惑星ヴェロニカ。
旧称をペレストロス共和国という。
観光と農業、そして遺伝子操作を含めた品種改良技術の特許で成り立つ、辺境の国家だ。
歴史は意外に新しい。連邦に加盟したのはほんの数十年前である。もとを辿れば少数の宇宙流浪民が発見し定住した星だといわれているが、定かではない。
人口、約一億人。第一種居住用惑星にしては、驚くほどに人口が少ない。
原因ははっきりしている。惑星の総面積に比して、居住可能な敷地面積が圧倒的に少ないのだ。
別に、人の住めない荒れ地や、水の一滴も存在しない砂漠が広がっているというわけではない。寧ろ、その反対だ。惑星ヴェロニカは他の星から見れば垂涎の的となるほどに緑も多く、水も豊富な星なのだから。
では、何故人の居住に供する土地の面積が少なくなるのかといえば、それは偏にこの星に住む人間の宗教的な戒律が原因である。
ヴェロニカ教。
獣肉、魚肉等、母乳を除いたあらゆる動物性タンパク質の摂取を厳禁とし、同じく、人の手の加えられていない野生植物の摂取もまた禁じている。
人が、自然のサイクルに関わるのを極端に忌避することで世界の調和を保とうと考える、ある種の自然崇拝的な哲学を起源とする宗教である。化学調味料や人工着色料等の摂取も禁じているが、それは副次的なものだろう。
当然、大規模な自然破壊を生み出すような開発事業もその禁忌に触れうる。それゆえ、この惑星には手つかずの自然が多く残されている。人が居住を許された土地は、出来るだけその他の生き物に影響を与えない平野や荒れ地等であり、森林を伐採しての開墾等には政府の許可と一緒にヴェロニカ教の上層部の認可が必要となる。
宇宙的な規模で見ても、特異な教義を持つ宗教だった。
しかし、自然崇拝的な宗教団体やコミュニティならば、他にも存在する。その中でヴェロニカ教が特異なのは、科学技術の利用についてのタブーがほとんど存在しないことだ。
自然崇拝的な思想には、同時に自然回帰的な運動が付加されることが多い。自然こそが至高なのだから、自分達もそこへ立ち返ろうとするのだ。コンピュータとコンクリートに囲まれた生活を捨て、昔ながらの牧歌的な生活を営む。極端な例では、農耕自体が今の人間の穢れを作ったと考えて、毛皮を纏い石槍を構えて、まるで原始人のような生活を送るグループもあるほどだ。
それに比べると、ヴェロニカ教ではそういう思想は存在しない。辺境星系とはいえ連邦加盟国の一つに数えられる以上、一定水準以上の科学技術は保有しているし、それどころか農作物を中心とした品種改良技術には他の追随を許さない高い技術が存在する。
例えば成長期の子供に必要な栄養を補うため、タンパク質や脂質、糖質やビタミン、各種の栄養に富んだ植物を品種改良によって作りだし、それを栽培することを認めている。
だが、極端な自然愛好家から言わせれば、これこそ自然に対する冒涜の極みである。人の手で自然界に存在しない品種を作り出せば、それが一度外の世界に漏れ出した時に、その星の生態系に計り知れない影響を及ぼすからだ。
そう考えると、果たして自然崇拝がこの宗教の発端なのか、怪しくなってくる。まるで、ただ、野生の動植物の摂取を恐れているような、そんな印象すらある。
一体何を是とし何を否とするのか、それこそ神のみぞ知るところだと断じてしまえばそれまでではあるが、何とも奇妙な宗教ではあった。
◇
惑星ヴェロニカは、美しい星だった。
惑星軌道上から眺めても美しかったが、地表に降り立つとそれが勘違いでなかったと気付かされる。
空の青さは鮮烈で、どこまでも深い。
空気もうまかった。
ジャスミンは、その大きな体を思い切り伸ばして、それから深く深呼吸をした。宇宙空間と星の上、その二つを比べてどちらが住みよいかと問われれば何の躊躇いもなく前者を選び取る彼女であったが、宇宙船を降りて大地に降り立った時の開放感は何物にも代え難い。
人目を気にしないで軽いストレッチを行うと、体の各所から鈍い音が響いた。
どうやら運動不足は深刻なようだ。早いところ体を動かして、全身に浮いた錆を落としてやる必要があるだろう。
「さて、まずはどこから回ろうか、海賊?」
ジャスミンは、同じく送迎艇から降りたばかりの自分の夫――ケリーに向けて言った。
つい今し方この二人が乗っていたのは、ケリーの愛船(この場合の愛は、文字通り愛しているという意味だ)《パラス・アテナ》と違い、狭っ苦しいくてちびっこいうえに動きは鈍重という、ケリーなどからすればストレス生産機としか思えない旧型送迎艇である。
心持ちげっそりとした表情で船から下りたケリーは、ジャスミンと同じ行動をした。まずは大きく背伸びをして、それから深呼吸、最後に軽めのストレッチである。
一連の動作を終えたケリーは、やや生き返ったような調子で呟いた。
「ああ、疲れた。ったく、十年分くらいの若さは吸い取られた気分だ。ダイアン以外の船に殊更贅沢を言うつもりはねぇがよ、それにしたって限度ってもんがあるんじゃねえか?」
「仕方ないだろう。なにせ、ここいらではこの送迎艇の型で現役バリバリなんだ。そんな星で私の《クインビー》やら《パラス・アテナ》やらが飛び回れば、不審人物がここにいますと声高で喧伝しているようなものだろう」
ジャスミンの意見に、ケリーは軽く肩を竦めた。もっともな意見だったからだ。
現在、ケリーの愛船であり無二の相棒である 《パラス・アテナ》とその感応頭脳たるダイアナは、惑星ヴェロニカの公転軌道から少し外れたところにある小惑星帯に姿を隠している。当然、ジャスミンの愛機たる《クインビー》はその格納庫に収められ、今や遅しとその毒針を磨いていることだろう。
二人はそこで、牽引してきた小型の貨物船に乗り換え、身分や船籍を偽ったまま惑星ヴェロニカに入国した。
当然のことながら入念な入国審査が行われたわけだが、いつもながらにダイアナの色香は大したもので、彼女の毒牙にかかったヴェロニカ宇宙港の感応頭脳は、この物騒な夫婦に対して『善良なる一般市民』のお墨付きを与えてしまったのだ。
意外なほどに近代的な空港の中で、今度は人の目による、簡単な入国審査が行われた。しかし、コンピュータを介したデータ照会は既に完了しているので、ここで行われるのはいくつかの質問検査だけだ。
お世辞にも厳重とは言えないゲートの前に、初老の男性が所在なく佇んでいた。濃紺の制服は皺が目立ち、どうにも冴えない様子だったが、帽章の形からいってその男性が入国審査官なのは間違いないだろう。
ケリーとジャスミンが目の前に立って、ようやく二人の存在に気がついた男性は、自分よりも遙か高いところにある二人の顔に些か驚いたようである。
「なんとまぁ大きなお客さんじゃ。ようこそ、惑星ヴェロニカへ。えーと、すまんが身分証明書を見せてくれんかね」
朴訥な話しぶりである。皺の深い柔和な笑顔から、この人の人柄が滲み出ているような気さえする。
二人が無言で身分証明書を差しだす。無論、宇宙空間において行われた臨検の際に提示した、偽りの身分と合致した情報の記載された偽造のものである。
老人は、メガネをずらしてから、二人の身分証明書を覗き込み、それから二人の顔を見上げるという動作を数回繰り返した。老眼がけっこうきついのかも知れない。
「ええと、ケリーさんに、ジャスミンさん?お仕事は旅行会社の営業をしているということで間違いないかな?」
「はい。今度、こちらの星の観光名所を回るツアーのほうを企画しておりまして、今日はその下見に。ついでに、日頃おざなりにしている家族サービスのほうも済ませてしまおうかと」
「ほう、お勤めはどちらに?」
「クーア・トラベルです」
老人の顔が、一瞬、僅かに歪んだ。
クーア・トラベルは言うまでもなく、クーア・カンパニーの旅行事業を司る部門のことであり、全宇宙を統べるクーア財閥の一部門に相応しく、全宇宙の観光企業の中でも五指に入る規模を誇っている。
当然、観光事業を基幹産業としている惑星ヴェロニカ政府にとっても、大事なお得意様だ。審査官にも、そういった上得意様には相応の礼儀をもって接するよう、上からの通達がなされているはずだ。
にもかかわらず、その老人の表情は、どこか苦々しいものであった。ケリーとジャスミンを疎んでいるとか、怪しんでいるとかではない。もっと別のところで、何か気に病むことがあるようなそういう表情だ。
しかし、それも一瞬のこと。すぐに表情を改めた老人は、やはり柔和な笑みを浮かべて言った。
「それはそれは。どうぞゆっくりしていっとくれ。あまり大きなお声では言えんが、今の時期ならカラで作る酒が良い具合に出来上がっとるはずだ。特に今年は良い出来らしいからな、是非飲んで行きなさい」
「ほう、それは楽しみだ。実は、女房ともども酒には目がないたちでしてね。もしよければ、美味い酒を出す店も教えてくれるとありがたい」
「じゃあ、場所を教えておこう。有名な繁華街の外れだ。少し入り組んだところにあるからね、簡単な地図を書いておくよ」
