう。志敗れ逃げ帰る、というわけにもいかないのだ。

「……二人の安寧のために天下を取る、か。お前らしくて良いな。ならば、俺も付き合おう」

「無理をするな。お前一人が加わったところで何かが変わるというわけでもない。それに、ここはお前の戦場ではないだろう」

「そうだな。だが、一緒に死んでやる事ぐらいは出来るぞ」

 暫時、見つめ合った。どちらからともなく、笑い出していた。
 兵が、胡乱な眼で見つめてくる。それはそうだ。全身を血に染めた男二人が見つめ合って笑っているのだ。さぞや不気味な光景だろう。

「―――はっはっ、はっ。まったく、よせよ。友達でもあるまいし、気持ちが悪い」

「はははっ、すまん。妙なことを口走った」

 この戦場にはどこまでも付き合うつもりだった。それでも死ぬ気だけは、毛頭なかった。なんとなく、口を衝いて出ただけだ。
 ここで命を投げ打つ。そんな侠としての生き方に憬れた。それでも、皇甫嵩の安否は気に掛かるし、洛陽には高順も残したきりだ。春蘭との再戦の約束もある。
 だから、死ねない。ここではまだ、死ねない。自分は、恵まれ過ぎているのだろう。そしてたぶん、死ぬことを恐れてもいる。

「まだ死ぬと決まったわけじゃないし、そこまで分の悪い賭けだとも思ってはいない。だがもしもの時は、月と詠のこと、頼めるか?」

 総大将を討つ。それだけなら確かにまったくの無謀というわけではなかった。敵軍は横に広がって進軍中で、軍勢に厚みはない。まともに陣形も取れてはいないし、この期に及んで再び攻め寄せてくるとも思ってはいないだろう。この戦に勝つ、最後の好機であることは間違いない。
 だが、総大将を討てたところでそこから無事に退けるとは考え難かった。

「……わかった。二人の事は託されよう」

 引き止めたかった。董卓も賈駆もそれを望むだろう。だが、自分が何を言ったところで照が折れないことも、曹仁にはわかり過ぎるくらいにわかっていた。

「ああ、託したぞ。――――これよりさらなる死地に挑む。お前達、曹仁と共に洛陽に戻れ。皆の奮戦に感謝する」

 敗走のなかで集められた兵達に、照が告げた。二千騎近くはいたという彼らも、すでに三百騎にも満たなかった。まさに殿としての役割を十二分に果たし、散っていったということだ。生き残った兵達は夢から覚めたような表情を浮かべている。
照が視線を転じる。四百騎いた無双の騎馬隊は、すでに百数十騎を残すのみだ。それでも常に照の傍らに控えていた旗持ちの兵は健在で、“董”旗はひとまとまりに固まった騎馬隊のなか、しっかりと中天を指している。照が口を開いた。

「これ以上董旗が地に塗れる姿を見たくは無い。お前も洛陽に戻れ。他の者も、去りたい者は去って良い。ここからは分の悪い賭けだ。無理に付き合うことは無い。生きて月に従うもまた忠義だ」

「……はっ」

 一瞬の間を挟んで、旗持ちの兵は短く返した。戦闘中に指揮官に反駁することなど、許されてはいないのだろう。刹那の沈黙だけが、彼の心情を物語っていた。
 他の者は、黙って照を見つめたまま、視線を逸らさない。去る者など、いるはずもなかった。
 照の視線が、再び曹仁に向けられた。

「……行ってくれ。俺も、もう行く」

「じゃあな」

「ああ」

 お互いそれ以上は何も言わず、背を向けた。特別なやりとりは無い。至極すっきりとした別れだった。それでいいと思えた。背後で、馬蹄の音。白鵠も駆け出した。三百と董旗が、それに続いた。
 敵意を持って出会い、認め合い、共に戦場を駆けた。友、だったのだろうか。互いに友情を口にすることは無かったし、その機会はたぶん永遠に失われた。そんなものだ。思いつつも、それだけが僅かに心残りだった。





 あの騎馬隊が、取って返してきた。
 それだけで、麗羽の全身が怖気を振るった。すでに二度にわたって本隊間際まで迫られているのだ。兵も委縮している。
 絶え間なく騎馬隊ぶつかって来て、少しずつ少しずつ麗羽のいる袁の牙門旗の元へと近付いてくる。

「いったい、いつまで続きますの!? 敵は少数のはずではありませんの!?」

 騎馬隊の兵数そのものは僅かなのだ。それが、いつまでも途絶えることなくぶつかってくる。

「麗羽さま、あの騎馬隊の動きをご覧ください!」

 斗詩―――顔良の言に、麗羽は正面だけに捉われていた視線を、初めて広く戦場に走らせた。

「な、なんですの、あの動きは!?」

 戦場には歪な楕円が描かれていた。そして楕円の一端が、麗羽の本隊へ向けて伸びている。騎馬隊の突撃が途切れないはずである。一度ぶつかって退いた騎兵が取って返しては再び攻撃に参加しているのだ。

「麗羽様、ここはお下がりください。」

「連合軍二十万の総大将であるこの私に、百騎やそこらの少勢相手に下がれといいますの、斗詩さん? 何としてもお止なさい! ここで退くことは負けるも同じですわ!」

 戦場に描かれる楕円は、少しずつだが小さくなっていた。確実に敵は数を減らしているのだ。

「……はい、わかりました!」

 斗詩は、一瞬意外そうな顔を見せたが、すぐに覚悟を決めたという様に強い表情で頷いた。
 総大将の意気込みが伝わったのか、兵もようやく委縮を解いて、本来の動きを取り戻しつつある。一騎、二騎と敵騎馬隊が脱落していく。楕円は、すでに最初の半分ほどの大きさだった。本隊に近付いた分だけ、ほとんどこちらの陣形の中を駆け回っているという形だ。退く時も、常にこちらの攻撃に曝されている。それでも、敵騎馬隊の勢いが止まらない。
 顔の表情が見て取れるほどに敵兵が近い。麗羽は、思わず手綱を引いて反転しそうになるのを、ぐっと堪えた。

「―――――っ!」

 何かが眼前を横に走った。喉の奥からもれそうになった悲鳴を、麗羽は何とか飲み込んだ。かわりに、安堵の吐息がこぼれる。
 劉備軍の輜重車を使った防壁が、麗羽の本隊前に居並んでいた。





 これならば袁紹の首に手が届く。そう思った直後だった。
 空中に、身を投げ出されていた。腹に、鈍い痛みが走る。
 突如現れた防壁に、まともに突っ込んでいた。馬は、防壁の内側から突き出された槍に掛かって、死んだ。退路を失ったも同じだ。防壁を避け得たのはわずかで、それも勢いを失ってしまっては敵の餌食にしかならないだろう。
 だが、張繍が投げ出されたのは防壁の内、袁紹の本隊は眼の前だ。同じように馬を失いながらもまだ動ける兵が、幾人か集まってくる。十にも満たない数。それでも我が軍勢だ。
 群がる敵兵の後ろ、遥か中天に月が見えた。まだ、雲に翳っている。

「無様なところは見せられないな」

 小さく呟いた。

「これより死地に入る! 全軍我に続けっ!」

 張繍は正面を見据え言った。袁の牙門旗。すぐ近くだ。まだ届くか。

「はぁっ!」

 槍を振るった。体が軽かった。手にした槍も、持っているのを忘れるほどに、ほとんど重さが感じられない。それでも、槍にふれた敵兵の体は具足ごとひしゃげて、その命を散らしていく。躯を積み重ねていく。十回も槍を振るうと、たじろいだ敵兵は遠巻きにして槍を構えるだけになった。

「……ここで死ぬものと、思い定めた。さあ、来い!」

 敵兵は、やはり委縮したように動かない。

「ええい、何をしているのです! 早く押し包んでしまいなさい!」

 敵兵を叱咤する声。聞いた声だ。袁紹。
 声に励まされるように、敵兵が動いた。だが、励まされたのは張繍の方であった。思っていたより、ずっと近くから声は聞こえていた。
 正面の敵。具足ごと胸板を貫いた。ほとんど手元まで突き込んだ槍が、すでに肉の塊になっている敵兵の身体から抜けない。その間も、敵兵が詰め寄ってくる。

「くっ!」

 敵兵の身体ごと、槍を投げ付けた。
 腰の剣を鞘払った。切れ味鋭い無銘の名剣ではあるが、乱戦で使うには向かない。刃が薄く、具足に間違った角度で刃を立てればすぐに使いものにはならなくなるだろう。
 槍、槍、槍の壁。張繍の手に長物が無くなったことで、にわかに勢い付いている。
 潜り抜けて斬り上げた。薄い刃が、槍ごと数人分の腕を飛ばした。如何に身体を動かし、如何に剣を振るえばいいのか。それが、手に取る様に解かった。
 袁旗。直ぐ近くだ。華美な刺繍の一つ一つまで見てとれる。遮るように、槍の壁。今度は低い。跳び上がって首だけ三つ飛ばした。着地の瞬間、身体の中の何か大事なものを、ごっそりと落とした様な気がした。
 下衣が、真っ赤に染まっている。防壁にぶつかった、あの時か。自分がまだ動いている事が、不思議なほどの出血だ。
 他の兵に押し出されるように、不用意に一人、張繍の間合いに踏みこんだ。正中線をきれいに抜いた正確な軌道と、適切な間合い。具足ごと両断された敵兵は、左右にその半身を倒した。
 一度は勢い付いた敵兵が、また遠巻きに槍を向けてくるだけになった。気付けば、一人きりになっている。瀕死のただ一人を囲んで、敵兵は手を出せずにいる。
 一歩、また一歩と足を前に進めた。遮る者もなかった。張繍を囲む敵兵も、共に動く。歩くたびに、何かが失われていく。
 正面を見遣った。袁旗。遠い。先程までより、ずっと遠ざかっていた。
 ふっと、張繍の身体から力が抜けた。たかだか百の騎兵を相手に、二十万の兵を擁する連合軍の総大将が本陣を後退させたのか。

「―――っ!」

 意を決したような短い掛け声とともに、横合いから、槍が突き出された。身体を捻って避け様に、首を刎ねた。何かが、壊れた。
 地に、膝をついていた。天を仰ぐ。
 月が見えた。雲に翳っている。さっと、その雲を払う様に手を振った。二度、三度と払う。その身に、白刃が降り注いだ。

 ―――詠、共にあの月を支えよう。

 雲が風に流れ、月が、真円を描きだした。





[7800] 第3章 第9話 董卓 上
Name: ケン◆f5878f4b ID:c769d09e
Date: 2010/12/29 20:44
「長安まで退くわ。ただし、天子も連れてね」

 長安遷都。それが賈駆の考え出した策だった。
敵主力が集中する北門を除く三門より出でて敵中を突破し、三隊それぞれが別の経路を通って函谷関を目指す。
 函谷関がまだ董卓軍―――官軍側の支配下にあるのか、すでに敵の手に落ちたのか、情報はなかった。ただ敵軍の陣容を見るに、それほど多くの兵を割いたとは考えにくい。仮にすでに敵の手にあったとしても、守兵はほとんど置かれてはいないだろう。急襲し、速やかに突破、そのまま長安へとひた駆ける。

「…………」

 明かされた計画に、諸将みなが一様に息を呑んだ。あの皇甫嵩ですら、驚きの表情を隠し切れてはいない。
 それもそのはずで、異邦人である曹仁にとっては天子という質を手にしてのただの逃走に過ぎないが、この国に生まれ落ちた人間にとってことはそう単純な話ではないはずだった。後漢王朝二百年の都を捨て、天子をも董卓の復権のためのただの道具としか見ていない。悪名を馳せるだろうことにも、賈駆には一切の躊躇いがない。

「……今の長安に城郭としての機能は無い。如何に天然の要害とは言っても、兵無しに守り抜くこと敵わぬぞ」

 いち早く衝撃から抜けたのは、やはり皇甫嵩であった。
 かつて都が置かれた長安は、前漢末の動乱の中で荒廃を極めた。そして再び統一を果たした光武帝は長安の再建を放棄し、洛陽にて漢朝を開いたという歴史がある。今の長安はただの一地方都市に過ぎないのだった。

「二、三万は、月の名ですぐに集めることが出来るわ。まずは寡兵で戦線を維持して、後は雍涼二州より募るしかないわね」

「しかし、馬謄が敵方についているし、となれば恐らく韓遂も同心していよう。それで兵が集まるか?」

 曹仁も戦場で幾度となく槍を交えた錦馬超の母馬謄と、その義兄弟の韓遂。共に涼州を牛耳る豪族である。

「長安遷都を喧伝すれば、必ず兵は集まるわ。雍涼二州、特に涼州は豪族を中心に徒党を組み、時に叛に加担すると中央から見なされてきたわ。それは、異民族の侵攻や中央との隔たりに、州人の方にも朝廷から見放されたという思いがあったからよ。長安に遷都すれば、涼州ともぐっと近づくわ。そして、朝廷を動かすのは涼州で力を集めた董仲穎。馬謄や韓遂だって、ボクが説き伏せてみせる」

 同じ涼州人である皇甫嵩には得心のいくところがあったのか、詠の言葉に無言で頷き返した。
 賈駆は、やはり謀略家としては非凡なものを持っている。地方の一勢力に過ぎなかった董卓をまたたく間に天下を統べる地位に押し上げ、今また常人では思いもつかない策を練り上げている。天下の傑物といっていいだろう。
 そうした意味では照にも、同じ事が言えた。わずか数百で大戦の戦局を左右し得る騎馬隊など、古の名将といえども有してはいなかったであろう。あの騎馬隊を育て上げた手腕は、軍人として傑出したものといっていい。

「……」

 軍議の内容に耳を傾けながらも、曹仁は一段高いところの席に腰掛ける董卓に目をやった。話し合いに参加するでもなく、泣き腫らした顔をうつむけている。
 あの決戦、―――照の死から、まだ十日と経ってはいない。年相応の少女らしい反応と言えるかもしれない。今は軍師の顔をしている賈駆も、つい先日までは似たようなものだったのだ。
 それでもと、曹仁はわずかに生じた苛立ちを拭い去ることが出来なかった。
不世出の軍人と希代の軍師に己が全てを捧げられた少女。しかし視線の先の董卓からは、天下を手中に収めんとする覇気も、この乱世を鎮めんという気概も感じられなかった。

「曹仁、お前はどうする?」

 皇甫嵩の問い掛けに、曹仁は再び意識を軍議に集中させた。軍議はすでに隊の編成をどうするかという、詰めの段階にまで入っている。大筋の戦略は賈駆が立てても、実際の戦場での軍勢の運営となれば、自然と皇甫嵩が頼られるという恰好だ。
 他の将にしたように命令という形を取らずにあえて聞いてきたのは、客将であり連合軍に知己も多い曹仁には、ここで降りるという道もあることを暗に示しているのか。

「あいつに託されているからな、俺は天子と董卓殿のいる隊に加わる」

「そうか。ではそうしてくれ」

 皇甫嵩はわずかに安堵を覗かせた。曹仁がここで敵に降るはずはないと、皇甫嵩ならば分ってはいるはずだが、それだけ兵を率いる者の不足は深刻なのだ。
 先の敗戦では、照だけでなく徐栄も命を失っている。潰走の中で少しでも戦線を支えようと、最後まで奮戦した末の討死だった。彼女の奮闘なくば、歩兵の退却はさらに凄惨なものとなっていたはずだ。

「……それで、将軍はどうするんだ?」

「洛陽に残る兵をまとめる者も必要であろう?」

 未だ負傷の名残で土気色の顔をした皇甫嵩が、事も無げに言った。





「―――――――――!!!」

 大地を揺るがすような大喚声が響いた。

「……まったく、茶番ね」

 すでに弛緩した空気か漂い始めた戦陣で、華琳は物憂げに呟いた。
そもそも戦陣とは形ばかりのもので、連合諸侯の軍勢の誰ひとりとして、実際に洛陽へと弓矢を向けてはいないのだ。威嚇のために袁紹軍の兵が上げる喊声だけが、時折むなしく響いていた。
 洛陽は漢朝の都であり、天子の御座す所であることに違いはない。いざ包囲こそしてはみたものの、手を出せずにいるというのが連合軍の現状であった。使者を遣って、総大将の麗羽を筆頭とした連合諸将の連名で上奏し開門を求めつつ、董卓にも降伏を迫ってはいるが、いまのところ城内からは何の反応も返っては来ていない。

「―――――――!!! ―――――!!!」

 またも大喚声。やはり城門前に布陣する袁紹軍からだ。連合各軍が弛緩した空気にあるなか、袁紹軍だけは高い士気を維持し続けていた。それは、麗羽の人徳といっても良いのかもしれない。
 この滞陣がまったくの無駄というわけではないのも確かだった。洛陽は四方を完全に包囲されている。都だけに食料の貯えは十分だろうが、それも無限というわけではない。騎馬隊の奮戦によって相当数の兵力が洛陽に収容されたことも、今は裏目に出た格好だ。
 連合軍側の兵糧も底をつきかけていたが、洛陽を包囲したということは黄河の水上交通をも支配下に置いたということだ。袁家の二人が豊富な資金力を元に、半ば接収に近い形で食料をかき集めている。兵糧難もやがては解消されるだろう。

「大戦の終幕だというのに、空しいものね」

 呟いた言葉に、返す者はいなかった。
 戦況に動きがあったのは、翌日のことである。

「逃げたい者には逃げさせておけばいいのですわ。天子と都に平穏をもたらすことこそ私たちの為すべきことですわ。いたずらに乱を広げるものではありませんことよ、華琳さん」

「今この状況で軍の体裁を保ちつつ逃れ得たということは、そこに董卓がいた可能性が高いわ。此度の争乱の元凶を野放しにしておいて、なんの平穏か」

 東西南の三門に配置された諸将の軍は突如出撃した敵に容易く突破されたうえ、開いた城門を確保することも出来なかったという。加えて、追撃すらもしてはいない。この場を離れては、入城して天子に拝謁賜わる機を失しかねないとでも思っているのか。
 漢朝にすでに力無いと見限り、独自の力を溜めこみ始めていた諸将達も、実際に洛陽まで兵を進め、入城を間近とすると態度を一変させていた。それも四百年続いた王朝の底力と言って良いものかもしれない。
 悠長に開かれた軍議でも、城門を押さえられなかった諸将の非は責めても、追撃の是非など問題にもしていない。

「董卓が如き小人、都と天子を失ってしまえば何程のものでもありませんわ。捨て置きなさい。あまり小事に拘っていては器が知れますわよ、華琳さん。それよりも、董卓が洛陽を捨てたとなればいよいよ開門は近いですわ。皆さん、入城について話し合いたいのではなくって?」

「……麗羽、わずか数百騎に本陣を落とされかけたと聞いたけれど、まさか臆しているのではないでしょうね?」

「な、なんですって!! 華琳さん、口が過ぎましてよ!」

 麗羽がいきり立つ程に、華琳は冷めていく自分を感じた。

「……失礼するわ。戦う意思が無いというのなら、軍議などいくら開いたところで無意味でしょう」

 言い捨て、幕舎を後にした。背後で麗羽が何事かを声高に叫んでいるが、気にも留めなかった。

「全軍、陣を払え! 我が軍は洛陽より逃れた敵軍に追撃を掛ける!」

 曹操軍の本営に戻るや、華琳は言い放った。将兵が慌ただしく動き始める。
 やはり、董卓はここで討ち取っておくべきだ。
 確かに四代にわたって三公を輩出した漢朝きっての名門である袁家と比べれば、その地力は吹けば飛ぶようなものかもしれない。しかし、その微々たる力でもって一時とはいえ天下の主宰者になったという事実はゆるぎない。けっして予断を許せる相手ではないのだ。
 陣払いを始めたのは曹操軍だけのようだった。軍議の席では、孫策などはすぐにも追撃に出て行きたそうな顔をしていたが、客将の身故に自前の兵糧はほとんど尽きたような状況にある。劉備は天子の身を慮って、その無事を確認するまでは兵を動かす気はなさそうだ。孫策と同じく兵糧に苦しめられてもいるだろう。

「華琳様、出陣の準備が整いました。包囲を抜いた敵軍は三隊。何れの隊を追撃しますか?」

 軍議の間からずっと側に控えていた桂花が口を開いた。
 脱出した兵の情報はほぼ正確に掴めている。
 西門と東門から脱した二隊には騎兵中心の編成で、それぞれ真紅の呂騎と紺碧の張旗が翻っていたという。呂奉先と張文遠の率いる軍勢と見て良いだろう。残る南門の一隊の旗印は李と郭の二つ。歩兵中心で兵力も一番少なく一千程度、率いるは李傕と郭汜という涼州時代からの董卓軍の将であろう。
 董卓は騎射を良くすると聞くから、騎兵中心の軍勢に紛れたと考えるべきか。あるいは子飼いの武将である李傕らを自らの護衛としているのか。
 少勢はそれが本命であることを隠そうとする心算とも考えられるが、逆にそう思わせての捨て駒としての数とも考えられる。一千の集団の先頭を駆けて連合軍の陣形を断ち割ったのは、白馬を駆る将だったという報告もあった。
どちらにせよ、兵力的に後を追えるのはいずれか一隊だけだろう。

「―――決めたわ」

 総大将の麗羽には許可を得ず、追撃に出ると使者に言わせただけだ。それでも何も言ってこないところを見ると、好きにしろということらしい。

「全軍、私に続きなさい! 狙うは敵首魁董卓の首のみ! 我らの本懐を忘れるな!」

 倦んだ戦場の空気を吹き飛ばすように、華琳は声を張り上げた。





 斥候が背後に迫る敵軍を捕捉したのは、函谷関まであと十数里を残すばかりという頃だった。

「曹仁。騎馬隊を貴方に預けるわ。……戦える?」

「ああ、もちろんだ」

 この隊に含まれる騎馬隊はただ一組、董卓の旗本の精鋭百騎だけだ。あとは、天子の供回りの数騎だけである。旗本の騎馬隊を曹仁に預けるというのは信頼の証とも取れるし、逆に裏切りに対する保険とも取れる。
 敵軍の旗印には“曹”。華琳の軍勢であった。

「……それじゃあ、ボク達は行くわ」

 天子の輿は李傕ら歩兵部隊に守られて進み、賈駆と董卓は数騎の騎兵のみを伴って先行する手筈となっていた。うまくすれば恋や霞の軍と合流できるだろう。
 視線をやると董卓は、斥候の報告も聞かず、曹仁と賈駆の会話にも加わらずに、少し離れたところで手綱を手にうつむいている。

「月は優しいから」

 視線から何か感じたのか、賈駆はそう言い残して董卓の元へと馬を駆け出した。その口調は言い訳でもするようにも、曹仁を責めているようにも聞こえた。

「……“張”旗を掲げよ」

 一刻としないうちに、敵兵の上げる砂塵がはっきりと視界に入ってきた。
 曹仁の言葉に旗手は、弾かれたように動いた。百騎はいずれも洛陽で董卓の護衛に当たっていた兵達で、反董卓連合との戦いでは直接敵軍と干戈を交えてはいない。この旗持ちの兵だけが、常に照と共にあった。
 旗竿に、董旗に代わって真新しい旗布が取り付けられる。白地に金縁の黒字で“張”。

「……張、繍。……照」

 小さくささやいた。
 今はただ、それを己が名として、この旗を己が印として、この騎馬隊を己が手足として戦おう。
 正面。騎馬隊のみの五百騎余りが距離を置いて動きを止めていた。陽光を鈍く照り返す馬鎧をまとった重騎兵二百騎ほどだけが進み出た。二百だけで勝負をするつもりなのか、そのまま他の騎兵は残し、早足でこちらへと詰めてくる。
 重騎兵に囲まれるようにして、わずかに軽騎兵が二、三十騎。その中心に華琳や蘭々、春蘭の姿が見える。
 二百騎が少しずつ足を速めていく。陣形は小さくまとまった楔形。重騎兵突撃。およそ野戦においては最も高い攻撃力を有する戦法だ。ただ、機動力に勝る軽騎兵を相手に原野戦で用いるものではない。華琳が、そのような愚策を取るとも思われない。何か考えがあるはずだ。
 百騎を、駆け出させた。さすがに白鵠の脚にもほとんど遅れずに付いてくる。見る間に重騎兵二百騎との距離が詰まる。正面からぶつかれば、兵種の違いと兵力の差は覆しようが無い。まずは様子見に横をすり抜けた。すり抜け様に、数騎槍で突き落とす。重騎兵は特に備えもない様子で、横合いからの攻撃に曝されている。
 反転した。重騎兵は、やはり幾分動きが鈍い。あるいは並の騎馬隊が相手ならばそれで問題無いのかも知れない。しかし、この百騎は照が手塩にかけて育て上げた古今無双の騎馬隊だ。反転する際の、本来ほんの僅かな遅れが、致命的なものとなる。
 並ぶものの無い騎馬隊だという認識は、ほんの一駆け率いただけで確信に変わっていた。百騎全てが足だけで馬を御していて、反転する時ですら手綱に手を伸ばしてはいない。それで、常に両手は槍に添えられている。騎馬隊同士の戦いで、負けるはずはないのだ。
 駈け出した。距離が詰まる。重騎兵は、まだこちらを向き直ったばかりだった。華琳が何も非凡なところを見せなければ、これで終わりだ。
 重騎兵が、いくつもの小隊に分かれて横に広がった。

―――拍子抜けだな。

 それで、この騎馬隊を阻めるつもりなのか。ひとまとめに使ってこその重騎兵。小隊規模ならば、機動力を武器に各個撃破は難しい事ではない。
 すり抜け、反転して追い散らす。照がそうしていたように、手振りだけで百騎にそれを伝えた。曹仁の慣れない手つきにも、百騎は弾かれたように散った。一見、ただばらばらに駆けているだけの形。しかし、指示が飛べば五騎にも十騎にも、それ以上にも即座にまとまることが可能な構えだ。
 ぶつかる直前、五騎ずつにまとまっていた重騎兵がさらに一騎ずつに分かれた。それでも、すり抜ける隙間はいくらでもある。なにも問題は無かった。むしろ、連携の弱い一騎ずつならば、馳せ違い様にいくらでも撃ち落とすことが可能だ。
 騎兵と騎兵の間。すり抜ける。槍を繰り出そうとした瞬間、視界の片すみに何かを捉えた。

「―――っ!!」

 確認しようと視線を走らせた直後、視界が大きく揺れた。白鵠が跳んでいた。ほとんど敵騎兵の頭上を飛び越える様な、大きな跳躍。着地の衝撃と共に、何かがぶつかり合う音と馬の嘶き、兵の怒号が、曹仁の耳を襲った。
 振り返る。あとには、ただの一騎の騎兵も続いては来なかった。





「月、平気?」

「うん。詠ちゃんこそ、辛くはない?」

 頬を上気させながら月が返した。荒れた呼吸を悟られまいと、必死に押し殺していることが詠には解り過ぎるほどによく解る。

「ボクなら心配しないで。騎兵と一緒に動き回るのには、月よりも慣れているから」

 馬が潰れかねない、そんなぎりぎりの速度で駆けていた。
洛陽から函谷関までは三百里ほども離れている。騎兵のみで三日、歩兵がいれば六日の行軍距離だが、天子の御親征となれば十日を切れれば良い方だろう。函谷関を抜けてから長安まではさらに六百里あるから、一ヶ月の行軍すら覚悟の上であった。
 実際には進軍はここまで極めて順調で、通常の行軍速度をも上回る五日で駆け通している。それだけに、わずかに周囲への警戒が甘くなっていたことは否めなかった。

「曹仁さんは大丈夫かな?」

「大丈夫でしょ。皇甫嵩に鍛えられただけあって、あれで用兵はなかなかのものだし。たとえ “どこの”軍勢が相手であっても、そう簡単に後れを取るものではないわ」

「……うん、そうだよね」

 不安げな表情は隠し切れていない。親しい者たちの死が、月をこれまで以上に弱気にしていた。
 同じことは詠にも言える。一人残された自分が月を守らなければならない、という思いが辛うじて両の足を支え、軍師と言う立ち位置に詠を押し上げているのだった。

「ここで暗い顔をしていても仕方ないわ。心配なら少しでも急いで、函谷関に到りましょう。呂布や張遼がすでに到着していて、援軍を送れるかもしれないのだから」

「……うん」

 函谷関は随分前から視界に収まっていた。旗が立てられているのも薄らとだが見える。ただ、そこに描かれた文字までは読み取ることが出来なかった。斥候を出す余裕はなかったし、この速度で駆けていてはあまり意味があるとも思えない。呂や張の字を求めて目を凝らしてみるが、視力に難のある詠が月や兵より先に見て取ることはないだろう。

「今はただ祈るばかりね」

 詠の口から、覚えず軍師らしくもない言葉がもれた。





「輜重車のために作った物の流用、急ごしらえにしては良い出来でしょう?」

「……華琳」

 先の決戦において、連合軍が鎖で連結させた輜重車を用いたことは聞き及んでいた。何故、気付かなかったのか。
 後悔に苛まれる曹仁に、華琳がただ一騎進み寄る。

「連環馬、とでも名付けましょうか。元は、あなたが劉備の義勇軍に取り立てたという龐統の発案から来たものよ。まさか、卑怯だとは言わないでしょう?」

 重騎兵の馬鎧が鉄鎖で繋ぎ合わされていた。騎馬隊は、そこにまともに突っ込んだのだ。
 無双の騎兵達が、馬から投げ出され地面に身を伏している。衝突を免れた者も、重騎兵と鉄鎖に囲い込まれ身動きが取れずにいる。馬から降りればまだ戦えるだろうが、それでは兵力差を前に一刻と待たずに覆滅されるだけだ。そこはさすがに各々が部隊を率いてもおかしくは無いほどに高い判断力を持つ兵達を集めた騎馬隊だけあって、下手な抵抗はせずにじっと機をうかがっている。

「……まだやるつもり? あなたにすでに兵は無く、もはや勝敗は決しているのよ」

 静かに槍を構え直した曹仁に、華琳が呆れたように言った。

「それでも、ここで俺が退くわけにもいかないんでな」

 華琳を捕らえ質とする。それ以外にこの急場をしのぐ手は思いつかなかった。図らずも、彼女の方からこちらへ突出してくれている。
 言葉を交わしながらも、曹仁はじりじりと華琳との間合いを詰めた。
 華琳の手にした大鎌。昔から得物を選ばずその天才を遺憾無く発揮してきた華琳であるが、特にこうした癖の強い武器の扱いは得意としていた。時を掛ければ兵が集まって来る。数合の内に制さなければならない。

「そう。ならば私と剣を交える前に、先に果たすべき約定があったはずよね。―――春蘭!」

「はっ!」

 華琳の後方、声のした方に視線を走らせた。
 一騎が進み出る。春蘭。失われた左眼は、蝶を模した眼帯で隠されていた。

「今度こそ勝負を決するぞ、仁」

「……ああ」

 好都合だった。無理に勝ちにいかない、そういう戦い方に徹すれば春蘭相手にも長く持ちこたえることが出来ることは、先の戦闘で実証済みである。元より殿軍の目的は足止め。兵を解放出来ずとも、ここに軍勢を留めることが出来ればそれで良いのだ。

「わたしが勝てば我らの元に戻る、それもいいな?」

「ああ、春姉が俺に勝てるならな」

「わたしがお前に負けるはずが無かろう!」

 春蘭が馬を駆り立てた。出鼻をくじくように、曹仁は突きを見舞った。
 一瞬、突き出した槍に軽い抵抗を感じた。直後、今度は槍が重さを失っていた。
 白鵠が、大きく飛び退いて春蘭の大剣の間合いを外す。

「―――っ、そんな!?」

「どうした、そんなに驚いて? この程度のこと、このわたしならやって当然だろう」

 突きにいった曹仁の槍が春蘭の大剣に断たれていた。斬ったのは柄の中ほど、木で出来た部分ではあるが、曹仁が絶対の自信を持つ繰り突きに合わせてである。それも、元々春蘭は曹仁に対して峰を向けて大剣を構えていた。咄嗟に剣を返した上で、槍を狙いにきたということだ。常軌を逸した技量としか言いようがない。

「前に戦った時はこんな芸当見せずに、存外苦戦していたじゃないか」

「華琳様の御前だ、前回のような無様は晒せん」

「なるほど、華琳が見ているからか。納得し難い理屈だが、春姉が言うと不思議と当然のことと思えるな」

「ふふん。さあ、どうする?」

「……仕方ないな」

 小さく呟いて、ただの棒と成り果てた槍を投げ捨てた。

「ようやく負けを認める気になったか」

「まさか」

 言って、曹仁は腰に差した小刀を抜き放った。

「そんなものでわたしの相手をするつもりか」

「長さも穂も失った槍で戦うよりは、いくらかましだろう?」

 半ばほどより断たれた槍の間合いは、もはや春蘭の大剣と変わりない。同じ間合いで打ち合って、春蘭に勝てるとは思えなかった。

「見苦しいわよ、仁」

 華琳が馬を寄せ、口を挟んだ。

「そんなことは俺が一番わかっているさ。それでもここで退くわけにはいかないんでな」

「これが、あなたにとってそこまでしなければならない程の戦なのか、それを考えた上で言っているのかしら?」

「ああ。他人の戦、そう思ってはいたが、託されたまま死なれちまったからな。ここが、この戦場が、俺のつまらない意地の張りどころだ」

「……ならば精々無様を晒すことね。春蘭、ここがこの子の戦場だというのなら、
遠慮はいらないわ。痛めつけてやりなさい」

 冷えた声で言うと、華琳は馬首を返した。
 春蘭が手にする大剣―――七星餓狼を相手取るには如何にも頼りない小刀を、曹仁は握り締めた。










*雍州について
 雍州はこの当時涼州の一部であり、涼州から四郡が分割されて雍州が制定されるのは194年(群雄としての曹操と呂布が最初に戦った年)のことになります。その後も涼州の方が雍州に併合されたり、地名と地域が入れ替わったりと、非常に分り難い変更が繰り返されます。
 当作品では分りやすさを優先して、三国志読者に一般的にイメージされているだろう、洛陽のある司州の西隣に雍州(州都は長安)、そのさらに西に涼州という形を採用させて頂いています。





[7800] 第3章 第10話 董卓 下
Name: ケン◆f5878f4b ID:c769d09e
Date: 2011/04/29 12:17
「この屋敷に全員が揃うのは、随分と久しぶりだな」

 曹仁の言葉に、皇甫嵩は無言で頷き返した。
 洛陽に構えた皇甫嵩の屋敷、その大広間に住人全員が集っている。
 奏上の返書待ちで動けない包囲軍をよそに、皇甫嵩達は久しぶりの帰宅を果たしていた。皇甫嵩を筆頭に、呂布、張遼、曹仁、おまけに陳宮と、今や董卓軍の主力と言っていい将が揃っている。

「まったくだよ」

 高順が、拗ねたような調子で言った。

「留守の間、よく屋敷を守ってくれた、高順。もう少し荒れているものだと思っていたが、戦に出る前と何も変わっておらん」

「そっちのチビが良くて、何で俺が戦に出たら駄目だったのか。いまだに納得出来ないな」

「誰がチビですか!」

 労いの言葉を掛けるも、やはり高順は不満気な様子だ。音々音の抗議もどこ吹く風と、恨めしげな視線を皇甫嵩へと向ける。

「その点に関しては、曹仁に文句を言ってくれ。あれをお前の教育係とした以上、許可なく戦場に連れ出すわけにもいかん」

「音々音は見た目はこんなでも一応戦場を経験してきているからな。―――っと、調練を見学しただけの順とは違うさ」

 矛先を移した音々音をいつも通り軽くあしらいながら、曹仁が言った。顎先目掛けて蹴り上げにいった足首を掴まれ、音々音が宙吊りにされるのもいつも通りの光景だ。

「今日は白か」

「白? 何のことですか。――――!」

 音々音がぱっと、下衣―――足の付け根ぎりぎりの丈しかない―――を押さえつける様にして身を竦めた。恨めしげに曹仁は睨む。

「今日は!? 今日はって言いましたね?」

「……それで順、お前はどうするか決めたか?」

 一瞬、しまったという表情を浮かべた曹仁が、真面目な顔で話を進めた。拘束を振りほどいて器用に着地した音々音が罵声を浴びせるも、完全に無視している。

「ああ、恋さんに付いていくことにするよ、仁兄」

「……そうか」

 曹仁は、高順に洛陽に残ってもらいたいと考えているようだった。
 大義を掲げた連合軍が、漢朝の都洛陽の住民に危害を加えるとは思えない。対して、天子を連れての遷都となれば、長安はすぐにも戦場となるだろう。高順には戦とは関わりのないところで育ってほしいというのが、曹仁の一貫した願いだった。

「これで洛陽に残るのは将軍だけ、ということになるな」

 皇甫嵩へと向き直って、曹仁が続けた。

「まあ、心配はしていない。敵総大将の麗羽さんには命一つの貸しがあるし、桃香さんや孫策殿が将軍を害そうとするとも思えない。こちらから事を荒立てない限り、危険はないだろう。それに、いざとなったら俺の名を出して曹操軍に頼ってくれても構わない。なんなら華琳宛てに書状の一つも書いておこうか? あんたならあいつにも気に入られる筈だ」

「お前の世話になるほど落ちぶれてはおらんわ」

 心配していないと口にしつつも、まくし立てるように言いつのる曹仁を皇甫嵩は苦笑交じりに制した。

「そんなことより、早く飯の仕度をしてくれ。この屋敷に六人がそろうのは、これが最後となろう。腕によりをかけて頼む」

「……わかったよ」

 呆れたように返し、曹仁は厨房へと続く戸口に足を向けた。

「仁兄、俺も手伝うよ」

「この変態! 逃げるなです!」

 助力を買って出た高順が、罵声を浴びせながら音々音が、その後に続く。

「……ごはん」

「ウチも酒でももろうて来よ」

 それぞれの欲望に導かれるように、恋と霞もふらふらと歩き出した。

「ふふっ、私も行くとするか」

 五人の背を追って、皇甫嵩も足を踏み出した。





「―――皇甫嵩将軍」

「うん? ……ああ、なんだ?」

「準備が整ったようです」

 兵の言葉に、皇甫嵩は熱に浮かされたような頭をいくつか振った。虎牢関で手傷を負って以来、朦朧とした波間に思考が漂うことがしばしあった。

「では、手筈通りに取り掛かれ」

 四方の城門に向けて、兵が駆けて出していく。開門を命じる伝令だ。
城外に滞陣し続ける連合軍との間の緊張が高まっていた。返書も待たずに再度送り込まれた上奏書の内容も、最後通告に近いものとなっている。これ以上の引き延ばしは不可能だった。
 兵には、すでに武器を捨て抵抗を止めるように伝えてあった。元々、董卓軍の主力が洛陽から脱したことで、一戦を交えるだけの士気は残されていない。

「お前達も、降るならば今だぞ」

 皇甫嵩は、旗下の一千にも満たない兵に告げた。
兵一人一人に語りかけるように、同じことを繰り返し告げる。去る者はいない。
 残る兵は、官軍と言っても涼州で異民族を相手にしていた頃から数々の戦を共にしてきた兵達である。ほとんど皇甫嵩の私兵と言っていい者達だった。

「では、もう少しだけ弟子達の手助けをしてやるとするか」

 皇甫嵩は宮中深く兵を入れた。反董卓連合の欲しているものは、都と天子が第一で、文言はどうあれ董卓の首は二の次三の次であろう。適当な離宮の一角に立て篭もってそれらしい動きを見せてやれば、天子をそこに囲っていると思わせることも出来るだろう。

「やれやれ、この私が、一刻と持つとも思えぬ時間稼ぎに命を張ることになろうとわな」

弟子達に与えるわずか一刻のための命。敗軍の将なれば、それも妥当というものだろう。

「それでは、最後の戦を始めるぞ」





 上段からの七星餓狼の一撃を、曹仁は蹄一つ分だけ下がって透かした。馬術、なにより馬の差は歴然としている。白鵠が後肢に蓄えた力を一気に爆発させて、小刀の間合いまで踏み込んだ。
 突き込んだ小刀を、春蘭は上体の動きだけでかわした。
 間合いを詰めてからも、白鵠の動きは止まらない。常に相手の馬の尻側に回り込む動きで、春蘭の連撃を妨げる。

「ふっっ!」

 二つ、三つと小刀を繰り出す。馬上から、ほとんど身を乗り出すようにして春蘭が避ける。掠めもしないが、春蘭の反応の良さに馬が付いていけていない。

「―――っ!」

 息が詰まった。白鵠が飛び退って距離を取る。
 手綱を片手に大きく仰け反った体勢から、春蘭が右手一つで振るった大剣が曹仁の脇を打った。こうして打たれた回数は、すでに片手の指には収まりきらないほどとなっていた。
 具足の上からの峰打ち。それも小刀の間合いに踏み込んでからの斬撃だから、大剣の根元近くで打たれただけだ。それでも春蘭という天性の武人の一振り一振りは、具足を貫いて身体の芯まで響いた。
 絞り出すように強引に息を吐くと、鉄の匂いが鼻をついた。

「どうした、仁? 顔色が悪いぞ。……いい加減降る気にはならんのか?」

 戦闘の高揚に昂った春蘭の口調が、言葉を継ぐほどに沈んでいく。うっすらと上気した顔も、不安げに歪んだ。

―――くそっ、無様だ。

 峰打ちという情けを掛けられて、その上この身を案じられるとは。
 春蘭の背後では蘭々も顔を曇らせている。その隣で華琳が、不快気に眉をひそめた。

「くっ、いくぞっ!」

「―――待ちなさい、仁!」

「っ!? ……俺と春姉の一騎討ちじゃなかったのか?」

 華琳が馬を進めていた。有無を言わせぬ威に、曹仁は覚えず踏み出しかけた白鵠の脚をとめた。

「貴方ね、もうわかっているのでしょう? これ以上続けたところで勝ち目はないって。いや、勝ち目がないどころか、本当ならこの半刻ほどの内に、何度貴方の体は両断されたことか」

 峰打ちでなければ、あるいは峰を向けていたところで春蘭が本気で振り抜けば、具足など何の意味も成さない。それは、最初に打たれた衝撃から身に染みてわかっていた。それでも、みっともなくも情けにすがって戦い続けてきたのだ。

「……もういいでしょう? 貴方は十分戦ったわ。董卓軍に対する義理は果たしたわよ」

 一転、幼子でもあやす様に、いっそ優しげに華琳が言う。顔には、一緒に暮らしていた頃でさえ見たことのない、柔らかな表情が浮かんだ。
 虚を突かれ何も言えずにいる曹仁に、華琳はさらに言葉を続ける。

「さあ、もう帰っていらっしゃい。いつまでも私達を困らせるんじゃないの」

 両手を広げ、華琳が馬を寄せた。すでに春蘭と並び、曹仁と対峙する位置まで来ている。

「―――っく。……敵の間合いに、ずいぶんと不用意に踏み込んでくるじゃないか」

 膝を屈しそうになる自分自身に突き立てるように、曹仁は短刀の切っ先を真っ直ぐ華琳に向けた。

「……あなたね、いい加減になさい。春蘭の情けにすがって、いつまでも」

「無様を晒せ、そう言ったのはお前だろう?」

「厚顔無恥にも、程というものがあるわ」

「承知の上だ」

 視線が絡んだ。華琳の瞳から徐々に温もりが失せていくのを、曹仁ははっきりと感じた。

「春蘭、もういいわ、貴方は下がりなさい。貴方にはこれ以上仁は打てないでしょう」

「それでは、華琳様」

「―――どうあっても負けを認めぬというのなら、私が始末をつける」

 春蘭の一瞬安堵に緩んだ表情が、驚愕で固まる。
 華琳が、馬鞍にすえつけられた大鎌を手にした。曹仁に向けられた視線に、先刻までの親愛の情のようなものは微塵も感じられない。
 まるで敵でも見る様な目だ。否、それで間違ってはいないのだ。曹仁は心中ひとりごちた。

「お待ちください、華琳様! 必ずやわたしが打ち負かし、華琳様の足下へ引きずり倒して御覧に入れますから」

「華琳様、それは駄目です! ほらっ、兄貴も意地を張ってないで、はやく華琳様に謝って!」

 春蘭が華琳に追いすがり、後方で控えていた蘭々も馬を駆り立て曹仁との間に割って入った。

「春蘭、蘭々、下がりなさい! 」

「―――華琳様!」

「桂花? まさか貴方まで私を止めるつもり?」

「まさか。そんな男がどうなったところで私の知ったことではありません。そうではなく、あれを御覧下さい。何か来ます」

 後方から駆け寄って来た見知らぬ少女が、一瞬だけ蔑むような目を曹仁に向けて言った。すぐに逸らした視線と共に彼女が指差すのは、曹仁の脇を抜けその遥か後方である。
 地平線を、小さな砂塵が乱していた。





「しかし、負けたな」

 皇甫嵩は、誰に聞かせるともなく呟いた。無聊から、覚えず口を衝いて出た言葉だった。
 離宮にこもっての徹底抗戦である。兵の配置を決め、一度命令を下してしまえば、もう皇甫嵩にやれることはほとんどなかった。皇甫嵩自身は離宮の最奥の一室に陣取り、居もしない帝を囲うという形を作り上げている。後は、各人の奮戦あるのみだ。
 することがなくなると、自然と戦に思考が流れるのは、もはや職業病と言っていい。
 最初の敗戦。汜水関では、無謀な突出に挑もうという華雄と、彼女に従った兵達を御しきれなかったことが敗因だった。しかし皇甫嵩は、軍人としての自身の在り方に殉じようという華雄を止める気には到底なれなかったのだ。
 虎牢関では、元々の官軍と董卓軍の不和が最悪の形で暴発していた。兵の心も掌握しきれず、それで官軍第一の将などとは笑えない話である。
 最後の決戦。孫伯符に曹孟徳。若き二人の軍才。形振り構わぬ果敢な戦をする。今にして思えば、まともに取り合わず、いなして連合軍本陣の陥落を待つことも出来た。無謀無策で迫る異民族を相手に、幾度となくそうした戦を経験してきたのだ。だが、あの時は若い二人の戦に、老練な戦で返そうなどとは思考の片隅に浮かびもしなかった。それも含めて、つまりは完敗ということだ。

「……敗軍の将か」

 皇甫嵩は、そっと右肩の包帯に触れた。
 常に傷口を清潔に保つようにと、何度も言い残していったのは曹仁で、この包帯を巻いたのもその曹仁だった。五日前に出立を控えた曹仁が最後に包帯を変えてより、皇甫嵩は傷のことを忘れた。いや、曹仁に頼まれて、毎日決まった時刻にやってくる医人も、適当な理由をつけて追い返している。見て見ぬ振りをしたというのが正しいのだろう。

「―――! ―――! ―――!」

 離宮内に敵の侵入を許したと報告があってから半刻ほども経ったろうか。兵の怒号が近付いていた。ここまで強硬に抗っては、助命も望めぬだろう。それも、天子を匿っていると謀ってのことなのだ。連合軍の恨みを買ってしかるべきだった。
 自分が戦場で死ぬ。思いもしないことだった。しかし、不思議と今この時に至って、それを肯んじる自分がいた。不自由を残すかもしれない右肩の傷が気にならないのも、そのためかもしれない。

「戦場での死か。これではまるで―――」

 張奐様のようだ、と続けようとして皇甫嵩ははっと気付いた。
 死地におもむこうという華雄を見過ごし、賭けのような策を実行し、無策に正面からぶつかり合った。どこか自分は戦場での死、軍人としての死を肯定し、切望してしまってはいなかったか。

「あの時、すでにこの胸に楔が穿たれていたか」

 喚声がすぐそこまで迫っていた。そこに、この戦の間にすっかり聞き慣れてしまった高笑いを、皇甫嵩の耳は捉えた。帝に一番乗りを主張したいのか、突出して必要以上に声を張り上げているようだ。

「あの日奴らから救った者に討たれるというのは、何の因果か」

 室内に踏み込む兵を見ながら、皇甫嵩はひとりごちた。





「あなたが董卓? 伝え聞いた話とはずいぶんと印象が違うわね」

 騎兵の扱いに長け、自身も騎射をよくする軍人。縦横に策を巡らす謀略家。
 伝え聞いた話とは、だいたいがその様なものだろう。そんなものは、張繍の武功と賈駆の知謀が合わさって生まれた虚像に過ぎなかった。

「何のつもりだ、賈駆姉さん?」

 すぐ隣まで馬を寄せてきた賈駆に、曹仁は小声でささやいた。意外な闖入者の姿に驚いているのは、曹仁も同じである。

「函谷関にはすでに曹旗が翻っていたわ」

「―――ああ」

 曹仁は眼前の敵軍の中に、秋蘭―――夏侯淵の姿が見えないことに思い至った。
 そうと考えてみれば、騎馬隊のみで追撃を掛けてきたにしては、追いつかれるのが遅すぎだった。途中、函谷関を抜けるというこちらの意図を察して軍を二つに分けたのだろう。一隊を秋蘭に任せ、函谷関の確保に向かわせたのだ。秋蘭の行軍が尋常でなく速いという話は、黄巾賊鎮圧の折よりよく聞こえていた。追いつかれたというよりも、こちらの方が罠に飛び込んだというのが実情に近かった。華琳率いる騎馬隊のみの本隊は、さぞや悠々とした行軍であったろう。

「しかし、だからといってここまで戻ってくることはないだろう、あんたらしくもない。恋達との合流を計るなり、他にやり様があったはずだ」

「……月は優しいから」

 華琳と対峙する董卓を横目に、賈駆は諦めたように首を振った。

「またそれか。いったい何が言いた―――」

「―――家族同士で殺し合うなんて、いけません」

 董卓が華琳へ向けて真っ直ぐに言ってのけた。華琳は毒気を抜かれた表情で呆然としている。

「……そういうことか」

 曹仁は、初めて董卓という人間を知った気がした。
 旗本の騎馬隊を率いて残ったから、死んだ幼馴染と曹仁を重ね合わせた。それもあるだろう。どうせ助かりはしないという、多少捨て鉢な思いもあるかもしれない。だが、本質はまったく別のところにある。
 月は優しい。賈駆の言葉が、すとんと曹仁の胸の奥に落ちた。そう、優しいのだ、董卓は。
 函谷関に曹旗が翻っていた。賈駆はそう言った。それは単に退路を閉ざされたということだけを示しているわけではなかったのだ。思えば、殿軍に残る曹仁と賈駆の話し合いから離れた様にしていたのもそのためだろう。追手が曹操軍だという事を伏せるために、賈駆があえて董卓を遠ざけたのだ。

「くっ、ふっ、あっははははっ!」

 堪え切れない、というように華琳が笑声を上げた。

「それを董仲穎、魔王と恐れられるあなたが言うとはね」

 なおもくつくつと笑いながら、いくぶん厳しい口調で華琳が続ける。

「殺し合うというなら、先の決戦でだって春蘭と仁は剣を交えているし、騎馬隊で駆け回っていた時にだってぶつかり合う可能性はいくらでもあったわ」

「……曹仁さんとの戦いで、夏侯惇さんが傷を負った話は聞いています。それは、私がどんなに謝っても償いきれるものではありません。同時に私の仲間も、たくさん命を落としました。兵は、それこそ数え切れないぐらいに。だから、もうこんな争いは終わりにしたいんです」

 照の死に、ただ悲しみに耽っているだけだと思っていた。状況もわきまえずにいつまで沈んでいると、曹仁は苦々しく思ってすらいたのだ。そんな自分を、曹仁は恥じるしかなかった。
 誰もが戦に追われ目の前の悲劇から目を逸らしていた。そんななか、この魔王と呼ばれた少女だけが、同胞の死を悼み、兵の死を嘆き、あまつさえ客将の身内というだけで敵将の負傷にまで心を砕いている。

「ふん、甘いわね。貴方が降りれば、確かにこの戦は終わるでしょう。それでも、乱世は終わらないわ。誰かが天下を定めない限りね。傷付き死んでいった者達がいるならば彼らを背負い、いち早くこの戦乱の世を終結に導く。乱世に一度立った以上、それぐらいの強さを持たなくてどうする」

「それは……」

 華琳の言うことも決して間違いではない。いや、それこそが正しいのだ。董卓も、すぐには言葉を返せずにいる。彼女の語る倫理観は、あくまで太平の世でこそ通用するものだ。乱世を生き抜くだけの強さが、董卓には欠けている。それはきっと、賈駆と照が爪牙となって肩代わりしてきたものだった。今は牙は折れ、爪を残すのみだ。

「だけど、私は、曹仁さんと貴方達には戦って欲しくないんです。甘えた考えだと言われても、戦うべきではない、と思います」

 董卓は、この一見儚げな少女は、やはりまっすぐ華琳を見つめて言った。
 強くはない。それでも、この戦乱の世にあってなお治世における人の優しさを失わずにいる董卓を、誰が弱いだなどと断じ得ようか。乱世だからと、誰もが甘えと切り捨ててきた優しさが、この少女の中にはただ優しさのままにある。

「……あなた、賈文和と言ったかしら。董卓の軍師で間違いないわね?」

 華琳がじっと董卓に注ぎ込んでいた視線を、曹仁に寄り添うようにして控える賈駆へと転じた。

「函谷関を封じられたと知って、ただ闇雲に逃げ回るよりは仁を庇う形で姿を現した方が助かる公算が大きいと、そこまで考えたのかしら」

「っ、それは」

「ふふん、それで正解よ。当然、関だけでなく周辺にも兵は配してあるわ。護衛もない貴方達に、逃げ切れるものではない」

 色を失った賈駆の姿に、幾分満足気に華琳は続けた。

「そういう強かさは嫌いじゃないわ。今も、主君を案じながらも、いざとなれば仁を人質にとれる位置を動こうとしない」

 華琳が、皮肉気に笑った。一見脅しつけているようでもあるが、本心からの言葉であることが、曹仁にはわかる。
 賈駆は素直に恫喝ととったのか、顔を青くしながら、おずおずと口を開いた。

「……取り引きがしたいわ」

「取り引き? この状況下でまたずいぶんと強気なのね。まあ、聞くだけ聞きましょうか。言ってみなさい。この大戦の首謀者の首に見合うほどのものを提示出来るというのならね」

「天子」

「―――っ」

 華琳が息を呑み、目を大きく見開いた。彼女のこんな表情は珍しい。

「……ただ涼州に逃げ帰るというのだけではなかったのね」

「ええ、そうよ」

 華琳が、曹仁に目を向けた。視線が、あなたの考え出したことか、と問い掛けてくる。
 曹仁は一度大きく首を横にふって、賈駆に顎をやった。
 多岐にわたって傑出した才能を示す華琳だが、祖父は宮中に仕えた大宦官、母は三公にまで昇った官吏だ。漢人の発想からは易々と抜け出せるものではない。だからこそ、策の出所として異邦人である曹仁を疑ったのだろう。

「……すごい手を考えるものね。事がなれば、起死回生の一手とも成り得たわ」

 とはいえ、やはりさすがと言うべきか、わずか数瞬で長安遷都という賈駆の狙いまでを華琳は見抜いたようだった。

「でも“それ”は、函谷関を封鎖して半包囲を形成した現状を慮れば、自ずと我が手中に転がり込んでくるものではないかしら? 交渉の道具としては弱いわね」

「私達―――董卓の身の安全が確保されない場合、天子といえどもただの人質として扱うよう部下には申し渡してある」

「我々が無理に迫れば天子とあっても害すると?」

「我が軍の将兵は、雅やかな都の空気に育った連中とはわけが違うわ。辺境の無法者達相手に天子の威光が通用するものか、……試してみる?」

 賈駆は余裕有り気に笑おうとして、それは少し失敗していた。蒼白さを増す顔色からは、悲壮感すら漂っている。

「董卓、良い家臣を持ったものね」

「はい、詠ちゃんは、私なんかには勿体ない、すごい軍師です。―――ですから、きっと曹操さんのお役にも立てるはずです」

「月、何を言っているの?」

 賈駆が眉をひそめた。華琳が、ちょっと意外そうな表情で口を開く。

「ただ甘いだけ、というわけでもないようね。―――これほどの大事となってしまった以上、大乱の責任を誰かが取らねば治まらないわ」

「はい。わかっています」

「貴方には、ここで死んでもらわなければならないわね」

「その代わり、天子様と引き換えに詠ちゃんの命は」

「わかっているわ」

 華琳が大鎌―――絶を構えた。
 すでに覚悟を決めていたのか、一瞬びくりとふるえただけで、董卓の身体からゆっくりと力が抜けていく。
 華琳が絶を振りかぶった。
 賈駆が、言葉にならない悲鳴を上げて、馬を駆り立てる。
 絶が振り抜かれた。董卓の冠が、薄絹をたなびかせ地に落ちた。

「……貴方を殺して、それで賈駆が私に仕えるとは思えないわ」

「―――ああ」

 華琳が苦笑交じりに言い、詠が感嘆の声をこぼす。
 落ちたのは、冠だけだった。

「―――賈文和。その才覚を惜しみましょう。今後は我が元でその才を振るいなさい。
―――董仲穎。貴方に出来ぬというのなら、この私が乱世を速やかに終結させよう。いずれ来る太平の世まで、我が元で生きることを許しましょう」

 華琳は高らかに宣言した。










洛陽編 終幕

「……それで? お前の元で生きるといって、ぜんたいどうするつもりなんだ? 董卓を助命するとなると、今度はお前が連合軍の目の敵とされかねないぞ」

 道すがら、曹仁は口を開いた。
 ひとまずは虎牢関の秋蘭と合流するため、進軍が開始されていた。武器を取り上げられただけで旗本の騎馬隊も解放され、馬の負傷が軽い者は共に移動している。

「もちろん正直に報告なんてしないわよ。さっきも言った通り、やはり董卓にはここで死んでもらわなくてわね」

「ちょっと、なによそれっ!」

「賈駆、少しは落ち着きなさい。まったく、董卓が絡むと思考が短絡的になるのね。……董卓、貴方にはここで名を捨ててもらうわ。相国董仲穎は洛陽を捨て再起を図るも、追撃に出た我が軍を前にあえなく果てた、そんな筋書きでどうかしら?」

「はい、曹操さんの考えに従います」

「ちょっと、月。そんな簡単に」

 事もなげに言ってのけた董卓に、慌てたのはまたも賈駆の方だった。
 祖先崇拝が信仰の根底にあるこの国では、名を捨てるというのは簡単なことではない。父祖の代から連綿と受け継がれてきた徳を放棄するに等しいのだ。

「親しい者は変わらず真名で呼ぶにしても、表向きの名はどうしましょうか」

 董卓が賈駆をなだめ終えるのを待って、華琳が言った。

「それなら―――」

 董卓と賈駆が同時に言い掛け、言いさした。代わりに、曹仁は口を開いた。

「ちょうど良いことに、名を残すことなく戦場に散った稀代の英傑の名にひとつ心当たりがある」

「へえ、言ってみなさい。董卓さえ気に入れば、採用しましょう」

「ああ、その名は―――」






[7800] 第4章 第1話 曹操軍
Name: ケン◆f5878f4b ID:c769d09e
Date: 2011/05/10 22:04
「仁! 仁! 曹仁はおらんか!?」

 聞き慣れた声が陣内に響いた。
 反董卓連合解散から、三月ほどが過ぎた。
 連合に尽力した諸将は権力の中枢に居座ることなく、州牧や太守に収まると各地に散って行った。
 一度は天子を手にした華琳が、董卓の二の舞を避け、ただ名声だけを手中に残して中央への執着を見せなかったためだ。華琳はかつて一度辞した陳留太守の肩書きを再任していた。総大将の麗羽が、それに対抗するように自身も州牧への赴任を望むと、他の者もそれに倣わざるを得なかった。
 それは漢室の権威の否定と、群雄割拠の時代の到来を意味していた。
 三月の間、曹仁は曹操軍の新任の将である韓浩の率いる部隊で、一兵卒として幾度となく戦場を駆け抜けていた。相手は、黄巾賊の残党がほとんどである。一度は収束を見せた黄巾賊の反乱が、また少しずつ活性化し始めていた。小規模な反乱や賊の横行は、もはや慢性的にこの国を蝕む病変となりつつある。
 曹操軍は陳留郡にこだわることなく、要請さえあれば兗州全域に出動した。州牧の劉岱は遠く皇族に列なり人望はあるが、軍事面での功績に乏しい人物である。反董卓連合にも参加しているが、目立った活躍は見られなかった。他の郡の太守も劉岱も、いざ戦となれば軍功重ね精強で知られる曹操軍に頼らざるを得ない。
 続く戦乱の中で、なかば請われ、なかば脅しとる様な形で華琳が州牧の地位を譲り受けたのは、つい先日のことである。太守と州牧は石高の上では同格であるが、乱世に覇を唱えようとする者にとっては、州牧の地位はより広大な地域を支配したことの証と言えた。元より華琳の陳留太守への再任は、兗州牧を狙っての布石であったのだろう。一州を手にしたことで、曹操軍の勢いはさらに増していた。

「いないはずがあるか! 早く呼んでこい!」

「そう言われましても、我が隊にそのような者はおりません」

「ええい、隠し立てするつもりか!?」

「韓浩様、春姉」

 呼び声を追って、曹仁は本営の幕舎へと足を踏み入れた。

「夏侯惇将軍と会話中だ。控えていろ、夏侯恩」

「―――仁!」

 春蘭が、韓洪を押し退けるようにして曹仁に駆け寄った。





 夏侯恩、というのが曹仁の一兵卒としての名であった。曹操軍にあって、曹家の天の御使い曹子孝を、ただの兵卒扱いできる将校や兵などがいるはずもないためだ。偽名を用いていることは、華琳はもちろん春蘭たち一族やそれに近しい者たちは皆知っているはずだった。

「まったく、韓浩の奴め。いつもいつも小難しいことばかり言いおって」

 韓浩が席を開けると、忌々しげに春蘭が呟いた。

「あの人、すごく優秀だぞ。定石通りの沈着な戦も出来るし、それでいて肝も座っているから兵の人望も厚いし。……だいたい春姉、俺が夏侯恩と名乗っていること、知っていたはずだよな?」

「そんなもの知るか。というか、なんであやつの肩を持つのだ」

「そんなつもりは無いけど。韓浩様は、前は春姉の副官だろう? 春姉が推薦したから将として取り立てられたって聞いたけど?」

 韓浩は元は春蘭の副官で、先の反董卓連合の解散後、独立した武将に取り立てられている。曹仁はその直属の部隊に配されていた。歩兵から初めて、すぐに韓浩の目に留まった。馬を扱えることを知られると、すぐに騎馬隊に配属され、今は百騎を従えるようになっている。これほど早く将校に引き上げられたのは、曹仁の能力というより、韓浩の見る目によるところが大きいだろう。

「うむ! あまりに口うるさいから、追い出してやったわ」

「……春姉の部隊が心配だ」

 春蘭には聞こえぬ小声で、曹仁は溢した。奔放な春蘭の元で、兵達が軍律厳しく保たれていたのも、彼女に負うところが大きかったのではないだろうか。

「しかし、あいつは見る目がないな。わたしなら今頃、お前を百人長などではなく、騎兵全隊の隊長にしているぞ」

「そこは慎重になったんだろう。志願してきたばかりの者に、急に重任を与えるなんて危険すぎるからな」

 騎馬隊を今の隊長よりもうまく扱う自信はあったし、韓浩もそう評価していただろう。だが、曹仁が間諜である可能性も考えただろうし、何より軍功を伴わない急な昇格は他の士気を損ないかねない。もう少し人となりを見て、相応の功績を挙げてからと考えていたのではないだろうか。

「なんだ、久しぶりに会ったというのに、韓浩の味方ばかりしおって。……ふん」

 春蘭が鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
 久しぶりに顔を見られてうれしいという思いは、曹仁も同じだった。華琳の命で、自分を甘やかさないようにと、春蘭が曹仁との接触を禁じられていることは伝えられていた。他の家族もそれは同様だし、牛金も今は蘭々の補佐に回されている。

「ごめん、春姉。久しぶりに頼れるお姉ちゃんに会ったものだから、俺も舞い上がってしまって、変に気を引くようなことを口走ってしまった」

「…………ふうん、そうか。なら仕方ないな」

 横を向いたまま、春蘭が幾分上擦った声で言った。
 我ながら適当な言い訳だったが、春蘭のつぼを突くことには成功したらしい。

「それで、春姉。今日は何の用だ?」

「ああ、肝心のことを忘れていた。華琳様がお前をお呼びだ」





「お呼びにより参上いたしました」

 春蘭の案内で城内の大広間に着くと、曹仁は殊勝な態度で頭を下げた。華琳は一段高くなったところの椅子に腰掛け、いつもの皮肉気な笑みを浮かべている。

「―――仁ちゃん!」

「っと、姉ちゃん、久しぶり」

 横からの衝撃に倒れかけた身体を、曹仁は何とか支えた。
 長い髪が鼻をくすぐり、豊満な胸が腕に押し付けられる。幸蘭―――曹洪が、曹仁に身をもたせ掛けていた。幾度かの邂逅はあったがいずれも戦塵の最中であり、こうして常の場で会うのは実に久しぶりのことであった。

「あらあら、少し背が伸びましたか、仁ちゃん?」

 色素の薄い幸蘭の髪が、光を反射して金色に近い輝きを放った。蘭々にも言えることだが、華琳と幸蘭の髪質は良く似ていた。性格的にも、夏侯姉妹よりも曹家の姉妹の方が華琳に近いという気がする。もっとも華琳と幸蘭では、すらっとした手足に反した要所要所の肉付きの良さに雲泥の差がある。

「どうかな? 自分ではよく分からない」

「こんなところに傷が。まあ、こんなところにも。もう、少しは気を付けてくださいね」

「……幸蘭。それぐらいにして貰って良いかしら? そろそろ話を進めたいのだけど」

「もう、野暮ですよ、華琳様」

 渋々といった感じで曹仁の体を放すと、幸蘭が引き下がった。曹仁が華琳に対面し、その左右に側近が控える、という形だ。
 こほんと、気を取り直すように一つ咳払いをしてから、華琳は曹仁に目を向けた。

「久しぶりね、仁。順調に位階を進めていると聞いているわよ」

「まあな。で、今日はいったい何の用だ? 自力でその地位を得るまでは拝謁はかなわないものと思っていたぞ」

 ただの兵卒として扱う。それが、一度は敵対した曹仁に対して華琳が課した罰だった。他にもここぞとばかりに辱めを受けたが、そこに思いを馳せることを曹仁は意識的に避けた。

「ちょっと、あんた! 華琳様に対して何て口の利き方を!」

 いつも通りの口調に戻した曹仁に喰って掛かったのは、猫の耳を模したような頭巾を被る少女だ。正式に紹介されたわけではないが、何度か見かけた事はあるし、華琳のそば近くに控える席次を思えば姓名も容易に予想はつく。筍彧。字を文若。曹操軍の文官の筆頭である。

「桂花、放っておきなさい。今さらこの子に澄まし顔で敬われても、気持ちが悪いだけだわ」

「……はい」

 華琳の言葉に、筍彧は素直に引き下がった。ただ、仇敵でも見る様な目はそのまま曹仁に向けられている。

「それと、仁。今は身内だけの場だから好きに口を利いて構わないけれど、兵や他の者の目がある時は、わかるわね」

「わかった、以後気をつけよう」

 返しながらも、華琳の使った身内という言葉に、曹仁は視線を走らせた。
 春蘭、秋蘭、幸蘭、蘭々の文字通りの身内。それに筍彧ともう一人。立ち位置でいえば誰よりも華琳に近く、背中を守る様に控えている。年の頃は蘭々よりも一つ二つ下、鈴々と同じくらいか。戦場で幾度か見た顔だった。

「そういえば、紹介がまだだったわね。桂花、季衣」

 曹仁の視線に気付いたのか、華琳が言った。
 季衣、と呼ばれた少女が、はーい、と元気良く手を上げて華琳の背後から飛び出した。

「ボクは許褚。字は仲康。よろしくね、兄ちゃん」

「俺は曹仁。字は子孝だ。……君が許褚か。噂は聞いているよ」

「噂?」

 許褚が小首を傾げてみせた。その姿はどこからどう見ても愛らしい少女のもので、曹操軍で兵士をしていれば嫌でも耳にする噂話との隔たりを感じざるを得ない。

「ああ、何でも牛の尻尾を掴んで引きずり歩いたとか」

「あははっ、やだな、兄ちゃん。そんなかわいそうなことしないよ」

「はははっ、そうかそうか」

 出来る出来ないを問題としない許褚に、曹仁は乾いた笑みを返した。

「まあ、その話は置いておいて。よろしく、許褚」

「うん! 兄ちゃんなら、ボクのことは季衣って、真名で呼んでくれていいよ」

「いいのか?」

「うん。春蘭様からよく話は聞いていたから、全然初めて会ったって感じがしないし」

「わかった。あいにく真名は持ち合わせていないから、俺のことは好きに呼んでくれてかまわない」

「うん。よろしくね、兄ちゃん」

 どうやら兄ちゃんで決定らしい。曹仁は大きくうなずき返すと、不快気に眉をひそめるもう一方の少女の方へ顔を向けた。

「荀彧殿、で合っているか? 貴殿も同様に、俺のことは好きに呼んでくれ」

「……そうさせてもらうわ、この低能男」

「…………今、なんと?」

「あら、頭だけじゃなく耳まで悪いのね。それとも、猿に人間の言葉は難しすぎたかしら?」

「…………」

 ほとんど初対面と言って良い人間からの正面きっての罵詈雑言に、曹仁は腹を立てるのも忘れてただ絶句した。
 これ幸いと、荀彧はさらに聞くに堪えない言葉をまくし立てた。

「―――それぐらいにしておきなさい、桂花」

「……はい、華琳様」

 華琳の制止に殊勝にうなずいた荀彧が一歩下がる。
 先刻までの親の仇でも見るような呪詛を込めた視線は逸らされ、今度は曹仁の存在などまるで忘れたかのように振る舞う。
 面罵された曹仁の驚きは癒えないが、他の人間は特に気にした風もない。どうやら彼女はそういう人間だと、曹仁以外の全員が理解しているらしかった。

「他にも私が真名を許している者が何名かいるけど、その紹介はまたにしましょう。本題に移るわ」

 華琳は言葉を切って、一度広間とそこに集っている面々を睥睨した。

「―――天下平定のための戦を開始する。まずは、青州黄巾賊を兗州に引き込み、これを討つ」

「はっ」

 全員が声をそろえて応じた。華琳は満足気にひとつふたつ頷くと、曹仁へと視線を転じた。

「曹子孝。次の戦、あなたに我が軍の騎馬隊全軍の指揮を任せる」

「―――はっ。……はぁ!? なんで俺が?」

 面食らった曹仁が面白かったのか、悦に入った表情で華琳が口を開いた。

「飛燕、という名は聞いているかしら?」

「……そりゃあ、もちろん。俺が今までどこの戦場にいたと思う?」

 だしぬけの質問に、曹仁は訝しく思いながらも答えた。

「ああ、韓浩の軍には青州との境を任せてあったわね」

 未だ興奮冷めやらぬ曹仁をよそに華琳は続けた。

「それでは飛燕―――これはただの通り名ね。彼の本名が何と言うか、貴方は知っているかしら?」

飛燕という渾名は、その電光石火の用兵に由来するという。

「……いや、言われてみると知らないな。いつ頃からそう呼ばれ始めたのか知らないが、俺が初めてその名を耳にした頃にはすでに飛燕の渾名で通っていた。最近では彼自身もこの名を使っていると聞くが」

 飛燕。一年ほど前、ちょうど何進の謀殺や董卓の上洛があった頃から、よく聞こえるようになった名である。元は冀州は黒山に巣食う賊徒の頭目で、何度か討伐軍も起こされている。中央の政変もあって満足な戦力が投入されたとは言い難いが、飛燕はそれらを一蹴していた。
 どういった縁があったのか、その飛燕が青州の黄巾賊の軍事的指導者の座に就いたのは、ちょうど反董卓連合が解散された三月前と時を同じくする。

「では、褚燕の名に覚えは?」

「えっ、―――ああ、そういうことなのか?」

 褚燕。曹仁が黄巾賊鎮圧のための義勇軍として動いていた頃、一度槍を交わした相手だった。元々は義賊の類で、漢朝の腐敗を糺すために義兄とともに黄巾賊に加担した男である。その義兄を討ったのが曹仁で、その縁で一騎打ちを挑まれている。
 そう考えると、黄巾の賊徒から軍指揮を託されたというのも分からなくはない。

「褚燕。渾名を飛燕。貴方が黄巾の乱の折に討ち洩らした相手よ。喜びなさい、決着をつける機会を与えてあげるわ」

 すぐにその場は、軍議の様相を呈した。
 荀彧や秋蘭、幸蘭が疑問を投げ掛け、華琳がそれに返す。蘭々は一応殊勝な顔付きで耳を傾け、春蘭と季衣は暇そうに視線をさまよわせる。
 決着の機会を与えるなどと、恩着せがましい言い方を華琳はしたが、曹仁を騎馬隊の隊長にあてるのは目的あってのことだった。つまりは、飛燕の目を兗州に向けさせるためである。
 総勢百万とも言われる青州黄巾賊は、常に糧食を求めて移動し続ける集団である。すでに青州はかなりの部分が食い荒らされていて、放っておいても他の州へ移動する日は近いだろう。青州が境を接する州は三つ。徐州、冀州、兗州である。
 徐州は、刺史である陶謙の統治がうまくいっているとは言い難かった。賊の横行や役人の不正、それに伴なう小規模な反乱の話が良く聞こえてくる。兗州とも接しているから、賊徒の流入には手を焼かされていた。民も飢えているというから、攻め取ることを考えるなら機ともいえるが、略奪が目的となると勝手が違ってくるだろう。
 冀州の今の支配者は麗羽―――袁紹である。元々豊かな土地であり、飛燕にとっては古巣の黒山もある。青州黄巾賊がまず狙うとしたらここだろう。
 その矛先を兗州へと向けさせるための一手が曹仁との因縁であり、他にもいくつもの計略をめぐらしているようだった。情報収集や間諜の差配は幸蘭の受け持ちで、かなり細かい所にまで話が及んでいる。

「なあ、ひとつ、いや、ふたつ良いか?」

 曹仁は遠慮がちに口をはさんだ。話の腰を折るような形になるが、肝心のことを誰も聞かない。問わずには入れなかった。
 華琳が、顎で先を促した。

「まだ青州黄巾賊を引き入れる目的を聞いていない。青州奪還のための布石にしては、無茶が過ぎるのではないか? 相手は百万とも噂される大軍だぞ。それに、これはふたつ目の問いにもなるが、そもそも勝算は十分に立っているのか?」

「ああ、貴方にはまだ教えていないのだったわね」

 華琳は、特に気負うことも無く軽く続けた。

「目的が青州というのは、まあ半分は正解ね。勝算については、勝てるとだけ答えておきましょうか。方法ともう半分の目的は、…………秘密にしておきましょう。その方が面白そうだから」

「っ、面白そうって、そんなことで大丈夫なのか? 騎馬隊全軍を俺が率いるのだろう?」

「問題無く勝てるわ。貴方が貴方の役割を過たなければね」

 華琳が挑発的な笑みを浮かべた。





 散会後は、視察がてら曹仁に街の案内をしてくれることとなった。
 仕事も佳境ということで、調略を担当する幸蘭の姿は無い。特に戦力になるとも思えないが、蘭々もそれに強引に付き合わされている。この場にいるのは、曹仁にとって義理の従姉妹に当たる三人だけだ。

「今から全てを見て回るのは無理ね。そうね、一応視察という目的もあるし、手分けして回りましょうか」

「それでは、華琳さま、わたしと―――」

「仁を一人にするわけにはいかないし、私、春蘭、秋蘭の三手に別れましょう」

「では、仁―――」

「仁は私の護衛をなさい」

「うぅ」

「諦めろ、姉者。華琳様お一人で街を歩かせるわけにもいくまい」

 不満気にうなる春蘭を、秋蘭が冷静な声で諭した。

「私達は南側を見て回るわ。春蘭は東、秋蘭は西を。残りはまた後日で良いでしょう。さっ、行くわよ、仁」

 言うだけ言うと、華琳はさっさと歩き出した。曹仁は駆け足でそのあとに続いた。
 陳留郡陳留。街は、曹仁の想像よりもずっと栄えていた。
 華琳が州牧となる以前から兗州各郡からの民の流入は盛んだったらしい。華琳が反董卓連合で得た声望もあるし、現実問題として治安を維持出来るだけの実力者の下に人は集まる。元より、兗州の中では陳留郡は人口も城邑の数も最大で、次いで州都濮陽のある東郡が続く。華琳が本拠を陳留から移す気配がないため、必然的に州の中心はこの地となりつつあった。

「しかし、つい最近まで無職でブラブラしていたくせに、随分と兵を集めたもんだな。装備も行き届いて―――いますね」

 兵の目を気にして、曹仁は口調を改めた。
 活気ある民草の営みの次に目に付くのが、巡回する兵の多さだった。兵は華琳の姿に気付くと、みな一様に緊張した面持ちで直立し敬礼した。

「皆をほっぽり出して、好き勝手していたあなたには言われたくないわね」

「うっ」

「兵については次の戦場でその理由もわかるわ。装備は、……お母様が身銭を切ってくれたのよ」

「ああ、なるほど」

 お母様、と変に強調して言う華琳に、曹仁は得心がいった。
 大宦官であった曹謄以来、曹家は金に不自由だけはしていない。華琳の母、曹嵩はそれで三公の地位を買ったほどだ。その行為はまだ幼かった華琳の痛烈な批判を浴び、それ以来二人の親子関係は断絶に近い状態にあった。実際、曹仁は華琳と曹嵩が仲良く会話しているところを見たことがなかった。会えば必ず諍いを始める。しかし、こうして曹嵩は華琳に金をつぎ込んでいるし、華琳は華琳で連絡は絶やしていないようでもあった。複雑な親子関係なのである。
 また、似たもの同士でもあった。外見も、華琳をそのまま成熟させたようだし、女性でありながら女を侍らせたりするところも似ていた。二人に言わせれば、女の趣味には大きな違いがあるということだが、曹仁にはその違いというものはわからなかった。二人とも、美女から美少女、きれい系からかわいい系、巨乳から貧乳まで手広く好んでいるとしか思えない。
 もっとも、華琳とは違って覇道や権力を望む様な質ではない。曹仁を一門に引き取ったことで、就任直後に三公の地位を追われたことにも、清々したという態度を貫いている。そしてそれは曹仁を気遣ってのこと、ではなく、どうやら本心であるらしいのだ。それだけに、何故官職を買う様な真似をしたのか、曹仁には理解の及ばないところであった。ただ、華琳はそれを理解した上で批難しているようにも思える。

「今は、徐州でしたか?」

「ええ、相も変わらず女遊びの日々らしいわね」

 三十代の若さながら、曹嵩は官職をとうに引退している。華琳と同じく兗州は沛国譙県の出身だが、黄巾の乱の折に難を逃れて徐州に居ついていた。相も変わらずの放蕩生活と聞いているが、この分では曹家の金蔵が底をつく日もそう遠くないのではなかろうか。

「おっ、大将やないですか」

「男連れなんて、珍しいのー」

「こら、二人とも仕事中だぞ。止さないか。失礼しました、華琳様」

 三人組の少女が駆け足でやってきた。正確にいうと、華琳にからかい半分に話しかける二人に、一人がそれを制止に入った形だ。

「あら、ちょうど良かったわ。凪、真桜、沙和。紹介するわ、この子が曹子孝よ」

 三人それぞれに自己紹介を始めた。
 訛りのある喋り方に、豊かな胸に水着と見紛う様な露出の多い衣装をまとっているのが李典。字は曼成。革製の腰帯に取り付けられた小物入れには、大量の工具が刺さっている。
 李典ほどではないが語尾の間延びした独特の口調で話すのが于禁。字を文則。じゃらじゃらと全身に大量の装飾具をあしらい、眼鏡の奥の目は好奇に輝いている。
 二人を止めに入ったのが楽進。字は文謙。背筋を伸ばした隙の無い立ち方は、性格もあるだろうがそれ以上に武術の鍛錬の賜物であろう。顔と言わず腕と言わず、肌を露出した部分に覗く無数の古傷は歴戦の勇士を思わせる。
 三人は曹操軍の新兵の調練を一手に担っているという。先刻から目に付く街の警備兵は、新兵にとって最初の任務の一つであるらしい。

「いやぁ、御遣い様にお会い出来たら、ぜひとも天の国の話を聞きたい思っとったんや」

「それはいいかもしれないわね。仁、後で真桜に天の国について教えなさい」

「ああ、それは構わないが……」

「真桜は技術者なのよ。それも超一流のね。貴方の国の物も、いくらかは再現出来るかもしれないわ」

「へぇ」

 曹仁の口から思わず嘆声が漏れた。
 華琳が“超一流”などと、人を手放しに褒めるのは珍しい。それも、曹仁の口から伝え聞く技術―――この世界の人間にとっては仙術や妖術の類に近いだろう―――の再現まで口にしている。

「そういうことなら。俺の方からも何か頼むこともあるかもしれないし、こちらからお願いしたいくらいだ。よろしく頼む、李典殿」

「ああ、よろしゅう」

 李典が、その体つきに似合わぬ童顔に笑みを浮かべた。差し伸べられた手を、曹仁は強く握り返した。

「……ところで李典殿、出身は?」

「なんや、曹仁様はウチに興味津々か?」

「いや、この世界のルールについて、今更ながら疑問に思って」

「るーる? なんやそれ? まぁええわ、ウチも他の二人もみんな兗州の出身やで。ウチは山陽郡の生まれや」

「……そうか」

 ちなみに霞は并州の北辺、雁門郡の出身である。北方異民族からの影響も強い一帯で、それがあの言葉使いの原因と曹仁は勝手に理解していた。が、どうもそれは間違いであったらしい。

「そろそろ視察に戻りましょうか」

 握りっぱなしになっていた手を遮る様に二人の間に体を入れて、華琳が言った。





 城郭を出て一里ほども駆けると、すぐに馬蹄の巻き起こす砂塵が目に映った。
 陳留に呼ばれた翌日、戦までの間の騎馬隊の調練を曹仁は命ぜられていた。調練場へと先導するのは牛金―――角で、今後は再び曹仁の副官となる。
 さらにもう一駆けもすると、実際に騎馬隊の姿が見えてきた。いくつかの小隊に分かれて動いているため、見るだけで正確な数は把握し難いが、総勢で五千騎の騎馬隊のうち、半数の二千五百騎が調練中と聞いている。残る二千五百は今は韓浩ら州境の警戒に当たる将の指揮下にあった。
 すぐに前線に送り込まれたため、曹仁が調練場に来るのはこれが初めての事だ。急造にしては、悪くないものが出来上がっている。簡単な造りではあるが兵の宿舎も備えられているようだし、少し離れたところにあるいくつもの丘が入り組んだ地形は、人工的に作られたもののようでもある。

「賈駆姉さん」

 勝手の分からない調練場に戸惑う曹仁に、先に気付いて馬を寄せて来たのは賈駆の方からだった。賈駆は一瞬顔を顰めると、口を開いた。

「その呼び方、やめてくれないかしら。月のことは真名で呼ぶんでしょ、ボクも詠でいいわよ」

 月の改名の現場に居合わせた曹操軍の主だった者達は、その場で真名を交換しあっている。その方が不都合が無いという理由もあるし、今後は秘密を共有しあう仲間同士という意味も込めてだ。

「えっと、それじゃあ、……詠姉さん」

「……詠よ。姉さんは要らないわ」

 賈駆―――詠が、憮然とした調子言った。
 姉さんという呼ばれ方は、存外気に入っていたはずである。曹仁は、角に視線で問いかけた。

「幸蘭様と、夏侯惇様が」

「なるほど」

 角が小声で二人の名前をささやいた。それだけで曹仁はあらかたの事情を察することが出来た。あの二人に問い詰められては、さぞや苦労したことだろう。

「それじゃあ、改めてよろしく、詠さん」

一礼をした曹仁の声音には、いくらか同情の響きが混じった。

「月とはもう会った?」

「いや、まだだ。どうしている? 不自由な思いをしてはいないか?」

「まさか。認めたくないけど、さすがに曹操は器が大きいわね。戦から離れた適所に、ちゃんと月を据えてくれたわ。張繍の名は、今後は民政の人として知られていくことになるでしょう」

 張繍―――それがかつて董卓と呼ばれた少女の今の名だった。
 その名を聞くと、胸の奥が締め付けられるように疼いた。それは口にした詠も同様なのか、眼鏡の下の目を一瞬伏せた。

「……あいつとの約束も、これで果たせたと思って良いのか」

 小声でつぶやくと、詠が訝るように眉をひそめた。
 詠も、こうして次の大戦の主力となる騎馬隊の調練を任されているところをみると、重用されているようだった。ひとまず二人は場所を得たと考えていいだろう。

「……兵に紹介するわ」

 賈駆の命で銅鑼が鳴らされると、騎馬隊は速やかに集合、整列した。
 五騎の小隊五つの二十五騎と、それを率いる形で一騎。それを一つの隊として総勢百隊二千六百騎が居並んでいる。
 賈駆の手振りで、各隊を率いる一騎ずつ百騎が進み出た。それで曹仁の抱いた不審は晴れた。
 二千五百騎と聞かされていたし、隊を組むときは普通指揮官も含めて定員を決めるものである。二十五人の隊ならば二十四人の兵と、その指揮官を一人とする。部隊運営上、その方が様々な面で扱い易いためだ。

「指導役ってところか」

「ええ、適任でしょう?」

 詠が、自信満々といった風に答えた。
 百騎のなかには、曹仁の見知った顔がいくつも見られた。かつての董卓旗本の騎馬隊である。小隊に含まれる人員とは別ということだ。
 視線が合うと、一騎が馬を寄せて来た。見覚えのある顔。あの旗持ちの兵だ。

「皆健勝そうだな」

「はっ、戦闘に支障をきたす様な傷を負った者はおりませんでした。この百騎は以前と変わらぬ働きが出来ます」

「馬の方も問題なさそうだ」

「馬にまで、手厚い治療を賜りました。数頭、以前のようには駆けられなくなった馬もおりますが、その替えの馬も良いものを支給して頂きました。これも曹操様に口利きしてくれた曹仁様のおかげです」

 一括で牧で管理される軍馬を駆る普通の騎馬隊と違い、この騎兵達はそれぞれが一人一頭の自分の馬として識別しているし、世話も手ずから行っている。軍としての騎兵運用の利便性を考えれば欠点としか成り得ないことではあるが、普段から馬と呼吸を合わせておくこともこの騎馬隊の精鋭たるゆえんだろう。良馬の支給は譲れない部分であった。照がまとめ上げたそのままの形でこの騎馬隊は残しておきたい、という曹仁の感傷もある。

「この騎馬隊を、あんたに託すわ」

 旗持ちの兵と、横一列に居並んだ百騎を詠は示した。

「俺に?」

「月を戦場に出させるわけにはいかないし、ボクだって、調練は見られても実戦でこの騎馬隊の指揮は無理だわ」

「……俺で良いのか?」

「月がそれが良いと言っているし、本当は嫌だけど、ボクも他の人に任せるぐらいならあんたで我慢しとくわ。何より、兵のみんなもあんたが良いって」

「兵が?」

「ええ。曹操からは、それぞれを校尉として迎い入れるという話もあったのだけど」

 さすがに華琳は見るべきものは見ている。一人一人が兵をまとめるだけの力は十分にある百騎なのだ。兵にとってもそれは良い話で、今よりずっと上の待遇を得られるはずだった。

「董卓様が今の張繍様となられた日より、我らの命運は貴方様に託すものと、皆が思い定めております」

 視線を寄せると、旗持ちの兵が迷いの無い口調で言った。

「……あの日、俺の拙い指揮が無双を誇るお前達を潰滅させた。それでも俺の指揮で戦ってくれるのか?」

「あの日、あの戦場で、曹仁様は私に張旗を掲げさせました」

「それだけのことで?」

「はい。それだけのことで動くのが兵と言うものでございます」

「そうか。ならばひとまず、お前たちの命を預かろう」

 ひとまず、などと前置く煮え切らない態度に、曹仁は自嘲した。
 董卓と賈駆と共に曹操軍に降ったのは、二人の行く末を見守らなければという義務感からだった。もはや曹操軍にいるだけの理由が、曹仁にはない。これから、幸蘭ら家族と働くことを思えば、それはひどく居心地の良いものだろう。それでも、ただ流されて居つく、それだけはするつもりはなかった。

「どうかなさいましたか?」

「いや、なんでもない。指揮の取り方は、照のやり方に合わせる。あいつがどうしていたか、お前が俺に教えてくれ」

「はっ」

「あの旗は今もお前が持っているのか?」

「いえ、今は賈駆様と、―――張繍様が」

「出陣の際には借りておけ。高々と翻ることはなくとも、お前たちの心の内にはあの旗を掲げておけ」

「―――はっ!」

 旗持ちの兵が、短く、強く返した。

「では戻れ」

「はっ」

 百騎が、二千五百を率いる位置に駆け戻っていく。
 ひとまずは次の戦。思考の放棄とも、決意とも判じ得ない思いを胸に、曹仁は指揮下に入ったばかりの騎馬隊と向かい合った。





[7800] 第4章 第2話 青州黄巾軍
Name: ケン◆f5878f4b ID:c769d09e
Date: 2011/07/31 12:18
 三十万の人の群れが蠢動した。大地そのものが波打つような感覚に、曹仁は襲われた。陣形らしい陣形も組まず、ただただ歩を進めている。それが、いっそうその印象を強くしていた。
 ついに青州黄巾軍による兗州侵攻が開始されていた。騎馬隊を率いた曹仁は、州境を超える先駆けの大軍勢と対峙した。

「行くぞ」

 曹仁は自身を奮い立たせるように言うと、白鵠を進めた。
 五千の騎馬隊は留め置き、手振りだけで照―――かつての張繍―――の育て上げた精鋭百騎を従えていく。全員が首に白い布を巻いていた。百騎に何か特別な目印をと考えた曹仁に、兵が自分達で調達してきたものだ。喪を意味する白布だろう。
 白鵠を全力で駆けさせた。百騎は、それでもほとんど遅れずに付いてくる。芥子粒のようだった敵兵一人一人が、見る間に表情まで見てとれるほどに迫る。
 三十万に、百騎で正面から突っ掛けた。間近で見る敵兵は満足に具足もまとってはいなかった。大地が、面白いように崩れていく。だがどこまでも続き、果てがないのが大地だった。曹仁は、手振りで反転を命じた。今度は曹仁が最後尾となって、敵陣を駆け抜ける。
 敵軍の士気は驚くほどに高く、兵は剽悍だった。反面、軍としての錬度は低い。敵中を抜け出た騎馬隊を、陣形の乱れも意に介さず闘争心だけで数千が追いすがった。
 黄色の大地から伸びた手。旗持ちの兵に合図を送ると、黒地に白抜きの“曹”旗が大きく左右に振られた。待機していた五千騎が二手に分かれ、伸びた腕の付け根を両側面から叩いた。散り散りになった敵兵が、大軍の中へと駆け戻っていく。二、三百は、騎馬隊に追い立てられ合流を諦め逃げ去っていった。
 華琳からは、敵兵はいくら追い散らしても良いと言われていた。
 三十万の大軍を前に、それがどれほどの意味があるのかはわからない。あまり敵を散らせば、それがどこかで一つの軍勢にまとまる恐れもあるが、騎馬隊後方では寡兵のうちにそれを掃討するための部隊もいくつか動いているようだった。加えて、軍勢が集まったところで、黄巾軍内にその兵を指揮出来るだけの者がいるとも思えなかった。信者でもない褚燕に兵を委ねているほどなのだ。曹仁は、ただ眼前の三十万だけに意識を集中させれば良かった。
 敵兵は、足を踏み鳴らし怒声を上げている。一州の備蓄を食い荒らした飢えに飢えた軍勢である。闘争心ばかりが、先走っている。

「どう見ます、兄貴?」

 馬を寄せて角が言った。

「騎馬隊で軽く崩すだけなら問題ない。が、あれを敗走させるとなると―――」

 巨大な、動かしようのないもの。騎馬隊はその表層で遊んだに過ぎなかった。
 五千を一千ずつの五つに分けた。じっとしていては押し潰されるだけだろう。とにかく、動き回ることだった。五隊が、それぞれに意思を持ったように三十万に向かった。
 曹仁が調練にあたれた時間は十分とは言い難かったが、騎馬隊の指揮自体には何の問題も無かった。元々、この数ヶ月は詠が調練を行っていて、彼女と曹仁の用兵は根底を同じくするからだ。つまりは皇甫嵩流の調練であり、指揮である。
 ぶつかっては退いてを、繰り返した。
 敵は、無策に距離を詰めてくるだけだ。ただ、軽装ということもあるだろうが、敵歩兵はよく駆ける。次第に、敵軍と対している時間よりも距離を取るために引く時間の方が長くなっていく。
 少しずつ下がり続けて、五里ほども後退しただろうか。ぶつかっていった一隊が、ほとんど敵を崩せぬままに押し返された。そのまま一千騎が追い立てられていく。曹仁は自ら率いる一千騎の軍頭をそちらへ向けた。追う軍勢は、揃いの、とはいかないまでも皆が具足を着込み、騎馬の姿も混じっている。
 追撃を遮る様に騎馬隊を突入させた。敵軍は騎馬隊の鋭意を逸らすように、一瞬足をゆるめた。先頭を駆ける曹仁の槍先は空しく空を切り、やおら足を速めた敵軍に、横入りした騎馬隊は逆に横を突かれる格好となった。
 馬足を上げて、一気に駆け抜ける。最後尾がわずかに敵軍と触れた。いくらか被害が出たようだが、それも数えるほどだ。

「ようやく出てきたか」

 深追いを避け、三十万の中へ引いていく敵軍を曹仁は目で追った。数は一万ほどだろうか。明らかに他とは軍としての錬度が違う。何より、黄巾を巻いてはいなかった。あれが、黒山賊と呼ばれた飛燕の手勢であろう。
 三十万を打ち払うには、指揮する者を叩くしかなかった。華琳にはまた別の考えがあるのかもしれないが、曹仁にはそれ以外に手はないと思えた。そして、それが可能なのは、騎馬隊を率いる曹仁をおいて他にいない。歩兵のぶつかり合いでは、これほどまでの数の差を覆すことは不可能だろう。
 幸いにも、飛燕はこのまま前線に留まるつもりと見えた。三十万に没入して先陣こそ他の集団に譲るも、第二段といった位置に留まっている。
 一度、五隊を集めた。犠牲はこれまで、ほとんど出してはいない。五隊全部でも十騎足らずだ。
 二千騎をひとまとめにぶつけた。
 曹仁はそれには加わらず、後方で敵陣の動きを見つめた。敵軍がわずかに押し返した。相手の勢いに乗せるように、二千を下がらせる。引く時は、一千騎の二隊に戻って左右に別れた。敵軍が追い縋る。
 中央が開いた。残る三千騎でそこに突撃した。ほとんど突出するように、先頭を白鵠が駆けた。
 黄巾の兵数人を蹄に掛けると、視界を染める黄色が晴れた。代わって無骨な具足の集団が、曹仁を迎え撃った。
 正面。大刀を振りかぶった男を、それを振り下ろすよりも前に突き倒した。左右前方から、同時に槍。ひとまとめに巻き上げた。二人ともを、足を緩めずに白鵠が跳ね飛ばした。
 耳元に、何かが風を切る音が迫った。その瞬間には、曹仁が促すまでも無く白鵠が回避運動に入っていた。

「分銅?」

 鎖の付いた鉄の塊が、曹仁の眼前を過ぎった。
 黒山賊の手にする得物は実に多岐にわたっていた。実用本位な長槍や使い古された湾刀を手にする者もいれば、虚仮脅しとしか思えないような大斧や、煌びやかな装飾を施した長剣を握る者までいる。その様は正しく山賊の姿である。
 軍としての運用は困難を極めるだろうが、混戦となれば力を発揮しそうだ。こうして相対していても、実に遣り難い相手だった。とはいえ、軍としての錬度はこちらの騎馬隊が一枚上手である。寄せる賊徒を押し退けた。
 中心の一団に褚燕―――今は飛燕と呼ぶべきか―――の姿をとらえた。百騎足らずの騎馬を侍らせている。
 あれから一年以上の月日が流れている。幼さを残していた顔立ちも、今は精悍なものだった。幾分削げた頬と引き結んだ唇からは、悪擦れた印象を受ける。瞳も、以前あった純心さが失われたように、酷薄とも言える光を宿している。
 不意に、曹仁の背筋に悪寒が走った。

「―――っ! 反転!!」

 曹旗が振られ、鐘が鳴らされた。
 後方で、二千騎を追い縋って抜けた黄巾兵の綻びを繕うように、左右から黒山の兵が殺到していた。それはそのまま、こちらの退路を断つ動きである。

「白騎兵っ!」

 叫びながら、槍を大きく左右に振った。精鋭百騎が、左右に散る。胡蝶が如く舞い、敵軍をかき乱した。





 黒地に白抜きの曹旗が遠ざかっていく。
 意匠をこらした紫に黒文字の曹操の牙門旗とも、紺地に黒の曹洪の隊旗とも異なる、黒地に白の曹旗はこれまでに報告が無い。伝聞の通り、曹操軍の騎馬隊を率いているのは一門に帰還したばかりの曹仁で間違いがないことはすぐに知れた。
 前線に出ると、騎馬隊の先頭を駆ける白馬の姿は嫌でも目に入った。そして今は、騎馬隊の最後尾を駆けて正にこちらの包囲から脱しようとしている。

「……曹子孝」

 誰にともなく呟いた言葉に、周囲の兵が怪訝気に褚燕を見遣った。そこに、かつて義兄張牛角の元で共に戦った顔はない。
 最初は五百ほどの賊徒の集団に過ぎなかった。大小様々な山賊の類を、一人生き延びた猪燕が自らの手で斬り従えた者たちだ。山中の砦に拠ることで、官軍の討伐を幾度かはねのけた。それで、周辺の賊徒が集まる様になった。いつからかその山の名をとって、黒山賊と呼ばれるようになっていた。わかりやすい名前ができると、さらに人は集まるようだった。食うに困った農民もいれば、かつて張牛角に引き合わされたことのある侠客達もいた。教祖を失った黄巾党の者が接触してきたのは、黒山賊が十万を超えた頃だった。
 今は、雑軍とはいえ百万の兵力を有している。百万の中には女子供まで含んでいるが、彼らもまた失われた信仰と食う為ならば戦いも辞さないという覚悟を持った集団である。

「……逃げられたか」

 騎馬隊が、最後尾の曹仁まで包囲を抜けた。
 よく調練された騎馬隊を率いている。特に、白い布を巻いた一団は、信じ難いほどの力を持っている。こちらの陣形の中を、無人の野を行くが如く駆け回っていく様は、ほとんど我が目を疑うほどであった。
 だが、所詮は寡兵である。何れは疲れ果て、動きは鈍る。その時が来れば、包囲殲滅することは容易いことだった。
 黄巾に取り入り、腐敗した国家を覆す力を手にする。かつての張牛角の夢だった。力は手に入れた。だが、その夢は褚燕には遠く感じられた。そして今、手を伸ばせば届きそうな距離に、義兄と同胞の命を奪いし怨敵、曹子孝がいる。





 後方にまとわりつく敵兵に、二千騎をぶつからせた。
 追い散らされていくのは黄巾を巻いた兵ばかりで、包囲網をしかけていた黒山の賊徒の姿は含まれていない。またも深追いを避け、青州黄巾の人の群れの中へ埋没していた。
 精鋭騎馬隊を討ち取る為ならば、黄巾の雑兵はいくら失われても構わない。精兵とは言い難い百万の兵力を抱えた頭領の戦い方としてはそれで正しいのだろう。ただ、それはかつて義賊を名乗った褚燕とはうまく結びつかなかった。
 曹仁は胸に覚えた違和感はひとまず脇へ置き、三十万の敵軍へと目を向けた。
 飛燕自身が率いる一万と、左右から迫った一万の二隊。総勢三万が黒山賊の精兵だろう。黒山賊自体は青州黄巾党と合流直前には十万ほどまで膨れ上がっていたというが、官軍を相手に盛んに戦を繰り返していたのは、総員五万に満たなかった頃の話だ。官軍からの勝利がさらに賊徒を集め、おいそれとは手を出せない勢力にまで成長させた。それからは、都での政変もあって討伐軍はほとんど派遣されていないはずだ。黒山賊の隆盛を支えた主力が、あの三万の兵達なのだろう。
 三万はやはり第二段の位置にいて、三十万全体としては緩やかに前進を続け、こちらとの距離を詰めにかかっている。

「ひとまず、我らを当面の敵と見定めたようだな」

「いかがいたしますか?」

「同じことを繰り返す。ぶつかって、退く。時に黒山賊の本隊を狙う。そうして、飛燕を主戦場まで引き込む」

「黄巾の兵はどうします?」

 角があえて確認するように言った。

「黒山賊だけで突出するつもりはないようだからな。ひとまず引き連れていくしかないだろう」

 華琳が決戦の場と定めた地は、さらに兗州深く踏み込んだ位置にある。そこまで敵軍の“本隊”を引き込む。それが、騎馬隊に本来与えられた役割だろう、と曹仁は理解していた。それ以外の黄巾の賊徒に関しては、華琳の口から言及されることはなかった。というよりも、出撃に際して、華琳からの具体的な命令は皆無といって良かった。騎馬隊のみでの突出すら認めるような、含みのある言い方をされただけだ。

「今度は、二千と三千でぶつかる。角、三千騎を率いて、先にぶつかってくれ」

「はっ」

 短く答えて、角が駆け去っていく。三千騎がすぐに動き出した。
 角は、華琳旗本の精鋭重騎兵隊“虎豹騎”を率いる蘭々の補佐をするかたわら、詠の調練にも付き合っていたようで、騎兵の指揮はすでに熟練の域にある。

「……どうかしたか?」

 首に白布を巻いた旗持ちの兵が、何か言いたげな視線を曹仁へ向けていた。

「いえ、白騎兵というのは何のことでしょうか?」

「ああ、そのことか。他の騎兵がお前達をそう呼んでいるのを耳にしてな」

「はあ、そうでしたか」

「照は、己が武功を月さんに捧げる為、あえて目立たないようにしていたようだが、今後はその必要もないだろう。呼び名はあっても悪くない。むしろ、あいつの分まで名を売ってやろうじゃないか」

「……そう、ですね。張繍様と賈駆様も、そう望まれるでしょうし、異論はありません」

「ああ。なんなら全員に白塗りの具足を新調するか」

「それは、―――さすがにご勘弁を」

 半ば本気の提案であったが、旗持ちの兵は苦笑ながらに辞退した。





「騎馬隊だけで追い返すぐらいの意気込みで出ていったと思ったら、また随分と大量に引き連れてきたものね」

 本陣の入り口まで自ら出迎えてくれた華琳が、皮肉気な笑みで言った。
 騎馬隊が曹操軍の本陣に合流したときには、黄巾軍はさらに兵を増やしていた。
 後詰の部隊が合流したというより、ただなんとなく人が集まって来る、そんな感じだ。大部隊での移動ではないから、遮るのは容易い。だが逆に完全に合流を防ぐのも不可能だった。三十万の軍勢は、今は五十万にも届こうとしていた。

「本隊だけを引きずり出すようには、言われなかったからな。問題があるか?」

「まさか。それならそれでやりようはあったけれど、逆に面倒が増えるぐらいだわ。想定通りの展開、よくやってくれたわね、仁」

 華琳は特に強がりを言っている風でもなかった。ひねくれた笑みをおさめ、望んだ通りの働きをしてくれたと曹仁を称え、同時に、突き放し励ます様でもある。華琳の曖昧な命令には、この窮地にもかかわらず自分の力を試そうという意図があったことに曹仁は今さらながら気付いた。
 大軍を引きつれて行こうと決めた時、華琳を試してやろうという気持ちが一瞬曹仁の胸によぎった。実際には試されていたのは最初からこちらの方で、そこで自分は華琳の想定以上でも以下でもなく、想定通りの力を見せたという事だ。
 忸怩たる思いで、曹仁は視線を逸らした。
 本陣は、小高い丘―――ほとんど山に近い―――の頂きに置かれていた。
 周囲はほとんどが草地で、灌木がいくらか見られるだけだ。騎兵の進軍にも、遮るものはなかった。それだけに頂上からの見通しは良い。砂塵を上げて迫る大軍の姿が遠望できた。肌を刺すその獰猛な気配までも感じられるようだ。
 兗州に入ってからここまで、青州黄巾軍が略奪出来るものは皆無であった。集落に住む民にも、城郭内への避難が言い渡されている。困難が予想された民の誘導にも、彼ら自身の協力的な態度もあってそれほどの時は掛からなかったようだ。青州で暴虐の限りを尽くした黄巾軍の恐怖は、民にこそ聞こえている。口に入るものは、草木はおろか犬猫、あまつさえ人さえ喰らい尽すとまで言われていた。
 青州黄巾軍は曹仁の騎馬隊に強い執心を見せ、防備を固めた城郭に兵を割くことなく、全軍でもってこの決戦の地まで至った。口に入れたのは、それこそ原野に自生する草木程度のものだろう。それでも、騎馬隊と付かず離れず、三日で二百里近い距離を踏破している。飛燕という渾名は伊達ではない。大軍を率いてその行軍は尋常ではなかった。行軍隊形も取らずにただ走らせている。普通ならそれで足並みは乱れ、進軍は遅れるが、青州黄巾の軍勢は極度の飢えと狂信がそうさせるのか、競い合うように駆け続けていた。
 対する曹操軍は被害こそ出してはいないが、城郭の守備に兵を当てている分、自由に動かせる兵員は多くなかった。五十万に対するは、曹仁率いる騎馬隊五千騎と、歩兵三万が残るばかりである。それは、華琳が州牧に就く前、一郡の太守であった頃の兵力と変わりなかった。
 陣内には、兵糧が山と積まれている。現状の兵力であれば、一年以上も抗戦が可能な量だろう。一見すると、丘上に籠っての長期戦の備えと思える。どれほど軍勢が集まろうと、実際に前線に当たる兵は限られている。この丘ならば、精々が五、六万で、他の兵はただ遊ばせておくことになる。五十万の軍勢を相手にも、高所の強みと兵の錬度に依れば、拮抗した戦いは継続可能だろう。
しかし、結局は愚策だった。援軍のあてのない籠城ほど無意味なものもない。何より敵が抑えの兵だけを残して兗州内の攻略を始めた場合、文字通り手も足も出ない。華琳も、当然そのような愚は犯さないだろう。本陣をぐるりと囲む柵も申し訳程度で、長期間の滞陣を考えてのものとは思われない。

「そろそろ用意を始めましょうか。凪、真桜、沙和! 計画通り、出撃の準備を」

「はっ」

 華琳の背後に控えていた三人が、短く答えた。騎馬隊とは別に軍勢を動かしていたのか、三人ともが具足は戦塵にまみれ、顔には幾ばくかの疲労の色が見て取れた。それでも、華琳の命に答えて動き出す姿ははつらつとしたものだった。
 去り際に、真桜が目配せを寄こした。曹仁が小さく首を横に振ると、真桜は詰まらなそうに二人の後を追った。
 真桜には、いくつかの武具の改良を頼んでいた。それは、ここまでの戦場では活躍の機会を持たなかった。
 歩兵が動き始めた。五千ずつの三隊が、本陣の外に出て五十万の大軍に向かい合う。それぞれ、楽、李、于の文字が翻っている。
 やはり野戦。しかし、たかが一万五千の兵力でどう戦うのか。

「華琳」

「……好きになさい。ただし―――」

 楽進、李典、于禁の三名が率いる軍の進退への介入を禁ずる。華琳はそう条件をひとつ付けるだけで、意外なほど簡単に出撃の許可を出した。
 曹仁は本陣前の丘上に騎馬隊を出した。逆落としの構えだ。
 いまさら、五千騎の逆落としを警戒するでもないだろうが、敵軍は丘の麓に至る直前で足を止めた。五十万は、ただ止まるだけでも押し合いへし合いの混乱が生じている。特に、黒山賊の本隊が変わらず前面に出ている今の隊列では、後方の兵の反応が鈍い。後ろから押し遣られるように、前線も綻んだ。
 明白な隙。楽進、李典、于禁の歩兵三隊が動き出した。敵陣との距離を詰めていく。

「お手並み拝見と行くか」

 高所からの攻撃力を維持したまま、曹仁は状況を静観した。
 二隊に先んじて、まず楽旗を掲げた五千が、五十万に向かった。曹仁の予想に反して、前線の綻びを突いての本隊急襲、とはならなかった。楽進隊はあえて本隊を避ける様に大きく横に回り込んで、五十万にぶつかった。五千は、すぐに人の群れの中に飲まれた。

「一体何をっ。無謀だ」

 五千の動きは見事で、敵軍に包まれるとすぐさま円陣を組んでそれに対応している。黄巾軍の荒波の中で良く耐えてはいるが、それも時間の問題だった。五千の動きに、良籌が秘められているとは思えない。

「行くぞ」

 曹仁は、逆落としの合図を出した。騎馬隊が一斉に丘を駆け降りる。正面の敵陣を深く抉った。
 敵本隊。勢いそのままに、駆け抜ける。その誘惑をどうにか曹仁は振り払った。逆落としの勢いを加えたところで、騎馬隊だけで突き破れる相手ではないことは、先刻承知だった。直接の救援は華琳により禁じられているが、これでいくらか楽進隊に向かう圧力を削げたはずだ。黄巾の波が途切れる境、黒山賊の本隊の直前で軍を返した。
 曹仁が敵陣を抜け出るのとほぼ同時に、楽進隊もまた五十万の包囲から逃れ出ていた。まとわるように一部の敵兵は引きずったままだ。一部といってもそれは五十万から見ての一部で、三、四万の兵力はある。楽進隊の十倍近い。曹仁が騎馬隊で牽制していたときよりも、明らかにその数は多かった。雑兵の暴走ではなく、楽進隊を殲滅しようという意思を持った用兵であろう。
 それでも、横槍を入れてやれば振りほどけるはずだ。黒山賊の本隊は別にしても、曹操軍一万の強さは青州黄巾軍三万にも匹敵する。それが実際に戦った曹仁の贔屓目なしの印象だった。
 楽進隊が、敵兵にまとわりつかれたまま、戦線を離脱していく。孤立すれば、それこそ押しつぶされるだけだ。
 ようやく李典隊が、動いた。

「なんだ? 援護しないのか?」

 曹仁の焦燥をよそに、李典隊は楽進隊へ向かうことなく、真っ直ぐ敵軍へと寄せていく。そこからの展開は楽進隊の焼き直しだった。李典隊はまともに五十万にぶつかり、敵兵を引き連れて離脱した。
 続いて、于禁隊。やはり、同じことの繰り返しだった。
 一万五千をむざむざと死地へと追いやっただけ。そうとしか思えなかった。
 曹仁は五千騎を率い、再び丘を駆け上がった。それは三隊を救うための逆落としの準備でもあり、自ら華琳を問い質すためでもある。

「華琳っ、どういうつもりだ!?」

 華琳は本陣最前まで床几を運ばせ、悠然と戦局を見据えていた。曹仁の分を越えた叱声に一瞬眉をひそめるも、すぐに余裕有り気な笑みを浮かべる。脇に控え、華琳以上の憤りを見せる荀彧を一瞥して押しとどめ、言った。

「戦況の変移を見逃すようでは良将とは言えないわよ、仁」

「何をっ」

 振り返ると、ほんの一時目を離しただけの戦場が変化を遂げていた。
 楽進隊がいつの間にか敵兵を振り切っている。しかし、曹仁が安堵の吐息を洩らす間も無く、死地を抜け出た楽進隊は再び青州黄巾軍の中へと飛び込んでいく。楽進隊に振り払われた黄巾軍は、何故か大軍の中に戻るでも、無防備にさらされている楽進隊の背後を衝くでもなく、ただ足を休ませていた。楽進隊が、再び数万の黄巾兵を引き連れて戦線を離脱した。
 少し遅れて、李典隊と于禁隊でも同様の動きがあった。まとわる敵兵が足を止め、二隊は大軍へと向かう。睨むように戦況を見据えたところで、敵兵が何故矛をおさめるのか曹仁には理解出来なかった。
 さらに、三度楽進隊が、李典隊が、于禁隊が。その都度、青州黄巾の大軍から数万単位で兵が減っていく。
 最後には、楽進、李典、于禁の三隊は、自ら敵軍に当たることすらなくなっていた。青州黄巾の兵の方から引き寄せられ、戦意とはまた違った高揚に雄叫びをあげた。足を止めていた集団も、それに加わっていく。

「一体どういう状況だ。……それに、これは…………歌、か?」

 兵達の怒号の中に混じる、かすかな歌声のようなものを曹仁の耳は聞き分けていた。
 歌声は、しだいにはっきりと聞き取れるようになっていく。歌声それ自体が大きくなっているというわけではなく、兵の喚声がただの喧騒からそれを遮らないもの、もっと言えば合いの手でも入れるように変わっているのだ。
 荒涼とした原野に、澄んだ歌声が響いていた。訳も分からず、曹仁はそれに耳を傾けた。



[7800] 第4章 第3話 是れより始まる
Name: ケン◆f5878f4b ID:c769d09e
Date: 2011/10/23 20:34
 本陣のそこかしこから炊煙が立ち上っていた。
 曹操軍への帰順を誓う者にはすぐに温かい糧食が供されている。それは、すでに青州黄巾兵の大半に上っていた。
過剰とも思えた兵糧の備えは、初めからこれを見越してのものであったらしい。降兵は本陣だけではとても受け入れきれず、今は丘の中腹にいくつかの集団に別れてかたまっていた。
 楽進らと共に、降伏した青州黄巾兵の受け入れに奔走した曹仁は、さすがに疲労感を覚えずにはいられなかったが、本営へと白鵠を駆けさせた。
 帰順した兵の囁きから、この戦のある程度の筋書きが曹仁の頭の中で組み上がりつつある。華琳に問い質したいことは、いくつもあった。
 ちょうど華琳は幕舎の前に出て、見知らぬ少女三人と話し込んでいた。
 騎乗のまま本営に乗り入れると、少女のうちの二人が短く息を飲んだ。視線が、曹仁の面上と白鵠の間を左右する。

「それで、一体これはどういう仕掛けなのですか、華琳様? いい加減明かしてくれても良いでしょう?」

 下馬しながらの問いには答えず、華琳は三人の少女に対して言った。

「貴方達にも紹介しておくわ。この子が曹仁よ」

「ええ。よくよく存じ上げております。曹家の天の御遣い、曹子孝様ですね」

 眼鏡をかけた、理知的な雰囲気の少女が進み出た。ただ、そんな少女自身の持つ印象とは異なり、色鮮やかで露出度の高い装束を身に纏っている。それは他の二人にも共通していて、揃いの舞台衣装か何かとも思えた。

「あら、面識があったのかしら?」

「面識も何も、ちぃ達、こいつに襲われて死ぬところだったんだから!」

 三人の中では一番幼げに見える少女が声を張り上げ、曹仁に指を突き付けた。
 身に覚えのない話だが、少女の怒りと、同時に瞳に宿る恐怖は本物と思えた。

「へえ、そんなことがあったのね。まあ、仁はあの頃は皇甫嵩将軍の元にいたから、確かにあり得ない話じゃないわね」

「えー、そんなことあったけ?」

 一番年嵩の少女が間延びした声で言った。

「もうっ、天和姉さんったら忘れちゃったの? 男の方はともかく、このでっかい白馬を見て何も思い出さない?」

「うーん? ――――ああーっ!! 私たちの舞台を台無しにした人だ!」

 曹仁の方でも、何となく想像が付き始めていた。

「彼女たちが張三兄弟、もとい三姉妹か?」

 華琳に対してもあまりかしこまった風の見られない三人の様子から、曹仁も砕けた口調で問うた。

「ええ、そういうことよ。今後は三人と軍とのつながりも強まるわ。過去のことを水に流して仲良くしろとは言わないけど、公務に支障のない程度には見知っておきなさい」

「ああ、わかった。―――貴方が張角殿か? そういうわけで、よろしく頼む」

 年長と見える少女に向き合って尋ねた。

「うん。よろしくー、曹仁さん。もう舞台の邪魔をしちゃダメだよー。華琳さんの身内みたいだから、特別に前回のことは許してあげる。割とかわいい顔してるし」

 張角が曹仁の手を握った。
 間延びした口調といい、屈託のない仕草といい、どこか大度を感じさせるものがあった。それは曹仁に桃香―――劉備を彷彿とさせた。

「で、貴方が張宝殿?」

「―――張宝はわたし!」

 眼鏡をかけた少女に問うと、彼女が口を開くより先に、最年少と思えた少女が割って入った。

「えっ? ああ、そうなのか。失礼した」

「なんで、人和の方を姉だと思ったわけ? ちぃの方が背も高いし、断然大人の魅力があるじゃない!?」

 人和と言うのは眼鏡の少女の真名だろうか。必然的に彼女が三女の張梁ということになる。
 言われて見比べると、背はわずかに張梁よりも張宝の方が高いようでもある。ただ体付きや本人の持つ雰囲気などは、張梁の方がずっと大人びて見える

「それは、まあ、なんというか。全体の印象とでも言うか」

「むぅっ。ちぃ、やっぱりこいつ嫌い!」

 ばっさりと言い捨てると、張宝は顔を逸らした。そういう態度まで子供っぽいのだが、さすがに曹仁は言い控えた。

「張梁です。よろしく」

「あ、ああ、よろしく」

 張宝を持て余す曹仁に救援の手を差し伸ばしたのは張梁だった。文字どおりの意味でも、張梁は曹仁の手を取り軽く握り込んだ。張角といい、極めて自然な動きで握手を交わすのは職業柄であろうか。

「ちぃ姉さんのことはあまり気にしないで。兵のこととか、直接軍部とやり取りをするのは私になるから」

 その態度はどこまでも事務的で、張宝とはまた別の意味で曹仁に対するわだかまりを感じさせなかった。

「俺には秘密と言っていた狙いの半分は、黄巾軍自体を取り込むことにあったわけだな、華琳?」

「そういうことよ。三人のことを喧伝すれば放っておいても向こうからやって来たでしょうが、今はまだ公言は避けたいのでね」

 この三ヶ月間を常に前線で過ごして、ほとんど新兵を目にする機会がなかった曹仁は知らずにいたが、曹操軍が急激に兵力を伸ばした理由もこれであろう。曹仁がいた韓浩の部隊は、まさに青州との境の守備についていたから、意図的に情報が遮断されていた可能性もある。青州黄巾軍に張角達の生存が伝われば、もはや隠しおおせるはずもない。今度の戦で黄巾軍を兗州に引き込んだのも同じ理由で、自領であれば曲りなりにも情報統制が可能だからだろう。

「しかし急にこれほどの軍勢を抱えることとなって、食っていけるのか?」

「大半は土地を与え農民として扱う事になるでしょうね」

「なるほどな」

 黄巾賊をあくまで民としてとらえる考え方は、曹仁にも共通したものだった。喰らい尽し浪費するだけとなった彼らを、再び大地を耕す生産者へと戻す。誰一人損をする者なく、自身は国力を増し強大な兵力をも手に入れる。如何にも華琳らしいやり口だった。

「三人には兵達の食事が終わり次第、舞台を演じてもらうわ。貴方はその間、残る敵軍への警戒に当たりなさい」

 華琳の視線を追って、曹仁も丘の麓に目をやった。
 そこには、以前として飛燕の黒山賊の本隊三万を中心に、帰順を拒んだ十万近い兵が陣を留めていた。本隊の三万以外の兵の中には、黄巾を巻いた兵もかなり含まれているようで、それが遠目には雑色と黄色の斑模様に見えた。張三姉妹への信仰―――実情を知った今はそれが的確な表現と言えるものか悩まされるところではあるが―――よりも飛燕の指示に従う事を選んだ者達である。五十万の漠とした大軍と相対するよりもよほど強い圧力を、曹仁はその軍勢から感じた。





 丘の中腹には簡易舞台が設けられていて、斜面を用いた天然の客席では、信徒たちがひしめき合って三姉妹の登場を今か今かと待ち受けている。
 曹仁は舞台とは反対側の斜面に騎馬隊を押し並べていた。黒山賊に正対する位置だ。

「この三人でこうして馬を並べるのも随分久しぶりだな」

 曹仁が言うと、蘭々が不機嫌そうに眉をひそめた。
 騎馬隊には、虎豹騎も合流していた。重騎兵二百騎は華琳直属の騎馬隊で、親衛隊と並んで彼女の手足とも言える部隊である。曹操軍中にあって白騎兵に次ぐ精鋭と言って良いだろう。縦横に駆け回る軽騎兵故に一人一人の判断力を高めた白騎兵とは異なり、集団での動きが徹底された軍勢だ。今も小さくまとまって居並ぶ様は、一つの巨大な鉄の塊を思わせる。蘭々は曹仁と別れて曹操軍に帰還して以来、この精鋭部隊の指揮官を務めていた。

「兄貴が俺を置いていくから」

「ははっ」

 恨みがましい視線を向ける蘭々に、曹仁は覚えず笑みをこぼした。

「なんだよ?」

「いや、似たようなやり取りを洛陽でもした、と思ってな」

 蘭々が訝しむように小首を傾げた。
 恋、音々音、霞、順、そして皇甫嵩と過ごした、あの屋敷に曹仁は思いを馳せた。共に過ごした期間は一年にも満たないが、彼女達にも家族と思えるほどに情が移っている。
 それぞれ別々の軍勢を率い別れて以来、杳として知れなかった恋らの行方であるが、三月経った今は天下の知るところとなっている。恋と霞の騎馬隊は合流して真紅の呂旗を掲げ、戦乱の中を彷徨いながら傭兵のようなことをしているという。恋の側には当然軍師として音々音もいるだろうし、高順の方はすでに呂布軍の若き将校として名前が聞かれるようになっていた。その軍のあり様は、義勇軍として天下を巡る劉備軍とも似ているが、戦はずっと苛烈なものだという。
 呂布軍にしろ、劉備軍にしろ、いつかは曹操軍とぶつかることもあるかもしれない。それは曹仁にとってあまり想像したくない未来の図だった。
 洛陽に残った皇甫嵩だけは今も行方知れずで、城を枕と討ち死にしたとも言われている。それは皇甫嵩らしいとも思えたし、どこかで何食わぬ顔をして生きているようにも曹仁には思えた。

「はじまったか」

 背後から、青州黄巾の兵達が張三姉妹の真名を唱和するのが聞こえた。三人の舞台が幕を開けたようだ。
 三姉妹の口上、そして歌声が遠く聞こえた。

「あーあ、俺も見たかったなぁ」

 蘭々が詰まらなそうにぼやいた。

「何だ、お前も三姉妹の信者なのか、蘭々?」

「信者ってほどじゃないけど。兄貴は見たことないから知らないだろうけど、あの三人の舞台はすごいんだぜ。―――って、兄貴だって、それ」

「ん? ああ、俺のいた世界の歌に似ているものだから、ついな」

 歌声に、曹仁は無意識に肩を揺すって拍子を刻んでいた。
 この世界で“うた”といえば“詩”のことであり、音楽といえば笛や琴の音色を言うのが普通である。音曲に合わせての詩吟も無くはないが、高尚に過ぎて曹仁からすれば退屈極まるものである。まだ農村での祭囃子や、酔漢が調子っぱずれに管を巻く様を見聞きする方がましというものだった。
 そこへいくと、張三姉妹の歌は曹仁のいた世界の大衆音楽に近い、というよりもほとんどそのままと言えた。

「しかし、確かにこれはすごい人気だな」

 信者の熱狂はほとんど異常と言って良いほどだった。単純に楽曲の目新しさや歌唱力の高さもあるが、それ以上に張三姉妹―――特に張角の歌声や語り口には人を惹き付ける一種独特の魅力があった。
 先に会話した際に、曹仁は張角の中に桃香と似通ったものを感じた。ただ、桃香には絶えず付きまとっている頑なさとでも言うべきものが張角にはない。それは桃香の精神の高潔さであり、志から来るものであろう。それこそが彼女の魅力でもあるが、誰しもがそのように気高く生きられるものではない。桃香と対面した時、ほとんどの人は心のうちに幾ばくかの負い目を感じずにはいられないだろう。
 そこへいくと、張三姉妹へ向けられる信者の思いは単純明快だった。志を持たず語らず求めず、ただ欲望も苦しみも受け止め受け入れる正に偶像。信者達の狂信の根幹には、腐敗した国に対する不満や、明日をも知れぬ貧困に対する恐怖もあるだろう。だが、信者達の示す高揚には一切の陰りがない。態の良い逃避とも言えたが、国や天下と一人向き合える桃香の様な人間が特別なのであり、大き過ぎる問題からは目を反らしたくて当然なのだ。張三姉妹がここまで絶大な人気を得るに至った理由が、曹仁にも分からないではなかった。
 ただ、それだけにそんな張三姉妹への信心も、飢えた目の前で焚き出される食糧への誘惑も振り切って、飛燕の指揮に従うことを選んだ眼下の集団の異質さは際立つものがある。

「―――――!!! ――――――――!!!!!」

 背後から聞こえる喧騒は最高潮を迎えつつあった。終幕が近いようだ。舞台は、黄巾兵の心を完全に一つにまとめ上げていた。
最後に、三姉妹の口から再び曹操軍への帰順と忠誠が呼び掛けられる。兵達は、熱狂の中でそれを受け入れていく。
 残る十万の敵軍が、その日動くことは無かった。
 十万が静かに動き出したのは、翌早朝のことである。五万余りの黄巾の兵を前面に押し出して、丘上の本陣目指してじりじりと寄せてくる。
 曹操軍本陣の兵は、変わらず歩兵三万に騎兵の五千だけだった。大量に得た降兵も、華琳は実働にたえないとして、昨夜のうちに本陣からは離れて滞陣させている。張三姉妹と共に楽進ら三人が若干の兵を率いて、それをまとめ上げていた。教祖を中心とすることで彼らは強力な死兵とも成り得るが、それは華琳の望む軍の形ではないのだろう。飛燕も降兵の投入は無いと読んだのか、軍の進退からはこの戦場で最大の兵力を有する集団を気にとめた様子は認められない。
 曹操軍は本陣の丘の頂きに歩兵、その前面に騎馬隊という構えだった。変わらず騎馬隊の指揮は曹仁に委ねられている。
 黄巾の五万はこれまでと変わらずひとかたまりにまとまって前進するだけだが、黒山賊は三段に構えていた。第一、第二段が一万ずつで、第三段に三万。五十万の本隊を為していた精鋭三万がそのまま第三段を形成しているのか、第一、第二段にも振り分けられているのかは、さすがに見るだけでは判然としない。
 軍を割くことは各個撃破の危険をはらむ兵法上の禁忌とされることも多いが、彼我の兵力差と、錬度も性質も異なる兵の混成軍である賊軍の実態を思えば悪い手ではなかった。二手に別れたところで、それぞれがこちらの総兵力よりも数の上で勝るのだ。こちらの動きを見定めてから救援の手を差し伸べても、十分に間に合うという計算だろう。
 飛燕の狙いは、黄巾の兵を歩兵の抑えに回し、まずは黒山賊の本隊を狙ってくるであろう騎馬隊と対する、というものだろうか。実際、飛燕自身がいるだろう第三段に三万というのは、五千の騎馬隊を率いる身にはちょうど冒険してみたくなる数といえる。ただ、黒山賊の精兵の割り振りが分からぬうちは、やはり賭けの要素が強かった。
 伝令が走り、本陣へ来るようにという華琳の命令を、曹仁に伝えた。
本陣といってもすでに形式上のもので、すでに陣は払われ総員が戦闘態勢に入っている。

「仁、あの五万の中央を騎馬隊で両断できるわね?」

 一人床几に腰を下ろす華琳が、黄巾の集団を指して確認するように言った。敵兵の錬度はもちろん、曹仁の用兵の力量まで測り切っているのだろう。

「黄巾の五万だけならば」

 敵軍の強さは、曹仁も十二分に把握していた。飛燕の指揮下に残った黄巾の兵達は、他より幾分か動きは良いが、抜くだけならば問題ない。

「ならば命じる。曹子孝、ただちに騎馬隊を率い敵先陣を両断しなさい。その後は分割された一方の相手を」

「はっ」

 短く返して曹仁は騎馬隊の元へと白鵠を走らせた。黄巾兵は、すでに丘の中腹まで上り詰めている。
 曹仁は一度敵から目を離し、騎馬隊に向き直った。全員の視線を集めるように、槍を中空で二度三度大きく回す。

「―――突撃!!」

 号令。高く掲げていた槍を敵軍に突き付け、白鵠が駆け出すのと同時だった。

「――――――!! ――――――!!!」

 鬨。坂上から押し寄せる騎馬の集団が上げる大喚声は、それだけで敵軍の気を呑むに十分だった。

「白騎兵!」

 五千騎に埋没させていた白騎兵を前に出した。敵軍には突如地から湧いて出たように感じられたはずだ。白騎兵は喚声はおろか、しわぶき一つ上げてはいない。
 細く長い縦列に展開した白騎兵は敵陣のほころびを突いて、ぶつかるでもなく静かに敵陣へと没入した。進路を塞ぐ最小限の敵以外は相手にもしていない。
 騎兵でかたどった楔の頂点を駆ける曹仁がそこに続いた。白騎兵の入れた切れ込みに、五千騎の楔を打ち込んでいく。
 敵陣を抜け出た。正面、丘の麓近くでは、黒山賊の五万が未だ様子見の構えにある。意に介さず反転した。
 五千騎が駆け抜けた道は、きれいに五万の敵軍を二つに分断している。そのうちの一方へとぶつかっていく。賊軍の歩兵二万五千に対して精鋭騎兵五千だが、今度は逆落としの勢いは無い。背後からの攻撃ではあるが、長柄武器を揃えるわけでも楯を並べるわけでもない黄巾兵は、その点柔軟であった。兵が各々で向き直って速やかに対応する。騎馬隊だけでは押しきれず、小さく引いては寄せてを繰り返した。
 丘の頂きから喚声。曹字の牙門旗と共に、曹操軍の歩兵が動いた。
各個撃破。騎馬隊との挟撃による二万五千の殲滅を曹仁は予想した。ただ、一つの戦線に固着し過ぎれば、黒山賊の五万と残る黄巾二万五千に挟撃を受けるのはこちらである。
 曹仁の予想に反して、歩兵が突撃を仕掛けたのは騎兵と交戦中の集団ではなく、もう一方の二万五千だった。
 歩兵に先んじて、精鋭重騎兵の虎豹騎が頭一つ抜き出た。巨大な鉄の塊のような虎豹騎の突撃に、二万五千が大きく乱れた。
 二万五千と三万のぶつかり合いは、逆落としの勢いも加えた三万の一方的な勝利に終わった。最初の虎豹騎の突撃で、すでに勝敗は決していたと言っても良い。寸時も持たずに崩された二万五千は、後方に控えた黒山賊の第一段へとなだれ込んでいく。華琳の率いる三万がそれに追撃を掛ける。

「追え追え―――っ! 総員、突撃ぃ――――っっ!!」

 歩兵の先頭で、まだまだ戦い足りないとばかりに、春蘭が吠えた。黄巾兵二万五千は完全に潰走の態である。
 算を乱して押し寄せる黄巾兵に、黒山賊の陣形も乱れた。敗走する敵軍は、曹操軍の先駆けのようなものだった。今度は、勢いのついた五万五千と黒山賊の五万とのぶつかり合いである。
 黒山賊の第一段、第二段までは黄巾の兵に巻き込まれ半壊した。曹操軍三万が無傷のまま混乱を抜け出て、黒山賊第三段とぶつかりあった。三段の三万はやはり黒山賊精鋭の三万であったようで、曹操軍がいくらか押したところで拮抗した。幾度となく官軍を破ってきたという黒山賊の本隊は、さすがに粘り強く耐えている。
 そこでようやく、曹仁は歩兵二万五千を丘から追い落とした。それに合わせる様に、曹操軍の歩兵が退いた。
 丘の頂きへと再び駆けのぼる歩兵を援護するように、曹仁は騎馬隊を前面に回したが、黒山賊の兵に追撃を掛けるほどの余裕はないようだった。
 戦線は再び、丘の上下に別れた膠着状態での対峙となった。
 敵軍はこちらの攻勢に良く耐えていた。十万は依然として大軍の威容を保ったまま、今度はひとかたまりになって静かに陣を構えている。

「褚燕の奴、なかなか見事なものだな」

 兵力に勝る飛燕の善戦を思わず称賛したくなるほどに、華琳の用兵は冴え渡っていた。
 華琳は、万を越える軍勢を率いての戦はこれが初めてのはずである。曹仁は数十から数千人規模での野戦経験でいえば華琳以上のものがあるし、皇甫嵩のもとでは万単位での調練も積んでいる。反董卓連合での戦では奇策の前に一敗地にまみれたが、用兵という点だけを比べれば華琳にも引けを取らないという思いが、これまでの曹仁にはあった。その自信が、脆くも崩れ去っていた。
 虎豹騎が、騎馬隊に並ぶように前面へ進み出た。蘭々に任せるでなく、華琳自らが率いる姿を認め、曹仁は白鵠の足をそちらへ向けた。

「騎馬隊が加われば、あのまま第三段まで崩せる、とも思えたが」

「騎兵が別にもう五千あれば、完膚ないという勝ち方も出来たでしょうが、黄巾の兵が立て直してくれば、こちらの犠牲も少なくはない。三万は三万でしかなく、五千騎は五千騎でしかない。敵は十万の大軍であることを忘れてはならないわ。将たるものは常に兵の犠牲を少なくすることを念頭に置かねばならない。同時に、それに心を砕き過ぎてもいけない。戦場では、犠牲を恐れずに突き進むことが、結果として最も犠牲を少なくすることも多々ある。そこは、相手次第よ」

 華琳が、敵軍に指を向けた。

「十万の兵力は健在で、陣形もまずは見事。ただ、先刻まであった逸るほどの鋭気は失われているわ。飛燕は上手く兵をまとめてはいるようだけど、元より、張角の出現と味方の降伏に揺れている兵達だったのよ。一度鋭気を逸らしたところに、間を与えてやる。それで戦意は萎えるわ。黄巾の五万は、次は騎馬隊の一当てで崩れるでしょう」

 華琳は詳らかに教え諭すような話し方をした。もしかすると本当に、曹仁に戦場での呼吸とでも言うべきものを伝えようとしているのかもしれなかった。
 珍しいものでも見る思いで、曹仁は華琳の顔を見つめた。視線に気付くと、華琳は喋り過ぎたとでもいうように、一つ咳払いをして頭を振った。

「それにもう一つ、この戦の目的はあくまで民を、そして兵を得ることにある。張角の与える一時の熱狂よりも、軍規の順守を選んだあの集団をこそ、我が軍は兵として求めている」

 華琳が手をかざす戦場へと、曹仁は目を戻した。
 図った様な間で、敵陣から一騎が進み出た。
 両手にそれぞれ旗。左手には黄色地に黒字で中黄太乙と大書された黄巾軍の旗、右手には黒無地の黒山賊の旗だった。降伏の意でも伝える様に、どちらも地面すれすれまで寝かされて、馬の疾駆に合わせてたなびいている。

「あれは」

 薄汚れた具足に、元の毛の色が判然としないほどに戦塵にまみれた馬。瞳には、遠く離れていても分かるぐらいに強い光を湛えている。

「……褚燕」

「―――曹子孝!!」

 曹仁の呟きに返す様に、戦場に大音声が響いた。





「―――曹子孝!!」

 もう一度、飛燕は腹の底から声を出した。
 負けていた。戦には、もう勝ち目など残されてはいなかった。浮足立った兵達の様子を見るに、飛燕はそう思わざるを得なかった。
 落胆は思いのほか小さかった。小競り合いを繰り返してきた騎馬隊の錬度を思うに、この結果は最初からある程度予想していたことでもある。なにより、心に期することは一つだけで、それは戦の勝敗とはまた別のところにあった。第三段を三万の精鋭で固め、騎馬隊を誘ったのもその目的のためだ。
 丘上の敵陣。騎馬隊の中にあっても、馬体の大きな白馬と言うのはやはり一騎だけ目に付く。
 動かない。隣りの騎馬と、何やら言葉を交わしているようでもあった。相手も見事な馬にまたがっている。黄巾の歩兵を打ち砕いた重騎兵を従えているようだから、曹操軍の将の一人ということになる。
 もしかしたら、あれが曹操なのかもしれない。特に理由もなく、飛燕はそう思った。

「――――っ」

 もう一度呼ばわろうとした瞬間、一騎駆け出した。曹子孝。白毛の名馬は、たちまちのうちに飛燕との距離を詰めた。
 曹子孝が、馬を寄せてくる。

「久しぶりだな、褚燕。いや、いまは飛燕と呼んだ方が良いのか?」

 飛燕はそれには答えず、目を合わせることもしなかった。視線は口元に落としている。不自然に思われるかもしれないが、それ以上に言葉を交わし、視線を交わすことで、何かを読まれることを飛燕は嫌った。

「……また一騎打ちが所望か、飛燕?」

 無言でいると、曹子孝は勝手に結論付けたようで、再び呼び掛けて来た。
 一騎打ちを口にしながらも、肩に預けた槍には警戒心の欠片もなく、口元にはまだどこか親しげな笑みすら浮かべている。馬上姿は相変わらずの軽装で、具足は胸甲と手甲を付けるのみだ。

「……」

 無言で、飛燕は手にした旗を地面に擦る様にして振った。

「降参、ということでいいのか?」

「……」

 二本の旗を投げ放った。
 そこで初めて、飛燕は曹仁の目を見た。曹子孝の視線が、放物線を描く旗を追って、上方へと流れた。
 刀が、いやにゆっくりと曹仁の腹部へと吸い込まれていく。自ら放った抜打ちの一刀を、飛燕は他人事の様な気分で見送った。





[7800] 第4章 第4話 臣従
Name: ケン◆f5878f4b ID:359dedc0
Date: 2012/01/03 14:28
「貴様ぁっっっ!!!」

 怒号が耳に響いた。よく聞きなれたはずのその声は、誰のものだったか。
 そんな何でもない疑問が、曹仁の自失し掛けていた思考を引き戻した。
 崩折れ、落馬しそうな身体は、いつの間にか馬を寄せていた幸蘭と蘭々によって抱き止められている。
 曹仁は声の主へと呼び掛けた。

「……春姉、まってくれ」

「―――っ! 無事かっ、仁!?」

 口からもれたのは、かすれた様な小声だった。それでも、春蘭の耳には届いてくれたようだ。今まさに飛燕へ向けて振り下ろさんとしていた七星餓狼を押し留め、春蘭が振り向いた。
 曹仁は小さく頷き返すだけが精一杯だった。
 戦場は様相を異にしていた。丘の頂と麓、上下に分かれての対峙状態にあった両軍が、今はほんの数十歩を残すだけの近さまで進軍し、なおも前進を続けている。両軍の目指す中心地が飛燕と春蘭で、そこからわずかに曹操軍側に下がった位置に曹仁達はいた。
 蘭々が曹仁の無事を大声で告げると、まず曹操軍が足を緩め、やがて停止した。春蘭が剣を引き、曹操軍が進軍を止めたことで、黒山賊の兵も足を緩め、黒山賊の兵に付き従うという形で駆けていた黄巾兵はそれで完全に足を止めた。うなだれている飛燕が手を上げると、それを合図に黒山賊も完全に制止する。
 ほんの十数歩を残すだけという近距離で、再び両軍が対峙した。

「……真桜さん。この軍袍、いい出来だ」

 曹仁は、戦場の外で帰順した黄巾兵をまとめている真桜へ向けて、小さく呟いた。
 斬り付けられた脇腹に目を向けると、完全に引き裂かれた軍袍の布地を、編みこまれた極細の鉄糸が繋いでいる。わずかに血はにじんでいるが、それだけだった。
 真桜の工房で、その高い金属加工技術を目にした曹仁が、軽騎兵用の軍袍にと考案したものだった。鎖帷子のような鎧はこの世界にすでに存在しているが、さらなる軽量化がなされている。弓矢や刺突といった点の攻撃に対する防御力は望み難いが、少なくとも斬撃に対しては十分な効力を発揮することが図らずも証明されていた。
 とっさに白鵠が前に踏み込んで斬撃を刀の根元近くで受けたこと。そして、真桜の作った軍袍の試作品を着込んでいたこと。どちらか一方が欠けていても死はまぬがれようのないものだったろう。

「っ、くっ」

「兄貴っ」

「仁ちゃん、動いては」

 身体が悲鳴を上げていた。幸蘭と蘭々も、なかば悲鳴のような制止の声を上げる。それが逆に、曹仁の気力を奮い立たせた。身体を支える二人の手を振り解くようにして、白鵠の上に自立する。

「―――褚燕!」

 ひとつ大きく息を吸うと、自然と叫んでいた。
 曹仁は、なおも左右から抱き止めようとする幸蘭と蘭々の腕の中から抜け出すと、馬を進めた。気を抜けば傾きそうになる体を、下肢にぐっと力を込めて支える。白鵠も、極力馬体を揺らさないよう静かに歩を進めてくれている。
 軍袍のおかげで、傷口自体はたいしたものではなかった。出血もわずかだ。刃物で斬られたというより、鉄の棒で打たれたと言った方が近い。呼吸をするたびに、打たれた脇腹だけでなく、胸の辺りに鋭い痛みが走った。
 自分の身体が、今どういう状況にあるのか。思い巡らせると、にわかに恐怖が鎌首をもたげる。曹仁は思考の埒外へとそれを押しやった。喉元に何かが込み上げてきて、口中に鉄の味が広がる。それも、強引に飲み下した。そんなものよりも、もっと熱く燃えたぎるものがあって、それは、決して押しやることも飲み下すことも出来ないのだ。

「―――褚燕っっ!」

 もう一度、名を叫んだ。同時に飲み下したはずのものもあふれ出して、言葉とともに赤い飛沫が舞った。曹操軍の中で唯一正面から曹仁を見据える春蘭が、声を上げた。気にせず続ける。

「俺の命が取れれば、それで満足かっ! お前に従った十万の命など、惜しくもないのか!?」

 満腔に溢れ返るものを、義憤だと言うつもりはなかった。手前勝手に寄せた信頼を裏切られて、ただ逆上しているに過ぎないのだろう。それでも、曹仁は自身を押し留めることが出来なかった。
 背後から、幸蘭や蘭々の気遣わしげな声が聞こえてくる。華琳の、制止する声も聞こえた気がする。それも、込み上げる思いの前では些細なことだった。
 白鵠の白く美しい鬣が、口の端から滴る鮮血に紅く染まっていく。曹仁はただそれだけをわずかに惜しいと感じた。





「お、おい、仁。その傷では」

「春姉、退いてくれ。……それに秋姉も」

「し、しかしな。っと」

 白鵠が首を振ると、立ちはだかろうとしていた春蘭の意に反して、馬が引いた。華琳の隣りでは秋蘭が、飛燕へ向けて引き絞っていた弓を静かに下ろした。
 華琳は、今にも敵軍に襲い掛かろうという騎馬隊を制止し、逸る自身の心をも抑え込んだ。曹仁は激昂の中にあっても、弓を引く秋蘭を見逃さない程度には戦場を広くとらえることも出来ている。ひとまず成り行きを見守るつもりになっていた。
 曹仁の中に何か猛るものがあるというのなら、それを見てみるのも悪くは無い。
 元より、曹仁は飛燕を侠客とも義賊とも評していたが、華琳にはそうとも思えないところがあった。黄巾の兵の扱いなどはむしろ酷薄とさえ言え、黒山賊の者たちでさえも、ただの盾としか見ていない感じがあった。
 降伏を装う程度のことは十分に考えられることだった。華琳を説き伏せるようにしながら、警戒心もなく凶刃の間合いへと踏み込んだのは、明らかに曹仁の判断の誤りと言わざるを得ない。
 ここまでの曹仁は、単に騎馬隊の運用に少しばかり長じたところのある将の一人に過ぎない。以前から感じていた、どこか判断の甘いところも露見させている。このままなら、春蘭の下のただの一部将として今後は使うことになるだろう。それぐらいの力量は華琳も認めていたし、言ってしまえばその程度だった。
 劉備達には主君として立つことを望まれ、孫策にも旗下に誘われたという。白騎兵と呼ばれる、騎馬隊としては天下に比肩し得るものの無いかつての董卓の旗本に指揮権を預けられてもいる。その男が、本当にただの一部将におさまる程度の器なのか。天の御遣いという肩書が、実体以上に曹仁を大きく見せているだけなのか。それ以上の何かを期待してしまうのは、身内ゆえの欲目というものなのか。
 ここで全てを見極めるつもりで、華琳は曹仁へと視線を注いだ。
 曹仁と飛燕が馬と馬を突き合わせる距離で対峙する。うつむいていた飛燕がおもむろに顔を上げた。
 そこで初めて槍を取り落としていることに気付いたのか、曹仁は両掌に目を落とした。気だるげな動きで一度周囲に視線を巡らせると、すぐに諦めたように頭を振った。軽く拳を握って無手のままに曹仁は構えた。
 飛燕は、茫然とした表情でそれを見つめている。

「どうした、来ないのか? あの日の続きと行こうじゃないか」

 曹仁が、焚きつけるように言った。飛燕の手にする刀が屈辱に振るえる。

「っ、曹子孝っ、貴様はっ」

「臆したのか、飛燕。ふふっ、張牛角殿も、草葉の陰で泣いていような」

「―――貴様がその名を口にするなっ!!」

 飛燕が、怒号とともに曹仁に組み付いた。刀を捨て無手で向かったのは、義賊としての最後の矜持ゆえか。あるいは義兄の名がそうさせたのか。
 組み合い、もつれ合うようにして二人の姿が馬上から消えた。ただ落ちたとしか見えなかったが、気付いた時には曹仁が上で、飛燕が二人分の体重でもって地面に打ち付けられていた。

「何もかもが、あの日の焼き直しのようじゃないか」

 立ち上がり、口元を引きつらせながら曹仁が言った。皮肉気な笑みの一つも浮かべたいのだろうが、それはほとんど苦悶の表情に見える。飛燕も弾かれたように起き上った。
 きれいに投げが決まったとはいえ、負傷の程度は明らかに曹仁の方が重い。それでも、華琳は思わず安堵の吐息をもらしていた。
 徒手空拳の戦いで曹仁に確実に勝てると言い切れる者は、曹操軍中にあっても端から拳足を武器とする凪ただ一人といっていいだろう。天性の武人である春蘭や季衣でさえ危ういものがある。
 技量、というよりも技そのものが突出して高い水準にある。特に組み技の多彩さという点では、凪のはるか上をいくのではあるまいか。
 曹仁に言わせれば、彼が元いた世界ではすでに廃れつつある古臭い技であるらしい。それでも、この世界にとっては最先端のさらに先を行く、未だ到達し得ない技である。無手での体術は手遊び程度にしか修練していない身とはいえ、華琳をして理解を超える部分があるほどだ。無手での戦いとなった以上は曹仁の勝ちはほぼ確定したと見て良かった。
 華琳がそう安堵した矢先、飛燕が獣のような動きで曹仁に飛び掛かった。向かい打つ曹仁が、大きく拳を振りかぶる。

「―――っ、あの馬鹿」

 華琳は覚えず一瞬視線を逸らした。直後、肉と肉がぶつかり合う鈍い音が、耳に届く。
 視線を戻すと、二人の姿がなかった。いや、両者共に倒れ伏しているのだ。
 曹仁が放ったのは、その身に染みついているはずの精妙な技巧をかなぐり捨てた、感情ごとぶつけるような力任せの一撃であった。結果、真っ向勝負の一合目は、痛み分けに終わっていた。





 拳が曹子孝の顔面をとらえたと思った瞬間、視界が弾けた。
 飛燕は、気付けば地面に突っ伏していた。顔を上げると、眼前の、ちょうど同じ高さに土にまみれた曹子孝の顔があった。自分の顔も似たようなものであろう。相打ちだった。
 曹子孝が、平然とした顔で身を起こす。

「義を捨てた抜け殻の拳は、やはり軽いな」

 そんなはずはなかった。拳に残る強い痺れが、衝突の激しさを物語っている。

「それとも、張牛角殿の教えが悪かったのかな?」

「貴様が、その名をっ!」

 跳ね起き、殴りつけた。またも相打ち。先刻と変わらぬ衝撃も、備えの出来ている今度は両者共に倒れることはなかった。

「その通りだ。張牛角殿を語れるのは、生き延びたお前だけのはずだ!」

 言いながら、曹子孝が拳を振りかぶった。飛燕は避けずに、打たれながらに打ち返した。相打ち。

「そのお前が、名を汚してどうする! お前の名を汚すことは、張牛角殿の名に泥を塗ることに等しいぞ!」

「黙れっ!」

 さらに相打ち。

「張牛角殿と共に掲げたという、義賊の旗印はどこに捨てたっ!」

 義賊という言葉が拳以上に飛燕の心を打った。

「国を建て直すとまで語った志は、どこに捨てたっ!」

 志と呼べる思いがあった。共に道を行く兄弟達もいた。
 ただ手を引かれて歩いているだけだったのか。伸ばした手を引く者を失った時、道もまた見失ってしまったのか。

「――――――――! ―――――!! ―――――――!」

 耳に痛いことを好き勝手に言い立てながら、曹子孝は少しも考える時間というものを飛燕に与えてはくれなかった。降り注ぐ拳に、飛燕も拳を返した。降り注ぐ言葉には、返す言葉もなかった。
 拳に遮られ途切れ途切れになる思考に、様々なものが浮かんでは消えていく。両親の死。商人宅での裕福な暮らし。そして、張牛角との出会い。義賊としての戦い。黄巾の乱。黒山賊。青州。
 消えずに胸のうちに留まり続けるものが、確かにあった。義。志。張牛角。託されたはずのものと、受け取らずに目をそらし続けていた自分。
 一際激しい衝撃。それが拳によるものなのか、言葉によるものなのか、すでに飛燕には判然としなかった。
 地に、膝を付いていた。膝を付いたままに、飛燕は曹子孝を上から見下ろしていた。妙にすっきりとした気分だった。
 技巧も何もない真っ正面からの相打ちの応酬。その結末は、初めから火を見るよりも明らかなことだった。
 何故、こんなにも無謀な真似をしたのか。倒れ伏す曹仁の背中に褚燕は問い掛けた。





「春蘭、仁は生きている?」

 不思議と曹仁の意識ははっきりとしていた。ただその意識が身体とは切り離されたようで、指一つ満足に動かすことが出来なかった。華琳の声も耳に確かに届いてはいたが、それに反応する力が残されてはいない。
 強引に引き起こされると、鼻先に手が添えられた。

「息はしています!」

 耳元で、春蘭の声が響いた。背後から、抱き寄せられているようだった。

「傷も、……これなら二、三日も寝かせて置けば問題なさそうです」

―――それは春姉ならの話だろう。
 笑い飛ばすことも出来ず、言葉が声になることもなかった。喉からかすれた息が洩れただけだ。

「そう」

 そっけなく言うと、華琳は馬を進めた。曹仁と春蘭の横を抜け、飛燕へと向かう。
 飛燕は、力尽きたように地に膝を付けた姿勢のまま動こうとはしない。視線も、曹仁が先刻まで倒れていた地面に据えられたまま動かない。

「華琳さま、危険です」

「大丈夫よ、秋蘭。心配しなくても、私は仁ほど迂闊ではないわ」

 大鎌“絶”が、静かにたたずむ飛燕の首に据えられた。
 刃先が首筋に食い込んでいる。華琳が軽く絶を滑らせるだけで、飛燕はその命を散らすこととなるだろう。それでも、飛燕は身じろぎ一つしなかった。
 無意味なことをしたのかもしれない。曹仁は強烈な虚無感に襲われていた。飛燕に、何かをぶつけなければならないと痛切に思った。やり切ったと、殴り合いに負けてなおそう思えているのはただの自己満足で、処刑を待つ男をいたずらに惑わしただけではなかったのか。

「―――曹操様にお願いがございます」

 飛燕が存外しっかりとした口調で言った。

「降伏を偽り我が将に手を出しておいて、なおも願いなどとよくも口に出来たものね」

 つうと一筋、飛燕の首にあてがわれた鎌から血が滴った。
 物怖じした様子もなく、飛燕が続けた。

「偽りの降伏も、御従弟に刃を向けたのも全ては俺が独断でしたこと。なにとぞ我が兵には御咎めなきよう、お願い致します」

「……どうやら、憑き物は落ちたようね」

 華琳が、ゆっくりと絶を下した。

「言われるまでもなく、兵に手を出すつもりはないわ。黄巾の兵達は我が旗下に編入させてもらう。編成はいじらせてもらうけれど、張三姉妹に対する信仰に口は出さないわ。黒山賊の兵は―――」

 華琳は、首領である飛燕の元へ今にも駆け寄ろうと逸る軍勢を一瞥した。曹仁も、つられてそちらに視線を向ける。
 何度となく思ったことではあるが、思い思いの得物を手にする集団はとても軍と言えるようなものではなかった。それが統一と統制を旨とする戦場で、正規軍に劣らぬ働きをするというのは驚きと言う他ない。

「こんな集団の指揮を任せられる将は、我が軍にはいないわね。春蘭辺りなら合いそうな気もするけれど、すでに我が軍の象徴とも言える存在を動かすわけにもいかないし。……ふむ、やはり黒山賊の兵の指揮は今後も貴方が取りなさい、飛燕」

「――――――っ」

 何でもない事のように言う華琳に、戦場全体が息を呑んだ。

「俺を、生かすというのですか?」

 飛燕が当然ともいえる疑問を口にした。

「死にたいというのなら、やはり首を刎ねましょうか?」

 華琳が大仰なしぐさで絶を振りかぶって見せた・

「……俺は、義兄達の仇さえ討てれば死んでもいい、いや、死んで何もかも終わりにしたいとすら思って、この戦場に臨みました。ですが今は、……今は、生きられるものならば生きてみたい。そうも、思っております」

「ならば黙って私に従いなさい」

「しかし、降伏を偽り、御一門の将を、ましてや曹家の天の御遣いとも呼ばれる者を害した俺は、ここで首を刎ねられてしかるべきでしょう」

「仁の件は、あの子が馬鹿だったというだけのことね。ただ一度手を合わせ、立派な志らしきものを持っているかもしれないというだけのことで、つまらない賊徒の首魁などを信用してしまったのだから」

「それは……」

 飛燕の表情が、苦悶に揺れた。その感情が慙愧から来るものであれば、やはり飛燕の中に義賊としての矜持は残されているのだ。それは曹仁にとっても救いのように感じられた。

「なればこそ、いっそうわかりません。つまらない賊徒に落ちた俺を、なぜ助命するのです。寛容も過ぎれば侮りを生むばかりです。いくら敵対したところで最後には許されるとなれば、進んで貴方の軍門に下る諸侯は皆無となりましょう。俺に、そうまでして生かすだけの価値があるとは思えません」

「完全に誇りを失ったままの下郎であれば、迷わず首を刎ねたでしょうね。今の貴方ならば、まだ救いがある。仁に感謝なさい。身体を張って貴方の目を覚まさせたのだから」

 華琳は愛想のないしぐさで曹仁に一瞥だけくれると、ここからが本題とばかりに声を張った。

「そして結果はどうあれ、貴方は一度百万の軍勢に求められ、率いるに至った。天下に何かを為し得る人間であることは疑いようも無い。貴方を生かすことが、この曹孟徳に益するものかどうか、それはまだ私にも分からない。それでも、―――それがたとえ我が覇道の妨げになろうとも、天下にとって有為であるならば、すべからく私は活かそう」

 黄巾の乱に臨んでは教主張角ら三姉妹を保護し、反董卓連合にあっては首魁董卓を助命した。そして今また、百万賊軍の頭目飛燕を許すのか。そうして、益も害も、善悪も正邪も清濁をも合わせ呑んで、一つの天下とすると言うのか。覇を競うことになる相手にも、桃香や恋、孫策や麗羽に対しても同じことが言えるのか。―――華琳ならば、言うのだろう。彼女は自分の言葉に例外をもうけはしない。
 しかし、そんなことが可能なものだろうか。不可能だと、そう断ずることは容易い。だが少なくとも華琳は行動によってその道を示した。それもこれが初めてというわけではなく、すでに幾度も。

「ひとつお聞かせ願いたい。そうして敵対者すらも受け入れ進む覇道の先に、貴方はどのような世を築き上げるおつもりか?」

 曹仁の心の声を代弁するように、飛燕が問い質した。

「貴方は今、この私に質問が出来るような立場にあるのかしら?」

「確かに我が身は今や貴殿の手中にあると申して良いでしょう。しかし俺には、自ら命を絶つというわずかな選択の自由が依然としてあり、それと同じ分だけ、主を選ぶ自由も有しております」

 華琳の底冷えするような視線を受け止めて、平然と飛燕は言ってのけた。

「なるほど。そういう人間なのね、貴方の本質は」

 どこか楽しげに笑みをこぼしながら、華琳は言った。

「私が築くのは、誰もが等しく権利とそれに伴う義務を与えられ、その才を自己の責任において自由に発揮し得る国」

 曹仁は覚えず息を飲んだ。
 抽象的なもの言いに合点がいかぬ表情の飛燕に、華琳が続けて口を開いた。

「農民の子と士太夫の子が、共に机を並べ競い合える国、といえば分かりやすいかしら?」

 それは、かつて曹仁の語った世界だった。
 今にして思えば、里心のついた子供の口から出た妄言の類だった。ここよりもずっと進んだ文化水準を持つ曹仁の世界ですら、それが真の意味で実現出来ていたとは思えない。当時は華琳自身も絵空事と笑い飛ばしたものだった。それを、数年を経て成長した華琳が、実現させると口にしている。

「……誰しも平等に機会を得うる世、ですか。これから権力の階に登ろうとする方の言葉とも思えません」

 飛燕の言は至極真っ当なものだった。
 悪名高い秦の始皇帝の焚書に限らず、この時代の権力の裏には知識の独占と選抜があるという面は否めない。政治的発言には古典からの引用が頻発し難解極まる。一方で学問を修められる者などほんの一部の人間に過ぎないのだ。士太夫や豪族と呼ばれるような特権階級だけが政治を語る口を持ち、権力を手にすることも出来る。それが周代から続くこの国の政体だった。農民から生まれた開祖を持つ漢王朝においても、それは変わらない。権力者にとって、また一面では民にとっても都合の良い体系であるからだ。

「数年前まで筵を織って暮らしていたという少女の名が民の耳に響き渡り、出自も定かならざる将が天下無双とまで評されている。この乱世なくば、彼女達の才覚も世に出ること無く終わっていたかもしれない」

 華琳はそこでいったん口をつぐむと、ぐるりと大きく手を巡らせた。その仕草は、眼前の十万の人の群れに向けたようでも、遥か地平を指し示したようでもあった。
 再び、華琳が口を開く。

「―――私は、生まれというふるいにかけられた限られた少数の中では無く、この世界に生まれ落ちた無数の人間の中の主席でありたい」

 飛燕が気でも呑まれたように、目を大きく見開いた。曹仁も、愕然と胸を突かれていた。
 華琳が口にしたのは、現状の政体に対する不満などではなかった。戦わずして勝つことすら認めないという、度を過ぎた負けず嫌いが顔をのぞかせただけだ。
 ―――敵わない。
 飛燕との殴り合いに敗れ、地に伏してなお感じることの無かった敗北感に、曹仁は襲われていた。
 初めて出会ったときから、華琳はいつだって自信に満ちあふれていて、曹仁には不可能と思えることも平然と口にし、実現させてきた。かつて自身で一笑に付した世界も、華琳が再びこうして口にした以上は、きっと現実のものとするのだろう。そんな彼女がまぶしくて、直視出来ないほどにまぶしくて、逃げるようにして自分は曹家を出たのかもしれない。曹仁は今にしてそう思った。
 幸蘭に仁ちゃんと甘く囁かれると、心がほっと安らぐ。春蘭や秋蘭から弟分として扱われると、どこか誇らしい気持ちになる。ただ華琳に対してだけは、弟扱いされることを曹仁は肯んじ得なかった。いつまでも華琳の“弟の仁”でいたくはなかった。自分は、天の御遣いなどという虚名ではなく、華琳と対等と思えるだけの、拠って立つ何かが欲しかっただけなのか。
 自覚し、言葉にしてみれば馬鹿馬鹿しい話だった。逃げた先で見つけた何かに、そんな力があるはずもないのだ。

「……一度は捨てた命です。今後は、貴殿の覇道のために存分にお使いください。―――黒山賊一同、曹孟徳様に忠誠を御誓いします」

 飛燕が跪拝して言った。
動こうとしない身体を置き去りに、曹仁の心も飛燕の隣りで手をつき、頭を下げていた。

 ――――ここからだ。

 曹子孝は、ここから始めるしかない。
 飛燕へ向けて鷹揚に頷く華琳に、曹仁もまた心中で忠誠の言葉を口にしていた。
 器の違いを認めた時、胸に迫る敗北感はいっそ清々しいものであった。



[7800] 第4章 第5話 曹嵩
Name: ケン◆f5878f4b ID:66e03825
Date: 2012/01/29 17:12
「久しぶりに息子に会える」

 徐州北辺を駆ける馬車は、まもなく兗州は泰山郡に入ろうとしていた。目的とする陳留郡は兗州でも最西端に位置する郡で、東端の泰山郡からはまだまだ遠い道程だが、もうすぐ娘の治める領内には入ることになる。

「息子? 嵩様、息子さんもいらっしゃるの?」

 誰にともなく呟いた言葉に、腕の中の女が反応した。最近雇い入れたばかりの侍女の一人だ。山間の悪路に馬車が揺れる度、懐に抱いたその柔らかい身体が曹嵩に押し付けられる。仕事の方は多少怠け癖があると家宰からは言われていたが、曹嵩がこうして特に近くに置く理由はまったく別のところにある。

「ああ、正確に言うと息子ではなかったな。甥だ」

「甥?」

 振り向いてこちら見上げる大きな瞳はわずかに潤み、寄せられた眉根には独特の色気がある。ぷっくりとした唇と、形のいい耳に、すっと通った鼻筋。つまりはそれが理由だった。

「ああ、曹仁という。知っているか?」

「ええ、もちろん。曹家の天の御使い、曹子考様でしょう?」

「そうだ。子考という字は、私が付けた。自慢の息子、いや、甥だな。小憎たらしい娘とは大違いだ」

「もう、お嬢様がせっかく呼んでくださったのに、そんなことばかり言って」

「いいのだ、あやつのことは。軍資金やら何やらと、欲しいものがあるときばかり甘えた声を出しおって」

 自分に似て見た目だけは愛らしいのが問題だ、と曹嵩は胸中で付け加えた。娘の内心はどうであれ、あの姿でしおらしくお願いされると、つい好きに物を買い与えてしまう。

 ―――お母様、兵たちの装備が不足しているの。
 ―――お母様、軍馬が足りないの。
 ―――お母様、軍資金が尽きてしまったのだけれど、お屋敷を売ってもいいかしら?

「……まったく。普段はお母様などと、呼ばぬくせに」

「?」

 女が上目使いに曹嵩を見上げた。匂い立つような色気が、一層強まった。
 華琳は、こういった見目ばかり美しい女は一時愛でることはあっても、そばに置き続けることは無いのだろう。曹嵩は娘とは違い、女に才覚を求めたことは無かった。

「なんでも――――っ!!」

「きゃっ!!」

 大きく、馬車が揺れた。

「おい、何をしている!」

 叱声と共に、曹嵩は馬車の窓から顔を出した。言葉がむなしく虚空に響く。
 御者台は無人であった。居るはずの御者の姿は無く、代わりに、曹嵩の見ている前で矢が一本また一本と突き立った。





「なんだ、兄ちゃんか」

「兄様でしたか」

「季衣と流流か、それに。……こんなところで、何をなさっているのです?」

 意外な所で意外な人物の姿を目にとめ、曹仁は声を掛けた。

「……仁? こんなところで何を?」

 華琳はよほど集中していたのか、そこで初めて曹仁の存在に気付いたというように、手元へ落としていた視線を上げた。
 兗州は陳留郡陳留県、華琳の居城である。
 華琳や曹仁が城内にいるのは常と変らない。こんなところ、というのは宮城の中でも滅多に人も訪れることのない、中庭の外れも外れの奥まった草地を指してのことだ。

「俺は槍の練習に」

 修練用の棒を掲げて曹仁は言った。

「ああ、貴方は最近手が空いているのだったわね」

 青州黄巾兵の加入によって、曹操軍全軍の統率者である春蘭やその補佐の秋蘭、新兵の調練を担う楽進ら三人、加えて事務仕事に当たる文官の面々は、連日の働き詰めである。あの戦場で降伏した五十万に後詰の五十万をも加え、青州黄巾百万が一時に傘下に加わったのだ。彼女達の苦労は想像に難くない。
 後詰の五十万はほとんどが非戦闘要員であり、女子供などが多く含まれていた。張三姉妹の支持者は主に若い男が中心ではあるが、それ以外の層からも人気があって、家族ぐるみで信者という例も少なくはない。
黄巾軍の戦闘要員だったものも、多くは武器を持っているというだけで、実際に曹操軍の兵として編成出来るだけの者は多くないということだった。楽進達の見立てでは、最後まで飛燕の指揮に従い抗戦の意思を示した兵を中心にした十万前後の増強になるという。それ以上は兵の質を落とし、逆に全体の動きに支障をきたすことになりかねない。
 兵として取り立てられる者以外は、当初の予定通り土地を与えられ農民としての暮らしに戻ることとなる。一からの開墾である。土地との戦いは、賊として弱者から搾取するだけの暮らしよりも、はるかに厳しいものとなるだろう。百万近い移民に土地を割り振り、不満を抑え込むのは荀彧を中心とした文官の仕事であり、これは調練に当たる武官以上に困難を極めることだろう。
 城全体がそうした慌ただしい空気に包まれる中で、曹仁にはぽっかりと時間の余裕が生まれていた。
 青州黄巾賊との戦で騎兵全体の指揮権を与えられて以来、曹仁は曹操軍の騎馬隊の有力な指揮官の一人に数えられるが、吸収した黄巾の兵員には元々騎兵が極端に少ない。わずかに含まれる騎兵も黄巾というよりも黒山賊の兵で、それはそのまま飛燕の指揮下に留め置かれていた。怪我の療養中ということもあって、曹仁の仕事は平時の騎馬隊の調練のみで、他には時折り雑務を命じられるだけだった。反董卓連合以来連戦続きであった曹仁は、白鵠と遠乗りに出たり、蘭々に連れられ城外にて連日開催中の張三姉妹の舞台に足を運んだりと、久しぶりの余暇を満喫していた。

「槍など振って、怪我はもう問題ないと思っていいのかしら」

「ええ、もうすっかり」

 槍に見立てた棒を、曹仁は軽くふるって見せた。

「そう。すぐに次の戦が始まるわ。編成中の黄巾兵はまだ出陣に耐えないし、その時は貴方にも大いに働いてもらうことになるでしょう。今はすこしのんびりしていなさい」

 次の戦は、予州への侵攻戦となることが華琳の口からすでに明言されていた。侵攻の名分も十分に立っている。秩序の回復である。
 現状、予州は黄巾賊の支配下にあると言って良かった。それも青州黄巾賊のように本拠を持たず転々とする集団ではなく、城郭を乗っ取りあたかも領主のように振る舞っているという。華琳は予州でも取りこめるものは取り込むつもりであろうが、青州兵と違い、一度権勢欲に染まった者達である。張三姉妹への信仰がどこまで残っているのか判然としない。激戦も十分に予想された。

「それで、華琳様はここで何を?」

 華琳も、そばには季衣と、その幼馴染で先日親衛隊に入隊したばかりの典韋―――流流が控えるだけで、公務という装いでなかった。
 季衣と流流の二人も、城内という事もあって護衛中という緊張感もなく、草の上に腰を落ち着けていた。近くの木陰には、軽食や菓子なども拡げられている。仕事として、というよりも単に遊びがてらに同行したというところだろうか。とはいえ第三者―――この場合は曹仁が近付いた瞬間には、いつでも華琳を庇えるように正面に一人が立ちふさがり、いざという時に退路を確保するために後方に一人が回り込む、という配置に付いていたのはさすがだった。

「これよ」

「……図面ですか?」

「ええ」

 華琳の手元を覗きこむと、宮殿の設計図らしきものが目に入った。疑問符が付いたのは、会話中にも流れるような筆使いで描き加えられていく華美な装飾が、一瞬絵画を思わせたからだ。よくよく見れば、建物の外観から内装までがほぼ正確に理解出来る、図面としても見事なものだった。

「しかし、また随分と派手な。ご自身の設計のようですが、華琳様のご趣味というわけでもなさそうですが」

「あの人の居室にと思ってね」

「―――ああ。そういえば呼ばれたのでしたね。それで、自ら作図に縄張りの確認ですか」

 華琳のちょっと突き放したような“あの人”という言い方に、思い浮かぶ顔は一つだった。
 曹嵩。字を巨高。大宦官曹騰の養子にして、華琳の実の母親である。

「不備でもあると、あの人うるさいから。ちょっと伺いを立ててみたら、すぐに来るなんて言い出すんだもの。ただでさえ忙しい時期だって言うのに」

 華琳が、どこか言い訳がましくまくし立てた。
 曹嵩は華琳の招きに速やかに応答した。使いの者によると、ほとんど返書をしたためると同時に、家財道具一式を馬車の荷台に積み込み始める勢いだったという。離れの建設は、普通なら昼夜兼行の突貫工事でも間に合うとは思えない。ただ、真桜率いる工兵隊の異常なまでの働きぶりを考慮に入れると、不可能とも言い切れなかった。

「相変わらず、仲が良いのだか悪いのだか分からない親子関係ですね」

「ふん」

 華琳は小さく鼻を鳴らすと、視線を手元の図面に戻した。

「……そこ、貴方の修練の跡かしら?」

 そのままこちらに顔も向けずにひょいと指差したのは、草がはげて地肌がむき出しとなった一角だった。

「ええ。お気になさらず。練習はどこでも出来ますから」

 曹仁の槍術は軽やかな足運びとは無縁のもので、騎馬式あるいは馬歩と呼ばれる腰を落とした構えから、地面を強く踏み締めて槍を突き出すという単純なものだ。この時の構えがそのまま乗馬姿勢にもなり、馬上では股の締めで体勢を維持し、大地をかむ代わりに馬の勢いを槍に加える。数日一つ所で槍の修練を行えば、踏まれ続けた草は土気色に変色して、十日で地肌がむき出しとなる。

「もちろん気にしないわよ。貴方も気にせずその辺りで修練なさい、あの人が来た後もね。貴方のことを、男相手にしては珍しく気に入っているようだし」

「分かりました」

 曹嵩も娘と同じで、男嫌いの女好きだった。華琳が生まれたことが不思議な位で、男嫌いの度合いは娘よりも上かもしれない。曹仁に対して嫌悪感が無いのは、初めて会ったのが子供の時分だったこともある。初対面が今ぐらいの年齢であれば、今日のような良好な関係を築くのは難しかっただろう。
 なんにしても、一方ならぬ愛情をそそがれたという思いが曹仁にはある。家族から引き離され養子として曹騰に引き取られた曹嵩自身の境遇がそうさせたのかもしれない。曹嵩は、見ず知らずの土地に投げ出された曹仁を厚く庇護してくれたまさに恩人だった。

「……ところで仁、さっきからその話し方は何? 身内しかいない場では、無理に敬うような素振りは結構だと言ったはずだけれど」

 華琳が眉をひそめる様にして言った。
 そばに控える二人は、華琳にとって気の置けない人選である。
新参の流流も、今やすっかり華琳のお気に入りだった。護衛として信頼に足るだけの力量に愛らしい容姿と勤勉な性格、加えて技量抜群の料理人でもある。美食家であり自ら包丁も取る華琳にとっては、得難い同好の士と言ったところか。それは一年近くもの間、官軍第一の将軍の家の厨房を一手に担っていた曹仁にとっても同じことである。
 宮城内とはいえ人気のない外れなれば、ここはまさに身内だけの場と言って良かった。

「ええと、……普段から慣れておいた方が、いざという時によろしいかと思いまして。問題がありましたでしょうか?」

「問題、というか、気持ち悪いわ。…………まあ、いいけれど」

 華琳はしばし探る様な視線を曹仁に注ぐと、興味を失った様に言い捨て、再び図面へと目を戻した。





 横転した馬車から飛び出すと、曹嵩は剣を抜いた。
 そこかしこで争いが起こっていた。護衛の兵と対峙している敵勢には、一見して賊の類であることが明白な者達と、正規兵の装いに身をつつんだ者達が混在している。
 手近に、一人対二人の争闘があった。追いこまれている一人には見覚えがある。自衛のために屋敷に雇い入れていた兵の一人だ。
 曹嵩は、車内に隠れているよう女に告げると、加勢へ向かった。
 護衛の兵と対峙している二人のうち一方を、駆け付け様に斬り伏せた。動揺するもう一方に、兵が槍を突き立てる。

「これは何事だ!?」

「曹嵩様っ! 盗賊の襲撃です! 陶謙殿より派遣された兵も敵方に回りました」

 賊難を避けるために移り住んだ徐州だが、黄巾の残党が暴掠の限りを尽くした青州ほどではないにしても、今は賊徒が横行していた。境を接する兗州での取り締まりが厳しいうえ、州牧の陶謙が賊徒の討伐にあまり熱心とは言えないためだ。その陶謙が、今は官職を持たない私人に過ぎない曹嵩に護衛のために兵を派遣していた。大方、華琳に貸しを作りたかったのだろうが、この有様である。賊と兵が協力して動いているというのなら、初めから兵が賊の手引きをしたと考えるのが妥当であろう。
 元々曹嵩が雇用していた私兵が三十で、陶謙から派遣された兵は百に上る。そこに賊も加わったとなると、兵力差は五倍以上となろう。

「積み荷に目でも眩んだか」

 実際のところ、荷にはさして金になる様なものは無かった。そういったものは華琳が兵を養う為にと持ち出している。それでも庶民にとっては手の届かないだけのものはあるが、全員で山分けにしてしまえば、正規兵の立場を捨て盗賊に身を落としてまで手にするほどの額は残らないだろう。とはいえ、兵達がそんな事情を知るはずもない。そしてかつて曹嵩が、人臣の最高位である三公の地位を金で買ったことは周知の事実であった。その曹嵩の荷には金銀珍宝の類が山をなしていると賊共が考えるのは、当然の成り行きと言えた。
 二頭立ての馬車の、一方の馬は横転に巻き込まれてもがき苦しんでいるが、一頭は馬車との連結が上手く外れたようで、無傷のまま落ち着きなく周囲に目を向けている。曹嵩はそれに飛び乗った。

「曹嵩様!」

 馬上の人となった曹嵩を認めると、兵がわらわらと駆け寄って来る。
当然、賊徒も曹嵩に気がついて攻撃を集中させ始めた。曹嵩の指示の元、兵は巧みに堅陣を組んでそれを阻んでいた。山賊はもちろん、徐州の正規兵をも押し退ける奮闘振りである。

「……あやつに助けられたな」

 黄巾の乱が一応の鎮圧を見てから反董卓連合が結成されるまでの間、華琳は曹嵩の元に滞在していた。その間、華琳は暇にあかせて私兵の調練に明け暮れていた。曹嵩の手元に残っている兵の中にも、その調練に参加していたものは少なくない。夏侯、曹の両姉妹はもちろん、すでに名軍師として名を馳せ始めていた荀彧や、怪力無双の許褚まで伴っての長逗留である。いま曹嵩を中心に陣を布く兵は、そこらの州兵とは比べものにならない一端の精兵達だった。

「小さくまとまれ、もっと小さくだ」

 三公の一つ、軍事を担当する太尉の地位に昇った身とはいえ、曹嵩は戦場を踏んだ経験を持たない。それでも、曹嵩の指揮に迷いはなかった。
 自分の用兵が拙いはずがないのだ。なんとなれば、華琳を生んだ母親であるからだ。曹嵩はいっそう声を励ました。
 州境間近での騒動である。長引けば徐州の兵はもちろんのこと兗州の曹操軍が出動する可能性もあった。反董卓連合での武功や、先の青州黄巾賊との戦いから、曹操軍の強さは天下に知れ渡っている。賊も曹操軍と事を構えようとは考えていないはずだ。

「全員、引け、引けぇっ!!」

 賊徒の中から、野太い声が響いた。
 案に違わず、半刻(15分)ほどの競り合いの後、賊の攻撃は止んだ。遠巻きに包囲を維持し、武器を掲げ威嚇だけを繰り返している。
味方の陣形の外にも、いくつも馬車が横転している。積み荷ごとそれらを奪って賊が引き上げていくのも、時間の問題と思えた。

「―――くっ、しまった」

 賊徒の中から進み出た人影に、安堵に緩み掛けた曹嵩の表情が強張った。先刻まで曹嵩の腕の中にいた侍女の首筋に、賊の剣が添えられていた。

「やはり、あやつのようにはいかんな」

 兵力差の圧力に押され、いつの間にか侍女の隠れていた馬車が味方の布陣の外へと追いやられていた。精強なれど実戦を知らぬ兵を率いる同じく初陣の将が、戦場の全てに目を配るなど土台が無理な話ではあった。

「曹嵩様、いかがいたします?」

 視線の先では女が、花の顔(かんばせ)をしおらせていた。賊はその耳元で、武器を捨てろとがなり立てている。

「……女を傷付けるのは趣味ではない。武器を伏せるだけ伏せてやれ」

 堅陣の鋭鋒が、地に伏せられた。
 賊に捕らわれた美しい女の末路など、想像するまでもない。曹嵩は自軍より一歩、二歩と進み出た。

「お主、……確か張闓といったな。目当ては金であろう?」

 女に凶刃を向けているのが、陶謙から派遣された兵の指揮官その人であることに曹嵩はようやく気付いた。

「金なら、そこらの馬車の中から好きに持って――――っ!!」

 わっと、背後で喚声が上がった。
 賊徒が、武器を伏せた兵に一斉に押し寄せていた。曹嵩と張闓のやり取りに気を向けていた兵達の反応が遅れた。固く築かれていた陣形が崩れて乱戦となれば、錬度の高さはそれほど大きな意味を持たない。あとは兵力差に圧倒されるのみである。

「張闓、貴様っ、なんのつもりだ! 無益な――――――っ」

 下卑た笑みを浮かべる張闓へ曹嵩は詰め寄った。その背中を、とんっと軽く叩かれたと感じた。刹那、言葉が、喉が詰まった。何かが、込み上げてくる。ひとつ、咳をした。口元に添えた手が、鮮血に染まった。

「……あ?」

 気付けば、跪いていた。
 三公にまで昇った私が、曹孟徳の母であるこの私が、このような下衆共の前で膝を屈するなど。
 立ち上がろうと気力を奮うが、それが無駄な努力であることもまた曹嵩には分かり過ぎるくらいに分かり切っていた。胸から、槍の穂先が突き出している。地面が、せり上がってくる。

「馬鹿野郎っ、せっかくの質にもなる良い女を!」

 賊共が何か言い争いを始めている。すぐ頭上でかわされる罵り合いも、曹嵩の耳にはどこか遠かった。女が、泣き叫んでいる。それも遠い。

「……まったく。こんな時に、お前の顔がちらつくとは」

 脳裏に浮かぶのは、一人の少女。自分と良く似た顔立ち。勝気そうな瞳。自分とは違う、自信に満ちた笑み。

―――さあ、今度は何が欲しいのだ。

 呟きに返す者はいなかった。



[7800] 第4章 第6話 曹孟徳の覇道
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/03/08 22:07
 どこまでも静かだった。
 軍議の間には多数が詰めているというのに、しわぶき一つ洩らす者はない。
 静寂の時がどれほど流れたのか、やがて華琳がことさら静かに口を開いた。

「桂花、すぐに出陣の用意を整えなさい」

「っ! は、はいっ! そ、それで行く先は?」

「―――徐州」

 つまらぬことを聞くな、とばかりに華琳は冷えた口調で言い捨てた。

「は、はいっ。……そ、それでは、いか程の規模の軍を、起こされるのでしょうか?」

「徐州全土を平らげる。十万の兵を整えなさい」

「し、しかし、いまだ帰農させた者達からの収穫は上がっておりません。兵糧、それに新しく加わった青州兵には武具の備えも十分とはいえません」

 元来予定されていた予州の平定とは、戦の規模が一桁違うものだった。
 小勢力が乱立し、黄巾の残党なれば張三姉妹の歌による帰順も望める予州と、まがりなりにも陶謙という州牧の元で一つにまとまっている徐州への侵攻では、全く情勢が異なる。

「兵糧も武具も、敵から奪えばよい。―――そう、何もかもを奪い取りなさい」

 十万の軍ともなれば、その主力は新兵の青州兵に頼らざるを得ない。華琳の言葉に、軍議の間にいる誰の頭にも、思い浮かぶ像は一つだった。人肉すら喰らい尽くすといわれた、かつての青州黄巾賊の姿である。

「青州兵を、再び暴虐の野へと解き放つおつもりか? いや、報復のための軍旅ともなれば、かつての我ら以上のことにもなりかねません」

 末席から声を上げたのは褚燕―――今は名を変えて張燕と名乗っている―――であった。新参だからといって、微塵も萎縮したところは無い。この胆こそ、憎悪で曇りきって見えずにいた張燕の美徳であろう。

「それがなにか」

「天下が遠のきます、曹操様」

 青州黄巾賊による海内全土の地ならし。荀彧が、そうした献策をしたという噂は曹仁の耳にも聞こえていた。
 青州黄巾の受け入れ自体をひた隠し、百万の飢餓の軍勢を、全土に侵攻させる。そうして弱り切った諸侯を攻め落とすと言うものだ。卓抜した戦略も、その時は華琳によって斬って捨てられたらしい。青州黄巾賊は予定通り曹操軍に取り込まれ、他の兵と区別して青州兵などと呼ばれている。
 今、青州兵による暴掠が行われれば、それは即ち曹操軍によるものであることは隠しようもない。

「それが何だというの? 私自身を偽り殺してまで為して、それで曹孟徳の覇業と言えようか!?」

 華琳が、初めて感情も露わに叫んだ。同時に、曹仁も頭にかっと血が上るのを感じた。
 徐州の民もまた、天下の民。ひいては曹孟徳の民ではないか。人を活かす。それがたとえ敵対した相手であっても生かし活かす。それこそが曹孟徳の覇道ではなかったのか。報復のための虐殺など、自身の覇業に対する裏切り以外の何ものでもなかった。

「……他に異議のある者は?」

 華琳の激昂を前に、再び軍議の間はしわぶき一つ無い静寂に包まれた。
 曹仁は、無言のまま一歩膝を進めた。

「……仁。……とめるつもり?」

 背筋が凍えるような視線が注がれた。まるで、今ここにいる曹仁ではなく、仇そのものを睨みつけているようだった。華琳とは喧嘩をしたこともあったし、戦場で敵対したことすらあった。それでもこんな視線を投げつけられたのは初めてのことだ。
 怯むな。曹仁は目にぐっと力を込めて、言葉を返した。

「―――そんなはずがありましょうか。私とて曹嵩様には、数えきれぬほどの御恩がございます。私に、ぜひとも先陣の誉れをお与え下さい」

 周囲の皆が息を呑むのが聞こえる。非難するような視線が全身に突き刺さるのを曹仁は感じた。

「へぇ」

 華琳が冷ややかに返した。じっと、こちらの考えを見透かすかのように、見つめてくる。

「…………私が、どのような戦を望んでいるのか、わかった上で言っているのでしょうね?」

 曹仁はすっと息を吸い込むと、静かに口を開いた。

「はい。―――凄惨で血みどろの報復戦を行いましょう」

 一度言葉を紡ぐと、それからは溢れ出すままに一息にまくし立てた。

「徐州の民全てに絶望を与えよう。
父の前で娘を犯そう。
母の前で息子を嬲ろう。
泣き叫ぶ幼子の声を、親達に聞かせよう。
親の首を並べ、子の目に曝そう。
子のために剣を取った父を殺そう。
身を盾とする母も殺そう。
徐州の民が流す血を河としよう。
徐州の民が亡骸を積んで山としよう。
徐州の―――」

「―――もうよい!!!」

 華琳の制止の言葉に、曹仁は口を閉ざした。自分で思っていた以上に興奮していたのか、胸が激しく上下する。

「………………」

 曹仁はゆっくりと呼吸を整えながら、華琳を見据えた。
 華琳は、曹仁の視線から逃れるように、目を逸らした。恥じ入るような、慙愧に耐えかねているような、そんな表情だ。それは彼女らしくない表情だが、それでも確かに、いつも通りの華琳だと思えた。

「軍議を終える」

 華琳はそう言い放つと、立ち上がり、すぐに出口へ向けて足を進めた。

「か、華琳さま、それでは出兵の方はいかがすれば?」

 荀彧が慌てた様子で腰を浮かせ、声を上げた。

「出兵は取りやめる。…………それから、仁。後で私の部屋まで来なさい」

 言い捨てると、逃げる様に華琳は軍議の間を後にした。





 人気の感じられない部屋の前で、曹仁はわずかに逡巡した。日はとうに落ちて、あたりは闇と静寂に支配されているが、室内には灯りも灯されてはいない。

「入りなさい」

 伺いを立てるまでも無く声がした。暗い室内に曹仁は足を踏み入れた。

「……私に、失望したかしら、仁?」

 闇に目が慣れた頃になって、ようやく部屋の奥、星明りも届かない暗がりから声が掛けられた。

「そうですね。少し、いや、かなり腹が立ったのは確かです。でも、まあ、良かったですよ」

 言うと、曹仁は寝台に座る華琳に並んで腰を下ろした。

「良かった?」

「ええ。華琳様も過ちを犯す。判断を誤る。天下のことが頭から抜け落ちることもある」

「……無様を晒した私に、追い討ちを掛けているつもりかしら?」

「そうではありません。だからこそ俺にも出来ることがある。お前を支えられる。…………と、まあ、そういう感じのことを言いたいわけだ」

 最後に少し照れて、曹仁ははぐらかすように言葉を付け足すと、華琳から目を逸らした。
 しばし、横顔に突き刺さる視線に曹仁は耐えた。
 なにをもって仕えるのか。それは華琳に付き従うと決めた曹仁が、第一に行き当たった問題だった。政はもちろん戦でも、華琳の手並みには及ばない。一人突出したこの天才に己が全てを委ね、ただ手足となって動く。それが分相応と思いながらも、やはり華琳にも他の家臣にも出来ない、自分だけの何かが欲しかった。

 ―――俺は、華琳を諌めることが出来る。

 華琳は臣下の言に聞く耳を持たない無能の主ではない。それでも、先刻あの瞬間に、諌めることが出来たのは自分だけだ。それは曹仁にとって何物にも代えがたい喜びだった。

「……私だってただの人間よ。そりゃあ、たまには判断を誤りもするわよ」

 そんな曹仁の思いを知ってか知らずでか、華琳は小さく洩らした。

「珍しく殊勝だな」

「これでも精神的にまいっているのよ。じゃなきゃ、こんなこと弟分の前で口にしないわ」

「たしかに、普段なら俺の前でまいっているだなんて弱みは口にしないな」

 華琳は、一つ大きく息をついた。

「何にしても、良く止めてくれたわね。仁に、ああした物言いが出来るとは思わなかったわ」

「俺も頭に血が上っていたからな。失礼の段はお許しを」

「案外、それぐらいの方があなたは弁舌が冴えるのかもしれないわね。張燕の時にも、拙いながらもお熱い口上だったし」

 曹仁は、気恥しさを覚えて押し黙った。
 とはいえ、曹仁は自身の弁舌そのものが華琳の変心を促したとは思っていない。流れるように言葉が口をついて出たのは、実際にそうしてしまいたいという気持ちがどこかにあったからだ。華琳は、そんな曹仁の中に激情に溺れる自身の姿を垣間見たのではないだろうか。
顔をそむける曹仁に、華琳はなぶる様な視線をそそぎながら口を開いた。

「付き合いの短い季衣や沙和あたりは、結構本気で怖がっていたわよ。後で言い繕っておきなさい」

「了解」

 すっかり冷静さを取り戻したものと見える言葉に、曹仁は大きく首を縦に振った。

「貴方には褒美の一つもあげないとね。何か欲しいものはあるかしら?」

 気を取り直すように、華琳は話題を切り替えた。

「前回の戦での功もあるし、何でも良いわよ。太守という扱いで城の一つもあげましょうか? それとも、朝廷に掛け合って正式な官職の一つも付けてあげましょうか? 今なら、天の御使いなどと不遜だとか、叛意の疑いがどうとか、騒ぎ立てる廷臣もだいぶ減っているでしょうし」

「そうだな。…………なら、華琳の泣き顔が見たいな」

「はぁ? なによ、それ?」

「実の娘のお前が我慢しているのに、俺の方が先に泣いたら格好悪いだろ」

「っ! べ、別に我慢なんか」

「してないのか?」

「してない。…………こともない、か」

 じっと目を見つめると、華琳は観念したように漏らした。

「なら、泣いてくれよ。そしたら、俺も泣けるから」

「嫌よ。私の方がお姉ちゃんなんだから、あなたから泣きなさい」

「男には、意地ってもんがあるんだよ」

「そんなもの、女にだってあるわ」

「…………そうか。なら、同時に」

「いいわ。それじゃあ、三、二、一で泣くわよ」

「わかった」

「三」

 声を合わせて数え上げた。

「二」

「一」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 考えることは同じなのか、両者ともに押し黙ったまま、視線が交錯した。

「……おい」

「……ちょっと」

「……くっ、ははっ、はっはっはっ」

「……うふっ、はははっ、ははっ」

 どちらからともなく笑いだしていた。そして、どちらからともなく話し始めた。

「初めて出会った日、曹嵩様は俺を女童と勘違いなさったな」

「それは仕方ないわ。この国の子供と違って、あなたは肌も白くて小奇麗にしていたし、服装も、こちらではああした服はあまり男は着ないし」

 女性の権力者が多いためか、この世界の服飾文化は独特の進歩を遂げている。女性服だけは洋風のものが混在していて、曹仁の元いた世界とほぼ同等の水準にあるのだ。対して男性の服は時代がかったものがほとんどであった。

「それに、不安に震えて瞳に涙浮かべる様は、少なくとも勇ましい男の子には見えなかったもの。ふふっ、懐かしいわね」

「あれは、ちょうど一族郎党集まっての、曹嵩様の太尉就任を祝う宴だったな」

「ええ。眩い光とともに現れたあなたを、あの場に集まった誰もが吉兆と持て囃したけれど、まさかそれが原因で就任早々に首になるなんてね」

「曹嵩様には、申し訳ないことをした」

「良いのよ。……あの人も、実のところほっとしたのではないかしら。知っての通り、政に野心のある人じゃなかったから」

 ならどうして、と聞くまでもなく、華琳はふっと口調を変えて小さくこぼした。

「……まったく、馬鹿な母さん。お爺様の貯えたお金で地位を買って、それで私が三公の娘と呼ばれるとでも思ったのかしらね」

 そういうことか。曹仁は親子の真実に、初めて触れた気がした。
 宦官の孫。そんなことは気にもしていないと、幼き日の華琳はことさらに言った。世間の嘲笑などどこ吹く風と、自身の才覚に絶対の自信を持つ彼女の、それがまったくの本心であると、同じく幼かった曹仁は信じ切っていた。今にして思えば、何とも彼女らしい強がりだったのだ。
 権勢欲など無い人だった。それが、金で三公の地位を買ったのだ。陰で笑う者もいただろう。蔑む者もいたかもしれない。だが、面と向かって声を上げたのは華琳だけだったのだ。
 明りのない室内に静寂の時が流れた。

「……おい」

 泣いているのではないだろうかと、うつむきがちの華琳の顔を曹仁はのぞき込もうとした。その屈めた頭が、そっと胸元に抱き寄せられていた。
 そのまま、幼子でもあやすように優しく頭を撫でさすられ、ぽんぽんと軽く肩を叩かれた。

「ずるいぞ、華琳」

 年端も行かぬ時分に、この世界に一人投げ出された。里心のうずく、もっと言えば母恋しさに嘆くこともあった。そんなときに、こうしてぬくもりを分け与えてくれたのは幸蘭であり、秋蘭であり、曹嵩だった。思い出したくもないことだが、華琳にすがったことも一度ならずあった。
 自分が受けた愛情を模倣するものか、華琳のあやし方は曹嵩とそっくり同じである。

「……っ」

 こみ上げるものがあった。あふれ出そうとするその瞬間に、曹仁は首筋に何かが落ちるのを感じた。

「あーあ、俺の負けか」

 他のなにものも見えぬように、見られぬように。曹仁からも華琳をきつく抱き寄せ、その胸に顔を押し付けた。
 室内に嗚咽が二つ響き合った。





 翌早朝、再び緊急の軍議が開かれた。

「曹仁。一千の精鋭でもって我が母の仇を挙げよ。
張燕。賊の潜伏場所を探るのは、貴方が適役でしょう。副将として曹仁にしたがいなさい。
賈駆。先発し、陶謙から徐州内に兵を入れる許可を得なさい。その後は軍に合流して曹仁の補佐を」

「はっ」

「は、はい!」

 華琳が口早に告げると、張燕が威儀を正して受け、詠が幾分慌てた様子で返答した。
 両者にとって、曹操軍に入って初めての軍務らしい軍務と言っていい。詠にはいささかの気負いが見えるが、張燕の方は泰然としている。
 曹仁は、無言のまま笑顔で華琳を見返した。

「……なによ?」

「いえ。その任、しかと承りました」

「……ふん。進軍の行く手を阻む賊があれば、それも刈り取ってやりなさい。もし帰農する意思のある集団があれば、兗州は受け入れよう」

 華琳の口から、さらに細かい行軍計画が説明された。昨夜、曹仁が部屋を訪ねる前に試算したものか、それとも即興で組み上げたものか、いつもなら荀彧に任せる様な部分まで全て華琳自身が詰めている。

「華琳さま、それでは兵糧が多すぎはしませんか?」

 荀彧が口を挟んだ。数倍の兵力を持って行軍しても、十分過ぎるほどの量が告げられていた。

「そうね。余った分は適当に処理してしまって構わないわ、仁」

「適当に? …………なるほど。了解しました」

 荀彧や秋蘭達も合点がいった表情で頷き合っていた。季衣は頭に疑問符を浮かべているが、春蘭はわかった様な表情で、うんうん頷いている。たぶん見当違いだろう。
 陶謙の放置していた賊の横行を、代わって征伐する。その上で、苛政と賊徒に苦しめられた民に糧食を分け与える。兵糧など、民の数から見れば微々たるものである。それでも、施しを与えたという事実は民の心に残るし、幸蘭の諜報部隊を用いてことさらに喧伝もするだろう。いずれはそれが、徐州獲得へとつながる。
 華琳らしい、その先を、天下を、見据えた行動だった。
 その後、華琳は兵糧の捻出や、徐州からの賊徒―――難民の受け入れについて文官達にいくつかの意見を求めた。

「あの、華琳さま。お尋ねしたいことがあるのですが」

 議論も尽きた頃、荀彧がおずおずと口を開いた。

「何かしら、桂花」

「昨夜のことなのですが。華琳さまは、曹子孝をお部屋にお召しになりました」

「ええ、そうね。それがどうかしたのかしら」

「今朝、軍議にいらっしゃった時、華琳さまは、曹子孝を伴っておりました」

「ああ、そういうことね。ふふっ」

 華琳は、悪戯っぽい視線を一瞬曹仁へ走らせた。

「ええ、抱いたわよ。いえ、この場合は抱かれたというべきかしら?」

「そんなっ!!」

 絶句した荀彧に代わって、努めて冷静に曹仁は問い質した。

「華琳様、何のおつもりです。誤解を招くような御発言はお避けになるべきです」

「あら、白を切るつもり? 一晩寝具を共にしておいて、それはひどいのではない? 昨夜はあんなに強く肩を抱きしめてくれたのに」

 華琳が自らの肩を抱くわざとらしい仕草で、しなをつくった。

「だから、それは―――。…………っ」

 泣き疲れ、いつしかまどろみに落ち、そのまま華琳の寝台で朝を迎えたのは事実であった。そこは長年の家族付き合いの気安さで、艶めいた何かがあったわけではない。
 とはいえ、華琳に泣きすがったなどと言えるはずもなかった。それは面子を抜きにしても、華琳と自分の二人だけが知っていればいいことだ。

「やっぱり言えない様な事をしたってわけ!?」

 そんな曹仁の態度が、荀彧をさらに興奮のるつぼへと押しやった。

「仁ちゃんが遂に男に」

 すべてを察した笑みを湛える幸蘭が、火に油を注ぐような茶々を入れた。
 軍議は、他の一門の将をも巻き込みさらに紛糾した。





 喧々たる軍議が終わり、皆が退室していく中、張燕と目があった。

「姓を変えたんだってな」

「ああ。あのまま徐州を侵略、などということになっていたら、また賊徒の褚燕に戻って野に下ったかもしれんがな」

 言って、自嘲混じりに笑ったその表情からは、義兄にすがる少年の弱さも、復讐に狂った賊徒の悲壮も感じられない。

「張燕、か」

 曹仁は、男の名を口にした。その響きは、好ましいものに思える。

「ああ。張牛角が義弟、張燕だ。」

 張燕も、自らの名を口にした。義兄の意思を継ぎ、義に生きようとする男がそこにはいた。

「ご主君がお前に用があるらしい。邪魔者は一足先に退室させてもらうとしよう」

 気付けば、軍議の間に残っているのは曹仁と張燕、それに華琳だけとなっていた。
 荒んだ流亡の時が長かったためか、復讐の呪縛から解放されても、どこか世をすねた態度に変わりはない。肚の据わった皮肉屋の男は、ふっと鼻で笑って、軍議の間を後にした。

「仁」

「はい」

 張燕の姿が完全に視界から消えるのを待って、華琳が口を開いた。

「これで満足したかしら?」

 華琳は王者の風格を漂わせつつ、それでいて挑む様な瞳で曹仁を見つめた。

「ああ。さすがは……。うん、さすがは華琳様です」

 曹仁は華琳を称える言葉を一瞬だけ探して、直ぐに諦めた。彼女を褒め称える多くの言葉を耳にしてきたが、そのどれもが、こうして本人を前にするとひどく安っぽく感じられたのだ。

「ええ、これが私よ」

 華琳は、そんな曹仁の意図を読み取ったのか、ぎこちない賛辞に満足そうに微笑んだ。





[7800] 幕間 白蓮
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/03/25 14:38
「くそっ、麗羽の奴め」

 白蓮は、眼下に広がる光景に、覚えず吐き捨てていた。城壁の上にさらに高くそびえ立つ物見櫓には白蓮一人がいるだけで、罵りを聞き留める者もない。
 侵攻は突然だった。野戦を挑む機を逸し、自慢の白馬義従も城に閉じこもっての籠城戦である。
 城郭は堅牢に築き上げている。自分の留守を安心して預けられるだけの人材に恵まれなかったという情けない事情のためだが、それに今は助けられていた。
 城外に展開する袁紹軍は、五万を超えている。対して、城内の兵は一万にも満たなかった。
 袁紹軍の攻城には、昼夜を問わぬという苛烈さはない。一度優勢になると、余裕を見せようとするのが麗羽の昔からの悪い癖だった。数の上で圧倒し、一気呵成に攻めたてるわけでもない状況は、いやが上にも袁紹軍の兵から緊張感を失わせていた。とはいえ、大軍は大軍である。白蓮が領する幽州全土から兵をかき集めてみたところで、三万には届かない。遠征軍として五万を発し維持し得る勢力は、今のところ麗羽だけだろう。冀州という大州によっているというのもあるし、名門の力というのもあった。人も金も、それだけで自然と集まってくる。

「あとは、曹操ぐらいか」

 曹操が、青州黄巾百万の軍勢を降したという話は、幽州にまで伝わっていた。かなりの投降兵を得たという。兗州も幽州と比べればはるかに豊かな土地である。一、二年の内に曹操も大規模な遠征が可能となるだろう。

「ああ、それでなのか」

 麗羽の突然の侵攻は、今回の戦勝でますます名を挙げた曹操への対抗心から出たものだと、白蓮は思い至った。
 曹操と麗羽のことは、良く知っていた。特に麗羽は、互いに真名で呼び合う仲なのだ。
 二人のように幼い頃から机を隣にした学友というわけではないが、官途に就いたのは白蓮も同期だ。公務に対してどこか冷ややかなところのあった曹操とは異なり、麗羽と白蓮は真っ当に官職の中での栄達を競い合うような気持ちがあった。ただ、麗羽が常に敵愾心をむき出しにしていたのは白蓮ではなく曹操に対してである。本人は隠しているつもりのようだが、傍目には明らかにそうだ。
 南下して軍の再編に追われる兗州の曹操軍に向かうのでなく、あえて北上して幽州に攻め込んだ。それは、いかにも曹操など歯牙にも掛けていないと言いたげで、その内心を悟られまいとする麗羽の虚栄心を如実に表している気がした。
 なんにしても、白蓮にとってはとんだ災難である。
 いくら精彩を欠くとはいえ、袁紹軍の攻撃を前に城が落ちるのは、もはや時間の問題と思えた。
 今、自分が騎馬隊で敵中を突破すれば。あるいは自分は城に残り、誰か信頼出来る将に遊撃を任せられれば。州内から兵を糾合し、せめて二万の兵力で袁紹軍の背後をうかがうことが出来たなら。

「……はぁ、星がいればなぁ」

 せめて一人だけでも、兵権を委ねられるだけの武将が欲しかった。となれば、白蓮の脳裏に浮かぶのは、かつて客将として旗下に身を置いていたあの少女でしかあり得ない。
 星―――趙雲は、今は劉備軍の一翼を担う部将だった。劉備軍、といっても本拠を持つわけでもない。天下の義軍などと呼ばれ、民の間では聞こえはいいが、ありていに言えば食い詰めた流浪の軍であった。幽州に勢力を築き上げた自分の元で、第一の将軍として仕えることと比べたら、待遇は雲泥の差だろう。それでも星が自分ではなく桃香を選んだと知った時、不思議と納得がいったものである。
 戦も政も、白蓮には桃香よりもうまくこなす自信があった。
 ただ昔から、自分にはない人を惹きつける何かを桃香は持っていた。盧植門下で最も将来を嘱望されたのも、成績不振の桃香であった。今、英傑として民の口に上るのも、董卓を討ち果たし百万賊軍を打ち払った曹操と並んで、桃香の名だった。なにより、星に去られ、こうして苦境に立たされてなお、白蓮自身に桃香を責めようという気は微塵も起こりはしないのだった。

「はぁ、私って人望無いのかな。民には、そこそこ慕われていると思うんだけど」

 白蓮はまた、覚えず口に出していた。
 最近、我ながら独り言が多い。それも、そばに腹を割って話せる相手がいないからだ。





「出陣する」

 翌早朝、白蓮は決意を固めていた。
 白馬だけで揃えた親衛隊“白馬義従”。はじめはわずか三十騎に過ぎなかったこの精鋭弓騎兵も、勢力拡大とともに増員し、今は三百騎に至っている。
 そして、白蓮手ずから育て上げた騎馬隊二千騎。
 この騎馬隊を駆けさせることもなく、城に閉じこもったまま終わりたくはなかった。
 歩兵は六千。それで、城には数えるほどしか兵は残らない。
 城に残る者たちには、白蓮が敗れる、あるいは敵に侵入を許した時点で、すみやかに袁紹軍に降るように申し付けてある。思い残すことはなかった。

「開門!」

 城門が開かれていく。起き抜けの袁紹軍は、動き出したばかりだった。

「良し! 私に続け!!」

 視界の端を、城門が過ぎり去っていく。白蓮は、思うさま騎馬隊を駆けさせた。
 こちらが城を打って出るとは想定もしていなかったのか、応じる敵前線の動きは鈍い。騎馬隊でかき乱すと、そこへ味方歩兵に陣を布かせた。
 城の包囲網に兵を割いているため、対峙している袁紹軍はおよそ二万五千。攻城戦の備えであるから騎兵も少なかった。
 麗羽には包囲網を解くつもりはないのか、兵を呼び集めはしなかった。
本陣に一万五千を残し、残る一万の歩兵だけで、こちらの布陣に向けて前進を開始した。速戦は、白蓮も望むところである。
 歩兵に陣形を固めさせると、白蓮は騎馬隊を発した。前進する敵歩兵を迂回し、狙うは袁紹軍の本陣のみだ。敵もずらりと槍を並べて、騎馬隊を迎え撃つ構えを見せた。

「放てぇっ!!」

 名門らしい、というよりも麗羽らしい、煌びやかに金色の光を放つ牙門旗目掛けて、無数の矢が射られた。まだ距離が遠く、自慢の白馬義従の騎射もその手前で力を失い落ちていく。

「第二矢、番え! ―――放てっ!」

 付かず離れずの距離を維持したまま、続けて矢を射込ませた。やはり、金色の袁旗に届く矢はない。構わず、三矢、四矢と放つ。
 袁旗に寄り添うように立っていた文の旗が動いた。同時に、文醜の隊が前に出てくる。白蓮は、今度は狙いを文旗へと切り換えた。降り注ぐ矢を、歩兵中心の文醜隊は盾を掲げて防いでいる。
小さく丸くなりながら、じりじりと距離を詰める文醜隊を、挑発するように白蓮は接近して矢を放っては離れた。
 文醜隊が、本陣から完全に切り離された。

「よしっ! 狙うは袁紹だ! 続けっ!」

 白蓮は文醜隊を横目に、袁紹の牙門騎へと迫った。文醜隊が、盾も並べずに追いすがってくる。
 袁紹の本陣。顔良の隊が行く手を阻んだ。交戦を避け、反転する。
 背後に迫る文醜隊と肉迫した。軽く掠め、押し出されるように騎馬隊が流された。文醜の隊が、余勢を駆って追い打ちに入った。
白蓮は馬足を落とし引きつけ、引き回し、そして引き離した。次の瞬間には、再び反転して袁紹の本陣に迫った。文醜は振り切っている。
 整然と並んだ顔良の隊が、槍先を揃えて立ちふさがった。大きく、迂回した。文醜の隊はまだ遠い。

「くっ、引けっ!」

 視界の端で、味方の歩兵が崩れるのを捉えた。
敵歩兵に突っ込んでかき乱した。味方歩兵が陣を整え直すのを見届けて敵軍から抜け出た時には、騎兵はだいぶ数を減らしていた。
 敵歩兵も、距離を取って乱れた陣形を構え直した。
 あと一手。それが足りない。
 軍勢を委ねられる将がいなかった。騎兵をもう一隊組織出来れば、あるいは歩兵をもっと強くまとめ上げることが出来れば、ずっと楽に戦える。今は、騎馬隊で駆け回る時には、歩兵には簡単な指示を与えることしか出来なかった。

「陣を動かす」

 今度は、騎兵と歩兵一緒になって、陣を真横へ移動させた。
 それまで陣取っていた城門前が、ぽっかりと空いた格好だ。そこからさらに、少しずつ陣を前に押し進めた。呼応するように敵歩兵が再び動くが、今度は五千ずつの二段の構えだ。
 城内に残る兵は三百に満たない。それも退役を控えた老兵や、負傷兵ばかりである。攻城が開始されれば、一刻と待たず落城するだろう。つまりは全軍での出撃であるが、袁紹軍がどこまでこちらの兵力を読み切れているか。城内に一千や二千は兵を残していると考えても不思議はない。二段はその備えで、第一段が相当に崩れない限り、二段目が前に出ることはないだろう。

「これで一手。いや、せいぜい半手か」

 歩兵を残し、再び白蓮は騎馬隊を駆った。
 五千の一段が攻城に当たれば、あるいは各包囲陣での攻撃が開始されれば、城内に兵がほとんど残されてはいないことは、すぐに敵の知るところとなる。のんびりと構えている余裕などなかった。
 駆け回った。
 敵は、文醜隊が動けば、顔良隊が麗羽の本隊を守る。顔良隊が動けば、文醜隊が守る。徹底してそれだった。
 あと一手。やはり足りない。
 後方で、喚声が上がった。包囲陣による攻城が開始されていた。第二段の歩兵五千も、城門に取り付いている。

「くうっ、麗羽のやつ、どれだけ戦線を増やすつもりだ」

 やはり人材の差だった。
 袁紹軍は、文醜と顔良の二枚看板を本陣に残したままでなお、張郃、高覧といった部将が抜かりない戦を展開している。幕僚にも田豊、沮授と言った碩学から、審配のような忠烈の士までがそろっていた。他にも、今回の性急な侵攻にも気付けば大義名分を仕立てあげている能弁家の陳琳、かつては西園八校尉として麗羽や曹操とも同格の武将であった淳于瓊などもいる。
 羨ましくなるほどだった。
 三百の親衛隊に囲まれ、二千の騎兵を率い、六千の歩兵を従え、五万の敵兵と対している。
 それでなお、白蓮の心は孤独の中にあった。敵将の麗羽ですら、視線の先にあるものは初めから曹操だけで、白蓮の方を見ようともしていない。
 湧き立つような喚声。城壁に袁旗が踊った。味方歩兵も、潰走に入っている。
 騎馬隊は、前面は文醜隊、その先に袁紹の本隊。そして左右後方を顔良隊が閉ざしに掛かっていた。味方歩兵を追い散らした敵歩兵も、顔良隊に合流しつつある。
 馬の脚も、限界に近かった。

「……ここまでか」

 白蓮が諦めを口にした瞬間のことだった。
 不意に起った竜巻が、顔良隊を横合いから襲った。弾かれた敵歩兵数人が宙を舞う。気づけば、顔良隊の陣形に、外から白蓮までを繋ぐ道が出来上がっていた。
 竜巻が口を開いた。

「いや、白馬の首をすくめて亀のように城に籠られたままでしたら、さすがに手の打ちようがありませんでした。白蓮殿にしては、なかなか果断な決断を下されましたな」

「―――星っ!? どうしてこんなところに!?」

「そんなものは、白蓮殿を助けに来たに決まっているでしょう」

 何を馬鹿なことを、とでも言うように星が鼻で笑った。

「我らも、次の戦場が決まっております。籠城があまりに長引けば、軍を二分せざるを得ませんでした。いや、良いところで打って出てくれましたな。―――さあ、退きますぞ」

「あ、ああ。し、しかし退路が」

 星が敵陣に穿った空隙は、素早く埋められつつあった。
 星の率いる騎馬隊は、百騎にも満たない。そして、敵中で一度足を止めてしまっている。顔良隊を今一度突き崩すというのは、至難の業だった。

「ほう、袁紹軍も、存外に陣形の立て直しが早いですな。数だけの軍勢というわけではないようだ」

「呑気に感心している場合か、星」

「ふふっ、白蓮殿。ご心配には及びません。いかな大軍といえども、常山の昇り龍と謳われたこの趙子龍の槍の一振りでもって、退けて御覧に入れましょうぞ! さあ、方々もご覧じろ!」

 星が、真っ赤な刀身と二股に割れた刃が目を引く愛槍を、くるくると芝居がかった調子で旋回させた。ひとしきりそうして敵味方の視線を一身に集めると、星はすっと槍を突き出した。穂先が向けられた方角は、麗羽の本陣だ。
 まるで星の槍が合図にでもなっていたように、袁の字の牙門騎が、大きく傾いた。
 直後、敵軍からけたたましく鐘が打ち鳴らされた。眼前に迫っていた槍が、離れていく。顔良隊が、本陣に向けて撤退を開始していた。

「さあ、退きましょう、白蓮殿。愛紗と鈴々が袁紹の本陣を乱してはいますが、それもそう長くはもちません。よもや、この期に及んでさらにもう一戦などと考えてはおられまい?」

 悠々と告げる星に、白蓮は二度三度と首を縦に振った。
 星の後を追って、とにかく駆けた。どれほどの時間そうしていたのか。呆然としていた白蓮の記憶は覚束無いが、少なくとも疲弊していた馬の脚が潰れる前に、星は足を止めた。

「―――白蓮ちゃん!」

 駆け寄り、笑顔を見せる桃香に、白蓮はようやく独りではないと感じた。




[7800] 幕間 太史慈
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/04/12 21:40
「もっと簡単に落とせると思ったのだけど、意外に粘るわね」

 孫呉の兵にすっかりと包囲された袁術の居城を眺めながら、雪蓮が言った。祭は、そんな雪蓮と城へ交互に視線をやった。
 揚州州都、九江郡は寿春。春秋時代にはかの軍事大国楚の首都であり、孫家の遠祖孫武が攻略した地である。それが今日の戦場となっているのだから、孫呉の宿将たる祭ならずとも感慨深いものがあろう。
 反董卓連合の解散より半年、遂に雪蓮は孫呉再興の軍を発していた。

「兵はさして調練を積んでいるとも思えないのだが、将が良いのだ。対してこちらの有力な将は支城の奪取に回しているしな」

 袁術の居城の包囲を完成させると、その場に冥琳だけを残し、諸将は支城の奪取に努めた。民の心はすでに孫呉にあるとはいえ、規模の大きな城郭ともなるとさすがに袁術の信任厚い将が守りに付いている。それはひとつひとつ落とす必要があった。各将は民を糾合し兵力を増しながら、軍旅を続けている。募兵と、集まった新兵の調練を兼ねた行軍、そこから実戦経験を積ませることも目的の一つだ。
 現状包囲に加わっている将は、冥琳、雪蓮、そして祭の三人である。雪蓮と祭は支城を落として合流を果たしたばかりであるし、冥琳も全軍の統率を取りながらであったから、ここまでの攻城は本腰を入れたものではない。
 それでも、あの袁術の居城であることを思えば驚異的な粘りであると言えた。

「将? 張勲がそれ程の指揮を執るとも思えないのだけど。―――ああ、太史慈のことね」

「そうだ。太史慈の直属の兵だけはさすがに精強だし、何よりあの弓の腕だ。前線の指揮官がすでに何人も討ち取られている。楯を並べさせても、楯ごと貫かれる。今は木製の楯二枚に鉄板を挟んで防いではいるが、指揮官が楯に隠れて縮こまっていては兵の意気も上がらん」

「ほう、それは面白いな」

 祭は初めて口を挟んだ。

「面白くなどありません。城兵は神箭手などと言って持てはやし、こちらの兵は恐れを抱き始めているのです。太史慈が城壁に姿を現す度、城方の士気は上がり、我が方の士気はその分だけ下がっているのですよ」

「わかっておるわ。そういうことなら、儂が何とかしてやろうと言っておるんじゃ」

「……まあ、それで兵の損耗を抑えて城を落とせるなら、悪い手ではないか」

 返答も待たずに城壁へと足を向けた祭の耳に、冥琳が渋々といった口調で言うのが聞こえた。

「太史子義はおるか!」

 攻城の兵を下がらせ、一人城門前に突出すると、祭は大声を発した。
 しばしの喧騒の後、城壁の縁に一人の男が身を乗り出した。八尺(二メートル)にも届こうという長身は見紛うはずもなく太史慈のものだ。

「弓が得意とは聞いておったが、ずいぶんと、我が同朋を討ち取ってくれたようじゃのう」

 敵と交わす言葉など無いとでもいうつもりなのか、太史慈は無言で返す。祭は構わず続けた。

「若造が一丁前にも神箭手などと呼ばれておるらしいな」

 やはり無言。ただ、何か察するところがあったのか、背にした弓と矢に確認するように手を伸ばした。

「儂は黄公覆という。名ぐらいは聞いたことがあろう?」

 太史慈が首を縦に振った。城壁の下からでは見逃しかねない動作だが、弓使いの祭の眼は容易くとらえている。それも見越しているのだろう、太史慈は特に言葉を続けはしなかった。

「ならば一手お相手願おうか」

 言って、祭は太史慈に向け弓を構えて見せた。

「下から射って私に勝つおつもりか?」

 初めて、太史慈が口を開いた。抑揚の少ない落ち着いた口調だが、一言一句はっきりと聞き取れるだけの強さを持った指揮官向きの声だ。

「大の大人が孺子を相手に本気になるものでもあるまい?」

「……わかりました。ならばお相手しましょう。何本の矢をお持ちか、黄公覆殿?」

「十」

 太史慈は矢籠から数本を抜き取ると、近くの兵に手渡した。同じ数の矢で勝負する心積もりのようだ。

「では、参ります」

「応」

 太史慈が鉄弓に矢を番えた。長身の太史慈の身の丈ほどもある、相当な強弓と見えるが、連射には向かないだろう。矢も相応に長く、矢籠も背に負っている。それも矢継ぎに有利とはいえなかった。
 対する祭の弓も長大である。多幻双弓と呼ばれるその弓は、その名の示す通り同時に二本の矢を放つ事が出来る。矢羽の角度や数を変えることで、放たれた二矢はそれぞれ別の軌道と速度でもって標的を捉える。今回も、当然二矢を番えている。矢は太史慈のものほど長くはなく、腰に据えた矢籠には残り八矢が揺れている。
 張り詰めた緊張感が戦場に満ちていく。
 横なぎの風が吹いた。中原の風よりも、ずっと湿り気を帯びた風だ。潮合い。何の合図も無しに、されどほぼ同時に矢が放たれた。
 中空で、矢と矢がぶつかり合って弾けた。矢羽を増やし毛羽立たせたことで、わずかに遅れて飛来するもう一矢が太史慈の身に迫る。半身になって太史慈がそれを避けた。
 祭は次なる二矢を番え、弦を引いた―――。

「っ!」

 太史慈の二矢目。祭はとっさに身を伏せた。指先を離れた弦が、あさっての方向へと矢を放つ。
 立て続けに三、四、五と射込まれる。かわしながら、祭も第三射目の二矢を放った。一射目と同じく、中空で矢と矢がぶつかり合う。残る一矢が太史慈を目掛けて飛ぶのも同じ。
 結果も見ずに、祭は矢を番えた。双方、残すところは四矢。

「なっ! さすがにっ、早過ぎやしないか!?」

 太史慈の七矢目が眼前まで迫っていた。祭も今度は体勢を崩さずに、最小限の動きで避ける。間を置かず八矢目が迫る。祭は被せる様に強引に矢を放った。

「くっ」

 太史慈が九矢目を放つ。その様を祭ははっきりと視界にとらえた。飛来する矢を“使いものにならなくなった”弓で弾き落とした。十矢目は、いくら待ったところで飛んでは来なかった。

「……ちっ、儂の負けじゃな」

 最後の一矢を番え、狙い定めたまま動かずにいる太史慈に、祭は静かに告げた。
二矢を残したままではあるが、太史慈の八矢目が多幻双弓の弦を断ち切っている。祭には負けを認める他なかった。





「弓で後れを取るだなんて、祭も年かしらね」

 本陣に戻った祭に、雪蓮が容赦のない台詞を送った。
 城内から巻き起こった喝采は、すでに止んでいる。それが武人の礼ということなのか、太史慈が制したようだった。祭はそれすら憎らしいというように、恨めしげに口を開いた。

「あの男、高みを利にほとんど弓を引かず連射してきおった」

 どうやら太史慈は、強弓を完全には引き絞らないことで、矢継ぎ早の速射を行っていたらしい。確かに高みにあったからこその手で、地表から城壁上まで矢を射込まなければならない祭には取り得ない戦法だ。

「しかし、それはそうでしょう。その程度の判断が出来ぬ相手なれば、ここまでの苦戦はしません」

「わかっておるわ。しかし、ああまで挑発されて普通あれをやるか? 最後に一矢を残す手際といい、まったく小憎らしいほどに冷静な男じゃ」

 冥琳の言葉に理解を示しながらも、やはり納得がいかないという表情で祭がぼやく。
 最後の一矢、調子に乗って太史慈がそれを放ったところで、すでに防御に徹する他ない状況の祭は、恐らく防げただろう。そうなれば、印象としての祭の劣勢までは覆せはしないが、形の上では双方打つ手なしの引き分けだった。

「ふふっ、まあ祭の言うことも分からなくはないわね」

「はぁ」

 雪蓮が微笑交じりに頷くと、冥琳は思わずため息を漏らした。
 軍師である冥琳と、武人である雪蓮と祭、そしてあくまで軍人の職分を通す太史慈―――もちろん全員が軍人であり将でもあるのだが―――、その違いだろう。
 冥琳の身からすれば、自軍の将がみな太史慈の様であればと思わないことも無い。特に、武人であると同時に自分が仕える主君でもある雪蓮には、職分を全うしようという太史慈の在り方を見習って欲しいものだった。

「もう、冥琳。ため息が多いわよ」

「誰のせいだと思っている?」

「もちろん、私でしょう? 冥琳がそんなに眉根を寄せて考え込むことなんて、私のこと以外に無いものね」

「はぁ、まったく」

「ふふっ。だから好きよ、冥琳」

 にこやかな笑顔を浮かべたまま、雪蓮が数歩馬を進めた。

「? 雪蓮、どこへ?」

「ごめんね、冥琳」

 思わず見惚れてしまうような笑顔もそのままに、雪蓮が馬を駆り立てる。

「―――っ! 待て、雪蓮!!」

「我こそは江東の虎孫文台が一子、孫伯符! 預け置いたこの土地、父祖の代より受け継ぎし孫呉の大地を、今こそ我が元に返還願おう!」

 冥琳の制止の言葉は、朗々と戦場に響きわたる雪蓮の口上に打ち消された。

「くっ、あの馬鹿!」

「策殿なら問題無かろうよ」

 祭が、特に慌てた様子もなく言う。
 どちらにせよ、ここで無理に雪蓮を抑えつければ全軍の士気に関わる。それでも、この戦場自体は問題無く乗り切れる。だが、それ以上に孫伯符の将としての第一歩にいらぬ瑕をつけることとなるのだ。

「……はぁ」

「城の包囲は成った! もはや、この地は我らの手中にある! ―――太史子義、我と剣を競おうぞ! それが、唯一城を守る方法だ! 主君を想うならば、出てまいれ!」

 冥琳が溢したため息は、また雪蓮の大声に打ち消された。





 孫策が自分を呼ばわっている。力強い声音は、城内くまなく響き渡っていく。敵総大将自らの一騎打ちの申し出に、兵がざわめいた。
 黄蓋に弓の勝負を挑まれた時にも感じた熱が、また太史慈の胸の奥でくすぶった。同時に軍人としての思考が、それを打ち消していく。
 剣の勝負とあれば、弓の勝負と違い城外へ出ざるを得ない。そして、黄蓋のときとは違い五分の勝負となる。

「太史慈よ、行って孫策めの首を、わらわに捧げるのじゃ」

「―――っ、袁術様。ここは危険です。宮殿にお下がりください」

 太史慈は城壁の上に姿を現した袁術を庇う位置に移りながら、口早に告げた。

「わかっておる。お主が孫策めを討ち果すところを見届けたら、すぐに下がるのじゃ。さあっ、行って来るのじゃ!」

「はっ」

 袁術の言葉に短く返すと、太史慈は剣把に手にやった。
 太史慈の剣は、張勲や近衛隊などの袁術に近侍する者達に支給されるものである。ただ他とは違い、刃は普通の剣を二枚重ねたほどの厚みが持たせてある。
 袁術の周囲に楯を持った兵を配置すると、太史慈は一礼して城壁を降りる階段へと足を向けた。

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、太史慈さん。勝算はあるんですか? あの方、化け物みたいに強いんですよ」

 太史慈の行動が予想外だったのか、袁術に侍っていた張勲が慌てて呼び止めた。

「五分、……いえ、いささか分の悪い賭けとはなりましょうが、このまま包囲を継続されるよりは勝ち目もありましょう。万一の場合には張勲殿、兵の指揮をしかと願います」

 足だけ止めて言うと、太史慈は再びを歩を進めた。城外からは、孫策の大声が続いている。

「ま、待つのじゃ、太史慈!」

 主君の声に、今度は太史慈も向き直った。

「ばかもの! 死ぬかもしれないのなら、なぜそう言わんのじゃ!」

「はっ。申し訳ありません」

「まったく。お主の命はわらわのものなのだぞ。勝手なことをするでない」

「そうですよ、太史慈さん。あなたが死んだら、全軍の指揮は誰が執るんですか」

「そうじゃ、そうじゃ。お主が死んだら、誰がわらわにはちみつを取ってくるのじゃ」

「はっ、失礼致しました」

 張勲の追従に、胸をそらしてことさら尊大に言い放つ袁術に、太史慈は片膝をついて頭を下げた。

「よいか、太史慈。これよりわらわの命無しに死ぬことを禁ずる。死にそうなときは、ちゃんと先に言うのだぞ」

「はっ」

 太史慈が袁術に仕えることとなったのは、巡り合わせとしか言いようがなかった。初めて出会った袁術に、みかんを一つ貰ったのが全ての縁の始まりだった。

「―――太史慈、来ないのか!」

 また、孫策が太史慈を呼んだ。





「ふられたな」

「むう。祭との勝負には応じたくせに」

「太史慈の立場からすれば、城外に出ねばならない剣の勝負はやはり受け難いだろうさ。祭殿との弓勝負は、自分に有利な条件であったからこそ受けたのだろうし」

 冥琳の言葉にも、雪蓮は納得がいかないのか、小首を傾げている。

「黄蓋殿ならともかく、さすがに孫策様が御相手では分が悪いとの判断でしょう」

「またずいぶんと引っ掛かる物言いをするのお、朱桓」

 口を挟んだ朱桓を、祭が睨み据えた。
 朱桓は極めて優秀な人材ではあったが、頑なな性格に難があった。雪蓮や蓮華の命には従順だが、それ以外の人間に対しては敵愾心を露にするところがあり、時には冥琳や祭にすら喰ってかかることがあった。

「朱桓、聞いておるのか」

 ここでも朱桓は祭の言葉をどこ吹く風と無視を決め込んで、雪蓮の背後にそっと寄り添った。
 朱桓には雪蓮直属の親衛隊隊長を任せていた。雪蓮の直属としている分には問題も起こさないし、その能力が活かされれば冥琳ですら舌を巻くような活躍を見せる。
 顔立ちは絶世の美女と言っていい程に整っているが、どこか中性的な印象もあった。本人は容姿などにはまるで無頓着なようで、わずかに青みがかった黒髪は無造作に短く切り揃えられている。本人の愛想の悪さも手伝って、どこか近寄りがたい印象もあるが、これで兵達には慕われているという。

「何がそんなに気にかかるのだ、雪蓮?」

 祭と朱桓のやり取りを尻目に、なおも首を捻っている雪蓮を冥琳は問い質した。

「う~ん。確かに冷静な判断の出来る軍人だとは思うけれど、あの太史慈、そこまで計算づくで動く人間かしら」

「? どういうことだ?」

「説明は難しいのだけど。例えば、あの鉄弓。大男の膂力を活かすにしたって、あんな馬鹿げた大きさの弓を普通使うかしら。武人として力量を競うというならともかく、行軍をして戦をしての軍では、やはり邪魔でしょう」

「ふむ。どこかに武人としての思いも残しているということか?」

「だと、思ったんだけど」

 雪蓮が、珍しく考え込むように唸り始めた。





 数日後、再び孫策が前線に姿を現した。
 城を包囲する軍は、この間にさらに厚みを増している。孫策の二人の妹、孫権と孫尚香が軍勢を伴って合流を果たしていた。揚州の領民はこぞって孫呉の支配を受け入れ、袁術の勢力圏は今やこの城を残すのみということだろう。
 太史慈は宮殿へと足を向けた。道すがら視界に飛び込んでくるのは、疲労に崩折れ、死んだように眠る兵達である。そうして束の間の休憩の後、再び守備に戻るのだ。兵の疲労は極限まで達していた。普段気の抜けた調練しか課されていないだけに、いつ折れてもおかしくはない状況だった。

「袁術様」

「太史慈か。性懲りもなくまた孫策めが勝負を挑んでいるようじゃな。まったく、馬鹿みたいに大声を出しおって、うるさくてかなわぬわ」

「この包囲戦での孫策の戦振りを観察し、勝算がつきました。孫策との一騎打ちの許可を願いたく」

「おお、孫策めに勝てると申すか。それは良いのじゃ。すぐに行って、うるさい口を閉ざして参れ。いや、わらわも見学するのじゃ。七乃も付いてまいれ」

「はーい、美羽様」

 護衛の兵に守られ城門へと向かう最中、太史慈は視線で張勲を誘い、足を緩めた。

「本当に勝てるんですか、太史慈さん? 犬死されては困りますよ」

 袁術に声の届かないほどの距離を置くと、太史慈が口を開くより先に張勲が切り出した。

「そのことで、お願いしたき儀がございます。確かに孫伯符という武人、尋常な強さではありません。しかし、相討ち覚悟ならば。ですから私と孫策が倒れ次第、すぐさま敵大将の討ち死にを喧伝し、機を逃さずに兵をお進め下さい」

「はぁ、わかりました」

 気乗り薄な様子で張勲が答える。それでも太史慈は、満足気に一つ頷いて見せた。張勲が実際のところは決して無能な指揮官ではないということを、太史慈はよく理解していた。

「もう一つ、あまりあの御方を甘やかされますな」

「……最後のお小言というわけですか。まぁ、一応聞いてはおきましょう」

 袁術はまるで気付かない様子であるが、太史慈と張勲は犬猿の仲と言ってよかった。孫策との一騎打ちに応じようとした太史慈を一度は止めたのも、あくまで自分が戦の矢面に立ちたくはなかったからだろう。
 主君を厳しく教導したい太史慈と、主君とともに享楽的に時を過ごそうという張勲では、元々うまくいくはずもない二人なのだ。
 忠告も、それで張勲が変わるとも思えなかった。最後に言うだけのことは言っておく。それだけのことだった。
 袁術が、遅れている二人に気付いて呼んでいる。

「は~い、美羽様~」

 太史慈は小走りに駆け出した張勲の後に続いた。

「それでは、行ってまいります」

 城門の前で、引き出されてきた愛馬に太史慈はまたがった。名馬とまでは言い難いが、太史慈の巨躯を支えて十分に駆ける馬だ。

「うむ、わらわも城壁の上からしかと観戦しておるからな。しかと励むのじゃぞ」

「はっ。―――開門!」

 うっすらと城門が開かれた。
 孫策が太史慈に呼び掛けている間は、攻城の手は休められている。悠々と太史慈は城外へと踏み出した。

「やっと来たわね」

 孫策が愉快そうに笑った。太史慈は、無言で厚重ねの剣を構えた。
 孫策の手には南海覇王。海賊退治で名を馳せた孫堅の佩剣として名高い。剣身は太史慈の剣よりも拳二つ分は長そうだ。

「やる気は十分見たいね。―――では、勝負」

「どうぞ、いつでも」

 構えは対照的だった。
 太史慈は巨体を絞り込むように小さく構えた。両手に持った剣は正中線を守るように中段にやや立てて据えた。水も漏らさぬ守りの構えである。
 対する孫策は自然体に近い。片手下段に剣を下げ、無造作に全身をさらけ出している。
 太史慈は定石通り、右―――孫策の左手側―――に、おもむろに馬を進めた。騎馬戦、それも剣のように短兵同士であれば特に、馬の位置取りは勝敗を大きく左右する。孫策のように片手で剣を扱う者と対するときは、剣を持たない側に回り込む。
 太史慈が馬の位置取りを制する直前、それまで悠然と構えていた孫策が動いた。馬ごとぶつかる様にして、一息に間合いを詰める。定石を無視した、自身の左手側から。

「―――っ!」

 太史慈が気付いた瞬間には、すでに孫策の長剣は右手から左手へと移っていた。
 速い。が、それ以上に孫策の一撃は雑だった。元より受けの構えの太史慈は、十分な余裕を持って、その剣を弾いた。
 まだ、太史慈の剣の間合いには遠い。体格差があるとはいえ、得物の長さの違いがあるし、肩を入れられる分だけ剣は片手で扱う方が間合いが長い。
 続けて三つ、孫策の斬撃を弾き返した。いずれも流麗とは言い難い。四つ目。正中線を抜く上段からの一撃。太史慈は迷わず前へ詰めた。
 孫策は南海覇王を引くと、馬ごと体当たりするように突き出した太史慈の剣を仰け反って避けた。馳せ違う。

「相打ち覚悟ってわけ?」

 馬首を巡らし、孫策が言った。

「小覇王孫伯符の首と引き換えなら、悪くはありません。もっとも、今の斬撃では兜割りは不可能でしょう。左手で剣を扱ったことがおありか?」

 孫策の戦振りを、人は小覇王と呼び称えた。言うまでもなく高祖劉邦の宿敵にして戦術史の怪物、覇王項羽に因んでのものである。それは同時に、王の器に非ず、というわずかながらの侮蔑も含んでの表現と言えたが、孫策は特にそれを気にした様子もなく返した。

「まったく無いってわけじゃないわ。何となくいけると思ったのだけど」

「何となく、ですか」

 孫策はいつか牙を剥く。袁術と張勲には、不思議なほどにその認識が欠如していたが、太史慈は約束された未来としてこの戦を想定してきた。虎の子が、いつまでも飼われているはずがないのだ。
 だから、孫策の戦振りにはいつも注意を向けていた。孫策の用兵は、結果として大戦果につながってはいても、その瞬間には不可解と思えることが多い。定石にはまらない戦だった。
 戦では、そうした方が良いと思える場面は確かにある。そんな時、太史慈などは悩む。悩みぬいた上に決断して、やはり定石通りに動いた方が良かったと後悔することも多いのだ。
 孫策の戦は、そんな定石破りを日常としていた。こうして、総大将自ら一騎打ちに挑むことなど、その最たるものだ。
 孫策は、何を考えて行動しているのか。太史慈は疑問が一つ溶けた思いだった。

「いくわよ」

 孫策が馬ごと飛び込んでくる。今度は定石通りに右手側。しかし、片手持ちと長剣という間合いの利を放棄した深い踏み込みは、やはり型破りだ。
 手を伸ばせば触れ合うような距離で剣と剣が交錯した。一合、二合、三合。
 さっと、孫策が間合いを取った。

「ふぅ、徹底して相打ち狙いなのね。仕方ない、勝ってから誘うつもりだったのだけれど、先に言うわ。―――太史子義、私に降りなさい」

 剣を降ろし、孫策がそう切り出した。

「貴方ほどの人物が袁術などに仕え、空しくその春秋を終わらせるつもり? その力を広く天下で振るってみたいとは思わないの?」

「己が存在を天下に問いたいと、乱世に武人として生を得た以上、そう思わぬ者などおりません」

 覚えず口走っていた。自ら犯したらしからぬ行為に、太史慈は困惑を覚えた。

「なれば、私の元へ来なさい。共に天下へ雄飛しましょう」

 孫策の言葉は直截的であり、情熱的と言ってもよかった。

「あのお方も、本来名君足り得る資質を備えてはいるのだ」

「あのお方って、袁術のことよね? とてもそうは思えないけれど。何故貴方がそれほどまでに袁術にこだわるのか、分からないわね」

「みかんを一つ、いや、命を一つ頂いた」

 一時期、太史慈は孔子二十世の孫に当たる名士孔融に仕えていた。孔融の元を離れようと決めたのは、あの劉玄徳に出会ったからである。
 孔融の居城が黄巾の残党に包囲された際、救援を求める使者として立ったのが太史慈である。そしてその援兵を求めた相手というのが、劉備の義軍であった。劉備がちょうど県尉を辞して、各地を転戦していた頃の話だ。名士中の名士たる孔融を救援したことで、義軍を率いる大徳の人、という劉備の噂が中華に広がる切っ掛けの一つともなった戦である。
 劉玄徳との出会いが、太史慈に人の器をいうものを教えた。孔融に仕えたのは単に伝手があったことと、彼が自分を高く買ってくれたからに過ぎない。太史慈は尊貴な生まれから来る名声に、何の魅力も感じることはなくなっていた。
 主君選びの旅が始まった。無位無官といえど劉玄徳、同じく官を辞していた曹孟徳、器量人と名高かった袁紹、見るべき者は多くいた。江東の虎と呼ばれた母孫堅の威を継ぐ孫伯符も、当然その候補の一人であった。
 旅の道程、飢餓に苦しむ者達に施すうち、路銀はたちまちのうちに尽きた。今度は自身が野垂れ死にかと、覚悟を決めかけた太史慈を救ったのが袁術であった。
 初めに与えられたものはみかん一つ。それだけの縁である。しかしてみかん一つ分の借りは、餓えに苦しむ当時の太史慈にとっては、命一つ分の借りも同じことであった。

「みかん一つ、ね。どんな事情があるのか知らないし、興味も無いけれど。そのみかん一つの恩義に報いるために、その才覚を無下にするつもり?」

「言ったはずです、我が主にも十分な資質が備わっていると」

「あの子の成長を待つという事?」

「乱世は容易く治まるものではありません。その時間はあります」

 もっとも自分はこの場で命を落とす公算が強いが、と太史慈は心中で付け足した。

「どうかしら? 私はこの乱世は想像以上に早く収束すると感じているわ」

 太史慈にもその予感が無いではなかった。
 中原では、わずか半年前の反董卓連合の際には五千の私兵を率いるに過ぎなかった曹孟徳が、青州黄巾賊を下し、今は十万を超える軍兵とそれを支え得るだけの地盤を固めつつあった。河北勢力は、公孫賛を撃破した袁紹によって一つにまとめられつつある。情勢は、中華の歴史に例をみないほど、目まぐるしい速さで移り変わっていた。
 太史慈の沈黙を同意ととったのか、孫策が一つ頷いて続けた。

「どちらにせよ、可哀想だけどあの子に成長する時間なんて無いわ。ここで終わるのだからね」

「……貴殿を打倒し、私が時を作ります」

「そう、降る気はないのね。なら力付くで―――」

 孫策が、改めて剣を構え直した。とはいえ、先刻と同じく構えともいえぬような自然体の片手下段。
 太史慈は肌が泡立つのを感じた。構えは同じでも、通ってくるものはまるで違っていた。

「―――くっ!」

 跳び込みからの一撃を、太史慈はかろうじて受け止めた。
 打ち込みも、鋭さを増している。反撃する暇はない。次の剣に備えて、体勢を維持するだけで精一杯だった。
二撃、三撃、四撃。嵩に掛かって攻め立てる孫策の斬撃は、全身を使った大振りと言ってもいいものだが、返す剣が舌を巻くほど早い。やはり、反撃を差し挟む余地はなかった。粘り続ける。それで、勝機は無理にしても、相打ちの機を見出すしかない。

―――これが、孫伯符か。

 孫策の剣は、先ほどまでの会話以上に雄弁に自身を物語っていた。燃え盛る火の苛烈さも、どこか雲を思わせるような捉えどころのなさも。
 魅かれるものがある。それが偽らざる太史慈の気持ちだった。それでも袁術の将であり続ける。その思いは微塵も揺らぎはしなかった。
一撃を受けるたび、剣が火花を散らす。同時に、細かな鉄片も散って、太史慈の顔を打った。

 ―――剣が保たないか。

 太史慈より先に、剣の方が限界を迎えかねなかった。
 強弓に執着した弓とは違い、剣にはあまり拘りはなかった。
 それで飛距離が変わる弓とは違い、あくまで自分の技量があってのものだ。ただ自分の力に耐え得るものであればいい。よほどの名刀宝剣でもない限り戦場では折れるものだし、必要とあらば補給を受けるなり、敵から奪えば良い。一つ所に留まって、同じ相手と剣を交わし続けるなど、戦場では本来有り得ぬことなのだ。
 それでも、焦りはしなかった。焦りが勝利に繋がることはない。一撃一撃を、確実に防ぎ続けた。
 孫策の横薙ぎ。好機。ほんのわずか、これまでよりも溜めが大きい。あるいは得物の差で勝つことに対する躊躇いがそうさせたのか。
 太史慈は、孫策の斬撃に身体ごと、いや、馬ごとぶつかる様に、剣を打ち付けた。
 鍔競り合い。体格に勝る太史慈が有利の形だった。孫策は、両手で剣を持ち直して、必死で抗っているが、一気果敢に攻め立てていた分だけ呼吸が荒い。太史慈は、ぐっと全身で伸し掛かった。
 孫策の顔が近い。見つめ合った。吸い込まれるような蒼い瞳。
 その目が、すっと閉じられた。観念したのか。失望に似た思いが太史慈の胸を過ぎる。しかし、再び目を開けた孫策の顔に、不敵な笑みが浮かんだ。

「―――ふっ!」

 孫策が短く息を吐いた。同時に、ふっと、剣を押し返す力が消失した。力の行き場を失い、太史慈の身体が前のめりに泳ぐ。馬も、数歩足を進めた。

「籠城で萎えきった馬の脚と、それに剣。その二つだけの差だけれど、―――私の勝ちね」

 馬首を返すと、孫策が額に浮いた汗を手で拭いながら言った。

「……斬鉄。いや、他でもない貴殿の話なれば、ここは断金と言うべきか。これも、何となくの思い付きですか?」

「あら、ずいぶん私のことが分かってきたじゃない。最後に少し、押す力が弱まったわ。馬の力が抜けたのね。それで、何となく上手くいくんじゃないかってね」

 太史慈は、手中の剣に目を落とした。
 中程から綺麗に断たれている。それだけでなく、余勢を駆った孫策の南海覇王は、太史慈の兜の右頬の部分をも切り裂いていった。

「……私の負けです、孫策殿。貴殿の軍門に下りましょう」

 太史慈の脳裏に、袁術の顔が浮かんだ。





 太史慈を失った城の陥落は早かった。
 孫呉の兵が城壁に取り付くと、大した抵抗も無く守兵は武器を下した。彼らの手引きで、すぐに城門も開放された。
 雪蓮は、朱桓率いる親衛隊を従え、真っ先に城内へと飛び込んだ。

「城内を御案内いたしましょう」

 太史慈が追いすがって言った。一騎打ちの当日のうちに、幕僚の地位で軍に迎え入れている。

「それには及ばないわ。何度となくこの城には呼び出されているもの」

「そうでした。では、お供させていただきます」

「無理をしなくてもいいわよ。貴方には、今後いくらでも活躍の場があるわ。この戦は、下がっていてくれて構わない」

「いえ、自らの戦の幕引きは、見届けたく思います」

「そう。ならついてきなさい」

 勝手知ったる他人の城と、宮門を潜り抜け宮殿に踏み込むと、謁見の間へと続く本道を抜け脇道にそれた。呼び付けられるたび、迷ったふりをしては宮殿内を見て回っている。危急の時に、どこを抜けてどう逃げるかは予想がついた。

「―――袁術!」

「ひっ!」

 渡り廊下を駆ける袁術と張勲の姿を捉えた。雪蓮は身を躍らせると、二人の襟首を掴んで引きずり倒した。

「そ、孫策っ。な、なんの用じゃ。妾達はいま忙しいのじゃ。こ、この城はしばしおまえに預けおくから、留守をしっかり守るのじゃぞ、のう、七乃」

「え、ええ、お嬢様。ああ、忙しい忙しい。それでは孫策さん、後のことはお願いしますね。さっ、行きましょう、美羽様」

 恐怖に震えながらも、袁術と張勲は存外口が回った。べらべらと捲し立てる二人に、孫策は無言で剣を突き付けた。

「ひぃっ! そ、そうじゃ、こ、ここここれを返す。じゃから―――っ!!」

 ひょいっと、袁術の差し出した物を取り上げた。
 石とも見えるそれは、手にしてよくよく見れば玉であることが解る。白玉でつくられた印章である。白玉の印章は天子のみに許されたものであり、それを玉璽という。
 玉璽は用途によっていくつかの種類があるが、雪蓮の手の内にあるものは伝国璽と呼ばれる特別なものだった。伝国璽だけは、他の玉璽とは違い実際に使われることのない印章だった。秦の始皇帝によってつくられたと言われるこの印は、所持する者の天子としての正当性を証明する儀礼的なものなのだ。逆説的に、手にした者は天下を治める正当性を得た、とも言える。漢の高祖劉邦も、秦王朝を滅ぼした際にはこの玉璽を引き継いでいる。乱世におけるその価値は計り知れない。
 伝国璽は、先の政争の折に紛失したと言われていた。それを、反董卓連合として乗り込んだ洛陽で発見したのが、孫呉の者だったのだ。
 今回袁術を攻めた軍勢は、元々反乱の鎮圧を目的に袁術自身から借り受けた兵である。その反乱自体がそもそも冥琳の働きかけたもので、袁術の出動命令を兵力の不足を理由に一度突っぱねてやると、兵員の借用と引き換えに玉璽を要求されたのだ。兵は袁術軍に取り込まれていたかつての孫堅軍の精兵を中心としていて、そうでない者もこの地で名をはせた孫堅に思いを寄せる者達だ。玉璽程度、惜しくはなかった。借りた兵はそのまま孫呉の兵となり、同時に袁術の周りに精兵と言える者は太史慈旗下の兵のみとなったのだ。

「伝国の玉璽、ね」

 眼前でふるえる袁術は、玉璽に目が眩み自ら斜陽を招いたとも言える。
 ぽんっ、と雪蓮はお手玉でも放る様に、手の中のものを投げた。

「ふっっ!」

 地に落ちたときには、それは四つに分かれていた。

「こんなものは、ただの石よ」

 父祖伝来の南海覇王を、見せつけるようにゆっくりと二人の眼前で行き来させた。

「―――っ」

 袁術と張勲。色を失った二人は、声も無くお互いの体をかき抱きふるえていた。雪蓮はその姿に、暗い満足感を覚えた。

「っ!」

 背後で気配が動いた。雪蓮は振り向き様に剣を振った。
 雪蓮の鼻先に、ぴたりと剣先が据えられた。剣の先には、親衛隊の中にその巨体を紛れ込ませるようにしていた太史慈の姿があった。

「太史慈、貴様!」

 激昂する朱桓を、雪蓮は剣を持っていない方の手で制した。

「よりにもよってこの瞬間にか、太史慈」

「陣地では周瑜殿や黄蓋殿が目を光らせておりましたし、なによりこの状況に持ち込めるだけの隙を、今初めて孫策殿に見出しました」

「ふふっ、面白いわね、太史慈。軍人かと思えば武人で、武人かと思えば、こうした詐術も弄する」

 雪蓮の剣は、太史慈の首筋にあった。眼前で止められた太史慈の剣に、とっさに雪蓮も剣を引いたのだ。ただ、さすがに皮一枚分は斬り込んでしまっている。剣把から、脈動する太史慈の血潮を感じた。雪蓮がほんのわずかに剣を進めるだけで、太史慈は血を吹いて果てるだろう。

「首をはねられる覚悟は出来ております。しかし、袁術様がお逃げになるだけのお時間は頂く」

「……」

 厳然と言い放つ太史慈を、雪蓮は静かに睨み据えた。死を恐れる様子など微塵も感じられない。

「た、太史慈?」

 まだ状況が呑み込めないのか、背後から袁術の呆けた声が聞こえた

「―――袁術!!」

「ひ、ひいっ!」

「そこでいつまでも何をしているっ! 貴様の将がいじらしくも命を賭して貴様のための時間を稼いでいる! 私も兵も動かん、何処へなりとさっさと消えろ!」

「じゃ、じゃが、太史慈は―――ひぐっ」

「さ、さようなら~~~!!」

 駆け去る一人分の足音が聞こえた。背後に気配はもうなかった。張勲が袁術を抱えて去ったのだろう。
 突きつけ合った剣の、一方が引かれた。

「孫策殿、なにを」

 南海覇王を鞘へ納める孫策に、太史慈が珍しく驚きの表情を浮かべた。

「袁術が城外に退去するまでその体勢を続ける気? いやよ、そんな面倒くさいこと。貴方の言うとおり、袁術は見逃しましょう。朱桓、他の者にも、この旨伝令を」

「はっ」

 朱桓の命で、親衛隊の兵がきびきびと駆け出していく。
 元より袁術を生かすか殺すかは、決めかねている問題であった。
 民をかえりみない悪政がたたって、揚州内での袁術の評価は芳しいものではない。袁術にあるのは名門の出という強みだけであり、それは彼女の施政を知らぬ地でより生きるものだ。冥琳が時を掛けて為した調略の甲斐もあって、孫呉の地に袁術に従う者は皆無だろう。ならば生かして乱世を賑やかせるというのも悪い手ではなかった。立ち上がったばかりの孫呉にとって、今はまだ小勢力同士の群雄割拠という状況が望ましい。
 袁術の顔を見た時、天下取りへの計算が勝るのか、長く飼殺されてきた復讐の念が勝るのか。雪蓮はその一瞬の判断に委ねてしまおうと決めていた。
 伝令の背を見送ると、雪蓮は当惑顔の太史慈に視線を戻した。

「これで貴方は袁術に、命一つ返したことになる。―――それで、私が首をはねるつもりはないと言ったら、貴方はこれからどうするつもりなのかしら?」

「それは……」

 太史慈もゆっくりと剣を下した。
 同時に孫策に駆け寄った朱桓が、親衛隊の兵に立ち尽くす太史慈を囲ませた。太史慈は、一切抵抗のそぶりを見せていない。

「朱桓、いいわ。放っておきなさい」

「ですが」

「朱桓。私の命令が聞けないの?」

「……失礼いたしました」

 命一つの恩義を返すために、武人にとって命よりも大切な節義を投げ打った。そんな男に借りを作っておくのは悪くない。

「……雪蓮」

 ようやく姿を現した冥琳が、兵に状況を確認すると雪蓮のそばへ寄った。

「なあに、冥琳?」

「玉璽にはまだ使い道があったのだがな」

 あきれたような表情で、冥琳が言った。袁術の件は、これで構わないということなのだろう。

「わかっているわよ」

 言って、雪蓮は懐から玉璽を取り出した。

「……すり替えていたのか」

 冥琳は今度こそ心底あきれた、という表情を浮かべた。

「さっきのあれは、本当にただの石よ。袁術に逃げられそうになったら、飛礫にでも使おうと思って持っていたの。まったく、あの二人ったら動揺しちゃって、まるで気付かないんだもの。笑いをこらえるのが大変だったわ」

「まったく、お前と言うやつは」

「私だってそこまで馬鹿ではないわ。袁術が持っていたところでただの石でも、力ある者が、私が、持てば―――――やっぱりただの石、ね」

 石ころ一つで天下は手に入りはしない。もし手に入ったなら、それは石ころ一つで覆る天下ということだ。

「しかし利用価値はある。少なくとも今回のように、数千の兵を引きだすぐらいにはな。だから、しっかりと持っていろよ」

 冥琳も特に雪蓮の言葉を否定することなく、頷きながら返した。

「ええ、わかっているわ」

 言いながら改めて矯めつ眇めつ眺めた玉璽は、雪蓮の目にはやはりただの石としか見えなかった。




[7800] 第5章 第1話 徐州
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/05/12 09:45
 家並みに隠れた伏兵が起つと、賊が先を争うように退くのが見えた。
 城壁代わりに村の外周を囲う柵はせいぜい人の胸の高さまでしかなく、乗り越えることも容易である。しかし慌てふためく賊は真正直に正門へと詰め寄った。
 圧し合いながら村の外へと溢れ出た者達は、そのまま散ることはなく、一つの集団を形成していく。数は、三百ほどだろうか。ただの賊徒としては規模の大きな一団と言えるだろう。

「へえ、思いの外うまくまとめるものだな」

 散り散りに逃げ惑う賊の中から頭目を見つけ出すつもりで目をこらしていた曹仁は、率直に感嘆を口にした。

「一応この辺りでは名の通った侠客という話だ」

 副官として曹仁の横に並んだ張燕がぼそりと漏らした。
 もう一人の副官である角は、村に潜ませていた歩兵の指揮を取っている。曹仁と張燕は、騎兵を率いて村の外に伏せていた。

「―――騎乗!」

 曹仁の号令一下、二百が一斉に馬上の人となった。
 賊徒の集団が騎馬隊の存在に気付いた。村の方をうかがっていた陣をこちらへ向けて構え直している。調練を積んだ軍の動きではない。お世辞にも手際が良いとは言えないが、曹仁は賊徒が陣形を整え直すのをゆっくりと待った。

「騎馬隊が姿を見せれば、それだけで今度こそ逃げ散るか、とも思ったが」

 軍としての動きに不慣れながらも、賊の一人一人がしっかりと頭目の命令に従っていることが解かる。
 曹仁は騎馬隊を集団へ突っ込ませた。まずは曹仁自身が率いる百騎。
曹仁が一歩先んじて駆けてはいるが、そこを頂点とした楔の陣形ではなく、横に広く展開した形だ。賊徒の集団を残らず掃討するように駆け抜けた。第二段、張燕の率いる百騎も同じように駆ける。
 反転してもう一度それを繰り返すと、賊の中に立っている者はわずかとなった。
 地面からは無数の呻き声が聞こえる。曹仁の手にあるのはただの棒だった。兵にも同じものを使わせている。骨ぐらいは折れた者もいるだろうが、死者は出ていないはずだ。
 この遠征に白騎兵は連れておらず、曹仁に代わって騎馬隊の調練を監督させていた。曹仁の率いる軍は、曹操軍中にあってはごく一般的な練度といえる。それでも、賊徒程度の相手は問題にもならなかった。
 十人ほどがなおも小さく固まっていて、数こそ少ないが陣形と言えなくもない応戦の構えを取っている。騎馬の姿もあった。頭目はそこだろう。
 曹仁が白鵠をそちらに向けるより早く、張燕が馬を躍り込ませた。鞘ぐるみの刀が振られて、賊徒が一人、また一人と地に伏していく。
 最後の一人が馬上から姿を消すのを横目に、曹仁は周囲の兵に戦後処理と野営の用意を命じた。
 会見の場とするために、野営地には一つきり幕舎を張らせた。
 一刻ほどで、角に連れられて賊の頭目が部下二人を伴って現れる。すぐさま曹仁は口火を切った。

「食い詰めた民に、同じく食い詰めた民を襲わせてどうする? あんたも侠気を売って生きてきた男なら、苛政を強いる役人を襲え、軍営を襲え。そこには民から搾り取った糧食からなにから、溢れているぞ」

 曹仁率いる一千は陶謙の本拠へ向けて、ゆるやかに徐州内を進軍中であった。
 今日賊の脅威に曝された村人達が、それで明日には賊に転じる。行軍の道程で、徐州内にはびこるそんな悪循環を嫌になるほど目にしていた。どこかで断ち切る必要があることは、誰にでも解る道理であった。
 曹仁は、幾度となくこうして賊の頭目達との会見に望んだ。彼らはほとんどの場合、蜂起する民に頼られる形で立った侠と呼ばれる者達である。先刻のように戦になることはまれで、大抵は角や張燕が繋ぎを作ってくる。そのために兵力とは別に、義賊であった張燕の部下と、黄巾の乱の際に曹仁と共に戦った侠客仲間に走り回ってもらっていた。かつての仲間達は、今は蘭々旗下で虎豹騎の一員であったり、校尉であったり、あるいは軍とは全く関係のないところで生きていたりするから、特別に融通をつけた形だ。

「無茶を言ってくれる。お前の言う食い詰めた民に、軍を襲う力などあるものか。満足な武器もない、飯もない、戦う術すら知らないで、どう戦えというのだ」

 真ん中の男―――賊の頭目が苦々しげに言った。額にこぶを作っているのは、張燕に打たれたためだろう。
 引き立てられてきた三人は初め、護衛も無しに一人待ち構えた曹仁に面食らった様子だったが、それももう落ち着いている。侠客として名前を売ってきた男達だけあって、顔つきにはどこかふてぶてしさが覗いていた。

「武器も飯も、ここにある」

 曹仁が外へ向けて呼び掛けると、すぐに幕舎の中へと荷が運び込まれた。小さな幕舎の中を埋め尽くすほどに積まれたその荷は、糧食であり、槍であった。

「これは?」

「お前達にくれてやろう」

 少し考え込むようにしてから、頭を振って頭目が口を開いた。

「俺たちに、何かやらせたいのか? 張闓についての情報なら、牛金という男に話した以上のことは知らんぞ」

「単にくれてやると言っているだけだ。当面の食い物を得、武器を得て、それでお前たちが何をしようが、俺の知ったことではない」

「……あんたに、うまく乗せられようとしている気がする」

「かもな。だが、飯は飯で、武器は武器だ。他に手もないのだろう? それともやはり、村々を襲うか?」

 探る様な視線に曹仁は真っ直ぐ見つめ返した。

「……ご援助賜る」

 しばしの沈黙の後、頭目の男は重々しく口を開いた。





「その具足、なかなか似合っているじゃない」

 陶謙の使者と共に城門まで迎えに現れた詠は、曹仁と顔を合わせるや言った。
 白塗りの具足は、白騎兵のためにと曹仁が特別にあつらえたものだった。
 鍛え上げられた鉄製の胸甲は前面を覆うのみで、背面はなめし革が用いられ軍袍がむき出しの部分も多い。白騎兵の背後を襲える軍など存在しない、という発想の元で大幅な軽量化を図ったものだ。軍袍も真桜特製の鉄糸を編み込んだ防刃性の高いものだが、重さも動き易さも普通のものと変わらない。特別な具足など必要ないと主張していた兵達にもおおむね好評で、採用が決められていた。
試作として最初に出来あがった第一号が曹仁のまとっているものであり、そして、白塗りされた唯一のものでもあった。真っ白な塗装だけは兵に不評で、試作品以降は鉄と革の地の色が剥き出しとなっている。すでに色を塗り終えていた第一号は、曹仁へ回されたのだった。
 白馬に白い具足というのは、いかにも気取った装いで、詠のからかいを含んだ口調に曹仁は幾分の気恥しさを覚えた。

「行こうか、詠さん」

「ええ、陶謙が謁見の用意を終えて待っているわ」

 陶謙、と呼び捨てる詠に、使者の男が眉をひそめ何か言いかけた。詠は横目で睨みつけるだけで、それを黙らせる。
 使者はまるで従者か何かのようの、曹仁と詠を馬車へと誘った。角に白鵠を預け、軍も任せると、曹仁は誘われるままに詠と共に馬車へと乗り込んだ。
 馬車はゆっくりと街並みを進んでいく。
 徐州は下邳県。州都ではないが徐州経済の中心地として発展を遂げ、陶謙の本拠もそこに据えられていた。
 城内には裕福な商人が多いのか、道行く人は着飾り、どこかゆったりとした優雅な空気が流れていた。城郭を一歩踏み出せば、賊が横行し、飢えに苦しむ民がいるなど、この街に閉じ籠って住まう限りは想像もつかないのではないか。金さえあれば美食を貪れる反面、その米を作り野菜を育てる民には飢えで死ぬ者が際限ない。徐州という土地はやはりどこかが狂っていた。
 そんな街の様子からも、陶謙という人間が透けて見えるようだった。下邳県や他の主要地が賊の標的とならないのは、州内の騒乱に満足に派兵もせず、そこに兵力を集中させているからだ。つまりは自分の身辺だけが安全で住み良ければ良いという、その程度の人間なのだ。州内に無数に存在する城郭を持たない村々など、目にも入らないのだろう。
 宮門をくぐるとその傾向はさらにはっきりと目に現れた。道は塵一つなくきれいに掃き清められ、そこかしらに立つ歩哨の装備はいずれも新品同然の光沢を放っている。
 曹仁は使者に招かれるままに謁見の間へと進んだ。

「徐州内での我が軍の活動をお認め頂きましたこと、主君曹孟徳に代わって御礼申し上げます」

「兵はあれだけか?」

 開口一番、陶謙は怯えを含んだ口調で言った。
 軍人として名を挙げた人物で、反董卓連合にも名を連ねている男だった。しかし、謁見の間に据えられた玉座に深く腰掛け、小さく隠れるようにしている陶謙からは、そんな軍歴を感じさせるものは何もない。

「事前の申告通り、騎兵二百に歩兵が八百で、総勢一千よ。その他に輜重隊の馬車が百。盗賊程度が相手であれば、それで十分だと思うけれど、何か不審な点でもあるかしら?」

詠が、居丈高に問い返す。

「い、いや、そういう訳では」

 陶謙が、助けを求めるような視線を曹仁へ向けた。州内への進軍交渉の際にだいぶ脅しつけられでもしたのか、詠に向ける目には臆したものがある。四十がらみの大州の主が、年若く、女性としても小柄な部類の詠を相手に身を竦ませる様は、滑稽と言ってもいい。

「陶徐州殿のご高配を賜りまして、道中つつがなく、一兵も損ずることなくこの地へ至ることが出来ました。感謝を申し上げます」

 曹仁が言うと、陶謙はあからさまにほっとした表情を浮かべた。輜重の多さにも、特に気に掛けた様子は見られない。
 輜重隊には空馬車も多かった。下邳城に至る道中で、すでに兗州から運び込んだ兵糧の内のかなりの部分を、民と、民の成れの果ての賊へと配り回っている。徐州全体で食糧が不足しているわけではなく、城郭を持ち兵が守る街の倉はむしろ飽和状態に近いのだ。空いた分は金さえ払えばいくらでも購うことが出来た。

「曹子孝将軍、この度は曹兗州殿の御自らの御出陣を引き止めてくれたとか。感謝申し上げる」

 陶謙が追従の笑みを浮かべて言った。曹仁は、時折陶謙から向けられる媚びる様な視線の意味を得心した。

「あくまで民のためにしたことです。陶徐州殿がお気になされるようなことではありません」

 暗に、貴方も貴方の軍の失態も許すつもりはない、と曹仁は笑顔で口にした。陶謙はそれに気付かないのか、変わらぬ媚びた笑みを浮かべたままだった。





「―――曹仁さん」

 陶謙との何の実りもない、表層をなぞるだけの会見も終わろうという時、背後から間延びした声が掛けられた。

「桃香さん! それに、みんなも! まさかこんなところで会うとは」

 振り返ると、懐かしい面々がちょうど謁見の間へと足を踏み入れたところだった。桃香、愛紗、鈴々の三姉妹に、朱里と雛里、それに星までが顔をそろえている。曹仁は、大仰に驚いて見せた。
 曹操軍の報復を恐れた陶謙は、劉備軍に救援を求めた。劉備軍は今や天下に知らぬ者のない義軍であり、賊難が横行し大敵を抱えた徐州からの要請を受けぬはずはない。桃香達一行が下邳城に入ったことは、幸蘭の情報網を経て数日前に曹仁の耳に入っていた。

「お兄ちゃん! 久しぶりなのだ」

「おっと。鈴々、すこし成長したみたいだな」

 一番に駆け寄ってきた鈴々を曹仁は抱きとめた。記憶に残る衝撃よりも、いくらかずっしりとした重みがあった。

「こら、鈴々! このような場で」

「愛紗さん、久しぶり」

「お久しぶりです、曹仁殿。―――鈴々、いい加減離れないか」

 愛紗は、いくらか照れた様子で一礼すると、気を取り直したように鈴々の襟首を掴んで、曹仁から引きはがしに掛かった。
 桃香、朱里、雛里と、順繰りに再会の挨拶を交わしていく。

「―――これは、白蓮さん。無事だと噂には聞いていたが、桃香さんのところにいたのか」

 星の前まで至ったところで、その影に隠れるようにしてたたずむ白蓮に、曹仁は今初めて気づいたという風に声をかけた。

「あ、ああ。危ないところを桃香達に助けられてな」

 心持ち気落ちした様子で白蓮は返した。
 白蓮が劉備軍と行動を共にしているというのは、曹操軍の想定の内である。
 袁紹軍は単に公孫賛軍を敗走させたと喧伝しているが、実情はいくつかの点で異なるという報告が上がっていた。
 優勢に戦を進めた袁紹軍に奇襲を掛け、一時は本陣を陥落間際まで追い詰めた一千程度の所属不明の軍勢が確認されていた。その働きがなければ、公孫賛軍は敗走どころか殲滅の危機にあったという。
 一千規模の軍がその所領を離れれば、必ず各地に張り巡らせた幸蘭の情報網に掛かる。それがなかったという時点で、所属不明の軍勢は今だ本拠の定まらぬ二つの軍に限られた。
 一つは呂布軍である。呂布軍は厳しい兵の選別が行われており、間諜を送り込むこと自体が困難な上に、それに成功したところで外部との連絡はさらに至難だという。
 もう一方は劉備軍である。呂布軍と異なり、劉備軍は来る者は拒まずといった態で、厳しい調練に途中脱落する者は多いが、入軍自体が拒絶されることはない。ただ間諜として送り込んだ者の大半は音を上げるか、次第に連絡が途絶え、いつしか完全に劉備軍の兵に納まってしまうらしい。間諜を生業とするものにとって、義を掲げる劉備軍は眩ぶし過ぎるのかもしれない。朱里や雛里がそこまで計算しているのかは解らない。現状、領土的野心を持たない劉備軍に、探られて痛む腹はないという開き直りとも思える。
 劉備軍と呂布軍のどちらかが白蓮の窮地を救った。となれば、考えるまでもなくそれは劉備軍であろう。桃香と白蓮は同門の友人同士である。

「そ、それでは、積もる話などもあろう」

 陶謙は気でも利かせるといった態で、逃げるように謁見の間から引き払った。

「ボクも先に軍営へ戻っているわ」

 曹操軍にはようやく馴染んできたとはいえ、詠にはまだ反董卓連合で戦った軍に対して思うところがあるのだろう。それも当然で、月と詠にとって掛け替えのない人間をあの戦で亡くしているのだ。
 桃香達を拒絶でもするように、詠は背を向けた。
 そのまま主不在の謁見の間で談笑というわけにもいかず、曹仁達は桃香の与えられているという客室へと移動した。

「曹仁さん、どうぞ」

「お邪魔する」

 客室は広く、清掃が行き届いていて、調度も見るからに高級そうなものが取り揃えられている。城内での桃香の扱いは賓客に対するものと言って良さそうだった。

「綺麗すぎて、まだちょっと、落ち着かないんだけど」

「ああ、ごめん」

 曹仁はいささか不躾に過ぎた視線を、軽く頭を下げて詫びた。
 気にするなというように笑顔を返す桃香と、その後ろに並び立つ面々へと曹仁は改めて視線を向けた。
 一見して最初に目に付くのは、やはり鈴々の成長だった。周囲の大人達に混ざればやはり頭一つ分も小さいが、それでも随分と手足が伸びている。かつては時に身体の方が振られることもあった丈八蛇矛も、今は手足の延長のように扱うのではないか。
 対して身体的な成長はほとんど見られないのが朱里と雛里だ。初めて出会った頃にはほとんど変わらぬ体格だった鈴々と、今ははっきりと身長差がわかる。一寸の土地も持たず、助けた民から糧食を徴収するわけでもない流浪の義軍の軍師として、その苦労は一方ならないものがあったのだろう。幼い顔立ちにも幾分苦労がにじんでいる気がした。
 愛紗は変わらぬ生真面目さで、桃香の隣りに背筋を伸ばし直立している。旅塵にまみれても美しい黒髪は今も同じだ。表情に以前よりも張り詰めたものを感じるのは、乱世を憂えるが故だろうか。
 星は何ひとつ変わっていないように見えた。この軽妙な人は、どこにあっても表情一つ変えることはないという気もする。
 そういう意味で、その対極に位置していそうなのが白蓮だった。表情には、今も明らかに落胆の色がうかがえる。

「各地を転戦しているとは聞いていたが、ここには何をしに?」

「それはね、曹操さんが―――」

「―――徐州では盗賊が横行していると聞き及んでおりましたので、賊の討伐に。陶徐州殿も我らの活躍を耳にしたようで、こうして招かれて、今はありがたいことに兵を屋根のある場所で眠らせることが出来ます」

 主君である桃香の言葉を遮って、星が言った。朱里と雛里が、安堵したようにため息を漏らす。
 桃香は、相も変わらずだった。
 曹仁との一別以来、官途に就き、一度は恤民の施政で名を高めながらも、漂泊の軍に身を落とした。流亡の中でさらに名を馳せ、今は天下の義軍を率いる大徳の将軍などと呼ばれている。当然、漢室から正式に任官されたわけでもなく、わずか二千にも満たない兵を率いるだけであるが、民にとって将軍と聞けば今や劉玄徳の名が真っ先に思い浮かぶのではないか。目まぐるしい流転の日々を経、周囲の見る目もまるで違ったものとなっている。それでもやはり、桃香は曹仁の知る桃香のままであった。
 曹仁は、変わらぬ桃香に安堵する自分を感じていた。大人然とした桃香など見たくもない。

「そうだったのか」

「うむ。しかし、精強で聞こえた貴殿らの軍が動くとなると、我らの出る幕はもう来ぬやもしれませぬな」

「兵の精強さという点において、天下の義軍と名高い劉備軍を侮るつもりは毛頭ないが、我らは報復のための軍。手出し無用に願いたい」

 それからは今回の進軍とは関わりない、本当の雑談になった。
 和やかな雰囲気の中で、愛紗が一人思い詰めた表情で切り出した。

「曹仁殿にお会いしたら、ぜひお聞きしたいことがあったのですが」

「なんだ?」

「董卓は、まことに世に言われているほどの悪人だったのですか? 諸侯が揃って打ち滅ぼさねばならないほどの?」

「それは……」

 董卓の悪評の大半が、当時彼女を隠れ蓑に朝廷を牛耳っていた宦官張譲によるものである。張譲を排し、いよいよ彼女本来の慈愛に満ちた政を始めようという折も折に、反董卓連合が起ったのだった。

「政敵への粛清の嵐に、廃帝。どれも董卓が為したことだ。悪と断じられてしかるべきでは?」

 ここで、董卓の擁護をするつもりは曹仁にはなかった。

「しかし、曹仁殿はその董卓に従われた。皇甫嵩殿も。戦場で剣を交え、数語交わしただけですが、呂布や張遼といった武将も中々の人物と見受けました」

「……さて。がっかりさせるかもしれないが、俺は皇甫嵩将軍の食客として彼女に付き従っただけさ。将軍は董卓とは昔馴染みのようだったし、それで手を貸す気にもなったのだろう。恋―――呂布や張遼にはまた別の存念があったのかもしれないけど、俺のは単に成り行きに過ぎないよ。……何故、そのようなことを?」

「戦場で会った張遼が、董卓は良い子だと私に言ったのです。馬鹿馬鹿しい話ですが、嘘を言っているようにも見えませんでした」

「俺も董卓とはそこまで深く親交があったわけではないので、なんとも言えないが。将兵からは慕われていたようだ。ただの暴君というわけではなかったのだろうな」

「……そうですか」

「曹仁さん。愛紗ちゃんが悩んでいるのは、もし私達が洛陽に攻め込むことがなければ、董卓さんの元で天下は今よりずっと穏やかに治められていたんじゃないかってことなの」

 桃香が、憂いの表情で引き取った。

「まったく、愛紗よ。あまり自身の懊悩に御主君を巻き込むものではないぞ」

 星が皮肉気な笑みを浮かべて言った。

「……そういえば星さん、今は桃香さんの家臣なんだな。白蓮さんのところに留まっていれば第一の武将だろうし、袁紹軍との戦にも勝てたかもしれないのに、惜しいな」

 これ幸いと、曹仁は話の矛先を逸らすことにした。今の月の境遇を思えば、あまり突っ込んだ話をするわけにもいかない。
 それに結局のところは、張譲の思惑に乗ってでも月を高みに押し上げようとした詠の計略が破れたということだ。悪評が立つのも当然策の内で、その反響を読み切れず、跳ね除けることも出来なかった董卓軍が負けたというだけの話だった。董卓軍の一員として戦った曹仁が、負け戦の後に正義を叫んだところで何の意味もない。

「ふむ、白蓮殿のところにそのまま留まっていても先は無いと思いましてな。実際にその予感は的中したわけだが」

 白蓮が盛大にため息を吐いた。それだけで、何かを言い返すほどの気力もないのか、項垂れて足元に視線を落とした。

「どうせ仕えるならば、これはと思える英主に仕えたいものだ。私は曹仁殿のように成り行きで己が陣営を決めるつもりはないのでな」

「ははっ、これは相変わらず手厳しい。もっとも、俺も今は成り行きで主君を選んだつもりはないがな」

「ほう」

 星が探る様な視線を向けてくる。

「……曹操さん、ですよね」

 朱里がおずおずと口を開いた。

「ああ。そうだ、よかったら、朱里と雛里からは華琳―――曹操様が、どう見えているのか聞かせて欲しいな」

 伏竜鳳雛と呼び馴らされ、この時代屈指の知識人である諸葛亮と鳳統の曹操評には興味があった。

「別に俺も、曹操様が完全無欠の完璧な主君だなんて思ってはいない。忌憚のない意見を頼む」

はわあわと狼狽して言いよどむ二人に、曹仁は言い足した。

「そ、それでは」

 一度口を開いてしまえば、あとは滑らかに言葉は紡がれた。
 陣営にあった曹仁ですら見落としていたような、細かな政策にまで話は及んだ。二人とも、よく考察している。相手が曹仁だからというのもあるだろうが、曹操軍の将の前では普通言い難いような批評も、淀みなく口にする。二人も流浪の生活でいくぶん逞しさを増したようだった。
 総じて、軍略家としての卓越した才能を認める一方で、内政面の改革はやや性急に過ぎる嫌いがある。二人の評価はそれでほぼ一致していた。

「そうか。貴重な意見をありがとう。口調から察するに、雛里はいくぶんか好意的、朱里はあまり好きじゃないって感じかな?」

「は、はわっ! そ、そそ、そういうわけじゃありませんよ」

「しゅ、朱里ちゃん、落ち着いて」

「ははっ、冗談だ」

「は、はひっ、驚かさないでください、曹仁さん」

 個人的な好悪ではなく、軍略よりも民政の手腕に優れる朱里と、軍事面の才に富んだ雛里の違いが論調に出たのだろう。

「それで、曹仁殿御自身は御主君のことをどのように評価しているのですかな?」

 星が口を挟んだ。曹仁は少し考えて、答えた。

「主として仰ぎ見るなら、なによりもまず、果敢だ。それゆえの過ちを受け入れ、改めるだけの度量も持っている。将として鑑みるなら、非凡そのものだ。歩兵から騎兵の運用、百の指揮にも万の指揮にも精通している」

「……ふむ。何と言うか。以前よりいくらか男振りを上げましたな、曹仁殿は。腹をくくったというのか」

 悪びれることなく褒めそやす曹仁を、星は興味深そうに見すえた。

「星さんにそう言われるとくすぐったいな。ただ、いくらか開き直っただけさ。まあ、曹家を飛び出して気ままにしていた頃よりも、少しは気が晴れたかな」

 曹仁が、そう苦笑交じりに言った時だった。

「―――劉備様」

 劉備軍の兵と思しき男が訪いを入れた。時を同じくして、曹仁軍の兵も案内に導かれて姿を現す。
 二人は一瞬戸惑った様子で顔を見合わせてから、隠し立てする必要も無いと判断したのか、前後して口を開いた。案に違わず、報告の内容は同じであった。
 下邳城へ接近する軍影。砂塵湧き立つ源には、深紅の呂旗がたなびいているという。





 桃香らを連れ立って下邳城の城外に展開する呂布軍を訪ねると、すぐに本陣へと案内された。
 軍容は濃密な戦の空気をまとい、哨戒の兵士は予断なく周囲の警戒に当たっているが、戦闘態勢にあるわけではない。騎兵は馬を下りているし、歩兵も武器を下ろしている。つまりは許可を得ての滞陣ということだ。
 陶謙が劉備軍の他に救援を求めたとしても、当然と言えば当然の話ではあった。天下に名高い劉備軍の実兵力は二千にも満たない。今は公孫賛軍から白馬義従の三百を加え、騎兵五百に歩兵が一千二百だという。それが民から徴発もせずに軍を維持し得る限界なのだろう。事実、公孫賛軍の残存兵力は万にも及ぶはずで、それを糾合し大軍を擁することも容易いはずであった。しかし劉備軍はそれを選んでいない。自ら志願する兵は無条件で受け入れても、募兵はせず、厳しい調練の果てに極端なまでの少数精鋭を実現したのが劉備軍であった。白騎兵、虎豹騎に加え、各将軍旗下の兵から最精鋭を選出したところで、同数同士でぶつかれば曹操軍であっても分が悪いだろう。
 逆に呂布軍は大所帯である。曹仁の見るところ騎馬隊が中心の陣容で、騎兵が一万五千に歩兵が一万、さらには替え馬まで備えている様子だった。その中核を担うのは、恋と霞に率いられ洛陽を脱出したかつての董卓軍の騎馬隊だろう。精強で知られる涼州の騎兵である。
 呂布軍は劉備軍とは異なり、地方豪族や太守に、武力で脅しつけるような形で強引に支援を取り付けているという。音々音あたりの考えだろうが、それでも民からの徴発はないし、裕福であったり悪辣であったりする領主を選んでいるあたり、この乱世にあってはむしろ良心的ともいえた。


「関羽―――――――!」

 本陣から息せき切って飛び出してきたのは、霞だった。他の者―――洛陽では同居人であった曹仁にすら目もくれずに、勢いそのままに愛紗に詰め寄る。

「会いたかったで、関羽! どうや、アンタの武器に合わせて拵えた飛龍偃月刀や! これでもう、戦いの途中で得物が壊れて終いなんてことはあらへん」

「霞さん、いきなり武器なんて突きつけては失礼ですよ」

 続いて姿を現したのは、高順だった。

「劉備軍の皆さん、お初にお目に掛かります。私は高子礼と申します。この軍の歩兵を率いさせて頂いております」

 曹仁の胸が一瞬ずきりと痛んだ。
 高順は恋の拾った戦災孤児の少年であった。戦からは遠いところで生きて欲しいという思いが、曹仁にはあった。天下無双の飛将軍に拾われ、漢朝屈指の名将皇甫嵩の屋敷で軍人に囲まれて育った時点で、他に道などなかったのかもしれない。

「ご存じとは思いますが、そちらは張遼将軍。我が軍の騎兵隊長です。主はただいま不在にしておりますが、すぐに戻りますので、よろしければこちらでお待ちください」

 本陣にはすでに人数分の床几が並べられていて、幕舎はないが日除けの幕は張られていた。

「仁兄、久しぶり」

 そつのない仕草で桃香達を本陣へと誘うと、高順はまっすぐ曹仁の元へと歩み寄り、肩の力を抜いた口調で言った。
 きっちりと兜まで具足を着込み、首元には呂布軍の牙門騎と同じ深紅の布を巻いている。いかにも仰々しい装いだが、そこだけ覗く顔は少年のもので、声にもまだ幼さを残していた。

「ああ、久しぶり。……お前、ちょっと背筋を伸ばして立ってみろ」

「ん? こう?」

 元より姿勢の良い高順が、さらに胸を反らし、顎をひいた。

「…………ああ、もういいぞ」

 鈴々にも驚かされたが、成長期ということなのか、高順は向かい合って立つと、ちょっと目を見張るくらいに背が伸びている。洛陽で別れてから、まだ一年と経ってはいない。
 まだ自分の方がいくらかは背が高いことを確認すると、曹仁はほっと胸をなでおろした。

「恋さんと音々音は陶謙殿に挨拶してる。じきに戻ると思うけど」

「そうか、入れ違いになってしまったか」

「アンタが、子礼なんて字をつけるもんやから、何や固っ苦しい奴に育ってしもうたわ」

 霞が、背後からぶつかる様に肩を組んできて言った。

「ま、今は敵対もしとらんから戦うわけにもいかんしな。得物自慢はまた今度にするわ」

 霞は、反董卓連合との戦でやり合って以来、すっかり愛紗にご執心の様子だった。
 以前は飾り気のないただの大刀(大薙刀)を使っていたが、今手にしている偃月刀は確かに愛紗の青龍偃月刀に酷似している。刃は愛紗のものよりもいくらか薄く軽量化されていて、その用兵と同じく神速とも称えられる霞の刀法を活かすための工夫がなされていた。

「ああ、そうや。―――張繍は、元気にしとるか?」

 張繍という名を強調するように、霞が言った。
 死んだはずの張繍が詠とともに曹操軍に降った。それで思い至るものがあったのだろう。
 張繍―――照自身が軍功の全てを月に捧げ、本人は名も無き兵として散っていったから、当時の反董卓連合軍はもちろん、董卓軍の将兵の中にもその死を知らぬ者は多い。呂布軍の将は、所属はあくまで漢王朝の官軍であったとはいえ、董卓軍の中核をなした者達である。照の死を知る数少ない人間の集まりと言えた。

「ああ、もちろん。と言っても、彼女は文官で、俺は大抵軍営詰めだから、そうそう会う機会があるわけではないが。詠さんも来ているから、詳しい話はそっちに聞いてくれ」

 最後に、小声でくれぐれも内密にと付け足すと、霞は当然という顔で肩をすくめて見せた。

「それじゃあ、仁兄も本陣へどうぞ。茶なんて気の利いたものはないけど、兵に水でも持ってこさせよう」

 高順の勧めで、曹仁も本陣の床几に腰を下ろした。
 鈴々はセキトと張々と一緒になって地面を転げ回っている。愛紗は董卓について存念を霞に問い質しては逆に絡まれ、辟易している。
 曹仁は、運ばれてきた水に口を付けた。
 半刻(十五分)ほどの間を置いて、本陣にまず姿を現したのは恋だった。
 よほど急いで走ってきたのか、彼女にしては珍しく息を弾ませている。音々音は、途中で振り切られたというところか。
 曹仁は立ち上がって手を上げた。

「恋、久しぶり」

「んっ」

 恋は小さくうなずくと、感情を持て余した様子で曹仁の軍袍の袖をつかんで、くいくいと軽く引いた。子供のようなあどけない仕草に、曹仁は自然と笑みがこぼれた。

「あの、曹仁殿。彼女が、……呂奉先ですか?」

「ああ。―――って、愛紗さんは戦場でよく見知っているはずでは?」

「え、ええ、まあ、それはそうなのですが。なんというか、少し印象が違うと言いますか」

「ああ、なるほど」

 逆に曹仁は反董卓連合との戦の大半を別働隊として動いていたから、恋の鬼神の働きというのはほとんど目にしていない。曹仁にとっては目の前にいるこの可愛らしい生き物こそが、恋であった。

「あっ」

 恋は小さく声を漏らすと、とてとてと小走りで愛紗へと寄っていった。

「……よろしく」

 わずかに身構えた愛紗に、恋は悪意無い表情で頭を下げると、手を軽く握りしめた。
 虚を突かれて絶句する愛紗をよそに、恋はその隣の桃香、鈴々と同じく頭を下げ手を握っていく。

「ちゃんとあいさつしないと、こーじゅんに怒られる」

 一渡り劉備軍の面々と会釈を交わすと、曹仁の元へと戻ってきて恋が言った。
 野生児同然であった高順が、礼儀作法についてうるさく口を出すというのは、教育係を務めた曹仁としては感慨もひとしおである。
 さておき、恋の愛らしい言い様に、思わず頭でも撫でようと曹仁が手を伸ばしかけた時だった。背後から騒がしい足音とともに、怒気を含んだ声が響いた。

「ちんきゅーーー―――――」

 振り向き様に払った曹仁の手が空を切った。

「なにっ!?」

「―――――きーーーーっく!!」

 とっさに屈み込んだ曹仁の頭の上を、何かが通り過ぎていく。

「くうっ、避けるななのです」

 曹仁の頭上を飛び越え見事に着地した音々音が、無茶な要求をしてくる。

「軍師としての評判はまるで聞かないが、武官に転向でもしたか、音々音?」

 明らかに飛び蹴りの打点が以前よりも高くなっていた。音々音の小柄な体格を考え合わせると、相当な跳躍力と言えるだろう。

「馬鹿なことをいうなです。ねねは生涯恋殿の軍師なのですよ。お前は、恋殿から離れるのです!」

 これでこの本陣に、劉備軍、呂布軍の首脳が勢揃いした。
 そして徐州という一州に、天下に強兵と知られる、劉備軍、呂布軍、そしてほんの一部とはいえ曹操軍までが集結している。これからどう動くべきか、非常に難しい局面に立たされているのかもしれない。
 音々音が恋と曹仁の間に身体を割り込ませると、ぐいぐいと押しやってくる。力の方は、体格相応であった。
 曹仁はひとまず、小揺るぎもせずにその場に立ち尽くした。



[7800] 第5章 第2話 桃香(8/7改訂)
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/08/07 10:52
「呂布、こちらはどうだ? 食べないか?」

「…………いる」

「むぅっ、鈴々も食べるのだ!」

 愛紗が恋を構い、焼き餅を焼いた鈴々がそこに割り込む。
 夕時の軍営では、すでに定番となりつつある光景が展開されていた。

「鈴々よ、不機嫌そうな声を上げてどうした? 呂布に好物でも取られたか? それとも、取られたのは大好きなお姉ちゃんかな?」

「そっ、そんなことないのだ! 鈴々は愛紗のことなんか、これっぽっちも気にしてないのだ!」

「関羽も関羽やで。まったく、ウチにはつれないくせに、恋にはえらいご執心やな」

「な、何を言うか、張遼。私はただ食事を余らせても悪いと思ってだな」

 星が、霞が、そこに茶々を入れれば、まさにお決まりの場面である。
 これもいつも通りに、桃香が義妹二人をなだめに入るまで、しばし愛紗と鈴々の狼狽は続いた。
 陶謙の勧めに従い、曹操軍は下邳城下に仮設の軍営地を築き、そこを拠点に張闓の探索活動を続けていた。
 軍営には他に劉備軍と呂布軍も駐屯している。三つの軍が一つ所に同居している形だが、首脳陣がこうして仲睦まじい姿を見せているため、兵の間にも無用な緊張は見られない。
 各軍の首脳陣には宮殿内にも部屋が用意されているが、皆大抵は軍営に詰めている。曹仁に至っては一度たりとも足を踏み入れてはいなかった。曹操軍では詠だけが宮廷内の動向を探るために、宮中で起居していた。
 曹仁が軍を動かす際には、必ず劉備軍か呂布軍のいずれかが支援と称して行軍を共にする。両軍には陶謙直属の軍監が付いていて、曹操軍の動静に目を光らせていた。さすがに、曹操軍に軍監を置かせろとは言うほどに、陶謙も厚顔ではないということだろう。
 曹仁は、初めからその視線を気にするつもりはなかった。困窮する民がいれば糧食を分け与えるし、賊徒といえども気骨のある者は捕えてもすぐに解き放った。詠がある程度は軍監の目を逸らす動きを見せてはいるが、特に隠蔽する気もなかった。

「お前は他の皆の輪に加わらないのか、音々音?」

 音々音は少し離れたところから、火を囲む他の面々を睨むように見据えていた。
 傍らには愛犬の張々一匹が侍るのみである。その張々も、立ち込める夕餉の匂いに気もそぞろの様子だった。

「いずれ敵になるかもしれない連中と、仲良くするつもりはないのです。劉備達や、それに曹仁、お前とも」

「恋や霞は、劉備軍の面々とはすでに直接干戈を交えてもいるが、特に気にもしていないぞ」

「武人の皆さんは、それで良いのですよ。戦ともなれば頭を切り替えられるのでしょうし、命と命、お互い様ですから。でもねねは恋殿の軍師なのです。頭だけで戦を考えて、時には策をもって命を奪いもします。だから仲良しは少ないにこしたことはないのです」

 軍師として、立派な心構えというべきなのだろうか。それとも、頓着なく話の輪に加わり、今も同じ軍師同士音々音と交流を図れないものかとこちらを窺っている朱里や雛里を見るに、逆に割り切れない甘さの表れというべきなのか。少なくとも、こうして曹仁に心情を暴露してしまうところなどは、軍師としては未熟以外の何ものでもないだろう。
 それでも、かつての軍師とは名ばかりであった頃の音々音には無い、悲壮な覚悟がそこにあった。

「俺はお前達と敵対したいとは思っていないぞ。たぶん桃香さん達もな」

「ふん。そう思うなら、今すぐ恋殿の傘下に加わるのですね。そうすれば、また恋殿の飯炊きくらいには使ってやるのです」

 鼻息を荒げる姿に、以前と変わらぬ音々音を見た思いがして、曹仁はわずかに口元をゆるめた。

「む? 何です、いまの笑いは?」

 そんな曹仁を見咎め、音々音がいきり立てば、それは洛陽の、あの皇甫嵩の屋敷で幾度となく繰り返された日常に他ならなかった。





「―――! ―――! ―――!」

 曹操軍と劉備軍が共だって集落に至ると、周囲は歓声に包まれた。
 ここまでの道すがら、民にはかなりの糧食を分け与えている。徐州内での曹操軍の評判は、あるいは本拠の兗州内以上に高まっているかもしれない。だが、曹操軍を褒め称える文言以上に耳につくのは、桃香―――劉玄徳の名だった。
 黄巾賊鎮圧における働きで桃香が世に出てより二年足らず、この千幾ばくかの兵力を有するだけの小集団とその主の名は、中華全土に知れ渡っていた。
 桃園で結ばれたという義姉妹の契り、不正を憎んでの劉備の退官、虎牢関での関羽の武勇まで、人々の口に上らぬ日はない。今や講談家の最大の飯の種は、覇王項羽の悲恋でも、驍将李陵の艱難でもなく、義と徳の将軍劉玄徳の物語なのだ。

「劉備様!」

 歓声を上げるだけでなく、村の中へ桃香が一歩足を踏み入れると、民が取り囲むように周りに集まってくる。
 華琳も善政を布き民の支持を集めてはいるが、こういった手放しの慕われ方はしていない。わかりやすく言うなら、桃香は民から人気がある。それは為政者である華琳よりも、張角らに近い感覚かもしれない。自然と耳目を集めるようなところが、桃香にはあった。やはり華琳にも劣らぬ傑物と言えよう。
 一口に英雄、傑物などといっても、その性質は一様ではない。漢朝においても、高祖劉邦と光武帝劉秀という全く異なる二人の英傑を得ている。自身が優れた軍略家であり政治家でもある華琳を劉秀とするなら、多士済々の家臣団に盛り立て押し上げられる桃香は劉邦に近い。その例で言うなら、小覇王と称えられる孫策は項羽になるのか。もっとも桃香は劉邦のように功臣の粛清などしないだろうし、孫策の苛烈も項羽ほどに狭量なものではない。

「曹仁さーん」

 桃香が大きく手を振って呼んでいた。
 もう一方の手で、一人の老婆を支えるようにして導いている。この村の長老だろう。曹仁が兵糧を供与することで結んできた誼を、桃香はその名声と人柄だけで容易く築き上げていく。
 曹仁は苦笑ながらに、目語する桃香と老婆の元へと歩み寄った。
 天の御使いと噂される曹仁を知っていたのか、あるいは桃香が殊更大袈裟に言い立てでもしたものか。対面するや、老婆は拝み込むように頭を下げ、手をこすり合わせた。
 老婆から周辺の賊に関する情報を聞き、村の近辺での野営の許可を求めた。
 村人にとって軍は租税を徴収するばかりのほとんど賊とも変わりのない存在であるが、それが劉備軍となると話は別だった。賊徒が横行する中、近くに義軍と名高い劉備軍が滞陣するというのは、願ってもない話であろう。老婆は二つ返事で滞陣を認めた。
 他の賊の手引きによって、張闓らの所在が判明していた。
 案の定と言うべきか、張闓らの評判は賊徒の間でも最悪といって良かった。元々が彼らを取り締まる軍人の立場であり、民にとっては重税を絞りとる苛政の象徴でもあった。食うに困って立たざるを得なかった者達と、金に目が眩んだ亡者では土台が違うのだ。
 集落から西へ二十里程の位置にある、小さな山と山が連なる地形。そこに山塞を築いているという。老婆の話と合わせて考えても、まず間違いがないだろう。
 翌日、曹仁はわずかな護衛隊を引き連れるのみで、輜重を動かした。
 曹操軍が潤沢な兵糧を抱えていることは徐州全土が知るところである。曹嵩から略奪した荷はすでに食い潰したのか、張闓を首魁とする賊徒は、あっけない程に容易く曹仁の誘いに乗った。
 山と山に挟まれた隘路を進む輜重隊の前後に、それぞれ七、八十の賊が展開した。曲がりなりにも元軍人が率いるだけあって、一応の陣形は整っている。報告よりも兵が少ないが、寡兵それも輜重隊を相手に二段階の伏兵とも考えにくい。困窮の果てに離散されたか。曹操軍の狙いが張闓であると本人が知らぬはずもないのに、こうして襲撃を実行している。そのことからも、逼迫した状況はうかがえる。

「あれが、張闓だな」

 前方の陣の中央で一人騎乗する男。州軍の具足を着崩して、虚仮威しに大刀などを振り上げている。いくらか荒んだ印象はあるが、州内に潜伏する幸蘭の手の者から得た州軍時代の張闓の外見的特徴とほぼ合致していた。
 報告には人となりから事績まで事細かに記されていた。民からの税の取り立てがうまく、軍人と言うよりは小役人に近い。民を虐げて、上に媚びる。兵を率いる立場にあったのも、これといった武功があったわけではなく、その手腕故だった。

「――――!!」

 後方で喚声。張燕が、賊の背後を襲ったのだろう。一方で、前方の賊徒の退路は角が封じているはずだった。劉備軍は戦闘には加えずに、一応後詰という形で近くに陣を張らせている。
 後方への対処は、あとは輜重車を並べて防壁とするだけでも良かった。しかし曹仁は、輜重の守備に護衛隊の二十騎全てを残し、ただ一騎、張闓のいる前方の敵陣へと向かった。
 腿を軽く締めると、白鵠が意を察して脚を速める。締め付けを強めると、呼応して白鵠の脚が激しく地を蹴った。
 この遠征ではまだ一度も血に塗れていなかった曹仁の槍が、ここへきて初めて赤く染まった。後方の動揺が伝わり、すでにして賊は逃げ腰だった。曹仁の激情が乗り移ったのか、背を向ける賊を白鵠が蹄にかけていく。普段は体当たりまでで、あまりやりたがらないし、やらせない。悪戯に脚を痛める危険を冒すようなものだからだ。白鵠の純白の毛並も、常になく返り血に染まっていく。
 曹仁と白鵠を、遮れる者はいなかった。血風を巻き散らし、曹仁は敵陣中央まで容易く至った。

―――張闓。

 賊はすでに逃げ惑い、狭道を圧し合う態である。その波に翻弄され、張闓は退くこともままならずに狼狽している。

「お前が、同情の余地も無い悪党で良かった」

 小さく、呟いた。
 華琳と二人、決めていた。張闓と陶謙、彼らだけは決して許すことはないと。
 真横を駆け抜けざまに、石突きで馬上から叩き落とした。





「俺とこの男、それと角だけにしてもらえないでしょうか?」

 野営地に戻ると、曹仁は言った。
 幕舎の中には、曹操軍と劉備軍の主だったものが顔を連ねている。中央には、縄を打たれた張闓が膝を付いていた。
 表面上願い出る言葉だが、言外に込めた有無を言わさぬ気迫に、各々が席を立っていく。
 視界の片隅に張燕の皮肉げな笑みが過ぎり、消えた。何か言いたそうにしていた桃香も、曹仁が頑なに視線を合わせずにいると、頭を振って退室した。

「……拘束を解いてやれ」

 三人だけになると、曹仁は角に命じた。
 張闓を後ろ手に縛り上げた縄を、角が小刀で切り放した。曹仁は、ひざまずく張闓の方へ一本の槍を転がした。

「機会をやろう。俺に傷の一つも付けることが出来れば、その腕に免じて見逃してやる」

 槍を手に一歩進み出ると、張闓が慌てたように足元の槍へ手を伸ばした。
 張闓は、穂先をこちらへ向け槍を持っている。曹仁の目には、本当にただ持っているだけで、構えといえるようなものには見えなかった。
 曹仁は無造作に踏み込み、槍を振るった。

「――――っつ、あぐっ!」

 張闓はくぐもった声を上げ、うずくまった。

「角、止血をしてやれ」

 張闓が取り落とした槍には、まだ左手の手首から先が残っている。曹仁は床几に腰を下し、それをじっと見つめ続けた。
 半刻(十五分)ほども経ったろうか。
 斬り落とされた左手の切断面が乾ききった頃に、やっと曹仁は視線を逸らした。張闓へ目を向けると、縛り上げられた傷口には布があてがわれ、そこに滲み出した血も乾き始めている。
 曹仁はおもむろに立ち上がった。

「もう一度機会をやろう」

「ひっ」

 左腕を抱えるようにしてうずくまる張闓に言葉を落とすと、その身体がびくりと震えた。

「その手では、槍は使えないな。角、刀を持ってきてくれるか」

「……はっ」

 角には、これまで一度も視線を向けていない。だから、どんな表情をしているのかは分からなかった。
 戻ってきた角が、未だうずくまり続ける張闓の残った右手に刀を握らせた。

「さあ、どうした。毛筋ほどの傷一つでよいのだぞ」

 張闓が血走った眼を見開いた。何事か喚き立てながら、刀を振りまわして向かってくる。技も何もない動きに、曹仁は容易く刀を弾き飛ばすと、張闓の足の甲に体重を乗せた石突きを打ち落とした。
 悲鳴を上げてのたうち回る張闓を、再び床几に座って曹仁は見据えた。
 半刻後、叫び疲れてぐったりと憔悴した張闓を引きずる様にして曹仁は強引に立たせた。張闓は怯えきった表情で、刀を突き出している。

「そう怖がるな。ここからは素手で相手になってやろう」

 曹仁は言って、槍を放り出した。張闓の身体が、わずかに前のめりに動いた。
 鼻と水月(みぞおち)。一撃ずつ、拳を叩き込んだ。
 さらに半刻後。すでに槍の一撃で砕けている足の甲を踏み抜き、肘で顎を打ち上げた。

「篝を。それに桶に水を持ってきてくれ」

 日が暮れし切る頃には、張闓はほとんど息をするだけのものになっていた。曹仁は幕舎に灯を入れ、張闓に頭から水を被せた。
 張闓は、わずかに目蓋を振るわせただけで、他に反応を見せることはなかった。このまま放置すれば、数刻のうちに死ぬのだろう。治療を施したところで、もはや助かる見込みもない。冷えた頭で曹仁はそう推し量った。
 曹仁は張闓を引きずり起こした。もはや自分の力で立つことも出来ない身体を、襟元を掴んで持ち上げると、もう一方の手は拳を握りしめた。
 張闓の口がかすかに動いた。殺してくれ。唇の動きは、そう読める。
 憤怒が、心の底から立ち上ってくる。

 ―――母も同じであった。

 大宦官曹騰が起こした家は、すでに二代目の曹嵩の頃には曹家の宗室という位置付けだった。嫡子の華琳との不仲が噂されていただけに、要らぬ波風を立てぬために分家の養子とされた。すでに親の代は引退し、当時十代前半であった幸蘭が一人切り盛りする家である。
 それでも、曹家の大人たちの中で、最も曹仁を気にかけてくれたのは曹嵩だった。買官による太尉への就任で、実娘の華琳との関係が表面上冷え切っていた時期でもあった。母性を傾ける相手を欲してもいたのだろう。曹仁もまた、一人投げ出されたこの世界で母を求めた。
 また、張闓の口がわずかに開いた。楽に、殺せというのか。―――ふざけるな。

「曹仁さん!」

 背後からの声に、張闓の襟を握った手を離して振り返った。どしゃりと、支えを失った張闓の身体が地に落ちる音がした。

「……桃香さんか。何か用か?」

「…………」

 無言のまま駆け寄ると、桃香は、襤褸のように横たわる張闓と曹仁の間に強引に身を潜り込ませた。曹仁は肩を竦めて、一歩後ろに下がった。

「邪魔をする気か?」

「これ以上は駄目です、曹仁さん。いつもの曹仁さんに戻ってください」

「どういてくれ。その男はまだ生きている。そいつの息の根が続く限り、俺は止まれない」

「…………」

 堂に入った動きで、桃香がすらりと剣を抜いた。曹仁は覚えずもう一歩後ろに退いていた。
 靖王伝家。中山靖王劉勝より伝え残されたという宝剣。幾重にも刃こぼれを重ねながら、触れれば斬れるという切れ味は失われていない。だが、手にしているのは桃香である。抜き放つ姿だけは目を見張るほどに見事なものだったが、今はただの女の子だ。腰は引けて定まらず、がちがちと緊張に身を震わせている。
曹仁は一瞬でも気圧された自分を、心中嘲笑った。

「その男の味方をするつもりか?」

「私は、曹仁さんの味方です」

「敵だ。俺の前に立ちはだかるというのなら。 ―――どいてくれ」

 桃香が悲しげな表情で、ぶんぶんと首を横に振った。
 呼吸が、見ているこちらが心配になるほどに荒い。本気で、自分と対峙しようというのか。剣で自分を止めるというのか。それが、出来るつもりなのか。

「…………っ」

 張闓が、かすれ声を上げた。最後の力を振り絞ったはずのその声は、曹仁の耳にはただ息が漏れる音としか聞こえなかった。殺してくれ、たぶん、またそう言ったのだろう。
 桃香が、意を決したように目を見開いた。靖王伝家が振り被られる。

「――――――っ!」

 くるりと身を翻した桃香が、剣を振り下ろした。
 張闓の四肢が一度大きく振るえ、それきり動かなくなった。

「……桃香さん、どうして?」

 呼吸にして、十か二十か。あるいはそれ以上の時を置いて、ようやく曹仁は口を開いた。

「これ以上続ければ、曹仁さんがおかしくなってしまいます」

「すまない。つまらない事で、あなたの手を汚させた」

 すでに気は落ち着いていた。謝罪の言葉も、素直に口に出せた。
 自分へ向けて振り下ろされることのなかった桃香の剣は、それでも何かを斬り払ったのか。肩から下腹にかけて、不思議と熱く痺れるような感覚が残っていた。
 桃香の剣を持つ手は、ぶるぶると震えていた。人を斬るのは初めてなのだろう。

「私の手なんて、もうとっくに汚れてるよ。曹仁さんも、知ってるでしょう? 私がこれまで数えきれないぐらいの戦を指揮してきたこと」

 桃香が、人に戦争を命じて置いて、素知らぬ顔の出来る人間でないことは分かっていた。それでも、責任の所在とか、罪の軽重とは全く別のところで、人を直接その手に掛けるという行為は重いのだ。
 それが桃香のような少女ともなれば、耐えがたいほどの重さのはずだ。野良犬を斬り捨てた、苦しみから救ってやったなどと、割り切れるものでもないだろう。

「恩人だ、桃香さんは。このまま続けていれば、俺は俺のままでいられなかったかもしれない」

「もう、いつも通りの曹仁さんなんだよね? ……よかった」

 桃香が、苦しげな表情をわずかにほころばせた。

「桃香さんに知らせたのは、角、お前か?」

「はい。御一門の方以外で、さっきの兄貴を止めることが出来るのは劉備殿だけだろうと」

「そうか。お前にはいつも助けられる」

 曹仁は天を仰いだ。そこには月も星もなく、背の低い幕舎の天井があるだけだ。

「華琳や張燕に笑われるな。賢しらに叱りつけておいて、この様か。まったく、俺は自分が情けない」

「それだけ、曹仁さんにとって、曹操さんのお母さんが大切な人だったんだよね。他の誰が笑っても、私は、曹仁さんを笑わない」

 桃香が、きっぱりとした口調で言う。強張って離れないのか、その手にはまだ靖王伝家が握られたままだった。




[7800] 第5章 第3話 呂布軍
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/08/07 11:22
「朱里ちゃん」

 営舎の中の最も奥まった一室が、朱里と雛里の戦略室となっている。朱里が室内に足を踏み入れると、雛里は難しい表情で竹簡に落していた顔を上げた。
 曹仁率いる曹操軍が目的を遂げ、兗州に引き上げてより二月ほども経った頃より、徐州各地で民の叛乱が続発していた。
 それはこれまでも頻発していた民が民を襲うという賊徒とは明確に様相を異にしており、叛徒達が狙うのは役所や軍の兵糧庫である。民が、陶謙の政に対して叛旗を翻したのだ。
 叛徒達は不思議と軍備が整っていて、進退も調練を積んだ兵の動きを思わせた。そうした意味でもこれまでの賊徒とは異なり、一端の軍と言っても良かった。
 桃香は思い悩みつつも、今は陶謙の要請に従い、叛乱鎮圧のために兵を動かしている。
 実際に、叛徒と干戈を交えることはほとんどなかった。州軍に対しては激烈な抵抗を示す叛徒達は、劉備軍に対しては従順と言っても良い程で、桃香の投降の呼び掛けには素直に応じる。桃香は、陶謙の了承を得ることもなく彼らの罪を放免した。
 当然、陶謙とその寵臣達は不満をにじませたが、そこが最大限の譲歩であることを告げると、強く言ってくることはなくなった。
 陶謙排斥の動きは、起こるべくして起こったこととも思えるが、一斉に立ち上がった叛徒達の蜂起は統制がとれ過ぎている様にも感じられた。

「雛里ちゃん、みんなは何と言ってきているの?」

 劉備軍の兵士に志願した者の中から、普通の戦には向かないながらも、人一倍忍耐強かったり、目端が利いたりする人間を集め、諜報部隊を組織していた。今は雛里の下に直属で二十人ほどがいるだけだが、何れはこの二十人の下にさらに人員を配することも考えている。

「思った通り、曹仁さんたち曹操軍が武具を下げ渡したみたい。蜂起の時期を巧みに誘導する流れもあるみたいだけど、その源流までは掴み切れていない。どこかで、その動きに介入出来れば、と思ったんだけど」

「さすがに一枚上手か」

「うん。曹操軍には大規模な諜報部隊があるみたいだし、そちらの勝負ではまだまだ敵わないよ」

 叛徒達の中には、陶謙を除いて曹操を州牧として向かい入れようとする者達がいた。
 同時に、桃香を奉戴したいと劉備軍に打診してくる者達もそれと同じくらい存在している。朱里と雛里が誘導したのではなく、民の間から生まれた自然な流れで、桃香の人徳がなせる業であった。それは、恐らく曹操にとって予想外になるはずだ。
 朱里は、陶謙排斥の時流がたとえ曹操が作り出した偽りの流れだとしても、それに乗って舟を漕ぎ出してみようと考えていた。雛里もそれには賛同してくれている。
 桃香は土地を治めるということに対して、どこか消極的なところがあった。それは、土地に縛られず天下の民と向かい合いたいという思いもあるだろし、安喜県からの出奔を経て自信を失っているというのもあるだろう。確かに領土を経営するということは綺麗ごとではなく、流れ暮らしの現状のように民に良い顔だけを見せていればいいと言うわけではない。時に民に苦汁を強いねばならない場合もあって、それは桃香を責め苛むだろう。
 それでも、耐えてもらわねばならない。なんとなれば、天下の民すべてに笑顔を、という桃香の願いは、場当たり的な流浪の軍としてではなく、天下の主宰者となって初めて実現の可能性が見えてくるのだ。
 といって、朱里はこれまでの流亡の時間が無駄であったとは思っていない。劉玄徳の名は、今や曹操や袁紹といった各地に割拠する群雄達以上に天下に知れ渡っている。
 桃香がこれから先に競わねばならない群雄達は、いずれも漢朝の権門の出であったり、有力な地方豪族である。対して桃香は、高潔な志以外に何も持ってはいなかった。中山靖王劉勝の末裔だと言う出自には本人すらも半信半疑で、唯一それを明かす宝剣靖王伝家を殊更振りかざすこともない。民の人気は、そんな桃香が初めて握った武器であった。
 桃香はそんな目的で流浪を続けてきたのではないだろうし、そもそも志の実現のために何か具体策を持っているとも思えなかった。それで、構わなかった。方策は、自分と雛里の軍師二人が立てればいい。道は、愛紗たち武人が斬り開く。あとは桃香がしっかりとした志を持ち続けてくれればいいのだ。
 そして今、志と人気だけを抱き続けていた桃香に土地を領する好機が見えていた。
 劉備軍の武力が目当てとはいえ厚遇してくれている陶謙を排して、自分がその席に居座るという行為に、かつての桃香であれば耐えられなかったかもしれない。ただ、最近の桃香はいくらか強さを増したという気が朱里はしていた。
 一口にいうならば、命の見極めが巧くなった、とでもいうのだろうか。朱里の記憶する限りでは、徐州に入ってしばらくしてから、桃香からそんな強さを感じるようになった。より正確に思い起こすと、曹操軍が徐州を引き払う直前の時期からだろうか。
 それは戦の指揮に顕著に表れていた。以前はただ死傷する兵の姿に嘆くばかりで、たった一人の命を救うために大敗を招きかねないような危うさが桃香にはあった。今も兵の死を厭い過ぎる甘さは残したままだが、大局を見据えた上で一人でも多くの命を救うための選択を、自然と選び取るだけの強かさを備えつつある。これも、流浪の生活で得た桃香の武器と言えるだろう。

「何とか、こちらが主導で桃香様を盛り立てる流れを作ってみるね」

「うん、お願いね、雛里ちゃん。私は、出来るだけ桃香様が民の目に触れるよう、動き回ってもらうようにするから」

 今現在徐州にいる、というのが桃香の一つの強みであった。実際に会い、話せば、実体のない曹操よりも必ず桃香へと転ぶ。桃香の人を惹きつける力に朱里は一点の疑いも持ってはいない。
 曹操軍と比べて、徐州に滞陣する分だけ、機を見て行動を起こし易いのも当然劉備軍の方である。ここで今一歩桃香擁立の方向に民を駆り立てることが出来れば、状況は大きく劉備軍に傾くだろう。
 河北では、公孫賛軍を降し幽州を併呑した袁紹が、大きな力を持ち始めていた。豊富な人材を十二分に生かした二面作戦で、幷州と青州に同時進行を行い、支配地を着実に増やしつつある。もっとも、青州は百万とも言われた黄巾の残党に荒らされ疲弊し切っていて、得れば得るだけ他の支配地に負担を強いかねない土地であった。名門ゆえの財力と人脈がそれを可能とするのだろうが、とにかく領土を広げようという単純さが、袁紹らしくもある。それを鷹揚さとも大器とも見る向きもあった。
 その青州を荒らしまわった黄巾賊は曹操が自軍に取り込み、強大な兵力を生んでいる。つい先日には、元々一族の地盤でもあった予州に兵を入れ、その一部を支配下に入れている。兵力的には袁紹軍に次いで他勢力から頭一つ抜けていた。
 江東では遂に孫策が袁術を除き、揚州全域に勢力を拡大しつつあった。江南(長江以南)では、一つ一つの州が広大である。それぞれが中原四州(兗州、徐州、予州、司隷)や河北四州(冀州、幽州、幷州、青州)を合わせた広さにも匹敵する。肥沃な大地の各地に大小の豪族達が点在し、威を振るう土地柄であり、それら全てを孫策が完全に支配下に置いた暁には、袁紹や曹操にとっても侮り難い勢力となることだろう。
 その孫策に敗れた袁術は、今は領土も定まらず各地を転々としていた。一応漢王朝の名門であるから、立ち寄った先で厚遇はされているが土地を得てはいない。袁紹に敗れた公孫賛―――白蓮は言うまでもなく劉備軍に身を寄せている。
 群雄割拠の情勢の中で、滅ぶ者、生き残る者がはっきりとしてきている。ここで立たねば、劉備軍は本当にただの流浪の軍で終わってしまいかねなかった。
 予期せぬ知らせを受けたのは、翌早朝のことである。
 事態を確認すべく、営舎を飛び出した朱里の目に映ったのは、閑散とした軍営地であった。

