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[6349] 懐かしき日々へ(デルフィニア戦記・暁の天使たち他)※一部15禁
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:4d255c68
Date: 2023/02/20 20:20
 前書き。
 
 初めまして。もしくはお久しぶりでございます。SHELLFISHと申します。
 この冬、茅田砂胡先生の書かれた、『デルフィニア戦記』他、一連の作品にはまってしまい、しかし探してもあまり二次創作の数が多くないことに絶望し、このような作品を書くことに相成りました。
 細かい設定等に齟齬があるかと思いますし、無茶な設定だらけだとも思います。そこはそれ、アホな作者がアホな物語を書いているなぁ、と、生暖かい目で見守って頂ければありがたいかと。
 箸にも棒にもかからないような愚作ですが、もしよろしければ、感想、応援、叱咤激励、その他なんでもください。お待ちしております。
 ということで、長すぎる前書きはここまで。では、どうぞ。

 追記。
 感想から、最近の話の時系列が分かりにくいという意見を多数いただきました。
 よって、少し話の前後をいじりました。具体的には、二十九話と三十話を入れ換え、三十話以降の話を、ウォルがケリー達に話している、という体裁にした次第です。
 これで少しは読みやすくなったと思うのですが、如何でしょう。ご意見を頂けるとありがたいです。


 追記。
 露骨な性描写はしていないつもりですが、それとにおわせる表現や簡潔に性行為を表す描写、そして残虐な表現が使われています。
 その点に注意して読んで頂ければ幸いです。
 
 追記。
 ハーメルン様にも投稿させていただく予定です。
 よろしくお願いいたします。



[6349] 伝説の終わり
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2023/06/25 22:07
 宮殿の奥まったところに、部屋があった。
 広々とした、豪奢な造りの、如何にも貴人がその住み家として選ぶような、そういう部屋であった。
 そこから、一晩中、笑い声が漏れていた。
 若い声ではない。年老い、移りゆく時の流れを、身体と心に刻んだ人達の、声だった。
 一人や二人ではない。たくさんだ。たくさんの年老いた人が、立っていたり、少し疲れた様子で腰掛けたりしながら、とても楽しそうに談笑している。みんな、良い身形をした者達ばかりであったから、相当に身分の高い人間の集まりなのであろうと思われた。
 男がいた。そのいずれもが、老人とは到底思えぬほどに鍛え込まれた体躯を誇る、堂々たる武人であった。腰に差した剣はよく手入れがされていて、今すぐにでも戦場の一番前の方で名乗りを上げて敵に切り込むことすら出来そうなくらいだった。
 女がいた。そのいずれもが、柔和な皺をその頬に刻んでいた。その一事だけで、どれほどに彼女達が愛され、そして愛した人生を送ってきたかを窺い知ることが出来る。どれも、とても幸せそうで、満ち足りた笑顔だった。

 たくさんの、幸せそうな人達。

 その中心に、一人の老人がいた。豪奢な部屋の造りに勝るとも劣らない程に立派な寝台で、身体を起こしている。

 満ち足りた、顔だった。
 かつては黒絹を梳かしたように精気に満ちあふれていた黒髪も、いつからか白いものが混じりはじめ、今ではタウに積もる新雪の如き白髪になってしまっている。青銅の騎士像よりも遙かに逞しかった筋肉も、歳と共に衰え、抜け落ちた歯と同じくらいにそげ落ちてしまった。
 浅く焼けた皮膚は、床に伏せるうちに青白さを通り越して土気色になり、排泄すら己の思うままにならない。
 それは、紛れもなく、死期を間近に迎えた、老人だった。
 それでも、その老人は、笑っていた。
 頼るべき友人と、頼るべき戦友と、頼るべきその妻達に囲まれ、昔話に花を咲かせ、時折は咳き込み、時折はその眉を顰め、時折は涙を薄く浮かべて、そして最後には笑っていた。普段から笑いの少ない生活を送っていたわけではないのに、その一昼夜で、彼は一年分の笑い声を出したと思った。
 だから、彼は少しだけ疲れてしまった。

「従兄上、お疲れですか」

 傍らに立った、彼の従弟が話しかける。老人はそれに笑顔で応じ、しかし首を横に振った。

「こんなに楽しい夜に、どうして疲れていられる。俺は、まだまだ卿らと話したいこと、話し足りないことが山ほどにあるのだ」
「なるほど、それは疲れている暇などありませんな。しかし、別に、我らが集うのは今日が終いというわけではなし。今日はもう休まれてはいかがですか?」
「しかし、現に俺はまだまだ疲れてはいない。ほら、このとおりだ」

 老人は腕をまくり、力こぶを作る動作をした。
 そこには、痩せ細って骨と皮だけになったような、二の腕があった。
 誰も、その表情に痛ましさの欠片も見せなかった。見せず、ただ笑っていた。

「おいおい、天下に名だたる名君が、身内を困らせるもんじゃあないぞ」
「人聞きが悪いな。俺がいつ、誰を困らせたというのだ?」
「お前の目の前で、心配そうにお前を見つめているお前の奥さんだよ」

 言われて、老人は、ベッドの脇の椅子に腰掛けた、己の妻を見た。
 彼女は、少し困ったような顔で、でも、笑っていた。
 少女のように、純粋な微笑みだ。その輝きは、老人と彼女が出会ってから、時の暴虐も含めたところで、何者も穢すことが出来なかった。
 老人は、そんな妻が大好きだった。

「なぁ、ポーラ。俺はお前を困らせたかな」

 少女のような老夫人は、はにかむように笑った。

「はい。陛下には、もう、いつもいつも心配ばかりさせられました」

 その言葉で、老人を囲んだみんなが、一斉に笑った。

「だ、そうだ。なぁウォリー。今日のところは負けておけよ」

 老人は、生真面目な顔で頷いた。内心では、果たして自分がそれほどに迷惑をかけたことがあったのだろうと自問していたのだが、口に出してはこう言ったのだ。

「そうか。それは申し訳ないことをした。しかし…俺はもう陛下ではないのだがな」
「はい、承知しております。でも、あなたは陛下です。いつまでたっても、私だけの陛下」

 老夫人が、そのしわくちゃの掌で、老人の痩せこけた頬を撫でた。老人は、くすぐったそうに笑った。
 それが合図になったように、部屋にいた人間は、次々と別れの挨拶をして、部屋を出て行った。まるで邪魔者は退散しますと言わんばかりの様子だった。
 彼らは、最後まで笑っていた。その瞳の端に光るものがあっても、とりあえず笑みだけは浮かべていた。それが、自分の義務だと思っていたのかもしれない。
 取り残されたのは、二人だけだった。

「帰ってしまったな」

 ぽつん、と呟いた。

「ええ。もう、これで二人きりです」

 最初、その部屋には、もっとたくさんの人間がいた。
 彼らの子ども達とその夫や妻、そしてその子供である孫達。中にはひ孫を設けた、少し気の早い孫もいた。二人は恋愛方面には奥手な夫婦だったから、果たしてその孫は誰に似たのかと思って頭を捻ったものだ。
 やがて、一人減り、二人減り、人影がまばらになっていった。そもそも、何故に今日、ここに集まったかも知れない人間ばかりである。別に、国家の一大事があったわけではなし、特別な慶弔があったわけでもなし。
 何故か、不思議なものに糸引かれるようにして、彼らは集まってきたのだ。そのいずれもが、生ける伝説と化したその老人にとって、大切な人達ばかりだった。
 そんな彼らが、立ち去って。

 そして、最後に残ったのが、老人と同じ歳の頃の人達ばかりだった。

 彼の従弟がいた。老いてなお堂々たる体格を誇る偉丈夫である。彼がもと率いていた騎士団の現団長でさえも、その剣技にはいまだ遠く及ばないと、もっぱらの噂である。そんな彼が、今は自身の孫達の稽古をつけるのが何よりの楽しみだと笑った。
 彼の友がいた。タウの寒風に晒され続けた皮膚はひび割れたような深い皺に覆われ、かつて浮き名を流した面影はどこにもなかったが、しかしその飄々とした有様と鋭い視線は失われることはない。もう陣頭で指揮を執ることも少なくなくなり、たくさんの孫達には優しいお爺ちゃんとして慕われている。
 彼の臣下がいた。遠い昔、王が囚われの身として処刑されかかっていたときに、己の身を引き替えに彼を助けようとした臣下だ。音に聞こえた白百合が如き美貌も、今はその名残を残す程度になっている。それでも、その暖かな雰囲気はそのままだ。
 彼らの妻も、いた。そのいずれもが、老人と、宝石のような想い出を共有する、得難い人達ばかりだった。

 彼らも、今はいない。

 だから、そこには二人だけが、いた。

「楽しかった」

 老人は、夢を見るように目を閉じて、そう呟いた。
 それを見た彼の妻は、くすくすと笑った。

「はい、とても楽しい夜でした」
「もう、一生分、笑った気がするよ」
「ほとんどが王妃様のことでしたね」

 老人は苦笑した。

「正直に言うとな、ポーラ。俺は今日、とても驚かされた」
「何にですか?」
「もう、40年だ。あいつが帰ってから、それだけの年月が経つ。そうすれば、もう誰もあいつのことを覚えていないのではないかと、そう思っていた」
「あの方のことは、忘れようとしたって忘れられませんわ」
「俺もそう思う。しかし、40年だ。それに比べて、あいつがこの世に留まっていてくれたのは6年だけ。ならば、40年間一度も顔を見せなかった人間のことなど、人は容易く忘れてしまうものだと思っていたよ。少なくとも、俺以外はな」

 夫人は、言葉を返さなかった。返さずに、ただ、微笑んだ。

「しかしどうだろう。あの頃のみんなが顔を揃えれば、口から出るのはあいつのことばかり、いや、あいつのことだけだ。するとな、不思議なことに、あいつが目の前にいるような気がするんだ。もう、どうやって思い出そうとしても思い出せなかった、あいつの瞳の緑が、目の前で笑っている気がする」

 この城の大広間には、老人の若かりし頃の肖像画と一緒に、彼のただ一人の妻の肖像が、並んで飾られている。
 美しい、そして雄々しく猛々しい、女武者の肖像である。決して、王妃には見えない。決して見えない。
 なのに、どこの国の王妃の肖像よりも、遙かに気品に満ちあふれ、何よりも美しいのだ。
 その瞳は、緑柱石を砕いた破片で描かれている。
 そのたった一枚以外、王妃の肖像画の瞼は常に閉じられている。他の、どのような肖像画を探しても、目を開けたものは存在しない。一説によると、それは画家の敗北宣言だという。王妃の瞳の美しさをどうやっても己の筆で表すことが出来なかった、それ故の閉じた瞼だというのだ。
 誰しもが、王妃の顔を思い浮かべたときに、最初に頭に描かれるのがその瞳の緑だ。
 どこまでも澄んだ、深い緑。人の記憶に止めることすら許されないような、そういう碧。それは、老人の生まれ故郷である、スーシャの木々の緑を凝縮したような、深い深い碧だった。人の手でそれが描けなかったとしても、それは決して恥ではない。

「私は、忘れませんわ」
「うん、忘れないで欲しい。出来れば、絶対に忘れないでくれ。そして、少しでも長生きをして欲しい。王妃が、ただの伝説などではなくて、間違いなくこの世界で、みんなと一緒に笑い、怒り、悩み、戦い、酒を飲み、そして他の誰よりも笑ったのだと。彼女はただの戦女神などではなく、俺達と同じ人間だったのだと。だからこそ、他の何者よりも神々しかったのだと。そう、孫達に伝えてやってくれ」

 それは、老人の人生を後世に伝えることと何ら変わるところが無い。
 何故なら、伝説の中の王と王妃は、最も研ぎ澄まされた時間を、互いの翼を供として駆け抜けたのだから。
 老人は、自分が英雄だと知っていた。
 しかし、自分の力だけで英雄となったのではないことを、誰よりも知っていた。
 後悔、しなかったとは言わない。あのとき、何故、彼女の手を取って、全てを捨てて、共に行かなかったのだろう、と。そう思って枕を噛んだ夜も、幾度となくあった。
 それでも、その結果としての生を、彼は一度足りとて恥じなかった。彼は、王妃が命がけで守ってくれた己の魂―――戦士としての魂に恥じない一生を送ったつもりだった。
 だから、彼は満足していたのだ。

「流石に、少し疲れたよ」
「はい、陛下」

 寝台に身体を横たえる。ふわりと、身体が沈み込む。まるで故郷の、草で出来た海に寝そべった、幼き日のように。
 鼻孔を、嗅ぎ慣れた風の香りが擽った。幻臭だと分かっていた。きっと、懐かしい誰かが、自分を呼んでいるのだろう。
 
「最後まで迷惑をかけるな、ポーラ。俺がいなくなって寂しくなると思うが、出来るだけ長生きをして欲しい」
「はい。はい…。は…い、へいか……。」

 夫人は、少女のように、ぼろぼろと泣いていた。
 まるで、彼と彼女が出会った頃のように。
 その時、片方は王で、片方はただの少女だったのだ。そんな彼女がここまでやってこれたのは、ただ、いつの日か再び王妃とまみえたときに胸を張って再会を祝いたいと、その一心だった。
 でも、今は。今だけは、思うさまに泣いても、きっとあの方は許して下さる。
 だから、彼女は泣いていた。
 それを見て、老人は、少し困ったように眉を寄せた。
 
「泣かないでくれ。俺は、一足先にあいつの所に挨拶に行くだけなのだ。そして叱り飛ばしてやる。40年、たったの一度も顔を見せないなど一体どういう了見だ、とな」

 今際の際の老人は、悪戯を成功させた少年のように小憎たらしい表情で、笑ってやった。
 それを見た夫人も、歯を食いしばり、嗚咽を堪えながら、笑った。今は笑わねばならないと知っていた。

「…そうですわね。いずれ、誰しもが、あの方の国に行くのです」
「そうだ。あれは、天の国の住人だった。…しかし、天の国は、みんながみんな、ああなのだろうか?」

 何気なく口を突いて出た疑問は、意外なほどに深刻なもののような気がした。これから自分は、王妃の群の中で過ごさなければいけないのだろうか。それは、とても楽しいことのような気がするし、しかしとてつもなく恐ろしいことのような気もするし…。
 老婦人も、同じことを考えたのだろう。一瞬、驚いたように目を丸くしたが、その後で、掌で口を覆い隠しながら、笑った。
 笑って、笑って、笑って。目の端に浮いた涙を、人差し指で拭った。
 
「もしそうだとして…それは、とても幸せなことですわ」
「ああ…そうだな…。なんて、贅沢なんだろう」

 老人と最も長い時間をともに過ごしたその女性は、彼の冷たい手を握った。
 かつては、彼女を片手で軽々と持ち上げたその手も、今は枯れ木のような頼りない手触りでしかない。だというのに、その乾いた感触が、これからの人生をたった一人で過ごさなければならない彼女にとって、どれほど愛おしく、そして頼もしく思えただろう。
 もう、老人は、その手に感じるはずの、妻の温もりを感じることさえ出来なくなっていた。しかし、人の温もりは人の肌で感じるものではない。それは、人の魂が感じるものだから、老人の手はとても温かくなった。
 少しずつ狭まる視界の中で、小さくなっていく妻に向けて、彼は最後の笑みを浮かべた。

「最後に、お願いがあるのだ」

 少女のような老婦人は、可愛らしく小首を傾げた。
 目は赤かった。でも、口元は微笑んでいた。まるで、眠りに落ちる幼子を見守るように。

「名前を、俺の名前を呼んで欲しい」

 やがて、老人の視界から光が消えた。
 それが、瞼によって遮られたせいなのか、もう光を光と感じることすら出来ないのか、それは彼自身にも分からない。
 ただ、最後に聞こえた。

 おやすみなさい、わたしのウォル、と。

 その声を供にして、彼は、どこか知らない、暖かいところに誘われていった。
 まだ春の香りも色濃い、初夏の夜のことだった。


 
 その夜、最も偉大な英雄と詠われた、一人の英雄が現世を去った。

 英雄の名は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。

 デルフィニアの太陽と呼ばれ、獅子王と呼ばれ、闘神の娘の夫と呼ばれた、不世出の英雄であった。



[6349] 第一話:発端
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:41
「どうしたのですか、リィ」

 気遣わしげな声で、美しい銀髪の少年は、傍らに立った金髪の少年に問いかけた。
 ぼう、と、ここではないどこかに意識を飛ばしていた様子のリィは、苦笑しながらそれに応じる。

「いや、別に何でもないんだ。何でもないんだが…」

 リィは、その美しい翠玉色の瞳を、窓の外にさ迷わせる。初夏のドレステッド・ホールの薔薇園は、正しく今が盛りのようで、色取り取りの薔薇がその美を競い合っている。
 真上からの陽光に照らされる、立派な薔薇園。華麗という文字を体現したような赤薔薇、清楚の中に堂々とした威厳を主張する白薔薇、可憐なピンク色の薔薇、他にも、紫色や青色、黒や黄色。その風景を写生するのであれば、既製の水彩絵の具のセットなどでは到底色彩が追いつかないに違いない。本来であれば開花時期もまちまちなはずのそれらの品種をこうも一斉に咲き誇らせることが出来るのは、偏にこの庭を管理しているマーガレットの腕前というところだろう。
 薔薇園の生け垣の端っこの方で、茶色い、子馬の尻尾のように柔らかそうな髪の毛が跳ね回っている。多分、いつも元気いっぱいなデイジー・ローズだろう。シェラが初めてこの屋敷に来たときのように、薔薇の花びらを拾って匂い袋を拵えているのだ。またチェイニーにいじめられたりしないかが少し心配だが、たっぷりと用意された宿題の世話にかかりっきりの彼に、そんな余裕があるとも思えない。リィは、蜜を含むように柔らかく微笑んで、椅子に座ったまま自分を見ているシェラの方に向き直った。
 シェラは、読書感想文の課題図書でもある分厚い装丁の本を閉じて、脇のサイドテーブルの上に置いた。

「何でもないのに、貴方がそんな顔をしているなんて、それこそ何かあったとしか思えませんよ」

 リィは、再び苦笑した。もっともだと思った。
 その時、開け放たれた窓から、初夏の爽やかな風が部屋に吹き込み、彼の黄金の髪を撫でていった。それだけのことなのに、天井の高いこの部屋の中に、金色の香気が満ちたように、シェラなどには思えたのだ。
 そんなシェラの内心など知らぬふうで、リィは、気のせいなどではなく金砂と見紛うような見事な金髪を一掻きして、溜息を吐き出した。そんな何気ない動作の一つ一つが見とれるように美しい。

「本当に、何があったわけじゃあないんだ。少なくとも、今のところは」
「今のところは、ですか」
「ああ。ということは、今日に何かあるはずなんだよ」

 奇妙な物言いである。この人の奇妙なことについては知り尽くしているといってもいいシェラも、流石に面食らったようである。目を丸くして、一体何がどういうことかと、無言で先を促した。

「今日で、連休も終わりだな」
「はい。今日の夜には連邦大学に帰らなくてはなりません」
「休みの内に、俺達は色々なところに行った」
「そうですね。ヴィクトリア湖に釣りに行き、サーキット場でカートに乗って、博物館でレポート課題の仕上げをしました」
「そうだ。全く、アーサーのお守りには心底苦労させられた」

 本当に疲れた様子のリィを見ながら、シェラは曖昧な笑みを浮かべた。
 シェラはこの世界に来てからまだまだ日が浅いが、しかし優れた理解力と記憶力を誇る彼であるから、この世界の常識というもののほとんどは身に付けてしまっているといっても過言ではない。
 その中に、家族サービスという言葉がある。普段は仕事にかまけて家族との時間を持てない父親が、たまの休日などには家族と一緒にレジャーに繰り出し、その時間を愛する家族のために捧げるという習慣だ。
 この数日、リィは珍しく、アーサーと共に休日を過ごした。無論親子水入らずなどではなくシェラも同行していたのだが、そんなことは気にもならないくらいにアーサーははしゃいでいた。もう、天にも昇らんばかりの有様であった。
 もしも、いかにも豪奢なこの家に住む家族の事情をよく知らない人間がみれば、州知事という要職を務める多忙な父親が、普段は一緒に遊んでやれない寂しがり屋の息子にかまってやるために、ほとんど無理矢理に捻りだした貴重な休日を費やしたと思うだろう。しかし、いかにも豪奢なこの家に住む家族の事情をよく知っている人間であるシェラなどからみれば、それが全くの逆の立場であったことは明らかである。
 それらの事情を弁えて、シェラは、愉快そうに笑いながら言った。

「リィ。家族サービス、お疲れ様でした」
「ふん、慣れないことをすると肩がこるって本当だな」

 片手で肩を揉みほぐしながら、リィは言った。結構、真剣な声色だった。

「あれ、お嫌だったのですか?」
「好きこのんでやっているように見えたのか、お前には」
「そう言われると返す言葉もありませんが…。そもそも、好きこのまないことをわざわざする人ではないでしょう?」
「まぁそうなんだがなぁ…」

 シェラは意外の念を覚えた。少なくとも彼の知るリィという少年は、自分が望まないこと、無駄な時間を費やすことに対して我慢の効く人間ではない。断じてない。例え一生を遊んで暮らせるような大金を目の前に積んだところで、この人の時間を一分足りとて買い取ることは不可能なのだ。
 そんな彼が、久しぶりの連休に実家に帰ると言い出し、その上、嫌っているわけではないが少々苦手としているアーサー(少なくとも遺伝上はリィの父親である)のお守りをしていたのだから、これは何か心変わりをしたのかと訝しんでいたシェラなのだ。

「ルーファに言われたんだ」
「ルウに?」
「ああ。普段お世話になってるんだから、たまには恩返しもしなくちゃいけないよって」
「恩返し、ですか。なるほど、あの人らしい言い方ですね」

 この場にはいない黒の天使が、にこやかに笑いながら金の天使を言いくるめている様を思い浮かべて、シェラは微笑んだ。万事につけて扱いづらい、まるで野生の獣を体現したようなリィであるが、自らが相棒と呼ぶ青年には妙に素直である。
 
「俺は別に恩を受けた覚えなんてないんだがなぁ」
「うーん、確かにリィは、今更学校に行かなくても一人で生きていけますからね。でも私は、この世界のことについてまだまだ学ばなければいけないことがたくさんありますから…。見ず知らずの私を学校に通わせて頂いているヴァレンタイン卿には感謝していますよ」
「そうだな。確かに、その点ではいくら感謝してもしたりないくらいだ」

 普段から好んで家に寄りつきもしない不良息子が、突然連れてきた見ず知らずの他人、それもロストプラネット出身(とアーサーには説明した)という曰く付きの他人の後見を、ほとんど二つ返事でアーサーは引き受けてくれた。
 普通は断る。それが普通の人間の反応だし、それを何人も非難し得ないだろう。それだけ、後見人というものの責任は重たい。例えば、万が一、未成年であるシェラが何らかの犯罪で他者に損害を与えた場合、その補償をするのは後見人であるアーサーの責任ということになってしまう。それが後見人というものだ。
 なのに、リィの遺伝上の父親はそれを引き受けた。ひょっとしたら、これで息子と仲直りが出来るかもというすけべ心があったのかも知れないが、しもしそのほとんどが息子への信頼からだったのは誰が見ても明らかである。
 もしもアーサーがシェラの後見人になることを断っていれば、彼がこの世界に馴染むには、更に膨大な労力と時間が必要だったはずだった。この世界で戸籍登録やら親権者やらがいないのは、それほどに致命的なことなのだ。シェラが、もといた世界で培った技術で身を立てるならばいざ知らず、リィと一緒に『目指せ一般人』の努力目標を達成するためには、州知事という肩書きを持つアーサーの存在が必要不可欠だったのは間違いない。
 そして、恩や義理は意外なほどに重んじるリィである。そんな彼が、言葉通りの気持をアーサーに抱いているとは、シェラは思っていなかった。
 
「だからその恩返しに、一緒に遊んであげているのかと思っていたのですが、違うのですか?」

 アーサーなどが聞けば大いに心外だと憤るような事実を、シェラは容易く口にした。
 
「いや、ほとんどはその通りなんだ。それに、あんまり長い間実家に帰らないと、教授連中も訝しむ。あまり変な注目は浴びたくないから、良い機会だったのも確かだ」
「でも、それだけではなかった、と」
「ああ。それだけの理由で、わざわざ里帰りなんかしないさ」

 ホームシック気味の同級生などは、小さな連休などでも、機会を見つけては実家に帰りたがるものだが、しかしリィはホームシックなどとは最も縁遠い存在である。彼は既に独り立ちして久しいのだし、そもそも彼の実家はこのように古めかしい造りの家などではない。無限に見渡すことの出来そうな草の海と、抜けるような青空の下にこそ、彼の本当の住処はあるのだ。
 そのことを知っているシェラは、どこか遠い目でリィを見つめた。少なくとも、彼の知るリィは、こんな機械だらけの街の中が似合う少年ではない。もっと広い、無限のような草原を、飛び抜けるように駆ける姿こそが最も美しいのだ。

「では、一体どんな理由があったのですか」
「シェラも知っているだろう。例の手札だよ」
「ルウの、手札、ですか」

 シェラの面持ちが、一際真剣みを帯びた。
 手札とは、カードを使った占いの一種である。無造作にきったカードの束から不作為にカードを抜き、その絵柄で未来の吉兆を知るのである。
 無論、ただの占いだ。この、科学万能という新たな信仰の生まれた世界において、それは年頃の少女の恋心を満足させたり、あるいは藁にも縋りたい心配性な人間にとっての藁になる以外、如何なる価値も持っていないものである。この時代だけではない。シェラのいた、まだ夜の闇の濃かった世界ですらそれを真剣に信じていた人間などほとんどいなかった。
 シェラも、そしてリィも別に運命論者というわけではないから、当然そんなものは信じない。
 それが、ルウのものでなければ、である。

「…ルウは、一体何と…?」

 意図せずに低くなった声色で、シェラは尋ねた。
 幾度となくルウの手札に助けられたことのある彼にとって、その占いの結果は確定した未来図にも等しい。
 それはリィにとっても同じことなのだが、しかしそのリィの表情が優れないということは、好ましからざる結果だったということか。
 シェラの緊張が、否応なしに膨らんでいった。
 そんな彼を見て、リィは微笑んだ。

「おいおい、そんな顔するなよ」
「しかし…」
「凶兆が出たんなら、すぐにシェラにも教えているさ。俺が今まで黙ってたのは、正直俺にも、どういうふうに理解したらいいかイマイチ分からなかったからなんだ」
「…どういうことでしょう」

 リィは腕を組み、何やら難しい顔で語り始めた。
 それは、先週末の、連休を控えた夜のことだった。


『こんどの連休、暇?』
『うん?…まぁ、課題を仕上げる以外には用事と呼べる用事は無かったはずだけど…』
『じゃ、家に帰って』

 突然の電話に、リィは面を喰らった。
 アインクライン校の学寮は、基本的に身内以外の人間からの電話を、直接生徒に通すことはない。安全上、あるいは非行防止等の観点から、いったん守衛室が電話を取り、電話の向こうにいる人間の身元をはっきりとさせた上で生徒に取り次ぐのが常となっている。兄弟校とはいえ他校の生徒であるルウにしてみれば、無用の時間を浪費する手段であるといわざるを得ない。
 だから、ルウがリィに対して連絡を取るときは、よっぽどの急ぎでない限り、パソコンのメールを使うのが常である。本当に急ぐときは直接やってくるから、電話で連絡をしてきたこと自体が珍しい。
 そして、突然の一言だ。流石のリィも面食らった。

『おい、ルーファ。いきなり電話してきてそれか。わけを話してくれ』
『うん。エディは、そうする必要があるからだよ』

 普通の人間の友人同士ならば、からかわれているとしか思わないだろう。
 しかし、この二人は普通の人間ではなかったし、友人と称して満足できるほどに薄まった間柄でもなかった。だから、この短い、会話とも呼べないような会話で、お互いの言いたいことは理愛していた。

『どんな結果が出た?』
『分からない。こんなの初めてだ。何が何だか分からない。吉兆なのか凶兆なのか、それすら分からないなんて』

 電話の向こうの相棒の声は、想像以上に狼狽していた。

『…ルーファが自分の手札の結果が分からないなんて、俺も初めて聞いたよ』
『結果が読めないわけじゃあないんだ。でも、それがどんな結果をもたらすのか、それがさっぱり』
『なのに、帰らなくちゃいけないのか?』
『うん』
『なんで?』

 もっともな質問である。
 それに対して、ルウの返答は簡潔を極めた。

『うーん、勘、かな?』
『勘か』
『うん。勘』
『わかった。じゃあ、さっそく荷物を纏めないと』
『ありがと』

 受話器の向こうから、当然のような声があった。自分の言うことを信じて貰えないかも知れないとか、そういう不安はもとから無かった、そういう声だ。

『ちなみに、ルーファ。家って、アーサーの家でいいのか?』
『うん。アーサーの家だよ。ちょうどいいじゃないか。この機会に、思う存分甘えたら?学校行かせて貰ってる恩もあるんだし、たまには恩返しもしなくちゃ』
『甘えさせてやるの間違いだろう?』
『違いないね』

 くすくすと、快い声が耳朶を擽る。リィは、知らずに笑みを作っていた。

『シェラも連れて行っていいのかな?』
『うーん、多分大丈夫だと思うけど、何で?』
『まかり間違ってアーサーと二人きりになるなんて、あまりぞっとしないからな』
『あはは、それは同感』

 もしもそうなれば、アーサーの『お父さんと呼べ』攻撃が始まるのは目に見えている。それ自体はリィにとってもいつものことだから問題無いのだが、しかしそれが加熱しすぎれば問題である。
 主に、アーサーの肉体的な健康にとって。
 ヴァレンタイン副知事・謎の襲撃事件を繰り返すのは、アーサーのことを結構気に入っているルウなどにとっても心安らぐことではない。そのための安全弁としてシェラがいてくれるのであれば、それに越したことはないのだ。
 加えて、アーサーはこの世界におけるシェラの後見人である。少し大袈裟な言い方をするならば、養い親と言っても過言ではない存在だ。今はもちろん、成人してからだって良好な関係を築いていかなければならない。ならば、機会を見つけて二人が顔を合わせる場所を作るのは必要なことだ。
 そんなことを、記録上の年齢がたったの13歳の少年が考えていると知れば、人は驚くか呆れるか、それとも不気味に思うだろうか。

『じゃあ、もしよかったらルーファも来いよ。デイジーもチェインも、きっとお前に会いたがってる』
『それは嬉しいな。…でも、残念ながらレポートの提出期限が迫ってて。今回は遠慮しないといけないみたい』
『そうか。全く、俺にだけ厄介事を押し付けて優雅にデスクワークとは、たいそうなご身分だよなぁ』

 くすくすと笑いながら、リィは言った。それに応えるルウの声は、ぷりぷりと怒った調子だった。

『あっ!エディ、非道い!エディも、このレポートの量を見てみればいいんだ!そうすれば、僕の苦労のほんの少しだって分かってくれるに違いないのに!』
『ごめんごめん。じゃあ、何かお土産持って帰るから、期待しててくれ』
『じゃあ、断然マーガレットの手作りのお菓子がいいな!こないだご馳走してもらったストロベリーパイ、凄く美味しかったんだ!』
『…もうそろそろ、莓の季節は終わりじゃないか?もしあったとしても、熟しすぎた莓だけだ思うけど…』

 菓子作りには、あまり甘すぎる果実は向かない。特に、ジャムや焼き菓子にするなら尚更である。糖度が凝縮されて、甘くなりすぎるのだ。

『だからこそだよ!今の時期の莓はすっごく甘くて、お菓子にするともっと甘くなって美味しいの!エディも食べたらいいのに!』
『…遠慮しとくよ』
『えーっ?勿体ないなぁ…。エディも、一口食べたらきっと気に入ると思うんだけどなぁ』

 リィは、げんなりとした表情を隠そうともしなかった。ただでさえ甘い莓が、煮詰められ、シロップやら蜂蜜やらでギトギトに甘くなるなど、最早悪夢としか思えないリィである。
 彼にとってのルウは、かけがえのないという安い言葉では到底表すことの出来ない、唯一無二の、比翼連理が如き相棒であったが、しかし甘いものが苦手な自分に、執拗に菓子を勧める癖だけは、正直何とかして欲しい気もした。
 
『ま、ルーファの分はちゃんと頼んどくよ。ちなみに、もし莓じゃなくて違うやつになっても、文句は聞かないぞ』
『もちろん!マーガレットのお菓子に、文句なんて言うはずがないじゃあないか!』

 先ほどの怒った調子はどこへやら、子猫のように機嫌のいいルウだった。

『じゃあ、レポートの邪魔しても悪いから、そろそろ切るよ』
『うん。突然、ごめんね』
『何を言ってる。こちらこそ、わざわざありがとう』
『そんな、他人行儀だよ』
『親しき仲にも、だろ』

 受話器のこちらと向こうで、同時に笑い声が響いた。

『ちなみに、一つだけ』
『なに?』
『どんなヴィジョンが出たんだ?意味が分かるものだけでも教えて欲しい』
『うーんと…』

 ごそごそと、何かをまさぐる音が聞こえた。

『メモの準備はいい?』
『そんなこと、わざわざメモしなくても忘れないよ』
『でも、凄く複雑なんだけどなぁ…。えぇっとね、まず、【遠い昔に別れた人】』
『うん』
『で、【最近別れた誰か】』
『は?遠い昔なんじゃあないのか?』
『だから言ったでしょ?僕も、なにがなんだか分からないって。それに、凄く複雑だとも言ったよ』

 確かに、とリィは頷いた。

『悪かった。続けてくれ』
『うん…。後はね、【薔薇の館】【小さな女の子】【森と湖】【博物館】【王冠】【黒い自動車と黒い服の男】…これくらいだね』
『【薔薇の館】は、ドレステッドホールのことだろうな。あとは…さっぱりだ。ルーファは?』
『お手上げ』

 やはり簡潔な返答だった。

『一番最後は…なんとなく想像が付く。多分、僕達が一番関わりたくない種類の人間のことじゃあないかな』
『ああ、同感。王冠も、ひょっとしたらその暗示かな?』
 
 黒塗りの自動車に乗った、黒いスーツを着た男達。
 かつて、何度となく二人の前に現れ、そしてその度に迷惑をかけていった人間が所属している組織と、おそらく似たり寄ったりの組織の人間だろう。そして、王に近しい身分の人間の使い。要するに、政府の息のかかった種類の人間ということだ。

『あいつらも懲りないなぁ』
『まぁ、まだ彼らと決まったわけじゃあないけど…。散々脅してあげたのに、まだ足りなかったのかなぁ…』

 げんなりとした二人の声である。
 しかし、確かにこれだけで、政府が二人に接触をしてくると読むことは出来ない。それに、もしもそれだけのことであれば、もっと正確で読み取りやすい結果が出ていてもおかしくないのだ。
 リィは、気を取り直したように言った。

『あとは?』
『【博物館】は、前にも出たことがある。文字通り博物館を指すこともあったし、とんでもなく古い何かを差して博物館の札が暗示として出ることもあるんだ。これだけじゃあ、なんとも…。他のも、右に同じくだね』
『ふぅん…。ま、とりあえず分かったよ。連中が俺達に用があるってことは、それだけで碌なことじゃあないのは間違いないんだ。要するに、用心しろ、と。そういうことだな』
『エディの場合はやり過ぎに用心した方がいいのかもしれないけどね』

 努めて明るい声を出しながら、ルウはそう締めくくった。

『じゃあ、何かあったらすぐ連絡する』
『ちゃんと指輪は付けておいてね』
『ああ。剣もちゃんと持ち歩くさ』
『アーサーにはばれないようにね…って、そんなこと言うまでもないか。じゃ、とりあえず今日はこれで。おやすみ、エディ』
『おやすみ、ルーファ』



 
 ※後書き
 多分、呼び方とかに間違いはないと思うのですが…。なにぶん、うっかりだらけの作者です。もし不自然なところに気づかれた方がおられましたら、ご一報いただけると喜びます。



[6349] 第二話:再会
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:42
「そんなことが…」
「黙っていたのは悪かった。いらぬ心配をかけたくなかったっていうのもあるし、正直に言うならば大したことじゃあないと思ってたから」

 リィは素直に己の非を認めて、ぺこりと頭を下げた。
 かつて、政府絡みの厄介事で、リィの身にどのような災難が降りかかったのかを知っているシェラは、その表情をずいぶん強張らせていた。彼が、その、銀色の月の如き美貌を曇らせるのは、いつだって自分以外の大切な人のためだ。
 しかし、口に出してはこう言った。

「そうですね。このように大切なことを隠しておかれたなんて、大変ショックです。穴埋めに、今度、とても美味しいと評判のケーキ屋さんに付き合ってもらいますから、覚悟しておいて下さい」
「げっ、本気か?ちぇっ、わかったよ…それにしてもシェラ、言うようになったなぁ」

 シェラにとってみればほんの軽い冗談のつもりかも知れないが、しかしリィの眉はかなりの急角度で顰められていた。
 それでも、それ以上の謝罪は不要であるという意志は汲み取ったのだろう。リィは気を取り直したように続ける。

「一応、みんなの安全も含めたところで気を配っていたんだ。でも、この三日間、政府の人間はおろか、不審者の一人だって彼らに接触することはなかった」
「しかし、ルウの手札は、貴方がこの家に滞在している間に何かが起きることを指し示している」
「そうだ。だから、何かが起こるとすれば今日しかない。なら、少しは気を揉まない方がおかしいってもんだろ?」

 今日、といってももう陽も高い。あと数時間もしないうちにこの星を発たないと、予定日に連邦大学に到着するのは難しくなってしまう。一日二日里帰りが長引いたくらいで、進級に響くようなことはない。少なくとも、普段の学業態度は、成績も含めたところでそれ程悪くはない二人である。しかし、ルウの占いにリィの帰省中に事件が起きると出た以上、それは今日中に起きるのは決まり切っているのだ。
 それでも―――それでももし、今日何も起きなかったら?
 リィにとって一番恐ろしいのは、自分の目と手の届かないところで、彼にとっての大切な人が傷つくことである。

「リィ。もしお許し頂けるならですが、私がしばらくここに残って、皆さんを護衛した方がいいのではないでしょうか」

 無論、今日中に何も起きなかった場合のことである。
 リィは、シェラの申し出に、首を横に振って応えた。

「馬鹿を言うな。お前にだって、お前の生活がある。確か、裁縫科の連中に頼まれてたパッチワークの期限、今週末なんだろう?」
「…そちらはなんとかします。今は、この家の方々の安全の方が重要でしょう」
「考えすぎだ、シェラ。ルーファが何かあると言ったら、必ず何かあるんだ。だから、気を張っていなければいけないのは、今日、俺達がこの家を離れるまで。もしそれまでに何にも起きなければ、それはルーファの占い自体が見当違いだったのか、それとも手札を読み違えたのか、どちらかだ。いずれにせよ、俺達がこの家に留まらなきゃいけない理由はない」
「リィ…」
「案外さ、何も起きないんじゃないのか?俺達は、世にも珍しい大事件の目撃者になれるかも知れないぞ」

 リィは、無理矢理に作った笑みを、シェラに向けた。
 確かに、あのルウが占いを外したとなれば、間違いなく一大事である。少なくとも、惑星ボンジュイに住む人外連中は、茫然自失に陥るか、頭っから信じないか、それともこの世の終わりを確信するか。いずれにせよ、からかいや慰めや苦笑いなどの至極当たり前の反応は誰一人からも返ってこないだろう。
 そして、リィはといえば、相棒の占いが外れるなんて少しも考えていない。
 だからこそ、狩りに備える狼のように、四肢から髪の毛の先に至るまでを緊張させて、想定外の事態にも出遅れないように気を張っているのだ。
 ごくり、と、シェラは唾を飲み込んだ。壁に掛けられた、時代遅れの古時計の短針を眺める。彼らがこの家を発つ時刻まで、あと三時間を切っていた。

「あと、三時間…」
 
 シェラは、思わず呟いた。
 リィは、窓ガラスに映る己の緑玉が如き瞳を、じっと見つめていた。



「じゃあな、エドワード。向こうでも身体に気をつけるんだぞ」
「俺が身体を壊したことなんてあるのか?あるんなら、俺が聞きたいくらいだ。それと、エドワードは止めろ、アーサー」
「確かに、風邪やら病気やらで身体を壊したことはなかったな。しかし、怪我でひやひやさせられたことは一度や二度じゃあないはずだが?それと、ぼくをアーサーと呼ばないでくれ。だって、ぼくはお前のお父さんなんだからな」

 もう、お決まりといっていいやり取りである。シェラも慣れたもので、険を含み始めたリィの横顔を見て見ぬ振りをしながら、マーガレットやデイジー・ローズにお別れの挨拶をしていたりする。

「どうもお邪魔しました、マーガレット」
「ううん、何が邪魔なものですか。とっても楽しかったわ」

 銀色の髪をした天使と、天使のような幼さを残した夫人が、大声で口論を続ける―――といっても大声を張り上げているのは片方だけなのだが―――遺伝的には粉う事なき親子の傍らで、にこやかに別れの挨拶を交わしていた。
 シェラの手には、華やかな刺繍の施されたクロスで包まれた小包が抱えられている。その、小包と呼ぶにはやや大きすぎる包みの中には、先ほどシェラとマーガレットが協力して焼き上げた色取り取りのパイやケーキが詰め込まれている。無論、連邦大学にて首を長くして金銀天使の帰りを待ち侘びている、黒の天使へのお土産だ。
 シェラはもともと、料理や菓子作りを好む少年だった。理屈ではなく、自分の手が何かを生み出すということが楽しいのだ。ただでさえそうなのだから、自信の作品を食べてくれるのがルウのように親しい人間であれば嫌が応にも力が入る。まして、マーガレットは彼にとっての菓子作りの師匠と言っても過言ではない存在だから、彼女の前でいいところを見せようと、いつもよりも多少作りすぎたとしてもそれは仕方のないことなのである。
 そんな理由がいくつか重なって、シェラが小脇に抱える包みは、ちょっとした旅行カバンの中には到底入りきらないような大きさになってしまっていた。
 そんなシェラを少し心配そうに見ながら、マーガレットは言った。

「ねぇ、シェラ。こんなに持って帰って、ちゃんと食べられる?きっと、リィはちっとも頼りにならないと思うんだけど」
「ええ。この点に関して言うならば、リィはちっとも頼りにならないでしょうね」
「じゃあ、貴方とルウだけで食べるの?」
「まさか。いくらルウでも、これは多すぎますよ。私もそれほど食べる方ではありませんし…。そうですね、余った分は…寮の友人にでも配るとします」

 『余った分は…』の後で真っ先に思い浮かんだのが、愛想の欠片も無い端正で無口で冷たい、同じ世界出身の誰かさんの顔だったことは努めて意識から追い出し、シェラは少しぎこちない笑みを浮かべた。そんなシェラの内心の葛藤には気づかぬふうで、マーガレットは手を合わせて微笑んだ。

「それは良い考えね。じゃあ、伝えておいてくれる?いつもリィが迷惑をかけてごめんなさい、これからも彼にとっていい友達でいて頂戴ね、って」
「マーガレット、リィは誰かに迷惑をかけるようなことはしませんよ」

 あくまで、その誰かがリィに『迷惑』をかけることさえなければ、の話だが。シェラは心の中で苦笑した。

「でも、その言葉は伝えておきます。きっと、みんな喜んでくれるでしょう」
「そうね。そうだと素晴らしいわ」

 マーガレットはほんの少しだけ背を曲げて、シェラの滑らかな額の上にキスを落とした。シェラも、マーガレットの頬に軽く唇を触れさせた。

「それじゃあね。また、いつでも帰ってきてね」
「はい。また近いうちにお邪魔させて頂きます」
「違うわシェラ。お邪魔するんじゃないの。帰ってくるのよ」

 シェラの喉で、言葉が詰まった。

「マーガレット…」
「ここはもちろんリィの家よ。でもねシェラ、ここはもう貴方の家でもあるの。自分の家に『お邪魔する』なんて、変な言葉遣いだと思わない?」
 
 シェラは、少しだけぎこちなく微笑んだ。こういう無償の優しさには、些か慣れていない彼だった。

「…ええ、そうですね。また、近いうちに帰ってきます」
「待ってるわ。また一緒に、お菓子を作りましょうね。ふふ、貴方と一緒に作るとお菓子の出来がいいのよ。やっぱり、腕の良い先生がいると違うわね」
「何を仰るんですが。私など、まだまだあなたの足下にも及びませんよ」
「そうね、見慣れない調味料の使い方なら私の方が上手だけど…。それも、一回使い方を教えたら、全部自分のものにしちゃうんだもの。神様って不公平よねぇ」

 マーガレットは、くすくすと微笑んだ。その薔薇色の頬が、沈みゆく斜陽に照らされて、さらに赤く色づいていた。
 シェラはそれを眩しいものを見るように眺め、それから軽く一礼した。

「おい、シェラ。そろそろ行こう」
「はい、リィ。それでは皆さん、お体に気をつけて」

 いまだ口論の興奮が冷めていないのか、少し鼻息の荒いアーサーと、小さな掌をひらひらとさせて二人を見送るマーガレットと、暮れなずむ太陽に染められた二人の髪の毛を宝石のように眺めるデイジー・ローズの三人が、一対の天使を見送った。ドミューシアとチェイニーは早くも背中を向けて、屋敷の方に向かっている。何か、見たいテレビの番組でもあるのかも知れなかったし、こういう別れの場面が、例え一時的なものにすぎないと分かっていても苦手なのかも知れなかった。
 そんな、どこにでもある、ありふれた別れの挨拶を済ませたリィとシェラは、屋敷の入り口に止められたリムジンの方に歩いていく。白く艶やかに塗装されたリムジンの傍らには、ヴァレンタイン家の執事であるメドウズが、しっかりと背筋を伸ばしながら立っていた。初老の老人であるが、しっかりと着こなされた衣服には一分の隙もなく、白髪の交じった髪の毛はきっちりと撫でつけられ、その身ごなしはどこからみても天性の執事としか言い様のないものであった。
 そんな彼に、リィは手をあげることで挨拶をした。如何にも気軽で、そしてリィらしい挨拶に、メドウズは几帳面なお辞儀をして返礼した。

「メドウズも、もう少し気さくに接してくれると有り難いんだけど…」
「あの方は、どこか懐かしいですね。実は、私もああいうふうに振る舞えた方が気楽でいいのですが…」

 どこまでも使用人気質の抜けないシェラである。
 そんなシェラの申し出に、リィは無慈悲な返答をした。

「駄目。お前が俺にそんな態度を取ったらどうなると思う?物凄く浮くぞ、俺達」
「それはそうですが…。二人きりの時くらいはいいのでは?」
「二人きりの時は、あの頃からリィって呼んでただろ。…ま、それは置いといて、だ」

 シェラは、隣を歩く少年の纏う空気が変質したのを、敏感に感じ取った。
 それは、劇的と言っていいほどだった。まるで突然何の前触れもなく、そこに途方もなく美しい野生の獣が現れたような、寒気と高揚感を綯い交ぜにしたような感覚である。

「…結局、何もありませんでしたね」
「気を抜くな。間違いなく、何かある。それも、俺達がこの屋敷の敷地から出るまでに、だ」
「何故分かるのですか?」
「項の辺りがちりちりする。なるほど、こんなの初めてだよ」

 ふと横を向いたシェラの目に、ぴりぴりと逆立ったリィの項の毛が見えた。
 シェラは、ごくりと唾を飲み込んだ。口中が、からからに乾いていた。

「リィ…」

 シェラ自身、その後に何と続けるつもりだったのか分からない。
 しかし何を言うつもりであったとしても、彼はその目的を達することは出来なかっただろう。何故なら、彼の視線の先に立つ黄金の戦士が、戦場に立つ戦士さながらに殺気だった様子で、ぴんと立てた人差し指を唇に当てたからである。
 それを見て、シェラははっとした。

「…聞こえるか、シェラ」
「…はい。車、ですね。それもかなり排気量の大きい…」
「近づいてくる。間違いない。こいつだ」

 その言葉が終わらないうちに、ドレステッド・ホールの広々とした門の前に一台のリムジンが止まった。それは、ヴァレンタイン家のリムジンとは好対照の、漆黒に塗装された豪奢な車体のリムジンであった。
 音もなく運転席のドアが開き、車体と同色のスーツを纏った大柄な男が姿を現した。
 大柄な、男だった。ほとんど真四角の厳めしい顔、刃物のように細く鋭い目つき、短く刈り込まれた蜂蜜色の髪。スーツの袖から覗く拳は岩のようにごつごつとしていて、肩幅は広く、視線の配り方や身の置き方には一分の隙もない。
 顔の造り自体は意外に若々しく、まだ青年と呼んでも差し支えないような歳の頃に見えたが、しかしどこからどう見てもデスクワークで身を立ててきた種類の人間には見えなかった。
 その男の鋭い視線が、リィの視線と交わった。
 リィは、ほんの少しの興味と、それ以上の敵意を綯い交ぜにした無遠慮な視線で男を射貫いたが、しかし男に怯えた様子は見当たらない。
 シェラは、内心で嘆息した。彼の知人を除いたところで、この世界にもこれほど剛胆な人間がいるのかと思った。

「失礼ですが、当家に何か御用でございましょうか」

 いつの間にか門のところまで駆け寄っていたメドウズが、執事の役割として、見知らぬ客の応対をする。如何にも堅気に見えないその男を前にしても、少しも怯えたところを感じさせないのは流石というべきであった。
 男は、門のすぐ外で立ち止まり、武骨に頭を下げ、そして言った。

「このような時間に、事前に連絡を入れることもなく伺った非礼をまずお詫びさせて頂きたい。その上で尋ねたいのだが、こちらがヴァレンタイン卿のご自宅で間違いなかっただろうか」

 男の声は、その外観に似合った、地の底から響くようなバスである。肝の細い人間であれば、その声を聞いただけで居竦んでしまうだろう。
 しかし、メドウズは臆した様子もなく応えた。

「然様でございます。失礼ですが…」
「申し訳ない。重ねて非礼をお詫びするが、私は身分も姓名も明かすことが出来ないのだ」

「ふーん、人の家を訪ねておいて名前も明かせないなんて、非礼で済ませられるものじゃあないと思うぞ」

 男は、初めてぎょっとした表情で、声のほうを向いた。
 そこは、彼のほとんど目の前だった。巨漢と称していいだろう彼の視界の下限に、金色の髪をした、天使のような少年が立っていたのだ。
 男は慌てたように数歩後ずさり、腕を上げて構えた。握り拳で頭部を挟み込む、近代格闘技においてはスタンダードと言っていいスタイルの構えである。それも、付け焼き刃などではなく、しっかりと板に付いた構えであった。
 その様子を見て、天使のような微笑みを浮かべた少年は、獣が唸るような声で、ぼそりと呟いた。

「やるのか?」
「…やらない。それは、今の俺の任務ではない」

 ゆっくりと構えを解いた男の低い声は、やや擦れていた。
 男の額に、大粒の汗が浮かんでいた。彼の長い軍属経験において、任務中にここまでの接近を許したのは初めてだった。
 目の前にいるのは、見た目通りの少年ではない。男は、その認識をあらたにした。

「…君が、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインか?」
「…やはり目的は俺か。全く、お前らは一体何度痛い目にあったら気が済むんだ?何度も何度もあいつを止める俺の身にもなってみろ。それと、その名前で俺を呼ぶな。俺は、自分の名を名乗ることも出来ない無礼な奴に、俺の名を呼ぶ権利を与えた覚えはない」
「なるほど、聞きしに勝るじゃじゃ馬らしい。そして何より質が悪いのは、その大言壮語に似合うだけの実力を兼ね備えていることだろうか」

 男は、軽く頷いた。もう、どこにも狼狽した様子は無かった。
 シェラが、緊張した面持ちでリィの横に立った。その手には、一族独自の獲物である、鉛玉と銀線が握られている。その後ろで、メドウズが色を失った顔で立ち尽くしていた。剛胆な彼であっても、全く予想だにしなかった事の成り行きについて行けていないようだ。
 男は、最早メドウズには一瞥もくれず、シェラの方を一瞬だけ眺めてから、今度はさっきよりもはっきりとした声でこう言った。

「何か勘違いをしているようだから断っておくが、私の目的は君ではない。私は、グリンディエタ・ラーデンという人物に会いに来た」
「何っ!?」

 予想外の言葉にリィは軽く眉を動かしただけだったが、シェラは大きな声で叫んでしまった。これで、しらを切り通すという選択肢は失われたといっていい。シェラは、己の失態に唇を噛んだ。

「やはり、知っているのか。君に聞くのが一番手っ取り早いという話は、間違いではなかったらしいな」
「…その名前をどこで聞いた」

 リィが低い声で尋ねる。
 男は、リィの殺気をかわすように、軽く肩を竦めた。

「―――おいおい、そんなに怒らないでくれ。君が曰く付きの人物であることは聞いている。無論、詳細は知らないがね。こんな、飛びきり美しい以外はどこからどう見ても普通の少年が、超一級の機密事項なんだぞ。お前、一体何をやらかしたんだ。きっととんでもないことをしでかしたんだろう?こう見えて、俺は臆病で有名なんだ。そんな顔で睨みつけられたら、寿命の十年位は簡単に縮まっちまうよ」
「…はぁ?」

 リィは、思わず素っ頓狂は声を上げた。それほどに、男の態度の豹変具合はすさまじいものがあった。
 先ほどまで険しかった顔つきが、急ににこやかに笑い崩れている。そうすると、もとの厳めしい表情とのギャップもあって、奇妙なほどに人懐っこい容貌になる。まるで、酒に酔っぱらった陽気な熊が、自由自在に人語を語り始めたような塩梅である。
 
「名前を教えられないのは、それも任務のうちだからだ。尊敬する父ちゃんと母ちゃんからもらった名前だからな、別にやましいところがあるわけでもなし、ちゃんと名乗りたいのは山々なんだよ。勘弁してくれないか?」
「分かった。人にはそれぞれ立場というものがある。一応の配慮はしよう」
「助かる」

 男は気安く頭を下げた。

「しかし、俺のことを名前で呼ぶことまで許可したつもりはないからな」
「ああ、わかってるさ。俺だって、任務が終わったらさっさと帰りたいんだ。家の冷蔵庫の中に、突いたら凍っちまうくらいに冷えたビールが入ってる。手早く終わらせて、それを煽って、そしてベッドに直行するんだ。それが、俺の人生の喜びだ。それに比べて、全く、お前の目の前に立っていると、猛獣の檻の中に突っ込まれた時のことを思い出していけねえ」

 急に、伝法な口調になった男が、鼻の頭を掻きながら笑った。

「じゃあ、さっさと任務を終わらせて帰るといい」
「ああ、そうさせてもらいたいね。だからさ、グリンディエタ・ラーデンってえ奴に会わせてもらえると嬉しいんだがね」
「だから、俺の名前を呼ぶことは許可していないと、そう言ったはずだが?」

 男は、その小さな目を丸くした。
 シェラは、相変わらず警戒は緩めないままで、目の前の男に少しだけ同情した。

「…お前さん、確かエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインってえ名前じゃあなかったのかい?…いけねえ、またやっちまった。悪いなぁ、俺、頭が悪いんだよ」
「謝罪を受け入れよう。そして、あんたの疑問に答えると、俺はエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインであり、そしてグリンディエタ・ラーデンでもある。両方、正式な俺の名前だ」
「はぁ…。そりゃあまた…」

 男は、無遠慮な視線で、リィの爪先から頭の天辺までをじろりと眺めた。
 今更ながらに、男の身長は、おそらくキングの長身よりもなお頭一つほどに高い。おそらく、リィが今まで直接出会った人間の中で、一番大きいのではないだろうか。
 そんな男を、見上げるようにして、リィは言った。

「あんた、でっかいな。…何喰ったら、そんなに大きくなれるんだ?」
「さぁ?目の前にあるものは、あるだけ喰ってきた。甘いも酸いも、辛いも苦いもだ。おかげで、少々腐った食い物くらいじゃあ腹を下さない。全く、便利な身体だよ」
「それじゃあ、俺はあんたほどは大きくなれない」
「ほう。腐ったものは駄目かね?」
「いや、それくらいは問題無い。でも、甘いものだけは駄目なんだ」

 男は、まじまじとリィの顔を見つめた。

「ふーん、お前さん、女の子みたいに可愛らしい顔してるのになあ。どっちかっていうと魂の方が本物か」
「あんた、魂が見えるのか?」
「いや、これは語弊があった。魂なんて見えないが、しかし向かい合えば、雰囲気っつうか気合の色っつうか…。お前さんのは、獰猛な狼だな」
「それも俺の資料に載ってたのか?」
「いや、俺はそこまでしっかりと資料を読み込む方じゃあないからなぁ」

 男は、顎の辺りをぽりぽりと掻いていた。
 シェラは、ほとんど唖然としながら、その魁偉な容貌の男を、見上げていた。リィの、輝かしい美貌からも、そして猛々しい獣性からも目を背けず、しかししっかりと相対することの出来るこの男は一体何者かと、心底警戒した。
 間違いない。この男が、ルウの占いに出た『おかしなこと』なのだ。

「で、お前さん―――いや、こんな呼び方で済まないんだが…」
「なら、俺のことはリィと呼んでいい」
「あー…そりゃあ嬉しいんだがねぇ。やっぱり、こっちの名前を教えないでお前さんの名前だけ呼ぶのは失礼な気がするからさ、遠慮しとくよ」
「そうか。なら、あんたのいう任務ってやつを、さっさと終わらせたらどうだ?」
「そうだな。そうすりゃあお前さんも俺も、晴れて自由の身になれるってもんだな」

 男は苦笑して、そして言った。

「お前さんに会わせたい人間がいるんだよ」
「俺に会わせたい?」
「正確に言やあ、お前さんに会いたいって言ってる人間だな」

 リィは小首を傾げた。
 自分が目立たない人間ではないと言うつもりはないが、しかしここまで大仰な真似をされてまで誰かに面会を求められる覚えもない。
 
「不味いか?」
「うーん、実際に会ってみないとなんとも…。当然、そいつの名前も言っちゃあ駄目なんだろ、あんた」
「いや、別に問題はないが、当人に止められてる。絶対に、自分の名前をあんたに伝えないでくれって」
「はぁっ?」

 自分の名前を伝えないでくれ。それはつまり、自分の名前を伝えれば、何らかの不利益があるからに違いないだろう。例えば、その名前を聞いただけでリィが飛んで逃げだすとか、そういうことだ。それが事実かどうかは別にして、当人はそう思っているのだろう。
 リィ自身、人から恨みを買わずに生きてきたなどと、聖人君子のようなことを到底口に出すことは出来ない人生を送っている。侮辱や攻撃には、相応以上の報復は欠かさなかったからだ。そして、この世には因果応報という言葉の意味を弁えない輩が数多くいることだって弁えている。
 今までの会話を黙って聞いていたシェラは、こっそりとリィに耳打ちをした。

「…リィ。正直に申し上げて、きな臭い気がします。ここらで引き上げて、ヴァレンタイン卿に後の処理を任せた方がいいのでは?」

 いわゆる普通の異常者やら犯罪者やらを相手にするには、年長のアーサーと警察機構に任せた方が話は丸く収まる。彼らの対応が薬物療法による長期治療なら、リィやシェラのそれはメスや鉗子を用いた外科的療法による短期治療だ。非常事態には効果的だし、その効果は劇的だが、しかしその分反動がすさまじい。間違いなく、何らかの隠蔽工作が必要になるのである。
 リィは、そんなシェラの助言に、小さく頭を振った。

「確かにお前の言うとおりなんだろうけど、ここまで来ると俺にも興味が湧いた。そもそも、ルーファだって、占いの結果が凶兆だとは言わなかったんだ。あいつが読めない未来なんて、そうそう拝めるものじゃあない。ここはいっちょ、腹を据えて拝んでみようじゃないか」
「リィ…。わかりました、最後までご一緒させて頂きます」

 溜息混じりにシェラは言った。もう、こうなるとてこでも意見を曲げないのがリィという人間である。それは、彼が王妃という要職に就いていたときからの付き合いのシェラにはわかりきっていることだった。
 もしもの時はせめて自分がこの人の盾になるという気で、シェラはリィの傍らに控えた。

「じゃあ、とりあえずそいつに会ってみるよ。連れてきてくれ」

 男は、安心したように息を吐き出した。

「助かる。会わないって言われたらどうしようかと思ってたんだ」
「連れてきてるのか?」
「ああ、後部座席に乗ってる。呼んでいいか?」
「いいって言ってるだろ」

 少し不機嫌なリィの声に、男は苦笑で応えてから、門の脇に停めたリムジンの方まで歩いて行った。そして、後部座席のドアを開けて中を覗き込み、そして言った。

「おう、会ってくれるってよ」
「そうか、ヴォルフ殿にはご迷惑をおかけした」

 それは、少女の声だった。
 当然、リィの知らない声だった。
 
「シェラ。今の声、聞き覚えはあるか?」
「いえ、全く」

 しかし、どこにも敵意の籠もっていない声である。それどころか、おそらくは初対面の相手と顔を合わせる前だというのに、どこにも緊張した様子がない。
 伸びやかな、いっそ暢気といってもいい声だった。伸びやかな声で、ヴォルフと呼んだ大男と会話を続けている。

「なあ、嬢ちゃん。一応言っとくけど、お前さんが会いたがってる奴は一筋縄じゃあいかない難物だぜ?本当に、あれが嬢ちゃんの会いたがっていた恋人なのかい?」
「ふむ。もし、いかにヴォルフ殿であっても容易くあしらうことが出来るようであれば、それは俺の探していたグリンディエタ・ラーデンではないということだ。そして、恋人という表現は少々語弊があると思うが」
「ああ、そうだったっけか。ま、どうでもいいや」

 男は、その巨体を後部座席から引き抜き、そして忠実な執事のようにドアの横に控えた。
 開け放たれた、後部座席のドア。
 そこから、一人の少女が姿を現した。
 白い花柄のワンピースを身に纏った、小柄な少女であった。

「―――っ!!!」

 シェラは、隣で立つリィの雰囲気が、再び変わったことに気がついた。
 思わず、彼の顔を覗き込む。
 
「リィ…?」

 そこには、まるで零れださんばかりに大きく見開かれたエメラルド色の瞳と、唖然と半開きになった唇があった。惚けたような表情であったが、この人に限ってはそれすらが美しい。
 しかし、彼が、予想を遙かに超えた驚愕に打ちのめされているのは、端から見ても明らかだった。少なくともシェラは、これほどに驚いているリィを見たことがない。
 
「リィ、どうしたんですか!?」
「…おい、うそ、だろ…?」
「リィ!リィ!しっかりしてください!」

 シェラは、相変わらず驚愕の表情を浮かべたまま硬直してるリィの肩に手を乗せた。
 リィは、震えていた。まるで瘧を煩ったように、ガタガタと、細かく。
 シェラは狼狽えた。何か、尋常ではない事態が起きつつあるのは明白だった。
 リィは、あの少女を見た瞬間に、我を失ってしまった。ならば、その少女にこそ原因があるはずである。シェラは、あらためて、リムジンから降り立った少女を睨みつけた。
 
 やはり、知らない顔である。穴が空くほどに見つめても、記憶の琴線に触れることはない。

 上背は、それほどではない。歳の頃は自分達と同じくらいに見えるから、同年代の少女達の中では標準か、やや低いくらいだろう。
 黒い艶やかな髪の毛が、卵形の形のよい顔を飾り付け、そのまま流れ落ちるように腰の辺りまで伸びている。肌は白く、その髪の毛と、そして髪の毛と同色の瞳の色を引き立たせる。淡い桃色に染まった唇は、威厳すら感じさせるような微笑みによって飾られている。

 美貌の、少女だ。

 流石のシェラも、一瞬言葉を失った。それほどに、少女は美しかった。
 しかし、それはただの美しさではないように、シェラなどには思えた。
 美しい。それは間違いない。だが、ただ美しいというだけならば、華やかに自らの身体を飾り立てた少女がいくらでも街中を闊歩しているが、しかしそういう上辺だけの美しさではなく、もっと深いところから立ち昇る、色濃い美がある。
 それは何なのだろう。
 それを考えて、シェラには思い当たるところがあった。

 リィだ。

 リィの持つ、猛々しいまでの美しさ。野生の動物。それも肉食獣のみが持つ、完成された機能美にも似た美しさ。それは、大輪の華の煌びやかさの中に、濡れたように輝く白刃を隠し持っているからこその美しさである。
 それを、この少女からも感じる。しかしそれは、リィと比べても遙かに直接的な、戦う者、戦場に生き場を求める者、戦士としての美である。
 そう思ってから、はたと気づいた。

 ―――この少女を、どこかで見たことがある―――

 一体、どこで。
 腕利きの行者であったシェラが、一度見た人の顔を忘れるということはあり得ない。故に、シェラと少女は間違いなく初対面に違いないのだ。
 しかし、シェラの五感は、その少女のことを知っていると、決してこれが初めてではないと告げている。
 シェラは、ほとんど恐怖にも近いような感情を込めて、少女の瞳を凝視した。
 その、髪の毛と同じ、漆黒。夜空の上に墨を流したような、黒真珠が如き黒。それは、確かにどこかで―――。

「おう、シェラ。壮健そうではないか。些か縮んだようだが、それもラヴィーどのの魔法かな?」
「なっ!?」

 黒髪の少女は、如何にも気安くそう言った。
 シェラの、少し纏まりかけた思考が、何百光年も向こうの銀河系の彼方にまで飛んで行ってしまった。
 無理もない。こちらはあの少女の名前も知らないのに、あっちは自分の名前を知っている。そして、ルウの名前まで。
 これは、一体―――!?

「リ、リィ…」

 シェラは、茫然自失の態で、縋るように傍らの少年の方を振り返った。
 そこには、先ほどよりは幾分か自分を取り戻した、しかしまだまだ青ざめた顔の、黄金の狼が、いた。

「…なんで、お前がここにいるんだ…?」

 物々しい声である。
 それに、黒髪の少女は、肩を竦めながら応えた。
 
「それが、40年振りに顔を合わせた夫への台詞か?」

 40年?
 いや、それよりも、夫?
 この人、リィの夫を名乗ることが許された人間など、この世にはいないはずだ。

 いや、待て。

 いる。

 確かに、この人の夫を名乗ることの出来る人物が、たった一人だけ。
 
 それは、確かにこの世の人ではない。

 この世の人ではないが、しかし―――!

「答えろ!返答次第によっちゃあ、ただじゃあおかないぞ、ウォル!」
「やれやれ、久しぶりに顔を合わせてみればこれか。全く、いつまで経ってもお前は変わらないのだな、リィ」

 黒髪の少女は、その瞳に薄い涙を浮かべながら、しかし本当に嬉しそうに微笑んだ。
 シェラは、今度こそ自分の意識が遠くなるのを感じた。
 彼が最後に見た黒い瞳は、確かに、デルフィニア国王ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの、夜空の如き漆黒の瞳であったのだ。



[6349] 第三話:追憶
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/07 02:59
 男は、なんだか暖かいところを漂っていた。 
 温い、湯と水のちょうど中間温度の液体に浸かっている感覚だが、しかし少しも息苦しいところがない。時折吹いてくる優しい風が、少しばかり火照った身体をちょうどよく冷やしてくれて、心地良いことこの上ないくらいだ。
 ふわりふわりと、足下が覚束ない感覚がなぜだか楽しい。男はうっとりとした微笑みを口元に浮かべていた。雪のように真っ白だった髪がいつの間にか黒々としていることにすら気がつかない様子だ。
 光が、瞼を通って男の瞳に感じられた。優しい、橙色の光だ。冬の朝、分厚いカーテンを突き抜けて部屋の中を淡く照らすような、儚くて優しい光。もういつから感じているのか分からなかったが、しかしいつまでもその光に包まれていたいと思う。
 瞼の奥に、甘い痺れがある。覚醒と睡眠の間を行ったり来たりする、あの甘い感覚。もう五分、あと五分と言って妻を困らせた、宴会の翌日の目覚めのような…。
 時折、全身を穏和な鎖に繋がれているような気がした。一度冷たい鉄の鎖に繋がれたことがあったが、この鎖は、ある意味においてはそれよりもたちが悪い。何せ、反抗しようとする気力が涌かない、いや、むしろ積極的に繋がれていたいとすら思えてしまう。この生温くて良い匂いのする空間に比べて、目を開けた後に待っている世界の、なんと猛々しくなんと恐ろしいこと。
 ここには、何も無い。冷たいもの、痛いもの、歯痒いもの。人の心を突き刺して止まない、尖ったものが何一つ無いのだ。
 男は、幸せだった。もう、何一つ思い出せなくなるほどに幸せだった。少しずつ自分の身体が光に溶けていくのを知っていながら、しかしそれ以上に幸せだった。もしこのまま全てが溶け去って、この世界の一部として永遠に彷徨うことが出来るならば、それは何よりも幸福なことなのではないかと思った。
 男の部分は、もうほとんど残っていなかった。足は溶け、手は消え去り、胴体も半ばまで失われている。普通ならば苦悶でのたうち回らねばならないような惨状の身体で、しかし精悍で彫りの深い顔には平温と安堵の表情しか刻まれていない。母の胸に抱かれた、幼児のような表情で、ただ眠りについている。
 それでも、男は考えていた。
 
 ―――何か。何か、忘れていないか。

 男は、瞼の裏にだけ存在する指を、指折り数えて考えた。遠くに聞こえる潮騒のように穏やかな音が思考を痺れさせていくが、千々に散らばりそうになる思考を必死に寄せ集め、指折り数えた。

 ―――まず、俺は何がしたかったのか。

 ―――昔、昔、ずっと昔だ。もう、五十年近くも前のこと。俺は、何がしたかったのか。

 ―――何かがしたかった。

 ―――血が沸き狂い、はらわたがねじ曲がり、灼熱の吐息が噴きこぼれるほどに、何かを求めた。

 ―――何だった。

 ―――何が、欲しかった。
 
『おれの父も、血のつながらない育ての親だった』

 ―――そうか。お前の父上も、そうだったのか。

 ―――そして、お前もそうだったのか。

 ―――お前も、血が沸き狂い、はらわたがねじ曲がり、灼熱の吐息が噴きこぼれるほどに、何かを求めたのだな。

『他の誰も言わないならおれが言ってやる。黙って殺されたりするな。倒すべき敵を見定めて、一人も逃すな』

 ―――そうだ。そうだな。それが、お前だ。

 ―――その猛々しさが、恐ろしさが。

 ―――冷たさが、痛さが、歯痒さが。

 ―――その鋭さが、お前だ。


 ―――そして、為した。お前と同じように。それだけだ。


 ―――なら、もういいのではないだろうか。

 ―――するべきことは、全て為したのだろう?

『誰がお前を鎖に繋いだ!!』

 ―――ありがとう。

 ―――心の底からそう思った。

 ―――お前は、他の誰よりも、俺のために怒ってくれたんだ。それが何よりも嬉しかった。

『おかしなもんだ。お前の血もうまい。人間なんかまずくて食えたもんじゃないのにな』

 ―――そんなことを言われて喜ぶ人間なんか、地の果てまで探してみろ。

 ―――見つかるものか。

 ―――俺くらいのものだ。

 ―――俺はな、確かに嬉しかったのだ。

 ―――誰も寄せ付けないお前の誇り高さが。そのお前が、俺のすぐ隣で眠ってくれたことが。

 ―――誰が言えるか、そんな恥ずかしいこと。

『化け物と呼んでもいいぞ』

 ―――血に染まった口元。

 ―――崩れ落ちそうになる膝を叱咤しながら、それでも立ち続けた。

 ―――だって、王妃の前で怯えて後退る王なんて、格好悪いもの。

 ―――全部、お前が悪いのだ。全く、どうしてそのような王女を王妃にしようと思ったものか。

『やあ』

 ―――昇る朝日を背負った少年。

 ―――全てがお前なのに、何一つお前じゃあない。

 ―――でも、それはやっぱりお前だった。この世の全てが変わっても、お前だけは変わらない。そんなこと、誰が知らなくても俺だけは知っている。

『ありとあらゆる神々の祝福が、この偉大なる王の上にあるように』

 ―――最後まで非道い奴だ。

 ―――俺は、お前がいなくても王でなくてはいけない。王妃は王がいなければならないが、王妃がいなくても王は王でなければいけない。


 なんたる不公平!


 ―――それでも、うん。

 ―――そうだな。

 ―――だからこそ、お前は帰ったんだな。

 ―――任せろ。この世界は、俺達に任せろ。

 ―――安心して、帰るがいいさ。

『助太刀するぜ』

 ―――何を?

 ―――お前のような小僧に、一体何が出来る?

 ―――逃げろ。逃げないと、お前まで一緒に…。

 ―――一緒に…。

 ―――一緒に…?

 ―――一緒に、なんだろう。

『ぜひともお前に王冠をかぶせてみたくなった』

 ―――お前は。

 ―――俺と一緒にいてくれると言う、お前は。

 ―――何一つ与えることが出来ない俺に、何もかもを与えてくれる、お前は。

 ―――お前の、名前は。

『リィ。友達はみんなそう呼ぶんだよ』


 ―――リィ。


『お前がお前である限り、戦士の魂を忘れないでいる限り、お前が国王だ』


 ――リィ。


『そういう意味なら、お前がおれのバルドウだな』


 ―リィ。


『おれは、おれのバルドウを勝たせるまでは、後に引く気はない』
 
 そうだ。

『決まってる。お前がおれのバルドウだからだ』

 リィ。

 お前だ。
 リィ。お前じゃないか。

『この剣と戦士としての魂に賭けて』

 そうだ。
 
 俺は。

 俺は、俺の剣と、俺の戦士としての魂に賭けて。

 お前と、もう一度。

 もう一度。

 

 ごぼり、と、何も無い空間に泡が立った。
 首だけになった精悍な顔が、ゆっくりと瞼を開いた。
 そこには、夜空のように漆黒の、猛々しい戦士の瞳があった。

「あーあ残念、目覚めちゃったのね」

 首だけになった男の前に、幼い少女が浮かんでいた。橙色の優しい光を背景に、何も無い空間をぷかぷかと漂っている。
 男にとって、見たこともない少女だった。白い髪、色素の薄い肌、ごく薄い茶色の瞳。
 儚い、という言葉では表せないほどに色の淡い、少女だった。病弱な印象を通り越して、幽玄ですらある。
 そこにいるのに、そこにいないような。
 一目で、現世の人間ではないと、そう確信した。
 
「…君は?」
「私は、そうね、化け物かしら」
「そうか、化け物か」

 男は平然と頷いた。

「驚かないの?それとも、嘘だと思った?」
「いや、君が嘘を吐いているとは思わんし、それなりに驚いてもいる」
「そうは見えないわ」
「免疫があるからな。しかし、その化け物である君が、一体こんなところで何をしている?」
「私?私はね、あなたを食べようとしていたのよ」

 少女は、くすくすと笑いながら言った。
 男は、真剣な声で尋ねた。如何にも不思議そうに。

「どうして人などを食べようとする?」
「どうしてって?」
「人などうまいものではない。俺の妻が言っていた」
 
 少女は目を丸くした。丸くして、それからお腹を抱えて笑い始めた。

「ええ、ええ、その通り!人なんて美味しいものじゃあないわ!」
「では、何故君は人を喰うのだ?」
「人を食べるんじゃないの。私はあなたを食べるのよ。だってあなた、とっても美味しそうなんだもの」

 今度は男が笑った。

「君は、妻と同じことを言うのだな」
「同じこと?」
「妻もな、俺の血を舐めてうまいと言った。人などまずくて喰えたものじゃあないと言いながら、俺の血はうまいと言ってくれた」
「…そんな人を奥様にしていたの?」
「自慢の妻だ」
「…ひょっとして、さっき言ってた免疫って…」
「まったく、あいつと一緒にいて驚かされなかったことなど一度足りとて無い」

 男は大真面目に頷いた。
 少女は、男の瞳をまじまじと見つめて、それから盛大に溜息を吐き出した。

「…あなた、よくこんな状況で惚気ていられるわね」
「こんな状況?」
「もう、あなたは首以外の全てを私に食べられちゃってるの。もう少しで、頭も丸ごと頂いちゃうわ。なのに、怖くないの?」
「それは困る」

 正しく手も足も出ない様子の男は、まじめくさった口調で言った。

「俺は、死ぬわけにはいかん」
「おかしな人。あなたはもう死んでいるのよ」
「それでもだ。俺は、あいつともう一度会うまでは、どうしても死ぬわけにはいかんのだ」
「あいつ?」
「俺の妻だ」
「何で会いたいの?」
「夫が妻に会いに行くのに、理由などいるものか」

 男の言葉に、少女は大きく頷いた。
 全く、男の言葉は正しい。

「やっぱりあなた、いい男だわ」
「ありがとう」
「でも、それだけに手放すわけにはいかないわね」

 少女の声に、何か怖いものが混じった。
 男の存在しない背筋を、ぞくりと冷たいものが走り抜けた。

「ふふっ、ホントは優しく蕩かしてあげようと思ってたんだけど、あなたみたいに綺麗な人なら悲鳴だって美味しそう。もう、飛びきり残酷に噛み砕いてあげようかしら」

 少女は、頬を引き攣らせるように嗤った。
 めしめしと、少女の内側から低く鈍い音が響くのを、男の聴覚が捕らえた。
 男の目の前で、少女の顔が変形していった。
 鼻が前に突き出て、口が耳元まで大きく裂け、その端から剣山のように細かく生え揃った牙が覗いた。牙の先には粘ついた唾液が絡みつき、肉の腐ったような吐息が擦れて奇妙に高い音が鳴る。
 明らかに、人の笑みではなかった。
 猛獣のような、笑みだった。
 それを見て、男は大きく溜息を吐き出した。

「困った」
「…何が?」
「いや、これはいよいよ手詰まりらしい」
「当たり前よ。だって、あなたはもう、手も足も付いていないのだから」
「そんなことは関係ない」

 男は、そう言った。
 きっぱりとした口調だった。

「手が無かろうが足が無かろうが、関係ない。この俺には、まだ口がある。牙がある。ならば戦える」
「私に勝つつもり?」
「俺はバルドウだ。化け物だろうが悪魔だろうが、誰にだって負けるものか」

 はったりにもならないはったりを、男は口にした。
 女は、剥き出しにした牙をそのままに、きょとんと目を剥いた。

「…バルドウって何?」
「…君のような化け物が、バルドウを知らんのか?」
「とんと聞いたことないわ」
「おかしいな。有名な神の名前なのだが」
「ふーん。私って結構神話とかには強いつもりなんだけどなぁ。そういう家の生まれだったし」
「なら、なおのことおかしい。バルドウは、こんなに小さな男の子だって知っているほどに有名な神様だぞ」

 男は、自分の腰の辺りに手をやろうとして、その両方がすでに無いことに気がついた。
 なんともばつの悪い顔になった。 しかし、どこかでなぞったことがあるような、そんな会話であるように男などは思った。

「…まぁ、いいわ。なら、そのバルドウ様が何故困っているの?」
「いや、もしこのまま君と戦うとする。当然、俺は勝つだろう」
「…ええ、そうね。なんだかそうなるような気がしてきたわ」
「そうすると、君を倒した俺は、いよいよ自分が今どこにいるのかがわからなくなる。俺は妻に会いたいのだがな」

 ふーむ、と男は唸った。
 うーん、と少女も唸った。

「それは困るわね」
「ああ、とても困っているのだ」
「なら、助けてあげようか?」

 少女は、恐ろしげな顔をそのままに、言った。

「いいのか?」
「気紛れよ。いやなら止めとくけど」
「いや、助かる。大いに助かる」

 手があれば、少女の手を握らんばかりの有様である。
 苦笑した少女は、いつの間にか元の少女だった。白い、抜けるように色の薄い顔が、にこやかに笑っている。

「私の体、貸してあげる」
「体?」
「そう。そうすれば、首だけになったあなただって、奥さんを捜しに行けるでしょう?」
「それはそうかもしれんが…君はどうなる?」
「私はもう、疲れちゃったから。こんな中途半端なところに留まって、あなたみたいに美味しそうな魂をしゃぶったりしているの」

 それは、悪戯好きな少女の顔だった。
 
「では、用が済めば必ず返す」
「じゃあ言い直すわ。私の体をあげる。もともと、使い物にならないおんぼろだもの。文句を言われたって受け付けたくないくらいのね。それより、あなたって男の子でしょう?女の子の体でいいの?」
「そんな些末事、どうでもいい」

 普通の男ならば頭を抱えて悩むような大決断を、男はさらりと切り流した。

「些末事って…そんなの、あなたの奥さんがあなただって気づいてくれないかもよ?」
「それはない。それだけは絶対にない。あいつならば、俺がどのような存在になったとしても一目で気がつくだろう」
「なんで?なんでそう言い切れるの?」
「俺の妻だからな」

 少女は、両手を上げてばんざいのポーズをした。もう降参と、もしくはお腹一杯と、そういう意思表示らしかった。

「しかし…やはり困ったな。そんな大事なものをただでもらうわけにはいかん」
「持ち主があげるって言ってるのよ。欲しくないの?じゃあここから出さないわよ」
「いやいや、それはもっと困る!」

 男は慌てた声でそう言った。
 少女は、白い掌を口元に当てて、くすくすと微笑った。

「じゃあ、やっぱりあげるわ。いらないものだし、それに…」
「それに?」
「あの子には、幸せになってもらいたいのよ」
「あの子?」
「私の体のこと。あれは、きっと私とは別の生き物・・・・・・・・だったの」

 少女の身体が、だんだんと薄れていった、ように見えた。
 それは少女の存在が消えかけているのではなく、男がその空間から弾き出されつつあったからなのだが、しかし男にそんなことは分からない。
 男は、慌てた様子で言った。

「おい、逃げるな。俺は、まだ君に聞きたいことがある」
「なら、一つだけ、許してあげるわ。なんだって、でも一つだけ」

 男は、薄れつつある視界の中で、必死に考えた。
 考えて、たった一つの質問を、口にした。

「君の、名前は?」

 少女は、嬉しそうに頷いた。

「そう。それが、きっと正解ね。でも、何で私の名前なんて知りたいの?」
「恩人の名前を知らずに安穏と過ごす事なんて出来ない。それだけだ」
「損な性格ね。でも、私は好きだな」

 そして、言った。

「私の名前は、ウォルフィーナ」
「ウォルフィーナ?」
「ええ。狼女ウォルフィーナよ」

 男の消えつつある頭部が、感心したように目を開いた。

「いや、こういう偶然もあるものなのだな」
「偶然?」
「俺の名は、ウォルという」
「あら」
「そして、俺の妻は黄金の狼なのだ」

 今度は、自らを狼と名乗った少女が、感心したように目を開いた。
 そして、やはり優しく微笑った。

「じゃあ、やっぱりあなたにあげるわ。あの子、とてもいい子だけど使いにくいの。変身だって出来ないし・・・・・・・・・・
「かたじけない」
「いいって。でも一つだけ条件があるんだけど、聞いてくれる?」
「何でも言ってくれ」

 もう、白い陽炎のようにしか見えない少女は、おそらくは微笑を浮かべたまま、言った。
 消えつつある意識の中で、妙にもの悲しい声だけが聞こえた。
 男は、とうぶんの間は、その声を忘れることは出来ないだろうと思った。


「あの子を愛してあげてね。そして、あの子を愛した人を愛してあげてね。きっとあなたには残酷なお願いだけれども、誰かを愛してしまったあの子を許してあげてね。そして、あの子を幸せにしてあげて。それが、私のお願い」


 ずいぶんたくさんの『一つだけ』もあるものだと苦笑し、そして男の意識は暗い闇の中に沈んだ。



[6349] 幕間:お伽噺
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/08 10:42


 最初に聞いたのは、両親の声だった。

「おい、よくやった、メグ!子供だ、俺達の子供だよチキショウ!」
「ええ、あなたにそっくり…きっと、頭のいい、優しい子になるわ…」
「何言ってるんだ!ほら、目元なんてお前にそっくりじゃないか!この子は美人になるぞ!チキショウ、誰にもわたさねえぞ!この子は俺と結婚するんだ!」
「ふふ、それじゃあ私は捨てられちゃうのかしら?」
「バカヤロウ!俺がお前を捨てれるわきゃねえだろ!俺は、お前と結婚したままこいつも嫁にしてやるんだ!」
「そんな、無理よ。だって、この星の法律では、一人の旦那さんは一人の奥さんしかもてないわ」
「なら、その法律を変えてやる!見てろ、俺はこの星の知事だろうが総理大臣だろうが、なんにだってなってやるんだ!」

 なんだか、よく分からないことを言っていた。
 それでも、何故だか、とても嬉しかったのを覚えている。



 最初に見たのは、両親の顔だった。
 多分、生まれてから二日目のことだ。瞼は重たくて持ち上がらなかったけど、瞼を透過する太陽の光が、二回くらい明るくなってから暗くなったから。

「すげえ!見てみろ、メグ、こいつの瞳!」
「ほんと…なんて綺麗な緑色…まるで、エメラルドみたい…」
「あははは、こいつはすげえ!俺のは茶色、お前のも茶色なのに、この子はこんなに綺麗な緑色だ!こいつ、すげえよ!きっと、神様に愛されてるんだ!」
「…あなた、私を疑わないの…?」
「馬鹿言うな!俺はな、お前を疑うくらいなら、目と耳と口を縫い付けて自分の部屋に閉じこもった方がいくらかましだって思ってるんだ!いいか、メグ!もしも同じことをもう一回でも言ったら、いくらお前でも許さないからな!」
「ええ、ええ、分かったわ、アート。もう、こんなつまらないこと、一度だって口にしない。だから、一度だけ言わせて。ありがとう、あなた」

 初めて見た母の顔は、ビックリするくらいに綺麗で、夕焼けみたいに赤かった。
 きっと風邪でも引いているのかなと思ったけど、何だったんだろう。


 
 最初に話したのは、生まれてから二週間後だった。
 今までだって、散々しゃべりたかったのに、喉が上手く動いてくれなかったのだ。 
 だから、初めて自分の意志を言葉に出来たときは、飛び上がるほどに嬉しかった。

「…お、かあ、さん…」
「…え?」
「お、かあさん…」
「…え、エディ…?」
「おかあさん、だいすき…」
「そんな、そんな、何であなた、しゃべれるの…?」

 母は、何故だかとても怖がっていた。後から知ったのだが、赤子は半年くらいはほとんど何も話せないという。それに、話し始めも「まんま」とか「わんわん」とか、そういう言葉らしい。
 私は、そんなことは知らなかった。それに、私は大抵のことは一度聞けば忘れないのだ。あとはそれを操るだけなのだから、他の皆がどうしてそんなに長い間何も話せないのかわからない。
 そもそも、そんなに長い間自分の意志が伝えられないなら、どうして人は生きていけるのだろうか。子供は、早く独り立ちしないと親に見捨ててられてしまうものだと思っていた。
 私は、父親と母親に認められたくて、必死だった。
 なのに、お母さん。どうして、そんなに怯えた顔をするの?