カラというものが何かは分からないが、おそらくこの星特有の植物か何かだとあたりをつける。
美味い酒は大好きだ。ケリーも、ジャスミンも。二人がこの星に来たのは酒が目的ではないが、目的以外のところで楽しむこと自体が悪いはずもない。
先ほどの表情は当然気にはなったが、ケリーは作り笑いではない笑みを浮かべ、地図に店の場所を書き込んでくれた老人に礼を言った。
時間にして五分程度だっただろうか、世間話のような入国審査を済ませた二人がゲートを潜ろうとすると、後ろから、気遣わしげな声がかけられた。
「……あんたらのような、わたしの立場からすりゃ精一杯にこの星を売り込まなきゃならない人達にこんなことを言わなきゃならんのは心苦しい限りだが……気を付けなされよ。特に、夜間はあまり出歩かんほうがいい」
「ご老人。それはどういう意味でしょうか」
ジャスミンが、初めて口を開いた。
入国審査官の老人は、深く溜息を吐き出してから、
「旦那さんなら知っとるじゃろう。この国が、一体どういう状況なのか」
当然、ケリーもジャスミンも、ヴェロニカ政府の基本的な情報くらいは調べてある。
最近の目立った情勢としては、昨日に行われたこの国の大統領選挙で、最右翼と言われた政治家、マークス・レザロが突然立候補を取りやめ、その代わりに名も知れない――中央政府は勿論、この星でも、という意味だ――新人候補が奇跡的に大統領の座を手にしたということくらいだろうか。
どうやら相当にセンセーショナルな話題だったようだが、しかしそれはこの国の中だけでの話。惑星アドミラルをはじめとする中央では、そんなことはほとんど話題にすら上らなかった。
この二人は、マークス・レザロの突然の失脚の原因となった事件に深く関わっているだけに、その手の話題の情報は一応知っていたのだが、しかし惑星ヴェロニカの現状までを知り尽くしているわけではない。
そして、そういった情報はその国に住む人間に直接聞くのが一番いい。
ケリーは、深刻な顔つきを作って、探りをいれてみた。
「やはり、相当にひどいのか?」
老人は、沈痛な面持ちで頷いた。
「ひどい。あれは、人の皮を被ったケダモノ共の集まりだ。とても、同じヴェロニカ教徒とは思えん。どうせ一過性のものだとは思う。いや、そう信じたい。だから、正直を言うならば、今の時期はあまり観光客は来て欲しくないと、個人的には思うんじゃよ。今の時期にこの星に来て、これがヴェロニカという国なのかと誤解されれば、今後この星に観光客という人達はこの星を一切訪れなくなる。それを考えれば、今はあんたを心から歓迎できんのじゃ。申しわけない話じゃがな」
「へぇ、そうかい。そりゃあ申し訳ないことだな。とんだ時期に来ちまった」
「じゃから、あんたは自分の見たまま、ありのままのこの星のことを上に伝えて欲しい。それが、この国にとっても、あんたの会社にとっても一番ええはずじゃ」
この老人が二人をだまそうとしているのでなければ、何か、良くないことがこの星で起きているらしい。
どうやら、本来の目的以外のところで、この旅が平穏無事に終わる可能性は著しく低くなったようだ。
この場に神と呼ばれる存在が居合わせたならば、どうして自分達の周りでだけそういったトラブルが起きる可能性が急上昇するのかを本気で問い詰めたくなったケリーだが、その頬の両端は軽く持ち上がっていた。
二人は空港から出ると、タクシーの乗り場へと向かった。惑星セントラルなどであれば無人タクシーが主流であるが、この星ではまだ人の運転によるものがほとんどらしい。
黒く艶やかに磨かれた車の外で、壮年の運転手が煙草を吹かしている。無精髭も濃い、風采の上がらない男だった。
「すまないが、総本山までお願いできるかな」
総本山とは、ヴェロニカ教の寺院の元締めである。
無論、正式な名称があるはずだが、惑星ヴェロニカでそう呼ばれる場所は一つしかないため、今ではその呼び名が定着してしまっているらしい。
ケリーもそれに倣った。
運転手は、ケリーを鈍色の視線でじろりと眺め、紫煙を吹き出してから言った。
「……あんたら、うちの人?」
『うち』とは、この星の、という意味であろう。
「いや、しがない観光客さ」
「なら、別の車を当たりな。生憎だが、この車は予約済みだ」
「だが、表示板は空車になってるぜ?」
ケリーがそう指摘すると、男は無言で板をひっくり返し、『予約車』の表示にした。
「これで満足か?」
ケリーは一つ頷いて、
「ああ、満足だ。ただし気をつけたほうがいい。俺達が立ち去った後もずっとその表示にしてたら、お前さん、今日は客を逃すだろうからな」
「ご忠告感謝しとくよ」
二人が立ち去った直後、運転手は表示板を再び『空車』にした。
いくつかのタクシーと交渉してみたが、だいたいは同じような反応だった。
二人がこの星の住人ではないことが判明すると、たちまち態度を変えて乗車を拒否する。二人より後に来たこの星の住人には、あからさまな営業スマイルで後部座席のドアを開けてやるというのにだ。
ジャスミンは、怒ったというよりは心配したような声で呟いた。
「一体どうなっているんだ。この星は観光客の落とす現金で何とか保っているような経済だったはずだが、これではエストリアやマースの軍人の方がまだ幾分愛想があるというものだ。これでは、あの老人の言葉ではないが、観光客という人種はこの星に寄りつかなくなってしまうと思うのだが、大丈夫なのかな」
エルトリアもマースも、どちらも連邦の中の大国であり、プライドの高さと秘密主義の徹底で知られている。
ジャスミンは仕事の関係からそれらの国には何度となく足を運んでいるが、その度に、笑顔というものが対人コミュニケーションの上で如何に大切なものかを痛感させられるのだ。
それと比べてもなお、惑星ヴェロニカの歓待振りは心温まるものではなかった。
「さあねえ。まぁ、そこんところは俺達が心配してやることじゃねえな。さてと、さしあたり足の確保に失敗したわけだが、どうするね女王?」
思い切りに肩を竦めたケリーが言った。
ケリー達が降り立った宇宙港から総本山までは、車で半日ほどの距離にある。いくら健脚なケリーとジャスミンでも、流石に歩いて行くのは躊躇われる距離である。
ケリーと同じくらいに逞しい肩を持つジャスミンは、面倒臭そうに溜息を吐き出して、
「誰も乗せてくれないなら仕方がない。買おう」
「ま、それしかねえわな。くそ、こんなことならヴェロニカ国民の身分証を偽造するべきだったな」
「いや、身分証があってもすぐにばれると思うぞ」
「何でだ?」
「わたしもお前も、明らかに肉食の顔だ」
「なるほど、違いない」
二人は、空港の近くにあるカーディーラーへと足を運んだ。
店長は、空港のタクシー運転手がそうであったように、二人が観光客であることを知ると、渋面を作り眉を顰めた。
しかし、タクシーの乗車賃と新車一台の価格ではゼロの数が三つほども異なる。ジャスミンがテーブルに置いた現金の束を見ると、しかめっ面だった店長はたちまちに揉み手を作り、契約書を整えて鍵を渡した。
店を出ると、通り向かいの店に、人だかりが出来ていた。
「なんだ、ありゃあ?」
のんびりと言ったケリーであるが、どうやら穏やかならざる事態らしい。殺気の籠もった怒号が飛び交っている。物が壊れる音、悲鳴、おそらくは人が殴られる音も。
そして、何か鼻につく臭いがした。つんと脳を痺れさすような、化学薬品特有の臭気。
標準以上にお祭り好き、騒ぎ好きの二人であるから、何とはなしに人だかりの方に近づいてみる。
普通ならば人混みが邪魔をして前が見えないはずなのだが、長身の夫婦である。
背伸びをしただけで、そこで何が起きているのかをはっきり見ることが出来た。
飲食店の前で、何人か、珍妙は格好をした連中が、その店のコックとおぼしき男性を取り囲んで、殴る蹴るのリンチを加えていた。
「……なんだ、あれは?」
ジャスミンは、先ほどのケリーと同じように呟いた。
思わずそう漏らしてしまう程に、コックに暴行を加えている連中の格好は珍妙極まりないものだったのだ。
陽光をきらきらと跳ね返す、銀色のプレートメイル。顔全体を覆うグレートヘルムは、まるで呼吸孔を開けたバケツを被ったような間の抜けた有様だ。
時代錯誤に、腰に差したサーベル。
背中に羽織ったマントには、でかでかとヴェロニカ教のシンボルたる衣装が刺繍されている。
要するに、中世ヨーロッパの、十字軍で活躍した時代の騎士の姿だ。
そして連中の肩にけばけばしい色彩のタスキがかかっており、そこにはこの星の言葉でこう書かれていた。
『憂国ヴェロニカ聖騎士団』
「ぶふっ!」
ケリーは思わず吹き出してしまい、口元を手で覆って悶絶した。
思い切り腹を抱えて笑い転げたいのを、必死の自制心をもって我慢している。
彼の隣にいるジャスミンも、だいたい同じような有様だった。口元がひくひくと動き、顔を真っ赤にして笑いの発作を堪えている。
そして、抑揚のおかしな声で言った。