「調練でも始めるものと思ったのですが、留守居の兵一人なく、替え馬から輜重車、州牧様から供与された兵糧まで、きれいに持ち去っております」

 隣に立った兵士が当惑顔で言った。
 軍営から、二万五千の呂布軍の姿が消えていた。





 張闓を討ち取った曹仁が帰還を果たしたのは、軍を発した兗州は陳留郡ではなく、予州東端に位置する沛国であった。
 曹仁が徐州で過ごした数か月の間に、曹操軍は並行して予州への侵攻を開始していた。
 まずは曹家一門の郷里でもある沛国へ春蘭と秋蘭を派遣し、勢力下におさめている。夏侯姉妹も沛国譙県の生まれで、曹操軍自前の兵力はほとんど使うことなく、民を煽動することで太守を名乗る黄巾の残党を追い立てていた。
 同時に陳留からは楽進ら三将の軍を南下させ、予州西端に位置する潁川郡も手中に収めている。
 今は東西からじわじわと支配圏を広げていた。黄邵、劉辟、何儀などといった黄巾の残党を率いる頭目達は今だ健在であるが、連携した動きは見せていない。対して華琳は東西から絞り込むことで、むしろ予州内に点在する黄巾勢力を一つにまとめ上げようとしていた。最小限の交戦で領地だけを広げ、最後に大戦一度で勝負を決するつもりなのだろう。
 予州全土が華琳の領地となるのも時間の問題と思えた。
 そんな情勢の中、華琳は生まれ故郷である沛国譙県の屋敷に留まり続けていた。亡き母を偲んでの帰郷というわけではない。沛国は、徐州西端とほぼ全域で境を接する最近接地であるからだ。
 譙県には他に、諜報の長である幸蘭、華琳旗本の虎豹騎を率いる蘭々、曹仁と共に復命した張燕、詠、角、そして季衣、流流ら親衛隊の面々が控えていた。季衣と流流は最近になって、それぞれ親衛隊の隊長と副長に抜擢されている。荀彧は兗州の政を担い、夏侯姉妹と楽進ら三将は予州の戦線に張り付いていた。
 幸蘭が張り巡らせた情報網から、徐州の状況は逐一報告が届く。全国に広がる情報の網は、元々は幸蘭が実家の資産運用のために作り上げたもので、構成する人員も一部を除いて自身をただの商家の小間使い程度にしか認識していない。手紙やちょっとした荷物の運搬業務も兼ねるこの情報網を、幸蘭は曹仁の世界の言葉を借りて飛脚と名付けていた。
飛脚とはまた別に諜報部隊もあって、これも幸蘭の管轄である。広く浅く情報をすくい上げる飛脚とは違い、諜報部隊は敵地での潜伏や敵軍内への潜入を基本とし、機密情報を盗み出すことから、民の扇動、破壊工作までを手掛ける。

「してやられたわね」

 幸蘭の読み上げた諜報部隊からの報告を聞き終えると、華琳が小さく洩らした。
 叛乱の軍が一つにまとまった。その中心にいるのは、意外なことに呂布軍であった。
 徐州内での桃香の人気の高さは、華琳の予想をも上回るもので、彼女を旗頭とする動きに曹操軍は注視していた。幸蘭の諜報部隊とは暗闘もあったという。その間隙を突かれた形だった。
 二万五千という精兵を抱える呂布軍が叛乱の狼煙をあげれば、他の叛徒達はそこに吸収される形で、恋が叛乱軍の主導者に納まるのは自然の流れであった。

「呂布の参謀は、陳宮と言ったかしら? 張遼や高順という呂布軍の部将たちの名と比べると、これまでほとんど聞くことはなかったけれど」

 軍議というよりもただの報告会に近い形で、場所も華琳の私室だった。華琳が幼少期を過ごした部屋で、曹仁にとっても懐かしい。
 一度は軍資金捻出のために売り払われた屋敷であるが、曹操軍が譙県を支配下に置くと地元の商人から献上された。華琳はそれを固辞した上で、相応の対価を支払い買い戻していた。
 さして広くもない室内に張燕と角の姿はないが、他の主だったものは揃っている。といっても親族の曹仁と幸蘭、蘭々、親衛隊の季衣と流流の二人を除けば、徐州で陶謙との交渉を担当した詠が呼ばれているだけだ。

「戦場での指揮ではなく、こうした謀を得意とする軍師、ということかしら?」

「それは、……どうなのでしょうか?」

 また悪い癖が。胸中そう呟きながら、曹仁は投げ掛けられた視線に曖昧に返した。
 眉を顰めて情勢に対する不満を表してはいるが、華琳の口調はどこか弾んでいる。
 華琳には自身の苦境、もっと言えばそんな状況を作り出した相手との対峙を、心待ちにしているようなところがあった。才に恵まれた者の慢心であり、明確な悪癖であろう。さらに悪いことには、曹仁も他の家臣団も華琳のそんな性質に困惑しながらも、彼女の魅力の一つと捉えてしまっていることだった。

「あなた、洛陽では一緒に暮らしていたのでしょう?」

「まあ、それはそうなのですが。はっきり言って音々音―――陳宮を軍師として意識したことはほとんど無かったもので。まさか、劉備軍の伏竜鳳雛に先んじるとは」

 朱里と雛里の過ちは、天下の義軍、大徳の将軍と称えられる劉備軍と劉玄徳の名を、美しく飾ろうとし過ぎたことだろう。私欲など欠片もなく、ただ民のために立つという形にこだわり過ぎたために、陳宮の取った力技に後れを取ることとなった。

「以前聞いたあなたの国の言葉に、丁度良い表現があったわね。―――確か、能ある鷹は爪を隠す、だったかしら?」

「いえ、どちらかというと論語に言うところの、後生畏るべし、というやつでしょう」

「あなた達と別れてからの一年足らずで、軍師として大きく成長したと?」

「そう思わざるを得ません。明日春姉が文人を志して、一年後には荀彧に並ぶ文官筆頭になっていた、それぐらいの驚きはありますが」

「それは、……あり得ないことが起こるのも、乱世ゆえということかしら」

 華琳が苦笑交じりに言葉を引き取った。

「さて、劉備軍はこの後どう動くかしら?」

「そのことで、一つ報告がございます」

 視線で促されるも、曹仁はそれ以上言葉を重ねず、一通の書簡を捧げ出した。
 受け取り、目を通した華琳が笑みをこぼした。

「へえ。これは徐州一州を得るよりも、ずっと価値のある展開になりそうね」





 呂布軍が再び下邳へと舞い戻っていた。
 桃香は陶謙へ降伏を勧める使者を送ると、城門を背にする位置に劉備軍を展開させた。
 叛徒を取り込んだ呂布の軍勢は五、六万まで膨れ上がっている。その大軍が、ゆっくりと城へと寄せてくる。
 先鋒に一点、血でも刷いたように朱に染まった一団。呂布直属の赤備えは、公孫賛軍の白馬義従、曹操軍の虎豹騎、そして曹仁の白騎兵と並んで天下に名を馳せる騎馬隊である。わずか二百騎だが、巨躯で揃えた騎馬の進軍は目を引いた。後に続くのも騎兵で、これは張遼指揮下の呂布軍騎馬隊である。歩兵はその後ろに二段構えで、前衛に高順旗下の元々の呂布軍歩兵部隊が、後衛に叛徒の集団がまとめられていた。
 呂布との対峙は初めてでのことではない。反董卓連合の戦では、董卓軍と連合軍それぞれの精鋭部隊として、矢面に出て戦っている。愛紗、星は天下でも数本の指に入る部将で、型にはまれば鈴々はそれ以上の力も出す。その劉備軍の三将に等しく敗北感を抱かせたのは、後にも先にも呂布だけだろう。呂布が武人としても将としても、傑出した力量を有していることは間違いない。
 五万の前進は続いている。劉備軍は徐州滞在中にいくらか兵力を増強しているが、それでも二千五百にも満たない。
 早鐘を打つ心臓を、朱里は押さえつけた。鼓動が、進軍する呂布軍の足音と共に耳にこだまする。
 一歩、また一歩と呂布軍が近づいてくる。足音が大きく、近くなっていく。
 同じ数でぶつかれば、どこの軍を相手にしても負けない。流亡の中で武具を調え、兵糧を手配し、軍馬を買い揃えてきた朱里にとって、精強無比な劉備軍は誇りだった。調練を担う将軍達よりも、誇る気持ちは強いかもしれない。その劉備軍が、ひどくちっぽけなものに感じられた。
 もう間近だ。止まらない。
 思わず退き鐘へ伸ばしかけた朱里の手を、桃香が遮った。手首を掴む桃香の手からは、不思議と雄渾な力強さを感じる。
 ふっと気付けば、鳴り続いているのは、鼓動だけになっていた。呂布軍が進軍を止めていた。

「…………ああ、怖かった」

 隣で桃香が言った。大きく息を吐きながらも、どこか呑気な口調である。
 つられて息を吐き出そうとして、朱里は肺腑にほんの一握りの空気も残されていないことに初めて気付いた。とたんに胸苦しさを感じて、大きく息を吸い込んだ。荒い呼吸を、何度も繰り返す。桃香を挟んで反対側では、同じく雛里が赤い顔で息を吸っては吐いている。

「桃香様、すいません。助かりました」

 息が落ち着くのを待って、朱里は桃香に頭を下げた。
 劉備軍を攻めれば、呂布軍は肝心の反乱軍の心を失いかねない。力攻めはないはずだった。それは十分に理解していたし、そもそも呂布軍との対峙は朱里と雛里が相談して決めたことだ。だが実際に迫りくる大軍を前に、本当に自分たちの分析が正しかったのかと、朱里の脳裏で弱気の虫が一瞬頭をもたげた。騎兵を前面に押し出した呂布軍の構えは、城攻めの備えでも、寡兵に対するものでもなく、ただの進軍隊形である。それすらも、鎧袖一蹴しようという強気の構えと先刻の朱里の目には映った。
 桃香に止められなければ、怯懦に流されるがままに退き鐘を叩いていたかもしれない。

「気にしないで。私は朱里ちゃんと雛里ちゃんみたいに考えることは出来ないから、二人の作戦を信じるだけだよ」

「……わかりました。それでは、もう一度陶徐州に降伏を勧める使者をお出しください。大軍を前にして、少しは考えも改まったことでしょう」

 桃香は、朱里と雛里が徐州に彼女を擁立しようと画策していたことを知らない。
 呂布軍にまんまと出し抜かれた自分を無条件で信じるという主君に、朱里はこれ以上謝意を述べることはやめ、次の一手を指示した。
 ここからは根競べだった。といっても、両者の最終的な目的はおおよそ一致している。
 劉備軍はあくまで陶謙を見捨てず、その安全を確保したうえで呂布への徐州明け渡しを取り持つ。そうした形で話をまとめたかった。陶謙の恩義に報いようというのではない。桃香はともかく、朱里と雛里、それに武将達も、これまでの叛乱の鎮圧で十分に借りは返したと思っている。ただただ劉備軍の存在を、その在り方を、天下に示すためだった。義のために五万の大軍と対峙してみせたという事実が重要なのだ。
 呂布軍も、陶謙を討ちたくはないはずだった。苛政を払うための、民の望みに乗じた挙兵とはいえ、庇(ひさし)を借りていた相手だ。討ち取ったとなれば、大逆の謗りは免れようもない。ただ、呂布軍に五万の兵力を維持し続けるだけの兵糧はない。徐州経済の中心である下邳城内の貯蔵を頼みの進軍であろう。
 劉備軍は眼前に展開する大軍の圧力に、そして呂布軍もまた大軍を抱えたことによる内圧に、お互いどこまで耐えられるかの根競べだった。
 ほんの二、三里の距離を隔てて、呂布軍が滞陣の用意を始めていた。
 それからは何も起こらぬまま、対陣は十日に及ぼうとしていた。その間、陶謙への降伏勧告は十数回も繰り返されている。陶謙はその一切に耳を貸そうとしない。あの臆病な男が五万の大軍を前にである。よほど州牧の椅子に執着があるのだろう。

「朱里ちゃん、雛里ちゃん、退こう。もう限界みたい。陶謙さんにも、これ以上の対陣は無理だって、使者を送ろう」

 十日目の朝、起き出すなり桃香が言った。

「ほう、桃香様もそう思われますか? 私にも今日の呂布軍からは常にない気が立ち昇って見えますな。前線の愛紗達は、より強く感じていましょう。鈴々などは特にその辺り敏いですからな。野生の勘とでもいうのか」

 星も賛意を口にした。
 前線には歩兵を従え愛紗が、騎兵を率いて鈴々が控えている。白蓮の白馬義従は遊撃扱いで、本陣付きの騎兵の指揮が星だった。
 星の言葉に、朱里は視線を呂布軍へと向けた。
 立ち昇る気。武人ならではの感覚なのか、朱里にはそれを見ることは出来なかった。隣で首を捻っている雛里もそれは同じようだ。

「……わかりました。退きましょう」

 ほんの一瞬雛里と目語するだけで、朱里は決めていた。
 星の言葉もあるが、冴えを見せ続けている最近の桃香の戦勘を朱里は信じた。
 落ち延びる先は決めている。予州は沛国。曹操、そして曹仁の留まる地である。曹操へは曹仁を通して親書を送り、すでに客将としての身分を保証されていた。
 兵力が二千を超えた時点で、これまで通りの流浪の中で軍を維持するには限界を迎えていた。陶謙の庇護下にあったからこそ可能であった増員であり、徐州をとる前提で進めた増強であった。
 白蓮を保護した関係上、袁紹の元というのは難しいものがあった。江南の孫策とは、黄巾の乱で一時共闘した縁もあるが、いまだその勢力は盤石とは言えない状況にある。それだけに厚遇されるとも言えるが、孫家の勢力安定のための戦に狩り出されることは目に見えている。それは、劉備軍の本義に反する。
 呂布の許可を得、徐州に留まるという手もあるが、その場合民の目からは桃香は降将と映るだろう。それはいずれ、呂布軍の部将の一人という扱いになりかねなかった。
 どこか勢力に庇護を受けるにしても、あくまで客将として対等に近い関係を結びたい。劉備軍は独立独歩であると、民には思わせておきたかった。

「―――愛紗さん、鈴々ちゃん、白蓮さんに伝令を」

 五万の大軍を前に、十日対峙して見せた。今回は、それで満足すべきだろう。
 退陣に小細工は必要なかった。前線から順繰りに移動させていく。
 静々と陣を払う劉備軍に、当然呂布軍からの攻撃はなかった。慌てた様子で駆けつけてくる下邳城の守備兵に、桃香は抗戦の無意味をひとしきり説くと、最後に馬上の人となった。
 一度は手中に転がりかけた大地。後ろ髪を引かれる思いで、朱里は西へと進路を向けた。
 下邳からほぼ真西に軍を進めれば、劉備軍の普通の行軍で約二日で予州に入る。そこから曹操軍の駐留する譙県までさらに二日。難路があるわけでもなく平坦な土地が続く。
 斥候が背後をつける騎馬隊の存在を捕捉したのは、日が中天にさしかかったころだった。それから半日、西進する劉備軍を、付かず離れずの距離を保って追跡してくる。
 掲げるは紺碧の張旗。わずか二千騎なれど、呂布軍の騎兵隊長自らの指揮である。

「叛乱軍とは関わりのないところで、一戦交えようというのではないかな。劉備軍と、というよりも、愛紗と」

 夜営で火を囲みながら、星が他人事のように口にした。
 翌日になると、張遼の騎馬隊はもはや姿を隠す気もないようで、目測可能な距離を悠々と進軍していた。
 予州との境界が近い。攻め寄せる機としては、この上ない。
 馬蹄の響きが耳を打った。

「朱里ちゃん、前、前」

 背後の張遼軍を注視する朱里に、桃香が呼び掛けた。
 正面を白い騎馬隊が駆けてくる。馬蹄の立てる音も、確かにそちらからだった。





 劉備軍と霞の騎馬隊の間まで、曹仁は白騎兵を進めた。劉備軍を迎える任にあり、それは護衛の意味も含む。

「霞らしいな」

 呂布軍の騎兵を束ねる霞がその気になれば、騎馬隊全軍を率いることも可能なはずであった。叛乱軍の目を気にするにしても、二千が五千になったところで大きな違いはない。二千騎のみの出動というのは、歩兵中心の二千数百の兵力に過ぎない劉備軍と、もっと言えば愛紗と、対等の勝負をしようというのだろう。むしろ騎兵のみの編成で二千騎は普通に考えれば多過ぎるくらいで、霞の劉備軍に対する高い評価が伺える。

「あの騎馬隊、どう見る?」

 曹仁は、傍らで黒地に白抜きの曹旗を掲げる旗持ちの兵に問い掛けた。

「極めて精強です。我らのみで当たるとなると、恐らく勝ち切れないかと」

 兵は、白騎兵百騎だけでは負けるとは言わなかった。曹仁もそれは同じ考えで、脚を使って引き回せば、勝てないまでも負けない戦は出来るだろう。
 霞の率いる騎馬隊は精強ではあるが、呂布軍の中から選りすぐった騎兵というわけではなく、普通に二千を分けたというだけであろう。さすがに馬の質は揃えられていそうだが、決して駿馬の集団ではない。騎兵同士のぶつかり合いは動きの中で如何に相手の弱いところを突くかであり、兵力の多寡にそれほど大きな意味はない。少数精鋭の方が有利な展開も多いのだ。歩兵との戦いとなるとまた別で、まとまった陣形を崩すにはそれなりの兵力が必要となってくる。霞が五分の戦力と読んだ劉備軍には、白騎兵の百騎だけでは相手にもならない。もっとも、両軍を知る曹仁からは劉備軍と霞の二千騎では、幾分劉備軍に分があるように思える。霞は愛紗と同等の兵力でぶつかることに拘泥するあまり、星と鈴々という極めて優秀な指揮官の存在を失念しているのではないだろうか。

「霞」

「このところよう会うな、曹仁。白鵠も、相変わらず元気そうや」

 ただ一騎馬を進めた霞に答えて、曹仁も白鵠を寄せた。
 霞の愛馬黒捷が、白鵠に鼻先を向けた。白鵠も、懐かしむように小さく鼻を鳴らした。洛陽では厩舎を同じくした仲だ。馬体一面を、白鵠の白と対となる様な黒毛が覆っている。

「劉備軍のお出迎えか? まさか偶然通りかかったわけやないやろ?」

「ああ、庇護を求める書簡を頂いたのでな。―――で、どうする?」

「……張繍の残した月の旗本の軽騎兵か。今は、確か白騎兵やったか? 一度やり合ってみたい相手やけど、さすがに劉備軍と組まれると分が悪いわ」

 霞は白騎兵に目を向け、今は戦わないと言っていた。
 曹仁としても、それは望むところだった。呂布軍とはこれで境を接したこととなる。華琳が天下を望む以上、遠くない将来ぶつかる相手ということだが、今は敵対関係にない。

「こいつのお目見えは、またお見送りやな」

 霞は愛紗のものとよく似た偃月刀を一振り、馬首を返した。

「霞、今回の絵を描いたのは、……音々音か?」

「そうや。ウチに軍師はねねしかおらんのやから、当然やな」

「そうか、“あの”音々音がね」

「そうや、“あの”ねねがや」

 背中越しに言って、霞は馬を駆った。
 見送る曹仁は、徐州で再会した際の音々音を思い起こしていた。その小さな影は、幾分滑稽なほどに悲壮感を漂わせている。
 背後から、桃香の間延びした声が曹仁を呼ぶのが聞こえた。





*飛脚の原型は中国の唐代の駅伝制。ただし飛脚という言葉自体は日本由来のものだと思われる。



[7800] 第5章 第4話 許県
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/09/07 15:59
「お呼びでしょうか、華琳様」

「仁? 入りなさい」

 足を踏み入れた華琳の執務室には、竹簡や巻物が机の上だけでなく床にまで山積していた。

「ついでに、そこの山の上から二段目、左から三つ目の巻物を持ってきて」

 戸口近くの書類の山から、曹仁は慎重に巻物を一本抜き取ると、机に向かいっぱなしの華琳へと手渡した。雑多に積み上げただけに見えても、しっかりどこに何があるのか把握しているのが華琳だった。
 華琳は机の上に広げた書類から目も離さずに、ぞんざいな調子で巻物と入れ違いに棒状のものを突き出した。

「これを取らせるわ。今後も私のために励みなさい」

「はぁ。……これは、剣、ですか? 開けてみても?」

 ようやく顔を上げた華琳に視線で促され、曹仁は縦長の布袋から中身を取り出した。
 想像した通りのものが姿を現す。革張りの鞘に、同じく握りやすく革を巻きつけられた柄。鍔には宝玉が一つあしらわれているが、全体としては質実な造りの剣である。

「抜いてみなさい」

「はい。――――っ! ……これは」

 抜き身の刃が露わとなると、曹仁は覚えず息を飲んだ。
 刀剣の目利きにそこまで自信があるわけではない曹仁にも、一目でそれと分かる名剣だった。剣身は覗く曹仁の顔が移り込むほどに曇り一つ無い。

「青紅の剣。真桜が炉を新しく改良したから、腕の良い鍛冶屋と組ませて作らせてみたのよ。悪くない出来でしょう?」

「悪くない、などという程度のものではないでしょう、これは。俺がこれまで見た剣の中では最上の部類、桃香さんの靖王伝家や、孫家の南海覇王にも匹敵する業物と見ました」

「そう。気に入ったのなら良かったわ。徐州の件は粗方片付いた。それは、私への直言と、我が母の仇をあげたことに対する褒賞よ。取っておきなさい」

 いささか興奮気味の曹仁に対して、華琳は幾分冷ややかな調子で言った。
 陶謙の死が伝えられたのは、つい先日の話である。劉備軍という盾を失った下邳城は、五万の呂布軍に即座に飲み込まれた。苛政を布き賊徒の横行を生んだ陶謙は、曹嵩の仇の片割れである。城外に落ち延びたという陶謙の行方を、幸蘭の諜報部隊が探り続けていた。結果届けられたのは、逃走の果てに、叛徒とも言えないようなただの村人達の恨みの鍬に果てたというものだった。
 直接手を下せなかったことを口惜しく思う半面、そのふさわしい死に様に曹仁と華琳は笑ったものだ。

「先の諫言に対する褒美なら、もう頂きましたが」

 華琳は一瞬考え込むような表情をした後、すぐに視線を逸らしつつ言い捨てた。

「あげてないわ。あの晩泣いたのは、結局あなた一人だったもの」

「まあ、そういうことにしておきましょうか」

 苦笑交じりに言いながら、二度三度と軽く青紅の剣を振った。ぴゅうぴゅうと、高音の刃鳴りが響く。靖王伝家や南海覇王はしなりの少ない硬剣だが、青紅の剣はしなりの強い軟剣であった。それも曹仁の好みに合っている。

「ところであなた、今日は非番でしょう? 地図と報告書ばかりでなく、実際の街を見て回りたいわ。案内しなさい」

 剣を鞘へと納める曹仁に、華琳が言った。

「はあ、俺がですか?」

「気の乗らない返事ね。私の誘いよりも大事な予定でもあるっていうの?」

「いえ、特に予定はありませんが。ただ俺もこの街―――許に着いてわずかです。華琳様にご満足頂けるかどうか」

 曹操軍は、予州全土を平らげていた。
 軍は再編に追われている。文官筆頭の荀彧と軍部の頂点の補佐である秋蘭―――頂点の春蘭はこうした事務仕事は戦力外である―――は、働きづめである。もっとも、青州黄巾百万の受け入れを経験しているだけに、慣れたものでもあるようだった。
華琳自身も本拠である陳留には戻らず潁川郡に留まり、内政の充実を図っている。潁川郡、とりわけ許県を、政治、経済の要衝として発展させる考えがあるようだった。

「蘭々や季衣、流流達と遊び回っていること、私が知らないとでも思っているのかしら?」

 青州黄巾賊にも言えたことだが、元が賊軍だけあって騎兵は少ない。太守を名乗った者達は自身とその供回りは騎乗で固めてはいたが、馬に乗れる者を集めたというだけで到底曹操軍の騎兵の水準には達していなかった。そのため、騎馬隊への増強はほとんどなく、軍の再編業務は曹仁とはほとんど関わりが無かった。
 同じく親衛隊の季衣と流流、華琳直属の虎豹騎の指揮官である蘭々も、主君が執務室を動かない以上は必然的に出動もなく、無聊を囲っているのだった。曹仁は予州平定では騎馬隊を率いて駆け回っていたため許県に駐留してからの日は浅いが、彼女たちの暇潰しに付き合わされることが多々あった。政務に掛かりきりの華琳よりは確かに街に詳しくはあるのかもしれない。
 ちょうど、机の上に広げられた書類は都市の開発計画のようで、確かに曹仁にはどこか見覚えのある街並みが描かれている。

「わかりました。俺の知る範囲でよければ、ご案内いたします」

「少し準備もしたいから、そうね、宮門前に―――」





「それでは、失礼します」

 約束を取り付け、華琳の執務室から退出した曹仁に、足音高く近づく者がいた。

「華琳様と二人きりで何を話していたのよ? ―――って、それっ、青紅の剣じゃないのっ!」

 棘のある声を掛けてきたのは案の定と言うべきか、荀彧である。誰からか曹仁が華琳に呼び出されたことを伝え聞いたのだろう。

「ああ、確かそのような銘だと華琳様から聞いたな」

「華琳様から拝領したっていうの!?」

「……拝領。軽く渡されたが、一応そういうことになるのかな」

「か、華琳様とお揃いの剣を賜るなんてっ!」

「お揃い? 華琳様も同じものを持っているのか?」

 地面を踏み鳴らし悔しがる荀彧に曹仁は聞き返した。表現としてではなく本当に地団太を踏む曹操軍随一の文官の姿は、どこかおかしくもある。

「なによ、そんなことも知らないの? 二剣一対の宝剣を作られて、その一方を佩剣とされたんじゃない」

 荀彧がいくぶん居丈高に言い放った。曹仁の知らない華琳の情報を知っていることに、得意となっているのだろう。

「へえ、それじゃあこいつは、華琳と番いの一振りなわけだ」

「―――っ!」

 荀彧が息を呑み、口をつぐんだ。特別な恩賞であることを自ら曹仁に教示して見せたことに、今更ながらに気付いたのだろう。この切れ者の軍師は、華琳の事となると途端に感情が激して鈍らになることが多々あるのだった。

「それじゃあ、俺はこの後華琳と待ち合わせがあるので、失礼する」

「待ち合わせ? 待ち合わせって何よっ!? ちょっと、待ちなさいっ!」

 言い募る荀彧を、曹仁は早足で振り切った。





「あら、さっそく差しているのね」

 宮門に姿を現した華琳は、曹仁が腰にした剣に目に止め、言った。
 それまで曹仁と言葉を交わしていた門の守兵達が、主君の姿に緊張した面持ちで直立する。

「ええ、せっかくですので」

 曹仁は剣把に軽く手をやって答えた。
 華琳の方はまったくの丸腰で、季衣や流流ら虎士の面々を侍らせてもいない。案内役の曹仁が護衛も兼ねるということなのだろう。

「やはり、剣というのは良いものです。戦場では槍に勝る得物はないと俺は考えていますが、剣という武器は不思議と男心をくすぐります。それが名剣ともなれば特に」

 曹仁には得物に対するこだわりはほとんどなかった。
 武器の優劣で一騎打ちの、ましてや戦の勝敗が左右されることは滅多にない。曹操軍の大剣こと春蘭の七星餓狼や、孫策の南海覇王、愛紗の青龍偃月刀などは、世に聞こえた名刀宝剣の類ではあるが、その戦果はあくまで使い手各人の力量によるものだ。
 曹仁の槍は、柳の一種の白蠟の木の幹をそのまま柄とするもので、ほとんど人手は入っていない。こだわろうにも違いは手触りやしなり方ぐらいのものである。
 ただ、こうして宝剣を腰に差してみると、なんとなく浮ついた気分になるのは間違いない。

「そう。―――では、行きましょうか。まずは、この大通りを見たいわ」

 曹仁の稚気を笑ったものか、あるいは自分からの贈り物を気に入った様子に気を良くしたものか、華琳はくすりと小さな微笑を浮かべながら、地図を広げ目的地を指した。

「はい、ご案内します」

 直立を続ける守兵の見送る中、曹仁は華琳を誘い宮門を抜けた。案内をすると言っても、華琳の示した許県最大の大通りは宮門前の広場を抜けた先すぐで、宮殿から城門までを真っ直ぐにつなぐものだ。
 大通りは活気に満ち、ひどく混雑していた。道沿いに並ぶ商店は大規模なものが多い。

「おや、旦那。今日の御連れさんは、いつもの妹さん方ではありませんね」

 占拠以来宮殿に籠り切りで政務に当たっていたため、市井に華琳の顔を知る者は少なかった。曹仁を呼び止めた顔馴染みの店主も、目の前の少女がこの許県の支配者であることに気付いていない。

「ん? ああ、彼女は、――――――夏侯恩。俺の族人の一人だ」

 目配せする華琳に、咄嗟に曹仁はお決まりの偽名を口にした。

「旦那の同族で夏侯と申されますと、高名な夏侯惇、夏侯淵両将軍様方のお身内で?」

「ん、ああ、そうなるな。従妹に当たる」

「将軍様のお身内となれば、これはご贔屓にしてもらわない手はありませんね。お嬢様、うちは魚屋ですが、野菜に米や酒、女性が好みそうな甘味、それに食べ物以外にも髪飾りなどもいくらか取り揃えております。本業の魚は、干したもの、塩漬けにしたもの、こちらの水桶には、今朝川で取れたばかりの生きた魚もございます。他にも何か御入用の品がありましたら、ご注文いただければ大抵の品は数日でご用意いたします」

 店主は柔和な笑みを浮かべて言った。

「へえ、すごい品揃えなのね、おじさま。それじゃあ、ちょっと見せてもらおうかしら」

 傍らから、ちょっと聞いたこともないような猫撫で声がした。

「お気に召したものがありましたら、お申し付けください」

「……最近、お店の調子はどうかしら?」

 唖然とする曹仁を置き去りに、華琳は水桶の中でゆったりと泳ぐ魚を見て回りながら、何気ない口調で問うた。

「将軍様方のお陰をもちまして、すこぶる良いですよ、夏侯のお嬢様」

「そうなの? 曹操お姉さまのやり方は、いくらか強引過ぎるところもあると思うのだけれど」

「ま、確かに租税は重いですが、その分治安は良いし、人はどんどん集まってきています。商売人としちゃあ、腕の見せ所ですよ」

 男は手広く品を扱う商人だけに、他州の情報にも聡いようで、そこからは様々な比較を口にした。
 基本となる租税は、他州よりも幾らか重い傾向にある。ただ軍費などの全てがそこから賄われるため、臨時の徴税はない。他州では頻繁にそれが繰り返されるため、結果として納める税は多くなるし、商売人にとっては予期せぬ支出となるため痛手は大きい。
 その辺りの事情を知らぬはずもないが、華琳は興味深そうな表情で相槌を打っている。

「そういえば、今度学校というものを立てるらしいけれど。子供はみんな、そこに取られてしまうのでしょう?」

「ええ、子供はみんなして昼間はそこでお勉強って話ですよ。働き手が取られちまうのは苦しいですが、ただで読み書きを教えてくれるっていうんですから、有り難いことです」

「そう、なら良かった。―――あっ、おじさま。この桂魚を頂戴」

「はいっ。お嬢様、なかなか目の付け所がよろしいですね。これは今日上がった中では一番の桂魚ですよ」

「ふふっ、ありがとう。―――ああ、ええ、そのままで良いわ。ありがとう。―――仁兄さん、荷物持ち、お願い出来るかしら?」

 曹仁が代わって品物を受け取ると、華琳はにこにこと愛くるしい笑みを振りまきながら商店を後にした。

「ふむ。まずまずの好感触ね」

 店から十数歩離れると、途端に声質を落として華琳が呟いた。

「もっとも、あの店は大店だから、というのもあるでしょうけど」

 施行される学校制度は貧富を問わない。まずは対象を富裕層だけに絞って様子を見ようという案も上がったが、華琳は一切の例外を認めなかった。

「この魚、どうするんだ?」

 言って、曹仁は軽く水桶を持ち上げた。

「ああ、あまりに立派だったから、思わず買ってしまったわ。……そうね、あとで桂花にでも振舞って上げましょう。貴方も来るでしょう?」

「そういうことならもちろん」

 桂魚。別名を桂花魚ともいう。煮物にも揚げ物にも合う高級白身魚である。それが料理人としても一流の華琳の手によるとなれば、ご相伴に預からない手はない。
 曹仁が持つ手桶の中では、窮屈そうに体を丸めた大振りの桂魚が、どこか恨めしそうにこちらを見上げている。食べやすくさばこうという店主の申し出を可愛らしい仕草で丁重に断り、華琳は活きたままの魚を購入していた。やはり桂魚は姿煮か姿揚げが旨い。

「そうなると、春蘭や蘭々にも声を掛けないと後がうるさいわね。秋蘭と幸蘭も付いてきて、流々には料理を手伝わせて、そうすると季衣も付いてくるから。そうね、せっかくだから劉備軍の面々も呼びましょう」

 桃香達劉備軍も許県に滞在していた。
 客将という形で、華琳にも対等に口が利ける立場である桃香の元に民の不平が持ち込まれることがかなり多いようだった。桃香が直接応対し、朱里と雛里が処理する。華琳はある程度の権限を桃香に与えていた。
 そのおかげで、曹操軍に持ち込まれる問題はかなり数を減らしている。軍再編の激務に追われる文官達は、相当に救われているようだった。
 桃香達を食事に招くというのは、その謝礼の意味もあるのだろう。

「そうなると、食材が全然足りないわね。仁、どこか良い店に案内しなさい」

「春姉と季衣、それに鈴々が来るなら、やっぱり肉屋かな。―――こっちだ」

「貴方も料理を手伝いなさいね。蘭々は、すこしは料理の腕も上がったのかしら?」

「お奨めはしないな。春姉よりははるかにましだが」

 遠く鐘が鳴った。呼応して、あちこちで鐘の音が響き始める。同時に、街行く人々の中には足を速めたり、駆け出す者が目立ち始める。
 正午を示す時報である。一辰刻(=四刻=二時間)ごとに、宮城に設置された日時計を元に最初の鐘が鳴らされ、各街区でもその音が聞こえたら同じように鐘を鳴らす決まりだった。曹仁の思い付きで、すぐに実行に移されたものの一つだ。
 日の出から日の入りまでを漠と区切った生活様式に慣れた民には、最初とまどいもあったようだが、今は受け入れられつつある。それで何かが劇的に変わるというわけではないが、皆が共通の時間感覚を持って行動出来る利点は大きい。特に商人などの、人と会う機会の多い人間からはかなりの好評を得ていた。

「食材選びは後にして、私達もまずはどこかで昼食を取りましょうか」

「何が食いたい?」

「貴方が普段食べているものでいいわよ」

「そうか……」

 曹仁は少し考えて、大通りをそれた小道へと華琳を誘った。

「蘭々なんかはこの辺りで適当に見繕って食い歩くのが好きだな。姉ちゃんは良い顔をしないが」

 小規模な店舗や、屋台が立ち並ぶ街区である。正午の鐘も鳴り、辺りは人で溢れている。曹仁ははぐれないよう、華琳の手を取った。

「華琳の口に合うものはそうないだろうが。庶民の暮らし振りを知るには、ここが格好だろう。 ―――本日の趣旨としては、それで良いのですよね?」

「ええ、行きましょう」

 人込みをかき分け、小道を進んだ。
 初め、食べ歩くという行為にいくらか抵抗を示した華琳であったが、持ち前の柔軟さですぐにそんなことは気にしなくなった。時に眉をひそめながらも、ひとまずは曹仁の選んだものに口をつけている。大抵は二、三口で曹仁に押し付けてきたが、その時も小食を理由にしていた。今は曹家一門の無邪気な少女を演じていて、人波を抜けた後にでもまとめて文句をつけるつもりだろう。
 そんな中でも曹仁が普段贔屓にしている露店の看板料理である羊肉の饅頭(まんとう)だけは、ちょっと意外そうな表情を浮かべながらきれいに完食していた。

「旦那! 曹仁の旦那! うちにも寄っていって下さいよ!」

 柄の悪い胴間声に視線を向けると、やはり上品とは言えない笑みを顔面に張りつかせた大男が手招きをしている。

「お前か。……お前の店は飲み屋だろうが。こんな真昼間からお役人を誘う奴があるか」

「へへっ、お役人だからこそじゃありやせんか」

「はんっ、ぬかせ。腐敗役人がお望みなら、どこか他所の領地にでも行くんだな。もっとも治安の悪い土地じゃ、お前なんて真っ先に盗賊か何かと間違われてしょっ引かれそうだがな」

「へへっ、ごもっともで」

 男も初めから曹仁が店に立ち寄るとは思っていなかったのか、それ以上勧めることはなく頭をかきながら店内へと退いて行った。

「行こうか、華琳。……どうかしたか?」

 華琳は大きな目をさらに大きく見開いて、まじまじと曹仁を見つめていた。

「いや、少し驚いて。貴方、ああいう柄の悪い話し方もするのね」

「ああ、まあ。さっきの男も、見た目はあれだし、喧嘩っ早いところもあるが、別に悪い男ではないぞ。商売も真っ当だし」

「そういえば、貴方も一時期遊侠にかぶれていたのだったわね。あの頃は私も官途に就いたばかりで忙しくて、あまり合って話す機会もなかったから忘れていたわ」

 華琳への反発心から、曹家を跳び出して侠客まがいの振る舞いに明け暮れたのも今となっては良い思い出である。副官の角をはじめ、その頃に培った人脈と経験は曹仁のこの世界における大切な財産だった。

「それとさっきから、若い娘たちがちらちらとこちらを窺っているわね」

「ああ、連れているのがいつもの妹連中じゃないから遠慮してるんでしょう」

「いつもはあの子達をはべらしながら練り歩いているってわけ?」

「いや、そんな大層な話じゃないが、声くらいはかけられる。俺も一応曹操軍の中では珍しく若い男の将だからな。まあ、それなりには女の口にも上るだろうさ。張燕辺りは、もっと人気があるんじゃないかな」

「ふーん、そう。―――これは良かったの? 妙な噂が立つかもしれないわよ」

 華琳はつないだ手を持ち上げて見せた。

「今さらだな。洛陽では俺は皇甫嵩将軍の囲われ者だなんて囁かれていたものだ」

「浮名を流されるのは慣れっこというわけ? まったく、あなたという子は」

 華琳はため息交じりに手を降ろした。
 根も葉もない噂の類であり、女だてらに漁色で知られた華琳に呆れられる筋合もない。

「曹仁殿ーーーっ!!」

 反駁しかけた曹仁を遮るように野太い声を響かせ、黄邵、劉辟、何儀の三人が、並んで姿を現した。

「っと、これは、曹操様もご一緒でしたか。」

 華琳の小さな影に気付いて、三人は恭しく頭を下げた。華琳は鷹揚に頷いて見せる。

「お前たちは、……また、舞台の帰りか?」

「はいっ。今日の舞台も最高でした。なんと言っても天和ちゃんの歌が良かった」

「何を言うか、地和ちゃんの喋りが歌と踊りを引き立ててくれたんだ」

「馬鹿をいうな。舞台全体が良かったのは人和ちゃんの仕切りがあってこそだろう」

 張角を賛辞する黄邵に、劉辟、何儀がそれぞれに異を唱えた。
 曹仁は視線で華琳を促し、そろそろとその場を離れた。

「ああなるとあいつら長いから」

「話には聞いていたけれど、本当に相容れないもののようね」

「言い争うのを楽しんでもいるだろうけどな。なんだかんだと文句を言いながらも、あの三人はいつも一緒に舞台を見に行っているようだし」

 曹操軍が予州に侵攻しても、最後まで連携することのなかった黄巾残党の三頭目、黄邵、劉辟、何儀は、曹操軍に降ってからも言い争いが絶えなかった。
 黄邵は張角、劉辟は張宝、何儀は張梁。それぞれが別々の張三姉妹の熱烈な信者である。兵に妙な派閥意識を持たれては支障があるため勧誘活動は控えさせているが、最近では、蘭々や季衣達と共に舞台にもよく顔を見せる曹仁を自派に引き込もうとしている節があった。

「それで、あなたは三人の中の誰がお気に入りなの?」

「……別に誰を気に入るも何もありません。曹操軍のために尽力する同士として、三人それぞれに敬意を抱いては折りますが」

 華琳の何気ない口調にかえって不穏な空気を感じて、曹仁は答えをはぐらかした。下手に答えようものなら、少なくとも今後しばらくはそれを種にからかわれるのは確定だろう。

「へえ、そうなの」

「……あっ、あれはなんでしょう? 何やら子供が集まっていますが」

「あら? あれは―――」

 さらなる追及をかわそうと、曹仁は目に入った人込みを指差した。意外にも華琳の食いつきは良く、曹仁の手を引いて率先して背の低い人波をかき分け寄っていく。

「あなたには、宿題を出しておいたはずだけれど、桃香」

「華琳さんっ!? それに曹仁さんも」

 背後から忍び寄った華琳が声を掛けると、子供たちに囲まれていた桃香は慌てて居住まいを正した。

「街で会うなんて珍しいですね、華琳さん」

「そうね、たまには私も羽を伸ばしたくもなるわ。あなたは随分と街の子供たちに懐かれているみたいだけれど、よく遊んであげているのかしら?」

「えへへ」

 棘のある華琳の言い様に、桃香は曖昧な笑みを浮かべた。動物を象った子供の玩具を握った手を、今更ながら背後に回して隠している。

「それで、宿題は終わったの?」

「ええっとね、帰ったらやるつもりで……」

 忙しい政務の合間を縫って、華琳は桃香に政や軍略を講義していた。桃香から願い出たことだが、彼女と二人の時間を持つために華琳があえてそう誘導したというところもある。
 意外なことに、劉備軍の面々の中で華琳が最も興味を持ったのは、愛紗や星、鈴々の武でも、朱里と雛里の知でもなく、桃香という人間そのものだった。考えてみればそれも当然と言えば当然の話で、彼女たちに比肩し得るものとして、武では春蘭、知では華琳自身や荀彧といった者達が曹操軍には存在している。桃香だけが特異な存在であった。桃香の存在なくして、劉備軍は劉備軍足り得ないとも言える。
 子供たちが気配を察して、桃香に別れを告げて去っていく。桃香は大きく手を振って彼らに答えた。また次に遊ぶ約束も取り付けられている。

「まったくあなたは」

「えへへ」

 嘆息交じり言う華琳に、また桃香が曖昧な笑みを浮かべた。二人の間に流れる空気には、かなり親しげなものがあった。華琳、桃香とすでに真名で呼び合ってもいるのだ。
 華琳と桃香が顔を突き合わせている状況は、曹仁にとって嬉しくもあり、気恥ずかしくもある。友人と家族が、自分の知らないところで仲良くなっていくというのは、どこか居心地が悪いものだった。

「それで今日は、…………逢い引きですか?」

 桃香が、つないだ手にちらちらと視線をやりながら言った。曹仁と華琳はどちらからともなく手を離した。

「ただの視察だよ」

「そう、“これ”はただの道案内。あなたにお願いしても良かったわね。勉強もせずに、随分と街には詳しくなっているようだし」

「ううっ、それは……」

 華琳が言い返すと、桃香は一瞬口を噤んだ。それから、いかにも良いことを思いついたというように顔を輝かせて再度口を開く。

「そうだ。そういうことなら、ここからは私も一緒にご案内します。華琳さんへの、いつものお礼も兼ねて」

「いや、あなたは帰って宿題を―――」

「ほらほらっ、行きますよ~~っ!」

 桃香は解いたばかりの曹仁と華琳の手をそれぞれに取って、引きずるように駆け出した。

「まったく、本当にあなたという子は……」

 呆れたように呟く華琳の口元には、楽しげな笑みが浮かんでいた。





 三人連れだって城内をひとしきり見て回った後は、そのまま劉備軍の面々も誘っての晩餐会だった。
 華琳の手料理は相変わらず非の打ちどころがない。料理に合った上等の酒も並べられ、曹操軍と劉備軍の首脳陣の仲を取り持った。

「お姉ちゃんばっかりお兄ちゃんと遊んでずるいのだ!」

「仕方なかろう、鈴々。我らが兵の調練に汗水を流すように、曹操殿のご機嫌を伺うのは桃香様の立派なお仕事だ」

 昼間の一件を聞きつけた鈴々が頬を膨らませて桃香に言い募ると、星がいくぶん毒のある口調で仲裁に入った。

「えへへ、ごめんね、鈴々ちゃん。今度何かあったら誘うから」

「そんなことよりも、桃香様にはまずは一人歩きを控えて頂きたい」

 こほんと一つ咳払いをして、愛紗が釘を刺した。

「曹仁さん」

 劉備軍の外の面々の喧騒をよそに、朱里と雛里が曹仁の元へ駆け寄り、小声で話しかけた。
 曹操軍と劉備軍、両軍の交流を図るため、特定の席は決められていない。中央の台に料理が並び、周囲を囲んだ円卓に皆が思い思いに腰を落ち着かせている。曹仁が提案したこの世界には馴染みのない形式だが、集まった面々はあまり戸惑うこともなく順応している。営舎の食堂や、野営で糧食を取るときと似たようなものだからだろう。ちょうど蘭々と季衣が劉備軍の卓に加わって、ごねる鈴々をはやし立てている。流流は給仕に追われているようだ。

「曹仁さん、昨日は張燕さんの軍と調練でしたよね?」

 朱里が妙に鼻息荒く問うた。隣にいる雛里も目を輝かせている。

「……ああ」

 黒山賊の兵は、正規軍の軍律に馴染まず退役する者も多く出て、今は二万が張燕軍だった。昨日の調練はその二万を、五千の騎馬隊で崩すというものである。

「ど、どうでしたか?」

 軍師だから他所の軍の調練にも興味があるのだろう。曹仁は何となく腑に落ちない二人の態度を自分にそう納得させて答えた。

「兵にも俺にも、いい勉強になったよ。騎馬隊は普段堅陣をいかに崩すか、ということばかり考えているからな。陣形に執着しない軍とぶつかるのは良い調練になる」

 軍が陣形を組む理由は、相手よりも有利な位置を占め、強い形を作るというだけではない。兵同士がお互いに支え合うことで、高い士気が維持されたりもするのだ。主君への忠義や将帥への信頼以上に、そうしたものが兵の力になる場合は多い。陣形の乱れがそのまま敗走へつながるからこそ、将は堅陣を布くことに腐心する。
 張燕の軍は、元々が黒山賊の叛徒であり、義賊だけあって、一人一人の我が強い。曹操軍の一部となった今も槍や長刀から大斧を抱えた兵までが混在している。華琳がそれをこの軍の個性であり強みでもあると認めたからだ。騎馬隊が突撃すると、小隊規模ですらない一人二人という単位で散る。普通ならそれは潰走の始まりとなりかねないが、張燕の合図があると即座に再び陣形を組む。それは形の上ではしっかりとした堅陣だが、どこか漠とした捉えどころのない陣である。

「そうですか、曹仁さんの“攻め”を、張燕さんがうまく“受け”たと……」

「まあ、そんなところかな。……朱里?」

 朱里は頬を上気させ、焦点の定まらない視線を彷徨わせている。雛里も赤面した顔をうつむかせていた。

「二人とも、どこか体調でも悪いのか?」

「は、はわっ! だ、大丈夫です。な、なんでもありません」

「鳳統、それに諸葛亮。少し良いかしら?」

「は、はひっ! だ、だ、大丈夫です。な、なんですか、曹操さん?」

 背後から華琳に声を掛けられると、二人はびくっと身体を飛び上がらせた。

「前に話した兵法書をいくらか書き上げたから、一度目を通して欲しいのだけれど」

「ぜひ拝見させていただきますっ!」

 珍しく雛里が、朱里を遮るようにして前に出た。いささか興奮気味だが、これも珍しいことに台詞を噛んでいない。同じ師に付き同等の学を修めた二人であるが、軍学への関心と造詣は雛里の方が幾分深い。その分朱里は民政により強い興味を抱いていた。
 隣の卓から、荀彧が恨めし気な視線を送っている。彼女は内政の達者で優れた戦略家ではあっても、戦術家ではない。これまでの戦でも兵站などの後方支援を担当することが殆どであった。兵法書執筆の細かな相談となると、実戦経験豊富な朱里と雛里の二人に道を譲らざるを得ない。

「華琳さ~ん、曹仁さ~ん」

 桃香が、幾分覚束無い足取りで近寄ると、華琳と曹仁の向かいへ腰を下ろした。劉備軍の卓では、未だに鈴々と季衣が言い争いを続けていた。
 ここに恋達もいればな。酒宴を見渡して、曹仁は感慨にふけった。
 曹仁の酒気を帯びた頭の大半を占めるものは、この世界で得た知己に対する親愛の情だが、ほんのわずかながら曹操軍の部将としての計算もあった。

「曹仁さん、どうぞ」

 桃香が曹仁の空いた杯に酒を注いだ。
 歓談が続き宴も酣(たけなわ)となった頃合いで、鈴々と季衣の諍いをさらに蘭々が煽り立て、酒に酔った春蘭も乱入した。止められそうな華琳や幸蘭、秋蘭は傍観を決め込み、愛紗はいつの間にか星に酔い潰されている。桃香もだいぶ酒が回っているのか、にこにこと微笑むばかりだ。月が小声で制止するも、聞き届ける者もない。詠と流流が助けを求める様な視線を向けてくるが、曹仁は投げやりに観戦を決め込んだ。
 会場の隅の方で、白蓮が一人酒をあおっていた。





「まだ残っていたのか」

 宴会に使われた大広間の前を横切った曹仁は、一人佇む華琳の姿を見止めた。劉備軍の面々を宮中の客室へ案内した帰りである。

「少し、酔いを覚ましてから戻ろうと思ってね」

 華琳の手元の杯には、酒ではなく茶が注がれていた。

「春姉や荀彧は?」

「春蘭はうるさいから秋蘭に連れて戻らせたわ。桂花も珍しく呑み過ぎたみたいで、季衣に肩を借りて下がったわ」

 華琳が桃香や朱里達を構うものだから、二人とも自棄酒の態があったのだ。華琳もそんなことは百も承知だろうが、素知らぬ振りで言った。

「……」

 隣に腰を下ろすと、華琳が無言で急須から注いだ茶を置いてくれた。御主君が手ずから、などと有り難がる間柄でもない。曹仁も無言でそれに口を付けた。

「視察はどうだった?」

「そうね。……やはり、富裕層以外からの反発は強そうね」

 視察の後半、桃香に連れられて行く先々では、性急な改革に対する民の不平の色が伺えた。大通りから離れた貧しい者達が住まう界隈だ。
 やはり恋がいればな、曹仁はまた思った。
 華琳が自身一代で成し遂げようという国政の改革は、民の在り方を大きく変えるものだ。教養を与え、政への参画を促すことで民の地位は大きく引き上げられる。それには名士連や豪族達だけでなく、民自身の反発も予想された。権利を与えられ、地位を得れば、それに伴い義務も派生してくるからだ。そんな時、桃香の徳が民心をなだめ安んじ、恋の武が叛意を抑え鎮める。これは極めて強固な体制と言えるだろう。

「……そうだ。この剣、対となる二振りのうちの一つなんだって? もう一方は華琳の佩剣らしいが、そちらの銘は何というんだ?」

 埒もない思考に耽りかけた曹仁は、話題を変えて腰に刷いた青紅の剣の柄を軽く叩きながら尋ねた。

「…………倚天よ」

 華琳が一瞬のためらいの表情の後、目を背けながら小声で、口早に言った。

「……へえ」

「何よ、その顔」

「いや、別に」

 自然とゆるむ口元を手で隠して、曹仁は努めて平静に返した。
 倚天。天に倚(よ)る。天に寄り添う、天意に適う、天に頼る。あるいは天に近付くから転じて天を貫く等といった意味で用いられる言葉だ。武術の技や武器の銘としては、それなりに良く使われる語ではあった。
 名付け親がそのまま持ち主である華琳となれば、天の道を行く自身をこそ表しているとも思える。
 ただ、天の御使いなどと呼ばれる曹仁の立場から見れば、また別の意図も想起されずにはおれないのだった。





「恋さん」

「あっ、こーじゅん」

 背後から忍び寄って声を掛けると、恋が一度振り返り、それから目を逸らした。
 天下広しといえども、こうして恋の後ろを取れるのは高順くらいのものだろう。他者の気配を読むこと、そして自分の気配殺すことに高順は長けていた。野生児同然に育った幼年期と、武術に励んだここ数年の生活の賜物である。それは霞などには独特と評される戦勘にもつながっていた。

「……またですか?」

「ん」

 視線を逸らしたまま、恋が小さく首肯する。まずいところを見つかった、という表情だ。
 恋が左右の小脇に抱えるのは人だった。一人は大人で、もう一人は子供の体格ながらごてごてと装飾をあしらった衣装に身を包んでいる。恋は軽々と抱えてはいるが、相当な重量だろう。
 恋が野良犬や野良猫、加えて孤児まで拾ってくることについて、同じく拾われた身の高順は何かを言える立場にない。ただあまり頻々とそれをされると、小言の一つも言わねばならなかった。最終的に世話係を務めることになるのは決まって高順であるし、文官不足の呂布軍で財務を担当してもいるのだ。
 恋も高順が一度居ついてしまった者を拒みはしないことを理解しているから、とりあえず最初の小言だけかわそうという心積もりだったのだろう。

「今度はまた、随分と育ちの良さそうな」

 粉塵で薄汚れてはいるが、身に付けているものは一目でそれと分かるほどに上質なものだった。盗賊にでも襲われ家を焼き出された良家の子女とその御付。そんなところだろうか。

「うぅぅっ、七乃~」

 少女が小さく呻いた。




[7800] 第5章 第5話 河北の雄
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/10/07 22:08
 袁紹軍が冀州に兵力を集結させていた。
 曹操軍が予州を得たのとほぼ時を同じくして、幷州、青州の併呑を果たしたその勢力は河北全土に渡る。集められた兵力は、中原への侵攻軍としか考えられない。
 現状、袁紹軍の領分と境を接しているのは、曹操軍の兗州と、呂布軍の徐州、そして漢王朝の都洛陽を擁する司隷(司州)である。漢朝の名族であることを喧伝する麗羽が、この段階で司隷に手を伸ばすとは思えない。名族ゆえの求心力を放棄するようなものだからだ。攻め入るならば兗州か徐州であり、冀州に兵を集結させている以上、狙いは曹操軍の兗州と考えて間違いないだろう。
 それを裏付けるように、曹操軍への宣戦布告とも思える檄文が袁紹軍より発せられていた。華琳を悪し様に罵るばかりの文面だが、読む人の心を激しく波立たせるのは能文家で知られる陳琳の手によるものだろう。華琳自身をして、檄文中に描かれる曹孟徳という人物に強い嫌悪感を抱くほどの出来栄えであった。むしろその文筆能力への感嘆が先に立った華琳以上に憤ったのが春蘭と桂花で、犬猿の仲の二人が珍しく意気投合したものだった。
 それはそれとして、華琳は軍師である桂花には冷静な戦力比較を求めた。
 袁紹軍の動員兵力は十五万とも二十万とも言われていたが、諜報部隊からの報告ではすでに十五万を越え、なおも兵の集結は続いているという。北方異民族の烏桓との関係も良好で、国境に大規模な守備兵を配する必要も無く、どころか精強な騎馬民族の援兵すら得ていた。
 対する曹操軍の兵力は十二万を幾らか超えたというところだった。それは予州平定後に組み込まれたばかりの新兵も加えた数で、今すぐに出動に耐え得るものは十万にも満たない。何度か大きく増強する機会はあったが、その都度精兵のみを残すというやり方をしてきたからだ。さらに中原という他勢力に囲まれた地を領土とする以上、周辺に守備兵も配さねばならない。袁紹軍との戦に使える兵は精々が騎兵が一万五千に、歩兵が五万、それとは別に張燕の黒山賊の兵が二万と言ったところだ。農民出身の黄巾賊から転身した兵が多いため、騎兵の不足は避けようが無かった。それとは別に劉備軍の助力も見込めたが、こちらも兵力はわずか二千五百である。
 桂花に繰り返し行わせた計算の上では、曹操軍に勝ち目はなかった。
 華琳は出動可能な全兵力の頓丘への派兵を命じた。騎馬隊一万は曹仁が、黒山賊の兵は張燕が、そして本隊の指揮は春蘭である。全体の総指揮は華琳自身で、旗下には虎豹騎と五千騎を置くのみとした。

「頓丘、ですか?」

「ええ、そうよ」

 頓丘は華琳にとって懐かしい地である。官途についた後、初めて地方官吏として赴任したのが頓丘の県令としてであった。

「河水(黄河)を、渡渉されるのですか?」

「ええ」

 桂花のもっともな疑問に、華琳は軽く答えた。
 兗州と冀州の州境はほぼ河水の流れと一致しているが、東郡の一部がわずかに川筋の北へ張り出していた。頓丘から発干までの地域がそこに当たる。
 勢力圏を考えると、頓丘はむしろ袁紹軍の領分となるのが自然と言って良い。漢室の威光が衰え、群雄が州牧や刺史を自称している現状を鑑みるに、王朝の定めた州境にもはや大した意味などないのだ。それでも、その地域からの租税は兗州の州府へと納められていた。安定した税収の筋道はどの勢力も未だに漢王朝が整備したものに頼らざるを得ないためである。税を回収している以上、そこは曹操軍の領分だった。

「それは……」

 桂花が言いよどんだ。
 宋襄の仁の故事を紐解くまでもなく、川岸での迎撃は兵法の基本である。加えて、戦場を広くとらえれば曹操軍は河水を背負っての背水の陣ということになる。背水の陣は、烏合の衆に決死の戦を強いる起死回生の布陣であって、調練の行き届いた精兵があえて退路を捨てる理由はない。

「頓丘懐かしさで言っているのではないですよね?」

 桂花に代わって幸蘭があえて確認するように言った。
 こうした時、自分への反対意見が幸蘭や曹仁といった一部の親族からしかでないのが、華琳の自覚する曹操軍の弱点である。

「もちろん。―――」

 やれやれと華琳は自嘲気味に微笑みながら、今後の方針を説いた。





 鄴城の謁見の間に、袁紹軍の諸将が集結していた。
 麗羽の左右に侍る様に二枚看板の斗詩と猪々子。眼下に淳于瓊、張郃、高覧ら部将と、審配、郭図、陳琳といった参謀。袁紹軍の古老たる田豊と沮授は、長期戦を訴えて今回の進軍に反対したため伴ってはいなかった。
 城郭の周囲では兵舎に入りきらない兵が野営を張っている。総勢は二十万に及ぶ。約一年前に、反董卓を掲げ結集した諸侯の総兵力と変わらない数を、麗羽ただ一人でまとめ上げていた。
 兵の集結を終え、いざ出陣という段になって麗羽は軍議の開催を余儀なくされた。
 曹操軍が河水北岸まで進出したためだ。
 黎陽から渡渉し、群がる曹操軍を蹴散らし打ち払い、二十万の大軍を見せびらかしながら南下を続けて華琳の本拠である陳留に入城を果たす。目論んだ王者の行進の第一歩を前に水を差されたようで、麗羽は鼻白んだ。
 だがそれも一時のことで、曹操軍の総兵力を開戦早々の大戦で打ち砕くのも悪くないと、すぐに麗羽は気分を持ち直した。

「それでは、先鋒は―――」

 麗羽が集まった面々に視線を向けると、一歩前へと足を踏み出した男があった。
 大きな男だった。長身というだけでなく、巨岩のような拳に指に、腕も筋肉で隆々と盛り上がっている。加えて丸い巨眼に鷲鼻、引き結ばれた厚い唇と、顔の造作までが大きかった。まさに容貌魁偉を絵に描いたような大男である。

「蹋頓単于、それでは貴方にお願い出来るかしら?」

「はっ」

 男が小さく頭を下げた。
 蹋頓(とうとん)が、男の名前だった。烏桓族の単于(王)である。
 烏桓族は単于である蹋頓自らが二万騎を従えて戦列に加わっていた。次の単于の地位を約束されている楼班も伴っての出陣である。
 蹋頓は前の単于であった丘力居の甥にあたる。丘力居の幼い娘楼班の後見をしていた蹋頓を単于へ任命したのは、他ならぬ麗羽であった。元々実質的な統率者であり、特にそれを感謝している様子もないが、こうして要請には律儀に答え、援兵を送ってくるのだった。

「お待ちください、袁紹様。大戦の初戦なれば援軍などにお任せにならず、ぜひこの私にお任せください」

 淳于瓊が一歩進み出て言った。
 かつては皇帝直属の西園軍を率いる八校尉として、同僚でもあった女だ。同じ八校尉には華琳も名を連ねている。西園八校尉は筆頭こそ皇帝の寵愛を背景に宦官の蹇碩が務めたが、それ以外は何れも黄巾賊らの反乱の鎮圧に功があった者達である。淳于瓊も戦上手で知られていて、袁紹軍内では斗詩と猪々子に次ぐ地位にある。麗羽とは年齢も近く、気心の知れた相手だった。

「淳于将軍、私はすでに命を頂きました」

 蹋頓が静かな口調で言った。静かだが、思わず周囲をたじろがせる様な独特の重みがある。

「そうね。仲簡、私はすでに命を下しました。ここは単于にお譲りなさい」

「……はっ」

 親しみを込めて字で呼び捨てると、淳于瓊は小さく頭を下げて武官の列へ下がった。
 淳于瓊の言にも一理はあったが、それで慌ただしく一度下した命令を覆すというのも袁本初の戦ではない。
蹋頓の率いる軍勢は騎兵だけで揃えた二万騎で、騎馬民族の軍兵なれば機動力はここに集うどの軍勢よりも上だろう。先鋒には格好だった。初戦だからこそ自軍を温存したいという気持ちもわずかにある。

「それでは蹋頓単于、露払いはお願いしますわね。この袁本初の軍の一員として、優雅で華麗な戦を期待していますわ」

「はっ」

 蹋頓が大きな体を屈めて礼をした。





「単于」

 校尉の一人がすり寄ってくると、遠く地平を指差した。大きな集落が一つ見えた。大きな、と言ってもそれは烏桓族にとっての感覚で、漢族にとってはどこにでもあるありふれた村だろう。
 すでに州境は越えていて、曹操の領分内に侵攻していた。頓丘からは十里ほどしか離れていないが、曹操軍が兵を動かしたという報告はない。ここまで一戦もしてはいなかった。
 蹋頓が頷いてやると、校尉は気勢を上げて兵の中に退いて行った。兵も喚声を上げ始める。
 二万のうち本当の意味で蹋頓の手勢と言えるものは二千だけで、あとは各々の部族の兵だった。
 烏桓は蹋頓を盟主と仰ぎ一応ひとつにまとまってはいるが、いくつもの部族の集合体でしかない。校尉などと漢族風な呼び方をしてみたところで、大半がそれぞれの部族の首長の息子などで、その実体は若者たちのまとめ役に過ぎなかった。
 部族を越えて徴兵し調練を積ませた蹋頓の手勢は族全体で一万以上に上っているが、今回の戦では二千のみの出兵にとどめていた。残る一万八千は戦の意味を略奪としか考えていないような者達で、これは今度の戦で全滅してしまっても構わないとすら蹋頓は思っている。二万のうちの一万八千を失えば烏桓にとって大敗だが、蹋頓の責を咎める者達は兵力を失い、蹋頓の手勢だけが無傷で残るのだ。あとはいくらでも黙殺出来る。
 中原が乱世に疲れ切った時、中華の戦にも慣れた自分が精強な兵を抱え北方にいる。何か面白いことが出来そうだった。
 匈奴の英雄、冒頓単于の再来と呼ばれていた。かつて冒頓単于は広大な北方地域を平らげ、高祖劉邦の軍勢を討ち払い、漢族からの貢物を勝ち取った。冒頓単于の死後、衛青と霍去病という稀代の名将二人を得た武帝が攻勢にでるまでの六十年余りの間、漢族は匈奴への毎年の貢物を欠かさなかった。事実上、漢王朝は匈奴の属国のようなものだったのだ。

「――――――!!!」

 いくつもの小集団にまとまった兵が、喚声を上げて我先へと集落へ向けて駆けていく。蹋頓は二千騎をまとめて、それを遠望した。
 略奪が全て悪いことだとは思わない。徴収という形で烏桓族の利益につながるなら進んでやるべきだし、兵には息抜きも必要だった。ただそれを戦の主目的としてしまった瞬間、烏桓族のために国益を守る軍ではなく、ただの賊徒や獣と変わらなくなる。獣は強いが、戦で勝てるのは整然と居並ぶ軍隊なのだ。

「お兄様」

 楼班が馬を寄せた。これが初陣であり、成長過程の小さな体に、不釣り合いなほど馬ばかりが大きな印象を受ける。とはいえ烏桓の単于の娘であり、巨馬を見事に乗りこなしていた。
 楼班は一度蹋頓へ非難めいた視線を向けると、今度は集落を襲う一万八千を嫌悪感も露わに睨み据えた。丘力居の方針で幼いころから漢人文化に慣れ親しんだ楼班には、どうにも文弱なところがあった。
 あと数年もすれば、蹋頓は単于の地位を降り楼班の下に武将として仕えるつもりでいた。蹋頓が戦をして、楼班が内を固めるというのが烏桓族にとって望ましい。楼班を単于として立てるまでに、いくらか猛々しさも持たせるためにこうして戦場に連れ出しているのだった。

「妙だな」

 集落に群がる兵達が、未だ内部へ踏み込めていない。村人がよほど決死の抵抗を示しているのか。

「―――単于」

 斥候からの報告が上がった。曹操軍の騎馬隊が迫っているという。行軍は迅速で、到着まであまり猶予はない。

「……あの丘へ上る」

 集落の近くに、なだらかな丘が一つあった。曹操軍の進軍経路からすると、集落の手前に位置する。

「速いな」

 丘を駆け上がると、すでに地平には騎馬隊が巻き起こす砂塵が見えた。こちらの斥候とほとんど変わらぬ速さだ。頓丘からはわずか十里だから、馬の足にもまだ余裕があるだろう。
精強で知られた曹操軍は、さすがに袁紹軍よりも動きが良い。疾駆しながらも、一万騎が一糸乱れず楔の陣形で駆けてくる。
 丘の前を駆け抜けたのは五千騎で、後方の五千は直前で停止している。こちらの逆落としからの挟撃に対する、さらなる挟撃の構えだ。
 集落へ寄せる一万八千にも敵襲の伝令は送っているが、命令系統が確立されていない。各部族からなる隊をまとめる校尉のすぐ上に蹋頓がいるという形だ。加えて部族ごとに派遣した兵の数も異なるから、千人規模の隊もあれば五十人に満たない隊もある。
 蹋頓旗下の二千に関しては、百騎をまとめる隊長がいて、その上に十隊一千騎をまとめる校尉を二人置いていた。
 一万八千騎のうち、曹操軍の騎馬隊の方へと向き直っているのは後方の数部族の五、六千騎だけで、他はまだ集落への侵入を試みていた。

「おおっ、漢土にもあれほどの騎馬隊があったか」

 蹋頓は覚えず感嘆の声を漏らした。疾駆する五千騎から、百騎ほどが突出していた。凄まじい速さで、一万八千騎へと突っ込んでいく。
 対面していた後方数部隊は、曹操軍の百騎の一当てで崩壊した。元より略奪の前線に後れを取り、敵襲の直撃を受けねばならないという割を食わされた部族である。他部族のために犠牲を出したくはないのだろう。最初から士気は見えなかった。
 集落へ群がり背を見せる烏桓騎兵に、百と五千騎がぶつかった。





 こんなものなのか。曹仁は胸中一人ごちた。
 集落が一つ襲われているという斥候の報告を受け、すぐに曹仁は頓丘を発ちひた駆けた。
目に飛び込んできた敵騎馬隊の軍装は見慣れぬものだった。具足の上になめし皮でなく毛皮をそのまま用いた套衣をまとっている。中原の騎兵では有り得ず、北方騎馬民族―――烏桓族の兵であろう。
 騎馬民族を目にするのは曹仁にとって初めてのことだが、その精強さを知らぬ者はない。かつての董卓軍や錦馬超の涼州騎馬隊の強さも、羌族の影響を色濃く受けているためと言われていた。
 目の前の騎馬隊は馬術こそは見事なもので、後方からの攻撃でも思ったほど打ち落とせてはいない。ただ、見事なのはそこまでで、こちらの鋭鋒を避けて散った兵はそのまま潰走していく。まとまりの欠片も無い集団だった。
 丘上の二千騎が動いた。後方に配した五千騎には気にも留めずに、真っ直ぐ戦線目掛けて駆けてくる。それも愚策だった。
 曹仁は、五千騎は潰走する敵軍の追撃に回して、白騎兵だけを反転させた。後方の五千騎も動き始めている。挟撃の形はなった。
 二千騎の先頭の一騎が、膨れ上がって見えた。鞍の上に立ち上がったのだ。巨馬に巨躯の男で、毛皮の套衣と相まってもはや騎兵というよりは別の生き物のように見える。男が弓を引き絞った。二千も弓を手にしている。
 曹仁は白騎兵を縦列に組んだ。合図一つで、縦列は散り散りに散開する。
 男が身を躍らせ、矢を放った。矢の向かう先は後方である。二千の矢がそれに続いた。後を追う五千騎の足並みが乱れた。
 挟撃の機は外されていた。白騎兵の縦列の横をすれ違うように二千騎が駆け抜け、そのまま戦線に介入することもなく離脱していく。散っていた敵軍の一部も、それに続いた。二千騎は兵の合流を待たず、そのまま戦場を離れていく。
 初めから、ぶつかり合う気はなかったということだろう。
 曹仁は深追いを禁じ、二千とは別方向へと散った敵兵だけの追撃を命じると、旗持ちの兵と他数名を従えて、集落へと赴いた。兗州と冀州の境界にほとんど接するようにしながら、兗州側に位置する村である。
 急行した曹仁の騎馬隊一万はそのまま後から来る本隊の先駆けも兼ねていて、恐らくは二万の烏桓族の兵もまた袁紹軍の先鋒であろう。華琳は州境に軍を展開し、そこから先の領分内には一歩も敵を踏み込ませないつもりでいた。
 集落へ踏み入ると、烏桓の騎兵の侵入を阻んでいた仕掛けの残骸が目に入った。荷車や木材を並べただけの簡単な防壁が、幾重にも並んでいる。それは家並みを結ぶように作られていて、人は戸口や窓を潜り抜けることで防壁間の移動が出来るようだが、騎兵にはまず無理である。一層ずつ防壁を形成しては後退を繰り返しながら、騎兵の侵入を防ぎ切ったということだろう。

「村長に会わせてくれ」

 馬を降りて言うと、遠巻きにした村人たちの中から初老の男性が名乗りを上げて前へ進み出た。

「私は曹操軍の曹子孝と申します。―――犠牲は?」

 村長が被害状況を語った。
 さすがに十数人の死者が出ているが、それは曹仁の想定よりもずっと少ない。彼らの犠牲が最初の防壁を築くまでの時間を作り、それからはわずかな負傷者が出ただけだった。
 村には医師がいないということなので、曹仁は医術の心得のある兵を呼びにやらせた。

「その二人は?」

 全ての手配を終えると、村長の背後に従う二人へ曹仁は視線をやった。明らかに他の村人とは違う空気を身にまとっていて、時に村長に代わって曹仁の質問へも受け答えをしていた。

「旅のお方で、防戦の指揮を執って頂きました」

「そうでしたか。防壁は見せて頂きました。見事なものです」

「お兄さんが噂の曹家の天の御使いですか~」

 頭上に帽子、ではなくどこか見覚えのある珍妙な人形を乗せた小柄な少女が、抑揚の乏しい口調で言った。少女の眠たげな瞳が、いささか不躾とも思えるほどの視線を浴びせてくる。

「ちょっと、風。いきなり失礼ですよ。―――この子は程昱、字を仲徳と申します。私は郭嘉、字を奉孝。曹子孝様のお噂は、かねがね聞き及んでおります」

 眼鏡をかけた生真面目そうな少女が、てきぱきとした口調で言った。

「お二方は、旅の武芸者、―――いや、兵法家でしょうか?」

 見事な差配だが、二人は武術の鍛錬を積んだ者には見えなかった。遠巻きにする村人がまだ手に手に竹槍やら鍬やらを握っている中、少女達は得物も持ってはいない。

「はい、大陸中を廻って見聞の旅をしております」

「よくぞ、我らの民を救って頂きました。防壁の作成が、良く間に合いましたね」

「私たちは冀州より南下してきたのです。袁紹軍が招集をかけていることも知っていましたし、その中に略奪を常とする烏桓族の兵が混じっていることも聞き及んでおりました。昨夜宿をお借りした際に、いざという時の備えをしておいた方が良いと村長殿には話してあったのですよ」

「そうでしたか」

「それでも十人以上もの犠牲者を出してしまったのは、我らの未熟を嘆くばかりです」

「いえ、おかげで助かりました。お二方が居らねば、村の男達は惨殺され、女達は連れ去られていたでしょう」

 村長の男が言った。

「村の復興には、我が軍の工兵を出しましょう」

 集落の中には、打ち壊された家々が何件か目についた。騎馬隊の手によるものとは思えないので、防壁を作るための資材として利用したのだろう。

「軍の皆様にそのようなことまでして頂くわけには。それに、家を修復したところで、またすぐ戦場になるのでしょう?」

「それは―――」

「戦場にはなりませんよ」

 曹仁の言葉を引き取って、眼鏡をかけた少女―――郭嘉が断定した。

「そうですよね、曹子孝様?」

「ええ、まあ」

「やはり呂布軍が動きますか~」

 曖昧に答えた曹仁に、眠たげな眼をした少女―――程昱がやはり眠たそうに口を開いた。

「なるほど、見聞の旅をしているだけあって、お二方はの見識は大したものですね」

「同盟、いえ、一時的な共闘ですか」

「いいえ、どちらでもありません。ただ利を説くだけです。曹孟徳に同盟という選択はありません」

 郭嘉の言葉を、今度は曹仁は否定した。
 天下平定の事業を、誰かと手を取り合って為すという考えは華琳にはなかった。あえて言えば今の劉備軍の扱いは限りなく同盟関係に近いが、そこは余人には計り得ない華琳の価値観があるのだろう。いずれは自らの下に取り込むことも考えているはずだ。
 呂布軍へは、曹操軍の領分が袁紹の支配下となることの不利益を説くだけだった。徐州は東方に海を抱え、南方は精強な水軍で知られた孫策軍と長江を隔てて境を接している。残る二方は北に袁紹軍、西に曹操軍の領分だった。西方までを袁紹軍が取れば、呂布軍は広大な袁紹の領土内に閉じ込められるようなものである。
 呂布軍へは詠が使者として赴いていて、副使として張繍―――月も同行している。言うまでもなく反董卓連合との戦では陣営を同じくした者達で、使いはまず成功するだろう。もっとも華琳の予想では、朱里と雛里を出し抜いた音々音のことだから、使者が到着するまでもなく出陣の準備を始めているはずだった。
 手薄な青州を攻め込まれ、十日と経たずに袁紹軍は撤退を余儀なくされるだろう。もちろん軍の一部を割いて青州防衛に当て、本隊はあくまで兗州攻めを継続するという可能性も無いわけではない。弱体化した袁紹軍と戦えるのならばそれならそれで望むところではあったが、そうはならないというのが華琳の想定で、曹仁の考えも同じであった。
 麗羽にとってこの戦は天下の趨勢を一気に決するものであり、その相手として華琳を選び、華々しい戦を目論んでいたはずだ。麗羽の性格からして、ここへきて軍を二つに割くという忙しない戦への移行はあり得ない。
 二十万もの大軍が、呂布軍の急襲の知らせを受け取るまでにこの州境に進出して来られるかも疑問で、恐らく戦があっても先鋒同士の小競り合い程度となるだろう。
 今後の展開は曹操軍と呂布軍がそれぞれに北方へ進出し、袁紹軍をじりじりと侵すというものになる。そうなれば、この頓丘近郊に敵が攻め入るということもなくなる。

「そういうわけで、村長殿。――――――」

 曹仁が改めて支援を口にするも、やはり村長は煮え切らない態度で遠慮の言葉を口にした。村長の口調から曹仁は単に恐縮しているだけでなく、怯えにも似たものを感じ取った。軍の手を借りればそれを理由に何を要求されるか解らない、というところだろうか。踏みつけられることに慣れきった民の姿がここにあった。

「我々軍は皆さんの税でこそ成り立っているのです。このような時に働くためにこそ存在しているものとお考えください」

 なおも逡巡する村長は、郭嘉と程昱へ視線を向けた。二人が無言で首肯すると、何度も感謝の言葉を並べたてながら曹仁の手を取った。

「曹操軍は定められた租税以上のものを徴収しないというのは、やはり本当なのですね」

 郭嘉が口を挟んだ。

「臨時徴税などというものは本来政治家が己の無能を喧伝するようなものだ、とは我が主の言です」

「地方官吏の腐敗も、その辺りが原因でしたしね~」

 程昱が言った。
 故なき臨時徴税を繰り返し腹を肥やす地方官吏の横行が民の怨嗟を生み、遂には張三姉妹の歌の信奉者に過ぎなかったはずの黄巾賊の暴走へと結びついたことは記憶に新しい。

「とはいえ、やはり税率が高すぎる気もしますが」

 郭嘉が眼鏡に手を沿え、思案顔で言った。
 華琳の領内では土地の豊かさを考慮して、収穫の二割から三割を国―――この場合は曹操軍へ、納めることが定められている。耕地を与えられたばかりの黄巾の移民たちに関して言えば、初年こそ免除されるものの、その後数年間は五公五民とされ収穫の半分が税として回収される。漢王朝では一般的に常設の税は五分から一割程度と定められており、これは相当に高い税率と言えるだろう。ただ、他に賦役が課されるということはなく、開墾などには兵を派遣することも多かった。兵士が管理する官営の農地も築かれている。官吏も兵も民も、無駄に遊ばせておかないというのが華琳の考え方だろう。

「そうした疑問は、私よりも主にぶつけて頂きたい。―――もしお二方さえよろしければ、この後本隊を率いてまいります我が主にお会い頂きたいのですが。恐らく仕官を求められるでしょうから、ご迷惑ならここでお断り頂いても構いませんが」

 二人の見識は相当なものであり、それがただ口だけのものではない証も立っている。加えて見目麗しい少女でもあれば、華琳が欲しがらぬはずもなかった。

「そ、曹子孝様の主と申しますと、そ、曹孟徳様ですかっ!?」

 これまで極めて理知的に振舞っていた郭嘉が、興奮した様子で当たり前のことを殊更確認するように言った。

「え、ええ、そうですが」

「そ、そそ、曹操様と、―――は、はぁっ」

 一瞬、曹仁は何が起こったのか理解できなかった。
 郭嘉が血飛沫を上げて仰向けに倒れていく。曹仁は咄嗟に抱き留めると、周囲に視線を送った。飛んでくる矢は見えなかったが、弓で狙われたとしか考えられない。

「っ! 程昱殿、何を!?」

 程昱が警戒心の欠片もなくとことこと歩み寄ると、曹仁の手から郭嘉を引き寄せた

「は~い、稟ちゃん、とんとんしましょうね、とんとん」

「…………えっと、鼻血?」

 程昱に話をきいてみると、郭嘉は激すると鼻血を吹くという厄介な体質の持ち主で、熱心な曹操信奉者でもあるらしい。星とはかつて共に見聞の旅をした仲であり、兗州に赴いたのもその縁を伝って曹操軍への仕官を考えてのことだという。
 その後二人は、華琳に鼻血を噴きかけるという珍事を経て、目出度く曹操軍の一員となったのだった。




[7800] 幕間 白波賊
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/11/25 18:39
 気付けば、白波賊の武将をしている自分がいた。
 行き倒れを拾われ最初は客人として扱われたが、恩を返すために何度か戦場に立つうちに自然と武将の一人と見なされるようになっていた。

「―――徐晃」

 白波賊は黄巾の乱の残党ではあるが、頭に黄巾を巻いた者はほとんどいない。つまりは信仰もなく世の乱れに呼応して立った賊徒の一団に過ぎないが、頭目の楊奉はしっかりとした世直しの志を持っていた。同時に、政や役人に対する不満を抱きながらも、漢という国を完全に見限ったわけでもなかった。なんとなれば、群雄割拠の情勢の中、取り残されたように力を失った帝に最初に手を差し伸べたのが楊奉率いる白波賊なのだ。

「―――おい、徐晃。聞いているのか?」

「ん? ああ、すまない。何だ?」

 徐晃は、自分が呼ばれていることに気付くと先を促した。
何度か無視してしまったのか、相手の男―――韓暹は不機嫌そうに眉をひそめている。
 韓暹は楊奉と同じ白波賊の頭目の一人ではあるが、人物はずっと小さい。他にも李楽、胡才という頭目がいて、四人は形の上では同格だが、楊奉一人だけものが違った。

「また賊がこちらをうかがっている。行って、蹴散らして来い」

「……ああ、わかった」

 貴様も賊のようなものだろう、という言葉を、徐晃は飲み込んだ。
 宮殿を出て、城外へと向かう。道すがらのぞいた洛陽の都は、荒れ果てていた。ほとんど人とすれ違うこともない。
 反董卓連合の戦では、董卓軍が自ら開城を選んだことで、洛陽が戦場になることはなかった。荒廃が進んだのは、その後のことだ。
 戦に勝利した反董卓連合の面々は洛陽での栄達を望まず、それぞれが一勢力の雄として起つべく地方へと散っていった。群雄割拠の時代の到来である。それで、洛陽は漢朝の都という役割を失うこととなった。政は各勢力がそれぞれに展開し、朝廷の声は空しいものとなり、自前の兵力さえも失われていた。それでも、依然として河水の水運に支えられた商いの中心地ではあり続け、民の活気には満ちていた。洛陽を戦場としなかった董卓の功績と言えよう。
 李傕、郭汜という董卓軍の武将二人が、隙に乗じて洛陽に入城を果たしたのが荒廃の始まりだった。わずかな守備兵を残すのみだった城門は容易く破られ、城壁は半壊した。
 政を壟断した李傕、郭汜であったが、二人の関係が良好であった初めのうちはまだ良かった。勝手気ままな振る舞いに耐えればそれで良い。それぞれに主権を主張し、仲を違えてからは凄惨だった。土台が西涼の暴れ者二人である。街中でも、平気で兵を戦わせる。先を争うように、住人から徴税を繰り返す。もはや商いどころではない。民は離散し、漢朝の都は戦場となった。
 それに対した楊奉は意外な周到さを見せた。まずは白波賊の兵力を武器に李傕へ取り入り、共同して郭汜を洛陽から追い出した。次いで李傕を飛び越えて帝に拝謁し、車騎将軍に任命されると、すぐに李傕討伐の軍を挙げた。こうして、政敵を討ち払い油断し切っていた李傕もまた、郭汜と同じ道を辿ることとなる。
 政権を握った楊奉ではあるが、朝廷の政に口を出すことはしなかった。政は文官達に任せ、楊奉自身はただ天子を守る守備隊であり続けることで、戦場跡地となった洛陽を小さいながらも漢朝の支配の及ぶ最後の領土とし続けている。一度は洛陽を捨てた民も、少しずつ戻り始めていた。

「あれか」

 城壁の外でこちらを窺う賊は百にも満たないが、徐晃が率いる兵も二十だけだった。目に付いた城門の守兵を呼び集めたに過ぎない。
徐晃は二十を従え城外へ打って出た。小勢と見たのか、賊にひるんだ様子はない。
 本来、この程度の小規模な賊が洛陽を襲うなどあり得ない。今は李傕らの攻撃で破損した城壁の補修も半ばで、加えて白波賊の兵力はこの大都市を守るにはあまりにも少なかった。漢室を慕い義勇兵に志願する者は後を絶たないが、それを加えても三千に過ぎない。
 賊共は軍規も陣形も何もあったものではなく、数人が突出して気勢を上げたり武器を振りまわしたりしている。同じ賊徒に過ぎなかった白波賊が天子を握ったことで、無邪気なまでの単純さで自分達が取って代わることを考えたのだろう。今、洛陽に孤立する天子を擁立し漢朝での権力を手中に治めようとしているのは、だいたいがこの類の連中である。各地に割拠する群雄達はすでに漢王朝からの独立の気風を強め、己が勢力の拡大に尽力している。

「徐晃様、いかがいたしますか?」

「……」

「徐晃様?」

「―――っ、ああ、そうだな。お前たちは、退路を断つだけでいい。十ずつで、左右を迂回して後ろに回り込め」

「はっ」

 徐晃の両脇を抜けて兵が駆け出していく。後方へ回り込む動きにも、賊は何の警戒も示さなかった。二十と一騎程度は、容易く討ち払えると思っているのだろう。徐晃は敵勢目掛け、真っ直ぐに馬を駆け出した。
 徐晃と呼ばれるようになってもう一年以上が経つが、まだ時々自分の名と認識出来ない瞬間があった。一年とはいうが徐晃にそれ以前の記憶はなく、つまりは全人生において徐晃と呼ばれているようなものなのだ。
 徐晃の最初の記憶は、負け戦だった。董卓軍と反董卓連合の戦である。兵に肩を借りて敗走していた。その兵士も気が付けばいなくなっていて、手元には大斧一本だけが残されていた。
 兵に付き添われていたこと。そして見事な装飾がほどこされた大斧。自分が軍においてそれなりの地位にあっただろうことは容易に想像がついた。
 徐という姓は、その時の戦で命を落としたという董卓軍の将軍にあやかったものだ。
 晃というのは、唯一覚えていた自らを示す名だった。あるいは真名なのかもしれないが、そこまでの記憶は残されていなかった。
 意識が戻って初めて振るった時、斧の重さに身体がふらついた。病み上がりということもあるだろうが、そうでなくともかつての自分がこの大斧を自在に操れていたとは到底思えなかった。つまりは分不相応な得物だったということだ。
 取り憑かれたように斧の修練にのめり込んだのは董卓の死を知ってからだ。胸の中で、何か大き過ぎるものが失われたと感じた。今は顔も思い出せない、おそらくは主君。
 右のわき腹には、今も刀傷が残っていた。内腑にまで到達しそうな大きな傷跡だが、こうして何不自由なく動けている以上、上手く逸れてくれたのだろう。つまりは、負けたということだ。負けて、ただ運に恵まれて生きながらえている。誰を相手に受けた傷なのか、覚えはない。あるいは名も無い雑兵に斬り付けられたものなのか。どちらにしても、自分は戦いに敗れ、主君の危急に命を懸けて奮戦することはおろか、その場に立ち会うことすら適わなかったのだ。
 一人で、敵する者全てを打ち払えるほどに強くなりたかった。それは心の病にも近いもので、斧を振っている時だけが強烈な喪失感を忘れることが出来たのだ。
 戦ともなれば、さらに充足したものを感じた。目の前の敵だけに集中していれば良い。そして敵は、時に徐晃の頭の中で董卓を討ち取ったまだ見ぬ仇に置き換わるのだった。

「はぁっ!」

 徐晃は敵軍の真っ只中に馬を乗り入れた。左右に一度ずつ振った斧でそれぞれ二人、合わせて四人分の血飛沫が舞った。馬が一歩足を進めるごとにそれは続いた。八人、十二人、十六人。
 賊が蜘蛛の子を散らすように潰走していく。それを、先行して後ろに回り込んでいた歩兵が遮る。徐晃は背を向ける賊へ馬を向けた。

「――――おーーい!! 待て、徐晃! そこまでだ!」

 背後からする野太い男の声に、徐晃は振り下ろし掛けた大斧を止めた。周囲の賊達が、安堵のため息を漏らしながら力無くへたり込んでいく。

「楊奉様、いかがされた?」

「まったく、韓暹の奴はやることが乱暴すぎるし、お前はお前で強過ぎるな。もうこんなに減らしてしまったのか」

 走り寄ってきた楊奉が乱れた呼吸を整えながら言った。馬を用意する時間も惜しんだのか、徒歩である。
 数度、大きく深呼吸を繰り返して息を落ち着かせると、楊奉は徐晃にではなく、腰を抜かしたように地面に座り込む賊達に向けて口を開いた。

「お前達、賊などやめて天子の軍へ入らないか?」





 若い時分には、学問にも相当に打ち込んだ。
 生まれつき物事を深く考える方ではなかったから、結局ほとんど物になりはしなかった。学問を通して得たものは、国への忠義だけであり、それは楊奉の中にしっかりと形を成している。
 ただ、肝心の国は腐りきっていた。中枢には外戚と宦官、奸臣が跋扈し、地方では役人の横暴が民を泣かせていた。黄巾の乱に乗じて立ったのは、漢という国を壊すためではなく、外から立て直すためだった。黄巾の叛徒に明確な王朝打倒の意志などはなく、漢室がその存在と信仰を認めてさえしまえば、共存は容易い。それは漢という国の中に民の力を背景とした一大勢力が出来るということで、悪政に対する自浄作用が期待出来た。
 嬉しい誤算というべきなのか、漢室にも人はいて、全土を覆った黄巾の乱はほどなく鎮圧された。彼らが手と手を取り合い、漢室に蔓延る奸臣共を一掃し、政が正当に還る様を楊奉は一時夢想した。だが、楊奉よりはるかに学識に勝るだろう英傑たちは、優秀なだけ腐敗した国を見限るのも早かった。皆が皆、漢室への忠誠など忘れ、独自勢力の形成に走った。反董卓連合、そして今の群雄割拠の情勢と来て、すでに高祖劉邦から続く血筋を中心に据えた政の形は完全に崩壊している。
 それでも、楊奉の忠義の志に陰りはなかった。
 今や目通りが適うようになった天子も、そんな楊奉を裏切りはしなかった。
 天子は人であって人ではなく、天帝の子であり、天意の代弁者でなくてはならない。古い儒教の教えであり、楊奉もそんな話を真に受けてはいなかった。ただ高祖劉邦、光武帝劉秀から続く、この国で最も気高い英傑の血筋を継ぐ至尊である。それが楊奉の認識であった。
 だが、初めて目にした天子は、確かに人を超越した存在であった。語る言葉は人知を超え、不可解で、それでいて物狂いの類では決してなかった。
 次いで拝謁した際からは、最初の時のような神憑り的な違和は失われていた。幼いながらも聡明で、窮地の我が身よりも民の安寧を思いやる慈悲の心を持ち合わせた少女がそこにいた。強烈な覇気こそ有してはいないが、善良で賢明な君主足り得る素質は兼ね備えていた。もし十年早くこの天子が生まれ、十年早くその地位に付いていたならば、現状は全く違ったものとなっていただろう。
 漢室の帝は、本来なら一介の賊徒の拝謁が許されるはずもない雲上人である。今の天子は、進んで楊奉とも会いたがった。奸臣や宦官に囲われるだけだった父帝を知っているからだ。楊奉を通じて朝廷から上がる情報ばかりではなく、生の外の世界に目を向けようとしている。
 そんな天子の心情に気付いた時、漠然と抱いていた楊奉の忠誠心にはっきりとした対象が生まれていた。

「お前が、頭目を殺しておいてくれたおかげで、面倒が少なくて済んだ。あとはばらばらに配置してやれば、徒党を組んで悪さも出来んだろう」

 城門へ向けて歩きながら、楊奉は小声でささやいた。徒歩の楊奉に合わせて、徐晃も馬を引いて隣を歩いている。

「あのような者達が使い物になるとは思えん。殺されるのを恐れて、ただ首を縦に振っただけではないか」

 楊奉の誘いに乗った賊は、白波賊の兵十人ずつに挟まれる形で二人の後ろに付いてきている。総勢で四十三人で、実に五十人程も徐晃の大斧の餌食となったことになる。特に意図して狙ったわけではないようだが、その中には賊の頭目も含まれていた。

「今はとにかく数が欲しい。それに最初から立派な兵などいないさ。これからしっかりと仕込んでやればいい」

 三千で洛陽を守れはしない。もともとが商業都市であるからには、防衛を目的として築かれた城郭ではないのだ。洛陽の守備は南北に連なる山岳と、東西を固める汜水関と函谷関に依存する。三千では、汜水関と函谷関に十分に兵を配することも出来なかった。
 情勢は予断を許さないが、徐晃は自身を鍛える以外のことにほとんど興味を示さないし、韓暹ら他の頭目達は天子を手にしたことですでに天下までを手中に収めたと浮かれきっている。
 楊奉はこのところ、苦手な思案に明け暮れていた。

「そういって、どうせ仕込むのは私なのだろう?」

「悪いな。賊上がりの俺達には、調練はちと荷が重い」

 白波賊の軍も最初は酷いものだった。しっかりとした軍規も定まってはいなかったし、陣形を組む訓練もろくに積んではいなかったのだ。
 楊奉も兵書の類を学んだことはあったが、そこには調練の仕方などは書かれていない。徐晃が武将として加わって初めて、軍としての体裁が整えられた。徐晃は失った時間のうちの大部分を軍人、それも相当な地位にある人物として過ごしたのだろう。記憶を失った今も、考えるまでもなく軍を率いていた。

「まったく、仕方ないな。―――先に行くぞ」

 徐晃はため息交じり言うと、悄然と歩く新兵達に向き合った。

「背筋を伸ばせ、貴様ら! 我が旗下に入ったからには、腑抜けた様は許さん! 早速調練を開始する。まずは調練場まで駆け足。守兵二十は先導、新兵はそれに続け! 守兵二十は全力で駆けろ! 新兵は離されるな!」

 二十人の先輩に率いられる形で、新兵達が駆けていく。最後尾では再び馬上の人となった徐晃が大斧を振りかざしているから、新兵達の走り方には死に物狂いの態がある。

「おうおう、頑張れよ」

 楊奉は駆け去っていく兵達の背をしばし見送ると、城門へ向けて再び足を進めた。



[7800] 第6章 第1話 陳矯
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2012/12/21 06:54
「おい、はやくこっちに来て酒を注げ」

「―――はい」

 陳矯は賊の頭目の元へとしずしずと歩み寄った。
 兗州、予州、徐州の三州の州境が重なる位置にある村だった。一応所属としては予州に属し、租税は曹操軍へ納めていると、村に入って最初に出会った村人に聞いた。
 旅の途中で偶然この村に宿を求めた。その日の夜に村が賊徒に襲われ占拠されたのは、不運としか言いようがない。
 賊は二百人程もいたが、陳矯は人並み以上には剣は振るえるし、馬も得意だから一人逃げ出すだけなら不可能な話ではない。しかしさらに運が悪いことに、すぐに賊の頭目に目をつけられ身の回りの世話を命じられた。村には他に年頃の娘がいなかったからだろう。陳矯が逃げれば、村の人間に何らかの報復が加えられるだろう。
 唯一の救いは、賊は好き勝手しているようでどこか規律が守られていて、酌取りはさせられても身体を求められることはないことだ。もし組み伏せられるようなことになれば、村人には悪いが斬り結ぶしかない。少なくとも二、三人は道連れに死ねるだろう。
 軍が村に踏み込んだのは、占拠から十日目のことだった。
 軍と言ってもわずか二十騎で、先頭の一人を除いた全員が首に白い布を巻いていた。隊長と思しき先頭の男は布の代わりということなのか、白馬に跨り、具足までが白い。馬はいずれも立派なもので、精鋭と感じさせた。それでも、たったの二十騎である。陳矯は面倒事を増やされるだけだと、その二十騎をただ迷惑な存在と感じた。
 軍は並足で村の中央にある広場まで進むと、脚を止めた。周囲を、賊が囲み始める。陳矯は家並みの影に隠れて、その様子を観察した。村人達も家の窓から、固唾をのんで見守っている。

「全員、今すぐ降伏しろ。武器を捨て跪いた者だけ、命までは取らないでやる」

 白馬に跨った隊長が口を開いた。広場の隅々まで響き渡ったが、大声を張っているという感じもしない。この場に及んでも落ち着いた静かな声だった。
 二十を二百で包囲しているのだ。賊徒の中に隊長の言葉に従う者は皆無だった。
賊の一人が、挑発するように刀をゆらゆらと揺らしながら隊長の方へと歩み寄る。
 白馬が、その男へ向けて力強く一歩を踏み出した。陳矯の目に捉えられたのはそこまでで、気付いた時には男の身体が宙高く跳ね上がっていた。
 一丈(三メートル)近くも突き上げられ、地に落ちた男の四肢はだらんと弛緩している。出血はなく、傷らしい傷もない。それで初めて石突きでの一撃であったことが分かった。地面に激突した瞬間にも男の身体に何の反応もなかったから、恐らく即死だったのだろう。
 どこか現実感の無い光景に、賊達は怒ることも忘れて呆然としている。

「お前達、数が恃みのようだが、己の命は一つきりであることを忘れるなよ」

 白馬が、また一歩踏み出した。
 たった一人を討たれただけで、賊は完全に飲まれていた。前列の者達が後退り、小さなぶつかり合いがいくつも起こっている。

「隣に並ぶ仲間はお前の代わりに死んではくれないし、後ろに隠れる者達はお前のことを盾という程度にしか思ってはいないぞ」

 隊長は駄目押しするように言って、白馬を一気に駆けさせた。他の兵も散開し包囲へ向かった。賊徒はその鋭鋒に触れる前から潰走を始めている。
 半刻後には最初に隊長が言った通り、武器を捨て跪いた者達だけが、十数人残るだけだった。

「……さすが」

 目の前の窓から顔を出している村人が、小さく呟いた。

「さすが? 彼らが誰だか知っているのですか?」

「ああ、お客人か。予州に住んでいて、彼らを知らない者などおりませんよ。曹孟徳様の州牧着任後に残党狩りに駆け回った軍の、常に先頭にいたのが他ならぬ彼らですからね」

 村人は勿体をつけるように、一呼吸置いて言った。

「彼らが白騎兵です」

「―――あれが、あの」

 白馬の隊長は、村長と何がしかを話すと、二十騎をまとめて駆け去っていった。入れ違いに徒歩の兵がやってきて、広場に天幕を張り始める。村人の怪我の手当てや、建物の修繕を手伝ってくれるらしい。
 賊徒に軟禁されていた陳矯の元にも、女性の兵士が様子を伺いに来た。陳矯は兵との会話は早々に切り上げ、賊に取り上げられていた自分の馬を見つけ、飛び乗った。
 しばらく駆けると、並足で進む二十騎にはすぐに追いついた。向こうは並足でも、こちらの陳矯の馬は軽い駆け足だ。

「はて、どうしたものか」

 陳矯は小さくひとりごちた。訳もなく見失うまいと追いすがってはみたものの、追いついてみたところで特に用があるわけでもない。
 陳矯があれこれと思い悩んでいる間に、同じく二十騎ずつの四隊が合流して、白騎兵は総勢百騎となった。途端に足が速まって、付いていくだけで精一杯の陳矯は考え事どころではなくなった。
 百騎が陳矯の存在に気付いていないはずもないが、特に何を言われることもなく行軍が続いた。進路は北西を指していて、曹操軍と袁紹軍とが対峙する兗州と冀州の州境の戦線へと向かっていることは知れた。
 並足と疾駆を繰り返して、百里近くも駆けたところで白騎兵が馬を降りた。鞍までを外すからには、ここで野営か、そうでなくともそれなりに長い休憩を取るのだろう。
 陳矯は滑り落ちるように馬から降りると、うつ伏せに地面へ倒れ込んだ。腿は引き攣り、尻の感覚はとっくに失われている。

「―――おい」

「はっ、はいっ!」

 声を掛けられていることに気付いて、陳矯は慌てて跳ね起きた。
 目の前に白い具足の隊長―――恐らくは天の御使い曹子孝―――の姿があった。

「俺達に何か用があるのか?」

「え、ええっと―――」

 曹子孝は争闘の中での印象とは異なり、存外背の低い男だった。それでも女性の中でもさらに小柄な陳矯は、見上げるようにして視線を返した。

「そ、その、―――わ、私を曹操軍に、あの白騎兵に加えてください!」

 口にして初めて、自分が何のために白騎兵を追い続けていたのか陳矯は理解した。

「……その小さな馬で、ここまでよくついてきたな」

 曹子孝は陳矯の懇願には答えず、世間話でもするように関係のないことを口にした。
 一瞬恥ずかしさを覚えた陳矯は、曹子孝の声に驚きが含まれていることに気付いて、すぐに得意気な気持ちになった。白騎兵の乗る馬はどれも大きい。曹子孝の乗馬など、見たこともない程に見事なものである。速くて、当たり前なのだ。

「馬術にはそれなりに自信が―――」

 言葉の途中で、頭が弾けた。少し経って、ようやく陳矯は頬を張られたのだと理解した。

「何をっ!」

 ずり落ちた眼鏡を直しながら食って掛かった。曹子孝はこちらに目もくれずに横をすり抜けると、陳矯の馬の足元へ屈み込んだ。

「拳を握らなかっただけありがたいと思え。―――角」

 副官らしき傷顔の大男を呼んで何事か命じると、曹子孝は陳矯へと向き直った。

「前足の蹄が片方割れている。それに腱もかなり痛めているな」

 言われて、陳矯は馬へと慌てて取り付いた。

「うちには馬の傷を診られる者もいる。今、呼びに行かせている」

「あ、ありがとうございます」

「割れた蹄で駆け通したその馬に免じて、軍には推挙してやろう。だが馬を大切に出来ない者は、白騎兵には必要ない」

 頭を下げた陳矯に、曹子孝が冷たく言い放った。
 白騎兵の馬は、どれも飼葉を与えられのんびりと過ごしていた。飼葉の持ち合わせなどありはしなかったが、鞍も外してやっていなかったことに陳矯は今さらながら気付いた。





「さすがに白騎兵だけだと速いわね」

 本隊への帰陣を報告へ行くと、華琳は感心したように言った。
 ここ三ヶ月ほど、曹操軍本隊は河水北岸に仮設された軍営に駐屯している。華琳は軍営と政の中心地である陳留とを幾度となく行き来していた。
 一度は兗州に侵攻し掛けた袁紹軍はすでに撤退している。最初に烏桓の騎馬隊と交戦して以降、ほとんど戦らしい戦が行われることはなかった。最後に撤退を開始した二十万の軍勢を追撃した以外では、何度か略奪を狙う烏桓の兵を追い払った程度のものである。
 大軍が去ったとはいえ、冀州南域の要衝である鄴と黎陽の二城に袁紹軍は三万ずつの兵を残していったため、未だ軍営は前線であり続けていた。改めて構え直した袁紹軍は、河北四州を争闘の末に手中にしただけはあって、さすがに隙が無かった。青州では呂布軍も守備を固めた城の攻略には手を焼いているようだった。袁紹軍に隙が出来るとしたら、麗羽が何か大きな企図を実行に移した時だろう。袁紹軍と曹操軍、袁紹軍と呂布軍のそれぞれの戦場は均衡を取り、交戦状態にありながら奇妙な静けさがあった。曹操軍では兵の練度の低下を避けるため、半数ずつの交代で調練が繰り返されている。
 徐州との州境にあるいくつかの集落に賊徒が入り込んだという情報が飛脚を通じて届いたのは、つい五日前のことだった。状況に不審を覚えた華琳は留守の守兵だけに任せることをせず、曹操軍中で最速の機動力を有する白騎兵と曹仁に出撃を命じたのだった。
 曹仁は、賊に侵された村が五つあり、それぞれを白騎兵二十騎で殲滅したこと、わずかに得た捕虜は州境の守備兵に引き渡したことを報告した。

「それと、賊の荷の中からこれが出てきました」

 最後に、曹仁はずっと握り締めていたものを暗い気分で示した。

「呂布や陳宮の意志が働いているとは限りませんが」

 華琳に視線で促され、曹仁は言い訳のように言い足しながらその巻物状の布を広げた。

「―――呂旗、ね」

 退屈そうに報告を聞いていた華琳が身を乗り出した。
 現状では恋や霞、高順ら呂布軍の主力部隊は、袁紹軍と境を接する北方戦域に張り付いているはずだった。すでに青州南域の一部は呂布軍の支配下にあって、袁紹軍とは完全に交戦状態にある。この状況下で、呂布軍が曹操軍の領分へも手を伸ばすとは到底考えられなかった。
 主将が留守の間に、質の悪い残留部隊の兵が暴走したということなのか。いずれにしても使者をやって問責しないわけにはいかなかった。
 すぐに軍議が開かれた。陳留に留まり政を任されている荀彧以外の主だったものは全て集められている。曹仁は自ら使者に名乗り出たい気持ちをぐっと抑えた。袁紹軍との交戦状態にあるのは、曹操軍とて同じである。荀彧の下にいる文官を派遣するという決定が下され、その日は散会となった。
 新兵の部隊を見に来るように、凪から伝言を受けたのはそれから三日後のことだ。
 一通りの調練を終えた兵をまとめた隊で、常に一万ほどが所属している。凪と沙和の下で数度の実戦を経験した後、各隊に振り分けられていくのだ。三人娘のもう一人、真桜は新兵の調練からは外れて、今は工作部隊の隊長に専念している。
 曹仁が訪れたのは、一万の兵が二人組で、一対一の槍の鍛錬をしているところだった。基本的な武器の扱い方の訓練で、新兵のうちに一通り教え込まれる。各隊に配属になってからはこうした個々の力量を磨く訓練は減って、部隊規模での動きの調練が多くなる。

「白騎兵に入れろと騒ぎ立てているもので。他の者なら追い出せばすむ話ですが、曹仁様が拾ってきた者だというので、どうしたものかと扱いに困っています」

「それはすみません。ご迷惑をおかけしました、凪先生」

「先生はおやめください」

 曹仁が軽口交じりに言うと、凪は困ったような表情でちょっと顔を背けた。少し前から、曹仁は凪に内功―――氣の修練を教わっている。
 氣の鍛錬を積むことを内功といい、対して筋骨を鍛えて技を磨くことを外功という。内功という言葉自体は曹仁がいた世界にも存在していた。しかし氣功などと称されるものはお芝居の中の話であり、現実には特殊な呼吸法を練る程度のものか、手品の類であっただろう。張三姉妹の次女張梁は妖術などという怪しげな力を用いるというが、感覚としては氣もそれに近いものがあった。
凪は疑問の余地もなく曹操軍随一の氣の使い手である。氣の塊を拳の先端から撃ち出すという、曹仁の感覚ではもはや絵空事としか思えないような真似を現実のものとする。
 凪に弟子入りしてはみたものの、曹仁はあまり出来の良い生徒とは言えなかった。今だに氣の存在を掴みとることすら出来ていない。もっとも、一般に男は女ほどに強い氣は持たないとされる。子供を産む女性は、胎児の発達の過程で多量の氣を必要とするため、その絶対量が男性よりもはるかに高いと考えられていた。事実、この世界では武術を極めた達人は大抵女であるし、氣の生成に最も重要な器官である臍下丹田は解剖学的には子宮に位置する。
単純な筋力であればやはりこの世界でも男の方が女よりも上で、力仕事を担うのは普通は男だし、兵士も大抵は男である。しかし傑出した武人となると大概が女だった。さして筋肉があるとは思えない恋や、子供の体格から抜けきっていない鈴々や季衣が凄まじい膂力を持っているのは、氣によるところが大きいのだろう。春蘭などは、凪が羨むほどの雄渾な氣の持ち主だという。

「それで、腕の方はどうです?」

「仰っていた通り、馬術はなかなかのものです。剣や槍の腕は、悪くはないといったところでしょうか。それとかなり学問は積んでいるようです。兵書などもかなり読み込んでいるようですし」

 曹仁の紹介というだけでなく、ただ追い出すには惜しい人物と凪は感じたようだった。
 軍馬でもなく、調教も受けていない馬を限界を超えて走らせた。馬と何かを通じ合わせるものも持っているのだろう。

「おいっ、陳矯!」

「はいっ!」

 大声で呼び掛けると、一万の中から小さな影が飛び出した。体を仰け反らせるように一度直立し、駆け寄ってくる。

「お呼びでしょうか、曹仁様!」

「先日は、すまなかったな」

「はい! ……?」

 陳矯は元気よく返した後、良く分からないという表情で小首を傾げた。
 無意味に馬を潰した。半分は、自分がそう誘導したようなものだった。追ってくる馬影には気が付きながら、白騎兵の行軍を続けたのだ。呂旗を見つけた苛立ちに周囲が見えていなかった。今にして思えば、情けないがそういうことだ。

「学問をしているらしいな」

 それ以上は続けず、怪訝顔の陳矯に曹仁は質問をぶつけた。

「はい。元々私は文官志望でした」

「まずは俺の従者からだ」

 騎馬隊の動きについてこられて、文筆を担当出来る者というのはそれだけで非常に有り難い存在ではあった。一人置くだけで、曹仁や角は随分目の前の用兵に集中出来るようになるだろう。

「はっ……? ―――はいっ!」

 陳矯が跳び上がる様に直立して敬礼した。
 それから十日と経たず、呂布軍からの使者が送られてきた。こちらの問責の使者に対する返答としては早過ぎ、先手を打って送り込んできたことが知れた。友好を望む呂布軍の姿勢の表れだろうと、曹仁は安堵した。それも、興奮気味の使者の言を耳にするや一変した。
 使者は、曹操軍が徐州内に侵入し守兵数百を惨殺したと、声を荒げて糾弾していた。










「―――袁術! 張勲!」

 荒げた声に続いて、叩きつけるように戸が押し開けられた。無遠慮に私室へと踏み込んできたのは陳宮で、美羽は目を丸くしてそちらを見ている。美羽と向き合って卓につく七乃は、主君の愛くるしい表情に頬をゆるませた。

「なんじゃ、ねねか。何か用かえ? 妾は今から蜂蜜の時間じゃ。後にしてくれんかの」

 視線を音々音と卓上の小瓶とに行き来させながら、気もそぞろに美羽が言った。

「袁術、貴方は調練の時間のはずでしょう! 張勲も、傅役ならしっかりしてください! そんなことだから曹操軍に不覚を取るのですよ!」

 曹操軍との連日の使者のやり取りに、陳宮は憤りを高まらせているのだろう。いつも通りの癇癪も、増して語気が鋭い。

「あら、もうそんな時間でしたか? 美羽様、蜂蜜は調練が終わってからにしましょうね」

「いやじゃ! 妾はもう蜂蜜の気分なのじゃ。調練の指揮などしとうないっ」

 七乃が悪びれず言うと、美羽が愚図り始めた。

「そ、そうじゃ、ねね。妾の蜂蜜をお主にも少し分けてやる。それで手を打たんかの?」

「美羽、いい加減にするのですよ。あまり駄々をこねるようなら、もう蜂蜜を買って上げませんよ」

「むうーっ、それは困るのじゃ。……仕方ないの。七乃、行くぞ。付いてまいれ」

「はーい、美羽様」

 力無く呟くと、美羽は席を立った。がっくりとうなだれた様子で部屋を出、城門の方へと足を向ける。

「陳宮さん、いつの間に美羽様を餌付けなさったんですか?」

 美羽のあとに続きかけた七乃は、数歩進んで振り返った。

「餌付けなんて人聞きが悪いのですよ。二人で街に行くと、買ってやるまで美羽は店の前から動きませんから、仕方なくです」

「そうですか。美羽様が仲良くして頂いて。美羽様に同じ年頃の友達が出来て、私すっごく嬉しいです。他人に蜂蜜を分けてあげるなんて、美羽様が言い出すなんて」

 七乃は最後に微笑みを一つ浮かべると、美羽の後を追って室内を後にした。

「しかし、ほんに良かったのかのぅ?」

 駆け足で追いつき横に並ぶと、美羽が小声でぼやいた。

「まだそんなことを言っているんですか、美羽様」

 呂布軍に居候中の美羽と七乃の元へ、袁紹軍から極秘裏に書簡が届けられた。
 書簡の内容は要約すると、呂布軍と曹操軍の戦争を煽れという依頼で、見返りとして美羽の後ろ盾となって江南を回復するというものだ。
 河北勢力を一つまとめ上げた袁紹軍は、現状大陸で並ぶ者もない最大勢力である。後は中原を呑みこみ、勢い江南を制し、天下を一統する。袁紹にとっては容易いことと思えたに違いない。
それが中原侵攻を開始する段になって、呂布軍と曹操軍が足並みを揃えた。兗州の北辺を脅かした進軍は、呂布軍の北上によって退却を余儀なくされた。
 兵力で言えば、呂布軍と曹操軍が手を結んだところで、袁紹軍にまだ分がある。逆に将の質では大きな隔たりがあった。天下無双の名に偽りない呂布に、戦術の天才と言って良い曹操、部将にも名立たる者が揃っている。袁紹軍も豊富な人材で知られるが、袁家の二枚看板文醜、顔良であっても両軍の諸将を相手には見劣りするというものだ。袁紹軍が二面作戦を避けたいと思うのも当然であった。
 書簡は無論正式なものではなく、袁紹軍の古老たる田豊と沮授の署名があるだけで、どこにも袁紹本人の印章は押されていない。あるいは袁紹はこの書簡の存在自体を知らない可能性もあった。こうした策謀は袁紹の好むところではない。ただ、表現の仕方に難があるとはいえ袁紹が族弟の美羽に対して格別の愛情を抱いているのは事実で、交渉次第では長江以南を譲り受けることは可能だろう。
 そう判断した七乃は、州境の守兵五百余りを秘密裡に曹操軍の領分へと送り込んだ。反董卓連合以来の元々の呂布軍は青州攻略のために出払っているから、残されている兵は叛徒上がりの新兵ばかりである。呂布軍も人手不足で、その新兵の調練を任されているのが客将である美羽と七乃だった。七乃は特に質の悪い者ばかりを選んで州境へ配備、陳宮の目を盗んで曹操領内の占拠と略奪を命じた。兵は喜々としてそれを行っただろう。

「しかしの、妾は恋やねねのことが嫌いではないぞ」

「わかってますよ~、美羽様。これは呂布さんのためにもなるんです。北では袁紹様が強大な領地を有してますし、南は孫策さんが水軍で固めています。騎馬隊中心の呂布軍がこれ以上力を伸ばすには、征西して曹操さんの領地を刈り取るのが一番なんです」

「そ、そうなのかえ? しかし、恋は曹操軍と事を構えるつもりはなさそうじゃったぞ」

「曹操軍にいる曹仁さんへの友誼で道を誤っておいでなんですよ。だからこそ、居候のお礼に正しい道へ導いてあげるんじゃないですか~」

「う、うむ。そういうものかの」

「そうですよ~。呂布さんも得をして、美羽様も領地を取り戻せる。悪いことなんて一つもないじゃないですか」

「うむ。そうじゃの、七乃の申す通りじゃ。ようやった、誉めてつかわすぞ」

 袁紹軍が美羽のために江南へと派兵するには、前提として行く手を阻む呂布軍を攻め滅ぼし、中原を制する必要がある。考えるまでもない自明の理だが、美羽は七乃の言葉に疑いを向けなかった。

「ありがとうございます~、美羽様」

 七乃は笑顔で頭を下げた。

「とは言え、もうひと押しいたしましょうか。呂布さん達のために!」

「うむ。任せるぞ、七乃」

「さすが美羽様。人知れず恩を返す生来の律義者! かっこいいぞ~!」

「うははー、そうじゃろうそうじゃろう」

 美羽が薄い胸を仰け反らせて高笑いした。



[7800] 第6章 第2話 赤い兎
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/01/06 12:59
 河水以北の領土は、放棄せざるを得なかった。
 北岸に設営していた駐屯地は引き払われ、南岸に新たに防衛線を引いた。河沿いに袁紹軍の上陸を阻む布陣で、真桜が工兵の一部と新兵ばかりの二万を率い、さらに新たに募った義勇兵をそこに加えた。
残る全戦力を、華琳は徐州との州境へ集めた。西と南に対する備えには、申し訳程度に守兵を残したのみだ。
 呂布軍との開戦はもはや避けようがないところまで来ていた。
 呂布軍への使者が、宮殿内で兵に襲われた。さらにそのことを問責するために送った使者も襲われている。立て続けの暴挙にはさすがに陳宮から丁寧な謝罪文があったが、襲撃した兵は直後に自裁して果てているため、詳細は掴めぬままとなった。互いに妥協点など見つからぬまま、使者の行き来も書簡のやり取りも絶え、戦の準備だけが進められた。
 呂布軍は陥落させたばかりの青州の土地と引き換えに、素早く袁紹軍と不戦協定を結んでいた。呂布軍には麗羽の従妹にあたる袁術が客将として滞在していたので、その伝手を頼ってのものらしい。
 華琳の元には、十万を超す兵力が集結している。騎兵は一万五千騎で、歩兵は九万を数える。各地の守りを手薄にして、かなり無理な徴集をかけた結果だ。
 対する呂布軍は六万五千の軍を編成している。騎兵一万五千騎と重装歩兵1万の元々の呂布軍以外に、新たに徐州で加えたばかりの歩兵が四万。騎兵の数こそ拮抗しているが、歩兵は練度も兵力も曹操軍が大きく上回っている。
 それでも華琳は、楽に勝てる戦だとは思わなかった。胸中では激しい昂揚感と、わずかな恐怖がない交ぜとなっている。それは、二十万の袁紹軍が中原へ向けて進発した時にも感じなかったものだ。
 戦をする為に生まれてきたような人間。呂布をそう称すれば、親しい付き合いがある曹仁は怒るだろうか。
 汜水関の戦いで、一度交錯した。大鎌の先端が軽く方天画戟に掠めただけだが、それだけで半身を打ち砕かれたような衝撃が走った。威に打たれた、あるいは気を呑まれたということだろう。威を持って他者の上に立つことに慣れた華琳にとって、それは新鮮な体験であった。

「ここにしましょう」

 丘上に登ると、華琳は本陣の設営を命じた。どこか不服気に兵に指示を飛ばす曹仁を、春蘭がしかつめらしい顔でたしなめている。
 東方に視線を向けると、約五里を隔ててちょうど同じ高さの丘がそびえている。丘と丘の間はほとんど起伏のない原野で、野戦には格好の地形だった。必然、呂布軍はもう一方の丘に布陣することになるだろう。
 州境まで進軍し、本陣を布いて迎え撃つ。それは真っ当な戦だった。
 呂布を良く知る曹仁からは、反対の意見が上がった。極力野戦は避け、領内に引き込み糧道を断つ。呂布を追い込み弱らせ無傷で捕えようという曹仁の真意が透けて見えるが、策としてはそれも真っ当で、奇策に走っていない分だけ確かな効果も予測出来る。軍議では賛意を表そうとする者も多くいたが、華琳は言下に退けた。
 これまで意識してこなかったが、あの日汜水関で負った“傷”が疼いた。一度意識してしまった以上、この疼痛は借りを返すまで続くだろう。借りを返すには野戦だった。

「ただいま戻りました」

 稟と風が、完成したばかりの本陣に姿を現した。
 二人には、河水北岸の後始末を任せていた。頓丘から発干までの各県には、袁紹軍の侵攻に際しては抗わず帰順するように促している。袁紹軍との戦を優位に進めるうえで北岸の領地は得難いものだが、守兵もなく抗戦の構えを取り続ければ烏桓兵の略奪の良い的だった。いずれ取り戻す民と土地を無用に傷付けることを華琳は避けた。
 備えが手薄になった西の荊州と南の揚州へは、幸蘭の諜報部隊を送り込んだ。不穏な動きがあった場合、足止めのために小さな謀叛や農民の反乱を誘発するくらいのことは出来る。
 協力を申し出た桃香達劉備軍は、領内を警邏して民の慰撫に努めさせている。それで領民の無用な動揺は抑えられるだろう。
 心配の種はいくらでも転がっているが、今は呂布との戦だった。
 陣営を築き終えた翌日、向かいの丘に深紅の呂旗が翻った。
 馬防柵を張り巡らせた曹操軍とは違い、無造作にひとかたまりに集まるだけの簡単な陣が布かれている。
 二日、そのままにらみ合いが続いた。三日目に、宣戦布告をするでもなく示し合わせたように両軍が動き始めた。互いに自軍の正義と、相手方の卑劣を信じ抜いている軍である。今さら舌戦を繰り広げ正論を打って鼓舞するまでも無く、士気は高かった。
 春蘭率いる歩兵五万を中心に、黒山賊出身の張燕隊二万をその前衛、後方丘の中腹には曹仁の騎兵一万を置いた。丘上の本陣は歩兵二万に騎兵が五千騎である。
 呂布軍の構えは独特だった。
 原野には紺碧の張旗の軽騎兵一万五千騎と、赤銅色の高旗を掲げた重装歩兵一万が前後して並んでいる。丘上には歩兵四万ばかりが詰め―――恐らく質の落ちる新兵の軍だろう―――本陣の様相を呈している。呂布軍の牙門旗―――深紅の呂旗はそのいずれに拠るでもなく、赤備えの二百騎ばかりで原野にぽつんと孤立していた。
 あからさまなまでの誘いの布陣に、華琳は手を伸ばさなかった。
 呂布の戦は動きの戦だろう。相手を動かし、自分自身はそれ以上に動き回る。そうして騎兵で攪乱して、最後に陥陣営と呼ばれる高順の重装歩兵で突き崩して勝利を決定付ける。重装歩兵の突撃も強力だが、騎兵の動きに翻弄さえされなければ兵力に勝る以上対処は容易い。曹操軍はあくまで待ちの構えだった。
 最初に痺れを切らしたのは紺碧の張旗だった。一万五千騎は蛇行する縦列で張燕隊と春蘭隊を掠める様に駆けた。縦列は波打つ度、歩兵の陣形に小さな衝突を繰り返している。こちらの反応を伺うための瀬踏みの用兵だろうが、見事なものだった。一万五千騎があたかも一匹の巨大な蛇のように連動している。張燕隊は柔らかく、春蘭隊は小さくまとまってそれを受けた。
 張遼は付け入る隙を見つけられなかったのか、春蘭隊をぐるりと一巡すると離れた。呂布の二百騎の赤備えは静観を続けている。
騎兵への対応は十分に試行を重ねていた。春蘭は小さく固い堅陣で跳ねのける。張燕は、衝撃に逆らわず受け流す。兵と兵の間隔を広く取った張燕隊二万の陣と、逆に兵同士が重なり合うぐらいに詰め合った春蘭隊五万の陣は、二倍以上の兵力差にもかかわらずほとんど同じ大きさである。
 高順の重装歩兵が静かに前進を開始した。見ている方が焦れてくるような、じりじりと這うような速さで進む。深紅の呂旗はやはり静観。張遼の騎馬隊は一度離した距離をまたいくらか詰めてきている。
華琳は曹仁の一万騎に伝令をやって、張遼の騎馬隊の抑えを命じた。すぐに一万騎が、わずかに馬首を巡らした。張遼隊が駆ければ、逆落としの強力な一撃がそれを襲う。
 重装歩兵が、ようやく張燕の二万と十歩ほどの距離にまで迫った。山賊上がりの張燕隊が、がなり立てる様な喚声を上げた。高順は焦らずなおもゆっくりと距離を詰めていく。
 矛と矛が触れ合うぐらいまで迫り、あと一歩と言う瞬間、張燕隊に動揺が走った。深紅の呂旗。わずか二百騎で突っ込んでいる。
 血が、兵の身体の一部が、そして兵そのものが中空を舞っていく。陣形を乱すという駆け方ではなく、二万が二百騎に押しに押されていた。そこに高順の重装歩兵が突っ込んだ。二方向からの衝撃に、張燕隊は為すすべもなく崩され掛けている。
 曹仁の騎馬隊が丘を駆け下り介入を試みた。横合いから張遼隊が迫って、それを阻止する。張遼隊への備えのための曹仁の騎馬隊が、逆に張遼隊に抑えられる形だった。
 春蘭の五万を前進させた。高順はさすがに交戦を避け軍を退いていく。呂布も離脱していた。
張燕隊はばらばらに散って逃げると、春蘭隊の背後でもう一度陣形を組んだ。たった一度のぶつかり合いで、二、三千余りも兵を減らしている。





 一万騎の指揮を角に委ね、白騎兵百騎で霞の騎馬隊を振り切った。斜め前方に戦場から大きく離脱していく深紅の呂旗を捉えた。赤備えの先頭を駆ける恋の姿も、小さな影として見える。追った。

「―――まさか」

 指先大だった恋の影が、今は米粒ほどにも小さく見える。白騎兵が引き離されていた。
 曹仁は追跡を切り上げ並足に落すと、一万騎へと合流した。角は春蘭隊五万をうまく楯にする形で、張遼隊を下がらせている。

「二百騎全てが汗血馬のようですね」

 旗持ちの兵が言った。

「あれが汗血馬か」

 わずか二百の旗下は、大将である恋自らが危険に身晒しての囮と思えたが、そうではない。囮であり、誘いであるのは確かだろうが、恋はこの戦場でただの一度も危険を感じてなどいないだろう。二百騎を捉えられるものは、この戦場のどこにもいない。

「涼州ではまれに市場に出回っているのを見ることもありましたが、それにしてもあれらはずいぶんと見事な。並の汗血馬よりもさらに一回り大きく感じます」

「乗り手の付かない悍馬ばかりを買い叩いた、という報告があります」

 従者にしたばかりの陳矯が駆け寄ってきて言った。
 良い馬を与えたため、本気で疾駆する白騎兵にも遅れずに付いてはくるが、さすがに戦闘には堪えない。騎馬隊を切り離す時には角の側に残している。
 仕事熱心な従者で、幸蘭の元に足繁く通っては様々な情報をかき集めてくる。元文官志望故の視点なのか、兵力や戦働き以外の曹仁が見落しがちな部分にもしっかりと目を向けていた。

「そうか。そういう難癖を付けるのは、音々音は上手そうだ。―――しかし、悍馬と言うなら納得だな」

 共に恋の後を追った旗持ちの兵が小さく頷いた。
 あの二百騎の動きは、騎馬隊の駆け方でも、軍馬の走り方でもなかった。騎馬隊はここぞという時以外には常に馬の脚に余力を残して駆けるものだが、あれでは奔馬が走るがままにしているだけだ。あそこまで暴れ回られては、馬上の兵は満足に槍も振るえないのではないだろうか。
 騎兵としての練度で言えば白騎兵には遥かに劣るし、あるいは並みの騎兵以下かもしれない。だが、そんな事とは関係なく異質なほどに速く強い。戦場に孤立し、攻めた後は大きく離脱していくのは、馬が潰れる限界のところを見極め、足を止めてしっかりと休息を取るためだろう。つまり、休んでいる瞬間が唯一あの二百騎の隙と言うことだが、白騎兵が振り切られる以上は詰め寄る術が無かった。あらかじめ兵を伏せるにしても見通しの良い原野であるし、何より恋の戦勘がそれを許さないだろう。
 再び、戦場が動いた。やはり先陣を切ったのは張遼隊だ。一万五千を五千ずつの三隊に分け、五万の春蘭隊にぶつかっては引いていく。
 春蘭隊も今度は堅陣を張るばかりではなく、五万の中央に位置する秋蘭の弓兵部隊から矢を射掛けた。味方歩兵の頭上を越えて降り注ぐ矢は、効果的とは言えないまでも着実に張遼隊の騎兵を射落としていく。
 張遼隊が引き、代わって高順の重装歩兵が進み出た。楯を並べ、飛矢をものともせずに五万と組み合う。
 曹仁は下がっていく張遼隊の背後を騎馬隊で突いた。紺碧の張旗たなびく霞自身が率いる五千騎が向きを変え真っ向から受け、その隙に迂回して勢いをつけた残る一万騎が横合いからぶつかってくる。曹仁は白騎兵だけで飛び出し、一万を真ん中から縦に割った。ただ駆け抜けたというだけでほとんど兵を討ち取ってはいないが、陣形は乱れ、勢いも落ちる。騎馬隊の指揮官同士、互いに混戦を嫌ってそこで兵を引いた。
 騎馬隊全体の動きでも、呂布軍の方が曹操軍よりも幾らか上だった。白騎兵と恋の赤備え、一万騎と張遼隊では、動きでも兵力でも呂布軍の方に軍配が上がるということだ。
 歩兵の戦いは、二隊に分かれた張燕隊が、春蘭隊を迂回して高順隊を囲い込みに掛かっていた。高順隊は円陣を組んで、正面の春蘭隊と左右の張燕隊にそれぞれ対応しながら、悠々と後退していく。重装歩兵の守りは盤石で、正面前線で自ら剣を取る春蘭とその旗下がわずかに攻め込んだだけで、他は小揺るぎもしていない。
 それからさらに四刻(二時間)ほど戦は続いた。
 その間、赤備えの二百騎は戦場の端に留まったままで、ほとんど動くことはなかった。さすがに張燕隊に代わって前衛に入った春蘭隊五万の堅陣を、二百騎で突き崩すのは難しいということだろう。春蘭隊が張遼隊と高順隊の連携を受け止め、張燕隊と曹仁の騎馬隊がそれを補うという戦に終始した。
 日没を前にして、曹操軍は本陣と定めた丘へと兵を退いた。殿軍に騎馬隊が残り、まずは張燕隊が斜面を駆け昇り、次いで春蘭隊が整然と続く。
 呂布軍もそれに合わせて引き下がっていく。張遼隊が引き、気付けばすでに深紅の呂旗は本陣に掲げられていた。
 殿軍の重装歩兵一万から、一騎が馬を走らせてきた。曹仁も、懐かしがるように鼻を鳴らす白鵠を進めた。

「この数ヶ月で、また背が伸びたか?」

「そうかな? 自分じゃよくわからない」

 曹仁が何気ない口調で問いかけると、同じく何気ない口調で高順は返した。相変わらず兵と同じ具足をぴしっと着込み、深紅の襟巻きをしている。
 具足越しにも年相応の線の細さは感じられるが、高順の身長はもうほとんど曹仁と変わらないほどだった。男としては小柄な部類に入る曹仁だが、それでも高順の発育は目覚ましい。いずれは角のような大男にまで成長するのかもしれない。

「音々音なんかは、もうすっかり見下ろす感じだろう?」

「まあ、あいつは元からチビだったし」

「仲が悪いのは相変わらずか」

 もっとも、仲が悪いのは確かだが、お互いを嫌いあっているというわけではないようだった。そこには子犬同士がじゃれ合うような微笑ましさがある。

「すっかり、立派な軍人になってしまって。恋に拾われ、皇甫嵩将軍の屋敷で暮らした、お前の定めだったのかもしれないな」

「育ててくれたのは仁兄だしな。―――皇甫嵩将軍の屋敷か。懐かしい」

 高順は過去を偲ぶように目を閉じ、小さく嘆息を漏らすと続けた。

「あれは家族だったな。俺にとっては唯一の。―――恋さんが優しい上のお姉さんで、霞さんは気ままな下のお姉さん。音々音は口喧しい妹で、皇甫嵩将軍がお父さん、仁兄は、―――お母さんかな?」

「……俺がお母さんかよ。将軍が母親で、俺が父親で良いじゃないか」

「外で働いてお金を稼ぐのがお父さんで、家で子供達の面倒を見るのがお母さんだろう、普通は」

「……まあ、そうだな」

 適当な反論も見つからず、曹仁は話題を変えることにした。

「陥陣営と、呼ばれているんだったな」

「ああ。陥とせない敵陣は無い、はずだったんだけど。今回の戦ではいまだ崩し切れずにいるよ」

 恋の赤備えと霞の精鋭軽騎兵が敵陣を乱し、高順の重装歩兵がそこを打ち崩す。単純な連係だが、呂布軍の騎馬隊を抑えることの出来る軍が現状中華の何処を見渡しても存在しない以上、極めて有効な手だった。加えて言うならば、高順の好機と敵陣の弱い箇所を見抜く洞察力の高さが、さらにこの連携を盤石のものとしている。敵陣を必ず陥落させる、そう呼ばれているのも納得ができるし、その異名が良い方に働いてもいる。ただでさえ恋に崩されたところに、高順に兵を向けられることでさらに兵達は浮き足立つのだった。

「お前の得物、槍なんだな? てっきり恋を真似て戟でも使うかと思っていたが」

 曹仁は高順の手にする武器を指して、また話題を変えた。

「言っただろ、仁兄に育てられたって。仁兄が朝夕修練しているのを、ずっと見ていたからな」

 すっと、高順が槍を構えた。促されるように、曹仁も構えた。両者の構えは、寸分違わぬものであった。
 今日の戦はすでに幕を降ろしているが、そもそも高順の瞳に敵意などは微塵もない。培ってきた技を曹仁に見てもらいたいという、健気で純粋な少年の表情を浮かべている。
 立ち上がりは静かだった。互いに相手がその構えからどう動けるのかを熟知している。槍の長さもほとんど同じで、成長した高順と曹仁では手足の長さも大した差はない。両者の間合いは等しい。
 動いたのも、同時だった。静寂の中に金属音が鳴り響く。
 中空で、突きにいった槍と槍がぶつかり、弾き合っていた。

「―――驚いた。確かに俺の槍術だ」

 一瞬、高順が槍を狙って突いたのだと、曹仁は錯覚した。同じく高順が浮かべた驚愕の表情が、それを否定する。
 最短距離を通って相手を狙う曹仁の槍術が生んだ偶然の産物であった。それはとりもなおさず、高順の槍が、曹仁のものと寸分違わぬ軌跡を描いたという証左でもある。
 へへっと、高順が得意気に小さく笑った。とたんに、曹仁の胸に愛おしさがこみ上げた。

「……華琳に、―――曹孟徳に、降るつもりはないのか? もちろん悪いようにはしない」

「俺はそれならそれで構わなかったんだけどな。恋さんに天下を、って叫び続けている奴がいる。恋さんもその願いを叶えてやるつもりみたいだ」

「音々音か。変わらないな、あいつも」

「俺も、恋さんが統べる天下というのも悪くない気がしている。恋さんは優しいから、一度手中に拾い上げたものは、決して見捨てたりはしない。それこそ、捨て犬や捨て猫の類までな」

 袂を分かった自分を責める言葉なのだと、曹仁には感じられた。
 恐らく高順にはそんな気持ちは微塵も無く、恋に対する敬慕だけが見て取れる。それでも胸に痛みを覚えるのは、曹仁自身に自責の念があるからだろう。

「俺も恋さんに拾われたし、音々音だって似たようなものだ。俺たちが、恋さんの手の平に天下を握らせてみたいと思うのも、当然のことだろう? 恋さんは、優しいだけじゃなく、誰よりも強い。強いから、皆を守れる。きっと、戦のない平和な世の中を作ってくれる。―――仁兄こそ、俺達の元へ降るべきだ」

 高順は開けた掌を、曹仁へと差し伸べながら言った。
 戦災孤児だった少年が、戦のない世を作るために戦うと言っている。ただ周囲の状況に流されてというのでなく、しっかりと自分の意思で戦う道を選んだということだ。

「本当に、立派な軍人になったものだ」

 一抹の寂しさと共に、曹仁はそう吐き出すのみだった。





 曹仁が、高順の差し伸べた手を取ることはなかった。
 戦で捕縛してやるから、怪我をしないように気を付けろと、それだけ言い残して白鵠と共に風のように駆け去った。
 曹仁は、いつだって高順の身を案じてくれた。敵味方に分かれた今もそれは同じで、兄がいたら、きっとこんな感じなのだろう。
 曹仁の騎馬隊が撤収していく。高順も重装歩兵を本陣まで下がらせた。
 一日の戦闘が終わった。伝令をやって各隊の状況を確認し合うだけで、特に軍議などが開かれる予定はなかった。呂布軍の戦のやり方は初めから一つで、今さら確認するまでもない。高順は常に霞との連係を考え、恋が作る刹那の隙を逃さないようにするだけだ。
 損害は、曹操軍の方がずっと多いだろう。恋の赤備えに至っては一騎も欠けてはいない。重装歩兵の損耗も五百に満たず、一番犠牲の多かった霞の騎馬隊も約一千騎を失っただけで、そのうちの二百は馬の負傷によるもので、替え馬の補充で回復出来た。新兵四万の指揮は袁術と張勲だが、使い所は歩兵部隊の隊長である高順に委ねられていて、今日一日の戦には参加させなかった。本陣に大軍を据えることで、曹操軍が兵力に物を言わせた強引な攻めに出ることの抑止となっている。
 今のところ、戦は五分から呂布軍のやや優勢と言って良いだろう。ただ元々の兵力差があるから、このまま戦を続けて先に潰えるのも呂布軍の方だった。
 かねてからの噂通り、曹仁の白騎兵の働きが目覚ましかった。
 董卓の片腕で、曹仁の友人でもあった張繍はあの騎馬隊を五百騎も育て上げ、従えていたという。張繍は何度か皇甫嵩の屋敷に訪れることもあったが、高順の記憶の中の姿は平凡なものだった。それが、どうしてもあの白騎兵の華々しさとは結び付かない。恋の赤備え以外が、霞の騎馬隊を振り切るのを見たのは初めてだ。
 夏侯惇将軍の武も凄まじく、重装歩兵の犠牲の半分は彼女とその旗下によるものだ。張燕隊の用兵も独特で、普通の軍ならば最初の赤備えとの連係で半壊させている。
 総じて、曹操軍はこれまで戦ったどの軍勢よりも優れていた。

「篝を絶やすなよ」

 見晴らしの良い原野戦であるから、夜襲の可能性はかなり低い。それでも高順は普段以上に篝を焚かせ、哨戒の兵を歩かせて敵襲に備えた。
 翌二日目の戦闘は、歩兵同士のぶつかり合いから始まった。夏侯惇の五万が盛んに押し込んでくるが、重装歩兵の陣形に綻びは出ていない。
 霞の一万五千騎が張燕隊へ突撃を繰り返し、曹仁の一万騎はそこへ介入している。夏侯惇隊五万と高順の重装歩兵は正面からの押し合いとなった。
 重装歩兵は前後に並ぶ二人一組を最小単位として機能させている。前衛後衛ともに二の腕から首元までを覆う重厚な具足姿に変わりはないが、前衛が楯と短戟を手にするのに対して、後衛は長槍を得物とする。後衛の長槍は前衛の頭上を越えて敵兵を討ち、前衛の楯は敵軍の飛び交う飛矢から自身はもちろん後衛の身までを守りきる。分厚い鉄の塊から突き出される戟と槍は、並みの兵であれば正対しただけで戦意を刈り取られる。

「押せ押せっ!! 敵はわずか一万! ここで押さねば曹操軍の名折れぞ!!」

 夏侯惇が前線に現れた。旗下の百騎と四百ばかりを従え、音に聞こえた大剣の一振りで楯ごと重装歩兵を弾き飛ばしている。そのほころびを繕うように、すぐに後方から一組が前進して陣形を立て直した。重装歩兵の基本陣形は中心から外へと向かう円陣で、多少前線を崩してみたところですぐに二番手、三番手と兵がせり上がる。いかな猛将と言えど、容易く攻め入れるものではなかった。

「ええいっ、逃げるなっ!!」

 頃合いと見て、高順は重装歩兵に後退を命じた。夏侯惇とその旗下は、怒号をあげてなおも喰らいついてくる。焦らず、じりじりと軍を退いた。堅陣を組み続けていた五万の陣形が、夏侯惇に引きずられ間延びした。

「―――今だ、かかれっ!!」

 視界の片隅に赤い一点が浮かび上がった瞬間、高順は攻勢を命じていた。駆け出した重装歩兵に先んじて、赤備えの二百騎が五万へ突入していく。一瞬、重装歩兵を堰き止める動きを見せた夏侯惇とその旗下も、深紅の呂旗に気付くとすぐに反転して、高順の追撃を受けながらも五万へと合流を果たした。
 重装歩兵が夏侯惇隊と再度押し合いを開始した時には、すでに恋の赤備えは一度五万の陣形を縦断し、二度目の突撃に入っていた。今度は横断して、五万の堅陣に十字に屍の山を築いていく。重装歩兵は、今度は容易く夏侯惇隊を押しやって進んだ。
 五万から飛び出した赤備えに、五千騎が迫った。張遼隊に掛かり切りの曹仁の騎馬隊ではない。紫地に黒文字の曹は、曹操軍の牙門旗だ。本陣付きの騎兵を、曹操自らが率いて動かしている。
 赤備えは、交戦を避けて距離を取った。
 恋の赤備えは、馬自体が敵を跳ね飛ばし踏み潰して突き進むため、ただでさえ通常の騎馬隊よりも損耗が激しい。五万を二度も両断した以上、十分に脚を休めねば壊れる馬も出てくる。
 赤備えの追撃を諦めた五千騎が背後に回り込む動きを見せたため、高順は陣形を固めたまま重装歩兵を後退させた。





 二日目の戦闘が終わった。
 呂布に蹂躙された春蘭隊の被害が大きく、四千もの兵を失っている。張遼隊の襲撃を受け続けた張燕隊の被害も二千近いが、曹仁の騎馬隊と連携することで相手にも相当な損害を与えていた。
春蘭隊は本陣付きの歩兵を加え再び五万を編成し直した。黒山賊出身を集めた張燕隊には補充出来る兵がおらず、明日以降も数を減らしたままの戦闘となる。

「やはり、あの赤兎隊が厄介ね」

 二百の中心の呂布を討てばこの戦は終わりだった。消耗したところを狙って襲っても容易く振り切られた。華琳自らの出馬であったが、呂布は危地へと踏み込んではこなかった。

「赤兎隊? 何です、それは?」

 報告に目を通しながら洩らした小さな呟きを、曹仁が聞きとがめた。
騎馬隊は丘の下で待機中だが、曹仁は報告のために自ら本陣へと出向いてきていた。

「あら、聞いていないの? あの呂布の騎馬隊の呼び名よ。朱に染まって跳ね回る動きが、赤い兎のようだって、皆そう呼んでいるわ。兎なんて可愛らしいものでは到底ないけれどね」

 呂布の二百騎。馬は走るというよりも跳ね回るように駆け、いずれも汗を流すと毛色が血のように赤く染まる汗血馬であった。兵の具足もすべて赤で揃えられている。赤兎隊にやられた兵の大半は馬上から突き出された槍にではなく、馬の体当たりや蹄に掛けられて命を絶たれている。戦場を駆ける姿は、確かに大きく真っ赤な獣が飛び跳ねる様を思わせ、駆け抜けた後はまさに獣に蹂躙された爪跡を残すのみだった。赤い兎というのは言い得て妙でもあるし、あえておどけた名を付けることで兵達は恐怖心を薄らげようともしているのだろう。

「へえ」

 曹仁がいたく感心した様子で、二度三度首を縦に振った。

「なにか、思うところがありそうね?」

「いえ、たいしたことではないのですが、恋―――呂布の飼っている犬の名前が、セキトと言うのですよ」

 曹仁はそんな益体もないことをさも興味深げに話すと、本陣を後にした。
 明くる三日目の戦はより慎重に開始した。
 歩兵はこれまでと変わらず春蘭隊が前衛、張燕隊が後衛の二段だが、二隊の間隔は境を接する位に近く、密な連携を取らせた。騎馬隊は丘の中腹に留めたままである。
 赤兎隊の動きを、どこかで掴み取る必要があった。華琳自身を囮とした誘いにも乗らぬ以上、呂布の用兵を読むのは難しいだろう。
 昨日の戦では高順の重装歩兵が作った隙に乗じる形で戦場に介入してきた。やはり堅陣を固めた五万への正面からの突撃は、あの呂布も躊躇うということだ。他の隊とのぶつかり合いの中で赤兎隊を誘う、というのが現状最も有効に思える手だった。
 高順の重装歩兵と張遼の軽騎兵が、同時に動き始めた。
 二日間の戦で、華琳はこの二人の用兵への対応は十分に学んでいる。
高順の用兵は華琳の想定を超えることが無い。想定した中で、常に安定して最良の選択肢を選び続けてくる。
 対して張遼の用兵は振り幅が大きい。時に華琳の想定を超えることもあるが、無謀に過ぎる悪手を打つこともある。
 両者ともに手強い相手ではあるが、呂布ほどに出鱈目な脅威は感じさせなかった。
 赤兎隊の外に注意を払わなければならないのは、本陣に据えられたまま動かない四万の存在だろう。新兵ばかりの寄せ集めと言うが、これまで一度も戦線に投入されていないために実際の練度は測り切れていない。仮に練度で劣るにしても、やはり四万と言う数は大きな武器だった。
 張遼隊が、戦場を大きく迂回して後衛の張燕隊へと突っ掛けた。張燕隊が抗わずに二つに分かれて道を開けると、張遼隊の正面には春蘭隊の堅陣が待ち構えている。五万とまともにかち合うのを嫌って、張遼は馬を反転させた。分かれていた張燕の二隊が集結して道をすぼめ、二、三十騎ほどを打ち落とした。
 高順隊は春蘭隊と付かず離れずの間合いを保っている。春蘭隊からぱらぱらと矢が射掛けられているが、楯と重装備に守られた歩兵にはほとんど効果は出ていない。
 赤兎隊に動きはない。
 そのまま小さなぶつかり合いを繰り返して、半日が過ぎた。日も傾き、三日目の戦も終わろうかと言う頃合いになって、戦場が動いた。
 張遼の騎馬隊が、牽制もなしに五万の春蘭隊へまともに突っ込んでいた。
 ひとかたまりで飛び込んで、五万の中心でいくつもの小隊になって四散した。小隊は歩兵の陣形をかき乱すだけかき乱して離脱していく。張燕隊がそれを追い立てた。敵ながら無茶な攻めで、二、三千騎は失い、さらにいくつかの小隊が張燕隊に取り込まれている。その分、春蘭の陣形に与えた損害も大きかった。乱れに乱れた陣形に、高順の重装歩兵がまともにぶつかった。
 ここが勝負所と読んだのか、呂布軍本陣の四万が三日間の戦の中で初めて動いた。いつの間にか、きらびやかな群青色の布地に袁の旗が翻っている。客将袁術の指揮だろう。丘を駆け下り、高順隊の後続として春蘭隊へと向かう。曹仁の騎馬隊を急行させた。四万が戦場の真ん中で繰り広げられる高順隊と春蘭隊のぶつかり合いに介入する直前、二隊を迂回して駆けた騎馬隊がその鋭鋒を打ち砕いた。横合いからぶつかった一万騎に追い立てられ、四万は戦場の外へ外へと押しやられている。
 戦局が、大きく動き始めている。兵力差を活かす瞬間だった。
 華琳は本陣の歩兵一万を春蘭隊の援護に、さらに騎兵五千も高順の重装歩兵の背後へと向かわせた。しっかりとした陣形を作った歩兵一万が、乱れた春蘭隊の陣をかき分け突き進み、重装歩兵に当たった。騎兵五千も勢いをつけて後背を突く。それで重装歩兵の圧力から一時解放された春蘭の歩兵も、落ち着きを取り戻しつつある。
 本来損耗を避けねばならない寡兵の呂布軍が打った果敢な一手は、今や完全に裏目に出ていた。高順の重装歩兵を殲滅出来ると、華琳は確信した。

「―――華琳さま!!」

 蘭々が声を上げ、戦場の一点を指差した。
 赤備えの二百騎が、曹操軍の本陣目掛けて真っ直ぐに駆けてくる。
 あからさまなまでに、最短距離を突き進んでくる。本陣は、馬止めの柵を張り巡らせてある。騎兵のみでの奇襲など不可能だった。どこかで反転して、交戦中の隊に介入してくる。
 どこで方向を変えるのか。華琳は、それだけを読もうとしていた。まだ、本陣へと向かっている。本陣には五千余りの歩兵と工兵、虎豹騎、そして親衛隊を残すのみだ。虎豹騎に、突撃の用意を命じた。いくらあの二百騎であっても、反転する瞬間が騎馬隊の弱みであることに変わりはない。
 呂布は、まだ反転の気配を見せていない。傍らで蘭々が、小さく息を呑んだ。

「工兵隊、用意」

 真桜の育てた工兵は、天下に類を見ないものだ。外からの攻撃には堅固な馬止めの柵も、内側からなら瞬く間に除けることが出来る。
 呂布の騎馬隊は駆け続けている。すでに、先頭の呂布の顔がはっきりと見て取れるほどに近い。
 華琳は一瞬、視線を左右に送った。季衣と流流。彼女たち以外にも、勇猛で鳴らした親衛隊―――虎士の面々が顔を揃えている。逆落としの一撃。ここで、呂布を打ち倒せるかもしれない。
まだなのか。あるいは、こちらが柵を取り払う瞬間を狙って、やはり本陣を突くつもりなのか。だが工兵隊への指揮は、華琳自らが出す。こちらの勇み足を狙っているのだとしたら、ずいぶんと舐められたものだった。
 呂布の二百騎。視界いっぱいが朱に染まったような強烈な印象は、それだけ距離が近いということだ。もう、反転は間に合わない。何か、嫌な感じが華琳の胸をよぎった。
 馬止めの柵に、呂布の騎馬隊が衝突する。そのはずだった。
 飛んだ。いや、跳んだのか。

―――赤い兎。

 刹那、華琳の脳裏に過ぎったのはそんな言葉だった。
 柵を跳び越え、呂布と二百騎は本陣内へと堂々と乗り入れていた。跳躍の勢いもそのままに、兵を踏み荒らしていく。

「くっ、敵はわずか二百! 落ち着いて応戦なさい!」

 華琳が声を励ますも、本陣の乱れは納まる様子もなかった。前面に展開する兵の半数が、槍も持たない工兵であったことも、混乱に拍車をかけている。
 馬防柵を跳び越えるなどと、誰が予測しようか。
 柵は一丈には届かないまでも八尺(二メートル四十センチ)ほどの高さもある柱と、横木を組んだものだ。柱と柱の間の横木が渡されているだけの部分は他よりいくらか低いが、それでも大柄な兵の頭上をはるか越えているのだ。
 汗血馬の巨躯は、触れるものみな跳ね飛ばし、踏み締めていく。やはり騎兵というよりは、暴れ回る獣に近い。獣に人が打ち勝つには、武器を取って陣形を固め、罠を張って知恵を絞らねばならない。混戦の中であの赤兎隊を止めるには、十倍二十倍の数の勇士が命を捨てる必要があるだろう。
 喧騒の中で、華琳旗下の親衛隊と虎豹騎だけは、さすがに混乱とは遠い所にあった。

「華琳さま、ここは退いてください。季衣、流流っ! 華琳さまを!」

 旗下だけで呂布との決戦に挑む。華琳の脳裏に浮かんだそんな分の悪い賭けを振り払うように、蘭々が言った。季衣と流流が、左右から華琳の乗馬の轡に手を伸ばした。
 原野の戦場では、散っていた張遼隊が再び一つにまとまり、やはり本陣を突く構えを取っている。本陣を守る馬止めの柵も、混戦の中でいくつかの綻びが生じていた。
 華琳に、否やはなかった。

「まずは近衛隊が、次いで虎豹騎が離脱。全軍にも、後退の伝令を走らせなさい」

 蘭々にそれだけ命じると、華琳は馬首を返した。

―――負けた。

 呂布は、本陣が手薄になるその一瞬だけを待っていたのだろう。噛み締めた歯が、ぎりぎりと音を鳴らした。



[7800] 第6章 第3話 荀彧と劉備
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/02/17 09:29
「荀彧さん!」

「あら、劉備じゃないの。一体どうしたの? 巡回は順調かしら?」

 執務室に飛び込んで来たのは、領内を巡回中のはずの劉備だった。広くもない室内には、桂花の他に曹操軍の政を司る文官が二十人ほども詰めている。文官達が何事かとざわめく中、桂花は書類へ向けていた顔をおもむろに上げ、我ながら白々しく問い質した。

「……えっと、華琳さんが軍を後退させたって聞いて、急いで戻ってきたのだけど」

「ああ、そうなの」

 鼻白んだ様子で言葉を濁す劉備に、桂花はやはり気の無い返事で返した。
 曹操軍敗走の報告は、すぐに陳留にも届けられた。
 劉備軍へは情報を降ろしていないから、劉備は独自の経路で知ったのだろう。
 曹操軍にとって劉備はあくまで客将であり、桂花が共に謀るべき同胞ではない。華琳がいれば密に連絡を取りもするだろうが、桂花にそのつもりはなかった。劉備軍からの報告だけは絶えず入れさせているが、こちらからは巡回経路について多少の指示を飛ばすだけだ。
 巡回と言っても劉備の場合はただの街の散策のようなものだった。報告書の中にはどこそこの料理が美味しいとか、子供達が元気だっただのと、そんな劉備個人の日記帳のようなものが紛れ込んでいることがある。諸葛亮と鳳統の添削を免れたのか、あるいは桂花の無用な警戒を避ける目的であえて見過ごされたのか、判断に悩むところだった。
 華琳は劉備に臣従を求めず、多くないとはいえ兵を抱えさせたまま膝元に置き続けている。曹操軍内にあって劉備は特異な存在だった。華琳の劉備に対する特別扱いは諸将の不満の種となりかねないもので、他の誰にも増して桂花自身にこそその感情は強い。

「助けに行かなくていいんですか?」

「必要ないわ。少し下がって本陣を構え直すという連絡があったから」

 敗報がもたらされた直後こそ多少の混乱はあったものの、すでに執務室で行われているのは通常の政務だった。華琳が戦場にいて自ら指揮を執る以上、遠く陳留であれこれと画策したところで大きな意味はない。いつでも華琳の要求に答えられるように武器や糧食、資材を蓄えたなら、後は政に傾注するしかない。

「そうでしたか。兵の皆さんも、随分亡くなられたと聞きました。お悔やみを申し上げます」

 皮肉でもなんでもなく、真実沈痛な面持ちで劉備が言った。
 執務中の文官達が、劉備につられたように顔を曇らせている。普段、兵を書類上の数としか考えていないような者達がだ。

「わかったのなら、巡回に戻ってちょうだい。貴方の間抜け顔はそれ位しか役に立たないのだから」

「間抜け顔って。相変わらずひどいなぁ、荀彧さんは」

「巡回がいやなら、ここで一日貴方の嫌いな書類仕事に励む?」

「う、ううん、別に巡回はいやじゃないよ。い、いってきまーす!」

 脅しつけて追い出すと、幾人かの文官が桂花に責める様な視線を向けていた。
 劉備には、華琳から一定の権限が与えられている。民からの苦情に対して自らの判断である程度まで対処することが許されていて、それは文官達の負担をかなり軽減してくれた。当初、官吏の大半はそれといって劉備に感謝するではなく、むしろ職分を侵されたという不快感を抱いていた。それがわずか数か月のうちに、劉備にはっきりと好意を示す者が現れ始めている。
 劉備はやはり危険な存在だった。現状では曹操軍にとって歯牙にも掛けない小石に過ぎないが、だからこそ今のうちに除いておくべきだ。それは、華琳に可愛がられる劉備に対する嫉妬などではなく、曹操軍の文官筆頭としての桂花の考えである。
 華琳がいない今、後々の叱責覚悟で手を汚すのも自分の仕事だと桂花は思っていた。幸蘭の諜報部隊ほど大規模なものではないが、桂花の元にも汚れ仕事をこなす者はいる。
 しかし、一見して気の緩み切ったこの少女には、存外付け入るべき隙が見つからなかった。
 野営では関羽、張飛、趙雲という一騎当千の強者に身を守られている。民の中に一人で姿を現すこともあったが、不思議と耳目を集め、不心得者の入り込む余地が無い。宮中には一人で参内する機会も多いが、曹操軍の体裁を考えればそこでの事故は避けたかった。

「……さあ、仕事に戻るわよ」

 桂花はひとまず頭を切り替え、手を叩いて文官達にも眼前の仕事への集中を促した。
 日が落ちるまでには政務を終え、桂花は私室へ戻ることが出来た。戦時の混乱と華琳の不在で文官一人一人が回さねばならない仕事量は増しているが、毎日繰り返されればそれも単純作業の域を出ない。華琳が政に集中する際には日常業務に加えて、学校制度の施行を初め革新的な仕事が次々と舞い込む。戦時の今は文官達にとってはむしろ気の抜けた時間と言えるかもしれない。

「―――叔母さん」

「入りなさい」

 もっとも、曹操軍の文官筆頭である桂花に限っては、そうとばかりも言ってはいられない。
 訪いに返すと、私室の戸が開かれ男が一人姿を見せた。
 桂花と同じ筍氏一門の荀攸である。年上だが、桂花の祖父が彼の曽祖父に当たるため、一門の家系の中では一世代下となる。桂花のことを叔母と呼ぶのもそのためだ。

「さっそく報告してちょうだい」

「―――はい」

 いくら同族とはいえ、私室に男を長く留まらせたくはない。桂花は顔を合わせるや切り出した。
 荀攸の漢王朝での官位は蜀郡太守である。太守は職権こそ一郡に留まるが、等級は州牧と同じ二千石である。華琳も正式にはいまだ陳留郡太守であり、兗州および予州の州牧の兼任を自称するのみである。朝廷での地位で言えば荀攸は華琳と同格なのだ。
 戦乱の中で任地への道を失い浪人暮らしをしていたところを、桂花が拾い曹操軍へと仕官させている。年齢も漢王朝での地位も桂花よりも上だが、今は下に付けて働かせていた。幸蘭の飛脚から上げられる多種多様な情報から、曹操軍領外の情勢を取りまとめるのが主な役割である。
 戦場の華琳をわずらわせることのないよう、領外に向けて様々な手を講ずるのも桂花の仕事だった。
 桂花は荀攸の差し出した書簡に目を向け、報告に耳を傾けた。
 北方に境を接し河北四州をまとめる袁紹軍、南方には揚州の孫策軍、そして西方の荊州。報告内容は、その三勢力の情勢が中心となる。
 まずは南方、一度は孫策の元でまとまり掛けた揚州だが、今再び豪族達の動きが活発化していた。広大な揚州は呂布軍の領分とも南北に境を接している。陳宮が策を講じたと予想されていた。呂布軍には先日まで揚州の支配者であった袁術が客将として居付いている。評判の悪い領主ではあったが、多少の影響力は残しているだろう。言うまでもなく、揚州の乱れは呂布軍だけでなく曹操軍にも益する。これでひとまず南からの脅威に恐れる必要はなくなった。
 北方、最大の敵である袁紹軍にも動きは見られない。侵攻を主張する重臣達に対して、背後を突くなど王者の戦にあらず、などとのたまったらしい。河水沿いの曹操軍の守兵を除くための策と言う可能性は、こと袁紹に限って言えばかなり低いと思われた。袁紹、というより袁紹軍は、急襲にて幽州の公孫賛を降し、その後も幷州、青州の攻略には硬軟入り乱れた様々な手を打っている。しかし、華琳にだけは真っ当な戦で勝とうという気持ちを袁紹は強く持っているようだった。真桜がまとめている北方への守兵のいくらかを、華琳の本隊へ補充することも桂花が熟慮すべき事柄である。
 西方、荊州は沈黙を続けている。州牧の劉表は、景帝の第四子にして武帝の異母兄に当たる魯恭王劉余を祖とする名士である。同じく魯恭王を祖とする益州牧劉焉や、景帝第八子の中山靖王劉勝の後裔を名乗る劉備とは、遠い同族ということになる。
 現状、劉表からは乱世に対する野心は感じられない。学問を重んじ、自らも儒者として名高い。太学を開いて、広く名士を募っていた。戦乱の中に合って、荊州は学術の中心地と呼ばれていた。
 貧富、家柄の差無く学問を授けようという華琳の学校制度は、特権階級を自認する名士連からは評判が悪い。そうした意味では、荊州とは思想的な対立関係にあると言えた。ただ、それで兵馬を挙げようという血生臭さが今の荊州からは感じられなかった。
 西方にはもう一州、漢朝の都洛陽を有する司隷(司州)が存在する。反董卓連合軍の退去以後、都と天子をめぐっての小勢力同士の小競り合いが続いていて、一つにまとまる気配はなかった。やはり曹操軍にとっての脅威は感じられない。

「ひとまず問題は無さそうね。今後も警戒だけは怠らない様に」

「はい」

 心得たもので、荀攸は一礼すると速やかに退室した。





「―――深紅の呂旗」

 翌早朝、桂花は宮中へ駆け込む兵の喧騒に起こされた。寝癖の残る髪を頭巾で隠し急ぎ城壁を上ると、眼下に見えたのは確かに兵達の言う通り、呂布軍の牙門旗である。

「叔母さん、どうしますか?」

 先に来ていた荀攸が駆け寄ってきた。

「急ぎ兵を集めなさい。……そうね、民からも協力者を募りなさい」

「はい」

 荀攸が城壁を駆け下りていく。

「荀彧さん、やめた方が良い」

「―――劉備? 貴方、まだ陳留に残っていたの?」

 背後から声を掛けて来たのは、昨日追い出したはずの劉備だった。その隣には張飛の姿もあって、珍しく難しい顔をして呂布軍を睨みつけている。

「えへへ、ちょっと嫌な感じがして。ここにいれば何かあった時にすぐに情報が入るかなって」

 劉備は言い訳がましく笑いながら言うと、真面目な表情を作って続けた。

「あの二百騎は強いよ。ううん、強いなんてものじゃない。手を出さない方が良い」

 華琳の先の敗走については、すでに詳細な報告がもたらされている。曹操軍内では赤兎隊と呼称されている呂布軍の赤備えの強さは、桂花も十分に理解していた。

「劉備軍は? 城内にいるの?」

「ううん。陳留には鈴々ちゃんと、あとは護衛に少し付いて来てもらっただけだから」

「―――そう」

 一瞬、劉備軍の戦力に期待した自分を桂花は恥じた。華琳から留守を任されたのは自分で、劉備はいずれ討つべき敵の一人だった。
 今回の戦では、各地から守兵の大半にまで招集を掛けているが、さすがに本拠の陳留には十分な兵力が残されている。さらに義勇兵の徴集に民が答えてくれる程度には、善政を心掛けてきた自信が桂花にはあった。
 一刻(三十分)の内に、三千の兵が集められた。
 緊急の徴集に対する兵の機敏な動きは、普段の調練の賜物だろう。
 義勇兵の募集に応じて、街の男達も集まってきていた。初め相手が呂布と聞いて尻込みした者達も、わずか二百騎と知れ渡ると勇んで参加を表明している。所詮は急造の義勇兵で、陣形を組んでの野戦などをやらせるには無理があるが、城壁の守備くらいには当てられる。
 整然と並べた三千を城外に素早く展開させた。早朝からの急な募集にもかかわらず五百人以上が集まった義勇兵に、城壁と城門を固めさせる。
 開門の瞬間に城内に踊り込まれることを警戒したが、赤兎隊は悠然と構えている。いや、正確には構えてさえおらず、陣形も組んでいなければ、遠目にも兵を降ろしてただ草を食んでいる馬までいた。
 劉備は二十騎ほどを従え、桂花を護衛するように側近くに控えている。桂花はただ黙認した。
 赤兎隊がようやく一つにまとまり始めた。

「逃がさないわよ」

 三千を三つに分けて、一千ずつの二隊に赤兎隊の後方へ回り込むよう命じた。

「荀彧さん、それはやめた方が―――」

 劉備が軍を分けることへの危惧を口にしたが、取り合いはしなかった。兵法の基本の一つではあるが、今は呂布を取り逃がさないことが肝要で、そうでなくてはわざわざ出陣した意味はない。劉備に華琳が手ずから兵法指南していることは知っているが、状況も見ずに兵法書に書かれていることに忠実にあろうとするのは初心者に有りがちな誤りだった。
 桂花は二千へ進発を命じた。内心劉備を嘲りつつ、同時に、一千ずつの指揮を劉備と張飛に任せたい気持ちもあったが、それは意地でも口にはしなかった。
 赤兎隊は、まだ騎乗していない兵すらいて、二千が配置に付くのをただ傍観している。
ちょうど三角形の頂点にそれぞれ一千ずつの曹操軍がいて、その中心に呂布の赤兎隊二百騎がいる形が出来上がった。
 二百騎がようやく動き始めた。後方に置いた一千二隊のちょうど真ん中を抜ける様に、並足で駆け始める。二隊が殺到し、一つに固まった。待ち構えていたというように、赤兎隊が脚を速めた。
 数瞬の後、何が起こったのか、桂花は困惑を覚えるしかなかった。
 赤兎隊が二千の真っただ中を駆け抜けた。言葉にすればただそれだけのことだ。では、二千を縦に割って作られた、あの真っ赤な道は何なのか。

「あれでは、まるで……」

 ―――兵が、地ならしされた。

 しっくりくる表現を見つけると、桂花の頭に状況がすとんと落ち込んできた。
 駆け抜けた赤兎隊が、反転して返ってくる。二千―――すでに二百、三百は失ったであろう一千数百の兵は、干戈を交えるまでも無く逃げ散った。
 それを責める気にもなれない。赤兎隊がそのまま真っ直ぐに駆ければすぐに自分のいる一千で、すでに桂花自身が恐怖を覚えずにいられないのだ。
 呂布。突っ込んでくる。視界が真っ赤に染まっていく。赤兎隊の赤い具足と、赤い馬、そして味方の兵が撒き散らす血の色だ。
 先頭を駆ける呂布は、すでにすぐ目の前だった。背後で劉備が、何事かを叫んだ気がした。
 それまで目にも止まらぬ速さで振り回されていた呂布の方天画戟が、いやにゆっくりと振り被られた。それが振り降ろされると、どうなるのか。桂花の思考は、じわじわと迫りくる戟以上に遅々としていた。

 ―――気が付くと視界が反転して、大地を見つめていた。

 荒い呼吸音と、太鼓でも打ち鳴らしたように大きな鼓動が耳にうるさい。不快感も露わに眉を寄せるも、視界の先では大地が上から下に流れていくばかりで、文句を付けるべき相手も見つからない。
 音が、少しずつ静まっていく。そこでようやく、それが自らの身体から発せられていたことに桂花は気付いた。馬を飛ばす張飛の小脇に抱えられている。周囲は劉備軍の騎兵に囲まれていた。
 馬が止まり、混乱からいくらか脱すると、桂花にも先刻の状況がようやく飲み込めてきた。真っ直ぐに迫りくる呂布と馳せ違う瞬間、劉備の命を受けた張飛に、馬上から引きずり落とされていた。そのまま張飛に抱きかかえられるように、その場を離脱したのだ。
 次いで桂花は現状に目を向けた。兵は潰走し、自分も戦線を離れた。完膚なきまでの敗走だった。
 劉備軍のわずかな騎兵を中心に、散っていた曹操軍の兵が少しずつ集まってくる。兵の口から、桂花離脱後の戦場の様相も伝えられた。
 城外に出た正規軍が粉砕されると、城内に残された義勇兵の抗戦の気力も萎えた。呂布が言葉少なに降伏を持ちかけると、城門は時を置かず内側から開かれたという。

「私たちの軍と合流しよう、荀彧さん。大丈夫、すぐに取り戻せるよ。いくら呂布さんだって、騎馬隊だけの二百騎で城の維持なんて出来っこない」

「陳留は、曹操軍の城よ。貴方達の助けなんて」

「荀彧さん、今はそんなことを言っている時じゃ、―――あっ、すごい寝癖」

 劉備が、急に気が付いたように目を見張ると、桂花の頭を指差して頓狂なことを言った。頭に手をやると、乱れた髪に触れた。落馬やその後のごたごたで頭巾が脱げたのだろう。

「こんな時に、何よそれ。ほんとにお気楽な頭をしているわね」

 いつもの様に悪態を吐くと、ようやく自分がまだいくらか冷静さを失っていることに桂花は気付いた。
 劉備の言う通り、騎兵のみの二百騎で城の保持など不可能だった。ましてや、陳留は曹操軍の本拠である。気圧され呂布の開門要求に答えたとはいえ、こちらの呼び掛けに呼応するものは城内にいくらでもいる。

「華琳さまへ伝令を―――」

「それなら、私達のところから出しておいたよ」

「……」

 いつの間にか、二十騎いた劉備軍が十数騎に数を減らしている。
 桂花は無言で劉備を睨みつけると、集まった曹操軍の兵の中から伝令を選び、走らせた。
 呂布がこのまま陳留を維持するつもりなら、歩兵による補強が必須だった。対峙中の華琳にとって、それは反撃の好機が訪れるということだ。

「劉備、早く貴女の軍の元へ案内してくれる?」

「うん。付いて来て」

 意地を張っている場合ではない。それも劉備の言う通りだった。
 ふと思い出し、桂花は頭巾を被り直そうと、背後に手を回した。その手が、空を切った。

「?」

 桂花の頭巾は単に頭に巻いているのではなく、首の前で両端を結んで背中側に垂らし、それを被る形状のものだ。曹仁からは“猫耳ふーど”などと意味の分からない呼び方をされている。脱げても首に引っ掛かって、背中に垂れるだけのはずだ。事実、首元には頭巾の結び目が残っている。

「あっ、荀彧さん。そういえばこれ、拾っておいたよ」

 劉備が思い出したように言って、何かを桂花の手に握らせた。淡い緑色をした、見覚えのある布切れだ。

「良かった。髪の毛は切れてないみたい」

 いつも通りの暢気な口調で劉備が言うが、桂花の背筋は凍りついていた。手にした布は、断ち切られた頭巾の一部だった。



[7800] 第6章 第4話 泰山鳴動
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/03/30 13:28
 百里、大きく本陣を後退させた。
 図らずも戦前に曹仁が献策した通り領分内に引き込んだ形だが、そのための犠牲は甚大だった。
 五万の兵力を誇った春蘭隊は一万以上の兵を失っているし、殿軍を務めた曹仁の騎馬隊は五、六千騎近くまで数を減らしている。黒山賊出身だけあって、敢えて険路ばかりを選んで退いた張燕隊だけは追撃による被害を免れているが、それ以前の三日間の戦闘で二万が一万五千にまで減っている。
 今は泰山に連なる山岳に拠っているから、呂布軍も容易に攻め掛けてはこなかった。山地での戦いでは、騎馬隊を活かしようもないし、重装歩兵の進軍も困難である。一度、袁術指揮の歩兵部隊が攻め込んできたが、引き込んだうえで張燕隊単独で大きな損害を与えている。元黒山賊の兵は、山岳地帯での戦いはさすがに手慣れたものだった。
 騎馬隊も馬を引かせて山中に籠もらせている。馬の脚が萎えることを嫌った曹仁が、開けた場所を見つけては盛んに駆けさせていた。
 十日間兵の回収に努め、軍団の再編を終えると山を降りて再び呂布軍と対峙した。
 春蘭隊が四万で、張燕隊が一万五千。本陣には歩兵一万に騎馬隊は一千だけを残して、騎兵一万騎は全て曹仁に与えた。赤兎隊への備えとして、本陣の兵は二段に分けている。仮に本陣への侵入を許しても、それによる乱れは第一段までに留め、第二段で仕留める構えだ。
 呂布軍の陣容は張遼隊が一万騎で、高順の重装歩兵が八千。袁術の歩兵部隊が三万五千。呂布の赤兎隊二百騎の姿は戦場のどこにも見えない。
 たった一度の敗走で、それまであった大きな兵力差はだいぶ詰められてしまっている。
 山を背負っての布陣で、張遼隊による背後を突く様な大きな用兵は封じた。歩兵の押し合いが中心の戦で、そこは未だに曹操軍に分があった。互いに大きな損害は与えず、いくらか曹操軍が有利なままに数日戦いが続いた。
 その間、呂布軍の戦列に赤兎隊が姿を見せることはなかった。呂布軍牙門旗である深紅の呂旗も見えない。
 大将自らが遊撃隊という、呂布軍の特異性が前面に押し出されている。呂布の姿が見えない以上は、こちらは残された部隊との消耗戦で少しでも戦力を削るほかない。
 とはいえ、華琳に焦りはなかった。続く袁紹との決戦を想定すれば、消耗戦は避けたいところではある。しかし呂布との戦だけを思えば、戦を急ぐ必要はなく、長期戦はこちらの望むところだった。
 呂布軍の背後では幸蘭が諜報部隊を率いて、糧道を乱している。直接的な戦闘には向かない者達だが、夜襲して兵糧を焼き払うというような働きは本領と言って良い。必要があれば周辺の拠点の兵を動かす権限も幸蘭には与えていた。守兵は最低限を残すのみだから、城郭を全くの無防備に晒すことにもなるが、呂布軍は今のところ攻城の構えは見せていない。拠点を取り合う腰を据えた戦となれば、二州を有し地力に勝る曹操軍に分があった。
 どこかで、呂布軍が焦れてくる。そうなれば、いやでも呂布は姿を現すだろう。
 まっとうな野戦で、呂布に勝つ。先の敗戦ゆえにその誘惑はより一層拭い難いものだが、今は持ちうる全てで対するしかない。
 戦況に変化があったのは、消耗戦を五日も繰り返した頃だった。それも、動きがあったのは眼前の戦場での話ではない。

「陳留に呂布が現れたですって?」

 息急き切って繰り返した伝令の言葉は、いずれも曹操軍首脳の想定から外れたものだった。

―――曹操軍本拠陳留の城外に、深紅の呂旗を翻す騎馬隊を発見。その数わずか二百。

「さて、敵の狙いはどこにあるのかしら」

 陳留の留主は桂花で、三千の兵が防衛に当たっている。いくら赤兎隊と言えども騎兵のみ、それも二百で城郭を落とせるものではない。

「目的は陳留ではなく、我らにあるのではないでしょうか」

 臨時に開かれた軍議の席で、稟が眼鏡に軽く手を当て思案顔で言った。

「なるほど。つまり呂布の不在を我らに知らしめ、攻めの戦を誘うという策ね。するとその旗自体が偽りで、やはり呂布は敵陣にいるとも考えられるわね。…………続報を待ちましょう」

 待つまでも無く、続く知らせはわずか数刻のうちに届けられた。それもほとんど時を同じくして二報、一方は桃香からの伝令で、もう一方は桂花からの報告書である。いずれも敗報だった。
 桂花の報告には、桃香の伝令の口上にはなかった戦の詳細―――自身が桃香達に命を救われたことも含めて―――が明記されていた。桂花なりの意地だろう。
 呂布を討ち取るべく、桂花は城外へ出陣していた。三千の歩兵は二百の騎馬隊に鎧袖一触、打ち払われたという。その戦はまぎれも無く呂布のものである。深紅の呂旗は偽りなく本物であった。

「桂花の判断自体は間違ってはいない。目の前に寡兵を率いただけの敵大将が現れたならば、討ちに出向くのは戦術としては当然のことだわ。相手が呂布でなければ、私も迷わずそうさせたでしょう」

 ただやはり文官には、呂布という真実規格外の武人の力量を正しく量ることは難しかったのだろうと、華琳は言葉を結んだ。
 桂花は堅実な政務における手腕は曹操軍随一であるし、時に華琳さえ驚かせるような戦略を考え付きもする。青州黄巾百万を流民のままに大陸全土に解き放ち覇道の先触れとする、という桂花の献策は退けこそしたものの、その非凡な戦略眼を華琳に知らしめた。しかし、政を司る文官であり、戦略を練り大局を見据える軍師でもあるが、桂花は戦術を戦わせる武将ではない。武将であれば肌で感じる呂布の強さを、理解しろという方が無理があった。
 陳留を落とされたことは、今のところ戦略上ではそれほど大きな意味を持たない。二百で城の維持など出来ないためだ。ほんの一時、支配権を奪われたというだけに過ぎない。

「今はっきりしていることは、対峙中の呂布軍にはあの赤兎隊はいないということだけね」

 そう言って、華琳は軍議を締めくくった。
 翌日の戦は、激しいものとなった。
 赤兎隊のいないこの機に少しでも呂布軍の戦力を削るべきだった。呂布軍が陳留の支配権確保のために陣を動かせば、そのままの勢いで追撃に入る心算だ。
 春蘭隊四万が、高順の重装歩兵をかなり押し込んだ。そこで、高順に代わって後続に控えていた袁術の歩兵部隊が前に出た。袁術隊はもろかった。冬の日に踏み砕かれる霜柱が如く、わずかな抵抗だけを残してぼろぼろと崩れ去っていく。
 張遼隊は曹仁隊とぶつかっては退いてを繰り返している。曹仁隊の補佐には張燕隊も付けていて、張遼に春蘭隊へ介入する余裕は無さそうだった。曹仁は時には楯に、時には張遼隊の行く手を阻む壁として、上手く張燕隊を利用している。
 日が落ち暗くなるまで攻め続け、ようやく軍を退いた。合わせて陣を下げる呂布軍からはどこか安堵の色が伺える。
 こちらにほとんど犠牲を出さずに、一日の戦闘で五千近くは損害を与えた。ただ、その大半が袁術の歩兵部隊で、高順の重装歩兵はほぼ無傷のままだ。曹仁と張遼の騎馬隊は同じく数百ずつ数を減らしている。
 陳留へ向けて呂布軍が進軍する可能性を考慮し、夜間は歩哨だけではなく斥候も多く放った。曹仁にはいつでも騎馬隊を動かせるように命じていたが、その日、呂布軍に陣を払う気配は見られなかった。
 数日を経て、案に違わず呂布軍が陳留を退去したという報告が届いた。桂花はすぐに兵を入れて防備を固め直した。翌日には、華琳自ら深紅の呂旗の戦列復帰を確認した。
 呂布が陳留滞在中に行ったことは二つ。一つは、住民に命じて城門を取り払い、城壁の何箇所かを崩したこと。そしてもう一つは、その給金代わりとして城の備蓄を住民に残らず分け与えたこと。
 曹操軍では基本的に臨時徴税を禁じている。文書化して布告したわけではないが公約にも近いもので、民はそう信じるからこそ他領の常識よりも幾割か高い税の支払いに応じるのだ。

「うまい手を考えたものね」

 小勢の奇襲部隊で兵糧を奪い去ることは出来ない。ならばせめて火を放って相手の糧食を減らすというのが、戦では常道だった。本来燃えて失われるだけの兵糧を民に分け与えることで、呂布軍の評判を高めることに成功している。
 この赤兎隊不在の数日間の戦で、呂布軍の兵力は大きく減らしている。だが犠牲を出したのは袁術の率いる歩兵部隊で、主力となる重装歩兵と騎兵の損害はわずかなものでしかなかった。多量の糧食を失い、面目をも失った曹操軍とでは、呂布軍の利するところが大きいだろう。

「陳宮が軍に合流したらしいけれど、これは彼女の献策かしら?」

 呂布軍が曹操軍の領内に侵攻したことで、糧道の確保のために陳宮自らが動き回っていると、幸蘭の手の者から報告があった。
 軍議のために集まった面々の中から曹仁に視線を向けると、ちょっと考えて口を開いた。

「単にご飯を燃やすのがもったいないから、恋が皆に分けてあげたという可能性が高い気もしますが」

 相変わらず曹仁の語る呂布はどこか牧歌的というか、戦場での姿からは想像もつかないものだった。
 帰城した桂花は兵糧集めに奔走している。戦時中であるから買い入れにも限度があり、難儀をしているようだ。陳留陥落による実害は、数字の上ではその程度のものであった。
 ただ、わずか二百に本拠を落とされ、一時とはいえ呂旗が立てられたという事実が、曹操軍の兵の心に与えた衝撃は大きい。
 陳留より帰還を果たした呂布と二百騎が戦場に姿を現すと、それはより顕著に表れた。領内で替え馬を乗り次いで奔る伝令から、わずか半日遅れの帰還である。かなり無茶な移動を繰り返したであろうから、深紅の呂旗はその日一日はただ本陣に翻るのみであった。それでも、目に見えて兵の動きは委縮している。前日まで優勢に戦を進めていた相手に、しばしば劣勢に追い込まれた。
 陳留陥落の事実をあえて兵に触れて回るような真似はしていない。だが人の口に戸は立てられないもので、すでに大半の兵に知れているようだった。戦闘中に交錯した敵兵から囁かれた者もいるという。舌戦を向けられれば、華琳自ら些事と笑い飛ばすことも出来た。大々的に喧伝されるよりもかえって兵に与えた不安は大きいかもしれない。
 華琳は改めて、陳留を取り戻した現状と共に、一時陥落したという事実を兵に布告した。しかし奪還の報も、兵の動揺を思うように鎮めてはくれなかった。

「一度だけ聞くわ。呂布を我が軍に引き込めないか? 彼女が望むならいかなる処遇も約束しよう。もちろん、部将達も厚遇するわ」

 深夜、曹仁だけを幕舎に呼び出して問うた。
 呂布が欲しかった。呂布だけでなく、張遼も高順も手に入れたいし、もちろん陳宮も欲しい。敵として鮮やかに撃ち破りたいという願望とともに、手に入れたいという欲求も日々いや増していた。
 騎馬隊全体の指揮を張遼に委ね、赤白の騎兵を呂布と曹仁が率いる。赤兎隊が踏み分け、白騎兵が斬り開く。生まれるのは最強の騎兵部隊だ。
 中心となる歩兵も高順に与えてしまってもいい。それで春蘭とその補佐に付けていた秋蘭を自由に動かすことが出来る。大軍の指揮に他に適任者も無く二人を任じてはいるが、春蘭には遊撃隊を、秋蘭には弓兵の精鋭部隊を率いさせればもっと大きな働きをすると、かねてから華琳は考えていた。
 そうなれば、向かうところ敵なしだろう。たとえ麗羽がこちらに倍する兵力で決戦を挑んできても、物の数ではない。返す刀で孫策を討ち江南を平定し、残すところの西方を思うがままに踏破する。天下平定への最短の道だった。

「無理でしょう」

 曹仁が力無く首を振った。

「何故? 貴方の言う呂布は、天下に野心を抱く人間とも思えない」

「恋になくとも、周りは夢を見ます。あれほどの将を戴いてしまったのですから。慈愛に満ちた彼女の心根を知る者ならなおさら」

「それは、呂布自身には折れる可能性が残っている、ということにはならないのかしら?」

「高順や音々音に夢を託されれば、恋は折れません。それが自分の夢ではないだけに、自ら諦めるということも無い」

「部下の夢のために、戦うというの?」

「それが恋です」

 それでは主従が逆ではないのか。そんな主と部下の形があり得るのか。疑問は尽きなかったが、断定的に言う曹仁に、華琳は続く言葉を飲み込んだ。
 次の日からは戦線に赤兎隊も姿を現した。
 士気が、立ち直らない。甲羅に隠れる亀のように、縮こまった戦が続いた。





「……んっ」

 鬣を撫でてやると、馬は気持ちよさそうに首をゆすった。今日一日の戦闘を終えた馬たちは、のびのびと草を食んでいる。
 帰還から数日、赤備えを支える汗血馬は、ようやく完全に疲労の色を拭い去っていた。泰山から陳留まで、左右に長い兗州をほぼ横断するという強行軍であった。

「恋さん、やはりここでしたか」

 陣営内に築かれた放牧地である。粥の入った器を二つ手にして、高順が寄ってきた。大盛りにつがれた方が差し出される。
 恋は草の上に腰を下ろすと、匙は使わずに器を傾けて直接口に流し込んだ。高順も黙って隣に座り込むと、匙を動かし始める。
 音々音の尽力もあって、兵糧は潤沢とは言えないまでも今のところ不足はしていない。山の多い土地であるから、獣を狩ることも出来る。粥はいくらか薄くなっているが十分歯触りが感じられるし、やはり誰かが捕まえてきたのか、鹿の肉が一切れ浮いていた。本当に兵糧が不足した時には、ほとんどただのお湯のようになった粥で我慢しなくてはならない。
 洛陽を脱してから徐州を得るまでの間は、深刻な兵糧不足にも何度も襲われた。そんな時、つい自分の分を我慢してしまうことがあった。普段、他人より多く食べているから、少しぐらいなら耐えられると思ってしまうのだ。実際にはそれは他人よりも早くお腹が空くということで、食事を抜けばすぐに力は入らなくなる。そんな調子であるから、ことはすぐに音々音達に露見した。以来、戦場で糧食を取る際にはいつも誰かが付き添うようになっている。大抵の場合それは高順だった。曹仁と別れてからは、料理番は彼に仕込まれた高順の仕事となっているためだ。戦陣でも、音々音の手配した兵糧の現場での管理は高順が受け持っている。

「曹操は、さすがに強いですね。仁兄の姉貴分だけはある」

「ん」

 高順の言葉に、恋は小さく頷いた。
 この数日、赤備えが十分に駆ける隙を恋は見出せなかった。夏侯惇の歩兵が小さく固まって戦場の中央に持し、他の隊はその巨大な壁に隠れ、時に背後から手を伸ばし来るだけだ。有効な攻めは限られている。
 曹操の本陣は、今は馬防柵も立てずに歩兵のみの一万が戦場に露わとなっている。肚を据えた布陣で、一万にどっしりと構えられるとさすがに赤備えの二百騎だけでの突撃は危険だった。それに、なにか嫌な感じがする。言葉では説明出来ない違和感が、恋の嗅覚に引っ掛かっていた。一万以上の脅威を感じるのだ。陳留攻めよりの帰還から、恋は一度も曹操の本陣を突けていない。霞と連動して攻めようにも、曹仁の騎馬隊がそれだけは確実に遮ってくる。
 戦乱の中を彷徨い歩いていた頃には、呂布軍にとって戦は日常であった。それでもこれほど長く一つの軍と対峙し続けたことはなかった。
 恋にとって、戦は一瞬でも早く終わらせるべきものだった。続ければ続けただけ仲間の兵の命は失われていくし、音々音たち家族の身も危険に晒される。霞などは強敵との戦を楽しむようなことを言うが、恋にとって戦の時は短ければ短いほど良く、そのためには敵は弱ければ弱いほど有り難いのだ。

「このまま守りを固められ続けると、先に兵糧が尽きるのはやはりこちらです。陳留のような手には、もう乗ってはこないでしょうし」

「ご飯がなくなるのは、つらい」

「ええ、そうですね。――――器を片付けてきます」

 言いながら高順が、恋の手元に視線を走らせた。器が空になっているのを確認すると、小さく頷いて立ち上がった。
 翌日の戦も、大きな動きはなかった。
 曹操の本陣。思い切って飛び込もうと思う度、手綱を引いた。やはり、何かが引っ掛かる。
 日が中天にさしかかる頃、曹操の本陣が動いた。中央に位置する夏侯惇隊まで進み、そのまま一体となった。
 じっと動かずに堪えていた夏侯惇隊の動きが目まぐるしいものに変わった。本隊の兵を加え五万に増えた歩兵が、今度は五千から一万規模に分かれて、それぞれに動き始める。
 一万が真っ直ぐに走り高順隊にぶつかった。張燕隊もそれに続いている。
五千が霞の騎馬隊に向かった。背後に曹仁の騎馬隊が並足で続いている。咄嗟に衝突を避けた霞が馬首を巡らせた方向に、もう一隊五千の歩兵。霞は大きく戦場を迂回した。
 方陣を組んだ歩兵の動きは実に機敏だ。全ての面が前衛として働くため、方向転換での無駄も少ない。率いるのが霞と言えども、一万騎ともなれば騎馬隊での急速な方向転換は難しい。その弱みを巧みに突いて、騎馬隊の動きを先読みしては歩兵を配置しているようだ。見ているこちらの頭が痛くなるような、煩雑な用兵である。
 歩兵の隊列が入り乱れる中、恋はじっと曹の牙門旗だけを視界におさめることにした。牙門旗に林立する大小の旗が盛んに振られて、歩兵への指令が飛ばされている。

「―――曹操」

 歩兵と歩兵の切れ目。騎馬隊一千騎ばかりを従え、自ら戦陣を駆けるその姿を認めた。駆け回りながら戦況を己が目で確認し、指示を出している。
 本陣に構えていた時とは違った。今は一千騎はあくまで一千騎で、それ以上の脅威は感じられない。
 討ち取る。いや、曹仁の家族だから討たずに捕える。それで、戦を終わらせる。
 駆けた。こちらに気付いた曹操が、馬首を返した。次々に歩兵が赤備えを遮りに掛かる。振り払い、蹴散らした。
 まとまった歩兵の一団が、恋と曹操を阻む壁となった。盾を並べ、戟を突き出している。堅い。しかし、押し切る。強引に馬を進め、抜けた。抜けた先に、曹操へと繋がる道。左右から歩兵が詰め寄って、道はすぐに狭まった。圧力の掛かり方が微妙に変化した。そびえ立つ壁から、左右から絞り込む断崖に変わっている。問題にしない。方天画戟で強引に押し広げた。曹操までは、もう一駆けだ。

「十歩っ!」

 凛とした少女の声が響いた。同時に一抱えもある鉄の円盤が飛来した。
 見慣れぬ不可思議な武具だが、嫌な感じはしない。何か仕掛けはありそうだが、火薬や毒を振りまく様な悪辣な類のものではないだろう。直感的に恋はそう判断した。
 思い切り方天画戟をふりかぶると、円盤の芯を狙って渾身の力で打ち返した。腕に痺れるような衝撃が走る。

「―――っ!!」

 巨大な円盤の影に隠れるように、無数の飛矢―――にしては太く大きい、投擲された槍のようだ―――が殺到した。風を切る轟音が、投げた者達の膂力を感じさせる。
 方天画戟を旋回させた。十数本を弾いたが、身体の横を通り過ぎていく槍もまた十数本。自身の身と馬に当たるものを弾くだけで精一杯だった。
 味方の被害を確認するため、素早く背後に視線をやった。
 恋はそこで初めて、自分が単騎となっていることに気付いた。曹操軍の歩兵が旗下と自分を隔てている。
 赤備えの汗血馬の群れは、ひたすらに恋を目指して駆けてくる。左右から押し寄せる歩兵の波にわずかに蛇行しながらも、懸命に駆けてくる。
 一瞬、歩兵の圧力が弱まった。勢い込んだ赤備えの横合いへ、騎馬隊がぶつかった。馬甲をまとった重装騎兵だ。白騎兵と並ぶ曹操軍最精鋭の虎豹騎。
 未知の衝撃に汗血馬達が強い混乱をきたしたのが、恋の目には良く分かった。
いずれも、暴れ馬扱いされていた。悍馬は、怖いからこそ暴れるのだ。本当は他の馬よりもずっと臆病であることを恋は知っている。
 馬の気に触れない穏やかな兵を乗せて、恋がずっと一緒にいることを約束して、それで初めて戦場に連れ出したのだ。
 直接重装騎兵の衝突を受けた汗血馬が十数頭、馬群を離れ算を乱して逃げ散っていく。駆け去ったその先で、歩兵の槍先に射竦められ、道を失い激しく身を震わせては嘶いている。
 残るほとんどの馬は、なおも恋を求めて愚直にこちらへ駆けてくる。戦場で他に為すことを知らないからだ。

「――――――っっ!!」

 恋は声にならない雄叫びを上げた。





 歩兵の陣形をかき分け、呂布が来た道を駆け戻っていく。

「くっ、逃がすかっ!」

「―――春蘭」

「―――は、はいっ! 申し訳ありません、つい」

 追い縋ろうという春蘭を、華琳は制した。深追いは普段から禁じているから、名を呼ぶだけ春蘭はしゅんと頭を垂れた。呂布に代わって、今度は春蘭が赤兎隊の中で孤立しかねない。
 二投目に備えて槍を肩に担いでいた虎士達も構えを解いた。
 流流の掛声で、呂布目掛けて親衛隊が一斉に槍を投げた。
 流流の伝磁葉々を先頭に、三十の飛槍が呂布の身を襲った。精兵というよりはいずれも屈強な武人ばかりを集めた親衛隊の膂力で放たれた槍である。伝磁葉々一つをとっても、その超重量は本来受けを不能とする。討ち取るまではいかないにしても、手傷くらいは与えられるだろうという華琳の予測を見事撃ち破り、取って返していく呂布は毛筋ほどの傷も負ってはいない。
 季衣も攻撃に参加させれば、結果は違ったものになっただろうか。
 季衣と流流の得物―――岩打武反魔と伝磁葉々は共に超重量の流星錘のようなもので、投擲後は手元に引き寄せることが出来る。ただその瞬間に隙が生じる。華琳護衛の最後の砦として、季衣だけは得物を手にしたままだった。
 超重量の鉄塊に三十の投げ槍、そこにさらにもう一つ超重量が加われば。

「それでも、やはりせいぜい手傷でしょうね。桂花のことを言えないわね」

 華琳は自身の見通しの甘さに、自嘲混じりにひとりごちた。
 本陣に合流した春蘭とその旗下百騎。季衣、流流に虎士の三十。騎馬隊を切り離して曹仁と白騎兵、そして赤兎隊に一当てした虎豹騎も駆け戻りつつある。この曹操軍最精鋭で呂布を倒すつもりだった。実行された場合の犠牲は、華琳の想定よりもはるかに大きなものとなっただろう。
 とはいえ、まだ呂布を取る機会を完全に逸したわけではなかった。
 一万ずつの二隊の歩兵が、赤兎隊をすり潰している。指揮は凪と沙和だ。高順の重装歩兵は一万の歩兵と張燕隊が押し合いを続けている。張遼隊は騎馬隊と五千の歩兵部隊三隊に戦場の外れへと押し出された。つまり二万の歩兵と、わずか 二百の騎馬隊の勝負である。その渦中へ、呂布が飛び込んでいく。
 呂布が合流するや、二万の歩兵に飲み込まれた赤兎隊が、二つに分かれた。二隊は背を向けて左右それぞれの圧力に向かった。混戦の中だから、騎馬隊の力は活かせていない。歩兵の構える盾へ馬体をぶつけて、力押しでじりじりと歩兵を押し退けていく。それは歩兵の得意とする戦で、さすがの赤兎隊にも犠牲が出始めている。
 左を向いていた隊が、くるりと反転した。二隊が押し進んだ分だけ、後方には空隙が生まれる。そこには赤兎隊を包囲するためにすでに歩兵が詰めてはいるが、最初から陣を組んでいた他と比べれば明らかに薄く疎らな陣形だった。騎兵が疾駆するだけの余裕を十分に有している。
 右側の隊も、動きを変えていた。右へ右へと一団となって押し進んでいたものが、さらに二つに割れて前後へと押し出した。中央に、空間が生まれた。
 押し進んだ分と、右隊が前後に道を開けた分。そこを左隊が駆ける。先頭には呂布だ。
 疾駆の勢いを付けた赤兎隊は歩兵の陣形を軽く突き破った。左隊の最後尾へ右隊が続いて、歩兵に取り囲まれていた赤兎隊の全てが陣外へと流れ出ていく。
 先刻までただやみくもに前へ進み続けた軍の動きとは思えない、鮮やかな用兵だった。

「しかし、あそこで退くか。呂布にとっても私を討つ好機であったというのに」

「敵の命と味方の命なら、迷わず味方の命を選ぶのが恋です」

 いつの間にか側まで来ていた曹仁が、華琳の独り言に答えた。

「……同じ手は二度は通じないでしょうね」

 赤兎隊を置き去りにするような突出の仕方は、もう呂布はしないだろう。
 思った通り、騎兵としての練度が決して高くはない赤兎隊は、左右からの攻めにわずかな弱みを見せた。
 赤兎隊の駆け抜けた後には、常に踏み荒らされた凄惨な爪跡が残るが、騎兵の槍によって討たれた兵は意外なほど少なかった。正面に対しては蹄と言う強力な武器があるが、左右に対する馬上の兵の槍は力無い。そこで、正面から対するのではなく、左右から絞り込む用兵を華琳は指示した。必然、左右への警戒を強めた馬の足は鈍る。本来先頭で最も強い抵抗を受けるはずの呂布の一騎だけが、無双の方天画戟に守られ突出することとなった。そして、赤兎隊は呂布の指揮を離れれば脆い。
 赤兎隊の駆け様は悍馬そのもので、それは指揮官の曹仁無しでも一人一人が高い判断力を有した優秀な騎兵の集団である白騎兵とはまったく異なる。呂布が率いねば騎馬隊として十分に機能すらしない。呂布は馬群そのものを率いている、とは曹仁の言である。
 にわかには信じ難い話だが、かつて洛陽にあっても呂布は馬の限界を引き出すような用兵を時折見せたという。調練では初見に近い馬でさえ従えたという呂布が、長らく戦陣を共にする汗血馬と組んでいるのが赤兎隊だった。呂布と汗血馬の相性がよほど良いということまでは、華琳にも理解出来る。
 作戦は図に当たって、二百の赤兎隊を三十騎ほど削った。形に残る戦果はそれだけであったが、これまで無傷であり続けた二百である。両軍の兵に与えた衝撃は小さくないはずだ。赤兎隊によって砕かれた士気もこれでいくらかは回復が望めた。

「――――――――っっ!!」

 それを証拠に、退いていく赤兎隊を目に勝ち鬨を上げる兵達がいた。

「……戦力が変わるわけでもないけれどね」

 二百で駆け回っていた騎馬隊が百と七十余騎になったからといって、戦力に大きな違いはない。兵に率先して鬨を上げる春蘭の姿に、華琳はため息交じりにこぼした。





 赤兎隊に遅れること十数日、曹操軍にも合流する隊が現れた。北方への守備へ回していた真桜率いる新兵隊二万である。
 荀彧は北からの侵攻はないと判断を下したようだ。

「よく来てくれたわ、真桜」

 華琳は兵力の補充以上に、真桜と旗下の工兵部隊の参陣を重視したようだ。工兵隊の一部は初めから従えていたが、率いる者がいるといないとではまるで違う。
 赤兎隊にいくらかの損害を与えてから十日近くが経っているが、戦に大きな動きはない。一度形の上では退けたとはいえ、恋相手に同じ手は二度通じない。赤兎隊は依然最大の脅威であり続け、曹操軍は攻めに転じ切れずにいる。ここに来ての兵力増強と真桜の存在に、曹仁は光明が差した思いだった。新兵二万は、一万ずつの二隊に分けて凪と沙和の指揮下に入った。
 数日を置いて、曹仁は忙しく動き回る工兵部隊の陣営に真桜を訪ねていた。
現状曹操軍中で最も働き詰めの部隊だろう。合流以前に就いていた北方守備では、わずかな兵力で袁紹軍へ対応するために河水沿いにいくつもの砦を築きあげて来たという。今は赤兎隊に対するための馬防柵の工夫だった。
 馬防柵を跳び越えるなどと言う真似は、騎馬隊の常識としておよそ有り得ないことだ。白鵠なら出来なくはないのだろうが、やらせたいとは思わない。白騎兵や馬甲を解いた虎豹騎の馬でも難しいだろう。そのために作られた物なのだから、当たり前のことだ。恋と、あの赤兎隊にこれまでの常識は通用しない。そう思って対峙するしかなかった。
 そんな赤兎隊に対して取った真桜の対策は、実に単純であった。馬防柵を二重に組むというものだ。完成したものは、柵と言うよりは簡単な防壁に近かった。一尺ほどの間を置いて二カ所の頂点を持つ。跳び越すには、跳躍の頂点は柵の最長部よりもかなり高く飛ぶ必要がある。
 より簡単に考えるなら、柵を高くしてやれば良いように曹仁には思えた。しかしその場合には木材の加工、ひいては改めて輸送の段から手配しなければならない。また強度の面でも不安が出るという。真桜は有り合わせの資材を用いて、上手く工夫したようだった。

「忙しいところ申し訳ないが、内径は図面通りに正確なものが欲しい」

 そんな忙しく立ち回る工兵部隊の長に、曹仁はおずおずと図案を差し出した。素早く目を通すと、真桜は詰まらなそうに口を開く。

「なんや、簡単やな。前回の鎖の鎧はおもろかったのに、つまらんなぁ。―――こんなもんなら、ちゃちゃっと作ったるわ。ちょっと待っとき」

 真桜はむしろ易し過ぎる注文の内容に不満を浮かべると、軽い調子で請け負ってみせた。そのまま即席の工房へと足を向ける真桜を、曹仁は見送った。




[7800] 第6章 第5話 揚州
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/04/27 11:49
「よーしっ、突げ―――」

「―――なりません」

「ぐっ。でもでもっ、雪蓮姉様ならここで一気に片を付けるわ」

「孫策様は孫策様、小蓮様は小蓮様です。あれは、あの御方の傑出した武威があって初めて、ただの賭けから必勝の型へと成り得るのです」

「ううう~~」

「唸ってみたところで、戦況は変わりはしません。ご覧下さい、敵左翼にまとまりがありません。短期戦がお望みならば、後詰の隊をそちらへ回し、そこから崩しましょう。本隊が出るのはその後です」

「わかったわよ!」

 不機嫌そうに顔を背けながらも、小蓮は太史慈の言った通りに兵を展開させた。それは、太史慈の言葉に理があると認めた証だった。納得がいかない時には、小蓮はいつまでも反論を繰り返す。
 太史慈は小蓮の太傅(傅役)に任命されていた。
 騙し討ちで孫策を脅かし、袁術の助命を乞うた者に対する扱いとは思えない。孫策という人間の肝の太さに、太史慈は改めて驚きを禁じ得なかった。同時に、袁術という主君を支えきれず失った太史慈に、彼女と年近い小蓮の教育を命じる細やかな温情も感じた。

「楼、敵将が逃げるわ」

 楼(ろう)と、小蓮が真名で太史慈を呼んだ。
 袁術にはついぞ真名を預けることが無かった。張勲が自分以外の人間が袁術に近付き過ぎることを嫌ったためだ。

「……小蓮様」

 どこか楽しげに言う小蓮に、太史慈はため息交じりに頭を振った。
 左翼の崩壊を見て、敵中軍から離脱する小勢がある。本来、敵を潰走させた右翼の兵がそのまま包囲の形を作り防ぐことだが、味方にその動きはない。

「欲しいのは孫呉に背いた敵将の首だけで、兵はいずれ我が軍に帰順する者達だもの。包囲しちゃったら敵兵も奮戦して、無駄に死人を増やすだけよ」

「……確かに、それは一理ありますね」

「ふふん」

 太史慈が理を認めると、小蓮が得意そうに胸を反らした。

「それじゃあ、どっちが敵将を討ち取るか。―――勝負!」

 言って、小蓮は馬を駆け出した。手にはお気に入りの得物である戦輪―――月華美人ではなく、弓が握られている。
 太史慈は、やれやれともう一度頭を振ると、同じく馬を走らせた。
 小柄な小蓮を乗せる馬は、空馬のようによく駆ける。太史慈も親衛隊も引き離し、小蓮が孤立する。
 太史慈はつと鉄弓に矢を番えた。敵将と、その周りを五十ばかりの騎兵が固めている。先を行く小蓮はまだ弓を引いていない。小蓮の細腕では、確実に届くという距離ではない。
 心気が充実していく。極限まで集中して弓を引くと、遠い標的が外しようもない程にすぐ間近に感じ、その動きもひどくゆっくりと見える瞬間がある。
 太史慈は矢を解き放った。騎兵を具足ごとまとめて二人貫き、三人目―――敵将の隣に侍る兵の首筋に突き立ったところでやっと矢は勢いを止めた。
 矢継ぎ早に四、五回も同じようにして放つと、将を守ることも忘れ、兵は逃げ惑った。敵将に近い者から狙って撃ち抜いたから、むしろ将を避けてさえいる。
 孤立し右往左往する敵将の首に、小蓮の放った矢が突き立つ。
 追い打ちにさらに数本太史慈が矢を射込むと、算を乱して敵兵は散っていった。

「お見事」

「む~~~っ」

 馬を寄せると、ふくれ面で小蓮は太史慈を睨んだ。

「手を抜いたわねっ、楼! 最初からちゃんと狙って撃てば、敵将を討ち取ることも出来たはずじゃないっ」

「小蓮様がお一人で突出なさるからです。まず敵兵を崩さぬことには、私の立場では安心して勝負など出来ません」

「雪蓮姉様が相手ならそんなことしないくせにっ。シャオはお守りの必要な子供じゃないんだからっ」

「そう背伸びをして焦らずとも、小蓮様はいずれ孫策様にも劣らぬ力量を身に付けられます。今しばらくの間、我が庇護のもとに身をお置き下さい」

「…………ほんとに? 雪蓮姉様みたいになれる?」

「ええ、私が保証いたします」

 孫呉の武の象徴と言ってもいい黄蓋の弓と、孫策の剣を相手取っての一騎打ちで、太史慈の武名は軍中に知らぬ者とてなくなっている。その太史慈の確約に、小蓮はようやく顔をほころばせた。
 実際、弓腰姫などと渾名される彼女の射術は相当なものであるし、戦輪を用いた体術にも異才がある。磨けばいくらでも光り得る珠玉であろう。

「じゃあじゃあっ、胸も、姉様みたいにばいんばいんになるっ?」

「……それは私からは保証しかねます」

 小蓮がまた頬を膨らませた。





 寿春へと帰還した。かつては袁術軍の本拠であり、今は孫策の居城となっている。
 遠征の報告のために宮殿へ出向くと、太史慈が通されたのは孫策の私室だった。謁見の間では、今頃遠征軍の総大将である小蓮が、主不在の玉座と周瑜辺りを相手に報告をしているのだろう。

「小蓮とはうまくやっているようね、太史慈」

 孫策が機嫌の良さそうな声で言った。いくらか頬が赤いのは、昼間から酒が入っているかららしい。

「孫策様。……ええ。小蓮様は、教え甲斐のあるお方です。いずれは孫呉の誇る武将として、戦場に名を馳せましょう」

「それならよかった。冥琳や穏はかなりシャオの教育には苦戦しているみたいだから、貴方も苦労しているのではないかと思ったのだけど」

「お二方は兵法や政務の指南役ですから、御苦労もしましょう。私は武術や、実際の戦場での指導ですので。小蓮様は机に向かわれるよりも、そちらの方が性に合っているご様子。それは、孫策様なら良く御理解出来るのでは?」

「そうね。私も母様に戦場を連れまわされて鍛えられたものだわ。蓮華は机上から学ぶものが多いみたいだけれど、シャオは私によく似ているわね」

「まさに」

 太史慈は首肯して賛意を表した。孫策がくすぐったそうに微笑む。妹が自分と似ているというのは、姉としては喜ばしいことなのだろう。

「ようやく、足元が定まってきたわね。そろそろシャオの傅役としてではなく、貴方自身の戦場に立ってもらうわよ、太史慈」

 揚州各地で起こった豪族たちの反乱は、今回の小蓮の遠征によって全て鎮圧された。中原では、曹操と呂布の戦がいよいよ佳境に入りつつある。孫呉の軍の再編が終わるころには、決着も付いているだろう。両軍の開戦の隙をついて長江を渡渉し、中原に領土を押し広げるという戦略は潰えた形だ。
 終戦後に、勝者に先んじて敗者の領地を切り取り漁夫の利を得る手もある。しかし呂布と曹操の戦の帰趨を伝え聞いた孫策は、横から手出しするという考えを半ば捨てたようだ。ただ、これほどの戦に自分が関われないことに悔しさをにじませていた。

「まずは五千。騎馬隊の動きと連動出来る一軍を組織なさい」

「はっ」

 太史慈は短く返すと、差し出された命令書を受け取った。
 中原侵攻の機こそ失いはしたが、今回の反乱で孫呉が得たものも少なくはない。
 揚州は元々豪族の力が強い土地柄である。大軍を組織しても、それは豪族達の私兵の集合体に近いものがあった。今回、周瑜の方針でかなり激しい戦をした。孫家に叛意を抱く豪族の首を相当にあげている。これで揚州内の兵力は完全に孫呉のものになったと言ってよく、豪族達の顔色を伺うことなく自由な編成が可能となった。
 天下への雄飛。孫策が自分を陣営へと誘う際に口にした言葉を、太史慈は思い出していた。





 孫策の私室を辞し廊下を少し進むと、中庭に剣を振る孫権の姿があった。

「はぁっ! ―――せいっ!」

 裂帛の気合いを放ち、流麗とは言い難い武骨な型を繰り返している。ひたむきなその姿には、太史慈が思わず足を止めて見入るに十分なものがあった。

「はあっ! …………―――太史慈?」

 力強く踏み込んで、頭頂から股下までを縦に振り抜く。そこで剣を止めた孫権は、太史慈の姿に初めて気が付いたようだった。それまでも視界の中には入っていたはずだが、型が一段落するまでは見えていなかったのだろう。彼女らしい一途さと言えた。
 太史慈は一礼して中庭へ降りた。

「お邪魔をしてしまいましたか」

「いいえ、大丈夫。ちょうど、少し休憩を挟もうと思っていたところだから」

 脇に控えていた甘寧がすっと布巾を差し出すと、自然な動きで孫権はそれを受け取って汗を拭う。孫策と周瑜とはまた違った、絶妙な距離感を持つ主従二人だった。

「孫権様、その剣は?」

「えっ、ああ、これ?」

 孫権は珍しくちょっと悪戯っぽい笑顔を浮かべて、太史慈へ剣を差し出した。

「孫策様の南海覇王―――に似ていますね」

 柄の拵えといい、刀身の造りといい、南海覇王とまったく同じと言ってもいいものだった。

「さすがに気付くのね」

 いくぶん残念そうな表情で孫権が言った。

「ええ。良い剣ではありますが、さすがに南海覇王とは刃の鍛え方が比べるべくもありません。何より、あの宝剣が持つ威とでもいうべきものも感じられません。これは、似せて造らせたものですか?」

「ええ、姉様がね。いずれ南海覇王を譲るときのために、慣れておきなさいって」

 間合いや重心に関しては南海覇王と寸分違うことはない。剣に慣れるという目的には十分なものだろう。だが、それよりも気になることを孫権は口にしていた。

「孫策様は、孫権様を跡目とお考えで?」

 南海覇王は父祖伝来の宝剣と聞く。それを譲るということは、つまりは孫呉の家督を譲るということに等しい。

「みたいね。姉様が何を考えているのか、私に本当のところは分からないけれど」

 身体に不安でも抱えているのか、それともよほど孫権の才を買っているということなのか。あるいは、またお得意の何となくかもしれない。何れにせよ、まだ年若い孫策があえて妹に跡を取らせようというのは奇妙なことと思えた。

「次の戦では、私も陣頭に立つわ。貴方も一軍を任されるはず、よろしくね」

 孫権が別の話題を振った。孫策の思惑など、常人にはいくら考えたところで知れるものではない。

「はっ。尽力いたします」

 これまで孫権は周瑜や陸遜に付いて内政による地盤固めに励んでいた。あまり内政を顧みることのない孫策の名代のようなものだ。孫権が戦場に立つというのは、孫呉の本気を内外に示すことになろう。それほどはっきりと、孫策が戦を、孫権が政をというように、姉妹の間では明確に役割分担がなされていた。小蓮は目下模索中というところだろう。

―――そういうことなのか。

 孫策の考えを完全に理解することなど出来はしないが、太史慈はおぼろげながらいくらか合点がいった気がした。孫策は天下を切り取る戦を勝ち抜き、その後の舵取り―――政は孫権に委ねるつもりなのだろう。手にした玉座に興味を持たないのは彼女らしい潔さとも言えるし、いいかげんさとも言える。

「姉様は北への侵攻計画を破棄したようだから、次は西、―――荊州ね」

「……荊州には、確か」

 思い詰めたような孫権の口調に、太史慈は思案を打ち切った。

「ええ、母様の仇、黄祖がいるわ」

「孫策様に、あまり期するところは無いようにお見受けしましたが」

「母様は、ここ江東から果ては西涼に至るまで、乱あるところ駆け回ったわ。私は大抵留守番だったけれど、姉様はいつも連れ回されていた。冥琳も一緒のことが多かったわね。母さんが亡くなった時も、その二人、あとは今いる将だと祭もその場にいたはずね」

 孫堅が死んだのは、小さな戦場であったと聞いていた。打てば蹴散らせるような豪族の反乱で、黄祖は客将として豪族側に居合わせたと言う。百戦錬磨の江東の虎と言えど、どこかに油断もあったのだろう。黄祖率いる小勢の伏兵部隊の放った矢に、孫堅は戦に捧げたようなその命を散らした。
 孫堅を討ったことで名を上げた黄祖は、今は荊州の劉表の下にいる唯一の武将らしい武将だった。

「幾重にも踏み重ねた戦場の中で流れ矢に果てた。その瞬間が偶然黄祖との戦の時に重なっただけと、姉様はそう割り切っているみたいね」

 孫権は剣身を見つめ、きっと眉を寄せた。

「その場に居合わせなかったからかしら、私は姉様みたいには割り切れてはいない。正直なところ、中原よりも先に荊州へ攻め入ると決まったことを喜んでいる自分がいるわ」

 孫策や小蓮とは違い孫権は武人よりも文人気質の人間であるが、やはり姉妹である。南海覇王に似せた剣を手にきつく表情を引き締める孫権からは、孫策と同じ張り詰めるような武威が感じられる。
 戦略的に見ても荊州への進出は悪い手ではない。むしろ曹操と呂布が鎬を削り、北方からは袁紹も狙いを定めている中原への侵攻よりは、よほど容易く戦力の増強を図ることが可能だ。天下取りを単に支配地域の拡大と考えるなら、まず侵攻すべきは北ではなく西なのだ。
 それでも中原侵攻をまず第一に視野へ入れていたのは、曹操、呂布、あるいは袁紹という面々がこれ以上勢力を拡大することを恐れてのことだ。荊州の劉表などはいつでも落とせるが、曹操や呂布に中原を固められれば孫策の天下取りの大きな障害となる。

「そうだ、小蓮との遠征の首尾はどうだったの?」

 剣から視線を上げた孫権は、もういつもの孫権だった。
 太史慈はしばし遠征での小蓮の様子などを語った。孫権は興味深そうにその話に耳を傾けている。

「―――それでは、私はこれで。軍営に戻ります」

「そう? せっかくだから宮中で夕食を食べていったら? 小蓮も喜ぶわ」

「いえ、あまり長居しては甘寧殿にも悪いですし」

 太史慈が孫権の近くにいる間、甘寧は気を張り続けだった。手は常に腰の曲刀に据えられている。甘寧は兵を率いる武将でありながら、孫権の護衛も務めている。太史慈の来歴を思えば当然のことだった。

「思春、そんなに警戒するものではないわ。姉様が認めた者なのだから」

 孫権がため息交じりに言った。

「しかし―――」

「貴方も、そうして姉様に見出され、私の護衛になったんじゃない」

「……」

 痛いところを突かれたというように、甘寧が口を噤んだ。
 甘寧は元江賊であると耳にしていた。それも錦帆賊と呼ばれた長江では名が知れた一団の頭領で、孫策に討伐されたのだという。敗将の身から孫策に取り立てられたのも太史慈と同じなら、すぐにその妹の近くに置かれたのも同じだった。甘寧という前例があるからこそ、生真面目な性格の孫権もすぐに太史慈の存在を受け入れる気になったのだろう。太史慈を小蓮の太傅に付けるという孫策の決定には無論反対意見も多かったが、姉と違い堅実さで知られる孫権までもその考えを支持したことで、ほとんど揉めることも無かった。

「どうかしら、太史慈?」

「いえ、やはりご遠慮します。黄蓋殿にでも見つかれば面倒ですし」

 改めて誘いの言葉を投げ掛ける孫権に、太史慈は小さく頭を下げた。

「ふふっ、まだ祭は貴方に勝負を迫ってくるのね」

「ええ。何度となく立ち会って、勝率で言えばすでに黄蓋殿の方が上なのですが。勝てば勝ったで、あの日負けた無念を思い起こすらしく」

「そう。それじゃあ、あまり引き止めても悪いわね。この時間、祭は厨房でお酒を物色していることが多いから、このまま中庭を突っ切って行くといいわ」

 太史慈は兵舎の一室を自室と定めているが、孫呉の有力な将は大抵宮中暮らしで、黄蓋もそうしている。
 有力な将を、一族の近くに置くというのは孫家の伝統なのかもしれない。黄蓋は孫堅の代から家族同然の親しい付き合いがあるようだし、周瑜と孫策は兄弟同然である。孫権の護衛隊からは甘寧だけでなく周泰、呂蒙といった者も頭角を現している。周瑜に次ぐ軍師の陸遜は太史慈と同じく小蓮の教育係でもある。孫呉の将軍達には、ほとんど同族の一門と言って良いほどの結束力があった。

「はっ、それでは失礼致します」

 一礼して辞し、太史慈は孫権に教えられた経路で宮門を抜けた。




 八千の兵を集めた。一段高くなった台上から、太史慈は整列する兵を見下ろした。
 孫策からはすでに徴兵された兵から選出する許可も得ていたが、揚州各地を回って新たに募兵した。豪族という頭を失い行き場を失った兵は多く、すぐに五千を超え八千に達した。放置しておけば賊徒に落ちるだけの者達であるから、領内の治安維持という意味でも意義があると、周瑜や孫権などは相好を崩していた。
元々五千の予定を変更して、八千全てを旗下に入れることが認められた。これも小蓮が敵兵を生かす戦いをした賜物である。
 ただ集めたというだけで、練度は決して高くない。ただ整列させているだけでも、鍛え抜いた軍と烏合の衆では全く異なる気を放つ。眼下の八千から感じるのは惰気に近い。豪族の元にいた兵などそんなもので、調練は一からやり直しだった。
 しっかりと具足を着込ませ武器も持たせたうえで、まずは走らせることにした。太史慈自身も先頭に立って駆ける。城門から練兵場までの道を、何度となく駆ける。
 歩兵は調練でどれだけ駆けたかが、実戦での粘りに繋がる。兵の惰気を振り払うためにも、走らせるのが一番だった。
 練兵場に近付くと、二百ほどの兵が激しく棒を打ち合わせ始めていた。小蓮の旗下だ。
集まった八千のうち二百が女性だった。女の身で軍で生計を立てようというのだから、何となく集まっているだけの男達よりも余程出来が良かった。孫策の許可を得て、その全てを小蓮の旗下とした。小蓮が集めた兵なのだ。
これまで小蓮は軍を率いることはあっても、孫策や黄蓋が鍛え上げた兵を借り受けるという形だった。自分だけの旗下を持つのは初めてのことで、いくらか浮かれているらしい。遠目にも小蓮の足取りがいつもより軽いのが見て取れる。

「あっ、楼―――!」

 太史慈に気付いた小蓮が、やはり嬉しそうに大きく手を振った。



[7800] 第6章 第6話 管槍
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/06/22 12:13
「兄貴、あれを―――」

「ああ」

 角が本陣を指差した。牙門旗の横に黒無地の旗が立てられ、盛んに振られている。
 戦場では、春蘭隊三万数千と高順の重装歩兵ががっぷりと組み合う力押しを展開していた。
 真桜の合流から、すでに十日が経過している。
 その間、各歩兵部隊の一時的な潰走はすでに数えきれないほどだった。曹仁の騎馬隊も、一再ならず馬を散らして難を逃れている。本陣だけは、新たに設けた馬防柵に守られて無傷を保っていた。
 赤兎隊が陣形をかき乱す。そこに霞の騎馬隊が、あるいは高順の重装歩兵部隊が乗ずる。曹操軍を敗走に陥れるのは、いつも決まってその形だった。
 連日、赤兎隊への対策は話し合われていた。恋を抑えること、それが唯一の方法であることはすでに戦場で証明されている。落とし穴のような単純な罠の類は何度も試みられたが、決して恋は踏み込んでこようとはしなかった。

「角、後は任せた」

 戦場の端にぽつんと孤立する赤兎隊に、曹仁は白騎兵の旗手だけを従え歩み寄った。
 疾駆すれば距離を置かれる可能性もあるため、あくまで並足で進んだ。旗手にはいつも通り、黒地に白抜きの曹旗を堂々と掲げさせている。
 汗血馬は、戦闘中であることを忘れそうになるほどに、実に思い思いに過ごしている。こちらに顔を向けて警戒を示すものもいれば、自由に草を食んでいるものもいる。さすがに鞍は乗せたままだが、兵は降りて側に付き添うだけだ。兵の方はさすがに幾らか曹仁を気にするそぶりを見せながらも、やはりあまり緊張感はなく、のんびりと馬の背を撫でたりしていた。
 如何に汗血馬と言えど、強引なまでの突撃を闇雲に繰り返せば脚が持たない。休む時は徹底的に休むというのが赤兎隊の強さを支える一つの要因だろう。恋が危険を察知してから馬に飛び乗っても、そこから悠々と敵を引き離せるという余裕がそれを可能としている。
 一人一人の顔が見て取れるほどの距離まで近付いてからは、旗手も残してただ一騎で進んだ。牙門騎周辺に恋の姿は見えない。陣形を組むわけでもなくそれぞれが自由に振る舞っているから、曹仁はしばし目を凝らしてその姿を探さねばならなかった。戦場で武威を煌めかせているときには、恋を見失うなどあり得ないことだ。戦地にありながら、平時ほどにも緊張を解いているということだろう。
 一人、目的を持って足を進める人物に目が留まった。こちらに近づいてくる。

「……そーじん」

 恋の方から、先に声を掛けてきた。

「恋、―――いや、呂奉先殿、一手お相手願いたい」

「…………ん」

 恋は押し合いを続ける春蘭隊と高順隊に目を向け、しばし思案に暮れると、一つ小さく頷いて承諾を示した。
 そろそろ戦場に介入したいところだが、曹仁一人を片付ける程度の余裕はあると言う判断か。
 特に腹を立たてるような段でもない。皇甫嵩の屋敷では何度となく手を合わせ、数合の内にひねられている。保って二十合というところだった。
 恋はまぎれもなく天下に並ぶ者の無い武人だ。それも曹仁の知る限り、愛紗や春蘭といった二位以下を大きく引き離して、頭一つどころか二つも三つも抜けた存在である。
 恋が視線をやると、答えて汗血馬が一頭駆け寄ってくる。
 間近で目にするとやはり大きい。白鵠も並みの馬よりも一回りも大きいが、それ以上の巨馬だ。しかも恋の馬だけが特別なわけでなく、他の二百頭も等しく大きかった。

「そーじんをつかまえて帰れば、こーじゅんとねねが喜ぶ」

「高順はともかく、音々音の奴は喜ばないんじゃないか?」

「ううん、喜ぶ」

 恋はぶんぶんと首を振って否定すると、おもむろに用意を始めた。
 曹仁が手にしているのは穂先を外した槍―――すなわちただの棒である。他は腰に青紅の剣を刷いているだけだ。
 恋はそれに合わせて、兵に方天画戟を預けると、代わりに槍を借り受け穂先を外した。
 柄の内部に茎(なかご)を差し込み目釘を通して穂先を固定する曹仁の国の槍とは異なり、この世界の槍は棒の先端に蓋状の穂先を被せ込むものが主流だ。外すのは容易である。

「それじゃあ、始めようか」

「んっ」

 騎乗した恋が、曹仁の言葉に小さく頷いた。
 ちょうど日は中天に差し掛かり、地に落ちる影は小さい。曹仁は視界の片隅に映る戦場の喧騒を頭から追いやった。いつも通りに相手の視線と柄の先端から根本までが一直線に沿うように、槍を構えた。
 突き出した棒の先端に柄も、それを握る腕も、さらには体全体さえも隠れるように意識する。一切の予備動作を悟らせずに、穂先だけが伸びるように突き出す。実際に動き始めてしまえばそう上手くいくものではないが、それが曹仁の戦い方の理想だった。

「―――ふっ」

 恋が一歩馬を進めた。同時に曹仁は槍を繰り出した。際どいが、当たる距離ではない。二歩目の踏み込みを牽制するための突きだ。恋が馬を押し止めると同時に、曹仁から踏み込んで突いた。初手としては悪くないが、恋が容易く弾くと、曹仁はすぐに間合いを取り直した。
 不思議なほど気負いはなかった。もう一度、今度はこちらから出た。
 普段方天画戟を片手で振り回すように、恋は棒を右手一本で捧げている。柄の中程よりもさらに先端側を持つのも、いつも通りだ。長柄を手にしながら間合いは刀剣のそれに近い。曹仁の感覚からすると長物の利を捨てるような無用の構えだが、恋の強さは理屈で測れるようなものではない。
 右に―――恋の左手側に、馬を進めた。連続して槍を繰り突く。派手に振り回したりはしない。前に構えた左手の掌中を滑らせて、槍を扱き出す。槍術の基本の繰り突きをただただ繰り返すのみだ。
 凪との内功の修練が一つの成果を生んでいた。氣の習得という意味ではほとんど何の実りもなく思えたが、丹田を意識した型稽古は姿勢の重要性を曹仁に再認識させてくれた。
馬上にあっても常に立身中正を保つ。白鵠を通じて大地を踏み締める感覚だ。肩と肘を落として、槍の重さを身体の重心でしっかりと受ける。
 槍先に、かつてない程の力が乗るのを曹仁は感じた。馬上なら、春蘭や愛紗にだって容易く負けはしない。
 それでも恋は、危なげなく一つ一つの突きを払いのける。本来対応が困難な左手側からの連撃も難なくさばいている。
 槍を引くのに合わせて、恋が大きく踏み込んできた。槍の引きの方がわずかに速い。速いが、迎撃の突きを放てるまでの早さはない。白鵠が後ろへ跳ねた。
 跳び退りながら牽制の突きを放つと、深追いを避けて恋は馬を止めた。

「今までのは、ちょっとした意地だ。だが、やはり使うしかないか」

 さらに一歩大きく間合いを外して、曹仁はため息交じりに言った。
 今の攻防、追撃をかけられれば危うかった。恋にはおそらく皇甫嵩の屋敷で繰り返した試合の間隔がまだ残っている。戦場での一騎打ちのつもりでいたなら、あんな苦し紛れの突きで恋は止まらないだろう。

「セキトが犬で良かった」

「?」

「ああ、こっちの話だ。」

 恋の跨る汗血馬は確かに素晴らしいが、他の二百頭と比べて際立って優れているわけではない。長駆する力や歩兵の波を突破する力では白鵠よりも上かもしれないが、細かな起動ならこちらが上だ。

「……水筒? ……おやつにする?」

 曹仁が取りだしたそれを見て、恋が怪訝そうに首を傾げた。確かに、水を入れる竹筒と形や大きさは似ていなくもない。もっとも、曹仁が手にしているものは真桜お手製の鉄細工だ。

「違う、秘密兵器だ。……槍術としては邪道だから、出来れば使いたくはなかったんだがな」

 言いながら、空洞を通して覗き見ることで、蓋も底もない只の筒であることを示した。

「?」

 それでもなお、恋のいぶかしげな表情は変わらない。

「ま、実際使っているところを見ないことには、理解出来なくて当たり前だな」

 曹仁は、その拳二つ分ほどの長さの筒を槍に通すと、構え直した。槍の根元をもった右手を腰にため、左手は相手に向けて真っ直ぐ突き出した常の構え。ただ、左手は鉄筒を握っていて、筒越しに槍を支えていることが普段とは異なる。

「ちゃんと避けてくれよ、恋。―――いくぞっ!!」

「っ!」

 三度、連続で繰り突いた。恋が、ほとんど落馬しかねないほどに大きく仰け反って、それを避けた。置き去りにされた髪が一房、棒に打たれ爆ぜたように乱れた。
 いつも通りの繰り突きの連撃。しかし、その速さは天下無双の呂奉先を瞠目させるだけのものがあったようだ。恋が驚きに目を丸くしている。
 管槍。別名を早槍とも呼ばれる武器がある。
 遠く時を超えた未来に、ここ中華より海を隔てた島国にて結実する武器だ。構造は至って単純である。槍の柄の部分に、可動性の筒が付随しているだけだ。掌中ではなく、筒の中を滑らせることで、柄との摩擦を軽減する。つまりは繰り突きを速くする、そのためだけの工夫である。一部の槍術家からは邪道とされる向きもあるが、それこそがその有用性を物語ってもいた。
 元より繰り突きをその武の根底に置いて、修練の中心としている曹仁が用いるに、これほど向いた武器も無い。曹仁の槍は、速さよりも早さを追求したものだ。相手よりも遠くから、最短距離を突く。だから相手よりも早く攻撃が到達する。そこに今、速さまでが加わっていた。

「さあ、もう少し俺に付き合ってもらうぞ」

 祖国が生んだ神速の武器を手に、曹仁は言った。





 槍を構え直すや、曹仁の攻勢が始まった。

「あの呂布を相手に。兄貴、すごい」

 傍らで遠く一騎打ちへ目を凝らす蘭々が、呟くように言った。口調には感心するというだけでなく、安堵の響きがあった。
 曹仁が一騎打ちで呂布の足止めをする計画は、華琳の他は春蘭と秋蘭、そして代わりに騎馬隊の指揮に付いた牛金しか知らないことだった。曹仁と呂布が馬を向き合わせた時には蘭々はかなり取り乱した様子だったが、今はすっかり落ち着きを取り戻している。
 季衣と流々も、蘭々に同意する様にうなずき合っている。

「…………まったく、あの子は」

 華琳が思わずこぼした言葉にも、同じく安堵の響きが含まれた。しかし残り半分は感心するというよりも、呆れる思いの方が強い。

―――俺が呂布を抑える。

 そう豪語した、昨日の曹仁の顔が思い起こされた。


 深更、華琳の幕舎を一人訪ねると、曹仁は言ってのけたのだった。

「……抑えられるの?」

 胡乱な視線で華琳は返した。

「ここぞという時の四刻。その間だけは必ず。四刻で、高順か張遼のいずれかを捕えてもらいたい」

 赤兎隊不在中の攻勢と新兵二万の合流を経て、再び兵力差が生まれている。それも、じりじりと詰められつつあった。今なら、赤兎隊の介入さえなければ数で押すことが出来る。

「捕えて、ね。相変わらずお優しいこと」

「優しい? ―――とんでもない。兵はすでに数えきれないほど死んでいる。明日の戦でも死ぬだろう。捕えるとなると、討ち取る以上にこちらの犠牲は増えるかもしれない。―――俺は兵の命と引き換えに、敵味方に分かたれた親しい者達だけを救いたいと言っている」

 互いの軍勢を、削ぎ落とすような戦が続いていた。泰山の麓に陣を張ってからは一日も休むことなく、日々一千以上の犠牲を出し続けている。このまま一兵残らず狩り尽くして、最後に呂布か自分の首に剣が突き立つその瞬間まで、この戦が終わることはないのではないか。そう思われるほどだった。
 激しい戦を経て、曹仁の口調にも表情にもどこか開き直ったような豪胆さが見える。

「そう、なら気が多いと言いかえましょうか。それで? その親しい者達の中で、貴方が一番大切なのは誰なのかしら? 知ったところで戦の展開を変えるつもりもないけれど、一応聞いておくわ」

「そんなの華琳に決まっているだろう」

「わたしっ!?」

 悪びれもせずのたまう曹仁に、思わず喉が裏返った。

「な、何をそんなに驚く? 家族なうえに主君でもあるのだから、当然だろう?」

「……あ、ああ、そういうこと。―――って、そうではなくて! 呂布軍の中で誰を一番に助けたいのかって聞いているのよっ!」

「なんだ、そういうことか。……それは、みんなだ。恋、音々音、高順、霞、―――もう誰一人欠けて欲しくはない」

「……まったく、本当に気が多いこと。それで、結局呂布をどうやって止めるつもりなの?」

「一騎打ちにて」

 曹仁は笑みさえ浮かべて堂々とそう言い放った。


「―――! ――――!!」

 喚声に、華琳は想念から引き戻された。曹仁の攻勢に、兵は歓呼の声を上げている。
 確かに天下無双の呂奉先を一方的に攻め立てている―――ように見える。その実、曹仁はまるで戦っていなかった。

「まったく、あれだけ偉そうに豪語しておいて」

 呂布の間合いの外から高速で繰り出される連突き。そして呂布の馬に合わせて動き、一時たりともその間合いに曹仁の身を置くことのない白鵠。牽制を繰り返しながら後退を続け、決して打ち合うようなことはしない。これなら、確かに、体力の続く限り一方的に攻撃を仕掛けられる。しかし打ち合いの中での虚実無しに、ただ速いだけの突きを受ける呂布ではないだろう。負けはしないまでも、勝利も望むべくもない。いや、体力が尽きた瞬間の敗北は確定している。続ければ続けただけ、体力は削られ敗北はより確かなものとなっていく。約束された負けを、先送りにし続けているのが今の曹仁だろう。
 だから戦っているとは言えなかった。物を投げ、腕を振り回す幼子のそれに等しい。それゆえ呆れもしたし、この戦法ならば曹仁が傷を負うことも無いだろうと、華琳は安堵したのだった。蘭々はそんな曹仁の意図を推し量るには鍛錬不足で、季衣と流流は天稟に恵まれすぎているのだろう。
 華琳は戦況に目を転じた。
 最初、呂布軍は三万の歩兵を二段に分けて、その中央に高順の重装歩兵を並べていた。後方の歩兵が本陣の体をなしていて、これは山地に拠って袁旗を掲げている。
 戦闘が始まるや、春蘭隊に正面から歩兵の第一段を切り崩しに掛からせた。いくらか崩れたところで一斉に散って、代わって高順隊が前に出た。そのまま春蘭隊との力押しとなる。曹仁に呂布足止めの合図を送ったのは、その状態が一刻ほども続き、春蘭隊がいくらか押し気味になった時だった。
 張燕、凪、沙和の三隊は騎馬隊への備えとして春蘭隊の左右後方に配置している。曹仁に言われるまでもなく標的はあくまで高順の重装歩兵と張遼の騎馬隊である。どちらか一方を潰せば、呂布軍の戦力は半減する。赤兎隊の動きも限られたものとならざるを得ない。あるいは、部下の志を受けて戦うという呂布であれば、あっさりと降伏することも考えられた。曹仁の狙いもそこにあるのだろう。

「華琳さま。……これは、言うべきことではないかもしれませんが~」

 風がそそと歩み寄ると、耳打ちするように言った。

「今なら、赤兎隊を―――」

 華琳はそれ以上の発言を手で制した。
 風の言わんとしていることは理解出来た。しかしそれは、やるべきではない。何より、やりたくもなかった。

「失礼を申しました~」

 意見に固執することなく、風はいつもの眠そうな口調で言うと下がった。
 桂花なら言いそうなことだった。今は戦陣に伴っていないから、その代わりのつもりの発言だろう。

「――――! ――――――!!」

 曹仁の奮戦に、兵はさらに喚声を上げて士気を盛り上げた。





「ふっっっっっ!」

 繰り突いた。左手に持った管の中を前後する槍は、繰り出す曹仁にとっても未知の速さにまで到達していた。二倍にまでは届かない。いつも二度突いていた間に、三度突ける程度のものだ。だがそれは突く側にとって、そしておそらく突かれる側にとっても、二倍にも三倍にも感じられた。
 やることは、反董卓連合との戦で春蘭を相手にした時と同じ、負けない戦いだ。あの時は、初戦は流れ矢に邪魔されるまでの間春蘭を釘付けにした。二度目の手合せではけら首を落とされるという屈辱を受けた。春蘭よりも強い恋と対するための工夫が管槍だった。

「くっ」

 十数度―――自分でも正確に把握しきれない―――連続で突いて、わずかに槍先が乱れた。槍を引く動きに合わせて、恋が前へ出た。白鵠が、それに合わせて半歩下がる。適切な間合いを維持することは、白鵠に任せきりだった。だから曹仁は機械的と言っていいほど単調に槍を繰り出すのみだった。
 人馬一体の馬術をさらに先に進めた。互いが互いにそれぞれの役割を丸投げにする。二刀流の妙技を表す言葉に、左右の手それぞれが別の生き物のように自在に動く、というものがある。それと同じことだった。一度一体となったものが分かれ、それぞれに槍を突くこと、間合いを維持することだけに専心する。二対一にも近い状況が作り出されていた。
 もちろんそれは利点ばかりではない。普段は白鵠の脚力を乗せて突く曹仁の槍だが、今はほぼ自身の腕力のみに頼っている。曹仁の攻めとは無関係に白鵠が動くのだから当然だ。勝つために戦うならそれは大きな欠点と言える。だが今の曹仁の目的はあくまで呂布の足止めであり、必要とされるのは牽制の突きだった。

「―――っ」

 恋が汗血馬を大きく下がらせた。
 時に、低い突きを織り交ぜる。それは馬上を狙ったものではなく、馬の胸の高さに放つもので、その都度恋は大きく後退を余儀なくされた。
 恋の顔に失意が浮かんでいる。他人の目からは分かり難い恋の細かな表情の変化が、家族同然の時を過ごした曹仁にははっきりと理解出来てしまう。曹仁が馬を狙うような攻め方をするなど、思いもしなかったのだろう。忸怩たる思いはある。それでも、攻め方は変えない。渾身の連撃を続けるにも限界はある。恋の方に後退を強いることで、呼吸を整えるわずかな時間を稼ぐ。
磨き上げた技に外連と邪道を上乗せし、醜くも足掻く。他に手がない以上、開き直るだけだった。
 両腕はすでにして熱を帯び始めている。
 華琳に誓った四刻(二時間)というのは、曹仁が朝晩欠かさぬ修練に当てるのと同じ時間だ。ただ修練中は何度か小休止を挟むし、延々繰り突きだけを突き続けるわけでもない。
 槍を繰り出す後の手―――右腕と同様、管を持って構えを維持する前の手―――左腕にも疲労は貯まる。疲れの質は異なり、槍を左右持ちかえれば楽になる。実際に曹仁は左右どちらの構えでも戦えるように鍛えていた。しかし、相手が恋では槍を持ちかえている余裕はない。
 槍の穂先を外したのは、恋の身を気遣ってのことではなく、単に少しでも得物を軽くするためだった。それで恋までが戟を棒に持ち替えてくれたのは、ただの僥倖である。けら首ならぬ棒先を斬り飛ばされて、間合いの利を失することだけはそれでなくなった。
 通じている。天下無双を向こうに回して、今のところ作戦通りの戦いを展開出来ている。あとは相手の力量すらも関係ない。高順か霞を確保するまで―――約束の四刻の間、間断なく突きを放ち続けることが出来るのか。自分自身との勝負だった。
 どうにかなる、否、どうにかするのだ。
 戦況に目をむける余裕は最初からなかった。曹仁はただ槍を繰り出した。





「仁はよくやっているな」

 主戦場から離れた曹仁と呂布の一騎打ちも、秋蘭の弓使いの目には残さず見て取れた。

「ふんっ、当たり前だろう。この私に勝ったのだから」

 双子の姉の春蘭も、片目を失った今でも目は良すぎるくらいに良い。すねた口調で吐き捨てた。そんな姉を微笑ましい思いで見つめると、今朝方の情景が秋蘭の脳裏に浮かび上がった。


 両軍の兵が起き出すよりも早い明け方に、春蘭と秋蘭は本陣に呼び出しを受けた。待ち受けていたのは華琳と曹仁の二人だ。

「一騎打ちで足止めするというのなら、それは私の役目だろう」

 曹仁が呂布との一騎打ちに挑むと説明を受けると、春蘭がすぐに噛みついた。曹操軍中で最強の武人と言う自負があるだろうし、曹仁の身を気遣ってもいたのだろう。

「春姉じゃあ、恋には勝てないよ」

「なんだとっ! 仁、貴様っ!」

「……自分なら勝てると言っている様に聞こえるぞ、仁」

「まさか。恋を相手に勝とうと思えば、ほんのわずかでも可能性があるのは春姉だけだろう。だが足止めと言うことなら、俺で確実だ」

 頭に血を昇らせた春蘭に代わって秋蘭が問い質すと、曹仁は悪びれもせず答えた。恋と、親しげに真名で呂布を呼びもした。今にして思えば、あれも春蘭を挑発する意図があったのだ。

「そこまで言うのなら、試してやろうっ!」

 元よりその心算で呼んだのだろう、曹仁は小脇に抱えていた調練用の棒を春蘭に投げ渡した。ちょうど春蘭の愛剣七星餓狼の長さに合されている。曹仁自身も槍の長さに合わせたものを構えた。

「それでは、はじめっ!」

 華琳の開始の号令と同時に曹仁は動いた。
 曹仁の届くか届かぬかの間合いの突きを、春蘭がわずかに身を反らしてかわした。弓を引き絞るようなその動きが、すでに次への溜めになっている。槍が引かれるのに合わせて、春蘭が飛び込んだ。足元の地面が爆ぜるような、強烈な踏み込み。

「っ! ……なっ!」

 がくんと、春蘭の身体が中空で静止した。胸元に視線を落とし、春蘭がうめく。
 槍に見立てた曹仁の棒の先端が、胸の具足に当たっていた。つっかえ棒の要領で、春蘭の突進を押し留めている。

「よし、俺の勝ちだな」

 言うと、曹仁はそそくさと槍を引いて一礼した。

「ちょ、ちょっと待て! 今のは」

「俺が呂布の相手ということでご納得いただけましたか、華琳様?」

 再戦を要求する春蘭には取り合わず、曹仁は華琳をじっと見据えた。
 傍から見ていた秋蘭の目にも、二度目の突きは見逃しかねないほどに速かった。だが、春蘭は速さだけで二度も勝てる相手ではない。幾度となく手合わせを繰り返し、曹仁の槍の速さに慣れている春蘭の意表を突いた形での勝利でもある。挑発されたことで、春蘭の動きが力任せで単純なものにもなっていた。

「……・同じ手が、あの呂布にも通用するのかしら?」

 しばし曹仁の視線を黙って受けとめた華琳は、次いで勝利をもぎ取った槍に、その仕掛けに目を向けて言った。

「必ずや」

 曹仁は片膝を付いて頭を下げた。


 眼前の戦場に意識を戻すと、わずか一手で決着の付いた今朝の手合せとはまるで異なる情景が展開されている。
 呂布は意表を突いてなお勝てる相手ではない。ただあの戦い方なら、勝てないまでも疲れ切って速度を失うまでは負けることも無い。
 いや、そもそも曹仁に勝とうという気が見えない。初めから買って出たのは足止めなのだ。呂布を傷付けることなくこの戦を終わらせようとしている。すでに数万の命が散った戦場では冒涜的なまでの青臭さであるし、天下無双を相手に思い上がりも甚だしい。

「おおっ、また突っ込んでくるぞ。曹仁ご指名の張遼だ」

 赤兎隊が動けない今、張遼の騎馬隊の占める役割は大きい。絶えず駆け回りながら突撃と離脱を繰り返し、春蘭隊と高順の重装歩兵の力押しへ介入を試みている。しかし周囲に配置された歩兵部隊を突破しての攻撃であるから、春蘭隊に届くころにはその勢いもかなり失われている。

「姉者、華琳様お気に入りの劉備軍の関羽は、あの張遼に一騎打ちで勝ったと聞くぞ」

「なにっ!」

「そういえば関羽と張遼は曹仁とも親しいらしいな」

「むむっ」

 春蘭が目をむいた。
 春蘭がもっとも力を発揮するのは、曹操軍が誇る武の象徴、曹孟徳が大剣として戦いに臨む時だった。だが、その矜持は曹仁との立ち合いで軽くひび割れている。不意打ちのようなもので、次にやれば曹仁の勝ちはないだろう。それほど、本来の二人の力量には隔たりがある。だが、相手が弟分であるだけに春蘭にとって敗戦の衝撃は大きなものだった。
 己が武への矜持に代わって発奮を促すべく秋蘭が利用したのは、子供じみた妬心だった。そうした感情をも高潔な誇りと同列で力へ変えるのが、秋蘭が良く知る双子の姉の春蘭である。
 未練がましくも足掻く従弟のために、秋蘭にしてやれることは各々の戦場の決着を急かすことくらいだった。
 高順は自ら先頭に立って血路を斬り開くという用兵をしない。指揮官が突出した武威を示すことは、重装歩兵の堅固な陣形にとってはむしろ不利に働きかねないのだ。
 捕えるなら、常に騎馬隊の先頭を切って来る張遼だろう。

「私は旗下を動かす。秋蘭、全軍の指揮は任せた」

 春蘭直属の騎兵百騎に歩兵四百は、まだ曹操軍が五千の私兵集団に過ぎなかったころからの生え抜きの一軍で、歴戦の兵達だ。華琳の虎豹騎や曹仁の白騎兵にもそう劣るものではない。

「ああ、姉者」

 春蘭と旗下が、張遼隊を目掛けて自軍の中をかき分けていく。





「くっ、なんや?」

 歩兵にぶつかる直前、その陣形の中から一隊が踊り出した。敵は小勢ながら横合いから攻撃を受ける形で、突撃の勢いがかなり削がれている。

「ちっ、すまんな、高順」

 霞は即座に反転を命じた。大兵と向き合う高順に、今のところ効果的な援護が出来ていない。
 高順の重装歩兵を潰させるわけにはいかなかった。高順の武将としての目覚ましい成長と足並みを揃える様に磨き抜かれ、重装歩兵は今や呂布軍に欠かすことの出来ない存在だった。追っては散らすという騎兵の戦だけで、大戦には勝ち抜けない。それまで騎兵頼みの戦を繰り返していた呂布軍に、ようやく育った精鋭歩兵部隊である。
 しかし敵は四万にも届かんという歩兵大隊に、一万前後の部隊を三方に配する堅固な陣形を築いている。その内で脚を止められれば、騎兵の末路は一つだ。

「逃げるかっ、張遼っ!」

 敵陣から飛び出した小隊の将が、用兵のなんたるかも知らずに喚き立てながら馬を並走させてくる。

「ウチと馬を並べようやなんて、百年早いわっ!」

「―――甘いっ!」

 隙だらけと見えた首に、飛龍偃月刀を叩きつけた。金属音を響かせて偃月刀が弾かれる。

「おっ! やるやないかっ。―――んんっ? アンタ、もしかして夏侯元譲か?」

 偃月刀を阻んだ片刃の大剣。左目には蝶を模した眼帯。いずれも曹操軍第一の武将、反董卓連合の戦で片目を盲いてからは盲夏侯とも渾名される、夏侯元譲の特徴を示していた。

「そうだっ! 我こそは曹孟徳が大剣、夏侯元譲! 張文遠、相手をしてもらうぞっ!」

「ははっ、四万の歩兵の大将がこないなところまで出張ってくるんか。アンタ、おもろいな」

 霞は騎馬隊の進路から逸れると、手振りで兵に先行を促した。

「ここで勝負を決めるっ! いくぞっ!」

 夏侯惇はいきり立って叫ぶと、大剣を唸らせた。背にかついだ構えから、身体ごとぶつかってくるような斬撃。
 霞は愛馬―――黒捷の腹を、踵で軽く突いた。黒捷は真っ直ぐ駆ける速度はそのままに、半歩横に距離を取った。夏侯惇の大剣を透かすや、今度は反対の腹に踵で合図を送る。馬体を寄せる黒捷の動きに合わせて、飛龍偃月刀を振るった。

「―――っ!」

 夏侯惇は大剣を斬り返して、偃月刀を弾いた。霞は反動を強引に抑え込んで、二撃三撃と攻撃を続けた。
 夏侯惇の受け太刀は一々大きい。それは隙と言って良いものだが、こちらの得物を弾く力も相応に強く、その分連撃にも齟齬が生ずる。

「これならっ!」

 右の肩口から斜めに斬り込む一撃。受けにきたところで制止して、手首と肘の動きだけで左肩口に狙いを切り替える。

「くぅっ!」

 反応も出鱈目に良い。夏侯惇は大剣を振り回していては間に合わないとみるや、柄頭で霞の斬撃を受けた。そのまま反撃に転じてくる。攻撃もやはり大振りながら、速い。上段からの斬り下げと、大剣を返しての斬り上げを、霞は受けずに馬術で避けた。

「ここまでやっ!」

 夏侯惇の斬撃の切れ目に、霞は馬首を返す動きに合わせた牽制の横薙ぎを見舞った。振り向いた先を、ちょうど騎馬隊の最後尾が駆け抜ける。

「待てっ、逃げるか!」

「すぐにまた相手したるっ」

 騎馬隊に続いて離脱した。さすがに夏侯惇も四万を放置して追っては来ない。一万の歩兵部隊が遮りに来るが、力任せに突破した。強引な突撃を避けたから、馬の脚にはまだ余力が残っていた。
 一度並足に落すと、歩兵の陣形を遠巻きにゆっくりと回って突入点をうかがった。
 意外にも恋はまだ曹仁を相手に手間取っている。すでに二刻近くも一騎打ちが続いているはずだ。
 霞も皇甫嵩の屋敷で曹仁とは何度も手合せを重ねている。弱い相手ではない。間合いの取り方が絶妙で、こちらの嫌な距離で戦うことに長けていた。それが白鵠に跨れば、さらに難敵と言える。それでも自分なら百合、恋なら十合二十合の内に勝てる相手ではなかったか。
 行く手に数百の騎兵。
 曹仁と恋の一騎打ちに関しては、考えても詮無いことだった。とにかく今は恋の赤備えはいないものとして動くしかない。
並足からいくらか脚を速めると、ぶつかりもしないうちに敵騎兵は逃げ散った。
 曹仁不在の曹操軍の騎馬隊は、副官の牛金の指揮ということになるのか。独特の構えを見せていた。一万騎を百騎二百騎単位の小勢に分けて駆け回らせている。こちらは馬の質でも兵の練度でもわずかずつ勝っているから、小隊での攻撃に脅威は感じない。しかし、捨て置いた小隊が不意に背後で数千の軍にまとまったりするのだ。無理押しはしてこないが、犠牲を出さずにじわじわと圧力だけは圧し掛かってくる。

「よしっ、いくで!」

 曹操軍の歩兵は夏侯惇の四万の後方に張燕隊、左右には遅れて合流した兵を楽進、于禁という将がまとめている。霞は于禁の陣形にわずかな綻びを認めると、騎馬隊を疾駆させた。
 並足でしばらく駆けたことで、馬の脚はいくらか力を取り戻している。馬を騙しているようなもので、本当に回復させようと思えば一度脚を止めて兵を降ろさねばならない。恋の赤備え不在の折に、その余裕はなかった。

「はあっ!」

 ぶつかった。偃月刀が血飛沫を生む。一万の歩兵の陣形の只中を駆け抜けた。抜いた先の四万。突き崩して、今度は中程まで進んだ。高順隊にかかる圧力を、かなり除けたはずだ。

「―――張遼!!」

 正面に大剣をかついだ夏侯惇。突如現れたという感じがした。

「来おったか。せやけど、悪いが相手出来へん」

 反転を命じた。四万を突破するにはすでに勢いを失っている。まして本来先頭を駆ける自分が夏侯惇の相手をしていては、取り込まれかねない。

「くっ、逃がすかっ!」

 追い縋る夏侯惇と数合打ち合い、引き離した。先刻と同じく、四万から突出してまで追っては来ない。
 繰り返し、歩兵部隊の切り崩しを図った。恋の赤備えと連携して動く普段のようには、思うに任せた用兵は出来ない。
 曹操軍に新たに加わった歩兵部隊の特徴はほぼ飲み込めている。兵の練度自体に差異は見られないから、率いる将の性格と言っても良いだろう。
 楽進隊は堅固な陣形を築くのが上手い。じりじりと迫るような戦い方は高順の重装歩兵にも似ていた。対して于禁隊は、いくらか隙が多い。ただ一度崩れてからの立て直しは早く、容易に潰走までは至らない。士気が高く保たれているのだろう。
 于禁隊を突き破り、今日何度目になるか分からない四万への突撃を敢行した。

「張遼、勝負だっ!」

「ちいっ、ウチとしたことが乗せられとるんかっ?」

 何度突入しても、最後には夏侯惇の小隊とぶつかった。
 騎馬隊で敵陣を抜くには、布陣の弱い部分を狙って駆ける。それが一番効率的だし、混戦を避けるにはそうせざるを得ないとも言えた。意図的に布陣に間隙を作って、夏侯惇の元へ誘導されていると考えざるを得ない。夏侯惇自身は勝手気ままに動き回って、騎馬隊を迎え撃っているとしか見えず、大軍を指揮している様子はない。副将で双子の妹の夏侯淵の指示だろう。夏侯惇の無軌道な動きに合わせて指示を出すのは至難であろうが、双子故の以心伝心が可能とするのか。

「まあええ、相手したるわっ!」

 今回は、まだ騎馬隊の脚は温存されている。霞は、今度は自分から仕掛けた。





「―――ふっっっ!」

 五つ、いや、恐らく六つ突いた。腕の感覚はもうほとんど残っていない。
 一時は耐え難いほどだった疲労や苦痛すらも今は感じなくなっている。いつ動かなくなってもおかしくない気がするし、いつまででも動き続けられるようにも思える。
 一騎打ちを始めて、どれだけ時間が過ぎたのか。あとどれだけ続ければいいのか。判然としない。
 地面に落ちる自分の影が、最初小さく、今はかなり伸び始めている。それが何を意味することなのかも、思い付かなかった。身体に引きずられる様に、頭も朦朧としている。

「みうっ、ななのっ、――――ねねっ!!!」

「――――っっ!!」

 恋の言葉に、曹仁の意識は現実に引き戻された。叫ばれた名は、想定にはなかったものだ。
 一騎打ちを開始してから初めて、戦場に目を向ける。呂布軍本陣に立てられた、袁旗が伏せられていた。

「――――っ!!」

 恋の動きが変わった。
 人馬一体と言ってしまえばこれまでも同じだが、もはや人と馬の境界すらあやふやな、一つの巨大な獣のように思える。
 
―――赤く大きな獣が、飛び掛かってくる。

 それは騎兵が馬を進めるのではなく、襲い来る獣としか見えなかった。
 半身になった恋の、左の肩口に迎え撃つ突きが入った。いや、肩で受け流された。
 自ら肩をぶつけ、直後に内に身をすくめることで衝撃を逸らしている。同時に、槍先も流されていた。当たると思った瞬間、反射的に槍を深く突き込みにいった分だけ、曹仁の上体も前のめりに崩れている。
 恋はそのまま止まらず間合いを詰めてくる。体勢の崩れた曹仁が槍を引くよりも速い。白鵠が即座に後方へ跳ねたが、槍の牽制なしでは、猛追する汗血馬はさすがに振り切れない。
 曹仁はとっさに槍を捨て、青紅の剣を抜いて掲げた。恋の方天画戟―――ただの棒が一閃する。

「―――っ」

 恋の手にする棒が音も立てずに両断されていた。
 幸運に恵まれた。
 曹仁の目は恋の棒が描く方天画戟の軌跡を正確に捉えきれてはいなかった。ただおそらく恋も自分と同じく肩―――筋肉が厚く内臓を損なう心配の少ない―――を狙うだろうという予感の元、軌道上に青紅の剣を構えただけだ。高速で迫る棒に剣の刃筋が上手く立ったのも僥倖で、恋が手にした得物が本物の方天画戟ではなかったのも幸いした。さすがに運だけで斬鉄は出来ない。
 しかし、僥倖は二度続かない。
 さらに跳び込み、短くなった棒を恋が振るった。受けた青紅の剣は、虚空に跳ね飛ばされた。もう一度棒を振るわれれば、受ける術はない。
 白鵠が一歩踏み込んで距離を詰めた。組み打ちの間合いだ。恋は躊躇いなく棒を捨てている。
 徒手の格闘術であれば、この世界を訪れる以前よりの経験が曹仁にはある。それは、これより一千年以上を掛けて洗練された技術だ。
 顎先を狙った恋の右の掌底を、前へと身を屈めることで避けた。次の瞬間には、その袖口と襟首を掴んでいる。肩に突きを受けた恋の左腕は、先ほどから動いていない。槍を振るい続けた曹仁の腕も、限界だった。股を締めて合図を送ると、白鵠が一瞬沈み込み、跳ね上がった。腕の力は使わずに、その勢いだけを借りて、恋を担ぎ上げる。

―――拙い!

 恋の身体は羽毛が如くあまりにも軽かった。曹仁の動きに合わせて、自ら跳ねている。下手を打ったと、悟った時にはすでに遅かった。こめかみに衝撃が走る。

―――まさか、馬上から跳び膝蹴りとは。

 揺れる視界の中で最後に曹仁が捕えたのは、自身の頭部を打ち抜いた恋の膝頭だった。




[7800] 第6章 第7話 決着
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/07/29 14:47
「仁は敗れたけれど、副官の貴方は大殊勲ね」

 曹仁に代わって騎馬隊を率いた牛金が、呂布軍本陣を落とした。山地に拠った軍勢を攻めるのは騎馬隊の苦手とするところだが、小隊に分かれて山道を縫い侵攻し、急襲を仕掛けている。
 赤兎隊不在の呂布軍に対して、こちらの騎馬隊は白騎兵が健在であったことが大きい。白騎兵は半ば曹仁の私兵のようなもので、他者の指揮で動くことを好まない。ただ赤兎隊とは違い常に指揮官の指示を仰がねば動けない軍勢ではなく、それぞれが軍人としての高い判断力を有してもいる。牛金は白騎兵百騎にそれぞれ百騎ずつの騎兵を付けることで、変幻に動く百の小隊を作り上げていた。

「くうぅーーーっ! は、離すです、牛金っ!!」

 巨漢の牛金に抱えられた陳宮が手足をばたつかせた。いくらか心安い感じがするのは、洛陽でも曹仁に連れ添った牛金とは見知った仲だからだろう。
 牛金は本陣に詰めていた陳宮を見事捕えていた。騎馬隊の隊長張遼、重装歩兵の指揮官高順と比べると、軍師の陳宮の不在が呂布軍の戦力に与える当面の影響は小さい。だが呂布に対する揺さ振りと言う意味においては、その二人と同等かあるいはそれ以上の価値を持つだろう。

「貴方が陳宮。こうしてまともに顔を合わせるのは初めてね」

「むむっ、そう言うお前は曹操ですねっ!」

 陳宮はやみくもに振り回していた手足を休めると、警戒心も露わに華琳を睨みつける。目をつり上げて威嚇する姿は、よく吠える子犬を思わせた。

「牛金、離してやって良いわ」

「はっ」

 牛金が腰に回していた手を離すと、陳宮は存外機敏な動作で地面に降り立った。

「陳宮、貴方に合わせたい人間がいるわ」

「―――ねねちゃん」

 幕舎内に座して居並んだ将軍達の中から、月が立ち上がった。

「これは月殿っ。御無事で何よりです。ああ、それに詠もいるのですか」

 詠とは陶謙統治下の徐州で会っているはずだが、月と会うのは反董卓連合の戦以来のはずだ。曹操軍に討たれて死んだはずの月を目にしても、陳宮に驚いた様子はない。さすがにかつて陣営を同じくした者達には、賈駆と共に曹操軍に帰順した張繍という文官の正体が月であることなど想像に難くないのだろう。

「あのね、ねねちゃん。ちょっとお願いしたいことがあるの」

「何です? 降れと言う話なら聞きませんよ。それとも、恋殿を降らせろという話ですか?」

「へう」

 陳宮がぴしゃりと言い放った。見た目の印象はどうあれ、呂布軍の軍師だけあってこちらの要求を読み取った上で、先回りして跳ね除けている。

「ちょっと、あんたね。少しは月の話を―――」

 機先を制されて言葉を失った月に代わって、詠が口を挟んだ。

「うるさいのです、負け軍師」

「―――なっ! ……ふっ、ふふっ。さすが呂布軍筆頭軍師の陳宮殿。こうして虜囚の身となってもまだまだ余裕があるわね」

 陳宮を籠絡するという自らの役割に徹しようと、詠は皮肉を交えながらも猫なで声を絞り出した。
 呂布は自らの意志で降ることはない。だが、仲間の口から降伏を呼び掛けられたなら案外簡単にそれを受け入れる。それが呂布をよく知る人間に共通した認識だった。

「ええ、ねねはすぐにこんなところは抜け出して、恋殿の戦を盛り立てるのです! 負け犬のうえ飼い主を変えた無節操な誰かとは違うのです!」

「―――っ! なんですって!」

 詠と陳宮が、ぎゃーぎゃーと子供の喧嘩の様に騒ぎ出した。
 どう見ても詠と陳宮の相性は最悪だった。最初から火の付いたような陳宮の言動に、元来気の長い方ではない詠は容易く引火した。月とはまだしも会話になりそうだが、この様子ではしばらくは聞き耳を持ちそうにない。

「……はぁっ、話にならないわね。あの諸葛亮と鳳統の裏をかいた者だから、もっと理性的な人間を想像していたのだけれど、まったく仁の言う通りの人物ね」

「むむっ、聞き捨てなりませんっ! 曹仁の奴がねねの悪口でも言ったですかっ!」

「とりあえず幕舎を一つ用意させるから、そこに放り込んでおきなさい」

「はっ」

 矛先をこちらへ向けた陳宮を無視して、華琳は牛金へ命じた。短く返した牛金は、再び陳宮を小脇に抱えた。

「ちょっ、ちょっと待つです! いったいどんな悪口をっ! ―――!! ――――――!!!」

 遠ざかっていく罵声を耳に、華琳はやれやれと首を振った。
 降伏勧告をはねつけるために、敢えて道化を演じた。そんな考えも過ぎったが、耳をすませばいまだ届くわめき声に、華琳は再度かぶりを振った。

「仁が目を覚まさないことには、話にならなそうね」

 呂布軍の主だった面々とは、月と詠も陣営を同じくした味方同士ではあったが、起居を共にした曹仁ほど気が置けない関係ではない。当時の状況によっては、曹仁は今も呂布の側に立って戦をしていたかもしれないのだ。
 呂布に敗れたその曹仁であるが、命に別状はない。
 白騎兵の騎手に背負われての帰還で、本当なら捕虜に取られているところである。本陣の陥落を目にした呂布が風の如く駆け去ったため事なきを得ていた。
 頭を強く打って意識を失っているが、怪我らしい怪我も無かった。ただ酷使し続けた両の腕は、しばらくは箸を持つにも不自由することになるだろう。
 曹仁は、約束通り四刻の時間を稼ぎ出していた。

「張遼は?」

「こちらも、駄目そうです。……姉者の方も」

 秋蘭が眉根を寄せ、ため息交じりに言った。
 春蘭隊もまた張遼を捕えていた。
 張遼は春蘭と何度となくぶつかり合いを繰り返し、最後には一騎打ちにも近い形で剣を交わしている。両者疲労困憊のところを兵に囲まれての捕縛となった。呂布軍の本陣陥落直後のことで、放っておけば仕切り直しに退かれていただろう。張遼の馬術は曹仁や呂布にも劣るものではない。一度後退に徹せられれば、捕らえるのは至難の業だ。秋蘭が兵を動かしたのは、絶妙の機を捉えたと言える。
 その秋蘭の判断に間違いはなかったが、勝負の邪魔をされたと、張遼だけでなく春蘭までが臍を曲げて話を聞こうとしなかった。秋蘭自身も武人の誇りをないがしろにする者ではないから、姉の態度に心を痛めているのだろう。

「そちらもあの子の回復待ちね。春蘭とは後で私が話しましょう」

「はっ」

 秋蘭はいくらか晴れた表情で直立した。
 呂布軍は五里ほどの距離を取って、陣容の立て直しを図っている。今日の戦はここまでだった。
 華琳は常以上の夜襲の備えを厳命すると、床几から腰を上げた。ひとまず春蘭は後回しに、負けて帰った本日の功労者の顔をもう一度覗くつもりだった。

「邪魔するわよ」

 一応、声だけ掛けて幕舎へ足を踏み入れた。
 曹仁のために急遽張られた小さな幕舎である。他の将軍は専用の幕舎を常備しているが、騎馬隊の曹仁は本陣に留まることが少ない。普段は自ら好んで兵馬にまぎれ、夜露に濡れて寝るらしい。
 幕舎内は、人ひとりが横になればあとはわずかな空間を残すのみだ。先客の蘭々の横に、華琳は膝を丸めて腰を下ろした。

「変わりないわね?」

「はい。ただ少し前に一度目を覚まして、数語話しました」

 問いかけに蘭々が返した。

「ちゃんと意味は取れた?」

「ええ、しっかりと会話になりました。呂布と陳宮のことを聞かれたので、呂布が一端退いたことと、陳宮を捕えたことを話しました。少しですが水も飲んでいます」

「そう」

 華琳は安堵の吐息を漏らした。それなら、本当に極度の疲労から寝入っているだけだろう。
 軍医からはいずれ目覚めると聞かされてはいたが、頭を強く打っている。そのまま意識が戻らずに死んでいく者を、華琳は戦場で何度か目にしていた。

「まったく、この子は心配ばかりかける」

 曹仁の頬を指で軽くつつきながら、華琳は言った。顔に擦り傷があるのは、意識を失って落馬した時のものだろうか。
 これまで一ヶ月近く戦い続けた相手を、わずか四刻の間に捕えるというのは土台が無謀な話だった。
 曹仁と呂布、春蘭と張遼、牛金の騎馬隊と敵本陣。それぞれが見事にかみ合うことで生まれた、大き過ぎるほどの戦果だった。一騎打ちで呂布を足止めするという不可能を為すことで、曹仁がその起点を作ったのは間違いない。

「戦には、これで勝てる。あとは―――」

 呂布達をも守るという、曹仁の願いが叶うかどうかは、本人次第だった。

「早く目覚めなさいよ」

 華琳はもう一度曹仁の頬をつついた。




 夜明けとともに、高順は目を開いた。
 ここに来ての夜襲の可能性は低い。曹操軍騎馬隊の指揮官である曹仁も戦える状況にないはずだ。朝日が昇るまでは無理にも目を閉ざし体を休めた。
 陣中を見回ると、寝付けないでいたのか、そこかしこから兵の囁き声が聞こえる。それも当然で、呂布軍を名乗って以来、この軍がこうまではっきりと戦場で後れを取ったのは初めてのことだった。
 本陣に音々音がいたのは、不運としか言いようがない。普段は糧道の確保や兵糧の調達、加えて本拠荊州の内政までを一挙に担い、各所を移動して回っている。本陣に留まるのは、三日に一度というところだろう。
 加えて、霞までも捕えられていた。
 曹仁の奮戦が、曹操軍に運を引き寄せたのか。恋を相手に、これまであれだけの長時間戦えた者はいない。霞や、劉備軍の関羽でも不可能だろう。
 曹仁の突きを受けた恋の左肩は腫れ上がってしまっていて、少し動かすにも痛みが走る様子である。骨に異常はなくただの打ち身だから、しばらく動かさずにいれば痛みは引くだろう。元より恋の利き腕は右で、方天画戟も片手で振り回すことが殆どだ。股の締め付けだけで馬も扱えるし、戦闘そのものにはまるで支障はないという。

 ―――降るべきだ。

 それでもそんな考えが、ちらと高順の脳裏に浮かんだ。
 戦場において、恋が車軸ならば霞と高順が両輪だった。どれか一つが欠けても立ち行かなくなることは目に見えている。
 退くではなく降るという道が頭に浮かんだのは、音々音も捕えられたためだ。呂布軍の政を一手に担っていたのが音々音で、放浪の末に領土を得て日が浅いこともあって、後に続く文官もほとんど育っていない。音々音がいなければ呂布軍は失った戦力の回復もままならないのだった。
 曹操軍には曹仁がいるし、そうでなくても降将に寛大と聞く。名を変えた董卓や賈駆が重用されているし、黒山賊の張燕は眼前の戦場の一角を担っている。居候の劉備軍も下にも置かない扱いを受けているという。噂では、あの黄巾の乱の首謀者を囲っているという話まであった。
 自分が降りたいと一言口に出せば、恋は理由も聞かずに了承する。音々音がいれば彼女の意見も聞くだろうし、霞が声高に反対すれば逡巡もするだろう。その二人が今はいない。それは、高順が決定を降さねばならないということだった。
 曹操軍に二人の身柄を質に降伏を迫る様子は見られない。あくまで戦の構えだ。いっそ、人質として使ってくれれば。そんな思いすら高順の心の内には浮かんだ。
 かつて洛陽でそうであったように、曹仁と一緒に平穏な暮らしを送れるかもしれない。それは高順の人生の中で、最も幸せなひと時と言って良かった。乱世は皇甫嵩を奪っていったが、今なら他の全てを守ることが出来る。
 考えがまとまらぬうちに、戦の準備だけは進んでいく。こちらはもう考えるまでもなく、適切な指示が口を付いて出た。

「―――行く」

 恋が小さく呟き、馬を進めた。小さいが、かつてない程に闘気が込められた声だ。
 この恋を、止められる者などいるのか。そう思えば、降伏という考えは萎んでいく。恋の天下という夢が高順の中でむくむくと膨れ上がるのだった。
 霞の率いていた一万騎は、赤備えの後方に付いている。そして恋が、赤備えの先頭に馬を寄せた。
 全軍で進軍し、戦の間合いに入ったところで足を止める。
 曹操軍は中央に夏侯惇隊、その前衛に張燕隊、両翼に楽進隊と于禁隊が並んでいる。騎馬隊は五千の二隊が両翼よりさらに外に配置されている。曹の牙門旗が翻る本陣の位置は不動で、今は夏侯惇隊がそのすぐ前方に陣を布いている。
 霞を捕えたことで強気の攻めに転じるかと思えば、布陣は受けの構えだった。
 恋が方天画戟を天にかざした。戦場の全ての視線が、そこに集まるのを感じた。誰もが、恋が次に動く瞬間が戦闘開始の合図と見定めている。
 方天画戟がおもむろに振り降ろされた。切っ先の向かう先へ、必然戦場の視線が動く。曹の牙門旗。

「――――っっ!!」

 恋の言葉にならない咆哮に、兵の鬨が重なった。
 赤備えが動き始める。当然、先頭には恋。方天画戟が指した先へと、曹操軍本陣へと、真っ直ぐに駆けていく。
 本陣前には、張燕隊と夏侯惇隊が並んでいる。意に介さず、踊り込んでいく。曹操軍本陣には、紫地に黒文字の曹の牙門旗が変わらず棚引いている。
 一月近くの間、互いにその身を斬り刻むような戦を繰り広げてきた。ぶつかり合いを重ねる中で、敵の思考はおおよそ掴めてくるものだ。夏侯惇や張燕が状況に応じてどの様な用兵をするか、ある程度の見当は付く。
 そんな中にあって曹操軍の本隊だけは一度崩されてからは本陣に籠もって、戦場に出て来ていない。唯一の例外が赤備えに犠牲を出したぶつかり合いの時だけだ。
 曹操が何を考えているのか、読み切れない。ただ、御身大事の用兵なのか。





 一万騎の突撃は、張燕隊を蹴散らし、春蘭隊の中程まで到達したところで勢いを失った。下がる騎馬隊に代わって、高順の重装歩兵が前に出た。重装歩兵はすでに八千を切っているが、四万近い兵力を有する春蘭隊を相手に一歩も引かぬ力押しを展開して見せた。

「曹仁はまだ目覚めそうにない?」

「まだぐっすりなのですよ~」

 風が眠気を誘うのんびりとした口調で言った。風のそれがうつったのではないか。一瞬、そんな馬鹿げた想像が浮かんだ。実戦が始まって手すきとなったとはいえ、風と稟の軍師二人に様子を見に行かせたことを華琳は軽く後悔した。

「軍医によると、今起きられずにいるのは疲労の蓄積によるもので、やはり命の心配はないようですが」

「ええ、わかっているわ」

 稟の言葉に、華琳は首肯した。
 言ってしまえば、単に疲れ果てて眠りこけているだけなのだ。今朝幕舎を覗いた際には、昨日の段階では熱を帯びるだけだった 両腕が、皮膚の下で血の管が破れて全体が青黒く変色し、一回りも大きく膨れ腫れ上がっていた。あの腕を思い起こせば、過労で起きられないのは当然と言う気もする。
 一応頭を打ってもいるのだからと、叩き起こそうとする春蘭を華琳は制止していた。その後、代わりに手ずから冷水を顔に浴びせ掛けたが、曹仁に反応はなかった。今は従者の陳矯を側に付けて、目を覚ましたらすぐに知らせるよう命じていた。眠り続けるだけで回復するならば、いくらでも寝かせてやればいい。
 ただ、問題は曹仁にさせるはずだった張遼と陳宮の説得役だ。
 張遼は昨日からだんまりを決め込んでいて、何を言っても耳を貸そうとしない。
 陳宮の方は詠がいると口喧嘩にしかならないため、今朝からは月が一人で粘り強く会話を試みている。月の人柄と、かつての上官だけあって邪見にはされないながらも、色よい返事は望めそうもない。軍師という立場にありながら陳宮には呂布という一個人の武を盲信するようなところがあって、張遼を失った今の戦況にも大した危機を感じていないらしい。
 戦場に視線を戻した華琳は、春蘭隊の左右に並んだ両翼―――凪隊と沙和隊を前進させた。同時に、高順隊の背後で、騎馬隊に散らされた張燕隊が形を成す。重装歩兵は、四方から攻撃を受ける状況となった。
 呂布の騎馬隊が援護に向かう度、春蘭隊を除く三隊は兵を散らすことで難を逃れた。その都度いくらかの犠牲は出るが、傷が深刻なものとなる前に曹操軍の騎馬隊が呂布の背後を突いた。牛金の騎馬隊はやはり小隊に分かれた運用で、反撃に転じる呂布に狙いを定まらせない。
 張遼を失った呂布軍の騎兵の動きは、やはり単調だった。
 張遼隊の一万騎は、今は赤兎隊に付随して動いている。先制の突撃では張燕隊を粉砕し、春蘭隊の半ばまでを駆け抜けたところで勢いを失い、引き返している。
 赤兎隊のみならば、そのまま本陣まで届いたかもしれない。後に続く一万騎が歩兵に受け止められることで、赤兎隊の突進力までが削がれている。わずか二百騎であることも、赤兎隊の強みの一つなのだ。牛金の騎兵の小隊も、赤兎隊だけで動かれれば一つ、また一つと壊滅され、やがて力を失うだろう。一撃の重みを増した分だけ、切れ味を失ったのが今の呂布軍の騎馬隊だった。
 騎馬隊全軍を呂布が指揮することで、常に彼女と共にある赤兎隊も駆け続けだった。苛烈な突撃に十分な休息を挟んでいた赤兎隊が、今日は一度も足を休めていない。どこかで無理が出るはずだ。
 高順の重装歩兵は四方、あるいは騎馬隊の援護によって三方からの攻撃に常に曝されながらも、よく耐えていた。思えば、この戦が始まってからこれまで、一度も隙というものを見せていないのは高順隊だけではないのか。本陣の潰走、各隊の一時的な敗走など、曹操軍は幾度も負けを積み重ねてきた。呂布も一度は赤兎隊を危険に晒し、昨日は動くことも出来なかった。張遼は遂に捕えられるに至った。袁術隊は言わずもがなだ。高順隊だけが、一度も無様な姿を晒していない。
 高順隊がじりじりと後退する。背後を取る張燕隊を押し込み、左右に付く凪隊と沙和隊を引きずる様に動く。歩兵の全てを、引き受けようというのだろう。春蘭隊には深追いさせずに、逆に後退して本陣に密着するよう指示した。それでも、それぞれにいくらか数を減らしているとはいえ張燕隊一万五千に、凪隊沙和隊が一万ずつの合わせて三万五千だ。八千で凌ぎ切れるものではない。重装歩兵の円陣中央の空白部分が、ほんの少しずつ広がっていく。敵に面する外周の兵が倒れる度、内から兵がせり上がっていくためだ。
 動かずにいた呂布軍本隊の兵が前進した。練度は劣るが兵力は二万数千を数え、変わらず袁旗を―――昨日の本陣陥落から袁術は逃げ遂せた―――掲げている。背後を取られた張燕隊が大きく崩れた。牛金率いる騎馬隊が、そこへ介入する。
 この瞬間、呂布の騎馬隊が完全な自由となった。曹操軍本陣前には春蘭隊四万が備えるだけで、背後を脅かしかねない騎馬隊もない。
 何か感ずるものがあったのか、春蘭と秋蘭が、旗下の精鋭だけを引き連れて本陣に姿を現した。
 歩兵の指揮は、下に付けた部将の韓浩に委ねて来たらしい。今、春蘭隊に求められることは、ただ襲い来る騎馬隊の迎撃である。地味だが堅実な用兵をする韓浩に任せる分には、過ちは起こり得ない。
 赤兎隊が呂布を先頭にして駆けた。先刻とは違い、一万騎が一丸となっての進軍ではない。赤兎隊が脚力に任せて突出した。

「―――これは」

 隣に馬を付けた春蘭が、感嘆と畏怖が入り混じった呟きを漏らした。これまでにない程に、赤兎隊から武威が立ち昇っている。

「呂布は部下のために戦う、か」

 曹仁の言葉が思い起こされた。であるならば陳宮と張遼が囚われの身となったこの戦場こそが、呂布の力が最も発揮される瞬間とは言えないか。
 赤兎隊が、春蘭隊にぶつかった。韓浩の用兵に一つの誤りもないが、勝負は一瞬で決まった。血飛沫をあげて、本陣手前まで春蘭隊が蹂躙される。
 赤兎隊が反転し、入れ違いに踏み分けられた道へ一万騎が乗り込んだ。本陣手前、馬防柵に騎兵が取り付いた。縄をかけ、引き倒しに掛かっている。張遼を失った騎馬隊もまた士気がいや増していた。犠牲をまったく恐れてはいない。馬防柵を倒し、赤兎隊の作り上げた道を確保するために、騎兵の苦手とする歩兵との乱戦を全く厭わない。
 曹の牙門旗正面の馬防柵が次々に倒されていく。
 馬防柵への対策として縄をかけて引くという手は常道の一つだ。普通は本陣前に歩兵が陣取り時を掛けて引き抜くものだが、数十頭の馬で一つ所に集中することで、一息に崩されていた。元々柵を二重にした分だけ、外からは縄をかけやすく、内からはそれを払い難くなってもいた。
 しかし歩兵をかき分け、馬防柵を引き抜いた騎馬隊は春蘭隊の中で押し潰されようとしている。混戦に近いから、騎乗の強みも活きてこない。

「―――! ――――!! ―――!」

 敵騎兵が、誰からともなく喚声を上げた。張遼の名を叫ぶ者もあれば、呂布軍の精強を謳う者もある。
 華琳の背筋にぞくりと悪寒が走った。それは予想していた通りのものだ。
 最後の力とばかり、騎馬隊が春蘭隊を押し退けた。華琳へ向けての真っ直ぐな道が開かれる。あとは、本隊を残すのみだ。
 赤兎隊。本陣目掛けて駆けてくる。
 横合いから伸ばされた戟が数騎を引き落すも、赤兎隊の動きが鈍りはしなかった。呂布の目には本陣以外は見えていないのか。呂布がそれしか見ないというのなら、当然赤兎隊の兵も同じ視線を持つ。
 騎兵の押し開いた道に綻ぶが生まれた。春蘭隊が殺到して襲いかかる。そこでさらに十騎近くを失い、歩兵を突き抜けながらも数騎は馬だけとなった。
 主を失い馬だけになっても、全ての馬が呂布に従い駆け続けていた。走り抜ける悍馬は、それだけで脅威である。赤兎隊はほとんど足を落とすことなく、春蘭隊の中央を抜き、決壊した馬防柵の孔から本陣へと踏み込んだ。
 本隊第一段にぶつかってなお足はまったく鈍ることが無い。呂布の目にあるものは、曹の牙門旗だけのようだ。内側から馬防柵の綻びを広げるなどということもせず、ただただ華琳の元へと駆ける。
 本陣付きの第二段の歩兵には、すでに槍の穂先を並べさせていた。第一段を一番に抜け出た呂布が駆け、すぐに赤兎隊も続く―――。
 直後、赤兎隊の姿が華琳の視界から次々と消えていった。
 広めにとった第一段と第二段の間に、溝を掘らせていた。その上に薄い木の板で蓋をして、土を乗せて他の場所と変わらぬように偽造した。
 華琳が最後に用意した策は、落とし穴という古典的な手法であった。落とし穴はこれ以前にも何度か試していたが、一度として呂布がそこに踏み込むことはなかった。
 真桜へ命じた馬防柵の工夫は、跳び越え難く、それでいて引き倒しやすいというものであった。こちらの対策を逆手にとって攻略を果たしたという達成感の影に、落とし穴と言う単純な手を隠した。本陣内で、それでなくとも万全の備えをさせた待ち伏せの歩兵を置いたうえで、である。歩兵の陣形に注意の大半を向けていた赤兎隊はきれいに陥穽に嵌っていた。

「籠もった甲斐があったわね」

 長い戦の間華琳がずっと本陣に留まり続けたのは、全てがこの一手のためだった。本隊が動けば動いた分だけ、溝を避ける動きを見せることとなる。
 本陣に居座っての軍配を振るう総大将の戦も嫌いではないが、元々華琳は自ら戦場を駆け回るのを好む人間だ。そのために作った旗本の精鋭が虎豹騎である。戦に出たい衝動にじっと耐え、異常なほどに勘の鋭い呂布を相手に誘い過ぎることもなく、ただ自然な流れの中で本陣へ攻め込まれる瞬間に備え続けた。そこまでしてなお、呂布は不穏な空気を感じ取ったのか、本陣への攻撃をこれまで躊躇し続けていた。陳宮と張遼が捕えられるに至って、遂に奪還のための突入を決意したのだろう。
 真桜の合流以降、穴の底には細工を施していた。鉄鎖で作られた網が張られていて、脚を取られれば馬は仮に無傷でも抜け出すことは出来ない。直前で留まれた者は十数騎だけで、それもすぐに第一段の歩兵へ取り込まれていく。戦場から、完全に赤兎隊は姿を消した。
 先頭を駆けていた呂布を襲った衝撃は、中でも最大であろう。馬から投げ出され、溝のこちら側まで跳ばされて、地面に身を伏せている。
 倒れたままの呂布に兵が詰め寄った。直後、爆ぜるように兵であったものの残骸が舞い散る。方天画戟を旋回させて、呂布が跳ね起きた。

「降伏しなさい、呂布」

 華琳は呂布へ呼ばわった。二人の間は、五千の歩兵の陣に隔てられている。華琳の後ろには一千騎の騎兵が控え、溝を隔てた呂布の背後にも歩兵が五千。どこにも逃げ場は残されていない。

「それは、恋が決めることじゃない。ねねとこーじゅんが決めること」

 呟く様に言う呂布の返答が、聞き取れないわけではなかった。それでも一瞬、何を言われているのか華琳には理解出来なかった。

―――天下を望んでいるのは呂布ではなく、陳宮と高順の二人だろう。

 曹仁の言葉が思い起こされる。初めて華琳は実感した。確かに呂布は天下に野心などなく、ただ陳宮や高順の願いを叶える為にこそ戦っているのだ。
 呂布が華琳を目掛けて、駆け出した。五千に隔てられてなお、向けられたその武威はびりびりと華琳の肌を刺す。
 臣下の願いを叶える為に、主君である呂布が命懸けで戟を振るっている。それはどこか滑稽でありながら、華琳の胸を締め付けるほどに切なくもあった。
 瞬く間に呂布は無数の屍を積み重ねていった。呂布との戦に、感傷を持ち込む余地などない。一瞬でも隙を見せれば、あの方天画戟は喉元に迫ってくる。

「―――遠巻きにして矢を射かけなさい」

 命じると、秋蘭が旗下を動かした。調練に訓練を重ねた精鋭の弓兵である。
 まず秋蘭が立て続けに強弓―――餓狼爪を引く。弓勢凄まじく、連続して射込まれる矢を呂布は容易く払い除けた。
 殺到していた歩兵が、それを合図と距離を取った。ほんの一瞬、呂布の方天画戟の切っ先がさまよう。

「放てっ」

 秋蘭の号令で、たった一人へ向けて数百の矢が飛んだ。呂布が戟を旋回させてそれを打ち払っていく。その間に歩兵は楯を並べてさらにじりじりと後退する。一人取り残された呂布に、さらに矢が注いだ。
 降り注ぐ矢の幕が、一時薄れた。斉射と斉射の狭間に生まれる、有るか無きかの間隙。四足歩行の獣のように呂布が低く駆け出した。その右肩の付け根に、矢が一本突き立つ。他の矢を置き去りにして奔ったその矢は、秋蘭の放ったものであろう。

「止まらない、か」

 誰かが呟いた。蘭々か春蘭か。あるいは華琳自身だったかもしれない。
 利き腕に矢を受けてなお、呂布は足を休めず駆け続け、楯を並べた歩兵の中に没入した。昨日の戦いで負傷しているはずの左手に持ち替えられた方天画戟の勢いは、まるで衰えてはいない。
 矢を射かけられることを避けるためか、兵の中をしきりに動き回って、たった一人で混戦の状況を作り出している。ただ、それは普通に戦うよりもずっと消耗は激しいはずだった。そうして戦って、五千の歩兵の陣を突破し、華琳の首を討とうと本気で考えているのか。

「――――――――っっっ!!!」

 呂布が吼えた。それは人の声というよりは獣の吼え声に近い、まさに咆哮だ。

「――――抜けた」

 今度の呟きは、はっきり華琳の口から洩れた。五千の陣を、呂布が抜け出た。五百近くも一人で斬り伏せている。残すところは春蘭の旗下と虎豹騎、虎士の精鋭に、一千騎の騎兵のみだ。

「このまま迎え撃つ」

 背後の一千騎は動かさずに、そのまま春蘭の旗下に周囲を固めさせた。華琳の前に季衣と流流が馬を並べる。左右には、春蘭と秋蘭の姿もあった。

「来なさい、呂布。こうまでしてなお貴方の切っ先が私の首に届くというのなら、端から天下は貴方に帰すべきものだと、素直に負けを認めましょう」

 春蘭旗下の精鋭の只中へと、一瞬の躊躇もなく呂布が飛び込んだ。
 兵の断末魔の叫びや肉を穿つ音ばかりが目立った先刻までとは違い、武器と武器を打ち合わせるかん高い金属音が戦場に響く。疲労を重ねた上に精鋭相手では、如何に呂布と言えども苦戦は免れようもない。
 季衣と流流が息の合った動作で同時に振り被ると、混戦の只中目掛けて二つの超重量を投げ放った。半歩跳び退いた呂布の足元に、鉄球と円盤が突き刺さる。勢いのついた鉄の塊は、一抱えもある岩をも容易く粉砕してのける。巻き上がった土砂が、呂布の全身を打った。
 秋蘭の矢が再び奔る。呂布は視界を塞がれなお、方天画戟でそれを払い落とした。そこに秋蘭が矢を放つと同時に馬を駆け出していた春蘭が迫る。
 方天画戟がゆっくりと大きな弧を描いて宙を舞い、地面に突き立った。柄には、切り離された左手首が残されている。
 戦場に、時が止まったような静寂が訪れた。
 春蘭と呂布が馳せ違う瞬間。華琳の目には、呂布の方天画戟の動きが一瞬鈍ったように見えた。その一瞬がなければ、馬ごと春蘭は両断されていたのかもしれない。この期に及んでなお、無垢な命を奪うことに躊躇いがあった。馬鹿馬鹿しい話だが、そうとしか思えない。
 ゆっくりと、呂布がくずおれていく。誰もが、戦の終結を感じた瞬間だった。地に伏せかけた呂布の身体が、弾かれたように動いた。

「――――華琳さまっ!!」

 真っ先に声を上げたのは春蘭だった。
 矢の突き立ったままの右腕で、方天画戟を拾い上げ、春蘭が馬で駆け抜けた道を来る。行き付く先は、当然華琳だった。
 虎士の面々が、呂布と華琳の間に割って入ろうとする。振り切るように華琳は前に出た。手には大鎌絶を携えている。
 呂布が、方天画戟を振り被った。華琳の脳裏で、汜水関で呂布と交錯した記憶が蘇る。
 両腕に、さして強くもない衝撃が走った。
 以前は刃と刃が軽く触れただけで半身を打ち砕かれた一撃を、今度は真正面から絶で受け止めていた。呂布の全身からふっと力が抜けて、膝から崩れ落ちていく。
 負傷し、疲労の際で振られた一撃で、そこに何の不思議もない。当然の結果だったが、華琳の胸には大事を為したという充実感が満ちた。
 眼下で、虎士達が呂布の身体に取り付き、押さえつけている。



[7800] 第6章 第8話 曹家の天の御使い
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/08/26 16:50
「ねね、こーじゅん」

「ううっ、恋殿~~っ」

「…………恋さん」

 利き腕の右肩には矢傷を負い、左は手首から先を失った天下無双は、それでも陳宮と高順に引き合わせると屈託なく顔をほころばせた。逆に陳宮と高順の方が、苦悶の表情で膝を折った。
 呂布は曹操軍の軍医による治療を受け、右肩と左手首には厳重に包帯を巻かれている。傷と言えるようなものはそれだけで、他には馬から投げ出された際にできた小さな擦り傷と、曹仁から受けた左肩の打ち身があるだけだという。それは五千の歩兵と春蘭旗下の精鋭を一人突破しながら、秋蘭の矢と春蘭の大剣以外からは手傷一つ負わなかったという驚愕の事実を意味していた。

「感動の御対面を邪魔して悪いのだけれど、貴方達の今後について話したいわ」

 呂布の捕縛、そして負傷を知った陳宮が華琳に帰順を願い出たのと、高順が自ら使者となって曹操軍本陣に降伏を申し出たのは、ほとんど時を同じくしていた。
 曹操軍の諸将が緊張感を持って見守る中、華琳の眼前に引き出された呂布にもう暴れる気配はなかった。二人の投降をあらかじめ聞かされていたからだろう。
 戦を終えて最初の、各将各軍師が集まっての軍議である。

「――――っ。ね、ねねはどうなっても構わないのです、だから恋殿だけはっ! ―――そ、そうだっ、曹仁のやつはっ!?」

「……ねね」

「まだ気絶したままなのですかっ!? ああもうっ、肝心なところで役に立たないっ。――――っ!!」

「……ねね、落ち着く」

「ううっ、は、はいなのです」

 興奮して捲し立てる陳宮の頭に、呂布が額を落とした。両腕が使えないから頭突きなのだろう。たいして力を込めた動きとも見えなかったが、鈍い音は華琳の耳まで届き、陳宮は足元をふらつかせている。

「―――だいじょうぶ。そーそー、ひどいことしない」

 陳宮と高順を背後に守る様に立ちはだかると、じっと華琳の目を見て呂布が言った。

「まあ、そうね。酷い事をするつもりなら、縄も打たずに眼前に引き出したりはしないわ。呂布に暴れられたら、危ないのはこっちだもの。―――それにしても、貴方達の処遇については、困っているのよ」

 嘆息交じりに華琳は告げた。

「陳宮、貴方は呂布以外の人間のためにその知謀を輝かせるつもりがあるか?」

 陳宮は考え込むように小首を傾げた。明確な答えを求めての問いではない。返答を待たずに、華琳は次の質問へと移った。

「高順、貴方は呂布のいない戦場で槍を振るい、兵を奮い立たせる気があるか?」

 高順がわずかに顔の表情を動かした。

「最後に呂布、貴方は陳宮と高順に仰がれることなく、これからも天下無双の飛将軍であり続けることが出来るか?」

 呂布は真っ直ぐにこちらを見つめて来る。何を考えているのか、華琳にその心中をうかがい知ることは出来そうにない。
 呂布と高順、陳宮を旗下に取り込む考えを、華琳はすでに放棄していた。
 かつて成り行きで董卓軍に参加し、連合軍を窮地に追い込んだ呂布はもういない。今の呂布は陳宮と高順に大将と仰がれてこそ、その真価を発揮し得る人間と思えた。陳宮と高順もまた、呂布を頂いてこその軍師と将だった。
 それでも軍に組み込んでしまえば、三人とも並みの武将、並みの軍師以上の働きはするだろう。傷さえ癒えれば隻腕の呂布の武は、なおも春蘭や愛紗を凌ぐかもしれない。しかし、それはつまらない未練というものだ。
 人材を無為に捨てることは、華琳にとっては許されざる大罪の一つであった。だがその有為の才がくすむと知って手元に引き寄せるのもまた、同じく許容し得ない大罪である。

―――いえ、そうではないわね。

 華琳はひとり頭を振った。
 そんな理屈を付けるまでもなく、一言で言うならば、毒気を抜かれたのだ。
 自分のためでなく部下のために戦うという呂布の在り方は、華琳の人生にはあり得ないものだ。無私無欲からは最も遠い所にあるのが自分であることを、華琳は良く理解している。無私とは自分を顧みない愚かさとも、無欲とは自分を持たない浅はかさとも、蔑む気持ちすらある。
 それでも華琳の中に、その愚かしさを美しいと、浅はかさを愛おしいと感じてしまう心もまたあった。高順が見、陳宮が描き、呂布が彩った一つの夢が終わった。美しかったその夢を汚すこともない。

「―――張遼」

 呂布達へ具体的な処分を言い渡さぬまま、幕舎の外に控えさせていた張遼を中へ招いた。
 誰の説得も取り合わずにいた張遼も剣を交わした春蘭の言葉にだけは一応耳を貸すようで、再戦の約束をさせることでようやく落ち着きを取り戻していた。

「さて、貴方は、―――まだまだ戦い足りないって顔ね」

「……そうやな」

 張遼が面白くなさそうな顔で首を縦に振った。
 長らく陣営を共にしながら、張遼は呂布の愚かしさからも、陳宮、高順の思い描いた夢からも遠いところにいるようだった。そして張遼の“私”と“欲”の行き着くところが戦であり、武の研鑽にあることは誰の目にも明らかである。

「ならばそのまま、呂布軍の残した騎馬隊を率いなさい。我が軍の敵ではなく、味方として」

「……ええんか? ウチの騎馬隊を、ウチが率いても?」

「貴方が鍛え上げた軍なのでしょう? それが一番力を発揮する。呂布ですら、貴方無しではあの騎馬隊の力を十全には活かしきれなかったわ」

「おーおー、聞いとった通り、アンタ太っ腹やな! ウチが兵を引き連れて離反するとは考えないんか?」

 途端、始終不機嫌そうにしていた張遼の表情が花開いた。

「その時は、春蘭との再戦の約束は無しよ。戦場で挑みかかってきても、意地でも受けさせない」

「しばらくは大人しくしとって、夏侯惇との決着を付けてから裏切るかもしれんで?」

「だから勝負は、私が天下を手中に収めてからになさい。再戦の期日は、決めていなかったはずでしょう?」

「ははっ、それはずっこいな。ずっこいけど、その言い様、気に入ったわ。アンタが天下を手にするまで、アンタ―――曹操様の下で働かせてもらうことにするわ」

「華琳で良いわ。私の真名よ。貴方ほどの武人に真名を預け共に戦えること、誇りに思うわ」

「ならウチも霞や。よろしゅうお願いします、華琳様。夏侯惇も、しばらくは味方としてよろしゅう頼むわ」

「春蘭だ」

 そのまま、霞はその場にいる何人かと真名を交換した。
 見たままのさっぱりとした性格で、あれだけ不信を抱いていた秋蘭にも真名を許している。あの状況の用兵はあれで正解だったと、むしろこれまでの不躾な態度を謝罪していた。霞は武辺一辺倒の武人ではなく、将として戦の大局を見る目も備えている。

「そうだ、霞。赤兎隊―――あの赤備えの一団も、今後は貴方が率いるということでいいのかしら?」

「そら、無理ですわ。ウチには、というか恋以外の他の誰にも、あないなもんは扱えやしません。そもそも乗っとる兵も満足に馬を御せんし」

 赤兎隊の騎兵は、精鋭どころか霞の課した騎兵の調練から脱落した者達だという。馬術や馬の扱い自体に最低限の問題はないが、気が弱く戦場に耐えられないような兵ばかりであった。馬はその逆で、暴れ回るばかりの悍馬揃いである。馬の精神を逆撫でしない柔和な性質が良かったのか、弱兵は満足に乗りこなせもしない荒馬にまたがって、呂布に率いられることで初めて戦場に立つことが出来た。どころか、呂布軍きっての精鋭と呼ばれるまでになった。
 だが、それも呂布が先頭に立ってこそのものであると霞は言う。呂布の指揮無しでは、弱兵は弱兵に、悍馬は悍馬に戻るだけだった。

「仁も、そんなようなことを言っていたわね。―――わかったわ。呂布、あの汗血馬達は、牧に入れるなり、野に帰すなり、好きになさい。今、傷を負った馬には治療を受けさせているわ」

「……んっ」

 水を向けると、呂布は小さく首を縦に振った。
 落とし穴に嵌った赤兎隊の馬の負傷は、想定よりも軽微だった。捕えて離さぬために設置した鉄鎖の網が、落下の衝撃を直接脚に伝えることなく絡めとる役をも果たしたらしい。

「さてと、―――袁術と張勲をここへ!」

「…………ちょっと、そんなに引っ張らないでください、痛いじゃないですかっ」

 外へ向けて声を放つと、段々と騒がしい声が近付いて来て、兵に引き立てられた二人が姿を現した。
 といっても、ぞんざいな扱いに抗議の声を上げるのは専ら張勲で、傍らで真っ先に泣き言を口にしそうな袁術は大人しく従っている。呂布が片腕を失ったことをずっと気に病んでいるらしい。幕舎内で包帯を巻いた呂布の姿を目にするや、袁術は色を失って立ち尽くした。
 袁術がこんな調子であるから、降伏ともなれば真っ先に逃げ出しそうな二人を確保するのも容易いことだった。

「さて、袁術。そして張勲。捕虜がようやく口を開いたわ。この戦、裏で絵を描いていたのは貴方達ね」

 二人を地べたに座らせると―――床几は用意させなかった―――華琳は、冷たい口調で言った。
 今回の戦の原因となった呂布軍による領土侵犯。呂布軍の主張するところによれば、曹操軍による守兵襲撃。これに対応した曹仁率いる白騎兵が捕えた捕虜数十人が、数日前に口を割ったと桂花から報告が入っていた。
 高順の重装歩兵や霞の騎馬隊と比べると明らかに質の落ちるその兵達は、徐州で新たに呂布軍に加わった野盗上がりの新兵で、当時も今も袁術の指揮下にあった。曹操軍の領内に侵攻し、いくつかの村を占拠するに及んだのは全て上からの命令だという。

「なんのことでしょうか~?」

 張勲が白々しく聞き返すも、露骨に身を震わせる袁術にすがり付かれた状況では説得力は皆無だった。

「つまらない芝居は良い。大方、麗羽のところから何か言ってきたのでしょう?」

「何を仰るかと思えば。うちのお嬢様と袁紹様は確かに血の繋がりはありますけれど、決して仲が良いというわけでもなく。ねえ、美羽様?」

「う、うむ。そ、そうなのじゃ。麗羽姉様など嫌いなのじゃ」

「―――首を打ちましょうか?」

「―――ひっ!」

 ため息交じりに告げると、二人は絶句した。

「別に貴方達の弁明を聞きたくて呼び出したわけではないわ。ただ処分を申し付けるだけよ」

「―――ま、待つのです! 責任があるのは、二人だけではないのです!」

 袁術と張勲に代わって、叫ぶように声を上げたのは意外や陳宮だった。

「ね、ねねも、二人の画策に気付いて放置していたのですからっ!」

「……ねね?」

「恋殿の天下を実現するには、曹操殿はいずれぶつからねばならぬ相手なのです。それなら早い段階で―――」

 華琳が視線で促すと、陳宮は徐州を根拠としたことで生まれた地理的な問題を挙げた。
 曹操軍と連携して袁紹を討ち、互いに領土拡張を続ければ、友好関係を保ったまま呂布軍が手に出来る領土は徐州に加え青州、冀州、幽州の一部ということになろう。手にする領地はいずれも東方に海を抱え、西方には友軍の曹操軍の領土。その後は南進して長江を渡り、揚州の孫策軍と鎬を削るしかない。水軍不在の呂布軍にとって難しい戦が続くだろう。
 対して中華の中心地―――中原に陣取る曹操軍は西方に目を転じればいくらでも土地が広がっていた。世に聞こえた武将の姿もほとんどない。西の果ての涼州に馬騰、韓遂といった軍閥がひしめく程度だ。東方を友軍の呂布軍が占めることで後顧の憂いもなく、楽々と曹操軍は勢力を拡張するだろう。
 広大な土地を領した曹操軍に、呂布軍は海沿いの小さな領土に押し込められることとなる。呂布の天下を目指す以上、そうなってからでは遅い。
 たとえ独力で袁紹軍と対することとなろうとも、それと同等かそれ以上の勢力を築いた曹操軍と戦う未来よりは遥かに増しな話だった。
 曹操軍との戦を開始するには、優し過ぎる呂布には踏ん切りが必要だった。その切っ掛けを二人の居候が作ってくれるというのなら、陳宮に乗らない手はなかった。

「……そういうこと。諸葛亮と鳳統の裏をかいたほどの貴方が、膝元で行われた謀略をよくも易々と見逃したものだと思えば」

 全てを聞き終え、華琳は率直な感想を口にした。

「張勲だけならともかく、美羽も加わった謀議など探るのは容易いのです」

「うむっ、妾はこーめいせーだいじゃからな!」

 袁術が偉そうに胸を反らす。こういうところは麗羽そっくりだった。囃し立てようとした張勲はさすがに立場を慮って口を噤んだ。

「しかし、困ったわね。ここで陳宮も連座させるなんて言えば、呂布がもうひと暴れということになるのでしょう? それは何ともぞっとしない話ね。いえ、それは袁術と張勲だけでも同じことかしら?」

 水を向けると、呂布は不思議そうに小首を傾げた。

「そーそー、はじめからそんな気ない」

「……まったく、なんでもお見通しね」

 天与の洞察力を前には見え透いた脅しのようだった。
 麗羽との関係を考えれば、放免せざるを得ない。呂布軍との戦の傷は深いもので、回復には相応の時間が掛かる。今、袁紹軍に攻め込まれることだけは避けたかった。
 麗羽の口から、袁術の名は何度となく耳にしていた。袁術からはあまり親しげな空気は感じられないが、麗羽にとって可愛い従妹であることは間違いない。

「とりあえず、しばらくは牢に放り込んでおくしかないわね。―――二人を連れて行きなさい」

 来た時と同じく左右から兵に挟まれる形で、二人は連行されていった。張勲はまだ何か言いたそうにしているが、言い訳以外の言葉が出て来るとも思えない。

「さてと。―――最後に、貴方達三人の処遇だけれど」

 保留していた話題を斬り出すと、陳宮の身体が小さく震えた。高順は全てを受け入れる覚悟を決めたのか、伏し目がちの顔に変化は見られない。呂布も表情は変わらない。何を考えているのか分からないが、きっと大抵のことは見通しているのだろう。
 ふと、華琳は呂布の驚く顔を見たいという衝動に駆られた。





「曹仁将軍っ、お目覚めですか?」

 目を開くと、陳矯が顔を覗きこんできた。

「―――ああ」

 すぐには状況が呑み込めず、数瞬の間を置いて取りあえず間違いようのない質問には返答しておく。目は確かに覚めていた。

「……俺は、どれだけ寝ていた?」

「丸一日と一夜です。曹仁将軍が呂布殿と一騎打ちをされたのは、一昨日になります」

 幕舎の入り口から洩れ入る光が長く伸びている。朝日が昇ったばかりのようだった。

「戦況は?」

「戦は終わりました。我らの勝利です。呂布殿は捕縛。高順殿も降伏。張遼殿と陳宮殿の身柄も、代わらず抑えております」

「……そうか」

 捕縛と降伏という言葉に、曹仁は安堵の息を吐いた。

「―――っ」

「ああっ、無理をなさらないでください。お手伝いします」

「すまんな」

 上体を起こそうとして初めて、両腕が鉛のように重く動かせないことに曹仁は気付いた。
 陳矯の補助を借りて身体を起こすと、掛けられていた毛布が落ちて両腕が露わとなる。

「―――うおっ」

 どす黒く変色した自分の腕に、曹仁の喉から妙な声が漏れた。

「骨などに異常はありません。軍医は、とにかく安静にと」

 歯を食いしばって力を入れてみても、両腕はわずかに持ち上がるだけだった。血管も筋の繊維もずたずたに引き千切れたという感じだ。
 両腕に限らず全身の筋肉も関節も傷むが、単に疲労が原因のようだ。右の太腿が痺れたように重いが、それは小さく丸まって眠る蘭々に枕にされているためだった。
 陳矯と共に看病をしてくれていたのだろう。幕舎内に、虎豹騎の具足が脱ぎ散らかされているのはご愛嬌だ。頭を撫でてやろうとして、やはり動かない両腕に曹仁は諦めた。

「従者に付けたばかりだというのに、お前には情けないところを見せたな」

 なおも気遣わしげに曹仁の顔を覗きこむ陳矯に向けて言った。

「と、とんでもありませんっ!! あの呂布を相手に見事な御働き。天人が如し、などと言っても曹仁将軍に限っては褒め言葉にもならないのでしょうが、天上の武、確かに拝見させていただきました」

「天人、ね」

 天の御遣いよりは、まだしもしっくりとくる言葉だった。何がしかの使命を帯びた使者という意識はないが、異世界―――そこが天上かどうかはさておき―――の住人であったことは紛れもない事実である。
 いずれにせよ、天という一語はこの世界の人間にとってある一定の力を持つ言葉である。実際には時間稼ぎの一手であったわけだが、傍から見る分には天下無双の飛将軍を相手に曹仁が優勢に攻め続けていたと見えなくはない。目端の利く人間なら曹仁の意図までも見抜くだろうが、陳矯は剣を多少使うとはいえ武人というわけではなかった。曹仁のいかさま紛いの奮戦を、陳矯は天という一語で理解したらしい。

「ええ、呂布殿の最後の暴れ振りを見れば、到底常人の抗し得るものではありません。その呂布殿を相手に五分の勝負を演じられた曹仁将軍の武もまた、人の域を超越しております」

「恋の暴れ振りか。それは相当なものだったろう」

「はい。赤兎隊に踏み蹴散らされた者を除いても、呂布殿御一人の戟による被害は実に四百八十人を数えます。古の覇王項羽もかくやあらんという、敵ながらも見事な戦いぶりでした。親衛隊の許褚様、典韋様の攻撃をも凌ぎ、夏侯惇様、夏侯淵様を振り払い、遂には曹操様に武器を取らせたのですから―――」

「―――華琳が武器を取った? 恋を相手に? それで、華琳は無事なのか?」

「え、ええ、もちろん。御主君が手傷を負われたなら、最初にそう申しあげます。ええと、その、と言いますのも、そのときすでに呂布殿は―――」

 話を遮って質問を浴びせると、陳矯は躊躇いがちに言葉を選ぶようだった。





 日の出と共に目覚めた華琳は、陣内を歩き回った。長らく滞陣を続け、戦の決着の場にもなった本陣だが、それも今日には撤収である。
 戦の終結に緊張感が解けたのか、兵は泥のように眠りに落ちている。そんな中でも交代で哨戒に立つ間だけはしっかりとしていて、華琳と行き会うと機敏に直立して見せた。
 一回りして本営に戻ると、隣接された小型の幕舎の前に呆けた表情で佇む男の姿があった。

「仁」

「……華琳か」

「ようやく目が覚めたのね。……そう、呂布の負傷のこと、聞いたのね?」

「ああ」

 表情から、すぐにそれと知れた。

「私を恨む?」

「まさか。戦のうえのことだろう」

「……それじゃあ、戦が嫌になった?」

「ああ、嫌だな、こんな思いをするのは。春姉は片目を失った。照の奴は死んだし、一人洛陽に残した皇甫嵩将軍の消息は知れない。俺が寝こけている間に、恋は片手を失った」

 曹仁が無力感を漂わせる。

「なら、私の元を去る? これから先も、私の覇道の前には麗羽や孫策が立ちはだかるでしょう。いずれも貴方が誼を通じた者たちよ。それに、ひょっとしたら、いつの日か桃香達とだって―――」

「―――俺を天の御遣いとして使え、華琳」

 遮る様に曹仁が言った。
 それは曹仁が拒絶し続けて来た肩書きだった。華琳の元へ帰って以来互いに触れずにきた、曹仁の持つ最大にして空虚な武器だ。桂花などからはあるものは利用すべきと何度も献策が上がっている。
 知らぬ間に得た不確かな称号で呼ばれることに曹仁自身が抗うように、華琳にもそれを利用することに抵抗感があった。

「良いの?」

「戦は嫌だ。でも俺の知らないところで、家族が、友人が、見知った人達が傷付くのはもっと嫌だ。昨日みたいに俺が眠りこけている間に、姉ちゃんや蘭々が危険に曝されると思えば、胸が締め付けられる。春姉や秋姉はもちろんのこと、それが桃香さん達でもだ。―――華琳がと思えば、もう生きた心地もしない」

 一息に泣き言を並べると、曹仁は吹っ切れた表情で続けた。

「だったら、さっさと戦の無い世の中を作るしかない。作れるのだろう、華琳なら? そのためだったら戦だってしてやるし、例え実体のない虚名であろうと使う」

「…………前から思っていたのだけれど、貴方、普段女々しい癖に、時々急に男らしい顔をするわね」

「なんだそれは。本気で言ってるんだぞ」

「分かってるわよ。ちょっとは茶化させなさい」

―――私一人だけ別枠で、殊更案じるような言い方をするのだもの。

 問い質せば、どうせ主君でもあるからという答えが返ってくるのだろう。眉を顰める曹仁を睨み返して、華琳は改めて口を開いた。

「ええ、貴方がそう言うのなら、私も使うことをもう躊躇わないわ」

 曹仁は、口を真一文字に結んでこくりと小さく頷いた。折よく振りそそぐ朝日に照らされて、その姿は神々しく見えなくもない。

「……ええと、―――ああ、そういえば」

 何となしに曹仁の顔から目を逸らしながら、華琳は話題を探した。

「呂布達のことだけれど、旗下に加える霞を除いた三名は貴方の預かりとしたわよ」

「俺の?」

 そこまでの話はまだ聞いていなかったらしく、曹仁が目を見開いた。

「ええ。……驚くと思ったのだけれど、ただ嬉しそうに微笑まれるとわね。ほんとうに、毒気を抜かれるわ、あの子には」

「?」

「こっちの話よ。―――もし呂布達が我が軍で働く気になったのなら、軍営に連れて来ても良いし、いずれはただ解放しても良い。貴方の好きになさい」

 しばらくは監視下に置き、しかるのちに放免というのはあらかじめ決めていたことだ。曹仁の元で、というのは華琳のとっさの思い付きだった。

「そうか。ありがとう、華琳」

「ふんっ、貴方に礼を言われるようなことじゃないわ」

 呂布のことで頭を下げる曹仁に、華琳は訳もなく苛立ちを覚えるのだった。















「恋、入ってもいいか?」

「……ん」

 小さく返事をすると、幕舎の入り口の布を捲り上げて曹仁が顔を見せた。
 曹操から与えられた幕舎内に残っているのは恋だけである。音々音と高順、霞は兵の収容や武装解除に当たっていた。降伏するにも細かな仕事は多々あるらしい。
 恋は、負傷を理由に休むように三人から言われていた。手を出したところであまり助けにはなれそうもないので、言われるままに幕舎で休息している。