「おかあさん?」

 どうして、何も応えてくれないの?
 私は、心底不思議だった。


 
 初めて立ち上がって歩いたのは、生まれて一月後のことだった。
 どうしてこんなに不安定な姿勢で移動しなければいけないのか、わからなかった。
 人には四本の手足があるんだ。ならば、その全てを使ったほうが安定するし、第一相応しいじゃないか。ほら、二つしか輪っかのない乗り物よりも、四つの輪っかがある乗り物の方が安定するでしょ?
 だから私は、四本の足で歩く方が好きだな。
 でも、知ってるよ。人間は、どうしたって二本の足で歩く獣なんだ。
 だから、私は二本の足で歩いたの。もう、お母さんを怖がらせたくなかったから。

「おかしいわ、アート!この子、絶対に普通じゃない!」
「落ち着け、メグ!」
「この子、ハイハイだってしなかった…!ハイハイだってしないで、掴まり歩きだってしないで、どうしていきなり歩けるの!?」
「それはこの子が神様に愛されているからだ!こないだ、そう話し合ったじゃあないか!」
「そんなの、私達の子供じゃない!」
「メグ!」
「私が欲しかったのは、私だけの、私達だけの子供よ!神様なんて、そんな訳の分からないものが愛した子供じゃない!」
「メグ、止すんだ!エディだって聞いているんだぞ!」
「いいじゃない!あの化け物に、聞かせてあげればいいんだわ、一体自分が何者なのかって!神様に愛された!?結構じゃないの!それなら、きっと私達の愛情なんて無くったってすくすく成長するんだわ!」
「メグ!」

 ぱぁん、と、何かが何かを叩く音が聞こえた。
 お母さんが、凄い勢いで居間から飛び出して、そのまま自分の部屋に駆け込んでいった。
 途中で、私に目も向けてくれなかった。
 私は、いつまで廊下にいればいいのかな。もう、三日もここにいるのに。そろそろ、お母さんの匂いが恋しいのに。
 お腹も、へったなぁ。



 初めてお客さんが来たのは、生まれてから半年が経った日だった。
 綺麗に髪を撫でつけてぱりっとしたスーツを着た、見るからに人好きのする笑顔の男性が、突然に私の家を訪れた。

「―――どうでしょうか、ヴァルタレン卿。貴方方の愛するご息女にとっても、決して悪い話ではないかと思いますが」
「…しかし、あの子は我々の子供だ。そのように無責任な…」
「ええ、お気持ちはお察しします。しかし、これは厳然たる事実なのです。貴方方が御存じではなくとも当然ですが、悲しいかなごく稀に、エドナ嬢のような子供が生まれてしまう。我々は、それを特異能力者と呼んでいます」
「特異能力者…」
「特異能力それ自体はなんら問題無い。寧ろ素晴らしいことと言ってもいい。通常の人間とは比べものにならない程に高いレベルの能力を生まれ持っているわけですからね。しかし、それが彼女の幸福に直結するかといえば、それはやはり別問題であるといわざるを得ません。もちろん、彼女が特異能力者として生まれたことについて、誰にも責任はありません。貴方にも奥方様にも、無論エドナ嬢ご本人にも、です。重要なのは、彼女という存在を普通の子供と同じような形で社会に溶け込ませたのでは、誰一人幸福にならないと、そういうことです」
「そんな…」
「私とて、このように非道なこと、進んで申し上げたいわけではございません。しかし、考えてみてもください。生まれて二週間で言葉を話し、一月で自在に歩き回る。そのような子供が、他の子供にどのような影響を与えるか」
「…」
「遠からず、彼女は他の子供に排斥されるか、それとも彼女の方から積極的に他の子供を排斥にかかるでしょう。もちろん、それは彼女の責任ではない。それが、人間社会というものの脆弱さなのです。いや、ある面ではそれは自衛機能なのかも知れない。異分子を排除することで群れの遺伝子プールを正常に保つための、ね」
「あの子は…あの子はそんな、化け物じゃあ、ありません…」
「親として、貴方が彼女を信じたい気持は痛いほどによく分かります。私自身、二児の子供です。彼らは、私自身の命にも等しい存在だ。もちろん、貴方にとってのエドナ嬢も同じでしょう。その子が、赤の他人からまるで化け物のような扱いを受けたのでは、憤られるのも当然というものです。もしも私が貴方と同じ立場に立たされれば、このように無礼な客、殴り飛ばして玄関から放り出しているでしょう。私は貴方の寛容に、心から敬服申し上げます。正直に申し上げれば、私は今日ほどに仕事場に出かけるのが嫌だった日もありません」
「…」
「しかし、ヴァルタレン卿。私は、貴方や貴方の娘さんが憎くて、このような事を申し上げているのではありません。そのことだけは、分かって下さい」
「…はい。それは、ええ、わかる…つもりです」
「結構。であれば、よく考えて見て下さい。今後、あの愛らしい、正しく天使のような子供にとって、どのような環境で育つのが最も幸福か。果たして、貴方方だけでこの子を幸福にすることができるのか」
「そんな…私達には…一体どうしたらいいか…」
「結論を急ぐ必要はありません。幸い、時間は我々の味方です。よく考えて、そして最良の結論を導き出して下さい。無論、貴方方夫婦と、何よりもこの子にとって最良の結論を、です。そのためならば、我々は協力を惜しみません。いつでもご相談ください」
「…これは…?」
「私のデスクへの直通回線の電話番号です。今日は、ここらへんで引き上げさせて頂きます。もしよろしければ、またご連絡ください」

 男は、小一時間話すと、何事も無かったかのように帰っていった。
 途中で、私と目があった。
 男は、にこやかな微笑みを私に向けた。まるで、トカゲか蛇が笑ったような、どうにも気持の薄ら寒くなるような微笑みだった。
 気持ち悪い!
 お母さん、お母さん、私を抱き締めて!
 お父さん、私を離さないで!
 私、ずっと良い子でいるから!



 初めて両親のもとから離れたのは、生まれてからちょうど一年が経った日だった。
 黒塗りの、ぴかぴかとした車が、家の前に止まった。
 私は、きっとこれに乗って、どこかのレストランに行くのだろうと思った。人間は、子供や恋人の誕生日を、そうやって祝うものだと知っていたからだ。
 その頃の私にはもう歯も生え揃っていたので、あまり固くないものであれば自分で咀嚼して食べることが出来た。だから、レストランのメニューに並んでいるだろう、プリンやケーキなんかに思いを馳せて、私の胸はどきどきと高鳴っていたのだった。
 なのに、様子が少し、おかしかった。
 こんな、ぴかぴかの車で行くのだから、きっと値段の高いレストランに行くのだと思った。なのに、お父さんもお母さんも、普段通りの格好のままだった。そういうところにはおめかししないと入れてもらえないと知っていた私は、この二人が早く着替えてくれるようにと願ったものだ。

「エドナ」
「どうしたの、おとうさん?」
「良い子で、いるんだぞ」

 ぎゅう、と抱き締められた。
 お父さんは、泣いていた。

「エドナ」
「どうしたの、おかあさん?」
「ごめんなさい…あなたのお母さんになれなかった、私を許して…」

 ぎゅう、と抱き締められた。
 お母さんは、泣いていた。

「時間です」

 黒い車から、綺麗に髪を撫でつけてぱりっとしたスーツを着こなした、どこかで見たことのある男が降りてきた。
 その表情は沈痛そのものといった様子だったが、体のどこからか、強い安堵の香りが漏れ出していた。
 そう、長い間時間を掛けた大仕事がやっと終わったと一息吐く、そんな感じの、安堵に満ちた香り。

「ご息女は、我々が責任をもって育ててみせます」
「はい。しかし、ここでもう一度だけ誓って下さい。貴方自身にではなく、連邦政府の名にかけて」
「はい、ヴァルタレン卿。何にだって誓わせて頂く。我々連邦政府は、エドナ・ヴァルタレン嬢を、必ず幸せにしてみせます。私の誇りと、我々が頂く連邦憲章に謳われた、万人が幸福を享受する権利にかけて」

 男は、とても力強く、そう言った。
 お父さんは、確と頷いた。
 お母さんは、泣き崩れた。
 私は、きょとんとしていた、と思う。

「おとうさん、おかあさん、このひとはなにをいっているの?」
「エドナ、よく聞きなさい。もう、お父さんはお前のお父さんじゃなくなるんだ。そして、お母さんもお前のお母さんじゃなくなる」
「よくいみがわからないわ。おとうさんはわたしだけのおとうさんだし、おかあさんはわたしだけのおかあさんじゃない」
「…ああ、そうだエドナ、その通りだ。相変わらずお前は頭が良いな」

 ごしごしと、お父さんの大きな掌が、頭を撫で回してくれた。
 お父さんは、私が算数のドリルを解いたり、子供向けの漫画を読んだりする度に、こうやって私を褒めてくれる。少しだけ、寂しそうに。
 私は、心底それが嬉しかった。
 
「えへへー」
「お前は、俺達の天使だ。でも、俺達だけの天使じゃなかった。その金色の髪も、エメラルドみたいな瞳も、きっと俺達以外の誰かのために用意されたものだったんだ」
「おとうさん、それはちがうわ。エドナは、おとうさんとおかあさんだけのこどもだよ」
「…ああ、そうだな。そのとおり、だな…」

 また、ぎゅうと抱き締められた。
 少し強すぎるくらいの力が込められていたから、私はちょっぴり苦しかったけど、でも我慢した。
 だって、お父さん、泣いていたもの。だから、私が我慢してあげないといけないんだって分かっていたから。

「ヴァルタレン卿…」
「ええ、分かっています…。分かっています…」

 父は、名残惜しそうに私を離して、立ち上がった。
 私はその男に手を引かれて、そのまま車の後部座席に乗せられた。この男と手を繋ぐのはとても嫌だったけど、でもお父さんがそうしなさいって言うから、そうした。
 車が、鈍いエンジン音を立てて、発進した。
 私は、後ろの方を振り返った。そこには、お父さんに寄りかかって泣き崩れるお母さんと、私に向かって手を振るお父さんがいたから、私は手を振り返した。そしたら、お父さんは笑ってくれた。今までで一番寂しそうに、そして辛そうに。
 間もなく車は曲がり角を曲がり、二人の姿は見えなくなってしまった。
 それでも私は、ずっと後ろの方を向いていた。

「アルファに連絡。ブラボーは目標を確保した。繰り返す、ブラボーは目標を確保した。オーバー」

 そんな冷たい声が聞こえたけど、私はずっと後ろを見ていた。
 ずっと見ていた。

◇ 

 それからのことは、あまり書きたくない。
 だって、痛いか、苦しいか、寂しいか。
 その、どれかの文字で埋め尽くされてしまうからだ。

 でも、三つだけ。



 私に初めて友達が出来たのは、お父さんとお母さんと別れてから、五年が経った頃だった。
 もう、毎日の感覚がなかったのだけれども、多分それくらいだと思う。真っ白な部屋に入れられてから、意識があるときは、食事の度に床に傷を付けていた。その数が三千本を越えた頃だった。意識を失ったまま、あるいは手術台で一日を過ごし事も珍しいことではなかったから、その分を足してやれば多分それくらいだ。
 その頃の私は、凄く荒れていた、と思う。
 いや、寧ろそれまでの私が、私ではなかったのだ。それが薬物投与や、それとも頭の中を弄くられた結果なのかは分からない。しかし、私は自分がこんなところにいてはいけない、自分は人間の群れの中にいてはいけないと、強迫観念にかられるように、そう信じていた。
 全く皮肉なことではあるが、そういう意味ではあの男の言は正しかったのだろう。

 私は、ひとではなかった。

 私は、狼だったのだ。

 出せ。

 ここから、出せ。

 この地の底から、私を、解き放て!

 漆黒の森に、新緑の草原に、紺碧の大海原に!

 私は、この体は、そこにいるべきものだ!

 叫んだ。
 暴れた。
 噛み付いた。
 
 その度に、ばちばちと弾けるように痛い何かを押し付けられて、ベッドの上に縛り付けられて、三日間くらいは折檻された。それは、とても痛かったから、とても嫌だった。でも、それ以上にこんなところで一生を過ごすのは嫌だった。
 そんなことでは、大地を駆け抜けるためのこの脚が、風の匂いを嗅ぐためのこの鼻が、獲物の肉を切り裂くためのこの牙が、あまりに可哀想すぎるではないか!
 痛いのは、皮膚でもなければ痛覚神経でもない。私の脳だ。魂だけだ。
 私の魂だけだ。
 それ以外の部分、私を私たらしめる部分は、痛みを感じていない。
 痛みを感じることすら出来ずに、その無念を飲み込んでいるのだ。声にならない悲哀の叫びをあげながら!
 それ以外の部分を救うために、私の脳は我慢しなければいけなかった。我慢して、我慢して、我慢して。
 私は、狼で在り続けた。


『おい、あれ、何やってんだ?』
『ああ、お前、ここに来てまだ日が浅いか?あれはな、地面に穴を掘ってんのさ』
『コンクリートの床に、素手でか!?』
『ああ、なんてったって、あいつは■■だからな』

 かりかり、かりかり

『しかし、いくら■■だっつっても、そんなことしたら…』
『ああ、爪が剥げるわな。だからよく見てみな』
『…うわ、アレ全部、生爪かよ!?』
『ココがいかれてんだよ、なんてったって■■だ』

 かりかり、かりかり

『でも、一体どうしてあんなことしてるんだ?』
『さぁ?■■の考える事なんて、人間様に分かるわけないだろうが』
『にしても、あんなに必死になぁ…』
『きっと、穴を掘ってその中に糞でもしたいんだろう。さ、飯にしようぜ』

 かりかり、かりかり


『おい、あれ、何やってんだ?』
『ああ、お前、ここに来てまだ日が浅いか?あれはな、いかれてんだ、それだけさ』
『でも、いくらいかれてるからって、あんなに必死に鉄格子を噛むものかね?』
『いかれてんだよ、なんてったって■■だ』

 がじがじ、がじがじ

『それにしたって、血が吹き出てるぞ』
『ああ、もうあいつの歯はほとんど残っちゃいない。あいつの足下を見てみな』
『…うわ、アレ全部、砕けた歯かよ!?』
『だろ?俺もここに初めて来たときはさ、驚かされたもんさ。その時は、素手で床に穴を掘ろうとしてたかなぁ』

 がじがじ、がじがじ

『でも、一体どうしてあんなことしてるんだ?』
『さぁ?■■の考える事なんて、人間様に分かるわけないだろうが』
『にしても、あんなに必死になぁ…』
『きっと、鉄格子を食い物と勘違いしてんのさ。さ、俺達も飯にしようぜ』

 がじがじ、がじがじ


 抵抗しろ。抵抗しろ。
 最後まで、諦めるな。戦い続けろ、最後まで。
 それが義務だ。この体に宿った魂としての、狼の主たる私の義務だ。
 そして、この体を、太陽の下に。
 この体を、兄弟の、仲間達のところに。
 いつの日か、いつの日か。


『ねえ、貴女は、どうして■■って呼ばれてるの?』

 いつも通り、拘束具に包まれて床に放り投げられた私に、誰かが話しかけてきた。
 もう、ほとんどの歯が抜け落ちた口では、隙間風のような声しか出せなかったが、私は答えた。

『わたしが、おおかみだからだ』

 白い服に身を包んだ、可愛らしい看護婦は、興味深そうに私の目を覗き込んだ。

『あなた、狼になれるの?』
『いや、私は狼にはなれない』
『■■なのに?』
『それはただの渾名、もしくは私を示す記号だ。私の魂は、きっと君と同じ、人間だよ』

 その日の会話は、それだけだった。
 彼女は私の口に流動食のチューブを差し込み、そして檻の中から出ていった。
 その日の、血の味の混じったどろどろとした液体は、いつもよりも少しだけ美味しい気がした。

 それから、彼女との会話が、唯一の楽しみになっていた。

『へぇ、外の人達は、そんなことをして遊ぶのか』
『ええ、これくらいのボールを蹴ってね、それを相手のゴールに入れたら得点、そして得点の多い方が勝ちよ』
『どうして、手で運んじゃあ駄目なんだい?』
『それがルールだからよ』
『変なの』

『ねえ、■■。貴女の髪の毛って、とっても綺麗ね』
『そうなのかな。よく分からないよ』
『ううん、とっても綺麗。まるで、細く鋳梳かした黄金を身に纏ったように見えるわ』
『黄金って何?』
『ええと、言葉で説明するのは難しいわね。…これのことよ』
『ああ、君の耳飾りに使っている、この素材か。うん、とっても綺麗だ』
『貴女の髪も、これくらいに綺麗なのよ。太陽の下ならとっても映えるんでしょうけど…』

『…■■。起きてる?』
『どうしたんだい、シャム、そんな真剣な顔で』
『明日、貴女にまた、検査が施される』
『ああ、知っているよ。また内蔵をこね回されるのかな?私、あれは嫌いなんだけど』
『その時に、貴女の麻酔を抜く。水で薄めて、ほんの少し体が重たくなるくらいの量にしておくわ』
『それって、私に死ねって言ってるのかな?』
『そして、手足の拘束も緩めておく。私が何を言ってるか、分かるわね?』
『シャム…どうして君が、そんな…』
『私はね、太陽の下で輝く、貴女の瞳と髪を見たくなったの。それだけよ』


 
 私が初めて友達を失ったのは、その翌日だった。

『起きているか、■■』

 気に食わない、声がした。
 いつも私の体を弄くり回し、その度に、脚をもがれたバッタみたいに跳ね回る私の体を、下卑た視線で眺める、男だ。
 あの、髪を綺麗に撫でつけてぱりっとしたスーツを着た男と、どこか似ている気がした。
 その男が、何かに酷く怒っていた。いい気味だと思った。

『自分が何をしたのか分かっているか、■■』
『…私は、君が何を言っているのか、分からない』
『では、君の回りを見たまえ』

 私は、体を起こそうとした。でもやっぱり、体は何か重たいものに縛り付けられてたから、体を起こすことは出来なかった。
 なのに、私の嗅覚は、この部屋で何が起きたのかを正確に把握していた。

『何人死んだ?』
『…六人だ。さぞ満腹だろうな、化け物!』
『満腹?』
『そうだ、貴様は、その呪われた力で皆を引き千切り、その血を舐め啜ったのだ!覚えていないとはいわさんぞ!』
『悪い、覚えていない』

 正直に言ったら殴られた。
 理不尽だと思った。
 じくじくと痛む鼻頭から流れ落ちるどろりとした血が、唇の中に流れ込んできた。そのせいで、果たして元々口の中に血の味があったかどうか、分からなくなってしまった。
 それでも、事態は明白だ。
 どうやら、私は失敗したらしい。
 きっと、初めて見る他人の血に、狂ってしまったのだ。今までの、溜まりに溜まった、澱のような怒りが爆発してしまったのだ。
 そんなもののせいで脱走に失敗するとは、間抜けな話である。
 誰よりも、シャムに悪いことをした。きっと、手酷く叱られてしまっただろう。

『どうだ、少しは思い出したか!?』
『いや、ちっとも。しかし…』
『…しかし何だ、化け物』
『その割には、あんたは平気そうなんだな。私なら、まず真っ先にあんたを喰い殺しそうなものだが』

 もう一度、思い切り殴られた。
 今度は、鼻の奥で、鈍い音が鳴った。
 なるほど、こんなにひょろひょろでやせっぽちの老人でも、思い切り殴れば鼻の骨の一つも折るくらいは出来るらしい。
 ごぼごぼと、喉の奥に血が逆流した。

『貴様が、貴様が…!』
『…ごほっ。どうしたんだよ、お前らしくもない』
『娘が、娘が、貴様から私を、私を…!』

 怒りと悲しみに震える男の手には、どこかで見たような、きらきらとした耳飾りが握られていた。
 それは、私の髪と同じ色の、きらきらとした耳飾りだった。
 
『あー…なんていうか、その、さ』
『…』
『あんたとシャムってさ、ちっとも似てないよね』

 その日、私はかつてない程にばらばらにされた。
 麻酔は、シャムが作った、水で薄めたものだった。
 それでも私を殺さないあたり、この男の医者としての能力は相当に高いものだったようだ。


 
 私が初めて私を見たのは、最後の時だった。
 いつもと同じように目を覚ました私は、ぷかぷかと浮いていて、上の方から私を見下ろしていた。
 生まれて初めて、鎖から解き放たれたような、そんな気がした。
 そして、私はどきどきしていた。だって、私は初めて見ることが出来るのだ、自分の顔を!みんなが天使のようだと褒めてくれた私の顔は、一体どんなだろう。
 そして、自身の顔を見てみて。
 私は、がっかりした。シャムが褒めてくれた、私の髪と瞳を初めて見ることが出来ると心躍らせたのに、なんてことはない、彼女は嘘を吐いていたのだ。
 そこには、綺麗な緑色の瞳も、金色の髪の毛も、なかった。
 そこに寝転んでいたのは、薄い、ほとんど何の色にも染められていない、辛うじて茶色と呼べるかどうかと言う程度に色づいた濁った瞳と、糸くずみたいにぱさぱさの、真っ白の髪をした、お婆ちゃんだった。
 私は一体、それほど長い間、ここにいたのだろうか。てっきり、私は十年くらいしかいなかったんだと思ってたのに。私は頭を捻った。
 それにしても、酷い有様だった。
 頭を、所々血で滲んだ包帯でぐるぐる巻きにされ、ところどころからよく分からない針みたいなものが飛び出して、それが部屋を埋め尽くした機械に繋がっている。
 顔は皺で覆われ、ぼんやりと、宙空に浮いた私を見つめるようにぼんやりと開いた瞳は、しかし何にも映さずに、ぱりぱりに乾いている。
 体には、頭に突き刺したのとは違う種類の針と、チューブみたいなものがいっぱい突き刺さっていた。生きることを諦めた体を生かすためには、これくらいの装置が必要になるのだろうか。
 その機械の一つに、ほとんど上下しない波線が描かれて、その横によく分からない数字が書かれていた。
 一体なんだろうと思ってみていたら、波線はやがて直線になり、その横の数字はゼロになってしまった。もう、それを見ていても面白くないから、私は地上に飛び出た。ただ、この体を一緒に連れて行ってあげることが出来ないのが、唯一心残りだった。



 それ以上のことは、既に彼女を止めてしまった彼女のことだ。ここに書き記す意味はない。
 ただ、久しぶりに彼女が見た両親は、十歳程度の可愛らしい子供を育てていた。その髪の毛は陽光に煌めく黄金ではなく、その瞳は両親と同じ濃茶色だった。
 三人は、とても幸せそうだったから、彼女もとても嬉しかった。
 

 それが、俺の見た、狼女ウォルフィーナと呼ばれた少女の、短い人生の、全てだ。



[6349] 第四話:覚醒
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/11 14:27
 ぽたりぽたりと、前髪から液体が滴っている。
 ここはどこだ。私は誰だ。私は、今の今まで何をしていた。
 誰か、誰か、教えてくれ。



 少女は、その瞬間にこの世界に生を受けた。それは単なる比喩ではなく、ちょうど赤子が母親の子宮から産道を通って外気に触れた瞬間のように、少女は正しく、たった今この瞬間に産声をあげたのだ。
 そこは、新たなる生命の誕生を祝う祭壇でも、清潔な病室のベッドでも、苫屋の粗末な藁床の上でもなかった。
 暗い、暗い、無限のように暗い空間。常人であれば決して見通すことの出来ない深い闇の中。彼女は、己を産んだはずの母親をもたずに、そして泣き声すらあげずに、ただ一人でこの世界に生まれた。
 ツンと薬品臭い羊水に塗れた少女は、一糸纏わぬその姿のまま、地に伏せるように低く蹲り、鋭い視線で辺りの様子を伺った。その瞳は、闇の奥の奥にある細やかな瓦礫の破片の一欠片までをも正確に認識している。そばだてた耳は針の落ちた音だって聞き取ることが出来た。
 しかし、何も感じない。
 ひくつかせた鼻には、自分以外のいかなる生き物の体臭も感じることが出来ない。カビ臭く澱んだ空気と、何かが腐ったような酸っぱい臭いが感じられるだけだ。
 それでも彼女は警戒を解こうとしなかった。必死に息を潜め、物音を立てずに周囲を見回し、そして五感の全てを使って敵の存在を探る。
 彼女にとって無限といえる緊張の時間は、しかしその実、五分にも満たない短い時間だった。
 そして少女は自分なりの結論を下した。
 ここには誰もいない。どうやら自分は一人のようだ。
 そう考えた彼女は、初めて安心した。ほんの少しだけ体を起こし、きょろきょろと辺りを見回し、それから体の各所に張り付いた薄ガラスの羊膜を取り外していく。あらかたを外し終えると、ガラス片がつけた傷から流れる細い血の滝を舐め取った。何度か、それこそ獣のように傷口を舐めていると、血はすぐに止まった。
 人心地がついた少女は、あらためて自分が置かれた状況について考えた。

 ここは、どこだろう。

 頭上に星は無かった。その代わりに、とっくの昔に寿命を終えた蛍光灯と、穿たれた穴から赤や青のケーブルが見える天井がある。逆に地面の方に目を向けてみれば、そこにあるのは柔らかな土の地面などではなく、冷たくひび割れたコンクリートの床だ。
 彼女は、明らかに人工的な空間にいた。そもそも、正方形で区切られた狭い空間など人の手の入らない場所には存在しないのだ。
 しかしそれにしては荒廃の様子が尋常ではない。埃はまるでそれ自体が絨毯かカーペットであると勘違いするほどに深く積もり、あちこちに主を無くして糸くずと成り果てた蜘蛛の巣の残骸が垂れ下がっている。部屋の隅に打ち捨てられた用途の知れない機械の山は、赤茶けた錆に覆われていて、二度と彼らの存在意義を思い出すことはあるまい。
 そこは、かつて人が住んでいた場所だ。なのに、もうそこには人の気配がない。
 見捨てられた廃屋。それが、彼女の生まれた場所だった。
 自分の知らない場所だ。
 では、自分の知っている場所とはどこか。
 少女は思い出そうとした。
 まず、彼女の脳裏には瑞々しい森の木々に囲まれた湖の姿が浮かんだ。春の、若葉の眩しい木々を映す湖面、夏の冷たい清水の感触、秋の赤く染まった木の葉で覆われた大地、冬はしんしんと降り積もろ雪が山肌を白く染め上げる…。
 次に、煌びやかな宮殿が思い浮かんだ。別に望んで手に入れた住み家ではなかったが、存外に居心地はよかった。なぜなら、いつもあいつがいてくれる。それに、友も、部下も、全てが得難い人達ばかりだった。
 そうだ、俺は―――

 ザ―――ザザッ

 ―――お母さん。なんでそんなに私を怖がるの?私はお母さんに愛されたくって、こんなにも頑張っているのに。私は、神様の子なんかじゃあありません。私は、貴方から生まれた、貴方だけの子供なのに―――

 なんだ、今のは。

 少女は床に手をつき、激しく嘔吐した。胃の中は、ずっと昔からそうであったように空っぽだったから、黄色い胃液だけが喉の奥から漏れ出した。
 喉の奥を、強烈な酸が焼いた。その熱痛と、そして床に付いた手を切り刻む窓ガラスの破片。その両者の痛みですら、今の少女の脳髄には届かない。 
 頭の中で次々と再生される記憶。彼女は、荒れ狂った大河のようなそれを押しとどめようとしたが、一度決壊した河の流れを人の手で押しとどめるのか不可能なのと同じく、その現象は彼女の存在そのものを弄び蹂躙した。

 ―――父上。私が貴方の息子ではないとはどういうことでしょうか。何故、私の前で跪くのですか。私は、貴方の息子です。貴方だけの息子です。父上。どうか、顔を上げて下さい。そして、私の名を呼んで下さい。どうか私を、陛下などと呼ばないで下さい―――
 ―――止めて。その注射は嫌なの。私が私じゃなくなるの。私は私でいたいの。だから、痛いのは嫌なの。誰の血も見たくない。もう、誰も殺し
たくなんて―――ない。私はお絵かきが―――好きなの。赤い絵の具はあまり好きではありません。それに、乾くと黒くなる。お母さん、お父さん。私を
助けて。誰だ。あれは、何だ―――。一瞬で斬り殺した。腕っききの兵士を。俺ですら手こずる、歴戦の勇士を。あの子供は、なんだ
。金色の髪―――。緑柱石の瞳。陽光で
、きらきらと輝く。
ああ、なん―――と美
しい痛いです。痛い
です。お腹の―――中が、
真っ赤に染まって、ぐるぐると紐のよ
うなもの―――が見えていて、どく
りどくりと、何かが流れていく。どうして、この人達は笑っ
ているのだろう。こん―――なにも
嬉しそうに。こんなにも苦しんでいる私を見ながら、こんなにも嬉しそうに、この男は俺を
いたぶるのか。そうだ、俺が国
王で、タウ―――には銀山だけ
じゃあなくて金
山もあるからそれを聞き出そうとしているのだ。いや、それだけではない
か。そうでなければ、どうしてこの男―――はこんなにも嬉しそうに私
の頭の中の灰―――色の部分
に針を突っ込んでそこ
をぐりぐりといじるのだろうかわたしがな―――にかいけないことをしたのでしょうか
『医学の発展のため――――――』やめてやめてそこはきらないでそこをきられたらわたしがいなくなる『人類の進歩
のため、仕方ない―――』めのまえが
あかくくろくそまってちかちか―――ちかちかちかちかちかちか『いまい
ちだな。もっと麻酔を―――減らしてみよう―――』ああ、ライオンがおれをたべようとおおきなくちをあけておそいか
かってくるせをむけてにげたらくわれるくわれるわけにはいかないおれにはおれをまってくれているひとが『どうしてこの程
度の数値しか出ない―――』おとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさんおとうさんおかあさん
―――『出来損ない―――』
たたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけてたすたすたすけけてたすけてたすけてたすけてたたたすすけてたたすけすたたすたすたすけけてたすけてたすけて
―――『解剖する価値もない―――』
だれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかかだれかだれだだれかだれかだれかれかだだれかだれかだれかれかだれかだれかだれかか
―――『愛玩動物―――』

 嗚呼。
 助けて、お兄ちゃん。

 その刹那、少女は、冷たく固いコンクリートの床の上で、白目を剥いて失神した。
 
 次に少女が目覚めたのは、彼女が失神してからちょうど二十四時間が経過したときだった。
 ほとんど無造作に起き上がったその様に、辺りを警戒するような様子は見当たらない。のんびりと頭を掻き毟り、大欠伸をし、猫のように伸びをする。
 一日前の、緊張しきった獣の有様が嘘のようだった。
 そして、もう一つ違うこと。
 それは、爛々と、闇の中に光る黒い瞳。
 自らが狩るべき者、自らが殺すべき存在を自覚した、獰猛な光りだった。
 


 連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官。それが、アレクセイ・ルドヴィックという男に与えられた社会的な肩書きである。
 物々しく、そして舌を噛みそうになるほどに長い役職名だが、しかしやっていること自体は単純そのものだ。
 お偉方の尻ぬぐい。少なくとも、彼は自分の仕事をそのようなものだと認識していた。
 だからといって、彼は自分の仕事を忌み嫌っていたわけではない。光があれば自ずと闇が出来るように、肥大化した連邦の施政の影には、必ずしも美しくない、衆目に晒すことが好ましくないような事実がたくさんある。掃いて捨てる程にある。ならば、誰かがその掃き掃除をしなければならないのだ。
 それは、連邦の威厳と存在意義を守るために有意義な仕事といってよかった。例えその仕事の大半が、政治家の下半身の醜聞をもみ消したり、官僚の子女の素行不良を金で解決したりする仕事であったとしても、だ。
 それに、野心もあった。確かにドブ側のゴミ浚いにも似た汚れ仕事であることは間違いないが、しかしそれは連邦の闇の部分を知るための仕事でもある。当然、いくらでも取り替えの利く木っ端役人などに任せてよい仕事ではないはずだったし、それを知る自分は、これからの人事において相当のアドバンテージを得たといっていいはずだった。また、自分が世話をしてやったお偉方との間に、強力なパイプが生まれるのも美味しい事実である。
 彼は、その低すぎる身長と後退した額の生え際を除けば、年の割にまずまず若々しく精力的といっていい人間だった。当然、そういった人間のほとんどがそうであるように、人並み以上の出世欲もある。
 既に40も半ばを迎えたその容貌はお世辞にも整っているとは言い難いが、どこかに染み出すような愛嬌がある。だからこそ、このように陰鬱な仕事が勤まるのかも知れないが。
 実のところアレクセイは有能な人間だったし、それ以上にある種の天才であった。人から頼まれた厄介事を、自分以外の他人に押し付ける才能である。そしてその成功を自分のものとし、その失敗を他人のせいにして自分には被害を及ぼさせない、世渡りの才能だ。だから、彼は上司にはすこぶる評判のいい人間だったし、同僚や部下からは蛇蝎のごとく嫌われていた。
 彼自身、そのような周囲の評価は自覚している。自覚して、そして鼻で笑った。なにせ、彼の人事評定を定めるのは同僚や部下ではなく上司なのだ。その他大勢がどれほど外野から喚き立てたところで、彼の出世街道の脇を転がる空き缶やゴミ屑以上の何ものでもない。そんなもの、一顧だにする価値もないものだ、と彼は考えている。
 つまり、彼は現在の自分の有り様に、すこぶる満足していたのだ。
 しかし、だからといって今、現在進行形でこなしている仕事が愉快になるかといえばそうでもない。やはり、仕事には陽気なものと陰気なものがあるのだから。

『これは君しか出来ない仕事だ』

 その言葉は、彼自身が自分の手に負えない厄介事を部下に押し付けるときの決まり文句であったため、自分が上司からそのように仕事を言い渡されたときはさすがに緊張の色を隠せなかった。
 ごくりと生唾を飲み込んだアレクセイに、殴打の武器になりそうな程に分厚い資料の山が手渡される。彼はその一番上の、極秘と赤い判の押された報告書の部分だけを手に取り、大急ぎで文章を読んだ。

『…証拠隠滅、ですか』

 それが、彼が今回の自身の仕事に与えた評価だった。
 上司は、それを肯定も否定もしなかった。

『詳しいことは言えんが、これはこの共和宇宙全体の安全と安定に重大な影響を及ぼすことなのだ。私は、今までの君の仕事ぶりを高く評価している。だからこそ、この仕事を君に任せるのだ。ルドヴィック君、君は私の期待に応えてくれるね?』

 アレクセイは、その脂ぎった顔面を紅潮させながら、重々しく頷いた。
 果たして、特異能力者と呼ばれる人間に対する非人道的な人体実験の証拠を隠滅することが、この広大な連邦宇宙の安全保障に対してどのような影響を及ぼすのかは分からないが、少なくとも彼が今まで手がけてきた、安全保障とは名ばかりの仕事に比べてその重要度が高いのは明らかだ。であれば、それを成功させたときの彼の評価に与える影響も当然大きい。無論、失敗したときのそれも同じく、だが。
 彼は、その資料を手早くカバンの中に詰め込み、その日は定時に帰宅した。家で落ち着いて資料を読み込むためである。
 その資料に記されていたのは、彼が今まで見聞きしていた連邦政府の恥部ではなく、正しく闇の部分であった。彼もこの職場についてから相当の噂話を耳にしているので、この組織が綺麗事だけでなりたっているのではないことくらい重々承知していたのだが、しかしその資料の詳細は彼の図太い心胆を寒からしめるに十分過ぎるものだったのだ。
 それは、正しくこの世の地獄だった。
 被験者が生きたままの解剖実験、その切り離したパーツが部位ごとにどれほどの時間を生きられるかの記録、特異能力者の能力値を測定するための脳外科手術、その能力の限界を引き延ばすため脳内鎮痛物質を除去した上での覚痛実験、麻薬の禁断症状が特異能力に及ぼす影響、その能力を次代に残すための交配実験、人と獣、果ては外骨格生物とのキメラの作成と軍事転用の可能性の模索…。
 その一つが明るみに出るだけで連邦政府の屋台骨を揺るがしかねない、非人道的極まる実験の数々だった。彼は、指の震えを押さえるためにキャビネットからアルコール度数の高い酒を取り出し、瓶に口を付けて直接煽った。空っぽの胃の腑が焼け付くようだったが、その熱痛にも似た感覚が今の彼には有難かった。
 それでも何とか一通り目を通し終えた彼は、広すぎる額から垂れ落ちる汗を拭おうともせず、しばらくの間茫然と時を過ごした。
 なるほど、これは確かに共和宇宙全体の安全と安定に重大な影響を及ぼす仕事と言っていいだろう。この事実が外に漏れれば、下手をすれば連邦に対する不信感を招き、マース合衆国その他の軍事的野心に油と強風を注ぎ込む結果にもなりかねないのだから。
 彼は、そう理解した。彼の上司もまた同じように理解していた。しかし、その上の上の上あたりの人間は、この件がもっと直接的な意味で共和宇宙の、というよりは人類の存続について重要な意味を持つものだと理解していたのだが。
 翌日からアレクセイは、この仕事を専門的に取り扱うようになった。昨日まで彼の処理していた事案は全て後任者に引き継がれ、彼の手元には一切の仕事は残らなかった。
 彼の周囲の人間は、机を空っぽにして別室に居を移した彼を見て、一体何事が起こったのかと訝しんだ。中には、彼が重大な失敗を犯して上司の怒りを買い、あらゆる仕事から干されたのだろうとほくそ笑む者もいたものだ。
 しかし、ほくそ笑んでいるのは、誰よりもアレクセイその人だった。一晩の衝撃から目覚めて、この仕事の重要性をあらためて認識したのだ。この仕事を完璧にこなすことが出来れば、今後の彼の役人人生は正しく輝かしいものになるだろう。自分には到底手が届かいものと諦めていた数々のポストが、今の彼にはただの通過点にしか思えなくなっていた。

『この件の処理を、君一人で全てこなすのは当然不可能だろう。何人か、君の手足として働く人間を選びたまえ。可能な限り便宜を図ろう』

 初日の仕事は、その人選からだった。
 有能な人間であることは最低条件に過ぎない。次に、口が堅いこと、彼に忠実であること、そして何より彼の手柄を横取りしないこと…。
 彼は上司から与えられた人事評価書類を手繰りながら、その人間の評価を真剣な面持ちで眺め続けた。そして、その中から数人を選び、彼のプロジェクトチームに加えるための段取りに奔走した。その結果、十人ほどの人間が彼のために与えられた別室に居を移すことになり、前日までは臨時の会議室として以外の存在意義を持たなかったその部屋は、アレクセイを主としてにわかに活気を増したのだ。
 人体実験の行われていた研究所の数は、その実験の数に比べれば驚くほどに少ない。それは、その実験が胸を張って人類のためだと公言できない類のものである何よりの証拠であったのだが、彼にとっては都合のいいことであった。それに、その研究所の集中していたとある星の大陸は、原因不明の地盤沈下によって三年前に消失している。彼はその異常事態も、神が彼のために仕事の一部を肩代わりしてくれたのだと思った。
 となれば、それ以外の施設は相当に数が限られることになり、現在進行形で研究を進めている施設はそれこそ数えるほどになる。しかもそのいずれもが政府のお墨付きを受けずに違法研究にうつつを抜かす、いわば暴走した研究施設であった。そのうちの一つには共和宇宙の最高学府の一つと呼ばれる教育機関の研究所も含まれていたが、この際の彼には関係がない。
 彼はまず、現在把握している過去に違法研究を行っていた施設に徹底した査察を行うことにした。以前そういった施設で働いた人間を取り込み、その知識をもとに施設の内外の取り調べ、帳簿を洗い出し、研究員の尋問等を行った結果、そのいくつかが現在も資料を隠し持ち、あるいは現在進行形で研究を進めていることが分かった。
 その結果は、アレクセイにとって満足すべきものだった。彼がその役職に就いたからには、最低でも一つか二つは実効的な成果を上げる必要があったのだ。『調査の結果怪しい研究所は見つかりませんでした』などという報告をあげるのは無能者の仕事である。仮に真実がそうであったとしても、そこはでっち上げだろうが脅迫だろうが、何らかの結果を形として残さなければ有能な人材と扱われることはない。彼はそれを痛いほどに理解していた。そういう意味でいえば、馬鹿な研究者達がそのとち狂った探求心を発揮して諦め悪く実験を続けていてくれたことは、彼の余計な仕事を一つ減らす結果になったと言えるだろう。
 それらの結果はすぐさま報告書に纏め上げられ、彼の直属の上司に報告される。上司はそれを満足げに受け取り、更に上へと報告する。それが何度か繰り返された結果、その研究所には、問答無用の援助打ち切りの通告と、今後の研究結果の学会への発表禁止が通達され、そこで働いていた研究員には事実上の死刑宣告がなされるのである。
 結果として閉鎖されたそれらの施設で非人道的な扱いを受けていた被験者は数多い。彼らに対してどのような救済を行うべきかは意見が別れた。一番多かった意見は、口をきける者には相当の金を掴ませて黙らせる、どうしても聞き分けのない人間はその記憶を操作して外に放り出す。もう口もきけなくなった人間は『人道的な処分』を行うというものであり、大方がそれに同意した。もっとも連邦の首脳達に意見を求めれば、青い顔で別の方法を提案したかも知れなかったが、しかしこの程度の案件についてそこまでの上申はされなかったのだ。
 そのようにして、幾つかの案件がアレクセイの手によって処理された。彼がこの件についての対応窓口となるのにそう時間はかからなかった。このまま事件が収束に向かえば、当然第一の功労者は彼ということになるだろう。
 まずまず満足すべき結果であった。
 ただ一つ汚点があるとすれば、現在違法研究を堂々と行っているほとんど唯一の研究機関であった連邦政府最高学府のお抱え研究機関を摘発したことで、その学長が彼の事務所に怒鳴り込んできたことくらいだろうか。その時は流石の彼も対応に苦慮し、上司にあるがままの事実を報告した。少しの間だけ渋い顔をした上司は、彼のデスクに設えられた電話を取り、彼の知らない内線をプッシュした。
 その結果は驚くべきものだった。
 事務所の一番奥の、VIP用の会議室で、怒り狂う学長をなだめすかしていたアレクセイとその上司の元を訪れたのは、彼自身ですら数えるほどしかその顔を見たことのない、連邦主席その人であったのだ。
 驚いたのはアレクセイだけではなかった。その上司も、そして学長も驚いて目を丸くした。しかしその直後、学長は顔を真っ赤にしてアレクセイの調査の違法を切々と説いた。そして、その研究の有効性もである。

『よろしいですかな、主席。この者の違法な調査の結果、我々の研究にはとてつもなく大きな遅延と取り返しの付かない障害が生まれました。それは、人類全体の損失と言っても過言ではないものなのです』

 よく言う、とアレクセイは思った。仮に彼らの研究が人類全体の総意に適うものなのならば、日の当たるところで堂々とすべきなのだ。それを、最高学府の名前などどこにも出さない地方研究施設の地下に、浴びるほどの税金を使った最高水準研究設備を密かに運び込み、そして脅迫や拉致を含む違法手段で揃えた実験材料を切り刻みながら、何の臆面もなくよく言ったとはこのことであろう。
 それに、その研究の結果、人類全体に奉仕するような素晴らしい研究結果が表れたとして、その研究結果は学長本人の立場を強固とするためにまず奉仕させられるのは目に見えている。自分自身の利益を奪われたと弾劾するならいざ知らず、まるで自分が人類全体の奉仕者であるかのように被害者面をするのはいっそ見事と言うべきであったかも知れない。
 ほとんど無限にも続くかと思われたアレクセイとその上司に対する非難の嵐を、マヌエル・シルベスタン三世は真剣な面持ちで聞き続けた。所々、相づちを打つように頷いたりもした。
 やがてしゃべり疲れたのだろうか、赤ら顔で息を切らした学長は、途切れ途切れの調子でアレクセイ及びその上司の罷免と、研究の即時再開を求めた。彼は、そのあまりに当然の権利は叶えられるものと信じて疑わなかった。でなくば、多忙を極める国家元首がこんなせまっくるしいオフィスに顔を見せる理由が無い。これは、不当な弾圧に対する義憤に燃える、学長たる自分に対する誠意の表れなのだと心から信じ切っていた。
 しかし、三世の返答は冷淡を極めた。

『申し訳ありませんが学長、あなたの要求に応じることは出来ません』
『…ほう、それは何故?国家主席として広い視野と見識を誇るあなたのお言葉とも思えませんな』

 さすがに怒鳴り散らしたりはせず、その内心を押し殺しながら学長は尋ねた。それでもこめかみの辺りに太い血管が浮き出ているのは隠しようもない。

『この者達の調査態度に見直すべき点があったのなら謝罪させて頂きましょう。そして強く言い聞かせておきます。しかし、彼らの行った調査と、その後の処理自体には何の違法性もない。それは、連邦憲章以下各種法律に照らしたところで明らかです』
『主席、私はあなたの狭量さに失望を隠せません。あなたは、我々のする研究がどれほど多くの人達を幸福へと導いてきたか、知らないわけではありますまい?』
『ええ、よく存じ上げております』

 主席は頷いた。確かに、その研究所が行った実験の成果として、数々の難病の治療方法や画期的な人体補助器具が生み出されているのは事実だったのだ。そして、その成果によって救われた人間が数多くいることもまた事実である。だからこそ、非合法の人体実験という危ない橋の通行許可証を彼らに認め続けたのであり、多額の予算を組みもしたのだ。
 彼も、若い頃は今よりも理想に燃えている時期があった。そんなとき、彼の父たる当時の国家主席から、そういった施設の存在を聞かされた。当然、若かりし日の彼は怒った。そのように、人を人と思わぬような、前時代的な在り方が許されていいのか、と。
 彼の父は、そんな彼を、遠い昔の自分を眺めるように優しく見つめながら、特に優しい声で諭したものだ。この世は全て綺麗事のみで丸く収まるわけではない。清濁併せのむとは安い言葉であるが、為政者として必要な資質の一つである、と。
 なおも噛み付く息子に、父親は諭した。

『昔、お前は一度大病で死にかけた。そんな時にお前を死の淵から救ったのは、彼らが違法な研究によって生み出した特効薬の一つだ』

 マヌエルは、それ以上の弾劾を口にすることが出来なくなった。
 そして彼は父の後を継いで為政者となり、その過程として清濁併せのむ技量と心構えを身に付けていったのだ。
 それらの結果として今、学長と相対する彼は、あくまで淡々とした口調で言った。

『確かにあなた方の行っていた研究は、人類全体に資するものでした』
『現在行っている研究です。そして、資するものなのです』

 憮然とした学長は、主席の発言を微妙に修正した。それから表情を微妙に変え、そのまま続ける。

『さすが主席です。あなたが今仰ったとおり、我々の研究は広大な宇宙に手を広げ、その全てを包み込もうとしてる人類の大きすぎる体を健康に保つため、なくてはならないものなのです。ならば、それが故なく中断せざるを得ない現状の時間の浪費がどれほどの損失が、分からぬわけではありますまい』
『中断ではありません。中止、しかも永久的な凍結です』

 今度は主席が、学長の発言を修正した。毅然とした、如何にも有能な為政者然とした様子で、だ。
 対する学長は、先ほどの主席ほどには落ち着いていなかった。
 いよいよ自分の主張が通らないらしいと自覚したのだろうか、本日最大の噴火をした。

『何故です!?何故いまさら、研究を中止しなければならないのですか!?まさか、極めて局所的で限られた人道主義にとらわれたわけではありますまいな!そうでしたら、私は心底あなたを軽蔑しますぞ!この広大な宇宙の頂点に立たれる為政者であるあなたが、大局を見誤り、たった一人や二人の被験者の人権のために人類全体の幸福の追求権をないがしろになされるのですか!?』

 口角泡を飛ばす有様で学長は叫んだ。ほとんど、幼児が泣き喚く様子と変わらない。
 アレクセイはこの遣り取りを冷ややかに見つめていた。この男は人類全体という言葉がどうしても好きなのだなと感心したほどだ。
 確かに、一人の人間の犠牲で百人の命が助けられるならば、その一人の命は見捨てられて然るべきだ。別に過度の人道主義者ではないアレクセイもその点には深く同意する。
 しかし、その一人には、取捨選択を司る神の一人子が選ばれることはない。選ばれるのは、いつだって声の小さい、何の権利の主張も許されない弱い人間達である。もしもこの学長の下で働いていた研究者達が、自分の子供達や両親を率先して実験材料にしていたというのであれば、彼はこの場で土下座をして己の不明を詫びてもいいと思った。
 そんな彼の内心を忖度したわけでもあるまいが、主席は淡々と答えた。

『学長、落ち着いて聞いて頂きたい。私は、別にあなたの仰るところの、安っぽい人道主義にとらわれたわけではありません』
『では、何故!?』
『先ほどあなたも仰ったでしょう。私は局所的な人道主義にとらわれることなく、人類全体の奉仕者として活動している。私があなた方の研究を排斥するのは、正しくこの一点からなのです』
『戯言を!いいですかな!?私の研究で、よしんば一人の人生が台無しになったとして、その先には百人、千人の幸福が待っている!そのためならば、私は敢えて汚名も被ろう!その覚悟を、あなたは無価値と断ぜられるか!?』

 ほら地がでた、とアレクセイは内心でほくそ笑んだ。研究が『私の』研究と様変わりをし、そして『汚名を被る』という自己犠牲的な言葉も、裏を返せば自分達が行ってる実験の高度な違法性の認識の現れである。そもそも、部下の違法の責任を上司が償うのは人間社会の古来から当然の仕儀なのだ。それをさも自分が勇者であるように言われたのではたまらない。
 主席も、諦めたような顔で首を横に振った。

『いいですか、ブラッド学長』

 それは、癇癪を起こした我が子に語りかける母親の声の優しさと、ほとんど変わるところがなかった。

『私の言葉ではあなたに納得して頂くのは難しいようだ。なので、あなたの言葉で説明申し上げましょう。確かに、一人の犠牲で百人が救われるならば素晴らしい。私は為政者として、迷いなく一人の犠牲を選択するでしょう』
『ならばっ!』
『しかし、その百人の幸福を追求するために十億七千五百万人にも及ぶ人命が危機にさらされる可能性があるならば、私は百人の幸福を切り捨てることを選びます。何の迷いもなくね』
『…何人ですって?』
『聞き取れませんでしたか?ならばもう一度申し上げましょう。十億七千五百万人です』

 学長は唖然とした顔で尋ね、主席は青ざめた顔色でそれに答えた。まさかそのような答えが返ってくるとは思っていなかったのだろう、弁舌家でならす学長は咄嗟に返す言葉も思い浮かず、茫然とした表情を浮かべ続けた。

『…あなたは何を言っておられるのだ?』
『あなたの知らないことです。あなたが私の言っていることが理解できなくとも、あなたには何の責任もない。そして、あなたが知る必要のあることでもない』

 そう言い捨てて、主席は立ち上がった。
 それはことさらに彼の権威を高めようと演出した結果ではなく、純粋に、彼の脳裏に蘇った恐ろしい記憶を振り切るための儀式のようなものだった。

『私の伝えるべきことは全て伝えました。これ以上の話は、お互いにとって時間の無駄というものでしょう』
『ま、待って下さい主席!』
『もしあなた方がこれ以上の違法研究に手を染めたいのであれば、今の私が為すべきことも為せることもありません。どうぞご自由に。しかし、私がその事実を把握したときは、可能な限りの厳罰をもって処断させて頂く。その時にこそあなたは、この共和宇宙の最高指導者の権力がどの程度のものかを知ることになるでしょう』
『そ、そんな!あと一歩なんだ!あと一歩で、医学史に私の名が載るような偉大な研究の成果が…!』
『では伝えましたぞ、ブラッド学長』

 縋り付く学長を振り払い、主席は会議室を後にした。
 残されたのは茫然自失の態で床にへたり込む最高学府長と、唖然として二人の会話を見守っていたアレクセイとその上司である。
 やがて我を取り戻した二人は、未だ我を忘れたように口を開きっぱなしの学長の両脇を掴み、丁重にオフィスの外に放り出した。今のその男に、先ほどまで力強く二人を弾劾していたときの若々しさも威厳も、欠片として存在していなかった。
 嵐のような時間が過ぎ去った後で、アレクセイは上司に己の不始末を詫びた。別に彼の仕事自体に問題があったわけではないことは他ならぬ行政庁の長からお墨付きを頂いてしまったわけだが、しかしこういうときは一応の謝罪と、事態を収めてもらったことに対するお礼をするべきなのだ。
 それに答える上司の声は、未だ何か夢を見ている様子であった。
 自分のオフィスに帰ったアレクセイは、興味半分の視線で自分を見る部下達をぎらりと睨みつけ、そして黙らせた。内心で両腕をあげて大喜びをしながらもここまで演技ができるあたり、ひょっとしたら彼の天性は役者の方面でこそ輝いたのかも知れなかったが。

 上出来である。

 これだけの案件、責任者が誰かと考えなかったこともないが、しかしまさかこの宇宙の最高権力者であるとは思わなかった。当然自分の報告書は彼のもとまで上げられているのだろうし、その結果が彼にとって満足いくべきものだったことは先ほど証明されたようなものだ。
 これで、彼は今まで自分が望むべくも無いと思っていた地位にある人間と強力なパイプで結ばれていることを知った。これまで世話をしてきてやった、凡百の政治屋共とはわけが違う。父、子、孫と三代続く、燦然たる血統書付きの一族に、自分の名を知って貰えたのだ。しかも、ほとんど間違いなく有能な官吏として。このことに喜ばない方がおかしい。
 あとは、今は限りなく細く頼りないこのパイプを、ことあるごとに太く長くしていくだけである。そうすれば、いずれは連邦主席補佐といった要職に就くことも夢ではないように思われた。 
 彼は、自らの幸福を神に感謝したものだ。
 彼のもとに奇妙な報告書が舞い込んだのは、彼自身のこれからの輝かしい前途に対して自宅で盛大な前祝いを催した、正にその翌日のことだった。



[6349] 第五話:会議
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:43
 惑星レダは、連邦政府の統治権の及ぶ宙域の一番端の方にある。
 資源はそれほどに多い星ではなかったが、重力波エンジンが惑星間移動の主たる手段であった頃、多くのゲートがその周辺宙域に存在するという理由から、交通の要所として大変栄えた。ショウ駆動機関ドライブの登場によって《駅》ステーションの存在が忘れ去られようとしている現在においては、さすがに時代の中央からは外れた印象があるものの、それでも人口数億を抱える巨大な惑星である。
 レダの地方都市であるアカシャ州の外れの方に、一棟の病院がある。いや、今は人気の絶えて久しい廃病院だから、病院だった建物と呼ぶべきだろうか。

 元から、その病院の存在はどこかおかしかった。

 アカシャは、レダの中ではさして豊かな州ではない。むしろ貧しいと言ったほうが正確だろう。
 地形が山がちで宇宙船の離着陸に不便であり、その上緯度の高いところに位置しているから冬は長くそして厳しい。主たる産業は昔ながらの放牧と農業、あとは少ない鉱物資源の採掘くらいのものだ。そんな場所に好んで住み着こうという物好きは少なく、当然の結果として州の生命線たる税収は雀の涙ほどのものでしかないから、各種公共サービスにも支障をきたす。
 こうなると、人はどんどん街に流れ出す。特に若い人間はいなくなる。そうすれば、残されるのは老人たちだけだ。結果、絶対数として医師の数が足りなくなり、満足な治療を受けることが出来ずに死んでいく老人の数が多数にのぼった。だから、医師の数を増やして病院を誘致することは住人の切実な願いであり、また州政府の急務であったのだ。
 そんなある日、アカシャの中心部から少し外れたところに、大きな病院が建てられた。
 立派な病院だった。外見は清潔さと荘厳さをちょうどよくブレンドしたようで、周囲の牧歌的な建物と比べれば中世と現代が入り混じったような印象すらある。中に運び込まれた医療設備も最新鋭のものであった。その上、医師や看護師といった人的資源の質も申し分ない。
 アカシャの住人は、誰しもが喜んだ。特に、長年の医師不足に頭を抱えていた州知事などは、これぞ神の恵みと喝采を送ったものだ。
 しかし同時に、誰しもが奇異に思った。このように設備の揃った病院をこんなところに建てて、果たして採算が取れるのか、と。
 それは、至極尤も疑問であった。しかし、そのうち誰もが忘れた。別にこの病院がどこぞの金持ちの道楽で建てられたものであったとしても、痛むのは彼らの財布であって自分達の財布ではない。ならば、彼らの気の変わらないうちは精々その恩恵に与り、余計なことは口にしないのが正しい。
 そのようにして住民達の生活の中に溶け込んだその病院だったが、今から三年ほど前に何の前触れもなく突如として閉鎖した。入院患者は遠く離れた他州の病院に転院させられ、通院患者に至っては他院へのカルテの引継ぎもされぬままに、である。
 アカシャの住人達はさすがに憤り、州政府にこれは何事かと詰め寄った。何故なら、病院のように公益性の高い機関の許認可や設立・廃止等の諸権限は、悉くが州政府に属するものだからである。
 しかしこの事態は当の州政府にとっても寝耳に水だったのだ。対応に苦慮した州知事は、事の経緯を尋ねようと院長や事務長その他の責任者の所在を探したのだが、そのいずれもが完全に行方をくらましてしまっていた。
 それだけならばまだよかった。傾いた病院経営を放り投げての夜逃げなど、別に珍しいことではない。しかし、町に住居を有していた末端の医師や看護師、果ては売店の売り子や掃除夫に至るまでが同時に行方不明となっているのを知って、州知事は顔を青くした。これはさすがに尋常な事態ではないと悟ったらしい。
 しばらくの間この異常事態への対応に右往左往していた彼のもとに、連邦政府からの通達が届いたのは、突然の閉院から三日後のことである。
 その通達を携えたのは、どうにも人間味を欠いたように見える無機質な男であった。その男は、やはり無機質で感情のこもらない声で、その病院の完全閉鎖と立ち入り禁止の徹底を要求した。
 州知事はさすがに腹立たしく思った。この忙しいときに何の連絡もなくいきなり乗り込んできて、そして居丈高な調子で要求したのが問題となっている病院の閉鎖である。何故かと問うても、男はそれは答えることが出来ないとつっぱねっる。それは詰まるところ、これ以上この問題に首を突っ込まず、自分達の言うとおりに行動し、そして住人をなだめることだけはお前達がしっかりやっておけと、そういうことだった。
 当然、州政府側としては面白いはずがない。州の自治と連邦政府からの独立というお題目を盾にして通達への服従を渋る州知事だったが、しかし役人は無表情に、一枚の紙片をテーブルに置いた。
 州知事は、目を丸くした。
 それは、連邦の最高責任者たる政府主席ラグン・ウ=ダイの署名入りの、緊急事態通知書だった。
 共和宇宙を治める連邦政府は、あくまで各惑星の総意に基づいた連邦体制を維持している。それ故に各惑星に認められた自治権は幅広く、その範囲に属することである限り連邦政府といえど簡単に口出しはできない。
 だが、州政府が連邦政府を構成する一単位である以上、当然例外も認められる。連邦議会で上下両院の議員数の三分の二以上の賛成を得た決定や、有事の際にのみ認められる連邦主席の強制命令権等には、その自由意志を放棄した上での服従が求められるのだ。そして、今まさに州知事の前に広げられた書類は、その強制命令権の発動を知らせるものだった。

『まさか、こんなものが…』

 州知事は、額から流れる冷たい汗をそのままに、かすれた声で呟いた。今年で60歳を迎える彼は年齢の割に若々しいと言われることが多かったが、しかしいつの間にか年相応の容貌になってしまっていた。
 無理もない。何故なら、彼の記憶が正しければ、共和政府が正式に発足して以来、緊急事態通知は制度として存在しているものの使われたことは一度もない、正しく伝家の宝刀であったはずだ。それが、こんな辺境惑星の、しかも片田舎の州の病院一つのことで抜かれるなど、彼の想像の範疇ではなかった。
 一体、自分はどんな厄介事に関わっているのだろうか。そう考えて、州知事の顔は蒼白を通り越して土気色になった。
 そんな州知事の顔をつまらなそうに眺めていた役人は、やはりつまらなそうに言った。

『生憎ですがいずればれることなので、先に申し上げておきましょう。その通知書は偽物です』
『何だって!?』

 州知事の素っ頓狂な叫び声に、しかし役人は顔色を変えなかった。

『しかし、その署名と捺印は本物です。今すぐに政府の管理脳にアクセスして頂いても結構ですよ』
『…どういうことか、説明して頂けるのでしょうな』
『もちろんです。何せ、私はそのために遠路はるばるここまで来たのですから』

 役人は、小憎らしい程に落ち着いた声で答えた。
 いつの間にか彼の表情から無機質さが消え、燃えるような、それとも凍て付くような視線が自分に向けられていることを知って、州知事は乾いた唾を飲み込んだ。

『要するに、我々の覚悟の程だと思って頂きたい。これはあくまで偽物ですが、あなた方が我々の期待に応えてくれなければ我々にはいつでも伝家の宝刀を抜く用意がある、という覚悟のね』
『…国家主席ともあろう方が、軽率なことをなさるものですな』
『騒ぎにして頂いても結構ですよ。連邦国家主席が、これこれこのように違法な書類を提示して、卑劣にも我らの自由と権利を侵害しようとした、と』

 男の言葉は相変わらず無機質であったが、しかしその内容は明らかな脅迫であった。
 やれるものならやってみろ。このように辺境の、そして寂れた惑星のたかが一州政府の怒りなど自分達は歯牙にもかけていないのだと、強烈なまでのアピールだ。
 州知事の顔が、今度は屈辱に赤く染まった。自分への無礼であれば笑って見逃す度量をもっている人間でも、自分が誇りをもって奉公する組織を正面から侮られて愉快な気持でいられるはずがない。
 しかし、彼は内心の腹立ちを押し殺すように、言った。

『…あなた方の望みは何ですか』

 男は、心底しらけたように言った。

『最初から言っているでしょう。我々の要求は、件の病院の即時にして徹底的な、そして恒久的な閉鎖です』
『それは承知しています。しかし、何故そのような…』
『それを聞かれて、答えることが出来ると思いますか?』

 最早侮蔑の表情を隠さずに、寧ろ憐れむような調子で男は言った。

『しかし、この州を預かる責任者としてあなたが不安を抱かれるのも当然です。なので、これだけは申し上げておきましょう。例えば、あの病院でバイオハザードがあったとか、そういう事情は一切ありません。住民の方々に何らかの被害が及ぶことだけは、絶対にない。間違いなくない。あれは、そういうことを研究する施設ではなかった』

 その言葉に、知事は少なからず安心した。
 単なる噂話の域を出るものではなかったが、確かにそういう話もあったのだ。
 あの病院は、実は政府の息のかかった研究機関で、決して人の目に触れることの出来ないような研究をしている。だから、このように辺鄙な場所に立派な病院を建てることが出来たのだ、と。
 そんな噂のある病院が何の前触れもなく閉鎖されたものだから、不安と疑心に尾びれと背びれと牙と角が付いたような噂話が流れたのも当然だった。曰く、密かに軍事目的で開発していた殺人ウィルスが漏れ出し、最早手の施しようがない状態になってしまい早晩この星は人の住めない死の星になるのが目に見えていたので、研究員は家族を連れてこの星から逃げだした、というものだ。
 馬鹿馬鹿しいと思う。しかし、それを一笑に付すだけの胆力は州知事には備わっていなかった。事実、相変わらず院長をはじめとした病院関係者の行方はさっぱりであったし、この三日に体調の不良を訴える者の数は平時の倍以上に上り、数少ないアカシャの医師達はほとんど不眠不休で診察に当たっていたのだから。

『…そのお話が事実であると、証明はできますか?』
『バイオハザードなど無かったと?無茶を言う、悪魔の証明の困難さはあなたも御存じでしょう?』
『それが、この事態を引き起こした張本人のお言葉か!?』

 州知事はさすがに語勢を荒くした。事ここに至れば、あの不可解な病院の出資者が中央政府の息がかかった者だったのは疑いようがない。そして、その意図するところがアカシャの住民への社会的福祉ではなかったことも明らかだ。
 男は、無言で肩を竦めた。俺にそんなことを言われても困る、といった様子だったが、しかしこの場合は州知事の方が正しい。組織への糾弾は、その組織に属する人間の全員が責任を負うべきなのだ。責任を取らされるのが誰かは別にして、である。
 しかし、男は口に出してはこう言った。

『我々は、今回アカシャの方々に多大なる迷惑をかけたことに対して慚愧の念を抱いております。しかし同時に、今回の一件は、この共和宇宙の平和と安全のために必要不可欠な処置だったと、我々は信じています。ですから、この処置が間違いだったかと問われれば、一切の誤りはなかったと、そう答えさせて頂きましょう』
『では、この事態をどう収拾するというのだ!?』

 突然病院に切り捨てられたかたちの患者とその家族の不満と怒り、そして流言飛語によって昂ぶった住民の不安は、最早限界水域にある。
 そろそろ何らかの手立てを考えて実行に移さないと、下手をすれば暴動が発生しかねないような、事態はそういう切迫した状況にまで進展していた。

『そこはそれ、州知事たるあなたの腕の見せ所でしょうが』
『そんな、無責任な…!』
『例えば、こういうのはどうでしょう。あの病院は、いくらなんでもこの片田舎…いや失礼、このように閑静な場所には不必要に大きすぎた。採算性を確保するため、いくつかの小さな施設に分けて、このアカシャ全体をカバーするようなかたちで再配置する予定だ、と。患者の引継ぎに不手際があったのは単なる手違い、その補償はきちんとする、とね』

 男は得意げな調子で言った。
 州知事は一瞬言葉を飲み込み、それから地の底から響くような声で唸った。

『そのように稚拙な言い訳で、住民の不安が解消されるとでも?』
『意外と何とかなるものですよ。怒りや不満には、こちらの誠意を見せてやるのが一番。正当な補償を約束してあげれば、とんでもないへそ曲がり以外はあらかた納得するものです。そして、この州の最高責任者であるあなたがこの場所に未だ留まっていることを明らかにすれば、病原菌が漏れ出したなどという根も葉もない噂は即座に消え去るでしょう』
『…しかし、今日のところがどうにかなったとして、その補償や、新たな病院を建築するための資金はどこから捻出するのですか。あなたも、この州の財政事情がどの程度のものか、御存じなはずだ』
『ええ、その点ついてはご心配なく。我々中央政府が、責任をもって面倒を見させて頂きます』

 州知事は、目を丸くした。
 彼は、男の言う解決策と似たようなことを考えたこともあったのだ。しかし一番のネックになるのが、その実効性である。病院経営には存外に多額の費用がかかるものだし、しかもあれだけの規模の病院をこのように辺鄙な場所に誘致しようと思えば、多額の補助金を捻出しなければならない。そのための資金が、徹底的に不足しているのだ。
 不渡りを出すことが分かっていて、無茶な手形を切ることはできない。もしそれが出来るとするならば、倒産が決まって尻に火が付いている多重債務者が夜逃げの資金を稼ぐために己の信頼を切り売りする場合だけである。
 だから、州知事は、自分に任せられた権限と、それ以上に限られた資金をもとに、果たしてこの事態をどうやって解決したものかと頭を悩ませていたのだ。そんな彼にとって、男の言葉は正に福音といってよいものだった。

『…その言葉、間違いないでしょうな』
『ええ。こちらをご覧ください』

 男がそう言ってカバンから取り出したのは、やはり連邦の最高責任者たる政府主席ラグン・ウ=ダイの署名入りの誓約書であった。今後、今回の事態によって引き起こされたアカシャ州の騒動を治めるため、政府はその資金援助を惜しまないことがその書面にて確約されていた。

『当然、これは超法規的な処理ですので、この書類の実効性を確保するためには、この宣誓書にサインをして頂かねばならない』
『宣誓書?』
『ええ。今回の事態に中央政府が関わっている点について、一切口外しない旨の宣誓書です。そして、この件について無用な詮索を一切行わない、その宣誓も同時にしていただきましょう』

 男はてきぱきとした様子で、カバンの中から無垢の宣誓書を取りだして、三度テーブルの上に置いた。顔中に汗を垂らした州知事は、辛うじてその文面を目で追ったが、特に不審な点は見当たらない。一応裏をひっくり返して妙な記載がないかどうかを疑ったものだが、結果としては目の前に座った男の失笑を買っただけだった。
 そんな男の様子に気がつくことすら出来ない州知事は、先ほどの誓約書も同じように、穴が空くほどに読み返した。しかし、やはりというべきか不審な点は見つからない。これはどうやら、男の言うことは真実らしいという結論に至り、彼は長々とした溜息を吐き出した。
 
『如何ですか?何か、不都合な点でも?』
『…いえ、結構です。これだけの援助が頂けるのであれば、この事態を収め、そして今後の中央政府との間に良好な関係を築いていくことが出来るでしょう』
『では、我々の要求も呑んで頂けると、そういうことですね』
『…仕方ありませんな。住民の生活の安定のために』

 けっして脅しに屈するのではないぞと、微妙なところで虚勢を張っておきながら、州知事は誓約書を決して手放そうとしなかった。これは、間近に差し迫った次の選挙を勝ち抜くための、いわば通行許可証といってよかったからだ。
 男は、州知事に宣誓書を書かせて、名残を惜しむこともなく州知事のオフィスから立ち去ろうとした。
 
『一つだけ、よろしいでしょうか』
『…はい、何でしょうか、知事』

 男は、来たときと同じように、人間味を欠いたように無機質な顔で振り返った。
 やや人心地を取り戻したふうな州知事は、曲がりなりにも自分にとっての福音天使となったその男に、疲れたような愛想笑いを浮かべながら言った。
 
『無期限にして徹底的な閉鎖とあなた方は仰る。しかし、あれだけ大きな建物を恒久的に閉鎖するには相当の費用がかかります。無論、その費用はあなた方持ちなのだからその点について不満は無いのですが、しかし不思議には思います。何故取り壊さないのですか?』
『ええ、出来る限り早く撤去したいとは思っています。しかし、今はその時期ではないと、そういうことです』
『どういうことですか?』

 男は、州知事が初めて見るようなにこやかな笑顔を浮かべて、言った。

『あなたの知ったことではありませんな、州知事』

 程なくして州知事自らの緊急会見が開かれ、この事態を引き起こしたことに対する陳謝と、ことの真相が明らかにされた。
 明らかにされた真実は、呆れるほどに味気ないものだった。
 今回の閉鎖騒動は、あくまで病院の経営者側の手続ミスであり、患者への対応の不徹底はその煽りを受けただけのものであってそれ以上ではない。また、当該病院の代替施設は可及的速やかに建築中のため、住民の社会福祉政策に与える影響は極めて軽微であり、今回の騒動で被害をこうむった方々には政府の方から十分な謝罪と補償を行う。
 また、巷を騒がす不届きな噂については全くのでたらめであり、アカシャ州の住民は何ら不安を覚える必要は無い。その証拠に、この州の行政最高責任者たる自分が未だここに残っているではないか…。

 彼の言葉通りに代替施設の建築は急ピッチで進められ、三ヶ月後には州の主たる集落の全てに小さいながらもしっかりとした設備を整えた診療所が設置された。その頃には、怪しげな病原菌の噂など、この州に覚えているものはいなくなっていた。
 ただ、噂の大本になった廃病院は取り壊されることなく厳重に封鎖され、周囲の住民を不気味がらせたものであったが。



 自分専用に設けられたオフィスで、朝一番のコーヒーの香りを楽しみながら報告書に目を通していたアレクセイ・ルドヴィックは、これまでの部分について何の感慨も持たなかった。
 考えたことがあるとするならば、この程度の案件に偽造した緊急事態通知書を提示する辺り、当時の連邦政府は相当に追い詰められていたのだなと、その程度のものである。もし自分が州知事であったならばきちんと共和政府の出方を確かめ、遙かに大きな譲歩を引き出した自信があるが、それは今回の彼の仕事とは全く関係がない。
 また、閉鎖に至った経緯そのものも、これまで彼が目を通した別案件の報告書とそれほど変わるところが無い。要するに、三年前の連邦第五惑星大陸沈没事件の直後に頻発した、特異能力者研究所―――それも違法な人体実験に手を染めていた研究所に対する一斉閉鎖の、ありふれた一幕とでも言うべきものだった。
 彼は余計な感想を頭から閉め出して、報告書の次のページをめくった。
 そこで初めて、彼の顔が微妙に歪んだ。

 閉鎖された病棟は、ここ三年間全く何の異常もなかった。表向き地上十階地下二階、その実は地下十階に及ぶ建物は、およそ人の立ち入ることの出来る高さの部分は窓から通風口に至るまでコンクリートで厳重に封印が施され、それ以外の部分についても鉄板を貼り付けて外部からの侵入を不可能にするなど、その封鎖方法は確かに徹底したものである。
 にもかかわらず、ごく最近、近隣住民の間で妙な噂が流れているという。

 曰く、夜中になると、病棟の地下深くから、狼の遠吠えのような不気味な声が聞こえるというのだ。

 当然、それを聞いたのは一人や二人ではない。近隣に住んでいた住民のほとんどが、その声を耳にしているという。彼らとてその病棟が完全に封鎖されたことは知っているから、例え野犬や狼の類、いや、野鼠の一匹であってもその中に入ることが出来ないことは承知している。ならば何故そのような鳴き声が建物の中から響くのか。
 ネオンの光に慣れ親しんだ者であれば、そんな話は一笑に付したであろう。しかし、牧歌的な生活を続けるアカシャの住民にとって、夜の世界に君臨する魔物は、意外なほどに近くに棲んでいるものなのだ。
 当然の成り行きとして、州政府に対して、事態の真相究明の嘆願が出された。一通や二通であれば一顧だにされない嘆願書も、廃病院付近の住民一同の連名というかたちでなされると政府としても無視はできない。そして、半信半疑の様子で政府の役人が調査をしたところ、確かに建物の中から妙な声が聞こえるのである。それこそ、狼の遠吠えとしか思えない、低く低く、どこまでも響くような声が。
 彼らは顔を青くして、上司のところに汗掻き走った。その様子を遠く見守っていた住人は、やはりここには何か忌まわしい者が棲み着いているに違いないと確信した。彼らの中には、この研究所はやはり州政府の息のかかった研究所で、地下深いところで遺伝子操作をした化け物の研究を行っていたのだ、と言う者もあった。
 人の口に戸は立てられない。近いうちに、この噂は狭いアカシャ州を覆い尽くすのは目に見えている。そうなれば、三年前の再来だ。しかも今回は根も葉もない噂ではない、少なくともその葉の先っぽくらいはある噂だからどうにも質が悪い。
 対応に苦慮した州政府は、連邦政府に泣きついた。今後当該病院施設に何らかの異常があったときは、連邦政府が責任をもった処置を施すというのが、例の誓約書にうたわれていたからだ。
 そして、現在の連邦政府における、違法研究所に対する実務的な処理権限を有するのはアレクセイ・ルドヴィックその人だったので、彼の元に報告が上がってくるのは至極当然の結果と言えた。

 報告書を読み終えた彼は、心底呆れたような鼻息を吐き出して、重たい紙の束を机に放り投げた。

 まったくもって、馬鹿馬鹿しい。

 それがこの件に関する彼の感想である。
 いくら厳重に封鎖した建物とはいえ、それはあくまで人の侵入を防ぐための処置である以上、どこかに解れた網の目があったとしても何の不思議もない。アカシャ州には野生の狼はいないはずだから、きっと野犬の類がそこから入り、病院の中で遠吠えをしているのだろう。おそらく、それ以上の何物でもないはずだ。
 しかしそれにしても、どうして閉鎖処置などをしたのだろうか。もし彼がその時点において現在の地位と権限を有していたのならば、そのように物騒な建物は即座に爆破解体をしてしまうところだ。ただ、この場合は周囲の住民の間に殺人ウイルスなどという突拍子もない噂が流れていたこともあって、その程度の処置が妥当かと思わなくもないが。
 アレクセイは知らなかったが、実のところその建物はある種のモニュメントとして残されたのだ。つまり、『我々の意向に従わない者はこのような目に合うのだ』という、古代の反逆者に残酷な刑罰が与えられ、その死体が長期間に渡って街中に晒されたのと同様の理屈である。無論それ以外にも様々な要因があったのだが、主な理由は非合法な研究機関に対する見せしめ以外の何物もなかった。その建物で今回のような騒動が起こったのは、全く皮肉という他ないが。
 とにかく、事態は彼の手の中にあり、彼が解決してくれるのを待ち侘びている。少なくとも、彼以外の人間に新たな処理権限が与えられたわけではないし、彼が腰を上げなければ永遠に解決しない問題でもあるのだろう。彼の首が、誰かのそれにすげ替えられるまでは。
 アレクセイは、デスクの受話器を手に取り、部下達に会議室へ集まるよう指示を下した。



『…以上が、今回の案件の概要だ。何か質問は?』

 アレクセイの言葉に、一瞬誰も反応しなかった。いや、反応できなかったといった方が正しい。
 その場にいたほとんど全員が、呆気にとられていた。それどころか、自分達の新しい上司はついに頭がいかれたのかと思った者もいたし、そんなくだらないことで自分達がわざわざ辺境の惑星まで赴かなければいけないのかという言外の不満もあった。それらが喉の奥で飽和して、言葉にならなかったのだ。
 しかし、こういう場合は誰かが皆の意見を代表しなければならない。テーブルの最前列に座っていた、アレクセイの部下の中では最年長の男が、ゆっくりと手をあげた。

『失礼、主任。質問をよろしいでしょうか』
『なんだね、クルツ君』

 クルツと呼ばれた壮年の男は椅子から立ち上がった。

『今回の我々の任務なのですが…その、先ほどの主任の説明を伺うと、要するに野犬の駆除が我らの仕事と、そういうことになるかと思うのですが、その理解でよろしいのですか?』
『端的に言い表せば、そういうことになるな』

 アレクセイは重々しく頷いた。その拍子に彼のはげ上がった額が朝日を跳ね返し、数人の部下が目をしばたかせたが、口には何も出さなかった。
 一方クルツは、僅かに顔を引き攣らせた。そして、重ねて質問した。

『では、我々は野犬一匹捕まえるために、遠路はるばる惑星レダまで向かわなくてはならないと?』
『そういうことになる』
『失礼と承知で伺いますが、主任。あなたは正気ですか?そんな仕事、別に我々が赴かなくとも―――』
『では、誰が片付けるのか、君の意見を聞こうか』

 少し険の篭もった上司の声に少しだけ怯んだクルツだったが、自分の背中にはここにいる全員の賛同が乗っかっているのだと勇気を鼓舞して、言った。

『レダがいくら辺境の土地とはいえ、野犬の駆除会社の一つや二つはあるでしょう。そこに任せればよろしいのでは?』
『クルツ君。私は君を相当以上に有能な人材と思っている。あまり失望させないでくれたまえ』

 アレクセイは無慈悲な口調で言った。

『いいか?例えば君の意見に従って野犬駆除業者をあの病院の中に入れるとする。野犬が運良く地上階にいてくれるなら別段、もしも何かの拍子で地下階にいればどうする?それも、表向きは存在しない、地下二階よりも下のフロアにいた場合に、だ。そしてそれを追った駆除業者が、地下で何が行われていたのかを知ってしまった場合は?』

 クルツは、ごくりと唾を飲み込んだ。

『ま、まさかそんな…。あれでも歴とした研究施設なのですから、地下階への扉はきちんと施錠されているはずでは…』
『君はそれを確かめたのか?それとも、この場にいる誰かが、あの病院に直接赴いて地下研究施設の状況を確かめたのかね?』

 アレクセイは、自分が上座に座る会議用長机を、ぐるりと見回した。その場にいた全員が、一様に俯いて一言も発しなかった。
 その様子に満足したのか、アレクセイは更に続けた。

『同じ理由で、アカシャ州の職員を派遣するのも不可能だ。そもそも例の誓約書には、忌々しいことながらこういった事態には連邦政府がその責任をもって対処することが誓われてしまったいる。それを盾にされたらどうにもならん』
『では、現地の連邦政府職員に委託しては如何でしょうか?そうすれば、万が一の事態が起きたときも、箝口令を敷くのは容易いのでは?』
『何故情報局出身である私が、私のプロジェクトチームに軍属出身である君たちを招いたのか、分からんとは言わせんぞリヒター君。機密情報の漏洩の危険性は、それを知る人間の数に従って乗数倍に増えていく、軍事上の常識ではなかったのか?それにいくら連邦政府職員とはいえ、君たち軍属の人間と比べて口の軽さは比べようもない。そのような人間に、この手の仕事を任すほど私も危険愛好家ではない』

 アレクセイがその長舌を収めたとき、最早彼の意見に異議を唱える人間はいなかった。
 クルツは、素直に謝罪した。

『申し訳ありませんでした、主任。私が浅はかだったようです』
『いや、クルツ君。当然の意見だったと思う。これからも、どんどん忌憚のない意見を述べてくれたまえ』

 アレクセイは鷹揚に頷き、如何にも人好きのする笑みを浮かべた。
 彼は、有事には一切の躊躇なく部下を切り捨てる人間であったが、しかし平時においても部下に対して不必要に非情であるというわけではない。何故なら、いざというときに部下を動かすのは上司に対する忠誠心である以上、一々部下の反感を買っていたのではいつ何時寝首を掻かれるか知れたものではないからだ。
 あくまで上辺だけの寛容な笑顔であったが、その場にいた誰もがアレクセイを素晴らしい人格者であると思った。

『では、野犬捕獲用の道具を揃えておきましょうか』
『ああ、そうしてくれると有難いねグラント君。ついでに暗視用赤外線ゴーグルと、生命探査装置もあると万全かな』
『分かりました、すぐに手配します』

 末席に座っていた、いまだ少年のような顔立ちの部下が駆けるように部屋を飛び出していこうとするのを、アレクセイは呼び止めた。

『おい、グラント君』
『はい、主任。なんでしょうか』

 緊張した面持ちで答える若者に、赤ら顔の主任は笑顔で言った。

『そんなに急ぐ必要はないぞ、グラント君。今回の仕事は、君たちが当初考えたようになんともくだらない仕事だが、見方を変えればちょっとしたピクニックのようなものだ。殺伐とした毎日を送らざるを得ない憐れな子羊に、神が与えたもうた有給休暇だと思って、精々羽を伸ばそうじゃないか。そう思って、のんびりと支度をしてくれればいい』
『…はい、わかりました、主任殿』

 グラントと呼ばれた若者は、先ほどよりもいくらか和らいだ表情と足取りで、部屋を出て行った。居残った面々も、主任の下手なジョークに対して愛想笑いを浮かべている。
 
『では諸君、そういうことだ。準備はグラント君に任せるとして、出発は明朝ということになる。人員は、私とクルツ君、マクドネル君にラドクリフ君、そしてグラント君とイェーガー君の六名でいいだろう。残りは、事務所にて平時の事務をこなすこと。そのつもりでスケジュールの調整の方を頼む』
『主任も同行されるのですか?』
『君たちばかり肉体労働をさせるわけにもいくまい。それに、ピクニックには引率がつきものだろう?』

 悪戯っぽくいわれると、部下達も苦笑するしかない。
 
『では、会議はこれで終わりたいと思う。他に何か意見のあるものは?』

 アレクセイはぐるりと会議室を見回した。そこには、彼に忠誠を誓う、部下達の生気に満ちた顔があった。
 彼は満足げに頷き、散会を告げようとした。
 正にその時である。

『一つ、よろしいでしょうか主任』

 低い、地響きのような声が会議室に響き渡った。
 全員の視線が、発言者の並外れた巨体に集中する。
 アレクセイは内心に眉を顰めながら、しかし外面は愛想のよい笑顔を浮かべながら言った。

『…何かね、イェーガー君』
『はっ。今回の任務に、重火器の携帯及び使用は許可されるのでしょうか?』
『…すまん、もう一度言ってもらえるかね、イェーガー君』
『今回の任務に、重火器の携帯及び使用は許可されるのでしょうかと申し上げました』

 軍人らしい、如何にもしゃちほこばった声であったが、聞く者の顔を唖然とさせたのはその声質のせいではない。
 アレクセイは、さすがに侮蔑の表情を隠すこともなく、発言者に対して言った。

『イェーガー君、今回の任務について聞いていなかったのかね?』
『いえ、きちんと把握しております』
『では、今回の我々の任務はなんだ?端的に述べてみたまえ』
『野犬とおぼしき生物の捕獲、もしくは駆除。そのように理解しております』

 椅子に深く腰掛けながら、それでも立ち上がったアレクセイとほとんど同じ視線の男は、やはり重たく響く声で応じた。
 アレクセイは、ゆっくりと首を振った。

『そこまで理解していて、何故重火器の所持を求めるのか、理解に苦しむのだが』
『万が一に備えてです。できれば、中型の機関銃もしくはロケットランチャーの所持許可が頂ければ幸いなのですが』
『っ、きみは戦争にでも行くつもりか!?そんなものは不要だ!第一、許可が降りるものか!』

 アレクセイは声を荒げてそう言った。
 現在のアレクセイの部下はその全てが軍属の人間で固められている。それは彼に与えられた任務が時には非合法の手段を選んででも解決が急がれる特別任務である以上、荒事に慣れた人間のほうが都合がいいからであり、そして情報部出身の人間には彼が心底嫌われているからでもある。
 情報畑の人間と軍人畑の人間は、他の省庁に比べて人的交流が多い。しかしその事実は二つの機関の蜜月を示すものではなく、それどころか、野生の蛇の主食が蛙ではなく同種の蛇であるように、二つの機関の仲は決してよろしくない。寧ろ、険悪だと言ってもいい。
 それゆえに、アレクセイがこれだけ部下の人心を把握するにはそれなりの苦労があったわけなのだが、この場合はその苦労が無かったとしても、その場にいる全員がアレクセイの意見を支持しただろう。
 同僚や後輩から非難と嘲弄の視線を浴びながら、その大男は肩を竦めて黙り込んだ。もうこれ以上の意見はないようだった。
 アレクセイはそれを確認して、些かしらけた雰囲気になった会議を散会させた。彼はその時、この任務が終わった暁には、いつも目障りなあの大男はどこか辺境の戦地にでも更迭してやろうと心に決めたのだった。
 


 音がする。
 遠く近く、音がする。
 私を誘う声だ。遠くの狩り場へ、近くの狩り場へ。
 おお、懐かしき我が故郷。深い森よ、開けた野原よ。
 私は帰ってきたぞ。
 仲間よ、兄弟よ!
 今こそ、私の血肉を君達に捧げよう。
 私の牙で噛み砕こう。
 私の爪で引き裂こう。
 彼らの喉を、汚らわしいその瞳を。
 君たちへのお土産だ。
 きっと、気に入ってくれるだろう。
 彼らの苦痛を、慟哭を、断末魔を。
 私は丸ごと飲み干して、その血でもって恥を雪ごう。
 遠吠えよ、万里に響き渡れ、私の孤独を連れて行け!
 遠吠えよ、親愛なる兄のもとへ!
 届け!