「お、おい、海賊。だ、駄目じゃないか、人の姿形を笑ったりしたら。あ、あの連中だって、やむにやまれずあんな格好をしているかも知れないんだぞ」
もっともな話である。この広い宇宙には様々な主義主張をもった人間が住んでおり、そこには様々な理由が存在するのだ。それらの個性を尊重し、受け入れること。連邦大学の初等部でも教えられる、この世界の最も基本的なマナーの一つだ。
しかし、何とか厳めしい顔を作ろうとしているジャスミン当人が、ところどころで軽く吹き出しているから、説得力の欠片もない。
それに、笑いの発作とには相乗効果というものがあり、隣の人間が笑っていればくだらないことでもより可笑しく感じるものだ。
結果として、ケリーの堤防が、先に決壊した。
精一杯に殺した笑い声をあげながら、ジャスミンに詰問した。
「ふは、ふはははは、おい、女王、なんだその理由って!?罰ゲームか!?あのとんでもない格好は罰ゲームなのか!?もしそうだとしたらすげぇセンスだ!世紀のコメディアンだ!今すぐうちのエンターテイメント部門にスカウトしよう!間違いなく十年間はお茶の間の笑いをかっ攫えるぞ!」
「い、言い過ぎだ、海賊、あの連中が可哀想だと思わないのか、あいつらだって、きっと好きでやっているわけでは……」
「ちゃんと見てみろよ、女王!ゆうこくっ!べろにかっ!せいきしだんっだぞ!ナイト様のお通りだぞっ!大変だ女王!俺達平民はひれ伏さなきゃいけないじゃないか!」
「やめろ、かいぞく、もうやめて……」
「あははは!ありえねえ!絶対にありえねえ!」
明らかに規格外の体格を持つ男女がけらけらと笑いこけているのだから、周囲の人間は一体何事かと怪訝そうな視線で二人を見た。
しかし、今の二人にとっては、そんなものは遠い世界の出来事に過ぎない。普段の、冷静沈着な宇宙海賊と大企業クーア・カンパニーの女経営者という顔を脱ぎ捨てて、笑いに笑った。
「おい、そこ、何を笑っている!」
バケツを被ったような格好をした、自称『憂国ヴェロニカ聖騎士団』の一人が、なおも笑い続けるケリーとジャスミンに気がつき、鋭い声を発した。威圧のためだろう、腰のサーベルを抜き、切っ先を向けた。
だが、今の二人にはその示威行為すらがコントの一幕にしか見えなかった。
結果として、火がついたように笑った。
体を二つに折りたたむようにして、腹を抱えて笑った。
いつの間にか、二人の周囲からは人だかりが消え失せていた。巻き添えを食らうことを恐れたのだろう。
それでも二人は笑い続けた。
鎧姿の男が、怒りを込めた足取りで、ずんずんと二人に近寄る。
なおもお腹を抱えて笑い続けるケリーの、襟首を掴み、ねじり上げた。
そうして、驚いたのは鎧姿の男の方であった。
大きい。なんと大きい男か。
鎧を纏った大の男が、まるで子供としか思えない程に、その男は大きかったのだ。
ケリーはやっとのことで笑いを収め、鎧姿の男を見下ろした。
その端正な頬には、爆笑の代わりに不敵な笑みが張り付いている。
そして、事も無げに言った。
「いやぁ、悪いな。全くもって悪気は無かったんだが、あまりにもあんたらのセンスが、その、時代の十年くらい先を行ってたもんで、気を悪くさせた。謝るよ」
「っ貴様ぁ、歯を食いしばれ!」
鎧姿の男が、片手でケリーの襟首を制したまま、もう片方の手を大きく振りかぶった。
ケリーは事も無げに、自分の顔面目掛けて走る拳を眺めて、軽く額を突き出してやった。
ごつり、と、低い音が響く。
周囲の人間は、ケリーの高い鼻が見る影もなく陥没し、盛大に鼻血を吹き出して転げ回るのだと確信した。
「げ、えええぇっ!?」
素っ頓狂な叫び声があがった。
無論、ケリーの口からではなかった。
鎧姿の男が、ケリーの足下で蹲り、ケリーを殴ったほうの手を抱えて呻いている。
その拳の甲から、白い物が突き出ていた。
骨だ。
ケリーは、やはり口元に不敵な笑みを張り付かせたまま、蹲った男を見下ろしている。
「おお、痛え。いきなり何すんだよ、ったく」
額を撫でさすりながら、そんなことを言った。
隣で、こちらもようやく笑いを収めたジャスミンは、何が起こったのかをはっきり見ていた。
ケリーは、拳が当たる直前に、腰を折って額を前に突き出したのだ。
そうすることで、拳はケリーの鼻頭ではなく、額とぶつかった。
そして、拳の骨――この場合は拳を支える手の甲の骨が、衝突に負けて折れ砕けたのだ。
元来、拳の骨は弱い。指の骨自体が人体の中でも細い部類に入るのだから当然だろう。だからこそボクサーはグローブで拳を守るのだし、ある種の格闘技では石や砂を殴って拳を鍛える。
ケリーは、殴られる直前、自分に向かってくる拳を見て、そこが籠手等で補強されていないことを確かめた。そして、敢えて自分の額を殴らせたのだ。
こうすると、周囲の人間は、鎧姿の男が自分で殴りかかっておいて、自分から拳を痛めたようにしか見えない。
被害者は、やはりケリーだ。
コックへの暴行を続けていた残りの男達が、事態の異変に気がついた。
「おい、どうした」
「大丈夫か」
「一体何があった?」
蹲る仲間に次々と声を掛ける。
しかし、手の甲を開放骨折した男は、応えることが出来ない。無事な方の手で傷口を押さえ、呻き声を上げるばかりだ。そのバケツ兜を取り去れば、脂汗をだらだらと流した青い顔が見えることだろう。
「貴様、我らが同胞に何をしたっ!?」
おそらくは連中のリーダー格なのだろうか、額に角をつけたバケツ兜を被った男が、ケリーに詰め寄った。
ケリーはその角を見て、もしもこれがアンテナならば一体どんな電波を受信するのだろうと考えて再び吹き出しそうになったが、何とか堪えた。
そして言った。
「おいおい、俺は何もしてねえよ。あんたらのお仲間がいきなり殴りかかってきて、勝手に怪我しただけだぜ。なぁ?」
ケリーは、全く無関係の通行人に、気安げに同意を求めた。
何が起きたのかを把握していない通行人は、自分が見たままに、首を縦に振ることで答えた。つまり、ケリーは何もしていないと、そういう意思表示であった。
リーダー格の男はそれを見ると、忌々しげに舌打ちをした。そして、背後に控える二人の男に言った。
「おい。エンリコを連れて行くぞ」
「わかった」
いまだ地に伏せる男の両脇を抱えて、二人の男が、エンリコと呼ばれた、先ほどケリーに殴りかかった男を持ち上げた。
そして、そのまま通りの外れに止めたワゴン車に運び込む。
運転席には、鎧姿ではない、普通の若者が座っていた。ひょっとしたら、鎧姿の男達も、兜を取れば同じくらいの歳の頃なのかも知れない。
全く、この連中、若い身空で一体何をやっているんだか。その溢れんばかりの情熱を、もっと生産的なことに向ければいいのに――
「おい」
そんなことを考えていたケリーに、リーダー格の男が鋭い声を飛ばした。
ケリーは、見る者の神経を逆撫でするような薄ら笑いを浮かべて、それに応じた。
「何だよ、不当な暴力に怯え竦むいたいけな一般市民に、まだ何か用があるのかい?」
「良く動く舌だな。引き抜いて犬に食わせてやろうか」
「そりゃあ困る。こいつは地獄の閻魔様の予約済みなんだ。こいつを持って地獄にいかないと、代わりに何を引き抜かれるか分かったもんじゃねえからな」
ケリーは自分の舌を指さしながら、器用に言った。
リーダー格の男は、ぎしりと歯を鳴らした。
「貴様、ヴェロニカ教徒か。違うのだろうな、貴様の吐息からは肉食特有の生臭さが感じられる」
「おや、一応口臭には気を付けてるつもりなんだがな、臭ったかい?」
ケリーは戯けるようにして言った。
二人の立ち位置は、到底息の届くような距離ではないのだ。
「ふん。肉食うケダモノどもならば、我らが崇高な使命を理解できなくとも、仕方はないか。哀れなことではあるがな」
「そこのコックをいじめてたのも、その崇高な使命とやらか?」
ようやく暴行から解放されたコックは、道ばたに蹲ったまま、おそらくは彼の妻らしい人物に介抱されている。顔中に青あざを作り、鼻の下には乾いたどす黒い血がこびり付くという、痛ましい様子だ。
リーダー格の男は、ふんと鼻を一つ鳴らし、
「そこの男は、許し難い、極めて背教的な行為により日々のたつきを得ていた。これは、同じヴェロニカ教徒として到底看過できることではない。故に、心を鬼とし、血の涙を流しながら教誨を加えていたのだ」
「へぇ、血の涙か。俺もたいがい長生きをしてはいるがよ、話に聞いただけで実物は見たことがないんだ。是非、そのバケツみたいなかぶり物を取って、本物の血の涙ってやつを拝ませてくれないかい?」
ケリーの揶揄に、再びリーダー格の男は殺気じみた気勢を上げたが、その時、半死半生の様子だったコックの男が、弱々しい声で言った。
「わ、わたしが一体どんな戒律に背いたと言うんだ。いきなり店に押しかけて、店の中をめちゃめちゃに壊して……。この店は、わたしと妻の長年の夢だったのに、こんな、こんな……」
後半は涙に濡れた声だった。
隣で、その妻も啜り泣いている。