「えっと、久しぶり」

「……? おとといもあった」

「ああ、そうだったな。まあ、戦場以外のところでは、久しぶりだ」

「んっ」

 なんとなく居心地が悪そうに、曹仁が腰を下ろした。

「ええと、……そうだ。三人の今後のことだけれど」

 視線を彷徨わせながら、曹仁が切り出した。

「洛陽の皇甫嵩の屋敷ほどではないけれど、陳留と許にはそれなりの広さの家を与えられているんだ。三人にはとりあえず、そのどちらかに住んでもらおうと思う。ずっと放置していたから荒れ放題だとは思うが、高順が片付けるだろう。音々音は文句を付けるだろうから、恋がなだめてくれ。そうだな、これを機会に使用人を何人か雇っても良い。……それから、ええっと」

 曹仁は捲し立てるように言葉を並べ、言い終えてなお無理にも言葉を探すようだった。

「……そーじん、なにかあった?」

「―――すまない。恋の腕を」

 ようやく恋と視線を合わせると、曹仁は絞り出すように言った。

「……んっ」

 気にするなと、小さく頷いて見せてもやはり曹仁の表情は晴れなかった。
 本当に、気にする必要はないのだ。片手は失ったが、片方残っていればご飯は食べられる。食事を作る高順は無事だし、一緒に食べるねねも霞も生きている。曹仁の命も奪わずにすんだ。多くの兵が死んだつらい戦だったが、失わずにすんだものも多い。
 思いは次々に浮かぶも、どう言葉にすれば曹仁に伝わるか分からない。口下手な自身を呪いつつ考えあぐねていると、馴れない行為に募ったのは空腹感だった。

「おなか減った。……そーじん、ごはん」

 考えるのは後にして、とりあえずは久しぶりに曹仁にご飯を作ってもらおう。
 曹仁の表情が、何故か少しだけ晴れた。



[7800] 幕間 西涼
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/09/21 20:42
「賊が出たぞーーっ! 逃げろーっ!」

 左右の岩山から、賊がわらわらと駆け下りてくる。口々に叫びながら、逃げる。こちらは馬車が二台に他も全員が騎乗だから、振り切るのは容易かった。それも二里ほど駆けたところで、枯れた倒木に行く手を阻まれた。

「それなりに周到な賊のようだ」

 そこがちょうど頃合いと、龐徳は全騎を反転させた。
 馬車に積んで置いた槍が降ろされ、次々に手渡されていく。大刀を受けとった龐徳が最前列に進み出たのと、賊が追いついて来たのがほぼ同時だった。
 賊は全員が武器を構えていることにぎょっとして足を止めた。その機を逃さず龐徳は馬を進め、大刀を振り回した。三つ、四つと首が飛ぶ。

「―――っ! てっ、抵抗するか! 荷だけ置いていけば命までは取らずにおいたものをっ! 野郎共っ、やっちまえ!!」

 賊は気圧されてはいるが、数を恃んで引く気はないようだ。わずか二十人の味方に対して、賊は二百近い。気勢を上げて躍りかかってくる。
 狭い道だから、難しい用兵は必要なかった。道を外れれば岩山と砂丘で、容易く背後に回り込まれる心配もない。兵には下馬させて、龐徳を中心に左右に槍を並べて前進させた。林立する穂先に押されて、賊が後退する。そして、唯一槍が途切れた龐徳のところへと賊は集中した。正面から向かってくる敵を龐徳は冷静に斬り下げ続けた。

「―――に、錦の旗!? き、錦馬超だ! 錦馬超が来たぞっ!!」

 賊の背後に、砂塵が巻き起こる。その先に見える錦の旗を目にすると、賊は初めて怯えた声を上げた。

「お前らっ、ひとんちを荒らしやがってっ!!」

 旗が至るより先に血飛沫が上がり、馬超―――翠の怒声が耳に届いた。突出して、駆けて来たらしい。頭に血が上ると他の者を置き去りに単騎駆けしてしまうのは翠の欠点だが、この程度の賊が相手ならば何の心配もない。血飛沫はさらに盛大に跳ね上がった。
 翠は悠々と賊の中心に血路を作り、龐徳の隣に並んだ。反転してもう一当てしようとする翠を制止し、龐徳は代わりに告げた。

「―――この地は馬騰将軍の治める大地である! 我らは将軍より賊徒の討伐を申し付かっている! これなるは馬騰将軍の嫡子馬超将軍! 錦馬超の名は貴様らにも聞こえておろう! 命が惜しくば、得物を捨てて膝を付け!」

 錦馬超の武威を目の当たりにした賊は、勧告に従って次々に跪いていく。さらに後方に翠に代わって馬岱―――蒲公英が率いる騎馬隊が詰めかけると、もはや抵抗する意欲を残す者は皆無だった。
 西涼は貧しい土地に軍閥がひしめくという状況故、元々賊の類は少なかった。奪うものは限られているし、それに反して討伐に当たる軍勢が多いのだ。賊に落ちるぐらいならば兵に志願する者が大半で、唯一東西に走る街道を運ばれる西域との交易品を目当てとした賊がわずかに見られる程度であった。それが最近は数を増している。迷惑な話で、中原の騒乱から逃れ出た者達が活きる術を失い、状況も知らず遠く西涼の地で賊に落ちている。
 賊など物の数ではないが、被害を受けてから動くのも面白い話ではない。最近では調練の一環として、こうして積極的に賊をあぶり出す方法を取っていた。
 縄を打たれた賊が、騎兵に追い立てられていく。

「れ、廉士(れんし)。よ、よかったら、この後、一緒に遠乗りにでも行かないかっ? その、あまりに情けない敵で暴れ足りないだろう?」

 翠が緊張した面持ちで龐徳の真名を呼ぶ。賊はほとんど翠一人で叩き伏せたようなものだが、言葉通り、戦闘による疲労などいささかも感じてはいないようだ。

「翠様、申し訳ありません。これより藍様のお供を仰せつかっております」

「あ、ああっ、そっ、そうなのか。なら、仕方ないな、うん。母様の護衛、しっかり頼む。じゃ、じゃあな―――」

「……もうっ、廉士兄さんったらつれないんだから」

 騎馬隊の元へ駆けていく翠と入れ替わりに、蒲公英がすり寄ってきて言った。

「任務がありますので」

「ほら、その態度がつれない。仕事とお姉様と、どっちが大切なの?」

「それはもちろん翠様ですが」

「ほんとに? お姉様に仕えるのも仕事のうちだって思ってない?」

「馬家に仕える者として、それはもちろんその通りです。ですが任務とはまた別に、翠様のことは大切に思っております。もちろん、蒲公英様のことも」

 かれこれ二十年近くも仕えた馬一族は、龐徳にとって単に主家というだけの存在ではない。赤子の頃の翠と蒲公英の世話をしたこともあるのだ。

「ふ~ん。それじゃあ、たんぽぽとお姉様、それに藍伯母様だと誰が一番大切なの?」

「それは、……―――蒲公英様、お戯れが過ぎます」

「うふふっ、は~いっ」

 こちらを見上げる蒲公英の瞳が悪戯っぽく揺れているのに気付いて、龐徳はぴしゃりと釘を刺した。蒲公英は反省の色なく愉快そうに笑うと、翠の後を追って兵の元へと馬を走らせる。
 屋敷―――馬一族の住居であると同時に、近辺の行政を司る役所でもある―――に戻ると、すでに馬上の人となって待ち受けていた馬騰の姿に、龐徳も慌てて再び騎乗した。

「行くぞ」

「はっ」

 軽快に馬を走らせる馬騰の後に龐徳は続いた。

――――また、お痩せになられた。

 馬騰―――藍の背を見つめ、龐徳は思わずにはいられなかった。
 翠と並べば姉妹と見紛うほどに若々しく、生命力にあふれていたかつての姿はここ数年で鳴りを潜めている。一度大病を患い、完治した今も床に伏せる日が少なくない。頭の後ろで一房にまとめた髪が風に揺れる度、陽光を弾く。まだ四十前だというのに、髪には白いものの方が多いくらいだ。顔つきも肉が削げ、年齢相応のものに変わった。凄惨さが加わったその姿を、以前より美しいという者もあった。龐徳は、以前の健康的で力強い美しさが好きだった。
 八歳の時、当時身重であった藍の従者となって以来、ずっと彼女のそばで生きてきた。藍が娘を生み、母として成長していく姿も、夫に先立たれ泣き崩れる姿も、ずっとそばで見てきたのだ。軍人としての才を見初められ、将校としてとり立てられたあとも、心の有り様としては藍の従者であった。西涼の武将としてそこそこに驍名を馳せるようになった今も、その思いは変わりない。
 本拠とする城郭を抜けて何もない原野を十里程も駆けると、次第に大地から草の色が減り、乾いた砂地が視界に広がっていく。砂の中に、ぽつんと幕舎が一つ見えた。入り口の横に、男女が一人ずつ並んでいる。
 藍が颯爽と馬を跳び下りた。人前で、いくらか無理をしていることが龐徳には分かった。着地の瞬間に鞍に手を預けて、ふらつきかねない身体を支えている。

「藍、よく来たな」

 出迎えた女は韓遂だった。藍とは義姉妹の契りを結んでいるから、馴れ馴れしく真名で呼び捨てである。
 涼州から雍州にかけて十数の軍閥が点在していて、それぞれが時に協力し合い、時に敵対しを繰り返している。中でも、最も大きな軍閥の頭が藍と韓遂だった。
 韓遂も連れているのは従者一人きりだ。もっとも幕舎の周辺には幾人か潜んでいる気配がある。病を得たとはいえかつては西涼第一の武人であった馬騰と、その薫陶を受けて育った龐徳を迎えるのであるから必要な警戒ではある。不快ではあるが藍が気にしない以上、龐徳も口を出しはしなかった。

「こちらへ」

 韓遂の従者に促され、藍は幕舎に踏み入り、胡床へ腰を下ろした。龐徳はその背後に控えた。従者は成公英と言う名の若い男で、龐徳が藍に近侍するのと同じく幼少期からずっと韓遂の側近くに従っているから、これまで何度となく顔を合わせている。

「まずは酒を」

 韓遂が静かに言うと、成公英が瓢と酒器を三つ持ち出した。まず龐徳に、次いで藍にも酒器を選ばせて、最後の一つを韓遂が取った。
 瓢は龐徳に手渡された。龐徳はまず自身の酒器に酒を注ぎ、それを一口含んでから藍、韓遂の順で注いで回った。
 酒肴もいくつか並べられ、まずは成公英が、次いで龐徳が箸をつけた。
 現状友好関係にあるし、状況を考えれば毒を盛られる可能性は皆無に等しい。単にお決まりの習慣とも言えたし、韓遂を相手にする以上は当然の用心とも言えた。
 近くまで来ているから会わないかと、韓遂から藍へ書簡が送られてきたのはつい昨日の話だ。藍が快諾すると、今日にはすべてお膳立てが整った会見の場が用意されていた。韓遂は全てに周到な女だ。

「中原の戦は片が付いたようだ」

 それぞれに数杯酒を重ねたところで、韓遂が切り出した。

「ああ、聞き及んでいる」

 中原の覇権を賭けた争いが幕を閉じ、勝者は曹操と相成った。
 反董卓連合の戦での曹操と呂布、両者を見比べた上で立てた翠の予想では、呂布の勝利であった。戦に関する勘所は藍も舌を巻くほどの翠であるから、龐徳にとっても意外な結末である。袁紹ほどではないにしても、曹操の戦は他に中華で名の知れた将軍達―――劉備や孫策、そして呂布と比べるとまだしも分かりやすい。奇策を重ねるようでいて、より大きなところでは軍学に忠実なのだ。しかしどこかに翠が読み切れないだけの深さがあったのだろう。あるいは、翠の苦手とする狡猾さかもしれない。

「この先、袁紹と曹操の戦は避けようがない。袁紹に勝ってもらいたいものだな」

「そうだな」

 韓遂が率直な言い方をすると、藍も首肯した。
 中原と河北が統一されれば、もはや天下に抗し得る者の無い大勢力だ。孫策率いる江南、荊州の劉表、益州の劉璋、そして西涼の軍閥と次々と飲み込んでいくだろう。
 袁紹なら、大軍をもって制圧するという戦をするだろう。それは涼州の乱に対する官軍のお決まりのやり方だった。離散し、正面切っての衝突を避ける。大軍が疲弊してきたところで、服従を申し入れる。そうして涼州の軍閥は摘み取られることなくこれまで生き長らえてきた。
 曹操はそこまで甘くはないという気がする。面従腹背などは許さず、西涼を完全に支配下に入れるだろう。戦のやり方以上に、政からその傾向が伺える。通常より幾分か高い税率や学校と呼ばれる教育機関の設営など、多少の無理を押してでも支配区域全土で画一の政策を推し進めている。
 涼州軍を率いて漢王朝を専横した董卓のような、天下に対する強い野心は藍にはない。ただ雍州から涼州の一帯―――西涼は、異民族と混じり中原とは異なる文化を形成した土地である。光武帝股肱の名将である馬援の末裔である藍にも、半分は羌族の血が流れている。漢王朝に対する淡い羨望と敬意と同時に、中原に拠って立つ王朝の支配からは独立していたいという気持ちも根強い。
 多くの軍閥が生まれた背景にも、中央から送られてくる領主ではなく、自分たちの手で土地を治めるという思いがある。かつて董卓とその父は朝廷から指名された代官で、涼州人ではあっても裏切り者、よそ者という感じが強かった。
 結果、董卓の父は軍閥との争いの中で死んだ。後を継いだ董卓は父以上の慎重さと仁政でもって徐々に西涼の人間の心を解きほぐした。董卓を慕う民の中から独自の兵力が生まれ、いくつかの軍閥をも吸収し、涼州軍として西涼を発し洛陽を支配するに至った。それは見ていて胸がすく思いがしたが、馬騰と韓遂は最後まで董卓の下に入ることを潔しとはしなかった。反董卓連合にも西涼の代表として翠を送り込んだのだ。

「曹操が勝ち西涼へ手を伸ばすなら、我らもいつまでも仲間内で争っている場合ではない。一つにまとまる必要も出てくるだろうな」

「それもそうだろうな」

 韓遂の窺うような視線を軽く流すと、馬騰がまた短く肯定した。
 中央に対する反発の表れの一つが西涼という土地の括りで、この辺りの住人は涼州とか雍州とか言うよりもこちらの言葉を好んで使う。元からあった涼州の一部を雍州と呼んだり、涼州と雍州を入れ替えたり、中央の気紛れとしか思えない形で土地の名前が変わることがあった。それで住人達は、涼州も雍州もひっくるめて西涼という呼び方をする。その西涼という言葉の範囲も曖昧で、長安以西と考える人間もいれば、長安をも含み潼関―――黄河の流れが南進から東進へと変わる屈曲点。洛陽と長安の中間にある―――までとする人間もいた。
 乱立する軍閥は西涼こそを我が天下と定め、普段その中での勢力争いを続けていた。それが、外敵に対する時だけは西涼一丸となって抗するのだ。
 そうなった場合、自分を担げと、韓遂は言っているわけではない。自分に担がれろと、言っているのだ。
 自身は総大将というような矢面には立たず、第二位の地位にあえて甘んじるのが韓遂のいつもの遣り口だった。必要とあれば大将の首を平気ですげ替えるような真似もするが、空いた席に自ら座ることはない。そうして乱を起こし、潰えた時にはその勢力を自分の元へと組み込む。それも巧妙に、行き場の無い兵を養ってやるという男気を示す形でだ。

「まあ、心配せずとも袁紹と曹操ではまだそれなりに実力に差がある。新たに徐州を支配下に入れたとはいえ、あれほどの戦をしたのだ。傷痕は容易くは癒えぬだろうし」

 手を翻す様に楽観的に韓遂は言って、それからはただの雑談だけを交わして会見は終了した。

「相変わらず食えぬ女だ」

 帰り道、並足で馬をやりながら藍が呟いた。お互いに口数は少なく、腹の探り合いに終始した会談だった。
 返答を求めての言葉ではないようだったが、龐徳は藍の呟きに返した。

「少しばかり知恵の回るただの小悪党です」

「ははっ、相変わらず嫌いか、廉士」

 龐徳が好きになる要素など欠片も無いのが韓遂だった。はっきりと言ってしまえば、顔を見ただけで虫唾が走るほどに嫌いだ。藍もまた、憎んでいないはずはない。なんとなれば、藍の夫、翠の父親を殺したのは韓遂なのだ。
 当時、韓遂と藍は敵対関係にあった。だが義姉妹の契りを結んだのはそれ以前の話で、友好な間柄も経験していた。時流によって敵味方が入れ替わり立ち替わるのが乱世の常ではあるが、韓遂のそれは度を越している。藍の夫の処刑を命じたその口で、再び味方となった藍を平気で義妹などと呼ぶのだ。
 その時その時を乗り切るためなら形振りを構わない変節漢。離反と同盟を繰り返し、常に自分を大きく保つのが韓遂と言う女だ。西涼には珍しい型の人間で、それ故に翻弄され飲み込まれる者も多い。

「おっ、母様。それに廉士も。どこへ行っていたんだ?」

 本拠にほど近い草原で、馬を走らせる翠と行き会った。面倒臭そうな顔をした蒲公英も連れている。結局、遠乗りには妹分の彼女を引きずり出したらしい。

「うむ。少し馬を走らせてきただけだ。たまには体を動かさねば、そのまま寝台に寝たきりになってしまいかねん」

「何だ。それなら言ってくれれば、あたしも一緒に行ったのに」

 翠が廉士の方を見て言った。

「申し訳ありません、翠様。遠乗りに出ると知っていれば、お誘いを受けた際に、私の方から逆にお誘い出来たのですが」

「何だ、翠も遠乗りか? すまないな、私の体調によっては中止もあり得たので、廉士には前もって教えていなかったのだ」

 藍が状況を悟って、口裏を合わせてくれた。龐徳も、藍がとっさに付いた遠乗りという嘘に話を合わせる。
 翠が、韓遂に対して実際にどの程度の憎悪を抱いているのか判然とはしない。父が殺された時にはまだ乳飲み子で、顔も覚えてはいないだろう。それ故に深く憎むとも思えるし、その逆もあり得た。もし前者であった場合、藍の領分内に数騎を伴うのみの韓遂がいると知れば、飛び出していきかねない。そして一度解き放たれてしまえば、止める手立てはない。翠は馬を走らせれば並ぶ者なく、槍を振るわせれば抗える者もない、西涼に無双で知られた武人だった。呂布が表舞台を降りた今、あるいは天下で一番の武人かもしれない。

「ふ~ん、そっか。だけど、こうして馬を走らせているということは、母様今日は調子が良いんだな?」

「ああ。久しぶりに馬を駆けさせたら、さらに元気が出た気がするぞ」

「これから帰りか?」

「うむ。―――そのつもりだったが、もう少し遠回りをしても良いかもしれんな。一緒に来るか?」

「ああっ」

 翠の嬉しそうな顔に、龐徳は制止の言葉を飲み込んだ。
 実際には、取りたてて体調が良いというわけではないだろう。韓遂との会合があったから、無理を押して出てきたのだ。だが、母との久しぶりの遠乗りに無邪気に喜ぶ翠と、目を細めてそれを見つめる藍の姿に、帰ろうとは言い出せなかった。
 結局、それから二刻あまりも馬を駆けさせ、屋敷に戻ったのは日が落ちかけた頃だった。

「廉士、悪いが私の馬の世話も頼む」

「はっ」

「ええーっ、母様、自分でやらないのかよ」

「廉士だけは特別だ。私が手塩にかけ育て、ずっと手足として働いて来たのだからな。廉士が世話をするのは、私が自分で世話をするのと同じことだ」

 藍が、会話を切り上げて自室に戻りたがっているのに龐徳は気付いた。顔にも口調にもおくびにも出してはいないが、かなり体力を消耗している。

「蒲公英様、それでは行きましょう」

「うん、姉様は置いて二人で先に行こう」

「あっ、ちょっと待ってくれよ、あたしも―――」

 蒲公英を誘って水場へ向かうと、翠が慌てて追いついて来た。
 屋敷内には小川を一つ引いてあって、馬を走らせた日には必ずそこで手ずから体を洗ってやる。藍に従者として仕えて、最初の日に教えられたことだ。翠も蒲公英も、そう教え込まれてきただろう。

「よーしよし、黄鵬、気持ちいいか?」

 翠が馬の首筋を撫でながら機嫌良さそうに言った。他に紫燕と麒麟という二頭を含む三頭が、翠の自慢の愛馬である。彼らに向かう時、翠は本当に楽しそうだった。
 藍との先ほどの会話など、もう覚えてもいないだろう。翠にとって藍はいつまでも強い母親であり、藍もそうあることを望んでいる。馬の世話も人任せにしなければならないほど母が疲弊しているとは、頭の片隅にも浮かんではいないだろう。強い母が病み衰えると想像するには、翠自身があまりに強過ぎるのだ。
 察しの良い蒲公英は、どこかで藍の不調に気付いたのかもしれない。蒲公英もまた馬一族に生まれ人並み以上の肉体的素質を有するが、弱さを知らずに生きられるほどに強くもない。翠と年が近いことで、その超人的な強さと常に比較され続けてきたのだからなおさらだ。

「ねえねえ、廉士兄さん。明日の予定は?」

 豚の毛をまとめた刷毛で馬の体を擦りながら、蒲公英が聞いてきた。

「明日ですか? もちろん調練ですが」

「そうじゃなくって、その後」

「さて、それは藍様に確認してみませんと」

 馬騰軍は兵士のほとんどが騎兵であり、気候が厳しい地域でもあるから、調練をだらだらと長時間やることは少なかった。走らせなければ馬の脚は萎えるが、走らせ過ぎるのも禁物である。特に砂地では脚を取られるため、馬の消耗は中原の人間が想像する以上に激しい。

「たまにはお姉様の相手をしてあげてよ。最近、廉士兄さんは藍伯母様のお使いばっかりなんだもん。お姉様の機嫌が悪いと、大抵わたしが迷惑するんだから」

「おい、たんぽぽっ! 馬鹿なことを言うな」

「きゃっ、お姉様っ! 何するのよ、人がせっかく気を利かせてっ! ―――っ、このっ」

 翠と蒲公英が小川の水を掛け合い戯れ始める。
 ありふれた日常が、それを見守る藍の不在を龐徳に強く印象付けた。



[7800] 第7章 第1話 華琳と桃香 その一 許での日常
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/10/19 14:11
「はい、どうぞ。あ~ん」

 幸蘭が、曹仁の口元へ匙を突き付けた。

「姉ちゃん、恥ずかしいからいいって。匙ならもう自分で持てるから」

「いけませんよ、仁ちゃん。怪我人なんだから無理をしちゃ」

「もう治ったって。それにひどい筋肉痛だっただけで、別に怪我ってわけじゃないし」

 鉛のように重かった両腕はすっかり力を取り戻していた。肩の付け根の辺りから腕全体に至るまで広がっていた青黒い内出血の跡も引いて、薄らと黄色の痣が残るだけだ。過度に筋肉を酷使した結果であるから、回復した今ではむしろ以前よりも一回り太く逞しくなったように思える。

「いいから! あ~~ん」

 言いながら自身も大きく口を開けて、幸蘭が曹仁を促す。
 実際、戦後十日余りは両腕を満足に動かすことが出来なかったから、何をするにも介助の手を必要としていた。目下の状況は、その際に高順や従者の陳矯に頼って、自分に頼らなかったことに対する幸蘭なりの意趣返しではないだろうか。宮中の食堂には、曹操軍の主だった面々が勢揃いしていた。桃香達劉備軍の姿もある。

「…………」

 曹仁は観念して口を開いた。
 書類仕事に寄ったついでにと、宮中で昼食を取ろうとしたのが運の尽きだった。すぐに幸蘭に見つかって、流流の手も借りて病人食のようなものが用意された。流流は言うまでもなく幸蘭も料理の腕は確かだから、病人向けの粥にしても不味いはずはない。不味いはずはないのだが、周囲の視線が気になって味はよく分からなかった。

「ちょっと熱かったかしら? ふ~ふ~した方がいいわね」

「い、いやっ! ちょっ、ちょうど良いよ」

「そう? ……んっ、確かにちょうど良いわね」

 曹仁の匙を使って、幸蘭が粥を口にした。

「それじゃあ、次ね。卵が入っているところがいいかしら? はいっ、あ~~ん」

「…………」

「姉貴、次は俺な」

「あっ、それならボクもやりた~い」

「鈴々もやるのだ!」

「……じゃ、じゃあ、私も」

 蘭々が言うと、年少組が面白がって群がってきた。
 どうにでもなれと言う心境で、次々と突き出される匙に唯々諾々と曹仁は口を開いた。雛鳥にでもなった気分である。

「仁、これも食え」

「姉者、それ以上は危険だ」

「人気者ですね~、お兄さんは。それでは、せっかくなので風も」

 乱雑な手付きで口内に饅頭を押し込んでくるのは春蘭で、見かねて制止してくれたのは秋蘭である。最後には完全にからかい目的の風まで便乗して、騒ぎは広がる一方だった。
 好奇の視線に曝され続けた拷問のような昼食の時間が終わると、曹仁は自室で書類仕事の続きに戻った。
 呂布軍の消滅に伴い、徐州は速やかに曹操軍へと譲渡されている。内政をほぼ一手に担っていた音々音の協力もあって、大きな問題は何も起きていない。曹仁が施しを為し、桃香が人気を誇った土地でもあるから、民の反発もほとんど見られなかった。
 霞の帰順で軍備の再編も滞りなく進んだが、新たに一州を支配下に置きながら兵力の拡張はわずかなものだった。一ヶ月に及ぶ消耗戦の末に、両軍合わせて数万の兵を失っている。失われた兵力を回復させれば、残る増員は微々たるものでしかない。
 騎馬隊は曹仁と霞の二段構えとなった。兵力は両軍ともに一万騎で、名目上は曹仁の下に霞という立ち位置だが、実際には対等な二つの騎馬隊が生まれた形になる。
 それとは別に呂布軍には豊富な替え馬が常に保持されていて、譲り受けたそれらを用いることで騎兵の増強が行われている。これは呂布軍騎馬隊の精強さの一因でもあり、霞は変わらぬ替え馬としての運用を望んだが、今は兵力の拡大が優先された。
 高順の率いていた重装歩兵は、用兵の質の似た凪の指揮下に置かれた。華琳はこの軍を重視して、新兵の中から優先的に適正者を選出し、戦で失われた数千と退役を願い出た数百による欠員を補充して、一万の兵力を取り戻している。
 それに伴い、戦では袁術が率いた呂布軍の新兵は、全て沙和が受け持つこととなった。手が空いた時には凪や、工兵部隊の専属となった真桜ら他の武将も力を貸してはいるが、それでも現在最も忙しく動き回っているのは沙和だろう。普段の女の子女の子した様子からそうは見えないが、新兵の育成で彼女に並ぶ者はない。
 軍全体としては、重装歩兵を含む歩兵が十二万に、騎馬隊が二万と数千となる。他に領土境の守備隊もいくらか補充された。全体としての兵力増強は、歩騎合わせて三万前後となる。開戦前の曹操軍呂布軍双方の兵力の合計からは、やはり随分と数を減らしている。
 騎馬隊の再編と増強がこれまでになく大規模に行われているから、こうして曹仁にも書類仕事が回ってくる。従者の陳矯が一度目を通して、些末なものは独自の判断で処理し、曹仁の手元に残るのは重要なものだけだが、それでも机の上には竹簡の山が出来ていた。従者とはいっても陳矯はすでに曹仁騎馬隊専属の文官兼雑務係兼その他諸々の責任者のようなものである。常に曹仁に付き従うわけではなく、こうして書類仕事が溜まると宮中へ送り込んで処理を任せることもある。今日は陳矯には軍営の方に溜まった雑務を任せて、入れ違いに曹仁が宮中に入っている。
 曹仁はまだ痣の残る腕に筆と判を取って、黙々と動かし続けた。
 日が暮れる前には、全ての仕事は片付いた。書類を全てまとめると、文官の仕事部屋にそれを提出する。ここからは文官の仕事だ。まずは下級の役人が全てを確認して、機械的に処理されるものもあれば、風や稟、文官筆頭の荀彧まで認可を仰ぐもの、さらに華琳まで上げられるものまで様々に分類される。曹仁は、あとは書き直しを命じられる書類が出ないよう祈るばかりだった。
 軍営に帰る前に華琳の執務室へと立ち寄った。書き上げたばかりの書類を一本、文官へは提出せずに携えている。

「―――華琳? 入って良いか?」

 部屋の入り口の前に立つと、中から言い争うような声が聞こえた。

「……入るぞ」

 訪いに答えが返される代わりに、中の声が止んだ。静かになったところを見計らって、曹仁は戸に手を掛けた。

「食堂では、なかなか面白いことをしていたわね」

 足を踏み入れると、早速口角をゆがめて皮肉を飛ばされた。

「―――曹仁さん」

 室内には華琳の他に桃香の姿があった。食堂でも二人並んで座っているのと、それを恨めしそうに見つめる荀彧を見かけていた。
 今は勉強会の最中らしく、相向かいで座る卓の上には巻物がいくつか拡げられている。
 ちらりと覗き見ると、韓非子のようだった。法家の書で、端的に言えば歴史上の事件や小話と、そこから得られる教訓を記したものである。この時代の学術書ではあるが、曹仁も皮肉の利いた説話集というつもりで一度目を通したことがあった。
 室外まで響いていた言い争いは口喧嘩と言うのでなく、論戦を演じていたというところだろうか。
 桃香の学識は当然華琳に及ぶべくもない。だが華琳にも自身の無知にも物怖じせずにはっきりと自分の考えを口にする。それが気に入ったのか、華琳も好んでそれに応じるようだった。

「勉強中か。また出直す」

 華琳の皮肉には取り合わずに曹仁は踵を返した。
 騎馬隊への支給に関する相談があっただけで、特に急ぎの用ではない。文官を通さずに華琳に直接奏上することを、荀彧などは当然嫌がる。嫌がるが、武官の思い付きに近い提案が荀彧から華琳へ上がることはまず無かった。軍のことまで全て文官に決められてしまうのは癪という思いもあって、華琳に真名を許されているような将軍達は良くこれをやる。

「あっ、ちょっと待って」

 部屋の戸に手を掛けたところで、桃香の声に呼び止められた。

「何だ、桃香さん?」

 桃香は卓上に置かれた木鉢を抱え、小走りで曹仁の元へと駆け寄った。

「へへっ。――――はいっ、あ~ん」

 鉢の中から取り出した茶請けの焼菓子を曹仁の口元にかざして、桃香が微笑む。

「…………」

「あ~んっ」

「…………」

「あ~~~んっ」

 押しの強さなら、桃香も幸蘭に負けていない。曹仁は再び観念して口を開いた。

「えへへっ、美味しいですか? 典韋ちゃんの手作りなんですよ」

「ええ、まあ。―――じゃあ、俺はこれで」

 食堂でやられなかっただけまだしも良かった。鈴々ならともかく、劉備軍の総大将にこれをされては非常に気まずいものがある。桃香は華琳のお気に入りということで、一部の将からは妬みを買ってもいる。

「うん、またね。―――あっ、華琳さんもやりますか?」

 桃香が不機嫌そうに眉を顰めていた華琳に水を向けたことで、再度曹仁は動きを止めた。

「…………結構よ。桃香が勉強に集中しないから、早く出ていきなさい、仁」

「ああ。それじゃあ、また―――」

 手を振って退室を促す華琳に、曹仁はいささかの物足りなさを覚えながら辞去した。
 華琳への奏上はまた後日として、許の街中を白鵠を引いて城外の軍営へと向かった。日は暮れかけているがまだ城内には人が多く、騎乗して走らせるわけにはいかない。ちょっとした散策気分でゆっくりと大通りを歩いた。
 曹操軍の本拠は正式に陳留から許へと移されていた。赤兎隊によって落城し、城壁を崩された陳留の復旧はほぼ完了している。しかし許は区画整理から曹操軍が手を入れた計画都市であり、様々な面で勝手が良いのだ。

「曹仁将軍、お一ついかがですか?」

 街中ではすっかり顔も知れ渡っているから、店先からは頻繁に声が掛かる。城門を出る頃には、曹仁の両腕には山ほどの菓子やら点心やらが持たされていた。
 それを落とさない様に抱えながら、白鵠の背に乗った。しばらく、早足で駆けさせた。城郭から軍営までは少し距離がある。その間を広がるのは、田畑である。華琳は領内の土地の開墾を奨励していた。新たに開いた農地は、その年の税は免除とし、翌年からの五年間も税率は通常の半分と定められている。
 曹仁の感覚では、曹操軍の首都と言って良い本拠の周辺に田畑が広がるというのは違和感があった。しかし考えてみると、本拠であるだけに民も多く、駐屯する兵も多い。彼らの腹を満たすための食糧が必要であり、輸送に掛かる労力を考えるなら消費地近くで収穫出来るに越したことはないのだ。
 この国では、街や村というのは面ではなく点だった。巨大な城郭に守られた街―――城邑か、そうでなくても人々が一箇所に固まった集落である。それら点と点を繋ぐ線―――街道を除けば、後は未開発な土地が広がるばかりだ。本拠といえども、城郭を出てしまえば開墾可能な土地は溢れているのだ。
 実りつつある稲穂の中を白鵠を走らせ、軍営に到着した。すぐに駆け寄ってきた陳矯に、城内の商店でもらった品々を土産と言って与えると、嬉しそうに抱え込んだ。





 翌日は調練の指揮に戻った。
 丘の上から、旗の合図で兵に指示を送る。かつては大軍と思えた一万騎も、今はほとんど手足のように動かせる。曹仁自身の用兵の成長もあるが、何よりこうして調練を繰り返す中で、末端の兵まで澱みなく意志が通じる様になったことが大きい。

「―――曹仁将軍」

 斥候の報告に背後を振り返ると、確かに遠くから騎馬の一団が近付いてくるのが見えた。兵を差し向けようとした角を、曹仁は制止した。
 一団は調練に使っている平原の裏を通って、そのまま曹仁のいる丘の上まで駆け上がってくる。

「曹仁さ~ん!」

 声に、自然と頬が緩んだ。馬を走らせてきたのは、虎士に守られた華琳と桃香である。季衣と流流の隣りに鈴々の姿もあるのは、桃香の護衛役というところだろう。

「遠乗りか?」

「うんっ。勉強には飽きちゃって―――っっ」

 華琳の咳払いに、桃香がえへへと小さく舌を出した。

「仁、背後が無防備ね。私達が敵の送り込んだ刺客か何かだったら―――」

「ちゃんと捕捉はしていたさ。遠目でも華琳の乗馬は目立つからな」

「そう、なら良いわ」

 華琳が面白くなさそうに言った。
 華琳の乗る馬は、白鵠に劣らず見事なものだった。影も留めぬ速さから、絶影と華琳に名付けられている。
 毛色は白に近い灰色で、色の濃い斑状の紋様が全身を覆っている。連銭葦毛、あるいは星葦毛とも呼ばれる毛並である。見る人によって美しいとも、おどろおどろしいとも感じさせる。それゆえに華琳の乗馬としては不適切だと評する者もいたが、本人はいたく気に入った様子だった。馬体の上に無数の旋風が巻き踊るかのような力強い毛並を、曹仁も悪くないと思っていた。
曹仁の白鵠もかつて幸蘭に譲られたものであるが、絶影もどこからか彼女が調達してきたものだ。曹操軍の武将であると同時に資産家にして商人の側面も持つ幸蘭は、物流の仲介で利益を上げているようだから、名馬の取引にも手を出しているのかもしれない。
 華琳の横に並ぶ桃香の馬もまた目を引きつける。
 体格自体は普通の馬よりわずかに勝る程度だが、脚がその身体に不釣り合いなほどに太く大きい。全身を覆うのは絶影よりも幾分濃い灰色の毛で、額だけは白く抜けていた。これは的盧と呼ばれる毛並で、乗る者に悲劇をもたらす凶相とされている。桃香はこの馬を、あえて不吉な意味を持つその毛並と同じ的盧と名付けていた。
 華琳から桃香へと贈られた馬である。厩舎の片隅に留められた的盧に目を付けた桃香に、初め華琳は別の馬を薦めたと言う。凶相などというものを華琳が信じるとも思えないから、桃香との関係を邪推されることを嫌ったのだろう。それも、桃香自身がことさら的盧と呼んで無邪気に可愛がるものだから、詰まらない噂が広まることもなかった。

「もう調練には問題ないようね」

「ああ」

 手にした槍を、くるくると旋回して見せる。以前よりも槍を軽く感じた。

「―――あら、例の管は付けていないのね?」

「ん? ―――ああ、薙いだり払ったりするにはむしろ邪魔だからな。一対一だと有効だけど、戦や調練で大勢を相手にするにはちょっとな」

「へえ」

「それに、やっぱり邪道だ」

「貴方の国に実際にあるものなのでしょう? 邪道と言うほど特殊な細工とも思えないけれど。弓や幸蘭の多節鞭の方がよほど手が込んだ武器じゃない」

「初めから管槍を得物に選んでいれば、俺も気にはしなかったと思うんだがな。今から持ち替えるというのはどうも。それに、管を持つことで強くなるのは単に俺の力量不足でもある。槍を持つ掌の業が精妙を極めれば、むしろ管などない方が融通が効く分だけ強くてもおかしくないはずなんだ」

「ふうん」

 華琳が興味の無さそうな顔で適当な相槌を打った。
 あくまで個人的な拘りに過ぎない話であるから無理もない。管が無用と思えるほどに精妙無比の境地に至るにはどれほどの鍛錬が必要なのか。あるいは決して至る者の無い高みかもしれない。

「そうそう、これを言いに来たのだけれど。―――沙和が調練中の新兵。一通りの調練を終えた後は、貴方の旗下に組み入れるわよ」

 話題を変えて華琳が切り出した。

「俺の旗下に? 歩兵だろう?」

「ええ、歩兵を二万」

「それは……」

 騎兵一万に歩兵が二万となると、曹操軍内で最大の兵力を抱えることとなる。呂布軍との一戦では四万を率いた春蘭も、常備軍としては二万だった。普段は韓浩ら曹操軍生え抜きの武将達や、黄巾賊出身の黄邵等も兵を率いていて、それが大戦となると春蘭の旗下に集められるのだ。

「自信がない?」

「お前にそう問われれば、俺はやらないとは言えても、やれないとは口が裂けても言えないな」

「天の御使いを名乗らせる以上、貴方にはいつまでもただの騎馬隊の部将の一人でいてもらう心算はないのよ。今後は、二面三面の戦をすることもあるでしょうし」

 他勢力に囲まれた中原でこれだけ領土が広がれば、華琳が出動出来ない戦も当然出てくるだろう。代わりに一方面を任せる将には戦の巧拙だけでなく、民を安んじ兵を鼓舞する盛名を持つことも重要だった。確かに天の御使いの肩書きはその点において大きな力を持つことだろう。
 歩騎両方を扱う総大将の戦を身に付けろと、華琳は言っているらしい。

「―――それじゃあ、伝えることも伝えたし。そろそろ行きましょうか、桃香」

「えーっ。せっかくここまで来たのに、もう?」

「……分かったわ。少しだけ、仁の調練を見ていきましょう」

「やった。ありがとう、華琳さん」

「はいはい」

 華琳がわざとらしい仕草で肩をすくめた。虎士の中から流流が進み出て、素早く床几を二つ並べる。

「それじゃあ、俺は指揮に戻る」

 二人に背を向け、角に任せていた調練の指揮へと曹仁は戻った。
 五千ずつの二隊に分けて、疾駆しながら馳せ違わせる。互い違いに行き交いながら駆けさせる。丘の上から確認しても、ただの一騎も遅れる兵はいなかった。騎兵の増強は続いていて、一万騎に加えて二千騎あまりも曹仁が調練を受け持っているが、まだこの動きには参加させられない。騎馬隊の基本の調練ではあるが、実戦と変わらぬ速さで馬を駆けさせているから容易く死傷者も出る。二千騎には、今は隊列を組んでの行軍の調練をさせていた。
 背後からは桃香の感心する声が聞こえる。劉備軍の騎兵も精強だが、一千騎に満たない寡兵だ。一万騎の騎兵が行き交う様は、戦慣れした桃香にもそれなりに迫力があるものだろう。

「そうだ、華琳さん。この前話したあのお店行きましたか?」

 それもしばらくすると止んで、華琳との間で他愛のない会話が始まった。どこそこのお店のなにが美味しいけれど並ばなければ食べられないだの、新しい服が欲しいけれど我慢しているだのと、街娘同士のやり取りと変わりない。桃香が一方的に話して、華琳が聞き役に回っている時間が多く、それはちょっと意外な感じがした。
意外と言うならば、桃香が話題に出す人気のお菓子も欲しがっている服も、華琳ならば簡単に買い与えることが出来るが、そうはしないようだった。本来華琳にはお気に入りの人物には気前よく贈物をする癖のようなものがある。劉備軍の中でも愛紗や朱里達には頻繁に武具や書物などを下賜していた。それが、桃香に対してだけは一緒に遠乗りするのに不便という理由で、的盧という良馬を一頭与えただけだった。だからこそ桃香も華琳の前で気兼ねなく欲しい物など口にするのだろう。余人がやればおねだりに見えかねない。
 一方で、真名を許し身内同然の扱いをしてもいる。宮中に一室を与え、華琳の居室への出入りも自由で、さらには民からの相談に対して許可を待たず本人の判断で行動する権限も与えられている。桃香が桃香らしく動き回れる環境が整えられていた。それはまるで―――

「―――気の置けない友達の様な」

 口にしてみると、それは存外しっくりとくる言葉だった。
 華琳はいずれは桃香を、そして劉備軍を、曹操軍へ取り込もうと考えているはずだった。あれほど優秀な人材と精強な軍団を、華琳が欲しがらない筈がない。華琳は贈物や官位によらず、一人の人間として桃香を心服させようとしている。その時初めて、劉備軍は曹操軍の一部となる。そうなれば華琳と桃香は君臣の間柄となるが、今の関係を端的に表すならばただの友人同士ということになろう。

「そろそろお暇するわ、仁」

「ああ」

「ほらっ、早く立ちなさいっ」

 ひとしきり話し込むと、華琳が立ち上がった。桃香はやはり不服そうだが、腕を取って引き起こしている。そういう態度も、やはり友人同士の気安さと見える。

「―――悪くない意匠ね」

 去り際に、華琳が一度視線を上げて言い捨てていった。
 黒地に白抜きの曹仁の曹旗と対照的に、白地に黒文字で天と大書した旗が完成していた。陳矯の言に倣って、天人旗と呼び習わしている。本人に言うといたく恐縮していたが、曹仁は天の御使いよりも天人という呼び方を気に入っていた。
 これまで通り曹旗も使うが、旗竿のそのすぐ下に天人旗も垂らした。
 “天”を“曹”の下に置いて良いものか、逡巡はあった。結局“曹家の天の御使い”だからという理由で曹旗を上とした。華琳から小さなことに拘るなどと思われたくはない。相談もせずに決めたが、何もそのことに言及しなかったからには、華琳もそれで構わないということのようだった。





 調練後は、久しぶりに軍営ではなく城内の屋敷へ帰ることにした。

「―――ただいま」

「んっ」

「なんだ、今日は帰ってきやがったのですか」

「おかえり、仁兄」

 帰宅を告げると、三者三様の返答があった。
 恋、音々音、高順の三人は、許の城内に建てられた曹仁の屋敷に暮らしていた。名目上は捕虜の下げ渡しで、呂布軍との戦での曹仁の働きに対する褒賞という形だ。
 曹仁は軍営に詰めて屋敷に戻らない日も多いから、家のことは大抵高順に取り仕切らせていた。家事全般において高順は曹仁の弟子と言って良いから、何の心配もない。放置して時折戻るだけだった屋敷が、今後は帰る度に快適な暮らしが約束されていた。
 曹操軍に帰順した霞も普段は軍営暮らしで、宮中には居室も与えられている。ただ曹仁が屋敷へ戻る時にはどこからか聞き付けてきて、ふらりと屋敷を訪れることも多い。

「また腕を上げたな、順」

 食卓に並ぶ料理に箸を伸ばして、曹仁は言った。

「他にすることもないからな。それに昔の洛陽ほどではないけど、ここも良い食材が出回っている」

 許は曹操軍の領内最大の都市にまで成長している。洛陽の荒廃が伝えられる今、あるいは中華最大と言ってもいいのかもしれない。
 とはいえ、食費は十分に渡しているはずだがそれほど食材に金は掛けていない。その分、手間を掛けた料理だった。肉にはしっかりと下味を付けているし、魚も小振りなものを上手くさばいていた。曹家一門に拾われた曹仁は結局のところ坊ちゃん育ちであるから、節約という考えがあまりない。吝嗇家の幸蘭も、衣食に関してはそれほど厳しいことは言わなかった。洛陽でも官軍第一の将軍として高給取りの皇甫嵩の元、食材に金は惜しまなかった。最高級の食材はそれに見合った腕を要求し曹仁の料理の腕は上がったが、最低限の食材に一工夫も二工夫も加えることはそれ以上に成長を促すものかもしれない。

「そうだ、順、音々音。姉ちゃんから仕事の話を聞いたか?」

「ああ、面白そうだ」

「このままお前の世話になり続けるなんてごめんですし、やってやっても良いのです」

 幸蘭の有する諜報部隊と、中華全土に伸ばした飛脚の網。高順と音々音に依頼があったのは、このうち飛脚に関する仕事だった。情報の網をもっと太く強固なものにする。現状では人が行き来するだけの道にも、商売の流路を作る。そうすることで、元々が商人の情報網を利用した飛脚の経路はより堅固なものとなる。
 具体的に高順には現場での商品の流通を、音々音はそこで上がる利の総括が依頼されている。つまりは幸蘭の元で行商人とその元締めをするということだ。形式としては幸蘭の私的な使用人で、曹操軍の諜報に組み込まれるわけではないらしい。求められるのは曹操軍に有利な情報を持ち帰ることではなく、あくまで商売の利の追及だという。

「音々音のやることは、まあ、これまでやって来た軍師の仕事に近いものがあるだろう。順の方は、行商人として各地を歩き回ることになる。出来そうか?」

「たぶん大丈夫」

 慢性的に文官不足だった呂布軍では、高順は武将と同時に金庫番の役割もしていたらしい。幸蘭が単に曹仁と親しいというだけで大切に育ててきた飛脚の仕事を委ねるとも思えない。資質を認めた上でのことだろう。
 高順に対してはいくらか過保護気味になる自分を曹仁は自覚していた。

「……恋も、なにか働く?」

 料理に取り付いていた恋が、顔を上げて言った。片手ではまだ食べなれないのか、頬に付いた汚れを音々音と高順が先を争って拭った。

「恋の仕事か」

 適正で言うならば、当然戦いに関係したものとなるだろう。左手を失ったとはいえ、利き腕である右肩の矢傷は驚異的な回復力で―――曹仁の腕には未だに痣が残っている―――すでに完治している。天下無双は今だ健在だった。ただこれ以上戦いの場に立たせたいとは思わない。それは高順と音々音にも共通した思いだろう。

「体力があって可愛いから、食事処の看板娘―――給仕とか。……駄目か。客に食事が届かない恐れがある。…………いや、待てよ」

 恋が飲食店で働く姿を想像するに、悪くなかった。
 愛らしい店員に餌付け出来る飲食店。作る料理作る料理、客ではなく店員の胃袋に収まるわけで、それは飲食店とは言い難いかもしれない。しかし恋なら回転率は並みの客が十人並ぶよりも上だし、場合によっては季衣や鈴々にも店員として入ってもらう手もある。回転率を上げるだけでなく、幅広い需要への対策にもなる。出来ればもう少し熟れた感じの女性も一人欲しいか。

「……いかがわし過ぎるな、一体何の店だ」

 曹仁は大きく頭を振って馬鹿な考えを振り払った。

「―――恋殿に飯運びなどさせられますかっ!」

 音々音が頬を膨らませて叫んだ。

「……じゃあ、張三姉妹みたいなアイドルとか。恋なら可愛いし動けるから、三姉妹にも負けないくらい信者が付くんじゃないかな?」

「あいどる?」

 高順が首を傾げた。

「ああ、えっと、張三姉妹の話は聞いているだろう? あんな感じで舞台に立って歌ったり踊ったりする人のことだ。…………歌ったり、か」

「……それは恋さんには難しそうだな」

「良いと思ったんだがな」

「まったく、ろくな案を出さないのです」

「それなら音々音、お前も何か案を出せ」

「ふふんっ、そんなの簡単です。ねねほど恋殿のことを深く理解している者はいないのですからっ」

 音々音が自信あり気に無い胸を反らした。

「恋殿は確かに強くて可愛いいのですよ。でも、恋殿の魅力といえばまず何と言ってもその優しさなのです!」

「知ってる」

 高順が詰まらなそうに呟くと、音々音が水を差すなというように睨みつけた。

「それで、優しさでどうやって金を稼ぐんだ、軍師様?」

「それはですね。…………ええっと、困っている人を助けたら、……その人が大金持ちで、…………それで」

 突っ込むまでもなく自ら口を噤んだ音々音に、曹仁はそれ以上追い打ちを掛けるのを控えた。
 その時、服の端がくいくいっと引かれた。視線を向けると、いつの間にか席を立った恋が曹仁の隣でしゃがみ込んでいた。上目使いの恋が口を開く。

「……恋、かわいい?」

「―――っ」

 面と向かって聞き返され、曹仁は思わず絶句した。同時に、やはり可愛さ路線を売りにすべきという確信を深めるのであった。

「邪魔するでー」

 玄関口から、霞の威勢の良い声が響いた。




[7800] 第7章 第2話 王道の軍
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/11/23 12:43
「のんびりと様子見などしている場合ではありません。曹操軍が呂布との戦に疲弊した今こそっ、すぐさま軍を発し、決戦に臨むべきですっ!」

 田豊は袁紹へ向けて、声高に叫んだ。
 袁紹軍の本拠地―――冀州魏郡鄴城の謁見の間には、武官文官の主だった者達が勢揃いしていた。袁家らしい煌びやかな装飾に満ちた室内にあって、一段高くなった段上の玉座は黄金色の輝きを放ち、より一層際立って見える。

「短期決戦は控えろと言っていたのは貴方ではなくって、田豊」

「あの時とは状況がまるで違いますっ! 時勢をお読みくださいっ、袁紹様」

 自明の理ともいえることを殊更言い立てねばならない現状への苛立ちが、田豊の胸に際限なく湧いてくる。
 元々、国力に物を言わせた長期戦というのが、田豊の主張であった。中原には曹操と呂布が並び立ち、江南には孫策がいた。何れも反董卓連合で両陣営の主力になった武将で、戦の巧さという点では袁紹など足元にも及ばないだろう。三者が相争う中原の覇権に係るべきではなく、戦に疲れ果てたところで軍を進めれば勝利は手堅いものだったのだ。
 田豊の進言を無視して二十万もの兵を動員して出陣した挙句が、曹操軍と呂布軍の連携を促し、なんの益も上げずに撤兵であった。その後は呂布と曹操という大敵二人に攻め込まれ、じりじりと領土を削り取られた。田豊の調略なって二勢力を反目させられたのは、袁術が呂布軍の庇護下にいたという幸運に助けられてのものだった。
 そうして呂布軍が倒れ曹操軍が疲弊した今になって、今度は長期戦が論じられていた。曰く、陶謙統治下で荒廃した徐州を新たに領土に加えた曹操との力の差は、時を経るほどに開く一方だというのだ。

「しかし、田豊殿。やたらと戦端を開くばかりが、王道ではありますまい」

 静かに口を挟む者がいた。きっと睨みつけた田豊の視線を受け止めたのは、審配であった。五十をいくつか過ぎ短身痩躯の田豊とは対照的に、長身で肉付きの良い身体に自信に満ち溢れた表情を浮かべている。他の文官連中であれば、鬼婆などと陰口を聞いて震え上がる田豊の眼光にも、審配はひるむことなく言葉を続けた。

「曹操軍ではあまりの力の差に、我らに対する降伏論も出ていると聞きます。曹操も、それを考慮するそぶりを見せているとか。自ら進んで傘下に加わろうとする者を拒むことなく、悔悟の機会を与えてやる。それでこそ、天下平定の王道事業というものでしょう」

 王道、という言葉は、最近若い文官連中の間で好んで使われる語だった。覇道を標榜する曹操に対する当て付けであり、袁紹が好みそうな言葉でもある。口にする者の性根が伺えるというものだ。
 そんな中にあって、審配はまだしもましな部類の女ではあった。さらりと口にした曹操軍の降伏論という話も、独自の諜報で調べ上げたものであろう。軍議の間に詰める他の者達は、降伏という二字に驚きの表情を浮かべていた。袁紹も玉座から身を乗り出して顔を輝かせている。
 田豊の元にも同じ情報は入っていた。提案者が古参の重臣である曹洪であるために、曹操軍に一大論争を巻き起こしたという。曹洪は曹家一門の重鎮であり、天の御使いと称される曹仁の義姉でもある。その発言力は相当なものであろう。郭嘉などがそれに対抗する形で、曹操には十の勝因が、袁紹には十の敗因が有るなどと声高に叫んでいるという。その発言自体は曹操と諸将の心を打ったようではあるが、曹洪と比べると郭嘉はいかにも新参であった。
 そして降伏の意志の表れとばかりに、曹操軍からは虜囚となっていた袁術の身柄が送り届けられていた。長く傅役を務め、袁術にとって肉親以上の存在と言っていい張勲は才覚を買われて曹操の手元に残されている。旧悪に関わらず人材を愛するというのは曹操らしい行為と見えるが、結局のところは体の良い人質であった。袁術は日夜、袁紹に張勲の身の安全、ひいては曹操軍との友好の道を説いているという。

「なればこそ、今なのだ。物事には時宜というものがある。曹孟徳の意志の元で盤石の結束を見せ続けてきた曹操軍に初めて亀裂が生じているのだ。今、曹操を倒さずして、天下平定への道は開かぬわ」

 そもそも、降伏論自体が時間稼ぎのために曹操の仕掛けた謀略の可能性が高いと田豊は見ていた。曹洪が曹操軍の調略を担う人物であることは知れている。審配とてそれ位は知っていて、降伏論を頭から信じてはいないだろう。不確かな話でも、袁紹が喜ぶからと口にしているのだ。
 ただ審配を論破出来るような証拠もなかった。曹洪には利に聡く蓄財を好むという噂もあるから、私財を守るためと考えれば降伏論にも一応の説得力はある。袁紹も降伏の二字に喜色を浮かべている以上、田豊は事の真偽には言及せずにそれこそ勝機と煽り立てた。

「それで弱みに付け込み袁紹様に軍を挙げよと? そんなものはすでにして王者たる袁紹様の戦ではありません。王者は悠然と構えていればよいのですよ。なにより田豊殿は、時を置けば我らが負けるとでもお考えですか? 長らくの戦乱で中原から河北へ逃れ来た民は多く、領土は肥沃。時を置けば置いた分だけ、我らは強大に育ちます」

 本心からの言葉であろう。審配に一切の私心がないことを田豊は良く理解していた。忠節を持って袁紹に仕え、袁紹のためになることを常に考えている。だが、その忠義の在り方は田豊のそれとは大きく異なる。
 自分は社稷の臣であるという自負が、田豊にはあった。
袁紹は王ではなく、乱立した諸侯の一人でしかない。否、河北四州を領するも漢王朝から正式に認められたものではなく、正確に言えば諸侯という言葉さえ当てはまらない。それでも、袁紹を主としたこの集団を国家と思い定め、その繁栄を誰よりも深く考えているのは自分である。ひいてはそれが、主君である袁紹に対する忠義ともなるのだ。
 それに比べれば、審配など袁紹の私臣のようなものだった。袁紹が好むことを言い、袁紹の意志を忠実に実行するだけだ。

「審配、貴様は曹操を知らぬ。わずか一年前、あの女が五千の私兵を率いるだけであったことを忘れたか!?」

 田豊はこれまで曹操が如何に戦い、如何に治めてきたのか、詳らかに説いてみせた。
 特に大量に得た青州黄巾の降兵の扱い。どのように各地に振り分け帰農させ、安定した収穫を得るに至ったのか。曹操の政と言えば学校制度の施行や商業の奨励など派手な業績も多いが、こうした一見目立たない部分も巧みであった。河北と比べ、中原は黄巾の乱によりひどく荒廃しているが、曹操の領内はかなり生産力を回復していた。開墾には時に兵力を割くこともあり、曹操軍の本拠許の周辺は広大な農地が広がっているという。
 嘆かわしいことに、文官の中にはやはり初めて耳にしたという顔をしている者も混じっている。まだ天下を取ったわけでもないというのに、河北に他を圧倒する一大勢力を築きあげたことで、すでに陣営内には緩んだ空気が流れ始めていた。

「曹孟徳がどれほど優秀人間なのかは、十二分に理解しました。―――思うに田豊殿は、戦上手で内政も達者、麗羽様の幼馴染でもあらせられる曹操殿が、文官筆頭というご自身の地位を脅かすことを恐れておいでなのでは?」

「―――小娘っ!!」

 田豊が一歩踏み出すと、審配は受けて立つというように胸を反らした。

「お、落ち着いてください、二人とも」

 常に袁紹の左右に侍る二枚看板の一人顔良が、段上から駆け下りて両者の間に割って入った。

「袁紹様、将軍達の中にもこれを戦機と感じているものが少なくありません。ここは田豊殿の言をお入れになり、兵をお挙げになるべきかと」

 田豊にとって盟友と言っても良い沮授が、ここでようやく口を開いた。
 田豊に並ぶ文官の筆頭で、二枚看板ら諸将の上に立って監軍として軍のまとめ役をこなしている。曹操軍と呂布軍が争うように仕向けた袁術への働きかけも、沮授と二人で企画したものだ。今も短期決戦という考えは当然一致しているが、二人並んで声高に叫ぶよりも監軍として別の所から賛意を示す方が、軍議が有利に進むと判断したのだろう。激しやすいところがある田豊にとっては実に頼りになる相棒であった。

「そうなの、斗詩?」

「ええと」

 田豊と審配に挟まれた顔良が、曖昧に視線を彷徨わせた。
 顔良には深いところまで考え通す頭はないが、一応の軍略と常識は備えている。ただ日夜袁紹と文醜に振り回される生活故か、優柔不断で他人に判断を委ねてしまうところがあった。

「猪々子?」

「あたいはもちろん戦を押します。どっちにしろ勝つか負けるかなんだから、どうせならすかっと暴れましょうよ、麗羽さま」

 文醜が好戦的で博打好きらしい答えを返す。田豊の意見を支持した形だが、考え無しの発言はむしろ悪評に近い。

「……淳于将軍や張郃さん達はどうです?」

 文醜の返答にはさすがの袁紹も眉を顰め、居並ぶ群臣へ質問を振った。

「私は、田豊殿を支持します」

 二枚看板に次ぐ第三位の将軍である淳于瓊が田豊の意見に同意すると、他の武官達も口々に賛同の声を上げた。
 袁紹のお気に入りで武勇に優れた顔良と文醜に地位を譲ってこそいるが、軍略という点においては淳于瓊に張郃、それに高覧辺りの方が上だと田豊は思っていた。普段袁紹に小間使いの様に使われている顔良らの分まで調練に当たっているから、兵からの信望も厚い。

「わ、我らは審配殿を支持します」

 文官数人を代表する形で、男の声が言った。一睨みしてやると、郭図が首を竦めて身を縮こまらせる。文官ながら戦もこなす男で、能が無いわけではないが意見を二転三転させる節操の無さが目立つ人物だ。

「―――いずれにせよ、お決めになるのは袁紹様です」

 自らの支持者を得たところで、審配がたおやかな口調で袁紹に水を向けた。段上に座した袁紹が頬杖を突いていた頭を上げる。

「そうね。……どうしようかしら?」

 袁紹は中空を彷徨わせた視線を、まずは股肱の臣というべき顔良へと向けた。顔良はやはり自分には判断が出来ないというように、二度三度首を振る。
 次に目を向けたのは古老たる田豊であった。やはり、審配などという若輩よりも先に袁紹は自分を頼むのだ。自信に満ちた表情を浮かべ、田豊が首を縦に振りかけた時だった。

「―――袁紹様、ご想像ください。あの曹孟徳が、御身の足下にひれ伏し、御裁定をあおぐ姿を」

 審配が口を開いた。袁紹の表情が、ぴくりと動いた。

「おーほっほっほっ、それは愉快ですわね!!」

 爆発した高笑いが、もはや覆しようもない袁紹の決定を告げる。田豊はがっくりとうな垂れるしかなかった。





「ふふふっ、あの華琳さんがついに私の膝元に。うふふふふっ」

 軍議を終え私室に戻っても、麗羽の上機嫌は続いていた。いつも通り私室の中まで付き従わせている斗詩と猪々子が胡乱な瞳で見つめて来るが、気にもならない。
 大軍を率いて打ち倒す瞬間をこそ今まで夢想してきたが、あの華琳が自ら頭を垂れて隷属を口にする様を思えば、これ以上の愉悦はない。

「そうですわ、斗詩さん。謁見の間の段、少し低過ぎないかしら?」

「段って、玉座のところの段差のことですか? いえ、普通だと―――」

「―――いいえ、確かに低過ぎますわ。今の倍。いいえ、三倍は高くなさい」

「謁見の間は少し前にも意匠が気に入らないと言われて、造り直させたばかりですけど」

「ええ、飾り付けの方は気に入りましてよ。良い仕事です。ただ、何かが足りないと感じておりましたの。そして今日それに気が付きました。私の偉大さを表現するには圧倒的に高さが足りませんわ。工人を呼んで、至急改装を命じなさい」

「……はぁ、分かりました」

 幾分不服そうにしながらも首肯すると、斗詩は兵を呼んで二、三指図する。

「あの小さな華琳さんのこと、これでは私を見上げる度に首をつってしまうかもしれませんわね、おーほっほっほっ!」

「……麗羽さま、ご機嫌ですね。そんなに曹操に勝ったのが嬉しいんですか?」

「何を言いますの、猪々子さん。華琳さんに勝つのなんて、私、慣れっこですわ。私が同期で一番に出世して県令をしていた頃には、あの方は門番などしていましたし。なにより一緒に私塾に通っていた頃には、試験の点数でいつも勝っておりましたもの」

 勝ったと過去形で語る猪々子にまた気を良くしながらも、麗羽は反論した。

「ええーっ、本当ですか? 麗羽さまが曹操に勉強で勝つなんて信じられないな~」

「……どういう意味ですの、猪々子さん?」

「だって麗羽さまって―――」

「ちょっ、ちょっとちょっと、文ちゃんっ」

 兵に指示を終えた斗詩が慌てて駆け寄ってくると、猪々子の口を塞いだ。

「だから、ね。麗羽さまは名門の出だから。……ほらっ、私塾の先生もやっぱり」

「……ああ、そっか。……だから出世も早かったんだもんな」

「ちょっと斗詩、猪々子、聞こえておりましてよ」

 身を寄せ合い小声で言い合う二人を麗羽は睨みつけた。

「い、いえ、麗羽さま。な、何でもないんです」

「そうそう、麗羽さまが試験の点数をおまけしてもらっただなんて、斗詩はこれっぽっちも口にしてませんよ、麗羽さま」

「ぶ、文ちゃんっ」

「あっ、いけね」

「もうっ、失礼しちゃいますわね」

 二人がどたばたと騒ぎ出したところで、麗羽は諦めて行儀悪く寝台に身を投げ出した。
 そのままふて寝に入れば、夢に浮かぶのは同じように苛立ち紛れに寝台に飛び込んだ幼少の日々だった。


「ああもうっ、腹が立ちますわっ!」

 その日、麗羽は私塾から真っ直ぐに家へ帰ると、自室の寝台に飛び込んで手足をばたつかせた。
 このまま目を閉じて眠ってしまいたい衝動に駆られるも、すぐに先生と今日の講義の復習と、明日の予習をしなければならない。先生と言っても私塾の講師とは別で、袁家で屋敷に雇い入れている麗羽専属の教師である。

―――今頃、華琳さんは遊び回っているのでしょうね。

 忌々しげに、麗羽は心中ひとりごちた。
 華琳と麗羽の通う私塾は、太学でも講義を行っている大学者何人かが交代で授業を受け持っている。入塾にはよほどの名家の出でもない限り試験が課され、私塾とはいっても太学への進学、ひいては官途への道筋を作る重要な場だった。
華琳とは入塾以来の付き合いだった。宦官の養子の子である。麗羽が免除された入塾試験では一人抜群の成績を収めている。宦官の家とはいっても、華琳の祖父はその最高位にある大長秋にまで昇り、多くの名士を取り立てたことで評判の良い人物だった。望めば、華琳も試験を免除することが出来ただろう。
 初めに声を掛けたのは麗羽からだった。
 名門の跡取りである麗羽が付き合う価値もない人間だと、耳元で囁く者もあったが気にはしなかった。お人形のように小柄な体躯は愛すべき従妹美羽の姿を想起させる。光を照り返し黄金色に輝く髪も美羽に似ていて、それは麗羽自身の自慢の髪とも同じということだった。左右で二つに束ねて螺旋を描かせた髪型まで麗羽の好みにぴったりと合致していて、大きな瞳も愛らしい。つまりは華琳の容姿は麗羽の好きなものがそのまま人の形をとったようなものであったのだ。
そんな訳で、一目見て麗羽は華琳を好きになった。そして一言言葉を交わして、憎らしさが募った。

―――ああ、あの名門の。

 華琳はそう口にしたのだ。
 四世三公の袁家は、麗羽の誇りだった。余人に名家の出を言われて、気を良くすることはあっても気分を害したことはない。
 不思議なことに華琳だけは別だった。麗羽が宦官の家の出に目を伏せ、華琳という一人の人間に声を掛けてやったというのに、ただ名門の子弟とひとまとめにされたと感じた。湧き上がったのは敵愾心だった。

―――貴方は賤しい家の出のようですわね。

 喧嘩腰で言い返せば、後は言い争いだった。
 ぽんぽんと調子良く悪口を並べるのは華琳の方だった。それも、単に罵詈雑言というのでなく的を射てもいるのだ。累代が高位に付いているのなら、今日の御政道の乱れの責は袁家にあると言われた時には、思わず返す言葉も忘れ絶句したほどだ。
 その後も顔を合わせる度に罵り争いを続け、十日余りも経ったある日ふと、これ以上悪口を言う種も無くなったことに互いに気付いた。それから先は、何でも言い合える友人となった。取り巻きを引き連れることも多い自分を相手に一人立ち向かう姿に麗羽は一層華琳を好きになっていたし、華琳は華琳で自分の口撃にめげない根性と無神経が気に入ったと皮肉交じりに言った。
 私塾の試験では、いつも麗羽が首席で華琳が次席だった。麗羽がいつも満点で、華琳は必ず一つ二つ取りこぼす。その差は油断して解答を誤ればすぐに覆るもので、麗羽は講義の予習復習を欠かせなかった。私塾の講師の話したことを屋敷の教師とさらい直して要点を暗記してしまえば、満点を取るのはそれほど難しいことではない。ただ毎日毎日の継続は苦痛ではある。
 対して華琳の方は、端から試験の成績など気にも留めていないと言わんばかりの暮らしぶりだった。簡単な筆記問題の解答欄で講師に議論を吹っ掛けるようなことをして、あえて点を落とす。講義中であれ講師の話が詰まらないと思えば昂然と噛みつきもするし、詩作に耽ったりもする。講義がはけた後には日夜悪友と街へと繰り出していく。
 当然麗羽も遊びに誘われることはあった。大抵は断っているが、時折押し切られたという素振りで一緒に街へ繰り出すこともある。華琳は詩曲や茶の様な上等な趣味から、賭け事の様な粗雑な真似まで、何をやらせても上手に熟す。腹立たしいことに、付き合うこちらもつい楽しんでしまうのだった。

「くーーーっっ、忌々しいですわっ!!」

 思い起こすほどに、腹が立った。
 結局その日“も”、教師が呼びに来るまでの間、麗羽は悶々とした無駄な時間を寝台の上で過ごすのだった。



[7800] 第7章 第3話 徐晃
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2013/12/15 13:28
「貴方と連れ立ってここを通るというのは、少しおかしな気分ね」

「へぅ、……は、はい、華琳様」

 側近くに付き従えた月が困ったような表情で答えた。素直な感慨を口にしたつもりだったが、皮肉と取られたようだ。
 それもそのはず、かつて董卓軍との激闘の果てに超えた虎牢関を、今悠々と曹操軍は潜り抜けていた。

―――天子は洛陽に在り。至急軍を進め、これを輔弼せよ。

 車騎将軍楊奉から、そのように書かれた書簡が届けられたのはつい先日のことだ。
 車騎将軍は、大将軍に次ぐ三将―――驃騎、車騎、衛―――の第二位に位置する将軍位である。文官でいえば三公に等しく、かつて黄巾の乱を鎮圧した官軍第一の将軍皇甫嵩に与えられた官位でもある。漢王朝に仕える軍人にとっては最高位のひとつと言うわけだが、その後に続く楊奉の名が途端に胡乱な空気を臭わせる。
 一年ほど前までは、白波賊を率いる賊将の一人に過ぎなかった。白波賊は黄巾の乱の残党からなる賊徒で、その名は幷州は西河郡の白波谷に籠もったことに由来する。黒山に居を構えたことで黒山賊と呼ばれた張燕一党と似たような集団であるが、規模はずっと小さい。もっとも、賊徒でありながら十数万―――最終的には青州黄巾賊と合流し百万―――の集団に膨れ上がった黒山賊が異常過ぎるだけで、白波賊もそれなりに名を知られた大きな賊軍である。三千余りの兵力を有しているというから、すでにして立派な一つの勢力と言える。華琳も、初めは五千の私兵を抱えるに過ぎなかったのだ。
 とはいえ、賊徒である。賊の親玉が車騎将軍の地位に昇り、今では漢王朝の軍部の頂点として書簡など遣わしてくるのだから、いかがわしいことこの上ない。
 しかしそんな当たり前に受ける印象を裏切り、楊奉と言うのは実に評判の良い武将だった。軍規を徹底して粗野な賊軍を漢の正規軍に生まれ変わらせ、天子に忠を尽くし、私心を見せない。時代の影に隠れるようだった漢室をもう一度浮上せしめん尽力しているという。
 董卓軍に占拠され、反董卓連合との戦で一度攻め落とされたことで、洛陽の持つ漢室の都としての威光は完全に失われたと言っていい。諸侯があえて目を背ける中で、董卓軍の残党や盗賊まがいの者達がその残滓を奪い合うという不毛な闘争が繰り返されていた。その洛陽も、楊奉の指揮の元で平穏を取り戻し、ようやく今は街と言える程度にまで民が戻り始めているという。
 伝え聞く洛陽の惨状に曹操軍中で最も心を痛めていたのは、言うまでもなく月―――今は張繍を名乗るかつての董卓その人であっただろう。

「この度は私の願いをお聞き届けいただき、ありがとうございます、華琳様」

 華琳の視線に気付いた月が、改めて頭を下げる。

「良いのよ。貴方の言う通り、天子にはまだ使い道があるわ。それに詠の言う通り、麗羽には三公の地位でも与えておけば当分は静かにしているでしょう」

 楊奉の書簡を受け、強硬に天子の保護を主張したのが月である。普段の軍議ではほとんど発言をすることのない彼女には珍しいことだった。月の傍らには当然詠が寄り添っていたし、曹仁もかつての成り行きから二人に賛同を示した。
 桂花ら文官の幾名かは権力の分散を招きかねないと反対したが、華琳は三名の主張を容れ、すぐさま軍を発した。天子の存在は間違いなく武器となる。天の御使いと合わせて使えば、曹操軍に揺るぎない大義を与えてくれるだろう。

「本当に麗羽さんはそれで落ち着いてくれるかな?」

「何よ、ボクの読みが外れるって言うの? アンタだって賛成したじゃない」

 月だけでなく詠と曹仁も側に置いていた。曹操軍の首脳のうちで他に連れてきたのは親衛隊―――虎士―――の隊長季衣と副隊長の流流、虎豹騎の指揮官蘭々、そして今も先頭で指揮を執らせている春蘭だけである。

「まあ、間違えなく刺激はするでしょうね。麗羽は漢室を廃して袁家の王朝を立てるつもりでしょうから」

「ほら、麗羽さんの幼馴染もこう言ってる」

「だっ―――」

 詠は曹仁に対するのと同じ調子で華琳へも反駁し掛けて、一度声を飲み込んだ。人一倍頭の回転は速いのに不器用であったり迂闊なところも多く、軍師としてはそこが不安にもなるが、可愛らしくもある。

「―――ですが、袁紹は四世三公の名門の出を誇っています。漢の皇室の命は、袁紹にとって決して小さくはないはずです」

「それも当たりでしょうね。ただ、漢の名族を誇るだけ誇っておいて、それが皇室に対する忠義には繋がっていないのが麗羽という人間の面白いところでもある。楊奉がまず第一に頼みとしたのは間違いなく袁紹軍でしょうし、書簡も我が軍より先に届けただろうに、まったく反応を見せていない。四世三公は麗羽にとってあくまで自身を彩るただの飾りでしょう」

 言い直した詠に、華琳は答えた。
 麗羽がもし天子の救援に動くとしたら、お人好しなところがあるから同情からの行動であったろう。ただ楊奉の書簡は天子の窮状を嘆くものではなく、今なお天子の威光を示そうというものだ。これでは麗羽の歓心は得られまい。もっとも、その事を楊奉の不手際とは攻められない。麗羽自身がいまだ堂々と漢朝の名族―――つまりは漢室の臣下の筆頭という看板を掲げているのだ。

「それでは、華琳様は天子を手にした我らを袁紹が攻めると?」

「いいえ、さっきも言った通り。貴方の読みは当たっているわ、詠。飾りは飾りでも、三公の地位は四世三公を名乗り続けた麗羽にとって、それはもう大きな大きな飾りでしょう。幼い頃の麗羽にとって間違いなく三公は憧れであったし、袁家一族の次代の頭領として課せられた使命でもあったでしょうし」

 我が意を得たりとばかりに、詠が首肯を繰り返す。

「やはりそうですよね。それにこれまで、漢室の名門ということで袁紹に付き従ってきた者も少なくありません。いざ牙を剥くとなれば、内部からもそれなりの反発があるはずです」

「ええ。一応の備えとして秋蘭達を兗州に残しては来たけれど、私はまず動かないと踏んでいるわ」

 天子に対する礼として軍部の頂点の春蘭の指揮のもと進軍しているが、兵も一万を率いるのみである。主だった将と共に兵力の大半も兗州に残していた。それもあくまで一応の備えである。

「―――ふふん」

 詠が曹仁へ向けて、勝ち誇ったように鼻を鳴らして見せた。曹仁の方は、わざとらしく肩をすくめている。
 詠は、華琳の手元を離れている間に曹仁が作った友人ということになるが、初めのうちは劉備軍や呂布軍の面々と比べると幾分か距離感があった。徐州での張闓討伐など一緒に動かす機会が多かったからか、今は随分と打ち解けた様子である。何となく面白くない気もするが、良いことではあった。





 虎牢関を抜けると、後は半日ばかりの行程で洛陽だった。曹操軍は夜間入城の無礼を避けるため、洛陽郊外で一夜を明かした。
 曹仁は遠乗りがてら自ら斥候に当たったが、頻出するという賊の姿は捕えられなかった。曹操軍の威容を恐れて距離を置いているのだろう。
 翌日、すっかり日も昇り切ってから軍を発した。しっかりと隊列を組んで、緩やかに軍は進む。

「よくぞ、来て下さいました」

 洛陽の城門まで迎えに現れたのは、二百の兵を引き連れた男だった。一人進み出たその男が、楊奉であった。
 顔の下半分を覆った髭は賊徒出身の印象そのままだが、声には清涼な響きがある。礼を失わず、それでいて媚びた様子もない振る舞いも天子の第一の臣と呼ばれるに相応しいように思えた。かつての車騎将軍皇甫嵩よりも、よほど大人然としている。

「宮殿まで、先導させていただきます」

「ええ、お願いするわ」

 華琳は季衣ら親衛隊と蘭々率いる虎豹騎を従えて城門をくぐった。将としては曹仁に春蘭、それに詠を連れている。月が強く望んだ天子擁立だが、洛陽には彼女の顔を知る者も少なくないだろう。表向き死んだことになっている月は、城外で兵と共に待機となった。

「―――これは」

 城内に一歩踏み入るや、曹仁の喉から思わず声が漏れた。

「李傕と郭汜の奴」

 詠が忌々しげに呟いた。
 かつて暮らした洛陽の街並みは、曹仁の記憶に残る姿から様変わりしていた。
 まずは廃墟と化した建物が目に付くが、違和感の最大の原因はそれ以上に人にあった。行列を見ようと通りに顔を出す人の数が、漢の都とは思えぬほど少ない。荒漠とした印象は、街並みに対して住人の数が圧倒的に少なく、無人の建物が続くためだろうか。
 反董卓連合の戦では、洛陽は包囲こそされ、ほとんど戦場となることはなかった。最後に皇甫嵩が立て籠もった宮中の一角で戦闘が行われた程度だろう。反董卓連合解散後、諸侯が漢朝からの独立姿勢を示す中で、洛陽は董卓軍の残党に占拠された。李傕、郭汜という将が率いる一団である。
 李傕と郭汜の二人の武将を、曹仁はほとんど覚えていなかった。両者とも涼州時代からの生え抜きの武将らしいが、友人であった張繍―――照―――や、特異な具足姿が目に鮮やかな猛将華雄のように強い印象は残っていない。わずかに思い出されるのは涼州の出らしくどこか粗野で単純な印象だが、それが李傕に対して抱いたものであったか、郭汜に対して抱いたものであったかも定かではなかった。
 同時期に軍に入り、同じように階級を上げていった親友同士であったというが、権力―――天子―――を手にしてから仲違いを始めた。政における主導権争いは、やがては兵を動員しての小競り合いへと発展した。散発的に起こる争いの戦場は、当然洛陽城内である。民が離れたのも無理からぬ話だった。

「これでもこの辺りは随分増しになったのですよ、曹仁殿、賈駆殿」

 こちらの様子に気付いた楊奉が言った。巧みな立ち回りで見事その二人を洛陽から追放したのが、この楊奉である。

「これで、ですか」

 曹仁らがいま進んでいるのは、城門から宮殿へと向かう大通りである。かつて洛陽で最も栄えた場所であり、今も人々の暮らしの中心となっているはずだった。一歩道を逸れれば、さらなら惨状が広がることは想像に難くない。

「……月さんに外で待機してもらって良かったな」

「そうね」

 隣りへ囁くと、詠が小さく頷いた。
 直接の原因は李傕と郭汜にあるとはいえ、二人は彼女の部下だったのだ。荒廃した洛陽を目の当たりにすれば、月は激しく自分を責めることだろう。
 街並みに目を奪われながら進み、天子の住まう宮殿の南門へと行き付いた。門は四方に設けられているが、天子南面、臣下北面と言って、玉座は常に南を向き、謁見する臣はそれを仰ぐ形となる。宮殿も全て南向きを基本として作られていて、必然この南門が臣下にとっては正門に当たる。

「……? おかしいな」

 門前で、楊奉が訝しげに周囲へ視線を走らせた。
 宮殿には不穏な気配が漂っていた。出迎える者ひとりなく、門番の姿もない。兵力不足は周知の事実であるが、それにしても一人の兵の姿も見えないというのは、楊奉でなくとも異常を感じざるを得ない。

「見てまいりますので、しばらくここでお待ちください」

 楊奉は躊躇いがちに馬を降り、門の中へ駆け込んでいく。

「―――その必要はない!」

 走る楊奉を、大声で遮る者がいた。謁見の間へと続く前殿の入り口に、一人の影が浮かび上がっていた。

「徐晃か。これは一体何の真似だ?」

「楊奉殿には申し訳ないが、曹孟徳は私の敵だ」

 女の声が剣呑な答えを返した。
 徐晃というのは、白波賊の将として楊奉以外では唯一名の知れた人物だ。大戦でどこかの将の首を挙げたなどという華々しい戦功があるわけではないが、洛陽近郊での賊徒の討伐は大抵徐晃が前線に出て鎧袖一触で蹴散らしている。大変な猛将として賊の間では相当に恐れられているらしい。
 華琳が、手振りで指示を出した。虎豹騎は宮門前に待機。自身は馬を降りて、宮門を潜り抜け前庭に足を踏み入れる。流れるような動きで、周囲を虎士が囲んだ。本来宮中に入るなら武装を解くべきところだが、状況が状況だけに武器を構えて迎撃の態勢である。春蘭もそれに続き、曹仁も白鵠を蘭々に預けると槍を手に後を追った。

「―――そうか、お前は董卓軍の生き残りであったな」

「私一人の戦いなれば、兵は巻きこめん。勝手に下げさせていただいた」

「つまり、一人で彼ら全部と戦うと」

「ああ。お前達に迷惑は掛けん。白波賊からは抜けさせてもらう」

「そんな言い訳が通じるものかよ」

「すまないとしか言えんが、ここは引けぬのだ」

 楊奉と女性の間で、なおも物騒な会話が続いている。董卓軍という言葉に誘われて、曹仁は華琳と虎士の布陣からいくらか突出すると、楊奉の影になって見えない女の顔を覗き見た。

「―――! 華雄さんではないのか?」

「華雄ですって!?」

 門の外から中を覗き込むようにしていた詠が、曹仁の言葉を聞き付けて駆け寄ってくる。

「?」

 怪訝気な表情でこちらを見つめ返す女の容姿は、紛れもなく華雄のものであった。金剛爆斧と呼ばれる長柄の大斧も、軍袍も纏わずに必要最小限の鎧を地肌の上にそのまま着込む独特の装いも変わりない。
 彼女の姿を捉えた詠が、曹仁の確信を裏付ける様に口を大きく開けて驚きの表情を作った。

「何故こんな所に? 徐晃と呼ばれていましたが、一体? …………そもそもあの戦の後、あの人どうしたんだっけか? 確か孫策さんと戦って負傷したと聞いていたが」

 後半の質問は、隣にいる詠に小声で尋ねた。

「―――あっ。…………すっかり忘れてた」

「忘れてたって何をだ?」

「……華雄の、その存在を」

「存在をって。まあ、詠は忘れていたとして、月さんもか?」

 二人の幼馴染の照が儚げな印象の月だけでなく、切れ者の詠のことも随分と気に掛けていた訳が今では良く分かる。詠はしっかりしているようでいて、どこか抜けたところがあった。

「…………月のことだから、ただでさえ心労が溜まっているっていうのに、華雄に付きっきりで看病するとか言い出しかねないと思って、―――討死したって言っちゃった」

 詠は照れ臭そうに頬を赤らめている。表情は可愛らしいが、発言内容はなかなかに惨いものがあった。

「さっきから、二人で何を話している? 華雄だと? ……貴様ら、私を知っているのか?」

 戦斧を構えたままこちらに詰め寄ろうとする華雄を、楊奉が慌てて押し留めた。
 虎士の面々は油断なく武器を構え、春蘭はすでに殺気立っている。

「お二方、彼女は昔の記憶を失っているのです。徐晃というのも、我らに拾われた後に便宜的に付けた名です。董卓軍の人間のようであったから、亡くなった徐栄将軍から姓を、それに唯一覚えていた名の晃を付け、徐晃と。曹仁殿に賈駆殿、お二方は徐晃の素性を御存知なのですか?」

「―――曹仁に賈駆だと!?」

 楊奉の発言は曹仁と詠にとっても十分に衝撃的なものであったが、それ以上に強く反応して見せたのは当の華雄であった。

「貴様が曹仁、そして貴様が賈駆。……それで間違いないな」

「……ああ」

 それぞれを戦斧で指し示しながら、華雄が言う。さらに緊張感が高まる中、曹仁は首肯した。ばつが悪いのか、詠は控えめに小さく頷き返している。

「――――貴様らがっっ!!」

 咄嗟に跳び退った曹仁の顔を豪風が襲った。眼前を過ぎり、金剛爆斧が地面に打ち込まれる。宮殿の前庭に引かれた石畳が粉々に打ち砕かれ、粉塵が舞った。

「おおっ。―――これは、凄まじいな」

 曹仁を驚嘆させたのは、一撃の威力ではなく爆発的なまでの踏み込みの鋭さだった。先刻まで華雄の立っていた場所で、楊奉がたたらを踏んでいる。曹仁からは、歩幅にしておおよそ四足分。巨漢とは言わないまでもがっしりとした体格の男一人を押し退けた上で、その距離を瞬時に詰めていた。

「ちょっと、急に何のつもりよっ!」

 感心する曹仁に代わって、詠が叫ぶ。非難の言葉は曹仁と華雄どちらに向けられたものか定かでない。華雄の一撃を避ける直前に反射的に突き飛ばしたから、詠は地べたに尻餅をついていた。

「黙れっ! この裏切り者どもがっ!」

「裏切り者? 何を―――って、ああっ!!」

「……そういえば、そういうことになってるんだったな」

 洛陽から天子を連れ脱出し長安への遷都を企むも、曹操軍の追撃を受け討死。それが世に流れる董卓の末路だった。そして曹仁と詠は、脱出行を共にしながらも曹操軍に投降した三名のうちの二人ということになる。残る一人が照の名を受け継いで、今は張繍を名乗る月本人である。

「ちょっ、ちょっと、華雄っ! 月なら―――」

 叫びかけた詠が、楊奉を見て口を噤んだ。
月―――董卓の生存はこれまで秘匿してきた。天下の大悪人として知られ、それも洛陽荒廃の大元とも言える董卓を匿っていることを、洛陽の守護者たる楊奉に明かして良いものか、―――そんな逡巡が見て取れた。

「―――こっちだ」

 詠へ矛先を向けさせぬよう曹仁は油断なく槍を構えながら、虎士の布陣の反対方向―――宮殿の方へ足を進めた。華雄にとって、華琳もまた董卓の仇ということになる。そちらへ向かわせるわけにもいかない。

「まずはお前からか、曹仁」

 槍を構えた曹仁の元へ、華雄がおもむろに歩み寄る。

―――華雄とは、これ程の武人であったか。

 以前の華雄は、春蘭や季衣、鈴々と同じような本能のままに戦斧を振るう武人であった。先ほどの怒りに任せての一撃も、その類のものである。しかし改めて構え直した眼前の華雄には、ただ歩いている、それだけでありながら達人としか言い様がない程の術理が込められていた。大地から真っ直ぐ天を衝いて小揺るぎもしない正中線。移動していても腰は一定の高さを保ち、ほとんど上下動が無い。そして重心の所在を悟らせないさりげない足運び。作為的としか思われないそれら一連の動作を、ごく自然のこととして華雄は実践していた。

「管を持ってくれば良かったな」

 格上―――管槍を使うべき相手だった。携帯して来なかったことが悔やまれる。馬上勝負ではないから、白鵠の脚にも頼れない。

「いくぞっ!」

「――――――っ」

 華雄が踏み込んで振り降ろし、斬り上げ、さらに返して横薙ぎに金剛爆斧を振るった。曹仁は打ち合いには応じず、間合いを外すことでかろうじてそれら全てを避けた。
 斬り返しが速い。以前は遠心力を使って斧を振り回していたから、自ずとその軌道は予測が付いた。今は一つ一つの斬撃をしっかりと自分の制御化に置いている。斧に振り回されないのは、体幹の力をしっかり鍛え上げたからだろう。
基礎鍛錬に裏打ちされた華雄の武は、どこか愛紗のそれを思わせる。得物の形状、重心の位置も似通っている。愛紗とは、黄巾の乱討伐の際に幾度となく手合せを重ねている。最近も胸を借りる機会は何度かあった。
 距離を詰め、再び華雄が斧を振るう。それを足捌きだけで避ける。なおも華雄が追う。やはり打ち合わずに退く。躱しているというより、戦斧の攻撃範囲外に避難しているだけだ。青龍偃月刀にしても金剛爆斧にしても、まともに受ければ槍がもたない。
 愛紗に模擬戦で勝ったことは今もって数えるほどしかない。わずかに上げた勝ち星の中から、より鮮明に思い出される一勝を曹仁は思い浮かべた。

「ええい、ちょこまかと」

 華雄が苛立たしげに言った。攻撃が、ほんの少しずつ単調になっていく。

―――今。

 右からの横薙ぎの一撃に合わせ、曹仁は意を決して左斜め前方へと深く踏み込んだ。華雄は横薙ぎの戦斧を止めずに、余勢を駆ってそのまま振り抜いてくる。
 縦に立てた槍で受け止めた。愛紗よりも振りはわずかに遅い。その分、一撃は重かった。ぶつかったのは柄同士だが、槍はみしみしと軋む音を上げた。だが手元に近い分威力は完全ではない。折れはしなかった。
 模擬戦で愛紗に勝った時とほぼ同じ形だ。強引に一振りを伸ばしたことで、これまで小揺るぎもしなかった華雄の体幹がわずかに乱れている。柄と柄の接点を支点に、華雄の顎目掛けて石突を跳ね上げた。
 ぞくりと、背筋が冷えた。曹仁はとっさに両腕を突っ張って、槍と金剛爆斧を身体から離した。刹那、具足を擦りながら、鋼鉄の塊が背後から曹仁の真横を駆け抜ける。
 槍を手放し、曹仁は腰に刷いた青紅の剣を抜き打ちに斬り上げた。華雄は落ち着いた動きで、一歩後退してそれを避ける。
 さらに一歩距離を取った華雄の手にする金剛爆斧の刃に、曹仁の槍が引っ掛かっていた。華雄が戦斧を一振りすると、くの字に折れ曲がったそれは地に落ちた。
 青龍偃月刀と違って、戦斧である金剛爆斧は柄よりも刃の方が外へと張り出している。華雄は懐に入られるや、槍に沿って得物を引き寄せることで曹仁の背を狙ったのだ。槍ごと突き放すことでそれは辛うじて捌いたものの、戦斧の一撃に耐えきれず槍は圧し折れていた。

「ふっ!」

「―――っく」

 華雄は冷静だった。曹仁の武器が剣一つとなると、突き技で距離を保った攻撃へと切り換えた。抗い様もなく、曹仁はじりじりと追い立てられていく。

「そんなものか、曹子孝っ! それで天人などと笑わせるっ! ――――っっ!!」

 華雄の突きが、横合いからの衝撃に大きく跳ね飛ばされた。

「春姉っ」

 不意打ちとはいえ、超重量の鋼鉄を容易く弾いて見せたのは大剣七星餓狼であった。当然、手にするのは春蘭である。春蘭は得物を弾かれた華雄に追撃を掛けると、鍔迫り合いへと持ち込んだ。

「さがれ、仁。地に足付けての戦いでは、お前には荷が重い相手だっ」

 上から伸し掛かる有利な体勢を取りながら、圧しきれずに春蘭が声を絞り出した。

「……しかし、華雄さんは俺を―――」

「何とはなしに見守る形になっていたけれど、別に一騎打ちを挑まれたわけではない。その女は我々全員と一人で戦うと言ったのよ。貴方一人の敵ではないわ、仁」

 背後から、華琳の声が掛かった。

「華雄だか徐晃だか知らないけれど、そこの貴女。そこにいる春蘭―――夏侯元譲こそ我が軍最強の武人、この私―――曹孟徳が大剣よ。我が軍を不倶戴天の敵と思うならば、まずはその大剣を折ってみることね」

「―――っ、言われるまでもないっ!」

 華雄が一歩引いて、鍔迫り合いの圧力を抜けた。春蘭の身体が、前に泳ぐ。金剛爆斧が襲いかかった。

「甘いわっ!」

 春蘭は前のめりの態勢からさらに倒れ込むように低く踏み込むと、金剛爆斧の軌道を潜り抜けた。直後、金属音が鳴り響く。

「ほう。―――夏侯元譲といったか? 確かにあの男よりは手応えがありそうだ」

 馳せ違い様に放った春蘭の一撃を、今度は華雄が石突で弾いていた。

「…………」

 気恥ずかしさに耐えながら、曹仁は華琳のいる虎士の陣まで下がった。

「おかえりなさい」

「……ただいま」

 口角を上げて微笑む華琳に、曹仁は力無く返す。

「せっかく天の御使いを、―――天人を名乗らせたというのに、早々に負けてもらっては困るわ」

 曹操軍では天人旗を掲げた曹仁の存在を、飛将軍呂布と伍したという誇張と共に広く喧伝していた。それなりに効果はあって、軍に志願する者は増えているらしい。

「そういえば私、仁が一騎打ちで勝ったところを見たことがないわね。反董卓連合の時に春蘭でしょう、それに張燕、呂布、そして今回」

「…………」

 何も言い返せずに、曹仁はひとまず眼前の戦いの観客に徹することで気を紛らした。

「はぁぁっっ!!」

 春蘭の得意とする上段からの打ち込み。
 華雄は真っ正面から一瞬だけ大剣を受け止め、刹那に手首を返した。春蘭の体が流れる。

「くっ、このっ!!」

 春蘭は崩れた体勢から強引に大剣を振り上げた。華雄の追撃の一撃と大剣がかち合い、弾き合った。
 華雄が、半身になって肩を突き出す様に踏み込んだ。そこから横振りに大斧を薙ぐ。傍から見る分にはただの大振りの一撃。正面から対峙する相手には、一瞬華雄の体で斧が消えたように見えたのだろう。反応が遅れた春蘭は、紙一重のところで大剣で受けた。

「ふっ!」

 戦斧が、受けた大剣に絡みつく。引き寄せようとする力に、春蘭が耐える。一転、今度は突きに掛かった。身を屈めて春蘭が避ける。
 やはりしばらく見ぬ間に華雄は、技巧派と言って良いほどの技を身に付けていた。
 最後の突きなどは、春蘭の引く力をも利用した実に巧みなものであった。あそこにいるのが春蘭以外の魏軍の誰であっても、恐らく避け得なかっただろう。
 華雄の持つ金剛爆斧は先端に鋭利な突起を持ち、斧の刃の根元には鎌状の返し、その刃の逆側にも同じく鎌状の鉄板が備わっている。曹仁が我が身をもって体験したところ、突き刺すための槍としても、引っ掛けるための戈としても使える得物だった。以前の華雄は振り回し叩き切るだけの斧としてしか扱えていなかったが、今は完全に使いこなしていた。それも斧、槍、戈の三様の技が一体となって、一つの戦い方に集約している。
 行くも下がるも、何気ない動きの一つ一つが技になっていた。存在そのものが武と成るまで、自身を鍛え上げたのだろう。
 この戦乱で名を馳せた武人達がいる。天下無双の飛将軍呂布。曹操軍では魏武の大剣夏侯惇。劉備軍では関張義姉妹に趙雲。孫策軍では誰よりもまず孫策自身。西涼の錦馬超。一人抜きん出た恋は例外としても、他の者達と比したところで華雄は一枚劣るというのが曹仁の印象であった。以前の華雄になら管槍を持たずとも勝てる。自分と五分の腕前だった照より強いという話は聞かなかったから、それは自惚れではなく間違いのない事実だろう。今は、華雄は愛紗や春蘭に匹敵する域にいる。
 超反応で対応してこそいるが、春蘭は押されがちだった。本能のままに戦うが故に、複雑な用法を有する金剛爆斧に翻弄されてしまっている。その動きにもやがては慣れるだろうが、それまで無傷でやり過ごすことが出来るのか。

「華琳、やっぱり俺が―――」

「黙ってなさい、一騎打ち無勝の男は」

「ぐっ」

 二の句も継げなかった。
 曹仁が金剛爆斧の多様な用途をもっと引き出せていたなら、今頃春蘭ももっと楽に戦えていただろう。そう思うと、異議の挟みようもない。
 そうこうする間にも、戦いは続いている。やはり、春蘭が幾分押され気味だ。また、金剛爆斧が七星餓狼に巻き付いた。

「っく! ――――舐めるなっ!」

 引き付ける力に、春蘭は今度は逆らわずに剣を走らせた。

「ちっ!」

 今度は先刻とは逆に、華雄の引く力を春蘭が利用した形である。肩から二の腕を抉る大剣の軌道を、華雄は戦斧から片手を離して半身に仰け反ることで躱した。術理を身に付けた今も、刹那の本能に促された体捌きは失われてはいない。

「避けた華雄さんも大したものだけど。……春姉、もう対応した?」

「だから、春蘭に任せておけというのよ。呂布ほどではないにしても、春蘭だってこと武に関しては天才なんだから」

 それ見たことかと、華琳が鼻で笑う。春蘭の武に対する華琳の信頼は、今さら言うまでもなく厚い。
 恋との一騎打ちを経て、曹仁も武人としての驍名を得ている。春蘭の大剣と曹仁の槍は曹操軍の武の二枚看板となりつつあった。それも、こと世間の評価で言えば曹仁の方が上かもしれない。それだけ虎牢関で天下を驚かせた恋の武名は突出していたのだ。だが、世間の目がどう見ようとも、春蘭は曹仁にとって仰ぎ見るべき武の先達なのだ。
 小手先の技を駆使して並び評されるほどになったと、いくらか浮かれてはいなかったか。知らず知らずのうちに己が心に生じた慢心に、曹仁は恥じ入るばかりだった。
 金剛爆斧の攻撃に対応しつつある春蘭と、本来の野性的な感覚をも駆使して戦う華雄。とまれ、戦いは拮抗し始めた。

「―――連れて来たわよっ!」

 戦いの均衡を破る一手は意外な方向からやって来た。
詠が月の手を引き、息を荒げて虎士の布陣へと駆け込んだ。これまで陣の中に詠がいなかったことに、今さらながら曹仁は気付いた。
 月に目を向けると、詠と同じく息を弾ませながらも強張った表情を浮かべ、視線は華雄へと釘付けとなっていた。





―――強い。

 これまで徐晃が戦ってきた相手とは比べものにならないほどに強い。先刻手を合わせた曹仁もそこらの賊徒など問題にもならない腕で、一瞬ひやりとさせられたが、それすらも霞む。

「―――むっ」

右のわき腹の古傷がずきずきと自己主張を始めた。

―――そうか、お前を付けた相手も強かったか。

 失った過去を思い出そうと、傷口を見つめて自問することは多かった。どれだけの時間をそうして過ごしても記憶が蘇ることはなかったが、今日初めて何か糸口を得た気がする。
 曹仁と賈駆は、華雄と自分を呼んだ。董卓軍の武将として、聞いたことのある名だった。裏切り者の言葉を信じるのも癪だが、もしこの場を乗り切ったならどんな人物であったのか、詳しく調べてみるのも良いだろう。洛陽の住人に聞いて回れば、顔見知りの一人もいるかもしれない。
 しかしそれも、難しいという気がしていた。

「はあーーっっ!!」

 夏侯元譲が、背にかついだ大剣を身体ごと振り降ろす。大振りで読み易い。しかし剣速は驚異的なほどだ。一瞬、肩に乗せて加速させ、そこからさらに腕の力で振り抜いてくる。倒れ込むように前屈みになった体勢も、一見無防備なようでいて、正中線は大剣の軌道に全て隠されている。下手に手を出せば、ただでは済まないだろう。
 戦斧で真っ向から受け止めた。受けても、すぐに反撃には手が回らない。衝撃が凄まじかった。並の武器ならそれごと両断されかねないほどだ。だが徐晃として生を受ける以前から手にしていたらしい大斧は、信頼に足る相棒だった。
 夏侯元譲が、また肩に大剣をかついだ。訝しげな表情から、絶対の自信を持った得意技であったことが伺える。徐晃はすでに十数度に渡って、その必殺の一撃を凌いでいた。
 受け続けた両腕は、わずかに痺れが残り始めている。一人を相手に、これ以上手間取るわけにはいかなかった。この武人に一騎打ちで勝つことが目的ではないのだ。

―――顔も覚えてはいない主君。ただ愛しさだけが募る。

 後にはまだ仇が控えている。自分が死ぬか、曹仁に賈駆、そして曹孟徳を討ち取るかだ。
 徐晃は腰を落とし、戦斧を地に垂らした。下段からの横薙ぎ。上段から真っ直ぐに走る大剣に阻まれることの無い横からの一撃を、先に叩き込む。
 紙一重の差では、渾身の勢いの乗った大剣は止まらない。十分な余裕をもって、先を取る必要がある。徐晃は戦斧の先端を石畳へ降ろすと、重量の大半を地面に委ねた。その分、両腕を脱力させ、柄は立て掛ける様に腰に当てる。腰のひねりと、一瞬の膂力で、最速の一撃を打ち出す心算だ。
 こちらの意図を察した夏侯元譲の放つ武威が、一層強まった。大剣はかついだままだ。先を取り合うのに向いた構えではないが、徐晃の下段も似たようなものだ。どちらも構えは崩さず、動きはない。ただ互いの武威だけが押し合う。寄せては返す波のように、時に強まり時に弱まりながら、少しずつ満ちていく。

―――今。

 徐晃は戦斧を―――

「―――華雄さんっ!」

 刹那、耳朶を打つ声に、徐晃は稲妻に撃たれたような衝撃に襲われた。戦斧は手を離れ、石畳を打った。
 こちらへと駆けてくるのは、特に何ということも無い少女だった。面差しは美しく気品があるがそれだけで、曹操のようにあふれる才知を感じさせるでも、楊奉のように義に生きる実直を湛えるでも無い。どこにでもいるような、優しげな少女だ。
 自分が何故そんな事をしているのかも分からぬまま、斧を拾いもせず、徐晃は膝を付いた。

「―――華雄さんっ」

 すぐ近くで、少女の声が聞こえた。視界がぼやけて、少女の顔が見えない。徐晃は自分が涙を流している事に気付いた。
 少女の、顔が見たい。とめどなくあふれる涙を徐晃は拭った。




[7800] 第7章 第4話 天子
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/01/18 13:26
*今回はほぼ全編に渡って設定語りの回です。最後に設定だけを抜き出してまとめてありますので、理解し難い点がありましたら先にそちらをご覧ください。


「なるほど、貴殿があの董卓殿でしたか。まさか御存命とは」

「あ、あの、楊奉将軍。洛陽をこんなことにしてしまって」

 華琳に引き合わされると、楊奉は首を振って頷き、月は腰を折って頭を下げた。

「いえ、貴殿が謝られることはありません。あらましは聞いております。悪辣な宦官などは洛陽の宮中から当に出奔しておりますからな。今でも残っている者の中には張譲と貴殿のせめぎ合いを冷静に見つめていた者も少なくないのですよ。貴殿を悪く言う者は、―――ははっ、まあ皆無というわけではありませんが、それほど多くもありません」

「へぅ、あ、ありがとうございます」

「それで、董卓殿。徐晃は、董卓軍の華雄で間違いないのですね?」

 楊奉は、月へ向けていた視線をそのまますぐ横へと滑らせた。

「はい、間違いありません。恐れ多いといって私を真名で呼んでくれないものですから、こちらからも呼べずにいましたが、確かに晃(こう)という真名も預かっています」

 月の隣には華雄が跪いている。大斧こそ取り上げられているが、特に拘束もされてはいない。いまだ記憶は判然としないようだが、ようやく見つけた寄る辺とばかりに月の手を捧げ持っている。すがり付く様に掴んだまま離さずに半刻(15分)余りも過ぎているが、月も嫌な顔一つせずに華雄に片手を預けていた。

「もうっ、いつまで手、繋いでるのよ」

 その間、曹仁の隣からは絶えず詠の小さなぼやき声が聞こえていた。
 詠は微妙な表情で月と華雄の様子を見つめていた。いい加減割って入りたいのだろうが、事情が事情だけに火に油を注ぐことを避けているようだ。どちらにせよ、この後は月からの説教だろうが、さすがに擁護する気もない。この件に関しては大いに怒られるべきだろう。

「―――話は、終わったようだの?」

 月と楊奉の顔合わせが一段落ついたところで、頭上から不思議な声が響いた。
 見上げると、前殿の入り口に少女が一人姿を現していた。十を二つ三つ過ぎたくらいの年齢だろうか。わずかに赤みがかった髪に、珠玉をあしらった飾り紐を幾つも垂らした豪奢な冠を乗せている。石畳が割け、粉塵が風に舞い、前庭にはいまだ闘争の気配が色濃く残っているが、少女にいささかの気負いも物怖じも見えない。
 少女から発せられたと思しき声がひどく不可思議に聞こえたのは、その声質のためである。しわがれた老人の声にも、若い男の声にも、妙齢の女の声にも聞こえる。同時に目の前の少女に似つかわしい、かん高い女児の声にも聞こえた。老若男女数百人が集い、一斉に声を出したらならこう聞こえるかもしれない。そう思わせる響きだった。

「――――っ! このようなところまで御出で頂くとは」

 楊奉がはっとした顔つきで駆け寄ると、その足元に跪いた。月も慌てて膝を折っている。

「華琳、あの子が」

「ええ、私も数年前、陳留の太守に赴任する時に一度お目通りしただけだけれど、あの冕冠、間違いないでしょう」

 華琳が虎士に武装解除を命じ、自身も含め全員を跪かせた。曹仁も皆にならって跪拝した。
 姿を現した天子は、考えてみると曹操軍とは縁が深い。漢室の臣としての華琳の赴任地であり、そのまま曹操軍の旗揚げの地となった陳留は、天子となる前に彼女が封じられていた土地である。陳留太守であった華琳は、陳留王であった天子に代わって陳留郡を治めていたのだ。
 曹仁も一度、皇甫嵩と共にお目通りしたことがある。ちょうど育ち盛りの年頃だから、記憶に残る姿よりも随分大人びて見えた。当時は親しく声を掛けられもしたし、その後も何度か呼び出しを受けた。反董卓連合との戦がすぐそこまで迫っていたから、結局はそれきりで拝謁する機会はなかった。

「曹仁、それに曹操。話がある。楊奉、あとの者の相手は任せる」

 やはり不可思議な声でそれだけ言うと、天子はさっさと踵を返した。付いて来いということなのだろう、楊奉が大きく首肯して曹仁と華琳を促した。
 曹仁と華琳は天子の小さな背を追った。
 前殿を抜けると、前庭と同じく石畳が敷き詰められた広大な中庭が広がる。両端には無数の建物が並んでいて、中には近衛兵や宮中の雑役をなす者の詰所などもあるはずだが、静かなものだった。天子は左右には目もくれずに真っ直ぐに歩き、華琳と曹仁もそれに続いた。
 中庭の先にはもう一度城壁、そして城門がある。華雄が人払いをしたのはここまでのようで、門番が恐縮した様子で立ち竦んでいる。
 城門を越えた先が、いわゆる朝廷である。緩やかな階段が続き、その先にそびえるのが朝議の行われる謁見の間だった。臣下が普通に入れるのはそこまでで、その先は皇族の居住区域が続いている。
 謁見の間に入り、さらに天子は玉座の階を昇った。華琳と曹仁は階の手前で膝を付いた。

「……?」

「何をしておる、こっちじゃ」

 玉座には付かず、天子は左右に垂らした幔幕の影に消えた。呼び声に、さすがの華琳も躊躇いがちに階を昇ると―――ここでは異世界生まれの曹仁の方がむしろ躊躇なく―――、天子の後を追った。
 幔幕の影から続く道は、つまりは謁見の間と皇族の居住区を繋ぐ通路である。居住区は原則として皇族以外の者の立ち入りは禁止で、他に入場が許されるのは彼らの身の回りの世話をする宦官と女官に限られる。ただ、実際には皇族が臣下を私室に招じるというのは間々あることではある。かつて詠の手引きで曹仁と皇甫嵩が張譲、そして天子に引き合わされたのも、居住区にある一室でのことだった。だから居住区に赴くこと自体は躊躇うほどのことではないのだが、玉座の裏から謁見の間を抜ける通路は本来天子しか使わぬ道であろう。そもそも玉座の階に足を掛けた時点で、臣下の分を越えている。
 とはいえ華琳はさすがに腹の据え方が違う。最初こそ戸惑いが見えたが、すぐに吹っ切れた様子できょろきょろと興味深げに周囲に視線を飛ばしている。通路を抜け居住区に入ってからは煌びやかな装飾の類を一々観察しようとするものだから、曹仁が手を引いて先へ促した。

「ようやくまた会えたの、曹仁」

 天子が腰を落ち着けたのは、居住区の中でも特に奥まった一室である。大きな寝台が一つあって、天子はそこに腰を掛けて脚をぶらつかせていた。声は、やはり不可解な響きを帯びている。
 あまり片付いた部屋とは言えない。というよりも、一言で言うなら荒れていた。床に転がっているのは、お人形や手毬といった女児向けの玩具の類だ。幼子が遊ぶだけ遊んで片付けずに放置したままにしているのだろう。皇族の居住区というが、洛陽には今やその皇族は天子一人が住まうのみだ。その幼子というのは、目の前の天子以外にはありえない。

「はっ、一別以来、ご無沙汰いたしまして申し訳ありません」

 曹仁と華琳は、とりあえずという感じで寝台の前に膝を付いた。

「何度か呼び出したはずじゃがの」

「申し訳ありません。開戦に備え、立て込んでおりましたもので」

「ふむ。まあ良い。お主は我が国の住人、朕の臣民と言うわけではないのだからの」

 一瞬、天子の言葉の意味が理解出来なかった。

「恐れながらお聞きします。陛下はこの曹仁が天の御使いなどという噂話を、お信じなのですか?」

 華琳の言葉で、曹仁はようやく天子が天の御使いのことを言っているのだと気付いた。

「うむ、もちろんじゃ。なにせ、呼び寄せたのは朕だからの」

 華琳の問いかけに、天子があっけらかんと答える。声はやはり複数のものが重なって聞こえる。

「―――呼び寄せた?」

「うむ。この世界の崩壊を止める切り札として、呼んだつもりじゃったのだがの」

「―――っ! 聞き覚えがあるはずです」

 天子に拝謁するのはこれで二度目であるが、その不思議な声は前回初めて会った時から曹仁の記憶に引っ掛かるものがあった。この世界に至る直前に聞いた声があったことを、曹仁はここで初めて思い出していた。その時何を話したのか、その詳細はぼんやりとした薄雲に覆われたようで思い出すことは出来ない。しかし、印象的な声の響きだけは覚えている。

「本当なの?」

 天子に促され説明すると、華琳は疑わしげな視線を向けてくる。

「ああ、間違いない」

 曹仁は強く頷き返した。

「―――少し長い話になるが、付き合ってもらうとしよう」

 天子が威儀を正して―――腰掛けているのは寝台の縁で、玩具の散乱した室内に変わりはないが―――、勿体ぶるように続けた。

「この世界は―――外史と、管理者達は呼ぶらしいが、―――すでにして滅びの時を迎えて久しい。本来なら、高祖様が西楚の覇王を討たれて漢王室を開いた時を頂点に、閉じ行くはずの外史だったのだ」

「―――理解が追いつきません。この世界とは、外史とは、何のことですか?」

 突然の話にいまだ胡散臭げに眉を顰める華琳は、ともすれば全て聞き流してしまいそうな様子で、曹仁は慌てて口を挟んだ。

「そうさな。とりあえずは単純にこの世界や、並列して存在する別の世界のことと思ってくれて良い」

「別の世界? 世界は一つではないということですか?」

「それは、何よりもお主自身が一番よく知っていることであろう? お主がかつていた世界と、この世界はまったく別のものだ。時間軸の移動、お主の外史風に言うならばタイムスリップしただけだとは、お主も思ってはおらぬだろう?」

「確かにそれはその通りですが」

「まあ、良いさ。本題はそこでは無いのでな。それはそういうものだと、ひとまず理解しておくが良い」

 疑問を残したままに、天子が続ける。

「外史は絶対者―――それこそ天と言い代えても良い存在の自儘で生まれ、いずれは彼らの戯れに、倦怠に、忘却の果てに、その存在意義を失う。存在意義を失った外史に待つものは、すなわち滅びじゃ。この世界は誕生した瞬間から、常に滅びへと集束し続けているのだ」

 天子が苦々しげに言う。

「天子とはその絶対者に、天に抗う為のシステム。天子とは本来天帝の子、天の意思を汲み取る者を意味するが、実体はまるで別。この外史に住まう人々の総意を司る者。それが朕じゃ」

「しすてむ?」

「えっと、仕組みとか機構とか、そんな意味の言葉だ」

 訳の分からないことばかり偉そうに、と華琳が曹仁にだけ届く小声で漏らした。やはり話す内容は漠としていて曹仁にも理解し難いが、華琳も一応は耳を傾けてくれているようだ。曹仁も大人しく聞き役に回ることにした。

「かつて、我らと同じく外史に生まれたただ一人の人間の意志の力によって、新たな外史の突端が開かれるという奇跡があった。……もっとも、それが彼の人自身の力によるものなのか、あるいは絶対者の歓心を、同情を、引いた結果によるものなのかは定かではないがの」

 天子は皮肉げな笑みで言った。

「滅びゆく世界を維持すること、それはある意味で新たな世界の創生よりも困難なことじゃろう。だが、一人の人間の意志で世界を創世出来るならば、この世界に住まう全ての人間の意志の力を一つに集約させたなら、その存続とて不可能ではない」

 天子は一度言葉を切って、胸を反らした。

「試みに造られた集束点こそが朕―――天子じゃ。この世界に住まう全ての民の意志、その中でもとりわけ強い潜在的な滅びへの忌避―――生への願望を、ただ一点に集約し巨大な一つの力の結晶とする。天子を受け継いだその瞬間から、朕は人であった劉協とは別に、この世界に住まう人意の総括者である朕に、天子というシステムの一部となったのだ」

「―――つまり陛下は、この世界の終焉を避けるために、民の意志を集約し、その意志を力とするシステムの中枢だということでしょうか?」

「そうじゃ。なかなか理解が早いの」

 天子がうんうんと盛んに頷いて見せるが、曹仁は単に言葉の表層をまとめてみせただけに過ぎない。
 天子の紡ぐ言葉は、曹仁の理解の範疇を遥かに越えている。世界が複数あるという話は経験上納得せざるを得ないが、世界の滅びであるとか、絶対者であるとか、意志の力であるとかは、目の前の少女の妄想としか思えない。ただ少女がその理解及ばぬ力でもって、この世界へと曹仁を誘ったことだけは否定しようのない事実であった。

「本来なら己が覇業の完遂と共に終幕を迎えるはずの外史を存続させるため、高祖様があの張子房にお命じになり、神仙術の粋を集め作り上げたシステムじゃ。もっとも、全て民の願望を呼び寄せる機構に高祖様自身が耐え切れず、晩年は人々の欲心に踊らされ、猜疑の果てに粛清を繰り返すこととなった」

 話は多少曹仁にも分かり易くなった。神仙術というならば張三姉妹の次女が使う妖術と似たようなものだろう。張宝の妖術も理屈自体はいまだにさっぱり理解出来ないが、現実に種も仕掛けもなしに煙幕や光線が発される瞬間を目にしている。
 高祖劉邦の覇業を支えた張良が神仙術に傾倒したという話自体は既知の事実でもある。晩年の劉邦が功臣の粛清を行ったのも史書に記された通りだ。一般に張良はその粛清から逃れるため、神仙術へ傾倒することで世俗への無関心を装ったとされるが、天子の話を信じるならば実情は全く異なるということになる。

「しかし陛下は、猜疑心にとらわれているようには見えませんが」

「うむ。天地を飲み干すほどの大器を備えた高祖様をしてそれじゃからな。人である限り、欲に惑わされる心を消すことは出来ぬ。そこで朕らは天子と言う別の精神を備えることとしたのじゃ。漢王朝の帝である人の子と、人意の集束点としての天子。後者である朕は、永久に漢室の血に宿り、詰まらぬ欲心など持たず、一個人を超越して全て民の意志を体現し、外史を存続させる者じゃ。―――まあ、それも朕の束ねた力によるものではなく、朕の特異な存在が絶対者共の気を引いたが故のことかもしれんがの」

 自嘲気味に笑う天子の感傷はやはり理解出来ない。曹仁は迎合せず率直に別の疑問を口にした。

「……それでは今お話している陛下とは別に、漢王朝の帝であらせられるお方がもう御一方存在するということですか?」

「そうじゃ。そちらは朕とは違い、皇室に生まれ落ちたというだけのただの人間よ。苦労が多い分、先代や先々代よりも随分と増しじゃがな。ここ数代は本当に出来の悪いのばかりが続いた」

 自嘲から一変、天子は憤りを見せた。
 ころころと表情がよく変わる。自らを超常の存在と語った少女は、本人の言に反していやに感情豊かで人間臭い。逆を言うと常人離れした移り気とも言える。それが無限にも等しい人々の意志が流れ着いた結果と考えれば、何となく理解出来なくはない。

「……それで結局、この子を何のために呼んだのでしょう?」

 不快気に口を結んで押し黙った天子に、華琳が曹仁を指し示して問うた。

「おおっ、肝心なことを忘れておったな」

 本当に忘れていたのか、天子が思い出したように手を打った。

「今、人々の心に滅びに恐れ抗おうという気持ちが薄れつつある。代わりに、朕の胸中になだれ込んでくるのは、諦観。理由は聞くまでもあるまい?」

「―――乱世」

「そうじゃ。心が満ち足りているからこそ、滅びを恐れもする。民が未来に希望も抱ける。いま民は、生きることを楽しんではおらぬ。このまま、民の生への願望が薄らいでいけば、早晩我が身は滅び、それはこの世界そのものの崩壊を意味する。曹仁、お主を呼び寄せたのは、我が身の崩壊を止めるためよ」

「しかし、私にそれをどうこうする力などございません。神仙術の類なら、私よりもこの世界の住人の方が遥かに詳しいでしょう。そうだ、張宝を―――」

「―――仁、そうではないわ。……陛下、つまり乱世をお鎮めになるために、この子を呼び寄せたと?」

「うむ。人相見や占い師やらに、乱世を治める天の御使いの噂を流させたのも朕じゃ」

「……それにしては漢室は、曹家の天の御使いを認めぬという態度を取り続けておりましたが」

 華琳が冷やかに返す。
 曹嵩の太尉罷免に始まり、黄巾の乱の折に皇甫嵩の元で少なくない武功を上げた曹仁に恩賞が下されることもなかった。

「その点に関しては謝らねばならぬな。申した通り、この身は朕一人のものではない。朕の人格は常に表に出ているわけではないのじゃ。政に口出ししたことなど、高祖様を継いだ恵帝の御世から数えてもほんの数度じゃろう。国が乱れ、力の弱った今となっては、むしろこうして表に出ることの方が珍しい。人ひとり呼び寄せるのに力を使った後ともなればなおのことじゃ。朕が隠れている間は、この身はただ無力な幼帝であり、先代、先々代の身も、傀儡の王でしかなった。宦官や外戚の指図を跳ね除けることも出来ぬ」

 実際の政を、この超常の天子が為すというわけではないらしい。それが我が身の不遇に繋がったとはいえ、曹仁はどこかほっとした気分だった。民の意志の総括者を自称するとはいえ、目の前の天子は超常の存在には違いない。そんな人知及ばぬ者に現実の政が委ねられるというのは、あまり気分が良いものではなかった。

「しかし乱世を鎮めるためというのなら、それこそ何故私なのですか? 世界が複数あるというのなら、私よりも頭の良い者も腕の立つ者もごまんとおりましょう。いえ、私のいた世界だけでも、それこそ星の数ほども」

 高名な武術家なり格闘家、軍人、あるいは歴史や科学技術に精通した学者。この世界に訪れた当時、十歳にも満たない子供だった曹仁よりも役に立つ人間などいくらでもいる。時代すら超越出来るなら、いっそのこと曹仁の世界の呂布や曹操を呼び出してしまっても良い。

「力は、重要ではない。むしろこの外史にそぐわぬ程の過ぎたる力は、絶対者共の不況を買って世界の崩壊を招きかねん。大切なのは、縁じゃ」

「縁?」

「お主も知っての通り、この外史の主役は今や我ら高祖様直系の皇室から移り、そこにいる曹操であり、袁紹であり、劉備であり、孫策である。あるいは関羽や張飛、呂布、夏侯惇といった豪傑達や、諸葛亮や周瑜、筍彧といった軍師達も主役の一人であろう。お主はその内の何人と誼を通じておる?」

「それは」

「家族に、家族同然の付き合いの者。ご主人様なんて呼びかねない勢いで慕う者。比較的親交がうすい者でも戦友ね」

 曹仁に代わって華琳が答えた。

「この世界の主役達と物語を紡ぎ出せる者、それが第一の条件じゃった。―――つまり縁じゃ。たとえ無双の剣客であろうと、戦場を意のままにする軍師であろうと、名もなさずに朽ち果てることもある。お主が我が呼び掛けに答えたのも縁なら、曹家に拾われたのも縁、多くの英雄達と交わったのも縁だ。この世界に名立たる英雄豪傑のほとんどとお主は誼を通じている。この外史とこれほど強い縁で結ばれた人間が他にいようか」

 完全に納得出来たわけではないが、言い返す言葉も無かった。縁という不確かな言葉で言い表すことに多少の違和感を覚えなくはないが、人間関係については恵まれすぎていると常々感じてはいる。

「本来ならその強い縁でもって、曹操や劉備らを傘下に加え、この乱世を終結に導くことを期待していたのじゃがな」

 またも、返す言葉も無かった。無頼を気取っていた数年前ならいざ知らず、今の曹仁に華琳や桃香の上に立つ自信はない。

「さて、今日招いた本題はここからじゃ」

 天子が改めて威儀を正した。冕冠の飾り紐の一本一本までが音も立てずに綺麗に整列する。

「曹操よ。この世界の崩壊を防ぐため、曹仁に代わり乱世を早急に終息させてほしい」

「…………正直に言わせて頂くと、今日陛下にお聞きしたお話は、にわかには信じ難い話です。しかし私はこの子がこの世界に来訪した瞬間も目にしています。不可思議な力があるということは、認めざるを得ません」

「ならば、我が願い受けてくれるか?」

「はっ。乱世を集結させることは、陛下に命じられるまでもなく我が宿願。必ずや、天下を静謐にしてご覧に入れましょう」

 言葉通り、天子の語った話の内容を華琳は頭から信じてはいないだろう。それでも乱世の終結という願いを、華琳が断る理由はどこにもない。

「ならば良い。――――んっ」

 華琳の力強い言葉を聞くと、ぴんと張りつめていた天子の体がぶるりと震えた。

「そろそろ時間のようじゃな。この身体の本来の主と交代せねばならん」

 言うと、天子はそのまま寝台に倒れ込んだ。
 呼吸にして一つか二つ、それ位の間を置いて次に体を起こした時には、目元を擦り、背筋を伸ばして軽く欠伸などもし、寝起きの態であった。
 惚けた表情はどこか桃香に―――本人すらが半信半疑の漢皇室の裔という血筋はあながち間違いではないと思える程度に―――似ていた。顔形は同じでも先刻までは抱かなかった印象は、表情こそ豊かでもやはり超常の存在であったということか。

「―――っっ!! あ、貴方達はっ!?」

 そこでようやくこちらに気付いて、天子が驚きの声を上げた。
 帝は、超常の天子であった時の記憶を共有してはいないようだった。それならそれでもう少し違った対面を演出して欲しいところだが、超常の存在にそんな気配りを求めても仕方がない。
 曹仁と華琳は寸時顔を見合わせると、改めて跪拝して見せた。










 以下、本話で語られた作中設定のまとめ。

 この作中世界は、『楚漢†恋姫~ドキッ☆乙女だらけの項羽と劉邦の戦い~』の外史であった。
漢王朝の成立と共に崩壊するはずの外史を、劉邦の軍師張良の神仙術で延命させ続けている。張良の用いた神仙術は、外史に住まう全ての民の根源的な欲求―――生きたいという意思を天子の元へと結集し、その意志を力として世界の延命を図るというものであった。皇帝の別人格―――超常の天子の力によって、あるいはその特異な存在が絶対者=正史の住人の歓心を得たことで世界は存在し続けている。
 乱世は人々の生きたいという意思を弱め、天子の存在、ひいては世界そのものの崩壊を招きかねない。乱世の早期終結を為す英雄として別の外史から天子によって招かれたのが曹仁。この世界の英傑たちと強い縁を持つ存在である。それゆえに多くの知己を得、華琳や桃香、恋達とは家族同然の付き合いに至る。天子の望んだ英雄としての役割を華琳の傘下に加わった曹仁は果たせずにいるが、結果的に覇者が誰となっても乱世さえ終結させてくれれば世界の崩壊はまぬがれる。天子は曹仁に代わる英雄としてその主君華琳に世界を委ねるのだった。



[7800] 第7章 第5話 華琳と桃香 その二 桃香とお出かけ
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/02/08 12:23
「―――曹仁さんっ、おはよう」

「ああ、おはよう、桃香さん」

 洛陽の宮殿前で、曹仁は桃香と落ち合った。約束された時間よりも早めに付いたはずだが、桃香はすでに来ていて、曹仁の顔を見ると駆け寄ってきた。
 数日前に取り付けられた約束で、次の曹仁が非番の日に出掛けようと誘いに来た桃香は、珍しく緊張した面持ちだった。

「それで、今日はどこへ行くんだ、桃香さん?」

 一日を目一杯使いたいということで、時刻はまだおはようという挨拶が似合う時間帯だ。昼食には早過ぎるし、まだ開いていない商店の方が多いだろう。

「えっと、その前にまず。―――今日はせっかく二人で遊びに行くんだし、桃香“さん”じゃなく、華琳さんみたいに桃香って呼ぶ捨てして欲しいな。ううん、今日はっていうか、出来れば今日から」

 約束を取り付けた日と同じく、幾らか緊張感をにじませた表情で桃香が言う。

「ん、ああ、それはもちろん構わないけど。……そういえば華琳は桃香さん―――桃香を、呼び捨てか。一応客人だし、桃香将軍ぐらいに呼んでも良さそうなものだけど。まあ、華琳は他の誰に対しても大抵敬称なんか付けないか」

 華琳の他に桃香を真名で呼び捨てにしているのは、曹仁の知る限りでは白蓮くらいだろうか。その白蓮も今は劉備軍で桃香の部将の一人である。小さいながらも一つの勢力の頭となると、気兼ねなく付き合える友人というのは減るものだろう。もっとも桃香の側からは、そうした身分に対する気負いのようなものは一切感じられないのだが。

「そうじゃなくってっ。華琳さんが私を呼ぶみたいにじゃなく、曹仁さんが華琳さんを呼ぶみたいに」

「うん? ―――ああ、わかった」

 結局は同じことのように思えるが、強調する桃香の微妙な乙女心に曹仁は首肯した。
 桃香に対して特に距離感を覚えて“さん”付けで呼んでいたわけではない。黄巾の乱の鎮圧では半年以上も軍を共にした仲だ。鈴々や季衣のような年少組と違って、何となく呼び捨てにする切っ掛けがつかめなかっただけの話だ。

「ええと、それじゃあ、改めてよろしく、桃香」

「うん、こちらこそ、曹仁さん」

 桃香の方は、“さん”を取らないらしい。華琳のように自分を仁と呼び捨てにする桃香も見てみたい気がするが、そもそも彼女が誰かを呼び捨てにするのを見たことがない。

「それで、今日なんだけど。私、洛陽は初めてだから、曹仁さんに案内してもらいたいなって」

 桃香達劉備軍が洛陽に駐屯中の曹操軍と合流したのは、つい先日のことである。
 すでに桃香は天子―――超常の存在ではなく人である皇帝―――との拝謁も済ませ、漢皇室に連なる血の持ち主であると認められていた。帝とは気も合ったようで、以来話し相手として何度か呼び出されてもいるようだ。宮中では、皇叔(皇帝の叔母)という皇族に準ずる扱いを受けていた。朱里や雛里などは桃香の出自に箔が付いたと素直に喜んだようだが、当の本人はあまり気にもしていない様子だ。

「それは構わないけど、俺が知っている頃とは随分と様変わりしているからな。ちゃんとした案内になるかどうか」

 桃香は正確には反董卓連合の際にも洛陽を訪れているはずだが、あの時は街を見て回る余裕など当然なかっただろう。
 一方で曹仁は、そもそも幼少期の大半を洛陽で暮らしている。曹家の本拠地は予州の沛国譙県であるが、曹仁がこの世界に呼び寄せられた当時、太尉に就任したばかりの曹嵩も学生の身分であった華琳ら一門の若者達も皆、洛陽を生活の拠点としていた。曹仁にとっては本拠譙県の邸宅の方が別邸の感覚に近い。その後、県長に赴任した幸蘭に連れ添って地方へ出たが、黄巾の乱が終わると洛陽に舞い戻って皇甫嵩の屋敷で一年近くも暮らしている。本来洛陽は庭のようなものであるが、現状は慣れ親しんだ姿から大きく変わってしまっている。

「いいから、いいから。子供の頃の曹仁さんや、黄巾の乱の後に私達と別れてから、どんなふうに暮らしていたのかも知りたいし」

「そうか。なら、行こうか。空き家ばかり紹介することになるかもしれないけど」

「うん」

「それなら、まずは―――」

 最初に向かったのは、宮殿から歩いてすぐの所だった。

「ここが、曹仁さんが皇甫嵩将軍や恋さん達と暮らしていたお屋敷?」

「ああ」

 曹家の屋敷は、案内する以前に現在曹操軍の宿舎として使用されていて、桃香ら劉備軍の首脳陣もそこへ宿泊している。次いで曹仁にとって思い出深い場所となると、ここしかない。
 玄関の戸を押し開けると、ぱらぱらと砂と埃が舞い落ちた。
 宮殿に程近い大通り沿いでもあるから、何度となく目に留まってはいたものの、中にまで入るのは洛陽を訪れてより初めてのことだ。機会などいくらでも作りようはあったが、何となく二の足を踏んでいたのだ。霞も従軍していたなら、あるいは洛陽まで恋達を伴っていたなら、軽い気持ちで踏み込めたのかもしれない。一人で訪れるには、賑やかな思い出があり過ぎる場所だった。

「―――すっかり薄汚れてはいるが、荒らされた様子はないな」

 李傕や郭汜も、さすがに遠慮をしたということだろうか。立地的に考えれば兵を籠もらせるには最適で、真っ先に争乱の現場となってもおかしくはない。

「曹仁さんのお部屋は?」

「ああ、そこは順―――高順の部屋だ。その右隣が俺の使っていた部屋」

 桃香が興味深そうに部屋の戸を開けて回り始めた。
 最後に屋敷を出る前に、高順と念入りに掃除をしている。長い時間の経過とも相まって、生活の匂いを感じさせるものは皆無だった。皇甫嵩や霞がよく飲んだまま転がしていた酒瓶の類も残ってはいない。恋の拾ってきた動物で溢れ返ってもいないし、高順と音々音の口喧嘩も当然聞こえてはこない。

「別の場所に行こうか」

 特段に珍しいところなどない、ただ広いだけの屋敷だ。探索にも飽きて隣に並んできた桃香に、曹仁は言った。
 広いだけはあって、それなりに時間は潰れている。商店も軒並み開き始める頃合いだ。
 玄関を抜けて大通りへ出ると、そのまま道沿いを進んだ。他は無人の廃墟が並ぶばかりだから、他に選択肢もない。否応無しの道行も、進んでみると悪くなかった。

「―――曹仁将軍!」

 立ち並ぶ商店にはいくつか見知った顔もあって、気さくに声を掛けてくれる者もいた。聞けば、一時避難していたが、楊奉による洛陽の再建が始まるとまた店を構えたのだという。客となる住人が少ないのだから、当然商売はあがったりだろう。それでも生まれ育った洛陽への思い入れが、商売の利に勝ったらしい。

「これ、持っていって下さい」

「懐かしいな、ありがとう」

 大きめの肉まんが手渡される。かつて恋や高順との買い物帰りに、よく食べたものだ。
 二つ渡されたうちの一つを桃香に渡して、口に運びながら道を歩いた。皮は薄くもっちりとしていて、それがざく切りの筍や椎茸、肉汁たっぷりの餡を包みこんでいる。空気を含んでふわりとした厚手の皮の肉まんも販売している店だが、曹仁は餡の味をより直接的に楽しめるこちらの方が好きだった。店主は曹仁の好みも覚えていてくれたらしい。恋は厚手の皮に肉汁がしみ込むのも、餡が多いのも好きで、両方を買って交互に口に運んでいたものだ。

「ふふっ」

「どうかしたか?」

 桃香が、曹仁の顔を覗きこんで笑った。

「皇甫嵩将軍のお屋敷を見てから、曹仁さんちょっと落ち込んでる様子だったから。案内なんか頼んで、悪いことしちゃったのかなって思ってたんだけど、元気が出たみたいで良かった」

「なんだか桃香さん―――桃香には、いつも心配ばかりかけている気がするな。出会ったばかりの頃は、この人こんなにのほほんとしていて大丈夫なのかって、俺の方が心配になったものだけど」

「その言い方は酷いなぁ」

 桃香が冗談めかして頬を膨らませた。

「……あれ、牛金さんじゃないですか?」

「ああ、確かに」

 しばらく街をのんびり散策していると、桃香が先を行く人波を指差した。人が少ないとはいえ大通りにその全てが集中しているため、人通り自体はそれなりに多い。そんな中にあっても、頭一つ抜けた巨漢の姿はよく目立つ。
 声を掛けようと足を速めた曹仁と桃香に先んじて、女性が一人、角へと歩み寄った。妖艶、という言葉のしっくりくるような女で、容姿はもちろん挙措の端々から艶を感じさせる。そんな女が、数語親しげに言葉を交わしたかと思えば、幼子のような仕草で体ごとぶつかる様に角へ抱きついた。

「―――角」

 無粋かとも思いつつ、興味を引かれた曹仁は声を掛けた。

「あっ、兄貴。それに劉備様も」

「こんにちは、牛金さん」

「ご無沙汰しております、劉備様」

 ほとんど軍営に籠り切りの角と、宮中や街が活動の場の桃香が顔を合わせる機会は少ない。もしかすると、まともに口を利くのは曹仁が張闓を痛めつけたあの日以来になるのかもしれない。

「で、そちらのお美しい女性は? どういったご関係で?」

「いえ、これは」

 曹仁の冗談交じりの問い掛けに、角が決まり悪げにうつむいた。

「ははっ、お前のそういう顔は初めて見るな。なんだ、俺には紹介してくれない―――」

「―――そのお声は、曹子孝様かしら?」

 冷やかな声が、曹仁の言葉を遮った。角に身を寄せ、曹仁には背中を向けたままの女性が発したものだった。

「っと、これは失礼しました。…………どこかでお会いしたことがありましたでしょうか?」

 おもむろに振り返った女性と顔を見合わせても、曹仁の記憶の中に該当者は見つからない。

「うふふっ、角様は一目で私と気付かれましたのに。御遣い様にも存外鈍いところがお有りですのね」

「こらっ、やめないか」

 挑発的な微笑を浮かべた女性は、角に叱りつけられると、一転子供のような仕草で舌を出した。
 角を手で制しながら、曹仁は矯めつ眇めついささか不躾な視線を女へと注いだ。女性としては長身の部類に入るだろう。細身ながらも女性らしい丸みも帯びた身体つきで、すっと伸びた背筋と、わずかに傾げて見せた顔が、独特の色気を感じさせる。

「……駄目だ、思い出せん。―――降参だ。ご尊名をお聞かせ願えませんでしょうか?」

「ふふっ、司馬仲達と申します」

「……司馬、仲達。……司馬防殿ゆかりの方でしょうか?」

 司馬家は漢朝の名門と言って良い家柄で、現当主の司馬防は漢室の忠臣であると同時に、商売で財を成した大富豪としても知られている。かつて曹仁と角は侠気あふるる大商人としての司馬防を頼って、様々な便宜を図ってもらったことがあった。張譲との政争に敗れ皇甫嵩の屋敷に逃げ込んできた麗羽を洛陽から脱出させられたのも、司馬防の助けによるところが大きい。
 商業都市としての機能を失った洛陽に最後まで本拠を残した商人が司馬防で、楊奉の行った再建計画にも大きく関与していると聞いていた。経費の捻出は、かなりの部分で司馬防の侠気に頼るところがあったという。

「ええ、次子に当たります」

 司馬防には子が多い。その多くは戦火に親を失った孤児を養子としたものである。かつて曹仁らも、暗殺集団残兵の宿営で拾った盲目の少女を預けたことがあった。

「そうでしたか。あの娘は元気にしていますでしょうか? お預けしたきりで申し訳ない。会いに行こうにも、私は彼女に嫌われておりましたので、なかなか足が向かず。角は、洛陽にいた頃にはよく出向いていたようですが」

 次子、とまで明かされても、曹仁に思い当たるものはなかった。はぐらかす様に、かつて残兵で軍師見習いをしていた少女の話題を振った。

「くっ、ふっ、あはははっ! 本当に鈍いお方ですのねっ。その娘というのが私ですわ。私が、あの日、貴方に槍を突きつけられて逃げ出した盲目の娘です」

「―――はっ?」

 理解を超えた発言に、暫時、曹仁の思考が止まった。
 脳裏に浮かぶ少女と、眼前の女性がどうしても結びつかない。記憶の中の少女は朱里や雛里と同年代で、以前はそれ相応の容姿をしていたのだ。同じ軍師ということで雰囲気も似通ったものがあった。角に寄り添うように立つ女性は、同じ軍師で言うならば孫策軍の周瑜ほども手足が伸び、体付きも豊満とまではいかないまでも十分に大人の女性のものだった。

「いや、嘘だろう。あれから、―――そう、まだ二年ちょっとしか経っていないんだぞ」

「二年も、ですわ。二年もあれば、女は化けますのよ」

 角に視線をやると、曹仁の疑念を否定する様に小さく首を横に振った。

「そうだ、目は? あの娘は目が見えなかったはずだが」

「一年ほど前になるかしら。何の前触れもなく、ある朝起きたら急に目が開きましたの。元々、瞳自体が光を失っていたわけではなく、目蓋が開かなかっただけでしたのよ。当時から、手で強引に開いてやれば、ものを見ることは出来ましたわ」

「……じゃあ、本当に」

「ええ、改めてよろしくお願いしますね、曹仁様。今は養子に貰われて、司馬防が次子司馬懿。字を仲達。―――いえ、角様の大事な兄弟分なれば真名で、春華(しゅんか)、とお呼びください」

「あ、ああ、よろしく」

「以前のように曹仁様を怖がるような真似は致しませんので、ご心配なく。くふふっ」

 春華が口角を上げて笑った。やはり所作の一つ一つが妙な色気を放つ。そして角に対する時だけは、昔と変わらぬ子供じみた振る舞いに変わるようだった。曹仁に対する棘のある態度に眉を顰める角に、春華はまた小さく舌を出した。

「―――へえ、朱里ちゃん達に話したら励みに、……なるのかな? それともその差に落胆しちゃうかな?」

 角と春華と別れた後、事情を説明すると桃香は難しい表情で呟いた。
 朱里と雛里は成長の予兆すら感じさせない己が身に、かなりの劣等感を抱えているようだ。以前からそうだったが、最近ではお仲間と思っていた鈴々が年相応の成長を見せ始めているから、本人達にとっては深刻な悩みなのだろう。曹操軍の首脳陣をも驚かせる知謀の持ち主がそんな可愛らしい悩みを抱えていると思うと、本人達には悪いが微笑ましさに自然と曹仁の頬は緩んだ。

「今日はよく人に会うな。―――月さんに詠。それに徐晃殿か」

 さらに街を歩くと、ちょうど路地裏から出てきた月と詠、徐晃に行き合った。

「こんにちは、曹仁さん、劉備さん」

 月がにっこりとほほ笑んだ。それが作られた笑顔に見えるのは、書類をもって街の視察をしていたらしい彼女の心情が察せられてしまうためか。
 月の現れた小道の先は、人の気配もない静けさの中にある。路地裏と言っても、光武帝以来二百年の都洛陽の大通りを一つ逸れただけだ。往時であれば、今の許や陳留の中心街よりも人の往来は激しかった。

「ふうん、ボク達が忙しく街を調べ回ってるって言うのに、アンタは逢い引き?」

「えへへ、そう見えます?」

 曹仁が否定するより先に、桃香が嬉しそうに受けた。

「―――っ、皮肉の通じない子ね」

 詠が毒気を抜かれた様子で肩を落とす。詠は皮肉屋の割に気は優しいから、月や桃香のような裏表の少ない人間との会話ではいつも劣勢に回っている印象がある。

「お付き合い頂いているのだな、徐晃殿」

「董―――月様の身は、私が守る」

 洛陽の踏査など白波賊では当の昔に済ませているだろう。徐晃は白波賊の将ではなく、あくまで一武人として月の護衛に付いているらしい。
 徐晃はまだ完全に記憶が戻ったわけではない。ただ月に対する忠誠心だけは明確に意識していて、董卓の名を捨てて今は張繍を名乗っていると聞いて、徐晃も華雄の名を捨てた。董卓軍の華雄は董卓と共に死に、今後は徐晃として月に仕えるのが望みだという。今はまだ白波賊の将という扱いだが、楊奉からも許可は取り付けていた。洛陽に曹操軍の兵士が常時駐留することが決まり、白波賊でも合わせて軍の再編がなされている。それが終わり次第、徐晃は白波賊での任を解かれ、正式に月の臣となる。陪臣として華琳の指揮下に入るということだが、仇敵から一転、今は月の恩人ということでその命に従うのも吝かではないようだ。

「それにしても―――」

「ん? ……何か?」

「いや、何でもない」

 護衛であるから武装はおかしくはないのだが、街中で見る徐晃の鎧姿は相当に異色を放っている。露出そのもので言えば霞や真桜辺りと大差ないが、物が具足だけに与える印象は強烈だった。戦時以外にはほとんど顔を合わせる機会もなかったからか、そもそも徐晃は私生活でも常にこの肌の露出が極端に多い具足を着込んでいるような気がする。さすがに普段からこの姿で街を歩き回っているとは考えにくいし、勘違いだと思いたい。

「ふんっ。それじゃあ、ボク達はもう行くわ。行こっ、月」

 曹仁が徐晃の具足姿について考察を深めている裏で、桃香との会話に終始空回りを続けていた詠が負け惜しみのように言うと、足を踏み出した。

「そ、それでは、失礼しますね、曹仁さん、劉備さん。―――へうっ、待ってよ、詠ちゃーん」

 月が小走りで詠の後を追う。徐晃は無言で会釈だけ残すと、その背後に寄り添った。

「…………さて、俺達はどこに行こうか、桃香?」

 街を歩き回っている間に、曹仁はほとんど違和感なく桃香と呼べるようになっていた。
すでに時刻は昼時を随分と回っているが、散策中に何度となく食べ物の差し入れがあったから、昼食の気分でもない。

「う~ん。―――そうだ! 学校に行ってみませんか?」

 洛陽の復興に参画すると決めた華琳が、まず第一にと手掛けたのが学校の設置だった。
 かつては中華全土からの留学生が数万人規模で生活していた漢の都も、そうした者達から真っ先に逃げ出し、今となっては学問の香りは皆無だった。多少情けない話ではあるが、肝心の就学に困難な状態が続き、元々の生活の基盤が他所にあるともなれば、離れていってしまうのも致し方ないことではある。
 他に整えるべきものはいくらでもあるが、華琳の方針として学校の整備が何にも増して優先された。

「あっ、劉備様だ~っ!!」

 ちょうど授業が終わったところらしく、到着するや玄関から飛び出してきた子供達に桃香が取り囲まれた。どこへ行っても、桃香は子供達の人気者だった。天下の義軍劉備軍を統べる英雄として名高いだけでなく、やはり実際に会って話す本人の人柄が大きいのだろう。

「玄徳。それに曹仁殿か」

 子供達の見送りに玄関まで姿を見せた講師は、大柄の女だった。さすがに先刻出合ったばかりの角ほどではないが、男性の曹仁が見上げるほどで、女性としては並外れた長身である。

「―――盧植先生」

 桃香が子供達を引き連れたまま、嬉しそうに駆け寄っていく。洛陽の学校で教鞭を振るっているのは桃香の恩師、盧植である。
 曹仁達の一つ上の世代を代表する大学者である。政治家であり、黄巾の乱を戦った将軍の一人でもある。軍監に付いた宦官への賂を拒絶したことでその任を解かれ、洛陽への護送中に当時桃香と行動を共にしていた曹仁とは出会った。官軍随一の名将として皇甫嵩を紹介してくれたのが彼女である。
 この硬骨の女性は、反董卓連合解散以後も洛陽に残って民のために細々と働き続けた。帝や廷臣からの信頼も厚く、度々呼び出されては政に関する意見を聞かれるらしい。
 そんな盧植は、華琳の求めに応じて気軽に学校の教師の役目を引き受けた。
 当代一流の学者に基本の読み書きやら数字遊びやらの指導をさせているわけだが、子供達へ向ける盧植の視線は優しい。元来、人に学問を教えることが好きなのだろう。かつて官職を辞していた頃にも、故郷である幽州涿郡にて私塾を開いている。同郷の桃香はその時の盧植の教え子であり、同門には白蓮もいる。


「劉備様、さようなら~っ! 御使い様と先生もさようなら~っ!」

 ひとしきり子供達の相手をして解放された桃香を、盧植が学校内へと導いた。
 教室が五つに、講師の待合所―――職員室が一つ。いずれは同じものが洛陽城内にいくつも建築されることになるだろうが、今は使用している教室は一つ、講師も盧植だけだった。許や陳留では講師の数が足りず、手隙の文官が交代で教鞭を握る場合が多い。曹仁も時に教壇に立つし、朱里や雛里には常勤に近いほど手を借りていた。民こそ少しずつ増えてはいるが、あえて幼子を連れて洛陽に移住する者は未だ少ない。

「玄徳は子供達にすごい人気だな。私も学校で子供を相手にするときは、将軍であったとか、それなりに名の知れた学者であるとか、そんな肩書よりも玄徳の先生だったと名乗るようにしている」

 職員室に腰を落ち着かせると、盧植が言った。

「いやぁ、そんな。先生にそんな風に言われると、困っちゃうな~。うふふっ」

「最後に、あまり熱心な教え子ではなかったと続ければ、教室中が大爆笑だ」

「ううっ」

 師からの賛辞に頬を緩ませた矢先、ちくりとやられた桃香が呻く。
 盧植は珍しくくだけた様子だった。曹仁の知る盧植は官軍の将軍であり、天子の忠臣である彼女で、子供達や教え子に対する時はまた別の顔を持つのだろう。

「桃香は、そんなに不真面目な生徒でしたか?」

「ふむ、不真面目というと多少語弊があるか。遅刻や欠席をするような生徒ではなかったが、何と言えばいいのかな、こちらの話を聞いているのかいないのか分からないような」

「つまりは講義中もぼうっとしていると」

「そう、それだ。例えば、こんな話が―――」

「ま、真面目にお話を聞いてましたよ! やだな、先生、変な冗談言って。……そ、曹仁さんも、授業中“も”って、まるで私が普段からぼうっとしてるみたいじゃないですか。あははっ」

 盧植の言葉を遮る様に桃香が身を乗り出してくる。
 それからは桃香の失敗談等を聞きながら、楽しい時間が過ぎた。最近ではある種の風格さえ身に付け始めた桃香の慌てふためく姿は、見ていて飽きなかった。
 予想通りと言うべきか、桃香はあまり出来の良い教え子ではなかったらしい。ただ一時は麗羽と並ぶ北方の雄として立った白蓮をして、盧植に最も嘱望された人材と言わしめるのが桃香でもある。あえて伸び伸びと育てたという盧植の意図も会話の端々から見える。大学者でありながら、学問だけを絶対視しない柔軟さをも盧植は備えていた。
 対して当の桃香の方は、最近では華琳に学問を教わり始めていた。やはり熱心とは言わないまでも、最低限のやる気は維持しているらしい。流浪の生活の中で学問の必要性を感じたようだった。恐らく民の暮らしというものについて、誰よりも深く考えているのが今は無位無官の桃香であろう。民の生活を良くする方法は、一人で考えてもおいそれと頭に浮かぶはずもなく、朱里と雛里の手を借り、さらに今度は先人達の知恵をも借りようと言うのだろう。

「盧植先生は、この学校という制度をどう考えているのですか?」

 雑談の種も尽き、そろそろ腰を上げようという時、一転真剣な表情で桃香が問うた。

「素晴らしいものだ。私はこれまで行ってきた曹操殿の政策全てに賛同するわけではないが、この学校制度、これだけは手放しに賞賛出来る」

 盧植はさすがに並みの学者連中とは違う。有能な将軍であり政治家でもある彼女は、生きた学問を知っている。
 かつて洛陽の太学で学んだ者達は自らが特権階級という意識を強く持ち、制限無く民に学問を授ける学校に否定的な人間が多い。彼らの多くは荊州牧の劉表に保護され、今や荊州は学問の都と呼ばれていた。彼らの探求する学問は、学問のための学問というべきでもので、華琳に言わせれば故事を学んで日々の暮らしの知恵としたり、算術を生活に活かしたりする民の方がよほど生きた学問をしている。

「そうですか」

「その様子では、玄徳は制度に反対なのか?」

「へえ、それはちょっと―――いや、かなり意外だな。富む者も貧する者も皆が机を並べてお勉強って姿は、桃香がいかにも好きそうな気がするけど」

「それ自体は私もすごく良いことだと思うんです。だけど、華琳さんは急ぎ過ぎてる」

「華琳が急ぎ過ぎている?」

「うん。確かに皆が自由に学問を出来て、頑張って認められればどんなに貧しい暮らしをしていた人でも政に参与出来るっていうのは、すごいことだと思う。でもそうした仕組みを作るために、税を上げて、ただでさえ乱世に苦しんでいる人達の暮らしを、さらに痛めつけるのは違うと思う。――――――えっ、えっと、い、衣食足りて礼節を知る、だよ」

「ほう。良く勉強しているな、玄徳。正しくは、倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る。古の名宰相管仲の言葉だな」

 他の地域と比べて、曹操軍の領内の税率が高いのは事実である。その上、貴重な労働力でもある子供達も学校があるため働き手とは成り得ない。農地開拓、商業の奨励、無料での就学と、様々な施策で暮らしに還元されてはいるが、民の生活に余裕はないだろう。官からも民からも余力を絞り出させるというのが、今の曹操軍の政の在り方だった。
 華琳が急いでいるというのは、確かに言い得て妙な表現ではある。本来数世代をかけて行うべき改革を、華琳は自分一代で、それも数年の内に遂げようとしている。その根幹にあるものは、貧者の救済等ではなく、これまで埋もれてきた才能を拾い上げることにある。その過程で自らの手から抜け出し、敵対する者が現れるのも一興。それが華琳の考えだった。有能な部下だけでなく、好敵手すらも自ら育て上げ、取りこぼしなくこの天下を味わい尽くしたい。曹仁はその我欲の強さに驚き呆れ、―――そして敬服するしかない。

「そう、それです。お腹が減っていたら勉強なんて頭に入りません」

 桃香の言葉も間違いなく確信を突いている。ただどうしても実感を伴わないのは、生まれの差というものだろうか。
 中山靖王劉勝の裔であることを天子の口から正式に認められた桃香ではあるが、その生まれ落ちた環境はそこらの農民と大差はない。自ら筵を編んで、それを売って生活の糧としていたことは良く知られている。大宦官曹騰の孫娘華琳は言うに及ばず、若くして学問を修めた盧植もまた十分に恵まれた家の出だ。この世界に現れるや曹家に拾われた曹仁もそうだ。この場にいる人間の中で、本当の意味での貧困、飢えを知っているのは桃香だけだった。

「学校制度は乱世を終わらせて国を安定させてから。それが、皆が幸せになれる方法です」

「それで、最近よく華琳と言い争い、―――論争を?」

「うん。でも華琳さんはわからず屋のひねくれ者で、ちっとも分かってくれないっ」

 桃香が頬を膨らませた。こうも露骨に他者を非難する桃香は珍しい、というよりも曹仁が知る限り初めて見る顔だった。盧植も同じ思いなのか、まじまじと桃香を見つめている。
 曹仁にとっては、主君に対する批判である。余人に言われれば腹の立つそれが気に触らないのは、やはり桃香と華琳の間に分け入り難い友情の存在を感じるからだろうか。

「私の元では育たなかったお主が、ずいぶんと深く物事を考えるようになった。これは、曹操殿に感謝だな」

 別れ際に、桃香の頭に大きな手の平を乗せて盧植が言った。

 ―――華琳が桃香を育てた。

 盧植の言葉が、曹仁には不吉なものとして聞こえた。




[7800] 第7章 第6話 黄祖
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/03/01 13:06
「将軍、孫策軍が下船を開始したとの報告が入りました」

「そうか。では予定通り、兵に埋伏の用意をさせよ。―――しかし、なんとか間に合ったのう」

「はい。砦の造りに抜かりはありませんし、これほどの精兵はこれまで目にしたことがありません」

 副官に頷いて返しながら、黄祖は城壁から眼下に視線をやった。副官が命令を一度復唱して駆け去っていく。
望む原野では小隊を組んだ兵がいくつも駆け回っていた。かくかくと不規則に蛇行しながら、時に大きく跳ねたりもしている。罠を避けているのだ。
 普段黄祖が駐留している長江と漢水の分岐点―――夏口―――から、揚州へ向けて二十里あまりも西進した地に砦を築いた。周囲には長江から別れ出た幾筋かの小さな川と、木々が生い茂り緑の深い丘や林があって、 兵を伏せる場所には事欠かない。罠も張りめぐらせた。砦とその周辺は兵の一人一人が自らの庭と感じられるぐらいまで走り回らせている。罠の配置も、目をつぶっていてもかい潜れるくらいまで体に覚え込ませていて、自軍の進退には差し障らない。
 副官が精兵と呼んだ兵達は、確かに黄祖の要求によく答えてくれていた。荊州では並ぶ軍はない。しかし、口にはしなかったが、それでも乱世の中で実戦を繰り広げてきた曹操軍や袁紹軍、そして孫策軍の兵とは比ぶべくもないだろう。まして孫策にとって母の仇黄祖が相手となれば、孫策軍の士気はいや増す。
兵力、士気、練度の全てにおいて劣る状況下で負けないために、考えに考えて布陣した。砦には小勢を持って黄祖自らが籠る。そうして黄祖が籠城を続ける一方で、周辺を小隊が駆け回ってかく乱する。
 砦を築いたのは揚州との州境に程近いというだけで、戦略上の価値をほとんど持たない地である。長江に近くはあるが遡上を妨害出来るほどに密接してもおらず、軍船をもって進軍する孫策軍には、素通りして夏口を攻めるという手もあった。夏口には息子の黄射を籠もらせているが、孫策軍を相手にどれだけ抗戦出来るものか。名将の―――本当は自慢にもならない凡将の―――血を引いたことで、黄射には用兵に自信を持ちすぎる嫌いがあった。その感情は籠城戦には不要なものである。だが、他に目ぼしい部将もいなかった。荊州全土に目を広げれば、軍略で言えば黄祖を凌ぐような将も何人か存在する。ただそういう者に限って今の軍の上層部とは折り合いが悪く、隠者然とした暮らしを営んでいるのだった。
 夏口を手にすれば、南北に分かれて走る長江と漢水を遡上することで、孫策軍は荊州内を自由に進軍出来るのだ。いざ軍を退くにしても、今度は流れに乗れば数日のうちに本拠まで退去が可能となる。
 しかし孫家の仇敵である黄祖が砦に籠り続ける限り無視は出来ないはずで、事実孫策軍は下船を開始した。夏口から二十里というのは支城としては離れ過ぎている。それでも夏口攻城中の孫策軍の背後をうかがうことは十分に可能で、例え小勢とはいえ放置するには躊躇いもあったはずだ。
 相手の立場にたって、考えに考える。自らが凡人という自覚が黄祖にはある。凡人が考えに考えたところで、容易く上をいく天才がいる。それでも自身に出来る最良を求めるしかなかった。
 原野戦でぶつかり合い、歩兵で受け止め、騎馬隊で押しまくる。そんな戦に憧れないではない。かつての孫堅の戦がまさにそれで、黄祖ら同年代の者からは羨望の眼差しを受けていたものだ。その武名は、後に官軍第一の将軍と称されることになる皇甫嵩と並び鳴り響いていた。用兵の妙に奇策をまじえる知将皇甫嵩に対して、圧倒的な武威で敵を蹴散らす孫堅を人は虎と称し、本人も好んでそう名乗った。
 往時、孫堅は江東一帯の賊徒を駆逐して回った。黄巾賊蜂起の前夜であり、乱の気風が各地に渦巻いていた頃合である。孫堅が剣を振るう相手には事欠かない状況にあった。今で言えば劉備軍に近いが、劉備と違うところは各県、各郡でそれぞれ尉(軍事職)を歴任している点だ。県尉を追われた後、無位無官で流浪を繰り返した劉備と比べると、孫堅は世渡りも上手かった。漢朝の威光を背に賊軍退治に駆け回った孫堅は、正しく江東の英雄であり、実質上の支配者の様なものであった。
 そうして敵対した賊軍の一人が、黄祖であった。食い詰め者の侠客だった。身を寄せた豪族の考え無しの蜂起に巻き込まれ、気付けば賊将とされた。豪族は無謀を剛毅とはき違えているような男で、そんな人間の元で食客をしていた自分も詰まらない厄介者の一人に過ぎなかった。
 孫堅の出陣を聞いた瞬間に、黄祖は敗北を決定事項として受け止めた。一矢なりとも報いようという思いと、場合によってはそのまま逃げおおせようという小心な算段もあって、黄祖は奇襲部隊を組織した。奇襲と言っても一度姿を見せてしまえば、孫堅はその動きを容易く読むだろう。初めの一手で孫堅へと届かせるため、陣形の薄い行軍の最中を狙うと決めると、黄祖は進軍路に当たりを付けて兵を伏せた。実際には見当などほとんど付いてはおらず、ただ兵を伏せやすい茂みの中へ隠れただけだ。外れればそのまま逃走するだけの心算であった。
 偶然にも進軍路と伏勢が重なったのは、孫堅にとっても黄祖にとっても不幸なことだった。
 初め、粛々と進む孫堅軍の威儀に黄祖は気圧された。震えながら先触れをやり過ごし、中軍も中程までが過ぎる段になって、今度は雷に打たれたような衝撃に襲われた。孫堅だった。伝え聞く姿格好と照らし合わせるまでもなく、全身にまとった武威が雄弁に自己を主張していた。
 孫堅の武威に打ちのめされ、矢を放てという、たった一つの命令も下すことが出来ず、軍の通過をただ見送った。それで構わないと、安堵し掛けた瞬間だった。虎と称えられた猛将の野生の勘でも働いたのか、孫堅が黄祖の伏せる茂みを振り返った。目が合った気がした。恐怖に駆られ、放て、と叫んでいた。
 次の日から、黄祖は名将と呼ばれる人間の仲間入りをしていた。どこへ行っても、身に余る厚遇を受けた。今は江夏郡一郡の太守である。民は名将に守られていると、日々を安寧に暮らしている。もはや引くことは適わなかった。生涯を名将を演じて生きるしかない。

「―――そうか、考えてみるとあれが孫策か」

 孫堅を討ち取った時、そのすぐ側に彼女によく似た少女がいたのを思い出した。孫堅の亡骸を担ぎ、混乱に陥った軍を見事立て直していた。元より孫堅の精兵にまともに当たる心算はなかったが、仮に追撃を掛けたところで粛々と後退する軍に容易くはねのけられただろう。十歳になるかならざるかという幼い少女の姿を思えば、孫策の将器はやはり計り知れない。今にして思えば、この身を貫いた武威は孫堅のものだけでなく、孫策のそれも含まれていたのかもしれない。
 さらに成長したであろうあの少女を相手に、名将を演じ切れるのか。黄祖はこの十年ばかりの間にすっかり癖となった長嘆息を漏らした。

「……よし、耐えるぞ」

 これから大戦に臨むにしては些か覇気に欠ける言葉を呟き、黄祖は気合を入れ直した。
 翌日になって、地平の先に孫策軍が姿を現した。それは見る間に視界一杯へと広がっていく。軍船での移動だけあって騎兵は数えるほどだが、進軍は軽快だった。
 数は報告に合った通り三万で間違いない。大型船三十隻での進軍というから、一隻当たりに一千もの兵を積んだことになる。孫策軍は水軍の調練にも相当な力を入れているらしいが、今回は船はあくまで移動手段で水戦を仕掛ける気は無いのだろう。
 荊州牧の劉表は反董卓連合に参加しているが、その際黄祖は留守を任されている。黄巾賊の大集団は目にしたことがあるが、規律の取れたこれほどの大軍を目にするのは初めてのことだった。
 対する黄祖軍は砦内に二千、砦の外に伏兵として三千であった。
 その三千のうちの数百が、にわかに立った。身を伏せていた丘の影が孫策軍の進軍路に重なったため、これ以上隠れ続けることに限界を感じたのだろう。
 果敢にも三万の先陣に一当てして、それから駆け去った。伏兵ゆえに軽装で、調練では駆けに駆けさせているから逃げる脚は速い。
 孫策軍から騎馬隊が飛び出して追う。およそ二千騎といったところで、それが孫策軍の騎馬隊全軍だろう。

「虎の子の騎馬隊をさっそく出してきおったか。―――うん? あれはよもや本当に虎の娘か?」

 騎馬隊の先頭で駆ける者が、眩しく輝いて見えた。目を細めてみたが、背格好までは分からない。

「儂も年じゃな、遠目が効かん。騎馬隊の先頭は、どんな奴だ?」

「ええと、赤い具足の―――いえ、ひらひらと揺れ動くあれは鎧というよりもただの服のようにも見えます。男、―――いや、長身の女。きらきらと光を返すのは長剣でしょうか」

 副官が額に手を当て注視しながら答えた。

「赤の軍装。長身の女。長剣。―――やはり孫策かっ!」

 それだけで断ずることは出来ない。ただ一番に飛び出してくるというのは、聞き集めた孫策の性格とも合致していた。

「これは、期待してしまいますね」

「そう甘くはないじゃろうがな」

 息を呑んで戦場を見守る副官に、黄祖は高鳴る胸の鼓動を気付かれぬように努めてそっけなく返した。
 騎馬隊が、逃げる数百に迫る。後続が討たれ始める。それでも一つにまとまったまま耐えに耐えて、ある地点まで至ったところで、ぱっと散開した。騎馬隊を恐れて、潰走したとしか見えない。

「よしっ!」

 隣りから副官の快哉が聞こえた。黄祖も心中で拳を振り上げた。

「―――っ、やはり甘くはないのう」

「―――止まった、だと。し、しかし何故?」

 数百が散開した直後、騎馬隊が脚を止めていた。

「ふむ。罠まで誘い出すために随分と頑張ってくれたが、二千の騎馬隊に追われたにしては逆に耐え過ぎたか。ただ逃げるだけならもう少し早い段階で散っておろうし、何か目的があると読まれたということかの」

 潰走と見せて兵が駆け抜けたのは、落とし穴に渡した橋の上だった。当然、穴は外からはそれと分からない様に偽造してある。数百の黄祖軍が正確に橋を突っ切ることが出来たのは、何度も繰り返した調練の賜物だった。

「自らが先頭に立って追撃する最中に、そんな些細な事に気付くものでしょうか?」

「結果から見れば、孫策なら気付くということだのう。敵が潰走する様は見慣れてもおろうし。虎の子の勘と積み重ねてきた経験。それゆえに総大将自らのあのような突出も許されるのじゃろう。よほど将兵にも信頼されているのだろうな。無謀と見えるあの姿こそ、伏兵と罠を嗅ぎ分ける優れた嗅覚の表れということじゃな」

 副官に語って見せながら、黄祖は自らを納得させるために理屈付けていく。

「なるほど、そう言われれば分かる気もします。……しかし、惜しかった」

「まあ、あれで終わる相手ではなかろう」

 副官がため息交じりに落胆を口にする。黄祖も同じ気持ちであったが、さも当然という顔をして見せた。





 砦攻めは静かに開始された。まずは、雪蓮のはまりかけた落とし穴の埋め立てである。黙々と兵は作業に勤しんでいた。
 対して、帷幕の中は喧騒に満ちている。

「―――――! ――――――――!! おい、雪蓮っ! 聞いているのか!?」

「もう、わかってるわよ、冥琳。黄祖は伏兵や罠の使い方が上手いから気を付けろって言うんでしょ? もう何度も聞いたわ。だからちゃんと注意して、落とし穴にも気づいて止まったんじゃない」

「そうではなくっ、最初から突出するなと言っている!」

 とはいえ、主に騒いでいるのは冥琳一人であった。再三の注意を無視して今日も軽はずみな突出を冒した雪蓮であるが、注意する側は冥琳だけだった。蓮華が最初に二、三小言を述べた以外は、皆が傍観を決め込んでいる。
 立場的にも性格的にも唯一雪蓮への説教が許されそうな宿将の祭は、面白がって二人のやり取りを見守っているだけだ。もっとも彼女には最初から冥琳も期待してはいない。立場を考えればそれも無理からぬことではあるが、穏や、次代の軍略を担う亞莎の反応には物足りないものがある。

「はいはい、分かったわよ。どうせ今からは攻城戦だし、言われなくても私が前線に立つような戦じゃないもの。おとなしくしているわ」

 雪蓮がふて腐れたように言った。腐りたいのはこちらの方であるが、長年の経験からこれ以上言い募っても意固地になるばかりで逆効果だと知っている。冥琳は苛立ちを飲み込んで、そこで話題を変えることとした。

「……それでは、砦攻めの布陣を発表する」

 幕舎に集めた諸将の注意が一斉に冥琳の口元へ集まる。
 孫策軍では戦の布陣は、冥琳と穏、それに最近では亞莎も加えた軍師の三人で協議し、それを都督―――軍司令官―――の冥琳の口から発表することが慣わしとなっている。以前は諸将も交えての話し合いの場が設けられていたが、個性的な者の多い将軍達の意見を一つ一つ取り上げていてはいくら時間があっても足りず、結局今のようなかたちとなった。すでに決まったこととして発表してしまえば、軍略を口で戦わせて軍師連に勝てるはずもなく、一家言ある諸将も大抵の場合文句も言わずに従ってくれる。

「前線は、―――太史慈、貴殿にお任せする。貴殿が調練してきた兵にとって初陣ということになる。また、叛徒の鎮圧などではない真っ当な戦という意味では、貴殿の孫策軍における初陣でもある。働きに期待する」

「はっ! 太史慈隊一万、砦攻めにあたります」

 太史慈が直立して命令を復唱した。さすがの長身で、そうすると周囲から頭一つ分も抜きん出る。雪蓮との不毛な会話の後だけに、軍人らしい応答が耳に心地良い。
 初め五千の予定を募兵の結果八千に改めた太史慈軍は、さらに志願の兵を加えて一万まで増やしていた。扱い易い軍人の下に兵を多く集めたいという冥琳の意向が働いたものだが、他の者からもほとんど反発は出ていない。加入直後こそ雪蓮に対する騙し討ちに嫌悪感を露わとする者も多くいたが、武官達は実直な性格と確かな力量を知ると太史慈を認めた。一方で小蓮の傅役としてあの移り気なお姫様にしっかりと手綱を付けたことで、振り回されることが多かった文官達からも好評を得ている。

「蓮華様には、太史慈隊の後詰をお願いいたします。背後に主筋たる蓮華様を背負えば、初陣の兵達は一層奮起しましょう」

「……わかったわ」

 些か不服気ながらも、蓮華が頷いた。母の仇を相手に、出来れば自分に先陣をと考えていたのだろう。

「甘寧隊と周泰隊は、遊軍として周囲の警戒を」

「はっ。―――敢死、解煩の両軍は動かしますか?」

「そうね。砦内に十人ほど送り込めるか?」

「やらせます」

「……お披露目にはまだ早い。ここぞという時に攻城の後押しをするだけで、あまり派手に動かす必要はないわ。残りの者は遊軍の一部として使いなさい」

「わかりました」

 敢死軍―――死へ向かう軍―――と、解煩軍―――心を捨てた軍―――は思春と明命が育て上げた特殊部隊である。使いようによっては相当な力を発揮する軍だが、それだけに大きな戦までその存在は秘匿しておきたかった。
 黄祖の首を狙え。一瞬そうも言い掛けたが、黄祖は真っ当な戦で討たねばならない相手だった。

「改めて申し付ける。甘寧隊と周泰隊は周囲の警戒に当たれ。先刻も見た通り、かなりの数の伏兵と罠を配していると考えて間違いない。両隊がこの戦の要と心得よ」

「はっ」

「はいっ!」

 思春が静かに闘志を漲らせ、明命が元気良く返事をした。

「我らを相手に籠城戦で粘りを見せつけた太史慈を攻城に、少々入れ込み過ぎな権殿を後詰において圧力とし、自らも奇襲や伏兵を得意とする思春と明命をそちらへの対応に当てたか。相変わらず良い采配だのう」

 祭が首肯を重ねながら言った。気負いを指摘された蓮華が眉を顰めたが、気にせず祭は続ける。

「それで、儂の担当はどこじゃ? 堅殿のことは、儂にとっても大きな借りだからのう。黄祖が相手となれば、やはり気持ちが逸りおるわ。これでは権殿のことは言えんな、はっはっはっ」

 意気込み過ぎの蓮華を戒めつつ角を立てないよう落ちも付けると、祭はからからと笑った。つられて蓮華も口元を緩めている。
基本的には面倒見が良く、細かな心配りも出来る人だった。孫堅時代からの付き合いの冥琳にとっては、尊敬する戦場の先輩であり、時に甘えたくなるような母性を感じさせる相手だった。でありながら、雪蓮の暴走を面白がって後押ししたり、冥琳と雪蓮の言い争いの観戦を決め込んだりもするのだった。

「はい、祭殿は雪蓮と共に本陣にてどっしりと構えていてください」

 そんな祭へ感謝と敬意を込めて冥琳は告げた。

「おいおい、笑えぬ冗談じゃな。あの程度の砦、儂の弓なら軽々城壁を乗り越え、中の兵を射止めるぞ」

「冗談ではありません。この戦は孫堅様の敵討ちではなく、孫呉の地―――揚州を再び手にした我らが、初めて外征する雄飛の戦なのです。私も含め、古い将は本陣にて悠然と構え、後は若い将器に戦を託しましょう。御自慢の弓は、今回は弦をお外しください。私も、全軍の指揮を穏に、その補佐を亞莎に委ねます」

「……そういうことなら、お主の布陣を飲むか。古い将という言い方は心外じゃがな」

 じっと瞳を見つめながら冥琳が言うと、祭は根負けした様子で肩をすくめた。視界の端には飄々としている穏と、慌てふためいている亞莎の姿が映る。
 改めて言うまでもなく、古い将とは冥琳、雪蓮、そして祭の、孫堅を失った黄祖との戦に参加した三名である。
 そこからは役割を変えて穏と亞莎から布陣についていくつかの指示が出され、軍議は解散となった。

「亞莎。私が言えたことではないけれど、落ち着いて、視野を広くね。補佐として穏の目が届かないところをしっかりと見て、よく支えてあげてちょうだい」

「はっ、はい、蓮華様!」

「小蓮に良い報告が出来るように、お互い頑張りましょうね、太史慈」

「はっ、孫権様」

 蓮華は最後には随分と落ち着いた様子で、肩に力が入り過ぎの亞莎に落ち着いた声を掛け、先陣を取った太史慈にも激励を与えて幕舎を出ていった。他の将もぞろぞろとそれに続く。
 今回揚州の留守は、小蓮に任せていた。文官達の他、凌統、徐盛、朱然などの新たに将として取り立てた者達を左右の補佐に残しているが、小蓮向きの仕事とは言えず不安もある。当然本人には不満もあるだろう。文官肌の蓮華に戦場を、動き回るのが大好きな小蓮に留守をと、両名に対する軽い試練という気持ちも冥琳にはあった。

「妹達の成長を見るのが楽しみでもあり、すこし寂しくもあるわね」

 ちょうど同じことを考えていたのか、雪蓮が言った。幕舎の中には、すでに役を追われた三名が残るのみだ。

「はっはっはっ、儂など昔おむつを替えてやった小娘に、偉そうに命令されておるぞ」

「小娘とは私のことですか、祭殿?」

「さて、どうじゃったかな? 儂も古い将じゃから、とんと物忘れが酷くなった」

「あははっ、祭ったら」

「ふふっ」

 ひとしきり笑いあった後、雪蓮が真面目な顔を作った。

「ところで冥琳。この砦、本当に攻めても良いの?」

「―――っ」

 雪蓮が珍しく軍略に適ったことを言う。
 本来なら、砦は無視し長江を遡上して夏口の城郭を攻めるべきだった。
 荊州軍が孫呉の進軍を阻むには、荊州水軍東部最大の拠点である夏口で決戦を挑むか、そこに至る以前の長江沿いに砦を築くかである。これ見よがしに州境に立てられた砦は、そのどちらの手段にも沿わない。一応夏口攻めの背後に位置する形だが、籠もる兵力は数千という報告があり、適切に対処すれば脅威にはなり得ない。むしろ挟撃を狙って砦から出撃したなら、その時こそ攻め時なのだ。
 しかし出陣前の軍議では冥琳自身も含め、誰もそれに言及する者はなかった。冥琳と同じ軍師の穏や亞莎がそこに行きつかないはずはないが、打倒黄祖へ向ける蓮華の意気込みに圧倒されたのか、口を閉ざしたままだった。
黄祖は己の首一つを餌にして、不毛の土地へと孫策軍を誘き出したのだ。
 当然冥琳は蓮華の気勢に飲まれたというわけではない。幼少時から雪蓮と共に母虎―――孫堅に戦場を連れ回された冥琳の目から見れば、まだまだ虎児の囀りである。微笑ましくもあり、大器の予感を嬉しく思いもするが、冥琳を圧倒する強さはまだない。冥琳には、それとは別に懸念があったのだ。それ故に軍議では口を閉ざしていた。
 黄祖は伏勢、奇襲を得意とする将である。評判に違わず早速の奇襲で、雪蓮を陥穽へと落とし入れ掛けた。雪蓮だからはまった罠でもあるが、雪蓮だからこそあわやというところで免れ得た罠でもある。他にも、たっぷりと罠と伏兵を用意してあるのだろう。しかしそれは練りに練った戦術ではあるが、あの孫堅を討ち取った将の戦としてはどこか平凡だった。
 孫堅の最期を思えば、砦を放棄して自ら陰に伏し闇に紛れて動き回る時にこそ、黄祖はその力を如何なく発揮するのではないのか。そう思えば、自ら砦に籠もってくれている現状は有り難くもある。多少の犠牲を出してでも黄祖の姿が見えるこの機に討ち取ってしまいたいというのが、冥琳の偽らざる本心であった。
 孫堅は、蓮華の分別に小蓮の活発、さらには雪蓮の激しさをも併せ持つような稀有な人格と才能の持ち主であったが、戦場での姿はやはり雪蓮に良く似ていた。雪蓮にかつての孫堅の姿を重ね合わせれば、否応なく嫌な予感が浮かぶ。黄祖を後方に捨て置いて進軍しようなどと考えられるはずもないのだった。

「らしくもなく不安に駆られておるのじゃろう? のう、冥琳よ?」

「―――それは」

「隠すことはない。古い将などといって儂らを戦場から遠ざけたのも、昔の敗戦が想起されるからじゃろうが」

「ぐっ。…………はい、祭殿の言う通りです。軍師として都督として恥ずべきことだと思ってはおりますが」

「何を言うか、戦場ではそうした勘に従うのも大事なことじゃ。堅殿や策殿を見ろ。戦勘一つで名将じゃ」

「ちょっと祭? それじゃまるで私が何も考えずに軍を動かしているみたいじゃないの?」

「おや、これは失礼した。何か考えておられましたか?」

「もうっ、失礼しちゃうわね。―――くすっ、うふふっ」

「しかし恐怖に震える冥琳というのは、実に久しぶりに見た。昔、いじめっ子にからかわれて泣いていたお主を思い出すぞ」

「ほう、祭殿は本当に物忘れが酷くなっておいでだ。私がいじめられて泣いたとすれば、そのいじめっ子というのは祭殿以外にありえません。特訓と称して、何度無茶を強いられたことか」

「おや、そうじゃったか?」

「そうです。孫堅様が雪蓮にするのと同じように扱うのですから。あれは化け物じみたあの親子だから許されることであって、普通の子供に同じことをすれば死んでもおかしくない、というより普通は死にます」

「ちょっと、誰が化け物よー。化け物は母様だけでしょう? 私は可愛らしい女の子だったじゃない」

「まあ、どんな猛獣も赤子のうちは可愛いものだからな」

「もうっ」

 雪蓮が頬を膨らまし、冥琳の頬は緩んだ。不安はいつの間にかかき消えていた。




[7800] 第7章 第7話 華琳と桃香 その三 喧嘩
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/03/22 07:58
「鳳統先生、さようなら~!!」

 大きく手を振って駆け去っていく子供たちに、雛里も手を振り返す。口元は自然と綻んで笑みを作った。
 曹操軍本拠―――許県に建てられた学校の一つで、雛里は教鞭を振るっていた。
 曹操軍の領内全域に布かれた学校という制度は、初め聞いた時には如何にも無理があると雛里には思えた。
九歳からの三年間、領内の子供達全員に無償で学問を教えるというものである。施行したばかりの現在は十二歳までの子供も対象としていて、加えて申請があれば大人に対しても間口を開放していた。仕事を持つ大人が来やすいように夜間の講義も試験的に行われていて、それなりの参加者を集めてもいる。他の土地にはない民の意識の高さを感じずにはいれない話だ。同時に、夜間に大人が子供を残して家を空けられるというのは、徹底した治安維持の成果も思わせる。
 現在行われている三年は初等教育で、成績優秀な者の中で希望者はさらに高度な教育機関への進学、そしてその後は官吏への道も開かれる計画である。つまり農民の子でも努力と能力次第で政に参画することが制度として可能となったのだ。
 どれだけの進学希望者が生まれ、官吏として優秀な者が育ってくるのか。巨額を注ぎ込んで強硬に実施された制度だけに、文官達の注目はそこに集まっていた。
 そんな大人達の思惑とは無関係に、子供達は年の近しい友人大勢が集まる学校を素直に楽しんでいる。戦乱の中にあって子供達の笑顔というのは、何ものにも代えがたい宝石のように雛里の目には映った。
 漢王朝中興の祖である光武帝も、乱を治めた後に全国に学び舎を築いた。それは最低限の読み書きを教えるだけのもので、学問とまでは言い難い。それでも民の識字率を大きく高め、今日まで偉業と称えられ続けている。
 華琳が学校で民に教えようとしているのは、さらに一歩踏み込んだ本当の学問である。読み書き算術と言う手段の伝播はもちろんのこと、自ら考える力を育むことに重点を置いた指導が推奨されている。それは本来為政者が最も嫌うことの一つだが、華琳に一切の躊躇いは見られない。
 学校の運営が軌道に乗りかけた今、華琳は次に図書館というものの設立を計画しているらしい。誰でも自由に書物を閲覧可能な施設で、ゆくゆくは貸出も認めるという。現在でも宮中の書庫は官吏であれば書物を借り受けることが可能だが、それをもっと大規模に数万、数十万の民を相手に施行する施設である。一大事業だった。
 光武帝のおかげもあって、前代では考えられないほどにこの時代の識字率は高い。特に官人や商工業に従事する者の多い主要城邑ともなれば、字を読めない人間の方が少ないぐらいだった。そのため城内に書物の販売店はそう珍しいものではない。一方で郊外に出て農民が増えるほどに、読み書きの必要性は減り識字率は下がる。彼らにとって日々の生活は苦しいもので、仮に文字が読めたところで書物に回すような金はないだろう。
 華琳の学校は、そんな貧しい農民の子にも平等だった。図書館は学校制度を補う重要な施設となるだろう。

「それでは、お先に失礼します」

 まだ職員室に残っているすっかり顔馴染みの教師陣に一礼すると、雛里は上機嫌のまま学び舎を出た。その足で宮中にある華琳の執務室へと向かう。
 その日どういう講義をして、子供達の反応はどうだったのか。そんなことを華琳は知りたがった。報告書が義務付けられているし、朱里や雛里の担当した授業に関しては直接話も聞く。自らの関わる全てを把握し目を配ろうというのが華琳の美点でもあり欠点でもあった。
 桃香などは正にその対極で、任せるとなったら全てを部下に丸投げして顧みない大度を持っている。軍師としては仕えやすいことこの上ない主だった。

「―――もうっ、華琳さんの分からず屋っ!」

 華琳の執務室の前まで来ると、室内から大きな声が響いた。思わず足を止めた雛里の目の前に、桃香が飛び出してくる。

「華琳さんの馬鹿っ! ―――じゃないから、えっと、…………が、頑固っ! 意地悪っ!  とっ、とにかく分からず屋っ!」

 桃香は憤懣遣る方無いといった様子で、開け放った戸口から室内へ向かって罵声を浴びせかけると、雛里にちょっとだけ目をくれて足早にその場から立ち去った。普段人に悪口など言い慣れないものだから、語彙は貧困で切れも無い。それだけ桃香が憤りを露わにするのは珍しいことなのだが、実は最近では何度となく目にする光景でもあった。
 曹操軍の政に対して、桃香が反発を示していた。劉備軍の元に寄せられる多数の苦情に単に同調したというのではなく、華琳を相手にしっかりとした自論を展開してはその都度言い負かされている。とりもなおさずそれは、曹操軍の政策を理解する程度に桃香の見識が高められたということで、華琳による授業の賜物である。これまでにも雛里や朱里が桃香に学問を教えたことがあったし、かつては大学者盧植の私塾に通ってもいたはずだが、それらが実になることはほとんどなかったのだ。
 そうした意味で華琳は桃香の学問の師と言えたが、二人の関係というのは他人にはちょっと理解し難いものがあった。師弟関係や庇護者と客将という立場を超えた友人同士のようでもあるし、ときに犬猿の仲のようにも思える。
 もしかすると華琳は、桃香にとって初めて出来た自分と対等に語り合える存在なのかもしれない。桃香は誰とでもすぐに仲良くなれる人間で、他者を強烈に惹きつける何かを持っている。だが、惹きつけられた人間というのは、すでにして桃香とは対等ではないのだ。愛紗と鈴々は桃香と初めて出会った時、その命を救ったという。桃香の命の恩人に当たるはずの二人が、そのまま義姉妹の妹となり、配下に納まっているのがその良い例だろう。
 華琳にも似たようなところはあって、曹家一門の当主の家柄とはいえ、当然のように一族の年長者からも忠誠を誓われている。分家ながらも一家をなしている曹洪や、夏侯氏の双子の姉妹等は元々華琳と並び立ってもおかしくはない存在なのだ。それが一も二も無く華琳に忠義を尽くしている。

「―――雛里、講義の報告かしら? 用があるなら、早く入りなさい」

「はっ、はひっ!」

 桃香が駆け去った廊下の向こうへ漠とした視線を送りながら、そんな物思いにふける雛里に声が掛かった。開け放たれたままの戸口から、雛里は慌てて室内へ飛び込む。

「そ、その、また、けっ、喧嘩ですか?」

「ふんっ、いつものことよ」

 肩をすくめて言うが、やはり良い気持ちはしないのか、華琳の口調からは機嫌の悪さがにじみ出ている。

「あの子ったら、また夢みたいなこと言っちゃって」

「はあ」

 華琳の言に雛里は曖昧に返した。
 全て民に等しく教育を授け、政治に参画する権限を与えるという明確な目標を持って邁進する華琳と、全ての民に笑顔を、という曖昧模糊とした志を掲げる桃香。両者を引き比べれば、如何にも前者は現実主義者、後者は夢見がちな理想家と目に映る。
 だが、実際にはどうであろうか。前漢の文景の冶(文帝、景帝の治世)、食べ切れぬ糧食が倉には満ち、時に腐敗するほどであったという。民は豊穣の中で幸せを享受していた。善政を布き、飢えや暴力の恐怖から解放することが出来れば、あとはほんのささやかな幸せで民は微笑むだろう。
 対して華琳の目指す改革は、本来百年、二百年、あるいは千年、二千年の時を掛けて初めて実現し得るものではないのか。己一代を持って改革を成就させようという華琳は、桃香よりもはるかに夢想家と言えるのではないのか。
 華琳が桃香を夢想家、自身を現実家と断じるのは、己が目指す目標を必ず実現させるという強固な自負があってのことだろう。気弱で自信不足に陥りがちな雛里には、華琳のその強さは眩しく見えた。大器と見定めた主君桃香と等しいほどに。

「気を遣わせてしまったわね。まあ、向こうからそのうち謝って来るでしょう。しばらく放って置くわ」

「はあ」

 そんな華琳の言葉に、雛里はやはり曖昧に返すしかなかった。
 柔和な性格や普段の言動に反して桃香にはひどく頑固な部分もあって、特に華琳と対した時にはその顔が出易い。すでに何度目になるかも分からない二人の喧嘩であるが、雛里の知る限りいつも先に折れるのは華琳の方なのだった。





 捨て台詞を吐いて別れた三日後、華琳から遠乗りの誘いがあった。
 多少言い過ぎたという罪悪感と、自分からは絶対に謝ってやるものかという感情がぶつかり合って、終始無言のまま桃香は華琳の隣りで的盧を走らせた。
 的盧は華琳から譲られた馬である。華琳が絶影と名付けた名馬を手に入れて以来、しばしば遠乗りに誘われることがあった。当然いつも引き離される桃香を見かねた華琳から、絶影に遅れず付いてこられる馬を厩舎から好きに選んでいいと言われたのだ。
 的盧は絶影や曹仁の白鵠と比べると、体全体がずんぐりとした印象の馬である。背もいくらか低く、その代わりに脚が腿だけでなく蹄の先までがっしりと太い。格好良いというよりも愛嬌のある姿をしていて、桃香は一目でこの馬を気に入ったのだった。
 的盧という名は、額に白い模様を持つ馬を意味する言葉で、その通りの模様がこの馬にはある。不幸を呼ぶ模様と言われている。それで、生まれてすぐに処分されてしまうこともあるらしい。厩舎の奥でひっそりと生き長らえてきたこの馬を、桃香はあえて的盧と名付け可愛がることに決めた。
 華琳が絶影を思い切り疾駆させた。城外に広がる田園風景を突っ切って、開けた草原に出る。
 起伏の少ない平地で疾駆されると、的盧は絶影にはいくらか遅れる。その分、長駆や勾配には強い。馬術がそれほど得意でもない自分には良く合っていると、桃香は思っていた。
 華琳が、小高い丘に馬首を向けた。この辺りは調練にも使われる場所で、丘は兵の手で作られた人工の地形だった。複雑な地形下での動きを学ぶためのもので、同時に土を掘り、それを盛って丘を作ること自体も新兵の身体作りの一環となる。
 丘の頂上で、華琳が絶影を止め、馬首を巡らした。そのときにはちょうど桃香と的盧も追いついていた。

「今年は麦の実りが良さそうね」

 華琳が駆け抜けてきたばかりの田園を見つめながら言った。
 麦秋が近い。河北では麦作、江南では米作が中心になるが、ここ中原ではその両方の栽培が行われている。特に今年からは麦秋―――初夏に入るや慌ただしく麦を収穫して、すぐに米を植え付けようという農家が多い。曹仁から伝わった二毛作という天の国の農法で、曹操軍領内では奨励されていた。租税は米と麦どちらで治めても良く、税率は土地ごとに定められていて作付けを二度行っても増えはしない。農民の中でも要領の良い者はすぐにそれに飛び付いた。余分に作られた米や麦は、適正な価格で軍が買い取り兵糧にするか、不足地域へと流された。軍が相手であるから、商人に騙され泣きを見る民もいない。領内の米と麦の流通を制御出来るから、曹操軍にとっても利は大きい。商業は推奨するが、買い溜めや出し渋りのような商いを華琳は認めていない。
 働けば働いただけ儲けが出る。商人にとっては当然のことだが、これまで農民にその感覚は薄かっただろう。仮に多く作っても、何かしら理由を付けて国に持っていかれるだけだという諦観があった。曹操軍領内では税率は一定で臨時徴税も行われない―――呂布軍との過酷な戦争が繰り広げられた間もそれは一貫された―――から、民は安心して働けるようだ。

「…………」

「……はぁ。先日は少し言い過ぎたわ」

「うん、私も」

 何も言い返さずにいると、ため息交じりに華琳が折れた。桃香もそれにかこつけて、ようやく口を開けた。
 行き過ぎの非は認めても、互いに謝罪の言葉は続けない。華琳も自分も、どちらも自分が間違っているとは思っていないからだ。ただせっかく二人で遊びに出ているのに、いつまでも息の詰まるような時間を過ごしたくはなかった。華琳と一緒にいる時間は、仲間といる時のほっこりと安心できる感覚とも、曹仁といる時のふわふわと浮ついた感覚ともまるで違っていて、それでも大切にしたい心地の良い時だった。

「流流、水を。―――貴方も飲む?」

「うん、もらおうかな」

「流流―――」

 心得たもので、華琳が命令し直すまでもなく典韋が水の杯を二つ差し出した。二人で過ごす時間とは言っても、当然虎士の護衛は付いて来ている。特に隊長の許褚と副隊長の典韋は必ず声の届く距離に控えている。普段何もない時には鈴々や蘭々と自由に遊び回っているように見えて、突発的としか思えないような華琳の外出にも自然と寄り添っているのだから見事なものだった。
 華琳が宮殿を出る際には、総勢五十名の虎士のうち二十名が護衛に付く取り決めだった。二十名という数は中原を領する華琳の立場を思えばむしろ少な過ぎると言うべきかもしれない。いずれにせよ普段愛紗や鈴々一人を連れて、あるいはそれすら連れずに一人きりで街中を闊歩することもある桃香からすれば、十分に物々しい一行である。
 とはいえ、虎士の面々はこちらから声を掛けない限りは視界の端にわずかに映り込む様な絶妙な距離感を保っている。初めのうちは遊びの度に振り回すようで申し訳ない気がしたし、仰々しさに息苦しくも感じたものだが、見事な立ち居振る舞いに今ではすっかり気にならなくなっていた。二人での外出の際には、桃香の護衛として鈴々や愛紗が加わることもある。今日も虎士の中に混じって鈴々の姿があった。この時ばかりは鈴々も虎士の隊長許褚の指示に渋々ながら従っていた。普段は喧嘩友達のような二人であるが、近衛としての許褚の力量は鈴々も認めざるを得ないのだろう。

「そういえば、洛陽に残してきた月から文が届いたわ。陛下が、貴方に会いたがっているそうよ」

「陛下が?」

「ずいぶんと懐かれたものね」

「えへへっ、可愛い子だよね。―――っ、あっ、愛らしい御方だよねっ!」

「あら、叔母さんなんて呼ばれているのだから、そんなに堅苦しくなることはないのじゃない?」

「ううっ、その呼び方はやめて」

「あら、どうして? 名誉なことじゃない、劉皇叔」

 華琳が意地悪な笑みを浮かべて言う。

「うううっ、どうせならお姉ちゃんって呼んで欲しかった」

 実際、数度拝謁しただけではあるが、他人とは思えないようなところが帝にはあった。曹仁や華琳からは容姿にもどこか似たところがあると言われる。自分でも信じていなかった中山靖王の裔という家系は、もしかすると真実なのかもしれない。そんな理由もあって、僭越ではあるものの妹分として帝を愛おしく思う気持ちが桃香にはあった。

「ふふっ。そうね、その無駄に付けた脂肪を取ったら、そう呼んでくれるんじゃない?」

「ううっ、そっ、それじゃあ、―――華琳さん、少し貰いますか?」

「何か言ったかしら?」

「いえ、何でもー」

 自分から振っておきながら、華琳がこめかみに青筋を立てた。

「ふんっ、こんな無駄なものっ」

「きゃっ! もうー」

 華琳が桃香の胸を軽く叩いた。痛いというほど強くはないし、いやらしい―――華琳がそういう趣味の持ち主でもあることは桃香も当然知っている―――触り方でもない。友人同士のちょっとした悪戯という感じで、桃香も頬を膨らませて軽く抗議を示した。

「まあ、しばらく朝廷も賑やかだったから、陛下も急に人が減って寂しがっているだけでしょう。それとも、会いに行ってあげる?」

「ううん、陛下には悪いけど。洛陽の街は酷い有様だったけど、それでも住んでいる人はみんな活気に満ちていたし、私達が居ても出来ることはなさそうだから。陛下には月さんも付いてくれているし」

 曹操軍の張繍こと月が、かつての董卓であることは先日華琳の口から説明を受けた。劉備軍も一度は反董卓連合の一員として敵対した関係にあるが、特に個人的な遺恨があるわけではない。むしろ恨まれるとしたら一方的に罪を糾弾し攻め立てた連合軍の側だろう。他言無用と言った華琳の言葉を反故する理由はなかった。
 帝との関係も世に言われていたような険悪なものではなく、死んだはずの彼女と再会した帝はいたく喜んだという。数か月の滞在の後に華琳らが洛陽を去った今も、朝廷と曹操軍の折衝役として宮中に残っていた。それに伴い洛陽に駐留する兵の指揮を執るのが彼女の幼馴染の賈駆と、徐晃と名を変えた華雄である。かつての董卓軍の首脳が洛陽に集結している状態だった。それだけ聞くと不安になるような布陣であるが、華琳が送りだし、帝も月の滞在を歓迎しているという。余計な心配などする必要もなく、適材適所ということなのだろう。

「そう。―――もう少し駆けましょうか」

「うん」

 その後は一時、民のことも帝のことも政のことも忘れて、遠乗りを楽しんだ。
 絶影の後を追う的盧は活き活きとした躍動感に満ち、今を楽しむのに余計なものを容易く置き去りにしてくれる。典韋お手製のお菓子を行儀悪く馬上でつまみ、興の乗った華琳は詩なども詠って見せた。華琳自ら試作したものらしい。英雄を謳った詩で、桃香には詩の良し悪しなど解らないが、きっと良いものなのだろう。
 目を瞑って耳をすますと、目蓋の裏に浮かび上がるのは華琳の立ち姿だ。自らを英雄と称える詩だろうか。華琳らしい不遜さだが、華琳ならばそれが過剰の自信とも思えない。

「―――?」

 いや、もう一人の姿が立ち昇ってくる。英雄は一人ではなく、並び立つ二人の英雄を謳った詩だ。新たに立った英雄の姿は影に覆われて判然としないが、確かに華琳にも負けず立ち続けている。

「――――――。―――――。…………ふうっ」

 吟じ終え、華琳が息を吐く。桃香はゆっくりと目を開けた。

「……もう一人は誰ですか?」

「あら、何を詠っているか気付いたの?」

「袁紹さんですか? それとも孫策さん? いや、ひょっとしたら曹仁さんのことかな?」

「ふふっ、さあ、誰かしらね。―――そろそろ戻りましょうか、だいぶ暗くなってきたわ」

 華琳に聞いても、意外そうな顔と、照れ臭そうな笑みが返ってきただけだった。



「―――劉備さまっ」

 帰り道、田園に囲まれた道をゆっくりと馬を進めると、左右から幾度も声を掛けられた。その都度、桃香は馬を止めて手を振り返した。

「貴方は本当に民に慕われているわね。私の領内だというのに、貴方ばかりで私に声を掛ける者が一人もいない」

「それは宮殿に篭ってばかりだからだよ。誰も華琳さんの顔を知らないんだもん、声を掛けてこないのも当たり前」

「……それだけが理由ではないと思うけれど」

 華琳が含みのある口調で言った。薄明りの中で、その表情までは読み取れない。
 いつの間にか日はすっかり落ちてしまっている。完全な闇とならないのは、月明かりにも増して許の城内から漏れ出る光のためだ。戦時中以外は夜間も城門が閉ざされることはなく、城内の喧騒もまだまだ止みそうにない。
 酒屋や飲食店は今こそ稼ぎ時と客引きの声を上げ、城郭周辺に田園を持つ者はそんな街明りをも利用して農作業に励んでいた。他領よりも重い税を納め、さらには利まで上げようと皆必死だった。

「―――劉備様っ」

 また、声が掛かった。桃香は手を振り返す

「でもこの辺りの人は、やっぱり皆元気だね。呼び掛けてくれる声にも、明るさがある」

「またその話?」

 今日一日触れずにいた話題に踏み込んでしまったことに、桃香は口にしてから気付いた。
 ここ許県周辺の民は、利に聡く要領の良い者が多い。華琳の政策下で、巧みに利益まで上げようと盛んに動き回っていた。が、主要都市を離れ農村部に行けば行くほど、ただ重い税に伸し掛かられる民の姿があった。
 権力者のためだけに政がなされるなら、馬鹿げた奢侈に溺れない限りは、元より大した税は必要とされない。人口の大勢を占める民の生産が、ごく一部の階級を養うという構造になるからだ。
 華琳の求める重い租税は、あくまで民のためにあった。学校などの政策を通して、政の生み出すものを領内全てに行き渡らせようとする分、民の負担もまた大きくなるのだ。
 事の是非は置くとして、現実にいま多くの民を苦しめているのは華琳の布いた租税のためだった。苛政は虎よりも猛しとは、華琳の授業で教えられた言葉だ。華琳の政は悪政ではない。以前の漢王朝のような腐敗からも遠く、公明正大でもある。しかし、苛政ではないだろうか。
 華琳は性急に過ぎる。押し進める諸々の改革は桃香の思い及ばないものばかりで、それ自体に否やはない。ただ、もう少しだけ緩やかには出来ないのか。今の変革は激流のようなもので、民は押し流されないよう必死だった。

「前にも言った通り、土地が痩せているというのなら税率は考慮しましょう。だけど、民が怠慢であることは免税の理由とはならないわ」

 華琳が常にない厳しい口調で言った。はからずも楽しい時間を壊した桃香の一言に苛立っている。いつもの舌戦を受けて立つという大らかさがなかった。

「怠慢? そんな言い方って」

 自分がどれだけ言葉を尽くしたところで、華琳が政を変えることはない。そこで二毛作や商業の流れに乗れない者達のために、桃香がせめてもの救済策として提案したのが一部地域での税率の引き下げだった。桃香の妥協案であり折衷案でもあるそれも、華琳はきっぱりと拒絶していた。

「違うというの? 同じ税を納めながら、さらには利をも上げようという者達が居るわ。私は勤勉な彼らをこそ称えましょう」

「ほとんどの民は、これまで培ってきた生活をそう簡単に変えることなんて出来ないよ。簡単に、未知の一歩を踏み出すことは出来ない。それは怠慢じゃなく、誰もが持っている弱さだよ。華琳さんの今のやり方は強きを助け、弱い者を切り捨てかねない。力無い人達を守り、笑顔で暮らせる世の中を作る、それが政の役目じゃないっ」

「民に笑顔を与える? 力無き民を守る? ずいぶん傲慢な考えね。彼らだって笑いたければ好きに笑うでしょうし、自分の身ぐらいは自分で守るわ。貴方が思っているほど、民は弱くはない。学校制度の廃止を叫ぶその同じ口で、そこで学んだばかりの故事を引き合いに政の不平を並べ立てるのも民よ。ありもしない弱さを盾に新しきを避け、古きに逃げる。これを怠慢と私は呼ぶわっ」

「華琳さんは良い御家に生まれて、頭も良くって、皆から尊敬されて、曹仁さん―――天の御使いまで手にしてるっ。生まれつき何でも持っていて、何でも出来ちゃう華琳さんには、民の本当の苦しみはわからないっ!」

「そうねっ、筵売りで頭の緩い貴方には、私には分からない民の苦しみとやらが見えるのでしょうよっ!」

「―――お二方とも、落ち着いてください」

「―――っ」

 売り言葉に買い言葉で、気が付けば絶叫するように罵り合っていた。おずおずと割って入った典韋と、同じく恐る恐るこちらを窺う許褚と鈴々の姿に、ゆっくりと興奮が覚めていく。

「……桃香、何と言われようと私は自分のやり方を変えるつもりはないわ」

 同じく華琳も落ち着きを取り戻した静かな口調で言った。

「私も華琳さんに政を変えろとは言わないよ。ただもう少しゆっくり歩いて欲しいだけ。足の遅い人たちにも、もっと目を向けてほしい」

「立ち止まっている余裕はないわ。私は、私の代、それも数年のうちに天下を作り直す。生まれ変わった世界で、私は自身の真価を問いたいのよ」

「それは、華琳さんのわがままです」

「ええ、私の我儘よ。同じように、民の笑顔。それは貴方の夢で、私のものではないわ。そしてここは私の天下で、貴方のものではない」

「―――っ」

 いつもの教え諭すような論説ではなく、自身の我儘を認めた暴論だった。そんな言葉の何かが、桃香の胸を刺した。
 二の句が継げず、そのまま言葉を交わすことなく城門をくぐり、宮殿へ着いてしまった。

「……曹仁さん、愛紗ちゃん」

「桃香、それに華琳もか」

 厩舎の前で、曹仁と愛紗を見かけた。
 特に珍しい組み合わせというわけではない。二人とも長めの棒を持っているからには、武術の稽古をしていたのだろう。特に洛陽から戻ってからは、頻繁に曹仁が愛紗に教えを乞うている。なるべく兵の目を避けているようで、前庭や中庭など様々なところで二人の姿を見かけるが、今日は厩舎前でやり合ったらしい。

「関羽、弟がいつも世話になっているわね」

「いいえ、とんでもない。こちらこそ良い稽古になっています」

「そう? ―――仁、今日の戦績は?」

「なんと三勝したんだ」

「七敗したのね」

「ぐっ」

 武術の稽古と言っても二人の得手は槍と偃月刀と異なるため、一方がもう一方に技を伝授するというようなものではない。十戦を目安に実戦形式の試合をするというのが常だった。

「まあ、いつもは一勝出来るかどうかなのだから、誉めてあげましょう。―――よくやったわねー、仁」

「そんなこと言われて喜べるかっ。―――頭撫でようとするなっ!」

「ふふっ」

 曹仁が身を仰け反らせながら、頭上に差し伸べられた華琳の手を払い除けた。
 こうしたやり取りは姉弟ならではだろう。うっすらと羨望の眼差しを向けていると、隣で愛紗も似たような表情で二人を見つめていた。

「とっ、桃香様は遠乗りですか?」

 桃香の視線に気付いた愛紗が、言い繕う様に尋ねてきた。

「うん」

「護衛は―――、ああ、鈴々が付いているのですね」

 後方に許褚、典韋と共に侍る鈴々の姿を認めて、愛紗が一つ頷いた。
 宮中に入ったことですでに二十名は解散していて、今は三人を残すのみだった。三人も緊張を解いた様子で雑談―――許褚と鈴々が言い争い、典韋が間に挟まれるいつも通りの―――している。
 二十名の姿が消えていることにも、三人が警戒を解除していることにも、桃香は愛紗に言われるまで気付かなかった。陰に徹した警護などおよそ鈴々には似つかわしくない任務である。しかし年も近く喧嘩友達の許褚がその隊長としてこの上なく見事に振る舞うことで、対抗心から鈴々も任務に徹していた。義妹をただの部下として扱うようで桃香には多少気が引けるものがあるが、良い勉強になってはいるのだろう。
 愛紗もこうして曹仁と武術の鍛錬を日課とするだけでなく、軍の調練にも手を貸すことがあるようだ。星は普段何をしているのか桃香にも把握しきれないところがあるが、曹操軍の郭嘉と程昱とは旧知の仲ということで、よく三人で談笑している姿を見かける。朱里と雛里は学校で教鞭を取ることに楽しみを見出しているようだ。何でもそれなり以上に出来て人の良い白蓮は、軍の調練から文官の仕事の手伝いまで、色々なことに駆り出されている。
 居候を始めてすでに一年が経過している。皆が皆、曹操軍に馴染み始めていた。黄巾賊討伐の義勇軍として立って以来、これほど長い間一つ所に留まったのは初めての事なのだ。将だけでなく当然兵も、行く当てのない流浪の生活からの安定した日々に安らぎを覚えているだろう。

「―――桃香様? どうかなさいましたか?」

「お姉ちゃん、何をぼうっとしてるのだ?」

 気が付くと、愛紗が心配そうな表情で顔を覗き込んできていた。いつの間にか鈴々も側に寄って来ている。
 それなりの時間、物思いにふけってしまったようだ。華琳もすでに曹仁との会話を切り上げて、微妙な顔つきでこちらの様子を窺っている。

「う、ううん、何でもない。私がぼうっとしてるのは、いつもの事でしょっ」

「むっ」

「それもそうなのだっ」

 努めて軽く言うと、愛紗が口を噤み、鈴々が元気に同意した。苦笑する曹仁の隣で華琳が顔を背ける。笑っているのかもしれない。わずかに肩がふるえていた。



[7800] 第7章 第8話 華琳と桃香 その四 旅立ち
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/04/18 06:09
「白蓮ちゃん以外はみんな揃ったかな」

 桃香が室内を見渡して言った。許県の宮中にある桃香の居室は、曹操からの執拗な贈答品の数々がない分だけ、朱里や他の皆の部屋よりも質素に見えた。
 白蓮は今日も曹操軍の調練に参加しているはずだった。特にここ数日は、来たる袁紹軍との戦に備えて曹操軍では大規模な演習が行われている。許県から五十里ほど北上した平原では、今も大軍が展開中のはずだ。
 白蓮と彼女率いる白馬義従は烏桓の弓騎兵対策のための相手役である。白蓮はここ数ヶ月の間、連日曹操軍の騎馬隊と行動を共にしていた。曹仁や張遼とはよく用兵について話し合う姿も目にする。傍から見る分にはもうすっかり曹操軍の部将の一人であった。

「あのね、皆―――」

 白蓮を除く劉備軍の主だった面々が集っていることを確認すると、桃香が真剣な表情で切り出した。

「―――ここを出ようと思うの」

 桃香の発言自体には、特に驚きはなかった。曹操軍の武将と兵力の大部分が演習のために許を離れているこの時、桃香に思い詰めた表情で集合を命じられれば自ずと察することはある。出奔―――曹操軍には黙ってこの地を去るということだろう。
 一寸の土地も領していないとはいえ、桃香は曹操と並ぶ大将だった。一時寄り添うことはあっても、共に歩む事はない。ただ来るべき時が来たというのが朱里の感想だった。
 愛紗と星は当然と言う顔で頷いているし、鈴々は待ちくたびれたというように笑っている。雛里は―――表情を強張らせている。
 朱里はそんな雛里との間にわずかな隔たりを覚えた。再開される流浪の日々に、朱里の心中にも気後れが全く無いとは言い切れない。だがそれ以上に桃香を大将と仰いで再び劉備軍を差配出来る喜びが勝った。
 曹操軍を内側から変えていく。そういう道はないのか。雛里とはしばしばそうした話し合いをした。隔たりは、そうして意見を交わす時にも感じたものだった。雛里の論説が、劉備軍の旗を降ろし曹操軍の傘下に加わるという、その危うさに触れる前にいつも議論は切り上げてきた。
 曹操は、他人の言で易々と何かを変える人間とは思えない。相手に理があればそれを認める寛容を備えてはいるが、大きなところでは決して折れないだろう。それでも、自らの魂をそのままぶつけるような言葉を持ち、曹操にとって特別な一人でもある桃香ならば、退けられることなく対等に口喧嘩を出来る桃香ならばと、確かに期待を持てなくはないのだ。
 それだけではなく、桃香の理想とはまた違うとはいえ、曹操の治世も悪いものではないと雛里は感じ始めているようだった。白蓮を除けば、最も曹操軍に親しんでいるのが雛里だろう。曹操とも兵法談義で意気投合し、劉備軍の中では桃香以外で唯一真名を許し合っていた。

「みんなは、残ってくれてもいい」

 雛里だけでなく全員が戸惑いを覚えたのは、出奔を告白した次に桃香の発したその言葉だった。

「私の仲間は、みんなすごいから。朱里ちゃん、雛里ちゃんはこのままここに残れば、荀彧さんと同格の最上位の文官として扱われると思う。愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、星ちゃんもそう。すぐに曹仁さんや夏侯惇さんなんかと肩を並べる将軍として、大軍を任されるようになる」

「何を仰せになるのです、桃香様! 我らが個人の栄達など望むとお思いですか!?」

 愛紗が柳眉を逆立てて叫ぶと、星と朱里も口々に不満を漏らした。

「愛紗の申す通りです、桃香様。栄達を望むなら、最初から貴女に仕えてはおりません」

「そうです。私達は桃香様の志を実現するために、知勇を振るってきたのです。桃香様の下以外でいくら偉くなっても、そこに何の意味もありませんっ」

「みんな、志という言葉の持つ甘美な響きに、流されてはいない? それは、私の中にある欲望の、綺麗なところを切り出しただけの言葉かもしれない」

「そ―――」

「―――聞いてっ!」

 言い返そうとした愛紗が、桃香の強い言葉に息を飲んだ。朱里は元より星も口を開けずにいる。
 目を閉じ、胸に手を当てると、一つ一つの言葉を噛み締める様に桃香は口にする。

「私の中に、確かに全てを賭けても為さねばならないと決めた思いがある。でもそれはどんなに言葉を飾ろうと、結局は私個人の欲求に過ぎないんだ。それを志と呼ぶのか、野心と呼ぶのか。華琳さんは飾らずに、自分のわがままと言った」

 桃香がゆっくりと目を開く。

「ずっと一緒に歩いてきたけれど、それぞれに答えがあってもいいと思うの。一度、劉備軍という軛を外そう。ただの劉玄徳と関雲長、張翼徳、趙子龍、諸葛孔明、―――龐士元に戻ろう」

 雛里の名を呼ぶ時にだけ、一瞬の溜めが入った。他の者以上に揺さ振られている心の内を見透かしたのかもしれない。

「私は三日後の夜、出立する。それだけみんなに伝えておくよ。あとは、一人一人で考えて」

 それきり桃香は黙り込んだ。
 突っぱねるような言い様は、今は質問も抗議も受け付けないということだろう。それぞれに考えて、答えを見つけろというのだろう。
 誰からともなく桃香の部屋を辞し、結局誰も口を利かないままその日は解散となった。





 居室から宮門へと至る道を、一人、歩いた。
 三日はあっという間に過ぎ去った。しっかりと別れをすませたのは、白蓮だけである。
 曹操軍の食客の劉備軍の中にあって、白蓮はさらに客将のような扱いだった。曹操軍との交わりは他の者以上に深めていて、調練や政務の一端を任されることも増えていた。皆に解散を告げた時も大規模演習に参加していて、帰還はいつになるか分からなかった。それで、皆に話したのと同様の内容を書簡で伝えた。
 昨夜遅く、演習から急ぎ戻って桃香の居室を訪れた白蓮から、曹操軍に残ることを告げられた。寄る辺も無い暮らしに疲れたという。白蓮なら武将としてでも文官としてでも、曹操軍で重用されることだろう。桃香は、白蓮の前途を祈って別れの言葉とした。白蓮はその足で五十里あまりも離れた演習地へと取って返した。さすがの白馬長史は、一夜のうちに百里の長駆も苦にしない。
 兵には何も告げていない。桃香が再び劉旗を立てた時、集まってくれるなら有り難く受け入れるし、この地に残って曹操軍に加わっても良い。将軍達と同じく兵も桃香の自慢の精兵揃いで、戦を控えた曹操軍から拒絶されることはないだろう。直接伝えることは出来なかったが、桃香は兵の一人一人にも自分と共に流浪の道を行くか、曹操軍で安定した生活を得るかの決断を委ねていた。

「…………ひとり、か」

 覚えず漏らした言葉は、受ける者もなく暗い夜道に吸い込まれていく。普段宮中で起居している将軍達も調練で出払っているから、周囲はいやに静かだった。華琳と曹仁も演習に参加して不在のはずだ。

「――――」

 的盧が、自らを主張するように鼻を鳴らした。
 悩んだ末に、的盧は連れて行くことにした。華琳からの贈り物だが、それで部下になるよう強要されたわけではない。ただの友人同士で贈られたものなのだ。敵に回るとはいえ、華琳との友情までを否定したくはない。だから気兼ねする必要も無いし、するべきでもなかった。
 月明かりに的盧の馬影がうっすらと伸びる。その横に並ぶ人影は、やはり桃香一人きりのものだった。
 傍らに、愛紗がいない。出奔を告げた後も、不自然なくらいにずっと桃香のそばをまとわりついて離れなかった鈴々の姿も、今朝から見られなかった。寄り添うように立つ朱里と雛里の影もなければ、凛とした星の姿もない。
 華琳の治世を理屈で否定することは出来ない。だから皆にも、それぞれに考えて決めてもらう。桃香が自分で決めたことだった。
 義妹の愛紗と鈴々。二人と同じくらい大好きな星と朱里、雛里。五人が曹操軍に残って、それで栄達するなら、それはそれで嬉しいことだ。喜ばしいことだ。そう思っても、進む足取りは重かった。しばしば手綱を引く的盧に追い抜かれて、気遣わしげに顔を覗かれる、を繰り返した。
 華琳に与えられた居室から城外へ向かう道の、最後の角を曲がった。後は前庭を横切り、宮門をくぐるだけだ―――

「―――あんまり遅いから、待ちくたびれたのだ、お姉ちゃん」

 鈴々が大きな葛籠を椅子代わりに、蛇矛を肩に預け、退屈そうに足をぶらつかせていた。

「鈴々ちゃんっ!」

 声が震えた。月光に照らされた蛇矛の長い影が、桃香の足元まで伸びている。

「志という言葉を劉玄徳の野心と言い換えてもいい。それでも私は桃香様の―――姉上の信じた道を、共に歩みたいのです」

「愛紗ちゃんっ」

 いつの間にか背後に、寄り添うくらいの近さに、愛紗はいた。

「―――みんなも、それでいいの?」

 愛紗の肩越しに、星が、朱里が、雛里が、歩み寄ってくるのが見える。

「野暮なことをお聞きになりますな、桃香様。常山の昇り龍は、桃香様の風雲の志と共にあって初めて天を望めるのです」

「そうです。桃香様がいなくては、伏竜はずーーっと伏したままで、いつまで経っても飛び立てません」

 異名に龍を持つ二人が、笑いながら言った。

「雛里ちゃんも、私に、ついてきてくれる?」

「―――はいっ」

 伏竜の影にさらに隠れた鳳の雛も、一瞬の逡巡の後、力強く頷いてくれた。

「……みんな、ありがとう」

 野心で良いと言ってくれた愛紗に、皆に、桃香は思いの丈すべてをぶつける。

「―――ずっと考えていたんだ。どうすればみんなが笑って暮らせる、民のための国が出来るのかって。華琳さんにいろんなことを教わったけど、やっぱり難しいことはよく分からない。でも、民のことを一番に考えてあげられる人が立たなきゃいけないって、それだけは分かる。だけど、華琳さんの一番はきっと自分なんだ。袁紹さんもそう」

 桃香はそこで一端口を止めた。
 これから言おうとすることは、これまでただ闇雲に流れてきた年月との決別である。初めての明確な決意表明であり、今後の劉備軍のあり方を大きく変えかねないものだ。
 恐怖があった。口を開けば、せっかく再び集まってくれたみんなは、自分に失望して離れていってしまうかもしれない。それでも桃香は志―――野心を、剥き出しにした。

「だから、私が天下を治める。私の一番は、華琳さんの二番目三番目にもかなわないかもしれない。私の思いも結局はただのわがままで、自分の思いを一番に優先してるだけかもしれない。―――それでも、私が」

「―――……くくっ」

「はははっ」

 星と愛紗が顔を見合わせて笑った。鈴々は何かに驚いたような顔でこちらを見つめ、朱里と雛里は困ったような表情を浮かべていた。
 桃香を責め立てる者は誰も無かった。ただ不思議なものを見るような視線が注がれている。

「えっ、えっ? な、何かおかしなこと言ったかな、私?」

「くくっ、―――ふはっ、はははっ」

 一番に笑声を放った星に視線を向けると、堪えきれないという様子でさらに笑い転げる。

「い、いえ、何を今さら、と思いまして、―――くふふっ」

 笑いのおさまらない星に代わって、愛紗が口を開いた。

「民のためには桃香様が天下を治めるべきだ。―――それは劉備軍であれば、一兵までが心に刻み込んでいることでしょう」

「なにを今さらなのだ」

「くふっ」

 最後に鈴々が引き取ると、さらに星が口元を歪ませる。つられて朱里と雛里も、小さな笑みを浮かべた。





「それにしても、後ろに付いて来てたなら、もっと早く姿を見せてくれたら良かったのに」

「ふふっ、桃香様が今さら我らの覚悟を試されるような、無粋なことをするものですから。つい、いじめたくなりましてな」

「もうっ、星ちゃんったら」

「今回の件に関しては、星の言う通りです」

「愛紗ちゃんまで~っ」

「―――来たか」

 賑やかな声が近付いてくる。いささか拍子抜けする思いで、曹仁は宮殿の城壁に預けていた背中を起こすと、門扉の影からおもむろに立ち上がった。
 騒がしい人影が、ぴたりと立ち止まる。

「……やっぱり出ていくんだな、桃香」

「はい」

 白蓮を除き、全員の姿がある。白蓮はもう、流浪を望まなかったのだろう。それは予想していたことだった。

「華琳のやり方が不満なのか?」

「はい」

 気圧されるぐらいに迷いの無い表情で桃香が言った。

「華琳さんはきっと、私なんかが思いも付かないような未来を見据えていて、そしてそれを現実のものとしてしまうだけの力のある人だと思う。自惚れるわけじゃ無いけど、私達が力を貸せば、その未来はより早く実現するとも思う」

 華琳が導き、桃香が遅れる者に手を差し伸べる。
 いわゆる飴と鞭で、この一年間桃香の存在は華琳の政治に対する不満を実によく紛らわせてくれていた。二人の関係は誂えたようにうまく機能していたのだ。しかしその結果、桃香は民の不満の声を一身に聞き届けることとなった。それが全ての契機だろう。

「ここに来る前の私だったら、華琳さんの示す未来にただ感心して、何も考えずに力を貸せたかもしれない。でも華琳さんは、本当にたくさんのことを私に教えてくれたから。華琳さんの政は、華琳さん自身が私に教えてくれた民を安んずる理想の政治とは、どうあっても重ならない」

 華琳の政の根底に、天下を味わい尽くそうという彼女の我儘がある限り、桃香とは決して分かり合えないのかもしれない。それでも曹仁は、そんな華琳の己を押し通す我の強さに惹かれた。

「華琳さんは、今を犠牲にして、自分の理想の未来を作ろうとしている。その未来は素晴らしいのかもしれないけれど、だけど私は、今日苦しんでいる人たちがいたら、今日助けに行きたいんだ。自分の望む未来のために苦しめだなんて、絶対に言いたくない」

「その結果、より多くの血が流れることになるかもしれない」

「うん、きっとそうなる。わかってるんだ、これはいけないことだって。力の無い私が望んではいけないことだって。だから、これは私のわがまま。わがままを突き通そうと、私はしている。曹仁さんが、それを止めようとするのは正しいことだよ」

 これまで、石にでもなったように不動の構えでいた愛紗が、桃香を庇うように一歩進み出た。顔には苦渋が色濃く浮かんでいるが、手にした青龍偃月刀から感じる威圧は本物だった。
 ただ、そんな愛紗の武威以上に、桃香の真剣なまなざしが曹仁の心に深く突き刺さってくる。

「ははっ、まさか。美髪公関雲長に、燕人張飛、常山の昇り龍趙子龍。この三人を止めるつもりなら、門番も払って一人で待ったりはしないさ。千軍を引き連れてくる。だいたい、白鵠も連れていなければ、槍も持ってきてはいないしな」

 曹仁は無手を強調するように、肩をすくめてみせた。
 愛紗が、ほっとした表情で青龍偃月刀を降ろす。同時に、愛紗とはまた別の方向からちりちりと首筋を焦がしていた圧も消えた。いつの間にか曹仁の死角に回り込んでいた星が、視界の中に姿を見せる。
 鈴々だけは、初めから変わらず警戒心の無い笑顔を浮かべている。曹仁に信頼を寄せてくれているのか、持ち前の野生じみた勘で敵意の無さを察したのか、はたまた単にのん気なだけなのかは判然としない。

「一騎当千の三人を相手に、あたら我が軍の兵士を失うわけにはいかない。―――これを」

 曹仁は、話の早そうな軍師組二人に書簡を突き出した。二人はちょっと顔を見合わせた後、代表して朱里がおずおずとそれを受け取った。

「はわっ、これは通行許可証!? それも、曹操さん直筆のっ?」

「あわわっ。ど、どうしよう、朱里ちゃん! 華琳さんにもばれちゃってるよ!?」

「おっ、落ち着いて雛里ちゃん! これは許可証だから、つまりは、えっと」

 時に文官達の書類仕事を手伝ったり、華琳の趣味の書き物に付き合わされていただけあって、朱里と雛里は一瞥しただけで内容だけでなくその書き手が誰かまで理解したようだった。
 二人の会話を引き取る様に曹仁は言った。

「行って良いってさ。俺は虎を野に放つような真似はやめるように進言したんだがな」

 今、演習で許を空にすれば、桃香達はきっと曹操軍を去る。元々華琳の立てた予想である。そうして他の将には知らせずに、曹仁だけに見送りを命じたのだった。朱里と雛里のどちらか―――特に雛里は自分に付くかもしれない、とはその時の華琳の言葉だが、そちらは当てが外れたようだ。
 許可証に、あまり書類上の意味は無い。劉備軍は元々曹操軍の領内を自由に行き来することを認められていた。華琳があえて捕縛を命じない限り、各地の守兵は桃香達の通行を妨げはしない。だからこれは、華琳から桃香へのちょっとした別れの挨拶のようなものだ。
 桃香達は居候であり客将であって、家臣でも捕虜でもない。客人が家を去るといって、阻む理由もない。そう言い放った華琳は、幾らか意地になっていたように曹仁には思われた。友一人靡かせることが出来なくて、何が天下。華琳は桃香に対してだけは、他の群雄に対する時とは全く別の次元で戦おうとしている。
 何としても引き止めたいというのが、曹仁の本音だった。華琳の天下取りの大きな障害となる、などという理屈はさて置き、単純に曹仁は桃香達と戦いたくはなかった。出奔すると簡単に言うが、つまりそれは華琳と敵対するということなのだ。華琳は側において靡かぬのなら、あえて一度手放すことで桃香の志を完膚なきまでに叩き潰そうとしている。戦は避けようがない。呂布軍との戦の時のような思いをするのは、もう御免だった。恋の様に傷を負うことも、それではすまないこともあり得るのだ。
 華琳の命令など無視して、軍を動員して捕えてしまいたいとは今も思う。桃香の志を曹仁自らの手で打ち砕くことになる。桃香自身は命よりも志の方が大切だと感じているかもしれない。だが曹仁にとっては、桃香の志よりも桃香の命の方が遥かに大切だった。あえて言えば、大切な人たち一人も欠けぬままに華琳の覇道を遂げる、というのが曹仁の志なのだ。

「そっか、さすが華琳さん。―――でも、そういうことなら遠慮する必要無いかな?」

 思案顔で呟くと、桃香は真っ直ぐな瞳を再び曹仁へ向けた。

「曹仁さん、私達と一緒に行きませんか?」

「―――っ、ははっ。ただ出ていくだけじゃなく、俺まで引き抜くつもりか。なるほど、言った通り我儘だ」

 虚を突かれ、次に笑みがこぼれた。あははと、桃香も微笑む。

「みんなが来てくれたから。だから私は、自分のわがままを貫き通しても良いって、そう思うことに決めたんだ」

―――また変わった。

 曹仁を救うために張闓を斬った後、桃香は一つ大きくなった。そして今もう一つ、何か吹っ切れたような強さを手にしていた。最後のひと押しを加えたのは、華琳か。

「えへへっ。どうかな、曹仁さん?」

 それでも桃香の表情はどこにでもいる普通の少女のものだった。普通の少女が、尋常ならざる強い志を秘めている。それも関張趙の武や、伏竜鳳雛の知に頼ってのものでは決してなく、自分ひとりの意志としてだ。
 愛紗に聞かされたことがあった。桃香と初めて出会った日、どうしてその力をもっと世の中みんなのために使わないのかと、叱られたのだという。そして桃香自身は、自分の力量など慮ることなく、容易く民のために命を張ったのだ。
 華琳には天才に裏打ちされた強烈な自負がある。曹仁とて、槍術と馬術、騎馬隊の指揮官としての力量、そういったものが積み重なって今の自分があった。それがあって初めて、志を追い求めることが出来るし、その実現を信じることも出来る。
 桃香にはそれが何もないのだ。武を誇るでもなく、知を輝かすでもない。あえて言えば、中山靖王劉勝の後裔、漢室に連なる血筋がそれに当たるのかもしれないが、自らそれを誇るでもない。そして今まさに漢室の力及ばぬ乱世の荒野へと自ら足を踏み出そうとして躊躇いがない。
 当たり前の少女が、ただただ志だけを立て続けている。この乱世に非力な少女のことである。力及ばず打ちひしがれることもあったろう。そんな時の方が、ずっと多かったかもしれない。それでも折れない。真実驚嘆すべきことだった。特別な才など何も持たないこの少女は、それゆえにあまりに非凡であった。桃香はどこまでも純粋な志そのものだ。そんな彼女に魅かれないと言えば、それは嘘になる。

「―――申し訳ないが」

 曹仁は、小さく首を振った。

「かつては侠客として鳴らした貴殿のあり方は、曹操軍よりもむしろ我らに合っていると私には思えるが。曹操殿は、貴殿を引き抜こうという桃香様の我儘など可愛く見えるぐらいに、天下を欲しいが儘に変えようとしておられる」

 星が口を挟んだ。

「そうかもしれない。だけど、俺が見たいのは華琳の、曹孟徳の志の行きつく先だ。我儘も含めて華琳の覇道なら、その我儘ごと支えるさ」

「我儘ごと支える。……ふふっ、惚れておりますな」

「ああ。俺は華琳の天下のために生きようと心に決めている」

 一片の迷いもなく返す曹仁に、星は頭を振って苦笑交じりに言った。

「私が言っているのは、主君としてどうかという話ではないのだがな。女兄弟に囲まれて育っただけあって、貴殿はその辺りの機微に敏いものと思っておりましたが。あるいは、あえて気付かぬふりをしておられるのか?」

「気付かぬふり? 何の話だ?」

「ううむ、それは……」

 珍しく言葉を濁す星に代わって、桃香が口を開いた。

「曹仁さん、星ちゃんが言っているのはね、男の子と女の子の話だよ。曹仁さんは一人の男の子として、華琳さんという一人の女の子のことが好きだってこと。私は、ちょっと悔しいけど」

 今度は曹仁が言葉を失う番だった。何を言われているのか理解するのに数瞬を要した。

「……俺が、華琳に惚れている?」

 口に出してみると、突飛なまでの違和感を覚えた。

「いや、そんなはずはないだろう。確かに仰ぐべき主として敬愛はしているが。……いや、しかし。…………それは」

 胸の内で己を問い質しても、答えは出て来ない。華琳との様々な思い出が、脳裏に過ぎるばかりだ。

「―――曹仁さんっ」

「―――っと、そろそろ出立しないと、道中で夜が明けてしまうか」

 考え込んでいた顔を上げると、こちらを覗き見る桃香と目が合った。気を取り直して、曹仁は桃香に向き合った。

「桃香さんに華琳から伝言だ。次は、共に中原に鹿を追おうと」

「―――っ! はい、わかりました。曹仁さん、華琳さんに伝えて。私は、―――私は負けないって!」

 中原に鹿を追う。天下を求めて相争おうという華琳の言葉に、桃香は拳を握って意気込みを見せた。こんな気取った言い回しに即座に反応するのは、やはり華琳との勉強会の賜物だろうか。

「それと、他の皆にも伝言。愛紗さん、鈴々、星さん、朱里、雛里へ、―――桃香のところが嫌になったら、いつでも好条件で召し抱えてあげるから覚えておきなさいって」

「もうっ、やっぱり華琳さんもわがままっ!」

 桃香が頬を膨らませた。
 そうして、和やかな笑顔のうちに別れの一時が終わる。
 誰からともなく―――いや、やはり最初の一歩は桃香だ―――、宮殿の外へと足を向ける。別れを告げれば、それは永の別れを意味してしまいそうだし、再会を期すれば、次に出会うのは戦場だ。目語だけを交わして、別れた。
 小さくなる桃香達の背を見送りながら、曹仁は再び小さく呟いてみた。

「俺が華琳に惚れているだと」

 口に出した言葉の違和感は、先ほどよりも幾分薄まっていた。



[7800] 幕間 曹仁と華琳
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/06/03 06:16
「先生、これ」

「なんだ?」

「読んで下さい」

 少女は張燕の胸元に紙切れを押し付けると、きゃーきゃーと黄色い声を上げて友人達の輪の中へと駆け戻っていった。

「廊下は走らないように。危ないぞ」

 少女達は声を揃えて、はーいと返すと、それでもやはり小走りで去って行く。入れ違いに、曹仁が学舎の廊下を張燕の方へと歩みよってきた。

「見ていたぞ、飛燕。相変わらず女生徒に人気だな」

 張燕は小さく鼻を鳴らすと、教官室へ向けて踵を返した。
 調練の合間をぬって、張燕は学校で教官をさせられていた。文官達だけでは手が足りず読み書きが達者な武官にも役目が回ってくるのは常であるが、この一ヶ月ほどは特にそれが多い。客人でありながら多くの講義を受け持ってくれていた諸葛亮と龐統が、劉備と共に出奔したためだ。
 張燕が諸葛亮と鳳統と言葉を交わす機会はほとんどなかったが、何度か講義を覗かせてもらった事はあった。二人の講義は生徒達から絶大な人気を得ていて、何か参考になることがあるかもしれないと思ったためだ。他の武官たちがおざなりな講義をする中、自分でも意外な事に張燕は学校で教鞭を取ることに熱を入れていた。
 我ながら指導の腕も悪くないと思っている。文官は言うに及ばず、武官達も物心付く頃には書物に触れて育った名門出の者達が多い。学校に通う生徒達のようにまったくの一から学門を始める人間には、同じく庶民の出の張燕の教え方の方がずっと分かりやすいようだった。

「それで何通目だ」

 駆け足で横に並んだ曹仁が、張燕の顔を覗き込むようにして言った。
 曹仁も同じく軍務の傍ら算術の講義を担当していた。評判も上々のようである。天の国で習い覚えたという様々な計算法は斬新かつ効果的で、現役の文官の中にも教えを乞いに来る者があるほどだという。

「廊下は走らないように、曹仁先生」

「誤魔化すなよ、飛燕」

「そういうお前は何通もらった? 御主君に報告しておこうか?」

「―――っ、なっ、なんでそこで華琳の名前が出るっ」

 張燕が意図した以上の動揺を示した曹仁を残して、教官室へと入った。
 読み書きを覚えたばかりの女生徒が男性教官におままごとの様な恋文を送るのは、流行病のようなものだった。それが案外、少女達が学門に熱中する原動力になったりもするのだから悪い事ではない。天の御遣いなどと呼ばれ曹家一門に名を連ねる曹仁に対しても、物怖じせず文を送る女生徒もいるのだった。
 張燕は返書とともに送られた恋文の添削をして返すことにしていた。それが評判になって、女生徒達は一層面白がって文を送ってくる。

「湘夫人か」

 一から十まで自分で文章を書き連ねるほどの学力は、まだ子供達に備わってはいない。
 恋文は、戦国時代の楚の政治家にして大詩人屈原の作“湘夫人”を改変して作られていた。同じく屈原作の“湘君”と対になる一作で、湘君とは長江支流の一つ湘江に住まう神で、湘夫人はその妻の女神を指す。男神と女神の互いを思う心情を歌った詩である。今から五百年以上も昔の作品であり、難解な上に長編でもある。

「うん、よく勉強している」

 張燕は西日が差し込む教官室で、一語一語丁寧に文章に目を通した。部屋の外からはまだ残った子供たちが騒ぐ声が聞こえてくる。
 曹仁が教官室に入ってきて、張燕の向かいの机に腰を下ろした。まだ何か言いたそうにしているが、先ほどの脅しがよほど聞いたのか、声を掛けては来なかった。

「―――ふっ」

 この笑いだしたくなるほど平和な風景は、自分の人生とも思えなかった。
 学校制度は、曹操軍本拠、ここ許に関して言えば順調過ぎるくらい順調に機能していた。名士連の中には未だに反発を見せる者もいるが、名家中の名家の出の荀彧―――儒学の大家筍子の末裔として知られる―――が曹操に従順な態度を貫くことでそれを抑えつけている。戦を勝ち抜けばいずれ領土に加えることになる河北には、袁紹の声望を慕う名士が集まっている。江南は豪族の力が強い土地柄であるし、荊州には河北以上に特権意識を持った学者達が揃っている。彼らの扱いには多少手を焼くこともあるかもしれないが、力で抑え込んででも曹操なら敢行するだろう。そこに張燕にも手伝えることがあるはずだった。
 全ての民を平等に競わせる、などというのは叶うはずもない夢のようなものだった。義賊を名乗る賊徒が己が手で国の再生を望むのと、同じようなものだ。
 張牛角、そして曹操が抱いたその叶わぬ夢にこそ、自分は引かれたのかもしれない。
 張燕の幼年期は、抗えぬ現実に翻弄されるだけのものだった。不正役人に罪を着せられた両親は抗いようもなく首を飛ばされた。その後の数年は商人に囲われ、流されるままに生きた。その囲いを叩き壊したのが義兄となる張牛角だ。その義兄も、目の前にいるこの男―――曹仁に討たれた。復讐に囚われた。そうとしか言いようのない暗く深い闇に落ちた自分を救い出したのも曹仁で、義兄を失い復讐の念をも打ち砕かれた空っぽの自分に志を説いたのが曹操だ。
 夢が、形を伴って目の前に迫りつつある。その事実に張燕は、どこか慄くような心境だった。叶わぬから夢。叶えばそれは現実である。夢が叶う。そんな夢のような話が現実に起こり得るのか。
 恋文の添削を終えると、張燕は席を立った。書類仕事を片付けていたらしい曹仁が、ぱっと顔を上げると後を付いてきた。

「なんだ?」

「たまにはお前と飲みにでも行こうかと思ってな。すぐそこに良い店を見つけたんだよ」

「断る。お前の隊の副官でも誘えばいいだろう」

「角の奴は学校の周りにはあまり近付こうとしないからなぁ」

「ああ―――」

 曹仁の副官牛金は、侠客仲間の間ではよく知られた男だった。義兄の元で義賊をしていた頃から、何度かその名は耳にしている。
 筋骨たくましい巨漢である。鼻筋に大きく真一文字に刻まれた傷痕と相まって、独特の迫力を備えていた。今は優秀な副官であり、曹仁の上げた軍功のいくつかは牛金の存在なくしては有り得ないだろう。補佐に回っての有能さは見かけに似合わぬ細やかな気配りの賜物であろうが、小さな子供からすればその外見だけでちょっとした恐怖の対象になりかねない。

「それなら、御主君筆頭に一門の者でも誘えば良いだろうに」

「かりっ、―――たまには男同士で飲みたいんだよ」

「ほう」

 曹仁は妙に狼狽えた様子で答えると、張燕を追い抜いてさっさと道を進んでいく。
 放って帰ってしまっても良かったが、それも逃げたようで癪だった。それに、ここ最近抱いていたある疑念が、今日の曹仁の態度で確信に近付いている。少しばかり話をしてみるのも良いかもしれない。
 張燕はそう自分を納得させると、渋々ながら後に続いた。

「酒と肋肉を」

 店内に入ると、曹仁は早々に席に付いて注文していた。二人掛けの卓に、向かい合う形で張燕も腰を下ろした。
 すぐに酒瓶と焼いた豚の肋肉を乗せた大皿が卓上に並んだ。肉はこの店の名物料理らしく、焼き上がる端から運ばれていく。
 曹仁が自分の杯に酒を注ぐと、こちらに瓶の先を向けた。

「お前の杯は受けん」

 張燕はひったくるように曹仁の手から瓶を奪うと、自分の杯に並々と注ぎ足した。

「俺の頼んだ酒だぞ、同じ事だろうに」

「お前の買った酒を飲む分には、お前の腹が傷んで、俺の喉は潤う。こんなに良いことはないな」

 張燕はぐいと一息に酒を飲み干した。すっきりとしたのど越しは、一般に飲まれるようなにごり酒ではなく、上澄みだけを集めた清酒である。

「まったく。次はお前が注文しろよ」

 曹仁もそれにならって杯を開けた。
 二杯目を注ぎ足す前に、張燕は肉に手を伸ばした。周りの客にならって、箸は使わずに飛び出している骨を掴んでそのまま口を付けた。塩といくつかの香辛料をまぶして焼いただけにしか見えないが、肉は驚くほど柔らかく、骨から綺麗に外れて口の中で簡単にほぐれていく。

「中々のものだろう」

「悪くはないな」

 曹仁の言い様が何となく癪に触って、そんな感想になった。

「肉自体は普通のものだから、下処理のやり方が良いんだろうな。一度尋ねてみたが、さすがに教えてはくれなかったよ」

 曹仁が、配膳口から厨房内を覗くようにして言う。正面で肋肉を遠火で焼く様子はうかがえるが、その奥でどのような調理がなされているかまでは見えなかった。
 曹仁が料理をするという話は聞いていた。軍営での糧食にしても様々な工夫を凝らしているらしく、張燕の隊の兵も羨ましがっている。

「お前が名前を明かせば、城内に頼み事を断れる者もそうはいないだろうが」

 曹操軍の本拠地許での話である。将軍であり、曹家の天の御使いとも呼ばれる曹仁の名には絶大な力がある。

「そんな腐った役人のような真似が出来るか」

「不正役人は調理法は聞き出さないだろう」

「だいたい、それではつまらんだろう。断られた以上はこうして通い詰めて、味の秘密を自分の舌と―――目で探るのさ」

「ふっ」

「なんだ?」

「いや、馬鹿げたことに躍起になるものだと思ってな」

 馬鹿にされたと思ったのか、曹仁が眉を顰めた。
 張燕の両親の死は特別なことではなく、腐敗したかつてのこの国ではありふれた日常だった。曹操領内で二番目に偉い―――曹家の天の御使いという肩書きを思えば、少なくとも庶民の目からは軍総大将の夏侯惇や文官筆頭の荀彧よりも高みに映るだろう―――曹仁が、店員の目を気にしながら厨房を盗み見る様は、やはり笑わずにはいられない。

「この味の価値が分からないなら、食わないことだ」

「肉の味は認めるさ」

 曹仁が二本目の肉に手を伸ばす。張燕も、負けじと頬張った。
 向かい合って座りながら、しばし無言で肉をむさぼった。酒にも良く合って、瓶はすぐに空になった。

「酒をもうひとつ」

 再度自分からは注文する気配を見せない曹仁に、張燕は仕方なしに声を上げた。

「それで、御主君と何かあったのか?」

 酒を待ちながら、張燕は先日来の疑念を軽い調子で切り出した。

「―――っ! なっ、何の話だ?」

「最近、あまり宮中に顔を出していないだろう?」

 宮中で曹仁を見る機会が極端に減って、牛金や従者の少女を見かける事が多くなっていた。曹仁に代わって報告に来ているのだろう。曹仁も将軍の一人であるから当然軍議には顔を出しているが、それも散会と共にそそくさと逃げるように去っていく。以前なら一門の者と談笑の一つも交わしているところだ。

「だっ、だからって、華琳は関係ないだろうっ」

 そのあからさまな動揺が答えを示しているようなものだった。
 曹操の名を出してはっきりと指摘されたのは恐らく初めてなのだろう。曹孟徳と曹子孝という二人の人間を、ずっと注視してきた張燕だからこそ気付いたことである。男同士だから、というのもあるのかもしれない。

「まあ、言いたくないなら無理に聞く気もないがな」

 張燕はそれ以上は口にせず、折よく運ばれてきた酒瓶に手を伸ばした。自分の杯に注ぐと、ついでに曹仁の杯にも酒を満たした。
 今日は曹仁が口を滑らせるまで、付き合うつもりになっていた。





「曹仁将軍、御報告には?」

「任せた、陳矯」

 曹仁は眼下の布陣から目を離さずに答えた。視界の片隅で、陳矯がわずかに眉根を寄せる。
 曹仁隊は、かねてからの計画通り歩兵二万の増強を受けていた。騎兵も一万に加え新兵三千騎の調練を任されているが、これは実戦では華琳直属の本隊の兵となるらしい。騎兵一万に歩兵二万というのが正式な曹仁隊である。

「劉備軍のことは、曹仁将軍のせいではありません。あまり気にし過ぎることもないのでは? もちろん対策を講じることは良いことだと思いますが」

 この一ヶ月、宮中との連絡は極力陳矯や角に任せて、曹仁は軍営に残って調練の指揮に専念することがほとんどだった。学校の講義で城内に入っても、宮殿に足を向けることは避けている。

「ああ、わかっている」

「……では、行ってまいります」

 陳矯は、曹仁が桃香達の出奔に責任を感じて参内を控えていると考えているようだった。事実、劉備軍と曹操軍の縁を取り持った者として、曹仁にその責任の一端を認めている者も少なくはない。
 曹仁隊では、袁紹軍との戦に備えた調練と並行して、劉備軍との戦闘を想定した訓練も実施していた。大軍を擁する袁紹軍と少数精鋭の劉備軍とを相手にするのでは、軍の動かし方はまったく異なる。様々な想定が必要だった。
 そんな姿が、周囲からは曹仁自身も劉備軍の出奔に責任を感じ、汚名返上の機会を窺っていると見えるようだ。実際には、出奔は華琳の容認の上であり、むしろ桃香を煽るようですらあったのだ。曹仁の方が、華琳に小言の一つも言いたいくらいの心境であった。
 とはいえ、劉備軍とぶつかる機会が訪れれば、迅速に圧倒するつもりだった。呂布軍との戦のような混戦にもつれ込めば、それだけ命が失われる可能性は高まる。歩兵の増強は有り難かった。包囲し、捕縛することが出来る。調練は、そのためのものである。
 同時に、軍務に逃げ込んでいるという自覚もあるのだった。

「―――待て、陳矯」

 今にも馬を駆けさせようという陳矯を曹仁は呼び止めた。

―――それで逃げ回っているのか。

 数日前、気晴らしに飛燕を酒に誘った。その時、失態を演じた。酔って口を滑らせた曹仁を、嘲るように笑った飛燕の顔が脳裏に浮かぶ。

「如何されましたか?」

「やはり俺が行こう」

「はっ、お任せいたします」

 城へと白鵠の足を向けた曹仁を、陳矯がどこかほっとした様子で見送った。
 軍営から許の城門までは白鵠の脚ならほんの一駆けで、そこからは並足で進んでも半刻(十五分)足らずで宮殿に到着する。
調練の定時報告などお決まりのもので、あとは文官と形式通りのやり取りを二、三繰り返すだけだが、間が悪いことに文官の執務室には荀彧が詰めていた。このところ報告を部下に任せきりであることを、ねちねちと小言を並べて責められた。

「あっ、兄貴」

 荀彧から解放されて白鵠を預けている厩舎への道をそわそわと忙しなく歩いていると、蘭々の声に呼び止められた。
 廊下に面した中庭の東屋で、蘭々が手を振っている。素早く視線を走らせると、他にいるのは季衣と流流だけのようだ。
 ほんの一瞬だけ躊躇してから、曹仁は東屋へ足を向けた。

「よう」

「なんだか宮中で兄貴を見るのは久しぶりな気がするな」

「そ、そうか?」

「そうだよ。姉貴も最近兄貴と満足に話していないって、不機嫌そうにしていたぞ」

「そうか。元気にしてるって伝えておいてくれ」

 他の一門の者とは軍営で会う機会も多いが、諜報部隊の長である幸蘭の立場は文官に近い。調練を担当することもほとんどないため、必然的に顔を合わせることも少なかった。

「やだよ。俺だけ会ったって言ったら、また何て嫌味を言われることか。ここまで来たんだから、姉貴の部屋に顔を出していきなよ」

「ううん、そうだな」

 宮中の居住区の中でも、曹家一門の者の私室は奥まった場所に並んでいる。当然、華琳と幸蘭の部屋は極近い位置にある。

「よろしければ、兄様も一杯いかがですか?」

 思い悩んでいる曹仁に、流流が笑顔を向ける。
 東屋の卓上には、お茶と茶菓子が並べられていた。問い掛けながらも流流は、早くも荷物から新たに茶碗を取り出している。

「うん? ああ、どうしようかな」

 いざ覚悟を決めて宮中へ参内してはみたものの、やはりどうにも居心地が悪い。とても長居をする気分にはなれなかった。飛燕の安い挑発に乗った自分を曹仁は後悔しつつあった。

「さあさあ、兄ちゃん、座って座って」

 逡巡する曹仁の手を取って、季衣が強引に自分と蘭々の間、流流の正面に座らせる。

「……じゃあ、頂こうかな」

 ここ最近は、この三人が揃う場所には大抵もう一人―――鈴々の姿もあった。三人しかいない空間が何となく寂しく感じられて、曹仁はそう答えていた。

「やったあっ」

 季衣が両手を上げて喜びを示す。ちょっとわざとらしいくらいのその仕草は、もしかすると劉備軍出奔のことで曹仁の方が気を使われたのかもしれない。

「では兄様、どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 すかさず目の前に置かれた茶碗に曹仁は手を伸ばした。

「あれ、これは」

「お気付きになりましたか?」

「ああ、麦茶か」

「はい、兄様に伺った方法で作ってみました」

「うん、美味い」

 麦茶は淹れたてのものではなく、あらかじめ作ったものを良く冷まして持ってきたようだ。麦秋も過ぎ、夏も盛りを迎えつつある。日は落ちかけているが、まだじっとしていても汗が湧き出るぐらいに大気には熱が残っていた。冷えた麦茶は有り難かった。
 茶葉はこの世界ではそれなりに高級品であるが、麦茶なら兵糧の麦を炒るだけでも作れる。曹仁の隊では朝の煮炊きの際に大釜で煮出して、兵がいつでも飲めるようにしていた。調練で多量の汗をかいて身体から失われたものを補うには、ただ水を飲むよりも適している。

「ボクも好きー」

 苦みがない分、季衣の味覚には普通の茶よりも合うのだろう。華琳も、あれで案外お子様味覚だから気に入るかもしれない。

「兄貴どうしたんだ? 顔が赤いぞ」

「そっ、そうか? 暑いからな」

 曹仁はわざとらしく手で顔を扇いで見せた。

「もう一杯いかがですか、兄様」

「あ、ああっ、もらおうか」

「ふふっ、お茶菓子もどうぞ」

 一息で飲み干してしまった茶碗に麦茶をもう一度満たしながら、流流が言った。
 大皿に盛られた茶菓子も流流の手作りで、どれも美味しそうだった。月餅や胡麻団子といった定番のものから、曹仁の世界で言うクッキーやパイのようなものもある。牛酪(バター)と小麦粉を使った菓子は曹仁が紹介したものだが、今では流流の方がずっと精通している。元々調理の腕も料理にかける情熱でも敵わないうえ、菓子作りともなるとやはり女の子の領分だった。
 牛酪は、西域に住む一部の部族で食用として使われている。酥(チーズ)ほどではないが、中華にも極稀に交易の品として伝えられることがあった。眼前の菓子に使われている牛酪は西域産のものではなく、流流のお手製である。交易の伝手を使って幸蘭に調べてもらうと、牛酪の作り方はそう難しいものではなかった。

「―――?」

 綺麗に形を整えられた菓子の中に、歪にゆがんだものが集まる区画があった。何となく伸ばした手が、そこに落ち着いた。

「あっ、兄貴、それはっ」

 行儀悪く頬杖を突いていた蘭々が、急に身を乗り出してきた。

「何だ?」

「い、いや、何でもない」

 蘭々は、今度は背もたれに身を押し付けるようにして小さくなった。そうしながら、ちらちらと曹仁の様子を窺っている。
 訝しく思いながらも、曹仁はすでに摘みあげていた茶菓子を口に運んだ。
煮詰めた果実の餡をパイ生地で包んで焼き上げたものである。さくさくとした生地の食感と、甘過ぎず酸味の効いた餡が美味だった。

「うん、美味い。流流はやっぱり大したものだな。俺のうっすらとした記憶から、これだけのものが再現されるとは思わなかった。餡もさっぱりしていて、今みたいに暑い季節にはぴったりだ」

「ふふっ、良かったね、蘭々」

「蘭々?」

 曹仁の賛辞を受け、流流が蘭々へ話を振った。

「ううん、生地を作ったのは流流だから」

「餡も誉めてくれたじゃない」

「う、うん。えへへっ」

 蘭々がはにかむように微笑んだ。

「これ、蘭々が作ったのか?」

「う、うん。流流に教わって。そ、その、ぱい生地? は、流流が作ったのをもらったけど」

 照れ臭そうにうつむいたまま蘭々が小さく首肯した。膝の上で拳を握った手がぷるぷると震え、頬も赤らんでいる。久しく見なかった蘭々の女の子らしい仕草だ。

「へえ、大したもんだ」

 曹仁はもう一つ、蘭々が作ったという菓子に手を伸ばした。菓子は花の形をしている。一見歪に見えるのは、むしろ他のもの以上に形状に凝った結果らしい。
 蘭々が厨房に立つ姿というのはほとんど目にした覚えがない。曹家一門の中では、言うまでもなく華琳が玄人顔負けの料理上手で、その相方として借り出されることも多い幸蘭と秋蘭も上手い。華琳への対抗心から始めた曹仁も一端の腕前になった。あとの二人―――春蘭と蘭々は、包丁を握ったことも数えるほどしかなかったはずだ。多くの使用人を雇い、厨房にも専属の料理人がいるような家に育ったのだから当然と言えば当然の話だった。名家の娘で料理が得意という華琳の方が特殊な例だろう。

「まあ、蘭々は昔から何をやらせても器用だからな。流流も、教えるのも上手そうだし」

 そう言えば、以前は流流は曹家一門の蘭々のことは“蘭々様”と呼んでいた気がする。菓子作りを習ううちに打ち解けたのだろう。
 曹仁の後を付いて回って、気付けば女の子らしい遊びをしているより侠客連中とつるんでいることの方が多くなった妹に、年相応の―――それも曹仁の知る同年代の少女たちの中でも格段に女の子らしい―――友人が出来たようで、兄としてほっと安堵する思いだった。

「しかし、急にどうしたんだ?」

「えっと、それは」

「もう、鈍いなぁ、兄ちゃんは。兄ちゃんが元気ないから、手作りのお菓子でも差し入れにって―――」

「あっ、こらっ、季衣っ!」

 言いよどむ蘭々に代わって答えたのは季衣で、それを制止しようと声を上げたのが流流だった。蘭々は、さらに頬を赤らめてうつむいてしまっている。

「そっか、お前にまで心配を掛けてしまっていたか。すまなかったな」

「ほんとは、もっとちゃんと作れるようになってから、食べてもらうつもりだったんだけど」

「ちゃんと出来てるよ、ありがとう」

「えへへ」

 個人的な問題で、これ以上妹にまで心配を掛けるわけにはいかなかった。これはもう、覚悟を決めるべきなのだろう。

「姉ちゃんには食べてもらったのか?」

「ううん、流流と季衣以外には内緒にしてたから」

「なら、呼んでくるか。蘭々の手作り菓子なんて振る舞われた日には、きっと姉ちゃん嬉しくて卒倒するぞ」

「そんな大袈裟な」

「多分一つは厳重に金庫にでもしまって、一生保管するな」

「それは、……確かにするかも」

「じゃあ、呼んでくるぞ。部屋にいるようなら、ついでに春姉達も」

「―――それなら私が」

「いや、こちらは振る舞われるばかりだし、それぐらいは俺に行かせてくれ」

 腰を浮かせかけた流流を曹仁は手で制し、代わりに立ち上がった。
 華琳と出会うかもしれない。その時はその時だった。
 いや、そもそも華琳も誘うべきだろうか。以前の自分ならどうしていただろう。自分で誘わなくても、春姉辺りが勝手に呼ぶか。いや、まず第一に主君である華琳にこそ声を掛けるべきなのか。
 逡巡しながらも、一方で気が急いた。曹仁は小走りで中庭から廊下に入り、居住区画へ向かう最初の角を曲がる。

「―――あら、久しぶりね」

 間が良いのか悪いのか、早速遭遇した華琳はそんな皮肉を口にした。





「―――っ、御無沙汰しております、華琳様」

「ちょうど良かった。少し話があるわ、付いてらっしゃい」

 言い捨てると、すぐに背中を向けて歩き始めた。すでに覚悟を決めていたのか、特に抗う様子もなく直ぐ後ろを足音が付いてくる。

―――気付かれていない?

 中庭の東屋で談笑する曹仁達を覗き見ていた先刻までの自分の姿を思うと、覚えず華琳の足元は逃げ出す様に速くなった。急に駆け足で向かってきた曹仁に、華琳は身を隠す間もなく偶然と平静を装っていた。

「……失礼します、華琳様」

 華琳が私室へ飛び込むと、曹仁も深々と一礼して室内に足を踏み入れた。
 顔を合わせた瞬間、曹仁の顔にはっきりと動揺が走った。今は主従の礼に逃げ込んでそれを隠そうしている。
 劉備軍の離脱から一月が過ぎている。突然の出奔に憤る者や惜しむ者、曹操軍内には一時浮足立った空気が流れたが、ようやく平時の落ち着きを取り戻しつつある。
 そんな中にあって、事態を事前に知っていたはずの曹仁に不自然な行動が目立った。軍営に引きこもって報告にも副官の牛金や従者の陳矯を送ってくる。軍議でもほとんど発言することがなく、華琳と目が合っても慌てて逸らすか、あるいは思い悩んだ表情で視線を絡ませてくるのだった。華琳が曹仁とまともに会話をしたのは、桃香達の見送りを終えて報告に来た時が最後である。その時も、どこか居心地が悪そうにしていたのを覚えている。
 桃香達の出奔を認めたことで今後劉備軍と敵対関係となったことへの不満を、そうした態度で表明しているつもりなのだろうと、当初華琳は黙殺していた。しかしそれが一月も続くとなると面白くない。最近の調練では劉備軍と対したときの想定戦なども率先して行っているという。当て付けにしても妙に前向きなところもあって、単に華琳への不平不満の表現とも思えないのだった。
 一方で、幸蘭や春蘭、秋蘭に曹仁の様子を聞いても、会う機会こそ減れど特にいつもと変わった様子はないという。蘭々や季衣達も、軍営の私室に押しかけては普段と同じように遊びに付き合わせたりしているらしい。実際、折よく遭遇して観察した先刻の蘭々達とのやり取りの中にも、自然体の曹仁の姿があった。
 全てを総括した結果、やはり曹仁は自分に対してのみ不審な行動をとっていると華琳は結論付けた。

「歩兵部隊の調子はどう?」

 華琳も曹仁と鉢合わせた動揺から抜けきってはいない。曹仁が臣下の仮面を被るなら、華琳もまずは主の立場に拠り、軽い調子でそう切り出した。寝台に腰掛ける華琳に対して、曹仁は叱責を待つ子供のように決まりが悪そうに直立している。

「悪くないです。新兵の調練を任せたら、沙和はすでに熟練の域にありますね。騎馬隊との連係を教え込みさえすれば、あとは私の指揮だけの問題でしょう」

 曹仁はほっとした様子で答えた。

「歩兵の扱いにはまだ慣れない?」

「騎馬隊との動きの違いに、もどかしく感じることばかりです」

 曹仁には、総大将の戦にも馴れてもらわねばならない。
 春蘭は明確な命令を与えてこその将であるし、半ば意図的に姉の影に隠れるようにしてきた秋蘭には武名が足りない。今後、曹仁には戦線の一つも任せることも考えられるのだ。騎馬隊だけでは攻城や籠城の戦は出来ないし、野戦でも勝利を決定付けるには歩兵の存在が不可欠だった。

「黄巾の乱の時には、歩兵も率いていたのでしょう?」

「あの時は愛紗さんや鈴々もいましたから」

「ああ、そういえばそうだったわね」

 二千足らずの軍に、曹仁と副官の牛金、今は虎豹騎隊長の蘭々、そして関羽に張飛、軍師として諸葛亮に雛里。すぐにでも十万を動かせる実に贅沢な布陣だった。指揮に関しては持て余すことはあっても、不足を嘆くことなどなかっただろう。もっとも、その人材の豊かさはさらに趙雲を加えた今の劉備軍にも共通している。

「…………」

 劉備軍の話題が出たからか、曹仁はいくらか神妙な顔つきで押し黙った。

「―――それで、貴方はこの一月近く報告にもろくに顔を出さないで、どういうつもりなのかしら?」

 そこで華琳はようやく本題を口にした。

「ど、どうって、別にどうも……、だから調練とか、その、色々と忙しくて」

 すでに観念していたのか、曹仁はそれ自体は否定せず、しかし言いよどんだ。視線もあからさまに華琳から逸らして虚空を泳がせる。臣下の仮面は簡単に外れてしまっていた。

「何か私に会いたくない理由でもあるのかしら?」

「べっ、別にそんなことは」

「謀叛でも企んでいたり?」

「まさか、そんなはずがありませんっ」

 この時ばかりはきっぱりと曹仁が言いきった。

「―――ではなに? 答えなさい」

 これまでのからかいを含んだ口調から一転、華琳は剣でも突き立てるつもりで問うた。桃香の後を追って出奔する気か、という言葉が喉元まで出掛かっている。その剣は両刃で、触れれば自身をも傷付けるかもしれない。

「だから、その、とっ、桃香が……」

「―――っ、桃香が、なにっ?」

「出ていくときに、変なことを言い残していったものだから」

「変なこと?」

「俺が、……そのっ、か、華琳に惚れているって。男と女の意味で」

 曹仁は顔中を真っ赤に染めながら、絞り出すような声で言った。

「―――ふふっ。はっ、あははははっ、そ、そんなことでっ、くふっ、ふふふっ、わっ、私はてっきり、くふふっ」

 こみ上げてきたものは笑いだった。曹仁が不服そうに唇を尖らせる。

「そんなことって、お前な。これでも真剣に思い悩んだんだ。この世界に来て、姉ちゃんや春姉に武術で負けてもすんなり受け入れられたのに、お前に負けた時だけは悔しくて悔しくてしようがなかったのはどうしてか、とか。素直に軍門に降れなかったのは何故か、とか。もしかしたら俺はずっと前から華琳を、なんてことを」

「へーえ、そんなことを考えていたの」

 にやにや笑いで受けると、曹仁は口を滑らせたという顔でうつむいた。
 華琳は目尻に溜まった涙を指で拭った。桃香との決別以来、こんなに笑ったのは初めてのことだった。

「―――てっきりなんなんだ?」

「?」

「今、笑いながらこぼしていただろう? 私はてっきりって」

「ああ、そのこと。……てっきり、桃香の後を追うつもりなのかと」

「はぁ? そんなわけないだろう」

 今度は曹仁が、呆れ顔で言った。頬にはまだうっすらと赤みが残っているが、言うだけ言ってすっきりしたのか、すっかりいつもの調子に戻りつつある。それが、何となく憎らしい。

―――もしかしたら俺はずっと前から華琳を

 華琳の方は笑いがおさまると、先ほどの曹仁の言葉が否応なしに反芻された。

「まっ、そうよね。貴方、私に惚れているのだものね」

「―――ああ、どうやらそうらしい」

 曹仁は一瞬だけ自問自答するように目を閉じると、迷いを断ち切る様に大きく首肯した。口にした言葉は、華琳の苦し紛れの戯れを肯定していた。

「―――っ。いやにはっきりと認めるじゃない」

「ずいぶんと周囲にあらぬ誤解を振り撒いてしまったみたいだからな。このまま妹にまで心配を掛け続けるくらいなら、きっぱり振られた方がましってもんだ」

「……昔から腹を据えると強いわね、貴方は」

 この一ヶ月間華琳を避け続けていたのが嘘のように、曹仁はあっさりとしたものだった。
 人並み以上に思い悩むわりに、一度そうと決めたら揺るがないというのが曹仁の欠点でもあり長所でもあろう。一月どころか十年以上も忌避し続けてきた天の御使いという肩書きも、一度使うと決めると行動は早かった。今や大きく天の一字を記した天人旗を自ら堂々と掲げている。義勇軍だ董卓軍だと定まらなかった腰も、華琳に臣従を誓ってからは忠臣と言って良い。

「それで、どうなんだ?」

「どっ、どうって?」

「俺はきっぱり振られるのか? まあ、男だから当然か」

「べ、別に、男だったら誰でも振るというわけではないわよ」

「あれっ、そうなのか? てっきり曹嵩様と一緒で、華琳も女にしか興味がないのかと思っていたけど」

「母さんと一緒でって、私がどうやって生まれたと思っているのよ」

「―――ああ」

 曹仁は合点がいったという様に、はたと手を打った。

「そうか、華琳達母娘は男も女も両方いけるのか」

「下世話な言い方しないっ」

「でも、華琳も曹嵩様も男を連れているところなんて見たことないぞ。女の方は取っ替え引っ替えだけど」

「当たり前でしょう。母さんには父様だけだもの。私だってそうよ」

 父は華琳が幼い頃に無くなっているので、曹仁とは会ったことがない。華琳自身もほとんど父の記憶は残っていないが、母とは仲睦まじい夫婦だったことを覚えている。

「つまり男は一人だけってことか?」

「あ、当たり前でしょう」

 そこで会話が途切れた。
 澄んだ表情をしていた曹仁も、可能性の芽が出てきたからか再び緊張に顔を強張らせている。曹仁の俗な物言いにすっかり冷めかけていた華琳の頬も、もう一度熱を帯び始めた。

「…………まっ、まあっ、ほっ、他に候補もいないし」

 先に沈黙に耐えかねたのは華琳の方だった。努めて冷静に、素っ気ないぐらいの口調で言うつもりが、声が上ずる。

「そっ、そうか、華琳も俺のことが好きなのか」

「ほっ、他に候補がいないからと言っているでしょう」

「でも、俺だけは候補入りしてるんだろう? それは、なんというか、その、―――うれしい」

 言葉通り、曹仁は心底嬉しそうに微笑んだ。
 手を伸ばすと、その頬に指先が触れる。華琳はいつの間にか寝台から立ち上がり、寄り添うように曹仁の傍らに立っていた。指先から伝わる熱が、血潮に乗って華琳の胸をさらに高鳴らせる。

「…………仁」

「―――仁ちゃーーん」

「―――兄貴ーーー」

 廊下から、曹仁を呼ぶ声が響いた。

「…………そういえば貴方、お茶会を中座していたわね。―――ああ、そうか、幸蘭を呼びに来たのね?」

「忘れていた。……あれっ、何で知ってるんだ?」

「―――っっ! いっ、良いから、早く行きなさいっ」

「あ、ああ。か、華琳はどうする?」

「私は良いから、早くっ」

「ああっ」

 曹仁が部屋から飛び出して行く。互いに言葉にはしなかったが、二人の関係はひとまず皆には秘密というところだろう。桂花辺りは食って掛かるだろうし、何より肉親に知られるのは面映い。

「――――ふぅ」

 華琳は倒れ込むように寝台に身を預けた。
 こんな顔で、皆の前に出れるはずもない。鏡など見なくても、首筋まで真っ赤に染まり、それがすぐには引きそうもないことが分かる。口元も締まりなく緩みっぱなしだった。
 曹仁も似たようなものだが、せいぜい姉妹に弄られるといいだろう。一ヶ月も悶々と思い悩まされたことを考えれば、軽い復讐というものだった。



[7800] 第8章 第1話 官渡城
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/07/04 05:53
「おーほっほっほっ、今回も私の勝ちでしてよ、華琳さん」

「また満点? さすがに優等生ね、麗羽」

「おーほっほっほっ!」

 わずかな皮肉を込めて返すも、高笑いをあげながら麗羽は上機嫌で席へと戻っていく。
 悔しいという思いがまったく無いわけではない。同時に取るに足らないことと、一笑に付してもいた。
 返還されたばかりの華琳の試験用紙は、最後の一問で減点されていた。原因ははっきりしている。経書を読み解く問題で、出題者の意図と異なる自論を展開したからだ。
 とうの昔に死んだ人間の言葉を諳んじ、その解釈を論じる。さらに学派ごとに異なるそれぞれの解釈をまたぞろ覚え込む。学問のための学問とでも言うべきその行為に、華琳は如何ほどの価値も見出せなかった。
 設問の解説を始めた講師の声を、机に頬杖を突いて華琳は聞き流した。

「―――麗羽、何か用かしら?」

 私塾からの帰り道、当然と言う顔で隣を歩き、遂には屋敷の前まで付いてきた麗羽に華琳は仕方なしに声を掛けた。

「別に貴方に用があるわけではなくってよ。曹仁さんはいるかしら?」

 大長秋にまで昇った養祖父曹騰の築いた富は莫大で、洛陽城内の屋敷は広大である。曹家一門とその縁戚に当たる夏侯氏の若い子弟の中には、屋敷に寄宿して洛陽で遊学する者も多い。華琳と同年代では、曹氏の幸蘭と蘭々、夏侯氏の春蘭、秋蘭、そして最近曹家一門に加わったばかりの曹仁が滞在していた。
 曹仁が眩い光の中から現れたのは、華琳の母曹嵩の太尉就任を祝う宴の席での話である。すぐに母はその場に集まった者の中から幸蘭の父を見繕って、曹仁をその養子とした。数日続いた宴の後、一門の者は生地である沛国譙県や地方の任地へと帰っていったが、曹仁は養父に従うことなくそのまま洛陽へと留まっている。今は一門を取りまとめる曹嵩と養姉の幸蘭が保護者ということになろう。二人の愛情の元、曹仁は何不自由ない生活を送っていた。

「さあ? 貴方もご存じの通り、私も今帰ってきたところなのだから分かるわけがないわ」

「確かにそうですわね。確認して頂けるかしら?」

「……仕方ないわね。入って待っていなさい」

 麗羽には分からないと答えたが、曹仁が屋敷を空けているとは考えにくかった。慣れない世界に戸惑いがあるのか、華琳や春蘭達が無理にも連れ出さない限り、曹仁が外出することはほとんどない。

「華琳お姉さま、お帰りなさい」

 麗羽を玄関を入ってすぐの客間に残すと、華琳は奥へと進んだ。蘭々が寄ってきて行儀良く頭を下げる。
 姉の幸蘭の趣味で、ひらひらと多量の布で装飾された衣服を身にまとい、どこぞの御令嬢といった風情だ。もっとも家柄から言えばそれで間違ってはいない。

「ただいま、蘭々。仁はいるかしら?」

「お兄さま? お兄さまなら、いつも通り書庫でお勉強中ですわ」

「そう。ちょっと呼んできてもらってもいいかしら?」

「はーい」

 蘭々はもう一度恭しく頭を下げると、足早に書庫の方へと向かった。
 ここのところ曹仁は、元いた世界へ帰る方法を求めて読書に耽っていた。幸い屋敷の蔵書はちょっとしたもので、特に史書の類を中心に読み漁っているらしい。天の御使いと似た事案として、いわゆる瑞兆―――竜や麒麟などといった伝説上の生き物の出現や、天から降るという甘露など―――に関して熱心に調べているという。
 そんなものは時の権力者の虚栄心の表れだ。曹仁―――天の御使いの出現を目の当たりにした今も、華琳は端から信じてはいなかった。無駄なことをしていると忠告してやらないのは、それで曹仁の勉強になっているからだ。初めはほとんど読むことが出来なかったこの世界の文字も、今では普通に読みこなしている。存外、頭は悪くないらしい。
 ここ十数日は書庫に入り浸りだが、武術の鍛錬も欠かしてはいないようだ。以前はしきりに春蘭や華琳に試合を挑んで来たものだが、今は一人で槍を振るっていることが多い。書庫で読書か中庭で武術の鍛錬。それが曹仁の日常である。

「呼んだか?」

 のろのろとした足取りで、曹仁が現れた。

「私じゃなくて麗羽がね。客間でお待ちよ」

「ああ、わかった」

 曹仁はちょっと嬉しそうに顔をほころばせた。
 華琳の友人として紹介した麗羽と、曹仁は意外にも気が合ったらしい。最近では麗羽が曹家を訪ねてきては、華琳ではなく曹仁を呼び出すことも多い。普段屋敷にいる人間としか付き合いの無い曹仁が、家の外の人間と関わりを持つのは悪いことではない。春蘭辺りは詰まらなそうにしているが、邪魔はしない様に命じていた。
 何となくどんな話をするのか気になって、客間に向かう曹仁に華琳も付いていった。

「ごらんなさい、曹仁さんっ。華琳さんに打ち勝った私の答案用紙をっ!」

 曹仁が戸口から顔を出すや、麗羽が一枚の紙切れを突き付け言った。

「……貴方はそんなことを言いに、わざわざ家に来たわけ?」

 唖然としている曹仁に代わって、華琳が口を挟んだ。

「あらっ、華琳さんも付いていらしたの? これは本人の前で悪いことをしてしまったかしら? ―――おーほっほっほっ!」

 まったく悪びれる様子もなく麗羽は高笑いを上げた。

「へえ、華琳に勝ったのか。それはすごいな」

「おーほっほっほっ! 別にすごくなんてありませんわ。入塾以来、私、試験では一度も華琳さんに負けてはおりませんのよっ。まあ、名族として当然のことですがっ。おーほっほっほっ!」

「一度も?」

「そのすごくもないことを、わざわざ自慢しに来たのかしら? ずいぶん暇人なのね、麗羽」

 驚いた顔でこちらを見つめる曹仁を無視して吐いた言葉は、我ながら負け惜しみの響きがあった。

「おーほっほっほっ! なんとでもお言いなさい。今日は気分が良いですわっ、何と言っても記念すべき十勝目ですのよっ。無敗の十連勝ですわっ、おーほっほっほっ!」

「わざわざ数えていたの。ふんっ、本当に暇なのね」

 華琳自身は意識していなかった十連敗という現実を突き付けられて、また少し悔しさが滲み出した。麗羽はそんな華琳の様子には気付かぬ様子で、相も変わらず一人高笑いを浮かべている。

「まあいいわ。詰まらない自慢話ならこの子相手に好きなだけすることね」

 言い捨てて華琳は踵を返した。まるで負け犬の遠吠えのようだ。足早に廊下を歩きながら、華琳は自嘲するのだった。

「それでは、お邪魔致しましたわっ、おーほっほっほっ!」

 麗羽はその後二刻(1時間)余りも居座ると、屋敷中に響く高笑いで帰っていった。

「ずいぶん盛り上がったようね?」

 玄関先まで麗羽を見送って戻ってきた曹仁に、華琳は声を掛けた。

「ああ、共通の知人の陰口を叩けるのは、あの人くらいだからな」

 当の本人を目の前に、曹仁が臆面もなく言った。





 袁紹軍が、再び領内各地から冀州へと兵力を集結させていた。対して曹操軍は白馬、延津、そして官渡の三つの拠点に軍勢を集めた。
白馬は袁紹軍の前線基地が設けられた黎陽と河水を挟み対峙していて、延津は河水の有力な渡渉地点の一つである。曹仁は旗下の三万を率いて白馬の防衛を命じられていた。延津には、軍総大将の春蘭とその補佐に秋蘭が置かれている。両拠点は河水沿いに六十里(30km)ほどを隔てて東に白馬が、西に延津が並ぶ。使者が一日で往復出来て、歩兵も一日で行軍可能な距離だ。連絡は密に取り合えた。
 華琳が陣を据える官渡は、延津から南に八十里(40km)の距離にある。さらに八十里南進しれば曹操軍の本拠地許であり、白馬と延津が前線基地なら、官渡は正に対袁紹軍の本営と言えた。官渡を抜かれれば、後は本拠地での決戦と言うことになる。
 白馬での兵の配置を終えた曹仁は、報告のために白騎兵のみを伴って官渡を訪れていた。

「さすがは袁家ね」

 華琳は荀彧に稟、風を伴い、官渡城の中庭にいた。
 放置された古城を、華琳が新たに縄張りし再建した城である。街を廓で囲んだ城邑ではなく、兵だけがひしめく完全に戦のための砦だった。華琳の視線の先には、無骨な造りの城内に不釣合いな金銀宝玉の類が並んでいる。
 麗羽から曹操軍の諸将に贈られた品の数々である。つまりは引き抜き工作のために麗羽がばら撒いた物だ。
 太尉の地位を与えられ一時は浮かれ気分であった麗羽も、天子を手中に収めた華琳がそのまま司隷(司州)を支配下に治め、中原四州の覇者として立つと態度を改めた。曹操軍に対して降伏を勧告する使者が幾度も往来し、麗羽から華琳への私信という形でも恭順が呼び掛けられている。同時に進められたのが曹操軍の諸将に対する引き抜きであるが、ついに兵を挙げて対峙する段になっても治まることなく、それはさらに加熱していた。
 中庭には金銀宝玉以外にも、多くの書物が並び、見事な毛並をした白と黒の二頭の馬が引き立てられている。書物は荀彧ら文官に、二頭の名馬は春蘭と秋蘭に揃いで贈られたものだ。
 あくまで麗羽から個人へ送られた財物であり、突き返すなり私腹へ入れるなりは贈られた本人の自由である。こうして集められているのは、何も華琳が取り上げたわけではない。春蘭と荀彧が自身の潔白を証明するように先を争って華琳へ献上するものだから、他の者も懐に入れるわけにもいかなくなったのだ。

「仁、貴方のところにも何か届いているのでしょう? 麗羽は昔からあなたに御執心だったから、さぞや良い物を送られたのではない?」

 荀彧が作成した献上品の目録に目を通しながら、華琳が言った。
 横から覗き込むと、やはり軍の総大将春蘭と文官筆頭の荀彧へ贈られてきた品が一番多く、次いで武官では秋蘭、文官では風が続く。同格の稟を抑えての風への厚遇は、幸蘭の献策によって曹操軍内で一大論争の的となった袁紹軍への降伏論の熱心な支持者の一人であったためだろう。もちろん降伏論自体が袁紹軍の侵攻を先延ばしにするための偽りの献策で、風の同調も華琳に指示を受けての擬態であった。風は華琳の信奉者である親友の稟との関係を一時著しく悪化させながらも、見事悪役を演じ切ってくれた。
 その降伏論の中心となった当の幸蘭の名は目録に無い。恐らく堂々と自分の懐に入れているのだろう。幸蘭の吝嗇は今に始まった事ではない。
 主だった者で他に名が無いのは二名で、そのうち一人は張燕である。突き返したのか、あるいは部下にでも景気よくばら撒いたのか。いずれにせよ、こうした方法で主君の機嫌伺う人間ではない。
 そして目録に名の無い最後の一人が曹仁であった。

「―――いや、俺には書簡だけだ」

 見栄を張りたい気持ちも多少あるが、曹仁は正直に告白した。
 贈られた品の数はそのまま袁紹軍内での自身の評価を示すもので、同僚との差をこのところ皆が気にしていた。荀彧などは喜々として華琳に献上し、こうして目録まで作成している。

「あら、本当に?」

 華琳が目を見開いた。

「今朝、ちょうど貴方と麗羽が仲睦まじくしていた子供の頃の夢を見たのだけれど。……貴方もとうとう見限られたのかしら?」

「さあ? 部下になれば厚遇するとは書かれていたが。忠臣中の忠臣たる俺が華琳の元を去るはずがないと悟ったんじゃないか?」

「ちょっと、あんたね! それなら華琳さまの一番の忠臣である私に誘いが来るはずがないじゃない!」

 耳ざとく聞き咎めた荀彧がいきり立った。

「はいはい」

「なによ、その返事は。誰が一番華琳さまに忠義を尽くしているか、本当に分かっているんでしょうね?」

 息巻く荀彧を受け流しながら、曹仁には華琳には理解の及ばない麗羽の心境が解るような気がしていた。
 麗羽とは以前から奇妙な仲間意識というか、互いに共感するものがあった。それはおそらく華琳に対する劣等感からくる感情だろう。幼少時からその天才をいかんなく発揮していた華琳に、同世代の子供達の多くは従属した。一門の次期当主という立場があるとはいえ、年上の従姉である春蘭や秋蘭も当時からすでに華琳へかしずいていたのだ。そんな従属者達のなかにあって、華琳に立ち向かった数少ない敗者が麗羽であり曹仁であった。
 天の御使いの肩書きや将としての評価を抜きにしても、麗羽にとって曹仁は是が非でも華琳から引き抜きたい対象だろう。だがそれだけに華琳と同じ天秤に乗せられ、測られることを恐れてもいる。底抜けの楽観主義者でもある麗羽自身ですら気付いてはいないかもしれないが、曹仁にはそんな彼女の心裡がよく理解出来た。

「私のところにも麗羽から勧誘の書簡が来たわよ」

 華琳が口を開くと、ぎゃーぎゃーと騒いでいた荀彧が押し黙った。華琳は、一巻の巻物を曹仁へ投げて寄こした。

「―――二州の王か」

 諸将に金銀宝玉をばら撒いた麗羽が華琳へ贈ったのは、降伏の暁には二州を領する王の地位を与える、という約束だった。
 当然、群雄の一人に過ぎない今の麗羽には華琳に王位を与えることなど出来ない。それは王を超えた存在―――皇帝にのみ許されることで、現在なら漢王朝の帝にだけ与えられた権限だった。
 つまりこの約束は、麗羽が帝位につくという前提の上に成り立っている。自身が帝位についた暁に、漢王朝創立の功臣達がそうであったように、華琳にも王位を与えるというのだった。

「まあ、破格と言って良いでしょうね」

 漢室では王族が王位を授かる場合、通常一郡を与えられる。今上帝もかつては陳留一郡の王であった。漢王朝創立期には、韓信や彭越ら功臣は秦代以前の諸王国の国土をそのまま分け与えられた。斉や楚、梁といった国々の領土は現在の一州分に値する。つまり二州の王というのはそれすらを超えた正に破格の待遇だった。

「さて、麗羽のことはひとまず捨て置いて、―――問題は劉備軍ね。桃香はどう動くかしら?」

 当然降伏などは頭の片隅にも無い華琳は、この話はこれで終わりと話題を切り換えた。孫策軍が荊州攻略に着手している現状、警戒すべき勢力の第一に劉備軍は上がる。

「……動くでしょうか?」

 稟が遠慮がちに問う。
 桃香の話題は、華琳の前ではちょっとした禁句のようなものなのだろう。華琳も他の者には触れ難い話題である事が分かっているから、あえて曹仁がいる今切り出したのかもしれない。

「動くわ」

 断言しつつも、華琳は曹仁に確認するように視線を向けた。

「ああ、動くだろう。我々と敵対すると覚悟を決めた上での出奔だろうし、そうなれば朱里と雛里がこの期を逃すはずがない」

「ふんっ、つくづく恩知らずな女ね」

 荀彧が吐き捨てると、稟が軍師の顔で口を開く。

「風。確か貴方、劉備様が本格的に兵を募れば、万単位の民がすぐに集うという試算を―――? ちょっと、風?」

「…………ぐぅ」

「風っ!」

「んん? …………すいません、稟ちゃん。もう一度お願いするのですよー」

「はぁ。まったく貴方は」

「珍しいな、風が本当に話を聞き逃すなんて。いつもは居眠りして見えても耳と頭は聡く働いているのに」

 ゆらゆらと船を漕いでいた風が目をしばたかせる。居眠りはいつものことだが、不思議とそれで仕事に支障をきたさないのが普段の風だった。

「もうー、お兄さんのせいですよ、風がこんなに眠いのは」

 常に手にしている棒付きの飴で口元を隠しながら、風が小さく欠伸を漏らす。

「俺のせい?」

「そうですよー。お兄さんが朱里ちゃん達をちゃんと引き止めてくれていれば、こんなに風が寝不足になることもなかったのですよー」

「ああ、なるほど。やっぱりあの二人の抜けた穴は大きいか」

「書類の山が三つは増えたのです」

 朱里と雛里は曹操軍の文官の仕事をかなり手伝ってくれていた。客人であるから政の重要な部分には関与しない雑務に近かったはずだが、それでもあの二人がいるといないとでは大違いだ。そこにさらに軍の出陣が重なったとあって、文官達の仕事はよほど立て込んでいるのだろう。

「私は政務よりも学校の方がきつかったですね。授業が回ってくること自体は構わないのですが、劉備様や朱里先生達はどこに行ったのかと子供たちが騒ぎ立てるのには、困ってしまいます」

 率直な風の物言いに導かれるように、稟も溜まっていたものを吐きだした。劉備軍の話題を避ける空気はすっかり霧散している。あるいは、風はこれを狙ってあえて寝た振りをしたのではないかとも思えてくる。
 学校の授業に関しては、朱里と雛里はかなり主体的に働いてくれていた。その穴を埋めるために、文官達の講義の割り振りは増している。それでも手が足りずに曹仁達武官もかなり駆り出されているが、二人の講義を引き次ぐとなると並みの学識では務まらず、稟や風といった上級の文官達は特に大忙しなのだろう。

「それに、何やら華琳さまもふわふわと落ち着かない御様子。特にここ十日ばかりは、いつもなら人の十倍仕事をするところが、七、八人前といったところなのですよー」

「そ、そうだったかしら?」

 言い淀んだ華琳の頬がうっすらと赤らんだ。曹仁が華琳に思いを告げ、それを受け入れられたのがちょうど十日前のことである。

「おお、御自身でお気付きでないとは、劉備様の御出奔がよほど御心痛なのですね。おいたわしや~」

「そっ、そうだな。華琳は桃香と親しかったからな」

 華琳が横目で視線を送って来るが、本人にも思いつかない上手い言い訳など曹仁に思い浮かぶはずもない。

「ふんっ、馬鹿な女よ。あれだけ華琳さまの御寵愛を受けておきながら、出ていくだなんてっ」

 荀彧の刺々しい言葉が、今ばかりは曹仁にとって救いに思えた。

「華琳さまの庇護下でならともかく、あんな甘い女が乱世に飛び込んでやっていけるもんですかっ」

 荀彧の物言いは、どこか桃香を惜しんでいるようにも聞こえる。荀彧は曹操軍内における反劉備軍の急先鋒だった。それはそれだけ桃香達を買っていたということでもあるのだ。呂布軍との戦ではあわやというところを桃香と鈴々に救われてもいる。複雑な思いがあるのだろう。

「そうは言っても実際に長い間、戦と流浪の生活を続けていましたからねー。今後もしぶとく生き長らえるのでは~?」

「劉備軍は確かに歴戦の精鋭だけれど、劉備本人はどうだか。あれだけ長く実戦の場に身を置いていながら、いまだに兵一人一人の死や民の苦しみに心を痛めているんだもの、早晩押し潰されて身を滅ぼすんじゃないかしら」

「―――それが桃香の怖さね」

「華琳さま?」

「桂花の言う通り、あの子は胸やけがするくらい甘いわ。戦の度に散りゆく兵一人一人の死に、胸を痛める。それは人としての美徳なのでしょうが、あの子のように大袈裟に悼んでいては、身が持たない」

 華琳はもったいぶる様に言葉を切った。全員が押し黙り、固唾を飲んで次の言葉を待つ。華琳が桃香をどう評するのか、皆の興味が引かれるところだった。

「だから兵の死は、それと受け止めつつも割り切る。私はそうしているし、孫策や麗羽―――は何も考えていないだけかもしれないけれど、とにかく乱世に立つ以上は、兵の死を背負いつつもそれに心を動かしはしないものよ」

 それは、君主でない将軍の曹仁にも共通する心得だった。文官の荀彧らは、曹仁以上に上手く割り切っていることだろう。

「ところがあの子は、人の死や苦しみに対して誰よりも繊細な心を持ったまま、乱世に立ち続けている。立っているだけで人に倍して傷付きながら、それでも志のために戦を辞さない。薄氷の儚さと、その内に大河の激流が如き強さを兼ね備えた人間。あんな人物は他に見たことがないわ」

 一軍の頂点と言うのは桃香にとって本来最もつらい立場だろう。並の大将なら必要な犠牲と割り切る兵の死に傷付く弱さは、一方で今も戦い続ける桃香の強さの証明でもあった。

「兵はそんな桃香のためなら喜んで命を賭すでしょう。桃香も心を痛めながらそれを受け止める。張三姉妹の信徒の集団にも似ているが、あれは熱狂のままに駆け抜けて暴徒の域を出なかった。信仰にも似た桃香への思いと高邁な志とが合わさることで、劉備軍は極めて精強な一団たり得ている。その劉備軍の強さが、そのまま桃香自身の強さよ」

 桃香に許へ置き去りにされた劉備軍の兵士達は、数日のうちに残らず姿を消していた。桃香の後を追ったのだろう。兵達にとって幸いなことに、華琳自ら記した通行許可証を持っての出奔となったから、桃香達は曹操領内の移動中はまったく身を隠していない。いつも通りの視察とでも言う顔で、堂々と領民に姿を見せていた。桃香、鈴々、星はそんな状況を楽しんだであろうし、愛紗、朱里、雛里はさぞかし気を揉んだことだろう。六人が許から南西へと進み荊州の南陽郡へ抜けたというところまでは、心利いた者が探りを入れればすぐに判明することだった。
 加えて、消えたのは劉備軍の兵だけではない。曹操軍の兵五百ばかりも桃香の後を追って出奔していた。軍議では相当に問題とされたが、間諜を送り込む好機でもあるということでひとまず黙殺された。今は桃香の行先を調べる術がない民の中にも、劉備軍が再び旗を掲げればその地へ流出する者達が出るかもしれない。
 華琳の言う張三姉妹への信仰にも似た何かが、軍規も日々の暮らしすらも捨ててしまうほどに人々の心をかき立てるのだろう。
 長々と語り視線を集めている自分に気が付くと、華琳はこほんと一つ咳払いをした。

「―――っ、そうだっ、風、例の試算の結果を」

 はっと思い出した顔で稟が話を戻すと、それからは劉備軍への対策に関して活発な議論が交わされた。
 これまで禁句とされてきた時間を取り戻すように、荀彧も稟も風も果敢に意見を闘わせる。曹仁が白馬、延津の布陣状況を報告すると、具体的な後方の兵力配置にまで話は及んだ。

「仁、今日は泊まっていくのでしょう?」

 議論も出尽くした頃になって、華琳が言った。

「ああ、そのつもりだ」

 白馬から官渡までは直線距離にして百里(50km)程で、白騎兵のみなら一日での往復も不可能ではない。ただ袁紹軍に動きがあったとしても河水を挟んでのことであり、その日のうちに兵を動かす必要があるような危急の報告が入るとは考えにくい。曹仁は官渡城で一夜休み、明日は周辺の地形を確認しながらゆっくりと戻るつもりだった。官渡はあくまで白馬、延津の両前線を支える本陣で、華琳にはここまでの進行を許すつもりはないだろう。しかし万が一を考えれば、地形を熟知しておくに越したことはない。

「桂花、白騎兵百人分の兵舎の用意を。稟、今の話し合いの結果を明日までにまとめなさい。風は、…………寝ながらで良いから稟の補佐」

「はっ」

「……ぐぅ」

 荀彧と稟が声を揃えて直立し、風はまた船を漕いだ。

「仁、貴方はこっち」

 何気ない口調で言うと、華琳はもう歩き始めていた。曹仁は小走りでその後を追った。

「この部屋を使いなさい」

 招じ入れられたのは、軍営の一室である。戦のための砦であるから、宮殿のような華美な建物はない。最奥の、いくらか広い個室が並んだ区画で、配置からして華琳の部屋の隣室かもしれない。
 直ぐに立ち去る気配はない華琳に、とりあえず一つきりの椅子を引いて勧めて、曹仁は寝台の端に座った。

「…………」

 華琳が椅子の横を素通りして、無言で曹仁と並んで寝台に腰を降ろす。
 二人きりになるのは、実にあの告白以来であった。
 当日は結局幸蘭に春蘭、秋蘭、それに気付けば凪達三人娘や霞、荀彧達文官勢までが加わって、お茶会はちょっとした宴会騒ぎとなった。最後には春蘭に引っ張り出されて華琳も参加したが、二人で話をする機会などなかった。翌日には袁紹軍の動きが報告され、許に駐留する軍はすぐに北上が決められた。そこからは出陣の準備に追われ、次に華琳と顔を合わせたのは出兵直前の軍議で、それが最後となる。
 こうして隣り合って座るのは、何も珍しいことではない。ただの従姉弟同士の頃からの馴染みの距離感ではあるが、浮き立つような気持ちは覚えのないものだった。

「しかし、随分早く布陣を完了したものね。春蘭達は配置に付いたばかりだというのに」

「ああ、俺は旗下の移動だけだからな」

 曹操軍最大の兵力―――歩騎合わせて三万を抱える曹仁は、許から白馬までを真っ直ぐ北上しただけである。春蘭は旗下の二万に加えて、秋蘭や韓浩、黄邵らの軍勢と合わせての進軍である。当然、曹仁よりも時間はかかるだろう。

「それに、まあ、ちょっとは急いだし」

 心中、麗羽に対してぼやきながらの進軍となった。意図なく相手の嫌な時期に動くというのは実に麗羽らしく、最後には賞賛の気持ちすら浮かんでいた。

「へえ、そんなに早く私に会いたかったんだ?」

「ああ、そりゃあ会いたかったよ」

「―――っ。……そういう、素直な反応はずるいわよ」

 皮肉屋の華琳は案外好意を真っ直ぐ返されるのに弱い。

「まあ、私だって、すっごーく会いたかったけれど。…………何よ、その顔は?」

「いやあ、本当に華琳は俺のことを好きだったんだと、今、改めて実感した」

「だっ、だから、他に候補がいないからと言ったでしょうっ」

 反撃のつもりらしい言葉にやはり素で返すと、華琳はまたも動揺した。

「ふふっ。それで、俺はいつからその候補に入れたんだ?」

「ふんっ。……そうね、貴方を弟分でなく男として意識したのは―――」

 鼻を鳴らして視線を逸らしながらも、華琳はしばし思案顔で押し黙った。

「母さんの―――、ううん、徐州出兵を止められた時かしら」

 母さんの死を共に悼んだ夜、とでも口にしかけて、華琳は言い直した。二人にとって大切な思い出ではあるが、曹嵩の死をだしにしたようで彼女に悪い気がするのも確かだった。もっとも、本人が聞けば草葉の陰で大笑いしそうな話でもある。

「なんだ、結構最近だな」

「何よ、貴方なんて桃香に言われて初めて私を意識したのでしょう?」

「意識自体は初めて会った時からしていたさ、自分の気持ちに気が付いてなかっただけで。今にして思えば、一目惚れというやつだな」

「…………ふんっ、その割にずいぶん私にばかり突っ掛ってきたものだけど。幸蘭達のことはすぐに姉扱いして懐いていたのに」

 華琳が頬を赤らめながら、素っ気ない口調で言う。すぐに本心を隠そうとする拗ねた態度も愛らしく思えるのは、惚れた弱みというやつだろうか。やはり率直に曹仁は返す。

「それこそ、惚れたが故の男の子の意地だろう」

「……ふーん」

 またも華琳にすげなく返されると、そこで会話が止まった。
 互いの肩が触れるか触れぬかというすぐ隣から、華琳の息遣いと体温が伝わってくる。否応なく、華琳と二人きりであることが意識される。

「…………何もしないのかしら?」

「なっ、何かして良いのか!?」

 華琳の問い掛けに、曹仁の心臓が跳ね上がった。

「そんなことは自分で考えなさい。男の子でしょう」

 華琳がちょっと不機嫌そうに言う。

「よしっ、良いんだな。その言葉は、良いという意味で取るぞ」

「だから、自分で考えなさい」

「―――じゃ、じゃあ、その、がっつくみたいであれなんだが。いや、実際にがっついてるわけだけど、……キ、キスがしたい」

「……キス?」

 華琳が可愛らしく小首を傾げる。

「ああ、えっと、ちゅー、は違うな。……口付け、接吻、口吸い―――」

「―――もういいわ。……ちゅーの時点で何となくわかった」

 華琳は曹仁の言葉を遮る様に早口で言った。うつむき気味に曹仁から視線を逸らすのは、照れているのかもしれない。

「ええっと、……いいか?」

「男ならそんなこといちいち聞かずに、自分で考えなさい」

 華琳が不機嫌そうにまた言った。やはり曹仁の視線を避ける様に顔を逸らしている。

「そ、そうか。さすがに気が早過ぎたな。すまん、忘れてくれ」

「どうしてそうなるのよっ!」

 不機嫌そうなどというものではなく、華琳は今度ははっきりと怒気を漲らせた。平手が振り上げられる。曹仁は続いて襲ってくるはずの痛みに、思わず目を閉じた。

「―――っ」

 唇に、何か柔らかいものが触れた。

「華琳、今の」

「なっ、何よ。貴方がしたいと言ったのでしょう?」

「……一瞬過ぎて良く分からなかった。その、出来ればもう一回」

「はぁ。仕方ないわね。目を閉じなさい」

 華琳が呆れ顔で頭を振る。曹仁は言われるがままに目を閉じた。

「―――っっ! な、何を」

 頬に今度こそ鋭い痛みが走った。

「あんまり野暮なことばかり言うから、お仕置き。―――それでこれが、ご所望の二回目」

 頬の痛みは、すぐに気にならなくなった。



[7800] 第8章 第2話 江夏争乱 上
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/08/01 17:26
 遠巻きにしながら、砦の周辺を回った。
 黄祖の籠る砦を攻め続けてすでに十日が過ぎているが、攻略の糸口は未だ掴めていない。先陣を務める太史慈の攻城戦に不満はなく、口出しすることは何もなかった。
 蓮華は目線を変え遠望することで何か砦側の守備の孔でも見つけられないものかと、自ら周囲の探索に出ていた。俯瞰で眺める砦は急造だけあって小さく、必要最低限の機能だけを備えた城塞である。それだけにはっきりと見える隙らしい隙も見つけられなかった。
 砦攻めは、これで二度目である。一度目の攻城戦も長期に及び、それでも陥落寸前まで追い込んだ。しかし揚州で異民族の反乱が起こり撤退を余儀なくされた。その異民族の軍も孫策軍が取って返した時にはすでに霧散していた。
 匈奴に代表される北方異民族と中華の民には長らく対立の歴史があり、始皇帝以来の長城によって明確な境界が引かれている。一方で南方異民族―――南蛮は漢土内に集落が点在し、共存がなされていた。益州南部には巨大な王国が存在するというし、揚荊二州の山中にも兵力にして二万から三万相当の異民族が生活すると言われている。豪族問題を解決した孫呉にとって新たに生じた頭の痛い問題であった。今回揚州で起こった叛乱でも二千規模の兵が突如として現れ、さらにどこからか人が集まり続けて一時は一万近い軍勢を形成したという。戦は初めの二千が守備隊と一度ぶつかり合っただけで大きなものには発展しなかったが、領内に一万の敵兵を抱えては侵攻を中止せざるを得ない。今回の出兵では、留守の部隊のみで迅速な対応をとれるように小蓮の指揮下に一万の軍を編成している。普段は旗下に武芸達者の女を集めた二百の精鋭を養っているだけの小蓮にとって、一万もの兵を率いるのは初めての体験となる。前回留守を預かった領内を荒らされた小蓮は雪辱に燃えていた。

「蓮華様、止まります」

「思春?」

 蓮華の馬の轡を取る思春が足を止めた。丈の高い草がびっしりと生い茂る眼前の草原を睨みつけている。
 遊軍を率いる思春が、二百を従えて自ら護衛に付いてくれている。大袈裟なものにはしたくなかったが、姉の様に護衛を断って―――と言うより振り切って―――勝手気ままに動き回るような真似は蓮華の性格上あり得なかった。

「……どうしたの?」

「しばしお待ちください」

 がさがさと、草が激しく音を立ててかき分けられ、兵が思春の足元に飛び出した。

「やったか?」

「はい。伏していたのは二十人でした。こちらに犠牲は出しておりません」

「よし。引き続き警戒に当たれ」

「はっ」

 短く答えると兵は来た方向へ駆け戻っていった。姿を見せた時にはあれだけ鳴らしていた草と草が奏でる音を、今度は少しも立てずに草原の中に兵の姿が消える。

「今のは?」

「先行させていた敢死軍の兵です。この先に小規模の敵伏勢があったらしく、それを処理させたところです」

「あれが敢死軍」

 思春や明命と同じ裾の短い袍に、具足は手甲と脚甲だけという軽装の兵だった。こちらへ接近する時だけ音を立てたのは、蓮華を驚かさないように配慮したためだろうか。

「……申し訳ありません」

 思春が小さく頭を下げた。
 思春が育て上げた敢死軍と明命が育て上げた解煩軍は、蓮華にも詳細は知らされていない部隊だった。思春と明命以外で正確に把握しているのは冥琳ぐらいのもので、雪蓮も―――本人の適当な性格もあって―――恐らく詳細までは聞かされていない。思春はそのことを謝罪しているのだろう。
 草原を音もなく駆ける身ごなしを思えば、使い所にも自ずと察しは付く。冥琳は雪蓮や蓮華を戦の汚い部分から遠ざけ様としている。蓮華にとって雪蓮の幼馴染である冥琳は、もう一人の姉のような存在でもある。配慮は有り難くもあるし、過ぎた気遣いには多少の煩わしさを感じもするのだった。

「―――気にしないで。……しかし、黄祖はこんなところにまで兵を伏せているのか」

 砦からはそれほど離れていない。そして孫呉の攻城の布陣とは、もう目と鼻の先の距離である。

「地形の使い方が巧みです。それも自然のものだけでなく、人工的に作った丘や、水を堰き止めて溝だけにした小川の跡地等もございます」

「我が方を迎え撃つ準備は万端というわけね」

 黄祖は仇敵である。しかしこうしてその戦振りを見ていると、ほんのわずかに共感が芽生えなくもない。
 寡兵でもって数にも練度にも勝る軍を相手にしなければならない状況に追い込まれたなら、自分でも黄祖と同じく準備万端整えての籠城に入るだろう。これが雪蓮ならば、初戦でもって敵将の首を狙い討つような勝負に出そうだ。母でも多分そうだったろう。例えそれが最も勝算が高かろうと、蓮華には負ければ終わりという賭けに出る勇気は出ない。耐えに耐えて、救援を待つ。しかし今のところ、荊州で他に兵が動く気配はなかった。黄祖一人が生贄のように孫呉の軍勢の前に突き出された格好である。
 救援は来るなら来るで構わなかった。兵力にはまだ余裕があり、迎撃するだけのことだ。黄祖を釘付けにする限り、他に警戒すべき武将も荊州にはいない。

「そういえば貴方は、黄祖の元にいたことがあるのよね、思春?」

「はっ。ほんの一時ですが。私は長江の江賊、孫堅様を討った黄祖はこの辺り一帯のあぶれ者たちの顔役でした」

 その後、黄祖は劉表に重用され江夏郡太守に、思春は当時は袁術の客将であった雪蓮に討伐されて家臣として容れられることとなる。

「どんな人間?」

「個人的な付き合いがあったわけではありませんので、印象程度しか語れませんが、―――臆病で周到、でしょうか。同じ名将と申しましても、雪蓮様や祭様とはずいぶんと異なります」

「分かる気がするわね、この布陣を見ていると」

 音に聞こえた呂布や関羽とはもちろん違うだろうし、曹操や劉備とも似ていない。周到と言えば冥琳だが、彼女ほどの緻密さも感じない。冥琳なら、こうして孤立してしまう前に荊州全体の意見をまとめ上げてみせるだろう。不器用ながらも策の限りを尽くそうという姿勢は、やはり他のどの将よりも自分によく似ている気がした。
 そんな黄祖に幸運が訪れたのは、翌日のことだった。

「援軍? それも、あの劉備軍が付いている?」

 耳を疑うような報告も、半日も過ぎた頃には蓮華自身の目で確認することが出来た。黄の一字を記した旗を掲げた荊州軍一万に、劉旗棚引く一団が伴われている。

「曹操領内から荊州へ抜けたとは報告を受けていたけれど。劉表を説いて、援軍を引き出すなんて」

「劉備軍は、また数を増やしたのではない? あっちにふらふらこっちにふらふらと寄生する度、大きくなるわね」

 いつの間にか雪蓮が隣に立っていた。

「まあ、そうは言っても四千数百といったところかしら?」

「荊州の弱兵などいくら援兵に来たところで痛くもないが、寡兵と言えど劉備軍となると話は別だぞ」

 冥琳が釘を刺すように言う。雪蓮に寄り添い劉旗を遠望しながらも、絶え間なく兵に指示を飛ばしている。黄祖と敵援軍との挟撃を避けるため、一度陣を払って仕切り直しである。

「そうね、でもこれでやっと面白い戦になって来たわ。もう、古い将は引っ込めだなんて、言っていられないわよね、冥琳」

 雪蓮が口の端を吊り上げる。やはり蓮華には理解出来ない感覚だった。





 黄祖が築いたという砦に、入城した。
 大きな砦では無いため、兵のほとんどは城外に滞陣させている。孫策軍は砦の囲みを解いて、五里(2.5キロメートル)ほど東へ移動していた。まだまだ交戦状態と言って良い距離だが、包囲に曝され続けていた城兵達はさすがに安堵の表情を浮かべている。

「貴殿が劉玄徳殿ですか」

「はい。劉備です、よろしくお願いします、黄祖さん」

「こちらこそ、この度は援軍かたじけない」

 黄祖は、疲れ果てた老人のようだった。桃香が想像していた豪傑然とした姿からはかけ離れている。

「そちらが、諸葛孔明殿、龐士元殿ですかな? お二方には助けられた、感謝します」

 黄祖が頭を下げた。朱里と雛里が文官達を論破して、江夏への援軍を組織させたのだ。
 堂々と宣戦布告した孫策軍に対して、荊州はあくまで弱腰だった。最終的に劉表に斥けられてはいるが、文官達の間では黄祖の身柄を持って講和の道を探るという案が本気で論じられているほどだ。劉表より軍権を預かる蔡瑁もそれに半ば同調していて、これまで江夏郡への援軍が組織されたことはない。孫策軍に対して、黄祖は一郡の兵だけを持って抗し続けてきたのだ。

「お二方のような俊傑に去られてしまったというのは、荊州が抱えた最大の不幸でしたな」

「はわわっ、私達なんて、そんな」

「あわわ」

「謙遜することはあるまい。水鏡先生の秘蔵弟子伏竜と鳳雛のお噂は、荊州では広く知られておりますぞ」

 黄祖が笑みを浮かべた。笑うと目が皺の中に埋没するようで、一層老いの印象が強まる。
 朱里と雛里は、水鏡の号で知られる司馬徽門下である。司馬徽の開く私塾は荊州の山中にあるというから、二人にとって荊州は懐かしい地なのだろう。
 朱里と雛里は、はわあわと口をまごつかせながら小さな体をさらに小さくして恐縮している。黄祖は朱里と雛里以上に荊州では伝説の存在だろう。

「それに、関羽殿に張飛殿、趙雲殿。天下で五指には入ろうという豪傑御三方をお迎え出来、光栄です」

 三人が気を良くした表情で頭を下げる。

「黄祖殿、――――っ。お久しぶりです」

 後ろから歩み出た黄忠が、黄祖の顔を見て息を呑む音がはっきりと桃香の耳に届いた。

「黄忠殿か。それに厳顔殿も。援軍の将が貴殿らとは有り難い」

 劉備軍は援軍の援軍であり、荊州が組織した援軍の中心は別にある。その大将が黄忠で、副将が厳顔だった。
 行軍の仕方や野営の張り方から将としての力量はある程度推察されるが、二人とも実力は申し分ない。どこか緩んだ空気を身にまとう荊州の兵達も、二人が指揮を執ると足並みを揃えた。また将軍としてだけでなく、愛紗達の目から見ても隙のない武人でもあるらしい。
 二人とも、蔡瑁統治下の荊州軍の主流にいる武将ではない。不遇を囲っていると言っても良いだろう。蔡瑁は文官寄りの人間で、劉表も武人よりも文人を重視しているから、軍人としての実力は正しく評価されることが無いようだ。
 今でこそ中華文化の粋を集める文治の地として名高い荊州であるが、劉表が赴任した際には乱世の御多分に漏れず賊が横行していたという。鎮圧のために劉表が招いたのが荊州の名士連で、その代表格と言えるのが蔡瑁であった。荊州に入った劉表は武力に頼ることなく、蔡瑁らの献策に従い謀略でもって賊徒の排除に成功している。劉表が乱世にあって武よりも文の力に傾倒するのも、本人が儒の碩学であることに加え、そうした経緯も無縁とは言えないだろう。

「戦陣なればたいしたものは出せませんが、一席設けました。今宵はごゆるりとお楽しみ下され」

 明日以降の戦の相談を終えると、黄祖の指示で小さな宴が催された。鳥獣を使った肉料理は、兵にも分け与えられるほど多い。砦周囲の野山を駆け回る調練ばかりを繰り返していて、そうした折に捕えるのだという。戦のために設置した罠に掛かることもあるらしい。

「袁紹さんは力押しの戦だけど、戦場とは別のところで色々考えたりもするみたい。白蓮ちゃん―――公孫賛軍も、急な侵攻に対応出来なくて追い込まれたって」

 劉備軍ほど、全土の戦を知り尽くしたものも無い。宴では各軍の戦振りについて質問が重ねられた。

「呂布さんはとにかく速くて強い。だけど、見ていて悲しくなるような不思議な戦をする」

 桃香には難しいことは分からないから、何となく感じたことを述べた。朱里や雛里が戦術面の話を補強し、愛紗と星が実戦での用兵や武将自身の力量を付け加えた。

「劉備様、どうぞ」

「ありがとう、魏延さん」

 魏延が酒を注ぎに来た。厳顔の子飼いの部将で、愛紗や星も認めるほどの武人である。援軍の援軍を買って出たことへの感謝か、何かと桃香を気にかけてくれる。
 魏延とその旗下の二百騎ほどは、普段劉備軍の兵を見慣れた桃香の目から見ても十分に精強だった。つまりそれは、二百程度の兵を自由に鍛え上げる程度の権限しか、厳顔達武将には与えられていなかったということだろう。

「孫策さんは、黄祖さんには言うまでもないだろうけれど、激しい戦をする。呂布さんと少し似ているけれど、呂布さんと違って悲しみはない、明るくて激しい火みたいな戦」

 華琳に関しては、言及しなかった。まだ桃香の中で、華琳と言う少女の扱いを決めかねている。二人といない親友と思えることもあれば、絶対に倒さねばならない敵と思うこともある。論評の言葉など浮かぶべくもない。
 桃香の戦の話が終わると、黄祖の戦歴の話となった。必然的に、黄祖の名を一躍轟かせた孫堅との戦へと話題は向かう。

「儂の人生で一番の失敗は、あの時孫堅を討ってしまった、いや、討ててしまったことだな」

 黄祖はぼそぼそとそう口にすると、やおら立ち上がった。

「いやぁ、少し疲れた。私はこれで失礼する。孫策のことだ、明日にも動きましょう。今日のところはお寛ぎになって、英気をお養いくだされ」

 黄祖が一礼して宴を辞した。

「ずいぶんと年を取られたものだ」

 小さく萎んだような黄祖の背を見送り、厳顔が小さく洩らした。

「黄祖殿はあれでわしや紫苑より、せいぜい十二、三も上と言う程度よ。元より他所からの侵略の玄関口を背負い、その重責にいつも顔色を悪くしていたものだが、この半年ほどで一息に十年二十年分も老け込まれた」

 桃香の目に移る黄祖は、すでに老境の域に差し掛かって見えた。

「蔡瑁ばかりを責められないわね。私たちがもう少し、上と仲良くしていれば」

 黄忠がしみじみとこぼす。

「ふんっ、だからと言って、蔡瑁などに媚を売りたくはないわ。劉表様にもう少し、人を見る目があれば良いのだが」

 当然の如く、蔡瑁の軍人達からの評判は芳しくない。黄忠や厳顔のような真っ当な将軍ほど批判的で、結果遠ざけられてもいた。唯一黄祖のみは孫堅を討ち取ったという大き過ぎる驍名ゆえに蔡瑁も軽んじることが出来ず、江夏太守の地位を与えられていた。
 本人がこぼした通り、その驍名が今の黄祖を苦しめているのかもしれなかった。






「まったく損な役回りじゃのう」

 これまで前衛を務めた太史慈は休息も兼ねて後方の本陣で、攻城戦では後方待機であった祭が右翼で先陣を任されている。もちろん先陣は望むところであったが、相手には不満があった。

「……ううむ、関羽や張飛も来ているというに、外れを引かされたものじゃ」

 正面で、厳と大書された旗が風に靡いた。当然先日までは見られなかったもので、援軍の将の一人である。
 荊州軍との戦を始める前に、その陣容についてはくどいほど冥琳から聞かされている。だから、厳顔という将が劉表に仕えていることは知っていた。ただ知識として強引に押し付けられただけで、それ以前にその武名を耳にした覚えはない。兵の動きも一応のまとまりを見せてはいるが、精彩に欠けた。客将の劉備軍だけを援軍に赴かせるわけにもいかず、急遽設えた軍勢といったところか。
 孫呉の布陣は、中央に蓮華が率いる五千。両翼にもそれぞれ五千ずつで、右翼の指揮が祭、左翼が明命である。補佐役として蓮華には穏が、明命には亞紗が付いていた。
 蓮華の五千の後方に、太史慈の一万と雪蓮の騎馬隊二千騎とで本陣を形成している。他に思春の率いる三千が遊撃隊として本陣後方に控えていた。
 孫呉の総勢三万に対する荊州劉備連合軍は、目に見えるだけで一万七千というところだろうか。他に、今なお周囲で潜伏を続ける黄祖の手の者が二、三千はいるはずだった。
 布陣は左翼に厳顔の五千、右翼に四千余りの劉備軍、中軍に黄旗を掲げた五千である。前衛のみなら兵力は拮抗していた。後方には意匠の異なる黄旗が二千ほどの兵をまとめて本陣を形成している。前衛の黄旗は援軍の将のもので、もう一方は先日まで砦に立てられていた黄祖の旗印だ。意外なことに、黄祖までが城外に打って出ていた。

「いくぞ」

 祭の右翼を中心に敵を切り崩すというのが、冥琳の立てた作戦だった。荊州の弱兵に対し、劉備軍の精鋭からも遠いとあって当然の帰結と言えた。
開戦の機は、先陣の祭に一任されていた。躊躇わず軍勢を前進させた。ぐずぐずしていては雪蓮の騎馬隊に抜け駆けされかねない。このうえ先陣まで譲るつもりはなかった。

「なんじゃ?」

 正面の敵左翼に動きがあった。将と思しき女が先頭に姿を現すと、おかしな構えをとった。
 歪な装飾を施された大剣を脇に挟むようにして両手で抱え、その切っ先を祭へ向けて突き出している。まともに剣を振れる構えでもなければ、そもそも大剣の間合いでもない。互いに距離を詰め、今ようやく矢戦の間合いに入ろうというところだ。