[6349] 第六話:探索
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:45
 彼らが惑星レダに到着したのは、会議が行われた日から数えて、三日後のことだった。
 目的地であるアカシャ州はレダの中でも相当の僻地にあるため、宇宙船の発着のための施設がない。飛行機やエアカーを乗り継ぎ、彼らが現地に入ったのはその二日後の深夜のことだった。

 満月の夜だ。煌々と夜空を照らし出す、毒々しいまでの満月の明かり、そしてそれを背景として堂々と姿を曝す廃病院の影。
 戦闘経験が豊富な軍人である彼らですら息を飲むような、なんとも不気味な光景であった。
 
『さぁ、名残惜しいがここがピクニックの目的地だ。さっさと終わらせて帰ろうじゃないか。あまり長居すると、居残り組に絞め殺されるぞ』

 努めて明るく言ったアレクセイだったが、彼の内心を表したのか、喉から出たのはどうにも陰鬱な声にしかならなかった。この、どんよりと重たい空気を吹き飛ばそうとしたのだが、これでは逆効果である。
 そのとき、遠くの方から、何かが聞こえた。まるで、地の底から響くような声だ。

『…なんだ…?』

 誰かが呟いた。それは、その場にいた全員の内心を表していた。
 声もなく、全員が耳を澄ませていた。
 そのうちに、誰とも無く、やはり全員が気がついた。
 この声は、決して遠くの方から聞こえるのではない。
 足下。いや、そのもっと下の方。
 明らかに、地面の下から聞こえるのだ。

『…遠吠え…?』

 その声は、報告書にあったとおり、狼か野犬の遠吠えにしか聞こえない、恐ろしげな響きを持っていた。
 アレクセイの背中を、冷たい汗が流れ落ちた。正直に言うならば、こんな不気味な場所からはさっさと逃げだしたかった。こんなところにのこのことついてきてしまった我が身の浅はかさを呪った。
 しかし、この場における最高責任者は彼である。軍人は確かに有能で扱いやすいが、司令官の指示がなくては動くことが出来ない。それは判断能力が欠如しているのではなく、そう教え込まれているからだ。
 彼は冷静なふりをして、部下に指示を出した。

『正面から入ろう。各自、暗視ゴーグルを』

 言われた直後に、全員が物々しい暗視ゴーグルを装着した。
 太陽の下にいるのとほとんど変わらないような視界の中で、アレクセイは続けた。

『では、事前の打ち合わせ通りに。私とクルツ君は一階に残って想定外の事態に備える。マクドネル君とラドクリフ君は地上階の探索、そしてグラント君とイェーガー君は地下階の探索だ。各自、電子ロックのキーと暗証番号は持っているな』

 言われるまでもないことだったが、全員が頷いた。
 一番若いグラントが正面玄関を開けると、中から埃と黴の、饐えた臭気が漏れ出した。

『うわ、ひどいなこりゃ』
『ああ、こんなところにいたら臭いが染み付いてミイラになっちまう』
『さっさと終わらそうぜ、糞犬を捕まえてさ』

 一度開けた玄関を厳重に施錠した彼らは、軽口を叩きながら、今は誰もいない正面受付の横を通り、患者用の待合ホールに辿り着いた。この病院が正常に稼働していた頃は溢れんばかりの患者で埋め尽くされていたであろうその場所も、当然のことながら人っ子一人いない。隅の方で枯れた観葉植物が、悲しげに俯いている。
 そこでしばらくの間待っていると、非常電源が作動したのか、ロビーに弱々しい明かりが灯った。それと同時に、先行していたグラントとイェーガーが戻ってきた。

『非常電源を作動させてきました。これで、システムが正常に作動している限り電子ロックは解除できるはずです』

 アレクセイは緊張した面持ちで頷いた。

『では、私とクルツ君はここで待機する。各自、目標を捕捉するか、それとも何か異変を感じたら、すぐに連絡すること。特に、階下のチームは気を付けるように。先ほどの遠吠えは、どうも地下から聞こえたような気がするからな。では、任務開始だ』

 全員が再度気を引き締め、自らの任務の完遂のために散開した。
 アレクセイとクルツはその場に残ったが、これは司令官の臆病によってだけではない。確かにその意味も色濃くあったのだが、この廃院は地上と地下を合わせて二十階にも及ぶ建物であるから、その一番上と一番下では無線の精度に今ひとつ信頼性が乏しいのだ。その点、中継地点となる地上一階に人がいれば、全員の連絡を密にするという意味でも、いざというときの予備兵力という意味でも心強い。それが分かっているから、残る二チームも何の不満も無く自分の持ち場へと散っていった。


 ヴォルフガング・イェーガーを初めて見た人間は、まずその大きさに度肝を抜かれる。
 221㎝のずば抜けた長身と、160㎏の体重は見た目そのまま熊のようであった。しかも体脂肪の一欠片も見当たらない、鍛え抜かれた大岩のような体躯だ。それを見て唖然としない人間の方がどうかしている。
 そして、そのいかつい肩の上に乗っかっている小さな顔も、また尋常ではない。正方形のブロックのように頑丈な頭部と、それを飾る短く切り込まれた蜂蜜色の髪。小さく、刃物で切ったように細い目と、その奥にあるやはり小さな茶色い瞳。彼を仰ぎ見る人間は、きっと彼がなんの感情も持たずに生まれた、機械の申し子のような存在だと思うに違いない。
 しかし、ヴォルフガングに親しい数少ない人間は、彼が非常に感情の起伏に富んだ人間だということを知っている。恋愛映画を見ては涙を流し、悪辣な犯罪事件があれば義憤に怒り、甘いものを食べれば相好を崩し、恥ずかしいことがあればこれほどかというくらいに真っ赤になる。
 そんな彼が軍人という道を選んだのは、偏に、彼の立派すぎる肉体を養っていくためだ。幼い時分の彼の家はお世辞にも裕福とは呼べない、平均的な市民の生活水準よりも遙かに下の生活を送っていた。それは彼の父親の早世が原因だったのだが、彼の母親はヴォルフガングを立派な一人前の人間にするために、身を粉にして働いた。 それでも、彼の人三倍の食欲を完全に満たしてやることは叶わず、幼かったヴォルフガングは常に腹を空かせていたものだ。
 彼は、空腹という感覚が、人として生きる限り不可分の感覚であると勘違いしていたから、別に不満はなかった。しかし彼の腹の虫がなる度に、疲れた顔をする母親が一層申し訳無さそうな顔で彼を見るから、それだけが嫌だった。
 義務教育過程を終えた彼は、その足で共和宇宙軍の軍属学生試験に申し込み、苦学の末に合格した。そこを中の上に引っかかる程度の成績で卒業し正式に任官して以来、国家間の大きな戦争こそ経験したことはないものの、テロリストの鎮圧や海賊の摘発等の各種任務においてめざましい戦績を残し、若くして少尉の地位にある。これは、士官学校出身者を除けば異例の出世といっていい。
 そんな自分がどういうわけか情報局の人間の下につき、そして今は野犬の駆除作業をしている。人生とは分からないものだと、ヴォルフガングは苦笑した。

『どうかいたしましたか、少尉殿』
『いや、なんでもない。それよりグラント曹長、何か見つけたか』
『はっ、今のところは何も。野犬がいたという痕跡も発見できません』

 年若い同僚の言葉を聞き流しながら、彼は廃院の地下深くへ潜っていった。
 既に、地下一階と二階の途中までの探索は完了している。今のところ、ここ最近に何らかの生き物が活動をしていた痕跡を見いだすことはできない。
 注意深く探索を続ける彼らの前に、巨大な扉が立ちはだかった。それは、研究用のブロックと一般用のブロックを区切る、分厚くて頑丈な扉だった。
 それが、無造作に開け放たれていた。あり得べきことではなかった。

『…開いている?なんで…』

 グラントは茫然と呟いたが、ヴォルフガングは神経質そうに舌打ちをしただけだった。それも、別に目の前の怪異が恐ろしかったわけではない。
 これで探索範囲が大幅に広がったと、そのことを忌々しく思っているのだ。彼は任務には忠実ではあったが、しかしワーカホリックを発症したことはなかったので、こんな面倒な任務を早々に切り上げたいというのは当然の心理だろうから無理もない。
 だが、これでアレクセイの識見は正しかったことが、図らずも証明されたわけだ。もしも野犬の駆除業者に依頼でもしていたならば、厄介な事態になったかも知れなかった。
 ヴォルフガングは、ハンズフリーの無線で、上司への回線を開いた。

『こちらイェーガー隊。ルドヴィック隊聞こえるか、オーバー』
『こちらルドヴィック隊。聞こえている、オーバー』

 最新式の無線機は、分厚いコンクリートの床越しにでも正確な会話が可能なようだ。その点に浅からぬ心配をしていたヴォルフガングは少しだけ胸を撫で下ろした。

『今のところ目標の捕捉は出来ていない。しかし、地下二階の研究ブロックに続く扉が開かれている。事前の情報では地下ブロックは完全に封鎖されているとのことだったはずだが間違いはないか、オーバー』

 無線機の向こうで、何やら騒がしい音声が聞こえた。何事か話し合いをしているらしかった。
 しかし、これは全く想定していなかった事態かといえばそうでもない。事実、アレクセイはそこまで考えた上で彼自身を含むチームの派遣を決めていたのだから。

『…事前の情報では完全な封鎖がされているはずだった。しかし、これはあくまで想定された事態である。そのまま探索を続行せよ。また何か異変があれば知らせるように。オーバー』
『了解した。このまま探索を続行する。オーバー』

 ヴォルフガングが無線機を切ろうとした、その時だ。
 その彼の足下で、グラントの呻き声が聞こえた。

『少尉、よろしいでしょうか』
『どうした、軍曹』
『これを見て下さい』

 グラントの震える指先が指し示すところ。
 そこだけ、積もった埃が僅かに乱れていた。
 自分達は、まだそんなところを通った覚えはないし、この閉鎖された病院の中を風が吹き抜けることもあるまい。
 間違いない。
 誰か、もしくは何かが、つい最近にこの扉のある箇所を通ったのだ。

『ルドヴィック隊、聞こえるか、オーバー』
『どうした、まだ何かあるのかイェーガー隊、オーバー』
『侵入者の痕跡を、例の扉の傍で発見した。どうやらこっちが当たりらしい。これより探索を追跡に切り替え、奥へ向かう。上階へ向かった部隊に援護を頼むよう伝えて欲しい、オーバー』
『了解した。マクドネル隊に地下へ向かうよう伝える。イェーガー隊はそのまま追跡を続行するように、オーバー』

 それだけ伝え終えて、ヴォルフガングは今度こそ無線を切った。
 そして、何気なく開けっ放しになった扉の施錠部分を見た。
 今度は、流石のヴォルフガングも唖然とした。
 何故、この扉が開けっ放しになっているかを理解した。
 扉は、解錠されたのではない。
 もっと単純に、ぶち壊されていたのだ。
 本来であれば分厚い鉄芯で繋がれているはずの施錠部分は、何か強い力で無造作に引き千切ったように、完全に破壊されていた。しかも、その破壊部位だけ、赤錆が浮いていない。
 この扉は、つい最近に破壊されたものなのだ。それも、おそらく内側から。
 どうやら、これは尋常な事態では無いらしい。そう思って、彼は盛大な溜息を吐き出した。

『どうしましたか、少尉殿』
『これを見ろ、軍曹』
『…、これは…!』
『軍曹、お前、こんな真似ができるか?』
『出来るわけないじゃあないですか!』
『なら、これから先、絶対に俺の傍から離れるな。俺は中型の熊くらいなら素手で相手できる。せめてあちらさんがそれくらいのサイズであってくれればいいんだがなぁ』

 ヴォルフガングはぽりぽりと頭を掻きながらそんなことを言った。
 グラントは、出発前の会議で、この男だけが重火器の携帯を提案していたことを思い出し、そのことが何やら不吉な未来を暗示していたような気がして身震いをした。

『おい、行くぞ軍曹。それともここで待っているか?』
『い、いえ、ご一緒させて頂きます!』

 少し先を歩いていたヴォルフガングのところまで、グラントは駆けた。こんなところに一人残されるなんて、情け無い以上にただ恐ろしくて、冗談ではなかったのだ。
 地下二階の探索を終えた彼らは、そのまま階段を下り、地下三階へと辿り着いた。
 その階に立ち入った瞬間、ヴォルフガングの鼻を嗅ぎ慣れた臭いがくすぐった。

『臭いな…』
『はっ?』
『お前は感じないのか?』

 グラントは首を傾げた。

『あの、埃と黴以外の臭いは何も…』
『そうか、なら俺の鼻がいかれたのか』

 ヴォルフガングは相変わらず、頭のあたりをぽりぽりと掻いている。
 グラントは、恐る恐るといった調子で尋ねた。

『あの、少尉殿は一体どんな臭いを…?』
『血だ』
『血…ですか』
『ああ、それも相当に古く、そして吐き気を催すくらいに生臭い。どうやら、ここが曰く付きの研究所だったというもの本当らしい。無論、俺の鼻がいかれていなければの話だが』

 そう言ってヴォルフガングは無造作に歩き始め、グラントは慌ててその後を追った。
 彼らは決して離れたりせず、チームとなって一つ一つの部屋を探索していった。
 その幾つかで、最近そこに何かがいた痕跡が発見された。例えば埃の乱れ、動かされた椅子、排泄の跡などである。
 その生き物の糞は、人かそれよりもやや大きな生き物くらいのサイズで、その乾燥具合からここ最近のものであると思われた。専門的な設備に持ち込めばこれがどんな生き物の排泄物か分かるはずだが、こんな場所ではそれ以上のことはわからない。
 
『こんなところで、一体何を喰ってやがるんだ…?いくら俺だって、コンクリートを食って生きてはいけないがなぁ』

 ヴォルフガングは暢気にそんなことを言っていたが、グラントは最早蒼白な顔色である。彼の家は元々信心深い家系であり、人の目には見えない、恐ろしい生き物の存在を真剣に信じていた節がある。
 あの扉の破壊具合から、この場所に隠れているのが尋常の生き物ではないことは明らかだ。それに、地下二階よりも下の階から地上にまで届くような遠吠えとは、一体どのような生き物が発することが出来るのか。冷静に考えれば、あり得ることではない。
 そこまで考えて、グラントの脳裏には、ねじ曲がった角が生えて耳の端まで口の裂けた生き物が舌舐めずりをしながら自分を待ち構えているのではないかと、そういう妄想が生まれてしまったのだ。
 そんな彼を見ながら、これはあの切れ者の上司も人選を誤ったと言うべきだろうかと、ヴォルフガングは思った。

『軍曹。気分が悪いなら地上に戻れ。俺は一人で構わん』
『い、いえ、少尉殿。大丈夫です』
『そうは見えないから言っている。素直に従え』
『いえ、こんな程度で逃げ帰ったのでは、情報局の人間に軍属が軽んじらます。少尉殿になんと言われようと、私はここに残らせて頂きます』

 グラントは、その顔色こそ隠すこと出来ないほどに悪かったが、しかし意外に口調はしっかりしていた。ヴォルフガングもそれ以上は何も言わず、次の部屋の探索へと取りかかった。
 そこは、他の部屋と違って、厳重に施錠されていた。それも電子ロックではなく、原始的なキーロック形式らしい。そしてヴォルフガング達の手には、合い鍵やキーピックの類は存在しない。

『どうしましょうか、少尉殿』
『下がっていろ』

 ヴォルフガングはそう言って迷彩服を腕まくりし、丸太のように逞しい前腕を露わにした。
 まさか、とグラントが思う前に、ヴォルフガングは腕を大きく振りかぶった。

『むぅん!』

 気合一閃、ヴォルフガングの巨体が信じがたい程の速度で動き、160㎏の体重が存分に乗った拳の一撃が、重々しい鉄の扉に叩き込まれた。
 鳴り響いた音は、ぐしゃりという、鉄の扉の断末魔だった。そして、憐れな被害者が盛大に倒れる、大きな音が階中に響き渡った。
 あり得べき話では無かった。
 ヴォルフガングは、ただ己の拳のみで、厳重な鉄の門扉を破壊してのけたのだ。
 グラントは、唖然として、自らの上官たる男を眺めていた。
 どうやら、この男も間違いなく、一匹の化け物らしい。

『ふむ。しかし施錠をされているということは、この中に目標がいるはずもないか。早まったな』

 濛々と舞い上がった埃の中で、ヴォルフガングはやはり頭をぽりぽりと掻いていた。
 
『まぁ、折角開けてしまったのだ。中を覗いてから先に進むとしよう』

 グラントの言うところの化け物は、全く警戒心の無い足取りで部屋の中に入った。
 グラント自身も、それに続いて部屋に入ろうとした、その時。

『…おい、軍曹』
 
 中から、声がした。

『はい、何でしょうか少尉殿』
『悪いことは言わん。お前はこの部屋には入るな』

 普段のヴォルフガングの声からは想像できない、震えた声だった。
 そこまで言われると入りたくなるのが人情というものだ。グラントはほとんど無意識に、その部屋の中に入った。
 グラントは、そこで見た光景を、一生忘れることが出来ないだろう。
 そこは、人体を外側に開いた、一種の展示場だった。

『入るなと言っただろうが、全く』
『こ、これは…!』
『ああ、例の、特異能力者に対する人体実験、そのサンプルだろうさ』

 グラントは強い目眩を覚え、その場に突っ伏して盛大に嘔吐した。出発前の景気づけに食べた、軽いアルコールとステーキが、胃液と混じって食道を逆流し、彼の目の前のコンクリートの床を派手に汚した。
 
『ああ、もう、いわんこっちゃない。こりゃあ掃除が大変だぞ…って、その心配はいらんのか』

 ヴォルフガングは、普段の暢気な調子に戻っていった。
 一方のグラントは、自分が何故これほどに動揺しているか分からなかった。自分は軍属であり、実戦経験もある。軍隊における実戦経験とは、即ち人が容易く死ぬ場所で戦ったことがあるということである。事実、彼はテロリスト制圧の際に、最後まで抵抗した主犯格の男を射殺したことがあるし、その任務において友人の一人を失っている。
 それでも、ここまでの動揺はしなかった。いくらこの部屋に手足の一部や内臓が標本として所狭しと並べられているとしても、それは常識の範囲内のことだ。少し医術に携わったことのある人間であれば、嫌悪感さえ抱くことはあるまい。
 なのに、どうして自分はここまで…。

『己を恥じるなよ、グラント軍曹。お前のが、普通の人間の反応だ』
『…いえ、しかし自分は軍人です。それが、この程度で…』
『その認識は間違いだ。いわゆる普通の軍人だから、その程度の反応で済んでいる。本当の一般人であれば、この部屋に入った瞬間に卒倒している。それくらいに、この部屋の濃度は濃い』
『濃度、ですか…?』

 弱々しい声で、グラントは尋ねた。
 ヴォルフガングは、大きく頷いた。

『俺も正確に言葉には出来ないがな、何というか、そう、人の悪意というか無念というか、その手の感情が渦巻いていやがる。ここは、そういう場なんだ』
『あの、少尉、何を…?』
『信じる信じないはお前の自由だし、信じてもらわなくても一向に構わん。だが、俺は幼い頃からそういう類のものに意外と敏感でな。そのおかげで何度か命も救われた。だからこそ今回の任務はどうにも気乗りがしなかったんだが…。やはり、機関銃の一つでもかっぱらってきたほうがよかったかも知れんな』

 ヴォルフガングはそう言いながら、棚に陳列されたサンプルの一つを手に取った。自分で悪意がどうのこうの言っておきながら平然とこんなことが出来る当たり、この大男の肝は超硬度の宇宙戦艦の装甲よりも頑丈に出来ているらしい。

『この指の採取日は10月27日。その隣が28日、そして29日か。なるほど、生きたままばらしたか。それも、麻酔無しだなこれは。苦痛が特異能力に与える影響を調べると言えばたいそうなご託だが、これはほとんど研究者の加虐趣味だ。なるほど、そりゃあ無念も積もるってもんだ』

 グラントは、聞いているだけで気分が悪くなった。

『手段が目的になるとはよく言う言葉だが、ここの連中は正しくそうらしい。研究のためにサンプルを切り刻んでいるうちに、切り刻む行為そのものが目的になっちまったんだろう。これなら、いっそ医学の進歩のために犠牲になったほうが、まだ浮かばれるってもんだ。おっと、こっちの神経節も生体から強引に引き抜いたものか。これで生きてたんなら、いっそ見事というべきだろうな』
『も、もうやめてください!』

 グラントの悲鳴に、ヴォルフガングははっとした表情を浮かべた。
 そして、静かに己が手にしたサンプルケースを棚に戻した。その中には、誰かの眼球だったものが、悲しげに浮かんでいた。

『…すまん。俺としたことが、少し呑まれかけた』

 頭を下げたヴォルフガングは、グラントの体をひょいと担ぎ上げ、その部屋を後にした。
 最後に一度だけ振り返り、静かに頭を下げた。この部屋に残っていた誰かに、謝罪したのかもしれなかった。
 
『お前はここで待っていろ。どうせしばらくは動けん』
『…申し訳ありません』
『そんな顔をするな。だが、銃は抜いておけ。どうやらこの中に居るのは、ただの野犬などという可愛気のあるものではないらしいからな』
『ええ、それはもう…』

 グラントは力の無い笑みで笑い、ホルスターから光線銃を取り出した。
 その手は未だ細かく震えていたが、まさか大の大人を背負って探索活動をするわけにもいかないし、それはこの男が拒絶するだろう。これ以上、まだ年若い軍人の誇りを傷つけるのは不味いと考えたヴォルフガングは、上階へと続く階段まで一度戻り、その脇にグラントを座らせた。

『しばらくすればマクドネル隊が到着する。お前は彼らに事の経緯を正確に報告し、その時点でいくらかでも回復していれば合流しろ。分かったな』

 グラントは力無く頷いた。その表情には、色濃く自己嫌悪の苦さが漂っていたが、ヴォルフガングはそれ以上何も言わなかった。何を言っても慰めにしかならないし、下手な慰めはこの若者をより深く傷つけるだけだ。
 果たして何としたものか考えたヴォルフガングだったが、結局は何も口にせず、頭を一掻きしてから再び探索に戻った。
 それから単独での捜索を再開した彼だったが、しばらくはめぼしいものも発見できなかった。どこにも、生き物の気配そのものが無い。
 しかし、そのフロアの最後の部屋に近づく彼の鼻に、何かが腐ったような、酸っぱい臭いが漂ってきた。
 ヴォルフガングは、懐に入れていた携帯用生命探査装置バイオセンサーを起動させた。これは周囲十数メートル内に生命体がいないかを、二酸化炭素濃度や体温反応などによって探査するものだが、その精度に比例するように消費電力が大きく、常時使用できないのが大きな欠点であった。
 しばらくの間画面を見つめたが、目立った反応はない。少なくとも、補角対象はこの部屋の中にいない。
 それでも光線銃を引き抜き、その出力を制圧レベルから殺傷目的レベルに引き上げ、いつでも撃てる準備をしてから注意深く室内に入った。

『これは…』

 ヴォルフガングは思わず呻いた。
 さして広くない室内には、そのいたる所に非常用食料や飲料水が山と積まれ、その中央には何かの繊維をずたずたにした、寝床が設えられている。
 どうやらこれは『巣』のようだと、彼は思った。
 近寄ってみると、酸っぱいような臭いが強くなった。食べさしの非常用食料であるコンビーフが、腐りかけているらしい。
 ヴォルフガングはそれを手に取り、歯形を調べようとしたが、コンビーフは無造作に囓られ歯形は確認のしようもない。しかし、その缶は綺麗に開けられていることから、どうやらここに住んでいるのは人に近い生き物らしいと彼は思った。
 それはそれで尋常ではない事態なのだが、更に彼を困惑させたのが、当たりに散乱している食い残しの山である。
 
『これはどういうことだ…?』

 先ほどのコンビーフ缶のように金属で包装されている食品は、人の手で開けたように器用に開けられている。にもかかわらず、ビニル素材で包装された食品は明らかに包装ごと食い破り、そのあとで食べられない部分だけを綺麗に吐き出しているのだ。事実、何度か咀嚼されたと思われるビニル片があちこちに飛び散っている。

 人のようであり、そして獣のようである。

 そのどちらもがこの場にいたとすれば納得が出来るのだが、そんなことはあり得ることではないだろう。
 彼はそのまま、部屋の中央の『巣』の中を調べた。
 特にめぼしいものは見つからなかったが、しかし黒く長い、人間の女のように艶やかな毛が数本、見つかった。にもかかわらず、獣の体毛に近いものは一切見つからない。
 彼の脳裏に、報告書に書かれていた、他愛もないはずの噂話が過ぎった。

 曰く、『この研究所はやはり州政府の息のかかった研究所で、地下深いところで遺伝子操作をした化け物の研究を行っていたのだ』…。

 馬鹿馬鹿しいと思う。
 しかし、全く考慮することのない話だろうか。
 連邦憲章には、人体実験を禁じるのと同じ章において、過度の遺伝子操作を用いた生命研究を禁じている。特に、人と他の生命体との遺伝的交配は最も厳罰に処される類の研究である。
 頭のまともな研究者であれば、そのような研究に手を染めようとは思うまい。上手く行けば別段、ばれれば己の研究者としての一生は暗い闇の中に閉ざされてしまうことが明白だからだ。そして、その類の研究がばれずに完遂したなど、船乗りの間でまことしやかに囁かれる幽霊星が存在することくらいに、眉唾な話でしかない。
 しかし、この異常な空間に限って言えば、その類の研究が行われなかったという保証がどこにある?いや、ここ以外の研究所で、違法な遺伝子操作実験が実際に行われていたのではなかったか?
 しかも、今日はそんな生物にうってつけの、目眩のするような満月ではないか。
 ならばここにいるのは―――
 そこまで考えたヴォルフガングの耳に、とんでもない絶叫が聞こえた。

『ぐ、ぎやあぁぁぁ!』

 ヴォルフガングは短い舌打ちをすると、その巨軀からは信じられないような速度で元来た道をとって返した。
 彼が階段につくまで、おそらく20秒とかからなかったはずだ。
 しかし、息一つ乱さずその場に駆けつけた彼が見たのは、己の流した血の中で蹲る、年若い同僚の姿だけだった。

『おい、グラント、生きているか』
『しょ、しょうい…。やられました…』
『どこをやられた』

 そう問うてから、ヴォルフガングは再び短く舌打ちをした。
 問うまでもないことだった。
 グラントの右腕、その肘の少し先の部分から下が、無い。
 それも、刃物ですっぱりいったような傷口ではなかった。
 ぎざぎざと波打った、ちょうど人がその前歯でチーズを囓ったときにできるような傷口であった。
 明らかに、何かに食い千切られていた。

『腕以外に、どこかやられたか?』
『いえ、ここだけです…』
『応急処置を施す。少し痛むぞ』

 携帯用の緊急治療キットをポーチから取り出し、その中の止血用チューブで二の腕をきつく縛り付ける。それだけで劇的に出血量は減った。それを確認してから、傷口を清潔なガーゼで拭い、その上から止血剤を厚く塗り込む。更に止血用シートを幾重にも巻き、それでやっと出血は収まった。
 その作業の途中で、傷口に刻まれた歯形を確かめるのも忘れない。ヴォルフガングの確認したところでは、グラントの腕を食い千切った生き物の口は、小さく見積もっても大形の狼、もしかしたらライオンや虎と同サイズ程度の大きさであるはずだった。
 一息ついたヴォルフガングは、ただでさえ青かった顔を蒼白に染め吐く息も荒々しいグラントに尋ねた。

『しゃべれるか?』
『…ええ、なんとか…』

 脂汗を流しながら、グラントは言った。

『無理をしてでも話せ。その後で、ゆっくり休んでもらえばいい。いいか、グラント。お前を襲ったのは何物だ』
『わかり…ません。ろうかのむこうでなにかがひかったとおもったら、いきなり…。銃をかまえるひまも…』
『やられた瞬間はどうだった。振り回されたか。それとも、一息で食い千切られたか』
『ひといきです…。きがついたら、ひじからさきがなくなって…ちくしょう、あのやろう、ぜったいにゆるさねえ…!』

 これだけ流暢に話せるのであれば、しばらくは大丈夫だろう。
 しかし、任務は失敗だ。これだけ獰猛な猛獣を相手取るには、装備が些か心許ない。このまま闇雲に後を追ったのでは、グラントの二の舞となることは明らかだった。
 
『おい、グラント。このまま引き上げるぞ』
『だめだ、あいつはぜったいに、おれが…!』
『…おいおい、グラントよう。お前も子供じゃあねえんだ。無茶をいっちゃあいけねえやなぁ』

 いつの間にか、ヴォルフガングの口調が変わっていた。
 グラントは、仰ぐように、巨体の上官を見た。

『腕一本食い千切られてそれだけ言えれば上等だがなぁ、残念ながら装備が弱すぎるんだよう。ここはいったん引き上げてもう一度派手にカチコミといこうじゃあねえか』

 グラントは、信じられないものを見るように、目を見張った。
 ヴォルフガングは、笑っていた。もう、心底嬉しそうに笑っていたのだ。
 そして、その笑みは、どこにも一切の暗さのない、純粋な笑みだった。決して負傷した同僚を慰めるための笑顔などではない、何もかもが楽しくて仕方ないといったふうの、底抜けの笑みだった。
 グラントは、目の前で微笑む男を、心底恐ろしいと思った。
 この男は、同僚の腕を食い千切った獣が徘徊するこの廃病院の中で、間違いなく欲情していたのだから。

『しょ、少尉殿…』
『ちなみに、お前さんの憎い憎い仇のヤロウはどこに逃げていったんだい?』
『え、と…、その、階段を駆け上がって…』

 ヴォルフガングの顔色が変わった。

『バカヤロウ!何故それを先に言わねえ!』

 一喝したヴォルフガングは無線機で上階の部隊を呼び出した。
 しかし、何度呼び出しても繋がらない。電波が届かないのではない。いくら呼び出しても、返答が無いのだ。

『グラント、もう少しの辛抱だ、そこで寝っ転がってな』
『そ、そんな…!こんなところで!?』
『知ってるかい?軍人ってえ奴は、死ぬことも任務のうちらしい。幸い、標的は上階だ。これ以上この階に化け物がいないことを祈るんだな』

 ヴォルフガングはグラントの返答を待たず、一気に上階に駆けていった。
 アレクセイの慎重さからいって、彼らは一度上階に向かった部隊との合流を果たしてから階下へと向かうだろう。だとすれば、化け物の餌のうち、一番近くにいるのは一階の彼らだ。
 疾風のような勢いで階段を昇るヴォルフガングの目が、途中に投げ捨てられたゴミ屑で止まった。それは、彼とグラントが階段を下ったときには、存在してないものだった。
 ヴォルフガングは、その巨軀に比して小さな顔に、満面の笑みを浮かべて呟いた。

『おやまぁ。どうやら人間様は口に合わねえらしいや』

 それは、食い千切られたグラントの右腕だった。



 さっきのは、不味かった。
 きっと、次のも不味いだろう。
 その次も、その次の次も、次の次の次も。
 不味くて臭くて筋張っていて。
 どうに食えたものではないのだ。
 なのに、何故襲うのだろうか。
 
『おかしなもんだ。お前の血もうまい。人間なんかまずくて食えたもんじゃないのにな』

 さっきから同じことを言っている、この人は誰だろう。
 私を悲しげに見つめるこの人は誰だろう。
 とても綺麗な、綺麗な、綺麗な女の人だ。
 どこかで、見た気がする。
 誰かに似ている。
 私の、一度も見たことのない、でも、ずっと知っている、人に似ていた。
 誰ですか、貴女は誰ですか。
 何故、答えてくれないのですか。
 分かりました。それでは私のほうから貴女の元に伺いましょう。
 もう、私の脚も、爪も、牙も、こんなに自由なのですから、どうして貴女に会えないことがあるでしょう。
 それに、お土産も。
 美味しくないですけど、喜んでください。
 さっきのお土産は、もう動けないから、あとでゆっくり仕留めましょう。
 そして、残りも綺麗に平らげてから、貴女の元に向かいます。
 それまで待っていて下さいね。
 私の愛しい人。




[6349] 第七話:狩猟
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:46
 グラントが正体不明の生き物に襲われた直後のことだったが、一階のロビーでは、アレクセイとクルツが、上階から引き返してきたマクドネル隊と合流していた。
 アレクセイは、外面にこそ表さなかったものの、そのことを大いに喜んだ。これほど人気の無い空間に、隣にいるのが自分より年上の頼り気のない軍人だけというのは、どうにも不安だったのである。その点、普段はいけ好かないあのでかぶつが隣にいてくれればどれほどに心強かっただろうと、虫のいいことを考えていたりもした。
 それでも、人数が四人になれば野犬など恐れるに足らない。そもそも、きちんと銃で武装している限り、一対一であっても恐れるはずなどないのだ。彼は、当初の心の均衡を取り戻していた。
 アレクセイは、新たに合流した二人、マクドネルとラドクリフに対して言った。

『既に聞いていると思うが、地下二階にて、目標らしき生物の痕跡が発見された。イェーガー隊はそのまま探索を続行しているが、それ以降の報告はない。そこで、我々も彼らの後を追って階下に向かい、全員で目標生物の捜索に当たろうと思う。何か異論はあるだろうか』

 このメンバーの中で一番若手のラドクリフが挙手をした。

『誰かがこの場所で、退路を確保したほうがよろしいのではないでしょうか』

 それは幾つもの戦場を潜り抜けてきた歴戦の戦士らしい意見ではあったが、この場においては彼以外の三人の苦笑を買っただけだった。

『ラドクリフ君、君の意見は貴重だが、相手は野犬だぞ?果たして犬を相手に、退路の確保は必要かね?』
『あっ…し、失礼しました。どうも、いつもの癖が抜けていなかったようです』

 どっと四人分の笑い声がおこった。
 どうにも陰気になりがちな任務の最中であったから、こんなことですら精神の活力になる。普段のアレクセイであれば忌々しく思うような部下の妄言も、今に限っては有難いものだった。

『では、我々はこのまま階下へ向かう。そういうことでいいな?』

 今度は全員が頷いた。
 そのことに満足したアレクセイは、一応の格好をつけて、先頭を切って歩き出そうとした。
 正に、その時である。

『助けて!』

 短い悲鳴が、ただっ広いロビーに響き渡った。
 アレクセイはあまりの驚きに硬直してしまったのだが、残りの三人は流れるような動作で腰に設えたホルスターから銃を抜き取り、声のした方に向けて構えていた。そこらへんは、実際に戦場を経験した軍人と、デスクワークで身を立ててきた情報局の人間との歴然たる差であろう。
 
『誰だ!』

 マクドネルが激しい声で誰何した。
 それに応えたのは、先ほどの声と同じ、しかし信じられない程に弱々しい、少女の声だった。

『止めて、撃たないで!』

 声のした方にある柱の影から、少女が飛び出した。一瞬引き金を引きかけたマクドネルだったが、その少女が裸であり、武器など隠し持っていないことを確認して、その指から力を抜いた。
 しかし、こんなところに、何故少女がいるのか。全員が呆気にとられ、直後に頭を捻ってしまったが、口に出してはこう言った。

『君は誰だ!?何故、こんなところにいる!?』
『分からない!何も分からないの!怖いおじさんに車の中に乗せられて、目が覚めたらこんなところにいたの!お父さんは、お母さんはどこ!?わたしをおうちに帰して!』

 少女は半狂乱で泣き叫び、腰が抜けたようにその場所にへたり込んでしまった。
 その様子は、極限の恐怖を味わった無力な少女が、やっとのことで見つけた希望を前にして安心し、腰が抜けたように見える。
 その様を見て、四人は銃を下ろした。
 彼らの中では最年長であり、目の前の少女と同じ年頃の娘を持つクルツが、彼女の元へと駆け寄った。

『私は、共和宇宙軍第三軍第七航空大隊所属のゲルハルト・クルツ中尉だ。君の身に何があったか知らないが、もう大丈夫だ。我々は君の味方だ。安心しなさい』

 クルツの現在の肩書きは、あくまで連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官アレクセイ・ルドヴィック付補佐官という身分なのだが、少女を安心させるためにも軍人たる身分を明らかにした。
 泣きじゃくっていた少女は、目の前にたった壮年の男性を、如何にも弱り切った視線で見上げた。

『私の味方…?』
『ああ、そうだ。君が誰なのかは知らないが、我々は決して君に危害を加えない。安心したまえ』
『本当に…?』

 その声はどこまでも疲れ切っていた。きっと余程に酷い目にあったのだろう、その漆黒の瞳にも力がない。普段ならばきっと黒絹のような流れる髪も、埃と脂に塗れ、鳥の巣のように酷い有様だった。
 クルツは、少女と同じ年頃の愛娘のことを思い浮かべ、そして、もしも娘がこのような目に遭わされたらと想像し、あまりのおぞましさに奥歯を噛み締めた。しかしその感情を一切顔には表さず、あくまでにこやかに笑いながら、自分の上着を裸体の少女に掛けてやった。

『ああ、本当だとも。今、何か欲しいものはあるかね?お腹が空いているなら、携帯用のブロック食料くらいはあるのだが…』

 少女は、首を横に振った。

『ううん、ついさっき食事をしてきたばかりだから。でも、とても寒いの。おじさん、手を握ってもいい?』
『ああ、もちろんだ』

 クルツは、少女の小さな手を、自分の大きな手で包み込んでやった。すると少女は、もう片方の手でもクルツの大きな手を握り、そのまま俯いて黙り込んでしまった。
 クルツは、心底痛ましそうに、少女の肩を抱いてやっていた。
 その様子をアレクセイは冷ややかに見守った。彼の内心では、猛烈な勢いで損得計算が行われれた。
 このような事態は完全に想定外だ。今日中に案件を片づけられなかったのは残念だが、少なくとも野犬狩りにうつつを抜かしている場合ではないようだ。この少女をこんな場所に連れてきたのが誰かは知らないが、未成年者の誘拐事件となれば共和政府の警察機構が動くような重大事件である。これは早々に調査を引き上げ、事態の対処方法を上役と協議すべきであった。

『ラドクリフ君、階下の二人に連絡を。我らはこの少女を保護し、可及的速やかにこの場を離れねばならん』
『は。しかし、犯人の確保は…?』
『それは我らの任務ではない。我々は、この憐れな少女を安全な場所に連れて行き、然るべき機関に引き渡す。それ以上のことに首を突っ込むべきではないだろう』
『はっ、了解しました』

 ラドクリフは短く頷き、無線機のスイッチを入れようとした。

 その時だ。

 少女を慰めるクルツの様子が、どうにもおかしいことに彼は気がついた。

『…おいおい、そんなに強く握らなくても、私はどこにもいかないぞ』
『そう?わたし、とても不安なの。こうでもしていないと、またひとりぼっちになってしまいそうで』
『また、ひとりぼっちに?大丈夫だ、君はもう一人になることなんかないんだ。すぐに、お父さんとお母さんのところに連れて行ってあげるからね』

 クルツは平静を装っていたが、しかしその額にはぽつぽつと大粒の汗が浮かんでいた。
 脂汗であった。
 彼は、想像を絶するような痛みと、密かに戦っていたのだ。
 では、その痛みを与えているのは誰なのか?
 
『ほんとに?』
『あ、ああ、ほ、ほんとうだ…だから、この手を離して…』
『だって、お父さんもお母さんも、私を捨てたわ。それ以来、十年間も、私は暗い地の底で繋がれて、ずっと切り刻まれていたの。それなのに、もう一人になることはないなんて、貴方は保証できるのかしら?』
『じゅ、じゅうねん…?き、きみはいったい…ぐ、あぁぁぁ!』

 壮年のクルツの口から、情け無い悲鳴が漏れだした。
 クルツと少女以外の何者にも、一体何が起きているのか分からなかったに違いない。
 しかし、当のクルツにしてみれば、事態は余りに明白だ。
 少女は、自分の手を握りしめている。
 それだけ、だ。別に特別なことではない。
 ただ、一点。
 その力が、まるで万力で締め付けるような異常なものであるという一点を除けば、の話であるが。
 最早クルツの顔からは、一切の余裕が消えていた。クルツは、激痛に濡れた絶叫を溢しながら、恥も外聞もなく叫んだ。

『は、はなせ、はなしてくれぇ!』
『あら、駄目よこれくらいで軍人さんが悲鳴を上げては。私は、これよりももっと痛いことを、ずっとされてきたのよ。十年間、絶え間なく、ね』
『はなせはなせはなせはなせはなせはなせはなせえええええぇぇぇぇぇぇ!』

 獣の叫び声のようなクルツの声が響いた、その直後。
 ぽきり、と、枯れ木の折れるような音を、残りの三人は聞いたような気がした。
 それも、一度や二度ではない。

 ぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきぽきり。

 火のついた爆竹が次々と破裂するように、その音は収まることがなかった。

『ぐぎゃああああああぁあぁぁぁぁぁぁ!?』

 調子の外れたオペラ歌手のようなぞっとする声が、ホールを満たした。
 やがて肺腑にため込んだ空気を全て吐き出したクルツが、白目を剥きながら気絶した。あまりの激痛に歪みきったその顔は、涙と鼻水と涎でデコレーションされ、とても正気の人間のそれとは思えないふうであった。
 しかし、それも無理はあるまい。
 倒れ伏したまま痙攣した彼の右手が、もはや手としての機能を失ってしまったことは明らかだった。指はそれぞれが明後日の方向にひん曲がり、本来であれば折れ曲がるはずのない箇所で直角に折れ曲がっている。所々から飛び出した鋭く尖った白いものは、開放骨折をした指の骨だろう。

『もう、これくらいで壊れちゃったの?人間って、脆いのね』

 少女は、自分の手についた自分以外の人間の血を、丁寧に舐め取り、そして顔を顰めた。

『…やっぱり不味いわ。さっきの人もそうだったけど、どうしたって人間って食べられたもんじゃあないわね』

 少女は、足下に転がったクルツを、思い切り蹴飛ばした。
 軍人としてはやや小柄な、それでも十分に平均的な成人男性以上の体格を誇るクルツの体は、サッカーでいうところのゴールキックをされたボールのように吹っ飛び、壁に当たって、そのまま落ちた。
 最早、ぴくりとも動かなかった。

『さて、残りの方々はどうかしら?わたしを一人にして置いていかないでくれるの?』

 指先についたクルツの血で紅を引いた少女の唇が、妖艶に歪む。
 アレクセイを含めた三人は、生まれて初めて、自分が狩られる側の生き物であると自覚した。
 


 簡単だったわ。
 呆れるくらいに、簡単だった。
 人間は、もっと強いと思っていたのに。
 この世界を支配しているは、人間なのに。
 どうしてこんなの弱いんだろう。どうしてこんなに弱いものに、私は痛めつけられ続けたんだろう。
 もう、飽きた。きっとこんなものじゃあ、あの人へのお土産にすらならないわ。

『た、助けて…』

 一番小さな人が、泣いている。
 遠い昔に教わった。自分よりも弱い人を虐めてはいけません。
 でも、虐めるという言葉には、その対象が自分より弱いという意味を含んでいるはず。
 自分より強いものに立ち向かうとき、虐めるという言葉は不合理だわ。
 だから、私は立ち向かったのに。
 これじゃあ、単なるいじめっこじゃあないか。
 私は、不機嫌になった。

『つ、妻が…幼い娘がいるんだ…頼む、助けて…』

 私は、その弱い生き物に、顔を近づけてみた。
 その弱い生き物は、まるで鬼か悪魔を見たように、怯えきっていた。
 すんすんと、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。
 ああ、もう、なんだか酸っぱい臭いがする。これはきっと食べ物じゃあない。
 食べ物じゃあないなら、もういらない。
 私は、興味を失って、自分の巣に帰ろうとした。
 そしたら、太腿の辺りを、何か熱くて痛いものが通り抜けていった。
 それはもう、懐かしくて、愛おしくて、涙が出るような感触だった。
 振り返る。
 さっきの小さくて弱い生き物が、その手に武器を持って、やはり小さく震えていた。
 ああ。
 なんて、可愛らしい。



『そのへんにしといてやってくれねえかい?いけすかねえ野郎だが、それでもそいつは俺の上官なんだ。簡単に死なすわけにはいかねえんだよう』

 一階まで駆けてきたヴォルフガングの息は、さすがに少し荒い。
 そんな彼を見ながら、少女は言った。

『まぁ、大きなお兄さんね。まるで熊さんか、それとも象さんだわ』
『よく言われる』

 ヴォルフガングは苦笑した。それは、全くの事実だった。

『ところで、俺のお願いは聞いて貰えないのかい?』
『うーん、ちょっと難しいかな。だってこの人、折角見逃してあげたのに、後ろから私を撃ったのよ。すっごく痛かったんだから』

 片手でアレクセイの顔面を鷲掴みにし、高く吊り上げている少女。その左足に、明らかな銃創が認められた。彼女の言っていることは事実だろう。
 ヴォルフガングは、あちゃあというふうに、片手で顔を覆った。

『おいおい、ルドヴィックさんよ。あんた、まさかそんなドジこいたのかい?怒り狂った虎が、折角見逃してくれたっていうのに、わざわざ豆鉄砲撃って挑発してどうするんだよ。こんなのを一撃で仕留めようと思ったら、それこそロケットランチャーか何かを用意しないと無茶ってもんだ』
『ええ、その通りね。よく分かっているじゃない、大きなお兄さん』
『それが俺の呼び名かい?』
『ええ、ご不満かしら?』
『いやいやとんでもない。あんたみたいなべっぴんさんに呼ばれるなら、どんな名前だって大歓迎だよ』

 その時、少女の細腕で宙吊りにされたアレクセイが、呻くように言った。

『イェーガー、た、たすけ…ぐ、ああああぁぁぁ!』
『ねえ、小さなひと。私はこのお兄さんと話してるのよ。黙っていなさいな』

 少女は、僅かに力を込めたようだった。それだけで、アレクセイの顔面の各所から血が噴き出した。少女の指の先が、肉の中にめり込んだのだ。
 その刹那、アレクセイの目がくるりと裏返り、口から泡を吹き始めた。

『あら、この人って蟹だったの?』

 少女はまじめくさった調子でヴォルフガングに尋ねた。
 ヴォルフガングも、まじめくさった調子で答えた。

『さぁ、もしかしたらそうだったのかも知れねえな。全部、あんたが判断すりゃあいい』
『そうね、じゃあこれは蟹さんだわ…あら?』

 少女が蟹さんと呼んだ男の股間の部分が、重たく濡れていた。
 少女は、漂ってきたアンモニア臭に顔を歪め、汚いものを投げ捨てるようにアレクセイを放り投げた。彼の体は宙高く跳び、長いすの上に軟着陸した。運の強い男である。このぶんであれば、死んでいるということはあるまい。
 ヴォルフガングは、少女が突然に襲いかかってくる様子がないのを確認してから、注意深く辺りを見回した。
 少女の足下に、二人の人間が倒れている。二人の体格から判断して、おそらくラドクリフとマクドネルだ。両方ともぴくりとも動かないが、一応息はしているらしい。

『おい、嬢ちゃん。クルツはどうした?』
『クルツ?』
『ほら、少し小柄なおやじのことだよ』
『ああ、あの人。あの人なら、ほら、あそこ』

 少女は一度手を打ってから、自分の背後を指さした。
 そこには、ボロ切れのようになって動かないクルツがいた。おそらく、既に呼吸をしていないか、していたとしてもひどく浅いものになっているのだろう、胸の部分が全然動いている様子がない。
 この中では、明らかに一番重傷だった。

『さっき、思い切り蹴ったのよ。そしたら動かなくなっちゃった。ごめんなさいね、持って帰るのが大変でしょう?』
『なら嬢ちゃんは、俺をここから帰してくれるのかい?』

 ヴォルフガングの言葉に、少女はしまったという表情を浮かべた。

『ああ、そうだったわ!うっかりしてた!私、目が覚めてから最初に見つけた人間は、絶対に許さないって決めてたの。だから、あなたを帰すわけにはいかなかったのよ。ごめんなさい!』

 少女は、慌てた様子で頭を下げた。
 どうやら、真剣に謝っているようだった。
 ヴォルフガングは唖然とした。しかし同時に確信もしていた。この、見た目にはまるで天使のような外見を誇る可憐な少女こそが、グラントの腕を一撃で食い千切り、四人もの軍人かそれに類する大人を、容易く半殺しにしてのけたのだ、と。
 ヴォルフガングは上着を脱いだ。それはごわごわして着心地が悪いが、極端なまでの対刃処理を施した、特注の軍服だった。それを左前腕にぐるぐると巻き付ける。どれほど頼りになるかは未知数だが、溺れる者が掴む藁よりは頼りなると思いたかった。

『なぁ、嬢ちゃん。あんた、名前は?』
『大きなお兄さん、貴方になら教えてあげてもいいけど、そういうことって男の人から名乗るのがマナーじゃないかしら?』
『ああ、それもそうだ、なっと!』

 突然、火線が少女に向けて走った。
 ヴォルフガングは、銃を構える、標準を合わせる、引き金を引くの動作を同時にやってのけた。それも、桁外れのスピードと正確性で、だ。
 それでも、身を躱した少女の、黒髪のほんの一房を切り飛ばしただけに終わった。
 少女は、感嘆の表情で、自分に銃を向けた巨軀の男を眺めた。

『…貴方、凄いのね』

 その言葉に対して、ヴォルフガングは苦笑を浮かべた。
 これは最早、銃は通用しないと思ったほうがいいかもしれない。少なくともあのタイミングで躱されたのであれば、彼の操る銃では、この少女を傷つけることは不可能だろう。

『躱した奴が言うなよ。これでも、早撃ちで負けたことは無かったんだがなぁ。傷つくじゃねえかよう』

 拗ねたように頭を掻く男を見て、少女は本心から微笑った。

『俺の名前は、ヴォルフガング・イェーガー。親しい奴はみんな、ヴォルフって呼ぶ』
『そう。私の名前は、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。親しい人は、ウォルフィーナって呼ぶわ』
『親しい人?』
『ええ、研究所のみんな。私の体を、微笑みながら切り刻む人達』

 刹那、少女の身体が、ヴォルフガングの視界から掻き消えていた。
 次の瞬間、ヴォルフガングの体は斜め下から突き上げられたとんでもない衝撃に、完全に宙に浮いていた。
 腹の中心を抉る衝撃と痛みに目を丸くした彼は、しかし自分がウォルフィーナに殴られて宙を浮いているのだと理解した。
 正直に言うならば、信じられなかった。彼は恵まれた、もしくは恵まれすぎた体躯を有していたから、腕っ節の強さで人後に落ちたことはない。無論今の今まで誰にも負けなかったとは言わないが、しかしそれは極少数の例外であり、少なくとも正面から戦って力負けしたことなど、ただの一度とてなかったのだ。
 なのに、このか細い少女の一撃で、大人三人分にも及ぶ自分の体重が完全に宙に浮かされている。到底信じられることではなかった。
 これはいよいよ、自分が戦っているのは化け物だ。彼は認識を新たにした。
 ヴォルフガングはそのまま盛大に床に倒れたが、追撃の気配がないことを不思議に思った。さして急ぐでもなく体を起こした彼の目に、殴ったほうの手首をさすりながら、顔を顰める黒髪の少女が映った。

『…ねぇ、ヴォルフ。貴方、重たいわ。それに固いわ。貴方、本当に人間?』
『…一応はそのつもりだが、あんたが違うと思うなら違うのかもしれねえなぁ』

 少女は、いっそう眉を顰めた。

『あんたじゃないわ。ウォルフィーナよ』
『ああ、そういやそうだったっけか』

 ヴォルフガングは立ち上げり、ズボンの尻の辺りを数回払った。

『折角女の子が名前を教えてあげたのに、失礼な人ね』
『すまねえなぁ。俺、頭が悪いんだよぅ』
 
 そして、構えた。
 左足が前、右足が後ろ。
 足下に肩幅程度の正方形があることを意識し、その対角に足を置く。
 固く握った拳で頭を挟み、顎を引き、背を軽く丸める。
 太腿は内に絞り、金的を狙われにくいように。
 何より、視線だ。相手を、それだけで射殺す。実際に射殺せなくても、その意志が何より重要なのだ。

『うん、待たせたな。じゃあ、やろうか』

 男は、微笑った。

『そうね、待ったわ。じゃあ、始めましょう』

 少女は、微笑った。

 死闘が、始まった。



 楽しいんだろう。
 なんて、楽しいんだろう。
 楽しい。
 呆れるほどに楽しい。
 喜んでいるのは誰?
 私?いや、私の体。
 十年間、鎖に繋がれ続けた私の体が、喜んでいる。
 咆吼している、猛り狂っている。
 これは、こういうものだと、叫んでいる。
 自分はこういうものなのだと、証明している。
 足が動く。冷たい鉄の枷のない、自由な足が地面を蹴る。
 肺が苦しい。どんなに酸素を取り込んでも、瞬く間に消費してしまう。
 頭がちかちかする。あまりに鮮烈な感動で泣き出しそうだ。
 これが、戦いだ。これが、生きるということだ。ならば、これが私だ。
 ついぞ、太陽の下で大地を駆けることが出来なかった。ついに、兄弟達には出会えなかった。
 風の匂いはどんなだろう。草の匂いは?咲きたての花の香りは?
 同胞の毛繕いをするための舌は、ぜえぜえと喘ぎ、苦しそうに垂れ下がるだけ。
 彼らの体に寄り添う安らぎは、どんなものかと夢想して、誰にも教えて貰えなかった。
 でも、やっと教えてもらった。
 これが、生きるということだ。今、私の中を駆け巡る鮮烈な感動が、即ち生だ。
 戦うということは、憎むことというは、怒るということは、喜ぶということは、許すということは、悲しむということは、愛するということ。
 この男との戦いには、生きるという全てがある。
 まるで、宝石だ。
 きらきらと光る宝石を、丸ごと飲み込んでいるような。
 自分という存在が、目の前の男と交わって、そのまま宝石になったような。
 肉の塊を、思い切りぶん殴る。拳に伝わる、肉の潰れた感触が嬉しい。
 そのお返しと、風を切り裂いて拳が飛んでくる。躱そうとするが、失敗する。頭を強かに殴られた。悔しい。
 ならば、お返しの蹴りだ。爪先を、男の鳩尾に、めり込むように。
 ごう、と、熱い息が漏れだした。これは効いただろう。もう、倒れるだろう。
 それでも、男は倒れない。チアノーゼに顔を青ざめさせながら、それでも私を睨んでいる。
 拳で挟んだ頭の奥、その小さな瞳を殺気で燃やしながら、私を睨んでいる。
 ああ、その瞳。
 その瞳が、愛おしい。なんて美しい。宝石のようだわ。
 私は貴方を殺そうとしている。こんなに愛おしいのに、自分でも不思議だけど。
 殺したくない。でも、殺すつもりでやらないと愛おしくない。愛おしむためには、殺さなくちゃいけない。
 その矛盾を、なおさら愛おしく思う。

 これが命だ!

 私は、吠えた。鳴き声が、この世界に響き渡る。
 それと、もう一つ。
 男も、吠えていた。腹の底から響くような、低く低く、深い声で。
 ああ、わかった。分かってしまった。
 これも、獣だ。
 目の前のこれも、私と同じ。この世界に生まれるべきでなかった、獣の一匹だ。
 そうか。
 彼は、私を救いに来てくれたのか。
 この地の底に繋がれた、私を助けに来てくれたのだ。
 なんと、有難い。涙が出そうだ。
 ありがとう、と殴る。男の鼻血が飛び散る。
 ありがとう、と投げ飛ばす。男の頭蓋骨の軋む音が聞こえた。
 ありがとう、ありがとう、ありがとう。
 数え切れない感謝の合唱。
 気がつけば、いつの間にか、男は血みどろだった。
 全身を自分の血で染め、赤いシャワーを浴びたような。
 きっと、骨の一本や二本はいかれているだろう。それでも男は、私を睨んでくれていた。
 私は、泣いた。泣きながら喜んで、泣きながら悲しんだ。
 泣きながら殴った。
 終わってしまう。このままでは、終わってしまう。
 貴方との戦いが、私の生まれた意味が。
 止めないで、止めないで。
 私とずっと、ここにいましょう。
 貴方と戦っているとき、私は私でいられる。
 さぁ、貴方。私をここから連れ出して。




[6349] 第八話:決着
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:46
 男の巨躯が、軋み声を上げていた。
 もう、ぼろぼろだった。
 彼自身が把握しているだけでも、片手の指では数えられないほどの骨が折れている。鼻はひしゃげ、鼻孔に血が溜まり、上手に呼吸が出来ない。
 全身が、熱い。もはや、苦痛を苦痛として認識することができない。果たして自分は痛いのか、疲れているのか、病んでいるのか、分からなかった。
 激しい倦怠感は、彼の瞳から意志を奪い、この場で横になることを強く要求する。さぁ、もう十分だ。ここで倒れても、誰も俺を非難しない。もう、自分を許して上げてもいいじゃないか。
 ヴォルフガングは、それが悪魔の囁きだと知っていた。悪魔は、人に優しい。そして天使は、神は人に厳しいのだ。彼はそれを知っていたから、悪魔の囁き声から、必死で耳を塞ぎ続けた。
 敵の前で倒れた獣に、生きる術はない。それは、死ぬべき時だ。
 だから、まずは立つ。一も二もなく、まずは立つことだ。
 次に、息をする。これを忘れれば、動くことが出来なくなる。だから、必死に息を整える。
 最後に、睨みつけろ。手は動かなくても、足が動かなくても、睨みつけろ。目で殺せ。何を?敵の魂を。
 そうして、ヴォルフガングはそこに立っていた。ボロ雑巾のようになった己の体で立ちながら、呼吸をし、目の前の少女を睨みつけた。
 ウォルフィーナは、そんな彼を、泣き笑いのような表情で、ずっと見つめていた。

『ヴォルフ。貴方、凄いわ』

 それは、どこまでも純粋な、感嘆の呟きだった。
 何をもって純粋とするか、そんなことはどうでもいい。意識の埒外だ。とにかく、一切の不純物の混じらない、単純な感嘆の念。少女の呟きには、それしか含まれていなかった。
 
『ああ、知ってるさ』

 男は、そう答えた。
 男は、自分が普通の人間ではないことを知っていた。街中を歩けば、必ず奇異の視線で眺められる。視線を合わせようとすれば、必ず避けられる。道は、まるで預言者が開いた海の底のように、彼のために開けられた。
 彼の行くところに、誰もいなかった。それは偏に、彼自身の巨体のためだ。彼は、その恵まれすぎた体が故に、人ではなかった。人であることを拒絶され続けた。
 だから、人でないが故に迫害を受け続けた少女の気持ちが、痛いほどに分かった。
 
『でも、そろそろ、じゃないかしら』

 少女は呟いた。
 心底残念そうな、口惜しそうな響きだった。
 真っ赤に染まった自分の拳と、目の前の巨漢を交互に眺めて、未練たらたらの溜息を吐き出した。

『もうそろそろ、おしまいにしないと』
『ああ、同感だ』

 男は頷いた。
 確かに、そろそろいい時間だ。子供は家に帰り、お母さんの作ってくれたシチューを楽しみにしながら、泥だらけの体を洗い流す、そういう時間だ。
 俺は、帰らなければならない。ここに倒れ、今にもくたばりそうな仲間達をかついで、こいつらをこいつらの家に届けなければ。アレクセイやクルツには、年頃の、生意気盛りの子供がいたはずだ。ラドクリフとマクドネルには、新婚ほやほやの奥さんと、生まれたばかりの子供達がいた。まだ乳臭さの抜けないグラントの母親は、心配しながら我が子が無事に帰ることを神に祈っているのだろう。無事ってところはもう駄目だが、せめて生きて帰してやらないと申し訳が立たない。
 何に?
 この、巨体に、だ。
 このまま俺が一人で逃げ帰れば、俺はでくの坊扱いされる。それは全くの事実だから、別に俺は構わない。でも、俺の体が馬鹿にされるのだけは、どうしても許せない。そんなことになったら、俺が俺でいた意味がなくなる。そんなの、申し訳がないじゃあないか。
 だから、男は、最後まで戦わなければならなかった。

『貴方だけ、逃がしてあげてもいいわ』

 少女は、恥ずかしげに俯いた。

『ほんとは駄目なんだけど、貴方がどうしてもって言うなら、考えてあげる』
『おい、それじゃあ俺に逃げてくれって言ってるように聞こえるぜ』
『そうよ。いけない?』

 男は、唖然とした。
 少女の言葉に、ではない。少女の、薄く涙の張った瞳の美しさ、その黒の深さに、心を奪われた。

『ねぇ、ヴォルフ。私は貴方を殺したくないわ。でも、貴方は倒れてくれないでしょう?』

 男は、無言で頷いた。
 
『ほら、ね?なら、私、貴方を殺しちゃう。そしたら、もう喧嘩も出来ない。そんなの、つまらない』
『他の連中は?俺と一緒に見逃してくれるのか?』

 ヴォルフガングは、言葉の途中で眉を顰めた。息を吐き出したときに、折れた肋骨がずきりと痛んだのだ。
 そんな彼を痛ましそうに眺めながら、ウォルフィーナは首を横に振った。

『駄目。それは出来ないの』
『どうして』
『私は、私が目覚めたときに、最初に見つけた人間を殺す。そうしなければならない。それが理由よ』
『ああ、そうか』

 これほどに理屈の通らない理屈もなかったが、ヴォルフガングには不思議と納得出来た。目の前の少女が、これほどに苦悩に満ちた悲しげな瞳でそう言うのならば、それはそういう事なのだ。
 だから、彼も答えた。少女の好意を無碍にするのは心が痛んだが、彼にとって他の選択肢は存在しなかった。

『なら、俺が逃げるのも無しだ』
『どうして?』
『俺はな、ウォルフィーナ。こいつらを病院のベッドに叩き込んでやらねぇと、ビールが美味くねえんだよ。きっと、これから一生、不味いビールしか飲めなくなる。きんきんに冷えて、突けば凍り出すくらいに冷えた缶ビールを飲んでもちっとも美味くないなんて、そんなの人生における重大な損失だ。勿体ないにも程がある。分かるか?』
『ああ、うん、なんとなく分かるわ』

 少女も、楽しそうに頷いた。
 二人は、互いを好ましく思いながら、しかし互いを許すという選択肢を持っていなかった。それだけの話で、それ以上ではない。
 二人は見つめ合い、そして微笑みあった。
 それが、互いの降伏勧告を無期限に拒絶する、互いの意思表示だった。
 
『できるだけ、楽に殺してあげるわ』
『誰が殺されるか。顔を洗って出直してこい、しょんべん臭い小娘が』

 ヴォルフガングがそう言い終えたと同時に、ウォルフィーナの小さな身体が、彼の視界から消え失せた。
 もう、何度も繰り返したことだった。
 ヴォルフガングは、単純な力比べならいざ知らず、総合的な戦闘能力でこの少女に自分が勝っているとは考えていない。
 速度。体を動かす性能が、根本的なところで桁が違う。
 まるで、四つ足の獣だ。いや、ひょっとしたらそれ以上か。遠く眺めるならいざ知らず、目の前でこうも素早く動かれたのでは、人間の目が追いきれるはずがない。
 だから、ヴォルフガングは諦めていた。当然、勝利をではない。華麗に少女を取り押さえて、無傷の勝利を得ることを、である。
 
『あは、熊さんはいつから亀さんになったのかな!?』

 ウォルフィーナの台詞は、全くもって正鵠を射ていた。体を小さく屈め、急所だけをなんとか守って一切の攻撃をしなくなった生き物を、もはや猛獣と呼ぶことはできない。ならば今のヴォルフガングのそれは、巨大な亀とでも言うべき姿だった。
 しかし、少女も気がついている。彼の、腫れ上がった瞼の奥で未だ鈍く輝く瞳が、己の勝利を信じて微塵も疑っていないことを。
 ならば、実のところ、追い詰められているのは少女のほうだった。どんなに苛烈に攻撃しても、男の頑丈な体がその全てを吸収してしまう。この体を攻略するには、拳や蹴りでは役者不足なのだ。
 そして、男もそのことに気がついていた。気がついて、じりじりと待っていたのだ。己ではなく、己の肉体の頑健さのみを信じて、荒れ狂う暴風雨のような少女の攻撃を、じっとひたすら耐え忍んでいた。
 いいぞ。どれほどでも痛めつければいい。
 存分に殴って、存分に蹴っ飛ばして、存分に引っ掻け。
 その度に、体は痛むだろう。傷つくだろう。だが、決して壊れはしない。俺はそのことを知っている。この体は、どうしたって俺を裏切らない。裏切るとすれば、それは俺が先にこの体を信じることが出来なくなったときだ。
 だから、俺は戦っている。たった一度も攻撃をせずに、それでも必死に戦っている。どうだ、追い詰められているのはお前のほうじゃないか、ウォルフィーナ。その真っ黒な瞳が、焦りに染まっているぞ。
 ならば、いずれお前は奥の手を使わざるを得なくなる。お前の、お前だけの、とっておきの武器だ。しかし、お前がそれを手にしたときが、俺の勝つときだ。
 そうして、男は耐えた。とことん耐えた。
 やがて、焦れたのは、やはり少女の方だった。

『しいぃっ!』

 鋭く漏れ出した呼気と共に、少女の足が疾駆する。
 狙いは、男の右内股。少女の小さな足の甲が、そこを思いっきりはじき飛ばした。

『ちぃっ!』

 さすがに、男の巨躯が揺らいだ。がくりと膝が折れ、男の顔が剥き出しになる。
 しかし少女は、男の顔面を狙わなかった。素早く引き戻した足を、そのまま垂直に蹴り上げた。
 では、そこに何があるか。
 そこには、男の股間がある。今まで、敢えて一度も狙わなかった、急所中の急所である。
 少女は、ほとんど思いっきり、そこを蹴り上げた。
 少女の爪先に、柔らかい感触が伝わった。

『かはっ!』

 男は短く呻いて、そのまま悶絶した。
 両手で股間を押さえ、前のめりに倒れていく。
 普通なら、これで勝負ありだ。少女の怪力で思い切り股間を蹴られたのだから、睾丸の一つや二つ、潰れていてもおかしくはない。そして、そんな男が立っていられるはずがない。
 しかし、ウォルフィーナは徹底的だった。前のめりに崩れていく男の、剥き出しになった喉に焦点を合わせ、その獰猛な牙を剥いた。
 それが、この、狼女ウォルフィーナと蔑まれた少女の、最後にして最高の武器だった。
 そして、ヴォルフガングが待ちに待った、唯一の勝機であった。



 あれ。
 おかしい。
 何でだ。
 私は、噛み付いた。
 この、とても好感の持てる、大男の喉元に。
 なら、私の口の中には、暖かい液体が充ち満ちていないとおかしい。
 おかしいのに。
 どうして、何の味もしないんだろう。
 それに、どうして噛み裂けない?確かに筋張って固そうな首だったけど、一気に噛み切ることは不可能ではないはずなのに。
 おかしい。
 なんで。



 ウォルフィーナは、ヴォルフガングの喉元を一気に食い千切るつもりで噛み付いた。
 グラントの右腕を、たった一噛みで無造作に食い千切った獰猛な顎である。それは、巨木のように太く、豊かな筋肉に覆われたヴォルフガングの首であっても、有効な攻撃たり得るはずだった。だからこそ、彼女は最後まで、自分にとっての文字通りの牙を隠し続けていたのだ。
 なのに、少女の牙は、その喉笛を噛み裂くことが出来なかった。
 単純な理屈だ。少女が噛み付いたのは、男の首などではなかったのだから。

『…つ、かまえたぜぇぇ…!』

 少女が噛み付いたのは、男の左前腕部であった。
 悶絶し、前のめりに倒れそうになっていたのは、あくまでふり・・だった。そして、目にも止まらぬ速度で飛びかかる少女、その口と頸動脈部の間に、腕を差し入れたのだ。
 男は、いつか少女が、自分の喉元か、それとも延髄に牙を突き立てるものだと信じて疑わなかった。鋭い牙を持つ肉食獣が獲物を仕留めるときは、それが作法なのだ。
 その点、男は少女のことを信じ切っていた。信頼していた。
 だから、この一瞬を、全てをかけて待ち続けたのだ。
 一瞬の驚愕の後、しかし少女は、自分が今何に噛みついているのかを瞬時に把握した。
 馬鹿にするなと思った。こんなもの、一息で噛み千切ってやると、顎に力を込めた。

『無駄だ。いくらお前さんでも、それは噛み切れねぇよ』

 ヴォルフガングはそう言いながら、残った右腕で、少女の細い腰を抱きかかえた。そうすると、もう少女は逃げられない。
 後ろに引くことが叶わないならば、前に進むしかない。少女はそう思い、いっそうの力を顎に込めた。もう、満身の力で噛み付いた。しかし、特殊な防刃加工を施したジャケットをぐるぐる巻きにしたヴォルフの左前腕部は、どうしたって噛み裂けるものではなかったのだ。
 勝負は、ここに決した。
 
『いい子だ、そのまま離すなよ』

 ヴォルフガングはそう呟いて、その巨体からは想像もつかない速度で疾駆した。無論、少女を抱きかかえたまま、である。
 どこに向かって?
 病院の、太くて頑丈な柱、その角に向かって、である。

『………っ!』

 少女は、さすがに身の危険を感じて、顎を離そうとした。しかしそれも一瞬遅く、彼女の小さな身体は既に男の太い腕に抱きかかえられてしまっている。
 最早、この顎を放したところで逃れられない。そう理解した少女は、よりいっそうの力を顎に込めた。もう、自身が顎と牙だけの生き物になってしまったような様子で、一心に噛み付いた。
 ヴォルフガングは、己の左腕から、べきりと鈍い音が鳴り響いたのを聞いた。それも、二回聞いた。間違いなく、尺骨が二本とも砕けたのだ。
 それでも構わず、男は疾駆した。まるで獲物を仕留める熊のように、大きく、しかし想像以上に敏捷な動きで、走った。
 そして、そのまま叩き付けた。
 自分の160㎏の体重と少女の40㎏ほどの体重を、存分に加速させ、そして柱の角に少女の背中を叩き付けたのだ。

 病院全体が、何の比喩でもなく震えた。

 ぐしゃり、と、すごい音が鳴った。
 それは少女の背中で柱がひしゃげた音であり、少女の肩甲骨が砕けた音であり、少女の肋骨が粉微塵に粉砕された音であった。

『かはっ…!』

 少女は、先ほどのヴォルフガングのように、弱々しい声をあげて悶絶していた。
 今度こそ、勝負ありである。
 しかし、それでも男は攻撃の手を休めなかった。

『悪いなぁ、ウォルフィーナ。俺は臆病なんだ。お前みたいに物騒な女はさ、意識があるだけでもおっそろしいんだよ』

 ヴォルフガングは、少女が噛み付いたままの左前腕を、そのまま強く柱の方に押し付けた。少女の開かれたままの口に、男の腕が深く埋まる。これで、口で呼吸することは出来ない。
 彼は少女を強く押し付けることでその体を柱に固定し、自由になった右腕で、少女の鼻を塞いだ。これで、鼻での呼吸も封じられた。
 ウォルフィーナはヴォルフガングと戦う際、荒々しく呼吸を繰り返していた。あれがふり・・でなければ、これも呼吸によってエネルギーを生み出し、そして戦う類の生き物であるはずだ。ならば、呼吸を封じてしまえば容易に無力化することが可能なはずだ。

『だから、悪いことは言わねえからさ、大人しく眠ってくれよ。なっ?』

 ヴォルフガングは、今までで一番優しい口調で、少女に語りかけた。それは勝者の優越の籠もった声ではなく、父親が娘に語りかけるような、優しい調子だった。
 ウォルフィーナは、激しく暴れた。さすがに先ほどのダメージが回復していないのだろう、ヴォルフガングを散々痛めつけたときと比べれば見る影もないような弱々しい調子だったが、その鋭い爪でヴォルフガングの頬を何度も引っ掻き、その肉を浅く削っていった。
 それでも、結局は追い詰められた獣の、最後の悪あがきでしかなかった。一分と立たずにウォルフィーナの顔は真っ赤に染まり、口の端から泡を吹き、白目を剥いて気絶した。
 ヴォルフガングはそれでも力を緩めず、やがて少女の小さな身体が細かく痙攣し始めたところで、ようやく彼女の鼻から手を離した。
 
『あぁ―――…つっかれたぁ…』

 ヴォルフガングはそう呟いて、がっくりと腰を下ろした。その拍子にウォルフィーナも小さな体も、コンクリートの床の上にとさりと落っこちた。彼女を抱き留めようとしなかったのはヴォルフガングが非情だったからではなく、純粋にそれだけの力が残されていなかったからだ。
 彼は、残された最後の気力を振り絞ってウォルフィーナの元まで這いずり、彼女の腕を後ろ手に拘束した。この程度の枷がこの少女に対して如何ほどの効果があるのかは分からないが、やらないよりはましというものである。
 その時点で、彼の頭にはいくつかの疑問が浮かび上がっていた。
 この、今は安らかな顔で眠る黒髪の少女は、一体何者なのか。この研究所とどんな関係があって、ここが閉鎖されてからどのようにして生き延びてきたのか。
 地下二階に設えられたあの扉を、どのようにしてこじ開けたのか。彼女は確かに驚くほどの怪力だったが、しかし自分と比べればさして際立ったものではない。旧式の薄っぺらな鉄扉ではなく、あれほど頑丈な電子ロック式の扉をこじ開けるのは、いくら自分でも不可能だ。
 それらは確かに重要な疑問であったが、しかし同時に今の彼にはどうでもいいことであった。彼の頭のうちの三割を占めるのは、自宅の冷蔵庫の中に入った冷たい缶ビールのことであり、残りの七割はこのまま泥のように眠りたいという睡眠への欲求であった。
 しかし、彼には残された最後の仕事があった。懐から小さな携帯用情報端末を取り出し、押し慣れた番号を、震える指先でプッシュする。彼の大きな指にフィットするような機種はなかったから、出来るだけ大きなものを買ったつもりだったが、それでも何回か番号を押し間違えて、その度にこの悪魔のような機械を真っ二つに砕いてやりたくなったヴォルフガングである。
 やがて、彼は思い通りの番号を押し終え、その機械を耳に押し当てた。

『…おう、リヒター。元気か?…ああ、こっちは深夜だ。いや、そっちも深夜なのは重々承知なんだがな。ちょっとトラブった。例の廃病院まで、救急車を寄越してくれ。怪我人が七人、内少なくとも五人は重傷だ。一人は命に関わるかも知れん。…クルツだ、そうだ、クルツがやられた。…そんなことはどうでもいい!さっさと救急車を手配しろ!…そうだ、例の病院だ。言っとくが、間違えても政府の息のかかっていない人間を寄越すなよ。見られたら不味い人間もいるんでな…』


 
 廊下の向こうから、お伽噺にあるような巨人が歩いてくるのを見て、待合室の子供が泣き始めた。それをあやすべき母親も、その男の異様なまでの巨大さに言葉を呑んで、身動ぎ一つ出来ない。
 そんな光景は彼にとってはいつものことだったので、彼はいつも通り無表情に、そして足早に待合室の横を通り過ぎた。下手に笑顔なんかを見せれば逆効果になるのはわかりきっている。ならば、早々に自分が立ち去るのが、泣き叫ぶ子供の涙を止める何よりの薬になるということを、彼は知っていた。
 ヴォルフガング・イェーガー少尉は、病院の清潔な廊下を一人歩いていた。右手に、見舞い用の花束と、可愛らしい小包を抱えている。
 その小包の中には、この近所で美味しいと評判のケーキ屋さんのケーキが入っている。その店に入ったときは、まるで街中に突然熊が出現したような奇異な瞳で見られたものだが、彼が顔を真っ赤にしながら擦れた声でケーキを注文すると、可愛らしい女の子の店員さんは、ケーキの種類に詳しくないヴォルフガングに色々なことを教えながら、笑いを噛み殺したような表情で、一緒にケーキを選んでくれたのだ。
 ヴォルフガングは、果たして女の子を見舞うのに何を持って行くのが一番相応しいのか、大いに迷った。だが、彼はそういった方面にはとことん疎い男であったし、やはり小さな女の子は甘いものが好きに違いないという固定観念に負けて、このように無難な選択となった。
 彼の左手は、まだ上手に動かない。いくら組織再生法という便利な医療技術が確立されているとはいえ、結局最後に頼るべきは己の体の治癒能力である。その点、彼は自信のそれが十分な信頼に値するものだと信じていたから、左手の痺れもすぐにとれるものだと理解していた。
 一週間前の、悪夢のような一夜は、剛胆な彼の記憶にも色濃く陰を落としている。しかし、あの場に居合わせた六人のうち、一番早く回復したのはやはり彼だった。その傷が、内臓破裂を起こして一時は危篤状態に陥っていたクルツを除けば、一番に手酷いものだったにも関わらず、である。
 全身を覆う重度の打撲傷と擦過傷、右睾丸破裂、左膝靱帯断裂、右足首剥離骨折、左十番から十二番までの肋骨完全骨折、右六番及び十一番の完全骨折。骨にひびが入った程度の細かいものは数え上げればきりがない。
 その中でも一番ひどかったが、左上腕部の裂傷である。大形の肉食獣に噛まれたと思われるその傷は、骨を断ち割り肉を裂き、あと少しで完全に食い千切られる、ほとんど皮一枚で繋がっているような有様だったのだ。
 ヴォルフガングとしては、最早恐怖を通り越して感嘆するしかない。彼自身の命を何度も救ってくれたあの防刃ジャケットを食い破り、彼の逞しい筋肉の鎧をものともせず、骨までも噛み切ったのだ。驚くべき力であった。第一、どうやればあの少女の小さな口で、大形肉食獣のような噛み跡を残せるのか。何度考えても納得のいく答えを導き出すことが出来ない。

 この一週間、彼は病室のベッドで、ぼんやりと天井を見ながら過ごしていた。その間考えたことといえば、病院食とはどうしてこんなに不味いんだろう、とか、冷蔵庫に入れておいた缶ビールが凍り付いて破裂していないだろうか、とか、食べ物の事ばかりであった。その点、彼は自分が熊か象に似ていると言われても反論する材料を持たない。
 そんな、人生の夏休みを謳歌するようにのんびりとしていた彼のもとに、一本の電話が入った。彼の直属の上司であるアレクセイからの電話であった。

『…ウォルフィーナが、私との面会を求めている、と?』
『そうだ、さっさと会いに行ってやれ!』

 六人の中で一番傷の浅かった上司は、電話越しに不機嫌な声を隠そうともせず、そう言って受話器をフックに叩き付けたようだった。
 はて何の事やらと耳を疑ったヴォルフガングだが、上司の命令となればこれは立派な任務の内である。取るものもとりあえず、彼は少女が入院しているという大学病院へと向かい、そして今は少女の病室のあるフロアの廊下を歩いている。
 しかし、その内心では、未だに強く困惑している。
 果たして今の彼女と顔を合わせて、なんと言ったものか。自分は今まで女っ気なく過ごしてきた叩き上げの軍人であり、あちらさんは、その内側に詰まっているものを無視すれば、うら若き乙女だ。どう考えても、共通の話題があるとは思えない。
 あるとすれば、やはり一週間前の、あの戦いだろうか。しかし、その点について、勝者である自分が口にしていいものか。それは、彼女の誇りを傷つけるものになるのではないだろうか。
 加えて、ヴォルフガングの中には強い自責の念がある。無論、口にすればウォルフィーナを侮辱することになるので言わないが、彼は、いくら非常の事とはいえ、女性というものを傷つけたことを後悔しているのだ。女手一つで育てられた彼は常に女性というものを尊敬していたし、また守るべきものなのではないかとも思っていた。極端な男女平等主義者に言わせれば男の身勝手と非難されかねない意見だったが、しかし彼は、力の強い者が弱い者を守るのは当然のことだと思っていたので、やはり彼にとっての女性は庇護の対象だったのだ。無論、ウォルフィーナがか弱い女性であるとは思わない彼ではあったが。
 それとは反対に、彼女と会って、落ち着いて話をしたいと思う自分もいる。彼女は、なんだかんだいってとても美しい少女だった。別に異性として意識しているわけではないが、しかし彼女と話すのがとても楽しいことであるのは、間違いない気がしていた。
 そんなことを考えつつ歩いていたら、いつの間にか彼女の病室の前に辿り着いていた。
 未だ心の整理のつかないヴォルフガングではあったが、この期に及んでの逡巡は、臆病者との誹りを免れ得ないものだろう。
 意を決した彼は、その大きな手の甲で、病室のドアを三回ノックした。
 すると程なくして、中から声がした。

『どうぞ』

 それは、明らかにあの少女、ウォルフィーナの声だった。
 ヴォルフガングは、緊張で汗ばんだ掌をズボンで拭って、それから扉を開けた。

 その瞬間、爽やかな風が彼の前から吹き、僅かばかりの体温を奪って、後ろのほうに抜けていった。
 
 まるで初夏の森に拭く、木々と獣たちの息づかいをたっぷりと含んだような、馥郁たる風だった。
 
 その風に誰かの魂が乗っていたような、そんな気がした。

 望外の心地よさに気を取られていた彼は、やがて意識を目の前の少女に集中させた。
 ヴォルフガングは、無言で目を見張った。
 彼の目の前で、寝台に腰掛けている、白い寝間着を身に纏った少女。それは、一週間前に、彼と死闘を繰り広げた、あの少女だ。流れるような黒髪も、黒真珠みたいな瞳も、白磁の肌も、すべてがそのままだ。
 しかし、彼の目には、それがどうしても同じ人間には見えなかった。薄汚れた体は綺麗に手入れされ、幼いながらに匂い立つような色気を身に纏っている。それはそれで目を見張るような変化であるのだが、もっと根本的な部分で、目の前の少女はウォルフィーナではない。ヴォルフガングはそう直感した。
 だから、口に出してはこう言った。

『…あんた、誰だい?』
 
 少女は不思議そうに小首を傾げた。

『はて。俺と卿とは初対面ではなかったと思うが?』

 俺。
 この、どう見てもウォルフィーナにしか見えないのに、決してウォルフィーナではない少女は、自分のことを『俺』と呼んだ。
 ヴォルフガングの記憶にあるウォルフィーナは、自分のことを『私』と呼んでいた。
 これはいよいよ、同一人物ではあり得ない。

『…もう一度聞くぜ。あんた、一体誰だ?ウォルフィーナはどこに行った?』
『卿が戦ったのは、ウォルフィーナと呼ばれた少女の残滓だ。今は、この世界のどこにも彼女は存在しない』

 目の前の少女は、少しだけ寂しそうにそう言った。
 ヴォルフガングには一体何事か分からなかったが、しかし少女が真実を言っていることだけは分かった。
 
『…死んだのか?』
『ある意味では、そうとも言える』
『俺が殺した?』
『違う』

 少女は首を横に振り、確固として言った。

『卿と出会った時点で、彼女は既にこの世の住人ではなかった。先ほども言ったが、卿が出会ったウォルフィーナはあくまで残滓、この世の最後の未練のようなものだった。だからこそ複雑な思考も出来ず、ただいたずらに卿らを傷つけた。詭弁にしか聞こえないだろうが、あれは彼女の遺志でも俺の意志でもなかった。そう言う意味では、俺も彼女も、深く貴方に感謝している。俺達を止めてくれて、どうもありがとう。そして、故なくあなた方を傷つけたことを、深く謝罪させて欲しい』
『いや、俺達も彼女に銃を向けたからな、お互い様だと思うんだが…』
 
 ヴォルフガングは、彼女が自分達を殺さなければいけないと、少し悲しそうに言っていたのを思い出し、そういう意味だったのかと納得した。
 そして、目の前の、ウォルフィーナではない少女の言葉。自分を止めてくれてありがとうというその言葉だけは、まるであの少女が話したような、そんな気がした。
 大きなお兄さんと少女に呼ばれた青年は、己を殺そうとし、また己が殺そうとした少女の魂の平穏を願って、短い黙祷を捧げた。
 
『彼女の死を悼んでくれるのか?』

 目を開けたヴォルフガングは、その瞳を僅かに濡らしながら、鼻にかかったような声で答えた。

『ああ。あの子は、何て言うか…そう、とてもいい子だった』
『卿を殺そうとしたのに、か』
『俺を殺そうとしなければならない程に追い詰められた彼女が、今はただ悲しいと思う。それだけだ』

 その言葉に少女は深く頷き、そして頭を深々と下げ、礼の言葉を述べた。

『彼女に代わって、御礼を申し上げる。そして、貴殿の気高き魂に尊敬を』

 それは少女の口が紡ぎ出すべき言葉ではなかったが、しかしヴォルフガングには、そのややこしい言葉遣いが、何よりもその少女に相応しい気がした。
 彼は照れたような表情ではにかみ、そして問うた。

『じゃあ、あらためて聞くよ。あんた、名前は?』

 黒髪の少女は、烟るような笑みを浮かべて、こう言った。

『俺の名は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。少し前まで国王などという職業についていたのだが、今は昔だな。ところで、俺も彼女と同じように貴殿のことをヴォルフと呼びたいのだが、それを許してくれるだろうか?』

 ヴォルフガングは、自分の目の前で太陽が笑ったような、そんな気がした。



[6349] 第九話:会談
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:47
 その少女が目覚めたのは、彼女がその病院に運び込まれてから二日後のことだった。
 彼女の怪我は、尋常のものではなかった。
 脊椎の損傷、右肩甲骨の粉砕骨折、幾本かの肋骨が砕け、内臓にも大きなダメージを負っている。普通の人間であれば間違いなく死んでいる、奇跡的に助かったとしても二度と目を覚ますことはないだろう、そういう傷だった。
 それでも、少女は二日で目覚めた。組織再生療法の加護があったとはいえ、驚異的な快復力である。

『……う……』

 年端もいかぬ黒髪の少女は、電灯の明かりを眩しがるように、小さなその手を目の上に翳した。
 長い睫に飾られた瞼がふるふると震え、ゆっくりと持ち上がる。すると、その下に隠されていた大きな黒い瞳が露わになり、最初はぼんやりとしていた焦点が、徐々に合わさっていく。
 陽光でも蝋燭でもない明かりに照らされた、平坦な天井。
 それは、彼女が初めて見る、文字通りの異世界だった。

『目が覚めましたか』

 少女の耳に優しい声が響いた。
 まだ満足に体を動かすことが出来ないのだろう、少女は視線だけを声のする方に向けた。
 そこには、白い服を着た、年配の男性が立っていた。

『こ……こは……』
『あまりしゃべらない方がいいでしょう。あなたの体は、まだまだ休息を必要としています』

 白髪の混じった、少しだけ薄くなった頭髪。そして、今まで一度足りとて怒り皺を刻んだことがないような柔和な顔。彼の顔には、どれほど恐慌に陥った患者でも一目で安心させるような、不思議な安心感がある。そう言う意味では、彼は天性の医者だった。
 彼は、その柔和な瞳の中に、出来る限りの慈愛と誠実さを込めて、言った。