リーダー格の男は、そんな二人を鼻で笑い、
「盗っ人猛々しいとは正しくこのことだな。あれほど明らかに戒律に背いておきながら、まだ白を切ろうとするか」
「な、何を言うか!わたしはヴェロニカ教徒としての誇りに賭けて、一度だって戒律を破ったことはない!」
「ほう、ではあれはどういうことだ?」
リーダー格の男は、店の前に転がった、割れ砕けた黒板に指を向けた。
そこに、手書きの柔らかな文字で、今日のメニューが書かれている。
ほとんどは既に読み取ることが出来なくなっているが、一番大きな破片に書かれた文字だけははっきりと読むことが出来た。
『合鴨のローストと……』と書かれている。その先は砂埃に塗れ、チョークが滲んでなんと書いているか分からない。しかし、リーダー格の男にはそれだけで十分だったようだ。
鬼の首をとったように胸を反らし、言った。
「貴様、肉料理を出していたな。それが戒律違反でなくて一体何だというのだ」
「ちょっと待ってくれ!別に、ヴェロニカ教徒相手に出したわけじゃない!きちんと、観光客用のビザを持っている人間を選んで、一言断りを入れてから出していたんだ!それが悪いなんて、どんな教義に書いている!?」
リーダー格の男は、コックを蔑むように見下ろし、
「偉大なるヴェロニカ教典には、ただ『肉食を禁ずる』と記されているのみだ。そこに、ヴェロニカ教徒とそれ以外とを分ける記述は一切存在しない。つまり、神はこの世から全ての肉食が無くなることを望んでおられるのだ。ならば、例えヴェロニカ教徒以外に限って肉を提供していたとしても、貴様の罪が減ぜられる余地がないのは明らかである」
「馬鹿な!今までだって、観光客用に肉類を提供するのは、許されてたじゃないか!それが今になって、こんな……!そうだ、あんたら、前にうちの店に来た連中か!?お布施だとかなんとか言っていたが法外な金を強請ろうとして、それを断っただけでこんな仕打ちを……!」
「はてさて、背教者風情が何を言っているのかさっぱり分からんな。そして貴様の疑問に答えるならば、今までが間違えていて、今からが正しいというだけのこと。故に、貴様は背教者だ。我らの教誨を受けておきながら、そんな簡単なことも分からんとは。もはや貴様は救いがたい。事ここに至れば、もはや我らに為し得ることはただ一つである」
リーダー格の男は、懐からマッチを取り出し、火をつけた。
それを、店先に流れている、透明な液体に向かって投げつけた。
ケリーは、さっきから揮発性薬品の臭いが鼻についていたことを思い出した。
「伏せろ!」
ケリーとジャスミンの声が重なる。
二人の声に一瞬遅れて、すさまじい爆発音が辺りを満たした。
ぱらぱらと、店の一部が破片となって辺りに散らばる。
ケリーは、伏せた姿勢のまま、店の方を振り返った。
先ほどまでは窓ガラスが設えられていたであろう箇所から、盛大に火の手が立ち昇っていた。
もはや手遅れなのは、正しく火を見るより明らかであった。
「ああ、わたしの店が……わたしの店が……」
「あなた、あなたぁ……」
夫妻が、放心したように炎を見つめている。
その横で、リーダー格の男は高らかに笑った。
「ふはははっ!いいか、この場に居合わせたヴェロニカ教徒諸君!今の光景を周囲の信者に伝えろ!そして、ヴェロニカ教の戒律に背いた者の末路が如何なるものかを世に知らしめるのだ!偉大なるヴェロニカの神に栄光あれ!憂国ヴェロニカ聖騎士団に栄光あれ!」
狂ったように笑う男の隣で、悲鳴に近い叫び声が上がった。
「うわぁ!うちの店が、うちの店まで燃えちまう!早く消防車を、誰か……!」
「駄目だ!この邪悪な建物が完全に浄化されるまで、火を消し止めることを禁ずる!」
「そ、そんなこと言ったって、うちの店が……」
「貴様は、自分の店の隣で、この邪悪な建物でおぞましい肉食が供され続けていることを知りながら、長年見過ごしてきたのであろうが。ならばこの男と同罪だ。なに、心配には及ばん。貴様の行いが罪でないとしたならば、聖なる火は貴様の建物を通りすぎるであろう。それが偉大なるヴェロニカの神の御業だ。逆に、貴様の店も浄化されるのならばそれだけの罪が貴様にあるというだけの話よ」
無茶苦茶な理屈だ。
火が選ぶのは可燃物か非可燃物かどうかだけであり、罪のあるものだけを選んで燃やすような便利な火など、どこにも存在しない。
まるきり、言っていることとやっていることが、中世の魔女裁判そのものである。
リーダー格の男は高笑いをしながら、堂々とした調子で歩き去った。
ケリーは体を起こし、事の成り行きを見守っていた群衆の一人に声をかけた。
「おい、あんた。早いとこ、消防と警察に電話を入れてくれないかい?」
ケリーは、自分にしては極めて穏便で常識的なことを言っている自覚があった。
しかし、その返答は、なんとも冷ややかな視線だけだった。
ケリーの声を受けた中年の男は、不思議そうに、
「どうしてそんなものを呼ばなけりゃいけないんだい?」
そう言って、立ち去っていった。
流石のケリーも、呆気に取られて呼び止めることが出来なかった。
次々と、群衆が立ち去り始める。轟々と燃え盛る炎に、興味を無くしたと言わんばかりに。
「くそ、てめえらのせいで、俺の店まで!どうしてくれるんだ、この、このっ!」
「やめてください、お願いです、許して……」
「畜生、この星から出て行け、背教者め!さっさと出て行け!」
ぼろぼろになったコックを、隣の店の主人が足蹴にしている。その足を、コックの妻が必死で止めようとしている。
ケリーもジャスミンも、言葉を失ったようにして立ち尽くした。
そして、気がついた。
二人の頭上に設置されたオーロラビジョンで、一人の男の得意げな演説が放映されていることを。
『――よいですか、国民の皆さん。もはや、状況は末期にあると言ってもいい。なにせ、今回の大統領選挙で私と争うはずだった男、マークス・レザロですらが肉食の大罪を犯していたのです。大統領候補者ですらが、恥ずかし気もなく肉を喰らう時代。こんなことが許されていいはずがありません。さぁ、今こそ皆さんの心を一つにして、正しいヴェロニカ教の教えを取り戻そうではありませんか……』
画面に映って熱弁を振るっているのは、ヴェロニカ共和国新大統領、アーロン・レイノルズの、魚のように熱のない笑顔だった。
◇
時間が遅かったので、総本山に向かうのは明日にした。
夜になって、二人は歓楽街へ足を向けた。
彼らには、自分達に火の粉を飛ばす無法者達――トリジウム密輸組織に因果応報というものを思い知らせてやるという目的があるのだが、だからといって四六時中獲物を探して眼を血ばらせているわけではない。
肉食獣だって、狩りをする以外の時間はのんびり昼寝をして過ごすのと一緒だ。
昼間のことが気にならないわけではなかったが、少なくとも自分達よそ者にどうこう出来る問題ではないと判断し、ぼろぼろになった夫妻を病院まで送り届けるに止めた。あの連中を訴えるかどうかは、自分達が決めることではないと思った。
去り際に、自分達に対して丁寧に礼を述べる夫妻の、頼りない姿だけが記憶に焼き付いた。
どうにも苦い気分である。
そして、こういうときは飲むに限るのだ。
ケリーとジャスミンは、けばけばしいネオンで人を呼ぶ夜の街を、楽しげに歩いた。彼らは自分が何を為すべきかを心得ていたが、同じくらいに人生の楽しみ方というものも弁えていた。
二人が探しているのは、『秋芳酒家』という酒場だ。噂によると、その店でしか味わえないという、ヴェロニカ特製の酒があるらしい。
そんな話を聞いて、大ウワバミの彼らが黙っていられるはずもない。
今夜は、夕食も兼ねてその店を探すことにした。
「それにしても、驚いたな」
ぼそり、とジャスミンが呟いた。
それに答える人間は、ジャスミンのかなり早めの歩調と同じペースで、彼女の隣を歩いていた。
「何がだい?」
義眼の海賊は、口の端を片方だけ持ち上げながら、愉快そうに言った。
ジャスミンは、ケリーのほうを見ることもなく、
「ヴェロニカ教とはもっと禁欲的なものかと思っていたが、そうでもないんだな」
「俺も詳しいところが知らねえが、一言にヴェロニカ教と言っても、みんながみんな単一の宗派に所属しているってわけでもないらしい。根っこのところにある教えは一緒でも、それ以外のところでは違ってくるんだろう」
なるほど、そういうものかとジャスミンは感心した。
確かに、ヴェロニカ教などという少数宗教を引き合いに出さなくても、宗教というものは単純に見えてその実、複雑怪奇なまでに枝分かれをしている。この世界でもっとも信仰されている宗教だって、その宗派によっては教父の妻帯が許されていたりいなかったり、離婚が悪徳とされていたりいなかったり、様々な差違がある。
ヴェロニカ教でも、肉食の禁止や人の手の入らない自然作物の採取禁止といった教えは共通していても、酒色の制限の度合いにははっきりとした違いがあるのだろう。