「―――っ! 放て! 一射した後、弓兵は後退、槍隊、前に出よっ!」

 大剣を抱えた将が、わずかな手勢を率いて駆け出した。多少強引だが、祭得意の矢戦の機を外すには悪くない手だ。
 厳顔が矢の雨の中を一人突出する形で突っ込んでくる。戦機を読むのに長けた猛将の類というところか。じっくりと見極めるつもりで、祭は弓兵と共に自身も後方へ下がった。

「思ったよりも楽しませてくれるのかのう? ―――それとも、これで終わりか」

 多幻双弓を引き絞る。一度に二矢を放つことも出来るが、ここでは強く一矢を放った。

「―――何っ!」

 祭の放った矢が、中空で弾けた。時を置かず、隣にいた兵士の体が馬だけを残して後方へ跳んだ。

「―――皆、伏せよ!」

 風を切って、さらに何かが飛んでくる。手綱を思い切り引いて、横倒しに馬を傾けた。後方で悲鳴が上がる。祭の咄嗟の指示に反応が間に合った兵は多くはなかっただろう。
 そんな後方の様子を確認する余裕はなかった。厳顔が、すでにこちらの前線まで迫っている。

「―――ふっ」

 続けざまに矢を放った。厳顔はすでに抱え込む様なおかしな構えは止めていて、大剣を楯代わりにしてそれを防いだ。そのまま躊躇なく前線へと飛び込んでくる。
 隊列を入れ換えた槍兵が、下から突き上げる様に馬上の厳顔を狙った。祭の矢に応対した分だけ、厳顔の突撃の勢いは削がれている。深くは踏み込めずに、その場で厳顔は槍兵に応戦した。

「―――黄蓋将軍」

「うむ」

 ようやく背後をうかがう余裕出来た祭に、兵が馬を寄せた。

「これは、杭か? こんなものが飛んできたのか」

 差し出されたのは鉄製の杭だった。
 片手では握り切れない程の太さに、一尺(30cm)ほどの長さもある。持ち上げると、そこらの兵が使う槍よりも重量がありそうだった。それが連続して六本も高速で射出されてきた。供回りの兵のうち三人が具足を貫かれて絶命し、他に二人が手傷を負っている。

「学問の都とは呼ばれるだけあって、おかしな武器を作るものじゃ」

 戦乱を避けて、荊州には名のある学者や腕の良い職人なども集まってきているという。見慣れない武器はその賜物であろうか。もっとも、その重量を支えた上に騎射でしっかりと狙いを定めてきたのは、ひとえに厳顔の膂力と技量があってのものだろう。鉄杭六本に大剣を合わせると、その重さは相当なものとなる。

「―――――!!!」

 そこでようやく後続の兵が厳顔に続いた。さすがに鉄杭は六本で打ち止めのようで、大剣を振るって厳顔は前線をかき乱している。兵には良い援護となって、一時味方の先陣が押し込まれた。
 祭は慌てず、静かに戦況を見守った。押し込まれたのは敵に突撃の勢いがあったわずかな時間だけで、すぐに趨勢はこちらへ傾いた。前線で大剣を振るう厳顔の奮闘も空しく、荊州の弱兵に孫呉の布陣を突き崩す地力はなかった。

「弓隊っ!」

 弓兵にも合図を送った。味方の兵の頭上を越える山なりの射法で、厳顔と合流しようとする後方の荊州軍へ矢が降りそそぐ。

「厳顔。思った以上の武将であったが、兵の調練がお粗末だったな」

 乱世にありながら、荊州では文官が重宝され、軍人の地位は低いという。調練不足は厳顔の望んだ顛末ではないのかもしれない。些かの同情は禁じ得ないが、当然戦に手を抜く理由にはならない。
 降りそそぐ矢に荊州兵の腰が引け、足が止まった。最初に飛び出した厳顔とその手勢だけが孤立する形となった。槍兵に包囲を命じると、すぐにそれは完成した。

「―――なんじゃ?」

 そこへ、横合いから二百騎ばかりの小勢の騎馬隊が突っ掛けてきた。包囲の一部を破って、厳顔と合流する。魏の旗を掲げている。冥琳に覚え込まされた荊州軍の将軍の中には、魏姓の者はいなかったはずだ。将ではなく、厳顔に自分の旗を認められた校尉といったところだろうか。

「なかなか勇猛じゃが、自身も包まれてしまってどうする」

 厳顔を救出したいなら、外壁を突き崩す様に何度も攻撃を繰り返すべきだった。すでに中に入る際に破った部分は塞がれていて、二百騎は自ら包囲に取り込まれてしまっただけという格好だ。
 包囲網の中を窮屈そうに馬を走らせ、魏の旗が槍兵にぶつかった。十分な距離がないから、疾駆の勢いはほとんど付いてはいない。

「また、おかしな武器が出てきたな」

 予想に反して、二百の騎馬隊は包囲網を再度突き破った。他の荊州兵とは、明らかに兵の質が違った。なかでも一際目立っているのが、先頭をいく長身の女だった。巨大な金棒、という以外に言い表しようがない鉄塊を振り回し、突き出される槍を圧し折り、孫呉の兵を宙に舞わした。

「おっと、のんびりと見ている場合ではないか」

 祭は多幻双弓を引き絞った。今度は矢羽に工夫を加えた二矢を番えている。
 解き放つと、二矢はそれぞれに緩やかな弧を描いて飛んだ。弧は、金棒を振るう女のいる一点で交わる。女にとっては、左右から同時に二矢に襲われる形となる。

「――――焔耶っ、前を見よっ!!」

「はいっ、桔梗さっ、―――おわっと!」

 横合いから怒号が掛かり、迫る矢に気付いていない様子だった女が慌てて金棒を打ち振るった。体勢を崩しながら些か不恰好ではあるが、二矢まとめて弾き飛ばす。

「――――見事だ、小娘! 名を聞こうか! 儂は黄蓋、字を公覆! よくぞ我が矢を防いでみせた!」

 祭が高らかに呼び掛けると、それまで女に槍を向けていた兵が一時攻撃の手を緩めた。女も祭の姿を認めて名乗りを上げる。

「貴殿が名高い孫呉の宿将殿か! ワタシは姓は魏、名は延、字を文長っ! 厳顔様の副官を務めている!」

「そちらが、厳顔殿か!」

「うむ! わしが劉表様よりこの軍を預かる厳顔じゃ!」

 大剣の女性が魏延の隣まで進み出て言った。襲い来る矢を魏延に教えた叫びと、同じ声である。

「荊州にまだ貴公らのような豪傑がいるとは知らなんだぞ!」

「黄蓋殿、貴殿にはぜひ黄忠と矢合わせをして貰いたいものよ!」

 言うと、厳顔は魏延の空けた包囲の風穴へ悠々と馬を進めた。まずは仕切り直しと、祭も兵を下がらせる。
 厳顔が口にした黄忠とは、かつての弓の達人の名である。いつしか名を聞くことも少なくなって、その行方も知らずにいたが、それが荊州軍で将軍を務めていた。今回の援軍の総大将―――黄旗の主である。劉備軍の三将の相手が叶わないならば、ぜひ祭が当たりたいと思っていた将である。
 関羽達でも黄忠でももちろん黄祖でもなく、厳顔という無名の将が相手と知った時は外れを引かされたと感じた。しかして対峙する将は、他のどの将にも劣るものではなかった。魏延という副官の腕も良く、率いる兵も荊州軍の最精鋭だろう。

「楽しい戦になりそうだ」

 外れと侮った厳顔に、祭は胸中で頭を下げた。





 遊撃隊は、敵右翼へ向かった。
 劉備軍と対峙した明命の左翼が押し込まれかけていた。遊撃は本来なら攻撃に使うべき部隊だが、放置するわけにもいかない。
 敵先陣に突撃ではなく、侵入する。陣を組んでまともにぶつかり合うのではなく、敵の布陣を掻い潜り内部へ入り込んでの乱戦が、思春率いる軽装歩兵の戦い方だ。十数名を斬り伏せると、後は刀を納めて走った。敵襲を叫ぶ兵の声が一瞬遅れて上がる。
 自ら先頭に立って矛を振るう張飛の背が見えた。低い構えで、駆け寄った。前線の喧騒が、敵襲を伝える声を遠ざける。

―――取れる。そう思った瞬間、張飛が振り返った。

 思春は刀を抜いて周囲の兵に斬り付けた。それを合図に、味方も一斉に攻撃を開始する。
 思春を見定めた張飛も、馬首を巡らした。思春も兵を攻撃したのは最初の一太刀だけで、油断なく張飛に備えた。子供だなどと侮る気持ちは微塵もない。
 小さな体の張飛が、二丈にも届かんという長大な矛を軽々と振り回す。曲刀の間合いに入るには、一足では足りない。二歩、あるいは小刻みに三歩は踏み込む必要がある。
 張飛は馬上、思春は徒歩だった。それが不利というわけではない。思春の得物、曲刀鈴音の戦法には馬よりも自分の足で動き回る方が向いていた。速さと高さ、そしてそれが生み出す威力よりも、虚実入り混じった歩法で相手の死角を取る。
 とはいえ、間合いが離れすぎている。二丈の距離を置いた相手の死角を取るのは至難の業だった。
 単調な踏み込みを繰り返す。その都度、蛇矛が振るわれた。鈴音では受けずに、さらに間合いを取ることでかわす。張飛は軽々と振るっているが、実際には他に類を見ないほどの長柄の得物だ。受けて止まるものとも思えないし、刃がもたない可能性もある。
 正面から踏み込む。と見せて、急停止した。蛇矛の振り降ろし。先刻までなら後方に回避して間合いを取ったところを、ただじっとしてやり過ごした。眼前ぎりぎりのところを波打つ刃が過ぎる。空を切った蛇矛の柄に、鈴音を沿えるようにして駆けた。
まずは一歩。蛇矛が、張飛へと続く道だ。
ついで二歩目。蛇矛の柄を握る張飛の右手首を貰う。

「うりゃっ!!」

「―――なっ!」

 視界が揺れた。身体が宙を舞っている。
 張飛が思春ごと蛇矛を薙ぎ払ったのだ。振りかぶって勢いを付けることも無く、得物に密着した状態の人一人をまとめて吹き飛ばす。とんでもない力技だ。
 乱戦の只中に、音もなく思春は着地した。押し飛ばされただけだから、身体のどこにも痛みはない。
 張飛が、こちらへ馬を向けてくる。それに合わせて、一騎打ちの邪魔にならない様に―――あるいは張飛の蛇矛の巻き添えを食わない様に―――兵が遠巻きにして出来た空隙も動く。思春は下がる兵に合わせて自身も後退しながら、すっと身を伏せた。

「?」

 張飛がきょろきょろと辺りを見回した。捕えていたはずの思春の姿を見失ったのだろう。
 まともにやり合うには、いささか分が悪い。兵の波の中を駆け巡り、割って出たのは張飛の背後だ。

「――――――っ!!」

 斬りつける瞬間、張飛が思春の方を向いた。蛇矛の石突が突き出される。身を伏せ、馳せ違った。鈴音はわずかに張飛の乗馬の皮に触れただけだ。

「くっ、動物並みの勘の良さだな」

 思春は小さく呟きながらも足は止めず、そのまままた兵の中まで駆け込んだ。再び人の波の中へと埋没する。
 今度も背後とみせて、そのまま移動せずに正面から踏み込んだ。明らかに虚を突かれた様子だが、反応が恐ろしく速い。蛇矛が空を切り、鈴音も今度は毛筋ほどの傷一つ付けることはなかった。拘らずにまた人波に埋没する。

「うう~、やりにくいのだっ」

 張飛が憤懣やるかたない様子で、蛇矛をぶんぶんと振り回した。遠巻きにした兵が唸りを上げる刃音を恐れて、さらに後ずさる。

「――――――思い付いたのだっ! みんな、もっともーーーっと、下がるのだっ!」

 張飛が蛇矛を旋回させながら馬を小走りさせた。威圧された兵がさらに数歩後退し、空隙が押し広げられる。如何に思春でも、容易くは間合いを詰め切れないだけの空間を張飛は確保した。

「さあ、どこからでもかかってくるのだ!」

 背後に張飛の口上を聞きながら、思春は駆けた。交戦中のはずが、周囲に残る者のほとんどが自軍の兵だけになっていることに張飛はまだ気が付いていないようだった。
 前線を大きくかき乱したことで、左翼の援護と言う目的は遂げている。援軍の援軍、それも根無し草の劉備軍を相手に奮戦しても得るものは何もない。思春は配下の兵を引き連れ、敵陣を離脱した。





 戦場全体が孫呉優勢に進んでいた。
 特に中軍の蓮華の働きが目覚ましかった。黄忠の隊をかなり深く押し込んでいる。左翼も遊撃隊の援護もあって、劉備軍を相手に上手く混戦に持ち込んでいた。一方で主力と定めた右翼の押し合いは、幾分優位なまま膠着に入りつつある。

「出るわ」

 冥琳が一瞬苦い顔をして、頷いた。ここで一撃を加える効果が分からないはずがない。
 まずは黄忠。援軍の総大将を討ち、次いで黄祖をも討つ。
 二千騎を率い、右翼の祭の隊と中軍の間を抜けるようにして前線に出た。
 黄忠の隊は三段に組み、前線の第一段が槍を構え、第二段が矢を放ち、最後方の第三段がまた槍を携えている。第一段が敵を押し止め、第二段が矢を降り注ぐという堅実な戦い振りである。第一段が押し切られた時には、第二弾の弓兵も共に後退する。代わって第三弾が前進、第二段はその後方に付き、第一弾は最後方まで下がって隊を整える。つまり少しずつ後退しながらも二隊の槍兵が交互に前衛を務め、弓兵は常に第二段にあって斉射を続けている。弓兵が敵の攻撃の要で、黄旗もそこに掲げられている。
 結果、蓮華の隊は大きく敵軍を押し込むこととなるが、目に見える軍の進退ほど優勢と言うわけでもなかった。兵の犠牲自体は両軍それほど差がないだろう。
 荊州軍の練度はやはり高くない。弓兵の精度は悪くはないが、槍兵は腰が引けている。黄忠は前線を代わる代わる切り換えることで、腰の据わらない兵に奮闘を促していた。
 また蓮華が、敵第一段を切り崩した。先んじるように第二段は後退を開始し、要の弓兵を守るために第三段が前に出る。
 南海覇王を頭上に掲げ、数度小さく旋回させた。後続の騎兵の視線を集めたところで、真っ直ぐ振り降ろす。

「――――! ――――――!」

 背後から巻き起こる兵の怒号に、押し出される様に馬は駆けた。
 後退する第一段と前進する第三段が交差する瞬間は、槍での迎撃が来ない。歩兵同士ならそれでもそこでせめぎ合いだが、騎兵の突破力なら容易く抜ける。
 敵弓兵の中に飛び込んだ。混戦となれば弓兵は無力に等しい。それでも時折矢は飛んでくるが、力無い。矢を払い、兵を蹴散らしながら黄旗へ向かう。

「――――っ!」

 正面から、風を切って一矢が襲ってきた。祭や太史慈に勝るとも劣らない強弓。黄忠―――かつての弓の名手と祭に教えられた。
 連続して飛来する矢を払い除けるも、前進する馬の脚が落ちた。兵の影に隠れて、黄忠の姿は見止められない。それが一層矢への対応を困難にしていた。矢を継ぐ動きも見えなければ、気組みも読めない。ついに脚が止まった。
 縦列で続いた騎兵数騎が、雪蓮を追い越し前へ出る。直後には射止められていた。それで雪蓮だけでなく、騎馬隊全体の勢いを殺された。
 黄旗周辺の兵が動いた。わずか二百ばかりだが、弓ではなく槍を構えている。脚の止まった雪蓮と騎馬隊へ押し寄せる。―――先頭に一騎。

「っっ! 関羽かっ!」

 一人馬を駆る関羽が、最初に足を止めて雪蓮と対峙した。二百の兵は雪蓮と関羽を抜き去り、後続の騎馬隊へ槍を向ける。

「久しいな、孫策」

 何気ない口調で言いながらも、関羽は隙一つなく青龍偃月刀を構えた。

「ええ、久しぶり」

 雪蓮は対照的に、南海覇王をだらんと下段に垂らし隙を作る。
 侮る気持ちは微塵もない。劉備軍とは黄巾賊討伐の折にしばし行動を共にしている。その頃から関羽は他を圧倒する武威の持ち主であったが、当時は同盟中の曹仁を立てるようにして、正面切って敵将の首を上げるような戦はしていなかった。関羽の武名が世に轟いたのは、何と言っても汜水関の戦での、呂布との一騎打ちからだろう。敗れこそしたものの、それまでどんな相手をも鎧袖一触斬り伏せてきた呂布に馬を止めての打ち合いを強いている。孫策の目をから見ても呂布の武は傑出した域にあったのだ。呂布が戦場を離れた今、関羽の武名は同じく呂布と死闘を繰り広げた曹仁と並んで、天下の双璧との呼び声も高い。

「……やーめた」

 雪蓮はわざとらしく肩をすくめてみせた。

「退くか。らしくないな、孫策」

 誤解されがちだが、お決まりの総大将自らの突出も一騎打ちも、雪蓮にとって無謀な賭けではない。本人の中では確かな勝算があってのことだ。突出はそれで勝ちを確信した瞬間しかしないし、一騎打ちも五分の相手―――実力が同じなら自分は必ず勝つ―――以上に挑みはしない。
 関羽との一騎打ちとなれば五分と五分。いや、僅かにこちらの分が悪い。それでも相手が関羽となると要らぬ色気も湧いてくるが、今は一対一ではなかった。ちりちりと肌を刺す武威が黄旗の元から寄せてくる。関羽と対しながら、同時にあの強弓をも捌こうと思うほど、過剰な自信を有してはいない。

「追撃する?」

「……いや、やめておこう」

 関羽が青龍偃月刀を下した。
 黄忠隊の正面では蓮華の中軍との押し合いが続いている。本来第三段に付くべき槍兵も、騎馬隊に突破された混乱で前線を離脱出来ていない。この状況で二千騎との混戦となれば、なおも不利は黄忠隊である。

「そう。―――次は一騎打ちといきたいものね」

 雪蓮は馬首を返す。関羽はもちろん、黄忠の矢が背後を襲うこともなかった。



[7800] 第8章 第3話 江夏争乱 下
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/08/22 16:48
 荊州の援軍が黄祖の元へ到着し、戦が攻城から野戦へ移行して数日が過ぎた。
 戦場は少しずつ移動して、今は黄祖の築いた砦と夏口とのほぼ中間点に位置している。黄祖も野戦の初日から戦場に姿を現しており、移動に伴い砦は打ち捨てられた格好だ。孫呉も冥琳の判断で放置した。
 二度の遠征、都合一月の間孫呉の将兵を悩ませた砦と思うと惜しくもあるが、荊州攻略、あるいは防衛の上での要衝と言うわけでもない。黄祖が籠もっているからこそ落とす意味のある砦だった。このまま十里ほど東進した先の夏口こそ、黄祖の本来の本拠であり、荊州最大の戦略拠点にして孫呉の標的であった。今は黄祖の息子の黄射が数千の兵を率いて防衛に当たっている。敵軍の動きは、野戦を繰り広げながらも夏口への入城の機を窺っているようにも思えた。砦の確保に兵を割いていた場合、黄射の軍と合流されると現在優勢の兵力差は逆転する。それはただ数字の上でそうなったというだけの話で、雪蓮はさして気にもしない様子だが、彼女の軍師を自任する冥琳としては寡兵で夏口の攻城戦へ入ることは避けたかった。

「劉備軍が強いのは当然として、劉表の送り込んできた援軍の将。彼女たちも相当なものね。まさか、荊州にあのような将が隠れていたとは」

 早朝、出陣前の軍議の席で雪蓮が言った。冥琳は無言で頷き返す。

「今日こそ私が、黄忠の軍を抜いて黄祖の元へ至って見せます、姉様」

 援軍の主将の黄忠の用兵は巧みなもので、荊州の弱兵を見事補っていた。当人の弓の腕も祭、太史慈に劣らないだろう。さらには劉備軍から精鋭を率いた関羽が援護に加わっており、接近は困難だった。蓮華の軍が押しに押し、黄忠は無理せず下がる。中軍同士でのその繰り返しが、戦場を夏口へと近付けつつある。

「ええ、期待しているわ、蓮華」

 とはいえ、確実に敵戦力を削っているのが中軍のぶつかり合いだった。蓮華の率いる兵は弓兵への対応にもすっかり慣れてほとんど自軍に被害を出すことはなくなっているし、時折雪蓮の騎馬隊も介入してほぼ一方的に敵軍を叩いていた。

「本来その役目は儂が担うはずのところを、不甲斐無いところを見せてしまってすまんのう、策殿、権殿」

 ちらりと、右翼を率いる祭が恨めし気な視線を冥琳へ飛ばした。冥琳はどこ吹く風と顔を背けた。
 副将の厳顔と魏延と名乗るその副官は、祭を相手に奮戦している。魏延の旗下だけは荊州軍にあって精強で、よく厳顔と連係していた。黄忠が守りの戦なら、こちらは攻めの戦である。弱兵も、勢い込んで攻めに徹すれば怖い。まともにかち合えばそれなりの犠牲を覚悟する必要があった。
 そこで祭には、守りを固めていなすよう指示していた。祭も攻めの戦を好むが、守らせても上手い。実際、戦線こそ押し込まれがちながら右翼も犠牲はわずかだった。一方で矢に倒れた厳顔隊の兵は一千近くに上っていよう。冥琳に指示を変更するつもりはなかった。

「あうあう、それを言うなら私達の方こそ」

「ごっ、ごめんなさい」

 劉備軍に当たる明命と亞紗が揃って頭を下げた。左翼には遊撃の奇襲部隊である思春隊が援護に付きっきりとなっている。蛇矛の一振りで数人、時に十人余りもなぎ倒す張飛の武は如何にも前線向けで、思春隊による攪乱を失えば左翼の崩壊は時間の問題だろう。

「いいえ、貴方達はその調子で良いわ、ねっ、冥琳」

「ああ、よくやってくれている。分かっていたことではあるが、対峙するとはっきりと実感する。あの軍は同数では天下に並ぶものがない」

「そうそう、だからこのままの調子で戦線を維持してちょうだいね」

「はいっ」

 二人が声を揃えて直立した。
 実力で言えば、祭か総大将である雪蓮を劉備軍に当てるべきだろう。本気で劉備軍を潰すつもりなら、倍の兵力を有する太史慈をぶつけても良い。いずれにせよ、勝ちに行けば死力を尽くしたせめぎ合いとなる。劉備軍とぶつかって被害を増やすなど馬鹿げていた。劉備軍も援軍の援軍に過ぎない戦にそこまでの犠牲を払うつもりはないのか、張飛一人が気を吐いてはいるが、劉備のいる本隊や趙雲の隊は目立った動きを見せてはいない。今はこちらも明命と亞紗の勝ち気に逸らない用兵が適している。
 すでに孫策軍は全体で一千を超える犠牲を出しているが、荊州軍の被害はそれを大きく上回る。初日こそほぼ同数の損害を出したが、それ以降は明らかに孫策軍の犠牲は少ない。全体として戦の均衡は孫呉へ傾きつつあった。今も所在の知れない黄祖の伏兵数千への対策も兼ねて後方においたままの太史慈隊一万の圧力が効いている。
 このまま祭と蓮華を中心に戦を展開すれば、早晩敵陣は崩れる。そこで勝負を決めるか、夏口へと逃げ込むならば追撃で戦力を極力削り、そのまま温存していた太史慈隊による攻城戦に入る。ここは堅実に勝つ策を冥琳は取った。

「―――劉備軍から、使者が見えていますっ」

 兵が駆け込んで来て告げた。

「今さら使者を?」

「はい。……それがその、どうやら劉備本人のようなのですが」

「なんだとっ? 本人がそう名乗ったのか? 確認はしたか?」

 躊躇いがちに荒唐無稽なことを言う兵に、冥琳はつい詰問するような口調になった。

「はっ、はい。黄巾の乱の折に行軍を共にした者や、反董卓連合に参加した者に確認させましたが、間違いないと」

「しかし、敵陣真っ只中に自ら乗り込んでくるなど、考えられん話だ」

「ご、護衛として関羽と張飛を、それに諸葛亮も連れております」

 いくら関張の武が突出しているとは言っても、衆寡敵せずと云うものだった。ましてや孫呉には雪蓮を筆頭に、二人に匹敵する武人もいるのだ。

「これは、―――我らがその気になれば、劉備軍を瓦解させられるということではないか」

 劉備の義妹でもある二人は、主人の不測の事態にあっては劉備軍を引き継ぐ資格を持つ存在である。関張を伴っての劉備の訪問というのは、雪蓮が蓮華と小蓮を引き連れて敵中に乗り込むようなものだった。

「まあまあ冥琳、落ち着いて。兵が怖がっているわよ。―――つまりは、そういうことでしょう」

「そういうこと?」

「劉備は、己が命と劉備軍の存在を賭けて、私達に何か話したいことがあるのでしょう」

「簡単に言ってくれるな。相手は何となくの勘で命を賭けるお前とは違うのだぞ、雪蓮」

「劉備なら、それくらいのことはするでしょう」

 雪蓮が平然とした顔で言う。雪蓮にそう言われてしまうと、冥琳も不思議と納得した気になってくる。今も一寸の土地すら領してはいないが、劉備もまた乱世に一人立つ英傑であり、言ってしまえば雪蓮や曹操、袁紹と同じく大物である。この種の人間の考えることは、時に冥琳の常識の上を超えていく。

「さあ、いつまでも待たせているわけにはいかないわよ、冥琳」

「ああ、そうだな。―――会見の準備をっ! こちらは雪蓮と私、それに祭殿と太史慈が出席する。幕舎を張り、兵は百歩の距離をとれ。それと、思春、明命―――」

 冥琳の号令一下、すぐに全ての用意は整えられた。
 関羽と張飛の武器はこちらで預かることとし、中山靖王劉勝より伝わったという劉備の宝剣は携帯を許した。こちらも雪蓮だけは孫家伝来の南海覇王を帯びる。
 主君に武将二人、軍師一人の構成は劉備軍に合わせた。ただ諸葛亮とは違って冥琳は並みの武将以上に戦えるし、劉備の剣技は驚異たり得ない。何か仕掛けられるにしも、こちらから仕掛けるにしても、その場を支配するのは雪蓮の剣だった。加えて思春と明命には幕舎の側に敢死軍と解煩軍を率いて伏せさせた。
 万全の態勢を整え、孫策陣営は劉備達を迎えた。
 本陣内にあってぽつんと孤立して建てられた幕舎に、あらかじめ孫呉の四名は入った。入り口を潜る瞬間周囲へ視線を走らせたが、伏兵の存在を知る冥琳の目をして敢死解煩軍の兵の所在を突き止めることは出来なかった。幕舎の影か、土中にでも潜んだのか。劉備達にはまず露見することはないだろう。

「お邪魔しまーす」

 しばしあって、幕舎の入り口に人懐こい笑みを浮かべて劉備が立った。無警戒に一番乗りで幕舎に足を踏み入れると、すぐ後ろに関羽、張飛、諸葛亮が続く。

「孫策さん、それに周瑜さんに黄蓋さんも、お久しぶりです。それに、貴方は確か―――」

「太史慈よ。反董卓連合の時に目にしているのではない?」

「ああ、そうそう。袁術ちゃんの軍で唯一良い意味で目立っていた人だよね」

 劉備が言うと、太史慈が反応に困った顔で小さく頭を下げた。確かに当の袁術とその傅役にして将軍の張勲は、悪い意味で目立っていた。

「孫策さん、まずはお母様から受け継いだ揚州の奪還、おめでとうございます」

「貴方に言われても皮肉にしか聞こえないわね。―――貴方の方は、……変わらないみたいね。あのまま曹操軍に取り込まれていくものと思っていたのだけれど」

「えへへ、飛び出しちゃいました」

「この乱世の中、潰されもせずあっちに来たりこっちに来たり。それで兵力も軍備も失うどころか大きくしていくのだから、感心するわ。何か秘訣でもあるなら聞かせてもらいたいものね」

 劉備軍の兵力は現状では四千を超える。数百の義勇軍から初め、反董卓連合に名を連ねる頃には一千の兵を率いていた。その後も流浪の中でも軍への志願者は絶えず、徐州の陶謙や曹操軍に軒を借りる間にさらに劉備を慕う者が集まった。曹操軍からは諸将を引き連れるだけの夜逃げ同然の出奔であったようだが、再び劉備が立つとすぐに兵は集結した。その際、曹操軍の兵士からも劉旗の元へ駆け付ける者が出たようだ。数百の脱走者の存在が報告されている。

「うーん、自分でもなんでこんなに大勢が付いて来てくれるのか。―――あっ、朱里ちゃんや愛紗ちゃんがしっかりしてるからかな?」

「鈴々もいるのだっ」

「うん、鈴々ちゃんも兵に慕われているよね。やっぱりみんなのおかげかな?」

「お戯れを。兵にもっとも慕われているのは桃香様ではありませんか」

「ええっ、そうかなー?」

「んんっ。―――それで、本日はどのような御用向きで?」

 いつまでも続きそうな寸劇を咳払い一つで遮ると、冥琳は本題を促した。劉備が真剣な眼差しを雪蓮に向ける。

「孫策さん、荊州から手を引いてください」

「……なあに? また戦場を駆けずり回る正義の味方を続けるつもりなの? 私は荊州に劉備軍が入ったと聞いて、ついに領土を手にする気になった貴方が、自分のものにしてしまうつもりなのかと」

「領土は取ります。でも、それは荊州ではありません。孫策さんが戦を止めてくれれば、私達はここを出て徐州に向かいます」

 劉備は平然と言ってのけた。

「早速袂を分かった曹操の領地を侵略するか。確かに正義の味方は終わりにするみたいね」

 徐州は短い間に陶謙、呂布、曹操と主が代わった地である。曹操領内においては最も火種を抱えた土地で、数ヶ月ではあるが劉備軍も駐留している。劉備に心を寄せる者も少なくはないだろう。

「だから孫策さんにも、一時荊州侵略の手を休めて欲しいの」

「……それは、我らと反曹操連合を組もうということか?」

 冥琳の問い掛けに、劉備に代わって諸葛亮が答える。

「本拠を持たない我々です、孫策さんと対等の盟を結べるとは思いません。ただ、天下を狙う者にとって、今一番に警戒しなくてはならないのは誰かということです」

「曹操が袁紹という大敵を抱える今を逃すなと」

「はい。河北まで手に入れられては、もう手の出しようがありません」

 劉備や諸葛亮にとって、袁紹との戦に曹操が勝つのはすでに確定事項のようだった。
 軍学に照らし合わせるなら、袁紹軍の勝ちは堅い。二倍近い兵力差があり、つい最近まで戦の連続であった曹操軍に比べ兵糧武具の備えも万全だろう。だが曹操軍の勝利と言うのは、雪蓮の勘が告げた結果と一致していた。
 冥琳はそこには口を挟まず、小さく頷き返すだけに留めた。

「……私は、父祖の地である呉を袁術から取り戻し、母の仇である黄祖を討てればそれで十分だと言ったら?」

 雪蓮が諸葛亮に向け挑発的な笑みを浮かべる。

「それはっ」

「―――それは嘘。孫策さんって、華琳さん―――曹操さんと同じ目をしているもん。それに、仮に孫策さんからは攻めなくたって、いずれは曹操さんの方から勝手に来ます。そしてその時は、手の付けられないほど曹操さんは巨大になっているかもしれない」

 息を呑んだ諸葛亮の言葉に繋げるように劉備が言う。

「話は分かったわ。でもそれは、貴方達がいま荊州軍に付いている理由にはならないのではない?」

「どっ、どういう意味でしょうか?」

 組するならこちらと見たか、雪蓮は悪戯っ子の笑みで身を乗り出すと諸葛亮の顔を覗き込んだ。劉備はとぼけているのか、それとも本当に分かっていないのか、表情を崩さない。

「これでも私は貴方達を高く評価しているわ。劉備軍が我らに協力するなら、荊州の攻略は容易い。今の荊州はいくら貴方達が説いても侵攻戦にまで兵を出しはしないでしょう。それなら荊州は私達が手にした方が曹操に痛撃を与えられるわ。揚荊二州―――つまり江南のほぼ全域を制した私達と、河北の袁紹での挟撃」

「それは買い被り過ぎだよ、孫策さん。私達にはたった数千の兵力しかないんだから」

 諸葛亮ではなく、劉備が答えた。

「同数で当たれば、並ぶものの無い数千ね。荊州軍を相手に野戦なら、倍の兵力と対しても負けるものではないでしょう。それに貴方が、劉玄徳が兵を募れば、すぐにも一万や二万の義勇兵は集まるでしょうし。こんな分の悪い会談を設けるよりも、よほど勝算があるんじゃない?」

「そうかな? 現に孫策さんは聞く耳を持ってくれてるみたいだけれど」

「この戦を早期終結させると言うのなら、こういう手もあるのう。 ―――明日の戦場で、劉備軍が荊州軍に攻め入る」

「―――っ、それは。……それだけは出来ませんっ」

 祭の提案に、ようやく劉備の笑みが崩れた。

「そうか。……しかし長く世話になった曹操をこれから討とうというのだ、黄祖を裏切るくらい訳ないと思うがのう。お主らの布陣からなら、黄祖のいる本陣は容易く落せようし、あるいは夏口に入城後に城門を開いてくれても良い。黄祖を討ち夏口さえ抑えてしまえば、もはや荊州の喉元に刃を突き付けたも同じ。速やかに侵略を遂げるも、あるいはそれは一先ず置き、先に曹操と一戦交えるというのも悪くないのだがのう」

 祭が未練がましく続けた。
 劉備が受け入れるはずもない提案である。孫策軍の将士としても、そんな形で黄祖を討つことを望んではいない。当然、祭自身もだ。しかし、理屈は通っている。孫策軍の理を感情で拒絶する以上、今後の交渉で劉備軍は一歩引かざるを得ない。こうした物言いは、穏はともかく亞紗にはまだ無理だろう。祭はやれば出来る人だった。

「それをしてしまえば、劉備軍は劉備軍たり得ませんっ」

 雪蓮の視線に小さくなっていた諸葛亮が声を張った。

「ほう。どういう意味じゃ?」

「劉備軍は桃香様の義あって初めて成り立つものです。孫策さんは桃香様が兵を募れば一万や二万はすぐに集まると仰いましたが、それも桃香様に人望あってのこと。目的のために孫策軍の侵略に協力したり、連合中の味方を騙し討ちするようなことをすれば、桃香様の人望は失われ、最悪の場合は今いる劉備軍の兵すら離れていくことでしょう」

 先刻まですくみ上っていた諸葛亮の舌鋒に、雪蓮も劉備達も思わず聞き入っている。

「そうなれば荊州攻略のお役には立てませんし、曹操軍とも孫策軍単独で戦って頂くことになります。もちろんそれは、荊州攻略を速やかに完了された場合の話です。荊州攻略より曹操軍と袁紹軍の戦の終結が先ならば、戦うまでもなく踏み潰されるだけとなるでしょう」

―――よく言うわね。

 頬を紅潮させて言い募る諸葛亮に、冥琳の思考は冷ややかだった。

―――荊州まで取っては、孫策軍が大きくなり過ぎる。

 それが本心だろう。
 中原や河北と比べて、江南では一州一州が広大だった。揚州も荊州もそれぞれに中原を丸ごと収めることが出来るほど広い。仮に曹操が河北を完全に平定したとしても、孫呉が揚州に加えて荊州までを支配下に加えれば単純な領分の広さで言えばそれに勝る。人口では当然中原には劣るが、それも黄巾の乱から続く戦乱で中央からの避難民が増え、今ではその差はかなり小さくなっていた。
 今、孫策軍が荊州を手にすれば、袁紹軍、曹操軍にも並ぶ大勢力だ。首尾良く曹操軍を討った暁には、中原を袁紹軍と分かち合うことになるだろう。あるいは、ここで曹操軍が生き残ったとしても長江以南は孫呉のものとなる。
 冥琳の企図もそこにある。中原の勢力が持たない水軍の力を結集すれば、如何に曹操が大勢力を築こうと長江以南を維持する自信はあった。天険の要害で知られる益州も、長江を遡れば侵攻は容易い。広く地勢に優れた揚、荊、益の三州を持って孫呉と為す。もって天下を二分し、その後北へと打って出る。そのために荊州は是が非でも必要な地だった。
 冥琳の想定する最悪は、袁紹を破った曹操が孫呉に先んじて荊州をも併呑してしまう状況だ。孫呉が荊州攻略に手間取れば、その可能性は決して低くはない。曹操が中原四州に加え河北までを手にすれば、天下の趨勢はほぼ定まったと見る者は多い。劉表は抗いもせず降るだろう。荊州にはお世辞にも精兵とは言えないながらも水軍が存在している。孫呉は領土拡張の拠点を奪われるとともに、水軍の利をも失うことになるのだ。
 諸葛亮がその弁舌の中で繰り返し荊州攻略と連呼するのも、そんな冥琳の心算を読んでの事だろう。

―――大人しい顔をして、大した娘だ。

 砦を放棄しあえて野戦を選んだのも、劉備軍の力と荊州の隠れた将才を見せつけるためか。諸葛亮は、この会談が不調に終われば劉備軍は孫呉の荊州攻略を全力で阻止すると脅しを掛けていた。





 周瑜と今後の動きに関する打ち合わせに入った朱里と、その護衛に愛紗を残し、桃香は鈴々だけを連れて自陣へと帰着した。

「―――俺より強い奴がいるなんて嘘つきやがったな、爺さんっ!」

「はっはっはっ、すまんな。孫策がこちらに来ているのをすっかり失念していた。留守を任された妹では不足であったか?」

「ふんっ、聞けばまだ小娘と言うではないか。目当ての姉がいないからといって、子守りが出来るかよっ」

「―――黄祖さん、その人は?」

 喧騒に導かれ足を進めると、本陣の幕舎を前に黄祖と一人の女性が向かい合っていた。
 女性は黄祖―――男性としては中肉中背の体格の持ち主―――よりも頭一つも抜けた長身である。だが身の丈以上に目を引くのは、その特異な格好の方であった。身長相応に豊満な肉体は毛皮で胸と股間、それに手足の先端を覆うのみであとは惜しげもなく露出されている。しかしそんな格好すらもおまけで、一番の特徴は頭の上に生やした獣の耳を象った装飾だった。ピンと立った耳は忠犬を思わせるが、毛皮と揃いなら狼だろうか。

「おお、劉備殿、戻られたか。孫策との話し合いはどうなりましたかな? ―――それでは」

 にっこり笑って上首尾を示すと、黄祖も顔を綻ばせた。

「はい、数日のうちに陣を払うそうです」

 まずは荊州侵攻の中断と、反曹操軍の共同戦線に関しては孫策からの合意が得られた。ここからは周瑜と朱里の話し合いであるが、すでに相当な譲歩を孫策軍には迫っている。何かしらこちらに不利な条件は覚悟すべきだろう。

「おお、劉備殿の申した通りになりましたな。さすが―――」

「―――劉備って、あの劉備か?」

 黄祖の言葉を遮る様にして少女―――体格には目を見張るも、顔付きを見ればまだ少女と言える幼さを残している―――が、前に出た。

「はい、劉玄徳と申します。どの、かは分かりませんが」

「ほうほう。歴戦の勇将と聞いているが、あまり強そうには見えないな」

 少女は名乗り返しもせず、興味深そうに桃香の頭の天辺から足の爪先まで何度も視線を上下させる。

「彼女は沙摩柯という。荊州の山岳に暮らす者達の王の一人だ」

 黄祖に視線で問うと、あまり気乗りしない口調で紹介された。
 中華の民からは南蛮と呼称される異民族の長ということになる。南方異民族の民は荊州や揚州、益州では漢人と共存しているというが、深く交わることもなく独自の文化を形成している。桃香にとってそれはあくまで伝え聞いた話であり、実際に南方異民族の人間に会うのはこれが初めてである。
 中華の各地を転戦してきた桃香だが、実はこれまで長江を渡ったことはなかった。生まれは北辺の幽州であり、愛紗と鈴々、そして曹仁と出会ったのも幽州。黄巾の乱では主に河北を主戦場としたし、反董卓連合の戦や徐州での騒動、長らく滞在した華琳の本拠はいずれも中原であった。その間も戦地を転々としているが、江南まで足を進める機会は不思議となかった。

「何にせよ、ちょうど良かった。孫策が駄目なら関羽でも張飛でも趙雲でも良いっ! 漢人の武を見せてもらおうじゃないか!」

 少女が叫ぶと、頭上の獣の耳がまるで生き物のようにぴくぴくと動いた。

「張飛? 鈴々ちゃんならここにいるけど?」

 護衛として寄り添ってくれている鈴々に、桃香は視線を落とした。

「おおっ、お前が張飛かっ! ―――って、これまた小さいなっ!?」

 鈴々が、むっと気色ばんだ。言い返さないのは、桃香の護衛中という意識があるからだろう。曹操軍にいる間に許褚や典韋から学んだ自制心である。

「こんなチビが漢人を代表する武人かよ。これじゃあ、関羽や趙雲にも期待出来ねえな。やっぱりお前達漢人は口ばかりだな、爺さんっ」

 沙摩柯は急速に鈴々から興味を失った様子で、再び黄祖へ向き直った。義姉の名まで出されては、鈴々の我慢もさすがに限界だろう。

「言うだけ言って逃げるんですか、沙摩柯さん」

「――――っ! お姉ちゃん」

 桃香の一言が、今にも飛び掛かりかねない鈴々の機先を制する形となった。狙っての発言ではない。単に桃香も鈴々と同じように我慢の限界に達したというだけの事だった。

「今、何か言ったか、劉備?」

「逃げるんですかと言いました、沙摩柯さん。都合が悪い言葉は聞こえませんか? 南方の方は耳が達者なんですね」

「貴様っ」

 詰め寄ろうとする沙摩柯と桃香の間に、鈴々が割って入った。

「このチビを俺と戦わせようってのか、劉備? 俺は手加減なんざしないぞ。こいつの命が要らないってのか?」

「私はそうはならないと思うけど」

「このチビが俺より強いってのか?」

「うん、ずっとね。―――あっ、鈴々ちゃんはちゃんと手加減してあげてね」

「―――っっ! 上等だっ、やってやろうじゃないかっ!」

 沙摩柯は鈴々へ顎をしゃくると歩き出した。幕舎前には少し開けた場所があって、そこでやり合おうというのだろう。

「……お姉ちゃん」

 鈴々が呆れたような表情でこちらへ視線を向けた。桃香はにこりと笑みを返した。

「いや、助かった。これで沙摩柯も納得します」

 黄祖が隣りへ来て頭を下げた。

「実は前回、孫策軍を退かせるために彼女を煽ったのです」

「ああ、揚州での異民族の反乱」

「ええ、中核になった二千は沙摩柯の部族の者です。まあ見ての通りの人物ですが、あれで荊州だけでなく揚州も含む異民族の若者達には不思議と人望があるのです。彼女が旗を掲げると結局一万近い兵が集まりました」

「それで、煽ったというのは?」

「自分が天下で一番強いと思っているような人間ですからな。揚州の孫策はお主より何倍も強いと言ってやったのです」

「それだけで兵を率いて?」

「ははっ、まあ憎めないところのある奴です」

 確かに微笑ましいくらいの単純さで、黄祖の気持ちも分からなくはない。

「しかしお噂に聞く印象と違い、口が立ちますな、劉備殿は」

 まるで自分と口喧嘩をする時の華琳のように、口からぽんぽんと言葉が飛び出した。華琳にはいつも言い負かされてばかりだったが、それで身に付けてしまったものがあったのだろう。

「ちょっと意地の悪い言い方をしてしまいました」

 怒気が治まると、自責の念も湧いてくる。自分と喧嘩した時の華琳も、こうだったのだろうか。思い起こせば、喧嘩後はいつも華琳の方から先に謝ってきたものだった。
 そんなことを考えている間に、鈴々と沙摩柯の準備が整ったようだった。歩幅にして四つか五つ程の距離を置いて、二人が構えている。

「さあっ、俺の明星を受けてみろっ」

 沙摩柯は見慣れぬ武器を振り回しながら飛び込んでいった。片手で扱える長剣程度の長さの鉄の棒の先端に、いくつもの棘が飛び出た球が付いている。沙摩柯の言う明星とは、この得物の事なのだろう。先端の球体は、確かに見様によっては星に見えなくもない。

「……」

 鈴々が、虫でも追い払う様に無造作に蛇矛を振るった。間合いを詰めに掛かっていた沙摩柯が、弾かれたように距離を取る。まともには受けられないと判断したのだろう。確かに口だけの武人ではないらしかった。

「ふむ、沙摩柯も儂などよりずっと腕が立つが、やはり張飛殿は強いのう」

 落ち着いた顔で二人の戦いを見つめながら、黄祖が溢す。

「―――くそっ、やる気あるのかっ!」

 沙摩柯が前へ出る度、鈴々が蛇矛を振るった。蛇矛は一丈八尺の長さである。距離を詰め切れず、焦れた様子で沙摩柯が叫ぶ。
 愛紗なら真っ向から受け止めて、星なら衝撃を受け流して、いずれも蛇矛の攻撃を捌きながら間合いを詰めるだろう。沙摩柯には愛紗ほどの膂力も、星ほどの技量もない。身ごなしは素早く、決して弱くはない。鈴々の代わりにあそこに立っているのが桃香なら一合も打ち合えはしないだろう。だが到底天下一を名乗れるほどのものではない。

「そんな遠くからぶんぶんと振り回すばかりで、漢人は打ち合いも出来ねえのかっ」

「……それじゃあ、これでどうなのだ?」

「へっ、やっとやる気になったか」

 沙摩柯の挑発に答えて、鈴々が蛇矛の中程を握った。柄の根元近くを持って振り回していた今までと比べると、間合いはちょうど半分ということになる。それでも沙摩柯の明星よりは長いが、ぐっと二人の距離は縮まった。たった一歩踏み込むだけで、沙摩柯の攻撃も十分に当たる。

「いくぞっ」

 沙摩柯が今までの鬱憤を晴らす様に、一息で間合いを詰めた。上段から打ち落とされる明星を鈴々は半身になって避け、両者が馳せ違う。

「逃がすかっ!」

 距離を取ろうとした鈴々に、沙摩柯が追いすがる。上下左右から巧みに打ち分ける明星の攻撃は見事と言って良いものだが、鈴々は体捌きだけで全て躱す。

「―――うおっ」

 鈴々が蛇矛で明星を跳ね上げた。初めての接触である。その衝撃は沙摩柯の予想をはるかに超えるものだったのだろう。小柄な鈴々を押しつぶす様に前のめりに攻め立てていた沙摩柯の上半身が大きく仰け反った。それでも明星を手放さずに握っているのは、大したものだった。
 鈴々が沙摩柯の横をすり抜けるように駆けた。直後、沙摩柯の身体が中空で一回転した。

「ぎゃんっ!」

 尻から地に落ちた沙摩柯は、犬の鳴き声のような悲鳴を上げた。

「大丈夫かー?」

「くっ」

 沙摩柯は足首を抑えて蹲っている。立ち上がることが出来ないようだ。心配そうにのぞき込む鈴々に、沙摩柯は悔しそうに目を逸らした。
 すれ違いざまに、蛇矛の柄で足を払われたらしい。結果から推測されることで、桃香の目にはその瞬間の動きは捉えきれていなかった。
 鈴々に肩を借りて立ち上がった沙摩柯は、ひょこひょこと片足で跳ねるようにしてこちらへやってくる。

「くそっ、俺の負けだ」

 沙摩柯は意外にも素直に敗北を認めた。
 先刻は耳に目が引かれて気が付かなかったが、沙摩柯の毛皮の尻の部分には尻尾を模した装飾が付いていた。それが、犬がそうする様に小さく丸まっている。

「しかもこのチビ、―――張飛、いや、張飛殿は、俺に合わせて得物を短く持ち直した上、劉備、―――様に言われた通り、本当に手加減しやがった」

「ほう、そうか。それなりに良い勝負をしていたように見えたがな」

「俺が立って歩けているのがその証拠だろうよ。脛を叩き折ることだって出来た、むしろそっちの方が簡単だってのに、張飛殿は大怪我しない様に優しく俺を投げやがった」

 鈴々の腕力で蛇矛で足を払えば、空中に投げ飛ばされるのではなくその場で骨が砕ける。鈴々は絶妙な力加減をしたのだろう。

「まあ、上には上がいるということじゃな。もし儂がお主と立ち合っていれば、手加減してもらわねば一振りで叩き潰されるわ」

「ふん、爺さんに勝てたところで、自慢にもならん。…………劉備様、張飛殿」

 沙摩柯は痛めた片足を庇いながら地面に跪いた。

「―――この沙摩柯と一族郎党を軍の端にお加えください」

「軍? えっと、私に言うということは、荊州の黄祖さんの軍ではなく、私達の軍に加わりたいということかな?」

 唐突な話にさすがに桃香は戸惑った。黄祖は得心した表情で小さく頷いている。

「ずっと、戦に出て名を上げたいと考えておりました。ですが、口ばかりの者には使われたくはありませんでした。爺―――黄祖殿は俺が見た中ではいくらかましな部類ですが、仰ぎ見るべき主とは思えません。やっと待ち望んでいた主君に巡り会えたと思っております」

 沙摩柯の表情は至って真剣で、言葉に嘘もないようだ。桃香は、しばし考えてから答えた。

「……黄祖さんに聞いたけど、沙摩柯さんは二千の兵を従えているんだよね? 二千というと、今の私達の兵力の半分近い数だ。領土を持たない私達が、急に養える兵力じゃない」

 華琳の庇護下にある間も志願兵は少しずつ集まり続け、一年余りで二千数百だった兵は倍近くまで膨れ上がった。さらに曹操軍から離脱してまで桃香の元を選んでくれた兵数百を加えると、兵力は五千近くまで達していた。再び流浪を開始した今、ただ軍を維持するだけでも朱里や雛里にはかなりの困難を押し付けていた。

「食い物や軍備は、これまでと同じく自分達で整えます」

「それでは、劉備軍の一員とは言えないよ。ただ軍旅を共にしているだけの別の軍勢だ」

「しかし、俺はっ」

「劉備殿、儂からもお願いします。喧嘩っ早いが、悪い人間ではない。それは、もう劉備殿もお分かりと思うが」

 黄祖が頭を下げた。

「……分かりました。それなら今は荊州に留まり、命を待って。あえて貴方達の生活を放棄することはないよ。時が来れば必ず呼ぶから、それまで兵を鍛え、有事に備えて欲しい。そして私の命と思って、黄祖さんの頼みにこれからも協力してあげて」

「……いずれ旗下に加えると、お約束頂いたと思ってよろしいのですね?」

「うん。証として授けるような土地も財物も私にはない。だから、私の真名―――桃香を貴方に預けます」

「有り難き幸せにございます。俺のことも真名で駆胡(くう)とお呼び下さい」

 沙摩柯が跪いたまま頭を下げると、嬉しそうにぱたぱたと揺れる尻尾が見えた。

「じゃあじゃあ、鈴々のことも鈴々って呼んでくれて良いのだっ」

「はっ、有難うございますっ!」

 沙摩柯はさらに深々と頭を下げた。尻尾は壊れてしまわないか心配になるほど、さらに激しく振られている。桃香に対してと言うより、自分を打ち負かした鈴々に心服しての臣従だろう。そういう人間がいても構わない。兵の中には桃香以上に愛紗達三将を慕う者もいるだろうし、朱里や雛里の元で文官の仕事をする者達にとって二人は絶対だろう。愛紗も鈴々も星も朱里も雛里も、全員揃っての劉備軍だった。

「―――それでは、私は一族の者に早速この事を伝えに帰ります。桃香様、鈴々殿、お呼び頂ける日を心待ちにしておりますっ!」

 沙摩柯は一度びしりと直立して見せると、足の痛みももう気にならない様子で意気揚々と引き揚げて行った。

「なんだか変わったお姉ちゃんだったのだ!」

 沙摩柯の尻尾の揺れる後姿が消えると、鈴々が口を開いた。

「不思議な飾りを付けていたね。耳も尻尾も、沙摩柯さんの感情に合わせて動いているように見えたけど」

「おや、知らぬのですか?」

 黄祖が意外そうな顔をする。

「南方異民族の、特に王族など父祖の血が濃い者の中には、獣の身体の一部を持って生まれる者がいると言われております」

「えっ、それじゃあ、あの耳と尻尾は、……本物?」

「うむ、直接聞いて確認したわけではありませんが。この辺りの異民族は五帝の一人高辛の娘を娶った犬神槃瓠の末裔とされております。だから犬の耳に犬の尻尾なのでしょう」

「……びっくり。でも、それなら―――」

「触らせてもらえば良かったのだっ!」

「ほほっ、あの懐きようなら、それぐらいは許してくれたじゃろうの」

 鈴々が桃香の思いを代弁すると、黄祖が楽しそうに微笑んだ。



[7800] 第8章 第4話 窮地
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/09/18 06:17
 袁紹軍との対峙が続いていた。
 麗羽自らは本拠鄴を動かず、兵力は黎陽を中心に魏郡南域に配置している。曹操軍にとっての前線基地白馬、延津に当たるのが黎陽で、戦の本営である官渡に相当するのがそのまま本拠地鄴という構えだった。
 曹操軍が呂布軍と熾烈な戦いを繰り広げている間、袁紹軍もただ遊んでいたわけではない。かつて南征のために集結させた二十万からさらに兵力を増し、集められた兵は二十五万に達している。鄴には麗羽自らが率いる十万を置き、黎陽には淳于瓊らが率いる八万を配し、残る兵力は鄴と黎陽を結ぶ各拠点に点在している。それとは別に数万の輜重隊も組織していて、侵攻の準備は万全と言ったところだろう。
 対して曹操軍は総勢十四万を兗州東郡に集めていた。延津に春蘭指揮下の四万、白馬に曹仁隊三万、官渡には華琳旗下の騎馬隊五千騎と歩兵一万に、凪の重装歩兵隊一万、沙和の新兵隊二万が入っている。官渡、白馬、延津を結んだ領域内を、遊撃隊として霞の一万騎と張燕の一万五千が動いていた。また十四万の兵力とは別に、真桜の工作隊五千が三つの拠点それぞれに分駐している。
 領内各地にわずかずつ守備隊を残してはいるが、すでに曹操軍のほぼ全軍を集結させたと言って良い。それが出来たのも背後に抱えた難敵―――劉備軍と孫策軍が潰し合いを始めてくれたからだ。劉備軍との戦いを想定していた曹仁と華琳にとっては肩透かしを食う結果だが、曹操軍としてはこれ以上ない僥倖と言えた。
 兗州東郡と冀州魏郡、境を接するこの二つの郡が戦の主戦場となるのは間違いない。魏と言うと、曹仁の世界で後に曹孟徳が立てる国の名である。つまり華琳の封地となるということで、勢力圏に治めるということでもある。曹仁にこの時代の合戦の知識はほとんどなく確証は持てないが、恐らくあちらの世界の歴史ではこの戦で曹操軍が袁紹軍を下すのだろう。
 両陣営、いつでも動き出せる布陣を組みながらも膠着が続いていた。曹操軍には劉備軍と孫策軍という外憂が存在したため、これまでは簡単に兵を動かせない戦況にあった。対して袁紹軍に不安材料はない。背後に広がる北方異民族の世界とも良好な関係を築いており、今回も烏桓族から援兵を送られている。前回唯一曹操軍と交戦した烏桓の騎兵隊である。率いるのも同じく単于自らという。
 それでもなお戦況は動かず、麗羽からの引き抜き工作が続いていた。つまり麗羽は、華琳に自ら頭を垂れさせるという夢をいまだ捨てきれずにいるのだった。

「仁ちゃん、蘭々ちゃん」

 幸蘭が小さく手を振りながら駆け寄ってきて、曹仁の右隣に腰を降ろした。左隣にはすでに蘭々が陣取っていて、姉妹に挟まれた格好だ。
 今日は主だった将軍から文官までが官渡城に集まっての軍議だった。前線からも、文官達が残る本拠地許からも馬で一日掛からない官渡城は、軍議には格好の立地である。袁紹軍に大きな動きが見られないため、曹仁や春蘭ら前線の将も後顧の憂いなく呼集に応じている。瀬踏み程度に兵を動かすことはあっても、曹操軍への本格的な侵攻ともなれば麗羽は自ら前線に赴き、盛大に閲兵式の一つもぶち上げてからの堂々たる進軍をとるだろう。大軍に兵法無しを地で行く麗羽の動向は探るまでもなく知れるのだった。

「なんだかご機嫌ですね?」

「そうか?」

「そうですよー。蘭々ちゃんもそう思いますよね?」

「うん、さっきからずっと馬鹿みたいににやにやしてる」

 幸蘭の言葉に、蘭々も同調した。

「馬鹿みたいとは、失礼な」

「だって馬鹿みたいなんだもん」

「蘭々ちゃん、あまり汚い言葉を使わない」

「はーい」

 馬鹿程度は悪口のうちにも入らないと思うが、幸蘭は蘭々をかつてのお嬢様然とした少女に戻すことをまだ諦めてはいないようだった。

「それで、仁ちゃん? 何か良い事でもあったんですか?」

「いや、別に」

 もう少しすると、華琳が軍議の間に姿を現す。華琳と会うのは口付けを交わしてからは初めて、告白を受け入れられてからは二度目だった。

「う~ん、別にって顔ではないような気がしますが」

「ほんとだ。ちょっとほっぺた赤い」

 幸蘭の視線から逃れるように顔を背けると、今度は蘭々と目が合った。
 これは何とも居辛い席になったと、曹仁は閉口した。
 軍議の席次は明確に定められてはいない。軍議の規模によってコの字型に並ぶこともあれば、ずらりと縦横に整列することもある。慣例として華琳に対して左に武官が、右に文官が並び、それぞれの一番華琳に近い位置に春蘭と荀彧が陣取る。あとは地位や議題に合わせて各々が好き勝手に席を決める。幸蘭と蘭々に挟まれるのは曹仁には馴染みの並びだが、今日ばかりは避けるべきだったかもしれない。
 自然と笑みを形作ろうとする口元をもみほぐしながら、曹仁は後悔した。

「仁がどうかしたのか?」

 騒ぎを聞き付けて、最前列の春蘭までがこちらを振り向いた。当然、その隣に座る秋蘭の視線も曹仁にそそがれる。

「挙動不審」

 蘭々がばっさりと切り捨てるように言う。

「……ふむ、確かに頬が少し赤いな。風邪でも引いたか、仁? 前線を預かる将なのだから、体調にも気を付けないといけないな」

「なにっ、風邪だとっ! 気合が足りていないな、仁。わたしは生まれてこの方風邪など引いたことがないぞ、はっはっはっ」

 秋蘭が怜悧な視線を飛ばすと、春蘭は能天気に笑い飛ばした。

「う~ん、体調が悪いようにも思えませんけれど。そうだっ、お熱を測りましょうか」

 言うと、幸蘭は手で前髪を持ち上げて目を閉じた。
 額と額を重ねて、熱を比べようというのだろう。曹仁や蘭々が体調を崩すと、いつも幸蘭はこうやって熱を測る。当然この上なく照れ臭いが、姉からの愛情を感じられて曹仁も嫌ではなかった。

「…………」

「……どうしました? まだですか、仁ちゃん?」

 今まで気付かなかったが、幸蘭は心持ち顎を突き出す様にして待っている。額同士を密着させようというのなら、本来顎を引いて額の方を突き出すべきだろう。そもそも目を閉じる必要はあるのだろうか。これではまるで、口付けでもねだる様に―――

「―――何をしているのかしら?」

 声に、曹仁は身を仰け反らせた。

「あら、華琳さま。もういらしたのですか。仁ちゃんがにやにやしたかと思えば赤面したりと、どうにも体調が悪そうなのでお熱を測ろうかと」

「仁の具合が悪い? ……前線を担う将軍に調子を崩されては困るわね。そういうことなら、後で医者に薬を出させましょう。仁、軍議が終わったら私の部屋に来なさい」

「は、はいっ」

 幸蘭の説明と曹仁の様子から全てを悟ったのか、華琳はそれだけ言うと軍議の出席者と向かい合う段上に腰を降ろした。頬杖を突くようにして頬から口元までを手で覆い隠したのは、華琳も赤面しているからだろうか。
 華琳が所定の位置に付くと、がやがやと賑やかだった場は水を打ったように静まり返った。

「―――桂花、始めなさい」

「はいっ、まずは―――」

 華琳が口を切ると、荀彧が最初の議題をあげた。
 軍議には自由な空気があって、各々が意見を戦わせている。口を閉ざし黙って耳を傾けている華琳が口を開いた時だけ、全員が静寂と緊張に包まれる。
 軍議と言っても、文官も含む曹操“軍”首脳陣による会“議”のことであり、内容は軍事の事だけに留まらない。しかし今回に限っては、やはり袁紹軍への対応が最大の議題であった。
 構えとしては、白馬、延津で渡渉する袁紹軍を迎え撃つ陣形が整っている。後背に不安が消失したことで、華琳はこちらから攻める戦を口にした。春蘭がこれを支持し、文官達が反対する。荀彧が騎馬隊や一部の部隊のみが潜行して輜重や本陣を窺うという折衷案を出すと、これに賛成する者も現れた。特に実働部隊となる遊撃の騎兵を率いる霞は乗り気だった。

「各個撃破の危険性があるわ」

「それはっ、―――確かにその通りです」

 華琳が用兵の基本を口にすると、荀彧が肩を落とす。

「いやいや、華琳様。ウチの騎馬隊を舐めてもらったら困りますわ。袁紹とこの兵なんかに、捕まりゃしません」

「烏桓兵を忘れていない?」

「そういやおったな。地元の幷州におった頃は、蹋頓の噂は何度か耳にしましたわ。曹仁、実際のところ、蹋頓の用兵はどんなもんなん?」

「ん? ―――あっ、ああ、そうだな」

 霞に話を振られて、曹仁は慌てて蹋頓単于と烏桓兵に関する雑感を並べた。集中力に欠けた曹仁の様子に、華琳が不満そうに口をとがらせる。

「やはり全軍で渡渉して決戦を挑めば良いではないかっ」

「この兵力差でそんなの無謀よっ」

「まあ、ウチはどっちでも構へんのやけどな~」

 春蘭がまた全軍での攻勢に話を戻し、荀彧が喧嘩腰に受ける。いずれにせよ攻撃部隊に加わることになる霞はどっち付かずで、他の武官達は主に春蘭を支持し、文官達は荀彧に同調した。

「―――ふうっ、まだ時間がかかりそうね。少し休憩を入れましょう」

 議論が平行線のまま一刻(30分)余りも続いたところで、華琳が口を挟んだ。

「はいっ、華琳さま。でしたら、お茶の御用意でも―――」

「―――仁、付いていらっしゃい」

 荀彧の言葉を遮るように口にすると、華琳はさっと曹仁の手を取って駆け出した。



「――――――お前って結構キス魔だよな。……意外、でもないのか」

 背中を壁に押し付けられ、顔だけ引き寄せられた格好で、曹仁は言った。連れ込まれたのは軍議の間から少し歩いた先の廊下の突き当たりで、他に人の気配はない。

「きすま? ああ、キス魔、キスね。たしか貴方の世界の言葉で口付けのことだったかしら」

「春姉や荀彧辺りが探しているんじゃないか? 姉ちゃん達は――――――っ!」

「こんな時に他の女の話をするんじゃないの」

「すまん」

 ここは素直に謝罪しながら、曹仁はつねられた頬を撫でた。

「余計な事なんて、考えられないようにしてあげる」

「――――っ!」

 華琳の舌が、口内に潜り込んで来た。初めての感触に驚いた曹仁は一瞬唇を離しかけて、すぐにこちらからも夢中で舌を絡ませた。華琳の舌がこちらを誘うように引っ込むと、曹仁からも舌を伸ばした。噛み合う様に深く唇を合わせると、歯の裏側から舌の付け根まで、舌先の届く場所はくまなく舐め回した。
 息苦しさを感じて離れた時には、すでに舌も口内も痺れて感覚を失いかけていた。つっと糸が引いて、互いの唇と唇を繋いでいる。上気して赤くなった華琳の顔と相まって、たまらなく蠱惑的だった。

「華琳の舌、ちっちゃい。それに歯も俺のより小さくて薄くって。なんというか、その、かっ、可愛いな」

「……んっ、それで、ちゅっ、わたしがキス魔だという話だけれど」

 華琳は照れ臭そうに目を逸らしながら、今度はついばむように軽い口付けを繰り返しながら言う。

「んっ、ああ、何も軍議を抜け出してまでしなくても」

「息抜きが必要だと思ったのは本当よ。桃香にも麗羽にも気勢をそがれた格好で、議論こそ活発でもいまひとつ緊張感に欠けるようだったし。そんな中でもとりわけ呆けていたのが、―――ふふっ、キス魔は貴方の方じゃない。わたしが気付いていないとでも思っているの?」

「? えっと、何の話だ?」

「あら、とぼけているわけでもなさそうね。自分で気付いていなかったのかしら?」

「だから、何の話だ?」

「貴方が軍議の間中、物欲しそうな目でわたしの唇を見つめていたことよ」

「なっ! そんなことしてな―――、…………くもないな」

 先刻までの軍議の情景を思い起こすと、浮かんでくるのは華琳の口元ばかりだった。

「素直なのは良いことだわ。まったく、せっかく軍議の後に二人きりになれる口実を作ってあげたのに、ほんのわずかな時間も我慢出来ないのだから」

 軍議開始直前の発言が、自分を公然と呼び出すための方便であることに曹仁も気が付いていた。華琳は慢性的な頭痛持ちであり、戦陣でも侍医を伴うことが多い。名医の噂を聞けば、召喚して自ら面談もする。医者に薬を出させるというのは、極めて自然な口実であった。

「唇ばかり見ていたのは認めるが、それにしたってこの場合我慢出来なかったのはやっぱり華琳の方じゃ―――」

「それじゃあ、今日はこれで終わりにする? 私はそれでも構わないわよ」

「…………続けます」

「ふふっ、耳まで真っ赤にしちゃって、可愛いわよ。―――んっ」

 誤魔化すように、曹仁は唇を寄せた。華琳もそれに応えて唇を軽く突き出した。

「本当に好きね。貴方とのキスは、これまで私が女の子達と交わした口付けの回数を、先日と今日のたった二日で軽く上回ってしまいそうだわ」

「キスが好きなんじゃない、“華琳と”キスするのが好きなんだ」

「……もう、馬鹿ね」

 不意打ちで囁くと、今度は華琳が赤面する番だった。

「―――伝令! 伝令っ!」

「―――っ! なんだ!?」

 再び唇を寄せようとした瞬間、けたたましく駆ける足音と叫び声が廊下に響いた。





 前回の軍議から十日、再び官渡城の軍議の間に主だった者を集めた。十日前にはあった顔で、いくつか欠けているものもある。危急の事態に、すでに出陣を命じた将が幾人かいるのだ。

「さすがにこれは危ういわね」

 中央には布に書かれた地図。それは先日まで広げられていた官渡周辺の地形を描いたものではなく、洛陽を中心に中華全土が描かれた絵図である。河北四州は黄色で、中原四州は紺色で塗られている。袁紹軍の旗印の金色と、曹操軍の牙門旗の紺だ。
 華琳は兵を象った駒を地図上の黄河を挟んで並べた。
 南岸にて北面する駒は濃紺に塗られていて、やはり曹操軍を意味する。対して北岸にて南面する黄色の駒は袁紹軍だ。駒は騎兵、歩兵に分かれていて、それぞれ大きなものと小さなものがある。大駒は一万、小駒は五千から数千の兵力に当たる。具足の細部まで作り込まれた無駄に手の込んだ造りは、作製を依頼した真桜のこだわりだろう。それも曹操軍の歩兵駒の顔付きは春蘭に、騎兵駒は曹仁に似せられている。
 華琳は、さらに赤の駒を長江の南岸に配置した。赤は孫策軍の牙門旗の色だ。大駒三つに、さらにその後方にいくつか駒を並べる。三万の孫策軍が出撃準備を整えたという報告が上がっていた。三万はこれまでの孫策軍の遠征兵力の全軍である。さらに各地の守兵をかき集め、孫策への恭順を示している豪族達を締め上げれば、二万近くはすぐにも徴兵されると試算されている。この戦の重要性を考えれば、多少の無理は押してくるだろう。
 河水南岸から長江北岸に、華琳は濃紺の大駒四つを移動させた。いずれも春蘭に模した歩兵の駒で、実際に孫策軍の迎撃に送り出したのも延津の守備に当てていた春蘭隊である。孫策の戦は、反董卓連合の際に間近で目にしている。並みの将を差し向けても飲み込まれるだけだろう。格からいっても曹操軍の武官の頭である春蘭以外に適任はいない。

「で、厄介なのがこれね」

 紺色に塗られた徐州に、緑色の小駒を一つ、どんと叩きつけるように華琳は置いた。

「あの子なら、すぐにこれくらいは集めるでしょう」

 言うと華琳は、陶器の地色そのままの大駒を緑の駒の左右に二つ並べた。
 桃香―――劉備軍が曹操軍の領土徐州にて兵を挙げていた。
 先日の軍議の最中飛び込んだ伝令は幸蘭の諜報部隊から派遣された者で、その内容は桃香と孫策の直接会談の後、孫策軍が荊州から陣を払う用意を始めたというものだった。あの日から十日、歩兵中心の劉備軍では江夏郡から強行軍で駆けに駆けても本来進軍すらままならない。それを可能としたのが、長江の流れを下る船での輸送である。劉備軍が孫策軍の大型船に乗り込む姿が確認されていた。事の顛末を思えば、桃香と孫策が会談で何を語り合ったのかも容易に想像がつく。つまり桃香と孫策が、反曹操軍の名目で結んだということだ。
 対して華琳は騎兵の大駒一つと、歩兵の大駒一つを移動させた。霞の騎馬隊一万騎と凪の重装歩兵一万である。諸葛亮と雛里は、徐州逗留中の伝手を武器とし呼応する勢力を募る心算だろう。対して霞は言うまでも無く徐州の前領主呂布の片腕であり、凪の重装歩兵も含め率いる兵は呂布軍から譲り受けたものだ。徐州の民にとってより馴染み深いのは、数ヶ月滞在しただけの劉備軍などではなく霞達曹操軍の将兵となろう。それでも劉備軍を支持する民が多く現れそうなところが桃香の怖いところで、その評価が所属を持たない雑軍を表す無地の大駒二つを華琳に並べさせた。

「……ふんっ」

 濃紺の駒を移動させがてら、緑の駒を軽く指で弾いた。
 桃香に対しては、今も複雑な感情が渦巻く。自分を討つために人の手を借りるのかという嫉妬にも似た思い。敵中真っ只中で敵総大将との会談に望んだという、実に桃香らしい無思慮なまでの豪胆さへの賞賛。結果的にあの孫策をも手駒の一つとしてしまう器量への脅威。そしてそんな桃香を友人としていくらか誇らしく思う感情。

「それに加えて、最後がこれね」

 堂々巡りになりかねない感情を振り払い、華琳は地図の上にふわりと巻物を開いて見せた。

「……これは」

 誰からともなく、感嘆とも失笑とも知れない声が上がる。麗羽から軍議の直前に届いた書簡で、諸将に披露するのはこれが初めてである。

「ふふっ、まるで春秋の世の戦みたいな仰々しさだけれど、なんとも麗羽らしいわね」

 巻物には、来たる決戦の期日と戦場、その日袁紹軍が用意する兵力に布陣までが記されていた。
 あらかじめ期日を定めて戦をするというのは、春秋の時代には珍しいことではなかった。戦国に世が移り、いよいよ乱世の様相が濃くなる中で廃れていった様式である。当然、それからさらに数百年を経た今の時代にやる者はいない。

「しかし、案外悪い手ではないわ。麗羽は同様の触れを各地に飛ばしたそうよ。我が軍の領内はもちろん、荊州や江南、西涼へも。天下の帰趨を決する戦であり、天下の耳目が注視する戦でもある以上、ただ無視するというわけにもいかないわね」

 曹操軍にとっては最悪の機だが、華琳との正々堂々の決戦を望む麗羽のことだから、あえてこの機を狙ったわけではないだろう。そもそも麗羽や顔良、文醜ら彼女に近侍する者達がそこまで積極的に他領の情報を収集しているとも思えない。曹操軍にも聞こえた謀臣の田豊や沮授辺りはその点抜かりは無さそうだが、幸蘭の飛脚網と諜報部隊に勝るものではないだろう。劉備軍と孫策軍の停戦までは掴めていても、まだ両軍の挙兵の動きまでは伝わっていない筈だった。麗羽はこの先、劉備軍と孫策軍の参戦を知って、水を差されたと喚き散らすことになるだろう。
しかし麗羽の性格上、一度こうまで仰々しく決戦を宣言して見せた以上は自ら引くという選択もない。こちらが拒絶したところで、無理にも侵攻を開始するはずだ。

「まさか、お受けになるつもりですか、華琳さま?」

「さて、どうしましょうか」

 荀彧の問いに、華琳は難しい顔でうつむいた。春秋の世の習いに従うなら、決戦を受けるなら返書をしたためる必要がある。拒絶するにしても、これだけ衆目を集められては何かしら一芝居打つ必要があろう。
 麗羽の指定する決戦場は、官渡城の北東三十里ほどの地点である。曹操領内へ、袁紹軍が五十里ほど侵攻した形である。本来なら互いの領土の境界が選ばれるべきところだが、曹操領と袁紹領を隔つのは河水であり、決戦には向かない。麗羽はあえて侵攻することで、地の利は譲ると華琳に言いたいのだろう。

「決戦を承諾すれば、白馬、延津での迎撃は行えません」

 稟が改めて確認事項を口にした。
 渡渉によって生まれる最大の危険要素は、その瞬間を狙われることだ。白馬も延津も河水有数の渡渉地点ではあるが、それでも十里(5km)ほどは膝まで水に浸かって進む必要がある。当然進軍の足は鈍り弓兵の格好の的となるし、濡れた具足の重さと疲労で渡渉後すぐに戦闘となれば戦力は半減だろう。
麗羽自身には計算あってのことではないだろうが、この決戦状は曹操軍の自尊心に託けてその危険性を除くという点では非常に上手い手であった。
 一方で、官渡城北東三十里というのは、白馬、延津、官渡の曹操軍三拠点に囲まれた地点である。曹操軍にとっても利点は多くあった。敵の兵站を切るのも難しくはないし、籠城と後方攪乱を繰り返し有利に戦を進めることも出来る。

「問題はやはり兵力ですねー。今や彼我の差は三倍です」

 風がやはり確認するように言う。
 劉備軍と孫策軍への対応に兵を割いた今、普通に考えれば決戦は無謀だった。兵站の遮断も籠城も、袁紹軍の大軍を決戦で一度まともに受け止めないことには始まらない。

「これまで通り白馬、延津の防備を固め、春蘭達からの勝報を待つか。それとも決戦に臨んで戦を動かすか」

 春蘭や霞といった好戦的な将が出払っていることもあって、軍議の空気は防衛に傾いた。華琳に次いで麗羽を良く知る曹仁の発言に期待したが、その日は聞かれたことに答える以外は思案顔で押し黙るだけだった。



[7800] 第8勝 第5話 官渡の戦い その一 秘策
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/10/17 05:42
「こうして直接お話するのは久しぶりですわね、華琳さん、曹仁さん」

「そうね。反董卓連合の時以来だから、かれこれ二年半ぶりかしら。仁はもっとね?」

「十常侍に何進大将軍が討たれて、麗羽さんが洛陽を脱出して以来だから、―――三年以上になるか」

「あの時は大儀でしてよ、曹仁さん」

「おお、助かったぜ、曹仁」

「す、すいません、曹仁さん」

 胸を反らす麗羽と馴れ馴れしく曹仁の肩を叩く文醜に代わって、顔良がぺこぺこと頭を下げた。三十万を超える視線に曝されながらも、麗羽と二枚看板は至って平常通りだった。
 今日は、麗羽に指定された決戦の日である。
 期日通りに対陣した大軍から文醜と顔良の二枚看板のみを伴って進み出た麗羽に、華琳も答えた。こちらは当然付いて来ようとした季衣と流流を留め置き、曹仁だけを付き添わせている。麗羽に限って闇討ちは有り得ない。ちょっとした昔話でも交わすだけなら、曹仁一人連れていけば事足りる。

「洛陽といえば、再建は進んでおりまして、華琳さん?」

「ええ、私が司空となったからには、漢王朝の都の荒廃を放っては置けないわ。貴方と私が私塾で席を並べていた頃の趣も、徐々に取り戻しつつあるわよ」

 麗羽を三公に就任させた際、華琳にも同じく三公の一席が与えられている。麗羽が軍事を司る太尉であり、華琳が治水や土木工事等を受け持つ司空である。
 太尉の任にありながら帝の守護者たる曹操軍を攻める麗羽への皮肉にも、当然本人は気付いた様子もない。

「あら、そうですの? すっかり焼野原と聞いておりましたのに。それでは私が洛陽へ至った暁には、以前並んで歩いた道を、今度は華琳さんの先導で進むことになりますわね、楽しみですわっ。おーほっほっほっ!」

「そうね、凱旋する私の後ろを、虜囚となった貴方が引き立てられることになるでしょうね」

「―――っ。……それにしても、ずいぶん貧相な軍ですわねー。降伏するならこれが最後でしてよ、華琳さん。さあっ、頭を垂れ、私のご機嫌を伺うがいいですわっ」

 一瞬不快げに押し黙った麗羽も、彼我の戦力差に思い至ると再び居丈高に続けた。
 曹操軍は徐州へ二万、江南へ四万の兵を送り出し、二十五万の袁紹軍にわずか八万で対している。

「戦は数だけでは測れないものよ、麗羽」

「おーほっほっほっ! あなたのお好きでした孫子も、小敵の堅なるは大敵の擒なり、と言っているのをお忘れかしら?」

「ふふっ。将に五危有り、とも言っているわよ。数だけ揃えても、大将が無能ではね」

 胸を反らし、華琳は微笑みを、麗羽は大笑を絶やさずに睨み合う。曹仁と二枚看板はいささかげんなりとした表情で見守っている。

「まあ、あなたには何でも小さい方がお似合いですわね」

 麗羽は胸を強調する様にさらに踏ん反り返って言った。

「ふっ、ふんっ、無駄に膨れ上がればいいというものではないわ。せめて貴方の軍は、頭空っぽの見かけ倒しで終わらないことね。貴方の方はもう手遅れなのだから」

「……交渉決裂ですわね」

「初めから、交渉の余地などないでしょう」

「仕方がありませんわね。痛い目を見せて分からせてあげますわっ、おーほっほっほっ!」

 麗羽が高笑いを上げて馬首を返した。

「ふんっ、私達も戻るわよ」

「あっ、華琳」

「何よ」

 同じく馬首を返した華琳に、曹仁が馬を並べてきた。

「俺は、それぐらいの大きさで―――」

「何の話をしてるのよっ」

 華琳は曹仁の脛を蹴り飛ばすと、絶影を疾駆させた。さすがに白鵠を引き離すことは出来ず、曹仁は遅れず付いてきた。
 白馬、延津の両拠点を放棄し、五十里近くも前線を後退させた。再び陣を布いた地は官渡砦の北東の原野―――麗羽の指定した決戦場であった。
 良く言えば領内に袁紹軍を引き込んだ形だが、ほんの一歩退けば本拠地許までも程近い。たった一度の敗走がそのまま戦の敗北に繋がる死地に、自ら身を置いたことになる。
 河水は氾濫を繰り返し、幾度も流れを書き換えてきた河である。今は河水から南方八十里ほどの距離にある官渡も、かつてはその渡渉点の一つ―――“官”営の“渡”渉場を名の由来とする―――であった。今もその名残は残り、河水へと繋がる川が入り組んだ地形を持つ。大きいものでは官渡水、濮水、陰溝水が流れ、さらにその支流も走っていた。袁紹軍との戦に備えて築いた官渡砦も北壁に沿って官渡水が流れ、守るに易く攻めるに固い天険をもって築城されている。
 そんな中、決戦を前に曹操軍が陣地として選んだのは、官渡水、濮水、陰溝水の狭間の、小川一つなく起伏にも乏しい原野であった。
 麗羽からの書状には、具体的な地形の記載まではない。地図上の官渡砦より北東三十里ほどの地点に印が付けられていただけだった。現在の地点は、正確には官渡砦からは北北東におよそ二十五里の距離にある。大軍との対陣に不向きなこの地をあえて決戦の場として提案してきたのは、曹仁であった。官渡周辺の地形を念入りに踏査した上で、小川や丘陵を避け平地を選び出している。
 曹仁の策を入れた華琳は、決戦の期日五日前に官渡砦を払い原野に布陣を完了した。袁紹軍に、改めて具体的な決戦場をこちらから提示した格好だ。大軍の展開に有利な平地を示され、袁紹軍は当然これに乗った。袁紹軍は河水を渡渉し背水の構えだが、一方で曹操軍も官渡砦とは官渡水を隔てての布陣であり、同じく背水と言えた。

「準備は出来ているかしら?」

 陣地へ帰り着くと、華琳は騎馬隊に寄り添う真桜と、隊の指揮へ戻った曹仁へ向けて問いかけた。

「いつでもいけますわ、大将」

「こっちも問題ない」

 騎馬隊の装備を点検していた真桜が、会心の笑みを浮かべて返した。曹仁も感情を押し殺した表情で言う。
 袁紹軍から大喚声が上がった。敵陣とはわずか三里(1.5km)を隔てるばかりであり、それはうるさいぐらいに耳に響いた。

「相変わらず、兵を乗せるのだけは得意なようね」

 二十五万の大軍を前に、馬を棹立たせ、剣を掲げる麗羽の姿が認められた。士気を鼓舞するその声までも聞こえてくるようだった。

「華琳も何か話すか?」

「必要ないわ」

「まあ、そうだな」

 兵の士気に左右される戦にはならない。そのことを一番理解している曹仁が首肯した。

「では、はじめる。―――全軍前進」

 大兵と真っ向から組み合うように、軍を動かした。
両軍とも騎馬隊を温存させ、歩兵を前面に押し出した構えは同じだ。ただし当然規模は全く異なる。
 曹操軍の歩兵は曹仁隊を中軍に、沙和隊と張燕隊が両翼に付いた。張燕隊のみ一万五千で、他二隊は二万である。中央の曹仁隊の後方に、一万五千騎の騎馬隊が付いている。曹仁の姿はこちらにあって、歩兵の指揮は副官の牛金である。騎馬隊に続く華琳の本隊は歩兵一万で、本来旗下に属する騎兵五千は蘭々の指揮で曹仁の下に付けていた。総兵力八万の軍勢である。他に、白馬と延津の拠点から撤収してきた真桜の工兵隊五千があり、これは曹仁の騎馬隊に寄り添い、出馬の直前まで最終確認を続けるようだ。
 対する袁紹軍は、あらかじめ書簡で開示された通り二十五万の軍勢を残らず渡渉させてきた。布陣も書簡にあった通りで、本陣に十万、先鋒に十万と歩兵を大きく二段に分けただけの、大軍に兵法なしを地で行く構えだ。騎兵三万が本陣付きで、二万の烏桓騎兵は遊撃扱いだった。
 曹操軍の動きに呼応して、袁紹軍の先鋒も進軍を開始した。寡兵で真っ向勝負を挑もうというこちらの動きにも訝しんだ様子はなく、悠然と軍を前進させて大軍の余裕を見せつけてくる。ただし、一応の用心ということか、本隊の十万は柵で覆った陣地から動く気配がない。それぞれを孤立させる動きだが、いずれもこちらを凌駕する十万の大軍である。この機に袁紹軍の本陣を突けるほどの兵力は、曹操軍にはない。

「本隊は、動かないか」

「それが麗羽さんの運かな」

 華琳の呟きに、曹仁が答える。曹仁は騎馬隊の最後方で、華琳は本隊の先頭で、二人は轡を並べていた。

「運ね。まあ、そもそも麗羽の戦は、前衛を前進させるか、全軍で前進するか、せいぜいその二つに一つでしょうけど」

「二つに一つ程度の賭け率なら、麗羽さんなら延々当たりを引き続けそうだ」

 麗羽は昔から不思議と運だけは強かった。強運と名門の出という、生まれた時から備わっている資質でいえば割拠する群雄の中で随一だろう。

「それじゃあ、―――行ってくる」

 お互いに距離を詰めれば、三里はすぐに縮まった。互いの前衛が触れ合うまで残すところ半里というところで、曹仁が気負った声を出した。

「ええ、武運を」

 小さく頷き、曹仁が騎馬隊の中へ紛れた。華琳はそこで両翼と本隊の進軍を止めた。騎馬隊を含む曹仁隊だけが突出し、今まで騎馬隊に付き添っていた工兵達も離脱して後方へと下がってくる。
 袁紹軍は変わらず前進を続けている。ここまで迫れば、敵兵の動きがはっきり見て取れる。袁紹軍の兵は決して弱卒ではなく、十万の軍勢はきれいに足並みを揃えながらも、衝突に備え進軍を速めていく。兵が一塊になって前へ進む力というのは、そのまま攻撃力と言い換えてもいい。兵数が多ければ多いだけ、進軍が速ければ速いだけ増していく単純な計算式だ。このままぶつかれば、曹仁隊の歩兵二万は壊滅だろう。
 そこで、曹仁隊の歩兵部隊が左右に分かれた。空いた間隙に後方から騎馬隊が綺麗に滑り込んでいく。初めに五千騎。わずかに遅れて五千騎がもう二隊。百数十歩の距離を瞬く間に駆け、十分な加速を得ていく。
 先駆けの五千騎が、味方歩兵の陣形を抜け出たところで、ぱっと花開くように散った。
凄まじいまでの土煙を巻き上げ、敵歩兵へと突っ込んでいく。
 鉄と鉄が、肉と肉が、あるいは鉄と肉がぶつかり合う音。そして泣き叫ぶような悲鳴。それらが幾重にも重なりあった音響が、すぐさま戦場に満ち満ちた。
 五千騎での連環馬だった。鎖で繋がれた馬甲を着込んだ十頭で一組の五百隊が、大地を、兵を均(なら)していく。遅れて出た五千騎二隊が、敵軍の左右を抑え込むように回り込んで逃げ場を封じる。土煙に覆われ、戦場を見通すことは出来ない。それでも、華琳の脳裏にはその凄惨な光景がありありと思い浮かんだ。

「真桜、良く間に合わせてくれたわね」

「これくらいなら楽勝ですわ。まっ、ほんのすこーーし、強度には不安があってんけど、今見た感じやと問題無さそうです」

 いささか不安げな表情を浮かべていた真桜が笑い飛ばした。
 鎖や馬甲自体は既存の物をいくらか流用したとはいえ、それを十数日で十頭五百隊分の連環馬用の装備に作り直したのは工兵隊の功績だった。真桜という奇才の存在によって、曹操軍の工兵は天下に並ぶものの無い域にある。それでも直前まで確認を重ね、実際の活躍を目にするまで完成度に不安が残る突貫作業であった。

「しかし、自分で作っておいてなんやけど、えらいえげつないなー」

 技術者として作品に納得がいくと、真桜は一人の人間としての視線を戦場へ向けた。

「あの曹仁様が、よくこのような策をお考えになりましたね」

 稟も眉を顰めながら言った。騎馬隊の戦ではない。ただの蹂躙に近く、馬に掛かる負担も相当なものだった。
 舞い上がる黄土に、赤い血飛沫が混じるのがはっきりと遠望された。





 すでに戦ではなかった。
 押し寄せる馬群に、袁紹軍の兵は背を見せて逃げ始めている。大軍ゆえの重厚な自陣が、兵の逃げ道を遮る。逃げる兵の背中から甲を着込んだ馬がはね、あるいは蹄に掛け、鎖で引き倒した。
 曹仁は中央の五千騎の只中でその様を見据えた。
 鎖が首筋に直撃した兵がいた。即死だろう。死体は地面に打ち付けられ、数度跳ねると後続の馬群に揉み潰された。具足や背中に鎖を受け、地面に押し倒された兵はもっと悲惨だ。立ち上がることも出来ず這いずり、恐怖に上げた悲鳴は時間を掛けて断末魔の叫びに変わる。馬甲に突き飛ばされ、宙を待った兵が味方の槍の上に落ちる。槍は自重で深く突き刺さり、股下から入って喉元に穂先を露出させた。鎖が具足に絡まり、引きずられる者もいた。自軍の兵との揉み合いで倒れ、そのまま幾度も蹄に掛かり人の形を留めない者もいる。
 戦場の情景は、かつての呂布軍の赤兎隊が駆け抜けた跡にも似ていた。だがその規模はまるで異なる。赤兎隊の跡が線なら、連環馬の作り出すものは面である。これ以上ない虐殺の現場が目の前にはあった。
 十頭繋ぎの連環馬は、左右に兵を乗せるのみで、後は空馬だった。中央の騎馬隊五千騎は、実際には馬五千頭に兵が一千、それに曹仁と白鵠の編成である。
 指揮は取るまでのこともない。疾駆する十頭の重装騎兵も、人を跳ね続ければ勢いを失う。曹仁のすることといえば、速度を失った馬群を見つけては離脱を命ずるだけだった。並走する左右の五千騎からでも、十分に指揮は取れる。むしろ戦場全体を見つめるには、その方が適しているだろう。それでもあえて連環馬の中央に馬を進めるのは、自身の献策の結果を目に焼き付けるべきと思ったからだ。
 劉備軍、孫策軍が立ち、袁紹軍から決戦を挑まれたあの日、考えに考えた。荀彧ら文官達は決戦を回避し、出来ることなら再び袁紹軍を撤退させるべく知恵を絞り始めていたが、対決はもはや先延ばしには出来ないものと曹仁は捉えていた。
 華琳との対決は、正々堂々と真っ向から撃ち破ってこそ意味があると麗羽は思っている。だから今、麗羽は劉備軍と孫策軍という自らの追い風となる闖入者を、忌々しく感じているだろう。そうした意味では、袁紹軍に手を引かせるという文官達の発想は間違っていない。
 だが麗羽は、余人―――幼馴染の華琳さえも―――が思っているほど楽天的なだけの人間ではない。華琳とまともにやり合って勝つことの難しさを誰よりも知っているし、それ故にその勝利に価値を認めてもいるのが麗羽だった。
 呂布軍に介入された先の侵攻では、余裕を見せることも出来た。河北四州を治める自分に対して、華琳は二州を手にしたばかりの格下に過ぎないという思いがあったからだ。今や華琳は中原四州を統べ、麗羽と同格と言って良い存在である。麗羽はもはや十分に待ったと自らに理由を付けて、勝利を確信出来るこの機に曹操軍を呑みこみにくる。
 麗羽の考えそうなことはわかる。こと華琳に対して抱く感情は、かつての曹仁のものでもあったからだ。だからこそ、自分が状況を打破する策を考えなければならないと曹仁は思った。
 想い起されたのは、自身の敗戦だった。曹仁も、華琳とは一度戦場で直接対決を経験している。こんな大規模な戦ではなく、董卓軍から預けられた当時名も無き精兵であった白騎兵百騎を曹仁は率い、華琳も虎豹騎の二百騎を従えるのみであった。重装騎兵である虎豹騎は機動力に劣り、騎馬隊同士のぶつかり合いでは必ずしも有利とはいえない。相手が、精鋭中の精鋭の軽騎兵であったなら尚更である。騎馬隊同士、寡兵同士であれば、多少の兵力差も問題にならない。あの日の自分も今の麗羽と同じく、借り物の精鋭部隊を手に勝利を確信していた。―――そんな曹仁の自信を打ち砕いたのが、連環馬だった。
 曹仁が献策すると、すぐに華琳からの承認は降り、五千騎分の連環馬の用意が進められた。

「――――っ」

 白鵠が小さく跳ねた。肉塊と化した遺体とひしゃげた具足、武具を避けるためだ。時には、大きく蛇行しながら駆ける。
 今回は、華琳が曹仁にしたような捕縛目的ではない。そして五千頭の馬は、恋の赤兎隊のように頑健な巨馬揃いとはいかなかった。脚を痛めて、跳ねるように駆ける馬を見つけては、曹仁は離脱を促した。連環馬は普段調練を積んできた騎兵の運用を否定するものであり、調教を重ねた軍馬を悍馬や猛牛と同様に粗略に扱うことでもある。少なくない数の馬が、脚を潰すことにもなる。騎馬隊の隊長として、また一人の武人として馬に親しんできた曹仁にとって、それは耐え難い苦痛であった。霞には批難され、恋も知れば悲しむだろう。白鵠にも後で蹴飛ばされるかもしれない。それは、覚悟の上であった。
 五百の小隊のうち、二百隊近くはすでに後退させた。離脱を命じられた兵は、一様に安堵の表情を浮かべる。すでに三万を優に超える敵兵を葬って、そしてまだまだ蹂躙は続いていく。凄惨な情景も、連環馬を献策した時から覚悟していたものだ。
 阿鼻叫喚の中で、かつんかつんと、連続する甲高い異音が耳に付いた。
 真紅に染まった視界の片隅で、獣が動く。毛皮を纏った敵遊撃の烏桓騎兵である。異音の正体は、弓騎兵の放つ矢が馬甲を打つ音だった。大半は馬甲に弾かれているが、鉄の繋ぎ目を掻い潜って馬体に突き立つ矢もちらほらと散見された。

「予想よりも、対応が早いな」

 曹仁は頭上で槍を回して、左翼へ合図を送った。蘭々指揮の五千騎が、大きく軍を迂回させて烏桓騎兵の左へ左へと回り込む動きを見せた。
 白蓮との調練で、弓騎兵の弱点は叩きこまれている。弓は普通、左で弓の本体を持ち、右手で弦を引く。極稀に右手で弓を持つ者―――秋蘭がそうだ―――や左右自在に持ち替える者もいるが、移動しながら集団での騎射ともなれば、誤射を避けるために全員が統一した構えを取る。つまり通常騎射で矢を射れるのは、騎手の正面から左後方までの角度ということになる。曹仁が以前目にした烏桓の兵は、真後ろに対しても矢を放った。それ自体が凄いことではあるのだが、こちらの兵の損害は軽微であった。やはり騎射での戦闘を日常とする烏桓兵であっても、集団で強い矢を放てる範囲は限られるのだ。
 右手側に回り込まれることを嫌って、烏桓の遊撃隊が距離を取った。
 左翼の五千騎が烏桓兵の牽制に向かったことで、連環馬の脅威に曝される袁紹軍の歩兵に逃げ道が出来た。とにかく後ろへ後ろへと駆けていた者達が、我先にと左へ詰め寄った。
 曹仁は連環馬三十隊を、左翼へ向かわせた。命じられた兵は、わずかに顔を引きつらせている。
 後ろから味方に肩を掴まれ、引き倒された者がいた。仲間の兵を生贄に少しでも生き長らえようとした者がいた。倒れた戦友に肩を貸す者もいた。踏みつけられた者も、醜く足掻く者も、高潔さを失わなかった者も、連環馬が等しく無に帰していく。
 この場から蘭々を遠ざけられたのは、僥倖かもしれない。虐殺はまだ半ばといったところだった。



[7800] 第8章 第6話  官渡の戦い その二 神速
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/11/14 07:07
 曹操軍二万を、三万の軍勢で手玉に取っていた。
 曹操軍は騎兵と重装歩兵が一万ずつで、いずれもあの呂布軍出身の精鋭部隊である。こちらは元々の劉備軍は五千だけで、あとは劉玄徳の蜂起に呼応して集まったばかりの新兵という雑軍である。兵数で上回るとはいえ、兵力では大きく劣っていた。
 視界を確保するために、高台に車輪を付けて馬に引かせている。朱里達は象棋盤を覗く様に、戦場を広く望めた。
 中央に愛紗率いる二万五千を数える新兵。二百五十人ごとにまとまり、百の小隊を形成している。雛里の発案で、劉備軍古参の兵を小隊ごとに十人ずつ加えている。それで新兵ながらも愛紗の指示に円滑に従うし、潰走しても十人を中心に立ち直った。
 左右には鈴々と星の騎馬隊が一千ずつ。今は元々の劉備軍の騎兵一千を星が、新兵の中から馬術に長けた者を選出した一千を鈴々が率いている。どちらが劉備軍の精鋭かを隠すために、二人の指揮は絶えず交代させていた。
 本隊は愛紗の歩兵の中に埋没させた。桃香を中心として朱里が指揮を執る劉備軍歩兵三千。これは状況によっては劉備軍最強の攻撃部隊ともなる。すでに幾度か前に出て、張遼の騎馬隊の突撃を跳ね返していた。総大将が本陣に控えるだけという戦は、劉備軍の戦ではない。誰よりも戦場がそぐわない桃香が、声を励まして兵と共に前へ進むのが義軍と呼ばれる劉備軍の姿だった。
 そして、全軍の総指揮が雛里。徐州における曹操軍最大の拠点下邳に攻め寄せてより数日、雛里の用兵には同門の朱里を刮目させるほどの凄味があった。
 用兵では、確実に曹操軍の上をいっている。張遼の一万騎を時に歩兵の中に取り込み、時に本隊で痛撃し、時に騎馬隊で背後を突いた。崩し切れないのは、どっしりと構えて動かない楽進の重装歩兵一万があるからだ。守りを固めた重装歩兵は鉄壁と言って良い。騎兵が攻撃、歩兵が守備という単純な役割分担で、張遼隊が多少崩れても楽進の一万が動かないから自然とそこを中心に持ち直していた。

―――雛里ちゃん、大丈夫?

 朱里は、口にしかけた言葉を飲み込んだ。
 雛里の横顔には、疲労の気配が色濃い。それでも、瞳の奥には静かに燃え上がるものがあった。今、頭の中では様々な想定が組み上げられているはずだ。気遣いの言葉は、雛里の集中を妨げるだけだ。
 桃香も時折気遣わしげな視線を向けるだけで、黙って雛里の指揮に従っている。当の桃香本人は、大恩ある曹操の後背を突く挙兵に一時胸を痛めてはいたが、戦場に望んでからはきれいさっぱりと頭を切り替えていた。
 桃香は曹操に対して義姉妹である愛紗達や、臣下であり仲間でもある自分達に向けるものとはまた違った、友情のようなものを抱いているようだった。同時に自分の志を遂げるための最大の敵が曹操であることも良く理解している。曹操の政と桃香の志は、今のところ決定的に相性が悪い。
 曹操軍との戦に、袁紹軍が勝つならこれほど性急な挙兵の必要はなかった。兵力で言えば、袁紹軍が圧倒的であった。単純な兵数でも二倍近く、さらには中原に位置する曹操軍はただ袁紹軍と対峙すればよいというわけではない。南の孫策、南西の劉表、西の西涼軍と、他勢力に対する備えも残さねばならない。袁紹軍が後背に抱えるは北方の異民族だけで、その異民族―――烏桓からは単于自ら援軍に立っていた。袁紹軍に後顧の憂いはない。
 雛里と二人で何度戦力を分析しても、袁紹軍の勝利は揺るがなかった。それでも朱里の頭の中で、曹操が袁紹に敗れる姿は上手く想像が出来なかった。それは雛里も同じで、朱里よりも曹操に近しかった分だけ、一層その思いは強いようだった。
 あの呂布に勝ったことで、曹操を実体以上に大きく捉え過ぎてはいないか。確かに軍略への造詣は、水鏡門下で天才と謳われた朱里にも、そしてその朱里よりさらに一枚上手の雛里にも劣らぬものを持っている。朱里と雛里が苦手とする前線の指揮でも、愛紗や星に劣らないだろう。だが逆を言えばその程度で、劉備軍の首脳が寄り集まれば、曹操個人の資質を上回ることは十分に可能なのだ。一方で戦略でも戦術でも、主君である曹操に匹敵する者は曹操軍には見当たらない。曹操の力を正確に読み切ることが、曹操軍の強さを測るということだった。
 朱里が曹操に、雛里が袁紹になりきって想定戦を行った。役割を交互に変えて百回近くもそれを繰り返した。曹操軍が勝ったのは、雛里が曹操役を務め、朱里率いる袁紹軍の兵糧を焼き払うことに成功した一度きりだった。それも朱里の想定する兵糧蔵の位置を雛里が正確に読み当てたのではなく、偶然にもそこに行き合ったという形である。しかし僥倖だろうが何だろうが、百回に一度は曹操軍が勝つ。ならばその一勝を一回きりの本番でやってのけるのが曹操という気がした。
 戦に勝利し広大な大地を支配することになるのが袁紹なら、付け入る隙はある。江南に西涼、荊州に益州と、他にも対抗する勢力はあり、彼らとの戦いの隙に乗じて一州や二州は掠め取る自信があった。
 一方で同じ大地を曹操が領有した場合、これはもはや覆しようもないと思える。動くなら、今この瞬間しかなかった。
 曹操軍勝利の可能性とその対応策を献じると、桃香は一晩思い悩んだようだった。そして一夜明けると、もうすっきりとした表情をしていた。

―――朱里ちゃんと雛里ちゃんが考えてくれて、愛紗ちゃん達と兵の皆が戦ってくれるから、私がするのは腹を据えて決めるだけだよ。

 そう言って、桃香は作戦を認可したのだった。曹操と敵対する意思を固めたとはいえ、大軍と対陣中に領内での蜂起と言う形で後背を突き、さらには孫策軍の手をも借りるというのは、桃香には辛い決断であったはずだ。朱里と雛里は自分達の策を容れた桃香に、戦の勝利でもって報いると胸に誓った。

「桃香様、お水を」

「ありがとう、焔耶ちゃん」

 魏延―――焔耶が桃香に杯を捧げる。
 荊州軍で厳顔の副官を務めていた焔耶が、旗下の二百騎を伴い劉備軍に加わっていた。荊州軍の正式な校尉ではあるが、校尉の一人や二人抜けたところで軍への関心が薄い荊州の上層部はさして気にも留めない、とは厳顔の言だ。同じく二百騎も厳顔の私兵のようなもので、どうとでも言い逃れは出来る。厳顔は焔耶が一兵卒の頃から目を掛け、自分の副官になるまで育て上げたという。手塩にかけた焔耶と荊州軍最精鋭の二百騎に去られるのは、厳顔にとっては大きな損失だ。それでも劉備軍への同行を願い出た焔耶を厳顔は笑って送り出した。
 焔耶は二百騎をそのまま旗下として、愛紗、鈴々、星に次ぐ将軍という扱いである。二百騎はすぐにも劉備軍として通用するだけの練度を有しているが、共に調練する時を持てなかった。歴戦を経た関張趙三将の連携には異物ともなりかねない。今回の戦では近衛という形で、桃香付きとしていた。

「それと、汗をおかきです。これをお使いください」

「う、うん、ありがとう、焔耶ちゃん」

 桃香は躊躇いがちに焔耶が差し出した手巾を受け取ると、額と首筋を拭った。
 焔耶の本陣での振る舞いは、近衛の隊長と言うよりはまるで桃香の従者のようである。桃香への心酔ぶりは、ほとんど信仰の域に近い。

「あとで洗って返すね」

「―――いえっ、そのままで結構です!」

「そ、そう? じゃあ、はい」

 勢いに気圧された桃香がおずおずと手巾を渡すと、焔耶は大切そうに懐へしまいこんだ。桃香と接する時の焔耶からは、曹操に対する夏侯惇や荀彧にも似た匂いが嗅ぎ取れるのだった。
 移動式の高台の上には、桃香と焔耶に朱里、雛里、そして旗手と鼓手が数人ずつ控えている。周囲の喧騒は耳には入らない様子で、雛里は戦場をじっと見つめていた。
 戦が動き始めようとしていた。
 張遼の騎馬隊が愛紗の二万五千に突っ込んだ。進路はここ―――劉の牙門旗へと真っ直ぐ向かってくる。雛里の指示で、旗が振られ、太鼓が打ち鳴らされた。
 騎馬隊の突撃を、柔らかく受け止める。まともに矛先を向けられた小隊は二隊、三隊と容易く蹴散らされるが、その間に直撃を免れた隊が左右から絞り込む。勢いを削がれ、張遼隊は本陣へ迫る直前で方向を変えた。横合いから近付いていた関の旗を避け、二万五千からの離脱をはかる。旗の下には当然愛紗がいる。劉備軍の精鋭で固めた旗本の二百を率い、時に陣形内を動き回りながら指揮を飛ばしていた。本陣と愛紗旗下の精鋭での挟撃を、張遼は直前で察してかわしていた。
 歩兵から抜け出た張遼隊の左右から、鈴々と星の騎馬隊が駆け寄り後尾を穿つ。接触は一瞬で、二隊はすぐさま張遼隊から離れた。先鋒の三千騎ばかりを率いて取って返した張遼を、すんでのところでかわす。
 張遼の用兵も巧みである。―――首を撃てば尾が、尾を撃てば首が、中を撃てば首尾共に逆襲に転ずる。孫子言うところの常山の蛇である。
 一連の攻防で、騎馬隊で張遼隊の後を取るところまでは雛里の指示で、反撃を見てとり距離を取ったのは前線の鈴々と星の判断だ。戦場全体を見据える雛里と、前線の三将の指揮は齟齬なくかみ合っている。
 張遼は隊をまとめて重装歩兵の後方まで下がった。愛紗が、潰走された小隊を素早く組み直しに掛かる。仕切り直しである。再び戦が膠着する。
 複数の戦線を抱える曹操軍にとって、最小の敵勢力である劉備軍は早々に蹴散らしたい相手だろう。本来膠着は曹操軍こそが嫌うものだが、その曹操軍の用兵こそがそれを誘発していた。
 張遼の用兵は愛紗達三将にも劣るものではないし、楽進は彼女達と比べれば一枚劣る印象だが決して凡将ではない。全軍の指揮権は新参ながらも呂布軍の副将として名を馳せた張遼にあるようだが、それが上手く機能していなかった。張遼は本来突出するくらいの前線でこそ活きる武将で、今はその強気の攻めと、楽進の堅実な守りが別個に存在するだけだった。兵力の損耗を抑え劉備軍を撃ち破るなら、重装歩兵を主力とし、騎馬隊を補佐に回して、堅実に攻めるべきところだろう。しかし仮に楽進の指揮権を上位に置いたところで、彼女の性格上先達の驍将である張遼に対して強権を発動し得ない。長く曹操軍に滞在しただけに、朱里と雛里には将の性格から用兵の癖までが手に取るようにわかった。
 一方、劉備軍は膠着を破る策をすでに打っている。かつての陶謙配下で、徐州随一の豪農糜竺に密かに兵を集めさせていた。
 糜竺は徐州滞在時の桃香達に資金援助もしてくれた恩人である。劉備軍が曹操軍を頼って徐州を去る際には同行を願い出てもくれたが、朱里がこの地に残ることを依頼した。劉備軍に加われば文官として朱里や雛里の助けとなるが、徐州に残れば数千からの人間を動かせる一大豪族である。朱里は後者として劉備軍を支援する道を示し、糜竺はそれを快諾した。
 各地を転戦してきた劉備軍には、同じような支援者が他にも無数に存在し、活動を支えてくれていた。桃香の人徳が為せる業だろう。先日は鈴々の武に惚れこんで、南方異民族の王である沙摩柯も恭順の意を示している。たった五千の劉備軍であるが潜在的な兵力はその数倍に達し、朱里と雛里ですら正確に把握しきれていない。
 糜竺は大胆にも、下邳の城内にすでに二千を超える兵を集結させていた。下邳は言うまでもなく陶謙時代からの徐州の政治と経済の中心地である。それだけに二十万を超える人口を誇り、人の動きも激しい。兵を集めるにも隠すにも格好の場であった。生粋の武人である張遼と楽進は、戦場以外のところで策謀を巡らせる将ではない。自分たちが守るはずの城から、敵軍が襲い来るとは想定もしていないだろう。
 糜竺から出撃の準備が整ったという報せが入ったのは、ちょうど今朝のことだ。この後、日が中天に差し掛かるや、三万全軍で攻勢を掛ける。直後に糜竺が下邳より進撃し、正面に注意を取られた楽進の背後を襲う。後ろを取られた重装歩兵は、意外なほどの脆さを見せるだろう。
 麋竺の出撃に合わせ、下邳ではその妹の糜芳が立ち、すみやかにこれを占拠する。張遼と楽進を打ち払い、下邳を抑えれば徐州は取ったも同然だった。

「―――何だろう、雛里ちゃん?」

 約束の刻限を前に、敵陣に何やら動きがあった。
 重装歩兵の陣へ騎馬の小隊が駆け込んだかと思えば、張遼隊との人の行き来が盛んに交わされ始める。真っ先に思い浮ぶのは麋竺の存在が露見した可能性だが、騎兵が駆けて来たのは下邳城からではない。

「ひょっとして、他の戦線が動いたのかな」

 雛里が漏らす。
 百騎余りを数えた小隊は伝令というには大掛かりで、遠目にも良馬で揃えた一団と見えた。それだけ、急を要する重大な報告とは考えられないか。

「河北の戦線が崩れた?」

 雛里が続けて溢した言葉は、朱里の予感と一致していた。
 江南の孫策軍には、夏侯惇の四万が派遣されている。これは、いくら孫策が戦上手と言えどもそう容易く抜けるものではない。一方、江南に四万を、ここ徐州に二万を送り込み、河北では二十五万の袁紹軍を相手に曹操軍は八万の軍勢で対峙している。曹操自らが率いるとはいえ、実に三倍の兵力差であった。

「―――っ、この機を逃さず、攻め立てますっ!」

 雛里が、はっと顔を上げる。報告の内容がどうあれ、これまでさざ波ひとつ立たなかった重装歩兵の堅陣に、動揺が波及している。麋竺との約定には半刻(15分)ばかり早いが、奇襲までに敵陣を崩せるだけ崩せておけば後の戦はさらに楽になる。
 雛里が関張趙三将に伝令を立てる。勝負を決める大一番だけに、旗と太鼓の指示だけでなく口頭での伝達だ。
 愛紗の二万五千が前進する。中央の本隊三千も足並みを揃えた。左右から鈴々と星の騎馬隊が追い抜いて行き、一体となって敵陣へ突撃した。敵の注意が背後に向かないように、攻撃は正面からに限られる。陣を組んだ重装歩兵に軽騎兵で正面から挑めば、犠牲は避けようがない。だから軽くぶつかって引くだけの、あくまで牽制だった。
 その見せかけの突撃が、抵抗もなくすっと敵陣へ埋没した。騎馬隊が切り開いたなどあり得ず、敵軍が道を開いたのだ。
 騎馬隊の虚を虚でかわされた。騎馬隊は敵陣中央に開いた間隙に滑り込むと、慌てて馬を反転させた。数十騎が逃げ遅れて、間隙を閉じ再び堅陣を布いた重装歩兵に取り込まれた。

「何? 何かが変わった?」

 雛里が小さくもらす。一癖ある用兵は楽進らしからぬものだった。

「雛里ちゃん、どうする? いったん下がる?」

「ううん、このまま前進。戦線を維持し、奇襲を待ちます」

 迷いを振り切る様に頭を振って雛里が言った。正攻法の用兵である。雛里は、それで何かを図ろうとしている。

「―――きゃっ」

 小さく悲鳴を漏らしたのは、自分だったのか、雛里だったのか、あるいは桃香だったのか。皆の視線が集まる先で、一瞬閃光のようなものが走り、人が宙を舞った。

「あれは、楽進さん」

「楽進さんが前線に? 桃香様、間違いないですか?」

 楽進隊では将である楽進も徒歩であるため、高台からもはっきりとは姿が確認出来ない。

「うん、曹仁さんに氣功を教えているところを何度か覗かせてもらったけど、ちょうどあんな感じに光っていたよ」

「他に楽進さんほどの氣の使い手がいるとも考えにくいですね」

 雛里の顔に微笑が浮かんだ。
 張遼と同じく、楽進もまた前線の武将である。応変の用兵は、本領の陣頭指揮ゆえだろうか。だが自身が前線で拳を振るいながら、戦場全体に抜かりなく目を配る小器用さは楽進にはない。奇襲のお膳立てが、これ以上なく整っていた。
 愛紗は新兵の二万五千をよくまとめ上げているが、歩兵の押し合いはやはり分が悪かった。先刻までの乱れが嘘のように、楽進自らが先頭に立った楽進隊は士気旺盛にして揺るぎなかった。奇襲までは、耐えるしかない。
 鈴々と星が、張遼隊を一突きし後方へ下がる。張遼隊はわずかに逡巡を見せながらもこれを追った。張遼に即応されては奇襲の効果は薄い。張遼隊を下邳の城門から出来るだけ引き離す。
 騎馬隊の動きに呼応するように、下邳の城門が静かに開放され、兵が湧き出してくる。
 さすがに後方に配置された兵が幾人か気付いたようだ。楽進隊に動揺が広がる様が、高台からはよく見て取れた。
 早くも、下邳の城壁に劉の旗が掲げられた。城門が、今度は曹操軍の侵入を防ぐために固く閉ざされる。奇襲部隊の兵が、ここで溜めに溜めた喚声を上げた。

「――――!! ――――――!!!」

 喚声に振り仰いだ敵兵は、四半里(250m)の距離まで迫った軍勢と、城壁上に翻る劉旗を同時に認めただろう。動揺はこれ以上ないものとなった。
 それを断ち切るように、楽進隊から騎馬隊が飛び出した。高みにある朱里達からは、奇襲部隊の喚声を待たず、兵のわずかな揺らぎに即応して重装歩兵の堅陣をかき分け進む小隊の姿が先刻から目に入っていた。

「対応が早い。ううん、早過ぎる」

 雛里が呟いた。前線に立つ楽進からの指令で動いたとはおよそ考えられない早さである。
 百騎程度の小隊は、麋竺の二千を正面から真っ二つに縦断し、取って返すや今度はきれいに横断した。
 四分割された二千のうち、三つまではそれで進軍が止まった。残る一つは何とか立て直して、なおも楽進隊目指してひた駆けた。麋竺自らが率いる集団だろう。

「楽進さんの隊には、騎兵は伝令や斥候に使う数十騎だけのはず。焔耶さん、あれはさっき合流した騎兵ですか?」

 雛里が高台にいる者の中で一番目が良さそうな焔耶に尋ねた。

「う~ん、数はわずかに少ない。先程は百数十騎はいたが、今はきっかり百ってところか。馬の質は、良いな。すごく良い。うん、たぶんさっきの騎兵で間違いない。……ただ、さっき見た時はなかったと思うんだが、首に白い布かなにかを巻いているな」

「―――っ!」

 焔耶が何気ない口調で付け加えると、当の発言者を除く全員が息を呑んだ。

「曹仁さんが、来てる? 焔耶ちゃん、白馬に白い具足の人は見える?」

「はっ、桃香様。……白馬に白、……白馬に白、…………すいません、見当たりません」

「そっか。朱里ちゃん、雛里ちゃんは?」

「私にも見えません」

「私も」

 巨躯の白馬と白い具足の組み合わせは、遠目にも相当に目を引く。見つからないということはいないということか。

「それじゃあ、そもそも白騎兵ではないのかな? こちらの狼狽を狙った作戦とか? でも、練度はすごく高そうだけど」

 百騎は脚を止めない麋竺の五百に向かうと、瞬く間に潰走させた。狙いすました奇襲が、それで失敗に終わった。

「重装歩兵の中心で全軍の指揮を取っている可能性もあります」

 雛里が顔を曇らせながら呟く。
 総指揮者の不在が、曹操軍の弱点であった。曹仁が加わったなら、当然その指揮権は張遼の上に置かれる。曹仁も騎馬隊の先頭を好む将だが、黄巾賊討伐の際に全軍を率いる戦も経験済みだ。今も歩騎合わせて三万を率いている。先刻の曹操軍の動揺も、指揮権の移行と思えば説明は付く。
 張遼の騎馬隊が駆け戻る。重装歩兵と二万五千のぶつかり合いには介入せずに、後方へ向かった。騎馬隊を広く展開して、百騎に蹴散らされた奇襲部隊を今度は下邳の城門へと追い立てていく。二千を質に開門と降伏を迫ろうというのだろう。鈴々と星が救援に向かうが、およそ三千騎を率いた張遼と白布の小隊に阻まれている。
 歩兵の押し合いが有利と見るや、騎馬隊は重要拠点の奪還に回した。これもやはり張遼や楽進の用兵らしくはない。さりとて、曹仁らしさも感じられない。

「―――っっ」

「いっ、いかがされましたか、桃香様?」

 神妙な顔で重装歩兵に視線を送っていた桃香が、ぶるりと身を震わせた。

「何だか、急に寒気が」

「それは大変です。お休みになられますか? な、何でしたら、ワ、ワタシが温めて」

「う、ううん、もう治まったから、大丈夫だから。そ、それより糜芳ちゃんが」

 過剰に身を寄せようとする焔耶を制して、桃香が指差す。姉の窮地に、城壁に立てられていた劉旗が降ろされ、城門が開かれた。
 奇襲部隊の二千を追い立てるように、張旗を掲げた五千騎ばかりが城内になだれ込んでいく。追い縋り掛けた鈴々と星を、雛里が旗を振って制止する。逃げ場のない城内でぶつかり合えば、兵力差で潰されるだけだ。
 これで指揮者不在の五千騎と重装歩兵が一万。奇襲自体は失敗に終わったが、張遼と五千騎を戦場から退けることが出来たのは大きい。兵力としては、これでようやくやや有利と言えよう。

「張遼さんが城内を制圧する前に勝負を決します」

 雛里は愛紗に重装歩兵の包囲を指示した。
 先んじて、楽進隊が円陣を組む。方陣からの移行は迅速で、付け入る隙はなかった。中央にそびえる楽旗に全員がさっと背を預け、突出した形になる四隅が後退する。全体として一回り縮んだ格好で、寄り集まった重装歩兵はさながら一つの鉄塊を思わせる。重装歩兵の基本陣形で、弱点となる左右後方を補う鉄壁の構えだ。隙間なくびっしりと並んだ楯からは、戟と槍が突き出される。かつてこの構えと対した曹操軍は、大兵を有しながらも崩すには至らなかった。

「愛紗さん、それに鈴々ちゃんと星さんにも伝令っ! ここは三将の武に委ねます、前線を斬り開いてください」

 鉄壁は用兵の上での話だ。曹操軍では夏侯惇の七星餓狼が重装歩兵の堅陣をわずかに斬り崩したと言うが、ここにはそんな用兵の常識を超越した武が三つ存在する。
 二万五千の指揮に専心していた愛紗が前線に進み出る。本陣も続いた。生粋の劉備軍の兵は、重装歩兵を相手に一歩も引かず関旗を後押しする。その対面から、鈴々と星の騎馬隊が一体となって突き進む。犠牲は避けようがないが、勝負所だった。狙うは敵陣の中心。二万五千の包囲で動きを封じ、前後から楽旗を目指す。円陣を組んでからは、前線に楽進の姿が見えない。目指す先に楽進がいるのか、あるいは曹仁か。さすがに前線で高台は標的になるようなものだから、朱里達は馬上の人となっている。いずれの姿も認めることは出来なかった。
 白布の小隊と騎馬隊五千が本陣の後方を扼した。張遼不在のためか、ただ退路を押さえるのみで突っ込んでは来ない。視野に収めつつも、雛里は前線に投入した戦力を動かさなかった。
 関旗と張旗、趙旗が合流した。劉旗もそれに続く。曹操軍にも崩せなかった重装歩兵の堅陣を両断していた。やはり三将の武と本来の劉備軍の練度は、この乱世に突出している。

「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、星ちゃんっ! 敵の指揮官―――曹仁さんはっ?」

「ほう、本陣でも気が付いていましたか。確かに合流してきたあの騎馬隊は白騎兵でした」

 桃香の問いに、星が微笑交じりに言う。本陣に伝令を飛ばさなかったのは、桃香の心中を懸念したものか。

「でも、お兄ちゃんいなかったのだ。白騎兵の中にも、ここにも」

「それじゃあ、楽進さんは?」

「楽進なら、ほれ、そちらに」

「―――暢気に話していないで、手伝え! 星、鈴々っ!」

 星が顎をしゃくった先で、愛紗が叫ぶ。両断された重装歩兵の、左翼側に楽旗が立てられていた。愛紗がこれに当たっている。

「星さん、鈴々ちゃんも、愛紗さんに続いてください。張遼さんが戻る前に楽進さんを。本隊は右翼を―――」

 雛里の言葉が途中で止まる。右翼からの衝撃に、雛里達の足許まで劉備軍本隊の兵が押し込まれていた。

「はわわっ、も、もう陣形を整えたなんて」

 盾を並べた重装歩兵が、すぐ間近まで迫っていた。

「本隊は右翼へ当たるっ! みんなっ、まずは防御を固めて!」

 本隊の指揮は桃香と朱里である。朱里が動揺する間に、桃香が指示を飛ばした。
 やはり、自分は前線での指揮は苦手だ。朱里が自省する間に、劉備軍本隊は槍を並べて防御態勢を築き上げた。敵軍からの追撃はない。陣形を象るために一時攻勢に出たが、やはり敵が組んだのも防御のための布陣だ。両断された半円から、五千の円陣へ。その中央にそびえるは―――

「―――はわわ」

「―――あわわ」

 一音違いの驚嘆がすぐ隣からも洩れる。
 やはり、自分も雛里も前線での指揮は苦手だ。改めて朱里は思った。眼前に迫る敵軍に囚われて、どうやらそれの存在に気が付いたのは、諸将の中で二人が最後のようである。

「……曹旗」

 天人旗の有無を確認するまでもなく、黒地に白抜きの曹仁の旗ではない。意匠を凝らした紫巾に曹の一字。曹操軍の牙門旗だった。
 まず朱里が考えたのは、あの旗は本物か、という疑念だった。いや、旗自体は本物にしても、その下に曹操本人は果たして存在し得るのか。河北の戦線を放棄し、徐州まで赴くなどあり得るのか。
 朱里の疑念を振り払うように、桃香がまた身を震わせた。

「この首の後ろがぞわぞわする感じは、間違いなく華琳さんだ。華琳さんが、来てる。それも、いつもよりもっともっと強い華琳さんだ」

 桃香の言葉には、不思議な説得力があった。

「―――ああ」

 雛里が小さく声を上げた。感嘆の響きが、そこには混じる。
 改めて五千の円陣に視線をやった朱里の目にも、その軍勢に曹操の姿が重なって見えた。厚く楯に覆われた重装歩兵の堅陣の内は、一切窺うことが出来ない。それを示す情報など何も届いてはいないし、袁紹軍と対峙中の曹操がこの戦線に現れるなど、やはり普通に考えればあり得ない話だ。だがあり得ないと思うからこそ、逆にそれをやってのけるのが曹操という気がする。

―――同等以上の兵力で曹操とぶつかることが出来る。

 疑念が晴れるや、次に朱里の脳裏に過ぎったのは千載一遇の好機ということだった。
 曹操軍は常に仮想敵であった。雛里と二人で並べた象棋でも実戦形式の調練でも、どちらかが曹操の動き模倣して、それを破るという想定は繰り返していた。現実の勢力を考慮し、いつだって劉備軍不利の戦況からの開始だった。

「鈴々ちゃん、星さん! 愛紗さんもっ!」

「わかってるのだっ!」

「おおっ! 騎馬隊続けっ!」

 鈴々と星が、曹の牙門旗目掛けて駆ける。右翼に遅れてようやく円陣を布き直した左翼から、愛紗も兵を返す。

―――勝てる。

 朱里はそう確信した。一万の円陣を断ち割ってここまで進んで来たのだ。今さら五千など。

「……ううっ」

 桃香が自らの肩を抱きながら呻いた。今度の震えは、まだ治まらないようだ。焔耶が、心配そうに顔をのぞき込んでいる。そんな主君に、すぐにも勝報を届ける。
 騎馬隊がぶつかり、跳ね返された。鈴々と星はさすがに敵兵を危なげなく打ち払っているが、それ故に突出し掛けている。やはり、重装歩兵に対して騎馬隊は相性が良くない。
 旗下を率いた愛紗が、そして本隊の兵も続いた。それで、こちらがやや有利な押し合いにまで持ち込めた。しかし、崩し切れない。先刻までの快進撃が嘘のように、押し合いが続いた。左翼には楽進の五千。今は円陣で固めているが、いつ動くとも知れない。

「朱里ちゃんっ、雛里ちゃんっ!」

 叫んだのは、いまだ震えている桃香だった。見当違いの方向を、指差している。

「桃香様、そちらにはなにも――――」

 紺碧の張旗が下邳城の城門を発した。率いるは、当然五千騎。

「こんなにすぐ、城内を制圧出来るはずが」

 ならば答えは単純。あの軍は初めから、城内の制圧など目的としていない。こちらの想定から一時外れるために、城内に身を隠しただけのことだ。
 左右には五千の重装歩兵の円陣。後方も、五千騎に抑えられている。
 攻め寄せる騎馬隊の馬蹄の音が、朱里の耳にいやにはっきりと聞こえた。





「舐められたものね」

 劉備軍からの急報を聞き終えると、雪蓮は眉根を寄せて言った。急使の男はわけもわからず、困ったような表情を浮かべている。

「ああ、ごめんなさい。貴方に言ったのではないのよ。遠い所を御苦労さま。戦陣なれば大したおもてなしは出来ないけれど、幕舎を用意するわ。せめて今日はゆっくりと休んでいってちょうだい。―――誰か、案内してあげて」

「いえ、私は―――」

 男は雪蓮の勧めを固辞すると、すぐにも劉備達との合流を図ると言って辞去した。

「……そうは思わない、冥琳?」

 男が去ると、思案顔の親友に視線を向けて、雪蓮は改めて先刻の続きを口にした。本営に設けた軍議用の広い幕舎内には、他には親衛隊長の朱桓がいるだけだ。
 官渡での袁紹軍大敗の報と前後するように、徐州の劉備軍から急使が送られてきた。
 敗報である。本人の姿を確認したわけではないが、間違いなく曹操自らの指揮であったという。袁紹軍の敗戦時には、はっきり曹操の姿が目撃されている。つまり袁紹軍に痛撃を与えるや、すぐさま徐州へと駆け、そこで劉備軍をも撃ち破ったということだ。劉備軍も大敗であり、潰走に追い込まれている。先程の急使の兵は、はたしてうまく合流できるものだろうか。

「確かにな。結果的には楽が出来るということだが」

 言って、冥琳が思考を飛ばすように天井を見上げた。
 荊州侵攻の三万をそのまま北伐の軍勢とした孫策軍に対して、当たる敵軍は夏侯惇率いる四万である。副将として夏侯淵も付いていて、曹操軍の第一部隊といえる軍団であった。劉備軍へ当たったのは楽進と張遼の隊である。張遼はあの呂布軍の副将を務めた武人であり、率いる兵も精強だが、いかにも新参である。曹操軍の頂点に立つ夏侯惇と比べると一枚格が落ちる。それも当然で、軍勢の中枢には精強極まる劉備軍の存在があるとはいえ、所詮は烏合の衆の蜂起と、雪蓮自らが率いる孫呉三万の軍団である。曹操が劉備軍よりも孫策軍を警戒していることは、間違いないことのように思えていた。今回の曹操の徐州出陣は肩透かしを食らったようなものだ。

「んっ、まあいいわ。曹操の相手をする機会はまだあるし」

 雪蓮は一つ大きく伸びをすると、幕舎を出た。冥琳と朱桓もそれに続く。
 夏侯惇の四万を打ち払った後、雪蓮は淮水を越え、一路北上して曹操軍の本拠許をうかがう。一方で冥琳はこの地―――揚州廬江郡―――に留まり、長江北岸から淮水までの地盤を固める。本来淮水までの地域は揚州に属するが、長江より北の地域に関しては曹操軍に一部押し込まれた状況にあった。淮水までを手に入れれば、さらに水運が開ける。兵や物資を中原に送り込むことは容易だった。雪蓮も、中原の覇権を易々と奪えるとは考えていない。たとえ許を落としたとしても、そこに長居するつもりはなかった。袁紹軍か曹操軍、勝者となった軍勢に包囲され孤立する可能性が高い。襲撃に成功すれば、曹操軍の本拠を落としたという看板を引っ提げて雪蓮は南下し、予州全域を恭順させる。一方で冥琳は足場を固めた後、北上する。許都襲撃の成否に係わらず、それで予州南域は孫呉の支配下におさまる。許都襲撃は箔付けと、自分も少しは曹操と遊んでみたいという雪蓮の願望を通した結果である。

「相変わらず、動きは無しか」

 目を離している隙に、戦場に何か面白い変化でも見られないかと雪蓮は期待したが、空振りに終わった。
 夏侯惇の四万が、陣を構えて動こうとしない。猛将で知られた夏侯惇らしからぬ戦振りで、堅陣を組んでの矢の応酬に終始している。淮水を望む平原に対陣して十日余り、両軍の犠牲は数えるほどのものだった。
 神箭手の異名を取る太史慈と祭の率いる弓兵も、陣形を固め楯を整然と並べられては大きな戦果は上げようがない。同じく曹操軍随一の弓手として知られる夏侯淵の矢も、こちらの兵をほとんど傷付けることはなかった。
 今日も、いつも通りの矢合わせからの退屈な戦が展開されていた。
 これまでに何度か雪蓮が騎馬隊で前に出て敵軍の攻勢を誘ったが、夏侯惇は一度も乗ってきていない。堅陣に籠もったまま矢を集められ、取って返す以外なかった。
 動けば動いただけ、こちらが痛い目を見るばかりだった。それでもいつもの雪蓮なら多少強引に攻め立てただろう。勝機と見て相手が応じれば、戦は動く。劣勢からでも動きさえあれば、好機を見出すことも出来る。しかし今の夏侯惇の指揮の取り様は、まるで置物のように生気を感じられない。本陣に掲げられた濃い赤紫と淡い青紫の布地にそれぞれ夏侯と大書された二旗は、風に靡くばかりで自ら小揺るぎもしない。雪蓮にとって戦は、剣の立ち会いの感覚に近い。隙を見つけて一気呵成に攻め立てるも、劣勢を演じて逆襲に転じるも、相手の呼吸を読んでこそである。しかるに、置物の呼吸は読みようがなかった。

「姉様、戦闘中です」

 床几に腰掛けるや、膝を抱えるように前のめりに倒れ込んだ。雪蓮のだらけきった体勢に、蓮華が小言を飛ばした。本陣は蓮華の五千と雪蓮の二千騎である。

「だって、退屈じゃない」

 首だけ動かして、雪蓮は返した。
 ここ数日は本陣を最後尾に移したため、敵の矢が届くこともない。あの曹操軍を向こうに回しての中原侵攻に、関羽や張飛にも並び称される猛将夏侯惇が相手とあって、当初雪蓮の中で高まっていた意気もすっかり萎んでいた。

「否定はしませんが、―――どうしました?」

「…………?」

 がばりと出し抜けに身を起こした雪蓮に、蓮華が疑問を浮かべた。答えず、雪蓮も突然襲ってきた正体不明の感覚に眉根を寄せる。
 しばしして、戦場に初めて動きがあった。敵前衛二万が粛々と前進を開始している。赤紫の夏侯旗を掲げている。夏侯惇自らの指揮だ。

「冥琳」

「ああ。思春と明命を両翼に回そう」

 冥琳が伝令を飛ばすと、すぐに中軍の二隊が動き始めた。いずれも軽装の歩兵部隊で動きは良い。孫策軍前衛の太史慈隊の左右に並ぶ。
 前衛同士が押し合いを開始した。いずれも堅固であるが、楯に槍を抱えた重装備で速さに欠ける。両翼に付いた思春と明命も攻撃を始める。二万の敵前衛に対して、太史慈の一万で受け、思春の三千と明命の五千で攻め立てる。思春と明命の軽装歩兵は相手の陣形に潜り込むように侵入して、すぐに混戦の様相を呈した。

「―――冥琳、出るわ」

「どちらに?」

「夏侯惇を、と言いたいところだけど、さすがに曹操軍の兵は強い。届きそうにないわね。ここはひとまず、うるさい弓兵を黙らせる」

「誘いだぞ」

「ええ、でもいけるわ」

 前衛が突出し、青紫の夏侯旗を立てた二万が後方に残されている。二万の前面には、夏侯淵の弓兵隊五千余りが曝け出されていた。ここで弓兵を叩いてしまえば、今後は夏侯惇もこれまでの様につまらない戦は出来なくなる。
 ただそれは敵陣の真ん中に打って出るということで、夏侯惇の前衛部隊が取って返せば挟撃を受けることとなる。明らかな誘いである。同時にこちらの騎馬隊を警戒して全軍での攻勢には出れないということでもあろう。南船北馬というが、この戦場においては雪蓮の二千が唯一の騎馬隊で、曹操軍には両夏侯旗の元に数百騎が控えるのみだった。

「わかった。可能な限り夏侯惇は足止めするが、深追いはするなよ」

 冥琳も好機と認めたのだろう、珍しく雪蓮自ら動くことを容認した。

「――――! ―――――――!!」

 その時だった。激しい鬨が湧き上がった。先刻まで思春隊と明命隊が布陣していた陣形の空隙に、混戦を抜け出し、百騎ばかりが飛び出した。そこに数百の歩兵も続く。百騎は、夏侯の旗を掲げていた。

「夏侯惇!? ちょっと、大将自ら寡兵で突撃なんてっ、馬鹿なのっ!?」

「夏侯惇もお前に言われたくはないだろうが。いずれにせよ、無謀だな」

「私もあそこまで無茶しないわよ。―――うん。でも、良いわね、あれが夏侯惇。ぞくぞくしちゃう」

 夏侯惇の呼吸が変わった。先日までは、大将としてどっしりと構えていた。それが生来の持ち味を殺し、置物が如く印象を雪蓮に与えていた。今は、本来の猛将の顔を露わとし、闇雲に駆ける先駆けの戦だった。
 雪蓮のいる本陣までは、祭の五千が残っている。
 百騎の向かう先に、祭が立ちはだかるのが見えた。百騎の先頭には遠目にも見間違い様もなく、夏侯惇の姿を認めた。
具足を着込まず、真っ赤な袍を翻す出で立ちは雪蓮と似ている。夏侯惇の方は申し訳程度に肩当てと胸当てだけは身に付けているが、いずれも機能的な意匠とは言えない。見目の華やかさを重視した結果だろう。目立てば目立った分だけ、自分の活躍で兵は鼓舞される。それに、具足は暑苦しいから嫌だ。そんな計算と気侭な理由も、雪蓮と一致しているのではないだろうか。
 夏侯惇が大剣を振りかぶる。漆黒の肉厚な刀身が、祭を襲う。七星餓狼という片刃の大剣の銘は、夏侯惇の武名と共に広く知れ渡っている。槍を手にした祭と二手三手と打ち合うと、馳せ違った。そのまま捨て置き、夏侯惇は駆け抜ける。狙いはあくまで総大将の―――自分の首一つだろう。祭は続く百騎と歩兵のなかに飲み込まれながらも、夏侯惇へ矢を放った。槍ではなく、祭の本命は当然こちらだ。それを、振り返りもせずに馬上に身を伏せてかいくぐった。動物的とでも言うべき勘の働きだ。
 単純に祭の武が夏侯惇に劣るというのではない。生粋の猛将が、これまでためにためたものを爆発させている。猛将という言葉がこれほど似合うのは、他に劉備軍の張飛ぐらいか。
 雪蓮の意識は夏侯惇に吸い寄せられた。魅力的な武人だった。曹操の親族で右腕―――愛人という噂もある―――だから、太子慈のように味方に引き込めはしないだろう。惜しいが、討ち取ってそれで戦を終わりにする。

「冥琳、祭には前衛のほころびを塞がせて。私が行くわ」

 夏侯惇のみならずその旗下も、曹操軍中有数の精鋭だろう。弓兵中心の祭の部隊で止めるには、半数の犠牲は必要だ。冥琳も一瞬の思案の後、首肯して伝令を飛ばした。
 夏侯惇に群がっていた祭の兵が離れる。夏侯惇が穿った太子慈隊の間隙からは、今も曹操軍の兵が漏れ出している。祭の五千はそこへ当たる。
 これで、夏侯惇を遮るものは何もない。
 雪蓮も騎馬隊を走らせた。先頭には出ない。一騎打ちの衝動は抑え、二千騎の中ほどを進んだ。騎馬隊全体で突き崩す。楔形の布陣で、先端を夏侯惇へ向けてひた駆けた。
 武人に対する礼として、せめて最後の一振りくらいは自分の手で付けよう。雪蓮は南海覇王の柄を強く握り締めた。
 二千騎を前にしても、夏侯惇にひるんだ様子はない。百騎の先頭を、むしろ突出する勢いで駆けてくる。
 ぶつかる。真っ赤な花を咲かせて、馬上から味方の兵の姿が消えた。二騎、三騎と同じく散っていく。夏侯惇を討ち取るためなら、多少の犠牲は覚悟の上だった。十数騎目で、花は咲かなくなった。次々に押し寄せる波に夏侯惇の斬撃も乱れて、斬るではなく叩き落すに変わっている。さらに数騎。馬の前足が跳ね、前のめりの夏侯惇の構えが崩れた。奇しくも、自分の“番”まで残すところわずか三騎。雪蓮は今一度南海覇王を握り直した。

「―――――っ!!」

 横合いから衝撃が走った。騎兵が、雪蓮の騎馬隊を両断している。

「奇襲っ!? ―――どこからっ!?」

 周囲に兵を伏せられるような場所はない。警戒も怠ってはいなかった。
 そこで雪蓮は敵軍が極めて寡兵であることに気付いた。およそ百数十騎。それなら、こちらの目を盗んで急接近し、戦場の混乱に乗じて奇襲も不可能ではない。

「―――それにあれは」

 白い布が目に付いた。敵兵のほとんどが首に巻いている。白騎兵。曹仁率いる曹操軍最速の騎兵部隊である。
 まさか曹操だけでなく曹仁まで官渡の決戦場を空けたのか。―――いや、違う。劉備軍からの報告にあった。頭上に目を向けると、やはり見覚えのある曹の牙門旗。そこから視線を下げると、いた。兵に混じれば容易く隠れてしまう小さな体は、一度それと認めるともはや見過ごしようもなく大きく輝いて見えた。

「曹操っ! 無茶をしてくれるっ!」

 劉備軍からの急使が到着して、数刻と経過していない。官渡にて袁紹軍を大破したその足で劉備軍を打ち払い、今またこの戦場にも姿を現したということだ。強行軍に次ぐ強行軍で、一人で全ての戦場を仕切ろうというのか。
 夏侯惇が総大将からただの猛将に戻れるわけだった。いつの間にか、指揮権は曹操へと受け渡されていたのだ。孫策軍への劉備軍からの急報と時を同じくして、夏侯惇への曹操の命令も伝えられていたのだろう。

「―――孫策っっ!!」

 叫び声に正面を向き直る。夏侯惇が、七星餓狼を振りかぶった瞬間だった。崩れていた構えも、奇襲に動揺したこちらの三騎をいなす間に立て直している。万全の一振りは、雪蓮の正中線をぴたりと捉えていた。

「―――くっ!」

 他に手段は選べなかった。雪蓮は鞍に手を付いて後方へ身体を跳ねとばした。
 景色がゆっくりと流れていく。
 中空にある自身の身体。空馬で駆けて去っていく愛馬。夏侯惇の七星餓狼が軍袍を掠め、馳せ違う。左右を追い抜いていく味方の兵。背後からの喧騒は、同じく味方の騎兵が雪蓮との衝突を避けるために急制止し、後続とぶつかり合う音だ。どうと足元に馬が倒れ、投げ出された兵が空中で雪蓮と交錯する。
 時間が正常の流れを取り戻したのは、地面に降り立った瞬間だった。揉み合う五十騎ばかりを残して、味方騎馬隊が遠ざかる。夏侯惇に続く百騎は、折り重なる五十の人と馬に雪蓮への追撃を阻まれ、離脱していく。代わって、四百余りの歩兵が寄せてくる。
 蓮華の五千がこちらへ急行している。二千騎もすぐに取って返してくるが、動き出しも脚も白騎兵が速い。

「孫策様、こちらを」

 引き出されてきた無傷の馬に雪蓮は跨った。

「孫権隊と合流する。走れない馬は捨て置き、徒歩で付いてきなさい。走るのに邪魔なら武器も捨てて構わないわ」

「はっ」

 五十騎のうち三十人ほどが、馬を失っていた。残ったうちの数騎を、伝令代わりに騎馬隊へ走らせた。
 歩兵はすぐに振り切ったが、背後にはすでに白騎兵が迫っている。馬を失った兵が、疾駆する敵の馬に捨て身で跳び付いて進軍を阻止した。そんな命令を下した覚えも、下す気もないが、やめろと制止もしなかった。

「冥琳っ! 確認したわね?」

 蓮華の隊に駆け込んだ。前衛に冥琳がいて、すでに迎撃の構えを取っている。白騎兵は追撃を諦めて後方の歩兵四百と夏侯惇の百騎と合流した。

「ああ、確かに曹操だ。取れるぞ、曹操の首を、ここで」

 珍しく興奮気味に冥琳が言う。
 その気持ちも分からなくはない。太史慈達前衛と、本陣の蓮華隊五千の狭間の空隙に、曹の牙門旗と赤紫の夏侯の旗を掲げた四百と二百数十騎が納まっている。そして騎兵が一千ずつ二隊に分かれて、左右を塞いだ。

「騎馬隊に命令を?」

「ええ。どうせ白騎兵には追い付けっこないから、先に次の手を指示しておいたわ」

「さすがだ。これで―――」

「――――! ――――――!!」

 喚声が湧き起った。微笑を浮かべていた冥琳の口元が凍り付く。
 前衛が破れていた。状況は一目瞭然で、混戦の最中に整然と並ぶ夏侯淵の二万がぶつかったのだ。
 兵数で劣る孫策軍で、二千の騎馬隊が受け持つ役割は大きい。夏侯淵の二万は本来なら雪蓮が阻むべき軍勢であった。夏侯惇、そして曹操の大き過ぎる存在が、二万という忘れてはならない―――忘れるはずもない―――大軍を、雪蓮の、そして冥琳の頭からさえも失念させていた。
 一体となった四万が、祭の五千を押し退けながら進む。思春隊、明命隊の一部も左右にまとわりついているが、四万の前進を圧し止める力はない。二万の突撃をまともに受けた太史慈隊はちりぢりに散っていた。左翼に流れた太史慈が旗を掲げ、兵の再集結をはかっている。まとまった兵力が集まり次第攻勢に出る心算だろうが、戦場の真ん中を突き進む四万がいる限り兵は移動もままならない。
 白騎兵も夏侯惇の旗本も、今やその気になればいつでも四万との合流が可能だった。いまだ四百と二百数十騎のまま雪蓮と冥琳の目に姿を曝し続けているのは、誘いか、単に余裕の表れか

「退きましょう、冥琳」

「まだだ。私と雪蓮がいて、負けるはずがない。そうだ、先に曹操の首を取ってしまえば」

「騎兵は、十数騎しか残っていないわ」

 手元に二千騎があれば、雪蓮も最後の一手に賭けたかもしれない。騎馬隊を本陣から遠ざけたのは雪蓮の指示で、冥琳も賞賛した一手だった。

「冥琳」

「―――っ、……わかった」

 冥琳が唇を噛みしめる。
 完敗だった。完全なまでに翻弄されて、後悔の念すら浮かばない。あるいは冥琳が、自分の分まで悔やんでくれたからか。雪蓮の胸中にはただ曹操への感歎だけがあった。



[7800] 第8章 第7話 官渡の戦い その三 陥穽
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2014/12/06 11:48
「おーほっほっほっ! 気にすることはありませんわっ、淳于将軍。我が軍の優位は、いぜん健在でしてよ。おーほっほっほっ!」

 力無く頭を垂れる淳于瓊に、袁紹が笑い飛ばした。白馬の砦の軍営に高笑いが響く。
 先日の決戦で前衛部隊を率いた淳于瓊が、軍の再編を終え、報告をあげていた。前衛を務めた十万のうち、死者は五万にも上った。負傷した者達を領内に送り帰すと、再び軍に編成出来たのは二万だけである。負傷者の多くは重傷で、傷が癒えても戦線復帰は難しいという。

「いつまでも突っ立って、どうしましたの、淳于将軍? 報告は以上なのでしょう?」

「……はっ」

「ならばお下がりなさい。戦場だというのに将軍の貴方がぼうっとしていては困りましてよ、仲簡さん。おーほっほっほっ!」

「―――はっ」

 軍議の間では文官武官が左右に別れ、一列に整列している。文官側の列は袁紹に近い側から田豊、審配、そして郭図、逢紀、辛評らがそれに続く。武官の席次は、文醜と顔良の二枚看板が袁紹の左右に近侍しているため、先頭に来るのが第三位の将軍である淳于瓊である。淳于瓊が、その席へと戻る。
 こういう時、袁紹の切り替えの早さは強みである。淳于瓊の罪を問う言葉は一つもなかった。他の誰の指揮であっても避けようもない状況であったが、あれほどの大敗となれば指揮官に責任を負わせたくなるものだ。淳于瓊は将軍としての最期の仕事というつもりで、軍の再編に取り組んできたことだろう。もし淳于瓊の更迭となれば、田豊は死を賭してでも袁紹を諌めようと考えていた。ここで淳于瓊という優秀な将軍を失うのは愚行である。
 ところが生まれついての名族育ちは、部下の過ちから敵軍の策謀すらも笑い飛ばす大度が売りだった。余人に勝る袁紹の取り柄と言えよう。田豊が、欠点ばかりの目に付くこの主を嫌いになれないのも、それが故である。

「さて、沮授さんからの報告は?」

「はっ」

 淳于瓊に代わって、田豊は前に進み出た。
 田豊と並ぶ文官筆頭であり、監軍(軍総司令)でもある沮授は、袁紹自らが出馬する今回の戦では本拠鄴にあって兵站を担っていた。
 河水を挟んだ白馬の対岸が袁紹軍の前線拠点黎陽であり、黎陽から北西に百里(50km)で鄴である。主だった者は文官まで引き連れての出陣であるから、今は白馬が袁紹軍の朝廷で、ここで取り決められたことが黎陽を経由して鄴へ伝えられて実行へ移されていた。
 十万の前衛部隊の潰滅後、曹操軍は官渡城へと撤退した。追撃をかけるでもなく、袁紹軍はそれを見送った。あんなものを見せられては、袁紹軍としては本陣の柵の内に籠もるしかない。曹操軍の影が消えると、袁紹軍も死屍累々の戦場を逃げるように離れた。後退した先で、曹操軍がほとんど無人で放置していた白馬の砦を接収出来たのは僥倖であった。

「近く、一万ほどの新兵を送り込めるとのこと。兵糧に関しては、不足の心配はないとのこと」

 沮授からの報告は詳細極まるが、細かな数字をあげても袁紹は退屈するだけである。田豊は端的に状況だけを並べた。兵糧の余裕は、こちらの想定を大きく上回る犠牲者を生んだが故であるが、言及はしなかった。袁紹は軽く頷くだけで先を促す。

「例の準備はどうなっておりますの?」

「幽州と幷州の城の倉より新たに五千頭分の馬甲が見つかったとのことです。鄴に運び入れ、早速職人による手直しを進めております」

「それでは、それが終われば」

「はい、二万頭分の準備が整います」

「おーほっほっほっ! 華琳さんが五千騎なら、こちらは二万騎ですわ! 私と華琳さんとの格の違いを、見せつけてあげるのです! おーほっほっほっ!」

 袁紹がまた高笑いをあげた。上機嫌で口にした言葉は、十数日前にぶち上げたものとそっくり同じだ。大敗直後の鬱々とした空気を払拭する袁紹の高笑いと一声に、急遽馬甲と鎖の製造が開始されたのだった。
 前回の戦で、曹操軍の馬群一組の捕縛に成功していた。回収した曹操軍の装具を鄴の沮授へと送り届け、それを元に袁紹領を上げて製造が進められている。幽州・幷州には北方異民族との争闘の長い歴史があり、彼らの得意とする騎射から馬を守るために馬甲が発達した。ここ数十年は異民族の侵攻は散発的で、大規模な会戦もないため用いられることも少なくなっているが、倉を漁らせれば年代物の馬甲が大量に発見された。今は領内の職人という職人を鄴へと呼び集め、改装を急がせている。―――当初袁紹は新たに鋳造し鍍金して、揃いの金色の馬甲を金鎖で繋いだ一団を作ろうと企画したが、田豊が説得を繰り返して断念させた。袁家累代の資産と、天下の大州冀州をいち早く手にして貯えた財は莫大であるが、限度というものがある。現状でも、相当に資金を費やしている。曹操軍の工兵部隊はその異能を持って知られるが、対して袁紹軍は金に飽かせて領内の職人を総動員させていた。多少強引な買い入れも行わせている。着想を要する装具の雛型は曹操軍が自ら供してくれた。発案者たる彼らの想像をも超えた早さで、袁紹軍の連環馬―――曹操軍ではこの部隊、そして戦術を、そう呼ぶらしい―――の用意は整いつつあった。

「装備が整い次第再び決戦の場に赴きますわよ。淳于将軍、騎馬隊の指揮は貴方に命じますわ。早速編成に取り掛かりなさい」

「はっ」

 淳于瓊が拱手して頭を下げる。袁紹が満足げに頷き、軍議はここまでと席を立つ。顔良と文醜も続いた。
 軍議から数日が経過した。
 連環馬の装具が、鄴から黎陽を経て白馬へ続々と送り込まれていた。急ごしらえの造り―――外観が不揃いなだけで強度に問題はない―――に袁紹は不満げだが、予定を上回る進捗である。
 輸送の視察に出た田豊は、作業を離れ車座になった集団を見止めた。

「おや、張郃か? 兵に混じって、何をしておる?」

 屈強な男達の中に一人混じる細身の女の姿は目を引いた。淳于瓊に次ぐ袁紹軍第四位に位置する将軍、張郃である。

「これは田豊様。―――いえ、少し話を聞いていただけにございます」

 張郃は左右に並ぶ兵の肩を、ぽんぽんと優しくあやすように叩くと、集団から別れ田豊の元へと歩み寄った。

「……」

 張郃はそっと目配せすると、そのまま田豊の脇を通り抜けた。兵には聞かせたくない話があるということだろう。田豊も張郃と並んで歩いた。
 特に長身というわけではないが、姿勢が良いためか張郃の背はすらりと伸びて見えた。顔立ちも整っているが、兵と大差ない軍袍と具足を着込み、派手者の多い袁紹陣営にあっては際立った印象はない。

「運び込まれてきた馬具を見て、あの日の戦場を思い出したようです」

 集団から十分に距離を置いたところで、張郃が言った。口調にも表情にも、やりきれない思いが溢れている。
 黎陽から白馬の間、河水を行き来して連環馬の装具を輸送している兵は、先の大敗で前衛を担った者達である。淳于瓊が騎馬隊の指揮に回されたため、再編された二万は今は張郃の指揮下に置かれている。

「なるほど、それでか」

 男達の中には、涙ぐんで膝を抱える者もいた。戦友の死、そして自身を襲った恐怖がありありと思い起こされたのだろう。馬防柵と十万の布陣に隔てられた本陣の田豊ですら、あの情景には背筋が凍ったほどだ。

「輸送に支障が出そうか? 他の隊の者を回しても構わんが」

「いえ、こうなることは予想出来ましたから。心の傷が深そうな者は、あらかじめ隊を別に分けておきましたので、問題ございません」

 張郃が平然と言った。数百人いた先程の集団がそれというわけだろう。幾分呆れ気味に、田豊は返した。

「二万を任されてまだ数日だが、そこまで兵を把握したか」

「今は黙々と作業に当たっている兵も、隣で泣き出すものがいれば引きずられかねません。兵の選別は急務でした」

 張郃はやはり平然としていた。思い起こせば、二万に戦場働きは期待出来ないとして、裏方に回すよう袁紹に進言したのも張郃であった。あの様子を見れば、張郃の判断に間違いはなかったと言える。一度戦闘が始まってしまえば、今のように平穏無事に彼らだけ隔離というわけにもいかない。そして戦場で泣きだし蹲れば、兵本人にとって命取りとなるだけでなく周囲の者をも巻き込み、果ては敗戦の原因となりかねないのだ。
 一方で、今の状況では馬具の輸送が裏方の一番の仕事となることも張郃は見越していたはずだ。また、先の敗戦の直後にも、張郃は撤退した曹操軍を追って官渡城を包囲すべきだと献策している。兵の大半が恐怖に囚われており、とても戦に耐えられる状況とは思えず、袁紹は張郃の声を斥けると後退を命じた。顧みれば、攻城戦なら敵は連環馬を使えず、兵力では未だ我が軍が優勢、という張郃の主張には一理あったのだ。

「ほお」

 思わず、感嘆の声が漏れていた。
 張郃が先刻見せた兵に対する気遣いと同情は、嘘偽りないものだろう。張郃という武将は、人としての情と将軍としての職務を綺麗に切り分けている。兵を労り思い遣りながらも、同時に痛苦を強いる事に躊躇いも無い。将軍として、理想的な有り様ではないだろうか。
 元より、田豊の張郃に対する評価は高い。用兵では文醜、顔良を凌ぎ、淳于瓊にも劣るものではない。田豊自身は門外漢ながら、聞き及んだ話では武術の腕の方も文醜らに迫るものがあるという。先刻のやり取りからも分かる通り、兵からも好かれている。唯一足りないものは、武名轟く二枚看板や、袁紹と同じ西園八校尉に名を連ねた淳于瓊の持つ名声だろう。好悪とはまた別に、兵は将の格に従うものだ。
 もっともその名声も、先の大敗で淳于瓊の名は地に落ち掛けていた。仮に前衛を率いる将が他の誰であっても結果に大差はなかっただろうが、兵にはただ惨劇の記憶と大敗という結果だけが残る。

「……これは、淳于将軍には更迭してもらった方が良かったかな」

「何か―――」

「―――いや、何でもない」

 田豊は慌てて打ち消した。幸い、呟きは張郃の耳には届かなかったらしい。
 これから再戦という時に、士気を下げる様な発言であった。それに連環馬での逆襲劇がなれば、淳于瓊の名は再び舞い上がる。曹操を破れば乱世の帰趨は決するが、江東の孫策、西涼の軍閥、流浪の劉備軍と、易々と頭を垂れる者達ばかりではない。良将を一人でも多く抱えておくに超したことはなかった。
 かつては人材の宝庫とも言われた袁紹軍であるが、その陣容を曹操軍と引き比べると、文官はまだしも武官は明らかに見劣りした。夏侯惇ら親族集団の優秀さに加え、厳しい戦を潜り抜けることで生え抜きの武将達の成長も著しい。黒山賊からはその首魁張燕を、呂布軍からは副将の張遼を容れ、一軍を率いさせてもいる。陣営を見渡しても、曹操軍とまともに用兵を競い合える者は、淳于瓊に張郃、第五位の将軍高覧に、烏桓からの援軍を率いる蹋頓くらいのものではないだろうか。

「……いや、そういえば、穀潰しを一人飼っていたな」

 ふと、一人の女の顔が思い浮かんだが、田豊は頭を振って打ち消した。





「それでは、行きますわよっ! 我が軍の栄光へ向け、皆さんっ、雄々しく、華麗に出陣ですわっ!」

「―――! ―――――!!」

 麗羽の号令一下、兵は鬨の声を上げて白馬の砦を出撃した。
 再編部隊二万を白馬の守備に残し、歩兵十万に騎馬隊三万、それに烏桓族からの援兵が二万騎で、総員十五万での進軍である。
 あの敗戦から一ヶ月、ようやく反撃の用意が整った。再び足を向けたのは、前回と同じ決戦場である。連環馬を使うに適した平原であるし、屈辱の大地は勝利の記憶で塗り潰さねばならない。白馬からは南西におおよそ八十里。通常二日のところを、ゆったりと三日の行軍とした。
 二日目の夜に、曹操軍が官渡を打って出たと報告が入った。

「好都合ですね。曹操の奴、前回の勝利で味を占めたかな」

「そうですわね」

 笑って言う猪々子に、麗羽は気のない素振りで返した。
 官渡に籠城された場合、用意が無駄になる。猪々子の言う通り好都合ではあるが、華琳が自分を侮った結果と思うと業腹でもある。殊更笑い飛ばして見せたが、先の大敗は麗羽の胸に大きな傷跡を残していた。
 翌日、再びの決戦場。やはり前回と同じくすでに曹操軍は布陣を終えていた。
 曹操軍の将兵は今度は自分達が連環馬の餌食になるなどと考えてもいないのか、せっかくの先着だというのに柵を巡らせるでもなく無防備に構えていた。袁紹軍は到着するや、すぐさま馬防柵を組み上げさせている。

「前衛に歩兵。今回は騎馬隊が最後尾です」

 曹操軍の布陣を、斗詩が声に出して確認した。

「あちらは連環馬を使わないつもりかしら?」

「わかりません。前回も初め騎馬隊は中軍で、前進しながら陣を入れ換えてきました」

 麗羽の言葉に、斗詩が自信無さ気に答えた。

「そうでしたわね。まあ仮に出てきたとしても、正面から打ち砕くのみでしてよっ」

「連環馬同士正面から潰し合っても、こっちは一万五千騎残りますもんねっ」

 猪々子が興奮気味に言った。彼女好みの派手な戦となる。

「ええ。これで、ようやく華琳さんに思い知らせてやれますわっ! おーほっ、ほっ、―――ほっ? ……あらっ、華琳さんの牙門旗はどこかしら?」

 中央に、天人旗を並び掲げた黒地に白抜きの曹旗。他に黒山賊の張旗と于禁の旗が両翼に付いているが、それだけだった。

「その、斥候からの報告ですと、官渡城に残っている兵もいるようです。前回の決戦で空にした白馬を我が軍に占拠されましたから、警戒のためだと思われますが、もしかしたら、そちらに―――」

「それで城に引き籠っているというの、あの華琳さんが! きーっ! せっかく格の違いを見せつけてあげようと思っておりましたのにっ!」

 前回自分が味わわされた恐怖と屈辱を、今度は華琳が舐める番のはずだった。込み上げた怒りは、不当に対する義憤に近い。

「麗羽さま、落ち着いて。所詮曹操軍は寡兵。曹操が怖気づいて城に引き籠ってしまうのも、無理はないですよ」

「そ、そうですよ、麗羽さま。曹操さんが戦場に出て来ないということは、戦わずして勝ったようなもの。さらに味方の敗報を届けて、追い討ちをかけてやりましょう」

「ぐぬぬぬぬっ、―――まあっ、華琳さんが我が軍の威光に怯えてしまうのも仕方ないというもの。まったく、強過ぎるというのも考えものですわね」

 猪々子と斗詩の言葉で、憤りはいくらか治まった。
 当初の予定とは違うが、華琳が膝を抱えて城に引き籠っていると思えば気分は悪くない。味方の敗報に竦んだところに、さらに城下に大軍を並べてやれば、華琳の恐怖はいかばかりのものか。

「相手は、曹仁さんですか。ますます良いですわね。華琳さんお気に入りのあの子を捕え、攻城戦の慰みにしましょう。―――さて、華琳さんがいないのなら開戦の口上も必要ありませんわね。淳于将軍、お任せしましたわよ」

「はっ!」

 淳于瓊が一度直立して駆け出していく。些か気負いを感じるが、難しいことを命じたわけではない。ただ、鎖につないだ騎馬隊を敵軍にぶつけて来るだけのことだ。
 淳于瓊には、先の大敗で前衛の指揮を委ねていた。後方配置の兵と共に本陣まで後退したため本人は無傷であるが、それだけに強く責任を感じているようだった。誰が指揮を執ったところで、あんなものは避けようがない。むしろ速やかな退避で犠牲を最小限に―――それでも甚大であるが―――留めたのは、正しい判断をしたと言えるだろう。
 今回は、かつて西園八校尉の同僚であった淳于瓊に、楽に汚名を返上する機会を与えたようなものだ。華琳や白蓮のように真名で呼び合うほどに親しかったわけではないが、友情に近い感情はある。同輩だっただけに、真っ先に旗下に加わってくれた時には嬉しかったものだ。群雄の一人として立っても、あるいは同じく西園八校尉に数えられた華琳の下に付いてもおかしくはなかったのだ。淳于瓊が自分を選んでくれたことは、当時群雄の一人として立ったばかりの麗羽に少しばかりの自信を与えてくれた。
 淳于瓊が、二万頭を馬防柵の外へ押し出した。今さら連環馬に気付いた曹操軍が後退し始める。

「おーほっほっほっ、逃がしませんことよっ! ―――突撃っ!!」

 麗羽の声に合わせて、盛大に銅鑼が打ち鳴らされた。二万頭の連環馬が駆け出す。華琳は数の不足を両翼に軽騎兵を配することで補ったが、その必要も無かった。二万騎は左右に大きく広がり、見渡す限り原野全てを埋め尽くした。
 観念したように、曹操軍が脚を踏み留めて迫る二万騎に備える。

「おーほっほっほっ! 無駄ですわ。さあ、やっておし―――」

 敵陣まで数十歩というところで、先駆けの連環馬がごっそりと姿を消した。馬蹄の立てる轟音に混じって、馬の嘶きが響く。

「―――ど、どうなっておりますのっ!?」

「あれは、―――堀、いえ、溝ですっ! 馬の脚が取られていますっ!」

 額に手をかざして戦場を凝視し、猪々子が叫ぶ。
 言われて、麗羽も気付いた。消えたと見えたのは、軽快に駆ける馬群が突如速度を失ったためだ。
 猪々子の言う通り、それは堀と呼べるほどの幅も深さも無さそうだった。つい先刻曹操軍の歩兵がその上を通過した位だから、それは間違いない。慣れない馬甲を着込んでいるとはいえ、馬に跳び越せないはずがない。

「ただの溝ではなく、下から鎌のようなものを突き出して、馬の脚を引っ掛けているようですっ!」

 またも猪々子が麗羽の疑問に答えを出した。意識して目を凝らせば、溝のある辺りできらきらと何かが光るのが分かった。
 溝の上を駆け抜ける度、十頭立ての連環馬のうち数頭が脚を取られ倒れ、それで全体が失速した。そこに運良く難を逃れたが馬群が、後ろから衝突して混乱に拍車をかけている。溝は一本ではなく幾筋も走っているようだった。

「袁紹様、出陣をお命じ下さい!」

 足下へ駆け込んできたのは張郃であった。出陣の前日までは白馬に残す再編部隊の指揮に当てていたが、田豊の勧めで戦場に伴っていた。

「張郃さん、許可します。行って騎馬隊を救いなさい!」

「はっ」

 馬に跳び乗ると、張郃が本陣を駆け去っていく。張郃に与えた兵力は歩兵十万の半数に及ぶ五万である。すぐに動き始めた。
 まず張郃は溝に潜む敵兵を追い立てた。一千近い兵が、埋伏していたようだ。折り重なった馬が壁のようになって両軍を隔てているため、曹操軍からの救援はない。張郃も深追いはせず、数十人を捕獲したところで軍を下げた。
 次いで張郃は、揉み合う連環馬の最後尾に取り付いた。暴れまわっていた馬が、少しずつ混乱を治めて後方へ送られてくる。本陣に受け入れ態勢を作らせた。駆け込んでくるのはどれも裸馬である。張郃は馬甲を外してやることで、馬の緊張を解いているようだ。
 七、八千頭も戻ってくると、敵陣との境界にほとんど動いている馬の姿は見えなくなった。残るは折り重なるように倒れ込んで動けずにいるか、すでに息絶えているかだ。

「……張郃さんはよくやってくれましたわ。何か褒美を取らせましょう。斗詩、今日の戦はこれで終わりです。兵は全て馬防柵の内へ下げ、防備を固めておきなさい」

 麗羽は大きく息を吐くと、隣に侍る斗詩に命じた。

「は、はいっ、麗羽様」

 直立する斗詩と諸将を残し、腰を上げた。こちらの被害ばかりが浮き彫りとなった戦場を、いつまでも眺めていたくはない。本営に設けられた幕舎へと足を向ける。猪々子が慌てて後に続いた。
 しばらくして、本陣の兵が慌ただしく騒ぎ始めた。張郃の隊が戻ったのだろう。これから被害の全容を聞かされると思うと、気がふさいだ。すぐに張郃が幕舎の中へ駆け込んでくる。

「―――袁紹様」

「張郃さん、良い働きでしたわ」

 張郃が足元に跪く。麗羽の賛辞にも、喜色を浮かべた様子はない。

「―――淳于将軍が」

「淳于将軍? そういえばまだ姿を見せておりませんわね。―――仲簡、貴方の失敗と責めはしないわ、顔を見せてちょうだい」

 被害の多さを恥じて、顔を出せずにいるのだろう。幕舎の外へ麗羽は気軽に声を掛けてやった。

「……袁紹様。淳于将軍は、袁紹様のご期待に応えるべく、騎馬隊の先頭に立っておられました。我らが駆け付けた時にはすでに、探索のしようもなく」

「な、なにを仰っているの、張郃さん。私はただ仲簡に手柄を立てさせてやろうと―――」

「袁紹様のお心遣いに、淳于将軍も幸せな最期であったと思います」

 続けて張郃は兵の犠牲、軍馬の損害を報告し始めたが、耳に入ってはこなかった。

「―――袁紹様っ」

「んっ、―――ああ、何です、張郃さん?」

 張郃の口調の変化が、麗羽の意識を現実へと引き戻した。淡々としていた調べに、熱が帯びている。

「我が隊に、再度の出陣をお許しください」

「……何を言っておりますの?」

「曹操軍が城を出ている今は好機です。兵力は未だこちらが優勢。策を持って我が軍に大打撃を与えた敵が、明日以降も野戦に応じるとは限りません。また今なら、曹操軍の掘った溝をこちらも利用出来ますし、馬の亡骸が障害ともなっております。敵軍の連環馬を封じられます。歩兵の押し合いなら、我らは負けません」

「今日の戦はこれで終わると、斗詩に命じてあります」

「はっ、顔良将軍からお聞きしております。しかし、この機を逃せば―――」

「下がってお休みなさい、張郃さん」

「しかしそれでは―――」

「敵に更なる策がないと誰が決めました。仲簡を失った以上、貴方は斗詩と猪々子に次ぐ立場です。自重なさい、張郃さん」

「……はっ」

 張郃が一度頭を下げて幕舎を辞した。
 あれほどの策を、そういくつも揃えられるはずはない。仮にあったとしても歩兵を小出しに使えば、今回、そして前回ほど被害が広がるとも考え難かった。
 しかし、幕舎を出て、敵陣に山を為すかつて騎兵であったもの―――その中には仲簡も含まれている―――を目にする気には、麗羽はどうしてもなれなかった。





 華琳が、深夜に帰陣した。
 護衛は近衛隊と白騎兵だけの百数十騎という少勢だ。あらかじめ数騎が斥候兼先触れで走っていたため、曹仁は白鵠に跳び乗り、陣の外まで迎えに出た。

「こんなところまでわざわざお出迎え?」

「大戦果をあげての凱旋だからな」

 官渡での大勝の後、徐州に赴くや劉備軍を潰走に追いやり、返す刀で揚州では孫策を撃破し、勢いを駆って長江北岸から孫呉の勢力をほぼ完全に駆逐していた。その間、わずか一ヶ月である。長駆に次ぐ長駆の上、全ての戦を鎧袖一触で終わらせている。八面六臂の大活躍だった。

「戦況は?」

 華琳はすでに終わった戦場には興味がないのか、口早に言った。
 長駆には慣れた白騎兵や、体力自慢の季衣に流流、虎士の面々にすらさすがに疲労が見て取れるが、対照的に華琳の声には張りがあった。

「報告は、受け取れているか?」

「ええ、袁紹軍の連環馬を破ったというところまでは」

 絶えず伝令は放っていたが、動き回る華琳に届くという確証はなかった。

「そうか。その後、袁紹軍は馬防柵のうちに籠もったままで動きはない」

 袁紹軍の連環馬を破ってから、二日が経過している。

「―――そう。なら、休んでも問題ないわね」

「華琳?」

 華琳が、ぶつかるぐらい近くまで馬を寄せてきた。

「さすがに疲れた。一刻(30分)で起こしなさい。起きたら、詳細を聞くわ」

 言うと、華琳の身体がゆっくりと傾いだ。曹仁は慌ててその身を抱きとめた。

「休むなら、幕舎を用意するが―――」

「……」

 張り詰めていたものが途切れたのか、華琳はすでに小さく寝息を立てはじめていた。
 窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、力を発揮する人間がいる。
 ここまでの華琳の軍略には、神がかったものがあった。いかに華琳の大才をもってしても、劉備軍も孫策軍も、平時であれば相応の部将を揃え、練りに練った戦略図を描いて初めてぶつかることの出来る難敵だ。戦場における孫策の嗅覚は華琳に勝るとも劣らぬものだし、劉備軍の強さはいまや伝説であった。大敵袁紹軍と対しつつの三面作戦など、現実には不可能としか思われなかったのだ。

「―――っと」

 曹仁は自分の胸の内にすっぽりと納まる、小さな主君の身体を、起こしてしまわないように恐る恐る抱え込んだ。これまで胸中に抱いていた罪悪感が、華琳の存在に押し退けられていくのを感じる。
 連環馬によって大敗を喫した麗羽が、こちらを上回る大兵力での連環馬でもって反撃に転ずることは、あらかじめ曹仁と華琳の間では予測が立っていた。あえて敵軍に連環馬の装具を鹵獲させたのも、それをより確実にするためだった。案の定、すぐに袁紹領からはそれを裏付ける報告が上げられてきた。袁紹軍は職人を一つ所に隔離して作業を秘密裏に急がせていたが、すでに河北にも根を張っている幸蘭の商いの情報網から逃れることは出来なかった。
 先の連環馬による虐殺に続いて、今度も殺すべくして一万頭余りの無垢な魂と、数千の兵の命を奪った。常の戦場では味わうことのない罪悪感に曹仁は襲われていた。それを、すうすうと寝息を立てる少女の存在が、容易く打ち払ってしまった。

―――華琳の志を遂げるためなら、いくらでも手を汚そう。

 拭い去れぬ自責の念から目を逸らしているだけなのは、自覚している。それでも決して歩みを止めない彼女に付いていくからには、曹仁もこんなところで足踏みをしているわけにはいかないのだった。



[7800] 第8章 第8話 高順漫遊記
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/01/10 11:06
 天険に囲まれた漢中へと高順は潜入した。
 といっても表向きも本人の意識としてもただの商人に過ぎないので、険しいながらも人の往来の跡が残る道を、堂々と歩いて入った。
 警備は置かれているが、形ばかりのものである。何度か兵らしき者に呼び止められることはあったが、その都度商いをしたいと告げると簡単に通行を許された。
 漢中は五斗米道という宗教が支配する土地である。兵も皆五斗米道の信者であり、兵役は奉仕の一環だという。出会った兵は一様に穏やかな顔つきをしていて、賂を要求されることも、荷物をあさられることもなかった。
 ただ、信者の暮らしは五斗米道の教えの元に管理―――救済とその兵は言った―――されていて、商いの入り込む余地はほとんどないだろうと助言された。脅しという感じはなく、親切心からの本当の忠告のようだった。
 漢中に着いてすぐに、試みに教祖張魯に御挨拶の面会を申し込んでみた。意外にも、それはすんなりと許可された。ただ信者との会談や傷病治癒の儀式―――張魯自ら治療に当たるらしい―――の予定が詰まっているということで、会えるのは三日後ということになった。

「近くに宿はありますか? それに、評判の良い食堂など教えてもらえないでしょうか? 行商などしていますと、それが一番の楽しみでして」

 尋ねると、応対した兵は義舎に寝泊まりする様に言い、案内してくれた。教団で管理する食事処兼宿泊施設で、無料で利用出来るという。
 通されたのは衝立で仕切られただけの大部屋だが、掃除は行き届いていた。併設する食堂には、旅人に限らず住民、特に貧しい者達も食べに来るという。信者からの寄進で成り立つ施設だった。
 義舎には高順以外にも宿泊者がいるらしく、仕切りを隔てて人の気配があった。

「行商人の、高順と申します。お隣、失礼致します」

「はーい、よろしくね」

 高順は仕切り越しに挨拶だけして外へ出た。背中で聞いた声は、意外にも可愛らしい少女のものだった。
 領内を見て回った。義舎を勧められるわけで、宿屋はおろか商店のようなものすらほとんど目に付かなかった。確かに、商いで生計を立てている者はほとんどいないらしい。
 兵に許諾を得て、露店を開いてみた。これも、特に上に話を通すでもなく拍子抜けするほどあっさりと許された。
 興味を持って覗いていく人間は多いが、実際に品物を手に取ったのは極一部で、購った者となるとわずか一名だった。それも漢中の民ではなく、義舎で隣になった少女である。声の調子から予想された通り、快活で愛らしい女の子だった。
 その少女がやたらと賑やかで口が立ったせいもあってか、漢中の民と会話をしていると何となく物足りなさを覚えた。心ここにあらずというか、目の前で話をしていても視線が噛み合わないような感覚だ。高順が余所者という理由だけではなく、それは漢中の民同士にも言えることで、にこやかに挨拶を交わす姿は目にしても、長話や口論する者は皆無だった。
 一日民と接して、高順は奇妙な感覚の正体に気が付いた。漢中では、民の視線が向かう先が常に教祖張魯なのだ。民と民という横の関係が希薄で、民と張魯―――あるいは信仰そのもの―――との強い繋がりだけを高順は感じとった。
 日も暮れて義舎に戻ると、隣の仕切りは無人となっていた。高順の外出中に出立したようだ。
 それからも面会までの間、領内を散策し、民と話して回った。
 信者それぞれから五斗の米を寄進させるというが厳密なものではなく、貧しい者からは少なく、逆に豊かな者は進んで余分に提供するようだった。一般の信者を鬼卒、そのまとめ役となる者を祭酒と呼んで階級分けがされているが、集められた米は上の階級の誰かが贅沢をするためのものではなく、大半が貧困に苦しむ者の救済に当てられるようだ。祭酒も土地の有力者や豪族が選ばれるのではなく、あくまで教義への理解が深い者から選ばれているらしい。
 曹操軍の領内は実力の有る者が権力も地位も得る世界である。ただし実力を身に付けるための学び舎は誰にも等しく開放されている。漢中では実力など関係なく、誰もが等しく横並びだった。ただ張魯とその弟の張衛だけが一段も二段も高い位置にいる。
 約束の日、高順は朝食を食べ終え、最後に町を一回りすると、張魯の住まう屋敷を訪れた。元は役所か何かだったのかもしれない。それなりに大きくはあるが、どこにでもあるような建物だった。

「初めまして、張魯です」

 向かい入れられたのは、応接間のような部屋だった。謁見の間というには無理がある、少し広めの一室に過ぎない。護衛の兵が四隅に一人ずつ立っているが、遠い。そんななか、張魯と名乗る小さな女の子が無防備に姿を現していた。

「お初にお目に掛かります。高順と申します。行商を営んでおります」

 宗教団体の教主というから、高順は張三姉妹のような押し出しの強さを予想していたが、実像はまるで違っていた。楚々とした印象の女の子―――年齢は高順よりも上のはずだが、女性というより女の子という表現がしっくりくる―――で、柔らかな笑みを浮かべてそこにいた。

「今日は、何の用があって参った?」

 張魯の横に侍る少年が居丈高な口調で言った。高順と同じくらいの年だろうか。ただ最近ぐんと背が伸びた高順と比べると年相応の体格で、見下ろす形になった。少年は無理にこちらを威圧するように、腕を組んで胸を反らしている。

「衛、ちゃんとご挨拶なさい」

「私は何処の馬の骨とも知らない男に会うなど、初めから反対しているのです。こうして立ち会うだけでも譲歩とお考え下さい」

「まったくもう。ごめんなさいね、高順さん。この子は張衛。私の弟です。政治のこととか、私に分からないことを色々と補佐をしてくれている、本当はとても良い子なのですよ。ただちょっと人見知りで」

「姉上っ!」

「これは、張衛様でしたか。漢中の政を担うやり手だと、お噂は聞いておりました。この地を訪れて三日、街の中を見て回らせていただきましたが、張魯様はもちろんのこと、張衛様に感謝する声を何度も耳にしました」

 張魯と張衛二人並ぶと、兄と妹としか見えない。張衛が年相応なら張魯は若く、というよりも幼く見えた。しかし張魯の態度も口調も確かに姉のもので、不思議とそこに違和感はないのだった。
 五斗米道―――道教の教えには不老長生があるから、教主でありその最たる体現者である張魯は年を取らないのだろうか。それとも曹仁の従姉で主君がそうであるように、単に発育不良なだけだろうか。

「うふふっ、そうですか」

 高順の言葉に張魯が相好を崩した。浮かんだ笑みも姉のものだ。
 教主である自身が崇められることには慣れているのだろうが、弟を誉められるのは自分のこと以上に嬉しいようだ。張衛もわずかに頑なだった気配を軟化させている。

「本日は御挨拶にとお伺いしまして、こちらを―――」

「まあ、ありがとうございます。中を見ても良いかしら」

「はい、どうぞご覧下さい」

 進物を捧げると、意外なほどあっさりと二人は受け取った。貢物という形で、何かを捧げられることには慣れているからだろう。
 張魯には玉の髪飾りを、張衛には筆を贈ったが、二人とも満更でもなさそうな様子だ。張魯が髪飾りを付けて見せて、張衛に感想を聞いている。仲の良い姉弟だった。

「―――中原から来たとお聞きました」

 高順からの進物でひとしきり盛り上がった後、柔和な笑みを湛えて張魯が口を開いた。
 一介の商人相手にも、相手を立てる姿勢を崩そうとしない。教祖としての処世術なのか、単に本人の性格によるものか。後者―――張魯の好ましい人柄によるもの―――の様に思えたが、それすらも教祖としての手管かもしれず、高順は予断を避けた。

「はい。何か儲け話の一つも転がっていないものかとこの地を訪れましたが、人々の暮らし振りを見て、それもあきらめました」

「どういう意味だ? 中原と比べて、貧しく見えたか? まあ、それはそうなのであろうがな」

 受けたのは張衛である。言葉は刺々しいが、最初に感じた対話自体を拒絶する気配はもうない。

「そういった意味ではございません。確かに暮らし向きに中原の街で見られるような華やかさはございませんが、民が満たされているのが顔を見ればわかります。心が豊かなのでしょう。そして心の豊かさを至上とされる方々に、私から買って頂ける品はございません」

「ほう、中原の民はいつも満たされない顔をしているのか」

「中原、特に曹孟徳様の御領地は、他者を出し抜き一歩でも先んじようという競争の世界です。人々は仕事に勉学に追われて暮らしております。それを充実した生活と感じられる者には、それはそれで良い生活なのでしょうが」

「そうか。それではわざわざ漢中まで来て無駄足を踏んだ貴殿は、他の商人に一歩差を付けられてしまったわけだ」

「ははっ、まあそうなりますか。ただこの地の民の暮らしぶりを見られたことは、無駄だったとは思いません。人はこのような生き方も出来るのだと、感心致しました」

 本心からの言葉だった。
 中原の生活は楽しいが、時に厳しくもある。才無き者、努力足りぬ者は底辺の暮らしを強いられることになる。貧富も家柄も本人次第で覆すことが出来る、それもまたある意味で平等な世界と言えた。だが恋の天下が成っていたなら、曹孟徳の治世よりも、漢中の暮らし振りに近い世界が生まれていたのではないだろうか。

「ここでの暮らしが性に合いそうか。なんなら我らの教団に入信するか?」

「魅力的な御提案ですが、今はお断りしておきます。中原に家族も残しておりますし、商いの道もそれはそれで楽しくはあるのです。信仰を持ってしまえば、それがくだらないものに思えてしまいそうです」

「まあ、無理強いはしないさ」

「ええ、気が向きましたらまた漢中を訪ねて下さい。貴方も、貴方のご家族も、いつでも受け入れる用意が私達にはあります」

 やはり柔和な笑みで張魯が締めくくった。
 張魯の屋敷を出た頃には、すでに日は中天に差し掛かっていた。二刻(1時間)以上も言葉を交わしていたことになるのか。

「あっ、見つけた!」

「? ―――ああ、これはお客様。すでに出立されたものとばかり思っておりましたが」

 荷物をまとめ義舎を出たところで呼び止められた。義舎で隣になった、漢中では唯一の高順の顧客となった少女が駆けてくる。

「わたし達はすぐに別の宿を用意されちゃったから」

「そうでしたか」

 義舎とは別に宿舎を用意するということは、自分と変わらぬ年頃のこの少女は、五斗米道にとって賓客ということだろうか。

「おーい、蒲公英、何してるんだ? 早く出ないと日が暮れる。あたしは桟道で二泊はごめんだぞ」

 少女の来た方向から、今度は見事な馬に跨った女性が現れた。

「あっ、翠姉様。ほらっ、町の人達が言ってた、中原から来ている行商の人っ」

「ああ、お前が」

 翠姉様と呼ばれた女は、馬ごと高順の方へ向き直った。手綱も引かずに、馬を手足のように操っている。恋や曹仁と同じく、脾肉の締め付けで馬と会話を交わせるらしい。

「中原の戦について、何か聞き及んでるか?」

「ええ、それなりには。三日前にこの地を訪れるまで、ずっと中原の街を回っておりましたので」

「そうか。それで、曹操と袁紹のどちらが勝ちそうだ?」

「それは難しいところですね。劉備様と孫策様もお立ちになり、曹操軍は三方から攻められてはおりますが、袁紹軍は一度敗走したという話もございますし」

「何っ、劉備と孫策が!? それに、袁紹軍が敗走!? それはいつの話だ?」

「そうですね、もう一ヶ月以上も経ちましょうか。私が耳にしたのは、ほんの数日前なのですが」

「詳しい話を、―――ああ、いや、日が暮れてしまうな。……お前、行商人だったな。この後の旅程は?」

「―――涼州へ。西域の物産を扱う商人と渡りを付けたいのです」

「そうか、ならちょうど良い。あたし達と一緒に行かないか? 道中に話を聞かせてくれ。それに涼州ならあたし達の地元だ。商人も紹介出来るかもしれない」

 高順が咄嗟に付いた嘘に、女が顔を綻ばせた。
 西域の品を取り扱いたいのは本心であるが、今回高順は涼州伝いの西進路ではなく、益州を南下する道程を予定していた。古来より益州は養蚕の盛んな地で、西域諸国との絹の貿易路が存在する。南蛮族の支配域を抜けて天竺へと至る経路である。
 涼州と口をついて出たのは、見事に馬を乗りこなす女が西涼の武人を連想させたためだ。

「それは願ってもないお話ですが、―――お名前をお聞きしても? 私は、高順と申します」

「ああ、悪い、まだ名乗っていなかったな。あたしは馬超。字を孟起。こっちは―――」

「……わたしはその従妹で馬岱、よろしくねっ」

 馬上の女が堂々と、初めに話しかけてきた少女の方はわずかな逡巡の後、名乗った。

「こっ、これは、錦馬超殿でしたか」

 連想は、この上なく的中していた。
 高順は身を仰け反らせて大袈裟に驚いて見せたが、内心は驚きよりも合点がいく思いだった。馬に括り付けた荷からは槍の柄が覗き、身にまとう空気は尋常の武人のものではない。加えて恋や曹仁並みの馬術となれば、これで無名の方が驚きというものだ。
 高順の同行が決まると、馬超の行動は早かった。馬岱に急ぎ旅装を整えさせると、すぐに出立となった。高順は行きは徒歩で山道を辿ったが、帰りは騎乗の二人に付き合って桟道ということになった。

「へえ、なかなか見事に乗りこなすな、高順」

「西涼の錦馬超様にそのように言われると、恐縮してしまいますね」

「これなら、予定通り桟道では一泊するだけで済みそうだ」

 馬超の馬に従姉妹二人が同乗し、高順は馬岱の馬を借りた。馬超の馬ほどではないが、こちらも十分名馬の類である。
 漢中の桟道は、岩肌に穴を穿ち、そこに支柱をはめ込んで作られた木造路である。断崖絶壁に半丈(1.5m)余りの道が張り付き、それが延々と続いていく。漢中を中継点に四方に張り巡らされ、全長では二千里(1000km)を超える。
 今回辿るのは三百里程で、馬超は二日で走破を予定し、高順を旅の道連れに加えた今も計画に変更はないと言う。並足と駆け足を繰り返した。険路をもって知られるが、元来が馬車での交通が困難な山道に代わって設けられた交易路であり進軍路である。平坦な木板が隙間なく敷かれ、馬での移動にはほとんど不自由は感じなかった。軽快に馬を走らせる、その一歩一歩にさえ費やされた労力は膨大であろう。それが二千里以上も続くというのだから、目を疑うような光景である。

「それで、―――まずは、劉備と孫策がどうしたって?」

 先行する馬超が首だけ後ろに向けた。
 馬超は馬を操るのは前に乗せた馬岱に任せている。この機に乗じて従妹に馬術を仕込もうとしているらしく、拙い扱いをした時は小言を飛ばしていた。馬岱はずっと緊張した様子だが、高順から見ると彼女の馬術も相当なものだった。

「劉備様は曹操様の領内の徐州にて蜂起され、孫策様も江南より軍を進められたというお話です」

 順を追って、高順は情勢を解説した。
 曹洪の配慮なのか、詳細な戦況が飛脚網を伝って順次高順の元へ流れてくる。軍籍に身を置いていないし、諜報部隊に取り込まれるつもりもないから、普段はあまり気にも留めていない。しかし今回ばかりは有り難かった。
 曹操軍窮地の情勢下で、曹仁と霞は戦場だし、恋と音々音は本拠地の許に居住している。劉備と孫策の参戦を知った時には旅程を切り上げての帰還も考えたが、すぐに袁紹軍大破の朗報が伝えられ思い留まった。そして曹操自らが指揮に当たり劉備軍と孫策軍を退けたという情報を得たところで、高順は漢中入りに踏み切ったのだった。漢中に入ると、それまでの様に容易く情報は入らない。漢中から益州の地域にも飛脚は入り込んでいるが、それはか細く、一ヶ月に一人か二人が行き来する程度である。曹洪から指示された今回の行商には、当然それを太くする目的がある。

「騎馬隊で歩兵数万を潰滅させたって? ……いったいどんな手を。指揮はあの曹仁だろうけど」

 馬超は反董卓連合の戦で曹仁とは幾度も干戈を交えている。袁紹軍を大破したと話すと、うんうんと考え込み始めた。
 二人には、曹操軍がすでに劉備と孫策までも打ち破っていることは明かさなかった。連環馬についても触れていない。それはただの行商人が得るには早過ぎ、詳し過ぎる。

「そっ、そうだ。劉備と孫策といえば、あの噂は本当? 荊州で劉備が孫策軍に乗り込んで、休戦を取り付けたって話」

 馬岱が口を開いた。馬超の馬を御す緊張からか、良く回る舌は些か強張っている。

「行商仲間からは、そう聞いていますよ」

「それじゃあ、その時に曹操を一緒に攻めるって盟約でも結んだのかな?」

「反董卓連合の時に顔を合わせたけど、そんなやり手には見えなかったけどなぁ。停戦させるっていうのは、いかにもって感じだけど」

 馬超が呟く。
 劉備軍の面々は曹仁と親しかったから、高順も許に滞在中は何度も顔を合わせた。それ以前にも徐州では進軍を共にしたし、後に対陣もしている。確かに今回の行動は、高順の知る劉備とも少し違う気がした。

「―――ところでお話は変わりますが、お二方は宗教に興味がお有りなのですか?」

「うん? なんだ、藪から棒に」

「いえ、五斗米道へ入信でも考えておられるのかと」

 戦の話が一段落したところで、高順は本題を切り出した。旅程を偽り、違えてまで二人に同行したのはこれが理由だ。

「まさか。あたしが宗教を信じる性質に見えるか?」

「いえ、それはまったく」

「そうだろう。あたし達が漢中を訪ねたのは―――」

「ちょっと、翠姉様」

「―――っ、ええと、……そっ、そんなあたしでも、宗教にはまったりするのかなぁ~、って、ちょっと、興味があってだな。そっ、そうだよなっ、蒲公英」

「うんうん。翠姉様って何でも槍で片を付けようとするところがあるから、張魯様の有り難い説法でも聞けば少しはましになるかなって、わたしが勧めたの」

 自若とした馬超の武人の仮面が外れ、一転、馬岱が助け舟を出した。頭と口は妹分の方が回るらしい。

―――馬超、いや、馬騰と張魯か。

 わずか二騎での往来となると、曹洪も見逃しているのではないか。

「さあて、あまりのんびりしている時間もない。少し急ごう」

 わざとらしく先を促す馬超に、高順はそれ以上の詮索は避けた。
 頭の後ろでひとまとめにした馬超の髪が、馬の尻尾に合せて揺れる様を眺めながら、黙って後を追った。
 予定通り二日で桟道を抜けると、そこからは軍閥の割拠する西涼である。
 三日で馬騰の勢力圏に入り、馬超がどこからか馬を手に入れてきた。そこからは馬超と馬岱もそれぞれ一人乗りでさらに三日間駆け、馬騰の本拠地楡中―――涼州と雍州の境に位置する―――に到着した。

「さあ、付いて来い、高順」

 街の入り口で馬を降りると、馬超は中央を走る大通りに足を向けた。

「おいおい、大丈夫か?」

よろめきながら歩く高順に、馬超が心配そうに問い掛ける。

「ええ、御案内ください」

 最後の三日は、一日二百里以上も駆け通しだった。馬岱も馬超の手前強がっているが、足元が頼り無い。高順と馬岱が乗ってきた馬はちょうど力を出し切ったというところで、その辺りはさすが錦馬超であった。そして当の馬超と黄鵬という名のその愛馬だけは、むしろ溌溂としていた。
 高順は馬に縋りつく様にして―――些か大袈裟な演技も交えつつ―――、馬超に従った。行き付いた先は、大通りの起点となっている屋敷である。そこが、一帯の政の中心となる馬騰の宮殿であった。十日近く旅を共にして信頼を得られたのか、馬超は高順を馬騰に紹介して商いの便宜を図ってくれると言う。
 宮殿と言っても中原と比べると質素なもので、中へ通されてもやはり大きな屋敷のようなものだった。洛陽の皇甫嵩の屋敷よりも幾分か広い程度で、装飾の煌びやかさではむしろ劣っている。
 玄関脇の客間でわずかに待たされ、すぐに旅装を解いた馬超が自ら案内に現れた。

「こっちだ」

 宮殿内に入っても、馬超はぐんぐんと前へ進んでいく。後頭部で揺れる一房の髪を、高順はいくらか早足で追った。愛想に欠ける態度だが、飾らない性格は言いかえれば中原の人間よりも純朴ということで、高順には好ましく思えた。

「ここだ。―――母様の気が紛れるような話を頼む」

 戸口に手を掛けた馬超は、そっと小声で言い足した。高順が言葉の意味を察しかねているうちに戸は開かれた。
 女性が一人寝台に横になり、寄り添うように男が一人連れ立っている。通されたのは謁見の間などではなく馬騰の私室のようだった。

「馬騰だ。娘と姪が世話になったようだな、賈人よ」

 女性が寝台から身を起こして言った。男が身体を支えようとするのを、手振りで拒絶している。

「いえ、お二人のお蔭で楽しい旅となりました」

 恭しく、さりとて卑屈に見え過ぎないように高順は頭を下げた。
 年齢は読み難い。整った顔立ちだけを見れば二十代とすら思えるほどだが、白いものが多い髪に目を転じればはるかに高齢とも見える。そして身にまとう武威、あるいは気力とでも呼ぶべきものが希薄だった。骨柄から顔付きまでよく似た馬超の溌溂とした生気に触れた後だけに、それは顕著に感じられた。

「中原の品を売っているそうだが、どこから参った?」

 男が、さり気無い仕草で高順に椅子と茶を勧めた。高順はもう一度軽く頭を下げ、椅子に腰掛けると馬騰の問い掛けに答えた。

「どこからと申しますか、行商をしながら東は青州、北は幽州、南は揚州まで渡り歩く生活でございます。今回は新たな商路の開拓のため漢中に入りましたところで、馬超様にお会いしました」

「ほう、人生が旅の空か。なかなか壮大だ」

 高順が腰を落ち着けたのを確認すると、馬騰は再び寝台に身を倒した。
 入室する直前に馬超が口にした言葉の意味が高順にも理解された。臥せりがちという噂は聞こえていたが、馬騰の病はいよいよ篤いようだった。

「行商とはそうしたものにございます」

「そんなものか。……何か面白いものを見たか?」

「そうですね―――」

 曹操軍領内の著しい商業の発展や、目を覆うような洛陽の荒廃を高順は上げた。商人が好んで目に留めるような話題だ。

「曹操軍は、常々戦時中であろう? 戦場近くの街に、行商人などが容易く立ち入れるものなのか?」

「城郭に入る際には誰何を受けましたが、敵軍に攻め込まれているとは思えぬほど曹操様の領内は静かなものでしたよ。戦といって臨時の徴税や徴兵はなく、精々が軍への入隊が普段よりも熱心に叫ばれる程度のものですね。民の暮らしはいたって平穏なものでした」

「ふむ、噂に聞いていた通りだな。他には? 曹操領の民の暮らしに、何か他と変ったところはないか?」

「そうですね。夏場はいつも田が実っています。米と麦で、二度作付けするらしいのですが」

「それも噂に聞いたな。確か、天の御遣いの入れ知恵であろう」

 馬騰は噛み締める様に何度か頷きを繰り返した。

「藍様、そろそろお休みになられた方が」

 四半刻(30分)ほど話したところで、男が馬騰に囁いた。馬騰も小さく頷き返す。

「いや、今日は面白い話が聞けた。―――名は何と申したかな、賈人?」

「高順だよ、母様」

 高順に代わって、馬超が口を挟んだ。

「高順か。……そういえば、確かそんな名の武将が中原にいたな」

 馬騰の視線が一瞬だけ鋭くなった。

「お主のような長身とは聞いていないが、年齢は合う。年頃を考えれば、成長して背が伸びてもおかしくはないか。ははっ、まさか本人ではあるまいな?」

 馬騰が冗談でも言うように笑う。

「陥陣営と呼ばれた御方ですね。曹操様に敗れ、今は天の御遣い様の食客と聞きますが」

「ああ、そういえばそうだった。ずいぶんと詳しいな?」

「それは、同姓同名の世に名の知れた武将ですから。気にもなります」

「そんなものか。しかし、ただの商人というにはお主も随分と鍛え上げていそうだな」

「商人とはいえ、この乱世を一人旅でございますから。いざという時、命と金だけは持って逃げられる程度には」

「へえ、その杖を使うのか?」

 馬超が、高順が梱に刺した杖を指差して興味深そうに言った。

「はい、一応。錦馬超様を前に使うなど、口にするのははばかられますが」

「杖か。戦場では見かけない武器だ。―――ちょっと持ってみても良いか?」

「ええ、どうぞ」

 馬騰は口を噤んで、娘と高順のやり取りを見守っている。名についてそれ以上追及する気はないようだった。姓も名も、特に珍しいものではない。偽名を使おうという気が、高順にはなかった。

「私も戦場に立てと言われれば、杖は選ばないでしょう。あくまで商人の護身術です。もう少し大きな商売を動かせるようになりましたら、護衛でも雇うのですが」

 高順の本来の得物は曹仁の見様見真似の槍である。杖も杖術ではなく、槍と同じように扱う。間合いの違いこそあれ、使い勝手は悪くなかった。

「あっ、高順さん、もう呼ばれてたんだ?」

 訪いも入れずに馬岱が部屋に滑り込んだ。
 馬超と同じく旅装を解いている。旅装もそうであったが、着ている服から身に付けている小物まで、ほとんど馬超と色違いのお揃いだった。

「馬岱様。これは、早速お使いいただいているようで、有難うございます」

 唯一馬超にはない装飾が、髪に刺した花を模した髪飾りで、それは先日高順の店で買ったものだった。

「あっ、気付いた? へへっ、似合うでしょう?」

 言葉の後半は馬騰や馬超、そして男に向けて放たれた。

「ええ、よくお似合いです」

「えへへっ、そうでしょう」

 男が答えると、馬岱は意味あり気な微笑みを浮かべて馬超を見やる。

「……高順、髪飾りはまだあるのか?」

 馬超が頬を赤らめながら言う。

「ええ、漢中では残念ながら全く売れませんでしたので。お見せしましょうか?」

「ああ」

「ほう、翠が髪飾りなど欲しがるとは珍しい。ようやく年頃の娘らしい興味がわいてきたか?」

「藍伯母様、それ違う。翠姉様は本当は前々から女の子らしい格好に興味はあるんだよ。ただ自分には似合わないとか変に卑屈になったり、恥ずかしがっているだけで」

「ふむ。言われてみるとそうかもしれんな。私はてっきり女の部分は私の胎の中に置き忘れていったものかと思っていたが」

「ほ、本人を前に、おかしな話をするなっ」

 やり取りを尻目に、高順は梱を明けると、卓を借りて商品をいくつか並べた。

「馬超様、どうぞ」

「あ、ああ」

「……確かにこの辺りではあまり見ない造りだな」

 真剣な表情で一つ一つを吟味する馬超の横から覗き込んで、馬騰が言った。

「こちらの商品は、曹操様の御領地、許県で仕入れたものです」

「ふむ、曹操の本拠だな」

「ああー、駄目だ、選べん。そうだ、蒲公英。お前が選んでくれよ」

 馬超が頭を抱えた。

「ええー、わたし? それより、廉士兄さんが選んだ方が良いんじゃない?」

「私ですか?」

「ささっ、お姉様に似合いそうなのを。お姉様も、それで良いよね?」

「あ、ああっ」

「―――そうですね」

 馬岱に商品前へと押しやられて、男が髪飾りを手に取った。廉士というのが男の名らしい。響きからして真名であろう。

「それでは、こちらを」

 馬岱が髪に刺しているのとよく似た、花を象った物を男は選んだ。

「あっ、あたしには可愛すぎないか?」

「いえ、よくお似合いだと思いますよ」

「そ、そうか」

「それと、これは藍様に」

「うむ」

 男は今度は装飾の少ない地味な髪飾りを一つ取り上げ、馬騰へ渡した。
 馬騰は軽く頷いてそれを受け取ると、無造作にそれを指した。濃紺の髪飾りが、白い髪に映える。

「高順殿。お代はいかほどか? ここは、私がお出ししましょう」

「ええーっ、ずるいっ。ならわたしも」

「では、以前お買いになった分のお代を私がお出しします」

「う~」

 馬岱が恨めし気な視線を男に向ける。

「私が言うのもなんですが、それはあまりに無粋というもの。お一つ、馬岱殿にも―――貴方様がお選びになられては? 皆様とお知り合いになれた記念に、三つで二つ分のお値段におまけします」

「それでは、ご厚意に甘えましょう。私は龐徳と申します」

 高順が呼び掛けに悩んだ仕草を見せたからか、男が名を名乗った。
 馬騰の従者のように振る舞っているが、龐徳という名は錦馬超ほどではないにせよ、馬騰軍の武将として知られた名だった。

「さて、西域の物産を扱う者と取引がしたいのだったな、高順」

 馬岱の髪飾りを選んだ龐徳からお代を受け取り、暇を告げた高順に馬騰が言った。

「はい。大月氏、それに大秦の品は、中原では高値が付きます」

「そうか。何人か私が紹介しても良いのだが」

 そこで馬騰は一度言葉を切って、何か考え込んだ。

「ここよりさらに西、中華の西端には私の義姉の韓遂が陣取っている。周辺異民族との交流も深い。私の母も羌族だが、付き合いで言えば私以上だ。紹介状を書いてやろう。西域の商品を扱いたいなら、私よりも韓遂の斡旋の方が具合が良かろう」

「それは、ありがとうございます」

 馬騰と韓遂。言うまでもなくこの二人が西涼の二大巨頭である。
 馬騰に続いて韓遂にも会えるというのは、僥倖だった。商売をする上で、土地の顔役と関係を作っておけるのは有り難い。当初の予定とは違うが、涼州伝いの交易路を高順は開拓するつもりになっていた。咄嗟に間諜紛いの働きをしたが、商いで健啖家の姉と口うるさい妹を食わせていくことが今の高順の第一の目的である。
 馬騰が指示し、龐徳がしたためた書簡を受け取ると、高順は宮殿を出た。馬超と馬岱には一夜の休息を勧められたが、丁重に辞退した。馬騰は高順の名に対する不審を完全に払拭したわけではないだろう。長居は避けたかった。
 封をされた書簡の内容も気に掛かる。馬騰が龐徳に耳打ちした文面は、高順の耳にまで届かなかった。
 開封して、気付かれないように戻す術もないわけではない。この仕事に関わると決めた時に、曹洪の配下の者からそうした手管は教え込まれていた。

「……まあ、なるようになるか」

 呂布軍が地上より姿を消してからは何か吹っ切れたような気持ちがある。自棄というよりは自由で、いくらか大雑把で適当になった。
 高順は荷物の奥に、そのまま書簡を放り込んだ。



[7800] 第8章 第9話 官渡の戦い その四 麗羽
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/03/07 11:32
「袁紹様、いつまでこうしてお籠もりになっているおつもりか。少しは兵の前に姿をお見せください」

 今日も無遠慮に室内まで踏み込むと、田豊が詰め寄ってきた。
 痩せぎすの身体で叫ぶ声は甲高く、耳に痛い内容と相まって煩わしかった。

「田豊殿、少しは落ち着かれては?」

 対して、田豊を追って姿を見せた審配は、落ち着き払った口調で言う。

「なにも自ら陣頭に立って兵を励ますだけが主の役割ではございますまい。むしろそのような些事は、将の将たる袁紹様には無用のもの」

「何が将の将かっ、言葉を弄ぶでないわ! 高祖も光武も、自ら前線に立って天下を手に入れたのだ」

「過去の偉人を無暗に崇め奉りますな。すでにして袁紹様はこの乱世において最大勢力を有し、彼らに比肩する王者なのです。そもそも、このように敵地まで攻め込まれる必要などなかったのですよ。河北にて悠然と構え、詔勅を発し各勢力に帰順を命ずればよかったのです。さすれば自ずから聖王の威徳に天下は平伏したでありましょう。いえ、今からでも遅くはありますまい。袁紹様には詰まらぬ戦場など捨て置いて、鄴にて天下の政を為して頂きましょう」

 審配の言葉はいつも麗羽の耳に心地よかった。二度の大敗を喫し、かつての同僚淳于瓊を失った戦場に踏み止まることは、すでに麗羽にとって苦痛以外の何ものでもない。

「馬鹿な事をっ! この戦に負ければ、もはや天下は曹操のものよ! 座して手に入る天下がどこにあるか!」

「異な事を。張郃将軍は、田豊殿のお気に入りでしょう? それに田豊殿の御盟友沮授殿からは新兵と替えの馬をお送り頂いております。いまだ我らの戦力は圧倒的。戦場は張郃将軍にお任せになってもよろしいのでは?」

 二度目の大敗の後、袁紹軍は再び白馬砦へと後退した。今は張郃の指揮の元、軍の再編を押し進めている。
 連環馬を逆手に取られ一万頭以上の軍馬を失ったが、兵は十頭ごとに二人ずつを騎乗させていただけであるから、騎兵自体の損失は少なかった。そのため急遽馬を買い集め、七千騎の騎馬隊の再編成が可能であった。蹋頓の伝手で北方から買い入れた馬はいずれも身体が大きく良馬揃いで、かえって以前の騎馬隊よりも見栄えがするほどだ。
 歩兵は、鄴に残る徂授が新たに組織した一万の新兵が加入している。
 袁紹軍は歩兵十三万に、騎馬隊は二万五千にまで回復していた。それに烏桓の二万騎が加わる。官渡の曹操軍は歩兵六万五千に騎兵が一万五千騎であるから、二度の大敗を経てなおも二倍以上の兵力を有している。審配の言は正しく、袁紹軍はいまだ圧倒的に優勢であった。
 連環馬も対抗策が曹操軍自らの手ですでに明かされている。戦場から白馬まで軍を後退させた時でさえ、華琳は追撃を掛けてはこなかった。大敗を重ねた袁紹軍がこうして華琳の領内に居座り続けていられるのも、結局はまともにぶつかれば此方が勝つからだ。―――勝利は揺るぎ無い。

「その慢心に、何度足をすくわれたことか―――」

 冷や水を浴びせるように田豊が言う。

「王者の豪胆と思って頂きたいものですな―――」

 小気味良いことを審配が返す。
 そうして二人は一刻(30分)近くもお決まりのやり取りを続け、退室していった。

「毎日毎日、飽きもせずに」

 麗羽は寝台に身を投げ出した。

「ううっ、固い」

 綿の薄い寝台に、麗羽は思わずこぼした。

「仕方ありませんよ、ここは宮殿ではなく軍営なんですから」

 猪々子が耳聡く聞き留めた。
 白馬砦は戦のための要塞で、太守や州牧の居城とは異なる。城郭内に民の住まう街区は存在せず、代わりに兵舎と倉庫が立ち並ぶ。宮殿もないため、麗羽の私室として用意されたのも軍営の一室である。指揮官用の部屋であるからそれなりに広くはあるが、室内には固く小さな寝台と書き物机、長方形の大きな卓があるだけだった。

「はぁ、ここはいっそ、審配さんの言う通り鄴に戻ろうかしら」

「ええっ、帰るんですか、麗羽様っ!?」

 今度は斗詩が聞き質す。斗詩と猪々子の二人は、護衛を兼ねた従者として常に麗羽の側近くにある。

「―――っ、まさか。これは華琳さんとの天下を賭けた大勝負。私が席を外すわけにはいきませんわ」

 張郃が代わりに戦に勝ったとしても、ここで鄴へ引きあげれば麗羽の中には華琳に負けたという思いが残るだろう。

「いえ、後方に座して将に委ねるも王の戦、なのかしら?」

 ふと、審配の言葉が脳裏に蘇ってくる。
 戦にはどうせ勝てる。苦しい思いをしてまで戦場に留まり続ける意味があるのか。

「いえっ、ここで下がれば、あの華琳さんのこと。私が尻尾を巻いて逃げたと嘲笑いますわっ」

 自分を嘲る華琳の姿を思えば、むくむくと闘志が立ち上がってくる。

「う~ん、でも、しかし―――」

「袁紹様っっ!」

「―――っ、なっ、何ですの、二人して?」

 退室したばかりの田豊と審配が、今度は二人並んで駆け込むと、声を揃えた。

「官渡に曹操軍の増援がっ!」

 やはり声を揃えて二人は叫んだ。





「単于、よくぞお越しくださった」

 蹋頓が張郃の本営を訪ねると、卓へ向かい書き物をする彼女に代わって高覧が応対した。
 室内に人は多いが、高覧の他は全て張郃の使う副官や従者らしい。蹋頓の訪問に椅子や茶を用意し始めたが、動きにばたばたと無駄が多く、手慣れた様子はない。率いる兵が膨れ上がったため、急遽側近の数も増やしたのだろう。
袁紹も二枚看板も部屋に籠もって姿を見せない現状、全軍が張郃の差配に委ねられている。

「高覧将軍。―――あれは?」

「張郃将軍の、日課のようなものですな。申し訳ないが、しばしお待ち頂いても?」

 高覧に勧められ、蹋頓は椅子に腰掛けた。

「それは構わぬが、何をしているのだ?」

 筆を走らせる張郃の隣で副官らしき男が何か読み上げている。耳をそばだてると、それは次第に詳細が明らかとなってきた曹操による劉備軍討伐戦の戦況らしい。
 驚くべきことに曹操は官渡の戦線を残る将に任せ、自ら劉備軍、そして孫策軍との戦の指揮に赴いたという。張郃はそれを手ずから地図に書き込んでいく。

「曹操の戦の研究、だそうです。ああして戦の詳細を書き残し、幾度も頭の中で繰り返すのだとか」

 従者の読み上げる戦況はすでに終盤に差し掛かっている。
 重装歩兵の円陣の狭間に中核の精鋭五千を誘い出された劉備軍が、張遼の騎馬隊に前後から強襲を受ける。張遼自ら率いる前方を避け、後方の五千騎へと劉備軍は果敢に突撃した。危地を脱するも、今度は一万騎をひとまとめにした張遼が即座に後背を突く。一万騎に追い立てられてなお五千は踏み止まるも、分断された残りの兵が重装歩兵を前に先に崩れた。数だけは二万五千と多いが、劉備の盛名を慕って集まったばかりの雑兵である。劉備軍の将が率いればこそ軍の体を成していたが、指揮系統が断たれれば後は脆い。これ以上の抵抗は無駄と悟った精鋭五千も、二万五千に紛れるように兵を散らす。
 そこで張郃は筆を置いた。
 以降は追撃戦へ移行するが、さすがに詳らかな情報は入っていない。また、曹操の指揮もここまでだろう。この後曹操は、忙しなくも孫策との戦場へと馳せる。
 卓上に広げられている地図は、当然劉備軍と曹操軍の交戦があった下邳城周辺の地図なのだろうが、判然としない。蹋頓は訪れたことの無い土地であるし、そうでなくとも真っ黒になるまで書き込まれた戦況が地形の大半を覆い隠していた。
 蹋頓は漢語を解するが、烏桓族は元来文字を持たない。研究のために戦を文字に起こすというのは蹋頓には理解し難い行為である。

「―――っ、これは単于。お越し頂いていたとは」

 よほど集中していたらしく、張郃は顔を上げて蹋頓を見止めると、驚きの表情を浮かべた。
 張郃からの会談の申し入れは三度目で、過去二回は理由を付けて断ってきた。
 烏桓は袁紹軍の同盟相手である。対等なものではなく、袁紹を主、蹋頓を従とするものではあるが、袁紹軍の一部将に過ぎない張郃の呼び出しに軽々しく応じるわけにはいかない。三度目にして重い腰を上げた、という形をとった。
 張郃が副官や従者達を下がらせた。場に残ったのは、張郃と高覧、そして蹋頓のみとなった。
 袁紹が私室に籠もり切り、二枚看板と呼ばれる文醜と顔良がそれに付き従う限り、この三人が次の戦の中心ということになる。
 袁紹軍が白馬にて軍の再編を進める間に、劉備軍と孫策軍の脅威を払った曹操軍も官渡城に軍を集結させていた。
 孫策軍を南へ追い返した夏侯惇が、長江北岸に備えの二万を残して歩兵二万を伴い合流した。徐州からは張遼の騎馬隊一万に、楽進の重装歩兵一万が戻っている。
 元々官渡に布陣していた曹操軍は、曹仁の騎馬隊一万騎と歩兵二万に、張燕の一万五千、于禁の二万。それに曹操旗下の本隊が騎馬隊五千騎と歩兵一万。これらの軍勢は二度の決戦でまったく犠牲を出してはいない。
合わせて曹操軍は騎兵が二万五千騎に、歩兵が九万五千に及んだ。
 対する袁紹軍は歩兵十三万に騎馬隊二万五千であるが、あくまで数の上での話だ。
 新たに編成した騎馬隊七千騎は、馬の調教が十分とはいえず、牽制に使える程度のものである。袁紹の依頼で蹋頓が北方の馬商人と渡りをつけた。買い入れられた馬は以前からの軍馬よりも一回り大きく脚も強いが、兵と馬が馴れるまではそれは欠点でしかない。また、曹操軍の連環馬からの生存者を再編成した歩兵二万は、やはりどこか腰が引けている。張郃も心得たもので、二万と七千騎は本体から切り離して、遊撃の扱いとしていた。
 実質的には袁紹軍の兵力は、歩兵十一万と騎兵一万八千である。そこに烏桓の二万騎も加わるとはいえ、すでに兵力は曹操軍と拮抗していると言って良い。袁紹軍に残されているのはほんの僅かな優位で、それは用兵次第でいくらでも覆るものだった。

「して、如何に戦うおつもりです?」

「まずは我が軍は歩兵を私が率い、騎兵の指揮は高覧将軍にお任せします。高覧将軍には敵騎馬隊の動きを封じ、歩兵の戦への介入を防いで頂く。単于も、同じく騎馬隊に当たっていただけますか?」

 蹋頓は小さく頷き返して了承の意を伝えながらも、尋ねた。

「歩兵は歩兵、騎兵は騎兵で戦をするということですな?」

「はい、歩兵と騎兵の連係ではあちらが上です。それに、それだけ軍略が入り込む余地となります」

 張郃は、今後の戦の要訣を良く理解しているようだった。蹋頓はやはり首肯して賛意を示しながらも問い掛ける。

「しかし、私が見るに曹操は漢土随一の戦上手でしょう。歩騎の連係を切るだけでは、まだ足りぬのでは?」

「曹操に、戦をさせません。混戦に持ち込み、用兵の余地を奪います」

「ほう」

 漢土の武将にしては珍しい腹の据え方だった。漢の将は陣形を整えることに腐心するあまり、それがあくまで戦に勝つための手段の一つに過ぎないことを忘れる者が多い。
 一方で烏桓や匈奴の兵は陣形を軽視し、隊列が乱れようと我先にと馬を走らせる。蹋頓が苦労して用兵を教え込んだのが、今回率いる二万騎だった。

「混戦となれば数と士気が物を言います。そして勝ち戦で兵は命を惜しむもの。我が軍に二度、そして劉備軍、孫策軍にも見事過ぎる勝利を飾った曹操軍の兵に、すでに決死の覚悟は失われておりましょう」

「とはいえ、それでこちらに利があるわけでもありますまい。わずかに数に勝るとはいえ、敗走を重ねた兵の消沈は大きい」

「そこはまあ、袁紹様に何とかして頂こうかと」

「袁紹様に?」

「ええ。早く御不興を払われて、兵の前に姿を見せて頂ければ」

 堅物の印象が強い張郃が、珍しく冗談を口にする。

「ふふっ、それだけで意気が揚がるほど、兵も単純ではないでしょう」

「では敵を討ち取った兵への特別な恩賞を出しましょうか。戦死した場合には遺族への支払いも約束して」

「それならば、兵は奮起しましょう。混戦となれば先を争うでしょうし、負傷した兵は相打ちを狙いましょうな」

「あとは、大きな勝ちを狙いません。我が軍の二度の敗戦。劉備軍と孫策軍。それに古くは呂布軍も。曹操軍の戦を分析すると、相手が大きな勝利を狙ったその瞬間に、逆転の一手を打つ。これが非常に多いのです。なれば、五分の分けか、小さな勝ち、小さな負けを繰り返します」

「ふむ、恩賞の約束で奮起した兵が混戦に徹すれば、相手が曹操であっても不可能ではないかもしれぬな。しかし、それでどうされる? 五分の戦をいくら続けたところで、徒に数を失うばかりではありませんか?」

「構いません。今、両軍ともに十万を越える兵を有し、兵力差はわずかです。しかし消耗戦を繰り返し、曹操軍の兵が半数まで減った時、―――その時なおも今の兵力差を保てていたなら、それは絶対の差となります。そこで、勝負を決します」

「……恐ろしい事を言う。つまりは五万の兵に、一人殺してから死ねと」

「その通りです。単于が先程仰られたとおり、曹孟徳は今や間違いなく中華一の軍略家でしょう。私には他に取れる手がございません」

 張郃は平然と非情の計画を明かして見せた。

「賛同はしかねますな。いや、貴殿らがやる分には好きにすれば良いが、私の兵を犠牲には出来ん」

「もちろん、援軍の単于にそこまで協力して頂くつもりはございません。あくまで、高覧将軍の騎馬隊の援護をお願い致します」

 膝の上できつく握り締められた張郃の拳は、白く色を失っている。平静を装ってはいるが、さすがに心中穏やかとはいかないらしい。

「張郃将軍の献策が容れられていれば、そのような惨い策を取らずとも済んだものを」

「単于、それはもう、言っても仕方のないことです」

 過去二度の大敗の後、張郃は即座に攻勢に出ることを袁紹に進言している。

「しかし曹操遠征中の一ヶ月余り、あれは間違いなくこの戦最大の好機であった」

「結果論です。曹操の不在など誰にも予想出来ようはずがありませんし、歴戦の劉備軍と孫策軍が容易く打ち破られるなど私には想像もつきませんでした。一方で初めに三倍の兵力を有して曹操軍と対峙した時も、そして二万頭の連環馬を揃えた時にも、我が軍の誰もが勝利を確信しておりました」

「―――ほう。素気無く斥けられたというのに、ずいぶんと庇われますな。もし曹操なら、貴殿の策を容れて攻勢に出たと私は思いますが」

「我が主が曹操なら、私はそもそも攻勢を進言してはおりません」

「ふむ、確かに曹操であれば進言されるまでもなく、飛び出しておりましょうな」

「単于は、勘違いをしておられる」

 張郃が大きく首を振った。

「あの大敗の後、無理に軍を動かしたところで兵の士気は上がらず、犠牲は拡がるばかりでしょう。それでも曹操ならば軍略と兵力差にものを言わせて、勝利を掴むかもしれません。しかし、我が軍にあれほどの将才は存在しません」

「では、曹操の采配無くして勝ち得ぬ戦を、張郃将軍は進言されたか?」

「袁紹様あればこそ。我が主は戦の采配では、曹操に劣ります。政を為しても曹操が上でしょう。しかし兵を鼓舞し民を熱狂させるなら並ぶ者もございません。先ほど単于は笑って流されましたが、袁紹様が戦えと、兵に一言お声掛け頂ければ、大敗の陰りも吹き飛ぶのです」

「ははっ、ついでにあの馬鹿―――高笑いの一つも上げて頂けば完璧であろうな」

 高覧が当然と言う顔で言い足す。二人は、冗談を口にしたわけではないようだった。

―――非情の策を口にした将が、今度はずいぶんな楽観を言うものだ。

 蹋頓には到底、袁紹にそれほどの器量があるとは思えなかった。
 蹋頓含む袁紹軍の全首脳に軍議の招集があったのは、そんな感想を抱いた翌日のことだった。





―――華琳に、負けるかもしれない。

 いや、それ以上に衝撃なのは、華琳が自分との戦線を放り出し、劉備や孫策との戦に駆け回っていたという事実だ。
 華琳は、麗羽が幼少の頃より思い定めた好敵手だった。私塾でも朝廷の出世競争でも、いつも麗羽が一歩先を行った。それは優越感と共に、相手にされていないだけではないのか、という疑念を常に抱かせた。
 無視出来るはずのない大軍を持って、戦いを挑んだ。それでなおも捨て置かれたなら、やはり今までの全ても自分一人の空回りだったのか。

「ここは一度、鄴にお戻りになるべきでは?」

 いつも麗羽の思考を深く読み、麗羽にとって都合の良い発言をする審配の語尾が弱い。自分がどうしたいのか、麗羽自身にも分かっていないのだから当然だろう。
 数日振りに私室へと押しかけた田豊に強引に引っ張り出された。連れ込まれた軍議の間には、武官も文官も、主だった者は全て揃っている。
 張郃を筆頭とした武官達は、審配の発言に眉をひそめていた。視線は自然と対抗馬の論客として田豊の元へ集まるが、珍しく鉄火肌の彼女に動く気配がない。

「いまだ兵力では我が方が有利。ここで決着を付けるべきです」

 仕方なくという態で、張郃が代わりに声を上げた。

「そう思われるのなら、張郃将軍はこの地にお留まりになれば良い。兵も残していくので、戦もご随意に。王である袁紹様が、いつまでも最前線に留まる必要はありますまい。先兵として将軍が均された地を、追って踏み固められれば良い」

「それでは兵にまとまりが―――」

「指揮を委ねられた以上、兵をおまとめになるのも張郃将軍のお役目では?」

 論敵を得たことで勢い付いた審配が語気を強めた。

「―――袁紹様」

 そこでようやく、田豊が口を開いた。審配が身構え、武官達は期待の視線を向ける。

「……いまだ地力は私たちの方が上です。河北にてしばしご休息頂ければ、その間に兵力でも物資でも、再び曹操軍を圧倒することが十分可能です。いえ、私たち文官が、必ずやそうして見せます」

「田豊さん?」

 一瞬、何を言われているのか分からなかった。
いつも目一杯胸を反らして小さな体を少しでも大きく見せようとする田豊が、斬首を待つ囚人のように頭を垂れている。

「白馬という橋頭堡を得られたことは、決して小さなことではございません。まずは数万の兵を残し、この地を維持致しましょう。それを持って、今回の戦の戦果としようではありませんか」

「田豊様っ」

 張郃が叫ぶ。田豊は、この戦はここで終わりだと告げていた。

「田豊様は、長期戦は曹操を利するばかりと、そう仰られていたではありませんか。かつての御自身の発言をお忘れですか?」

 張郃の指摘通り、田豊はかつて、長期戦の不利を語り短期決戦を進言している。曰く、ここまで急速に国力を挙げてきた曹操軍は、時を与えれば与えただけ強大に成長すると。その田豊が、今度は逃げて長期戦に持ち込めと言っていた。つまりそれだけ、現状の袁紹軍に勝機を見いだせないということだろう。

「すまぬ、張郃。あれは、我ら文官の怠慢であった。曹操軍の成長が速いのなら、我らもそれに負けず努めよう。次なる戦では、必ずや再び二十万を超える兵を編成し、お主に率いさせてみせよう。地力では、間違いなく我らが上回っているのだ」

 その地力の差がいつまで続くか知れたものではないと主張したのが、過去の田豊である。それでも必ずやと、田豊は眉間に悲壮感を漂わせ繰り返した。自信など微塵も感じさせないその表情が、かえって田豊の覚悟を物語っていた。
 その顔は信じられる。麗羽はそう思った。それでも―――

「―――田豊さん、そういえば私、あなたの真名を聞いておりませんでしたわね?」

「こんな時に何を?」

「いえ、淳于将軍、―――仲簡さんとは長い付き合いでしたのに、結局真名を預け合うことなくお別れとなってしまいましたわ」

「淳于将軍の仇は、次の機会にて必ず―――」

「―――勝ちたいですわ」

 絞り出すような声が漏れていた。
 華琳に負ける。いや、皆がすでに負けたと思っている。だからって自分までそれを認める事は出来ない。

「袁紹様?」

「私は勝ちたいのですわ。ええ、退いてなどやるものですか」

 そこからは、堰を切ったように言葉が口をついて出た。
 子供の頃、試験の結果では負けたことは無かった。出世競争でもそうだ。いつも二位に甘んじている華琳が、抜かれぬように必死で学ぶ自分を端から歯牙にもかけていないように思えて、いっそう腹立たされた。

「それでも、これまで一度だって私は華琳さんに負けてはおりませんのよ。でも、ただの一度だって、本気で勝ったと思えたこともない」

 麗羽は、本当の自分を曝け出した。
 ずっと華琳に対して劣等感を覚えていたこと。名門の出を嵩にきて、本気の戦いの場に立つことを避け続けてきたこと。王道を口にする審配の言葉に乗じて、戦わずして華琳に勝つ事を夢想したこと。正々堂々の決戦を口にしながら、劉備軍と孫策軍の介入にほっと胸を撫で下ろしたこと。―――そして、今だって本当は逃げ出したいと思っていること。

「でも、今ここで逃げ出したら、―――負けを、認めてしまったなら、私はもう一生華琳さんには勝てない。そんな気がするのです」

 偽らざる本心を吐き切った。興奮が冷めると、麗羽は羞恥と少しばかりの疲労感に肩と頭を落とした。
 顔を上げるのが怖かった。将は、どんな目で自分を見つめているのだろう。嘲ってはいないだろうか。
 名門を鼻にかけた尊大と無頓着に、いつも麗羽は守られていた。それをかなぐり捨てた今、諸将の目に、自分はどう映るのか。麗羽は、生まれて初めて他人の視線に曝されていると感じた。
 いつの間にか、左右に侍らせた斗詩と猪々子の手を握っていた。二人は何も言ってはこないが、強く握り返してくる手が、何があろうと味方だと告げていた。
 麗羽は、ゆっくりと顔を上げた。

「―――勝ちましょう」

 囁くような小声で、最初にそう口にしたのが誰なのかは、分からなかった。
 次の瞬間には、勝利を誓う言葉が、室内いっぱいに、爆発的に広がっていた。一度は退却を口にした田豊も審配も、拳を振り上げ叫んでいる。

「麗羽様、顔、顔」

「―――っ」

 猪々子に言われ、慌てて口元を引き締めた。しかし、否応なくすぐに緩む。ぽかんとだらしなく開いた口が塞がらない。

「袁紹様、その御心を、兵の皆にもお伝えください」

 張郃が、麗羽の足元に滑り込むように跪いて言った。

「兵の皆に?」

「はっ! 僭越ながら、閲兵の準備を調えてございます。練兵場に全ての兵が整列し、御姿をお待ちしております。一言、勝ちたいのだと、そうお伝えください! さすれば我ら一丸となって、勝利を掴み取りましょう!」

「―――ええ、分かりましたわ。張郃さん、先導を」

「はっ」

「斗詩、猪々子、お供を。他の皆さんも、私に付いていらっしゃい! ―――さあ、勝ちますわよっ! おーっほっほっほっ!!」

 全員を引き連れ歩き出すと、麗羽は再び尊大に高笑いを上げた。



[7800] 第8章 第10話 官渡の戦い その五 蹋頓
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/04/04 13:46
 袁紹軍は三度決戦の大地に降り立った。
 三度目ともなると舌戦が繰り広げられることもなく、粛々と戦は始められ、すでに三日が経過している。かねての計画通り張郃が歩兵十万を率い、騎馬隊の指揮は高覧に委ねた。本陣には歩兵一万に加え、遊撃の歩兵二万と七千騎を残している。
 互いに連環馬を警戒し合って、歩兵の陣の内に幾本か溝を走らせている。軽騎兵なら脚を取られることはほとんどないが、それでも足並みは乱れる。必然的に歩兵は歩兵、騎兵は騎兵と主戦場を分けての戦となった。
 張郃は十万の歩兵を五段に分けて守りの構えを取った。対して曹操軍は夏侯惇の二万と于禁の二万、張燕の一万五千に楽進の重装歩兵一万、―――総勢六万五千の四隊で攻め立てる。夏侯惇と楽進が前線をぐいぐい押し込んでくる。黒山賊の張燕とは均衡を保ち、于禁はいくらか袁紹軍優位に抑え込んでいる。
 他に曹仁隊の歩兵部隊二万が存在するが、これは歩兵同士のぶつかり合いには加わらず、騎馬隊の戦場の補佐に回っている。
 曹仁と張遼のそれぞれ一万騎からなる曹操軍の騎馬隊は、高覧の一万八千騎と烏桓兵二万騎という倍の兵力を相手に、互角の戦を展開している。歩兵の援護もあるし、何より指揮が際立っている。呂布が戦場を離れた今や、曹仁と張遼は騎兵を率いては中華の双璧だろう。時には果敢に歩兵の戦への介入を試みて、それを身を持って高覧隊が防ぎ、蹋頓が助けるという状況が見られた。

「――――! ―――!」

 前線で怒号が巻き起こり、兵が宙を舞った。夏侯惇とその旗本が、前面に姿を現している。五段に構えた張郃の布陣の、すでに第三段にまで夏侯惇は到達していた。
 騎兵百騎に歩兵が四百の夏侯惇の旗本は、袁紹軍には対抗し得るものの無い精鋭中の精鋭である。先頭を駆ける夏侯惇個人の武勇も、手の付けようのない域にある。武術では袁紹軍内で二枚看板に次ぐと称され、その自負もある張郃であるが、あの大剣の正面に立ちたいとは思わない。抗わずに駆けさせ、後続の軍をしっかりと抑えて孤立させるが上策であろう。

「第一、第二段は前進! 今こそ、敵兵の首を袁紹様に捧げよ!」

 張郃は夏侯惇に破られた前線二段に攻勢を命じた。陣形を乱されたまま攻撃に転じれば、当然さらに隊列は崩れ混戦を呈する。構わず前へと押し出した。

「―――――――――!!!」

 湧き上がった喚声は大きい。
 すぐに混戦の波は全体へ広がり、前線は敵味方入り乱れての殺し合いの様相を呈した。そうなってしまえば、勝ち戦を重ねた曹操軍の兵の腰は引ける。そして先日の袁紹の演説を受け、袁紹軍の兵はこれ以上ない程に高ぶっていた。今は混戦に利がある。
指揮官不在の夏侯惇隊をまず押し返し、陣を組んでこそ活きる重装歩兵の楽進隊も乱れる。新兵中心の于禁隊は一層押し込んだ。一方、賊徒出身の張燕隊は混戦に強く、その場に踏み止まっている。
 視界の端で騎馬隊の動きを捕えたが、今は高覧と蹋頓を信じて委ねるしかない。
 混戦で、討てるだけ討ち取らせる。
 第三段をも抜いた夏侯惇が、孤立を恐れてか、あるいは後続の被害拡大を避けてか、次の第四段にぶつかる前に踵を返した。それも、抗わず下がらせた。
 追撃で夏侯惇の首とまではいかないまでも、精鋭の旗本をいくらかでも削り取りたい。その当然の欲求を、張郃は抑え込んだ。戦果を望んで動けば、どこかに大きな落とし穴が隠されている。曹操との戦とはそうしたものだろう。
 夏侯惇が合流を果たすと、そのまま夏侯惇隊は兵をまとめて後退した。他の曹操軍の隊もそれにならって陣を下げ、仕切り直しとなった。大いに攻め込まれたが、最終的な兵の犠牲は五分であろう。
 三度目の戦であるが、本格的な兵と兵とのぶつかり合いは今回が初めてとなる。
 調練に手を抜いた覚えはないが、練度で言えば袁紹軍の兵はやはり曹操軍に劣る。実戦経験の差だろう。陣を組んでのぶつかり合いで勝てない分を、士気旺盛に混戦で盛り返していた。
 張郃の想定とは異なる論調ではあったが、袁紹の弁舌の効果は抜群である。悲壮感を薙ぎ払う暴風のような、あるいは力任せに希望を照らし出す太陽のような常の演説も良いが、初めて弱さを曝け出した麗羽の姿―――張郃ら諸将は戦に際して真名を預けられた―――は、それだけに兵の心を激しく揺さぶった。主君の見せた弱気に一時忠誠心が揺らぐ者もあったかもしれない。しかし結果として、二度の大敗を経験した兵は麗羽の心情に同調し、そして再び放たれた高笑いに血を滾らせた。
 麗羽と共に挫折と再生を経験した袁紹軍は、これまでにない強さを手にしていた。





 高覧の一万八千騎を挟み込む様に対峙していた騎馬隊の一方が動いた。紺碧の張旗は、張遼騎馬隊だ。高覧が慌ててそれを追い、さらに遅れて曹仁隊が続く。

「―――行くぞ」

 少し離れた位置から三隊の動きを見届けた蹋頓も、おもむろに軍を進発させた。
 張遼隊の向かう先は、袁紹軍歩兵部隊の第四段である。すでに夏侯惇とその旗本が第三段を突破しつつある。張遼が第四段を蹴散らせば、張郃のいる第五段は丸裸となる。
 張遼が歩兵部隊にぶつかる直前、ぱらぱらと疎らな騎馬隊が割って入った。高覧隊が、馬を限界まで疾駆させて張遼隊の先回りに成功していた。
 張遼が進路を変えた。歩兵から騎馬隊へと狙いを切り替えている。あるいは、初めから歩兵部隊への突入は誘いであったか。
 急行し縦に伸びた高覧隊を突き抜け、さらに返す刀で二度三度と貫く。蛇が絡みつく様に高覧隊は断裂させられた。
 あれだけ味方にまとわりつかれると、騎射は使えない。蛇の頭―――張遼を抑えに掛かる。蹋頓が弓から刀へ持ち替え頭上に掲げると、兵も一斉にそれにならった。

「―――ちっ」

 蹋頓は小さく舌打ちした。
 伸び切って視界を塞ぐ高覧隊の影から、曹仁隊が飛び出してきた。
 蹋頓は一万騎を副官に任せ、高覧隊の援護に向かわせた。自身は残る一万騎を率い、わずかに迂回した後、急速に馬首を巡らせた。刀から弓へ、再び持ち替えている。
 曹仁は高覧援護の一万騎を捨て置き、蹋頓の一万へと進路を向けた。曹操軍の騎馬隊は弓騎兵対策をかなり練ってきている。曹仁があと一歩遅れていれば、蹋頓は左斜め前方にその背中を捉えることが出来た。
 敵騎馬隊の右斜め後方に付ければ、騎射では一方的な攻撃が可能となる。弓騎兵側は最も得意とする左斜め前方へ矢を射れるし、追われる側は前へ逃げれば延々と騎射の間合いに曝されながら追撃を受けることとなる。対処法は逃げずに距離を詰めるか、隊を散らすかといったところだが、いずれにせよある程度の犠牲は必要となる。
 蹋頓の用兵を回避した曹仁は、一万騎の横腹を掠める様にして馳せ違っていく。それも、しっかりと騎射のこない右側を選んでいる。
 左回りに半周すると、同じく馬首を巡らした曹仁隊を捉えた。今度は左斜め前方。しかしわずかに遠い。十数歩追ったところで、蹋頓は騎馬隊の脚を止めた。
 曹仁隊の向かう先に歩兵部隊が待機していた。騎馬隊を陣の内に収容すると、びっしりと楯が並べられた。
 男と目が合った。白馬に白い具足。一人、楯の影に身を隠すこともなくこちらを見据えている。
 蹋頓は一騎進み出て、馬上で弓を引き絞った。距離は五十歩前後といったところか。大男が飛び出してきて、白い男の前に楯を掲げた。
 一息に四矢を放ち、蹋頓は馬首を返した。

「やるな、蹋頓単于!」

 背中に声が掛かり、次いでどよめきが起こった。五十歩の距離なら拳大の標的にまとめられるし、四矢なら楯から矢尻ぐらいは突き出ているだろう。
 隊を後退させると、高覧隊と烏桓兵一万騎も引き上げてきた。張遼隊も歩兵部隊の後方まで下がったようだ。

「単于、助かりました」

 高覧が顔を見せた。小さく首肯で返す。
 そのまま、被害報告が上がってくるのを二人で待った。
 曹仁だけでなく、もう一方の騎馬隊も相当に精強だった。
 張遼は中原一の騎馬隊を誇ったという元呂布軍の将である。槍と刀の間合いになると、烏桓の方が押し込まれる。
 前回動員した二万騎であったら、曹仁と張遼を前にすでに敗走していただろう。あの時も背後を突かれたとはいえ、わずか半数の兵力の曹仁に追い散らされたのだ。普段中原の兵を侮る気持ちの強い烏桓族の男達にとって、それは大きな衝撃であった。
 唯一整然としていた蹋頓の直属を望む若者が増え、それは二万に達し、今回満を持しての初陣となった。

―――漢族を舐めすぎていたか。

 前回の敗戦もあって、曹仁に関しては早くから警戒していた。その主の曹操も、伝え聞く戦績から容易な相手でないことは予想された。しかしそれでも、隊列を組む戦さえ覚えてしまえば、馬上で漢族が烏桓に勝てるはずがないと思い込んではいなかったか。
 隣りで報告を待つ、この高覧という男にしてもそうである。
 具足は埃にまみれ、軍袍は返り血に濡れている。自身も小さな傷をいくつか負っているようだ。最初に張遼隊の前に飛び出した数騎の中に、高覧の姿を蹋頓は認めている。用兵は凡庸の域を出ない。しかし身を投げ出すような愚直さは、我が身第一の烏桓の男には持ち得ないものだった。
 そして歩兵部隊を率いる張郃も宣言通り五分の戦を展開しているし、なかんずく袁紹である。家柄だけの無能としか思えなかった袁紹まで、あれだけの能を隠し持っていたのは意外であった。
 自らの弱さを吐露するような演説は、強さこそを至上と考える烏桓には響かないが、漢族の兵達は甚く心を打たれたようだった。
 尊大かと思えば実直で、狡猾かと思えば愚直。漢族というのはまったく不思議な人種だった。

「蹋頓単于、高覧将軍」

 報告をまとめ、兵が一人駆けて来た。
 高覧隊は百騎余り、烏桓兵も十数騎を失っていた。対して張遼隊に与えた被害は二十から三十騎という見立てである。曹仁隊は犠牲を出していない。

「くっ、張郃将軍は五分の戦をしているというのに」

「まあ、そう嘆かれるものでもありますまい。騎馬隊同士の純粋な掛け合いでは、そこまで分が悪い戦もしておりません」

 犠牲が多く出るのは、歩兵の戦への介入を妨げる瞬間だった。つまり張郃の五分の戦を支えるための犠牲である。
 先日披露された作戦は、蹋頓にとって実に都合の良いものだった。
 中華が疲弊すればするだけ、烏桓の力は無視出来ないものとなる。そしてその時の盟の相手は、覇道を標榜する曹操よりも王道を掲げる袁紹が良い。消耗戦の果てに袁紹が中華を制するというのが、烏桓族にとって最も望ましい未来だった。

「しかし、二倍の兵力を有しているというのに、情けない」

「騎馬の戦では、あまり兵力を頼まれますな」

 騎兵と騎兵ではそもそも兵力差に物を言わせる展開は作り難い。今や袁紹軍が得意とする混戦も、曹操軍にのみ歩兵が随伴する状況では良い的にされかねない。

「それにしても、やはり曹仁と張遼の連係はさすがですな」

「ふむ、高覧将軍にはそう見ましたか」

「では、単于には別に?」

「ううむ。……いえ、気のせいでしょう。お気にされるな」

 高覧は小首を傾げながらも、自分の隊へと戻って行った。
 蹋頓はこの三日間、曹仁と張遼の連係に微妙な食い違いを感じていた。それが、先程の攻防で確信へ変わった。
 張遼の歩兵への急襲を、曹仁は把握していなかった。間に陣取った高覧隊の動きを見て、初めて張遼隊の急襲に気付き、慌てて後に続いたというところだろう。そこで生まれた一拍の遅れが、蹋頓の目から曹仁隊を隠すこととなったが、結果としてそうなったというだけのことだ。
 高覧にそれを伝えなかったのは、用兵を変えて欲しくなかったからだ。今の展開が続けば、曹仁か張遼を討つ機がどこかで見えてくる。高覧隊が動きを変えれば、二人も用兵を変える可能性があった。

「勝たせてやるか」

 もう少し消耗戦の静観を決め込んだ方が良い。そう思いつつも、自然と矢籠に手が伸びている。

―――袁紹の弁に俺までほだされたか。

 蹋頓は自嘲しつつも、矢数を確認する指の動きを止めなかった。





 烏桓騎兵が想像以上に手強かった。
 三度目となる袁紹軍との決戦は、過去二度とは異なり奇策無しの真っ当なぶつかり合いとなった。してみると二万騎の弓騎兵は厄介この上ない存在だった。
 それぞれが短弓での騎射を能くし、蹋頓が合図の一矢を放つと、一斉に二万の矢がそれに続いた。といって間合いを詰めれば無力というわけではなく、組み合っては刀を巧みに振るう。
 視線を交わしたのは、異相と言っていい男だった。ぎょろりと大きな目に鷲鼻。蹋頓は烏桓族の単于であるが、容貌は烏というよりも梟を思わせた。
 その弓は神業と言って良い。立て続けに放たれた四矢が楯に突き立つ音は混じり合って、長く尾を引く一音に聞こえた。
より遠くをより正確に射抜くのが漢族の射術で、中華で名の知れた弓の達人は、いずれも長大な強弓の使い手だった。蹋頓の弓は秋蘭の餓狼爪のせいぜい半分の長さで、馬上での取り回しに優れ、連射に向く。騎射で言えば蹋頓は秋蘭や黄蓋をも凌ぐかもしれない。
 烏桓騎兵が去り、入れ替わりに霞が軍を下げてきた。烏桓の横撃にやられたか、二十数頭の空馬が歩兵部隊の元へと追い立てられてくる。
 今度は、霞と目が合った。すぐに、ぷいと逸らされる。

「まだ張遼将軍のご機嫌は治りませんか?」

「ああ、こればっかりはな」

 角の問いに、曹仁は溜息をこぼしつつ返した。
 連環馬では、呂布軍時代から霞が手塩にかけてきた馬に相当な無茶をさせた。一千頭余りが傷を負い、そのうち半数は回復しても元のように走るのは難しいという。徐州から帰還した霞にはかなり厳しく責められ、そして不機嫌は依然継続中だった。
 二人の確執は騎馬隊の連係に微妙な齟齬を生んでいた。曹仁も霞も、当然戦に私情を持ちこむ気は毛頭ない。しかし歩兵の戦と違って、騎兵は一度動き始めてしまえば密に連絡を取り合うというわけにもいかない。指揮官の呼吸が全てである。単に親しければ良いというわけでは無く、犬猿には犬猿の呼吸がある。一方で普段家族同然の者同士であっても、一度食い違ってしまうと立て直しは困難だった。
 気付いていないはずもないだろうが、今のところ華琳から何かを言ってくることもない。上から口を出してどうなる問題でもないし、かえって拗らせるだけと理解しているのだろう。

「荀彧殿の仰る通り、最善の一手でありました」

 軍議の席で霞に詰問された曹仁を、戦果を思えば微々たる損害と、珍しく荀彧が擁護し
た。

「霞だって理解はしているさ。そもそも、官渡にいたなら連環馬にも難色は示しても反対はしなかっただろうしな。不在中に無断で使ってしまったのが大きいな。軍人として理解は出来ても、武人として納得は出来ない、ってところだろう」

「もっと、さっぱりした御方かと思っていましたが」

 陳矯が口を挟んだ。

「何かひとつ、きっかけがあればな」

 戦場であるから軍馬のことは常に霞の頭を過ぎるだろうし、酒でも奢って発散というわけにもいかなかった。





 戦は、四日目に入った。
 曹仁が袁紹軍歩兵部隊へ突撃するのを高覧が遮り、その隙に張遼が歩兵を攻めた。蹋頓は一万を高覧の、一万を歩兵の援護に向かわせた。自身は数百騎を率いて、距離を置いて戦況を見守る。
 張遼は、烏桓の一万騎が迫る前にぱっと離脱した。曹仁も高覧隊を縦に断ち割ると、そのまま戦場を大きく迂回した。
 やはり連係に一拍の遅れ。同時に動いて、曹仁が高覧を抑え、張遼が歩兵に突入していれば、展開は同じでも張遼はもう一歩二歩深く歩兵の陣形をかき乱せた。

「―――お兄様、何か?」

 次期単于であり、従妹の楼班を側近くに呼び寄せた。

「あの二つの騎馬隊をどう見る?」

「ええっ!? 私がお兄様に戦の意見なんて、無理です」

「ただ聞いているだけだ。別に戦の参考にする気はないし、気軽に答えれば良い」

「そ、それなら。……ええっと、か、固い?」

「固い?」

「わ、私達と比べて、まとまりがあると思います」

 楼班が不安気に言い足す。

「ふむ、そうだな。我らにはないまとまりがある。これは奴らに限らず漢族の兵に共通して言えることだが、曹仁と張遼の隊は中でも良く出来ている」

 蹋頓の調練で、烏桓の兵も隊列を維持したまま進軍し、矢を放つまでになっている。しかし、刀を握っての接近戦となると乱れる。それぞれが敵に斬り掛かろうとするし、危ういとなれば大きく避けもするからだ。曹仁隊と張遼隊の兵は、隊形を維持したまま駆け抜けることを何よりも優先している。個人よりも全体の勝利を第一と教え込まれているのだろう。こればかりは、烏桓の兵には一朝一夕に真似出来ないものだ。

「他には? 我らと奴らではなく、曹仁と張遼の二人を比べてはどうだ?」

「曹仁さんの方が、怖いという気がします。気が付いた時にはもう、すぐ側まで迫っているんじゃないかって、そんな怖さを感じます」

「曹仁“さん”、ね。……俺はどちらかというと、張遼の方が怖いかな」

 蹋頓が思っていたより、楼班はよく戦場を観察していた。戦場まで連れ出した甲斐もあったということだ。
 曹仁と張遼の軍の進退は、両者の得物の違いをそのまま表すようだった。曹仁の用兵が陣を貫く槍なら、張遼は陣形を薙ぎ払う大刀だ。
 曹仁は真っ直ぐ入って、真っ直ぐに戻る。あるいはそのまま突き抜ける。張遼は斜めに入って、斜めに下がる。馬首を返す時、曹仁は急激に反転して、入るときに自ら斬り開いた道をそのまま戻る。帰路に残す余力はわずかであり、その分深く食い込んでくる。張遼は五分の力で斬り込み、緩やかな弧を描いて同じく五分の力で斬り下がる。曹仁と比べると浅く、その分だけ広く陣形が崩される。
 どちらの方が優れているというのではないし、ちょっとした用兵の癖のようなもので、その気になればいくらでも臨機応変に対応する実力を持った二人だった。ただどちらが組みし易いかと考えると、曹仁の方だ。どこからでも将に届く恐ろしさがある半面、動きとしては読み易くもあった。
 将を狙いに来る動きを、楼班は率直に恐ろしいと感じたのだろう。軍を率いる身としては、隊列を大きく崩しにくる張遼も同等かそれ以上の脅威だった。

「あの、お兄様?」

 楼班が上目使いで蹋頓の顔色を窺う。意見が食い違ったまま蹋頓が押し黙ってしまったので、不安になったようだ。

「しばらく、本陣の袁紹殿のところへ行っていろ」

 安心させるように、強めに頭を撫で付けながら告げると、楼班はかえって不安を抱いたようだ。

「私は邪魔というこうでしょうか?」

「そうではない。お前には戦場を駆け回るよりも、袁紹殿の側にいた方が学ぶべきことが多いということさ。それに、次期単于が袁紹殿とお近づきになっておくのは、烏桓にとって悪いことではない」

 最低限の戦術眼だけ身に付けてもらえば、単于となった楼班が兵を率いる必要はない。戦場には一部将として自分が立てば良いのだ。
 楼班は民をまとめるには良い指導者となるだろう。見ず知らずの敵であっても呼び捨てにしない折り目正しさは、烏桓では柔弱と蔑まれかねないが、これから漢族と付き合っていくには悪いことではない。だが楼班の代になる前に、中華の民に烏桓の強さを知らしめておくべきだった。
 格好の標的として、曹子孝がいる。呂布を退け、今や天下無双の呼び声も高い。袁紹軍の勝利のため、そして烏桓のため、従妹楼班のためにも、狙うに十分の首だ。

「……わかりました」

 楼班は最後には納得した顔で、護衛に付けた百騎と共に本陣へと駆けていった。
戦は、同じ展開が続いた。
 曹操軍の先に動いた隊が高覧隊に遮られ、その間にもう一方が歩兵を攻撃するか、挟撃で高覧隊を攻める。蹋頓に向かってくることは稀で、烏桓兵を動かした時点で曹仁と張遼は引き返していく。細かな用兵に違いはあっても、戦が動く大筋の流れはそれで一致していた。
 戦況に動きがない時は、曹操軍の二隊は常に高覧隊か、自軍の歩兵部隊の側へと身を置いている。いつでも烏桓の騎射から逃れるためだろう。楯を構えた敵歩兵部隊は矢を遮り、味方の兵の中に飛び込まれれば騎射そのものが封じられる。
 騎射はかなり警戒されていた。戦の流れを作っているのは曹仁と張遼であるが、騎射の脅威一つで戦場全体を蹋頓が支配している。
 今度は曹仁隊がまず、歩兵部隊へ向けて動いた。高覧隊が割って入り、曹仁は進路を変えて高覧隊の中へと飛び込んでいく。張遼隊はぶつかり合う二隊の影―――歩兵部隊の方へ回り込んだ。
 蹋頓はほんのわずかに右へ駆け、高覧隊の背後で脚を止めた。
 好機である。曹仁隊の進入角度。高覧隊への挟撃ではなく、歩兵への攻撃を選んだ張遼。そして今、蹋頓から見て高覧隊の影に曹仁と張遼は入った。二隊からも、烏桓兵の姿は見えていないはずだ。
 蹋頓は弓を手に鞍の上に立ち上がった。
 同じく弓を取った兵達の視線が一身に集まるのを、蹋頓は感じた。蹋頓が射た先に全員が矢を集中させる。匈奴の英傑冒頓単于に倣った戦法で、飽くほどに調練を積んであった。
 普通に射ても兵の矢は後に続くが、ここぞという時蹋頓は馬上に立つ。構えを見せることで矢は的に集中するようになるし、より一斉に放たれる。
 視界の先に敵軍の姿はない。高覧の騎馬隊の最後尾、その背中が見えている。
胸を前後に揺らしながら、大きくゆっくりと息を吸って吐いた。近くの兵から、少しずつ呼吸が合っていく。やがて二万騎全ての息がぴったりと重なった。巨大な一匹の獣となって、得物を待つ。

―――読み切った。

 蹋頓は大きく吸った息を吐き出さずに胸腔に溜め、弓を引いた。ほとんど同時に、二万の兵も弓を引く。
 高覧隊から、白い穂先が飛び出してくる。
 蹋頓は矢を放った。
 これまで味方と絡み合う敵軍に対しては、一度も矢を放っていない。しかし元より五分の犠牲を覚悟の戦だ。気兼ねの必要も無い。蹋頓が矢を射込めば、兵も躊躇なく続く―――はずだった。
 横からの強い衝撃。曹仁隊目掛け放たれるはずの二万の矢のうち、半分が狙いを逸れ、半分は風に煽られるような力無い矢となった。
 歩兵に突撃したはずの張遼が、蹋頓の元へと真っ直ぐに、槍の用兵で突き進んでくる。

「ここに来て、見事な連係を」

 歩兵と高覧隊の狭間の無人の原野を駆け、一万八千騎を縦断する曹仁隊を抜き去り、先にぶつかってきた。
 張遼と曹仁、二本の槍が蹋頓目掛けて真っ直ぐに迫る。

―――烏桓のため、楼班のために。

 蹋頓は矢籠に手を伸ばした。





 白鵠の脚捌きで三矢までを躱した。追いついてきた四矢目は槍で弾いた。

「―――っ」

 先日には見せなかった第五の矢が、弾いた矢の影から現れた。曹仁は咄嗟に肩を突き出し、肩当てでそれを受けた。

「――――――!! ――――!」

 戦場に喚声が巻き起こる。
 蹋頓の騎射に対する賞賛でも、危うく命を拾った曹仁に奮起されたわけでもない。
 五矢を放ち終えた蹋頓の姿が、馬上から消えている。霞が高々と飛龍偃月刀を掲げていた。
 曹仁の一万騎が突っ込むと、頭を失った烏桓の兵は潰走していく。烏桓の兵にとって、戦の総大将は麗羽ではなくあくまで蹋頓であろう。兵に十里の追撃を命じて、曹仁は歩兵部隊まで下がった。

「討ち取らなかったのか?」

 霞も兵に追撃を命じ、自身は歩兵と合流してきた。兵二人に両脇から支えられた蹋頓を伴っている。蹋頓は手足をぐったりと垂れ下げ身動ぎもしないが、亡骸に対する扱いには見えない。

「ウチの方が曹仁より近くにおるのに、こっちを見もせんのやもん。よそ見してる相手に斬り付けられんへんから、峰で打ったったわ」

 最後に蹋頓は曹仁との相討ちを望んだ。一部将ならともかく単于の地位にある者の選択としては不可解だが、考えて分かることでもない。蹋頓が目を覚ませば、その心中を聞く機会もあるだろう。

「……生きてるんだよな?」

「まぁ、無視されて頭にきたから、すこーし強く打ち過ぎたかもしれへんな」

 蹋頓は一向に意識を取り戻す気配がなく、力無く兵にもたれ掛っている。凝視すると、ほんのわずかに胸が上下するのが見て取れた。呼吸は止まっていないようだ。
 霞の命で、蹋頓の身柄は本陣へと運ばれていった。

「しかし、よくあそこで俺を狙いに来ると分かったな」

「いや、ずっと曹仁をねろうとる感じがしとったから、先に討ち取ったろ思うただけや。下邳で華琳様のやった策を、ちょうどウチも試してみよ思うてたし」

「華琳の? ―――ああ、城内の制圧に送り込んだと見せて隠し、奇襲したってやつか。霞の神速の用兵と組み合わせると、こうなるか」

 高覧隊を隠れ蓑の城壁に見立て、城内制圧の代わりに歩兵への攻撃と思わせている。死角からの奇襲自体は騎馬隊の戦では特別珍しいことではないし、霞の得意とするところだ。今回はさらに相手の錯誤を狙い、図に当たっている。あの瞬間、霞の騎馬隊の存在は完全に蹋頓の意識から抜け落ちていた。

「曹仁も読まれとるのに用兵も変えんで、誘っとったやろ?」

「しかし味方ごと騎射というのは予想外だった。霞が来てくれなかったら、逆にこっちが討たれていたな。最後に見せた連射も、前にこれ見よがしに見せつけてくれた四矢でなく、五矢だったしな」

 二万本の矢が降り注ぐ中で、蹋頓の五矢に反応する自信はなかった。

「それ、大丈夫なん?」

 霞が眉をひそめながら、曹仁の左肩を指差す。戦場では負傷兵など見慣れたものだが、やはり身内の傷は生々しく見えるものだ。

「そんなに深くはなさそうだ。肩当てのおかげ、いや、恋のおかげか」

 肩当てがなければ、腕を失っていたかもしれない。それほど、蹋頓の放った第五矢の威力は凄まじかった。

「恋の?」

「ああ。恋と戦場でやり合った時、肩で突きをいなされた。あの時は穂先を取った槍に、むき出しの恋の肩だったけどな。俺も槍で弾けない時の最後の備えとして、肩当てで攻撃を受けようと思って、練習してたんだ」

 話しながら、曹仁は矢を引き抜いた。肩当てを貫き、鉄糸を編み込んだ軍袍をも引き裂いた矢は、幸いにも筋肉の厚い部分を半寸ばかり抉るのみだった。出血も多くはなく、大きな血管を傷つけてもいないようだ。

「もうっ。そんな適当に抜かないで下さいよ、曹仁将軍」

 陳矯が騎乗のまま慣れた手つきで傷口を縫い始める。

「そういや、ウチ等とやり合うた時には、肩当てはしとらんかったな」

「ああ。あの頃は邪魔に感じて付けていなかったけど、馴れるとあまり気にならないな」

 曹仁の具足は白騎兵と揃いの特注品である。曹仁に合わせて他の百騎も今は肩当てを付けていた。肩当てでの受けも習得していて、曹仁より上手い者も何人かいる。

「はいっ、出来ましたよ。七針です。あまり動かさないで下さいよ」

 ぽんと、縫い終えた傷口の上を軽く叩きながら陳矯が言う。痛みに、曹仁は顔をしかめた。

「ずいぶんとやるようになったな、お前も」

「華琳様から、曹仁将軍が馬鹿をするようなら、尻を蹴り上げてやれと言われていますから」

「ははっ、良う出来た従者やな」

 陳矯は戦場でも曹仁の横を駆け回るようになっている。今も従者という扱いだが、一般の兵からは本人志望の白騎兵の一員のように思われている。そして曹仁の知らぬ間に、真名を許される程に華琳との交流が出来上がっていた。曹仁にとっては、何ともやり難い話である。

「ふんっ。―――そうは言っても、動かさないわけにもいかないがな」

「せやな。後で曹仁の尻を蹴り上げたったらええで、陳矯」

「何を?」

「騎兵が追撃から戻り次第、高覧の一万八千騎を攻める。今なら、簡単に潰せる」

 小首を傾げた陳矯に、曹仁は答えてやる。
 曹仁に縦断された高覧隊はすでに体勢を整え終えている。敵味方の騎馬隊が駆け去った戦場で、歩兵部隊を攻めるでもなく所在無げに佇んでいた。

「しかし、無理に今やらなくても」

「高覧隊なら焦らなくてもいつでも倒せると思っているか? 蹋頓のような派手さはないが、高覧は凡庸ながらも仕事はしっかりとこなしている。これまでは蹋頓に助けられる展開が多かったが、決して簡単な相手というわけではない」

「でしたらそれこそ、万全な体制を整えてからの方がよろしいのでは?」

「簡単な相手ではないが、これまで蹋頓に支えられてきたのもまた事実。今なら兵は不安でいっぱいだろう。時を与えた分だけさらに不安を募らせる相手もいるが、あの敵は逆に腹を据えるな」

「それは、どう見分けるのです?」

「勘やな」

 霞が口を挟んだ。

「勘、ですか」

 元々文官志望の勉強家で、兵法書などにもかなり通じている陳矯としては、納得し難い答えだったようだ。

「勘といっても、当てずっぽうというわけではない。経験から来る予測のようなものだ。―――さて、だいたい兵も戻ったな」

「ウチから先に突っ込むで」

 霞が軽く言って駆け去って行った。

「張遼将軍のご機嫌、治りましたね」

 すっと馬を寄せてくると、囁く様に陳矯が言った。

「ああ、そういえばそうだな」

 あまりにきれいな連係がはまっての戦果に、曹仁は霞の不機嫌を失念していた。霞自身もたぶん似たようなものだ。性格からして、後で思い出して再び機嫌を損なうということもないだろう。
 かちりと何かが噛み合うのを曹仁は感じた。

「よし、俺達も行くぞ」

「はいっ」

 霞の一万騎が動き始める。わずかに遅れて、曹仁も隊を動かした。
 行く手に砂塵。高覧隊ではなく、さらにその後方から、何か駆けてくる。
 七千騎。袁紹軍遊撃の騎馬隊だった。高覧隊の横を駆け抜け、騎兵の戦場に踊り込んでくる。

「―――?」

 前を行く霞隊が、ぶつかる直前で左に折れた。慌てて避けたという感じで、敵将を捕え調子付いている霞らしくない動きだった。
 近付いて見て、霞の不自然な回避の理由が曹仁にも分かった。同じく左へ避けた。
 曹仁達が観察する中、七千騎は特に何をするでもなく、戦場をぐるりと一回りして高覧隊のすぐ横に付けた。まとまりに欠け、それぞれがばらばらと脚を止める。隊列が整うにも、しばしの時間を要した。

「曹仁」

 霞が馬を走らせやってきた。

「やられたな」

 七千騎は奔馬の群れだった。駆けるほどに隊列が乱れるのは、馬の地力がそのまま出ているからだ。つまりは調教不足であり、同時にそれぞれの馬の本気の疾駆ということでもある。暴走に近く、騎乗の兵もしがみつく様にして馬を御していた。赤兎隊や連環馬のように一方的に蹂躙する力はないだろうが、まともに当たれば同数の犠牲を覚悟する必要があった。

「袁紹がおったな。高覧隊がすっかり立ち直りおった」

 七千騎の中程に、金色の具足を輝かせた麗羽の姿があった。らしくもなく麗羽は、自ら前線へ飛び込むことで高覧隊の士気を盛り上げて見せた。

「その横で大剣を振り回していたのは文醜さんだな。ようやく二枚看板も出してきたか。それに―――」

さすがに危なげなく馬を乗りこなす文醜に対して、麗羽の隣にはもう一人、危なっかしく大きく身体を揺らしている人物がいた。

「曹仁も見たか? やっぱり、そうやったよなぁ? あの日、洛陽の宮殿に一番乗りしたのは、袁紹軍やって話やし」

「ここで麗羽さんに突っ込ませるっていうのも、いかにもらしい用兵だ。間違いないだろう」

 数年ぶりに見た皇甫嵩は、別れた日と同じく戦場に在った。



[7800] 第8章 第11話 官渡の戦い その六 勁草
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/05/10 14:35
「先に曹操の首を取ることですな」

 どうすれば華琳に勝てるか下問すると、皇甫嵩は事も無げに言った。
 軍議の様相は、以前とは一変している。
 一つには、蹋頓がいない。
 同盟軍を率いる大将であり、積極的に発言をするでもないが、常にある種の重みを有していた。代わって楼班が席を並べているが、蹋頓が倒れると同時に烏桓兵は戦場を去っている。今は蹋頓が楼班に付けた護衛の百騎だけが、烏桓がこの地に有する戦力である。楼班本人の気質と相まって、軍議における存在感は希薄であった。
 もう一つが、この皇甫嵩の存在である。
 本人たっての希望で、一部の将軍達を除いてその存在は秘されてきた。大半の者は、今回の遊撃隊指揮官への就任で初めて皇甫嵩の正体を知ることとなった。これまでは軍議の末席を許された名も無き校尉と、皆の目には映っていただろう。
 陣営に加えた当初こそ、その正体を知る者達から皇甫嵩は一目置かれていた。しかし無気力で怠惰な生活を続け、いつしかただ居るだけの存在へとなり下がっていった。全軍を委ねた張郃が遊撃隊の指揮を要請したのも意外なら、皇甫嵩がそれを引き受けたのも意外であった。そんな調子であったから、驍名は過去の事と麗羽も他の部将達も大きな期待をかけてはいなかった。
 それが今や前列に引っ張り出され、皆の注目を集めている。ここまで曹操軍を相手に五分の戦を繰り広げてきた張郃も、頭を垂れ教えを乞う姿勢に徹していた。
 皇甫嵩は麗羽まで巻き込んだ騎馬隊のたった一駆けで、かつての名将の健在を皆に感じさせた。絶望の中でようやく見出した希望に、麗羽含め全員が縋り付いていた。

「ああ、かつての御学友を殺したくないというのだったら、もちろん捕縛でも結構」

 戸惑う面々を相手に、皇甫嵩が付け足す。

「だからっ、それをどうやるかって聞いてんだよ」

 猪々子が麗羽の気持ちを代弁した。

「ふむ。答える前に一つ聞こう。今は本陣に留まり全軍の指揮に徹しているが、曹操というのは陣頭指揮を好む将ではなかったか? 私が董卓軍に味方してお主らと戦った時、曹操はいつも軍の先頭にいた」

「それは、確かにそうでしたわね。―――優さん、何か?」

 何か言いたげに張郃が膝を進めた。麗羽は数日前に預け合ったばかりの真名で、彼女を呼ぶ。

「はい、麗羽様。呂布軍との戦では、曹操はわずか一千騎で駆け回り自ら囮を演じています。また、最後には呂布の方天画戟とも打ち合っております。それに報告にあった通り、先日は百騎で徐州、揚州の戦場を渡り歩きました。いずれの戦場でも、決定的な機を自らの用兵で作り上げております」

 優はこの戦に当たって華琳の戦歴を徹底的に洗い直している。田豊や他の将から麗羽はそれを聞き及んでいた。

「ふむ。つまり戦を大きく動かそうとする時、曹操は自ら兵を率いる。そして今も供回りには常に虎豹騎と名付けた精鋭の重装騎兵を伴い、本陣にも必ず騎兵を配置している」

 優の発言を受けて、皇甫嵩がうんうんと頷きながら言った。

「それで、結局どうすればよろしいんですの?」

「しばし防戦に徹されよ。いずれ焦れて曹操は自ら動きましょう。その際に討ち取れば良い」

「それは、曹操の策に乗るということではありませんか?」

 優が眉をひそめる。

「そうなるな。だから、こちらも曹操の想像を超えた動きをする必要がある。―――そうだな、いっそその瞬間だけ、袁紹殿御自身が全軍を指揮されてはどうだ?」

「私?」

「ちょっ、ちょっと待ってくださいよ、皇甫嵩様。せっかく張郃将軍の指揮で、互角の戦が出来ているのに」

「斗詩さん、それはどういう意味かしら?」

「そ、それは、その」

 一睨みすると、斗詩は黙り込んだ。

「……まあ、斗詩さんの懸念ももっともですわね。皇甫嵩さん。はっきりと申し上げまして、私、実戦の指揮で華琳さんに勝つ自信は無くってよ! おーほっほっほっ!!」

「おお、いっそ清々しいな」

 一度、本音を曝した者達である。麗羽が開き直って見せると、皇甫嵩は苦笑と感嘆が入り混じったような微妙な表情を浮かべた。

「それに、最後に私自ら指揮を取るというのは、いかにもこの袁本初のしそうなことではなくって? 華琳さんなら、それくらいの想定はしているのではありませんこと」

「ほう。確かにそうだ」

 皇甫嵩は、今度は間違いなく感嘆の声を漏らした。

「それでも袁紹殿の用兵が一番だとは思うが。……そうさな、それでは文醜などどうだ? 曹操にとっては袁紹殿に次いで意外な用兵となろう」

「あたいか? へへっ、皇甫嵩、アンタなかなか見る目あるじゃないかよ」

「ほ、本気ですか、皇甫嵩様っ!? あの文ちゃんですよ!? 指揮といえば突撃しか知らないんですよっ!?」

「おいおい、失礼だなぁ、斗詩。あたいだって撤退くらい知ってるっての」

「……そうだよね。文ちゃん、威勢良く勝つか、派手に負けるかだもんね。―――もうっ、張郃将軍からも、何か言ってください。これまでの善戦を台無しにされちゃいますよ」

「……いえ、存外良い手ではないかと」

「張郃将軍!?」

「私の手のうちはすでに曹操の知るところでしょうし、意表を突くような用兵は苦手とするところでもあります。……皇甫嵩将軍に指揮を代わって頂けるなら、それが一番なのですが」

「ふむ。確かに、敵の虚を突くは我が軍略の要ではあるが、敵陣には曹仁と霞―――張遼がおるのでな。特に曹仁は弟子のようなものであるし、私の用兵もよーく知っている。それなりに成長しているようだし、裏をかくのは容易いことではなかろう」

「そうですか。ならばここは、―――文醜将軍に」

 優が麗羽を真っ直ぐ見つめながら言う。彼女もまた猪々子よりも麗羽の方が良いと考えているようだ。

「まっ、いずれにせよ、私が言ったのは賭けだ。勝算は五分。そして誘いに乗る以上、しくじれば立て直しが効かない程に犠牲は大きくもなる。それを厭うなら、曹操がいくら動こうと相手にせねば良い。その場合、烏桓の弓騎兵を失った以上は劣勢のまま戦は推移し、やがて撤退となろう」

「……やはりこのまま戦を続けても勝てませんか?」

「勝てぬなぁ。それはお主と高覧が一番理解しているのではないのか? 兵の練度で劣り、用兵でも敵わぬと思えばこそ、乱戦頼りの先日来の戦であろう?」

 優の問いに、皇甫嵩があけすけに返す。
 官軍第一と称された将軍からの敗北宣言に、場の空気は暗く沈み込んだ。

「なに、撤退といって、そう悲観的になることもない。以前田豊殿が軍議で述べた通り、白馬砦を手に出来たのは大きい。重要拠点を一つ手に入れたというのは、侵略の戦果としては上々と言えるのではないかな。後は撤退で如何に兵力の損耗を抑えるかだが、張郃は撤退戦の指揮は上手そうだ」

 賭けに出て大勝を狙うか、負けて小利を得るか。皇甫嵩はその選択を提示していた。

「……わかりましたわ。―――それなら、猪々子さん」

「おおっ!」

 猪々子が拳を握って立ち上がった。

「好機が来ましたら、貴方に指揮権を与えます。それまで、優さんに付いていなさい」

 ここに来て勝利以外のものを望むはずもなかった。
 猪々子が気勢を上げると、幕舎の外でそれを聞き付けた兵達が理由も分からぬまま喚声を唱和させた。





 袁紹軍は、五段で正面に備えた構えを捨て、全軍一体となった。例外は高覧の騎馬隊だけで、本隊一万に遊撃隊までをその内に取り込んだ巨大な方円の陣である。

「曹仁さんと張遼さんの騎馬隊はやはり速いですわね。華琳さんを狙うとなると、あの二隊の動きが邪魔ですわ。それに夏侯惇さんの旗本の一団、あれも良く動きますわね」

 戦場を見つめながら、思い詰めた表情で麗羽がぶつぶつと独り言を呟く。
 敵戦力の分析など、常の麗羽には見られない行動である。奇妙な光景を斗詩は隣で静かに見守り続けた。
 そうして、十日が経過した。
 方円を組んでからは、乱戦に持ち込むこともなく歩兵のぶつかり合いはただ単調に受けるのみとなった。曹操の出陣を誘うためだが、その間にも犠牲は増え続けている。特に、烏桓兵の支援を失った高覧隊への攻勢は凄まじかった。しばしば皇甫嵩の遊撃隊が救援に飛び出すも、一万八千の兵力は七日で一万騎を下回った。その時点で、高覧隊も方円の内に取り込んだ。それで戦は、より一層単調なものとなった。

「……そういえば、皇甫嵩様」

「なんだ?」

 十日目の夜、その日の被害の確認に本営へ顔を見せた皇甫嵩に斗詩は尋ねた。

「曹操さんがこのまま出て来なかったら、この戦は」

「もちろん、負けるだろうな」

「―――っ」

 想像通りの答えながらも、斗詩は思わず息を飲んだ。

「で、出てきますよね?」

「さあ、どうだろうな。出ずとも、このままあと一ヶ月も戦を続ければ、我らは潰滅となるであろうし。そこがまず、第一の賭けだな」

「そっ、そんなぁ」

「おーほっほっほっ!! そんな心配は無用ですわよっ、斗詩さん」

 ここ数日ずっと思い悩んだ顔をしていた麗羽が、珍しく晴れやかな声を出した。

「あの短気な華琳さんのことです、一ヶ月も持つものですか。そうですわね。三日以内に、―――ううん、明日ですわっ。明日、華琳さんは動きますわ。間違いなくってよ、おーほっほっほっ!!」

 また根拠もなくと、斗詩の口からため息が零れ落ちる。とはいえ、久しぶりに麗羽の高笑いが出たことで、その夜は和やかに過ぎていった。

「…………あ、当たりましたね、麗羽様」

 翌日、斗詩の口から今度は感嘆の吐息が漏れた。
 前線に曹の牙門旗が姿を現した。
 五千の騎馬隊は歩兵と連係して正面を突いたかと思えば、一隊のみで迂回して横腹から後背を窺いつつ方円の周囲をぐるりと一巡りして見せる。後方に構えてどっしりと動かなかった先日までとは一転、他のどの隊よりも忙しなく動き回っていた。

「斗詩さん、猪々子さんに伝令―――、いえ、私自ら命令を下しましょう」

 麗羽は常に無く軽快な足取りで騎乗すると、曹操軍に対して正面に位置する方円の一部隊へと馬を走らせた。斗詩は慌てて周囲の兵を引き連れて麗羽の護衛に着く。
 猪々子と張郃がいたのは、干戈の音も騒がしい前線間際であった。

「猪々子さん、優さん」

「ちょっと、麗羽さまっ、こんなところまで出てきて危ないですよ。矢だって飛んでくるんですから」

 猪々子が珍しく正論を口にし、張郃が素早く楯を構えた兵を麗羽の前面へ配した。

「おーほっほっほっ! ご心配なさらずとも、私に矢は当たりませんわっ、おーほっほっほっ!」

 麗羽が根拠のない自信を見せた。
 根拠はないが、事実はある。ふらふらと飛んでくる流れ矢を、斗詩や猪々子は時折得物で打ち払う必要があったが、麗羽を守る楯には一本も突き立ちはしなかった。

「それで、麗羽さま。わざわざここまで出てきたってことは、あたいの出番ってことですよね」

「……ええ、お任せしますわ、猪々子さん」

 一瞬の逡巡の後、麗羽は言った。

「おおーしっ! お前達―っ、今から張郃に代わってあたいが指揮を取るっ! あたいの命令っ、聞き逃すなよっ!」

 最前線の一枚を残し、兵達の意識が猪々子に集中する。
 曹操の騎馬隊五千騎は、今はちょうど正面の戦線に介入していた。曹仁と張遼の騎馬隊は、それぞれに両翼を攻めている。

「そんじゃあ、全軍、突げ―――」

「―――猪々子さん、お待ちになって!!」

「んあ? 麗羽さま? もうっ、いいところで邪魔しないで下さいよっ」

「やはり、この戦の指揮、私が取りますわ」

「ええー、ここまで来てそれはないですよー」

「お黙りなさい。貴方、今、なんと命令しようとしまして? また、馬鹿の一つ覚えの突撃でしょう? そんな指揮で、あの華琳さんに勝てるものですか」

「ええー、じゃあ、麗羽さまだったらなんて命令するんですか?」

「それを今からお見せすると言っているのです。さあ、お下がりなさいな」

「ちぇっ、分かりましたよ」

 猪々子は口をとがらせながらも、麗羽の後ろ―――斗詩の隣に並んだ。
 猪々子が下がり、麗羽が一歩前に進み出ると、兵は騒然とした。悪いざわめきではない。斗詩は兵達の士気が高ぶるのを感じた。

「……」

 兵の視線を一身に集めながら、麗羽は何も言わない。ざわめきが収まるのを待っているのか。あるいは、自身の決意を固めているのか。

「……勝てますよね、麗羽様?」

 沈黙に耐えきれず、斗詩は思わず詰まらない質問を口にしていた。

「ええ、もちろんですわ」

 麗羽はこちらを振り返ることなく、背を向けたまま言った。

「言わなかったかしら? 私、私塾時代の試験では華琳さんに負けたことはなくってよ。もちろん、軍学の試験でも。今日もまた、昔と同じに勝つだけですわ」

 それが虚勢であることは、麗羽自身の口からすでに明かされている。それでももう一度、麗羽はその強がりに乗っていた。

「……これは、まずいかもしれません」

そんな麗羽の姿にどこか頼もしさを感じていた斗詩の耳に、張郃が小さく溢すのが聞こえてきた。

「まずい? まずいって、何がです?」

「下手に軍学などに則られては、曹操の手の平に乗せられるかもしれません。無為無策こそ、曹操の裏をかくには肝要。だからこそ皇甫嵩将軍は、麗羽様か文醜将軍をご指名になられたのです」

「ええっ! 麗羽様、珍しくすっごく頭を使っていましたよっ。麗羽様、ちょっと待っ―――」

「―――皆さんっ、雄々しく、勇ましく、華琳さん―――曹孟徳ただ一人を目掛けて、突撃しますわよっっ!!」

「……なんだ。良かった、いつもの麗羽様だ。……んん? あれ? 突撃なさいじゃなく、しますわよって言った? っ! みんなっ、麗羽様に続いてっ!!」

 いつも通りに思えて微妙に異なる命令に、袁紹軍将兵は一時混乱をきたした。その隙を突いて、麗羽が馬を走らせていた。名門袁家に伝わる宝刀が光を放つ。
 麗羽の戦は、こうして味方を惑わすところから始まった。





 ほら見なさい、という華琳の得意顔が目に浮かぶようだった。
 最後には麗羽が自ら兵を率いる、というのは華琳の予想である。先日の軍議の席で、華琳に次いで麗羽を知る曹仁は意見を求められ、それを否定していた。
 曹仁は麗羽に対して、ある種の共感を覚えていた。それは一方的なものではなく、恐らくは麗羽の方にも似た思いがあるはずだった。その根底にあるものは、幼少のころに刻み込まれた一人の少女に対する劣等感であろう。
 華琳。幼馴染として、あるいは従弟として、その破格の才能は常に二人の前に立ちはだかる壁であった。幼少期の心の平静を保つには、春蘭や秋蘭に倣って早々に軍門に下るべきだったのだろう。しかし名門出身の矜持が、あるいは男の意地が、その道を享受することを許さなかった。

「俺よりも余程強いな、麗羽さんは」

 かつて共感を覚えた相手は、当時のままではないらしい。
 自ら出て来たのか。負けるはずがない陣容を組みながら、二度までの大敗を重ね、なおも華琳の前に姿を現した。それも、自ら剣を取って飛び出してくるというのは、華琳の予想をも超えた蛮勇振りである。すでに華琳に白旗を振った曹仁には、到底選び得ない選択だった。
 単騎駆けした麗羽は、追いついてきた文醜と顔良に守られて歩兵の布陣をかき分けている。目指す先は真っ直ぐ曹の牙門旗だ。
華琳は騎馬隊を制止して、そんな麗羽を待ち構えている。
 変わらぬ戦を続ければ、いずれ勝利は曹操軍へ転がり込んできた。それでも、華琳は麗羽に対して勝負を仕掛けた。何だかんだと言って、華琳の方にも麗羽とは自分で決着を付けたいという思いがあったのだろう。戦場は、華琳と麗羽の望んだ終局へと向かいつつある。

「さてと。俺の相手は将軍か」

 単純な戦況で言えば、いぜんとして曹操軍の優勢である。しかし麗羽の進軍には放置し難い勢いがあり、華琳にも届きかねないと思わせる。
 こんな時、本来真っ先に麗羽を狙うべき騎馬隊を曹仁は動かせていない。霞も同様である。
 麗羽を追って敵兵が一斉に突撃を繰り返す中、遊撃の騎馬隊と高覧隊だけは並足でゆっくりと後方に付いている。曹仁と霞が麗羽を狙えば、速やかに阻もうという構えである。
 つまりは、主君を助けたくば自分を越えて行けという、皇甫嵩から曹仁と霞への挑戦状であった。





「見事なものだ」

 皇甫嵩は覚えず賞賛の言葉を漏らした。
 囮として前線に立った曹操は、袁紹がそれに答えてより一層激戦の只中へ飛び込むことで、引くに引けないところへ追い込まれた。ここで曹操が下がれば、曹操軍全体が勢いに乗った袁紹軍に押しやられかねないのだ。
 袁紹は総大将自ら敵大将へ向けて駆けだすことで、この戦を子供と子供の喧嘩にまで引きずり下ろした。練度と指揮に優れる曹操軍は、いくらか年嵩のお姉さんと言ったところだが、その年上ぶった分別顔に手痛い先制の一撃をぶち込んでいる。勝負はまだ分からない。軍議の席では、皇甫嵩は勝算は五分と誇張して言った。実際には十に三度というのが読みであった。それを、袁紹は力技で実際に五分まで引き上げて見せた。
 泡を食って麗羽の後を追う将兵の中で、皇甫嵩は遊撃の騎馬隊を手元へ残した。同じく騎馬隊を率いる高覧も呼び止め、突撃を思い留まらせた。
 怖気を抱えて遊撃隊へ回された歩兵の二万は、袁紹が走り出すと止める間もなく後へ続いている。恐怖に駆られて思考を放棄したというわけではない。先日の袁紹の演説が最も胸に沁みたのが、同じく曹操軍に打ちのめされた二万の兵達だった。突飛な袁紹の号令にも二万だけは動揺を見せず、意気揚々と飛び出して行った。今は、前線の兵に混じって夏侯惇隊にぶつかり、互角の展開を見せている。
 袁紹が五分とした戦場に、後はどれだけその勝機を維持出来るかだ。将器も兵の練度も劣る袁紹軍は、手をこまねいていれば刻々と進む戦場で勝算を失うばかりである。

「皇甫嵩将軍、まだですか?」

 焦れた様子で、高覧が言った。

「私達のやるべきことは、わかっているな?」

「はい。ですが―――」

 高覧が前線に目を向ける。
 袁紹自ら先頭となった一団は、夏侯惇隊を錐状に突き進んでいた。それは今にも左右からの圧力に押し潰されそうな、か細い進軍だった。しかし、方円の陣の左右後方を形成していた兵も続々と後へ続き、少しずつだが夏侯惇隊を押し返しつつある。向かう先には、散々駆け回った足を止めて曹操の牙門旗が待ち構えている。

「曹仁と張遼を封じても、まだ夏侯惇の旗本に五千の騎馬隊が残っております」

「そこは、二枚看板と張郃に任せるしかあるまい」

 遊撃隊と高覧隊。二つの騎馬隊が後方に付くことで、曹仁と張遼は袁紹への攻撃へ移れずにいる。袁紹を補佐するために皇甫嵩が取った行動は、一時静観することだった。

「しかし―――」

「心配せずとも、すぐに動くことになる。袁紹殿にならって予想するなら、まず動くのは性分からして―――」

 張遼、と言おうとした口を開けるまでもなく、その答えの方から飛び込んで来た。

「まずは、私が」

「うむ、任せよう」

 高覧が気負った声を出す。
 蹋頓を捕えた霞は、高覧にとってはここまでの劣勢を招いた仇敵と言えた。互いに兵力は一万弱。袁紹と曹操の決着が付くまで持ちこたえるくらいの意地は、高覧は見せるだろう。
 近付いてくる張遼隊へ向けて、高覧隊が動き始める。

「さて、すると私の相手は曹仁か」

 曹仁隊はまだ動かなかった。霞と比べるといくらか思い切りが悪いところが、曹仁らしい。

「こちらから動くとするか。―――遊撃隊、出るぞ!」

 馬を疾駆させた。
 調練不足で大きく上下に揺れる馬体から投げ出されないように、左手できつく手綱を握った。手綱は、左手だけで操れるようにいくらか短くしてある。恋や曹仁、霞とは比ぶべくもないが、元々馬術は苦手ではなかった。今は、いささか不恰好な姿だろう。
 反董卓連合との戦で負傷した右腕は、完治することはなかった。肩より上には持ち上がらないし、肘に角度を付けるとふっと力が抜ける。
 洛陽を去る曹仁は、繰り返し傷口を清潔に保つよう言い残していった。あの時、敗軍の将となった自分はどこかで戦場での死を望んでいた。だから、曹仁の言い付けもあまり気には留めなかった。
 反董卓連合解散の後、独立勢力を築いた恋達や曹操軍の曹仁を訪ねる気にはなれなかった。それどころかその生存すら秘し、隠者のようにひっそりと暮らしてきた。
 そこに明確な理由があったわけではない。
 戦に負け、将として頂くべき漢の朝廷自体が実体を失った。途端に、戦場というものが虚しく感じられるようになった。かつて張奐は暗殺者に身を落とそうと戦いの場を求めたが、それともまた違う感情だ。そして名でも、真名でもなく、ただ一言“将軍”と呼び習わされていた自分が、どんな顔をして曹仁らに会えば良いのか分からなくなった。
 袁紹の弁舌は、確かにそんな皇甫嵩の胸に燻ぶっていたものを刺激した。飼われ身の義理として袁紹軍の戦にはいつも同行してきた。しかし将として戦場に立つ気になったのは、今回が初めてである。
 そこで見た曹仁と張遼の戦は、官軍第一などと呼ばれた皇甫嵩の目にも見事な連係だった。弟や妹、あるいは息子か娘のようだった二人の戦に、かき立てられたものがあった。自尊心とでも言うのだろうか。自分もまだ出来ると、見せつけたくなり、遊撃隊を走らせていた。
 結果、二人の子供達は好機を逸する事となった。歯噛みする思いであったろう。あるいは、単純に自分の生存を知って喜んでくれたかもしれない。いずれにせよ、皇甫嵩の存在を二人は知った。単純なもので、事ここに至ってしまえば意地でも二人には負けたくない。特に、短い期間とはいえ教え子でもある曹仁にとっては、今も越えられぬ壁で居続けたかった。





―――失敗した、失敗した、失敗しましたわっ。

 曹の牙門旗目掛けて一路突き進みながら、麗羽の胸中には繰り返し後悔の言葉が浮かんだ。
 ただ一度の勝負。そう思い定めて、猪々子の号令を遮った。六韜から孫子まで心中で繰り返し諳んじ、練りに練った用兵を披露するつもりだった。
 それが、いざ号令を下す段になると、頭からすっぽりと抜け落ちた。真っ白になった頭で戦場を望むと、駆け回る華琳の姿が夏の日の羽虫のように目障りだった。ぷちっと、潰してしまいたい。そんな感情が湧き起り、気付けば叫び、駆け出していた。
 目の前に槍が迫り、麗羽は初めて華琳以外の人間の存在を、―――戦場を認識した。突き出された槍の穂先に、馬が棹立ちになった。幸運にもその前脚の蹄が、槍を跳ね上げた。敵兵の身体が、無防備に曝された。
 麗羽は、そこで困ってしまった。

―――考えてみると私、実戦で剣を使うのは初めてですわ。

 袁家累代の先祖達もそうだったのだろう。宝刀は刃毀れの一つもなく新品同然である。この剣を、振り降ろして良いものか。いや、戦なのだから良いに決まっている。しかしそれをすると、目の前のこの敵兵―――華琳の部下だというだけで、個人的に遺恨があるわけでもない―――は死ぬことになる。当然血も飛び散るだろうし、それは麗羽の身も汚すだろう。返り血に塗れた自分など、想像するだにぞっとしない様だった。

「おらおらぁっっ!!」

 躊躇う麗羽のすぐ横で威勢の良い怒号が轟き、猪々子の斬山刀が件の敵兵を真っ二つにした。

「えーいっ!」

 迫力の無いかけ声を上げて、斗詩の金光鉄槌も他の敵兵を肉片に変えた。
 多量の血が舞い散り、金色の髪も鎧も、すぐに真っ赤に染まった。

「―――っ、お、遅くってよ、猪々子さん、斗詩さんっ。さあっ、華琳さん目指して、行きますわよっ!」

 さっと血の気が引いて手放しそうになる思考を、麗羽は懸命に引き寄せた。
 そこからは、無茶な号令を下した先刻の自分を呪いながら、ただただ曹の牙門旗を見据えた。そうして、気付けば夏侯惇隊に深々と侵攻し、風にひるがえる曹の字はもう間近に迫っていた。
 麗羽は、ちらと後方を確認した。号令前までは一番に警戒していた曹仁と張遼の騎馬隊を、ようやく思い出していた。
 天人旗を伴う曹旗と、紺碧の張旗はまだ遠い。高覧隊と皇甫嵩の遊撃隊が絡みついている。
 自分の失敗を、補ってくれる者達がいる。左右で大刀と大金槌を振るう猪々子と斗詩。すぐ後ろにはいつの間にか優がいて、闇雲に駆ける兵をまとめ上げている。背後は、目に付く限り味方の兵だった。
 夏侯惇隊を抜け出た。華琳の残す手札は、五千騎だけだ。

「さあ、皆さんっ、雄々しく、勇ましく、突撃―――」

「―――華琳さまの元へは行かせんっ!!」

 再びの号令を、怒号が遮った。
 夏侯惇隊から、小集団が飛びだした。騎馬百騎に歩兵四百の、夏侯惇の旗本だ。曹仁と張遼の騎馬隊に次いで麗羽が警戒していた部隊だ。その存在を麗羽はやはり失念していた。

「あたいが―――」

「いえ、文醜将軍は麗羽様のお側に。顔良将軍、兵の指揮をお願いします」

 飛び出そうとする猪々子を引き止め、優が指示を走らせる。すぐさま一千の小隊が組織された。

「長くは持ちません。お早い決着を」

 言い置き、肉迫する夏侯惇の旗本に、優は一千を率いて真っ向からぶつかっていく。

「―――さあっ、私たちも行きますわよっ!」

 その背をわずかに見送り、麗羽は再び曹の牙門旗を見据えた。
 わずかな間に後続の兵が集まってきていた。麗羽を中心にすでに四、五千の集団を形成して、その数はさらに増え続けている。
ようやく最前列から解放され、人心地ついた麗羽を再び恐怖が襲う。曹の牙門旗の足元から、五千騎が動いた。突っ込んでくる。

「か、固まってくださーいっ!!」

 斗詩の号令で、五千で小さな円陣を組んだ。身を寄せ合うようにして、騎馬の圧力に対する。前後左右へ揉みくちゃに押しやられながら、馬蹄の轟が駆け去るまで麗羽は目をつぶって耐えた。
 目蓋を開いた時、立っていたのは三千に満たない。二千余りはその身を肉の壁として命を散らした。五千騎は、ただの一撃で甚大な被害を袁紹軍へ与えた。しかし駆け抜けた先で、すでに二万から三万にも達している袁紹軍後続の歩兵に飲まれてる。
 そして正面に残るは、二百数十騎のみだ。華琳の姿も見える。
 華琳渾身の一手を耐え切った。麗羽は勝利を確信した。

「おーほっほっほっ! やはり、天運は我にあり、ですわ! さあさあっ、皆さんっ、あそこへ見える金髪のくるくるが、大将首ですわよっ!!」

 叫び、駆け出した。
 華琳。口元は、いまだ小憎らしい笑みだった。憎たらしいが、あの笑みを浮かべている限り華琳は逃げない。二百数十を、三千で囲んで終わりだ。

「―――っ」

 横合いから突風が過ぎり、覚えず一瞬顔を背けた。視界を掠めたのは、白い風。再び正面に目を向けると、つい今しがたまで前方を駆けていた味方が、突風が如き白い一団に吹き飛ばされていた。

「―――そう、あなたが私を」

 曹子考。かつて華琳に屈辱を与えたいがために求めたことがあった。天の御遣いと噂されるこの男もまた、華琳への劣等感を抱えていることに気付いてからは、本気で欲しいと思った。それでも、誘いの言葉はどこか冗談交じりになった。今にして気付く、華琳と自分を秤に掛けられることを恐れていたのだ。そんなところでも、自分は華琳との勝負を避けていたのだ。
 華琳不在の官渡で袁紹軍二度の大敗を指揮したのは、曹仁だという。もし本気で口説いていたなら、この戦の結果も別のものになっていたのだろうか。

―――いいえ、きっと変わりませんわね。

 後方へ視線を向ければ、曹仁隊の一万騎はなおも皇甫嵩の遊撃隊に絡め取られていた。精鋭の百騎―――白騎兵のみを率いて、華琳の窮地に駆け付けたのだろう。
 つむじ風が巻くように、急旋回して今度は真正面からむき出しの麗羽へ白騎兵が迫る。これは、華琳の風だ。悔しいが、自分の元に留まることはない。

「麗羽様っ、下がって!」

 斗詩と猪々子が麗羽の前面に出て、それぞれに得物を構えた。

「袁家の二枚看板っ、舐めるなぁっっ!!」

 猪々子が斬山刀をぶんぶんと振り回す。その巨大な刀身は圧巻で、比べれば曹孟徳の大剣と称される夏侯惇の得物すら迫力に欠ける。

「はぁーーっっっ!!」

 斗詩も金光鉄槌を振りかぶる。猪々子の大剣をも上回る超重量の得物だ。
 強固な重しとなった二人が、白の鋭鋒を跳ね返した。金光鉄槌を避け、斬山刀を受けた曹仁は、麗羽の元へと届くことなく馳せ去っていく。続く百騎の白騎兵もまた斗詩と猪々子を避けて二股に分かれ、麗羽の直ぐ真横をかすめるように駆け抜けていった。麗羽と斗詩、猪々子の三人だけを残し、周囲の兵が突き飛ばされていく。
 ともあれ、窮地を脱した。脱したが、胸を撫で下ろす間も与えられなかった。

「麗羽」

 白い風が駆けた軌跡を、今度は巨大な鉄の塊が突き進んでくる。馬蹄と金属音が響く中、不思議とさして張り上げた様子もないその声は麗羽の耳へ鮮明に届いた。

「華琳さんっ!」

 宝刀を振りかぶる。その記憶を最後に、麗羽の意識は途絶えた。

「―――ここまでね、麗羽」

 再び顔を上げると、すぐ近くに華琳の姿があった。
 いつの間にか落馬していたようで、地面に身を投げ出していた。麗羽はため息を一つ吐いて立ち上がると、頬に付いた泥を手で拭った。
 斗詩と猪々子も、華琳を遮る様に立ち上がる。二人も馬を失っていて、手には得物も無い。
 音に聞こえた精鋭重装騎兵虎豹騎の突撃を、斗詩と猪々子、そして麗羽の三人だけでまともに受けたようなものだ。こうして生き長らえたことが、まずもって奇跡であろう。

「さて、どんな悪あがきを見せてくれるのかしら?」

 華琳が皮肉気に笑う。

「ふうっ、こうなってはもう、仕方がありませんわね―――」

「―――はぁ?」

 覚悟を決めたつもりでも、ちくりとした痛みが胸を走った。自らの半生を否定するようなものだからだ。
 それでも、降伏すると、そう告げた瞬間の華琳の虚を突かれた表情。少なくともそれだけは痛快だった。



[7800] 幕間 再起
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/05/31 01:25
「お逃げください、桃香様」

「お姉ちゃん、早く逃げるのだ」

「焔耶さん、桃香様を連れて離脱してください。私達が敵を引き受けます」

 皆が逃げろと、自分に言う。逃げて生き延びろと。
 自分に、そんな価値があるのか。天下で五指に入るだろう三人の将軍と、天下で三指に入るだろう二人の軍師が命を賭してまで守る価値が。
 死ねば、その答えを知ることも出来ない。だから駆け続けた。
 焔耶が、旗下の二百騎を切り崩して敵軍を足止めした。焔耶自身も何度も敵軍に突っ込んでは戻り、満身創痍の体だった。
 桃香の意志をくんで、的盧が駆けた。ともに走るために華琳から与えられた馬で、その華琳から逃げ続けた。
 初め、揚州北部―――盧江郡を侵攻中の孫策達との合流を図った。だが桃香が戦場へ着く前日、彼女達も敗走した。逃げ落ちる兵をつかまえて話を聞くと、華琳自らの指揮であったという。つまりは懸命に逃走する桃香達をどこかで抜き去り、夏侯惇隊に合流するや孫策軍を討ち払ったということだ。
 孫策軍追撃の軍に追われ、そこでも休む間もなく桃香達は逃げ続けた。気が付けば兵も両手の指で数えられるほどに減っている。焔耶は、馬にしがみついて今にも頽れそうな身体を支えていた。
 孫策軍―――南を警戒する曹操軍の目を避けるため、焔耶の勧めもあって西進して荊州へ足を向けた。逃げた先にまた華琳が先回りしているのではないか。そんな恐怖と戦いながらの逃走劇は、盧江郡から走ること百数十里、焔耶の故郷でもある荊州義陽郡で終わりを告げた。
 騒ぎを避けるため焔耶の郷里には近付かず、山間の小さな村で馬と引き替えに当面の宿を購った。
 全身に傷を負った焔耶は意識は朦朧とし高熱も発していて、数日は立ち上がることも出来そうにない。それでも完全に曹操軍を振り切るまではしっかりと兵の指揮を執り、宿も確保したところでようやく倒れるように気を失ったのだった。生き残った八人の兵にも無傷の者は一人もいない。桃香だけが、傷一つ負ってはいなかった。
 皆の回復を待つ間、手持無沙汰の桃香は村の中を散策した。傷の浅い兵が一人、断っても常に護衛のように付いてきた。
 的盧も村の長に引き渡したから、自分の足で歩いて回る。手放したくはなかったが、的盧にとっては軍馬として使い続けるよりもずっと幸せなことと思えたからだ。優しい気性と太く力強い脚は、むしろ農耕馬にこそ適したものだった。

「桃香お姉ちゃ~ん、遊ぼっ!」

「は~い! 今行くから、ちょっと待って」

 屋外からの元気な声に、物思いに耽っていた桃香は慌てて腰を上げた。
 初め、見知らぬ大人の姿を遠巻きにしていた村の子供達との距離は少しずつ縮まり、今では宿として借り受けた村長の家の離れまで毎朝呼びに来るほどになっていた。子供達と過ごす時間は桃香にとって救いであった。兵と共に離れに閉じ籠っていると、様々な考えが浮かんでは消え、気の休まる間もない。

「桃香お姉ちゃん、おはよう」

「おはよう、みんな」

 門前まで出ると、子供達が満面の笑みで待ち構えていた。

「今日は何して遊ぶの?」

 子供達の先導で、村外れにある草地に着いた。
 そっと振り返ると、護衛の兵は子供達を怖がらせないためか距離を取って身を隠すようにしていた。寡黙な兵で、村人や子供達との会話に混じることはほとんどない。

「えっとね、お話が聞きたい!」

 真ん中に立つ女の子が言った。男の子二人に女の子が一人の仲良し三人組である。一つ年嵩の女の子が、いつも他の二人を引っ張っている。比較的豊かな村のようで、子供たちの笑顔は眩しい。

「お話?」

「うん! お父さんに聞いたの、桃香お姉ちゃん達、劉備軍の兵士なんでしょう!」

「う、うん、そうだけど」

 村人にはただ劉備軍の兵とだけ伝えてある。江夏郡の黄祖と孫策軍の戦を鎮めた劉備軍の人気は荊州でも高く、それ以上詮索を受けることもなかった。

「劉備様のこと聞きたい! 劉備様ってどんな人? やっぱりお優しい? 桃香お姉ちゃんより綺麗?」

「えっと、私達はそんなに偉くないから、劉備、様と直接お話する機会はあんまりないんだ」

「なあんだ、残念。……でも、やっぱり。桃香お姉ちゃん、そんなに強そうに見えないもん」

「あはは。で、でも、お綺麗な人なのは確かだよ。うん、すっごく」

「そうなんだぁ。私もお会いしてみたいなー」

 女の子がうっとりとした表情を浮かべる。

「みんなは、劉備様のことが好きなの?」

「うんっ、俺達もいつか、劉備軍で戦いたいんだ!」

 男の子達が握り拳を作って言った。これまであまり気にしてこなかったが、二人は腰に手作りと思しき木剣を差している。

「でも、戦は怖いよ」

 思い起こせば、ぶるりと背筋がふるえる。今も振り向けば、すぐそこに華琳が迫っているように感じられた。
 戦そのものというよりも、華琳が怖かった。ほんの数ヶ月前までは、親しい友人であった。それが、敵として相対するとこんなにも怖いものなのか。これが曹孟徳を敵に回すということなのか。

「ははっ! 桃香お姉ちゃん、自分達だって劉備軍の兵士なのに情けないこと言ってら」

「大事なもの、みんな無くしちゃうかもしれないんだよ。……今の私達みたいに」

「桃香お姉ちゃんは弱そうだからなぁ」

 桃香の実感を込めた言葉にも、子供達は少しも怯んだ様子はなかった。

「―――あっ、そういえば、劉備様はご無事なのかな? 桃香お姉ちゃん達、敵から逃げて来たんでしょう?」

 女の子が、今さら気が付いたというように言った。

「ぽわぽわの桃香お姉ちゃんだって逃げてこれたんだぜ。劉備様がやられるはずないさ」

 女の子の不安を取り除く様に、男の子の一人が力強く言った。

「何といっても劉備様には関羽将軍に張飛将軍、それに趙雲将軍が付いてるからな」

「しんさんきぼーの諸葛亮様に鳳統様だっているんだ、劉備様は無事に決まってる。ねっ、桃香お姉ちゃん?」

「えーと、……うん、そうだね」

 男の子達の言葉に、桃香は曖昧に笑い返すことしか出来なかった。
 戦場からは程遠い平和な空気の流れるこの村の子供達までが知るような英雄俊傑が、自分には付き従っていたのだ。思えば、夢のような話だ。今は愛紗と鈴々に会う前の、一人の劉玄徳でしかない。みんなを失った自分には何が残っているのか。夢は、覚めようとしているのではないのか。
 孫策は自分を、戦場を駈けずり回る正義の味方と呼んだ。実際それはその通りで、民の危急を聞けば駆け付け、賊徒を成敗し、無用な戦には仲裁の手を伸ばし、時には力尽くで平定した。劉備軍に直接命を救われ、恩義に感じる人間は多い。その噂を聞いて、日々の暮らしの中で劉備軍に希望を見い出す者はもっと多いのだろう。だがそこに、どれほどの意味があったのか。華琳の様な為政者が民に感謝されることも無く、黙々と積み重ねてきたものの方が遥かに大きいではないか。多くの人間を巻き込み、ただ場当たり的に人助けを繰り返すだけの自分は、天下に無用の長物ではないのか。
 桃香が思い悩む間も、子供達は想像の中の劉備軍の活躍に盛り上がり続けた。
 静かだった村が騒然となったのはそれから三日後、村に滞在して十日ほどが過ぎ去った頃だった。
 二百人ほどの賊徒が姿を現していた。賊はすぐに襲い来ることなく山と山の切れ目にある村の入り口に陣取って、食糧や金目の物、そして女性を要求していた。

「それで、要求を呑むんですか?」

 離れまでやって来た村長に、桃香は問い質した。

「仕方ありません。交渉して、村の女の身柄だけは何としても守り通すつもりですが」

「それではまた次の収穫も、次の次の収穫もと、毎度要求され続けます。私達はそうして賊の食い物とされる村を、これまで何度も見てきました」

「それは、そうなのでしょうが」

 劉備軍の兵士という触れ込みの桃香の言葉に、村長が困り顔でうつむいた。
 二百というのは、賊としてはそれなりにまとまった数だ。いきなり攻め込まずに要求を突き付けるというのも手慣れている。すでにいくつかの村を生かさず殺さずの餌食としていることは、想像に難くない。
 焔耶はまだ熱にうなされているが、八人の兵はほぼ回復している。桃香の自負するところ、生粋の劉備軍の兵は他のどこの兵と比べても精強だった。曹操軍であっても、曹仁の白騎兵や華琳の虎豹騎、夏侯惇の旗本くらいしか並ぶものはないだろう。八人のうちの半数は焔耶の子飼いの兵だが、これも荊州随一の練度を誇る厳顔軍の中からさらに選りすぐられた精兵である。たかが賊徒二百程度、原野戦のぶつかり合いなら八人で蹴散らせないではなかった。ただそれは陣形を崩して潰走させられるということで、さすがに殲滅出来るわけではない。一度は蹴散らせても、いつまでもこの村に留まって警護し続けるわけにもいかないのだ。

「交渉には、―――誰が?」

 交渉には自分が出る、と言い掛けて桃香は別の言葉を口にした。
 今さら自分がしゃしゃり出てどうする。愛紗達のいない自分に、賊徒を抑え込む力などない。

「それは私が。それで、申し訳ないのですが五人ばかり兵を警護に付けて頂きたいのです。いくばくかの私兵を養っていると思わせれば、賊も強くは出ますまい」

「わかりました。それなら私が―――」

「貴方様は出られない方が良いでしょう。奴らが貴方様の正体に気付けば、御身を曹操軍に引き渡さないとも限りません、劉備様」

「―――っ!」

 気付かれていたのか。無言の問いかけに、村長もまた無言のまま小さく頷いてみせた。
 乱世にあって一つの村をこれだけ平穏に、そして裕福に保ち続けた人間である。それぐらいの洞察力は持っていて不思議はないのかもしれない。

「貴方はそうしようとは思わないのですか? 報奨が得られれば、村はさらに潤うのに」

「子供達に嫌われたくはありませんからな」

 村長の皺だらけの顔が、くしゃりと潰れたようにうごめいた。微笑んだらしい。桃香も笑みで返した。

「―――村長っ! 子供たちがっ!!」

 村の男が一人、息せき切って駆け込んできた。
 男に促され、桃香と村長は村の入り口へ向かった。後ろに兵も付いてくる。すでに村の男達の大半がそこに集まっていて、村長の到着を待っていた。
 二百人の賊の集団。その中に小さな影が三つ混じっているのが確かに見えた。

「いったい何があった?」

「それが、賊の斥候が何人か村の中まで入り込んできたのですが―――」

 村長の問いに誰言うとなくぽつぽつと声が上がった。
 子供達は家を抜け出して賊の様子をうかがっていたらしい。侵入した賊に見咎められた三人は逃げるでなく、むしろ悪事を糾弾し戦いを挑んだという。
 賊徒が居丈高に要求を叫び出す。集まってきた村の男達は話し合いを開始する。善良な村人達だった。誰一人として子供達の無謀を責め立てることなく、ただただその身の安全を図っている。

「―――村長さん、お譲りした私の馬を、しばしお返し頂けませんか?」

「劉備様、一体何を?」

「私が話をしてみます」

 村長が劉備と呼んだことで、周囲の村人たちがざわめき始めた。こちらの素性に気が付いていたのは、やはり村長だけだったらしい。
兵達に向き直った。まだ軽く足を引きずる者もいるが、大方の傷は癒えている。

「皆は、村の入り口を固めて。……大丈夫、危なくなったら的盧と逃げるから。向こうの騎馬はほんの数騎だし、弓を持っているのも数人。私たちはあの曹操軍からだって逃げ遂せたのだから」

 不服そうな兵に諭すように命じた。次に、いまだざわついたままの村人達に向けて口を開いた。

「私が彼らと話し合ってみるけど、いざという時のために、出来れば村の男の人たちも備えておいて欲しいの。前面には兵が出て槍を並べます。賊がどんなに騒ぎ立ててもそこで必ず足は止まるから、村の人たちはその後ろから弓を射たり、石を投げたり、とにかく攻撃して欲しい」

 村人は頷き合うと、得物を求めて駆け出していく。すぐに戻ってきた者の中には、幸いにも弓が目立った。農耕で栄える村だが、山に囲まれた土地柄、狩りをする者も多いのだろう。

「あとは兵の指示に従ってください」

 言い残すと、桃香は村長が引いてきてくれた的盧に跨り、ゆっくりと山賊達へと近付いていった。

「ほう、こんな村には珍しい上玉だな」

 女一人と甘く見たのか、進み出たのは賊の頭領のようだった。四騎しかいない騎馬の一人で、横柄な態度からそれと知れた。
 馬の前には、女の子を乗せている。涙を浮かべた少女と視線が合うと、桃香は声には出さずに、安心して、と口だけ動かした。
 頭領の男は、夏侯惇が使うような大振りの刀を肩に担ぎ持っていた。二百人からの荒くれ者を束ねるからには、それなりに腕も立つのだろう。義妹達や星とは比ぶべくもないが、少なくとも自分より強いのは確かだ。
 しかし、油断し切っていた。桃香を村からの献上品とでも勘違いしているのか、下卑た笑みを浮かべ、こちらを品定めするような無遠慮な視線を送ってくる。

「子供達を離してください。……って、あれ?」

「―――っ!?」

 話し合いのつもりが、口を開けた瞬間には靖王伝家を抜き放っていた。剣を抜いて、同時に的盧が一歩踏み込む。ちょうど頭領の首に刃をあてがう格好になった。

「き、貴様」

 剣を抜く動きだけは不思議と堂に入っている。そう桃香を褒めたのは、曹仁だった。

「―――お頭っ!」

「さがれっ!!」

 華琳にでもなったつもりで、居丈高に叫んだ。動きかけた賊達がぴたりと止まる。自分がひどく憤っていることに、桃香はようやく気が付いた。

「もう一度だけ言います。子供達を離してください」

「わ、わかった。お、おい、お前らも」

 男の子二人が、賊の集団の中から押し出されてきた。解放すると言われても、頭領の馬の前に座らされた女の子は恐怖で動けずにいる。
 同じく凍り付いてしまっている男の子に、桃香は目配せをした。二人ははっとしたように駆け寄ると、女の子を馬から降ろした。

「村へ走って」

「は、はいっ!」

 女の子の手を引いて、男の子二人が走り出した。女の子は何度も桃香の方を振り返りながらも、懸命に足を動かしている。

「ふぅっ」

 子供たちの背が、村の大人達の中に紛れて見えなくなるまで見送ると、桃香は小さく息を吐いて剣を降ろした。
 怒りに任せて剣を抜いたが、例え子供を質に取るようなどうしようもない悪人でも、情けないことに自ら手に掛けるのには躊躇いがある。直接人を殺したのは、いまだに徐州で曹仁を諌めた時のだた一度きりだった。そのことに後悔はないが、肉を断ち命を絶つ嫌な感触は今でも掌に残っている。

「貴様っ、何のつもりだ!?」

 首筋を確認するように幾度も撫でさすりながら、頭領の男が叫んだ。

―――さて、どうしようかな?