『あなたが件の研究所でどのような扱いを受けてきたのか、それは私も分かりません。しかし、ここにはあなたを傷つける人間はいません。ですから、ゆっくりと傷を癒して下さい』

 少女は、傷ついた自分の隣に見知らぬ誰かがいるという恐怖にも似た焦燥感と、この医師にならば今の自分を委ねても大丈夫だという安心感の両方を同時に味わっていた。
 それらの感覚の齟齬は、いわば獣としての肉体と人としての精神の乖離から生じるものだったのだが、肉体の支配の弱まっている今の彼女には精神――というよりは魂の支配のほうが勝ったのだろう、少女は瞼を下ろし深い眠りについた。
 この傷ついた肉体を癒すには、何よりも深く眠ることが寛容だと、戦士の魂が知っていたのだ。
 再び眠りに落ちた少女を見下ろしながら、初老の医師は深い溜息を吐き出した。
 痛ましいことだと思った。特異能力者と呼ばれる人間に対して非人道的な人体実験を行っている研究施設がある、彼も長い従軍経験を持つ軍医であるからそういった噂があるのは知っていた。知っていたが、それがまさか真実だとは思わなかった。
 目の前で、安らかな寝息をたてる少女。この、天使のように無垢な寝顔が、自分自身と同じ世界で禄を食む人間の手によって穢され、地獄のような苦しみを味合わされていたのだと思うと、自分が選んだ職業が果たして人の幸せに貢献しているのか、彼は分からなくなってしまった。
 それでも、彼には分かっていることがある。この少女、彼の歳からすれば孫娘のようなこの少女の安らかな眠りだけは、自分の力の及ぶ限り守ってみせるという、己の決意の堅さである。それを信じることが出来なくなったとき、彼は自身の職を辞することになるのだろう。
 医師は一度深い溜息を吐き、少女の夢の安らかなことを祈ってから病室を後にした。

 その少女が次に目を覚ましたのは、さらに二日後のことだった。
 本来であれば絶対に起き上がることなどできない体であったはずだが、彼女はいとも容易く体を起こし、付き添いの看護師を驚かせた。

『大丈夫なの?無理をしては駄目よ』

 少女は、弱々しいながらもはっきりとした声で答えた。

『お心遣いには感謝するが、あまり体を甘やかしすぎると、いざというときに使い物にならん。これを扱うには、少しぞんざいな位でちょうどいいはずだ』

 どうにもその外見にそぐわぬ言葉を使いながら、空色の検診衣に包まれた自分の体を見つめる少女。その視線が、何か珍しいものを見るように、丸くなる。

『どうしたの?』
『うん?いや、別に何でも無いのだが……。これが新しい体かと思うと、中々に感慨深いな』
『新しい体?』
『いや、こちらの話だ』

 少女は苦笑した。

『ところで、一つだけ尋ねたいのだが……』
『私に?ええ、何でも聞いて頂戴、私の知っていることならいいのだけど……』
『ここは、天の国だろうか?』

 看護師は、冗談かと思った。しかし目の前の少女の瞳は存外に真剣なものである。
 看護師として豊富な経験を誇るその女性は、気の毒そうな視線で、ベッドにちょこんと腰掛ける少女を見遣った。精密検査では分からなかったが、もしかしたら頭部にも何らかの障害が残ってしまったのだろうかと訝しんだのだ。



 共和政府の首脳陣は、突然大雨に襲われた蟻の巣の働き蟻のように、卒倒するほどの恐慌に襲われた。その中心にいなければならない連邦主席などは、己の知るありとあらゆる語彙能力を発揮して、神に向かって恨み言を吐き続けたほどだ。
 発端は、一人の少女である。例の、三年前の事件を発端とした研究所閉鎖に関する一連の騒ぎの中で発見されたその少女は、研究所跡に赴いた調査員六人のうち五人までも半死半生の重傷を負わせた上で、最後の一人をやはり手酷く痛めつけ、やっとのことで保護、というよりは捕獲された。
 見た目は、ようやく中等教育にさしかかった程度の、か細い少女である。しかし軍隊からの出向というかたちで配属された調査員をいとも容易く戦闘不能にさせたことから、研究対象となっていた特異能力者の生き残りの可能性が高いと推測された。それ故、彼女を『保護』するためには鉄格子と拘束衣が必要なのではないかという意見もあったが、少女の担当となった医師がそれを強く拒絶し、自分の責任のもとで通常の患者と同じ処置をすると言い張った。
 その少女が本格的に目覚めたのは保護されてから四日後の事だったが、怪我の回復は順調であり、調査員から聞き取った情報と異なり意外に理性的な人格であるように思われたため、その直後から少女に対していくつかの質問調査が行われた。

 結果、いくつもの事実が判明した。

 少女の名前は、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。
 今から十三年前に研究所に収容されたこと。
 以来日に当たることもなく人体実験の被験者となっていたこと。
 それらの証言を元に研究所跡に残された資料を分析した結果、驚くべき事が判明した。
 その研究所に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンという少女は確かに存在した。残された断片的な記録が事実であるならば、彼女は僅か一歳の時に研究所に収容され、十年間も人体実験のサンプルとして供され続けていた。特異能力者への人体実験は、その徹底した非人道性から極めて過酷なものとなることがほとんどで、それ故に彼らの耐用年数も平均すれば一年から二年程度しかならない事が多い。そのことを考えれば、彼女は驚異的ともいえるほど長持ちしたサンプルだったようだ。
 しかし、今から三年前、例の事件をきっかけとして当該研究所が閉鎖される直前に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンはその死亡が記録されている。そして彼女の体は解剖され、標本として薬品に漬けられ、永久保存されているはずだった。
 ならば、今、彼らの前で旺盛な食欲を発揮して病院食を平らげていく、この少女は一体何者なのか。
 まず、少女の毛髪から採取したDNAとエドナ・エリザベス・ヴァルタレンのDNAとの照合が行われた。
 照合は一切の事情を知らされていない第三者機関に依頼されたが、その結果はクロ。分析した二つの細胞の持ち主は同一人物であるという無慈悲なものであった。
 では、死亡診断のほうが誤りで、彼女は密かに生存していたというのだろうか。しかし、そうだとすれば彼女はどのようにして三年間もの時をあの地下で生きてきたのか。緊急用の食料は確かに存在したが、一人の人間が三年も生きていくことが出来るほどのものではなかったし、第一消費された緊急食料は少女の証言通り二週間分程度のものであった。
 密かに外部に脱出していたとするならば、何故今になって彼女は忌まわしき記憶しかないはずの研究所に戻ったのか。それに、研究所の外部からの封鎖は完璧であったし、地下二階における研究ブロックと一般ブロックを区切る頑丈な扉は、ごく最近に『内側から』とんでもない力で強引にこじ開けられていたのだ。これは少女の証言と完全に一致する。
 また、研究所の奥深くに陳列されていた被験者の体細胞サンプルの中に、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンとラベルを貼られた瓶が数多く存在したのは事実である。事実であるのだが、その中身はいずれも空であった。無論、ここ最近に誰かが動かした形跡は無い。こっそりと持ち出して中身を回収したとしても、積もった埃までも元通りにするのは著しく困難だし、そんなことをする意味がない。最初から空だったという可能性も無いではないが、では誰がそんなことをする必要があるのか。その空の瓶以外は、全てが憐れな被害者の臓器や眼球などでいっぱいだったというのに。
 どのような仮説を組み立てても、どこかで必ず齟齬が生じる。関係者は四次元のパズルを組み立てているように錯覚すらした。
 そんなふうに、誰しもが首を傾げていたところに、更に驚くべき情報が伝わった。
 少女は、自分とエドナ・エリザベス・ヴァルタレンが別人だというのだ。自分は、彼女の体を借り受けているだけで、彼女とは別の人間だ、と。
 報告を受けた医師達は、痛ましそうな表情こそ見せたものの、だからといって驚愕に顔を歪めることはなかった。
 強い肉体的な苦痛を長時間に渡って受け続けた人間が、自分の中に別人格を作ることは決して珍しいことではない。
 解離性同一性障害、いわゆる二重人格と呼ばれる人格障害の一種である。
 人の精神は、その肉体に比べて遙かに複雑であり、癌をはじめとした一昔前の難病にはある程度の治療の目処がついている今日においても、特定の精神疾患には有効な治療法が見つかっていないことが多い。解離性同一性障害もその例に漏れず、未だメカニズムの解明されていない難病の一つである。
 当初はこの少女もそのケースだと思われたが、彼女を診察した精神科の女医は、首を捻った。
 この少女が、精神疾患を患っているようには、どうにも思えないのだ。
 まず、精神病に罹患した患者特有の、不安定な感情表現というものが感じられない。加えて、その少女の人格が、どうにも『普通』過ぎる。少なくとも、今までに彼女が診察してきた精神病患者の、どのような類型にも当てはまらない。
 解離性同一性障害によって生まれた交代人格は多くの場合、その人格ごとに何かの役割、抑圧された精神活動を表出するための傾向を持っている。例えば攻撃性を引き受けた暴力的な人格や、逆に痛みを引き受けるため生まれた人格などである。しかし女医と話す少女の人格には、そういった偏った指向性がないばかりか、十四歳の少女とは思えない程に成熟した、威厳に近いものまで漂っている。
 それに、俗には『二重人格』などと呼ばれるこの症例であるが、その実、人格が2つしか存在しないことは稀であるとされる。にもかかわらず、女医の見たところ目の前の少女には、今の人格と主人格以外、他の交代人格は無いように思われるのだ。
 それらの点を訝しんだ女医が尋ねたところ、少女は自身を異世界の王だと名乗った。
 通常であれば思春期の少女に特有の夢想癖の進行したものかと疑る女医だったが、それにしては彼女の語る異世界のディティールが鮮明すぎる。また、王としての人格を与えられた割には、尊大さや居丈高さといったものが感じられない。不自然なほどに『自然』なのだ。
 女医は、おそるおそるといった調子で尋ねた。
 
『では、あなたはデルフィニアという国の王だというのね』
『ああ。正確には王だった、という方が正しいのだろうが』

 黒髪の少女は、やはりその容姿にはちっとも相応しくな口調で答える。
 女医は更に尋ねた。

『じゃあ、その王様が、何故このようなところに?』
『ふむ。あちらの世界では、俺は一度死んだ。それは間違いのないことだと思うのだが、少々心残りがあってな。それで運良く天の国、いや、こちらの世界に来ることが出来たのではないかと思っている』
『心残り?』
『会いたい人がな、いるのだ』

 少女は、女医がはっとするような微笑みを浮かべて、言った。 
 彼女は、自分が気圧されているのを悟った。目の前にいるのは、少なくとも精神病を発症した十四歳の少女ではない、そんな気がした。

『……じゃあ、その人の名前を教えて貰える?』

 少女は一瞬思案する顔をした後で、言った。

『……グリンディエタ・ラーデン。もしくは、ルーファセルミィ・ラーデン、それともルーファス・ラヴィー。ひょっとしたらこの世界は彼らの世界ではないかと思うのだが……』
『その人達は、あなたにとっての何なの?』

 少女は、何のためらいもなく言った。

『グリンディエタ・ラーデンは、俺の同盟者であり配偶者だ。ルーファセルミィ・ラーデンとルーファス・ラヴィーは同一人物だが、彼は妻の相棒であり俺の友人だ』

 その日の診察は、少女が疲れた様子を見せたのでそこで終わった。
 精神科医のカルテを見た初老の医師は、少女が口にした名前を病院に直結している政府の電子脳へ照会した。無論、ただの戯れである。有効な返答を期待してのことではない。
 しかし、医師の予想、もしくは希望を裏切るように、機械は応えた。

『該当有り。しかし第一級政府機密につき、照会には最高評議会の認可が必要である。』

 唖然とした医師は、上司に直通の内線番号をプッシュした。



 事の経緯についての報告を受けた連邦主席マヌエル・シルベスタン三世が発狂しそうになったとしても無理もあるまい。
 彼の記憶に未だ新しいセントラル星系破壊未遂事件。冗談のような話だが、星系一つを破壊する――しかも人口十億を数える有人惑星を含む――という前代未聞の凶行を引き起こしかけたのは、見た目には優しい風貌のたったひとりの青年であり、それを未然に食い止めたのは年端もいかない少年である。
 黒髪に青い瞳を持つその青年の名を、ルーファセルミィ・ラーデン。『神の一族』とも呼ばれるラー一族の若者であり、彼らの中でも異端視され、そして最も恐れられる存在である。
 怒り狂った彼の暴走をすんでのところで食い止めた、流れるような金髪に緑色の瞳を持つ少年の名前が、グリンディエタ・ラーデン。詳しい経緯は分からないが、ルーファセルミィ・ラーデンの相棒であり、この宇宙で唯一、彼と同等の――少なくとも彼を止めうるだけの力を持った人間の少年だ。
 その前代未聞の事件が一応の収束を見たあとで、一様に十歳は老けたように見える政府首脳は、彼らのことを『歩く超新星爆発』、『呼吸するブラックホール』と密かに名付けて、共和政府の下位機関について、今後一切その二人及び二人の周囲の人間に関わることを禁じた。
 それは異例とも呼べるほどに強権的な禁止であった。万が一彼らを研究材料にしようと試みる機関があれば、それが公的なものであると私的なものであるとを問わず、連邦政府はその軍事力の全てを注ぎ込んででも無謀すぎる野望を阻止するだろう。そうでなければ、今度こそ惑星セントラルは全ての生命を巻き込んで宇宙の塵となるのだから。

 とにかく、あれらは人類の手に余る危険物なのだ。

 しかし、希望がないわけではない。
 彼らは究極の危険物であるには違いないが、触らぬ神に祟り無しとあるとおり、こちらから要らぬちょっかいをかけない限り暴走することはないらしい。
 そう割り切ることで一応の精神的均衡を取り戻していたマヌエル・シルベスタン三世であったが、彼も有能な政治家である。彼の裁量の範囲で打つべき手は打っておかないと安心できない。だからこそ三年前に封鎖した研究機関も含めて、違法な人体実験に手を染める研究機関の一斉捜索及び閉鎖に踏み切ったというのに、何故そんな自分がこんな目に遭わなければならないのか。
 惑星レダのアカシャ州に設置された、政府公認の特異能力者研究機関。研究と言えば聞こえはいいが、要するに人体実験場である。故に、三年前の連邦第五惑星大陸沈没事件の直後、最優先で閉鎖された研究機関の一つでもある。
 にもかかわらず、今になってその封鎖された研究所から発見された少女、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン。
 なんとその少女が、例の二人の知り合いだというのである。
 しかもその言葉を信じるならば、彼女はグリンディエタ・ラーデンの妻であるという。
 悪夢だ。マヌエル・シルベスタン三世は思った。
 過ぎてしまったこととはいえ、自分達はあの『歩く超新星爆発』の愛する人間を、人の尊厳を奪った上で実験動物として鎖に繋ぎ、その体を十年間切り刻み続け、記録を信じるならばその結果として殺してしまったというのだ。
 報告によればその辺りの事実関係に納得のいく説明ができないらしいが、おそらくは『あの一族』の不可思議な能力の恩恵で生き返ったのだろう。
 しかし、生き返ったからといって、そのことによって過去の事実が消え去れるわけでは勿論ない。
 当然、研究所に十年間収容され続けた少女とあの少年がどうやって結婚するのかという疑問がないわけではなかったが、『あの一族』を前にして常識という概念がどれほどに儚く脆いものかを痛いほどに思い知らされた彼にとって、その程度の事実は心の拠とはならない。
 その上、今回調査が行われた際、彼女は調査官の一人によって生死の境を彷徨うほどの重傷を負わされ、四日間も意識不明のまま入院を余儀なくされたという。

 もう、笑うしかない。

 共和宇宙の最高権力者は、青ざめた顔に乾いた笑みを貼り付けながら、呟いた。

『さて、これだけのことをしておいて、惑星一個で勘弁して貰えるのだろうか』

 彼は自分の執務室に響いたのは、ほとんど絶望に近い響きであった。
 もう、全ての重責を放り出して自宅に帰り、暖かいベッドの中で夢に逃げ込みたい彼だったが、政府の最高責任者たる自分が逃げだしてしまっては事態の悪化を招くだけである。それに、今眠ったとしても悪夢しか見ることが出来ない気がした。
 彼は、政府首脳の緊急招集を補佐官に告げた。

 政府首脳が招集連絡を受けたのは深夜のことだったので、集った面々の顔は一様に不満と眠気に満ちていたが、怠惰とも傲慢とも呼べるその表情は主席の報告を聞いて一気に吹き飛んだ。彼らの脳裏に、黒い天使によって刻みつけられた、あの忌まわしい記憶が蘇ったのだ。

『あ、あのくつうを……じゅ……じゅうねんかん、ですか……?』
『十年だ。我々は、あの少年の配偶者を、十年間切り刻み続けた』

 あの二人に『我らの与り知らぬことだ』という言い訳が通用しないことは前回の一件ではっきりしている。無論、自分達が政府首脳となる前のことだから、と言ったとしても、火に油を注ぐ結果にしかならないことも間違いあるまい。

『今回君たちに集まってもらったのは、我らの、というよりは人類全体に対する未曾有の危機を引き起こしかねないこの事態に対して、有効な解決策を導き出すためだ。忌憚の無い意見を述べて欲しい』

 述べて欲しいと言われても困るというのが全員の正直な意見であったし、それは主席自身が誰よりも分かっていた。
 有効な解決策などあるはずがないのだ。
 有形無形の脅迫で黙らせるのは不可能だ。彼らの力は全人類がその軍事力を結集したとしても到底及びもつかないものだということは間違いない。力でもって彼らを押さえるのは不可能である。
 では、残る手段は限られている。
 全てを明らかにした上で許しを乞うか、それとも全てを闇に葬ってしらを切り通すか、だ。

『もし彼らに事の経緯が伝わった後になって頭を下げたとしても逆効果でしょう。今となっては、一刻も早く彼らに真摯な謝罪の意志を伝えるのが最も得策なのでは?』
『しかし、前回の彼らの強固な態度を覚えているでしょう。彼らには、恫喝や威嚇はもちろんのこと、利をもって籠絡したり懐柔することも通じない。つまり、交渉のあらゆる常識が通用しない。そんな相手の怒りをどのようにして宥めるというのだ?』
『かといって、全てを隠すなど不可能でしょう。もしもあの二人が例の不思議な力を使えば、今すぐにでも彼女を取り戻すことが可能なのですぞ?』
『言いにくいことだが、彼女一人の命と全人類の命を天秤にかけることは出来ん。今まで彼らが件の少女に気づかなかったところから考えると、彼女と例の少年とは、いわゆる通常の夫婦とは違うかたちの婚姻をしているのでしょう。少なくとも、二人が常に一緒にあるという、我々にとっての婚姻ではないはずだ。ならば、もう一度彼女がこの世の人でなくなっても、おそらく気がつかないのでは?』
『危険すぎます。もしもそのことが彼らの耳に入れば、それこそ人類が滅びるほどの損害を覚悟しなければならない。それに、今まであれほどの虐待を受け続け、折角この世に帰ってきた少女を再び亡き者とするなど、許されることではないと思いませんか?』
『そもそも、謝罪の意志を伝えるというが、その役は誰が引き受けるというのだ?言うまでもないことだが、謝罪の意志を伝える人間は真っ先に彼らの怒りに晒されることになるぞ。私は御免だ』

 喧喧諤諤たる議論が行われたが、意見は全くまとまる様子を見せない。そもそも、恐慌状態に陥った精神でまともな結論を導き出せというのが無茶なのだ。
 それでも深夜から行われた、おそらく昨今において最も真摯な議論は、途中何度も休憩を挟みながら夜明けまで行われたが、結局議論は建設的な方向にまとまることはなかった。おおかたの予想通り、最終的な決断は、最高責任者たる連邦主席に委ねられるかたちとなった。
 だいたいこのような結果になるのではないかと予想していた彼だったが、これで一応の体裁はつけた格好になる。あとは、自分が決断を下すだけだ。しかし、その『だけ』のことに、彼の胃はキリキリと痛み、声にならない悲鳴をあげ続けていたのだが。
 その日のうちに彼は、例の少女に面会を求めた。無論、彼女を亡き者にするためではない。そんなことをするために彼が直接足を運ぶ必要など、どこにもないのだから。



 主席が立ち入ったのは、精神に優しい薄緑色に統一された、落ち着いた病室だった。簡素なベッドと、その脇に置かれたサイドボード以外に目立った家具は存在しない。
 普通の病室だ。ただ、精神病の患者に多い発作的な自殺を防止するために、鋭い刃物や長い紐の類が徹底的に排除されている点が、他の病室と違うと言えば違っていたかも知れない。
 それでも、やはりそこは普通の病室だった。少なくとも、この部屋の主がこの共和宇宙の命運を握っているなど、主席たる彼以外の者には思いもよらないだろう。
 その少女は、ベッドの上で体を起こし、何やら真剣に本を読んでいた。窓ガラスを透過した初夏の陽光が、少女の黒絹のような髪の上を滑り落ちる。怪我の影響だろうか、元々白かった肌には更に血の気が薄く、触れれば割れる薄っぺらい陶磁器のような印象ですらある。
 主席は、よくできた一枚の絵画のような情景に息を飲み、しかし乾いたその喉を酷使して、出来る限り穏やかな声で話しかけた。

『早かったですかな』

 一心不乱に字を読み進めていた少女は、ゆっくりと顔を上げた。
 壁に掛けられた時計を見る。長針と短針は、今がちょうど約束の時間であることを少女に教えた。

『いえ、時間通りでしょう。それよりも、このような格好で失礼します。本来であればもっとまともな服を着るべきなのでしょうが、なにぶん病人扱いが度を過ぎるようでして』

 少女は、診察衣にくるまれた自分の体を見て、憮然としながら言った。
 確かに、この少女はもっと見栄えのする格好をして、その上に薄化粧の一つでもすれば極上の美少女に化けるだろう。
 その姿を見ることの出来なかった主席は、内心で少しだけ残念がりながら、少女の下手な冗談に僅かだが頬を綻ばした。

『初めまして、ミス・ヴァルタレン。私はマヌエル・シルベスタン三世、共和連邦の主席を務めております』

 この宇宙の最高権力者たる彼が、見ず知らずの少女に話しかけるには少々堅苦しく、そして緊張した様子であった。だが、ベッドから体を起こしたこの少女が『あの少年』の妻であるならば、普通の人間のはずがない。まして、彼女は特異能力者であり、しかも五人もの軍人を病院送りにしているのだ。見た目通りの少女であるはずがないのである。多少の緊張はやむを得ざるものだろう。
 黒髪の少女は本をサイドボードに仕舞い、賓客に相対した。その漆黒の瞳には、見知らぬ大人が突然自分を訪ねてきたことに対する恐れや驚きなど、微塵も感じられない。主席の身分は事前に伝わっているはずだから、彼女は、自分が今話しているのがこの国の、というよりもこの宇宙の最高権力者であることは承知しているはずである。それにも関わらずこの落ち着き様、やはり普通の少年少女ではありえないだろう。

『初めまして、シルベスタン卿……とお呼びして失礼でないのかな?』
『結構です、ミス』
『かたじけない。まだ、この国の風俗が今ひとつ掴み切れていないのだ。失礼があればご指導頂けると有難い』

 少女は僅かに姿勢を正し、言った。

『確認したいのだが、シルベスタン卿。あなたは、一体誰に会いに来たのだろうか?ウォルフィーナに会いに来たのか、それとも彼女の交代人格とやらである俺に会いに来たのか?』

 少女は笑いを噛み殺すようにしながらそう言った。
 主席は、息を飲んだ。目の前の少女に、はっきりと圧倒されていた。
 彼は、かつて金色の少年と相対した際、その気魄に正面から敗北した。彼の長い人生の中で、初めてと言っていいほどに決定的な敗北だった。自分という人間の器が目の前の人間のそれに及ばないということを、他でもない自分自身が認識してしまったのだ。
 あの時の少年の、燃えるような緑色の瞳に感じた途方もない威圧感。今自分の前にいる、やはり年端もゆかぬ少女の漆黒の瞳にも、それと同じものを感じる。ただ、種類は違う。少年の瞳から放たれたものを帝王の気魄とでも呼ぶならば、この少女のは賢王のそれだ。彼ほどに激しくも熱くもないが、しかしその分静かに澄み渡っていて、しかし底が見通せない。
 この瞳は、きっと鏡なのだと思った。こちらが下手な策を講じて少女を罠に嵌めようとすれば、おそらくはこちらが下手な道化を演じる羽目になる。しかしこちらが真摯な態度で臨む分には、彼女も真剣にこちらの言い分に耳を傾けてくれるだろう。
 主席は、自分の判断の正しかったことを悟った。

『……その前に、まずあなたのお名前を教えて頂きたいのですが……』

 少女は一度頷いて、その可憐な唇を開いた。

『非礼をお詫びする。俺の名前はウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。この世界ではない世界の王を務めていたものだ……と俺自身は思っているのだがな』
『王を務める?それは少しばかり妙な表現ではないですか?私が歴史で学んだ王というものは、君臨するものではあっても務めるものではなかったような気がしますが……』

 主席の言葉に、少女は苦笑いを浮かべた。何か、思うところでもあったのかも知れない。

『シルベスタン卿の仰るところは一々ごもっともだが、俺は自分から望んで王座についたわけではない。あれは、黄金で出来た牢獄のようなものだ。食うには困らんし誰しもが傅いてくれるが、しかし野山を駆け巡るための足には知らぬうちに特大の錠が嵌められている。王座に価値を見いださないわけではないが、しかし俺には相応しいものではなかった気がするな』

 朗らかに笑う少女を見ながら、これをただの人格障害で片付けることの出来る医師連中の脳天気さを、主席は心底羨ましく思った。いや、事情の知らない人間であれば、そうとしか思えないのだろうか。
 これは、ただの交代人格などではあり得ない。間違いなく、『あの一族』が関わった怪異の一つだ。
 とすれば、この少女の言葉、異世界の王であったという言葉に嘘はあるまい。
 主席の汗ばんだ手が、知らずにネクタイの結びを締め直していた。

『……ではあなたのことは、陛下とお呼びした方がよろしいのでしょうか?』
『いや、あちらの世界でも俺は楽隠居の身だ。既に王と呼ばれる身分ではなかった。それに、聞いたところではあなたこそこちらの世界の王なのだろう?あまり畏まらないでいただけると有難い』
『王とはまた違うものなのですが……あなたの理解ではそれが一番近いと思います』
『そうか、そこら辺もご教授頂けると有難いのだが……。とにかく、まずは椅子にでも掛けて欲しい。俺は生憎、まだ立ち上がることが出来ん。卿にだけ立たせていると、どうも俺の方が落ち着かん』

 主席は、少し慌てたような調子で折りたたみ椅子を脇から引っ張り出し、そこに腰掛けた。そうすることで、ようやく二人の視線はほとんど同じくらいの高さになった。
 
『では、これからあなたのことをデルフィン卿と呼ばせて頂きたいと思います。それでよろしいでしょうか?』

 名前の呼び方に拘るのは、以前、例の少年から手厳しい洗礼を受けているからだ。
 
『ああ、それで構わない。俺としてはもっと砕けて頂いてもかまわないのだが……』

 主席は苦笑した。目の前の座っているのは見目麗しい少女であるはずなのに、まるで自分と同年代かそれより幾分年上の、しかも男性と話している気分になってしまうのだ。
 そして彼は、いつの間にかこの少女に心引かれている自分に気づいた。無論、異性としてではない。彼には幼女嗜好の性癖は無かったし、今だって性的な意味で魅惑されているわけでは決してない。しかし、この少女と話していると心安らぐ自分がいる。この少女に何もかもを委ねてもいいのではないかと思う自分がいる。彼女という人間に惹かれている自分がいるのだ。
 これが王というものなのだろうか。それとも、この少女が特別なのか。
 共和宇宙にはいまだ王制を存続させる惑星がいくつか存在するが、そのいずれもが形骸化し、かたちだけの専制君主となった王制である。だから、本当の意味での王とは初めて顔を合わせる彼であった。
 しかし、彼は世間話を楽しむためにここまで来たのではない。誘惑とも呼べるその感情に逆らうように、彼は固い声を出した。

『今日、このようなかたちであなたの平穏を騒がせてしまったのは、他でもありません。私、いえ、私を含む連邦政府の総意として、あなたにお願いしなければならない事があるのです』
『お願いと言われても……。見ての通り、この世界の俺には何の力もありはしないが?』
『いえ、あなたにしか出来ない事なのです。グリンディエタ・ラーデンの妻である、あなたにしか』

 その名を聞いて、少女の眉目が突然に強張った。柔和を意味していた漆黒の瞳が、全てを打ち砕く黒曜石の鋭さを帯びる。それどころか、少女の背後に真っ赤に燃え盛る火焔があがったようですらあった。
 その火勢に炙られた主席の全身から、冷たい汗が噴き出した。
 戦場において兵を率いたことのない主席には分からなかっただろう。それは、戦う者、戦士のみが帯びることを許された、何物をも寄せ付けぬ、迸るような覇気であった。
 数瞬、眉を寄せて目を閉じた少女は、ゆっくりと言った。

『……その名を、知っているのか』
『……はい、存じ上げております』

 実は、主席の言葉には重大な勘違いが一つ含まれていたのだが、少女は敢えて訂正しようとは思わなかった。彼の妻がこちらの世界では男性であること、また今の自分が少女となっていること等を勘案した結果、その誤解を解くのに不要な労力を要すると判断したからだ。
 そこまでを考えて出来た微妙な間だったが、立場が下にあるものにとって、それだけでも酷く精神を削り取る。完全に気圧された主席は、喘ぐようにそれだけを答えた。
 対する少女は、薄く目を開き、一際鋭い視線で主席を睨みつけた。主席の心の内を抉るような、鋭い視線だった。
 やがて再び目を閉じると、少女は深い息を吐き出した。溜息とも違う、満足の吐息とも違う、いかにも曖昧な吐息であったから、それがどのような感情によってもたらされたものか、主席には分からなかった。
 瞼を閉ざしたままの少女が、呟くように言った。

『では、シルベスタン卿の御用向きは、あれに関することか』
『……はい。まずは、こちらをご覧ください』

 主席は、少女に一束の書類を手渡した。

『こちらの文字は読めますかな?』
『ああ、この体がそういったことは覚えてくれているようだ。しかし、当然わからぬことも多いと思うが……』
『質問して頂ければ、ご説明させて頂きましょう』

 少女は無言でその書類の束を繰った。時折意味の分からない単語がでてくると、その一々を主席に質問し、彼もその質問に良く答えた。彼らはまるで入院中の令嬢と、その学習を補助するために派遣された家庭教師のようでもあったが、そうだとすれば少女はとても飲み込みの早い生徒だった。
 彼女がその書類を読み終えるのに、それほどの時間はかからなかった。
 
『……信じがたい話だが、確かにあの方ならば何ができてもおかしくは無いと思う。神か悪魔か、あれはそういう雰囲気の御仁であった』
 
 少女が読んだのは、数ヶ月前に惑星セントラルを騒がせた恒星の異常活動、その真相を記した機密文書であった。当然そこには、黒い天使が恒星を爆発させることで一つの星系を破壊しようとしたこと、彼を止めるために金色の天使が奔走したこと、そして彼らをその事件に巻き込むきっかけとなった、三年前の事件についての詳細が記されている。
 少女は無言でその書類を主席に返却した。さすがにこの世界においても、こんな突拍子もない事実は表沙汰になるべきものなのではないことを悟ったのだろう。

『シルベスタン卿。あなたがここに来られた理由も、朧気ながら理解できた』
『恐れ入ります』
『俺の存在が彼らに知れることで、再びこのような事態が起きることを憂いておられるのだな』

 主席は静かに首肯した。

『我々は、この未曾有の危機を如何にして乗り切るか、議論を重ねました。結果、一切合切の事実を審らかにし、許しを乞うべきであるという結論に至ったのです』
『賢明な判断だ』

 少女はそう言った。
 そして、背中まで伸びた黒髪を一度掻き上げ、続けた。

『であれば、どうして俺などの病室を訪問されるのか。今は一刻も早く、彼らのもとに赴き、事実と謝意を伝えるべきでは?』
『それはもっともなのですが……』

 主席は如何にも人好きのする笑みを浮かべて、言った。

『あなたも御存じのことかと思うのですが……、彼らはその、何と言いますか、少々頑固なところがありましてな。私などが行っても門前払いをされるのがオチでしょう。それどころか、彼らの怒りに油を注ぐ羽目にもなりかねません』

 ごほん、と咳払いをする。そして、彼は精一杯の誠意を込めて、自分が少女のもとを訪れた本来の目的を語った。

『なので、あなたから彼らに、我々の謝意を伝えて頂きたいのです。彼らは我々をちっとも信用してくださらないが、あの少年の妻であるあなたの言葉なら耳を貸してくれるでしょう。我々が彼らとの約束を誠実に守ろうとしていることは、あなたも御存じのはずです』
『なるほど、卿が謝罪に赴けば、彼らの怒りを買うか』
『はい、そういうこともあろうかと……』
『では、卿らがしたことが、あの二人の怒りを買うことであると、そういう自覚もあるわけだ』
『……はっ?』

 主席は、己の言葉を最後まで言い切る前に、煮えたぎるような感情の込められた言葉をぶつけられた。
 つい先ほどまで吐き出そうとしていた言葉の束を丸ごと飲み下し、更に灼熱の言葉をぶ飲み下す羽目になった彼は、目を丸くしながら呟いた。

『あ、あの、デルフィン卿?一体、何のことでしょうか……?』
『今さら惚けるつもりか?貴様らが彼女に、この体の本来の持ち主に何をしたか、知らんとは言わさんぞ』

 先ほどまで穏やかだった少女の口調が、一変していた。
 主席は、安っぽいビニール椅子から転げ落ちそうになったのを何とか堪えた。
 呼吸が、平時のそれと異なる。喘ぐようにしか酸素を取り込むことが出来ない。
 目の前の少女が、恐ろしい。今すぐにここから逃げだしたい。
 これは、かたち通りの少女ではない。絶対に違う。
 これは、獅子だ。あの少年と同じ生き物だ。先ほどは深い知性と無限の暖かみを感じさせた黒い瞳が、あの燃え盛るエメラルドの瞳と同じく、漆黒の炎に猛っている。
 彼は、質の良いシャツの背中が冷たい汗で重たくなっているのを自覚したが、ここで引くわけにはいかない。彼の双肩には、惑星セントラルの、いや、全人類の生命が乗りかかっているといっても過言ではなかったのだから。

『あの、それはわたくし共の与り知らぬところで為された凶行でして……』
『その言い訳が、俺の同盟者に通用したのか?』

 主席は、ごくりと唾を飲み込んだ。
 正直に言えば、彼は油断していた。ベッドから体を起こした病弱そうなこの少女は、きっと彼らよりも与し易い人間だと思い込んでしまっていた。
 とんでもない、これは虎だ。それとも獅子だ。
 彼は無防備に密林を歩き、猛獣の尻尾を踏みつけてしまっていたのだ。

『そ、そのてんについては……はい、ふかく、ふかくはんせいしております……』

 青ざめた表情のままそういった主席だったが、しかし黒髪の少女は彼の存在自体を軽んじるような、嘲りの笑みを浮かべて言った。

『にも関わらず、何の臆面もなく俺の前に顔を出せるとはな。貴様らの面の皮は相当に分厚いらしいが、その分脳味噌が少ないか。なるほど、あのように恥ずべき行為に及ぶこともできような』
『陛下、陛下の仰ることは至極ごもっともかと……。しかし、この時代に生きる全ての人間があのように卑劣なものばかりではありません。そして、今の我らには過去の過ちを悔い、詫びることしか出来ないのです……』

 今すぐ床に体を投げ出して、王者の許しを乞おうとする遺伝子の命令を押さえつけ、彼は震える声でそう言った。
 以前、あの少年と会談した際もそうだったが、彼に出来ることと言えば再発の防止を約することと過去の過ちを詫びること、これ以外に為せることは無い。そしてあのときは彼と少年の間を取り持ってくれた第三者が存在したが、今回、この病室にいるのは彼自身と、彼の目の前で静かな怒りを滾らせる、少女のかたちをした王者だけなのだ。
 その王者が、言った。

『覚悟は、あるのか?』

 主席は、ほとんど失神しそうになりながら、答えた。

『わ、わたしは、いつでもこの職を辞する覚悟なら……』

 それはかつて金色の狼たる少年に言ったのと同じ言葉であったが、しかし返ってきたのもその少年と同じ、もしかするとより冷淡な侮蔑の笑みだった。

『その程度のものを覚悟とは言わん。俺が言っているのは、己の命を捨てる覚悟だ。それとも、己に親しい誰かの命を奪う覚悟だ』
『い、いのち……』
『そうだ。王の失政とはそのようなものだろうが』

 少女は、その瞳にはっきりとした激情を宿しながら続ける。

『俺の治めた国ではな、国の行いの責任は全て王の責任だった。王は己の過ちを、己の命をかけて償った。言い換えれば、王とは決して過ってはならぬものだった。如何なる過ちも、全てが己の思い通りであると振る舞わねばならなかった。ならば、その王が誤ればどうするか。国が戦に敗れれば王は死なねばならない。それどころか、死ぬために生き延びなければならない。政を間違えれば、その責を誰かに取らせねばならない。何故なら、王は絶対だからだ。そして、その責とは即ち死だ。貴様に、その覚悟はあるのか?』

 無茶苦茶な理屈だ。少なくとも、少女の前に座った、青ざめた顔をした人はそう思った。

『そ、そのように前時代的な……』
『忘れたか。俺は、貴様の言う前時代からやってきたのだ。その俺を納得させたければ、俺の理屈で筋を通せ。それが、この時代の王たる貴様の、最低限の責任だろうが』

 この会談の最中に五歳は歳を取ったように見える主席は、重たく濡れたハンカチで額の辺りを拭い、泣きそうな表情を浮かべた。というよりは、彼は泣き出す寸前であった。なのに彼が無様に涙を流さずにすんだのは、目の前の少女に対する意地などではなく、既に涙を流すほどの心の余裕すら無くなっていたからだ。
 だから、彼の口を割ってでたのは、末期の息にも近い呟き声だった。

『わ、わたしに、死んで詫びろと、そう仰るのですか……?』
『それとも、この体が受け続けた苦痛を、一度味わってみるか?』

 少女は、不吉な笑みを浮かべた。
 それを見た主席は、これ以上ないというくらいに顔を青ざめさせて、首を横に振った。首が千切れ飛ぶのではないかというくらいに猛烈な勢いで振った。彼は以前、黒い天使に、三年前に金色の少年が味わった苦痛のほんの一端を味合わされただけで、発狂寸前までに追い込まれたのだ。己の死を希ったのは、あのときが初めてだった。
 それを、十年間。最早、悪夢と、いや、地獄と呼ぶことすら生温い。もしも自分が、死か、それともあの苦痛を味わい続けるかのどちらかを選ばねばならなくなったら、間違いなく前者を選ぶつもりだった。
 主席は、安いビニール椅子の上で項垂れた。もう、紡ぐ言葉も残っていなかった。
 そんな彼を前にして、抜き身の怒りを携えた少女は、なおも続けた。

『いいか、俺は怒っているのだ』
『は、はい……。それは、もう……』
『この体、ウォルフィーナに非道な行いを続けたこともそうだが、俺の妻に、あの誇り高き戦士に同じような侮辱を与えた貴様らを、到底許す気にはなれん。今すぐ、貴様の首を断ち切ってやりたいとすら思う』

 この少女にはそれが出来るだろう。その、折れそうな程に細い手に何も握られていなかったとして、それは可能なことなのだ。
 それにしても、奇妙な会話ではあった。そして、主席の期待した会話ではなかった。
 非人道的な研究から救い出された憐れな少女と、この宇宙を統べる国家元首の対話。未だ心の傷が癒えず療養を続ける少女のもとに共和宇宙でもっとも忙しい男が足を運び、過去の過ちを悔いて頭を下げる。その姿に感動した少女は、噎び泣きながら過去の過ちを許す……。
 連邦主席は、そんな蜂蜜菓子のように甘い構図を、僅かだが夢見ないわけではなかった。それに、もしも少女が見た目通りの少女であるならば、そんな美談もあり得たのかも知れなかった。
 しかし現実の彼ら二人の間に無慈悲な捕食者とその怒りに許しを乞う被食者の関係が出来ていたのは、ものの道理を弁えぬ幼児の目から見ても明らかだっただろう。
 己の前で、身を縮ませながら震える初老の男性を睨みつけて、少女は溜息を吐き出した。

『……研究所の連中は、どうなった?』

 主席は、もう、少女と視線を合わせることすら出来ないというふうに、病室の床へと視線を落としながら答えた。

『……あなたの配偶者に侮辱を与えた連中は、彼の友人たるあの方が処罰を与えました。そして、あなたの体の持ち主に侮辱を与えた連中は、医師としての国家資格を剥奪の上、辺境の惑星へと強制移住させ、二度とこのような研究に携わることが出来ないよう厳重に監視をしております』
 
 彼の友人、つまり黒い天使が罰を与えたというならば、それはその人間の低劣な罪に相応しい罰だったのだろう。つまり、その件については解決したということに違いない。少なくとも、部外者である自分がこれ以上首を突っ込むべきではないはずだ。
 ウォルフィーナの尊厳に泥を塗りたくり続けた連中の処遇については到底納得が出来ないが、少女の内に宿る王の魂は、この少女自身が誰よりも報復を望んでいなかったことを知っている。だから、今自分が怒りに任せた行動を取れば、それは誰よりも彼女を悲しませることになることも知っていた。
 それ故、少女は、全てを飲み込んで重たい溜息を吐き出す以外、何も出来なかったのだ。

『……彼らの寛容に感謝しろ。そして何よりこの少女の優しさに、だ』
『で、では……』

 主席は喜び勇んで顔を上げ、しかし怒りに震える黒い瞳を直視して再び顔を下げた。
 目の前の少女は、何一つ許していないと悟った。

『一度だ。一度だけ、猶予をくれてやる。しかし覚えておけよ。俺は生前、二度俺を裏切った人間を許したためしは無い。貴様らが再び彼らとこの少女を裏切れば、俺はそのことを貴様の体で実証してくれる』
『は、はっ……』
『俺には彼らのような力は無いが、しかし王には王にしか出来ない戦い方というものがある。貴様が、今貴様の治めるこの国が俺の率いる兵との戦の火中に滅ぶ様を見たくないというのであれば、俺の言ったことをゆめ忘れるな』
 
 少女は、その漆黒の瞳に殺気とも呼べる剣呑な光りを込めて、言った。今後この国が自分達を裏切ることがあれば、少女自身が何処かで己の軍勢を編成し、それをもってこの国を攻め滅ぼしてくれるぞ、と。
 主席は、それが不可能事だと思った。不可能事であるべきだった。しかし、その少女の言葉のどこにも、それが不可能であると信じている様子はなく、また、主席自身の魂の一番奥底では、少女の言葉がどうしても確定した未来のようにしか思えなかったのだ。
 第一、共和政府はこの広大な宇宙に盤石の支配体制を敷いているように思われがちではあるが、マースやエストリアのように、その支配体制に不満を抱く国は少なくない。
 そして、この少女であればそれらの勢力を一つに纏め、この宇宙に戦乱の時代をもたらすことも決して不可能ではない。いや、彼女はいとも容易くそれをやってのけるのではないだろうか。
 やはり、これも一匹の化け物だ。あの、黄金の戦士とも黒い天使とも違う、この宇宙に一匹しか存在しない、化け物の一匹なのだ。
 主席は、この少女を亡き者するという選択肢を選ばなかった自分を、内心で褒め称えた。もしも禁断の選択肢を選び取っていれば、あの二人の登場を待つまでもなく自分達は少女の大顎に噛み砕かれていただろう。だからといって、今彼の前に横たわる困難が、少しでも軽くなるわけではないのだが。
 主席は呻き声を出そうとしたが、最早それすらも叶わぬほどに彼の口中は乾ききっていた。
 そんな彼を見ながら、少女は柔らかな微笑みを浮かべた。しかしそれは口元だけの笑みで、眼は全く笑っていない。彼女の美貌を歪めるそのアンバランスさが、少女の相貌を恐ろしい程に不吉なものへと染め上げている。

『俺の言いたいことは、全て伝えた。それに対してどう答えるかは、あなた方次第だ、シルベスタン卿』
『は、ははっ』
『いや、これからも卿らとは良好な関係を築いていきたいものだな』

 少女は、やはり凶悪な笑みを浮かべながら、自分の目の前に座った憐れな獲物の手を取り、熱心に握りしめた。
 それは、連邦主席がその長い政治家生活において見た中で、もっとも人の悪い笑みであったし、彼は今までそれほどに熱の籠もった握手というものも経験したことがなかった。手に伝わるのは少女の柔い肉の感触なのに、まるで獅子の口中に手を突っ込んでいるように、彼は錯覚した。
 冗談では無い、と彼は思った。これでは脅迫だ。相手の喉元に刃を突き付けておいて、良好な関係もくそもあったものか。
 しかし、こちらに選択権が無いことも、彼は心得ていた。少なくとも、向こうが良好な関係を築きたいというのであれば、こちらにそれを拒否するだけの理由もなければ権利もない。加害者である自分達は、被害者である彼女らの気が収まるまで、ひたすらに侘び続けるしかないのだから。無論これが人間社会であれば示談なり時効なりの区切りが存在するが、彼らの掟にそんな気の利いたものを期待するのが愚かというものだろう。
 一年前まで精気に溢れた気鋭の政治家と呼ばれていた連邦主席マヌエル・シルベスタン三世は、フルマラソンを終えた老人のような有様で椅子から立ち上がると、這々の体で少女に辞去の許しを乞うた。結局少女の口から、例の化け物二人へ今回の一件を取り持ってくれるという確約は得られなかったが、これ以上この場に留まるのは彼の精神の崩壊を意味する。
 少女は再度これからもよろしくと念を押し、既に保水力の限界を迎えた彼のハンカチでは到底拭き取れないほどの汗を主席の額に浮かべさせて、その濡れそぼったスーツの背中を見送った。



[6349] 第十話:再会
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2011/05/20 23:16
『ふーん、そんなことがあったのかい』

 ヴォルフガング・イェーガー少尉は、寝台に腰掛けた少女――ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの隣に腰掛けて、並んで座っていた。
 何故彼がベッドの上に――それも少女の隣に腰掛けているかといえば、それは偏に彼の体が大きすぎて、折りたたみ式のビニール椅子には到底座ることが出来ないからだ。
 彼は、自分は立ったままでいいと言い張ったのだが、それでは自分も立つと少女は聞かない。では俺は床に座ると答えると、ならば自分も床に座ると少女も言い張る。
 結局、お互いの妥協点として、ヴォルフはウォルの横に腰掛けるというもっとも無難な選択肢を選んだのだ。しかし、彼の座ったベッドのスプリングは憐れなほどに撓み、彼が身動ぎをする度に情け無い声で悲鳴を上げる。もしも彼がこのベッドの上で跳び跳ねでもすれば、このベッドはすぐにでも天に召されることになるだろう。
 結果として、人生においてこれほど美しい少女の隣に座ったことのないヴォルフは、どうにも恥ずかしいような気まずいような、微妙な感覚を味わっていた。別に性愛の対象として少女を見ているわけではないが、生まれたての目も開かない子猫や子犬が隣にいるようで、どうにも落ち着かない。自分が下手に身動ぎすれば、何かの拍子で下敷きにして押し潰してしまうような気がするのである。
 そんな内心をごまかすように、ヴォルフは、自分が持ってきたお見舞いの品であるケーキを素手で掴んで、ぽいっと大きな口の中に放り込んだ。本来であれば優雅な皿とフォークでもって食べるのが相応しい高級なケーキも、彼が食べるならばその方法が一番相応しい気がするから不思議である。
 その様子を興味深く見守っていたウォルは、彼に倣ってお見舞いのケーキを素手で掴み、その小さな口の中に放り込もうとした。しかし少女の口は大男の口より当然小さかったので、上手に収まることはなく、彼女の口の周りは真っ白い生クリームでべたべたになってしまった。
 ウォルは、盛大に眉を顰めた。以前の体であればこんなことにはならなかったのに、とでも思ったのかもしれない。
 一方のヴォルフは、そんな彼女の存在など忘れてしまったように、口の中に広がる至福の甘さに酔いしれていた。彼は酒を好むが、しかし同じくらいに甘いものも大好きだった。外見がこんなふうなので、街中のカフェで生クリームたっぷりのパフェは注文できないから、こういう機会には心ゆくまで甘味を堪能するのが彼の主義だった。
 ヴォルフは、隣に腰掛けた少女が一つ目のケーキを食べ終わらないうちに、早速二つ目のケーキの征服に取りかかった。先ほど食べたのは濃厚なモンブランだったので、次に選んだのはさっぱりとした莓ババロアである。

『……なぁ。ヴォルフ殿。これは、俺への手土産ではなかったのか?』
『それはそうなんだが、俺の分も混じってるみたいでな。まぁ、分かりやすく言えば、早いもん勝ちってところだ。しかしウォルよ、たった一つでいいのかい?』

 すでに莓ババロアを口に放り込み三個目を物色しているヴォルフが、ようやく莓のショートケーキを食べ終えたのに次のケーキを食べようとしない少女に問うた。

『……うむ。この方面では卿と競い合っても、不毛な結果しか生まん気がするのでな』

 呆れたような顔で、ウォルは言った。
 以前の体よりも甘味が美味しいと感じるようになって微量の戸惑いを感じていた彼女であるが、隣りに座ったこの大男が貪るようにケーキの山を食らい尽くしていく様子を見て、一つ目のショートケーキを平らげた時点でその食欲を収めた。
 ヴォルフがあまりに美味しそうにケーキを頬張るのでその取り分を減らすことに罪悪感を覚えたのかも知れないし、彼が猛烈な勢いで食べる様子を見ただけで胸焼けを起こしてしまったのかも知れない。
 とにかくウォルは、口の周りに付いた生クリームを舐め取り、そしてヴォルフの煎れた紅茶で喉を潤した。

『ほう……』

 ウォルは、思わず唸った。薫り高い茶葉を使っているとは思っていたが、しかしその琥珀色の液体を口の中に含むと、得も言われぬ芳醇な香気が鼻の奥に抜けていく。それに、砂糖を少しだって入れていないはずなのに、渋みよりも甘味を強く感じるのだ。もちろん、砂糖たっぷりのショートケーキを食べた後であるにも関わらず、だ。
 これは、茶葉がいいだけではなく、紅茶を煎れた人間の技も素晴らしいものだったからだろう。この手のことには名人芸だった妻の従者のことを思い出し、ウォルは知らずに微笑っていた。

『卿は、紅茶を煎れるのも上手いのだな』

 ヴォルフは、箱に収められた最後のケーキを、何の遠慮もなく掴み取って、ぽいと口の中に放り込んでから答えた。

『まぁ、食い物を美味くこしらえてやるのは人間の義務だよ。というよりは、貧乏人の義務だ。金持ちはいい素材をそのまま食ってりゃいいが、俺達はそうはいかないんだ。とても食い物には見えない食い物を、どれだけ騙して煽てて食い物に誤魔化してやるか、そこが腕の見せ所だ。小さい時分はそんなことばかり考えてたから、料理は上手になったなあ』

 ヴォルフは、指に付いた生クリームを丹念に舐め取った。栄養と名の付くものは少しでも逃がしてたまるかというその様子は、ご馳走である蜂蜜をたっぷりと手になすりつけた熊が幸せそうにそれを舐め取っている格好に似ていたかも知れない。
 小箱の中身をすっかりと胃の中に治め終えた大男は、自分の煎れた紅茶で口の中の甘さを洗い流すと、満面の笑みでこう言った。

『いやぁ、美味かった。甘いものを食べているときが、至上の幸福だ。人生における最も輝かしい瞬間だ』
『先ほどヴォルフ殿は、きんきんに冷えたビールが喉を通る瞬間にこそこの世に生まれた喜びを何よりも噛み締められると、そう言っていなかったか?』

 少女は苦笑しながら言った。
 ヴォルフは、蜂蜜色の短い頭髪の生え揃った頭をかりかりと掻きながら、一度考え込んで、そして言った。

『そんなこと言ったかね。すまん、覚えていない』

 要するに美味い食べ物ならなんでもいいらしいと、ウォルは理解した。
 二人はしばらく、隣り合わせで紅茶を啜っていた。ヴォルフもまだ年若い青年であるので、少々年の差はあるにせよ年頃の男女が二人っきりでベッドの上にいるのだからもう少し色気というものがあってもいいものだが、彼らの間に流れる空気は、とうの昔に隠居した老人同士が日向ぼっこをしながら昔話に花を咲かせているような、そういう雰囲気であった。
 ほう、と、満足の吐息が二人の口から漏れだした。

『しかし、ウォルよ』
『うん?』
『いや、まぁ、なんというかな……』
 
 大男は口籠もった。
 少女は何事かと男の横顔を見上げたが、そこには何かを迷っている、岩のような男の顔があった。
 果たして今自分の考えていることを口にしてよいものか、迷っているらしかった。
 それは、あまり彼に相応しい様子ではなかったから、少女は続きを促した。

『しかし、の続きは何かな?』
『うーん、どうにもお前さんらしくなかったんじゃあないかなぁ、と思ってな』
『俺らしくはない、とは?』
『うん。あんまり、爺さんをいじめてやるなよ』

 ウォルは、隣に座った巨体を、その漆黒の瞳でまじまじと見つめた。
 ヴァルフは、何やら居心地が悪そうに体を揺すった。そんな彼の下で、憐れなスプリングが悲しげに軋んだ。

『あれはあれで、必死こいてやってるんだろうさ。だからさ、なんとも言いにくいんだが、ある程度は大目に見てやってもいんじゃないかな、と思う』
『あれとは、卿の上役のことか?』
『上役の上役の上役の上役の……いくつ重なるのか知らないけど、それを上役と呼んでいいなら、上役のことなんだろうなぁ』

 ウォルは、その表情から笑みを消し去り、ベッドの上にあぐらを組んで、正面からヴォルフの巨体と相対した。
 ヴォルフも少し慌ててそれに倣った。
 そうすると、大人と子供以上の体格差、ほとんど異生物くらいの体格差が二人の間にはあるのだが、その中に詰まったものの大きさでは、少女の方も一歩たりとて負けていない。
 それでも見た目は、やはり熊と少女だ。
 ヴォルフは、少女の黒い瞳をまじまじと覗き込んだ。自分の巨躯を見上げながら、しかし少しも怯んだところのない生き物を、彼は本当に久しぶりに見たのだ。
 
『大目に見てやってもいいことと、そうではないことがある』

 はっきりとした口調だった。
 ヴォルフは、頷いた。

『もっともだ』
『俺の妻と、そしてこの少女が受けた屈辱は、決して大目に見てやっていいことではない。そして、あの男はこの国の王だ。ならば、この国において生じた全てのことに、責任を持つ必要があると、俺は思う』
『あんたはそうだったのかい?』

 ウォルは首を横に振った。

『わからん。俺はそうあるべきだと思い、そのように行動してきたつもりだ。少なくとも、己の行いによって不当に権利を害された人間がいるならば、その行為の報いはいつだって負うつもりでいた』
『いつ死んでもいいと?』
『そうではない。俺を恨む人間が戦いを挑んできたら、いつだって正面から受けて立つ覚悟があると、そういうことだ。例えば戦だ。どちらかが勝ち、どちらかが負けるな。当然、人も死ぬ。これでもかと死ぬ。であれば、そこには必ず恨みが残るはずだ』

 ヴォルフは真剣な面持ちで頷いた。それは、決して気の籠もらない相づちなどではありえない。
 彼は軍人として数々の作戦にて武勲を打ち立てている。つまり、それだけの人間を公然と殺してきたということだ。彼自身から見れば粉う事なき逆恨みだろうと、彼が殺した者の遺族にとっては正当な怒りである。積もり積もったその重さが、いずれは自分の背中に銃弾を撃ち込むのだろうことを、彼は覚悟していた。
 だから、目の前の少女が――その内に宿った戦士が何を言っているか、実感として理解できた。

『俺には、その恨みと戦うだけの覚悟があった、と思っている。それが、如何に強大な相手であってもだ』
『あの老人には、それが足りない、か』
『足りないというよりも、覚悟そのものがない。あれは、一度たりとて自分の命を交渉のテーブルに乗せたことのない、そういう男だ。それが気に食わん。もしもあれが真摯に俺――というよりはウォルフィーナに謝罪するのであれば、わざわざ俺の妻のことを持ち出す必要はないだろう。逆に彼らの怒りが恐ろしいならば、彼らに直接そのことを伝えて詫びればいい。俺に謝罪することが、彼らの許しを得ることと同義であると、そう勘違いしているのだ。俺が許そうと許すまいと、彼らは怒るときはおおいに怒る。俺の知る彼らならば、間違いなくそうする。ならば、怒り狂ったあの二人を宥めるのは俺の役目と責任か。冗談ではないぞ』

 少女の憤りは留まるところを知らない。

『そして、そのような大事を俺のような、見た目はただの小娘に任せようという気概も気に入らん。仲立ちを頼むというならばまだしも、俺に任せれば万事が上手く行くと勘違いしているような有様だった。あれがこの世界の最高権利者とはな。些か俺のいた世界とは毛色が異なるようだ』

 ウォルはサイドテーブルに手を伸ばし、カップに残った紅茶を一息で飲み干した。カップをソーサーに戻すとき、がちゃりと神経に障る音を奏でた。
 ヴォルフは、少女の言葉を聞いて、曖昧に頷いた。

『まぁ、お前さんの言いたいことは何となく分かるよ。でも、それがこの時代の権利者の在り方といっていい。別に、あの爺さんだけに始まったことじゃあないからな、あれ一人を責めるのも酷ってもんだ』
『分かっている。しかし、何度も言うようだが、全ての責任はあの男が、いや、あの男が座っている椅子こそが背負うべきなのだ。なのにあの体たらくでは、到底全ての責任を背負えるとは思えん。いずれ、一つや二つの荷物は容易く放り投げてしまうぞ』

 そう言いきって、ウォルは細い肩を竦めた。
 そこで、少しだけ疲れたような微笑みを浮かべた。少女の人懐っこさと王者の威厳を等量に含んだ、憂いのある微笑だった。

『――と、それを理解した上で大目に見てやれと、ヴォルフ殿はそう言っているのだろう?』

 巨躯の男は、無言だった。それは即ち、少女の言を肯定しているのと同じことだった。
 しばらく少女は無言だった。二人とも何も話さず、時計の秒針が進む音だけが、狭い病室を満たした。

『誰かが、言わねばならなかった』

 ぽつり、と少女は言った。
 男は、やはり無言だった。

『ウォルフィーナの無念は、誰かが声を限りにして叫ばなければならない。彼女のために怒ってやらなくてはならない。それが欺瞞だとしても、誰かが怒らなければ、彼女の魂が報われない』
『その通りだ』
『あの老人が、俺の同盟者に痛い目に遭わされたのは知っている。もう、彼らの顔を二度と見たくもないのだろう。だからこそ、俺のような無力な存在にもあれほど熱心に、あるいは必死に頭を下げていた。それも分かる』
『ウォル、あんたが無力だっていうところを除けば、おおむね同意できる』
『だが、これは俺の足下に引かれた、最後の一線だ。これより後ろに下がれば、俺は俺としての一番大事なものを捨て去ることになる。だから、俺はあの老人を許さなかった』

 ウォルは、記憶というよりは記録に近いものとして、ウォルフィーナの経験した人体実験を覚えている。それが如何に屈辱的で、彼女の誇りを踏み躙るものであったかを、絶対に忘れてやるつもりはない。それは、誰かが覚えていなければならないことなのだ。
 だからこそ、ウォルは真剣に怒った。もう、心身共に疲れ果て、藁にも縋る思いで自分のもとを訪れた老人を一喝し、恫喝し、そしてたっぷりと恩を売って脅しを掛けた上で追い払ったのだ。もしこの世の全ての事情を知る神のような存在がいるとするならば、あるいはウォルの行いをこそ咎めるかも知れなかった。
 ならば、全てを知らない、卑小な人間たる少女に何が出来たか。彼女は、ただ仏のように国家主席とその背後にいる全ての罪深き者を許し、意気揚々と病室から引き上げる彼を笑顔で見送ればよかったのか。
 それこそ冗談ではない、と思う。もしも当のウォルフィーナがそれを望んでいたとしても、ウォルにそのような結末を選ぶつもりはなかった。それは、誰が許したとして戦士の魂が許さなかったのだ。
 全ての想いを押し潰すように、少女は呟いた。

『誰が許せるか』

 ヴォルフは、困ったような顔で鼻の頭を掻いていた。
 こういうときは、どうするのだろうか。怒り狂い、その激情を燃やし続ける少女が目の前に座っている時は、どのように接すればいいのだろうか。こちらが無手で、完全武装した敵に四方を囲まれたときにどう対処すべきかを教えてくれた鬼教官も、このような場合にどうすべきかは教えてくれなかった。
 少し気の利いた男なら、少女の華奢な肩でも抱き締めてやるのだろうか。いや、いくら色事に鈍い彼であっても、もし目の前に座った少女が悲しみの涙に暮れ、その細い肩を振るわせていたのならばそうしただろう。
 しかし彼の前に座っているのは、少女のかたちをした獅子である。怒り狂った百獣の王に同情心から手を差し伸べようものなら、手どころか肩の付け根までを一気に食い千切られるのは火を見るよりも明らかだ。
 ヴォルフは、観念したような様子で手を肩の辺りにやり、こきこきと首を鳴らした。先ほどケーキを馬鹿食いしていたときに見せた、幸福を体現したような表情とは雲泥の、千振の束を噛み砕いたような渋い顔をしている。そして、言った。

『まぁ、ウォルよ。これに関しては、あんたの言い分が正しい。誰もそれを非難し得ない、と思う。だから、謝らせてくれ。栓のないことを言った』
『いや、ヴォルフ殿の言うことももっともなのだ。しかし、これだけは譲れないというところがあったと、それだけの話だ』

 ヴォルフは深く頷いた。

『人それぞれ、立場があるというだけの話だろう。あの老人にはあの老人なりに守るべきものがあり、あんたにはあんたなりに守るべきものがある。そして、勝敗ははっきりと着いた。だからもう、これ以上は勘弁してやれよ、ウォル』
『そうだな。俺も、老人を不要にいたぶるのは心が痛む』

 実年齢でいえば国家主席その人よりも更に一回り人生経験豊富な少女は、そう言って笑った。その顔を見て、熊のような男もやはり笑った。

『よく言う。お前さんが世紀の大嘘つきじゃあなけりゃあ、お前さんの方が老人じゃないか!』
『それもそうだ!いつの間にかこんな体になってたからな、すっかり忘れていた!』

 狭いベッドの上で二人が大笑いしたので、ベッドは大変に軋んで、所々で不吉な破砕音が鳴り響いた。このベッドは、ひょっとしたら今日が命日だったのかもしれない。
 目の端に浮かんだ涙を太い指で拭い取ったヴォルフは、彼よりは一足先に笑いを収めていた少女の顔を、あらためて眺めた。
 美人だと思う。今だってそうだが、これから五年、十年後にはどれほどの美女になっているか、想像もつかない。なのに、これの中に入っているのが、齢70を越えた老人、しかも異世界の王様の魂だというのだから因果な話だ。
 なんとも勿体ない事だと思ったが、その上この少女には恋人がいるらしい。この少女が未だ若々しい戦士であった頃にあちらの世界で知り合ったと言っていたから、きっとこの少女と同じくらいに美しい女性なのだろう。
 彼はその人に一度会ってみたいと思った。その人と目の前の少女の二人が並んでいるところを見れば、さぞ眼福だろうと思ったのだ。
 しかし、口に出してはこう言った。

『ところでウォルよ。あんた、何故俺を呼んだんだ?』
『おお、そういえば』

 スプリングが弾け飛んで斜めに傾いたベッドの上で、少女はぽんと手を打った。こういうときは妙に無防備な表情を見せるから、ひょっとしたら自分はとんでもないどっきりに担がれているのではないかという気もするヴォルフだった。
 だが、もしそうならば、それはそれで楽しい。この、目の前に座る少女が彼女自身の言う身の上でないならば、果たしてどのような人生を送ればこれほど愉快な人格が出来上がるのか、一度聞いてみたい程だ。
 そんなヴォルフの内心には気づかずに、少女は言った。

『先ほども話したがな、俺はこの世界に、ある人と再び会うために来たのだ』
『それもさっき言ってた、王妃さんのことだな』

 ウォルはその通りと頷いた。

『名を、グリンディエタ・ラーデンという』
『へぇ。そりゃあ、なんともたいそうな名前じゃないか』

 別にその名に聞き覚えがあるわけではなかったが、ヴォルフはとても楽しそうに言った。
 明らかに、彼は少女との会話を楽しんでいる自分がいた。
 アルコールなど一滴たりとも体に入れていないのに、軽い酩酊状態にも似た気分の軽さを味わっていた。今ならば目の前の少女に愛の告白の一つだって出来てしまいそうである。
 そこまで考えてから、ヴォルフは自分の思考の軽やかさに呆れた。全く、いつもこれくらいに軽やかな思考をしていれば、今までに一人くらいの恋人を得る時期があったのかもしれないのだが。

『会いたいのか?』

 何の気はなしに、ヴォルフは尋ねた。
 そしてウォルは、今までで一番真剣な声で、答えた。

『会いたい。何とかならないか?』

 黒髪の少女は、やはり今までで一番真摯な瞳で、ヴォルフの瞳を覗き込んだ。
 これじゃあ反則だ、とヴォルフは内心で白旗を上げた。
 女性と名のつく生き物に、これほど真っ直ぐな瞳に心を覗かれて、動揺しない男のあろうことか。然り、彼もその例に漏れず、たっぷりと動揺した。そして、少しだけ裏返った声で答えた。

『俺は実は、軍の中では鼻つまみ者でな。自慢ではないが、機密情報などには近づけん』
『うん、なんとなく分かるぞ』

 ウォルは飛びっ切りに微妙な顔をして言った。それは、笑っているような呆れているような怒っているような悲しんでいるような、どうにも命名の出来ない表情だった。

『だからな、俺一人じゃあそいつを探すことは出来ない。もっと上、そうだな、俺の上の上の上の上の……いくつ言ったらいいか分からないが、とにかくてっぺんにいる人間に話を聞けよ。それが一番てっとり早いだろう』

 ウォルは、つい先日、そういった立場の人間に知己を得た。
 無論あちらにはあちらの言い分があるだろうが、利用できるものは精々利用させてもらうつもりだった。

『そうか、ならその者にやっていただこう』
『伝手が出来次第、また連絡してくれ。送り迎えくらいならしてやってもいい』

 ヴォルフは、その巨体をゆっくりとベッドから下ろした。その拍子に壊れたスプリングが盛大に弾け飛び、少女の小さな身体がぽんと宙に浮いた。
 普通であれば可愛らしい悲鳴の一言でもあるのだろうが、到底普通とは呼べないその少女はいとも容易く空中でバランスを取り、ひらりと体を一回転させてベッドの上に着地した。それを見ていたヴォルフの唇が、ひゅうと甲高い音で口笛を鳴らした。

『まるで猫だ』
『ああ、俺が一番驚いている』

 目を丸くした少女は、どうやら本当に驚いているらしかった。
 ヴォルフは苦笑して、病室を後にした。どうせ明日か明後日にでも再会することになるのだから別れの挨拶は不要だろう。それに、あれだけの動きが出来る病人に『お大事に』もなにもあったものではない。
 だから、中途半端な高さに片手を上げることで、一時の辞去の挨拶とした。扉枠をしゃがみ込むように通り抜けた彼の背に、少女の柔らかい視線が感じられた。

 翌日、ヴォルフは再びウォルの病室を訪れた。昨日の砕けた格好ではなく、きちんと折り目のついた黒のスーツを身に纏い、端から見ても物々しい雰囲気を身に纏っている格好だった。
 そして、今度は手土産にケーキを持っていない。その代わりと言っては何だが、ようやく軽い物なら握れることとなった彼の左手には、小さな小包がぶら下げられている。
 先日と同じように、ウォルの病室のドアを三度ノックすると、無造作にドアを開けた。
 
「お前の恋人、ありゃあ何もんだ?」

 それがヴォルフの第一声だった。



 昨日、ヴォルフが病室を後にしてから、ウォルは主席官邸に直接電話を入れて事の次第を主席に伝えた。主席は、最初のうちこそ消え入るように細い、絶望の色濃い声で対応していたのだが、ウォルがもったいぶった調子で悪いようにはしない旨を伝えると、喜色満面で彼の要求に応じること旨答えた。
 ウォルが要求したのは、グリンディエタ・ラーデンの、現住所を含めて彼に関する出来るだけ仔細な情報の提供と、彼のもとまで自分を運んでくれる、運転手付の移動手段の確保である。
 その運転手に誰が選ばれたか、少女が誰を選ばせたのか、言うまでもないことだった。
 また、この人事には、別の思惑もあった。今回、問題の少女が入院するきっかけとなった負傷を負わせたのがヴォルフガング・イェーガー少尉その人だったため、彼と顔を合わせたグリンディエタ・ラーデンの直接的な怒りが彼に向かい、それで少しは発散してくれるのではないかという甘い期待である。そのことを進言したのは、彼の上司であるアレクセイ・ルドヴィックであった。
 結果として、ヴォルフガング・イェーガー少尉の肩書きは、連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官アレクセイ・ルドヴィック付補佐官というものから、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン付特殊要人警護官という職名に変わっていた。
 朝早くいつも通りに出勤したヴォルフは不機嫌な上司に呼ばれ、ほとんど略式とも呼べる異動通知を拝命した。その後で、彼にはいくつかの注意事項が伝えられた。極論すれば、それらの注意事項は、ただ一つの結論に辿り着くものだったので、そういった細かいことを覚えるのが些か苦手な彼でも、容易に覚えることが出来た。

 曰く、『グリンディエタ・ラーデンとルーファセルミィ・ラーデンを絶対に怒らせるな』。

 ウォルの身柄をグリンディエタ・ラーデンのもとへと送り届けるのが、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン付特殊要人警護官ヴォルフガング・イェーガー少尉のほとんど唯一の任務であったから、彼がグリンディエタ・ラーデンと接触するのはどうしようもないことである。
 一見すればほとんど子供のおつかいにも似たような、どうでもいい任務であるが、しかし彼の上役たちには大きな不安があった。
 ヴォルフは、職務態度こそ真面目であり優秀な結果を残している軍人だったが、上官に対する不遜極まる態度については少なからぬ問題を抱えている軍人だったのだ。今回、彼と『歩く超新星爆発』が顔を合わせ、その無礼な言動がその逆鱗に触れないか、彼の履歴を見た首脳連中は真剣に頭を悩ませたのである。
 しかし、当の少女が彼を指名した以上、彼以外にこの任務を務める資格が無いのは明らかである。無理に他の人間を割り当てようとして少女が臍を曲げてしまっては、本末転倒も甚だしい。

『いいか、イェーガー少尉。これからの君のキャリアの無事を考えるならば、今は何も考えるな。しゃべるな。ただ、彼女をグリンディエタ・ラーデンに送り届けるだけの機械になったと思え』
『了解しました、閣下』

 気のない返事でそう返すと、彼は漆黒のスーツに身を包み、顔が映り込むほどに磨き抜かれた黒いリムジンのハンドルを握って、一路ウォルの待つ病院まで急いだのだった。
 その途中、ヴォルフはグリンディエタ・ラーデンに関する情報のいくつかを飛ばし読みにした。彼に与えられた資料からは機密と呼べる情報のほとんどがマスキング処理されていたが、政府関係者がその人物との接触を図ることを厳に禁じていること、そして今はその人物は惑星ベルトランの片田舎、コーデリア・プレイス州の州知事であるアーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタインの息子であるエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインのもとに身を寄せていることはわかった。あといくつかの情報が記載されていたが、彼は自身の任務には関係ないことだと思い、それ以上を読まなかった。
 結論からすれば、その人物は超弩級の危険物なのだ。それも、この共和宇宙全体の平穏に関わるような。そして、その人物が身を寄せているエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインもまた、グリンディエタ・ラーデンと同じくらいに危険な人物であるらしかった。
 それほどの危険人物が同じ住所に共に住んでいるとは、どうにも信じがたいことだった。アクの強い人間は、普通はあまり横の繋がりを良しとしないものなのだが……。
 ヴォルフの疑問も当然のことである。何故なら、その二人は全くの同一人物なのだから。政府の上層部は、ヴォルフに余計な情報を与えることを厭い、その多くを小出しにした結果、最も重要な身元の部分について誤った情報を伝えてしまっていたのだ。
 そんなことは露とも知らない彼は、一路病院へと向かい、その得体の知れない人物に対する疑問を、目の前の少女にぶつけたのである。だから、彼は言ったのだ。『お前の恋人、ありゃあ何もんだ?』、と。
 そんな当然の疑問に、ウォルは困ったように眉根を寄せた。

「俺に聞かれても困る。俺は、あいつのことについて何一つわからん。六年間共に過ごして情け無い話だと笑われれば、正しくその通りなのだが」
「いや、人間なんてわからんもんだ。どれだけ長い時間一緒にいようが、理解なんて出来やしない。精々理解できた気になるくらいで、それだけでも一苦労だろうよ」
「では、ヴォルフ殿はアレの何を知りたいと?」
「そうだな……」

 自分から問いかけたのに、ヴォルフは考え込んでしまった。
 しばらくの間考え込んで、そして言った。

「お前さん、何でそんな危険人物と会いたいんだい?」

 黒髪の少女は、はにかむような笑みを浮かべて、こう答えた。
 それは、彼が魂として不思議な空間を彷徨っていたとき、不思議な少女に向けて答えたのと同じ台詞であった。

「夫が家出した妻に会いに行くのに、理由は必要か?」


 
 そして少女は、ここにいた。

 いくつもの港を乗り継ぎ、星の大海を渡り、その惑星の大地の上にいる。
 広々とした車内は、リムジンに特有のものだ。
 スモークの効いたサイドガラスから、豪奢な屋敷の玄関を見守る。
 そこには、この世界で最初に出来た友人の大きな体と、その影からひっそりと見える黄金の髪の毛があった。
 夕焼けを従え、君臨するような黄金。あの、緑柱石色の瞳以外、如何なる色にも相応しく無い。
 見間違いようもない。一体どうすれば見間違えることが出来るだろう。
 もう、四十年も前に見たきりなのに、まるで昨日見たような、そんな気がする。
 こうしてみると、今の自分が着ている服が、少し子供染みた悪戯に思えて、どうにも気恥ずかしかった。
 ヴォルフは、診察衣しか持たない少女を慮って、彼女に合う服を買ってきてくれたのだ。それも、少年が着るようなシャツとズボンの組み合わせと、少女が好むような花柄のワンピースを、だ。
 どちらを着ていくか、少しだけ迷った。馴染み深いのは圧倒的に前者だったが、後者を選んでみようかとも思う。
 果たして、あいつは少女になった自分を、自分だと分かってくれるのだろうか。
 それとも、全く自分だと分からないならばそれはそれで面白い。あちらの世界のお前のように、女の体になってしまったのだと種明かしをすれば、一体どれほど驚いてくれるだろう。
 それでも、まぁ、一目で気づいてくれたほうが嬉しい。
 そんなことを考えながら、少女は花柄のワンピースを選んだ。それは、ただの悪戯だった。
 初めて着る女性の装束は、どうにも股の辺りがすうすうして落ち着かなかったが、なるほど女性とはこういう気持でいるのかと少しだけ納得もしたものだ。かつて自分の妻が女性の装束を死ぬほど嫌がったのも、なんとなく分かる気がした。
 もう二度と袖を通すことはないだろうその服を着たまま、少女は車の中で待った。いっそ、今までの四十年間の方が短かったのではないかと、そう思いながら待った。
 コンコン、と窓ガラスが叩かれた。
 無言で、ドアを開ける。
 気のいい大柄な男が、悪戯を成功させた悪童みたいな顔をして、こちらを覗き込んできた。片目だけが、その厳つい表情には似合わないウインクをしている。

「おう、会ってくれるってよ」

 素っ気ない調子は打ち合わせ通りである。名前だって、絶対に呼ばないように頼んである。その点、この大男は少女に忠実であった。悪戯は、一人でやるより二人でやったほうが、成功したときの感動が大きい。
 その男の頭の中から、『グリンディエタ・ラーデンを絶対に怒らせるな』という将軍からの指令は、綺麗さっぱり消え失せていた。
 
「そうか、ヴォルフ殿にはご迷惑をおかけした」

 向こうの方で、誰かが聞き耳を立てている雰囲気がある。
 どうにも油断のない様子だ。この分だと、ひょっとしたらもう一人、知己の人物と出会えるのかも知れない。
 少女の胸が、果たして何年振りか分からない感動に、ときめいた。

「なあ、嬢ちゃん。一応言っとくけど、お前さんが会いたがってる奴は一筋縄じゃあいかない難物だぜ?本当に、あれが嬢ちゃんの会いたがっていた恋人なのかい?」

 恋人などではない。

「ふむ。もし、いかにヴォルフ殿であっても容易くあしらうことが出来るようであれば、それは俺の探していたグリンディエタ・ラーデンではないということだ。そして、恋人という表現は少々語弊があると思うが」

 あれは、俺の妻なのだ。

「ああ、そうだったっけか。ま、どうでもいいや」

 男の巨体が、視界から消え失せる。
 大きく開いたドア、そこから体を外に出してやる。
 車の外を流れる、鮮烈な初夏の空気。ここは、あの病院のあった星と同じ季節を謳歌しているらしい。
 少女は、柔らかな風に遊ばれる黒髪を、その淑やかな手つきで軽く押さえた。
 そのまま、門の向こう側に立った少年を眺める。
 それは、別れの朝に見た、あの青年ではなかった。
 少女が――少女に宿る戦士の魂が、もはやこれまでと全てを諦めかけていた時に、問答無用に彼の手を掴んで助け上げた、あのときの様子と全く変わらない。
 その少年が、もう、これ以上ないというくらいに驚いていた。少し青ざめているようにすら見えるその顔は、あちらの世界の六年間で、一度たりとて見たことのない、そういう顔だった。
 その顔を見ることが出来ただけで、こんな遠くまで足を伸ばした甲斐があるというものだ。少し遠すぎる気もしないでもないが、しかしこんなところまで家出をするあたりが彼女、いや、彼らしい気もする。
 
「リィ、どうしたんですか!?」
「…おい、うそ、だろ…?」
「リィ!リィ!しっかりしてください!」

 二人の少年の会話が、遠く記憶の底に埋もれかけた美しい水晶の糸を掻き鳴らす。
 二人は、ちっとも変わってはいなかった。二人は、この世界でも二人のままだった。
 それが、少女にはとても嬉しかった。
 だから、少女は無造作に言った。無造作に言った、つもりだった。
 なのに、その声は、少しだけ震えていた。

「おう、シェラ。壮健そうではないか。些か縮んだようだが、それもラヴィー殿の魔法かな?」
「なっ!?」

 銀髪の少年の瞳が、彼の主と同じく、驚愕に丸くなる。
 なるほど奇術で人を驚かすことを生き甲斐とする、旅芸人の気持ちとはこのようなものか。少女は、自らの心に羽根が生えていることを自覚した。
 悪戯は失敗した。彼は、一目で自分が自分だと見破ってくれた。
 でも、悪戯は成功だ。一体誰が、こいつをこんなに情け無い顔にしてやれるだろう。

「…なんで、お前がここにいるんだ…?」

 青ざめた頬に、淡く色づいた薔薇のような血の気が差してくる。
 握り込まれた拳が微妙に震えているのは、驚きのせいだろうか、怒りのせいだろうか、喜びのせいだろうか。
 一番最後であって欲しい。それは、少女の偽らざる本心だった。
 
「それが、40年振りに顔を合わせた夫への台詞か?」

 それでも、口に出してはこう言った。
 自分達には、それくらいが相応しい。感動の熱い抱擁は、自分達以外の誰かに任せてしまおう。
 だから、お願いだ。
 あの頃みたいに、俺の名前を、呼んで欲しい。

「答えろ!返答次第によっちゃあ、ただじゃあおかないぞ、ウォル!」

 ああ。

 報われた。

 四十年間の待ちぼうけは、無駄じゃあなかったんだ。

「やれやれ、久しぶりに顔を合わせてみればこれか。全く、いつまで経ってもお前は変わらないのだな、リィ」
 
 我ながら、涙を流さないのが不思議だった。
 でも、涙を流すのは、やはり自分達には相応しくない。あのとき、俺達は笑顔で別れたんだから、再び出会うときも笑顔であるべきだ。
 だから、少女は自分が泣き笑いの顔をしていることを、辛うじて誇りに思ったのだ。
 そして、少女が次の台詞を口にしようとした、その時。

「エディ!」

 もう一人の、少女にとって懐かしい人の声が、宵闇に染まりつつある屋敷の門に、こだました。



[6349] 第十一話:シェラの事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/02/28 16:54
 軽い貧血によって倒れたシェラが目を覚ましたのは、太陽が西の空の向こうへと完全に姿を隠した後のことだった。
 頭の奥に残る重たい痺れに顔を顰めると、額の上に、何か冷たいものが乗っていることに気がついた。その冷たさと心地よさが、自身の経験上、氷水に浸したおしぼりを固く絞ったものであろうことは想像がついた。
 つまり、情け無いことではあるが、自分は卒倒し、誰かに看護されているのだろう。シェラは、ほとんど軋み声を上げながらのそのそと動き出した脳細胞で考えた。直後、自分が如何に危険な状態であったかに思いが至ったが、しかし彼がもといた世界と違い、こちらの世界では、身近なところにある危険は驚くほどに少ない。
 とりあえず、大騒ぎをするのは控えた。それに、今自分が飛び上がって身構えでもしたら、自分を看護している何者かが一般人であった場合に、少々厄介なことにもなりかねない。別に四肢を拘束されているわけでもなし、今は貧血で倒れた普通の子供のふりをするのが一番だと考えたのだ。
 そこまで思考した後で、彼はうっすらと瞳を開いた。ぼんやりとした様子のすみれ色の瞳はほとんどが芝居であったが、それを見抜ける人間は、彼が己の主と心に誓った少年を除けばほとんどいないだろう。
 寝起き特有の霞がかった視界には、どこかで見たことがあるような天井が映し出されていた。果たしてここがどこかは分からないが、危地に陥った時特有の、切っ先を突き付けられたような緊張感がない。やはり、ここは特別危険な場所ではないようだ。
 では残された問題はといえば、果たして自分はどのような理由で倒れたのか、という点だ。よほど酷い目にあったのか、それとも度肝を抜かれたのかは知らないが、意識を失う前後のことを全く覚えていない。ただ、何故かそれほど嫌な感じがしないのだが……。
 その時、シェラの額から冷たい感触が一旦取り除かれ、盛大な水音が響いた後で、鮮烈な冷たさを取り戻したおしぼりが再び乗せられた。もう薄目を開いていた彼は、口元に人好きのする微笑みを浮かべながら、自分を看病してくれている人影に対して言った。

「すみません、ご迷惑をおかけします……」
「なんのなんの、怪我人と病人は大人しく看護されるのが仕事だ。いらんことに気を回さず、ゆっくりと休め」

 返ってきたのは、太陽のように朗らかな、少女の声だった。
 その不思議な言葉遣いに、一瞬『おや?』と思ったシェラだったが、しかし内心で苦笑しただけでその表情には奇異の念の一切を表さなかった。少女の声には、そのような言葉遣いが寧ろ相応しいような気もしたのだ。
 男のような口調はどうしても野暮ったいものであったが、それが少しも不快でない。逆に、その底抜けの明るさに加えて、色違いの花を一つ添えているようですらある。 
 自分自身は、意識せずとも丁寧な――あるいは丁寧過ぎる態度を好むシェラであったが、きっとこの声の主は好感が持てる人物に違いないと思った。例えば『女王』の渾名を持つ、リィの友人の一人のように。
 シェラは、作り笑いではない微笑みを頬に刻んで、枕に乗った頭を声の方に向けた。
 そこには、彼が想像したとおり、満面に陽光のような笑みを浮かべた、少女がいた。シェラの枕元に、膝を綺麗に折りたたんで座っている。

 繰り返すと、それ自体はシェラの予想通りだったのだ。 

 にも関わらず、シェラは大変に驚いた。
 黒い真っ直ぐな髪と新雪のように白い肌で整えられた外見は、シェラでさえ舌を巻くほどに美しい。だが、それだけで驚くシェラではない。彼の回りには、内面と外面とを問わず、宝石のように輝かしいものを持った人間が数多くいるのだから。
 シェラが驚いたのは、少女を飾る、言葉には顕しがたい不均衡である。
 顔は、どこからどう見ても少女のそれである。時には少女としての身分で任務を遂行したことのあるシェラだったからこそ、自分以外の人間の性別には敏感である。どれほど丁寧に取り繕おうと、彼がそれを間違えることはほとんどない。
 しかし、その少女の華奢とも思える外見に反して、快活を体現したような表情から読み取れる気配は、どう考えても女性のものではない。
 男性のものなのだ。
 気配だけでなく、時折見せる仕草や細かい動作がそれを裏付けてもいる。
 おかしい。これはどうにもおかしい。
 これではまるで、あちらの世界でのリィではないか。
 彼がそう思ったとき、その少女が再び口を開いた。

「しかしシェラよ、お前の気苦労症なところは、体が縮んでも変わらないのだな」
「なぁ!?」

 今度こそシェラの心臓を猛烈な動悸が襲った。
 その勢いによって押し出された血液の量に比例するように機敏な動作で、彼はベッドから飛び起きた。そして、懐に隠してあった短刀に手を掛け、もう片方の手には袖の辺りに隠してあった鉛玉を既に握り込んでいる。

 ――この少女は、自分が若返ったことを知っている。

 あちらの世界では19歳であったシェラの外見は、こちらの世界におけるリィの記録上の年齢に合わせて、13,4歳程度にまで若返らせてもらっている。それは無論、彼と同じ歩調で人生を歩むためである。19歳の体のままリィの人生の露払いを引き受けるのも吝かではないと思いもしたが、しかしこの世界では体術や殺人の技術以上に、知識や教養こそが優れた武器になることを教えられ、その魅力的はアイデアは諦めざるを得なかったのだ。
 ともかく、彼の内側に収まったものと外面上の年齢との間には、少なからぬ齟齬がある。そのことを知っているのは、リィと、自身の体を若返らせてくれた張本人たるルウ、そしてシェラと同郷のヴァンツァーとレティシア、彼と同じくルウと浅からぬ因縁を持つケリーとジャスミンくらいのものなはずだ。
 ならば、常人には到底真似の出来ない動作でもって飛び起きた自分を、全くの動揺を見せずに微笑みながら眺め遣るこの少女は、一体何者なのか。
 シェラはほとんど抜き身の殺気を少女にぶつけてみたが、しかしというべきかそれともやはりというべきか、少女の漆黒の瞳には一切の変化が見られない。きちんと正座したまま、少しだけ意外そうな顔でシェラを見上げている。
 少女がシェラの殺気を関知しているのであれば、これは尋常なことではない。そしてシェラは、その少女が、自身の殺気に気付かぬほどに鈍い存在であるとは到底思えなかった。
 ならば、殺気に反応しない理由は、一つしかない。
 この少女は、自分よりも遙か高みにいるのだ。例えこの瞬間に自分が飛びかかっても、余裕をもって退けることが出来るだけの。
 シェラは、背筋に冷たい汗が伝うのを自覚しながら、喉から押し出すような声で、問うた。

「……何故、この殺気に反応しない?」

 まさか本気でそんなことを問うほどに、シェラは愚かではない。これは、会話をもって少女の本質の一端であっても計ることが出来れば、という藁にも縋るような策である。これで嗜虐的に頬を歪めるようであれば、少女は自分の敵だ。慈愛の笑みを浮かべるのであれば、少なくとも敵ではないのだろう。
 そして少女はといえば――。

「どうして俺が、お前の殺気を恐れなければならない?お前は、リィの大切な友人だというのに」

 心底不思議そうに首を傾げた。
 何故自分がシェラに襲われなければならないのか、全くわからないと、そういう有様だ。
 シェラは、毒気が抜かれたように殺気を引っ込め、唖然としてしまった。どうやらその少女は、本当にそう信じているように見えたからだ。つまり、少女がシェラの殺気に反応しなかったのは、力量の差などではなかったらしい。
 一体、この少女は何者なのか。
 頭を抱えそうになった彼の耳に、がちゃりとドアノブが回される音が聞こえた。シェラはその時点になって初めて、自分が伏せっていたこの部屋がドレステッドハウスにおけるリィの私室であることに気がついた。逆に言えば、その程度のことに今の今まで気がつかなかったあたり、彼の体調はまだ万全ではなかったことは間違いないのだろう。
 
「おい、ウォル。シェラをあんまりいじめてやるなよ」
「誰が誰をいじめているというのだ。俺は武器すら持たぬか弱い少女で、シェラは身体中に武器を仕込んだ凄腕の暗殺者だろうが。どこからどう見てもいじめられているのは俺ではないのか?」
「どこからどう見てもいじめられてるのがシェラだから、おれは言ったんだ。第一、シェラは暗殺者じゃあないぞ。もと暗殺者だ。それに、お前が『か弱い少女』だと?冗談も休み休み言え」

 なみなみとした氷水の入れられた金だらいをいとも容易く抱えたリィは、後ろ手にドアを閉めながら忌々しそうにそう言った。
 少女はその小さな口を開き、何事かを言い返したようであったが、しかしシェラの耳には一言だって届きはしなかった。いや、今のシェラには、時間の経過ですらが遠すぎる別世界の出来事だった。

 ――今、リィは何と言った?