そして、ここら一帯は、比較的寛容な神様が支配しているらしい。それとも、自分達には駄目であっても、観光客に対して酒色を提供することは教義上問題無いのかも知れない。
そのおかげで自分達も美味い酒にありつけるのだとしたら、それはそれで結構なことだとジャスミンは思った。本質的に無宗教である彼女であるから、自分以外の人間がどんな肌の色の神を信じていても興味はない。世界の破滅を望んでいるとしても、実際に行動に移さないのならば問題無いと思っている。
歓楽街は、驚くほどに賑わっていた。
広い歩行者用道路の両端に所狭しと並んだ飲食店や土産物屋。一つ通りを横に逸れれば、そこには男の欲望を満たすための怪しげな店が乱立しているに違いない。
事実、扇情的な女性のイラストを描いた看板を掲げて、道行く男性に声を掛けている連中が、そこかしこに見受けられる。あるところでは気の弱そうな男性が半ば強引に路地へと連れて行かれ、あるところではやや場慣れした客と客引きの間で値段交渉がされていたりする。
お世辞にも健全な場所とは言い難いが、ジャスミンの見たところでは、極めて正常に機能している歓楽街であった。麻薬や銃の取引が公然と行われているスラムなどと比べれば、お上品といって良い位だ。
ケリーもほとんど同じことを考えているのだろう、先ほどから通りの各所で繰り広げられている光景を、楽しげに見遣っている。
そんな仕草が、どうにもこの辺りに慣れない一見の観光客のように見えるらしく、二人は先ほどから、何度も客引きに声を掛けられていた。
『ちょっとそこ行く男前の兄さん方!これから予定がないなら、ウチの店に寄ってかないかい?まだ宵の口だから、サービスしとくよ!女の子も横に付けて飲み放題、こみこみ2時間で3,000ポッキリだ!』
『今から食事かい?なら、食事の前にスッキリしていくのもいいもんだぜ?ほら、見てみろよこの品揃え!ウチは他の店と違って、写真をいじったりしてないからね!』
『絶対に満足させてみせるからっ!ちょっと、ちょっとだけでも覗いていって!』
安物のタキシードを着込んだ、どうにも堅気とは思えない連中が、外向き用の愛想笑いを浮かべながらすり寄ってくるのだ。
彼らは、ケリーとジャスミンを見て、精力を持てあました観光客が二人、女を買いに来たとでも思っているのだろう。
客引きにとってはお得意様である。
だからこそ、しつこいまでに声をかけて、ネギを背負ってきたカモを逃がすまいとするのだ。
だが、ジャスミンは女性である。
潔癖症の女性でなくても、自分が男だと勘違いされて、しかもいかがわしい店の客引きにしつこく声をかけられれば眉を顰めるものだろう。
しかし、と言うべきか、それとも勿論、と言うべきか。ジャスミンという女性は、あらゆる意味で所謂『普通の女性』という枠から外れていた。
自分を男であると勘違いする客引きがいると、190センチを越える長身で彼らを見下ろし、
『ほう、私を満足させることが出来るのか?』
『……は?』
『私を満足させることが出来るのか、と言ったんだが、聞こえなかったか?』
標準から比べれば幾分低いが、それでもジャスミンの声は女性の声である。見た目については、分厚く着込んだジャケットとその肩幅から男性と見間違えることがあっても、その声を男性の声と聞き違える者はほとんどいない。
然り、客引きの男達も、その時点で初めてジャスミンが女性であると悟るのだ。
『おっと、これは申し訳ない。あんた、女だったのかい。俺はてっきり……』
『おいおい、つれないことを言うなよ。いいか、私の好みはな、身長が私よりも高くて宇宙船の操縦が私と同じくらいに上手い、とびっきりの男前、何より大事なのは体が頑丈な男だ。少なくとも、私が本気で殴っても気を失わない程度には頑丈でないと困る。さぁ、お前の店にはそんな男娼が揃っているのかな?だったら是非一度お相手願いたいものだが』
やや腰を屈め、すごみの効いた視線と微笑みで見下ろしてくるジャスミンは、かなり怖い。この時点で、ほとんどの客引きはすごすごと退散するのだ。
中には肝の据わった客引きもいて、
『わ、悪いね、ウチは女の子だけしか揃えてないんだよ。そうだ、それなら向こうの兄さんだけでもどうだい?まさかあんたまで女ってわけじゃあないんだろう?』
若干うわずった声で、ケリーに声を掛けてきたりする。
しかしケリーは、そんな彼らを哀れみの籠もった視線で見遣りながら、
『そいつは嬉しいお誘いだが、今日のところは遠慮しておくぜ』
『ど、どうしてっ!?』
『決まってるじゃねえか。俺だってたまにははめを外して遊びたいがよ、まさか女房の前でそういう店に入るわけにもいくまい?』
『……女房……?そんな女が、一体どこに……?』
『決まってるじゃねえか。ほら、お前さんの目の前にいる、アポロンの彫像みたいなその女だよ』
ヴィーナスの彫像と言わないあたりが如何にもケリーらしい。
そして、『女房』という一言。これが正しくとどめの一撃であった。
がたん、と男が持った客引き用の看板が、地面に転がる音がする。
そんな音など聞こえないふうで、怪獣妻は、怪獣夫に言うのだ。
『お前が女を買おうが男を買おうが、私は別に構わないぞ、海賊。ダイアナの時も言っていたじゃあないか、たまには私以外の女を抱いて、私の良さを再認識するのもいいことだ』
『……そういうふうに理解が有り過ぎると、逆にやる気が削がれるんだよ。こういうのは、あんたに黙ってこっそりとするから楽しいんじゃねえか』
『ふむ、そんなものか。これは悪いことをした。ならば今後は気を付けて、出来るだけ見て見ぬ振りをするとしよう』
『この場所でかい?』
肝の据わった客引きの男は、茫然とした顔で二人の背中を見送った。
そして、ケリーとジャスミンはと言えば、既に客引きのことなど眼中にない。すたすたと、人混みの向こうに歩いて行くのだが、客引きの男も流石にこれ以上深追いする気力を持たなかった。
その男は長年の経験と誇りから、一度声を掛けた獲物を逃すことを恥と思っている。
しかし、この場合は相手が悪かった。第一、この二人を一目見て夫婦だと気がつく人間がどれほどいるのだろうか。
普通、年の近い二人の男女が談笑しながら歩いていれば、恋人とか夫婦とかいう関係がまず思い浮かぶはずだ。その点、ケリーとジャスミンは、少なくとも見た目の歳は同じ歳の頃だし、二人とも極めて整った顔立ちをしているから容姿の面でも釣り合いが取れている。
なのにこの二人が連れ立って歩いていると、恋人とか夫婦とかいう心温まる関係がどうしてもそぐわない。敢えて言うならば、共通の獲物を前にして手を組んだ雄獅子と雌虎というのがしっくりくるだろうか。
ならば、そんな二人に声を掛けた客引きの男こそお気の毒というべきであった。
とにかく、そんなふうにして二人は、結構楽しんでいた。
普段は、宇宙一の大企業であるクーアカンパニーの監査という大仕事を、ほとんど独力でこなしているケリーとジャスミンである。二人で連れ立ってこういう場所を暢気に歩けるというのも、久しぶりのことだ。
まるで新婚旅行を楽しむ普通の夫婦の様に、二人は楽しげに露店を覗き、安物のアクセサリを手にとって値切り交渉をしたり、良い匂いのする得体の知れない食べ物を立ち食いしたりした。
通りに溢れた人の波にはいささか辟易とさせられるが、それも情緒と思えばそれほど苦にはならない。
人混みを割るようにして歩いていると、ジャスミンの腰に、とんと何かがぶつかってきた。
こんな時間に外にいるのが相応しくないような、少女だった。少女の手にはアイスが握られており、ぶつかった調子にそれがジャスミンのズボンに零れ、小さな染みを作ってしまっている。
少女は、少し青ざめて、端から見れば滑稽なほどの勢いで頭を下げた。
「ご、ごめんなさい、わたし、ちょっとぼおっとしてて、前を見てませんでした!クリーニング代は払いますから……」
「いや、こんな状況だ、ぶつかるのはお互い様というものだろう。このズボンもどうせ洗いざらしだから、そんなに謝ってもらう必要はない。ただ、こんな時間まで君のような子供が街中を出歩くのはあまり感心できることじゃない。適当なところで切り上げて家に帰りなさい」
「は、はい、どうもすみません……」
しゅんとした様子の少女は、遠巻きから心配そうに眺めていた彼女の友達の輪の中に入り、ジャスミンにもう一度頭を下げると、人混みの中に消えていった。
「馬鹿だなアネット。しっかり周りを見ないからこういうことになるんだぜ」
「わかってるわよザックス!私だって落ち込んでるんだから、そういうこと言わなくてもいいでしょう!?」
「ああ、もう、二人とも、大事にならなかったんだから別にいいじゃないか。そろそろ帰ろうぜ、お父さんが心配してるよ……」
そんな声が、少しずつ喧噪に紛れて、消えていった。
ジャスミンは汚れたズボンをハンカチで拭い、再び歩き始めようとしたが、
「……どうした、海賊。何かあったか?」
「……いや、別になんでもない」