 まずは話し合いと思っていたから、この後のことは何も考えてはいなかった。
 朱里と雛里がいれば、自分の行動全てに意味を持たせ上で、適切な次の一手まで提示してくれる。今は、桃香が自分で次に何をするか決めなければならない。まずは―――

「少しくらい力が強いからって、人数が多いからって、それで他人を虐げるなんて間違っています!」

 まずは、お説教からだった。

「何を言ってやがるっ」

―――やっぱり、聞いてくれないか。

 言葉で賊徒を降伏させたことは、これまでに何度もある。しかしそうする時はいつも、愛紗達の武が背後に控えていた。絶対的な力を背景にした、ある意味では脅しに近かったのかもしれない。何の力も持たない女一人の叫びなど、この乱世で耳に留めてくれる者はいないのか。

「あの村の食べ物は、村の人たちが汗水垂らして育てたもの。それを力付くで奪おうだなんて間違ってる。お腹が空いたのなら、自分で畑を耕せばいい。それまで我慢出来なければ、どこかの軍にでも志願すればいい」

 それでも、桃香はさらに言葉を尽くした。
 全てを失った。それでも言うべきこと、やるべきことは変わらない。変わるはずがない。この数日散々悩んでいたのが、馬鹿のようだった。無力だろうが、助けを求める民の声が聞こえれば、じっとなんてしていられない。持って生まれた性分だからだ。自分の戦いにどれほどの意味があったのか、未だ答えは出ない。名立たる英傑や数千数万の兵に命を託される程の価値が自分にあるのか、分かりはしない。だからって、劉玄徳であることをやめることは出来ない。

「うるせえっ、俺達が何でそんな面倒なことをしなくちゃならねえっ! 俺達には、あの村の連中よりも力がある。今の世の中、力がある奴が偉いんだ。勝った方が偉いんだよっ。あの曹操だって袁紹だって、自分がもっともっと威張り散らすために戦を続けているじゃねえかっ」

「一緒にするなっ!」

「―――っっ」

 自分でも驚くような、大きな声が出た。
 自分以外の人間に、華琳の志を汚されたくはない。華琳を否定して良いのは、罵って良いのは、―――親友である自分だけだ。

「……くっ、たかが女一人だ。―――やっちまえっ!」

 頭領が部下に命令を下す。自ら刀を振るおうとしないのは、桃香の剣幕に気圧されているからか。
 配下の二百人も、すぐに斬り掛かっては来なかった。桃香を決して逃がさぬというように、ぐるりと背後まで回り込んでからじわじわと近付いてくる。一様に浮かべた下種な笑みに、その醜い魂胆は明らかであった。
 桃香は背後を振り返ると、こちらへ駆け寄って来ようとする兵に手振りで制止を命じた。落ち着いている。十数日前には曹操軍に、華琳に追われていたのだ。あの恐怖と比べれば、何のこともない相手だ。

「最後にもう一度だけ力を貸してね、的盧」

 小さく囁きかけて、手綱を引き絞った。的盧が棹立ちになる。正面から接近してきていた賊二人を前足で蹴り上げ、勢いそのままに馬首を左へと転じて駆け出した。簡単に包囲を突破し、半里(二百五十メートル)ほども駆け抜けたところで桃香は馬首を返した。
 二百人がこちらへ向けて駆けて来る。
 賊徒からは、舌なめずりするような視線が注がれてくる。幸いにも賊の標的は完全に村から桃香へ切り替わっている。矢を射掛けてくることもなく、桃香を無傷で捕えようとしていた。食糧よりも女性を優先するあたり、さして窮乏しているわけでもないのだろう。止むに止まれずの襲撃ではないということだ。自らの力を振るうこと、他者を虐げることに躊躇いがない。桃香の予想通り、賊徒としてはそれなりに年季の入った者達らしい。
 十分に引き寄せてから、二百人を掠める様にして今度は村の前を右へ駆け抜けた。靖王伝家を振りまわして威嚇する。賊の剣や槍が馬体にも桃香にも届かない絶妙な距離を的盧は駆けたが、でたらめに振った靖王伝家の刃先が偶然にも賊の槍にぶつかった。衝撃で取り落としそうになるのを必死で柄を握りこらえると、賊の持つ粗悪な槍の穂先は両断されて宙に舞った。
 ただの僥倖だが、賊の気勢が殺がれるのをはっきりと感じる。音もなく剣を抜いて頭領を脅しつけたのと合わせて、桃香を剣術の達人か何かと勘違いしているようだ。
 賊徒の周囲を駆け回った。翻弄している。頭領を含め数騎いる騎馬は、恐らく賊の中で高い地位にある者達だろう。騎兵は騎兵で追い込むべきところを、徒歩の二百をけしかけるばかりで自分達が出てくる気配はない。やはり桃香の剣技を警戒しているようだ。
 引き付けては、引き離す。無謀なことをしている。実際の桃香の実力は、二百の賊徒のいずれにも及びはしないのだ。延々と綱渡りを続けている様なものである。的盧の脚と幸運、賊徒の警戒と下卑た魂胆に恵まれていなければ、いつ脚を踏み外してもおかしくはない。
しかし今は、自分の無謀を咎める愛紗がいない。一緒になって騒いでくれる鈴々もいない。皮肉げな笑みで見守ってくれる星がいない。自分の無策を補ってくれる朱里も雛里もいない。やれることを、やるしかなかった。
 的盧の脚はまだまだ余力を残している。長駆なら、華琳の絶影よりも強いのだ。愛紗達ではないから、桃香に二百を叩きのめすことは出来ない。朱里達でもないから、敵と対峙しながら上手い策など思い付かない。このまま、まずは賊徒が諦め引き下がるまで翻弄し続ける。後のことは、それから考えるしかない。

「―――きゃっ!」

 賊の横を駆け抜ける瞬間、的盧が滑り込むように倒れた。直後、桃香の頭上を矢が通り過ぎて行った。

「馬鹿野郎っ、女に当たったらどうするっ! ―――へへっ、今が好機だ、ひっ捕らえろっ!」

 焦れた賊の一人が矢を射掛けたようだ。頭領は叱声を飛ばすも、すぐに上機嫌で賊をけしかけた。
 的盧が桃香を乗せたまま立ち上がる。数歩駆けるも、徒歩ほども速さが出ない。倒れた時に痛めたのか、後ろ足を引きずっていた。
 的盧は白鵠や絶影に劣らぬ名馬だ。自分に曹仁や華琳ほどの腕があれば、的盧もあんな無茶な矢の避け方はしなかったはずだ。
 桃香は鞍から跳び下りた。的盧をかばうように前に出る。攻め寄せてきた賊は、桃香の構えた剣に気圧された様子で脚を止めた。まだ、桃香を剣術の達者と勘違いしている。

「一斉に掛かれ。そうすりゃ、どれだけ剣が遣えようが、所詮女の細腕だ」

 頭領の言葉に励まされて、じりじりと距離を詰めてくる。

「――――! ――――!!」

 背後で喚声が上がった。数千数万の鬨の声を聞き慣れた桃香には、いかにも頼りない小さな雄叫びだが、どんどんと近付いてくる。
 半数を村の守備に残し、兵が四人駆けて来た。あらかじめ取り決めていたのだろう。残った兵は動揺することなく、四人で村の入り口を固めている。
 駆けてくる四人は、生粋の劉備軍の兵士達である。長く苦楽を共にしてきた者達だから、以前から顔は見知っていた。今回の逃避行で、名前も知るところとなった。野宿の夜の慰みに、様々なことを語り合いもした。
 四人が桃香の横を走り抜け、槍を突き出した。ただの一撃で賊は押し戻された。たった四人でも隊列を組んで、動く。賊などとは、練度がまるで違うのだ。
 村から喚声が上がる。

「だめっ、下がってっ!」

 桃香一人は悲鳴を上げた。
 敵を崩し切れない。桃香をかばって、前に出られないからだ。やがて四人は、二百の中に埋没した。包囲され乱戦に持ち込まれれば、兵として磨き上げてきた隊列を組んでの動きは大きな意味を持たない。そうなってしまえば、五十倍の差は練度の違いでどうにかなるものではなかった。
 飛び出しかけた桃香の身体が、引き戻される。服の裾を、的盧が咥えていた。

「的盧、離して。お願い」

 まるで桃香の言葉を理解したかのように、的盧は歯を噛み締めたまま首を振った。
 一人減り、二人減り、三人目も倒れた。残された兵一人が、血みどろになりながら槍を振り回している。ここ数日、護衛を務めてくれた兵だった。桃香には、見届けることしか出来ない。

「―――劉備様っ!」

 ついに膝を屈した兵が、もう目も見えていないのか、槍を誰もいない虚空へ突き出した。賊は突然叫ばれた劉備の名に、困惑している。
 桃香は、兵が槍で“指し示した”方へ視線を送った。

「―――あれは」

 砂塵が目に入った。すぐに馬蹄の立てる響きも聞こえてくる。五十や百の立てるものではない。騎馬だけでも少なくとも数百。
 桃香は愕然とした。村を襲う賊に、まさか兵を二段に分けるような周到さがあるとは考えもしなかった。
 しかし数瞬で、様子がおかしいことに気が付いた。賊の視線も砂塵を捕え初めたが、援兵の到来に嵩に掛かって攻め立てるでもなく、一様に訝しげな表情を浮かべている。
 たなびく旗が見えた。それは桃香を逃がすために、あの日敵中に留まった牙門旗だ。
 もはや隠れようもなく視界に映る一団から、三騎が飛び出した。馬上には誰よりも見慣れた顔が並んでいる。
 鎧袖一触。鈴々の丈八蛇矛に賊が宙を舞い、愛紗の青龍偃月刀が血飛沫を上げ、星の龍牙が静かに命を奪う。後続の兵を待つまでもなく、劉備軍の誇る関張趙の三将は二百の賊をたちどころに潰走させた。
 追撃に入る味方を尻目に、桃香は四人の兵の元へ駆け寄った。積み重なる様に倒れる身体を抱きかかえ、一人ずつ並んで寝かせた。最後に、地面に膝をついたまま蹲る兵に近付いた。

「…………劉備様、ご無事で」

 膝立ちの身体を横たえようと抱きかかえると、耳元で声が聞こえた。兵はまだ、生きていた。

「うん。賊は愛紗ちゃん達が退治してくれたから、もう大丈夫」

「そうですか。よかった」

 声はしっかりと聞き取れるが、呼吸は弱々しい。下腹の傷は臓物まで達し、兵はすでにどうしようもなく死に捕らわれていた。

「ごめん、ごめんね。私なんかのために」

 兵の膝の上に、ぽつぽつと水滴が落ちる。

「―――劉備様に、失礼を承知で申し上げます」

 しばらく黙りこんで浅い呼吸を繰り返していた兵が、意を決した様に口を開いた。

「私風情が志などと口にすれば、たかが一兵士が思われるかもしれません。いえ、劉備様が思わずとも、他の諸侯ならば哂うでしょう。ですが、我ら兵にも叶えたい志があるのです」

 兵が一言を発する度に、抱き寄せたその身体から命が零れ落ちていくのが分かる。制止すべきだという思いと、最後の言葉を聞き届けるべきだという思いが、桃香の中でしばし交錯した。
 この兵が何を言うつもりなのか聞いてみたい。最後に桃香はその感情に従うことにした。

「それは劉備様、貴方です。劉備様の志を遂げることこそ、我らが本懐なのです。よその軍ではどうだか知りませんが、少なくともずっと貴方に付き従ってきた劉備軍の兵にとってはそうなのです」

 浅かった呼吸はさらに浅くなっていく。それでも紡ぎ出す言葉には力があって、それがこの兵の命そのもののように桃香には思えた。

「ですから、兵の死を自分のためなどと嘆かれることはありません。お謝りになることもありません。我らは我らの志に殉ずるだけのこと。そして、御自分を卑下なさらないでください。それは、我らの志をも―――」

 腕の中で完全に命が失われたのが分かった。桃香は、他の三人と並べてそっと亡骸を横たえた。

「みんな、ありがとう」

 謝罪ではなく、感謝の言葉を口にした。
 答えを得た気がしていた。
 劉玄徳が劉玄徳らしく有り続ける限り、志に同調し、命を投げ出す人間は現れ続けるのだろう。だからって劉玄徳であることはやめられないし、やめることなどもう許されはしないのだ。愛紗や朱里達、兵達、そして無数の民に及ぶまで、桃香の志に共鳴し、夢を抱く者達がすでにいるからだ。なかには、死んでいった者達もいる。強くもなく、賢くもなく、当然華琳のように何でも出来るわけでもない。志を口にするだけの劉玄徳の価値も戦う意味も、彼らにこそある。ならばそれは、決して軽くはなかった。

「―――桃香様、お怪我はございませんか?」

 賊を掃討し、愛紗達が桃香の元へ集まってきた。

「まったく、相変わらず無茶をなさる。肝が冷えましたぞ」

「あははっ! さっきのお姉ちゃん、鈴々達と初めて会った時のお姉ちゃんみたいだったのだ」

「みんな、どうしてここがわかったの?」

「桃香様がお連れの兵の中に、朱里と雛里が育てた諜報を為す者が一人含まれております。その者が、諜報部隊の者にしか分からない符丁を残していったようです。細かいことは、朱里達の口から直接お聞きください」

 きっとあの兵だ。
 寡黙で、他の七人とは故郷や家族のことなど語り合ったものだが、思い起こせば彼からは名前しか聞いていない。それも、諜報部隊が故だったのか。

「その朱里ちゃん達は?」

「戦の気配に我らは急ぎ駆けてきましたから、二人は少々遅れておりますが、直に―――、ああ、見えました」

 愛紗が遠く逆巻く砂塵を指差した。兵に護衛される馬車が小さく見える。

「そっか、二人も無事なんだね。―――みんな、良かった。無事で良かったよーっ」

「桃香様、それはこちらの台詞―――」

 愛紗に鈴々、それに星までを桃香はまとめて抱き締めた。

「と、桃香様、こういうのは愛紗と鈴々だけに。わ、私はそういう役回りでは」

「にゃははっ、星が照れてるのだっ」

「ほう、これは珍しい」

 星が桃香の手から逃れようともがくのを、愛紗と鈴々が楽しそうに抑えつけた。桃香も楽しくなって、力いっぱい三人を抱き寄せた。

「四人だけで仲良さそうです」

「わっ、私達だけ仲間外れだよ、朱里ちゃん」

 朱里と雛里が、四人のすぐそばに停車した馬車から飛び降りた。

「―――朱里ちゃん、雛里ちゃん」

「はわわっ」

「あわわっ」

 桃香は自慢の三将を解放すると、今度は自慢の軍師二人を抱きすくめた。

「と、桃香様、私は」

 いつの間にか村人に肩を借りて焔耶が村の入り口まで姿を現していた。

「焔耶ちゃんは、……今は安静にしてなくちゃ駄目」

「そ、そんなぁ」

 焔耶ががっくりとうなだれた。
 毎日交換している包帯には、まだ血がにじみ出している箇所もある。皆にしたように力いっぱい抱き締めれば、傷口が開きかねなかった。

「と、桃香お姉ちゃん」

 声に視線を下げると、子供達が集まってきていた。

「大丈夫だった、三人とも?」

「う、うん」

 屈んで頭の高さを合わせて聞くと、三人はおずおずと答えた。幸い、傷一つないようだ。
 三人は視線を絡ませ合いながら何か逡巡している様子だったが、意を決したように女の子が口を開いた。

「あっ、あの、桃香お姉ちゃんが、りゅ、劉備様だったの?」

「うん。―――ううん。三人と、あと一人、それにそれだけじゃなく皆のおかげで、私は私に、劉玄徳に戻れたってところかな」

 意味が分からず小首を傾げる三人に、桃香は笑い掛けた。




[7800] 第9章 第1話 凱旋
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/06/22 19:44
「おーほっほっほっ! 皆さんっ、洛陽にこの私、袁本初が帰って参りましたわよっ、おーほっほっほっ!」

 曹操軍本拠許ではなく、天子の御座す洛陽への凱旋となった。
 城内へ入る前から、沿道は見物に押し寄せた民でひしめき合っている。最後に洛陽を訪れてから半年も経ってはいないが、ずいぶんと人が増えた印象があった。
 今、洛陽の政は月と詠が取り仕切っている。往時を知る二人だけに、かつての賑わいを取り戻そうと懸命な努力を続けていた。
 一時横行した賊も、曹操軍が駐留し、それを徐晃こと華雄が率いるようになると鳴りを潜めた。楊奉の元で賊を狩り続けた徐晃の勇名は、狩られる対象であった洛陽近郊の賊徒の間では恐怖と共に知れ渡っている。
 詠の政治手腕と徐晃の武。民に曹操軍を恐れる様子もないのは、月の人徳によるところが大きいだろう。元董卓軍の三者の個性が見事にかみ合って、洛陽は再び繁栄を取り戻しつつあった。

「曹仁様っ!」

 白騎兵を率い先導する曹仁に沿道から声が掛かる。見知った顔に、曹仁は手を振り返した。馴染みの飲み屋の店員だ。
 こうして掛けられる声援一つ一つに返せるほど、曹仁への歓声はまばらであった。白の具足に白馬を駆り、白騎兵を付き従える曹仁よりもなお一層目を引く存在が、すぐ後ろをやって来るからだ。

「おーほっほっほっ! おーほっほっほっ!!」

 金色の具足に豊かな金髪。喧騒の中にあっても確かに響き渡る高笑い。白騎兵の先導に続いて虎豹騎、虎士に囲まれた華琳と、―――そして麗羽が馬を進めていた。
 降伏した麗羽は以前にも増した尊大さで、堂々と華琳の隣に陣取っていた。胸を反らし民に手を振る姿は、到底連行される敗軍の将とは思われない。振り返った曹仁と視線が合うと、華琳は呆れ顔で肩をすくめてみせた。

「曹操殿、それに曹仁殿。この度の勝利、おめでとうございます」

 城門まで迎えに現れたのは、前回訪れた時と同じく楊奉である。

「そちらは、…………袁紹殿ですかな?」

「誰ですの、このむさ苦しい御髭の方は?」

 初対面のようではあるが、自己主張の激しい風貌に楊奉の方は当たりを付けたようだった。

「車騎将軍の楊奉よ、麗羽」

「あら、ということは私達の御同輩ですのね」

 麗羽は漢王朝の文官の最高位三公の一つ太尉に、華琳は司空の任に就いている。麗羽の官位は帝を擁する曹操軍と敵対した後も剥奪されることなく、今も太尉のままだった。
 一方で楊奉の就く車騎将軍は、常設の武官としては最高位に当たる驍騎、車騎、衛の三将軍の一つである。文官で言えば三公に相当し、麗羽が同輩と呼んだのもそのためだ。

「何度か、書簡を差し上げたのですが」

「手紙? そんなものを頂いておりましたかしら?」

「まあ、今となってはどうでもよい話です」

 楊奉は口元を歪めて小さく笑った。麗羽に対する嘲笑ではなく、自嘲の笑みのようだ。
 楊奉の言う書簡とは、曹操軍の元にも届いた、天子の救援を求めたものだろう。四世三公―――今では自身も入れて五世三公となった―――を名乗り当時最大勢力を有していた麗羽こそ、楊奉の本命であったはずだ。この賊上がりの男は、漢王朝最後の忠臣と言って良い。天子を気にも掛けた様子がない漢室の名族の姿に、思わず自嘲が漏れたようだった。
 楊奉の先導で曹操軍の諸将は城門を抜けた。兵は白騎兵、虎士、虎豹騎だけを伴った。その三百数十騎も宮殿前の広場へ整列して残し、将は宮中へ進む。当然と言う顔で付いて来ようとした麗羽は、顔良と文醜に頼んで取り押さえてもらった。
 謁見の間に入ると、時を置かず天子も姿を現した。月と詠を伴っている。

「皆の者、叛乱の平定、ご苦労であった」

 一言、天子から直接労いの言葉があった。今回の戦は形式として、麗羽による河北の反乱を華琳が討伐した、という名目が立っている。
 すぐに論功行賞が行われた。こちらは月の口からの発表である。漢朝の謁見の間で、天子の御前で執り行われはするが、実質は荀彧ら曹操軍の文官達が協議し、華琳が承認したものだ。曹仁らにも、あらかじめ内容は知らされている。
 曹操軍の賞与であるから、本来なら一等に来るべき華琳の名は当然ない。官渡での二度の大勝が評価され、曹仁が勲功第一とされた。都亭侯の爵位を与えられる。これによって曹仁は許県にある城邑の一つを領することとなった。漢王朝の爵位と領地を有する者は、曹操軍内では春蘭、荀彧に続いて三人目である。
 これに目の色を変えたのはやはり幸蘭で、代官の手配や税収の管理にと、曹仁に代わって早くも忙しく動き回っていた。与えられた本人としては慣れない領地経営など煩わしいばかりであり、華琳の定めた法令がしっかりと施行されていれば言うことはない。春蘭も管理は秋蘭に任せきりのようであるし、持つべきものはしっかり者の姉妹である。
 叙勲や領地等は曹仁にとっては些細なことであり、気掛かりは皇甫嵩の身柄にあった。
 皇甫嵩の扱いに関して、曹操軍の軍議では大いに揉めた。
 将として取り立てるという華琳に対して、皇甫嵩は気ままな食客扱いを望んだ。つい先日戦場に立つまで、袁紹軍でもただ飯を食んでいたという。無遠慮な要求を、華琳は苦笑ながらも受け入れた。そこにはかつて仰ぎ見た名将に対する敬意を感じさせた。
 軍議が紛糾したのは、その引き取り先に関してだった。
 当然曹仁が名乗り出たが、それを危険視する声が荀彧を中心に文官達から上がった。すでに恋と音々音、高順が曹仁の庇護下におり、これに皇甫嵩まで加わることを懸念する意見である。ならば自分がと霞が声を上げるも、一層邪推する声は大きくなった。

―――天の御使いに見限られるような器かしら、私は?

 華琳にそう投げ掛けられて荀彧が黙した。それで、曹仁の願いは通った。
 もっとも、荀彧もさすがに本気で曹仁の謀叛を疑ってはいないだろう。天の御使いと言う特殊な肩書きに加えて、今回の功でさらに累進する曹仁に釘―――好意的に解釈すれば忠告―――を刺したのだ。

「―――――――。―――――。」

 論功行賞の最後に降将の扱いが述べられる。それを聞き届け、曹仁はようやく胸を撫で下ろした。
 宮殿を出ると、他の者は城外に設けた野営地か、曹家の邸宅―――洛陽滞在中の曹操軍首脳陣の宿舎兼役所として機能している―――へ向かった。そんな中、曹仁と霞が足を向けたのは大通りを南下して直ぐの一等地に建てられた皇甫嵩の屋敷である。

「ただいま」

「帰ったでー」


「お帰りなさい、曹仁将軍、霞将軍」

 ぱたぱたと足音を鳴らして玄関まで姿を見せたのは、陳矯である。髪を頭巾で覆い、前掛けもして、手には箒を持っている。

「何や、従者に家の掃除までやらせとるんか、曹仁?」

「いや、俺が頼んだのは、将軍の見張りだけだったんだが。悪かったな、陳矯」

「いえ、私が勝手にしたことです。お気になさらないで下さい。お二人が滞在されるとなれば、汚れっ放しという訳にはいきません」

「ほんまに、良う出来た従者やなー。ウチのとこに来おへん?」

「引き抜こうとするな。―――陳矯、見張りの仕事は終わりだ」

「では」

「ああ、皇甫嵩将軍は正式に俺の客人ということになった」

「それは良かった」

 曹仁の言葉を受けたのは、陳矯ではなく皇甫嵩だった。
 話しながら廊下を進み、ちょうど居間へ入ったところである。皇甫嵩は食卓に腰を落ち着けると、暢気に杯を傾けていた。卓上には、無数の空瓶が転がっている。

「あんたなー、こっちは何か手違いでもないかと、いざ公布されるまでは落ち着かずにいたというのに」

「ふふっ、だからこそ、緊張を酒で誤魔化しているのだろうが。良かった良かった、ああ、恐ろしかった」

「ええ酒やん。どないしたん?」

 早速御相伴に与りながら、霞が聞く。

「蔵にいくつも残っておったぞ。ご丁寧に紐で何重にもしばって、蝋で封をされておったわ」

「ああ、それなら屋敷を出る時に俺と順の二人でやった。高い酒ばかりだったからな」

「でかした。お陰で味は落ちていない」

 言って、皇甫嵩はまた杯を傾けた。

「まったく、変わらないな、将軍は」

「将軍、か。今はお前の方が曹操軍の将軍で、私はただの無駄飯食いとなったわけだがな」

「そういえばそうか。……なら、真名で呼ぼうか? 美愛さんとでも」

「やめんか」

 皇甫嵩は可愛らしい真名で呼ばれるのが相変わらず苦手らしく、頬を染めてそっぽを向く。その仕草は存外真名に似合いではあった。

「それにしても、お前に負かされる日が来るとはな」

 皇甫嵩が露骨に話題を変える。

「勝ったつもりはないが」

「私はお前を阻むという目的を達せず、お前は曹操殿と袁紹殿の元へたどり着いた。どう考えても私の負けであろうよ。まさか、一万騎を捨てて行くとはな」

 猛然と駆け回る皇甫嵩の七千騎の相手は、困難を極めた。まともにぶつかれば相打ちはまぬがれ様がなく、時を掛けて馬の消耗を待っていては皇甫嵩の狙い通りである。曹仁は、犠牲を覚悟で七千騎とぶつかり合った。そして混戦の中を白騎兵と共に離脱し、華琳の元へ参じたのだった。残された騎馬隊はその一度の衝突で一千騎を失い、指揮官不在のままさらに五百騎を討ち取られた。たった一度の用兵で受けた犠牲としては、あの戦を通じて曹操軍最大のものとなった。皇甫嵩に勝ったなどと、到底誇る気にはなれない。

「兵の犠牲を気にしているのか? しかしお前の働きが無ければ、曹操殿が討たれていた可能性も低くはない。そうなればあの戦の犠牲のみならず、曹操軍旗上げよりの全ての戦死者の命も無駄ということになる」

「それはそうなんだろうし、次があってもまた同じことを俺はするだろうさ。だからって、将軍に勝っただなんて無邪気に喜ぶ気にもなれないけどな」

「まったく、変わらぬというなら、お主のそういうところこそ変わらんな。だいたい、敗れた私に励まさせる奴がいるか」

 そう言って大笑すると、皇甫嵩は杯の酒を飲み干した。その姿はやはり、以前と変わりないものだった。

「しっかし、この屋敷で再び皇甫嵩と酒を飲む日が来るとわなー」

 霞が、皇甫嵩の空いた杯に酒を注いでやりながら言った。

「戦に負けようが、生きておればこうして悪くない時間も巡ってくる。そういうことだな」

 いたく感慨深げに、皇甫嵩が言う。何と返すべきから分からず、曹仁と霞は顔を見合わせた。

「一ヶ月ほどは洛陽に留まる予定だ。恋と音々音、それに順にも連絡しておいた。恋と音々音は数日中にこっちへ来るだろうが、順に会えるのは許に戻ってからかもな」

 当たり障りのない連絡事項を曹仁は口にした。

「ふむ。恋と音々音は曹操軍の本拠地許、順は行商で西涼だったな」

「ああ。順を見たら驚くぞ、すっかり大きくなって」

「もう曹仁よりずっと背も高いしな」

「ぐっ。まあ、しっかり比べたわけではないから、正確なことは分からないけどな」

「いやいや、比べるまでもないやん。アンタよりも牛金に近いくらいやんか」

「ははっ、そうかそうか。順に背を抜かれ、そのうえ引き離されたか」

 皇甫嵩が朗らかに笑う。曹仁もつられて笑い返しながら、上着の袖を捲った。

「さてと、酒ばかり飲んでも身体に障る。何かつまみでも用意するか。―――陳矯、私事だが一つ頼む」

 曹仁は所在なげに控える陳矯に、食材の買い出しを命じた。その間に、曹仁自身は数年も放置された厨房を何とかしなくてはならなかった。





「―――なるほど、学校というのはそういったものか。いずれ朕の元にも曹操の学校を出た者が仕えることもあるかもしれんの」

 学校制度についての諮問に華琳が答えると、帝はそう言って話をまとめた。

「はい、私もその日を心待ちにしております」

 この帝は存外に頭が良い。
 学校制度を端から嫌う士大夫が多い中、その意見に流されずにしっかりと利点をとらえている。広く民から優秀な人材を募れば、政は従来よりも格段に良くなる。士大夫達にとっては栄達までの競争相手が増えるということだが、彼らの多くはそんな危機感すら抱いてはいない。学問という特権を侵されることに嫌悪感を覚えているだけである。眼前の幼帝が認めたその本質を見据える者は少なかった。
 帝が政治に関心を持ち過ぎるのは、曹操軍にとってはあまり喜ばしいことではない。ただ利発な皇帝にものを教えるのは楽しくもあり、政治向きの諮問にもつい華琳は本気で答えてしまうのだった。桃香への授業が、華琳自身が今まで気付かなかった性分を表に出したのかもしれない。そして生徒として帝は桃香よりもよほど優秀だった。
 官渡での決戦を終え洛陽に凱旋してから十日が経過している。その間、華琳は毎日伺候して一刻(三十分)余りも帝と言葉を交わしていた。帝の方もこの時間を楽しみにしてくれて、通される後宮の私室は人払いを済ませ、触れ合うような親しい距離まで膝を進めての歓談であった。

「それでは、本日はこれで―――」

 暇を告げ掛けた華琳の眼前で、帝の体がぐらりと傾いだ。咄嗟に伸ばした華琳の手が届くより早く、帝は自ら踏みとどまって顔を上げた。

「―――最近、頻々と伺候してくるが、お目当ては朕か?」

「やっと出たわね、天子」

「おや? 前回とも、劉協が相手の時とも随分と態度が違うの?」

「貴方はこの国の民の、―――私達の意志の集合体なのでしょう? 自分達の分身みたいな存在を相手に、畏まって恐れ敬うなんて馬鹿げているじゃない」

「ふふっ、その考えはなかったわ。まあ、好きにするが良い」

「前回と言えば、貴方、突然陛下に代わるんじゃないわよ。あの後どれだけ弁解に苦労したか」

 他の目も無く天子と二人きりであるから、許可が出た以上華琳は口調を改めず、さらに注文を付けた。

「ふむ、それも思い至らなかったな。今後は配慮しよう」

「お願いするわ」

「それで、今日の用件は何じゃ?」

 天子が身を乗り出した。
 私室ではあるが一応形ばかりの小さな高段があって、天子の座所となっている。先刻までの帝は行儀よくそこに納まっていたが、姿を現した超常の天子は高段を椅子代わりに腰掛けた。そもそも人の礼儀作法に納まる存在ではない。華琳も堅苦しく定められた作法など煩わしいと思う性質であるから、気にせず続けた。

「ええ、前回聞き忘れていたことがあってね」

「ほう、なんじゃ?」

「それは、―――っ」

「どうした、何を躊躇っておる? お主らしくもない。……この感情は恐怖と緊張。それにわずかに混じるこれは、思慕かの」

「あっ、貴方、他人の心が読めるの!?」

「朕は民の意志の結晶であると自分で言うたであろうが。普段は個々人の思いまでは判別出来ぬが、これだけ近くにおれば流れ込んでくる感情の出所くらいは分かる。まあ、安心するが良い。読むというほど、はっきりと見通せるわけではない。何となく感じる、という程度のものよ」

「本当に、人ではないのね」

「なんじゃ、まだ疑っておったのか?」

「そういうわけではないけれど。陛下の狂言にあの子―――仁がのせられている可能性も捨てきれなかったわね」

「まったく、疑り深いのう。愛しい男の言うことくらい信じるものじゃぞ」

「―――っ、どっ、どうしてそれをっ!?」

「ふふっ、やはりか。お主が曹仁の名を口にした時、先刻と同じ思慕の念を感じたのでな。ふむ、ということは、今日参ったのも曹仁に関係することじゃな?」

「はぁ。……まったく、人外の相手は疲れるわね。ええそうよ、仁の事で聞きたいことがあるわ」

 超常の存在相手にこちらも躊躇いなど無意味と、華琳は開き直って用件を口にした。
 天子との会話は半刻ほど続いた。最後に天子は華琳の注文通り、帝がそうしていたように段上で居住まいを正すと意識を絶った。
 問答の最中に居眠りをしてしまったと、しきりに恐縮する帝を宥めるのには、さらに半刻を要した。

「―――あっ、兄ちゃんだ」

 宮殿を出たところで、季衣が声を上げた。
 大通りの喧騒を歩く曹仁の姿があった。傍らには霞に皇甫嵩、それに呂布と陳宮までいる。女を侍らせるちょっとした遊び人の様相だ。

「華琳っ」

 こちらに気が付いた曹仁は、霞達にぺこぺこと頭を下げると駆け寄ってきた。

「無理をなさらずとも良いのよ。せっかく綺麗どころをあれだけお揃えになったのだから、ゆっくりお楽しみなさいな」

「季衣、流流、代わるよ。華琳のお供ばかりで、あまり洛陽の街は見て回っていないだろう。少し遊んで来ると良い」

 華琳の皮肉は無視して、曹仁は護衛の二人に話しかけた。

「えっ、良いの、兄ちゃん!」

「ええと―――」

 季衣が諸手を挙げて喜び、流流は窺うような視線を華琳へと投げ掛ける。

「構わないわ、流流。遊んでらっしゃい。老舗の料理屋も戻ってきているようだし、夕食後に戻れば良いわ。許や陳留と違って歴史ある街だから、貴方にも良い勉強になるでしょう。お代は私が持ってあげるから、これも仕事と思ってちゃんとしたお店で食べて来なさい。この辺りの店のことは、―――あちらの方々が詳しいでしょう」

「わぁいっ、行ってきまーすっ! 恋っ、久しぶりー」

「ああ、もうっ、待って、季衣。―――それでは華琳様、失礼致します。兄様、後をお願いしますっ」

 季衣が、こちらの様子を窺っていた皇甫嵩達一行の中へ飛び込んでいき、流流が一礼するとそれに続いた。

「いつの間に季衣は呂布と親しくなったのかしら?」

「大食い仲間だからな。よく飯屋で会うみたいだ。それに、季衣は恋の働いている店の常連らしいし」

「呂布が働いている店?」

「ああ、言ってなかったか。飯屋で働き始めてな。可愛くて愛嬌もある看板娘だって、許の街ではちょっとした評判になってるぞ」

「ふうん。……それで、わざわざ皆と別れてまで二人きりになって、私に何か用かしら?」

「いや、用ってほどのこともないんだが。最近二人きりになってないしさ」

「そうね。貴方は皇甫嵩の屋敷にばかり入り浸っているものね」

「……怒ってるか? 恋や音々音が許からやってきて、月さんや詠、華雄殿もよく来るし、朝廷の人間やら商人やらも訪ねてくるから、一応将軍の引受人としてはなかなか席を外せなくて」

「別に。貴方に皇甫嵩や呂布を預けると決めたのは私だし」

「やましいことは何もないぞ。そりゃあ、昔は将軍の囲われ者だなんて噂が立ったこともあるが―――」

「……」

 言い募る曹仁を、華琳はじっと見つめた。そうしながら、天子から聞いたばかりの話を頭の中で整理する。
 曹仁を元の世界に戻そうと思えば、すぐにも可能だという。
 この世界と強い縁を持つが故に選ばれた曹仁ではあるが、されどもいかんせん異物であり、生まれ落ちた世界とはより強く結びついている。超常の力をもってこの世界に縛り付けているのが現状であり、束縛から解き放てば、あるべき縁に導かれ元の世界へと帰るという。
 一方で、一度元の世界へ戻した曹仁を再び呼び戻すとなると、大きな力を必要とする。まがりなりにも中華全土が漢朝の統治下にあった十数年前でさえ、曹仁を呼び寄せた後に天子は表に出ることもままならないほど力を消耗している。戦乱が続いた現在、人間一人を召喚するほどの力は天子には残されていないという。
 つまり曹仁は元の世界に帰ることは出来ても、再びこの世界に戻ることは―――少なくとも泰平の世を実現しない限り―――出来ない。

「……貴方、今でもまだ元の世界に帰るつもりはあるの?」

「もちろん」

 華琳の問いに、曹仁は拍子抜けするほどあっさりと即答した。

「―――っ、そう、やっぱり帰りたいのね」

「ああ、でも今すぐじゃない方が良いよな。やっぱりこういうのはちゃんとしてからじゃないと。まだこっちの世界の皆にも秘密にしてるわけだし。皆にも伝えて、出来ればその、……結婚、した後とか」

「…………貴方は、何を言っているの?」

「だから、里帰りのことだろう? むこうの家族にもお前のことを紹介しないと。天子に相談すれば、何とかなるのかな」

「……それは、私も一緒に行くのかしら?」

「そりゃあ、一人で帰って恋人が出来ました、結婚しました、なんて報告しても馬鹿みたいだろう。二人で行くか、場合によっては三人、―――ちょっ、ちょっと子供は気が早かったなっ。いや、それを言うなら結婚もか」

「……質問の間が悪かったわね」

 皇甫嵩や呂布との関係を言い繕っていた曹仁には、華琳の問いが“華琳を連れて元の世界へ帰るつもりがあるのか”と聞こえたらしい。転じて、“華琳を家族に紹介する気があるのか”と。

「―――はぁ、馬鹿らしい。帰るわよ」

 華琳は曹家の邸宅へ向けて踵を返した。

「ええと、まっすぐ帰るのか? ……どこかに寄ったりは?」

 小走りで横に並んだ曹仁が、華琳の顔色を窺いながら言った。

「季衣と流流の代わりの護衛でしょう。護衛が寄り道に誘ってどうするの」

「……はい」

 皇甫嵩の屋敷と同じく、曹家の邸宅も宮殿からそれほどの距離は無い。

「ええと、手を繋いだりは?」

「護衛と手を繋ぐものかしら?」

「……はい、仰る通りですね」

 少し苛め過ぎたか、曹仁は肩を落としてとぼとぼと付いてくる。

「ちゃんと、私の部屋の前までは護衛として勤めなさい」

「―――っ、了解っ!」

 照れた表情を作って囁くと、曹仁は弾けるように背筋をぴんと伸ばし、元気の良い返事をした。

「まったく、調子が良いんだから」

 呆れた風でぼやくも、華琳も作ったはずの表情が顔に張り付いて剥がれなかった。




[7800] 第9章 第2話 蜜月
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/07/16 06:48
「もうっ、がっつき過ぎよ」

 部屋の扉が閉まるのと同時に、曹仁は後ろから華琳を抱きすくめた。

「華琳が焦らすから」

「仕方がないでしょう、仕事なのだから」

 結局、曹家の邸宅に戻ってからも華琳は来客や書類仕事に追われた。夕食も月や詠達に街の有力者も加えて一席設けられ、二人が華琳の私室へ戻る頃にはすでに日も落ちていた。
 土木工事を司る司空の華琳には、目下再建中の洛陽ですべき仕事は確かに多い。もっとも、大尉である麗羽がそうであるように、ただの肩書きと割り切ることも出来る。しかし華琳は陳留や許でそうした様に、洛陽でも計画的な都市開発を行うつもりのようだった。口にはしないが、一度荒廃してくれたのは好都合とすら思っているだろう。今回、本拠許を差し置いて洛陽にしばしの滞在となったのも、それが主な理由である。

「さて、貴方には今回の戦働きのご褒美をあげないとね」

 曹仁の腕の中からするりとすり抜けると、華琳は寝台の端に腰掛けて、隣をぽんぽんと叩いて示した。

「褒賞なら、すでにもらっているけど」

 促されるまま隣に腰を降ろしながら曹仁は返す。肩と肩が密着して少し窮屈なくらいだが、二人きりの時はそれが当たり前の距離感となりつつある。

「あら、いらないの?」

「まあ、ものによるかな。爵位や領地なんて、これ以上貰っても仕方ないし」

「―――ふふっ、何だと思う? 私からの“ご褒美”」

 華琳がそう言って、ぴったりと張り付いた肩の下から曹仁の顔を覗き込む。ご褒美、という言葉には艶めかしい響きがあった。

「はっ、働きと言うなら、今回の戦は本来なら俺じゃなく華琳が戦功第一だろう」

「むっ」

 話を逸らされたと思ったのか、華琳がわずかに気色ばんだ。

「だから、褒美をくれる相手のいない主君の華琳にこそ、俺からご褒美をあげたいな」

「……ふうん。まあ、どちらにしても同じことだし良いけれど」

「それじゃあ、具体的に何が欲しいのか、華琳の口から聞かせてくれないか? ご褒美だからな、ちゃんと華琳の望むものをあげたい」

「っ」

 してやられた、という表情を華琳がした。
 華琳はこういう時の曹仁の反応を楽しんでいるふしがある。楽しそうにする華琳を見るのが好きだから、普段はやられっ放しの曹仁であるが、こうして不意打ちでやり返すと可愛い反応が返ってくる。

「……褒美と言うのなら、私の手を煩わせることなく、何を欲しているか察して欲しいものね」

 しばし無言で考え込んだ華琳は、寝台に身を倒しながら言った。

「いやいや、失礼があっては困るし、ぜひはっきりと教えてもらいたいな」

 曹仁は上から伸し掛かる様にして華琳と目を合わせた。寝台に手を付いて身体を支えているから、互いの肌は少しも触れ合ってはいない。いないが、華琳の息遣いと体温が、肩を寄せ合ったり、口付けを交わす時以上に近くに感じられた。

「麗羽のせいであまり二人の時間を取れなかったけれど、私達が交際してもう随分経つわね」

 ぷいと目を逸らして、華琳が言う。

「ああ、今日でちょうど半年だ」

「あら、覚えていたのね」

 ちょっと意外そうな顔で、華琳が言った。

「そりゃあな。というか、華琳が覚えていたことにびっくりだ」

「当たり前でしょう。女の子は、記念日が好きなものよ」

「華琳が女の子か」

「何よ、私が女の子じゃないとでも?」

「いや、もちろん誰より可愛い女の子だ」

「ふん、分かってるじゃない。それで、記念日好きの女の子としては、半年の節目に何かあっても良いと思うのだけれど?」

「そうだなー、石碑でも建てようか。それとも、皆呼んで宴でも開こうか」

「もうっ、もったいぶって」

 ちょんと、唇と唇が触れた。二度、三度と柔らかな感触が続く。曹仁は身体を支える腕の力を緩めてはいない。華琳から首を伸ばして、小鳥が啄ばむ様な優しい口付けを繰り返してきていた。

「…………これで分かった?」

「……ああ」

 これまで、口付けは数えきれないほど交わしている。寝台に並んで腰を降ろすのもすでに特別なことではない。華琳が踏み込んだのは、ほんの小さな一歩だった。しかしその一歩は、確かに今まで踏み出せずにいた一線を越えた。
 そこからは、無我夢中だった。
 自分の身体がどう動いているのかも曖昧模糊としていた。ただ、薄闇の中に浮かび上がる白い肌が、脳裏を埋め尽くす。
 曹仁が自分を取り戻したのは、すでに窓の隙間からうっすらと陽光が差し込む頃合いだった。いつの間にか眠って目が覚めたところなのか、それとも今の今まで行為に没頭していたのか。それすらも判然としない。
 目の前には頬を膨らませて不機嫌そうな―――少なくとも表面上は―――華琳の顔があった。

「まったく、何回すれば気がすむのよ。私へのご褒美ではなかったのかしら?」

「そのうちの半分は、華琳の方から求めてきた気がするけど。華琳が上になっている時間の方が長かったし」

 あやふやな記憶を曹仁は探った。異性とは初めてと言っても、同性相手に培った膨大な経験値が華琳にはある。痛みがいくらか治まった後半は主導権を握られっ放しだった。

「うるさい、言い訳しない」

 華琳が、ぎゅっと曹仁の二の腕をつねった。

「っっ、悪かった、すまん」

 確かにご褒美と言うには、良い思いしかしていない曹仁に対して、華琳には苦痛も与えてしまっている。

「別に謝るようなことでもないけれど」

 曹仁が素直に謝罪すると、それはそれで面白くなさそうに華琳が唇を尖らせた。

「えっと、それじゃあ、……ありがとう?」

「疑問形なのが癪に障るけど、まだその方が納得出来るわね」

「うん、俺もその方がしっくりくるな。ありがとう、華琳」

 気を良くした表情で、華琳が布団の中で身をもたせかけてきた。女性らしいふくらみに乏しい身体ではあるが、やはり曹仁と比べるとどこもかしこも柔らかい。そんな中にあってわずかに張り詰めた突起が、曹仁のわき腹をくすぐった。

「じゃあ、やっぱり今回のは貴方へのご褒美ね。私へのご褒美は、また今度別に貰うわ」

「……」

「うん? 何をもぞもぞと、…………貴方、あれだけして何でまたそんなに元気になっているのかしら?」

「だって華琳が、ご褒美とか言うから」

「いっ、今のは、そういう意味で言ったわけじゃないわよっ」

 曹仁が落ち着きを取り戻したのは、起き出し、衣服を身に纏い始めてからだった。

「―――今日の予定は?」

「午後から郊外で調練。それまでは特に何も」

 手を休めて、曹仁は答えた。返答するだけなら手を止める必要も無いが、ちょっと視線を送った華琳―――膝上まであるいつもの靴下に足を通している―――に目を奪われたからだ。

「……いかんいかん」

 再び情欲に駆られかけ、曹仁は頭をぶんぶんと振ってそれを追い出した。
 洛陽には、現在曹仁と霞の隊が駐留している。春蘭ら将軍達も、荀彧ら文官達もすでに許に帰還していた。凱旋ということで戦功第一の曹仁と、第二位の霞―――華琳の指揮下で劉備軍を破り、また蹋頓単于を捕えた―――が、華琳と共に洛陽にしばしの滞在と決められていた。華琳の護衛であり、恩賞としての休息も兼ねている。
 霞の方は息抜きと割り切ったようで、皇甫嵩と昼間から酒をあおったりしていた。神速と謳われ、調練の苛烈さでも有名な霞であるが、休める時には休むし休ませるという方針である。最低限の調練を課すだけで、兵も自由にさせていた。
 一方曹仁の隊は、皇甫嵩の騎馬隊とのぶつかり合いで千五百騎の欠員が生じている。すでに新兵の補充は受けているが、彼らに曹仁隊の動きを教え込む必要があった。曹仁は皇甫嵩らに付き合う傍ら、空いた時間は極力調練に当てていた。

「それなら、―――何よ? にやにやしちゃって」

 衣服を整え、最後に華琳は腰に剣を佩いた。曹仁の腰の物とよく似た造りは、言うまでもなく倚天の剣である。曹仁の青紅の剣とは対となる一振りだ。

「いや、華琳が剣を佩くのは珍しいな」

「……季衣と流流の護衛なら必要ないのだけれど、貴方一人だと頼りないのよ」

 頬をうっすらと染めながら、華琳はそんなことを言った。

「ふーん。それじゃあ、今日も護衛は俺にお任せ頂けるので?」

 もう少し華琳と一緒に居たいから、それは曹仁の望むところでもある。

「午前はね。宮殿へ行くから付いてきなさい。午後からは、……そうね。最近は貴方達に任せきりだったことだし、私もたまには調練に参加しましょう」

 華琳も気持ちは同じようで、調練までの半日だけでなく、今日は一日一緒ということになった。





「今日は軍営に泊っていこうかしら」

 華琳は出来るだけ何気ない口調で呟いた。
 調練を終え、今は兵が食べるのと同じ食事を振る舞われていた。軍営の方々で火が焚かれ、華琳は曹仁と牛金、それに無花果(いちじく)の四人でそのうちの一つを囲んでいる。
 凱旋の軍であるから朝廷から―――実際には朝廷を経由して曹操軍から―――肉や酒が下賜されていて、食事の味はそう悪いものでもなかった。

「それでは、すぐにお部屋を御用意いたします」

 無花果が食べ掛けの器を置いて、跳ねるように立ち上がった。

「別に部屋は、―――ええと」

「?」

 すぐにも駆け出して行こうとする無花果を、華琳は咄嗟に呼び止めた。そこで言葉に詰まる。

「……俺の部屋の隣が一つ空いていただろう? あそこで良い」

「はっ! ……しかし、華琳様のご宿泊所には狭いですよ?」

「構わないわ。軍の視察に来たのだから、その暮らし振りを体験するのも悪くないでしょう」

「はっ! それではそのように致します」

 無花果が駆け去っていく。

「無花果は良い子ね。ちょっとした命令一つで嬉しそうに駆け回って、子犬のような愛らしさがあるわ」

「無花果?」

「……? 貴方、ひょっとして無花果―――陳矯の真名を知らないの?」

「ああ、陳矯のことか。そういえば聞いていなかったな」

「呆れた。あれだけ良い様に使い回しておきながら」

「俺には代わりに預けるべき真名がないからな。自分の方からは言い出し難いんだよ」

 曹仁が言い訳がましいことを口にする。
 半日調練を見物していたが、曹仁が真名で呼んだのは一人だけだった。たった百騎の旗本白騎兵の中にさえ、真名で呼ぶ相手はいなかった。

「兄貴、俺は今夜は城内―――司馬防殿のお屋敷にお世話になりますので」

「……ああ。司馬防殿、それに娘御によろしく伝えてくれ、角」

「はっ」

 空になった器を持って、その唯一の例外である牛金が立ち上がった。華琳へ頭を下げると、大股で歩き去っていく。

「……気を使われたな」

「何の話?」

「俺の部屋の隣だが、今陳矯に用意させている空き部屋と、もう一方が角の部屋だ」

「牛金に、気付かれている?」

「たぶん」

「これは、春蘭達に気付かれるのも時間の問題かしらね」

「そうだな。今日みたいに急に連れ立って調練に現れたり、いつもはしていないお揃いの剣を佩いたりしていれば、すぐに気付かれるだろうな」

「何よ、私のせいだって言いたいの? それを言うなら貴方だって、今日は一日中締まりのない顔をしていたわよ」

「そんなことは―――」

「華琳様、曹仁将軍、お部屋のご用意が整いました」

「―――っ、そっ、そうか。御苦労だったな。案内がてら俺も部屋に戻るから、お前も今日は下がって良い」

「はい! お疲れさまでした、曹仁将軍、華琳様」

 直立する陳矯に見送られ、華琳と曹仁はそそくさと兵舎の中へと逃げ込んだ。

「聞かれたかしら?」

「多分、大丈夫じゃないか? 何かしら察したなら、陳矯ならもっと顔に出るだろうし」

 そんなことを話しながら木造の廊下を歩くと、すぐに目的の部屋へ付いた。

「それじゃあ、入ってくれ」

「お邪魔するわね。―――うわっ」

 曹仁に続いて部屋に一歩足を踏み入れた華琳は、そこで足踏みする。物理的に前に進むことが出来ないから、二の足を踏まざるを得ない。

「想像以上に狭いわね」

 招き入れられたのは、当然陳矯が用意した空き部屋などではなく、曹仁が使用中の部屋である。
 室内には寝台が一つに、書机と椅子が一揃え置いてあるだけだ。寝台で部屋のちょうど半分が占拠され、書机と椅子でさらに残りの半分が埋まる。つまり一歩入るとそれで行き詰る部屋だった。
 とりあえず並んで寝台に腰を降ろすも、華琳は何度か尻の位置を改めた。あまり上等な布団ではないから、常にない堅い感触が返ってくる。

「これは兵と同じ間取り?」

「いや、兵は八人部屋。個室は校尉からだ」

「ああ、そういえばそうだったわね」

 自ら調練の指揮を取らなくなって久しいが、知識として軍営での決まりは頭に入れてある。

「貴方は将軍なのだから、もう少し広い部屋を用意させたら?」

「許ではこの倍はある部屋を使ってるさ。今は兵の皆は幕舎だし、しっかりした屋根と壁があるだけ上等だよ」

 兵舎は、本来徐晃率いる洛陽の駐屯軍のためのものである。一時的な駐留に過ぎない曹仁隊と霞隊の者は、今は幕舎暮らしだった。校尉以上の者だけが、兵舎に部屋を間借りしていた。

「倍といっても狭いわね。兵に合わせて清貧を気取ることが良いとは限らないわよ。偉くなれば相応の待遇が得られると知らしめるのも将の務めよ」

「それはそうなんだろうけど、こればっかりは性分だな。そういう役は、春姉達に任せるよ」

 春蘭や秋蘭達も無駄に豪奢な生活を送っているわけではない。ただ戦時ならともかく、平時にまで無闇に兵と労苦を分かち合うようなこともなかった。
 曹仁の兵との付き合い方は、他の将と比べるとかなり密と言える。一方で真名の件からも伺える通り、どこか一線を引いてもいた。兵の死に心を動かし過ぎる自分を自覚しているからだろう。
 春蘭などはお気に入りの兵―――大抵、華琳と似た小柄な美少女だ―――には真名を許し、従者や旗本に引き上げたりもしていた。女だてらに軍に志願する者は氣の扱いに長けた腕自慢が多く、結果的には春蘭の旗本は精鋭揃いとなっている。
 春蘭も春蘭で問題だが、曹仁は曹仁で面倒臭い。

「……まあ、貴方はそれで良いのかもね」

 元々、あまり戦に向いた性格とは言えない。呂布との戦いには苦悩していたし、敵兵とはいえ連環馬で五万の命を蹂躙したことには未だ自責の念を抱えている。この先、桃香達ともう一度戦うことになれば、また心を痛めるだろう。

―――我ながら、性格の悪いこと。

 それでも曹仁が戦場から逃げ出さないのは、自分の志を叶えるためだ。つまりは、自分に惚れているからだ。
 そう思うと、華琳はぞくぞくとした充足感を覚えるのだった。桃香なら多分、こんな屈折した思いは抱かないだろう。
 桃香に限らず、曹仁に好意を持っている人間は少なくない。幸蘭や蘭々は間違いないし、春蘭と秋蘭も憎からず思っていそうだ。関羽達劉備軍の面々も怪しい。自分なら、そのうちの誰と一緒になるよりも曹仁を栄達させてあげられる。だが曹仁はそんなことは望んでいないだろうし、覇道を行く自分の隣にいれば最も苦しむことになるだろう。
 華琳は、首の力を抜いて曹仁の肩に頭を持たせ掛けた。そのまま、仔猫がするようにぐりぐりと頭をこすりつける。

「なんだ?」

「何となく甘えたくなっただけよ。恋人に甘えちゃいけないのかしら?」

「いけなくない。と言うか、俺としては普段からもっと甘えて欲しいくらいだ」

「今だけよ。私は貴方のお姉ちゃんでもあるんだから」

「お姉ちゃんねぇ。姉ちゃんや春姉達と違って、華琳を姉と思ったことはあまり無いんだけどな」

「むっ、なんでよ? 背? それともやっぱり胸の大きさ?」

「そりゃあ、はじめから姉じゃなく女として見ていたからだろう」

「―――っ。……前から思っていたのだけれど、貴方ってたまに女の扱いがすごく上手。一体どこで覚えて来たのかしら?」

「曹家で過ごせば上手くもなるさ」

「まあ、それもそうか」

 曹家も夏侯家も、主だった者は皆女性だった。
 両家を合わせて一門と呼び習わすようになったのは、夏侯氏から曹家に養子で入った曹嵩以降となる。大長秋曹騰の跡目を継ぎ、夏侯家の血筋を引く曹嵩が両家の領袖に治まるのは自然な流れであった。この時点で、両家の主だった者の中で男性は曹騰―――宦官ではあるが―――だけであった。その曹騰も曹仁がこの世界に来てすぐに鬼籍に入っている。曹仁は幼少の頃から女性ばかりに囲まれて暮らしてきた。

「さっきの話に戻るけど、姉ちゃん達にはいつ言う? さすがにこういう関係になった以上、隠し続けるのも限界だろう」

「……幸蘭達に、ね」

「なんだ、まだ恥ずかしがっているのか?」

「そうではなくて、いえ、まあ、それもあるのだけれど」

 華琳は珍しく言葉を濁した。

「もしかして、反対されるとか思ってるのか?」

「そうでもなくて、―――つまり、歯止めが」

「歯止め?」

「わっ、私は良いのよ、ちゃんと自制出来るもの。ただ、貴方がね。この前だって、軍議中ずーっと私の唇を見ていたじゃない。これが、公認となったら」

「いや、俺だって最低限自制くらいしますよ」

「ほんとに? 人前でも当然のように腕を組んで口付けたり、食事を食べさせ合いっこしたり、軍議中も隣に陣取って手を繋いだり、椅子代わりになって私を膝の上に乗せて、あまつさえ抱きすくめたり、首筋に口付けたり、―――しないで我慢出来る?」

「俺をそんなに堪え性のない男と思っていたのか。……というか、そんな妄想をしていたのか」

「…………し、してないわよ」

「へえ、これは確かに歯止めがきかなそうだな。……俺よりも華琳の方が」

「うるさい。そんなことしないわよ」

「ふうん」

「し、しないわよっ」

 曹仁の満更でもない表情に気付き、華琳は語尾を強めた。

「まあ、軍議の席でというのはさすがにあれだが」

 言いながら、曹仁は寝台に深く座り直した。ぽんぽんと、促すように膝の上を手で示す。

「ううっ。ま、まあっ、貴方がどうしてもというなら、座ってあげても―――」

「―――どうしてもです。ぜひお願いします」

「し、仕方ないわね」

 誘惑に抗って口にした強がりに即答され、何故かちょっとした敗北感を華琳は味わう。しかし折角の機会ではある。渋々顔―――を上手に作れていないと自覚しつつ―――で曹仁の膝の上に腰を降ろした。

「か、固いわ。座り心地としては最悪ね」

 馬術の達者だから当然と言えば当然だが、太腿は厚い筋肉の塊のようだ。

「そいつは失礼」

 軽い調子で謝罪しながら、さっそく曹仁は後ろから華琳を抱き締め、首筋に口付けを落としてくる。

「―――はぁ、駄目ね。今日の私、なんだかすっごく女の子だわ。本当は午後にだって、他に仕事もあったのに」

 顔を見合わせない分だけ、いくらか素直な気持ちを華琳は口に出来た。

「そりゃあ、昨日の今日なんだから、ちょっとはそうもなるだろう」

「そうね。でもそれを言うなら、そもそも―――」

「ん? そもそもなんだ?」

「……何でもないわ」

 そもそも街の再建だなんだと理由を付けて洛陽に留まったのも、天子から曹仁の話を聞くためだった。そして目的を果たした今も、すぐには許に戻ろうという気が起きない。許に戻れば、曹家一門の女達や桂花の手前、曹仁と二人きりの時間は間違いなく減るからだ。
 河北四州の併合を遂げた今、許は青州黄巾百万の民を得た時に勝るとも劣らぬ慌ただしさにあることだろう。そんな中、自分が仕事を放りだして男を優先している。信じられない話だった。

「―――私、自分で思っている以上に貴方の事が好きなのかも」

「…………」

「…………仁?」

「ん、えっと、何だ?」

「……貴方、何をしているのかしら?」

 しばし考え事に耽っている間に、首筋に感じていた甘いくすぐったさは消えていた。代わりに、すーすーと背筋を風が走る。

「ええと、その、華琳、あんまり汗かかなかった?」

 いやに静かにしていると思えば、曹仁は華琳の服の襟首に鼻先を突っ込み、くんくんと鳴らしていた。
 肘を振り上げると、曹仁は顔を仰け反らせて避ける。当たりはしなかったが、曹仁を襟首から引き離すことには成功した。

「調練と言っても、私は誰かさんにやられた傷が痛くて、ほとんど見ているだけだったから」

「それはその、何と言うか」

 曹仁はごにょごにょと言葉を濁した。
 本当なら、華琳自身も絶影と共に駆け回るつもりだった。しかし馬に乗ると、昨夜の傷痕がずきずきとした痛みを訴えたのだ。

「とはいえ、半日野外で過ごしたのだから多少は汗もかいたわ。そこは、貴方が食事の用意をしている間に、無花果がせめてものもてなしといって、湯を用意してくれたわ」

「あいつめ、余計なことを」

「ふふん、良く出来た従者ね」

 湯には花が浮き、浴室には香も焚きこめられるという手の込みようだった。純朴さに加えてこの辺りの如才無さが、華琳をして無花果に真名を預けた理由でもある。

「華琳も華琳だ。せっかく汗にまみれたというのに、簡単に水に流してしまうなんて」

「またおかしなことを。……そういう貴方も、あまり汗の匂いがしないわよ? あれぐらいの調練はいつも通りで、たいして汗もかかない?」

「まさか。白鵠の身体を洗うついでに、水浴びをしてきた」

「それで私に文句を言う?」

「男の汗の匂いなんて、臭いだけだろう?」

「女だって汗をかけば汗臭くもなるわよ」

「華琳は汗臭くならない。いや、仮に汗臭くなっても、それは俺の好きな匂いだ」

「もうっ、ちょっとは女心を理解しなさい。汗臭いのなんか嗅がれたくないのよっ」

「華琳こそ、俺の男心を全然理解してない。香水や花の香りなんかより、華琳自身の体臭を嗅ぎたいんだっ」

「ああ、もうっ、離れなさいっ。体臭って言葉が生々しくていやっ」

「いやだっ、どこかに洗い残しが」

 ぎゃーぎゃーと大騒ぎしながら、もつれ合うように寝台に倒れ込む。まだ照れ臭さの残る二人には、それぐらいがちょうど良い切っ掛けとなった。





「久しいな、順」

「……本当に、皇甫嵩将軍だ」

 懐かしい屋敷の懐かしい食卓には、かつてそこにあった顔が確かに存在していた。

「曹仁から聞いてはいたが、本当に大きくなったな」

 皇甫嵩は椅子から腰をあげると、高順の正面に立った。左手が持ち上がり、躊躇うように虚空を彷徨う。

「……」

 高順は無言で腰を屈め、頭を垂れた。

「うむ。良い子良い子」

 ごしごしと髪がかき乱される。ちょっと不器用な感じの撫で方が皇甫嵩だった。

「皇甫嵩将軍、お帰りなさい」

 高順はきつく目を閉じると、歯を食いしばった。頬を伝わるものがあるが、一筋で耐える。

「さてと、順の土産話でも肴に、一杯やるとするか。西涼へ、行っていたのだって?」

「酒の用意なら出来とるで」

「ん」

「……うくく」

 食卓にはいつの間にか霞と恋、それに音々音も顔を揃えていた。
 皇甫嵩も恋も霞も溢した涙を見て見ぬ振りしてくれたが、音々音だけは小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
 音々音の意地の悪さも含めて、昔と変わらない光景が広がっていた。

「そうそう、西涼で仁兄宛てに手紙を預かって、…………って、あれ? 仁兄は?」

「……そーじんは、むだんがいはく」

 四人は一度顔を見合わせると、代表するように恋が言った。

「無断外泊? 洛陽にはまだいるんだよね?」

「おるで。今日は調練のはずやから、たぶん軍営に泊るんやろう」

「そっか。まあ、明日でも良いか」

 元々、一介の行商人の高順が、幸運にも曹操軍の将軍である曹仁に拝謁する機会があれば、という約束である。高順は取り出しかけた書簡を荷物へ戻した。



[7800] 第9章 第3話 入朝
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/08/03 23:57
「それで、馬騰は何と?」

 膝の上に乗せた華琳の身体がわずかに強張った。曹仁が告げた差出人の名は、さすがに華琳にも予想外だったらしい。

「現物を見せるよ」

「―――んんっ」

 懐をあさると、華琳が鼻にかかった声を出した。背もたれ代わりにされているから、必然華琳の背中をまさぐる格好となる。

「ひゃっ、んっ、ちょっと、まだ見つからないの?」

「ええと、あったあった。これだ」

 しばし華琳の反応を楽しんでから、曹仁は書簡を取りだした。

「……」

 無言で目を走らせる華琳の肩に顎を置いて、読み終えるのを曹仁は待った。形の良い耳に悪戯したい気持ちがむくむくとわき上がってくるが、怒られそうなので自制する。代わりに眼前に垂れる巻髪に鼻をうずめて、胸一杯に息を吸い込んだ。

「―――っ」

「悪戯しない」

 太腿の肉を、思い切り抓り上げられた。

「ちぇっ、どっちにしろ怒られるんだったら、やっぱりはむはむするんだった」

「はむはむ? 貴方はいったい何をするつもりだったのよっ」

「だからこう、華琳の耳を、はむはむと甘噛みする感じ」

「…………。まあ、その耳はむはむとやらは後になさい。まずは馬騰からの書簡」

「はーい」

 意外や好感触のようで、耳はむはむとの御命名まで頂いた行為を後の楽しみとして、ここからは真面目な話だった。

「高順は、どういった経緯でこれを?」

「洛陽へ急ぐ道中で、馬を借りる代わりに預かったらしい。飛脚から連絡が入っていると思うが、順は馬騰らとはそれ以前から面識を得ていた」

「漢中から西涼まで、馬超と同道したのだったわね」

「ああ」

「貴方宛ての手紙を託すという事は、高順があの陥陣営だと気付いているということかしら?」

「たぶん。初めに会ったときから、疑いの目は向けられていたようだし」

「ふむ。この手紙にはそれを確認する意味も含まれているのかもしれないわね」

「それにしたってこんな重要な手紙を、よくもまあ人伝で送ってきたもんだ」

 書簡は、馬騰の決意表明とでも言うべきものであった。曰く、天子のために身を粉にして働きたいと。また天子窮乏の折に兵馬を率いて参上出来なかったことへの嘆きと、その釈明として自身の病身にも触れている。
 そんな思いの丈を曹仁へぶつけてきた理由はというと、華琳、そして楊奉への口添えの依頼であった。馬騰は洛陽の朝廷への出仕を望んでいて、近く実際に上洛するつもりだと言う。

「その点も含めて、何とも胡散臭い話ね。本気かしら?」

「病が篤いってのは、間違いないらしい。高順と会った時も、病床にあったと」

「ふむ。漢室に対して幾度も反旗を翻し続けた武人が、死期を悟って忠義心に目覚めた? そんな殊勝な人間とも思えないけれど」

「皇甫嵩将軍や月さんは、ずいぶんと手を焼かされたらしいな。将軍に言わせれば、野戦では極力ぶつかり合いたくはない相手だとか」

「あの皇甫嵩をしてそこまで言わせるか。韓遂と並び立つからには、娘とは違って武一辺倒の人物でもないのでしょうし」

「華琳は韓遂とは、面識があるんだよな」

「ええ。一時、何進に可愛がられていたわ。曲者という言葉が、あれほど似合う女もいないわ。馬騰が都に出仕なんてことになれば、残された娘の馬超では手を焼くでしょうね。―――そうか、馬超か」

 華琳が顎に手を当てて考え込んだ。先刻の事があるから、今度は大人しく曹仁は椅子に徹した。しばしの間を置いて、華琳が顔を上げる。

「高順は書簡に関して何と? 相応の対応を取れば、西涼の勢力に正体が露見することになるけれど」

「それは別に構わないとさ。いずれにしろすでに疑われているわけだし、ばれたらばれたで開き直るつもりだと」

「相変わらず肝の据わった子ね。なら、―――いっそこちらから召し出してやりましょう」

 悪巧みをする時の顔で華琳が言った。





「お初にお目に掛かります、曹操殿」

 華琳が執務室に通すと、馬騰は跪いて礼をした。
 衛尉として召喚した馬騰が、すぐにそれ応じ洛陽へと参上していた。

「初めまして、馬騰殿。高名はかねがねうかがっているわ。体調が優れないのでしょう? 椅子に掛けて楽にしてちょうだい」

「はっ、失礼致します」

「畏まる必要はないわ。私は司空、貴方は衛尉。私の方が高位にあるとはいえ、同じ漢室の臣よ」

 改めて頭を下げる馬騰を華琳は制止した。
 衛尉もまた三公に次ぐ九卿の一座を占める朝廷の高官で、職掌は天子の坐す宮殿の守護である。天子のために尽力したいという馬騰の願いを受けての任命である。

「そうでしたな。つい、この国の支配者へ拝する気分になっておりましたが」

 明け透けな皮肉を口にすると、馬騰はどっかと椅子へ腰を降ろした。
 朝臣達の間に華琳が漢朝の政体を壟断し、天子を傀儡としているという声があることは知っている。紛れもない事実であり、批判とも思わない。しかし面と向かって揶揄して見せたのは、この馬騰が初めてである。

「そうそう、母様。こっちは頼まれて来てやったんだ。下手に出ることないって」

 いっそう直截な言葉の主は、娘の馬超である。椅子は一脚しか用意させていないので、馬騰の隣に起立している。こちらも座っているのは華琳だけで、同席させた曹仁に護衛の季衣と流流は左右に立たせている。

「貴方とはお久しぶりね、馬超」

「ああ、反董卓連合以来だな、曹操」

「馬岱だったわね。貴方もお久しぶり」

「お、お久しぶりです」

 気安い態度の馬超に比して、従妹の馬岱―――馬騰にとっては姪に当たる―――はさすがに身を固くしている。
 当時五千の私兵を従えるだけで一寸の土地も領してはいなかった華琳と、今の華琳では、態度を改めるのも当然と言える。

「それで、こちらにいるのが―――」

「曹子孝。曹家の天の御使いこと曹仁だろ? 久しぶりだなー」

 馬超は華琳の紹介を遮ると、華琳に対するよりもさらに馴れ馴れしい口調で曹仁に話しかける。

「仁。貴方、馬超と面識が?」

「面識、と言って良いのか」

「反董卓連合の時は、散々やり合ったもんな。後であの時の敵将が曹家の天の御使いと伝え聞いた時には驚いたぞ」

 やり合ったと言いつつも、却って馬超は親しげな様子だった。生粋の武人ならではの感覚であろう。曹仁の元へ、一歩二歩と歩み寄る。

「ん? なんだ、このちびっ子」

 華琳の隣に侍る曹仁に近付くということは、当然華琳にも接近することになる。季衣が一歩進み出て、馬超の行く手を阻んだ。馬超の言葉に気色ばむのが、背中からも伝わってくる。

「季衣、下がって」

「……わかったよ、兄ちゃん」

 馬超が前へ出る代わりに、曹仁の方が距離を詰めた。曹仁がなだめるように軽く肩を叩くと、季衣は不服げながらも華琳の隣まで下がった。

「私の親衛隊長が失礼したわね」

「するとそいつが許褚か。そういえば連合の時にも見た覚えがあるな。噂の虎の隊長が、まさかこんなにちびっ子とはなぁ」

「……むっ」

 季衣が小さく唸る。護衛中でなければ、間違いなく食って掛かっているところだろう。

「お久しぶりです、馬超殿」

 馬超がそれ以上何かを言う前に、曹仁が会話を促す。

「ああ、久しぶり。馬―――白鵠といったな、あいつも元気にしているか?」

「もちろん。……どこで白鵠の名を?」

「そりゃあ、天人曹仁とその愛馬白鵠の名は、馬術を嗜む者なら大抵耳に届いているさ」

「そうか。馬超殿は、確か何頭か乗り継いでいたな。」

「さすがによく見ているな。紫燕、黄鵬、麒麟。その三頭があたしの愛馬達だ」

「三頭か。名前から察するに、毛色が一番明るかったのが―――」

「―――仁。それに馬超も。馬の話は後にしてもらって良いかしら?」

「はっ、失礼しました。馬超殿、また後ほど」

 曹仁が馬超へ拱手して華琳の隣まで戻ってきた。馬超は鷹揚に頷き返すと馬騰の横へ下がる。

「ずいぶんと兵を引き連れてきたようね、馬騰殿」

「精鋭五百騎。天子様の警備の端にお加え頂ければ」

「確かに精兵のようね」

 華琳が馬騰へ使者を送ってから今日まで、一月と掛かってはいない。洛陽から馬騰の本拠地である楡中までは直線距離にして二千里(1000km)を隔てる。使者は形としては漢室から派遣された勅使であるから、先触れを発し一ヶ月以上も時を掛けた行程を予定していた。馬騰は先触れに接するや楡中を発し、長安にてこれを待ち受けた。
 かつての漢の都長安も、今は西涼の東端、曹操領西端の一邑でしかない。李傕、郭汜、それに馬騰らが代わる代わる支配下に置いていたが、華琳が上洛し司隷(司州)を手中に治めて以来は曹操領として扱ってきた。守兵も駐屯させ西涼に対する前線基地とも言えるが、一方でかつての支配者―――特に馬騰に傾倒する住人も多い。西涼軍との戦ともなれば、第一の係争地となることだろう。そんな曰く付きの土地に馬騰は堂々と兵を引き連れ現れると、入城こそ果たさぬまでも城外に宿営地を築き上げ使者を迎えている。
 馬騰の大胆な行動もさることながら、それを可能とする兵の働きが相当なものだった。 兵の力の一端は、出動の早さと行軍速度で推し測ることが出来る。騎兵の場合は特にそうだ。馬騰の五百騎は出動命令には即応で、一日に二百里以上も駆けよう。華琳の虎豹騎や曹仁の白騎兵と同じ馬騰供回りの最精鋭といったところだろう。

「衛尉府付きの兵として迎えるよう、奏上しておきましょう」

「感謝申し上げます」

「馬超に馬岱。貴方達は後ほど光禄勲府へ出頭なさい。張繍が待っているわ」

「わかった。……あたし達も、出来れば母様と同じ衛尉府に役職が欲しかったんだけどな」

「錦馬超殿といえば天下に知らぬ者無き猛者。是非にも奉車都尉に付いて頂かなくては」

「まあ、任命されたものは有り難く受けるけどさ」

 馬超が満更でもなさそうに言った。
 馬超には奉車都尉、馬岱には騎都尉の地位を与えている。いずれも光禄勲府に属する天子の近衛部隊の長であり、漢朝の威光が衰える以前には武人の憧れの官位であった。中でも奉車都尉は天子の馬車を守る職掌で、天下無双の勇者に与えられることが知られている。
 馬騰らの人事に合わせて、これまでは朝廷を主導しながらも陪臣に過ぎなかった月と詠を、それぞれ光禄勲と執金吾の地位に就けた。馬騰の衛尉が宮門を中心とした宮殿外縁の守護職であるのに対して、月の光禄勲は宮殿内の近衛であり天子の側近をも兼ねる。そして詠に与えた執金吾は洛陽城内の警備を任とする。さらに城外には徐晃の常備軍と、今は曹仁と霞の隊も駐屯していた。馬騰とその旗下五百騎は内に月の近衛兵、外に詠の警備隊によって挟まれ、その上で曹仁達の軍によって完全に包囲される形が出来上がっている。馬超らとも引き離し、完全に孤立させていた。

「さてと、流流、公孫賛を呼んで」

「はい」

 流流が室外に走り出した。公孫賛はあらかじめ控えの間へ呼び出している。すぐに流流に伴われて室内へ姿を現した。

「こちらは公孫賛、字を珀珪よ。馬超と馬岱は、反董卓連合の時に会っているわね。馬騰殿も、お名前はお聞きでしょう?」

「白馬長史と呼ばれ烏桓から恐れられた方ですね。珀珪殿、お初にお目に掛かります。同じく北辺で異民族の侵攻に抗う我が身、常々親しみと畏敬の念を抱いておりました。」

「いや、私なんてほんの一時烏桓とやり合っただけで。長年西涼を守り続けてきた馬騰殿と比べたら全然」

「ご謙遜されますな。そのわずかな期間で、剽悍な烏桓族の兵共を震え上がらせたのですからな」

手放しの称賛に、公孫賛は居心地が悪そうに視線を彷徨わせた。

「そ、それで曹操、今日は一体何の用だ。麗羽なら、今日はまだ問題を起こしていないぞ」

 華琳は公孫賛ではなく、馬騰の目を見据えて答える。

「馬騰殿達をこちらに呼び寄せた代わりに、西涼に公孫賛を送ろうと思うのだけれど、どうかしら? あの辺りは血気盛んな若者が多いし、誰かまとめ役が必要でしょう? 雍州牧として、彼女はどうかしら?」

「―――しゅっ、州牧っ!? そんな話、私も初耳だぞっ!?」

「ええ、私も初めて口にしたわ」

 声を張り上げたのは、馬騰ではなく公孫賛であった。華琳自身、ほんの数日前にふと思い付いた人事である。一度考えが至るとこれ以上はない配置と思えたし、麗羽の相手をさせるために折よく公孫賛は洛陽に滞在させていた。

「珀珪殿か。これは確かに適任かもしれません」

 動揺する公孫賛をよそに、馬騰は得心した様子で二度三度頷いて見せる。支配地と兵をそっくり頂くという含意を読み取れない筈もないが、馬騰は特に気にもならない様子で続けた。

「西涼では土地柄、やはり馬術の拙い者はそれだけで侮られます。その点、白馬長史の名は西涼まで知れ渡っております」

「西涼の雄が馬騰殿や錦馬超なら、それに比肩し得る名は白馬長史公孫賛しかいないわ。加えるに、武名を轟かせながらも決して力押しだけの人物でなく、内政も達者なら人心を慰撫する徳も備えている」

「おいおい、そんなに褒めるなよ~」

 公孫賛が目を丸くして戸惑っている。
 漢王朝北の国境、その西の際が西涼なら、東端は幽州である。現実として、公孫賛は幽州の雄として異民族からも恐れられた存在であった。有力な家臣に恵まれず一州を一人でまとめ上げた内政は確かだし、流浪の劉備軍に一大勢力の曹操軍と関わるうちにそれにさらに磨きがかかっている。

「後ほど陛下から命が下されるわ。今のうちに出立の準備を整えておきなさい」

「麗羽のお守りはもう良いのか?」

「そっちはそっちで他に適任もいないのだけれど。まあ、顔良にもう少し頑張らせるわ」

「わかりました。それでは―――」

 かつての同輩である公孫賛は華琳に対しても気の置けない態度を貫いているが、最後に一度だけ威儀を正して退室していった。

「良いのですかな?」

 足音が遠ざかるのを待って、馬騰が言う。

「貴方も適任と言ったじゃない?」

「能力においては紛れもなく適任でしょう。しかし、一時は袁紹殿と河北の覇権を争ったお方ですよ」

「雍州で独立を図ると? ―――ないわね。人を見る目は確かなつもりよ。目を見れば大方、その人間の野心の程は分かる」

 華琳は馬騰へ目をくれた。馬騰はしばしそれを正面から受けとめると、苦笑を浮かべてわずかに視線を逸らした。
 やましいところが無ければ目は逸らさない、などと言うことはない。小人ならばともかく馬騰のような傑物なれば、必要とあらば視線如きいくらでも耐えるだろう。とすると暫時目を合わせ、それから逸らした馬騰の仕草は極めて自然なものに思えた。
 朝廷事情や西涼の情勢に関して互いに二、三の質問を交わした後、馬騰達三人は辞去していった。

「―――季衣、流流。今日はもう来客の予定もないし、貴方達も下がって良いわよ」

「はっ」

 二人も一度直立すると退室していった。

「…………仁」

 たっぷり五呼吸分ほども時を置いてから、華琳は隣に侍る曹仁をさらに手招きした。
 身を寄せるほど近寄った曹仁は、華琳が椅子から腰を浮かすと、そのわずかな空間に潜り込んだ。

「さてと―――」

 腕が腰に回され、懐に抱え込まれた。
 男性とはいえ小柄で筋肉も発達した曹仁の身体の内に包まれると、ほとんど身動きもとれない窮屈さだが、ぴったりと型にはまる安心感もあった。初めの頃はふわふわと気持ちが浮ついたものだが、最近はこれがないとかえって落ち着かないくらいである。洛陽にいるうちは良いが、許に戻って一門や重臣達に囲まれた生活を送る時のことを考えると、今から一抹の不安が過ぎるのだった。
 されるがままに身を任せながら、華琳は真面目な思案を開始した。
 何にせよ、今考えるべきは馬騰のことである。
 素直に召喚に応じたことが、まず華琳の想定外であった。
 馬騰が朝廷での仕官を望む動機は今もって判然としない。しかし西涼を離れようという発想の根幹には、馬超と言うすでに驍名を馳せた後継の存在があると華琳は考えた。そうでなくては、あれほど固執し続けた西涼での自治を手放すはずがない。そこで華琳は馬超と、彼女ほどではないがやはり名の知れた姪の馬岱をも合わせて招聘したのだった。

「考え過ぎだったかしら?」

 食わせ者の韓遂の好敵手にして義姉妹というから、馬騰も腹に一物を抱えた人物を想定していた。
 実際に目にした馬騰は大人の風格を持ってはいたが、飾らない言動は素朴な人柄を思わせた。華琳に対する痛烈な皮肉も、漢朝に対する忠義心ゆえと取れる。娘の馬超が季衣と睨み合いを始めた時も、揉め事を避けようという気がないのか、制止する様子を見せなかった。そしてその馬超に至っては輪をかけて単純明快だ。とても深謀を秘めて大事に当たろうという人物の連れとは思われない。
 力を見せつけるような行軍には確かに驚かされたが、手の内をさらしただけとも言える。あの書簡も、単に華琳―――天子に繋がる伝手を見つけたと、無邪気に送り込んで来たのかもしれない。あるいは、曹操軍の内情は把握しているぞという、他愛のない自己顕示欲か。韓遂なら、気が付いた上でそれを利用する術を考えただろう。
 見えてくるのは、やはり一計を案じた曲者の姿ではない。地方の純朴な武人一家が、天子からの召喚に勇んで馳せ参じた―――そんな微笑ましい光景だ。
 しかし、それすらも擬態で無いとは言い切れない。馬騰だけでなく馬超までそれほどの巧妙さを有するなら、彼女達の召喚は自ら内患を迎え入れたようなものだった。

「これ以上考えても、埒も無いか」

 華琳は思案をそこまでとした。

「……仁、耳元でずっと好きだ好きだと囁くのやめてくれないかしら? さすがに落ち着かないわ」

 仰ぎ見ると、曹仁はきょとんと大きな目をさらに見開いた。

「俺、そんなこと言ってた? というか、声に出てた?」

「呆れた。あれだけ言い続けておいて、自分では気が付いていなかったの?」

「考え事の邪魔をしないように、大人しくしていたつもりだったんだけど」

「まったく、無意識で声が漏れるって、貴方どれだけ私のことが好きなのよ」

 軽く首を仰け反らせると、唇と唇が一瞬触れて離れた。
 真面目な考え事を終えたばかりだから、貪る様な口付けはまだ欲していない。欲しいと思った瞬間に、ちょうど欲しいと思った強さが返ってくる。一ヶ月余りもたわむれ合った―――曹仁曰く、いちゃいちゃした―――結果、心地良い距離感が出来上がっている。

「考え事は終わった?」

「ええ。策を弄する類の人間とも思えないけれど、今後も警戒の必要あり、といったところかしらね」

「結局のところ様子見か。まあ、洛陽での駐屯が続く分には、華琳と二人の時間が増えて俺は嬉しいけど」

 言われて、はっとした。
 曹仁との時間を増やすために、必要以上に馬騰を警戒してはいないだろうか。自問しても、否定の言葉は浮かんで来ない。

「我が軍にとって最大の内患は、馬騰などではなく貴方、―――そして私かもね」

 意味が取れなかったのか、曹仁が訝しげに眉をひそめた。



[7800] 第9章 第4話 雪蓮
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/08/23 11:33
「雪蓮、どこへ行くつもりだっ!? これから軍議だぞっ!」

「ちょっと気晴らしに遠乗りにでも。軍議には、私がいなくても冥琳がいれば十分でしょう?」

「気晴らしって、どれだけ晴らせば気が済むんだっ! ―――待てっ、雪蓮っ!」

 制止する冥琳を振り切り、馬を駆けさせた。
 兵も良く知ったもので、馬上の雪蓮の姿を見てはさっと道を開ける。歩哨に軽く手を振って、雪蓮は野営地の入り口から飛び出した。
 再びの荊州侵攻である。当然目的は領土の拡大と仇敵黄祖の討伐にあるが、旗揚げ以来初の敗北を喫し、消沈した軍を立て直す意味もあった。
 普段からぴりぴりとせわしない冥琳であるが、それだけに今回はいつも以上に気が立っていた。こんな時は雪蓮か祭―――冥琳を苛立たせる原因になることも多い二人であるが―――が軽口を叩くなり馬鹿をやるなりして、張り詰めた気を緩めてやるのが常だった。しかし今は雪蓮の方にも、普段通りにおどける余裕がない。
 冥琳に申し訳なく思いつつも、馬の脚の向くままに駆けた。親衛隊の朱桓も追って来ていない。

―――見捨てられたかしら?

 朱桓は、こちらの意を良く組む護衛で、雪蓮が一人になりたいときにはすっと身を引いてくれた。それでも戦時中ともなれば雪蓮が無理に振り切らない限りは親衛隊を率いて付いて来る。しかしこの数ヶ月、親衛隊の動きがどうにも鈍い気がした。といって雪蓮はあまり気にもせず、これ幸いと一人の時間を楽しんでいた。
 最近の気侭振りは我ながら酷いもので、朱桓が目を逸らしたくなる気持ちもわからないではない。以前は気を高ぶらせる程度に飲んでいた酒も―――冥琳や蓮華は文句を言うが、酒で判断を鈍らせたことはないつもりだ―――、今は泥酔して意識を失うことも多々あった。
 理由は自分でもはっきりしている。

―――負けた。

 その思いが胸の底に根深くあり、何かで気を紛らわせなくては落ち着かないのだ。
 曹操との戦である。
 まともに対峙したのは野戦の一度きりで、その後は敗走から立ち直る間もなく気付けば長江以北の拠点を落とされていた。野戦では兵の損耗を避け、速やかに後退を命じた。また防衛の要はあくまで長江の水軍であり、あえて抗戦せずに早々に南岸まで退いた拠点の守備隊も多い。結果、兵の犠牲はほとんど出ておらず、冥琳や蓮華は最低限の被害で済んだと安堵している向きもある。しかしそれが一層、軽く用兵であしらわれたという感じを強くしていて、雪蓮の心に深い楔を打ち込んでいた。
 呂布がいない今、野戦では自分が一番だという思いがあったことに、雪蓮は負けて初めて気付いた。いや、例え呂布が相手であっても、一騎打ちならいざ知れず用兵の閃きは自分の方が上だとすら思っていたのだ。
 曹操の軍略は、孫呉の遠祖孫武の記した兵法書を自ら編纂し直すほどだという。それで確かに呂布との激戦を制してはいるが、どこか頭で戦をするというところがある。呂布には何度もあわやというところまで追い詰められ、最期には自ら武器を取ってもいる。戦の微妙な機微を読む力は、兵法書をいくら読んでも身に付くものではないのだ。
 といって甘く見ていたつもりはない。だが、実際に戦場で対峙してしまえばどうとでもなるという楽観もまた雪蓮の中には間違いなくあったのだ。
 そんな楽観と、用兵に対する自信が一戦で打ち砕かれていた。

「まったく、政も出来て、戦も私より強いなんて反則よね」

 一層腹立たしいのは、惚れ惚れする様な用兵の妙に感心が先に立って、悔しさが滲み出たのがつい最近になってからということだった。負けた当初は雪蓮よりも余程気落ちしていた冥琳がせっかく気勢を張ってくれているのに、それも今は煩わしく思えてしまう。
 戦の才能は、自分で思っていた以上に雪蓮という人間の拠り所となっていたらしい。戦に勝てない自分なら、皆の主君である意味があるのか。そんな考えすら思い浮かぶ。
 政なら、蓮華の方が上手い。元々自分は乱世の主君であり、孫呉による天下平定を成し遂げたなら王位には蓮華を、とも雪蓮は考えてもいたのだ。
 幼いが小蓮にも、人を惹き付ける天性の愛嬌が備わっていた。自分に人望がないとは思わないが、兵や民の中には恐怖から従う者も少なくないだろう。
 なかんずく、冥琳がいる。周家は三公を二代に渡って輩出した一族で、江東では最大の名家である。家格としては本来孫家よりもずっと上だった。幼い頃からの親友で同輩である自分が、こうして主君として祭り上げられているのは、孫堅という一代の傑物の娘だからでしかない。
 母孫堅は、自分の苛烈さに蓮華の誠実、小蓮の快活、それに冥琳の緻密さまでも併せ持ったような稀有な人徳の持ち主だった。今にして思えば、母は生前からすでに乱世の到来を予期していたのだろう。早くから半ば意図的に江東の民の輿望を集め、勢力形成に余念がなかった。元々豪族が強い土地であった江東には、周家の他にも呉の四姓―――穏の陸家がこれに含まれる―――と呼ばれる名門等、いくつもの勢力が威勢を誇っていた。そんな中で母は、無名の浪人から海賊退治で身を起こし、ついには諸豪族から仰がれる立場へと昇りつめた。それをただ受け継いだのが自分である。孫堅の台頭がなければ名門子弟の冥琳と親しく付き合う事もなく、今頃は周喩軍の一兵卒にでもなっていたかもしれない。

「―――ん?」

 誰かに、軽く肩を叩かれた。そんな気がして、思い悩んでいた顔を上げて雪蓮は後ろを振り返った。
 誰もいない。当たり前だ。断金の友を振り切って駆けて来たのだ。
 視線を落とすと、肩から矢が生えていた。訳が分からず戸惑い、鈍痛を感じてようやく射られたのだと気付いた。
 馬が膝を折った。馬の後足にも矢が突き立っている。馬体と地面に挟まれないように、雪蓮は崩れゆく馬から自ら飛び降りた。
 身体が、思った通りに動かなかった。爪先から静かに着地するつもりが、べたっと足の甲から膝までを打ち付けた。
 血を流し過ぎたか。いや、刺したままの矢からはほとんど出血は見られない。

―――毒か。

 矢が、続けて振ってくる。

「ふふっ、こんな使い方をしたら母様に何と言われるか」

 南海覇王を鞘ごと腰から抜いて、杖代わりにして身を支えた。視界も薄らとぼやけてくる。
 雪蓮は矢を避けるため、倒れた馬の影に身を隠した。それもやはり、南海覇王を杖代わりについての移動だった。

―――曹操の刺客か?

「ううん、そういえば黄祖との戦中だったわね。ふふっ、今の私に曹操が刺客まで送り込む価値はないわよね。―――っと、そんなことを考えている場合ではないか」

 自嘲へと流されがちな思考を、雪蓮は頭を振って切り換えた。
 自ら駆け抜けてきたばかりの蹄跡の脇に、人の背丈にも満たない灌木がわずかに群生している。その林とも呼べない十数本の木々が揺れ、人が立った。
 刺客―――交戦中なれば単に伏兵と言うべきか―――が、剣を抜いて雪蓮に迫る。背後にも回り込んで、四方から攻める腹だ。剣を取って包囲を形成しているのが全部で十人。さらに灌木を背に弓を構えている者が二名いる。
 冥琳が陣営の周辺の伏勢は初めに念入りに潰したはずだ。わずか十数名の少数故にその目を逃れたか、あるいは初めは遠くに伏せていた者達が接近してきたのか。それとも、単に雪蓮が調子に乗って遠くまで馬を走らせ過ぎたか。
 再び、南海覇王を杖代わりに立ち上がる。
 十人のうちの四人が先頭に立って、連携した動き方をした。二歩から三歩の間合い―――雪蓮が一歩踏み込んでもぎりぎり剣が届かない距離―――を保ったまま、ぐるぐると周囲を巡る。

―――来る。

 前方から二人が、一斉に間合いを詰めた。一人は地を這うように下―――馬の影に姿が消えた―――から、もう一人は馬体を段に高く跳躍して上から。背後でも空気が動く気配がした。四方、それも上と下からの同時攻撃。

「はぁっ!」

 前へ踏み込んで後ろからの攻撃を避けながら、跳躍した男の肩口に鞘ぐるみの南海覇王を叩き下ろした。馬の影から突き出さてきた剣の上に、男の身体が落ちる。仲間の身体に剣を絡め取られて、下から攻め込んできた男の動きが止まる。

「―――っ」

 抜き打ちに首を飛ばすつもりが、固い頭蓋に剣が食い込んだ。毒の影響か、いよいよ視界が暗く澱む。構わず頭の上半分を、力任せに薙ぎ飛ばした。
 後方の二人と向き直るために、薙いだ勢いそのままに身体を反転させる。そこで膝から力が抜けた。勢いを殺し切れず、前のめりに倒れ込んだ。咄嗟に剣を跳ね上げて相手を牽制するも、そこまでだった。
 転倒した雪蓮に、二人が殺到する。

「―――孫策様っ!」

 声が聞こえたのと、二人が矢に倒れるのが同時だった。争闘の場に、騎馬が一騎駆け込んでくる。

「太史慈、向こうに弓。毒が―――」

 言い終わる前に、弦が二つ鳴るのを聞いた。二つは連なって、ほとんど一つの音にしか聞こえない。敵弓手の姿はすでに目が霞んで見えなかったが、太史慈が外すはずもない。

「さすがの早業ね」

「お乗りください。あまりお話になりませぬよう」

 太史慈は馬を降りると、雪蓮の力無い身体を馬上に押し上げた。





 孫策を乗せた馬の手綱を引いて駆けた。
 いつもなら孫策抜きで軍議を始めてしまう周瑜が、珍しく探して連れ戻すように命令した。それも太史慈含め数人の将軍達にである。何か、胸騒ぎでも覚えたのかもしれない。そして現実として、刺客に襲われる孫策を太史慈は探し当てていた。
 刺客は太史慈の動きに合わせ、おおよそ三歩の距離を保って付いてくる。

「――――っ!」

 そして時に背後から、横合いから、太子慈の死角を突いては踏み込んでくる。剣を打ち合わせるまでもなく、太子慈がそちらへ視線を向けるとさっと引いていく。わずらわしいばかりだが、それで野営地に向かう足は確実に鈍らされる。

「目は、見えておりますか?」

 声を掛けて初めて、孫策の瞳が太史慈の方を向いた。先ほどから目蓋は見開かれたままで、それでも太史慈にも刺客の動きにもほとんど反応を示さなかった。
 孫策が、小さく首を横に振った。
 先刻から、刺客達が標的である孫策を狙わず、ただ足止めに終始しているのは何故なのか。毒と、孫策は口にした。あえて止めを刺す必要もない程の、強い毒なのか。

「―――一度馬を止めます。出血するでしょうが、矢を抜かせて頂きます」

 戦場では矢を受けても、出血を防ぐために治療が可能になるまでは抜かずに置く。しかし毒矢となると少しでも早く抜くべきだろう。出血はするが、それも毒を抜くには都合が良い気がする。

「わかったわ」

 孫策が小さく頷き、馬上に身を屈めた。

「南海覇王をお借りできますか? 矢を抜くのに、使わせて頂きます」

 孫策は無言で孫呉の宝剣を太史慈に手渡した。
 毒矢の矢尻が体内に残っては事だった。南海覇王を矢に沿って孫策の肩に突き入れる。長剣ながらも細身の南海覇王はちょうど良かった。厚く幅広の太史慈の剣では必要以上に傷を広げてしまう。
 背後で気配。太史慈は南海覇王と矢、二つ一緒に引き抜いた。そのまま勢いに乗せて背後を払ったが、空を斬るだけに終わった。これだけの隙を見せても、敵はやはり深くは踏み込んでこない。

「出血は、ひどくはありません。御不快でしょうが、今はそのままにしておきます」

 孫策に南海覇王を返しながら、太史慈は傷口を確認した。

「孫策様、私の合図で声には出さずゆっくり十数えて下さい。それまでに、道を開きます。数え終わったら、とにかく馬を走らせください。陣地への道は、馬が知っております」

 刺客に聞こえぬよう、耳元で囁いた。

「ええ、頼むわ。何とか私を、蓮華や小蓮、―――冥琳のところまで行き着かせてね、太史慈。なるべく、早く。言葉を、遺せるうちに」

「弱気なことを申されてはなりません。これからが、雄飛のときなのでしょう? いいですね、始めますっ!」

 太子慈が一歩前に出ると、刺客達もそれに合わせて動いた。やはり孫策をすでに標的としていない。あわよくば孫策軍の将と思しき自分も討ち取ろうという腹積もりか。
 刺客は残すところ六人。すぐには襲ってこなかった。距離を取って、こちらの隙を伺っている。
 時間が惜しかった。孫策が十数える内に仕留めきれなければ、身を楯に血路を開くしかない。
 太史慈は剣を地面に突き立てると、おもむろに弓を取った。刺客は遠巻きにしてはいるが、一息に跳び込める距離で太子慈を包囲している。弓は得策とは言えない。予想外の太史慈の動きに、刺客に虚が生じた。すかさず三矢を放ち、次の瞬間には弓を捨てて剣を取っていた。斜め後方に踏み込み様、剣を薙ぎ払う。死角から飛び込んできていた一人の腹を断った。それを合図に、他の刺客達も動き始める。
 矢で倒れた者が一人に、傷を負った者が一人。剣で斬った一人はすでに息絶えている。あとは無傷の者が三人だ。
 一様に、身体ごとぶつかってくるような剣を使った。捨て身の剣で、斬られようとも仕留めるという戦法だ。剣先が、わずかに黒ずんでいる。これも毒か。
 飛び込んでくる一人を、兜割りで股下まで両断した。返す剣で、矢傷を負っている一人を仕留めた。残り二人。
 左右に分かれ、距離を取って太史慈を牽制してくる。

「……十っ!」

 孫策が一声上げると、馬を走らせた。
 そこで初めて、刺客が孫策へ向かった。身を低く構え、馬の足元を目掛けて飛び込んでいく。やはり、狙いは足止め。

「――――――!!!」

 言葉にならない咆哮を上げ、太史慈は跳躍した。びくりと、刺客二人の身体が震える。直後、自分の身体がどう動いたのか分からなかった。ただ地面に降り立った時には、刺客の頭二つも一緒に落下していた。その一方を蹴飛ばし、馬が駆け抜けて行く。
 後を追って、太史慈は走り出した。





 これが死というものか。
 このまま、死に逝こうとしているのか。それともすでに死んでいるのか。判然としない。
 脱力して、水中をたゆたうような感覚。不快感はなく、むしろどこか心地良くすらある。暗い水底を漂いながら、雪蓮は漠とそう感じた。
 時に、明るい水面近くまで浮上した。そんな時はいくらか頭がすっきりとして、物事を考えることも出来た。
 水上から射す光に照らされながら、雪蓮は家族や皆に思いを馳せた。
 妹達のことはさすがに少し気に掛かった。自分に似て無茶をする下の妹は、皆が目を離さないでいてくれるだろう。それよりも気の緩め方を知らない上の妹の方が心配だった。だがそこは似た者同士、冥琳が陰になり日向になり手助けしてくれる気もする。
 むしろ心配なのはその冥琳の方か。自分が居なくなれば、今以上に無理を重ねるだろう。最近、少し体調が悪い日があるようだったから、そのことも心配だ。しかしそれも、祭が気遣ってくれるだろう。
 祭には、酒の飲み過ぎにだけは気を付けて欲しい。そこは、今度は冥琳の方が目を光らせてくれる。
 穏に亞莎、思春、明命、太子慈もいる。いずれも自分などより気の回る者たちだ。

―――なんだ、私が居なくても、案外上手く行きそうじゃないの。

 ほっと安堵を覚えながら、雪蓮の思考は再び暗い水の中へと沈み込んでいった。

 どれほどの時が過ぎただろう。水底付近を漂う間は頭が働かないためはっきりしないが、雪蓮はおそらく数日振りに水面へと浮上した。

―――ええと、前は何を考えたんだっけ?

 しばし振り返り、家族や仲間の先行きを憂いたことを思い出した。そしてその懸念もさしあたっては晴れた。

―――あとは、孫呉そのものの行く末か。

 曹操が、中原四州に河北四州までを併せた。これはもう、対抗しようがないほどの大勢力だった。しかし蓮華も冥琳も、戦いもしないうちに降伏などしないだろう。また曹操との戦になる。
 自分と冥琳が二人揃って勝てなかった相手に、今度は自分無しで立ち向かう事となる。果たして勝てるのか。
 今度は長江が主戦場となるだろう。水戦は一度動き始めてしまえば、簡単に仕切り直しというわけにはいかない。水戦では野戦よりも、準備と作戦が勝敗の要となる。一瞬の閃きに頼る自分とは違って、冥琳が最も得意とする戦だった。曹操も多分、その点においては冥琳に及ばない。加えて水戦に関しては、一日以上の長が孫呉にはある。

―――勝てるかもしれない。

 何とも胸の空く話だった。出来得ることならこの目でその光景を見たいものだが、それは望み過ぎというものだろう。
 意識が水面から遠退いていく。雪蓮は穏やかな流れに心静かに身を任せた。

 再びの浮上は、やはり数日の間を置いてだった。

―――これで最後ね。

 前回までよりも水面がいくらか遠い。意識が覚醒するほど浮上出来るのは、これが最後という確信があった。それにきっと、長くはもたない。

―――ええと、思い残すことは。

 家族のこと、仲間のこと、孫呉のこと。いずれも勝手な空想でしかないが、それなりに明るい未来を思い描けた。

―――あとは、自分自身の事か。

 ざわりと、穏やかだった心にさざ波が立った。
 短いながらも峻烈に生き切ったという思いもある。しかし思い浮かぶのは、やはり曹操からの敗戦と、その悔しさだった。こればっかりは、代わりに冥琳が勝ってくれるからと、払拭出来るものではないのだ。
 光が、遠くなろうとしている。再び、水底へと思考が沈んでいく。
 雪蓮は、ここに来て初めて手足に力を込めた。

―――負けたまま、終われるか。

 もがいた。両の手で水を掻く。水はするすると指の間からすり抜けて、少しも浮上を助けてはくれない。それでも、足掻き続けた。

「―――終わってたまるか」

 声が出ていた。

「雪蓮っ」

 声が、聞こえもした。懐かしい声だ。
 しかし、水面は遠い。足掻いても足掻いても、届きそうにない。
 遠い水面から、手が伸びた。雪蓮も、手を伸ばす。掴んだ。引き寄せられる。だが、光は見えない。暗い水中に囚われたままだ。

「雪蓮っ」

 また懐かしい声がした。すぐ近くだ。しかし視界は一面の闇だった。
 雪蓮はふと、自分が目をつぶっていることに気付いた。ゆっくりと目蓋を開く。

「雪蓮」

 声のする方へ視線を向けると、涙をこらえるような表情の冥琳がいた。胸元に、雪蓮の手が抱き寄せられている。実際にはまったく耐え切れずに、滂沱とあふれ出た涙が雪蓮の手の甲を打った。

「ふふっ、冥琳、なあにその顔」

 冥琳の表情がおかしくて、思わず雪蓮は笑みを漏らした。

「ようやく目を覚ましたかと思えば、開口一番にそれか」

 冥琳が憮然とする。それでもやはり、涙はとめどなく零れ落ちてきた。
 冥琳が、幕舎の外に声を掛けた。人がばたばたと動き回る気配が伝わってくる。

「さすがにもう駄目かと思ったのだけれど。我ながらよく助かったものね」

「まったくだ。太史慈の処置が適切だったのと、―――覚えているか、華陀を?」

「ああ、あの明命を助けてくれた医者ね」

 流浪の神医として知られた人物だった。
 以前、蓮華が山越―――江東に暮らす異民族の総称―――の叛乱軍に襲われたことがあった。その時護衛に当たっていたのが明命で、蓮華をかばって全身にいくつも傷を負った。やはり生死の境を彷徨うような重傷であったが、偶然にも近くに居合わせた華佗の治療を受けることが出来た。今では、ほとんど傷痕も分からない。

「すると、華佗が私を?」

「ああ。江南の風土病を調べるために、長江の川沿いを旅して回っているらしい。折りよく戦場に通りかかり、負傷者の治療のために立ち寄ってくれたのだ。実に幸運だったな」

「そう、彼が助けてくれたのね。礼を言いたいわ、呼んでくれる?」

「それが、三日前に雪蓮の状態が安定したと見て、去ってしまった。せめて雪蓮の目が覚めるまで留まるように言ったのだが、後は本人の気力次第、自分に出来ることは何もないと言い張ってな」

「気力次第、ね」

「場合によってはそのまま寝たきりで、衰弱死も有り得るという話だったのだぞ」

「ふうん。それより、三日? 私は一体何日寝ていたの? うわっ、腕ほそっ!」

 体の状態を確認しようと冥琳の顔から視線を落とすと、まずは引き寄せられた腕が目に入った。

「十日だ」

「十日も寝たきりでいると、こんなに筋肉が落ちるのね。これじゃあ、水を掻いても掻いても進まないわけだわ」

「水?」

「こっちの話よ。しかし今回は、曹操に助けられたわね」

「曹操?」

「それもこっちの話よ」

 確かにあの時、自分は死に向かっていた。助かったのは華佗と冥琳、そして曹操のお蔭だった。

「人に心配を掛けておいて、何やらすっきりした顔をしているな」

「そうかしら? まあ、やるべきことははっきりしたわね」

 戦場で曹操に、敗戦の屈辱と今回の恩を返す。ぐちぐちと思い悩むのはもうやめだった。

「――――、――――!」

 がやがやと複数の人声と足音が近付いてくる。その中に妹達の声を聞いて、雪蓮は小さく笑みを漏らした。



[7800] 第9章 第5話 鄴
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/09/11 12:00
 小型の快速船で水際を進んだ。
 小型船には帆柱は備え付けられておらず、どころか櫂を漕ぐ人夫もいないが、船は実に軽快に川を遡上する。地上を並走する白鵠と絶影―――背に誰も乗せていない―――はさすがにまだ余裕がありそうだが、虎士の馬は次第に遅れ始めた。
 普通の快速船では人夫を選りすぐり、川の流れに乗っても、一刻に二十里(20km/h)には届かない。これは逆流でもその倍は出ている。

「これは、すごいわね。これほど速い船は荊州は言うまでもなく、孫策軍にもないでしょう」

 狭い船内に立ち上がり、華琳が手放しに褒め称えた。曹仁は片手で船縁に捉まり、もう一方の手で華琳の手首を取った。ひどくはないが船上はそれなりに揺れる。

「ウチがやってもこれだけの速さは出ません。春蘭様にも試してもろたけど、微動だにせえへんか、船尾が跳ね上がって転覆するかのどちらかでしたわ。この速さを維持しつつ、さらに方向転換に減速も自在なんは、凪だけです」

「私も、そう長くはもちません。この速さですとせいぜい四半刻でしょうか」

 真桜の解説に、凪が言い足す。
 船上には縦一列に先頭から季衣、流流、華琳、曹仁、真桜、沙和、凪の七人が並んでいて、それだけでもかなり窮屈であった。乗船人数は無理をして十人までだろう。そして、船尾の凪は固定である。

「貴方の使う螺旋槍を、応用したのだったわね、真桜?」

「そうです。ウチの槍がどりるで、これが、えっと、何やったっけ、曹仁様?」

「スクリュー」

「そうそう、そのすくりゅう言うもんを、凪が氣で回転させとるわけです」

 船の船尾からは、ちょうど槍の柄のようなものが飛び出ている。凪が真剣な顔でそれを握り締めていた。
 華琳が水軍の調練を始めると聞いて、曹仁はちょっとした思い付きを真桜に語った。螺旋槍―――氣を原動力とするドリルに柄を付けた真桜の得物―――が可能ならば、同じような機構で船の推進機が作れるのではないか、という安易な発想である。二ヶ月余りも洛陽で華琳との甘い生活を送る間に、当の曹仁はすっかりと忘れていた。それが、現実の物となっていた。
 現在の速度と安定性を得るためには、羽の形を数十回も調整し、試運転を繰り返したという。無責任な発言を申し訳無く思いながらも、凪の氣という異能の助けがあるとはいえ、遥か未来の技術を再現して見せた真桜にはただただ感心するばかりだった。

「ボクもやってみたい」

「ウチは構へんけど、―――華琳様、よろしいですか?」

「そうね。私が乗る場合を想定するなら、虎士の誰かが動かせると便利ね。他の者も含め、試してみなさい、季衣」

「では一度お停めしますので、皆さんはお降り下さい。春蘭様のように転覆させる場合もございますから」

 快速船が見る見る速度を落として行く。減速の際は、逆回転の氣を送ることでスクリューを逆回りさせるらしい。
 氣は本来体内を巡り回るものだから、一定の回転方向を有する。それが真桜の仕掛けと重なることでスクリューの回転を生む。そして氣の扱いに長けた凪の場合は、意図的に逆回転の氣を練ることが可能で、前進も後退も自在だった。

「あら、貴方は試さないの?」

 停止した快速船から一番に降りると、華琳が意外そうに問うた。

「俺に氣での操縦は無理だ」

 続いて下船する華琳に手を貸しながら答える。

「ふうん。でも明け方の修練の後に、よく凪の真似をして氣を撃ち出そうとしているじゃない」

「……お気付きでしたか」

「ええ」

 頬を紅潮させる曹仁だが、華琳は軽く流してくれた。幸いなことに現実に凪のような使い手がいる以上、氣弾の練習は嘲笑の対象にはならない。
 朝晩の槍の修練を日課とする曹仁であるが、最近ではその前後に凪から教わった内功―――氣―――の鍛錬を行うようにしていた。といっても座禅や立禅を組むわけではなく、呼吸と丹田に意識を置きながら短い無手の套路を行うだけである。これをするとしないとでは槍を一息に突ける回数が一、二回は違う。呼吸が深くなるのと、正中線が崩れにくくなるためだ。とはいえ肝心の氣に関しては、未だに何となく丹田に熱―――あるいはという錯覚―――を感じなくはない、という程度に留まる。
 そんな氣に関しては素人同然の曹仁だが、朝の澄明な空気の中で内功を練っていると、つい試してみたくもなるのだった。

「…………」

 視線を感じて目を向けると、華琳に次いで下船した沙和と真桜がじっとこちらを見つめていた。

「ほへー、何だか華琳様と曹仁様、前よりずいぶん仲が良くなったみたいなのー」

 沙和が目を輝かせながら言う。

「―――っ、そ、そんなことはないんじゃないかしら? 従姉弟同士だもの、これくらいは普通よ」

「前の曹仁様なら、船を降りる時にわざわざ手を貸したりしないと思うの。それに、華琳様も手を借りなかったと思うのー」

「そ、そうだったかしら? 仁も少しは臣下としての振る舞いがなってきたということかしらね」

「せやけど、まだその手、繋いだまんまやし」

 取り繕う華琳に、真桜が追い打ちをかける。

「―――っ、そ、そうよ、仁っ。貴方、いつまで私の手を握っているの、早く放しなさいっ」

 強引に手を振りほどくと、華琳は曹仁に背を向け、快速船の運転を試みる季衣達の方へと逃げていった。

「ウチら、なんやまずい事言うてもうた? 華琳様、お怒り?」

「いや、大丈夫。気にしないでくれ」

 二ヶ月の間にだいぶ距離感が麻痺してしまった曹仁と華琳だった。
 一刻(30分)ほど掛けて代わる代わる試乗した結果、やはり勘が良いのは季衣と流流の二人であった。凪のように自由自在とはいかないまでも、直進させるだけなら問題なく動かしている。単独での運転は無理でも、櫓手と組み合わせれば十分実用にも耐えられそうだ。
 練習を続ける季衣と流流、それに教官として凪は水辺に残し、他の虎士の面々を率いて帰りは騎馬となった。工事の視察も兼ねている。
 船から離れると、水音にまぎれて聞こえなかった工兵達の掛声や槌音が、耳に届いた。
 許へ帰還した華琳はその地に長く留まることなく、文武百官を引き連れて鄴へと移動し、予め派遣されていた真桜の工兵隊と合流した。宮殿を接収し、麗羽の使っていた謁見の間に執務室、私室はそのまま自らの物とした。陳留、許に続く曹操軍第三の都市の誕生である。
 鄴は元々が袁紹軍の本拠地であったから、曹操軍が改めて手を加えるまでもなく街は整備されている。袁紹軍の降伏により河北は穏やかに曹操軍へと手渡され、戦火が及ぶことも無く、民の離散もなかった。併合と同時に鄴は曹操領最大の都市となった。
 都市開発は不要ながら、先刻より工兵隊の立てる騒音は引っ切り無しに続いていた。鄴の近郊に玄武池と名付けられた巨大な人工の池が建造されているのだ。水軍の調練場である。
 場所によっては騎馬や歩兵での渡渉も可能な河水と違って、長江は常に大水を湛えている。この先に控える孫策軍との初戦はどうあっても水戦となる。南船北馬の言葉通り、江南の人間は普段から長江とその支流で船に親しんで暮らしている。水軍の練度は比ぶべくもなく、少しでもその差を埋めるために船の建造と調練は急務であった。浮上したのが調練場の問題で、長江と比べ川幅が狭く、土砂の滞留も多い河水では喫水の深い大型船の調練はままならない。そこで河北を平定するや華琳が建設を開始させたのが、玄武池である。
 鄴には元々、漳河と河水から水を引く大運河西門渠が存在している。かつては貧困な大地であった冀州が今や一大穀倉地帯とされるのも偏にこの運河による灌漑故である。運河を建設した戦国時代の魏の篤政家西門豹は華琳も尊敬する人物であり、鄴に入るや無数に存在する彼を奉った祠の整備を命じるほどだった。玄武池はこの西門渠の溜池の一つを増築して作られており、当然農業用水の供給源の役割も兼ねていた。

「これは壮観だ。うちの工兵にはいつも感心させられるが、よく二月でここまでのものを作れるもんだ」

 近付いて見ると、まだ水が引かれていない玄武池の底までは三丈(9メートル)以上もある。大型船の喫水を考えると、これくらいは必要ということだろう。

「そやろそやろ? もっと褒めてくれてええんやで。出来れば形で頂けると有り難いんやけどな」

「そうね。快速船も良い出来だったし、来月の開発費に少し色を付けようかしら?」

「おっ、言うてみるもんやな。大将、ありがとうございます」

 華琳が言うと、真桜が破顔した。
 異能の職人集団と化した工兵隊には、給金とは別に新兵器の開発費も支給されている。
 白騎兵や虎豹騎の軍袍に利用されている鉄糸を編み込んだ防刃布や投石機、製鉄技術の向上、それに今回の快速船等は当然真桜達の発明開発による。他にも細々としたものをあげれば切りが無いし、兵器以外でも農具の開発や主要都市を繋ぐ街道の整備、果ては張三姉妹の舞台装置なども作製している。もはや曹操軍に取ってなくてはならない存在だった。
 一方、成功の裏には同じく失敗した作品も数多あり、文官達とは開発費の支給額を巡っていつも言い争っている。

「――――」

 城の方から、かすかに鐘の音が聞こえた。時報である。曹操領で施行されている時を知らせる鐘の音は、さっそく鄴にも導入されていた。日出(6時)から日入(18時)までを一辰刻(4刻=2時間)ごとに区切り、合計七度鐘が鳴らされる。
 今のは、朝から数えて三つ目の時報だ。

「時間ね。戻りましょう」

 華琳が城門へ絶影の馬首を向けた。

「開発費の件、忘れんといて下さいねーー」

 そのまま工事の監督に就く真桜を残して、一団は駆け去った。
 玄武池から鄴の城まではほんの数里の距離である。華琳に曹仁、護衛に虎士であるから、最初小さかった鄴の城郭は見る間に視界を埋めた。沙和もさすがに将軍だけあって悪くない馬に乗っている。わずかに遅れながらも付いてきた。
 城門前に数十騎の集団が見える。巨馬に跨った大男と、それに寄り添うやはり巨馬に乗る少女の姿が取り分け目を引いた。

「曹操殿」

「―――そのままで構わないわ」

 蹋頓がその巨体を馬から降ろそうとするのを、華琳が制止する。

「では、馬上にて失礼致します。私はこれより北へ参ります。従妹のこと、よろしくお願いいたします」

「ええ、楼班は大切にお預かりする。吉報を待つわ」

 烏桓の地では、蹋頓に代わる単于が複数立っていた。それは当然、蹋頓によって次期単于と定められていた楼班ではない。
 元々、烏桓の単于には血筋よりも力が求められる。戦に負けて漢族の虜囚となった蹋頓に単于の資格無しと、各部族の主だった者達が騒ぎ立てた。そして遂には自ら単于を名乗る者達が現れ始めたのだ。蹋頓自身、自らに対する糾弾はもっともなことと受け入れており、単于の地位への未練もないようだが、楼班の次期単于の座だけは譲れないという。
 そこで、すでに麗羽に代わって蹋頓との盟を交わしていた華琳は、楼班を押し立てて長城を越えての遠征を計画していた。
 蹋頓は遠征軍に先んじて烏桓の地に入り、味方となる者を募るという。曹操軍の援軍があるとはいえ、中核には蹋頓あるいは楼班自らが率いる烏桓の軍勢が無ければ、いくら戦で勝ったところで烏桓の民の支持は得られない。
 官渡での決戦で蹋頓が率いた二万。これは各部族からは切り離された蹋頓の直属で、蹋頓の捕縛後は指揮を失いばらばらと烏桓の地へと逃げ去っている。当然彼らは、今は各々の出身部族の兵として吸収されてしまっている。
 蹋頓に残った手札は、楼班の護衛として袁紹軍本陣へ下げていた百騎のみであった。これまでにその百騎をいくつかの隊に分け、順次烏桓の地へと送り込んでいる。彼らの働きかけで、直属の二万のうちの半数ほどは蹋頓の呼び掛けに応じる公算が高いという。全体でおおよそ六万とされる烏桓の兵力の内の一万である。兵数としては決して多くないが、蹋頓が育てた兵は他の烏桓兵とは練度が数段違う。一万は十分に戦の主力足り得るだろう。

「よろしくお願いします」

 蹋頓の隣で楼班も頭を下げた。
 楼班は年齢以上に幼く儚げな少女で、見た目の印象からは烏桓族らしさは感じられない。不釣り合いな巨馬に跨っているのは、途中まで同道して見送るつもりか。
 烏桓へ旅立つ蹋頓に対して、楼班は曹操領に留まり学校へ通うことが決まっていた。態の良い人質と見えるが、漢民族の文化に関心の強い楼班本人からの達ての希望であった。
 九歳から一二歳までの少年少女のための学校に通うには楼班はいささか年長であるし、単于の娘だけあって異民族とはいえ最低限の学識は修めている。楼班は単に勉強を習いたいというのではなく、学校という仕組みそのものを体感してみたいらしい。学問自体はそれとは別に稟が教官として付いていた。

「もう少し、話をしたかったが」

 曹仁は、蹋頓に声を掛けた。
 ここ数日、幾度かの歓談を交わし遠乗りにも一度出掛け、蹋頓とはかなり打ち解けている。

「次の機会は、そう遠くは無かろう。我らも近く御力をお借りするし、曹操軍の戦となれば我らからも援軍に参るのでな。もっとも水軍の戦では、大してお役に立てないだろうが」

「なに、それは俺も同じこと」

「貴方は今から水軍の戦いも覚えなさい! 何のための玄武池だと思っているのっ」

 横で聞いていた華琳が、怖い声を出す。曹仁がおどけて首を竦めてみせると、笑いが起こった。

「それでは、袁紹殿にもよろしくお伝えください」

 さすがに堂に入った仕草で蹋頓が馬首を巡らせる。

「私も、少し先まで見送って参ります」

 楼班もそれに続く。
 脾肉の締め付けだけで巧みに馬を反転させている。そこはさすがに単于の娘だった。

「―――さてと。仁、この後部屋を片付けるから手伝いなさい。麗羽の無駄な私物が多いのよ」

 走り去る一団を望みながら、華琳が言った。

「ああ、わかった。―――?」

 沙和の何か言いたげな視線に曹仁は気付いた。

「……また、何か?」

 華琳に聞かれないように、曹仁は静かに馬を寄せ、小声で沙和に問い掛ける。

「前なら華琳様、そういうのは女同士で秋蘭様達に命じていた気がするのー」

 やはり距離感のおかしい曹仁と華琳だった。





「仁っ、貴方護衛なのだから、あんまりうろうろするんじゃないの」

「……はい」

 新兵の調練があるという沙和とは城門のところで別れて、城内を視察がてら宮殿へと向かった。絶影と白鵠も虎士に預けて先に帰らせ、護衛は曹仁だけである。

「……もう、困った子ね」

 注意した後しばらくは大人しくなるが、少しすると繋いだ手が引っ張られる。溜息交じりにこぼしながらも、引かれるままに華琳は足を進めた。
 数日前に訪れたばかりの鄴には、華琳と曹仁の顔を知る者もほとんどいない。曹仁には具足も外させて剣を佩いているだけだから、案外こうして普通にしている方が危険は少ないかもしれない。周囲からはこの地を治める君主とその護衛の将軍などではなく、ただの仲の良い姉弟か恋人同士にでも見られていることだろう。

―――あるいは、若い夫婦かしら?

「っと、悪い。……どうかしたか?」

 華琳が立ち止まると、当然手を繋いだ曹仁は引き止められる。

「何でもないわ。さあ、気になる店があるのなら行きましょう。―――そこの店ね?」

 覗き込もうとする曹仁の視線を避け、華琳は率先して前に出た。

「ああ。―――おやじさん、こいつは生のまま食べられるか?」

 ものの数歩で店先に着くと、店頭の商品を指し曹仁が尋ねる。
 鄴の城内には海産物を扱った店も多い。魚の干物や塩辛、昆布―――食材というより主に生薬として服用される―――、それに干し鮑などに加えて、時には生魚の類を見かけることもあった。先ほどから曹仁が軒先を覗き込んで回っているのも、そんな店々である。
 鄴の北を流れる漳河―――西門渠にも水を運ぶ―――は河北最大の河川海河の支流の一つである。海河は読んで字の如く海へと繋がる河川であり、その河口は渤海に存在する。漁業の盛んな渤海で取られた海産物が、海河の水運を利用して大都市鄴まで運び込まれるのである。
 洛陽も河水を通じて渤海へ続いてはいるが、距離が遠く、輸送路も活発ではない。海産物は乾物ぐらいで生魚の類は目にした覚えはなかった。

「生で、ですか? いやあ、腹を下すんじゃないですかねぇ?」

 曹仁の問いに、店主が自信無さ気に答えた。

「そうか、ありがとう。邪魔したな、―――そこの塩辛を一つもらおうか」

「はいっ、まいどありっ」

 威勢の良い店主の声に見送られる曹仁の顔は落胆をのぞかせている。

「そんなに生魚が食べたいの?」

「俺自身が食いたいってのもあるけど、皆に食わせたいって方が大きいな」

 鄴に海産物が多く出回っていると知った時、曹仁が生魚を食いたいと言い出した。発言は一門の皆からは大顰蹙を買い、あの季衣すら気持ち悪いと眉をひそめた。

「根に持つわね。生魚を切っただけなのでしょう? さすがに私もちょっと」

 好奇心旺盛な方だし、つまらない偏見に捉われるつもりもない華琳をしても気が引ける。

「食ったら絶対旨いんだって。俺の国では普通に食われているんだから。むしろちょっとした御馳走なぐらいで」

「はいはい。まあ、新鮮な魚が手に入ったなら、少しくらい付き合うわよ」

「これは生きたままの魚を運んでくるよう、特別に注文するしかないかな。いや、いっそ海まで行ってみるか。―――そういえば、華琳は海を見たことは?」

「ないわね。貴方は、確か四方を海に囲まれた国で生まれたのよね?」

「ああ。この世界で言う倭国だな」

 漢王朝の朝貢国の一つである。といっても光武帝の時代から数十年に一度の進貢があるだけで、国交があるとは言い難い。
 先刻別れたばかりの蹋頓の烏桓が北狄なら、倭国の人間は東夷ということになる。漢の人間からは蔑称を持って呼び習わされる異民族である。

「天の御使いが東夷の出というのも、なかなか洒落が効いた話ね」

「……あまり公言しない方が良いか?」

「別に構わないわよ。倭国などと言われても大抵の人間には通じないわ。朝貢の記録は残っているから、太史寮の役人で勉強熱心な者には分かるかもしれないけれど」

 華琳自身、朝廷の記録を漁って倭国が朝貢国であることを最近知ったのだ。よほど博学な者でないと名も知らないだろう。

「あれ、でも魏志倭人伝って書があったよな。……いや、あれはこの時代にはまだないのか? そういえば七雄の魏は海沿いじゃないし、魏って三国の魏か?」

 聞き慣れない書名を口にした曹仁が、一人思案顔でぶつぶつと呟く。
 曹仁の知識は流流や真桜を通じていくつかの料理や発明品を生んでいるが、近い未来の話などは詳しく知らないようだし、華琳自身も深くは聞かないようにしていた。出会った当時の曹仁の反応から―――加えて現状の自身の境遇からして―――曹孟徳の名は間違いなく歴史に刻まれるのだろうが、その結末を知って小器用に立ち回りたくはないし、何よりそれでは詰まらない。

「まあ、懸念があるのなら、日本、だったかしら。口にするときはそちらの名を使いなさい。日の本というのは、この上なく天人の生まれ故郷に相応しい響きだわ」

「ああ、そうするよ」

 益体も無い思索を打ち切って、曹仁が答えた。

「それにしても、海ね。河北も手に入れたことだし、一度くらいは視察に行ってみても良いかもしれないわね。烏桓の地へ遠征に出れば、近くも通るでしょうし」

 中原四州のうち徐州の東辺の一部は海に接しているが、それはあまり大きな意味を持たなかった。河北四州では幽州、冀州、青州をもって広大な入り江―――渤海―――を形成し、漁業と製塩は経済を支える基盤産業の一つでもある。

「その時には日本料理をご馳走しよう。…………あれ、烏桓への援軍、華琳自ら出るつもりなのか?」

「いけないかしら? 蹋頓だって、自分で兵を率いて来ていたじゃない」

「それはそうだけど、長城を越えて出るのはなぁ。てっきり俺と霞辺りに任せて、華琳は荊州の戦の方へ介入するつもりかと」

 孫策軍が黄祖を破り夏口を手に入れた情報が届いたのは、つい先日のことだ。
 孫策は伏兵に襲われ、一度は生死の境を彷徨ったという。床を払った孫策はすぐさま猛攻に転じ、三日のうちに黄祖の籠もる砦を陥落させている。本拠地夏口に逃れた黄祖に対して、周瑜率いる水軍がまず長江の水上を制圧し、次いで陸上からやはり三日で孫策が城を抜いた。孫策軍の仇敵黄祖はここでも水陸両面からの包囲を脱し、今は荊州牧劉表のいる襄陽郡まで後退している。黄祖という男はよほど命に縁があるらしい。
 一方、黄祖とその軍を夏口から退けた孫策軍は、長江を完全に支配下に置いた。長江南北を分断し、荊州軍主力の集う北の襄陽は捨て置き、南の各郡の併呑を開始している。このまま放置すれば荊州南部、どころかいずれは長江以南の土地は残らず孫策軍のものとなるだろう。

「孫策軍とやり合うには、水軍の調練が足りないわ」

 前回、不意打ちのような形で戦に勝利したが、孫策に関しては反董卓連合で轡を並べた時から侮れないものを感じていた。真っ当な戦になれば必ずしも勝てるとは言い切れない。少なくとも戦場の機微を読む力は、自分より上だろう。前回の戦でも敗戦と見定めるや速やかに退却を開始した。それで、孫策軍はほとんど兵力を損なっていない。
 華琳は危地に陥った時、持ち前の負けず嫌いが頭をもたげ戦闘に固執してしまう自分を自覚している。汜水関で呂布とぶつかった時、同じく呂布の赤兎隊に本陣へ乱入された時、いずれも蘭々や季衣の助けが無ければ大敗を喫していたかもしれない。孫策も負けん気の強い人間だが、それが戦場での判断を曇らせていない。その点において、自分は孫策に劣っていた。
 桃香とは志と志のぶつけ合いだが、孫策とは単純な戦の勝負だ。盤石な軍勢をあつらえ、戦に臨むつもりだった。そのためには、孫策軍に勢力を固める時間を与えても惜しくはない。口にこそ出さないが、それはむしろ望むところですらあった。

「華琳って好きなものから箸を付ける性質だと思っていたけど、最後に取っておくこともあるのな」

 曹仁がこちらの考えを読んだようなことを言う。
 話しながらも足を動かし続ければ、やがて鄴の宮殿が見えてきた。宮門の造りは大きく華やかで、陳留、許のそれとは比較にならず、洛陽のものより豪奢なくらいだった。

「これ、どうする?」

 人波を抜けようというところで、曹仁が繋いだ手を揺するようにしながら言った。

「別に構わないのではない? 手を繋ぐぐらいは、ただの従姉弟同士の頃にもあったことでしょう」

「いやあ、この繋ぎ方はさすがに」

 言われて、改めて意識を向ける。指と指を絡ませる手の繋ぎ方は、確かに以前には見られなかったものだ。

「そ、そうね。一応、放しおきましょうか」

「……もう、隠しておくのも限界なんじゃないかなぁ」

「うっ、うるさいわねっ、分かっているわよ」

「照れ臭いのは俺も同じだが、俺はもう覚悟を決めてるぞ。まあ、反対するのは荀彧ぐらいのもので、他の皆は認めてくれるだろう。春姉は、ちょっと読めないけど」

「分かっていると、何度も言わせるんじゃないのっ。機をうかがっているのだから、貴方は大人しく待っていなさいっ」

 言いながら、曹仁を捨て置く様にしてずんずんと宮門へ向かう。放した手からは急速に温もりが去っていく。

―――まったく、少しは二人の気持ちも考えなさいよね。

 言い出し難いのは、照れ臭いからだけではすでに無くなっている。
 幸蘭と蘭々から想い人を奪ったようで、罪悪感がうずく。自分にこんなに少女らしい感情があったことは驚きだが、それも曹仁への恋心を自覚したからだった。以前の華琳ならば、他人の失恋の痛手になど気を配りはしなかっただろう。漠然と感じていた二人から曹仁への愛情を、今ははっきりと認識出来てしまうのだ。
 姉妹からの好意に、曹仁も気付いていない筈はない。それも含めて覚悟を決めたと言っているのだろうが、想像するだに胸を締め付けるこの痛みを本当に理解しているのか。大方、家族愛の延長などと軽く考えているに決まっている。

―――つまり、全部仁が悪い。

 考えていると段々腹が立ってきて、照れ隠しだった怒気は次第に本物へと置き換わっていった。




[7800] 第9章 第6話 江陵
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/10/09 23:25


「おおっ、劉備殿。よくぞ来て下さった。関羽殿、張飛殿、趙雲殿に、諸葛亮殿、龐統殿も皆ご無事ですな? 心配しておりましたぞ」

 劉表は謁見の間の入り口まで出迎えに来ると、桃香の手を取って中へと誘った。
 桃香が踏み入ると、室内には荊州が誇る文武百官が列を成し待ち受けていた。
 桃香は、かつて華琳から朝議に向かう道すがら聞いた話を思い出した。
 天子南面、臣下北面と言って、玉座は南を向いて置かれ、臣は北面してそれに対するのが古来よりこの国の伝統であった。そして南面する天子から見て、日が昇る東に当たる左に文官が、日が沈む西に当たる右に武官が並ぶ。武よりも文を貴ぶ、これも中華の古くからの慣わしである。
 そんな友人と交わした些細な雑談に思い至ったのは、桃香の目から見て右―――玉座から見て左―――の列が目を引いたからだ。左に比べて極端に長い列を成している。並ぶ人間も右は威勢が良く、横柄な視線を桃香達に向けてくる。劉備など、しょせんは在野の武人に過ぎないという蔑みを感じさせる目だ。加えて、左列の先頭にいる軍の総司令官蔡瑁も武よりも文の人間である。
 曹操軍を含め様々な陣営を覗いてきた桃香であるが、この乱世にあってなお武を軽んじる空気はこの荊州ならではだ。いや、乱世にあるからこそ、殊更に文を偏重して見せているのが今の荊州というべきだろうか。

「――――――」

 そんな気位の高い文官達が、にわかに視線を伏せた。
 背後を振り返ると、愛紗達に続いて朱里と雛里が謁見の間に足を踏み入れたところだった。
 前回の孫策軍の侵攻時に、黄祖の元への援軍を拒む荊州の文官達を朱里と雛里が論破している。孫策の狙いは親の仇である黄祖の首一つであり、徒に援軍を送って戦火を広げる必要は無い、というのが彼らの理屈であった。対して朱里と雛里は孫策の領土的野心を訴え、劉表に援軍の派遣を決定させている。
 朱里達の説得がなかった今回の侵略では、劉表は黄祖へ援軍を送らず、結果夏口を失うこととなった。加えて、その後の孫策軍の動きが二人の主張した孫策の野心を証明している。孫策軍は州都襄陽へ逃げ落ちた黄祖に追撃をかけることなく、夏口を自軍の拠点として固め、長江を支配下に置き、北岸にある襄陽から切り離された南岸の制圧に着手した。
 民の反抗もあり、孫策軍の統治はそれなりに難航しているようだ。劉表は弱腰で問題も少なくはない君主であるが、乱世の中にあってこれまで荊州を戦火から遠ざけてきたのは事実である。民の中には慕う者も少なくない。
 しかし長江を抑えられた現状、荊州軍は南岸に手を差し伸べることが出来ずにいた。荊州八郡―――北から南陽郡、章陵郡、南郡、江夏郡、長沙郡、武陵郡、零陵郡、桂陽郡―――の内、江夏郡以南の四つの郡及び江夏郡の南半分はもはや孫策軍の手に落ちたと言えた。
 大いに面目を失った形の文官達は、朱里と雛里とは目も合わせることが出来ない様子だった。居丈高な彼らが小さくなる姿に思わず桃香はくすりと笑みを漏らしたが、それを見咎める余裕も無いようだった。
 気の毒になって視線を外し、改めて左の列に目を転じると、見知った顔がいくつか微笑みかけてくれた。
 蔡瑁に続く次席の位置には黄祖。夏口で孫策軍に敗れ、この襄陽まで撤退した後も荊州第一の将の地位は揺らいではいないらしい。今は、襄陽とは漢水―――長江の支流―――を挟んだ北岸の樊城の守備に就いているという。今日は劉備軍を迎えるためにわざわざ襄陽まで足を運んでくれたようだ。
 黄祖よりもずっと後方に黄忠と厳顔の顔も並んでいる。愛紗達もその実力を認める将であるが、やはり今も厚遇はされていないらしい。

「さて、さっそくですみませぬが、劉備殿、貴殿らには江陵への駐屯をお願いしたい。孫策が北上を開始すればまず第一にぶつかることになろうが、引き受けてはくれまいか?」

「劉表様っ、江陵は今や防衛の最重要拠点。それを客将にお任せになるおつもりですか」

 玉座に着くや切り出した劉表に、蔡瑁が前へ進み出て口を挟む。

「劉備殿は客なれど、ただの客に非ず。天子様から皇叔と呼ばれた御方であり、我が同族である。これほど信を置ける方は他にはおらぬ。実力からしても関羽殿、張飛殿、趙雲殿の武勇は天下に知らぬ者は無く、諸葛亮殿と鳳統殿の神算は我らも良く知るところである。事実、一度は見事孫策軍を打ち払ってくれておる。江陵を委ねるに、何の不足があろうか」

「……はっ、出過ぎたことを申しました」

 蔡瑁は桃香へ恨みがましい一瞥を投げ掛けると、一礼して下がった。

「……ということで、いかがですかな、劉備殿?」

 劉表はしばし息を整えると、改めて切り出した。劉表は齢六十も過ぎ、心労も重なってか体調があまり優れない様子である。
 桃香が朱里と雛里へ視線を走らせると、朱里が一歩進み出た。

「江陵は要害というだけでなく、水運による物資の集積所でもあります。今は長江の交通を孫策軍に遮断されたとはいえ、その備蓄は膨大でしょう。客将である私達だけに委ねるとなると、蔡瑁殿が御心配されるのももっともな話です」

 桃香は頭の中で荊州の地図を思い描いた。夏口から長江沿いに西へ進むと江陵がある。そこから真っ直ぐ北に向かい、漢水にぶつかったところにあるのが襄陽と樊である。
 ここ襄陽にほど近い山中にある私塾で学んだ朱里と雛里にとって、荊州は馴染み深い土地だった。さすがに城邑の事情にも通じている。

「そこで、如何でしょう。劉表様には年頃の御子が、お二人いらっしゃいます。そのいずれかを守将にお立てになり、私達はその旗下に入るというのは?」

「私達ですか?」

 玉座の横に付き従っていた二人が驚いた顔をした。長子の劉琦と次子の劉琮である。

「若輩者の下に付くことになりますが、よろしいのか、劉備殿?」

「私は気にしません」

「そうですか。劉琮にはさすがにちと早かろう。劉琦よ、行ってくれるか?」

「はっ、皇叔の側で学んで参ります」

 劉琦が拱手して受けた。病弱と聞いているが、受け答えは快活としている。

「決まりだ。―――劉備殿、今宵は宴を用意しております。部屋を用意させますので、それまではどうぞごゆるりとお過ごし下され」

 晴れやかに笑う劉表に送り出され、桃香達は謁見の間を後にした。
 侍女の先導で通されたのは中庭を望む客室で、入り口をくぐるとまず客間があり、その先は寝室と大部屋に分かれていた。

「外に控えておりますので、何かあればお呼びつけください」

「ありがとう。―――朱里ちゃん、雛里ちゃん、ちょっと」

 侍女が退室するのを見届けて、桃香は朱里と雛里を大部屋の中程へ誘った。

「さっきの話だけど」

「さっきの話、と言いますと?」

 小声で切り出すと、朱里も声を潜めて受けた。

「うん。劉表さんは孫策さんが北上すればって言ってたけど、本当に攻め上ってくるのかな?」

「お続け下さい。何故そう思われますか?」

「うん、私が孫策さんなら、やっぱり華琳さんがいる長江の北に出るのは怖いな。ううん、孫策さんなら、それこそ望むところって軍を進めるかもしれない。でも周瑜さんがそれは止めるんじゃないかな。周瑜さんなら、狙うのは荊州の北部じゃなく、そのまま長江の流れをさかのぼって益州なんじゃないかなって」

「―――さすがです」

 朱里は満足そうに頷くと続けた。

「陸上の戦では、すでに曹操軍は無敵と言って良いでしょう。河北を併呑し動員兵力は三十万を超え、歩騎ともに練度は十分。まともにぶつかって敵う相手ではすでに無くなっています。今の状況で長江という最大の防壁を越え、あえて北岸の土地を一時確保することに周瑜さんが価値を見出すとは思えません」

「ならどうして、江陵駐屯を受けたの?」

「孫策軍よりも、もっと恐ろしい相手が来るからです」

「……華琳さん?」

 朱里は周囲を気にする様子で、小さく頷いた。

「なら、劉表さんにも教えてあげないとっ」

「いけません、桃香様っ」

 雛里が内緒話というには少し大き過ぎる声を上げ、慌てて口を抑えた。しばし呼吸を落ち着けてから、今度は静かな声で続ける。

「今度は私達が、黄祖将軍の立場に追いやられます。曹操軍への備えとして、江陵ではなく襄陽より北の邑―――恐らく宛か新野への駐屯を依頼されるでしょう。そして相手が乱世の覇者曹孟徳となれば、荊州の文官達はこぞって降伏を訴えます。そして劉表様は、それを拒み切れないでしょう。長く荊州のために尽力してきた黄祖将軍でさえ、孫策軍への贄とされたのです。私達など時間稼ぎの駒として、放置されましょう。そうなれば我らは曹操軍の領土と化した荊州の中、一城に孤立することとなります」

「でも私達は、劉表さん達を助けに来たんだよ。後方でただじっとしているだけなんて意味がない」

「ご心配されずとも、いざ曹操軍が至るとなれば私達は前線に送り込まれます。ですが、勝てません。今は、敗戦後の避難先として江陵を我が軍で確保しておくことです」

 朱里が続ける。

「桃香様が助けたいのは、劉表様ではなく荊州の民。それも華琳さんの政治に不安を抱える者達では?」

「うん、確かにそれはそうだ。私は別に、お偉い方たちを守りたいわけじゃない」

 乱世の中にあって束の間の平穏が保たれていた荊州には、覇道を標榜する華琳の支配地から移り住んだ者も多い。洛陽のある司隷や穀倉地帯の冀州を抑えて、今や荊州は中華で最大の人口を誇る州であった。

「だからこその江陵です。江陵は荊州北部では襄陽、樊に並ぶ要害で、物資も豊富。五万の民の受け入れも可能です。そして曹操軍がいくら大軍で押し寄せようとも、私達の兵力だけで一年は守り通せます。加えて長江に面しています。いざとなれば孫策軍の領分へ民を逃すことも出来ます」

「それじゃあ、劉琦さんを立てたのは―――」

「―――玄徳様」

 室外から声が掛かった。

「なっ、何かありましたか?」

 話を切り上げ、慌てて桃香が客間まで足を進めると、戸外の侍女の声へ返す。

「黄忠将軍と厳顔将軍が面会を求めておられますが、いかがされますか?」

「黄忠さんと厳顔さんが? どうぞお通しください」

「分かりました。皆さま、お入りください」

 おもむろに戸が開き、その影からひょっこりと顔が覗いた。黄忠でも厳顔でもなく、見知らぬ少女の顔だ。

「お姉ちゃんが、劉備様?」

 少女がちょっと舌足らずな声で言った。

「うん、そうだよ」

 戸惑いながらも、桃香は笑顔で返す。

「それじゃあ、そっちの黒髪のお姉ちゃんは、関羽様?」

「あ、ああ」

 いつの間にか桃香の護衛に付いていた愛紗も、困惑顔で答える。

「えっと、張飛様は?」

「なんなのだ?」

 鈴々が、寝室の方から顔を出した。

「わあっ! すごいすごいっ! 本当に、桃園の三姉妹だあっ!!」

 少女は室内に身体を滑り込ませると、両手を広げて歓声を上げる。

「これ、璃々。お行儀が悪いですよ」

 そこでようやく見知った顔が現れた。

「黄忠さん、この子は?」

「ごめんなさいね、騒がしくしてしまって。私の一人娘ですの。劉備様が来ると教えたら、どうしても会いたがってしまって。―――璃々、ちゃんとご挨拶なさい」

「はいっ。黄漢升の長子、璃々です。はじめまして、劉備お姉ちゃん、関羽お姉ちゃん、張飛お姉ちゃん。お会いできて嬉しいです」

 そこでようやく自身の不躾な行動に気付いた様子で、少女はぱっと身をひるがえして名を名乗った。

「私は劉備、字を玄徳。よろしくね、璃々ちゃん」

「うわぁ」

 目線を合わせて手を差し伸べると、璃々は嬉しそうに桃香の手を握った。続いて愛紗と鈴々も改めて名を告げると、さらに目を輝かせる。

「ほう。桃園の三姉妹の名は、さすがにここ荊州でも広く聞こえていると見える。璃々と申したな、私の事は何か聞いていないのか? 趙子龍と申す者だが」

「常山の昇り竜趙子龍!」

「ははっ、そうかそうか、ちゃんと知っていたか」

 星が機嫌良さ気に璃々の頭を撫でる。

「えへへ。―――あっ、そっちのお姉ちゃん達は、伏竜様と鳳雛様?」

「諸葛亮、字は孔明です。よろしく、璃々ちゃん」

「龐統、字は士元だよ。よろしくね」

 曹操領で学校の先生をしていた時を思い出すのか、朱里と雛里も優しく微笑み返す。
 璃々は、ここが曹操領でもまだ学校に通うような年齢には達していないだろう。桃香達を相手に初めこそ年相応に取り乱した様子であったが、一度落ち着くと年の割に随分としっかりしている。物怖じせず、受け答えは打てば響くという感じで、天性の愛嬌と才気を兼ね備えていた。

「先が楽しみなお子さんですね」

「ふふっ、もう少しおしとやかになってくれると助かるのですけれど」

 黄忠は誇らしげに微笑んだ。
 鈴々が璃々を連れて中庭に遊びに出ると、残った者で一別以来の近況を語り合った。と言っても孫策軍と戦を繰り広げた黄祖とは違い、襄陽に留まっていた黄忠と厳顔には取り立てて語るべき話題も無いようだった。必然的に劉備軍の動静が会話の中心となった。

「劉備軍がそんなにあっさりと。聞けば孫策軍も蹴散らされたというし、曹操とはそれほどの者か」

 厳顔が難しい顔をして唸る。
 荊州の将にとって敵と言えば孫策軍であり、それは手に余る強大な敵であった。その孫策を一蹴した華琳は、容易には想像も付かない存在であろう。

「焔耶ちゃんがいなかったら、私の命も無かったかもしれません」

「そうですか、焔耶の奴が役に立ったのなら良かった」

「ここにも連れて来れればよかったんだけれど」

「我が軍からの脱走兵の扱いですからな。良いのです、顔を見ればお小言の一つも言いたくなるだけですから」

 厳顔のどこか誇らしげな表情は、先刻黄忠が璃々へ向けた顔とよく似ていた。

「その後は私たちも知る通り、荊州で再び劉旗を掲げたというわけですね。今、劉備軍の兵力は?」

「曹操軍の追撃から逃れた兵が戻って来て、さらに志願兵が新たに加わって、むしろ敗戦前よりも増えて六千に近いです」

「ははあ、荊州の気骨ある若者を取り込まれましたな」

 黄忠の問いに正直に返すと、厳顔が訳知り顔で頷いた。
 儒学者劉表統治の荊州が学問の都と呼ばれるようになって久しいが、この乱世に武で身を立てようという人間はこの地にあっても一定数存在する。文官達から軽んじられ、黄祖以外は実戦からも遠い荊州軍に属する気になれないそんな若者たちが、劉旗の元にこぞって馳せ参じていた。

「なんだか、すいません」

「ふふっ、お気になさらなくてよろしいのですよ。兵に望まれぬ軍を作ってしまった、私達が悪いのです」

「ここだけの話、ワシも将軍などという地位におらなんだら、焔耶と共に劉備殿の元に走っていたかもしれませんな。はっはっはっ!」

 厳顔は不穏なことを堂々と口走ると、豪快に大笑して見せた。





「太公望の真似事か?」

 船が一層近付いて来て、船縁を擦り合わせるような距離で止まった。

「狙い通りの大物が掛かったようです」

 垂れ下げた糸から目を離さずに朱里は返した。
 江陵に軍を進め十数日、軍営にも慣れたところで兵に丸一日休息を与えた。転戦に次ぐ転戦に疲れた兵達は、江陵の街に繰り出し思い思いに自由を満喫している。
 将軍と軍師達も非番として、皆で長江に釣り船を浮かべていた。朱里と雛里が乗る一艘、桃香と鈴々、焔耶で一艘、愛紗と星の一艘で、合わせて三艘の小舟が水上に揺れている。船頭は周辺に住まう異民族の者で、鈴々を訪ねてきた沙摩柯に手配を頼んだ。桃香達の船の艪は、沙摩柯自らが取っている。

「お互い見事に負けたな」

 隣接した釣り船から、また声が掛かる。

「はい、完膚なきまでに」

 今度は雛里が返す。

「河北までを手に入れた曹孟徳には手の出しようがないと言っていたが、諦めたようには見えないな」

「周瑜さんの方こそ」

 言って、初めて視線を向けた。
 周瑜はこちらと同じく釣り糸を垂らし、どこにでもいる釣り人の装いだった。船頭をしているのは、河賊出身で隠密行動にも長けた甘寧である。当然甘寧もその辺りの漁師の扮装だ。
 釣り糸を垂らして半日。朱里と雛里は目当ての獲物をようやく釣り上げていた。

「我らにはこの長江がある」

「江南を孫家の天地となさいますか。曹操軍も、今は水軍の調練に力を入れているようですが」

「容易く追い付かれるような鍛え方はしていない」

 ぼそりと答えたのは甘寧だった。虚勢ではなく、水軍に関しては天下一と自認しているのだろう。

「長江を境として、天下を二分。まずは曹操さんと南北で中華を分け合うお積もりですね、周瑜さん」

「……」

 周瑜は答えず、しかし釣り竿から垂れる糸がわずかに揺れた。

「鼎の足は何本あるでしょうか?」

「ふっ、軽重ではなく足の数を問うか」

「二本足では天下は定まりません」

 鼎は古来中華で用いられた釜の一種である。祖霊に奉じる贄の煮炊きに用いられたことから神聖視され、周代には王権の象徴とまで見なされた。春秋五覇の一人に数えられる楚の荘王は、周王室に伝わる鼎の軽重を問うことで、簒奪の意志を示した。
 しかし、朱里が問うたのは鼎の重さではなく、その足の本数である。鼎は三本足で自立する特徴的な形状をしている。二本の足では釜を支えきれず、三本あって初めて安定を得るのだ。

「天下三分か。我らの同盟足り得る勢力があるなら、それも考えないではないがな。西涼の馬騰は曹操に付いたと聞くし、韓遂は信を置ける人間ではない。劉表などはすぐにも曹操に飲み込まれるだけだ」

 周喩の言葉は、孫策軍の今後の方針をほのめかしていた。劉表が曹操に飲まれるというのは、孫策軍はさしあたってこれ以上は手を下さないということだ。一方で同盟相手として益州の劉焉の名を上げなかったのは、これから攻め滅ぼすという意志の表れだ。朱里と雛里、それに桃香の読みは正鵠を得ていたらしい。
 周喩にしても口を滑らせたわけではなく、朱里達がこれくらいのことは察していると考えた上での発言だろう。
 同時に、流浪の劉備軍など候補にも上がらないと周喩は暗に告げていた。

「最後に、話せて良かったわ。諸葛亮、龐統」

 最後、という言葉を周喩は強調した。対曹操軍のために繋いだ手を離そうと言っている。朱里か雛里が別れの言葉を返せば、同盟とも呼べない不確かな関係は終わりとなる。

「荊州南部の制圧にはずいぶん時間が掛かっているみたいですね」

「……まあな」

 周瑜が憮然とした調子で答えた。同盟破棄の意図を受け流されたことが不快なのか。あるいは痛いところを突かれたからか。

「何故か民ばかりでなく、異民族の蜂起も頻発してな。その理由も、今日分かった気がするが」

 周瑜が朱里達の船の船頭を見ながら言った。

「ふふっ、さあ、なんのことでしょうか?」

「いくら水戦に自信があるからと言って、後方に不安を抱えたまま曹操軍を迎え撃ちたくはないはず」

 朱里がとぼけ、雛里が踏み込んだ。
 曹操軍と孫策軍の戦となれば、戦場は二箇所に絞られる。
 一つは長江から分かれた濡須水が北へ向かって伸びる揚州淮南郡であり、現在は曹操軍の支配下にある。濡須水は巣湖という巨大な湖へと通じ、巣湖からは淮水へと繋がる肥水が流れる。淮水は言うまでもなく河水、長江に次ぐこの国第三の大河である。孫策軍が水軍を防衛と侵攻の頼みとする以上、淮南郡の確保は攻守両面において最重要の課題となる。
 もう一つが、ここ荊州の南郡および江夏郡北部である。長江とその最大の支流漢水に挟まれた地域であり、やはり水軍を肝とする孫策軍には攻めるに易く守るに利のある土地だ。長江沿いに江陵、漢水沿いに襄陽と樊、そして二つの分岐点が夏口である。攻守の要となる夏口を孫策軍が抑えているだけに、火種としては淮南郡よりもこちらが大きい。夏口は孫策軍が唯一長江北岸に有する拠点であり、周瑜もここだけは曹操軍の大軍に囲まれようと放棄はしないだろう。
 曹操軍とそれに次ぐ大勢力へと成長した孫策軍の、最大の係争地に劉表がいて、その客将として劉備軍がいる。

「望みは何だ?」

 さすがに周瑜は察しが良い。
 孫策軍が荊州南部を抑えるまでの間、劉備軍が曹操軍に対する楯となる。そして統治の妨げとなっている異民族の叛乱も治まる。その代償を問うてきた。

「荊州には曹操軍の支配を避けて移り住んだ民も多いのです。彼らを江陵へと呼び集めます。そのうえで江陵の地を、もらっては頂けませんか?」

「夏口の防衛を考えても、江陵は互いに水陸で連携を取れる格好の地です」

 雛里が言い足す。

「劉琦の下に入ったのは、そのためか」

「はい。劉琦様なら劉表様の指示を突っ撥ね、民のために曹操軍と戦ってくれます」

 劉琦は劉表の長子であるが、荊州の文官連中とは折り合いが悪かった。蔡瑁が次子劉琮の叔父であり、劉表の後継を巡る争いがあるためだ。文官に押され劉表が曹操への降伏を決めても、劉琦は抗戦を望むだろう。抗戦の果ての降伏先に曹操ではなく孫策を選ばせるのも難しくはない。

「そうではないわね。劉備軍は、我らの傘下に加わるつもりはないということだろう」

 朱里と雛里は曖昧な笑みで返した。
 劉備軍はあくまで客将の立場を貫いている。城主の劉琦が孫策軍に帰順しようとも、それに縛られる理由はない。

「我らと曹操軍に江陵を奪い合わせ、その間、自由になったお前達はどこへ行くつもりだ?」

 朱里は無言で、船を浮かべた長江の上流へ視線を送った。

「我らより先に、益州を取るか。あくまで、天下三分にこだわるか」

 朱里は周瑜からの刺さる様な視線にしばし耐えた。隣で雛里が息を飲む音が聞こえる。

「……雪蓮とも相談したい。少し、考えさせてもらおう」

「それでは、十日後にまた船を浮かべます」

「――――――!!」

 ほっと息を吐いたところで、歓声が聞こえた。驚いて視線を向けると、桃香のいる釣り船からだ。
 鈴々が自身の身の丈ほどもある巨大な魚を、抱きかかえる様にして船上に抑え込んでいる。釣竿を握っているのは桃香で、疲労困憊の態で肩で息をしていた。

「草魚か。あれだけの大物は珍しい」

 甘寧が一言呟き、櫓を使い始めた。見事なもので、船影はすぐに遠ざかっていった。




[7800] 第9章 第7話 外征
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/10/30 20:31
「寝床の用意が出来たぞ」

「ご苦労」

 帷幕に人影が映り、外から曹仁の声が聞こえた。華琳は鷹揚に返した。

「蘭々、そんなもので良いわ。交代しましょう」

「俺は自分でするので結構です」

「毎日毎日同じことを言わせないでちょうだい。大切な妹に身体を拭わせておいてお返しもしないとあっては、私が幸蘭に怒られてしまうわ」

「ひゃんっ! ちょっと、華琳さまっ、やめっ」

「うふふ」

 湯に浸しかたく絞った手拭いで背筋を撫でると、蘭々が可愛らしい嬌声を上げた。

「あんまり蘭々をいじめるなよ」

「兄貴、ひゃっ、たっ、助けてっ」

「助けてと言われても。入って良いのか?」

「それはっ、……駄目だけど」

「じゃあどうしようもないな。―――華琳、ほどほどにな」

 声を残して、外の気配が消える。
 幽州で長城を越えて、すでに十日余りが経過している。
 楼班とそのお付きの兵の案内で烏桓の地を進み、三日前には蹋頓との合流も果たした。ここまでは何度か斥候隊との小競り合いはあったものの、大規模な戦には至っていない。蹋頓と漢族の遠征軍と対するため、烏桓の族長たちは兵力を集結させているという。今はその集結地へ向けて軍を進めていた。大軍を動かすのに向いた地形で、敵は決戦の構えで待ち受けているという。このまま進めば、二日後にはぶつかる予定だ。
 華琳自らの出陣に関して、当然反対の声も多く上がった。文官筆頭の桂花と軍の総大将春蘭も珍しく声を揃えた。反対を押し切っての出陣には、軍師としては唯一華琳に賛同した稟を伴い、率いる軍は騎馬隊のみとした。将軍にも曹仁と霞、虎豹騎を率いる蘭々と虎士の季衣と流流を連れるだけである。
 行軍は中原でのそれとは全く別物となった。当然街道など整備されているはずもなく、山に平野、わずかな森に砂丘までと地形の変化に富んでいる。雨は極端に少なく、数日乾いた岩山が続くこともあり、そうした土地ではあえて難路を選んで湧水を求める必要もあった。案内する者が無ければ二倍三倍の時を要したであろうし、渇きによって敵の一人にも会えないままに撤退もあり得ただろう。遊牧の民である烏桓は実に良く自分達の土地を把握している。
 騎兵のみでの強行軍には、普段中原の戦で使うようなしっかりとした幕舎を運ぶ余裕はない。野営の度、曹仁が華琳と華琳に近侍する蘭々、季衣、流流、稟、それに楼班のために樹間や石洞に天幕を張って寝所を整えた。曹仁や霞は、兵や馬と一緒に吹き曝しの中で寝ているらしい。その点では雨が少ないのは幸運とも言えた。
 そんな状況であるから、当然風呂はもちろん水浴びも満足には出来ない。野営になると曹仁が大釜に湯を用意してくれた。行水とはいかないまでも、顔と髪を洗い身体を拭うことは出来る。華琳と女性の将軍達、それに虎士の面々―――大半が女の武人―――にだけ許された特権である。自身は当然のように兵と起居を共にする曹仁であるが、華琳と妹の蘭々、そしてすでに妹分とも言える季衣と流流に対しては甘いのだった。

「あははははっ、流流、くすぐったいよっ」

「もうっ、季衣、動かないで」

「楼ちん、ウチらも洗いっこするか?」

「い、いえっ、大丈夫です。遠慮しておきます」

 帷幕の中に曹操軍の要職に付く女性が、稟を除いて全員揃っていた。楼班もいる。稟は半裸の華琳を目にすると決まって鼻血を噴くため、後ほど虎士達と共に使ってもらうことになっていた。
 季衣と流流は仲良く交互に背中を擦り合っている。霞は胸を揺らしながら豪快に背中を拭い、対照的に楼班は隅で小さな体をさらに小さくしていた。
 華琳は一門の中でも最も自分と似た肢体を持つ蘭々をしばし弄ぶと、衣服を身に付け幕外へ出た。ふらふらとした足取りの蘭々と、季衣に流流も付いてくる。

「何だか最近、兄貴にしては随分気が回るよね」

 寝所に入ると、蘭々が言う。
 天幕の内は火が焚かれ、外より暖かかい。長城を越えて数日過ぎた辺りから朝晩の寒暖差が激しくなり、夜はかなり冷え込むようになった。
 いつも通り、火を囲む様に華琳の分だけでなく人数分の寝床が用意されていた。これだけは十分に運んできた秣を布で包み、即席の寝台代わりとされている。

「そうかしら? 昔から幸蘭達に躾けられて女の扱いは悪くなかった気がするけれど」

「うん、兄ちゃん、初めて会った時から優しいよ」

「そうだよ。妹の蘭々だけじゃなく私や季衣にも良くしてくれるし」

「うーん。確かに義勇軍をしていた時も、俺や桃香さん達は出来るだけ屋内に泊れるように気遣ってくれてはいたかな。でも湯を用意してくれたり、寝床を整えてくれたり、昔よりずっと細かい気配りまでしてくれるようになったと思う」

 三人に否定され、蘭々が首を捻る。

「まっ、いいか。便利だし」

 言うと、蘭々は寝床に飛び込んだ。厚く敷いた秣は下手な布団よりも余程弾力があり、蘭々の身体が寝台の上で跳ね上がる。

「それ、面白そう。ボクもやるー」

「ああっ、こらっ、暴れないの、季衣」

 蘭々と季衣が騒ぎ立て、流流が制止役に回る。いつもの調子で夜は更けていった。
 翌日は、朝から山越えとなった。ぽつぽつと疎らに灌木が生えるのみの岩山である。
 騎乗のまま平然と山道を上って行く烏桓に対して、曹操軍の兵は時に轡を取って歩いて進んだ。

「馬の質にそれほど差があるとは思えないのですが、一体どうしたわけでしょうか?」

 稟が首を捻った。首筋にはすでに薄っすらと汗が浮かんでいる。旅生活が長く、馬術は文官の中ではかなり上等な部類であるが、さすがに今回の行軍はきつそうだった。

「馬術に対する考え方が違うようね」

「考え方、ですか?」

「つまり、―――蘭々、後は任せたわ」

 説明し掛けて、虎豹騎に指示を出す蘭々の姿が目に入った。虎豹騎の乗馬はいずれも良馬揃いであるが、唯一の重騎兵だけに進軍に手間取ることが多くなっている。

「はい。うちの兵と烏桓の兵の肩を見比べて、稟さん。何か気付かない?」

「はい。…………烏桓の兵の方が、上下に揺れている?」

 稟は目を眇めて先行する烏桓の集団を観察しながら答えた。

「正解。つまり、馬が跳ねているということ。中華では、跳ねる癖のある馬は調教で矯正してる。乗り心地が悪いし、下手をすると振り落とされてしまうから。それに、馬にも乗ってる人間にも無駄な体力を使わせる」

「烏桓ではその調教をしていないと」

「うん。だから平原の戦では烏桓の馬の方が多分消耗が早いし、馬の質が同等で真っ直ぐ一直線に駆けるだけなら中華の馬術が勝る。でも傾斜や起伏が激しいこんな道では、跳ねる方が効率的に進める場合も多い」

「なるほど。生活環境の違いが、馬術にも表れているというわけですね。さすが蘭々様、虎豹騎の隊長だけあってよく見ていますね」

 得心した様子で、稟は二度三度と首肯した。

「へへっ、まあね。…………まあ、全部兄貴の受け売りになんだけど」

 得意気な顔で受けた蘭々は、やはり得意気な顔で兄からの入れ知恵を告白した。





 曹操軍との合流から五日、予定通り原野を挟んで四万余りの軍と対峙した。互いに丘の上の高みに陣取り、戦機をうかがっている。
 それぞれに単于の地位を主張していた族長達は、蹋頓が帰還し兵を集め、さらには曹操軍の兵を呼び寄せたとなると団結した。大きな部族が三つで、それぞれに単于を名乗る者がいて、小部族がそのいずれかの傘下に加わることで三つの大集団を為している。一緒に戦場には出てきても連係はせず、三つが横一列に並んでいた。この戦で前単于―――蹋頓の首を挙げた者が単于に立つという暗黙の了解のうえでの同盟だろう。そういう烏桓族の持つ単純さは、蹋頓には愛おしくさえある。
 対するは蹋頓の一万五千騎に、曹操軍からの援軍が曹仁と張遼の一万ずつに、曹操自らが率いる五千の計二万五千騎である。数の上では拮抗し、練度においては圧倒している。
 二万のうち半数の一万という予想を覆し、自分の呼び掛けに一万五千が答えてくれた。残りの五千は今は敵軍で、各出身部族の軍に点在している。

「惜しいな」

「何か言ったか?」

 轡を並べた曹仁が聞き返した。
 巨漢の蹋頓の横に並ぶと子供のようにさえ見える小男だが、槍を取っても軍を指揮してもこの男がすごいのだ。つまりは修練で強くなったということで、烏桓では見ない類の男である。

「惜しいと。俺の鍛えた五千騎を一つにまとめる者がいれば、脅威と為り得た。後に続く者を育てなかった俺の失策だったな。曹操軍では隊長が死ねば副官が、副官が死ねばさらにその下の地位の者が指揮を引き継ぐのだろう?」

 烏桓の男達は教えるまでもなく誰もが騎射を良くし、漢族の兵なら音を上げるような長駆を苦にもしない。だから蹋頓が兵に教え込んだのは、隊としての戦い方だった。全員で隊列を組んで動く。あるいはばらばらに散ってまた一つに集まる。全員で一つの的を狙う。あるいは広範囲に矢を降り注ぐ。それだけ叩き込んだだけで、蹋頓の軍は他の烏桓の兵とはまるで違った強さを発揮するようになった。だから各部族の軍に点在してしまっている五千は、蹋頓の調練を受ける前の男達と何も変わりがない。

「まあな。でも、あんたは単于だったのだからそれも当然だろう。うちだって、曹孟徳の代わりはいない」

「曹操殿に何かあれば、代わりは貴殿ということになるのでは?」

「まさか。器じゃないし、華琳に何かあるなら、その前に俺は死んでるさ」

 着なれない毛皮の套衣が気になるのか、襟元をいじりながら曹仁が答える。
 この辺りが、烏桓には持ち得ない漢族の強みだろう。官渡の決戦では初め二十五万の兵力を誇った袁紹軍が十万足らずになるまで兵を失っている。しかし兵は袁紹が降伏するまで彼女に従い、最後には血気盛んに突撃を敢行した。烏桓族の兵なら、最初の連環馬での大敗の時点で潰走し、再び集結することはなかっただろう。実際蹋頓が倒れると、次期単于である楼班を袁紹軍の本陣へ置き去りにして逃げ散っている。しかもそれが蹋頓が育て上げた烏桓族の中では唯一軍令を徹底させた二万なのである。
 遊牧の民である烏桓族には帰属意識が希薄で、忠誠心というものが育ちようもない。主君の代わりに死ぬなどという殊勝な人間はいないのだ。

「―――さてと、そろそろ降りるか」

 曹仁が小さく頷き返すのを見て、蹋頓は一万五千を前進させた。丘を駆け下り、そのまま原野の真ん中まで進んだところで足を止める。曹操軍二万五千の力は借りず、この軍だけで勝負を決するつもりだった。
 まともに丘からの逆落としを受ける位置で、敵軍に緊張が走るのが兵のざわめきから見て取れた。
 敵はすぐには仕掛けて来なかった。牽制し合っている。敵である蹋頓をではなく、互いにだ。
 真ん中の集団が動いた。他の二つよりいくらか数が多く、一万七、八千というところだろうか。負けじと、左右の集団も丘を駆け下り始めた。協調した動きではなく、やはり功を競い合っている。すぐに隊列も何もなく猛然と駆け始めた。
 蹋頓は一万五千を丘の麓まで後退させた。背後の丘には、曹操軍の二万五千が依然控えている。蹋頓に動かす気が無くとも、敵は逆落としを警戒せざるを得ない。先行していた中央の集団は慌てて足を止め、他の二隊もそれにならった。先に飛び込んだ集団は逆落としに曝され、他の者達の露払いとされかねない。
 蹋頓は中央の集団目掛けて、一万五千騎を走らせた。同時に一斉に矢を放つ。敵軍からはぱらぱらと力無い矢が返ってくるだけだ。逆落としの勢いを強引に殺したばかりであるから、隊列が乱れて咄嗟に弓が十分に引けないのだ。蹋頓の一万五千はどんなに激しい動きの後でも陣形を乱すことはない。

「全軍、右周りに敵を射尽くせっ!」

 一万五千の先頭がぐるりと馬首を右へ向けた。
 烏桓の戦は、接近しながら数射を放った後に刀で斬り合うか、距離を保って矢を射続けるかのどちらかだ。今回は兵には後者の動きをさせた。矢の威力が最も発揮される左方向に相手を捉えたまま、右回りに敵陣を周回させる。

「曹仁殿、頼む」

「ああ」

 白騎兵の具足の上から、毛皮の套衣を纏った曹仁が短く応じた。曹仁の白騎兵百騎には、唯一例外として一万五千騎の中に加わってもらっている。
 敵味方合わせて六万の兵というのは、烏桓の青壮の男のおおよそ全てだった。烏桓族の男は誰もが兵として戦う。農耕や商業を担う者が別にいる漢族の軍とは違うのだ。兵の死は、烏桓族全体の衰退を意味していた。そうでなくても、同族の民はなるべく殺したくはない。
 白騎兵を使うように助言をくれたのが同行した曹操軍の軍師郭嘉である。蹋頓の力を誇示するために、烏桓の装束で白騎兵に蹋頓の部下を装わせたのも郭嘉の発案だった。
 右折する一万五千騎の中程から、白騎兵と共に蹋頓は飛び出した。馬上に立ち上がって、敵味方の全てにその存在を明らかとする。
 敵軍三隊のうち、中央の集団へ突っ込んだ。矢戦に備えていた敵兵は、刀を取ってもいない。
 縦断し後方へと駆け抜けた。この突破力は烏桓の用兵にはない。
 敵中央の隊から急速に戦意が霧散していく。蹋頓の手には首が一つあった。単于を自称した男の首だ。
 元々、戦と言えば漢土へ侵攻しての略奪と考える多くの烏桓兵にとって、この戦は面白味のないものだった。族長の命でやむなく参加した者がほとんどだろう。単于を名乗る三名の首を挙げれば、それで戦は終わりだった。
 敵軍の周りをぐるりと半周してきた一万五千騎が駆けて来て、白騎兵もその動きに合流した。
 中央に戦意を失った集団を抱えた敵軍は、大きな動きを制限されている。あと二回同じことを繰り返すのは、そう難しい事ではなかった。





「―――うへ」

 華琳が一口含んで、らしくない声を上げた。

「うん、確かに癖があるな」

 その華琳から押し付けられた椀を受け取ると、曹仁は普通に飲む下した。

「貴方、飲めるの?」

「ああ。俺の国では牛の乳やそれを発酵させたものは普通に飲んでいたからな。これも癖はあるが、飲めない程ではない」

 祝勝の宴で振る舞われた馬乳酒である。馬の乳を発酵させた酒で、独特の酸味はお世辞にも口当たりが良いとは言えなかった。漢の人間はそもそも乳の類を飲まないから、華琳の口には合わないのだろう。稟も顔をしかめ椀を置いている。
 一方で中華でも北辺出身の霞などは飲み慣れた様子で、大椀になみなみと注がせている。

「ばたーは美味しいけど、さすがにこれは」

「俺もこれは無理」

 左隣りの華琳に続いて、右隣りからも手が伸びて来て曹仁の前に椀を置いた。自分の分も含めて三杯の馬乳酒が曹仁の前へと集まった。

「食わず嫌いは良くないな、蘭々。一口だけでも飲んでみたらどうだ、ほら」

 味見をした華琳とは異なり、蘭々は匂いを嗅ぐだけで投げ出している。
 曹仁は手にした椀を蘭々の顔の前に突き付けてやった。蘭々の視線が曹仁の顔と椀の間を忙しなく行ったり来たりする。 

「なんだ、兄の飲み掛けが嫌か? なら新しい方を―――」

「―――そっ、そういうんじゃないからっ! わかった、味見だけな」

 蘭々が椀に口を付けたので、曹仁は唇を濡らす程度にそれを傾けた。

「……あれ、意外と飲めるかも」

「おっ、それなら返そうか」

「そんなに沢山はきついから、この飲み掛けの分をもらうよ」

 引っ手繰る様にして、蘭々が曹仁の手から椀を奪い取った。あまり強い酒ではないし、まだ舐めるほどしか飲んではいないはずだが、蘭々の頬はすでに赤らんでいる。

「―――お待たせいたしました」

 給仕が焼いた羊の肉を運んできた。
 骨付きの肋肉で、突き出た骨を掴んで食べることが出来る。柔らかく癖のない肉質は子羊のもので、岩塩と香料を効かせて遠火でじっくりと焼き上げている。中原で食べる牛や豚の料理よりもむしろ上品なくらいで、華琳と蘭々もこちらは気に入った様子で手を伸ばしている。
 子羊を潰す料理は、羊を何よりも大切にする遊牧民族にとっては最高の饗応料理といったところだろう。

「一万頭の羊かぁ」

 肉を口に運びながら、曹仁は呟いた
 戦にはほとんど犠牲も出さずに勝てた。蹋頓が懸念していた敵軍の死傷者も、矢傷を負った兵が二、三千で、死者は五百にも満たない。四万騎同士が勝敗を決するまで戦った犠牲としては、まずは穏便な結果と言える。
 単于を自称した三人の首は、いずれも蹋頓自らが挙げている。三つの部族には代わりの族長を立て、贖いとして戦に加わった兵と同じ数の羊を差し出すよう命じた。合わせて一万頭余りとなる。
 他方、三人に付き従っただけの族長とその兵は、改めて蹋頓と楼班への服従を誓わせるだけで帰した。寛大過ぎる処置は思わず不安になるほどだが、蹋頓に言わせれば戦で十分な力を見せつけた以上、逆らうことはまずないという。

「羊で贖わせるというのは、遊牧の民ならではね」

 華琳が言った。

「一万頭も急に増えて、世話しきれるものなのか?」

 曹仁は正面に座る蹋頓に視線を送った。
 穹廬の中には車座に曹操軍の諸将が腰を降ろしており、烏桓族からは蹋頓と楼班だけが宴に参加していた。華琳の正面が楼班で、楼班の右隣に蹋頓、そして同じく華琳の右隣が曹仁だった。

「一人で百頭以上も扱える者もいるのでな。もっとも、今回受け取る一万頭は、俺に従ってくれた兵の属する部族へ贈るつもりだ」

「それは、一族としては敵対した連中ってことじゃないのか?」

 一万五千のうちに蹋頓と楼班の部族の兵は数千のみで、後は部族を越えて召集した混成部隊だった。大半の部族が敵へ回った先刻の戦では、兵の出身部族も当然敵対している。

「厚く遇することで敵を味方とする。漢族の戦から俺は学んだ」

 華琳が麗羽を決して辱めず、そのことで袁紹軍の領土だけでなく田豊や沮授、張郃や高覧と言った文武の人材をも手にしたことを言っているのだろう。

「悪くない手ね。単于の元での活躍が部族への恩恵に繋がるとなれば、部族内でのその者達の立場も自然と強まるでしょう。そして子飼いの兵の発言力が強くなれば、それはそのまま単于の力ともなる」

「なるほど、そこまで考えてはおりませんでした。まだまだ俺が漢族から学ぶべきことは多いようです」

 蹋頓が謙虚に頷いた。
 すでに曹操軍の兵を率いている張郃や高覧に言わせれば、蹋頓と言うのはもう少し野心に溢れた不敵な男であったらしい。自ら虜囚とされた敗戦がよほど応えたか、曹仁が言葉を交わした蹋頓は不遜な気配を漂わせたことはない。中華の兵法や軍法に関心が強く、辞を低くして貪欲に学び取ろうとしていた。それが志の高さから来る行動なのだとしたら、確かになかなかの野心家と言えよう。
 宴は夜半まで続いた。馬乳酒が飲めない華琳や稟のために漢族の酒―――烏桓の地では貴重な―――も供され、料理も引っ切り無しに運び込まれる。
 酒の回った霞が決戦で出番のなかったことを蹋頓と曹仁、それに策の立案者の稟にぼやく。蘭々は虎豹騎の重装備で険阻な山道を進んだ今回の遠征の苦労を言い募り、帰路にまた同じ苦難が待ち受けていることを嘆いた。
 宴が終わると、それぞれに宿舎代わりの穹廬へ案内された。
 穹廬には男女の別なく家族単位で暮らすのが基本らしく、曹仁は華琳と蘭々と同じ一幕へ通された。当然周囲は虎士の泊まる穹廬で囲まれている。

「――――んっ」

 蘭々は中に入るなり横になると、すぐに小さな寝息を立て始めた。結局それなりに杯を重ねていたし、本人の言葉通り行軍の疲れが溜まっているのだろう。
 移動式の住居である穹廬は、簡単に言ってしまえば幕舎を立派にしたものだが、居心地は普通の家屋に劣らなかった。
 円形の骨組みの上に羊の皮を縫い合わせた幕を被せ、さらにその上に羊毛で作られる分厚い布を乗せ、最後に狼の毛皮で覆っている。それで外気からはほとんど完全に遮断され、室内は適度な温かさが保たれていた。
 床にはやはり羊の毛織物が敷き詰められ、その上にさらに毛皮が広げられている。板敷きか石畳の中華の家屋よりもその点は快適だった。

「これが穹廬かぁ」

 曹仁は改めて室内を見渡した。

「妙に感慨深げね?」

「昔から、一度泊まってみたいと思っていたんだよ。確か俺のいた世界でも、穹廬に暮らしている人達はいるはずなんだ」

「へえ。建築技術も随分発展していると聞いていたけれど、穹廬は変わらず使われているのね」

 曹仁が座ると、拳一つ分ほど隔てて隣に華琳も腰を降ろした。普段なら引っ付いて、と言うより曹仁の膝の上に華琳が座るところだが、寝ているとはいえ妹のいる室内ではさすがに憚られる。

「この遠征、わざわざ華琳が出張るだけの実りはあったのか?」

 戦の矢面には蹋頓が立ち、華琳は一切口出ししなかった。蹋頓と楼班に恩を売ることは出来ただろうが、それも配下の武将の派遣で十分という気はする。
 ここから国境の長城まで戻るのにもう半月、鄴まではさらにもう半月、行き帰りを合わせると二ヶ月間も中華の政から主宰者が失われていたことになる。

「中原の覇者である曹孟徳が外征した。中華の歴史における意義は大きいわ。君主自ら長城を越えたのは、そうね、高祖劉邦以来じゃないかしら?」

「歴史的意義ねぇ? …………本音は?」

「私だって中華の外の世界を見たいわよ」

 華琳がしれっとした顔で言う。

「ははっ」

 思わず苦笑する曹仁に、華琳が続けた。

「次は西域にも行ってみたいわね。手前までは、高順が道案内を出来るはずよね。ああ、まずは韓遂をどうにかするのが先か。公孫賛は手を焼いているようだし」

 戦も政も、まずは自分の欲求有りきなところが実に華琳らしい。

「ああ、そうそう、貴方の国の料理を味わえたのも収穫の一つね」

 曹仁の顔を見て、華琳が言い足す。
 進軍の途中、渤海の沿岸を進む機会があった。曹仁は漁師から生きた鰺三尾を購い、華琳達に刺身を振る舞った。
 醤油は馴染みの拉麺屋に頼み込んで譲ってもらった。塩か大豆の醤(ひしお)―――味噌―――で汁を作る拉麺屋が多い中、その店では曹仁の国で言うところの醤油拉麺を提供しているのだ。秘蔵の味ということで詳細は教えてもらえなかったが、味噌の上澄みから作った調味料だという。ごく親しい人間に振る舞うだけという約束を交わした後、小瓶でわずかに譲り受けたのだった。
 山葵はさすがに手に入らなかった。辛味の強い大根などでの代用も考えたが、そもそも華琳は辛い物全般が大の苦手であることに思い至って今回は見送っている。

「悪くなかっただろう?」

「そうね。ご飯と一緒に食べるのを、寿司と言っていたかしら? あれは面白いわね」

 実際に食べさせてみるとそれなりに好評で、季衣は言うに及ばず華琳と流流からも及第点が出た。刺身だけでなく寿司も作ると、そちらは一層高評価で握るそばから誰かの―――主に季衣の―――胃袋の中へ消えて行った。生魚の不慣れな食感が、ご飯と合わさることで薄らぐらしい。霞は酒の肴に合いそうな刺身が気に入った様子で、行軍中で飲めないことをしきりに悔しがっていた。

「なら帰りも寄って行くか? 今度は蘭々にも食わせたいな」

 蘭々だけは頑なに拒否して、試食の場に顔も出さなかった。馬乳酒の件と言い、無頼を気取ってはいても蘭々の根っこの部分はやはり幸蘭に蝶よ花よと育てられたお嬢様である。

「出来ればあの料理も、本場で食べてみたいところだけれど」

「ああ、行けたらいいな。向こうの家族にも、華琳を紹介して。姉ちゃんに蘭々、春姉と秋姉も連れていって、両家の顔合わせをしたり」

「両家の顔合わせって、それはつまり、……そういうことよね?」

「ええと、……まあ、そうなるな」

「相変わらず気が早いわよ。まだ幸蘭と蘭々にすら秘密にしているというのに」

「うん、確かにちょっと気が早かった」

 曹仁の言葉を最後に、穹廬の中がしんと静まり返った。
 拳一つの距離がとてつもなく遠く、もどかしく感じられる。華琳もそれは同じなようで、視線は絡まったまま離れない。

「―――んんっ」

 沈黙は、意外なところから破られた。何度か名前を呼んだせいか、背を向けて寝ていた蘭々がごろりとこちらへ寝返りを打つ。

「……ふぁ? なんだか、兄貴と華琳さま、近い。―――んん」

 蘭々は一瞬寝ぼけ眼を開いて呟くと、すぐにまた寝息を再開させた。

「……これでも近いか」

「……そのようね」

 その日は念のため、蘭々を真ん中に挟んだ川の字で眠りに就く二人だった。



[7800] 第9章 第8話 露呈
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/11/20 13:18
 曹操軍は鄴で一度軍を整えると、洛陽へ凱旋した。遠征に参加した軍のみならず、群臣を引き連れ十万の兵力を従えている。
 大規模な凱旋は、烏桓の単于である蹋頓と次期単于である楼班を伴うが故だ。烏桓の王が自ら漢の朝廷へ赴くのは光武帝の御世以来のことである。今回の入朝を機に、正式に楼班が単于として冊立される運びとなっていた。

「それにしても、この軍勢はさすがに大袈裟じゃないのかなあ?」

 十万の兵力の真ん中で、蘭々は隣を進む兄にこぼした。
 普段なら先導役を務める曹仁と白騎兵だが、今回は蹋頓と楼班の護衛として中軍に加わっている。虎豹騎も同様の任に就いていて、こうして二人轡を並べていた。
 烏桓も自前の兵力を伴っているので、本来護衛の必要はない。遠征を経て親交を深めた曹仁と蘭々を近くに配置したのは、華琳なりに烏桓の二人に気を使っているのかもしれない。

「華琳には、考えがあるんだろうさ」

「考えって?」

 曹仁がちょいちょいと手招きをする。蘭々が馬上で身を傾けると、その耳元で曹仁が囁いた。

「荊州攻め、あるいは西涼か」

「―――ああ」

 言われると、素直に納得するしかなかった。
 現在中華に、曹操軍以外の主だった勢力は四つ。そのうち最大の勢力を誇るのが揚州全域と荊州南部を治める孫策軍。次いで、雍州から涼州にかけて点在する西涼軍閥。これは単純な兵力なら孫策軍よりも上かもしれない。一枚岩とは言い難いところがあるが、馬騰が朝廷に帰順した今となっては大方が韓遂に従うだろう。残る二勢力が荊州北部の劉表と益州の劉焉。二人とも漢朝より派遣された正式な州牧であり、戦乱の中をここまで生き長らえている。
 このうち、益州だけは現状曹操軍と領地が隣接していない。孫策軍とは言うまでもなく長江を隔て南北で広く境を接している。一方、洛陽のある司隷は南端で荊州と、西端では西涼勢力に面していた。中華の中心とされる洛陽であるが、曹操領内においては西南の端に位置していた。荊州または西涼を攻める際には、軍の集積地と成り得るのだった。

「まあ、おそらく荊州かな。西涼を攻めるには少々兵力が心許無いし、荊州軍の意識は今は南の孫策軍へ向けられている。防備を整える間も与えず、一気に攻め落としてしまおうというのだろう」

「それなら、初めから言ってくれれば良いのに」

「敵を欺くにはまず味方から、と言うだろう」

「そんな言葉、聞いたことがないぞ」

「あれ、こっちの世界の言葉じゃなかったか。確かに孫子も呉子もそんなこと言ってなかったな」

「ふ~ん、兄貴の国の言葉か。……まず味方から、身内から欺く、ね」

「多分な。とはいえ秋姉や軍師連中は想定くらいはしているだろうが」

「一門の人間にくらい教えてくれたって」

「いや、そこが一番まずいだろう。春姉に教えたら、全軍に布告したようなもんだ。凱旋と進軍じゃ、明らかに気の入り方が違うからな」

「でも、家族に隠し事は良くないと思うな」

「それで兵の命が一人でも二人でも助かるなら、安いもんだろう」

 蘭々は半眼で睨むも、曹仁は気付かない様子で返した。
 最近の曹仁と華琳の態度に蘭々は一つの不審を抱いていた。本人達から言い出す時を待ち、遠征中にも何度か水を向けたが、結局聞き出せないまま時間ばかりが過ぎて行った。

「……兵と言えば、兄貴は白騎兵を今の百騎から増やさないのか?」

 胸中でそれを追及したい気持ちと、深追いしたくない気持ちがない交ぜとなり、結果蘭々は今回も目を逸らした。

「うん? ああ、虎豹騎はさらに増やすんだったな」

 いささか強引に話題を転じると、曹仁は特に訝る様子も無く受ける。
 編成当初は二百騎だった虎豹騎だが、河北併呑後の軍の再編時に三百騎まで定員を増している。さらに今回の遠征で烏桓族との同盟は確実なものとなり、北方からの馬の買い入れが容易となった。虎豹騎には優先的に良馬が回され、最終的には五百騎まで増員する計画が立っている。
 一方で、白騎兵は曹操軍に帰順した時と変わらず百騎のままである。驚嘆すべきことに、ここまでの戦場で一騎も欠けることがない。逆を言えば、増員は元より補充すらただの一騎も受けつけていなかった。

「あれはそもそも俺が鍛え上げたものではないからなぁ。二、三人ならともかく、百や数十の単位であいつ等くらいの兵を育てるのは、俺には無理だ」

 曹仁は周囲に配された白騎兵に目をやりながら言った。

「へえ。……まあ、兄貴じゃそうかもな」

 白騎兵の練度は、並び称される虎豹騎の指揮官である蘭々の目にも異常の域にある。虎豹騎は重騎兵であり、隊としてのまとまった動きを徹底させている。同じく精鋭で知られた華琳の近衛隊虎士は、個々人の判断力と武勇に優れた集団だ。そして白騎兵は、その両方を兼ね備えた部隊だった。
 元々は董卓の近衛も兼ねていたというから、それ故であろうか。今は騎馬隊としてまとまって動くことが多いが、校尉相当の扱いで兵の指揮や調練を委ねられることもある。精兵から近衛の勇士、そして指揮官までと、実に多くを求められるのが白騎兵だった。
 元々はそれが五百騎いたというのだから、それを育て上げた張繍というのは相当な人物だったのだろう。時には死を伴うような厳しい調練と、厳格な選抜が繰り返されたはずだ。曹仁も曹操軍の将軍の中では調練が上手い方である。しかしそこまでの峻烈さはこの兄にはない。

「そういうことだ。有り難く使わせてもらっているが、俺にはあんなものは育てられんな。まったく我が友ながら大した男で、大層なものを残していった」

 蘭々の考えを読んだように、曹仁が肩をすくめながら軽い調子で言った。





「曹操、陛下がお呼びだ」

 凱旋に楼班の入朝、単于冊立の諸儀式を終え退廷するところで、馬超に呼び止められた。

「奉軍都尉自らのお出迎えとは光栄だわ。武辺一辺倒だったわりに、宮仕えも上手くこなしているようじゃない」

 先導する馬超の背に、華琳は投げ掛けた。
 光禄勲府に属する奉軍都尉の馬超は近衛部隊の隊長の一人であり、天子の近臣である。

「どこが。今だって部下の仕事をかっさらって出て来たところだぞ。天子様の周りはどうも堅っ苦しくてなぁ。天子様はお気を使って下されるけど、それがまた申し訳ないし」

 馬超があけすけに返す。
 個人的には数度言葉を交わした程度の間柄であるが、馬超とは反董卓の戦を共にしている。宮中の者達よりは心を許せる人間と華琳は認識されているらしい。

「ふふっ、そんなことだと思ったわ。馬岱の方はどう? あの子はそつなくこなしそうだけれど」

「そうなんだよ。あいつが要領良くやってのけるものだから、余計にあたしの立場が無い。―――ほら、着いたぞ」

 宮中の奥まった一室の前で馬超が足を止めた。華琳も何度か通されたことがある、天子の私室の一つだ。

「はぁ。―――陛下、曹操をお連れしましたっ」

 よほど天子の側仕えが苦痛なのか、一つため息を落としてから馬超は訪いを入れる。
 お付きの従者がすぐに戸を開けて招き入れてくれた。室内には他に数名の侍従が控えており、馬岱の姿もあった。

「姉上を招いて何か催したいのだ」

 一通り挨拶を済ませると、天子は切り出した。無用の形式を嫌う華琳の質を、天子は理解している。

「姉上と申しますと、弘農王殿下ですか?」

「うむ。姉上には色々と苦労を掛けた。出来ればこれを機に、また宮中で暮らしてもらえればと思うのだが」

 天子が探るような視線を向けてくる。後ろ盾である華琳の意向を知りたいのだろう。
 弘農王劉弁は、大将軍何進と十常侍の政争の果てに廃された先帝である。今上帝にとっては姉に当たり、今は亡き何進にとっては姪に当たる。帝位を廃された後は、弘農郡―――洛陽のある河南尹と長安のある京兆尹に挟まれた要地―――の王位が与えられている。
 普通、皇族に与えられる王位は形式上の物に過ぎない。かつて陳留王であった今上帝が洛陽の宮殿に暮らしていたように、封地に赴くことも無ければ、代わって政を取り仕切る相も本人ではなく朝廷の意向で任命される。しかし現在の弘農王劉弁においては少し事情が異なっていた。即位後間も無い今上帝によって、封地への移住が命ぜられている。これは当時の今上帝の後見であり、朝廷の支配者でもあった張譲から姉の身を守るための処置であろう。しかし洛陽の宮中以外を知らずに育った弘農王には、慣れない土地での暮らしは気の休まるものではないはずだ。

「それはよろしかろうかと思います。姉妹というのは、共に暮らすに越したことはございません」

「おお、そう思うか。そういえば曹操にも兄弟姉妹が多いのだったな」

「正確には従姉弟になりますが。そうですね、姉のようでもあり、妹のようでもあり、弟、のようでもあります。―――して、催しには何かお考えが?」

「うむ。せっかく曹操が軍を率いてきたことだし、巻狩りでもどうかと思うのだが。お主の軍を借りることになるが」

「巻狩りですか。ええ、構いませんとも。我が軍はすなわち陛下の軍なのですから」

 華琳も出席する必要があるということだが、快諾した。
 この後荊州への侵攻を密かに予定している華琳としては、洛陽での滞陣は短期間に留めたかった。しかし巻狩りとなると話は別である。
 巻狩りは四方を兵で囲み、追い立てられた獲物を狙う狩猟である。形骸化してはいるが君主の行う軍事調練の一つだった。
 つまり華琳のその後の侵攻に対し、天子が兵への教練をもって承認した様に世の人の目には映ろう。荊州の中枢には清流派を気取る学者達が多く、彼らの多くは漢室への忠誠を捨て切れずにいる。揺さ振りをかけるのも悪くはない。
 またそれ自体が軍事調練であるから、開催後はすぐにも進軍へ移行出来る。

「そうかそうか。それは良かった。良い提案をしてくれた、馬超」

「はっ、ありがとうございます、陛下」

 天子の言葉に、馬超が直立して返す。どうやら巻狩りは馬超の発案のようだった。
 華琳は寸時、馬超の、そしてその背後にいる馬騰の意図に思いを巡らす。しかし暢気に微笑む馬超の姿に、華琳はすぐに思案を打ち切った。とても策謀を巡らせる人間には見えない。
 少なからず馬超自身の気晴らしも兼ねての提案であり、天子はそれを見透かしつつも採用した、という流れか。本人の言葉通り宮仕えが合っているとは言い難いが、馬超はそれなりに上手くはやっているようだった。

「後の計画は張繍と賈駆、そして曹操に任せたく思うが、それで良いか?」

「はっ、お任せください」

「頼ん―――」

 天子の言葉が途切れ、身体がぐらりと揺らいだ。

「陛下っ」

 忽然と馬超が天子に寄り添い、その身体を支えた。一足飛びで間合いを詰める動きは、さすがは荒くれ者の多い西涼にあって錦と称えられるだけある。

「騒ぐでない。少し、目眩がしただけだ」

 超常の天子が姿を現していた。

「―――っ。……式典でお疲れになったのでしょう。今日はもうお休みになられたほうが」

 天子の声音の変化に馬超は一瞬戸惑ったようだが、すぐに動揺を打ち消した。側近くに仕えているのだから、時に天子が様相を一変させることは聞かされているのかもしれない。

「大事ない。それより馬超、それに他の者も、朕は曹操と話がある。しばし席を外してくれぬか?」

「……わかりました」

 人外の気配にはさしもの馬超も怯んだか、大人しく部屋を後にした。他の者達もそれに続く。

「ようやっと中華の大半を手中に収めてくれたのう」

 室内に二人以外がいなくなると、天子は行儀悪く脚を崩しながら言った。

「そうね」

 荊州北部さえ落としてしまえば、後は江南に西涼、巴蜀を残すのみだ。古来、それらの地は蛮族の住む土地とされていたのだ。中華の中心地はほぼ全て曹操軍が押さえていた。

「しかし大乱が収束に向かいつつあるというに、朕に力が戻らぬ」

「確か、民の生きる喜びや生への渇望が貴方の力の源だったわね」

「そうじゃ。お主の急峻過ぎる改革は、民に日々の生活を楽しむ余裕を与えぬ」

「何が言いたいのかしら?」

「もそっと、のんびりとはやれんものかの?」

「お断りするわ。余裕がないのは今のうちだけよ。民が自ら変革する楽しみを知れば、いずれはこれまで以上の力を貴方は得るわ。その時になって感謝なさい」

「ふうむ。あの劉備が目指しているような、みんな仲良くみんなが笑顔という政をしてもらえると、手っ取り早く力を貯えられるのだがのう」

「……貴方、桃香におかしなことを吹き込んでないでしょうね?」

「朕の正体を明かしたのは、お主と曹仁だけよ。なんじゃ、朕のせいで劉備がお主の元を離れたとでも思うたか?」

「そんな小さな事を言っているわけではないわ。あの子は、民の事だけ思っていればいいのよ。世界がどうとか、世迷言で桃香の志をわずかなりとも変質させていたなら、私は貴方を許さないわ」

「はっはっ、朕に対してよう言うた。お主のそういう不遜なところ、朕は面白く思っておるぞ」

「言ってなさい。用が終わったのなら帰るわよ」

「おう、民を慈しむ件、心の片隅にでも留め置くがよいぞ」

 腰を上げた華琳に、天子はもう一度繰り返した。





「春蘭が兵の配置を無断で動かして、それで桂花は兵糧の手配を誤ったと」

「はいっ、華琳さま。春蘭の奴が、許可も得ないで勝手に陣を動かすものだから、配給が滞り一部の兵が騒いでおりますっ」

「馬鹿者め。貴様の決めた配置では、いざ奇襲を受けた時に身動きが取れぬわっ」

「あっ、あんたにだけは馬鹿呼ばわりされたくないわよっ! 領内のどこに私達を襲う敵がいるっていうのよっ、この馬鹿っ!」

「なんだとっ!」

 曹操軍の臨時行政府と化した曹家邸宅の大広間で、春蘭と荀彧がいがみ合う。
 曹仁は苦笑交じりに高みの見物と決め込んだ。秋蘭ら親族、他の文官武官達も静観の構えだ。
 凱旋後すぐの荊州出陣という諸将の予想を裏切り、洛陽滞在は長引いた。弘農王劉弁を招いての巻狩りが企画され、そのために兵が駆り出されることとなったためだ。
 今は弘農王の上洛待ちで、十万の曹操軍は洛陽城外に野営を張り、巻狩りの準備を進めていた。軍事調練の一環とはいえ、やはり戦場そのままの動きというわけにはいかず、そのための訓練は必要だった。特に曹仁の騎馬隊は白騎兵が指揮する百騎百隊の編成で、最終的に獲物を帝らの眼前に追い立てる役目を与えられている。ともすれば戦場を想定した普段の調練以上に兵は緊張感を持って訓練に当たっていた。

「二人とも、黙りなさいっ!」

「―――っ!」

 春蘭と荀彧が揃って華琳の前に頭を垂れる。

「桂花。確かにこの地は我らが領内とは言え、天下はいまだ定まってはいないわ。いつどこで敵に襲われようと、驚くには値しない。上に立つ者が戦の気構えを失えば、それは必ず兵にも伝わるわよ。我が軍が精強たり得るために、自分がどうあるべきか。それが分からない貴方ではないはずよ」

「……はい」

「春蘭。…………貴方は、布陣を変更したのならちゃんと報告する様に」

「……はっ」

 この二人がいがみ合って叱責を受けるのは珍しくもない光景であるが、このところそれがとみに増えていた。切っ掛けは大抵華琳まで上げる必要も無いような些細な失敗であるが、お互い相手の失態をあげつらって罵り合いを始める。結果華琳に平身低頭することとなる。元々犬猿の仲の二人だが、最近は相手の一挙手一投足がとにかく癇に障る様子だった。

「もういいわ。以後、気を付けなさい」

「はい」

「……どうしたの? もういいと言っているの。顔を上げなさい」

 許しを与えても、うなだれたまま動こうとしない二人へ華琳が訝しげに眉を顰めた。

「あ、あのう、華琳さま」

 春蘭がおずおずと口を開いた。ちらちらと荀彧へ向けられる視線が厳しい。

「最近、私はお仕置きもご褒美も頂いておりません。わ、私は何か華琳さまを怒らせるようなことをしてしまったのでしょうか?」

「何よっ、あんたなんてまだましでしょう!」

 荀彧がいきり立つ。

「私なんて洛陽に着いてからまだ一度もっ、ううんっ、その前からずいぶん―――」

「何だとっ! 私だって一ヶ月以上も―――」

 またも口喧嘩を始めかけた二人が、互いの台詞にはたと動きを止めた。

「か、華琳さま、ひょっとして閨房に新たに人をお加えですか?」

 代表して荀彧がおずおずと切り出した。

「……」

 無言のまま、華琳が目線だけ動かして曹仁を見た。曹仁の視線はずっと華琳の顔へ注がれていたから、はからずも見つめ合う形となる。
 華琳の顔が、ゆっくりと上気していく。

「華琳さま、お顔の色が―――」

「いいでしょう、今日は二人同時に可愛がってあげるわ。今から閨に来なさい」

「ええっ、桂花とですか? 秋蘭との方が」

「何よっ、私だってあんたと一緒なんて願い下げよっ!」

「不満があるのなら、別に来なくても構わないのよ」

「―――おっ、お待ちくださいっ!」

 二人は声を揃えると、戸外へ向けさっさと歩き始めた華琳の後へ続いた。
 季衣と流流も華琳を追って辞去し、それを合図に他の者も退室していくと、室内には華琳と春蘭を除く一門の者―――幸蘭に秋蘭、蘭々、そして曹仁だけが残された。

「そ、それじゃあ、俺も軍営に戻―――」

「―――あーあっ、あの二人の鈍感ぶりにも困ったもんだっ」

 何となく気まずい沈黙を感じた曹仁が退散し掛けたところで、室内に調子っぱずれの声が響いた。声の主は蘭々で、頭の後ろで手を組んで投げやりな視線を天井へと向けている。

「ふふっ、本当ですね。ころっと誤魔化されてしまって」

「それが姉者の可愛いところでもある。華琳様が寝室に男を招くなど、思いもよらないのだろうし」

「まあ、それはそうでけれどね。あれが我が軍の文武の筆頭二人だと思うと、少し不安になりますけれど」

 蘭々の言葉を受けて幸蘭と秋蘭が何気ない口調で交わす会話が、一つの共通認識の上に成り立っていることに曹仁は気付いた。

「えっと、その、……き、気付いてたのか、姉ちゃん達」

「ちゃんと教えてくれれば良いのに、兄貴の馬鹿っ」

「―――っっ」

 蘭々は膨れっ面で言うと、曹仁の脛を蹴り上げた。甘んじて受けるも、腰を入れた蹴りは想定した以上に鋭かった。
 蘭々は痛みに耐える曹仁には目もくれず、そのまま室外へと駆け出していく。

「あらあら、蘭々ちゃんったらお行儀の悪い」

「姉ちゃん、いつから気付いて?」

「私が仁ちゃんの変化を見逃すはずがないでしょう? 蘭々ちゃんは最近になるまで気付かなかったようですが、私はその日のうちに気が付きましたよ。あれは、そう、劉備軍の皆さんが出て行ってから三十三日目。ちょうど蘭々ちゃんが手作りのお菓子を振る舞ってくれた日でしたね、うふふっ」

「うぐっ、そっ、そんな具体的な日付まで」

 幸蘭の笑みに、背筋に冷たいものが走る。
 蘭々のお菓子の件はともかく、桃香達が出奔してからの日数など曹仁も把握してはいない。とはいえこの姉のことだから、適当に言ったわけでは断じてないだろう。

「私は、それから数日後かな。ちなみに役向き上、季衣や流流も気が付いているし、目聡い風に耳聡い稟、この手の話なら二人に劣らず鋭い沙和も気付き、当然沙和に知られれば凪と真桜にも伝わると」

 秋蘭が涼しい顔で言った。

「それじゃあ、まだ気付いていないのは……」

「姉者と桂花、あの二人だけだな。いや、霞も調練調練で宮中にあまり顔を出さないから、気が付いていないかもしれんな」

「あと気が付いていないのは、―――とっくに皆が気付いていることに気が付いていないのが二人。いえ、これで仁ちゃんが抜けて、あとは華琳さま御一人になりましたね」

 幸蘭が笑顔で秋蘭の言葉を引き取った。

「それで、その、……良いのかな、姉ちゃん?」

「相手が華琳様では、文句の付けようもありません。ええ、本当に、まったく。どこぞの馬の骨を連れて来たのなら、叩き出した上に寝取り返してやりましたのにっ」

「お、怒ってないか?」

「私が怒る理由がどこかにあるかしら? 弟と主君が揃って幸せを手にしたのですから、笑顔で祝福するだけです。―――ああ、仁ちゃんが自分の口でちゃんと報告してくれなかったのは、私も不満ですけれど」

 幸蘭がうふふと、口元だけで笑った。

「ごめん、照れ臭くて。でも、姉ちゃんが祝福してくれて嬉しいよ」

 曹仁はあえて幸蘭の言葉を額面通りに受け取ることにした。幸蘭は拍子抜けした様子で眉を顰め、再度口を開く。

「ええ、仁ちゃんの幸せは私の幸せです。―――それに華琳さまならご自身が漁色家ですから、仁ちゃんが少しぐらい他の女の子に手を出しても文句は言えないでしょう? 私と蘭々ちゃんは二番目と三番目で構いません」

 そして笑顔でさらりと怖いことを言ってのけるのだった。
 明くる日、華琳に状況を説明し、春蘭には曹仁から、荀彧には華琳から全てを打ち明けた。
 荀彧は予想通り、華琳が男性と関係を持つことに強い反発を示した。といって、華琳自身を責められはしないため、曹仁への風当たりが一層増すこととなった。
 予想外だったのは春蘭の反応で、多少の嫉妬は覗かせつつも好意的に受け止めてくれた。その心酔ぶりから荀彧と一括りに考えてしまいがちだが、秋蘭との関係を容認していることからも分かる通り、春蘭には華琳を独占しようという感情は薄い。また荀彧のように男性というだけで嫌悪の対象とするわけでもない。弟分の曹仁が相手であれば、拒否感の湧きようもないらしかった。
 春蘭はむしろ華琳と曹仁の房事に興味を引かれた様子で、秋蘭も交えて一度四人で、などと提案するほどだった。曹仁はすぐさま拒絶したが、秋蘭は案外乗り気、華琳も条件次第―――曹仁からは華琳以外に手を出さないなら―――と、曹家一門の良識の欠如が浮き彫りとされる結果となった。



[7800] 第9章 第9話 兄妹
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2015/12/11 16:44
 洛陽から南方に二、三十里も進めば、周囲は緑深い土地となる。元より漢の都が洛陽に置かれたのは、周囲を山岳と関に囲まれた要害であるためだ。
 天子の乗る馬車が、華琳の待つ本陣の前で止まった。先駆けの光禄勲府の兵が、周囲をさっと取り囲む。
 馬車の手綱を取っているのは、奉軍都尉の馬超である。奉軍都尉は天下一の御者であり勇士が任命される役職で、天子の車馬を司る。実際には名誉職と化して久しいが、馬超に掛かれば実質を伴う。馬の扱いに精通しているだけあって、御者をさせても馬超は抜群に上手かった。
 同じく、弘農王の馬車も停止する。こちらの御者は騎都尉の馬岱が務めている。

「お待ちしておりました」

 馬車を降りた天子と弘農王を、華琳は本陣の中へと導く。後から朝廷の重鎮、帝の侍従と近臣達が続いた。朝具国の王である楼班と蹋頓の姿もある。いまだに大尉の任を解かれていない麗羽も、当然という顔で付いてくる。
 本陣前は開けた平原で、そこへ向かって建てられた壇上の席に天子と弘農王が着座した。平原の奥は三方が山に囲まれている。
 壇の周辺では、馬超と馬岱が光禄勲府の兵に指示を与えている。光禄勲府の長は月であるが、それは曹操軍から派遣された彼女に与えられた肩書のようなものだ。現場での兵の運用は今や馬超と馬岱によるところが大きい。

「陛下、将兵に開始の号令を頂けますか?」

 壇上、天子の席の隣りに立ち、華琳は伺いを立てた。

「うむ。―――皆の者、朕のためによくぞ集まってくれた。今日は日々の鍛錬の成果を存分に発揮せよ。これより、狩りを始める」

「―――はっ」

 帝の言葉を合図に、流流が旗を振った。いつもの曹の牙門旗ではなく、漢の一字が記された大旗である。
 しばしの時を置いて、銅鑼に太鼓、そして喚声が山の向こうから湧き起こった。いくつかの中継点を経て、旗の合図は視認出来ない山の裏側まで伝えられている。

「半刻(15分)ほどで獲物がまいります。それまでごゆるりとお過ごしください」

 三方の山から追い立てられた鳥獣は、平原へと逃げ落ちる。そこを兵で囲い込んで本陣前の狩場へと誘導するのだ。巻狩りに最適なこの地は、それもそのはず漢朝歴代の天子達の狩場であった。

「手配、御苦労であった。姉上、今日は勝負です」

 帝が上機嫌で隣りに座る姉―――弘農王劉弁―――に声を掛ける。帝はいたく御満悦の様子だった。
 この狩りを機に再び弘農王を宮殿での生活へ誘う意向を、今上帝は事前に華琳に明かしている。今、洛陽の宮中に住まう皇族は帝一人きりで、あとはわずかに先々代の帝―――今上帝と弘農王の父―――の后や側室、太后といった女達がいるだけだ。血の繋がった存在を帝が欲するのも分からなくはない。

「陛下と競うなど、恐れ多いことです」

 そんな無邪気な今上帝とは異なり、弘農王の表情は冷ややかなものだった。
 元々は仲の良い姉妹だったと聞くが、帝位を追われ、洛陽からも追い出されたという恨みは根深いようだ。弘農王府は弘農郡弘農県に置かれ、そこが廃帝の今の居城だった。弘農郡にはかの有名な函谷関があるが、弘農県は関の西に位置し、いわゆる関中と呼ばれる地域にあたる。
 関の中、と書くがそれは前漢の都長安を基にした見方で、都が函谷関より東の洛陽に移された現在では逆に関の外に締め出された形となる。今上帝にとっては政争から姉を守るための処置も、当の本人にとっては追放されたとしか思えないのだろう。

「陛下などと他人行儀な。昔と変わらず、真名でお呼び捨て下さい」

「大勢の臣下の前で、陛下の真名を軽々しく口にするわけにはまいりません」

「……確かに、姉上の申す通りです」

 素っ気ない弘農王の反応に、帝が消沈する。

「―――おーほっほっほっ、陛下。それに殿下。本日はお招きにあずかり、光栄ですわっ! おーほっほっほっ!」

「袁紹か。相変わらず、元気が良いな」

「おお、袁紹。久しいな」

 麗羽が気まずい雰囲気もお構いなしに、檀下から高笑いを響かせる。帝はどこかほっとした様子で、麗羽に応対する。
 弘農王の表情もいくらか晴れている。麗羽は十常侍張譲と大将軍何進が争った政争においては、何進の右腕を務めていた。何進は弘農王にとっては伯母に当たる。何進が謀殺された結果、弘農王は廃立されることとなったのだ。
 庶民の出で門閥をもたない何進が十常侍と曲がりなりにもやり合えたのは、名門袁家の仲立ちで士大夫を多く取り込めたことが大きい。本来外戚の何進も、清流派を気取る者達には嫌悪の対象なのだ。その意味で当時の弘農王にとって麗羽は最大の後ろ盾であったとも言える。

「本日は名門袁家の射術、御覧に入れますわ、おーほっほっほっ! そこの宦官の孫娘には、とても真似出来ませんことよっ、おーほっほっほっ!」

 麗羽のお蔭で一瞬和みかけた空気は、宦官と士大夫の対立―――かつての政争―――を想起させる本人の発言によって、すぐに台無しとなった。





 初めに追い立てられてきたのは大きな鹿で、射止めたのは袁紹だった。
 帝と弘農王が互いに譲り合い、結果主催者である華琳が弓を取るように促された。そこを横から進み出た袁紹がかっさらっていったのだ。
 華琳に対して礼に欠き、帝に対しても不敬であるが、何故か何となくそれが許されてしまうのが袁紹だった。

「あれも名家の力というやつなのかな」

「いやあ、本人の人徳だろう」

 誰にともなく呟いた蘭々の言葉を、兄が受けた。
 蘭々は虎彪騎を率いて華琳の護衛、曹仁は獲物を追い立てる勢子の任に付いているから、今日は顔を合わせる予定はなかった。ここまで顔を出したということは最初の一頭だけに兄が自ら追い立て、仕留められる姿までを確認しに来たという事だろう。

「ふん」

「……はぁ」

 そっぽを向いていると、溜め息一つを残して曹仁は持ち場へと戻っていった。
 曹仁と華琳の仲を受け入れる覚悟は決めたつもりで、それで自ら切り出した。しかしいざ現実のものとして目の前に現れると、どうにも耐え難いのだった。

「―――――! ―――――!!」

 狩り場から喝采が上がる。
 二頭目、三頭目の獲物が同時に飛び込んできて、帝と弘農王がそれぞれに射止めていた。
 射―――弓術と、御―――馬を御すことは、古来より君主には必須の嗜みとされる。当然戦に明け暮れる将兵らと比べられるものではないが、二人とも馬上に揺られながらも危なげなく弓を使えている。
 そこからは、続々と獲物が追い立てられてきた。廷臣の面々も加わり、本格的に狩りの様相を呈し始める。
 曹操軍で狩りに参加しているのは、華琳に月、詠の三名のみだ。いずれも司空、光禄勲、執金吾と漢朝の重臣である。他の者は勢子の役か、警護の任に当たっていた。

「――――――――――!!!」

 ひときわ大きな歓声に曝されたのは蹋頓だ。
 飛び出してきた三匹の兎を、一息に全て射抜いている。騎射なら天下で五指には入る腕前なのだから、当然と言えば当然だろう。
 蘭々は曹操軍の三名にもう一度目を向けた。
 詠は涼州出身だけあって馬術は人並み以上であるが、馬上で手綱から手を放すことに抵抗があるようだった。十分に狙って射ることが出来ずにかなり苦戦している。
 意外に腕が良いのが月で、ほとんど狙いを外すことが無い。董卓の武の虚像を作り上げた張繍が死に、月がその名を受け継いだ。張繍の名を少しでもかつての本人の実像へ近付けようと、月は最近では武の修練を重ねているという。
 とはいえ、三人の中ではやはり華琳の技量が突出している。
この従姉は、昔から何をやらせても人後に落ちるということが無い。華琳は蘭々には憧れであり、その存在は妹分として誇らしく、そして今は少し疎ましかった。
 狩りに興じる華琳から視線をわずかに下へ背けた。すると、華琳の愛馬である絶影が蘭々の目を強く引きつけた。
 連銭葦毛とか、星葦毛とか呼ばれる絶影の毛並を、華琳は気に入っているようだった。しかし全身を覆う灰色がかった白に、黒い毛が逆巻く紋様は、蘭々の目にはいつも暗雲が立ち込めるような、どこか不吉なものとして映る。

「―――曹純様っ」

 小隊を指揮するはずの白騎兵が一騎駆け寄ってきた。耳打ちされた報告内容に、蘭々はすぐさま華琳の隣りまで馬を進めた。

「華琳さまっ、斥候からの報告ですっ。後方から騎馬隊が近付いてきます」

「騎馬隊? いったい誰の隊よ?」

 十里(5km)四方を歩兵七万で囲み、内部を二万の騎兵が小隊を組んで駆け回っている。小隊の一隊が大鹿でも見つけて、予定に無い動きをした。蘭々の言葉を、華琳はそう解釈したようだった。

「いえっ、我が軍ではありません!」

「―――っ、何ですって?」

 蘭々の声に、華琳のみならず周囲の視線が集まる。

「―――数、およそ五百っ! 近いです! 漢旗を掲げています!」

 そこへ新たにもう一騎白騎兵が飛び込んできて叫んだ。そして報告を証明するように、白騎兵の駆けてきた方角を見やれば、勢子を務める曹操軍の小隊よりも一回り大きな騎馬集団が、こちらへ向かって駆けてくるのが見えた。

「馬超っ、聞こえたわねっ! 陛下の周囲を固めなさいっ! 蘭々っ、虎彪騎を前面に押し立てて!」

「ああっ」

「はいっ」

 五百騎に向かい合うように、虎豹騎の三百騎を整列させた。虎豹騎の後ろには、虎士に囲まれた華琳が、さらにその後方に馬超ら光禄勲府の兵に守られた帝達がいる。
 蘭々は華琳の隣に留まった。虎豹騎の中に赴くべきだが、何となく嫌な予感がして華琳の側を離れたくなかった。報告を受ける直前に、絶影の毛並を目に止めてしまったが故か。命令の声は十分に届く距離のため、華琳も特に咎めはしなかった。
 旗に描かれた漢の字が判別出来、人馬の輪郭も見て取れる距離まで五百騎が迫った。
 漢旗を掲げるが故に、歩兵の包囲陣からも駆け回る騎馬隊からも看過されたか。いや、そんなことは関係なく、単純に速い。報告が間に合わない速さで、五百の騎馬隊は接近してきていた。

「ああ、だから指揮を取ってるはずの白騎兵が自ら伝令に走ってきたのか」

 蘭々は一つ合点が行って、小さくひとりごちた。

「―――蘭々」

「はい。虎彪騎全騎、突撃に備えて」

 五百騎は一切速度を緩めることなく、残すところ一里余りの距離まで迫っている。虎彪騎を動かすなら、もうあと二呼吸か三呼吸で時宜を得る。早ければ守るべき華琳と天子から距離が離れ過ぎ、遅ければ十分な加速を得ぬままに五百騎とぶつかることになる。
 虎士も最後の防壁として華琳の前面に展開する。季衣と流流は左右から華琳を挟み、半歩だけ前に出た。

「―――んん~、あれ? おーい、曹操!」

 光禄勲府の兵を隔てて、馬超が緊張感の無い声を上げた。

「何よ? 陛下の守りは大丈夫なの?」

 華琳は正面から視線を逸らさず、苛立たしげに返す。

「ああ。というか、あれ、敵じゃないぞ。ウチの連中だ」

「ウチの連中?」

「ああ。先頭にいるの、あれ、あたしの母様だ」

「馬騰と衛尉府の兵ということ?」

「ああ」

 三公九卿の中では、衛尉の馬騰だけが唯一巻狩りに参加していなかった。宮殿の守護が任であり、天子不在とあっても太后ら女達は残っている。光禄勲府の兵が天子の護衛に出払う以上、自らが留守を預からねばならない、というのが不参加の理由だった。

「洛陽で何かあったのだろうか?」

 やり取りに声を差し挟んだのは帝だ。
 虎彪騎による攻勢の機は、すでにすっかり逃してしまっている。敵襲ではないと聞いて、極限まで高まっていた緊張感も薄らいでいく。
 絶影が落ち着きなく揺らす尻尾が蘭々の視界の片隅に入った。思わず目を向けると、やはり黒の斑模様は暗雲が垂れ込むようだ。
 突如、蘭々は言い様の無い不安に襲われた。

「季衣っ、流流っ! ―――華琳さまっ!」

 叫んでいた。季衣と流流がこちらを振り返る。遅れて華琳も、蘭々の方を向いた。その目が一瞬驚愕に見開かれたのは、覆いかぶさるように飛び付く自分のせいだろう。





「――――! ――――!!」

 にわかに背後で喚声が上がり、虎彪騎に乱れが生じた。後ろを振り返る者までいる。

―――曹操が倒れたか。

 声は士気を昂ぶらせる鬨の声ではなく、悲鳴に近い。五百騎が脚を緩める様子も無く正面から迫る中、突撃の命令も下らず、代わりに不安を煽る叫び声まで聞こえたとあっては、如何に音に聞こえた虎彪騎とあっても狼狽は無理もない。
 そう謀った張本人としては、当然彼らの不幸な現状を斟酌してやるつもりはない。馬騰は槍を一度中天に掲げ、真っ直ぐに振り降ろした。

「――――――!!」

 こちらは正真正銘の鬨を上げて、虎彪騎へ突っ込んだ。
 左右から一騎ずつが前に出て、虎彪騎の布陣を切り開いていく。以前なら馬騰自らが先頭に立ったところだが、病を得てからは無理はしていない。二騎が倒れても、すぐに代わりの二騎が前へ出る。そのあたりの調練は廉士―――龐徳が徹底させていた。
 この状況で潰走に至らないのはさすがと言えるが、まともな反攻にも出れずに虎彪騎は縦断された。
 次いで控えるのは曹操の親衛隊虎士だ。いずれも武芸達者の勇士ばかりであるが、その数はわずか数十騎に過ぎず、やはり動揺している。馬ごとぶつかるつもりで追い立てていくと、すぐに曹操の姿が目に入った。
 虎彪騎と同じ具足を身に付けた少女が、曹操の身体にもたれかかっている。顔は見えないが、髪の色や体格が曹操とよく似ていた。虎彪騎の隊長曹純で間違いない。曹純の背には、矢が一本突き立っていた。曹操をかばったということだろう。肝心の曹操は無傷のようだった。

「おりましたっ、曹操です!」

 前を行く二騎も曹操を認め、左右から挟み撃ちするようにわずかに進路を変更した。その二人が、巨大な岩にでも衝突したように馬上から消し飛んだ。いや、実際に一抱えもある鉄の塊が二人を襲っている。曹操の親衛隊長許褚と副隊長典韋の得物だ。

「―――っ!」

 馬騰は、咄嗟に馬上に身を伏せた。頭の上を二本の鎖が過ぎる。体勢を立て直した時には、すでに曹操の横を走り抜けていた。
 互い違いの敵へ向けて投げられた許褚と典韋の得物―――鎖付きの投擲武器は、馬騰の眼前で交差しその身に絡みつこうとしてきたのだ。

「まあ良い。―――陛下に拝謁賜るっ!」

 曹操の首には拘泥せず、馬騰は敵味方関わらず周囲の全員に聞かせるように叫んだ。
 虎彪騎と虎士を抜ければ、正面には光禄勲府の兵と彼らに守られた天子が控えるのみだ。光禄勲府は帝の近衛であるが、その長官は張繍である。実体は曹操軍の洛陽駐留部隊に過ぎない。馬騰は構わず兵を突っ込ませた。

「母様っ! これは一体!?」

「翠かっ。陛下はお側におられるか? 廷臣の方々は?」

 混戦の中から、聞き慣れた声が響く。精鋭五百騎の中でもさらに選りすぐりの五十騎を引き連れ、声のした方へ馬を進めた。

「あ、ああっ。それよりいったい何を―――」

 争乱の及ばぬ静寂の空間に出た。中央に十数騎。翠が、そして廷臣らに取り囲まれるようにして帝がいる。同じ宮殿仕えの具足を着込み相争う兵達は、帝の周囲には闘争を持ち込もうとしなかった。馬騰は五十騎を用いて、さらにその空間を押し広げさせる。

「馬騰、これは一体何の騒ぎだ?」

「陛下、馬上にて失礼いたします。長らくお待たせいたしました。奸臣曹操の手より御身をお助けする用意、ついに整いましてございます」

「何を申すか。曹操はよく朕に仕えてくれておる」

「陛下っ、騙されてはなりませんっ! 曹操は陛下の威光を己が覇道に利用したいだけの奸賊っ! 諸侯を平らげた後は、必ずや陛下に禅譲を迫りますぞ!」

 帝の隣りで外戚の董承が叫ぶと、廷臣達の何人かが同調して口々に曹操を罵倒し始める。
 大半が予め馬騰が誼を通じた共謀者であるが、そうでない者も幾人か含まれていた。朝廷での曹操の評判は決して良いものではない。

「―――まったく、ずいぶんな言われようね」

 その雑言も、ただの一言で鎮まった。
 虎士を引き連れ、曹操が姿を現した。周囲では体勢を立て直した虎豹騎も混戦に参入している。

「そっ、曹操っ! 陛下の御前であるぞ、武器を下げよ」

「何か思惑があるとは思っていたけれど、まさか私の暗殺だなんてつまらない手を貴方が選ぶなんてね、馬騰。すこし過分に評価し過ぎていたかしら。私を殺して陛下を手中に収めたところで、我が軍が黙ってはいないわ。その天下は一月ともたない」

 叫ぶ董承を無視して、曹操は馬騰だけを見つめてくる。

「ふっ。さて、どうだろうな?」

「―――っ、馬騰、貴方もしかして、ボクと同じことを考えている?」

 曹操の周りには張繍と賈駆、徐晃、虎士を率いる許褚と典韋、そして典韋に身を預けるようにして曹純の姿もあった。声を上げたのは、賈駆である。同じ涼州人、加えてかつて自らも起草した計画だけにいち早くそこに思い至ったようだ。

「長安への遷都」

 馬騰が答えるより先に、曹操が賈駆の言葉に反応する。さすがに頭の回転が速い。馬騰は肯定と賛意を込めて微笑して見せた。

「確かに貴方の領分に接した長安ならば、我が軍の報復に抗うことも可能かもしれないわね。なによりそれは、貴方達涼州の民の―――」

「―――そう、夢よ。賈駆が長安遷都を計画したと聞いた時には、董卓に味方しておくのだったと心底後悔したものだ」

 高祖劉邦は長安を都として、大敗を喫したとはいえ異民族との戦にも自ら兵を率いた王であった。光武帝の将器は高祖を遥かに凌ぐが、都を置いたのは西涼からは函谷関で隔てられた洛陽である。異民族に対しても懐柔策が取られ、積極的な攻勢は行われなくなった。といって、国境付近の異民族が容易く大人しくなるわけもない。西涼の民には漢朝から見捨てられたという思いが残り、それが二百年を経た今も叛を生んでいる。
 長安遷都。それは西涼の民が渇望し続けたことだった。

「――――――!!」

 馬騰から見て右、曹操から見て左、混戦する人馬の壁が血煙を上げて崩れた。赤く染まった白が飛び出し、ちょうど対峙する二人の中間近くで止まった。

「仁、早かったわね」

「……曹子孝か」

 曹操の言う通り、想定よりも早い。それは兵を糾合することなく、自らが率いる小隊百騎のみで駆け付けたためだろう。そしてその百騎も、混戦に捉われてしまっている。

「―――誰がやった?」

 何度か左右を見比べた曹仁が、一点を見据えて言った。意味が取れず、問い掛けに返す言葉はなかった。

「誰が俺の妹を傷付けた?」

「―――兄貴?」

 典韋にもたれる様にして何とか馬上に留まっていた曹純が、身動ぎした。曹仁の視線の先はそこだろう。

「お前は答えなくて良い。休んでいろ。―――華琳?」

「後ろから射られたものだから、分からないわ」

 頭を振る曹操を見て、曹仁はこちらへ馬首を返した。

「馬騰か? それとも馬超、お前か?」

「まさか」

 翠がぶんぶんと首を左右に強く振った。馬騰は、肯定とも否定とも取れる曖昧な微笑を返す。

「―――私だっ!」

 帝の隣で男が叫ぶ。董承である。

「お前か」

「おお、そうよ。天子を誑かし、国政を壟断する奸臣を裁く正義の矢よ! 曹操を狙ったものを、詰まらぬ邪魔が入ったわ」

 董承は堂々と言ってのけた。暗殺という己が行為を恥じるどころか、義挙と嘯く。元を糺せば馬騰が唆したようなものであるが、董承はすっかりと自己を正当化し、そんな自分に酔ってもいる。

「もういい、黙れ」

 曹仁が吐き捨てるように言う。身体が、いや、曹仁自身ではなくその乗馬白鵠が、一回り小さく縮んで見えた。

「―――まずいっ!」

 馬騰が叫んだ瞬間には、曹仁は董承の眼前まで迫っていた。徐々に加速する馬の疾駆ではなく、武術の踏み込みのような爆発的な一歩で瞬時に間合いが詰められていた。

「―――っ、我らには天子様が」

 董承が口に出来たのはそこまでだった。肩口に槍を突き込まれ、馬上から董承の姿が消える。

「曹仁っ! そのまま陛下を確保してっ!」

「―――っ!? ああっ! 陛下、失礼致しますっ」

 賈駆が叫び、曹仁が天子に手を伸ばす。廷臣達は皆腰が引けて、天子の身柄を身体を張ってまで確保しようとする者は一人もいなかった。曹仁は天子の小さな体を悠々と小脇に抱え込む。

「翠、曹子孝を止めろっ!」

「えっ、あっ、あたしっ?」

 命ずるも、翠の動きに精彩がない。
 曹仁が曹操達の元まで馬を走らせるのを、申し訳程度に数歩追いすがっただけだ。許褚と徐晃が曹仁に代わって前へ出ると、翠は完全に足を止めた。

「兄妹そろってお手柄ねっ! 妹は華琳様の暗殺を防ぎ、アンタは天子様をお救いして馬騰の目論みを阻んだわっ」

 賈駆が興奮気味に叫ぶ。

「そんなことより、蘭々の具合は?」

「心配しなくても、急所は外れているわ」

「そうか。華琳が落ち着いた様子だったから、そうだろうとは思ったけど。―――っと、陛下、重ねて失礼をいたします」

 曹操の言葉で、曹仁は怒気を納めて帝を自分の馬の前に座らせた。曹操が隣りへ馬を寄せる。

「陛下、馬騰らに降伏を勧めて頂けますか?」

「う、うむ。馬騰、矛を納めよ。決して悪い様にはせね。曹操にも乱暴はさせない。朕が約束しよう」

「―――陛下、衛尉馬騰これにて官職を返上致したく。病身に宮仕えはやはりこたえました。これよりは娘を連れ故郷へと戻り、余生を過ごしたく思います」

 帝に視線を向けられ、曹操が何事か小さく囁く。帝は小さく頷くと、口を開いた。

「……馬騰、許そう。故郷にて、静養に努めるが良い」

 曹操は馬騰の退官―――撤退を受けた。
 あくまで曹操の首と帝の身柄に固執するという手もある。曹操軍の兵力はぞくぞくと集結してくるだろうが、今この瞬間この場ではまだこちらに利がある。しかし頼みの翠がこの戦場に気乗りしていなかった。曹操の疑いを避けるため、娘であり最大の武器でもある翠には今回の襲撃を伝えていない。闇討ちという後ろ暗さを持つ戦場へ急に立たされた翠は、明らかに士気に欠けていた。
 いくら兵力で優位に立っていても、翠抜きで虎士の布陣をくぐり抜け、許褚に典韋、曹仁をも退け曹操を討つのは難しい。病に冒された自らの痩身に、今は気力が漲っているが、それでも武の衰えは隠しようもない。馬騰に翠の代わりを務めるのは不可能だった。

―――ここは次善の策で良しとしよう。

 馬騰は姿の見えない蒲公英の働きを信じて、撤退を申し出た。
 そして曹操は曹操で現状の不利を悟り、馬騰の仕切り直しの提案を飲んだ。

「またすぐ、会うことになるわね」

「おう、西涼にてお待ちしている」

「―――ばっ、馬騰殿っ、わ、私達は一体どうすれば?」

 馬首を西へ向けた馬騰に、廷臣の一人が詰め寄った。馬騰と通じていた者の一人だ。

「付いて来られるのなら、共に西涼まで参られよ」

「そっ、そんな」

 廷臣は色を失った。西涼騎兵の最精鋭に、付いて来られるはずもない。

「翠。帰るぞ、西涼へ。お前には、やってもらわねばならないことがある」

「あ、ああっ」

 翠は最後に何か言いたげな視線を曹操たちへ向けると、馬騰に従って馬を進めた。空馬を二頭引いた兵が駆け寄ってきて、翠に手綱を渡す。翠の三頭の愛馬のうちの二頭、麒麟と黄鵬で、残る一頭の紫燕に翠は跨っている。
 馬騰と翠が混戦を抜け出ると、五百騎も速やかに離脱して付いてくる。ほとんど数を減らしてはいなかった。精鋭というのもあるが、それ以上に光禄勲府の兵と同じ具足が、同士討ちを恐れる敵の攻撃から鋭さを奪ったのが大きいだろう。

「ちょっと、待ってよ、藍伯母様、お姉様っ!」

 兵の中から蒲公英が飛び出してきて、翠の横へ馬を並べた。

「蒲公英、首尾は?」

「うん、ばっちり。後はお姉様、お願いね」

「何の話だ? というか、たんぽぽは今回の事、知ってたのかよ」

 翠が不機嫌そうに言う。

「そう怒るな。翠にはここからは二人乗りで遅れずに付いて来てもらわねばならん。三頭を乗り継げば、翠の腕なら難しいことではあるまい」

「二人乗り? 天子様は取り返されたのに、一体誰と?」

「ふむ。そうだな、我らの天子様、といったところだろうか」

 首を傾げる翠の元へ、兵に半ば追い立てられるようにして一騎が引き出されて来た。





 軍医による処置は半刻(15分)程で終わった。
 具足の隙間を抜けて蘭々の背中に突き立った矢は、幸いにも肺腑までは届いておらず、大きな血管を傷付けることもなかった。
 大言を吐いた董承の弓勢が口ほどにもなかったことと、真桜の作った軍袍のお蔭だ。
 鉄糸を編み込んだ軍袍はかつて曹仁を助け、今度は蘭々の命をも守ってくれた。本来斬撃への備えであって、刺突や矢のような一点への攻撃に対して有効なものではないが、鉄糸は矢尻を絡め取り深部への侵入を拒んでいた。幸運と言うよりも、華琳を救うために跳び付いた蘭々の動きが、結果として飛んでくる矢に鉄糸を纏わりつかせることとなったのだろう。

「……」

 曹仁は眠る蘭々の頭の向きを直してやった。
 肺腑に届きこそしなかったが、傷は決して浅いものではなく、蘭々は処置が終わると青白い顔で意識を失った。
 背中の傷であるからうつ伏せに寝かせているが、息苦しいのか度々寝返りを打とうとする。その度に曹仁は傷に障らぬよう寝かし直し、枕の向きを変えてやった。
 本営に並び建てられた幕舎の一つで、少し前に幸蘭や春蘭達も本陣に合流して、見舞いに顔を出していた。今は曹仁以外の者は隣の本営で、華琳や詠達から状況の説明を受けている。
 曹仁は、蘭々が治療を受ける間に事のあらましを聞き終えていた。
 馬騰率いる衛尉府付きの五百騎が本陣を襲撃した。言うまでもなく元は馬騰が西涼から引き連れてきた精鋭騎馬隊である。
 初め、正体不明の軍勢として現れた五百に警戒し、華琳は虎豹騎と虎士を帝の前面に押し立てた。しかし一団が友軍―――馬騰と衛尉府の兵―――であると馬超が指摘し、一瞬兵の緊張が緩んだ。そこへ、守るべき後方から華琳を狙う矢が飛んだ。射たのは先刻打ち倒した董承で、虎士の面々も含め全員が前方の五百騎に視線を注ぐ中、蘭々だけが飛矢に気付いて身を挺して華琳を守ったのだ。そしてその混乱に乗じて、五百騎は軽々と虎豹騎と虎士を撃ち破った。

「……敵を欺くにはまず味方からか」

 先日、蘭々に語ったばかりの言葉を思い出した。中華の兵書の言葉ではないが、華琳が荊州を相手に企てたように、馬騰が曹操軍に対して用いても不思議はない。
 華琳の見るところ、馬騰は董承ら廷臣たちと密約を交わす一方で、娘の馬超には襲撃を秘したようだった。確かにその動きには覇気が無く、曹仁が董承を打ち倒し天子を奪還した際にも、手をこまねいていた。馬超の邪気のない言動は華琳に疑念を抱かせず今回の襲撃成功の一因となったが、こちらに対してもいくらか利したということだ。何より、もし矢を放ったのが董承ではなく馬超であったなら、狙い過たず華琳を射抜くか、軍袍ごと蘭々を刺し貫いていただろう。
 その馬騰と馬超に対して、華琳は霞隊一万騎に後を追わせている。西涼騎兵最高峰の五百騎相手には、如何に霞と言えど追い付くのは難しい。こと馬術に限って言えば、あの五百騎は白騎兵とも同等だろう。しかし馬騰が西涼に行きつくには、函谷関を抜けるか、険しい山中を越える必要があった。衛尉は朝廷の高官であるが、軍を引き連れて関を抜けるまでの権限は持たない。馬騰は西涼での再戦を期していたようだが、どこかで霞の追跡に捉えられる可能性も高かった。

「……」

 蘭々の首筋に浮いて玉になった汗を拭いてやる。外はいくらか肌寒いくらいの陽気だが、血を失った体が冷えないように火を入れた幕舎内は暑いくらいだった。

「お兄―――兄貴か」

「気がついたか」

 額を拭いてやると、蘭々がゆっくりと目を開いた。

「―――っ」

「無理をせず、横になっていろ」

 体を起こそうとする蘭々を曹仁は押し留めた。

「華琳さまは?」

「お前のお蔭で傷一つないから心配するな」

 状況を簡潔に語ってやる。矢を受けた後の記憶は、靄がかかったように曖昧なようだ。

「そっか。まあ、華琳さまが無事なら何だって良い。……兄貴、絶影は良い馬だな。華琳様の危機を、教えてくれた」

 蘭々が青い息を吐きながら言った。

「絶影が?」

「うん。あの毛並みを見ていたら、ぶわっと暗雲に視界が覆われたみたいになって、そしたら胸がざわついて」

「そうか」

 蘭々の言葉はいまいち要領を得ないが、怪我人に詳しい説明を求めるつもりもない。曹仁は軽く相槌を打ちながら、寝乱れた髪を手櫛でといてやった。

「…………華琳様に付いてなくて良いの? 暗殺にあったばかりの恋人をほうっておいて大丈夫?」

 しばらく気持良さそうにされるがままになっていた蘭々が言った。

「こんな時にいらん気を回すな。妹は妹らしく、兄貴に甘えてれば良いんだよ」

「そうやって季衣や流流、鈴々、呂布のところの陳宮なんかも可愛がってるくせに。今さら妹の一人や二人―――」

「―――馬鹿。妹分が何人いようが、妹はお前だけだろうが」

「……そっか。そうだよな。兄貴はもっと俺や姉ちゃんに優しくすべきなんだよ。華琳様とはいつか別れるかもしれないし、他の皆とも仲違いするかもしれないけど、俺はいつまでたっても妹なんだから」

 言うだけ言うと、蘭々は満足そうに目を閉じた。曹仁は極力妹の御希望に答えるべく、優しく髪をとかし続ける。
 しばらくそうしていると、再び汗が浮き始めた。曹仁は首筋をぬぐい、汗で張り付いた前髪を掻き上げて額を拭いてやった。

「あ、兄貴、そういうのはいいから。か、代わりに姉ちゃんを呼んできて」

「どうした、急に?」

 蘭々が曹仁から顔を背けながら言った。

「傷が痛むのか?」

 身を乗り出した曹仁の視線から逃れるように、蘭々が体を丸める。

「おい、大丈夫か」

「だ、だから、出てってくれ。汗いっぱいかいてるし、服も、こんなだし。……は、恥ずかしい」

「―――っ、すまん」

 軍袍を解かれた蘭々は肌着に近い恰好だった。それが汗でぴったりと肌に密着している。

「ね、姉ちゃん、呼んできて」

 蚊の鳴くような声でもう一度蘭々が繰り返す。

「ああ。……着替えも持ってくるよう頼んでおこう」

「余計な気を回さなくていいから、はやく出てって!」

 気を利かせたつもりがかえって怒らせたようで、最後はいくらか元気な声で曹仁は幕舎から追い出された。
 幕舎の入口には、虎士が二人護衛についてくれている。曹仁は二人に軽く頭を下げ、本営へ向かった。華琳の話もそろそろ終わるころだろう。

「……陛下?」

 本営前まで来た曹仁を、後ろから小さな影が追い抜いていった。従者達が慌てて付き従っている。

「―――曹操っ、姉様がおらぬっ!」

 一歩遅れで舎内に足を踏み入れた曹仁が聞いたのは、珍しい天子の叫び声だった。




[7800] 幕間 張衛
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/01/08 19:50
「―――次の者」

 目元を拭いながら退室する信徒を見送ると、張衛は室外に声を掛けた。

「ししっ、失礼します」

 入れ替わりにそのそと現れたのは呆けた表情の大柄な男で、動作だけでなく頭の回転も鈍そうに見える。姉の張魯の前にやはりのったりとした動きでひざまずく。それでも人一倍小柄な姉とは頭の高さが変わらなかった。

「弟をよろしくお願いしますね」

「い、命に代えてもお守りいたします」

「貴方も、死んではなりませんよ」

 男の捧げ出した掌の上に、姉が一握りの米をぱらぱらと落しながら言う。

「もっ、もったいないお言葉ですだ」

 男は米の入った拳を固く握り締めると、やはり涙を流しながら退室していった。

「今の人で最後ですね?」

「はい。御勤めお疲れ様です、姉上」

「―――ふぅ、ちょっと手が疲れました」

 姉は手を組んでぐぐっと腕を伸ばした。信徒の前では決して見せない姿である。

「でも、まだまだ続けられます。もう少し―――」

「いえ、五百人で十分です」

「むぅ」

 姉が唇を尖らせた。やはり張衛にしか見せない姿で、幼い容姿の姉がやると本当に子供にしか見えない。
 西涼へは、五百騎での出陣となった。その五百人に対する出陣前の儀式―――教祖張魯が手ずから米を下げ渡す―――を終えたところである。
 五斗米道の元へ馬騰の使者として馬超と馬岱が訪れてより、半年以上が経過している。その間に、両陣営が危惧した通り曹操が袁紹を下し、天下の過半を領することになった。そして馬騰は漢室に―――曹操に―――降り、朝廷に官職を得た。
 馬騰が洛陽に住居を移してからも、書簡のやり取りだけは続けてきた。曹操の暗殺計画と長安遷都の腹案を明かす書簡が届いたのは、決行当日の事である。さらに十日余りの後、援軍の要請を携え使者が訪れた。曹操の暗殺には失敗したものの、董卓に廃された先帝を擁立して長安に入ったという。
 長安は曹操軍の支配下にあり、雍州牧の公孫賛の居城となっていた。全てが計画通りとはいかないまでも、曹操軍の重要拠点を陥とし初戦は完勝と言えるようだ。一連の状況を鑑みて、張衛は自ら兵を率いての出陣を決めていた。
 中原の戦が落ち着けば、周辺勢力の併呑が始まる。五斗米道に独力で漢中を維持出来るほどの力はなく、同盟相手が必要であった。そして現状手を取り合える相手は、馬騰達西涼軍をおいて他にいない。
 姉は初め遠征に反対していたが、説得の末に出兵と決めてからはせめて一万を動員するように主張した。弟である自分を案じてのことだろう。姉の気持ちは有り難いが張衛はそれを断り、手近にいる兵の中から馬を乗りこなせる者だけを選んで旗下とした。
 姉が漢中の信徒達へ呼び掛ければ、兵として戦える者だけでも五万近く集めることが出来る。しかし最近になって益州牧劉焉との間で、何度も小競り合いが発生していた。
 これまで劉焉とは友好といかないまでも、敵対には至っていなかった。州の入り口に位置する漢中に居座る五斗米道は、劉焉にとって都合の良い風除けのようなものであったのだ。しかしこの数年、五斗米道の治める漢中を楽土と信じて、益州各郡から民の流入が相次いだ。移民は劉焉の政の拙さによるものだが、劉焉は張魯が宗教の力で民を惑わしたと逆恨みしているようだ。隙を見せれば、大規模な攻勢を仕掛けて来ないとも限らない。

「出陣は、明日の早朝でしたね?」

「はい、夜明けとともに。桟道を通りますので、明るいうちに少しでも進まなくてはなりませんから」

「それじゃあ、今日は早めに休みましょうか」

「そうですね、そうさせて頂きます。……先日お伝えしましたが、姉上のお見送りは結構ですよ」

「むぅ」

 姉がまた唇を尖らせた。
 五百での出陣には、もう一つ曹操への言い訳という意味合いも含まれている。
 西涼軍が曹操軍を破り、群雄割拠の様相が続くのが五斗米道にとって最も望ましい展開であるが、敗れた場合のことも考えねばならない。勢力で言えば、圧倒的に曹操が優勢なのだ。
 漢中は五斗米道の教義がそのまま国の形をとった理想の世界である。信徒の中には、漢中の外では生きていけないような者達もいる。しかし曹操に降伏し、今とは違った形で五斗米道を残す道も考えておかねばならなかった。
 五百であれば、張衛の独断という言い訳も立つ。衆人環視の中に姉が兵を送り出す姿を晒すべきではなかった。
 そうした意味では、教祖が米を下げ渡す出陣の儀式も本当はやりたくなかった。しかし劉焉との小競り合いで分かったことだが、五斗米道の信徒は戦には徹底的に向いていなかった。五斗米道の教義自体が、他者と競い合い蹴落とすことの対極に位置するのだから当然と言えば当然である。信徒を一端の兵として戦わせるためには、儀式による士気の昂揚が不可欠であったのだ。

「そんな顔をしても、駄目なものは駄目です」

「わかっています」

 姉が到底納得したとは思われない口調で言う。
 自分が漢中を空ける間、姉がこうして感情を曝け出せる相手もいなくなる。そう思えば、不機嫌そうな横顔も愛おしいものだった。
 翌早朝、義舎の前に五百騎を整列させた。

「これより、西涼の盟友馬騰殿の援護へ向かう」

 五百騎に、張衛は語り掛けた。

「この戦は、直接漢中を守る戦いではない。しかし今後も我らの信仰を守り続けるためには必要な戦いだ。皆の力を貸してくれ。―――全員、用意は良いか?」

 少し間を置いてぱらぱらと声が返ってくる。
 日頃調練に明け暮れている兵ではないから、行動の全てに戸惑いがある。それは西涼まで向かう道すがら鍛え直すしかない。とはいえ張衛自身軍略は兵書を読みかじったわずかな知識を持つだけだ。足並みをそろえて前進し、きっちりと整列、きびきびと返答する、それぐらいを仕込めれば上出来だろう。

「では行くぞ」

 馬を北へ向けた。しばらくは長閑な田園風景が続き、その後は名高い蜀の桟道を走ることとなる。おおよそ三百里の桟道を、以前漢中を訪れた馬超と馬岱は二日で駆け抜けたと聞いていた。今回の進軍でも同じ経路を辿るが、十日近くは掛かるだろう。
 沿道には、見送りの人間が列を為していた。誰も歓声を上げて送り出すようなことはしない。教祖張魯の弟である張衛を拝むように、跪いて組んだ手を掲げている。

「あのぅ、張衛様」

「なんだ?」

 兵が一人、張衛の隣りへ進み出た。昨日、最後に姉が米を下げ渡した大男だった。

「今回の出兵に張魯様は来られないので?」

「もちろんだ。信仰のために手を汚すのは我らだけで良い。教祖様がその手を血に染められることはない」

「そうでしたか。確かに、仰られる通りですね。信仰は我らの心の中にあるもの。我ら自身で守らねばなりません」

「うむ、そういうことだ」

 男は張衛の言葉を良い様に解釈してくれたようだ。
 男の首元に紐がのぞく。懐に収められて見えないが、この男だけではなく信徒の兵の誰もが首から小さな麻袋をぶら下げている。儀式で受け取った米を、兵糧とは別に残しているのだ。後生大事にしまっておく者もいれば、戦で苦しいときに一粒二粒口に放り込む者もいる。
 張衛の首に、麻袋は下がっていない。実際のところ、張衛自身は五斗米道の信者というわけではなかった。信徒達が神仙と崇める姉も、張衛にとっては当然生身の人間である。張魯自身も自分が特別な人間とは思っておらず、祖父の代から受け継いだ医術と教義に従った生き方をしているだけに過ぎない。そして五斗米道の教義は、神仙や教祖を崇めよと言った類のものではなく、弱きを助け誠実に生きよと言う、単に人道を説くだけのものなのだ。米を下げ渡す儀式も、それらしく見えるよう張衛がでっち上げたものに過ぎない。
 元は細々とした互助集団に過ぎなかったものが、次第に教祖が神聖視され始め、張魯の代で一郡を覆う宗教組織となったのだ。信仰に対する考え方は、張魯や張衛の思惑を越えたところで信徒達が勝手に作り上げていったところがある。それは今や張魯にすら、おいそれとは覆すことが出来ないほどに育ちきっていた。

「―――っ」

 考え事をする張衛の目に、幼い少女の姿が飛び込んで来た。見送りの人並みに紛れ、粗末な着物に頭巾で顔を隠しているが間違いない、姉の張魯である。

―――見送りは不要といったものを。

 素知らぬ顔で横を駆け去る張衛に、姉が小さな手を振った。
 張魯は十をいくつか過ぎた頃から、身体の成長が止まった。それ故に人々からは神仙と崇められている。亡くなった母も死ぬ間際まで十代の容色を保っていたから、そういう家系なのだと張衛は理解していた。
 山道に至ると見送りの人並みも絶え、自分達の馬が立てる馬蹄の音だけが響いた。
 二つ峰を越え、桟道へ入った。騎乗して通るのは張衛も初めての経験となる。徒歩でも、ほんの数十里先の山中まで移動した経験しかない。今回は三百里を駆けることになる。五百騎の中で特に馬術に長けた者五十人を先導として進ませた。五十一騎目が張衛で、後に四百五十騎が一列に並んで進む。
 岩肌に張り出した木造の道は、馬車が走ることも想定して平坦な板が渡してあり、馬で駆ける分には不都合はなかった。しかし横幅は細い場所では半丈(1.5メートル)ほどに過ぎない。五百騎は恐る恐る進んだ。
 三十里(15キロ)ほどで一度桟道が途絶え、再び山道に出る。そこで一度休息を命じた。
 馬を降りて、初めて山風の冷たさに張衛は気付いた。ずっと握り締めていた手綱が汗で湿っている。我ながら、たかが行軍に相当に緊張していたようだ。
 一列縦隊であるから、わずか五百騎といえども桟道への出入りだけで相当に時間を要する。再び馬の背に乗った時には、すでに日は西に傾き始めていた。二、三里もすると、また桟道の入り口に至った。暗闇の中で桟道を進む危険を避け、その日はそこで野営とした。
 翌日は、いくらか落ち着いた心持ちで景観を眺めることが出来た。
 桟道から下を覗くと、清んだ水の流れが見える。秦嶺山脈と呼ばれるこの地を源とし、幾筋もの川が流れ出している。そして川が形成する渓谷に張り巡らされたのが蜀の桟道であった。
 益州と外部との交通は、西涼から桟道を経て漢中に入るか、あるいは荊州から長江を遡上して巴郡へ入るか、というたった二つに限られる。蜀の桟道は漢中の五斗米道にとっても益州全体にとっても、重要な交通路であった。

「……見張りの者ぐらいは置いておくべきだったな」

 これまで旅の商人であれ他勢力の使者であれ好き勝手に行き来させてきたが、さすがに油断が過ぎるというものであった。初めて本格的に桟道を辿り、張衛はその重要性を再認識した。
 それから七日で桟道を抜け、西涼へ入った。平地を隊列を組んで行軍する。山岳に囲まれた漢中の民の目には、見なれない地平が続く。
 張衛自身、益州を出たのはこれが初めてである。常に日の位置を確認し、地図に照らし合わせながら進んだ。漢中では山並みを望めば方角が判別出来たが、平地の続く土地ではそうはいかない。
 漢中を発し山脈を越える桟道は幾筋もある。一番東の子午谷に面した道―――子午道―――を通ると、山道を抜けた先がすぐに長安となる。しかし最も起伏に富み、難路であった。張衛は子午道は避け、比較的平坦な道の続く褒斜道を選んで進軍していた。褒射道の先は五丈原に通じていて、そこから西へ向かえば馬超から聞かされた馬騰の本拠地楡中となる。しかし、馬首は東へ向けている。今は西涼の軍閥は皆、長安に集まっているはずだった。
 移動しながらも常に十騎ずつの斥候を四方に放った。曹操軍が長安より西に進出しているとは考え難いが、長安守備隊の敗残兵がうろついていないとも限らない。
 馬で駆けながら斥候を出すというのも初めての事で、前方に出した十騎は容易く合流するが、左右後方の十騎とは何度となくはぐれ掛けた。その都度行軍を止めることとなる。兵の経験不足ももちろんあるが、何より自分の指示の出し方が悪いのだ。

「……ふむ」

 張衛は少し考えて、左右の十騎は単に隊の進行方向に対して真横へ走らせるのではなく、まず斜め前へ駆けさせてから反転して真横へ戻らせることとした。そして後方の斥候には、他の方向の者達よりも少し速く引き返らせる。それで、四方の斥候がほぼ同時に戻り、過たず四方の情報が入るようになった。
 試行錯誤を繰り返し、二日が経過した。

「張衛様、あれを!」

 兵の声に、張衛は地図へ落としていた視線を上げた。
 前方へ出した斥候が、二百騎余りに追い立てられてくる。

「如何いたしましょう? 蹴散らしますか?」

 数で勝り、行軍でいくらか自信も付けたのか、兵が勇ましいことを言う。
 最後に出陣の儀式をした大男である。行軍を続けるうちに、自然と副官の様なことをさせていた。鈍臭さにいらいらさせられることもあるが、姉に似て小柄な張衛の隣に侍らせておくと、他の者への良い目印となった。

「私が話してみよう。皆は動かずに」

 平原を堂々と駆ける様は敗残兵とは思われない。西涼の軍勢だろう。友軍である。
 一騎で進み出た。斥候の十騎は張衛の横を駆け抜け、味方の中へと逃げ込んでいく。
 追いかけてきた集団は、張衛の前に一騎を残して左右に二つへ分かれた。さらにそれぞれが二つに分かれ、張衛達の四方を取って止まった。五百騎は、五十の小隊四つに囲まれる形となった。
 これが戦をするために鍛え上げられた騎兵の動きというものだろう。五斗米道の兵には到底不可能な動きである。五百騎は身を寄せ合うようにして萎縮している。兵力の多寡など関係なく、ぶつかれば容易く蹴散らされてしまいそうに見える。

「私は五斗米道の張衛と言う。馬騰殿の招きにより援軍に駆け付けた。我が兵を追い立てる貴殿らは何処の兵であるかっ」

 正面に残る一騎に対して声を上げた。
 年の頃は三十代半ば過ぎの、筋骨隆々とした男だった。骨格で言えば副官にした大男とそう変わらぬが、体付きは大違いだ。二の腕など、張衛の頭ほどの太さもある。

「ほう、馬騰のところの兵だったか。どおりでふぬけた行軍をするわけだ」

 男が返す。

「馬騰殿の部下と言うわけではないっ。五斗米道より参った援軍である。貴殿は? 名乗る程の名も持たぬかっ?」

「なんだと、俺を知らねえのか?」

 男が眉を逆立てた。

「だから、先程から名を尋ねておるっ」

「……ふんっ。まあ馬騰のところの奴らは俺の影に怯えてちょろちょろと逃げ回るばかりだから、顔を知らぬ者がいてもおかしくはないか。―――聞いて驚け、俺が閻行様だ」

「……閻行、殿とな。聞かぬ名だな」

「なんだとっ、まさか、この俺を知らねえのか?」

「申し上げた通り、我々は五斗米道の、漢中の人間だ。申し訳ないが、西涼の諸兄方についてそこまで精通しているわけではない」

「つまり、知らねえってことかい。こいつは驚きだ。西涼一の豪傑の名も知らずに、援軍に来るとはな」

 男がわざとらしく肩をすくめた。

「錦馬超殿の名なら存じ上げているし、お会いしたこともある」

「ちっ、てめえも勘違いしている輩か。その馬超をただの一合で叩きのめしたのが、この俺、閻行様だろうが」

「貴殿が馬超殿を?」

「おうよ」

 閻行と名乗った男は得意気に胸を反らす。改めて観察するも、とても馬超に敵う強者とは思えなかった。
 武術に関して、張衛自身は得手とも不得手とも言えない。こうして兵を率いる時もあると思い、下の者に侮られない程度に剣の修練は積んであるが、それだけだ。しかし医術を修める者として、他人の筋骨を観ることには自信があった。
 閻行の身体は恵まれた体格に鍛え上げた筋肉を乗せ、如何にも強そうだ。しかしどこか不恰好だった。触診しなければ断定は出来ないが、氣血に乱れが生じているのではないだろうか。氣血の乱れは身体の動きをも乱し、生じた不具合は不揃いな筋肉を付け、骨格をも歪める。そして筋骨の不整がまた、氣血の乱れを増長させる。
 その点馬超は―――

「―――お前らー、そこで何をしているっ!」

 脳裏に思い浮かべた途端、当の本人の声が聞こえてきた。
 十数騎を従え、馬超が駆けてくる。
 閻行と比べると、馬超の身体は吹けば飛ぶようだった。手足の筋肉など、張衛と変わりない。しかし指先まで調和した動きは、触るまでもなく雄渾な大河が如く氣血が全身に行き渡るのを感じさせた。

「馬超殿。御無沙汰している」

「おお、張衛じゃないか。そうか、援軍に来てくれたんだな。―――他の兵は?」

「五斗米道の神兵五百。これで兵は全てだ」

「ん、そうか。まあ、何にせよ、わざわざ教祖の弟自ら来てくれるとはありがたい。母様の元へ案内しよう」

 援軍がわずか五百騎とは思わなかったのだろう。馬超は一瞬困ったように眉をひそめながらも、すぐに朗らかな笑みを浮かべた。

「よろしく頼む」

「何やら揉めていたようだが、そこのあんたもそれで良いな。この者は母様の客人だ」

「おうおう、馬超っ! てめえまでこの俺を知らぬ顔かっ?」

 馬超の言葉に、閻行がいきり立つ。

「……誰だ?」

 馬超が、小声で張衛に囁いた。同じく小さく張衛は返した。

「閻行と仰る方だ。馬超殿に勝ったことがあると吹聴しておりましたが」

「―――ああ、あの」

 馬超が、ちらりと率いてきた十数騎に視線を送った。兵達の中に紛れて、馬岱の姿が見えた。身を隠しているようでもある。

「やり合ってからかなり立つが、ずいぶんと成長したみたいだな。こんなちんちくりんだったのが、胸も背も伸びてすっかり大人の女じゃねえか。なんなら、もう一度お相手してやろうか?」

 閻行の言葉にも視線にも、下卑た性根が見え透いていた。

「……ふんっ、お前は韓遂の奴の部下だろう。今は味方同士だ、詰まらない争いを起こすな。曹操は内輪揉めしていて勝てるほど、甘い相手じゃない。いくぞ、張衛」

 相手にせず、馬超が馬首を巡らせる。

「ああ。―――そうだ、閻行殿。身体に不調を抱えてはおらぬか? 左肩の古傷が原因と見たが。私は医人だ。支障があるようなら、一度見てやろう」

 閻行からの返答は待たず、張衛は急いで兵の元まで下がると移動を命じた。

「長安までは十里といったところだ」

 先導は兵に任せ、馬超が張衛の隣に付いた。張衛を挟んだ反対に馬岱も並ぶ。

「案内は有り難いが、何か用でもあったのでは?」

「うん? ああ、今こうしているこれが、まさにあたしの役目さ。この辺りは今、西涼中からいろんな勢力の兵が集まってきているからな。当然仲の悪い奴らもいる。争いがあったらさっきみたいに間に入ったり、新しく来てくれた者を母様の元へ案内するために、長安の周りを見回ってたところだ」

「そうか。それではちょうど良い所で出くわせたわけだな」

 そういう役割であれば、馬超ほどの適任も無いだろう。

「ところで、本当にあの男に負けたのか?」

「まあ、そういうことになっているな」

 馬超はつまらなそうに言うと、張衛越しに馬岱を睨みつける。馬岱は視線から逃れるように首をすくめた。
 なにやら事情があるようだが、本人が口を閉ざす以上詮索は避けた。

「せっかく喧嘩を売ってきてくれたんだから、やっちゃえば良かったのに」

 馬岱が小声でぼそりともらす。

「たんぽぽっ!」

「―――っっ、はーいっ、ごめんなさーい」

「まったく、誰のせいでこんなことになったと。少しは反省しろよ」

 悪びれた様子のない馬岱に、馬超は溜め息をこぼした。

「でもお姉様、本当によく我慢したね」

「仲裁役が自ら喧嘩するわけにもいかないだろう。それに、韓遂のところの奴らとやり合うなって、母様と廉士に耳が痛くなるほど言われたからな」

「ああ、どうりで」

 馬岱が納得顔で頷いた。
 韓遂というと、馬騰と並ぶ西涼の重鎮である。馬騰とは義姉妹であり、仇敵でもあると聞き及んでいた。今は同じ西涼の仲間として長安に入っているのだろう。確かに馬超の気性では、しつこいくらいに戒めて置かなくては問題を起こしかねない。

「さて、見えてきたぞ」

 四、五里も駆けたところで、馬超が言った。

「あれが長安」

 数里の距離を置いてなお圧倒される巨大な城郭だった。
 山で覆われた漢中ではまず見られない巨大な建造物である。益州州都の成都へは何度か赴いたことがあるが、それと比べてもずっと大きい。さすがにかつての漢の都である。
 城壁はすぐに視界に収まりきらないほど大きくなった。

「……おや」

「ははっ、がっかりしたか?」

 近付いて見ると、城壁にはいくつも亀裂が走り、壁の表面は風化してざらざらとした砂の質感を露わにしていた。剣を突き立てれば穴でも掘れてしまいそうだ。

「これでも曹操軍がかなり補修していってくれたんだけどな」

 今も補修作業は継続されていて、軍袍姿の兵士が忙しなく行き来していた。
 兵は外で待たせ、張衛一人が馬超の案内で城門をくぐった。馬岱も城外に残って、兵の面倒を見てくれている。
 二騎で連れ立って進む城内の家並みも雑然としていた。都を洛陽に譲って二百年近く、過去の栄光は残滓を留めるばかりだった。
 しかし住民達は活気に満ちている。大通りには溢れるぐらいに人がいて、馬上に馬超の姿を認めては歓声が湧き起こった。
 馬超と言えば西涼の英雄であるが、この盛り上がりはそれだけで説明の付くものではないだろう。錦馬超という連呼の他に、漢の帝を称える声も聞こえる。当然、洛陽にいる帝のことでは有り得ない。長安に弘農王を導いたことが、馬超の人気をさらに高めていた。
 馬騰が曹操に勝てば、再びこの地が漢の都となる。いや、すでに復位を宣言して帝を名乗る弘農王政権の都であった。この国は今、東と西―――洛陽と長安に、二人の天子が並び立っていた。
 歓声をかき分け導かれた宮殿も、やはり壮麗でありながらも古びた堂ばかりである。人の行き交う区画は現状では一部のようで、張衛が案内されたのはその中では一番大きな建物の一室だった。

「張衛、中へ」

 先に報告に入った馬超の声で、室内へ足を踏み入れた。
 軍議のための部屋のようで、壁には長安周辺の地図が張られ、真ん中に置かれた卓上にはさらに細かい地形図が広げられている。卓を挟んでこちら側に馬超が立ち、向かい側には女が二人並んで座り、従者のように男一人ずつが従っていた。
 病と聞いているから、左に座る白髪の女性が馬騰であろう。書簡のやり取りはあれど、実際に会うのはこれが初めてであった。

「それじゃ、あたしはこれで」

 言い置き、馬超が早々に部屋を出て行く。すれ違いざまに、小さく舌打ちするのが聞こえた。

「良く来てくれた。顔を合わせるのは初めてだな、私が馬騰だ」

「五斗米道の張衛です。お初にお目に掛かります」

 これから同盟を結ぶ先の頭領となれば、姉の張魯と同格と言うことになる。張衛は失礼のないよう言葉を改め、頭を下げた。

「しかし、わずか五百の兵か。それで恩を売られてもな」

 馬騰の隣の女が言った。

「失礼ですが、貴方様は?」

「ああ、失礼した。韓遂だ」

「韓遂殿でしたか。ご高名は聞き及んでおります」

 馬超の舌打ちの理由が知れた。鷹揚に微笑む馬騰と比べると、韓遂はどこか偏狭な印象のある女だった。

「さて、兵力の話ですが、恥ずかしながら数を集めたところで五斗米道の兵はあまり戦場でものの役には立ちません。ならば下手に参戦するよりも、西涼と五斗米道が手を結んだ、それを示すことこそが肝要かと。むしろ漢中に留め置いた方が我らの兵力は生きましょう」

「ふむ。桟道を伝って背後から湧き出しかねない。確かに曹操軍にとってそういう存在でいてくれた方が、戦場で足を引っ張られるよりはましか」

 用意しておいた口上に、韓遂は理解を示した。言い訳ではあっても、正論でもあるのだ。

「張衛殿には明日、我らの天子様にお目通り頂く」

 話は決まりとばかりに馬騰が言う。韓遂はもう口を挟まなかった。




[7800] 第10章 第1話 召集
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/02/05 06:20
「それでは、姉上にお会いしたのだな。御様子はいかがであった?」

「はっ、お健やかな御様子でした。さしもの逆賊馬騰も分を弁え、殿下に甲斐甲斐しく尽くしているようでした」

「そうか、それは良かった。公孫賛よ、曹操と協力し引き続き雍州の平穏に努めよ」

「はっ」

 白蓮の返答に帝が満足気に退廷していった。

「―――白蓮」

 華琳に目で促され、謁見の間から司空府の執務室まで移動した。

「すまない、華琳」

「頭を上げなさい、白蓮。全ては私が馬騰に踊らされたがためよ」

 室内へ入るや、帝の御前でも交わした会話を白蓮と華琳はもう一度繰り返した。

「いや、急に馬騰が殿下をお連れした時点で、もっと警戒して置くべきだった」

「すでに馬騰の手勢は軍の中に入り込んでいたのでしょう? 警戒してどうなるものでもないわ。馬騰が入朝した時にはすでに綿密な計画が動き始めていて、私がそれを見抜けなかったということよ。貴方に非はないわ」

「兵を集めた時に、もう少し厳しく審査しておけば―――」

 華琳の断定的な言い様に距離感を覚えてしまうのは、麗羽に幽州を追われて以来の僻み根性によるものだろうか。
 華琳とは奇妙な縁で、長らくこうして真名で呼び合うことはなかった。
 華琳と麗羽が洛陽の学舎で席を並べていた頃、白蓮は故郷幽州で盧植の開いた私塾に通っていた。その頃同門で親交を深めたのが桃香である。私塾を出た後、桃香は世直しと見聞の旅を始め、白蓮は中央に登って官職を得た。華琳や麗羽とは同時期の任官となる。
 当時、華琳はすでに漢朝での栄達に関心が薄れていたようであったが、白蓮と麗羽は真名を許し合い、互いに切磋琢磨して出世を争った。名門の後押しを受け中央で身を立てる麗羽に対して、白蓮は北辺で異民族を相手に武功を重ねた。白馬義従と名付けた精鋭弓騎兵を率い、異民族から白馬長史と恐れられたのもこの頃である。我ながら活躍したもので、黄巾の乱が起こる頃には一郡の太守にまで上り詰めていた。さらに反董卓連合を経て幽州牧として一勢力を築くに至った。そこまでが白蓮の人生の絶頂期である。
 その後は袁紹軍の突然の侵攻に抗えず領土を失い、劉備軍に命を拾われることとなった。以降は桃香達と行動を共にし、彼女らが華琳の元を出奔する際に袂を分かち、今も曹操軍に残留している。
 麗羽を幼馴染に持ち、桃香を親友とした華琳に対して、白蓮にとっては桃香が幼馴染で、麗羽が親しい友人である。華琳ともいくらでも親しくする機会はあったが、不思議と二人が直接親交を深めることはなかったのだ。
 それが真名で呼び合うようになった切っ掛けは麗羽で、白蓮が雍州牧に就任し任地へと赴く前夜、珍しく気を回した彼女が酒宴を開いてくれた。他に招待を受けた者が華琳と曹仁である。白蓮と曹仁も、麗羽の紹介を経て古くからの付き合いだ。昔馴染みを集めての酒宴であった。

―――付き合いも長いというのに、貴方達まだそんな他人行儀な呼び方をしておりますの?

 その席で、麗羽が呆れたように言った。四人の中で真名を許し合っていないのは白蓮と華琳だけ―――曹仁には真名がないが、三人全員から真名を預かっている―――であった。
 そうして特に劇的なことなど何もなく、その場の話の流れで真名を交換し合うこととなった。それが何となく自分らしいと感じてしまうのは、自嘲が過ぎるというものだろうか。
 いずれにせよ、真名で呼び合うようになったところで急に気心が知れるわけでもない。幾分遠慮がちに、敗戦の責任の被り合いが続いた。

「はぁ、こんな言い争いをいつまでも続けていても仕方ないわね。―――そんなことより、戦の詳しい話を聞かせてちょうだい」

「ああ、そうだな」

 華琳が頭を振って話題を切り替えると、否やはなく白蓮も天子の御前でした報告を詳細に語り直した。
 わずか十数日の間に天下は急変し、今や長安に漢の大旗が掲げられ、中華に二人の帝が並立している。図らずも白蓮は騒動の当事者の一人となっていた。

「まず馬騰らが長安に姿を現したのは、巻狩りが開かれたという日から数えて四日後ということになる」

「洛陽から長安までは九百里というところだったわね。お荷物―――弘農王殿下を抱えて、よくそれだけの日数で駆け抜けたものだわ。こちらの伝令が届くよりも早いとは」

「馬車の姿はなかったから、大方馬超あたりが二人乗りで運んだんだろうな」

「そうして函谷関と潼関の手形代わりにもしたわけね」

 弘農王擁する馬騰ら一行は、函谷関を悠々と抜け、追撃する張遼隊を振り切ったという。
 洛陽から長安に至るには、函谷関の他にさらにもう一つ、潼関と呼ばれる関も超える必要がある。しかし函谷関も潼関も弘農郡に属する城郭であり、名目上とはいえ弘農王はその郡の支配者なのである。両関の守兵にその通行を押し留める権限もなければ、理由もなかった。郡の主とその護衛を称する一団は、守備隊の長と数語のやり取りを交わすのみで速やかに関を抜けている。
 そうして一行は、遮る者も無く長安へと到達した。長安は曹操軍の領内では西端の城邑である。それより先が西涼と呼ばれる地域であり、曹操軍の支配どころか漢王朝の威光も満足に届かぬ土地となる。
 雍州の州都長安は、州牧である白蓮と旗下の軍勢の駐屯地となっていた。弘農王の突然の訪問を受けた白蓮は、皇族に対する礼でもって城内へと迎え入れた。直後牙を剥いた馬騰に、城内にいた兵のおよそ半数が呼応し、抗う術もなく白蓮は城外へと追い立てられた。

「城内の兵を指揮していた者は分かる?」

「ああ、龐徳という男だ。馬騰の側近で、涼州ではそれなりに名の知れた武人だ。私も将の一人に引き上げていた」

 長安に駐留するに当たって、子飼いの白馬義従と曹操軍から一万の兵を引き連れていった。加えて、現地でも兵を募った。各地に軍閥勢力が形成された雍州ではそれほど兵が集まるとも思えなかったが、州牧の職掌には州内の兵権も含まれている。新たに白蓮が州牧に就任したことを喧伝し、また中央から率いてきた兵で上から締め付けるだけという印象を民に与えないための施策であった。
 しかし思いがけず多くの者が募兵に答えた。元馬騰軍の兵達で、頭領が漢朝に従うのなら自分達もと集まったのだ。その言葉を疑うことなく、白蓮は自軍に彼らを引き入れた。

「馬超にすら隠していたみたいだから、兵に計画を明かしてはいないでしょう。彼らの言葉は本心よ。恐らくその龐徳だけが、計画を聞かされていたのでしょうね」

「はぁ、それでいざとなったら兵がみんな馬騰と龐徳に付いてしまうってのが、私の人望の無さだよな。これでも州牧としての数ヶ月間、兵も民も可愛がってきたつもりなんだけどなぁ」

「それだけ西涼人の中央への叛意が根深いということでしょう。そこにいたのが私だったとしても結果は同じよ。…………桃香だったら、分からないけれど」

「まあ、あのぽわぽわっとした顔を見せられて、敵愾心を持ち続けるのは難しいだろうなぁ」

 華琳の呟きに半ば冗談―――半ば本気―――で返すと、白蓮はその後の戦況に話を戻した。
 白蓮は敗走する兵をまとめ反撃を試みるも、長安の民はこの地に新帝を立てると宣告した馬騰に賛同し、西涼各地に蟠踞する軍閥へも勅が飛ばされた。自軍だけでの長安奪取を不可能と悟った白蓮は、潼関の確保へと向かった。函谷関より西に位置し、洛陽から長安を結ぶ最後の関所となる潼関を抑えれば、曹操軍は長安まで遮るもの無く進軍出来る。

「とっさに潼関を抑えようとしたのは悪くないわ」

「ははっ、その結果同じ手に二度やられたってわけだけどな」

 白蓮は寒々しい笑みをこぼした。
 白蓮が潼関へ入城した時、すでに弘農王の命で潼関の守備隊は馬騰の手の者に交代されていた。錦馬超率いる馬騰軍の兵が門前に迫ると、呼応して城門が内側から開いた。

「あらかじめ関所を押さえることも出来たのにそうしなかったのは、潼関より内に敵を留めたくなかったということかしらね」

 一兵に至るまで曹操軍を締め出し、潼関以西は今や完全に馬騰の領域であった。
 ここまでが、巻狩りの日からわずか十日の出来事である。馬騰はよほど周到に準備を整えていたのだろう。

「馬騰は、どれくらいの兵力を集めて来るかしら?」

 戦の報告を終えた白蓮に華琳が問う。

「騎兵のみで六万から七万。韓遂も呼応するならさらに三万騎ってところだろうな」

「騎兵十万か。雍、涼のたかだか二州にしては多いわね」

「西涼でも特に北辺の人間は遊牧の異民族と交わり、暮らしぶりも彼らに似通っている。少壮の男は皆馬術を良くするし、戦ともなれば全員が騎兵として戦う」

「なるほど、烏桓の男達と同じね。練度は―――」

 さらに西涼軍についてやり取りを重ね、労をねぎらわれて白蓮は華琳の執務室を辞した。

「公孫賛様。探しておりました」

 そのまま宮中からも退出しようとしたところで、大尉府の属官に呼び止められた。今夜、太尉が帰還を祝って宴を開いてくれるという。

「わかった。有り難く出席させて頂くと伝えてくれ」

 白蓮はため息交じりに属官へ返した。
 大尉の地位には未だ麗羽が就いている。敗走に関して無遠慮な発言に曝されることは目に見えているが、誘われれば無下には断れないのが白蓮の性分だった。





「お招きにより、参上いたしました」

「忙しい中、呼び立ててすまぬな、曹操」

 白蓮を執務室から送り出してすぐに、帝から呼び出しを受けた。女官に連れられて向かったのは、帝の数ある私室の一つである。

「姉上のことであるが」

 人払いを済ますと、思い詰めた表情で帝が切り出した。

「天子を名乗られたのは、却って好都合というものです。これで馬騰らにとっては大事な玉体であらせられますから、質とされたり、危害を加えられる心配は無用となりました。ご安心を、必ずや馬騰の手より取り戻して参ります」

 公孫賛からもたらされた馬騰による弘農王擁立の情報は、華琳には諜報より伝えられた既知の報であった。しかし天子にとっては初めて聞かされた話である。長安遷都を企図した馬騰に連れ去られたという時点で想像に難くないが、現実として耳にした衝撃は大きかったようだ。利発な天子であるが、蘭々や季衣達よりもなお年若いのだ。

「好都合とな。……なるほど、戦に勝ちさえすれば無事取り戻せるということか」

「はい」

 それから先の事は、天子が自ら決めることだった。華琳に厳罰を望む気持ちはない。擁立する者さえ現れなければ無力に等しいのだ。

「董承らの処遇は?」

「死罪以外は有り得ぬでしょう」

 宮中における馬騰の協力者は十数人に及んだ。主だった者では董承、王子服、呉子蘭といった元々の廷臣達と、白波賊出身の韓暹の名が上がる。とりわけ衛将軍の董承は三公の華琳や車騎将軍の楊奉にも並ぶ地位であり、韓暹の征東将軍もそれに次ぐ高位の将軍職である。
 今上帝とは遠縁に当たる董承は、天子を中心に外戚が権勢を振るうかつての朝廷の姿を取り戻そうと馬騰の計画に賛同した。一方の韓暹は同じ白波賊出身の楊奉との朝廷における重きの違いに不服を抱いたが故である。いずれも己が実力も現実も顧みない小物であり、弘農王を連れて包囲を脱する馬騰に捨て置かれ、曹操軍に捕縛されている。

「……彼らも馬騰に騙されたようなものだが。仮に馬騰の計画通りに全てが進み、曹操は暗殺に倒れ、朕が囚われの身となったとして、長安で開かれる朝廷で彼らが厚遇されたとは思えぬ」

「そうですね。私が馬騰なら、やはりあの場に置き去りにします。報復に逸る我が軍の前に暗殺の実行犯を放置し、追撃の目を逸らしたでしょう」

「ならば―――」

「陛下、戦に負ければ兵は死ぬのです。暗殺は戦ですらない、卑劣な闇討ちです。彼らは卑劣な戦いに挑み、そして敗れたのです」

「……道理は通さねばならぬか」

 天子はため息交じりに頷いた。
 もっとも、馬騰や馬超らを戦の末に捕えたとしても、華琳は死罪を求めるつもりはなかった。馬騰に対しては恨みの感情はなく、してやられたという感嘆の気持ちがあるだけだ。その後の展開を見ても周到な計画の上に動いており、同時に華琳の首と今上帝の身柄というこれ以上ない香餌にすら固執しない柔軟さも備えている。馬超の武と合わせ、いずれも有為の人材である。董承や韓暹などとは違った。欲に駆られた彼らには、幼い今上帝にすら想像の付く末路が見えていない。

「姉上の話に戻るが、朕も何か詔(みことのり)を発すべきであろうか」

 白蓮が、弘農王が発し西涼一帯にばら撒かれたという詔勅の写しを持ち帰っている。
 詔勅はまず、董卓による自身の廃位の不当を訴え、董卓軍を撃破した後に皇位を正さなかった反董卓連合の面々―――特に現政権の高位にある華琳や麗羽を責め立てることから始まっている。次いで自身が帝位に戻ること、高祖劉邦の選んだ長安に都を遷すことを書き連ね、最後に事に当たり尽力した馬騰の忠義を褒め称え、読む者にも長安に入朝し洛陽の偽帝を討つよう迫っていた。

「そうですね。では、草案をご用意いたします。元袁紹の配下で、筆を取らせれば異才を有する者がおります」

「あまり姉上を貶めることの無い様に」

「そういえば、陛下の前でも一度読み上げさせたのでした。よくよく申し付けておきます」

 曹孟徳を悪しざまに罵る檄文を、天子の前で筆者自らに朗読させた。元袁紹軍の能文家、陳琳である。
 読まされた当の本人は、処刑を覚悟の最後の晴れ舞台という気概であったらしい。もちろん華琳の方にも、意地の悪い報復の気持ちがまったく無かったわけではない。しかしそれ以上に軽佻な内容に反して高い格式を備え、節回しも小気味良い名文であったためだ。

「では、草案が出来上がりましたらお持ちします」

「うむ、任せた。―――待つのじゃ、曹操」

 室外に足を踏み出しかけたところで、背後から呼び止められた。

「出たわね」

「化け物か何かのような言われようじゃのう」

「似たようなものでしょう」

「ふむ、まあ、違いないかの」

 超常の天子は、さっそく足を崩しながら楽しそうに笑い声をあげる。老若男女入り混じった大集団が唱和したような独特の声音は相変わらずだ。

「ちょうど良かったわ。貴方に聞きたいことがあったのよ」

「そうじゃろうと思うて、こうして出て来てやったのよ。長安の帝のことじゃろう?」

「ええ。弘農王も天子を名乗る以上、今頃は貴方と同じ存在を身中に飼っているのかしら?」

「飼ってとはまた、失礼な言い様じゃのう」

 天子はやはり上機嫌にひとしきり笑うと、今度は一転、神妙な顔付きを作って続けた。

「高祖の血を受け継ぎ、王朝の祭祀を行う者が天子じゃ。そうじゃの、長安には都であった頃の祭壇が残っておろうから、弘農王がそれを再建し、正式な手順で祭祀を執り行ったならば、距離的に長安に近い者や、弘農王に心を寄せる者の意志の力は、向こうに流れ込むじゃろうな」

「その時は、貴方が二人生まれるというわけ?」

「そういうことになるの。事実、王莽めに帝位を簒奪され、それから光武帝が漢朝を再興するまでの間には、朕が複数存在した期間もあった」

「それで問題はないのかしら?」

「問題はあるの。一つであった力が分かたれれば、当然それぞれの力は弱まる。朕が表に出ることも難しくなるかもしれんし、この外史が突然消えてなくなることもあるかもしれん。―――それに、曹仁をこの世界に留めて置くのも難しくなるであろうな。だからこそ、お主にはもう少し民を安んじて欲しいと言うておる」

「……脅しているつもり?」

「事実を言うたまでじゃ」

 天子が憎らしいすまし顔で言う。

「ふんっ、忠告として受け取っておくわ」

 聞くべきことは聞いた。立ち上がり背を向けた華琳に、天子が言い足す。

「まあ、今回はあまり心配あるまい。かつてあの体におったこともあるから分かるが、弘農王は進んで面倒な祭祀など執り行う質ではない」

「ああ、そう」

 振り返らず気の無い調子で返しながら、華琳は内心安堵していた。それも、この超常の存在には筒抜けなのだろう。華琳は足を止めず、帝の私室を辞去した。
 後宮を出ると、待機していた季衣と流流が駆け寄ってきた。

「――――っ」

 華琳の傍らで直立した季衣のお腹から可愛らしい音が鳴った。
 洛陽に滞在中は、午前中は朝議に参加し、朝廷での仕事を片付ける。そして午後からは曹家の邸宅に戻り、曹操軍の主として働くこととなる。食事はその合間で、日によって早い日もあれば遅くなる日もある。今日はすでに昼食には遅い時間となっていた。

「ふふっ、宮中でやることは全て終わったし、屋敷へ戻る前にどこかで食べていきましょうか」

「やったぁ!」

 季衣が諸手を挙げて喜びを表現した。
 曹家の屋敷は、華琳の祖父で大長秋曹騰が当時の帝から下賜されたものである。宮殿からほど近く、帝からの信任の厚さがうかがえる。
 宮殿から屋敷までの道中に飲食店はほとんどない。少し足を伸ばし、季衣の案内で大通りを脇道に何本か逸れた先の飯屋へ入った。
 昼食には遅い時間だが、店内はそれなりに混雑している。若い男が多く、華琳が姿を認めると店の外まで聞こえていた喧騒が波が引く様に静まった。非番の兵達であろう。
 各地に常駐させた守備隊を除いても、今や曹操軍の動員兵力は三十五万を数える。西涼への遠征には十八万を率い、さらに洛陽に留守の部隊として十万を残していく。合せて三十万に近い兵を洛陽に集結させていた。非番の者だけでも数万の人間となる。洛陽城内はこの数日、常にない賑わいを見せていた。

「―――あっ、華琳さま。華琳さま達も今からお昼?」

 静けさの中、一つの卓から声が掛かった。
 蘭々が上機嫌で手を上げ、曹仁が居心地が悪そうに目を逸らしている。側に牛金と無花果の姿もあるから、どうやら曹仁隊の兵が集まっているらしい。

「悪いわね。―――皆、私達の事は気にせず、食事を楽しみなさい」

 無花果が気を利かせて、曹仁と蘭々の近くの席を空けさせる。一声呼び掛けて、華琳は横並びに座る二人の向かいの席に腰を降ろした。元の喧騒からは程遠いが、少しずつ兵が会話を再開し始める。

「季衣、適当に」

「はい。すいませーん、注文お願いしまーす。えっと、これと、これ、それに―――」

 季衣が給仕を呼び止め、さっそく注文を始める。

「華琳、よくこんな店を知っていたな」

「季衣に連れられてきたのよ」

「ボクは恋に教えてもらったんだよ。―――あっ、あとこれと、これも下さい」

 季衣が品書きからひょいと顔を上げて言う。

「ああ、そういうことか」

 曹仁が皇甫嵩の元で客将をしていた頃からの馴染みの店だと言う。
 向かいの席には拉麺のどんぶりが一つきり、蘭々の前に置かれている。曹仁はすでに食事を終えているようだ。

「あーん」

 言いながら、蘭々が口を少し大きめに開ける。曹仁が箸で麺を掬い、それを匙に乗せて蘭々の口内に慎重に差し入れた。

「―――うん、おいしい。でも、ちょっと熱いから、次はふーふーして少し冷まして」

「はいはい」

 妹からの注文に口では投げやりに返しながらも、曹仁はどこか嬉しそうに微笑んだ。
 腕を使うと背中の縫合後が突っ張ると言って、巻狩りの日以降、食事の度に蘭々は曹仁に介護を要求していた。
 二人の間に流れていた気まずい空気が払拭されたのは喜ばしいことであるし、自分を守るために傷を負ったことを思えば、蘭々の多少の我が侭ぐらいは笑って許すべきところだろう。
 しかし二人の関係を皆に告白―――というよりも単に露見しただけであるが―――し、これからは公然と“いちゃいちゃ”を迫ってくるだろう曹仁に対し、宥めすかしつつも節度を保った範囲で多少は、などと考えていた華琳としては面白くない。それも、天子から曹仁の事で詰まらない脅しをかけられた直後ともなると、腹に据えかねるものがある。

「仁、いくら怪我人とは言え、すこし甘やかし過ぎではなくて?」

「―――そんなことはないです。華琳さま、兄が妹をいくら甘やかしたって、過ぎるなんてことはないんです」

 曹仁に返答の間を与えず、蘭々がすまし顔で割って入る。

「……こんな大勢が見ている前で」

「麗しい兄妹愛であって、やましい事をしているわけではないんですから、隠すことなんてないんです」

 やはり蘭々が遮るように言い切った。それでも多少の気恥ずかしさはあるのか、耳をうっすら赤く染めている。

「蘭々も、よりにもよって拉麺なんて食べさせ難いものをわざわざ頼んで」

「だって食べたかったんだもん。兄貴も、可愛い妹に我慢なんてさせたくないと思いますし」

 ならばと標的を蘭々に切り換えるも、どこか吹っ切れた様子で曹仁の妹という立ち位置を強調する。

「―――はぁ」

 華琳にとっては面倒な小姑がまた一人増えたということになる。嘆息を漏らすも、悪い変化ではないのだろう。
 蘭々と埒も無い会話を交わす間に、華琳達の前にも料理が運ばれてくる。季衣に注文を任せたから、卓上にずらりと皿が並んだ。
 季衣のお奨めで、流流も口を挟まなかった時点で心配はしていないが、大衆向けの幾分粗野で雑多な味付けではあるが悪くない。

「ああ、そうだ。牛金」

「なんでしょうか、曹操様」

 ふと思い出し、曹仁の隣―――蘭々とは反対側―――に座る牛金に声を掛けた。

「貴方、司馬家の次子と付き合いがあると聞いたのだけれど」

「……はい、ございますが」

「司馬家の次子って、春華のことか?」

 曹仁が口を挟む。

「あら、仁。貴女も知り合い? それも、真名まで預かっているの?」

「ああ。といっても、俺はそれほど親しいわけではないんだが。―――いずれ、親友の妻になるかもしれん」

 言いながら、曹仁が牛金の脇を肘で軽く突いた。

「な、懐かれてはいますが、そういう関係では」

「春華の方はお前のことを愛してるけどな。ちょっと偏執的な域で」

「むっ、娘か妹のようなもので。家族愛の延長でしょう」

 牛金が巨体をひと回りもふた回りも縮めるようにして弁解する。

「それで、その司馬懿なのだけれど。前々から司馬家の兄妹の噂は聞いていたし、先日桂花から正式に推挙されたのもあって、司空府に召喚したのよ」

 漢臣にして豪商で知られる司馬家の八兄妹は、世間では司馬八達と呼称されている。長兄以外は当主司馬防の実子ではないというが、八人共に字に“達”の文字を持ち、全員がその才智と侠骨で洛中に名を轟かせていた。とりわけ次子にあたる司馬懿は最も世知に長けると言われている。父親や兄妹が洛陽の再建という慈善事業に奔走して財産を食い潰す中、司馬懿は一人で司馬家の商いを取り仕切り、家族の浪費を賄うだけでなく身代を数倍に増やしたという。

「病を理由に断られたわ、何度もね。まあ、仮病でしょうけれど」

「それは、も、申し訳ありません」

「別に貴方が謝ることじゃないわ。私もよく使った手だし、そのことで責めはしない」

 司馬懿に対して保護者の様な感情を抱いているのは事実のようで、牛金はさらに肩身が狭そうにしている。

「しかし、荀彧が推挙? それじゃあ、よほど才覚を買っているんだな。ああいう、艶っぽい美女を華琳に推挙するなんて」

 牛金の様子を見かねたのか、曹仁が軽口を挟んだ。

「艶っぽい美女? 桂花は容姿については何も言っていなかったけど。へえ、それはますます欲しくなったわね」

「おいおい、臣下の女に手を出すなよ」

「冗談よ、冗談。―――でも、牛金があまりにもたもたしているようなら、先に手を出してしまうかも。まだそういう関係ではないのでしょう?」

「それは、その、困ります」

 牛金が巨体に似合わぬ消え入りそうな声を出す。

「あら、困るの? なら早くもらってあげることね」

「これはその、い、妹分に手を出されたら困ると言う事でして。兄貴だって蘭々にお手が付くのは抵抗があるでしょう?」

「……まあ、それは確かに。でも姉貴分ならすでに二人、華琳の餌食に掛かっているぞ」

「うっ、そ、そうでした。―――し、しかしやはり、俺が春華とそういう関係になると言うのは。……やはり妹です」

「それを言うなら春蘭と秋蘭も私の姉のようなものだし、仁は弟分よ。何か問題があるかしら?」

「そ、それは」

 牛金が口籠る。

「そうそう、妹に手を出したって悪い事なんて何にもないよ。むしろどんどん出していくべきだよ。ねっ、兄貴」

「い、いや、それはどうだろうか」

 黙って聞いていた蘭々が口を挟むと、今度は曹仁が口籠る番だった。
 翌日、司馬懿が司空府へと出頭した。

「あら、病の方はもう完治したのかしら?」

「はい、すっかりと」

 悪びれもせず返すと、司馬懿がうっすらと微笑む。
 曹仁の言う通り、確かに艶のある美女だった。細身ながらも均整のとれた肉付きで、わずかに傾げた首筋が妖しい魅力を放つ。

「むむ」

 隣に控えさせた桂花が、敵意の籠もった視線を注いでいる。有為の人材として推挙はしても、思うところはあるらしい。

「今日はどういう風の吹き回しなのかしら?」

「お礼を、と思いまして」

「お礼?」

「はい。主人から昨日の話をお聞きしましたわ。私と主人の仲を、応援下さったようで。心より感謝いたしますわ」

 主人と言うのは、牛金の事だろう。昨日の今日でまさか婚姻もあるまいが、無粋な突っ込みは避けた。

「お礼と言うのなら、言葉などではなく是非態度で示して欲しいものね」

「はっ、お仕え致します」

 司馬懿が拱手して頭を下げた。

「あら、ずいぶんとあっさり心変わりしたものね」

「曹操様は御理解のある主君のようでしたから。それならば出仕した方が主人と一緒の時間を持てると思いまして」

 外見だけでなく中身の方も曹仁の言った通りで、牛金への偏執的な愛情に満たされているようだ。

「さしあたって、まずは主人も従軍するこの度の遠征軍に、私も加えて頂きたく」

「あんたねっ、勝手なことばかり言うんじゃないわよっ!」

 声を張り上げたのは桂花だ。足を踏み鳴らして一歩前へ出ると続ける

「私の推挙を散々無視しておいて、のこのこ自分からやって来たと思ったら、一体何様の―――」

「―――桂花」

「―――っ、出過ぎた真似を致しました」

 桂花は一旦矛先を収めると、華琳の隣へ下がった。内心の怒気は収めようがない様で、司馬懿に依然刺々しい目を向けている。
 司馬懿の方は突き刺さる視線をどこ吹く風と受け流し、口元には涼やかな笑みさえ浮かべていた。

「それで、司馬懿。遠征に付いて来たいということは、貴方武官志望ということかしら? 文官として、桂花の下に付いてもらうつもりだったのだけれど」

「私の出自について、お聞き及びでしょうか?」

「ええ。悪いけれど、曹仁と貴方の亭主を問い質させてもらったわ。なかなか凄惨な人生を送っているわね」

 曹仁らと司馬懿が出会った経緯に関して、昨日の飯屋であらましは聞いていた。
 盲目の孤児で、張譲が囲う暗殺集団の中で育ったという。政争の果てに張譲が破れ、部隊も曹仁、呂布、張繍らの活躍で壊滅した。その後の彼女の面倒を見たのが牛金であり、養子として受け入れたのが司馬家当主の司馬防である。

「うふふっ、ならばお聞きでしょう。私は張奐様の元で軍師として育てられました」

 亭主という言葉に気を良くしたのか、上機嫌で司馬懿が言う。

「張奐殿ね。お会いする機会はなかったけれど、お祖父様とは親交があったはずよ」

「大長秋であらせられた曹騰様ですわね。反骨が過ぎ、敵も多かった張奐様に何かと便宜を図って下さったとか」

 張奐は皇甫嵩や盧植の一つ上の世代を代表する漢の将軍である。北辺の国境を転戦した伝説的な名将であり、学者としても名高い。学識は盧植に匹敵し、戦歴は皇甫嵩に劣らず、加えて自ら大斧を振るっては匈奴の兵を震え上がらせた武人でもある。

「よろしい、参軍として幕下に加えましょう。貴方自身ではなく、張奐殿とお祖父様の目を信じるが故よ。今回の遠征の間に私をうならせる献策の一つもないようなら、二人の顔にも泥を塗ったことになる。その時は最下級の役人として地方へ飛ばすわよ」

「はいっ、承りました」

 そうなれば当然大好きな主人とも離れ離れと言うことになるが、司馬懿は朗らかに応じると拱手した。



[7800] 第10章 第2話 潼関
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/03/10 05:58
 洛陽より出兵し、函谷関まで軍を進めた。
 曹仁は西涼討伐軍の第一陣、蹋頓率いる烏桓の援軍二万騎を含む総勢十三万の主将を命ぜられていた。
 華琳自らが率いる遠征の予定が、急遽二段構えの進軍に変更され、突然の主将抜擢である。袁紹軍との決戦でも大軍を委ねられる機会はあったが、あの時は予め華琳と煮詰めた策で一戦したのみで、あとは官渡城に籠もっているだけであった。進軍し、相手次第で野戦、または攻城という状況下で十万を超える兵力を動かすのは初めてのことである。まずは慎重に軍を進めた。長安まではまだ遠いが、すでに長安に立った偽帝―――弘農王のかつての領土の内であり、ここから先はいつ敵の襲撃を受けてもおかしくはない。
 騎兵は烏桓兵以外には曹仁旗下の一万騎だけで、残る十万は全て歩兵である。主力はあくまで歩兵ということだ。
 騎兵は斥候、索敵と割り切り、曹仁は珍しく歩兵と共に進んだ。
 歩兵の先頭には凪の重装歩兵一万五千を置き、その後ろに本隊として曹仁の二万と真桜の工兵一万、次いで張燕の黒山賊隊一万五千、沙和の新兵隊二万、張郃―――優の二万が続く。
 洛陽には留守部隊の十万に加えて、遠征の第二陣として華琳自らが率いる一万騎と、袁紹軍の騎兵を組み入れて二万騎に増員した霞の騎馬隊、さらに歩兵四万が控えている。二段構えへの変更は、やはり孫策や劉表の動きが気になるということなのか。袁紹軍との大戦では呼応して起った孫策軍と劉備軍に悩まされたのは記憶に新しい。偽帝から発せられた反曹操反今上帝の勅書が届けられたのは、西涼の軍閥だけではないのだ。

「曹仁将軍、全ての兵が関を通過し終わりました」

 曹仁の元へ、最後尾の隊を率いる優が自ら報告に来た。十三万の兵が関を潜り抜けるのには、四刻(2時間)余りの時間を要した。

「ご苦労さまです。―――俺は函谷関を抜けるのはこれが初めてですが、優さんは?」

 かつて反董卓連合との戦では、詠の計画した長安遷都に付き合うこととなったが、その時も曹操軍の追撃を受けて函谷関まで十数里というところで断念している。

「私もです。冀州の生まれで、黄巾の乱では河北を転戦し、その後はずっと袁紹様の下におりました」

 簡潔で過不足の無い話し方を優はする。実に軍人らしい軍人である。
 春蘭や霞のような軍人である前に武人の顔を持つ将も多い中で、組織としての軍を体現した存在と言えよう。古株の曹操軍の人間では秋蘭や凪に近い。
 といって決して武勇に劣るわけでもない。官渡の決戦の最終局面においては、華琳の元へと突撃する麗羽を守って春蘭との打ち合いを演じていた。さすがに劣勢に追い込まれながらも、数十合も手傷一つ負うことなく戦い抜いている。堅実な用兵と同じく剣の方も実着な戦い振りだと言う。
 整った顔立ちと明瞭な物言いも相まって、最近では華琳のお気に入りの武将の一人であった。

「優さんはこれが我が軍における初陣となりますね。官渡で袁紹軍十万を率いた経験を活かし、俺の指揮に不足を感じたならいつでもご助言下さい」

「はっ」

 短く返すと、優は隊の元へ下がっていった。

「ちょっと、そういうことはボク達に頼みなさいよね」

 優の姿が兵の中へ消えたところで、詠が文句をつけた。
 今回の遠征では幕僚に詠と春華を、副官には角に加えて白蓮が参加している。
 涼州出身の詠はこの地に明るく、軍師としては打って付けである。雍州牧の白蓮は言うまでもなく現在の西涼の情勢に最も精通した一人である。華琳の指名だが、そうでなくても曹仁から要請したであろう二人だった。
 春華は、本人のたっての希望を華琳が聞き届けたらしい。上機嫌で角と轡を並べている。角は戸惑いの表情だ。

「もちろん、頼りにさせてもらうさ。状況が許せば、俺は騎兵を率いて打って出る。その時、全体を見据えて指揮を飛ばすのは詠に任せる」

「ふん、当たり前よ」

 詠が強気で応じる。

「白蓮さんには、逆に俺が本隊を動けない時に、代わりに騎馬隊を率いてもらうかもしれない」

「ああ、まかせてくれ」

 白蓮が力強く頷く。騎馬隊の指揮には自信があるのだろうし、雪辱に燃えてもいるのだろう。本隊には白蓮子飼いの白馬義従三百騎も同行していた。

「春華は、―――そうだな、優さんと違って本当の本当に初陣だから、まずは戦場の空気に慣れるところからかな」

「ええ。幸い、同じ軍師の中でも天下で五指には入ろうという賈駆様がいらっしゃいますから。お勉強させて頂きます」

「ふん、仕方ないわね」

 詠が満更でもない顔付きで受ける。
 春華は先日参内するや早速荀彧の不興を買っている。妖艶でどこか気怠げな風情が、特に同じ女性の目からは挑発的に映るらしい。加えて春華本人も角以外の人間にどう思われようが構わない、という心持ちでいるから質が悪い。
 軍内での揉め事だけは避けたいがため、今回はあらかじめ角の口から言い含めさせている。その甲斐あってか、今のところ幕僚の長である詠を立てる姿勢を崩していなかった。

「それでは、進軍を再開する」

 旗を振って合図を送ると、先頭の重装歩兵から動き始める。
 函谷関を抜けて十数里は峡谷が続き、やがて北の稜線が途切れ、代わって大河が視界に流れ込んできた。河水である。まずは河水に沿って進軍し、潼関―――河水の屈曲点に作られた関所―――を目指すこととなる。
 潼関から西の情報は白蓮の帰還を最後にほぼ途絶えている。
 高順の正体を看過した馬騰だけはあって、商人の往来も規制されていた。飛脚の情報網は完全に断たれ、幸蘭の諜報部隊が山越えで得るわずかな情報が時折もたらされるばかりであった。
 潼関以西が馬騰の、函谷関以東が華琳の手にある以上、狭間のこの地は両勢力の争闘の場に相応しい。
 洛陽から函谷関、潼関、長安はほぼ東から西へ一直線に並んでいる。洛陽から長安まではおおよそ九百里(450km)あり、洛陽から函谷関までが三百里、潼関から長安までが四百里で、残る二百里が両関の狭間であった。関の周辺は当然険阻な地形によって狭まるが、中間付近では南北に二十里以上も開けた場所もある。十万騎ともされる西涼軍全てで展開するにはいくらか手狭だが、一万や二万の騎馬隊が駆け回るには十分過ぎる広さだった。
 曹仁は白騎兵百騎の下に騎兵百騎で百の小隊を作り、函谷関から潼関までの空間をくまなく走り回らせた。そして急な奇襲にも対応出来るよう、烏桓の援軍には歩兵の後方を少し離れて進んでもらう。函谷関を抑える以上、後ろから襲撃を受ける心配はない。
 十分な警戒をして進むも、奇襲を受けることも、斥候から敵発見の報がもたらされることもなく、四日の行軍で潼関へ無事に到着した。

「さすがに潼関まで素通りとはいかないか」

 河水の屈曲点に作られたこの関は、地続きで洛陽から西涼へ至る唯一の直進路を守るものである。
 関の北側では、北から流れてくる河水が東に向きを変え、その流れは函谷関の北を抜け、洛陽を経て海まで続いていく。一方で西からは長安の北を通って渭水が走り、潼関の北、ちょうど河水の屈曲点にて合流を果たす。丁字を逆にしたような形で河川が流れ、その交点に建てられたのが潼関ということだ。
 そして関の南には、崋山と秦嶺山脈がそびえている。つまり潼関を抜ける以外、北は大河に南は峻岳に阻まれているのだった。
 西涼へ至る他の経路としては、大きく南へ迂回して関中南方の関所である武関を抜ける道―――かつて函谷関を避けた高祖劉邦が関中平定に用いた進軍路―――がある。しかしそのためには荊州北部の劉表の支配地―――敵地を通り抜けねばならない。今回、曹操軍が選び得るのは潼関を抜くこの経路しかないのだった。

「詠、あの旗は馬超のものではないが、誰か分かるか?」

 騎馬隊からの報告にあった通り、潼関には三本の旗が掲げられていた。馬の文字も見えるが、錦の旗ではない。

「たしか馬玩のものね。馬騰の旗印とは意匠が異なるし、馬岱は恐らく馬超の副官として一緒に動くでしょうから、間違いないわ。他の二つ、楊の旗は楊秋、成の旗は成宜でしょうね」

「いずれも主だった軍閥の一つだったな。白蓮さん、それぞれの今の兵力はどれくらいだったかな?」

「馬玩、楊秋、成宜。どこも七、八千騎といったところだな。成宜だけいくらか多いかもしれないが、それでも一万は超えないはずだ」

「すると二万から二万五千騎ほどは馬を降りて関に籠っているということか」

「いいえ、潼関に籠もれる兵は五千が限度よ。城壁の上に三千、その上の望楼に二千。残りは城壁の向こうで陣を布いているんでしょう」

 詠が曹仁の言葉を訂正する。

「そうか。砦ではなくあくまで関だったな」

 ぶ厚い城壁が一面そびえるのみで、兵を満載させる構造は持たない。戦の形としてまずは攻城となるが、実際には壁一枚を隔てて両軍が対峙しているだけということだ。

「五千、それも騎兵が馬を降りたからといって侮れないわよ。西涼の兵は羌族出身の者も多いけれど、その羌族を相手に長城へ籠もっての防戦に当たってきた兵も多い。籠城戦の経験は、中華のどこの軍よりも豊富と考えて良いわ」

 西涼出身の詠が得意気に言った。

「なるほどな。中原の人間が黄巾の乱が起こるまでほとんど実戦を知らずに来たなかで、西涼ではその間にも異民族との戦が続いてきたわけか。かつての董卓軍の強さが、そして西涼で乱が絶えない理由が分かる気がするな」

 蹋頓の援軍と曹仁隊の騎兵を本隊の左右に付け、歩兵の陣立てはそのままに滞陣を命じた。
 潼関から敵軍が出撃してくることを想定して重装歩兵の凪隊がそのまま前衛に残り、続く本隊の曹仁隊と真桜の工兵部隊が攻城を引き受ける。修正の必要は感じなかった。
 本営にはすぐに幕舎が張られたが、敵は目の前の関と天険である。視界をふさぐ幕舎内には入らず、野にそのまま卓と床几を並べて軍議の間とした。
 正面に潼関―――函谷関には劣るとはいえ高さ十丈(30メートル)余りの巨大な城壁がそびえ、左には霊峰崋山、右に河水を望むという壮大な景色が広がっている。

「馬超の気性なら、ここに至るまでに一度は野戦を挑んでくるものと思ったんだけどな」

 諸将が集まると、曹仁はいささか拍子抜けした思いを口にした。

「野戦なら潼関を抜いた後、嫌になるほどやることになるわよ」

「その潼関に錦馬超の旗がありませんが、馬騰達もここは抜かれる前提で布陣していると思われますか?」

 詠の言葉に優が問う。

「抜かれるというよりも、潼関自体は確保しつつ河水と渭水の北岸を戦場とするつもりでしょう。関に籠もっての戦も得意とはいえ、やはり西涼軍の本領は野戦」

 詠が自前の潼関周辺の地形図を卓上に広げた。かつて西涼に割拠しただけあって、相当に詳細なものだ。

「都合三度の渡河か。その度に敵が待ち受けているだろうが、力押しで門扉を破るよりは犠牲は少なくてすむか」

 曹仁達が陣を築いた関の東側では北に河水が流れ、西涼軍の布陣する西側では渭水が流れている。渭水には水門が築かれているため、河水から渭水へと流れを遡上して潼関の裏に直接回り込むことは出来ない。しかし河水北岸へ渡河した後、もう一度今度は北から流れてくる河水を西に渡って渭水北岸に至り、最後に渭水を南に渡河すれば潼関の裏へ回ることが出来る。

「あんた、馬鹿正直に向こうの思惑に乗るつもり?」

 詠が呆れたように言う。

「と言うからには、何か考えがありそうだな」

「確認するけど、華琳様が来る前に潼関は落としてしまって構わないのよね?」

「華琳には腰を据えた戦をしろと言われている。が、攻めるなと言われたわけではない。腰を据えるためにも、むしろ潼関は押さえておきたいところだな」

「……あんたと華琳様が二人して腰がどうのと話している様を想像すると、なんだかいやらしいわね。―――もうっ、軍議の席でおかしなことを言わないでよねっ」

 頬を上気させた詠が、半眼で睨みつけてくる。曹仁と華琳の仲は、すっかり全軍に知れ渡っていた。

「いや、勝手に想像して勝手に怒られても困るが」

「とにかくっ、潼関は落として構わないということね? ―――なら張燕、この山を越えられる? 神仙術の修行者などが登る道はあるはずなのだけど」

 照れ隠しなのか、詠は無駄に勢い込んで地形図を指して言う。
 潼関の南面、曹仁達の進軍方向に向かって左手には、古来より霊峰と名高い崋山がそびえる。急峻な岩山であり、その威容から神仙の住まう山と見なされてきた。
 張燕は地形図を覗き込んだ後、視線を上げて実際の山並を見やった。黒山を根拠とした賊徒出身の張燕とその兵は、曹操軍内で最も山地での進軍と戦闘を得意とする部隊である。

「……やれないことはないだろうが、一万五千全てを引き連れてというのは厳しいな。千や二千では、関の裏を取ったところであまり意味はあるまい?」

「ううん、それで十分。山伝いに潼関の城壁の上に出られる場所があるわ。当然、兵に守らせてはいると思うけど、たいして警戒はしていないでしょうし、山地からの奇襲ならお手の物でしょう?」

「ずいぶんと詳しいな」

 曹仁は口を挟んだ。

「そりゃあ、長安遷都を最初に考えたのはボクだし、そうじゃなくたっていざとなったら月を連れて西涼に逃げ戻るつもりだったもの。守りの要の潼関については、ちゃんと調べ上げているわよ」

「なるほど。やはり詠に付いて来てもらったのは正解だったな。洛陽で文官の真似事ばかりさせられていたけど、軍師としては確かに天下で五指に入る」

「ふふん」

 数日前の春華の台詞を曹仁が繰り返すと、詠が得意気に鼻を鳴らした。
 軍師と言うと朱里、雛里、周瑜が曹仁の頭にはまず思い浮かぶが、詠もこの三人に負けていない。軍略と言うより謀略によるところが大きいが、一度は月に天下を取らせたのだから、実績で言えば詠の方が上とすら言えた。

「本命は山からの奇襲として、敵の目を逸らしたいわね。正面からの攻城は当然として、やはり渡河の真似事くらいはしましょう。真桜、筏はすぐに作れるわね?」

「もちろんや」

 詠を中心に軍議が進行する中、議論に加わる様子も無く末席で静かに佇む春華に目が留まった。

「―――春華、ずいぶん静かにしているが、何かないか? 遠征での働きが悪いようなら地方へ飛ばすと華琳に脅されているんだろう?」

「うふふっ、御心配には及びません。遠征前ではございますが、すでに華琳様には軍師として一つ献策させて頂き、お認め頂きましたわ」

「へえ、そうだったのか。遠征前というと、今回の遠征が二段構えになったのは春華の献策か?」

「ふふっ。まあ、そんなところでしょうか」

 春華が曖昧な笑みを返した。まだ何かありそうな様子だが、密計の類と言うところか。

「されど、主人の直属の上官である曹仁様からの問いとあらば、何かしらお答えすべきですわね。とはいえ我が軍の作戦に関しては、さすがは賈文和様。新参の私などが口出しする余地もございません。―――そうですね、それでは一つ、敵の気持ちになって考えてみましょうか。私、そういうのは得意ですのよ」

 言うと、春華は顎に手をやって暫時黙り込んだ。

「……私が馬騰であれば、もっと騎兵と地の利を活かす戦を考えます。潼関での籠城、河岸に待機しての迎撃、いずれも西涼軍に有利な戦ではありますが、まともなぶつかり合いとなります。そして潼関ならば、曹操軍は洛陽から容易く増員を得ることが出来るのです。いずれは兵力の差に屈することになりましょう」

「それはそうだけれど、この地でボク達を阻まなければ長安まで迎撃に向いた地はないわよ」

 同じ軍師として興味をそそられたのか、詠が口を挟む。

「ええ、ですから潼関も長安も捨て置き、本拠を涼州奥深くに置きます。途中の拠点も防衛など考えず取られるに任せ、遠路進軍する曹操軍に徹底的に野戦で奇襲を繰り返します。兵站を断つのも良いでしょう。なにせ曹操軍は、弘農王殿下を是が非でも取り戻さなければいけないのですから、敵が下がれば下がった分だけどこまでも突き進まざるをえません。そうして一度曹操軍を撤退まで追い込んでしまえば、西涼の民にこれだけ望まれているのですから、奪われた城を取り返すのはそう難しい事ではないでしょう」

「ふん、現実に潼関に兵を込め、長安を都と宣言しているじゃない」

 詠がすかさずちくりと制した。

「そうなのですよね。せっかく我が軍を好きなだけ誘い込める人質を得たというのに、何故洛陽からさして距離も離れていない長安になど都を置いたのでしょうねぇ? 馬騰が本拠としてきた楡中であればさらに千里以上も離れておりますのに」

「そりゃあ、天子を擁し漢の都とする以上は長安しかないわよ」

 かつて同じく長安遷都を企画しただけに、詠は当然という物言いだ。

「はぁ、そういうものですかねぇ?」

「そういうものよ」

 心底理解出来ないという顔で、春華が言った。涼州人の漢室に対する複雑な感情に思いが及ばないらしい。
 司馬家の人間は漢の忠臣として知られるが、春華からは漢室に対する思い入れのようなものが一切感じられなかった。
 華琳も漢室の権威をただ権力として利用してきた人間である。しかしことさら軽んじて見せるのは、漢室の存在を完全に黙殺など出来ないからだろう。漢朝開闢の功臣曹参と夏侯嬰の血を受けているのだ。望む望まざるにかかわらず、漢室を当たり前の存在として常に身近に感じて育ってきている。異邦人ながら幼少期を曹家で過ごした曹仁にしても、漢室に対する忠はなくとも礼は持ち合わせているのだ。
 しかしそれを言うなら司馬家も古い家柄で、その血筋は楚漢戦争において高祖と共に項羽と戦った諸王の一人にまでさかのぼる。高祖による中華統一の後、一族は漢室に仕え代々高官を輩出してきた。養子であるから春華自身に血の繋がりはないが、それは長兄以外の他の姉妹も同じだと聞いている。本人の気質によるのだろう。

「そうなると、―――奇襲のために距離を稼げないのなら、距離の代わりに時間を作る。そして襲撃の効率を高める、でしょうか。例えば、どこぞの関所にでも籠もって敵を足止めし、油断している敵に効果的な奇襲を仕掛ける、ですとか」

「―――っ、曹仁、周辺に敵兵はいないのよね?」

「函谷関を抜けてからは、河岸から山の麓までくまなく斥候に走らせている。函谷関からここまでの間に、十人を超えるような集団は見つかっていない」

「なら大丈夫、よね。……蹋頓王。念のため聞くけれど、さすがにあの山は羌族の騎兵でも越えられないわよね?」

 詠が崋山を指して問う。
 単于の地位を楼班に譲った蹋頓は今は王位を号している。烏桓にとって単于は皇帝の意であるから、漢朝の爵位と同じくその下には王位がくる。

「我らには無理だ。つまり、羌族の者にも無理であろう。同じ馬上に生きる民ではあるが、烏桓の地の方が山岳に富むと聞いている。山越えの馬術では我らが上だろう」

「ふぅ、さすがにそうよね。―――まったく、張奐様の弟子だか何だか知らないけれど、おかしなことを言わないでよね」

 詠が安堵の吐息をもらしながらに言う。
 張奐は皇甫嵩の伯母の親友であり、皇甫嵩にとっては用兵の師匠筋の一人と言って良い。その皇甫嵩の弟子が詠である。そうでなくても張奐自身が西は涼州から東は幽州まで北の国境全域を転戦し、羌族から匈奴、烏桓、鮮卑と主だった北方異民族全てを下した驍将である。涼州出身の詠には子供の頃からその盛名に馴染みがあるはずだった。張奐の弟子という春華の触れ込みには、思うところがあるのだろう。

「うふふっ、申し訳ありません。私ならそうするというだけの話で、―――あら、なにやら、馬蹄の音が聞こえてまいりましたような」

 曹仁は思わず床几から腰を浮かせた。隣で牛金も目を剥いている。

「ちょっと、何よ。二人して司馬懿の話に乗っちゃって」

「春華、耳の方は健在か?」

「ええ。一里先で針が落ちる音も聞き逃しませんわ」

「優さん。隊の指揮に戻って、後方からの襲撃に備えてくれ。連係して潼関からも敵が出てくるかもしれない、凪さんも隊の指揮に付いてくれ」

「はっ」

 優と凪が一度直立して駆け去っていく。

「陳矯、騎馬隊にいつでも出れる用意をさせておいてくれ。蹋頓殿も頼む」

「はいっ」

 背後に控えていた陳矯に命じた。蹋頓も従者を一人、隊へ走らせている。

「ちょっと、本気なの? 函谷関を抑えているのだから、敵が来れるはずがないじゃない」

「まあ、そのはずなんだけどな」

 春華に目をくれると、小さく頷き返された。

「詠は当時の事情を聞いていると思うが、春華は昔、目が見えなくてな。代わりにわずかな音でなんでも聞き分けたものさ。一里先の針の落ちる音、なんてのはさすがに言い過ぎだがな」

「あら、ばれましたか」

 春華が悪びれもせず言う。

「だからって、こんな―――」

「―――敵襲ーー!!」

「なっ」

 兵の叫び声が、詠の言葉を遮った。
 諸将の並ぶ卓の前に駆け込んできて兵が続ける。歩哨が錦の馬旗を捉えたという。
 報告を聞く間に曹仁の視界にも馬蹄が立てる砂塵が映り込んできた。錦の馬旗―――鮮やかな錦の飾り布に黒染めで馬の一字―――が遠目にも目を引く。

「優さんはもう隊に戻っているな。―――よし、俺も出る。それに蹋頓殿」

「おう」

「張郃隊で受けて、左右から騎兵で挟む。ほんの数呼吸分だが早く動けたのが良かった。ここで敵の主力―――錦馬超を潰せるかもしれん」

「私も行くっ」

「白蓮さん。じゃあ、白馬義従を率いて俺の騎馬隊に同行してくれ。角、うちの隊の歩兵はいつも通り任せた」

「はっ」

「全軍の指揮は詠。潼関から挟撃の兵が出てくるかもしれない、そっちも注意しておいてくれ」

「……わかったわ」

 納得のいかない表情の詠の返答を背中で聞き、曹仁は本隊右翼の騎馬隊の元へ白鵠を走らせた。白蓮と白馬義従三百騎もそれに続く。

「先鋒は私が」

「―――ああ、任せた」

 騎馬隊の先頭に付こうとした曹仁に、白蓮が遮るように前へ出た。
 自身が十三万の遠征軍の主将であることを思い出し、曹仁は白蓮に前を譲った。弓騎兵の白馬義従は前方に置く方が使い勝手が良くもある。

「……しかしいったい、どこから湧いて出た」

 白馬義従三百騎に続く位置に付いて、曹仁は一人ごちた。敵軍の全容が見える距離まで近付いている。一万騎というところか。斥候の兵が見落すはずもない大軍だった。それが、ついさっき曹操軍が進軍して来たばかりの道を駆けてくる。
 先頭に馬超がいるのが分かる。顔や具足で判別を付けるよりもずっと早く、一人、浮かび立つように感じられた。

「西涼では恋並みの武名、そう語ったのは照だったな」

 反董卓連合との戦では、何度も干戈を交えた。あの時、こちらは照―――張繍と二人掛かりの指揮で二千騎、馬超は三千騎を率いていた。数の上では曹仁達が劣勢だが、二千の内の四百は、今の白騎兵の元となった董卓旗本の精鋭である。戦力ではむしろ優勢と言って良かっただろう。それでも、しばしば追い込まれることがあったのだ。