 自分の聞き間違いか?それとも、同姓同名の別人物だろうか。
 何か、とんでもない人の名前が聞こえたような……。

「あの、リィ……」
「ん?」

 シェラは、未だ実りの薄い口喧嘩を続けている様子の二人組、その片割れに向かって声を掛けた。
 そして、おずおずと尋ねた。血の気の失せた蒼白の顔で、だ。

「その、ですね。何と言いますか、この人は一体……?」
「この人って?」
 
 リィは、先ほどの見知らぬ少女と同じように、心底不思議そうに首を傾げた。どうやら、シェラの質問の意図するところが掴めていないようだ。

「シェラ。お前、何を言ってる?」
「いえ、だからですね、この人が一体誰なのかと……」

 リィは、唖然とした様子で言った。

「おい、シェラ、お前、もうこいつのこと忘れちまったのか?」

 その声には、どこか非難めいた響きが混じっている。
 シェラは少しばかり身を縮めかけたが、しかしここで引いてしまっては何が何やらわからない。
 再び口を開こうとした彼だったが、援軍は思わぬところから訪れた。
 今、シェラから不審と奇異の極まった視線を寄越されている、当の少女がこう言ったのだ。

「そうは言うがな、リィ。皆が皆、お前のようではないのだぞ。人がその姿形を変えても難なく見分けることが出来るのは、お前くらいのものだ」
「じゃあ、シェラはお前がウォルだってことが分かってないのか?」

 リィは、平然と決定的な台詞を口にした。

「当たり前だ。逆の立場なら、俺だってわかるものか」
「シェラが女になってもか?うーん、それって見た目も全然変わらない気がするけどなぁ」
「そういう問題か?」

 相も変わらず軽口をたたき合い続ける二人だったが、シェラはその様子を楽しむような心の余裕は無かった。それよりも、先ほどのリィの言葉を、できるだけ衝撃の少ないかたちで頭に染み込ませるのに必死である。

 ――リィは、何と言った?
 ――確かに言った。ウォル、と。

 それが、シェラの知るウォルと、同じ名前を持つだけの少女なら問題は無い。
 しかし、そうと考えて見てみれば、少女の、陽光を跳ね返すように強い輝きを持つ瞳も、その屈託のない仕草も、溌剌とした言葉遣いも、あの『化け物の巣の最大級の親玉』そのものではないか。
 だからといって、シェラには目の前の事態が信じられなかった。何せ、リィ自身が言っていたのだ。あちらの世界、即ちシェラにとっても故郷にあたる世界と、今リィとシェラが共に暮らすこちらの世界とを繋ぐのは、事実上不可能だ、と。第一、目の前でゆっくりと立ち上がったのは、紛れもない少女である。
 全ての葛藤を坩堝の中でかき混ぜて、シェラは、ほとんどおっかなびっくり真っ暗な廊下を歩くような調子で、尋ねたのだ。

「あ、あの、すみません……」
「ん?なんだ、シェラ?」

 答えたのは黒髪の少女である。

「先ほどのリィの言葉を信じて言うのですが……、あなたは、その、あちらの世界――デルフィニアの国王陛下……でいらっしゃる?」
「違う」

 少女は断言した。
 シェラは、何故だか一息をついた。
 とても安心したのだ。別に、彼はウォルのことを嫌っていたわけでなければ後ろ暗いことがあったわけでもない。ただ、一応の精神的均衡を図ることができて、そのことに安堵したのだ。
 なのに、その少女は無情にも続けた。

「俺は既に王座を禅譲しているからな、国王陛下とは呼べんよ。それでも言うなら、先王というのが正しいか?」

 今度こそシェラの脳裏に、悶絶確実のとどめの一撃が叩き込まれた。
 シェラの精神は再び暗い闇の中に落っこちかけたが、ぎりぎりのところで踏みとどまって、再度尋ねた。

「で、でで、では、貴方のお名前は……」
 
 少女は、少しももったいぶった様子もなく、はっきりと言った。

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。ご大層で厳めしい名前だが、天と父と、そして何よりリィによって授けられた名前だ。無碍にするわけにもいかん」

 王としての名前を『リィよってに授けられた』。それはつまり、リィの活躍によって王座を奪還したことを言っているのだ。
 その事実は、あちらの世界では、それこそ生まれたての赤子ですら知っている、もはや手垢にまみれた程に知れ渡った伝説である。しかしこちらの世界でそれを知る者がいるはずがない。
 唯一、その少女がウォルではない可能性としては、リィが自らの知人に頼んで、共謀のうえでシェラをはめている、というものがあるだろう。
 だが、それはあり得ない。絶対にあり得ない。あのリィが、よりにもよって自らの同盟者と呼んだ男を出汁にして、シェラをお道化にするはずがないのだ。そのように己の誇りを貶める真似をリィがするなど、天地がひっくり返ってもありはしない。
 ならば、導き出される答えは一つしかない。 
 つまり、リィの言葉も、この少女の言葉も、正しい。掛け値のない真実である。
 ということは。

「……陛下……ですか……?」
「うむ。久しいな、シェラ。壮健そうで何よりだ」

 少女は嬉しそうに言った。
 間違いない。この人は、デルフィニアの太陽と呼ばれた、あの方なのだ。そして、軍神と呼ばれ、獅子王と呼ばれた、あの方なのだ。
 何より、リィの夫である、あの方。
 ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。
 忘れようとて忘れられぬ、あまりに鮮烈な人の名前に、シェラの引き攣った頬が、笑みのかたちを作った。彼と共に過ごした、あまりにも鮮烈な三年間を思い出したのだ。

 そして、それが即座に再硬直した。

 この人が陛下なのはいい。諦めた。それは事実だ、認めよう。
 では、その国王陛下、それとも先王陛下に対して、自分はつい今し方まで、一体何をさせていた?何をした?
 この少女の、痛痛しいほどに真っ赤に染まった掌。あれは、何度も何度も冷たい氷水に浸した布を絞り、真摯に病人の看護を務めた者のみが持つ、掌だ。
 つまり、この少女は、異世界の国王は、病人の看護をしていたのだ。
 この場における病人とは、即ち固有名詞である。
 シェラ・ファロット。自分の事だ。
 要するに。
 自分は、恐れ多くも国王陛下に、それ以上にリィの旦那様に、看病をさせていたというのだ。そしてそのことに礼を言わなかったばかりか、不躾な殺気をぶつけまでした。
 これは、本来であれば極刑ものの不敬である。
 シェラの、僅かに赤みを差していた頬から、音が鳴るほど見事な様子で血の気が引いていった。

「も、申し訳ありませんでした陛下!」

 シェラは即座にベッドから飛び降り、カーペットの上に額を擦りつける勢いで頭を下げた。そして、言葉も無く震えていた。
 彼にとって、王も、そして死すらも別段恐ろしいものではなかったが、この人の怒りはとても恐ろしい気がしたのだ。
 しかし、一人立ったままの少女は、顔の前で手をひらひらとさせながらのんびりと言った。

「おいおい、シェラ。俺はもう、国王などというたいそうなものではないぞ。そう畏まらんでくれ」
 
 シェラは相変わらず震える頭を下げたまま、微動だにしない。
 少女は構わず続けた。

「それに、リィに言わせると、シェラが倒れたのは俺のせいだから俺が看病するのが当然なのだそうだ。まぁ、確かに連絡も入れずに突然訪ねたのは悪かった。なにせ、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインという人物とリィが同一人物だとは思わなかったのだ。許してくれ」
「その割には、おれを驚かすためとか言ってしっかり女の子の格好していやがるじゃないか。ウォル、お前、実はその気があるんじゃないのか?」

 しかめっ面をしながらソファに腰掛けたリィがそう言った。
 痛いところを突っ込まれたかたちのウォルであるが、ここで黙ってしまったり怒ったりするようではリィの夫などは務まらない。
 平然とした様子で言い返した。

「万が一ばったりお前と顔を合わせても大丈夫なように、備えていたのだ。備えあれば憂い無し、戦争と政の常識ではないか」
「戦争とくだらない悪戯を一緒にするなよ」
「お前を驚かそうというのだから、下手な戦争よりもよっぽど困難事だ。それにこの服、悪くはないと思わんか?」

 少女は両手を大きく広げ、花柄のワンピースに包まれたほっそりとした体を見せびらかすようにして言った。
 確かに、初夏とはいえ少しずつ蒸し暑さの増してきたこの季節には、なんとも涼やかに似合った衣装であった。少女の真っ白な肌をゆるやかに包む、透明感のある白い素材。その上に描かれた真っ赤な薔薇の刺繍が、雪中に咲く血の花のように鮮やかである。少女の黒髪、そして黒真珠のような瞳との対比も素晴らしい。
 赤と白という組み合わせは、リィにとっていい想い出を呼び起こすものでは到底なかったのだが、しかしその美しさは認めないわけにはいかない。なにより、どこまでも朗らかで人の目を惹き付けずにはおかない天性をもったこの少女には、薔薇の華やかさが相応しい気がした。
 だからこそリィは、真剣な面持ちで頷いた。

「うん、凄く似合ってる」
「そうだろう。実は想像以上に似合っていて自分でも驚いたのだ。初めて鏡の前に立ったときは、まるであちらの世界の舞踏会で煌びやかなドレスを身に纏ったお前を見たときのように、口を開けて唖然としたぞ。馬子にも衣装とはこのことだな」

 その言葉を聞いたリィは、心底嫌そうな顔をした。そして、シェラは、この人が『あの』ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンではなくて、一体どこのお化けなのだと思った。こんな人間が、世界こそ違えど、この現世にぽんぽんいてたまるものか。
 とりあえず、一人頭を下げて平伏しているのが流石に馬鹿馬鹿しくなったシェラは、ゆっくりと顔を上げて、少女の顔を仰ぎ見た。
 そこにいたのは、やはりデルフィニア国王、その人だった。顔の造りは、骨格からして違うようにしか思えないほど女らしいものになっているが、意志の強さを顕した黒い瞳の輝きだけは変わりようがない。

「あの、陛下……」
「ん?なんだ、シェラ」

 シェラは、今度こそにっこりと笑って言った。今度は、どこにも普段の彼以外の気配のない、シェラ・ファロットという人間そのものの言葉であった。

「お久しぶりです。そして、まさかこうして、再びお目にかかることが出来る日が来るとは思いませんでした。それ故の非礼、どうかお許しください」
「ああ、許す。だからもう立ってくれ。そうされていると、どうにも話しにくくていかん」

 言外にそれ以上の謝罪の不要を示したウォルは、そう言ってシェラを立たせた。そうすると、さして大柄ではないシェラの視線は、少女になってしまったウォルの目線の少し上に位置することになる。
 ここまで近接しながら貴人を見下ろすのは、明らかな不敬に当たるだろう。それを弁えないシェラではなかったが、しかし今は少しでも間近で、この人の黒い瞳を、その懐かしい光りを見たいと思った。
 じっと視線を合わせた二人であったが、やがてその片方が、ぴりりと舌に残るような、苦みのある声で呟いた。

「……シェラ、お前、大きくなったな」

 シェラは、冷静に指摘した。

「失礼ですが陛下、私が大きくなったのではなくて、陛下の方がお縮みあそばされたのでは……」
「むぅ……」

 それは、否定のしようがない完璧な事実であった。
 ウォルは、大いに傷ついたような様子で、リィの方を振り返った。

「リィ。あちらの世界で、しきりに俺の体が羨ましいと言っていたお前の気持ちが、少しだけ分かったぞ」
「だろ?」
「この体に不満があるわけではないが、しかし前の体を恋しく思うこの恋慕の念も度し難いな」

 ウォルは、腰に手を当てたまま盛大に溜息を吐き出した。
 シェラはその様を見て、苦笑した。あちらの世界のウォルの、戦士という概念を具現化したような逞しい体であれば絵になったかもしれないその格好も、今は精々必死に背伸びをした微笑ましい少女の様子でしかない。もっとも当のシェラとて、他の少年少女に比べて多少大人びているとはいえ、やはりまだまだ中等教育も修まらぬ子供にしか見えないのだが。
 そんなふうに笑みを浮かべたシェラとは対照的に、リィはずっと不機嫌な様子だった。
 そして、その表情を崩さないまま、ウォルに問いかけた。

「おい、ウォル。シェラも起きたんだ。そろそろ話してもらうぞ。何でお前がここにいる?さっきも言ったけど、事と次第によっちゃあただじゃおかないからな」
「事と次第とは例えば、俺がお前恋しさにとち狂って、あちらの世界の全てを放り出してこの世界に来た場合、などかな?」

 冗談めかしたようなウォルの言葉に、リィは何も応えなかった。つまり、彼が一番懸念しているのは、そういう事態であったということだ。
 当然、リィ彼はウォルという人間を信頼している。だからこそ、彼にとっても大切な人達が数多くいるあの世界を任せることが出来たのだ。安心して、自分の世界に帰ることが出来た。
 そのウォルが、もしも自分を追ってこの世界にやってきたとしたら。
 あり得ないとは思う。でも、もしも、万が一の可能性でそういうことだったら、自分は、あの世界でウォルを必要としている人達にどうやって詫びたらいいのか。
 リィの秀麗な顔を曇らせているのは、あり得ないこととは知りつつも、そういった懸念が彼の胸の内を掠めるからだった。もう二度と会えなくなってしまった人の幻影がどれほどに生者を苦しめるのかを痛いほどに理解しているリィだからこそ、その懸念を一笑に付すわけにはいかなかった、
 ウォルは、リィの懸念を全て知っていた。何故なら、彼自身、何度も思ったのだ。あいつに会いたい、そのためなら全てを捨ててもいいのではないか、と。無論全てを捨てればリィと会えるわけではないのだが、しかし、そのように夢想することが一度もなかったとは言えない。
 だが、彼はそんな思いが頭を過ぎる度に、己の弱気を嘲るように苦笑して、その甘えた考えを振り払った。何故なら、そのようなことをしたとしても、デルフィニアの戦女神は喜ばない。喜ばないどころか、烈火の如く怒り狂うだろう。それこそ、バルドウの娘に相応しい有様で。

『おれに会うために全てを捨ててきただと?よし、いい度胸だ。王座どころか戦士の魂までも捨ててきて、よくもおめおめとおれに顔を晒すことが出来た。今からたっぷりと思い出させてやるから覚悟しろ!』

 そのくらいのことは言われて、顔のかたちが変わるくらいに殴られて、その上で自分の世界に文字通り叩き返されるのが関の山である。いや、それならまだいい。もしも心底失望されて口の一言も聞いてくれなかったら、いくら何でも夫として情け無いにも程があるというものだ。
 ウォルは、永遠に失われた選択肢、リィと共に彼の世界に旅だった自分に思いを馳せることはあっても、それを羨むことはなかった。自分に与えられた責務を、喜びと誇りをもって全うしたのだ。
 だからこそ、彼は、ありのままの全てを語った。男の時よりも薄くなった胸板、でも少しだけ柔らかく膨らんだ胸を、誇り高く反らして。

「俺はな、リィ。口幅ったいながらも、あちらの世界で俺が為すべきことは全て為したつもりだ。そして、天に召されたのだ」

 リィは、一瞬息を飲んだ。
 それは、シェラも同じだった。

「ウォル、お前、天に召されたってまさか……」
「ああ、死んだ。少なくとも、あちらの世界の俺は死んだのだ。だが勘違いするなよ。別に戦に倒れたわけではないし、不慮の事故にあったわけでもない。ただの寿命だ。もう俺にするべきことはないと、神がそう仰ったのだろう」
「寿命だと!?」

 リィとシェラの口から、ほとんど同じような驚きの叫びが飛び出した。
 
「ウォル、お前、あっちの世界でどれだけの年月を過ごしたんだ!?」
「お前と別れて、だいたい40年といったところか」
「40年!」

 二人の口が、叫び声をあげたかたちのまま固まってしまう。
 まだ20年に満たない人生しか送ったことのない子供にとって、40年という歳月は想像を絶する、正しく地平線の彼方にしか存在しない月日の経過である。それは、常人とは異なった価値観を有するこの二人であっても同じだったのかもしれない。いわゆる普通の人間から見れば常識の埒外に存在するような彼らであったが、しかし怪我をすれば痛むし、その時が来れば天に召されるという運命からは逃れようもないのだから。
 リィもシェラも、あまりの驚きで、それ以上のことを何も口にすることは出来なかった。
 しかし、考えてみれば当然のことだったのかもしれない。何せ、リィがあちらの世界で6年の月日を暮らしていたとき、こちらの世界のルウは僅か10日を過ごしていただけだった。その縮尺をそのまま適用するのであれば、リィがこの世界に戻ってから経過した年月は優に人一人分の寿命を越えるようなものであったのだから。
 二人は、果たして自分達が何に打ちのめされているのか分からないまま、しかし確かに何者かに打ちのめされていた。自分達の知る世界の一つが、今、間違いなく消えてしまった、その事実を悼んでいたのかも知れなかった。
 そんな二人を等分に眺めて、ウォルは一言だけを、静かな声で呟いた。

「リィ、シェラ。これだけは言っておく。お前たちが作った世界はな、とても優しい世界だったぞ」

 その言葉に、金と銀の天使は、同じように息を飲んだ。

 人が世界を作る。聞きようによっては傲慢極まる言葉であるが、しかし世界という言葉を歴史という言葉に置き換えるならば、ウォルの言葉は決して大仰な表現ではない。
 戦女神と呼ばれた姫将軍は、ウォルの治世の後、デルフィニアという国の名前が過去の書物にのみ記され、ほとんどの人間の記憶から消え失せた時代になったとしても、彼女の名前だけは語り継がれるであろう程の英雄だったし、その王妃の従者であった銀色の少女の活躍は、多くの人に知られるところでなかったとしても、闇に生きる一族の歴史に終止符を打ったという意味において軽視されていいものではない。
 無論、歴史の大河は、一個人の力量をもって自在にされるほどに脆弱な水流ではあり得ない。しかし歴史が人の手によって紡がれ作られるものである以上、それを作り出すのはやはり数え切れない個人の苦悩や決断であることは間違いないし、リィとシェラのそれは他の誰と比べても最も重要なものであったのだ。
 彼らも、そのことは分かっている。だからこそ、自分達が強い影響を与えた世界が、自分達の知らないところで大きな変節を迎えていることに強い動揺を受けたのだ。だが、この二人はやはり常人ではありえない。ウォルの一言を聞いて、彼らは少しだけ強張ってはいたものの、淡い笑みを浮かべていた。

「優しい世界、か。問題は、誰にとって優しい世界だったのか、だな」
「決まっている。世界はいつだって、勝者にしか優しくない。それは世界の真理だ。俺にも変えることはできなかった。しかし、せめてこの目とこの手の届く範囲においては、敗者にとっても出来るだけ優しい世界であるように、俺は尽力したつもりだ」
「お前が言うなら、その通りなんだろう」

 リィは目を閉じ、それ以上のことを聞こうとしなかった。ウォルがそう言うならば、それは間違いなくそういうことなのだ。同じく、シェラも何も問わなかった。彼の知るデルフィニア国王の目は万里を見渡し、その手は空を掴むほどに長かった。その目と手の届く範囲の者達が幸福だったのであれば、それ以上は望み過ぎというものだろう。
 ただ、リィは、実に意地悪そうに目を細めて、冗談めかした口調で言った。

「ウォル。そもそもお前、誰にも負けなかったんだろうな?」

 それに答える少女の瞳は真剣な光りを湛えている。
 そして、言った。

「俺は闘神の娘の夫だ。ならば、誰にだって負けてやるものか。そんなことでは、いずれ天の国に召されたときに叩き返されてしまう。もう一度生まれ変わって、勝つまで帰ってくるな、とな」

 それはまるで、近所のガキ大将に喧嘩で負けた子供を焚きつける父親のような台詞であったが、しかし戦女神と謳われた王妃がその夫の尻を蹴飛ばすには、これほど相応しい台詞もないようだった。
 内心はともかく、もしかしたらそんなことを言ってしまうかも知れないなという自覚のある当の王妃は、肩を竦めて憮然としていた。
 シェラは、その様子を見ながら、くすくすと忍び笑いを漏らす。彼の肌には、自分がいる部屋の空気が、まるで煌びやかなあの王宮のそれに変化したように感じていた。

「まぁ、とにかく俺は死んだ。あの世界での役目を終えてな。最後の瞬間は、まだ覚えているよ。暗くなって、静かになって、全ての感覚が遠ざかる中で、声が聞こえたんだ」
「声?」
「俺は、お前の声だと思ったよ、リィ」

 はにかむように、少女は微笑んだ。
 まるで、可憐な薔薇が一輪花開いたような、輝くような微笑だった。

「懐かしい声だった。それがな、俺を呼ぶんだ。こっちだぞ、早く来い、待っているから、とな」
「おれはお前を呼んだ覚えはない」

 勝手に黄泉路の案内人にさせられたリィは、緑柱石色の瞳を不本意そうに顰めさせて、言った。その拍子に大きく肩を竦めたので、彼の黄金色の髪が大きく波打つ。
 ウォルは、広い部屋の中に、陽光をたっぷり受けた綿布に似た、柔らかな香気が振りまかれるのを感じた。

「おれが死にかけたお前を見つけたとして、誰がその案内を引き受けるもんか。おれだったら、それこそお前の尻を蹴っ飛ばして、嫌だって言っても生き返らしてやるのに」
「おい、俺の幻想を壊すなよ。これでも、お前にはそれなりの理想をもっていたんだぞ。何せ、40年も会わなければ、思い出の人というのは相当に美化されるものらしいからな」
「ふーん、じゃあ幻滅したか?」
「ある部分においてはな。そして、残りのほとんどは納得した。やはり、お前がリィだ。どうやらあの優しい誰かさんは、お前の偽物だったようだな」

 噛み付き合うような獰猛な笑みが、これ以上ない親愛の証である。その点だけは、どれほど長い年月の暴虐も、変えることの出来ない不変のことらしかった。

「とにかく、俺は呼ばれた気がした。そして、どこか暖かいところを漂っていて、そこで長い間微睡んでいた、気がする」

 気がする、というのは、ウォル本人も詳しいことはわからないからである。

「そして……気がついたら、この世界にいた。それだけだ」
「嘘はいけないよ、王様」

 部屋の隅の方から、ウォルの声でもリィの声でもない、もう一人の天使の声がした。
 その気配に今の今まで気がつかなかったシェラは、文字通りに飛び上がる寸前まで驚いて、声のした方を見遣った。
 そこには、彼のよく知る顔があった。
 しかし、それは彼の初めて見る、顔であった。
 驚愕したシェラは、彼の姿を見て、二の句を継げなくなってしまっていた。

「ルウ……いたのですか」
「うん。こんばんは、シェラ」

 黒髪に青い瞳を持つ優しげな青年は、力無く笑った。
 ソファに腰掛けることもなく、部屋の隅で片膝を抱えながら蹲った人影は、リィの相棒である、黒い天使その人だった。勿論、シェラにとっても大切な友人であり、幾度となく主と自分の危地を救ってくれた恩人でもある。
 なのに、シェラにはその人が、自分の知るルーファセルミィ・ラーデンには到底思えなかった。
 それは、まるで墨の濃淡だけで描かれた、古代の絵画のようであった。
 いつもは無垢な輝きに満ちた蒼玉色の瞳には色濃い憂いが満ちており、曇天に荒れる鈍色の海面のようだ。ただでさえ透き通るような白皙の肌は、血そのものが巡っていないように思えるほどどこまでも青白い。微笑みがあらわすのも彼の感情ではなく、消えゆく生命の儚さのようですらある。
 今のルウからは、『生』というものが、決定的に欠落していた。
 だから、それは生者ではなかった。

 亡者。

 地獄の底辺を、永遠に訪れぬ救いを求めてただひたすらに彷徨う死人。彼の様子は正にそれだった。
 その上、彼を飾る蠱惑的な美から、腐りかけの果物や食虫植物が放つ甘ったるい香りが漂う気すらした。その香りは、決していつものルウには相応しく無い。いつもの彼は、例えば上手に焼き上げた小麦菓子のような、胸を梳く甘い香りが漂っているはずだったのに。
 シェラは、あまりに痛々しいその様子に、思わず目を逸らした。そして、隣に座ったリィに、こっそり耳打ちをして尋ねた。
 
「あの、リィ、ルウはどうしたのですか?」
「おれが知るわけないだろ。知ってたらなんとかしてる」
「……そういえばそうでしたね。……でも……あんなルウは、初めて見ました……」
「当たり前だ。あんなのが、いつものルーファであってたまるか」

 リィは、全く声を落とさずに、家中に響き渡るような声で言った。
 それを聞いたルウは、ひっそりと微笑みながら言った。

「あんなの、は酷いよエディ。これだって、僕の一部だ」
「じゃあ、それはさっさと引っ込めて欲しい。おれは、そんなルーファは見ていたくない」
「うん、さっきから僕も頑張ってるんだけどね」

 ルウは、両足を抱えるように座り直し、そして顔を両膝に押し付けるような姿勢のまま動かなくなってしまった。それはいじけた小学生が自分の殻に籠もったときの様子に似ていた。
 そんな様子の彼に、この場にいるただ一人の少女が声を掛けた。

「ラヴィー殿。先ほどの言葉は聞き逃せんな。俺が嘘つきとは、どういうことだ?」

 ルウは、顔を上げずに、籠もったような声で答えた。

「言葉通り。だって王様、大事なこと、話してないじゃないか」
「大事なこと、とは?」

 重ねて問うその言葉に、ルウは、ゆっくりと顔を上げた。
 それを見たシェラは、自らが思い違いをしていた事に気がついた。
 これは、亡者ではない。
 これは、罪人だ。
 自らの手と足に、決して千切れない鉄錠をぶら下げた、罪人。彼を罰するのは、他でもない自分自身。彼の責め苦を喜ぶのも自分自身。だから、彼は決して許されない。
 ルウから漂ってくる妖気は、一度だけ彼が血に狂った、あのときのそれに近い。しかし、そこまで刺々しくはないものの、その分もっとべったりとして、擦っても擦っても落ちない泥炭の塊をなすりつけられたような不快感がある。
 正しく呪いと形容するのが相応しい穢れた気を放ちながら、どんよりとした調子で、青年は言った。

「ねぇ、王様。その子の魂は、今、どこにいるの?」



[6349] 第十二話:ルウの事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/01 01:21
「うーん、やっぱり一緒に行っておけばよかったかなぁ」

 学寮の自室で、窓ガラスの向こうの夜空を見上げたルウは、残念そうに呟いた。
 現在彼の所属するサフノスク校は大学生相当の学生のための学校であるため、例えばリィやシェラの通うアイクライン校その他と違い、その周辺には歓楽街と呼ばれる遊興施設が存在する。そこは、万華鏡のようなネオンで彩られた、白粉と口紅の香りも色濃い夜の町である。結果として、地上が明るくなった分だけ夜の闇は色の薄いものとなるが、その程度のことでルウの際立った視力から満天の星空を奪い取ることは出来ない。
 透明な壁の向こうの、少し肌寒い、張り詰めたような冬の空気。その澄んだ空間の向こうに、宝石箱をひっくり返したような銀河の群れがある。
 きらきらと輝く夜空。その中に、一際輝く緑色の星があった。それは、彼のもっとも大切な人の、瞳の色に似ていた。
 何百光年と離れた星に、思いを馳せる。
 リィは今頃、アーサーの家を出発した頃だろうか。
 自分の占いが当たっているならば、きっと何らかの異変に遭遇しているはずだ。そして、今までの経験上、その可能性は非常に高い。
 危険は無い、と思う。多少の危険があったとしても、リィにとっては危険と呼ぶに値するものではないだろう。もしも彼にとっても危険と呼ぶべき事が起きるのだとして、彼の傍には銀色の月がいる。万が一の時は、自分を呼んでくれるだろうから、心配する必要などどこにもないはずだ。
 そもそも、今回の占いに関していえば、彼の手札からは凶兆をあらわす嫌な感触がちっとも存在しなかった。
 それでもルウは、今回ばかりは自分の手札に今ひとつ自信が持てていなかった。
 いつも通り、カードからその暗示する情報を読み取ることは出来るのだが、しかしその情報に込められた意味が全くわからない。もやもやとした霧の中に手を突っ込んだような、吹雪の前に視界が真っ白になったような、なんとももどかしい感覚だけが、掌からするりと抜け落ちていくのだ。
 第一、具体的な目的を持たずに彼が占いをすること事態が異常である。本来であれば、例えば失せ物や行方不明者を捜すために使われるカードを『相棒の身の回りに起きる異変について』という曖昧極まりないものに使おうと思ったのは、彼の一番奥深くにある、人間であれば『勘』と呼ばれる便利な機能が疼いたからに他ならない。
 発端がそのようにへんてこな事情ならば、結果もやはり今までに得たことのない奇異なものだった。
 こんなことは、未だかつて一度もなかった。まるで、この世界にいながらこの世界以外のことを占っているような、不可思議な感覚。自分の知覚の範囲外の異変が、初めてその触角に触れたのかもしれない、そんな予感がルウの胸を過ぎった。
 もう一度、彼は自身の占いの結果を思い出してみた。

 【遠い昔に別れた人】。
 【最近別れた誰か】。
 【薔薇の館】。
 【小さな女の子】。
 【森と湖】。
 【博物館】。
 【王冠】。
 【黒い自動車と黒い服の男】。

 いくつもの暗示は、例えば敵や裏切りなどの不吉な結論とは縁遠い。むしろ、ルウにとっては心安らぐものが多いような気がする。最後の暗示だけが心掛かりといえば心掛かりではあるが、今の政府に彼らを敵するだけの気概が残されているとは思えないから、少なくとも直接的に政府の人間が関わっているのは考えにくい。無論、件の連邦情報局長官のように偏執的な妄念を抱いて彼らをつき回す人間がいることも理解しているから、完全に警戒を解いていいわけではありえないが。
 ルウの心中に、不安はない。しかし、一刻も早くリィに会いたい。そう思う。心が浮き足立ち、体が走り出しかける。この、焦燥感にも似た衝動はきっと、いいことの現れだ。すごいご馳走がすぐ近くで用意されているのに何故こんなところにいなければいないのか、そう心と体が不満の叫びをあげているのかも知れない。
 多分、この占いが示す結果のせいだ。自分は言葉には出来ない深層心理の深いところで、これからどんなことが起きるのかを知っているのだろう。
 ルウはうっとりと頬を緩めて目を閉じた。そうするとこの年若い青年の微笑は、まるで我が子を思う母親のそれのように見える。どこまでも柔らかく、どこまでも深い、慈母の微笑みだ。ただ一心に自分の愛する者の幸福のみを願う笑みだ。その瞬間の彼の脳裏に誰の顔があったのか、それは言うまでもないことである。
 ルウの想い人は、苛烈をその身に体現した、抜き身の刃のような人だ。だからこそ、彼にはその鞘となるべき人が必要だと、ルウは常々そう思って来た。シェラもよくしてくれているが、しかしそれは従者としての献身である。ならば、彼以外にも、誰かルウの相棒の、例えば友人として心を砕いてくれる人がいてもいいのではないだろうか。
 ルウの思いを知れば、リィはきっと肩を竦めながら、『おれにはお前がいればそれでいい』とでも言うのは間違えないだろうし、それは他ならぬルウ自身にしても同じことなのだが、自分の愛する者を愛してくれる存在は多ければ多いほどいい。それは、きっと心安らぐ未来だ。
 今回の占いのヴィジョンは、あらためて整理してみれば、誰か、ただ一人の人物を指し示しているような気がする。それが誰かはまだ分からないが、もしそうであるならばリィにとって好ましい人間のことのように思えてならない。その人がリィの友達になってくれれば、そして彼に優しくしてくれれば、ルウにとってもこれほど嬉しいことはない。

「早く会ってみたいな……」

 鼻歌と呼ぶにはあまりに見事すぎる旋律を口ずさみながら、ルウは微睡んでいた。頬杖をついた首をゆらゆらと左右に揺らし、あたかもほろ酔い加減の芸術家のような有様である。先ほど引っかけたごく少量のアルコールと、暖かい部屋の空気が、眠り神の誘惑をより抗いがたいものにしていたのだ。
 そんな彼が腰掛ける机の上には、彼専用のノートパソコンと、レポート作成用の資料となる分厚い本が堆く積まれている。
 ルウが今回リィの実家に同行しなかったのは、これら堆く積まれた資料のエキスを凝縮してもなお足りない、異常な量を誇るレポート課題のせいだ。これがなければ、彼は間違いなくリィの家にお邪魔していたはずなのだ。
 彼以外の者ならば、誰か友人のレポートを写させてもらう、それともどこかで拾ったレポートに少し手を加えてさも自分で考えたように提出したりするかも知れなかった。しかし彼が大学に所属しているのは、そこを卒業してこれからの人生のキャリアの一部とするわけではなく、まして親に決められた人生のレールの上を走るためでもない。
 彼は、自分で設計した宇宙船で、遠く未開の宇宙を旅することを夢見て、そのために基礎知識を学んでいるのだ。ならば、見せかけの単位を取得することに意味などあるはずもない。そして同様に、彼の中に卒業必要単位数という概念もまた存在しない。当然の如く、時間の許す限り、そう、普通の学生であれば思わず目を回してしまうほどに過密なスケジュールで授業を選択している。
 一例を挙げただけでも宇宙工学基礎、宇宙物理学基礎、船体物質学、感応頭脳学基礎など、まだ一回生であるが故に基礎編が多いとはいえ、それでも単位に厳しいと評判の教授の講義ばかりであるから気の休まる暇もない。その教授も、いわば普通の学生、つまり講義の合間にたっぷりと余暇時間を有する学生用のカリキュラムとして相当たくさんの課題を用意するものだから、ルウの日常はそれらを消化するだけで手一杯という有様なのだ。
 だが、彼はその日常を、非常に有意義なものとして楽しんでいる。何故なら、それらは彼にとってあまりに新しい知識の宝庫だったからだ。
 ラー一族という、人から見れば神としか思えない能力と寿命を誇る種族に属するルウであるから、彼はほとんど手を動かしたり呼吸をするのと変わらないように、人の言う奇跡を体現することが出来る。死者の蘇生や瞬間異動など、高度に発達した文明を有する現在の人類でさえ喉から手が出るほどに希う奇跡を、である。
 そんな彼に、未開の宇宙を旅するのに宇宙船など、そもそも必要無い。彼は光よりも早く宇宙空間を飛ぶことが出来るし、どんな離れた見知らぬ地にでも瞬時に移動することができる。
 それでも、彼は自分の作った宇宙船で旅をしたいと思っていた。
 彼の知人には、幾人かの宇宙船乗りがいる。彼らは一様に、宇宙の彼方の未だ誰も見たことのない世界に思いを馳せ、無限とも呼べる虚無の空間に挑み続けている。しかも、一抹の悲壮感すら抱かず、ひたすら陽気な精神病患者のように。
 羨ましいと思う。有限の生を宿命づけられているが故に流星よりも輝かしい生を送る、人間たちが。別に自分を卑下するわけではないし、上から見下ろした感想を抱くわけでもない――少なくとも自分ではそうと思っている。それでも、彼らの無垢な笑顔が、ひたすらに羨ましい。だから、自分も彼らと同じように、旅をしてみたい。それはルウにとって、極めて自然な選択肢とその選択結果だったのだ。
 そう言う意味では、ルウは、人間が大好きだった。ファンと言ってもいい。一族の中の鼻つまみ者である彼と、一族の中でも相当に重要な役職に就くデモンの仲がいいのも、二人の間に人間社会に対する似通った価値観が存在するからだろう。もっとも、ルウは彼らと深く関わることを選び、デモンはその社会そのものを観察することに価値を見いだしたのだが。
 だからといって、ルウが全ての人間を偏り無く愛しているかと言えばそうではない。汚泥から湧き上がる泡沫のような人間が多くいて、それが一部と言うには数多すぎることも理解している。それでも、汚泥の中の一番深いところに、宝石よりも光り輝く眩しい存在がいるのも理解している。彼の知人は、何故かそんな人が多い。それはきっと、自分が幸福の女神に愛されている結果なのだろうと、神にもっとも近しい彼は、神様に感謝したりする。そんな彼らと、自分が設計した宇宙船で未知の世界に挑むことが出来れば、どれほど楽しいだろうか。考えただけでも彼の頬は優しい笑みを描いてしまう。
 だから、彼は結構楽しい毎日を送っていた。そして今のところは、自身の最も愛する相棒のことを思いながら、全てのレポートを完成させた満足感に浸りながら、浅い眠りを堪能していたりするわけだ。
 ふと時計を見れば、時間は相当に遅い。
 もうそろそろ寝ないと、翌日の講義に差し障りのでる時間になってしまった。本来であれば、熱いシャワーの一つも浴びて、冷凍庫の一番奥に隠してあったとっておきのバニラアイスクリームを平らげて、そのままベッドに急行するのが一番だ。
 でも、彼の重たくなってしまった思考能力は、その一切を否定し、そのまま机に突っ伏して眠ることを優先してしまったようだ。季節も冬のまっただ中、普通なら風邪の一つも引いてしまうのだろうが、比較的最近に建築されたその学寮は密閉性の高いもので、内側の暖気を逃さずに外側の寒気を遮断している。これならば、余程のことが無い限り体調を崩すことはないだろう。
 机に突っ伏した華奢な背中が、呼吸のリズムに合わせて規則正しく動いている。安らかな寝息が、部屋に響く。それ自体が最高の子守歌のようだ。
 そんなルウの長い髪を、馥郁たる風がくすぐった。まるで春の草原を駆ける風のような、夏の森を潤す冷たい湧き水のような、体よりも心を潤す風だった。
 あれっ、とルウは思った。思わず、ここが彼の生まれ故郷である、あの惑星の上だったのかと勘違いしたほどだった。
 しかし、彼は誰に呼ばれた覚えもないし、自分で里帰りをしたつもりもない。ならば、彼がいるのは連邦大学の一大陸に設えられた、サフノスク校学生寮の一室であるはずだ。
 一体どこから吹いてきた風なんだろうと思った。こんなに美味しい風が吹いてくるところは、きっととても美しいところに違いないと思いもした。
 ルウはその風を肺いっぱいに吸い込んで、満足の溜息を吐き出した。こんなに優しくて良い匂いのする風を味わったのは、彼のさして長くもない人生の中では数える程だったからだ。
 瞼を開き、首をぐるりと巡らす。すると、払暁の空をそのまま固めたような、青色の瞳が露わになる。彼はそれをにこやかに綻ばし、閉じられた窓ガラスに向けて、言った。

「こんばんは、僕に何か用事かな?」

 果たしていつからそこにいたのだろうか、ルウの私室にはめ込まれた窓ガラス、そのすぐ向こうに何かがいた。
 ルウはそれを見て、ただでさえ微笑んでいた頬をよりいっそうに微笑ませた。声に出して、少しだけ笑い声をあげたくらいだ。
 白くてこんもりとした、産毛の生え揃ったひよこみたいな真ん丸の物体。どこをどう曲解しても害意のあるようには思えないそれが、黒い空間にふよふよと浮いているのだ。風に飛ばされた、特大のタンポポの綿毛とでもいえば相応しいかも知れない。
 一見して普通のものではないと、ルウにはわかった。当然、ルウはそんな物体に心当たりは無かったし、この星の生態系にこんな生き物はいなかったはずだ。生命のないただの物質であるという解答は、彼の類い希なほどに鋭い直感が否定している。

「白いひよこさん。そんなところにいたら寒いでしょ。こっちにおいで」

 机から体を起こしたルウが手招きすると、その白くてモコモコとしたその物体は、困惑するようにふわりふわりと宙を舞った。
 ルウはますます楽しくなってしまった。彼の目の前にいるのが、いわゆる幽霊とか魂とか、そういうものの友達であることは理解している。そしてそういうものは、生きた人間以上にルウのような存在に敏感である。
 ルウは少し前に、興味本位で、人を呪い殺す悪霊が出るという古屋敷に赴いたことがある。太陽も高い時間であった。それは別に幽霊が怖かったからではなく、純粋に彼の空き時間がそこしか取れなかったからだ。
 おどろおどろしい雰囲気の屋敷内は、正しくこれぞ幽霊屋敷と言わんばかりの、雰囲気満点の有様だった。期待に胸を膨らますルウはそこをずんずんと歩き、遠い昔に殺人事件があったという部屋で、その館の主に出くわした。
 それは、顔の半分を鉈で切り落とされ、血塗れになった妙齢の女性の幽霊であった。それも、飛びきりに恨みがましい顔で登場した上、その背後に寒気のする負の念をまとわりつかせている。
 常人であればそれを見ただけで体の自由を奪われ、そのまま悪霊の贄と成り果てるしかないであろう。
 なのに、彼は平然と語りかけたのだ。

『やぁ、こんにちは悪霊さん。こんな時間にごめんなさい。でも、少しだけあなたとおしゃべりがしたくって』

 ルウは別に、その悪霊に対して害意があったわけではない。ただ、自分が死んだ後も現世に魂を残し、そしてその恨みとは直接は関係ない人間をも殺し続けるほどの怨念とはどのようなものなのか、純粋に興味を覚えただけだった。
 しかし彼を見た悪霊は、真っ昼間にもかかわらず悲鳴を上げながら裸足で逃げだしてしまった。燦々と輝く太陽の下、泣き叫びながら自分の住み家を捨てて逃げだす悪霊というのもまた珍しい構図ではあるが、これでは一体どちらが悪霊なのかわかりはしない。一人残されたかたちのルウは、果たして自分が何か悪いことをしたのだろうかと落ち込んだりしたくらいだった。
 そんなことがあったから、自分を恐れずにいてくれる白いひよこみたいなそれが、たまらなく愛おしくなってしまった。だからこそ、それが何故部屋に入ってこないのか、心底不思議だった。
 彼はしばらくの間考え込み、そしてはたと手を打った。

「もしかして、入ってこられないの?」

 窓ガラスの向こうの白いひよこは、頷くように浮き沈みをした。
 少し慌てたルウは、大急ぎで窓ガラスを開け放った。
 十階建ての五階に位置するルウの部屋に、乾いたアスファルトの埃っぽい匂いと、冬の冷たい風が入ってくる。それに乗って、白いひよこは、ふわふわと部屋の中に入ってきた。相変わらず、どこにも害意の欠片も無い、無邪気な有様である。
 ルウは、水の中を泳ぐように部屋を漂うそれを、愉快そうに眺めた。ひょっとしたら自分はもう眠っていて、脈絡のない夢の世界にいるのではないか、そう思ったほどだ。
 やがて、その白いひよこは、ルウのほうにすり寄ってきた。これには、流石のルウも驚いた。悪霊の一件に限らず、人以外の存在である彼は、人以外の存在にこそ余程に恐れられることが多かったからだ。少なくとも、今までに懐かれたためしは一度もない。それに、その白いものがあまりに不安定で、指先で突けば小麦粉の山みたいに呆気なく崩れてしまいそうだったから、というのもある。
 ルウは悪戯っけを起こして、掌を上にして、おそるおそる手を伸ばしてみた。
 すると、その白いひよこは、少しだけ躊躇うようにふわふわと宙を漂ったあとで、彼の掌の上に舞い降りたのだ。
 掌に感じる、もこもことした柔らかな感触。ルウはあまりの喜びに、声を出すのを我慢するのに苦労したほどだった。

「君は誰かな?どこから来たの?」

 もう片方の手の指先で突っつきたくなるのを堪えながら、ルウはそう語りかけた。
 白いひよこは首を傾げるようにころりと転がった。
 ルウは、感激のあまり体を震わしていた。彼は、ほとんどの人間がそうであるように、可愛らしくて柔らかいものが大好きだったのだし、自分の掌の上にいるそれが、自分のことが大好きだと分かったのも嬉しかった。
 しばらく彼は、白いひよことにらめっこをしていた。当然その白いひよこには目も口もありはしないのだが、ルウの主観としては正しくにらめっこであった。
 にらめっこと呼ぶには少し優しすぎる表情のまま、ルウは少しだけ考えていた。
 何故だろう。この白いひよこを見ていると、何故だか心安らぐ自分がいる。まるで、自分と親しい誰かを見ているような。
 やがて、ルウの鼓膜を、小さい小さい、途切れるような声が震わした。
 彼は、何の疑問も抱かずに、その白い塊に耳を寄せた。まさかこれがしゃべれるとは思わなかったから、何を言ってくれるのか、どきどきとしながら耳を寄せた。

「――て」
「うん?もう一度、言ってくれる?」

 弱々しいといってもなお足りないその声は、ルウの優れた聴覚でも聞き取れるものではなかった。
 だから彼は、今度はよりいっそう、耳に神経を集中させて、絶対に聞き逃すまいとした。
 そんな彼の耳に、先ほどよりは幾分かはっきりとした声が、聞こえた。
 それは優しくて暖かな、少女の声だった。

「……はじめ、まして――」
「うん、はじめまして」

 ルウは、掌の上の白いひよこに向けて、そう語りかけた。この光景を普通の人間が見れば、神秘的な雰囲気を纏った美しい青年が、何も乗っていない自分の掌に向けて挨拶をしているのだから、さぞ奇異な光景に映っただろう。

「僕はルウ。君の名前を聞いていいかな?」

 白いひよこは、くすくすと微笑った。
 そして言った。

「わたしは、ウォルフィーナ」
「ウォルフィーナ?可愛らしい名前だね」

 ルウも、くすくすと微笑った。
 きっとこの子が生きていたときは、とても可愛い女の子だったんだろうと思った。
 そのまま話しかける。

「何で、僕のところに来たの?」
「いちど、あっておきたかったの。おしゃべりもしてみたかったわ。でも、もうまんぞく」

 白いひよこが、ふわりと浮きあがる。
 ルウは、それを止めようとはしなかった。少しだけ残念な顔をしていたが、彼女の用が済んだのであれば引き留める理由も無い。それに、開けっ放しの窓から冷たい風がびゅうびゅう吹き込んでくるから、そろそろ閉めないといけないのも事実だった。

「もう、帰るの?」
「ええ、とつぜんおじゃましておいて、しつれいなはなしだけどね」
「またおいで。僕は、また君とおしゃべりがしたいな」
「ざんねんだけど、きっともうあえないわ」

 白いひよこが、口づけをするように、青年の唇に触れた。
 ルウは、驚いた。その口づけの感触が、彼のもっとも大切な人のそれに似ていたから。

「さようなら、ルウ。お兄ちゃんをよろしくね」

 はっとしたルウが顔を上げたとき、そこには閉められたままの窓ガラスがあった。
 頭の奥に、鈍い痺れのようなものが残っている。それに、瞼が妙に重たくて、視界がところどころぼやけている。
 机に突っ伏していた頭を、大儀そうに持ち上げる。枕にしていた腕が痺れて、ちりちりと痛む。

 ――夢を見ていたのだろうか。

 訝しんだ彼は、自らの唇に手をやった。
 震える指先の触れたそこは、少女との口づけの残滓を残すように、仄かに暖かかったのだ。

「……エディ!」

 次の瞬間、その部屋には誰もいなかった。無論、寮の外出記録には何の異常も認められなかったし、玄関に設置された防犯カメラにも不審な影は残らない。
 如何なる残滓も残さずに、ルウの姿は、惑星ティラ・ボーンの上のあらゆる場所から姿を消していた。



「ねぇ、王様。その子の魂は、今、どこにいるの?」

 部屋の片隅に座り込み、自らの殻に閉じこもったようなルウが、重く鈍い声でそう言った。
 彼は、とても整った容姿をもった青年だ。海と空の輝きを凝縮したような青い瞳。生成の綿のように柔らかみのある白い肌、黒絹のように艶やかな黒髪、美の女神が嫉妬に狂うような顔の造詣。
 それらのうちの一つを手に入れるために世の女性は血道を上げているというのに、彼はその全てを生まれ持ち、しかもそれを誇ることすらしない。
 誇ってくれればいい。自慢してくれればいい。それならば、まだ理解の範疇だ。しかしそれらを無価値の如く扱われたのでは、自分達の立つ瀬がない。だから、世の女性たちからすれば、ルウは自分達に対する背信者であったのかもしれない。
 そんな恵まれた容姿を持つルウだからこそ、それらが闇に染まったときの禍々しさは、筆舌に尽くしがたいと言ってまだ婉曲ばった表現であると言わざるを得ないだろう。肌の白さは死蝋化した死体のそれであったし、髪の黒さは腐敗し凝固した血液のそれ、青い瞳と整った容姿は死の天使にのみ許された退廃の美であった。
 シェラは、息を飲んだ。ルウの、呪いとも呼ぶべき負の気に気圧されたというのもあるが、何よりこんな有様になってもなお美しい、ルウという存在そのものに圧倒されていた。
 リィは、特大の苦虫を噛み潰しながら、テーブルに置かれたグラス、その中になみなみと注がれた琥珀色の液体を飲み下した。芳醇なはずのウイスキーが、今の彼の喉には少々苦み走りすぎていたようだ。
 そして、ルウと同じ色の髪を持ち、しかし異なる色の瞳を持つ少女、ウォルは、真剣な面持ちで、ルウの質問に答えてこう言った。
 
「ラヴィー殿。卿は、どこまで知っておられる?」

 ルウは、この世の終わりが訪れたような顔で、言った。

「全てが分かっていたら、こんなところには来ない。僕が為すべきことを為す、それだけだ」

 ルウの斜め向かいでソファに腰掛けていたシェラは、思わず仰け反りそうになり体を押さえ込むのに苦労した。
 その言葉に隠されていたのは、きらりと光る白刃、のようにかわいげのあるものではない。
 言葉と言葉の隙間から、すさまじい視線でこちらを睨みつける悪魔がいたのを、シェラは知覚した。その悪魔は、きっと人間を殺すことに一切のためらいを覚えない。寧ろ、嬉々としてその命を刈り取っていくだろう。
 この人は、そんな存在ではない。絶対にあり得ない。
 あのとき、リィに対する侮辱を雪ぐために暴走したあのときだって、彼は喜びを供として凶行に及ぼうとしたのではない。そこにあったのは、彼自身ですら制御できないほどの、人間というものに対する失望と悲しみであったはずで、それ以上のものではありえなかった。
 ラー一族はこの人のことを、闇の神の現し身として恐れる。『悪しきものたち』はこの人のことを『救い主』と呼び、この世界の破滅の鍵として求める。
 しかし、この人はそんな存在ではない絶対にあり得ない。もしもそうならば、何故この人の瞳は蒼いのか。何故、無限の空と、そして母なる海と同じ色なのか。それは、この人が生命の体現だからだ。喜び、悲しみ、怒り、恐れ、そして何よりも笑う。この人は、この世の全ての生命を愛している。だからこそ、この人の瞳は、どんな青玉よりも鮮やかで、そして深い色を誇っている。
 シェラは、何事かを口にしようとした。
 しかし彼よりも先に、黒い天使の相棒たる金色の天使が口を開いていた。

「出来もしないことをさも出来るように言うなよ、ルーファ。それって情け無いことだぞ」

 冷たく切り離すような口振りだ。しかし、彼が本当に他者を切り捨てるときは、一言も口にせずに背中を向けるだろう。そも、己の半身を切って捨てて、生きていくことが出来る人間はこの世にいない。
 ルウは、立ち上がって自分を見下ろすリィに対して、睨め上げるような表情で言った。

「できない……?」
「そうだ。お前に出来るはずがない」
「私に、出来ないと?」
「その言葉遣いは似合わないと、そう言ったはずだぞ」

 黒と金の間に、ちりちりと鉄を焦がすような緊張感が満ちていく。雰囲気だけではない。鼻孔を刺激する空気の焦げた香りや、ぱちぱちと火花の散る音ですらが感じられるようだった。
 シェラは、喘ぐように呼吸をした。その白い肌の上を、冷たい汗が流れ落ちていく。
 自分に、この二人を止める事は出来ない。無論、我が身を犠牲にして二人を止める事が出来るならば、自分の命を惜しむわけではない。だが、そんな少なすぎる対価でこの二人が止まらないことは明らかだった。暗殺者として己の命と任務の達成を天秤の上に乗せ続けた彼には、己の命と違う方向に天秤の針が傾いていることを認めざるを得ないのだ。
 彼は、己の隣に座る、黒髪の少女の横顔を見た。縋るように見た。もはや、この二人の炎上を止める事が出来るのは、この少女だけだと思った。
 シェラの内心を読んだわけではあるまい。しかしウォルは、片頬を持ち上げるように笑いながら、ゆっくりと口を開き、言った。
 とても少女が発したとは思えない、獅子の唸るような声だった。

「おい。二人で勝手に話を進めるな。この会話は、俺の持ち物だ」

 微かな笑いを含んだその声が、かえってその恐ろしさを際立たせる。
 シェラは、またしても心臓に悪いほどの緊張感を味わうことになった。
 これでは、逆効果だ。炎を消し去るために爆弾を投げ込むようなものだ。ひょっとしたら爆風で炎は吹き飛ぶかも知れないが、しかし後に残されるのは火災以上の瓦礫の山である。
 この少女の内側に宿った魂が、かつて『軍神の現し身』と呼ばれた英雄のそれであったことにあらためて気付かされたシェラであった。
 
「お前たちが喧嘩をしたいなら俺は止めん。それほどに命知らずでもない。この家の外で精々派手にやってくれ。しかし、この体に関することで俺を抜きにして話を進めようというのは、俺とこの少女に対して、些か礼を欠くのではないか?」
「それもそうだ。すまない、ウォル」
「ごめんなさい、王様」

 意外なことに二人は素直に頭を下げた。
 シェラは少しだけ安堵した。しかしその直後、自分の甘さを思いしらされるはめになった。
 二人の、エメラルドとサファイアの具現たる瞳が、恐ろしい程に凪いでいる。それこそ、一切の感情を押し殺したように。それは、台風の中心部がしばしば無風状態であるように、この二人の激情がちっとも収まっていないことを意味していた。
 この一対の獣は、煮えたぎる胸中をそのままに晩餐会のにこやかなホストを演じることも出来るし、心の中で涙を流しながら無慈悲に刃を振り下ろすことも出来る。つまり、己が為すべきことを知っているのだ。
 彼らは容赦しない。彼らは自分が為すべきことだと判断したならば、いとも容易く再び刃を抜くのだろう。それが自らの相棒であったとしても。いや、それであるが故に。
 視線を外そうとしない二人を尻目に、シェラは再び気絶しそうなほどの心労を強いられていた。無音の圧迫感が、心臓を締め付けるようですらあった。
 しかし、その静寂も長くは続かなかった。
 ウォルが、ぼそりと呟いた。

「ラヴィー殿の質問に答える前に、リィよ。いくつか俺はお前に謝らねばならんことがある」

 その瞬間、少女の纏った雰囲気が、劇的に変じた。
 怒れる獅子から、許しを乞う憐れな人間へ。
 リィは一切表情を変えず、そして何事もしゃべらなかった。
 無言で続きを促した。

「まず、俺は無断でお前の名前を使った。この世界で目を覚まして、ここがどこか分からなかった時だ。とにかく、俺はお前に会わねばならんと思った。だから、今思えばあまりの軽率さに自分でも嫌になるが、お前の名前とラヴィー殿の名前を口にしてしまった。それがお前たちに、どのような危険を及ぼすかも考えずに、だ」

 少女は、心底辛そうに項垂れながら、言った。

「会えば、真っ先に詫びようと思っていた。全く、自分で自分が嫌になる。この世界においてもお前は異端者として扱われているということを、すっかり忘れていた。……いや、それは誤魔化しだな。正直に言えば、俺は恐ろしかった。この、一度も見たことのない人間の群れが。まるで自分と同じ生き物には見えなかったよ。だから、お前の名前に縋ってしまった。許してくれ」

 現に、事態はこの国の最高権力者の面会を招くほどのものになっていたのだ。
 たまたま全てのことが上手に運んだからいいものの、もしも彼が自分を捕らえて、この厄介な二人への交渉材料として使おうと考えたら?
 この二人がそう易々と屈服するとは思えない。しかし、今のウォルの体は、あちらの世界にいた頃よりも遙かに脆弱な、少女の身体になってしまっている。そんな自分が囚われの身になってしまえば、彼らから少なからぬ譲歩を引き出し、何らかの不利益を及ぼすことになったとしても何の不思議もない。実際、あちらの世界では何度かそういうことがあった。
 あのとき、リィは、正しく必死の思いでウォルを助けてくれた。自らにどんな危険が降りかかろうとお構いなしに、だ。きっと、この世界で同じようなことが起きたとして、リィは全く同じ行動を取るだろう。黒髪の少女は、そう思っていた。リィとルウの二人が知らぬ顔を決め込んで自分を見捨てることが出来るような完成された人格であるならば、こんな気遣いは無用だというのに。

「なるほど、それでお前はこの馬鹿みたいに広い世界で、おれを見つけることが出来たわけか」
「その通りだ。一歩間違えば、お前の身に累を及ぼしていたかもしれん。夫が家出した妻に会いに来るのに、その妻に頼り、しかもその身を危険に晒させるとはな。笑い話にもならん」

 後半は自嘲の響きに声を震わせつつ、黒髪の少女は深く頭を下げた。
 シェラは、内心で抗議の声を上げた。
 仮に、仮にである。自分がウォルと同じように、あるいはリィと同じように、右も左も分からぬ異世界に落っこちたら、どうするか。しかも、その世界には自分の信頼する知人がいるかも知れないとして、だ。
 茫然と座り込み一歩も動けなくなるか、精神を守るために呵々大笑するか、ハリネズミのように全方位を警戒して蹲るか。
 どれも違う気がする。
 きっと、自分の最も頼りにするその知人の名を叫んで、放浪するのではないだろうか。とにかく、その人に会おうとするのではないだろうか。少なくとも、その人がこの世界にいるのかどうかを確かめるまで、本当の意味での最初の一歩が踏み出せない、そんな気がする。
 だから、シェラはウォルの行動に批判する点を見いだせなかった。
 しかしリィは、口に出してはこう言った。

「……ウォルにしては、確かに軽率だ。そういうときは目立つ行動は避けて、出来るだけ時間をかけて情報を引き出していくべきだった。それに、もしこの世界がおれやルウのいる世界なら、お前が落っこちてきてどうして気がつかないと思った?今すぐに気がつけなかったとしても、絶対に異変には気がついたはずなんだ。そこまでおれは信用が無いか?それに、そういうことなら謝るのはおれだけじゃあないはずだな」

 言葉の端々に、苦み走った怒りがある。
 シェラは隣に座ったリィを窘めようとした。彼の言葉が、あまりに無慈悲なものに思えたからだ。
 だが、当のウォルは一切の不満を覚えた様子はなく、寧ろリィの言が当然というふうに頭を垂れている。今のウォルの風貌から、母親が大切にしていた化粧道具を悪戯でめちゃめちゃにしてしまい、叱責を恐れている少女のようであった。

「返す言葉も無い。教えて欲しい、リィ。俺は、お前とラヴィー殿を危険に晒したことに対して、どのようにして詫びたらいい?」

 その言葉に、リィの翠緑玉の瞳に、強い光りが宿った。

「勘違いするな、ウォル。おれは、おれやルーファが危険に晒されたなんて、ちっとも思っちゃいない。おれは、お前が自分の身を危うくした、そのことに怒っているし、そのことに謝罪を求めたい」

 部屋の片隅に座った、蒼玉の瞳の主からも、手厳しい声が飛んできた。

「そうだね、王様。別に、僕やエディなら、どんな連中が襲いかかってきても物の数じゃない。それは、あっちの世界であなたに語ったとおりだ。でも、僕達の大切な誰かが僕達の知らないところで傷つくのはどうしても防げない。防ごうとしたって限度がある。だから、自分の身は自分で守って欲しいんだ」
「折角おれの夫がこの世界に来てくれたのに、再会したら冷たい死体になってました、だと?そんなの冗談じゃない。後悔したって後悔しきれないぞ。お前は、またおれに大切な人の消えていく、あの嫌な感触を味あわせたいのか」
「王様。僕からもお願いするよ。あなたは、もっとあなたの体を大切にしてね」

 先ほどまであれほど険悪だった二人から、ここまで見事に息のあった調子でお説教されてしまうと、咄嗟に返す言葉も見つからない。
 ウォルは一度口を開き何事かを言いかけたが、そのまま口を閉じて黙り込んだ。
 ことここに至って、シェラも気がついた。この二人は、真剣にウォルを責めているのではない。
 ウォルは、この世界に来てまだ日が浅い。いわば、生まれたての赤子にも等しい無力さだ。それは、優れた武技や腕力よりも、知識や常識のほうが強いこの世界であるから尚更である。彼が、もとの戦士の体から少女の体に変わってしまったというのもあるかも知れない。
 この二人は、心の底から、この少女のことを案じている。
 自分達は大丈夫だから今は自分の身を守るために全神経を使って欲しいという思いと、その程度で謝罪は不要であるという言外の意志。その二つが混ざって、このような表現になったのである。
 彼らからの叱責を浴びた当の少女も、そのことに気がついたのだろう。自嘲の嗤いをただの苦笑に入れ替えると、あらために無言で頭を下げた。それが、この件に関して言えばきっと最後の謝罪になるのだろうから、二人も何も言わなかった。
 顔を上げたウォルは、その二人、リィとルウを等分に視界に収め、再び口を開いた。

「もう一つ、あるのだ」

 まだあるのか、とリィは言わなかった。
 先ほどと同じように、無言で続きを促した。

「俺はお前の名前を口に出したその翌日に、この国の王と顔を合わせた。無論、俺から会いに行ったのではない。あちらから、ほとんど懇願にも近い様子で俺の方に面会を求めてきた。その時点で、俺はお前たちがこの世界でどういう存在か、思いしらされることになったがな」
「それは、マヌエル・シルベスタン三世という、壮年の男か」
「ああ、そうだリィ。ただ、壮年というには少し老けている気がしたが」

 それは、この金と黒の天使たちが、彼の相貌から若々しさを奪い取った結果である。
 セントラル星系爆破未遂事件の前と後で、マヌエル・シルベスタン三世の顔に刻まれた皺の数とその頭髪を飾る白いものの数は、倍近く増えてしまったともっぱらの噂であった。
 星一つが壊滅の憂き目を見かけた自然災害・・・・に直面したのだから無理もないと事情を知る人は言う。しかしその実、未だ政治家としては若造の部類に入れられていた彼の顔に、よく言えば威厳、悪く言えば老いをもたらしたのが、たった二人の青年と少年であることを世間は知らない。

「彼は、俺がお前の配偶者であることを知って、その上で尋ねてきた。その彼が言うのだな。まずはこの資料を見て欲しい、と」

 当然、それはリィのプライバシーのうち、もっとも繊細な部分の一つだとウォルは思っていたから、全てを承知しているだろうルウはともかくとして、シェラの前で話をしていいものかと逡巡した。だが、当のリィが視線で続きを促したから、そのまま話した。
 ぽつりぽつりと、石ころを吐き出すように、ウォルは語った。
 己が見た資料の全てを。
 そこに何が書かれ、彼が何を見て何を思ったのかを。
 それを聞いたシェラは、あらためてはらわたが煮えくりかえるとはどのようなことを差すのか、実感として理解した。ウォルが語ったのは三年前の出来事、彼の敬愛するリィが、口にするのもおぞましい実験の被験者として供された、許されざるべき愚行の顛末だった。
 一通りのことを語り終えたウォルは、目の前のテーブルから、ウイスキーで満たされたリィのグラスを引っ掴むと、琥珀色の液体を無造作に喉に流し込んだ。 
 アルコールに濡れた息を吐き出しながら、言った。

「リィ。俺は虜囚の辱めを受け、この世の地獄と思えるような拷問を受けたこともある。しかし、それですらがお前たちが受けた苦しみに比べれば児戯に等しかった。この世に、これほどおぞましいことがあっていいのかと、そう思った。こんなことが許されるのならば、この世界に神も正義もあったものではないと、心底そう思った」
「終わったことだ」

 リィは、何の感情も含めずにそう言った。
 事実、彼の中でそれは終わった事件であった。無論、忘れたとか思い出したくもないとか、そういう意味ではない。
 彼にとってその事件は、確かに恥辱であった。体を辱められた意味で、という以上に、敵の手管に翻弄されてしまった、という意味でだ。無論、大事な用事を抱えていた相棒の手を煩わせたという負い目もある。
 復讐の対象である、研究者やリィの家族をだしにして卑劣な脅迫を行った実行者は、軒並みリィの相棒たる黒い天使の怒りに晒されることとなった。きっと彼らは今でも己の死を希い、地獄の底辺を這いずり回っているのだろう。その点について、リィは何の感慨も抱かない。当然の報復だ。もしもリィとルウの立場が逆転すれば、彼も同じ復讐の刃で敵対者を切り刻むだろう。
 そして、正しくウォルが目にした資料に記されているとおり、その一件を発端として怒り狂ったルウが惑星セントラルを含む星系一つを吹き飛ばそうとするのを止めるため、容易ならざる事態が起きたのは事実である。しかしその後のダイアナの報告によれば、少なくとも今回の事件のようなかたちでリィの生体細胞が保存されていることは考えられない、とのことだった。
 人も機械を含む全ての関係者が、この事件をもはや必要としていない。何より、こんなくだらない一件で、相棒の瞳が曇るのは絶対に嫌だ。リィはそう思っている。
 それに、覚悟もある。もう二度と、あんな醜態を晒してたまるかという覚悟だ。敵は自分に対してどのような攻撃方法が可能で、それを防ぐためにはどのような戦術が有効か、それを学ぶために、彼はシェラと共に学校に通い、勉学に日々を捧げている。『故曰、知彼知己者、百戦不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戦必殆』とは既に使い古されてカビ臭くなってしまった格言ではあるが、人間が考えたにしては珍しく、完全な真理であるとリィは思っている。
 事態の再発を防止するための策を練り、関係者への恫喝と当事者への報復を済ませ、採取された標本の全てを処分する。その時点で、リィにとってこの事件は、過去のものとなっているのだ。
 しかしウォルは、先ほどにもまして沈痛な面持ちで言った。

「いくら終わったこととはいえ、俺はお前の過去を、お前の許しもなく見てしまった。おそらく、お前にとって痛みを伴う過去だ。ならば、お前から許しを得るまで、俺は到底俺自身を許してやれそうもない。だから、すまない、リィ」

 リィは、大きく溜息を吐き出した。

「変なところできっちり筋を通そうとするのは、お前の美点でもあるが欠点でもあるな、ウォル。でも、そこまでお前が求めるならおれの答えは一つだけだ。なぁ、ウォル。おれとお前は夫婦だろう。普通の夫婦なら、互いの過去くらいはある程度知っていても不思議じゃないはずだ。だから、おれはお前がおれの過去を知ったくらい、なんとも思わない。だからな、ウォル、おれはお前を許すことが出来ないんだ。だって、そもそもお前は許しを乞う必要があるようなことを、何一つしていないんだからな」

 貴方達を普通の夫婦と言っては、この世に星の数ほどいる普通の夫婦に申し訳が立ちませんと、シェラは心の中で呟いた。しかし、彼の隣で輝かしい微笑みを浮かべる少女を見れば、何も言えなくなってしまった。

「すまない、リィ。お前の――我が妻の寛容に感謝する」

 再びリィは苦笑した。
 この分だと、この男は――今は少女だが――自分と別れたときからちっとも変わっちゃいない。この分だと、バルロやイヴンも相当に苦労しただろうなと、この場にいない異世界の友人たちを、少しだけ気の毒に思った。

「いいってば。それに、この世には神も正義も無いさ。あるのは、勝者と敗者だけだ。それはむこうの世界だって変わらないだろう?」
「いや、神はいた。極めつけに口が悪く、ちっとも女とも思えない戦女神だったが、しかし神には違いあるまい。常に隣にいた俺が言うのだ。間違いないぞ」
「隣にいる奴だからこそ間違えることもあると思うんだがなぁ」

 戦女神と呼ばれた少年は、明後日の方向を見ながら鼻の頭を掻いていた。
 それを見て、シェラとルウは、少しだけ微笑った。
 そんな二人を少しだけ険の篭もった視線で黙らせて、それからリィは言った。

「ちなみに、他にもあるのか?」
「いや、これだけだ」
「なら、次はおれの番だな」

 金髪の少年は、姿勢を正し、そして目の前の少女に質問した。

「おれからも聞きたい。お前はさっき、『お前たちが受けた苦しみに比べれば』、と言ったな。『たち』とは、一体どういうことだ。お前の知り合いの中で、おれ以外の誰が、あんなキチガイじみた実験の犠牲者になった?」

 シェラはその身を固くして、ウォルの言葉を待った。
 ルウは、先ほどの緩みかけた頬を再び無表情に戻して、ウォルの言葉を待った。
 リィは、やはり無言でウォルの言葉を待った。
 三対の瞳が頬に突き刺さるのを感じながら、少女はゆっくりと口を開いた。

「……順序として、まずラヴィー殿の質問から答えよう。確か、この子の魂が、今、どこにいるのか、だったな」

 ルウは、死人のような表情のまま、頷いた。

「この少女の魂は、卿らの世界でもない、俺の世界でもない、どこかわからない場所にいる。そこで、可哀想な魂を飴玉にしながら生きていると、本人はそう言っていた」
「そんなところ…」
「後半の部分はおそらく嘘だと思う。何故なら、あの子は優しかった。それだけは間違いない」

 ルウの手が、無力感に戦慄いた。彼の長い手も、自分の知らない場所には届かないのだ。それがこの世界の外であるならば尚更である。
 それを見た黒髪の少女は、ゆっくりと首を横に振った。

「ラヴィー殿。あなたが気に病むことではない」
「でも、でも……そんなの、ひどすぎる……」

 ルウは、己の苦しみのように呻いた。
 短いその遣り取りを見て、シェラは得心がいった。
 先ほどのルウの、禍々しい有様。あれは、怒りではなかったのだ。この人の感情を推し量ることは極めて難しい。難しいが、しかし敢えて名付けるならば、それは後悔という名になるのではないだろうか。
 では、この人は、一体何に後悔しているのか。
 そして、もう一つ、シェラには分からないことがあった。

「……あの、ルウ」
「……」

 部屋の隅で蹲った格好のルウは、シェラの言葉に、顔を上げることで応えた。
 その粘ついた視線にたじろぎながら、しかしシェラは己の疑問を口にした。

「あの……こういう問い方が正しいのかどうかはわかりません。わかりませんが、先ほどのお二人の会話を聞いていると、今、我々の前にいる陛下が、陛下ではないように聞こえるのですが」
「……違うよ。この人は、確かにあの世界の王様だ」

 少女も頷き、そして言った。

「俺は俺だ。それは見れば分かって貰えると思うのだが」
「はい、それは承知しております。しかし……陛下のお身体は、陛下ご自身のものではないのですか?」

 シェラの疑問に、ウォルは当然のことのように首肯した。

「当たり前だ。シェラ、お前も知っているとおり、俺は男だぞ」
「はい、それは勿論。でも、例えばリィと同じように、何者かの意志、あるいは偶然でその性別が変わってしまったのではないかと思っていたのですが……」
「では逆に問うがな、シェラ。お前の目から見て、俺は以前の俺と同じ人間か?」

 シェラはあらためてウォルの顔をまじまじと見つめ、数瞬の思考の後に首を横に振った。
 今シェラの目の前にいるのは、年若く美しい少女である。それは、あちらの世界のリィがそうであったのと同じように、だ。
 しかし、リィの場合とウォルの場合では、決定的な違いがある。
 リィの場合は、その身体が男性であったときと女性であったときで、本質的な違いがない。同一人物だから当然だと言ってしまえばその通りなのだが、細かい骨格や肌の質などは全く同じ質感であった。
 それに比べると、今のウォルとあちらの世界のウォルが、どうしても同じ人間には思えないのだ。勿論彼を象徴する夜空のような漆黒の瞳、それと同じ色の艶やかな黒髪は同じものである。しかしそれ以外の部分、例えば小振りで整った鼻や、ひとひらの花びらが如き唇、華奢な体つきなど、どうにも違和感がある。
 もとが美丈夫であったウォルであるから、その性が入れ替われば相当に目を引く顔立ちになるのは間違いないだろうが、それにしても差違が大きすぎる。とても同一人物とは、この時代に即して言うならば、同じ遺伝子から形作られた体とは思えないのだ。
 それ故に、シェラは初対面の時、この少女がリィの夫であるとは気づけなかった。その後の醜態の原因もそこらへんにあるのだが、シェラにとっては思い出したくもないことである。
 それらを全て踏まえて、シェラは言った。

「正直に申し上げます、陛下。私の目には、以前のお姿と今のお姿が、とても同じ人間には見えません」
「それが正解だ、シェラ」

 少女の姿をしたウォルは、重々しく頷いた。

「この体は俺のものではない。俺はあちらの世界から、魂だけでやってきた。そして、こちらの世界とあちらの世界の狭間のような場所でな、一人の少女と出会ったのだ」

 ウォルは、その世界で出会った少女、自らをウォルフィーナと呼んだ少女との邂逅の全てを語った。
 そして、少女の身体に宿った後で追体験した、少女の短い人生の全ても。
 痛いと、つらいと、寂しいと。
 語り終えるのに、そう時間はかからなかった。語るべきことが、余りに少なすぎたからだ。少女にとっての人生とは、そういうものであった。
 全てを聞き終えた三人は、一様に押し黙った。
 シェラは、怒りに身を震わせていた。このような非道が行われていいのかと、自問しているのかも知れなかった。
 リィは、どこかぼんやりと、宙空を見つめていた。誰よりも少女の苦しみを理解できているはずの彼だったが、その瞳にシェラほどの熱はない。
 そしてルウは――。

「俺はな、リィ。情け無いことだが、怒りよりも先に恐怖があった。俺が体験したのが視覚と聴覚だけで、痛覚を伴わなかったことを、神に感謝してしまった。少女の悲鳴を聞き、吐血の赤さを見ながら、それが我が身に降りかかったことでないことを安堵してしまった」
「ウォル。そんなことで自分を蔑むな。それは、人間として当然の反応だ。他人の痛みを敢えて体験したがるなんて、変態かそれとも頭のいかれた宗教家くらいのものだぞ。おれだって、二度とあんな目に遭うなんて御免なんだからな」
「分かっている。分かっているが、それでも情け無い。あまりに情け無い。そうは思わんか、リィ。十年間だ。十年間、あの少女は泣き叫び続けた。誰に聞き入れられるはずもない慈悲を、許しを乞い続けた。罪なき許しを乞い続け、その身を凌辱され続けた。そんな彼女を見て、全身の皮膚を剥がされ赤い芋虫のようになった彼女の姿を見て、男の俺が感じたのが、怒りよりも先に安堵だったのだぞ。そんなの、許せるか」
「ゆるせ――ないよ。そんなの、ぜったいに、ゆるせない。ゆるしちゃいけない」

 黒い天使が、立ち上がった。
 その口元に、切れるような微笑みを浮かべつつ。
 その視線に、那由他の不吉を孕ませつつ。
 シェラにはその姿が、巨大な鴉の羽撃く様に見えた。
 
「なら、一緒に行こう、王様。この子の魂に、尊厳と安らぎを取り戻すためには、誰かがやらなくちゃいけないんだ」
「おい、ルーファ。どこに行くつもりだ」

 リィも立ち上がった。
 その翠緑石の瞳に、先ほどとは比べものにならない程の烈気を孕ませながら。

「決まっているじゃないか、エディ。正当な復讐だ。この子の尊厳を踏み躙った連中に、報いを与えるんだ」
「馬鹿をいうな。あのときとは違う。この子はお前の相棒じゃない。お前に、そこまでする権利は無い。それにルーファ、お前、何でそんなに怒っている?おれにはお前の怒りがちっとも分からないんだ。説明してくれ」
「なら、ただの意趣返し、八つ当たりと理解してもらっても構わない」
「そんなくだらない理由で、お前に人を殺させわけにはいかない」

 ルウは、静かに目を閉じた。
 そして、心を落ち着けるように大きく息を吸い、吐き出し、それから瞼を持ち上げて、言った。

「エディ。この子はね、君の妹なんだよ」



[6349] 第十三話:狼女の事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/08 01:07
 シェラがその言葉を理解するのに、たっぷり十秒は要した。
 その間、彼の回りの人間は、多分何にも話していなかったはずだ。とても音声を聞いてそれを脳内電気信号に変換する余裕などはなかったが、しかし彼らの唇が動いていなかったことは何となく覚えている。
 唖然とした表情を浮かべたままのシェラが、自らの疑問を口に出来たのは、それから更に十秒は経過した後だった。

「……その、ルウ。今、あなたは何と言いましたか?」

 シェラにしては微妙な言葉遣いである。
 立ち尽くした黒い天使は、当然それを咎めることもなく、ゆっくりと口を開いた。

「言葉通りだよ、シェラ。今、王様が間借りしてるこの体のもとの持ち主、エドナ・エリザベス・ヴァルタレン――ウォルフィーナは、エディの妹なんだ」

 あらためてその言葉を聞いたシェラは、乾ききった喉を潤すために唾を飲み込もうとしたが、しかしからからに乾いた口中に、一滴の水分も残されていなかった。
 唖然から愕然とした表情に様変わりしたシェラの顔を横目に、リィは落ち着いた調子で言った。

「生憎だがな、ルウ。おれは妹なんていうものを持った覚えはないぞ。無論、デイジー・ローズ以外、血縁的にもおれの妹に当たる人間はいないはずだ」
「そうだね、エディ。そのとおりだ。でも、この子は君の妹なんだ。少なくとも、この子はそう思っている」
「片方が思い込めば、血縁関係ってのは勝手に出来上がるものなのか。随分簡単なものなんだな」

 リィは皮肉めいた笑みを浮かべながら言った。
 冗談めかした言い方であったが、その底にひやりと冷たい金属質なものがある。この少年にとってそれが如何なる感情を顕すものなのか、その場にいた全員が痛いほどに理解していた。
 しかしルウは、なおも続けた。その瞳に、呪いめいた鈍色の光を湛えたままで。

「聞いて、エディ。確かに、厳密な意味で言えば君とこの子との間に血の繋がりはない。でもね、そもそも血縁ってなにかな?それは人という種族の中で、どういう意味を持つの?」
「おれにとっての肉親は、アマロックだけだ。人にとっての血縁は、法律的に言えば互いを扶助し合う義務を持ち、いずれかが死んだときにその財産を相続する権利を有することになる。付け加えれば、この国の法律で言えば、三親等以内の親族及び直系血族と、並びに養親と養子間の婚姻は多角的な理由から禁止されているな。医学的に言えば、近親相姦によって生まれた子供には畸形や障害など、遺伝的な障害を持つ可能性が高いことから忌避の対象になる。細かいところを除けばそんなところか?」

 すらすらと述べたリィであるが、シェラとウォルには半分以上何の事か分からない。
 彼らは、特にウォルは、この世界に来てから日が浅い。まだまだ日常生活以上の単語、特に専門分野の単語にはついていくことが難しい。そして今は、その単語の意味を一々聞いていられない雰囲気である。
 そんな二人とは違い、おそらくリィの言葉の全てを理解しているであろうルウは、無表情のまま続けた。

「エディ、君の意見は正しい。じゃあ、こういう場合はどうだろう。例えば、陶磁器だ。これには時代の移ろいによって、あるいは技術革新によって、多種多様な品物がある。土器、陶器、炻器、磁器の大別のうちに、青磁に白磁、マヨリカやマイセンなど、細かく分けていけばきりがない」
「話の趣旨が見えないぞ、ルーファ。手短に頼む」
「これからだよエディ。で、だ。それだけ多くの種類がある陶磁器の中に、何故か二つしかない壺があるんだ。それはとても素晴らしい品で、同じ時代に作られたものなのは間違いない。でも、それが一体どうやって作ったものなのかは今となっては分からないし、再現することも出来ない。そもそもどういう体系の技術から生まれた品なのかすらも分からない、全く謎の品だ。それが、たった二つだけある。こういう場合、人はこの二つの壺のことを、なんて呼ぶだろうね?」

 ルウはそこで一旦話を区切り、自らの相棒の反応を確かめた。
 金色の髪を持つ少年は、その表情に一切の変化を見せることなく、ルウの前で佇んでいた。

「この例が分かりにくければ、こういうのはどうだろう。ここにさる名工の打った剣がある。しかしその名工の打った剣はほとんどが失われて、世界に残っているのはたった二本だけだ。でも、片方は長剣で、片方は短剣、一見すれば同じ種類の剣には到底思えない。それでも、その剣はやっぱり同じ人が打った剣なんだ。この場合、人はその二本の剣をなんて呼ぶ?」
「わかったよ、ルーファ。多分、夫婦とか兄弟とか、そういうふうに呼ぶんだろうな。勿論、その二つが正式に結婚したわけでもなければ、全く同じ材料から作られたわけでもない。似ている、あるいは同じ人間の手によって作られた、それだけの理由で、だ」

 リィは、降参というふうに手をあげた。
 その様子を見て、ルウは少しだけ微笑った。

「無茶苦茶な理屈なのは百も承知だよ。でもね、エディ。この子と君も、同じなんだ。この子は、間違いなく君と同じ生き物だったんだ。この世に、たった二人だけの、ね。だから、そこに血の繋がりがなくても、君たちは兄妹だったんだ」

 その言葉に、部屋に居た人間の全てが絶句した。
 ただ、ルウだけが、沈痛な面持ちで顔を伏せていた。

「エディ。僕は、君に気づくことができた。でも、この子には気づけなかった。それは、僕が君を捜し求めていたというのが一番大きな理由だけど、この子が君ほどに外れた力を持っていなかったからだ、というのもある。そうでなければ、僕じゃなくても、誰かが気付いていたはずなんだ」

 ルウの唇の端から、つうと赤い線が垂れ落ちた。
 ぎしり、と歯を噛み締める音が響く。誰か、この場にいるうちの誰かが、自らを呪い殺すほどの怒りと闘っていた。

「この子に出来たのは、精々重いものを持ち上げたり、馬と同じくらい速く走ったり、人より物覚えが早かったり、それくらいだったはずだ。もしかしたら鉄をねじ曲げるくらいは出来たかも知れないけど、そんなことは機械を使えば誰だって出来ることだ。それでも、普通の人間には十分過ぎるほどに脅威だったんだろう。だから彼女は、両親に捨てられた」

 ルウの視界には、まるで自分が見たことのようにこの少女が味わったであろう人生の一端が映り込んでいた。
 最初は、自分の子供の成長を本心から喜ぶ父親と母親。彼らにとって、他人の子よりも早く目を開けた愛らしい赤ん坊は自分達の誇りであり、正しく天使のように映っただろう。その子が自分達の間に生まれた幸運を噛み締めさえしたかも知れない。
 しかし、その子供が生まれて二週間で言葉を話し、母親に愛していると囁く。
 一月で歩き回り、やがて馬と同じような速度で走り回る。
 自分達の庇護が無くても獲物を捕まえ、知らぬ間に生え揃った乳歯でいとも容易く噛み砕く。
 難解とは呼べないにせよ、本を読み、算数の問題を解いていく。
 そこまで来て、自分の子供は天才だと喜べる脳天気な親がどれだけいるだろう。おそらく大半は、自らの血を分けた子供を恐れ、そしてこれから自分達はこの子供を育てていけるだろうかと悩むはずだ。それが当然の反応である。
 そして、そういう意味で、ウォルフィーナの父母は、一般的な人間だった。極めて常識的で、理知的で、模範的な人間だった。だから、自分達の手に余る事態は、自分達以外の専門家に相談することにしたのだ。
 それが、自分達の愛するわが子の幸福に繋がると、強く信じて。
 彼らは、ウォルフィーナを愛していなかったわけではない。むしろ、彼ら以外の夫婦が我が子に注ぎ込む以上の愛情を持っていた。だからこそ、彼らは自らの子供を手放したのだ。自分達のもとにいるよりも、この子には相応しい場所と相応しい教育があると、疑うことすら知らずに。

「なら、こいつは、ルーファに会うことの出来なかった、おれなのか」

 リィは、少なくとも外面には一切の動揺を見せずにそう言った。
 事ここに至っても、彼の神経のほとんどは、怒りに狂い始めている己の相棒を止めるために注がれている。そのせいで、それ以外の雑事を精神的にシャットアウトしているのだ。
 問題は、それが意図して行ったことなのか、それとも無意識に行ったことなのか、だろうか。
 そんな金色の戦士を前にして、ルウは首を横に振った。