ケリーはしばらくの間、雑踏に消えた子供たちを見つめるように、人の流れの中に立ち尽くしていた。
それから、気を取り直したように二人は遊んだ。
子供じみた射的ゲームや、怪しい占い師。意外なほどに散財してしまったが、懐はまだまだ温かい。そもそも、この二人の懐を寒くさせるような散財が、こんな場所で出来るはずもない。
目当ての店は中々見つからないが、こういうのは見つけるまでが楽しいものだ。
やがて、二人は通りの端まで出てしまった。
「おかしいな、この通りのはずなんだが。見落としたか?」
ジャスミンは、観光客用に設えられた、簡素な地図に目を落としながら呟いた。空港で、入国審査官の老人に印をつけてもらったものだ。
彼女はもと共和軍の情報将校であり、どれほど簡単なものであっても、地図を手にして迷うはずがない。
これはいよいよ自分もやきが回ったかと些か自嘲的な気持になっていると、
「……おい、ここってパーヴェル通りの三番街のはずだよな?」
「いや、違う。ここは二番街の外れだぞ」
「だがよ、あの電柱の地番表示はパーヴェル通り三番街ってなってるぜ」
ジャスミンは、ケリーの指さす先を見た。
街の喧噪を見下ろすようにひっそりと佇む電柱、そこに貼り付けられた小さな銅板には、ケリーの言うとおり『パーヴェル通り三番街』の文字があった。
一応、確認のためもう一度だけ地図を見たが、そこには『二番街』の文字があり、自分達のいる場所についても間違いはない。
要するに、地図の表示が、一区画分ずれていたのだ。
ジャスミンは、呆れるのを通り越して、吹き出してしまった。もしこれが軍謹製の地図であり、彼女が軍属であれば、この地図を作った担当者を文字通りに締め上げて官舎の窓から放り出しているところだ。
まだまだ込み上げてくる笑いの発作を押さえつけながら、ジャスミンは言った。
「さて、一度来た道を引き返すのも馬鹿らしいな」
ケリーも笑いながら頷いた。
「しかし女王、引き返してきたあんたの顔を見た客引き連中がどんな顔をするか、それはそれで興味深いぜ。何人が折角引き留めた客を逃すか、賭けてみるか?」
「それは純然たる営業妨害というものだ。客引き連中だって、彼らが連れ込んだ客をくわえ込む女達だって、生活がかかっているんだからな。招かれざる客は、ひっそりとこちらの通りから戻るとしよう」
地図自体が間違えているというのであれば、店の所在地そのものについても正しい情報なのか甚だ怪しいものだ。しかし、絵図面に書かれた店の場所自体が間違えているというのも中々考えにくい。無論、あの老人が耄碌していれば話は別だが。
ケリーとジャスミンは現在地と周囲の街の状況を頭に叩き込み、もっとも華やかな通りから一本奥に入った、何ともうらびれた感じのする通りを歩いた。
表通りとは違う、生活感のある通りだ。先ほど歩いた道からはそれほど離れていないはずなのに、匂いすらが違う気がする。
少し歩くと、店はすぐに見つかった。
『秋芳酒家』と書かれた看板は、表通りに乱立する店とは違い、白地に黒文字という地味なもので、電灯の下になければ見落としてしまいそうなものであった。
看板の前に来ると、地下へと降りる階段があった。店は地下に構えられているらしい。
「こうしてみると思い出すな」
「何をだ、海賊」
「つれねえなあ、女王。俺とあんたが初めて出会った、あの店をだよ」
なるほど、とジャスミンは思った。確かに、惑星ジゴバの歓楽街にあったあの店も、まるで客商売など関係ないと言わんばかりの店構えで、ひっそりと営業していたものだ。
そこで、彼らは出会った。しかし、恋はしなかった。なのに、いつしか子供が生まれ、一緒に暮らすようになった。
安らかな生活だったかと問われれば、二人ともが真剣な表情で首を横に振るだろう。だが、退屈な生活だったかと問われれば、二人は間違いなく首を横に振るはずだ。
そして、一人は長い眠りにつき、一人は死んだ。その二人が、肩を並べて歩いている。
因果なこともあるものだと、二人は同時に思った。
「しかし海賊よ。お前にも可愛らしいところがあるのだな」
ジャスミンは、含むように微笑った。
別に、商売っ気のない酒場も、地下にある酒場も、珍しいものではない。だから、そこに二人が出会ったあの店を重ねるなど、なんともロマンチックなことではないかと思ったのだ。
ケリーは肩を竦めて、
「だろう?あの店の酒は美味かった。なら、きっとこの店の酒も美味いに決まってるぜ」
にやりと笑いながら、少し外れたことを言った。
何も分かっていないのか、全てを理解して敢えて誤魔化して見せたのか。ジャスミンもそれ以上は何も言わなかった。
二人は無言で、塗装の剥げたぼろぼろの階段を下った。すると、意外なほどに長い廊下があった。その所々に、まるで玩具のように安っぽい扉が設えられており、その上にはよく分からない地元の文字で店の名前が掲げられていた。
この廊下自体、お世辞にも小綺麗とは言い難い。唯一の灯りである電灯も切れかけているのか、ちかちかと点滅して、何とも侘びしい気配を醸し出している。
彼ら以外の男女であれば、この時点で引き返しているだろう。この先にある店がどれほどの美酒を提供していたとしても、身ぐるみを剥がされるような危険を冒してまで店に入る勇気はないのが普通だ。
当然のことながら、彼らは引き返さなかった。寧ろ、こういう店に来るのは本当に久しぶりのことだったので、心踊ったくらいだ。
目当ての店の看板を見つけると、ゆっくりと開いた。
薄暗い店内は、思ったよりも広かった。入ってすぐ右手にレジがあり、その奥には十人ほどが腰掛けられるカウンターがある。
中央には、何かショーをするのだろうか、かなり広めのライブステージのようなものが設えられている。
左手にはテーブル席が並んでいて、既に気の早い何組かの客がしっとりとグラスを傾けている。地元の人間なのだろうか、服装はそれほど煌びやかではないが、かといって法に背を向ける荒くれ者といった様子でもない。
店の中を、注文が飛び交う。それに応じるように、扇情的なバニーガールの格好をした女達が、右に左に走り回る。客の横について、楽しげに語らっている女もいる。
少しばかりの女の匂いと酒、そして落ち着いた空気を求めた男達が集う、場末の酒場。この店はそういう雰囲気だった。
二人は、カウンターを選んだ。
並外れて恵まれた体格を有する二人であるから少し窮屈かと思われたが、元々そういう客が多く来るのか、席の配置はゆったりしたもので、二人は難なく腰を下ろすことが出来た。
「注文は?」
老齢のマスターが、ぶっきらぼうに聞いた。
彼の後ろには、無数の酒瓶が所狭しと並んでいる。そのいくつかは二人も知っていたが、多くは知らなかった。おそらくはこの星の地酒なのだろう。
ケリーはうっすらと笑いながら、
「この星の酒が飲みたい。あんたが一番美味いと思うやつでいい」
別に奇をてらって言ったわけではないし、格好をつけたわけでもない。ケリーは、この星のどの酒が一番美味いのか知らなかったから、専門家に任せようと思っただけだ。
マスターは表情を髪の毛一本ほども動かすことはなかったが、やがてジャスミンに目を向けて、無言で注文を促した。
「私も、この男と同じものを頼む」
見慣れない、特異な風貌の客の注文をどう思ったのだろうか、マスターは一度店の奥に姿を消した。
ややあって戻ってきた彼の手には、小振りなグラスが二つ、握られていた。
それを、ケリーとジャスミンの前に、一つずつ置く。
「飲んでみな」
ジャスミンは、無造作にグラスを手にした。
グラスの中の液体は、濃い琥珀色だ。年代物のウイスキーやブランデーよりなお濃く、透明度がほとんどない。
グラスを顔に近づけると、独特の臭気が鼻を刺した。アルコール自体の香りの中に、どこか異質の、動物的な臭いがある。
だが、ジャスミンは躊躇わなかった。グラスを一気に傾けて、液体を一息で口の中に放り込んだ。
流石のジャスミンも、一瞬目を丸くしかけた。
口の中を、強烈なアルコールが灼く。想像した以上に、度数が高い。おそらく、火を近づければ簡単に燃え上がるだろう。
独特の臭気も、鼻にこびり付くように濃厚だった。まるで野外演習の時に囓った生の蛇肉のような、一般人なら間違いなく吐き気を催す臭いだ。
どう考えても、まともな酒ではない。強い蒸留酒に、何かを漬け込んでいるのだ。少なくとも、この店で一番美味い酒を、と注文した客に出すべきものではないのだろう。
しかし――。
「美味いな」
液体を飲み下したジャスミンは、思わず呟いていた。
アルコールは強烈で、臭いはきつい。どう考えても飲みやすい酒とは言い難いのだが、しかし、それらを掻き消してあまりあるような鮮烈なうまみがある。一度それに気がつけば、独特の臭気も気にならない、むしろ心地良いとさえ思えてしまう。
隣に座ったケリーも同じ感想を抱いたのだろう、空になったグラスをしみじみと眺めながら満足の吐息を吐き出している。