「ぶつかる」

 隣で、陳矯が小さく呟く。
 馬超が、そして先頭の数百騎が、ぐぐっとせり出すように前へ出た。

「あれは、洛陽に伴っていたあの五百騎か」

 曹操軍十万の囲いの中から弘農王を奪い去った五百騎である。白騎兵にも劣らぬほどの精鋭揃いで、虎豹騎と虎士にぶつかり天子の近衛と混戦を演じながらも、数騎の犠牲にとどめている。
 五百騎が優の歩兵部隊にぶつかる。鋭利な刃物が柔らかな肉に突き立つように、何の抵抗も感じさせずすっと歩兵の陣に分け入っていく。一拍遅れて突っ込んだ一万騎が、それをさらに押し広げる。

「これは想像以上だ。―――出るぞ」

 優の二万で受けるどころか、馬超の鋭鋒は後に控える沙和隊、張燕隊、そして本隊まで届きかねない。
 旗を振らせて蹋頓にも合図を送らせると、曹仁は白鵠を走らせた。
 こちらの動きに気付いた一万騎が、即座に下がり始める。見極めも早ければ、転進も速い。だが、届く。張燕隊を尻目に、沙和隊の横を駆け抜け、優の二万の真横に至る。

「―――っ!」

 眩い光が、目の前に飛び出した。白銀に輝く馬超の十文字槍だ。
 刹那、馬超と目が合った。片手で馬上から身を乗り出すようにして振るわれた槍が、曹仁の首元目掛けて伸びてくる。

「くっ」

 曹仁は大きく身を仰け反らせて避けた。
 白鵠の脚が止まり、続く一万騎も脚を鈍らせざるを得なかった。白馬義従と一万騎のあるか無きかの隙間を、馬超は強引にこじ開け五百騎ともに眼前を駆け去っていく。
 孤立した白蓮の白馬義従も脚を緩める。馬超の五百騎がその横を駆け去って行く。白馬義従からはぱらぱらと矢が飛ぶも、空しく地に落ちた。
 視線の先で一万騎も、烏桓の騎射を逃れ狭道の左隅―――河水の岸辺を駆けていた。本来は、曹仁の一万騎が詰めるはずの空間である。馬超の五百騎がそこへ合流していく。

「追撃しますか?」

 陳矯が聞いてくる。

「いや、追いつくのは難しいし、何より危険だ。一万がどこからか現れたんだ。この先に二万や三万が伏せていても、不思議はない。―――どこへ向かうのかだけ知りたい。百騎程で後だけ追わせてくれ」

「わかりました」

 陳矯が兵に指示を飛ばす。
 陳矯はいまだ曹仁の従者だが、兵からは角に次ぐ立場と見られていて、気付けば曹仁もそのように扱っていた。

「それにしても、相変わらず思い切りの良い用兵をするものだ」

 一万騎は後退させつつ、馬超自身は優の二万を突っ切って曹仁の頭を抑えに来たのだ。二万を踏破した上で曹仁の前に飛び出したのは、絶妙の機を捉えたものだった。飛び出すのがわずかでも早ければ一万騎で後ろを取れた。遅ければ一万騎に横合いから衝突して、こちらに相応の被害を与えつつも壊滅していただろう。敵陣只中にあってまるで無人の野を行くが如く、融通無碍の用兵ぶりである。

「こんな形で挟撃を阻まれるとは」

「案外、俺の旗が見えたから大将首を狙いに来ただけかもしれないけどな。会心の笑みでも浮かべているかと思えば、しくじったという顔をしていたよ」

「一瞬、曹仁将軍が討たれたかと思いました」

「馬超の槍がもう三寸も長ければ危なかったな」

 陳矯と話しながら、本営へと向かった。白蓮も白馬義従を率いて後ろを付いてくる。

「しかし敵兵を物ともしないあの動き。私は呂布殿の赤兎隊を思い出しました」

「恋が赤い兎なら、馬超は、―――やはり馬か」

 血に濡れた赤い兎にたとえられた恋の汗血馬二百騎に倣うなら、馬超の騎馬隊から受ける印象はそのまま馬だ。ぶつかる瞬間に五百騎が飛び出す様などは、馬がぐいと首を伸ばすかのようだった。

「すると最後は首一つで食いついてきたことになるか。……嫌な馬だな」

 想像して思わずげんなりした曹仁を、陳矯が不思議そうに見つめる。
 本営付近では、真桜の工兵部隊が忙しなく動いていた。正面だけだった馬防柵を、後方へ設置する用意を始めているようだ。

「無事だったのね。―――ふんっ、負傷でもしてくれれば、このままボクが指揮を取れたのに」

 本営へ着くと、詠が安堵の表情を覗かせた後、いつもの憎まれ口で出迎えてくれた。
 他には角と春華だけで、他の将は部隊からまだ戻っていないようだ。

「潼関から兵は出て来なかったみたいだな」

「ええ。開門さえしてくれれば、そのまま城門を確保する算段は立っていたのだけれど」

「やはり詠の読み通り、潼関自体は堅守しつつ、野戦で勝負を挑んでくるか」

「そのようね。ただ戦場は、どうやら河水を渡った先だけではないわね。一万騎もどうやって隠し遂せたのかしら?」

「その件でご報告が」

 折りよくやって来た優が口を挟んだ。

「馬の身体、それに兵の足元も濡れておりました。詠殿、この辺りに河水を渡渉出来る場所はありませんか?」

「渡渉? まさか、いくらなんでも。ううん、そうか。雨が少なく、雪もとけない今の季節なら―――」

 渭水を含む複数の河川が合流し水量の豊かな流域であるから、渡渉の可能性は端から除外していた。しかし河水は元々、同じく大河の長江とは異なり渡渉点を多く持つ川でもある。
 中華北方は南に比べて雨量が少なく、北辺に至ると砂漠地帯も珍しくはない。そのため河水の水量は長江よりも遥かに少なく、加えて黄土を含む大量の土砂を運んでもいるのだ。事実、河水を挟んだ袁紹軍との戦では、両軍ともにほとんど船を用いる必要がなかったのだ。

「なるほど。水量が少ない時期にだけ現れる渡渉点か。この寒い時期によくやるものだ。しかし、さすがの詠も実際に馬で駆け回っている連中の地の利にはかなわないか」

「―――っ、う、うるさいわねっ」

 詠が眉をひそめて睨みつけてくる。
 用意周到で狡知にも長ける。しかしどこか一つ抜けたところを見せるのが詠だった。

「なんにせよ、お手柄だったな、春華。歩哨より先に敵の接近を聞き分けるとは」

「ふふっ、本当に来てくれて助かりましたわ」

「……ん?」

「やっぱり。いくら耳が良いと言ったって、味方の兵が周囲を動き回る中で、敵の騎馬隊の馬蹄だけ聞き分けるなんて変だと思ったのよ。初陣で、良い度胸してるじゃない」

 詠がため息交じりに応じる。

「春華っ!」

「うふふっ、ごめんなさい、あなた」

 呆気にとられる曹仁に代わって角が叱りつけると、春華は何故か嬉しそうに微笑んだ。



[7800] 第10章 第3話 急襲
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/03/25 18:54
「―――母様!」

「なんだ、騒々しい」

 寝室に、翠が駆け込んできた。

「倒れたって、廉士に聞いたよ」

「あいつめ、黙っていろと言ったものを」

「廉士の目を盗んで、兵に混じって駆け回ったらしいじゃないか」

「目を盗んでとは人聞きの悪い。いずれ長安郊外での決戦は避けられない。大将軍である私が、実際に動いて戦場の検分をしておくのは当然であろう」

 馬騰は長安に建てた漢王朝より大将軍の地位を与えられていた。かつて天子の外戚に与えられた将軍とは名ばかりの権力の椅子ではなく、洛陽の王朝を打倒する戦を担う本来の意味での将軍位である。
 大将軍旗下の兵として、長安には三万騎を詰めていた。馬騰軍の二万と韓遂軍の一万である。軍への志願者は後を絶たず、他に新兵だけで五千近くも集まっている。

「まさか、戦に出るつもりなのか」

「何を今さら。洛陽で曹操を襲撃し、陛下をこの手で御救いしたことを忘れたか?」

「あの後も数日寝込んだじゃないかっ」

 自分の命令には忠実な廉士が翠に口を割ったのは、娘からの制止で馬騰が大人しくなることを期待してだろう。

「―――あまり藍を責めないでやってくれ、孟起殿」

「―――っ、居たのか、韓遂っ、……殿」

 翠が身を仰け反らせた。
 寝台に寄り添う韓遂の存在に気が付いていなかったようだ。天蓋の影に隠れて、翠からはちょうど見え難い位置ではある。馬騰が、韓遂に目配せをしてあえて会話に割り込ませたことにも当然気付いていない。

「ふふっ、そう固くならず、気軽に伯母上と呼んでくれて良いのだぞ」

「誰がっ―――」

「―――翠、私なら平気だから、早く軍へ戻れ。渭水の流域を、警戒中のはずであろう」

 怒号し掛けた翠を馬騰は視線と言葉で制した。

―――韓遂を生涯の敵と思い定めているのなら、その宿敵の前でそうも簡単に感情を曝け出してどうする。韓遂は、言葉一つで容易くお前の思考を誘導するぞ。

 教訓の一つも垂れたくなるが、韓遂の手前それは出来ない。

「むむむ」

「何がむむむだ。私を労わる気持ちがあるのなら、いらぬ苦労をかけるな」

「でも……」

「本当に、気分は悪くないのだ。心配するな」

 嘘ではなかった。
 病を得てから絶えず続いていた不快感が晴れ、気分は爽快と言っても良いくらいである。ただ身体を蝕む病魔が去ったわけではなく、どころか確実に進行しているらしかった。結果、気が向くままに無理をし過ぎた。翠や廉士に言われなくても、しばらくは大人しくしているつもりだった。戦本番を前に力尽きてしまっては本末転倒というものだ。

「……わかったよ」

 翠が肩を落とし、とぼとぼと部屋を出て行った。
 優しい言葉の一つもかけ、頭の一つも撫でてやりたくなるが、ぐっとこらえた。それをすれば翠の心はすっと晴れ、多少なり覚えた今日の気後れや反省などすっぱりと忘れてしまうだろう。
 手のかかる子ほど可愛いと言うが、その通りだった。
いずれ自分を継ぐという立場があるから、甘やかして育ててはこなかった。しかし従妹の蒲公英と比べると思慮に欠く性格に育った。蒲公英にも軽率なところはあるが、自重さえ覚えれば一端の為政者にもなれるだろう。翠が政を為す姿は、馬騰には想像が付かない。
 しかし、駄目な子だが、戦場での才能は自分の全てを受け継いでいる。いや、自分以上の天稟を持っていた。
あえて欠点を上げるなら、先刻も韓遂の姿が目に入らなかったように、戦場でも一つのことに捉われ過ぎて周りが見えなくなる瞬間があることだった。しかし危地を察する嗅覚自体は抜群に優れている上、少々の障害など食い破る力を持っているから、これまで窮地に追い込まれたことはない。

「ははっ、相変わらず嫌われたものだな」

 韓遂が笑みをこぼした。
 翠は、韓遂が当然の顔で連合軍第二位の地位に付き、馬騰に対しても対等の義姉妹という態度を改めない事に不満を鬱積させている。翠ほどあからさまに表には出さないが、蒲公英や廉士も良い気分ではいないだろう。
 翠らには明かしていないが、馬騰に入朝を勧め、天子の奪取と長安遷都、あわよくば曹操の殺害までをほのめかしたのは他ならぬ韓遂であった。実際の計画は全て馬騰が進め、そこに韓遂は一切の関与もしていないが、初めに長安遷都を口にしたのは確かに韓遂であった。
 韓遂の命で馬騰が動いたわけではないし、韓遂の献策を馬騰が容れたというのも違う。謀士として知られる韓遂では、曹操の警戒心を煽り為し得ないことであり、それを代わりに馬騰がやったと言うだけの話だ。やはり関係としては対等が相応しく、公の立場としては実際に功を上げた馬騰が上、韓遂が下に立ったというだけだ。
 それは叛をけしかけながらも決して矢面に立とうとはしない韓遂のいつもの手口であり、馬騰がそれに乗せられたとも乗ってやったとも言える。
 今、長安に馬騰は二万、韓遂は一万の兵を入れているが、馬騰軍は他に翠が一万騎を率いて前線へ出ている。韓遂は全軍で一万騎である。
 西涼の両雄と並び称されるが、馬騰が西涼連合最大の三万騎を有するのに対して、韓遂は一万騎を従えるのみだった。兵力で言えば他の軍閥と変わりない。二人に次ぐ第三の軍閥と目される成宜などは、単純な保有兵力で言えば韓遂よりも上だろう。しかし西涼に叛の気運が高まり、軍閥同士で手を結ぶような事態となると、決まっていくつかの勢力が韓遂の配下としか思えないような動きをする。今回の連合では馬玩、梁興、楊秋辺りが韓遂の下に付いていた。韓遂の手勢と三軍閥の兵力を合わせると、馬騰の兵力三万に匹敵する。韓遂に従うのは常に同じ軍閥というわけではなく、それぞれに敵対と協調を繰り返しながらも、ここぞという時には必ず韓遂を頭に抱く第二の勢力が形成されていた。
 韓遂は馬騰よりも十歳ばかりも年長だが、馬騰軍が小勢力であった頃から西涼第二の軍閥の長として存在していた。当時は北宮伯玉、辺章、王国など言った者達が最大勢力であり、韓遂と共に漢朝への叛乱を試みた彼らは、ある者は官軍に討たれ、ある者は韓遂の裏切りによって滅ぼされている。しかし、決して韓遂自身が第一の地位に取って代わることはなかったのだ。
 自らは叛乱の矢面に立たず、最大限の実権は握る。そして首をすげ替えることも辞さない。それが韓遂という女だった。

「しかし、賈駆をこちらへ引き込めなかったのは痛かったな」

 韓遂が、話題を翠の入室前へ戻した。
 曹操軍が攻城を開始すると、潼関はわずか一日で落とされていた。ほとんど断崖に近い崋山を踏破し、城壁の上へ敵軍が奇襲を掛けたという。関の構造を熟知した手際は、賈駆の立案であろう。

「何度か言葉を交わす機会はあったのだが、歯牙にも掛けないという態度でな。まあ、西涼にいた頃はこちらが董卓の召集を無視していたわけだし、それも仕方あるまい」

 軍閥化した豪族達をまとめ上げようと手を尽くす董卓と腹心の賈駆に、当時の馬騰達は面会すらも拒み続けていた。だから互いに西涼で名を成していながら、馬騰が賈駆の顔を知ったのは洛陽の朝廷においてである。賈駆の方は、皇甫嵩の幕僚として戦を覚えたというから、馬騰の顔ぐらいは元より知っていたかもしれない。皇甫嵩とは、何度も戦で対峙していた。

「曹操に討たれた董卓の腹心で、西涼の生まれ。長安遷都を最初に企画した謀略の士。こちらに靡いてもおかしくはなかったのだが」

「あの戦では、私も翠を連合側に派遣しているからな。我ら二人が応じなかったが故に、董卓は西涼を一つにまとめ得なかったというところもあるし」

「曹操以上に我らが憎いか」

 馬騰は無言で頷き返した。

「その曹操だが、潼関を落としたというのに、なかなか本隊は姿を現さないな」

 これ以上追及しても詮無い事と、韓遂が話題を切り替えた。

「袁紹軍との戦の最中に、孫策と劉備が呼応したことがよほど応えたのだろう。正直、あそこから曹操が巻き返せるとは私にも思えなかった」

「孫策や劉備が此度も起ってくれていると助かるのだがな」

 人の行き来を規制し、情報を遮断しているから、こちらからも曹操領の状況は掴み切れていない。

「少なくとも曹操が洛陽を動かぬうちは、様子見であろう。しかし、我らで一度でも曹操軍をはね返せば」

 そうすれば、間違いなく今は傍観を決め込んでいる勢力も動く。長安の王朝に帰順とまではいかずとも、かつての反董卓連合のように反曹という形でなら結び付ける。そしてその中心に立つのは、東の天子を擁する曹操に対して、西の天子を擁する西涼軍であった。

「―――藍様、お入りしても良いでしょうか」

 室外から声が掛かった。廉士の声である。

「……嫌われ者は退散するとしよう」

 ちらと視線をやると、韓遂が腰を上げた。





 詠の策に従って事を進めると、潼関はあっさりと奪取出来た。
 張燕率いる元黒山族の二千が夜襲を掛けると、城壁に身を寄せた敵兵の抵抗は弱々しかった。長矛や弓を交錯させる籠城戦には慣れていても、本来は騎兵である。歩兵同士でのまともなぶつかり合いには不慣れな様子であったという。
 敵兵を城壁から追い落すと、真桜の工兵隊がその日のうちに西側から壁面を伝う階段を崩し、二日後には東からの階段を完成させて見せた。
 潼関を落としはしたものの、戦況が大きく変わったわけではない。依然として城壁を隔てて両軍が睨み合いを続けていた。城門を開けた瞬間に、敵軍は間違いなく襲いかかってくるだろう。潼関を確保し攻守の決定権を得た形だが、関を抜けて攻勢に転じるには一時寡兵で敵軍と当たらねばならない。華琳から腰を据えた戦をするように言われていることもあって、しばしの様子見である。

「今日は、錦馬超がいないわね」

 曹仁の隣へ来て詠が言った。
 城壁上から望む敵軍は、今日も五万の騎馬隊を揃えている。野戦ならいつでも受けて立つとばかりに、馬防柵の類を設けることもなく、前衛の二万は終始騎乗のまま鼻先をこちらへ向けている。後方の三万はさすがに馬を降りているが、馬だけ兵だけを一つ所にまとめることはなく、兵馬一対での待機だった。馬を日常の足代わりに生きる騎馬民族の備えなのか、漢族の陣とは異なる様相である。
 敵陣に立つ旗は日によって異なるが、兵力はおおよそ五万で一致していた。旗と兵力を照合すると、七万の兵が交代で潼関前に詰めている計算となる。この場に姿の無い二万は、潼関から長安までの間を索敵しつつ駆け回っているのだろう。適度に走らせねば馬の脚が萎えてしまうし、曹操軍が渭水を渡河して長安を攻める、あるいは軍の背後を突く可能性を考慮しているはずだ。

「華琳様からはまだ何も?」

「ああ」

 潼関を落としたことは、洛陽にも使者を送って知らせていた。潼関から洛陽まで五百里(250キロ)、往復で一千里であるから、早馬を飛ばせば五日もあれば書簡のやり取りは可能である。華琳からは、追って指示を与えるまではやはり潼関に腰を据えていろと返書があった。それからすでに二十日近くが経過しているが、華琳からの新たな指令はない。
 その間にやったことと言えば、何度か城門をわずかに開き、敵が寄せたところで城壁上から矢を降り注ぐ、というだけだ。与えられた損害は微々たるもので、今や容易く誘いには乗ってこなくなった。この十日余りはただ睨み合いだけが続いている。

「馬超がいない今日は、攻め時ではあるんだがな」

 陣中に錦の旗が無い日は、敵陣から放たれる気組みがいくらかぼやけて感じられた。
 馬超がいるといないとで、軍の格そのものが違って感じられる。異なる軍閥の集合体である西涼軍は、烏合とは言わないまでもどこか纏まりに欠ける。しかし錦の旗が一つ立つと、それだけで一本芯が通るようだった。戦場における求心力は桁外れで、確かに恋にも匹敵するものがある。

「そうね。後衛で待機する兵も、馬超がいる時はもう少し動きがきびきびしている気がするわ。炊煙も今日みたいにばらばらにではなく、一斉に上がるし」

 曹仁が何となく感じたものを、軍師の詠は理ではっきりと捉えていた。

「普通に話す分には、ただの可愛らしい女の子にしか見えないのにな。まあ、それを言ったら恋も同じか」

「戦場での姿を知っていて、それでも恋や馬超を可愛らしいと言えてしまうのは、華琳様や幸蘭、春蘭に囲まれて育ったあんたに限った話だと思うわよ」

「そうか? 恋や春姉の可愛さなんて、万人向けだろう?」

 容姿はともかく華琳と幸蘭の性格が一般的な可愛さの範疇に含まれ難いことは、曹仁も理解している。

「人懐こい虎を可愛いと思うか怖いと思うかは人それぞれよね」

「虎か。まあ猫科だし可愛いよな。子供の虎なんて、頭と手足が大きくて人形みたいだし」

「……まあ良いわ」

 詠はため息交じりに呟く。
 性格も見目も文句なしに可愛らしい月と幼馴染だけあって、詠の評価は厳しいようだ。

「それにしても、ボクがいた頃には、馬超は馬騰の後継者としては物足りない、西涼の盟主足り得ないって評判を良く聞いたものだけれど。軍を率いるとまったくの別人ね」

「へえ、そんなふうに言われていたのか。まあ、恋や春姉寄りの人間だからなぁ。今回の首謀者である馬騰や、それ以上に悪知恵が働くという韓遂と比べると、物足りなさを感じるのも分からなくはないか」

「今回の蜂起、西涼の独立を保つというのが第一の目的でしょうけど。もう一つ、馬騰は自分が健在なうちに、西涼の連合軍を馬超に率いさせたかったのかもしれないわね。戦場での馬超を知れば、その下に付くことに不満を抱く者は少ないでしょう」

「確かにな。敵ながら、実に華がある。不在の今日は敵陣が萎れて見えるほどだ」

 眼下からは、ぽつぽつと炊煙が上がっては消えていた。
 翌日、ようやく華琳からの指示が届いた。
 城壁の上に建てられた望楼を仮の軍議の間とし、曹仁は諸将を呼び寄せた。

「華琳様はなんて?」

「それが、良く分からないのだけどな」

 詠に指令書を手渡す。

「これだけ? 確かに何をするつもりなのかさっぱりね」

 書簡には、出撃の用意をして期日を待てとだけ書かれていた。
 詠と同じく参謀の春華、副官の角、白蓮、そして諸将へと書簡が回し読まれていく。

「期日とされているのは二日後ね。いったい何を待てというのかしら? まったく、不親切な指示をするわね」

 詠がぼやく。

「この文末の記号のようなものにも、何か意味があるのでしょうか? 何でしょう、この歪んだ逆三角形のようなものは?」

 優が、しげしげと書面を見つめながら言った。

「いや、それは」

「何か心当たりが?」

 口ごもる曹仁を、詠が見咎める。

「……ハートマークと言って。その、俺の世界で、心臓を意味する記号だよ」

「あんたの世界、というと天の国の記号? ……心臓ねぇ。この戦の要となる作戦、とでも言いたいのかしらね?」

「……まあ、そんなところなんじゃないか?」

 言葉を濁す曹仁に、皆が胡乱な眼を向ける。
 視線を逸らして眺め下した敵陣には、今日は錦の馬旗が靡いている。前衛でなく後方待機の三万の中だが、やはり最も目を引いた。
 二日後、出陣の用意をして“何か”を待った。
 城門前にはまず曹仁の騎馬隊、次いで蹋頓の烏桓兵を並べている。城壁の上には沙和の隊から弓が得意な者を選んで詰めさせていて、これはいつも通りの布陣である。敵陣からは特に昨日までと変わったところは見受けられないはずだ。
 当初、潼関までの行軍時と同じく凪の重装歩兵を先頭に、曹仁の歩兵部隊、真桜の工兵隊という並びを計画していた。重装歩兵で一時敵の騎馬隊を受け止め、その間に曹仁隊と工兵隊が協力して馬防柵を設置し陣営を築く構えである。騎馬隊を先頭へ置く布陣へ変更したのは、春華の献策があったためだ。今回の遠征が二段構えとなったのは春華の発案を華琳が容れたためで、これから起こることも恐らく彼女は把握している。

「さてと、何が起こるのか」

 曹仁は望楼に登って、関の前後へ視線を落とす。
 第二陣が到着するか、伝令でも届くなら後方―――函谷関側からとなる。しかし思わせぶりな指令は、前方―――敵陣での異変をも予感させる。春華の視線も前方に定まっており、後方を気にした素振りもない。
 異変に気付いたのは、ちょうど日が中天に差し掛かろうという頃合いだった。

「……何だ?」

 前方向かって左側―――潼関南壁から連なる崋山の稜線の端から何かが覗いた。兵も騒ぎ始める。敵前衛の旗が、一瞬大きく揺らいだ。それが旗手の、いや敵兵全員の動揺を示していた。

「ええっ、どうして!?」

 ようやく気付いた詠が叫ぶ。にわかにはその光景を信じ難いようで、眼鏡を上げたり下げたりして何度も見返している。
 曹の牙門旗を掲げた騎馬隊が、姿を現していた。

「すぐに出る! 騎馬隊が出た後は凪さんの重装歩兵から順に出て、城門前を確保っ」

 曹仁は叫ぶように指示を飛ばしながら、階段を駆け下りた。下から五段を残したところで、階段横に付けた白鵠に跳び乗る。
 城門の向こうでは、西涼軍五万騎に対して華琳と霞の三万騎である。奇襲で優位に立つとはいえ、敵の立ち直りが早ければ不利な状況に陥りかねない。
 城壁を下り際にちらと探った敵陣では、すでに錦の馬旗の周りに兵が集結しつつあった。馬超とあの五百騎に関しては、騎乗するや即戦闘も難なくこなすだろう。

「開門っ!」

 開かれた門扉の狭間を、膝を掠らせるようにして潜り抜けた。白騎兵が続く。
 敵陣。城門へ向けて整然と並んでいた馬の鼻先が、乱れている。中にはこちらへ尻を向けている兵もあった。
 潼関から西は西涼軍の支配地であり、関の正面に布陣し、渭水からの敵の上陸には警戒網を張っているはずだ。現れるはずの無い敵軍が湧いて出たとしか思えないのだろう。河水を渡渉しこちらの思考の死角を衝いた馬超に対して、今度は曹操軍がやり返す格好だった。
 突っ込むと、大した抵抗もなく敵陣が割れた。混戦を避けようとするのは、騎馬隊の本能的な動きと言っても良い。
 二万の前衛を抜けると、空隙があった。その先に、騎馬の群れ。三万騎は、すでに曹の牙門騎を目指して駆け出していた。
 迎撃の陣を布いていた前衛と違い、待機を命じられていた後方の兵は襲撃の混乱の中でとっさに頼るべき者―――馬超に従ったということか。馬と馬の間隔はばらばらで、足並みはお世辞にも揃っているとは言えないが、三万騎である。それだけでも華琳と霞の騎馬隊とは同数であった。
 三万の最後尾には、すぐに追いついた。満足に隊列も組めていないから、互いが障害となって折角の西涼の良馬も脚を活かしきれていない。
 五百騎の錦の馬旗はずっと先行している。少し遅れて馬騰軍の一万騎、大きく放されて他の西涼軍閥の二万騎だった。
 二万は、迂回しようにも大きく膨れすぎている。蹴散らしながら進んだ。
 疾風のような白鵠の脚をしてもどかしかった。遅れていた曹仁隊の一万騎も追い付いてくる。
 紺碧の張旗と錦の馬旗が交錯するのが見えた。張旗が、わずかに進路を逸らされた。馬旗は真っ直ぐ突き進んでいく。進む先は、曹の牙門旗だ。

「―――っ、華琳っ!」

 先日自らが狙われた時以上の怖気が、背筋を走る。思わず視線を逸らしたくなるような光景を、曹仁はかっと目を見開いて見据えた。

「――――?」

 ぶつかる直前、錦の馬旗がくるりと進路を変えた。左へ折れ、少し駆けたところで止まる。馬騰軍の一万騎がそこへ集結した。曹仁隊に後方から追い撃たれる二万騎もそちらへ向かい始める。
 戦場に睨みを効かせるような錦の馬旗に、曹仁は追撃を切り上げた。同じく軍を止めた曹の牙門旗と錦の馬旗の間を遮る位置に曹仁隊一万騎を並べる。城門前の敵兵は、曹仁隊に縦断されたところを霞の二万騎と蹋頓の二万騎に挟まれ、すでに潰走に入っていた。
 馬超は二万騎が合流を果たすと、まずその二万から後退させ、馬騰軍一万騎を下げ、自らは五百騎でしばし戦場に留まると悠然と駆け去った。
 結果を見れば、大勝と言えた。曹仁隊だけで二千騎近くを討ち取り、霞と蹋頓の挟撃はそれ以上の戦果を上げているだろう。

「華琳っ、無事か?」

「ええ」

 曹仁は曹の牙門旗の元へ白鵠を走らせた。季衣と流流を隣に侍らせた華琳は、曹仁の心配などどこ吹く風とけろりとした表情だ。

「さっきのは?」

「どうせ馬超は先頭を来るでしょうから、こちらも虎豹騎に連環馬の具足を付けさせて前を走らせていたのよ」

「ああ、あれか」

「真っ直ぐ向かって来てくれたなら捕えられたのだけれど、貴方よりも鼻が利くわね」

 反董卓連合の戦場で相対した曹仁に、華琳が用いた手だった。曹仁は見事にはまり、騎馬隊の動きを封じられている。

「戦勘なら恋並み、いや、もしかしたらそれ以上かもしれない」

「あの呂布も最後は罠でからめ捕れたけれど、馬超はどうかしらね」

 華琳は思案顔で呟く。出来れば殺さず捕らえたいのだろう。

「それで? いったいどこから現れたんだ?」

 曹の牙門旗を目にした瞬間からの疑問を、曹仁は口にした。

「それは―――、いえ、その前に、ふふっ」

 華琳は思わせぶりに言葉を切ると、微笑んだ。

「貴方に会いたがっている子がいるから、先に引き合せましょう」

「―――っ」

 手振りで促された視線の先には、曹の牙門旗以上に意外な人物が立っていた。




[7800] 第10章 第4話 荊州
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/04/15 23:01
「黄祖さん」

「……ん」

 起こすつもりはなかったが、小さく囁いた声に反応して黄祖が目蓋を開いた。

「おお、劉備殿か。それに、厳顔殿のところにいた魏延殿だな。見舞いに来てくれたのか、ありがたい」

 病を得たという話は江陵にも届いていたが、久しぶりに見た黄祖はすでに隠しようもなく死の匂いを身に纏っていた。
 軍営の一室である。
 太守を務めていた江夏郡の夏口には屋敷もあったのだろうが、樊城に移ってからはずっと軍営暮らしらしい。身の回りのことは従者に任せ、同じく荊州軍で将を務める息子の黄射にも任地を動かないよう厳命を下しているという。

「一度、襄陽でしっかりと休息を取られた方が良いんじゃないですか?」

 樊城は戦のための要塞で、病人が暮らすには如何にも不向きだった。黄祖が横たわる寝台も兵達が使う物と大差ない。

「孫堅を討った時に始まった、武人としての生を全うしたいのです」

 黄祖はそれだけ言って目をつぶり、いつしか再び眠りに落ちていった。

「わざわざ江陵からお越し頂き、ありがとうございます」

 部屋を出ると、入り口の脇に立っていた黄忠が静かに頭を下げた。今は樊城で黄祖の副官をしている。

「ちょうどこちらに来る用事もありましたから。一度一緒に戦っただけの私に見舞われても、黄祖さんは迷惑だったかもしれませんけれど」

「いいえ。長く独りで夏口を守り続けた方ですから、黄祖殿にとって戦友と呼べるような者は多くはありません。劉備様は間違いなくその御一人です」

「そうですか、なら良かった」

 ほっと一息ついた桃香を見て、黄忠がゆったりと微笑む。

「……それで、用というのは西涼からの勅書のことですわね?」

「はい。襄陽の宮殿には、先に朱里ちゃん達に行ってもらっています」

 朱里、雛里、星、焔耶を伴って、勅書―――今は天子を名乗るかつての弘農王により発せられた―――に揺れる襄陽へと赴いた。兵は二百騎を率いるのみで、愛紗と鈴々には江陵で兵をまとめてもらっている。
 襄陽へ着くと、桃香は漢水を越えて樊城と行き来する連絡船に乗せてもらった。病が篤いと江陵にまで聞こえている黄祖の見舞いである。あまり大勢で押しかけるのも気が引け、焔耶だけを護衛として伴っている。

「劉備様は、やはり荊州に反曹の軍を挙げて欲しいのでしょう?」

「はい、劉備軍としては。私自身は、自分でも気持ちをまだ決めかねています」

 桃香は一度頭を振った。

「姉妹を引き裂くような西涼軍のやり方は好きじゃないし、今の天子様のことは嫌いじゃないから。でも、華琳さんを倒す最後の機会になるのかもしれない」

 曹仁を主将として西涼への遠征軍が出陣していた。十三万の大軍ではあるが第一陣と称していて、第二陣の本隊を自ら率いると華琳は公言している。朱里と雛里は華琳の不在を衝き洛陽に攻め上るべきと考えていて、今頃は荊州首脳陣の説得に掛かっていることだろう。桃香はそれを止めはしなかった。
 洛陽のある河南尹と荊州とは境を接している。間に河水の支流洛水や山々が存在し難路が続くが、その分洛陽まで曹操軍の拠点らしい拠点はなかった。朱里と雛里は洛陽攻めに十分な成算をもっているようだった。

「桔梗から文をもらいましたが、襄陽の文官達は別の心配に忙しい様ですわね」

「別の?」

 襄陽には立ち寄っただけですぐに連絡船に飛び乗ってしまったから、宮中で交わされる議論の趨勢などは桃香の耳に入っていない。

「勅に乗じ、洛陽の天子を討つという大義名分を掲げた孫策が、進軍路に当たる我らに攻め込んでくるのではないかと」

「そんな話に」

「ええ。桔梗などは、守ることばかり考えた文官達の弱腰にだいぶ鬱憤が溜まっているようですわ」

「ああ、桔梗様ならそれはそうでしょうね」

 黄忠が苦笑を浮かべ、焔耶が首肯を返す。
 焔耶にとって厳顔は、かつての上官である。一兵卒の頃から目を掛けられ副官になるまで鍛え上げられたというから、単に上官と部下というよりも師匠と弟子と言う方が近い。

「―――さてと、そろそろ船の時間ですわね」

 しばしの歓談の後、黄忠に促されて船着き場へ向かった。今度は樊城から出る連絡船に乗せてもらい、桃香達は襄陽へ取って返す。
 連絡船は片舷三艪の合計六艪で、艪主が六人乗り込むと他に四、五人で満杯となる。その分だけ船足は速く、見る間に対岸の襄陽城が近付いてくる。
 襄陽と樊城は漢水を挟んだ南北に位置し、それぞれ城郭の北壁と南壁の一部が船着き場となっている。船で兵や物資を送り合うことで、互いが互いを支え合う堅城である。
 船着き場には、兵が五百人も乗せられる大型の艦がそれぞれに十数隻も並んでいる。それより一回り小さい中型船は二十艘余り、伝令や斥候用の艀や、蒙衝と呼ばれる船首に杭の付いた攻撃用の小型船はそれ以上にあった。
 劉表陣営にとって要の地とは言え、過剰とも思える軍備である。孫策軍との船戦を避けて長江を遊弋させていた船隊を引き上げた―――その過程で一部は孫策軍に撃沈されているが―――ためである。長江北岸に位置する江陵もかつては水軍基地であったが、今では中型船数艘を残すのみだった。

「桃香様、お手を」

 襄陽へ着くと、焔耶の手を借りて連絡船を降りた。
 城内は騒然としている。文官達が始終交わす論争が漏れ伝わるらしく、住民達は不安を口にし合っていた。

「劉備様、曹操と孫策が攻めてくるというのは、本当なのでしょうか?」

 宮殿へ着くと、顔馴染みの門番までが不安を漏らした。さすがに情報が錯綜しているようで、華琳の名まで口にする。

「いやぁ、どうだろう?」

 桃香は曖昧に返して、宮中に足を踏み入れた。

「―――桃香様」

 議論を中座してきたらしい朱里と雛里が、小走りで桃香を出迎えた。ひどく慌てた様子である。

「どうしたの、二人とも」

「状況が変わりました」

 二人が事態を説明する。
 華琳から劉表に、荊州北部を進軍するという連絡が入っていた。
 それは本当に連絡としか言いようのないもので、天子の名を借りた勅命でも、武力を背景に降伏を迫る文面でもないという。
曰く、天子の勅命により西涼の叛徒鎮圧の軍を発する。華琳率いる第二陣は、南方へ迂回して武関を抜ける路を行く。進軍に際しては漢の高祖の戦勝にあやかり、その経路をなぞる。以上の事、荊州刺史劉表に事前に通達する。
 文面上はそれだけで、ひどく事務的な書簡だったという。

「高祖様の進軍路と言うと―――」

「荊州は南陽郡の宛を落とし、郡内を広く転戦した後、北上して武関を抜いています」

「……だから門番の人達、華琳さんが攻めてくるだなんて言っていたのか」

 南陽は当然劉表支配下の郡であるし、なにより南陽郡と南郡の境界に位置するのが本拠であるこの地、襄陽である。漢水を挟んだ対岸の樊城は南陽郡に属するのだ。つまりは襄陽の眼前まで曹操軍が迫るということだった。
 漢朝の正常な統治下にあってはただの連絡事項も、群雄割拠の現状においては立派な脅し文句である。

「洛陽への侵攻か静観か、ではなく曹操軍への抗戦か降伏か、に議論は移っています。そして、すでに大勢は曹操さんへの降伏に傾いています。厳顔さんをはじめ抗戦を訴える武官も残ってはいますが」

 武官の中ではまだしも重きを置かれている黄祖が樊城から動かずにいるし、文官の意見を覆すのは難しいのだろう。

「う~ん。……とりあえず曹操軍に関しては、放っておけばいいんじゃないかなぁ? 華琳さんのことだから、こちらが何も行動を起こさなければ、多分本当に文面通りただ通り過ぎてくれるよ」

 朱里と雛里がはっとした表情を浮かべ、しばし黙り込んだ。

「……降伏か抗戦かという選択に捉われて、その可能性を見落としていました。確かに西涼と交戦中の今、曹操さんが荊州とあえてことを構えたいとは思えません。―――曹操さんのことだから、自分にも他人にもあえて苛烈な選択を迫ってもおかしくない。そんな印象に引きずられ過ぎていたね、雛里ちゃん」

 自分達の考えを確認し合うように、朱里と雛里が交互に語る。

「降伏してくれれば、労せずして後顧の憂いの一つを取り除くことが出来る。仮に抗戦となっても、あの曹操軍を相手に野戦で迎え撃つなど今の荊州軍にはあり得ない。籠城する荊州軍をよそに、宣告通り軍を北上させてしまえば良い」

「つまり荊州軍が抗戦を選ぼうと、実質は曹操軍の進軍を黙認するのと同じ。あれは、降伏か抗戦かではなく、降伏か黙認かを迫る書簡ということ。荊州軍が勝手に動揺し、降伏してくれるならこれ幸いと貰い受け、仮に抗戦を選んだとしてもこれを放置し軍を進め、武関を抜けて西涼軍の意表を衝くという利はなおも残る」

「じゃあ私達がすることは、まずは黙って曹操軍をやり過ごし、華琳さんが関中に入ってから改めて洛陽攻めの軍を発する。あるいはいっそ文官達は捨て置き抗戦派の武官を糾合して野戦を仕掛け、荊州を戦場に華琳さんとの決戦に挑む。そのどちらか、―――でしょうか?」

 雛里がそこで、伺いを立てるように桃香を見た。

「さすがに勝手に荊州軍を動かしちゃうのは、お世話になっている劉表さんに悪いかな」

「それでは、まずは何としても降伏という意見を覆すことですね。―――桃香様、軍議の間に参りましょう」

 朱里は勢い込んで言うと、踵を返した。

「そういえば、星ちゃんは?」

 軍議の間へ向かう道すがら、二人の護衛に付けた星の姿が見えないことに気付いた。

「……星さんには兵を何人か連れて民の様子を見に行ってもらっています。噂が広まれば、暴動なども起きかねませんから」

 わずかな間を置いて雛里が答える。他にも事情がありそうだが、それ以上問い詰めることはしなかった。
 軍議の間に籠もる日々が、数日続いた。
 朱里達の意気込みとは裏腹に、議論は曹操軍に降伏という方向で収束へ向かいつつあった。朱里と雛里が説き伏せようにも、以前一度散々に言い負かされた文官達は初めから対話を拒絶していた。二人が口を開きかける度、降伏を主導する蔡瑁らは客将という立場を持ち出して発言を封じるのだ。
劉表がいればこうも露骨に二人の意見が封殺されることもなかっただろうが、間の悪いことに黄祖と時を同じくして病に臥せっていた。
 それでも城に籠っていれば曹操軍は攻め掛けては来ない、ということだけは伝えたが、一笑に付された。華琳と言う人間を知らなければ理解出来ないのも無理はなく、また曹操軍を相手に静観を決め込む胆力は荊州の文官達にはない。

「劉琦さんを連れて来るべきでした」

 朱里がこぼす。
 劉表の長子である劉琦は朱里や雛里とは同年代であるが、二人の学識にすっかり心酔し、今や門弟が如く付き従っている。学問好きで聡明でもあるが、生来の病弱で気も弱く、舌戦などには向かない人間だ。それでも、朱里達を取り成すことは出来ただろう。
 父の見舞いも兼ねて劉琦も襄陽へ来たがったが、朱里達が説得して留守を頼んでいる。劉表が病に伏せる以上、蔡瑁が強引に劉琦の排除に動きかねない。劉表の跡目は劉琦でなければ次子の劉琮で、蔡瑁は劉琮の外戚に当たるのだ。敵地である襄陽城内で劉琦を守りきれるという保証がなかった。
 その劉琦を伴えば良かったと朱里が後悔する程に、議論は抗戦派が押されていた。さすがに発言を封じられては朱里と雛里にも為す術なく、このまま降伏ということで決定が下されるかに思えた。
 しかしこの日、宮中が騒然とした。
 一つに、国境から曹操軍が荊州内に侵攻したという報告が入った。十万を超える大軍で、民も兵も城に籠もって難を逃れているという。今のところ曹操軍は南進するのみで、城攻めの報告はない。書簡にあった通り、確かにただの行軍である。伝令の情報から蔡瑁らは襄陽に至るのは八日から十日後と予測しているが、曹操軍の通常の行軍なら五日後には姿を現すだろう。
 そしてもう一つ、城外に総勢二万余りの兵が集結し、戦支度を整え駐屯を始めた。厳顔ら抗戦派の将軍達が、任地より兵を呼び集めたのだ。これが蔡瑁らには相当な圧力となったようで、声高だった降伏派の主張は勢いを失い、決定は先延ばしとなった。
 翌日、城内にさらなる衝撃が走った。
 襄陽に荊州北部全域から十数万の民が集結していた。しかもさらに続々と人は集まり続けている。
 非常の事態に城門が閉ざされたため、締め出された民は城壁の周りを囲む格好となった。民は口々に反曹操を叫んでおり、城内にもその声は響いてきた。
 襄陽城内の喧騒を思えば、周囲の城邑や村にも事態が伝わっていても不思議はない。しかしそれにしても、十数万の民が自発的かつ同時期に集結するものだろうか。
 荊州北部に曹操軍の統治を嫌った人間が多く集まっているのは事実としてある。長江に隔てられた江南や要害に囲まれた益州、異国と言う印象すらある西涼を避けると、華琳の支配の及ばぬ地は他にないのだ。江陵にも毎日十数人が劉備軍への参加を訴えて押しかけて来ていて、厳しい選抜と調練を経てなお、徐州での敗戦で失った兵力を補い増員にまで至っていた。単に移住を求める民だけならその十倍にも及ぶ。
 だから下地として反曹の声を上げる民が多いのは分かるが、それでも違和感は拭いきれずに残る。

「……朱里ちゃん、雛里ちゃん、何かした? そういえば星ちゃんがずっと戻っていないけど」

「……すいません、勝手に」

 二人は顔を見合わせると、代表して朱里が謝罪を口にした。

「ううん、良いよ。必要な事なんだよね?」

「はい」

 扇動する者が混じるとなれば、合点が行く話だった。二人と星のことだから、当然劉備軍は表に出ることなく、あくまで民の自発的な運動としか見えない形を取っているのだろう。
 民の声でもって文官達に翻意を促すのか、それとも別の意図があるのか。二人が語らない以上、桃香も問い質しはしなかった。聞けば、顔にも行動にも出る。

「しっかし、二人はずいぶん強くなっちゃったなぁ。はわあわしてる姿をしばらく見てない気がするよ」

「はわわ」

「あわわ」

 特に含むところのない発言を二人は皮肉と取ったようで、久しぶりにお決まりの台詞を口にした。
 その日の議論は、民草の後押しを受けて抗戦派の勢いが盛り返し始めた。それでもやはり、降伏派の意見を覆すまでには至らず、その日の軍議は解散となった。
 翌日も、議論は五分のまま進行した。一度は決まりかけていただけに、降伏を主張する蔡瑁は終始焦れた様子でいる。発言を封じたとはいえ、やはり朱里と雛里が気になるのか、ちらちらと末席にいる桃香達の方へ窺うような視線を走らせてくる。

「劉表様が病床におられるというのに、勝手に戦端を開くなど以ての外であろう」

 蔡瑁が上擦った声を上げる。

「何を言うか。病床の劉表様に無断で荊州を明け渡すなど、それ以上に言語道断であろうがっ」

「――――っ」

 厳顔が言い返すと、蔡瑁は言葉を詰まらせた。

「蔡瑁殿、皆さん少々議論に熱が入り過ぎの御様子。ここは休憩を挟み、一度頭を冷やしてから議論を再開されては」

「う、うむ、そうしよう。皆の者、しばし休まれよ」

「―――っ、逃げるか、蔡瑁っ」

 降伏派の文官の助け舟に乗ると、厳顔の制止に聞く耳も持たず蔡瑁は軍議の間から足早に立ち去る。退室の間際にも、ちらりとやはり窺うような視線を桃香達に残していった。
 劉表不在の現状では、蔡瑁が軍議を取り仕切る立場にある。抗戦派は最初から圧倒的に不利な状況にあるのだ。
 残された者達でぽつぽつと話し合い、休憩をはさんで午後からまた議論の再開ということになった。
 荊州の文官達は優雅なもので、普段は洛陽の朝廷に倣って正午を過ぎると仕事は終わりだった。午後の空いた時間は詩文を捻ったり、経書を読んで意見を戦わせたり、彼らの言うところの学問の探究に費やされるのだ。しかしさすがに逼迫した今の状況下ではそうもいかず、連日昼夜を問わず議論が続いていた。

「とりあえず、私達も部屋に戻ろっか」

 朱里達を促して軍議の間を後にする。
 桃香達が宮中での宿舎にあてがわれたのは中庭に建てられた離れの一棟で、居心地は悪くなかった。

「人数分のお昼ご飯をお願い」

「はい」

 侍女も一人付けられていて、桃香が昼食を頼むときびきびとした動きで室外へ出て行く。
 床に伏す劉表に代わって蔡瑁の差配だろうが、意外にも待遇は悪くなかった。護衛に伴った二百騎にも宮殿内にある近衛の兵舎に部屋を与えられている。

「何だか蔡瑁さん、ずいぶん強引だったね」

 食事を待つ間、先程の軍議で感じた些細な違和感を桃香は口にした。

「そうですね。都合が悪くなると議論を切り上げてしまうのはいつも通りですが、普段はもう少し体面を気にします」

「抗戦派の兵と反華琳さんの民に囲まれて、余裕がなくなって来てるのかな」

「そうですね、厳顔さんの返しも良かったですし。これは午後には抗戦派が巻き返すかもしれません」

 豪放磊落を絵に描いたような猛将であるが、厳顔は意外にも弁が立つ。降伏派がこれまで決定に持ち込めずにいたのも、厳顔の弁舌によるところが大きい。

「厳顔さんは荊州軍の中ではずっと不遇だったみたいだけど、あの調子なら普段からもっと文官達をやりこめられそうなものなのにな。焔耶ちゃん、何か聞いてる? ……焔耶ちゃん?」

「―――ああ、はい、そうですね」

 焔耶が慌てて答える。珍しく桃香の言葉に上の空の様子である。

「今回は荊州軍自体の消失の危機とあって弁を振るっておりますが、本来武人はあまり政に口出しするものではないとお考えのようです。文官達の不平不満などは平気で口にされますが、といって政での決定に逆らわれたこともないですし。あえて言えば、ワタシを桃香様の元へ行かせてくれたことくらいでしょうか。あれで、筋は通される方です」

 焔耶は続けて話ながら、静かに立ち上がった。

「どうしたの? 焔耶ちゃん」

「……気にせず会話を続けて下さい」

 囁くような声で言って、焔耶は静かに窓際へ移動した。

「えっと、―――そうだ。朱里ちゃん達の先生って、この辺りに住んでるんだよね?」

「はい。襄陽城から南西に五、六十里も進むと見えてまいります山中に、水鏡先生の私塾はあります」

 途切れた会話を強引に取り繕って雑談を交わしていると、焔耶が行きと同じく静かに窓際から戻ってきた。

「……兵に囲まれております」

 焔耶が小声で言う。顔を突き合わせるようにして、静かに話した。

「いったい誰が?」

「蔡瑁さんの手の者でしょうね。桃香様の身柄、―――あるいは首を、曹操さんへの手土産とするつもりでしょう」

 朱里が答える。

「そんなことで私の首を手に入れても、華琳さんは喜ばないと思うけどなぁ。それどころか、そんなことで討たれた私にも、討った蔡瑁さんにも激怒するかも」

「傍から見る分には、桃香様は反曹の中心人物のように思えるでしょうからね。これ以上ない手土産と見なされても仕方ありません」

「私達の宿舎を離れに据えたのも、いざという時に兵を動かしやすいという思惑があったからだと思います。―――焔耶さん。敵はどれくらいの数がいるか分かりますか?」

 雛里が問う。

「そこかしこの茂みや東屋の影に、百や二百は潜んでいそうだ。私一人で相手を出来なくもないが、三人を守りながらとなるとつらいな。いっそ、まずは私が一人で飛び出して、先に蹴散らしてきた方が良いかな」

「いえ、焔耶さんは桃香様のお側に付いていてください。きっとすぐに―――」

 室外から激しい物音が鳴り響いた。

「―――桃香様っ、御無事ですかっ!?」

「星ちゃん?」

 窓から顔を覗かせると、中庭に馬を乗り入れた星の姿があった。劉備軍の兵も集まっていて、伏兵を追い散らしている。

「大事無いようですな。もう周囲の敵は払いましたぞ。外に出て下さって結構です。」

 桃香達が中庭に出ると、的盧、それに焔耶や朱里達の乗馬も引かれてくる。

「星ちゃん、戻っていたんだね」

「はっ、実は民が城へ詰めかける前日には城内へ戻っておりました。朱里と雛里に、蔡瑁が何か仕掛けてくるかもしれないから、いつでも兵を動かせるように兵舎の方で待機しているように言われておりましてな」

「軍営の方にも兵は現れましたか、星さん?」

 雛里が問う。

「ああ。まずは劉備軍の兵士を抑えねば不安だったのだろう、本命のこちらよりもよほど多くの兵で囲みに来たぞ。突き破ってきたが、一千ほどはいたのではないかな」

「私達の兵をあえて宮中に招き入れた時点で予想は付いていましたが、やはり宮殿内の兵は全て蔡瑁さんの掌握下にあるようですね。急いで宮殿を出た方が良さそうです」

「こうなった以上、蔡瑁さんは武官の意見など無視して、一気に降伏の決定を下すつもりでしょう。荊州軍が降れば、曹操軍はこれ幸いと荊州北部全土を併合に掛かるはず。ここは江陵へ戻り、曹操軍の攻撃に備えましょう」

「……ふむ」

 朱里と雛里の言葉に、星が何か言いたげに首を捻る。

「どうかしましたか、星さん?」

「いやなに、逃げるのも良いが、このまま蔡瑁を討ってしまうという手もあるのではないか? 野戦ならばともかく、宮殿内での戦いとなれば兵力はたいした意味を持たん。劉備軍二百に私と焔耶で十分に蔡瑁の元へ辿り着けよう」

「おおっ、それは良いな。蔡瑁の奴はいつかぶっとばしてやりたいと思っていたんだ」

 星の提案に、焔耶が賛同する。ぶんと愛用の巨大な金棒、鈍骨砕を振って意気込みを表した。

「それは私達も考えないではなかったのですが―――」

 朱里と雛里は一度桃香に窺うような視線を送ると続けた。

「雛里ちゃん、どうかな?」

「襄陽城内の兵は一万。そのうち、宮殿内に二千。これは星さんの話からして、全て蔡瑁さんに付いていると考えるべきでしょう。残る八千の去就は今のところは不明。あとは城外の二万の兵。これは蔡瑁さんに冷遇されてきた武官達の率いる軍ですので、劉表さんと劉琮さんの身柄さえ押さえてしまえばこちらに付いてくれる可能性は高いです。特に厳顔さんの五千は確実、―――と考えて大丈夫でしょうか、焔耶さん?」

「うう~ん、どうかな? さっきも言ったけど、桔梗様は適当に見えて、あれで案外筋目にこだわる方でもあるから。力付くでという事態になると、組織としての荊州軍を優先して敵対してくるかも」

「そうですか。いくら劉表さんを抑えるとはいえ、兵が二百だけでは心許無いですね。それでは、城外の民を引き入れましょうか。あれは反曹の民ですので、桃香様のお言葉に従う者は多いはずです。これで、ひとまず襄陽は確保出来ます」

 雛里はそこで口を噤み、朱里が代わって口を開く。

「その後は、桃香様の言う通り曹操軍は一先ず放置し、江陵より劉琦さんを呼び寄せ、正式に劉表さんの跡継ぎとして擁立します。そうなれば荊州北部は実質私達のものということになります。厳顔さんや他の将軍達も、劉琦さんの命令になら抵抗なく従うでしょう」

「おおっ、上手くいきそうじゃないか」

 焔耶が喝采を上げる。

「―――ま、待って待って。それって、まずは劉表さんと劉琮さんの親子を人質にして、荊州軍の人達に言うことを聞かせるってことだよね? 荊州の民を荊州の兵に対する楯にするってことだよね?」

 桃香はそこで慌てて口を挟んだ。星と焔耶がはっとした顔をする。

「そういう言われ方をされますと、確かに少々悪辣ではありますな。いや、無粋なことを申しました」

「ワタシも、私情に捕らわれて勝手を言ってしまいました」

 星と焔耶が頭を下げた。いつも飄々としている星にしては珍しく、意気消沈した様子である。

「ごめんね。劉備軍のためにはそれが良いのかもしれない。でも、我儘かもしれないけど、私が嫌なの」

「いえ、我儘などではありません。そんな桃香様だからこそ、ワタシ達は付いていくのですから」

 焔耶が力強く言う。

「それに、単に感情だけの話ではありません。これまで築き上げてきた劉備軍の輿望を台無しにしかねません。それは私達にとって唯一曹操さんにも優る武器であり、たかだが荊州半分と引き換えには出来ません」

 朱里が言う。

「うん、そうだね。……それじゃあ、決まりかな? ―――さあ、逃げようっ」

 桃香の一言で、皆一斉に皆が動き出した。
 宮殿の中を馬で駆け抜けるという、ちょっと新鮮な体験を味わいつつ宮門へ向かう。途中、遮ろうとする兵もいたが、星がちょっと馬首を向けるだけで射抜かれたように動きを止めた。実戦の経験をろくに積んでいない兵達である。宮門の衛兵も、あえて遮りはしなかった。
 宮殿から城門までは最短経路―――大通りを真っ直ぐ進んだ。
 武装集団の出現に、ただでさえ敵軍襲来の不安に苛まれている住民から悲鳴が上がる。しかし集団が劉備軍であると知れると、それは歓声に変わった。
 襄陽には宮殿に軽く立ち寄るばかりで、長く留まったことはない。今回の滞在はこれまでで最長となったが、それも宮中に籠もるばかりで街の人間と関わりを持つことはなかった。襄陽の住民にとって桃香達は講談に聞いた英雄であり、その姿を一目見ようと大通り沿いに行列が出来た。

「こそこそするつもりはなかったけど、それにしても随分派手な逃走となっちゃったね」

「好都合です。蔡瑁の奴は格好つけの根性無しだから、これだけ民の目がある中で桃香様に手を出しては来ないでしょう」

 焔耶が言う。やはり蔡瑁に対しては当たりが強い。
 そのまま民を引き連れるようにして進み、城門前へ着いた。門番の兵が遮るように並んでいる。五百程で、敵意よりも戸惑いを感じさせる。

「―――劉備様、いずこへ行かれるおつもりでしょうか? 申し訳ありませんが、今この城門を開けるわけにはいかないのですが」

 門番の長らしい中年の男が進み出た。気の弱そうな愛想笑いを浮かべている。

「私達は客将であって、荊州軍に所属するわけではありません。何の権限があって、我らの進行を遮るのですか?」

 朱里が言う。

「しかし、城門を閉ざせという命令が、まだ解かれておりません」

 桃香達を捕えるための行動ではなく、やはり民の流入を防ぐための処置を継続しているにすぎないようだ。反曹を叫ぶ声は、今日も城壁の外から聞こえている。城外の民は昨日からさらに集まって、すでに二十万に達しているという。

「その命令は、私達を縛るものではありません。私達にも私達の都合と言うものがあるのです。もしこれ以上―――」

「―――門番さん」

 朱里の言葉を遮ると、桃香は的盧から降りて、門番の長と正面から顔を合わせた。

「城門を閉ざせという命令は、何のためのものかな?」

「それは、……押し寄せた民を城内へ際限なく迎え入れてしまえば、混乱をきたすからではないかと」

「うん、そうだよね。でもそれじゃあ、その城壁の外いる人達はどうなるの? あと数日もすれば曹操軍がすぐ近くまで来るっていうのに、同じ荊州の人間をこのまま締め出して置くの?」

「―――そうだ、入れてやれ!」

「―――同じ荊州の仲間を見殺しにするのかー!」

 背後から、民の声が上がる。

「しかし、私の権限で勝手に入れるわけには」

「うん、わかってる。それに、二十万近い民を収容する力は今の襄陽にはない」

「では、どうすれば―――」

「私達を外へ出して。家へ帰るように言って上げる。民がいなくなれば、城門を閉ざして置く理由もなくなるでしょう?」

「しかし、劉備様達を外へ出すために城門を開けたら最後、一斉に民が押し寄せてきませんか?」

「大丈夫大丈夫。私を信じて」

 桃香はあえて気軽に返した。

「……分かりました」

 門番の長は桃香の顔と背後の劉備軍、さらにその後ろを埋め尽くす襄陽の民を何度か見比べた後、意を決したように言った。
 門番の兵達が忙しなく動き始める。閂が外され、城門がゆっくりと開いていく。
 桃香達が外へ出るよりも早く、民が城門に詰め寄せた。

「りゅ、劉備様」

「大丈夫、大丈夫」

 予想以上の民の熱狂ぶりに内心気圧されながらも、桃香は門番の長の訴えるような視線に笑みを返した。
 そうする間にも、身体をもつれさせるようにして十数人が城内に潜り込んだ。城門前に居並ぶ兵と襄陽の民を見て、先頭の勢いがいくらか弱まる。しかしすぐに後方から押し出され、足が完全に止まることはない。

「―――みんなっ、落ち着いてっ!!」

 桃香は有らん限りの声を張った。

「……劉備様だ」

 城内に入り込んだ者の中に、桃香の顔を知る者がいたらしく誰かがぽつりと呟く。

「劉備様? ……劉備様だってよ」

「おいっ、劉備様だぞっ、劉備様だっ」

「お前ら、押すなっ! 劉備様にぶつかっちまうっ」

 それはたちまち民の中に伝播した。
 やがて城門はすっかりと開き切ったが、すでに群衆が強引に足を進めることはなくなっていた。
 桃香は城門の外、民の只中へと足を進めた。焔耶に星、朱里、雛里、劉備軍の兵士達がそれに続く。城門へ詰め掛けていた人々は、今度は桃香の元へと押し寄せ始めた。
 城壁から少し離れたところで止まった。振り返ると、すでに城門に殺到する民の姿はなく、門扉がゆっくりと締められ始めている。

「劉備様っ、一体荊州はどうなってしまうのですか? 曹操は、本当に来るのでしょうか?」

 口々に問うてくる。遮ろうとする焔耶を手で制し、桃香は民の前へ出た。

「皆、落ち着いて。劉表さん達は曹操軍とは争わない道を選んだよ。戦にはならないから、安心して家に戻って」

「降伏ということですか? それでは、この荊州も曹操の領地となってしまうのですか?」

「それは、劉表さんや蔡瑁さん達の交渉次第かな? 同盟と言う形になるのか、曹操軍に組み込まれてしまうのか。ただ、曹操さん嫌いの皆がここにいると、悪い方に話が進んでしまうかもしれない。不安は分かるけど、ここは劉表さん達を信じて、一端引き上げてあげて欲しいの」

 桃香が言うと、周囲にいる民の興奮はいくらか治まった。
 華琳に同盟という選択肢はないだろう。小勢力であった頃から、独力だけで勝ち抜いてきたのだ。しかし今は反曹を掲げる者達を家に帰すため、詭弁を弄した。
 いくら曹操軍の統治を拒んだところで、華琳が民に刃を向けるとは思わない。しかしこうして集まった者達の熱狂ぶりを見るに、民の方から手を出しかねなかった。そうなれば華琳も鎮圧のために軍を動かさざるを得ない。目の前の人々のためにも、そして宿敵であると同時に親友でもある華琳のためにも、そんな事態は避けたかった。
 必死に声を張ったが、二十万の集団の隅々にまで声を届かせ、一時で落ち着かせるとはいかない。桃香は同じ台詞を繰り返しながら、民の中を進んだ。

「あれ、貴方は―――」

 視界を過ぎる人の顔の中にどこかで見知った顔があり、桃香は足を止めた。

「御無沙汰しておりますっ、劉備様。私なんかを覚えていて頂けるなんて」

「やっぱり。許県で料理屋をやっていた人だよね」

 威勢の良い返答に、すぐに思い当たった。天下の方々を彷徨い歩いた桃香であるが、店の場所まではっきりと思い出せる。何度か通ったなかで一度、お忍びの華琳を伴った記憶があったからだ。

「どうして荊州に?」

「どうにも許での生活が息苦しく思えてしまいましてね。それで、店に来て頂いたこともある劉備様が荊州にいると聞いて、私も曹操の領土から逃げてまいりました」

 男はたぶん、桃香の同行者の中にその曹操領の主がいたことには気付いていないのだろう。ふらふらと気軽に街を歩き回る桃香と違って、華琳の顔はそれほど民の間に知れ渡ってはいない。

「へえ、せっかく繁盛していたお店なのに、もったいない」

 わざわざ華琳を連れていくほどだ。味も評判も良い店だった。

「許にいると、皿の上の料理やお客さんではなく、他店の売り上げばかり気にしてしまっている自分に気が付きましてね。私もお客さんも、もう少しゆったりと料理と食事を楽しめる店を作りたいと思いまして」

 成功を収めた人間ですら、窮屈と感じる世界。やはりそれが、手放しで正しいとは思えない。

「そっか。それじゃあ、荊州に来て、望みの店が出来たのかな?」

「はい。劉備様も、是非一度いらしてください。店名は変わっておりません、場所は―――」

 男は襄陽より西へ数十里向かった先の城邑の名を口にした。

「うん。しばらくは難しいと思うけど、いつかきっと行くよ」

 曖昧な返答に感ずるところがあったようで、男が問う。

「―――そうだ。劉備様は、この後一体どうされるのですか? 劉表様が曹操に降るといっても、劉備様達は当然降伏などしないのでしょう?」

「ああ、そうです、劉備様は―――」

「劉備様はどこへ―――」

 男が言うと、周囲の者達も口々に疑問を漏らした。
 桃香が華琳に降るなどとは、民は想像だにしないようだ。いつの頃からか、市井の目は桃香を反曹の象徴と見なし始めていた。

「私達は、とりあえず江陵に戻るよ。あそこなら、曹操軍相手にもしばらくの抗戦は出来るだろうし」

「―――」

 がやがやと騒がしかった民が、しんと静まり返った。気遣わしげな視線が桃香の全身に注がれる。

「えっと、みんな、そんなに心配してくれなくても大丈夫だよ。私には頼りになる妹や仲間達がいるし、江陵には劉琦さんもいるし」

「……劉備軍には、料理屋は必要ありませんか?」

「え?」

 意を決した表情で言った男の言葉の意味が分からず、桃香は首を傾げた。男が叫ぶように続ける。

「劉備様っ! 是非私も、江陵へお連れ下さい。兵に混じって戦うのは難しいかもしれませんが、美味い飯を作って、戦う者達を励ますことぐらいは出来ますっ」

 周囲の民も男に続いた。
 武具を作れると言う鍛冶屋。城壁等の補修に自信を見せる大工。兵として戦うという農夫。

「劉備様、私は何もお手伝いすることは出来ません。ですがいざという時、身を挺してでも御身をお守りいたします」

 老婆が言う。

「僕は、すぐには力になれないかもしれないけど、いつかきっと劉備軍の一員として働きます」

 少年が言う。

「……良いのかな? 力を借りちゃっても」

「もちろんです。皆、曹操の支配に抗いたいのです。劉備様と共にいたいのです」

 料理屋の主人が言う。
 今ここにいる二十万の民が寄せる期待が、本当の自分ではなく劉玄徳の虚像に向けられたものであることを桃香は理解していた。期待を寄せられるほどに、自分は何かをしたわけではない。あえて言うなら、華琳に抗ったということだけだ。
 また現実として、江陵へ急ぎ帰還しようというこの時に、二十万もの民衆を引き連れて行こうなど無謀の極みだろう。

―――それでも。

 背後にいる朱里と雛里へ振り返った。二人はすこし困ったような表情を浮かべた後、一度顔を見合わせ、そして小さく頷いた。

「ようしっ、それなら、皆で行こうっ!」

 理由など分からないが、この民と共に歩むべきだ。直感に従い桃香が叫ぶと、わっと歓声が湧き上がった。



[7800] 第10章 第5話 厳顔
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/05/03 01:53
 二十万の民を引き連れ、江陵へ向けて進発した。
 おおよそ三百里(150km)の行程で、劉備軍の二百騎だけで駆け戻るなら二日、昼夜兼行の強行軍なら一日で走破し得る距離だった。歩兵を率いていたとしても五日である。
 しかし民と共に進むとなると、その歩みは遅々としていた。

「ごめんね。他の人達もいるから、今はここまで」

 的盧の背から幼子と荷物を降ろした。

「いいえ、助かりました。ありがとうございました」

 兵の馬に乗せられていた老夫婦も下馬すると、深々と頭を下げた。それを見た幼い孫も真似をして、ぺこりと頭を下げる。

「ふふっ。それじゃあ、私は行くね」

 可愛らしい姿に微笑むと、桃香は的盧に跨り、来た道を取って返した。
 劉備軍二百騎は三手に分け、朱里と雛里には五十騎を率いて先導を任せている。
 桃香は焔耶と五十騎を従え、二十万の中程を行き来しては民に励ましの声を掛けて回っていた。坂道などでは遅れがちの者を的盧に乗せ、轡を取って共に進んだ。焔耶は兵に任せるように言ったが、的盧の太く頑丈な脚はこんなことにこそ向いている。
 そして最後尾では星が百旗を率いて殿軍を務めるとともに、進軍に付いて来れない者達に力を貸していた。遅れる者があまりに多いようなら応援を呼ぶように伝えているが、今のところ星から要請はない。
 背後を振り返っても、もう襄陽の城郭は見えない。出発から六刻(3時間)余り、十里程は進んだのだろうか。
 少しずつ、日が落ち始めている。兵でもない民に、夜間の行軍は不可能だろう。
 通常の兵士であれば日に十二刻、距離にして五十里を歩く。曹操軍ならもっと速く、少数精鋭の劉備軍はさらに速い。しかし民にそれを求められるはずもない。
 結局江陵行きの初日は、それから一刻歩いたところで野営となった。

「皆、頑張ってくれているね」

 夜、朱里に雛里、星、焔耶と火を囲んだ。

「そうですね。正午過ぎから歩き始めて七刻。途中で休憩もはさんだとはいえ、良く歩いてくれたと思います」

 朱里が言い、雛里が続けた。

「とはいえ、今日進んだ距離は十二、三里といったところでしょうか。今日は初日だけにまだ体力に余裕がありましたが、明日以降はさらに遅くなるはず、おそらく一日かけて今日と同じ程度にしか進めないでしょう」

「すると、江陵に着くのは二十日も先か。やっぱり軍みたいにはいかないね。どうしたって、体力の無い人に会わせないといけないからなぁ」

 兵士でなくても、若者なら一刻に五里歩くことは難しくない。しかし荷を負い老若男女入り混じっての進軍となると話は別だった。

「そうですね。兵糧も、どこかで一度手配しなくてはいけません。皆さん、野宿も覚悟で襄陽に集まってくれた方々なので、数日分の食糧は持ってきているようですが、二十日となるとこちらで用意しなくては」

 朱里が言った。
 民は、身を寄せ合うようにして寝ている。夜は相当に冷え込む季節だが、雨が少ない時期なのは幸いだった。暖かい格好をして固まっていれば、寒さだけなら凌ぐことが出来る。

「そういえば、朱里ちゃん達は元々、こうして集まってくれた人たちをどうするつもりだったの?」

 出立時のごたつきで聞けずにいたことを問う。

「桃香様が最初になさろうとした通り、曹操軍が襄陽に至る前に解散してもらうつもりでした。ただ、洛陽を攻めるにせよ、江陵へ退くにせよ、一部は義勇兵として伴えればと思っていました」

「義勇兵に?」

 朱里の言葉に聞き返すと、今度は雛里が返した。

「はい。星さん達に動いてもらっていたのは、兵として使えそうな人間に目星を付けておいてもらうためでもありました。二、三千ならすぐにも募ることが出来そうだと伺いましたが―――」

 雛里が星に窺うような視線を送る。

「うむ。劉表殿が軍事に関心が薄かったせいか、荊州は在野に血気盛んな若者が多いですな。なかなか見込みがありそうな者達が多く見つかりましたよ。実は今日も、私が殿軍に付くより前に、率先して最後尾に陣取った若者達がおりました。彼らの手助けがなければ、何人の脱落者が出たことか」

「……そんな人達が。考え無しに出発しちゃったけど、私は本当に色んな人達に助けられているな」

「それは、桃香様御自身がこれまでに多くの人々を助けてきたからこそでしょう。お気付きになりましたか? あの村の者達が何人かいましたよ」

「……うん、いたね」

 焔耶が言うあの村とは、徐州で華琳に敗れ、流れ流れて行き付いた荊州の小さな集落のことだ。戦などとは縁遠いのどかな村であった。賊の要求を、唯々諾々と呑もうとしていたのだ。そんな者達が、自分との出会いで自ら苦難の道を選んだ。気が咎めないではないが、それが自身の天命であり、武器であると桃香はすでに受け入れていた。
 翌日、空が白み始めるとすぐに移動を再開した。雛里の予見通り、昨日よりもさらに民の足は鈍っている。
 日が中天に差し掛かる頃、殿軍の星が男を一人伴い桃香の元へ駆け付けた。

「桃香様、襄陽より荊州軍がこちらへ向けて発しました。おおよそ一万、厳の旗っ」

「ちっ、桔梗様か」

 焔耶が舌打ちする。
 筋目にこだわると言う、焔耶による厳顔評が耳によみがえってくる。荊州の民を大勢引き連れて逃げる客将の姿は、厳顔の目にどう映っているのか。

「とりあえず、朱里ちゃん達を呼ぼう」

「私が―――」

 先触れに伝令を飛ばそうとすると、星が連れてきた男が頭を下げて駆けていった。

「あの男は? 兵ではないようだが」

 中肉中背の、何でもない恰好をした男だった。駆け去る端から、すでに外見の印象は薄れている。

「ああ、焔耶は会うのは初めてか。雛里の使っている、諜報等を得意とする部隊の者だ」

「そんな奴らがいたのか」

 雛里は、桃香の眼前では極力使わないようにしている気配がある。焔耶は桃香の護衛に付くことが多いため、これまで顔を合わせずにきたのだろう。

「ふふっ、流浪の我らが普段どうやって曹操軍や孫策軍の情報を得ていると思っていたのだ?」

「それもそうか。外から見ているよりもずいぶんとしっかりした組織だよな、劉備軍は」

「朱里と雛里がいるからな。曹操軍の文官筆頭荀彧と孫策軍の大都督周瑜が、二人して数千の軍のために尽力していると考えてみるがよい」

「なるほどなぁ」

 焔耶は感心しきりの表情で、何度も首を縦に振った。

「それで星ちゃん、厳顔さんはどれぐらいで追い付いてくるかな?」

「襄陽を見張っていた先程の者が、進路を見届けるやすぐに馬を飛ばしてきたそうです。おおよそ十五里、時間にして三刻といったところでしょうか」

「そっか、ならまだ少しは余裕があるね」

「ところで焔耶よ。厳顔殿の隊は、確か五千ではなかったかな?」

「うん? ああ、確かに。するとやはり桔梗様が独断でワタシ達の援軍に発ったとは考えにくいな。蔡瑁に言われて、他の将と連係して捕えに来たのか」

「ふむ。そういえば先程の男も、出陣前に多少の混乱があったようだと言っていたな。蔡瑁に近い将でも監視役に付けられているのかもしれんな」

 考えて答えが出る疑問でもない。そこで会話は途切れ、横を通り過ぎていく民に手を振り励ましの声を掛けながら朱里と雛里の到着を待った。二十万の民の行列となると、先頭と後尾では五里以上も離れている。

「……それにしても、いやに遅いな、あの二人。何をしているんだ。あの桔梗様が迫っているというのに」

 一刻ほど待つも、姿を現さない二人に焔耶がぼやく。

「そう苛々するな、焔耶よ。―――おや、あれは?」

 星が額に手をかざし、目を細めた。桃香も改めて前方に視線をやる。

「……騎馬隊? えっ、鈴々ちゃん?」

 前方よりやってきたのは、張旗を掲げた騎馬の一団だった。先頭で元気に手を振る鈴々の姿も見える。
 張旗が駆けるのに合わせて、民の歓声が波の様に押し寄せてくる。劉備軍を語る講談では、燕人張飛はいつも大立ち回りの大活躍を演じる人気の登場人物である。

「―――お姉ちゃ~んっ!」

「鈴々ちゃん、どうしてここに?」

 桃香達の眼前で、鈴々が馬から跳び下りた。張旗もそれに合わせてぴたりと止まる。行軍の脚を止めた形がそのままきれいな隊列を取るのは、劉備軍の精鋭である証だ。

「愛紗に言われて、お姉ちゃんを守りに来たのだ」

「―――っ、江陵には逐一情報は伝えてありましたから、愛紗さんが気を回してくれたようですっ。江陵に残した騎兵八百騎、全て送り込んでくださいました」

 鈴々と一緒に駆けて来た朱里が言った。雛里と二人して、息を荒げている。わずかな距離とはいえ、鈴々や騎馬隊に合わせて駆けるのは相当にきつかったようだ。

「さっすが愛紗ちゃん、ちょうどよかったね」

 劉備軍六千のうち騎馬隊は一千であるから、桃香達が率いる二百騎も含め、全騎がこの地に揃ったことになる。

「お姉ちゃん達と義勇軍が数千だけって愛紗からは聞いてたから、すっごく大勢でびっくりしたのだっ」

「ははっ、そうだろうね。―――さて、どうする? 朱里ちゃん、雛里ちゃん」

「厳顔さんなら民を攻撃することはないと思いますが、一応我々は殿軍に付きましょう。先導には五騎だけ残してきましたので、進軍はこのまま続けます」

 ようやく呼吸が落ち着いた様子の雛里が答えた。

「うん、わかった。それじゃあ下がろうか」

「桃香様、お待ちを。―――雛里、相手は一万、戦うなら騎馬隊の脚を活かしてこちらから仕掛けるべきだ。いくら劉備軍が精強と言ってもたった一千騎、しかも民を背にして足を止めて向き合うなんて、桔梗様を甘く見過ぎだっ」

「あ、あわわっ」

「まあまあ、焔耶ちゃん」

 雛里に詰め寄る焔耶を、桃香は宥める。

「まだ厳顔さんが敵になると決まったわけじゃないんだから。数が少なくたって私達は軍なんだから、民の背を守るのは当然だし」

「し、しかしっ」

「厳顔さんはあれで焔耶ちゃんのことが大好きだし、たぶん大丈夫だよ」

「いやっ、そんな甘い御方ではっ」

「まあまあ」

「ううっ、分かりました。ですが、私か鈴々、星の側を離れないで下さいね」

 腕を回して肩をぽんぽんと叩くと、焔耶は顔を赤らめ、勢いを弱めた。

「決まりですな。それでは下がりますか」

「厳顔のおばさんが相手かー。」

 星と鈴々が気負いなく言って、馬首を回す。

「星、鈴々っ、桔梗様の豪天砲は知っているな? 桃香様と桔梗様の間に、ワタシかお前達のどちらかが常に身を置くからな」

「わかったわかった」

 手をひらひらと振りながら、星が軽い口調で返す。

「それと鈴々っ、桔梗様の前ではおばさんとか言うんじゃないぞ。黄忠様ほど気にされているわけではないが、激怒しかねん。桔梗様に敵対する気が無くても、その一言で敵に回りかねないからな」

「なんでなのだ? おばさんはおばさんなのだ」

「いいからっ、絶対言うなよ」

「はーい、わかったのだ」

 道すがら受ける民の歓声に手を振って応えながら後退した。下がるに従って、女子供や年老いた者が増えてくる。しかし最後尾近辺になると、一転して若い男達が増えた。

「おおっ、趙雲様」

 星を見て、男達から声が上がる。

「星ちゃん、この人たちが?」

「ええ」

 義勇軍に仕立て上げるべく、星が目を付けていた男達だという。今回の民の集結は、星や兵が彼らに秘密裏に働きかけ、表だっては彼らが近隣の住人を扇動することで実現している。
 三千人ほどの男達は大抵両手に大荷物を抱えており、中には子供や老人を背負っている者までいた。

「―――趙雲様、もしかしてその御方が」

 他の者よりいくらか身なりが良い若者が言った。

「うむ。我が主、劉玄徳様だ」

「おおっ」

 男達は足を止め、頭を下げた。
 訓練を受けた兵のように規律のある動きではないが、他の民のような浮ついた感じもしない。星が目を付けた義勇兵の候補だけはあった。

「進んで殿軍に付いてくれたんだってね。みんな、ありがとう」

「荊州の者が荊州の人間を助けるのは当然のことです」

 大柄でいかにも豪胆そうな男が言った。

「御自身とは無縁の子供達を救うために、一千もの賊に御一人で立ち向かうことと比べたら、何ほどのことでもありません。荊州の民は、劉備様の勇気と仁愛を決して忘れません」

 利発そうな青年が続ける。
 あの村での話だろう。現実には桃香が一人で出来たことなどわずかな時間稼ぎで、賊の数も二百であった。
 華琳が実際以上に暴君として語られるのに対して、桃香の活躍はいつも潤色をもって伝えられた。以前は一々訂正したものだが、今はそれが自分の一つの武器であると理解している。ほとんど唯一と言っていい、華琳に勝る武器だ。
 共に戦いたいと言う男達を説き伏せて先に進ませ、最後尾に付いた。

「最初に桃香様に気付いた生まれが良さそうな者が鄧芝、武骨な感じの男が廖化、弁の立ちそうなのが宗預。この辺りの若者のまとめ役のような者達です」

 星が言った。わざわざ名を口にしたのは、いざ彼らを兵とする際には、隊を率いる地位に就けるつもりだからだろう。

「ずいぶん毛色が違う三人だったね。廖化さんなんかはうちにもよくいる力を持てあました暴れん坊って感じだけれど、宗預さんは分別のある普通の若者って感じ。鄧芝さんは、襄陽の宮中にいてもおかしくないかな」

「それでうまい具合に住み分けが出来ているのですよ。鄧芝などは光武帝の功臣筆頭鄧禹の後裔だというから、まあ名家の出ですな。荊州の豪族や役人の倅で、劉表や蔡瑁の元への出仕を望まなかった者達の代表といったところ。廖化は仰られる通り、我らと同じ侠客の出ですな。荒くれ達には人気がある男です。そして宗預がそのどちらにも属さない真っ当な若者達を牽引すると。あの三人がいたお蔭で、随分と楽が出来ました」

 話しながら、前を行く民の行列を眺めた。当然、先頭は遥か先で、全ては視界に収まりきらない。
 華琳やかつての袁紹は、兵だけでこれ以上の数を動かした。未だ六千を率いるのみの桃香には、想像も付かない話だった。
 しばしして、ただでさえゆっくりとした進軍がさらに遅れ始めた。

「先頭が、来る時にも通った隘路に差し掛かったようですね」

 朱里が言った。
 江陵までの帰路にはいくつかの狭道や橋を越える必要がある。二百騎で駆け抜けた往路には気にもならなかったが、二十万の民の通行となると相当に時間を取られるだろう。

「左には漢水で、右に見える山が、―――荊山だっけ? 華琳さんに勉強を教わっていた時に、なにかで聞いた憶えがあるな。何だったかな?」

「韓非子ですね。いわゆる和氏の璧が取れたのが、荊山です」

「ああ、そうだった。和さんが玉の原石を見つけて楚の王様に献上したけど、なかなか信じてもらえなくて刑を受けちゃうんだよね。三人目の王様にやっと認められて、楚の国宝となって、その後どこか別の国に譲られて、ええと、完璧の逸話を生んだんだよね?」

「楚から趙に譲られ、趙は秦によって奪われかけます。その際に藺相如が知略と胆力でもって守り抜き、それを持って完璧という言葉が生まれました。世代を経て、始皇帝によって天下が統一されると、結局は秦の手に渡ることとなりましたが。伝説では、始皇帝の命で玉璽に作り替えられ、それが漢王朝にも伝わる伝国璽であるとか。その伝国璽は確か今、―――雛里ちゃん?」

「うん。何進大将軍と宦官達の政争のごたごたで紛失したとされています。それが、反董卓連合の際に洛陽へ乗り込んだ孫策軍によって発見されたという話もあります。もしかすると、今も孫策さんが秘匿しているかもしれません」

「ほう。その話が本当なら、もし孫策が西涼軍に付いて、玉璽を弘農王殿下に献上したなら、長安の王朝の正当性は一気に高まるな」

 星が口を挟んだ。

「そうですね。玉璽が孫策さんの元にあるかもしれないという噂は、華琳さんも間違いなく掴んでいるでしょう。あるいはそれもあって華琳さんは、荊州を急ぎ取りに来たのかもしれません。荊州北部を取り、武関さえ抑えてしまえば、孫策さんと馬騰さんが直接連携をとるのは難しくなりますから」

 雛里が少し考え込むようにしながら答える。雛里は桃香以外では劉備軍の中で唯一華琳から真名を預かっていて、その戦略に関する理解は深い。

「よく分からないけど、孫策のお姉ちゃんが手に入れた物を誰かに貰ってもらって、その下に付くのか? なんだが似合わない気がするのだ」

「う~ん、確かに鈴々ちゃんの言う通りかも。でも周瑜さんなら利害によってはそういうこともしそうかな」

「―――桃香様、お話中に失礼致します。そろそろ桔梗様の軍が見えて来そうです」

 会話に加わっていなかった焔耶が言った。
 焔耶は劉備軍の将の中では、唯一華琳と面識がない。孫策や周瑜とも戦場で対峙したことはあっても、人となりを詳しく知りはしないだろう。
 うっすらと厳の旗と軍勢が見えてくる。幸い、民に動揺は見られない。厳顔が自分達を傷付けるはずがないという信頼があるのだろう。
 厳旗がおおよそ一里の距離まで迫ったところで、一千騎の足を止めた。民との距離がじわじわと離れるが、やはり行軍は遅々としている。数十歩を隔てて厳旗と対峙した時、民との距離は半里と開いていなかった。
 一万の軍勢から、一騎進み出た。

「趙雲殿だけでなく、張飛殿もみえられたか。どちらでも良い、ワシとお相手願えぬか?」

 大音声で呼ばわるということもなく、厳顔は平素と変わらぬ口調で言った。
 星と鈴々が顔を見合わせ、頷き合うと数歩前へ馬を進めた。

「お相手というと一騎打ちですかな、厳顔殿? せっかく兵力で勝るというのに、むざむざその利を捨てますか」

「何も劉備殿を慕っているのは民ばかりに限った話ではない。荊州の兵も劉備殿とは本気では戦えんわ。無理に命じたところで、本来の力の半分も発揮してはくれまいよ」

「そう仰られるからには、厳顔殿ご自身は本気で我らを討つつもりというわけですか」

「戦場に感傷を持ちこむほど、若くはないのでな」

「ふむ。桃香様、よろしいですか?」

 星が、桃香へ向き直って聞いた。

「なるべくどっちも怪我をしないように戦ってね」

「厳顔殿は軽くあしらえる相手ではありません。なかなか難しい注文ですな。とはいえ一騎打ち自体はお受けしてもよろしいのですな? では、そういうことならここは私が―――」

「待つのだ、星っ! 鈴々だってやる気十分なのだっ」

「お主は江陵から駆け付けたばかりで、疲れておろうが」

「へっちゃらなのだ。星の方こそ、慣れない大勢を連れての行軍で疲れてないかー?」

「……ふむ、よかろう。それなら厳顔殿にどちらと戦いたいか決めてもらおうではないか。それなら平等というものだろう?」

「わかった、それでいいのだ」

 鈴々が頷くと、星が口元をにんまりとゆがめるのが見えた。
 如何に燕人張飛の盛名があるとはいえ、厳顔のような熟練の武人が年少の鈴々を相手に選ぶとは考えにくい。

「そういうことです、厳顔殿。私―――常山の昇り竜こと趙子龍と、若輩者の張翼徳、どちらとの対戦がご所望か?」

「厳顔のおばさん、決めて!」

「おばさっ―――!?」

「あっ、こらっ、鈴々っ!」

 桃香の隣で焔耶が叫ぶも、時すでに遅しだった。

「ほほう、ワシがおばさんとな。なかなか言うてくれるではないか。―――ようし、決めたぞ。張飛殿、お相手願おうかっ」

「おうなのだ!」

 鈴々と厳顔が馬を進めた。示し合わせたようにそれぞれが右に折れ、桃香達から見て横並びに対峙した。
 豪天砲の仕掛け―――射出される杭が桃香達へ向くことを避けるための鈴々の誘導に、厳顔が乗った形だ。

「策士、策に溺れるってやつだな」

 すごすごと引き返してきた星に、焔耶が言った。

「ふっ、年少者に譲ってやったまでのこと。後々駄々をこねられても困るのでな」

 負け惜しみを言いながら、星は桃香達と馬を並べ観戦と決め込む。
 鈴々が蛇矛を構える。
 丈八蛇矛の柄尻近くを握った両手を高く掲げ、矛先を相手へ向けて垂らす。自身の身の丈の二倍を優に超える長柄で、身体の前面を覆う形だ。普段は無造作に肩に担ぐか、脇に手挟むだけだから珍しい。それだけ厳顔を警戒しているということなのか。
 対する厳顔は片手で大剣の柄を、もう片手で刀身に備え付けられた装置から生えた持ち手を握っている。豪天砲を抱きかかえるような構えで、切っ先は真っ直ぐ鈴々へ向けられていた。鉄杭を射出する機関を備えた大剣、それが豪天砲である。

「大丈夫だよね、鈴々ちゃん。厳顔さんもすごく強いとは思うけど」

 愛紗、星、鈴々が一騎打ちで負ける姿など桃香には想像も付かない。知における朱里と雛里同様に、武における三名に対する桃香の信頼は絶大だった。しかしその三人も認める焔耶を育てたのが、厳顔なのである。

「呂布でも出て来ない限り、あやつへの心配は無用でしょう。悔しいですが、才能という点においては我らの中でも突出しております。それこそ呂布と同等か、それ以上やもしれません」

 珍しく星が手放しに近い褒め言葉を口にした。

「やっぱり? いやぁ、私もそうじゃないかとは思っていたんだけどね、ふふふっ」

「存外姉馬鹿ですな、桃香様は」

「しかし星、豪天砲を構えた桔梗様を相手に、あの距離でああして居付いてしまうのは一番良くないとワタシは思うが。もっと距離を取るか、左右に動き回って狙いを絞らせないようにするべきだろう」

「そ、そうだよね。私も見せてもらったけど、それこそ目に見えないくらい速いもんね、あの杭」

 焔耶の言葉に、もう一度不安がむくむくとわいてくる。馬体にして四つか五つほどの距離を隔てて、鈴々は厳顔と対峙している。この距離では、豪天砲の杭はほとんど放たれた瞬間には的を射抜いているだろう。

「ふむ。確かに反応の良さでどうにかなるものではないが、あれで戦いに関しては頭も回る。何か考えが、―――動きますぞ」

 鈴々が馬を走らせた。距離が詰まる。わずかに丈八蛇矛が揺れ動いて、立て続けに甲高い金属音が鳴り響いた。

「―――くっ」

 迫る鈴々に、厳顔が豪天砲を構え直す。今度は柄を両手で握り込む通常の大剣の構えだ。馳せ違う。

「……いやはや、あの距離で弾かれたのは始めてだぞ」

 馬首を巡らしながら、厳顔が言った。やはり桃香の目には捉えることが出来なかったが、豪天砲は確かに放たれ、それを鈴々が弾いたようだ。

「へへん。とんでくるのは切っ先が向いた方なんだから、矢よりも簡単なのだ」

 鈴々が得意気に胸を反らした。先刻までの大仰な構えを解いて、いつも通り蛇矛を肩に担いでいる。

「なるほど」

 星が呟く。

「どういうことかな?」

「あの射出機構は弓矢とは違い、指先で狙いの調整などは出来ぬということです。飛んできた杭を弾いたのではなく、豪天砲の切っ先が向いた先へ、あらかじめ蛇矛の柄を構えていただけ、ということでしょう」

「ふふん」

 もう一度、鈴々が胸を反らした。

「そんなに簡単な話ではないと思うがな。そのうえ、これではもう撃てそうにないのう」

 厳顔が豪天砲を眼前まで持ち上げる。すれ違いざまの鈴々の一撃で、刀身が大きく歪んでいた。

「ならどうするのだ? 降伏するか?」

「接近戦でお相手する、と言いたいところだが、こうも刀身が曲がってしまってはそれも少々厳しそうだ。―――もう良いわ、一思いにすぱっとやれい。降伏するくらいなら首を刎ねられる方を選ぶわ」

 厳顔が、首筋に手刀を当てる仕草で言った。簪の飾りがつられて揺れる。
 しゃらしゃらと音を立てる揺れ飾りのついた一本と、真っ赤な玉の一本、そして花を象った一本。厳顔は三本の簪で婀娜っぽく髪をまとめ上げている。

「ん~? なんだか、妙に諦めが早いのだ。おばさん、本当に厳顔のおばさんかー?」

「ええい、おばさんおばさんとうるさいわっ。小童が、まったく―――」

 ぶつぶつとくさしながら、厳顔がこちらへ馬首を回した。視線の向いた先は桃香、ではなくその隣に侍る焔耶である。

「焔耶よ。元副官であるお主に、兵を託したい。なあに、先程も申した通り、兵は劉備殿を慕っておる。ワシの隊だけで来るつもりが、我も我もと集まって、結局一万の兵となりおったわ。ワシさえいなくなれば、大人しく劉備殿に従うだろう」

 蔡瑁の命令で桃香達を捕えに来たわけではなく、厳顔は自らの意志で劉備軍の援軍として来てくれたらしい。しかしそれなら、鈴々や星に一騎打ちを挑む理由はない。

「し、しかし、桔梗様っ」

「なんじゃ、今は劉備軍の一員だからと、最後の頼みも聞いてくれんのか? なんと恩知らずな奴よ」

 厳顔がわざとらしく肩をすくめてみせる。

「そういうことではありませんっ! 最初からっ、死ぬおつもりだったのですね? 荊州軍の将として筋を通し、同時にワタシ達へも助力してくれるために」

「何のことやら―――」

「桔梗様っ!」

「……荊州の将として、民を守り敵と対するが我が節義。されど社稷への忠節も捨て難し。仕方があるまい」

 焔耶の剣幕に言い逃れは出来ないと思ったのか。厳顔が答える。

「そんなっ」

「武人の別れよ、言葉は要らぬ。―――さあ、張飛殿」

「さあ、と言われても、困るのだ。お姉ちゃんに怪我をさせるなと言われているし、鈴々も気乗りしないのだ」

「戦場で気乗りするもしないもあるまいに。ならば劉備殿、張飛殿にワシを斬るようお命じ下さい。張飛殿が気乗りしないというのなら、趙雲殿でも、貴殿が御自ら剣を取ってくれても良い」

「う~ん、私も気が乗らないな。ここはお互い何も見なかった、何もなかったことにして、襄陽に引き返してもらえると一番有り難いんだけどな」

「それでは民を守れませぬ。是が非でも一万は受け取って頂かねば。襄陽が明け渡されれば、曹操が劉備殿を放って置くはずがない。すぐに追撃が掛かりますぞ。曹操軍は騎兵だけでも三万、歩兵は十万を超えると、劉備殿も聞き及んでおりましょう」

「―――厳顔さんがこの二十万の民を守りたいと思うのは、何故ですか?」

 朱里が言った。

「それは、荊州の民であるからだ。荊州の民を守ることこそ、荊州軍で将にまで上り詰めたワシの果たさねばならぬ務めだ」

「しかし、彼らは荊州の政の決定に逆らい、私達劉備軍と共に歩もうという人達です。荊州軍にとっては叛徒に近いのでは? それに加担しようというのなら、厳顔さん御自身もすでに荊州軍の将であって将でないようなものではありませんか?」

「だから、主家に通すべき筋などすでに失われていると言いたいか。兵のみならずワシごと協力しろと、そう言うか、諸葛亮殿」

「はい。さもなくば、二十万の民などお見捨てになるべきです」

「ふうむ、痛いところを衝いてきおる。さすがは伏竜と呼ばれるだけのことはある。しかしな―――」

 厳顔が首を捻って考え込む。朱里の言葉を理解しつつも、納得は出来ていない様子だ。
 襄陽で座していれば、忠節だけは守ることが出来る。死を決して劉備軍に兵を送り届けようとしたのは、つまりは民のためだ。そんな厳顔の本心は、聞くまでもなく桃香には分かる。社稷、主家という言葉にも、厳顔の真意が滲んでいる。劉表、あるいは蔡瑁といった個人に対する忠義ではなく、あくまで厳顔自身の武人としての生き方の問題なのだ。

「意地になってはいませんか?」

「つまらぬ意地を張るのが、武人と言うもの」

「……わかりました。それならその意地もお悩みも、私がすぱっと断ちましょう」

 靖王伝家の柄に手を掛け、的盧を前に進めた。

「おお、やってくれるか、劉備殿」

「はい。……ええと、もう少し首を前に傾げてもらって良いですか?」

「こうか?」

 厳顔の簪がまた揺れる。

「そうそう、そんな感じ。ああ、ちょっと行き過ぎた。ごめんなさい、あんまり剣には自信がないものだから」

「かまわん。さあ、すぱっとやってくれ」

「はい」

「桃香様、まさか本気ですか? ―――お待ちくださいっ」

 焔耶の制止を振り切り、的盧が軽快に駆け出した。靖王伝家を抜き放つ。

「おおっ、なかなか見事な」

 剣を抜く動作だけは堂に入っていると、曹仁にかつて褒められた。気を良くして、鏡の前で何度も繰り返してみたものだ。
 厳顔が、すっと目蓋を閉じるのが見えた。馳せ違う。

「―――荊州軍の将、厳顔はこれで死にました」

 的盧が足を止め、桃香は靖王伝家を鞘に収めた。

「……むっ、生きている?」

「桔梗様っ、御無事ですか?」

 焔耶が厳顔の元へ駆け寄る。

「ああ。確かに斬られたと感じたのだが」

「ワタシからもそう見えました。でも―――」

 焔耶が厳顔の顔を指差す。はらりと、髪が厳顔の顔に掛かっていた。

「……髪? いや、簪だけか」

「厳顔さんの真名と同じ、桔梗の髪飾りですよね? これを斬り落とされたから、ここで一度厳顔さんは死んだ。……とまあ、そんな感じでどうでしょうか?」

 下馬し、両断され地面に落ちた髪飾りを拾い上げながら桃香は言った。

「ふふっ、そうか。ここで一度死んだか。―――焔耶よ。穴を掘ってくれるか? それに、手頃な大きさの石も探してきてくれ」

「穴に石? 手頃な大きさとはなんですか?」

「ワシの亡骸を地面に曝して置くつもりか? 墓穴と墓石だ、早う用意せい」

「―――はっ、はい」

 焔耶が慌てた様子で駆け出して行った。



[7800] 第10章 第6話 追走
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/05/27 19:05
「それで桃香―――劉玄徳は?」

 襄陽の船着き場に着くと、荊州の群臣数十名が跪拝して待ち受けていた。その筆頭と思しき男に華琳は問い掛ける。

「はっ。劉備の奴めは、恩知らずにも突如我らに奇襲を仕掛けてまいりまして。城門を破り、荊州軍の兵士と民を強奪して逃げて行きました。八日前のことになります」

「ふうん」

 冷たく一瞥をくれると、男は華琳を仰ぎ見ていた顔を再び伏せる。勢い余った額が地面を打ち、鈍い音を立てた。
 大方曹操軍への手土産にでもしようとして返り討ちにあった、というところだろう。

「民と言うのは、城外に集まっていたという、この私―――曹孟徳嫌いを標榜する者達のことね?」

「はっ」

 今度は顔を上げず、突っ伏したまま男が答える。
 男の言葉に、特に目新しい情報はなかった。
 二十万近い数の民が襄陽城外に集まり、反曹の声を上げていることは斥候から報告を受けている。華琳に関して流布する諸々の悪評――天子を籠絡し苛政を布くという半ば事実の評判と、麗羽が陳琳に筆を取らせた華琳への罵詈雑言を並べた名檄文、講談の英雄劉備の宿敵としての奸賊たる曹孟徳像―――が入り混じり、短絡的に嫌う者も多いだろう。しかし華琳の支配地を自らの意志でもって抜け、荊州へと至った者も中には含まれるはずだ。彼らがどんな言葉を口に上らせるのか、華琳は多少の期待感を持って襄陽へ足を進めてきたのだった。
 しかし民の集結を報じた数日後、斥候からはその離散が報告された。一日置いて、民の集団の中に紛れ込ませていた幸蘭の手の者から、詳しい情報も届いている。反曹の民は桃香に従い、江陵を目指して目下南進中だという。

「劉琮にはすぐに会えるのかしら?」

「はっ、宮殿にてお待ちです」

 先導に立った男の後を、苛立ちを足音に乗せて進む。男はびくびくと震えている。
 樊城郊外にて、降伏の旨を記した書状を華琳は受け取った。差出人の名は劉琮で、曹操軍の進攻中に父の劉表は病で命を失っている。その後、いざ漢水を渡江すべく入城した樊城で、華琳は三日の足止めを食った。
 理由は二つある。
 まずは数日前に樊城の城主がやはり病没したためで、死んだのは荊州で唯一名の通った将の黄祖である。荊州軍は聞きしに勝るまとまりのなさで、黄祖が亡くなると、樊城の兵の多くがその亡骸を奉じ、船を強奪してどこかへ消えたという。黄祖は荊州軍の将ではあるものの、江夏郡太守として独り孫策軍と対し続けてきた人物である。その旗下は半ば独立したものであったという。兵に黄祖への忠義はあっても劉表、ましてやその息子の劉琮に従う理由はなかった。船を得て江賊にでもなるか、―――そうはならないなら行先は一つだろう。
 一方で、対岸の襄陽にも当然水軍は存在する。その指揮官である文聘という将が船を動かすことを拒み、大半の水夫もそれに従った。文官らの熱心な説得を受け、文聘がようやく船を動かしたのが三日後の今日の朝であった。
 いずれにせよ、以前から知られていた荊州の文官と武官との不和が、曹操軍の進攻と劉表、黄祖という二つの重しが取り外されたことで、一息に表面化していた。単に荊州を奪うだけならそれは好都合とも言えるが、速やかに譲り受け西涼に攻め入るつもりであった華琳としては余計な手間を増やされた思いである。
 宮殿に至ると、門前に少年が一人跪いていた。

「劉琮ね。立ちなさい」

「はっ」

 拱手したまま、するすると劉琮は立ち上がる。十を過ぎたかどうかという年頃だが、儒学家として名高い劉表の息子だけあって容儀は整っている。

「州牧の印璽を、曹司空にお返しいたします」

 劉琮の言葉を合図に、宮殿の中から女官二人に捧げ持たれて木箱が一つ運ばれてきた。

「華琳様、ボクが―――」

 手を伸ばしかけた華琳を遮る様に季衣が前へ出て、箱の蓋を開け布に包まれた印璽を取り出した。しばし手をはわせ、危険が無いと判断すると華琳へ捧げ渡す。

「確かに受け取った。なに、そう悪いようにはしないわ。そうね、このまま荊州牧というわけには行かないけれど、どこかもう少し落ち着いた土地の太守か州牧にでもなってもらいましょうか」

「はっ、ありがとうございます」

「宮殿内を案内してもらえるかしら?」

「はい。どうぞ、こちらへ」

 ほっと肩の荷が下りた様子で、劉琮が先を促した。
 兄との跡目争い、そして荊州という今後の火種を抱えた土地は、年端もいかない少年には重荷でしかなかったのかもしれない。
 劉琮としばし語らった後、臣下の中から主だった者を呼び出して面会した。
 初めに件の文聘を招いた。涙を流して無念を口にした後、処罰を求められた。言葉を尽くし説き伏せ、最後には臣従を誓わせた。
 続いて謀略でもって劉表に荊州を取らせた蒯越、同じく蒯良、文人として名の知れた王粲、儒学者の宋忠、それに船着き場で華琳を出迎えた蔡瑁らと面談した。全員が簡単に頭を垂れ、臣従を口にした。いずれも気概に欠けるが、それなりの能力は有していそうだ。
 謁見の間は、儒学者劉表の趣味なのか派手さはないが荘厳な造りをしていた。最後に呼び出した蔡瑁を足下に残したまま、華琳は桂花に水を向ける。

「何人か欠けている者がいるわね、桂花」

「はい。武官では黄忠に厳顔。文官では伊籍、それに馬氏の五姉妹などもおりません」

 華琳の遠征時には留守を任せることが多い桂花だが、今回は久しぶりに軍に伴っていた。
 劉表が降れば荊州北部は曹操領の一部となる。戦乱から遠ざかっていたこともあって、荊州には人が多い。特に南陽郡は州都襄陽のある南郡より栄えており、中華最大の郡である。許や陳留にも匹敵する城邑がいくつもあった。速やかに曹操領の一部とすべく、桂花が現場の指揮に当たる。遠征に伴う華琳の参謀役は稟で、許には風、洛陽には月を残している。

「黄忠には、樊城で黄祖将軍の副官を命じておりました。兵と共に船を持ち去ったものと思われます。厳顔は兵を率いて劉備軍の後を追って出奔いたしました。伊籍ら文官達もそれ以来見ませんから、おそらく厳顔と共に出奔したものと思われます」

 見下ろされる形の蔡瑁が、小さく縮こまりながら口を開いた。華琳が玉座に着き、季衣と流流だけでなく桂花に春蘭、秋蘭も一段高くなった段上に侍らせている。

「人望が無いわね、貴方」

「はっ、申し訳ありません」

「……まあいいわ。劉玄徳が相手では、人気で負けるのは仕方のないことよ」

 虐めて楽しい相手でもない。華琳は苛立ちを収めると、気を取り直して問い掛けた。

「黄忠、厳顔という将の力量は?」

「はっ。取り立てて功名のある者達ではありません。しかし黄祖将軍は力量をお認めのようで、副官にも二人のいずれかをと望まれました」

「―――華琳様、黄忠の名には私に聞き覚えがあります」

 秋蘭が口を挟んだ。視線で先を促す。

「弓の名手です。私が初めて弓を取った頃には、すでにかなり名が知れ渡っておりました」

「へえ、すると老将かしら?」

「いえ、若き天才少女という評判でしたから、私と十歳も年は離れていないはず。―――蔡瑁殿、間違いないか?」

「はっ、確か三十前後であったかと。弓を良く使うという話も、聞いたことがございます」

「孫堅を討った黄祖も認める将にして、弓の達人か。よくもこれまで無名で通してきたものね」

「それは……」

 蔡瑁が口籠る。優秀な武官ほど、蔡瑁に疎んじられ閑職に追いやられていたというのは本当らしい。
 功を成し自身の地位を脅かすのを恐れたというのもあるだろうが、そもそも文を志す者はとかく武を軽視する風潮がこの国にはある。乱世から目を逸らし続けた荊州ではそれは一層顕著であろう。
 その点桂花は、軍師も務める稟や風と違ってほぼ完全な内政家ではあるが、武官と言うだけで―――春蘭や曹仁のような私情が挟まる場合を除いて―――蔑むようなことはない。

「もういいわ、下がりなさい」

「はっ」

 蔡瑁が拱手して退室する。

「桂花。今日会った者達の処遇は貴方に任せるわ」

「はっ。……目ぼしい者はいませんでしたか?」

「水軍の戦に長けた者が欲しかったのだけれど、文聘くらいかしらね。黄祖が死んだのが悔やまれるわ。文官では蒯越、王粲辺りは悪くないわね。あとは、……そういえば、雛里達の師の司馬徽が荊州にはいるはずじゃなかったかしら?」

「出仕はしていないようです。山奥で私塾を開き、半ば隠遁生活を送っているとか」

「隠者か、気に食わないわね。才覚があるのなら、それを世に現すべきよ」

 隠れることで名を不朽のものとした人物はこの国に数多い。とりわけ高名なのは伯夷、叔斉の兄弟であろう。互いに王位を譲り合い、遂には国を出奔した王子だ。儒教の聖賢とされ、悪逆の主―――殷の紂王討伐の軍を発した臣―――周の武王を諌め、聞き届けられずに山中で餓死したという。
 華琳に言わせれば、綺麗ごとに酔い、汚れを避けて自死しただけの人間だ。まことに賢人であるならば、国を継いで民を安んじれば良い。悪逆を討つ武王を口先だけ諌め、自身は何を為したというのか。
 桃香を見よ。掲げた綺麗ごとを為すために、血に塗れるも恐れない。民のため民を戦場に駆り出す。矛盾を抱えながらも雄々しく立っているではないか。賢人とは程遠い桃香の形振り構わぬ生き方が、華琳には好ましい。

「では召集致しましょうか?」

「そうね。―――いえ、やめておきましょう」

 隠者の山から竜と鳳が出た。そう考えれば司馬徽自身の才覚は秘されようと、ただ無為な生き方と否定もし切れない。それは雛里達を通じて、自らの才を世に現していると言えなくもないだろう。

「……西涼への遠征が終わったら、こちらから尋ねてみましょう」

「そんなっ、華琳様自ら足を運ばれるだなんて。たかだか私塾の主、呼び付けてやれば良いではないですか」

「いえ、天下に名高い伏竜鳳雛を育てた場所にも興味があるわ。それに隠者というのなら、その本質は宮中などではなく、隠れ住む山中でしか覗き得ないでしょう。桂花、貴方も興味があるのではない?」

「それは」

 桂花が口籠る。華琳が厚遇したこともあって、桂花は雛里と諸葛亮に対抗心を抱いている。その才の源流となれば、気にならないはずもない。

「ふふっ、その時は二人で行きましょう。正確な位置を確認しておきなさい」

「―――はいっ!」

 二人で、という言葉に気を良くしたようで、桂花は興奮気味に首肯した。
 荊州の人士についてさらにいくつかやり取りをすると、あとは桂花に丸投げした。
 漢王朝から派遣された州牧であった劉表とその後を継いだ劉琮とは異なり、蔡瑁らは荊州の豪族である。速やかに荊州の併呑を遂げるには彼らの助力は不可欠だろう。その過程で桂花によって使える者、使えない者の選別も為されることとなる。

「華琳様。騎馬隊の渡江、完了したで」

「ちょうど良かったわ」

 折りよく、霞と稟が報告に姿を現す。

「韓浩は?」

「出立しました」

 稟が答えた。
 遠征軍の第二陣、歩兵四万は本陣付きの副官韓浩に率いさせて先に武関へ向かわせた。関中との連絡網が断たれているとはいえ、曹操軍の荊州侵攻という大きな動きは、いずれ必ず馬騰らも知るところとなる。のんびりしている時間はなかった。だが、騎馬隊だけで少し足を伸ばす余裕ぐらいならあろう。

「では桂花、あとは任せたわよ」

「―――はい」

 いささか不服そうな表情で、桂花が頷いた。
 ひとまず襄陽と樊城を抑え、人材と生産力の宝庫である南陽郡を得た。桂花としては、これ以上の南征は蛇足と言う思いがあるのだろう。
 荊州侵攻の最大の標的は、襄陽と樊城という二大拠点を確保する事であった。
 弱腰の劉表が治める故にこれまで問題視して来なかったが、曹操軍の最重要都市である本拠許と漢朝の都洛陽は、荊州勢力からはほとんど無防備に曝された状態にあった。
 長安より発せられた偽勅で、孫策が劉表と手を結んだならその兵力は十万を超える。桃香が呼応すれば、さらに劉備軍の精鋭と数万の義勇兵が加わる。それが許と洛陽を直接叩ける位置に出現するのだ。
 そこへ献策してきたのが司馬懿―――春華だった。
 偽帝討伐を名目に、荊州へ攻め込む。襄陽と樊城を抑えてしまえば、これを無視して洛陽と許を直接攻めることは出来ず、当面の安全は保たれる。同時に、武関を抜けての西涼への侵攻も可能となる。
 攻守両面において聞こえは良いが、西涼勢力との交戦中に、あえてもう一つ戦線を抱え込むということだ。はじめ、戦の現実を知らない小娘がひねり出した空論に思えた。しかし春華の語る計画に、華琳は結局不備を見出すことは出来なかった。荊州攻略の中心となる軍は、洛陽を守るために集結させた春蘭の十万。これは元より荊州攻めに用いようと考えていた兵力でもある。それに西涼遠征軍の一部も第二陣として加わる。
先送りにした侵攻を、予定通りに実行するというだけの話だった。そして襄陽と樊城を手にしたことで、ひとまずの目的はすでに達した。
 だからこれからやることは確かに蛇足である。華琳自身は早々に西涼へ足を向け、残る部隊を率いる春蘭達に荊州の平定は任せておけば良いのだ。

―――すぐそこに桃香がいる。

 しかしそう思うと、華琳には放置など出来なかった。
 襄陽の城門を抜けると、霞の二万騎と遠征軍第二陣の本隊となる華琳旗下の一万騎が整然と居並んでいた。本隊には虎豹騎三百騎、虎士五十騎、春蘭の旗本百騎も含まれている。
 春蘭と秋蘭は西涼遠征には伴わず、襄陽と樊城の守将を任せることとなるが、本人達の志願で劉備軍の追撃には加えることとした。
 虎豹騎は、華琳自らの指揮である。蘭々は背中の傷の糸も抜け、本人曰く全快であるが、大事を取って洛陽へ残してきた。

「桃香とは、おおよそ一年ぶりね。いえ、徐州での戦も入れれば、せいぜい半年と少しか」

「華琳様、ウチの先陣でええんですよね?」

「ええ、そうね―――」

「―――華琳様っ、お待ちください! 霞はこの後、涼州までお供するのでしょう? ならばここは私に、華琳様の剣として働く場をお与え下さいっ!」

「そうは言うても春蘭、百騎しか連れ取らんやん。そんなん先陣やのうてただの斥候やんか」

「むむっ。―――何の、我が旗本はそれぞれが一騎当千! そして私は万夫不当! つまり合わせて、ええと、うむむ、―――そうっ、二万騎の軍勢だっ!!」

「十一万だ、姉者」

「あう。……と、とにかく、大軍勢だ! これなら文句はあるまいっ!」

「……本隊の兵から五千騎を連れて行きなさい、春蘭。霞もそれで良いわね?」

「はぁ、なんや競い合うのも馬鹿らしゅうなってもうたし、かまへんです」

「では春蘭、先駆けは任せたわよ」

「はっ、お任せくださいっ!」

 ため息交じりの命令に、春蘭は喜び勇んで駆け去って行った。

「一度、子供達に混じって学校に通わせた方が良いかもしれないわね」

「それは、―――っ、あ、あまりに姉者が哀れ。御容赦願えませんか?」

 子供達と机を並べる春蘭の姿を想像したのか、秋蘭は口元を押さえ笑いをかみ殺している。

「ふふっ、冗談よ。我が軍の頂点にいる将軍に、そんな外聞の悪い真似はさせられないわ。子供達の教育上も良くないでしょうし」

 華琳の口からも、自然と笑みが漏れる。

「そうですね。春蘭様でも将軍になれると知れば、勘の鋭い子は才能の違いに行き着いてやる気を失うでしょうし、それが分からない子達には勉強なんて必要ないと勘違いさせてしまうかもしれません」

 同盟国の単于である楼班の教育係を務め、学校でも教鞭を取る機会のある稟が言う。

「―――さてと、貴方は先陣に加わらなくて良いの、秋蘭? 春蘭の補佐に付いても良いのよ」

 笑いがおさまるのを待って、華琳は問う。

「姉者とは襄陽でも一緒ですから。しばしの別れを前に、華琳様と共に居りたく」

「ふふっ、可愛いことを言ってくれるわね。では本隊に付きなさい」

「はっ」

 春蘭の五千騎から二、三里(1~1.5km)離れて華琳率いる本隊の五千騎が続き、最後に霞の二万騎が進んだ。
 二十里ほどを駆けたところで、先駆けの春蘭隊に追いついた。隘路である。左に川―――漢水が流れ、右に山―――荊山が聳えている。
 焦らず、のんびりと馬上に揺られた。高祖にならって南陽を巡撫するという建前があったため、ここに至るまでもあまり行軍を急がせてはいない。さらに樊城では三日の足止めを余儀なくされた。今さら焦ったところで仕方がなかった。追う相手は、二十万の群衆を引き連れているのだ。江陵に至るまでには、必ず追い付く。
 悠々と構えていると、縦列に並び替えた春蘭の五千騎が狭道へ駈け込んでいった。山上からの伏兵を警戒したようで、疾駆に近い速さである。
 荊山はいくつかの峰が連なる山脈で、漢水に沿うように南北に横たわる。山頂付近には岩肌も目立つが、麓は木々に覆われていた。中原とは生える樹木が異なるのか、華琳の見慣れた山並みよりも緑が深い。
 隘路は山裾に被り、わずかに上り坂となっている。進軍していく春蘭隊の姿は良く見えた。
 赤紫に夏侯と大書された旗が、ふっと消えた。五千騎の列はそこで行き詰り、押し合い、遂にはぴたりと脚を止めた。

「何かしら?」

「敵の伏兵、というわけではないようですが」

 秋蘭が、弓兵の鋭い目を凝らすも判然としないようだ。
 しばし報告を待つも、伝令が届く気配もない。

「姉者に状況を知らせるよう、伝えてくれ」

 秋蘭が、春蘭の元へ伝令を駆けさせる。普段なら春蘭の隣にいる秋蘭が抜かりなく報告を上げる。それだけに春蘭一人では失念しかねない。

「華琳様ー! ほっ、報告が遅くなりましたっ!」

 すぐに春蘭自ら慌てて馬を走らせてきた。やはり異変への対処に追われ、報告を忘れていたらしい。

「進軍が止まっているようだけれど、一体何が?」

「はっ。行く手に落とし穴が見つかりました。今、兵に埋めさせています」

「落とし穴? 被害は出たの?」

「十騎ばかりが脚を取られて転倒いたしました」

「貴方は大丈夫だったの?」

 ただの行軍中でも常に先頭を駆けようとするのが春蘭である。

「もっ、もちろんですっ! 罠などにはまる私ではありません!」

「へえ、それならそれはどうしたの?」

 華琳は自身の額を指差しながら問う。春蘭の秀でた額の一角がうっすらと赤らんでいた。

「これはその、落とし穴は跳び越えたのですが、ちょうど山から伸びた枝に」

「姉者、それも含めて罠なのではないか?」

「はっはっはっ、そんなはずがなかろう。木の枝を自在に伸ばすなど、人の所業ではないぞ。秋蘭もおかしなことを言う」

「だからそういう場所を選んで―――。いや、まあそれならそれで良い。しかし尖った枝でもあれば大事だ。今後は気を付けてくれよ。大将自ら先頭を行くのは避けてくれ」

「う、うむ」

 刃物や毒でも仕込まれる場合を想定しての秋蘭の言葉だろう。
 春蘭のような戦の嗅覚に優れた将に対しては罠、それも二段仕込みの罠は有効な手の一つである。その最たる存在と言って良い呂布の敗因も、馬防柵の影に仕込んだ落とし穴に嵌ったことだった。人の臭いが介在しない分、鼻の働きも鈍るのだろう。

「華琳様、御安心下さい。枝の奴めは、華琳様の進軍の邪魔にならぬよう、我が手で成敗しておきました」

 華琳の神妙な顔に、春蘭は何を勘違いしたのか胸を張った。

「……ええ、ありがとう」

 貴方を案じていたと言うのも癪で、華琳は曖昧な笑みで返した。
 春蘭が前線に戻り、進軍が再開された。心配した秋蘭も、結局は春蘭の補佐に付いていった。
 坂道を上って降ると、荊山の稜線が右に幾らか退き、進軍路が開けた。少し進んでは罠を見つけて止まりの繰り返しで、二、三里足らずの隘路を抜けるのにかなりの時間を要している。

「民に合わせての進軍というのは、よほど暇を持て余すようね」

 罠の配置は執拗で徹底していた。単に暇に飽かせて並べ立てたというだけでなく、巧妙でもある。最初に春蘭の額を打った木の枝以外にも、見え透いた落し穴の数歩先に草木で念入りに覆い隠された陥穽が掘られていたり、あるいはその逆であったり、警戒して脚を緩めると今度は何もなかったりするのだった。単純だが、実に人の隙を突くのが上手い。
 凝った細工をする資材はないようで、せいぜいが落とし穴や草を結んで足を掛ける罠程度のものだ。しかしそれがまた神経を逆撫でするようで、華琳の耳にまで春蘭の怒号が何度も届いた。

「この人を食った感じは、たぶん星ですね」

「趙雲か。貴方と風は、確か一緒に旅をしていたことがあったのだったわね」

「はい。黄巾の乱が起こる前ですから、かれこれ五年も昔になりますが」

「趙雲とは、あまり親しく話す機会はなかったわね。地道に罠など仕掛けて回るような人間には見えなかったけれど」

「確かに一見すると怠惰な人間ですし、それも間違いではありません。ただ妙に凝り性な面もあるというか。特に人を茶化すための労は厭いません」

 稟が懐かしくも忌々しげに言う。
 風との三人旅となると、からかいの対象は生真面目な稟と言うことになるのだろう。
 その後も進軍は思うように捗らず、さらに十里余り進んだところで春蘭に野営に入るよう命じた。

「華琳様、夜間の先駆けをお認め下さいっ! 必ず劉備軍の尻尾を捉えて御覧に入れます!」

 春蘭が本隊に駆け込んできて叫ぶ。捗々しくない進軍に責任を感じているのもあるだろうが、それ以上に罠の連続で溜まった苛立ちのぶつけどころを求めているようだ。

「暗闇の中を罠に飛び込んでいくつもり? 今度はたんこぶではすまないわよ。日が登るまで我慢なさい」

 春蘭の額の赤くなっていた部分が、ぷっくりと膨らんでいる。

「ううっ、分かりました」

「だから言ったろう、姉者」

 追い付いてきた秋蘭が言う。
 思わぬ障害にあったとは言え、半日で三十里は軍を進めている。騎馬隊の進軍速度としては十分だ。
 翌日も、隘路に差し掛かる度に執拗な罠は続いた。とはいえ兵も対処に慣れ始め、初めの頃ほどに時間を取られることもなくなっている。
 日が中天に差し掛かる頃に、春蘭と秋蘭が連れ立って報告に現れた。

「山上に趙旗が?」

「はっ」

「ふむ。罠だけでは飽き足らず、ついに迎撃に現れたか。それとも―――」

「華琳様っ! 攻撃の御命令をっ!」

 春蘭が鼻息も荒く言い募る。

「……そうね、任せるわ」

「はっ!」

 春蘭と秋蘭が先陣へ駆け戻っていく。
 思うところはあったが、口には出さなかった。警戒して置くに越したことはない。
 馬を降りた五千が、山の中へ消えて行く。戦況が見て取れるよう、本隊をいくらか前進させた。山上の、ちょうど緑が途絶え岩肌が露出し始めたところで、これ見よがしに趙旗が風に揺られている。

「あからさま過ぎますね」

 稟も同じことを感じたらしく、小さく呟く。
 一刻(30分)ほどで、山上の趙旗の根元に人影が駆け寄っていくのが見えた。遠目に判然としないが、赤くはためくのは春蘭の軍袍だろう。刹那、何やらきらめいたかと思えば、趙旗が傾ぎ、倒れた。

「―――くそっ、馬鹿にしおって!」

 さらに半刻して山を下りてきた春蘭が、趙旗を足元に叩きつけた。旗竿が中程から断たれているのは、七星餓狼で怒りに任せて斬り落としたためだろう。

「旗が一つ掲げられるのみで、兵の姿はまったくありませんでした」

 半ば予想していたのだろう、秋蘭が冷静に報告する。

「それに旗も―――」

 姉が投げ捨てた旗を秋蘭が拾い上げ、広げる。
 軍が掲げるには安っぽい作りをしていて、よくよく見れば趙旗ではなく肖の部分が月になっていた。

「確かに、人を食った真似をするわね」

「申し訳ありません」

 華琳の言葉に、何故か稟が謝罪を口にする。

「まさか、このまま罠とありもしない伏兵で時間を稼ぐつもりかしら?」

「諸葛亮と鳳統がそこまで我々を侮ってくれているなら、むしろ助かると言うものですが」

「そうね。桃香一人ならそれくらいの甘い見積もりを立てても不思議はないけれど、雛里達がいるものね」

 秋蘭の言葉に華琳は同意した。
 劉備軍が出立した直後には、民の中に潜り込ませた諜報の兵からも報告が入っている。日に十数里という遅々とした進軍であったという。行列が整えられ諜報の者も抜け出すのが難しくなったのか、報告はこの数日は絶えている。しかし進軍速度が落ちることはあっても、劇的に改善されるとは思えない。江陵まではあと十日は時を要するだろう。

「とはいえのんびりしてやる理由もないわ。―――進軍を再開しましょう」

 次第に仕掛けられた罠の数が減り、代わってさらに二回趙旗が見つかった。やはり肖が月になった偽の旗である。
 一度はやはり山上に、一度は打ち捨てられた小さな砦―――漢水流域は古くからの交通の要衝であるから、廃棄された城跡の類が多い―――に旗は立てられていた。いずれも兵が伏せるには絶好の地形を抑えていて、看過することも出来ずその都度確認に時間が割かれることとなる。七十里を進んだところで日が落ち、その日は野営を命じた。
 春蘭が昨日以上の剣幕で夜を徹しての追撃を訴えたが却下し、翌日は日が昇ると同時に進軍を再開した。
 正午までに砦に一度、山上に二度趙旗を見つけているが、罠の数は目に見えて減っている。罠を仕掛ける余裕が無くなりつつあるのか。すると、かなり近くまで迫っていると考えていいのか。

「というより、とっくに追い付いていないとおかしいのだけれど」

 すでに百五十里ほども南下している。民が襄陽を発して十日。当初の想定では数十里手前でその姿を捉えているはずだった。

「なにか仰いましたか、華琳様?」

 稟が華琳の呟きを聞き付ける。

「いえ、何でもないわ。桃香はいつも私の予想を裏切ってくれる、と思っただけよ」

「―――曹操様っ!」

 先陣から伝令が駆け込んできた。交戦中でもない限り、春蘭は華琳に会いに極力自ら報告に来る。つまり今は先陣を離れられない理由があるということだ。

「いい加減本物の趙雲でも現れた?」

「いえっ、張飛です! 張飛が、単身この先の橋に陣取っておりますっ!」

「単身ですって?」

 報告は、やはり華琳の予想を裏切ったものだった。



[7800] 第10章 第7話 長坂橋
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/06/17 18:51
 橋を南へ渡り切ったところに、鈴々は張旗を突き立てた。
 曹操軍の斥候が姿を見せたのは、それから半日近くが経過した頃だ。鈴々は橋の欄干に腰掛け、脚をぶらつかせていた。
 斥候は張旗と鈴々の姿を確認すると、それ以上は近付かずに引き返していった。
 橋の南岸で草を食ませていた馬を呼び寄せ、北側の袂から数歩橋を渡った位置に鈴々は陣取った。
 しばしして、再び馬蹄の響きが接近してきた。今度は引き返さず、橋の袂近くまで来てようやく制止する。

「おう、鈴々。こんなところで一人で何をしている? 雛里達とはぐれて迷子にでもなったか?」

 星である。騎兵二百と諜報部隊の兵を数十人伴っている。

「むむっ、鈴々はそんなに子供じゃないのだっ。星の方こそなかなかやって来ないから、曹操軍にやられちゃったかと思ったのだ」

「ふっ、愛紗やお主であるまいし、単身大軍に挑むほど無謀なことはせんよ。遠目にしたが、三万騎は連れておるな。斥候に見つかりそうだったので、しばし身を潜めてやり過ごしていた」

「斥候なら、さっきここにも来たのだ」

「ふむ、私がやり過ごしたのもそれだろう。なるほど、お主がここに陣取ることで、これより先の状況はまだ彼奴らに捉まれてはいないわけだ。雛里達は今どの辺りに?」

「今朝ここで別れたから、もう四、五刻(2~2.5時間)もあれば着くと思うのだ」

「ふむ。曹操軍は一刻以内、おおよそ半刻後にはここへ参ろう。少々際どいか?」

「星は先に行って、雛里達と合流するのだ」

「先に? お主はどうするつもりだ?」

「ここでしばらく、曹操軍を足止めするのだ」

「……聞いていなかったのか? 曹操軍は三万の大軍だ。付け加えるなら、先陣はあの夏侯惇、夏侯淵の姉妹」

 星が呆れ顔で言った。

「相手にとって不足無しっ、なのだっ! 星が言ったのだ、鈴々は万人に匹敵するって」

「万夫不当と例えたのは私、お主のことは一騎当千と言ったのだがな。だいたい、たとえ一万に敵することが出来ようと、それでも二万残るではないか。まったく、お主の身に何かあってみろ、桃香様や愛紗に私が何と言われることか」

 ため息を溢しながら、星が馬を寄せてくる。その蹄が橋の袂に掛かった瞬間、星がやにわに手綱を引いた。
 一瞬だけ、鈴々は星に向けて気を放っていた。星はそれを鋭敏に感じ取った。
 星は足元へ目を落し、次いで鈴々とその周囲に視線を走らせた。

「なるほど、そういうことか」

 橋―――長坂橋と名がある―――の前後は、袂に近付くにつれて道がすぼんで隘路を形成している。右に山が、左に鬱蒼と茂る林が迫っていた。橋は幅二丈(6m)、長さ十丈足らずの小さなもので、下は渓谷となっていて、底を漢水の支流が走る。

「橋を落としてしまうという手もあるが」

「それじゃあ、せいぜい一刻しかかせげないのだ」

「ふむ。確かにそうであろうな」

 渓谷と言ってもそれほどの深さはないし、川も大きなものではない。橋が無いならないで、渡渉点を見つけるのはそれほど難しい事ではないだろう。

「私も手を貸そうか?」

「いらないのだ。かえって邪魔になるだけなのだ」

「邪魔っ。……ふっ、まあ、確かにそれはそうだろうとも。―――よしっ、我らは鳳統達に合流するぞ」

 忌々しげに呟いた後、星は後ろを振り返って兵に告げた。

「よろしいのですか?」

 兵の一人が躊躇いがちに問う。

「ああ。一人でやりたいというのなら、勝手にやらせておくのが一番だ。ほらっ、先に行け」

「はっ」

 兵がおずおずと鈴々の横を抜けて対岸へ渡っていく。

「三刻、いや二刻だ。それで十分だからな」

「わかってるのだ」

 最後に橋を渡る星がすれ違いざまに呟くのへ、鈴々は大きく首肯して返した。
 無理をするつもりはない。三刻、いや余裕をとって四刻だけ足止め出来れば、それで馬首を返すつもりだった。
 馬蹄の響きが後ろへ遠ざかり、ちょうど半刻余りが過ぎた頃、今度は正面から近付いてきた。

「さすが星。時間ぴったりなのだ」

 曹操軍の騎馬隊が姿を現した。足を緩めず百歩の距離まで迫り、そこで制止する。聞いていた通り二本の夏侯旗を掲げ、数は五千騎ほどだ。
 星がよほどしつこく嫌がらせをしたのだろう。曹操軍はすぐには攻めて来ず、警戒を強めている。
 鈴々は蛇矛の柄の真ん中を握って横向きに構え、その拳を曹操軍へ向けて突き出した。

「鈴々は、燕人張飛っ!! 万人の敵なのだ! 命の惜しくない奴から、かかってこい!!」

 一吼えした。それでさらに慎重になってくれるなら良し。かかってくるなら、それはそれで良しである。
 敵軍の前線で動きがあった。夏侯惇が出ようとして、夏侯淵に押し留められているようだ。

「どうしたっ! こないのかー!? 曹操軍は、臆病者の集まりかー?」

 小馬鹿にするような口調で言うと、夏侯惇がさらにいきり立つ。敵将が単騎向かってきてくれるなら、それに越したことはない。しかし冷静沈着な夏侯淵がやはり押し留め、兵に指示を与えている。
 五千騎の中から、五筋の縦列で兵が突出した。何の滞りもない極めて自然な動きで、練度の高さをうかがわせる。やがて五筋はまとまり、横並びに五騎の一つの太い縦列となった。ちょうど、橋の幅を埋め尽くす隊列だ。
 それぞれの列は二十騎ほどが飛びだしたところで途切れた。つまり百騎ということだ。

「万人と言ったのに、舐められたものなのだ」

 騎兵が迫る。
 いずれも立派な馬に乗っている。劉備軍の騎兵は元より、鈴々や愛紗の乗馬よりも上等そうだ。放浪と食客の繰り返しで、これまで良馬を買い求めるような余裕はなかった。

「―――――! ――――!!」

 敵兵が喚声を上げた。
 鈴々の胸中では別の声が蘇る。鈴々の姿に沸き立つ民の歓声だ。自分を見て民が少しでも前へ進む力を得てくれたのなら嬉しかった。その代りに、自分はここに踏み止まる力をもらっている。
 蛇矛を構え直した。中ほどを握っていた拳を、石突きに近い端まで滑らせる。ぐっと手首に圧し掛かる重さが、たのもしい。幾十の戦場を共に駆け抜けた蛇矛は、頼りになる相棒だった。

「――――――っ!」

 百騎の先頭五騎、その蹄が橋の端にかかった。





 数日進軍を続けると、民の行列に偏りが生れはじめた。
 大掴みに分類するなら、先頭近くには若者が集まり、中央には家族連れ、そして後方には老人や病人、戦乱で傷を負った者達である。
 先頭の若者達には軽装の者も多く、日に四、五十里は問題なく歩けるだろう。家族連れの集団は体力のある者が子供や老父母を支えながらの行軍で、大荷物を抱える一団も多く、一日に三十里も進むのが限界だろう。最後の集団はさらに遅れるが、幸いにも数は多くなかった。
 五日目の朝に、雛里は弱者の切り離しを決めた。
 江陵の愛紗から、黄忠が船団を率いて現れ、帰順を求めていると報せが届いたためだ。桃香の名の元、雛里と朱里は即座に黄忠の受け入れを決め、同時に仕事を依頼した。船団を率い、漢津―――漢水の船着き場―――まで来ることだ。切り離した者達は、漢津から船で江陵まで向かってもらう。
 漢津は、襄陽と江陵のおおよそ中間点の長坂橋を渡った先で東へ進路を変え、さらに十里ほど進んだ先にある。道程は半分に短縮される。老い、傷を負った者達の負担を減らすことにもなる。桃香もそれで賛同してくれた。
 民からは反発が出るのも覚悟の上であったが、桃香、そして厳顔に伴われて合流を果たした伊籍や馬氏の五姉妹ら荊州の役人達が根気強く説いて回ると、ほとんど不満の声が上がることはなかった。家族連れの中からも、息子や孫達の足を引っ張ることを嫌った年寄り達や、乳飲み子を抱えた母親が志願し始めた。
 伊籍は文官の中では少数派の反蔡瑁の人士の代表格である。劉表と同じ兗州の出身で、彼に従って荊州へ赴任している。つまりは荊州派閥に対する劉表子飼いの文官であり、一時は蔡瑁にも匹敵する発言力を有していたという。しかし劉表が荊州派に近付き、後継も劉琮と見なされつつある昨今はかなり苦しい立場に置かれていた。義に篤い人柄で、異郷人ながらも荊州の民からは慕われている。
 一方、馬氏の姉妹は南郡生まれの南郡育ち、生粋の荊州人である。五人ともに字に常の一字を持つことから、荊州の人々からは馬家の五常と呼び親しまれている。

「大師姉、九度目の護送隊が出立致しました」

「わかりました。―――季常ちゃん、手伝ってくれてありがとう」

 雛里は五常の四番手、馬良に頭を下げた。
 弱者の集団は雛里の指揮で進んだ。桃香も残りたがったが、桃香が残れば全体の足が後ろへ引かれかねない。説き伏せ、朱里と一緒に先頭を進んでもらっている。
 雛里の補佐には馬良が、護衛には八百騎を率いた鈴々が付いた。厳顔の合流で兵力は増したが、そのほとんどが歩兵である。本隊から大きく引き離される集団の護衛には回せなかった。
 集団の移動は遅々としているが、平行して輜重車を使っての護送も行っていた。厳顔が食糧を満載した五十台の輜重車を襄陽から持ち出しており、輜重は兵や若者達に背負わせ、空いた車が利用された。足の弱い者から順に護送隊へ回し、いま残っているのは年を取ってはいても比較的力のある者達ばかりとなっている。
 漢津までの護送隊を十度、漢津から江陵までの航行を二度で集団全員の移送が完了する。すでに長坂橋も渡り終え漢津までは五、六里というところであるから、九隊目を送り出したばかりの護送隊もすぐに戻って来るだろう。船も一度江陵までの移送を終え、すでに漢津で二度目の船出の用意を終えている。あと一息というところだった。

「いえ、士元大師姉のお役に立てて光栄です」

「ふふ」

 馬良が恭しく頭を下げる。師姉―――姉弟子と呼ばれ、照れ臭さに雛里は笑みを溢した。
 五つ子の五常は見分けがつかないほど似た顔立ちで、服装まで同じだった。そんな中で馬良だけは右の眉尻の毛が白みがかった灰色をしていて、他の四人とはっきり区別がつく。
 五姉妹は朱里と雛里の師、水鏡先生こと司馬徽の私塾出身者であった。お揃いの服も塾生で揃えた装束である。朱里と雛里が着ているのも同じ装束であるから、五人のみならず二人も同じ格好をしているのだった。
 五人は朱里と雛里の卒塾後に入塾しているから、直接の面識はない。しかし伝説の卒塾生として二人のことは今も塾生の噂の種であるらしく、五人は朱里と雛里を“大”師姉と呼んで憚らなかった。
 五常とは儒学の貴ぶ五つの徳目のことで仁、義、礼、智、信を指す。不思議と五姉妹はそれぞれが五常を体現したような性格をしていた。
 長女の伯常はお姉さんらしく思いやりがあり、二女の仲常は文官と言うよりも義侠の豪傑が似合いそうな大らかで大雑把な質、三女の叔常は一転して堅苦しくらいに礼儀正しいといった具合である。ただ四女の季常と五女の幼常だけは順序が逆転したようで、季常が信の人、幼常が智の人であろう。
 集団を切り離そうと初めに言い出したのは幼常―――馬謖で、やはり三組に分け、最も遅い組は近くの邑にでも残していこうと主張した。それは雛里が考えつつも口に出さずにいたことでもあった。
 華琳が残された老人や病人に危害を加えるはずはない。華琳の為人を知る雛里達には自明のことであるし、曹操軍の政を冷静に見つめる目があれば理解出来ることだ。しかし闇雲に反曹を叫ぶ民にとって、ここに残れというのは死ねと言われるに等しい。才が勝ち過ぎ、少々軽はずみと言うのが雛里の持った馬謖の印象である。
 雛里が漢津からの船での移動を、朱里が空いた輜重車を使っての護送を提案し、合わせて桃香の承認の元で実行へ移された。
 率先して民を説いて回ったのが季常―――馬良で、物珍しさはないが実直な言葉は人々の心を動かした。機知に富んだ馬謖を差し置いて、馬氏の五常、白眉もっと良しとの評判を得ているのも肯ける話だった。
 朱里は五人のうち馬謖を特に気に入ったようで、何くれとなく指示を与えている。雛里は雛里で、馬良に護送の指揮を委ねていた。

―――少し朱里ちゃんに似ている。

 馬良の印象である。
 片や馬謖は自分に似ているのかもしれない。
 朱里と自分に大きな能力の差はない。同じ先生に付き、同じことを、同じように学んできたのだ。それでも互いの興味の対象がまったく同じにはならない。朱里は民政に、雛里は軍略により強く惹かれた。それは朱里が自身の才覚よりも信義に重きを置くからであり、雛里はその信義すらも知略の糧とする詭道の世界に魅せられた。

「鳳統様」

 護衛に付いている兵が、後方を指差した。
 こちらへ駆けてくる小隊の姿が見えた。集団のさらに後方で、曹操軍の足止め工作をしていた星である。二百騎と諜報部隊三十名を率いている。

「雛里」

「星さん、曹操軍の規模と所在は分かりますか?」

「三万騎。曹操自らが率い、先陣には夏侯惇、夏侯淵。後詰に張遼。すでに長坂橋の近くまで来ているぞ。いやぁ、少々欲張り過ぎて、危うく追い付かれるところであった」

 言いながら、星は爽やかな笑顔で額の汗を拭った。華のある武人だが、妨害工作などにも向いた性質だ。

「それは危ないところでした」

 長坂橋を越えたのは今朝方早くのことだ。半日ほども経過しているが、老人達の脚ではそれから十里と進めてはいない。騎馬隊なら一刻と掛からず追い付いてくるだろう。
 長坂橋は襄陽から江陵への進軍路における最後の隘路である。長坂橋と名が付けられてはいるが、どこにでもあるような小さな橋だった。ただ漢水の支流によって穿たれた荊山の渓谷に架けられており、荊州南北を結ぶ交易路としての重要度は高い。
 橋を越えしばし進むと、荊山はゆるやかな裾野となり、林を縫う二筋の道に分かれる。そのまま南に下れば百五十里で江陵に、東に向きを転ずれば十里程で漢水にぶつかり、川に沿って数里進むと漢津へと行き着く。

「鈴々ちゃんは?」

 長坂橋を一目見た鈴々は、敵を迎え撃つのに最適と言ってその場に留まった。兵も不要と言って聞かず、雛里の元へ残している。

「今頃、曹操軍とぶつかっているのではないかな」

「おっ、置いてきたんですか?」

「手助けを申し出たのだがな。あやつめ、この私のことまで邪魔者扱いしおってな。頭にきたので、放って来てやった」

「あわわっ、なっ、なんてことを」

「ははっ、冗談だ。いや、邪魔者扱いされたのも、放って来たのも本当の話だがな。まあ、鈴々の申す通り、あの地ならあやつ一人に任せておけば良い」

「そんなっ。相手は華琳さんが率いる三万騎、それも夏侯惇さんや夏侯淵さん、張遼さんがいるんでしょう?」

「ふむ。まずい事があるとすれば、その手練れ三人が三人掛かりで向かって来た場合だろうな。あとは遠巻きにして矢を一斉に射込まれるぐらいだが、強行軍の軽騎兵だ。弓の数は多くなかろう」

「……わかりました。ならここは鈴々ちゃんの武と星さんの言葉を信じて、私は私の仕事に移りましょう」

 武芸のことは、雛里が頭で考えて理解出来るというものでもない。

「季常ちゃんは、最後の護送隊と一緒に漢津へ向かってください。先に船で江陵へ入り、民の受け入れの手伝いをお願いします」

「はっ。―――大師姉は、ご一緒されないのですか?」

「はい。私にはまだやることがあります。星さん、兵を率いてお手伝い願えますか? 強制はしません。少々危険で、―――卑怯な仕事となりますから」

「軍師殿の頼みとあらば、引き受けぬわけにはいくまいな」

 星は仔細も問わず、軽く首肯した。





 退き鐘を打たせると、数騎が這う這うの体で引き返してくる。いずれも華琳本隊の兵であり、曹操軍中でも虎豹騎や白騎兵に次ぐ精鋭である。

「これほどのものとはな」

 秋蘭は思わず感嘆の吐息を漏らした。

「ぬぬ」

 普段なら兵のふがいなさに当たり散らしかねない春蘭まで、低く唸るだけだった。あの様を見ては、色を失った兵を責められない。むしろ退き鐘が鳴るまで良く踏み止まったと、秋蘭は褒めてやりたいくらいだった。
 ただ一騎にて威を張るは、張飛である。今も橋上に陣取り、“通せん坊”でもするように蛇矛を真横に構えている。 
 瀬踏みに繰り出した百騎の先頭が橋に一歩踏み込んだ瞬間、その惨劇は開始された。かつて人であった肉塊が四、五丈も跳ね飛び舞った。
 張飛は小枝でも振るうように容易く蛇矛を操った。一丈八尺と称する他に類を見ない大長物である。必然、蛇矛の先端は秋蘭の目をして捉えきれぬほどの速さと異常なまでの暴威を孕む。
 場所が良くなかった。
 長さ十丈足らずの小橋の横幅は、二丈余りしかない。橋の真ん中に陣取る張飛の蛇矛の間合いは、橋上を容易く覆い尽くしていた。そして蛇矛の形成する暴風圏に入り込んだ者は、例外なく命を絶たれるのだ。橋の袂で、巨大な化け物が口を開けて待ち構えているようなものだった。
 戻ってきた兵はわずか十数騎である。たった一度の接触で百騎近くを討たれたということになる。百歩の距離を置いた張飛と曹操軍の間を、主を失うも暴威を免れた馬が十数頭、所在無げに彷徨っている。

「もっと早く鐘を打たせるべきであったか」

 一呼吸で五騎を、二呼吸目で十騎を張飛が肉塊に変えた瞬間、多少の犠牲を払う覚悟を決めた。力押しで破れると、浅慮にも考えてしまったのだ。騎兵を具足ごとひしゃぎ、弾き、砕く。そんな力技が、いつまでも続くとは思えなかったのだ。 犠牲が五十騎を越えた段になってようやく、百騎全てを飲み込むまで暴威に終わりはないのだと秋蘭は悟った。

「さて、―――どうする、姉者?」

「むむむ」

 春蘭はまた低く唸るだけだった。

「仁が呂布に対した戦法と少し似ているな。あれは結局、仁が疲労困憊するまで続き、最後には呂布の力押しに敗れたわけだが」

 外から見える現象はまったく異なるが、当人達の意識は似通ったものであろう。つまりは相手より長大な得物を持って、隙間ない連撃で空間を埋める。曹仁が管槍を用いた突きで呂布との距離を確保したのに対して、張飛は強引な薙ぎ払いで橋上一円を死地へと変えた。
 曹仁が技と工夫で一個の武人に対して行ったことを、張飛は天性の膂力で軍勢を相手に実現させていた。

「まあ、呂布を相手取るのもそれはそれですさまじいことではあるが」

 この場にいない弟分の心情を慮って、我知らず秋蘭は言い訳めいた言葉を溢した。

「しかし呂布が攻めあぐねるわけだ。単純なだけにこちらの取れる選択も少ない。呂布のように相手が疲労するまで付き合うというのは、犠牲が大き過ぎるし」

 春蘭ではないが、あの橋に陣取る限り張飛は本当に万夫不当と言えるのではないか。疲れ果てるまでの間に、千でも二千でも屍を重ねるだろう。指揮権を委ねられているとはいえ、華琳直属の本隊の兵をむざむざと死地へ送り込むわけにもいかない。

「ふむ。ここは一つ、試してみるか」

 有効と思える手立てはある。
 長大な間合いを有する張飛の蛇矛よりも、さらに遠くから攻撃を仕掛けることだ。つまりは、弓である。
 騎兵だけの強行軍ゆえに弓兵を伴ってはいないが、いつも通り秋蘭の手には愛弓の餓狼爪があった。

「九十歩というところか」

 百歩の距離で兵を止め、秋蘭と春蘭はいくらか先行している。自分なら、当てるに苦はない距離だ。
 秋蘭は矢籠から三本の矢を引き抜いた。二本は指で手挟み、一本を弓に番える。深からず浅からず息を吸い、―――矢継ぎ早に三矢を放った。

「やはり通じないか」

 張飛は手首だけで蛇矛を旋回させると、三矢ことごとくを弾き落としていた。

「……十歩の距離まで近づけば」

 近間から射続ければ、如何な武人もいずれは傷を受ける。しかしそれは、ほんのわずかに張飛が踏み込めば蛇矛の間合いにも成り得る。
 躊躇いがあった。蛇矛を恐れているわけではない。それでも張飛はその場を動かないという直感があるからだ。
 実際にはほんの一時、ほんの数歩、橋の袂を離れたところで大勢に影響はしない。すぐに駆け戻れば、こちらがどんなに上手く兵を動かしたところで、わずか数騎が橋を渡る程度のものだ。しかしあの幼く純粋な武人はそうは考えないだろう。同種の人間を姉に持つだけに、秋蘭には張飛の心情が手に取るように理解出来た。
 この場を一歩も譲らぬというのが今の張飛の矜持であり、あの超人的な武の拠り所ともなっている。それを逆手にとって、一方的に矢を打ち込み続ける。そんな戦いを、自分は肯定し得るのか。

「……これも、華琳様のためか」

「気が進まんのなら、無理にやる必要はないぞ、秋蘭」

 ずっと低く唸っていた春蘭が言った。

「しかしな、姉者。華琳様自らが率いる軍の進攻をたった一騎に阻まれるなど、あってはならないことだ。先陣の責を果たさねばならないだろう?」

「心配するなら。責なら私が果たす」

 ぶるぶるっと身を震わせると、春蘭はゆっくりと馬を進めた。

「はははっ、張飛か。落とし穴を埋めるばかりの詰まらぬ仕事に、ようやく華琳様へ捧げるに相応しい獲物が現れてくれたなっ!」

 春蘭が大笑し、馬を走らせた。
 ずっと唸っていたのは恐怖に慄いていたわけでも、思い悩んでいたわけでもなかった。張飛と言う極上の標的を見つけた喜びに打ち震えていたのだ。

「姉者! 一人で戦うつもりか!?」

 秋蘭は叫ぶように言った。

「ああっ、手出しするなよ、秋蘭! ―――はぁっ!」

 喜々として叫び返すと、春蘭はさらに馬を加速させた。
 今度は制止しなかった。春蘭の一騎打ちというのは、悪くない。
 尋常ならざる武威で嵩上げしたところで、実際に技量が向上するはずもない。兵を相手には有効であっても、春蘭相手には通用すまい。呂布のいない今、春蘭の剣は天下一かもしれないのだ。
 春蘭と張飛との距離が狭まる。春蘭が七星餓狼を肩に担ぐように構えた。

「我こそは覇道の先駆け、曹操軍が大剣、夏侯元譲なり! 張飛! いざっ、しょ―――」

 上空から蛇矛が襲いかかり、口上途中の春蘭の身体が地面にめり込んだ。

「……いや、さすがは姉者」

 兵の叫び声が響く中、秋蘭は平静に呟いた。
 春蘭の馬の脚が潰れている。一瞬にして馬の高さが消失した故に、春蘭の身体ごと押し潰されて見えたが、実際に潰されたのはそこまでで、春蘭は中腰に構え、自らの足でしっかりと地面に立っていた。左手は七星餓狼の柄を握り、右手は峰に当て、肩ごしに蛇矛を受け止めている。

「―――――っっ!!」

 獣の咆哮を上げた春蘭が、蛇矛を跳ね上げた。張飛の身体ごと、いやその乗馬すらも仰け反らせている。
 刹那の衝撃さえ受け止めてしまえば、常人離れした張飛の膂力も大きな意味は持たなかった。押さえつける力は張飛の体重に蛇矛の重量を加えた重さ以上とは成り得ない。

「くっ、なかなかやるのだ、お兄ちゃんのお姉ちゃん!」

 堪らず後退し掛けた馬を、張飛は股を引き締めて強引にその場に留まらせた。やはり、一歩も譲る気はないのだろう。

「まだまだっ!」

 馬を失った春蘭が、距離を詰める。春蘭の利はそこにある。
 呂布と対した曹仁は、白鵠の脚を頼りに絶えず距離を取り続けた。しかし後退を禁じた張飛にはそれが出来ない。春蘭が前に出れば出ただけ、蛇矛本来の強みは失われていく。一度剣の間合いまで踏み込まれてしまえば、小回りの利かない蛇矛は圧倒的に不利だった。

「甘いのだっ!」

 張飛が、蛇矛を再び春蘭目掛けて打ち付けた。七星餓狼に受けられたそれを、今度は押しつけることなく引いて、すぐに次の、それも弾かれればさらに次の攻撃の軌道に入っている。

「燕人張飛、あれほどのものか」

 秋蘭の賞賛は、今度は張飛に向けられたものだった。誇張でもなんでもなく真実小枝でも振るう様に、張飛は片手で軽々と蛇矛を振り回す。
 春蘭に対して横向きに馬を立たせると、左手で手綱をしっかと握り、股倉に力を込めて馬上に小さな身体を据え付ける。あとは残る右手で猛然と蛇矛を打ち振るった。
 春蘭の右を襲った矛が、次の瞬間には左を突いている。無造作に、無作為にありとあらゆる角度から蛇矛が飛んでくる。勘の良い春蘭が、翻弄されていた。
 振るう張飛は軽々としたものだが、実際に受ける衝撃は一丈八尺の蛇矛の重さに化け物じみた膂力である。受けながらじりじり前に出ようとしていた春蘭の足が、完全に止まっていた。どころか、右に左に下にと身体を振り回され、その場に留まることすら至難の様子だ。春蘭のそんな姿を目にするのは、人生の大部分を共に過ごしてきた秋蘭をして初めてのことだった。
 いや、やはり春蘭もまた見事と賞賛を贈るべきだろう。あの張飛の連撃を受け続けるなど、常人にはおよそ不可能な話だ。あの場に千の兵を送り込めば千を、相応の武人を多勢で送り込めばその全員を、差し向けた分だけ張飛はこちらの戦力を喰らい続けるだろう。一人立ち向かう春蘭はやはり一騎当千の武人なのだ。

「……姉者、悪いが加勢する」

 春蘭を死なせるわけにはいかない。曹操軍の武の象徴をこんなところで落とさせるわけにはいかないし、なにより最愛の姉である。
 秋蘭は五矢を放った。いずれの矢も先刻の三矢以上の力を込めている。
 五矢は張飛の身に迫るまでもなく、ことごとく打ち落とされた。張飛は飛矢を気に止めてすらいない。超重量を感じさせない軽やかさで絶え間なく振り回される一丈八尺の大長物が、張飛の前面に幾重にも軌跡を重ねている。殊更弾くまでもなく、あらゆる角度から春蘭を攻め立てる無軌道な連撃の嵐がそのまま絶対の防御網を形成していた。

「―――っ」

 秋蘭は小さく舌打ちすると、馬を走らせた。

「くっ、しゅうらっ、ぐぐっ」

 春蘭が喘ぐように叫ぶ。
 手を出すなと言いたいのだろうが、それを言葉にする余裕もないようだ。無視して馬を進め、十歩の距離の内へ踏み込んだ。
 蛇矛の巻き立てる禍々しい風が体を打つ。濃密な武威と相まって、空間そのものが歪んで感じられた。そこへ幾ら矢を射込もうと、張飛まで届くという気がしない。
 矢籠から一矢を抜き取り、餓狼爪に番えた。

―――せめて一矢の勝負を

 次の矢があるとは考えなかった。
 いつもより拳一つ分、深く引く。思い切り胸を反らすような、不恰好な構えとなった。
 すぐには放たない。深くゆっくりとした呼吸を繰り返す。張飛の武威を、こちらも矢ではなく威で射抜く。

「――――ん」

 張飛が初めてわずかに秋蘭を気に掛けるのが分かった。大きく息を吸って、吐く。自然と弦から指が離れた。
 張飛が矢を弾いた。先刻と違い、矢を弾くためだけに蛇矛を跳ね上げた。

「おおおおっっっ!!」

 春蘭が雄叫びを上げて前に出た。剣の間合い。春蘭にしては珍しい小さな構えから繰り出される突き。猛々しい怒号とは対照的に、極限まで無駄をそぎ落とした動きだ。

「―――んりゃぁああっっ!!」

 直後、跳ね飛ばされたのは春蘭であった。剣の間合いに踏み込まれてなお、春蘭の突きよりも速い斬り返し。

「ぐうっ、まだまだっ、―――っ!」

 秋蘭の馬の足元まで転がった春蘭は弾かれたように立ち上がり、すぐに七星餓狼を杖にして屈み込んだ。
 深く踏み込んでいた分、刃ではなく柄の、それも手元近くで打たれただけだ。幸いにもわき腹で、軽装の春蘭が纏う数少ない具足の上からでもある。そんな状況で、ただ右腕の膂力一つで春蘭を蹲らせていた。

「…………」

 さすがに額に汗した張飛は、わずかな逡巡の後、馬首をこちらへ返した。
 ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。さすがにこの好機に、橋を離れて先陣の将を討ちに来るか。

「―――下がりなさいっ、春蘭、秋蘭!」

 背後から華琳の声。同時に大軍の立てる馬蹄の音がどっと響いた。



[7800] 第10章 第8話 燕人
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/07/15 21:31
 曹操軍が兵を繰り出した。

「お姉ちゃん達は見限って、今度は数でくるか? へへん、いくら来たって鈴々はへいちゃらなのだ」

 鈴々は踏み出しかけた馬の脚を止め、ぐっと股倉に力を込めた。意志を組んで、馬は橋上で四肢を踏み締める。

「姉者っ」

「はっ、放せ、秋蘭っ! 私はまだっ」

「華琳様の思し召しだ」

 夏侯淵が、蹲る姉の腕を取って強引に馬上へ引き上げた。夏侯惇は拒絶するも、その抵抗は弱々しい。並の人間なら身体がひしゃげて、口から臓物を吐き出していてもおかしくない。
 本気で蛇矛を振ったのは、実に久しぶりのことである。夏侯惇はさすがに強かった。もしかすると愛紗や星と同じくらいに強いのかもしれない。夏侯淵の矢も思わず寒気がするほどで、嵩にかかって攻め立てられたなら無傷ではすまなかっただろう。

「くそっ、張飛っ! これで勝ったと思うなよ!」

 夏侯淵に後ろから抱きかかえられた夏侯惇は、捨て台詞を残して去っていく。入れ替わりに、曹操軍の騎兵が橋へと押し寄せる。
 眼前に敵が迫る中、鈴々はいくらかほっとしていた。
 夏侯惇と夏侯淵。言うまでもなく曹仁の従姉である。戦場で敵として行き合った以上、曹仁本人ならまだしも、その族人を討つことに躊躇いはない。躊躇いはないが、進んで殺したいわけでもなかった。
 もっと言えば、敵兵であっても命を奪いたいとは思わない。自ら道を外れた賊などと違って、兵の大半は善良な民でもあるのだ。

「でも、追って来るというなら話は別なのだっ!」

 敵騎兵の馬の脚が橋の際に差し掛かった。鈴々は躊躇なく蛇矛を振るった。
 右から左に振るって先頭の五騎を、左から右へ返して二列目の五騎を。あとは延々と同じことの繰り返しである。
 蛇矛は手に張り付いたようで、力任せに多勢を薙ぎ払ってもびくともしない。散らす命の重みだけをわずかに手の平に感じさせた。
 宙を舞うかつて人であった肉塊は、左右の山並みや木々に降り注いでいく。馬は、時に兵と一緒に馬首を刎ねられ、時に恐慌を来たし自ら橋の下へと転落していく。馬だけなら橋を渡らせてしまってもいいが、鈴々の横をすり抜けて行こうとするものはいなかった。それぐらいなら自ら断崖へと足を運んでいく。
 曹操軍の兵の目には、そして無垢なる動物の目には、自分はもう人と映っていないのかもしれない。
 お気に入りの髪飾りと同じ虎か、得物に因んで大蛇か、それとも現実に存在しない幻想の獣の類か。人外に堕ちることも、躊躇いはない。

「うりゃりゃりゃりゃぁあああーーっ! 」

 蛇矛を振りたくる。

―――そんなに強いお二人は、もっとたくさんの人を救えると思います。

 昔、桃香に言われた。
 初めて会った桃香は、民を背に賊徒と対峙していた。腰が引け脚は震えながらも、靖王伝家を手に賊に立ちはだかっていた。
 愛紗と二人、容易く賊を打ち払った。そんな命の恩人に対して、桃香が言い放った言葉だ。得意気な自分を見透かされた気がした。それは自分の蛇矛などよりずっと強い言葉で、今も鈴々の行動を定める一番の拠り所となっている。
 とはいえ、難しいことは考えても分からない。志は桃香に、手立ては愛紗や朱里、雛里に任せておけばいい。自分の出来ることは、結局は民を背に蛇矛を振るうことだけなのだ。
 今、自分の後ろには二十万の民がいる。それはまさに、たくさんの人だった。

「鈴々は燕人張飛っ! 命が惜しくない奴から、掛かってくるのだっ!!」

 鈴々は、敗走の劉備軍にあって一人気勢をあげた。





「しかし、良く走るものだな」

 徒歩で騎馬隊と並走する諜報の兵達の姿に、星が感嘆の息を漏らした。

「鳳統様に、そのように鍛えられておりますから」

 兵の一人が、息も乱さずに応える。

「ほう、雛里にそのような調練の才能があろうとはな」

「いえ、兵の皆さんが各々頑張ってくれただけです」

 謙遜でも何でもなく、雛里は事実を口にした。
 領地を持たない劉備軍に大軍の維持は難しく、必然厳しい選抜の末の少数精鋭となる。桃香の盛名を慕って兵に志願する者は多いが、大半は戦闘に向かず兵には不適とされた。そんな中から雛里は桃香への信奉心が特に強い者達を見繕い、目端が利く者や我慢強い者を選んで諜報部隊に誘い入れた。
 目端が利く者は敵中に潜り込み、我慢強い者は千里を駆け地を這い情報を集める。ここにいる三十人は、特に我慢強さを買った者達である。
 普通の兵が戦闘の調練を受ける間、野山を駆け回ったり、城壁をよじ登ったりという訓練ばかり繰り返させた。それは普通の調練より地味で苛酷なものであったが、雛里が厳しく監督するまでもなく兵達は黙々と日々の課題を熟した。桃香への並外れた忠誠心が故であろう。
 具足を纏わぬ軽装と相まって、今では日に二百里(100km)の行軍は当然で、必要とあらば三百里だって駆ける。人間の脚であるから、さすがに疾駆する馬には容易く追い抜かれる。しかし粘り強く休みも欲しない走りは、一日を通せば騎馬隊の通常の行軍よりもずっと速かった。

「それにしても、何とも異様な光景だな」

「ふふっ、確かにそうですね」

 雛里は改めて周囲に視線を向けた。
 一千騎の騎馬隊は普段通りの装いであるが、諜報の兵三十人の衣服は護送していた老人達の物と取り換えている。元より小柄で細身な者が多く、色あせた衣服を纏って膠で顔に皺を作ってやると、かなりの高齢に見えた。背を丸めて俯くような姿勢を取らせれば、まるきりの老人である。
 今はその老人の扮装をした者達が背筋を伸ばして馬と並走しているのだから、確かにかなり奇妙な光景であった。
 漢津へ向かう道を折り返し、分岐点へ戻り江陵へと進路を取っている。数日前には桃香達が十数万の民を率いて通過した道である。

「……鈴々ちゃんは無事でしょうか?」

「ははっ、心配性だな、雛里は」

 気掛かりを口にすると、星が笑い飛ばした。

「星さんは心配しなさ過ぎです」

 何事もなく曹操軍が進軍していれば、すでにかち合っているはずだった。つまり鈴々がただの一騎で曹操軍三万騎を足止めしているということだ。

「無茶で無謀に見えて、あやつも引き際くらい弁えておるさ。その点で言えば鈴々よりも愛紗の方が危ういほどだ。一人で何でも背負い込もうとし過ぎるからな。―――それは、軍師殿二人にも言えることだが」

「―――っ」

 星が一瞬、刺すような視線を送ってきた。

「ふっ。まあ何にせよ、よほど不測の事態でも起きない限り、鈴々の心配はするだけ無駄というものだ」

 肩をすくめながら星はまとめた。





「むむっ」

 敵軍から受ける圧力がいくらか強くなった。

「さすが曹操。なかなか度胸があるのだ」

 百歩離れて兵を繰り出すだけだった敵本陣が、三十歩の距離まで迫っていた。先頭には曹操の姿がある。本陣の前進に伴い全軍も脚を進めており、三万の軍の放つ圧力が鈴々の武威を押しやってくる。

「我慢比べなら負けないのだっ!」

 前へ出るということは、当然鈴々の武威をまともに受けるということでもある。振るう蛇矛には、曹操の首をも刎ね飛ばそうという気を込めた。曹操も周りにいる兵も、青い顔をしている。
 曹操の隣には以前と同じく許褚と典韋の姿があった。許褚は怒りの形相で睨みつけてくる。典韋は何とも言えない複雑な表情だ、ひょっとすると、多少なり自分の身を案じてくれているのかもしれない。虎士の周囲を重装の騎兵―――虎豹騎が囲んでいるが、蘭々の姿はない。馬騰の襲撃で負傷したというから療養中か。

「張飛っ! かく―――」

 曹操軍の兵の口上を、言い終わらぬうちに斬り捨てた。本陣の前進に後押しされ、兵はいくらか士気を盛り返している。しかし、問題にもしなかった。
 左右に薙ぎ、突出した一騎を突き上げた。
 欄干に身を削るようにしながら橋の際を駆ける敵。欄干ごと斬り伏せた。
 蛇矛の間合いの外から槍を投げる者。馬体にしがみ付いて身を隠す者。鞍の上に立ち、跳び上がる者までいた。考えるまでもなく蛇矛は最適な軌道を描き、それぞれを屠った。
 すでに五百人は斬ったのか。いや、それ以上か。二百人を超えたところで、数えるのはやめていた。
 殿には、自分で立つと決めた。
 桃香が知っていれば、許してはくれなかっただろう。愛紗なら、馬鹿なことを言うなと叱りつけただろうか。
 愛紗とは、同じ村に生まれて同じ師匠に武芸を習った。師匠は元官軍の兵士で、鈴々と愛紗の父親とは親友同士だった。鈴々は早くに両親を亡くしたから、師匠と愛紗に育てられたようなものだ。二人で村を出る時、師匠は愛紗に青龍偃月刀を、鈴々に丈八蛇矛を贈ってくれた。腕の良い鍛冶屋に細かく注文を付け、師匠自らも鍛冶場に籠もって鍛えさせた逸品である。初めて握った瞬間から、年来の得物のように手に馴染んだ。
 偃月刀と蛇矛を手に悪を討ち、江湖に二人の名がそれなりに知れ始め、得意絶頂になっている頃に桃香と出会った。その日から全てが始まったのだ。
 桃香は弱かった。弱いが、民のために敵と立ち向かうことを恐れなかった。初めて会った時は百の賊徒に立ち向かっていた。それからはほとんど片時も離れず生きてきたが、曹操軍との戦に敗走し、一度だけ離れ離れとなった。数ヶ月を経て再会した時、やはり桃香は賊と対峙していた。わずか数人の兵を連れ、二百の敵に立ち向かっていた。
 自分の武は桃香の百倍、いや万倍だ。ならば自分は、一万だろうが百万だろうが押し返してみせる。

「――――――!!」

 喉から言葉にならない雄叫びが漏れる。
 満腔に氣が満ちていた。様々な記憶が、脳裏に過ぎる。やがてはそれも治まり、頭の中は空白となった。
 戦場の喧騒もどこか遠い。真っ白な空間で一人蛇矛を振るう。矛先の向かう先は敵兵ではなく、戦乱の世そのものだ。
 すでに己も敵も無く、鈴々は、無人の野でただ蛇矛を振るった。
 胸の奥深く、一番大事にしまってあるものだけが、きらきらと光彩を放っている。それは、流亡の道を共に歩もうとする民であり、志を同じくした友であり、生死を共にと誓った姉であった。

「―――っ」

 つっと頬を滴る汗の感覚に、鈴々は思考を戦場に引き戻された。
 蛇矛を振るう腕が高熱を発している。いつの間にか呼吸も乱れていた。
 足元に視線を落とすと、向かってくる敵兵の影が伸びている。天を仰ぐと、荊山の稜線に太陽が沈み込もうとしている。
 正午過ぎに曹操軍と対峙し、それから四刻(2時間)は確実に経過していた。
 無性に桃香と愛紗に会いたかった。二人は、よくやったとほめてくれるだろうか。
 敵をこれまでよりも引き付け、蛇矛を振った。敵兵が背後に吹き飛び、後続ともつれる。

――――時間稼ぎは十分なのだ。

 手綱を引いて馬首を返そうとした時、ぐらっと身体が傾いた。





 張飛の乗馬が地面に倒れ込んでいた。

「それはそうか」

 華琳は小さく首肯した。考えれば当然のことだった。
 張飛自身は軽量とはいえ、背中であの長物をぶんぶんと振り回されながら馬は姿勢を保ち続けていたのだ。全力で疾駆するよりも、脚にかかる負担は大きかったのではないか。
 兵が、ここぞとばかりに攻め寄せた。馬上の高みを失い、どこまで騎馬隊の圧力に耐えられるのか。

「―――ううっ、りゃあああぁっっ!!」

 張飛は迫る騎兵の足元に蛇矛を突き立て、跳ね上げた。横渡しにされた橋板が一枚剥がれ、馬が次々に転んだ。転倒を免れた馬も棹立ちになって脚を止め、そこに後続が詰めかけ、橋上は混乱をきたした。
 その隙に、張飛は倒れ伏した乗馬の元へ駆け寄ると轡を取った。立たせようと試みているようだが、馬は首を振って拒絶している。脚の骨が折れているのかもしれない。
 張飛は一瞬の躊躇いの後、すっと馬を抱き締め、離れた。馬体がゆっくり橋の上に倒れ伏す。
 身を寄せた瞬間、蛇矛の先端が馬の胸に吸い込まれるのが辛うじて華琳の目に移った。先刻までの気の高ぶりが嘘のように、静かで悲しく、優しくもある一突きだった。脚を折った馬は、どんなに手厚い介護を施しても長くは生きられず、衰弱して死ぬことになる。

「見事なものね」

 さすがに関羽の薫陶を受けた武人である。天性の膂力に物を言わせるただの獣ではなかった。獅子奮迅の働きぶり以上に、そんな静かな所作に華琳の心は打たれた。
 いまだ混乱する騎馬隊に背を向け、張飛は対岸へ向けて走った。転倒の際に地面と馬体に挟みでもしたのか、張飛もわずかに右脚を引きずっている。
 袂へ着くと、張飛は先程と同じく蛇矛を突き立て橋板を外した。そして蛇矛を思い切り振りかぶる。橋板の剥がれたそこは、当然橋桁が露わとなっている。

「―――張飛、待ちなさい!」

 咄嗟に声が出ていた。

「むっ、なんなのだ? 止めても無駄なのだ、この橋は落とさせてもらうのだっ」

 橋桁―――ひと抱えもある丸太を矛で斬り落とす。常人にはまず不可能な所業だが、今の張飛なら苦にもしないだろう。

「そうではないわ。―――皆、下がりなさい!」

 華琳の一声で、橋上でもつれ合っていた騎兵たちは落ち着きを取り戻し、後方から順に華琳の後ろまで下がった。

「なんのつもりなのだ?」

 いつでも橋を落せるように蛇矛を振りかぶったまま、張飛が問う。橋を落し、痛めた足を引きずって逃げ延びるつもりなのだろう。

「良いものを見せてもらったお礼を上げましょう。―――流流、私の替え馬があったわよね?」

 馬の代えは万一のために常に用意されているが、絶影が他の馬より早く休息を必要とすることなどなく、まず使うことはなかった。

「はい。……お持ちしますか?」

「華琳様。我が軍の兵をあれほどに討った者に下賜などされては、士気に障ります」

 普段なら速やかに華琳の意を察する流流が躊躇いがちに問い、稟も続いた。

「ふむ」

 稟の言葉に、軽く頷き返すと華琳は改めて戦場を見据えた。

「この光景を、よくもあの子一人で」

 咲いては散る真っ赤な花が、目に焼き付いて離れない。辺りは死屍累々といった有様だった。飛び散った肉片が周囲の木々に掛かり、赤い実が枝を撓ませている。流れた血は地面をどす黒く染め上げ、大地を持って吸い容れきれずに血溜りを成している。
 屍山血河の中心で、一人少女が威を張っていた。その手にはあまりに不釣り合いな一丈八尺という規格外の大長物。小柄な少女の体躯の優に二倍を超え、目方にしても彼女の体重と変わりないだろう。
 虎士と虎豹騎を伴って前線へ出た。単騎にて殿軍を務める健気な少女を一目見ようという、軽い気持ちであった。
 先陣まで進むと、春蘭と秋蘭が張飛と対峙する様が目に飛び込んだ。曹操軍が誇る武人が年若い少女を相手に二人掛かりとは、と思わず眉をひそめた。しかし直後目にしたのは、膝を折る春蘭の姿であった。
 咄嗟に兵へ突撃を命じていた。過ちであったとは思わない。あのまま手を拱いていれば、春蘭と秋蘭を失うことになっていただろう。
 突撃させた騎馬隊と入れ違いに下がってきた秋蘭には兵を下げる様に進言されたが、拒絶した。少女一人を相手に我が軍を後退させるなどあってはならないと、意地を張ったのだ。
 しかし、そんな詰まらぬ意地はすぐに張飛の武威を前に消し飛んだ。それでも軍は止めなかった。橋を最初に渡り切った者には二千金の褒賞を、功成らならず散った者も家族の生活を保障し、志願者を募り突撃を継続した。
 殿にただ一騎などという布陣をしかれては、策を弄せば弄しただけこちら恥をかくだけだ。結局のところ、力押しで破るしかない。ならば途中で手を休めては、無駄に犠牲が拡大するだけだった。
 ただ一個の人間の武がどこまで辿り着けるのか、という好奇心も少なからずあった。
 結果張飛は、実に九百騎近くの兵を屠った。秋蘭の放った瀬踏みの小隊からも百馬が討たれているから、誇張なく本当の一騎当千である。そして馬が潰れさえしなければ、その数はさらに増えていただろう。

「あれではまるで―――」

 まるで、あの呂布を見ているようだった。
 曹操軍と最後に対峙した時、呂布は馬を失い地面に投げ出され、利き腕の右肩には矢を受け、左腕には前日の曹仁との一騎打ちで傷を負っていた。しかしそんな満身創痍の状態で、五千の陣に飛び込み、五百を斬り伏せ、華琳の眼前まで迫ってきた。
 地の利を有し、心身ともに充実していたとはいえ、張飛の上げた戦果はその呂布をも凌ぐ。

「あんな天が気まぐれで産み落としたような存在が、他にもいたのね」

 桁外れの怪物が劉備軍に育っていた。
 蓋世の徳を身に宿す長女。武人としても将としても極めて高い水準で完成された次女。そんな二人の姉の影に隠れていた三女もまた、やはり規格外だった。

「……あのちびっこめ~。ボクとやった時は、手を抜いていたなー」

 季衣が苦々しげに呟く。
 桃香達が曹操軍の元にいた頃には、季衣と張飛は喧嘩友達のようなものであった。言い争いから発展して取っ組み合い、最後には武器を持ち出すこともあり、干戈を交える姿を幾度となく華琳も目にしている。季衣と互角か、せいぜいわずかに上手と言ったところで、稽古で曹仁を圧倒していた関羽ほどに絶対的な印象は残っていない。

「なんなのだー!? 用がないなら、鈴々はもう行くのだ!」

 張飛が叫ぶ。

「待ちなさい、張飛! ……稟、尚武の心に敵も味方もないわ」

 春蘭に視線を向ける。一番悔しい思いをしているのは春蘭だろう。

「武勇において、張飛は私よりも上っ。呂布と同格。それはっ、認めざるを得ません。称えざるを得ませんっ」

 春蘭も張飛の武に呂布の姿を見出したようだ。喘ぐように声を絞り出した。張飛に打たれた脇腹がまだ痛むのだろう。

「よく言ったわ。―――我が軍の兵(つわもの)達に、単身にて比類無き武を打ち立てた張飛を称える者はいても、この戦いの結果に不服を抱く者などいない!」

 華琳は春蘭に頷き返すと、兵に聞かせるように、あえて大きく叫んだ。

「―――。――――! ――――!! ――――――!!!」

 兵の中からぱらぱらと賛同を示す声が上がり、それは最後には大喚声となった。
 これから先も張飛とは戦場で見えることになる。畏怖と敬意。兵に抱かせるなら後者であろう。

「流流」

「はっ、ご用意いたします」

 流流が駆け出していく。

「さてと。張飛、勇力絶人。実に強いわね」

 馬の用意が整うまでの間、華琳は張飛に語りかけた。

「そっちの二人も、なかなかなのだ。愛紗や星と同じくらい強かったのだ」

 張飛は振りかぶっていた蛇矛を下し、矛先で春蘭と秋蘭を指した。

「ちびっこー! お前、ボクとやるときは手を抜いていたな! 情けを掛けたつもりかーっ!?」

 華琳の隣で季衣が叫んだ。

「なんで春巻き頭相手に、情けなんて掛けないといけないのだ! けちょんけちょんにするつもりで戦ってたのだ!」

「嘘付けー!」

「むむっ、鈴々は嘘なんてつかないのだっ!」

「落ち着きなさい、季衣」

 今にも飛び出していきそうな季衣を宥める。

「ふんだ。春巻き頭も愛紗や星やお兄ちゃんのお姉ちゃん達ほどではないけど、その次くらいには強いのだ。手なんて抜いてないのだっ」

 張飛が頬を膨らませて言う。
 先刻までの鬼神の戦い振りからは一転、年相応か、それ以上に子供っぽい振る舞いだ。そんなところも、呂布を思わせる。

「ふふっ。しかしその関羽と趙雲も、もはや貴方の相手ではないのではない?」

「そんなことないのだ。鈴々の方がちょびっと上だけど、愛紗と星も強いのだ」

「そうかしら? 最近あの二人と手合せをしたことは?」

 張飛一人が年少であることを思えば、半年や一年もあれば他の二人と大きく差が開いていても不思議はない。

「いっつもしてるのだ。勝ったり負けたり、……負けたりなのだ」

 張飛が言い難そうに答える。どうやら勝率は関羽達に分があるようだ。

「そう、不思議な話ね」

「?」

 張飛が小首を傾げる。
 おかしなことを言っているという自覚はないようだ。二人掛かりで挑んだ春蘭と秋蘭を一蹴しておきながら、その同格と評する関羽達には分が悪い。しかし張飛の一人突出した武は、単に相性などと言う言葉で説明が付く域ではなかった。

「……ふむ。無意識に力を抑えているということかしら?」

 姉や武の先達に対してはわずかに譲り、喧嘩友達の季衣とは対等の勝負をしてみせた。そしてそれを、本人は自覚すらしていない。

「器用なんだか不器用なんだか。ふふっ、桃香の妹らしいわね」

「―――華琳様」

 流流に引かれ、馬が一頭連れられてきた。鞍が乗せられ、轡もかまされている。
 水に濡れた烏の羽のような艶やかな黒毛で、足元だけが靴でも履いたように純白の毛に覆われ、蹄も白かった。
 轡を取って、前に引き出すように離してやると、とことこと歩き出し、そのまま橋を渡って張飛の元まで迷わず辿り着いた。

「どうかしら?」

 張飛はしばし額と馬の鼻面を突き合せるようにすると、顔を上げた。

「気に入ったのだ。名前はあるのかー?」

「ないわ。……そうね、黒毛で足元だけ白いから、踢雪烏騅とでも―――」

「じゃあ、白黒にするのだ!」

「……まあ、もう貴方のものよ。好きに名付けなさい」

「それじゃあ、有り難く貰っていくのだ!」

 蛇矛を一閃し、大地に突き立てた張旗を掴むと、張飛は馬の上にひょいと飛び乗った。

「さあ、行くのだっ、白黒っ!」

 橋が崩れる轟音が鳴り響いたのは、張飛が背を向け駆け出すのと同時だった。



[7800] 第10章 第9話 雛里
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/08/10 22:16
「あれね?」

「そのようです」

 華琳が短く問うと、秋蘭も短く返した。
 視線の先、進軍路からをわずかに逸れた位置に数十人の集団を認めた。騎兵が五騎ばかり、形ばかりの見張りとして付いている。
 負傷した春蘭に代わって先鋒を任せた霞から、劉備軍に付き従った民衆の最後尾の一団を補足したと知らせが届いていた。
 長坂橋での張飛の奮戦からすでに丸一日が経過していた。
 落ちた橋を修復し、再び通行可能にするのに然程の時間はかからなかった。元よりあまり深い渓谷ではなく、加えて今は兵馬の亡骸で埋まっている。精神的な抵抗を除けば谷底に降りるのは容易く、数刻のうちに橋脚を補強し橋桁の修繕を終えた。
 一夜を明けた今日は、ほとんど一日駆け通しだった。
 山河が入り組んだ複雑な地形は抜け、周囲は見渡す限りの平原であり、足元には適度に踏み固められた道がある。二十万の人間が踏破したことで出来上がったばかりの大道で、騎馬隊の大軍が進むには格好だった。さすがに劉備軍にも余裕がなくなってきたのか、春蘭が散々に悩まされた罠の類も見られない。
 劉備軍に唯一残された抵抗は、趙旗の乱立だけだった。進軍路周辺のわずかばかりの丘陵や草深い地、朽ちた砦跡などの兵が伏せ得る場所には決まって趙旗が翻っている。
 霞にはそれらすべてを無視するように命じていた。現実に兵を率いて趙雲が籠もっていたとしても、劉備軍の有する騎兵はわずかであり、歩兵ならばいなしてしまえば済むことだった。趙旗発見の報告はすでに十数度に及ぶが、ここまで一度も脚を緩めず進軍してきた。

「ようやく尻尾を捕らえたか」

「いかがされますか?」

「そうね。すこし話を聞いてみましょうか。とりわけ熱心な桃香信者、あるいは私のことが特に嫌いな者達のようだし」

 桃香の足手まといになることを恐れて、自ら離脱した集団だという。健気な民に多少付き合ってやるのも悪くない。

「しかし、朱里と雛里が脱落する者達を見落すものでしょうか?」

 稟が言った。文官の中では馬術の達者であるが、さすがに疲労をにじませている

「見落したのではなく、見逃したと? 確かに進軍路上に点々と民の群れが残されていれば、追撃の脚を緩めざるを得ないわね」

「……いえ、あの朱里と雛里が、民をそのように扱うはずはありませんね。お忘れください」

 稟が頭を振って自らの発言を打ち消す。

「……ふむ」

 桃香達が曹操軍の庇護下にあった頃、軍師二人には文官仕事の手伝いや学校での指導に協力してもらっている。桂花は頑なに二人との交流を拒んでいたが、稟と風はかなり親交を深めていた。その稟の目から見て、二人がやりそうにない企てと判断したようだ。
 華琳の見解はまた別だった。諸葛亮はともかく雛里ならやるかもしれない。有効と思える策が思いついたなら、試したくなるのが軍略家と言うものだ。華琳に民を害する気がないのも当然見抜いているだろう。

「まあ、とりあえずは会ってみましょうか」

 集団の横で軍を止めると、虎士を伴って馬を進めた。

「貴方達、もう良いわ、隊へ戻りなさい。張遼将軍に、この先は本隊に構わず先行する様に伝令を」

 見張りの兵に言った。
 華琳が民と話すこと自体が、足止めの意図を有するかもしれないのだ。

「さてと、―――劉玄徳の民達よ、顔を上げよっ!」

 縮こまり身を寄せ合っていた者達が、おずおずと視線を上げた。
 霞の報告にあった通り、老いた者ばかりだ。年端もいかぬ少女も一人混じっているという話だったが、姿が見えない。猛将で聞こえた張文遠に睨まれては、怖くて大人の影に隠れざるを得ないのだろう。

「私が誰か分かる者はいるか?」

「……私は以前、許に住んでおりました。貴方様が劉備様と共に街を歩かれているのをお見掛けしたこともございます、曹操様」

「私も陳留でお見掛けしました」

「私も」

 老人の一人が言うと、何人かが続いた。

「つまり貴方達は、私の政を嫌って我が領地から去った人間というわけね?」

「……はい」

「何か言いたいことがあるのなら、耳を貸すわよ」

 曹孟徳の風聞を恐れて逃げ惑うだけの者達とは違い、聞く価値のある言葉を口にするかもしれない。

「…………税が重すぎます」

「そうだ、一度にあんなに持っていかれては」

 しばしの沈黙の後、一人が税に対する不満を言うと、そうだそうだと十人余りが続いた。華琳の姿こそ見たことが無くても、曹操領内に暮らした経験を持つ者は少なくないらしい。

「以前は、何度も臨時徴税や労役を課されていたでしょう。差し引きすれば、そう変わりはないはずよ。―――他に何かないか?」

「私の家族は、他の者達より多く税を納めるよう言われました」

「それは貴方の土地が豊かだったということでしょうね。他の者よりも、多くの収穫があったのではない? それでも痩せた土地の持ち主と同じだけしか税を納めたくはない? それとも痩せた土地の持ち主からも自分と同じだけ税を搾り取らせたいか? ―――他には?」

「……孫と三人で畑を耕していた息子夫婦は、孫を学校に取られ、手が足りずに農地を手放すこととなりました」

「効率の良い農法を公布しているわ。家族三人を養う位の収穫は難しくないはずよ」

 農具の改良や肥料の使い方、二毛作などの曹仁の知識を元に確立した農法は、惜しみなく領内全てに触れて回った。特に規制を掛けてはいないため、それは他領にも浸透しつつある。互いの領民を飢餓に貶めながら覇を競うつもりはないし、やがては自領に併呑するのだ。

「我々には学がなく、難しいことを言われても分かりません」

「なら学校に通いなさい。大人でも希望者は受講出来るし、夜間の講義だってあるわ」

「しかし、そう簡単に今までの暮らしを変えることは……」

「今、国が変ろうとしている。それは私の領に限った話ではない。貴方達も変わらずにはいられないわ。認識なさい」

 他に、商売敵が増えて店が傾いたと言う者がいた。商いの道は競争であり、商業の活性化の段階で多少の篩に掛けられるのは仕方がないことだ。商業の推奨をやめる理由にはならない。
 酒家や工人なども、それぞれの苦難を口にした。どれも個人の事象に過ぎない。それぞれには同情の余地もあるかもしれないが、全てに対応出来るはずもない。
 桃香は、街を歩き回ってはそうした個々の問題一つ一つを汲み上げようとしていた。見上げたものではあるが、桃香という優れた資質ある個人だから出来たことだ。為政者が個々の事情を顧み過ぎては、政は立ち行かない。

「なかなか面白い話が聞けたわ。何か褒美でも取らせましょう、流流―――」

 とはいえ、これ以上は実のある話を聞けそうにない。華琳は会話を切り上げに掛かった。

「―――お待ちください!」

 一人―――最初に華琳の名を言い当てた老人だ―――が、声を張り上げた。七十、八十にも見える外見に反して、声には意外に張りがある。華琳は老人の言葉の続きを待った。

「劉表様は朝廷より正式に任命された荊州刺史。漢朝の司空であらせられる曹操様が、何故あってお奪いになるのです?」

「へえ。私に議論を吹っ掛けるつもり?」

 やはり足止めでもしたいのだろうか。霞を先行させているし、もう少し付き合ってやるつもりに華琳はなった。
 それにしても民が漢室の建前を持ち出すというのは意外である。荊州は学問の都と呼ばれてはいても、それは名士達だけのものである。曹操領内の様に上下の別なく門徒が開かれているわけではない。

「劉表ね。そういえば、貴方達は十日も前に襄陽を発っているからまだ知らないのね。死んだわよ、劉表。私が攻め滅ぼしたのではなく、病でね」

「そうでしたか」

 急な病ではなくしばらく臥せっていたというから、老人達に大きな動揺は見られなかった。

「主を失った荊州の地を、天子の元へお返しするだけのこと。漢朝の臣下として、私は何もおかしなことはしていないわ」

「しかし、まだ劉琦様と劉琮様、二人の御子息がございます」

「私に荊州刺史の印璽を手ずから返上したのはその劉琮なのだけれど、この際それは置きましょう。……そもそも刺史とは朝廷より任命される役職であって、親が亡くなったからといって子へ受け継がれるものではないわ。親から子へ世襲されるというなら、それは役人ではなく王よ」

「それはっ、…………」

「納得してもらえたかしら?」

 建前に建前で返すと、老人は押し黙った。

「さてと、ではこれで話は終わり―――」

「―――華琳様っ!」

 声に後ろを振り返ると、本隊に残してきた秋蘭が軍の後方を指差し叫んでいる。目を凝らすと、地平に何かが見えた。

「おおよそ一千騎。趙旗を掲げています」

「さすがね、秋蘭。私にはまだ点としか見えないわ。最後に報告を受けた趙旗が当りだったようね」

 趙旗が立てられていたのは比較的規模が大きく損壊も少ない城塞の跡地で、これ見よがしに城門が開け放たれていたという。
 話す間にも、点は少しずつ大きくなっていく。距離は五里(2.5km)ほどだろうか。

「貴方達、そこでじっとしてなさい」

 老人達に言い置き、命令を飛ばす。

「秋蘭、四千騎を率いて左翼に」

「はっ」

「春蘭は―――」

「―――行けますっ!」

 秋蘭からその隣へ視線を移すと、勢い込んで春蘭が叫んだ。

「ならば四千騎を率いて右翼に。一度受け、包囲して仕留めるわ」

 慌てず、陣を組んだ。騎馬隊による奇襲は想定の一つである。とはいえ、これだけ開けた地形では奇襲は奇襲足り得ない。
 春蘭、秋蘭を両翼にして鶴翼に構えた。中軍へと誘い込む受けの陣形で、騎兵の戦では言うまでもなく悪手であるが、包囲殲滅を狙った。一千騎は劉備軍にとっては騎馬隊のほぼ総数であり、犠牲を払う価値はある。
 囮となる中軍は二千の騎馬隊に曹の牙門旗、さらにその後方には劉備を慕う民の群れである。奇しくも人質を取ったようなもので、無視は出来ないはずだ。
 一千騎。一里の距離まで迫っていた。寡兵で真っ直ぐ突っ込んで来る。
 胸騒ぎがした。どこかで、似たような戦況を戦った。そんな気がした。





 大魚が網に掛かろうとしていた。それも想定の中でも最良の形で。

「……あわわ」

 自ら決断し踏み出した非道の策が、いま形になろうとしている。思わずいつもの口癖が漏れた。
 隠れていた男の背から顔を覗かせると、十数歩の距離に、虎士の五十騎に囲まれただけの華琳の後姿がある。その虎士も前面へ厚く配置され、後方は手薄だった。許褚と典韋も華琳の前に二人並んでいる。ほんの数人を抜くだけで、華琳に剣が届く。
 さすがに自分に老婆の扮装は無理があり、いつもより一層幼い村娘に扮した。黄忠の娘の璃々が着るような、ほとんど幼児向けの服に身を包んでいる。悲しいかなあまり違和感はない。鈴々などは出会った頃と比べるとだいぶ背も伸び、身体も女性らしい丸みを帯び始めているが、自分と朱里はほとんど成長しなかった。
 張遼と視線があった時には、さすがに気付かれたと思った。疑念を抱かれずに済んだのは、元々の気弱な性格が幸いして演じるまでもなく体が震え、慌てて身を隠したからだろう。
 華琳が自ら尋問に現れたのは、予想通りの展開であった。気骨ある民を装えば、華琳なら直接言葉を交わす。その思いは確信に近かったが、その後の迎撃の布陣も含め想定した通りに事は進んでいた。
 天の御使いも天子も有している華琳だが、今、天佑はこちらにある。

「皆さん、用意は良いですか」

 星の騎馬隊が上げる喚声と馬蹄の音が轟き、小声で話す必要はなくなっていた。

「はっ」

 老人姿の兵達が懐に手を入れる。得物はそれぞれ短刀が一本だけだ。見咎められても護身用と言い逃れが出来るように、どこででも手に入る簡素なものだ。

「―――趙子龍見参! 曹操殿っ、お覚悟めされよっ!」

 馬蹄と喚声に混じって、星の良く通る声が響く。
 曹操軍の騎馬隊に視界を阻まれて見えないが、その姿が目に浮かぶようだった。決して返り血を浴びることのない純白の衣装と、対照的に真紅の刀身を持つ槍。

「我こそは北方常山にその名も高き昇り龍なり! 龍の牙をその身に受けよっ!」

 ただでさえ目を引く出で立ちの星が、これ見よがしに叫ぶ。
 計画を明かした時には異議こそ唱えないものの不服そうであったが、今は一身に戦場の視線を集めてくれている。
 三十人は元々戦闘には不向きとされた者達だから、まともにぶつかれば曹操軍の兵には敵わない。ましてや相手が虎士ともなれば、たった数人でも勝算は薄い。
 静かに近付いて、懐に飛び込んで突き刺す。三十人の短刀は粗末で切れ味も悪いが、切っ先だけはよく尖らせていた。兵も武術というよりも忍び寄って殺す、そんな技を仕込まれている。
 騎馬隊の駆ける馬蹄の響き、喚声、星の長口上がさらに間近に迫る。
 視線は華琳の後姿に釘付けになっていた。手振りで、前進を指示する。華琳まで、十歩を切った。まだこちらに気付いた様子はない。

―――よし、今です。

 とれる。そう確信して、口を開きかけた。その瞬間、華琳の頭の左右で束ねた髪が揺れた。

「―――っ」

 華琳がこちらを振り返った。攻めに転じようと考えていた矢先だけに、とっさに顔を伏せることも出来なかった。視線と視線がかち合う。

―――雛里。

 華琳の口が、確かにそう動くのが見えた。

「突撃してくださいっ!!」

 あとはもう、破れかぶれでそう叫ぶしかない。
 兵と共に雛里は駆け出した。
 常になく間近で聞こえる喚声、怒号、呻き。恐怖と興奮で、その後のことを雛里ははっきりとは覚えていない。しかし火を見るよりも明らかな勝負の行方は、すぐに決したらしかった。

「久しぶりね、雛里」

「……お久しぶりです、華琳さん」

 兵と共に、華琳の前に引き立てられた。諜報部隊の兵で生き残ったのは、わずか三名である。
 すでに星の騎馬隊は駆け去っている。幸い、追撃は受けていない。双方ともここまでの進軍でかなり馬の脚に負担を強いているし、歩兵の待ち伏せも警戒したのだろう。
 しかし見極めの上手い星らしくもなく深追いが過ぎ、二百から三百の犠牲は出したようだ。本来は注目を集めるだけ集め、交戦は避けて一兵も損なわずに離脱するはずだった。退避が遅れ、星は曹操軍の両翼に捕まることとなった。
 自分の存在が、星の足枷となった。襲撃に参加する者は、言うまでもなく成否に係わらず死兵である。
 今回の作戦は桃香の許可を受けていない。朱里にも話していない。二人に明かせば反対されただろう。協力者の星にも雛里が自ら奇襲部隊に加わることは告げていないが、勘の鋭い星のことだ、察するところがあったのだろう。
 騎馬隊の殿に付いた星は、雛里が知る限り初めて純白の衣装を血で赤く染めていた。

「ずいぶん無茶をしたわね。貴方自ら率いる必要があったのかしら?」

 華琳が当然の疑問を口にした。隣で稟も頷いている。

「華琳さんが後ろを振り向いたのは、私や兵の偽装が甘かったからでしょうか? それとも何か他に不審な点がありましたか?」

 質問に質問で返した。答え難い問いでもあったし、死ぬ前に軍師としての疑問を解いておきたかった。

「いえ、振り向いてみるまで貴方の存在には気付かなかったし、兵の偽装も見事よ。貴方も、……ふふっ、なかなか可愛らしい格好ね。疑いの眼差しを向けていなければ、一目で貴方と見破るのは難しかったでしょう」

 子供向けの衣服に身を包む雛里を見て、華琳は愉快そうに微笑んだ。

「……それでは?」

 恥ずかしさに耐えながら、雛里は先を促した。

「似たような状況をほんの一月ほど前に経験したわ。妹の柔肌に傷を残すことになった、私にとっては痛恨事ね。それで、嫌な予感がしたのよ」

「…………あっ、馬騰の」

 自身の立てた計画が、伝え聞いた巻狩りでの襲撃とよく似ていることに雛里は思い至った。長駆し正面から向かってくる星が馬騰で、油断させて背後を衝く雛里と諜報の兵達が董承ら廷臣達だ。
 天佑とも思えた絶妙な配置が、かえって華琳にかつての襲撃を想起させた。やはり天意は、二つの天を有する者の上にあるのか。

「最後に議論を吹っかけさせたのは、趙雲が来るまでの時間稼ぎね?」

「……はい」

「その前に兵が口にした私の政への不満は? あれも適当に批判の言葉を並べただけ? それとも貴方の考えの代弁と取って良いのかしら?」

「いいえ、劉備軍に加わってくる兵や民から聞いた本当の言葉です。民の叫びそのものです」

「つまり貴方の本意ではないということね」

 多少意地の悪い気持ちで民を持ち出すも、華琳はむしろ上機嫌で小さく首を縦に振り、言葉を続けた。

「劉備軍が出奔した時、私は貴方だけは残ってくれるものと思っていたのよ?」

「―――っ」

 何と返すべきか分からず、雛里は言葉を詰まらせた。
 それは、雛里が襲撃部隊に留まった理由でもあった。
 曹孟徳の天下。曹操軍で過ごす間に、それも悪くないと思ってしまった。距離を置いた今も、その思いは否定しきれず胸の内にわだかまっている。
 桃香より先に、華琳に出会っていたらどうなっていたか。そんな想像をしてしまうことすらあった。
 心の内深くに巣食った華琳を、締め出す必要があった。華琳を討つ以外、それには方法がないように思えた。今はまだ、劉備軍は曹操軍に戦場では勝てない。仮に対等な条件だとしても軍略家としての自分が、華琳に勝てるかどうかも分からない。卑劣な策を用いるしかなかった。しかし相手は当代の英傑にして、桃香と秤に掛けかねないほど雛里の中で大きく育ってしまった華琳である。雛里にとってそれは、自らの命を擲つことで初めて許容し得る策だったのだ。
 死ぬのは怖いが、自分がいなくなっても朱里がいる。それは、自分がいるのとほとんど同じことだった。桃香の軍師で朱里の親友の自分のまま死ぬ。雛里はそう思い定めた。

「聞かせてもらえるかしら? 何故私の元を去ったのか」

「……確かに私は、華琳さんのことが嫌いじゃありません。その政も否定し切ることは出来ません。でも、―――桃香様ほど好きでもありません」

「貴様っ、華琳様を愚弄するかっ!?」

「―――春蘭」

「……はっ、申し訳ありません」

 黙って会話を聞いていた夏侯惇が柳眉を逆立てるのを、華琳が制した。

「らしくもなく、いやにはっきりと物を言うわね。乱世の荒波に再び揉まれて、鍛えられたのかしら?」

「どうせ死を待つ身です。言いたいことは言わせてもらいます」

「ふーん。それで、この私を拒絶するほどに、いったい桃香のどこが好きなの?」

 意を決して告げるも、華琳は軽く肩をすくめるだけで聞き流した。

「桃香様は、すごくないんです。愛紗さん達みたいに強くないし、朱里ちゃんみたいに賢くもない。強くて頭の良い華琳さんとは全然違うんです」

「雛里、それではまるで褒めていないけれど」

 稟が口を挟んだ。

「華琳さんなら、分かると思います。華琳さんだって、桃香様のことがお好きなはずですから」

 雛里は矛先を華琳へ転じた。

「……そうね。分からないでもないわ」

 華琳が、渋々という感じで頷いた。

「桃香は不思議ね。身体もおつむも弱いし、人一倍怯えたり落ち込んだり、心だって特別強そうには見えない。そのくせ、この乱世でほとんど唯一私と対等であり続けている。だから桃香は私の友であり、―――最大の敵だわ」

 華琳への嫌いじゃないは理屈だ。しかし桃香への好きは理屈ではなかった。言葉にして説明するのは難しいが、心惹かれる。

「華琳さんには、桃香様と一緒に進む道もあるはずです」

「あった、と言うべきね。私は一度、それを提示した。私の元で、桃香が民を労わるという道を。出て行ったのは貴方達でしょう?」

「もう一度歩み寄ることは出来ませんか? 華琳さんが改革の手をほんの少し緩めてくれれば、桃香様もきっと力を貸してくれるはずです」

「本来百年、千年掛かる変革を、十年二十年で遂げようとしているのよ。これ以上脚を緩めることは出来ないわ」

「その十年二十年というのを、五十年とすることが何故出来ないのですか? あるいは子や、孫の代に託すことは? 華琳さんの理想が正しいものであるならば、一代で遂げずとも必ず後に続く者が現れるはずです」

「いやよ、そんなの。次代が私の理想の世界を築いたところで、肝心の私がそれを見ることも、そこで遊ぶことも出来ないじゃない」

「華琳さん一人の我儘に、民を付き合せようというのですか?」

「ええそうよ。私が勝ち取った私の国であり、私の民よ。私が思い描くより良い未来のために、今を多少は犠牲にしてもらうわ」

 華琳のこうした物言いは、嫌いではない。むしろ好きといっても良いかもしれない。雛里は桃香になったつもりで話した。でないと、華琳の言葉に引き込まれかねない。

「今を苦しみ、不満の声を上げている民など、十年後のより良い世界のための過程に過ぎないと華琳さんは仰るのですか?」

「いいえ、それも一つの結果よ。拙いながらも民が政に対する不満と自らの希望を口にした。それは一つの進歩と言えるわ。民が国の有り方に口を出せる。それこそ私の望む未来の一つよ。少なくともその桁外れの人気でもって、民に不満すら抱かせることなく、苦難の道を共に歩ませる。そんなやり方よりもよほど真っ当だとは思わない?」

「しかし、変革に対応出来る民ばかりではありません。簡単に変わることの出来ない人たちもいるんです」

「簡単に変わることが出来ない? ならば桃香に従った二十万の民は何? 私の政を否定する最たるものである彼らこそが、これまでの暮らし全てを捨てて最も困難な道を自ら選んだじゃない」

「……っ」

「桃香も貴方も、民を弱い者、守らねばならない対象と見過ぎよ。元より民は強い。弱く哀れで虐げられる存在だと、誰が決めた」

 雛里は何度か口を開きかけ、結局無言のままうなだれた。覚悟を決めた二十万の行列を見た後では、否定する言葉は見つからなかった。

「―――そういえば、さっき妙な事を言っていたわね?」

 黙り込んだ雛里に、華琳が語調を緩めて話し掛ける。

「確か、死を待つ身がどうだとか。雛里、貴方何か病でも患っているの?」

「董承やその同士達は死を賜ったと聞いていますが」

「ああ、そういうこと。あれは陛下の御膝元で行われた暗殺未遂だもの。今回の件とは状況が違うわ。私達と貴方達はすでに交戦中の敵同士で、貴方がやったのは伏兵や間諜の延長に過ぎない」

「しかし―――」

「何より私が、貴方のような才人を殺すとでも思ったの? 捕虜、いや客分として、しばらく私の幕下にいなさい」

 曹孟徳の幕下に置かれる。軍略を学ぶ者として思わず湧き立ち掛けた心を、雛里は懸命に鎮めた。




[7800] 第10章 第10話 舌戦(口喧嘩)
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/09/01 21:06
 桃香は江陵の城門をくぐった。二十万の民の最後尾であり、新たに加わった一万の劉備軍の先頭だ。

「桃香様、おかえりなさいっ!」

「璃々ちゃん、ただいまっ!」

 城内で一番に出迎えてくれたのは、黄忠の一人娘璃璃だ。跳び付いてきた璃璃の小さな体を、桃香は抱き止める。

「これ、璃璃。劉備殿はお疲れだ。あまり御迷惑を掛けるでないぞ」

 桃香と共に入城した厳顔が、璃璃をたしなめる。

「ははっ、良いんだよ、厳顔さん。璃璃ちゃん、お手伝いありがとうね」

「えへへっ、どういたしましてっ」

 民の受け入れ作業を幼いなりに手伝ってくれていたのは、城門の影からずっと見えていた。
 桃香は二十万の先頭に立って江陵に至り、自身は入城せずに城門前に陣取ると、最後の一人が通り過ぎるまで民に感謝と労いの言葉を掛け続けていた。その間ずっと、璃璃は桃香達に声を掛けるのを我慢して、城内でお手伝いに徹していた。子供らしからぬ気の回しようには頭の下がる思いである。

「―――皆、よくぞここまで民を、我が主君を守ってくれた。この関雲長、貴様達を我が軍に歓迎する。長旅の疲れもあろうが、今少し奮起してくれ」

 愛紗が、桃香達に続いて入城してくる兵達に呼び掛けている。民の受け入れと並行して手筈を整えていたのだろう、兵は数十から数百人単位で城の各所へ配属されていく。
 桃香の視線に気づくと、愛紗は部下に後を任せこちらへ駆け寄ってくる。

「桃香様、お疲れ様でした。よくぞご無事で」

「愛紗ちゃん。……うん、私は無事なんだけど、雛里ちゃんが」

「朱里と、それに諜報の兵からも話は聞いております」

 二刻ほど前に星からの伝令が、そしてほぼ時を同じくして雛里と行動を共にしていた諜報部隊の兵が帰陣した。華琳に対しての奇襲とその失敗、そして雛里の捕縛という事態が伝えられた。兵は一度は雛里と共に曹操軍に捕らえられ、解き放たれたという。
 報せは誰にとっても思いがけない顛末であったが、特に衝撃を受けたのはやはり雛里の盟友朱里であった。色を失った朱里は、馬謖の付き添いで先に入城させ休ませている

「華琳さんのことだから、悪いようにはしないと思うけど」

「そうですね、それが救いです。星から、何か新しい情報は?」

「ううん。華琳さん達もかなり近くまで来てるみたいだから、伝令のやり取りはもう難しいんじゃないかな」

「そうですか。まあ星なら一人でも上手くやるでしょう。」

 星と一千騎は城外で遊撃の扱いとしている。無理に入城を試みれば曹操軍とかち合いかねないし、可能性は低いが華琳がそのまま城攻めを開始したなら城外の騎馬隊の存在は頼もしい。そこまでが、星が受けた雛里からの最期の指示だという。

「さてと」

 差し当たっての連絡事項はここまでと、愛紗は気を取り直すように一度喉を鳴らし、大きく息を吸った。

「―――こらっ、鈴々っ、起きないかっ!!」

「んにゃっ、あっ、愛紗?」

 愛紗の大喝に、桃香の隣で馬の背に伏していた鈴々ががばりと顔を上げた。
 焦点の定まらない目できょろきょろと辺りを見回すも、重さに耐えきれないという感じですぐに再び目蓋が落ち、ふらふらと身体を揺らしはじめる。

「り―――」

 桃香はしーっと口元に指を当てて、愛紗を制止した。

「眠らせておいてあげて。ずいぶん大変だったみたいだから」

「何でも長坂橋に一人陣取って、三万騎を押し止めおったらしいぞ」

 厳顔が言った。

「本人の言う事だからどこまで信じて良いものか分からぬが、夏侯惇と夏侯淵を二人まとめて追い払い、一千騎を打ち倒したとか。まあ、その前に軽く捻られたワシとしては、全て真の話と信じたいところよ。ほれ、曹操に褒美と言って駿馬も貰ってきたことだしな」

 厳顔が鈴々の乗馬を示す。馬上の鈴々は再び寝入っている。

「無茶をして。あとで叱っておかねば」

「おいおい、話を聞いておったか? 一人大活躍だったのだぞ」

「良いのだ、厳顔殿。桃香様が甘やかされる分、私が厳しくしなくては。こやつはすぐに調子に乗って、無茶ばかりを繰り返しかねんからな」

「はっはっ、なるほど。劉備殿と関羽殿、それに童っぱで三姉妹であったな。しっかり者の次女とは損な役回りではないか、関羽殿」

「―――あら、桔梗、劉備軍の皆さんとずいぶん仲良くなったのね。それに一万の兵に兵糧まで持ち出すだなんて、見事に荊州軍を裏切ってくれたわね」

「紫苑か。お主こそ、船団を率いての合流とはやるではないか」

 やはり民の受け入れに尽力してくれていた黄忠が、しずしずとこちらへと歩み寄ってくる。

「璃璃、劉備様はお疲れよ。こちらへいらっしゃい」

「……はーい、お母さん」

 璃璃は名残惜しそうに桃香の側から離れると、黄忠の隣まで下がった。

「黄忠さん、来てくれて本当に助かりました。船団がなければ、今頃どうなっていたことか」

「黄祖殿の命令に従ったまでのこと、お気になさらないでください。―――劉備様、黄祖殿からので伝言です」

 黄忠は神妙な面持ちで言うと、ちょっと声色を変えて続けた。

「江陵に籠もられるなら、軍船は一隻でも多い方が良い。樊城の水軍は元を糺せば江夏郡の太守として儂が一人で作り上げたもの。水夫も、儂が鍛え上げた者達。劉表様の命ならばともかく、倅の劉琮や蔡瑁の命令などで曹操軍に引き渡す道理はない。曹操軍に渡すくらいならば、共に戦った劉備殿にお譲りする。―――以上が黄祖殿から劉備様への伝言。そしてまた、御遺言でもございます」

「それじゃあ、やっぱり黄祖さんは」

「はい。曹操軍が城下に迫る前日。劉備様が襄陽を起たれた二日後になります」

 黄忠が船団を率いて現れたと聞いた時から、予感はしていた。

「それと、これもお伝えしておかなければなりませんわね。黄祖殿の亡骸は、孫策軍へと引き渡しました」

「そんなっ」

「これも黄祖殿の御遺言ですの。夏口を抑え長江を支配下に置く孫策軍が、荊州水軍の通行を見逃してくれるはずもない。仇敵である自分の亡骸をもって認めさせろと」

「私達のために……」

「―――はっはっはっ、自分の亡骸をも利用するとは。周到な黄祖殿らしいな」

 桃香が声を失っていると、厳顔が大笑した。

「ええ、本当に。―――劉備様。黄祖殿は常々、孫堅を討ったことで否応なく定められてしまった武人としての生に倦み、同時にそれを全うする事を標としておりました。孫家への亡骸の引き渡しは、おそらく本人が何より望むところであったのでしょう」

「生涯の仇敵に亡骸を委ね、戦友に力を残す。武人としては最高に近い死に様でしょう。劉備殿、旧友として黄祖殿に代わってお礼申し上げる」

「……確かにそんなものかもしれませんね」

 桃香には分かり難い理屈だが、同じ武人の愛紗は小さく頷き、一応の理解を示した。先日の桔梗の振る舞いを思えば、荊州人の気質というのもあるかもしれない。

「ところで、江陵には黄祖殿に言われて船を届けに来ただけか、紫苑?」

 笑いを収めると、桔梗が言った。

「……なんのことかしら、桔梗?」

「ただ船を届けるだけなら、わざわざ璃々を連れてはこまい」

「これから曹操軍の占領下に入る樊城に残して置くわけにもいきませんでしょう? 私が劉備殿に船を届けたと知られたら、璃々の身に何が起こるか」

「お主のことだ、信頼出来る預かり先の一つや二つ用意していよう。これから戦場となりかねない江陵に伴うよりは、よほど安全な避難先をな」

「さあ、どうかしらね?」

 二人の間に、奇妙な緊張が走った。

「ふふっ、そう構えるな。警戒せずとも、ワシはもう荊州軍へ戻るつもりはない。荊州軍の厳顔は劉備殿にすぱっと斬り捨てられたわ」

「斬り捨てられた?」

「まあ、その話はいずれ酒の席の肴にでも供しよう。その前にやることがあろう?」

「そうね。もしかしてわざわざ待っていてくれたの、桔梗?」

「付き合いも長い。どうせなら共にと思ってな」

 二人は目語を交わし、二度三度頷き合うと、桃香の方へ向き直って拱手した。

「劉備様、私は姓を黄、名を忠、真名を紫苑と申します」

「劉備殿、ワシは姓を厳、名を顔、真名は桔梗」

「えっ、えっ? 二人とも急にどうしたんです?」

「我らの真名、そして我らの身命を、これより劉備様にお預けいたします。お受け取りいただけますか?」

「我ら二人、劉備様の臣下の末席にお加えください」

 黄忠と厳顔は、拱手した両手を掲げ、深々と頭を下げた。





 江陵の二里(1km)手前で、先着した霞隊と華琳は合流した。
 視線の先では、原野を大河が両断している。対岸はかろうじて山影が見えるだけで、ともすれば大地そのものがそこで途切れていると錯覚してしまうほどだった。
 中華最大の河川長江へ至るのはこれで数度目だが、河水に慣れ親しんだ華琳の目をして壮観だった。
 そしてその長江の岸沿いに巨大な城郭が鎮座している。こちらは目にするのは初めてであるが、江陵で間違いない。水運を利した物資の一大集積地であり、城の規模としては州都の襄陽をも上回る。つまり衣食においても住においても、一時的に二十万の民を受け入れる余裕は十分に有しており、そしてすでにその収容を終えていた。

「追い付けなかったか」

 騎乗のまま華琳は呟いた。この場に長居するつもりはない。

「すんまへん、華琳様」

「貴方に追い付けないのなら、他の誰でも追い付けないわ、霞。私の見積りが甘かったという事よ。大したものね、雛里」

「わ、私は何も。船団を率いて黄忠さんが合流してくれた幸運に恵まれたことと、何より桃香様の人徳です」

 すでに時間稼ぎは十分と、ここまでの進軍の道すがら雛里は問われるままに劉備軍の行軍計画を明かした。
 二十万の民を引き連れての移動は日に十五里までが限度で、襄陽から江陵までの三百里を当初二十日をかけて進むはずであった。それは、華琳の予想とも合致している。
 しかし現実に要した時は、わずか十二日に過ぎない。
 進軍五日目、襄陽より七十里を進んだ地点で、老人や病人といった弱者の切り離しが行われていた。日に十五里の遅々とした進軍の最大の要因を除いた集団は、日に四十里近くを歩き、先頭は切り離しより六日目となる昨日、最後尾も霞が江陵に到着した今日の正午までには入城を遂げていた。華琳が到着したのは、霞隊からさらに六刻(3時間)遅れである。
一方で切り離された弱者の集団は、ちょうど道半ばに存在する漢津から船による移送で先立って江陵入りを果たしている。華琳達が最も肉迫したのがこの集団で、張飛の奮戦も彼らを逃がすためであった。
 雛里の言う通り、船団の合流があって初めて取り得る案であるし、桃香の人徳が無ければ弱者の切り離しを民が肯んずるとも思えない。また如何に足手まといを切り離したからといって、なおも女子供を含む集団を日に四十里も歩かせるのも至難である。華琳が同じことをやろうと思えば軍で脅しつけるしかないが、それでも自発的に歩いた彼らほどに足を速めてはくれないだろう。

「しかし、私の政を苛烈と言って逃げ出しておきながら、桃香と共にならば三百里の逃避行も物ともしないというのだから、不思議なものね。これが、好きと嫌いじゃないの違いかしら?」

「あっ、あわわっ」

 昨日の雛里の台詞を持ち出してやると、雛里が身を縮こまらせた。

「さてと、せっかくここまで来たのだから、まぬけ顔の一つも拝んで帰ろうかしらね」

「わ、私は」

「……貴方はここでお留守番よ。霞、雛里を見ていてちょうだい。季衣、流流、行くわよっ」

 馬を走らせると、虎士がすっと周囲を囲んだ。春蘭と秋蘭も何も言わず付いてくる。
 雛里に別れの言葉の一言二言交わさせてやろうとも思ったが、昨日の様子を見るに桃香と引き合せては暴走しかねない。自棄になって無理な逃走でもはかられては、さすがに黙って見逃がすわけにはいかない。結果、雛里を傷付けかねなかった。

「―――華琳様、この辺りで」

 秋蘭が、華琳の前へ回り込んで絶影を制止した。江陵の城壁まではまだかなりの距離がある。

「秋蘭?」

「敵軍には、黄忠が合流しています」

「弓の名手だったわね。しかし城壁からはまだ半里―――五百歩近くは離れているわよ」

「私と同等の腕を持つ者なら、四百歩までなら届きます。もし黄忠の腕が私より上ならば、この距離でも油断は出来ません」

「ふむ」

 言われて、華琳は目を凝らした。
 江陵の城壁上に並ぶ兵の姿がかろうじて見て取れた。しかしその中に弓を構えた者がいるかどうかまでは判別が付かない。

「おいおい秋蘭、この距離だぞ。届くと言ってもそうそう当たりはせんだろうし、へろへろの矢など飛んできたところで怖くもなかろう」

 春蘭が口を挟んだ。

「……姉者。狙い通りに当て、命を取れること。私の言う“届く”とは、そういうことだ」

「あう」

 春蘭に対して、珍しく強い口調で秋蘭が返す。弓の使い手として譲れない部分なのだろう。

「どうしますか、華琳様。楯を用意させましょうか?」

 流流が言う。

「いえ、こちらは襄陽からここまで足を運んできたのだもの。ここからは、向こうに出て来てもらいましょう」

 ここへきて楯に守られ進むというのも様にならない。華琳は思い切り息を吸った。

「―――桃香! 私が来たわ! 出て来なさい!」

 腹の底から声を出したが、城内までは届かないだろう。虎士にも唱和させた。
 しばし待つと、城壁上に並ぶ兵の列が割れ、何人かが姿を現した。一人、何となく目を引かれる。それが桃香だという事が、不思議と華琳には分かった。そう思って目を向ければ、髪も赤みがかって見えてくる。

「桃香っ! 私が呼んでいるのよっ、早く出て来なさい!」

 もう一度呼び掛けるも、桃香はじっとしている。

「何をしているっ! この私が来たというのに、そんなところで高みの見物を気取るかっ!」

 やはり動く様子の無い桃香に、華琳は少々苛立った。

「この私の誘いを断るなんて、いつからそんなに偉くなった! ―――出て来ないなら、捕虜を殺すわよっ!」

 城壁の上でようやく動きがあった。なにやらもめているようにも見える。
 やがて、城門が薄く開き桃香が姿を現した。二名が続く。三人とも騎乗していて、ゆっくりとこちらへ駆けてくる。
 次第に三人の姿がはっきりと見えてくる。供の二人は諸葛亮と関羽で、桃香が跨っているのは的盧だった。遠目にも足の太い独特の輪郭は目立つ。

「季衣と流流は虎士を連れて百歩―――いや、二百歩下がりなさい。護衛は春蘭と秋蘭だけで良いわ」

「……はいっ。春蘭様、秋蘭様、後をお願いします」

 季衣と流流は気の進まない様子ながら、顔を見合わせて頷き合うと後退した。
 桃香達は特に急ぐ様子もなく、五百歩の距離をゆるゆると詰めてくる。徐州では顔を合わせていないから、おおよそ一年振りとなるか。

「もうっ、華琳さんの嘘つき。雛里ちゃんを殺すつもりなんてないくせに」

 桃香がごく自然に口を開いた。

「ふふっ、そう思うなら出て来なければ良かったじゃない」

「あんなこと言われて放って置いたら、皆に愛想を尽かされちゃうもん」

「へえ」

 ちょっとした嫌がらせのつもりであったが、桃香はそれと理解した上で、人々の求める劉玄徳像を守るために城を出た。

「むむっ、何か言いたげな顔」

「貴方、少しは頭を使うことを覚えたのね」

「何それ、ひっどーい!」

 桃香が頬を膨らませた。

「宿題を出しても放ったらかしで、街で遊び回っていたじゃない」

「それは」

「盧植にも聞いたわよ、昔からそうだったって」

「ほ、本人がいないところでそういう話をするのは、良くないと思うな」

「あら、それなら盧植も交え三人で話し合いの場でも設けましょうか?」

「ううっ」

 二人掛かりで責められる様でも想像したのか、桃香がうめく。

「そっ、そうだ。鈴々ちゃんに良いお馬をありがとうっ」

「……いいえ、こちらこそ良いものを見せてもらったわ」

 露骨に話題を切り替える桃香に、華琳も苦笑交じりに返す。

「一千騎くらい倒したって言っていたけど」

 桃香は春蘭と秋蘭の方へちらと一瞬視線を走らせた。二人を負かしたことも聞いているようだ。

「張飛が何と言ったか知らないけれど、おおよそ言葉通りと思って良いでしょう。呂布と同等。状況によってはそれ以上かもしれないわね」

「えへへ、そう思う?」

 緊張感の無い笑みを桃香が浮かべる。

「ふふっ。―――まったく、貴方といると調子を崩されるわ。何にせよ、久しぶりね、桃香」

 春蘭に秋蘭、関羽と諸葛亮の物言いたげな視線に気付いて、華琳は空気を改めた。
 以前と変わらず気負いなく話しかけてきた桃香に、つい華琳も乗せられてしまっていた。いや、庇護者と客分という立場でなくなったためか、桃香の態度はむしろ一層気安く感じられるくらいだった。代わりに敵同士となったが、つまりそれは完全に対等な関係と言うことでもある。

「うん。久しぶり、華琳さん。それで、さっそくで悪いんだけど、―――雛里ちゃん返して」

「いやよ」

「だよねぇ。でも、そこを何とか」

「駄目」

「私と華琳さんの仲じゃない」

「今は敵同士ね」

「こんなに頼んでるのに?」

「―――あっ、あのっ、何か返還の条件などあるなら、仰って下さいっ!」

 諸葛亮が割って入った。
 またも桃香の調子に引き込まれかけていた華琳は、これ幸いと標的を諸葛亮へ変える。

「……そうね、劉琦の身柄と引き換えになら、考えてあげなくもないわよ」

「―――っ、それは」

 諸葛亮が口籠る。
 劉琦は、今後の荊州統治を考えた時、まず邪魔となる存在だった。本人にどれだけの才覚、力量があるのか知らないが、荊州を平穏に保ってきた劉表の長子なのだ。劉備軍が劉琦を前面に押し立てて進軍すれば、手向かいせず門を開く城邑も少なくないだろう。

「破格の条件よ。わずか一州。いえ、孫策に南を抑えられているからその半分ね。それだけで鳳雛がその手に戻るなら、ずいぶん安いものだと思うけれど」

 華琳もたかだか荊州北部の安寧と引き換えに雛里を手放すつもりはない。当然諸葛亮の沈黙の理由もそこにはない。劉琦がいなくても雛里と二人、知略軍略で荊州を奪い取るくらいの気概は持っているはずだ。
 諸葛亮が気にしているのは、桃香の名声だろう。ここで劉琦と仲間を引き換えにしては、これまで積み上げてきたものも地に落ちかねない。

「せっかくまけてあげると言っているのに。これが嫌なら正当な対価を要求するしかないわよ」

「それは?」

 諸葛亮が勢い込んで尋ねる。

「雛里と等価のものなんて劉備軍に、いえ、天下広しといえどもたった一つしかないでしょう?」

「……私、ですか?」

 自分の顔を指差す諸葛亮に、無言で頷き返した。

「……私と雛里ちゃん。雛里ちゃんなら―――、私は―――」

 諸葛亮がぶつぶつと呟きながら思い悩み始めた。

「はい、そこまで」

 桃香がぱんっと大きく手を打った。

「―――っ、桃香様」

「華琳さん、あんまり朱里ちゃんを苛めないでよね」

「酷い言いぐさね。ご希望通り条件を言っただけよ。それで? 劉備軍の長として、貴方が代わりに答えてくれるというわけかしら?」

「うん。雛里ちゃんはしばらくお預けします」

「とっ、桃香様っ」

「大丈夫だよ、朱里ちゃん。華琳さんが雛里ちゃんを悪く扱うはずがないし」

「いえっ、私の心配はそれだけでは―――」

「それも雛里ちゃん自身が決めることだよ」

「……桃香様はたまに、優し過ぎて残酷です」

「そうかな? でも、その方が良いと思うから」

 しばしの沈黙の後、諸葛亮は首肯した。
 雛里が多少なり曹操軍に対して好意を抱いていることは、桃香も諸葛亮も気付いているのだろう。

「というわけで華琳さん、しばらくの間、雛里ちゃんはお預けするよ」

「何か伝言でもあれば預かるわよ、諸葛亮」

「……それでは、桃香様の隣で待っている、とだけ」

「わかったわ」

 当面の問題は、これで話し終えた。

「……それで、貴方はこれからどうするつもりなの、桃香?」

「これから? とりあえずずっとお風呂に入れなかったから入って、久しぶりに布団で―――」

「そうではなくて。江陵に二十万も民を集めて、何をするつもり?」

「何を? う~ん、特に考えがあって集まってもらったわけじゃないからなぁ」

「相変わらず計画性がないわね。民もよくそんな貴方に付いていこうと思えたものね」

「それだけ皆が華琳さんの政に不安を抱いているってことだよ」

「ふん。荊州の人口はおおよそ六百万。北部だけでも三百万を超えるわ。それに私の領地から荊州に移り住んだ者達もいるわね。私の統治下には今、二千万近い人間がいる。二十万など微々たるものよ」

「微々たるもの?」

 桃香が眉をひそめた。

「ええ、そうよ。二千万の中からわずか二十万が逃げ出したというだけのこと。百人が百人とも満足する政などあり得ない。一人の不平を聞けば、九十九人に不公平を強いることになりかねない」

「それじゃあただの算術の問題だよ。百人に一人であっても、現実にこの世界を生きている人達なんだよ。苦しんでいるのを、放って置いて良いわけがない」

「だから私は、彼らに勉学の場を与え、政に参画する機会を与えたわ。自分の手で自らを、同じ境遇の者達を救うことが出来るようにね。それすら拒み、逃げ出したのが貴方の庇う二十万よ」

「逃げ出した逃げ出したって言うけど、民にとってはそれだって戦いなんだよ。それが華琳さんには分からないのっ」

「分からないわね。逃げるくらいなら、声を上げればいい。勉学に励んで政を変えれば良いっ」

「それが出来ない人がいるんだよっ。華琳さんは小っちゃいくせにいつも高いところに踏ん反りがえっているから、下々に生きる人間の気持ちが分からない!」

「―――っ、無駄に脂肪を溜めこんで、重くて跳び上がることもできないような貴方なら、さぞかし下々の気持ちが分かるんでしょうねっ!」

「むむっ、私だって跳ぶことくらい出来るもん」

 桃香が馬上で飛び跳ねるように身体をぴょんぴょんと揺らした。豊満な胸も合わせて上下に振るえる。

「……脂肪の塊をゆらすんじゃないの、見っともない」

「んん? 華琳さん、ひょっとして羨ましいんですか?」

 桃香は得意顔で言うと、胸の下に手をやってそれを突き出すようにした。

「ふ、ふんっ、仁はこれくらいの大きさが好きだと言ってくれたわ」

「―――っ」

 桃香がはっと息を飲んだ。関羽と諸葛亮も眉をひそめ、複雑な表情を浮かべている。

「……そこで曹仁さんの名前を出すのは、ずるいんじゃないかな。私の気持ち知ってるくせに。―――ううっ、涙出そう」

 桃香が肩を落とす。口調も態度もわざとらしく思えるが、言葉通り目には薄ら涙が浮かんでいた。

「……今のは私が悪かったわ」

「やっぱり、そういう関係になったんだ?」

「ええ。……そうね、考えてみれば、貴方のお蔭でもあるのよね。うちを出て行く時に、仁に色々と言い残していったでしょう?」

「ああ、そういえば。それじゃあ、それが切っ掛けで?」

「まあ、そういうことになるかしら」

「あーあ、失敗しちゃったなぁ、下手なこと言わなければ良かった。まあでも、どうせ私には勝ち目なんてなかったんだろうな。曹仁さん、華琳さんに対してだけ明らかに他の人とは違ったもん。―――うん、とりあえず、おめでとう」

「あら、祝福してくれるの?」

「まあね。でも、あくまでとりあえずだから。いけると思ったら、いつでも私は奪いにいくよ」

「ふんっ、そんな機会は来ないと思うけれど、せいぜい気を付けさせてもらうわ。―――さてと、そろそろ発たないといけないわね」

 西涼遠征軍第一陣、曹仁との合流の期日が迫っていた。
 結局馬鹿話で終わってしまったが、こんなものだろう。政に関しては、いくら話し合っても相容れない。

「久しぶりに話せて良かったわ、桃香」

「うん、私も。次もきっと―――」

「そうね。また戦場で会いましょう」

 華琳は絶影の手綱を引いた。



[7800] 第10章 第11話 交馬語
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/09/22 19:17

「と、言うわけよ」

 荊州での劉備軍との顛末を、華琳はそう言ってまとめた。

「それで雛里を連れているわけか」

 西涼軍の撤退を受けて、潼関西側に陣を移動させた。築いたばかりの本営には、曹仁ら遠征軍第一陣の将に加えて、第二陣の将として華琳と霞、稟、そして雛里の姿があった。
 雛里は形としては捕虜ということになるが、華琳は幕僚か何かのように稟と並べて側近くへ座らせていた。雛里はさすがに居心地が悪いようで、目深にかぶった帽子のつばに半ば隠した瞳を落ち着きなく彷徨わせている。

「その後はお察しの通り、強行軍で北上し武関を抜け、西涼軍の後ろを取った。この辺りは春華の献策そのままの展開ね」

「西涼軍に荊州軍、それだけじゃなくボク達まで貴方の思惑通りに動かされたってわけね、司馬懿?」

 詠が言った。

「いえいえ、私の案では何事もなく劉表から荊州北部と軍を譲り受け、それで終わりでした。それが争乱の種を江陵に残し、軍も精鋭と言える部隊は劉備軍に合流してしまうだなんて、やはり実戦は違いますわね。こんなにも想定外の事態が重なるとは思いもしませんでしたわ」

 春華が肩を竦めながら言った。
 行き場なく漂っていた雛里の視線が、春華へ注がれる。自身が捕虜になる切っ掛けを作った人物であるし、誰もが想像すらしていなかった荊州攻めの発案者となれば同じ軍師としては気にもなるのだろう。

「そういえば雛里と春華は、会うのは初めてよね。―――春華、こちらが天下の鳳雛、龐士元よ。雛里、あれは我が軍に新しく加わった司馬八達の二番、司馬仲達」

 雛里の視線に気付いたのか、華琳が言った。

「お噂はかねがね聞き及んでおりますわ、鳳雛様。いつかお会いしたいと思っておりました」

「こちらこそ、お会い出来て光栄です。桃香様―――劉備様から、洛陽で一度お会いしたと聞いております」

「ええ。私は良人と、劉備様も曹仁様と逢い引き中のようでしたので、ほとんど会話を交わすことなく別れてしまいましたが」

「へえ」

 華琳の冷たい視線が曹仁に突き刺さる。

「そういえば、ボクも見たわね。曹仁と劉備が仲良さそうに並んで歩いているのを」

 詠が追い打ちを掛けた。

「いや、違うぞ。あの時は、そう、確か洛陽の案内を頼まれてだな」

 事実をありのままに話すも、我ながら言い訳じみて聞こえた。

「……これは思ったよりも気が抜けないわね」

 華琳は何事か呟いた後、軍議の終了を告げた。
 その夜は戦陣にしては珍しく、華琳の幕舎へ誘われた曹仁だった。
 明くる日は駆け通しの第二陣のため、兵馬の休息に当てられた。華琳との合流で主将の任を解かれた曹仁は、凪と二人で虎士に体術を教えて過ごした。
 華琳の近衛である虎士は言うまでもなく武術の達者のみで構成されている。隊長と副隊長の季衣と流流こそ大仰な得物を抱えているが、大抵の者は取り回しが良く警護に向いた剣を好んで使う。しかし華琳が朝廷に出入りするようになり、最近では帯剣すら許されない場が増えている。季衣と流流に乞われ、曹仁と凪は時間がある時に虎士に無手の技を教えていた。
 夜になると華琳から誘われる前に、今度は曹仁の方から幕舎へ押しかけた。

「明日は進軍を開始するし、今日はのんびり休みたいのだけれど。行軍で疲れているというのに、昨日はろくに寝かせてもらえなかったし」

 華琳はぶつぶつと文句を言いながらも、口元を上機嫌に緩めて中へと招き入れてくれた。

「湯浴みをしていたのか?」

 華琳の頭の左右の巻き髪が湿り気を帯び、いつもより重たく揺れていた。戦陣でわざわざ湯を使うのは珍しい。

「別に貴方のためじゃないわよ」

 頬をわずかに紅潮させ、華琳はそっぽを向いた。
 翌日、第二陣の歩兵二万を潼関に残し、弘農王と馬騰の籠もる長安へ向けて進軍が開始された。
 騎馬隊は本隊の一万に、曹仁の一万、霞の二万、蹋頓率いる援軍の烏桓兵二万で、総勢六万騎に及ぶ。
 歩兵は変わらず十万。第二陣の歩兵四万のうち二万は、初めから合流せずに武関に留め置かれているため、陣容も第一陣からの変更はない。
 歩騎合わせて十六万―――関の守備も含めれば二十万という兵力は、官渡での袁紹軍との決戦をも上回り、曹操軍にとって過去最大の動員数となった。
 といって気を緩めることは出来ない。武関を抜けての奇襲によって五、六千は討ち取ったが、いまだ西涼軍には九万以上の騎兵がおり、その練度も曹操軍の騎兵に劣らない。何より、馬超がいる。
 霞隊二万騎が先行し、歩兵が後に続いた。曹仁隊一万騎は本隊の一万騎と合わせ二万とし、烏桓兵二万騎と共に歩兵の左右後方に付いた。二万騎を頂点とした三角形の中を、歩兵が進む格好である。華琳は歩兵の中核で、曹仁隊の歩兵を旗下に置いている。
 時折敵軍が数千から一万騎の規模で姿を見せ、三角形の周囲を付かず離れず巡っていった。斥候の兵力ではなく、誘いの手だろう。騎馬隊だけ引き離し、数で勝る騎兵同士の勝負に持ち込むか、あるいは騎馬隊の援護を失った歩兵を叩きたいのか。
誘いには乗らず、陣形を乱さず歩兵の速度で進軍を続けた。
 潼関から長安までの四百里。一日進むと、ずっと南に見えていた崋山の山並みも尽き、視界がぐっと開けた。北へ目を転じれば渭水の照り返す光が白線を引き、進軍路にそって真っ直ぐ伸びていく。長安は渭水の南岸である。
 三日進むと、こちらが誘いに乗る気がないのを理解したようで、西涼軍が姿を現すこともなくなった。
そして四日目、行く手を騎馬の大軍が阻んだ。





 一里ほどの距離をおいて、十六万の曹操軍が制止した。

「―――っ」

 男達が、示し合わせたように同時にごくりと喉を鳴らした。
 いざ大軍と対峙すると、日頃威勢の良い各軍閥の頭達も気圧されたようだった。
 無理もない。それぞれに数千から一万の兵を抱えてはいるが、戦と言えば互いが互いを攻め合ったり、異民族や賊徒を打ち払う程度のものだ。これほど大規模な会戦を経験した者はいない。
 翠は反董卓連合で、総勢三十万を超える戦にも参加しているし、つい先日には一万騎で曹操軍に奇襲も仕掛けている。

「騎兵の数ならこっちが上だ。こっちから攻めなければ、歩兵なんてただの置物と同じだ」

 長安から一万五千の増援があり、総勢は八万騎となっている。
 馬騰軍から送られてきた一万騎は翠の隊には混ぜず、蒲公英に指揮を任せた。韓遂軍は総兵力一万のうち五千の兵を出してきたが、腹心の成公英や、“馬超に勝った男”として有名な閻行に指揮を取らせるつもりはないようだった。韓遂に近しい軍閥の隊に援兵の形で加わっている。力を温存でもしようと言う肚だろう。
 長安にはこれで、馬騰軍一万と韓遂軍五千、それに志願者からなる新兵の隊が五千を残すのみだ。新兵の指揮は龐徳―――廉士だが、馬騰軍の所属ではなく天子直属の軍という扱いだった。

「そっ、そうだな。いくら曹操自らの指揮といっても、騎馬の戦なら負けはせん」

 翠の言葉を受け、成宜が声を励ました。
 成宜は西涼では第三の勢力を誇る人物である。西涼では主だった十の軍閥を関中十部、そこから馬騰と韓遂を除いて成宜を筆頭とした関中八部などとも呼ばれる。八人の軍閥の長を馬騰派、韓遂派に分けるなら、成宜はやや馬騰派寄りと言える。翠としては心強い存在だった。

「うむむ、曹操か」

 楊秋が漏らした。
 この男は完全な韓遂派で、馬玩や梁興と共に韓遂からの増援を軍団に加えている。

「曹操が怖いのか、楊秋?」

「そういうお前は怖くないのか、馬超? 西涼まで聞こえた飛将軍呂布を下し、袁紹との戦では一度に五万人をぶっ殺したというぞ」

 自らの怖気を隠さず楊秋が言う。翠にとっては曹操以上に不快な韓遂の支持者だが、妙に憎めないところのある男だった。

「いや、五万殺しは天人と噂される曹仁の仕業と聞いたぞ。曹操は領内を駆け回って、孫策や劉備を蹴散らしたとか。孫策と劉備も、相当な将だと聞くがな」

 李堪が言った。この男は馬騰からも韓遂からも距離を置き、中立を保っている。

「……曹操に曹仁か」

 成宜が再び語気を弱めた。

「ちょっとちょっと、お姉様。戦う前からこれじゃ、まずいって」

 蒲公英が耳元で囁いた。頭がこの分では、兵の怯えはそれ以上だろう。

「そうだな。―――お前達、その曹操を見てみたくはないか? 開戦の挨拶というやつだ。姿を見せてもらおうじゃないか」

 翠が言うと、八人の男達は顔を見合わせた。実物を目にすれば、その小さな形(なり)に胸中で育てた巨大な曹孟徳像はかき消えるだろう。

「交馬語か。誰が行く?」

 楊秋が言うと、自然に馬騰の名代である翠とこの場では最大勢力の主である成宜に視線が集まった。
 交馬語は、西涼軍閥や騎馬民族の間で好んで行われる会談方式である。将だけが馬を進め、敵味方の兵に環視されながら馬上会談を行う。中原でも似たような形で舌戦が行われるが、あれは兵に聞かせて士気を鼓舞するためのものだ。交馬語は、あくまで将と将が語り合う事が目的だった。舌戦になってしまえば、武骨な涼州の武人では曹操の弁舌には到底敵わない。

「それじゃあ、あたしが行くか。曹操とは知らない仲でもないし」

「う、うむ」

 翠が言うと、成宜がほっとした表情で頷いた。

「それじゃあ、行ってくる。」

「きゃっ、―――もうっ、危ないなぁ」

 銀閃―――愛用の槍を蒲公英に投げ渡し、馬を走らせた。交馬語は無手で臨むものである。
 半里進み、ちょうど両軍の中間点で足を止めた。

「さてと、曹操は受けるかな? まっ、出て来ないなら来ないで、あたし達を怖がってるってことだ」

 思い付きで口にした交馬語だが、我ながら悪くない手に思えてきた。曹孟徳が姿を見せれば、少女の姿に成宜達は強気を取り戻すだろうし、出て来ないなら来ないで相手の弱気を言い立ててやれば良い。

「おっ」

 曹操軍から、一騎駆け出してきた。瞬く間に半里を駆け抜け、見事な馬術で翠の眼前でぴたりと止まる。

「曹操じゃなくお前が来たか」

「詠―――賈駆から聞いたが、舌戦ではなく交馬語ってのが望み何だろう? 弁舌を振るう必要がないなら、華琳が出張る必要もない。そちらも馬騰でも韓遂でもなく、あんたなんだしな」

 曹仁だった。

「それもそうか。まあ、お前が相手なら不足はない」

 思惑とは違うが悪くはない。成宜達は天人曹仁の名にも恐怖を覚えているようだったし、筋骨隆々の涼州の男達と比べると、小柄な曹仁は遠目にも迫力に欠けて見えることだろう。

「それで? 何か話があるんだろう?」

「それはだな―――」

 何を話すかまるで考えていなかったことに、翠は気付いた。

「なんだ? まさか呼び立てておいて何もないのか?」

「えっと、そうだな。……ああ、そうだ。妹の傷の具合はどうだ?」

「……挑発しているのか?」

「ああっ、いやっ、そうじゃなくて、あっ、あの襲撃に関しては悪かった」

 翠は慌てて打ち消した。

「まあ、あんたの意に染まない襲撃だったのは理解してるさ。妹ならもう元気にしているよ。大事を取って、今回は連れて来ていないけどな」

 曹仁が肩を竦めながら言った。

「そうか、なら気兼ねなく戦わせてもらう」

「ああ」

 それで会話が途切れた。わざわざ全軍の前に呼び出して置いて、これで終わりというわけにもいかない。話題を探して、翠は視線を彷徨わせた。

「……愛馬が三頭いるという話だったが、毛並から察するにその馬が麒麟か?」

「おっ、良く分かったな」

 頭を捻っていると、見かねた曹仁が話題を振ってくれた。

「西涼でもこの毛並みは珍しいんだ。確か曹操の馬もそうだったよな」

 麒麟には黄みがかった毛色に連銭状の斑模様がある。それが遠目には鱗のようにも見えることから、龍の顔と鱗を持つとされる聖獣の名を付けた。

「ああ。絶影は葦毛だが」

「絶影というのか。お前の白鵠もそうだが、西涼でもなかなか見られない見事な馬だ」

「一人で三頭も名馬を抱えておいて、よく言う。他の二頭、確か紫燕と黄鵬といったか?そいつらも連れてきているのか?」

「ああ、存分に駆け回らせてもらう」

「まあ、相手が誰だろうと、俺と白鵠は負けるつもりはない」

「あたしと麒麟、それに紫燕と黄鵬だって負けないさ。何なら、どっちが上か試してみようか?」

 言うやいなや、ぎゅっと脾肉に力を込めた。麒麟が大きく踏み込み、後ろ足を小刻みに踏んで即座に反転する。これで曹仁と白鵠の後ろを取れるはずだった。

「むっ、やるな」

 白鵠の後足が、視界の端を抜けていく。小さく円を描いて、逆にこちらの後ろを取りに掛かっている。麒麟は数歩前に出て、そこから白鵠とは逆向きに回る。
 半円を描いたところで、白鵠と向き合い馳せ違った。





「いやあ、さすがに大したものだ」

「貴方は、何をしてきたのかしら?」

 陣地に戻った曹仁を、華琳は眉をひそめ迎え入れた。

「白鵠と馬超の愛馬の麒麟、そして俺と馬超の馬術の勝負を。いくら続けても決着が付きそうになかったんで分けてきたが、馬超には他に二頭もあんな馬がいるということだからな。俺は白鵠以外の馬とあそこまで意を通わすことは出来ない。数の差で、俺と馬超の馬術では俺の負けってことになるか? 白鵠が三頭のいずれにも負けるとは思わないが」

 華琳の様子を気にもとめず、曹仁が興奮した口調で言う。

「ずいぶんと饒舌ね」

「だって見たか、馬超の奴のあの馬を。恋の汗血馬もすごかったけれど、軍馬としては麒麟の方が上かな」

 馬騰に伴われて馬超が入朝した時も話が弾んでいたが、馬好きという一点で二人はひどく気が合うようだった。

「だから、貴方は、何をっ、してきたのかしらっ?」

「……ええと、さっきも言ったが、馬術の勝負を」

 一言一句強調して問うと、ようやく華琳の不機嫌に気付いて曹仁が声を小さくした。

「馬を遊ばせてイチャイチャしているようにしか、見えなかったのだけれど?」

「いや、後ろを取り合って、あいつの馬と白鵠、どっちの足が上か勝負していたんだが、……イチャイチャしている様に見えたか?」

「そうとしか見えなかったわよっ」

「……へえ」

 曹仁が頬を緩めた。

「何よ、その顔は?」

「いや、それってつまり焼き餅を焼いたってことだろう?」

「なっ―――、ふふふ、なかなか面白い冗談ね」

「……気の弱い者ならそれだけで卒倒してしまいそうな笑顔を向けるのは、やめてくれ」

「それなら問題ないわね。この状況で冗談を言える貴方の気が弱いわけがないもの。―――それで? 戦に関しては何か言っていた?」

 冷ややかな笑みを収めると、華琳は問うた。

「ああ、日が中天に至ると同時に勝負だってさ。おおよそ二刻(1時間)後ってところか」

 空に浮かぶ太陽を確認しながら曹仁が言った。

「すぐに始まるわね。貴方も隊へ戻りなさい」

 命ずるも、曹仁は動く気配を見せずに口を開いた。

「―――この戦、俺を錦馬超に付けてくれないか? あの敵は、片時だって目を離してはいけない相手だ」

「そりゃあずっこいわ、曹仁。一番おいしいところを持っていくんか?」

 反応したのは霞だった。交馬語、というより曹仁と馬超の駆け合いに興味を引かれたらしく、本陣前まで観戦に来ていたのだ。

「今の霞の隊じゃ、厳しいと思うぞ」

「むっ、なんやて?」

 霞が声を荒げた。

「一万が二万に増えればただでさえ動きが落ちるのに、軍制の異なる袁紹軍からの増員だ。荊州からの長駆でかなり動きをすり合わせたみたいだけど、まだ馬超の一万騎には及ばない」

「―――ちっ、しゃーない、ここは譲ったるわ」

 思うところがあったのか、異論を差し挟むことなく霞は折れ、自分の隊へと駆け戻っていった。

「ずいぶんと買っているじゃない。西涼の騎兵を侮るつもりはないけれど、呂布と競い合い、麗羽の大軍を破った我が軍の騎馬隊はすでに天下第一と、そう認識していたのだけれど」

「馬超だけは特別だ。反董卓連合の時に何度もやり合って、潼関でも奇襲を受けたが、ものが違う。俺は恋の赤兎隊を思い出したよ」

「ふむ。確かに初見で連環馬を避ける獣じみた戦勘は、呂布に近いものがあるのかもしれないわね」

 呂布のような存在は当代無二。覇王項羽や光武帝劉秀が如き、特別な存在と思っていた。だが先日の張飛といい、いるところにはいるものだ。

「なんだ? 俺の顔に何か付いているか?」

 しかし凡庸と言い切ってしまって決して言い過ぎにはならないこの男が、その呂布や馬超が得意とするところの武芸や馬術で二人に迫ろうというのだから不思議なものだ。
 環境に恵まれたこと―――それこそ天子の言うところの縁か―――と、本人の努力の賜物だろう。その努力の源泉が、幼少期に一目惚れした自分に対する見栄によるものだと思えば、我が情人ながら可愛らしいものだ。

「……ひょっとして俺に見惚れてるのか?」

「貴方もさっさと隊に戻りなさいっ。やるからにはしっかり馬超を抑えなさいよ!」

 調子に乗り始めた曹仁を、追い払うように華琳は送り出した。



[7800] 第10章 第12話 速戦
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/10/07 18:51
 日が中天に差し掛かった。
 横並びに並んだ各隊は互いを牽制し合うように、すぐには動き出さない。
 十の軍閥のうち韓遂の隊のみ存在せず、馬騰軍は翠と蒲公英で隊を分けているため、全部で十隊だ。形の上では成宜が、実質的には翠が主将であるが、わずかな取り決めだけであとは各々が自由に戦う様に伝えてあった。十の軍閥の関係は複雑で、今でこそ長安の天子の元にまとまってはいても、つい数ヶ月前まで敵対関係にあった者達もいる。出来もしない連係を取るよりは、それぞれが功を競い合う方が西涼武人の気性には合う。
 正面、わずか一里の距離にいる曹操軍は、十万の歩兵を三隊に分けて陣取っている。中軍を下げ、両翼を前に突き出した鶴翼だが、各隊が一里余りも距離を置いていた。各個撃破の狙い目とも思えるが、当然騎馬隊はそれを阻みに来るだろう。騎兵も二万騎が三隊で、それぞれに歩兵部隊に寄り添うように布陣している。三万強の歩兵と二万の騎馬隊を組み合わせた三軍、と単純に考えればいいのか。それとももっと流動的に動くのか。
 いずれにせよ、はじまってしまえば長い戦になる。西涼軍は敵本隊の歩兵部隊を攻めるために、まず騎馬隊を攻略しなければならない。曹操軍は戦力の半数が歩兵である以上、騎兵に対しては決定力に欠ける。一日で決着が付く戦とは到底思えず、軍閥の頭達と取り決めたのも軍を後退させる際の手筈である。

「……」

 視線を感じて目を向けると、すぐ隣の騎馬隊の中から蒲公英がじっとこちらを見つめていた。いや、蒲公英だけではない。残る八隊からも同じような視線を感じた。翠と同様に騎馬隊の先頭へ出ている軍閥の頭も何人かいて、目が合うと慌てて顔を伏せた。

「……行くか」

 狙い目はまだ見えない。とりあえずはと、一番近場の騎馬隊目掛けて駆けた。西涼軍側から見て左翼の歩兵に寄り添う二万騎。深みのある紺色に張の一字。西涼にも聞こえた紺碧の張旗―――張文遠の隊だ。
 蒲公英の一万騎を含む数隊が後に続いた。他の隊も動き始めている。
 紺碧の張旗が前へ出た。わずか一里の距離での対峙であったから、すぐに距離が詰まる。互いに十分な加速を得られてはいない。進路を横―――敵歩兵部隊を避けるため左―――にわずかに逸らし、馳せ違った。後に続いた他の隊も翠に倣う。
 駆ける先へ騎馬隊。一つの旗竿に、旗が二つ。黒地に白抜きで曹と、白地に黒字で天。どちらも示すところは一人だ。中軍の歩兵部隊に付いた二万騎、天人曹仁の隊である。
 先頭に曹仁の姿が見えた。白馬に白い具足であるから否が応でも目立つ。
 皆の士気を盛り上げるために望んだ交馬語は、西涼で随一の翠に劣らぬ曹仁の馬術を見せつけられる結果となり、失敗に終わっている。ここで一手返すべきか。

「……いや、まだ無理をするには早いか」

 翠はさらに進路を左へ逸らした。同じ方向へ、曹仁も逸れる。

「むっ」

 さらに左へ、左へと馬首を巡らせるも、曹仁も続いてくる。結果、並走して左へ駆ける形となった。蒲公英ら後続の隊は続いていない。曹仁の二万騎のうち半数の一万騎が残り、行く手を阻んだようだ。

「何のつもりだ?」

 数十歩の距離を置いて、曹仁と並んで駆けている。馬を寄せて問い質してやりたい気分だが、さすがにそうもいかない。
 五里程も駆けたところで、曹仁隊は足を緩めた。翠は逆に足を速め、十分に引き離したところで反転、制止した。
 曹仁隊も足を止め、こちらと対峙の形を作っている。歩兵が陣を布いた主戦場へ戻ろうという気配が見えない。

「馬術では付かなかった勝負を、ここで付けようってわけか」

 天人曹仁率いる一万騎を同じく一万騎で引きつけて置けるなら、悪い話ではない。主戦場では騎兵の兵力差が、さらに際立つこととなる。
 翠は銀閃を軽く扱くと、気合を入れ直した。





「ありゃー、やっぱりお姉様、警戒されてるなぁ」

 翠が単独で、主戦場の外へ追いやられた。

「援護に向かわなくて良いのか?」

 張衛が言った。
 張衛は長安に留め置かれていたが、増援に混じって駆けつけてくれた。漢中より伴った兵は五百騎であるが、いま率いているのは五十騎余りである。兵力を温存しようというのではなく、西涼騎兵の戦に付いて来れそうな兵がそれだけだったらしい。その五十数騎も武器を振るうまでには至らず、張魯から授けられたという米粒が入った麻袋を握り締め、ただ騎馬隊の動きに付いてくるだけである。戦の役に立つとも思えないが、邪魔になるほどでもなく、蒲公英の隊に加えていた。
 指揮官の張衛だけは最低限の武術と馬術は修めているようで、今もこうして早足で駆けながら蒲公英と口を利く余裕くらいは保っている。

「まあ、お姉様だし大丈夫でしょ」

 いくら相手が天人曹仁と言えど、こちらも錦馬超だ。翠が騎馬隊の戦で後れを取るというのは、反董卓連合で見たあの飛将軍呂布が相手でもない限り、有り得ない事と蒲公英には思えた。

「むしろ不安があるのはこっちかな?」

「こちらが? 馬超殿が曹仁と一万騎を引き受けてくれるなら、ずいぶんと楽になったのではないのか?」

 騎兵五万、歩兵十万の曹操軍に対して、西涼軍は七万の騎兵となる。こちらから歩兵を攻めることさえしなければ、数の上では確かにさらに有利になったと言える。

「数だけはね。でも敵は曹操自らの指揮で、曹仁がいなくてもまだ張遼がいる。烏桓の前の単于だった蹋頓だって弱いはずがないし、歩兵を率いてる張燕とか楽進なんかも歴戦の将。こっちはお姉様がいないと、かなり見劣りしちゃうよ」

「馬岱殿がいるではないか」

「いやいやいや、わたしなんてお姉様と比べたら―――」

 張衛と会話を交わす間にも、翠と曹仁を抜きで戦が動き始める。自然、西涼軍の中心は成宜と、不本意ながらも蒲公英が担う形となった。
 西涼軍が歩兵との衝突避ける以上、曹操軍は張遼隊と烏桓兵が中心となった。曹仁が残していった一万騎は、予備隊と言う様相で歩兵部隊の側に留まっている。
 実質七万騎で四万騎を攻める形だが、攻めきれず、むしろ押し込まれた。張遼が果敢に攻め込み、烏桓兵が距離を取って騎射を放つ。こちらが張遼を攻めようとすれば矢が降り注ぎ、烏桓兵との距離を詰めようとすれば張遼が遮りに掛かる。西涼兵が実際にぶつかる相手は終始張遼隊ということになるが、これが手強かった。
 蒲公英が朝廷に出仕し始めた時期、張遼隊は洛陽に駐屯していた。此方は宮中、彼方は軍営と、張遼とはほんの数回しか顔を合わせる機会はなかったが、遠目にも精強な軍であることは見て取れた。それも当然で、中原最強と呼ばれた呂布軍の騎馬隊を引き継いだものである。さらに大元を辿れば、董卓に付き従った西涼騎兵だった。
 同じ西涼騎兵と言っても、明らかに西涼軍閥の兵よりも張遼隊は戦の経験を積んでいる。あの時よりも兵力を増しているから、他所からの増員もあったのだろうが、練度は依然高い水準で保たれていた。

「確かに、馬超殿がいないとこちらの損害が広がるな」

 張衛が言った。不慣れな重責ある立場に付かされた蒲公英には、張衛という話し相手の存在は有り難かった。

「うん、でも思ったよりも悪くないかも」

 練度でこちらに優る上、弓騎兵の援護を受ける張遼隊が相手である。ぶつかる度、確かにこちらの犠牲が多い。しかし九隊―――時折視界の片隅に見え隠れする錦の馬旗も含めると十隊―――が駆け回っているから、張遼もこれと狙いを定めて攻め切れずにいた。
 西涼軍の犠牲が多いと言っても、二倍とまではいかない。せいぜい、二騎を倒す間に三騎が倒れるといった程度だ。
 消耗戦になれば、領内に引き込んだ形の西涼軍が当然有利である。まだ長安には温存戦力があり、新兵も集まり続けていることを思えば、騎兵兵力の差がそこまで縮まることはない。新兵と言っても元が西涼の男達であるから、軍の質が落ちる心配もない。
 それどころか、現状である程度拮抗した戦が出来るのなら、翠が曹仁を討ち戦線に戻れば、一息に張遼隊を崩してそのまま短期決着も十分あり得る話だった。





 戦場は歩兵の布陣を中心におおよそ二十里(10km)四方まで広がっている。とはいえそれぞれが一万騎近い西涼軍の騎馬隊九隊に、二万騎の霞と蹋頓が入り乱れているから、狭いぐらいだった。
 西涼軍の数隊が、蹋頓の騎射を嫌って後退してくる。馬超がその影に入った。足を緩めて、曹仁も馬超から死角になる位置へ隊を動かした。
 同時に、影から飛び出す。
 馬超は他の西涼軍と接近して目眩しに使うことはあっても、そちらの戦線に介入する気配は見せない。まずは曹仁が相手と思い定めてくれたようだ。
 一万騎と一万騎が馳せ違う。反転し、やはりもう一度馳せ違う。
 すでに何十度繰り返したか分からない攻防だ。互いに有利な位置を求めて駆け巡る。開戦前の交馬語の再現だった。
 ここまで双方とも片手で数えるほどしか損害は出していない。乱戦に陥ることは一度もなく、触れ合うことすらほとんどないままに駆け合った。緩急を付けることはあってもそれ以外は疾駆の連続で、これ以上駆ければ馬が潰れるという限界のところで、どちらからともなく槍を引いて休息を取った。ある意味で騎馬隊の駆け合いの理想とも言える。
 歩兵のぶつかり合いでは、練度に決定的な差でもない限り敵味方双方の犠牲は避けられない。しかし騎兵の戦では、用兵次第で敵を一方的に叩くことも可能なのだ。普段なら七分か八分の利を見定めて攻勢に転じるが、それはある意味では妥協の結果と言える。馬術の勝負で付けられなかった決着を求め、今、曹仁と馬超は完璧な勝利の機を探っていた。
 中天から二隊のこれまでの移動経路を眺めたなら、複雑に絡み合い、されど決して交わらない一対の大蛇のように見えるのではないだろうか。

「まだ足りないか」

 数度の反転の後、馬超がわずかに先を行った。距離にしてほんの数歩分。普段なら気付かないような微々たる差を、曹仁は鋭敏に感じ取った。
 曹仁隊の騎兵は曹操軍の最古参と言って良い。半数は兗州で独立して以来の、残る半数も青州黄巾賊を吸収した時点で軍に加わった者達だ。騎馬の動きはこれ以上なく最適化されている。良馬で揃えた馬の質も、西涼軍に決して劣るものではない。つまり後れは、曹仁自身の判断の後れである。

――――動きだけではなく、思考も最適化しろ。

 思案し、決断する時間は必要だ。しかしこう動くと決めてから、実際に指示を出すまでの間に一瞬の逡巡がないか。思考にまで至らない、ただ躊躇うだけの瞬間だ。それは決断に影響しない、思い悩む振りをしているだけの時間だった。
 思考から、意図的に逡巡を締め出す。三度騎馬隊の動きを変える間に、馬超の指揮に追い付いた。

「どこまででも行ける」

 無意識に口に出していた。
 そこにいるだけで、軍の格を一段引き上げてしまうような武人がいる。
 一千の兵から一千の全力を出すことは曹仁にも出来る。ここぞという瞬間に一千二百、三百の力を引き出すことも出来る。しかし二千にも三千にも底上げするような真似は出来ない。それは、誇張ではなく軍神と呼ばれるような者達の所業だ。
 愛紗のようにはなれない。春蘭にもなれないし、鈴々にもなれはしない。恋は、はるか遠かった。馬超も本来、曹仁にとってそんな高みにいる武人である。
 不思議な感覚があった。反董卓連合で干戈を交えた折には感じられなかったものだ。馬超の鋭過ぎる用兵が、曹仁には己が事の如く予測出来た。そして馬超の思考をなぞることで、曹仁の用兵もまた鋭さを増すようだった。
 直前に馬を競わせたのが良かったのか。あるいは今回は借り物の兵ではなく、気心の知れた旗下を率いているからか。届かぬはずの高みに、手が届こうとしている。

「ははっ」

 自然と笑みがこぼれていた。
 これまで戦争を楽しいと思ったことはなかった。
 武術は嫌いではないし、一騎討ちの昂揚感も悪くはないが、それなら刃引き刀や棒で技量を競い合う模擬戦の方が楽しかった。騎馬隊で駆け回る爽快感は得難いものだが、白鵠と二人で駆ける遠乗りの方が心安かった。
 軍での生活自体は性に合っている。厳しい調練の後に兵と囲む火や、大鍋一杯に作られた野戦料理、時にはわずかな酒を飲むのも良い。そうした軍の空気は間違いなく曹仁にとってこの世界で好ましいものの一つである。しかし、戦自体は決して好ましくはない。
 春蘭や霞などは実に楽しそうに戦をするし、華琳にもその傾向はある。平和な世界で生まれ育った曹仁は、そうした感情は忌むべきものと遠ざけてきたのだ。
 目の前の馬超はまるで自分の庭とでもするように、戦場を実に伸び伸びと往来する。そんな馬超との駆け引きに、曹仁は初めて心から戦を楽しんでいた。

「―――?」

 側を駆ける陳矯が、笑う曹仁を不思議そうな顔で見つめた。





 開戦より七、八刻(三時間半から四時間)が経過した。
 戦の進行と共に、各軍閥の力量が浮き彫りとなった。主力として戦を動かしているのは蒲公英と成宜は当然として、李堪、張横といった軍閥の隊だ。
 逆に、馬玩、梁興、楊秋の隊は動きが悪い。張遼や烏桓兵に攻められると、いつも他より多くの犠牲を出している。いずれも韓遂の影響下にあり、韓遂からの増援を受け容れた隊だ。兵力こそ増しているが、韓遂の兵を矢面に立たせるわけにも行かず、援軍を本隊が守るという歪な形を余儀なくされているようだった。
 同情する気にはなれない。翠ほど露骨に感情を表に出しはしないが、蒲公英にとっても韓遂は一門の仇である。その軍門に自ら降った者達に、掛ける情けはなかった。
 曹操軍は、張遼隊が一千騎ほど兵を失っている。このままでは拙いと思ったか、曹仁が残していった一万騎も戦線に加わり始めていた。
 一万騎には公孫と書かれた旗が立っている。曹仁や張遼ほどに華々しい印象は無いが、公孫賛もまた騎兵の戦で名を上げた人物である。洛陽の天子に任ぜられた雍州牧で、弘農王―――長安の天子を伴って西涼へ帰還した折に、長安で一度、潼関で一度撃ち破っている。しかしいずれも城塞に籠もる公孫賛軍に対して、予め内通する兵を潜ませた上での勝利だ。さすがに白馬長史の異名で恐れられただけあって、野戦での実力は侮れないものがある。
 とはいえ曹操軍騎馬隊の主力は、やはり二万騎の張遼隊だろう。唯一一万騎編成の公孫賛の隊も、騎射を活かして距離を取って戦いたい烏桓兵も、張遼隊の支えの元で戦を展開していた。

「みんなー、左へ避けて!」

 張遼隊の突撃を、蒲公英はぎりぎりのところで回避した。
 成宜、侯選、程銀の三隊と共に張遼隊と対している。こちらは四隊合せて四万近い兵力だが、しばしば押される。互いに手柄を競い合ってはいても、正面からぶつかって犠牲を引き受けようという者はいないため、張遼隊が攻めに転ずればこちらは下がらざるを得ない。
 他に李堪、張横、楊秋の三隊が公孫賛隊を追い回し、馬玩、梁興の二隊は逆に烏桓兵に追われている。

「あの先頭にいたのが張遼だろうか?」

「うん。洛陽で顔を合わせた時は、乗りが良くて小粋なお姉さんって感じだったけど、戦場だとやっぱり大迫力」

「確かにな。私の首など、簡単に刎ねられそうだ」

 その瞬間を想像したのか、張衛が自分の首を大切そうに撫でながら言った。
 西涼の男は腕っ節に過剰の自信を抱く者が多く、大言が常であるから、張衛の反応は蒲公英には新鮮であった。
 張遼隊が、今度は成宜に狙いを定めた。成宜は騎馬隊の先頭で槍を振り回しているが、やはり張遼とぶつかることは避け、馳せ違った。軽く隊列を擦り合わせ、双方が数騎の犠牲を出している。
 大言壮語の西涼武人も、やはり張遼は怖いようだった。西涼軍で張遼を討ち取れる者がいるなら、それは翠だけだろう。
 翠は曹仁との勝負にまだかかずらっている。反董卓連合の際も決着は付かなかったが、あの時は広大な大地を自由に駆け回り、日に何度か干戈を交えるだけだった。今回は見晴らしの良い平原の限定された空間内で、しかも同数でのぶつかり合いだ。この条件で翠がここまで時間を取られる相手がいるというのは、蒲公英には驚きだった。
 戦は大きな動きもないまま、西涼軍四万と張遼の二万で拮抗した攻防が繰り返された。日はかなり西へ落ち始めている。
 あと数度の攻防で、今日の戦は分けだろうか。蒲公英がそんなことを考え始めた矢先、均衡を破る変化がもたらされた。李堪、張横、楊秋に追われた公孫賛隊が、蒲公英ら西涼軍四隊と張遼隊のぶつかる戦場に飛び込んできた。
 成宜が馬首を巡らし張遼隊へ背を向けると、公孫賛隊へと迷わず突っ込んでいった。まともに受け、公孫賛隊は隊列を乱し後退していく。
 下がる先に、曹操軍歩兵部隊の両翼があった。
 李堪と張横の隊が、ほとんど潰走という態の公孫賛隊を両側から絞り上げて、左右どちらかの歩兵部隊と合流するのを防いだ。成宜と楊秋が後方から追い撃ちに討つ。一万騎を壊滅まで追い込みに掛かっていた。
 ここは、多少の犠牲は覚悟する局面だろう。蒲公英は侯選、程銀と共に、助けに入ろうとする張遼の騎馬隊の行く手を遮った。この期に及んで張遼隊は正面衝突を避け、歩兵部隊の後方まで進路を逸らした。
 公孫の旗が、李堪と張横に挟まれ、成宜と楊秋に追い立てられ、歩兵部隊の左翼と右翼の間を潜った。

「あっ、まずいかも」

 曹操軍歩兵部隊は中軍を下げ、おおよそ一辺一里の三角形に布陣している。両翼の間を潜れば、当然その先には中軍が待ち受けている。とはいえ三隊の配置に距離があるため、中軍と両翼どちらかの間を抜けるのは容易いはずだった。だから警戒心もなく、成宜達はその内に踏み込んだのだ。
 中軍と左翼の間で、潰走していたはずの公孫賛隊が足を止めて道をふさいでいた。同時に三角形の頂点―――三隊の歩兵部隊が、中心へ向かって一斉に駆け始める。
 成宜はそこでようやく危険を察し、追撃を切り上げて中軍と右翼の間に退路を求めた。そこを紺碧の張旗がふさぐ。そこへ追いやったのは蒲公英達である。いや、追いやらされたのか。
 後方へ下がろうにも、四つの軍閥の兵で混み合い、すぐには反転出来ない。逃げ場はなかった。成の旗が歩兵の波に飲まれていく。

「助けないとっ」

 この時ばかりは各軍閥の隊が協調して歩兵部隊へ向かうも、烏桓兵が阻む。張遼隊と公孫賛隊も、動き始めた。すでに二隊が行く手を阻むまでもなく、歩兵部隊と成宜ら西涼軍は渾然一体と化していた。離脱出来たのは最後尾にいた楊秋の隊だけで、成宜に加えて李堪、張横の隊も歩兵の中に取り込まれている。

「くっ、よりにもよって主力の隊ばかり」

 当然、偶然ではないだろう。公孫賛が歩兵三隊の内に逃げ込んだのはこれが初めてであるが、西涼軍に追い立てられる展開はこれまでにも何度もあったのだ。その度危険にさらされながらも、こちらに大打撃を与えられる瞬間を辛抱強く待ったということだ。自分の隊が難を逃れた巡り合わせに、ここは感謝すべきか。

「―――っ、後退っ、後退ーっ!」

 烏桓兵の騎射の矢が、蒲公英の馬の足元に突き立った。
 成宜ら三隊―――おおよそ三万騎が歩兵に捕らわれ、騎兵兵力は逆転していた。曹操軍五万騎に対して、西涼軍四万騎。戦場の中心―――曹操軍歩兵と成宜らの混戦から遠ざけられていく。

「これが中原の戦。ただ騎馬で駆け回るだけのわたし達じゃ、勝てないってこと?」

 呆然と呟く蒲公英の視界の先で、李の旗が伏せられ、すぐに張の旗も消えた。成の旗はしばし耐えるも、やはり半刻とせずに倒れた。



[7800] 第10章 第13話 好敵手
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2016/11/18 18:48
「陛下、韓遂様っ」

 ずかずかと謁見の間に踏み入るなり、閻行が胴間声を上げる。
 騒がしさに韓遂は思わず眉を顰めそうになるが、努めて顔には出さなかった。天子も西涼人の無作法にはもう慣れたのか、気にした素振りもない。

「曹操軍が姿を現しましたっ!」

 びくりと、天子の肩が震えた。

「……ああ、すぐに行く。先に配置に付いておけ」

 長安郊外での会戦に怯える天子を励ますための謁見中である。閻行の気の回らなさには頭が痛くなるが、注意して治るものでないことは骨身に沁みていた。早々に謁見の間より追い出すに限る。

「俺の出番はまだですかい? この俺の手に掛かれば―――」

「そうだな。考えておこう」

「……」

 最後に念を押すように一度強い視線をぶつけてくると、閻行は謁見の間を辞した。長安の守備隊に配されたのが、よほど気に入らないらしい。

「―――陛下、ご案じには及びません。馬騰大将軍が、必ずや賊将を討ち取ってくれることでしょう」

 先日の野戦は、西涼軍の大敗に終わった。成宜が散り際に奮戦して包囲を突き破ったため、歩兵に取り囲まれた三軍閥の兵三万のうち半数の一万五千は逃げ延びたが、残る一万五千騎と成宜、李堪、張横の三人の頭が討ち取られた。
 そして敗北から五日、歩兵の速度で粛々と進軍した曹操軍は、ついに長安へと到達していた。
 頭を失った三軍閥の兵一万五千騎を率いて、馬騰は今戦場に立っている。
 馬超などは最後まで反対していたが、混成軍となった一万五千を無理なくまとめ上げる武名は、その馬超を除けば馬騰を措いて他にいない。馬騰自身も自らの出陣を強く望んでいた。

「う、うむ、そうであるな。此度は大将軍自らの出陣だものな」

「はい。義姉の私が申すのも何ですが、馬騰大将軍は野戦の天才です。曹操も戦上手ではありますが、その曹操の十万の軍勢から、ただの五百騎で陛下を御救いしたのですから」

「そうであった。翠もいるし、それに先程の者。たしか閻行と言ったか? 翠より強いと言うではないか。いざとなれば、あの者も朕のために出陣するのだな」

「はっ。ですから陛下も心安らかにお過ごし下さい」

 胸中で苦笑いを浮かべながら馬騰は一礼し、謁見の間を辞した。

―――たまには閻行の押しの強さも役に立つものだ。

 天子は洛陽郊外から長安までの道程を、馬超の馬に同乗して駆けている。馬超を恃む気持ちは強い。その馬超よりも強い男として、閻行の名を覚えたらしい。

「……お使いにならないつもりですね?」

 廊下へ出てしばらく歩いた後、謁見中も影の様に付き従っていた成公英が口を開いた。

「わかるか?」

「貴方様のお気持ちを読んだだけです。理由までは分かりません」

「ふむ。確かに強いは強いのだがな。なにせ、あの馬超にも勝っている」

 閻行のことである。一々確認するまでもなく、この従者とは心が通い合っている。

「ずいぶんと昔の話でしょう。今やれば、また別の結果になるかと」

「かれこれ六、七年も前になるか。馬超はすでに錦の名声を冠していたが、まだ十をいくつか過ぎた程度の小娘であった」

 それでも韓遂は、閻行を含む自軍の勇士に馬超に対抗し得る者がいるとは考えていなかった。
 韓遂と馬騰の抗争の中での一幕である。
 今の馬超と比べると体も一回り以上小さく、幼い印象すら残っていた。しかし用兵には天性のものがあった。一瞬の機を捉えた鋭い突撃は、幾度となく韓遂の本陣を落としかけた。いや、実際に馬超にその気があったのなら、そうなっていただろう。
 馬騰とは何度も戦をしたが、その全てが本気の戦だったわけではない。領民や兵、そして他勢力に対する体面のため、形ばかりぶつかり合うということもあった。その時もそんな戦だったのだ。
 兵が倦みはじめ、そろそろ戦も幕引きという頃になって、韓遂の陣営に喚声が轟いた。それはとうに飽いて幕舎へ引っ込んでいた韓遂の耳へも届く、盛大なものであった。
 すぐに閻行の元から馬超撃破の報告が届いた。こうなっては決戦は避けられないと覚悟を固めている間に、龐徳の援護を受けて馬超が退いたという続報がもたらされ、韓遂は胸を撫で下ろしたものだった。
 こうして閻行は馬超に勝った男となった。当時は幼子をひねっただけと、本人も特に誇るでもなかった。それが馬超の名声がいや増すにしたがって周囲も、そして閻行自身もそこに価値を見出した。分かり易く言うなら、閻行は自ら何を成すでもなく増長した。今は、韓遂に飼殺されているとすら考えているだろう。

「あのような者はいっそ放逐されるなり、処断なさった方がよろしいかと思いますが」

 成公英が過激な事を言う。

「ふむ。そうは言っても、やはり腕だけはそれなりに立つし、何より武名がある。藍や馬超と対抗するには、必要な手駒ではあるのだ」

 西涼の男達を真に心服させるには、武名というものが必要だった。韓遂に欠けたものである。病身とはいえ馬騰には過去の偉名があり、言うまでもなく馬超は西涼最大の武名である。馬超を倒した男くらい抱えていなくては、まともに対することは出来ない。その閻行の武名も、下手に戦に出せば期待外れの一言で終わりかねないのだ。

「それにな、私はあの男が愛おしくもあるのだ」

「愛おしい?」

 成公英の声に、有るか無きかの棘が混じった。
 幼い頃から近侍させているこの若者にとって、自分の存在が全て―――母であり、師であり、恋慕の相手ですらあるということを、韓遂は自覚していた。韓遂にとっても、やはり成公英は特別な存在である。
 自ら腹を痛めて産んだ子も何人かいるが、この従者に対するほど愛情を持って接しては来なかった。我ながら薄情なことに、政略の駒と割り切ってしまっているところがある。洛陽や西域に送り込んだ息子も入れば、関中十部の長の家に嫁がせた娘もいた。韓遂が馬騰の妻子を殺したように、自分の裏切りと謀略の犠牲になった子もいる。
 駒とは為り得ぬ従者に愛情を注ぐのは、韓遂の弱さかもしれなかった。

「ははっ、妬くでない。可愛い奴め」

 ぐりぐりと成公英の頭を撫でてやった。

「あの男は無知で傲岸、この私にすら決して本心から頭を下げることはない。あの反骨、あの背叛。まるで西涼そのもののようではないか」

「身の程を知らぬだけです」

 吐き捨てるように成公英が言う。そんな愚かしさも含め、西涼で生き西涼で死ぬ、外の世界を知らぬ西涼人らしさと韓遂の目には映るのだった。
 西涼人らしからぬ西涼人。多くの西涼人にとって、自分はそんな人間であるらしい。間違いではない。しかし西涼人らしくなくとも、いやだからこそ一層、西涼と言う土地が、そこに住まう人々が韓遂には愛おしいのだった。
 成公英と話しているうちに、城壁の上に着いた。日差し避けに天幕が張られ、その下に背もたれの付いた床几が一つ置かれている。
 守備兵の指揮に当たる閻行に軽く手を振って、韓遂は床几に腰を落ち着けた。戦場を見やる特等席だ。

「おお、あれは曹操か。見るのは五年振り、いやもっと経つか? 育ち盛りも過ぎたというのに、変わっておらんな」

 睨み合う両軍の真ん中で、二騎が語らっている。西涼伝統の交馬語だ。一方は良く見慣れた馬騰。遠目にも小柄なもう一方は曹操であろう。

「何を話しているのでしょう」

 傍らに侍る成公英が言った。

「曹操のことだ、藍を口説き落とそうとでもしているのではないか」

 曹操は人材を好む。かつて洛陽で韓遂と出会った時にも、若輩の分際で値踏みする様な不躾な視線をぶつけてきたものだ。事ここに至っても、藍や馬超が降伏すれば曹操は受け容れ、重用するのだろう。

「まあ、いまさら藍が降るはずもない」

 曹操が馬首を返した。少々苛立たしげに見えるのは、勧誘を断られたためか。
間を置かず両軍は動き始めた。
 初めに動いたのは馬超の隊だ。わずかに遅れて、曹操軍からは曹仁の隊が飛び出す。先刻まで藍と曹操がいた戦場の中心で馳せ違い、絡み合った。

「―――っ」

 閻行が固唾を呑む音が聞こえた。
 馬超と曹仁、双方二万騎の大軍であるが、まるで五百や一千の小隊のような目まぐるしい攻防を演じている。もはや馬超の用兵は往時の馬騰をも凌ごう。やがて馬超と曹仁に引き寄せられるように、全軍が動き始めた。
 閻行には良い薬になるかもしれない。閻行の傲岸をも愛する韓遂ではあるが、その成長を望んでいないわけではない。馬超と曹仁の用兵には、つまらない慢心など打ち砕く凄みがある。
 とはいえ、韓遂の視線は戦場の真ん中に靡くもう一本の馬旗に引き寄せられた。
 錦ではないが、やはり派手な意匠。黒字で馬と大書された旗布は左半分が赤、右半分は白である。赤龍を奉ずる漢室の外戚、名将馬援の裔。同時に白狼を信奉する羌族の血をも身に宿す。馬騰の出自を顕したものだ。
 西涼人らしさを言うなら、馬騰も相当なものだ。日毎は質実な暮らし向きながら、武具や馬具、戦道具は派手好みなところなど実に西涼人らしい。
 この戦が終われば勝敗いかんに関わらず、西涼人らしいなどと言う考え方自体が廃れていくのだろう。
 勝てば、この国の都は長安だ。西の辺境を暗に示す西涼などという言葉は使われなくなるだろう。いや、言葉は残るかもしれないが、その意味するところは大きく変わる。
 負ければ、曹操領に併呑される。領内全土に画一の制度、均一な体制を押し通す曹操の手の内に入れば、やはり西涼は西涼のままではいられない。

「藍よ。西涼最後の戦、見せてもらおうか」

 韓遂は義妹へ向けて、小さく囁いた。





 真正面から曹仁の隊と近付き、直前で双方右に逸れた。半歩左に寄せればぶつかるという距離を、二万騎と二万騎がすれ違う。曹仁は逸れるがまま右に、翠はあえて左に進路をとって旋回した。追走する形になったが距離は縮まらず、一里程追ったところで右へ折れた。
 曹仁が旋回し、駆け戻ってくる。翠も右回りでそのままぐるりと一周し、正面から向き合う。わずかにこちらの馬首に角度が付いた。

「行くぞっ、あたしに続けっ!」

 叫び、槍を掲げた。
 曹仁も、進路を修正してぶつかりにくる。騎馬隊の先頭と先頭で、行き交う。払いと突きの中間の軌道で首を刈りにいった翠に対して、曹仁は白鵠と黄鵬がすれ違う切那の間に二度突きに来た。いずれも空を斬るが、首筋がぞくぞくと怖気立つ。
 続く騎馬隊は、先頭数十騎がぶつかり合い、あとは互いに馬首を逸らして馳せ違い、離れた。
 翠は前回のような、完全無欠の勝利は望まなかった。自分の戦にこだわり過ぎる間に、成宜らは討たれ、戦は終わりとなったのだ。
 七分の利で、時には六分の利でさえ攻勢に転じる。六分の利では、ぶつかる瞬間のほんの些細な変化で、五分の被害を受けることもある。今はそれでも構わなかった。最後にどこかで凌いでいければ良い。
 数里駆け通して、脚を止めた。
 馬の疲労が限界に近付きつつある。半刻の休息を命じた。完璧な勝利を諦めたからと言って、馬を潰すような無様な戦をするつもりはない。普段なら動きの中でも馬の脚を休める工夫をするが、曹仁との勝負に脚を緩める余裕はなかった。
 曹仁も思うところは同じようで、同様に距離を取って休息に入っている。前回の戦でも、同じように駆け続け、同じように休息を取り、示し合わせたように同時に戦を再開した。翠は時に、自分自身を相手にしているような錯覚に襲われた。

「―――お姉様」

 馬を引いた蒲公英が、歩み寄ってきた。
 蒲公英の一万を併せ二万騎で一隊としている。対する曹仁も今回は隊を分けずに二万騎で応じた。藍の狙い通りの展開だった。前回と同じく曹仁隊と翠がやり合うのなら、出来るだけ多くの兵を引き受けることで中央の戦線の数的有利を拡げる。曹仁と翠の二万を除いた残りの騎馬兵力は、曹操軍が四万に西涼軍は六万である。

「怪我はない? 最後、曹仁と遣り合っているのが見えたけど」

「ああ。しかし、あの突きは何なんだ。速いなんてもんじゃないぞ。呂布と伍したって話、疑ってかかっていたけど本当かもな」

「お姉様でも勝てそうにない?」

「馬鹿を言うな。速いけど、それだけだ。あたしが勝てない相手じゃないさ。それより、兵の被害は?」

 蒲公英は隊の後方に付けて、戦の全容を観察してもらっている。

「こっちはきっかり二百五十。むこうは二百七十から八十ってところじゃないかな?」

「そうか」

 戦の開始から数えて、五度ぶつかった。こちらが有利でぶつかった時もあれば、あちらの有利でぶつかられた時もある。総じて見れば、ほんのわずかに翠に利があったということだ。とはいえ五度矛を交わすまでの間に、二十回以上も五分の形勢で迫り、互いに交戦を避けて別れている。互いの力量は拮抗していた。

「―――お姉様、強くなった?」

「なんだ、急に?」

「前回もそうだったけど、用兵がちょっと信じられないくらい冴えてる」

「そうか? いや、そうだな。確かに自分で思った以上の戦が出来てる。噛み合うな、あたしと曹仁」

「うん。何だか、戦えば戦うほど強くなってくみたいで、このまま戦い続けていたらどうなっちゃうのか、怖いくらい」

「ははっ、十日も戦が続けば、馬服君や馬援公を超えるかもな」

 馬服君趙奢は戦国時代末期、大国秦に土を付けた数少ない将軍の一人である。彼の子孫の一人が、その封号から馬の字を姓に戴いたのが馬一族の始まりとされている。その後裔馬援は言うまでもなく光武帝の漢朝再興を助けた名将だ。学問を好まない翠も、一門の英雄である二人のことだけはよく知っている。翠にとっては軍学の祖孫子や覇王項羽とも並ぶ偉人であった。
 写し鏡の自分と思えるような存在を越えようとすることは、その大英雄二人を引き合いに出したくなるほど、翠に急速な成長を促すようだった。

「あんまり、無理はしないでよね」

 蒲公英はそう言い残すと、後方へ下がっていった。

「無理か。……しないわけにもいかないだろうな」

 曹仁は奥の手を一つ残している。
 音に聞こえた白騎兵をまだ前面に出していない。駆け合いの最中、二万騎の中に点々と白いものが見え隠れした。白騎兵が首に巻く白い布だ。曹仁は白騎兵を二万騎の中へ埋伏させていた。
 白騎兵は、元は五百騎の董卓の旗本である。今のように大仰な呼び名など付いてはいなかったが、選び抜かれた西涼騎兵に苛酷な調練を課したその集団の精強さは、西涼では広く知れ渡っていた。反董卓連合の戦で多くが散り、今やわずか百騎だが、さらに戦歴を重ねている。間違いなく天下で一番の騎馬隊だろう。
 馬騰軍にも、精鋭の五百騎が存在する。洛陽へも伴った兵達で、藍が病に倒れ軍の大権を委ねられた時から、廉士と二人で鍛えに鍛えた兵達だ。今思えば五百という数と言い、董卓の旗本を意識していたのかもしれない。西涼生れながらも中央の匂いが強い董卓に、西涼最強の騎兵を率いさせておくのは癪に障った。
 五百騎は翠にとっては手足のようなものである。しかしその手足を、今は手元に置いていなかった。藍が戦場に立つ際に、その護衛とするつもりで育て上げた一団である。今は当然廉士と共に藍の近くに居てくれている。それで翠は病身の母への憂いを脇に置いて、自身の戦場に意識を集中させることが出来た。

「―――馬超様」

 兵が、紫燕を連れてきた。

「おう。―――ありがとな、黄鵬」

 紫燕に繋がれた手綱を受け取り、代わって黄鵬の手綱を兵に渡した。首筋を軽く一撫ですると、黄鵬は気持ちよさそうに鼻を鳴らす。鼻面を寄せ合って紫燕としばし抱擁を交わすと、黄鵬は兵に連れられ去っていった。
 愛馬三頭全てを、軍勢に伴っていた。乗馬以外の二頭は空馬にして兵に伴走させている。休憩の度、乗り継ぐつもりだった。
 麒麟と共に戦った前回で、曹仁と白鵠の実力は身に沁みた。悔しいが、馬術で差を付けるのは難しい。気性や走りの質に多少の差異はあるが、黄鵬や紫燕に乗っても同じことだろう。
 精鋭五百騎を手元から離した翠にとっては、三頭の愛馬が奥の手のようなものだ。周りの馬に合わせているから、黄鵬達も白鵠も脚に余力は残している。しかし本気で力を振り絞った瞬間に、それまでずっと人を乗せて走り続けたものと、空馬で駆けていたものの差が出る。
 翠は最後は自らの槍で決着を付けるつもりだった。





 五里程の距離を置いて、小さく錦の馬旗が見える。まだ動き出す気配はない。
 馬超は戦の仕方を大きく変えてきた。犠牲を恐れず、相手にそれ以上の犠牲を強いるという戦だ。
 ほんのわずかな勝機も見逃さず、突っ込んで来る。そこで下がってしまえば、わずかだった勝機の偏りが、大きく傾きかねない。戦機を読み合った前回の戦とは異なり、ぶつかるその瞬間まで、利を奪い合う展開となった。
 布陣から、馬超が今度は二万騎を率いてくることは察しがついていた。誰かが馬超を引き受けるなら、今回は兵員を二万騎に拡張した霞が適任であった。しかし曹仁が名乗りを上げると、華琳が認め、意外にも霞も不平を言わなかった。前回の戦を見て、馬超は曹仁が戦うべき相手と認めたらしい。
 曹仁は本隊の騎兵一万騎を併せて、二万騎を率いた。副官として、白蓮が付いている。本来の副官の角は、曹仁隊二万の歩兵部隊の指揮に回していた。
 本隊の兵は多忙な華琳に代わって、曹仁と霞が交代で調練に当たっている兵であるから、指揮に大きな支障をきたすことはなかった。とはいえ、二万騎である。意思が速やかに端々まで行き渡るとは言い難く、白騎兵を全軍に散らすことで対処した。それで、二万騎が百騎の小隊に感じられるまでになった。
 馬超は特に苦もなく、二万騎をまとめ上げているようだ。持って生まれた存在感、戦場における求心力の差は如何ともし難い。恋や愛紗、そして馬超のような、いるだけで光彩を放つ武将にはなれない。しかし工夫次第でその差を埋めることは出来る。

「曹仁将軍を相手によくやるものですね」

 従者の陳矯が近付いてきて言った。差し出された水を、曹仁は一息であおる。
 馬超を相手に曹仁が健闘しているというのが実情である。白騎兵に魅せられて曹操軍に入隊した陳矯には、曹仁こそが騎馬隊の将軍の頂点であるらしかった。白騎兵を鍛え上げたのは別の男だと教えても、現実に彼らを従える曹仁こそが最強と言う認識は揺るぎない。
 それも夢ではないと、今の曹仁には思える。この調子で馬超と高め合い、そして最後に勝利を収めたなら、陳矯の幻想は現実のものとなる。
 華琳からも、期待を込めた眼差しを向けられた。霞には馬超を倒した後に、一度調練で本気でやり合うように約束を取り付けられている。

「さてと、そろそろ戦を再開するぞ」

「―――っと」

 空になった器を、陳矯に投げ返す。
 錦の馬旗。動きはないが、曹仁の言葉に呼応するように気が立ち昇って見えた。
 思い込みの産物だろう。しかし現実に馬超も戦の再開を命じただろうことを、曹仁は確信していた。
 地面に転がしていた槍を拾い上げた。出し惜しみせず、最初から管を装着している。
 休息に入るまでに五度ぶつかり、最後には馬超と直接槍を交えた。管槍の突きを、馬超は初見で避けた。春蘭でさえ初めは躱すことが出来なかった突きだ。個人の武勇に関しても、馬超は傑出した域にある。並のやり方では討ち取ることは難しいだろう。
 曹仁は、まだ奥の手を一つ残していた。いつ、それが使われる瞬間が訪れるのか。その時が来るまで、曹仁は極力思考からその存在を締め出した。読まれれば、それで終わりである。
 互いに相手の思考を読み取ることに、全てを注いでいる。ふとした思い付きや、ちょっとした感情の機微まで伝わってしまいそうだった。





 三万騎を、駆け回らせた。
 馬騰軍一万に、成宜、李堪、張横の軍の残党一万五千、さらには新兵の五千を併せた隊である。曹操が長安に至るまでの数日間で編成を整えはしたが、烏合だった。構わず駆けさせる。

「藍様、また数騎遅れたようです」

「かまわん」

 廉士が副官としてぴったりと付き従っていた。
 廉士は十分に一軍の指揮官足る実力を持つ。西涼の将としては、翠に次ぐと言っても言い過ぎではなかった。長安に残しておいた最後の馬騰軍一万の指揮を委ねるつもりだったが、馬騰の副官に付くと言って聞かず、翠もそれに同調した。実の娘と息子も同然の従者に押し切られた格好で、廉士を副官とし、一万騎は旗下に加えた。
 翠と蒲公英の一万は一つにまとめ、理由を付けて蒲公英を翠の副官とした。前回の戦での蒲公英の働きに不満があったわけではなく、少々気負い過ぎの翠への不安からだ。敗戦に対する自責の念が強過ぎる。適度に気と手を抜く術を心得ている蒲公英が側に付けば、いくらか無茶も抑えられるだろう。
 馬騰隊三万に、翠が二万、五軍閥の隊が合わせて三万で、八万騎が西涼軍の戦力である。長安の守備には韓遂の五千を残すのみだ。西涼の、建国されたばかりの西の漢王朝の、まさに総力戦である。
 曹操軍は、三万の歩兵三隊を距離を置いた鶴翼に構えている。騎兵は二万が三隊で、報告にあった先の戦とほとんど変わらない布陣だった。唯一異なるのは曹仁が隊を分けずに二万をそのまま率いている点で、これは同じく二万騎に増やした翠の隊とやり合っている。
 翠と曹仁は報告で聞いた通り、密に絡み合うような戦を展開している。先日の戦振りと異なるのは、互いにすでに犠牲を出し始めているということだ。
 二人の勝負は、二人に付けさせるしかない。援軍を送ればそれで有利になるとも限らない。それを恃む気持ち、あるいは庇う気持ちが思考の雑音となって用兵の妙を欠き、大敗を招きかねなかった。それほど二人の力は拮抗しており、他者から突出した域に入りつつある。
 馬騰は自らの戦場へと視線を戻した。

「歩兵が邪魔だな」

「はい。あの三隊がいるせいで、主導権を握れません」

 敵騎馬隊は、自軍が不利と見るや歩兵三隊の作る空間へと駆け込んでいく。先日の大敗があるから、攻撃はそこで切り上げざるを得ない。騎馬隊の兵数では有利でありながら、戦況を優勢に持ち込めずにいる。
 特に馬騰率いる三軍閥の残党は、歩兵部隊に近付くことも嫌うようだった。二人に一人が討たれるという壮絶な敗北を喫したのだから無理もないが、歩兵の近くを駆け抜ける度に数騎が後れを取る。それは切り捨てていくしかなかった。彼らに合わせれば、全体が危険に晒されるのだ。

「これが曹孟徳の戦か」

 呟くも、実感はない。
 曹仁に張遼、蹋頓の騎馬隊の動きは水際立っている。楽進の重装歩兵や、張燕、張郃の歩兵も不動ながらも歴戦の重みを感じさせる。しかし肝心の曹孟徳の顔だけが、見えてこなかった。
 曹操の戦については、調べ得る限りの情報を集めている。洛陽ではかつての好敵手であり、曹操に敗れた皇甫嵩にも話を聞いた。結果から見れば、曹操はこの時代屈指の将軍であり軍略家であることは間違いない。反董卓連合で存在を示し、青州黄巾百万を説き伏せ、呂布を陥穽に落し、袁紹の大軍を奇策で破り、劉備と孫策の精鋭を用兵の妙で連破している。
 しかし曹操の戦がどういうものであるのか、調べ尽くした上でも確たる答えは見つからなかった。士気に任せた我武者羅な戦をするかと思えば、入念に準備を整え勝つべくして勝つ戦もする。戦略の上での後れを、神掛かった戦術で取り返しもする。共通しているのは、決定的な機を自分で作り出すということだ。終わってみれば、曹操の戦としか言いようのない足跡が残る。つまり戦を決める最後の瞬間、曹操は顔を覗かせる。

―――その時が勝負だな。

 皇甫嵩も、その瞬間に賭けて敗れたという。同じ轍を踏んで倒れるか。それとも駆け抜けるかだ。

「しかしその前に、兵をもう少し何とかせねばな」

 残酷なようだが、足手纏いの兵は切り捨てていかねばならない。あえて歩兵に接近して篩にかけてはいるが、時が掛かり過ぎる。戦が始まって半日以上がすでに経過したが、三万は未だ烏合のままであった。いつ、曹操が動くとも知れないのだ。

「むっ」

 進行方向へ割り込む様に、烏桓の騎兵が前方に姿を現した。馬騰はすぐに進路を右へとった。烏桓の騎射は、ほとんどあらゆる方角に飛んでくる。右斜め後方にわずかな死角があるのみだった。
 死角を取られまいと、烏桓兵も右へ左へと隊を動かす。その間も、断続的に矢が降り注ぐ。馬騰は足を落し、騎射の間合いを外した。

「先日の戦では張遼にかなりやられたという話だが、こうなると烏桓兵がやっかいだな」

 一方的に攻撃を仕掛け、こちらが数隊で囲い込みに掛かれば歩兵の中へと逃げ込んでいく。これを繰り返されるだけで、確実にこちらの犠牲が増えていった。特に煩わしいのが、馬上でくるりと振り返って真後ろへ放つ騎射だ。安全な場―――歩兵の中―――が確保されているために、烏桓兵は余裕を持ってこちらを引き付け、その矢は良く当たった。こちらが前に駆ける勢いも加わるから、短弓ながらも具足を突き通す威力もある。

「彼らも元は騎兵の戦しか知らなかったはずですが、曹操の軍とよく連携しております」

「元単于の蹋頓と言ったか。漢族の戦を良く学び、兵にも指揮通りの動きを徹底させているな」

「羌族ではちょっと見ない類の指導者ですね」

 今、羌族には主だった指導者と言える者がいない。小さな部族がそれぞれに独立しているだけである。そもそも羌族は、匈奴や烏桓、鮮卑といった他の北方異民族と比べて結束が弱い一族だった。集団への帰属意識の薄さは騎馬民族に共通した特徴の一つではあるが、羌族には特にそれが顕著である。
 匈奴には冒頓、鮮卑には檀石槐という強力な指導者を戴いた記憶がある。羌族には無弋爰剣と呼ばれた古い伝説上の頭がいるが、一部族の長に過ぎず、強権を発揮し族人全てをまとめ上げるという者は現れていない。
 烏桓族にとって蹋頓は、冒頓にも匹敵する偉大な指導者なのだろう。民族独自の色は残しながら、見事に軍勢を漢族の軍律に馴染ませていた。

「また逃げます」

 楊秋、馬玩の隊に左右から挟まれた烏桓隊が、歩兵部隊の元へ駆ける。遮りに掛かる梁興は、矢を射掛けられ出足を鈍らされた。
 馬騰も三万騎で後を追った。
 楊秋と馬玩、それに梁興の三隊を足しても、二万騎には及ばない。烏桓兵は騎射用の短弓の他に厚手の刀を良く使うようだが、刀槍の間合いに踏み込むことはほとんどなかった。危険を冒さず、確実にこちらの兵力を削りに来ている。
 先行していた楊秋らの隊が歩兵部隊との接近を避けて道を逸れ、馬騰の視界が開けた。烏桓兵はすでに歩兵部隊の中へ逃げ込んでいる。

「突っ込むぞっ、私に続けっ!」

 馬騰は槍を頭上に掲げた。

「成宜、李堪、張横の兵達よっ、勇敢なる西涼の同胞達よっ! 我が旗を見よっ! 赤白の我が旗を見据えよっ! そこに、我らが漢朝の、大将軍たる私がいるっ!!」

 油断していた烏桓兵に、背後からぶつかった。刀を抜く間も与えず、馬騰は自ら五、六騎を突き落した。押し込む。
 乱戦となっては、騎射は用をなさない。ここまで犠牲を避ける戦を続けてきた烏桓兵は、ほとんど反射的に逃げ場を求めた。味方歩兵の陣は、今や進路を遮る壁でしかない。
 中軍と右翼の間を抜け、烏桓兵は歩兵の陣の外へと逃れ出た。馬騰はその反対―――中軍と左翼の間を駆け抜けた。
 三万騎のほぼ全てが抜け出たところで、ようやく歩兵の輪が閉じる。行く手を遮る抵抗が弱ければ、歩兵が包囲を固めるより先に騎馬隊が駆け抜けるのは難しい事ではないのだ。

「数百騎が取り込まれました」

 廉士の言葉に、馬騰は黙って頷き返す。死ぬべくして死ぬ者達だ。ここを乗り越えた兵は、もう烏合の敗残兵ではない。
 その日はさらに数刻戦を続けたが、馬騰軍に遅れる兵はもう出なかった。





 歩兵を五里後退させ、そこで野営とした。
 馬騰軍に歩兵部隊の中央を突破されたのを除いて、概ね当初の想定通りに戦は進行している。
 華琳は歩兵部隊各隊の将に、明日は三隊の配置を少し近づけるとだけ伝令を出した。軍議の要を認めず、諸将を本隊に招集はしない。本営の幕舎では、詠と稟、それに春華が今日の戦に関して意見を交わしている。

「こちらへ通しなさい」

 独断専行を許していた曹仁隊から、無花果が報告を携え本営へ訪れた。
 一日馬超とやりあって、一千騎近く失ったようだ。ほぼ同じだけの犠牲を、馬超にも強いている。

「御苦労さま、無花果。他に何か?」

「曹仁将軍からは何も。華琳様から、曹仁将軍に何かありますでしょうか? お伝え申し上げます」

「―――いえ、何もないわ」

 何か一言とも考えたが、やめておいた。今は些細な労いの言葉一つであっても、曹仁の頭に余計な情報は入れない方が良い。
 無花果は一礼して幕舎を辞した。

「よろしいのですか、華琳様? 一千騎というのは、小さな被害ではありませんが」

 春華がゆったりと首を傾げながら言う。春華は季衣や流流と並んで陣営でも最年少であるが、動作の一つ一つが妙に艶めかしい。

「構わないわ。明日も同程度の犠牲を出すでしょうが、馬超の相手は曹仁。これは動かさない」

「はっ。差し出口でしたわね、申し訳ありません」

 春華はゆるりと頭を下げた。
 春華はこれが初陣であり、それもあくまで幕僚である。
 軍を率いた経験のない者からすると、曹仁と馬超の戦は何ということのない、他の将で代わりが利くものと見えるのだろう。実際、連環馬で敵を一掃したり、突出した個の武が大軍を突き崩したりというような目を見張る展開があるわけではない。
 軍の統率、動き、判断の早さと正確さ、そういったもの全てが極めて高い水準でまとまっている。結果、霞でさえ割り込みを断念するほどに、桁が違う戦を呈していた。それも、まだまだ成長の途上にある。明日には、さらに一段戦の質を高めるだろう。
 明くる日の夜、華琳の口にした通り無花果は再び一千騎の犠牲を報告に来た。他の戦線にも大きな動きはない。馬騰の三万騎の動きが、いくらか活発化したくらいだ。華琳はやはり軍議を催さず、曹仁も放任した。
 三日目もやはり曹仁隊は一千騎の犠牲を出した。そして四日目の夜が訪れた。

「これはっ、軍議でしたか? 申し訳ありません、急ぎ曹仁将軍を連れてまいりますっ」

「待ちなさい、無花果」

 本営を訪れた無花果が慌てて踵を返しかけるのを、華琳は制止した。幕舎内には、曹仁を除く諸将が揃っている。

「あの子は呼び出していないわ。少々馬騰の動きがうっとうしくなってきたから、その対策を話し合っているところよ。貴方達は、馬超との戦を続けて頂戴」

「はっ。―――曹仁将軍も、馬騰の三万騎は歩兵部隊を突っ切ってから格段に動きが良くなったと話しておりました。編成を変えた昨日の昼過ぎからは、もうほとんど馬騰軍本来の騎馬隊と変わらぬ動きをしていると」

 前回の戦の生き残りを、前面に押し出している。初め、彼らは前を行く本来の馬騰軍に引きずられるように続く足手纏いの一団であった。上手く焚き付けたもので、それが今や主君の仇討に逸る急先鋒と化していた。
 西涼軍の兵は馬術が達者でそれぞれが勇猛であるから、元々騎馬の精兵たる素養を有している。些細な切っ掛けや使い方次第で、弱兵が容易く強兵に化ける。

「ずいぶんと詳しいわね」

 馬騰が編成を変えたことは、華琳も間近で戦う霞の報告を受けて初めて気付いたことだ。
 曹仁からは無花果が報告を上げてくるが、華琳の方から細かな戦況を伝えることはしていない。せっかくの曹仁の集中を削ぐことになると考えたからだ。

「よく見ておいでです。馬超はもちろん、戦場の端々まで」

 初日に報告に来た時よりも、幾分やつれた無花果が言う。
 続けて受けた報告では、やはり曹仁隊の犠牲は一千騎であった。





「お姉様、ご飯。……お姉様ってば!」

「―――っ、ああ、悪いな」

 背後から肩を引くと、翠が驚いた様子で振り返った。

「地面とにらめっこして何をしているのかと思えば、これは昨日の戦?」

 五日目の朝を迎えた。
 兵糧の入った器を差し出しながら、蒲公英は翠の隣に腰を降ろす。
 翠の足元の土に、子供のいたずらの様なぐちゃぐちゃと重なり合った線が引かれている。分かり難いが、よく見ると二本の線がぶつかっては離れを繰り返している。

「ああ」

 翠は生返事で返すと、匙を使わず器に口を付けてずるずると粥をすすった。視線はやはり地面の線に注がれている。
 翠がすでに終わった戦場を見つめ直すなど、常にはないことだった。それも声を掛けても気付かない程それに集中してとなると、蒲公英の記憶に前例はない。翠には集中が過ぎると周りが見えなくなる癖があるが、今日は戦が始まる前からすでに気負い立っているようだ。

「ここで牽制を入れたのは余計だったな。それで、次の動きが一歩遅れた。いや、この時は曹仁も釣られてわずかに遅れたのか。あー、でも、今日の曹仁にはもう通用する気がしないなぁ」

 翠は一人でぶつくさと言いながら、悩ましげにがりがりと髪を掻きむしった。もう隣に座る蒲公英の存在など頭から締め出されてしまっている。
 こういう翠を落ち着かせるのが副官としての自分の役割だろうが、ここまで戦に没入した翠が負ける姿など蒲公英には想像も出来なかった。

「さてと、あまり戦を長引かせても、母様のお身体が心配だ。そろそろ曹仁の奴を仕留めて、曹操を討ちに行かないとな」

 翠は兵糧を腹に流し込むと立ち上がり、地面に書いた線を蹴り消した。





「行くか」

 兵糧を食べ終えるや、すぐに白鵠に飛び乗った曹仁に、陳矯は慌てて馬に跨った。

「―――陳矯、轡の留め具がずれているぞ」

「はっ、はい」

 曹仁が、こちらを振り返ることもなく言う。
 陳矯が馬首に抱きつく様にして手を伸ばすと、確かに皮の留め具がずれ、馬の目蓋に掛かりかけていた。
 馬超との戦を続ける中で、どんどんと研ぎ澄まされていく曹仁を陳矯は間近で見続けてきた。視界に入る全て、耳に届く僅かな音、風が運ぶ匂いまで、どんな些細な情報も見過ごすことが無い。
 外見にも、引き絞られた弓の様な危うい精悍さを帯び始めた。頬の肉は削げ落ち、大きな目がいつも以上に大きく、身体は一回り小さく見えた。戦も長丁場となれば誰もが経る変化ではあるが、開戦から今日でまだ五日目だった。呂布軍や袁紹軍との戦では、今回よりはるかに長い間戦い続けたが、ここまで凄惨に痩せこけていく曹仁を見るのは初めてだった。

「陳矯、白騎兵に俺の合図で集まるように伝えておいてくれ」

「よろしいのですか?」

 全軍に散らした白騎兵は、指揮を遅滞なく伝えるための工夫である。

「ああ。兵の皆も、すでに俺の指揮になれただろう。それに、最後の一瞬だけだ」

「最後?」

「ああ。―――今日、錦馬超を倒すぞ。どうやら向こうもその気らしい」

 曹仁はそう言って、精悍な顔立ちに活き活きとした笑みを浮かべた。





 長安城下から、真っ直ぐ前へ駆けた。天人旗と曹旗も近付いてくる。
 並足から速足、駆足、そして疾駆へ。見る間に曹仁の顔が見て取れる距離まで近付いた。
 極めて親しい旧友にでも会うような、不思議な感覚がある。
 馳せ違う瞬間、曹仁と目が合った。幾千幾万と言葉を交わし、語り尽くした感すらあるが、実際に口を利く機会はほとんどなかった。少々惜しくもあるが、言葉を交わす以上に濃密な時間を持ったという気もする。
 視線が合ったのは、ほんの一瞬である。旋回して馬首を転じた時、翠は感傷を完全に振り払った。
 駆ける。五分の形勢で近付き、別れる。何度も繰り返した。
 わずかに距離が開いた。翠は二万騎―――すでに実数は一万五千近くまで減っている―――を二隊に分けた。曹仁も隊を分け、自身は翠のいる方へ向かってくる。もう一方は蒲公英と公孫賛がそれぞれ率いることになる。この五日の間に何度か似たような形になったが、翠と曹仁と同じく二人の技量も拮抗している。
 四隊が互い違いにすれ違った。端から見たなら、示し合わせた演習のように思えるかもしれない。
 四匹の蛇が絡み合う。翠が公孫賛の隊と、曹仁が蒲公英の隊とかち合うと、多少一方的な展開になった。しかしすぐに互いが互いの仲間の救援に入るため、大きく被害が広がるには至らない。麒麟の脚にはまだ余力があるが、兵の馬は限界が近い。四日間疾駆し通しであったから、たった一晩の休息では疲れは完全には抜けない。
 曹仁の隊と馳せ違う。もう一度、目が合った。
 反転して、再び迫る。正面と正面。形勢は全くの五分と五分。

―――ここだ。

 避けなかった。
 七分と三分、六分と四分でぶつかれば、攻勢と守勢が生じる。守勢に回った曹仁を―――あるいは自分を―――、打ち崩すのは並大抵のことではない。ほとんど不可能と言っても良いだろう。ならば五分と五分、互いに攻勢でぶつかる。
 白騎兵。前に出てきた。数は少ない。五十騎ほどか。曹仁も、勝負を決めにきている。
 公孫賛と蒲公英の一万騎も並走してこちらへ向かって来ている。曹仁と翠、少し遅れて公孫賛と蒲公英。四つの騎馬隊が一点に集結しようとしていた。
 後続を振り切る様に白騎兵がさらに前に出る。先頭に曹仁。翠一人に狙いを定め、白騎兵だけで一息に押し包むつもりだろう。曹仁隊の練度は十分だが、翠にとってはある意味で逃げ場ともなり得るのだ。
 こちらも狙いは曹仁一人だ。背後に白騎兵が五十騎控えようが百騎控えようが、最初にぶつかるのは曹仁一人だ。翠は両腿にぐいと力を込めた。地面を蹴る麒麟の脚にも、力がこもる。ぐんぐんと曹仁との距離が狭まる。
 曹仁は一瞬だけ大きく目を見開いた。こちらの意図に気付き、意を決した様子で小さく笑うと、白鵠を加速させた。
ここで曹仁が引けば、一万騎は最悪な形で翠の一万騎とぶつかることになる。他に選択肢はないのだ。白騎兵をも振り切り、白鵠が前に出る。その走りに、わずかに疲れが見て取れた。

―――取れる。

 翠がそう思った切那、身体に衝撃が走った。





 馬超の乗馬―――麒麟の足元に、矢が突き立った。当たりこそしなかったが、快調そのものだった麒麟の脚並みが乱れる。 馬超の後続の兵にも、矢は降り注いでいる。
 矢が飛んできた方角―――白蓮と馬岱の隊が駆けてくる―――に、顔を向けた馬超は、戸惑いの表情で視線を外すと、周囲に目を走らせた。
 烏桓兵を探しているのだろう。
 矢が降り注いだ瞬間、曹仁は全てを察していた。
 ぎゅっと脾肉に力を込めると、白鵠はさらに加速した。ここで出しきってしまって良いと、白鵠も察している。
 馬超も雑念を捨て、こちらを見据えた。馳せ違う。白鵠の駆ける力を十全に伝えるため、曹仁は管は握らず諸手で突いた。中空で馬超の十文字槍とぶつかる。

「――――っ!!」

 脚を乱してなお、麒麟は白鵠と変わらぬ速さを維持していた。肩が外れそうなほどの衝撃に襲われ、双方大きく身を仰け反らせた。
 馬超から遅れること十数歩、すぐに後続が迫りくる。

「はあっ!!」

 崩れた体勢のまま、曹仁は敵兵を斬り払った。さすがに涼州の騎兵、後ろを振り返る余裕はない。曹仁もあとは後続に託すしかなかった。
 こちらはただの騎兵ではない。白騎兵だ。かつて張繍が、涼州騎兵の中からさらに選別に選別を繰り返して作り上げた至高の兵達。
 曹仁は目の前の敵陣を切り開くことだけに専心した。駆け抜ける。
 敵陣の最後尾から、飛び出した。続く兵は、相応に数を減らしている。一万騎と一万騎が正面からぶつかり、行き違うという形になったのだ。
 白蓮の隊もこちらへ向かってくる。曹仁と馬超の衝突の最中、横合いから白蓮と馬岱の隊がぶつかっていれば、敵味方入り乱れての大混戦となっただろう。白蓮と馬岱は騎兵を率いる者の常としてそれを避け、味方との合流を選んだ。
 旋回して背後へ向き直ったところで、脚を止めた。馬超と馬岱の隊は、軍をまとめ遠ざかっていく。追撃を掛ける余力は、こちらにも残っていなかった。

「何人やられた?」

 曹仁は首だけで振り返ると、すぐ後ろの兵―――旗手も務める白騎兵の一人―――に問う。

「一千程でしょうか。お待ちください。今、確認を―――」

「―――そうではなく、お前達がだ」

「……六名です」

「あの崩れた体勢から、お前達を相手にそこまで犠牲を出させたか」

 振り返らずとも、馬超に手傷を負わせたこと、そして白騎兵に数騎の犠牲が出たことは感じていた。
 月と詠から指揮権を預かって以来、白騎兵に犠牲を出したのは初めてのことだ。呂布軍との戦でも袁紹軍との決戦でも、一騎も欠けることはなかったのだ。

「これで白騎兵は九十四騎となったか」

「すぐに補充いたします」

「お前達に代わる兵などいないだろう」

「いえ、おります。騎馬隊の中から目ぼしい者を二、三名ずつ、後継としてそれぞれが選出しております」

「そんなことをしていたのか」

 白騎兵には、調練の教官の役を任せることも多い。後継者に目星を付ける機会は十分にあるのだろう。

「我が隊の動きも、それとなく教え込んでおります。すぐにも隊に参加させられますが」

「―――わかった、お前たちに任せよう。ただし、布は巻かせるなよっ」

「はっ」

 補充などはせずに欠ければ欠けたままとするつもりでいたが、それはただの感傷でもある。
 ただ、あの白布だけは別だった。今や単に白騎兵の目印のように思われているが、元々は照―――張繍―――に対する喪を示したものだ。形だけを真似る意味は無い。今では白騎兵には専用の具足があるので、布など巻かなくても目印には事欠かない。

「……その補充候補に、私は入っていないのですか?」

 陳矯が遠慮がちに尋ねた。
 文官志望でありながら、白騎兵の活躍に憧れて軍に入隊したのが陳矯である。羨望の対象の死を嘆きながらも、わずかに期待を覗かせている。

「残念ながら」

「はぁ、それはそうですよね」

 旗手の答えに、陳矯は肩を落とした。

「おーい、曹仁」

 白蓮が馬を走らせてきた。

「仕留めたのか?」

「いいや、手傷を与えただけだ。―――ああ。そういえば、俺も聞いていなかった。どれ程の傷を与えた?」

「右肩に深手を与えたはずです」

「―――左腿にも槍を受けるのを見ました」

 旗手の言葉を陳矯が補足する。

「右肩に腿。それならしばらく馬に乗っての槍働きとはいかないな」

 白蓮がうんうんと頷きながら言う。

「それにしても白蓮さん、あの瞬間によくぞ騎射に思い至ってくれたな」

 勝利の決め手となったのは、白馬義従の一射であった。この五日間一度も使うことのなかった騎射が、馬超の集中を妨げた。
 独力で勝ち切れなかったという口惜しさはあるが、まるで誇った様子もない白蓮を曹仁は称えた。

「?」

 怪訝そうに、白蓮は首を傾げた。

「どうした?」

「思い至るも何も。仁、白騎兵が動くのを見たら、機を見て白馬義従も働き所を見つけてくれと、お前が言ったんじゃないか」

「……あっ」

 白馬義従こそ、曹仁の奥の手だった。
 初日に白蓮と取り決めて以来、馬超に読まれぬように意識の外へ外へと押しやり続けた結果、すっかりと曹仁は失念していた。

「おいおい、ひっどいな。……いくら私に存在感がないからって」

「いやいや、そういうことではなく」

 俯いてしまった白蓮を、曹仁は慌てて宥めにかかった。



[7800] 第10章 第14話 家族
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/01/11 21:42
「藍様、翠様が―――」