「エディ、そんなことは考えちゃいけない。僕が君に気がつかなかったとしても、アーサーもマーガレットも、君を恐れながらも愛しただろう。君は、ことあるごとに傷つきながらも、それでも真っ直ぐに育っていたはずなんだ。間違っても、彼らは君を手放したりしなかった。それだけは絶対だ。あの二人は、そういうことが出来る人間じゃあない。ただ、この子は、そういう幸福に恵まれなかった。この子の両親は、きっと標準的な人間だった。だから、誰かがこの子は人間じゃあないことに気がついてあげないといけなかったんだ。それなのに…」
 
 誰も気付いてやることが出来なかった。
 いや、それは正確ではない。
 少女が人間ではないことに、確かに気がついた者はいた。問題は、それが少女にとって、幸福をもたらす存在ではなかったという点だ。
 結局少女は研究所の薄暗い一室でその一生を終え、たったの一度もエドナという本名で呼ばれることはなかった。それどころか、苦痛と屈辱と、もう一つ以外の、如何なるものも与えられることも無く、その手は最後まで誰に握りしめられることもなかった。
 無惨な、語弊を恐れずに言うならば、無惨な生であった。
 そして、少女に与えられた、もう一つのもの。
 それは、狼女ウォルフィーナという、呪わしい名前であった。

「きっと、王様の魂が宿る前、この子の髪の毛は輝くような金色で、瞳は宝石みたいな碧色だったはずだ」

 ルウは、一握りの疑いもなくそう言った。
 その生き物は、そういう外見であるべきで、そしてそれは完全な事実であった。
 しかし、無情な声がそれを否定した。

「ラヴィー殿。生憎だが、俺が見た少女の髪は新雪のような白だったぞ」

 ルウの蒼い瞳が、驚愕に開かれる。

「…そんな…うそだ…」
「嘘ではない。そして瞳も、辛うじて色素を残したような弱々しい茶色だったぞ」

 ルウは狼狽というより、ほとんど恐怖に近い表情を浮かべて後退った。
 そして、絶望の吐息と共に天を仰いだ。

「あぁ…」

 天井を向いたそのなめらかな頬を、一粒の水滴が伝った。

「酷すぎる。一体何をどうやったら、あの輝きが抜け落ちてしまうんだろう。想像も付かない。そんなの、絶対に許せない。断じて、許しておいちゃいけない」
「あなたの言うとおりだ、ラヴィー殿。しかし復讐は、誰よりもこの子が望んでいない」
 
 ルウは、濡れた瞳にほとんど殺気に近い敵意を込めて、発言者を射貫いた。
 ウォルは、後退りしそうになる体を、丹田に力を込めることで強引にその場に繋いだ。
 こめかみを伝う冷や汗をそのままに、内心で思った。全く、これならば飢えた獅子の前に素手で放り出されたあのときの方が、幾分生きた心地がした、と。
 実際、ウォルがこれほどの圧迫感を感じたのは、彼女の行為によって怒り狂った王妃を目の前にした、あの時以来であった。
 
「ねぇ、王様。一つ聞いてもいい?」

 魔王の要求を、一体誰が退けることが出来るだろう。

「ああ、存分に」
「あなたは、一体どんな権利があって、この子が復讐なんて望んでいないと、言い切ることができるのかな?」
 
 表情こそにこやかな黒い天使は、その蒼い瞳の奥に、同じように青く輝く炎を滾らせながら、そう問うた。
 その怒りが自分に向けられたものではないと知っていても、しかしウォルはたじろいだ。たじろがざるを得なかった。それほどに純粋な害意だった。
 しかし、だからといってここで自分が引いていいはずがなかった。ここだけは、自分が受け持たなければならない、守護しなければならない要衝である。ここが落ちれば、あとは無惨な敗北が待ち受けているだろうことを、現世における軍神と呼ばれた少女は理解していた。

「おい、ルーファ。お前、自分でどれだけ理不尽なことを言っているか、分かっているのか?」
「僕は、当然のことを言っているだけだ」
「なら、さっきも言ったが、そもそもお前がその子の復讐を肩代わりする権利はどこに求めるつもりだ?もしその子がおれの妹だったとして、それがお前の正当な復讐の根拠になるのか?」
「エディ、僕もさっき言ったはずだよ。これは意趣返し、もしくは単なる八つ当たりだって。それに、君は自分の妹がこんな目に遭わされて、怒りを感じないの?悔しくないの?」

 立ったままの二人の瞳の間に、不可視の火花が飛び散る。
 リィの腕が、そしてルウの腕が、少しずつ持ち上がり始めた。これは、この二匹の獣が、戦いを始める準備のようなものだ。
 いけない。この二人を争わせるわけにはいかない。そう思ったシェラは、思わず飛び出していた。そのまま何をするつもりだったのかは分からないが、とにかく黙って見ていていいはずがなかった。
 しかし、シェラの細い肩を、それよりもさらに細い手の平が押しとどめた。
 シェラが振り返ったそこには、万軍を前にして少しも怯まぬ、王がいた。人の形をした獅子のみがもつ、黒い瞳があった。

「ラヴィー殿」

 交差する二人の視線、その交差点にしなやかな肢体を躍り込ませた、一人の少女。
 自分の前にいるのは、完全武装の重装騎兵一万騎よりも遙かに恐ろしい相手だと言うことは重々承知している。
 それでも少女は、二本の足で確と相対した。

「どいて、王様。ここは君の出る幕じゃあないよ。引っ込んでて」
「そうだぞ、ウォル。今のルーファを相手にするのは、いくらお前でも分が悪い。そんななよついた腕じゃあ尚更だ。怪我をしたくなければ下がっていろ」
「誰を相手に口を利いている、リィ。俺は、バルドウの娘の夫だ。お前はそんなことも忘れてしまうほど、たった一年に満ちぬ時間で耄碌したのか」
「ウォル……」

 少女の小さな背中は、まるでそこに根を生やした大樹のように動かなかった。
 リィはそこに、ただ一人、自分を守るために敵に胸を晒し、己に背を預けた男の影を、確かに見た。
 一つの国と、そこに住む全ての人達の重さを担いで、少しも揺らぐことのなかった背中。まさか、それを再び見ることが出来るとは思わなかった。
 リィは、万感の想いを込めてその肩を一度叩き、それから深々とソファに腰掛けた。
 この喧嘩は預けたぞと、そういう意思表示であった。

「すまん」
「謝るな。骨は拾ってやるさ」
「縁起でもないな。忘れたか、俺は一度お前に勝っているのだぞ」
「そうだな、一週間ものも食わずに、丸一日以上眠りこけて目が覚めたばかりのおれに、ボロ雑巾みたいにされてたな。でも一言断っとくが、素手なら確実におれよりルーファの方が強い。前にも言ったが、あいつは片手で人の首を握りつぶす。忘れるなよ」
「それはぞっとせんな」

 ぞっとした様子もなく、少女は朗らかにそう返した。
 しかし、その程度のことで目の前の脅威が消え失せるはずもなく。
 そこには、不吉な紅色のくちびるを、くいと持ち上げて嗤う、黒い天使がいた。

「お話は終わり?」
「ああ、終わりだ。そして、この不毛な争いもな」

 少女は、無造作に一歩を踏み出した。
 一切の構えを取らず、仲の良い友人を迎えるような、何気ない足取りだ。
 とても、今から決死の戦いをしようという様子には思えず、そしてそんな気配もない。
 ただ、無造作に歩いていた。
 それを見て、ルウは唸った。唸り声を上げて、威嚇した。
 本物の獅子であっても飛んで逃げだすであろうその声に、しかし少女のかたちをした獅子は怯む様子すらない。
 相変わらず、気さくに歩いてくる。
 ルウは、後退った。何故自分が後退らなければいけないのか、それすら分からぬままに後退った。
 やがて、彼は理解した。何故、自分の足が勝手に動いているのか。
 恐怖、していたのだ。
 無論、目の前の、華奢な少女に。花柄の、白いワンピースを着飾った、弱々しい命に。
 自分が、例え中身が何であろうと、このような少女に、いや、そもそも人間にここまで気圧されるなど、考えられることではなかった。
 それでも、彼の足は勝手に、少女の歩みとほぼ同じ速度で後退っていた。
 呼吸が浅く速くなり、汗が自分の意志ではなく流れ落ちる。
 彼は狼狽していた。無論彼とて生き物であるから、生命の危機には緊張も恐怖もする。しかし、このように弱々しい存在に恐怖を覚えるなど、あり得べき事ではなかった。
 やがて、ルウの背中を何かが叩いた。
 部屋の壁であった。

「――こないで」
「何を怯えている、ラヴィー殿。あなたならば、痛みを感じさせる暇もなく俺を屠り去ることが出来るだろうに」

 明らかな恐怖の視線で少女を見ながら、蒼い瞳の青年は怯えていた。
 これが先ほどの悪鬼羅刹が如き気配を放っていた黒の天使とは、同じ人物には思えなかった。反対に、少女はまるで水を得た魚だ。その背中から、狼煙のような気魄が昇り立っている。
 これでは、一体どちらが人間で、どちらがバケモノか分からない。
 リィは、内心で自分の配偶者に対して畏敬の念を捧げていた。
 そして、ルウは、部屋の四隅に、完全に追い詰められた。

「こないで……」
「そういうわけにもいかん。俺と卿は、ただ今喧嘩の真っ最中なのだ」

 少女は微笑みながら、更にもう一歩踏み出した。
 ルウは、その少女が怖かった。何故怖いのか分からない。
 その、どこまでも深い漆黒の瞳も怖かったし、ちっとも感情を読み取れない微笑みも怖かったし、自分を恐れずに前のみを歩くその足も怖かった。
 結局、少女の存在そのものが怖かった。
 だから、彼は当然の行動を取った。

「こないでっ!」

 闇夜に怯えた幼児のように、腕を振り回す。
 それは怒りにまかせた、というよりも恐怖に身を委ねた、発作的な行動だった。
 しかし、その速度と威力は、当然のことながら幼児のそれではない。
 躱し損ねたウォルは、ルウの細腕にはじき飛ばされ、部屋の端から端まで、文字通りに吹き飛ばされた。少女の軽々しい体が宙を舞い、そのまま反対側の壁に叩き付けられた。
 凄い音が、ドレステッド・ホールの百を超える全ての部屋に響き渡った。
 階下で、誰かが慌てて部屋を飛び出し、そのまま階段を駆け上ってくる音が聞こえた。
 部屋のドアが、けたたましく打ち鳴らされ、外から予想通りの声が聞こえた。

『おい、エドワード!今の音は何だ!?』

 聞き馴染みのある生物学上の父親の声に、相変わらず悠々とソファに腰掛けたリィは、悠然とした声で答えた。

「すまない、転んだ」

 あまりに冷ややかな声に、かえって激昂したようすのアーサーがなおも叫ぶ。

『馬鹿を言うな、今のが転んだ音だと!?この部屋には象かシロクマでもいるというのか!?』
「ああ、そういうことで構わない。だから、入ってくるな。もしも入ってきたら、おれは永遠にお前を許さないぞ」

 扉の向こうから、ぐっと言葉を詰まらせた気配が伝わってきた。
 数瞬空隙があって、絞り出すような声が聞こえた。

『……エドワード。僕はお前を信頼していいんだな?』
「おれをエドワードと呼ぶな。それとアーサー、お前は自分の息子を信じることが出来ないのか?」
『僕の息子だっていう自覚があるなら、もっと息子らしくしろ!』

 大爆発したが、それもいつものことである。
 こんなこと、リィにすれば軽いスキンシップよりもさらに軽い挨拶のようなものなのだが、その度にアーサーは期待通りの反応を返してくれるから、つい意地悪く繰り返してしまう。
 しかしこの場合はそれが功を奏したのだろう、いつもと全く変わらない様子のリィに、アーサーは安堵の吐息を漏らしてしまった。

『……あとで、事情は話してもらうぞ、エドワード』
「ああ、必ずだ。約束するよ、アーサー」
『約束だ。それと、僕のことはお父さんと呼べ』

 捨て台詞と呼ぶにはあまりに微笑ましい台詞を残し、アーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタインは階下に姿を消した。

「すまんな、リィ。恩に着る」

 ようやく体を起こしたウォルが、口の端に滲んだ血を拭い取りながら言った。

「ふん。さっさと片を付けろ、ウォル。それとも、交代するか?」
「無用の心配だ。自慢ではないがな、この体はこの程度ではない一撃を喰らってもきちんと生きていたのだ。流石にぴんぴんしているとは言えなかったがな」
「へぇ?」

 リィは軽い驚きの声を上げた。

「なんだ、お前、早速車に轢かれたのか?それとも、まさか本当に象やシロクマと喧嘩でもやらかしたのか?」
「まぁ、そんなところだ」
 
 リィのその予想は、ある意味で的を射ていた。身長221㎝体重160㎏の巨漢は、正しく象かシロクマかという程に大きく見えるのだから。
 そこまで考えてウォルの頬は苦笑のかたちに歪んだが、それ以上何も言わなかった。何も言わず、先ほどと同じようにゆっくりと歩を進め、先ほどと同じ場所――部屋の隅でがたがたと震えるルウのところまで歩いて行く。
 足取りは、流石に重たい。重たいだけでなく、左足をひょこひょこと跳ねさせるように歩いている。おそらく、先ほどのルウの一撃を食らい壁に叩き付けられた時、捻ったか、それとも骨折でもしただろう。
 それでもウォルは、微笑っていた。微笑いながら、そんな痛みなどなんでもないというふうに、歩いていた。
 やがて、先ほどと同じ場所に、少女は立っていた。さっきと違うことがあるとすれば、それは彼女の前のいる青年が、母親の折檻に怯える幼子のように蹲ってしまっているということくらいだろうか。

「ラヴィー殿……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ラヴィー殿!」

 強い口調に、青年はびくりと体を震わした。
 少女は、膝を屈めて、蹲った青年と視線を同じ高さにする。
 涙を滲ませた青い瞳と、朗らかに微笑った黒い瞳が、口づけするような至近にある。二人は、自身の瞳が、互いの瞳に映り込んでいるのを見た。
 そのまま少女は、青年のほっそりとした手を取った。

「断っておくがな、ラヴィー殿。誰よりも復讐を欲しているのは、俺だ。それだけは卿にだって譲ることは出来ん」

 ルウは、怯えた視線で、異世界の王を見上げた。

「しかし、先ほども言ったとおり、誰よりもこの少女こそが復讐を望んでいない。だから、俺は怒りに身を委ねることも出来ん。ならば、怒りに身を焦がすことすら許されぬ俺の無念、卿なら分かってくれよう」

 ウォルは、今にも誰かの血を求めて走り出しそうな拳を、ぎゅっと握り込んだ。
 被害者が望むならば、暴力は正当な報復たり得る。そのために、彼女は如何なる非道も厭わないだろう。
 しかし、誰よりも傷ついたはずの少女が全てを許しているのならば、報復は彼女の名誉と誇りを再び傷つけるだけに終わるだろう。それは、誰しもが望むところではなかった。
 ウォルの肺腑から、深い深い吐息が吐き出された。その中には、怒りと無念の成分が、色濃く含まれていた。

「そんなこと言われても……」
「そうだ。人の心など、誰にもわかりはしない。俺だって、ひょっとしたら勘違いをしているかも知れない。この少女は、今だって贄の血に飢えているかも知れない」

 だから、と少女は言い、青年の手の平を、己の柔い左胸に押し当てた。

「あなたが判断して欲しい」

 青年は、呆気にとられた表情で、目の前の少女の黒い瞳を見つめていた。

「あなたが、この子の体に聞いてくれ。果たして、本当に復讐を求めていないのか。このまま、世界が彼女のことを忘れてしまっていいのか。それとも、彼女の苦痛を知ることもなく安穏と過ごした全ての人間に、彼女の存在が忘れがたいものとなるほどに凄惨な報復を望んでいるのか。俺としては、後者であって欲しい気もするがな」

 ならば、ウォルフィーナの復讐をするための大義名分が揃うというものだ。
 ウォルは、そう言って魅力的な笑みを浮かべた。
 信じられないものを見たような顔のルウは、おずおずと手の平に意識を集中させ、そこから伝わる少女の鼓動に、少女の体温に、少女の身体に残った少女の魂の残滓に問いかけた。
 君は、一体何を望んでいるの、と。
 しばらくの間、ルウはそのまま、少女の胸に手を当てていた。ウォルは、身動ぎもせずにその様子を見守っていた。それは、リィも、そしてシェラも。
 どれほど時間が流れたのだろうか。
 やがて、閉じられたままのルウの瞳から、透明な雫が流れ落ちた。
 そして、ぽつりと呟いた。
  
「僕は…大馬鹿だ」
「……この子は、何を求めていた?」

 ウォルが問いかける。
 ルウは、首を横に振った。

「……何も」
「何も、答えてくれない、か?」

 ルウは、再び首を横に振った。

「この子は、何も求めていない。復讐も、誰かが自分のために傷つくのも、誰かが自分のために怒ることさえも」
「……そうか」

 それは、だいたい予想した通りの答えだったから、ウォルはちっとも驚かなかった。
 しかし、だいぶ無念であった。彼女が誰よりもウォルフィーナの復讐を望んでいるという言葉、少なくともそこには一切の偽りはなかったから。
 そんな少女の両頬に、暖かい何かが添えられた。
 
「ごめんね」

 ルウの大きな瞳から、大粒の涙が流れた。
 ぼろぼろと流れた。
 少女の前でひざまずき、その薔薇色の頬を両手で挟み、正面からその漆黒の瞳を覗き込んで。
 ルウは、泣いていた。

「つらかったね」
「そうだな。いつも、この子は助けを求めていた。だが…」
「……だが?」
「それ以上に、友達が、仲間が欲しかったのだ。この少女には、その程度の、そんな当たり前のものすら与えられなかったのだ」

 ぎしり、と歯が軋む音が聞こえた。
 そしてその声は、恐ろしく低い、地の底から這い出るような声だった。
 それを紡いだウォルの黒い瞳が、明確すぎるほどに明確な怒りに、紅く燃え盛っていた。
 ルウは、まるで自身の罪に怯えるような有様で、深く深く頭を垂れた。

「ごめんね。ほんとうに、ごめん。きづいてあげられなくてごめんなさい」
「ラヴィー殿のせいではない」
「うん、知ってる。でも、ごめん。ゆるしてなんて…いえないよ」

 ルウは、少女の身体を抱きしめた。
 ウォルは、ルウが抱き締めているのが、自分以外の誰かだということを理解していた。

「そうか。ならば――俺が、謝っておこう。いずれ、一度くらいは会うこともあるだろうから」
「……うん。ありがとう、王様。それと、一つ聞いても、いい?」

 ルウは少女の体を離し、そして再び正面からその顔を覗き込むようにして、言った。

「この子の魂は、なんでそんな辺鄙なところにいるんだろう?」

 その言葉には、この世界に戻ってきてくれさえすれば自分がその少女を救ってみせるのにというルウなりの自信と、それと同じ分量の無念があった。
 ウォルは、首を横に振った。ウォルがウォルフィーナと顔を合わせたのはただの一度だけだったし、彼には他人の考えることを読み取る能力も、そんな趣味もなかった。
 結局、こう言うしかなかった。

「わからん。何故彼女があんな場所にいて、あんなことをしているのか。それはちっとも分からん。しかし彼女は、今の自分の有り様に納得していたはずだ。だから、それに対して我らがどうこう論評するのは、彼女に対する侮辱だと、俺は思う」
「……賢い王様。それは、きっと非の打ち所のない、正しい意見だよ。でもね、誰しもがあなた程には強くないことを知っていてね」
「ああ、すまない」

 少女は、素直に頭を下げた。もう、そうするしか仕方がないとか、そういう投げ遣りな気持が少しだけ含まれていた。

「なぁ、ラヴィー殿。折り入ってあなたにお願いがある」
「お願い?」

 ウォルは立ち上がり、埃で汚れてしまったワンピースの裾を叩いてから、目の前で座り込んだ青年に気安く手を差し伸べた。
 ルウは、その小さな手の平を掴み、そして自分も立ち上がった。

「その少女の魂は、今さら復讐なんて望んでいなかった……と、思う。ただ、願っていたよ。だから、それを叶えるために力を貸して欲しい」
「……その子は、何を望んでいたの?」

 涙に濡れた瞳で、青年は問い返した。
 ウォルは、確固たる声で、言った。

「この体に、人並みの幸せを」

 その場にいた誰しもが一様に息を飲み、細く細く吐き出した。まるで、冷たい鉛の塊を吐き出したような、重たくてどんよりとした、息だった。
 誰も、何も話さなかった。話せなかった。
 やがて、許しを乞うようにおそるおそるとした声が、青年の唇の隙間から漏れだした。

「……なんて、重たい言葉だ」
「俺も、そう思う」
「絶対に、どんな手段を使っても、叶えてあげなくちゃいけない」
「俺も、そう思う」

 もう、自分はいない。自分はこの世界の住人たる資格を失った。
 それでも、この体だけは。この体だけは、幸せになって欲しい。
 一体、どのような境地がその言葉を可能にするのか。何が、人の感情をそこまで空虚に、そして優しくできるのか。
 ルウは、何も話さなかった。人以外の生き物である彼は、無限とも呼べる生を歩む自分にはきっとそれを口にする資格が無いと思ったのだ。
 言葉にはせず、ただ、その優美な容姿に如何にも相応しい無垢な微笑みを浮かべ、涙を拭いながら別のことを言った。
 
「それは大変だ。本当に大変だ。おうさま、責任重大だよ?」
「ああ。いつもいつも重たすぎる責任を背負ってきたが、今度のは極めつけだ。俺一人ではどうにもならん。卿らにも協力を請いたい」

 ルウはしゃべらなかった。それは、リィも、シェラも同じく。
 三人の天使が、何もしゃべらずに、ただ微笑みを浮かべていた。その光景には、例え幾億の契約書を連ねても到底届かない、暖かな安心があった。
 おれに任せろ、僕に任せて、私に任せてください、と。
 三対の色の異なる瞳が、それぞれの信念をその光に込めながら、確と頷いた。
 天に輝くものを凝り固めたようなそれを真正面から受け止めて、四色目の黒い瞳が、確と頷いた。口元に鷹揚な微笑を湛えながら。
 三人は、黒髪の少女の内に宿った魂を見つめながら、誰にも顧みられず救いようのない死を賜った不遇の少女の体に、ささやかな幸福が訪れることを確信した。



[6349] 第十四話:夫婦の事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/01 00:47
 一見して戦いとも思えない戦いは、静かに幕を下ろした。
 勝者はいない。この戦いには、敗者しかいなかった。赤く泣きはらした目をした黒髪の青年も、体を傷だらけにした黒髪の少女も、彼らを見守るしかなかった金と銀の天使も、みんなが敗北者だった。
 何故なら、もはや誰も救われないからだ。もう、救われるべき者は、彼らの長い手の、更に外側に零れ落ちてしまった。
 それでも、彼らの顔は、絶望には染まっていない。
 為すべきことがある。そのために何を為すべきか、それは分からない。しかし為すべきことがあるなら、彼らはそれを成し遂げることが出来るのだ。彼ら自身が、誰よりもそのことを確信していた。
 彼らの表情が、一様に明るかったことを、不謹慎だと罵る人間がいるかも知れない。しかし、悲壮感を漂わせて崖へと突っ走る人間より、酒瓶を片手に陽気な毎日を送る人間の方が遙かに目標に近づくことが出来る。それが、彼らの信念に近いものだった。
 ただ、少女の配偶者たる少年は、根っこはともかく枝葉の部分が素直ではないから、口に出してはこう言って彼女をからかうのだ。その聖緑色の瞳をにこやかに歪めながら。

「なぁ、ウォル。まったく、厄介事を進んで拾い歩くのも大概にしとけよ。今度のお前の体は、前みたいに頑丈じゃあないんだからな」
「そうか?」

 少女は、新品の服の調子を見るように、自分の体をまじまじと見つめた。
 所々破けて血の滲んだワンピースはどうにも無惨な様子だったが、それがかえってこの少女には相応しいような気もした。

「これでも結構気に入っているのだがな」
「気に入っているのか?」
「俺が言うのもなんだがな、相当の美少女だぞ、この子は。世の女性には申し訳ない気がするが、やはり自分がなるならば醜女よりは美女の方がいいに決まっている。例えば、以前のお前のような、な」
「…おれだって、自分が女になったと知ったときはもう少し驚いたものだけどなぁ」
「自慢ではないがそれなりに驚いている。お前という前例を知っているぶん、免疫があるだけだ」

 言葉とは裏腹に、憎らしいほどに平然とした様子のウォルは、あの少女に言ったのとほとんど同じ台詞を何の臆面もなく繰り返した。この場にいる誰しもがあの時はいなかったはずだから、別に物臭扱いはされないはずだった。
 まったく、自分と別れた時とちっとも変わっていない、あるいはより重度に進行してしまった夫たる少女の病状を、妻たる少年はほとんど絶望にも似た視線で眺めた。それは、憐憫と尊敬をほとんど等分に含んだ視線だった。

「…変わらないよ、お前は」
「そうか?これでも40年、それなりの進歩はしたと思ってるが」
「いや、全然変わっていない。特に苦労性なところなんかは、むしろ悪化してるくらいだ。いい加減にしておけよ、ウォル。普通の王様はな、王座にふんぞり返りながら何でもかんでも人任せにするものなんだぞ」
「自分でも呆れるくらいに勤勉になったものだと感心している。そもそもの俺は、もっと面倒くさがり屋で怠け者だったはずなのだがなあ」

 ウォルは、憮然とした顔で呟いた。

「おれの知ってるお前は、いつだって働きすぎるくらいの働き者だったぞ」
「それはきっと俺の偽物だ。まったく、そいつのせいで俺がこんなに苦労しなければならん。偽物の分際で本物の俺に迷惑をかけるとは、偽物の風上にも置けん。なぁ、そう思わんかシェラ」

 突然話を振られた王妃の元従者たる少年は、苦笑しながら元国王に言った。

「お言葉ですが、偽物はいつだって本物に迷惑をかけるものでしょう。それに、もしもその王様が偽物なら、デルフィニア国民全員が騙されていることになりますね。無論、私やリィも含めたところで」

 黒髪の少女は厳かに頷いた。

「全くもってけしからん」
「でも、それはそれは幸福な嘘でしたよ。きっと、真実を知らされても誰も怒らないでしょうね。それほどに、その偽物の国王様は愛されていましたから」
「愛されていたか」
「それはもう」
「ならば、もう少しだけ偽物のつもりで頑張らねばならないか」

 中年の悲哀を含んだような溜息が、可憐な少女の唇から漏れ出した。

「まったく、これも偏に王などという因果な商売に身を窶した報いだ。やはり、こんなことになるのなら早々に従弟殿に押し付けておくのだったな」

 しかめっ面をしたウォルを見ながら、リィは腹を抱えて笑っていた。
 懐かしい、喉元を擽りあうような会話だ。シェラは、ここが王宮の外れの、深い森に守られたあの離宮であるような気がした。彼手製の焼き菓子と料理と、そして紅茶の香り、あとはさんざめくようなみんなの笑い声が入り混じった、この上なく優しい空気。
 それは、幸せの結晶を鋳融かしたような、あるいは夢のような光景だった。
 その思いは、この場にいる全ての人間が共有していた。それほどに、そこは幸福を体現した場所だった。

「懐かしいな」

 いつの間にか笑いを収めていたリィが、ソファの上に行儀悪く寝そべりながら、夢を見るようにそう言った。

「みんな、元気にしてるか?」
「それを語り始めたら、一晩や二晩では到底足りんぞ」
「それに、酒もいるな」
「ああ、酒もいる」

 無論、この世界では、ルウを除く全員がまだ酒を嗜むことを許された年齢に達していない。
 ここベルトランでは長年の慣習から子供が軽い果実酒を嗜むくらいは見逃されているが、リィが好むようなきつめの蒸留酒は間違いなく違法である。
 しかし、誰にも迷惑をかけないかたちでちょっとした違法行為をすることくらい、神様は見逃してくれるはずだった。特に、こんなに優しい心根を持つ少年少女には。
 
「いい場所があるんだ」
「ほう」
「少しだけ、スーシャに似ているかも知れない」
「ほんとうか!?」

 大切な話をするには、それに相応しい場所と相応しい酒が必要なはずだった。ウォルとリィはそう確信していたから、そこがウォルの故郷に似た場所であるというならば、それ以上の舞台はないはずだった。
 黒髪の少女は、たいへん喜んだ。
 目にするもの耳にするもの、それらの全てが新鮮な喜びに満ちた世界であるが、しかし懐かしいものが何一つないということに些かガッカリしていたウォルである。
 整備された湖も人の手の入った森も美しいが、何か、彼女の魂を奮わすには決定的に重要な要素の一つが欠けているような気がしてならないのだ。
 少女は、うっとりしたように目を閉じた。きっとその瞼の内側には、小川のせせらぎや小鳥のさえずりも含んだところで、故郷の深い森が映し出されているに違いなかった。

「懐かしい…。スーシャ、ああ、なんと清冽な響きだろう」
「ああ。一度だけ、一緒に行ったな。本当に、綺麗なところだった」

 リィも、心から同意した。
 そして、思い出したのだ。別れの前日、そこへ夫たる男性を誘って、自分が何を言ったのか。
 少年は、心底嫌そうに眉を顰めた。その表情から何を考えているのかを悟った少女は、微笑いながら問いかけた。

「後悔しているのか、俺を誘ったことを」
「いや、お前を誘ったことは後悔しちゃあいないさ。後悔するくらいなら誘わない。おれは真剣に、お前になら抱かれてもいいと思ったんだ。それがどういう理由かは別にしてな」

 シェラとルウの耳が、同時にぴくりと動いた。
 無理もない。
 リィがウォルを誘ったことがあるなど完膚無きまでに初耳だったし、そもそも他人の恋愛話というのは人の心を鷲掴みにして離そうとしないものなのだ。
 しかも、男に誘われれば、凍るように冷たい表情と超弩級のげんこつをもって返答をくれてやるはずのリィが、例え相手が夫とはいえ自分から男性を誘うなど、どういう経緯でそんな事態に至ったのか到底想像が付かない。
 驚天動地以上の天変地異と言っても過言ではない。一体どんな表情と台詞でもって、一度足りとて閨を共にしたことのない夫にモーションをかけたというのか。
 ルウが、期待に目を輝かせながら尋ねた。

「あの、エディ、もしかして王様と…?」
「勘違いするなよ、ルーファ。未遂だ、未遂。あんなの、思い出したくもない」
「なぁんだ、やっぱりかぁ…」

 青年はがっくりと項垂れた。
 シェラは、何故だか胸を撫で下ろした。それがどういう感情の表れなのかは彼自身よく分からなかった。
 
「おれは乗り気だったんだぞ、珍しく。なのに、こいつが土壇場で怖じ気付きやがってさぁ」
「怖じ気付きもするだろうが。全く、あのときは悪夢としか思えなかったのだぞ」
「言うに事欠いて悪夢だと?お前、自分の奥さんを何だと思ってるんだ」
「見た目通りだ。とても女には思えなかった」

 少女と少年は、かつて自分達の性別が逆転していたときの思い出話をしながら、昔のように軽口をたたき合った。互いを睨みつける鋭い視線と、その直ぐ下でにこやかに微笑った口元だって、全くあのときのままだった。

「それに後悔していないと言うがな、リィ。ではその苦り切った顔は何だ?お世辞にもアレを良い想い出として昇華させてくれたとは思えんが」
「当たり前だ。あんなにみっともない台詞でお前を誘うなんて、一生の不覚だ」
「『これで最後なんだから、いっぺんくらいは夫婦らしいことをしておこう』、『やっぱり、おれが押し倒さなきゃ、だめか…』だったか?俺は悪くない誘い文句だったと思うが…」

 悪いも何も、女から男を誘うのにこれほど色気のない誘い文句もあるものか。
 同じことを考えて、シェラは頭を抱えるように唸り、ルウは深く深く納得しながら頷いた。
 もう、なんというか、その光景が目に浮かぶようですらある。
 毅然と腰に手を当てながら、重たい溜息を吐き出した真剣な面持ちの王妃が、あまりに突拍子もない事態に腰を抜かしかけ、かつてないほどに狼狽える王を睨みつける。ひょっとしたら、俺にはやり方が分からないからお前が頑張ってみせろ、くらいの台詞も口にしたかもしれない。
 ルウは、心底ウォルを羨んだ。そしてシェラは、心底ウォルに同情した。
 きっと台詞だけでなく、その表情にも色香の欠片も見当たらなかったのだろう。
 まったく、この人に『女性らしさ』を、キッチンの端に転がった野菜屑の一片程度にでも期待するのは、宝くじの大当たりをライフプランに組み込むくらいに愚かなことだと知っていたはずなのに。
 二人はほとんど同じことを考えながら、しかしその反応は正反対に異なる。そして、内心で同時に呟いた。

 あぁ、それは如何にもリィ(エディ)らしい、と。

 そんな、二者二様の二人を脇目に、リィは目の前に座った少女に対して、珍しく大声を上げた。
 
「ウォル、お前な、夫婦の秘密を人前で話すやつがあるか!?」
「あそこまで自分で話しておいて、今更だろうが。それに、この二人の前で我らを偽ったところで始まるまい。第一だな、なんともお前らしい台詞だったではないか。ああいうタイミングで言われたのでなければ、きっと俺も誘惑に負けていたぞ」
「…そうか?」
「ああ、間違いない」
「ふん、どうだか」

 疑わしげな視線を寄越しながら、しかしまんざらでもない様子のリィである。
 そんな彼を見つめるウォルの視線にも、冗談の影だって存在しない。
 シェラは、降参しましたというふうに首を振った。もう、そうする以外どうしようもなかった。
 結局、似合いの夫婦の、誰しもに溜息を吐かせるしかない、なんとも奇妙な惚気話というところであった。
 そんな、明らかに明後日の方向に脱線しかけた話を、リィは気を取り直した調子で軌道修正させた。

「ま、その星に行くにしたって、今すぐにってわけにはいかないんだ。おれ達にはおれ達の生活がある」
「うむ、当然だな」
「一度おれ達は、この星を離れなくちゃいけない。この星から遠く離れたところで、おれ達は暮らしているんだ」
「ああ、それはヴォルフ殿に聞いた。随分忙しい学舎らしいな」
「そのとおりだ。まったく、今から帰ったって三日後の授業、午前中は欠席だ。頭が痛いよ」

 シェラは、こんな時くらいはずる休みや無断外泊も許されるのではないかと思った。
 しかし、リィという少年は、その冷淡とも受け取られかねない言動に比べて、その行動は誠実そのものである。シェラに付き合って始めた学生生活に、ことのほか積極的に取り組み、己の責務を全うしようとしている一事をとってもそれが分かる。
 無論、誰よりもリィ自身がウォルの話を聞きたがっているのは明らかなのだ。
 ウォルの世界にはシェラにとっても懐かしい人達がたくさんいるが、しかしその絆はリィが彼らと結んだものに比べれば幾分細いものであることを、シェラは知っていた。
 だから、間違えても彼が『今からあの星に行きましょう』などとは言うわけにはいかなかった。
 そうすれば、絶対にこの人は怒るに決まっている。そんなことを言っている暇があるならばお前は例のパッチワークをさっさと完成させろ、と。
 それは、ルウも同じだったのだろう。どうにも渋いような歯痒いような、微妙な雰囲気でそわそわとしている。
 それにもかかわらず、やがてルウはおずおずと口を開いた。
 何というか、普段の状態ではシェラほどに忍耐心のない彼のこと、心に住まう天使と悪魔の決闘は、審判との癒着が決まり手で悪魔のほうに軍配が上がったのだろう。

「ねぇえ、エディ。あのさぁ…」
「駄目」

 綺麗に突っぱねた。

「で、でもさ!たった一日、二日くらいなら…」
「却下」

 もう、問答無用だった。
 ルウは、大爆発した。

「えーっ!ぼく、聞きたい!狸寝入りの虎さんとか、戦うお花さんとか、蜂蜜色のお兄さんとか、みんな何やってるのか、聞きたい!」
「俺とシェラは用事があるんだ。それに比べれば、大学生のお前は時間に融通が利くだろう。なら、ここに残って聞けばいいじゃないか」
「駄目だよ!王様がそのことを一番最初に話すのは、エディ、絶対に君じゃなくちゃいけないんだ。僕は、そのご相伴にあずからせてもらう権利が、あるかないかってところ。だから、君がいなくちゃ意味がない」
「なら、大人しく来週まで待つんだな。きちんと休暇申請のほうは出しておくからさ」
「ううー、エディのおに!あくま!ひとでなしー!」

 ルウは、その形の良い頭の中に詰まったありとあらゆる語彙能力をフル活用して、自らの相棒を罵り続けた。
 曰く、でべそ。
 曰く、けちんぼ。
 曰く、あんぽんたん。
 その他おたんこなす、ひょうろくだま、どてかぼちゃetcetc…。
 子供の口喧嘩でももう少し心を抉るような悪口があってもいいものだとシェラなどは思ったが、ここらへんがこの綺麗な天使の限界点なのかも知れなかった。
 それにしても、つい先ほどの悪魔が如き剣呑な気配はどこへやら、盛大に泣き喚きながら四肢をばたつかせる有様は、どこからどう見ても癇癪を起こした子供である。
 すらりとした長身と際立った美貌を除けば、デパートの玩具売り場で泣きながら床を転げ回る子供と変わるところが無い。
 無様であるには違いないが、ここまで徹底するといっそ見事な…とはいえないにしても、しかしある種の爽快感すらあるようだ。こちらに来てからルウとはそれなりの付き合いをしてきたシェラですら驚くような、ルウの醜態であった。
 大の男がそこまで泣き喚くところを見たことがないウォルは、長い睫に飾られた目をまん丸にしながら、自らの妻に小声で尋ねた。

「…おい、リィ。この御仁は、こういう人だったのか?」
「ああ、いつものことだ。あと三十分も泣き喚けば疲れて寝るさ」

 それこそ、完全に子供である。

「…俺は、もう少しこう、超然とした人だと思っていたのだがなぁ」
「こいつはこういうやつだよ、昔から。良くも悪くもな。悟りきって知った風な口ばかり叩き続けるルーファなんて、考えたくもない」

 流石に悪口のストックも尽きたのか、クッションを顔に当てながらスンスンと悲しげに鼻をならす黒髪の天使。それを見ていた彼の相棒たる金色の天使は、流石に良心とか同情心とかそういうものが咎めたのだろう、大きく溜息を吐き出すと、優しげな声で言った。

「なぁ、シェラ。お前とマーガレットが真心込めて焼き上げた菓子って、どこにあるんだっけ?」
「えっ?え、ええ、それは台所のテーブルの上に…」

 蹲ったままのルウの肩が、ぴくりと動いた。眠っているネコが、音を耳だけで追っているような、微笑ましい様子だった。
 シェラ手製のお菓子に対して、明らかに隠しきれない興味を浮かべた、黒の天使。そんな彼を唖然としながら見ていたシェラに、リィは片目を瞑ってウインクをした。
 シェラは、苦笑した。

「ストロベリーパイもあるか?」
「はい。リィたっての希望でしたから、真っ先に作り上げました」
「それって、甘い?」
「あなたなら、一口で虫歯になるくらいには」

 蹲ったままのルウの耳が、ぴこぴこと動いた。
 そして、ぐう、と、誰かのお腹が鳴った。
 現金なものである。

「おれにはよく分からないんだが、甘い菓子だって焼きたての方が旨いよな?」
「ええ、そうですね。昼過ぎに焼き上げて布にくるんでおきましたから、今ならまだほの暖かいかも知れませんね」
「そんな美味しい菓子が、誰にも食べられずに冷めていくなんて、勿体ない話だよなぁ」
「ええ、ええ、リィ。まったくもって、あなたの仰る通りです。私としても、悲しい限りですよ」

 笑いの発作を必死で堪えながら、努めて真面目な調子でシェラは言った。
 折角の力作なのだから、一番食べ頃のときに食べてもらいたい。それは偽らざる本心であったが、しかしこの程度のことに吊られるのではいくらなんでも可愛らしすぎるのではないかと、そういう思いもあった。
 そんな思いに応えるように、黒い天使は、ゆっくりと顔を起こして、言った。

「…ずるいよ、エディ。そんな美味しそうなもので僕を誘惑するなんて、卑怯だ」
「悪いのはお前だ」

 リィはにべもなくそう言った。
 そして、クッションから解放されて涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった恨めしげな相棒の顔を、ハンカチで優しく拭ってやり、続けた。

「来週だ。来週には、必ず聞くんだ。それこそ、この冬眠明けの熊が嫌がったって、首根っこ引っ掴んで連れて行く。だから、来週までの辛抱なんだ」

 どこまでも優しく、どこまでも忍耐強い、声だった。
 まるで、自分自身に言い聞かせているようですらあった。

「冬眠明けの熊は酷いな」

 熊呼ばわりされた、もう、ちっとも熊なんかには見えない可憐な少女が、腰に手をあて憤然としながら言った。

「ほら、ご覧の通り、今は絶世の美少女なのだ。これを機に、もっと俺に相応しい典雅な渾名を考えてくれたっていいではないか」

 自分の夫たる少女を冬眠明けの熊呼ばわりした妻は、胡散臭そうに言った。

「じゃあ、冬眠明けの小熊だ。それとも性悪の大家にとんでもなく厄介な物件を掴まされた、頭の悪い間借り人だ。どちらにしたって上等なもんじゃあない」
「そこまで言うか、普通!?」
「ふん、お前のお人好しの過ぎるところには、いつだってはらはらさせられてたんだ。これくらい言ったってバチの一つも当たりはしないだろうさ」
「俺のことをお人好しと言うがな、リィ、そう言うお前はどうなのだ。確かに俺も相当なものだと自覚しているが、それでもお前には一歩及ばんと思うぞ」
「そんなことはない」
「いーや、そうに違いない。だからこそ、俺はこんなところまでやってきたのだ。恩を売るだけ売っておいて、一つも買っていかないとは何事だ。大国同士なら貿易問題に発展しているところだぞ」
「大国同士って、どんな例えだよそれ。贔屓目に聞いてもただのいちゃもんだぞ。それに、恩の一つも買っていかなかったっていうけどな、おれは十分に世話になったつもりだ。飯と暖かい寝床を用意してもらったじゃないか。別にそんなもんが欲しくてあんなことしたわけじゃあないけど、それで十分だ」
「何を言うか。そんなものでお前の恩に報いることが適うと思うほど、俺だって耄碌してはいない。俺はな、リィ。お前さえよければ、そして回りの皆が納得するなら、お前に王座を譲り渡してもいいと思っていたのだぞ」
「…それって、ただ厄介事を押し付けようとしただけじゃあないのか?」
「その通りだ!悪いか!?」
「悪いかってお前…悪くないと思ってるのか…って、思ってるんだろうなぁ…」

 無茶苦茶な理屈で王座の禅譲を企てていたらしい元国王は、元王妃の前で堂々と胸を張ってみせた。それに応えるのは、心底呆れたようなリィの呟きである。
 そんな、明らかに高貴な身の上とは思えない二人の遣り取りを聞いて、シェラとルウは、今までの我慢の甲斐も無く盛大に吹き出してしまった。
 そして、一度決壊した堰は誰にも修復されることなく、笑い声を流し続ける。もう、誰にも止められない。
 最初は厳めしい顔で二人を睨みつけていたリィとウォルも、やがて大きな声で笑い始めた。もう、笑うしかなかった。それだけ幸せだったのだから。
 階下で気を揉むヴァレンタイン一家が一体何事かと訝しむくらいに、それはそれは大きな笑い声だった。



[6349] 第十五話:その他の事情
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/08 01:08
「では、俺はしばらくここに泊まらせてもらえるのか?」
「ああ。お前がおれの友達だって言えば、嫌だって言ったってアーサーはお前を泊めようとすると思うぞ」
「それはなんとも…」

 苦笑するしかない、といった様子のウォルである。
 しかし、有難いことだ。彼の世界、この時代に比べれば幾分人情やら親切やらが幅を効かせていたあちらの世界ですら、知らぬ人間を家に泊めるのは想像以上の危険を伴ったものだ。
 やはりこの息子にしてその親ありか、と、心の片隅で、リィが聞けば眉を顰めるに違いないことをウォルは思った。思っただけで、賢明にも口にはしなかった。

「アーサーとマーガレットは、俺にとって遺伝上の父方と母方にあたる人物だ。どちらも『普通の』人間だからな、その前提で話を合わせてくれ」
「うむ、心得た」
「…あの、リィ。ちょっとよろしいでしょうか…?」

 おずおずと、シェラが手をあげた。

「どうした、シェラ?」
「その、陛下の御身元は、二人にどう説明しましょうか?私と同じ理由は、二度使えないかと思うのですが…」

 シェラが、申し訳無さそうにそう言った。
 リィが、明らかにしまったという顔をした。
 確かに、ウォルがロストプラネット出身だという方便は、この際諦めなければなるまい。如何に一風変わっている息子とはいえ、こんな短期間にそんな貴重な人間を二度も三度も連れてきたとなれば、どれほど息子に寛容なアーサーといえども怪しまない方がおかしい。
 いや、冷静に考えるならば、今の時点で相当に訝しんでいるはずなのだ。なのに一言もそれを口にしないのは、彼がどれほどにリィを溺愛しているのか、そして同じくらいに信頼しているのか、その証左と言っていいだろう。

「そういえばそうだ。どうしよう」

 リィは、目の前に座る自分の夫の後見をまたしてもアーサーに頼むつもりだったから、流石に頭を抱えてしまった。
 彼は用意周到で頭のよい少年だったが、二度と顔を合わせることもないはずの人間と顔を合わせ、その突拍子もない話を聞き続けていたために、現実に差し迫る問題に対して処理能力が追いついていなかったのだ。
 しかし、考えてみれば確かに難題であった。この、どこからどうみても一般人には見えない、美貌の少女、そして元国王、しかも自分の夫を、どうやって彼らに紹介したものか。
 うーんと、獣のような唸り声をあげる妻に対して、ウォルはのんびりとした声で質問した。

「なぁ、リィ。その、後見というものが無いと、何か不都合があるのか?」
「不都合があるなんてもんじゃない。下手したらお前はどこぞの施設に入れられて、一生飼い殺しってこともありうる」
「それはぞっとせんな」

 あまりぞっとした様子もなく、かつての王様は腕を組んで唸った。
 悠然とした様子ですらあった。
 しかし、この件に関して言うならば、いくら大国の重要事案を右に左に捌いてきた彼女の明晰な頭脳と決断力をもってしても、芳しい解答は導き出すことが出来ないだろう。
 まず、世界が違う。常識が違う。
 それに、知識が少なすぎる。
 ウォルはこの少女の身体に憑依して、この少女の記憶を自分のものとして扱えることには気付いている。
 しかし、ウォルが頼りにしている彼女の記憶には、所謂一般常識といったものが、同年代の少年少女に比べて極端に欠落している。生まれてからほとんどの期間を冷たい牢獄に繋がれて過ごしたのだから無理もない。
 例えば、学習能力を調べるためのテストはあっても、テレビや噂話などの娯楽情報に触れたことは全く無かった。
 大雑把な言語や文字の読み書きくらいは出来ても、それ以上の事物に関しては生まれたばかりの赤子に等しいところもある。
 そしてその少ない知識の中には、後見やら未成年やらの取り扱い、つまり法律的な知識は完全に含まれていなかった。
 研究員たちは、彼女にそんなことを教えようとはしなかった。一生、基本的な人権を無視した、実験という名の虐待を受け続けていくことが決まっている少女に、そんなものを教えても無駄ということだったのかも知れない。

「いいんじゃないの、あまり無理に考えなくても」

 部屋に重たい沈黙が流れかけたとき、ルウが惚けた調子でそう言った。

「いや、ルウ。無理に考えなくても、と言いましても、やはりヴァレンタイン卿の後見は必要だと思います。それは誰よりも私が理解しているつもりですから…」
「シェラ、別に王様をそのままにしておこうなんて誰も言ってないよ。別に難しい嘘を考えなくてもいいんじゃないかってこと」
「ルーファ、どういうことだ?」
「例えば、彼女は政府の非人道的な人体実験の被験者で、あの研究所を壊したときにエディが助け出した、可哀想な被害者の一人。一度親元に帰されたが、この度両親が事故で亡くなり天涯孤独の身となってしまったので、以前助けてもらったエディを頼ってここまで来た。こんな感じでどう?ほとんどが事実だし、優しいアーサーならきっと一も二もなく信じてくれると思うけど」

 ルウは、この上なく機嫌のいい微笑みを浮かべながら、そんなことを言った。
 何も知らない人が見れば、正しく天使の微笑みにしか見えない、そういう微笑だった。
 リィは、悪寒を堪えるようにこめかみの辺りを押さえながら、こう返した。

「…どの顔で『難しい嘘なんて考えなくていい』とか言い切れるんだお前は…」

 リィの意見に、シェラも首肯した。

「…私は、久しぶりにルウのことが怖いと思いました」
「おれもだ。こんなことを言うと偽善と罵られるが、しかしアーサーが気の毒になってきたよ」
「きっと、こんな感じでいつも言いくるめられているんでしょうね…」

 金と銀の天使は、黒の天使の良いように操縦される堅物のアーサーが、憐れなロボットか何かのように思えてならなかったのだ。
 
「あ、シェラ、その言い方はないよ。だってぼく、アーサーのこともマーガレットのことも大好きなんだよ」
「ええ、知っています。知っていますが…。いっそあなたがヴァレンタイン卿のことを嫌っていたほうが、彼にとっては救われたような…いえ、これは失言でした」

 これは確かに失言だったので、シェラは即座に謝罪した。
 そして、取り繕うように言った。

「し、しかし、そういう設定ならば、卿は陛下のことをお見捨てになることはないでしょう」
「うーん、確かになぁ」
「…それだ」

 突然、低い声(それでも、元々の声に比べれば信じがたいほどに高音域の声なのだが)で唸った元国王に、三対の視線が集中した。
 その先には、どうにも不機嫌というか不可解というか、微妙な表情で考え込んでいる黒髪の少女がいた。
 彼女が彼だったころから長い付き合いのあるリィなどは、それが不本意とはいえないまでも何か承伏しがたいことを覚えているが故の唸り声であることに気がつき、先ほどの会話の中に何かこの少女の機嫌を損ねる要素があったのだろうかと考えながら尋ねた。

「ウォル、そんなにルウの案が気に入ったのか?それとも、何か気に入らないことでも…?」
「うむ?いや、俺はヴァレンタイン卿のお人柄について全く把握していないからな、そちらについては卿らに任せる」
「…じゃあ『それだ』って、一体何だったの?」
「俺の呼び方だ」
「…はぁ?」

 三人は、お互いの顔を見合わせて、首を横に捻った。
 一体、何の事だ?

「あの、陛下…?」
「ほれ見ろ。なぁ、リィ。今の俺を相手に、この呼び方はないとは思わんか?」
「ああ、そういうこと」

 リィは、ぽんと手を打った。
 シェラには、何故だか嫌な予感がした。

「俺は確かに、あちらの世界ではデルフィニア国王という肩書きを持っていた。全く、何の因果か分からんのだが…」
「ウォル。それはもういいって。この場にいるみんながお前の気持はよく分かってる」
「うむ。ならば、俺はもう、こんな重たい荷物は脱ぎ捨てて、一刻も早く身軽になりたいのだ」

 ウォルが国王とならなければならなかった経緯を知り尽くしているリィは深く頷いた。間接的とはいえそれを聞かされている残りの二人も、軽く頷いた。

「であれば、その呼び方はいくら何でも酷い。例えるならば、素潜りをしている人間がようやく呼吸をしようと顔を上げた瞬間に、足を掴んで水中に引きずり込もうとしているようなものだ」
「あの、陛下…。申し訳ありませんが、もう少し分かりやすいように仰って頂けませんか?」
「ほら、また言った。いいか、要するにだな、シェラ。お前が礼儀正しい少年だというのは重々承知しておるが、その『陛下』という呼び方は止められんのかと、そういうことだ」

 シェラは、そのすみれ色の瞳をまん丸にして、唖然としてしまった。
 この人は、一体何を言っているんだろう―――?

「いえ、しかし…。やはり、陛下は陛下でしょう?」
「いや、そもそも俺は既に陛下などとたいそうな呼び名を受ける資格はないのだ。こちらの世界ではいざ知らず、あちらの世界でも既に楽隠居し、王位は息子に譲ってある」
「で、では何とお呼び申し上げたら…?」

 ウォルは、飛びっ切り人の悪い微笑みを浮かべた。
 それは、幼き日にスーシャの山猿と言われた彼女に、そしてフェルナン伯爵の一粒種である腕白小僧であった彼女に相応しい、野趣溢れる笑みであった。

「リィ。本来ならばお前は王妃殿下と呼ばれるべき身分のはずだが、シェラには何と呼ばせていた?」
「俺は、ずっとリィと呼ばせていた。王妃殿下?冗談じゃない。今さらこいつにそんな呼ばれ方したら、全身の鳥肌が粟立ち始まるぞ」

 想像してしまったのだろうか、嫌な顔でウォルを睨みつけるリィである。
 ウォルは、我が意を得たりというふうに頷いた。
 頷き、そして言った。

「ウォリー」
「…はっ?」
「シェラ。お前はこれから俺のことを、ウォリーと呼べ」
「はぁっ!?」

 これまたシェラには珍しく、素っ頓狂な叫び声を上げた。
 この人を―――仮にもデルフィニアの英雄と呼ばれ、恐れ多いことにリィの旦那でもあるこの人を、何と呼べと?

「陛下!そのようにご無体な…!」
「何がご無体なものか。いいか、シェラ。名前というものは個人を識別する記号にすぎんが、しかし呼ばれる方が嫌がるような名前で呼んではいかん」
「同感だ」
「王様の言うとおりだね」

 リィとルウが大きく頷いた。
 この二人は、この二人の間でしか許されない名前でお互いを呼び合い、それ以外の人間がその名で己を指し示すことを極端に嫌う。だからこそ、ウォルの提案には感じ入るところがあったのだろう。

「いえ、それはそうかも知れませんが、しかし…」
「そもそも、人がその呼び名を聞いたらどう思う?王のいない世界で、お前のような美少年に自らを陛下と呼ばせる女の子など、ただの道化かそれとも狂人だぞ」
「人前では呼びません!それはリィの時から徹底していますから大丈夫です!」
「では、人前では何と呼ぶのだ?」

 あらためてそう言われると、確かにこの人を何と呼んだものか。
 シェラはほとんど泣きそうになった。

 陛下?駄目だ。この人自身、それがどういう影響を周囲に与えるのか、しっかりと理解している。
 では、ウォル?そんな、恐れ多いにも程がある。しかも、この呼び方をしていたのは、あちらの世界でもほとんどリィだけだった。ならば、私などが軽々しく口にしてよいものだろうか。
 デルフィン卿?いや、卿は貴族階級の人間に対する敬称である。その貴族を統べる身分にあったこの人をそう呼ぶのは、逆に礼を失するのではないか?
 しかし、しかしウォリーとは…。そんな、まるで無二の友人のような呼び方をこの人にして、バルドウから天罰が下らないものだろうか…?

 シェラは、思いっきり難しい顔をして黙り込んでしまった。時折その顔色が赤くなったり青くなったりするものだから、内心でどのような葛藤があるのか、推して知るべしである。
 ウォルとルウは興味深そうにシェラの顔が虹色に染まる有様を眺めていたのだが、リィは流石に気の毒になったのか、かつての従者に助け船を出してやった。

「シェラ。あのさ、そんなに難しく考えることないんじゃないか?別にお前が呼び方を変えたくらいで、こいつが王様になったり平民になったりするわけじゃないんだ」
「…ええ、それはもちろん分かっています、リィ。しかし、これは何というか、その…」
「ああ、分かるよ。この例えは受け売りなんだけどさ、フットボールの試合で突然手を使って良いって言われてその試合を見たときの違和感っていうか…あるべきものがあるべきかたちにない気持ち悪さっていうか…」
「そう、それなんです!」

 シェラはがばりと体を起こした。

「この方が王でなくなったのは承知していますし、ご自身が陛下と呼ばれたくないのもわかるのです。しかし、私の中の常識がそれに合致してくれない、どうしても現実に追いつかないのです」
「ふむ、難儀なものだな。しかし…王とはそんなに大したものだったのか…?」
「そう思ってないのは、多分王様だけなんだろうねぇ」

 首を捻るウォルを、ルウが優しく窘めた。

「君はそれだけ偉大な王だったんだよ」
「そうか?いや、それなりに上手く演じ切った方だとは思うが、ここまでとはなぁ…」

 ウォルは、据わりが悪いように首の辺りをぽりぽりと掻いた。
 ルウは、からからと笑いながら、明らかに照れている美少女を眺めた。眼福だと、そう思っているに違いなかった。

「おい、ウォル。シェラをいじめるのもこれくらいにしておいてやったらどうなんだ?」
「いじめるとは人聞きが悪いぞリィ。俺はただ…」

 ウォルは、シェラの方に目をやった。
 シェラは、そのすみれ色の綺麗な瞳に、薄い涙を纏わせて、じっと俯いてしまっていた。弱々しく震える肩の線の細さといいぎゅっと握られた拳の小ささといい、どこからどう見ても極上の美少女である。
 男ならば如何様な手段を用いても保護したくなるような、そういうたまらない有様だ。これでは、いじめていると評されても致し方ないところだろう。
 そんな、まるきりいじめられた少女そのままのシェラに、溜息混じりの声をかけたのはこの場において唯一本物の少女である元国王だ。
 
「なぁ、シェラよ。俺はな、別にお前にそのような顔をさせたくて、この話をしているわけではないのだ」

 ウォルは、優しい声でシェラに語りかけた。
 そうすると、口調の堅さを除けば、慈愛に満ちた少女以外どのように見ることもできない、完全無欠の美少女ウォルがそこにいる。
 そしてその少女は言った。
 
「その呼び名はな、シェラ、俺の幼き日の渾名だ。あちらの世界では、その呼び方で俺を呼んでくれる幼なじみが、少なくとも一人はいた。それにスーシャには、『あの山猿ウォリーが立派になったもんだ』と密かに喜んでくれた人達もいたはずだ。しかし、この世界には、誰一人としてこの名を呼んでくれる人間はおろか、知っている人間すらいない」

 それどころか、そもそも純粋な意味で言えば『こちらの世界』の人間でウォルのことを知っている人間など一人もいない。
 リィもルウも、『こちらの世界』の住人が『あちらの世界』に関わる過程としてウォルと知り合ったに過ぎないからである。
 シェラには、それが望むべくして作られた絆かどうかはおいておいて、同じ呪われた一族の名を姓として有する二人がいる。彼らは粉う事なき『あちらの世界』の住人であるから、シェラは、リィやルウを勘定にいれなくても孤独とは言えまい。
 しかし、ウォルにとっての彼らは、例え同郷であったとしても完全な他人だ。
 つまり、ウォルにとって、想い出を共有する同郷の友人は、シェラしかいないということになる。

「俺にとっては想い出の有り過ぎる名前だ。このまま、誰の記憶にも残らないままで朽ちさせていくのは余りに惜しい。だからな、シェラよ。俺は、同郷であるお前に、俺の幼き日を預けたいのだ。それは、過ぎたる望みなのだろうか」
「…申し訳ありません。そのお言葉はどこまでも有難いものだと思います。思いますが、しかし…」
「…ふぅ。わかった、シェラ。これは今度会うときまでの宿題にしておこう」

 ここらが引き頃かと、ウォルは諦めた。
 シェラの顔が、ぱぁと明るくなった。まるで、雲間から降り立った陽光の柱が、銀色の髪をした天使の上に舞い降りたようですらあった。
 そんなシェラの様子を微笑ましげに眺めつつ、自分の名前一つのことで他人の顔色をここまで変えさせるとはどうやら国王とは相当に大したものだったらしいと、少女は内心で肩を竦めた。

「ありがとうございます、陛下!」
「しかしシェラ、あくまで宿題は宿題だ。いいか、次会ったときに俺を陛下と呼んだなら…」
「呼んだなら…?」

 シェラの喉が、ごくりと鳴った。

「今後お前のことを、ファロット伯と呼ぶことにする」
「なっ!?」
「何も間違えてはいまい?」

 満面に笑みを浮かべたウォルと、唖然として口を閉じることも忘れたシェラを等分に眺めて、リィとルウは同時に、これは勝負ありだなと思った。
 少なくともこの一件に関して言えば、ウォルとシェラでは役者が違う。
 そも、この、見た目だけは黒髪の少女であるウォルは、実のところ70年の歳月を国王として生き抜いた、パラストのオーロン王以上の古狸、いや古熊である。
 見た目通りの年齢ではない点ではシェラも同様であるが、しかしそれにしても積み重ねた年月には相当の違いがあるのだ。

「陛下!そのようなお戯れ、おやめ下さい!」
「そうだ、戯れだ。だから、俺に戯れさせることのないよう、お前も頑張るのだぞシェラ」
「そんな…」

 シェラはがっくりと肩を落とした。これからの一週間、この少女をどのように呼ぶべきかを悩み続けることになると思うと、胃の辺りがきゅうと痛くなることを自覚するシェラだった。

「ま、シェラはいつも人に気を使いすぎると思ってたところだ。少し荒療治かも知れないが良い機会だし、そこらへんの従者気質を徹底的に直してしまおう」
「でも、そこがシェラのいいところなんだけどねえ」

 リィとルウは顔を見合わせ、曖昧な笑みで苦笑していた。

「ま、しかしウォルよ。今日のところはここまでだな」

 如何にもホストらしい様子で場を仕切り直したリィは、そう言って緩まった空気を引き締め直した。
 つい先ほどまで項垂れていたシェラは、内心はともかくとしてきちんと姿勢を正してその表情をあらためた。

「とにかく、ウォルが、おれの夫がこの世界に来てくれたんだ。おれは、この世界を代表するとかそういう堅苦しいことを抜きにして、こいつを歓迎したい。何か、異議はあるか」
「異議なーし」
「ありません」
「よし。じゃあ、こいつは今からおれ達の仲間だ」
「俺は、もうずっと前からお前の仲間のつもりなのだがな」

 異世界にて闘神の名を欲しいままにした不世出の英雄たる少女は、三対の瞳が自分に集中していることを自覚しながら、ゆっくりと立ち上がり、そして言った。

「あらためて自己紹介させて頂く。俺の名は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。ここにいる、グリンディエタ・ラーデンの夫だ。元いた世界では国王などと呼ばれて調子づいていたこともあるが、この世界では卿らの後輩となるだろう。色々と分からぬ点、いたらぬ点も多いと思うが、どうか見捨てないで欲しい。そして、もし許されるならば、この体共々、卿らと永久の友誼のあらんことをここに誓いたい」
「何に誓う?」

 リィは行儀悪くテーブルに片肘をつき、不敵な笑みを浮かべながら、問うた。
 もう、それは確定した返答を期待しての、問いかけとは呼べないような問いかけだった。
 それを理解しているから、ウォルも、己の心をそのまま吐き出した。
 もう、使い古され、しかし未だ宝石のように煌めいている、珠玉の言葉だった。
 少女は、彼女の妻と同じように、にやりと不敵な笑みを浮かべながら言った。

「剣と、戦士としての魂に誓って」

 もう、夜も更けた。
 きっと、階下で気を揉んでいるヴァレンタイン夫妻にも、その子供達にも、この黒髪の少女が何者なのかを説明しなければならないだろう。
 それに、刻一刻と食べ頃を過ぎていくお菓子の山は、誰かが自分達を征服してくれることを今や遅しと待ち侘びているはずなのだ。
 だから、リィとウォルは、家族の待つ居間へ。
 ルウとシェラは、お菓子の山の待つ台所へ。
 それぞれの責務を果たすために、今日最後の仕事を済ませるために、出陣する必要があった。
 その時――。

「あ、そういえば」

 四人がそろって部屋を出ようとしたとき、ルウが思い出したように口を開いた。

「どうかしましたか、ルウ?」
「うん、この家に来たときからずっと不思議だったんだけど…」

 緑と紫と黒の瞳が集まる中で、青い瞳の青年は、にっこり笑いながら、こう言った。

「ねえ、この象さんみたいな人、誰?」

 そういえば、とリィとシェラが、誰からも忘れ去られながら部屋の隅に所在なく突っ立った、聳える山脈のような体躯を誇る男を仰ぎ見た。
 この場におけるその男の唯一の友人であるウォルが、明らかに『しまった、すっかり忘れていた』という顔をした。
 四色四対の瞳が初めて自分に集中するのを感じながら、黒いスーツに身を包んだ大男、ウォルの特殊警護官であるヴォルフガング・イェーガー少尉は、軽く肩を竦めた。
 もう、それ以外に彼の感情を表現する方法は無かった。
 自分の周りにいる見知らぬ少年二人と青年一人、見知った少女一人は、その優美な姿通りの無害な連中ではない。彼自分もきっとその一人だから分かるのだが、ここは揃いも揃って人外連中の巣だ。
 それに加えて、この時点までを自分の巨体を視界に収めずにいられるとはどういうことだろうか。普通、嫌でも目につくものだと思うのだが。
 こいつらは、とんでもない馬鹿か、とんでもない怪物か。出来れば前者であって欲しい、主に自分自身の人生の平穏のために。
 しかし、こういう時の淡い期待が確定した未来とは逆方向のベクトルを向くものだと知り尽くしているヴォルフは、これ以上ないと言うくらいに憮然としながら天井を仰ぎ見た。
 現在の彼の任務対象たる、黒髪の不思議な少女と知り合って以来なんとなく諦めてはいたが、ここまで露骨な真似をするとは神様は相当に自分の事が嫌いらしいと思った。
 ともかく、内心で自身の平穏無事な人生に心のこもらない弔辞を読み上げたヴォルフは、果たしてこの化け物連中を相手にどのように自己紹介したものかと頭を悩ましたのだ。



[6349] 第十六話:息子の夫
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/15 07:56
 惑星ベルトランの中緯度に位置する大陸、その東海岸沿いにコーデリア・プレイス州は存在している。広大な面積のほとんどが温帯気候に属する、過ごしやすい土地柄だ。
 その星の気候の特性上、雨は比較的多いものの、例えばハリケーンやタイフーンといった自然災害が発生することは極めて稀である。地殻活動も落ち着いていることから地震に見舞われることも滅多にない。たまに竜巻の発生が報じられることがあったりするが、現代の優れた天候観測技術と建築技術の進歩によって、近年では被害者がでることはまず無いといっていい。
 しかし、その日、極めて局地的な嵐が発生した。
 場所は、コーデリア・プレイス州でも古い歴史を誇る高級住宅街、その更に最も古い屋敷が集まる界隈にある、築数百年を数える広大な屋敷のど真ん中である。ちなみに、その屋敷は周囲の人間から『薔薇屋敷』、『ドレステッドホール』、『州知事さんのお宅』などと呼ばれていたりする。
 嵐の原因は、その家の、『ちょっと一風変わった』長男であった。
 周囲の住民は、そこに住む一家は父と母、女の子が二人に男の子が一人の五人家族だと思っているが、本当はもう一人、今年で14歳になる長男がいるのだ。
 知らなかったとしても無理もない。その長男が家にいるのは本当に稀なことだったし、地域のイベント――例えばお祭りやパーティーなど――にもその子供が顔を見せたことはないからだ。
 第一、仮に顔を見せていたとしても、その子がヴァレンタイン夫妻の子供であると見抜くことが出来る人間が、果たしてどれだけいるだろうか。
 黄金を鋳梳かしたような金髪に、最高級のエメラルドも斯くやというほど美しく透き通った瞳、白絹のように滑らかできめの細かい肌と薄薔薇色の頬を持つ、『天使のような』少年。彼が、茶色い髪の毛と同じく茶色い瞳をもった両親から生まれたなど、想像の埒外にある。
 しかし、それでもその少年は、ヴァレンタイン夫妻の、遺伝上の子供であるのは間違いないのだ。
 男女を問わずひたすらに溜息を吐かせるしかないほどに整った容姿のその少年であるが、しかし一風変わっているのは外見だけではない。むしろ、その内に宿った魂の苛烈さに比べれば、その外見の煌びやかなことなどはほんのおまけにすぎないことを、彼に近しい一部の人間は知っている。
 そんな彼――エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタイン、それともグリンディエタ・ラーデンが、珍しく、家に友人を連れてきたというのだ。
 これには家族は一様に目を丸くし、そしてそれぞれの個性に応じた喜び方をした。
 最も直接的に喜んだのは、彼の父親(少なくとも世間一般ではそう呼ぶ)のアーサーであった。
 彼は自分の息子が、良かれ悪しかれ普通の子供ではないこと、そしてただ可愛らしいだけの天使のような子供ではないことを知っていた。よしんば彼が天使だったとして、決して中世絵画に描かれる、美と安らぎをもたらす天使ではない。寧ろ、戦乱と血煙の中にこそ最も映える、戦いの天使だ。
 そんな彼だから、同年代の友人というものが他の兄弟に比べて極端に少なかった。今年で14歳になるが、学校というものに行き始めたのが去年の中頃からだったというのもそれに拍車をかけている。
 だからといって、全く友人がいないわけでもない。彼に相応しく、やはり『ちょっと一風変わった』友人がいるのだ。
 去年、リィが半月ほど姿を見せなくなり、まぁこれもいつものことかと思いながらのんびりと仕事に励んでいたアーサーのもとに、妻から突然電話がかかってきた。

『リィがきれいなお友達を連れてきたのよ』

 彼は一も二もなく仕事を放り出し、午後の予定の全てをキャンセルしてエアカーに乗り込み、法定速度を遙かに超えるスピードで家路についた。
 いつもと同じ家族団欒の風景。そこに加わった、太陽の輝きを固めたように見事な金髪。
 その隣に、月の光を固めたような銀色の頭があるのをアーサーは見つけた。全く少女としか思えない整った顔立ちのその子は、自分は少年だという。
 それが、後に彼の未成年被後見人に収まる、シェラ・ファロットである。
 彼はとても利発な少年で、ロストプラネット出身であるというのに文明に馴染むのも早く、料理や手芸などにも類い希な才能の片鱗を見せた。また非常に礼儀正しく、細やかな気配りも出来、熟練の執事のように落ち着いたところがある。
 そんな少年が自分の息子の友人になってくれたことを、アーサーは心底喜んだ。
 そして、またしても息子が友人を連れてきたという。当然、普通の子供であるはずがないとは確信しているが、自分の息子が友人と呼ぶ存在ならば、世間に溢れる素行不良の少年少女であるはずがない。その点、アーサーはリィを信頼していた。
 その友人がこの家を訪れたのはまだ太陽も残滓を残すような時間ではあったが、今はとうに陽も落ち、もう少しで日付が変わろうという時間である。
 当然、夫妻の子供たちは各々の部屋で眠りについている。チェイニーなどは少々ぐずったが、しかし明日は学校もあるので、渋々と自分の部屋に引き上げていった。
 残されたヴァレンタイン夫妻が今や遅しと待ち構えているのは、ドレステッドホールのもっとも広い居間である。そこは数百年の歴史を誇るその建物に相応しく、荘厳な雰囲気すら漂わせる家具が惜しげもなく配置されている。
 足首が渦もるのではないかと思うほどに毛の長い絨毯は、当然の如く高価な天然素材だったし、驚くべき事に熟練の職人たちが長い年月をかけて手織りしたものだ。
 黒檀のキャビネットに所狭しと並べられた酒瓶は、その一つ一つが平均的な大卒初任給を軽く吹き飛ばす高級酒ばかりだったし、その趣味も専門家を唸らせるほどに凝っている。
 そんなふうだから、コーデリア・プレイス州の州知事を務めるアーサーの高給でも館の維持費を賄うには結構な苦労があったりするのだが、しかしそんなことは子供たちの想像の埒外である。
 ともかく、そんな、一般家庭の水準からすれば溜息しか出ないような高級家具の群れ、その中でも一際古い歴史を誇る柱時計が、重々しく新しい一日の到来を告げたときだった。
 居間で待ち構えていたアーサー夫妻の前に、五人の男女が姿を現したのだ。
 その中にいる、見慣れない二人が、揃って夫妻に挨拶をした。

「初めまして、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンです」

 黒髪の少女はそう言って軽く頭を下げ、スカートの裾を持ち上げた。

「初めまして、事情があって姓名及び職業は明かせません」

 天を仰ぐような大男はそう言って、武骨に腰を折り曲げた。

「えーと、自己紹介の方が先になっちゃったけど、こっちがおれの伴侶のウォル。で、こっちがその警護官のヴォルフだ」

 リィは、無造作にそう言った。
 リィに紹介された二人は、ぺこりと頭を下げた。
 彼らの後ろで控えるルウは相変わらず満面の笑みを浮かべ、その隣に立つシェラは片頬を引き攣らせて、辛うじて微笑みと呼べる微妙な表情を浮かべている。
 そして、柔らかなソファに腰掛けたヴァレンタイン夫妻は、あんぐりと口を開き、唖然とした表情を浮かべた。
 果たして、彼らは目の前の事態を正確に理解し得たのだろうか。
 まず、黒髪の少女である。
 歳の頃はリィやシェラと同じくらいの、中等教育に差し掛かった頃合いの顔立ちだ。まだまだ幼さを残しつつも、しかしその中に一握りの成熟さをちらつかせた、綻び始めた花のような年齢である。
 その年代の少女に相応しく、まだまだ未完成の華奢な肉付きの体の上に、どこかリィに似た繊細な造りの顔を乗っけている。
 端的に言えば、美しい少女だった。
 同色の瞳と髪の毛、その漆黒の深さは彼らの背後に設えられた窓ガラスの奥にある、夜の闇よりもなお濃い。だからといってその少女の纏った雰囲気のどこにも暗いものは無い。それは、その漆黒が光を飲み込んでいるからではなく、しっかりと光を跳ね返しているからだ。
 然り、きらきらと輝く大きな瞳と艶やかな髪の毛は、少女の人形の如く整った相貌に生気を吹き込み、それが生きた人間であることを教えてくれる。その見事さは、しっかりと分別を備えた大人であるアーサーに感嘆の溜息をつかせるほどだった。
 しかし、少女を見たアーサーは、内心で首を捻った。
 彼の知るこの年齢の少女は、もっと、良く言えば溌剌さ、悪く言えば落ち着きの無さが目立つものだ。少女がどういう生まれの人間かは別にして、普通ならばこんな時間に他人の家――しかもこれだけ豪奢な――にいれば緊張の一つもするだろうし、そわそわと落ち着きのないところを見せたりもするものだ。
 彼の娘であるドミューシアなどを例に出すまでもなく、それが世間一般の常識というものだろう。
 それに比べて、黒髪の少女の、小憎たらしくなってしまうほどに落ち着き払った様子はどうだろう。口元に優雅な微笑みを浮かべ、視線をあちこちに彷徨わせることもなく正面からこちらの瞳を覗き込んでくる。
 これでは、まるでどこかの国の姫君のようではないか。
 だとすれば、少女の隣に立つ、もう少しでドレステッドホールの高い天井に届くのではないかという長身を誇る男の存在にも理解が出来るというものだ。一国の王妃であれば、お付きの警護官の一人や二人、いないほうがおかしい。
 だが、やはりアーサーはどうにも納得出来なかった。
 厳めしいという単語を体現したような、その男。彼が身に付けているのは、如何にも要人警護官が好みそうな黒一色のスーツである。
 それ自体に不審はところはないのだが、しかしどうにも取って付けたような感があるのが否めない。加えて、本物の警護官が身に付けるスーツにしてはあまりに質が悪すぎる。
 更に言えば、どうにもその肉体とスーツのバランスが取れていない。例えば、普段は荒事に従事しているやくざものが、いきなりその組長の娘の警護を任されて慣れないスーツに体を押し込んだような、ちぐはぐな印象である。
 白いワンピースで着飾った少女と安物の黒いスーツを身に纏った巨漢は、見た目からしてそんなだったから、さしものヴァレンタイン夫妻も言葉も無く茫然と二人を見上げていた。
 そして、その混乱は、リィの一言によって取り返しのつかないほどに加速した。
 自分で姓名は明かせないといいつつあまりにもあっさりとその姓名を明らかにされてしまった大男。ヴォルフというのは、おそらくその愛称だろう。
 彼の説明はいい。彼が要人警護官であるというのはある意味予想通りだ。きっと、叩き上げの軍人か何かが上官の命令で仕方なく警護任務に就いているのだろう。ならば、その物々しい雰囲気と似合わないスーツ姿とのギャップにも説明がつく。
 しかし、もう一人、黒髪の少女の説明については……。

「り……りぃ?」
「どうしたアーサー」

 リィは、土俵際ぎりぎりいっぱいのところで現実にしがみついているアーサーを、無慈悲とも呼べるような視線で眺め遣った。

「おい、どうしたアーサー。顔が青いぞ」

 普段なら『僕のことはお父さんと呼べ!』と顔を真っ赤にして叫ぶアーサーは、客人の手前だからという至極もっともな理由以外の理由でもって、怒声を飲み込んだ。
 いや、飲み込んだというよりは、怒声を出す気力さえ持って行かれていた。

「ぼ……僕の聞き間違いだろうか。お前は今、このお嬢さんのことをなんて呼んだ?」

 狼狽しきったアーサーの視線を受けて、リィは軽く肩を竦めながら言った。

「もう一度言うぞ。これはおれの伴侶、要するに配偶者のウォルだ」
「初めまして御父様。リィの伴侶の、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンでございます」

 リィに比べれば上手に事態を飲み込めているはずの元国王は、如何にも高貴な生まれの少女らしい口調であらためて自己紹介をした。
 その頬には、作り物ではない微笑が浮かんでいる。それは、スーシャの山猿と呼ばれた悪童が、父親に悪戯を仕掛けたときの笑みだった。
 目の前で朗らかに微笑む完全無欠のお嬢様が自分の息子のであるという、正しく青天の霹靂とでもいうべき事実を聞かされたアーサーは、いっそ気の毒なほどに表情から色を消した。普段は血色の良い頬が青ざめて、蝋か雪かという有様である。
 明らかに茫然自失の態で黙り込んでしまった彼の隣で、その妻であるマーガレットは一足早く我を取り戻し、恐る恐ると尋ねた。

「ねぇ、リィ。じゃあ、この可愛らしいお嬢さんと結婚したの?」
「うん。途中で邪魔が入っちゃったけど、一応式は挙げたよ」

 この世界でのことではないが。

「まぁ、まぁまぁまぁ……」

 口に手を当てて驚きながら、しかしマーガレットはとても嬉しそうだった。
 彼女は、リィが自分のお腹を痛めて産んだ我が子であると知りながら、しかし自分がこの少年の母親ではないと理解していた。それに、彼が普通のお嫁さんを迎えられる程に、普通の少年ではないことも。
 しかし、いや、だからこそマーガレットは、リィが心から愛し、そしてリィのことを心から愛してくれる義理の娘の存在を心から喜んだ。本当はそれほど心温まる事情で結ばれた婚姻ではなかったのだが、しかしそれを知らないことについて彼女には一切の責めはない。
 ともかく、マーガレットは少女の存在を受け入れた。それも、己にとっての義理の娘として。

「ねぇ、あなたのことは何てお呼びしたらいいかしら?」
「如何様にでもお呼び下さい、御母様」
「じゃあ、リィと同じように、ウォルって呼んでいい?」

 少女は嬉しそうに頷いた。少なくとも、それは少女にとっての本心だった。
 一応の意思疎通の出来た二人の女性に比べて、アーサーの精神的再建は遅れに遅れた。
 彼は、自身の息子であると信じて疑わないリィが、どれほどに特異な存在かを理解していたので、彼に結婚相手が見つかるとは到底思えなかったのだ。
 無論、人の視線を惹き付けて放そうとしないほどに整った容姿のリィであるから、黙っていれば彼に想いを抱く異性の百人や二百人くらいは簡単に見つかるだろう。
 しかし、その恋人候補がどれほど熱烈に言い寄ったところで、リィはけんもほろろに断るに違いない。まして結婚など、一生を同じ女性と共に添い遂げるなど、想像の水平線遙か彼方の出来事である。
 何か事情があるに違いないと思ったアーサーは、あらためて少女を眺めた。
 そして、気付いたのだ。その少女の衣服が所々破れ、その白い素肌の至る所に青あざが出来ていることに。
 悪戯好きの腕白坊主――例えばチェイニーのような――ならば生傷をこしらえて家に帰ってくるのも珍しいことではなかったが、しかしこれほど清楚な雰囲気を身に纏っている少女が身体中に傷をこしらえているのは尋常なことではない。
 そこで、一体どのようなシナプスが回路を繋いだのかは不明だが、普段からアーサーの脳内で忙しない働きを見せる電気信号が、とんでもない誤作動を起こした。
 単純に彼を責めるのは酷だろう。彼はいわゆる常識人であって、その中においては寧ろ広い度量と寛大な心を併せ持っているのだから。
 この場合、悪かったのは、少女――というよりはその周囲の状況であった。
 あまりにか細いその少女と、彼女を取り囲む四人の男。しかも、その一人は凶悪犯も裸足で逃げだすような、厳めしい顔つきの大男である。彼は少女のボディガードだと言うが、番犬が狼に変じた例など枚挙に暇がない。
 そして少女の身体は、数え切れないような擦り傷やら青あざやらで飾られている。
 何より悪かったのが、足下から腰の辺りまで一息で破られたような、ワンピースのスカート部分である。その隙間から、艶めかしいほどに白い、少女の太腿がちらりと見えていた。
 それを見て、アーサーは愕然とし、悄然とし、最後に意を決したように立ち上がった。

「お嬢さん……」

 見た目はお嬢様以外の何者でもないウォルの返事を待たず、アーサーは跪き、絨毯の上に額を擦りつけた。
 土下座である。
 これには、流石のウォルも目を丸くした。
 もしかしたら不審人物として誰何されることはあるかも知れない、万が一なら警察に突き出されることもあるかも知れないとは思っていたが、このような事態は想定していなかった。

「あ、あの、ヴァレンタイン卿?」
「申し訳ありませんでした!」

 特大の猫を脱ぎ捨てていつも通りの口調で話しかけたウォル、しかしその言葉ですら今のアーサーには遠すぎた。

「息子があなたにしでかした非道、許してくれとは口が裂けても言えません!言えませんが、しかし息子はまだ未成年なのです!まだまだ精神的には未熟で、抗いがたい獣欲に身を委ねてしまっただけなのです!」

 法律上、そして遺伝上の父親であるアーサーの突然の奇行に、流石のリィも唖然としてしまった。
 果たして何事が起きたのかと隣で立つシェラに目配せをしたが、しかしこちらも訳が分からないという有様で首を横に振る。
 こうなると、流石のリィもお手上げである。素直にアーサーに尋ねた。

「おい、アーサー。お前、何をしてるんだ?ついに頭がおかしくなったか?頭がおかしくなるくらいに忙しいなら、知事なんて辞めたらどうだ?」

 暢気なリィの言葉に、アーサーはきっと顔を上げ、激しい形相で我が子を睨みつけた。

「エドワード!お前、自分が何をしたのか分かっているのか!?」

 リィは訳も分からず、シェラに問いかけた。

「何をしたんだ、おれは?」
「さぁ?」

 こうなるとシェラも何が何だか分からない。
 平然と肩を竦めた二人に煽られたように、アーサーの怒気は燃えに燃え盛った。そして、そのままの口調で詰問した。

「さっき、僕と約束しただろう!」
「何を?」
「自分を信頼することをだ!」

 そういえば、そんなことも言っただろうか。

「それがこの有様か!僕は、お前は変わった子だが、絶対に約束は破らないと信じていたのに……!謝れ!このお嬢さんに、心の底から謝れ!」

 アーサーは立ち上がり、リィの襟首を締め上げた。
 大人の中でも立派な体格を誇るアーサーと、まだまだ子供と青年の中間くらいの体つきのリィである。どうみても折檻している父親と折檻されている息子にしか見えない。
 しかし、その息子が見た目通りに可愛らしい存在ではないことを知り尽くしているシェラやウォルは、肝を冷やした。リィは、身に覚えのない侮辱や乱暴を、笑って許せるような平和主義者ではないことを骨の髄にまで思い知らされていたからだ。
 然り、リィの緑色の瞳に、灼熱にも似た剣呑な光が宿る。
 そしてそれが爆発しようとした直前のことである。

「うん、危ないからそこまでにしときな」

 立派な体格を誇るアーサーの背後に、もはや縮尺が狂ったとしか思えない程に巨大な大男が足音もなく回り込み、大蛇の胴体のように太いその腕をアーサーの首に巻き付けた。
 息を詰まらせたようなアーサーの声が短く響き、直後にその体は力無く絨毯の上に崩れ落ちた。
 時間にして一秒か二秒ほどの出来事であった。

「何するんだ、ヴォルフ」
「あーっと、ごめんなぁ」

 腕を振り上げかけたリィの不機嫌な声に、大男、ヴォルフは素直に頭を下げた。
 そして、その大きな手で、足下のアーサーをひょいと担ぎ上げた。ほとんど重さを感じていないような、空気人形を担ぎ上げるように何気ない動作だった。

「でもさ、あんた、この男を殴ろうとしただろう?」
「ぎゃあぎゃあうるさいから、静かにさせるだけだ」
「それでも、殴ると体が痛むからなぁ。首を絞めて落とす方が、何倍も安全だろう?」

 これに関しては完全にヴォルフの言うとおりである。チョークスリーパーとか裸締めとかいう技は、その残酷な見た目や効果とは裏腹に、引き際さえ心得ておけば人を取り押さえるのには極めて有効である。
 当然、素人が行えば酷く危険であるが、格闘技の熟練者が頸動脈を上手に締め上げて血流を阻害すれば、人はいとも容易く気を失う。俗に言う『おちる』というやつだ。
 それに比べて、殴って人の意識を奪うのは想像以上に難しく、そして危険を伴う。腹部を狙えば内臓破裂のおそれが、頭部を殴れば脳に相当のダメージが残る。
 むろんその程度のことを知らないリィではない。そして、ヴォルフとて、リィがその程度のことを弁えていないとは思っていない。
 だから、これは純粋にヴォルフのお節介である。そして、不当な暴力に晒された、リィの報復の機会を奪う行為でもある。
 リィは諦めたように苦笑し、そして言った。

「出過ぎるなよ」
「うん。悪いなぁ。でもさ、俺、親父がいないからなぁ」

 肩に担ぎ上げたアーサーをそのままに、空いた方の手で頭をこりこりと掻きながら、ヴォルフは言った。
 
「やっぱり、親父とおふくろは大切にしないといけないと思うんだよぅ」
「もっともだ。でも、それとこれとは話が別だ。不当な暴力を許しておくつもりはない」
「うん。それはその通りだなぁ」