そんな二人を、老境に差し掛かったマスターは、驚いたような顔で眺めていた。
「……一見さんでこの酒を美味いと言ったのは、あんたらが初めてだな」
どうやら、全てを承知の上でこの酒を出したらしい。
そんなことを言われたジャスミンは、別に怒るふうでもなく、
「そうか。意外と酒の味のわかる人間は少ないんだな。しかしマスター、この酒は?」
にっこりと、悪戯小僧のような按配で白い歯を見せたマスターは、店の裏側から、大きなガラス瓶を抱えて戻ってきた。
薄明かりに照らされたその瓶の中に何が入っているのか、遠目でははっきり分からない。
年齢の割に引き締まった体格を有しているマスターは、そのガラス瓶をひょいとカウンターの上に乗せた。ラベルも何も張られていないから、おそらくは自家製の酒だと思われた。
どしん、と、大きな音が鳴った。
二人の前に置かれたその瓶の中は濃い琥珀色の液体で満たされている。先ほどの酒と同じものなのだろう、透明度はほとんどない程に色が濃いが、その奥にうっすらと、人間の指ほどの大きさの、細長い物体が浮かんでいるのが分かる。
まじまじと眺めるまでもなかった。
それは、無数の芋虫だった。それも、芋虫なのに細長い脚が無数に生え揃っており、触角までも生え揃って居る。
ホラー映画などで腐敗した死体に集っている小虫を、さらに醜くしたような、おぞましい姿だった。
「どうだい、気に入ってくれたかい?」
如何にも好々爺然としたその声は、女性の悲鳴と男の青い顔を期待してのものだったが、ジャスミンとケリーは、マスターの想像したのとは正反対の方向に反応した。
具体的に言うと、ジャスミンは喜びの声を上げ、ケリーは興奮に顔を赤くしたのだ。
「これはオティラ星のチュチュ・ワームか!?なんと贅沢な!」
「どうりで、どっかで囓ったことのある匂いだと思ったんだ!」
カウンターの一角が、にわかに色めき立った。
「海賊、お前もこれを食ったことがあるのか?」
「ああ、訳あってあそこの荒野を食うや食わずやで彷徨ったことがあるが、砕いた倒木の中にこいつがうじゃうじゃといたときの、あの感動は忘れようもねえ。平たい石を灼いて、その上で転がすよう炙るんだ。かりかりになった脚と、チーズみたいに濃厚な胴体。今思い出したって涎が出そうになるくらいに美味かった」
「なるほど、幼虫でも美味いんだな。しかし、こいつは成虫になると信じられない程に固い外骨格を有する甲虫になるんだが、そいつも美味いぞ。ナイフに全体重を預けて真っ二つに押し切ってから、中の身をスプーンで掬って食べる。火を通すよりは生のほうをお勧めする。だが、注意しなければならないことがある。あれを一度味わえば、しばらく間は刺身の類が食えなくなるんだ。どんな魚の肉だって、こいつの身と比べるとあまりに味が薄く、そして生臭く感じるからな」
このようにして、二人はこのグロテスクな虫が如何に美味いかを、熱く語り始めた。
そんな二人を前にした呆れ顔のマスターは、肩を一つ竦めると、カウンターの下から武骨な酒瓶を取り出した。ありふれた形をした、ラベルすら貼られていない、酒瓶である。
「それは?」
隠しきれない興味を持って、ケリーが問う。隣に座ったジャスミンの顔も、舌舐めずりをする虎のような有様だ。
「こいつは、この星に自生する麦の一種から作った酒だ。一杯やるかい?」
「ひょっとして、カラとかいう植物かい?」
「ああ、そのとおりだ」
不敵な笑みを浮かべたマスター。当然、ケリーとジャスミンに否やは無い。
「もらおう」
今度はジャスミンである。
微笑を浮かべたマスターは小振りなグラスを二つ取り出して、酒を注いだ。
薄明かりに照らされたその液体は、辛うじてそれと分かる程の琥珀色。ほとんどは透明と言っていいほどにしか色付いていない。
しかし、美しい。トパーズの原石を淡く輝かせたような、心ときめく色合いである。
「こいつは美味そうだ」
ケリーは、ほとんど一息にその酒を飲み干した。
ジャスミンも、無言でそれに倣う。
そして、二人は声を失った。それほどに、この酒はうまかった。
口の中に入れた途端に広がる芳醇な香りは果物のそれに近いが、舌には穀類から作った酒特有の控えめな甘味が広がる。この酒も先ほどの虫酒に負けず劣らず酒精が濃いようだが、しかしそれを感じさせない軽やかさ。その液体が、喉を通るときには灼けるような熱に代わり、胃の腑に収まった後はぽかぽかと全身を温めてくれる。
間違いなく、極上の酒だった。
二人は、声もなく空のグラスをしみじみと眺めていた。
「どうだい、もう一杯?」
悪戯を成功させた悪童のような表情で、マスターは言った。
きっと、先ほどに出された虫酒は、この酒を出すための試験のようなものなんだろう。あの酒を飲んで美味いと言った人間にだけ、この貴重な酒を出してくれる。虫酒を飲み干せない人間には、どうしたってこの酒は出さない。この老獪なマスターに相応しい悪ふざけであった。
ケリーとジャスミンは、苦笑した。この場合、してやられたのは自分達だからだ。
だからといって、不快感はない。寧ろ、こういう類の悪巧みならばいつだって大歓迎だ。
「いただこう」
「俺もだ」
同時に差しだされた空のグラスに、再び目一杯の酒が注がれる。
二人は肴に手を出すこともなく、再びグラスを空にした。
「……あんたら、強いね」
店主が、軽く目を見張りながら言った。
確かに、先ほどの虫酒も、そして今二人が飲み干した酒も、かなりきつい蒸留酒である。酒に弱い人間であればその匂いだけで赤ら顔になるだろうし、それなりに酒を嗜む人間であっても一杯で根を上げるだろう。
ところがこの二人は、まるで水かジュースを飲むかのように、グラスを空にしていく。長年この酒場でマスターをやっているこの男でも、これほど酒に強い人間は――しかも二人も同時に――初めてお目にかかるものだった。
「別に、それほどじゃあないさ。ただ、美味い酒は飲めるときに飲んでおくに限る。後から悔やんだって、美味い酒は誰かの腹の中だ。この短い人生、女だって美味い酒だって一期一会が基本だぜ」
「そのとおりだな、海賊。しかし――」
ジャスミンが、訝しげな視線を目の前のマスターに向けた。
「無粋を承知で尋ねるが、この酒はこの星に自生する麦から作ると言っていたな。確か、ヴェロニカ教では自生する植物の採取は教義に反するものだと聞いていたが、私の勘違いなのだろうか?」
ジャスミンが、三度注がれた美酒で唇を湿らせながら言った。
マスターは、少し辛そうな表情で、首を横に振った。
「いや、あんたの言うとおりさ。この酒は、神の教えに反する、存在することそのものが瀆神的な酒だ。俺の知る中でも飛びっ切りに頭の固い頑固親父が、それこそ呆れるほどに面倒な手間暇掛けてこさえてやがるんだが、全くもってけしからん事さ。だから、こうやって飲み干してやることで、神の教えの何たるかってやつをこの酒に教え込んでやるんだ。こいつは必要悪ってやつだな」
マスターは、三つめのグラスに酒を注いで、自分で空にした。
その様を見て、ケリーとジャスミンは同時に笑い声をあげた。
「なるほど、その必要悪とやらのおかげで俺達がこの酒にありつけたんなら、そいつはありがたいことだ」
「ならば、そのようにけしからん酒は、早いところ飲み干してやらないとこの星の風紀が乱れてしまうな」
やはり空になったグラスに、今度は勝手に酒が注がれた。
気難しいはずのマスターは、明らかにこの星の生まれでない二人組を心底気に入ってしまっていた。
「ちょっと待ってな」
人好きのする笑みを浮かべたマスターは、店の奥に姿を消した。
うきうきとした歩調で戻ってきた彼の手には、武骨な酒瓶が三つ、初孫をあやすように繊細な手つきで、抱えられていた。
「こいつが、この店で最後の酒さ。もしあんたらさえ良ければ、持って帰るかい?」
「……いいのかい?そう簡単に仕入れられるものじゃないんだろう?」
「いいさ。こいつだって、どうせなら自分の味が分かる奴に飲まれたいだろうし、第一この店だってそう長いこと開けとくつもりはないからよ。このまま倉庫で埃を被らせてやるよりも、なんぼかマシってもんだろう」
「……この店を閉めるのか?」
ジャスミンは、ぐるりと店内を見回した。
席は、ほとんど埋まっていた。まだ宵の口というのにこれほど盛況しているのならば、別に売上不振で閉店するというわけではないようだ。ということは、それ以外に店を閉めなければならない理由があるということだろう。
「マスター。ひょっとして、どこかお悪いのか?」
「いいや、体のほうはぴんぴんしてるさ。悪いのは、そうだな、最近物忘れが酷いこの脳味噌と、後は胸くそくらいのもんだ」
苦虫を噛み潰すような顔で、マスターは言った。
「胸くそが悪いとは穏やかじゃねえな」
「ふん。この星の置かれた状況を鑑みれば、胸くその一つだって悪くなろうってなもんさ。あんたら、何の用でこの星に来たんだい?」
「表向きは、金と暇を持てあました観光客ってところだな」
ならば裏があるのかと、マスターは問わなかった。