「うむ、わかっておる」

 翠の隊が駆け去り、曹仁隊はその場に留まった。
 これまでも双方距離を取って休息に入ることは何度もあったが、一方が動かず、一方だけが退くというのは初めてだった。詳細な戦況は分からぬまでも、結果だけははっきりとしていた。

「敗れたか」

「騎馬隊のみの戦で、翠様が後れを取るとは」

 後退する翠の隊は、しっかりと隊列を保っている。討たれた、ということはなさそうだ。馬騰はひとまずほっと胸を撫で下ろした。
 翠が戦場から離脱するのを見届けると、曹仁隊も休息に入った。馬騰らのいる主戦場からは距離を取り、馬を降りる。
 八千騎ほどの馬玩の隊が、そこへ突っ込んでいく。悪い判断ではない。曹仁が休息から復帰すれば、西涼軍は一気に形勢不利へと追い込まれるのだ。
 曹仁隊はすぐさま馬に乗ると、馬玩隊に背を向け逃走を図った。さすがに疲労の色が濃い。逃げ遅れた数百騎を蹴散らしながら、馬玩が追い立てる。楊秋や梁興らも、そこに続いた。

「―――っ」

 わっと喚声が起こった。先頭で槍を振り回していた馬玩の姿が、馬上から消えている。
 蹴散らされたと見えた数百騎の一部が、小隊を形成し、横合いからぶつかっていた。白騎兵だ。曹仁もいる。
 たった百騎の白騎兵に気圧されて、主を失った馬玩隊の兵は逃げ散っていく。楊秋と梁興の隊も脚を止めた。

「実に容易く、関中十部のひとつを落してくれる」

 馬騰は、三万騎を率いてそちらへ馬首を向けた。白騎兵は、さすがにぶつかり合いを避けて後退する。追わずに、赤白の馬旗を棚引かせ周囲を一駆けした。馬玩隊の兵が集まってきて、後に続いた。
 またもお荷物を抱えてしまった形だが、もはや兵力に余裕はない。捨て置くわけにはいかなかった。
 張遼隊が突っ掛けてくる。
 馬騰は五百の旗下に囲まれながらも、自ら先頭を進んだ。成宜、李堪、張横隊の生き残り達がそこに続く。彼らを死兵として前面に押し立てつつも、時に先頭を駆ける姿も見せつける。それで、成宜達の兵は旧主の仇討を期しながらも、馬騰を指揮官として完全に受け容れていた。
 張遼隊とぶつかった。向こうは張遼が先頭だ。
 さすがに強い。偃月刀が目まぐるしく動く。精鋭を誇る五百の旗下をもってしても手が出なかった。無理に攻めさせず、防戦に努めさせた。
 五百の中心近く、馬騰の元へ張遼が迫る。

「ちいっ、またアンタかっ!」

 廉士が前に出て、偃月刀を受け止めた。こちらは飾り気一つないただの大刀だ。
 狙いを遮られた張遼は、偃月刀の間合いの外に馬騰を見ながら馳せ違っていった。

「ええいっ、うっとおしい奴らやっ!」

 五百騎を抜けた先には、報復に逸る成宜達の兵が待ち受けている。防戦から一転の命も惜しまぬ大攻勢に、張遼が叫ぶ。
 それでも、張遼本人は傷一つ負わず突破していった。馬首を斜めに転じ、三万騎の隊列を切り裂いていく。続く兵は無傷とはいかない。百騎近くは失っているだろう。こちらの犠牲はずっと少ない。
 復讐に駆られた兵と言うのは、思わぬ強さを発揮するものだ。少々の傷には怯まない、どころか致命傷を受けても我が身を省みず攻撃に転じる。相打ちでの一人一殺は堅く、さらに二人三人を道連れとする者もいた。
 張遼もそれが分かっているから、正面衝突は避けて斜めに切り返している。それでも、少なくない犠牲を支払わせていた。
 戦は続き、昼過ぎに蒲公英が一万騎を率いて戦場に復帰した。隊を寄せると、こちらへ駆け寄ってきた。

「藍伯母様、お姉様は―――」

「蒲公英、もう一万騎を任せたい。出来るな?」

 蒲公英に先んじて戦場に戻った曹仁が、馬玩に続いて程銀をも討ち取っていた。さらに二つの軍閥の兵を吸収したことで、馬騰が率いる隊は四万以上にまで膨れ上がっている。さすがに烏合の兵がここまで増えると、練度の高い本来の馬騰軍一万騎の力を持て余しがちとなっていた。

「―――っ、……合せて二万騎かー。調練でなら動かしたことあるけど」

「では今日を実戦での初戦とせよ。どんなことにも初めてはあるものだ」

「……はーい」

 蒲公英は緊張を隠すように、あえて軽い調子で答えた。

「……それで? 翠の怪我の具合はどうなのだ?」

「張衛さんに見てもらったけど、右肩の傷はけっこう深くて、今無理に動かすと力が戻らなくなるかもしれないって。左腿の傷は深くはないけど、馬に乗ると傷口が開いちゃうみたい」

「そうか」

 先だって伝令に託された報告を、繰り返し聞かされるだけに終わった。

「翠の借りを返そうなどとするなよ。曹仁の隊には、極力近付くな」

「それは、もちろん。お姉様とやり合えるような化け物の相手なんて、頼まれたって御免だよ」

 この戦は、すでに曹仁の独擅場となりつつある。
 翠との駆け引きで極まった用兵が、主戦場にも持ち込まれていた。どこかで、曹操が顔を出す。その瞬間を待ち続けてきたが、そこに至るまでもなく、曹仁の手で戦が終わりかねなかった。
 とはいえ、曹仁を無理に討つ必要はない。翠に討てない者は、自分も含め誰にも討てはしないのだ。討つのは、曹操だけで良い。出て来ないのなら、何としても引きずり出すまでだ。

「―――っ」

 喉元まで込み上げたものをぐっと飲み下す。わずかに眉をしかめるも、幸い廉士と蒲公英には気付かれなかったようだ。





「ふむ、なかなか手堅い戦をするものね」

 華琳はひとりごちた。
 前回の戦で包囲の末に討ち取った成宜、李堪、張横。そして馬超に打ち勝った曹仁が立て続けに討った馬玩、程銀。計五軍閥の残党を死兵として用い、ぶつかるや殲滅戦を仕掛けてくる。馬騰自身の子飼いの兵にはほとんど犠牲を出していない。

「大人、ということかしらね」

 考えてみると、黄巾討伐に始まり、反董卓連合、青州黄巾賊、呂布、麗羽、孫策に桃香と、華琳がこれまで競い合ってきた相手は同世代の若者達ばかりだった。せいぜいが指揮官として皇甫嵩がいたくらいである。その皇甫嵩も華々しい戦績を重ねてはいても官職にあるものとしては若造の部類だ。馬騰は皇甫嵩よりも五つばかり年長であり、戦場に出て来てはいないが韓遂などはさらに十歳ほども上だったはずだ。勢いと老練さを併せ持つ将として最も脂の乗った時期と言えよう。
 馬騰隊が曹仁隊へ向かう。曹仁は、馬首を転じて逃げる。馬騰の戦い方は、用兵の冴えなどというものを無効としかねない類のものだ。
 馬騰隊が曹仁隊の後尾に喰らい付く、と見えた瞬間、先頭にいた数十騎が倒れた。白馬義従だ。白蓮が曹仁隊の最後方について、後方へ矢を射掛けていた。
 白馬義従三百騎。漢の弓騎兵としては最精鋭であり、烏桓兵と同じく後方への騎射も難なくこなす。
 かつては白馬で揃えた一団だったが、今は黒毛や鹿毛も含む混成部隊だ。
 劉備軍との放浪の日々では、白馬ばかりを買い揃えることは敵わなかったという。曹操軍に加わった時点で白馬に乗り換えることを認めたが、白蓮はもう強い拘りを見せなかった。劉備軍の中で雑色の強さを知ったからか。あるいは君主ではなくなった自身に、そこまで華やかな部隊は必要ないと感じたのか。
 何にせよ、今は雑色の混成部隊であることが良い方に働いている。曹仁隊の他の騎兵の中に紛れ込んでも、あまり目立たないのだ。

「とはいえ馬騰は、さすがに察したか」

 二、三百騎を射落とし、曹仁隊が馬騰隊を振り切った。
 馬騰隊に出た犠牲は、精鋭の五百騎からではない。先刻まで先頭を駆けていた馬騰は、いつの間にか後方へ下がっている。

「やはり、大人ということね」

 わずか五百騎で華琳の命を狙い、十万の曹操軍の只中から弘農王を連れ去った武人の戦としては少々拍子抜けしたものがある。しかし、それが実際に有効に機能しているのもまた事実だった。
 馬騰と韓遂以外の軍閥の頭は梁興、侯選、楊秋という三名を残すのみである。彼らを討ち取ってしまって良いのか。討ち取れば馬騰の元に、復讐に駆られた五万騎が集結することになる。それは、軍閥の三隊よりも脅威と為り得ないか。
 曹仁もそう感じ始めたのか、馬玩と程銀を討ち取った時のような大将狙いの戦から、兵力を削ぐ戦いに切り換えていた。
 夕刻になると歩兵を後退させ、次いで騎馬隊も下げた。西涼軍はその場に留まり、五日目の戦は幕引きとなった。
 夜、本営に諸将を呼び集めた。
 馬超との戦を終えた曹仁も、姿を見せる。五日振りに見る曹仁は、はっとするほどやせ細っていた。しかし用兵の変化から想像させるほどの変わりようではない。
 華琳は思わず安堵の吐息を溢した。別人のように様変わりしていたらどうしようかと、我知らず不安を抱いていたようだ。

「姉ちゃんも来ていたのか」

「ええ、諜報からの報告がいくつかありまして」

 幸蘭と曹仁は軽く目語を交わすと腰を落ち着けた。春蘭が不在であるから武官の首座―――華琳に一番に近い位置には、遠征軍第一陣の大将を務めた曹仁が座る。

「馬超の居所を掴みました。それほど離れてはおりません。渭水沿いを西に二十里程のところに、三千騎余りと共に留まっています」

 軍議は、まずは幸蘭の報告から始まった。

「ふむ、貴方の意見を聞かせてもらえるかしら、仁」

「放って置いて良いのでは? すぐに馬に乗れるような傷ではないし、動けない馬超にあえて止めを刺しに行くってのは、あまり気が進まないな」

「そう。ならそうしましょう」

「……自分で言っておいてなんだが、良いのか?」

「ええ。馬超とのことは、貴方にすべて任せたつもりよ。貴方がそうしたいというのなら、その通りにしましょう」

「はっ、ありがとうございます」

 馬超のことで曹仁から礼を言われるというのは少々引っ掛かるものを感じるが、軽く流して華琳は軍議を続けた。
 軍議では、やはり梁興ら残りの軍閥の頭は討たずにおくべきだと、諸将の意見が一致した。狙うは三軍閥の兵と馬騰の首。そう方針を定め、軍議は解散となった。
 諸将がそれぞれの隊へ戻り、幸蘭だけが幕舎に残った。軍師達も幸蘭に―――曹家一門というよりも諜報部隊の長という立場に―――遠慮して席を外している。季衣と流流にも、本営周辺で守りを固めさせた。

「仁ちゃん、すっかり痩せてしまいましたね」

にこにこと笑みを浮かべながらも、幸蘭が棘を含んだ口調で言う。

「馬超との一騎討ちは、仁が望んだことよ。結果、あの子は大きく羽ばたき、曹仁隊も見違えたわ」

「……隊もですか?」

「ええ。兵も一緒に成長する。仁と春蘭や霞が違うところね」

 曹仁の率いる騎馬隊は、兵の動きまで違っていた。馬超との交戦中は白騎兵の後押しを受けていたものが、今は曹仁の指揮に自ずから遅れずに従っている。
 調練の激しさでは霞の隊も曹仁隊に負けていない。苛烈な霞の性格を反映し、より要求は厳しいくらいだ。兵はそれによく答えてはいるが、あるかなきかの齟齬があり、諦観がある。
 つまりは、どんなに厳しい調練を耐え抜いたところで張遼将軍のようにはなれない、という思いだ。春蘭旗下の兵達にも似たような思いがあるはずだ。
 曹仁はちょっと見ただけでは、大して強そうには見えない。鍛え抜かれた身体はしていても、男性としては貧弱な骨格。副官で巨漢の牛金などと並ぶと、子供のようですらある。あの白尽くめの具足がなければ、兵に混じっても目立ちはしないだろう。
 体格だけを見れば女性である春蘭や霞にも同じことが言えるが、二人が兵に溶け込むなど考えられなかった。まとっている武威が違う。

「春蘭や霞が努力をしていないというわけではないけれど、やはり持って生まれたものは歴然としてある。兵にとっては決して届かぬ存在でしょう」

「仁ちゃんになら、努力次第で届きますか?」

「天人だなんだと呼びつつも、兵からは特別な力なんてない、努力と工夫で強くなった者の代表と映っているのでしょう。だから追い抜けぬまでも肩を並べられるかもしれない。そして仁と肩を並べるということは、春蘭や霞に劣らぬということでもある。仁は努力次第で凡人が天才を凌ぎ得るという好例であり、兵にとっては希望でもあるのでしょう」

 華琳はそこで言葉を切るも、思い直し一つ言い足す。

「まあ、実際にはあの子がこれまで培ってきたものに、同じように努力したところで後から追い付くのは難しいでしょうね。あの子が努力を怠りでもしない限りは」

「……仁ちゃんが努力家の代表ですかぁ」

 幸蘭が感心したように呟いた。

「なあに、貴方は違うと思うの?」

 あの抜群の馬術を習得するため、半年以上も白鵠の厩舎に泊り込んだことも、調練でどれだけ汗を流そうと、決して朝晩の槍の鍛錬を欠かさないことも、幸蘭はよく知っているはずだった。
 曹仁は槍を取れば天下で並ぶ者がない―――は言い過ぎとしても、五指には間違いなく入る。それは子供の頃、出会ったばかりの曹仁からは到底想像が付かない姿だった。曹仁がこの先どれだけ修練を積もうと武において自分が追い付かれることはないと、当時の華琳は確信していた。曹仁の資質は凡庸そのものであり、自分は武芸に置いても才能に恵まれた。しかし曹仁は戦法を工夫し、それに適した鍛錬を地道に積み重ねることで、いつしか曹操軍を代表する武人にまで育った。馬上でもそうでなくても、華琳が曹仁に武術で勝つ日はもう来ないだろう。

「……なるほど。その辺りですかね、私と華琳様との違いは」

「何の話よ?」

「仁ちゃんに対する思いの違いです。私だって仁ちゃんのことは大好きだけれど、華琳様の気持ちと比べると、やっぱりそれは肉親の情に近いのだと気付かされました。―――仁ちゃんが人一倍努力しているのは知っています。それでも私は、仁ちゃんを努力家とは思えません。ううん、思いたくないと言うべきでしょうか」

「思いたくない? どうして? そこが―――」

 格好良いのに、と続け掛けて華琳は口を噤んだ。幸蘭は素知らぬ顔で会話を続ける。

「結局は、男と女ではなく、姉と弟だということなんでしょうねぇ。同じ強くなるなら、素質に恵まれて楽に強くなって欲しいし、仁ちゃんが頑張っていれば褒めてあげたくなりますけど、本音を言えば苦労なんか知らずに幸せになって欲しい」

「ふむ。分かるような分からないような話ね」

「華琳様にはそうでしょうね。私は仁ちゃんが努力していると、いじらしさや心配が先に立ってしまいますけど、華琳様には、―――格好良く見えておいででしょう?」

「―――っ、ま、まあ、そうね」

 この従姉は察しが良過ぎていけない。華琳は観念して渋々と頷いた。

「うふふ」

「な、なによ?」

「華琳様が仁ちゃんを格好良いと認めるところ、初めて見ました」

「―――っ」

 絶句した華琳に、幸蘭はくるりと背を向ける。何か言い返してやろうと思った時には、すでに幕舎内には華琳一人きりとなっていた。
 翌日は兵力の削り合いに終始した。曹仁の用兵に触発されたのか、霞隊と烏桓兵の動きも良い。馬騰と馬岱をいなしながら、三軍閥の隊を相当に叩いた。曹仁と霞は馬騰の首も何度か狙いに動いたが、危地に踏み込む直前に巧みに四万の中に埋没していく。
 その翌日も、同じように戦は展開した。膠着と考えれば遠征軍である曹操軍の不利であるが、確実に兵力は削っている。潼関と武関を抑えてあるから、物資の輸送に不安もなかった。曹仁が馬超に勝利した時点で、戦の大勢は決している。一歩一歩、勝利へと近付いていた。
 さらに翌日、戦の開始より八日目に、戦況が動いた。いや、馬騰の手で動かされた。
 赤白の馬騎を掲げた五百騎が、歩兵の真ん中に軍を進めていた。四万騎の烏合集団は、外へ残したままだ。

「手堅い戦から、一変させてきたわね」

 五百騎は、歩兵三隊に対して突撃と離脱を繰り返し始めた。動きは実に活き活きとしていた。こちらこそ、馬騰本来の姿なのだろう。

「とはいえ、狡猾でもあります」

 稟が言い、詠が思案顔で続けた。

「そうね。あの五百騎は、歩兵の動きで捉えきれるものではないわ。歩兵部隊と歩兵部隊の狭間に騎兵を配置すれば行く手は塞げるけど、そうなれば外へ待機させた四万騎が突っ込んで来るわね。騎兵同士の混戦に持ち込まれると、あの兵は強いわ。その上、馬騰に取っては惜しくもない烏合」

 四万騎はその場で輪を描く様に軽く駆けている。完全に脚を止めてしまえばこちらの騎馬隊―――特に烏桓の弓騎兵―――の標的となるためだろう。それは同時に蜷局(とぐろ)を巻いた蛇のように全方位どこへでも牙を剥く攻撃の構えでもある。烏合の大軍に取らせるには難しい陣であり、馬騰の指揮を離れたからと言って侮れない。指揮は白蓮の報告にもあった馬騰の腹心龐徳のようだ。

「―――ここは、曹仁将軍にお任せするというのは如何でしょうか?」

 春華が、ぽんと手を打って言った。

「だから、それだと四万騎との混戦に持ち込まれて、騎馬隊の犠牲が無駄に増えると言っているじゃない」

「いえ、ですから隊そのものは動かさずに、白騎兵百騎のみで馬騰を討ち取って頂こうではありませんか」

 詠の反論に春華はしれっと返した。

「……曹仁に伝令を」

 今の曹仁なら、五百と百の差など問題にしないだろう。華琳は春華の策を採用した。





「そう来たか」

 黒地に白抜きの曹旗に天人旗を掲げた小隊が、近付いてくる。

「あくまで自分は顔を出さないつもりか、曹操」

 曹操を釣り出すために、五百騎で歩兵の陣の只中に飛び込む強硬策に出た。釣り出されたのは、曹仁率いる白騎兵である。
 四万騎へ向け、一度赤白の馬旗を振らせた。待機せよ、という廉士への合図である。
 五百騎での突出は、当然廉士からは強く反対された。しかし命令として押し切り、同行も禁じて四万騎の指揮に当てていた。決めた合図は待機を命ずる一つだけである。時と見れば命ずるまでもなく廉士は動く。怖いのは馬騰の身を案ずる余り、急いて飛び出すことである。

「さてと、今の私にこの曹仁の相手がどこまで務まるか。―――まあ、せいぜい見せ場くらいは作らせてもらうとしようか」

 白騎兵が脚を速めた。駆けながら隊列が引き締められていく。緩い楔型だったものが、刃の様に鋭く。
 こちらも、天人旗へ向け駆ける。正面から受ける。そういう構えを見せたが、いなされた。馳せ違う。いや、最後に曹仁は斜めに馬首を転じ、五百の最後尾の十数騎を突き崩した。
 旋回し、再び接近する。馳せ違う。今度はこちらも警戒しているため、曹仁も手を出してこなかった。
 寄せては離れを繰り返した。百騎と五百騎である。いつでもぶつかるつもりで隊を動かしたが、曹仁は乗ってこなかった。馬騰の首だけが狙いだろう。こうなると兵力差に大きな意味はない。一対百か一対五百かという違いでしかなかった。
 白騎兵が左右二隊に分かれる。好機だった。曹仁の指揮を離れた五十騎なら、力押しに持ち込める。こちらも二隊に分け、それぞれに当たるよう命じた。
 次の瞬間、白騎兵が一つにまとまり、槍の穂先の様に鋭く真っ直ぐに突っ込んできた。今まさに二隊に分かれようとする、その真ん中を駆け抜けてくる。当然五百の中心にいた馬騰はその進路上だ。
 曹仁に対して、わざわざ大将首への道を開いてやったようなものだった。
 馬騰の前に、さっと十数騎が並ぶ。馬騰自身も十文字槍を構えた。かつての愛槍銀閃に似せたものだ。本物の銀閃は、自分よりも強くなった娘にすでに譲っている。
 曹仁。先頭で向かってくる。
 何も出来ず、一騎が突き落された。二騎目も、槍を交わすことなく討たれた。
 三騎目が、胸を突かれながらも馬を寄せた。曹仁の進路がわずかに左へ逸れる。それで曹仁の槍と十文字槍は交わることなく馳せ違った。馬騰はそのまま右の二百五十騎へ加わり駆け抜け、すぐにもう一隊を合流させた。

「なるほど、翠が破れるわけだ」

 ほんのわずかな隙がそのまま致命傷へと繋がりかねない。用兵と言うよりは、一対一での立合いに近い感覚だ。
 五百騎の先頭へ出た。真ん中から指示を飛ばしていては、一手遅れる。そこに付け込まれていた。曹仁にとっては、狙うべき大将首が前面に出てくれたのは好都合だろう。馬騰の目的の上でも、それは都合の悪い話ではない。
 先頭を駆けると言っても、翠や曹仁のように本当に一番前を駆けるわけではない。五百騎の中から常に二騎が先行した。翠と廉士の仕込みだ。この五百騎は馬騰の命を何よりも優先して動く。有り難くもあり、少々煩わしくもある。
 馬騰が身を曝したことで、曹仁の動きはより苛烈なものとなった。徹底して、馬騰を狙ってくる。
 三隊の歩兵に囲まれた一里四方にも満たない空間で、しばしば天人旗を見失い掛けた。迫られる度、前を行く二騎が犠牲になった。しかし、それ以上の犠牲を出すことなく凌いだ。不思議と凌げていた。
 天人旗。こちらから迫った。
 曹仁が先頭の二騎を突き落す。突くのが凄まじく速いだけでなく、引くのも同等に速い。それ故に馳せ違う切那に二度突いてくる。だがそれも、さすがに二度が限度のようだった。三度目はない。
 先行する二騎とほとんど馬を並べるくらいまで加速し、十文字槍を振るった。やはり三度目はこない。曹仁は柄を立てて受けるのみだった。
 馳せ違い、もう一度迫る。二騎の犠牲と引き換えに、今度は体重を乗せて槍を叩きつけた。やはり受けられるも、十文字の片鎌が曹仁の具足を掠めた。
 生きている。そう感じる。大病を患って以来、久しく無かった感覚だ。
 見上げると、赤白の旗が風に靡いている。長らく軍営の飾りとなっていた我が旗だ。赤龍と白狼を表す軍旗は、やはり戦場が似合う。自分も、病床で朽ちていきたくはなかった。

「―――っ」

 喉元に込み上げたものがある。飲み下した。何度やっても慣れるものではないが、とりわけ今回は量が多い。二度三度と喉を鳴らし、ようやく息をついた。呼気から漂う鉄臭さに、思わず馬騰は眉をしかめた。
 胸の辺りで何かが破れた。これまでこぼれては掬い足してきたものが、今度は器そのものが壊れた。それが不思議と実感出来る。

「これからというところで。だが、良い見世物は演じられたようだな」

 歩兵の中軍を見やる。ちょうど、対峙した白騎兵の背後に位置している。

「行くぞっ」

 あえて口に出して言う。それで五百騎には馬騰の意図が伝わっただろう。
 駆けた。曹仁。向かってくる。今度は手を出さず、横を走り抜けた。脚を緩めず、駆け続けた。すぐに一里四方の小さな戦場は尽き、歩兵の陣が迫る。突っ込んだ。
 曹操。目を見開いた表情まで見て取れる。物見気分で、前線近くまで姿を現していた。





「釣り出されたか」

「―――華琳様っ、お下がりください」

 季衣と流流が叫びながら、虎士を華琳の前面に展開した。虎士を除けば、赤白の馬旗とはわずか歩兵十数列を隔てるのみである。
 五百騎の先頭には二騎が並び、そのすぐ後ろに馬騰だ。視線が絡むと、馬騰は口元をにやりと歪めた。
 先頭二騎が左右から槍を掛けられ落されても、すぐに代わりの二騎が前に進み出る。二騎に守られるようにして、馬騰も自ら十文字槍を振るっていた。
 歩兵を五列まで崩したところで、騎馬隊の勢いが弱まった。先頭に曹仁や霞、あるいは馬超がいたなら、歩兵の十数列くらいは軽く突破している。
 かつて猛将で鳴らした英傑も、病には勝てないか。こうして向き合っても、たいして圧力も感じない。呂布や張飛は元より、遠目にした馬超にも遠く及ばない。まだしも先刻まで曹仁と駆け合っていた時の馬騰自身の方が際立っていた。
 遂に騎馬隊の脚が完全に止まった。くるりと、馬騰が馬首を転じる。赤白の馬旗と共に離脱するも、先頭の二騎と数十騎はそのままその場に留まった。陣形の綻びを繕おうとする歩兵と押し合いが始まる。

「華琳様っ、お早く」

 後方へ促す稟には言葉を返さず、華琳は周辺へ視線を走らせた。
 戦況が大きく動き始めている。
 華琳の興味を引き前線へと誘った眼前の戦場では、後退した馬騰に曹仁の白騎兵が攻撃を仕掛けている。これは、先刻までの様相と変わりない。
 曹仁と馬騰の背後へ視線を伸ばすと、烏合の四万騎と曹操軍の歩兵がぶつかり合っている。こちらへ向かう騎兵を、両翼の歩兵が左右から挟み込む形だ。
 歩兵の外へ視野を広げると、騎馬隊の戦線も激化している。馬騰の元へ駆け付けようとする西涼軍を、曹操軍の騎馬隊が阻止するという展開だ。

「稟、それに詠と春華。貴方達は下がりなさい」

「華琳様も下がってください」

 華琳の言葉に、間髪入れず季衣が口を挟む。

「病を抱え衰えた過去の英傑を相手に、私に下がれと?」

「馬騰のあの勢い。容易く考えたらダメです」

「貴方達がいるでしょう」

「だけど」

「―――来るわよ。備えなさい」

 華琳の言葉に、季衣は次の攻撃に備えて一先ず引き下がった。
 再び赤白の馬旗が迫る。曹仁が遮るも、意に介さなかった。馬騰の身一つを守りながら、兵は討たれるに任せて突っ込んで来る。
 歩兵の只中に取り残されていた数十騎が、呼応して道を押し開けにかかる。
 脚を止めて歩兵と押し合いをするのだから、次々と馬から落され数十はすぐに数騎を残すのみとなった。

「惜しいわね」

 思わず華琳は嘆息交じりに呟いた。
 白騎兵に匹敵する精鋭が、露払いの死兵として使われている。人材を好む華琳ならずとも、その思いには共感出来よう。
 開いた道を駆け抜け、赤白の旗がぐんぐんと近付いてくる。

「曹操っ! 下がらずに、よくぞ留まってくれたっ、感謝するっ」

 十列足らずの歩兵と虎士を隔て、馬騰が叫ぶ。一列、二列、三列。歩兵の陣形を突き崩すと、再び数十騎を残して後退していく。後退した先で、白騎兵の攻撃を受け十数騎が打ち落とされた。構わず、もう一度華琳の本陣へと取って返す。
 後退と突撃を繰り返すごとに、精鋭五百騎が目に見えて数を減らしていく。しかし、止まらない。
 先刻までの狡猾さをかなぐり捨てた、愚直な戦振りだった。

―――どこかで、策を弄してくるはず。

 馬騰には、これまで何度瞠目させられたことだろうか。
 謀でも戦でも、巧みに虚実を操ってきた女だ。謀略に長けた韓遂に対して、馬騰は実直な武人と見える。しかし韓遂が実を内包した虚なら、馬騰は虚を内包した実だ。本質も表向きの見え方もまったく異なるが、どちらも等しく虚実に通じている。
 華琳の疑念をよそに、さらに四度、五度、六度と愚直な突撃が繰り返された。

「……まさかその調子で、本当にここまで掘り進んで来ようというの?」

 執拗な突撃が続き、ついに歩兵が完全に断ち割られた。すでに五百騎は半数近くまで数を減らしている。虎士の堅陣に弾かれ、もう一度後退した。
 意外と言うべき戦振りだ。しかし、西涼武人とは本来こうしたものだという気もする。

「危険です、華琳様っ。お下がりください!」

 今度は流流が言った。

「平気よ」

 歩兵十数列を抜くのに、十回近くも突撃を繰り返している。謀と軍略は見事でも、やはり武勇は病人のものだ。
 赤白の旗。迫ってくる。

「―――曹操っ!」

 馬騰が叫び、初めて前を行く二騎を追い抜き本当の先頭に立った。

「――――っ」

 十文字槍が、虎士二人をまとめて跳ね飛ばした。そこへ、先刻まで先頭を走っていた二騎が突っ込む。虎士の剣に二騎はすぐに倒れるも、馬ごと乗り上げるようにして陣形を崩した。

「力を隠していたというの?」

 やはりここに来ての策。精鋭騎馬隊に多大な犠牲を強いながら、華琳を間合いに捕らえる瞬間まで、自らの力を秘していた。他の西涼軍閥の兵だけでなく、子飼いの精兵まで死兵として扱い、戦を組み立てる。覇道を標榜し、非常と人に恐れられる華琳も及ばぬ冷めた戦振りだ。

「曹操っ!」

 馬騰が叫び、さらに数騎を押し退けた。もはや馬騰と華琳、両者を阻む者は季衣と流流の二人だけとなった。
 前回―――洛陽で急襲された際に、二人は岩打武反魔と伝磁葉々を馬騰に避けられている。今回はぎりぎりまで引き付けて投擲する構えだ。

「――――はあっ」

 季衣と流流が得物を投げ放つと同時、馬騰が馬を跳躍させた。美しい弧を描いて、岩打武反魔と伝磁葉々は元より二人の頭上までを跳び越えた。
 降り立った先は、華琳の眼前だ。

「くっ」

 十文字槍の打ち込み。絶の柄で辛うじて受ける。勢いは殺せず、大きく右へ体勢を崩された。返すもう一撃。やはり受けるも、今度は左に身体を弾かれた。馬騰が馬を寄せ、そのまま体重を乗せて圧し潰しに来る。
 華琳の首筋に、十文字槍の鎌がじりじりと迫る。
 重い。これが満足に戦場にも立てないと噂された病人の膂力か。
 季衣と流流。馬騰の後続の騎兵に攻撃を受け、すぐにはこちらに来れそうにない。華琳は二人の背中に、気付くはずもない目配せを送った。
 一転、馬騰が槍を引き寄せた。背後を気にして、早急に勝負を決めにきた。十文字槍の鎌が絶を引っ掛け、華琳は前のめりに構えを崩された。

―――まずい。

 ぞくりと首筋に悪寒が走り、絶を手放し即座に体勢を立て直した。直後、華琳の首があった空間を十文字槍の穂先が抉る。
 急ぎ腰に佩いた倚天剣を抜き構える。この上ない利剣だが、この馬騰を相手にするには少々心許無い。

「…………?」

 間断なく襲い来ると思われた馬騰の攻め手が、そこで止まっていた。
 困惑を抱えたまま、華琳はしげしげと馬騰を見つめる。鍔迫り合いのような形となっていたから、ごく近い。手を伸ばせば触れられる距離だ。
 十文字槍を握る馬騰は、虚実を弄し、死兵を駆使する謀将には見えない。堂々たる一個の武人だ。しかし、何故動かないのか。

「――――っ!? ……馬騰、貴方」

 口の端を手の甲で拭うと、馬騰は笑みを一つ残し駆け去った。兵もそれに続く。馬騰は馬の背に、すがり付くようにしている。
 華琳は思わぬ事態に、目を見開いてそれを見送った。

「華琳様っ」

 季衣と流流が馬を寄せてくる。

「やはりお下がりください。馬騰を病身などと侮ってはいけません」

「そうね。確かにその通りだわ。だけどもう―――」

「―――華琳様、お怪我をっ!?」

 流流が華琳の軍袍に点々と刎ねた血を目聡く見咎めた。

「いえ、怪我はないわ。……返り血、と言って良いのかしら」

 視線の先で、赤白の旗が動きを止めていた。
 今回の後退では、騎兵は留め置かれていない。季衣と流流と言葉を交わすわずかな間にも、曹操軍の歩兵はすっかりと陣形を整え直してしまっている。執拗に繰り返された馬騰の突撃も、これで水泡に帰した。
 白騎兵が赤白の旗に一度突撃して両断したが、それきり何故か距離を置いて静観の構えを取った。

「……やはり、そういうことなの?」

 華琳が策と断じた馬騰最後の奮闘。力を秘していたのではなく、わずかに残されたものを温存せざるを得なかったということなのか。





 藍が歩兵に突っ込むのを見て取るや、龐徳は四万騎を突撃させた。
 それまでにも何度も軍を動かし掛けた。白騎兵率いる曹仁が姿を見せた時、曹仁が五百騎を両断した時、藍が五百騎の先頭に出た時、そして曹仁と槍を交わした時。しかし龐徳の心の内を見透かしたように、その都度赤白の旗が振られ、制止を命じられた。
 今度は、旗は振られなかった。躊躇なく歩兵と歩兵の狭間へと飛び込んだ。すぐに左右から歩兵が迫った。
 右翼の歩兵に、まず捉まった。隊列も何も無視した走り様で、一気に距離を詰めてきたのだ。
 張燕率いる黒山賊の兵である。
 馬の足元に鎖が投げ込まれ、馬上にも投石が飛んできた。真っ当な正規軍の戦い方ではない。手にした得物も実に取り取りだ。まともに扱えるとも思えない巨大な大刀を担いだ者や、ただの棍棒のようなものを振り回している者までいた。
 装いから振る舞いまで賊徒のそれでありながら、決して弱兵ではなかった。龐徳は投石を大刀で弾き、取り付いて来ようとする一人を薙ぎ払った。
 やがて遅れていた左翼の歩兵も追い付いてきた。こちらは足の遅い重装歩兵だが、鉄の塊のような堅陣そのままにぶつかって来た。黒山賊の陣へぐいぐいと押し付けられ、完全に混戦へ追いやられた。
 脚を止めず、龐徳は大刀を振るって一歩また一歩と血路を開いていく。
 歩兵の陣の外では、曹仁に代わって騎馬隊を率いる公孫賛が蒲公英を、張遼と烏桓兵が梁興ら軍閥の隊を抑えに掛かっていた。藍の元へ駆け付けることが出来るのは、自分しかいなかった。
 大刀の技は、従者として仕えていた頃に藍から習ったものだ。教わった鎌槍の多様な用法のうち、薙ぐ、払うといった技が性に合った。それに磨きをかけ、得物も藍への憧憬だけで選んだ十文字槍から大刀に持ち替えた。
 藍の役に立てる人間になりたかった。そのためだけに、生きてきた。他は何もいらない。

「――――っ」

 我知らず、口から獣が吼えるような声が漏れる。
 黒山賊の兵は斬り払い、重装歩兵は具足の上から叩き伏せた。返り血に塗れる。数えきれないほどの敵を討ち果たしたところで、ようやく歩兵の人波を抜け出た。
 藍がいた。他のものは目に付かず、駆け寄った。

「おう、廉士か」

 藍が伏せていた顔を上げる。
 龐徳は無言で頷き返した。言葉が出てこない。藍の顔色が、不自然なくらいに白い。傷を負ったのか。
 ようやく周囲の状況も見えてきた。曹操の牙門旗は、いまだ健在。白騎兵はこちらと対峙する位置で軍を留め、精鋭五百騎は二百まで数を減らしている。そして二騎が、左右から藍を支えていた。

「……曹子孝の奴め。若造の分際で、私に憐れみを掛けおった。せっかく、病ではなく戦で死ねると思ったものを」

 馬を寄せ、二騎に代わって藍を抱き支えた。
 唇の端が紅でも塗ったように赤い。戦の最中に化粧などする藍ではない。わずかに血の匂いが鼻に付いた。

「だが、そのお蔭でこうして最期にお前と話せると思えば、まあ悪くないか」

 最期と、藍がそう口にした。
 軍袍が血に濡れているが、藍の身体のどこにも負傷の痕は無い。戦傷の処置なら、多少の心得はある。しかし傷がないなら、龐徳に出来ることはない。
 藍のためにしてやれることが何もない。それは恐怖であり絶望であった。

「なんだ? 珍しく取り乱しているな」

「…………っ」

 言葉はやはり出なかった。藍の身体から、急速に熱が失われていく。少しでもその場に温もりを留めようと、きつく抱き締めた。

―――こんなにも、小さくなっていたのか。

 かつて見上げた英傑は、龐徳の腕の中にすっぽりと納まった。固く、骨張った身体だ。

「少し痛いぞ」

「すいません」

 ようやく言葉が出た。しかし腕の力はそのままだ。まるで身体の操り方を忘れてしまったかのように、どうやって力を抜けば良いのか分からない。

「ふむ。まあ良いか」

 抱き寄せた身体の弱々しさからは想像出来ない程、藍の声はしっかりとしていた。

「惜しいところまで、いけたつもりなのだが、やはり曹操は強かったな。潔さの中にも、生への執着があった。運もある。私には、どちらも足りなかったな」

 藍が一人ごちる。その間にも、身体から熱は失われ続けている。

「……廉士、今から一つ、頼みごとをする」

 わずかな逡巡を挟み、藍が切り出した。

「頼みごとなどと。何でもお命じになって下さい」

「いや、頼みだ。だから、断ってくれて良い。いや、断れ」

 言葉の意味は分からぬまま、頷き返した。

「それでよい。では、頼むぞ。――――」

 藍が願いを口にした。

「―――まだ、貴方のために生きることが出来るのですね」

 廉士は自身にとって呪いであり救いでもある言葉を胸に刻み込んだ。

「……断れと言っただろうに」

 藍が寂しげに微笑んだ。





 赤白の馬旗が伏せられ、ほどなく馬騰の亡骸を抱えた龐徳が投降してきた。
 馬騰の死を伝え、龐徳が降伏を呼び掛けると、他の西涼軍も意外なほどあっさりとそれに応じた。
 西涼軍は武器を取り上げた上、馬とは分けて囲うこととした。刀槍はすんなりと手放したが、馬の引き渡しは渋る者が多かった。凪の重装歩兵を並べ威圧し、後々の返還を約束してやるとようやく応じ始めた。
 馬岱の隊だけは矛こそ収めたものの降伏はせず、その場から駆け去っていった。方角からして、二十里先に軍を留めているという馬超と合流するつもりだろう。
 軍閥の長二人―――残る三軍閥の頭のうち梁興は最後の攻防で霞が討ち取った―――と龐徳は軍装を解かせ、本営へと引き立てた。

「さてと。こうしてちゃんと顔を合わせるのは初めてだったわね。侯選と楊秋で合っているかしら?」

「ははーっ」

 華琳が問うと、軍閥の長の一人が平身低頭した。もう一方の長は、無言で首肯するだけだ。

「相変わらず調子が良いわね、楊秋」

「これは、賈駆殿。お元気そうで何より」

 髭面の豪傑然とした男が、ぺこぺこと頭を下げる。詠の言う通り、お調子者のようだ。つい先刻まで、西涼騎兵を率いて応分の働きをしていた男とも思えない転身ぶりだ。

「貴方が楊秋で、そっちの無愛想にしているのが侯選ね」

 楊秋がやはりぺこぺこと頭を下げ、侯選が小さく首肯する。

「そして真っ先に投降した貴方が、龐徳」

 龐徳とは投降の時点で言葉を交わしている。確認する必要もないが、あえて口に出した。
 転身というなら、楊秋以上にこの男こそ大したものだった。
 馬騰の腹心中の腹心である。幼いころからの従者で、血の繋がりこそないが馬騰にとっては身内同然であったという。華琳にとっての曹仁にも近い存在だ。

「はっ」

 龐徳は居住まいを正し、頭を下げた。
 楊秋の様に卑屈に開き直るでも、侯選のように頑迷に居据わるでもない。ごく自然な佇まいだ。

「さてと、貴方達の処遇だけれど―――」

「―――曹操様っ、馬超が」

 兵が一人駆け込んできた。龐徳の表情が初めてぴくりと動いた。

「ずいぶん早かったわね」

 というより、早過ぎる。馬岱が戦場より駆け去ってから、四刻(2時間)と経っていない。
 軍勢が二十里を往復可能な時間ではない。馬岱が急使を走らせ、急報に接するやすぐに馬超は動いたということだろうが、それにしても早過ぎだった。
 華琳は自分が母の死を知った時を思い返した。描いていた戦略など全てかなぐり捨て、すぐにも徐州への出兵を命じていた。馬超も取るものも取りあえず軍を発したか。
 予想よりもはるかに早いが、想定した状況でもある。戦構えは解かず、歩兵に陣を固めさせている。

「距離は?」

「すでに歩兵とぶつかっております」

「―――? その割に、ずいぶんと静かね。馬岱の兵も合わせればまだ二万騎は残しているはずだけれど」

「いえっ、馬超です。現れたのは、馬超ただ一騎だけですっ」

「―――曹操ーーっっ!」

 兵が答えると同時に、華琳の名を叫ぶ声が聞こえてきた。

「……なるほど、早いわけね。―――絶影をここへ」

「曹操様」

 龐徳がこちらを見上げていた。

「……同行を許可しましょう。龐徳にも馬を」

「曹操ーーっっ!」

 馬超の叫びが、また聞こえる。声の元へ、龐徳と虎士を引き連れて向かった。

「なるほど、確かに一人ね」

 兵が槍先を揃えて遠巻きにする中、ただ一騎佇んでいた。すでに散々に暴れ回った後で、周囲には曹操軍の兵の亡骸がいくつも折り重なっている。百人近くも討たれていそうだ。
 囲んでいるのは張郃―――優の隊で、兵に混じって指示を飛ばす彼女の姿もあった。曹仁と霞もいる。

「―――曹操っ!!」

 華琳を認め、馬超が馬を走らせた。
 奇しくも状況は、馬騰最後の戦場と酷似している。防備を固めた歩兵と虎士が、華琳と馬超を阻んでいた。
 馬超が歩兵の中へ飛び込んだ。足並みを落すことなく、瞬く間に距離を詰めてくる。若く、疲れを知らぬ馬騰を見る思いだ。いや、技の冴えは馬騰よりも上か。

「馬超の奴、あの傷で良く動くな」

 そんなことを言いながら、曹仁が歩兵と虎士の間に馬を進めた。霞も轡を並べている。
 曹仁の言葉に改めて馬超を見ると、軍袍の首元や腿に大袈裟なくらいに巻かれた晒が覗いていた。

「二人掛かりでいくんか?」

「状況が状況だからな」

「まっ、元々アンタの獲物や。アンタがそれでええっちゅうんなら、ウチも遠慮なくいかせてもらうで」

 曹仁と霞が、槍と飛龍偃月刀を構える。
 春蘭不在の遠征軍では最強の二人組だ。呂布や張飛が相手でも、容易く抜かれはしないだろう。
 すっと、華琳の横から一騎が進み出た。
 大刀は取り上げ、軍装も解かせている。華琳は好きにさせることにした。男は何食わぬ様子で虎士の陣を抜け、とことこと曹仁と霞の後ろまで馬を寄せていく。

「曹操ーーっっ!!」

 歩兵をかき分け、馬超が飛び出した。男も、馬を駆けさせ曹仁と霞の前へ出る。
 疾駆していた馬超の馬が、急速に勢いを失った。並足で歩く程まで速度が落ち、ついには足が止まる。

「―――っ、なっ、なんでお前がっ、そっち側にいるんだ!」

 龐徳が両手を広げ、馬超の前に立ちはだかっていた。

「投降しました。蒲公英様から、お聞き及びでは?」

「そんなの何かの間違いに決まってるっ! 母様が討たれたんだぞ。廉士が、降るもんかっ!」

「いいえ、確かに曹操様へ降りました。翠様も、お降りください」

「そんなはずがあるかっ!」

 目の前の現実を拒絶する様に、馬超が激しく頭を振った。
 西涼軍の将兵には、馬騰の死は討死と喧伝した。馬岱の耳にも、そう伝わっているはずだ。曹操軍でも曹仁と一部の幕僚以外は病没の事実を聞かされていない。
 西涼人の気質として、その方が敗北を受け入れやすいとは龐徳の提言だ。戦の敗北はそれで認めても、今後の統治を考えると病没と伝えた方が反発を抑え込めたかもしれない。しかし馬騰が病ではなく戦での死を望んでいたと聞いて、討死として処理すると華琳は決めた。

「そっ、そうかっ、ひょっとして母様が討たれたというのが間違いかっ? らしくもなくへまをして、曹操の奴に人質にでも取られているだなっ。それで廉士も―――」

「いえ、藍様は亡くなられました」

 得心が言ったという顔で捲し立てる馬超に、龐徳が冷や水を浴びせる。

「―――っ、だったらどうして、よりにもよってお前が曹操を守るっ! 母様の仇だぞっ!! お前を、あっ、兄貴みたいに思っていたのにっ!」

 馬超の目には、龐徳は自らを遮る壁と映るようだ。
 華琳からは、龐徳は曹操軍から馬超を守る楯に見えた。曹仁と霞は構えを解き、投擲の準備に入っていた季衣と流流も岩打武反魔と伝磁葉々を降ろしている。

「翠様もお降りください。藍様の仇は、曹操様ではございません。藍様は―――」

 龐徳がそこで口籠った。
 雄々しく戦いの中で死ぬ。それは馬騰一人が抱いた思いだ。しかしそうあったと伝え遺したい相手がいたとすれば、それは娘の馬超であろう。

「龐徳、詰まらぬ嘘はやめなさい」

 思わず華琳は口を挟んでいた。

「曹操」

 馬超が憎悪に満ちた視線を向けてくる。

「馬超、光栄に思いなさい。貴方の母親は、この私自らの手で討ち取ってやったわ」

「―――っっ!」

 馬超の身体が、激情に震える。
 曹仁と霞、虎士の面々が改めて得物を構えた。一触即発の空気が漂う中、龐徳が機先を制して動いた。すっと馬超へ馬を寄せ、馬首を抑え込む。

「どけ、廉士っ! 母様の仇だぞっ。いやっ、一緒に曹操を討とうっ」

「落ち着いて状況をご覧ください。曹操様を討てる可能性が、どこにあります? 今ここで命を賭すことに、何の意味があります? 藍様の仇を取ることも出来ず、ただ無駄に命を散らすだけです」

「……曹仁に張遼、それに虎のちび隊長達か」

 馬超が小さく舌打ちした。突き放すような龐徳の言葉に、少しは理性を取り戻したようだ。

「投降してください、翠様」

「……」

 馬超は、もう龐徳には何も言い返さなかった。
 折りよく、砂煙を上げて騎馬の軍勢が近付いてくる。
 馬岱の隊と、馬超の警護をしていた兵だろう。総勢で二万数千騎。

「曹操、覚えていろよ。お前の首は、必ず私がもらう」

 馬超は言い捨てると、馬首を返す。振り返り際にほんの一瞬だけ龐徳に目を止めるも、何も言い残すことなく馬を走らせた。

「好き放題暴れ回って、そう簡単に逃げられると思うとるんか?」

「翠様、お待ちくださいっ」

 霞が馬超の後を追いに掛かる。龐徳も動いた。前方にいた龐徳の動きが邪魔となって、霞の愛馬黒捷が数歩空足を踏んだ。
 その間に、馬超は無人の野を行くが如く歩兵を蹴散らし遠ざかっていった。

「ちっ、馬超の暴れっぷりにすっかり兵の腰が引けとるな。これじゃあ、追いつかれへんわ」

 霞は追撃を諦めて、黒捷をその場に留めた。龐徳もそれに倣った。
 馬超が曹操軍の陣を抜け、追い掛けてきた騎兵と合流する。二万騎に、錦の馬旗が掲げられた。
 しばし対峙した。来るのか。八万騎で勝てなかった相手に、二万騎で勝負を挑むというのは無謀としか言いようがないが、馬超ならやりかねないという気がする。

「……さすがに、そこまで馬鹿ではないか」

 錦の馬旗がゆっくりと遠ざかっていく。

「―――っ、何ごと?」

 緊張感が途切れる瞬間を狙いすましたように、曹操軍の布陣の端がわっと騒がしくなった。凪が降伏した西涼兵を囲い込んでいる辺りだ。しばしして、重装歩兵の堅陣を突き破って、数百騎が飛び出していった。
 錦の馬旗を追って、駆け去っていく。

「あれは」

「藍様の旗本五百騎の生き残りのようです。どうやら翠様に付き従うつもりのようですね」

 龐徳に視線を向けると、事も無げに言った。想定通りの動きということだろう。

「……馬超は、貴方のことを裏切り者と思ったでしょうね」

「その通りなのですから、仕方がありません」

 思うところはあるが、華琳はそれ以上は口にしなかった。



[7800] 第10章 第15話 韓遂
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/01/27 19:41
 城を囲む軍勢から、五十騎ばかりが抜け出した。城壁から数十歩の距離まで近付いて来て止まる。
 曹操。隣には白装束の一騎を侍らせている。曹操は何事か叫び、後方に整列した五十騎が唱和した。

「投降しなさいっ! 自ら武器を降ろした者の命は取らないわ!」

 兵の間に動揺が走る。曹操はさらに続けた。

「韓遂! 貴方になら、望む地位も与えましょう! 執金吾でどうか!? それとも貴方なら大鴻臚が適任かしら!?」

「馬騰の衛尉と言い、上手いところを衝いてきよるわ」

 城壁の上に据えた床几に腰を降ろしたまま、韓遂は呟いた。
 曹操が後に挙げた大鴻臚は九卿の一つで、朝貢した異民族と応対する外交の長官である。西域と交流を持ち、羌族からの信頼も得ている韓遂には確かに似合いの役職と言える。
 だが西涼人の心を揺さぶるのは前者、執金吾だ。洛陽の警備を司る九卿相当の官位であり、かつては光武帝劉秀も憧れたという。衛尉と同じく、漢朝の武官の花形だった。西涼人にとっては遠い憧憬の的である。

「お前達も、私の後に続いて叫べ」

 周囲の兵に命ずると、韓遂は口を開いた。

「―――曹操っ、お前のことだ、馬騰や馬超にも同じことを言ったのだろうっ!? 彼奴らには何をくれてやるといった!?」

「以前と変わらぬ衛尉と奉車都尉の地位を約束したわ!」

「それに彼奴らは何と返したっ!?」

 返答に間があった。待たずに続ける。

「そうだ、それが私の答えだっ! ―――皆の者、射掛けいっ! 我らの天子様に弓引く、逆賊ぞ!」

 突然の命令に戸惑いながらも、城壁からぱらぱらと矢が飛んだ。
 曹操はしばし未練がましくその場に留まるも、同行した白装束の男―――恐らく曹仁だろう―――に引かれて下がっていった。
 しばしして、曹操軍の歩兵が前進し、攻城が開始された。
 ここ―――正門に当たる南門だけでなく、他の三面でも攻撃が始まったようだ。
 囲師必闕と言って、包囲の戦では必ず一箇所を開けよと孫子は書き残している。逃げ道を失えば、敵は決死の抵抗を示すためだ。
 曹操の軍学に対する造詣は相当に深いと聞いている。孫子の教えを知らぬはずはないが、長安はぐるりと歩兵に囲まれ、四門全てが攻撃に曝されていた。万が一にも天子―――弘農王―――を取り逃がさぬためだろう。投降した者の命は取らないという言葉が、逃げ道の代わりというわけだ。兵に決死の覚悟は見られない。
 一方で攻め寄せる曹操軍の兵も喚声や銅鑼の音ばかり威勢が良く、攻撃自体はそう激しいものではなかった。城門を中心に距離を詰め、取り付いてくるだけである。すぐにも陥落という心配はなさそうだ。
 韓遂は城壁を降り、後方へ下がった。
 成公英と閻行が付いてくる。閻行は城門守備の指揮官であるが、早急に対応が必要な状況は起こりそうにない。好きにさせた。
本営は宮殿の前庭―――各城門からおおよそ等しい距離にある―――に置いている。

「大きくなっていたな、曹操は」

 本営に戻り椅子に腰を降ろすと、韓遂は思わず呟いていた。
 馬騰と語らう姿を覗き見た時は、小柄な体躯はそのまま小さく見えた。あるいは、曹操よりも馬騰を大きいと感じたい韓遂の心がそう見せたか。いざ自ら対峙してみると、城壁の上に立つこちらが仰ぎ見る気分にさせられていた。
 何進の元にいた頃に、何度か会う機会があった。まだ黄巾の乱も起こる前のことである。袁紹の付添いという形で何進の屋敷を訪れた曹操は、いつも興味無さそうに議論を戦わせる清流派の士大夫達を見つめていた。同じく綺麗ごとに走り過ぎる彼らの言説を冷ややかな思いで聞いていた韓遂には、少々気に掛かる人物ではあった。言葉を交わせば、才覚に感心させられた。しかし、圧倒される様な大きさを感じたことはなかった。

「この乱世を戦い抜き、今や中華の大半を領しているのだから、大きくなるのも当然か」

「……もう、降られてもよろしいのではないですか?」

 成公英が言った。韓遂の心中を最も深く理解する男の言葉だ。
 韓遂にも西涼人の御多分に漏れず、漢朝への叛意と同時に尊崇の念があった。愛するからこそ、切り捨てられた現状に嘆き、怒り、叛くのだ。

「曹操は、あれで一度口にした約定を破る人間ではありません」

 成公英は、韓遂の心の内にある漢朝への敬慕を形としたような若者だった。敬慕の向かう対象は天子ではなく韓遂であるが、漢室に対しても韓遂の心情の純粋な部分だけを引き継いでいる。漢の司空に降るということは、漢室の下に付くということだが、それに強い抵抗を感じはしないのだろう。

「珍しく俺と同じ意見じゃねえか、成公英」

 閻行が言うと、成公英が嫌そうな顔をした。
 成公英が韓遂の敬慕を継いだ人間なら、閻行は韓遂の叛意を象徴した人間と言える。その閻行までが降伏を奨めていた。

「城内の兵はたった五千。目の前で馬騰と馬超の敗北を見せられて、士気も萎えてますぜ。十万を超える曹操軍をとても相手には出来ませんや」

「そうとも限らんさ。長安は高祖劉邦の定めた不落の都。力押しで容易く落せるものではない。実際、曹操軍は包囲に数を取られ、攻城に参加している兵はわずかだ」

 長安の城壁は一面十里(5km)にも及ぶ。歩兵十万に騎兵六万騎という大軍―――戦でさらに数を減らしている―――であっても、包囲だけで大半の兵力が費やされる。
 もっとも、それは五千の兵力しか持たない西涼軍も同じことだ。城が大きいということは、当然守る兵もそれだけ多く必要ということである。五千で長大な長安の城壁全てを守るなど不可能である。城門付近以外は、半ば強制的に召集した義勇兵を配備して形ばかりを整えただけだ。力押しで来られれば、とてももたない。
 曹操もこちらの兵力不足は先刻承知だろうが、力押しで城壁を乗り越え宮殿に迫るという戦は避けたいはずだ。弘農王の身に危険が及びかねないし、攻勢に転じ包囲の形が崩れれば取り逃がす可能性も出てくる。士気を挫いて自ずから降らせる。それが狙いだろう。

「ですが、援軍の当ても無しで長くは―――」

「閻行、捕らえられている楊秋達と連絡を付けられないか、試してみよ」

 楊秋らと共に捕虜となった兵が五万余りも存在し、包囲の後方でひとまとめに固められていた。これが一斉に叛旗を翻せば、曹操軍に痛撃を与えられる。こちらからも城門を開けて討って出、五万のうちの一万でも二万でも城内に向かい入れることが出来れば、籠城はかなり楽になる。
 まだ、勝利の可能性が潰えたわけではなかった。





「利に聡い韓遂のことだから、降るかと思ったのだけれど」

 楊秋に侯選、龐徳を本営に招いて切り出した。

「まったくですな。せっかくの曹操様の申し出を断るなど、少々意外でした」

 楊秋が代表して答えた。
 三名の中では楊秋が最も韓遂に親しかったという。侯選にとって韓遂は信用ならない同盟者であり、龐徳にとってはほとんど仇敵に等しいらしい。

「いっそ、涼州牧にでもしてあげれば、大人しく従うのかしら?」

「それは韓遂殿を、西涼の主とお認めになるということですか?」

「私の政を代行する一地方官としてならね」

 雍州牧には白蓮を送り込んだが、華琳の政策さえ正しく行われるならその土地の人間を抜擢しても良い。実際、河北の統治には今も袁紹軍の田豊や沮授を当てている。

「それでは、またすぐに戦でしょうな」

 楊秋が言った。口調にいつもの滑稽なまでの軽々しさがない。

「私の政に、不満があるということかしら? 貴方達西涼人は洛陽の政に不公正を感じているのでしょう? 少なくとも私の政は中原も辺境も区別しないわよ」

「西涼には西涼の暮らしがあります故、―――などと言うのは建前ですな。結局のところ、我ら西涼人は誰かの下に付くというのが嫌いなのですよ。異民族襲撃の恐怖に怯え、我らのために何もしてくれない漢朝に踏み付けられてきた歴史が、西涼に深く叛骨を植え付けました」

「つまり貴方も、私に本心から降るわけではないと言うことかしら?」

「いやいやいや、そのようなつもりでは。私など元から韓遂殿にすり寄っていた口ですからな。強い者に頭を垂れるのに、躊躇いはございませんわ」

 楊秋が大袈裟に手を振って否定した。一瞬だけいつもの軽薄さが顔を覗かせたが、楊秋はすぐに神妙な顔付きで続けた。

「韓遂殿は、あまり西涼人らしくない。武辺を誇るでもなければ、馬鹿でもない。だからこそ、人一倍西涼人らしくあることに拘りを持っておられる。まさに西涼人と言う馬騰殿が、目の前でお亡くなりになられたばかりですからな。こうなってはもう、降るという選択は韓遂殿にはありえません」

「へえ」

 思わず声が漏れた。詠、それに候選と龐徳も、意外そうな顔で楊秋を見ている。

「まあ、とはいえ韓遂殿も人の子。数日包囲を続ければ、命惜しさに降るかもしれませんな」

 楊秋はぽんと手を打つと、再び口調を一転させた。哄笑しつつ続ける。

「はっはっはっ、こう言っておかねば、見込み違いで韓遂殿が降られたら恥ずかしい思いをしますからな」

 軽妙と称するべきか、軽薄と蔑むべきか。なんとも評価の難しい男である。
 翌日、翌々日も攻城を始める前に降伏を勧告したが、楊秋の読み通り韓遂は首を縦には振らなかった。





 天子との謁見を終え、後宮を出た。
 すでに三日、攻城に耐えている。韓遂は日に何度となく呼び出しを受け、怯える天子を宥めた。
 馬騰に与して曹操の暗殺を謀った董承らの処刑は、この西涼にも伝わっている。天子は曹操に捕らえられれば、自分も殺されると考えているようだった。
 皇族、どころか廃されたとはいえ先の皇帝である。それでも必要と見れば曹操は躊躇うまいが、西涼軍が潰えた時点で曹操にそうさせるだけの価値がこの天子にはない。西涼を一つにまとめるには大いに役立ったが、劉備や孫策らが今さら帝を欲するとは思えない。群がってくる者がいたとしても、曹操にとっては取るに足らない小物ばかりだ。せいぜい厳しい監視下で洛陽に留め置かれる程度のものだろう。
 洛陽の宮中で生まれ育った天子にはその方が幸せかもしれないが、韓遂はその悲観を改めはしなかった。いま、天子に降りられては困るのだ。
 本営に戻ると、留守を任せていた成公英の他に閻行の姿があった。閻行が口から垂れ流す武勇伝のようなものを、成公英が興味無さそうに聞き流している。
 韓遂に気付き、二人がさっと居住まいを正す。

「閻行、何か報告か?」

「はっ。楊秋と連絡が取れました」

「そうか。協力は得られそうか?」

 閻行は小さく首を振ると、幾重にも折り畳まれた指先ほどの紙片を一つ差し出した。

「すでに戦う心は折られたか」

 ざっと目を通すと、投げ捨てた。
 韓遂も早く降れ。あのお調子者の楊秋が諧謔の一つも交えることなく、小さな紙片に小さな文字で懇々と書き記していた。

「韓遂様、やはりここは降るしかありませんぜ」

 この閻行も、馬超と曹仁の戦振りを目にしてから過剰なまでの自信を喪失している。以前の閻行なら、寡兵で討って出て曹操の首を取る、くらいのことは言ってのけただろう。

「なあに、いつものことじゃないですか」

「いつものことだとっ」

「―――っ」

 韓遂が声を荒げると、閻行は叱られた子犬のようにびくりと身体を縮こまらせた。

「だって、曹操は許すと言っているんですよ。それも執金吾だ。俺だって、馬超の奴が奉車都尉だったんだ、さらに上の―――」

 閻行が言い訳がましく、都合の良いことを並べ立て始めた。戦をする自信は失っても、馬超に勝ったという虚名の価値はいまだ信じ切っているらしい。

「下がって良いぞ、閻行」

「……はっ」

 閻行は不服気に頭を下げると、そそくさと本営から去っていった。

「……確かに、いつものことであったな」

 閻行がいなくなると、韓遂は小さく溢した。
 追い詰められ、何度頭を下げたことか。自ら立てた叛乱の首謀者を討ち、その首を手土産に相手方に降ったことも一再ならずある。叛徒鎮圧を命じられた漢朝の将軍達など、手柄を立て格好さえつけば早々に辺境での遠征など切り上げたいと思っている者ばかりだった。韓遂の示した恭順が嘘か真かなど、初めから計る気もない。
 そうして幾度となく叛を企て、その都度敗れながらも生き延びてきた。だから、閻行の言ったことは間違いではないのだ。思わず否定してしまったのは、今回こそはと期する思いがあったからだ。
 今まで組んできたどの相手よりも、馬騰はずっと大きかった。馬超は、西涼が生んだ最高の将器だろう。そして自分達だけの天子を得た。
 これだけ揃ってなお、西涼は勝てないのか。また恭順を演じなければならないのか。
 しかも相手は漢朝の将軍達ではない。曹操である。一度垂れた頭を、再び上げる機会が与えられるのか。生涯を曹操の部下として生きることにはならないか。

「曹操に投降するのがお嫌でしたら、北へ逃れられては如何でしょうか。羌族の支配地に潜んでしまえば、曹操も容易く手を出してはこられないかと」

 成公英が韓遂の心を読んだようなことを言う。

「……ふむ、それも悪くないかもしれんな」

 烏桓の地まで遠征した曹操である。どこまで逃げようと、避けられない結果を先延ばしにするだけかもしれない。それでも、逃げた分だけ叛き続けることが出来る。

「閻行を呼び戻せ」

「はいっ」

 成公英が、籠城を始めてから初めて晴れた表情で返事をすると、本営の外へ駆け出していった。
 策と言う程のものは必要ない。すぐに計画を立て、成公英に連れ戻された閻行に打ち明けた。

「一千の兵で包囲を破って北に逃れる、ですか」

「うむ」

 如何に十万の大軍といえども、長安の城壁は四辺合せて四十里にも及ぶ。包囲の布陣は薄く、騎馬隊で突破すること自体は難しくない。包囲の要は騎馬隊で、歩兵のどこを抜いても、すぐに報告が走り追撃が開始される。騎兵のみなら振り切ることが可能でも、天子の車馬を連れていてはそうはいかない。初めから弘農王を捕らえることを目的とした包囲なのだ。

「天子様はどうします? 兵に担がせますか?」

「いや、陛下に羌族に混じっての暮らしは無理であろう。お前に託す。曹操への手土産とするがいい」

「曹操への手土産。ってことは、俺は」

「陛下を連れて曹操の元へ降ると良い。曹操が陛下を害すことあらば、命を賭してお守りするのだぞ」

「そっ、そうですか。韓遂様のお供を出来ないのは辛いですが、天子様をお守りするのも大事なお役目。ここは涙をのんで引き受けましょう」

 閻行が喜色を隠さず言う。配下で最も武に長じた人間ではあるが、気骨を失ったこの男を側に留めて置く気にはならなかった。
弘農王を連れて投降すれば、本当に奉車都尉くらいには付けてもらえるかもしれない。西涼の悍馬が都で富貴の道に付くというのも、小気味良い話ではある。
 決めてしまえば後は動くだけだ。翌早朝、出撃の用意が整ったと成公英が知らせに来た。
 本営から、兵を集結させた北門前へ向かって二人で馬を並べた。

「兵は、不満の声を漏らしてはいないか? 閻行と共に降りたいという者も少なくなかろう」

 逃げ延びて異民族の地に隠れ住むぐらいなら、投降を望む兵も多いだろう。

「羌族の兵を集めましたので、ご心配には及びません」

「そうか」

 昔から不思議と羌族の者には好かれた。羌族の血が半分流れている馬騰よりも、韓遂を慕う者の方が多い程なのだ。辺章や北宮伯玉、王国といった当時の西涼の実力者と敵対した時も、羌族の大半が韓遂に付いてくれた。
 韓遂も、羌族を愛おしく思う気持ちがある。匈奴が強勢が誇った時代にはその下に付き、漢が勢力を強めればその下に付き、されど叛の心を失わずに持ち続けた者達だ。西涼にとっては侵攻してくる敵であり、親しい隣人であり、血を交わした家族でもある。西涼そのものと言っても良いだろう。

「むっ?」

 二百騎余りが、行く手で待ち受けていた。韓遂の姿を認めると、さっと道の両脇に分かれる。

「閻行か。見送りは不要と言ったはずだが」

「いえ、お見送りさせて下さい」

 道の真ん中に一騎残ったのは、閻行だった。決まりが悪いのか、拱手し顔を伏せたまま言った。
 先行する成公英が、無言のまま閻行の横を通り過ぎる。最後までこの二人は仲が良くない。

「天子様のこと、頼んだぞ」

「はっ」

 閻行は伏せていた顔を、さらにうつむけて言った。最後に西涼人らしい傲岸さをもう一度見せて欲しかったが、それも敵わないようだ。
 韓遂は閻行から目を逸らし、横を通り過ぎた。

「―――っ!?」

 直後、背中に衝撃が走った。落馬し掛けるも、西涼人の意地で踏み止まった。

「韓遂様っ! ―――閻行っ、貴様っ!!」

 成公英が振り返り、叫ぶ。
 それを合図に、道の左右に別れていた兵が動き出した。韓遂の元へ駆け寄ろうとする成公英を遮りに掛かる。

「どうせ降るなら、手土産は多いに越したことはありません」

 背後から、閻行の声がした。さすがに引け目を感じているようで、声は震えている。

「そうか。確かにそうだな」

 韓遂自体、幾度も繰り返してきた。次なる叛に、繋げるためだ。閻行はただ栄達のためだろう。

「……物は相談だが、私の首は大人しくくれてやるから、成公英は見逃しやってくれないか?」

「良いでしょう。あいつとも長い付き合いだ。―――おいっ」

 意外な答えが返ってきた。成公英を囲んでいる兵達に、閻行が命令を飛ばす。兵は槍の穂先を伏せ、石突を向けた。
 打ち掛かられると、武よりも文の人ではある成公英は長くはもたなかった。韓遂の名を呼ぶ声が次第に小さくなり、途絶えた。

「悪いな」

 閻行からは見えないだろうが、韓遂は小さく頭を下げた。
 些細な動きで、全身が軋む。背中に負った傷は、身体の根幹を断ち切ったようだ。
 それだけに意外だった。元々、隙あらば排除する、くらいにいがみ合っていた二人である。閻行が成公英を助命するとは思わなかった。大人しく首をやるとは言ってみたものの、この傷では抗い様もないし、万全であっても韓遂の武は閻行には遠く及ばない。こちらから条件など付けられる状況ではないのだ。

「……さてと」

 上手く出来るだろうか。韓遂は恐る恐る馬首を返した。落馬せずに、何とか背後の閻行に向き直ることが出来た。

「―――っ」

 顔を合わせるも、視線は合わない。大人しくという言葉が、成公英の助命の見返りとなるわけだった。閻行はおどおどと目を泳がせ、手にした血濡れた大刀をかたかたと震わせている。思いの外、韓遂は恐れられていたらしい。

―――してみると、なかなか良い叛きっぷりではないか。

 強く、大きいからこそ叛く。それでこそ西涼人というものだ。

「うむ、悪くない」

 震えた手でも仕留め損ねることがないように、韓遂は背筋を伸ばし、首を差し出すように傾けた。





「我が名は閻行っ! 曹司空様になり代わり、漢室に叛く逆賊韓遂の首、討ち取り申したっ!」

 大音声と共に城門が開いた。

「まずは俺が」

「ええ、任せるわ」

 曹仁が白騎兵と数千騎を伴い城門のうちへと駆け込んでいく。一刻(30分)ほどで、安全を確保したと自ら報告に戻って来た。
 曹仁と幕僚達、虎士、虎豹騎を引き連れ、城門を潜る。膝を付き、拱手した数十人の一団が待ち受けていた。
 先頭の筋骨隆々とした大男は拱手せず、代わりに右腕を突き出している。そこからぶらりと垂れ下がるのは、まさしく韓遂の首だった。

「……叛き続けた女が、最後は叛かれて逝ったか」

 ずいと馬を近づけ、身を乗り出して韓遂の虚ろな瞳と目を合わせた。季衣と流流、それに曹仁が慌て横に付くが、大男は気圧された様子で身体を硬直させている。

「……久しぶりね、韓遂」

 髪を掴まれ吊り下げられているから、引き攣った顔をしている。頬に飛んだ血も、拭われずそのままだ。しかしどこか、満足気な表情に見えなくもなかった。
 それほど親しく付き合ったというわけではない。ただ当時の腐敗した政の周辺にあって、韓遂は腐臭を跳ね除ける異国の風を身に纏っていた。波風一つ立てぬ清流派の士大夫達の中で、その姿は屹然としていた。
 叛に生き、叛に死す。韓遂ならこれぞ本望と、笑って最期を迎えそうな気がする。

「……殿下、お久しぶりです」

 視線を大男の後ろへ向ける。二人並んだ兵の一方に肩を支えられ―――逃げないように捕まれて―――いるのが弘農王だった。

「う、うむ」

 弘農王は蚊の泣くような声で答えると、それきりうつむいてしまった。身体はがたがたと震えている。

「……流流、殿下のお相手をお願い」

「はいっ。―――殿下、さあこちらへ」

 これ以上脅しつける意味も無さそうだった。供の中で一番人当たりの良い流流を選んで後を任せた。

「そちらの男は?」

 二人並んだ兵のもう一方は、後ろ手に縛りあげた若い男を組み伏せている。

「はっ。成公英と申します、逆賊韓遂めの側近です」

 大男が返答した。
 成公英はくぐもった声を漏らし、憎悪の籠もった視線を大男に向けた。口にも縄を噛まされている。

「それで、貴方は何といったかしら?」

「閻行と申します」

「……ああ、閻行。韓遂の“側近”で、とっておきの武将だとか。馬超に勝ったこともあるのだそうね?」

「自慢するほどのことでもありません。あんな女、俺にかかれば軽いもんです」

 皮肉を込めた華琳の言葉には気付いた様子もなく、閻行はひどく自慢げに胸を張る。
 捕虜にした兵の口から、よく上がった名前である。西涼軍はまだ最強の戦士を温存していると、負け惜しみのように叫ぶのだった。
 閻行は自分の名が敵軍の中に知れ渡っていることがよほど嬉しかったのか、口元を締まりなく緩ませている。

「―――軽いものね。すると貴殿が西涼軍最強の武人ということかな?」

 曹仁が口を挟んだ。常には無い硬質な響きのする声だ。

「まあ、そういうことになるかな」

 閻行がやはり得意気に胸を反らす。

「それはたいしたものだ」

「その装束、その白馬、そういう貴殿は、曹操軍最強とも言われる天人曹仁殿であろう? 馬超の奴に、なかなか手を焼かれたようですな」

 閻行は、硬さを増した曹仁の声に気付いた様子もない。さらに続ける。

「なあに、これからは俺が味方。馬超程度の相手なら、いつでも蹴散らして御覧に入れましょう」

 馬超に勝った、それが唯一誇るべきものなのだろう。閻行は殊更に馬超の名を口に上げる。

「そうですか、それは心強い。どうです、ここは一手お相手願えないか? 曹操軍最強の呼び声、あの馬超を物ともしないという貴殿になら、ぜひお譲りしたいものだ。―――そのでかい口ほどに腕も立てば、の話だが」

「―――っ」

 閻行はようやく曹仁から向けられる敵意に気が付いたようだった。

「……西涼の稽古は、中原ほどお上品じゃねえ。軽く一手交わすつもりが、死んじまうことも少なくない。それでも構わねえのか?」

 閻行はじろじろと曹仁を見やった後、気を取り直した様子で答えた。小柄で大して強そうにも見えない曹仁の外見に、自信を深めたようだ。

「ははっ。そのわりに貴殿が倒したという馬超の奴は、ずいぶんと元気にしていたがな」

「―――っ! ……曹操様、よろしいか?」

「そうね。馬超を倒したという腕前、私も興味があるわ」

「そういうことならば、お見せしましょう。―――おいっ、誰か俺の馬と武具を持ってこい!」

 閻行が後ろを向いて叫ぶ。

「構わないわ、用意してあげなさい」

 躊躇いがちな西涼軍の兵達に華琳が言ってやると、数人が駆け出していった。
 しばしして、馬を引き、大刀と具足を抱え兵達が戻った。閻行が曹操軍に一矢報いてくれるという期待からか、足取りは軽い。
 閻行は韓遂の首をぞんざいに兵に投げ渡し、代わって武具を受け取った。具足を着込み、大刀を手に取り、馬に跨る。

「さあ、この閻行様が勝負してやるぜっ! 命が惜しくないなら、掛かってきなっ!!」

「……」

 曹仁が、ちらりとこちらへ視線を向けた。

「これだけ状況を整いておいて、今さら私の許可もないでしょうに」

 好きにしろ、というように華琳が軽く肩を竦めると、曹仁は小さく頷き返した。
 虎士を後退させ、遠巻きに勝負の行方を見守った。曹仁と閻行は、十歩ほど距離を置いて対峙している。
 閻行が馬を駆けさせた。曹仁は悠々と受け、白鵠を軽く走らせる。
 西涼軍の兵の話を信じるなら、閻行はかなり一方的に馬超を打ち倒したという。それが本当なら、あるいは呂布や張飛並みの武勇ということになるが―――

「―――お前があの馬超に勝っただって? 嘘だろう?」

 馳せ違った瞬間に、勝負は決していた。
 落馬し、のた打ち回る閻行に、馬上から投げ掛けられた曹仁の言葉は届いていないようだった。





「時間の問題だとは思っていたけど、こういう展開は予想してなかったね」

 小屋の外で、長安の様子を探らせていた斥候が報告を読み上げた。手を動かしながら、蒲公英が呟く。

「あの韓遂が、閻行なんかに殺されたか。いや、直接手を下したのは閻行でも、結局は曹操に殺されたということか」

 母の義姉であり、同盟者であり、そして父の仇であった。いつの日かこの手でと、そう思い定めた相手である。
母だけでなく、仇までも曹操に奪われたということだ。

―――今日からは、曹操一人が仇敵だな

 そう思えば、話は分かりやすい。身の内に溜まった怨嗟も憤懣も、全て曹操という一人の人間に集約していく。それはいっそ清々しいくらいだった。

「はい、出来た。張衛さん、これでどうかな?」

 張衛が近付いて来て、翠の肩と腿の傷口に軽く触れた。
 渭水沿いに見つけた廃屋を本営としている。打ち捨てられた漁師小屋のようだった。小屋の中には翠と蒲公英、それに張衛の三人だけで、他の者は下がらせている。

「ふむ、問題無さそうです。馬岱殿は筋が良い。もう私が巻くのと変わらない」

 五斗米道に伝わるという晒を使った施術である。傷口に掛かる負荷を、他の部位に分散させる。曹操軍に突っ込んで暴れ回れたのもこれのお蔭だった。
 先日までは張衛に手ずから巻いてもらっていた。五斗米道と言うのは随分と気前の良い組織で、合流した蒲公英が知りたがると張衛は惜しみなくその技法を伝授してくれた。

「それはちょっと誉め過ぎだよ。張衛さんは教祖様の弟でしょう? 五斗米道ではお姉さんの次に上手いんじゃないの?」

「いや、私はあまり手先が器用ではないのでな。姉上や兄弟子なら鍼で血流を促し、今頃は傷自体を八割方回復させているだろう。私に、そこまでの技量はない」

「へえ、そんなことまで出来るんだ? 兄弟子っていうのは、五斗米道の幹部か何か?」

 五斗米道について、外の人間には限られた情報しか伝わっていない。
 現教主張魯の祖父張陵が開き、三代目の現在では益州全土に信者を持つ。特に漢中は五斗米道の自治区のようなもので、州牧の劉璋もおいそれとは手を出せないという。それだけ隆盛を極めている宗教団体であるが、聞こえてくる名は教主張魯とその弟の張衛くらいのものだった。

「いや、教団の地位には就いていない。名を、華佗という」

「華佗? 華佗ってあの華佗?」

「どの華佗のことを言っているのかわからないが、恐らくその華佗だろうな」

「知らなかった。神医華佗が五斗米道の人間だったなんて。大陸中を旅して回っていると聞くけど、つまり布教の旅をしているということ?」

「いや、そんな大仰な目的はあの方にはない。せっかく身に付けた医術を世のために役立てたいという純粋な思いがあるだけだろう。漢中の病人には姉上がいれば事足りるからな」

「……お姉さんと華佗だと、どっちの医術の腕が上なの?」

 蒲公英が躊躇いがちに、しかし好奇心を抑えきれないという顔で聞いた。

「それは教主である姉上の方が上、―――と言いたいところだが、華佗殿が上だろうな。薬学に関しては姉上も劣られぬが、外科手術と鍼灸に関しては華佗殿は天性のものをお持ちだ。特に鍼に関しては、素人目どころか私の目から見ても、理解の範疇を超えている」

「へえ、―――というか、聞いておいてなんだけど、そんなこと言っちゃって良かったの? 教主様よりも別の兄弟子の方が腕が上だなんて」

「ははっ、医は確かに開祖様が教え残したものの一つではあるが、それがそのまま教団の本質というわけではない」

「あ、そっか。五斗米道って宗教だもんね。別に医術の腕で教主を決めるわけじゃないか」

「そういうことだ。華佗殿は尊敬に足る方だが、信奉の対象にはとことん不向きなお人柄だ」

 張魯には不老の神仙という噂がある。実際翠と蒲公英が目にした張魯は、年齢よりもはるかに若く見えた。幼いと言って良い程だ。教主としての求心力は相当なものだろう。
 蒲公英がさらにいくつか教団や漢中での暮らしに関して問い掛けた。宗教に入れ込む性質とは思えないが、妙にしつこく質問を重ねている。張衛はその一つ一つに丁寧に答えてくれた。

「私からも、興味本位でお二人に一つ聞いて良いか?」

 蒲公英の質問攻めが治まったところで、張衛が言った。翠と蒲公英は顔を見合わせると、軽く頷き返した。

「韓遂を討った閻行という男のことだが。馬超殿が、あの男に敗れたというのは本当か? あの男、それは私などでは相手にならぬくらいに強いのだろうが、馬超殿が破れるとはどうしても思えない」

 翠は顔を強張らせている蒲公英に一度冷たい視線を注ぐと、お前から説明しろと、くいっと顎で促した。

「……言っちゃって良いの?」

「今となってはすべて終わった話だろう」

「そ、それじゃあ、私から。……えっとね、閻行の主だった韓遂が、伯母様の義姉で、仇敵でもあるって話は聞いていると思うんだけど」

「ああ。西涼で過ごすと、自然と耳に入ってくる話だな」

「五年くらい前までは、結構戦もしていたんだ。でも伯母様と韓遂は、憎み合いつつも西涼人同士が争うことを不毛とも考えてた。だからって簡単に矛を収めるというわけにもいかない。何度もぶつかり合ってきたから、兵や民にとっても互いに互いが仇敵なんだ。伯母様と韓遂はそんな人たちを満足させるために、時には適当に干戈を交える必要があった」

「適当。つまりは、手を抜いた戦ということか」

「そういうこと。で、そういう戦になると―――」

 ―――翠は出陣を禁じられた。韓遂が相手となると、翠に適当な戦などは出来ない。
 その点、蒲公英は手を抜いた戦というのが上手い。大抵は彼女が兵を率いることとなった。ある時、蒲公英が錦の馬旗を無断で戦に持ちだしたことがあった。錦馬超の名で脅しつけることで、双方犠牲を出さずに戦を終わらせようという腹積もりであったらしい。
 蒲公英の策は見事図に当たって、ほとんどまともにぶつかり合うことなく戦は膠着した。そんな中にあって、空気も読まず大暴れをしたのが閻行であった。大声で錦馬超を罵り、下種な言葉で辱めもした。見かねて飛び出した蒲公英は打ち倒された、―――錦馬超として。廉士の助けで事なきを得たが、あわや討ち取られるという寸前まで追い込まれたのだった。

「なるほど。それは確かに公言するわけにもいかないな」

「だろう。それであたしは、閻行に負けた錦馬超となったわけだ」

 仇敵との戦に替え玉を立てたとなれば、敗北以上に錦馬超の、ひいては馬家の名を損ないかねない。
 しかしもう、西涼の雄たる馬家など存在しないも同じだった。その仇敵韓遂もすでにない。

「……さてと、そろそろ行くか」

 言うと、翠は床几から腰を上げた。
 母は死に、西涼の独立を賭けた戦も終わった。話している間に、ようやくその事実が胸に落ちてきた。

「行くって、どこへ? 当然、曹操に降る気はないんだよね」

「当たり前だ。あたしには母様みたいな腹芸は出来ないからな」

「まあ、そうだよね」

 本心から帰順するという考えは、言うまでもなくない。投降するとすれば、藍がそうしたように内に飛び込んで暗殺の機会を探るためだ。

―――廉士はもしかすると。

 わずかな希望が過ぎるも、頭を振って否定した。
 自分ほど不器用でもないが、要領よく立ち回れるような性質でもない。そんな男だからこそ、心惹かれたのだ。

「……なんならお前だけでも投降するか?」

 腹芸なら、この従妹の得意分野だ。

「う~ん、お姉様を一人にしておくのも不安だし。仕方ない、付いていくか」

「ふんっ、言ってろ」

 蒲公英のいつもと変わらぬ軽口が、こんな時は有り難い。
 小屋を出ると、兵が集まって来た。

「ったく、こんなに残ったのか。―――仕方ない、お前ら並べっ!」

 整列した兵を改めて数えると、三千に及んだ。
 行く当ても、糧食の当てもない。曹操軍に単騎駆けした後、二百だけ残った旗本の精鋭を除いて二万の軍は解体した。同行を願い出る兵も多くいたが、はっきり解散を申し渡した。
 数日小屋を動かず、命令も下さずに放置した挙句、それでも去らずにこの場に留まったのが三千騎だ。これは、引き受けないわけにはいかないのだろう。
 他に、張衛の率いる五斗米道の兵が五十騎。
 漢中より伴った五百騎のうちの四百五十騎は、長安に留め置かれていた。いずれ解放されるだろうが、今は曹操軍の虜囚だろう。張衛は解放され次第それぞれ勝手に漢中へ帰還すると、のんきに構えていた。それが信徒の兵というものなのだろう。

「よし、行くか。―――張衛、ここでお別れだな。世話になったし、それに何も返すことが出来ない。せめて五斗米道とお前の武運を祈るよ」

 張衛が首肯するのを見届け、翠は馬に―――今日の乗馬は紫燕だ―――飛び乗った。

「ちょっとちょっと、お姉様。行くって結局、何処へ向かうつもりなの?」

「そいつは、こいつの脚に聞いてくれ」

 紫燕の首を軽く叩きながら言った。

「あ、そこは考えてないんだ。格好付けて言っても駄目だよ」

「うるさい。そういうのを考えるのは私よりもお前の方が得意だろう。さっさと考えろ」

「ええー、そんな急にふられても。―――まあ、もう考えてあるんだけどね。というか、他に行く当てなんてないでしょ」

 蒲公英はしたり顔で言うと、張衛に視線を向けた。



[7800] 幕間 江陵後事
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/02/03 18:47
「お通ししろ」

 従者へそう返すと、ほどなく忙しない足音が近付いてきた。

「冥琳っ」

 蓮華が執務室へと駆け込んできた。供は思春一人だ。

「どうしたの、蓮華? そんなに息巻いて」

 机にしなだれるようにしていた雪蓮が顔を上げた。冥琳も書類に落していた視線を蓮華へと向ける。

「姉様もいたのね。ちょうど良かったわ」

「蓮華様、急な御来訪、如何なる御用件でしょうか?」

 柴桑の水軍基地である。冥琳が普段から駐屯する城塞で、孫策軍の本拠である建業からは一千里も離れている。
 かつて孫策軍の本拠は九江郡寿春に定められていた。揚州州都であり、かつての袁術の居城にして、雪蓮と太史慈が一騎打ちを演じた土地でもある。戦に勝利した後に雪蓮の居城としたが、曹操に敗れ長江以北の領土を放棄した際に失われた。建業はそれ以来の孫策軍の本拠である。

「言わなくても分かっているでしょう。江陵の件よ」

「やはりその件ですか」

 書簡を送ってから、十日と経っていない。入れ違いを懸念したが、書簡を受けすぐに駆け付けたらしい。
 水軍基地である柴桑は言うまでもなく、建業も長江に近い。昼夜兼行で長江を遡って来たのだろう。孫策軍の船が長江を進むのに、夜の闇は問題にならない

「お呼び立て頂ければ、こちらから参りましたものを」

「それでは使者が往復する分、時間の無駄になるわ。姉様も、こちらにいることの方が多いし」

 そういって蓮華が睨むも、雪蓮は肩を竦めるだけだった。ため息交じりに蓮華は続ける。

「それで、江陵のことだが。劉備軍から譲渡の提案があったというのは、どういう事なの? 文面からすると、冥琳は乗り気のようだけれど」

「蓮華様にはご報告が遅れましたが、これは雪蓮と私、そして劉備の間ですでに交わされていた話なのです」

「密約があったという事?」

「はい」

 冥琳は諸葛亮と鳳統からの提案を話して聞かせた。

「荊州南部での異民族の蜂起を抑え込む代わりに、江陵と反曹の民を譲り受けて欲しい? 分からないわね、それで劉備軍に何の得があるというの?」

 劉備軍が荊州蛮族を陰で動かしていると語ると、蓮華は驚きと憤りに眉間を歪めた。しかし説明を続ける冥琳を遮ることなく最後まで話を聞き終えると、まず口にしたのはその疑問だった。

「現在、曹操軍は江陵で劉備軍と、夏口で我らと対峙しています。曹操にとってこの二つの城は荊州北部の安定、そしてやがて行われる江南討伐―――我らとの戦の前に何としても落しておきたい拠点でしょう。我らにとっても夏口は中原進出への足掛かりであり、長江支配の要。失うわけにはまいりません。夏口と江陵は、今後乱世の眼目となりましょう」

「そんな重要な城を私達に譲って劉備は何を―――、いえ、もしかして曹操軍との戦線を私達に押し付けるという事?」

 蓮華の察しの良さに、冥琳は微笑交じりに首肯した。
 密約を交わした後、情勢は大きく変化した。
 馬騰の弘農王奉戴。曹操軍の西涼と荊州同時侵攻。いずれも諸葛亮と鳳統、そして冥琳の三軍師をして予想すらしていなかった事態である。
 結果、鳳統を失うという大き過ぎる代償と引き替えに、劉備軍は荊州軍の将兵と軍船の多くを無傷のまま手にし、江陵には想定を超える二十万以上の反曹の民が集結した。過程はどうあれ、江陵で反曹の民を抱えた劉備軍が曹操軍と対峙する、という密約の前提は崩れていない。

「だけど、私達に面倒事を押し付けて、劉備軍は何をするというの? 唯一の拠点を手放してまですることが、あの放浪の軍にあるのかしら?」

「益州攻め。劉備軍は遂に領土を求め動きます」

「劉備軍が領土を」

 蓮華が呆然と呟く。
 今回、戦の成り行きから江陵を実質的に手にしたが、それまで一寸の土地も得ることなく彷徨い続けてきたのが劉備軍である。しかし各地に割拠した群雄達が姿を消し、最大勢力を誇った袁紹までが倒れる中、潰えることもなく名だけを有し続けてきた。
 その劉備軍が領土を求めて動くというのは、冥琳をして軽い驚きがあった。

「……貴方は乗り気みたいだけれど、ほんとにそれで良いの、冥琳? 益州は冥琳も狙っていた土地でしょう? 曹操の統治を避けて集まった二十万の民を、劉備は放り出してはいけないわ。対して私達には、夏口を防衛した上で、益州を攻めるだけの兵力がある」

 聞き役に回っていた雪蓮が口を開く。ちょうど話題は、蓮華達が訪れる前に二人で交わしていたところにまで戻って来た。

「そうね。―――曹操軍と長江を隔てての天下二分。長江の最上流にして天険の地益州を得れば、それがなる。諸葛亮達との約定は所詮は密約。反故にしても構わないと思っていたわ。江陵で生かさず殺さず、我が軍の先兵のように働かせれば良いと」

 雪蓮の言葉を冥琳は肯定した。

「ならばどうして、益州を譲られるのですっ」

 声を荒げて思春が言う。
 蓮華との論議に思春が口を挟むのは珍しい事だった。孫策軍を代表する武将であるが、長く蓮華の近衛を務めたため、彼女の前では一介の護衛であろうとする。その思春が憤りを露わにしていた。
 天下二分の計は、孫策軍ではすでに一つの指針と為りつつあった戦略である。穏や亞紗ら軍師のみならず武官にも賛同者は多く、発案者である冥琳の今さらの翻意は裏切りと思われても仕方がない。
 とりわけ思春は天下二分に乗り気であった。思春は孫策軍の人間にしては珍しく、益州の生まれである。孫策軍に限らずとも、天険に囲まれ外部から隔絶された益州の人間を州外で見ることは稀である。江賊であった思春は、長江の流れに沿って縄張りを益州から東へ伸ばし、一時は荊州で黄祖の元へ身を寄せ、その後揚州は呉郡まで至ったところで雪蓮に捕縛されている。
 その出自故に思春にとって益州は勝手知ったる土地であり、いざ戦となれば先頭に立って長江を遡上する腹積もりであったろう。

「天下三分。鼎の足は三本あるからこそ安定する。諸葛亮は私にそう言った」

「劉備軍が三本目の足と為り得るというのですか? 冥琳殿は、西涼軍閥や劉焉、劉表ですら不足と考えておられたのではないのですか? だからこその天下二分ではないですかっ。ましてや根無し草の劉備軍などっ」

「その根無し草の劉備軍がな、私のこれまでの想定以上に強い。これは、軍を預かる都督として、恥ずべき失態なのだが」

「―――っ」

 自身の誤りと劉備軍の強さをはっきりと冥琳が認めると、思春は絶句した。
 諸葛亮の言う天下三分は、実はさして際立った策でもない。国士無双韓信と遊説家蒯通の故事を引くまでもなく、勢力の拮抗を計るなら二分よりも三分と考えるのは当然のことだ。ましてや二分にせよ三分にせよ、統一のための足掛かりでしかないのだ。いずれは攻勢に転じることを思えば、強大な曹操軍の戦力を分断する第三の存在は不可欠ですらある。天下二分という冥琳の戦略の方が、長江の防衛線に対する自信と、頼むべき第三勢力の不在が生んだ窮余の策と言えた。
 口惜しいが、劉備軍は冥琳の戦略図に差し込んだ一条の光明であった。

「冥琳、私も思春と同じ考えよ。曹操に対抗するために一度は手を結んだ相手ではある。だけど劉備に、それほどの力があるとは思えないわ」

 思春に代わって蓮華が言った。

「そうですね、劉備軍の目に見える兵力はずっと歩兵が四千に騎兵が一千でした。この五千に関しては、あるいは天下一の精兵と言って良いかもしれませんが、所詮は寡兵です。今は荊州軍から一万数千の兵と軍船数十隻を容れてかなり兵力を増しましたが、これは元々の劉備軍と比べると相当に練度が落ちると見て良いでしょう」

「いくら精鋭を含むと言ってもその程度の数。やはり今の私達には取るに足りない存在だわ」

 蓮華が自信ありげに言う。
 住民の多い荊州の半分を併せたことで、孫策軍の兵力はぐっと増した。十万を超える兵を有し、豪族達に召集を掛ければさらに数万を集めることも可能だった。

「劉備の有する戦力は、単純に旗下の兵力だけでは測り切れません。他に二つの力を潜在的に有しております」

「他に二つ?」

「一つは民に慕われ、二十万もの群衆を集める―――あの訳の分からない力かしら?」

 雪蓮が言った。

「ああ、そうだ。そして集めた民を義勇兵に変える力。劉備の輿望と関羽、張飛、趙雲の武名、それに反曹の旗頭という立ち位置もあるのだろう。前回、反曹で我らと手を結んだ時にも、曹操支配下の徐州にもかかわらず、一度挙兵するや数万の人間を集めた。この集兵力とでも呼ぶべきものも、劉備軍の有する戦力としてはっきりと認識しておくべきだ」

 黄巾の乱の首謀者張三姉妹にも似た力である。
 黄巾賊に関しては鎮圧後も検証を進め、今ではおおよその経緯は掴めている。孫策軍も参加した広宗の戦いで討たれた姉妹が偽物で、本物は曹操軍に匿われているということも分かっていた。もっと早い時期に調べ上げていれば曹操糾弾にも使えただろうが、今となっては意味もない。訴え出ようにも漢朝は曹操の傀儡であるし、大義を掲げて連動できる諸侯もすでにないのだ。
 曹操が姉妹を保護したのは、自身の兵力拡大に利用するためだろう。しかし青州黄巾賊と予州に割拠した黄巾賊残党を組み入れて以降は、目立った効果を発揮していなかった。冥琳が黄巾賊について調べさせたのも、兵の集め方で何か学ぶところがあるのではないかと考えたためだが、不調に終わった。
 劉備の人集めの才は張三姉妹によく似て―――非なるものと言える。
 端的に言えば、張三姉妹が集めるのは単なる群衆なのだ。その一部が偶さか兵の素質を備えていたという話に過ぎない。一方で劉備が集めるのはそれぞれに志を持った民である。それが例え女子供や老人であっても、武器を持って立ち上がる覚悟のある人間達であった。劉備が三万を集めれば、それはそのまま三万の義勇兵に成り得るのだ。
 劉備の持つ特異な才能としか言いようのない力だ。黄巾の乱で陣を共にした時には、せいぜいが数百数千を集めるだけだったが、曹操との対立、対比によってその力はさらに強大化している。

「反曹というなら、私達や西涼の馬騰達だってそうだったじゃない。曹操の知遇を受けたこともある劉備ばかりがどうして」

 蓮華が不満そうに言う。政を担う者として、民意と言うものには日毎頭を悩ませているのだろう。

「劉備はその出自、経歴、思想の全てでもって、曹操の対極をなす存在と民には思えるのでしょう。天子を籠絡する曹操に、漢室の血を継ぐ皇叔である劉備。一方で宦官の祖父を持ち、漢室の腐敗から生まれ出たような曹操と、筵売りから身を立てた劉備。民にすら克己を求める曹操に対して、臆面もなく民の笑顔のためなどと口にする劉備。曹操の厚遇を蹴って出奔したのも、民の目からはさぞや痛快に見えるのでしょう」

「まっ、私達は単に曹操と敵対しているというだけで、曹操の政が気に食わないから戦うってわけじゃないしね~」

 軽い調子で雪蓮が言った。

「―――っ、分かりました。それで、残るもう一つの力と言うのは、冥琳?」

「そそっ、それが私にも分からない。一体何のこと?」

「それに関しては、先程一度お話しましたよ、蓮華様」

「……ああ、異民族を動かし荊州内を動揺させた力のことか?」

「半分正解です。これは異民族に限った話ではないのです。徐州で反曹の旗を掲げた時には、地元の名士麋竺が劉備軍の作戦と連動して私兵を動かしたことが分かっています。劉備の呼び掛けによって現れるという点では先ほどの集兵力にも似ていますが、こちらは劉備軍の意図に合わせて即座に作戦行動も取り得る集団、―――つまりは軍です。集めるというよりも、すでに隠し持っていると認識すべきです」

「なるほどね。それも単に劉備の人望によるものと私は思っていたけれど、各地に兵力を潜伏させていると冥琳は考えるわけだ。確かにそう考えた方が合点が行くわね。それで、どれくらいの兵力を隠し持つと想定しているの?」

「中華全土に五万。大きく外れた予想ではないはずだ」

「そんなにっ? つい最近まで、劉備軍本隊が五千でしかなかったというのに?」

 蓮華が驚きの声を上げる。

「そもそも一声で数万を集める劉備が、五千しか有していなかったというのがおかしな話なのですよ。領土を持たぬ軍ゆえに増員が難しかったというのもあるのでしょうが、徐州や荊州でのことを思えば、ある時から諸葛亮と鳳統は意図的に各地に戦力を分散させていったと考えるべきです」

 蓮華の驚きも無理はない。冥琳がこの考えに至ったのも、つい最近のことである。
 船上で諸葛亮と鳳統と相見えた時、その場に異民族の者がいたことで初めて気付いた。いや、気付かされたというべきか。後に明命の手の者に調べさせた結果、異民族の長の一人沙摩柯が劉備軍に出入りしていることも分かった。今では冥琳は確信していた。劉備軍には掌握しつつも手元に置かずにいる隠れた兵力がある。

「徐州のような民の造反を、他の曹操領内でも起こし得るというのなら、これは相当な力ね。同盟関係を結べば私達にも呼応してくれるのなら、城攻めなんてだいぶ楽になるでしょうし」

 雪蓮が言うと、蓮華と思春が神妙な顔で頷いた。

「加えるなら、この有益な兵力は、劉備軍が壊滅すると同時にこの世から消えるのです。益州や江陵のように譲り受け、あるいは奪い取ることが出来る戦力とは本質的に違います」

「劉備にしか扱えない、対曹操のための武器か」

 蓮華が呟く。

「……さて、劉備軍の戦力を正しくご理解いただけたところで、改めて問います。雪蓮、蓮華様、それに思春。鼎の足は何本あるべきか?」

 諸葛亮と鳳統にしてやられたという気持ちはある。二人になり代わって雪蓮達を説き伏せるなど、血反吐を吐きたくなるほどの屈辱だ。しかし都督としての判断と冥琳個人の感情は別だった。
 その後、わずかな話し合いを経て、いくつかの条件を加えて江陵の受領は決定された。

「じゃあ、私はこれで退散するわねー」

「お待ちください、姉様」

 腰を浮かせかけた雪蓮を、蓮華がすかさず制止する。

「今日こそ私と一緒に建業へ戻ってもらいます。いい加減、本拠に腰を落ち着けて下さい」

「あの城は、もう貴方にあげると言ってるじゃない。元々内政は、私じゃなく蓮華が見ていたようなものだし。私のことは、いないものと思って好きにしていいわよ」

「そんなわけにはっ! だいたい姉様は―――」

 さらに言い募る蓮華に、雪蓮はうるさそうに眉をしかめる。
 毒矢を受けて生死の境を彷徨ってから、雪蓮には政から一歩引いた発言が増えた。
 元より自身は乱世の王であり、戦乱を鎮めた後は蓮華に跡目を譲るという考えが雪蓮にはあった。それを匂わせる言動を隠さなかったし、冥琳に対してははっきりそう口にしたことすらある。
 雪蓮は今、二千の騎兵を鍛えに鍛えていた。領内各地を駆け回り、時には異民族や反抗的な豪族を相手に小競り合いなども演じていた。騎兵だが、ここ柴桑や夏口に現れては水軍の調練にも参加していく。船を使って長江以北の曹操領に出ることもあるようだ。馬も北方産の良馬を買い集めており、いまだかつて江南には存在しなかった騎馬隊となるだろう。

「蓮華様、しばらく雪蓮の好きにさせてやってくれませんか?」

「なっ―――、めっ、冥琳、貴方まで」

 冥琳がこういう時の雪蓮の味方をするとは思わなかったのだろう。蓮華が驚きに目を丸くしている。その隣で雪蓮も似たような顔をしていて、今さらながらに二人が姉妹であることを再認識させられる。

「今の雪蓮を見ていると、思い出すのですよ。かつての孫堅様を」

「母様を?」

「私も雪蓮も、大軍を率いるようになり戦が小さくまとまりました。本来、私達が孫堅様に仕込まれた戦―――孫呉の戦は、もっとずっと激しいものでした。雪蓮は今、それを取り戻そうとしています」

「でもあんなことがあった後なのに。それにその母様だって―――」

 そう、孫堅もまた暗殺の矢に倒れていた。

「味方である我らにすら居場所が掴み切れないのですよ。今の方がかえって安全と言うものです。それに今の雪蓮は、何と言うか―――」

「―――恐ろしく研ぎ澄まされております。こうしていても、思わず身構えそうになる程に」

「思春まで」

 腹心中の腹心までが雪蓮の自儘に与する発言をし、蓮華が愕然とする。
 雪蓮が刺客に襲われてから、半年が経過している。十日間眠り続け、意識が戻ってからも一月近くは満足に身体も動かせずにいた。今ではすっかり力を取り戻したようだが、幾らか肉が削げ落ち、張り詰めた印象がある。しかしそんな見た目以上に、気が研ぎ澄まされていた。
 隠密行動に長けた明命に言わせると、一里先からでもその気配を感じられ、それでいて気付けば音もなく背後に忍び寄られているらしい。気配が強く濃密過ぎて、近付くほどに感覚を狂わされるのだという。

「うふふー。何よ、冥琳が味方してくれるなんて、珍しいじゃない」

 雪蓮が上機嫌に笑った。
 二千の騎馬隊は、明らかに長江を渡り曹操を追い詰めるためのものだ。曹操を討ち、蓮華に跡を譲る。雪蓮はいよいよそう思い定めたようだった。いや、心の内ではすでに君主の任を降ろしてしまっている。今は自分に出来る最後の務めを果たすため、一個の戦人に立ち返ろうとしている。
 臣としては押し止めるべきなのかもしれない。しかし親友として、長く共にあった戦友として、冥琳は雪蓮に望む戦場を与えてやりたかった。





 別れを惜しむ民に見送られて、船は江陵の船着き場を離れた。
 孫策と周瑜ならば、民も悪い扱いはされないだろう。しかし、民の顔にも桃香の顔にも笑顔はない。
 江陵を受け取りに現れたのは、周瑜その人だった。孫策軍の都督―――軍の最高司令官である。
 それだけ、孫策軍が江陵を得る利点は大きい。
 漢水を伝って曹操領に攻め込むことが可能な夏口は、長江における孫策軍最大の前線基地と言えるが、江陵はその上流に位置する。そして夏口を挟んで下流側には、周瑜の駐屯する柴桑があった。夏口と柴桑に江陵を合わせることで、長江の防衛線は一層強固に、そして攻撃的なものとなる。
 対して劉備軍にとっては、立派な城郭を持つ一拠点という以上の意味を持たない。軍船を手にしたとはいえ、孫策軍の支配する長江を気侭に往来するわけにもいかず、水軍基地としての機能は限定されている。一方で陸路をもって曹操軍に侵攻するには、襄樊の堅城が待ち構えている。江陵に留まることは、むしろ頭を抑えられたようなものであった。

―――ここまでは、雛里ちゃんと決めた予定通り。

 朱里は船首へと目を向けた。船は、益州を目指して長江を西へと進路を取っている。
 雛里の残した最後の仕事だった。雛里は予てより益州の名士数名と諜報部隊を介して書簡のやり取りを交わしていた。曹操軍による荊州北部の奪取によって劉備軍が行き場を失うことは想像に難くなく、雛里は名士達に州牧劉焉から劉備軍への援軍要請を引き出すよう依頼していた。漢中の五斗米道との関係悪化により、劉焉は兵力を欲していたのだ。そして先日、遂に桃香に救援を求める劉焉からの書状が届けられた。
 つまり益州攻めを考えた時、最大の障害となる天険を益州人自らの案内で通過することが出来るのだ。雛里の残した置き土産は大きい。

―――となると、最大の難所は。

 天険でも戦場でもない。桃香を領土争いに誘わなければならないことだった。
 漢室に連なる桃香の遠い血縁を救援に向かう。まだ桃香にはそのお題目通りのことしか説明出来ていない。

「……華琳さんの天下か」

 朱里とは反対に船尾―――すでに視界の先で薄れゆく江陵を眺めながら、桃香が呟いた。

「桃香様、何か?」

「以前、華琳さんに言われたことを思い出したの。民の笑顔を求めるのは私の夢で、ここは私の天下じゃない、華琳さんの天下だって」

「天下。……この場合、国や領土と言い換えることも出来ますね」

「―――国」

「はい。曹操さんはたしかに今や中華の過半を領しておりますが、全てを手に入れたわけではありません。まして桃香様とお話しされたのは、中原四州を手にしたばかりの頃ですよね。河北には最大勢力の袁紹軍を残し、天下を手にしたなどとは到底言える状況ではありませんでした」

 朱里はそこで言葉を切って一息入れた。いつもなら、気脈の通じた雛里が言葉を引き継いでくれるところだ。

「つまり自らの有する土地―――天下の一部を切り取って、天下と称しているに過ぎません。西涼には馬騰さん達の天下があったはずで、江南には孫策さんの天下があり、そして益州には劉焉さんの天下があります。」

「そっか。華琳さんのことだから、世界の全ては我が物って意味で言ってるのかと思った。そう考えると、頑固者の飯屋の親父さんがこの店は俺の天下、なんて口にするのとおんなじか。華琳さんの言う天下は、―――天下の一部に過ぎない」

「しかし、このままではそれが本当の天下と一致する日も遠くはありません。全てが曹操さんの色に染まることでしょう」

 それでも桃香は曹操に抗い続けるだろう。
 二人の間の勝負は、極言してしまえば戦で負けて曹操が天下の全てを手中に収めたからといって、桃香の負けとは限らないのだ。曹操が桃香の主張を容れて徳政でもって国を治めたなら、桃香自身に一寸の領土も一人の兵も残らずとも、それは桃香の勝ちなのだ。

「飯屋なら、気に入らないなら別の店に行けばいい。でも拡大し続ける華琳さんの天下から、逃げてきた人たちは―――」

 だが、そうして桃香が抗い続ける間、民もまた耐え続けるだけなのか。
 江陵を見つめる桃香の視線が強くなった。眉間に寄せたしわは、桃香の懊悩を表している。

「お作り下さい、桃香様が。曹操さんの天下では笑えない人々が、笑顔で暮らせる国を」

「そっか。やっぱりそれしかないのかな」

 朱里が言うまでもなく、桃香の思考もそこ至ったようだった。眉間のしわは消え、表情は次第に晴れていく。

「……やっぱり皆が言う通りに、荊州を奪っちゃえばよかったのかな。そうすれば、少なくともしばらくの間は、あそこにあった笑顔を守ることは出来た」

 やはり江陵を見つめながら言う。

「大丈夫です。必ず私達―――雛里ちゃんの分まで私が頑張って、桃香様に国をお取り頂きます。そうして出来た桃香様の天下に、あの人達も呼んであげれば良いんです」

「でも、いったいどこに? 華琳さんの国はいずれ本当の天下と一致してしまうんでしょう?」

「曹操さんの大軍をもってしても、容易くは攻め取れない地がいくつかあります」

「そこは?」

「まずは長江で阻まれた江南。つまりは孫策さんの国」

「孫策さんから土地を奪うということ?」

「いえ、それは現実的ではありません。曹操軍の侵攻をも阻み得る水軍、私達にそれを抜く術はありません。それに西涼軍が大打撃を受けた今や、孫策軍は曹操軍と対抗し得る唯一の勢力です。無駄に争い、互いに戦力を失うのは得策とは言えません」

「じゃあ、後はやっぱり―――」

 桃香にも当然、予想が付いたようだった。視線を船尾から船首―――船の向かう先へと向けた。

「益州。天険に囲まれた肥沃の大地を手に入れましょうっ」

 雛里の分まで、朱里は声を励ました。



[7800] 第11章 第1話 入蜀
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/02/25 13:36
「……仁?」

 華琳が書き物を終えて筆を置くと、後ろから悪戯―――抱きついて耳に甘噛みしたり、睦言を囁いたり、首筋にキスを落としたり、髪の中に鼻をうずめたり―――していた曹仁が、いつの間にか大人しくなっていた。
 背後を振り返ると、その動きに合わせてぐらりと曹仁の身体が斜めに傾く。

「……まったく、人の仕事を好き放題邪魔しておいて」

 襄陽に入ったのは、つい三日前のことだ。
 長安陥落後、一月余りを西涼の平定に費やし、洛陽に凱旋を果たした。論功行賞をすませ、弘農王を月や楊奉に委ねると、すぐに桂花や春蘭、秋蘭に任せきりだった荊州へ足を向けた。次の戦を見据え、主力を率いている。
 一昨日は、春蘭と秋蘭を伴って元荊州軍の水軍の調練を視察した。
 荊州水軍の半数以上は、桃香に従う道を選んだ。襄陽に残されたのは大型船が五隻と中型船が十数艘、あとは艀や蒙衝といった小型船だけである。
 数こそ少ないが、孫策軍との実戦を経ているだけあって鄴の玄武池―――曹操軍の水軍調練場―――に浮かぶ船と比べると、動きは目に見えて良かった。指揮を任せた元荊州軍の文聘は、それでも孫策軍の周瑜が指揮する水軍にはかなり劣ると自ら評した。
 その日の夜は久しぶりに春蘭と秋蘭を二人並べて可愛がった。
 昨日は、桂花と連れ立って司馬徽の私塾を尋ねた。二人でという約束だったが、道案内も兼ねて雛里を伴ったため、桂花は終始機嫌が悪かった。夜に閨で可愛がってやるとそれはすぐに治った。
 三日目の今日は、朝から書類仕事に専念した。桂花が華琳のためにまとめ上げた書類はさすがに良く出来ていて、一日で荊州北部のおおよそを把握し、施策の大半を裁定することが出来た。
 曹仁が部屋を訪ねてきたのは、そんな書類仕事の最中であった。襄陽に着いて二日間は姉達と桂花に遠慮したのだから、今日は自分の番ということらしい。
 夕刻に訪ねてきた曹仁は、まだ執務中の華琳と椅子の間に潜り込んだ。それはまあ、いつものことではある。執務室の椅子にわざわざ大きめ―――華琳一人で使うには肘掛けや背もたれが深過ぎて使い難いくらいに―――のものを用意させたのは、我ながら少々色呆けが過ぎた話だが。
 そんないつもの体勢をひとしきり堪能した後、曹仁は寝入ってしまったようだ。普段なら飽きることなく曹仁はちょっかいを出し続ける。お互いすっかり慣れたもので、曹仁は仕事の邪魔にならない度合を心得ているし、華琳は華琳で筆が乗っている時には気にならないし、集中が途切れた時にはそれがないと却って落ち着かないほどだった。こうして仕事の終了を待たずに寝てしまうのは珍しい。

「私に飽きた。まさかね」

 一瞬過ぎった馬鹿げた考えを、華琳は首を振って打ち消した。
 好きだ好きだと囁く声が、まだ耳に残っている。当人曰くほとんど無意識下での呟きらしく、指摘すると曹仁はいつも顔を真っ赤に染める。あまりからかって意図的に口を閉ざされてもつまらないので、最近ではあまりその事には触れないようにしていた。

「とすると、単に疲れが出たか」

 華琳はくるりと体の向きを入れ替えた。曹仁はかなり深い眠りに落ちているようで、膝の上で華琳がこれだけ身動ぎしても目を覚ます気配はない。
 馬超との戦で病的なまでにやせ細った曹仁の身体は、もう元の体格を取り戻している。ただ、少し肌艶が悪い気がした。ごく短期間での大幅な体重減少と回復は、体に良いはずはない。

「とはいえそれは、将軍である以上は仕方がないこと。主君の眼前で眠りこけて良い理由にはならないわね。…………少し、お仕置きが必要かしら?」

 室内には、二人の他に誰の姿もない。虎士も、多少声を上げたくらいでは聞こえない距離まで下がらせている。
されど華琳は誰にともなく言い訳染みた言葉を呟いてから、力無く傾いた曹仁の身体を肩を掴んで真っ直ぐに正した。

「ふむ。ちょうど良い高さね」

 ちょうど目と目が同じ高さに合った。
 曹仁も男性としては小柄な方だが、華琳はさらに小さい。座高には差があるが、ぶ厚く鍛えこまれた曹仁の太腿の上に座ると、二人の顔の高さはほぼ同じ位置にくる。
 そろそろ季衣や流流にも抜かれそうな身長は、華琳の悩みの一つであったりする。とはいえこうしてぴったりとはまるところを見るに、これも天の配剤と言うものか。

「さて、まずは……」

 先刻までのお返しに、曹仁の耳を口に含んだ。曹仁は微かにくぐもった喘ぎを上げたが、目を覚ます気配はない。

「反対側も」

 右耳に次いで、左の耳にも吸い付いた。

「……反応が無いと案外つまらないものね」

 口に含んだ瞬間だけわずかに曹仁の味と匂いを感じたが、すぐに味気ないただの構造物となる。耳から顔を離すと、華琳は次の獲物を見定める。

「……これは、ちょっと新鮮な感覚」

 半開きになった唇に狙いも定めるも、今さらながらに華琳は躊躇した。
 閨では主導権を握ることが多い華琳であるが、キスに関しては曹仁がちょっと偏執的なくらいに固執するため、受け身に回ることが多い。加えていつもは目を閉じていたり、そうでなくてもかなり気持ちが高ぶった状態で交わす。こうしてある程度落ち着いた心持ちで、曹仁の顔をじっくりと見やりながら自分から口付けをするというのは珍しい―――ひょっとしたら初めてのことかもしれない。

「んー。……いや、どうせならもう少し」

 意を決して顔を寄せるも、唇と唇が触れ合う寸前で思い直し顎を引いた。
 眠りこける曹仁の顎をぐいと持ち上げて、締まりのない口元を矯正する。

「―――よし、これで良い男。……そ、そこそこねっ」

 聞き咎める者もない言葉を華琳は慌てて打ち消すと、再び顔を寄せた。

「……んっ、ちゅ、――――――んんぅっ!! かっ、けほ、けほっ!」

 口内に、雷が落ちたような衝撃が走った。

「―――っ!? な、なんだっ!」

 膝の上で背中を丸めてむせこむ華琳に、曹仁が目を覚ます。

「華琳? いったいどうした? だっ、大丈夫か?」

 敵襲とでも勘違いしたのか、曹仁は華琳の上に覆い被さるようにしてその身を楯とする。

「―――らっ、らいじょうぶっ! 何でもないわっ、騒がないで」

 人を呼ばれては面倒なことになる。華琳はひきつけを起こしたような舌を無理に動かし、曹仁を制止する。

「しかし、とても何でもないようには。季衣達と、それに侍医を呼んで来るな」

「ひいからっ、大人しくしてなさいっ!」

 華琳は曹仁を振り払い膝から降りると、執務机の上の茶碗に手を伸ばした。飲みさしの茶は、都合の良いことにすっかりと冷め切っている。
 茶を飲み干し、茶請けに添えられていた甘味を口に含むと、ようやく人心地ついた。曹仁は唖然とした様子で見守っている。

「……ふぅ。あなた、く、口に何か入れてない?」

「口に? ……いや、特に何も」

「辛い」

「―――ああ、昼食に食ったあれか。歯は磨いてきたんだが、強烈だったからなぁ」

「あれ?」

「凪さんの麻婆豆腐」

「へえ、凪の手料理を。二人きりで?」

「いや、えっと、ち、違うぞ? お前の考えているようなことは何もないぞ? ほら、西涼では益州の物産が色々と出回っていただろう? それで、珍しい唐辛子を買ってきたっていうからさ。鍛錬に付き合ってもらったついでに、何となく流れでそうなっただけで」

「ふ~ん、何となくで、女の子に手料理を振舞われるんだ? ずいぶんとおもてになるようで」

「―――ああっ、そういえば良い物があったんだ」

 曹仁がわざとらしく手を打って大きな声を上げた。

「……飴?」

 曹仁は懐から小さな紙袋を取り出し、中身を手の平の上に開けた。飴玉が一つ、ころんと出てくる。

「襄陽城内に二十軒以上ある飴を売っている店の中で、風の一番のお勧めという店で買ってきた。蘭々や季衣達に出くわして、半ば強引に分け前を持っていかれたから、残り一個しかないが」

 風は棒付きの飴をいつも手放さない重度の飴中毒である。しかしわずか三日で二十軒以上も舐め比べたというのは、さすがにその身体が心配になる。

「凪に手料理を振る舞ってもらって、風にはお勧めの甘味を教わったの。ずいぶんと手の早いこと。―――って、私にくれるのではなく、自分で舐めるわけ?」

 曹仁が最後の一つだという飴玉を口に含んだ。

「大元を断たないとだろう。このままじゃ、キスも出来ない」

「キスを諦めるという選択はないわけ? まあ、良いけれど」

 肩を竦め、華琳は曹仁の膝の上に座り直した。ころころと飴を転がす音が背後から聞こえてくる。

「……あれ、そういえば、なんで俺の口が辛いって気付いたんだ?」

 しばしの沈黙の後、曹仁が思い出したように言った。

「うるさい。―――んっ」

 華琳はさっと振り向くと、油断していた曹仁の口から飴を舐め取った。まだ若干“辛口” の曹仁に眉をしかめるも、風のお奨めだけあって飴の味は悪くなかった。
 翌日、江陵より退去した劉備軍の情報が諜報部隊よりもたらされた。華琳はすぐに諸将を軍議の間へ呼び集めた。
 諜報部隊の長、幸蘭の口から語られた情報に全員が息を呑む。
 桃香は益州の州都成都を陥落させ、劉焉より州牧の地位を譲り受けていた。益州入りからわずか一月でのことだった。

「貴方がいたらさらに素早く成都を落せたのかしら、雛里?」

 幕僚扱いで軍議に参加させている雛里に水を向けた。

「まさかっ。私なら、軍略に則って一城ずつ攻略していきます」

 雛里がぶんぶんと首を振って否定した。雛里もまた、目を見開き驚愕の表情を浮かべていた。
 益州侵攻自体は当然知っていたはず―――というよりも計画を立案した当人であろう―――だから、一月で州都を陥落させたその行軍に驚いているのだろう。

「そうね。劉焉から人心が離れていたとはいえ、諸葛亮もよくもこんな思い切った賭けに出たものだわ」

 劉備軍は、益州に入るや一路成都へ向けて進軍した。途上の拠点は全て放置で、帰順を求める書状だけを州内の郡太守や県令、豪族に名士達、果ては郷里の長老や侠客の類にまでばら撒いたという。
 市井にある者の多くは、歓呼でもって桃香を迎えた。天険に隔離された益州でも、劉玄徳の名は当世最大の英雄として民に広まっていた。名士や豪族も、大半が桃香を支持した。
 劉焉に任命された地方官達はさすがに表だって桃香を受け入れはしなかったが、県令など民に比較的近い位置にいる者は暴動を恐れて静観を決め込み、太守達はその県令の背叛を警戒して城を固めた。
 結果、劉備軍を押し止める軍勢はほとんど存在しなかった。唯一、張任という劉焉の従事が、地方官達を説いて回って数万の兵をかき集めたが、劉備軍に一蹴されている。その後も張任は精力的に動き回り何度か軍を再起させるが、その都度成都城外に布陣した劉備軍に打ち払われた。
 目の前で劉備軍の精強さを見せつけられ、また張任をおいて他に援軍が立つ様子もない。さらには桃香を一目見ようと民が城外に詰め寄せ、劉焉の近臣の中にまで城を抜け劉備軍に投降する者が出た。そんな状況に絶望し、劉焉は自ら城門を開いた。城内には劉備軍を上回る三万の兵力を残していたという。

「益州の名士達と誼を通じ、桃香の英雄譚を民に広めたのは貴方ね、雛里?」

「……はい」

 華琳が問い質すと、雛里がわずかな逡巡の後に頷いた。もはや秘匿する必要もない情報と判断したのだろう。

「なるほど、諸葛亮は貴方の残した置き土産に賭けたということね。いや、野戦には絶対の自信があったでしょうし、賭けという認識すらなかったかもしれない」

 五斗米道との小競り合い程度しか実戦を知らない益州の将兵と劉備軍では大人と子供―――いや、大人と赤子ほどの差がある。どれだけ数を集めたところで劉備軍に翻弄されるだけだろう。

「これで桃香も一国の主かぁ」

「そうね。―――そういうことになるのね」

 何気ない曹仁の呟きを、華琳もまた何気なく受け、衝撃をもって反芻した。
 自分に向けて臆面もなく徳政を説いた根無し草の桃香が、領土を手にした。果たして、如何なる政をするつもりなのか。興味は尽きなかった。
 良く知る相手だけに意見、というよりも愚痴の言い合いが始まった。桂花などは許にいる間にやはり殺しておくべきだったと息巻いているし、春蘭と霞は関張への雪辱を叫んでいる。白蓮を筆頭に、劉備軍と行動を共にしたことがある蘭々や、趙雲とは古馴染みの稟と風などは感慨深げだ。雛里は居心地悪そうに小さくなっていた。

「……春華、何かあるの?」

 口元を隠し肩を揺らしている春華が目に留まった。

「いえ、皆さん随分劉備軍の方々がお好きなのだな、と思いまして。特に荀彧様が、まさか劉備様に対してそんなにお熱い思いをお持ちだとは」

「ちょっ、アンタ、何言ってるのよっ!」

「ふふふ」

 桂花の怒声を、春華は笑って受け流した。
 その後は、具体的な劉備軍に対する方策が論じられた。議論も煮詰まったところで、華琳は断を下した。

「秋蘭、長安へ入ってくれるかしら?」

「はっ」

「副将には張燕」

「はっ」

 歩兵の行軍指揮では曹操軍随一の秋蘭と、同じく行軍に優れ、山地での戦に慣れた張燕。この二人なら、天険に囲まれた益州に対して攻めの構えも見せることが出来る。

「さてと、―――龐徳」

 末座にひっそりと佇む龐徳に目を向けた。
 楊秋や侯選、それに閻行は一応の地位を与えて洛陽に留めてきた。しかし龐徳だけは、虜囚のまま軍に伴った。何故自分がこの場に呼ばれたのか分からない、という顔をしている。
 華琳は幸蘭に視線で促す。

「益州からの報告で、馬超の居場所も分かりました。漢中の五斗米道に身を寄せているようです」

「―――っ、そうですか。……私にはもう係わりの無いことですが、お気遣いに感謝致します」

 深々と頭を下げたため、龐徳の表情は読み取れない。
 この男の根底にあるものは、馬騰への揺るぎない忠誠である。曹操軍への降伏も、馬超と馬岱の助命を計るためだろう。

「心の内で誰を主君と仰ごうが構わないけれど、我が軍に留まるというのなら、将器を発揮してもらうわよ」

「はっ」

 今度は真っ直ぐこちらを見返し、拱手して受けた。馬超の居所を知れば合流を試みるのではないかと思っていたが、嘘はなさそうだった。

「ならば存分に働いてもらいましょう」

 能力があり、それを曹操軍のために用いるなら、華琳は部下に自分への絶対的な忠誠心を求めるつもりはない。詠や徐晃なども、心の内では今も月の配下だろう。
 華琳は桂花に図り、適当な雑号将軍位(員数外の雑多な将軍号)を龐徳に与えた。





「お姉様、あれって」

「おう、さっそくぶつかったか」

 地平の先から、薄汚れた張旗が現れた。翠が掲げるは、言うまでもなく錦の馬旗だ。
 両軍が対峙したのは、巴郡の北辺である。
 益州の地は大きく分けて蜀、巴、漢中、南中の四つに分けられる。巴と蜀は人口も多く土地も豊かな中心地であり、五斗米道の支配する漢中は益州と中原を結ぶ玄関口、南中は南蛮族の蟠踞する未開の地である。
 劉焉より巴蜀を奪い取った劉備軍から、数日前に五斗米道に同盟の申し入れがあった。
 張魯は乗り気であったが、どうせまた良いように利用されるだけと張衛が反対した。
 かつて劉焉は群雄の中でもいち早く独立勢力を益州に築いた。曹操や袁紹、孫策が曲がりなりにも朝廷の命で黄巾賊討伐に当たっている頃から、すでに漢室の制御を離れている。そんななかで、益州の玄関口と言う漢中の性質上、五斗米道は独立の口実として、また楯として利用され続けてきたのだ。劉焉が劉備に、漢室が曹操に代わるだけだというのが、張衛の主張だった。
 駐屯地より呼び出されて意見を求められた翠は、張衛を支持した。客将とはいえ三千騎を抱え、五斗米道の将兵に不足する実戦経験が豊富な翠は、軍議の場でそれなりの発言権を得ている。
 劉備と言えば反曹の旗頭とも言える存在だ。共闘出来るなら、翠にとっては都合の良い話ではある。しかし劉備と曹操の諍いには、どこかおままごとのような気楽さがある。自分の復讐と相容れるものではない。何より劉焉から益州を奪い取った今の劉備の姿は、曹操と重なって見えた。
 翠はまだ議論が続く漢中を後にし、駐屯地へ帰還した。巴山を下った先、巴郡の北辺である。山中に留まっていては、騎兵は調練も満足に出来ない。また、濃密な戦の気配を漂わせる三千騎は、漢中の民には刺激が強過ぎるようでもあったのだ。
 五斗米道の客将である馬超の巴郡北辺での駐屯は巴蜀への侵攻とも言えるが、元々巴山の周辺は劉焉の支配が及ばず、半ば五斗米道の勢力下にあったという。
 漢中は北は秦嶺山脈で関中と隔てられ、南は巴山で巴―――巴郡、巴西郡、巴東郡―――と隔てられた地である。玄関口でありながら、双方を天険で拒絶する堅固な要害でもあるのだった。五斗米道はこの地の利を生かすことでこれまで劉焉の攻撃を跳ね返し続けてきた。益州の将兵にとって巴山は五斗米道の兵と怪しげな妖術で支配された魔境か何かで、周辺の村落は緩衝地帯として放置されてきたのだった。劉焉の悪政を嫌う者はまず巴郡の北辺に逃れ来て、五斗米道の教えに触れる。教えに染まったものは、信徒として漢中へと移民してくる。当然宗教には馴染めぬ者もいるが、それでも皆、村落に留まる。緩衝地帯ゆえに徴税もないのだから当然だ。
 五斗米道と劉焉が敵対に至った原因の一つがここにある。翠はその係争の地に駐屯し、時には巴の全域を駆け回るような調練もやって見せた。調練とはいえ、武具は実戦用のものを携えている。
 劉焉支配下の巴蜀では、それを遮る者もいなかった。劉備の統治で、それがどう変わるのか。駐屯地に帰還するや、試すようなつもりで三千騎を率いて巴郡を駆け回った。
 城邑の対応に目立った変化はなかった。守りを固め、馬超軍が去るのを待つだけだ。少々拍子抜けではあるが、統治者が代わったからといってわずか数日のうちに守兵の質が向上するはずもない。
 ただ、どこからか見られているという感覚があった。斥候を放つと、同じく斥候と思しき徒歩の小隊を視認したと報告がきた。一応の警戒網は張っているらしい。
 三千騎を先に駐屯地に帰し、旗本の二百騎だけで疾駆した。こちらをうかがう視線はそれで一時途切れたが、脚を緩めるとすぐに纏わり付くものを感じた。速さだけで振り切れる類のものではないらしい。
 劉焉とは違う劉備軍の備えの一角を見ることは出来た。今日のところはそれで満足して駐屯地に戻ろうと、馬首を返し掛けた時である。行く手に、こちらへ向け駆けて来る張旗が現れた。
 反董卓連合で戦陣を共にして以来であるから、すでに四年近くが経とうとしている。あの日見た張旗と、同じものであろうか。長年の流浪ですっかりと薄汚れている。
 半里(250メートル)ほどを隔てて、両軍は足を止めた。
 五百騎ほどが張旗の元で小さく固まっている。足を止めたその形が、槍の穂先を思わせる必殺の陣形を取っていた。
 これほどの騎馬隊は西涼にもそうはいない。自分の旗下くらいのものだろう。

「出てきたよ、お姉様」

「へえ、悪くない馬に乗っているじゃないか」

 張飛が一騎進み出た。足元だけが白い、艶やかな黒毛の馬に跨っている。
 直接話したことはないが、反董卓連合の時に何度か顔は合わせている。あの時よりは、幾分背丈が伸びたか。流浪の軍として数々の戦場を戦い、武人としては自分―――錦馬超にも劣らぬ驍名を誇るが、蒲公英よりも年下の育ち盛りだ。

「馬超はいるかー?」

 張飛が言った。特に張っている様子もないが、良く響く声だった。

「ここだ」

 翠も前へ出た。

「何か用か?」

「お姉ちゃんが会いたがっていたから、少し待ってて欲しいのだ。今、呼びにやってるのだ」

「お姉ちゃん? ああ、劉備のことか。なんだ、領内を駆け回っていることを、咎めに来たんじゃないのか?」

「そういえばそれもあったのだ。鈴々は今、巴郡の太守だったのだ! 勝手に軍を入れられたら困るのだ」

 ずっと根無し草で彷徨ってきた劉備軍らしく、領内を侵犯されたという意識は本当になかったようだ。

「あたしの行く道はあたしが決めるし、誰にもそれを遮らせはしない」

「むっ、もしかして、お姉ちゃんを待たずに帰るつもりなのか?」

 分かり難い言い方だが、意図は伝わったようだ。言葉ではなく、張飛は気配で察したのだろう。

「ああ、こっちは劉備の顔なんて特に見たくもないんでね」

 劉備の用件など、同じ反曹を志す者として翠を味方に引き込む以外にないだろう。荊州でもそれで随分と将兵を引き抜いたと聞いている。節操のない人材蒐集振りも、曹操を思わせた。

「―――っ、確かに会わせない方が良さそうなのだっ!」

 脳裏に曹操の顔が浮かぶと、知らず殺気が溢れ出た。張飛はそれを鋭敏に感じ取り、肩に預けていた丈八蛇矛を下した。翠も穂先を伏せていた銀閃を持ち上げる。

「ちょっ、ちょっとお姉様っ! 良いのっ?」

 背後で蒲公英が声を上げる。

「なんだ、あたしが負けると思うのか、蒲公英?」

「そうじゃなくって、劉備軍と五斗米道は手を結ぶかもしれないんでしょ。張飛も、同盟を申し入れてきたのはそっちからって聞いてるけどっ」

「―――っ、所詮、あたしらはよそ者の客将さ」

「こんな危ない奴がいたら、同盟なんて出来ないのだっ」

 痛いところを突かれたが、こちらから退くつもりはなかった。張飛も気持ちは同じようだ。

「お前らは手を出すなよ。―――張飛っ、一騎打ちだ。どちらが勝っても、あたしとお前だけの問題。それで良いな」

「わかったのだっ」

 張飛が蛇矛を構える。その瞬間、小柄な体が一回りも二回りも大きく見えた。ぶるるっと身を震わせる紫燕を、脾肉を締めて落ち着かせる。

「お姉ちゃんには、絶対に近付かせないのだっ!」

「だから、会う気はないと言っているだろうがっ」

 張飛が丈八蛇矛を横薙ぎにした。文字通り一丈八尺の長さを誇る大長物である。対峙した位置が、すでにして張飛の間合いの内だった。

「うおっ」

 翠は紫燕と共に身を伏せて蛇矛をかいくぐった。すぐに次の一撃が飛んでくる。今度は大きく跳び退って間合いを外して避けた。

―――これが燕人張飛か。

 まるでただの槍でも扱うように、張飛は軽々と丈八蛇矛を旋回させている。必然、切っ先の速度は恐ろしく速い。遠く感じた次の瞬間には、眼前まで迫っている。

「紫燕、いけるな?」

 首筋を軽く叩いてやると、紫燕は自らを鼓舞するように鼻を鳴らした。
 紫燕は愛馬三頭の中では一番穏やかで用心深い性格をしているが、決して臆病ではない。
 張飛の―――丈八蛇矛の間合いへと飛び込む。すぐさま攻撃が飛んでくる。最も勢いの乗った初撃を、紫燕が身を竦めてやり過ごした。次いで二撃目。前へ出て、勢いの乗る前に受けた。それでも十分な威力。紫燕が膝を緩めて、衝撃を殺してくれる。

「いけっ!」

 紫燕の緩めた膝が一気に張り詰めるのを、翠は鞍越しに感じた。瞬時に間合いが詰まる。槍―――銀閃が届く。
 張飛は馬上で身を倒して銀閃の矛先から逃れた。翠はくるりと手首を返す。切っ先を避けても、十文字の鎌から逃れることは出来ない。

「―――くっ!」

 鎌が張飛の肩に触れる直前、翠は身を仰け反らせた。蛇矛の石突が、顎を跳ね上げに来ていた。張飛が身を倒したのは、避けるためではなく蛇矛の急制動のためか。
 銀閃の鎌も蛇矛の石突も、二人の身体を捉えることなく馳せ違った。
 即座に取って返して間合いを詰める。馬術ならこちらが上だ。張飛はようやく馬首を返したところである。
 紫燕の力を乗せた、これ以上ないという一撃。張飛は当たり前のように蛇矛で跳ね除けた。打ち合いはしない。そのまま横をすり抜けた。
 背筋に悪寒が走り、馬上で身を伏せた。頭上を風を巻いて何かが過ぎる。蛇矛の間合いは、こちらの想定を超えて長大だった。
 再びすぐに間合いを詰めようとした紫燕を、脾肉で制止する。掠りもしない蛇矛に、わずかに頭がふらついていた。

「…………」

 張飛を中心に、円を描いてゆっくりと駆けた。半径一丈八尺の円だ。
 張飛の馬は、背後を取られることだけ避け、紫燕が一巡りする間に一度か二度馬首を返すだけだ。蛇矛を打ち振るう張飛の強固な土台に徹している。
 打ち掛かる隙は幾度も窺えた。馬首を返す直前の首筋。直後の左肩。正面に対した瞬間の正中。いずれも巨大な顎の奥深くに垣間見える好餌だった。手を伸ばせず、周回し続ける。
 視界の端で蒼い顔をしている蒲公英が見えた。四海を覆い尽くすような張飛の武威に当てられたのだろう。強烈な圧を、翠は動くことでわずかに逸らしている。待ち受ける張飛は翠の武威を真面に受け、しかし揺るぎなかった。
 受けの構えの張飛に、機を窺うこちらがむしろ威圧されていた。つまりは劣勢だが、気にしなかった。曹仁との戦では、終始わずかに優位に立ちながらも最後に敗れた。戦機が満ちた瞬間、無心に最上の一撃を放つだけだ。
 張飛の額にぽつぽつと玉のような汗が浮き出し始める。翠の額に巻いた鉢巻は濡れそぼり、すでに顎先まで汗が滴っている。
 戦機が高まっていく。

「―――っ!」

 前へ踏み出す代わりに、紫燕は大きく一歩跳び退いた。

「なんだ? ……退き鐘?」

 原野にけたたましく鐘の音が鳴り響いている。騒音の元は数十騎の集団で、こちらに駆け寄って来ていた。

「お姉ちゃん、気を付けるのだっ!」

 息をふりしぼる様にして、苦しげに張飛が叫んだ。翠も激しく肩を上下しさせながら、一団に視線を向ける。

―――劉玄徳。

 集団は途中で止まり、そのうちの三騎だけが抜け出てきた。劉備の他の二人は、関羽と趙雲だ。

「お久しぶりです、馬超さん」

 張飛の叫びが聞こえなかったのか、劉備は警戒心もなく近付いて来て言った。関羽と趙雲がその分鋭い視線を向けてくる。

「あんたに降るつもりはないぞ」

「へっ?」

 劉備が間の抜けた声を上げる。演技ではなく、本気で何を言われたのか理解が及ばないようだ。

「……あたしを反曹の仲間に誘いに来たんだろう?」

「ああ、そういうこと。違いますよ。今日は、お見舞いに来たの」

「おみまい?」

「お母様のこと、聞きました」

「―――っ」

 そこに踏み込んで来るか。翠は完全に虚を突かれていた。立ち会いならば肩口からばっさりと斬り下されたようなものだ。

「な、なんだよ、急に。この乱世で人死なんて珍しくもないだろ」

「前に私の大切な人が母親みたいな人を亡くした時も、大変だったから。殺した相手への憎悪だけでいっぱいになって、壊れてしまいそうなくらいに」

「何が言いたいんだよ」

「ううん、特に何も。私が勝手に馬超さんの様子が気になって、勝手に会いに来ただけだよ」

 翠を仲間に引き込むためのご機嫌取りと言う感じはしなかった。それが目的なら、母の死という繊細な問題に踏み込んでは来ないだろう。

「……なんと言うか、変わらないんだな、劉備は」

「へ? そうですか? このところ忙しかったから、ちょっとやせたんじゃないかと思うんだけど」

 曹操を重ね見ていたのが馬鹿らしくなる能天気な顔だった。
 自分は随分と荒んだという気がする。曹操との戦に敗れ、母を失い、兄の様であった龐徳と決別した。変って当然とも言えるが、しかし劉備の数年も激動という点では劣らない。
 負けて流れてきたのは同じだが、翠と違って劉備は何も失ってはいないように見えた。それどころか負ける度に大きくなっている。この差は、何なのか。

「……もう話はすんだな。あたしはこれで帰らせてもらう」

「うん、それじゃあ」

 本当にそれだけを言って、劉備は翠達を送り出した。巴蜀への侵攻を咎める言葉も、仲間へ誘う言葉も一切なかった。

「しっかし、張飛は強かったねー。関羽と趙雲もいるし、お姉様、あんまり劉備軍を刺激しちゃだめだよ」

「ああ、すごい奴もいるもんだな」

 帰る道すがら、蒲公英の言葉に翠は上の空で答えた。

「……お姉様、それって張飛のことを言ってるの? それとも、劉備のこと?」

 蒲公英の問いに対する答えは、すぐには見つからなかった。



[7800] 第11章 第2話 宛城
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/03/18 12:04
 曹仁は樊城の船着き場に降り立った。振り返ると、対岸に襄陽の城郭が遠望できる。

「それでは、一月後にお迎えに上がりますね」

 白鵠、それに陳矯とその乗馬が続いて船着き場に降りると、流流が言った。

「ありがとう。よろしく頼む」

 流流の操船で、船影は見る間に小さくなっていく。氣を原動力とするスクリューを搭載した小型の快速船である。この世界の船の常識を超えた速度を出すが、操れるのはほんの数名だけだ。
 曹仁は流流の操船の練習も兼ねた送迎で、襄陽から対岸の樊城へ渡江した。二つの城邑を隔てる漢水の川幅は二里半(1250メートル)程もあり、快速船でこの距離を一人で往復出来る者となると、今のところ凪に季衣、流流のたった三名のみである。

「行くぞ」

「はいっ」

 白鵠に飛び乗ると、陳矯も遅れず続いた。樊城の城内は素通りし、一路北上して宛城を目指す。支城建設の指揮を取るためだ。
 西涼遠征を終え、荊州の行政改革に着手し始めた華琳によって、曹仁は荊州都督の地位を与えられていた。
 かつての荊州の主、劉表は州牧―――行政と兵権の長―――の地位にあった。そのうち行政の長を刺史に、兵権の長を都督に分割するという。刺史は現在のところ空席で、その職掌自体は荀彧が引き受け、いずれは適当な文官をあてがうらしい。
 都督には初め、春蘭が就くはずだった。荀彧と共に華琳遠征中の荊州を守っていたのだから当然の人選だ。しかし都督になると州内を検分して回らなくてはならないと聞くと、固辞した。せっかく再会した華琳の側を離れたくないという私心丸出しの理由からだ。本来なら素気無く却下するところだろうが、そこで華琳は再考したようだった。秋蘭―――長安に駐屯中―――の補佐無しの春蘭に、検分などさせて意味があるのかと。
 そうして白羽の矢が立ったのが曹仁だった。曹仁とて華琳の側を離れるのは気が進まないが、衆目の面前で叫んでみせるほど面の皮は厚くない。自分で指名しておきながら、華琳はそれに少々不満気だった。
 それから一月半ほどを掛けて、曹仁は荊州北部の各城を見て回った。その結果着目したのが、従前通りの襄陽と樊城に加え、宛城であった。
 襄陽と樊城は、言うまでもなく孫策軍の水軍に対抗するための最重要拠点である。幸いにも生前の黄祖によって防衛設備と構想は練られていた。黄祖と言うのはよほど慎重な男であったらしく、ほとんど手を加える必要はなかった。あとは劉備軍に従った分の船を補充するだけで良く、それは真桜率いる工兵隊の急務となっている。
 宛は南陽郡の中心からやや北寄り、樊城からは七百里ほど北に位置する城邑である。洛陽と許、そして襄樊の三点を結んで出来る三角形の、おおよそ中点と重なる。曹仁はこの地を孫策軍に対する最終防衛拠点と見定めた。
 水軍の戦で仮に押されても、襄樊二城で食い止めるというのがこれまでの方針であった。しかし曹仁は孫策の陸戦での強さと奔放な性情を見知っている。襄樊を無視し漢水中流域で下船、一気に許や洛陽を突く。それくらいの無茶はしそうなのが孫策だ。事実、長江北岸や漢水流域に上陸する孫策軍騎兵の姿が、最近しばしば報告されていた。
 実際に孫策と対峙したことがある華琳は、曹仁の提案を受け入れた。華琳は孫策から勝利を収めたとはいえ、その将兵にはほとんど犠牲を与えていない。思い切りの良い撤退振りは、思い切りの良い攻めをも連想させる。
 そうして決定されたのが、宛城を支える砦の建設である。曹仁と陳矯は樊城から宛までの七百里の距離を、四日で駆け抜けた。
 陳矯は途中立ち寄った城邑で三度馬を変えているが、それでも白鵠によく付いて来た。すでに馬術だけなら白騎兵と遜色ない。これで武術の腕が立てば、馬超との戦で欠員の出た白騎兵に加わることも可能だったろう。使い勝手の良い従者で曹仁としては手放し難いが、本人の希望は今も白騎兵入りである。

「ようこそ御出でくださいました」

 宛城の城門前の広場には、吏人達が挨拶に居並んでいた。事前に訪問の報せは届いているはずだが、従者一人きりというのはさすがに予想外であったらしく、忙しなく集まって来たという感じだ。
 郡府が置かれているから、上は宛の県令だけでなく南陽郡の太守までいる。下は亭長のような下級役人まで顔を揃えているし、民も遠巻きにこちらを覗いていた。
 噂の天の御使いの顔を一目見てやろうという、物見高い視線を感じる。以前は不快と突っ撥ねてきたものだが、今は自ら天人旗を掲げている。

「―――ここから西へ十里程のところに砦を築きたい! 手を貸してくれ!」

 ちょうど良いので、民に向かって呼び掛けた。

「そ、それは賦役ということでしょうかっ!? 曹操軍は、労役の類は課さないと聞いておりますがっ」

 県令が慌てた様子で曹仁の元へ駆け寄って問う。
 劉表、あるいはそれ以前に漢朝から任命された県令のようだった。漢朝の県令と言うと、上は宦官、下は地元の豪族と結び付いて私腹を肥やす者ばかりで、政の腐敗を象徴する存在であった。しかし荀彧が首を飛ばさなかったところを見ると、この県令は真っ当な官吏なのだろう。実際、曹仁に食って掛かった県令を、民は気遣わしげに見つめている。

「もちろん働いてもらった分は給金を出す!」

 民にも聞こえるように、はっきりと大きな声で答えた。県令がほっと安堵の吐息を漏らす。
 給金を出して民を雇うというのは、荀彧の案である。真桜の工兵隊は造船に回っているが、それでも兵を動員した方が手間も費用も掛からない。常日頃は軍費を切り詰めたがる荀彧には珍しい事だ。激烈な反曹思想の持ち主は桃香に従い去ったが、それでも荊州には華琳の治政に不安を抱く人間が多い。いきなり兵がやって来て自分達の住居の隣に砦など建て始めては無用の恐怖を募らせるであろうし、曹操軍の政を形をもって示す良い機会になるということだった。

「砦と言ってもそれほど堅固なものを作る必要はない。小山があるだろう? あれを利用したいのだが、三老の方はいらっしゃるか?」

 三老は郷里の長老に与えられる役職である。下級の地方官には大抵その土地の有力者が任命されるもので、彼らが集まってくれているのは好都合だった。
 三老から山に手を入れる許可を得ると、そのまま細かな打ち合わせに移った。県令や三老、亭長らの紹介で、工人達もすぐに集まってくる。給金の額面を提示すると、彼らは顔を綻ばせた。
 明くる朝より円滑に作業が開始された。
 曹仁も一応現場監督として立ち会ったが、最初に主だった者に大まかな指示を与えると、やることはなくなった。華琳のように自分で図面を起こしてしまうような知識があるわけではない。細かな部分は、実際に兵を駐屯させてから改築していくことになるだろう。
 賦役ではなく給金を出しているから、工人達の士気は高かった。曹仁はしばし彼らに混じって汗を流した。
 午後は陳矯を伴い、宛城内に設置されたばかりの学校を訪ねた。
 荊州には学者が多く、講師には事欠かない。しかし学問は士大夫の特権と考えるお高くとまった者達ばかりだ。華琳や荀彧の御膝元である襄陽はともかく、他の邑で真面目に教育に取り組んでいるのか気に掛かっていた。

「杞憂でしたね」

「ああ」

 学者達は戸惑いながらも懸命に教鞭を取っていた。
 教官室を訪ねて話を聞くと、一度荊州中の学者が襄陽に集められ、荀彧と論戦して自慢の学識を散々に叩きのめされたという。その場には洛陽で教職に生きる盧植も呼ばれていて、懇々と諭されもしたらしい。当代有数の大学者の言葉に、耳を貸さないわけにはいかなかった。

「へえ、あの荀彧がねぇ」

 荀彧が儒学の大家荀子の後裔で、学識も抜群であることは曹仁も理解している。しかし直情的と言って良い普段の言動を見るに、論戦などが得意なようにはとても思えなかった。口下手な朱里と雛里も荊州の学者達を散々に言い負かしたというし、論戦と言うのはただの口喧嘩や口論などとは別ということなのだろう。

「―――?」

 視線を感じて目を向けると、教官室の入り口からちらちらと子供達が室内を覗いていた。まだ授業中のはずである。

「こらっ、お前達っ! 教室に戻りなさいっ!」

 曹仁と陳矯に応対していた講師が声を荒げる。わっと喚声を上げて、子供達は散っていった。あれでは教室まで戻りはしないだろう。

「苦戦しているようですね」

 講師が恐縮そうに頭を下げた。名家の子弟を講義することはこれまでにもあっただろうが、庶民の子供達を相手にするのはそれとはまるで勝手が違う。

「先程覗かせてもらった教室では経書、それも春秋を教えていましたが、あれでは子供達は退屈しますよ」

 春秋は孔子が編纂したとされる歴史書であるが、誤解を恐れずに言うならば欠落と誤記の多い年表のようなものだ。その瑕疵にこそ孔子の深い意図が隠されていると考え、あれこれと解釈するのが春秋学であり、儒学の一大門派であった。
 さすがに子供達を相手にそんな講釈を垂れるわけではなく、読み書きを教える教材として春秋が利用されていた。講師としては最も馴染み深く、興味深いものを選んだのだろうが、それを子供が楽しめるはずもない。

「一番良いのは、子供達が自然と口ずさめるような民謡でしょうか。それに文字を付けてやれば、楽しく効率的に読み書きを覚えてくれますよ」

「……民謡」

 講師が難しい顔をした。

「では、この辺りに所縁の高名な方が書かれた書物などはありませんか。許では曹操様の詩などを読ませることもあります」

「……所縁の方ですか。そういえば―――」

 講師は席を立つと、書架をごそごそ漁り始める。普段ひもとく機会の少ない書なのか、ずいぶんと探し回った末に部厚い巻物を一巻取り出した。

「……傷寒雑病論?」

「以前に長沙太守を務めておられた張機殿が書かれたもの。張機殿は、ここ南陽郡出身の方です」

 受け取ると、曹仁は軽く目を通した。

「……なかなか興味深い書です。しばらくお借りしてもよろしいでしょうか?」

「どうぞ。張機殿御自身、広く読まれることを望んで方々に配っておられる。これもそのうちの一幅なのですが、あまり読む者がおりません。将軍にお読み頂けるなら、張機殿も喜ばれるでしょう」

 前書きによれば、医人でもある張機が長沙で立ち向かうことになった疫病の治療法を記した書である。言うなれば医学の専門書であり、儒学偏重の学者達には見向きもされなかったのだろう。民の間では五斗米道が医をもって信徒を集め、華佗が神医と称され尊敬を集めているが、士大夫層からは医学は怪しい呪いの類と一括りに方術と呼び倣わされている。

「とはいえ、子供達の教材に使うには専門的過ぎますね」

「そ、それでは、……梁父吟という民謡を、この辺りの子供達はよく歌っているようですが」

 講師は気が進まない面持ちで言った。

「なんだ、民謡があるのですか。それならちょうど良いじゃないですか。―――どんな内容なのです?」

「晏子の“二桃三士を殺す”の故事を歌にしたものです」

「ふむ、悪くないじゃないですか」

 晏子は春秋時代の斉国の名宰相である。“二桃三士を殺す”は、増長の過ぎた勇士三人に桃を二つだけ下賜し、相争わせて排除するという故事である。
 講師の重い口ぶりから、あけすけな猥歌でも飛び出すかと思えば、至って真面目な内容だった。子供への教材としては少々殺伐としているが、晏子に興味を持ってもらえれば、史記の列伝を引いてさらに視線を広げることも出来る。格好の教材と言えた。

「しかし、荊州の子供達が斉の歌を吟じるというのは、少々不思議な話ですね」

「それはその、つまり、……諸葛亮が、司馬徽殿の私塾でよく歌っていたそうなのですよ」

「ああ、なるほど」

 いくつもの疑問が、一度に氷解した。
 想像するに、梁父吟というのは斉国―――今の徐州に古くより伝わる民謡であろう。雛里は生まれも育ちも荊州であるが、朱里は徐州の出身である。そして荊州の子供達にとって、地元の最も高名な人物は今や伏竜鳳雛こと朱里と雛里なのだ。朱里が口ずさんでいたとなれば、馴染みない民謡でも流布する。
 講師の気乗りしない様子は、単純に朱里への対抗心―――朱里と雛里に言い負かされた文官や学者は多い―――もあるだろうが、何より彼女が反曹を掲げる劉備軍の軍師であるためだ。華琳は気にはしないし、盧植などは平然と桃香の学問の師を名乗り子供心を掴んでいるが、並みの学者にそれを真似る度胸はない。

「……曹仁将軍が、お手本をお示しになってはいかがです? 曹家の天の御使いが教えたとなれば、誰も文句は付けられません。それに、曹仁将軍は許では人気講師でありましたし、皆さんの参考にもなるはず」

 それまで黙って聞いていた陳矯が口を挟んだ。講師もすがるような視線を向けてくる。
 翌日から、砦の建築場所と学校を行き来する曹仁の生活が始まった。





「今回の相手はあんたなのか」

 巴での行軍はすでに両手の指に余る回数となっている。翠の前に現れたのは、すでに見慣れた感のある張旗に代わって趙旗であった。

「うむ、お主も毎度子供の相手では飽きもしよう。今日はこの常山の昇り竜、趙子龍がお相手しよう」

 趙雲は槍をくるくると軽く旋回させながら答える。
 二又に分かれた真っ赤な刀身と、そこから長く伸びる飾り紐が目を引いた。
 常山の昇り竜という異名は初めて耳にしたが、自信満々な様子に翠は言及を避けた。とはいえ劉備軍の三将としてその武名は高く、同輩の燕人張飛や美髪公関雲長に決して劣るものではない。
 その張飛とは侵攻の度に手を合わせ、いずれも明確な決着がつく前に劉備の制止が入っていた。矛を収めると、劉備と数語言葉を交わして駐屯地に帰還する。そんな気の抜けたやり取りが、過去十回以上も繰り返されていた。張飛は、初日に示した敵意をすでに見せなくなっている。翠も、もう劉備に曹操の姿を重ね見てはいなかった。

「張飛の相手が嫌なわけじゃないが、あんたとは遣り合ってみたいと思っていたんだ」

「ほう」

「あんたかあたし、それに曹子孝。その三人の誰かだと思うんだよな」

 天人曹仁に趙子龍、そして錦馬超。天下に槍の名手として知られた三名である。
 武名では、天下無双の飛将呂奉先と伍したという曹仁が頭一つ抜けている。ただ手を合わせた印象で言えば、一対一なら負けはしない。この眼前の趙雲にも勝てるなら、自分が天下一の槍の使い手ということになる。

「ふふっ、なるほど。そういうことなら私も負けるわけにはいかないな」

 こちらの意を覚ったらしく、趙雲は楽しそうに微笑むと槍を構えた。翠も遅れず構える。
 同じ槍の使い手と言っても、構えは三者三様だった。趙雲の構えは中でも際立って変則的だ。
 翠と曹仁の構えは、穂先を相手に真っ直ぐ突き付けるという点で共通している。曹仁が上段、翠は中段というだけの違いだ。
 趙雲は穂先を天に向け、柄を相手に曝け出す様に体の前に構えた。しかもそれで固着せず、舞でも踊るように絶えず構えを変化させている。馬も自然にその動きに従い、小刻みに右へ左へと歩を進めている。馬術も相当なものだ。
突いてくるのか、払ってくるのか。あるいはそのどちらでもないか。読めなかった。

「―――っ!」

 馬首に趙雲の姿が隠れた、と見えた瞬間に死角から身を乗り出し、地を這うように低く槍が繰り出された。払い除け、突き返すも、すでに趙雲は身を引いている。銀閃はその残像にすら掠りもしなかった。
 今度はこちらからと、黄鵬を踏み込ませた。突きかかるも、趙雲は余裕を持って半身になって受け流す。素早く槍を手繰り寄せ待ち構えるも、反撃はなかった。続けて攻めた。趙雲はやはり、余裕を持って避ける。三手、四手と攻め立てるも、いずれも空を斬った。攻める気がないのか、槍を返しては来ない。ただ銀閃も趙雲の身を捉えることがない。
 ならばと、銀閃を振りかぶり、大きく踏み込んだ。体重を乗せた薙ぎ払いで、受けごと崩す。

「―――っ」

 喉元に、真紅の影が迫っていた。仰け反ってわずかな距離をかせぎ、銀閃の軌道を変えて弾く。馳せ違い、距離を取った。
 趙雲がいつ突きを放ったのか、わからなかった。いや、突かれたというよりも、予め虚空に据えられていた穂先に向けて、こちらから突進していったと言うべきか。

「―――あっ、劉備達が来た。それじゃあ、私も行って来るねっ。あの脳筋、今日こそとっちめてやる」

 蒲公英の声に視線を転じると、劉旗を掲げた一団が今日も姿を現していた。蒲公英は単騎、そこへ駆けて行く。
 蒲公英も劉備軍の中に好敵手を見つけていた。
 何度目かの劉備との面談中に、蒲公英がいくらか挑発的なことを言った。劉備は軽く受け流したが、眉をつり上げたのが護衛の魏延という将だった。それ以来顔を合わせる度に口論し、ついには干戈を交えるようになった。
 張飛と翠同様、魏延と蒲公英の手合せも決着を見ず、適当なところで二組揃って劉備の制止が入るというのが最近の流れである。

「―――っ、―――っ!」

「―――――っ!」

 ひとしきり何ごとか罵り合った後、蒲公英と魏延が手合せを開始した。

「では、我らも」

「ああ」

 こちらも再開である。
 翠が攻め立て、趙雲は避け、時に際どい一撃を返してくる。
 張飛の蛇矛が暴風なら、趙雲の槍は流水だ。攻防に無理なく、澱みなく、捉えどころがない。そして気付けば、こちらまでその流れに乗せられている。流された先には堤が―――真紅の凶刃が待っていた。
 攻めているのか、攻めさせられているのか、判然としない。抗わず、流れに身を任せた。待ち受ける刃を乗り越えねば、趙雲にこちらの鋭鋒は届かない。

―――次で勝負だな。

 堤が眼前まで迫り掛けていた。阻まれるか、乗り越えるかだ。

「―――ちっ、良いところで」

 堤が遠ざかる。退き鐘が打ち鳴らされていた。
 いがみ合う蒲公英と魏延を笑顔で宥めながら、劉備がこちらへと近付いてくる。あと一手という未練は残るが、劉備の持つ稀有な才能と言うべきか、その緩い顔を見ると闘争心も萎えるのだった。
 翌日、早々に再び軍を動かした。
 劉備の笑顔に誤魔化されたが、やはりすっきりしない。旗本の二百騎を率いて駆け回り、待つ。
 やがて現れたのは見慣れた張旗でも、待ち受けていた趙旗でもなかった。

「常山のなんたら趙子龍の出番は一度きりで、今日はあんたか」

 美髪公関雲長。昨日に引き続いての新手登場である。

「妹がずいぶんとお主の武を誉めるのでな」

「そういうことか」

 試してやろうというわけだ。上から物を言ってくれると、闘志がこみ上げてくる。同時に、燕人張飛が自分への褒め言葉を口にしたことに、むずがゆさを覚える。
 ぶんぶんと頭を振って、余計なものを追いやり闘志だけを残した。
 関雲長。張飛、趙雲を抑え、劉備軍を象徴する武人だ。雑念を抱いて戦える相手ではない。
 関羽は青龍偃月刀を悠然と構えた。趙雲のように舞うでも、張飛のように武威をまき散らすでもない。そこにそうして在るのが当然と思えるような、落ち着き払った静かな構えだ。
 翠は一息に間合いを詰め、渾身の突きを放った。駆け引きも小細工も無しだ。

「―――くっ」

 巨大な岩にでも、思い切り打ち込んでしまったような感覚。浮き上がり掛けた上体を、翠は抑え込む。関羽の弾く動作は小さく、それでいて返ってくる力は大きかった。

「気持ちの乗った良い一撃だ。―――返すぞ」

 青龍偃月刀の打ち込みを、辛うじて防ぐ。まともに受け止めれば、銀閃を両断されかねない程の勢いも、麒麟が後方に小さく跳ねて衝撃を殺してくれていた。
 突きを返すも、万全の守りに弾かれる。もう一度、関羽が返す。
 一撃を返す度、一撃が返ってきた。強く突く程、強く弾かれた。
 奇抜なところなど何もない。堅実な守りに、着実な攻め。真っ当で、正統で、王道的な武。激しくも単調な剣戟が、いつ果てるともなく続いた。
 張飛が暴風、趙雲が流水なら、関羽はまるで巨大な山岳だ。三者三様な生き様が、その武に現れている。青龍偃月刀は、揺るぎなく清廉な関羽の生き方を映す鏡だった。

―――ひるがえって、あたしは何をしている?

 火花が舞い散る中、そんな問いが胸の内で生じる。
 不倶戴天の敵と定めた曹操に挑むでもなく、こんなところで別の相手と槍を交えている。それも、反曹の旗印と言っても良い劉備軍を相手にだ。何をしている。いや、何をしたいのだ、自分は。
 答えはどこにもない。しかし関羽と一合交わすごとに、そこへと近付いていく気がした。
 いつの間にか、背後から蒲公英の気配がなくなっている。すると、魏延を連れて劉備がもう来ているのか。この時間も、間もなく終わるのか。

―――もう少しだけ、この時が続け。

 翠は祈る様にそう願った。



[7800] 第11章 第3話 帰順
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/04/01 17:17
 三千騎を留め置き、翠は蒲公英だけを伴い馬を進めた。向かう先の城門は、警戒心もなく開け放たれている。

「成都へようこそ、翠ちゃん、蒲公英ちゃん」

 劉備は群臣を従え、門前で出迎えてくれた。翠はさっと下馬して大地に片膝を付け、拱手した。蒲公英もそれに倣う。

「西涼の馬孟起、劉玄徳様に拝謁いたします」

「同じく馬岱。謹んで拝謁いたします」

「もう、そういう堅苦しいのは良いよ。さあ、立って立って」

 劉備は手を取って二人を立ち上がらせてくれた。

「本当に、客将じゃなく劉備軍の一員になってくれるの?」

「はい」

 張飛、趙雲、関羽との戦いの果てに、翠は桃香に帰順を申し出ていた。
 劉備は五斗米道での翠の立場と同じく、客将として遇するとも言ってくれた。雍涼二州を糾合し得る西涼の錦馬超は、巴蜀を手にしたばかりの劉玄徳と対等な存在だということだ。しかし翠は、丁重にそれをお断りしていた。
 関張趙との戦いの中で、翠は自らの胸中を覗き見た。
 そこに、見るべきものは何もなかった。西涼の雄たろうとする気持ちは、すでに失われていた。自分は母や、憎き仇ながらも韓遂などと比べると、ずっと小さいのだろう。母の独立独歩の大志を引き継げなかったし、西涼への愛情では韓遂に遠く及ばない。胸の内にあるのは、一個の武人として曹操だけはこの手で討ち取るという思いだけだ。
 劉備からは何度となく、志を説かれた。綺麗事が過ぎてすぐには心に染まなかったが、少なくとも不快ではなかった。曹操の政を真っ向から否定するものだと思えば、痛快ですらある。自分の中に何もないのなら、劉備の志を支えてやってもいいと思えた。

「張魯さん達はなんて?」

 劉備軍への帰順を申し出はしたが、一度州都の成都に戻るという劉備達には付き従わなかった。張魯と張衛に、別れぐらいは告げていきたかったからだ。
 劉備の下に付くと明かせば、最悪捕らわれるか殺される可能性もあった。五斗米道と劉備の同盟に異を唱えたのが張衛で、それを支持したのが翠自身なのだ。しかし全て正直に打ち明けた。

「特に何も。客将なのだから、好きに去ってくれて構わないと」

「そっか。それじゃあ、今日から二人は正式に私達の仲間だね。―――改めてよろしく。私のことは桃香と呼んでね」

「はい。あたしのことも翠と呼んでください」

「私は蒲公英っ。よろしくお願いします、桃香さま」

「じゃあ、うちの皆を紹介するね。まずはすでによく御存じの四人から」

 桃香は関羽、張飛、趙雲、魏延を招き寄せた。
 実力はすでに認め合っている。それぞれ真名を預け合った。蒲公英と魏延―――焔耶は少々複雑な面持ちだが、桃香の手前言い出せずにいる。

「次に、こちらが私達の軍師、伏竜こと諸葛孔明」

「よろしくお願いします、馬超さん、馬岱ちゃん」

 小柄な少女が深々と頭を下げる。
 諸葛亮とは反董卓連合の際に顔を合わせている。劉備軍の軍師と言えばもう一人龐統がいるが、荊州で曹操に捕らわれたと聞いていた。

「翠で良い」

「私も蒲公英で良いよ」

「では、私のことも朱里とお呼び下さい」

「ああ、よろしく、朱里」

 朱里がもう一度頭を下げた。

「続いてこちらが、荊州で仲間になってくれた黄忠さんに厳顔さん」

「黄忠、字を漢升と申します。錦馬超の武名は荊州にも届いておりましたわ。一緒に戦えて光栄です。私のことも、紫苑と真名でお呼び下さい」

「厳顔だ。わしも桔梗で良いぞ。そちらの娘には、焔耶がずいぶんと世話になったらしいな」

 名に聞き覚えはないが、なかなかに腕が立ちそうな二人だった。桔梗の方は焔耶の武術と用兵の師だという。
 それから伊籍や馬良、馬謖と言った荊州の文人達、益州で配下に加わったばかりの者達が紹介されていく。
 最後に桃香は、群臣から少々距離を置いて何やら騒いでいる集団に手招きした。

「美衣ちゃん、それにミケちゃん、シャムちゃん、トラちゃんも。紹介するからこっちに来て」

「わかったじょ。子分ども、美衣に付いてくるにゃ」

 にゃーにゃーと鳴き声を上げながら四人―――四匹?―――がこちらへと駆けて来る。

「ならぶにゃー」

「トラが一番前っ」

「むにゃむにゃ」

 がやがやにゃーにゃーと叫びながら、四人は整列する。

「さっきからずっと気になっていたんだけど、何なのこの不思議な動物」

 他の三人とは文字通り毛色の異なる一人を指差して蒲公英が言った。
 全員が虎皮をまとっているが、一人だけ稀少な白虎の毛皮である。西涼には西域との交易路があるため、翠も珍品の類を見る機会は多かったが、白虎の皮というのは話に聞くだけでついぞ現物を目にすることはなかった。

「美衣は動物じゃないじょっ! 南蛮大王孟獲なのにゃっ!」

 どんな仕掛けがあるのか、孟獲と名乗った少女の毛皮の耳がぴんと張り詰め、尻尾が逆立つ。他の三人の耳と尻尾は動く様子がないから、やはり特別性の衣装ということだろうか。

「南蛮? 南蛮と言うと……」

「うん、私達が巴郡にいる間に、朱里ちゃん達には南中に行ってもらっていたの。こんな可愛い王様を連れて帰って来たから、私達もびっくりしちゃった」

「まったくです、はぁ~」

 峻厳なまでの凛々しさはどこへやら、愛紗が孟獲を見つめながら頬を緩ませ熱い吐息をこぼす。
 益州の南方、広さで言うなら実に州全体の半分ほどが南中と呼ばれる未開の地である。南蛮と呼ばれる異民族が蟠踞し、漢民族の支配が及ばない土地と聞いている。

「南蛮族の王様ってことは、この猫が南中で一番偉いの?」

 蒲公英が胡乱げに孟獲を見据えながら言う。

「猫じゃないにゃっ! 人間だじょ! 南蛮で一番えらいんだじょ。ははーって言うにゃっ」

「これは失礼しました、ははーっ」

「それで良いにゃっ」

 蒲公英は頭も下げず、欠片も畏まった様子なく孟獲の要求に応えた。しかし孟獲はそれで気を良くし、胸を反らした。ぴくぴくと耳がふるえ、ぱたぱたと尻尾が揺れる。

「その耳と尻尾、どうなってるんだ?」

「どうなってるって、どういう意味にゃ?」

 孟獲が首を傾げる。

「あっ、翠ちゃんも知らないんだ。私も荊州で黄祖さんに聞いて知ったんだけど、南方の異民族の王様達って、耳と尻尾が生えてるんだよ」

「……?」

「えっ、じゃあこれ本物なのっ!?」

 桃香の言葉に翠の理解が追いつかずにいると、蒲公英が先に反応した。

「当たり前だじょっ! 南蛮大王の証なのにゃっ! ―――んにゃっ!」

 蒲公英が孟獲の耳を引っ掴んだ。

「あっ、ほんとだ。くっ付いてる。それにあったかい」

「何するにゃっ!」

 孟獲はばたばたと暴れ回って蒲公英の手から逃れると、桃香の背後に隠れた。蒲公英は悪戯っ子の表情でなおも手を伸ばし、桃香の周りでぐるぐると追いかけっこが始まった。

「しかし、ずいぶんと手早く南中を落したな」

 騒ぎを横目に、朱里に話し掛けた。これで益州は漢中を残してすべて劉備軍の手に治まったことになる。

「南中を抑えれば天竺、さらには西域との交易路を利用して力を蓄えることが出来ます。早ければ早いほど、その益は大きくなるのです。―――それに曹操軍が長安に軍を進めた以上、後顧の憂いは断って置きたいですから」

「おっ、せっかく漢中で良い情報を仕入れてきたと思ったのに、もう知っていたのか」

「はい。主将は夏侯淵さん、副将には黒山賊の張燕さん。いつ攻めてきてもおかしくない陣容です」

 副将の名までは、益州の玄関口に陣取る張魯達ですらまだ把握していなかった。巴へ侵攻した翠の動きを捉えた警戒網と言い、劉備軍は諜報の使い方が上手い。

「劉備軍と曹操軍に挟まれて、五斗米道は苦しい立場に追い込まれるな」

「張魯さん達に、私達と組む気はなさそうでしたか? 五斗米道の教えは、桃香様の志にも重なる部分があると思うのですが」

「挨拶のついでに誘ってみたが、断られたよ」

「そうですか」

 朱里が顎に手を当て目を細めた。年相応のあどけなさは鳴りを潜め、神算鬼謀の軍師の顔で物思いにふける。
 次に朱里が口を開いた時、一緒にはっと大きく目も見開かれていた。

「漢中攻略を急いだ方が良さそうです。翠さんを易々と手放したということは、もしかすると―――」





「皆さん、お疲れ様でした」

「御使い様もお疲れ様」

 工人達と労をねぎらい合った。宛城での生活も最終日の夜を迎えている。
 砦の外郭は予定通り完成に漕ぎ着けることが出来た。宛城へと帰っていく工人を見送ると、曹仁は陳矯と共に最後の検分をして回った。
 山頂を覆う石造りの城壁は、真桜の工兵隊が作るものと比べても遜色ない出来だ。明日の朝には曹仁達と入れ違いで駐屯部隊が来る手筈となっている。元々五千の守兵が置かれていた宛城にさらに五千を増員し、この支城にも一万が入り、許と洛陽を守る防衛線とする。
 二刻(1時間)程で検分を切り上げると、城門から麓へ向けて駆け下りた。山と言っても樹木に覆われるわけではなく、草生した丘に近い。砦に籠もって防御を固めるのではなく、宛城を支え、北進する敵があらば要撃するための出撃拠点である。その方が都合は良かった。
 麓へ着くと、工人達に遅れて宛城へ馬首を向けた。親しくなった工人達に打ち上げの席に呼ばれている。
 昨晩は学校の講師と生徒、それに生徒の親も集まって送別会を開いてくれた。一ヶ月と経たず教鞭を置く仮初の講師を、随分と慕ってくれたものだ。
 曹仁の方も宛県の住民達には不思議と愛着を覚え始めていた。華琳の命令で動くのではなく、自身の決定で立ち回ったためだろうか。今では爵位を得て領地も与えられている身だが、ほとんど訪れたこともない自領よりもよほど思い入れが強い。
 その日は遅くまで工人達と騒ぎ、翌朝、兵の入城を確認すると曹仁は宛城を後にした。

「御使い様ーーっ」

「曹仁将軍ーーーっ」

 城門の外まで大勢の民が見送りに並んでくれた。来た時のように遠巻きにではなく、
 手と手が触れ合う近さで別れの言葉を交わした。
 人波が途絶えると、後ろ髪を引かれる思いもそこそこに白鵠を走らせた。
 往路と同じく、四日で樊城に至った。兵が渡し船を出すと言うのを断って、船着き場で半刻(15分)ほど待つと迎えの船が近付いてきた。流流の操る快速船だ。

「兄様、お帰りなさい。お待たせしてしまってすいません」

「ただいま。俺達もいま着いたばかりだよ」

 白鵠を引いて快速船へ乗り込んだ。
 白鵠が面白くなさそうに首を振る。船があまり好きではないのだ。白鵠がこうして不機嫌を露わにするのは珍しい。
 首筋を撫で擦り機嫌を取っていると、すぐに対岸に付いた。快速船なら長い時間はかからない。

「一月前よりも、上手くなったんじゃないか? スクリューの立てる水飛沫が少ないし、揺れも小さくなった気がする」

「はいっ。凪さんにもお付き合い頂いて、たくさん練習しました」

 下船しながら言うと、流流は嬉しそうに答えた。

「華琳様が執務室でお待ちです。お先にどうぞ」

 流流は縄を使って快速船を船着き場に係留し始める。

「お手伝いさせて頂いても良いですか、流流将軍? 少し興味が」

 陳矯が問う。

「ええ、それはもちろん。じゃあこの縄を支えていてもらえますか、無花果さん」

「はい。―――ああ、曹仁将軍は華琳様にご報告へ。白鵠も、私の馬と一緒にお世話しておきますので」

「……ああ、それじゃあそうさせてもらおうか」

「報告書に全てまとめてありますが、何か御不明な点がございましたらお呼び下さい」

 白鵠をその場に留め、曹仁は一人で船着き場を後にした。
 白鵠の世話は、以前なら自分以外の人間に任せることはなかった。それが当然であるし、白鵠も曹仁以外の手が入ることを嫌う。時折陳矯に委ねる様になったのは、この半年程のことだ。何度となく頼み込まれ、根負けした形だった。陳矯にとって、白騎兵と同じく白鵠も信奉の対象らしい。その気持ちが伝わるからか、白鵠も陳矯の世話だけは嫌がらなかった。

「しかし、あいつは気を回し過ぎるな」

 陳矯は本当に得難い従者ではある。こちらが本気で引き離しにでも掛からない限り、白鵠の脚にも遅れず付いてくる。目端が利いて気配りも上手いため、華琳や他の将軍達からの覚えもめでたい。

「あっ、兄ちゃん。お帰りー」

「おう、ただいま」

 華琳の執務室の前には、季衣が直立していた。

「あれ、流流と無花果ちゃんは?」

「船の片付けをしているよ。陳矯はその後に馬の世話をするから、報告は俺一人に任せるってさ」

 華琳との再会を二人きりで、とでも気を回したのだろう。華琳とは一月振りとなるが、視察や遠征でそれぐらい会えずにいるのは珍しい事ではない。気遣いも過ぎれば少々煩わしくもあるのだが、今回は有り難く気持ちを受け取ることにした。

「華琳は中か?」

「うん。―――華琳様、兄ちゃんが来ました。…………あれ?」

 普段ならすぐに返ってくる華琳からの返答がない。

「華琳さま~」

 季衣は小声で呼び掛けながら、執務室の戸を静かに押し開けた。





「……華琳様、寝ちゃってるみたい」

「珍しいな」

 囁く様な声がかろうじて華琳の耳まで届いた。

「ここのところ、ずいぶん忙しくしていたから」

「そうなのか?」

「うん。蘭々が、兄ちゃんが帰ってきたら一緒に休みを取りたいから頑張ってるんだー、って言ってたよ」

「―――っ」

 図星を指されて思わず華琳の心臓が跳ね上がる。動揺が面に出たかもしれないが、机の上に頭を伏せているから、入口からはこちらの表情は窺いしれないはずだ。

「そ、そうか」

 曹仁が声を上ずらせた。

―――ふふっ、嬉しそうにしちゃって。

 自分のことは棚に上げて、華琳は胸中で苦笑をこぼす。

「……起きるまで俺が見ているから、季衣は休憩してくれて良いよ」

「いいの?」

「船の片付けももうすぐ終わるだろうし、流流も誘っておやつでも食べてくると良い」

「わぁ、ありがとう、兄ちゃん」

 季衣が囁き声をわずかに弾ませる。ごそごそと物音もしていたから、大方曹仁が小遣いでも与えたのだろう。

―――まったく、念の入ったことね。

 部屋から遠ざけようという工作だろう。宮中でも菓子は手に入るが、小遣いを受け取ってしまえば自然と街に出て購うことになる。

「じゃあ、兄ちゃん。華琳様をよろしくね」

「ああ」

 ぱたんと控え目な音を立てて戸が閉まり、季衣の足音が遠ざかっていく。曹仁も耳をそばだてているのか、執務室は静寂に包まれた。
 しばしして、室内の空気が動いた。人の気配がすぐそばまで近付いてくる。

―――さて、どう出るかしら?

 室外での季衣とのやり取りから、曹仁が無花果を伴わず一人で報告に来たことは知れた。夜更かし続きでちょうどうつらうつらしていたこともあって、咄嗟に華琳は寝た振りをしていた。
 以前、唐辛子塗れの口にキスさせられたお返しだ。何か恥ずかしいことでも仕出かした瞬間を見計らって、目を覚ましてやるつもりだった。
 気配は執務机を回り込み、華琳の真横―――机に伏せた顔を向けている方向で止まった。

「…………?」

 早速口付けでもしてくるかと思えば、何の反応もないまま時が過ぎた。薄目を開けて確認したい衝動に駆られるが、気配はすぐ隣から動いていない。やきもきしながらもじっと我慢した。
 時折、手巾か何かが額や頬にあてがわれる。汗を拭ってくれているようだ。季節は夏の盛りを迎えていた。じっとしていても汗は湧いてくる。

「……かわいいなー」

 ぼそりと、想像以上に近くから呟き声が聞こえた。吐息を頬に感じるほどだ。華琳は驚きが顔に出そうになるのを必死で抑え、次いで言葉の意味に思い至ると赤面しそうな頬を鎮めにかかる。

「はぁ、ちょっと異常だな、このかわいさは」

 一言漏らすと、曹仁は止まらなくなった。かわいいかわいいと何度も連呼する。

「……んんっ」

 華琳は寝惚けた態でわずかに身をよじると、ほんの一瞬だけ薄目を開けて曹仁の様子を確認した。にこにこと幸せそうな笑顔を浮かべている。
 起こしてしまうと思ったのか曹仁は口を噤んだが、長くはもたなかった。しばらくするとまたかわいいだの好きだのと連呼が始まる。
 華琳は頭の下で組んでいる腕に、曹仁からは見えぬように爪を立てた。緩みそうになる口元を引き締めるのに必死だった。
 半刻近くもそうしていただろうか、頬に軽く何かが触れた。

―――やっと動いたか。

 かすかな感触だが、手巾でも指でもなく曹仁の唇であることが華琳にははっきりと分かる。数万回、数十刻と触れ合ってきたものだ。

「……もう少しくらい大丈夫かな」

 先刻よりも少し強めに、今度は額に唇が触れた。次いで目尻に、鼻先にと、ついばむ様な口付けが繰り返された。閉じた目蓋の上にまで優しくキスされるも、なかなか本命―――唇には来ない。肩すかしを食らいつつも多幸感に浸りながら、また半刻程も過ぎただろうか。

―――まったく、キス魔のくせにもったいをつけてくれたわね。

 ようやく、唇と唇が触れ合った。
 それでもまだ五分と五分だ。こちらも口付けで痛い目―――辛い目を見たのだから、それ以上の行為を引き出してやらないと面白くない。
 とはいえ、キスの出番が終わらない。ちゅっちゅちゅっちゅと、軽いキスが繰り返される。いつ終わるともなく―――。

「……負けたわ」

 華琳は観念し、すっと目を開けた。

「―――っ、わ、悪い、起こしちゃったか?」

「少し仮眠を取っていただけだから、構わないわ」

 慌てて距離を取った曹仁に、すっくと身を起こして言う。曹仁は、ちらちらと窺うような視線を送ってくる。
 普段から似たような事をしている気がするが、これはこれで曹仁は十分に照れているようなので良しとしよう。爪を立てていた腕が、ずきずきと痛む。我慢も限界だった。
 ひょいひょいと手招きすると、曹仁はおずおずと近付いて来た。

「―――っ、んん」

 曹仁の首の後ろに手を回して、思い切り引き寄せ唇を合わせた。先刻までの軽く触れ合うだけの口付けとは違う、深く貪る様なキス。最初躊躇うようだった曹仁も、すぐに積極的に求めてきた。

「…………ぷはぁ。まったくもう、貴方、私のこと好き過ぎでしょう」

 息苦しさを感じて唇を離した時には、ずっと我慢していた分まで華琳の口元は緩み切っていた。

「―――さて、報告を聞きましょうか」

 平静を取り戻しそう切り出せたのは、ずいぶんと時が経ってからである。
 まだ薄っすら頬を上気させている曹仁は頭を振って気を取り直すと、執務机の上に報告書を広げた。華琳は材料費や工人に支払った給金などの数字の内訳を形式通り確認し、次いで建設した城塞の見取り図と周辺地理の絵図に目を向ける。
 いくつか気になる点を質問するも、いずれも澱みなく答えが返ってきた。満足行く砦が出来たようだ。

「ああ、そうそう。―――貴方が送ってくれたこれだけど、役に立ちそうね」

 質問も尽きると、華琳は執務机の隣に設えられた棚に手を伸ばし、紙束を机上に置いた。
 張機著“傷寒雑病論”である。
 荊州に駐屯して以来、曹操軍の将兵の中にも疫病に罹る者が出ている。傷寒雑病論には治療薬の処方だけでなく予防の方策までが記されていて、すでに軍営内では徹底させていた。

「そうか、なら急いで書き写した甲斐があったな」

 曹仁は満足げに頷くと、意味あり気な視線を向けてくる。ご褒美に先程の続きを、というところか。

「ふぅ、仕方ないわね―――」

「―――華琳様、よろしいですか」

 曹仁を招き寄せようとしたところで、室外から控え目に声を掛けられた。

「……どうぞ。入りなさい、幸蘭」

 華琳は少々げんなりしながら、声の主に返す。

「失礼します。あら、季衣ちゃん達の姿がないと思ったら、仁ちゃんが戻っていたんですね。お帰りなさい、仁ちゃん」

「ただいま、姉ちゃん」

 姉の登場とあっては、曹仁もそういう気分はすっかり失せたようだった。

「宛はどうでしたか? 住民の皆さんから、曹操軍の人間だからって虐められたりしませんでしたか? ご飯はちゃんと―――」

「―――幸蘭、私に何か用事があったのではないのかしら?」

「あらあら、これは失礼しました。張三姉妹から、報告が届いています」

「あの子達から?」

 五斗米道との交渉役に、張三姉妹を長安の秋蘭の元に派遣していた。背後の巴蜀に大本命が控える以上、漢中は足掛かりとして何としても手に入れたい土地となった。同じ宗教家―――と張三姉妹を称して良いか微妙だが―――として、曹操軍に降る利を諭しに行かせたのだ。五斗米道は、孫策軍のように戦で雌雄を決したいと思える相手ではない。

「交渉は上手くいっていると報告を受けたばかりだけれど、さて、何かしらね?」

 曹仁にも読めるように、執務机の上に書簡を広げた。

「―――馬超が、桃香の元へ」

 曹仁が呟く。

「そうなる気はしていたわ。……こうなると、戻って来たばかりのところ悪いけれど、貴方の出番ね」

「俺の?」

 荊州都督に任命したばかりだが、今後起こりうる事態を想定すれば、適任者は曹仁をおいて他にいない。

「ええ。……はぁー」

 懸念事項は多々あるが、ひとまずは明日丸一日を予定していた逢い引きの中止に、華琳は盛大に溜め息を溢した。



[7800] 第11章 第4話 秋蘭
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/04/14 21:13
「動き出すのが少々遅かったのではないか、張燕?」

「あまり早くそちらへ追い込んでは、夏侯淵将軍ご自慢の弓兵隊が踏み荒らされると思ってな」

「要らぬ気遣いだ。それでいったいどれだけの犠牲を出した?」

「二百と言ったところだ。将軍の兵五百と引き替えと思えば、安いものではないのか?」

「五百も討たれると? 私の兵なら騎馬に迫られる前にすべてを射落とせる」

「それは調練では、弦さえ鳴らせば当てたことになる決まりだからな」

「実際に矢を放てば、外すと言いたいのか?」

「―――おいおい、お前らっ。私を放って喧嘩を始めるなっ!」

 公孫賛が、秋蘭と張燕の間に身体を割り込ませた。

「公孫賛、いま大事な話をしているところだ。邪魔をしないでくれないか。―――だいたい何なんだ、さっきからそのふざけた格好は」

「お前が縛ったんじゃないかっ! 早く解いてくれよっ」

 縄でぐるぐると幾重にも巻かれた公孫賛は、ぴょんぴょんと器用に飛び跳ねて怒りを表した。調練の模擬戦で捕虜に取られたという証だった。
 雍州牧として再び長安に駐屯している公孫賛も交えた大規模な演習である。騎兵に歩兵で対するという形式で、騎兵には公孫賛率いる三万騎、歩兵には秋蘭の精鋭弓兵五千を含む三万五千と張燕の黒山兵一万五千。馬超が劉備軍に降ったという報告を受けて企画したものだ。
 張燕―――黒山賊の兵との連係を本格的に考えたのは、これが初めてだった。戦となると秋蘭は最大兵力を有する春蘭の補佐に回るのが常であり、こちらから連係を取るのではなく、他の軍が追随するという形になる。
 初めての連係にしては、秋蘭と張燕はかみ合った。兵の性質も戦法も大きく異なるが、秋蘭が自分ならここでこう動くという用兵を張燕はした。それは張燕も同じようだった。それだけに他の者との調練では気にならない細かい部分にまで目が付いて、しばしば言い争いとなった。
 公孫賛の取り成しでその場は治め、さらに三度模擬戦を行った。やはり用兵はかみ合う。その都度、公孫賛は縛に付くこととなった。

「それでは」

 調練を終えると、張燕は軽く頭を下げて黒山賊の兵の方へ去っていく。すぐに兵に取り囲まれ、賑やかな騒ぎが始まった。世を拗ねた皮肉屋であるが、元が賊徒の頭目だけあって兵に対しては磊落な顔を見せる。

「お前ら、もう少し仲良くやれないのか?」

 公孫賛が隣に来て、溜め息交じりに言った。
 二の腕にはくっきりと縄目の跡が付いている。公孫賛が捕縛された時点で、模擬戦の勝敗は決する。だから本当は縛り上げる必要などないのだ。演習を盛り上げるためのちょっとした懲罰であり、心情的にはおふざけのようなものだ。
 少々強く縛り過ぎたか、と反省しつつ秋蘭は公孫賛の問いに返す。

「ふむ。私としても言い争いをしたいわけではないのだがな」

「そうかあ? 私には、珍しくお前が感情的になっているように見えたけどな」

「久々の大規模な模擬戦で、気が高ぶっていたのかもしれないな」

 その場は軽く流したものの、自分が張燕という男に悪感情を抱いていることに秋蘭は気付いていた。
 こうして思い起こすだけで、不快感が募る。珍しいことだった。他者に対する好悪の情が薄い方だと、秋蘭は自身を分析している。
 もちろん華琳や姉の春蘭のことは大好きだと躊躇なく断言出来る。曹仁や幸蘭、蘭々も大切だし、最近では自分を慕ってくれる流琉も愛らしいと思う。といって、春蘭ほど直情にはなれないし、幸蘭ほど溺愛するでもない。最近の華琳と曹仁のいちゃいちゃ振りにも当てられるばかりだ。一歩引いて俯瞰する。それが秋蘭の立ち位置だった。
 嫌悪感に関しても同様で、喧嘩に発展するほど感情を露わにしたことなど生涯に数えるほどしかない。張燕に対してだけ上辺すら取り繕えない程に嫌悪を抱いている自分に、秋蘭は新鮮な驚きを感じていた。
 卑劣な不意打ちで曹仁を傷付けたが、それが原因ではない気がした。曹仁本人がすでに気にも掛けていないし、何より嫌悪感を抱くようになったのはもっと最近になってからだ。
 主将と副将として長安に入り、すでに数ヶ月が経過している。接する機会はそれ以前よりずっと増えた。そして増えた分だけ、不快が募った。斜に構えた態度が鼻に付く、と言ってしまえば同族嫌悪ということになるのだろうか。ありていに言えば、生理的に気に食わないということだ。
 張燕の方もそれは同じようで、軍務以外で話しかけてくることもない。その日もそのまま顔を合わせることなく調練を終えた。
 互いに極力関わりを避け、平穏に数日が経過した後、予期せぬ来訪者が長安に現れた。

「もうっ、本当に大変だったんだからっ」

「あー、疲れたよぉ」

「ちょっと、ちぃ姉さん、秋蘭様にそんな口の聞き方をしない。天和姉さんも、だらけてないで」

 不機嫌顔で指を突き付けてくる次女地和に、漢中の地図を広げた卓の上に寝そべる長女天和、二人の姉を注意する三女人和。張三姉妹が、漢中から長安へ逃げ延びて来ていた。
 軍議の間には他に、張三姉妹が連れ帰った五斗米道からの使者と公孫賛、張燕、そして秋蘭がいるだけだ。

「人和、構わない。お前達は我が軍の協力者であって、部下ではないのだからな」

 姉二人に振り回される人和に、秋蘭は親近感を覚えつつ言った。

「すいません、秋蘭様」

 人和が申し訳なさそうに頭を下げた。秋蘭の方こそ、頭の下がる思いである。疲れているのは姉二人と同様だろうが、先刻まで人和は漢中の情勢を詳らかに語ってくれていた。
 五斗米道は漢中東端の交通の要衝陽平関を劉備軍に奪われ、今や張魯の本拠南鄭までが攻撃に曝されていた。張三姉妹は劉備軍による南鄭攻城が始まる直前、張魯と張衛の協力で城を脱し、長安までをひた駆けて来たという。
 相当な強行軍であったようだから、天和と地和が疲れた疲れたと訴えるのも無理からぬことだった。とはいえ、声を上げるだけ元気が残っているということでもある。
 元々は大陸全土を行脚する旅芸人だ。今では豪奢な馬車に護衛まで付けて旅をしているが、舞台ともなればほとんど休みも取らずに数刻歌い踊り続ける。並の兵よりもよほど体力はあるだろう。

「しっかし、桃香にしてはずいぶんと強引にきたな」

「五斗米道と我々が繋がりを持ったことを、諸葛亮あたりに気取られたということだろうな」

 公孫賛の言葉に秋蘭は返した。
 劉備軍の漢中進攻は突然であったという。主力を率いて陽平関に迫り、受け渡しの要求が拒まれると瞬く間に砦を落している。益州牧の印璽を掲げているから一応の大義名分は立つが、有無を言わせず力付くというのは劉備らしくない。もっとも、巴蜀を攻め落とした時点ですでに劉備は秋蘭達の知る劉備とは別の顔を見せ始めている。

「気付いた時には、敵は砦の中に入り込んでいただ」

 五斗米道の使者の男が言った。陽平関の守備隊を率いていたという。
 交通の要衝を任されていたのだから、五斗米道の軍の中ではそれなりの地位にあるのだろう。大男で身の丈だけなら曹仁の副官の牛金にも劣らない。しかし体付きに鍛錬の形跡はほとんどなく、朴訥とした話しぶりは田舎の農夫といった印象だ。五斗米道軍全体の練度も知れるというものだった。

「間諜に潜入されたな」

 城門は内側から開かれたらしい。鳳統が育てたという諜報部隊の働きだろう。戦いに強い精兵ではないが、間諜としては精鋭中の精鋭である。荊州では曹操軍も、華琳の眼前まで接近を許していた。
 名にし負う関張趙に加えて、先日まで心強い味方であった錦馬超までを眼前に並べられては、調練不足の兵など武威だけで腰砕けになりかねない。そこに城門が内側から開かれたとあっては、兵は逃げ出すしかない。双方一兵たりとも損なわれることなく、陽平関は劉備軍の手に渡ったという。出し惜しみ無しの豪勢な陣容は、無駄な犠牲を避けるためと考えればやはり劉備の本質は変わっていないのか。

「それで、そちらの御教主様は何と?」

 使者の大男に問う。

「は、はい、援軍を頼めないものかと」

「それは、我々に帰順するということか? こちらの提示した条件を飲むということか?」

 張三姉妹の派遣は、想像以上の効果を発揮した。交渉はすでに帰順後の待遇に関して意見を擦り合わせる段階にまで至っていた。劉備軍の進攻さえなければ、もう一、二度使者が行き来する間に話はまとまっただろう。

「む、難しい話は俺には。詳しい話は、お三人様がお聞きかと」

 人和に視線を送ると、小さく頷きながら口を開いた。

「全て飲むと」

「わかった」

 五斗米道の教義に干渉するような条件も突き付けている。それだけ状況は逼迫しているということだろう。

「では軍議に移るとしよう。使者殿は、―――お疲れであろう。部屋を用意させよう」

 二度手を打ち鳴らすと、軍議の間に侍女が二人入って来た。

「あ、あの、援軍は―――」

「御案じなく。すぐに出陣の用意をさせる」

 侍女に挟まれるようにして連れられて行く大男に、秋蘭ははっきりと言い切った。大男は安堵の表情で軍議の間を後にした。

「御主君にお伺いを立てず、漢中に兵を入れるのか?」

 大男の野暮ったい足音が遠ざかると、張燕が言った。

「この機を逃せば、漢中平定には多大な労力を費やすことになる」

 春蘭の補佐と言う形でも、六日で一千里と謳われた行軍速度を落とさない自信が秋蘭にはある。一方で兵を奮わす武名では、姉は言うに及ばず曹仁や霞にも自分は劣る。それでも武官筆頭の姉でなく、自分がこの地を任された。つまりは情勢を読み解く判断力を求められたということだ。

「そうか」

 張燕は一応確認したというだけのようで、小さく頷くとそれ以上は何も聞いては来なかった。知った風な顔が鼻に付く。

「張燕、お前は長安に残れ。漢中には私一人で行く」

「おい、それは―――」

 公孫賛が声を上げるのを、手で制する。個人的な好悪から張燕を遠ざけようというのではない。卓上に広げた漢中の地図の一点を指差した。幸蘭の手の者や高順の情報で、地図にはかなり細部までが描き込まれている。

「馬超か」

 張燕がすぐに小さく呟いた。
 普段行動を共にしている姉が相手であれば、さらに言葉を費やさねばならない。いけ好かない男だが、察しの良さに手間が省けることが多いのも事実だった。
 秋蘭が指差したのは、褒斜道と呼ばれる桟道のとば口だった。陽平関から南鄭に掛けてを劉備軍が手にしたということは、西涼へと至る蜀の桟道をも確保したということである。西涼に曹操軍の政はまだ根付いたとは言えず、錦馬超が再び立てば数万の兵が従うだろう。長安を落されるようなことになれば、再び潼関以西は曹操軍に対して叛旗を翻す。漢中に侵攻した軍が退路を断たれるのみならず、一朝にして劉備軍は雍涼益と三州を統べる大勢力に伸し上がることになるのだ。長安の防衛は、ある意味で漢中進攻以上に重要な役割だった。

「馬超。そうか、朱里が錦馬超の名前を利用しないはずがないか」

 公孫賛も得心いったようだ。
 長安防衛に関して、意見を交わしあった。公孫賛は弘農王を擁した馬騰と馬超に、一度は長安を落されている。少々入れ込み過ぎなくらいの意気込みを見せた。対する張燕の冷やかさが、上手く均衡を取ってくれるだろう。

「あの、私達はどうすれば? 出来れば中原に戻りたい―――」

「―――え~っ、せっかくだから、公演していこうよ、長安公演っ」

 おずおずと人和が差し挟んだ言葉を、天和が遠慮なく遮る。

「天和姉さん、今の話聞いてた? これからここで戦争が始まるかもしれないんだよ?」

「ちぃも嫌よ。もう戦に巻き込まれるのはこりごりだって、言い合ったばっかりじゃない」

「でもでも、長安だよっ。大陸制覇のためには、絶対抑えておかないといけない場所でしょっ」

「むっ」

 地和が押し黙る。大陸全土で公演を開催するのが、張三姉妹の目下の夢らしい。廃れたとはいえ漢王朝西の都とでも言うべき長安は、開催地として外せない場所なのだろう。

「それに、今なら曹操軍の皆が沢山いるじゃない。初めての土地では苦戦することも多いけど、皆が見に来てくれるなら心強いよ。いざとなったら守ってもくれるだろうし」

「うーん、確かに赤字を出す心配はないし、警備を雇うお金も……」

 思い悩んだ表情で、人和がこちらを窺う。

「お前達の信奉者が増えれば、それだけ馬超に味方する者が減る。公演をするというのなら、協力しよう。公孫賛と張燕、それで構わないな」

 実際に長安を守護することになる二人に問うと、公孫賛は力強く、張燕は曖昧な表情で頷いた。

「やった。じゃあ決まりだねっ」

「はぁ、仕方ないわね」

 天和がぽんと手を打って話をまとめ、人和が頭を振って承諾した。

「公孫賛さん、それに駿くん、よろしくね~」

 天和が二人に―――主に張燕に向けて微笑みかけた。張燕は仕方がないという顔で肩をすくめた。
 初めて耳にしたが、駿と言うのは響きからして真名であろう。曹操軍では誰も張燕をその名で呼ぶ者はいない。憎まれ口を叩き合いながらも良く連れ合っている曹仁からも、飛燕と渾名で呼ばれていたはずだ。

「なんだ、張燕は張角達と親しいのか?」

 公孫賛が問う。

「別に親しくはないな。ただのなりゆきと言うやつだ」

「昔、お兄さんと一緒に会いに来てくれたんだよねっ。あの頃は他にも沢山の人達を紹介されたけど、駿くんが一番格好良かったからはっきり覚えてる」

「お兄さんと一緒に?」

「……黄巾の乱の時の話です。駿さんのいた黒山賊と私達の信奉者が集まった黄巾党は、同盟を結びました。会盟の際に、その証として駿さんとお兄さんから真名を預けてもらったんです」

 口の重い張燕と、要領を得ない天和に代わって人和が答えた。
 黄巾党が盛んだった頃には、多くの賊徒が同盟と言う形でその傘下に加わった。その中でも有名なのが車騎将軍の楊奉が率いた白波賊と、張燕の義兄張牛角が頭をしていた黒山賊である。

「な、なるほどな」

 “お兄さん”が誰を指しているかに気付いて、公孫賛が口籠る。張牛角が曹仁に討ち取られていることは、曹操軍の将兵であれば誰もが知っていることだ。

「夏侯淵将軍、出陣の準備を始めなくて良いのか?」

「―――ああ」

 張燕に促され、秋蘭は軍議を散会した。
 急ぎ手配を進め、翌朝早々に出立となった。長安の城門まで公孫賛と張燕が見送りに現れる。
 民は遠巻きにしている。西涼独立の旗を掲げた長安を、つい半年ほど前に陥落させたばかりなのだ。ほとんどの住民にとって、曹操軍はいまだ敵のままであろう。

「張燕先生ーっ」

 そんな敵意の視線の中にあって、黄色い声がいくつか上がった。
 張燕は小さく笑みを浮かべると、軽く手を振った。いつもの冷笑ではない。

―――こういう顔もするのか。

 元々、整った顔立ちをした男だ。曹仁も可愛らしい顔付きをしているが、張燕のそれは綺麗とでもいうべきか。しかし皮肉屋気取りの言動と相まって、切れ長の目は常に冷たい印象だった。

「教え子か?」

 公孫賛の問いに、張燕は無言で頷き返す。口元にはまだ、暖かな笑みをたたえている。
 学者達が大勢集まっていた荊州とは違い、西涼では学校の講師の確保に難儀していた。公孫賛からその話を聞くと、張燕は軍務の合間を見つけては率先して教壇に立つようになっていた。子供の相手など得意には見えないが、意外にも評判がいい。

「許では女子生徒の人気を仁と二分していると聞いていたが、本当らしいな」

「……軍務に支障を来たしてはいないはずだが」

 秋蘭の言葉を皮肉と取ったようで、張燕は冷ややかに返してきた。ずっとそんなやり取りを繰り返してきたのだから、無理もない。
 公孫賛が居心地悪そうに秋蘭と張燕の顔を見比べる。

「何も悪いとは言っていないさ。こういったことから、西涼の民が我々を受け入れるようになっていくかもしれない。頼みにしているぞ、張燕」

 言い置き、背を向けた。目の端で捉えた張燕は、意外そうに目を丸くしていた。これも、今まで見たことの無い表情だ。

「―――それでは使者殿、参ろうか」

「はいっ」

 使者の大男を促し、出陣した。
 視線の先には秦嶺山脈の稜線がすでにはっきり窺えるが、麓までは六十里(30キロ)ほども離れている。それだけ高山の連なりなのだ。
 その日は麓に着いたところで少し早めの野営とし、翌日より桟道に挑んだ。旗下の三万五千を五千ずつ七隊に分けて進む。
 蜀の桟道をこれほどの大軍が通過するのは、楚漢戦争の折の高祖劉邦以来だろう。行軍計画は綿密に練り上げているが、細かい修正はどうしても必要となる。秋蘭は使者の大男を伴って自ら第一隊に加わった。

―――仇の一族に仕えるというのは、どういう気持ちなのだろうな。

 険しい桟道を進みながら、頭に思い浮かぶのはあの男のことだった。
 別に珍しいことではない。月と詠も、反董卓連合の戦で家族同然の幼馴染を失っているのだから、曹操軍は仇敵の一部である。乱世においては、ありふれたことだった。ただ、どこか自分に似たところのある張燕だけに、その胸の内が気になった。
 華琳を、春蘭を、曹仁を、幸蘭を、蘭々を、どこかの誰かに奪われたのなら、復讐を遂げずにはいられない。仇を討ち果たすその時まで他のことなど考えられないし、まして仇の片割れに仕えるなど思いもよらない。
 曹仁に復讐の念を打ち砕かれ、華琳の志に共感した。張燕の帰順の理由を、秋蘭はそのように解していた。学校での教育―――華琳の掲げた改革の柱の一つ―――に、人一倍熱心なのもそれを裏付けている。
 秋蘭や春蘭は、華琳の志に惹かれたわけではなかった。惚れ込んだのは華琳という人間の器量、才覚である。華琳が思い描く未来がどんなものであっても、その実現に尽力していただろう。
 だとすれば、張燕は自分などよりもずっと深く華琳の志を理解し、ずっと強くその実現を望んでいるということにならないだろうか。

―――次に会った時にでも、少し話を聞いてみるか。

 秋蘭がそう結論を出したのは、桟道を辿ること七百余里、十日目にして遂に漢中へと足を踏み入れた時だった。



[7800] 第11章 第5話 急報
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/04/28 17:43
 長安郊外は喧騒に包まれていた。一瞬何事かと戸惑うも、曹仁はすぐにそれが聞き慣れた歓声であることに気付いた。

「ああっ、曹仁っ! やっと来たわねっ。遅かったじゃない!」

 下馬し、白鵠を引いて喧騒の中心へ近寄ると、舞台上から地和が叫ぶ。妖術で作ったという拡声器―――見た目は曹仁の世界の手持ちマイクとそっくりだ―――を通した声は、辺り一面に響き渡る。
 集まっていた張三姉妹の信奉者達が、さっと直立した。頭に黄色の頭巾を被り、往時の黄巾賊を思わせるが、いずれも曹操軍の兵のようだ。

「もうっ、ちーちゃん、通し稽古中だよっ」

 地和を注意しながらも、天和は曹仁へ向けてにっこり微笑み、小さく手を振って来た。思わせぶりな態度は職業柄だろう。

「曹仁さん、袖に回って下さいっ。駿さんもいらっしゃっていますから」

 人和に促され、曹仁は会場を大きく迂回して舞台の横手に回った。
 真桜の工兵隊がいないため、野天に高台を設えただけの簡単な設備であるが、衝立で一応の舞台袖が作られていた。飛燕が数人の兵を伴い、退屈そうに床几に座っている。

「状況は聞いているか?」

 手を上げて軽く挨拶をし合うと、飛燕が聞いてきた。

「ああ。途中立ち寄った洛陽でな」

 劉備軍が漢中へ侵攻し、秋蘭が援軍に向かった。洛陽で月の口からそう聞かされていた。

「兵はどうした?」

 曹仁は陳矯一人を伴うのみだった。

「騎馬隊はあと二、三刻で到着する。歩兵は角の指揮で、そうだな、五日後になるだろう」

 歩兵とは洛陽で別れ、今日未明に自ら先触れを買って出、騎馬隊からも先行して来た。

「そうか。兵営と牧の手配はすでに済ませてある」

 飛燕が兵を一人、城内へ報せに走らせる。これで先触れとしての曹仁の役割は終わりだった。
 畳んで積まれている床几を二つ取って並べた。一つは自分で腰掛け、一つは陳矯に座るように促す。恐縮しながらも陳矯は腰を降ろした。

「これは、何をやっているんだ?」

 張三姉妹の歌う舞台上を指し問う。

「お前が合流したら、公演を開く予定になっている。その予行練習だそうだ」

「それで地和の奴が文句を付けてきたのか。別に、俺を待つ必要なんてないんだがな」

「正確には待っていたのはお前ではなく、お前のところの兵だ。初の長安公演は、大入り満員といきたいんだと」

「そういうことか。いま集まっているのは、お前のところの兵か?」

「ああ。………俺の部下に、あんなに会員がいるとは知らなかったが」

 飛燕がため息交じりにこぼす。
 黄色の頭巾は、張三姉妹の公式愛好会入会者の証である。おおよそ三千人ほどは集まっているから、一万五千の黒山賊兵の十人に二人が会員ということだ。当然未入会の信奉者の数は、それ以上だろう。
 愛好会―――曹仁の世界で言うファンクラブ―――の発想を張三姉妹に与えたのは、言うまでもなく曹仁である。それまでは公演の入場料と、その都度販売する関連商品の売り上げだけが張三姉妹の稼ぎであったが、会費によって固定収入が生れた。さらに会員へは幸蘭の飛脚網を通じて会報を届け、その紙面上で限定商品の販売―――いわゆる通信販売―――を行うことでかなりの収益を上げているらしい。
 黄巾の乱での行きがかりから張三姉妹には恨みを買っていた曹仁であるが、愛好会の着想でもって手打ちとなった。どころか名誉会員二号などという有り難くもない肩書きを与えられ、戦略会議に呼び出されることもしばしばだった。無視してしまえば良い話なのだが、幸蘭も関わっているだけにそうもいかない。通信販売の事業は商品開発も含め幸蘭が一手に担っており、曹家の財政―――この場合、曹操軍の軍資金のことではなく幸蘭、曹仁、蘭々の実家の懐具合―――を相当に潤していた。
 また、会員だけの特典として、これまでは無給で行っていた予行練習を特別優待と銘打ちつつ有料で公開しているとも聞いていた。いま舞台上で行われているのが、まさしくそれであろう。

「で、お前はこんなところで何を?」

「公演当日は会場周辺の警備を頼まれている。その下見だ。夏侯淵将軍から、協力するように言われてしまったからな」

「なるほど。それでそんなに詰まらなそうな顔をしているわけか」

「ほっとけ」

「―――――!! ―――――――!!!」

 いっそう激しい喚声が沸き起こった。公演も幕引きらしい。声に見送られ、張三姉妹が舞台袖に姿を現す。

「お疲れさまー。ふぅっ、今日のお客さん、乗りが良かったねー」

「そりゃそうでしょ。皆、会員の人達なんだからっ」

「あ、それもそっか」

 三人とも頬を上気させ、額には汗を浮かべているが、興奮冷めやらない様子で天和と地和がぺちゃくちゃとお喋りをはじめる。

「曹仁さん、兵はいつ長安に?」

 人和が小走りで駆け寄って来て問う。

「騎兵は今日中だが、歩兵は五日後になる」

「そっか。それじゃあ、入場券の販売期間を一日、いや、二日とって―――」

 人和はぶつぶつと独り言を漏らしながら、算段を始めた。
 人和は曹仁よりも二つ三つ年下だろうか。姉二人と同じように舞台へ立ちながら、三姉妹の経理を一手に担っているのだから大したものだった。

「三人ともお疲れ。仁も、よく来たな」

 そんな声を掛けながら、舞台袖にもう一人現れた。
 黄色の頭巾を巻き、三姉妹の似顔絵入りの団扇を手にしている。一瞬闖入者を疑ったが、よく見れば白蓮だった。

「……白蓮さん、入会したのか?」

 白蓮の手にする団扇は公演での人気商品で、会員は一度に五枚十枚と買っていくらしい。判子を使って大量生産が可能で、薄利多売ながら最大の収益を誇っていた。商品開発はやはり曹仁の発案に基づいている。

「いやいや、まさか。警備の参考に、客席からはどう見えるか確認していただけだよ」

 言われて気付いたのか、白蓮が黄巾を外しながら言った。

「その割に、ずいぶんと楽しんできたようだが」

 飛燕が言った。白蓮は張三姉妹に負けず劣らず、頬を上気させ汗に濡れていた。

「これは、ほらっ、ぼけっと突っ立って周りの連中を盛り下げてしまったら悪いだろう。……いや、まあ、公演自体は楽しかったけどさ」

「別に、そのまま入会してくれてもいいんですよ、公孫賛将軍」

 耳聡く人和が聞きつけ、白蓮に迫る。

「私達のお客さんはどうしても男性に偏りがちだから、もっと女性客を取り込んでいきたいと思っていたんです。公孫賛将軍みたいに名の知れた普通の女の人が会員に加わってくれると、後押しになります」

「そっかぁ、私は“普通”かぁ。確かに舞台上の三人はきらきらしてたもんなぁ」

「いや、普通のというのはそういうことではなくてっ。その、華琳様にも名誉会員になって頂いたけど、ほらっ、あの方は」

「女好きの女ではなく、普通の性癖の女性ってことだな」

 曹仁の手前言い難そうにしている人和に代わって、言ってやった。
 華琳は張三姉妹の愛好会名誉会員一号だった。三号が幸蘭である。
 そんなやり取りをしている間に客がはけ、代わりに騎馬隊の姿が遠望されるようになった。
 長安の城門前に移動し、騎馬隊を待ち受ける。白蓮と飛燕だけでなく、張三姉妹まで付いて来た。さっそく兵を相手に公演を告知したいらしい。

「仁の軍が騎兵一万に歩兵が二万。長安に今いるのは騎兵が三万騎に、張燕の一万五千」

 白蓮が指を折って数えながら言った。

「ああ、それに蹋頓殿が来てくれるはずだ。柳城からだから、一月ほど掛かるだろうが」

 前回の西涼遠征を終えた後、蹋頓は兵を率いて烏桓の本拠柳城へ帰陣している。今回、おおよそ半年ぶりに援軍を要請していた。

「烏桓兵は二万騎だったな。合せて騎兵が六万に、歩兵が三万五千。これで馬超を迎え撃つことになるのか」

 西涼に姿を現すであろう馬超の迎撃。それが荊州都督である曹仁がこの地に来た理由である。
 錦馬超の西涼進出。華琳と秋蘭の予見が一致していた。華琳は馬超が桃香に降ったと聞いた時点でその対策として曹仁を送り込み、秋蘭は劉備軍が漢中へ侵攻したと知ると長安防衛に飛燕を残した。
 軍略をかじる者であれば、突き詰めれば誰もが思い至る予想ではある。しかし襄陽と長安、遠く離れた土地で華琳に遅れない速さで考え、実行に移す判断力まで有するのは秋蘭だけだろう。加えて、他の者であれば独断専行の誹りを受けかねない進軍も、曹家一門の重鎮である秋蘭の命であれば兵も他の将も疑念を抱かず従う。華琳にとって秋蘭は、曹仁が嫉妬を覚えるほどに得難い存在だろう。

「こちらはそれで十分。むしろ秋姉の方が心配だ。三万五千で劉備軍とやり合えるのか?」

「よほどの“へま”でもやらかさない限り問題ないだろう」

 飛燕が言った。いつものことと言ってしまえばそれまでだが、妙に口調が刺々しい。

「漢中全体で五斗米道の信徒の兵が五万、南鄭だけでも三万はいるって話だ。弱兵だが、信徒の兵だけに教主の籠もる教団の本拠を守るためなら奮戦するだろう」

「……それなら心配ないか」

 少し考えて、曹仁は首肯した。
 現状劉備軍が有する兵力は生え抜きの五千に、荊州から付き従った兵が一万数千、それに益州で新たに加えた兵が四、五万といったところだ。
 劉備軍生え抜きの五千、これは天下に並ぶものの無い精兵と言える。四千の歩兵は体格に恵まれた勇士の集団でもないし、一千の騎馬隊も白騎兵のように良馬が揃っているわけでもない。個人の強さではなく、隊としての練度が傑出した域にあるのだ。戦乱の始まりから桃香達と共にあり、少しずつ少しずつ増やし、育てに育てた集団である。それも当然だった。
 桃香に従った荊州兵は、武を軽視した荊州軍の中にあっては精鋭と言える隊である。それでも秋蘭の従える曹操軍よりは練度に劣るだろう。
 益州兵の強さは、白蓮が弱兵と断じた五斗米道の兵と同等と考えて良い。益州軍が五斗米道軍に勝てないが故に、劉備軍は援軍として益州に招かれたのだ。
 総じてみれば、劉備軍が全兵力を動員してなお、兵数でも練度でも優勢だった。たとえ敵地であっても民が集い義勇兵を形成するのが桃香の怖さだが、五斗米道の信仰に染まった漢中ではそれも起こり得ない。それでも怖いのはやはり劉備軍生え抜きの五千の存在だが、さすがに三万五千の曹操軍を正面から撃ち破る力はない。将自ら危地に飛び込む様な真似―――飛燕言うところのへま―――でもしない限り、負けはない。

「そうだ。聞いてくれよ、仁。お前の姉と張燕がほんっと気が合わなくてさ。間に挟まれて苦労させられたよ」

 白蓮が言った。

「……俺の姉って、秋姉のことか?」

「ああ」

 自明のことを、思わず聞き返す。秋蘭が人間関係で揉め事を起こすというのは、それだけ想像がつかなかった。

「あっ、やっぱり仲悪かったんだ。なんだかおかしな雰囲気あると思ったんだ」

「そうそう、駿はいつものことだけど、秋蘭様まで何だか刺々しちゃって」

 天和と地和も追随する。残る人和に視線を向けると、躊躇いがちに首肯した。

「へえ、秋姉にしては珍しいな。何かよっぽど気に障ることでも言ったか、飛燕?」

「知らん。夏侯淵将軍が何を不快に思うかなど、俺に分かるはずもないだろう」

 飛燕が鼻を鳴らす。どうやら不仲と言うのは本当らしい。

「まったく、お前、俺以外とも少しは仲良くしろよなー」

「お前と誰の仲が良いって?」

 飛燕の肩を叩こうとすると、先手を取られてぐいと押し退けられた。白蓮や張三姉妹が反応に困ったという顔で口を噤む。

「皆様、お気になさらず。お二人はいつもこうですから」

 慣れたもので、陳矯が平然とした顔で他の者へ助言を口にした。
 そうして話している間に、騎馬隊が眼前まで至った。城門前に一万騎を整然と居並べると、先頭で率いてきた将と、それに付き従う形でもう一騎が近付いてくる。

「―――俺の兵を、なんの違和感もなく率いてくれるな」

「わざわざ自ら先触れに来たのは、あの男を量るためか」

「一日行軍を任せただけで、何が分かるというわけでもないけどな」

 囁き合う飛燕と曹仁を横目に、白蓮が馬上の将に言葉を投げる。

「仁の騎馬隊を率いてきたのはお前か、龐徳」

「御無沙汰しております、公孫賛殿」

 龐徳が、下馬し直立した。
 西涼の地勢にこれほど詳しい男もいない。曹仁は華琳に乞うて、副官の一人に加えていた。

「また兵を糾合して内応するつもりじゃないだろうな?」

 白蓮の懸念も無理はない。
 前回白蓮が長安に赴任した際には、曹操軍の兵一万騎を従え、そこに募兵に応じた西涼兵を加えた。その西涼兵が龐徳の指揮の元、馬騰に内応することで呆気なく長安を奪われたのだった。
 加えて現在、雍州牧旗下として長安に常駐する騎兵三万騎は、全てが西涼で新たに募った兵―――つまりは西涼兵である。今回の赴任では、白蓮は子飼いの白馬義従以外の兵を一切伴わなかった。
 関中十部と呼ばれた軍閥の内、八つまでがその頭を先の戦で失っている。生き長らえた楊秋と侯選は曹操軍に帰順し、馬騰の後継である馬超も西涼を去った。軍閥は完全に崩壊し、それによって行き場を失った兵に働き所を与えたのだ。
 白蓮と華琳で話し合った結果、力による抑え込みは西涼では叛意を煽るだけと結論付けたらしい。それで本当にほとんど身一つで乗り込んでしまうというのは、器量の大きさもさることながら、普通と言うには少々自虐が過ぎる白蓮の性格によるものだろう。

「ご心配には及びません。錦馬超を慕う者にとっては、私は西涼の裏切り者。敵意を向ける兵はいても、従う兵などおりません」

「だと良いけど」

 白蓮はなおも懐疑の眼差しだ。
 曹仁は龐徳の頭越しに、その後方に従う者と視線を交わした。詠である。やはり西涼に通じる人物として幕僚に加えていた。
 詠が小さく頷き返す。皇甫嵩門下―――というものが存在するなら―――の姉弟子である詠に、曹仁は龐徳の力量の見極めを頼んでいた。

「―――みんなー、私達っ、長安公演を行いまーす!」

 やり取りを余所に、張三姉妹が兵に向けて告知を始めた。





「よくぞ駆け付けて下さいました。御礼申し上げます」

「そちらも、良い所で討って出てくれた」

 南鄭を包囲した四万の劉備軍は、背後から曹操軍に襲われ、五斗米道軍も城門を開け放ち攻めに転ずると、わずか一刻余りで敗走を始めた。
 張衛は、兵に追撃の指示を飛ばしている曹操軍の将へ拝礼し、感謝を口にした。
 自分は五斗米道の教祖張魯の弟である。帰順の意志があるとは言え、並みの将が相手であれば軽々しく頭は下げない。
 薄い青紫の布に夏侯と大書した軍旗が掲げられていた。長安に駐屯する軍の主将、夏侯淵で間違いない。曹操の族姉である。

「張衛様、ご無事で安心しただ。張魯様もご無事ですか?」

「ああ、大事無い」

 夏侯淵の横から、使者に送った大男が顔を出した。西涼に援軍へ赴いた際に副官に抜擢した男で、少々間の抜けたところはあるが人物は信頼出来る。

「ほう、張魯殿の弟君自らの出陣であったか。通りで兵が奮戦するわけだ。私は夏侯淵という」

 将は予想通りの名を口にした。

「姉上にお会い頂けますか?」

「ああ、こちらからお頼みしよう」

「では、どうぞこちらへ」

 南鄭城内へと誘う。夏侯淵はその場の指揮を他の者に委ねると、身軽に一人で後に続いた。大男も、慌てて追ってきた。
 城内へはいると、信徒達が道の端に寄って拝礼する。

「皆、安心せよ。曹操軍の御助力により、神敵はこの地より去ったぞ」

 道すがら伝え歩くと、人々は一様に安堵の吐息を漏らした。
 沿道へ出ている者達は、老若男女問わず農具やら包丁、木の棒に石などを手にしている。いざ敵兵が侵入した場合には、その身を楯に張魯を守ろうという覚悟の表れだった。

「思ったよりも賑わっているのだな。それに皆、気骨がある」

 ずらりとひしめく人々を見ながら、夏侯淵が言った。

「城内にはどれほどの民が?」

「十四、五万といったところでしょうか。そのうちの三万が兵です」

「ほう。それはなかなかのものだ」

 周辺の村々からも信徒達が逃げ落ちて来ているため、城内には常になく人が多い。それで多少なり、曹操軍の将兵の目に栄えて見えるなら有り難かった。

「曹操軍の夏侯淵将軍をお連れした。御面会頂く、教主様にお伝えして参れ。」

 屋敷の門前には、選りすぐった二百の精兵が詰めている。先触れに一人を走らせ、その後にゆっくりと続いた。
 大部屋―――神事を執り行う斎場であり、信徒と面会する謁見の間としても用いる―――に入ると、姉は自分の顔を見るなりにこりと微笑んだ。

「良かった。なかなか帰ってこないから心配しました、衛」

「―――んんっ。姉上、曹操軍の夏侯淵将軍です」

 姉の笑顔に思わず張衛も気が緩みかけるが、咳払いを一つして五斗米道教主の仮面を被るように促す。
 こちらへ駆け寄ろうと浮かせ掛けた腰を、姉は再び椅子に落ち着けた。

「征西将軍夏侯淵、張魯殿に拝謁いたします」

「はじめまして、夏侯淵将軍」

 立ったまま―――跪かず―――拱手する夏侯淵に対し、姉は着座のまま深々と頭を下げた。
 姉のことだから深い考えがあっての返礼ではないだろうが、尊大でもなければ、卑屈過ぎもせず、ちょうど良い塩梅だ。

「我らに、曹操軍に帰順して頂くということで、良いのですね?」

 夏侯淵の射るような鋭い視線が、姉に注がれた。姉は怯まず笑顔で返す。

「はい。弟と色々話し合って、そうすることに決めました」

 劉備と曹操を、秤に掛けた。
 帰順を迫ってきた曹操と違い、劉備が求めたのは同盟だった。劉備と組めば、漢中はこれまで通り五斗米道のものである。しかし曹操が劉備討伐の軍を起こせば、その都度巴蜀の楯となって戦うこととなる。やがては疲弊し、曹操軍に飲み込まれるだけだった。
 ならば一層の事、こちらから劉備軍に帰順を申し入れてしまう道も考えた。劉備が説く理想は、根っこの部分で五斗米道の教義にも通じるように思えた。漢中の民―――信徒達は、劉備の政に大きな抵抗を示さないだろう。それだけに、五斗米道の教えが埋没していきかねなかった。
 一方で、曹操の厳格な政と五斗米道は如何にも馴染まない。漢中は劉備軍との戦の最前線となるからと、信徒共々に中原への移住まで求められた。しかし信仰の自由は認めるという言質を与えられ、黄巾党の張三姉妹という実例までわざわざ派遣されてきた。自前で賄えるならばと、移住先で義舎―――無料の食堂兼宿泊施設―――を建てることも認められた。それが利を生み出すなら相応の税は徴収するというが、五斗米道の義舎は寄進されたものを生活が苦しい者にそのまま再分配するための施設だ。すべてが信徒の好意により成り立っていて、利を生む仕組みはなかった。張三姉妹は、催事の収益から一定の額を収めているという。三姉妹の末娘が、張衛に帳簿を示し詳細を語ってくれた。
 協議の末、劉備の仁政よりも曹操の苛政の中にこそ五斗米道の生きる道はあると、姉弟は結論付けた。

「条件は、事前の取り決め通りということでよろしいか?」

 張衛は姉の前に立ち、夏侯淵の視線を遮りつつ問う。
 懸念があるとすれば、正式に約定が交わされる前に援軍を求めてしまったことだ。こちらに不利となる条件を、付け加えられないとも限らない。如何にも鋭そうな夏侯淵の舌鋒から、姉だけは必ず守り通す。

「ふふっ」

 夏侯淵が小さく笑う。

「な、何かっ?」

「いや、良い姉弟だと思ってな。ふふっ、すまない。私にも弟がいるので、つい思い出した」

「へえ、夏侯淵さんにも弟がいらっしゃるんですか? 弟は、可愛いですよねー?」

 姉が気の抜ける反応を返す。
 夏侯淵の弟―――弟分と言えば、誰を指すかは考えるまでもない。可愛いなどとんでもない。天下無双とも称される曹子孝である。西涼の戦での鬼神が如き働き振りは、張衛の目に今もこびり付いていた。あの馬超を激戦の末に打ち倒し、関中十部の長二名をあっさりと討ち取ったのだ。
 張衛は夏侯淵がここで曹子孝の話題を持ち出した理由を素早く考えた。その勇名を背景とした単純な脅しか。あるいは五斗米道が西涼軍に加担したことに言及し責めるつもりか。いずれにせよ、悪い想像しか浮かんではこない。

「―――ふふっ、そうですね。可愛いものです」

 張衛の予想に反して、夏侯淵までが気の抜けた返答をする。突き刺さるようだった視線も柔らかい。

「ああ、すまない。条件のことだったな。―――無論、事前の取り決め通りで構わない」

 毒気を抜かれ固まる張衛に、夏侯淵が言った。

「よ、よろしいのですか?」

 思わず問い返し、己が失態に気付いて顔をしかめた。黙って肯いておくべきところだ。

「……なるほど。何やら警戒していると思えば、そういうことか」

 夏侯淵が得心した表情で小さく頷いた。さすがは乱世の覇者曹操に大権を委ねられているだけあって、察しが良かった。

「我らに帰順するというのなら、漢中の民もお前達姉弟も、等しく曹孟徳の民だ。そして我が主は、政に例外を設けない。お前達にだけ制約を課すような真似はしないさ」

 夏侯淵の言葉に、張衛はほっと安堵の吐息を漏らす。

「そうだ、一つだけ。―――そこの使者殿を、もう少しお借りしてもよろしいか」

 夏侯淵が、くいっと背後を指差した。謁見の間の入り口付近で、大男が所在無さ気に立っている。

「そんなところにいないで、入ってこい」

「し、失礼しますだ」

 張衛は手振りも交え、大男を側近くへ招き寄せる。

「この男を借りるというのは?」

「陽平関の守備隊長であったのだろう? 道案内と、それに城攻めにも協力してもらう。あとは褒中と沔陽の城を知る者がいれば、同じくお借りしたい」

 褒中と沔陽は南鄭と陽平関の間にある県であり、城である。当然、今は劉備軍の手に落ちていた。

「そ、そうか。すぐに手配を。それに私も、後詰として続きましょう」

 言われて、張衛はまだ戦が終わったわけではないことに思い至った。劉備軍の手から陽平関を取り戻さない限り、漢中は依然戦場のままだった。

「ふむ。籠城で兵も張衛殿もお疲れでしょう。まずは身体を休め、ゆるりと参られよ」

「そういうわけには。いくら帰順するとはいえ、漢中は我らの土地。我らの手で取り返し、その上で曹孟徳様にお譲りします。出立はいつです?」

「―――無論、直ちに。敗走する敵兵を追いに追い、余勢を駆ってそのまま関を攻め取る」

 夏侯淵が平然と言った。
 五斗米道の将兵が籠城戦で疲弊している様に、曹操軍もまた桟道を七百里余りも越える行軍の疲れを残している。医人でもある張衛の目から見て、肉体的な疲労で言えば五斗米道軍よりも上だった。しかし勝機と見れば、休息など二の次となる。これが戦を専らにする軍というものなのだろう。自分や五斗米道の兵が真似出来るものではない。
 浮かぬ顔の大男を贄に、張衛は夏侯淵の言葉に甘えることとした。





 張三姉妹の長安公演は当初の想定を大きく上回る参加希望者が集まり、急遽二日間に分け開催され、大盛況のうちに幕を閉じた。
 曹操軍の兵士からの人気は当然として、予想以上に長安の民の受けが良かった。今もこうして夜の大通りを歩いていると、張三姉妹の歌を口ずさむ酔漢の声がそこかしこから聞こえてくる。

「どうかしたのか?」

 足を止めて耳を澄ます張燕に、先を行く曹仁が振り返る。
 長安へ来て以来、頻繁に酒に誘われていた。好い仲である主君と遠く離れ、副官で友人の牛金は軍師として同行した司馬懿に独占されている。暇なのだろう。

「いや、長安の民にずいぶんと気に入られたものだと思ってな」

「ん? ―――ああ、張三姉妹の歌か」

「中原からやって来た歌姫など、嫌われそうなものだが」

「ふむ。案外、叛徒との相性は良いのではないか?」

「……確かにな」

 曹仁の言わんとするところを察して、張燕は首肯した。
 政への不満や憤りが張三姉妹への狂信と結び付き、暴走の果てに黄巾の乱は起こった。と言って、張三姉妹の歌に政を腐す文言など欠片も含まれてはいなのだ。問題は歌ではなく、民の心に起因すると考えられそうだ。
 行き場の無い思いが、向かう先を求める。そこに、偶さか張三姉妹という強烈な求心力を持つ存在が合致した。そう考えれば、張三姉妹の信徒や高潔で知られる劉備軍の兵士、それに張燕自身ですらも本質は変わらないのかもしない。己で志を立てられるほどに、確固たる思いはない。それでも何かを求め、張三姉妹への熱狂に身を任せる者もいれば、一部のより高潔な者は劉備軍の理想に感じ入り、自分のように理屈をこねたがる人間は曹孟徳の語る未来に共感する。

「―――また何か難しい事でも考えているな?」

 曹仁が、張燕の顔を覗き込んで言った。

「難しく考えるからこそ、俺はここにいる。というような事をな」

 言いながら、ぐいと曹仁を押しやる。

「目を付けた飲み屋があるのだろう。ほら、さっさと案内しろ。こんなところで立ち止まっているなら、俺は帰るぞ」

「先に足を止めたのはお前だろうが」

 ぼやきながらも、曹仁は再び先導を始めた。
 曹仁の奢りでしこたま飲んだ翌日、諜報部隊の兵が二人、長安へ駆け込んできた。
 軍議の間へ通された二人はしばし視線を交錯させた後、一方が報告を始める。
 夏侯淵が、窮地に立たされていた。
 南鄭で劉備軍を敗走させた夏侯淵は、褒中、沔陽と続けざまに城を奪い、漢中西端の陽平関から劉備軍を追い落した。大勝を収め、二つの城と関にそれぞれ一万の兵を残し、五千の兵とともに自身は南鄭へと引き返す途中、奇襲にあっていた。極めて軽装かつ獣のような身のこなしの兵が、巴山山脈の道無き密林地帯を越えて襲ってきたという。一度は潰走した夏侯淵隊が、高所―――沔陽の定軍山に拠って体勢を整える間に、後背を突かれて陽平関が再び破られた。雪崩れ込んだ劉備軍は、三万を定軍山麓に据えて夏侯淵の動きを封じ、六万の兵力で沔陽、褒中を順に包囲陥落させた。陽平関、沔陽、褒中合わせ、二万を超える兵が虜囚としてとらえられたという。

「待て待て、それじゃあ劉備軍は、一体どれだけの兵を動かしているんだ?」

 公孫賛が頭を振って兵に問う。

「総勢九万。夏侯淵将軍は、おそらく南中を討ち、兵力を併せたのだろうと」

 巴山を越えて奇襲を仕掛けてきた軍勢というのがそれだろう。
 南中には南蛮と呼ばれる剽悍な異民族が住まうことは知られている。烏桓兵が岩山を騎乗のまま駆けるように、南蛮族も住み慣れた密林を当たり前に移動しただけなのだろう。
 劉備軍の取った作戦は、夏侯淵の三万五千を分断し各個撃破するという、兵法の基本に則ったものだ。しかしそのために城まで明け渡してしまう大胆さに、密林を走破する南蛮兵の特異性、さらにこちらの予想を超えて拡大した兵力。三つが合わさって、見事な奇策と化していた。
 これを夏侯淵の“へま”とは言えまい。練りに練った作戦で、劉備軍は曹操軍に勝ちにきている。

「しかし、そんなになるまで、何だって報告に来なかった?」

 張燕はため息交じりに問う。
 つまり現状は、九万の軍勢にわずか五千で取り囲まれているということだ。高所の利などで、いつまでも凌ぎきれるものではない。

「夏侯淵将軍に、止められておりました。事ここに至っては、漢中を得るのは難しい。なれば余計な兵は割かず、長安の防備を万全にすることこそ肝要だと。私も、無断で抜け出して参りました」

 確かに、今さら多少の援軍を差し向けたところで、漢中の戦線が覆りはしないだろう。兵力を割いた結果、長安の守りを破られることになれば、夏侯淵の予見通り劉備軍は益州に雍涼二州を加えた大勢力へと躍り上がる。そしてこれまでの経緯からして、劉備軍は孫策軍と反曹という形で強固に結びつくだろう。そうなれば、後は仕上げを残すばかりであった中華統一は、一気に難しい局面を迎えることとなる。
 しかしだからと言って、曹操軍が夏侯淵を見捨てるなどあってはならない。劉備軍にとっての関羽張飛に等しい、旗上げ以来の宿将である。曹仁や夏侯惇のような派手さに欠けるが、武官筆頭の姉に代わって、その堅実な手腕で実質的に曹操軍をまとめ上げてきた。将を一人、失うなどというものではないのだ。戦局が複雑化するならなお一層、夏侯淵の存在は曹操軍にとって欠かすべからざるものだった。

「ちっ、自分の首を軽く考え過ぎだ」

 張燕がこぼすと、それに反応した様にがたっと物音がした。床几の倒れる音だ。

「―――すぐに俺が行く」

「いえ、騎兵では―――」

 勢い込んで立ち上がった曹仁を、諜報の兵が制止する。

「―――なんだっ? 桟道は騎馬での通行も可能と聞いているぞっ」

 曹仁が声を荒げた。
 珍しいことだった。調練中に兵を注意する時でも、叱りつけるのではなく諄々と諭すのが曹仁のやり方だ。

「落ち着け、曹仁。何のために、俺や夏侯淵将軍が長安に置かれたと思うのだ。―――桟道が塞がっているのか?」

 兵はこくりと小さく頷いた。

「劉備軍が押さえる褒斜道、陳倉道は柵が設けられ、守りが固められております。五斗米道軍と我らが押さえる子午道、儻駱道ですが、―――夏侯淵将軍の指示で張魯様と張衛様が南鄭を退去され、兵と民を率いてこちらへ向かっておいでです」

「なるほどな。漢中の土地は劉備軍に与えることとなっても、人―――これ以上の兵力を与えることだけは避けようということか。しかし、それで桟道が塞がったとは、夏侯淵将軍はあくまで救援を拒むつもりのようだな」

 改めて諜報の兵を見ると、顔に強い疲労をにじませていた。衣服はところどころほつれ、むき出しの頬や手には無数に擦り傷を作っている。群衆をかき分け、時に山中に踏み入って道無き道を進んで来たのだろう。

「こうなるとまあ、俺が行くしかあるまい」

「なら、徒歩で俺も付いていく」

「……馬を降りた騎馬隊が、山中を俺の兵に遅れず付いて来れるとでも思うのか?」

「兵は伴わん。俺一人だ。足には自信があるぞ」

「おいおい、お前一人付いて来たところで、何の意味が―――」

「―――あのっ」

 諜報の兵が大声で割って入った。

「どうした? まだ何かあるのか?」

 問い返したところで、声を上げた兵が先刻まで報告していた兵とは別の者であることに気付いた。

「そういえば、お前からの報告はまだ聞いていなかったな」

 公孫賛が先を促す。

「はいっ、錦馬超が五丈原に姿を現しました」

 同じく漢中からの報告かと思えば、兵は馬超に備え桟道の出口を見張らせていた者の一人だった。

「くそっ!」

 曹仁が悪態をついて地面を蹴る。
 やはりこれだけ気を高ぶらせるのは珍しい。張燕の記憶の限りでは、母親の仇討のために徐州を血に染めようとした主君を諌めた時と、―――そして復讐に捕らわれた自分を打ち据えた時くらいのものだ。

「決まりだな。お前は馬超の相手だ。それが本来の役目であるし、何より馬超の相手はお前にしか務まらん」

「……秋姉のこと、頼んだぞ」

「まあ、昨日の酒代分くらいは働いてやるさ」

 真剣な顔の曹仁に、張燕は軽い調子で返答した。



[7800] 第11章 第6話 張燕
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/05/18 07:00
 五斗米道の避難者で満ちた子午道、儻駱道は避け、張燕は褒斜道を進んだ。
 馬超が西涼入りに用いたばかりの道で、北は五丈原、南は褒中へと通じる。褒中は夏侯淵が陣を張った定軍山の北東わずか十数里に位置する城邑であり、今は劉備軍の統べるところとなっていた。
 長安から五丈原までは足を速めたが、褒斜道に入ってからは通常の行軍に戻している。日が暮れかかると、すぐに夜営を張った。山道と桟道の繰り返しである。緑豊かな山道にも断崖に設けられた桟道にも星明りはほとんど届かず、夜間の行軍は道を失いかねない。山道で逸れれば再びの合流は難しく、桟道で道を踏み外せば即ち死である。

「今日はここまでだ」

 張燕は、三度目の夜営を命じた。秦嶺山脈に入って三日目の夜が訪れていた。夏だがすでに盛りは過ぎているため、山中の夜ともなればかなり肌寒い。兵は剣や槍を使って地面に穴を掘るとその中で火を使った。そうすれば、明かりが遠くまで漏れることはない。官軍から身を隠す山賊の知恵だった。兵は火を囲み、身を寄せ合って眠りに落ちていく。
 賊徒時代を思い出させる光景だった。それも青州黄巾百万を率いて威勢を誇っていた頃ではなく、義賊の誇りを胸に糊口を凌いでいた頃の情景だ。
 張燕は腕を組み、木の幹に背中を預けた。小揺るぎもしない大樹は、義兄張牛角の背を思わせた。目を閉じ、虫の鳴き声や木々のさざめきに耳を傾ける。

「―――張燕将軍」

 少し眠っていたようだ。目を開くと、闇の中にすっと男の姿が浮かび上がった。
 諜報の兵だ。馬超を捕捉するために五丈原から陳倉に掛けて潜伏させていた者達をかき集め、手足として用いていた。西涼の民を糾合するべく、すでに馬超は錦の馬旗を掲げて堂々と行動している。諜報に探らせる段階は過ぎていた。

「次の桟道に、劉備軍が陣を布いております。山中を御迂回頂けますか?」

「ああ。道案内は任せる。―――定軍山に送った者は、まだ戻らないか?」

「はっ。あと四日お待ちください」

「わかった。明日も早い、お前も休んでおけ」

「はっ」

 三十人余りいる諜報の兵の半数を、漢中へ先行させていた。夏侯淵が討たれれば、漢中へ向かう意味も失う。漢中の詳報が届くまでは、軍を深入りさせるつもりはなかった。夏侯淵討死の報せが入り次第、即座に軍を返す心算だ。
 翌日は、道無き山中を進んだ。

「そこは多少回り道でもこちらを進んだ方が良いな。一人二人ならともかく、大勢が通ると崩れかねん」

「……なるほど」

 漢中周辺に配された諜報は、山越えをすでに何度も経験している者達ばかりで、さすがに手慣れていた。黒山賊の兵でも、これほどに駆けられる者はわずかだ。しかし軍勢を先導した経験などは当然無く、諜報の兵の行く道を張燕は何度か改めた。
 木々をかき分け進むのは、たった一里で平地なら二、三十里も行軍出来るほどに時間も体力も消耗する。十里足らずの桟道を迂回するために、山中を二日も進むこととなった。本来の山道と合流したところで二日目の日が落ち、夜営とした。
 明くる日は、再び山道と桟道の繰り返しだった。どちらも通常の行軍と比べるとずっと険しいが、前日と比べれば苦ではない。軽快に進んだ。桟道に入って六日目。劉備軍には、すでにこちらの存在は気付かれているだろう。劉備軍にも諸葛亮と鳳統が育てた諜報部隊が存在する。規模はともかく個々の能力では、曹洪の諜報にも劣らない。
 六度目の夜営を命じてしばし後に、再び闇の中に諜報の兵が立った。気配で察し片目を薄く開けると、三日前に現れて山中を案内した兵とは別の男だ。

「―――漢中の情報が掴めたか?」

「はっ、はい」

 こちらから声を掛けると、兵は一瞬身体を硬直させた。接近を気取られたのが意外だったらしい。
 漢中へ送った諜報の兵が戻るのは明日という話だったが、かなり無理をさせたようだ。張燕は視線で兵に先を促す。

「夏侯淵将軍、御健在です」

「……そうか。帰り損ねてしまったな」

「は?」

「何でもない、続けろ」

 兵は劉備軍に潜り込ませている者とも連絡を取り、かなり詳細な情報を得ていた。
 かつて五千の生え抜きで固まっていた劉備軍には、間諜の入り込む余地はなかったという。しかし急速に兵力を拡張した今の劉備軍なら話は別だった。初めから間諜として入り込んだ者もいれば、金を掴まされ寝返った者もいるらしい。
 劉備軍は、犠牲を出さず締め上げるという戦をしていた。降伏を勧める使者も、山上に何度となく送られているようだ。

「……なるほど。そういうことか」

 張燕は、一人小さく頷いた。
 劉備としては、何としても夏侯淵を無傷で捕らえ、人質交換といきたいのだろう。交換相手は、言うまでもなく鳳雛こと鳳士元だ。
 とはいえそれも限界で、劉備軍内では総攻めを求める声が高まり出しているという。反曹の志を抱く集団だけに、目の前に曹操の同胞をちらつかされてはいつまでも我慢も利かないのだろう。今頃はすでに総攻めが開始されていてもおかしくはない。

「夏侯淵将軍に文は送れたか?」

「はっ、矢文にして陣内へ射込みました」

「そうか」

 特に内容のある文ではない。援軍に向かっているなどと報せてしまえば、長安に引き返させるため早々に自らの命を散らしかねないのが、今の夏侯淵の心境だろう。
 ただ、曹仁が洛陽で聞いてきた噂を一つ書き記した。どうしても伝えねばならない話ではない。曹操軍に媚を売りたい廷臣達が勝手に騒いでいるというだけの、無責任な噂話の類だ。
 しかし、あるいは夏侯淵の生きる活力となるかもしれない。

「……どうやって定軍山まで近付いた? まさか敵の眼前で、漢水を渡ったわけでもあるまい?」

 夏侯淵が陣を据えた定軍山は、漢中南の境界の大巴山脈と北の境界の秦嶺山脈―――現在張燕らが行軍中の山々―――との中間にそびえる山だ。大巴山脈に属する一峰とされるが、周囲は平地に覆われている。特に褒斜道を抜けた先の北面には大軍が展開出来るだけの平原が広がり、劉備軍の本陣もここへ置かれていた。この平原には漢水の源流が流れ、南北を両断してもいる。北面から定軍山へ近付くには、敵の目を盗み漢水を渡らねばならない。

「はっ。定軍山よりさらに二十里ほど山中を西へ進み、山間にて渡渉しました、」

「やはり西か」

 定軍山より西へ歩を進めれば、大巴山脈と秦嶺山脈はほとんど一体化して広大な山地を形成し始める。潜行するには格好の地形だった。加えて西面は平地が少なく、布陣する劉備軍の兵も多くはない。北面に三万、東面に二万に対して、西と南はそれぞれ一万ずつが配置されるのみだ。

「……案内出来るか?」

「それは、―――兵が通る道ではありません」

 諜報の兵にしては珍しく、男は反駁を口にした。

「知らないのか? 俺たちは黒山賊だ。山中の行軍ならお手の物さ」

「しかし―――」

「くどい。明日早朝より出発する。お前も良く休んでおけ」

 それ以上の反論は許さず、張燕は横になった。
 道程の変更は誰にも告げない。朝までは兵は何も知らずに身体を休めればいい。明日からの行軍は地獄だった。





 日没と共に、敵兵は後退していった。
 追撃で多少なり犠牲を与えたかったが、西面に陣取る敵兵から一斉に矢が降り注ぎ、機を失った。

「さすがは黄漢升」

 とはいえ、これで劉備軍の総攻撃を三日耐え抜いた。山頂に陣を張ってから数えると、すでに一月以上も経過している。
 劉備軍が他の要所の攻略を優先したため、備えの時間は十分にあった。山頂付近に生えていた木々は全て切り取り、柵と逆茂木を五重に設置することが出来た。
 今のところ、五千の兵はほとんど数を減らしていない。柵に面した前線には一千を置くのみで、無理な戦いはさせなかった。柵を一箇所破られた時点で、持ち場を放棄して一つ内の陣へと下がるように命じた。三日間で二度陣を下げ、五重だった柵は残り三段を残すのみとなっている。
 残る四千には柵に取り付く敵兵を狙い撃ちにさせた。手塩にかけた精鋭弓兵である。三千ほども敵を討ち、負傷者も合わせれば一万近くは戦場から退場させていた。
 敵兵の影が十分に遠ざかると、兵を外へ出して地面や柵に突き立った矢を回収させた。目に付くものは劉備軍が退却の際に持ち去っているので、矢の集まりはあまり良くなかった。劉備軍はこちらの矢が尽きる時を待っているようで、ほとんど射返してもこない。西面に陣取る黄忠でさえ、先刻のように味方の後退を支援するための一斉射のみだった。
 三日で、手持ちの矢の半分以上も打ち尽くしていた。残りは兵一人当たり十数本といったところだ。それでどれだけ、劉備軍に犠牲を強いることが出来るか。
 実戦なら矢を外すこともある。演習で自分にそう言い放ったのは張燕だった。その時は思わず反論したが、当然いくら精鋭と言えども外すことはある。
 脳裏に浮かんだ張燕の憎たらしい横顔に促され、秋蘭は胸元から紙片を取り出した。総攻めが開始される数日前に、陣内に射込まれた矢に括り付けられていた張燕からの文だ。

「……魏王か」

 文中の二字に目を落し、改めて口にしてみた。
 本拠許のある予州潁川郡でも、華琳が初めに立った兗州陳留郡でもなく、冀州魏郡に封じるというのは、阿りつつも距離を置きたいという廷臣達の心情の表れだろうか。潁川郡と陳留郡は洛陽のある河南尹とも隣接するまさに中原の中心地である。魏郡も距離だけなら洛陽から程近いが、かつて袁紹が領した河北に属する。洛陽とは河水に隔てられていた。
 そんな勘繰りが浮かんで来るばかりで、魏王という二字に秋蘭の心に沁みる響きは無い。

「……殿下、魏王殿下、華琳殿下。―――華琳様」

 やはり王になろうが華琳様は華琳様だった。親愛なる我が従妹にして曹家一門の領袖、曹操軍の主である。王位に就こうが、―――仮に帝位に就こうが、その事実さえ変わらなければ秋蘭にとって然したる問題ではない。
 朝廷でそういう動きがあるというだけの話だ。しかしあえて文を寄越したということは、張燕には何かしら意味のあることなのだろう。
 主君が王位に登れば、臣下に下されるものも大きくなる。華琳が勢力を立ち上げた直後から臣従し、主だった戦には大抵参陣している張燕であれば、爵位ぐらいは与えられるかもしれない。しかし世を拗ねたあの男が、当たり前の富貴を望むとも思えなかった。

―――一聞きたいことが一つ増えたな。

 とは言え、そんな機会はもう訪れはしない。
 一兵でも多く敵を討ち果たし、劉備軍の力を削ぐ。願わくば、将の首の一つも道連れとしたい。秋蘭の望みは、もはやそれだけだった。

「まあ、あの男のことだ。案外、たんに華琳様の王位就任に立ち会えぬ私を、嘲笑っているだけかもしれぬな」

 秋蘭は軽く言って、詰まらない未練を笑い飛ばした。





 張燕は一万の兵を引き連れ、木々を掻き分けた。
 足の遅い者から五千は桟道に残している。五千には、そのまま桟道を通って漢中へ侵攻するように命じていた。狭隘な桟道を進む兵の全容を劉備軍の斥候が容易く把握し得るとは思えない。五千の囮でどれだけ敵の目を欺けるかだ。
 一万は、良く駆ける者から順に並ばせている。道無き道を行く今度の行軍では、途中で遅れる者が出ればそこから後続の全てが失われかねない。遅い者を切り捨てるようなやり方だが、他に手はなかった。例え一万五千の兵力全てを定軍山に送り込んだところで、劉備軍とまともに戦えはしないのだ。どれだけ数を減らそうが、勝敗を分けるのは劉備軍の死角を突けるか否かと言う一点だけだ。劉備軍本陣とぶつかって無駄死にするぐらいなら、駆けに駆けて、心の臓が破裂し肺腑がひっくり返るぐらいに駆けた末に死んでくれた方が、その亡骸は勝利の礎になるというものだ。生きて定軍山西面に辿り着くのは、三千で良い。それだけ残れば、背後から一万を突き崩すに十分だ。
 一万五千の命を如何に使い、夏侯淵一人を生き長らえさせるか。これはそういう勝負なのだ。
 今は駆けることが戦。そう思い定め、張燕は駆け続けた。
 日が出ている間は寸暇も惜しんで駆け、日が落ちては死んだように眠った。
 桟道から遠ざかると、それだけ緑は濃くなった。夏草や木々の枝葉ではなく、群生する灌木を掻き分け、時に引き抜き、踏み締めながらの進軍となった。ただ走るのではなく激流に抗い泳ぎ続けるようなもので、気を抜けば樹木の抵抗に身体は押し流された。
 たった一日で、兵の様相は様変わりした。やせ細り、目だけが飛び出したように浮き上がり、一様に異様な光を湛えていた。二日目にはその眼光も失われ、力無く沈み込んだ。三日目には、敵を求める危うい落ち着きの無さを示し、四日目の今日は投げやりな高揚感を宿し始めている。
 自分も、似たようなものなのだろう。そう胸中一人ごちながら、張燕は渓谷へ降りて腰までつかる激流を歩き渡り、断崖を這うように登った。足を取られ流される者、滑落する者の数を数えるのは、疾うに止めている。

「……死ね、……死ね」

 ぶつぶつと恨み言を口にしながら走る兵も多い。最初は劉備軍だった憎悪の対象は、次の日には夏侯淵に変わり、今はただ呪詛の言葉だけを口にする。そうしながら殺意の籠もった視線を向ける先は、張燕だった。苛酷な進軍を命じる張燕こそが、敵よりも憎い相手となったのだろう。
 意に介さず、無防備な背を曝し続けた。前を走る自分へ向けられた殺意は、そのまま前へと進む力となる。
 日が落ちると、休息を命じた。兵はばたばたと地面にくずおれていく。

「寝る前に飯を腹に入れておけよ」

 諜報の兵が、手分けして張燕の命令を伝え歩く。行軍の途中でこちらへ向かってくる数名とかち合い、合流させていた。武具を携えぬ軽装の彼らには、わずかながらに余裕がある。それでも、やはり足を引きずるようにしていた。
 諜報の兵に促され、兵は倒れ込んだ姿勢のまま、もぞもぞと身体を動かして糧食を口へ運び始めた。
 張燕もわずかな糧食をすでに空腹を訴えなくなって久しい腹に強引に詰め込み、横になった。目を閉じると、すぐに意識は遠退いていく。
 目蓋の裏にわずかな陽光を感じ、張燕は目を覚ました。山の端にわずかに太陽が顔を覗かせている。
 悪夢でも見ているのか、苦しげな声を漏らす兵達を叩き起こしていく。夢の中でも走り続けているのか、激しく足をばたつかせている者もいた。
 張燕は夢を見ない。張牛角を失ってしばらくの間は、眩しい過去の夢に捉われたり、悪夢にうなされたりする日々を送った。しかし曹仁と殴り合い、曹孟徳に臣従を誓ってからはぱたりと夢を見ることがなくなった。夜に見る必要が無くなったからだろう。
 地獄の行軍を再開した。

「……もう無理だ。誰か殺してくれ」

 兵は、恨み言ではなく弱音を吐くようになっている。
 良くない徴候に思えたが、構っている余裕は張燕にもなかった。常に先頭で、鬱蒼と茂る灌木を一番に掻き分けているのだ。気の休まる瞬間は皆無だった。
 また一日を乗り切り、休息を命じた。
 深夜に、兵が騒ぎ始めた。一人の兵が、発狂したように暴れまわっている。張燕は、自らその首をうった。
 再び静寂が訪れると、周囲の兵はすぐに寝息を立て始めた。すぐ近くに転がる、先刻まで戦友であった肉の塊には見向きもしない。亡骸は放置したまま、張燕も木の幹に身をもたせると目を閉じた。すぐに眠気が襲ってくる。
 あの騒ぎ立てていた兵と、その死体のそばで平然と寝入る自分達、本当に狂っているのはどちらだろうか。眠りに落ちる刹那、そんな埒もない疑問が張燕の頭をよぎった。
 翌日、今まで無心で動いていた足が、地面に張り付いたように重かった。夢を、志を糧に足を進めた。
 全ての民が等しく競い合う世が、まもなく生まれる。
 曹孟徳一代限りの治政ではない。王となるからだ。三公などというただの官職ではなく、王位である。魏王―――実質的に天下の主宰者の位―――が、その子へとそのまま継承されるのだ。曹孟徳が作り上げた天下は、永劫に続いていく。

「しかし、御主君の子ということは、あいつの子でもあるわけか」

 曹子孝の子供が、天下の主に治まる。それは少々癇に障るが、同時に痛快でもあった。あの男の本質は、自分や張牛角と変わらない無頼の輩だ。
 足取りがいくらか軽くなった。灌木を踏み砕き、道を作る。険しいが、終わりはある。足を動かした分だけ、目的地に近付くのだ。
 夜が来た。一瞬だけ微睡んだと思えば、もう朝の光を浴びていた。駆けた。また夜。微睡み、次の瞬間には駆けていた。微睡み、駆ける。夜と朝。闇と光。

「―――っ」

 視界一杯を覆っていた緑が途切れた。山を抜けたそこは、戦場だった。狙いすましたように敵軍の背後を突く位置に自然と出た。おおよそ二百歩の距離。そして敵軍が攻め寄せている山頂には淡い青紫の夏侯の旗。
 特に幸運に見舞われたとも張燕は思わなかった。ただ行軍するだけで兵の大半を失うこともあれば、こうして好機に直面することもある。それが戦であろう。
 兵は、三日前の時点ですでに五千を切っていて、確認したのはそれが最後だった。たとえどれだけ数を減らそうが、足を緩めるつもりなどなかったからだ。だから今この瞬間に、自分の後ろに何人の兵がいるのか、張燕には把握出来ていなかった。

「それでは、私はこれで」

 そう言い残すと、初めから案内していた諜報の兵がばったりと倒れた。専門の訓練を受けた者でも、さすがに休みなく往復は限度を超えている。

「行くぞ。全軍、俺に続け」

 小さく、自分だけに呟くように口にした。
 兵には聞こえているだろう。自分も含め、ここまで駆け通した者達は、まるで神経が剥き出しにでもなったかのように、すべてに鋭敏になっている。
 駆け出した。喚声は上げない。奇襲を狙ってのことではない。なけなしの力の全てを、駆ける力に変えるのだ。
 ぐんぐんと敵軍の背が近付いてくる。足元が軽い。まるで足に羽が生えたようだ。先刻までを思えば、平地は天上の楽土だった。
 五十歩の距離。敵軍が、こちらに気付いた。慌てて矢を番えている。
 遅い。五十歩を一息で駆け抜けた。敵に弦を引く間も与えず、張燕の双刀が舞った。三つ四つと、首が飛ぶ。
 そこで初めて、ふらついた矢が射掛けられ、力無い槍が突き出された。払いのけ、斬り飛ばした。
 飛燕と、―――飛ぶ燕と、呼ばれていた。飛ぶ鳥を落とす鋭さは、どこにもない。





「―――っ、何だ?」

 戦場に、秋蘭の予想だにしない変化が起っていた。
 最後の柵が破られて、すでに半日が経過している。今は消耗戦に突入していて、五千が三千にまですり減っていた。
自慢の弓兵も矢はとうに尽きている。弓を捨て剣を抜くと、小さな方円を組んだ。秋蘭だけでなく兵も、すでに敵と差し違える覚悟を決めている。二千が討たれるまでに、敵兵をその倍の四千近くは討ち取っているはずだ。
 最後に敵将の首も狙いにいこうと、秋蘭は獲物を見定め始めた。西面に目をやると、一千にも満たない軍勢が敵軍の背後、山間から姿を現した。
 伝令にしては多く、兵の増援にしては少なすぎる。誰かの護衛、あるいは旗本。それが一番しっくりくる。諸葛亮当たりが、軍略を授けにでも来たか。あるいは劉備軍の誇る勇将の出馬か。西面の主将は黄忠だが、弓を取らない今の彼女に大きな脅威はない。関羽なり張飛なりが代わって前線に立つ可能性もある。あの二人ならば、自分の死に花としては十分過ぎる手柄首だ。
 一千の正体を見極めようと、秋蘭がさらに目を凝らした時だった。一千が一万にまともにぶつかっていた。
 状況を理解するのに、秋蘭にしては珍しく数瞬を要した。来るはずの無い我らの援軍。

「……五斗米道の兵か?」

 他に考えられる者もいなかった。漢中を統べて久しい五斗米道の兵なら、山中の獣道か何かを知っていてもおかしくはない。見事に、黄忠の一万の死角を突いていた。
 しかし、一千に過ぎない。呼応してしまって良いのか。せっかく固めた陣形を崩すことで、みすみす三千を無駄死にさせることになりはすまいか。一千は見捨て、あくまで敵将の首に拘るべきではないのか。曹孟徳の従姉の死に際は、関羽や張飛の首で飾りたかった。

「せめてあと二千。いや、一千でもいてくれれば良かったのだがな」

 見切りを付け掛けた秋蘭の目は、しかし西面に釘付けとなった。すぐに埋没するかに思えた一千が、面白いように敵陣を断ち割っていく。妨げるもの皆蹴散らすという様相で、敵軍は触れた端から崩されていく。
 一千の先頭に、双刀を振るう男の姿が見えた。

「―――っ、あの男っ。―――救援だ! 西面を駆け抜けよっ!」

 反りはとことん合わないが、息は妙に合う男だ。自分の意図が読めないはずはない。それでも、死地に等しいこの地へ援軍に訪れた。

「まったく、あのひねくれ者がっ」

 呆れながら、秋蘭は兵と共に定軍山の斜面を駆け下りた。





 夏侯淵の隊と合流すると、諜報の兵に先導させて山中へ取って返した。
 一度軍が踏破した進路であるから、まだ道筋が残っている。行きよりも随分と楽な道行きとなった。
 帰路の算段は立っている。このまま道筋を辿り、途中ぶつかった渓谷沿いに進路を変えると、やがて陳倉道にぶつかる。陳倉道は褒斜道の西を走る桟道である。当然褒斜道と同じく西涼側からの曹操軍の侵入を阻む劉備軍の備えが置かれているだろうが、こちらからなら裏を取って蹴散らすことは容易い。
 問題は劉備軍による追撃だが、進む先は道無き道と桟道であり、迂回路の類は無い。注意すべきは密林の移動に長けた南蛮兵による襲撃だけで、あとは後方の兵のわずかな犠牲だけで乗り切れるはずだ。

―――為すべきことは為した。

 ほっと肩の力を抜いた。それを合図としたように、周りを駆けていた兵達がばたばたと力無く倒れ込んでいった。胸を激しく痙攣させ、喘ぐような呼吸を繰り返している。
 夏侯淵の兵が後ろから追い付いて来て、倒れた黒山の兵に肩を貸し始めた。

「―――張燕、無事かっ!?」

「そちらこそ、無事なようで何よりだ」

 捨て置けと言い掛けたところで、夏侯淵が駆け寄って来た。らしくもない勢い込んだ調子に、張燕は思わず別の言葉を口にしていた。
 夏侯淵の視線が、張燕の肩に突き立った矢に向けられた。問われる前に、張燕は口を開く。

「敵軍の将、黄忠といったか? 飛ぶ鳥に矢を当てやがった、大したものだ。あんたと、どっちが上なのかな?」

「傷はそれだけか?」

「……ああ」

 夏侯淵はこちらの疑問には答えずに、質問を返してきた。張燕の全身をじっとりと見つめてくる。

「掴まれ」

「―――っ」

 夏侯淵が、兵がするのと同じように強引に張燕の脇へ肩を入れてきた。

「……悪いな」

 捨て置けと言おうとして、やはり別のことを言っていた。らしくもなく、人肌でも恋しいのか。自嘲混じりの笑みを溢すと、張燕は肩を借りて駆けた。
 視線は自然に、進行方向を向いた。先導する諜報の兵の背中が見える。
 諜報の兵は、数を一人減らしている。初めから先導してくれていた男で、倒れたまま再び立ち上がることはなかったのだ。
 夏侯淵の兵に肩を借りて駆ける黒山兵達の激しく上下していた胸も、今やわずかにふるえるばかりだった。
 駆けることが戦なのだから、駆けきった今、行くべき先は一つしかない。
 一万五千の命をもって、夏侯淵一人の命を救う。思い定めた通りの結果となった。

「曹子孝が泣いて俺に感謝する、その瞬間を見られないのだけが心残りだ」

「何か言ったか、張燕?」

「……いや、何でもない」

 一万五千には、当然張燕自身も含まれていた。

「―――そういえば、お前に聞きたいことがあるのだった」

 夏侯淵がこちらを向いたようだ。最期に、張燕は耳に触れる吐息の熱さを感じた。




[7800] 幕間 冊立
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/06/17 13:18
 敵中へ飛び込んでいく曹仁に、白騎兵と共に懸命に追い縋る。曹仁の駆け抜けた後には血煙が渦巻き、無花果の眼鏡はたちまち紅く濡れた。
 曹仁、そして白騎兵の姿に、敵兵はすくみ上った。さらに一万騎の曹仁隊と公孫賛の三万騎が寄せると、背を見せて逃げ始める。

「―――追撃をかけますか?」

 白鵠の脚を止めた曹仁に無花果は駆け寄った。

「いや、地の利はあちらにある。やめておこう」

「はっ」

 反撃を受け痛み分けの結果にでもなれば、当初の目論見を外すことになる。
 存外平静な曹仁の言葉に、無花果は遠ざかっていく錦の馬旗を見送った。旗の元に集う二万騎はあくまで整然と後退していく。敗走というよりも、仕切り直しの構えだ。それとは別に二万騎余りが、ちりぢりに潰走していく。
 初め、馬超の西涼入りに呼応した兵はおおよそ二万だった。いずれも元馬騰軍の兵士達で、錦の馬旗が立つや間を置かず旗下に参集した。調子が良かったのはそこまでで、以降は馬超がどれだけ錦の旗をはためかせても、集まっていく者はほとんど増えなかった。
 本人は謙遜するが、雍州牧公孫賛の政の成果だろう。加えて、長安には天人旗を掲げさせていた。錦馬超はすでに西涼の伝説だが、それだけにその馬超を撃ち破り、関中十部の長二名までを討ち取った天人曹仁の威名はそれ以上の伝説だ。勝算の無い戦いに乗れるほど、前回の戦で西涼が負った傷は小さくない。
 しかし漢中での曹操軍の敗報が伝わると、二万はすぐに四万まで数を増やした。
 そこで曹仁は騎馬隊のみで長安を発つと、馬超軍の野営を急襲した。曹仁隊の一万騎に、公孫賛が予てから指揮してきた三万騎で、計四万騎である。対する馬超は数こそ同数だが、参集したばかりの二万はいまだ烏合の衆に過ぎない。それも、先の戦で曹仁の強さを見せつけられた者達ばかりである。
 曹仁が馬超の旗本を避けて烏合の二万にぶつかると―――単騎駆けを始めた時には肝を冷やしたが―――、それだけでこの戦は終わった。
 二万が潰走すれば、馬超は元馬騰軍の二万騎だけで曹仁率いる四万騎と当たらざるを得ない。将の力量が互角―――無花果に言わせれば曹仁の方が上だが、曹仁本人は馬超が上と考えている節がある―――である以上、馬超には初めから勝ち目がなかった。
 さすがに馬超の判断は早く、こちらが一当てした時点ですでに後退と決めたようだ。そのため大きな損害を与えることは出来なかったが、急襲の目的は錦馬超を敗戦させるという一点にあった。すぐに曹仁の勝報は諜報部隊の手で西涼中に広められる。錦の馬旗の元に集まる兵の勢いは、これでかなり衰えるはずだった。
 長安への帰路に付いた。急がず、城邑や村々に立ち寄っては凱旋する軍の姿を西涼の民の目に焼き付けていく。
 公孫賛は精力的に地方巡りなどもしているようで、住民達は存外好意的であった。州牧というと本来民からすれば雲の上の存在だが、公孫賛の姿を見て声を掛けて来る者も少なくない。気さくな人柄の賜物だろう。公孫賛は従者に過ぎない無花果にも、いつも親しく声を掛けてくれる。
 凱旋の軍は、長安に至った。民は遠巻きにしながらも、ちらちらと躊躇いがちな視線を送ってくる。長安は公孫賛の居城であるが、弘農王を擁した馬騰が都とした城邑だけに、却って曹操軍への反感は根強かった。それも公孫賛の日毎の努力や張三姉妹の人気で、いくらか落ち着きつつあるようだ。
 曹仁が沿道へ出てきた子供達へ向けて手を振った。学校の生徒達だ。長安でもやはり、曹仁は教鞭を取っていた。特に、張燕が漢中へ向かってからはその代わりとばかりに足繁く。
浮かぬ顔で視線を彷徨わせていた子供達は、軍勢の中に曹仁の顔を見つけるとぱっと顔を輝かせた。曹仁の出撃によって否が応にも思い起こされたのは、戦に行ったまま戻らなかったもう一人の先生のことだろう。
 笑顔で手を振る子供達のいじらしさに胸を締め付けられるが、凱旋中の曹仁の隣で涙をこぼすわけにもいかない。無花果は無理にも笑顔を作った。
 凱旋を終え、宮殿の私室兼執務室へ向かう曹仁に、無花果は黙って従った。曹仁は一瞬迷惑そうな顔をしたが、付いてくるなとは言わなかった。
 曹仁隊副官の牛金から、目を離さないように言われていた。気にし過ぎとも思ったが、確かにふっとどこかへ駆け出して行ってしまいそうな雰囲気が今の曹仁にはある。

「灯りをお付けしますね」

 曹仁が執務机の上に置きっ放しにされていた巻物を手に取るのを見て、無花果は言った。
 夕暮れ時の室内はかなり暗くなっている。執務室に据えられた燭台に、火を灯して回った。

「暗い中お読みになると、目を悪くされますからね。私の目も、それでです」

 無花果が顔にかけた眼鏡を軽く持ち上げて見せながら言うと、曹仁は気の無い顔で軽く頷いた。
 無花果は執務室に据えられた従者用の机―――といっても曹仁の従者は無花果だけだから、実質無花果専用だ―――で、今回の戦の報告書をまとめ始めた。やはり曹仁が少々迷惑そうな視線を向けてくるが、気付かない振りをする。
 やがて曹仁は、手にしていた巻物に改めて視線を落とした。
 読みやすいようにと灯りを灯したが、あまり意味の無い行為だ。たぶん、とっくに暗記してしまっているだろう。
 巻物は、諜報部隊からの定軍山での戦いに関する報告書であった。曹仁がそれを広げるのは、無花果が知っているだけでもすでに十数回目だ。
 定軍山へ辿り着いた黒山賊の兵は、一千に過ぎなかったという。疲労困憊の一千は、それでも鬼神が如き戦振りで黄忠の一万を大混乱に陥れた。呼応して秋蘭が軍を発すると、黄忠軍はたまらず潰走したのだった。
 退路を駆ける最中、黒山兵はばたばたと倒れ眠りについていった。そして半数以上の者は、そのまま意識を取り戻すことはなかったという。それには、張燕自身も含まれている。
 黒山兵一万五千のうち、漢中を脱し長安へ帰還を果たした者はわずか五千だった。ほとんどが別働隊として褒斜道を進んだ兵で、山中を駆けた一万のうち生き残ったのは三百に過ぎない。

「―――兄貴、曹洪将軍がお見えになりました」

「……通してくれ」

 執務室の外からの声に、巻物を巻き直しながら曹仁は答える。

「失礼します」

「お邪魔しますね、仁ちゃん。あらあら、無花果ちゃんも」

 幸蘭を伴い、牛金が入室した。
 今は益州と西涼の情勢が騒がしいため、諜報部隊の長である幸蘭は長安に身を置いて何やら動き回っている。

「陳矯、あれを」

「はいっ」

 曹仁に促され、無花果は予ねて用意しておいた竹簡を幸蘭に捧げ渡した。受け取ると、幸蘭は素早くそれに目を通し、懐へしまい込んだ。

「二百九十八名。確かにお預かりしますね、仁ちゃん」

「頼んだ、姉ちゃん」

 黒山賊の生存者達は、退役を願い出る者が多かった。
 黒山賊の雑多な装備に粗野な戦法は、張燕という特異な指揮官の元でこそ軍としての体裁を保ち得たものだ。その張燕を失い、最後の戦場を共に戦うことも出来なかった五千は、ほとんど残らず退役生活を望んだ。今さら他の将の元で、他の兵と揃いの具足など着込みたくはないのだろう。曹仁は張燕がそうしていたように、車座になって一夜飲み明かすと、彼らを送り出した。
 例外は張燕と共に定軍山に至り、なおかつ帰還を果たした三百―――より正確には二百九十八人である。軍に生き場所を求めた彼らを、幸蘭が自らの諜報部隊に欲しがった。元山賊の男達には退屈な仕事にも思えたが、一も二もなく彼らは頷いた。山越えを先導し死んでいった諜報の兵の姿に、何か感じ入るところがあったのだろう。
 幸蘭に渡したのは、二百九十八人分の名簿である。諜報部隊に配属された時点で、他の軍の記録からその名は抹消される。幸蘭の懐にしまわれた名簿が、彼ら最後の公式の記録だった。指揮官を失った黒山兵に代わって、曹仁と無花果が処理を担当した。
 かつて百万を数えた賊徒であり、曹操軍の主力として長く乱世を戦い抜いた黒山賊は、これで完全に海内から姿を消したことになる。

「―――さて、戦況も一旦落ち着いたことですし、本当は少しお話をしていきたいのだけれど、こういう時は男同士の方が良いでしょうね。牛金さん、弟をお願いします。無花果ちゃんは、……男二人でもむさいし、付き合ってあげて下さいね」

「えっ?」

 意味が分からず無花果が戸惑っていると、そそくさと幸蘭は退室していった。

「……やりますか?」

 角が大振りの瓢を顔の前に持ち上げて言った。入室してきた時から何をぶら下げているのか不思議に思っていたが、どうやら酒のようだ。

「そうだな。陳矯、そこの椀を三つ、―――いや、四つ取ってくれ」

「はいっ。……酒杯をご用意致しましょうか?」

 水差しを乗せた盆の上から、器を四つ取って執務机の上に並べた。水や茶を飲むための物だから、酒杯としてはかなり大きい。

「客人相手でもなし、これで構わんだろう」

 言いながら、曹仁は牛金から受け取った瓢から酒を注ぎ始める。その間に牛金が机の前に、椅子を二つ並べた。

「わっ、私の分は少しで」

 自分も人数に含まれているようなので、無花果は慌てて曹仁を制した。

「こんなものか」

 最期の碗には三分の一ほどに留め、曹仁が瓢を置いた。他の三つの碗にはなみなみと酒が満ちている。三つのうち一つは、張燕のものだろう。
 曹仁と牛金はどちらともなく杯を取り、傾けた。

「きついが、良い酒だな」

「曹洪将軍からの頂き物です」

「―――っっ」

 無花果も杯に手を伸ばすも、一口飲み下した瞬間に胃の腑が燃え上がった。普段ほとんど酒を飲まない無花果には強過ぎる。
 無花果が舐めるようにちびりちびりとやる間に、曹仁と牛金は二杯目を注ぎ始める。酌をしようとするも、曹仁に手振りで制止された。手酌でやる方が、自分達らしいということのようだ。
 しばらく無言で椀を傾けていると、侍女が酒肴を運んで来た。幸蘭に頼まれたという。

「酒肴に梨?」

 肉や干魚に混じって、一口大に切り分けられた梨の皿が卓に置かれた。曹仁が怪訝そうに呟く。

「飛燕殿の好物でしたから、曹洪将軍が気を利かせてくれたのでしょう」

「何っ? 梨が好物だなんて、俺は知らないぞ?」

「そういえば、兄貴の前で食べている姿を、見たことがないかもしれません。調練の後などに、よく齧っていましたよ」

「あいつめ、取られるとでも思ったか?」

 そうではなく、甘い物を好んで食べているところを曹仁には見られたくなかったのではないか。思い浮かんだ考えを口にはせず、無花果は代わりに別のことを言った。

「張燕将軍の御出身地は、そういえば梨が名産でしたね」

 常山郡真定の梨と言えば、甘い果実の代名詞のようなものだ。

「ふむ。黒山に籠もって、こんなものばかり食っていたのか?」

 曹仁が梨を一つ摘まんで、口に放った。酒とはやはり合わなかったのか、わずかに眉をしかめながら続けた。

「ずっと聞けずにいたが。黒山の張牛角という男、お前は知っていたか、角?」

「名前ぐらいなら。俺は荊州、張牛角は冀州の常山でしたから、会う機会こそありませんでしたが、俺も奴も当時江湖で売出し中の侠客でしたからね」

「あいつが惚れ込むだけの男ではあったのかな?」

「ええ、評判を聞く限りでは」

「そうか」

「……侠客に売り出し中などいうものがあるのですか?」

 江湖―――侠客の世界―――は、無花果には縁遠い。興味を引かれ、牛金に尋ねた。

「そりゃあな。功名富貴を求めず、官にも依らず、自らの男だてと信念でもって仁義を立ててこそ侠、―――とは言うが、まずは名を売らないことには誰にも頼っちゃもらえねえ。人に頼られねえ侠客なんざ、ただの厄介者に過ぎないだろう?」

「……確かに」

「あの頃、世は荒んではいたが、後の群雄達はまだ漢室の法令に従っていた。法の外に立つ侠客達は人々に頼られ、大いに名を成したものさ。黒山の張牛角、元白波賊で今は車騎将軍の楊奉殿。この辺りの名前はよく聞いたな。他には予州黄巾の黄邵、劉辟、何儀の三人。雷公に白騎、李大目。今は呉軍の将をしている鈴の甘寧も、益州者にしては珍しく中原まで名前が知られていた」

 知らない世界の話でありながら、見知った人物の名もいくつか出てきた。当然、全く聞き覚えの無い名前もある。無花果は興味深く話に聞き入った。

「もっとも、なかには名前を売り出すことすら不純と斬って捨てる潔癖な御仁もいたが。―――黒髪の山賊狩りの噂は、兄貴も聞いたことがあるのでは?」

「ああ、それなら江湖には片足を突っ込んだだけの俺でも知っている。抜群の武勇に、絶世の美貌の女侠客だとか。いくつもの村を賊徒の手から守り抜きながら、名も名乗らず立ち去っていく、だったか?」

「ええ。今にして思えば、あれは関羽殿ではありませんかね?」

「……そういえば桃香に会うまでは、鈴々と二人で山賊退治をしていたと言っていたな」

 曹仁が二度三度と小さく頷いた。

「あとはそうだ。最近は華蝶仮面などと名乗る、目立ちたがり屋の癖に正体不明というおかしな侠客もいるらしいですね」

「そういえば、そんな奴もいたな。一時期は許にも姿を見せていたらしいが、結局俺は一度も見れなかった」

 その後しばらくは、曹仁と牛金の侠客談義が続いた。侠客時代の牛金の逸話や、曹仁との出会いにも話は及んだ。今とは違う二人の姿を垣間見るようで、無花果は心躍らせながら聞き役に徹した。
 やがて話題は、黄巾の乱での張牛角との戦い、そして曹仁と張燕の二度の一騎討ちへと至った。

「ちっ、すっかり忘れていたが、二度目の勝負は俺の負けで終わったんだった。飛燕の野郎、勝ち逃げかよ」

 ふらふらと身体を揺らしながら、曹仁が言った。かなり酔いが回っているようだ。

「一度目は兄貴が勝ったのですから、痛み分けでしょう」

「いや、最後の一戦があいつの勝ちというのがむかつく。くそっ」

 曹仁は自分の椀を一息に空けると、卓上に置かれた四つ目の椀を引っ手繰るように取り上げた。やはり一息に呷る。
 先刻から、この調子だった。自分の椀を空けると、立て続けに張燕に献じたはずの酒も飲み干す。まるで誰かと競い合ってでもいるような飲み方だ。

「―――これで二人目だ。角、お前は死ぬなよ」

 ぶつぶつと愚痴をこぼしながら酒を呷り続けていた曹仁が、不意に呟いた。

「俺は兄貴の副官ですから。御命令というのでしたら、死にません」

「そうか。なら命令だ」

「はっ」

 牛金の返答に満足したのか、曹仁は机に突っ伏して寝息を立て始めた。目尻にうっすらと何かが光った気がして、無花果は慌てて目を逸らした。

「……曹仁将軍にも、こんな一面があったのですね。弱さなど、欠片も無い御方とばかり思っておりましたが」

「そりゃあ、お前―――」

 牛金は何かを言い掛け、口籠った。しばらく考え込んだ後、肩をすくめながら言う。

「いや、お前のような者も、兄貴の側には必要か」

「……二人目というのは何のことでしょうか?」

 何やら誤魔化されたようだが、無花果は頭にもう一つ浮かんでいた疑問を口にした。

「張繍殿のことを仰っているのだろう」

 張繍というのは、洛陽で朝廷の抑え役を務める月の名だ。しかしその名がかつて別の男のものであったことは、無花果も聞かされている。白騎兵の元となった董卓の旗本を鍛え上げた男だという。

「さてと、兄貴も眠ってしまったことだし、ここらで締めとするか」

 それ以上の会話を避けるように牛金が立ち上がり、その日は解散となった。
 翌日、珍しい客人が曹仁の元を訪れた。

「曹仁将軍、御無沙汰しております」

 桂花の甥、荀攸である。甥と言っても年齢は桂花よりもいくつか上で、叔母とは違って落ち着きと分別を備えた大人の男性である。

「今日は何用です?」

「叔母さんに、少々頼まれましてね。曹仁将軍にも御賛同頂き、連名で発議させてもらえないかと」

 荀攸は巻物を一巻、曹仁に捧げ渡した。曹仁は執務机の上に、無造作にそれを広げだ。

「……廷臣達が勝手にやっているだけの話と聞いていましたが」

「ええ。しかしどうせならば家臣一同という形で発議させて頂いてはどうかと、叔母さんに文が届きましてね、―――夏侯淵将軍から」

「そうか、秋姉が」

 秋蘭は征西将軍―――西涼方面の主将―――の任を自ら辞し、今は洛陽に留まっている。荊州の華琳に合わせる顔が無いと感じているのだろう。
 曹仁に手振りで招き寄せられた。荀攸に伺いの視線を向けると、柔和な笑顔で首肯されたため、無花果は机上の巻物に目を向けた。
 やり取りから大よその察しはついていたが、華琳の魏王冊立を求める発議書である。天子に対する上奏文に続いて、曹操軍重鎮の名が書き連ねられていた。筆頭には桂花と春蘭。荊州に駐屯中の面々がそれに続き、次いで洛陽の月や徐晃に混じって秋蘭の名も記されている。
あとは長安の曹仁達の名が加われば、曹操軍の主だった者達の大半が出揃う。

「御署名頂けますか?」

「―――うん? ああ、そうだなぁ」

 荀攸の言葉に、曹仁が上の空で答えた。誰かの名を探すように、紙上に何度も視線を走らせている。

「……まあ、あるはずがないか。生まれついての王侯将相など、あいつが一番嫌いそうなものだが、いったい何を考えていたのか」

 ぼそりと呟いた後、曹仁は無花果に筆の用意を命じた。





「二十万の民、お返しに参った」

 甘寧を伴い旗艦から降り立つと、周瑜が言った。

「お引き受け頂く約定だったはずですが」

「おや、確か劉備軍が土地を得るまでお預かりする、という話では無かったかな?」

 朱里の言葉に、周瑜は白々しく返した。

「皆にはぜひ私の国に来てほしいと思っていたから、ちょうど良かった。―――おーいっ、みんなー、久しぶりー!」

 桃香が桟橋へ駆け寄りながら、長江一面にずらりと並ぶ船団へ向けて手を振る。甲板から喚声がそれに答えた。
 孫策軍から、預かっている二十万の民を返還すると報せが届いたのは、つい数日前のことだ。それは使者というよりも進軍の先触れで、返答する間もなく船団は長江を遡上して益州へと入り込んだ。二十万の人間を質に取られているようなもので、力ずくで制止するわけにもいかず、結局巴郡の船着き場に桃香率いる出迎えの軍勢を並べた。周瑜もさすがに桃香は無視出来ず、船団はここでようやく停泊した。
 百隻近い大型船と数百の中型船が、順繰りに桟橋へ寄せては民を下船させていく。操船の腕も、船団の規模も今の劉備軍とは比較にならない。それでも、これで孫策軍の水軍の全てではないだろう。夏口や江陵の守備にもかなりの数を残しているはずだった。

「……船旅はいかがでしたか? 民の皆さんは、身体の調子を悪くしていないでしょうか?」

「ご心配なく、なかなか快適な水路であった。……しかし、こんなところまでで良いのか? 良ければ、成都まで送っていくが?」

「―――っ、ここまでで結構です」

 二十万の送迎を口実に、進軍路を探る意図を周瑜は隠しもしない。劉備軍が本拠を置く成都へも、長江の支流を伝えば船での進軍が可能である。
 加えて二十万の民は、荊州で曹操軍からの逃避行を劉備軍と共にした者達である。民とは即ち国力であるが、周瑜としては領内に二十万もの桃香を慕う者を抱える危険を避けたかったのだろう。荊州南部の平定を妨げた異民族の蜂起が、朱里と雛里の指示によるものであることはすでに暗に示している。
 反曹の同盟こそ結んでも、劉備軍の下風に立つつもりはない。漢中を制した劉備軍に対して、周瑜はさっそく牽制を掛けてきた。
 とはいえ劉備軍にとって、気骨ある二十万の民の移住は有り難かった。益州の水源豊かで肥沃な大地は、開拓の余地をまだまだ残している。

「さてと、そろそろ本題に入らせてもらおうか」

「……こちらへどうぞ」

 気を取り直して、朱里は一つだけ張った幕舎へと周瑜を促す。甘寧と、朱里の護衛に付いてくれている星には入り口に残ってもらった。
 幕舎の中には卓が一つに、それを挟んで向かい合う形で床几が二つあるきりだ。

「ここまでは、予定通りの展開か」

 床几に腰を降ろしながら、卓上に広げられた地図を見て周瑜が言った。益州の地図ではなく、曹操と孫策の領土を含む中華全土を描いたものだ。周瑜と交わす会話の本題となると、反曹連合の今後以外は有り得ない。

「そうですね。少々出来過ぎなくらいに」

 巴蜀を手に入れた後は、確実に漢中を抑える。雛里が残していった戦略を、雛里抜きで何とか実現して見せた。
 真っ当な軍略では雛里に劣るという意識がある分だけ、勢いに任せて突き進んできたが、今にして思えば賭けの連続だった。桃香の人気だけを頼りに敵軍拠点を放置して成都までひた駆けた。参入したばかりの南蛮兵を作戦の中心に据え、漢中を急襲した。いずれも雛里がいれば大慌てで止められていたかもしれない。

「―――とはいえこれで、形は出来ました」

 卓上の地図は、中華が三つの色で塗り分けられていた。
 益州は桃香の牙門旗から取って緑に、揚州ならびに荊州南部は孫策の牙門旗の赤、そして華北と中原全域が曹操の牙門旗の紫である。

「ふむ。絵図上は、まさに天下三分と言ったところか」

 周瑜が言う。
 劉備軍の有する益州も孫策軍の揚州と荊州南部も、他の州と比べて広大だった。領土だけをみれば、天下はきれいに三分割で塗り分けられている。しかしあくまで一州は一州であり、住民の数では曹操軍が圧倒的であった。

「漢中を取れて、まずはほっとしました」

「気を抜かれては困るな。船の用意は整っているのか?」

 さすがに周瑜は話が早い。
 人口で―――兵力で大きく劣る以上、如何に曹操軍の戦力を分断するか、それが反曹連合の眼目である。巴蜀を制したのみでは、長江を下り孫策軍と協調して曹操領へ攻め入る他なかった。しかし漢中を手にしたことで、漢水を下って荊州北部に直接軍を進める道と、桟道を越えて西涼に進出する二つの道が出来た。すでに西涼には翠を派遣し、曹操軍の主力中の主力である曹仁隊を張り付けることに成功している。残る進軍路は漢水と長江、いずれも水路である。

「それが、あまり順調とは。劉焉さんが熱心ではなかったこともあって、職人さん達が育っていません」

「そんなことだろうと思った。今日連れてきた二十万の中には、荊州水軍の造船に関わっていた職人も多い。彼らを雇い入れると良い」

「そうでしたか、それは助かります」

 恩を着せるような言い様は引っ掛かるが、朱里は素直に頭を下げた。
 それからは、今後の展開を語り合った。
 反曹連合としての次の一手。それに対する曹操の対応。次の次の一手とその対応。予想というよりも全ての可能性を塗り潰していく作業で、展開はいくつもの枝分かれを繰り返し多岐に渡った。
 以前は雛里と毎日のようにしていたことだが、今は紫苑や星、馬良や馬謖相手に極稀に語って聞かせるぐらいだ。同盟相手とはいえ他国の軍師であるから、半ば腹の探り合いという形ではあるが、朱里にとっては久々の自分と近しい思考を持つ相手との語らいである。

「朱里ちゃん、周瑜さん、終わったよー」

 時間はたちまち過ぎ、桃香自ら民が下船を終えたことを告げに来た。

「なかなか有意義な時間だった。―――ああ、そういえば劉備殿と諸葛亮は、曹操の話をすでに聞いているか?」

 周瑜が床几から腰を上げながら言った。

「華琳さんの話?」

 桃香が小首を傾げる。

「そうか、まだ伝わっていないか」

 周瑜は満足げな顔で、小さく頷いた。
 何気ない言動の一つ一つに意味がある。周瑜というのはそういう人間だろう。
 漢中から山越えで長安、洛陽を経る劉備軍の諜報網よりも、荊州から水路を伝う孫策軍の行軍の方が速い。桃香の反応から、ここではそれを測られたようだ。

「……それで、曹操さんの話というのは何ですか、周瑜さん? もしかしたら、私はもう聞いている話かもしれません」

 桃香と周瑜を、あまり話させない方が良い。朱里は先を促した。

「魏王に封ぜられたそうだ」

「―――っ」

「へえ、そうなんだ」

 のほほんとしている桃香に対して、今度は朱里の方が露骨に反応を示す番だった。




[7800] 第12章 第1話 雛里
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/07/11 17:14
「あ、あわわっ」

 宮殿を一歩出ると、華琳が冕冠を外して投げ渡してきた。
 飾り紐を前後にあしらった冠は周代より続く王の礼装である。歩く度に揺れる飾り紐はかなり煩わしいらしく、華琳は参内の折に被るだけだ。

「―――っ、て、天子様には何と?」

 一人どたばたしながら冕冠を胸に抱き留めると、雛里は問う。

「御承認頂くよう、お伝えしたわ」

「……よ、よろしいのですか?」

 劉玄徳を漢中の王に―――という上奏文が、劉備軍の諸将より奉じられていた。
 天子からの急な召集は、如何に応ずべきかを華琳に問うためだ。そして華琳が認めたということは、桃香は正式に漢室から漢中王に冊立されることが決まったということだった。

「見透かされた様で少々腹立たしくはあるけれど、私が王なら桃香も王であって構わないわ。仮にも我が友にして好敵手であるからには、そうあるべきでしょう」

「しかし、漢中王というと」

 華琳が魏王となったことに、大きな利があったとは雛里は思わない。華琳も大した意味を認めてはいないだろう。ただ群臣の願いを聞き届けたというだけの話だ。戦死した張燕の望みだったと言うから、あえて断る気にもならなかったのだろう。
 しかし一方で桃香の漢中王の名乗りは、なかなか面白い手だ。朱里が考えそうなことである。漢中王と聞いて誰もが思い浮かべるのは、高祖劉邦の姿だ。同時に高祖の遺訓“劉氏にあらざるものが王位につけば、天下皆でこれを討て”、という言葉も思い起こされる。漢中王劉備の名は、これまで以上に反曹の響きを纏うことになる。

「構わないわ。それで桃香に靡く者が出たなら、叩くだけの事。あぶり出す手間が省けるというものよ」

 実際、華琳の魏王就任に賛意を表していた朝臣達の中にも、今回の件で顔の色を変えた者達もいるようだ。

「それにこれで、私の腹の内を勘繰る輩も減るでしょう」

「華琳さんに、その“心算”はないのですか?」

「こんなところで話すようなことではないわね」

「あ、あわわっ、そうでしゅね」

 宮門の衛兵が直立を保ちながらも、居辛そうに視線を彷徨わせていた。

「屋敷に戻る」

「は、はいっ」

 華琳が言うと、季衣が先導に立った。雛里も慌てて従い、背後には流琉が続く。華琳はここのところ、城内でのお供は護衛に季衣と流琉、従者に雛里で通している。

「簒奪の意志はないわ」

「―――っ」

 華琳は歩きながら、何気ない口調で言った。
 慌てて周囲を見回すも、洛陽の大通りを行く人々は雛里達四人を特に気に掛けた様子はない。尾行などがあれば季衣と流琉が気付くのだろうし、下手に密談の場を用意するよりも却って安全なのかもしれない。

「それでは、漢室を今後も存続させていくお考えということですか?」

「下手に祭祀を受け継いで、もし身の内にあんな得体の知れないものを宿すことになったらたまらないわ」

「?」

 華琳が意図の取れないことを言い、打ち消すように頭を振った。

「天子になどなってしまっては、民に畏れ敬われ、崇め奉られてしまうじゃない。そんなのは御免よ」

「それでは、華琳さんは一体この国の何になるのです?」

「私は、志ある全ての人間と競い合い、その上で彼らの主席でありたい」

「天子ではなく、人間の主席、ですか」

 華琳がふっと微笑んだ。

「そういえば同じ話を、張燕にもしたわね」

 それ以上問い質し難く、雛里が自問自答する間に曹家の屋敷へと到着した。

「お帰りなさい、華琳様」

 先に屋敷へ戻っていた蘭々が、玄関まで出迎えてくれた。
 城内では雛里達三人を連れるだけだが、さすがに城外の移動には軍の護衛が付く。蘭々は洛陽までの護衛隊の指揮官であった。

「秋蘭は?」

「お部屋でお待ちです」

 漢中での敗戦後、夏侯淵は洛陽に留まっていた。といって朝廷に出仕するわけでもなく、曹家の屋敷に引き籠っているという。自ら推し進めた華琳の魏王就任の際にも、祝典に顔を出すことはなかったのだ。
 ただ天子の諮問に答えるだけなら、文書で事は済む。わざわざ華琳が襄陽から洛陽まで足を伸ばしたのは、夏侯淵を引っ張り出すためだった。
 李典の工兵隊が造船を終え、南征―――孫策軍との戦の用意が整っていた。夏侯淵の冷静な判断力と旗下の弓兵は、水軍の戦では大きな武器となるだろう。

「私一人で会うわ」

 屋敷の奥へ向かう華琳は、そう言って雛里達を押し止めた。
 どんな妖術を使ったのか―――は想像に難くないが―――、翌朝には華琳に伴われ夏侯淵が皆の前に姿を見せた。

「心配を掛けたな」

「いえ、お元気なら良かったです」

 涙目の流琉に微笑みかける夏侯淵の顔は、西涼派遣前よりも幾らか痩せたようだった。

「華琳様、それでは私は襄陽へ戻り、姉者の補佐に付きます。華琳様はこの後?」

「一度許に立ち寄ってから戻るわ。貴方も一緒に来る、秋蘭?」

「いえ、敗将の身でこれ以上華琳様に甘えるわけにはいきません。姉者にも、早く顔を見せたいですし」

「そう。では襄陽を頼むわね」

「はっ」

 夏侯淵は拱手すると、その足で襄陽へと出立していった。

「雛里、洛陽での残りの案件は?」

「はいっ、車騎将軍楊奉様、それに張繍さんが一度お会いしたいと。それと盧殖様から御昼食のお誘いが届いています。それから―――、こちらは昨日頼まれていた司空府の書類です。ご確認ください」

 華琳は竹巻を受け取ると、目を通しもせずに二度三度と満足げに首肯した。

「えっと、何か?」

「仁のところの無花果を見て、私も従者を置きたいと思っていたのだけれど、確かに便利ね。ちょうど良いところで捕まってくれたわ、雛里」

「……華琳さんが望めば、私なんて使わなくてもいくらでも従者の候補はいると思いますが」

「それはそうだけれど、もったいないじゃない」

「もったいない?」

「私の要求に適うほど仕事が出来るなら、従者に留め置くのは国の損失よ。本音を言うと無花果も文官に転向させて桂花の下にでも付けたいところだけど、白騎兵になるというあの子の不似合いな夢は面白いし、今は見守っているのよ」

「なるほど、だから私ですか」

「ええ、貴方はいくら仕事が出来るからといって、上に上げるわけにはいかないからね。―――正式に私に仕えてくれるというのなら、話は別だけれど」

「それは……」

「ふふっ」

 言い淀む雛里に、華琳が愉快そうに微笑んだ。
 以前から曹操軍の政に惹かれるものはあった。しかしそれでも、勧誘の類にははっきりと拒絶を口に出来ていたはずだ。
 雛里はぶんぶんと強く頭を振って、気を取り直した。
 その後、華琳は雛里が立てた予定通りに動き、将軍府に楊奉を訪ね、司空府に張繍を招き、盧殖との会食を終え、昼過ぎには早々に洛陽を発った。
 護衛隊は虎豹騎五百に加えて、騎馬隊五千騎である。
 華琳らしからぬ大仰な構えであるが、長江や漢水流域を侵犯する孫策軍の騎馬隊の姿がしばしば目撃されていた。特に領内を荒らすということもなく、思うさま駆け回るだけ駆け回って去っていくらしい。孫策自らが指揮する精鋭二千騎だという、にわかには信じ難い報告も入っていた。替え玉を用いた挑発の類と見る向きも多いが、本人で間違いないだろう。

「そういえば貴方は、孫策とは黄巾の乱で共に戦ったのだったわね」

 許へ向けて駆けながら、華琳が言った。

「はっ、はい」

 雛里はいくらか息を弾ませながら答えた。
 放浪生活が長かったから、今では馬術にも少しは自信がある。それでも、曹操軍騎馬隊の行軍はさすがに迅速だった。呂布軍の兵を受け継ぎ、曹仁と張遼が鍛え上げ、西涼兵をも打ち破っている。今や騎兵としては名実ともに大陸最強である。

「私と孫策なら、どちらの戦が上かしら?」

「そうですね。……もちろん条件にもよりますが、大軍の戦ならば華琳さん、寡兵の戦ならば孫策さんでしょうか」

「大軍と寡兵の境は?」

「二万。……いや、一万五千」

「そう。ではもし今襲われたなら、やりよう次第では私の首を持って行くかもしれないということね」

 華琳も、騎馬隊を率いているのは孫策本人と考えているようだった。自領で五千五百は大仰だが、二千の孫策直属が相手となれば決して安心できる数では無い。

「まあ、さすがに二千でこんな奥深くまで侵入しては来ないでしょうけど」

 華琳は言葉とは裏腹にどこか期待する様な顔でそう言い足したが、特に異変も無く七日の行程で曹操軍本拠の許へと至った。
 本拠ではあるが、今は河北と中原で得られた兵糧を前線に送るための中継地という意味合いが強い。二つの前線―――荊州と西涼―――に人を取られ、しばらく手薄な状態が続いていた。戦を前に、一度華琳は自分の目で状況を確認しておきたかったらしい。
 先触れも遣わさず出し抜けに役所を訪れたが、曹操軍文官筆頭の荀彧が後を任せた者達だけあって、官吏達の働きに緩んだところは見られなかった。華琳は自ら兵糧を満載した倉庫にまで足を運んで帳面と照らし合わせ、輜重部隊の兵舎を訪ねて軍規に乱れなく、装備に不備がないことを確かめた。
 細事まで自らの目で見て把握しないと我慢ならないのが、華琳という人間だ。領土が拡張し、最近では荀彧や夏侯淵、曹仁らに一方面を委ねることも多いが、それでも本質は変わらない。

「ああーっ、鳳統先生だーっ!」

「本当だ! 鳳統先生ーっ!」

 視察を終え、大通りを城門へ向けて歩いていると、幼い喚声が聞こえてきた。
 視線を向けると、曹操軍に居候をしていた頃には毎日のように通い詰めた学校である。窓際に我先にと子供達が集まり始めていた。

「そういえば、許では講義をかなり受け持ってもらったのだったわね」

「は、はい。―――みんなー、久しぶりっ。でも、ちゃんとお席に付いて、先生のお話を聞かないと駄目だよーっ」

 注意するも、興奮した子供達は聞く耳を持たない。困り切った表情の若い男性講師に雛里はぺこぺこと頭を下げた。何度か言葉を交わした覚えのある、かつての講師仲間だった。

「ふむ。良い機会ね、せっかくだから寄っていきましょうか」

「よろしいのですか? 出立の予定が」

「少しくらい遅れても構わないわよ。―――そこのあなた、この子と講師を代わってもらえるかしら?」

「はっ、もちろんでございます。さあ、お前達、鳳統先生が講義をして下さるぞ。ちゃんと席に付いて、良い子でお迎えしなさい」

 講師は拱手して受けた。講師には専属の者と曹操軍の文官を兼ねる者がいるが、この男は確か後者だったはずだ。

「わーい、やったーっ!」

「―――えっ、鳳統先生が来てくれるの?」

「隣の教室だけ? そんなのずるーいっ!」

 講師が着席を促すも、火に油を注ぐ結果となった。それどころか、他の教室にまで喚声が漏れ伝い、学び舎全体へと飛び火した。

「あ、あわわ」

「これは、少々軽率だったかしら? 雛里の人気を甘く見ていたようね。でもまあ、この調子なら私がいても―――」

「先生ー、ところでこの偉そうなお姉ちゃんは誰?」

 子供達の一人が華琳を指して問う。

「こっ、こらっ、指をさすでないっ。―――その御方は我が主君、この許の支配者である曹孟徳殿下であるぞっ!」

 講師の叫びを境に、子供達の喧騒はぴたりと静まったのだった。
 最終的には、初めに雛里を見つけた子供達の教室に椅子をびっしりと敷き詰めて、希望者だけ参加という形をとった。当初の騒ぎを思えばとても席が足りたものではないが、意外にも定員の八十人ぴったりで治まった。
 雛里が許で教鞭を取っていたのはすでに二年も前の話で、三年制の学校には最上級生しか当時の教え子が残っていないことが理由の一つだ。そしてもう一つは、教室の後方で見学する華琳の存在だろう。

「……ええと、そ、それじゃあ、はじめようか。な、何か勉強で分からないところはないかなー?」

 常の講義ではないので、子供達から質問を受け付け、それを解説するという形を取った。しかしいつもなら率先して手を上げてくれる子供達の反応が芳しくない。
 子供達は畏怖と好奇が綯い交ぜになった視線をちらちらと後方に向けては、慌てた様子で正面に向き直った。

―――あれは、そういうことだったのか。

 二年前、華琳は朱里や雛里に講義に関する事細かな報告を求めた。当時は特に疑問を抱かなかったが、いま思えば華琳の性格なら実際に学校へ足を伸ばしたはずだ。
 自分の存在が、子供達に過度な緊張を与えると理解していたためだろう。曹操軍の領内ですら、華琳の名には苛烈で冷徹な印象が付きまとう。

「これじゃあ、講義にならないわね」

 ぽつりと呟いた華琳の声が、静かな教室中に響き渡る。

「雛里、貴方まで子供達に釣られて固くなってどうするの」

 華琳はやれやれと肩をすくめながら教室の前へと足を進めた。

「そんなに気になるのなら、せっかくの機会だからよく見ておきなさい。私が曹孟徳よ。目が四つに口が二つあるかしら? 耳は肩まで垂れ 腕は膝まで届くほどに長いかしら?」

 華琳は一段高くなった教壇の上に立つと、子供達を見回すようにしながら言った。俯きがちに視線を逸らしていた子供達は、華琳の言説に引かれて顔を上げる。

「がっかりさせて悪いけれど、私も貴方達と同じただの人間よ」

 全員の顔が上がるのを待って、華琳は片頬で笑った。

「さて、せっかく教壇に登ったことだし、私も講師の真似事でもしてみようかしら。何か質問はない? 今なら鳳統先生だけじゃなく、この私も一緒に教えてあげるわ。別に勉強のことではなく、我が軍の政や戦に関する質問でも構わないわよ」

 子供達は顔を見合わせ、小声で何事が囁き合うようにしていたが、意を決したように一人が手を挙げた。
 黒髪を綺麗に切り揃えた少女である。成績はそれなりだが、いつも教室の中心にいる快活な子であったと記憶している。

「それじゃあ、そこの可愛らしい貴方」

「はいっ。……曹操様は、曹仁先生とお付き合いしているって本当ですか?」

「―――っ。ふふっ、ちょっと予想外の質問が来たわね。そういう質問が欲しかったわけではないのだれど。まあいいわ、別に隠すようなことでもないし、答えましょう。―――本当よ」

 華琳が肯定すると、教室中から耳をつんざくような喚声が上がった。

「はいはいっ、どちらから好きだと言ったんですかっ?」

「どこまで進んでるんですか? 口付けはもうしましたか?」

「曹仁先生のどんなところが好きですか?」

 華琳が指名するまでも無く少女達が捲し立てる様に質問を始める。一方で男の子達は今一つ乗り切れないようで、気まずそうに視線を彷徨わせていた。華琳は華琳で、子供達の勢いに圧倒されて目を白黒させている。

「みんなー、質問は一つずつ、真っ直ぐ手を挙げて、先生に当てられた子からしてねーっ」

 華琳の珍しい姿に思わず頬を緩ませながら、雛里は事態の収拾に努めた。
 先ほどまでの緊張はどこへやら、勢いよく挙手する少女達を一人一人指名していく。華琳はやはり圧倒された様子で、問われるままにかなり細部に至るまで曹仁との交際状況を曝していった。

「……質問はこれで終わりかしら?」

 半刻(15分)余り後、ようやく静かとなった教室で華琳が問う。疲れ切ったという顔をしている。

「はっ、は、はいっ」

 おずおずと手を上げたのは普段あまり目立つことの無い少女だった。

「では、貴方で最後としましょう」

「はっ、はいっ」

 指名を受け、少女はぴしりと背筋を伸ばす。
 筆記試験をやらせればいつも一番か二番に位置していた優秀な生徒だが、言葉が吃りがちなため講義中に発言することはほとんどなかったと記憶している。あがり症の雛里にとしては、密かに親近感を抱いていた少女だ。

「……そっ、曹操様は、私達農民にまでこうして知恵を付けて、い、いいったい、何をされるおつもりなのですか?」

 ほう、という顔で華琳が一つ小さく頷いた。ようやく期待していた類の質問が来た、ということだろう。

「ふむ。……貴方、この国にどれほどの人間が暮らしているか、知っている?」

「ごっ、ご、―――五千六百四十八万六千八百五十六。で、ですが、この数は前の前の前の天子様がお隠れになられたときのもので、いっ、今現在の正確な数値を私は知りません」

 少女の答えに、華琳は感心した様子でまた一つ頷いた。
 天子の代替わりの度に中華全土の戸数と人口を調べて記録するのが、光武帝以来の伝統である。次代に対する戒めなのだろう。しかし先々代の天子が崩御したのは黄巾の乱の渦中、先代が廃位させられたのは反董卓連合の直前であり、戦の混乱に中でこの伝統が実施されることはなかった。

「そうね、少し意地悪な質問だったわ。戦乱が続き、国がいくつかの勢力に分裂した現状、正確な数を知ることは政に関わる者でも難しい。まして今の貴方の知り得るところではないわね。―――我が軍の調査では、二千万を切る」

「えっ、そ、それだけですか? ―――あっ! そ、それは、あ、あくまで戸籍上の数ということですよね?」

 少女の問いに、華琳はやはり満足そうにまた頷く。

「ええ、そうよ。実際には流民となって戸籍を失った者が大勢いるでしょう。とはいえ、戦乱によって多くの命が失われたのも間違いない事実。中華全土で人口は四千万前後、というのが私達の予測よ」

 こくこくと少女が頷く。

「さて、ここまでは余談よ。その四千万のうちに、生まれつき学問にふれる機会に恵まれた者―――士大夫はどれだけ含まれるだろうか?」

 少女に向けて問う、という口調ではなくなった。少女も答えを返すでもなく、華琳が次に口を開くのをじっと待ち構えている。この場にいる全員に向けて華琳は語りかけていた。全員、の中にはたぶん雛里も含まれている。

「かつて洛陽には中華全土から三万人の学生が集まり、国の中枢を担う大夫達も居を構えていた。しかしそれでさえ百万近くを数えた住人全体から見れば、ほんの一割にも満たない。都の洛陽ですらそうなのだから、国全体となれば知識層は微々たるものに過ぎないでしょう」

 そこで一度言葉を切って、華琳は教室に並ぶ顔ぶれを眺めまわした。一巡し、再び少女に視線を戻すと言った。

「だが、ただ学ぶ機会を与えられなかったというだけで、貴方達は士大夫の子と比べて何ら劣るものではない」

 少女の身体が小刻みにふるえた。まばたきも忘れた様子で、食い入るように華琳を見つめている。

「これまで、学ぶこと、考えることは、士大夫の特権で貴方達には縁遠い世界のものだったかもしれない。これからは違うわ。学び、考えなさい。日々の暮らしを良くする方法でも良いし、詩をひねってみても良い。国の行く末を考えることだってもはや他人事ではない。そして十人で考えるよりも、百人千人で考えた方がずっと良いものが生まれるわ。―――貴方達はこれまで顧みられることの無かった、この国の大きな可能性よ」

 教室に、わっと喚声が上がった。今度は先刻のように女の子だけではなく、子供達全員が沸き立っている。
 華琳は子供達の興奮が静まるのを待って、少女への回答の締めに実に彼女らしいことを口にする。

「もっとも、百人で考えるよりも一人の天才が考えたことの方が良い場合もあるわ。そして十人に一人の天才よりも、千人に一人の天才の方が優れているのは、自明の理。貴方達の中からこの私を補佐する逸材が生まれることを待っているわ。―――あるいは、私にとって代わろうとするほどの英才が生まれることを」

 主席という言葉の意味を雛里は改めて実感した。
 桃香や孫策に限った話ではない。今は何の力も持たない子供達ですら、未来の好敵手候補なのだ。華琳にとって天下全てが戦場、あるいは巨大な試験会場のようなもので、己の能力で一番にならないと気がすまないのだろう。天子になりたがらないはずだった。天子は何者かと対等に競い合う存在ではない。

「―――っ」

 華琳が、こちらを見てにやりと笑った。
 お前も挑戦して来い。そう言われた気がして、雛里はぶるっと身を震わせた。



[7800] 第12章 第2話 前哨戦
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/07/29 12:54
 江陵と夏口への締め付けが厳しくなった。
 夏口には穏を、江陵には冥琳自らが入り守りを固めてきたが、曹操軍は陸から城を攻囲するだけでなく、襄陽から船を発して水路も断ちに掛かり始めた。それぞれ長江北岸に孤立した拠点であるから、兵員や兵糧の輸送はそれでかなり難しくなった。陸上の軍勢の指揮も、これまでの于禁や張郃、韓浩らから、江陵は曹操自ら、夏口は夏侯惇と夏侯淵姉妹へ交代している。つまりは、本腰を入れて落しに来たということだ。

「頃合いか」

 冥琳は江陵の放棄を決めた。
 曹操軍の船団は、その気になれば打ち払うのは難しくない。しかし小さな勝利をいくら積み重ねたところで、大き過ぎる国力差をくつがえすことは出来ない。
 劉備軍より譲り受けてから、すでに一年が経過している。この半年ほどは、陸上からの攻囲は絶えず受け続けていた。良く持ったと言うべきだろう。元々が只で譲られたものであるから、“何を”したところで惜しくはないのだ。

「ようやく決心がついた? 待ちくたびれたわよ」

 床几に腰掛け、退屈そうに足をぶらつかせていた雪蓮が顔を上げた。軍議の間には、他に太史慈が一人いるだけだ。

「自分の間の悪さを恨むのだな」

 本来なら、江陵の守備は冥琳と太史慈の二人である。雪蓮は、偶さか船で江陵に立ち寄った際に、水路の遮断に巻き込まれた格好だった。

「まっ、太史慈との試合にも勝ち越せたことだし、長期滞在も無駄ではなかったと思いましょうか」

 騎馬隊の調練に明け暮れる雪蓮が江陵まで出向いた理由が、太史慈との剣での手合せだった。兵の相手ばかりでは自身の技が鈍るし、兵にも自分とは違った武人との訓練をさせたかったらしい。

「勝ち越せた、か」

「ええ、だいたい百戦して、六十くらいは私が勝ったわ。そうよね、太史慈?」

「はい。百十一戦して、孫策様の六十七勝です」

「ふふん」

 太史慈の返答に雪蓮が胸を張る。

「さーてと、そうと決まれば、江陵に物資を残していくのはもったいないわよね。貯蔵庫にあったお酒を、飲んじゃわなきゃ。撤退の計画は任せたわよ、冥琳」

 雪蓮は腰を上げると、逃げるようにそそくさと軍議の間を出て行った。

「お止めしなくて良いのですか?」

「まあ、珍しく大人しくしてくれていたことだし、少しくらいは大目に見よう」

 せっかくだからと前線に出たがった雪蓮だが、冥琳の願いを聞いて目立つ行為は避けてくれていた。江陵に孫策有り、などと曹操に知られれば、一気に総力戦となりかねない。

「―――それよりも」

 冥琳はそこで一端言葉を切ると、意を決して続きを口にした。

「実際のところ、雪蓮の調子はどうなのだ、太史慈。怪我をする前の力を、取り戻せているのか」

 あわやというところまで追い詰められたとはいえ、一騎打ちで雪蓮は太史慈を破っている。その太史慈に練習で勝ち越せたと喜びを見せた雪蓮に、冥琳は引っ掛かるものを感じた。

「いいえ」

 太史慈が小さく首を横に振った。

「それでは―――」

「―――お強くなっています、怪我をされる以前よりも」

「しかし、その雪蓮を相手にお前も随分と勝利したようではないか」

「もともと孫策様の苛烈な攻めと一瞬の閃きの剣は、仲間内の訓練などでは発揮し難きもの。以前ならば、私の方が勝ち越してもおかしくはなかったでしょう。―――もはや実戦では、私に万に一つの勝ち目もありますまい」

「そんなものか」

 太史慈は主君だからと遠慮して世辞を言うような類の人間ではない。実際、雪蓮との手合せでも平気で勝ちを取りに行っているのだ。その太史慈が言うのだから、まず間違いないだろう。冥琳はほっと胸を撫で下ろした。
 三日後、夜の間に兵を船着き場へ移動させ、静かに乗船させた。南門―――長江に面した水門―――の開閉をする工兵だけを残して、北門に西門、東門は守兵も全て引き払った。
 陸上の敵兵からは絶えず喚声が上がっているが、実際に攻城が開始されるのは決まって夜明けを迎えてからだ。それは指揮が曹操に移ってからも変わっていない。どこかでこちらの兵の気の緩みを突きにくる、そんな単調さだが、こちらで先に利用させてもらう。
 冥琳も旗艦に乗り込み、じっと夜明けを待った。