 ヴォルフはもう一度リィに頭を下げて、それからソファに腰掛けたままのマーガレットのほうに向き直った。

「あの、すんませんでした。警察とか、呼んで貰ってもいいです」

 今にも泣きそうな顔をした巨漢に頭を下げられて、今ひとつ事態に追いつけていなかったマーガレットは、ちょっとだけ曖昧な笑顔を浮かべて、言った。

「ええと、ヴォルフさん、でしたっけ?」
「うん……はい」
「ありがとう、夫を助けてくれて。もう、リィだったらきっと、骨の一本も叩き折っていたでしょうから」

 それは少々控えめに過ぎる表現なのではないだろうかと、いざという時は止めに入ろうと身構えていたルウは思った。その思いは、シェラとウォルも共有していたものだった。
 
「それにしてもこの人、どうしてあんなことをしたのかしら?」

 マーガレットは、その少女のような顔立ちに相応しく、可愛らしく小首を傾げた。彼女の知る夫は、少し融通の利かないところはあったが、だからといってこのように有無を言わさぬ調子で息子を怒鳴りつけることはなかったというのに。
 どうやら警察に突き出されることはないらしいと安堵したヴォルフは、ほっとしたような様子で言った。

「この男はさ、勘違いをしていたんだよ」
「勘違い?」
「ああ。ウォル。お前さんがリィに乱暴されたと思ったんだろう」
「はぁっ?」

 素っ頓狂な声が、夫婦の口から同時に飛び出た。

「おれが、こいつを乱暴したぁ?」

 指で自分の顔を差しているあたり、リィも平静ではない。
 しかし、一応は第三者として状況を眺めることの出来るシェラは、なるほどと思った。
 先ほどの、この屋敷を揺るがすような大きな音。実際は半狂乱のルウがウォルを弾き飛ばした音なのだが、あのとき部屋にいなかった人間にはそんなことはわからない。分かるのは、リィの自室から大きな物音が響いたという、その一事のみである。
 そして、その後に顔を見せた少女の身体には至る所に生傷が拵えられており、その衣服も乱れに乱れている。しかも、ワンピースのスカート部分には力任せに引き千切られたように無惨な縦裂きが出来ているのだ。
 なお悪いことに、あのとき部屋にいたのは、少女を除けば男ばかりであった。
 これらを、やや強引ながらも一本の紐で括ってみる。
 何かの経緯があって息子の自室に招かれた深窓の令嬢が、やはり何かのきっかけで燃え上がった男連中の獣欲に晒され、精一杯の抵抗をし、逃げようとする、しかし無情にも彼女を捕らえ、手酷く投げ飛ばすリィ。そして盛大な音が屋敷に響く。その後も抵抗を試みる少女だったが、身体中に青あざを作るほどの暴力の前に心も萎え、いずれ男達の慰み者に……。
 どう頑張って想像の翼をはばたかせても想像できない光景であったが、配役をリィや自分から、どこぞの国の王子様あたりにでも置き換えてやればあり得ない光景ではないだけに、シェラの表情もやや苦かった。もう少し、配慮というものがあってもよかったかも知れない。
 そして、突然のリィの言葉に混乱したアーサーが誤解したとしても無理はないなと、シェラは内心でアーサーにお悔やみの言葉を述べた。
 遅ればせながらにリィやウォルもそのことに気がつき、呆れというよりは感嘆の溜息を吐き出した。

「なるほどなぁ……。そういうふうにも理解できるわけか?」
「しかしリィよ。俺はお前と結婚しているのだぞ」

 ウォルの言葉遣いに事情を知らないマーガレットは目を丸くしていたが、しかし素知らぬふうでウォルは続けた。

「妻が夫を押し倒したところで犯罪にはならんと思うのだが、この国では違うのか?」

 事実には即しているのだが、実に微妙な言い回しである。微妙すぎて、マーガレットはそれがただの言い間違いだろうと思った。

「それは違うぞ、ウォル。例え婚姻していたとしても、強姦罪は立派に成立する。事実、あのろくでもない王子とおれは、あの国の法律では結婚させられてたんだ。もしもあのままおれが手籠めにされてたとして、お前は法律的に何の問題もないと笑って済ませたか?」
「ふむ。そう言われればその通りだな。栓のないことを言った」
「あの、ウォル?」

 マーガレットが、再びおずおずと尋ねた。
 ウォルは、自分を見上げる茶色い瞳を、真っ正面から見つめ返した。

「あなたも、その……そうなの?」

 そうとは、要するにリィと同じ世界に住む生き物なのかと、そういうことだ。
 ある程度は彼女の意図するところを読み取ったウォルは、少女にはやや似つかわしくないような太い笑みを浮かべた。

「いや、失礼した、ヴァレンタイン夫人。もう少し深窓の令嬢というのを演じてみても面白かったのだがな、しかしこんな事態を起こすとは思いもしなかったのだ。やはり慣れないことをするものではない。こういうことは、専門家に任せるべきだ。なぁシェラ」
「いきなり話を振らないで下さい、陛下」
「これは失礼した、ファロット伯」

 絶句したシェラを片目に、ウォルは実に楽しそうに微笑んでいた。
 どうやらこれは見た目通りの少女ではあり得ないと、マーガレットも悟った。
 そして、この少女のことを、先ほどまでよりもいっそう大好きになってしまったのだ。

「ねぇウォル。あなたは本当に、リィの奥さんなの?」
「それは違うよ、マーガレット。こいつがおれの奥さんなんじゃあなくて、おれがこいつの奥さんなんだ」
「でも、この人は女の子で、あなたは男の子でしょう?」
「前に一度話しただろう?おれは六年間、別の世界にいたんだ。その時のおれは女の子の体で、こいつは男の体だった。だから何の不都合もなかったんだよ」

 端から聞けば誰しもが頭を抱えざるを得ない無茶苦茶な理屈だが、その方面には人並み以上の理解の深いマーガレットであるから、きちんと納得した。
 何より、自分のお腹を痛めて産んだリィがそう言っているのだ。自分が信じないで誰が信じてやれるだろう――などという悲愴な覚悟も無くその言葉を信じたマーガレットは、無邪気な調子で言った。

「じゃあリィ、あなたはこのお嬢さんのお子を授かったの?」

 間違えても息子に言う言葉ではない。

「冗談。おれは一度だって男に体を許したことはないぞ」
「でも、この人のお嫁さんだったんでしょう?」
「あれは、そういう結婚じゃなかったんだよ。だから、おれ達もそういう夫婦じゃなかった。言うなれば、同盟者の誓いってところが一番近いのかな?ま、そんな大したもんじゃないさ」

 リィは微妙にはぐらかした。これ以上マーガレットの質問に正直な返答をしていたのでは、いずれ自分が王妃としてその国の国王と結婚したのだということを言わなければならない。そこまでならともかく、その先、戦女神として多数の人間を殺したことまでは出来れば教えたくはなかった。
 その気配を察したのだろうか、マーガレットもそれ以上は問わなかった。
 その代わりに、こう言った。

「そう。残念な気もするけど、でも私もまだまだお婆ちゃんにはなりたくないし、よかったのかも知れないわね」
「とんでもない。何も知らない人が見れば、マーガレットはドミのお姉さんにしか見えないのに」
「ふふ、ありがと、リィ」

 とんでもない母親と息子の会話に、シェラなどは、やはりこの人がリィの母親なのだと首肯した。この人以外、どんな人間にだって、仮初めとはいえリィの母親を務めることは不可能に違いない。
 同じ思いを抱いた黒髪の少女は、あらためてマーガレットの前で深く腰を折った。
 それは、国王として70年の歳月を生きた、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンに相応しい、重厚な挨拶であった。
 
「お初にお目にかかります。私の名前はウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。この世界ではない別の世界であなたの息子を妻に娶り、そして言葉では到底表しきれないような恩義を受けてきました。ヴァレンタイン夫人、彼を産んで頂いてありがとうございます。あなたの息子は、私を含めた多くの人間にとって、正しく太陽だったのです」
「デルフィニアの太陽って呼ばれてたのはお前じゃなかったのか?」
「その太陽とて、お前がいなければ無限の闇の中で朽ちていた。リィ、お前も違いなく、デルフィニアの太陽だったのだ」
「それは大変だ。太陽が二つもあったら暑くて叶わない」

 どちらかというと寒さよりも暑さのほうが苦手なリィは、苦笑しながらそう言った。
 そして思った。あちらの世界の裏側に生きる魔法使いたちは、一つの世界に二つの太陽が存在することは危険なことだと言っていた。ならば、こちらの世界に自分とウォルがいるのも、やはり危険なことなのだろうか。
 一度、デモンあたりに聞いてみようと胸に止めながら、しかし危険であったとしても自分にはたった一つの選択肢しかないことを、彼は知っていた。
 世界と戦友。果たしてどちらが大切かなど、リィにとってはあらためて思いを巡らす程度のことでもなかったのだ。

「ところで、この男、どうしたらいいかな」

 またしても忘れ去られようとしていた大男は、自分の肩に担ぎ上げたアーサーを指さして、言った。
 意識を失った夫のことを忘れかけていたマーガレットは、少し慌てた調子で立ち上がった。

「あの、ヴォルフさん。申し訳ありませんけど、その人を寝室まで運んで下さる?」
「はい、おやすい御用です」

 正しくおやすい御用といった有様で歩き出したヴォルフに、ウォルは言った。

「ヴォルフ殿、俺も一緒に連れて行ってくれんか?」
「ああ、ウォル、お前、足を怪我してたんだっけか」
「うむ、折れてはいないと思うのだが……」

 少女の左足首は、痛々しいまでに腫れ上がっていた。
 そのことに今の今まで気がつかなかったマーガレットは急いで台所に走り、冷蔵庫から氷嚢を取り出し、包帯と一緒に持ってきてウォルの足首に巻き付けた。

「すみません、ヴァレンタイン夫人」
「ううん、ちっとも気にしないで。だって、リィの旦那さんなら、私の息子も同じだもの。でも、今は娘かしら。だから、そんな堅苦しい呼び方はしないでね」
「では……義母上とお呼びしても?」
「まだ堅苦しいわ。お義母さんって呼んでくださらない?」

 ウォルは苦笑した。彼の歳になって――見た目はまだ13歳程度の少女なのだが――初めて出会う女性を『お義母さん』と呼ぶのは、少なからぬ抵抗があった。
 そのことを察したのだろうか、マーガレットもそれ以上何も言わなかった。
 そんな二人を眺めながら、これで少しは自分に対する風向きも緩やかになるだろうかと、シェラは淡い期待を抱いた。何せ、次に出会ったときは偉大なる大英雄のことを『ウォリー』と呼ばなくてはならない彼である。自分の苦悩を、少しだけでも分かって欲しかった。
 ともかく手当の終わったウォルは、部屋の中に入ってきたときと同じように、ヴォルフに首根っこを摘み上げられながら部屋を後にした。
 かつて軍神と呼ばれた威厳の欠片もないその姿に、シェラは呆れたような声を出した。

「リィ。この世界では、妙齢の女性をあのように扱うのが作法なのですか?」

 リィも首を捻った。

「多分違うと思うけど、当の本人が嬉しそうなんだからいいんじゃないのか?」

 元の姿は堂々たる体躯を有する武人であったウォルであるから、今の体勢のように、自分の体が軽々と持ち上げられるという事実が新鮮で楽しいらしいのだ。
 普通の男なら元の体を恋しがって『このような屈辱に甘んじる覚えはない!』とでも気炎を上げるのが当然なのかも知れないが、そういう当たり前の意地というものが自分の夫には無縁であることを熟知しているから、今さらリィは驚かなかった。
 ただ、呆れてはいた。

「あれじゃあ母猫と子猫だ」
「あんなに物騒な猫の親子がいるなら、見てみたい気もしますが……」

 茫然とした二人の会話を尻目に、そわそわとしたルウがいた。

「……あのさ、シェラ。マーガレットと一緒に作ってくれたお菓子って……」

 この黒い天使は、先ほどまでの会話を聞きながら、しかしお腹の虫をあやすのに全勢力を傾けていたらしい。
 シェラは、慌てた様子で答えた。

「あ、それなら台所に。今から食べますか?」
「食べる食べる!」
「……太るぞ、ルウ」

 リィの忠告は、目を輝かせたルウには届かない。そもそも、彼が人間のように、夜遅くにお菓子を食べたくらいで太ったりするはずがないのだ。
 喜び勇んで台所に向かうルウを追うように、シェラも台所に向かった。

「では、お茶でも淹れましょう。リィ、あなたはどうしますか?」
「もらうよ。砂糖は……」
「ええ、一粒だって入れませんよ」

 長い付き合いの二人であるから、言うまでもないことではあった。

「僕のは砂糖とクリームたっぷりね!」

 ルウが台所の方からひょこりと顔を出した。

「ブランデーを垂らしてくれると嬉しい。あと、焼き菓子は俺とヴォルフ殿の分も残しておいてくれるとなお嬉しい」
「えーと、俺も食べていいのかな?」

 廊下の方からにゅうと顔を出したのは、ヴォルフに摘み上げられたウォルと、その保護者然としたヴォルフであった。
 薬缶に大量の水を注ぎ込んでいるシェラは、果たして小包いっぱいの焼き菓子で足りるのだろうかと訝しがり、今ある材料で手早く作れるレシピに思いを馳せたのだった。



[6349] 第十七話:優しい夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/15 07:57
「う……ぅ……」

 優しい橙色の灯りの中で、アーサーは目覚めた。
 ゆっくりと体を起こそうとすると、支えにした手が柔らかく沈み込む。その時点で、自分が横になっているのが、いつもと同じ寝台の上であると気がついた。
 
 ――いつの間に僕は寝台に入ったのだろうか……。

 普段の行動だから一々覚えていないと言ってしまえばそれまでだが、どうして自分がここにいるのか、その記憶がすっぽりと抜け落ちている。
 それでも何とか体を起こし、ぼんやりとした思考に活を入れるべく頬を叩く。それは、夢の世界からの誘惑を断ち切るための儀式であった。

「お目覚めになりましたか」

 そんなアーサーの頭に、典雅さと朗らかさが絶妙のバランスで混在した、耳に心地よい声が飛び込んできた。
 どうにも聞き慣れないような、しかしごく最近聞いたような不思議な感覚に頭を捻りながら、それでも声の主の方に体を向ける。
 そこには、黒髪の少女がいた。
 その声に相応しい優雅な微笑みを浮かべ、ベッド脇の椅子に腰掛けている。
 アーサーはあらためて目を見張った。
 美しい少女である。それも、ただ美しいだけではない。
 容姿が整っているというのであれば、彼の娘であるドミューシアも相当なものだ。無論、それよりも美しい少女だって、この広い共和宇宙を探せば無数に見つかるだろう。
 しかし、この少女の美しさは何かが違う、とアーサーは思った。
 言葉には出来ない。彼の頭に詰まった豊かな語彙力でも、それは到底不可能だった。
 それでも敢えて少女の美しさを称えるならば、彼女を象徴する、瞳と髪の黒さだっただろうか。
 どこまでも黒く、暗さや穢れなど微塵も感じさせず、こちらの瞳孔を焼くような光を放つ瞳。アーサーは、遠い昔に妻に送った、南方の海で採れた黒真珠で作った耳飾りを思い出した。
 そして、夜空を鋳梳かして梳き上げたよう髪の毛。世の女性に、嫉妬を越えた感嘆の溜息を吐かせるしかないそれは量に豊かで質も良く、腰にかかるほどに長く、ほんの少しの癖だってありはしない。語弊を恐れずに言うならば、しなやかな黒い針のように鋭く美しい髪だった。
 例えば、この広大な宇宙で最高の腕を誇る人形師が、金に糸目を付けずに集めた最高級の素材で、その魂と命を込めて一体だけの人形を作り上げるならば、このような少女が出来上がるのかも知れない。
 アーサーはぼんやりと、そんなことを思った。

「え……と、君は……?」
「あらためて自己紹介をさせて頂きます。私の名前はウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンです」

 少女は輝くような笑みを浮かべ、言った。
 アーサーは既に酸いも甘いも知り尽くした政治家であったが、しかしこの少女が浮かべる、真っ正面からの微笑みには面食らった。別に疚しい心があったわけではないが、何故か自分の汚い部分を糾弾されたような、そんな気がしたのだ。
 それでもアーサーは名うての政治家である。内心の動揺は一切表に出さず、かたちだけは完璧に礼を返した。

「ご丁寧な挨拶をどうも。私はアーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタイン、このコーデリア・プレイス州の州知事を務めております」

 片方が自宅のベッドで何とか体を起こした壮年の男、片方がその椅子に腰掛けた少女という二人の間で交わされたにしては何とも異質な挨拶であったが、少女はともかくアーサーはそのことに気がつかなかった。
 彼にとって重要なのは、何故自分の寝室に、見知らぬ――しかもこれほどに美しい――少女がいるのか、その一点であったのだ。
 アーサーは、大人の男として当然な程度には酒を嗜んだ。それも、我を失うほどに酒が好きというわけではないが、酒豪と呼んでも過言ではないほどに酒には強い。だから、意識を失うほどに酒を飲んだことは今の今までなかったはずだ。
 今だって、二日酔いに特有のどんよりとした頭痛は無い。むしろ、連日徹夜でこなした重要事案の審議が終わり、その後で二十四時間の睡眠を貪った時のように、心地よい爽快感がある。
 にもかかわらず、何故自分が自宅のベッドで横になっていたのか、それがさっぱりなのだ。そして、何故見知らぬ少女が隣にいるのかも分からない。
 そこまでいって、アーサーの脳裏に、最悪の想像が浮かんだ。
 もし、もしもである。自分が訳の分からぬ薬物などで意識を奪われ、この少女に手を出していたのだとしたら……?
 自分は二重に許されぬことをしたことになる。
 一つは、年端もいかない少女を手籠めにしたこと。もう一つは、愛する妻を裏切ったこと。
 万が一、いや、それ以下の確率であったとしてそんなことをしでかしていたら、彼の剛胆な精神は木っ端微塵に砕け散るだろう。
 激しい動悸に襲われる心臓を何とか宥めながら、彼はやっとの思いで口を開いた。
 そして、擦れた声で問うた。

「あの、ミス・デルフィン。つかぬ事を伺いますが、あなたは何故私の家に……?」
 
 もう、罠が張り巡らされた真っ暗闇の森を手探り歩くように、この上ないほどに恐る恐ると言った調子だった。
 アーサーにしてみれば、これなら四肢を縛られたあげく、牢屋のようなところで目覚めた方が幾分マシだったと思っただろう。
 ごくり、と、生唾を飲み込んだ音が盛大に響く中、彼は審判を待つ罪人のように、少女の声を待った。
 そして少女は、先ほどと同じような朗らかな調子で言った。

「ヴァレンタイン卿。私は、あなたのご子息に懇意にさせて頂いております。その縁で、このようなかたちで貴宅にお邪魔させて頂くことになりました」
「ご子息というと……エドワードですか?」
「私はリィとお呼びしております」

 その時点で、朧気ながらに大まかな事情を思い出した。
 確かに、あの変わり者の息子が友人を連れてくると言っていた。
 しかしそれが、これほどに美しい少女だったとは……。
 アーサーは純粋な意味で、目の前の少女に興味を抱いた。
 
「ミス・デルフィン。不躾な質問をお許しください。その、あなたとエドワードは、どのような関係で……?」

 少女は、寸分も表情を崩さずに、事実を告げた。

「彼は、私の伴侶です」

 にっこりと微笑むその様子に、こちらを騙してやろうという悪意や、冗談を言っているような無邪気なところは一切無い。そんなもの、巧言と虚飾と面従腹背の海を泳ぐ政治家であるアーサーに通用するはずもないのだ。
 だからこそ、アーサーの後頭部にとどめの一撃を叩き込むに十分過ぎるほどに十分な、殺傷力を備えた巨大ハンマーの一撃だった。
 
「あ、あの、伴侶、とは……?」
「言葉通りですわ。私とリィは、誓約の神の前で永遠の愛を誓い合ったのです」

 これも完全な事実だ。
 アーサーは、もはや泣き出しそうな顔になった。
 そして、ついにと言うべきかようやくと言うべきか、自分が気絶するに至った経緯を思い出した。
 今は、おそらくドミューシアの服だろうか、幾分活動的な服装に身を包んでいるこの少女が、さっきはどのように無惨な様相だったのか。この美しい少女をそんなふうにしたのが誰なのかを思い出したのだ。

「ミス!どうか、どうか息子を許してやって下さい!」

 先ほどと同じように、今度はベッドの上で土下座をした。

「必ず責任は取らせます!自分がどのように卑劣なことをしたのか、思い知らせます!無論、私の力の及ぶ範囲で、あなたには如何なる償いもさせて頂きます!ですから、ですからどうか警察にだけは連絡しないで頂きたいのです!」

 無論、リィは警察に連絡されなければいけないようなことはしていないし、ウォルだってされていない。
 だが、ウォルは少し疑問に思った。
 目の前で、体を縮ませながら必死で謝罪するこの男性は、見たところ公明正大を絵に描いた人間のような気がする。反面、堅苦しくて融通が利かないところも目立つようだが、しかし息子が非道を働いたのならば寧ろ進んで官憲に突き出すような気がするのだ。
 それが、何故こうまでしてリィを庇うのか。当然、我が子のこととなれば他の道理を引っ込めても庇おうとするのが親の心理かも知れないが、どうにも腑に落ちなかった。
 だから、ウォルは少しだけ悪戯っけを出して、聞いてみた。

「ヴァレンタイン卿。私はこの星の常識には未だ疎いのですよく分からないのです。ただ、責任を取らせると言っておいて警察に知らせるのは嫌だというあなたの言い分には違和感があります。それは些か虫がよい話なのではないですか?」
「あなたの言うとおりです、ミス。罪には相応の罰があるべきで、それは断じて国家以外の何者が行っても良いものでもありません。ですから、私は即座に息子を警察に突き出すべきなのです」

 しかし、とアーサーは続けた。

「その……非常に申し上げにくいことなのですが……私はエドワードに関する限りにおいて、政府に一切の信用を置くことが出来ません。私自身が政治に関わる職を選んでおいて笑止な限りでしょうが、しかしこれだけは曲げることが出来ないのです。だから、私は如何なる事情があろうと、息子の身柄を政府に預けることは到底容認出来ない。それをするくらいなら、私はあなたの非難を覚悟の上で、この事件を闇に葬るためにありとあらゆる手段を選ぶでしょう」
「それは脅迫ですか?」
「はい、脅迫です。それ以外の如何なる言葉を使っても、甘言蜜語の域をでない。それだけ、私がしようとしていることは卑劣極まることなのですから」

 苦渋に満ちた表情で、アーサーは言った。

「金銭で解決できるならば、私はこの家屋敷を売り払ってでもあなたに賠償させて頂く。犯罪者の父親が知事の職に就いているのが気に食わないならば、即刻議会に辞表を提出させて頂きます。無論、この事件が明るみに出れば次の選挙の落選は免れないものではあるのでしょうが――。それでも気が収まらないのであれば、私を如何様にでも痛めつけて頂いて結構です。ですから、どうか息子を警察に突き出すのだけは……勘弁願えないでしょうか?」

 ベッドの上で土下座をするという滑稽な姿勢のまま、アーサーは拝むように少女の黒い瞳を覗き込んだ。
 ウォルは、そろそろここらが引き際かと思い、アーサーの肩に手をやった。

「ヴァレンタイン卿。まず、最も根本のところで誤解があるようですわ。私は、リィを含めたあの四人から、如何なる暴力も受けておりません」

 この言葉に、アーサーは安堵したと言うよりも、むしろ唖然とした。

「……そのような気休め、不要です。あなたの身体中に刻まれた傷とあの格好を見れば……」
「では問いましょう。ヴァレンタイン卿、あなたの愛するご子息は、一時の劣情に身を任せて、女性の貞操を踏み躙るような男性ですか?あの誇り高き金色の狼は、その程度の俗物ですか?」

 顔を上げたアーサーは、怒りにも似たようなものを瞳に宿らせながら、目の前の少女を睨みつけた。

「違う。断じて、そんなことはない。あれは、そのように卑劣なことができる人間では、絶対にない」
「では、何故あなたは私に頭を下げているのですか?それでは、あなたが彼を信じていないという証左になってしまいますよ」

 少女はくすくすと上品に笑い、その口元を白い手で隠していた。
 どうやらこれは本当に、何も無かったらしい。
 しかし、念には念を入れてと言うか、アーサーはもう一度だけ質問した。

「あの、エドワードは、あなたに暴行を働いたのでしょうか?」
「いえ。誓って否定させて頂きます。私の同盟者は、そのように卑劣な手段をもって女性を己のものとするような不届き者ではありません」

 ウォルは、自信満々に断言した。
 アーサーはそのことに安堵すると同時に、自分が如何にみっともない格好をしているかを思い出し、再び跳び跳ねるようにして姿勢を正した。

「こ、これはみっともないところを……」
「いえ、私の方こそ、ヴァレンタイン卿の誤解を解くのが遅れたことを謝罪させて頂きます。ただ、あなたがどれほどにリィのことを想っておられるかが気になって……。どうか、無礼をお許しください」
「そんな、そもそもこれは私の誤解と勇み足が全ての原因で……」

 二人は同時に頭を下げ、そしてほとんど同時に吹き出した。
 歳の頃で30近くも離れた男女が、仮にも寝室で語らうには、どうにも似つかわしくない会話であると、二人ともが考えたのだ。
 しばらく二人で笑い合い、お互いの目尻に透明な涙が溜まり始めた頃合いになって、アーサーが弾む息を整えながら言った。

「では、ミス・デルフィン……」
「ウォルと呼んで下さいな」

 アーサーは奇異の念を抱いた。
 なぜなら、それは男性の呼び名だったからだ。

「はて、君の名前ならば、エドナかエディ、それともフィーナとでもお呼びするのが相応しいような気がするのだが?」
「如何様にでもお呼び下さい。でも、二つ目は駄目です。私かそれとも卿か、いずれか、それとも両方が、リィに酷い目に遭わされてしまいます」

 少女は、緩やかに微笑みながら、しかし毅然とした調子でそう言った。
 アーサーもそれには同意した。リィのことをエドワードと呼ぶことに執着するアーサーだったが、彼をその名前で呼ぼうとは間違えても思わない。そんなことをしたら、冗談抜きで命が危ういことを、彼は知っていた。

「妻は君のことを何と呼ぶのかな?」
「奥様は、やはりウォル、と」
「では僕もそれに合わせよう。いくつも名前があると、呼ばれる方も呼ぶ方も混乱するだろうからね」

 それは特定の二人組を指した皮肉だった。
 少女は苦笑した。確かに彼らの呼び名の多彩なことには、些か面食らっている彼女であったのだから。

「では、ウォル。僕は君にいくつか尋ねなければいけないことがあるのだが、いいだろうか?」
「ええ、ご存分に。何せ私はリィの伴侶なのですから。私はあなたの義理の娘で、あなたは私の義理の父親に当たるのです」
「ふむ、そうには違いないのだろうが……。どうにも違和感があるな」

 アーサーは微妙な表情を浮かべて、軽く首を捻った。
 それを見たウォルは、不思議そうに問うた。

「違和感、とは?」
「うん。君と話していると、どうにも君くらいの年頃の女の子と話している気がしない。例えば――ひょっとしたら失礼な話かも知れないけど、もっとお年を召した……これは間違いなく失礼なんだろうけど……老齢の男性と話しているような……」
「どうして?」

 目の前の少女は気分を害したふうでもなく、微笑みながら小首を傾げている。
 あらためて問われると、アーサーも不思議になった。どうしてこの少女を、彼が議会や会議室で丁々発止の議論を繰り広げている、古狸連中と同じに思ったのだろう。
 顔、は似ても似つかない。これほど美しい顔をした老人など、それこそ恐怖の対象である。
 声、も違う。溌剌として、朗らかさと上品さと気高さをこれでもかと詰め込んだ、極上の声だ。例えば一流と名高い少年少女合唱団に入っても、いますぐ通用するような透き通った美しい声だ。
 では、果たして何か。
 問われてアーサーは唸ってしまったが、しかし難しい顔をしながら、何とか答えた。

「こんな言い方しか出来ない自分が不甲斐ないが……雰囲気、だろうか」
「雰囲気、ですか」
「ああ。何というか君は……リィやシェラ、それにルウなんかもそうだが、それ以上に歳不相応に落ち着きすぎている。それに、女性特有の柔らかさがどこかから抜け落ちているような……いや、これは失礼を……」
「ふむ、やはりそうか。ここらへんが俺の限界というわけだな」

 あきらめの表情で天を仰いだ少女は、腰に手を当てながら嘆息した。
 にこやかだったアーサーの顔が、にこやかなままにぴしりと固まった。

「うーむ、この調子だと、やはりどこかでボロが出るな。ここはシェラにでもこつを教えて貰わねばならんか……」
「あの……ウォル……?」
「ヴァレンタイン卿。具体的にどんな雰囲気が駄目なのだ?もう少し詳しく言っていただけんものかな?」

 身を乗り出すように問うてくる少女。その口調は、先ほどまでの丁寧な口調とは明らかに一線を画すものだ。
 しかも恐ろしいことに、どうやらこちらの方がこの見目麗しい少女の『地』だということに、アーサーは気がついてしまった。
 そもそも、あのリィが連れてきて、しかも自らの伴侶と呼ぶ少女なのだ。どう考えても普通の少女だと思う方が間違えているのだが、そのことにアーサーはまだ気がつかない。
 とにかく、目の前の少女の変貌についていくのに必死だった。

「ウォル……いや、ミス・デルフィン?」

 親密度が一歩後退した。
 ウォルは、少しだけガッカリした調子で、しかし続けた。

「いや、ヴァレンタイン卿。私が見た目通りの少女ではないのはあなたの言うとおりなのだがな、しかしこれでもリィの伴侶だというのは嘘ではないのだ。だから、やはりあなたは私の義父上であるのは間違いない。出来れば、ウォルと呼んで頂けるとありがたいのだがな」

 そう言われても、もはや目の前の少女が到底少女には見えないアーサーである。
 では何者なのか。
 アーサーは、決して言うまいと心に誓った一言が頭の中に浮かび、もう少しで口を突いて出そうになったのを感じたが、辛うじてそれを飲み込んだ。
 そんな彼に、目の前の少女は笑いながら、言った。

「俺を、化け物と呼ぶか?」

 それは何気ない一言であったが、しかしそれ以上に容赦ない一言であった。
 何故なら、正しくアーサーの胸中に渦巻く疑念と警戒心を表すのに、これほど相応しい言葉もなかったからだ。
 だが、これで肝が据わったのか、アーサーはしっかりとした姿勢に居住まいを正し、黒髪の少女に相対した。

「ウォル」
「うむ?」
「エドワードは、僕の息子だ」
「本人はアマロックという御仁の息子だと言っていたように記憶しているが?」
「それでも、だ。マキ・ニウラ……アマロック氏が彼の父親だったとして、それでも僕だってエドワードの父親だ。少なくとも、そう名乗る権利がある」

 果たしてそれはどうなのだろうとウォルは小首を傾げた。それはアーサーの言葉を疑っているわけではなく、父親を名乗る権利とはどのようなものかと純粋に疑問に思ったからだ。
 それでも言葉に出してはこう言った。

「俺も実はリィと同じでな。本当の父親と育ての父親が違う。この人こそ我が父と思っていた人が、ある日突然に自分は父では御座いません、貴方様の本当の父親は別におられますと言うのだ。あの日は天と地がひっくり返ったかと思った」
「それは……では、君は果たしてどちらを自分の父親だと思ったんだい?」
「難しい質問だ。俺の実感としてどちらを父上と呼びたいかと言えば、それは育ての父親に違いない。何せ、その時点で生みの親の方は故人だったのだ。しかし、仮に生きていたとしても、やはり育ての父をこそ実の父と思っただろうな」
「……そ、そうか……」
 
 アーサーはがっくりと肩を落とした。
 彼の絶望的な片思いはごく稀に報われたと思う瞬間があるのだが、それは本当に限られた瞬間であり、実際のところは、決して振り返ることがないと分かりきっている美女に貢ぎ物を送り続ける、憐れな求婚者の悪あがきでしかないのではないと思ったりする。
 父親と息子を結ぶ血の絆は、決して年月の経過などでは切れないものだと彼は思っていた。そして今もそう思っている。だが、自分達以外の第三者の意見を聞いた上でどうやら息子の方が正しいと判断すると、自分の努力が水泡に帰したような無力感を味合わざるを得ないのだ。
 目に見えて肩を落としたアーサーを気の毒に思ったのか、ウォルは言った。

「ヴァレンタイン卿。俺はこの世界でのリィのことはあまり知らないのだがな。しかしあれは、自分の気に入らない人間のところに身を寄せるような者では決してない。仮にそれが血を分けた父母、兄弟、もしかしたら息子や娘だったとしても、一度見限れば二度と顔を合わせようとはしないだろう」
「僕は、何度か見限られたよ」
「ほう、それは?」

 アーサーは、ベッド脇のサイドテーブルからカットグラスの酒瓶を取り出し、その脇に置かれた空のグラスを一セット、一緒に取り出した。

「飲むかい?」
「いいのか?この国では、俺のような子供が酒を嗜むのは法に触れるのでは?」
「その口調でいまさら何を言っている。君が見た目通りの存在ではないことなど、百も承知だよ」
「では遠慮無く頂こう」

 嬉しそうな少女の声に、アーサーは苦笑を浮かべた。
 そして、ベッドに腰掛けたまま酒瓶を傾け、グラスに琥珀色の液体を満たし、目の前の少女に手渡した。
 少女はアーサーお気に入りのウイスキーの香りを楽しみ、それから一息に飲み干した。
 まるで石の塊を放り込んだように、グラスの中の液体はごっそりと姿を消していた。
 少女は、ウォルは、喉と胃の腑を焼くアルコールの刺激と、それと同時に鼻に抜けていく芳醇な香りに驚き、目を見開きながら言った。

「――うまい」
「ああ、エドワードもそう言っていたな。どうやら僕は、酒の趣味だけはいいらしい」
「いや、俺の国でも美酒には事欠かなかったが……これほどうまい酒は、そうそうお目にかかることはなかったぞ」
「そりゃあいい。じゃあもう一杯行くかい?」

 ウォルは喜色満面の有様で、空のグラスを差しだした。
 アーサーはやはり苦笑を浮かべながら、琥珀色の液体をグラスに満たした。
 トクトクと、少し粘性を持った液体が、狭いグラスの中で跳ね回る。その音の、何と甘美なこと。
 二人は、声もなくその声に聞き惚れていた。
 その声が止んだ頃合い、リィの遺伝上の父親は、寂しそうにぽつりと呟いた。

「ウォル。君は、彼の父親が……アマロック氏が、どのようにして命を落としたか、知っているかい?」
「ああ。確か、密猟者の手にかかったとか……」

 アーサーは静かに頷いた。

「僕はね、彼の育ての親が人間の密猟者の手で殺されたとき……今思えば赤面の思いだが……それを心のどこかで喜んでしまったんだ」
「……」
「そして、言ってしまった。アマロック氏には気の毒だったが、これでお前もうちの子に戻れるなって」

 アーサーは、手の中のグラスを弄びながら、続けた。

「あのときのリィの瞳は、今でも思い出せる……というか、夢に見るよ」
「どんな瞳だ?」
「そうだな……アスファルトにへばり付いた汚物を見るような……いや、それは違うな……なんて言うか……」
「無価値なものを見るような?」

 アーサーは、自嘲の笑みを浮かべながら、首を横に振った。

「それも違う。多分、見てくれなかったんだ」
「見てくれない?」
「汚いものを見るのでも、無価値な石ころを見下すのでもない。あれは、僕を見ながら、しかし僕を見ていなかった。僕という存在を、心の底から排除した視線だった。この世に、あれほど明確に他者を切り捨てる視線があるのかと、僕は彼を恐れた」
「……」
「思えば、あのときが初めてかな。僕が、自分の息子を化け物だと思ったのは」

 ウォルは、何も言わなかった。何も言わず、手にしたウイスキーを、ちびりと舐めるように啜った。
 それとは対象に、アーサーは手にしたグラスを一気に傾けた。次の瞬間、グラスには何も入っていなかった。
 ふぅ、と、酒精に塗れた息を吐き出す。

「どうして、あの子が僕と妻の間に生まれたのか、真剣に神に問いかけたくなった」
「我が身の不幸を呪ったか?」

 ウォルはアーサーの手から酒瓶を取り、酌をしてやった。
 アーサは嬉しそうに受けた。

「君のような可愛い娘さんにお酌をしてもらえるとはね」
「断っておくが、俺に手を出さんでくれよ。一応俺は男なのだし、妻もいる」
「……男?妻?」

 目を丸くしたアーサーは、目の前の少女をまじまじと見つめた。
 これが、男?
 確かに、この広い世界には、傾城の美女も斯くやと言う程に美しい男がいるのも知っている。シェラなどはそのいい例だろう。
 しかし、これはどう見ても……。

「それは、何かの比喩かい?」
「いや、厳然たる事実だ。少なくとも、今のところはな」
「じゃあ、君は男の子?」
「この体は女性の体だな、間違いなく」

 アーサーは頭を捻りながらウイスキーを一口含んだ。
 それをゴクリと飲み下し、そして問うた。

「じゃあ、君の妻というのは?」
「わからんか?」
「ひょっとして……まさか……万が一に……エドワードのこと、なのか?」
「正解」

 不敵な笑みを浮かべたウォルは、アーサーの明敏さを讃えるようにグラスを掲げ、そのまま一息に飲み干した。
 それを眺めていたアーサーは、少女の見事な飲みっぷりに内心で舌を巻きながら、その空のグラスに三度酒を注いだ。
 本当なら、そろそろ窘めるべきなのかも知れない。酒量もそうだが、そのペースが尋常ではない。いくら酒を飲み慣れている様子であるとはいえ、このまま飲んでいては酔い潰れてしまう。
 だが、黒髪の少女の肌には、些かも朱が刺していない。全くいつも通りの、極上の白磁のように抜けるような白さだ。
 果たしてこれは何者かと、あらためてアーサーは思った。

「では……男の君と男のエドワードが、永遠の愛を誓ったのか?」

 同性愛者には世間並みの理解をしているつもりのアーサーだったが、それでも思わず声を荒げそうになってしまった。
 そんな彼を横目に見つつ、ウォルはその容姿には相応しく無い、低い声で笑った。

「それは違うな。男の俺と女のリィが、一応の形式として、永遠の愛を誓う羽目になったのだ」
「女の……エドワード……?」

 ここまで来るともう駄目だ。何が何やら分からない。
 アーサーの脳内回路は、ほとんど焼けきれる寸前に悲鳴を上げている。
 しかし何より質が悪いのは、目の前の少女が、たったの一言とて嘘を吐いていないということが理解できてしまう、自分の見る目の確かさだろうか。
 もう少しで目を回しそうなコーデリア・プレイス州の州知事を気の毒そうに眺めながら、ウォルは言った。

「詳しいことを気にする必要はない。要するに、俺は元は男で、今は少女の身体に間借りしている。リィは男だが、一時的に少女だった。そして、俺が男でリィが女の時に、俺達は式を挙げた。それだけだ」
「それだけ……と言われても……」
「そしてこれが一番重要だが……俺達は、確かに愛し合っていた。無論、いわゆる世間一般の男女の間に成立する、情愛を含んだ愛情ではない。だが、俺は間違いなくリィのことを何者にも代え難い唯一無二の存在だと確信していたし、自惚れで無ければリィもそう思っていてくれたはずだ」
 
 少女の口調はあくまで淡々としているが、しかしこれは紛れもない惚気話である。
 普通、人の惚気話など聞いていて楽しいものではない。諸手を挙げて降参し、ごちそうさまでしたと逃げ去るのが常道である。
 しかし、ここまで明け透けに、そして自信満々に話されてしまうと、薄荷飴を口中に含んだときのような甘ったるい爽快感があることを、アーサーは認めざるを得なかった。
 そして、彼は、彼が出来る唯一のことをした。
 苦笑いを噛み殺しながら、首を横に振ったのだ。

「では、エドワードは、女性として君のお嫁さんになったわけか」
「その通りだ」
「なら、エドワードの花嫁姿はどうだった?綺麗だったか?」

 花嫁たる少年の父の問いかけに、花婿たる少女は真剣な面持ちで答えた。
 
「美しかった。この世のあらゆる美姫が一山幾らとしか思えぬほどに、美の女神が裸足で逃げだすほどに、美しかった。この世の者とも思えぬほどに、美しかった」

 偽りのない賞賛の言葉に、アーサーも真剣な面持ちで頷いた。

「当たり前だ。なんたって、僕の自慢の息子なんだからな」
「そうか、自慢の息子か」
「そうさ、自慢の息子だ。だから、間違えても君には手を出さないから安心してくれ。そんなことになったら、二重の意味でエドワードを裏切ることになる」

 一つは、リィの伴侶を汚す、不貞の行為として。
 もう一つは、彼の父親として、その家庭を破壊する行為として。
 それは、絶対にアーサーにとって許される行為ではなかった。彼はもう二度と、自らの息子に見限られてやるつもりは無かった。

「だから、僕は君のことを化け物とは呼ばない。絶対に呼ばない。何故なら、エドワードは僕の息子だ」
「リィが卿の息子だということが、何故俺が化け物でないことに繋がるのだ?」
「決まっているじゃないか。エドワードは、僕の息子だ。だから、絶対に化け物なんかじゃあない。なら、エドワードが選んだ君だって、化け物なんかのはずがあるか。君はエドワードの伴侶だ。ならば、僕の娘だ。だから、絶対に化け物なんかじゃない」

 アーサーは、自分に言い聞かせるように言った。

「僕は、二度と手を離さないぞ。絶対に離すもんか」
「……この少女の父親も、卿のようなお人であればな……」
「ん?何か言ったかい、ウォル」
「いや、何でも」

 少女は、アーサーの手に握られたグラスに、再び酒を注いだ。
 まだ飲み始めていくらかも経っていないというのに、ウイスキーの瓶は空になってしまった。
 ウォルは少しだけ名残惜しげに、空の瓶を左右に振ってみた。ちゃぽちゃぽと、飛沫の散る音だけが空しく響いた。

「まだ呑み足りんな」
「ああ。折角、義理とはいえ息子と――それとも娘と一緒に酒が飲めるんだ。長年の夢が叶ったのに、この程度で終わらすのは勿体ない」
「リィは、卿と一緒に酒は飲まんのか?」

 リィは、相当に酒を好むはずだ。
 その分、甘味が全く駄目という、変わった娘ではあったが。

「あれは、一人でグラスを傾けるのが性に合っているらしい。だから僕は、いつだって一人寂しくちびちびと手酌で飲んでいたのさ」
「そんな酒は旨くないな」
「ああ、実に旨くない。だから、これからも付き合ってくれるかい?」

 アーサーは、魅力的な笑みを浮かべて、そう問うた。
 ウォルは、外交用ではない純粋な笑顔で、こう答えた。

「卿のことを義父上ちちうえと呼んでいいなら、お付き合いさせて頂きましょう」
「おお、それは望むところ――」
「駄目だな、そいつはおれの父親じゃないんだ。だから、お前が義父上なんて呼んだら、おれもそいつを父さんなんて呼ばなきゃならなくなるじゃないか」

 いつの間にか開いていた寝室のドア。そこに、人造の光を跳ね返す、金色の毛並みの狼が立ち尽くしていた。
 
「リィ」
「エドワード」
「その名前でおれを呼ぶなっていってるだろう、全く……。それに何だ、お前らだけで楽しそうに酒を飲みやがって。おれも混ぜろ」

 一体どこから調達してきたのやら、リィの手にはチーズやらクラッカーやらの盛り付けられた大皿が乗せられ、小脇にはきつめの蒸留酒の瓶が二本も挟まれている。
 この状態で、一体どうやって扉を開け放ったのかと訝しんでしまうくらい、器用な有様であった。
 リィはその体勢のまま部屋の中にずかずかと入り込み、ベッドの小脇、ちょうどアーサーとウォルとリィで正三角形になるような場所に、どかりと腰を下ろした。
 恐ろしくむっつりとした、今にも酒瓶を直接煽りそうな、剣呑な雰囲気であった。
 義理の父と義理の娘は、果たして何事があったのか知らんと顔を見合わせたが、しかし全く心当たりがない。
 ウォルは、猛獣を宥めるように、おそるおそると聞いてみた。

「おい、リィ。どうしたというのだ。何か気に食わないことでもあったのか?」
「大ありだとも。この匂いを嗅いでみろ」

 そう言われたウォルとアーサーは、少しだけ間の抜けた顔で鼻をひくつかせてみた。
 するとどこからか、小麦と砂糖の焦げる、甘ったるい香りが漂ってくるのだ。

「全く、あんな場所にいられるか!こんな匂いをずっと嗅いでたら、それだけで胸焼けを起こしちまう!」

 毒づいたリィは、手酌でブランデーをグラスに注ぎ込み、そのまま一気に煽った。
 それだけでは収まらなかったのか、もう一杯、もう一杯と、止まるところを知らない。
 これには流石の二人も慌てた。ウォルもアーサーも、リィが底なしのウワバミであることは理解しているが、しかしものには限度というものが在るはずだ。

「みんなでおれをのけ者にしやがって……」
「一体どうしたのだ、リィ」
「どうもこうもあるか!今の台所と居間はな、甘いものが嫌いな人間には寄りつけない魔窟なんだ!」

 本来はルウのお土産にと用意していた小山のような焼き菓子は、二匹の腹ぺこ魔神が貪るように食い尽くしてしまった。無論、それは黒い天使と蜂蜜色の大男である。
 その食べっぷりに気をよくしたシェラとマーガレットは、二人して追加のクッキーやらパイやらを作っている。
 その甘ったるい匂いに抗議したリィに対しては、

「アーサーと一緒にお酒でも飲んできたら?」とは、甘いものにご満悦のルウ。

「甘いものも食わないと大きくなれないぞ」とは、どうしてこんなに美味いものをたべられないのか真剣に首を傾げているヴォルフ。

「すみません、でもこれは唯一の趣味なので……」とは、申し訳無さそうなシェラ。

「ほら、そこにおつまみを用意しておきましたからね」とは、あくまで笑顔のまま容赦ないマーガレット。
 
 要するにここにお前の居場所はないぞ、と、煙草を嫌がられるお父さんみたいに、みんなから追い出されてしまったリィなのだ。
  
「飲むぞ、ウォル、アーサー!今晩は、とことん飲み明かすぞ!」

 理由のない迫害に憤慨し、一人気炎を上げるリィだったが、しかし残りの二人とて全く望むところである。
 アーサーは喜色満面の有様でベッドの上から飛び降り、ウォルもいそいそと椅子から降りて、直接床に腰掛け、そして互いのグラスに酒を注ぎあった。
 もう、二人とも満面の笑みである。

「そういえば、向こうでの飲み比べは勝負つかずだったな。どちらが本物の酒豪か、今こそ白黒を付けようではないか!」
「おお、望むところだ我が夫!」
「おい、ウォル!息子と酒を挟んで語らい夜を明かすのは父親の特権だ!エドワード、僕と飲もう!」
「うるさいぞ、アーサー!とにかく飲むんだ!飲まないでやってられるかこん畜生!」

 もう、あっという間に酒瓶は空になった。

「全然足りないぞ!」
「まぁ待てエドワード。これがなんだか知っているか?」
「おい、それはまさか、890年もののナイトオブオナー!?」
「流石我が息子!この酒の名を知っているとはな!」
「なんだなんだ、美味い酒なのか?」
「美味いなんてもんじゃない!一部の専門家の間では神の雫とも呼ばれる、奇跡の酒だ!」
「おお!流石は義父上ちちうえ!さぁ飲もう!是非飲もう!」
「当たり前だ!いずれ息子と飲み明かすときのために、ボーナスをそのまま注ぎ込んで買った酒なんだぞ!しかも、エドワードがこんなにも可愛らしいお嫁さんを連れてきた、こんなめでたい日に栓を抜かずにいつ抜くというんだ!」
「よし、気に入ったぞアーサー!今日だけはその名前でおれを呼んでも許してやる!」
「良く言ったエドワード!まあ飲め!さぁ飲め!」
「…………!」
「――――!」
「……」
「―」
 
 明朝、アーサーの寝室には、程よくアルコールに漬けられた、人体標本が三体転がっていた。
 コーデリア・プレイス州の州知事の執務室は、結局その日は主人を迎えることはなかったし、リィは二日酔いの頭を押さえながら、シェラにおぶられるようにしてティラ・ボーンへの帰路についた。ウォルはマーガレットに看護されながら、どうやら元の体に比べれば相当に酒への耐性を失ってしまっている我が身の情けなさを恨んだ。
 
「……もう、ぜったいに、さけはのまんぞ……」

 二日酔いに苦しむ酔っぱらいの大半が呟く不可能事を呟きながら、トイレへと向かう黒髪の少女が、いたとかいなかったとか。



[6349] 幕間:そらのなか
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/15 07:55
 それは、ありふれた旅客用宇宙船の、ありふれたデッキの一室だった。
 清潔で無機質で、機械こそが人を支配する空間。それを誤魔化すために、慰み程度に置かれた観葉植物が、誰からも忘れながら部屋の隅に佇んでいる。
 少女は、一人ぽつねんとビニル製の安っぽい長椅子に腰掛け、壁に掛けられた大型モニターをぼんやりと眺めていた。
 どこからか、低く唸るような音が聞こえる。
 それは少女にとって耳慣れない音だったが、他の者が聞けば単なる機械のモーター音だとすぐに気がつき、それ以上気に止める事すらなかっただろう。
 しかし、その、腹の底に響くような音を、少女はどこか懐かしく、馴染み深いもののように感じていた。
 それは、戦乱の音だった。
 戦場に響く、鈍く重たい行軍の音。
 遠く巻き起こる砂塵と、近くにわき起こる鬨の声。
 人の群れ、軍馬の群れ、空を飛ぶ鴉の群れ。
 遠からず、緑の大地は朱に染まる。
 身体が震える。いつだってそうだった。戦いの前は、胃液を吐き戻しそうになるくらいに怯えていた。
 恥だと思った。何故、戦士として、そして王としての身分を持つ自分が、戦如きに怯えているのか。

『怖いか、ウォル』

 隣にいるのが誰かなんて、確かめる必要すらない。
 そこには、黄金色の髪があるだろう。白磁の上に薔薇の粉を撒いたような頬があるだろう。引き絞られた弓が如きしなやかな筋肉があるだろう。
 そして、緑柱石色の瞳があるに違いないのだ。

『俺は――』
『おれは怖い』

 彼だけの戦女神は、微塵も恐怖を含まない、毅然たる声でそう言った。
 男は、こちらの返答を待たないのは卑怯だと、そう思った。

『お前でも、怖いと思うことがあるのか』
『当たり前だ。戦いは怖い。いつだって怖い。すっ飛んで逃げだしたくなる』

 その秀でた額には、少女の瞳と同じ色をした銀冠の髪飾り。
 臆病を微塵も感じさせない、身軽な戦装束。
 腰には、男自身の命を救ったこともある、銘の無い名剣。
 名も無き丘より、唯一男と並び立ち、この世の終わりのような光景を眺める。

『では、何故お前は逃げない。俺は王だ。ここで戦を指揮し、その結果を見届ける義務がある。しかしお前は王妃だ。ならば、俺の勝利を宮殿で待っていてくれればいい。お前がここにいなければならない理由など、どこにもないというのに』
『そこまでだ、ウォル。そこまでは許してやる。でも、それ以上言ったら、お前だって許さないぞ』

 その声にだって、ほんの少しも怒ったところは無かった。
 むしろ、楽しげに揺れていたくらいだ。
 男は、苦笑した。男だって、まさか本気で言ったわけではない。ただ、自分の隣に立つ、獣と呼ぶにはあまりに美しい金色の獣と、少しだけ戯れたくなっただけのこと。
 そして気がついた。自分の中に沈殿していた恐怖や不安、畏怖の念が、魔法のように消え失せていることに。

『死ぬのは怖くない。殺すのだって怖くない。いつ死んだっていい。だから、いつだって殺してやれる。そして、おれは毛の先ほども死ぬつもりなんかない』
『しかし、それは闘う理由にはならないな』
『その通りだ、ウォル。人を殺していいっていうことと人を殺すということには、無限にも近い距離がある』
『ならば、何故お前は闘う?俺の隣で剣を振るってくれる?』

 男は、その時になって初めて、己の隣に並び立つ、年端もいかぬ少女を眺めた。
 いや、それは既に少女ではない。出会ったときは少女であったとして、今のそれは既に女であった。
 男と共に永遠の愛を誓った、しかしそれ以上の絆で結ばれた、永遠の同盟者であった。
 その女が、見るもの全てを虜にするような、輝かしい微笑みを浮かべて、言った。

『決まっている。おれは、お前が負ける姿なんか見たくないからだ。だって――』

 お前は、おれだけのバルドウなんだからな――。

 遠い、気が滅入るほどに遠い、昔のことだ。
 
 ウォルは、星々の大海の中に身を埋めていた。
 彼女の漆黒の瞳に映っているのは、本物の星の光ではない。外洋宇宙船の高精度スクリーンに映った、いわば機械の目を通した偽物の星の光だ。
 それでも、ウォルにはその光が、何か特別なものに感じられて仕方がなかった。今まで、いくら手を伸ばして掴もうとしても掴めなかった宝物が、目の前に転がっているような気すらした。
 赤。青。白。紫。ほとんど黒に近いような、ぼんやりとした光。
 人の想像しうる、あらゆる光がそこにはあった。
 美しいもの。おぞましいもの。恐ろしいもの。
 そこには全てがあり、何も無い。
 その中で、一際美しく光る星があった。
 緑色に光り輝く、宝石のような星だった。
 名前は、知らない。
 ただ、その緑色の、誰かの瞳のような輝きが、大気のない虚無の空間の中で、瞬いているような気がした。
 ウォルは、言葉も、時間も、息をすることすら忘れて、その星を見つめていた。

「お嬢さん。こんなにも辺鄙な宇宙が、そんなにも珍しいのかな」

 ふと気付けば、すぐ隣に人の気配があった。
 ウォルは、さして驚いたふうでもなく、落ち着いた様子で声の主の方を見遣った。
 そこには、彼女の知らない顔があった。
 漆黒の視線を正面から受け止めたその男は、苦笑しながら続けた。

「いや失敬。君があまり熱心にモニターを睨みつけているものだから、つい、ね」
「失礼。どこかでお会いしたのだろうか」

 この世界に限って言えばそれはまず無い。ウォルにとって面識があるのは、彼女の同盟者たる金色の獣とその関係者を除けば、両手の指で足りるほどの人間としか顔を合わせていないからだ。
 然り、声の主である初老の男は、首を横に振った。

「私の記憶が正しければ、君と話すのは今日が初めてだろうな。しかし最近はどうにも物忘れが激しくてね。自分の記憶に今ひとつ責任が持てない。だから、私が忘れているだけならここで謝罪させて頂こう」

 男の声は、その言葉とは裏腹にほんの少しの老いも感じさせない、矍鑠たるものだった。
 それがおかしくて、ウォルは言った。
 
「いや、それには及ぶまい。俺も、あなたと顔を合わせるのは初めてのはずだ」

 男は、ウォルの言葉遣いに少しだけ眉を顰めた。しかしそれは嫌悪感を表すものではなく、己の常識と現実との齟齬に首を捻るような、無邪気なものであった。
 そして、その思いをそのまま、口に出して言った。

「私はあまりテレビや雑誌というものに目を通さないのだが、最近の女の子の間では、そういう話し方が流行しているのかな?」
「そういうことは無いと思う。少なくとも、俺の知る女の子は、俺の知る通りのしゃべり方をしていた気がするからな。やはりおかしいか?」

 ドレステッドホールの女の子たち、ドミューシアとデイジーローズのことを思い浮かべながら、ウォルは答えた。彼女達の口調はウォルにとっても馴染み深い、年頃の女の子に相応しく可愛らしいものだったから、自分の言葉遣いが如何に『浮く』ものなのか嫌と言うほどに思い知らされた。
 しかしだからといって、自分が女性を取り繕うことには限界があることをウォルは理解していた。むしろそれが当然である。シェラのように、女性としての振る舞いや作法を叩き込まれて成長した男性など、この世にどれほどいるのだろうか。
 今現在のウォルの身体は、紛れもない女性の身体ではある。しかしそこから滲み出る気配は、どう糊塗したところで男性のものにしかなり得ない――少なくとも今のところは――ことを受け入れざるを得なかったのだ。
 ならば、慣れない女性として振る舞うよりも、むしろ男性として振る舞った方が良かろうというのがウォルなりの結論である。そうすれば最初から『少し変な女の子』として周囲は理解する。その結果受け入れられることもあるだろうし、逆に最初から拒絶してくれるかも知れない。それに比べて、後々になって『とても変な女の子』であるとばれたときのほうが致命傷になりかねないと、彼女はそう判断したのだ。
 その、『少し変な女の子』を前にして、初老の男性は微笑んだ。それはそれは優しい、孫を見るような視線だった。

「おかしいおかしくないで言えば、おかしい。私は狭い世界に生きる人間でね。君のように可愛らしい女の子がそんなしゃべり方をすると、どうしても違和感があるな」
「正直だな、卿は」
「しかし、何とも君には相応しい。とても魅力的だよ」

 ウォルも、その笑みに引き込まれるようにして微笑った。それほどに、男の笑みは、底の深い、なんとも心地よいものだったのだ。

「そんなことを言われたのは、生まれて初めてだな」

 嘘ではない。
 男として生きたときはそれなりの浮き名も流したウォルであるが、しかし女性としての自分を褒めて貰ったのは今回が初めてである。
 裏表の無い褒め言葉は、基本的には嬉しいものだ。当然、男の身体の時に『魅力的な女性だ』などと言われれば怖気に背筋が凍り付くだろうが、ウォルは今の自分がどこからどう見ても女性であることを理解しているから、男の言葉を素直に受け取った。
 しかし当の男は、ウォルの言葉に心底驚いたようだった。

「嘘だろう?君のような女の子なら、たくさんのボーイフレンドから、もっと華やかな賞賛の言葉を受け取っていても不思議じゃないと思うんだが」
「生憎、そんなものは今までとんといなかったのでな」
「それは回りの男の子たちが阿呆だ。これほど見事な花を見過ごすとは、男の風上にも置けないな」

 どうにも軽妙な口調である。ウォルは、そちらの方面について多大なる武勲を誇った、己の従弟のことを少しだけ思い出した。
 そして、ウォルはあらためてその男を眺めて、感嘆の溜息を吐いた。
 堂々たる体格を誇る威丈夫であった。
 縦にも横にも、相当の質感がある。どっしりと、根の生えた大樹のような体つきだ。それでいて、少しも鈍重な印象がない。ぴしっと仕立てられた質の良い衣服の下には、鍛え込まれて錆び付きようのない筋肉が隠されていることがよく分かる。
 その顔に刻まれた皺の深さから相当の年齢になっているのは明らかなのに、背筋はちっとも曲がっていないし、足取りだって確かだ。柔和な微笑みを浮かべる瞳だって少しも濁っていない。
 きっと若かりし日は華やかな女性遍歴を誇った男なのだろうと、ウォルはそう考えて苦笑した。

「ちなみに参考までに伺いたいのだが、卿が今の俺と同じくらいの歳の頃ならば、俺に声をかけていたかな?」
「宇宙船ですれ違ったとしても、すっとんで会いに行ったろうね」
「それは何とも情熱的だな」
「美しい女性に声をかけるのは男の権利だよ。隣に親も恋人もいないなら、義務だと言ってもいい」
 
 男の口調は意外と真剣な調子だった。
 それがおかしくて、ウォルは笑った。声を出して笑った。
 仮に男がウォルに対して異性としての興味を抱いていたならば、これは一つの勝利と呼んで差し支えないものであるはずだった。女性の心を射止めたければまず笑わせろとは、どの偉人の言葉だったか。

「隣、座ってもいいかな?」
「ああ、どうぞ」

 そもそもここは公的な交通機関としての外洋宇宙船の中なのだから、誰に断りを入れる必要も無い。そのことは男もウォルも心得ていたが、男はあくまで礼儀として、ウォルに対して断りをいれた。
 立場が逆だったとして、ウォルもそうするだろう。妙齢の女性の隣を勝ち得るためには、王に謁見する程の誠意と勇気をもって望むべきだったし、正当な努力には正当な報償をもって報いるべきだった。
 男が腰掛けると、ウォルの座ったビニルの長椅子が僅かに撓んだ。
 男は、その長身に似合って、相当な体重も有していたらしい。

「さて、最初の話だ。君にとって宇宙は、そんなに珍しいものなのかな?」

 男は、ウォルの顔を見ることなく、そう言った。
 彼の視線の先にあるのは、先ほどまでウォルが食い入るように見ていたスクリーンがある。
 ウォルも男に倣って、偽りの星の海に再び視線を戻した。そこに、先ほど見つけた、翠緑石色の星は無い。
 ウォルは、少しだけ残念だった。

「そうだな……なんと答えたものか」

 この世界の人類にとって、宇宙とは、星と星を繋ぐ交易路のようなものらしい。時折未知の発見があるとしても、それは自分達の生活とはかけ離れたところに存在するものだ。
 ならば、そんなものに対してこうも興味を抱くのは普通のことではないのだろうか。
 ウォルは、自分がどのように答えるべきなのかを知っていた。しかし、隣に腰掛けたこの男には、自分の正直な心を伝えてみたかった。

「珍しい、などという言葉では到底足りない。感動している、と言ってもまだ足りない。ただただ溜息しかでない。卿の言い様を真似るならば、遠くから眺めるしか出来なかった深窓の美姫をこの手にしたような、そういう印象だ」
「その言葉は、君のような女の子が使うのは些か相応しく無い気がするが……」

 男は笑いを噛み殺しながらそう言った。
 そうすると、元々色の濃い褐色の肌の顔に白い歯が浮かび上がり、なんとも魅力的な顔になる。知性と愛想と勇気、その裏にぎらりと光る牙を隠し持った、女性ならばころりといってしまいそうな表情だ。
 当然、少女のうちに宿った魂は女性のそれでは無かったからころりといくことは無かった。しかし、この見知らぬ男に興味を抱いたのは確かだった。

「君くらいの歳ならば、もう数え切れない程に宇宙を旅したことのある子供だって珍しいものじゃない。少なくとも、知識や映像として、この光景は馴染み深いものであるはずだ。それでも君は、この宇宙に感動してくれるのか?」
「ああ、感動しているとも。卿はどうなのだ?卿にとってのこの光景は、何の感慨も呼び起こさぬありふれたものなのか?」

 ウォルは問い返した。
 それは何気ない言葉であったが、答える男の声は存外に真剣なものだった。

「私は、生まれて初めて見る光景に感動を覚えないほど、鈍い情緒をもって生まれてきたわけではないのでね。今だって、心の底から感動に打ち震えている」

 それは意外な言葉だった。
 ウォルは不思議に思った。この男からは、帆船に命を預け、潮風に肌を灼いた男達、あちらの世界にいた彼の友人の一人に近しい匂いを感じたのだが、それは勘違いだったのかと訝しんだ。
 そんなウォルの内心に気がついたのだろうか、男はウォルの黒い瞳を覗き込むようにしながら言った。

「自慢ではないが、私は地に足を付けていた時間よりも宇宙を泳いでいた時間の方が遙かに長い。そして、それは死ぬまで変わらないだろう」
「やはり卿は船乗りか」
「そうだね……そういう呼び方も、出来るのかも知れないな。しかし今は、到底船乗りなどとは名乗れない。時代に取り残された、ただの老いぼれだよ」

 男は恥ずかしそうに鼻の頭を掻いた。そうすると、既に70を越えているであろうこの男に、妙な愛嬌が宿る。
 だが、それがこの男にとっての仮の表情でしかないことはウォル自身気がついている。何かのきっかけと共に、この愛くるしい顔立ちが、怒り狂った獅子の顔に変わるのは明らかだ。
 男から立ち昇る、噎せ返るように濃い香り。それは、ウォルにとっても馴染み深い、戦場を味わったことのある男の香りだった。だが、例えばヴォルフのように、軍人特有の堅苦しい感じがしない。
 このあやふやで、それでいて心地よい感触は何だろうと、ウォルは考え込んで、内心ではたと手を打った。
 
「そうだ、タウだ!」

 男は、突然に嬉しそうな声を上げたウォルを、不思議そうに眺めた。

「タウ、とは?」
「ああ、俺にとって馴染み深い土地なのだが……卿は、そこに住む人達によく似ていると思ってな」

 ウォルは嬉しそうに言った後で、その男がタウという地名など到底知っているはずもないことに思いが至り、少しだけ頬を赤らめた。
 男はそんなウォルを見て、笑ったりしなかった。ただ嬉しそうに目を細めた。

「そこにいるのは、君にとって大切な人達かな?」

 ウォルは、何の照れもなく答えた。

「ああ。かけがえのない友人達だ」
「ならばありがたい。私も君にとって、そのような存在でありたいものだ」

 男も、心底嬉しそうに頷いた。
 その言葉には直接答えず、ウォルは重ねて問うた。

「しかし、尚のことおかしいな。卿が宇宙船を操る船乗りならば、このような光景はとうに見慣れたものなのではないのか?」
「似たようなものを見たことがあるかないか、で言えば確かに見飽きたと言ってもいい。だが、この光景を、正しくこの光景を見るのは今日が初めてだ。ならば見飽きるはずもないだろう?」
「ならば、卿は今まで見た宇宙を、全て覚えているのか?」
「今の船乗りはいざ知らず、我々が船を操っていたときはそうでも無ければ生き残れなかった。そして私は生き残っている。ならば、そういうことも出来るのかも知れないな」

 男の言葉はあくまで飄々としたものであったが、少しも不快ではなかった。
 そういえばウォルの世界でも、一流どころの船乗りにとって、潮風の香りや波の色で自分がどの海を進んでいるのかを見分けるなど、常識といってよかった。少なくともそうでなければ一流と呼ばれることはなかったし、一流と呼ばれる前に海の藻屑に成り果てていた。
 リィから、この世界の人間は機械無しでは一日だって生きていけないものなのだと聞いていた。しかしここに、そうではない――少なくともそれだけではない人間がいる。
 ウォルは嬉しくなってしまった。

「卿の名前を聞きたいな」

 ウォルは素直にそう問うた。
 男は意外そうな顔をした。女性から名を尋ねられることなど、老齢に差し掛かった頃でさえ珍しくはなかった彼だが、年端もゆかない少女に尋ねられるのはやはり希有なことだった。
 しかし、気を取り直して口を開こうとした、その時。

『お客様のお呼び出しをします。ペリティア星系エレノス宇宙港よりお越しのレオナール様、お伝えしたいことが御座います。お近くの内線電話より、三番お客様受付センターのほうへ連絡を頂きますようお願い申し上げます』

 その船内放送に男が反応したのは明らかだった。
 そして、そんな自分を見られたことに羞恥を覚えたのか、男はその長髪を掻き上げて、苦笑いを浮かべた。

「……と、いうことだ、お嬢さん。どうやら連れから呼び出しが入ったようでね。名残惜しいが失礼させて頂こう」
「待って欲しい。まだ、俺の方が名乗り終えていない」

 長椅子から立ち上がった男、レオナールを引き留めるように、ウォルも立ち上がった。
 そして言った。

「俺の名前はウォル。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン。もうしばらくすれば、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインになるだろう。長ったらしい名前だが、どれも大切な名前だ。どれか一つでも覚えておいて頂けるとありがたい」

 レオナールはウォルの言葉を聞いて、少しだけ辛そうに眉を顰め、そして少しだけ暗い表情で笑った。
 
「そうか。では、ウォル、と呼んでもいいのかな?」
「ああ。親しい人達はそう呼んでくれる」
「じゃあ、俺のことはラナートと呼んで貰えると嬉しい」

 レオナールと、そしてラナートと名乗った初老の男は、その銀色の長髪を靡かせるようにして立ち去った。
 ウォルは、今度こそ引き留めなかった。
 この船は各所で乗客を拾い、しかしその目的地はほとんど一つだけだ。
 連邦大学星、ティラ・ボーン。
 だからといって、再び会えるとは限らない。何せ、ウォルの生きた世界ですら旅先での出会いは一期一会、再会を約した別れであっても二度出会わないことなど珍しいことではなかった。
 ならば、星の数も眩む程に人の多いこの世界、名前だけを交換しあった旅人が再びまみえる可能性など如何ばかりだろうか。
 ウォルはほんの少しの寂寥と共に、ラナートのぴんと伸びた背中を見送った。



[6349] 第十八話:転入初夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/03/17 22:58
 連邦大学は、押しも押されぬ共和宇宙最高学府である。
 無論、教育機関と研究機関とは並立し得る、そして並立すべき存在であるから、連邦大学に所属する学生から教鞭を執る教授や准教授、そして彼らの下支えをする職員を数えれば、膨大な人数となる。
 その上、下部組織である小中高の義務教育機関、そして各種専門学校の数だって両手両足の指の数では到底数え切れない程である。それらを合わせると、一つの星を教育機関が埋め尽くすという異常な状況だって、寧ろ当然であると人は納得するだろう。
 しかし、広大な敷地と立派な設備を誇るからといって、無制限に学生の受け入れをしているわけではない。門戸こそ広いが、その中に留まることは一方ならぬ努力を要する。『来るものは拒まず、去るものは追わず』、それを体現するのがこの星の指導方針なのだ。
 当然、学期の途中であったとしても、その授業速度について行けずにこの星を去る学生は多い。逆に、己の力を試してみようとしてこの星を訪れる学生はもっと多い。
 結果として、例えば進級の時のクラス編成時や学期の始めなど、節目以外に新しい学友の顔が増えることだって珍しいことではない。
 しかし、今日はやはり特別であった。

「みんな、注目して欲しい」

 寮長の、ハンス・スタンセンの朗々たる声が、人も疎らな食道に響く。
 集められたのは、中等科の一年生ばかり。既に食事も終え、あとは各自の部屋で、もしくは自由室で思い思いの時間を過ごそうとしていた学生ばかりだ。
 だが、その顔に、夜も更けたこの時間に突然呼び出された不満などありはしない。むしろ、新しく自分達の仲間になるのが一体どんな人間なのか、隠しきれない興味に瞳を輝かしている。
 
「我々の新しい仲間を紹介する」
「……さて、どんな自己紹介になるのやら」

 隣に座った銀髪の少年だけに聞こえるような声で、リィは呟いた。
 どうにも意地の悪い声だったから、シェラは苦笑した。そして、直接は答えずに、こんなことを言った。

「それにしても、我々の時に比べると随分人が少ないですね」
「おれ達のときは事情が事情だったからな。これくらいが普通なのさ」

 リィとシェラが紹介を受けたときなどは、この寮に住む全ての人間が一堂に会し、その中での紹介となったのだ。
 それは、二人が特別扱いを受けた結果ではない。ただ、二人の整いすぎた容姿によって無用な混乱が起きないよう、寮長たるハンスが機転を利かせただけの話で、リィもシェラのその心遣いに感謝していた。
 それに比べれば、今から紹介を受けるであろう編入生の容姿も、整っているとはいえ、それは性別に則したところの整い方であるから無用な混乱が起きる可能性は無い。もっとも、無用ではない混乱――年頃の少年達が、あこがれの異性に当然抱くような――は起きるかも知れないが、それはハンスとて如何ともし難いものであるのだ。

「なんだ、ヴィッキー。お前、転校生が誰か、知ってるのか?」

 やはりひそひそ声で、リィの隣に座ったジェームズ・マクスウェルが尋ねた。
 リィが肩を竦めながらそれに応じようとしたその時、手短な説明と前口上を終えたハンスが、扉を開いて外に控えていた編入生の入室を促した。

「では、入ってくれ」
「ありがとうございます」

 聞こえたのは、少女の声だった。
 転入生の性別を知らなかった寮生達のうち、リィとシェラを除いた半分はにわかに色めき立ち、残りの半分は少しだけ残念がっているようだった。
 程なくして、堂々とした足取りで、一人の少女が食堂に入ってきた。
 それを見た寮生は、一斉に感嘆の吐息を吐き出した。
 まず、39対の瞳が最初に見たのは、その流れるような黒髪だった。
 当然、食堂に集められた生徒の中には同じ色の髪の毛を持つ者も多かったが、しかしそのいずれもが、自分と同じ色の髪であるとは思えなかった。
 黒い髪の毛は、基本的には見る者に重たい印象を与える。それを好む者ならばともかく、年頃の、特に少女などはその重たい印象を嫌がり、髪の毛を染める者も少なくない。この寮に住む者の多くが通うアイクライン校は比較的自由な校風であるので、染髪も、余程に奇抜なものを除けば特に禁止されていない。だから、一見すれば金髪に見える少年少女も、実は黒髪だったということも少なくないのだ。
 しかし、その少女の黒髪の見事さはどうだろう。
 黒に黒を幾重にも重ねたような、深い黒。なのに、どこにも暗いイメージがない。例えるなら若々しい黒豹の毛並みのように、艶やかに煌めきながら電灯の光を受け流している。
 そして、その髪と同色の、意志の強そうな瞳。
 抜けるように白い肌、ほっそりと均整の取れた体つき。
 深窓の令嬢と呼ぶには、身に纏った男もののシャツとスラックスが些か相応しくないようであるが、全体として見ればこの上なく似合っている。
 男装の麗人という、年頃の少女を称するには風変わりな言葉が、その少女の容姿を表すのにぴったりであった。

「お初にお目にかかります。私の名前はフィナ・ヴァレンタイン。右も左も分からぬ田舎者ゆえ皆様にはご迷惑ばかりおかけすることになるかと思いますが、どうぞよろしくお願いします」

 その瞬間、38対の視線が、少女以外の人間に集中した。
 それは、その人間の隣に座った、銀髪の少年とて例外ではない。いつもは何があっても落ち着き払った様子を崩さないシェラまでもが、呆気にとられた様子でリィを見つめていた。
 やがて、その中で最も勇気ある少年が、おそるおそると片手を上げながら、探るような声で質問をした。

「えーっと、ひょっとして君はヴィッキーの……?」

 リィが何か声を上げる前に、少女はにこやかに微笑みながら、少女らしくない口調で言った。

「ああ、私はそこにいるヴィッキー・ヴァレンタインの妹だ」

 食堂の中に、些か夜には相応しく無い、騒然たる叫び声がこだました。
 

 ウォルがリィと離れて惑星ベルトランに一人残ったのは、もちろん事情があってのことである。
 現在、ウォルが身を寄せるこの世界――端的に言ってしまえば共和宇宙に、彼女の存在を根拠づける公的な記録は一切存在しない。ウォルが間借りする少女、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンには、一応の記録こそかつては存在したものの、現在では三年前の事件の再来を恐れる政府機関によって徹底的なまでに抹殺されている。
 シェラがリィに言ったように、この世界で生きていく上で、個人の公的な記録というものは欠かすことの出来ない重要な存在だ。無論それを持たない私生児や辺境民がいないわけではないが、少なくとも中央において、そんな人間が日の当たる人生を送ることが出来るはずもない。
 シェラの時は、ロストプラネット出身という、一歩間違えば正気を疑われるような方便をもってその公的記録を獲得したが、ウォルのケースにはその離れ業を使うことは出来なかった。
 二匹目の泥鰌を恐れたのではない。それよりももっと切実な、大きな問題があったのだ。
 それは、ウォルとシェラの過ごしてきた生涯の違いである。
 シェラは幼き日より、流れた先の土地の風俗に合わせてその生活習慣を変え、コミュニティの中に溶け込むための訓練を受けてきた。それに対してウォルは、基本的には一つの場所で、どっしりと根を下ろした生活を送ってきている。
 では、果たしてそのウォルに、シェラほど器用に己の生い立ちについて周囲の目を欺くことが出来るだろうか。それも、右も左も分からぬ異世界で、だ。
 リィはその点について楽観的であったが、しかし当のウォルとシェラは懐疑的であった。

「何せ、俺は楊枝一本削ったこともない、不器用を地で行くような男だ。到底シェラの真似が出来るとは思えん」
「おれはお前くらい器用な奴の方が珍しいと思うけどなぁ」

 この上なく疑わしげな視線を寄越しながら、リィは呟いた。

「お言葉ですがリィ。へ……ウ、ウォリ……は、確かに器用な方だと私も思います。思いますが、これはどちらかというと『慣れ』のほうが物を言う領分ですので……」
「ふむ、流石にシェラはよく分かってくれる」

 ファロット伯と呼ばれなかった少年は、安堵の溜息を吐き出した。
 それを横目に見ながら、興味の薄そうな様子でリィは呟いた。

「ふーん。ま、シェラがそう言うなら間違いないんだろう」

 星間通信を用いたこんな会話があって、結局当初の予定通り、ウォルの身元は非道な人体研究施設から救い出された憐れな少女という設定でヴァレンタイン夫妻に紹介された。当然マーガレットはそれが方便だと知っているが、どうやら全くの嘘でもないようなその説明に衝撃を受け、少女の不遇に涙を流した。
 施設での記憶は、ウォルの宿った少女の脳髄に、嫌と言うほどに刻み込まれている。この点、例え施設の関係者がこの少女を捕まえて尋問したとしても、少女の中に宿っているのが別人格だとは露ほども思わないだろう。無論、ウォル自身を含めたところで数人の人間が、その持ちうる全ての暴力をもってそんな事態を許しはしないのだろうが。
 結果、ヴァレンタイン夫妻は二つ返事でウォルの身元の引き受けを快諾した。
 しかしここで再び問題になったのが、やはりウォルの元々の公的記録である。
 エドナ・エリザベス・ヴァルタレンに関する公的記録は、徹底的なまでに抹消されている。ひょっとしたら、両親の記憶だって操作され、彼女のことを覚えている人間はこの世にいないのかも知れない。
 そんな人間の、いわば元から存在しない人間の後見人になるなど、どだい不可能である。可能であったとしても、彼女の存在を一から公的に認証するためには、シェラのとき以上に面倒な手続が必要になるだろう。
 もとよりそんな些末事に無駄な時間をかけるつもりのなかったウォルは、電話一本でその問題を解決した。
 
『失礼、そちらは連邦主席官邸で間違いなかったかな?』
「はい、その通りです。失礼ですが……?」
 
 この共和宇宙でもっとも多忙を極める役人の詰め所であるそこには、当然多くの電話がかかってくる。しかしその多くは幾重にも張られた厳重なチェックを受けて、担当係官から引き継がれるのが通常である。
 その中で、直通電話のかたちを取られるのは、余程に緊急の連絡か、それとも極々私的な相手なのか。
 それにしても、受話器の向こうにいるのは、どうやら年若い女の子のようなのだ。
 主席付の秘書官は首を捻った。そして、重ねて問うた。

「主席にどういったご用事でしょうか?」
『狼女が、朗報を一つ、そして頼み事を一つ持ってきたと、そう伝えて欲しい』

 その効果は驚くべきものだった。
 共和宇宙全体の、経済とエネルギー問題を解決すべく集まった各国財務大臣との折衝に臨んでいた共和宇宙連邦主席、マヌエル・シルベスタン三世は秘書官からの緊急呼び出しに舌打ちを堪えつつ、人好きのする笑みを浮かべながら会議室を後にした。

「何だ、今がこの会議において最も重要な局面であると、君とて知らぬわけでもあるまいに」
『はっ、お怒りはごもっともですが……その、狼女を名乗る少女から、例の直通回線を通じて連絡が入っておりまして……』

 予想だにしなかった名前を聞いて、主席は、赤絨毯の上でへなへなと崩れ落ちた。
 その時誰も廊下を歩いていなかった辺り、この男は幸運を司る星の下に生まれていたのかもしれない。ただ、その星は幸運以上に、気苦労と胃痛と偏頭痛を司っていたに違いないのだが。
 それでも何とか携帯端末を取り落とすことだけは避けた主席は、震える声で問い返した。

「そ、それで先方は、なんと、一体何と言っていた!?正確に復唱したまえ!」
『は、はい。ええと、狼女が、朗報を一つ、そして頼み事を一つ持ってきたと、そう伝えて欲しい、と』
「……わかった。すぐにそちらに向かう。電話はそのまま繋いでおくように。それと、くれぐれも粗相のないように気を付けたまえ。冗談では無く、君の対応によってこの共和宇宙の命運が決まるといっても過言ではないのだからな!」

 一体何の事かわからずに悲鳴に近い呻き声を発した秘書官を無視して携帯端末を切った主席は、ほとんど全力疾走で主席官邸に向かって走った。主席官邸と連邦議事堂は隣り合った建物であるため、下手な乗り物を使って移動するよりも歩いて行った方が早いのだ。
 それでも、いつもは綺麗に撫でつけられている髪を乱れさせ、額に珠のような汗を浮かべながら疾駆する連邦主席というのはやはり尋常ではない。すれ違った人達は、果たしてどのような異常事態が起きたのかと訝しんだ。
 一方、気の毒なのは主席が到着するまでの間、少女の相手を命じられた秘書官である。
 粗相の無いようにと言われた以上、保留にして待たせるというのも躊躇われたし、かといって一体何を話したものかわからない。そもそも、受話器の向こうにいるのが一体誰なのか、想像すら出来ないのだ。

『主席はまだ戻られないのか』

 如何なる感情も排したような冷たい声(少なくともこの秘書官にはそう聞こえた)が、受話器から響いてくる。秘書官は、ほとんど祈るような気持で、この正体不明の相手が怒りにまかせて受話器をフックに戻さないよう、願った。

「そ、その、ただ今急ぎでこちらに向かっておりますので、もう少々お待ち頂けますか?」
『もしお忙しいようなら掛け直させて頂くが?』
「い、いえ、それには及びません!どうか、どうかこのままお待ち下さい!」

 偉大なる連邦主席が息せき切って戻ってきたときに、電話は既に切られていましたでは秘書官失格である。直後に盛大な雷を落とされるのは覚悟しなければならないし、最悪の場合は、生まれたばかりの乳飲み子と愛する妻を抱えて路頭に迷う羽目になるかもしれない。
 秘書官は、今までに一度だって発揮したことのないくらいに真摯な想いを込めて、声だけしか知らない見ず知らずの相手に、電話をつなげておいてくれるように頼み込んだ。

『いや、しかしそちらもお忙しいだろう。俺もそうだったから分かるが、国を一つ治める人間というのは身体が二つあっても足りぬほどに多忙を極めるものだ。そんな人の邪魔をするのは気が引ける。やはり、掛け直させて頂こう』
「いえ、いえ、お願いです、後生ですからどうかこのまま電話を繋いで下さい……!」

 秘書官にとっては無限とも思える時間、その実、五分を少し越えるかどうか程度の時間の後に、全力疾走を終えて息を切らした連邦主席が官邸に戻ってきた。
 文字通りに神経をすり減らしていた秘書官は、尊敬すべき上司の到着を、今までのどの瞬間よりも嬉しく、そして頼もしく思った。

「しゅ、主席!」
「せ、せん、先方は!?まだ、電話を、繋いでいるんだろうな!?」
「はい、はい、」

 秘書官が恭しく……というには少々間抜けな様子で差しだした受話器を、主席はもぎ取るように奪った。
 そして、途端に慎重な手つきになり、耳に押し当てて、呟くように言った。

「……もしもし」
『おお、主席殿か。久しいな』

 豪放磊落を絵に描いたような、野放図な声でありながら、しかしどこまでも耳に心地よい少女の声である。
 主席は、このような声を持つ者が誰なのか、よく知っている。
 例えば、例の騒動の時に、惑星ボンジュイと主席官邸を取り持つことになった、長身のあの男。それとも、その時に同席した、金色の戦士。
 これは、生まれながらにして人を従える、それとも人を惹き付ける、ある種の定めを持った人間の声なのだ。
 羨ましいと思う。彼らは、自分のように、派閥ごとの根回しや、言うことを聞かない政治家に鼻薬を嗅がせるなど、そういう汚い仕事をすることなく、気軽な有様で頂点に立つことが出来るのだろう。
 気に食わない。というよりも、認めたくない。それは、今までの自分の生き方を、真っ正面から否定することになるからだ。
 しかし何より気に食わないのが、この種の人間は、自分が喉から手を伸ばすほどに求めるもの――名誉や権力、金銭や異性――などは、歯牙にもかけないことだ。そもそも価値のあるものとして認識していない。
 それが何よりも腹立たしい。まるで自分自身を無価値なものと断じられたような、疎外感に近いものがある。
 主席は、そういったいくつもの感情を飲み込み、荒々しい呼吸を収め、そして口に出してはこう言った。

「お久しぶりです、デルフィン卿。私は貴方からの連絡を、一日千秋の想いでお待ちしておりましたよ」

 やや恨みがましくなってしまった声に、電話の向こうの少女は苦笑したようだった。

『申し訳ない。本当はもう少し早く連絡が出来たのだが、何せ頭痛が酷くてな。ベッドから起き上がる気にもなれなかったのだ。許して欲しい』
「どこかお悪いのですか?」
『ん?いや、まぁ悪いと言えば悪いのだが……そこらへんはあまり触れないで頂けるとありがたい』
「そ、それは失礼しました」

 流石に二日酔いで伏せっていたとは言えないウォルであるから、言葉尻は微妙に濁した。
 主席は、それを女性特有の体調不良であると誤解して、それ以上の追求を避けた。
 結局、二人の間にはどうにも歯痒いような、微妙な空気が流れた。

「ま、まぁそれはともかくとしまして……。秘書からは、私に頼み事があるとのことだと伺っているのですが?」
『おお、そうだった。その前にまず一つ、卿を安心させておこうと思う』

 それこそが主席のもっとも聞きたかった言葉である。
 主席は、汗ばんだ手で受話器を握りしめながら、さながら少女が目の前にいるかのように身を乗り出して次の言葉を待った。

『まず、彼らの怒りはどうにか抑えることが出来た。卿が心配するような事態には及ぶまいよ』

 彼らという代名詞が一体誰のことを指しているのか、主席にとっては明白すぎるほどに明白であった。
 脳裏に浮かぶ、緑柱石色の苛烈な瞳と、明確な軽蔑を含んだ青玉の瞳。
 どちらも、主席にとっては悪夢の体現でしかない。
 その彼らが、怒りを収めた。収めてくれた。
 主席は、電話の向こうの少女に対して、神の御使いを遇するにも等しいような真摯さで謝辞を述べた。

「あ、ありがとうございます、ありがとうございます!あなたのおかげで、共和連邦に住む全ての住人の命は救われました!」
『大袈裟だな、卿は』

 それが決して大袈裟ではないことを、お互いが知っていた。

『しかし忘れるなよ。俺が責任を持つのはこの一回だけだ。もし卿らの喉が意外に短く、すぐにでも熱さを忘れるようならば、今度は俺が貴様らに鉄槌を下す役割を引き受けることになるだろう』
「は、はい。それは承知しております」