黙ってグラスを傾けてから、吐き出すような調子で、
「なら、表通りをのし歩いてる、あの恥さらし共に因縁をつけられなかったか?」
「それは、憂国ヴェロニカ聖騎士団とかいう、時代錯誤な連中のことか?」
ジャスミンの問いに、マスターは無言の沈黙で答えた。
空になったグラスに、手酌で酒を注ぐ。
酒場のマスターの割には、それほど酒が強くないのだろうか。それとも、自ら酒に理性を明け渡そうとしているのか。マスターの顔は、やや赤みがかっていた。
「俺はよう、別にヴェロニカ教の教義自体が間違えてるとは言わねえよ。人間は自然の循環に手を出さず、自分達で一から作ったものだけで生活する。それが正しい有り様だと思うから、今だってこの不自由な星の上でひっそりと生活してるのさ。あんたら、外の人間から見ればおかしな風習だって、この星に生きる人間にとっては当然の在り方なんだ。あんたらはそれを笑うかい?」
ジャスミンとケリーは、真剣な面持ちで首を横に振った。
人が自由意志を持って生きる者であるというのは立派なお題目だが、同時に人は他者との繋がりを、言い換えれば束縛を受けずには生きられない生き物だ。しかし、その束縛を鬱陶しいと感じるか、それとも安心すると思うかは個人の性質によるのであり、どちらの立場に足を置こうと非難される謂われはない。
この星の宗教は、確かに異質だ。だが、異質という意味で言うならば、自分達ほど異質な人間もこの宇宙に二人といないだろう。片や不治の病に冒されて長い年月を医療用カプセルの中で過ごした眠り姫、片や一度ならず死線を潜り抜け、最後には本当に死んで、そして天使に叩き起こされたゾンビ――これは一人ではないが――である。
少なくとも、自分達にヴェロニカ教を批判する資格はないと、二人ともが思っていた。
「だがよう、どんなにおかしな教義であっても、俺達が従うのは、それが神の教えだからだ。断じて、権力を笠に着たくだらねえ馬鹿どものおもちゃに成り下がるためじゃあねえよ。そりゃあ、酒のためにほんの少しの麦を掠め取るくらいはしたかも知れねえがよ、それが殺される程の罪か?あいつは、そんなに悪いことをしたっていうのかよ?第一、俺はともかくあいつはヴェロニカ教徒なんかじゃなかったんだ!」
どうにも、話の脈絡が不明であったが、この男の涙を見ればほとんどの事情が飲み込める。
つまり、この酒は、二度と飲めないということだ。だから、この店も閉めると、そういうことなのだろう。
「遠からず、酒そのものだって飲むことが罪になるぜ。酒は悪魔が人を堕落させるために拵えた猛毒だってな。そうなりゃ俺達はどうやって生きていけばいい?次は上の通りの売春宿が消えて無くなるさ。淫婦は人の精神を腐らせる夜魔だってな。そうすりゃ、男に股を開くことでしか食っていけない女達はどうやって生きていくんだよ。次は煙草、その次は何だろうな?くそっ、そんなことがヴェロニカ教典のどこに書いてるっていうんだよ。やりたい放題じゃねえか。どちらにせよ、あいつらの気に食わねえことが、どんどん罪になるんだ。あいつらが教典さまに成り仰せるのさ。俺はな、そうなる前にさっさと死ぬことだけが望みなんだ。なに、天国に行けばこの酒が浴びる程飲めるんだから、別に悪い話じゃねえ」
ぐすりと鼻を一つ鳴らして、マスターは目尻を拭った。
そして、気恥ずかしげな笑みを浮かべて、
「へへ、すまねえ、しめっぽくしちまった。折角の夜なのに、わりいことしたな」
「いや、別にいいさ。何もかも飲み込んで訳知り顔の奴より、不平たらたらで大泣きする奴の方が好きだぜ、俺は」
「こんなに旨い酒を飲ませてくれたささやかな礼だ。愚痴程度ならばいくらでも付き合うぞ」
怪獣夫婦は、人好きのする笑みと共にそんなことを言った。
二人の言葉に涙腺を刺激されたのだろうか、マスターは盛大に鼻をかみ、目元をごしごしと擦り、
「ああ、今日はいい夜だ!実は、悪いことばかりじゃねえんだ!とっくにくたばったとばかり思っていた昔の連れと、こないだばったり出会ってな。まったく、神様もなかなか粋なことをするもんさ。今日は俺の奢りだ!とっくり楽しんでいってくれ!おい、かあさん、かあさん!」
「なんだよ、うるさいねぇ」
辟易とした声と共に現れたのは、けばけばしい化粧を施した年配の女将だった。
いかにも夜の街に生きる女性といった風情だ。いや、貫禄だ、といったほうがいいかもしれない。
年齢的に見ると、まさか本当にマスターの母親というわけではあるまい。おそらくは夫が妻を呼ぶに、『母さん』と呼んでいるのではないだろうか。
「ああ、あんた、またお客さんに愚痴を零してたね。こないだも大喧嘩したばかりじゃないか。見ず知らずの人間にぺらぺらそんなこと話して、あの連中の耳に入ってみな、一体どんな目に合わされるか……」
「バカヤロウ!こいつらはそんな安い男に見えるか!いいか、よく聞け、こいつらはなぁ――」
「はいはい、わかったわかった、分かりました。で、何の用?」
小気味いいほどにぽんぽんと交わされる会話は、長い時間を共に生きた夫婦ならではのものだろう。
男と、一括りに言われてしまったジャスミンも苦笑した。
「こいつらに、この店で一番可愛い女をつけてやれ!酒だって、こんな爺に注がれるよりは、女に注いでもらった方が旨いに決まってるんだ!」
「ちょってあんた。そっちの兄さんはともかく、こっちは女の人だよ。男と女が二人でしっぽり飲んでるときに、そんな無粋な真似をするもんじゃないってば」
第一、こんな二人につけられた女の方こそ気の毒である。
一体、どんなことを話せばいいというのか。それとも、それこそが水商売の女の腕の見せ所か。
ともかく、マスターを諫める女将を前にして、ケリーは言った。
「俺は別にかまわねえぜ。確かに、可愛らしい女に酌をしてもらえるなら、酒も一段と旨くなるってもんだ。いやなに、こいつも中々に可愛らしいんだがよ、こいつに酌をしてもらうと何故だか終いにはいつも飲み比べになっちまう。それはそれで楽しいんだが、今日はもう少し静かに飲みたいんでね」
可愛らしいと評されたのは、当然のことながらジャスミンのことである。
そして、目の前でケリーが――紛れもない自分の夫が商売女の酌が欲しいと言っているのを聞いたジャスミンはといえば、こちらも大きく頷いて、
「わたしも可愛らしい女を愛でるのは大好きだ。わたし自身このなりだからな、たまにはそういう女と一緒に酒も酌み交わしてみたい」
とんでもない誤解を招きそうな言葉だが、無論ジャスミンにそういう趣味はない。彼女が言う『愛でる』とは、美しい花を眺めたり小鳥と戯れたりする、そういう『愛でる』なのだから。
二人の言葉を聞いて唖然とした女将だったが、マスターの方はうんうんと頷いた。それでこそ俺のメガネに適った男達だ、と言わんばかりであった。
そして、言った。
「つい最近、ヘルプでうちの店に入った子なんだがな、何とも気立てが良くて可愛らしいから、たちまちにこの店のナンバーワンさ。今じゃあ、その子目当てにこの店に来るすけべ親父も少なくないんだ。まったく、店を閉める話がなけりゃあ、絶対に口説き落としてこの店の華にしてみせるのに、勿体ない話だぜ」
一息にそう言ってから、マスターは息を一つ吸い込み、その女の名前を口にした。
「フィナ!おおい、フィナ!お客さんだぜ!こっちに来い!」
はぁい、と、店の奥から、女の声が聞こえた。
そして、とたとたと小さな足音が近づいてくる。
店の薄暗がりの奥から、一人の女が顔を出した。
その女を見て、流石のケリーもジャスミンも声を失った。
美しい女だった。
腰まで届く漆黒の髪、それと同色の煌びやかな瞳。
抜けるように白い肌を、真っ赤なレオタードが飾り付けている。しかも、かなり股間の切れ込みの鋭い、扇情的なものだ。
腰から下は、黒い網タイツを履いている。ほっそりとした太腿との対比が艶めかしい。
しかし、そんなことより何よりもケリーとジャスミンを驚かせたのは、その女の若さ――いや、その少女の幼さだった。
唇に紅を引き、アイラインを濃くはしているものの、到底誤魔化しきれてはいない。
おそらく、まだ中等部の、それも低学年に分類されるのではないだろうかという幼さ。これでは、二人の孫であるジェームスと同じくらいの年齢ではないのか。
ケリーとジャスミンはこの星の風俗には明るくないし、法律にも不案内だ。しかし、ヴェロニカ共和国が連邦加盟国である以上、一定年齢以下の児童の就職は禁じられているはずだし、それが夜の街ともなれば尚更である。
そして、どう見ても目の前の少女は、その年齢に達しているとは思えない。
その少女が、呆気に取られた怪獣夫妻の前で、ちょこんと頭を下げた。その拍子に、頭につけた兎の耳が、可愛らしくひょこりと揺れた。
「ご指名ありがとうございます、フィナ・ヴァレンタインです。本日はよろしくお願いします!」
何とも元気の良い、しかし少々やけくそ気味の、覇王の現し身たる少女の挨拶であった。