「周瑜様」

 兵が近付いて来て囁いたのは、朝日が顔をのぞかせてから半刻ほど過ぎた頃だった。

「ああ、分かっている」

 耳に届く曹操軍の喚声に微妙な奥行き生まれていた。城壁の反響を受けている。つまりは城内まで突入されたということだ。
 南門の工兵に旗を振って合図を送ると、水門が重々しい音を立ててゆっくりと開き始める。
 小型船から順に長江へと出る。中型船の中では一番に、雪蓮の乗った船が出航していった。雪蓮は小回りの利かない船を好まないため、大型の旗艦ではなく中型船に乗船している。
 旗艦は工兵を回収して、大型船の中でも最後に水門を出た。
 曹操軍の船が十隻、二十隻と集まって来ているが、寄せては来ない。行く手を阻むように、横列で長江を封鎖する。哨戒のために遊弋していた船隊だから大型船は数隻で、中型船を中心に小型船をいくつか随伴させた編成だ。

「ふむ。形ばかりはなかなか整っているな」

 横目に江陵へ視線を向けると、南の城壁にも曹の旗が掲げられている。

「それでは一つ、曹操に水軍の戦というものを教えてやるとするか」





 華琳が南壁を登ると、ちょうど水戦が開始されたところだった。
 上流を占める孫策軍の船が、まず動いた。小型の船三十艘余りが、長江を遮断する曹操軍の横列へ向けて進む。
 二度三度と櫓が水面を叩いたかと思えば、見る間に船足が跳ね上がった。船首に杭のようなものが見える。蒙衝のようだった。大型や中型の船の船腹に穴を開けて沈める突撃船である。
 水軍の戦は詰まるところ、船上の敵兵を殲滅するか、船を沈めるかだ。前者ならば矢を射掛け、最後は接舷して直接乗り込むという戦法が取られる。後者の場合は船同士をぶつけ合うか、火矢で炎上させるか、あるいは蒙衝を使うかである。
 こちらの船隊も、蒙衝を前へ出す。蒙衝の打ち合いとなった。北風―――両船隊にとって横殴りの風が強いから、火矢は味方の船まで延焼させかねない。この蒙衝の打ち合いが、勝負の肝となる。
 互いの蒙衝と蒙衝がすれ違う。

「むっ」

 曹操軍の蒙衝の多くがその場で勢いを失った。何艘かは転覆し、それを免れた船も方向を見失ったようにふらふらと流れに揺られる。
 孫策軍の蒙衝の方は、そのまま見る間に曹操軍中型船の横列へと突っ込んでいった。
 中型船は、蒙衝を避けようと右に左に舵を切る。船幅が狭く縦に長い蒙衝は、横の動きには弱い。が、如何せん船足に差があり過ぎた。却って船腹を曝すのみとなった。

「――――っ」

 波濤と水飛沫が、遠く離れた華琳の耳にまで蒙衝が激突する轟音を感じさせた。
 蒙衝一つ突き立った程度なら、強引に操船は可能だった。二つ突き立てば対処に追われ身動きが取れず、三つとなるとその船は放棄せざるを得ない。
 孫策軍の中型船と大型船も前進を始めた。
 蒙衝を打たれ江上の障害物となった船を巧みに利用している。こちらの船を寄せ付けず、あるいは死角を使って二隻、三隻で一隻を囲い込む。
 水戦の経験に差があり過ぎた。やがて、孫策軍の船隊は長江下流へ進路を取った。今度はこちらが上流を占める形だが、追い縋る曹操軍の船は少しずつ引き離されていく。あれでは、戦闘に持ち込むこともできないだろう。
 曹操軍は江陵を得たが、水軍の戦では完敗と言えた。

「こちら―――そ、曹操軍の蒙衝だけが一方的にやられたのは、どうしたことでしょう?」

 隣に並んだ雛里が疑問を口にした。曹操軍をこちらと称し、慌てて言い直している。

「だいたいの想像は付くけれど、……季衣、流琉、見えた?」

「はい。すれ違う瞬間に、櫓に船首をぶつけられていました」

「むこうの蒙衝は、ぶつかる直前に櫓を船内に引っ込めたように見えました」

「なるほど」

 雛里が小さく二度三度と首肯する。

「……黄祖が味方にいれば、もう少し違ったのかしら?」

 江陵周辺の水軍には蔡瑁を、襄陽から夏口にかけての水軍には文聘を指揮官として置いている。
 二人とも元劉表配下の部将であるが、蔡瑁は半ば文官のようなもので、文聘は水軍の調練をさせれば優秀な武官ではあるが、実戦経験に乏しい。それも当然で、これまで荊州での戦らしい戦と言えば孫策軍との抗争であり、常に夏口の黄祖が担ってきたのだ。

「どうでしょうか? 兵や水夫(かこ)の差も大きいように思います。流れの活かし方も違っていました」

 雛里が言った。
 同じ流れに乗るのでも、孫策軍の船の方が明らかに速かった。櫓の数自体は大型船で片舷十六、中型船ではその半分の八と違いはない。

「玄武池で調練を積ませた者達だけど、人口の溜め池に流れは無いものね」

 荊州北部を手に入れた後は、漢水での調練もさせてきたが、やはり初めから長江周辺に生まれ育った者達には敵わない。南船北馬というが、北方の騎兵の精強さを思えば、孫策軍の水軍の強さは当然とも言えた。
 騎兵は董卓、呂布と引き継がれてきた西涼兵を飲み込むことで、天下第一と言えるものを手に入れた。しかし水軍には今のところ当てがなかった。

「……荊州水軍の美味しいところは、桃香がすべて持っていってしまったのよね」

「あわわ」

 じとりとした視線を飛ばすと、雛里は身を竦めた。

「それにしても、やはり“孫呉”の水軍は強い。特に上流を抑えられてしまえば、水を得た魚を相手にするようなものね」

 ―――孫呉。

 いつからか孫策軍は自らをそう呼称している。
 華琳と桃香の王位冊立の後、曹操軍を曹魏、劉備軍を蜀漢などと呼ぶ者も多いが、孫策軍にとって孫呉という呼称はそれへの対抗というだけではないようだった。呉は孫家の遠祖孫武が大功を立て、先代孫堅が勢力を張った土地である。華琳が偶さか魏に封建されたというだけの曹魏とは違い、呉の地への強い思い入れが感じられる。
 何にせよ、口にした言葉の響きは敵ながら悪くはなかった。





「それで、本隊は水軍と並行して夏口へ軍を進めたのか?」

 戦況を伝える荊州からの使者に、曹仁は問うた。

「いえ、水軍ともども烏林にて陣を布かれました」

「烏林? ええっと、どこだったかな?」

「そんなことで大丈夫なの? 貴方は一応、荊州都督でしょ」

 詠が呆れ顔で言う。
 長安の軍議の間、ではなく原野に張られた幕舎の中だった。戦陣である。馬超が涼州でいくつかの城郭を落とし、力を伸ばし始めていた。
 曹操軍が孫策軍を攻めれば、劉備軍が曹操軍を攻める。それは予て想定されていた通りの動きであり、曹仁は白蓮に長安の守備を委ね、すぐさま出陣していた。

「ほんとに一応なものでな」

 都督として曹仁がやったことと言えば宛に支城を建てたことくらいで、すぐに長安への赴任を命じられていた。今も、荊州では孫呉を相手に大戦が始まろうとしているなか、劉備軍と馬超に対する守りの要として西涼に残されていた。戦の相性を考えた結果だが、荊州都督の肩書はあまりに空しい。

「雲夢沢に囲まれた草地です。都督就任後の視察の際に、一度立ち寄りました」

「ああ、あそこか。江陵から長江沿いに東へ進んで、夏口の四、五十里手前だったか」

 雲夢沢は長江北辺に広がる湿原である。戦国時代の楚の聖地であり、高祖劉邦が謀反の罪で国士無双韓信を捕らえた地だった。史書を読めば何度となく目にする地名である。
 泥濘(ぬかるみ)が続く雲夢沢では騎兵の移動には難儀し、視察の際に足を休めたのが烏林だった。長江と雲夢沢に挟まれるように存在する、足元の確かな草地である。

「それで、なんだってそんなところに? 江陵を落とせば、次は夏口じゃないのか?」

「はっ。烏林の対岸に孫呉の水軍が集結しております。今は長江を挟んで対陣という形です」

「なるほど」

 上流を取られるのを嫌ったということのようだ。華琳は一戦して、長江での戦の難しさと孫呉水軍の強さを悟ったのだろう。

「―――曹仁将軍っ! 錦馬超の軍勢がこちらへ向かっておりますっ、距離二十里っ」

 斥候が幕舎に駆け込んできて叫ぶ。

「まったく、気が休まらないな」

 報告が二十里ということは、すでに十里の距離まで迫られていると考えて良い。曹仁が床几から腰を上げると、蹋頓と龐徳、そして角も揃って立ち上がった。
 騎兵は曹仁、蹋頓、龐徳の三隊。歩兵の指揮は角。幕僚として詠と春華。万全の陣容だが、桃香たち劉備軍の本隊が出てくれば劣勢となろう。
 華琳の戦線も気掛かりだが、今は自分の戦に曹仁は頭を切り替えた。








※櫓についての捕捉。
 作中で出てくる櫓は、正確には櫂です。
 櫓は船尾に付けて推進力を得る道具。時代劇などに出てくる小舟で、船頭さんが船尾で漕いでいるアレです。スクリューなどはこの櫓の発展系。
 櫂はいわゆるボートのオール。船腹から横に出して漕ぐ道具。
 三国時代の戦船は、船腹から何本も櫂を出して漕ぐのが基本で、時に帆を併用したと考えられています。
 というわけで作中でも櫂を船腹から突き出して漕いでいるわけですが、この場合の櫂のことは何故か櫓と表記するのが一般的です。「~丁櫓の戦船」などと感じで。そこで本作でも櫓という表記で統一させて頂きました。ご理解ください。





[7800] 第12章 第3話 連環
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/08/20 13:56
 中型船が三隻、近付いてきているようだった。各々数艘の小型船を伴っている。

「―――文聘、いるか?」

「はっ、ここに」

 華琳の足元まで進み出た文聘が、鍛え上げられた身体を屈める。
 文聘。字を仲業。黄祖が没し、他の目ぼしい将も桃香に付き従い離脱した荊州に残された唯一の将軍らしい将軍である。
 船での本格的な戦は華琳にとっても曹操軍にとっても、江陵での敗北が初戦である。孫呉の将兵と比べれば多少見劣りするとは言え、やはり荊州出身の将に頼らざるを得ない。

「ただの斥候かと」

「普通、小型船だけでやるものではないの?」

「はい。多少の衝突は辞さずということでしょう」

「威力偵察ということか。そこは陸上の戦も水戦も変わりないようね」

 陸上でも敵情視察だけなら数騎で済むところを、あえて小隊から中隊規模の斥候を出すことはある。単純な兵力、陣形だけでなく、迎撃態勢や練度を測るためだ。

「騎兵の戦と通じるところがありそうです。威力偵察に関しては、陸上の場合よりも効果がずっと大きそうですが」

 雛里が口を挟んだ。

「そうね。陸上の戦と違って、一度固めた陣構えを簡単に解くというわけにはいかないものね」

 中型船三隻は、二里(1キロ)ほどの距離を置いて、一見して無防備に漂っている。長江の川幅はこの辺りでは十里(5キロ)近くもあるが、こちらから追手の船を出しても南岸の陣へと逃げ込まれてしまうだろう。

「いかがされますか?」

「とりあえず放って置きましょう。矢が届く距離まで近付いてくるようなら、迎撃なさい」

「はっ」

「本陣へ戻るわ。文聘、貴方は引き続き警戒を」

 言い置き、小型の快速船に乗り移った。流琉が船尾について“すくりゅう”の柄を握ると、あっという間に陸地が近付いて来た。本陣は、陸上に置いている。

「やはり、気合で何とかするしかないだろう」

「それで何ともならないから、こういう状況に陥っているんじゃないっ。少しは脳みそを使って話しなさいよっ」

「なんだとっ!」

「なによっ!」

 本営の幕舎へ足を踏み入れると、春蘭ら諸将と軍師達が額を突き合わせていた。
 夏口を包囲させていた春蘭と秋蘭も含めて、烏林に主力の将兵を呼び集めた。夏口の軍の指揮は、元劉表配下の趙某やら韓某やらに交代させている。
 江陵を足掛かりに夏口、柴桑、建業、呉と水陸併走で攻め降るというのが、当初想定していた進軍路だった。本拠建業を筆頭に、水軍基地としては最大の柴桑、副都にして孫家一門の生地である呉と、孫呉の主要拠点はいずれも長江沿いに位置していた。長江の水運で栄えた土地であり勢力なのだ。
 主要拠点を抑えてしまえば、元々豪族や異民族の力が強い土地だけに孫家の影響力は失われるだろう。後は残った者達に臣従を誓わせるか、潰すかだ。孫家は豪族達を時に宥めすかし勢力を拡張してきたようだが、華琳にその心算はない。盤上から孫呉が消えた時点で残る大敵は桃香一人であり、今さら豪族達の力を取り入れる必要など曹操軍にはないのだ。上手くいけば一年と掛からず江南を制することが出来る試算であった。
 しかし、孫呉の水軍が強かった。対陣して十日余り、何度か瀬踏みの船団を対岸へ送り出したが、その度に壊滅に近い損害を与えられていた。
 長江沿いの主要拠点だけを点と点で繋ぎ、線で制圧する計画は見直す必要があった。長江河口に位置する呉までとなると、三千里以上も攻め降る必要があるのだ。孫呉の水軍相手には、無謀というものだった。大規模な陸上部隊を江南に送り込み、じっくりと面で制圧していく。そうして陸を先行させ、孫呉水軍を圧迫する。呼び集めた春蘭達は、江南へ送り込む陸上部隊の指揮官だった。
 それでも、水戦も負けたまま避けるつもりはない。兵を満載させた船は船足が落ちて水戦では恰好の的であるし、当然、沈められれば一度に多くの兵馬を失うことにもなる。陸上部隊を長江南岸へ送り込むためにも、ここで一度は叩くべきだった。

「……盛り上がっているようね」

 溜め息交じりに呟く。幕舎内では華琳が前線に視察へ出る前から、引き続き同じ議題が語り合われていた。ただ先刻までは見えなかった顔が一つ増えている。

「華琳さまっ、お帰りなさいませ」

 舌戦―――というには程度の低い言い争いを繰り広げていた春蘭と桂花が、ぱっと声を揃えた。

「桂花、来ていたのね」

「はいっ。何かご入用な物や、不足している物資はございませんか?」

「特にないわ」

 桂花は襄陽で政務及び輜重の担当だが、物資の確認と称して度々江陵やここ烏林の前線まで足を運んでいた。言うまでもなく華琳に会うことが一番の目的だろうが、他の仕事に支障をきたしているようでもないし、黙認していた。後方支援の長が前線に足繫く顔を見せると言うのは、戦う兵達にとって悪い気はしないはずだ。

「それで、誰か良い方策は浮かんだかしら?」

 華琳は諸将へと視線を向ける。水軍で一戦を期するも、その前に厄介な問題が発生していた。体調を崩す兵や水夫が続出しているのだ。
 早急に張魯と張衛を呼び寄せたが、懸念された疫病という診断は降されなかった。曹仁が宛で手に入れた医学書「傷寒雑病論」のお蔭もあって、疫病の蔓延は未然に防がれているという。
 満足に食事もとれないような重篤な者でも、陸地の陣へ移すと半日ほどで力を取り戻す。張魯は医術の領域の外にあると断じた。いわゆる船酔いというものである。
 酩酊にも似た症状の原因は船の揺れにあるというが、調練では表面化しなかった問題だった。自ら櫓を漕ぎ、舵を取り、甲板上を駆け回っている間はあまり患うこともないらしい。滞陣し、ただ流れに揺られている今のような状況が一番酔うのだという。馬車でも御者をしていて酔う者は少ないが、車内の揺れに耐えられないという者は多い。同じことなのだろう。玄武池はそもそも水の流れも無く揺れが少なかったし、漢水での調練でもただ揺られているだけの時間などは設けていない。

「……」

 良案は上がってこなかった。
 春蘭が気合いがどうだと叫ぶも、華琳は黙殺した。気の持ちようや意識の置き所というのは確かに症状に関係しそうだが、気合を口にしたところでどうにかなるものではない。事実、当の春蘭自身が船の上ではこうして叫ぶ気力もなくなる有様なのだ。
 視線を移した。目に止まったのは、帽子を目深に被って丸くなっている雛里の姿だ。

「……雛里、何か思いつかない?」

「―――華琳さまっ、敵の軍師に何をっ!」

「そんな者に頼るくらいなら、私にお聞きくださいっ、華琳さまっ!」

「あわわっ、あのっ、そのっ」

 勢い込んだのは春蘭と桂花で、他の者はむしろ興味を引かれた様子で雛里に視線を注いでいる。今にも詰め寄りかねない春蘭と桂花、そして自分を注視する皆の目に、雛里が分かり易く狼狽して見せる。
 春蘭と桂花の雛里に対する敵愾心は相当なものがある。側仕えの従者としたことが気に入らないのだろう。桂花などはただでさえ劉備軍嫌いであるから、仇敵を見る目を向けている。いつも以上に遠征中の華琳の元へと伺候してくるのも、雛里の存在を気にしてのことだろう。

「それじゃあ聞くわ。桂花、何か良い案が思いついたのかしら?」

「ううっ、それは」

「ですから、気合で―――」

「―――春蘭、貴方は黙っていて」

「……は、はい」

「雛里。貴方、出身も軍略を学んだのも荊州だったわよね? 実戦の経験はなくとも、水軍について学ぶ機会もあったのではない?」

 消沈する桂花と春蘭は放置して、華琳は再び雛里へ水を向けた。

「ううぅ」

 雛里は思い悩んだ様子で顔を伏せた。

「相手は劉備軍ではなく孫策軍、諸葛亮ではなく周瑜よ。気に病むことはないわ。何より、あの孫武の後裔孫家に仕える軍師と、軍略を戦わせてみたいとは思わない?」

「そ、それは、…………」

 雛里が顎に手を当て、視線を下げる。何やら黙考する顔付きだ。

「ちょっと、華琳様のご質問に答えなさいよっ」

 桂花と春蘭が再び騒ぎ立てるが、それも耳には入っていない様子だ。華琳は二人を手振りで黙らせる。

「……連環の計、と言うのはどうでしょうか」

 しばしして、おずおずと雛里が切り出した。

「連環の計? 複数の計略を組み合わせるということかしら?」

「いえ、そういう意味で使われることもある言葉ですが、この場合はもっと単純です。例を挙げますと、華琳さん達が官渡で袁紹軍を破ったときにも用いた―――」

「―――連環馬。いえ、この場合は連環船か」

 先刻、雛里は水軍と騎兵の戦に通じるところがあると感想を漏らしていたから、そこから得た着想だろう。

「はい。船に用いた場合、揺れを減弱してくれるのではないかと」

「なるほど、船団を一つの巨大な船とするわけね」

 船酔いに倒れる者は、大型船よりも中型船の乗員から多く出ていた。船が小さくなればなるほど、揺れは大きく耐え難いものとなるのだ。

「―――よし、まずは十隻ほどで試してみましょう」

 暫時黙考の後、華琳は決断した。
 曹操軍の連環馬は、元を糺せば反董卓連合で劉備軍が呂布の騎馬隊を阻むのに用いた連結式の輜重車に由来している。雛里はその発案者だった。それ以来多くの戦果を生み出してきた策だけに、自然と引かれるものがあった。
 船酔い対策もさることながら、江上を荒野、水軍を騎馬隊と見立てれば、精強な孫呉水軍に対する有力な武器の一つとも為り得る気がする。鎖を広げて押し寄せれば、如何に機動力で上をいく孫呉の水軍と言えども容易く逃げ切れるものではない。ちょうど重装騎兵の虎豹騎で白騎兵を絡め取った時と同じ展開だ。あとは隣接した船同士、兵と兵とのぶつかり合いである。船酔いさえ無ければ、それはいつもの陸上の戦と変わりない。
 一つ懸念があるとすれば、敵軍による火計だった。鎖で連結させたことで、火を放たれた際には他の船にも容易く延焼するだろう。
 ただ、この地に陣を布いてから常に風は船団の背後、華琳達のいる本陣から江上へ向けて吹きつけている。火計は風上から仕掛けてこそ効果を発揮するもので、風下に位置する孫呉水軍が用いるとは思えない。

「華琳さまっ!!」

 春蘭と桂花が声を揃えた。

「なあに? やはり何か良策が思いついたのかしら」

「そ、それはっ」

「敵の案を入れるなどっ! 我らの誇りがっ!」

 言いよどむ桂花に代わって、春蘭が叫ぶ。

「いくら叩いてもその“ほこり”ぐらいしか出てこないから、雛里の案を入れるのじゃない」

「し、しかし、危険です。諸葛亮と示し合わせた策かもしれません。そもそも、鳳統をお側に置くこと自体お止めになるべきです。こちらの計略が敵に筒抜けとなりかねません」

 桂花が論調を変えてきた。

「船にとなると、連環馬の時と違って大掛かりな施行が必要でしょうし、元々相手に隠し通せるような策でもないでしょう」

 真桜に視線を投げる。

「大将の言わはる通りです。さすがに秘密裏に、ちゅうのは難しいですわ」

「だったらなおさら、こんな策はやめるべきです」

「相手に気付かれても、それほど不利益が出るわけでもないでしょう」

 華琳は先刻考えた連環船の利点、欠点とその対処法を口にした。

「……確かに有効な手に思えますが」

「むむむ」

 不服気ながらも、桂花と春蘭は連環の有用性は認めたようだ。特にこの一月余り船酔いに苦しめられてきた春蘭は、内心では飛びつきたいほどだろう。二人の心に引っ掛かっているのは、敵の軍師である雛里の立てた策と言う一点だけだった。

「それと従者の件は、すでに散々話し合ったことでしょう。私の側に置くということは、つまりは常に虎士の監視を受けるということよ。情報漏洩を恐れるなら、これほど安全な配置もないでしょう」

「それはそうですが」

 華琳にとっても、雛里が策を立てたことには大きな意味があった。
 自らの策で劉備軍と同盟関係にある孫呉の船団を討ち破ったとなれば、雛里も腹を決めるだろう。その才知に加えて桃香への当て付けという意味でも、雛里はいま最も欲しい人材の一人だった。

「真桜、早速鎖の準備を」

 話は終わりと、華琳は散会を命じた。





「これはこれは、お揃いで」

 劉備を先頭に蜀漢の面々が桟橋へ降りると、冥琳は慇懃に頭を下げた。先日とは反対に、今日は劉備軍の船団をこちらが出迎えていた。

「お邪魔します、孫策さん、周瑜さん」

「長旅お疲れ様。曹操の船団には出くわさなかった?」

 雪蓮は軽い会釈で劉備の挨拶を受けると問う。
 曹操軍本陣―――烏林の対岸に布いた孫呉の陣営である。巴蜀からの道程には今や曹操軍の水軍基地となった江陵があるし、当然互いの本陣を置いたこの地の周辺には警戒網が張り巡らされている。

「斥候の小舟を何度か見たから、襲撃を警戒はしていたんですけど、何も」

「軍旗は伏せてきましたから、孫策さん達の軍船と見られたのだと思います。江陵では、水戦では大勝だったのですよね? さすがに曹操さんも、今は水戦には慎重になっているのでしょう」

 劉備の答えを諸葛亮が捕捉した。
 黄祖の水軍を受け継いだ劉備軍の軍船は、長江流域で発展した造船術で造られている。孫呉の船がそうであるように、黄祖も多少の細工を加えていただろうが、外から眺めただけでは簡単に見分けはつかなかった。

「その江陵だけれど、せっかく譲ってもらったのに悪かったわね、劉備」

 雪蓮がきまり悪そうに顔を曇らせた。

「いえ、民のみんなはうちで元気にしていますから」

「そう言ってもらえると助かるわ」

 荊州北部から江陵へと逃げ落ちた二十万という人間は、予め巴蜀の地へ送り届けている。襄陽からの逃避行を経て気骨を育まれた反曹の民を城内に囲っていては、易々と放棄という訳にもいかなかっただろう。

「なんだか、慌ただしいところに来ちゃったみたいですね? 私達の船、お邪魔でしょうか? 移動させましょうか?」

 劉備が言う。桟橋には孫呉の兵が盛んに行き来している。

「少々斥候の数を増やしているところだが、小型船の往来には支障ないし、そのままで構わない」

「何かあったんですか?」

「曹操軍の船団が大掛かりな工作をはじめたので、その様子見だ。お得意の連環馬ならぬ、連環船とでも言えばいいのか」

「…………連環、船」

 冥琳の答えに、諸葛亮が顎に手を当て、視線を下げる。何やら黙考する顔付きだ。

「それにしても、本当に総出で来てくれたのね。―――ああ、そういえば新しく仲間に加わった子達がいないのか。馬超と、南蛮の孟獲だったかしら?」

「はい。翠ちゃんと蒲公英ちゃん―――馬超将軍と馬岱将軍には、西涼で曹仁さん達の足止めをお願いしてあります。南蛮の皆には、お目付け役に馬良ちゃんと馬謖ちゃんを付けて巴蜀の備えに残ってもらいました」

 劉玄徳の背後に控えるのは諸葛孔明に関雲長、張翼徳、趙子龍。曹操軍に囚われの鳳士元こそ欠けているが、いわゆる世に知られた劉備軍の面々である。他にも荊州の黄忠、厳顔、魏延の三人がいた。

「我らを囮に、西涼方面に領地を伸ばしてくれても良かったのだがな。天下三分とは、そう言うことだろう?」

 一つが一つを討ちに掛かれば、残る一つが手薄となった攻め手を討つ。互いが互いを牽制しあうことで生まれる拮抗状態こそが、諸葛亮と鳳統が冥琳に説いた天下三分の肝である。
 曹魏が孫呉を討ちに掛かれば、蜀漢のすべきことはこうして援軍を派遣することではない。戦力を割かれた西涼方面に軍を入れ、曹魏を攻め立てることだった。蜀漢の攻めが苛烈であれば、曹魏は孫呉討伐を諦め防衛に戦力を回さざるを得ない。
 孫呉と蜀漢の主力が一つ所に集まり曹魏と対峙する今の状況は、冥琳がかつて目指した天下二分と同じことだった。それは、諸葛亮らがすぐに破綻すると断じたものだ。

「分かっています。ですが今回の戦、周瑜さんは我々の牽制などなくとも勝つつもりなのでは?」

 諸葛亮が思索を切り上げ、顔を上げた。

「……負けるつもりで、戦を始める者などいないさ」

 諸葛亮が、満足げに肯いた。
 水戦は勝てる。冥琳の頭の中にあるのは、そこからどこまで勢力を伸ばせるかだった。
 水戦での勝利が足止め程度のものなら、江陵を取り戻すまでだろう。水戦で大きな損害を与えることが出来れば、襄陽まで手を伸ばせるかもしれない。あるいは雪蓮の騎馬隊の働き次第では、曹操の首すら狙えるだろう。

「しかし、だからこそ我らのことなど気にせずそちらも勢力を伸ばせば良いではないか。曹操の力が削られれば、それは結局我らの利するところにもなる」

「今の私達の力では、潼関に兵を籠められるとたぶん抜けません。潼関の裏を突く河水の渡渉点も、これからの季節は水量が増えて使えないという話ですし」

「漁夫の利で潼関以西―――雍涼二州を得るだけでは不満ってわけ?」

 雪蓮がずいっと諸葛亮に顔を寄せる。

「あ、あわわっ、そういうことではなく―――」

「―――それでは許まで届きません」

 虎の威勢に気圧された伏竜に代わって劉備が言った。

「許?」

 雪蓮が目を丸め、ぽかんと口を開けた。冥琳も気持ちは同じだったが、眼鏡を直す動作で誤魔化し、問う。

「……曹操軍の本拠まで落とすつもりなのか?」

「は、はいっ。曹操さんには河北四州まで退いてもらいます。それでこそ本当の意味での天下三分が成るというもの」

 虎の呪縛から解放された伏竜は続ける。

「私達だけの力では、西涼方面から中原まで兵を進めることは不可能です。孫策さん達だけでも、せいぜい襄陽辺りが限界では? ですが、主力を合わせれば―――」

「―――あーはっはっはっ!」

 虎の哄笑がこだました。諸葛亮はまた気圧されて、口を噤む。

「貴方達、良いわっ。そんな良い子ちゃんの顔をして、私なんか比べ物にならないくらい強気で強引で、強欲じゃないっ」

「孫策、貴様っ」

 雪蓮の放言に、関羽が柳眉を逆立てる。

「褒めているのよっ、関羽。ふふっ、良いわね、本当に良い」

 ひとしきり笑うと、雪蓮はさっと居住まいを正して言う。

「赤壁へようこそ。心から歓迎するわ」





「やはりお前だったか、順」

「陣中見舞いに来たよ、仁兄」

 面会を求めているという行商人を本営へ通すと、ひょいと顔を覗かせたのは想像通りの男だった。

「軍議中だったのか? 少し席を外していようか?」

 幕舎内には曹仁だけでなく副官の角と幕僚二人、それに従者の陳矯が揃っている。

「いや、議題というほどのものもなくてな。知った顔だけだ、遠慮するな」

 祁山に陣を布き、馬超と対陣中ではあるが決戦の様相には至っていない。
 陣中では槌音ばかりが喧しかった。祁山は雍涼東西の交通を高みより睨み据え、漢中と西涼の南北の連絡をも断ち得る絶好の位置に聳えている。これを機に要塞化を進めていた。

「そういうことなら」

 言うと、高順は気負いの無い足取りで幕舎の真ん中まで足を進めた。行商人とはいえ元は呂布軍で重装歩兵を率いた将軍である。軍議の席など慣れたものだろう。

「ご無沙汰しております、詠さんに角さん」

「しばらくね。貴方、また背が伸びたんじゃない?」

 角が軽く会釈を返し、詠も親しげな口調で受ける。
 二人とも高順が皇甫嵩の屋敷に暮らしていた頃からの付き合いだ。曹仁や恋、霞にとって弟分の高順は、二人にとっても親戚の子供程度には近しい存在だろう。

「どうでしょう? 商人としては、あまり大きくなるのも困りものなのですが。お客様を怖がらせてしまいます」

「ちょっと曹仁のやつと並んで立って見なさいよ」

「お断りだ」

 詠の提案を言下に切り捨てると、曹仁は陳矯に視線をやる。陳矯はすぐに察して駆け出すと、床几を一つ運んで来た。

「高順様、どうぞ」

「ありがとうございます、陳矯さん」

 高順はすぐには座らず、春華に向き直って頭を下げる。

「司馬懿殿も、御無沙汰しております」

「高順様、お久しぶりです」

「……よく春華、―――司馬懿だと分かったな」

 暗殺集団残兵の潰滅の後、春華は司馬家に引き取られるまでの数日間を皇甫嵩の屋敷で過ごしている。二人が会うのはそれ以来のはずだ。盲目の少女から妖艶な美女に変貌を遂げた春華に高順が驚く様を期待していた曹仁としては、少々拍子抜けの反応である。

「種明かしをしてしまうと、洛陽の豪商司馬家の次子仲達殿の名は、商人の間では有名だからね。その容貌も、最近曹操軍に仕えているということも」

「なるほど、そういうことか」

 商人でなくとも、洛陽に暮らしていれば司馬八達―――司馬家の八人兄弟の高名を知らぬ者はない。それが同じ商人ともなれば、その去就にまで目が行くのは当然と言えた。

「……それで、お前は西域からの帰りか?」

 高順が床几に腰を落ち着けるのを待って、曹仁は尋ねた。

「うん。といっても楼蘭までだけど」

 楼蘭は涼州最北西の敦煌郡―――つまりは中華の最北西―――と境を接した異国である。西域といわれる諸国の中では、東の端に位置している。

「何か珍しい物はあったか?」

「西域の物産自体は洛陽や許にも入っているから、物よりも人かな。羅馬人の商人を見たよ」

 しばし、高順の土産話に耳を傾けた。言葉が通じない相手と商談を交わす苦労話から現地の習慣や食事についてや、一時途絶えていた巴蜀の絹織物の扱いが増えているという少々気になる情報までが語られた。

「―――そうだ、霞さんは? 葡萄酒を買ってきたんだけど」

 話が一段落したところで高順が言った。

「残念ながらこの陣にはいない。華琳と一緒に江南攻めだ」

「そっか。それじゃあこれは、洛陽のお屋敷に置いとくか。皇甫嵩将軍に全部飲まれてしまわないように、隠しておかないと」

 洛陽の皇甫嵩の屋敷が、行商人高順の中原における活動拠点となっている。最近は恋や音々音も、曹仁が不在がちの許の屋敷よりも洛陽にいることが多いようだ。

「それにしても江南の戦となると、思うさま馬を走らせるというわけにもいかないし、霞さんは退屈してそうだなぁ」

「そうだな。特に今は湿地に囲まれた烏林ってところに陣を布いているから、大分苛々が溜まっているだろうな」

「烏林か。何もないところだったと思うけど」

 高順には商才があったのか、今では洛陽を中心に大陸中に手広く販路を伸ばしていた。こうして自ら動き回るのは半ば趣味のようなもので、人もかなり使っているようだ。元々は幸蘭の飛脚網を利用していた販路も、独自のものを作り上げていた。華琳の領内はもちろんとして、孫呉や蜀漢の領地にも人を入れているらしい。敵地の地理に関しては、下手な将軍達よりも遥かに精通していた。

「対岸に孫呉の船団が布陣しているから、それで睨み合いだな」

「対岸というと、赤壁か」

「……赤壁?」

 どこか聞き覚えのある単語に、曹仁はそのまま繰り返す。

「うん。確か烏林の対岸は、あの辺りの人からは赤壁と呼ばれているはずだよ」

「……それがどうかしたの?」

 無言で考え込む曹仁に、詠が尋ねる。

「……いや、赤壁の戦いというのがあった気がするな。位置からいって東周の時代、呉越の覇権争いの中での一戦だったか?」

「さあ? ボクは聞き覚えないわよ?」

 春華にも視線で問うと、頭を横に振った。

「詠も春華も知らないのか。すると、こちらの世界で聞いたのではないのか? しかし以前の世界で俺が聞きかじったことのある中国の戦なんて、せいぜい三国志くらいしか、―――っ!!」

「何を一人でぶつぶつ言っているのよ」

「……詠、華琳のこの戦、将来何と呼ばれると思う?」

「ん? そうね、普通に考えれば烏林の戦いとでも呼ばれるのではないかしらね?」

 曹魏の覇権を決定付けた戦ならば、華琳が本陣を置いた烏林の名で呼ばれてこそ確かにふさわしい。

「―――まあ、それも勝てばの話だけれどね」

 詠が冗談めかしく続けた。大軍を抱えた華琳が、今更寡兵を相手に負けるなどと微塵も考えていないからこその軽口だろう。
 そう、勝てば、の話だった。勝てば、その戦は烏林の戦いとして、華琳の覇業を語る上で欠かせない一戦として戦史に名を残すだろう。だが、もし逆に負ければ―――。

「きゃっ、い、いったいどうしたって言うのよ」

 猛然と立ち上がった曹仁に、詠が不満の声を上げた。



[7800] 第12章 第4話 強風
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/09/07 19:56
「ううむ、悪くないっ。これなら陸地と変わらぬぞっ!」

 華琳は旗艦の楼閣から、兵を引き連れ連環船の甲板を走る春蘭の姿を見下ろしていた。
 試作として中型船十隻を横繋ぎにしている。鎖で繋がれた舷側と舷側には板が渡してあって、船から船へそのまま駆け抜けることが出来るようにしてあった。

「ちっ」

 江上に響く春蘭の快哉に、桂花が舌打ちする。
 施工を終えたばかりの連環船の試乗を、春蘭の隊に命じていた。桂花と同じく雛里の献策には反対していた春蘭だが、揺れの少ない船上に気分は上々のようだ。

「真桜、他の中型船全てを同じように繋げる場合、工期はどれくらいになるかしら?」

「要領はつかめましたから、施工自体は工兵総動員で五日ももらえれば何とかなると思います。ただ試作分はあり合わせで間に合わせましたけど、もう鎖が」

 真桜が、ちらりと桂花に視線をやった。桂花は顔を背け、気付かぬ素振りだ。

「桂花」

「……わかりました、手配します。真桜、どれだけ必要なの?」

「こんなこともあろうかと! 書類にまとめときましたわ」

「はいはい。……何、こんなに必要なわけ?」

「そら、そこらの鍛冶屋が普通に作りよるもんでは、強度が足りひんですから。その分、数を増やさへんと。ほんま言うと全部ウチの工房で作りたいんやけど、それやと時間もお金もかかり過ぎるし、あかんでしょう?」

「当たり前よ。ここに滞陣しているだけで、一日にどれだけ掛かっていると思っているのよ」

 桂花と真桜が、書類を挟んで話し合いを始める。
 聞くとはなしに聞きながら、華琳は江上に視線を向けた。旗艦の前に十隻の連環船が並び、その先に中型船を中心に三重に組んだ味方の前衛。日によっては対岸の孫呉の本陣が見て取れるが、今日はうっすらと霧が立ち込め視界が良くなかった。その代り、こちらの前衛にかなり近い距離を孫呉の軍船が二十隻以上も漂っている。常にはない数で、孫呉も連環船を気に掛けているのだろう。数日前に合流が確認された劉備軍―――蜀漢の船も混じっているかもしれないが、見分けはつかなかった。

「……珍しいわね」

 靄の中を、他より二回りも大きな船影が目に付いた。斥候の船にしては珍しく、大型船だ。中型船を何隻か引き連れ、ちょっとした船隊と言って良い。

「―――曹操様」

 前衛の文聘から伝令が届いた。華琳の目にも付いた船隊に関する報告だった。

「黄の旗? すると黄蓋?」

 これまでの斥候と異なるのは、船隊の規模だけではなかった。将の名を冠した軍旗を堂々と掲げているという。
 孫策軍の将で黄姓と言えば、思い当たる名は黄蓋ただ一人だった。孫呉の宿将と呼ばれる人物だ。
 孫堅時代からの重臣である。袁術の客将に過ぎず寸毫の領地も持たなかった孫策にも、常に付き従っていた将だ。当時は実の妹の孫権すら遠ざけていたのだから、孫呉において格別に重きをなす存在なのは間違いない。孫策自身を孫呉第一の将軍とするならば、第二の将軍だった。

「……そういえば、ここまで黄蓋の名を耳にしていなかったわね」

 長く攻囲が続いた江陵や夏口の戦線に姿を現すことはなかった。ひるがえって思い返せば、孫策軍飛躍の戦となった夏口攻略や、その後の荊州南部の平定戦においても目立った戦功を上げたという話は聞こえていない。

「後方で輜重部隊を任されているとかー」

 風が答える。

「輜重? らしくないなぁ。そう思わない、雛里?」

「そうですね。前線の指揮を好まれる方です」

 蘭々の言葉に雛里が同意する。
 黄巾の乱では、皇甫嵩の官軍の元で劉備軍と孫策軍、そして曹仁の率いた一団は共闘している。その頃の孫策を周瑜と共に左右から支えていたのが黄蓋である。
 同じく苦楽を共にしてきた周瑜は、今も孫策の片腕としてほとんど軍の全権を委ねられている。引き比べれば、不当な扱いと言えるだろう。輜重は軍の大事とはいえ、長江を補給路として利用する孫呉にとって難しい仕事ではなく、つまりは黄蓋ほどの将が当たる任ではない。

「秋蘭。あれ、近付いてきてへん?」

「ああ、そのようだ」

 それに初めに気が付いたのは霞と秋蘭だった。
 ただでさえ一回り大きな船影が、見る間にさらに大きくなった。黄の軍旗が、旗艦からでもうっすらと視認出来るまでになる。中型船も五隻引き連れていた。

「……まさか、不遇を呪って投降などと言うことはないわよね?」

「黄蓋さんに限って、それだけはないと思います」

 雛里が言った。
 話している間に、前衛の船と黄蓋の船隊の間を矢が飛び交い始めた。前衛には、敵船が矢の射程に入れば迎撃するように命じている。

「するとこれも、威力偵察だとでも言うのかしら?」

 最前列の船が大きく揺らいで見えた。蒙衝まで持ち出してきたようだ。動きの鈍った船の横を抜け、黄蓋の隊が前衛の中へ入り込む。

「……華琳様、これはもはや偵察などではなく」

 稟が息をのみながら言った。

「ええ、たったあれだけの数で本気で戦いを挑んできているようね」

「十万の敵陣に百騎で突撃するようなものです。前線から遠ざけられた不満が暴走したというところでしょうか?」

「その百騎が曹仁の白騎兵や恋の赤兎隊なら、十万くらい断ち割るかも知れへんで、稟。見てみい」

 水戦には今一つ気が乗らず、ずっと詰まらなそうにしていた霞が愉快そうに言う。

「……もう火の手が」

 前衛の船数隻が、炎に巻かれていた。風下からの襲撃であるから大きく燃え広がる心配はないが、ただでさえ船酔いで精彩に欠ける味方の船は延焼を恐れてさらに動きが鈍った。そんな中を黄蓋の船隊だけが自由に動き回る。海賊退治で名を売った孫堅に仕えていただけあって、水戦の指揮は熟練していた。

「せっかくの機会だし、連環船の威力を試してみましょうか」

「それが黄蓋の狙いかもしれません。自らを死に兵として、こちらの秘策を暴こうとしているのでは?」

「あら、桂花は連環船を我が軍の秘策と認めるのね」

「そ、それは、……船上ではうーうー唸るばかりだった春蘭のあの調子を見えれば、効果の程は認めざるを得ません。―――口惜しいですけど」

「あ、あわわ」

 桂花は一度きっと雛里を睨みつけると、気を取り直して続けた。

「孫呉の将兵は船酔い対策を必要としないはずですが、連環が戦にも役立つと見れば真似てくるかもしれません。江上では溝を掘るわけにもいきませんし」

 麗羽がまさに、連環馬の模倣をやった。その時は曹仁が対抗策―――溝を掘って馬の足を払う―――を講じて、逆に袁紹軍に大損害を与えている。

「あー、それはないんじゃないですかねー」

 風が眠そうな目を擦りながら言った。

「何でよ? ……ちょっと風、居眠りしてないで答えなさいっ」

「おぉ、風としたことが。……まず第一に、連環船のぶつけ合いとなれば、孫呉はこちらに優る機動力も水戦での豊富な経験も捨て、ただの消耗戦に付き合うことになりますー。消耗戦となれば、こちらは華琳様の子房にして蕭何―――桂花ちゃんが後方に付いていますからねー」

「ふふっ、確かにね。わかってるじゃない、風」

 上機嫌の桂花にしらけた目を向けながら、風が続ける。

「もう一つは、んー、霞ちゃん。霞ちゃんは連環馬の威力を御存知ですけど、自分の騎馬隊に使いたいと思いますかー?」

「まさか。仁のやつかて、ほんまは気乗りせんかったと思うで。あないなことをさせるために、馬を躾け兵を鍛えてきたわけやないからな」

「孫呉の水軍も、霞ちゃんの騎馬隊と同じだと思うのですー。厳しく育て上げ、天下第一とも自負しているだろう水軍への矜持が、連環を認めないでしょう」

「なるほど、確かにそうかもしれないわね」

 気を良くしている桂花は、風の意見に素直に理解を示した。漢の建国三傑のうちの二人にまで例えられるというのは、曹魏における勲功第一と称えられたも同然である。

「さてと、早くしないとやるだけやって逃げられてしまうわね」

 言うべきことは全て風が言ってくれたので、議論は終わりと華琳は行動に移すこととした。

「春蘭っ、行けるわねっ!?」

「―――はいっ、華琳様っ!!」

 旗艦の楼閣でのやり取りが聞こえていたはずもないが、大声で呼び掛けると良い返事が返ってきた。

「では孫呉の宿将に、連環船と曹魏の大剣の威力を見せつけてやりなさいっ!」

「はっ!」

 連環船が動き出した。両端の船がいくらか前へ出て、中央を引く形となる。底の浅い皿のような船の並びは、連環馬の隊列にも似ている。連環馬は左右両端の一騎ずつにだけ兵が乗り全体を御するが、連環船の場合も全体の指揮を取るのは両端の二隻である。
 前衛の船が道を開け、連環船と黄蓋の船隊との距離が縮まった。遮るもののない江上で、船と船が迫る。
 黄蓋の船隊は初め、横へかわそうとした。しかし連環の指揮船二隻がぐんとさらに前へ出て遮りに掛かると、なすすべもなく両船隊はかち合った。
 十隻の中型船が黄旗を掲げた船隊にぐるりと絡みつく。みしみしと船体がきしむ音が聞こえるようだった。やがて二つの船隊は、分かちようがないほどに一体となった。
 春蘭隊の兵が、わっと敵船に乗り移っていく。一番に駆けて大型船の甲板に取り付いたのは、遠目にも映える艶やかな黒髪に赤の軍装、身の丈ほどもある大剣をかついだ将―――春蘭だった。

「弓の使い手と聞いていたけれど、剣の間合いでもやるものね」

 兵を下がらせ迎え撃ったのが敵将―――黄蓋だ。反董卓連合の時に、孫策の隣に立つ彼女を見た覚えがある。
 躍りかかった春蘭の剣がいくつも空を斬った。黄蓋は長弓を片手に、つまりは実質無手でひらりひらりと大剣をかわし続ける。

「旗艦前進っ!」

 食指が動いた。孫堅時代からの豊富な経験に、春蘭と対峙し得る武勇。そして曹操軍が強く欲している水軍の指揮にも長けた将である。
 戦闘の様相が、次第にはっきりと見えてきた。黄蓋が春蘭の攻めをいなしながら、矢籠に手を伸ばす。やはり大剣をかわしながら、矢を番え弓を引き絞る。―――刹那、黄蓋と視線が交錯した。

「季衣っ!」

 声と同時に中空で何かが弾ける音がした。直後、華琳の正面を守る季衣が鉄球を掲げる。やはり、何かが弾ける音。

「……今のは?」

「一射で二矢を放ってきました」

 秋蘭が矢を番え直しながら答えた。視線は黄蓋に据えたまま動かさない。

「貴様っ、この夏侯元譲の眼前で華琳様を狙いおったなっ!!」

 大型船の甲板では、春蘭がさらにいきり立って黄蓋を攻め立てる。怒りに任せた大振りながら、それくらいの方が伸び伸びと剣が走るのが春蘭である。
 黄蓋はさすがに無手では抗しきれず、背を向け、長江へと飛び込んだ。甲板に残っていた孫呉の兵もそれに続いていく。

「……船を出して追わせますか?」

 秋蘭が肩の力を抜いて聞いてきた。

「いえ、さすがに孫呉の者は泳ぎも達者なようよ」

 絡み合った船隊からかなり離れた水面に、ぽつぽつと何かが浮き出てきた。孫呉の斥候の中から、楯を並べた小型舟が何艘かそこへ近付いていく。

「一度に二矢を放ったと言ったわね?」

「はい。奇手や曲芸の類ですが、姉者と対峙しながらあの精度、あの威力は、もはや神業と言ってよいものでしょう」

 秋蘭が一矢を中空で射落とし、季衣がもう一矢を鉄球で弾いたということだった。秋蘭が気付かなければ、一矢は防げても残る一矢はこの身に届いたかもしれない。

「秋蘭、貴方でも難しい?」

「はい。劉備軍の黄忠や他の使い手でも同じでしょう。特異な工夫を加えた黄蓋独自の技かと」

「そう。―――しかし、あれほどの武将が後方支援に今度は偵察とはね。周瑜の目が曇っているのか、仲違いでもしたのか。……二人の仲はどうだったの、蘭々、雛里?」

「憎まれ口を叩き合うこともあったけど、仲はすごく良かったですよ。ねえ、雛里」

「はい。周瑜さんのおむつを替えてやったことがあるだなんて、冗談で口にしていました」

「そうそう、傍から見ているとまるでだらしない母親としっかり者で口うるさい娘みたいな感じで―――、ああ、そっか。どっかで見たような二人だと思っていたけど、華琳様のところの親子と似てるんだ」

「へえ、私のこと口うるさいなんて思っていたのね、蘭々」

「へっ? いや、違いますよ。それはあくまで周瑜さんの話であって」

 言い訳を始めた蘭々を捨て置き、桂花に視線を転じた。

「真桜の希望通りの品をすぐに手配して頂戴」

「はいっ」

 中型船十隻で、大型船一隻に中型船五隻を道連れとした。まずは十分な戦果と言って良かった。風の言った通り、五分の犠牲を強いていけば兵力と物量の差で抑え込める。冴えたやり口とは言い難いが、水軍の戦ではこちらが格下という事実は受け入れねばならなかった。
 その日のうちに桂花は急ぎ襄陽へ取って返すと、五日後には荊州北部の街々から烏林へ鎖が運び込まれ始め、十日で真桜所望の数が揃った。並行して進められていた連環船の施工は、その翌日には全てを完了した。決戦へ向け、陣営内の気運が否応なく高まりを見せ始める。
 黄蓋の書簡を携えた密偵が本営に連行されてきたのは、そんな日の深夜だった。
 健康的に日に焼けた小柄な少女である。愛らしい顔立ちをしているが、虎士に囲まれてなお平然としていた。大胆不敵というよりも、感情を殺したような無表情だった。
 少女は誰にも咎められることなく本営の側近くまで入り込むと、自ら見回りの兵に名乗り出たという。

「よくもまあ、ここまで忍び込んで来たものね。まるで忍者のようだわ」

「……にんじゃ?」

 少女は無表情のままわずかに首を傾げた。

「いえ、何でもないわ」

 曹仁から聞かされた彼の国の間諜が思い起こされた。水上を歩き、地中に潜り、空を飛び、気取られることなく城主の寝室の屋根裏に忍び込むという。

「……ふむ」

 ざっと書簡へ目を通した。簡単に言えば都督周瑜への不信と、孫堅への追慕に今の孫呉への不満、そして投降の申し入れだった。
 稟、風、将軍達、それに雛里にも回し読ませた。ただし、文官筆頭の桂花が不在であれば当然一番に目を通すべき武官筆頭の春蘭だけは、後回しにさせるように秋蘭に目配せする。

「貴方、書簡の中身について聞かされているの?」

 眼前の少女は孫呉の間諜とだけ名乗り、黄蓋の私臣であるとは言わなかった。華琳を前にしても、媚びるような素振りは一切見せない。

「いいえ。祭様―――黄蓋様に、個人的に届けてほしいと頼まれただけですので、中身に関しては何も聞いていません」

「そう」

 密偵の少女は黄蓋から真名を預かるほどに可愛がられているようだ。本営まで忍び寄った抜群の技量を思えば、さもありなんというところだろう。

「―――私たちに投降すると言って来ているわよ」

「へっ」

 少女の表情が初めて大きく崩れた。

「―――はっ! 騙さそうとしても無駄です。黄蓋様に限って、投降など絶対にありえませんっ」

 少女は首をぶんぶんと振って無表情を取り戻すも、声の調子に感情が漏れている。敬愛する先達を侮辱された憤りだ。孫呉の人間にとって、黄蓋の投降など端から有り得ない話なのだろう。

「ふふっ、冗談よ。わざわざこんなところへ書簡を届けさせてまで口汚く罵られれば、少しは意地悪をしたくもなるじゃない。―――黄蓋は、私のせいで周瑜に痛めつけられたことが、よほど腹に据えかねるようね」

「…………」

 少女は今度は無表情で沈黙を保ち、特に否定も疑念も差し挟まなかった。
 黄蓋が先の襲撃―――独断であったらしい―――の咎で周瑜に棒打ちを命じられたというのは、本当のことのようだ。悪し様に周瑜を扱き下ろす文言とともに書簡に記されていた。

「このような文に、わざわざ返書をしたためる必要もないわね。一字一句違えず、黄蓋に伝えなさい。―――借りを返したいというのなら、掛かって来るがいいわ。私はいつでも受けて立つ」

 少女は生真面目な性格らしく、何度か小さく復唱してから頭を下げた。

「密偵殿はお帰りよ。陣営の外まで送ってさしあげなさい」

 虎士に囲まれたまま、少女はもう一度一礼して本営を辞した。

「……あの御返答、お受けになるということですか?」

 しばし間をおいて、稟が口火を切った。
 “周瑜”に借りを返したいのなら、いつでも“投降”を受け入れる。黄蓋にも過たず華琳の意図は伝わるだろう。

「あれほどの将が降ると言ってきているのだから、受け入れないなんて話はないでしょう」

「―――ううむ、そうか、あやつも苦労しているのだなぁ」

 そこでようやく書簡を読み終えた春蘭が涙交じりに言った。

「しかし、周瑜の奴め。先代孫堅が築き、孫策が取り戻した孫呉を、まるで我が物とでも言いたげな勝手し放題とは。許せぬな」

 春蘭が我が事のように憤る。
 孫堅の非業の死と今の孫呉への不満を書き連ねた黄蓋の語り口は、確かに心を打つものがあった。武一辺倒の猛将の類ではないようだ。

「周瑜の策略ではないでしょうか?」

「なんだとうっ、稟。この文にちゃんと目を通したのかっ? 志を捧げた主君を失った悲しみ。期待を寄せた若き主が、口ばかりの軍師に言いくるめられる現実。黄蓋の悲憤は如何ばかりかっ」

 春蘭が叫ぶ。
 孫堅と孫策を華琳に、周瑜を桂花に置き換えて想像でも巡らせたのだろう。少々入れ込み過ぎだった。

「策があるなら策ごと打ち砕くまで。……と言いたいところだけれど、慣れない水戦で無理は禁物ね。―――蘭々、雛里、貴方達の意見は?」

 華琳は黄蓋を知る二人に水を向けた。密偵の少女も含め、今のところ黄蓋の文に信を置いているのは春蘭だけなのだ。

「やっぱり信じられません」

「……」

 きっぱりと言い切った蘭々に対して、雛里の答えは沈黙だった。

「雛里、先日は投降するはずがないと言っていたわよね?」

「……はい。しかし策略と考えるには、あまりに不適当な人選。あの周瑜さんにしては手回しが悪過ぎます」

「そう深読みすることも見越しての策なのでは?」

「黄蓋さんは孫策さん達とともに長らく袁術の客将を務めていましたよねー。敵陣に潜むのはお得意かもしれませんー」

 稟と風が口を挟み、軍師三人での討論が始まった。桂花とは異なり、この二人は劉備軍が居候中の頃から雛里とは親しい付き合いを続けている。
 やはり三者とも黄蓋の投降には半信半疑なれど、雛里は信に傾き、稟は疑に、風は中立という立場を取っている。いずれも強い確信は持てずにいるから、議論はやがて平行線となった。

「―――まずは会いましょう。判断はそれからでも遅くはないわ」

 華琳は結論付けた。
 元より黄蓋ほどの将を会うこともなく拒絶するという選択は華琳にはない。その心の内にあるものが何であれ―――例え自らを打ち破ろうとする謀の類であれ、丸ごと飲み込む。それが自分の覇道であり、乱世の楽しみ方というものだ。

「……そうね、私自ら前線で出迎えましょう。風上の本陣まで導いたところで、先日のように火矢を射立てられては堪らないわ」

 ばたばたと風が幕舎を打つ音が耳につき、言い足す。長江を吹き抜ける北風が、数日前から強くなっていた。





 赤々と篝を焚いた船隊が、対岸烏林へ向かっていく。朱里は断崖―――赤壁の地名はこの崖の名から転じたものだという―――の縁に立って、それを見送った。

「お前もここにいたか」

「周瑜さん」

「軍師としては、楽しくも辛い時間だな、諸葛亮」

 朱里は無言で頷いた。こうして将軍達を送り出してしまえば、軍師にはもう出来ることがない。

「しかし、よくこんなことを知っていたな」

 周瑜が隣に並んだ。強い向かい風に、長い黒髪が背後へ靡く。

「昔、水鏡先生の私塾で読んだ荊州の風土記に書かれていました」

―――強風が五日続いた後、勢いそのままに風向きが裏返る。

 荊州は孫呉にとってもまだ馴染みの薄い土地である。朱里がもたらした情報の裏付けを取るために、周瑜は周辺の村々に人をやり長老達を訪ねて回らせたらしい。そして、確かにわずか一夜、風が裏返るという確信を得たようだ。

「風土記か。よくも覚えていたものだ」

「雛里ちゃんが、思い出させてくれました」

「鳳統が?」

「連環船と聞いた瞬間、すぐに火計が思い浮かびました。それは、周瑜さんも同じはず」

「ああ。しかし我らの陣取るこの地は風下。せいぜい前衛の十隻二十隻を燃やす程度の戦果を期待しただけだった、風の話を聞くまではな」

「私には雛里ちゃんが火計を用いよと、連環船に火計を“連環”して大勝せよと、そう言っているように思えました。それで、風のことを思い出せました」

 本来、連環の計とは鎖で馬や船を連結させることではない。より大きな戦果を生み出すため、複数の計略を重ねることだ。
 船の連結が孫劉連合にとって第一の策であり、火計が第二の策。周瑜はこれを好機と見ると黄蓋を呼び寄せ、火計にさらに偽りの投降という策を上乗せた。後方へ回して曹操軍の警戒の目から逃れていた黄蓋は、周瑜の切り札の一つであっただろう。

「それで鳳統か」

「はい。私は今回、雛里ちゃんの策に従って動いただけのことです」

 曹魏の間諜を警戒して、ここまで作戦に関して話し合う場は設けてこなかった。
 朱里からは風の話を周瑜に伝えただけだ。呉蜀は互いに探り合いをしているが、周瑜と黄蓋も今夜という期日を除いて細かな取り決めを交わした様子はない。
 敵陣の雛里も含め、一つの結果に向けて各々の判断で動いた。
 火計をより効果的にするためとはいえ、雛里の連環船は曹操軍の将兵の船酔いを解消し、欠けていた水戦での打撃力をも与えた。
 投降の真実味を増すために、黄蓋は曹操軍に無謀な攻撃を仕掛けて船を失うという失態を演じた。
 周瑜もまた、孫呉の宿将黄蓋の棒打ちという兵の信望を失いかねない処罰を断行した。
 いずれの行動も単独では呉蜀の不利となりかねないものだが、全てが連環し一つの策をなしている。朱里に出来たのは、雛里の意図を読んでほんの少し策の後押しをすることだけだった。

―――もしかすると雛里ちゃん、心のどこかで曹操さんが勝っても良いと思っているのかも。

 そこでほんのわずかに過った疑念を、朱里は胸中に留めた。
 風のことがなければ、連環船は曹操軍に利するところの方が大きい。元々船酔いに弱った兵と水夫達が相手であれば、多少の犠牲は出しても孫呉の水軍は勝利をおさめられたはずなのだ。
 そして曹操軍が連環船の施工が開始したのは、劉備軍が孫呉に合流する数日前だった。献策した時点では、雛里には朱里が赤壁に現れるという確信はなかっただろう。この機に一気に許を落として曹操軍と並び立つというのは桃香の意向で、当たり前の軍略からすれば蜀漢の主力は西涼に軍を進めている。
 いつの頃からか、雛里の中で曹操―――というより曹操の描く未来―――の存在が大きくなっていた。それでも自分に付いて来いと、そう力強く桃香が言えば雛里が迷うこともないだろう。しかし桃香は、雛里自身の選択を尊重しようと考えている。それは桃香の優しさであるが、明け透けに自分を求める曹操の強引さが雛里の性格には心地良くもあるだろう。
 朱里自身もまた、曹操の施策の数々に心を躍らした人間の一人である。
 学校で子供達を相手に教鞭をとった時、自分の知らない新しい世界が目の前に広がっていくのを感じた。それは心地良い快感と言って良かった。曹操の天下は、朱里の予想の外にある。曹仁から聞かされたという天の国の話を多分に取り入れているというから、この国の史書をどれだけ学んでも想像が付かないのは当然のことだった。おそらく曹操自身にも正確な未来予想図など無く、多少なりとも想定が出来ているのは曹仁だけだろう。
 しかし曹仁の国で上手くいったことが、この国でも上手くいくとは限らない。まして本来長い時間を掛けて辿る道程を、曹操は己が代、それもわずか数年の内に成し遂げようとしていた。事実、性急な改革に付いていけずに反曹に走る者も少なくない。
 そんな先の見えない未来を、朱里は危険と判断した。雛里は、興味の対象としたようだ。進む道も志も二人同じと信じて疑わなかった雛里との間に、微妙な齟齬を感じたのはその時が初めてだった。

「どうかしたのか、諸葛亮?」

 周瑜が顔を覗き込んできた。憂いが表情に出てしまっていたようだ。

「いえ、なんでもありません。……そういえば、孫策さんは?」

 ふと思い立ち、尋ねた。周瑜にも断金の交わりと称えられた親友の孫策がいる。

「もう出立した。あまり無茶をしないと良いのだが」

「ご心配なら付いて行くことも出来たのでは? 周瑜さんなら、前線に出られても大丈夫でしょう?」

 周瑜は帷幕にあって軍略を練るだけの軍師とは異なり、剣を取り用兵を駆使して敵陣を打ち破る将軍の顔も持ち合わせている。

「私まで本陣を離れてしまっては、不測の事態に対応出来ないからな。雪蓮は雪蓮の、私は私の場所でせいぜい働くさ」

「孫策さんは孫策さんの、周瑜さんは周瑜さんの場所で、ですか」

 敵味方に分かたれ、志にまで食い違いが生じ掛けている自分達と同列で語れる話ではない。しかし朱里はいくらか目を開かされた思いだった。
 自分と雛里はこれまで、あまりにも二人同じであり過ぎたのかもしれない。同じであることと友情とは、また別の話だった。そう、それこそ性格も志も正反対を向いた桃香と曹操が、奇妙な友情で結ばれているほどなのだから。

「―――っ」

 背中を押された。そう感じたのは、朱里の錯覚ではなかった。背後からの強風に、周瑜の黒髪も舞い上がっている。
 軍師二人が固唾を呑んで見つめる対岸の闇が紅く染まったのは、それから間も無くのことだった。



[7800] 第12章 第5話 敗走
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/10/16 20:46
「華琳様、こっちですっ」

 泥だまりを、季衣に手を引かれながら歩いた。隣では流琉が、絶影と自身の乗馬二頭分の轡を取って進んでいる。朝日に照らされたその顔は、さすがに疲労の色が濃く表れていた。
 江陵へ向け撤退を始めてから、すでに半日近くも経過している。ここまでの道中、距離にして半分、時間にして大半を馬を降り自らの足で歩いていた。膝まで沈む様な泥濘で、騎乗のまま無理に進めば馬を潰すことになりかねないのだ。
 ここまで悲惨な敗走はいつ以来だろうか。華琳は記憶を探り、これが初めてであることに気付いた。呂布との戦では赤兎隊に本陣を落され、百里余りも後退し一万以上を追い打ちに討たれたが、これほど惨めな思いをすることもなかった。敗走ではなく、あくまで陣を立て直すための後退という気構えを持っていたからだ。
 目をつぶると、赤く染まる長江が目蓋の裏にまざまざと蘇ってくる。
 黄蓋の船隊は、書簡に書かれていた通り堂々と篝を焚き、華琳の旗艦へと近付いて来た。それは曹操軍へ向けた合図であり、孫呉の宿将の投降を両軍に知らしめるための光明であるはずだった。それはそのまま、火計の火種となった。
 旗艦から篝に照らされた黄蓋を認めた直後、炎が逆巻いた。季節外れの東南の風だった。そこからは一瞬である。黄蓋の船隊は火矢を撒き散らし、自ら炎に巻いて突進を繰り返した。火を合図に大挙して攻め寄せてきた孫呉の軍船が、さらに追い打ちを掛けた。
 前衛の連環船に炎が燃え移ると、残る後続の船に退路は残されていなかった。なかんずく旗艦は、火矢を集中されている。早々に放棄せざるを得なかった。
 旗艦に乗り合わせた諸将、軍師が無事危地を脱することが出来たのは、季衣と流琉の操るすくりゅうの快速船のお陰だった。さしもの孫呉の小型船も追いすがれはしなかった。無事烏林の本陣に逃げ落ちたが、それで安心という訳にはいかなかった。曹操軍の軍船を次々と巻き込み、炎が陸上にも迫っていた。どころか燃え移るまでもなく、陣営内で火の手が上がった。火矢に使う油を保管していた幕舎が爆炎を上げたのだ。黄蓋の使いとして現れた密偵の少女の顔が、華琳の脳裏に過った。本営に迫ったあの少女なら、物資の保管庫に潜り込むなど造作もないことだろう。
 陸上部隊の兵力なら、まだ圧倒していた。歩兵だけでも二十万近くを動員しているのだ。孫呉と蜀漢の兵は、合わせて十万といったところだろう。一時本陣を守り抜くことが出来れば、盛り返すことも出来るかもしれない。しかし、逡巡は一瞬だった。華琳はすぐに江陵への撤退を命じていた。
 結果、それは曹操軍の被害を最小限に留めることとなった。東南の強風にあおられた炎は、すぐに烏林全域におよび、周囲の湿原をも舐める大火となったのだ。

「―――華琳様、華琳様」

「何かあった、季衣?」

 季衣に肩を揺すられた。鼻の頭に付いた泥を指で拭ってやりながら、問い返す。

「えへへっ。……少し休息を取りたいのですが」

「私ならまだ平気よ」

 いつの間にか泥濘を抜けていた。大地が―――さすがにいくらか湿り気を帯びてはいるが―――足元にしっかりと横たわっている。
 泥濘を進む間は目を伏せ、季衣に手を引かれるままに足を動かしていた。要らぬ心配を掛けてしまったかもしれない。

「兵の皆がぬかるみを抜けるのを、少し待ちたいんです」

「そう、なら任せるわ」

 季衣に促され、木の幹に背を預けて腰を降ろす。どっと疲労が押し寄せてきた。虎士に半ば抱えられるようにして連れられてきた稟と風、雛里が近くにへたり込む。
 烏林から江陵まではおおよそ四百里(200km)。五十里ほどは進んだのか。常の行軍ではないので、判然としない。

「―――華琳様、華琳様」

 少し微睡んでいたようだ。今度は流琉に肩を揺すられた。

「湯をお持ちしました」

「ありがとう、流琉」

 やはり頬にはねた泥を拭ってやりながら、受け取った。
 ただの白湯ではなく湯(タン)だった。塩漬けの干し肉がわずかに浮かぶだけだが、飲み下すといくらか活力を取り戻せた気がした。

「斥候は戻っている?」

「はい。今のところ周囲十五里以内に敵の姿はありません」

 火計に敗れたが、烏林を覆う炎は追撃の兵を遮る障壁ともなってくれた。火勢がいくらか衰えるまでは、孫呉も陸上部隊を送り込めはしない。
 馬を見て回る蘭々の姿が見えた。周囲を囲む他より一回り大きな馬群は、馬甲を解いていても虎豹騎の乗馬と分かる。虎士と虎豹騎、それに本隊の一万騎だけで駆けてきた。

「他の隊の状況は分かる?」

 それぞれの判断での撤退を命じていた。雲夢沢には、大軍が一度に通過出来るような道は存在しない。沼沢を縫って道とは名ばかりの泥濘を進むしかないのだ。

「南に十里ほどの位置に霞さんの隊が。他は……」

 流琉が小さく首を振った。
 重装歩兵の凪、工兵の真桜、新兵が中心の沙和の隊にはかなり厳しい道行きだろう。春蘭と秋蘭はその三隊よりもさらに後方のはずだ。江南へ送り込む予定であった十数万の兵を抱えているし、二人は次の戦に備えて出来る限り水夫を回収しようとしていた。それを止めはしなかった。秋蘭が付いていれば炎に巻かれる様な不手際もないだろうし、呉蜀の追撃もあえて大軍に狙いを定めはしないはずだ。狙うなら、曹孟徳の首一つだ。

「華琳様、そろそろ出立しましょう」

「ええ」

 季衣に促され、絶影に跨った。そこから十里ほどは騎乗のまま進み、また泥濘へ入った。
 気付けば日が落ちている。敗戦から、おおよそ一日が過ぎたということだ。足元の悪い湿原に加え夜を徹しての行軍であるから、脱落者も多く出ていた。一万の本隊はすでに八千近くまで数を減らしているという。蘭々が申し訳なさそうに報告してきたが、華琳が思うよりもそれはずっと良い数字だった。先導は季衣で、兵の統率は蘭々に任せていた。華琳自らが指揮をとっていれば、逸るままに馬を走らせてずっと多くの脱落者を出しただろう。馬も潰していたかもしれない。二人は、自分などよりよほど自軍の兵馬を理解している。
 明け方、斥候が駆け戻ってきた。

「十五里後方に、関羽と趙雲か」

 陸戦ならやはり孫呉よりも上手ということか。斥候が捉えたのは孫策でも黄蓋でもなく、劉備軍の勇将二人であった。
 敵の位置を把握したところで、やることは変わらない。とにかく前に進むだけだった。季衣達は斥候を盛んに発して後方を探らせながらも、決して馬を急がせはしない。それまでと変わらぬ足並みを維持した。斥候が戻る度に一里、二里と距離を詰められた。こちらは分かれ道に至る度に前方を確認しながらの進軍だが、追う方は泥濘に残る足跡を辿れば良い。初めから追撃を想定していた兵と、思わぬ敗走に至った兵の違いもあるだろう。
 季節外れの東南の風は一夜吹き続け、今は北風が戻って来ている。孫策軍と劉備軍はこちらに痛撃を与えられる唯一の機を活かすべく考えに考え抜いたのだろう。
 自分は、そこまでこの戦を見据えていただろうか。思えば何故、孫子言うところの泛地―――陸の孤島とでも言うべき烏林に本陣を置いてしまったのか。
 仮に水軍で多少劣勢に追い込まれようと、陣を払わねばならない程の大敗など想定もしなかったということだ。これまでも敗北を考えて戦などしてはこなかったが、今回は水軍では劣ると認識しながらなお、大軍を有する自分に負けはないと高を括ってはいなかったか。
 官渡で劣勢を覆し麗羽を破り、中華の覇者を自認して久しいが、常に四方に敵を抱え生温い戦はしてこなかった。それが荊州北部を手もなく降し、西涼を鎮めたことで、残る敵は桃香と孫策の二人にまで絞られた。兵力を恃み、あとは如何に手早く乱世を治めるか、そんな先のことばかりを考えてはいなかったか。
 また斥候が戻った。関羽と趙雲との距離は十里を切っている。
季衣と流琉が見つめ合い、一つ頷き合う。

「華琳様、私に三千騎を貸してください」

「―――ちょっと、流琉っ。それ、ボクが言おうとしてたのにっ」

 流琉が言い、季衣が遮るように叫んだ。

「殿軍の指揮なら、俺の方が適任だろう」

 蘭々も名乗りを上げる。季衣と流琉は親衛隊の隊長と副隊長であり、厳密に言えば兵を率いる将軍とは立場が異なる。

「季衣は虎士の隊長なんだから、隊員と一緒に華琳様を守らなくちゃいけないでしょ。蘭々には虎豹騎と本隊の指揮があるし」

「そんなの副隊長の流琉がやればいいんだっ」

「いや、流琉が虎豹騎と本隊を指揮すれば良いっ」

「二人とも、今は華琳様を江陵にお連れすることだけ考えて。虎士の隊長は誰? 私たちの中で、一番本隊の騎兵を上手く指揮出来るのは?」

 流琉が諭すように言うと、二人は口を噤んだ。

「大丈夫、無理をするつもりはないよ。十分に時を稼げたなら、それで投降するから。関羽さん達なら、たぶんすぐに処刑したりはしないと思うし」

「―――そういうことなら私達が残ります」

 虎士に肩を借りながら稟と風、軍師二人が這い寄って来た。

「……貴方達が?」

「星―――趙雲とは知った仲ですし、私達なら仮に虜囚となっても無下には扱われないでしょう」

「それに正直に言いますと、この逃避行は風達にはきついのですよ~。ほどほどにお役に立って、あとはのんびり休みたいのです」

 稟の言葉に、さらに補足するように風が言い足す。
 行軍に限界を感じているのは事実だろう。二人はいざという時に虎士の、ひいては華琳の足手まといになることを避けようとしていた。

「……分かったわ。二人とも、無理はしないこと。無事に私の元に戻ったなら、望むままに褒美を取らせましょう」

「ももっ、勿論です。華琳様に捧げたこの頭脳、こんなところで無駄に散らすつもりはありませんっ」

 褒美と言う言葉に反応したのか、稟が鼻を指で抑えながら答えた。くぐもった声で続ける。

「でっ、では風、もう三里ほど進んだ先にしましょう。埋伏に適した地形があったはずです。私が正面に残って囮となりますから、風は伏兵の指揮を」

「のらりくらりとした用兵が得意な星ちゃんがいますから、いっそ十隊くらいに分けて伏せて、もみくちゃにしてやりましょう~」

 稟と風が早速作戦を口にする。
 そこからは無言で進み、三里先で三千騎を切り離した。季衣に促されるまま、本隊は粛々と足を進める。
 再び斥候が敵を捉えたのは、丸一日が過ぎた頃だった。関羽の隊のみで、趙雲の姿は見られないという。

「稟と風は十二分に時を稼いでくれたわね。とはいえ―――」

 江陵に至る道行きの、最後の難所に差し掛かっていた。華容道と呼ばれているが、道とは名ばかりの泥濘である。左右には丘陵が佇み、谷合いを流れる泥の川といった様相だ。丘には樹木がびっしりと密生し、人馬が通り抜ける間隙はない。迂回するには、丘陵を避けて大きく回り道を取る必要がある。
 関羽に追いつかれるより早く、泥濘を抜けるしかなかった。

「行きますっ」

 季衣が一つ気合を入れると、膝まで沈む泥濘の中に足を踏み入れた。季衣に手を引かれて進む自分は、ずいぶん楽をしている。泥はすでに踏み分けられているし、牛の尾を取って引きずり歩くと噂される季衣の力強い腕に引かれていた。
やがて後方に争闘の気配を感じた。向き直って迎え撃つべきかとも考えたが、手を引く季衣が足を止めない。華琳は身を任せることとした。
 しばしして、後方から報告が上って来た。本隊が追い付かれたのではなく、霞の隊が関羽の進行を遮って交戦に入っているという。前へ進む足は止めずに華琳は聞き届けた。

「―――っ」

 一歩また一歩と着実に歩を進め、ついに泥濘を抜け出た。湿原もここまで、あとは平地を十数里で江陵へ辿り着く。
 季衣はなおも馬を必要以上に駆けさせはしなかった。周囲に斥候や伝令は盛んに放っていて、馬が潰れる覚悟で思い切り駆けさせるのは彼らだけだ。
 江陵の城が見えてきた。さすがに気が急いたが、季衣は馬を急がせるどころか速度を落とし、ついには完全に足を止めた。

「どうしたの、季衣」

「何だか様子が変です。江陵には伝令を送ったのに、静か過ぎます。城壁からはボク達がもう見えているはずなのに、迎えの兵を出す様子もありません。―――っ」

 城壁に一斉に軍旗が立った。孫の旗。中央に靡く牙門旗も、孫の字だ。

「孫策。いえ、意匠がすこし異なるわね。―――すると孫権」

 目を凝らせば、孫の牙門旗に甘の旗が寄り添っている。孫権の腹心として知られる甘寧であろう。

「いつの間に」

 蘭々が虎豹騎を華琳の前面に展開しながら呟く。

「赤壁に滞陣している間は、孫呉水軍に上流を抑えられないように長江を遡上する船には注意を払わせていたわ。だから江陵攻めの兵を送り込んだのは、あの大火の後ということになるわね」

「でもまだ、三日と経っていません」

「ええ。移動の時間、下船や入城の手間を考えると、ほとんど瞬く間に江陵は落とされたということでしょうね」

「そんなことが。こっちは半年以上も攻囲を続けたっていうのに」

「いやにあっさり手放すと思ったら、何か細工でもしてあったのでしょうね」

 孫呉には敢死軍、解煩軍と呼ばれる特殊部隊が存在するという話もある。件の密偵の少女がそれだろうが、詳細は捉えきれていなかった。ここでもまた何かしらの影働きがあったことは想像に難くない。

「あれが孫権。それに甘寧かしら」

 牙門旗の元に人影が二つ並んだ。いや、一人を付き添わせ、一人が立ったというべきか。

「兵馬を休ませておきなさい。まとまった休息を取れるのはこれが最後、ここからは襄陽まで駆けることになるわよ」

 江陵を落とされた以上、周辺の小城も当てにはならない。桂花の守る州都襄陽まで引かねばならなかった。
 かつて桃香を追った三百里の行程を、今度は自分が逆しまに追われることになる。江陵まで逃げ切ればと、ここまでわずかな小休止のみで二日と半日進んできた。騎馬隊のみだが憔悴しきっており、追手は間近、行く手に伏兵も待ち構えているかもしれない。二十万の民草を引き連れた桃香にも劣らぬ、否、それ以上に厳しい道行となろう。

「ちょっと、華琳様っ」

 絶影を城へ向けた華琳を蘭々が制止する。

「大丈夫よ。ここでの襲撃が目的なら、味方を装い城まで招き寄せているでしょう。―――季衣、流琉、護衛してちょうだい」

「はっ」

 兵は城まで一里の距離に留め置き、虎士を引き連れて百歩の距離まで迫った。

「―――孫権かっ?」

 疲労した身体に活を入れ、華琳は叫んだ。

「ええっ。孫文台が次子、孫仲謀よっ!」

「まずは見事と誉めておきましょうっ! 我が目を盗み、よくぞこそこそと我が城を掠め取ってくれたわ!」

「―――っ」

 あからさまな挑発の言葉だが、遠目にも孫権の総身に怒気が漲るのが分かった。
 苛烈な武人の姉に対して妹は真面目な文官肌と聞いていたが、虎の娘だけあって荒ぶる気性を秘めているようだ。どこか飄々とした姉よりも、真面目な分だけかえって激しやすいくらいかもしれない。

「―――江陵は、いいえ、荊州はっ、我ら孫呉が治めるべき土地よっ。揚荊二州は長江の恵みの元、一体となるのが自然な姿だっ。曹操よっ。中原の王よっ。貴方達は河水と共に生きなさいっ。我ら孫呉の民は長江と共に生き、この地と共に栄えるっ!」

「……ふむ、面白い」

 怒気を飲み下し発した孫権の言葉は、確かに文官の発想から生まれたものだ。
 孫策や周瑜は、武人の視点で長江以南を孫呉の土地と定めた。たった一度の敗戦で、揚州北部の地を易々と曹操軍に明け渡したのだ。長江を強固な防衛線と考えたからだ。しかし文官として土地を治める立場で考えれば、長江の北岸も南岸も同じ水源の恵みを受ける一体の大地なのだろう。長江を用水として分け合い、水運を介して交流し、時に同じ水害に苦しめられる民が二つに分かたれる道理はない。堤一つ、船着き場一つ造るにも対岸が敵地では困難を来たすのだ。そこにあるのは道理ではなく、乱世の理不尽である。

「曹操っ。揚州並びに荊州北部を我らに割譲し、そして二度と兵を向けることはないと、ここで約束なさいっ。そうすれば、自領までの安穏な旅路を私が約そうっ」

「―――っ」

 さすがに、華琳をして驚きの提案だった。

「……貴方の姉や同盟者である劉備軍の者達は、それ以上の大勝が望みのようだけれどっ」

「それでは戦乱はいつまでも終わらないっ。孫呉の民が中原の覇権を争うための戦にいつまでも繰り出されることとなるっ。姉様と劉備軍は私が責任を持って止めようっ。互いの落としどころを見つけるのも戦でしょうっ」

「貴方の言う通りにしたところで、この国が二つ、いえ、三つに分かたれたままでは、いずれ再び戦が始まるわ」

「それでも、貴方が覇道を諦めさえすれば、数十年の平穏が訪れる。その間にそれぞれが繁栄を競い合い、侵し難いほどの楽土と、背き難いほどの信頼を築き上げることは出来ないだろうか」

「敵ではなく、互いに尊重し合う隣人として、力ではなく国の繁栄で競い合おうというのね」

「そうよ」

 孫権が首を縦に振った。いつの間にか、声を張り上げずとも会話を交わせる近さまで城壁に馬を寄せていた。顔付きから表情まではっきりと見て取れる。

―――孫策は、なかなか面白い妹を持ったわね。

 真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる視線の強さは、姉とよく似ていた。しかし同じものを同じように見ているようで、孫策とはその捉え方がまったく異なるのだろう。

「……そうして後世の人に委ねるか。まるで夢のような話ね。桃香と―――劉備と変わらぬふぬけた思想だわ」

「貴様っ」

 声を荒げたのは、孫権ではなく隣に付き従う武人-――おそらく甘寧だろう―――だった。孫権自身は今度は荒ぶることなく甘寧を手振りで制する。
 孫権も無理は承知の上での提案なのだろう。桃香とこの孫権、そして自分が三国の手綱を握っている間に限れば可能かもしれない。しかしその先の困難は、歴史が証明している。この国が戦を知らずに過ごせたのは秦始皇以降、漢による数百年の統一期のみなのだ。中華に国家が並立する限り、争いが尽きることはない。

「私は私の代で覇道を完遂し、楽土と言うなら千年の楽土をこの大陸に築きましょう。―――貴方の方こそ、この私に降りなさい!」

「この状況で降れとは、大きく出たものね」

「私がこの地を、そして江南をも手にした暁には、貴方を揚荊二州の刺史として、長江流域の経営を任せてあげても良いわ。この私と繁栄を競い合うというその自負に実力が伴うのならば、私の元で亡国の孫呉の民のためにその手腕を振るうと良い」

「……交渉は決裂のようね」

「貴方が私に降る気が無いというのなら、そういうことになるわね」

「ならば即刻この地より立ち去りなさい。問答に答えてくれた礼に、私からは追撃の兵は出さずに置きましょう」

「そう、感謝するわ」

 主君である姉を飛び越え交渉を仕掛けてくるような娘の言葉だ。額面通りには受け取らなかった。
 孫策ならば間違いなく喜々として華琳の首を狙いに来るだろうが、この孫権ならば残された曹魏の将兵から怨嗟の的にされるくらいなら、そんなものは不要と断ずるだろう。中原の覇者の首と言っても、文官の視点で見ればただの火種に過ぎない。
 形ばかりの感謝を口にした後、華琳は一つ思い立ち言い足す。

「―――そうだ、お返しというわけではないけれど、貴方に預けたいものがあるわ」

「預けたい物? 何かしら?」

 首を傾げた孫権に、華琳はその者の名を告げた。





「―――んな、アホなっ」

 泥だまりに埋もれた身体を、張遼はひどく難儀しながら持ち上げた。
 星が先行する愛紗の隊に追いついたのは、ちょうど勝負が決した瞬間だった。愛紗の青龍偃月刀が張遼を馬上から叩き落していた。

「場が悪かったな。この泥濘では、得意の馬術も役には立たん」

 愛紗が肩で息をしながら言った。百合程度の打ち合いでは、ここまで愛紗が息を乱すことはない。二百か三百か、あるいはそれ以上の長い死闘の末の勝利なのだろう。

「そやかて、洛陽の戦で負けてから、ウチは常にアンタを目標に偃月刀を振り続けてきたんやでっ。許の宮殿でようやっとったアンタと曹仁の手合せを参考に、アンタに勝つことばかり考えてっ」

 納得いかない表情―――泥にまみれて分り難いが―――で、張遼が叫ぶ。

「そういえば、よく熱心に見つめていたな。確かに打ち合いの最中、何度となく太刀筋を見抜かれていると感じることがあった」

「雲上の恋の武と違うて、関羽、アンタの武はあくまでウチと地続き、せいぜいが山の頂やっ。同質の武であれば、アンタのことを思うて偃月刀を振った数だけウチに分があるはずやっ」

「……そうか。私とお前は少し似ているな、張遼。私も天賦の才というやつを、長く間近で見せつけられてきた」

「ああ、張飛のことやな」

 張遼が迷いなくその名を口にした。本人の口から直接聞かされ、噂でも耳にした長坂橋での鈴々の暴れ振りはどうやら誇張無き事実であるらしい。

「だが、大きな違いもある。張遼、お前は呂布の武を雲上のものと、決して届かぬものと見做しついには諦めたのだろう。私は違う。私は何があろうと負けるわけにはいかなかったのだ、姉としてな」

「―――っ」

 思うところがあったのか、張遼は言葉を失った。

「―――あっ、待ちいっ。勝負はまだ付いとらへんでっ!」

 勝負も問答もこれまでと愛紗が馬首を返すと、張遼が見咎め叫ぶ。

「悪いが、いつまでもお前の相手をしている暇はない」

「ああっ、くそっ、ウチの飛龍偃月刀はどこや!?」

 泥に沈んだ偃月刀を探す張遼を残して、愛紗は先へと進んでいく。星は隣に馬を並べた。

「討ち取らなくて良いのか?」

「泥にまみれていようと張文遠は簡単な相手ではない。今は時間が惜しい」

 それだけでなく今なら得物を失っているが、無手のままの張遼を討つという発想が愛紗には無いのだろう。

「確かに、ずいぶんと手こずっていたようではないか」

「そちらこそ、知り人だというから任せたが、ずいぶんと遅かったではないか」

「ああ、私の知っている二人とは、少々違っていてな」

 星は肩をすくめた。
 念の入った伏兵に翻弄されながらも、強引に愛紗を先行させた。星も隊を建て直し、あとは背後を取られないように残敵を追い散らすだけという段になって、強硬な反抗にあった。稟と風なら、適当なところで見切りをつけて離散なり降伏なりするだろうという星の予想が見事に裏切られていた。
 二千騎ずつを率いてきたが、愛紗は二百、星は五百騎近くを失っている。

「江陵はこの道を抜ければすぐであったな?」

「はっ。西方へ十四里で江陵です」

 鄧芝に確認すると、簡潔な答えが返ってきた。
 かつて襄陽に集った二十万の反曹の民のまとめ役として、星が目を付けた若者である。今では立派な校尉にまで成長し、荊州の地勢に通じていることもあって副官として伴っていた。愛紗の隊にも同様に廖化が付いている。
 後方を見やると、張遼には無理に追い縋ってくる様子はなかった。
 それも当然で、曹操が“江陵”へ逃げ込むための時間は十分に稼がれている。張遼の騎馬隊は二万騎のはずだが、張遼の周囲には数百の兵しかいなかった。愛紗と曹操の間に割って入るために精鋭だけをまとめて、かなり無理な駆け方をして来た様子だった。ここで兵の合流を待つ心算だろう。

「江陵までに仕留めたかったのだがな」

 愛紗が小さく呟く。
 軽く頷き返しただけで、星は黙々と曹操軍本隊の残した足跡を辿った。さすがに泥濘の中の進軍は気が滅入り、いつもの軽口という気分にもならなかった。

「―――関羽将軍、趙雲将軍」

 最後の泥濘を抜けたところで、孫権からの使者とかち合った。

「孫権殿は予定通り江陵に入られたか。―――そして、曹操は北へ去った」

 愛紗の口調にわずかに安堵が滲んだ。
 孫権は追撃部隊を派遣しなかったという。城郭の規模で言えば江陵は襄陽をも凌ぐ。周瑜の残した仕掛けと策で落せはしても、それを維持しつつ追撃に回せる兵力を孫権は有していないという。
 何にせよ、劉備軍の手で曹操を討つ好機である。曹操は、自分たちの手で討ち取りたかった。
 長江を渡江する船に乗り込む直前、朱里から今回の戦に関して簡単な説明は受けている。朱里の助言があったとはいえ、実際に曹操の大船団を打ち破ったのはあくまで孫呉の水軍だ。今後の孫呉との力関係を思えば、大将首くらいはこちらが取るべきだった。

「一度、江陵にお立ち寄りください。替え馬の用意がございます」

「ご好意に甘えよう」

 馬が潰れるのを気にせず駆けると、江陵までは半刻と掛からなかった。

「愛紗さんっ、星さんっ!」

「雛里っ」

 城門前で孫権とともに出迎えてくれたのは、一年振りに顔を見る我らが軍師であった。

「これはこれは、魏王殿下の従者殿ではありませぬか」

「あう」

 湿原を抜けていくらか気も晴れた。星が軽口を蘇らせると、雛里は困った顔で目を伏せる。

「ふふっ、冗談だ。よくぞ戻った、いや、戻れたな。人質として利用されるのではないかと、気が気ではなかったぞ」

「華琳さんは、そういうやり方を是とされる方ではありません。これ以上間者を抱えておくつもりはないと、従者は罷免だと」

「そうか、確かに曹孟徳であればそうであろうな」

「雛里、積もる話はあるが今は時間が惜しい。―――孫権殿。馬の件、感謝する」

 愛紗が一つ頭を下げ、孫権の従者が引いてきた馬に飛び乗った。すでに兵にも新しい軍馬が配られている。

「元々曹操軍が江陵へ持ち込んでいたものだ。礼には及ばないわ」

「そういうことなら、是非とも曹操に直接礼を述べたいものだな」

 やはり軽口を叩きながら、星も馬上の人となった。

「孫権殿、それでは今しばらくの間、我らが軍師をお頼みいたします」

「ああ」

 鷹揚に肯く孫権に愛紗はもう一度頭を下げて、北へと出立した。雛里が黙ってそれを見送る。
 十里ほど駆けたところで、星は愛紗に馬を寄せた。

「雛里は何か言いたげにしていたな」

「曹操の命乞いでもしたかったのではないか? 一年以上も世話になったのだからな。軍師ではあるが、やはりあれは優しい」

「ふむ、まあそんなところであろうな」

 情だけではなく、孫権の手前口には出せなかった軍師としての言葉もあったかもしれない。察するところが無いでもないが、星も口には出さなかった。愛紗の青龍偃月刀がそんなことで鈍ってしまっても困る。雛里や孫権が何を考えようと、曹操の首を取れる最大にして、あるいは最後の好機かもしれないのだ。
 考える間にも、馬は軽快に駆けて行く。北辺を支配下に治める曹操軍の軍馬は、劉備軍のものよりも余程質が良かった。やがて馬を潰して脱落した曹操軍の兵がぽつぽつと見え始めた。
たかだか一騎や二騎にこちらから手を出すつもりもないが、追撃の足をわずかでも鈍らせようと向かってくる兵も少なくなかった。
 愛紗が自ら先頭に立ち、一刀で首を刎ねていく。苦しませずに送ってやるためだろう。

「お優しいことだな」

 皮肉気に言いつつも、星も自分に向かってくる者は兵任せにはせず、急所を一突きにした。

「曹操にも、これほど忠臣がいるとはな」

「それはそうであろう。控えめに言っても当代の英傑。心酔する者は少なくないであろうよ。ほれ、お主が憎からず思っている曹仁殿とてそうではないか」

「確かに。―――って、誰が憎からず思っているだっ」

「おや、隠しているつもりだったのか。まあ、桃香様の想い人でもあるからな。忠義一徹の関雲長としては、認めるわけにはいかぬか」

「ふんっ、無駄口を叩くな。この調子ならばすぐに追い付くぞ」

 脱落した兵は、少しずつその頻度を増していく。間違いなく曹操へ近付いていた。
 曹操軍の後姿を認めたのは、しかしさらに数十里を駆けた後だった。





「華琳様、今度こそ私が。五百騎お貸し下さい」

 流琉が言った。
 後方に砂塵を捉えてより半刻余り、すでに二、三里の距離まで関羽と趙雲は迫っている。追う脚に迷いが感じられない。江陵で馬の補給を受けたのだろう。

「だから、ボクが行くってばっ」

「いや、俺が」

「何度も言わせないで、季衣には虎士の指揮、蘭々には虎豹騎と本隊の指揮があるでしょう」

「う、ううぅ~、でっ、でも流琉は、美味しいご飯を作れるじゃないかっ!」

「そ、そうだそうだっ! 華琳様の兵糧を用意するのは流琉の仕事だぞっ」

 季衣と蘭々がごね始める。

「三人とも、そこまでになさい」

 華琳は周囲を見回した。遮るものも無い荒野だった。小細工の施しようもない地形だが、最期になるかもしれない土地と思えば、悪くはない見晴らしだ。

「ここで迎え撃つわよ」

「そんなっ、華琳様だけでもお逃げください」

 蘭々の言葉に、静かに首を横に振った。

「襄陽までまだ二百里近くも残している。殿軍を残して幾ばくかの時を稼いだところでどうなるものでもないわ。ならば戦力を割くことなく、ここでの勝負に賭けましょう」

「だけどっ」

「―――曹魏の勇士達よっ!」

 それ以上は有無を言わせず、華琳は絶影を棹立たせた。
 疲労困憊の兵は、それでもぴたりと脚を止めた。多忙な華琳に代わって曹仁と霞が鍛え上げた騎兵達だ。兵の練度も馬の質も、曹操軍の最精鋭である。

「我らは赤壁の地で一敗地に塗れたっ! 我が覇業はここに潰えるかっ!? 曹魏の天命はここに尽きるかっ!? ―――否っ!!」

 大鎌絶を天に掲げた。

「この曹孟徳の命ある限り、我が覇業は潰えぬっ! 曹魏の天命も尽きはせぬっ!」

「――――――っ!! ――――っっ!!」

 喚声が巻き起こった。華琳は絶を後方へ指す。

「あれに見えるは音に聞こえた関雲長に趙子龍っ! しかし案ずるなっ! 北からは“我が子房”筍文若が送り出した援兵が迫っている! 南からは“曹魏の大剣”夏侯元譲が大軍を率い合流しつつある!」

 気休めに口にしたが、援軍はほとんど絶望的と言っていい。
 襄陽の桂花には確かに蘭々が伝令を百騎送った。ただの一騎でも辿り着ければ良いと疾駆していったが、仮に馬を潰さず駆け抜けたとして襄陽に着くのは半日後だろう。桂花がすぐにも兵を出立させ、軽騎兵が疾駆に疾駆を重ねれば合流はそこから半日だ。全てが希望通りに理想的に運んだとして、あと一日は掛かるということだ。春蘭に関しては、その所在すら全く掴めてはいない。
 兵の中には、それと察している者も少なくないだろう。いや、大抵の兵が気付いているかもしれない。隊の体系が甚だ乱れているため、そこらの兵も伝令なり斥候なりと使い回しているのだ。

「―――――っっ!! ――――――っっ!!」

 それでも、健気で愛おしい兵達の天を衝く喚声は鳴り止まなかった。

「だが皆の者っ、曹魏が誇る精兵達よっ! 座して援軍を待つ必要はないっ!この私が、曹孟徳がここにいるっ! 劉備軍の勇将二人の首、今すぐ我が足下に並べようではないかっ!!」

「―――――――っっ!! ―――――――――っっ!!」

 ひと際大きな喚声が上がった。

「……華琳様ぁ」

「兵が意気軒高としているというのに、貴方達がそんな顔をしていてどうするの」

 華琳は、蘭々の頬を撫でてやった。一門の中でも自分に一番良く似た顔は、不安げに歪んでいる。

「―――流琉、牙門旗は無くしていないわね」

「はっ、はいっ!」

 虎士二人が旗竿を捧げ持ち、流琉は馬に括り付けた旗布を手にする。

「では高々と掲げよ。曹孟徳ここにありと、関羽と趙雲に、いいえ、天下に知らしめなさいっ!」

 やるからには堂々とだ。地に塗れようと、自分が中原の覇者、曹魏の王であることに変わりはない。受けて立つという気概を失うつもりはなかった。





 前方から、喚声が聞こえてきた。

―――よくぞここまで。

 愛紗は胸中で賛辞を送った。雲夢沢の大湿原を抜けた馬で、よくも駆けたものである。

「兵力はどうやら五分といったところか」

 星が額に手を当て、目を眇めて言った。
 こちらも四千騎を三千数百まで減らしているが、曹操軍本隊一万も今や同数でしかなかった。それでも、よくぞそれだけ残したというべきだろう。伏兵として残った者、湿原の進軍で後れを取った者、馬を潰して離脱した者はいても、命惜しさに自ら離散した者が皆無でなくては有り得ない数字だった。

「突っ切って、愛紗は左、私は右。それでどうだ?」

「よかろう。どちらが曹操の首を取ることになっても、恨みっこなしといこう」

 曹操の本隊。すでにこちらへ向き直り、並足で駆け出している。曹操の顔を探すが、さすがに前衛に出てはいなかった。
 徐々に脚を速め、互いに疾駆してぶつかった。三つ四つと首を飛ばしていく。隣では星の龍牙が、敵の急所に吸い込まれていく。
 疲労の際にありながら、敵兵は目を炯々と輝かせている。しかし、やはりどこか一つ踏ん張りに欠けていた。槍のようにまっすぐ突き進むこちらに抗えず、左右に引き裂かれていく。やがてその槍先が、堅いものに行き当たった。

「愛紗さんっ!」

「蘭々かっ!」

 伸びてきた槍を弾いた。曹仁にも似た槍筋は、妹の蘭々である。馬甲を解いてはいるが、周囲の兵は虎豹騎ということだろう。さすがに整然としていた。
 曹の牙門旗がすぐ近くに見える。虎豹騎の奥には虎士、そして曹操がいるはずだ。しかし、崩しきれず馳せ違った。馬首を返した。中央を断ち割られた曹操軍はまだ隊列を乱したままだ。
 取り決め通り、愛紗は左、星は右の集団へ馬を向ける。曹の牙門旗は、左にある。
 数十騎、いや数十人が愛紗の前に立ちはだかった。疾駆に耐え切れず、兵を乗せたまま崩れた馬の持ち主たちだった。もはや上手に首を刎ねてやるとはいかない。隊列で圧殺した。しかし、馬の勢いをいくらか殺す形になった。
 左の集団は、右との合流を諦めて、旋回して愛紗の後ろを取りに来た。こちらもぐるりと馬首を巡らせ、背後の取り合いとなった。そうしているだけで曹操軍からはぱらぱらと脱落する兵が出る。本当に、ぎりぎりのところでここまで駆けて来たのだろう。
 視界の端で、右の集団は星に追いまくられていた。高い士気も曹操と共にあってこそだ。曹操と切り離され、星を先頭に追い立てられては長くはもたない。
 やがて愛紗も、馬の差で曹操軍の後尾に喰らい付いた。
 背を向ける兵を討つのは気が咎めるが、躊躇はしなかった。追い付いた端から打ち倒していく。愛紗一人で十数騎を、隊も合わせれば百騎以上を瞬く間に散らした。
 曹の牙門旗が近い。届く。

「―――っ!」

 牙門旗が翻り、曹操軍の兵が強引に馬首を反転させた。騎兵と騎兵がそこここで衝突し、怒号と悲鳴が反響する。
 混戦となった。いや、混戦に巻き込まれたというべきか。もみ合いになれば、馬の差は大きく影響しない。

「はあっ!」

 一番に飛び掛かってきた兵の、頭頂から下腹までを具足ごと両断した。普通ならそれでいくらか意気がそがれるものだが、敵はなおも殺到してくる。
 青龍偃月刀を縦横に振るい迎え撃った。虎豹騎だろうか、時に愛紗の一撃を受ける剛の者がいた。さらに一刀を返してまでくる者は、武芸達者で知られる虎士であろう。
 愛紗、そして星を討つ。それが現状を打破する唯一の術であると、さすがに曹操は理解している。
 夏侯惇も張遼も曹仁もいない今の曹操軍の陣容で自分を討ち取るには、混戦乱戦に乗ずるくらいしか手はない。虎豹騎に虎士まで繰り出し、曹操はここで愛紗を討ちに来ていた。
 兵数は五分。一進一退の攻防が続いた。敵に虎豹騎や虎士のような強者が混じる以上、愛紗が先頭に立って奮戦を重ねても崩しきれなかった。曹の牙門旗は近いようで遠い。
 しかし焦りはしなかった。ここで突出などすれば、虎士や虎豹騎に囲まれるだけだろう。時の経過に焦燥が募るのは、むしろ曹操の方だ。
 半刻余りの混戦の後、横合いから駆け抜けた軍勢が愛紗の正面の敵兵を一掃した。軍勢はそのまま混戦に加わり、愛紗の横には一騎だけが残る。

「遅かったな、星」

「そちらこそ。私を待たずに曹操の首を取ってしまって良かったのだぞ」

「やはり曹操の本隊の兵だけあって、よく鍛えられている。だがこれで―――」

 互いに背を預け、青竜偃月刀と龍牙を存分に振るった。

「―――おっ、やるな」

 星の急所を狙った突きが弾かれ、首筋に剣が返ってきた。

「そういえば、虎士と虎豹騎が混じっているぞ。気を付けろ」

「そういうことはもう少し早く言え」

 星はそう言いつつも、危なげなく対処していた。
 曹の牙門旗が、じりじりと近付いてくる。
 兵力もこちらが二倍となっている。愛紗と星のいる正面に限らず、四方からの圧力も増していた。戦場は混戦と言うよりも、包囲戦の様相を呈し始めた。
 牙門旗の下に、曹操の姿を捉えた。愛紗達のいる正面に力を割くあまり、手薄になった左右から劉備軍の鋭鋒がすでに届いていた。
 曹操も自ら剣を振るっている。混戦の中で、あるいはここまでの逃避行で得物を失ったのか、いつもの大鎌ではなく文字通り剣を振るっていた。曹仁の青紅の剣と二剣一対の倚天の剣だろう。
 供回りの精鋭を送りだしているため、側には許褚に蘭々、それに牙門旗を片手に掲げた典韋がいるばかりだった。当然そんな危険は初めから覚悟の上だろう。戦の肝心要の段に置いて、曹操は自らを死地に投げ出すことを躊躇わない。
 曹操には、どこか戦場での死を肯ずるようなところがあった。敗戦の末に自死を選ぶような潔さからは程遠い人間だが、戦い抜いた末の死ならば泰然と受け入れるという気がする。少なくとも無様に命乞いをするくらいなら、雄々しく戦って死ぬことを選ぶだろう。

―――せめて私の手で

 星も思いは同じようで、青龍偃月刀と龍牙の織り成す剣舞が激しさを増す。
 曹操もこちらに気付いたようだ。視線がかち合った。曹操が小さく微笑む。やはり、討死は覚悟の上か。蘭々や許褚を押し退けるように前へ出た。
 今一歩で青龍偃月刀の間合いというところで、愛紗は強い既視感に襲われた。星が、躊躇わず踏み込んでいく。龍牙の紅い矛先が、曹操の首筋へと伸びる。

 ―――かつて自分も似たような局面に立たされたことを、愛紗は思い出していた。初陣の義勇兵を率い、自身も実戦の指揮など初めてだった。敵は賊徒となれど略奪に慣れ、その数は五倍に及んだ。義姉妹と共に包囲され、もはやここまでと諦めかけたその時、颯爽と助けに現れたのが―――

 白き突風が戦場に吹き付けた。

「我ながら、こいつは出来過ぎた登場だな」

 風は吹き抜けることなく、愛紗の眼前に留まり人の形を成した。今まさに愛紗が想起していた男の姿に。

「くっ、貴殿か、曹仁殿」

 龍牙を弾かれた星が、悔しげに一歩退いた。



[7800] 第12章 第6話 曹仁
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2017/12/17 12:15
 血煙を巻いて、関羽と趙雲が向かってくる。
 さすがに二人揃うと、武威はあの呂布や張飛にも劣らない。いや、それ以上か。
 兵同士のぶつかり合いも、かなり一方的に押し込まれつつある。二人が率いる騎馬隊は、世に精強で知られた古参の劉備軍の兵ではないはずだ。元々の劉備軍には一千の騎兵しかいなかったのだから当然だ。益州で新たに加えた兵だろう。だから練度では、こちらが勝っている。しかし関羽と趙雲の存在が、軍の格を一段も二段も引き上げていた。

―――自分が死んだら、曹魏はどうなるだろうか?

 ふと華琳の頭に弱気な考えが浮かんだ。
 代わって文武を統率すべき立場にある桂花と春蘭は、主君である華琳を通してしか天下を見てこなかった人間だ。名門荀家の総領と華琳亡き曹家一門の重鎮であるから、曹孟徳の地盤を受け継ぐ資格は十分にあるが、孫劉への報復を果たしてしまえば、その先の展望を描く意思に欠けるだろう。
あるいは自分の後継というなら、曹仁こそがその筆頭に挙げられるかもしれない。血縁こそないが曹家の人間であり、天の御使いという特異な立場にもある。桂花はともかくとして、他の文武百官には強く異を唱えそうな者はいない。
 華琳としても、それは悪くはない想像だった。なんとなれば、曹仁こそが華琳の求める国の姿を知る唯一の存在であるからだ。自分亡き後の世を憂うるなど柄ではないが、せっかくなら追い求めたものが形になって欲しい。

「だけど、もし望みが叶うなら―――」

―――自分と曹仁の子に跡を継がせたかった。

 西涼に駐屯させた曹仁とは半年以上も顔を合わせていない。男女の仲となって二年近くが経つが、これだけ長く会わずいるのは初めてだ。
 このままここで果てると思うと、堪らなく会いたかった。無様に命乞いをしたくなるほどに。

「―――っ」

 関羽と目が合った気がして、誤魔化すように華琳は微笑んだ。未練を断ち切るように、前へ出る。
 当然、簡単に首をやるつもりはない。しかし関趙の剣舞はなお冴える。
 青龍を象った偃月の刃は、粛々と首を刈っていく。轟々と唸る風音は、さしずめ竜の咆哮だ。龍牙と銘打たれた趙雲の真紅の槍は、二又に分かれた形状と相まって牙と言うよりも蛟龍の舌のようだ。ちろちろと揺れる舌先に触れた者は、たちまち命を落としていく。踊り狂う青龍と蛟龍はすでに数百騎を屠っていた。

「はあっ!」

 横合いから突き出された槍を、華琳は倚天の剣で手首ごと斬り飛ばした。
 関羽と趙雲に対して厚く兵を配したために、左右後背の陣はすでに崩壊している。華琳の元へも時折干戈が届いた。自ら十人ばかりを斬り捨てたところで、自然と絶を手放し剣に手が伸びていた。変則的な絶の攻めは混戦の中では必ずしも有利には働かないし、大鎌を振るい続けるだけの体力はとうに失われている。あるいは、その銘にすがる気持ちもあったかもしれない。
 兵を奮い立たせるために、華琳は久しぶりに天命という言葉を使った。黄巾の乱や反董卓連合を戦った頃には、自身の天命を信じ、よく口にも出していた気がする。天命や天意などというものを特別意識しなくなったのは、華琳にとっての“天”が高みにあって自分を導くものではなく、共に考え、共に歩む存在に変ったからだ。
 今、倚天の剣を握り締め、自分がすがり付こうとしているのはどちらの“天”だろうか。
 益体もないことを考えている間に、濃密な血と死の香りを纏った剣風が間近まで迫ってきた。倚天の剣を構え直す。右から来るか、左から来るか。関羽か、趙雲か。あるいは同時に来るか。
 殺意を孕んだ紅い舌先がぬっと伸びてきた。血煙の赤に紛れ、それは気付けばすでに華琳に届かんとしていた。舌先が首筋に触れる―――

―――ひと筋の白い勁風が、紅と赤を吹き飛ばした。

「我ながら、こいつは出来過ぎた登場だな」

 聞きたかった声が耳を打ち、渇望した背中を見た。

「くっ、貴殿か、曹仁殿」

 趙雲が一歩馬を引いた。何故か最後の一歩を躊躇した関羽と、馬を並べる。
 そこを白騎兵が駆け抜けた。関羽と趙雲は押し退けられるようにさらに後退する。白騎兵は華琳達を中心に輪を描き、敵兵を薙ぎ倒していく。

「華琳、怪我はないな?」

 曹仁はそこでようやくこちらを振り向き、愛しい顔を見せてくれた。

「―――仁。貴方、いったいどうしてここに?」

「今は逃げるぞ。―――蘭々、季衣に流琉も、いけるな?」

 華琳の疑問には答えず、曹仁は妹分達に視線を向けた。

「ああっ!」
「うんっ!」
「はいっ!」

 三者三様にここまでの疲れを感じさせない力強い声で答える。
 白の颶風に抱かれるままに、敵中を抜け出た。

「皆、馬を替えておけ。絶影も、少し休ませた方が良いな」

 牛金と無花果が、空馬数十頭を追い立ててきた。曹仁、それに白騎兵が打ち落とした敵兵の乗馬のようだ。関羽達が江陵で補給を受けたのなら、元々は曹操軍の軍馬だろう。

「華琳、手を」

「ええ」

 曹仁の補助を受け、速度を落とさず並走する空馬に乗り移った。季衣と流琉は一人で軽々と飛び移っている。
 他の者も白騎兵や牛金の肩を借りて次々に馬を替えていく。兵は白騎兵の描いた輪の内にあったわずかな数を連れるだけで、混戦の渦中にいた者は見殺しにするしかなかった。三十頭ばかりの空馬に乗り換え、馬の方に数頭の余りが出ている。
 背後へ視線をやると、関羽と趙雲の隊はまだ追撃へ移っていなかった。喧騒から、争闘が一層激しさを増しているのが分かる。見殺した兵は、されどこの不甲斐無い主を見捨てはしなかったようだ。命を擲って劉備軍の足止めをしてくれていた。

「―――それで? 貴方はどうしてここに?」

 兵への感謝を胸に、視線を並走する曹仁へ向けた。

「襄陽へ向けて伝令を放っただろう。彼らと行き合って状況を聞いたから、急いで駆けてきた」

 曹仁が的外れな答えを返す。

「そうではなくて。西涼にいるはずでしょう、貴方は」

「ああ、そっちか。どうにもお前が負ける気がしてな」

「そんなことで持ち場をほっぽり出して遥々やって来たと言うの?」

 余りな答えに呆れ返っていると、曹仁が続ける。

「この国の歴史にはない“赤壁の戦い”というのに、聞き覚えがあったんでな」

「……なるほど。この曹孟徳が大敗、あるいは討死する戦として、貴方の世界の史に名を刻んだか」

「たぶんな。―――さてと。蘭々、それに季衣と流琉も、先頭を頼めるか? 俺と白騎兵が殿軍に付く」

 曹仁の言葉に、やはり三人は元気よく応じるとわずかな兵をまとめ始めた。
 いくら精強無比の白騎兵と言えど、たった百騎加わっただけで戦況は覆らない。変らず襄陽へ向けて逃げるのみだ。しかし先刻までとは違い、不思議と希望を感じられた。

「華琳も、季衣達と一緒に。とにかくまず、二十里はひた駆けてくれ」

「ええ、わかったわ」

「―――華琳」

 季衣達のいる方へ馬首を転じたところを、呼び止められた。

「―――っ」

 振り向くと、唇に温もりが触れた。

「…………あ、貴方ね、こんな状況で何をしているの」

 じっとりとした蘭々達の視線を感じ、華琳は慌てて唇を離して呆れ顔を作って見せる。

「いやぁ、ずいぶん御無沙汰だったし。久々に顔を見たら、つい」

「この状況ですることではないでしょうに。……襄陽に戻ったらいくらでも付き合ってあげるわ」

 言葉の後半は、曹仁にだけそっと囁くように告げた。

「―――ああ、そうさせてもらおう」

 華琳が好奇の目を向けられながら季衣と流琉に並ぶと、曹仁が手振りで白騎兵へ合図を送る。曹仁と牛金、そして白騎兵はわずかに足並みを落して後方に付いた。
 遠く、劉備軍が追撃を再開するのが見える。あの場に残してきた兵は討たれるか散らされるかしたのだろう。

―――まずは二十里駆けろ、か。

 曹仁の言葉が思い起こされた。
 二十里先と言えば、心当たりは一つしかない。あの長坂橋だ。
 橋を落す心算だろうか。しかし、それで十分な時間を稼げるのか。長坂橋が繋ぐ渓谷はさして深くはなく、底を流れる川も渡渉可能な浅く小さなものである。だからこそ張飛もあえて橋上に身を曝し、身命を賭したのだ。
曹仁に何か腹案あってのことだろうが、今はとにかく季衣達に促されるままに駆けた。背後に迫る劉備軍の圧を感じながらも脚を緩めず、やがて長坂橋を視界にとらえた。
 橋の袂に騎馬を数騎認めた。張飛に先回りでもされたかと一瞬心臓が跳ねあがったが、近付くと首元に巻いた白い布が見えた。白騎兵だ。
 橋を落す算段でも立てていたのだろう。張飛は橋板を容易く跳ね上げ、一撃で橋桁を斬り落して見せたが、そんな真似が出来るのは他には呂布くらいのものだ。
 道を開け直立した白騎兵の横を、華琳は速度を緩めず駆け抜けた。





 華琳達が、長坂橋を渡る姿を後方から見届けた。

「―――」

 曹仁は角と目語を交わすと橋の袂で白鵠を制止させた。今度は角と白騎兵が駆け去って行くのを見送る。袂に待機していた白騎兵も、一騎を残してそれに従った。

「仕掛けの方は?」

「御指示通りに。さすがに専門の工兵のようにはいきませんので、あと一太刀加えればとは申せませんが、十回も打ち込めば橋は落とせます」

 兵が答えた。白騎兵の旗手を務める男である。

「助かる。では、配置に」

「はっ」

 連れ立って橋を渡り、曹仁はその中程で脚を止める。

「―――おい」

 対岸に向かう男を呼び止めようとして、曹仁は一瞬言葉に悩んだ。
 考えてみれば戦場では誰よりも近くにいたのがこの旗手だが、そんな男の名も聞かずにここまで来た。白騎兵に階級の上下はないが、唯一他と違った役割を持つのがこの旗手である。常に側に控えていたこの男を、一人の兵というよりも白騎兵の代表という気持ちで扱ってきた。

「はっ、何でしょうか」

「いや。悪いな、付き合わせて」

「いえ、これもお役目ですので」

 小さく頷き返すと、旗手は再び曹仁に背を向けた。名を問おうとは思わなかった。白騎兵はただ白騎兵で良い。
 旗手は対岸に付くと下馬し、袂近くの橋板を何枚か外した。そこが予め仕掛けを施した場所なのだろう。その場で片手に槍を構え、もう片手に黒地に白抜きの曹旗と白地に黒文字の天人旗を付けた旗竿を掲げる。準備完了だ。折よく、関旗と趙旗が迫っていた。
 五十歩ほど距離を置いて、劉備軍は制止した。無理に押し通りに掛かれば、曹仁が一時足止めをする間に諸共に橋を落す。こちらの意図は過たず伝わっているようだ。

―――さすがだな。

 劉備軍もここまで長駆に次ぐ長駆で疲弊して切っているはずだが、整然としていた。
 劉備軍が曹操軍と敵対して久しいが、曹仁が直接対峙するのはこれが初めてだった。反董卓連合の際にも同じ戦場に敵としてあったが、絡むことはなかった。今にして思えば華琳や皇甫嵩に気を使われたのかもしれない。

「―――鈴々の真似事でもされるおつもりか、曹仁殿」

 星が姿を見せた。

「星さん、愛紗さん、一騎打ちを所望します」

 すうっと大きく息を吸い威勢良く叫び掛けて、曹仁は声の調子をいくらか落とした。
 左には山岳、右には深い林が茂っている。華琳はすでに視界の果てだが、遠くこだました声が届かないとも限らない。

「我らを足止めしたいのは分かりますが、二人を相手に一騎打ちとは異なことを仰いますな」

「では、二対一での勝負と言い直しましょう」

「ほう、本当に我ら二人を同時に相手にするおつもりであったか。ははっ、さすがに天下無双と噂される方は言うことが違いますな」

 星がからからと笑う。軽妙にして飄然、計算高く皮肉屋でもある星だが、己が武に対する誇りは人一倍強い。その内心は想像に難くない。

「お二方、いや、劉備軍は華琳に借りがある。違いますか?」

「あの日、出奔する我らを無事送り出してくれたことを仰っているのか?」

「そうです」

「それを今、この場で返せと申されるか」

「何も見逃してくれと言っているわけじゃない。勝負の後は好きに追えば良いさ。もちろん俺に勝てれば、の話ですが」

「……ふむ。曹操軍には他に替えの効かない首が二つある。第一に曹操殿。そして第二に曹仁殿、貴殿だ」

 寸時逡巡した後、星は言った。

「そいつは、ずいぶんと買い被られたものだ」

「ふふっ、至極真っ当な評価ですよ、曹家の天の御使い殿」

「―――星っ、今は時間が惜しいっ。追撃を優先すべきだ!」

 愛紗も姿を見せて、感情的に叫んだ。

「そうは言うがな。確かに我らは曹操に借りがあるし、二対一での一騎打ちなどという戯けた挑発をされた以上、兵を差し向けようと迂回して避けようと武名が泣くというもの。―――まったく、善良そうな顔をしてなかなか悪知恵が働きますな、曹仁殿は」

「だが―――」

 曹仁を脇目に、愛紗と星は言い合いを始めた。
 意外にも星の方が勝負に乗り気を示している。貸し借りを持ち出せば愛紗は断らないだろうが、難しいのは一癖も二癖もある星をどう乗せるかだと曹仁は考えていた。

「―――鄧芝っ、廖化っ、五百を残し、お主らは橋を迂回して渓谷を下り、曹操を追えっ!」

 話は付いたようで、星がぱっと背後を振り向いて叫んだ。
 劉備軍はさすがによく鍛えられている。突然の命令にも躊躇いを見せず、すぐに右方の林の中へと踏み入っていく。その場に留まったのは星の命令通り五百騎だけだ。

「ご指名は我ら二人。兵がどうしようと構わぬのだろう、曹仁殿?」

「ああ」

 にやりと笑って事後承諾を求める星に、曹仁は肯き返す。

「では貴殿の無謀な挑戦、お受けしようっ」

 星が意気揚々と、愛紗が不承不承の態で馬を進めてくる。

「……光栄、と言うべきかな」

 曹仁の挑戦を受諾しつつ、兵の過半には橋を迂回して即刻華琳達を追わせた。つまりは渓谷を降りて川を渡った方が、二人掛かりで曹仁を打倒するよりも早い。少なくともその可能性を考慮したからこその二段構えだろう。
 とはいえ、迂回して進む兵のことを曹仁は気に掛けなかった。襄陽へ向かう伝令から追撃を率いるのが関趙二将であると聞かされた時から、やるべきことは一つと決めている。
 華琳には、白騎兵が付いているのだ。
 白騎兵は照が月と詠の護衛のためにと、これ以上なく鍛え上げた勁兵を譲り受けたものだ。かつてはたった四百で反董卓連合二十万の追撃を足止めし、一時は後退にまで追い込んだ者達だ。遮るものの無い平原で白騎兵が敗走の援護に徹したなら、いかな精兵も大軍もその先の玉に触れることは出来ないだろう。
 だから曹仁がやるのは、唯一白騎兵をも食い破り華琳に届き得る勇将二人を阻むことだった。
 橋の袂まで付いたところで、愛紗と星が足を止めた。曹仁は対岸の旗手へ目配せする。
 兵は橋板をはめ直すと、数歩退いて見せた。そのまま角達に合流してくれて構わないが、その心算はないようだ。こちらからも見届け人の一人くらいはいても良いだろう。当人の望むままに任せた。
 正面に視線を戻すと、愛紗と星はもう目の前だった。
 槍を握り締める。柄には、すでに管を通していた。
 徐晃―――華雄相手に後れを取って以来、実戦で管槍の使用を躊躇うのを止め、密かに修練も続けてきた。

「―――では、始めますか」

 許で何度となく繰り返した愛紗との手合せ。気負いを隠し、その時と同じ調子で曹仁は切り出した。

「お相手しよう」

 むっつりと眉をしかめる愛紗に代わって、微笑を浮かべる星がそれを受けた。





「おっ」

 愛紗が先んじて馬を前へ進めると、星が意外そうに声を上げた。
 気に染まない戦いだが、曹仁と仲間が戦う様を傍からただ見つめていたくはない。
 曹仁が手にする槍に、見慣れぬ仕掛けを認めた。呂布を相手に用いたという、管槍というものだろう。
 許ではそれこそ数えきれないほど手合せをしたが、曹仁がこの管槍という得物を用いたことは一度もなかった。槍術としては邪道というのが本人の言であったが、もしかするとこうして戦場で対峙する日を予期していたからかもしれない。

「―――っ」

 間合いに踏み込んだ瞬間、眼前に槍が迫っていた。咄嗟に手首を返して、偃月刀の“反り”で槍を逸らすことに成功した。僥倖と言って良いが、ほっとしている間などなかった。次の突きがもう身に迫っている。弾く。またも迫る。逸らす。弾く。また弾く。
 正中線にしっかりと偃月刀を据えた万全の守りで迎え撃つも、曹仁の槍は構えを容易くすり抜け襲い来る。いつ、連撃が途切れるのか。逸らし、弾き、打ち落とし続けた。
 五十か六十か。あるいはそれ以上を受けたところで、愛紗は堪らず馬を引いた。この連撃に終わりはない。そう理解した。

「……恋ですら、初めはもう少し仰け反って避けてくれたものなんだけどな」

 曹仁がこぼす。
 偃月刀を極力小さく使ったが、それでも背筋にじっとりと汗が湧き、胸が波打つ。疲労ではなく緊張によるものだ。初撃を捌けたのが僥倖なら、果たしてどこからが自分の実力によるものか。いつこの身に槍を受けても、おかしくはなかった。

「今度は私が―――」

 脇を抜けていこうとする星を、遮るように愛紗は再び前へ出た。
 間髪入れず、無数の突きが襲い来る。一人の人間、一本の槍による所業とは思えない。終わりのない連撃を愛紗は捌き続けた。

―――強くなった。

 それも恐ろしいほどに。管槍という得物の利ももちろんあるのだろうが、繰り出す突きに確かな練度を感じる。叶うなら峰で軽く打ちすえて終わらせる。そう思い戦いに望んだが、とても出来そうにはない。
 襲い来る突きがわずかにその数を減らした。愛紗の横をすり抜け、星が進み出たためだ。
 連撃のおおよそ半分を星の迎撃に向けてなお、曹仁の突きは速かった。いや、早いと言うべきか。愛紗を襲った槍が、ほとんど引くことなくそのまま星を狙う突きへと繋がっていく。逆もまた然り。管を用いることで摩擦による減速が避けられるため、槍を大きく前後させて勢いをつける必要もないということだ。
 管槍を用いて初めて成り立つ技法であり、一朝一夕で身に付くものでもない。愛紗には見せなかっただけで、やはり曹仁は管槍の稽古も重ねてきたのだろう。惜しみなく全ての武技を曝け出した自分とは、すでにあの頃から違う方向を見ていたのか。
 かつて自分達姉妹の窮地を救った槍が曹操を助け、いま我が身に向けられている。それは愛紗にとって目を背けたくなる現実である。しかし一瞬でも視線を逸らせば、体中に風穴が開くことになる。
 否応なく見つめ合う形となった。曹仁の目には敵意も殺意もなく、ただ決意だけが伝わってくる。この場は絶対に譲らない、―――曹操を守り抜くという決意だ。

―――あの日、同じ道を歩めていれば。

 曹操軍を出奔する桃香の誘いに曹仁が応じていれば、今頃はどうなっていただろうか。
 天の御使い曹子孝を御旗に桃香を旗頭として、漢朝の天子擁する曹操と対峙する。曹操から離れたなら、曹仁は桃香と結ばれるのだろうか。わずかに胸が疼くが、戦場で隣を駆けるのは桃香ではなく自分だ。

「―――くっ」

 甘い夢が脳裏を過ぎるも、眼前に迫る槍が愛紗を現実へと引き戻す。星が馬を引き、向けられる槍は再び数を増していた。





 劉備軍が再び華琳達の背後に姿を見せたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
 やはり橋を落とすだけでは十分な時を稼ぐには至らない。襄陽まではあと七、八十里の行程を残していた。

「援軍は、まだ望めないか」

 伝令がようやく襄陽に到達したかどうかと言うところだろう。
 それに襄陽の守備兵は歩兵と水兵がその中心である。桂花がすぐに動かせる騎兵はせいぜいが二、三千だった。本隊の兵を失った今となっては、合流を果たしたところで関趙相手には心許無い。
 やがて追い付いてきた劉備軍の先頭を、後方に付いた白騎兵が二度三度と叩き散らしていく。
 白騎兵なら、敵に背を晒す不利など問題にもせず、並みの精兵など相手にもしないだろう。しかし、関羽と趙雲が前面に出ればその白騎兵でさえも手も無く散らされる。どこまでもつのか。

「……?」

 白騎兵の動きに、鬼気迫るものがあった。相手の弱いところ、脆いところを狙って突き崩す戦術的な動きを常とする彼らだが、今は力と速さと気迫で圧倒する様な戦い振りだ。
 華琳の予想に反して劉備軍の追撃は叩かれる度、勢いを失っていった。白騎兵はついには反転して攻勢に転ずると、その鋭鋒は劉備軍を縦断し横断し、四分五裂させた。
 一刻後には、劉備軍は再び視界の外へと消え去った。

「もはや殿軍を分ける必要もないわね。誰か曹仁をここへ―――」

「そういうことでしたら、私が」

 先駆けに同行していた無花果が、後方へ駆けて行った。いくら白騎兵がいつも以上の奮闘を見せたとはいえ、関羽と趙雲までを退けられるものではない。いったい如何なる手を用いたものか、直接曹仁を問い質したかった。
 すぐに駆け戻った無花果の隣には、曹仁とは似ても似つかない大男―――牛金の姿があった。先刻まで白騎兵の活躍に無邪気に目を輝かせていた無花果の顔が暗い。

「……仁を呼ぶように言ったはずだけれど?」

 胸騒ぎを覚えながらも華琳は牛金へ問う。

「居りません」

「居ない? どういうこと?」

「長坂橋に残られました。関羽殿と趙雲殿に、一騎打ちを挑まれると」

「―――っ!」

 牛金が華琳の馬の手綱を握っていた。馬首を返そうとした華琳の機先を制した形だ。

「何のつもり?」

「兄貴の命令です。自分が関羽殿と趙雲殿を足止めする間に、曹操様を無事襄陽までお連れしろと」

「馬鹿なっ。一人であの二人を相手に出来るはずが」

「先程の敵の中に、関羽殿と趙雲殿の姿は有りませんでした。つまり兄貴は、お二方の足止めに成功したということです」

「それはつまり、仁がたった一人、関羽と趙雲を相手に戦っているということじゃないっ」

 どこか稽古の延長のようであった呂布の時とはまるで状況が違っている。曹孟徳の首がかかる以上、馴れ合いで終わりはしない。事実、曹仁は華琳にそれを告げることなく残った。呂布との一騎打ちの際には、四刻抑え込むと豪語して望んでいるのだ。

「手を離しなさい、牛金! 仁がどうなってもいいの!? 貴方は仁の副官、いいえ、それ以前に親友なのでしょうっ!?」

「ええ、ですからそれが兄貴の本懐であれば、例え曹操様であっても邪魔はさせません」

 倚天の剣―――天に寄り添うという意味を込めて名付けた剣―――を振るった。手綱を斬り飛ばし、鬣を掴んで馬首を巡らせる。

「失礼します」

 それすら予想していたのか、牛金が華琳を抱え上げた。

「放しなさいっ! 私の命令に逆らって、どうなるか分かっているのっ」

「無論、覚悟の上です」

 巨漢の膂力で軽々と華琳を小脇に抱えて、牛金は平然と言ってのけた。その丸太の様な腕に、華琳は倚天の剣を添わせた。

「腕をとばすわよ」

 鉄をも断つ利剣である。華琳がほんのわずかに力をこめれば、ぶ厚い筋肉に覆われた腕も大した抵抗も無く落ちるだろう。

「それなら、もう片方の腕もお願いします。両腕を失ったとなれば、兄貴に言い訳も立つってもんです」

 そう言って、牛金がにやりと笑った。顔に張り付いた真一文字の傷口が歪んで、凄惨な覚悟を強調する。疾駆中の馬上であるから、宛がった剣が揺れて牛金の腕に無数の切り傷を作った。それを厭う素振りもない。
 曹仁が牛金を同行させたのは、こうなる可能性まで考えてのことだろうか。曹仁が西涼の戦線を離れるなら、本来副官の牛金はその地に留まるべきなのだ。曹仁の意を体して華琳の命を突っ撥ねるのは、それがどんなに優秀であっても部下である無花果や、自身を一兵卒と割り切る白騎兵達には無理なことだ。部下であり副官である以前に友人である牛金だからこそ、曹仁も委ねることが出来たのだろう。

「わかったわ、襄陽に着くまでの間、貴方の指揮に従いましょう。馬に戻しなさい」

「十分脚を休めたようですので、ここからは絶影にお乗り換え下さい」

 空馬で並走していた絶影が、追い立てられてくる。

「……貴方も落ち着きなさい、蘭々」

 華琳は絶影の鞍上に腰を落ち着けると、代わって飛び出していきそうな顔をしている蘭々を制した。

「でもっ」

「今さら引き返したところで、どうなるものでもないわ」

 かつて呂布を相手に曹仁が稼ぎ出した四刻という時間を、間も無く過ぎようとしている。どんな結末を迎えるにしろ、決着の時までに合流することは敵わないだろう。

「もし仁が戻らなければ、貴方の首もないと思いなさい、牛金」

「こんなもの一つで兄貴の頼みに答えられるなら、―――安いもんでさぁ」

 我ながら見苦しい八つ当たりを口走ると、牛金は如何にも侠客らしい素振りでぴしゃりと自分の頬を叩いて見せた。





「―――ちっ」

 欄干沿いを駆けて背後を取りにいくも、無数の突きに星は行く手を阻まれた。
 曹仁の正面には愛紗が陣取り、星は左右を窺った。表面上は曹仁が攻め立て愛紗と星が防ぐという形だが、内実は守りを固めた曹仁を愛紗と星が如何に崩すかという戦いだ。
 数の利を活かすには前後から挟み打つという形を作るのが一番だが、橋上のどこを進んでも突きが飛んでくる。突きの“点”がほとんど“面”と感じられるくらいの連撃である。

「呂布と伍したという評判は、あながち虚名でもないようですな」

 返答はない。連撃を正面から受け止める愛紗にも、休みなく突きを繰り出す曹仁にも言葉を返す余裕などあろうはずもない。
 呂布と曹仁の一騎打ちは今ではほとんど伝説のように語り継がれている。それは大袈裟に虚飾を施されたものであるが、当時曹操の庇護下にあった星達は戦いの実相をかなり詳細に伝え聞いていた。曹仁が呂布を四刻足止めしたのは紛れもない事実であり、その際に用いたのがこの突きだった。
 星には鈴々と二人掛かりで呂布と対し、劣勢に追い込まれた苦い思い出がある。それだけ呂布は突出した存在だった。いくらその場に居合わせた兵に話を聞いても、にわかには信じ難い気持ちがあった。しかし現実に、自分と愛紗が同じく四刻の時を費やしてなお橋を渡れずにいた。

「―――っ」

 乗馬の胸元を狙う低い突きを、愛紗は青竜偃月刀で捌きながらも半歩後退した。槍の間合いの外に出てしまえば、曹仁はそれ以上の追撃を掛けては来ない。

「凄まじいものですな。管のお陰というのももちろんあるが、相当な鍛錬を積んでおられる」

「何でも出来る星さんと違って、俺の槍は単純だからな。一つのことをやるだけだ」

 繰り突き一つに特化した曹仁の槍術は、多種多様な技で相手を攪乱し翻弄する星の流儀とは対極と言えた。天稟の不足を、一つの技の完成度を極限まで高めることで埋めようというのだろう。繰り突きは槍術の最も基本的な技であるが、基本だけに隙は少なく多くの利点を有していた。星も一つの技だけを練り上げるなら迷いなくこの技を選ぶ。

「――――」

 星と曹仁のやり取りには我関せずという態で、愛紗がずいと再び前へ出る。即座に曹仁も応じ、同じことの繰り返しとなった。
 愛紗の万全の受けに守られながら、星も隙を見ては左右から斬り込んでいく。しかし、やはり突きに阻まれる。槍の間合いに入った瞬間、それまで愛紗一人を襲っていた突きの一部が飛んでくる。一部と言っても、それはこちらの足を押し止めるに十分なものであった。
いったい、いつまで続くのか。
 曹仁が呂布を相手に戦ったという四刻と言う時は、すでに過ぎようとしていた。西日が差し込み、橋板の上に長く伸びた曹仁の影が揺れている。

―――腕の肉が割け、骨だけになっても突き続けていそうだ。

 一切の感情を見せない影法師を見ていると、そんな考えが過ぎる。星は初めて、武人としての曹仁に脅威を覚え始めていた。

「愛紗よ、下がれっ。このまま続けても埒が明かん」

「―――っ、…………いったい何だというのだ、星」

 愛紗が馬を引いた。

「一つ試してみたい手がある。―――だがその前に、愛紗よ。お主もう少しやる気を出せぬものか?」

「何を言いたい」

 じっと見やると、愛紗は不快気に眉をひそめた。

「ふむ。まあ分からぬなら良いさ」

「……それで、手と言うのは?」

「今度は私が先に出よう。見ておれ」

「気を付けろ、速いぞ」

「分かっている。では―――」

 気負わず踏み込んだ。同時に、耳を劈く金属音が響いた。星の両の腕に、確かな反動が襲い来る。
 中空で管槍と龍牙の穂先同士がぶつかり合い、一つに連結した。龍牙の二又の穂先が、曹仁の槍の穂先を挟み取っていた。
 管槍を用いた突きは確かに速いが、同じ槍術家の星の目には狙い自体は至って読みやすい。管を隔てて槍を握るがゆえに、一度突き始めてしまえば掌中や指先を使った微妙な変化をさせようがない。すなわち管の位置、角度さえ見定めてしまえば、軌道の予測は簡単だった。連撃に曝されてしまえば対処に追われ予測どころではなくなるが、初撃に限ればしっかりと相手の手元を見定める余裕がある。
 曹仁が突きを放った刹那、星は確信を持って管槍の軌道へと龍牙を突き入れたのだった。

「―――っ」

 ぐりっと両の腕に渾身の力を込めて龍牙をひねり上げると、曹仁が小さく呻く。
 星は愛紗や鈴々のように男に倍する膂力などは有していない。単純な力比べをすれば、小柄ながらも鍛え抜いた男の曹仁には敵わない。しかし曹仁は片手こそ槍の柄尻を握り込んでいるが、もう一方の手は可動式の管の上である。ほとんど力の込めようがないのだ。

「愛紗、何をしているっ」

「―――っ!」

 膠着する二人を、何するでもなく見つめる愛紗を叱咤した。
 愛紗が前へ出るのとほとんど同時に、槍と槍の連結が解けた。腕の力ではなく、馬ごと半歩下がることで曹仁は龍牙の拘束から逃れていた。
 今度は青龍偃月刀と管槍が交錯し、―――両者は一歩下がって距離を取った。
 愛紗の腕に、血が滴る。青龍偃月刀は肉迫すれど曹仁の身には届かず、偃月刀を振り降ろした愛紗の肩に曹仁の槍が浅く突き立つのを星は見た。

「まだまだ―――」

「愛紗、もう下がれ」

 もう一度前へ出ようとする愛紗を、星は押し止めた。

「何を言う。この程度の傷」

 突かれた腕を、愛紗がぐるぐると無造作に回して見せた。傷口からわずかに血が吹いたが、然して痛みもないようで平気な顔をしている。かえって曹仁の方が顔をしかめていた。

「そうではない。気乗りせんのなら邪魔だから下がれと言っている」

「……何だと」

「曹仁殿を相手に、今一歩が踏み込めぬのであろうが」

「―――っ」

 思い当たるところがあったのだろう。愛紗が絶句した。
 戦いに乗り気でなかった愛紗だが、勝負が始まるや曹仁の正面に陣取り、管槍の攻撃の大半を引き受けてくれていた。あの突きの一つ一つを偃月刀で見事に捌き切っている。後退して避けるならまだしも、初見であの連撃を全て払い除けるなどほとんど人間業とも思えなかった。正面に立つのが自分であれば、すでに手傷の一つも負わされているだろう。呂布の方天画戟を百合防ぎ切った愛紗の守勢の武は、誇張なしに天下一である。恐らく呂布自身ですら、自らの攻めをそこまでしのげはすまい。
 しかし戦いが続くうちに、守りに偏重し過ぎの愛紗が却って足枷となった。まず受けから入るのは愛紗のいつもの流儀ではあるが、今回はそこから攻めに転ずる一歩が出ない。受けに専念しなければ曹仁の突きを防ぎ切るのはいくら愛紗と言えど難しいのだろうが、星が前へ出て連撃の一部を引き受けた時でさえ踏み込む素振りを一切見せなかった。そして今のやり取りである。
 桃香ほどあからさまなものではないが、愛紗も曹仁を憎からず思っている。それが無意識に―――あるいは意図的に―――、愛紗の攻勢を押し止めていた。愛紗が正面に陣取ることで、星も左右を窺うだけの単調な動きに終始せざるを得ない。

「お主がいては、私も曹仁殿を討てぬ」

 本音を言えば、星にとって曹仁は二番目どころか曹操以上に優先して討つべき対象であった。
 曹操を討てば、曹仁がその地盤を受け継ぐなどということになりかねないのだ。曹仁は曹操と同じところを目指しつつも、曹操ほどの苛烈さは見せないだろう。曹操が性急に推し進めてきた改革は、曹仁が上に立てば幾分穏やかなものとなる。それは、星にとって最も避けたい事態だった。桃香の志との間に妥協が成立しかねない。桃香は曹操の性急さを否定はしても、政の在り方そのものは否定してはいないのだ。
 桃香は民の笑顔が守られるなら、誰の天下でも良いと言うかもしれない。しかし星にとって自分の仰ぐ主君は桃香一人であり、桃香が治める天下をこそ見たかった。他の誰かの天下では意味が無いのだ。
 だから曹仁は確実に討ち取らねばならない。
 そしてどうやら曹仁を仕留める人間は、劉備軍において自分しかいないらしい。愛紗がこの有様では、仮に鈴々がいても同じことだろう。曹操軍に憎しみを募らせる翠がいるが、武人として以上に西涼への足掛かりとして欠かせない人材である。やはり一介の武人に過ぎない自分こそが適任だった。

「愛紗よ、私は桃香様の天下だけを夢見ている。もしそこに何か不純なものを混ぜるならば、お主とて敵だ」

「わ、分かっている」

「ならば下がれ。これ以上を私の口から言わせるな、友よ」

「…………」

 愛紗は黙って馬を引いた。待機する五百騎の元へと下がっていく。これで橋の上に落ちるは星と曹仁、二騎の影だけだ。
 曹仁の白鵠が、足元を確かめるようにわずかに身動ぎする。二対一から本当の一騎打ちとなれば、当然曹仁にも自ら前へ出て攻めるという選択肢が生れてくる。

「あいや、待たれよ。せっかく一騎打ちとなったのです、しばし休んで万全な状態で勝敗を決そうではありませんか」

「……らしくないな。星さんのことだ、これ幸いとかかってきそうなもんだけど」

 そう言って、曹仁は胡乱な眼を向けてくる。

「まったく、私を何だと思っているのです。愛紗相手に疲れ切った曹仁殿から漁夫の利を得たと思われてもつまりませんからな」

 一応納得いったのか、曹仁は上段に構えていた槍を下段へ落した。





 林の梢に、日が落ちようとしていた。
 言うまでもなく、暗闇の中では管槍の連撃を防ぐのは一層難しくなる。星の考えが読めなかった。本当に言葉通りに、曹仁に休息を与えようとでも言うのか。
 腕の疲労はすでにかなり回復しつつあった。恋との一戦を終えた後は、十日は腕が使い物にならなかった。修練の成果もあるが、何によりあそこで一度限界を超える経験をしたことが大きいだろう。
 星は対峙したまま、くるくると龍牙を弄んでいる。龍の上顎と下顎、あるいは蛟龍の舌が如く並列した二本の刃が特徴の槍だ。
 華美な造形を、これまでただの装飾としか見ていなかった。まさか突いた槍を挟み取るなどという離れ技をやってのけるとは想像だにしなかった。

「さてと、それではそろそろ再開といきましょうか」

 四半刻ほど時をおいて、星が言った。そのまま管槍の間合いに躊躇なく踏み込んでくる。先刻と同じく、再び槍を絡め取ろうと言う腹か。

「行きます」

 曹仁は、その誘いに乗った。ただし拳二つ分だけ突いたところで、槍を止める。

「むっ」

 龍牙が虚空に突き出されるのを見届けた後、曹仁は余裕を持って再び槍を前進させた。
 身を仰け反らせて、星が避ける。二撃、三撃、四撃。星はじりじりと馬を下げていく。一対一ならば、こちらからも前へ出ることが出来る。詰め寄った。
 十数撃目。わずかに高めに流れた上段の突きを星は潜り抜け、馬から身を乗り出すようにしながら横薙ぎに下段―――白鵠の足元を払った。白鵠が棹立ちになって避ける。
 追撃に備えるも、星は馬を大きく引いて距離を取った。すでに橋の袂近くへ至っている。

―――さすがに、そう簡単に勝たせてはくれないか。

 しかしあの趙子龍を相手に管槍の突きは十分に通用していた。いや、圧倒的に優勢と言っていい。四、五丈(12~15m)も一方的に追い立てたのだ。穂先を挟み取る技も、突きの出鼻に虚実を交えれば合わされる心配はない。たとえ虚と分かったところで、こちらが突き始めると同時に動かなければ管槍の速さに対抗は出来ないのだ。
 命を賭す心算で、この長坂橋に立った。相手は関雲長と趙子龍。当然の覚悟だ。しかし今や状況は好転し、星一人を退ければ自分も襄陽へ引くことが出来るのだ。
 顔を合わせれば、無茶をしてと華琳は怒るだろうか。口も利いてくれないかもしれない。それでも良かった。たとえどんな顔を向けられようと、華琳にもう一度会えるのなら―――

「仕方がない。こちらも使わせて頂きましょう」

 星が懐から何かを取り出した。

「―――っ」

 それを認識した瞬間、曹仁の胸中にほのかに芽生えていた希望が吹き飛んだ。
 竹筒であった。星は慣れた様子で龍牙の石突からそれを通すと、片手はその竹筒を、片手は柄尻を握って構える。そう、管槍である。

「なるほど。辺りが暗くなるまで待ったのは、人目を避けるためですか」

 我が道を行く性質の星をして、さすがに節操無さを自覚しているのだろう。
 すでに日は木々の間に隠れ、対峙する互いの姿すらおぼろげだった。愛紗や兵からは、管の有無など分かりはしない。

「……何も、貴殿の専売というわけではあるまい?」

 曹仁の言葉は図星を突いたらしく、星は少々拗ねた口調で言う。

「そういうわけではありませんが、まさか星さんが管槍とは」

 管槍は繰り突きという一つの技に特化した得物である。片手が可動式の管を握るために、斬る、薙ぐ、払うといった技はかなり使用を限定される。端から繰り突きを武の根幹に据え鍛えてきた曹仁とは違って、多彩で華麗な技こそ星の強みだった。管を握ることで失うものは曹仁よりもはるかに多い。
 それでもなお、あえて管を装着した。それも、いやに手慣れた仕草で。嫌な予感しかしなかった。

「では、行きますぞ」

 星はいつもの変則的なものではなく、鏡写しのように曹仁と似通った構えを取る。それも妙に様になっていた。

「―――くっ!」

 白鵠が大きく跳び退って距離をあける。紅い切っ先が、曹仁の腹をわずかに掠めていく。上段に飛んできた二撃目を仰け反って避け、再び腹を狙った三撃目は後退してすかす。四、五、六。連撃が止まらない。
 詰め寄った分だけ押しやられ、再び橋の中程に到達した。意を決し曹仁からも突きにいく、その素振りを見せたところで星の連撃が止まった。

「……やはりこっそり練習していたな、星さん?」

 恐ろしく速い。突く側と突かれる側の違いはあれど、修練で管槍の速さには慣れた曹仁をして目にも留まらぬ連撃である。管槍が邪道とされる理由が改めて身に沁みた。加えて首筋や眉間、具足の隙間の腹部を正確に狙って突きが飛んできた。星は管槍の速さを完全に御している。昨日今日の思い付きでは有り得なかった。
 星には元々武術に関しては極めて秘匿的なところがある。
 許でも愛紗や鈴々との手合せには時折参加しても、型稽古の類を目にすることはなかった。技の多様さこそが武器の星であれば、手の内を秘すことは当然と言える。しかしまさか、密かに管槍の修練までしているとは思いもしなかった。

「それはお互いさまというものでしょう」

「……確かに」

 それを言われては、曹仁は素直に頷き返すしかない。

「肩慣らしは済みました。次は本気で参りますぞ」

 再び互いに鏡写しの構えを取る。
 橋上を大きく行き来した展開から一変、静かな対峙となった。
 先刻の攻防で、曹仁は一つの結論に至っている。星もそうだろう。だからこそ曹仁が攻勢に移ろうとした瞬間、槍を引いたのだ。
 不用意に管槍で突き合えば、相討ちとなる可能性が高い。仮に先に槍を当てたところで、それは有るか無きかの刹那の差でしかない。直後に相手の突きをもらうことになるのだ。

―――青紅の剣だ。

 星のように初撃に突きを合わせる―――点を点で迎え撃つような芸当は不可能だが、剣で斬り払うことなら曹仁にも出来る。抜き打ちで初撃を払い、一気に剣の間合いまで踏み込む。管槍と管槍の勝負には背を見せる形になるが、それだけに星も予想しないはずだ。
 戦機が満ちていくのを感じる。

「…………っ!」

 あえて満ち切る前に、踏み込んだ。同時に右手は槍の柄を放し、剣把を握り込んでいる。
 目にも艶やかな龍牙の紅い刀身が一瞬揺らめき、―――消える。青紅の剣が空を斬った。

「……さっきのが肩慣らしというのは、本当だったのか」

 身体能力に劣る身でこの世界の武人に対抗するために持ち出した戦法だ。それがこの世界の武人―――それも天下で五指に入ろうという―――の手に渡ればどうなるか。答えは簡単だ。
 星は曹仁がしたように虚実を使い分けたわけではない。単純な速さだ。突きを払うどころか、引き戻される槍先にすら剣は掠りもしなかった。

「―――くっ」

 曹仁の槍が管から抜け落ちて、橋上に転がった。わずかに遅れて、力の抜けた手から管が、青紅の剣がこぼれ落ちる。
 腹の中が、燃えるように熱かった。
 視線を落とすと、軍袍にじわじわと血が滲み出してきていた。咬み傷のように傷口は二つ並んでいる。燃えているのは目に見えた傷ではなく、腹の奥深くだ。
 二又の刃が腹の内で臓腑を絡め取り、逃すことなく切り裂いていく様がまざまざと想像された。致命傷だった。龍牙の形状の意味をまた一つ、曹仁は己が身をもって知った。

「いま、楽に―――」

 星が言い掛けたところで、白鵠が馬首を返し駆け出した。曹仁からは、何の合図も送ってはいない。
 直立する旗手の脇を抜け、北へ北へと駆けていく。背後から星と愛紗の声がしたが、すぐにそれも聞こえなくなかった。

「……華琳の元へ、向かってくれているのか」

 間に合うとは思えない。だが最期は、一歩でも華琳の近くで迎えたい。
 曹仁は白鵠の首にもたれかかる様に倒れ込んだ。風に踊る鬣が頬を撫でる。
 白鵠の鼻梁の真ん中に、一筋の傷が出来ている。そこから溢れる血を、曹仁は両手を回して塞き止めた。曹仁の腹に龍牙が突き立つ寸前、白鵠が首を持ち上げた。身を挺して、曹仁を守ろうとしてくれたのだ。

「やはり、お前は俺には過ぎた相棒だったな」

 視界が白に染まっていく。温かな白鵠の毛並とは違う。無機質で強い白の光だ。これが死の色なのか。
 やがて、見える世界全てが白に覆われた。



[7800] 第12章 第7話 天佑
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2018/01/13 13:14
 暗闇の中を、襄陽へ向け駆けた。
 すでに百数十騎の集団に過ぎないため、離散を恐れる必要もない。ほとんど昼と変わらぬ速さで進んだ。
 ふと華琳は背後を振り向いた。
 目を凝らすと、闇の中に一層濃い影が聳えるのが分かる。長坂橋は山並みに遮られ、すでに地平の先にその痕跡を認めることすら出来なかった。

「―――?」

 一瞬、山の稜線が白く浮かび上がり、また元の暗い影へと戻った。

「今のを見た?」

「……今の?」

 隣を駆ける蘭々に問うも、小首を傾げられた。何のことを言っているか分からないらしい。

「いえ、何でもないわ」

 頭を振って華琳は返した。
 偶さか自分が振り向いた瞬間に、視界に捉えたというだけのことだ。並走する他の者達がそれに気付くはずもなかった。
 まるで山の向こうに何か光源でも生じたように見えた。それも炬火程度の明かりでは有り得ず、周囲一帯を白く染めるような強烈な光を放つ何かだ。
 曹仁より伝え聞いた天の国ではそんなことも可能だろうが、この世界でそれほど強い光を生み出す方法が果たしてあるだろうか。
 一つの記憶に思い当たった。母曹嵩の太慰就任を祝う宴の席で見られ、当時瑞兆と持て囃された事象である。

「……まさかね」

 埒も無い想像を、華琳はもう一度頭を振って打ち消した。
 それからは夜を徹し、ただ駆け通した。やがて空が白み始めると、遠く砂塵が見えた。襄陽からの援軍のようだが、どうも様子がおかしい。

「攻撃を受けているようね」

 追い立てられている四千騎ほどの集団、こちらが援軍の兵だろう。後を追う敵は、二千騎ばかりと見える。

「あれは、―――孫策か? ここに来てようやくのお出ましとは、ずいぶんと勿体ぶったご登場ね」

 赤地に孫と大書された牙門旗がかろうじて見て取れた。
 妹の孫権には長江を遡上して江陵を落させ、自身は赤壁よりさらに長江を降り、夏口から漢水に船を乗り入れ北上して来たということだ。二千騎は、予てより報告にあった孫策直属の部隊だろう。しばしばどこからか渡江しては領内を気侭に駆け回ってくれたという。それも自領に面した長江北岸に限らず、漢水流域でもその姿は目撃されている。敵地深くへの侵攻だが、慣れたものであるに違いない。

「牛金、襄陽に着くまでは貴方に従うと言ったけれど、しばし指揮権を返してもらうわよ」

「はっ」

 異を挟まず、牛金が短く返す。侠客ではなく曹仁の忠実な副官―――軍人の顔に戻っている。
 速足から一気に疾駆まで足を速めた。援軍四千騎が影となって、孫策軍には小勢のこちらの存在はまだ気取られていないだろう。

「流琉、旗を」

「はいっ」

 援軍の兵一人一人の顔が視認出来るほど距離を詰めたところで、牙門旗を立てさせた。
 援軍の兵達も、にわかに立った曹の牙門旗に驚きの表情を浮かべている。押し合いへし合いしながら、大慌てでこちらの進路に道を開く。
 四千騎を縦に貫く一条の道。駆け抜けた先で行き合ったのは孫策だ。案に違わず、二千騎の先頭に立っていた。孫策はやはり目を丸くして一驚した後、にやりと獰猛な笑みを浮かべた。
 馳せ違い様に突き出される白騎兵の槍を、孫策は南海覇王で危なげなく捌く。

「えーいっ!!」

 季衣が岩打武反魔の鉄球を投げ付けた。放物線―――を描かずに直線的な軌道で孫策へと迫る。轟々と常にない勢いは、馬の脚力を投擲に上乗せした証だ。近衛の隊長として華琳に付き従う季衣は、普段あまり疾駆から攻勢に転ずることがない。
 対する孫策は片手で伸び伸びと振るっていた長剣を両手で握ると、上段に担いでみせた。
 まさかと思ううちに、孫策と超重量の鉄球が激突し、時が止まったように静止した。力と力が拮抗し、均衡が生じていた。孫策軍後続の兵は足を止めた主君に衝突しそうになりながらも際どく躱し、前へ出た。季衣が鎖を引いて鉄球を自身の手元へ引き戻す。
 そのまま、孫策とはそれ以上交わることなく馳せ違った。不服そうに唇を尖らせた孫策が、視界の端を掠めていく。
 二千騎を縦断すると、半円を描くように旋回し、同じく対称となる半円を描いた援軍と合流を果たした。孫策軍は無理にそれを阻もうとはせず、距離を取って構え直している。

「あの鉄球を正面から打ち返しにくるとはね」

 季衣の岩打武反魔は重量だけで言えば天下に並ぶ物のない得物であろう。巨漢の胴回りにも数倍する巨大な鉄球は、並の兵なら持ち上げることすら出来ない。
 模擬戦では春蘭が弾くところを何度か目にしたが、あれは長大で幅広、片刃の分だけ厚みもある七星餓狼を用いてこそだ。いくら利剣と言っても細身の長剣である南海覇王で同じことをしようとするとは、大胆不敵と称賛すべきか、無謀無策と蔑むべきか。

「……華琳さま、たぶん孫策は打ち返そうとしたんじゃありません」

 季衣が言いながら、鉄球を掲げて見せた。
 球体の表面に、一筋の線が走っている。角度を変えよくよく見れば、それが鉄球に刻み付けられた傷であることが分かった。その中心は二寸近くも深さがある。

「まさか、斬ろうとしたというの?」

「たぶん」

「ものには限度があるでしょうに……」

 声を失った。
 相応の利剣を用いれば、斬鉄は不可能ではない。華琳も倚天の剣で試したことがあるが、粗悪な鉄の剣を、“据物斬り”にしただけだ。実戦の中でやれるとは思わないし、まして猛烈な勢いで飛来する巨大な鉄球を両断しようなど正気の沙汰とも思えない。笑い飛ばしてしまいたいところだが、孫策が刻んだ傷跡は決して浅くはなかった。

「―――華琳様っ、ご無事で!」

「貴方自ら率いてきたのね」

 援軍の指揮官が駆け寄ってきた。桂花である。

「申し訳ありませんっ。孫策を、引き連れて来てしまいました」

「いえ、よくぞ合流してくれたわ。それぞれに当たっていれば、何も出来ずやられていたでしょう」

「はいっ。援軍四千騎、お受け取り下さい」

「四千か。よく集めてくれたわね」

 襄陽の守兵は水軍の兵士も兼ねた歩兵が中心であるから、騎兵の援軍は三千は望めぬであろうと考えていた。

「三日前、突然曹仁がやって来て、華琳様が負けるかもしれないから援軍の用意をしておけ、と言い残していきました。あいつを信じたわけではなかったのですが、荊州都督の言葉ですし、一応樊城の騎兵を襄陽へ移したところでした」

「……そう。援軍はこれで全て?」

 曹仁の名を聞くと、ざわざわと胸がかき乱される。押し込め、尋ねた。

「他に歩兵五千も手配しておりますが、ここへ着くにはまだ時が掛かります」

 二千の孫策軍には、この四千騎で対さなければならないようだ。

―――大軍の戦ならば華琳さん、寡兵の戦ならば孫策さん。

 孫策と自分、どちらの戦が上か問うた華琳に、雛里が返した言葉が思い起こされた。

「確か、孫策に利があるのは一万五千までと言っていたかしら」

 それでも、疲弊し切った兵馬で関趙二人を相手取った昨日よりはいくらかましだろう。





「お怪我はございませんか、孫策様」

 朱桓が馬を寄せてきた。親衛隊の隊長だが、今は二千騎の孫策隊の副官のような扱いだ。

「大丈夫よ」

 雪蓮の身体は元より、鉄球の衝撃を真面に受け止めることとなった馬にも異常はない。軽く頷いて答えると、朱桓は拱手して下がった。あまりしつこいことを言わないのが、この親衛隊長の良いところだ。

「いけそうな気がしたんだけどなぁ」

 飛んでくる鉄球を目の当たりにした瞬間、斬れそうな感じがした。今にして冷静に思い返せばさすがに無謀という気もするし、“斬れそう”と感じただけで“斬れる”という直感にまでは達していなかった。曹操の顔を見て、少々気が逸ったようだ。挨拶代わりに驚かせてやるつもりが、赤恥をかいた。

「―――しかしよくぞ、ここまで辿り着いてくれたわね」

 挨拶は失敗に終わったが、我知らず口元がつり上がる。
 劉備軍から関羽と趙雲を追撃に差し向けると聞かされていたから、ここに至ることなく曹操が討ち果たされる可能性も十分にあった。自分に討たれにここまで来てくれた。そんな感謝の念まで浮かんでくる。
 もし曹操がすでに討たれていたなら、襄陽、そして樊城の攻略に掛かる計画だった。城を発した援軍を片端から片付け、手薄になったところを水軍―――ここまで二千騎を輸送してくれた部隊―――と協力して落とす。今後の展開を考えれば、曹操の首を落すよりもそちらの方が実入りは多い。曹操追撃と同時に荊州北部の攻略も進められているが、劉備軍が単独で、あるいは孫劉協同で攻撃に当たる城邑も多い。荊州北部での劉備の人気は不思議と根強く、一方で孫策軍は長く夏口を脅かす敵勢力であったのだ。陣営に劉旗一つ立てるだけで、城を落とすのはずいぶん楽になるはずだった。しかし劉備軍との関係を思えば、戦略や流通の要となる拠点だけは孫策軍独力で落とすのが望ましかった。そのうちの一つは蓮華がすでに落したであろう江陵であり、もう一つが襄樊の二城である。
 だがその辺りの政治的な駆け引きは冥琳に、あるいは蓮華に譲る。雪蓮の頭にあるのは、かつての敗戦の屈辱を雪ぐことだけだ。冥琳も、内心では認めてくれているはずだ。でなければ、そもそもこんな敵地深くまで自分を送り込むことを肯んじない。曹操に戦で勝つというのは、二人の共通の目標だ。まずは冥琳が水軍で勝った。今度は陸上で自分が勝つ番だ。

「―――全騎、我に続けっ!」

 二千騎は雪蓮の一挙手一投足に即応して動くが、あえて声に出して命じた。四千騎に正面から突っ掛ける。
 数こそ劣るが、練度では決して劣っていない。呂布の騎兵を引き継ぎ、西涼の錦馬超をも破った曹操軍の騎馬隊は精強無比で知られているが、今ここにいるのは襄樊で留守居を任されていた兵達だ。曹操軍第一線の精鋭ではない。二千の手勢は鍛えに鍛え上げていて、曹仁や張遼旗下の兵が相手でも引けを取るつもりはないのだ。
 ど真ん中を貫く二千騎の突撃を、四千は左右に分かれていなした。

「さすがにこれはかわすか」

 曹操が指揮に付いたことで、されるがままだった先刻までとは当然動きが変わっている。
 雪蓮は迷わず曹の牙門旗が立つ二千騎へ馬首を向けた。二千がさらに左右へ分かれる。やはり牙門旗のある方を追う。旗だけ立てて囮に使うような戦は、曹操はしまい。旗の下に、狙う首がある。また分かれた。牙門旗を追った。
 やがて牙門旗の周りには最初に現れた時と同じく百と数十騎を残すのみとなった。首に白い布を巻いた者が多く見られる。白騎兵だ。曹仁に従い西涼にいるものと思っていたが、赤壁に参陣していたのか。
 まとめて借りを返す良い機会だった。官渡より馳せ劉備軍を討ち、返す刀で孫策軍までを破ったあの時も、曹操は白騎兵を伴っていた。

「―――ちっ」

 曹操が最初に分けた二千騎が、横から突っ込んできた。次に分けた一千も斜め前から姿を現す。
 自ら囮となることで、誘導されたらしい。さすが曹操は頭を使った面倒な戦をする。

「散開せよっ!」

 頭上で南海覇王を回しながら叫んだ。二千騎がぱっと散り散りとなる。敵地への侵入を繰り返して鍛えた兵達だ。敵の目を逸らし逃げるのはお手の物である。雪蓮も旗手一人を伴うのみで駆ける。曹操軍の二千と一千は敵を求めふらふらと蛇行した後、やむなく合流を果たした。五百二隊もそこに加わり、再び四千騎ひとまとまりとなる。
 四千騎から距離を取ると、雪蓮は散開と同時に伏せさせていた牙門旗を掲げさせる。

「孫策様っ」

 朱桓が数十騎をまとめて一番に駆けてきた。

「ふっ、四千騎と合流するものかと思えば、勇ましい戦もするじゃない。そうでなくっちゃね」

「?」

 眉をひそめる朱桓に、顎をしゃっくって背後を示す。
 この地―――二千騎の集結場所―――に向けて曹の牙門旗が突っ込んで来ていた。伴うのは百と数十騎のみだ。

「行くわよっ」

 兵の集結を待つより、こちらも勢いを優先させた。駆けながらも少しずつ兵は集まり、百数十騎とぶつかる直前には三百程となった。それでも相手が白騎兵なら優位とは言えないだろう。
 ぶつかった。
 首元の布が標的だ。先頭の一騎の白を赤く染めた。
 二騎目、三騎目までは斬れたが、そこからは逆にこちらが押された。疾走する馬上にあって歩兵のようにぴたりと槍先を合せて突いてくる。間合いに劣る剣では崩しようがなかった。せめてもの反撃と、二つ三つと穂先を斬り飛ばしていく。
 ふっと林立する槍が途切れた。代わって飛んで来たのは、先の巨大な鉄塊だ。
 馬上に横たわるつもりで、雪蓮は思い切り身を仰け反らせた。轟々と音を立て、頭上を巨大な影が過る。直後、南海覇王を横薙ぎにした。きいんと甲高い金属音と共に、握った剣把にわずかな抵抗を覚える。
 身を起こすと、鎖だけになった得物を手に許猪が悔しそうに目を剥いていた。後方から、どしんと重い物が地面を打つ音がする。あの巨大な鉄塊を断ち割るのは―――不可能とは言わないまでも―――難しい。鉄球はやり過ごし、鎖を断っていた。
 許褚の傍らに典韋。手にした牙門旗を他の兵に預け得物を構える。許褚の鉄球にも劣らない巨大な円盤上の兵器だ。二人の奥には曹操がいる。届くか。
 典韋の得物が、雪蓮の馬の足元目掛けて投げ打たれた。許褚の二の舞を恐れ、直接雪蓮を狙うのは避けたようだ。円盤が土砂を巻き上げ大地に大穴を穿った瞬間、すでに雪蓮は馬を跳躍させていた。一息に曹操へ詰める―――つもりが、着地と同時にがくんと馬が膝を折った。
 雪蓮の望むまま駆けてくれていたが、やはり先刻鉄球を斬り損ねた際に脚を痛めていたのだろう。地面に腹這いとなった馬から下り、南海覇王を構える。好機と見て、曹操達が脚を止めた。

「―――孫策様、馬をお代えくださいっ!」

 叫び、朱桓が素早く十数騎を率いて前へ出る。兵が一騎下馬して、手綱を捧げてくれた。遠慮なく雪蓮は馬上の人となる。
 曹操の前面にも白騎兵が列を成し、双方足を止めての睨み合いとなった。曹操軍の四千騎が、こちらへ向けて駆けて来る。孫策隊の二千騎も、間も無く集結を遂げる。

「貴方、当たり前のように鉄を斬るのね」

 兵の頭上を飛び越え曹操が話し掛けてきた。

「鉄球は斬り損ねたけどね」

 口を利くのは、反董卓連合で陣営を同じくして以来だろうか。

「江陵で孫権に会ったわ。なかなか面白い子ね。私にくれるつもりはない?」

「可愛い妹を、誰があげるもんですか」

「そう、残念ね」

 それだけ言うと、曹操は馬首を巡らせた。四千騎のいる方へと駆け去って行く。乱戦で勝負を決するつもりはないということだろう。雪蓮も真っ当な戦での勝利が望みだった。
 距離を取って仕切り直すなどということはなく、四千騎がそのまま向かって来る。こちらも二千騎が集まるや駆けた。
 今度はどんな手を使ってくるか。関趙の追撃を受け、江陵を失い、わずか百数十騎で現れた。失意に沈んでもおかしくはないが、ちゃんと強いままの曹操がいた。場違いながら、雪蓮はわくわくと胸が高鳴るのを抑えきれなかった。
 曹操は今度は隊を分けず、真面にぶつかってきた。雪蓮はぎゅっと絞った錐状の隊形で、その真ん中を貫く。四千騎の中央近くで、錐の先端が堅いものに触れた。白騎兵だ。わずかに進路が横に流され、曹の牙門旗とは行き合うことなく背後へ抜けた。
 反転した。曹操軍は反転せずに、そのまま駆けている。後を追った。形としては有利だが、曹操の思惑で動かされている。
 四千騎から五百が分かれた。構わず追った。牙門旗は残る三千五百に立っている。さらに五百が分かれ、次には一千が分かれた。やはり牙門旗は残る二千騎にある。
 やがて五百二隊と一千が、雪蓮達の背後で合流して二千騎となった。二千の曹操軍を追い、二千の曹操軍に追われる形だ。
 丘が一つ見えた。山深い巴蜀と中原の境に位置する荊州は多様性に富んだ地形をしている。馬を一駆けさせればすぐに丘陵や山岳に行きつく。
 曹の牙門旗が丘を駆け上がっていく。狙いは反転からの逆落としか。恐れて脚を緩めれば背後の二千に打たれ、進路を逸らせば二つの二千が合流して今度は四千騎に追われることとなる。

―――いける。

 直感が走った。

「そっ、孫策様に続けっ!」

 やにわに馬を疾駆させ突出した雪蓮に、朱桓が叫ぶ。兵が慌てて脚を速めた。曹操を追って、丘を駆け上がる。
 雪蓮が中腹まで至ったところで、曹の牙門旗は丘の頂に到達し、反転した。それなりに急峻な丘だ。二十歩も駆ければこちらを圧倒するに十分な勢いを得るだろう。躊躇せず駆け上り、曹操軍が十歩を刻んだところでぶつかった。
 先頭から十人余りを雪蓮は瞬く間に斬り払った。わずかに遅れて、兵が続く。勢いはわずかに劣るが、大きな違いはない。それ以上に逆落としで優位に立てると思っていた兵と、劣勢を覚悟していた兵の違いが出た。士気で勢いを押し返した。

「―――っ」

 三方から同時に突き出された槍を、南海覇王でまとめて巻き落とした。反撃は、一人に浅手を与えるのみに留まった。白騎兵。曹の牙門旗も目と鼻の先だ。
 突き付けられる槍を捌く。やはり駆け合いの中で白騎兵を仕留めるのは難しい。
 白騎兵の攻撃が緩んだ。雪蓮は手綱を引いて、馬首を強引に斜めへ向けた。思った通り、直後に巨大な円盤が脇を掠めていった。許褚と典韋の攻撃は凄まじいものだが、巻き添えを避けるため味方を予め下げねばならない。地面に突き刺さった円盤と典韋とを繋ぐ鉄条を、斬り飛ばした。
 じゃらじゃらと音を鳴らし、許褚が鉄球を失い鎖だけとなった得物を旋回させる。咄嗟に身を屈め、中空に南海覇王を突き出した。鎖は剣にぶつかると、そこを支点にぐるぐると回転して絡みついた。雪蓮が南海覇王を走らせると、巻き付いていた鎖は寸断され小さな鉄片となって地に落ちる。
 そこで許褚と典韋、そして曹操と馳せ違った。円盤を避けたことで進路が逸れ、曹操の首は剣の間合いの外だ。
 いけるという直感は、まだ続いている。そのまま曹操軍を両断して駆け抜け、丘を登り切った。逆落とし。今度はこちらがする番だった。それも完全な形で。
 駆けた。思った通り、二十歩で平地では達し得ない速度に至った。曹操は麓近くで後続の二千騎と合流したところだ。さらに加速していく。騎乗する雪蓮達はおろか駆ける馬自身にすら止め難い勢いをもって、曹操軍に突っ込んだ。
 四千騎は、当たるそばから崩れていく。一方的と言って良い展開となった。ほとんど遮られるということもなく、突き進んだ。
 曹の牙門旗。なおも屹然としている。
 大男が立ちはだかった。巨体の上に懐かしい顔を見た。曹仁の副官の牛金だ。大刀を振り被り、横薙ぎにする。幅広の刃を、すれ違いざまに南海覇王で斬り飛ばした。太史慈との一騎打ちで勘所を掴んだ斬鉄だが、今日は格別調子が良い。

「朱桓、前をお願いっ」

「はっ!」

 正面に白騎兵が現れたところで、雪蓮はわずかに脚を落した。代わって朱桓が数十騎を率いて前へ出る。この戦場で先頭を譲るのは、これが初めてだ。
 十数騎が瞬く間に白騎兵の槍に突き落されたが、続く十数騎で隊列を乱した。逆落としで得た加速はすでに衰えているが、それでもまだ勢いはこちらがずっと上だ。朱桓が鈎を振るって道を斬り開く。白騎兵にかかずらっていては、またあと一歩曹操まで届かない。雪蓮は朱桓達が作った道をただ駆け抜け、牙門旗の下へ辿り着いた。
 曹操、―――の前に許褚と典韋が健気にも立ちはだかる。得物を失い槍を手にしている。当然それなりに使うのだろうが、雪蓮の直感を揺るがすほどのものはない。
 馳せ違い様に槍を断つか。いや、幼いながらも名にし負う虎士の隊長と副隊長ならば、武器を失っても身を挺して曹操を守るだろう。ここは首を刎ねる。
 差し当たり首二つに狙いを定めたところで、奥から大将首が前へ出た。曹操。
 部下の助命のために自分の首を差し出す、というような殊勝な顔はしていない。剣を手に、来るなら来いという中原の覇者の顔を保っている。それでこそ、斬る甲斐がある。

「―――はあっ!」

 南海覇王。横薙ぎにした。曹操の首元で火花が散る。振り抜き、馳せ違った。
 そのまま四千騎を両断して駆け抜け、手綱を引いて構え直した。朱桓が馬を寄せてくる。

「孫策様」

「……蓮華に譲らなきゃいけないっていうのに。短く詰めて鍛え直さないといけないわね」

 南海覇王に落とした視線を動かさず言った。
 長剣の切っ先一寸ばかりが欠けていた。受けにきた剣もろともに曹操の首を断つ。曹操の剣も相当な利剣と見えたが、その自信が雪蓮にはあった。しかし結果はこちらの得物が欠けることとなった。
 母の代から数えれば、恐らく戦場で千を超える敵を屠ってきた剣だ。父祖伝来の宝剣だが、母も雪蓮もぞんざいと言っていい扱いをしてきた。頭蓋を断ち割り、具足ごと薙ぎ払うなど当たり前で、太史慈の厚重ねの剣を両断してからは斬鉄―――断金も常としていた。つい先刻は許褚の放った巨大な鉄球を断ちにいって、仕損じた。それでも刃こぼれ一つせず、その切れ味を些かも鈍らせることがなかったのだ。

「天の御使いに選ばれただけあって、さすがに天祐がある」

 自分の渾身の打ち込みである。曹操は武芸の腕も一流と聞くが、あくまでそれは技量があるというだけの話だ。武人として踏んで来た場数が違い、積み重ねてきた業が違う。本来自分が打ち負けるなどあり得ない。
 馳せ違う瞬間、曹操自身も唖然としていた。やはり天祐と言うものだろう。

「その天祐がいつまでもつか、試させてもらいましょうか。―――ふふっ、蓮華に短剣を託すようなことだけは避けたいわね」

 次に剣を交わせば、そこで終わらせる。軽口を言いながらも、胸に期した。
 再び二千騎を走らせた。曹操軍は逆落としの衝撃からまだ立ち直れていない。曹の牙門旗が横へ動いた。ぶつかり合いを避け、駆けながら隊列を整えるつもりだろう。
 追い撃ちにした。二千騎の旗下は、まだ数十騎しか欠けていない。対する曹操軍は逆落としの一撃で五百騎近く数を減らし、この追撃でさらに数百は討ち取れそうだ。戦は明らかに優勢である。

「―――っ」

 直感が走った。ほとんど恐怖に近い感覚だ。
 自分の直感は、何も妖術や仙術といったような不可思議な能力ではない。幼少時から母に連れ出されて戦陣で育った。その長い戦暮らしによって培われた戦勘は、超常の類ではなく確かな経験に裏打ちされたものだ。その戦勘が、戦場に何か不穏なものを感じ取った。
 後を追う曹操軍からではない。曹操軍からは狙い時の獲物が発する弱々しい気配しか感じられない。
 強烈な違和感は、視界の端にあった。視線をそちらへ向けると、地平の先に何か赤いものが見える。それは見る間に脹れあがり、巨大な赤い一匹の獣となった。獣が、横合いから襲いかかって来る。
 二千騎の真ん中を横断された。跳ねられ、踏み砕かれ、百騎余りが瞬時に屠られている。
 雪蓮がその場で二千騎の脚を止めると、赤い獣は前を行く曹操軍へと合流していった。追撃を続ければさらに二度三度と獣の襲撃を受けることとなっただろう。

「……赤兎隊か。」

 実際に目にするのはこれが初めてだが、あんなものは見間違えようがない。何より先頭に、かつて反董卓連合で目にした呂布の姿があった。話に聞いていた通り隻腕だが、残された右腕で振るう方天画戟は往時と変わりない。

「呂布軍と共に解散したと聞いていたけれど、いったいどこから降って湧いたのか。これも曹操の天祐かしらね。―――朱桓、退くわよ」

「しかし―――」

「呂布の武に、曹操の用兵よ。せめて相討ちに持ち込めるならやる価値もあるけれど、あの二人が相手ではそれも難しいわ」

 思い切りの良さで曹操を凌駕してきたが、用兵そのものには翻弄されたと言ってもいい。そこに呂布とあの赤兎隊が加わった。およそ考え得る最強の組み合わせである。
 何より、いけるという直感が胸中のどこを探してももう見つからなかった。





 孫旗が駆け去って行く。華琳は黙ってそれを見送った。
 反攻の好機だが、さすがにその気力が湧いてはこなかった。赤兎隊も、追撃にまで付き合ってくれるものか分からない。
 その赤兎隊から、数騎が馬を寄せてきた。先頭を駆ける呂布には気が付いていたが、他に皇甫嵩の姿があった。もう一人、牛金と変わらぬ長身に見違えるようだが、高順もいた。

「どうしてここに?」

 分かりきった問いを口にする。

「仁兄に頼まれました」

「これまで一度だって我らに再び戦場に立てとは言わなかったあの男が、懇願したというのでな。私も久々に重い腰を上げたというわけだ。―――愛されているな」

 しがみ付くように馬を駆っていた皇甫嵩が、身体をほぐしながら言う。

「その馬は?」

 軽口には付き合わず、問いを重ねる。
 三人も、率いてきた小隊が跨るのも、かつての赤兎隊と同じく汗血馬である。
 赤兎隊を構成した汗血馬は、呂布の希望で領内各地の牧に下げ渡されていた。軍馬としてではなく子種を取るためだった。汗血馬の血を引き生まれた仔馬達はいずれ曹操軍の騎馬の質を引き上げてくれるだろうが、まだ戦場に立てる年齢には達していないはずだ。今まさに目の前にいる汗血馬の出所が、華琳には分からなかった。

「私が西域で買い求めたばかりの、商品でございます。曹操軍にお買い上げ頂けないかと、本日はお持ちしました」

「桂花、言い値で買い取ってあげなさい。―――あの兵達は?」

「かつての赤兎隊の者達です。今は私の商会で働いてもらっています」

 赤兎隊の兵は馬術は達者でも騎兵としての素養には欠ける者達であり、曹操軍に組み入れることはなかった。しかし行商などには打って付けの人材であろう。

「そう。助かったわ」

 それは知らぬ間に、潜在的に強大な武力を有した集団が洛陽城内に誕生していたということでもあるが、華琳は軽く頷き返した。今や呂布達は政治的野心から最も遠い存在と言える。

「はぁ~、ありがとう、恋」

「ん」

 季衣が大きく息をつくと、呂布に頭を下げた。この二人はよく食事を共にしているらしい。

「ひとまず危地を脱した。そう思っていいのでしょうか?」

「そうね」

 流琉の問いに首肯する。
 襄陽まで二十里余り。歩兵の増援も遠からず合流する。せっかく出張って来たのだから、それは皇甫嵩に指揮させよう。よほどの大軍でも来ない限り、まずは万全の陣容だ。

―――しかし、何度あの子に助けられたのか。

 華琳は天を仰いだ。
 関羽と趙雲の前に、立ちはだかってくれなかったなら。長坂橋で時を稼いでくれなかったなら。襄陽からの援軍がもっと少なかったなら。呂布達の救援がなかったなら。ほんのわずかに風向きが変わるだけで、華琳の首はいとも簡単に落ちていただろう。

「ところで、肝心の曹仁の奴はどうしたのだ?」

 皇甫嵩がさらりと口にした。

「……それが」

 答えずにいると、代わって牛金が説明を始める。華琳は、目を逸らした。耳を塞ぎたい衝動には、理性で耐える。

「―――あれは?」

 逸らした視線の先に何かが見えた。奇しくも長坂橋のある南の方角だ。白く、小さな点だった。それが猛烈な勢いで近付いてくる。

「びゃっこう」

 ぽつりと囁き声が聞こえた。

「呂布っ、貴方、見えるのね? やっぱり、あれは白鵠で間違いないのね?」

 こくこくと、呂布が頷く。

「何よ、心配して損したわ。まったく、戻るのならもっと早く戻ってきなさいよね」

「……でも、そーじん乗ってない」

「―――っ」

 呂布のか細い呟きが、華琳の胸を強く打った。




[7800] 第13章 第1話 喪失
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2018/02/07 19:54
 華琳が宛城に入って一ヶ月余りが過ぎた。
 赤壁での敗戦からはすでに三ヶ月が経過している。宛より南はすでに孫劉連合の領分であり、荊州北部の大部分を曹操軍は失っていた。
 州都襄陽に逃げ落ちた後、華琳は赤壁からの敗残兵の収容に努め、戦線の立て直しを図った。兵は八万余りを回収することが出来た。烏林に集った二十万の兵の過半をたった一夜の敗戦で失ったということだが、長く過酷な退路を思えば八万でもよく帰還してくれたと言うべきだろう。さらに幸いなことに、将は一人を除いて皆生還を果たした。安否が気遣われた稟と風も、身を潜めていたところを後続の春蘭達に拾われ無事に戻っている。
 将兵の犠牲が想定より少なく済んだ理由は、孫劉連合が追撃よりも荊州攻略を優先したためだ。追撃に姿を見せなかった桃香や張飛達の働きは特に大きい。桃香は黄忠ら荊州出身の将軍達とともに民に蜂起を促して回り、いくつもの城をほとんど無傷で手に入れていた。一方で張飛は如何なる結びつきがあったのか、荊州に割拠する異民族を糾合し、三万の剽悍な軍勢を組織している。
 そうして荊州の州兵と異民族の軍を加え十五万にまで膨れ上がった孫劉の陸上部隊が迫ると、華琳は襄陽を退去せざるを得なかった。漢水上流の漢中を劉備軍に、下流の夏口を孫策軍に抑えられているからだ。陸上で圧倒出来る兵力が無ければ、襄陽はやがては水路を断たれ漢水以南に孤立することになるのだ。襄陽を失えば、その対として機能していた樊城が落ちるのも時間の問題だった。戦線は導かれるように宛―――曹仁が許と洛陽を守護する最終拠点と見定めた地―――へと押し上げられることとなった。
 宛城に一万、その支城にも一万の守兵が置かれていた。そこに赤壁の敗残兵八万と襄樊の駐屯兵を加えると、兵力は十二万に達した。南陽郡の府も置かれる大規模な宛の城郭と、戦のためだけに作られた支城を組み合わせた入念な備えもあって、孫劉同盟はようやく攻勢の手を緩めた。今は宛より南に百数十里の距離にある新野に兵を入れ、睨み合いの形となっている。
 宛は、元々の駐屯兵は五千に過ぎなかった。支城を建て、兵力を増したのは荊州都督として曹仁が行ったほとんど唯一の事績である。それが生きていた。
 許に戻した桂花からはさらに援軍を工面すると連絡がきたが、それは断った。
 戦線は、この地に限った話ではなくなっている。
 荊州の主力とは別に、孫策軍は揚州方面からの侵攻も開始していた。率いるのは先日江陵で言葉を交わした孫権である。問答の中で孫呉の領すべき地と孫権が主張した長江北岸を攻め取る戦である。本人も望むところであろう。五万の兵力に加えて水軍の援護も受ける万全の態勢だ。こちらは凪、沙和、真桜の三将を三万五千の兵と共に送り込んだが、籠城で凌ぐよりないだろう。
 予てより交戦状態にあった西涼では、赤壁での曹操軍の敗戦が伝わると馬超に呼応する者が急増した。こちらは雍州牧の白蓮、曹仁から隊を託された詠と春華、それに蹋頓と龐徳を配置し、兵も騎兵六万に歩兵二万と戦力は充実している。とはいえ馬超率いる西涼騎兵が相手では、こちらに援兵を回す余裕まではない。
 徐州では再び反曹の兵が立っていた。陶謙の客将として桃香がしばし滞在し、官渡の戦いの際に劉備軍に呼応した土地である。また冀州中山国でも小規模ながら叛徒が立った。黄巾の乱の後に、桃香が一時県尉を務めた土地だ。加えて洛陽と許では宮中にも不穏な気配がある。それぞれ月と桂花が目を光らせているが、いずれは兵を動かす状況に発展しかねないという。他にも、騒乱の徴候はそこかしこに転がっていた。
 無為に思えた桃香の長い流浪の行軍が、いま現実の力をもって曹操軍の前に立ち現われていた。
 再び戦機が熟し始めている。孫劉が決戦を仕掛けて来るなら、各地の叛乱と呼応するこの機しかない。おそらく数日の内に、新野の孫劉連合は北上を開始するだろう。

「……行かないわけにはいかないわね」

 呟き、華琳は執務机の椅子に沈めていた腰を上げた。
 季衣と流琉、それにひとまずは華琳の従者に据えている無花果を連れて、支城の視察に向かう。宛の城門を出ると、城外に駐屯していた白騎兵が駆け寄ってきた。
 白騎兵は、今は率いる者がなかった。遊撃隊として独自に動くことを認めているが、いつからか虎士と虎豹騎の大半を失った華琳の供回りを務めるようになっていた。
 宛城より西へ十里、小さな山の麓に辿り着いた。支城はその頂に建てられている。主将として霞が、副将として牛金を入れていた。張遼隊はちょうど城外に出て調練中で、山の斜面を登っては下りてを繰り返している。
 白騎兵を一騎走らせ、霞に構わず調練を続けるよう伝えると、華琳達も山を登った。丈の短い草で覆われた山で、複雑な道を辿る必要はなく、どこからでも登頂することが出来る。直立する門番に軽く会釈し、騎乗のまま城内へ入った。
 曹仁と共に建設に立ち会った無花果の先導で、城内を見回る。城門をくぐるとすぐに広場と見紛うばかりに幅広の大通りが続いた。東西南北の城門を結ぶ十字路で、つまり入城した騎馬隊は隊列を維持したまま別の城門から再出撃が可能だった。通りの左右には多層作りの櫓が組まれ、味方の騎馬隊に紛れて侵入した敵はそこで激しい迎撃に曝されることになる。
 大通りに限らず、騎馬での移動を意識して全体に広々としていた。通常なら大半を歩兵が占める駐屯兵も、一万のうち五千までが騎兵だった。砦そのものの防衛を目的とした城郭ではなく、支城として宛を、あるいは洛陽や許を狙って北上する敵を邀撃するための拠点なのだ。
 城壁に上ると、歩兵が弓の調練をしていた。やはりそのまま続けるよう言い渡し、見物する。
 城外の張遼隊と連携した訓練のようだ。山の斜面を駆け登る味方を矢で援護し、合図があれば素早く城門の開閉を行う。張遼隊の動きは常に相手より高所を占め、攻撃は全て逆落としを想定したものだ。城壁からの援護でそれが可能となる。騎兵にとっては夢のある戦場だろう。

「あの子らしい城を作ったわね」

 城郭の設計など無理だと本人は言っていたが、しっかりと“曹子孝の城”になっていた。
 宛城に入って一ヶ月。その外郭を遠目にし続けてきたが、城内へ入るのは初めてだった。いつか、曹仁自らに案内させようと思っていたからだ。
 曹仁の消息は、未だ杳として知れない。
 呂布が遠目に見定めた通り、奔馬と化して躍起に駆け付けた白鵠の背にその姿はなかった。純白の馬体を真っ赤に染め上げた多量の血は、致命的な傷を負ったことを暗に示していた。曹仁は死んだ。そう考えている者も少なくない。
 華琳は、そうは思っていなかった。
 あの日確かに強い光を見た。曹仁がこの地に降り立った時と、同じ光だ。曹仁の身に何か起こったのは間違いないが、それはただの死ではない。あるはずがない。
 光を間近で目撃した者もいる。白騎兵の旗手である。白鵠に遅れること半日で帰陣した旗手は目にしたもの、そして目にしなかったものを事細かく語ってくれた。
 長坂橋で関趙二人と立ち合った曹仁は、四刻余りの死闘の果てに遂にはあの関羽に手傷を負わせ退けたという。曹仁と趙雲は何やらやり取りを交わすと―――旗手には会話の仔細まで聞き取ることは出来なかった―――、休息を挟み一騎打ちとなった。関羽との二人掛かりをも凌いだ曹仁にもはや負けはないと、旗手は胸を撫で下ろした。実際、始まるやまずは曹仁が押しまくる展開となった。しかし不意に攻守は逆転し、静かな対峙の後、どうやら勝負は決したようだ。旗手の目には交錯する得物を捉える事が出来なかったが、曹仁はいつの間にか抜き放っていた青紅の剣と槍を取り落とし、力無く頭を垂れた。
 白鵠が馬首を転じ、一路北へと向けて駆け始めたのはその時だ。すぐに旗手も後に続いた。趙雲に関羽、劉備軍の兵も遅れて追い掛けてきた。
 周囲が光に覆われたのは、二里ほど駆けた頃であった。光は、曹仁と白鵠を中心に膨れ上がったように見えたという。そしてその光がおさまった時、白鵠の鞍上に曹仁の姿はすでに無かったらしい。
 白鵠は一時足を止め、すぐに再び駆け出した。落馬を疑い旗手は周囲を見回したが、曹仁の姿はどこにもない。いや、そもそも白鵠が曹仁を落してそのまま駆け去るなどあり得ないことだ。そう思い至ると、旗手は呆気にとられる劉備軍の面々を残し、白鵠の後を追った。
 そこからは華琳も知る通りだ。駆けに駆けた白鵠は、華琳達の眼前に来るとようやく足を止めた。額に負った傷の治療を受け、今は大人しく宛城の厩に納まっている。
 曹仁が死んだのなら、亡骸を残して白鵠が帰陣するはずがない。共に帰って来るか、あるいは曹仁無き曹操軍に戻る理由もなく共に姿を消すだろう。白鵠が今も曹操軍に留まっていることが、何よりも曹仁が今もどこかで生きている証だと華琳には思えた。
 孫劉連合は曹家の天の御使いの消失を盛んに喧伝していた。つまりは曹魏から天意が去ったのだと。しかし曹仁を討ち取ったと明言しないのは、やはりその確かな証―――亡骸を発見することが出来なかったためだろう。
 こんな時にこそ役に立つのが天子である。華琳はこの切迫した状況の中、一時戦線を離れ洛陽を訪れた。しかし延ばしに延ばした三日の滞在期間中に、天子が超常の顔を見せることはなかった。華琳は肝心な時に役に立たないその存在に苛立ちを覚えたまま洛陽を辞去した。今にして思えば姿を見せないことそれ自体に何か意味があったのかもしれないが、あやかしの類の思惑など考えるだけ無駄と言う気もする。結局、確たることは何もわからないままだった。

「……一人か」

 華琳はため息交じりにこぼす。支城の視察を一通り終え、城門から麓へと続く斜面を見下ろしていた。
 曹仁は生きている、その思いは揺るがない。それでもなお、曹仁が手元にいないというだけで、歩むべき道はいくらか荒涼として見えた。
 曹仁は幾度となく、華琳の覇道を支えると口にした。考えてみると、華琳に付き従うと忠誠を誓った部下はいても、華琳の覇道に共感しそれを支えると明言した者は多くない。春蘭や桂花は華琳がどんな道を選ぼうと変わらず付き従うだろう。華琳の政策に引かれて帷幕に加わった稟や風も、志の在り処まではみていない。
 己が道と思い定めた覇道を前に、独り立つ。そんな当たり前のことが、いつしか当り前ではなくなっていた。曹仁は行く先を照らす明かりであり、手を繋ぎともに歩く伴侶であった。

「ふふっ、まさか私が、男一人いないというだけでこんなに気分に陥るだなんてね」

 ひとりごち、自嘲気味に笑う華琳を、季衣達が気遣わしげに見つめていた。





「……本当に、星ちゃんにも曹仁さんがどこへ行ったか分からないんだよね?」

「はっ」

 桃香は何度目になるか分からない問いを星にぶつけていた。返って来たのは、これも何度も耳にしたいつも通りの短い返答だった。
 長坂橋で、星は間違いなく曹仁に致命傷と言える傷を与えたらしい。改めて止めを刺す必要も感じない、確かな手応えを得たという。しかし直後に強い光を発し、曹仁の姿がかき消えた。
 初めに報告を受けた時には、何か悪い冗談でも聞かされているのかと思った。そも西涼にいるはずの曹仁があの戦場に現れること自体、予想だにしていなかったのだ。しかし星だけでなく愛紗と五百の兵までも曹仁の姿と眩い白光を目にしている。孫策も曹仁旗下の白騎兵と副官の牛金と交戦したという。
 現実に曹仁は幾千里を越え華琳の窮地に駆け付け、そして光と共に消えたと信じるしかなかった。疑ったことなどなかったが、やはり曹仁は天上より遣わされた存在だったのだろう。光というのが天上人の死を意味するものなのか、それ以外の何かを示唆するものなのかは分からない。

「……では、私は隊に戻ります」

 無言でいると、星は一礼して踵を返した。腰に佩いた剣が、いやでも目に付いた。
 鞘の拵えこそ異なるが、曹仁の青紅の剣である。星が戦利品として抜き身のまま持ち帰ったもので、一度は桃香に献上された。側に置いておく気にはとてもなれず、そのまま星に褒賞として下賜していた。

「―――あっ、星ちゃん、偵察お疲れ様っ」

 自身のあまりな態度に気付いて、桃香は星の背中に慌てて労いの言葉を掛けた。自ら宛城までの斥候を買って出てくれた星が、その報告に戻ったところを捕まえていたのだ。
 星は首だけこちらを振り向いて小さく微笑むと、部屋を出て行った。

「はぁ、気を使わせちゃった」

 分かっているから気にするな。そう言われた気がした。
 曹操軍随一の武功を誇る曹仁を破った星の大功は褒め称えられるべきものであって、責めて良い理由など欠片もなかった。しかし、捕らえることは出来なかったのか、そう思ってしまう自分がいる。
華琳と戦うと決めた時から、いつかこんな日が来るかもしれないと考えてはいた。覚悟までは、決まっていなかったのだろう。
 これから戦いへ赴く将に、敵に情けを掛けろとは言えない。まして相手の曹仁はあの呂布と伍した今や当代一とも目される武人なのだ。しかし愛紗や鈴々、そして星なら、上手く事をおさめてくれるのではないか。そんな淡い希望にすがり、ここまで来てしまった。

「―――っ」

 桃香は頭を振って、勢い良く立ち上がった。
 愛紗達将軍は城外に布陣する自身の隊に、朱里達は連日孫呉の軍師と協議を重ねていて、劉備軍の本営を置いた宮中の一角には桃香だけが取り残されている。こうして一人籠もっていると、どうしても内省にばかり耽ってしまう。曹操軍との決戦を控え、今は自分の想いにばかり囚われている時ではない。

「桃香様、お出かけですか?」

 部屋を出ると、すぐに室外に待機していた焔耶が駆け寄ってきた。
 入蜀を果たして桃香が漢中王に就いてからも、劉備軍の軍制は明文化されていなかった。五千の流浪の軍が一年余りで土地と領民を得、兵力を十数倍にまで増したのだ。文官の手が足りないのもあって、その都度対応するという形が取られてきた。雛里が曹操軍より帰還したことでようやく制度が定まり、各々の立場も明確となった。
 流浪の軍の頃には外出の度に愛紗や鈴々達が護衛役を務めてくれていたが、今は焔耶の兵が桃香の旗本であり近衛という扱いである。

「ちょっと気分転換に、外の空気でも吸おうと思って」

「お供いたします」

「うん、お願い」

 焔耶が相手というのは、今は気が楽だった。曹操軍と袂を分かって以降の仲間であり、曹仁とも面識はない。一人でいると必要以上に物思いに耽ってしまうが、義姉妹や朱里達といると黄巾の乱で戦陣を共にしたことや許での暮らしが自然と思い起こされてしまうのだ。
 宮殿を出、街を適当にぶらついた。
 新野は南陽郡では宛に次いで大きな城邑である。しかし十五万の軍が駐屯し、その兵を相手にする商人も多く流れ込んできているから、城内は人でごった返していた。
 この新野までは、ほとんど抵抗も受けずに進んできた。多少なりとも戦闘があったのは華琳が一時立て籠もった襄樊の二城程度のもので、あとは勧告に従って城門を開いてくれた。赤壁での曹操軍の敗報に加えて、劉備軍に身を寄せた荊州出身の者達が説得に当たってくれたお蔭だ。将では紫苑と桔梗―――焔耶は性格上不適と思えたので外れてもらった―――、若手の武官では鄧芝、廖化、宗預、文官では荊州の俊英と名高い馬氏の五常に、能吏として長く劉表を支え民にも慕われていた伊籍らである。軍の上層から役人、名士、地元の若者達まで多方面に顔が聞く面々が揃っていた。
 そして彼らとの交渉を経てなお開門を拒んだ曹魏を支持する城の多くも、曹家の天の御使いの消失を知ると降伏を受け入れた。かつては天の御使いとして扱われることに強い抵抗を示していた曹仁だが、いつの頃からか吹っ切れた様子だった。自ら天人旗などを掲げ、天の御使いである自身を否定しなくなった。それは大徳の盛名を武器として扱うことを躊躇わなくなった桃香とも似ているかもしれない。今では恐らく本人や華琳が思っている以上に、曹操領内における曹仁の存在は大きい。殊に荊州北部では、都督として民を慰撫して回ったのが曹仁なのだ。天人旗の下に整然とした騎馬隊を引き連れ、噂に違わず颯爽として、武名に反して穏和で気さくな曹仁に住民達は直に触れている。その消失を知れば、今後の身の処し方を考えたくなるのも当然だろう。

「……桃香様、どうかなさいましたか?」

「―――うっ、ううん、何でもない」

 気付けば城の端―――城壁に突き当たっていた。しばらくそこでぼうっと足を止めていたようで、焔耶が心配そうに顔を覗き込んでくる。また、曹仁のことを考えてしまっていた。
 やはりお供が焔耶で良かった。これが愛紗達なら要らぬ気を遣わせてしまっただろう。

「せっかくだし、登っていこうか」

「はっ」

 城壁の上へと続く階段に足を向けた。
 登り切ると、眼下に調練に励む兵の姿が見えた。孫劉それぞれの兵と、新たに加わった荊州兵と志願兵、さらに南方異民族の若者達までが合わさった混成軍である。息の合った連携などは初めから望めないが、最低限互いを知っていなければ足を引っ張り合うことにもなりかねない。
 視線を上げた。登ったのはちょうど北面の壁で、地平の先に華琳の籠る宛城とその支城があるはずだが、さすがに見えはしなかった。
 宛の支城は曹仁が建てたものだという。星や斥候の兵によれば、騎馬隊による出撃を重視した実に曹仁らしい構えの城であるという。

―――そんな場所に立って、華琳さんは今頃何を思っているだろう?

 曹仁を失った悲しみは華琳の方が自分よりも大きいだろう。ましてそれが自分を救うためとなれば、その苦悩はいかばかりだろうか。

「いけないいけない」

 またも内省に耽り掛けた自分を、桃香は頭を振って打ち消した。



[7800] 第13章 第2話 集束
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2018/02/28 20:00
 宛城へ向けて、軍を発した。
 新野にはほとんど兵を残さず、孫劉の旗を並べ、ほぼ全軍での出陣である。急がず、道中盛んに曹子孝の消失を―――曹家に下された天意が去ったことを触れ回りながら進んだ。
三日目の今日も昼過ぎには野営の準備に入った。前日、前々日と同じく、程無く周辺の小城のいくつかから恭順の意を示す書簡を携えた使者が駆け付けてくる。援軍と称して、県令や城守が兵を伴い自ら訪れることも少なくない。そうでなくとも城門を閉ざし静観を決め込むばかりで、進軍を阻んでは来なかった。
 県令達の中には元々劉備軍を慕いながら心ならずも曹魏に従っていた者もいれば、当然単に情勢を鑑みてこちらへ靡いてきただけ者もいる。志に共感してくれた者だけを受け入れていれば良かった流浪の軍の頃とは違う。気は乗らないが今は後者も無下に扱うことなど出来なかった。
 訪問者らとの会談を終えると、気晴らしに桃香は焔耶を連れて本営を置いた幕舎を出た。
 孫劉併せて十五万の軍勢であるから、野営地は広大だった。丘一つを内部に抱えていて、物見やぐら替わりとなっている。

「あら、劉備じゃない」

 丘を上ると、先客があった。孫策である。
ちらと視線だけ動かしこちらを確認すると、孫策は軽く手を振った。その手には酒杯が握られている。一人見張り台に陣取り、酒を飲んでいたらしい。

「会談にも出ないで戦陣でお酒なんか飲んで、周瑜さんにまた叱られますよ」

「ほんの唇を湿らせる程度のものよ」

 新野では何度も酒に付き合わされたが、正体を無くすこともしばしばだった。今は確かに口調ははっきりとしていて、酒気を帯びているようには見えなかった。もしかしたら、瓢の中身はただの水かもしれない。

「そこ、良いですか?」

 孫策が視線も動かさず軽く首肯するのを確認し、桃香は隣に腰を下ろした。孫策の目は、華琳のいる北を向いて固定されている。

「……勝つにせよ負けるにせよ、これで一つの決着が付くわね」

 孫策はこの一戦でおおよそ全てが決すると考えているようだ。
 宛さえ抜いてしまえば、もはや曹操軍に孫劉の勢いを止めることは出来ない。各地に更なる乱が勃発し、西涼は再び翠の元で団結して東進を果たす。西涼軍が潼関を抜いて合流を果たせば、挟撃して洛陽と許を落すのは難しいことではない。いずれも劉備軍にとっては勝手知ったる城邑であり、大都市ではあるがそれ自体が防衛に重きを置いた城ではなく、人の出入りが盛んな商都だった。今の孫劉の勢いを持ってすれば攻略は難しいことではないというのが、孫劉の軍師達共通の見立てだった。
 洛陽と許を失うことになれば、華琳は中原における拠り所を失ったに等しい。いずれは河北四州まで後退を余儀なくされるだろう。河水北岸には魏郡―――すなわち魏王となった華琳の所領があり、その都の鄴は洛陽や許を有に凌ぐ城郭に囲まれている。あの袁紹が贅を尽くして増築したもので、本人はそれを活かすことなく侵攻先の官渡で地に塗れたが、華琳が籠もればそう簡単に落とせるものではない。おそらくそこで孫劉と曹操軍は河水を挟んでの膠着に至る。その時点で曹魏は河北四州―――冀州、幽州、幷州、青州を、孫呉は揚州と荊州南部に加えて徐州と予州を、蜀漢は益州に加えて雍涼二州を支配することになる。孫劉協同で攻め取ることになる荊州北部に司隷、兗州の取り分をどうするかは、軍師達の間でまだ協議が難航しているが、いずれにせよ孫劉それぞれの国力は曹魏と並ぶことになる。つまりは真の天下三分の完成である。
 一方、もし宛を抜けなかった場合には、今後も襄陽や宛を巡って対立することになる。三勢力が並び立つという形は同じでも、荊州北部という係争地が存在することで絶え間なく戦が繰り広げられるだろう。民にとっては休まらない時が続くことになる。

「……決着、ですか。でもそれは、ただ単に戦に勝ったというだけの話じゃないでしょうか?」

「あら、それの何か御不満? いまや反曹の旗頭たる貴方が」

「不満と言うわけではないんですけど。……たった一戦の結果で、どちらの志が正しいかなんて、決めつけちゃって良いのかなって」

 問われると、頭の中にある思いを上手く言葉にすることが出来ず、絞り出すように言った。きょとんとした顔で、孫策がようやくこちらを振り向いた。

「あなたまさか、正義は勝つだとかそんな世迷言を信じているわけではないでしょうね?」

「違います、違います」

 桃香が馬鹿にされたとでも思ったのか、背後で焔耶が険悪な気配を発する。桃香は慌てて手を振って打ち消した。
 散々甘いだの何だのと言われてきたが、自分だって乱世に立つ君主の一人である。そんな綺麗事で天下が成り立っていないことぐらいは理解している。

「ただ、私と華琳さんは志の違いから争っているはずなのに、決着を付ける方法は結局戦の勝敗になっちゃうのかなって」

「戦に勝って志を遂げる。あるいは負けて志を断たれる。乱世における勝敗とは、そういうものではないかしら?」

「それは、そうなんですが」

 桃香は言葉を濁した。否定しようのない事実ではあるが、桃香の胸に残るもやもやとした感情は、それとはまた別の話と言う気がする。

「……なるほどね。貴方は曹操を倒したいのではなく、自ら心得違いを認めさせたいのね」

「そうっ、そうなんです」

 孫策の言葉で、自分の思いがすんなりと腑に落ちた。

「それは戦で勝って屈服させるよりも、よほど難しいわよ」

「そうでしょうか」

「ええ、特に曹操のような人間が相手であればね」

 確かに曹操軍に居候中にも嫌になるほど話し合ったが、華琳が折れることはなかった。ただ、それは華琳が自分の道に絶対の自信を持っていたからだ。戦に敗れ、徐々に領地を失いつつある今、なおもその自信を失わずにいられるのか。その傍らにはもう、天の御使いにして最愛の人である曹仁もいない。

「…………」

「どうかした?」

「いえ、何でもありません」

 曹仁の消失に思い至り無言になった桃香を、孫策が訝しげに見つめる。進軍を開始してからは諸事の忙しさにかまけて目を背けることが出来ていたが、気持ちの整理は未だについていない。

「何にしても、戦の前にもう一度華琳さんと話してみても良いでしょうか?」

「まあ、好きになさいな。私は無駄だと思うけどね」

「わかりませんよ。華琳さん、あれで寂しがり屋なところあるし」

 喧嘩をしてしばらく口を利かずにいた時も、いつも先に折れて話し掛けて来てくれるのは華琳の方だった。

「ああ、曹仁の消えた弱り目に乗じようというのね」

「違っ、―――いえ、そういうことです。曹仁さんを失った今なら、私の言葉も以前よりも華琳さんに響くかもしれません」

 孫策の直截な物言いを一瞬否定し掛けるも、桃香は首肯してきっぱりと言い切った。
 不用意な発言に気が付いたのか、孫策の方がしまったという顔をしている。黄巾の乱ではしばし行動を共にしたから、桃香の曹仁に対する気持ちも大方察しがついているのだろう。
 孫策との見張り台でのやり取りから三日、ようやく宛へと到着した。
 宛城より西に数里の位置に曹操軍はすでに布陣していた。曹仁が作ったという支城が、曹操軍の右翼前方に突き出すように存在している。
 孫劉同盟もその正面に全軍を並べた。

「やっぱり華琳さんは討って出てきたか」

 華琳は籠城ではなく野戦での決着を選んだ。孫策の直感と桃香の漠然とした予感、そして軍師達の見立て通りである。

「劉備、行くの?」

 孫呉の軍勢から、孫策が供も連れずに一騎で駆けて来た。

「はいっ。孫策さんもご一緒にどうですか?」

「いいえ。曹操に言葉にして伝えることなど私には何も無いわ。私とあの子の間には、戦の勝ち負けだけがあれば良い」

「わかりました。それじゃあ、―――愛紗ちゃんと鈴々ちゃんっ、付いて来てくれるかな?」

「はっ」

「わかったのだ!」

 義妹二人が馬を走らせてくる。
 二人とも、特に現場に立ち会った愛紗は曹仁のことで一時かなりふさぎ込んでいたが、戦を直前に今は吹っ切れた様子だ。少なくとも表面上は。

「あの、ワタシは?」

「悪いけれど、焔耶ちゃんはお留守番してて」

「……はっ」

 近衛である焔耶こそ伴うべきなのだろうが、遠慮してもらう。焔耶は少々不服そうにしながらも、直立して受けた。
 自分の乱世は後に義妹となるこの二人に志を語った時から始まった。これが一つの決着となるのなら、愛紗と鈴々にこそ是非立ち会ってもらいたかった。
 的盧を前進させると、申し合わせたように敵陣からも数騎が進み出た。華琳。そして許褚と典韋だ。
 両軍の中間で、桃香と華琳は行き会った。

「久しぶりね、桃香。関羽と張飛も」

「うん、久しぶり。許褚ちゃんに典韋ちゃんも」

 曹仁のことで泣き腫らして目でも赤くしているかと思えば、華琳は常と変らぬ余裕を纏って現れた。

「的盧と、それに張飛の馬、……ええと、黒白だったかしら?」

「白黒なのだっ」

「そうそう、的盧と白黒も元気そうね」

 的盧と絶影が鼻先を擦り合わせ旧交を温める。この二頭は許の厩舎では隣の馬房に入っていた。

「……こうしてお話するのは、江陵で会って以来かな」

「そうね。あの日、私は貴方を襄陽から江陵まで追い立てたけれど、今度は私の方が襄陽どころかこの宛まで追い詰められることになるとはね」

 あれから実に二年近い歳月が経過している。

「日頃の行いが悪いから、そういう事になるんだよ」

「ふうん。それじゃあ、これまで随分と私の軍から逃げ回ってくれた貴方は、相当に日頃の行いがお悪いのでしょうね」

「うっ、……口では華琳さんには敵わないなぁ」

「口では? 貴方が私に勝てるのなんてその無駄に膨れた胸の大きさくらいのものでしょうよ」

「む、胸だけってことはないんじゃないかなぁ~。まあ、胸に関してはこの先何があっても華琳さんにだけは負けない自信がありますけどっ」

「くっ。―――ふっ、ふふっ」

「むむっ。―――ははっ、あははっ」

 暫時睨み合い、はらはらと見守る愛紗達を余所にどちらからともなく笑い合った。

「まったく、貴方と話していると調子が狂うわ」

「こっちだって、ここには真面目な話をしたくて出てきたのに」

「真面目な話、ね。仁の行方でも教えてくれるのかしら?」

「―――っ」

 華琳の方からそこへ踏み込んで来るとは思わず、息を呑んだ。

「あら、違うの? それではまさか、私に降伏しろだなんて詰まらないことを言いに来たわけではないわよね?」

「……ここでそう頼んで聞いてくれる華琳さんじゃないのはわかってる。私が言いに来たのは―――」

 しばし目を伏せ、考えをまとめる。華琳は何も言わず待ってくれている。

「―――華琳さん、その道に、覇道にまだ迷いはありませんか? 華琳さんがほんの少し回り道をしてくれるなら、私たちは手を取り合うことが出来るかもしれない。ううん、私はきっと、華琳さんの手を取るよ」

「覇道とは一人切り拓くものよ。誰かと手を取り合って進む道ではないわ。………いいえ、私を支え、先行きを照らすことが出来た誰かは、今は里帰り中よ、たぶんね」

「それって―――」

「―――貴方の方こそ、民を守り救いたいなどと言う考えを、まだ改めるつもりはないの?」

 曹仁のことを言っているのか。そう問い質したかったが、遮るように華琳が斬り込んできた。

「たった一度の敗戦で、多くの人達が華琳さんを見限り、私と孫策さんに従ったよ。救いを求める人達がいる限り、私は立ち止まらない」

「それこそ民が守られるだけの弱い存在ではなく、保身や栄達のために武器を取る存在だという証じゃない」

「そ、それは強い人の理屈だよっ。身を守るために武器を取らなきゃならない弱さだってあるし、保身じゃなく私の理想に共感して武器を取ってくれた人達だっている」

「“だって”、ね」

「―――っ」

 孫劉の強勢に靡く者達に違和感を覚えていただけに、我ながら反論は弱々しくなった。

「……はあ、やっぱり口では華琳さんには敵わない」

「そう思うなら、陣へ戻りなさい。ここからは戦で勝負よ」

「―――あっ」

 華琳がくるりと絶影の馬首を巡らせた。

「待つのだ、曹操っ!」

「曹操殿、曹仁殿が今いずこにおられるか、貴殿は御存じなのですかっ?」

 桃香に代わって華琳を呼び止めたのは鈴々で、聞きたかったことを代わりに聞いてくれたのは愛紗だった。

「さてね、天の国にでもいるのではないかしら」

 首だけ振り向いて言い残すと、華琳は駆け去って行った。許褚と典韋もそれに続く。

「天上に御帰還された、ということでしょうか?」

 首をひねる愛紗に、桃香は何も答えることが出来なかった。





 華琳が自軍へ戻ると、従者の無花果と四人の従姉妹達が迎え入れた。そのうちの一人の姿に、華琳は目を奪われた。

「……幸蘭、その格好は何?」

 諜報部隊の長である幸蘭だが、今日は自ら志願して通常の戦場、それも先陣に出張っていた。幸蘭が馬上で武器を構える姿自体久しく目にしなかったものだが、華琳の視線が釘付けとなったのはそれが理由ではない。

「無花果ちゃんにお願いして、仁ちゃんの予備の具足を借りました」

 ありがとうねと、幸蘭が無花果に微笑み掛ける。
 幸蘭が軍袍の上から纏っているのは白騎兵の具足、それも白塗りの曹仁専用のものだった。武器も得意の多節鞭は腰に括り、曹仁が使うのと同じ何の変哲もない槍を手にしている。

「俺も借りたかったのに、姉貴ばっかさ」

「蘭々ちゃんには大きすぎるでしょう?」

「むぅ」

 そう言う幸蘭も豊満な胸のお陰で何とか体裁を整えているが、腰回りなどにはかなり隙間が空いていそうだ。

「華琳様、それで劉備とは何を?」

 秋蘭が控えめに問う。

「いつもの他愛のない口喧嘩と、仁のことを少しね」

「何かわかったのですかっ?」

 春蘭が声を弾ませる。

「いえ、桃香達も消えたという以上のことは知らない様子だったわね」

「そうですか。では、やはり」

 誰からともなく従姉妹五人、天を仰いだ。

「武人としてこれほどの晴れ舞台を逃すとは、後で聞いたら悔しがるだろな、仁のやつは」

「兄貴の分は、俺が働くよ」

「何を言うか、蘭々。それはわたしの役目だ。なあ、秋蘭」

「ふふっ、たまには私も乗ってみるか。姉者も蘭々も下がっていろ、仁の分は私が働こう」

「皆さん気合を入れるのは結構ですけど、自分がいないところで怪我なんかされたら仁ちゃんが気に病みますからね。蘭々ちゃんも春ちゃんも秋ちゃんも、かすり傷一つ負わないで下さいね」

 従姉妹達のやり取りに悲愴感はない。華琳と同じく曹仁の生存、そして帰還を信じているからだ。皆、母曹嵩の太慰就任の祝宴に参加している。曹仁が初めてこの地に降り立った瞬間を目にしているのだ。

「―――孫呉の将兵達よっ!」

「―――劉旗に、私に付いてきてくれた皆っ!」

 敵陣から勇ましい咆哮と少々頼りない叫びが聞こえた。兵の喚声がすぐにそれに答える。衝突を間近に、孫策と桃香が兵の前に姿を見せ、士気を盛り立てていく。
 対峙する彼我の兵力は、孫劉連合十五万に対してこちらは九万に過ぎない。右翼前方に位置する支城には霞が率いる騎馬隊二万五千騎と歩兵五千が籠もっているが、それを加えても数の上では劣勢である。
 しかし華琳は籠城は全く考えなかった。そうしている間に西涼や揚州の戦線が破れないとも限らないし、今の孫劉の勢いは時を掛ければ掛けた分だけ靡くものを増やしかねない。
 野戦なら、混成軍ゆえの連携の不備に付け入ることも出来る。孫劉の中核を為す軍以外は、たいした調練を積んでいるとも思えない。練度の差は攻城戦よりも野戦で顕著に表れるものだ。
 曹仁の支城によって丘の上の高みを抑えているのも大きい。遊撃隊の出撃拠点としてその機能を遺憾なく発揮してくれるだろう。牛金をあてている支城の守備兵の指揮には、皇甫嵩が補佐に付いてくれている。初めから協力してくれるつもりだったようで、試みに願い出ると二つ返事で了承された。城内には買い入れた百頭の汗血馬を入れ、皇甫嵩が残るならばと呂布と高順にその配下も留まっている。少々狡いやり方だが、いざとなれば彼女達も力を貸さざるを得ない状況だ。支城を奪われる心配はひとまず必要なかった。
 数の上では劣勢でも、戦力では決して劣ってはいない。いや、優勢と言い切ってしまっても良い。

「華琳様、こちらもそろそろ」

「ええ」

 秋蘭に促され、華琳も再び絶影を前へ進めた。
 馬首を返し自軍に向き合うと、気勢を上げる敵陣とは裏腹に一様に不安げな顔が並んでいた。視線を向けても、うつむきがちな兵達と目が合うことはない。
 唯一にして最大の問題が士気だった。士気においては、孫劉連合がはるかに勝る。赤壁で勝利し勢いに乗る軍と、敗れて逃れてきた軍なのだから当然と言えば当然だが、それ以上に曹仁の不在が大きかった。
 天の御使いが身を置く軍ということが、予想以上に敵味方の士気に影響を与えていたようだ。華琳自身それを利用してきたところはあるが、所詮は虚名に過ぎないとの思いもあった。しかし呂布と互角に渡り合い、官渡では連環馬とその対応策で麗羽の大軍を二度までも退け、西涼では馬超を下し関中十部の首二つを飛ばし、西涼最強と噂された閻行をも容易く撃ち破っている。極めつきは三千里も隔てた祁山より曹操軍の敗戦を予知して駆け付け、華琳の窮地を救った。兵や民の心の中で虚名に実が伴うのも当然と言えば当然のことだった。そして今は、その曹仁がいない。
 曹魏の興亡はこの一戦にあり、この一戦の勝敗は如何に兵の士気を盛り上げられるかにある。常の戦意を取り戻すことが出来れば地の利を有し、人の和―――練度と運用―――に勝るこちらに負けはないのだ。しかし今のままぶつかれば、勢いに飲まれる可能性が高い。

「―――――――っ! ―――――っ!!」

 静まりかえる味方の兵に比べ、敵陣から上がる鬨はいよいよ煩いほどだ。今は天子を籠絡し漢朝を壟断する曹魏の不正が孫策と桃香の口から叫ばれている。
 苦境の漢室に唯一救いの手を差し伸べたのが曹操軍である。舌戦に持ち込み、論破してやるのは容易い。しかしそんなことでは、曹仁の不在と言う現実に直面した兵を奮い立たせるまでには至らないだろう。

「さて、どうやってこの打ちひしがれた者達にやる気を取り戻させたものか」

 当然いくつかの腹案を練ってはいたが、こうして彼我の差を見せつけられるとどれも弱い気がしてくる。古の牧野の戦いにおける周の武王と殷の紂王の軍勢もかくやという顕著な戦意の隔たりがあった。
 いっそ、曹仁は必ず帰還すると口に出してみるべきか。しかし言葉だけで、この喪失感を払拭することが出来るだろうか。
 これより自分が紡ぎ出す言葉次第で戦の勝敗、ひいては天下の帰趨が決すると思えば、柄にもなく華琳も口火を切れずにいた。

「…………なに?」

 思いあぐねていると、向かい合う兵の中から小さなどよめきが起こった。それは左翼から広がり、次第に大きくなっていく。うなだれていた顔が一つ、また一つと上がる。

「―――あれは」

 兵達の視線が向かう先へ、華琳も目をやった。対峙する両軍の狭間を、こちらへ向けて何かが駆けて来る。
 さすがに、速い。白い小さな点だったものは、すぐに馬の形を取った。白鵠である。曹操軍の将兵であれば誰もが見知ったその姿に、喧騒は全軍に拡がった。いや、曹操軍ばかりではなく敵も同じだ。桃香と孫策は口を噤み、兵は動揺し始めている。
 白鵠が宛の厩舎から抜け出したという報告を聞いたのは今朝早くのことだ。落ち着かない様子で、うろうろとあてどなく徘徊を始めたのだという。戦の気配を感じ取って気でも高ぶらせているのかと、その時は好きにさせておくよう命じていた。
 しかし今の白鵠は、明らかに何か目的をもって駆けているように華琳には見えた。
 対峙する両軍の真っ只中、ちょうど華琳の正面で白鵠は脚を止めた。

「―――華琳様、これは一体っ?」

 従姉妹四人が駆け寄って来て、蘭々が期待と興奮に上擦った声で問う。

「さあ、私にも何が何やら。ただ、悪くない予感はするわ」

 華琳もふわふわと落ち着かない心持ちで返した。視線の先では真っ白な裸馬が一頭、何かを探すように首を左右に動かしている。
 戦場の視線の全てが今、そこに集まっているのではないか。そんなことが華琳の脳裏に過ぎった瞬間だった。
 白鵠の白い馬体が膨れ上がった。いや、眩いばかりの白い光だ。戦場一面を白く覆い尽す暴力的なまでの光に、華琳は思わず目を瞑った。

「…………」

 やがて目蓋の裏で光が収まるのを感じ、ゆっくりと目を開く。
 白鵠の背に人の姿が見えた。見慣れぬ装束を身に纏った見慣れた背格好。歓喜はあれど、驚きはない。ひどく予定調和の物語を読まされているようにさえ思えた。

「そういえば、天子が言っていたわね。あの子はこの世界の英傑達との縁の強さゆえに選ばれ、引き寄せられたのだと」

 であれば彼を慕う者、崇める者、敵する者が一堂に会するこの時、この戦場が再臨の地となるのは必然か。

「……ふむ、少々照れ臭いが、ここは言っておくべきか」

 白馬の背で男はきょろきょろと周囲を見回すと、こほんと一つ咳払いをして背筋を正した。

「―――天人曹仁っ、曹孟徳が天下のため、再びこの地に降り立たん!」




[7800] 第13章 第3話 終結
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2018/03/24 12:38

「あら、どこか行くの?」

 階段を降り玄関へ向かうと、リビングから姉がひょいと顔を覗かせた。

「ああ、図書館に」

「今日も? ずいぶん熱心ね、昔は読書なんてろくにしなかったのに」

「そうだったか? まあ、小学生の頃なんてそんなものだろう」

「ちょっと待ってて、私も一緒に行くから」

 姉がリビングへ顔を引っ込めると、室内から漏れ聞こえていたテレビの音が消えた。どたどたと忙しなく駆け回る足音が響き、部屋着の上にパーカーを一枚羽織っただけのラフな格好で姉は廊下へ現れた。

「じゃあ、行きましょう、仁」

「ああ」

 曹仁―――仁は、先へ促す姉に軽く頷き返した。
 ランニングがてら走って行くつもりだったが、二人連れということでゆっくりと並んで歩いた。このペースでも図書館までは半刻余り―――二十分程度のものだ。

「転んだ時に危ないわよ」

 ズボンのポケットに突っ込んだ手を指して、姉が言う。

「子供じゃないんだから」

「もうっ、知らないからね」

 姉が諦めて正面に向き直るのを見届けて、こっそりとポケットから手を引き抜く。ともすれば姉は小さな子どもを相手にでもするように手を繋ぎにくる。姉の中でまだ自分は年端もいかない少年のままなのだろう。
 ちらりと、隣を行く姉の顔を覗き見た。
 四つ年上で、地元の大学を出て今は社会人として働いていると聞かされていた。幸蘭よりも少しだけ年嵩であるから、血の繋がらない家族も含めて仁にとっては一番上の姉ということになる。
 身内の贔屓目を差し引いてなお、美人と言い切ってしまって良いだろう。むしろこの十数年を美女に囲まれて過ごしてきた仁の目から見てそう思うのだから、相当なものだと言える。整った顔立ちは黙っていると多少きつい印象を与えるが、豊かな表情がそれ以上に親しみ易さを感じさせる。仁と共に祖父から仕込まれていた武術は今も一応続けているようだが、きれいな黒髪を腰の辺りまで伸ばしていた。一部女性らしいふくよかさを残しながらも―――端的に言って胸が大きい―――、運動をしているだけあってすらっと引き締まった体型。総じて、美人で気さくなお姉さんといったところか。華琳などが目にしたら食指を動かすこと間違いなしだった。
 この世界の病院のベッドで目を覚まして最初に目にしたのも、この姉の顔だった。
 腹部開放性外傷に、数ヶ所の小腸断裂。そしてそれに伴う腹膜炎。あの世界ではまぎれもなく致命傷である。こちらの世界でも、迅速な処置を施さねば死に至る重傷だ。仁が一命を取り留めたのは、一つは鉄糸を織り込んだ軍袍のお陰だった。刺し込まれた刃と共に鉄糸が腹部へ食い込み、内臓に纏いつき、それが臓腑の汚れが腹腔に拡がるのを最小限に留めてくれたのだという。真桜お手製の軍袍に命を救われたのは、張燕に奇襲を受けた時に続いてこれで二度目だった。
 もう一つは発見と対処が早かったことだ。明け方、自宅の庭先で倒れていたところを見つけて、すぐに救急車を手配して病院まで付き添ってくれたのは、隣にいる姉だった。不思議と姉は、一目見てそれが行方知らずの弟であると分かったらしい。その後も三日間目を覚まさなかった仁にほとんど付きっ切りでいてくれたという。
 そうして入院生活が一ヶ月ほど続き、自宅療養期間が一ヶ月。医師に完治のお墨付き―――凪との内功の鍛錬のお陰だろうか、奇跡的な回復力と驚かれた―――をもらってからさらに数週間。この世界に戻ってから三ヶ月近くが経過していた。そろそろ就職活動でも始めるか、あるいは高卒認定試験を受けて大学受験にでも挑戦するか。そんな話も持ち上がっていた。

「じゃあ私、この辺りにいるから」

 図書館に着くと、入り口近くの雑誌が並んだ一角で姉と別れた。
 姉は、仁がまたどこかへふらりと消える事を心配しているようだ。持たされた携帯電話には仕事中も頻繁に掛けてくるし、休日ともなると大抵ドアを開け放したリビング―――二階にある仁の部屋からはその真向かいの階段を降りなければ玄関には行きつけない―――に陣取っている。今も図書館のロビーが一望出来る雑誌コーナーに居座っていた。終始付きまとわれるというほどではないが、常に仁の位置を把握しておきたいようだった。
 十数年ぶり、それも大怪我をして弟が帰ってきたのだから、心配するなという方が無理があるのだろう。加えてあの世界で過ごした年月のことを、仁は家族にも言えずにいる。記憶喪失という、我ながら強引な言い分を通していた。
 真実を話したところで、到底信じてもらえるとも思えない。今回負った重傷以外にも無数に刻まれた刀槍による古傷と、鍛え上げられた身体。発見された時の曹仁は具足に軍袍というこの世界の人間の目には実に時代がかった出で立ちまでしていた。それら全てを矛盾なく説明する物語など、思い付きもしなかった。いっそ、何もかも忘れてしまったとする方が都合が良かったのだ。
 捜索願も出されている行方不明者が十数年の時を経、しかも事件性が疑われる刺し傷を負って姿を現したのだから、警察も当然動いていた。しかし三日も意識を覚まさなかっただけに、幸いにも家族も警察も記憶喪失という話に一応の納得を示してくれていた。

「―――さてと」

 仁は雑誌コーナーに背を向け、新刊の並ぶ書架を素通りし、文学、そして歴史の棚を横目に足を進めた。
 この世界に帰ってすぐの頃は、あの時代に関連した史書や専門書を読み漁った。陳寿の書いた正史の三国志はすみずみまで読み込んだし、後漢書や晋書の一部にも目を通した。普通なら退屈で難解な史書も、あの世界では貴重な娯楽の一つであった。苦もなく読み進めた。
 次いで羅貫中が著したとされる三国志演義や、日本人の作家があの時代を舞台に書いた歴史小説もいくつか読んだ。
 史書や小説に記された事績は、あの世界で体験した出来事と重なるものもあれば、大きく異なる部分もある。黄巾の乱から、曹操と袁紹の台頭、官渡での大戦、赤壁での曹操軍の敗退。大筋の流れは似通っているが、こちらの世界では二十数年をかけて発生している事案が、あちらの世界では四、五年のうちに立て続けに起こっている。また人物一人一人の生年や出会いの時期にも異なる点は多い。朱里は三顧の礼を経ずに雛里と共に動乱の最初期から桃香の軍師であるし、孫策の母の孫堅は黄巾の乱以前に亡くなっている。あの赤壁の戦いも、史書や演義以上に曹操軍にとって手痛い敗戦となった。まったく自分が与り知らぬ部分での違いもあるし、自分の存在が多少なり影響した―――例えばこの世界での歴史以上に華琳と桃香や雛里を強く結びつけた―――と思える変化もある。
 色々と思うところはあるし、見知った名前を持つ英傑達の群雄劇は単純に興味深くもあったが、一通りの歴史的事実を頭に納めるだけに留めた。
 今は科学とジャンル付けされた一角が、仁の居場所だった。科学といっても、仁が目を通すのは最新の科学技術を記した書籍ではない。いわゆる科学史や工学史といった類の本だった。有史以来の技術の発展を学び、その中からあの世界で実現可能な物を抽出する。真桜なら、蒸気機関くらいは実現するかもしれない。未来のために、エネルギーとしての電気の概念を伝え残しておくのも良い。技術革新が国家や民にとってすなわち幸福に繋がるのかは分からないが、その判断は華琳に委ねれば良いだろう。

―――必ずあの世界へ戻る。

 案じてくれている姉には申し訳ないが、仁の胸中でその思いは揺るぎない。しかしいくらそう思い定めてみたところで、仁自身が帰る手段を持ち合わせているわけではないのだ。今はあの世界への帰還を信じて、知識を蓄えることに努めていた。
 武術の鍛錬も、怠ってはいない。図書館から帰宅して夕食を済ませると、ジャージに着替えて庭の道場へ向かった。父方の家には代々武術が伝えられているが、弟子を取ってどうこうというものではなく、今では半ば祖父の趣味のようなものだった。

「失礼します」

「おお、仁か」

 一礼して足を踏み入れると、先に来ていた祖父が相好を崩した。

「また場所を借りるよ、じいちゃん」

「うむ」

 祖父が上機嫌で肯くのを確認し、仁は道場の壁際に寝かしておいた槍―――穂先を付けていないので見た目はただの棒と変わらない―――を手に取った。三メートル近い長さの白蝋の槍である。
 あちらの世界では当たり前のように槍の柄として使用していた白蝋だが、中国固有の樹木であり日本で手に入れるのは困難だった。昔よりも格段に普及したインターネット通販で売られているのを見つけても、二メートルもないような短いものばかりだ。実戦や表演用には良いのだろうが、軽すぎて修練の役には立たない。
 祖父が知り合いの武術家を通じて手配してくれて、ようやく望みの長さのものを手に入れることが出来た。働き始めてから姉は稽古をサボりがちらしく、仁が入院生活で弱った身体を武術で鍛え直したいと言うと、祖父はいたく喜んで何くれとなく面倒を見てくれていた。

「少し組手でもするか?」

 一刻―――三十分ほど槍を扱いていると、祖父が言った。
 気付けばジャージがじっとりと汗で濡れている。放っておけば一時間でも二時間でも平気で槍を扱き続ける病み上がりの仁を、祖父は気遣ってくれたようだ。

「お願いします」

 首肯して槍を壁に立て掛け、道場の中央で無手で向き合った。
 祖父は刀や槍もやるが、基本はあくまで無手だ。刀槍を振るうのは効率的に力を練るため―――言うなれば型の矯正と筋骨を鍛えるためだ。仁にとってはその逆で、無手での組手は再び槍を手に戦場に立つ日を見据えて、実戦の感覚を鈍らせないでおくためだった。
 当然のことだが、祖父の身体能力はあの世界の武人よりもはっきりと劣る。恋や愛紗、春蘭達とは比べるまでもないし、同じく拳足が武器の凪と比べても、突きや蹴りの速度や威力は格段に落ちる。非才に嘆きながらもあの世界の武人達に抗してきた曹仁からしても、与しやすい相手のはずだった。

「―――っ」

 しかし間合いに踏み入るや、鳩尾を軽く拳で打たれ、眼前で抜き手を寸止めされていた。拳足が見えない角度から、あるいは見えていても避けられないタイミングで飛んでくる。つまりは技術の差だった。
 目先の勝利にこだわれば、やり様はいくらでもある。足―――フットワークで撹乱しても良いし、間合いの広い前蹴りやジャブで突き崩しても良い。あるいは急所だけガードして、あとは体力に任せてみても良いだろう。だが仁はあえて祖父の間合いで勝負を挑んだ。
 何故速さで劣る祖父の拳が、先に当たるのか。突き詰めていけば槍術にも通じる理合いがある。あの世界でもまれて得た力を、この地で丹念に磨き直していく。
 翌日も翌々日も、同じ一日を繰り返した。知識を蓄え、身体を苛め抜く。そうして、ともすれば安穏と過ぎ去っていく日々に必死で意味を見出した。
 今日も今日とて、図書館への道を一人歩く。
 心地良い風が頬を撫でていく。夏の初めにこの世界に戻り、暑い盛りを過ぎて間もなく秋になろうとしていた。初めは新鮮に映った街並みにも、すっかりと慣れてしまっている。
 戦も調練もない生活は、アスファルトで舗装されたこの道の様にひどく平板だった。
 いや、この世界にはこの世界なりの競争があり、戦いがある。本来自分は戦争などよりもそうした健全な勝負こそ好むところだし、そうした世界を実現するために華琳の元で戦ってきたのだ。日々が退屈に思えてしまうのはここでの生活、というよりもこの世界そのものに真剣に向き合えていないからだろう。
 もしこのまま、あの世界に戻ることが出来なかったら。ずっと考えないようにしていたことが、脳裏を過ぎる。

「―――っ、待ちかねたぞ」

 若人のようでも老人のようでもあり、男でも女でもある声が頭の中に響いたのは、ちょうどその時だった。










 耳に押し当てた携帯電話から、ピーピーと通話終了を知らせる電子音が聞こえてきた。
 天子の声と会話を交わした後、姉に連絡を入れた。耳朶にはまだ戸惑う姉の声が残っている。

―――すまないな、姉さん。

 携帯電話をズボンのポケットに押し込み、曹仁は改めて周囲を見やる。
 光が収まり視界が戻ると、軍勢に挟まれていた。おおよそ天子から聞かされた通りの状況だが、今まさにぶつかろうとする両軍の真っ只中に降り立つとはさすがに想定を超えていた。
 異常な光景だった。反董卓連合や官渡の決戦にも匹敵する大軍勢がしわぶき一つ立てずに静まり返えっている。その視線はただ一点―――自分に注がれていた。

「……ふむ、少々照れ臭いが、ここは言っておくべきか」

 曹仁は威儀を正して思い切り息を吸った。

「―――天人曹仁っ、曹孟徳が天下のため、再びこの地に降り立たん!」

 右手に曹操軍、左手に孫劉の連合軍を望み、どちらに対するでもなく曹仁は大見得を切った。
 調練場で、あるいは戦場で、将であれば声を張るのは日常だが、元の世界では大声を出す機会などそうそうない。久しぶりの口上は語尾は裏返り、張りも少々物足りないものとなった。

「―――――――!! ―――――!! ――――――――――!!!」

 しかし静寂を破るに十分だった。
 曹操軍からは歓呼の怒号が、孫劉連合からは悲鳴にも似た叫び声が上がる。耳を塞ぎたくなるほどの大音声は、かつて如何なる戦場で聞いた鬨よりも激しい。拳を天に突き出すように掲げる曹操軍は一回り大きく膨れ上がり、気圧されたように身を寄せ合い後退る孫劉連合の軍は一回り小さく見えた。

「出迎えに来てくれたのか?」

 白鵠の首筋を、ぽんぽんと軽く叩いた。
 仰け反るように見上げてきた鼻梁には縦に一筋、薄紅色の線が走っている。あの日、星の龍牙が掠めた傷痕だろう。触れると、気にするなと言うように白鵠は鼻を鳴らした。

「さてと」

 右手―――曹操軍へ向けて馬首を返し、走らせた。
 脾肉で交わす会話も久しぶりだが、齟齬はない。白鵠は軽快に駆け、先刻から視界の端に捉えていた華琳の姿が見る間に近づいてきた。

「遅参いたしました」

 絶影の鼻先で白鵠を止め、軽く頭を下げる。
 本当なら馬を寄せ、抱き締めたいくらいだが、衆人環視もここに極まれりという状況に自重した。

「ええ」

 華琳の方も考えることは同じなのか、素っ気無く首肯して受ける。

「兄貴っ」

 蘭々に春蘭、秋蘭、それに季衣や流琉までも駆け寄ってきて、取り囲まれた。一様に興奮した面持ちで、口々に歓迎の言葉や疑問質問が投げ掛けられる。

「みんな、ただいま。心配を掛けたみたいだが、この通り元気にしているよ」

 全員が落ち着くのを待って、一括して答えた。

「積もる話もあるが、そんな状況でもないんだろう? どうにも、天下分け目の大一番ってやつみたいだな」

 右翼前方に見知った丘と城塞が見える。超常の天子の言葉はいまいち要領を得ない部分もあったが、それで察しがついた。なんとなれば、曹仁自身が洛陽と許の最終防衛拠点と定めた地なのだ。

「そうね。正直勝算は五分と言ったところだったけれど」

 華琳が一度言葉を止め、彼我の陣容を見回してから続けた。

「……もはや勝負あり、かしらね」

 兵力では曹操軍が劣勢のようだが、勢いがまるで違っていた。
 曹操軍は戦と言うよりも祭りでもするかのように激しく沸き立ち、むしろ勇み足が心配になるほどだ。対する孫劉連合の兵は、すでに敗残兵が如く暗く沈んでいた。
 状況からして、自惚れでも何でもなく曹仁の帰還が決定打となったようだ。あとは自分が先頭に立って戦えば、すぐに戦は追撃戦に移行するだろう―――

「―――化けて出られるとは、やはり天人などではなく鬼神や妖の類であったかっ!!」

 昂奮する曹操軍と消沈する孫劉連合にぴしゃりと冷水が浴びせられた。

「なればいま一度、我が槍にて冥府へ叩き落してくれようっ!!」

 敵陣から駆け出した一騎が両軍の中心―――ちょうど先刻曹仁が降り立った場所へと馬を進めた。

「……さすがに、嫌なところで出て来るな」

 本来戦場にはそぐわない華やかで雅やかな白の着物が、真紅の槍と相まってこの上なく戦場に映える。

「曹子孝殿っ、今度こそ雌雄を決しましょうぞっ!」

 叫び、星が龍牙を天に掲げると、委縮していた孫劉連合からぽつぽつと声が上がり始めた。躊躇いがちで弱々しい喚声は、されど徐々に力を増していく。

「さすがにここは、退くわけにはいかないな」

 曹仁は馬首を返した。いま挑戦を拒めば、せっかく盛り上がった曹操軍の士気は陰り、孫劉連合は息を吹き返す。

「―――仁っ」

 華琳が呼び止める。当然それは、戦いの結果曹仁が負けた場合にも同じことが言えるのだ。

「心配するな。もう負けないさ」

「ふぅん。素手で趙雲に勝つつもり?」

「あっ」

「誰か仁に槍と具足を―――」

「―――こちらに」

 華琳が兵に命じるのを遮って、幸蘭と陳矯が進み出た。

「お帰りなさい、仁ちゃん」

「ご帰還をお待ちしておりました、曹仁将軍」

にこやかに言って差し出してきたのは、いつもの白蝋の槍と軍袍、そして白塗りの胸当てだ。

「ただいま。珍しく姉ちゃんも戦場に出てきていたのか。それにしても用意が良いな。槍と軍袍はともかく、俺の具足まで」

「うふふ」

「…………なんだかぬくいな」

 一度下馬し、シャツの上から何故か人肌に温められている軍袍を着込み、具足を纏う。上機嫌でそれを眺める幸蘭は、戦場だというのに薄手の袷一枚だ。
 最後に槍を受け取って、再び馬上の人となる。具足を着込んでいる間に、陳矯が白鵠の背に鞍を乗せてくれていた。

「じゃあ、行くか」

 星の待つ戦場の真中へと馬首を転じ掛けた。

「―――あっ、曹仁将軍。こちらも」

 陳矯がそう言って捧げだしたのは、管槍の“管”である。

「……おう」

 一瞬の逡巡の後、曹仁はそれを受け取ると懐に押し込んだ。

「じゃあ、今度こそ行ってくる」

「―――兄貴、頑張ってっ」

 蘭々を皮切りに、口々に声援が飛んだ。季衣や流琉、陳矯達だけでなく、兵も喚声を上げる。
 華琳は微笑み、小さく肯くのみだ。軽く肯き返して、今度こそ白鵠の馬首を転じた。
 ただの一騎打ちではなく、勝敗がそのまま戦の結末に直結すると言っても過言ではない。責任は重大で、相手は一度敗れたばかりの星である。だというのに不思議と今は負ける気がしなかった。それは華琳達も同じなのか、誰一人として引き止める者はいなかった。

「お元気そうですな、曹仁殿」

「ああ、お陰様で久しぶりに故郷でのんびり出来ましたよ」

 戦場の中心で星と向き合った。

「前回の戦利品、お返ししておこう」

 星が腰の剣を鞘ぐるみに引き抜き、投げて寄越した。

「―――っと」

 頭上高くに放られたそれを、曹仁は鞍上で軽く背伸びをするようにして掴み取った。
 鞘こそ異なるがその柄拵えは見間違えようはずもない。青紅の剣だ。

「こうして健在にしているとはいえ、あの一騎打ちの勝利は確かに星さんのものだ。戦利品を貰う権利はあると思いますが」

「その剣を佩いていると、桃香様が恨めし気な目を向けてきて困るのですよ。是非お引き取りを」

「ははっ、そういうことなら」

 曹仁は軍袍の帯に青紅の剣を差した。

「……ふむ。あれはもはや助からぬ傷だと思いましたが」

 星が胡乱げな視線を向けてくる。腹の傷を気にする素振りもない曹仁が訝しいようだ。青紅の剣を高めに投げ渡してきたのも、一騎打ちを前に探りを入れる目的があってのことだろう。星らしい抜け目なさだ。

「もちろん死にかけたさ。だからわざわざ天の国まで帰って治してきた」

「そうですか。すると貴殿は本当に、天の御使いであったのですな」

「信じていなかったのか?」

 黄巾の乱で一時陣営を共にした頃には、酒の肴にと天の国の話をよく求められたものだった。

「面白い法螺話をぽんぽんとよくも思いつくものだと感心していたものですが、いやはや、真の話を語っていたとは」

「ひどいな。まあ、これで信じてもらえただろう?」

「ええ。―――そして、今からそれを法螺に変えさせてもらいます」

「出来ますか?」

「一度は勝った相手ですからな」

「どうかな? 今この時、この場において、俺が負けるはずがない」

 やはり確信にも似た思いが曹仁にはあった。なんとなれば、今ここにいる自分は誰よりも強くあるべきだからだ。あの日、反董卓連合軍二十万の大軍を百と一騎で退けた照や、一千里を駆け抜け劉備軍を蹴散らした飛燕のように。

「負けるはずがない、ときましたか」

「ああ。とはいえ、今の俺に勝てるとしたら、星さんだという気もする。あんたは空気とか読まなそうだからな」

 言いながら、槍を構えた。相手に向けて穂先を突き出し、その影に隠れるようないつもの構えだ。

「失敬な、私は場の空気には人一倍敏感と自負しておりますぞ」

 星も構えた。鏡写しのように曹仁と似た構え。龍牙の柄にはすでに管が通され、前の手はしっかとそれを握っている。

「そうかもな。読めてもあえて無視するのが星さんらしい」

 それきり無言となった。繰り突きの間合いまで、わずか一歩の距離で対峙した。

「―――?」

 星がほんの一瞬、眉をしかめた。曹仁の槍に管が通っていないことに気付いたようだ。
 白鵠がじりっと半歩前へ出ると、星が半歩下がった。管を握らない曹仁が、代わりに何か奇策を仕掛けてくることを警戒しているのだろう。

「…………」

 もう半歩前へ出る。星は今度はその場に踏みとどまった。
 次に星が取る行動が、何とはなしに曹仁には理解できた。それは過日の自分の思考でもあるからだ。
 残る半歩を詰めたのは、星の方からだった。相手が如何なる奇策を用いようと、管槍の速さはあらゆる仕掛けの先を行く。そう判断したのだろう。
 繰り突きの間合いに入るや、ぴったり同時に双方槍を突き出した。
 ―――曹仁の磨き上げてきた武は本来“速さ”ではなく、無駄を省いた“早さ”にこそ重きを置いたものだった。
 自身と引き比べればほとんど超人に等しいこの世界の武人達には、力や速さでは端から張り合うことなど出来はしないからだ。それが管槍を得て、その超人達をも越えた速度を限定的にとはいえ手に入れた。それで、速さに魅了され、固執した。本来自分の武は、そうしたものではないはずだ。
 速さが不足する分、最初から備えておく。つまりは正中線に槍を据え、穂先を真っ直ぐに相手に突き付けた構えだ。そこから突きを繰り出すなら、その槍は攻守を兼ねる―――
 かっと小気味よい音をたて、中空で二本の槍の柄と柄がぶつかった。同じ構えから、同じく最短の軌道で突いたのだから必然の結果である。
 前回と同じく一瞬の光芒としか見えなかった星の龍牙を、その瞬間になってようやく曹仁の目は捉えた。龍牙の赤い矛先は、すでに鼻先まで迫っていた。対して同時に突き出したはずの曹仁の槍は、星の身体まではるか遠い。
 顔を逸らし、仰け反りたくなるのをぐっとこらえ、正中線を真っすぐ維持した。力まず、肩と肘は重力のままに自然に落す。そうして体の真ん中から相手を目掛けて、ぶれず、曲がらず、真っ直ぐに突く。つまりは中心線を抑える。それさえ為れば―――。
 曹仁の槍に押しやられ、龍牙の軌道が横に逸れた。曹仁の頬を擦るように軽く抉った後、空を切る。星が槍を引いた。さすがに速く、すぐに二撃目を突く体勢が整えられた。しかしその時にはすでに、曹仁の槍は吸い寄せられるように星の胸元へと伸びていた。
 これも曹仁の学んだ早さの一つだ。相手の槍を逸らし遠ざけ、こちらは揺るがず最短を突く。そうすれば槍は自ずと相手よりも“早く”当たる。

「―――っく」

 星が大きく身を反らした。曹仁の槍先はわずかにその身へ届かない。しかし馬上ならば、曹仁にはここから先がある。ぎゅっと脾肉を絞めると、白鵠が大きく一歩踏み出した。
 星の体が中空に舞う。くるりと後方へとんぼを切って地面に降り立った時、その左腕の付け根から血が噴き出した。

「管槍が災いしましたね」

 柄同士が触れ合った状態からの中心線の奪い合いは、槍術ではごくごく基本の戦術であり鍛錬法の一つでもある。奇策を警戒する星に、曹仁は極めて真っ当な戦法を真正直に真正面からぶつけたということだ。
 当たり前にやり合えば、達人の星から中心線を取るのは曹仁にはほとんど不可能に近い。しかし管を通して槍を操作する管槍では、緻密な力の駆け引きは難しい。

「……お見事」

「そちらもな。まさかあそこから防がれるとは思わなかった」

 やはり星はさすがだった。
 完全にとらえたはずが、曹仁の槍が突き立つ瞬間、穂先と自分の体の間に龍牙をねじ込んできた。白鵠の脚力の乗った渾身の突きだが、龍牙の二叉の穂先に阻まれ、刃と刃の間を潜り抜けた先端がわずかに星の体に届いただけだった。傷の深さは一寸にも及ばないだろう。
 出血も着地の瞬間こそ派手に噴いたが、すでにだいぶ治まっている。刺突による傷そのものよりも、白鵠の脚力を真面に叩きつけられた衝撃の方が星にはきついようだ。眩暈でもするのか、肩の傷ではなく額を抑えるようにしている。

「やはり今日は俺が勝つ日だったな」

「異な事を。まだ勝負は決しておりませぬぞ」

 足元をふらつかせながらも、頭を振って星が言う。

「確かに戦えないほどの傷ではないか。―――しかしもう遅い、星さん」

 曹仁の背後で大喚声が起こった。振り返って確認するまでもなく、大軍が動き始める気配を感じる。
 一方が落馬して血を噴いた。傍から見る分には、これほど分かり易い一騎打ちの決着もない。そしてこの機を逃す華琳ではなかった。

「……くっ、この勝負、預ける」

 さすがに星は冷静だった。逡巡は一瞬で、よろめくように馬に這い上り自軍へ駆け戻っていく。
 ここで一騎打ちを継続したところで、両軍がぶつかり合うまでの寸刻の内に勝利を納めねば曹操軍の勢いは止まらない。ふらつく身体でそれは不可能と言って良い。一人乱入した曹仁とは違い、兵を抱える身でもあるのだ。

「――――っ!! ――――――っ!!!」

 曹魏の兵が、曹仁の横をすり抜けていく。やはり逸り過ぎが心配になるような全力疾走で、敵陣へ向け駆けていく。

「……曹仁将軍」

 声に振り向くと、三ヶ月前にこの世界で最後に見た男の顔があった。白騎兵の旗手である。百騎も整列していた。

「曹操様よりご命令です。我らを率い曹魏の先駆けとなり、孫劉を打ち砕けと」

 言いながら、旗手の男は首に巻いた白い布を解き、投げ捨てた。解いた布の下からは、同じく白い布が現れた。二重に巻いていたようだ。百騎も一斉にそれに従った。白い布が続々と中空に舞う。
 曹仁は無言で見守った後、馬首を返した。曹魏の兵が敵陣を押しに押しまくっている。

「―――天人旗を高く高く掲げよっ! この戦、我らの手で決着を付けるぞっ!!」

 白鵠を走らせると、百騎が後に続いた。











 まさに鎧袖一触。天人旗が縦横に駆け回ると、双方十万を超える大軍同士の大戦が一刻と経たずに勝敗を決していた。
 焔耶に引っ張られるようにして、桃香は戦場を後にした。

「……負けたんだね」

「いっ、いえ、これは戦略的撤退というやつですっ。勝利の途中とでも申しますか―――」

 焔耶が励ましの言葉を並べてくれているが、耳には入ってこなかった。
 負けた。完膚なきまでの敗戦である。
 だが桃香には、自分の志が華琳の覇道に劣るものだとはやはり思えなかった。あくまで戦の勝敗がそうなったというだけのことで、戦は志を遂げるためのひとつの手段でしかない。
 天意が曹操軍に味方をしたのは確かなのだろう。天が、自分の志を否定したのか。しかし否定する権利が、天にあるのか。
 胸中に浮かぶ問いに、答えを返す者はいなかった。



[7800] 第13章 第4話 終幕
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2018/04/11 19:35
「――――――! ――――!!」

 曹仁が今日も攻城の最前線に姿を現したようだ。後方の高台に置いた本陣から見守る華琳にも、味方の兵が湧き立つのが感じ取れた。
 同時に城壁から盛んに降り注いでいた敵の矢も、俄かにその数を減らしている。この地―――柴桑―――の守兵は宛での曹仁の降臨を直接目にした者達ではないが、味方の兵からすでに話だけはたっぷりと聞かされているようだった。曹仁が前線に立つと、敵の攻撃が緩む。趙子龍ほどの剛の者でもなければ、真実の天人相手に矢を射掛けるのは躊躇われて当然だろう。

「―――っ」

「あっ、兄ちゃんだ」

「わっ、だ、大丈夫でしょうか?」

 季衣が暢気に指さし、流琉が不安げに声を上げる。
 雲梯から城壁の上に一人が降り立っていた。曹仁である。攻城戦では白鵠の一際目立つ白い馬体こそ伴っていないが、白の具足で遠目にもそれと分かる。敵兵はそこへ殺到するどころか、曹仁が槍を振るうまでもなく気圧されたように後退り、遠巻きにした。

「ほっ、大丈夫そうですね」

 開いた空間に続々と曹操軍の兵が続くと、流琉が安堵の吐息を漏らした。華琳も気付けば握り込んでいた拳を緩める。

「城門が開くわ、本隊にも突入の準備をっ」

 華琳は床几から腰を上げた。

「それと水軍の文聘には、引き続きその場で待機するように伝えなさい」

 長江に接する城の北面は水軍に抑えさせているが、あくまで様子見の構えを取らせていた。孫子で言うところの囲師必闕。包囲網に逃げ道を一つ残しておくことで、敵の死に物狂いの反抗を避けることが出来る。
 将ともなれば―――春蘭あたりは例外として―――、軍略書の古典にして最高傑作である孫子には一度くらい目を通しているものだ。しかし勢いに乗り熱に浮かされた今の曹操軍は、基本の軍略に立ち返る思考に欠けていた。華琳ですら、ここは力押しで十分と考えていたのだ。献策してきたのは、意外や曹仁である。曹仁は自ら先頭に立って城内へ一番乗りを遂げる一方で、血気に逸るばかりではなかった。元の世界で過ごした数ヶ月間、何やら学ぶところがあったらしい。
 やがて柴桑の城門が内側より開き、味方の兵が雪崩れ込んでいった。守兵は曹仁の思惑通りに抗戦もほどほどに北の水門より撤退し、半日ほどで城内を完全に制圧するに至った。宛での大戦からわずか一ヶ月足らずで、曹操軍は孫呉最大の水軍基地の呼び声高い柴桑を陥落させていた。

―――ここまで順調過ぎるくらい順調ね。

 軍営の一室を仮の宿舎として腰を落ち着けると、華琳はひとりごちた。
 曹仁の降臨と宛での戦勝は、曹操軍にかつてない勢いをもたらしている。
 曹仁を先頭に追撃に次ぐ追撃を仕掛け、孫劉連合に城に拠る暇も与えなかった。かつて赤壁の勝利で得た孫劉の勢いに押されて立て続けに奪われた拠点の多くが、まるで時が巻き戻ったかのように再び手の内に転がり込んできた。
 堅城と名高い樊城も逃走する敵軍と併走し、時には追い越すように駆けた曹仁と霞の騎馬隊が城門からなだれ込み、一昼夜の内に奪い返した。樊城攻めでは何より軍船の接収が優先され、落城後すぐに再び水軍を組織して対岸の襄陽攻略が開始された。陸上部隊を上陸させて包囲の構えを見せると、孫劉連合は襄陽を放棄し退去した。
 襄樊を取り戻した時点で荊州での勢力図は大きく曹魏に傾いた。西涼と揚州にも戦線を抱え、各地で叛徒も立っている。そこで一度軍を再編して仕切り直しに入るという案も出たが、珍しく曹仁が強硬に進軍を主張した。軍議の場での曹仁の発言は、華琳であっても抗いがたいほどの威を備えつつあったし、確かに好機であることは事実だった。引き続き南征が継続されることとなった。
 華琳、曹仁が率いる主力が江陵を、春蘭、秋蘭が水軍と協力して夏口を攻めた。かつては一年にも渡って曹操軍の攻囲に耐え抜いた両拠点も、数日の内に陥落となった。当然夏口と江陵には孫策や周瑜に、劉備軍の錚々たる将軍や軍師達までが拠っていたが、荊州での戦力差は、すでに将器や軍略で覆し得るものではなくなっている。
 宛の戦いでは十五万の兵力を擁した孫劉連合だが、あの敗戦で―――というよりも曹仁の降臨を目撃したことで、主力を残して大半の兵が離散していた。曹操軍も赤壁の大敗で半数余りの兵を失ったが、その比ではなかった。孫策軍は長江を下り逃れ、劉備軍は遡上して益州へと逃げ落ちていった。
 そして後退する孫策軍を追走する形で、曹操軍は初めて長江南岸へと上陸を果たし、勢いのまま夏口の対岸に位置する武昌を落とした。ついに孫呉攻略の橋頭保を築いた瞬間である。
 ここで一旦攻勢を緩め、武昌に兵を込めて堅固な拠点と化すという手もあったが、やはり曹仁が進軍を主張した。曹仁を先頭に立てた軍には破竹の勢いがあり、もはや否やの声は一つも上がらなかった。
 そうして武昌より長江沿いを東に二百里ほど進んだこの柴桑で、初めて抵抗らしい抵抗を受けた。
 柴桑は元々は周瑜の駐屯地であり、ゆえに孫呉最大の水軍基地と目されてきた城である。周瑜自身は孫策と共にさらに後方―――孫呉の本拠建業まで退いていたが、孫呉ではその周瑜に次ぐ軍略の持ち主と言われる陸遜が徹底抗戦の構えを示していた。
 陸遜の役目は、軍の立て直しを計る孫策と周瑜のための時間稼ぎだったのだろう。曹仁が前線に立ち燎原の火が如く勢いに乗る曹操軍を相手に、陸遜は十日耐え抜き、先刻攻囲を緩めた北から水軍と離脱していった。長江を下って向かう先は当然孫策と周瑜のいる建業だろう。十日の間に、北伐を断念した孫権も建業に入ったという情報が届いている。孫呉の残る戦力は大よそ建業に集結しつつある。
 柴桑から孫呉の本拠建業までは長江沿いを北東に一千里ほど進軍する必要があるが、道中に孫呉の大きな拠点はない。次の出兵が孫呉との決着を付けるものとなるだろう。

「―――華琳? ここか?」

「ええ。入りなさい、仁」

 室外から躊躇いがちな声が聞こえてきた。呼び出しておいた曹仁だ。
 すでに人払いは済ませている。いつもなら戸口前に陣取り華琳の座所の目印ともなる虎士の面々にも、今は距離を置かせていた。
 曹仁の帰還以来、二人の時間はほとんど取れずにいた。曹仁は常に前線に身を置いていたし、それ以外の時間も珍しく何やら熱心に書き物などしていたのだ。

「建業にはいつ?」

 入室するや、曹仁は切り出してきた。顔には少々焦りの色が見える。
 柴桑陥落に要した十日という日数は、城の規模を思えば十分に早い。陸遜も二月や三月は持たせるつもりでいただろう。極めて順調にここまで進んできたが、曹仁はそれでも時間をかけ過ぎたと感じているようだった。

「……どうにも様子がおかしいと思っていたのだけれど、貴方、また天の国へ戻るらしいわね」

「―――っ、どうしてそれを?」

「これよ」

 紙片を一枚、曹仁へ突き出した。
 攻囲の最中に、洛陽の月からの使者が訪れた。携えてきた書状は月ではなく天子の手によるものであった。日付を見れば、あの宛での戦があった同日に書かれたものである。つまりは曹仁をこの世界に呼び戻した超常の天子が、前後して認めたということだ。
 使者は華琳本人に渡すように厳命されていたらしく、進撃を緩めない曹操軍の中にその姿を求めて、ようやくここ柴桑で行き着いたという。

「……そうか、天子が」

 書状には彼女―――彼?―――の有する超常の力が尽きつつあると書かれていた。
 中華の民の活力が天子の力の源であり、乱世で人心が疲弊すれば力は失われる。官渡で袁紹軍を破った直後に謁見した際には、人ひとりを別外史から呼び出すだけの力はすでに残されていないと聞かされた。乱世こそ終結してはいないが、曲がりなりにも華琳の治世下で民が安んじられ、いくらか天子も力を取り戻したらしい。それでこの外史では手の施しようのない傷を負った曹仁を強制的に本来の外史へと送還し、そして再び呼び寄せることも出来た。
 しかしそれも、いよいよ尽きつつあるという。もはや曹仁をこの外史に縛り付けるだけの力もほとんど残されてはおらず、一月余り後に完全に枯れ果てる。そうなれば曹仁は、生まれながらの宿縁に吸い寄せられ元の外史へと引き摺り戻されていく。そして再び別の外史から人ひとりを召喚し得るほどに力が戻るのがいつになるか、天子にも分からないという。高祖劉邦より四百年続いた超常の血脈が、初めてその力を持って呼び寄せた異邦人が曹仁なのだ。曹仁の、そして華琳の生あるうちに、三度目の召喚が可能となるのか。天のみぞ知るどころか、天すらも知り得ない。
 書状の最後には、召喚の際に曹仁には同様の旨を伝えたと記されていた。

「それで? 何か私に言うべきことはない?」

 天子の力が尽きるのは曹仁の降臨より一月余り後。そしてすでに一月近くが経過していた。おそらくその日は、十日と経たずに訪れる。それが曹仁にとってこの世界で過ごす最後の時間となるのかもしれなかった。

「…………俺のことは忘れて幸せに生きてくれ」

 長い沈黙の後、曹仁は絞り出すように言った。華琳はかっと頭に血が上るのを感じた。

「―――と、言うべきなんだろうけどな。強がりでも忘れてくれなんて言えるか。……まったく、我ながらしまらないな」

 続く曹仁の言葉で、燃え盛るようだった怒りがふっと静まった。

「……ふん、そんなことを抜かしたら、張り倒してやるところよ」

 現実に行動に移そうと執務机の上に乗り出した身体を、華琳は再び椅子に落ち着けた。

「そりゃあ、よかった。……はぁ」

 曹仁は一度嘆息を漏らすと、溢れ出るままに心情を吐露し始めた。

「俺が消えたら、泣いて欲しい、悲しんで欲しい。十年経ち、二十年が経っても、俺との別れを引きずって、ふとした瞬間に涙して欲しい。そして、それでも普段は幸せに笑っていて欲しい。ここではない世界で、俺も華琳を思い続ける。だから―――」

「貴方と離れ離れになって、私が貴方を思わない日があるわけがないでしょう」

「ああ、そうだな。―――それに、再び戻ってこれないと、決まったわけでもない」

 曹仁が努めて明るく言った。

「珍しく戦に逸っていると思えば、そういうこと。自分がいる間に、せめて孫呉だけでも潰しておきたいと考えたのね?」

 乱世が静まり、民が生を謳歌すれば、その分だけ天子は早く力を取り戻す。

「ああ。孫呉は、俺の世界の歴史では三国の中で最後まで生き残ることになるし」

「私、それに我が将兵も安く見られたものね。天下の平定など貴方がいなくても早晩成し遂げるわ。孫策と周瑜には、自分の手で借りを返したいしね」

 何やら気になることを曹仁は口にしたが、今は聞き流した。

「そんなことよりも、貴方には貴方にしか出来ない、もっとやるべきことがあるでしょう」

「俺にしか出来ない、もっとやるべきこと?」

「わからない? この世界との縁の強さ故に貴方は選ばれ、この世界に呼び寄せられた。そして生まれ落ちた世界とのそれ以上に強い縁が、貴方を引き戻す。だったら今よりもっと強い縁でこの世界と結び付いておけば、再び呼び寄せるのに必要な力も小さくて済むでしょう」

 かつて天子に聞かされた話と、今回受け取った書状の内容を鑑みるとそういう結論に至る。

「しかし、縁を強くすると言ったって」

「あら、簡単な方法があるじゃない。―――まあ、簡単なのは貴方の方だけで、たぶん私はすごく大変なのだろうけれど」

「…………? ―――あっ」

 立ち上がり、執務机を回り込んで寝台の端に腰掛けた。そこで曹仁はようやく華琳の言葉の意味を理解したようだ。
 寝台は軍営に備え付けのものであるから小さいが、布団だけは良質なものに取り換えさせている。まずは十分だろう。

「つまりそれって」

「貴方の子を、宿せるといいのだけれど」

「―――っ」

 自分との愛情―――精神的な結び付きが、天子の言うところの縁に当たるのかは分からない。しかし結果生まれる血“縁”者の存在は、間違いなく縁だろう。
 下腹を軽くさするようにしながら華琳は続けた。

「ふふっ、今日はお口やらは無しで、全部こっちにね。―――きゃっ。 もうっ、急に何?」

「急なのは華琳の方だろう。そんなこと言われて、我慢なんて出来るか」

 案の定と言うべきか、曹仁が猛然と飛びついてきた。
 全くの本心ではあるが、言葉にも仕草にも曹仁に火をつけようという打算があった。
 欲しい物は何だって手にしてきた。戦い、勝ち取ってきた。
 戦と政を勝ち抜き、やがて天下を手中に収める。友人―――桃香とは、意地の張り合いだ。いずれは押し勝って、隣を歩かせる。
 好きな男だって同じことだ。戦場は閨で、戦術が子作りだった。

「もうっ、ちょっと痛いわ。腕の力を弱めて。―――ふふっ」

 華琳は曹仁を誘う様に、小さく笑った。





「……たぶん出来たわ」

 腕の中の華琳がそう呟いたのは、柴桑陥落から三日目の朝のことだった。
 将兵にはこの地でのしばしの駐屯が伝えられ、交代で警備に当たる兵以外には休暇が与えられている。そしてその間、曹仁と華琳はほとんど部屋に籠り切りの生活を送っていた。幸いにも帰還以来前線に出ずっぱりで八面六臂の活躍をしていたお陰か、偶に顔を合わせる将兵からはただ生温い視線を送られるのみだった。

「昨日今日で分かるようなものではないんじゃないのか?」

「ええ、だからたぶん。でもきっと間違いない」

「そうか」

 華琳は下腹に優しく手を当てると、誇らしげに微笑んだ。

「―――っ、何なんだ、この愛おし過ぎる存在は」

「?」

 覚えず口走ると、唐突の発言に意味の取れない華琳が小首を傾げた。そんな動作の全てが、曹仁にはたまらなく愛おしかった。

「大好きな華琳が、まだ出会ってすらいないのに無条件で愛しい我が子を宿している。こんなにも愛おしい存在があっていいのか」

「―――きゃっ」

 持て余した感情に促され、曹仁は華琳を強く抱き寄せた。
 二人きりで部屋に籠るような生活は、その日で切り上げた。念のためと称して毎晩身体を重ねるも、日中は家族や仲間たちと過ごす時間を取るようにした。
 元の世界で学んできたことを雑多に書き綴った書物も完成し、華琳に託した。それで、やらなければならないことは何もなくなった。華琳の覇業を最後まで支え見届けられないのが心残りだが、今更出来ることもない。ただのんびりと日々は過ぎていった。
 ある日は、蘭々や季衣らが長江で川遊びをするのに、華琳と二人付き合う約束をした。そこに気付けば幸蘭や春蘭達も加わって大所帯となった。

「兄ちゃん、もうちょっと寄せてっ」

「―――っ、くっ」

 曹仁が適当に垂らした釣り針に掛かった大物を、季衣が川に飛び込んで掴みかかる。一丈近くもある蝶鮫である。抱き上げた季衣の身体より二回りも大きい。他にも何人かが一抱えもあるような青魚や草魚を釣り上げた。華琳と流琉、秋蘭、それに曹仁も加わって調理し、最終的には近くに居た兵も集めて大規模な宴会へ発展した。
 またある日は、諸将と誘い合わせて物見も兼ねた遠乗りへ出た。武昌、柴桑と落としたが、周辺はいまだ敵地同然である。白騎兵と春蘭の旗本の騎兵、さらに各隊から精鋭を選抜して再編中の虎士と虎豹騎が護衛に付いた。
 絶影と白鵠が轡を並べて駆ける。

―――ここに的盧も加えた光景を、もう一度見たかったな。

 ふと思うも、口にはしなかった。自分が戻るまでに、華琳が実現可能にしてくれるはずだ。

「なんや、曹仁も華琳様もえらいのんびりやないか」

 霞が愛馬の黒捷を疾駆させ、先頭に躍り出た。

「むむっ、勝負なら私が代わりに受けようっ!」

 春蘭が後を追って飛び出して行った。春蘭の馬も相当な良馬であるし馬術も達者であるが、さすがに相手が悪い。すぐに引き離され、華琳と曹仁に並んだ。

「うう~っ、くそっ」

 春蘭が悔しげに唸った。

「……仁」

「ああ」

 華琳に促され、代わって前に出る。
 霞との最後の駆け合いに、曹仁と白鵠は僅差の勝利を収めた。
 そうして、幸せな日々は一瞬で過ぎ去っていった。
 ある朝、終わりは静かに訪れた。
 曹仁と華琳はどちらからともなく目覚めると、しばし布団の中で微睡んだ。二人とも朝は強い方だが、昨夜“も”遅かった。いちゃいちゃとついばむ様な口付けを交わしたり、足を絡め合う時間を半刻余りも挟んで、ようやくもそもそと起き上がる。
 一足先に着替え終えると、曹仁は寝台の端に腰掛けて華琳が身繕いするのを覗き見た。
 寝乱れた姿から普段のきりっとした華琳へと変わっていく様子が好きだった。言うと華琳はたぶん嫌がるから、曹仁の密やかな楽しみである。

「―――?」

 ふと違和感を覚え、右手に視線を落とした。足元までが透けて見えた。頭を振って見つめ直すと、槍の扱き過ぎで節くれだった手が徐々に浮かび上がってきた。
 顔を上げると、思いつめた表情の華琳と目が合った。

「……今のは」

「ああ、どうもいよいよらしい」

「……そう」

 縁に引き寄せられての退場というのは、一瞬の出来事であった天子による強制的な召喚や送還とは趣が違うようだ。今も足場を失い虚空でも漂うような喪失感が、あるいは世界から拒絶されていくような疎外感が、訳もなく胸にこみ上げてくる。

「華琳、兵に集合をかけて良いか? それに出来れば周辺の集落の民にも見物に来てもらいたい」

「何をするつもり?」

「ただ俺が消えたとなると、またみんな落ち込んじまいそうだからな」

 話に聞いただけだが、前回の消沈振りはひどいものがあったらしい。曹家の天の御使いの存在は、本人が思っていた以上に人々の心に深く根差していた。

「それにど派手に消えて大勢の記憶に鮮明に残る。そんなこともこの世界との縁と言えるかもしれないしな」

 華琳が小さく首肯し、すぐに準備が進められた。
 閲兵と称して非番の兵もすぐに呼び集められ、周辺の村々にはありったけの馬車を走らせて見物人を募った。
 曹仁と華琳は城壁に登ってその時を待つ。
 眼下にはすぐに十余万の兵が整然と居並んだ。朦々と寄せる砂塵は見物の民を乗せて駆ける幾十幾百の馬車だ。
 兵の差配を済ませた諸将が城壁の上へ続々と集まってくる。突然の命に怪訝そうに顔を見合わせ、代表して春蘭が口を開く。

「華琳様、仁。ずいぶんと急な閲兵ですが、建業への進軍の日取りがお決まりですか?」

「そうね。……明日、出陣しようかしら。出来るわね?」

「明日ですか。わかりましたっ。…………秋蘭、幸蘭?」

「姉者、問題ない。元々柴桑に長く留まる予定はなかったからな。いつでも出られるように兵糧の類は手配済みだ」

「進軍路も私の部下が調べ上げて、秋ちゃんと検討して決めてあります。―――話し合いの場には、春ちゃんもいたはずなんですけどね?」

「う、うむ。そうだったな」

「……姉者」

 春蘭達が揉めている間に、見物人を乗せた馬車が城下に到着した。十万を超える兵と比べればわずかなものだが、万に近い民が下車してくる。当然中には孫呉の息の掛かった者達も多く含まれているだろうし、朱里や雛里のことだから劉備軍の手の者も潜んでいるだろう。その方が都合が良かった。

「……無花果」

 華琳が呼ぶと、城壁の上に陳矯が白鵠を引いてきた。

「最後の時に、この子を仲間外れには出来ないでしょう?」

 視線で問うと、華琳が曹仁にだけ聞こえる小声で囁いた。
 頷き返し、曹仁は白鵠に跨ると自分達の姿が城下の人々から良く見えるように城壁の端まで進んだ。
 粛然と控えていた兵がにわかに湧き立ち、触発されて民も騒ぎ始める。規律正しい曹操軍らしからぬ光景だった。やはりこのまま黙って消えるには、今や兵の中で自分の存在は大き過ぎる。

「―――曹魏の将兵達よっ!」

 曹仁が口を開くと、一言一句聞き逃すまいと城下は水を打ったように静まり返った。

「まずは皆に礼を言いたいっ。皆の奮闘で、俺は己が天命を果たすことが出来たっ!」

 言葉の意味が取れず、兵は無言のまま答えを求めて顔を見合わせている。

「十余年前、天命に導かれ、俺は我が王の元へ―――曹家へと遣わされたっ! やがて太平は終わりを告げ、民は叛き群雄の割拠する大乱の世となったっ! 一度は天下を恣とした董卓、青州黄巾百万を統べた飛燕、天下無双の飛将軍呂布、五世三公にして河北の覇者袁紹、西涼の雄馬騰に韓遂、そして劉玄徳と孫伯符っ! 彼らとの熾烈な戦いの数々は、今さら俺が語るまでもないだろう! 我らは勝ち続け、赤壁での敗北も覆し、今この地にいるっ!」

 そこで一瞬、くらっと意識が遠のいた。頭を振って立て直すも、兵がどっと騒めいた。
 どうやらまた身体が透けたようだ。それも今度は城下からも見て取れるほどはっきりと、手元だけに限らず全身らしい。気合を入れ直して、再び口を開く。

「天の御使いとして、ここに宣言しようっ! 先日の宛での大勝、そしてこの地を得たことで、天意は曹魏に、曹孟徳の元へついに定まった! 俺は曹家の天の御使いとしての役目を、ここにやり遂げたっ!」

「…………天の国へとご帰還されるのですか、曹仁将軍っ!?」

 言葉を切り、しばし無言で通すと、欲しかった質問が飛んできた。蘭々や陳矯辺りから出るかと思えば、叫ぶように口にしたのは城下の兵の一人だった。

「ああ。俺がこの地で為すべきことは、全て果たした」

 兵は呆然と放心する者もいれば、悲痛な叫びを上げる者もいた。全てを吹き飛ばすように、曹仁は声を張り上げる。

「称え、祝ってくれっ! 皆のお陰で、俺は誇りを胸に天の国へと凱旋することが出来るっ! そして喜び、浮かれよっ! 天意が定まった以上、これより先の曹魏の戦場に敗北はないっ! 皆の前には勝利の栄光だけが待っているっ!」

 悲鳴が徐々に歓呼へと変わっていく。曹仁が拳を天に突き上げると、それは約束された勝利を祝う勝鬨となった。
 言うべきことはこれで全部だ。曹仁は城壁の端から一歩身を引いた。

「どういうことだ、兄貴?」

 すぐに蘭々達が詰め寄ってくる。

「どうもこうも、言ったままだ。すまないな」

 下馬し、涙目の蘭々の頭を撫で、複雑な笑みを顔面に貼りつけた幸蘭の肩に手を置く。

「そんなに悲しむな、永遠の別れってわけじゃない。何年後になるか分からないが、きっと帰ってくる」

「本当?」

「ああ、だから蘭々、姉ちゃんの言うことを聞いて良い子で待っていろ。やんちゃもいいが、怪我には気を付けろよ。―――姉ちゃん。姉ちゃんには本当に感謝しかない。今の俺があるのは姉ちゃんのお陰だ、ありがとう。―――二人と家族になれて、俺は幸せだった」

「それは私の方こそですよ、仁ちゃん。私の弟になってくれて、ありがとう」

「俺もっ、兄貴の妹で幸せだったよ」

 二人に小さく頷き返し、視線を横へ転じた。春蘭は蘭々と同じ涙目で、秋蘭は幸蘭に似た引き攣った笑みを浮かべている。

「春姉、兵にはああ言ったが孫呉と蜀漢は簡単な相手ではない。春姉の力が頼りだ、気合を入れて望んでくれ。―――秋姉、春姉の気合が空回りしそうな時はいつものように。秋姉がいつも通りにいてくれることが、俺にとっても曹魏にとっても何より心強い。―――二人とも、曹魏の未来を頼む」

「あ、ああっ、任せておけっ」

「言われるまでもない」

 春蘭は鼻声ながらも力強く、秋蘭はいつもの涼しげな声を装って答えてくれた。

「季衣と流琉。今度帰ってくる時は、天の国の料理の調理法をいっぱい仕入れてくるからな。流琉、一緒に作ろう。季衣も楽しみに待っててくれ。―――それと、二人とも蘭々と仲良くしてくれてありがとうな。この後すごい泣くと思うから、なぐさめてやってくれ」

「まかせて、兄ちゃん。料理楽しみにしてるよ」

「はい、兄様。私も兄様とお料理出来るの、楽しみにしています」

 季衣と流琉は精一杯の笑顔で返してくれた。

「ちょっと兄貴っ、季衣と流琉もっ」

「ははっ」

 むくれ顔になった蘭々の頭をもう一度撫でて、目を転じた。

「霞、戦場ではいつも世話になった。つらい役目を押し付けるようだが、恋達にもよろしく伝えておいてくれ」

「しんどい役やけど、しゃーないな。それよりウチも黒捷も待っとるから、早う帰ってきいや。勝ち逃げは許さへんで」

 霞は冗談とも本気ともつかない口調で言うと笑った。

「おう、帰ったらまた勝負しよう。―――ということで陳矯、俺がいない間の白鵠の世話を任せた。これはお前にしか頼めないことだ」

「―――はいっ、お任せ下さい」

 水を向けると陳矯は慌てた様子で鼻を一すすり、生真面目に直立して受けた。その隣、並ぶと頭二つ分も抜きん出た巨漢と目を合わせる。

「角。お前にはずっと助けられてばかりだったな。俺とお前の間でいまさら礼の言葉もないが、ありがとうよ。それと春華のことだが、―――いい加減もらってやれよ」

「それは、その、…………はい」

 詰まらないことを口にし掛け、別の言葉に切り換えた。自分が気を回すまでもなく、この世界ではきっとそうはならない。

「……白鵠」

 隣にいる愛馬に呼び掛けると、鼻先を寄せてきた。鼻筋に手を当て、しばし声もなく語り合い、離れた。

―――こんなところか。

 他にも何人も言葉を交わしておきたい相手はいるが、今は他の戦線であったり、敵味方に分かたれている。

「…………華琳」

「仁」

 最後に、華琳へ目を向けた。幸蘭が蘭々の手を引いて曹仁の側から退き、華琳がそこへ歩を進めた。

「俺たちの子供のこと、よろしくな」

「えっ」

「あらあら」

 蘭々と幸蘭を筆頭に周囲が一瞬ざわつくも、すぐに全員が固唾を呑んで曹仁と華琳を見守り始めた。

「子育て、協力出来なくてすまない」

「こっちへ戻ったら、穴埋めはたっぷりしてもらうわよ」

「ああ。だから天子に言って、なるべく早く呼び戻してくれよ」

「ええ。十年、いえ、五年でこの疲弊した国を建てなおしましょう」

「おう、頼む」

 そこで、もう一度周囲がざわめいた。先程と違いいつまでも終わらない。どころか、どんどんと大きくなっていく。城下の兵までが、こちらを指差し騒いでいた。
 視線を落とす。手が、足が、胸が、腹が、透き通るように薄らいでいた。思考もぼんやりと霧がかる。ここではないどこかへ遠ざかっていくような感覚だった。
 華琳の方を見る。見納めとなる―――少なくともしばしの間は―――その顔をじっと見つめる。どちらからともなく手を取ろうとして、互いの手が空を切った。もはや触れることも叶わない。

「仁っ、何か言い残したいことはないっ!?」

 華琳が叫ぶように言った。

「―――っ、好きだっ、華琳!」

 最後に何か格好良いことを。そう思ったが、口から出たのはそんな言葉だった。

「足りないわ。もっと言いなさい。会えない時間の分も、今この瞬間に」

「ああっ、好きだ、好きだ、好きだ、好きだ、好きだっ、華琳! 愛して―――」

 ふっと、曹仁の目の前から華琳が消え、世界は暗転した。




[7800] 再演
Name: ケン◆f5878f4b ID:32578db9
Date: 2018/05/12 13:01
「おはよう、華琳」

「ええ、おはよう、蓮華」

 遅れて朝議に姿を現した蓮華は、場違いな朝の挨拶で白熱する議論に水を差すと、おもむろに座に付いた。
 曹仁がこの世界を去ってから、一年以上が経過している。
 建業落城―――つまりは孫呉敗亡の折、蓮華は行方知らずとなっていた伝国璽を手に華琳の前に跪拝した。降伏の文言は、漢室の至宝を返還する故に天子様に取り成してくれ、というものだった。降るのは漢朝に対してでありその走狗たる曹魏に対してではない。青い瞳がそう主張していた。劉備に渡しても良かったのだぞと、脅し文句まで添えてきた。確かに劉氏であり漢中王でもある桃香の手に玉璽が渡れば、一つの武器となりかねない。
 実直にして老獪、寛容と頑迷を併せ持つ蓮華を、華琳は諫議大夫として登用した。光録勲府に属し、俸給で言えば中央の官職としては高官とは言えない。しかし天子への諫言を職務とするこの官は、実際の政の場では三公九卿にも匹敵する存在感を有する。名ばかりの官職に留めるべきだという多くの反対を押し切っての任官で、いまだ蓮華と魏国の面々の折り合いは悪い。
 漢王朝の丞相である華琳と同じく漢王朝の諫議大夫である自分は、位階の差こそあれ天子の臣下同士―――すなわち同僚でしかないという理屈の元、蓮華はあくまで華琳に対して臣従の態度は見せなかった。華琳と、真名を呼び捨てにもする。それが一層、春蘭や桂花の反感を買ったが、姉譲りの強気で蓮華は押し通していた。
 本質的に生真面目な彼女が朝議に遅れてやって来たのは、今日の議題に対して思うところがあるからだろう。勤勉でいて時に大胆な行動もとる蓮華には、やはり諫議大夫という役職は打って付けであった。
 蓮華が重用されたことで江南は落ち着きを取り戻し、潜伏して反抗の機を窺っていた孫尚香と孫呉の家臣団も帰順を果たした。孫策と周瑜の二人だけは未だ姿を見せないが、といって江南の民を扇動するなり、劉備軍に合流するなりといった暗躍の兆候もない。戦に飽いたのではないかというのが妹である蓮華の考えだ。
 戦人の孫策にとって、宛城での戦の顛末は何とも馬鹿らしいものであったろう。兵力を揃え、散々に士気を盛り上げ、勝利を期した大戦が、戦略でも謀略でもなくただの奇跡一つで崩れ去ったのだ。建業での最後の決戦でも必死に士気を煽り、精鋭騎馬隊で幾度となく華琳の本陣を狙う動きを見せたが、それも曹仁の最後の檄に奮い立った曹魏の将兵の気勢に阻まれた。戦そのものに対する興を削がれても致し方ないことだ。それを証拠に、蓮華の元に孫策の愛剣にして父祖伝来の南海覇王が送り届けられていた。もう戦場に立つ気は無いという意思表示だろう。
 反則を使って孫策から戦を取り上げたようで少々申し訳ない気持ちもあったが、妹二人に言わせればそれはそれで楽しくやっているはずとのことだった。酒を呷り、友と気侭に暮らす。それもまた孫策らしい生き方だという。
 孫策と周瑜はいまだ手配書―――妹たち曰くまったく似ていない似顔絵が描かれた―――を貼り出して行方を追わせているが、捕まることはないだろう。対等の戦場で決着を付けられなかったのはいくらか心残りだが、気持ちの上で華琳は一つの戦いに幕を引いた。
 内政にはまだいくつかの課題を残してはいるが、この国に残る大きな問題はあと一つだけとなっていた。劉備軍である。
 桃香は戦いを続けていた。益州にて反曹の旗を掲げ続けていた。天険に抱かれた巴蜀の地にて守りに徹するばかりではなく、この一年の間にも漢中より桟道を伝って西涼に二度、長江を降って荊州に一度軍を進めている。その都度撃退しているが、決して諦める素振りを見せない。今も次の出陣に向けて戦備の増強に努めているという。

「――――――!!」

 議論に加わった蓮華が声を荒げた。江東の虎の血筋をあらわに吼えられると、並みの文官達は腰が引けて反論が口を付いて出ない。
 自らも議論を戦わせるべく、華琳は前のめりに席から腰を浮かした。身体は、半年前と比べすっかり身軽となっている。
 毎夜、耳に蘇る声がある。華琳と真名を呼ぶ愛しい響きであり、好きだ好きだという囁きだ。そんな時、感傷を吹き飛ばすように夜泣きする娘の存在が今の華琳の支えだった。





 三年が過ぎた。

「かっ、華琳さまっ!」

 城門前で虎士と虎豹騎に囲まれ、出陣の用意を整え馬上の人となった華琳に桂花が慌てた様子で駆け寄ってきた。宮城から走り通して来たのだろう。肩で大きく息をしている。
 桂花を筆頭に強硬に反対する者達が出ることは、容易に想像が付いた。華琳はいざ出陣という段になるまで、旗下の虎士と虎豹騎以外には親征の意志を隠し通していた。

「悪いわね、桂花。後のことは任せるわ」

「華琳さま、お待ちください! 何も自ら出られなくてもっ! たかだか辺境の一州。このまま秋蘭にお任せ下さい。増援は春蘭に率いさせればそれで十分です」

 幸蘭の元で諜報任務に当たる元黒山族の兵の入念な調査結果と、張魯と張衛の助言を参考にして、秋蘭が練り上げた計画が見事図に当たった。曹魏への侵攻を繰り返してきた劉備軍が、今度は長江を降って荊州方面より攻め入るべく主力を南下させた。秋蘭はその機を正確にとらえ、手薄となった漢中に侵入してまずは全軍を挙げて陽平関を攻め落とした。巴蜀との玄関口に当たる陽平関を抑え劉備軍の援軍を遮断し、張魯の名の下に曹魏への帰順を求める布告を発すると、各地に内応者が現れ漢中の諸城は次々と門を開くこととなった。巴蜀には桃香を慕い移住した民が多く暮らしているが、漢中には張魯―――五斗米道の信徒がそれ以上に多い。桃香がいくら善政を布き民に慕われたところで、信仰心までが無くなるわけではない。まして曹魏への度重なる侵攻の軍備を賄ってきたこの数年の益州の政は、本来桃香の志向する仁政とは程遠いものであった。
 こうして秋蘭と黒山族の兵は、張燕の仇討と雪辱をついに果たした。そして蜀漢の本拠成都へ、―――桃香へ続く進軍路が確保された。さすがに秋蘭は心得たもので、華琳の元へと増援を望む書状が送り届けられた。

「そのたかだか辺境の一州に、この数年悩まされてきたんじゃない」

 雛里の軍略とそれを支える諸葛亮の民政手腕、関張趙に加えて黄忠や厳顔といった稀有な将器。とても一州で収まるようなものではなく、曹魏はすでに圧倒的と言える戦力差を有しながらも進攻の度に幾ばくかの領土の占拠を許してしまっていた。その都度援兵をやって押し返してはいるが、綻びを繕うようなものだ。

「ですがっ、華琳さまはすでにしてこの国の天下人なのです。軽々しく御自身で侵攻戦など為さる必要はございませんっ」

 外界から隔絶されたような敵地に乗り込むというのだから、桂花の心配も分からなくもない。一度は大敗を喫し、多くの兵と一人の驍将の命を失った土地でもあるのだ。

「私を玉座に縛り付けておくつもり? 久しぶりに戦がしたいのよ、私は。それに桂花、―――桃香が待っているわ」

 言い捨て、華琳は絶影の馬首を転じた。

「―――ったく、こんな時こそ出番でしょうに。何やってるのよ、あいつ」

 背中越しに、桂花の苛立たしげなぼやき声が聞こえた。
 桂花の言うあいつ―――曹仁になら、確かに桃香との因縁の決着を委ねても良いと思えたかもしれない。しかし曹仁は未だこの世界に帰還を果たしてはいなかった。





 牛金からの援兵要請に、許はにわかに慌ただしさを増していた。
 曹仁の副官を長年勤めあげた牛金は、今は将軍の一人として西涼の鎮撫を担っている。長く雍州牧を務めた白蓮が中央での平穏な暮らしを希望したため、代わって送り込んだ形だ。騎兵の動きを熟知した用兵は西涼の騎兵と対するには適任だった。妻である春華にも異才があり、夫を良く助けている。大きな乱はなく、慣わしのように時折起こる小さな乱は容易く蹴散らす。援兵の要請など初めてのことである。劉備軍の将軍にして、すでにして西涼では伝説の錦馬超が再び蜂起を促して回っていた。桃香の姿もあるという。
 華琳自ら軍を率いて益州を陥落させたのは二年前のことだ。桃香や劉備軍の主だった者達は逃げ延び、南蛮族の割拠する未開の地へと行方をくらませた。そして再び中原に姿を見せたのが一年前のこととなる。
 その兵力はかつて天下の義軍と呼ばれ流浪を繰り返していたころよりもさらに少なく、二、三千に過ぎない。民からの人気は今だ衰えることなく、それくらいの数であれば各地に潜む信奉者の支援で維持出来るようだ。一つ所に留まらず絶えず動き続け、時には民に紛れ潜伏もするため、大軍を差し向けるということも出来ずにいた。
 ただこの一年、表立っての軍事行動はほとんど行われていない。重税に対して不平不満を持つ民はいても、地方の政も華琳の施策の元で適正に行われているのだ。劉備軍が標的とするような分かりやすい悪徳城主や腐敗役人などというものは存在しない。それでも雛里や諸葛亮が懸命に調べ上げるのだろう、時折曹魏の上層部の目を盗んで不正を働く役人を見つけ出しては襲撃を行っていた。しかしそれも一年も続ければ、ただでさえ稀な不正役人の類などすっかり駆逐され、最近では絶えてなくなっていた。
 今の劉備軍は大義を掲げた反乱を企てるには小勢に過ぎ、兵力相応の戦いを挑めばそれは暴徒の襲撃と何ら変わるところはない。武装し、徒党を組んでいるというだけで、劉備軍は戦いの場所を失いつつあった。
 西涼での蜂起は、桃香にとって最後の大きな賭けとなるだろう。

「……華琳様?」

「心配しなくても行かないわよ」

 私室を訪れ、窺うような視線を送ってきた桂花に肩をすくめる。
 二年前の戦で桃香の築いた国を滅ぼし、奪い取った。後は本当に意地と意地の張り合い、志と志のぶつかり合いだけで、戦で決するべきことは何もない。

「誰か適当な者に二万ばかり兵を与えて送れば、それで十分でしょう」

 曹仁がいなくなってから、最も多くの戦場で戦ったのがその後を継いだ牛金の隊である。あくまで曹仁指揮下でのみ存在していた白騎兵は解散されたが、軍への残留を希望する者も多く、校尉として牛金の隊に加わっている。元白騎兵同士が率いる隊の連係は凄まじく、無双の百騎に代わって 変幻自在の一万騎を得たようなものだ。加えて常日頃その一万騎と調練する歩兵二万の練度もすでに曹操軍の最精鋭である。
 桃香の元にはすでに一万の兵が集まっていて、中核には戦乱を戦い抜いた二千余りの精鋭がいる。侮りがたい戦力だが、桃香がさらに二万を集めたところで牛金隊のみで十分対処可能だ。援軍を求めてきたのは、外見に似合わず慎重な牛金の性格もあるだろうが、それ以上に華琳自身の出陣の意志を問うためだろう。

「……そうね、貴方行ってみない、鄧艾?」

「わ、わわ、私ですか? ぶ、文官ですがよろしいのですか?」

 竹簡を抱えて桂花の隣に侍る少女に水を向けると、つっかえつっかえ返答する。
 春蘭や霞は当然出撃を希望しているが、彼女達が出るまでもない。ここは若手に経験を積ませておきたかった。
 新しく入る役人の半数以上が今では学校を卒業した若者達である。その中から最初に頭角を現したのが、この鄧艾だった。いくつかの地方官を歴任させた後、今は桂花の属官に付けて中央での経験を積ませている。地形を見る目に優れていて、農地開拓と土木計画ではすでに一頭地を抜いていた。転じて陣地の設営や用兵にも関心を示していることを桂花から華琳は聞き及んでいた。

「ええ、興味があるのでしょう?」

「は、はいっ」

「では、牛金将軍の元で学んで来なさい」

「あ、ああっ、ありがとうございますっ」

 鄧艾が深々と頭を下げる。
 彼女とはちょっとした縁があった。華琳が雛里と共に一度だけ許の学校で教壇に登った際に、学校制度を推し進める真意を問い質した少女、それが鄧艾である。
 あの日、同じ教室にいた彼女の同級生達からは他にも数人、才覚を見せ始めた者がいる。彼女達の卒業はちょうどあの大戦があった年で、同じ年に改元が行われた。故に鄧艾達は天帰元年卒業組などと呼ばれていた。
 天帰。天“に”帰すではなく、天“が”帰すという想いを込めた元号だった。しかし五年が過ぎ天帰六年を迎えた今この時も、曹仁の姿はこの世界のどこにもなかった。





「久しぶりね、桃香」

「……はい、華琳さん」

 桃香が、静かにほほ笑んだ。背後には関羽を筆頭に劉備軍の諸将や軍師らが居並んでいる。華琳も主だった者は残らず集め、左右に侍らせていた。
 曹仁が去ってから―――あの大戦から、七年が経っていた。七年の間、曹孟徳の天下に劉玄徳は抗い続けていた。
 初めの三年は巴蜀の地の王として。土地を追われてからは、彼女を受け入れる民に拠って。五年目に起こした西涼での蜂起は、鎮圧におよそ半年近くを要した。華琳はその間ずっと国家の中枢にあって、政務に専念した。それが桃香を負かす唯一の方法と思ったからだ。
 西涼での企図が潰えてからも、桃香は戦い続けた。ただ戦いの相手は少数ながらも未だ各地に潜伏する乱世の賊徒となった。叛徒である桃香が治安維持に働くというのは、華琳の施政に対する痛烈な皮肉と言える。同時に、すでにそうした形でしか戦いを継続出来ない劉備軍の最後の足掻きであった。
 やがて天下に劉備軍が討つべき存在が一つもなくなった頃、降伏の意向が伝えられた。意外にも手引きをしたのは曹操軍からは龐徳、そして劉備軍からは馬超であった。
 華琳を不倶戴天の敵と恨み抜いた馬超は、いやにすっきりとした顔で自ら降伏の使者を務めた。西涼で牛金の配下に入った龐徳と何度となく戦場でやり合い、語り合う機会もあったのだろう。顛末が気にならないではないが、馬騰の手の平で踊らされたという愉悦混じりの不快感もあり、深くは問い質さなかった。

「長かった。いえ、むしろこれでも早く済んだと言うべきかしら?」

 華琳の呟きに、桃香は苦笑で返した。
 民の中には、いまだ劉玄徳に対するほとんど信仰にも近いような思いが残っている。桃香にその気さえあれば、彼らの支援の元で延々と抗い続けることも可能だったろう。

「降るということは、私の天下に納得がいったと考えていいのかしら?」

「……はい。みんなが幸せになれる世を、華琳さんは作り上げてくれました」

 その自負はあったし、証もある。最近になって、ずっと鳴りを潜めていた超常の天子がしばしば顔を覗かせ始めていた。ほんの一言二言交わす程度の短時間でしかないが、確実に天子は力を取り戻しつつある。つまりは民の活力が回復したということだ。
 劉備と言う大き過ぎる器が落ち着きどころを得れば、それで天下から乱の気配はすっかりと消え失せるだろう。

「三十年。私たちは、華琳さんの急峻な改革が成るにはどれだけ早く見積もってもそれだけの時間が必要だと考えていました。三十年の間、民は苦しみ続けなければならないと。でも、今はどこへ行っても民はみんな笑顔です」

 華琳や文官達の弛まぬ努力もあるが、曹仁が書き残していった冊子が随分と役に立った。
 特に農具や肥料の改良は、農地を拡大し、生産効率をも飛躍的に向上させた。それに伴い、高かった税率を少しずつ下げて行くことが出来た。技術革新に付いていけない民もそれで恩恵にあずかることとなった。

「……むしろ、私を信じて支えてくれる皆にこそ、笑顔がなくなった」

 三年の間、巴蜀は華琳の政を拒絶した者達の逃げ場となった。そして巴蜀を失った後も、桃香は民の心の拠り所であり続けた。性急すぎる改革には、恐らくそうした存在が必要だったのだ。
 しかしいつしか、桃香の周りに守るべき民などいなくなっていった。桃香を慕う民は流浪する劉備軍を支えるため、曹操領の租税以上のものを進んで供出した。供出する財を成すために、嫌っていたはずの新技術をも取り入れ、曹魏の暮らしに染まっていった。そうして気付けば、桃香の周りに残ったのは笑顔もなく懸命に働く強き民ばかりであった。
 民の避難所であり、楽園としての桃香の役割は緩やかに終わりを告げていた。

「礼を言うわ、桃香」

「礼?」

「ええ。貴方の存在があったから、―――政に参与する者は歩みを止めずに進むことが出来た。感謝するわ」

 私、と言い掛けて少しだけ言葉を濁した。
 桃香がいなければ、曹仁を呼び戻すために民を喜ばすことばかり考えた政をしていたかもしれない。

「華琳さん、そんな言葉で私を許そうとしていない?」

「……」

 無言で返すと、桃香の目付きが険しくなった。

「さすがに私は殺した方が良いと思うな。ううん、殺さないと駄目だ。痛いのは嫌だけど、仕方がない。たまたま乱世に並び立っただけの、他の人達とは違う。私は華琳さんの政を否定することで力を得て、誰よりも長い間敵対し続けた。そんな私を許したら、民は政の在るべき姿を見失ってしまう」

 桃香が話す間、関羽や張飛は口を挟まずただ乞うような視線を華琳へ向けてくるのみだった。桃香の意志は固く、すでに十分に話し合いも持たれたのだろう。

「……桂花、あれを運ばせてちょうだい」

「はっ、はい、華琳さま」

 桂花がその場を離れる。その足取りはふらふらと覚束ず、去り際に桃香を忌まわしげに睨んだ目の下には隈が色濃く浮かんでいた。
 毒酒か何かでも持ってこさせると思ったのか、さすがに桃香の顔が蒼白に染まる。それも一瞬の事で、ぎゅっと強く目を瞑ると、開いた時には意を決した様に笑みを浮かべた。

「……許の宮殿。懐かしいな」

 桃香は微笑を浮かべたまま、周囲を見渡す。

「ここで貴方に勉強を教えたわね」

 謁見の間ではなく、中庭の亭へ通している。桃香の勉強を見る時は、華琳の私室か、天気が良い時は専らこの亭だった。

「うん。宿題を放って街に出掛けては、華琳さんに怒られたっけ」

 がたごとと物音がする。怪訝な表情で、桃香がそちらへ目を向けた。音の発信源が何かわかっても、やはり怪訝な顔付きだ。

「子供達に混じってよく遊んでいたわね。そうした民との深い交わりが、貴方を救う」

「―――お待たせしました」

 虎士の一人が引いてきた荷車を亭の前に停車し、桂花が華琳の隣へと戻る。

「それは?」

「読んでみなさい」

 荷車には紙や竹簡が山と積まれている。虎士がそのうちの一つを抜き取って、桃香に捧げ渡した。

「……これは」

「まったく困ったことだわ。民に勉学を授け、積極的に政に参加するよう呼び掛けてきたのは私だというのに。それに対して初めて民が明確に示した声が、これなのだから」

「私達の助命を求める嘆願書。それも、こんなにたくさん」

「何を言ってるの。こんなのほんの一部よ。蔵三つがすでに占領されているわ。それも、これは貴方の降伏の噂を聞き付けて送られてきたもので、実際に降伏したと知れればさらに増えるでしょうね。実際、今も引っ切り無しに届けられているわ」

 中心には、学校で勉学を学んだ子供達がいるようだ。曹仁の発案で設置した目安箱には入りきらず、年嵩の卒業生が取りまとめて許の宮殿へ直接台車で運び込んでくる。地方でも同じ現象が起こっていて、地方官では対処しきれずそれも許へと送られてきていた。

「雛里か諸葛亮の策とも思ったけれど、その様子では違うようね」

 桃香と同じく驚愕の表情を浮かべた二人がこくこくと頷く。

「これほど大きな民の声を、聞こえないと突っ撥ねるわけにもいかないわ」

 そこで一端言葉を止め、隣の桂花を顎で示した。

「それに何より、訴状の類はどんな馬鹿げたものでも受領し目を通すと定めている。である以上は、拒否するわけにもいかないし、そのまま破棄するわけにもいかない。文官総出で目を通しても、それ以上に届く量が遥かに多い。このままでは、我が国の政は嘆願書に崩壊させられるわ」

「ああ、それで。荀彧さん、妙にお疲れだと思ったら」

「あんたら、本当になんなのよっ。私を殺したいわけっ。同じ内容の書簡を昼夜読み続ける苦痛と言ったらないわっ」

 桂花が我慢も限界と叫ぶ。

「ははっ、ごめんなさい」

「私に謝る暇があるなら、さっさと街にでも出て、健在を喧伝してきなさいよっ。ああ、もうっ、こうしている間にも、どんどんどんどん書簡が溜まるっ。これであんたの首を刎ねただなんて知られたら、今度はどれだけの抗議文が届けられることかっ」

「えっと、それじゃあ―――」

 桃香、そして劉備軍の面々の視線に頷いて返す。

「民に政へ参画するよう促しておいて、これほどの声を無視してしまっては、それこそ私の政への不信感を植え付けてしまうわ。それにまあ、昔から喧嘩の後に折れるのはいつも私が先だったしね。―――生きてちょうだい、桃香」

「よかったのだっ、お姉ちゃんっ!」

 それまで身じろぎ一つせず耐えていた張飛が、桃香に跳び付いた。それを機に、関羽、趙雲、諸葛亮、雛里らも快哉を上げる。

「貴方達には何か、この国のためになる役職を考えましょう」

「……この国、というのは、魏国のことですか、それとも漢王朝のことですか?」

 諸葛亮がおずおずと尋ねた。

「国としては漢王朝であるし、政の主体という意味では曹魏。どちらとでも好きに取ればいいわ」

「漢という国を存続させるんですか? 私はてっきり、やり残したことを遂げたなら、―――私が降伏したなら、華琳さんは天子になるものと思っていました」

 桃香の言葉は、劉備軍首脳陣全員の共通した認識であろう。曹魏の臣の中にもそう思っている者は少なくないはずだ。

「天子という一段も二段も高い位置に立って、人の営みの外から天下を牛耳るなんて詰まらないもの。私は数多いる人間の、その競争の頂点でありたい。生ある限り、私は人であり続けるわ」

「じゃあ曹魏という国はどうするんです?」

「さあ。私は丞相であると同時に曹魏の王でもあり続けるつもりだけれど、その後のことは娘の代に委ねるしかないわね。私と同じく漢朝の中で地位を求めるならば、曹魏という国はやがて意味を失っていくでしょうし、天の御使いの血を受け継ぐあの子が天子の階を登ろうというのなら、それでも構わない」

 帝位に即くにしても超常の天子の扱いなど、課題は残る。それも含めて娘次第だ。

「娘。……曹昂ちゃんだよね。私はまだ顔を見たことがないけど、今日は会えるのかな?」

「ええ、この場に呼んでいるわ。―――噂をすれば、来たわね」

「わあっ、可愛いっ」

 教育係の月に手を引かれて、中庭をこちらへ向かってくる小さな影が見えた。桃香が亭を飛び出し、駆け寄っていく。
 華琳の愛娘は六歳になっている。赤子の頃と比べるとだいぶ手は掛からなくなった。庭中を元気に走り回っては小さな怪我をして泣きながら帰ってくるが、付きっきりで面倒を見るような必要はなくなっている。
 ふとした瞬間に蘇る曹仁の声は、娘の世話に追われていた時よりもかえって鮮明となった。いまだ枕を濡らす夜もあって、自分がこんなにも感傷的な人間であったことに驚きを覚えるほどだ。
 天帰八年、曹仁はいまだ帰還を果たさずにいた。





 桃香帰順の翌年、華琳は主だった者を引き連れて大宛へ向かった。
 大宛というと汗血馬を産する西域の地方国家を示す言葉だが、かつての宛とその支城がまとめてそう呼び慣わされて久しい。天下分け目の戦いとなった八年前の戦は、今では大宛の決戦と呼ばれていた。過日の朝議でついに正式に宛県を大宛県とすることが決められ、西域の国の方は彼ら自身の呼称を元に今後は破洛那国と記される。今回の訪問は記念の式典に出席するためだ。
 それだけあの戦、と言うよりも曹仁の降臨が人々に与えた衝撃は大きかった。三十万近い兵士と当時の三国の主だった者の多くが目撃している。その日の情景は程なく詳細に―――多少の誇張を伴い―――天下に広く知れ渡った。
 曹仁が再びこの世界へと降り立った地は、それ自体は何の変哲もない野辺の一点に過ぎない。しかし今でも訪れる者が後を絶たず、人気の景勝地となっていた。何でも日の出の瞬間に支城の城壁から望むのが最近の流行らしい。
 その大宛は曹仁の封地として久しい。不在の間の管理は幸蘭であり、中央の高官でありながら宛県の相を長く兼任していた。ありふれた景観を触れ回り、大宛を一躍中華を代表する観光都市にまで仕立て上げたのはまさしく彼女の手腕であろう。
 今回の改名も八年前の改元も、ただ名前を変えるだけといってもそこには莫大と言って良い費用が掛かり、文官達には膨大な雑務が降りかかる。いずれも無駄な支出に無駄な労力であるが、推し進めた。
 天帰、大宛と聞けば、誰もが曹仁を思い浮かべる。曹仁を思う人間が多ければ多いほど、曹仁とこの世界の縁が強まれば強まった分だけ、帰還の時は近付くはずだ。華琳が覇道の道程で曹仁のために行ったたった二歩の足踏みだった。

「いらっしゃいませ、華琳様」

 式典の前日に大宛入りすると、先行していた幸蘭が宮殿の前で上機嫌で出迎えてくれた。

「…………あら、姫様は?」

「支城を見ていきたいというから、蘭々と月を付けて寄り道させているわ」

「……そうですか。せっかく色々と用意しておいたのに、蘭々ちゃんったらずるい」

 幸蘭が露骨に肩を落とす。
 弟妹を溺愛していた幸蘭だが、姪に対してはさらに輪をかけていた。曹仁や蘭々には姉として時に厳しく叱りつけるようなこともあったが、無責任な伯母の立場がそうさせるのか、ただただ甘い。お菓子も玩具も際限なく買い与え、あの春蘭にすら呆れられるほどだった。

「他の者は?」

「桃香さん達はもういらしています。他の方々の到着は明日になりそうです」

「そういえば桃香は、ちょうど荊州を回っていたのだったわね」

 桃香達には巡察使という役職を設けて、監察として地方を回らせていた。例の冊子に書かれていた未来の官職名を流用したが、どちらかというと幼少の曹仁が語った彼の国ではお決まりだという勧善懲悪の時代劇に着想を得たものだ。これまでも郡や州単位では督郵のような役職があったが、巡察使は中華全土を回り、わずかばかりだが兵も伴わせていた。つまりは天下の義軍と名を馳せた劉備軍の行いを、今度は曹魏の威光の元でやるようなものだ。劉備軍の帰順を広く知らしめると同時に、ある種見せしめでもある。しかし桃香からは無邪気に報告書―――という名の道中での楽しげな出来事を綴った日記帳が定期的に届けられてくる。朱里と雛里が併せて送ってくる調書と同程度には、それを楽しみにしている華琳がいた。

「あっ、華琳さん」

 折りよく桃香が姿を現した。背後には劉備軍の面々も揃っている。

「これから外へ夕食を食べに行くんだけど、華琳さん達も一緒にどうかな?」

 何か明日の準備でやることはないか。幸蘭に視線で問うと、にっこりと頷き返された。

「式典のことは御心配なさらず、どうぞいってらっしゃいませ。姫様のことも私に任せて、どうぞごゆるりと」

「そう。ではご相伴させていただくとしましょう」

「じゃあ行こう。鈴々ちゃん、お願い」

「うんっ。宛には何度も来ているから、美味しいお店なら任せるのだ。こっちなのだ」

「むむっ、ボクだって詳しいぞ。宛で一番の店はこっちだ」

 最近では年相応の落ち着きを見せ始めた季衣だが、鈴々と関わると駄目らしい。言い争いながら、人混みをずんずんと同じ方向へ向かって歩いていく。
 道中薄々察せられたことだが、結局二人が案内する先は同じ店だった。自分の方が先に知っていたとか、何回来たことがあるとか言い合う二人を余所に、ささやかな宴が開かれた。
 春蘭や霞、愛紗ら武人達はいつの間にか意気投合しているし、星と稟、風は旧知の仲だ。雛里と朱里は苦笑を浮かべながら桂花の悪態に付き合っている。

「ふふっ」

 隣で桃香が小さく笑い声を漏らした。

「どうかした? 馬鹿面を浮かべて」

「もうっ、口が悪いんだから。―――なんだかこういうのって、すっごく良いなって」

「……そうかもしれないわね」

 素直に応じた華琳が意外だったのか、桃香が目を丸くした。式典の前夜祭は夜更けまで続けられた。
 翌日、華琳は寝室の戸をそっと閉めた。

「起きたら、連れて来てちょうだい」

「はい」

 蘭々が声を忍ばせ答えた。室内ではいつも早起きの娘が寝息を立てている。
 昨夜宮殿に戻ると、娘は幸蘭の部屋でお菓子片手にお人形遊びなどしていた。普段ならとうに就寝している時間である。

「すいません、華琳様」

「貴方のせいじゃないわ、月。幸蘭には、一度厳しく言っておかないと駄目ね」

 御眠の娘を蘭々と月に任せて、郊外に設けられた式典の会場へと向かった。
 会場入りすると、大宛入りしたばかりの面々も顔を揃えていた。西涼からは牛金や春華が、洛陽からは蓮華に詠、皇甫嵩や呂布達の姿もある。最近では単独での公演が増えている張三姉妹も勢揃いしていた。

「例の二人は?」

 蓮華にそっと耳打ちした。

「自由な人だけれど、式典の後に華琳が作らせた新作のお酒が振る舞われると伝えさせたから、間違いなく来ていると思うわよ」

「そう、助かったわ」

 蓮華がついと顎を向けた先には、見物に来た民が集められている。十万や二十万ではきかない。ただでさえ人口の多い荊州だが、それだけでなく他州からの見物客も多いのだろう。亡国の君主とその軍師が紛れ込んでも、見咎める者はいまい。

「なんだか、あの決戦を思い出すね」

「ええ、そういえばそうね」

 桃香が側へ来て言った。
 さらっと返すも、会場は偶然ではなく意図的にあの日の情景を模している。
 曹魏、そしてかつての各国の主要人物達が居並び、その背後に周辺地域から可能な限りの兵を招集し整列させた。そしてその向かい側に、集まって来た民の観覧の場を設けた。二つの群衆が、大宛郊外のある一点を挟んで対峙していた。

「それじゃあ、はっじめるよーっ」

 司会進行役を任された地和が、一歩前に出て式典の開始を告げた。
 華琳がまず祝辞を述べ、宛県あらため大宛県の相である幸蘭がそれを受ける。司会が司会であるからあまり厳かな雰囲気にはならず、途中急に名指しされた桃香がしどろもどろでお祝いの言葉を述べたりもした。

「……戻るならこの瞬間しかないと思ったのだけれど、どうやら当てが外れたか」

 式典も終盤に差し掛かり、華琳は嘆息交じりに零す。隣で桃香が小首を傾げた。
 この場にいるのは曹操軍の将兵に天人を慕う民、そしてかつて曹仁と共闘し、敵対した者達だ。お膳立ては完璧のはずだった。

―――いえ、そういえばまだ肝心のあの子が来ていなかったわね。

 縁を言うならば、この世界の誰よりも縁深い存在が不在だった。曹仁が戻るなら、自分でも桃香でもなくあの子の元だろう。

「かっ、華琳さまーーっっ!!」

 背後から慌ただしく呼び掛けられた。振り返ろうとした瞬間、視界の端でそれを捉えた。

「なあに、蘭々? 騒がしいわよ」

 それから視線を逸らさず、言葉だけ返した。

「大変なんですっ! 白鵠が突然走りだして、姫様が」

「ええ、そのようね」

「―――っ」

 そこで蘭々も華琳の視線の先に気付いたようで、息を呑んだ。
 白鵠は今は娘の乗馬を務めていた。馬としてはかなりの高齢である。かつての風の様に疾駆する姿はめっきり見られなくなり、娘を背に乗せてゆったりと歩く姿が目に馴染んで久しい。
 その白鵠が風を巻いて駆けて来ていた。群衆と群衆の狭間を、あの日と同じように。鞍の上には、小さな人影がある。

「華琳さん、これってもしかして」

 桃香の疑問にも答えず、華琳は食い入るように白鵠と娘を見つめていた。





 少女は、白鵠の背の上で恐る恐る背筋を伸ばした。

「わあっ」

 左右に居並ぶ群衆が目まぐるしい速さで後ろへ流れていく。いつも穏やかで優しい白鵠が、別の生き物のように駆けていた。
 蘭々お姉ちゃんと月先生に付き添われて、眠い目を擦りつつ式典の会場に向かっていた。白鵠が一声嘶き、駆け出したのは城門を超えて少し行ったところだった。

「白鵠、どこへ向かっているの?」

 少女の問いに答えるように、白鵠が小さく鼻を鳴らした。話に聞いた父のように白鵠の言葉は理解出来ないが、不安は感じなかった。疾駆する背は普段並足で駆ける時と同じ位に静かで、ほとんど揺れることがない。やはり、いつもの優しい白鵠だった。
 やがて白鵠が足を止めた。群衆の只中で、横を見やれば母や身内の姿があるが、それ以外は特になんてことのない原野の一点に思える。

「ここに何かあるの、白鵠?」

 白鵠はきょろきょろと周囲を見回していた。何かを求める様に、すんすんと鼻を鳴らしている。

「――――っ」

 光。瞬間、真っ白な光が視界を襲った。目蓋を閉じてなお目に突き刺さるような強烈な光だが、どこか温かい。

「…………ん」

 光が収まるのを感じて目を開けると、男の懐の中にいた。
 見上げた顔に覚えはないが、何故だか懐かしい。見慣れぬ珍妙な格好をしているが、騎乗の姿勢は妙に様になっていて、普段自分以外を決して背中に乗せようとしない白鵠も落ち着いたものだ。
 不思議と不安も不審も感じはしないが、無性に男のことを知りたくなった。

「私は華恋」

 相手に名前を尋ねる時は、まずは自分から。口を衝いて出たのは、姓名ではなく真名だった。

「華恋。そうか、華恋か」

 噛みしめるように男が華恋の真名を呟く。真名を呼ばれても、不快な感じはまるでしなかった。ただ胸の奥底をくすぐられたような、言い様の無い感情が湧き上がってくる。

「貴方はだあれ?」

「ああ、俺は―――」

 口を開いた男の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。



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