 背筋を伸ばしたマヌエル・シルベスタン三世は答えた。

「今後、あなたのような……いえ、あなたの魂の宿るその少女のような被害者が現れぬよう、全力を尽くします」
『それは、一体誰が?』

 主席の声は、はっきりとしていた。

「私と、私の後ろに連なる全ての連邦主席が、です」
『そう願いたいものだ。俺も、進んで戦乱を巻き起こしたいとは思わんのだからな』

 その時は、二人が同時に笑ったようだった。
 主席は安堵の溜息を吐き出しそうになったのを我慢し、その代わりに首元を緩めた。

「それで、私に頼みたいことがあるというのは?」
『うむ、この少女のことで少しばかり頼み事がある。聞いてくれるか?』
「私の力の及ぶ限りであれば、喜んで」

 ウォルは、今の状態ではどうやら自分がヴァレンタイン家の被保護者になる資格もないことを語り、その状態を改善するためにはどうすべきか、知恵を貸して欲しい旨を伝えた。
 主席はしばし黙考した後、口を開いた。

「了解しました。要するに、この世界にあなたが暮らしていたという、公的な証明を作ればいいと、そう言うことですね」
『頼まれてくれるか?』
「共和宇宙に暮らす全国民の命に比べれば安いものでしょう。今日中に用意させます。ちなみに、どういったお名前と経歴がよろしいのですか?」
『名前は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン。経歴は、極々普通のもので構わない』

 その後、二三簡単な言葉を交わした後で、ウォルの方から電話を切った。
 主席の言葉に偽りはなく、それから一時間としないうちにウォルのもとに連絡が入り、彼女の公的な経歴と、電子身分証明が送られてきた。
 なるほど、どこの国でも王の権力は大したものだと、ウォルは皮肉げに笑ったものだ。


「……それはいいさ。折角作った人脈だ、利用できるときに利用するのは当然だな」

 怒りを押し殺したような低い声が、狭い室内に響いた。
 それがどれほど危険なものなのかを知り尽くしているシェラなどは、背中に嫌な汗を流していたのだが、当の少女は平然としたものだった。
 フローリングの床に簡単なクッションを車座に並べ、三人で顔をつきあわせている。

「ならばリィよ。お前は何でそんなに怒っているんだ?」
「これが怒らずにいられるか!言うに事欠いておれの妹だと!?一体何を考えているんだ、ウォル!」

 だん、とリィは渾身の力を込めて、固い床を殴りつけた。
 めしり、と、凄い音が鳴って、憐れな木材は少年の拳のかたちに陥没した。この分では、きっと階下の部屋に住むジェームズ・マクスウェルなどは、果たして何が起きたのかと呆気にとられていることだろう。
 シェラなどはその音に、というよりは迸る怒気に首を竦めたが、当のウォルは平然としたものだった。

「別にいいではないか。事実、この子はお前の妹なんだから」
「おれはこいつを妹だなんて認めた覚えはない!」

 へそ曲がりな嫁父が花婿を詰るような口調で、リィは言った。
 その後で、流石にこの言い方は不味いと思ったのだろう、ややあらためた口調で言い直した。

「いや、百歩譲ってウォルフィーナがおれの妹だったとして……ウォル、お前がおれの妹を名乗る理由にはならないだろう!」
「いや、どうやら立派にお前の妹なんだな、これが」

 ウォルはプリントアウトした、己の戸籍記録をリィに手渡した。
 それを荒々しい手つきで奪い取ったリィは、即座に文面に目を通し、そして愕然とした。
 そこには、確かにウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィンはヴァレンタイン家の養子となり、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインの義理の妹になった旨が記載されていたのだ。
 リィは、この少年には珍しい、愕然とした表情で固まってしまっていた。
 黒髪の少女は――つい先日、この少年の妹になってしまったらしい少女は、心配そうな声で言った。

「……リィよ。俺がお前の妹になったとして、何か困ることでもあったのか?」
「……あのなウォル。食堂からお前が引っ込んだ後、おれがどんな目に合ったと思ってる?」

 思い出してシェラも憮然とする他ない。
 ウォルの短い自己紹介の後で、寮生の半分、要するに男子生徒のほぼ全員が、突然現れた美の女神(少なくとも彼らにはそう見えたらしい)との出会いのきっかけを求めて、その兄たるリィの元に殺到したのだ。

『おいヴィッキー!お前も人が悪いな!あんなに可愛い妹がいたのかよ!』
『今度、みんなで遊びに行こうぜ!俺、ジンジャー主演の最新作のチケット持ってるんだ!』
『フィナちゃんって何が好きなの?どこかのクラブに入るのかな!?』

 当然、フィナ・ヴァレンタインというのはウォルのことだ。リィがいくつも名前を持ち、それを相手によって使い分けているというのが、ウォルにとっては新鮮で面白かったらしい。
 ウォルがもとは男――しかもデルフィニアの太陽と謳われた大英雄――であったことなど露ほども知らない同級生達は、将を射んとせばまず馬を射よの格言通り、彼女の兄であるというリィの攻略に取りかかったというわけらしかった。
 普段は人と深く交わらず一定の距離を保つことを心がけているリィであったが、この一気呵成の猛攻撃には辟易とさせられた。
 しかし、男子生徒の狂熱ぶりも無理はあるまい。
 何せ、彼らは13歳、青春の入り口に差し掛かり、異性のことが気になって仕方ない年頃である。
 そんな中に現れた、リィやシェラと並んでもおさおさ見劣りしないほどに美しい転入生であるから、騒がない方がどうかしている。寧ろ、リィやシェラなどのように同年代の女の子に全く興味を抱かないという男の子の方がおかしいのだから、男子生徒達を責めるのは酷というものだろう。
 加えて、ウォルの纏った雰囲気は、リィの苛烈で火傷しそうな気配や、シェラの孤高で凍て付きそうな気配と違って、万人を受け止めて優しく包み込むような人懐っこいものであるから、何よりも受けがいい。
 当然の結果として、自己紹介から僅か数分というところで、同級生の男の子ほとんどの心を射止めてしまったというわけだ。
 その後すぐにハンスに連れられて寮設備を見学して回ったウォルが知らなかったとしても無理はないのだが、リィに対する質問攻めはその後三十分以上にも及び、これなら戦場で剣を振るう方がよっぽどマシだとボンジュイの黄金の戦士を嘆かせたのだった。

「今日の時点でこれだぞ!?本格的に授業が始まったら、おれは一体どんな目に合うっていうんだ!?」
「うむ、えーと、なんというか、その……すまん」
「……いいさ、多分お前のせいじゃあないんだから」

 どこまでも疲れたような顔で二人は肩を落とした。
 その後で、気を取り直したようにウォルは言った。

「しかしだな。勘違いするなよ、リィ。別に俺が、お前の妹になることを望んだわけではないぞ。俺は別にお前の妹に収まらずとも、ずっと前からお前の夫なんだからな」
「……じゃあ、一体誰が望んだっていうんだ。おれはてっきり、シェラと同じように、アーサーの被後見人に収まるだけだと思ってたのに……」
「俺ではない、そしてもちろんお前ではない。ならばある程度絞られるのではないか?」

 刺し殺すようなリィの殺気を、柳に風といったふうに受け流しながら、あくまで涼しい顔のウォルはそう言った。そんな少女を見ながら、この人以外の誰がリィの夫を名乗れるだろうかと、シェラは畏敬の念をあらたにしたのだった。
 そんな二人を尻目に、少しの間考え込んだリィは、弾かれたように顔を上げて、言った。

「……まさか……アーサーか!?」
「こんなものを預かっているが、見るか?」

 ウォルが懐から出したのは、映像記録用のマイクロチップであった。
 リィはそれを文字通り引ったくり、専用のコンピュータ端末に差し込む。
 すると程なくして、リィの遺伝上の父親であるコーデリア・プレイス州知事の、輝くような白い歯がモニタに映し出された。

『やぁ、エドワード!これを見てると言うことはウォルは無事にお前の元に届いたんだね。いや、よかったよかった!』

 流石に記録映像に向けて『エドワードと呼ぶな!』と叫んだりはしないリィであるが、しかしその内心が如何ばかりかは、緑色の瞳が赤く燃え盛っていることから明らかである。
 ウォルも、これがただの記録、いわば手紙の親戚にすぎないことを知っているから狼狽えたりはしないが、しかし何とも便利な世の中になったものだと感嘆の溜息を吐き出した。
 そしてシェラは、仮にも一国の王を捕まえて荷物のように呼ぶリィの父親に対して、やはりこの人は一角の人物なのではないだろうかと首を捻った。
 そんな三人の心など素知らぬふうに、画面の中のアーサーは続ける。

『ウォルから話は聞かせて貰ったよ。駄目じゃないかエドワード、折角のお婿さん、もといお嫁さんを放っておいて、自分だけ寮に帰ったら。いいかい、エドワード。ウォルを逃したら、きっとお前には一生お嫁さんのなり手なんて見つからないぞ。だから自分の目の届かないところに置いちゃあいけないな』
「余計なお世話だっ!」

 疑いようのない余計なお世話に、流石のリィも声を荒げた。
 これはリィでなくても怒るに違いないとシェラも思った。

『既にウォルから聞かされていると思うが、彼女はお前の紛れもない妹だ。少なくとも、戸籍上はね。その理由を聞きたいか?』 
 
 リィは言葉も無く唸った。まるで、目の前にアーサーがいるかのようだった。

『本当はシェラの時と同じように、僕が後見人を務めるだけでもよかったんだが、しかしそれだけだと、恋愛に奥手なお前のこと、ウォルをほったらかしにしそうじゃないか。駄目だぞエドワード。恋愛には誠実さとまめさが何よりも大切なんだ。そこらへんがお前にはとんと抜け落ちているから、父さんは心配で心配で……』

 よよよ、と泣き真似を作ったアーサーである。
 リィは無言で立ち上がった。
 その背後に揺らめく殺気から彼が何をしようとしているのかを察知したシェラが、慌ててその身体を抱き押さえた。

「止めるなシェラ!映像とはいえ、せめて一発ぶん殴らないと気が済まない!」
「駄目です、リィ!せめて、せめて最後まで見ましょう!」
「……いやぁ、リィ。お前の父親は中々の大人物だな。俺ならばこんな大それたこと、あまりに恐ろしくて、とてもではないが思い付かんぞ」

 大騒ぎの室内であったが、入室禁止の表示をしているためか、誰一人として扉を開けて覗こうとはしなかった。この表示がされているときに理由も無く部屋に立ち入れば、寮規則に従って罰せられるからだ。
 リィの部屋の周囲の生徒は真面目らしく、この大騒ぎの最中もドアを開けることはなかった。ある意味、リィは助けられたと言ってもいい。寮の管理係に通報されかねない、それほどの大声で騒ぎ喚いていたのだから。
 しかし規則云々を言うならば、男性用宿舎にあるリィの部屋にウォルが居ること自体あってはならないことなのだが、この連中に常識というものを求めるのがそもそも無謀なのだ。
 そして監視カメラや防犯装置は普通に階段や廊下を使う人間を相手にするから有効なのであって、トカゲのように建物の外壁を這い上がってきた少女を捕まえる便利な罠など、いくら科学の進んだこの世界であっても存在しない。
 
『その点、ウォルがお前の妹になれば、世話焼きなお前のこと、おはようからおやすみまでウォルの面倒を見ることになるだろう?いいじゃないか、恋愛というのはそういう日々の触れ合いから生まれるものだ。思い出すなぁ、僕とマーガレットの出会いを……』
「放せシェラ!せめてこのアホな映像を止めさせろ!」
「放すなよシェラ!これほど面白いリィはそうそう見られるものではないぞ!」
「そ、そんな……!」
 
 シェラの心は常にリィの味方である。それは、偉大なる国王が相手であっても変わるところはない。
 しかし、当のシェラもこの映像の続きが見たかったので、内心でリィに詫びながら、やはりその羽交い締めを解くことは無かった。
 そんな騒ぎの中、感動的な夫婦の出会いを語り終えていたらしいアーサーの後ろで、ぴょこりと黒い髪の毛が顔を覗かせた。
 ルウであった。

『心配しないで、エディ。君の籍が置かれているコーデリア・プレイス州の法律では、養子と実子間の婚姻は禁止されていないんだ。難しいことは考えないで、親公認の男女交際だと思って羽根を伸ばしたらいいんじゃないかな?それに、君と王様が兄妹なら、同じベッドで寝てたって誰も咎めようがないじゃないか』

 的外れな慰めの言葉を、黒い天使は満足そうに言った。
 それを受けて、アーサーも満面の笑みを浮かべた。

『おお、ルウ、なかなかいいことを言うな。その通りだ、エドワード。早く孫の顔を見せてくれ。この年でお爺ちゃんになるとは思っても見なかったが、しかしお前の子供にお爺ちゃんと呼ばれるなら悪くない』
『うわぁ、楽しみ!どんな可愛い赤ちゃんが生まれるんだろうね!』
『今度は持って行くなよ、ルウ!』
『うん!でも、名前は僕に付けさせて!』
『駄目だ!絶対に僕が名付けるんだ!そして、今度こそお爺ちゃんと呼ばせて見せるからな!』

 ふと気がつけば、二人の手の中には、琥珀色の液体で満たされた小振りで形のいいロックグラスが握られていた。
 一体どういう経緯でアーサーが、『人さらい』と毛嫌いするルウと酒を注ぎあっているのかは知らないが、どうやらこの二人は相当な量のアルコールを身体に入れているらしい。元々酒が顔に出ない二人だから分からないが、しかしこの不自然に陽気な有様からして間違いあるまい。
 リィとウォルの二人と共にあれだけの酒を飲み、それに相応しい報いとしての二日酔いに苦しみながら、またしても大量の酒瓶を空にするあたり、酒豪のリィの父親に相応しい飲みっぷりであった。
 その後もモニタに映し出された二人はぎゃあぎゃあと喚き散らし、程よく気分が落ち着いたところで別れの挨拶を告げ、映像はそこで途切れた。
 無音の部屋に残されたのは、何とも気まずい沈黙と、そして怒りに身を震わすリィのみである。

「……ウォル、一つ聞きたい」
「う、うむ。何だ?」

 流石に気圧されて口籠もった己の夫に、戦女神をその身に宿した王妃は問うた。

「お前がこのマイクロチップを受け取ったのはいつだ?」
「……俺があの星を発った日だったから……三日前か?」

 机まで歩いて行ったリィは無言で受話器を取り、実家に繋がる外線用の番号をプッシュした。
 程なくして、彼の遺伝上の母親の、柔らかな声が部屋に響いた。

『はい、ヴァレンタインです』
「アーサーはどこだ」

 有無を言わさぬ剣呑な響きの声であったが、自分のお腹を痛めて産んだ子供の声であったから、マーガレットは迷うことは無かった。

『まぁ、リィ。どうしたの?』
「アーサーはどこだ」

 繰り返された同じ問いに、マーガレットは溜息を吐いた。きっと、また例の親子喧嘩だと思ったのだし、それは完全な事実であった。

『アーサーなら昨日、近くの星系の視察に行くとかで、慌てて飛び出していったけど?』
「視察?そんなの聞いていないぞ」
『ええ、そうなの。私も聞いてびっくりしちゃって……』

 逃げたな。
 三人は、同時に思った。

「……仕方ない、掛け直すよ。じゃあ、ドミとチェイン、デイジーによろしく伝えておいてくれ」
『ええ、分かったわ。リィも、私の新しい娘に、よろしく伝えておいてね』

 リィは何とも形容し難い複雑な表情を浮かべて、受話器をフックに戻した。
 そして、間髪を入れずに新しい番号をプッシュした。

『はい、こちらはフサノスク校舎学寮管理係ですが』
「ルーファス・ラヴィーに急ぎで繋いで頂きたいのですが」
『少々お待ち頂けますか……あ、申し訳ありません、ルーファス・ラヴィーは船体整備実習のため、長期研修中でして……。今はおそらく星間移動中ですから、通常電話では繋がらないと思うのですが……』
「わかりました。ありがとう」

 こちらもか。
 三人は同時に思った。
 リィの小さな手に握られたままの受話器から、ぴしりと、小さなひびの入る音が聞こえた。
 ウォルは声を潜めて、隣に腰掛けた銀髪の少年に問いかけた。

「……なぁ、シェラよ。一つ尋ねて良いか?」
「ええ、フィナ。どうぞご存分に」

 シェラは平然と言った。
 それを聞いた黒髪の少女は、見事なまでに眉を顰めて、言った。

「おい、シェラ。それはよそ行き用の名前だ。身内には違う名前で呼んで欲しいのだがな」
「では陛下とお呼びしても?」

 にっこりと、あまりにもにっこりとしていて背筋が冷たくなるような、百点満点の微笑みだった。
 ウォルは、自分の宿題が、目の前の少年をどれほど追い詰めていたのか、あらためて思い知らされた。

「……わかった。ウォルで我慢しよう。だからその微笑みは止めてくれ。夢で魘されそうだ」
「ではウォル、質問とはなんですか?」

 一切のためらいなく、シェラは言った。
 一週間前に再会を果たしたときは、ウォルと呼ぶことにすら戸惑いを覚えていた少年とはとても思えない。
 どうやら今日までの間に相当の葛藤を経験し、悩みに悩んだあげく、どこかで吹っ切れてしまったらしい。もう、いっそ晴れ晴れとした表情であった。

「いや、リィのお父上のことなのだがな。前にリィに聞かされた、頑固で融通が利かない一徹者という説明にはどうにもそぐわないお人のように思えるのだが……俺の気のせいか?」
「いえ、私がこちらの世界に来たときは確かにそんな感じだったのですが……あの人もリィに引っ張り回されて、マフィアの人質になったりもう少しで殺されそうになったり、色々と経験していますから……」

 要するに、朱と交わってしまったのだ。
 誰よりもその朱が人を染めやすいことを承知しているウォルは、気の毒そうな表情で頷いた。

「ヴァレンタイン卿も苦労しておられるのだなぁ」
「それにしても、今回の悪戯はよく分かりませんね。逃げるくらいなら最初からしなければいいのに」
「いや、シェラ、全くもってその通りではあるのだがな、人は理屈のみで行動する生き物ではないらしいのだ。差し詰め、酒の勢いとその場のノリでリィを驚かすことを決めて手続をしてはみたものの、後から考えればどれほど命知らずなことをしてしまったのかに思いが至り、今更ながらに恐ろしくなって、とりあえずの心の平穏を求めて遠くに旅だった、そんなところではないかな?」

 シェラは思いっきり胡散臭そうな視線でウォルの横顔を射貫いた。

「……見てきたような仰りようですね」
「うむ、俺もそういう経験が無いわけでもない」
「……一体誰に何をされたんですか?」
「しらふで言えるか、そんなみっともないこと」

 埒もないことを呟き合った後で、二人は怒れる戦女神のほうを見遣った。
 そして、二人の秀麗な顔が、ほぼ同時に引き攣った。
 リィは、微笑っていた。
 それはもう、この二人だって今まで見たことがないというくらい、優しく、深く、慈しみ溢れる有様で。
 しかし勘違いしてはいけない。
 笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙をむく行為が原点である。
 つまり、なんというか。
 あれは、とんでもなく、怒っているのだ。

「ふふふ、覚えておけよ、二人とも。この愉快な悪戯の報いは、きっちり払って貰うからな」

 ちっとも笑っていない目で、獰猛に牙を剥いた金色の狼。
 ウォルとシェラは、自分の身体が震えているのは、きっと隣に座った自分以外の誰かが震えているからだと、お互いに思っていた。
 そして、リィの報復の顎に晒される二人の人間(?)のことを思って、心の中で手を合わせたのだ。
 むーざんむざん。



[6349] 第十九話:緑の星にて
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/05 15:00
 宇宙船ピグマリオンⅡから一歩外に出ると、そこには原始の森が広がっていた。
 ウォルは、その威容に、そして美しさに、息も忘れて見入っていた。
 視界を埋め尽くすような緑、緑、緑。鳥が歌い、虫が戯れ、風が踊る、少女のふるさとだった。
 湖面は青く輝き、まるで巨大な一枚の鏡のようですらある。その上に立って一曲踊れば、きっとこの上なく心地よいのではないだろうか。
 一体、いつ以来だろう。長く苦しかった闘病生活、どれほどに故郷の懐かしき光景が恋しかったことか。国王としての身体は置いておいて、心だけはいつだって深い森の中に旅立っていたのだから。
 やっと思い出した息を、思いっきり深く吸い込んでやる。
 草の匂いが胸を梳くようだ。思わず涙が零れ落ちた。
 そこは、ウォルのふるさとだった。人はいない、見知らぬ土地、異郷の地。一度だって見たことのない大地のかたち。
 それでもそこは、ウォルを構成する魂の、重要なふるさとであった。

「嬉しいか、ウォル」

 いつの間にか、タラップの向こうに人影が見える。
 茫然とこの光景に見入っていた自分の横を、するりと抜けていったのだろうか。それに気がつかないなど間の抜けた話であるが、しかし恥であるとは思わなかった。
 ウォルは微笑んだ。流れ落ちる涙をそのままに、夜明け色の頭髪と、森の精を固めた瞳を持つ、己の同盟者に向けて。

「ああ。とても……とても嬉しいな」

 リィも笑った。
 彼の前に立つ、風に遊ばれるその黒髪を抑えつつ、同色の目を細める少女。
 その姿形が誰であったとして、彼女は間違えなく、二つの世界で唯一の、彼の配偶者だった。

「ありがとう、リィ。お前はいつだって、俺の欲しいものをくれる」

 リィはその言葉を聞いて目を丸くした後、後ろを向いて、その黄金色の頭を掻き毟った。
 照れているらしかった。
 そんな二人の後ろから、呆れたような、それとも面白がっているような声が響いた。

「二人とも、じゃれ合ってないで荷物運びを手伝ってくださいね」

 がちゃがちゃと、凄い音のするリュックサックを担いだシェラの言葉である。
 荷物のことをすっかりと忘れていた二人は、慌てて船内にとって返した。
 彼らが立っている星、惑星ヴェロニカは、二十日以上もの間、狩猟の『狩』の字も知らない中学生10人を、僅か二人の狩人の(それが凄腕であったことは否定し得ないが)手前で養いうるほど獲物の豊かな星である。
 それゆえ、彼らの荷物の中に、いわゆる普通の食べ物は入っていない。肉も魚も野菜も、全て現地で調達するつもりであったからだ。
 しかし、そのためのささやかな道具、例えば切れ味のいいナイフや鉈、釣り針などはあらかじめ用意しておいたほうが作業がはかどる。それに、各種調味料は、料理の味には拘るシェラ(作り手としては、自分が納得出来ない料理を食卓に上げるなど屈辱の極みである)には必須の品であった。
 そして何より大きな体積を占めたのが、色取り取りの酒瓶に入った甘露の群れである。こればっかりはこの星のどこかから調達するというわけにはいかないし、この三人――途中で四人に増えるのは目に見えている――は世間一般でいう酒豪以上の酒豪であったから、その彼らが一晩飲み明かせばリュックサック一つや二つ程度の酒では到底たりない。
 二人は船内の荷物置き場から、身体が隠れてしまうのではないかという程に大きなリュックをひょいと取り上げ、軽々と背中に担ぎ上げた。
 それを見ていたダン・マクスウェル以下、ピグマリオンⅡの乗組員は、あらためて感心したように目を見合わせた。

「……今更だが、その小さな身体のどこに、それだけの馬力があるんだ?」
「それに、その酒、全部お前らが飲むのかよ?」

 胡散臭そうにそう言ったのは、ピグマリオンⅡには古株である、タキとトランクである。
 その台詞も無理はあるまい。
 何せ、リィやウォルの小さな身体からすれば小山のように大きなリュックサックの中には、これでもかというほどに種々の酒が詰め込まれ、手慰みばかりのサバイバル器具が肩身薄そうに押し込まれているのだ。当然その重量たるや、並の大人であっても背負いきれるようなものではない。
 第一、彼らは三日後にはこの星から離れるのだ。そのための迎えだってピグマリオンⅡが務める運びとなっているのだから間違いない。にもかかわらず、三人が三人とも背負った膨大な量の酒――それも、その殆どが火のつくような蒸留酒ばかりである――を空にするというのか。

「これでも足りるかどうか分からないくらいだ」

 リィは、肩に掛かった金色の髪を揺らしながら、大きく肩を竦めた。その拍子に、彼の背中の大荷物から、ガチャリと盛大な音が響いた。

 そして、自分の脇に立った黒髪の少女を親指で指しながら言った。

「何せこいつときたら普段は日向ぼっこしてる熊のくせに、酒にはうわばみときてる。まったく、詐欺みたいな生き物だ」
「お前こそその身体で何を言うか。俺がうわばみなら、お前は酒好きの龍だろうが。今度こそ負けんぞ、リィ」
「ほう。自分から連敗記録に黒星を並べたいのか。不敗の闘神も随分丸くなったものだな」

 二人は、不敵な笑みと剣呑な眼光を同時に浮かべるという器用な芸当を見せながら、傲然と胸を反らしていた。
 タキとトランクの二人は、心底惜しいと思った。今は反らしてもほとんど膨らみのない少女の胸だが、あと十年、いや、あと五年もすればきっととんでもない目の保養になっただろうに、と思ったのだ。
 この二人を前にしてそんな暢気なことを考えられるあたり、腕利きの船乗りでも尻尾を巻いて逃げだす辺境宇宙を遊び場にしてきたピグマリオンⅡの乗組員はひと味違う。つい先ほどまで、船内のアクションロッドの競技場で、年端もいかないこの二人にめためたに伸されていたというのに。
 船長であるダンは、彼らが『そういう』人種だということを、それこそ嫌というほどに理解させられているから、もはや一言も無かった。ただ、目の前で可愛らしく胸を張る黒髪の少女を眺めて、類は友を呼ぶという格言の意味を思い浮かべ、自分がその友にならないことを神に願ったのだ。
 そして、それら人外人種を集めるフェロモンでも発しているとしか思えない金髪の少年は、輝くような笑みで言った。

「ダン、無理を言ってすまなかった。本当にありがとう」

 なにせ、誰かの助けを借りなければ、公共航路の設定されていない惑星ヴェロニカに辿り着くのは、少年達には不可能だったのだ。
 たまたま連邦大学を訪れていたダンを見つけ、駄目もとで頼み込んでみたのだが、意外なことにダンはそれを快諾した。
 それでもダンは、母親によく似た灰青色の瞳に驚きを浮かべて、言った。

「……君からそんな殊勝な言葉が聞こえるとは、帰りの航路は本気で宇宙嵐の心配をしなければならないらしい」
「おい、おれはいつだって礼儀正しいぞ。時と相手を選ぶだけだ」

 言外に今までの自分を非難されたダンは、やはりこれが『あの』少年なのだと、逆に胸を撫で下ろした。
 そんなダンを横目に、リィは続けた。

「しかしダンよ、お前のほうこそ一体どういう風の吹き回しだ?おれの顔を見れば飛んで逃げるはずのお前が、こんな面倒な頼み事を聞いてくれるなんて」

 不思議そうな顔をしたリィの、あまりに率直な疑問に、ダンは諦めたような顔で答えた。

「馬鹿なことを言うな。君が、ジェームズを助けてくれた君が、まさにジェームズを助けてくれたこの星に行きたいと言ったんだ。どの親がその頼みを断れる?」

 それはダンの心からの気持であったが、それ以外の事情も存在する。
 万が一にダンがリィの頼みを断り、億が一にそのことがダンの母親に伝われば、今度こそ力尽くでズボンを引きずり下ろされて、思い切り尻を叩かれるに違いない。
 それを思って、ダンは顔を顰めた。いい年をして母親に尻を叩かれるのが情け無いというのは勿論のこと、怒りに目を金色に染めた『あの』母親に本気で尻を叩かれれば、心以上に身体に傷を負うことになることは明らかだった。これでも忙しい船乗りなのだから、尻が痛くて操縦席に座れないというのは致命傷だ。
 そんなダンの心持ちを知って知らずか、リィは意外そうに言った。

「へえ。恩知らずなあんたの言葉とも思えない」
「馬鹿なことを言うな。私は、受けた恩は絶対に忘れない。ただ、時と相手を選ぶだけだ」
 
 その相手というのが誰のことを言っているのか、リィには、そしてダン自身にも明らかだった。
 一年前であれば、その言葉を友に対する侮辱と受け取って即座に行動に移したであろうリィは、やや苦み走った笑みを浮かべただけであった。
 それは、リィとその友人との関係が薄らいだからでも、リィの列気に翳りが生じたからでもない。ただ、その友人に――ルウに、いいように操られているダンのことを、ほんの少しだけ憐れに思っただけである。
 そういう意味では、ほんとに微妙に、そして本来の意味とはかなり外れたところで、二人の関係は少しだけ改善していた。
 ダンはリィのことを、相変わらず危険な人外生物だと認識していたし、息子の通う学校に蔓延る爆発物だという認識もあらためていなかったが、やはりリィはジェームズの命を助けてくれた大恩人であった。
 リィはダンのことを忘恩の徒と認識していることに違いはないものの、それなりの筋は通す希有な大人であることは認めざるを得なかったし、ダンがルウを毛嫌いするに至った経緯については同情の余地が十分以上にあることも認めていた。
 お互いを嫌っているが、しかし心の底から憎むことはできない。そして、一目置くべき人物だと認めながらも隣にはいて欲しくない。
 もっと簡単に言えば、ダンはリィのことが苦手であったし、リィはダンのことが苦手であった。
 なんとも珍しい関係な二人であった。そのことをリィは理解していたが、ダンはただ感じていただけだ。そこが、根本的な二人の違いといってよかった。

「ま、お前がルーファのことを悪くいうのはもう止めないさ。でも、おれの前でいうのは止めてくれ。おれは、それなりにお前のことが好きになれそうなんだ」
「それは御免こうむる」

 にこやかに言ったリィに対して、ダンはきっぱりと言った。しかし、だからといってリィの前でルウを不当に貶めようとは決してしない。口ではなんだかんだいって、やはり恩を受けた自覚はあるらしいのだ。
 こういう可愛らしいところがリィの心の琴線に触れることを、ダンは知らなかった。それが幸か不幸かは、彼の人生の終わりにならないと分からないことであった。
 その時リィが浮かべた笑顔は、他者に気を許した獣が浮かべる貴重なものだったというのに、顔を逸らしたダンが見ることはなかった。彼が正面に視線を戻したときには、いつも通りの不敵な表情をしたリィがいるのみだったからだ。

「しかしダンよ、お前なんで連邦大学にいたんだ?何か用があったのか?」

 その言葉を聞いて、ダンは意表を突かれたような顔をした。

「ヴィッキー、君は知らないのか?」
「だから聞いているんだ。ジェームズに何かあったのか?」
「まぁ、そういう言い方が出来ないわけではないがね。今度開かれるティラ・ボーンの統一スポーツ祭があるだろう?たまたま仕事に空きが出来たんでね。仲間を連れて、ちょっとした保養に来ていたんだよ」

 リィは首を傾げた。
 統一体育祭のことは聞いていたが、それに我が子が出場するからといって、仕事を抜け出して星々の間を飛び抜けて、遠く離れたティラ・ボーンにまでわざわざ来るダンは相当な親馬鹿なのかと思った。
 ダンはそんなリィの内心を察したのだろう、教壇に立つ講師のように言った。

「ヴィッキー。君はテレビを見るかい?」
「ニュースくらいならたまに」
「じゃあ、たまたま時間帯が悪かったんだろう。今、中央の公共電波でも、TBOのことを放送していない日はないくらいだからね」
「TBO?」

 リィの首は、更に急角度に曲がった。まったくの初耳だった。
 
「ティラ・ボーン・オリンピックですね?」
「うむ。やはり君は頭がいいな、シェラ」
「お褒めの言葉ありがとうございます、ダン教授」

 いつの間にかリィの背後に、銀髪の天使が立っていた。
 その、美貌と呼んでいいほどに整った顔立ちはいつも通りであるが、しかし背負った巨大な背嚢がアンバランスで、何とも滑稽であったかもしれない。

「シェラ。てぃらぼーんおりんぴっくとは何だ?」

 リィの内心を、ウォルが可愛らしく代弁した。
 シェラは丁寧な口調で言った。

「どうやらこの世界では、惑星単位で開催される大きなスポーツ大会を、オリンピックと称するようなのです。更に大きな、国家対抗で行われるようなものになると共和宇宙オリンピックと呼ぶようですが」
「うむ、その通りだ、シェラ。まぁ、この程度のことは小学生でも知っている、極々一般常識なんだがね」
「シェラ……お前、そんなこと、いつ知ったんだ?」

 いつの間にか、この世界の常識においてシェラに追い抜かされていたリィは、驚愕の表情も露わに、シェラに尋ねた。
 シェラは恐縮しながら、言った。

「いえ、こないだ例のパッチワークを提出に言ったときに、手芸部の女の子に色々と聞かされまして……」
「それってこないだあった、寮対抗のスポーツ大会とは違うのか?」
「根本的にはそれほど違いは無いようなのですが……。出場単位が寮ではなく学区単位であり、そして規模が比べものにならないくらいに大きい、といえばおわかり頂けますでしょう?」
「そりゃあ大変だ。あのときだって、とんでもないくらいの観客やらマスコミやらが押し寄せてきたもんなぁ」

 ティラ・ボーンは、連邦大学星と呼んだ方が通りがいいくらいに、一つの用途に特化した星である。広い共和宇宙を探しても、これほどに特異な星は二つと無い。
 その星で開かれるスポーツ大会なのだから、これはどこぞの田舎の星系で開かれるスポーツ大会とはわけが違う。
 ついでに言えば、連邦大学には各方面に有望な学生が数多く集っており、それはスポーツ方面だって例外ではない。大学を卒業後、プロスポーツ方面に進むことが決まっている学生も数多くいるのだ。
 ならば、いわば将来のスター選手の卵、もしくは既に大きな名声を獲得している選手が数多く出場するスポーツ大会が、アマチュアとはいえ注目を浴びないはずがない。当然そうすればスポンサーだってつくし、テレビや星間インターネット等のマスコミも鼻息を荒くする。
 結果、ティラ・ボーン・オリンピック、TBOは共和宇宙全体の大きなエンターテイメントとして、確固とした地位を築いているのだ。

「それにジェームズが出場するのか?あいつが得意なのは……アクションロッドか」

 なんだかんだいってルウに手ほどきを受けたのだから、ジェームズのアクションロッドの腕前は大人顔負けである。
 ある意味では、ジェームズの兄弟子といえないこともないリィは、不審そうな顔をダンの方に向けた。

「確かにジェームズは筋がよかった。でも、そんな大会に出場できるほどとも思えなかったけどな」

 ダンは、蕩けそうに嬉しげな顔で言った。

「その点は君に感謝しなければならないな。あの事件の後、いつかヴィッキーを助けるんだと、操船や機械操作、そしてアクションロッドに至るまで、ジェームズの熱の入れ用は鬼気迫るものがあったらしい。こないだ会ったときは、なるほど一皮剥けていると思ったよ」
「子供っていうのはそういうもんだな。ちょっとした切欠で、驚くくらいに成長する」

 どこからどう見ても子供にしか見えないリィが言ったのだから本来であれば笑うところだが、ダンの口の端は少しだって持ち上がらなかった。
 話を聞いていたシェラやウォルは、ジェームズの背伸びの仕方が微笑ましかった。特にリィを助けるのだといって頑張るところなど、不可能とは言えないにしても著しく難しいことは、誰よりも彼らがよく知っている。
 ダンとて、自らの両親ですら舌を巻く金色の少年を目標にして頑張るジェームズが不憫でないわけはない。いつか、越えられない壁にぶつかって、思い悩む日が来ることが目に見えているからだ。
 だが、ダンは、その壁と向かい合ったときに、ジェームズという人間の真価が問われるのではないかと思っていた。その壁にぶつかって捻くれるならばそこまでの人間だ。その壁を避けて違う道を探すのも一つの生き方だ。
 そして、それでも挫けずにその壁を乗り越えようと奮戦するならば、ダンは惜しみなく手を差し伸べるつもりだったし、それはジェームズにとっても決して恥ではないはずだった。

「当然、あの子はまだ中学生だからね。テレビに映るような華やかな試合ではないはずだ。それでも下馬評では、中等部では敵無しらしい。我が子が活躍すると決まっているのに、親としては見物にいかない手はないだろう?ちなみに、他にも操船技術を競うスペースボートの部にも出場が決まっている」
「それは卑怯な話だ。だってジェームズは、曲がりなりにも本物の宇宙船を操ったことがあるんだろう?戦争で人を殺したことのある戦士と木剣で稽古したことしかない兵士が闘うようなものだ。不意打ちじゃないか」
「残念ながら、出場資格には『実際に操船したことの無い者に限る』という条項はなくてね。利用できるものは精一杯利用する、それが正々堂々というものだろう?」
「そうか。なら、お前の言葉はもっともだな」

 ダンの言葉に、リィは真面目な顔で頷いた。
 確かに、闘う以上は全力を注ぎ込むべきだ。それは、身体も、そして精神も。ならば、ルールに反しない限り、そして己の覚悟に背かない限りで出来ることは全てするべきである。それが全身全霊を尽くすということである、敵への礼を尽くすということである。
 
「ところでヴィッキー、君は出場しないのか?」
「おれは今日までそんな大会があることすら知らなかったんだぞ。それなのにどうして出場できる?」
「それはよかった。君が出場したら、いくらジェームズでも優勝は諦めなければいけないからな」

 そう言ってダンは会話を締めくくった。
 リィとシェラ、そしてウォルは重たいリュックを背負い、船のタラップを渡った。
 
「迎えに来るのは二日後でいいんだな?」
「ああ。ジェームズの試合に間に合うか?」
「そのスケジュールなら、君らを乗せてティラ・ボーンに戻った翌日がジェームズの試合だ。是非応援に来てくれ」
「もちろんだ」

 ダンは微笑いながら小さく手を振り、リィも苦笑しながらそれに応じた。
 小さな音を立ててタラップは収納され、搭乗口は音もなく閉じられた。
 三人が程よく遠ざかった頃合いに、船のエンジンがけたたましく鳴り響き、その巨体が宙を舞い、少しもしないうちに空に浮かぶ小さな点となり、消えた。
 ピグマリオンⅡを見送った後で、リィは呟いた。

「そんなイベントがあったから、いやに簡単に休暇が取れたんだな」
「きっと職員や教授の皆さんも、お祭り騒ぎに加わりたいんでしょう」
「確かに、他人がお祭り騒ぎをしているときの書類仕事ほど腹立たしいものもないからな」

 妙に実感の込められた声で、ウォルは言った。
 リィとシェラは、顔を見合わせて笑った。

「さ、行こうか。例の小屋までは少し距離があるぞ」
「どれくらいだ?」
「そうだな……あっちの世界ふうに言うなら、10カーティヴってところか?」
「なんだ、そんなものか。日が暮れるまでにつけばいいのだから、昼飯の腹ごなしに丁度いいくらいだな」

 ウォルは肩すかしを喰らったように言った。
 これがいわゆる普通の中学生の女の子――例えば例の遭難騒ぎの時にリィとシェラが引率したような――であれば、そのキチガイじみた距離に目を回してへたり込んでいたであろうが、スーシャの野山を駆け回っていたウォルにしてみれば、そんなもの隣の家まで遊びに行くのに等しい距離である。
 そんなことを知っているから、リィとシェラは、やはり顔を見合わせて笑った。
 彼らの事情を知らないウォルは、少しだけ不満顔である。
 その柔らかな頬を膨らませてぷんぷんと怒っていた。

「なんだ二人とも、感じが悪いぞ。言いたいことがあったら面と向かって言え」
「うん。やっぱり、こういうところに遊びに来るならウォルみたいな女の子と一緒がいいな」
「そうですね。テレビゲームがない、お化粧がしたい、お菓子が欲しいと言って泣き喚く女の子のお守りをするのは、もうこりごりです」

 不思議そうに首を傾げたウォルの愛らしい様に、金銀天使は揃って笑い声を上げた。

◇ 

 三人が小屋に着いたのは、太陽も程よく傾いて、そろそろ夕焼けが西の空を染め始めるかどうかという頃合いであった。
 自分の体重ほどの大荷物を担いだ三人は流石に疲れ顔であったが、荷物を床に下ろして一息吐くとたちまち若々しい精気に満ちた顔に戻るあたり、どう考えても普通の少年少女ではありえない。

「あー、重たかった」

 苦笑いを浮かべながらリィが言った。
 訝しげな少女の声が、その言葉を遮った。
 
「俺を担いで馬と並んで走れるお前が言っても、ほんの少しも説得力が無いな」
「馬と並んで走れるからって疲れないっていうわけじゃあないんだぞ。こんな荷物を担いでこれだけの距離を歩けば、それなりに疲れるさ」
「そうか。俺はまだまだ動けるが、ならばリィは横になっていろ。たちまち獲物を捕まえてきてやるからな」
「言ったな、ウォル。勝負するか?」
「では、負けた方が今晩の酌女をするというのはどうだ?」

 腕まくりをした二人が、挑戦的な笑顔を浮かべた顔を突き合わせていた。
 リィは言うに及ばず天性の狩人だし、スーシャの山々に鍛えられたウォルとて狩りはお手の物である。
 シェラは、賢王と諸国に名高かったデルフィニア国王は果たしてこんな性格だっただろうかと、自分の記憶を辿り直し、どうにも絶望的な溜息を吐き出した。
 絶対に、こんな人ではなかった。確かにお化け屋敷の大親分ではあったが、人前では威厳を崩さなかった人なのに。
 きっと、王座を離れたこの姿がこの人の『地』なのだろうと悟り、もう一度重たい溜息を吐き出したのだ。
 それはともかく、この二人が自ら狩りに出るというのだ。ならば己の役目が獲物を捕まえることではないことを悟っていたから、今にも飛び出していきそうな二人に、こう言った。

「では二人とも、完全に日が暮れるまでには帰ってきて下さいね。私は小屋の掃除と、料理の下準備をしておきますので」
「なら、風呂のほうも頼んでおいていいかな。今でも結構汗臭いから、さっぱりしたいんだけど」

 そう言ったリィに対して、シェラは笑って頷いた。

「前に我々が割った薪がまだ残っていますから、大丈夫でしょう。それに蒸し風呂なら水もそれほど要りませんしね」

 この小屋の目の前にある湖の畔に、蒸し風呂小屋が設えられているのをリィは思い出した。蒸し風呂は、焼けた石と気密性の高い建物、そして少量の水があればいいのだから、普通に風呂を沸かすよりは確かに手間が省けるはずだった。

 ウォルも思い切り頷いた。

「では、俺からも頼む。あのリュックサック、確かに便利は便利だが肩が擦れていかんな。ほら、こんなに赤くなっている」

 ウォルは、ざっくりと着込んだTシャツの肩口をずらし、赤くなった皮膚を見せるようにした。
 すると、痛々しいまでに赤くなった少女の肩口から、水色の紐のようなものが見えた。
 リィはともかく、シェラが顔を赤くして、たまりかねたように言った。

「ウォル!女性はそういうものを人前で見せるものではありません!」

 思わず怒られたかたちのウォルは、きょとんと目を丸くしながら言った。

「そういうものとはなんだ?」
「ブラジャーの肩紐です!」
「なんだウォル、お前そんなもの付けてるのか?」
「別におかしな話ではないだろう?この世界の女性では、当然の嗜みであると聞いたが」
「いや、でもおれが女の子になっちまったときは、間違えたってそんなもの付けてやろうとは思わなかったぞ」

 またしても、話が変な方向に逸れ始めた。
 どうしてこの二人は、一人一人だと至って堅物で結構まともな人格なのに、二人になるとこうも扱いづらい生き物に変わるのか、シェラは不思議でならなかった。
 頭を抱えるシェラを尻目に、ウォルは唇を尖らせながら言った。

「俺は要らんと言ったのだが、それは不味いとヴォルフ殿がだな」
「ヴォルフが?」
「うむ。とりあえず今のあんたは女の子の身体にいるんだから、女の子の身体を労るのは男の義務だと。そう言われては返す言葉がないではないか」

 確かに、膨らみ初めの女性の胸だから、色々とデリケートだ。ヴォルフの忠告ももっともである。
 それに、こんな薄着で下着を着けていなければ、色々なものが浮き出てしまって、少年連中には目に毒である。しかも当の本人に自覚が無く、その上これほどの美少女なのだから、年頃の男の子がなにか気の迷いを起こしてしまってもそれを責めることはできなくなってしまうだろう。
 
「嫌じゃないのか?」

 女の子の身体の時は、そういうものにとことん嫌悪感を示したリィであるから、不思議そうに言った。

 ウォルは気安く答えた。

「まぁ、別に嫌ではないな。普通の女性なら普通に付けているものなのだろう?なら、今の俺も女なのだから普通に付ければいい。そういうものではないのか?」
「うーん、そういうものなのかなぁ。でも、動きにくかったり苦しかったりしないか?」

 リィはやはり承伏しがたい顔である。
 
「こんなもの、慣れてしまえばどうということはないぞ。ほら」

 ウォルはがばりと服を捲し上げた。
 シェラは、ぴしりと固まってしまった。
 処女雪もかくやというほどに白い肌、くびれた腰、へその窪み、そして淡い水色の可愛らしいブラジャーが、嫌でも目に飛び込んでくる。
 ウォルの、よく引き締まった健康的な肉体、特にようやく育ち始めた胸元などは、シェラにとっても目に毒であった。
 なのに、リィは、そんなものどこ吹く風で言った。

「いや、やっぱり苦しそうだって」
「意外と柔らかい素材で出来ていてな、一度付けてしまえばそれほど気にはならん。それに最近は、何も付けていないと胸と服が擦れて痛いのだ。その点、これを付けていればそういうこともない。中々に便利な道具だ。さわってみるか?」
「あ、ほんとだ。柔らかい」

 リィはウォルの胸元をぺたぺたとさわって、その手触りに驚いていた。

「もっとごわごわしてるかと思った」
「あまり強く触れてくれるな。本当に痛いんだ」
「うん、おれもそうだったから分かる。膨らみ初めは、さわっただけで痛いんだ。それにしても良くできてるなぁ、これ」

 カップの部分をさわったり紐の部分を引っぱってみたり、初めて与えられた玩具に目を輝かした男の子みたいに、リィはブラジャーを弄んでいた。
 リィの手つきがもう少し嫌らしければ、その光景は女の子に悪戯をする男の子以外の何ものでもないのだが、リィの心のどこにも疚しいところはないし、ウォル自身も興味津々といった感じでリィに身を任せているから、そういう現場にはどうしても見えない。
 それでも、もう少し回りに気を配るというか、周囲の目を気にするというか、もっといえば自分の存在を考慮に入れてくれてもいいのではないかと、シェラは溜息混じりに思った。

「……あの、二人とも。以前ティレドン騎士団長も仰っていましたが、そういうことは暗くなってから、ベッドの中でやって下さい」

 申し訳無さそうに目を閉じ、赤らめた頬をそのままにしてシェラは言った。
 
「……どうして?」

 怪訝な顔をしたリィである。
 シェラは、幼稚園児に性教育を施す母親のような気持で答えた。

「どうしてもです。そういうものなのです」

 普段は我を押し出さないシェラがこうまで強く言うと、リィやウォルとしても返す言葉がない。
 リィは残念そうに手を引っ込め、ウォルはぶつぶつ言いながらシャツを元に戻した。

「別にそれほど気にすることではないと思うが。なぁ、リィ」
「うん。それにシェラ、お前はそう言うけどさ。男とこんなことをベッドの中でやっていたら、それこそ変態だぞ……って、そうでもないのか」

 リィは隣に立つ、自分よりやや視線の低くなってしまった夫を眺めて言った。
 以前、リィの身体は、何かの間違いで女の子のものになってしまっていたが、しかし実のところ、リィの本質は男性であった。それに比べて、今、ウォルが宿っている身体は、紛れもない女性のそれである。
 ならば、目の前の少女とベッドに入っても、それほど問題が無いことにリィは気がついたのだ。
 だから、口に出してはこう言った。

「シェラはああ言ってるけど、今からベッドに行くか?」

 他人が聞けば唖然とするしかない台詞に、ウォルは平然と応じた。

「別に構わんが、今は腹の虫を宥める方が先決だな。夫婦の絆を深めるのは後にしよう」

 リィは真剣な面持ちで頷いた。

「もっともだな、ウォル。交尾はいつでも出来るけど、狩りは日が高いうちでないと厳しい。夜は彼らの時間だからな」
「よし、ならば善は急げだ。さっさと準備をしよう」

 シェラはもはや一言も無く、いそいそと狩りの準備を始めた夫婦を尻目に、自分の役割を果たすために地下室へと向かった。
 そこに置いてある箒で、積もった埃と一緒にこのやりきれない気持も、掃きだしてしまいたかった。



[6349] 第二十話:夕焼け小焼けでまた明日
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/05 15:00
 上手の手から水が漏れるというし、河童の川流れともいうし、猿も木から落ちるという。
 玄人だろうが達人だろうが名人だろうが、失敗するときは失敗するし、どうしたって上手く行かないときはある。
 要するに、リィも、そしてウォルも、今回の狩りではそれほど芳しい成果は得られなかったと言うことだ。
 シェラやウォルには馴染み深い、山岳民の少年のような皮の貫頭衣に着替えたリィは、泥と枯れ葉でどろどろになりながら、やっと野ウサギを一匹捕まえただけだった。
 それに対して、これはシェラの目にも新しい、やはり山岳民の少年のような皮の貫頭衣――ようするにリィとお揃いだ――に身を包み、その豊かな黒髪をくしゃくしゃに纏め上げたウォルも、身体中に擦り傷を拵えたにも関わらず、捕まえたのは大きめの雉が一匹だった。
 ごくごく一般人が狩りを楽しむつもりでこういう場所を訪れたのであれば、まずまず満足すべき成果だったのかもしれない。
 何せ、おけらではないのだ。
 それだけで自尊心は満たされるし、あとは都会から持ってきた各種食材に、慰め程度の獲物の肉を加えてご馳走を作ればいいのだから。
 しかし、彼らは、各種調味料等を除けば、本当に少しの食料も持ってきていない。全て現地調達するつもりだったし、またその自信もあったからだ。
 にも関わらず、これっぽっちの食料というのは些か寂しい結果に終わったといわざるを得ないだろう。特に、人の三倍は食べるリィと、二倍は食べるウォルがいるのだから、尚更である。この小さな獲物の食べられるところを余すことなく有効活用したとして、二人の大きな胃袋を満たしてやるのは、どうにも不可能らしかった。
 それでも、シェラは笑顔で二人を出迎えた。喜び勇んで出かけていった二人が、如何にも不本意な、そして申し訳なさそうな顔で帰ってきたのがおかしかったというのもある。

「狩りは水物ですから、上手く行かない日もありますよ。お気になさらずに」

 本心からの慰めの言葉である。何せ、人のする戦と違い、獣との駆け引きである狩りには相手がいないと成立しない。どれほど優秀な狩人であっても、獲物がいなければ狩ることは出来ないのだ。
 それに、この二人が本気で狩りをして、それでも獲物が捕れなかったというならば、だれがそれを非難することができるだろう。人は、己に為し得ないことをもって他者を非難する資格は有しないのだ。
 リィやウォルとてその程度のことは承知している。承知していて、なお業腹であった。

「ちぇっ。あと少しだったんだ。あと少しで、こんなに大きい鹿が仕留められたのになぁ」

 リィは自分の腕で大きな円を描き、その獲物の大きさを表した。確かに、それくらい大きな鹿が獲れれば、食欲旺盛なリィの胃袋だって十分に満たされるはずだ。

「あとちょっとっていうところで逃げられちゃったんだ。惜しいことをしたなぁ」

 心底悔しそうにリィが言えば、ウォルもそれに倣った。

「それを言うならリィよ、俺もこんなに大きな猪を、あと少しで捕まえられるところだったんだ。なのに、あと一歩というところで巣穴に逃げ込まれた。狩りでこれほど悔しい思いをしたのは久しぶりだ」

 隣に座ったリィに倣って、黒髪を紐で頭に縛り付けた少女は、大いに嘆いた。
 王族であったウォルにとっては狩りも嗜みのうちだが、しかしこれほど純粋に野山を駆け巡り、そして獣を追いかけ回したのは少年時代以来のことだったから、不本意な結果に相反して少女の口元は緩んでいる。
 何とも嬉しそうな顔だった。

「その割には楽しそうじゃないか、ウォル」

 行儀悪く床に直接腰掛け、胡座を組んで頬杖をついたリィが、にやにやとしながら言った。
 対するウォルは、こちらも行儀悪く床に直接寝そべり、仰向けに天井を見上げていたりする。
 シェラはこの夫婦――世が世なら、そして世界が世界なら、最も高名で、そして高貴な身分を有する夫婦であった――を眺めて、溜息を吐き出した。何せ、彼らをよく知っているシェラの目から見てもあの・・王妃が二人いるようにしか思えなかったのだ。
 シェラの知る幾人か、特にリィの普段の格好に眉を顰める頭の固い人達などがこの光景を目の当たりにすれば、冗談抜きで卒倒しているだろう。何せ、彼自身が目眩を覚えているほどなのだから。
 そんな銀色天使の内心など放って置いて、以前のリィと同じように、山岳民の少年にしか見えないウォルは嬉しそうに言った。

「うむ、楽しいに決まっている。スーシャで過ごした山猿時代はいざ知らず、立派な戦士よ見栄えのする男ぶりよとちやほやされるようになってからは、やはり自由に森を駆け巡ることは出来なかった。外面がそうさせないというのもあったが、何より大きくなりすぎた身体というのは山駆けには向かないらしくてな。この体は、以前に比べれば力において劣るものの、すばしっこさは比較にならん。今日は思う存分走り回ることが出来た」

 未だ覚めやらぬ興奮に頬を赤らめながら、満足の吐息を吐き出したウォルである。
 リィはその様子を満足げに見遣り、そして言った。

「それは同感だな。おれも、この身体くらいが、山遊びをするには一番好きだ。手足が長くなって身体が大きくなると、馬力が出るかわりに余分な重さを感じる。戦いにはその方がいいんだろうけど、枝を飛び移るときには邪魔以外の何者でもない」

 キッチンで今日の夕食の下拵えをしながら、シェラはリィの言葉に懐疑的であった。
 それもそのはず、王妃時代のリィは、そのほっそりと長い手足を猿か野鼠のように上手に使い、難攻不落を謳われた名城三つのうち、二つまでも単独で潜入し、そして驚くべき戦果を残してのけたのだ。それで『余分な重さを感じていた』など、行者として苦しい修行を積んだ自分を小馬鹿にしているとしか思えない。
 しかし、シェラは、リィの言っていることに一分の嘘も見栄もないことを知っていた。この人は、そういう人なのだ。
 山雉の皮を剥ぎ終えたシェラの口から、重たい溜息が漏れだした。自分とリィを比べることの愚かさに、あらためて思いが至ったからである。
 そんな彼の後ろで、王と王妃のものとは思えない、敢えて言うなら安酒場で交わされるような会話が続いている。

「次は一緒に行こうか、ウォル。今日は不本意な結果に終わっちまったからな、明日は直接対決といこうぜ。そうすれば、嫌でもおれの方が優れた狩人だってわかるだろう?」
「望むところだ。スーシャの山猿の本性を見て、吠え面をかくなよ、リィ」
「ふん、狼の変種であるおれに、人間のお前が狩りで敵うとでも思っているのか?」
「言っていろ。本物の猿が舌を巻いて逃げだすとまで言われた俺の身の軽さ、狼如きに負けて堪るものか」
「じゃあ、負けた方が、勝った方の言うことを何でも一つ聞くというのはどうだ?」
「おう、いいともよ。さて、デルフィニアの戦女神は、どれほど見事に裸踊りを舞ってくれるのかな?」
「よし、良く言ったウォル。じゃあおれは、バルドウの現し身のタコ踊りを希望するぞ」

 こうなってくると子供の喧嘩である。違うのは、二人とも、自分がどれほど大人げないことを言っているかを理解していて、相手の言葉を心底楽しんでいることくらいのものだろう。
 ようするに、じゃれ合っているのだ、二人とも。
 シェラは思わず持ち上がってくる口の端を、意識して我慢しながら、悪戯好きの悪ガキを育てるお母さんの心持ちで言った。

「二人とも、そろそろいい具合に石が焼けているはずです。さっさと汗を流してきて下さい。そのどろどろの身体を綺麗にしてからでないと、夕食はおあずけですからね」
「「は――い」」

 間の抜けた声で二人は応じた。
 そして、ぽいぽいと服を脱ぎ捨て、いそいそと湖の畔の風呂小屋へと向かったのだ。
 シェラは、真っ裸になった二人の後ろ姿を眺めながら、年頃の男女は別々に風呂に入るべきだという至極もっともな一般論を、すんでのところで引っ込めた。何せ、彼自身が年頃の女性と一緒の風呂に浸かること自体何の抵抗も覚えていないのだし、あの二人に世間並みの常識を期待するのは間違いだと知っていたからだ。
 それに、まかり間違ってあの二人がそういう関係になったりしたら――健康的な男女が裸の付き合いをした結果結ばれる、甚だ当然の結果としての関係である――それはそれで面白いと思ったというのもある。そのあたり、二人から一歩引いているように見えるシェラも、相当に毒されていると言えないこともない。
 だけど、あの二人に限って言えば、まかり間違えてもそういうことにはならないことを知っているから、シェラは苦笑いを一つ溢して、野ウサギの皮を剥ぎにかかったのだ。



 赤く焼けた石に水をかけてやると、狭い蒸し風呂の中を、たちまちに蒸気が埋め尽くした。視界を染め上げる白さに身体が包まれると、汗が噴き出す予兆とも言える、心地よい熱さを感じることができる。
 リィも、そしてウォルも裸であった。蒸し風呂に服を着て入る変わり者はいないから当然であるが、年頃の男女が一糸纏わずに狭い室内にいる、口喧しい教職者などが見れば顔を真っ赤にして喚きそうな情景である。
 しかし、当人達は、全くどこ吹く風であった。あちらの世界では、男のウォルと少女のリィであったが、二人とも裸で構わず一緒に水浴びをするなど日常茶飯事であったし、別に嫌らしいことではなかった。
 リィにとっても、そしてリィに長年触れ合ってきたウォルにとっても、それがごく自然なことなのだ。
 だから、少女のウォルと少年のリィが、やはり生まれたままの姿で隣り合って座りながら蒸し風呂を楽しむというのも、まったく自然な流れであり、二人とも露ほどの疑問も持たなかった。

「ああ、いい気持ちだ……」

 夢を見るようにウォルは呟いた。 
 リィを倣って紐で纏め上げていた髪も下ろしている。その黒髪が蒸気で濡れて、カラスの黒羽のようにつやつやと輝いている。
 隣に腰掛けたリィは、その髪のことが気になったのだろう、まじまじと見つめた後で、手にとっていじってみたりする。彼の相棒の髪の毛もそうだが、何故こうも真っ黒なのにこうもきらきらと輝くのか、不思議そうな有様であった。
 掌にのせてよく眺めて、指で撫でてみて、鼻に近づけて匂いを嗅いでみたりする。
 その様子は、見知らぬものに警戒と興味を等分に覚えた、子猫のそれに近い。
 ウォルは、不思議そうに自分の妻たる少年を見つめ、微笑いながら言った。

「そんなに俺の髪の毛が珍しいか?」
「うん、めずらしい。人間なのにこんなに綺麗な毛並みなんだもの。まるでアマロックの毛皮だ」

 リィにとって唯一の親である名前を聞いて、ウォルは悪い気がしなかった。
 
「それを言うなら、お前の髪の毛だって嘘みたいに美しい。初めて見たときは、細く鋳梳かした黄金を身に纏っているのだと思ったほどだ」
「そんな重たいものを頭に付けていたら首が凝って仕方ない。ただでさえ、長ったらしい髪の毛は重たいのに」
「それだ。俺も一度聞いてみたかったのだがな、お前は長い髪の毛は邪魔だ女みたいでうざったいと嘆きながら、それでも切ろうとはしなかった。何故だ?」

 早くも滲み始めた額の汗を拭い、ウォルが問うた。
 リィは、肩を竦めた。

「おれはさっさと切りたかったんだ。でも、髪を切ろうとするとルーファが悲しそうな顔をするんだよ。『そんなに綺麗なのに勿体ないなぁ』ってさ。まるで自分のものみたいに言うものだから、おれも簡単に切れないだろう?」
「そうか、やはりお前を縛れるのは、あの方のみなのだな」

 ウォルは、呟くようにそう言った。

「あのな、ウォル。何度も言っているが……」
「お前とラヴィー殿はそういう関係ではない、か?」

 悲しげな少女の声である。流石のリィも黙らざるを得ない。
 ウォルはその様子を寂しそうに見遣ってから、傍らに置かれた白樺の葉で、瑞々しい自らの肢体を叩いた。
 少女の身体から、珠の汗が舞い散った。

「それでも、妻と間男殿との間に自分が入る余地がないと思うと、夫としてはいくばくかの寂寥を覚えざるを得ないな。ああ、残念だ残念だ」
「よしわかったウォル。お前、おれをからかっているな」
「ばれたか?」

 他の者がすればこの王妃をからかうなど、命知らずもいいところな愚行であるのだが、これも夫の特権と言うべきだろうか、リィは少女の頭を小突いただけで勘弁してやった。
 ウォルも、楽しげに小突かれていた。
 リィは、ウォルが使った後の白樺の葉で、やはり引き締まった若狼のような自分の身体を叩いた。
 珠の汗が舞い散り、どこかに消えていった。

「では、俺も髪を切らない方がいいか?」

 ウォルは、リィの目を覗き込むようにして言った。
 自分を真っ正面から見つめる漆黒の瞳に、リィは、あくまで素っ気なく答えた。

「それはウォルの勝手だろう?その髪はお前のものだし、髪を切る手だってお前のものだ。それともお前は、俺が切るなと言えば切らないし、俺が切れと言えば切るのか?」
「そうか、ならばばっさりと切ってしまうとしよう。何せこの髪は不必要に人の目を集めるばかりか、知らぬ間にあっちこっちに絡みついていたりして難儀することがある。髪は短いに越したことはない」
「おい、なら、あっちの世界のお前は、何で髪を伸ばしていたんだ?男なのに」
「男だからさ。国王というものは、それなりに風采にも気を配らんといかん商売でな。幸い俺の髪は女性が羨むほどに美しかったようだから、背中に届くまで流してそれなりに飾ってやれば、はったりが効く。それだけの話だ」

 つまらなそうにウォルは言った。

「だから、今となっては髪の毛を長く伸ばしている理由はない。こんなもの、ばっさりとやってしまっても何の問題もないわけだ」

 ウォルは、傍らからナイフを取り出した。本来はサウナの中に金属を持ち込むのは御法度である。室温で熱せられた金属で火傷するおそれがあるからだ。
 だからリィも、常日頃身に付けているネックレスと、それに編まれた指輪を外している。当然剣だって持ち込んでいない。
 いつの間にそんなものを持ち込んでいたのかと訝しんだリィが、そのことを口に出すまでもなく、ウォルは自らの髪の毛を一房掴み、刃を当てた。

「あっ!」

 リィの口から、悲鳴のような叫びが漏れだした。
 ウォルは、にやりと笑って、リィの方を向いた。

「どうかしたかな、我が妻よ?」

 事ここに至って、目の前の少女がまたも自分をからかっていたことに気がついたリィであるが、もう遅い。狩りで言うならば、罠が深く足に食い込み、猟師の足音を聞いた獣のような心境である。
 リィは、あきらめの境地でもって嘆息し、そして言った。

「……ウォル。お前にはその黒髪が似合ってる。凄く似合ってる。だから、あまり切って欲しくない」

 ウォルは満面の笑みを浮かべた。
 口に出しては何も言わなかったが、輝くような表情が、その言葉が聞きたかったのだと語っている。
 
「では仕方がない。肩が凝るが、我慢しよう。リィよ、お前の希望のせいで固く凝った肩は、お前が揉みほぐしてくれるのだろうな?」
「……こいつ、性格が悪くなったんじゃないか?」

 嫌そうに眉を顰めたリィを見て、ウォルは破顔した。身体を折り、腹を抱えて笑った。
 狭い蒸し風呂の中を、少女の笑い声が反響した。
 その美しい笑い声は、リィなどの耳にとっても不快なものではなかった。カフェテラスなどで聞く同年代の少女の歓声などは、どうしても慣れないほど耳にうるさいのに。
 果たしてこれが幸福の領域の為せる業なのか、それともあきらめの境地の成せる業なのか、リィには判断がつかなかった。

「いやぁ、笑った笑った。これほどに笑ったのはいつ以来だろうな」

 いまだわき起こる笑いの発作に肩を振るわせながら、少女は身体を起こした。
 リィは、己の夫たる少女を胡散臭そうに見つめ、それからその身体をしげしげと見つめた。
 その視線に気がついたウォルは、きゃあっ、と可愛らしい悲鳴を上げて、胸を隠した……ということは全くない。寧ろ誇らしげに胸を反らして、そして言った。

「どうだ」

 何がどうだ、というわけではない。
 しかし今のウォルの心情を表すに、それほど相応しい言葉も無かった。見るなら見てみろ、おそれいったか、羨ましいだろう。色々な感情をこめて『どうだ』なのだ。
 間違えても、年頃の娘が自らの裸を異性に見られて、口にする言葉では無い。
 対するリィの反応も、また普通ではない。
 彼くらいの年頃の少年であれば、これほど明け透けな少女の裸体を見れば、自らの裸を恥ずかしがってすごすごと逃げ去るか、気まずそうにしながらもその身体から目を離せないか、それとも自分に気があるものと勘違いして鼻息を荒くするか。
 リィは、そのいずれでもなかった。
 その緑柱石色の瞳を猫のように見開いて少女の裸体を観察し、鼻を鳴らしながら首元に顔を近づけ、そこに浮いた汗をぺろりと舐め取った。
 そして、さも不思議そうに首を傾げた。
 そんなリィの様を見たウォルは、興味ありげにこう問うた。

「うまいか?」

 これも普通の反応ではない。しかしウォルは以前、この金色の獣が自分の血を舐め取る様を見ているから慣れているというのもあった。
 リィは口の中をもごもごさせた後で、言った。

「女の子の味だ」
「それはそうだ。何と言っても、今の俺は正真正銘の、花も恥じらう乙女なのだからな」
「でも、驚いた。匂いも味も、全部女の子だ」

 いっそ、初めて少女の姿で再会したときよりも、リィは驚いていたのかもしれない。
 彼にとって人間とは、その姿だけでは無く、匂いと味と声と手触りと、五感の全てを認識するものなのだ。
 それは、人が人を見分けるときの手法とはかけ離れている。人は、その外見と声くらいでしか、他者を認識し得ない。
 ウォルは、今更ながらにこの生き物が、人ではないことを悟った。
 ならば、残る一つの感覚をもって、自分が本当に少女になってしまったことを知らせてやるべきだろう。

「触ってみるか?」
「いいの?」

 その言葉に、リィは、遠慮がちに目を輝かした。
 それは、性欲に滾った雄の視線ではない。
 群れの仲間、それも遠い昔にはぐれてしまった仲間に出会えて、毛繕いをすることを許された、獣の安堵と喜びから来る輝きであった。
 ウォルは、鷹揚に頷いた。

「もちろんだ。何せ、俺とお前は夫婦なのだ。これくらい、普通の夫婦ならば、毎日のように床でやっていることだろう?」

 一応、自分達が普通の夫婦ではない自覚はあるらしい。
 
「じゃあ、遠慮無く」

 リィはその両手で、ウォルの顔をがっちりと掴んで、自分の顔を近づけていった。
 予想していたこととはいえ、目のすぐ前に少年になったリィの顔があるというのは中々見応えのある眺めだったが、ウォルは特に抵抗はしなかった。

「おい、ウォル」
「なんだ」
「目を閉じてくれないとやりにくい」

 ウォルはびっくりした。
 あまりに驚いて、あんぐりと口を開いてしまったくらいだ。

「……リィよ。お前がそんな殊勝なことを言うとは、俺がいない間に恋人の一人でも出来たか?」

 内心ではちっとも信じていないことを、ウォルは口にした。
 そして、リィは平然と答えた。

「ううん、これはお前の世界に行く前の話。キスする前は、目を閉じるのが作法なんだって。別に今からキスするわけじゃあないけど、似たようなもんだから。女の子が目を閉じるまで、やっちゃあ駄目なんだって」
「それが、この世界の作法か?」
「男と女のマナーらしいぞ」

 二人は、お互いの顔を至近に認めながら、お互いが首を捻っていた。
 どうにも奇妙な構図であった。身体だけを見れば愛し合う寸前の男女なのに、その表情たるやなぞなぞ・・・・に頭を悩ます幼子のそれだ。どこにも、これから組んず解れずの行為に及ぶような雰囲気はない。
 それもそのはずである。シェラが予想した通り、この二人の間にそもそもそういう意図は、微塵もないのだから。

「なら、別に俺に気を使う必要はないぞ。それは一般論であって、俺達には当てはめる必要が無い。それだけの話だ」
「うん、おれもそう思う。やっぱり、こういうことはお互いの目を見ながらするべきだな」

 真剣な面持ちで頷いたリィは、ウォルの鼻頭をぺろりと舐めた。
 予想していた感触ではあったが、それでもウォルは片目を閉じ、反射的に身体を反らせようとした。

「あ、こら。逃げるな」
「逃げるなと言っても、くすぐったいのだ」
「我慢しろ。男の子だろ」

 にべもなくそう言われては、ウォルに反論しようがない。今の自身の身体が、紛れもない少女のそれであったとしても、である。
 しかし、反射反応というのは度し難いもので、リィの生暖かい舌が皮膚に触れるたびに、ウォルのか細い身体はくすぐったそうにくねるのだ。
 リィはほとほと困ったようだった。

「おい、じっとしてくれって。前はちゃんと我慢してくれただろう」
「いや、そうは言うがな、リィ。この体は以前と違って中々に敏感らしくて……今だって笑い声を堪えるので精一杯なのだ」

 口元をひくつかせたウォルに、リィは憮然として言った。

「失礼なやつだ。折角こっちが真剣に毛繕いしてやろうっていうのに」
「すまんすまん、しかしこればっかりは……うはは、やめろリィ」

 ついに堪えきれなくなったのだろう、ウォルは身を震わせて笑い声を上げた。
 しかしそれも、色気の欠片もない笑い声だ。今のウォルの外見で、口元に手でも添えながら『きゃあ』とか『うふふ』とか言ってくれればまだ絵になるものを、豪快に大口を開けながら『うははは』とか『わははは』とか『いひひひ』とかいう笑い声を放つものだから、普通の男だって萎えてしまうだろう。
 リィも、嘆かわしそうに言った。

「おれには男を押し倒す趣味はないんだがなぁ」
「俺だって、ぐはは、押し倒される、ふは、趣味など無い……いひひ、やめてくれリィ!」

 ウォルは精一杯しかめつらしく言ったつもりだったが、所々に堪えきれない笑いが入るものだから威厳の欠片も見当たらない。しかも、最後の方は完全に泣きが入っていた。
 無理もあるまい。リィは会話の合間も絶え間なく舌と手を動かし、ウォルの身体を、本人にとっては至って真面目に、他人が見ればどう見てもそういう意味で、味わっていたのだから。
 それでもしばらくリィは、ウォルを解放することなく、その身体を弄び続けた。
 彼が、ついに飽きたのかそれとも気が済んだのか、少女の身体を解放したとき、無惨にもぴくぴくと痙攣するウォルの残骸が、蒸し風呂の床に転がっていた。

「ど、どうだ、りぃ、なっとく、したか……?」

 息も絶え絶えである。
 それに応じるリィは、少女の汗で濡れた口元をぐいと拭い、憎たらしいほどに平然と言った。

「うん。やっぱりお前はウォルだし、でも女の子だな。納得した。世の中には変なこともあるもんだ」
「そ、それは、ありがたい」

 もしも疑ってかかられて『もう少し』などと言われては、冗談抜きで笑い死にしかねない。
 折角長年の想い人と再会できたのに、死因がその想い人に笑い殺された、というのでは浮かぶ瀬も立つ瀬もないというものではないか。それに、この身体を貸し与えてくれた少女にも申し訳が立つはずもない。
 立たない続きで足腰も立たなくなった少女は、少年の手にひょいと抱え上げられた。
 リィはその手にした人型の荷物を、肩に担いだ。

「り、りぃ?」
「そろそろいい時間だ。蒸し風呂は、あまり長いこと入ってると危ないからな」

 リィはその体勢のまま蒸し風呂の扉を開けた。
 途端に流れ込んでくる冷たい風が、火照った皮膚に心地よい。
 まるで、盗賊が略奪品の村娘を抱えるような体勢でリィに抱え上げられたウォルは気がつかなかったのだが、リィのエメラルド色の瞳の中には、罪人を処刑する執行人の輝きが籠もっていた。
 どうやら、先ほどからかわれたことを根に持っているらしかった。
 やはり、この金色の獣をからかうのは、夫であっても命がけのようである。
 無言で、湖の方に歩いていく。

「り、リィ。すまなかった、この通りだ」

 それでも何か危険なものを察したのか、自らの妻の肩に、荷物のように担ぎ上げられたバルドウの化身は、己の妻たるハーミアの化身に、両手を合わせて許しを乞うた。しかし悋気が強いと評判の女神は、己の夫を許すつもりなど微塵もなかったらしい。
 顔の横でばたばたと暴れる二本の足を押さえつけて、無慈悲とも言える口調で言った。

「いやぁ、身体が火照って仕方ないな、ウォル。そういえばお前、泳ぎが得意だって散々自慢してたよな?」
「む?うむ、スーシャの河童といえば、何を隠そう俺のことだ」
「よし、なら昼間の狩りで決着がつかなかったのは、泳ぎでけりをつけるとしようか」
「いや、それは構わないのだがな、リィ、今はその、足腰が立たないというか……」
「そうか、頑張れウォル。ファイトだウォル。気合を見せろウォル。手だけで泳いで見せろウォル」

 少女は何事か抗議をしようと口を開いたが、一言をしゃべる間もなく宙高く放り投げられた。
 そして、背中をばしゃりと何かが叩き、冷たい水の中に落っことされたのだと気がつく。
 先ほどまでの火照りが飛んで逃げるような、刺すような冷たさである。
 しかしその刺激が幸いしたのだろう、先ほどまでへなへなと情け無く笑って言うことを聞いてくれなかった足腰が、しゃんと動くようになった。
 こうなれば、文字通り水を得た魚だ。何も怖いものはない。
 真夜中の湖であるが、星も月も出ている。きちんと水面を意識して、ウォルは浮上した。
 ざばりと、重たい水を掻き分けて、水面から顔を出す。思いっきり頭を振ると、記憶にあるよりも多量の飛沫が宙を舞った。
 大きく二、三度呼吸をして、人心地がついてから見上げると、桟橋でしゃがみこんで、自分を見下ろす金色の獣がいるのだ。
 にんまりと愉快そうにこちらを見る獣は、例えようもないほど美しくて、抗議の声など感嘆の吐息と一緒に飲み込んでしまった。

「気持ちいいか、ウォル」
「……ああ、とても気持ちいいな。だから……お前も来い!」

 ウォルはそっと桟橋に近づき、リィの手を掴んで、思いっきり引きずり込んでやった。
 リィもそれに気付いていたろうに、少しの抵抗もしなかった。だって、蒸し風呂の後に湖に飛び込んで身体を冷やすのは古来からの作法からであったし、何より確かに気持ちいいからだ。
 数秒の間があって、ウォルのすぐ横に、月の光を跳ね返すような金色の頭が浮きあがり、やがて夜空に君臨する大星のような緑色の瞳が、穏やかに細められて、現れた。
 リィは、先ほどウォルがしたように大きく頭を振り、髪の毛にまとわりつく湖水を弾き飛ばした。そのようすは、狼というよりは猫化の獣のようで、やはり美しかった。

「酷い奴だ。自分の奥さんを、力尽くで湖の中に引きずり込むなんて。ドメスティックバイオレンスで訴えてやる」
「どめ……何のことだ?」
「夫婦の間で行われる暴力行為のことだ。当然、処罰の対象になるし、酷いことをすると刑務所に入れられる」

 ウォルは感心したように目を大きく見開いた。

「この時代では、夫婦間のもめ事も官憲が解決してくれるのか」
「酷いものになればな。いくら夫婦のもめ事だったとしても、それが暴力行為にエスカレートするなら身内の恥で片付けちゃあいけない。珍しく正当な制度だ」
「ならば安心だ。俺もきちんと、国家権力に保護してもらえるらしい」

 ぷかぷかと湖面に浮いたウォルは、真剣な面持ちで言った。
 対するリィは、やはり湖面にぷかぷかと浮いたまま、声を低めた。

「おい、ウォル、どういう意味だ」
「言葉通りだ。いや、天上におわすバルドウ神も、神の国にその制度が設けられることを今や遅しと待ち望んでいるのではないかな?」

 そう言い捨てたウォルは、リィを残して一人泳ぎ始めた。
 なるほど、河童と呼ぶには些か可憐すぎるとはいえ、中々に達者な泳ぎ手であった。

「おい、待て、ウォル」

 リィもそれに倣う。こちらも、陸を駆ける時ほどではないものの、やはり常人とは比べものにならないほどに速い。
 そして、まったく余裕をもった息づかいで、言った。

「おれがいつ、お前に暴力を振るった!?訂正しろ!」
「その薄くなってしまった胸に聞いてみろ!国王の執務室の調度品が、典雅さよりも丈夫さを優先せざるをえない仕儀になったのは、一体誰が暴れ回ったおかげかをな!」
「あれはお前が悪いんだろう!くそ、待てったら!」



 さすがに帰りが遅いので心配になったシェラがロッジのドアを開けると、どこからか二人分の笑い声が聞こえてきた。
 どこからそれが聞こえるのか、探すのに時間はかからなかった。何せ、月明かりに映える湖面に、月よりも明るく輝く金色の髪と、夜よりも黒い漆黒の髪が浮かんでいるのだから。
 要するに、またじゃれあっていたのだ。
 シェラは、重たい溜息を吐き出した。これでは、本当に自分はお母さんになってしまうのではないだろうか。
 長い行者生活、赤子のお守り役を演じたこともあったが、しかしあれほど大きく、そして扱いづらい子供のお守りをするなど、まっぴら御免のシェラである。

「ふたりとも!そろそろ帰ってきてください!ウサギのシチューと雉の塩竃焼き、私が一人で食べてしまいますよ!」

 遠くから、抗議の声と、こちらに向かって泳いでくる水音が二人分、響いてきた。
 堪えようとしても堪えきれない優しい微笑みを浮かべたシェラは、水に濡れた身体を拭うためのタオルを二人分を用意して、きっと冷え切ってしまったであろう国王夫妻の身体を温めるため、季節外れの暖炉に火を入れたのだ。



[6349] 第二十一話:仲直りと少女の悲鳴
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:38
 シェラの用意してくれた食事はとても美味しかった。
 各種香草とウサギの骨で出汁を取ったシチューは、蕩けるような兎肉と根菜が絶妙の取り合わせだったし、塩竃で蒸し上げた雉肉は噛めば滲み出る肉汁とほろりほろりと解ける肉の線維が官能的だった。
 そして、シェラが料理の合間に釣り上げてくれた鱒をパイ包みにして焼いたもの、リィやウォルが拾ってきた木の実を炒ったものなど、およそ食材を一から調達したとは到底思えないような豪勢なメニューが食卓を飾り、ウォルとリィの目と鼻と舌を大いに満足させたのだ。
 当然のこととして、その立役者であるシェフには、惜しみない賞賛の言葉が贈られた。
 
「うん、美味い。この世界で何が一番美味いかって、シェラの料理に勝るものはないよな」
「そんな、大袈裟ですよ」

 口いっぱいに雉肉を放り込んだリィの、当人としては至極真剣な言葉に、シェラは微笑って応じた。
 ウォルも、少女とは思えない程に豪快な様子で兎のシチューを胃に流し込みながら、リィの言葉に頷いた。

「謙遜するな、シェラ。西離宮でご馳走になった頃より、更に腕を上げているぞ、間違いなく。お前は、これで身を立てていくつもりはないのか?」

 舌鼓を打ちながらの、思い付く限り最高の賛辞である。
 救国の英雄とまで言われた男に――今は少女であるが――ここまで言われて、いつも冷静なシェラとて嬉しくないはずがない。菫色の瞳を細め、口元をほころばしている。
 しかし、口に出してはこう言った。

「とてもありがたいお言葉ですが、ウォル、今のところ、私はそういう方面で生きていくつもりはありません」
「ほう、それは勿体ないな。何故だ?」
「これはあくまで趣味ですので。職にしてしまうと、気に食わない人達の食事まで作らないといけなくなるでしょう?」

 それが嫌なんですよ、とシェラは微笑った。
 料理に限らず、自分の腕は、自分の仕えるべき、あるいは敬愛すべき人達のために使いたい。それが、シェラなりのこだわりらしかった。
 何とも頭でっかちで、そしてこの聡明な少年にしては不器用なことであるが、自分以外の人間の意志でもって闇雲に他者の命を奪い続けた半生、その反動であるのかもしれない。
 と考えてしまうと何とも重たい話になってしまうのだが、ウォルは暢気な調子で続けた。
 
「気に食わない奴の分だけ断ればいいのではないか?」
「ウォル、それでは職とは言えません。職とは、金銭を得るために我を押し殺して契約と職務に従うということでしょう?自分でお客さんを選ぶなら、お金を頂いていたとしても趣味の域を出ませんよ」

 ぴしりと言った。
 なるほどそんなものかとウォルは思った。
 彼は若くして人を使う者の頂点にあり、最後まで在り続けたので、そういう一般的な職業観はとんと育たなかったのである。
 何せ彼女は、誰しもが羨み、そして畏れる至高の玉座にありながら、どうにかしてこの座り心地の悪い椅子と頭に乗っかった重たい王冠を捨てる方法がないものか、一度ならず真剣に頭を悩ませていたのだ。
 彼女に心酔していた少なからぬ人達が聞けば、間違いなく自分の耳がおかしくなったかと疑うに違いない、ある意味では大陸で最も、そして極めつけに不遜な王であった。
 
「ではシェラよ、お前は将来、どうやって身を立てていくつもりだ?いつまでもヴァレンタイン卿の脛を囓っているわけにはいあんあろう?」
「お行儀が悪いですよ、陛下」

 途中から口調がおかしくなったのは、兎の脛の骨に齧り付いたからである。
 シェラに冷たくお小言を頂いても、ウォルの口はもごもごと骨と格闘し続けた。この世界でもあちらの世界でも、骨にこびり付いた肉が一番旨いというのは子供でも知っている常識であった。
 ウォルはしばらくの間、可愛らしくなってしまったその口の中で骨をしゃぶり、骨入れの中に、肉片の一つだって付いていない綺麗な骨を吐き出した。テーブルマナーにうるさい貴婦人が見れば眉を顰めそうな作法であるのだが、何故か下品な印象がない。
 無論、上品で洗練されているとはお世辞にも言えないのだが。
 これも王族の特権かなと、シェラは苦笑した。そして、先ほどのウォルの質問について、真剣に考えてみた。

「そうですね……今のところ、こちらの世界で何をして生きていくのか、まだ決まっていません」
「あまり無理をいうなよウォル。シェラだって、こっちの世界に来てからまだ一年も経ってないんだ。自分が何に向いてるか、何をしたいのか、探してる最中なんだよ」
「探してる最中と言うが……そろそろ独り立ちの時期だろう?何か、漠然としたものでも決めておかねばまずいのではないのか?」

 心配そうに眉を寄せたウォルに、リィとシェラは顔を見合わせて笑った。
 何か自分が変なことを言ったらしいとウォルは思ったが、しかしその内容が検討もつかない。
 結局、この世界の先輩方に、教えを乞うしかなかったりするわけだ。

「……あのな、二人とも。もう慣れたことだが、この世界に来たばかりの俺を捕まえて一々物笑いの種にするというのは、些か趣味が悪いと思うぞ」
「すみません、ウォル」
「ごめんごめん。でも、お前の言ったことがおかしいんじゃないんだよ。お前が、おれやシェラと同じことを思ったのがおかしくって……」

 ウォルは、可愛らしく小首を傾げた。
 シェラは、ほんの少しだけ先輩風を吹かしながら、このことを話せばウォルも驚くに違いないと思いつつ、言った。

「私も初めは驚いたのですが……。どうやらこの世界の子女は、我々の世界のそれに比べて独り立ちが驚くほどに遅いのです」
「遅いと。具体的に言うと?」
「物凄く早く自活する奴で、だいたい16歳。少し早いと18歳。たいていのやつは22歳前後まで、親の金で飯を食っている」
「22歳!?」

 予想通りの驚きの表情に、リィとシェラはあらためて笑いを堪えるのに苦労した。確かに、この世界について疎いのはウォルの責任ではなかったし、ならばそのことについて笑うのは失礼だからである。
 無理をして無表情を装った二人だが、しかし口元が微妙に震えるのは如何ともし難い。それを見て取ったウォルは憮然としながら言った。

「……そういうふうに気を使われる方が、なんだか腹立たしいな」

 厳めしく腕を組んだ少女がおかしくて、金銀天使は笑った。
 大声で笑った。
 ウォルはしばらくの間自由にさせていたが、二人の笑いが収まる頃合いにあらためて問うた。

「つまり、この世界で真に一人前と呼ばれるのは、二十歳も過ぎてからのことということか」
「いや、それでもようやく子供じゃあないっていうだけだ。一人前とは、とても見てもらえないな。本当に一人前と言えるのは、そうだな、結婚して子供も出来て、自分の家も持った時くらいかな?」
「それはまた、随分とのんびりしたものだな」

 ウォルの表情は、驚いているというよりも感心していると形容した方が相応しいものだった。
 事実、少女は感心していた。一人の人間にそれだけの時間と費用をかけて教育を施し得る社会。そして、社会に出てもまだ一人前と呼ばれないということは、その後も何らかのかたちで教育制度に近いものがあるのだろう。
 それに比べれば、ウォルの世界では、戦士であれば15歳で叙任し、その後は生と死が隣り合わせになった凄惨な戦場が己の生きる場所となる。農家や商家の子供であればもっと早い時期に働きに出る。職人などは更に早いかも知れない。
 この差は、どこから生じるのか。
 ウォルは、この世界が、それだけ豊かなのだと考えた。ヴァレンタイン家のように裕福な家でなくとも、子供を労働力として使役する必要が無いのだ。そうでなければ、貴重な労働力ともなる子供を長期間養い、高い費用をかけて教育できるはずがない。
 無論、ウォルの考えは正しい。余程辺境の惑星か、それともスラムのように劣悪な環境を除けば、この世界は教育や福祉が高い水準で行き届いており、飢えた人民が道ばたで犬のように死ぬことなど滅多にない。
 ウォルは、羨ましいと思った。波乱に満ちた彼の前半生に比べてやや輝きに劣る堅実な後半生であったが、だからこそ武勇や知略では如何ともし難い、分厚い壁にぶつかることが多かった。その壁のいくつかをウォルは乗り越えてきたが、しかしいくつかは乗り越えることが出来なかった。それは彼の責任というよりは、時代の業とでもいうべきものだったのかも知れない。
 ともかく、ウォルは、自分の力の及ばないところで、誰からも顧みられることもなく朽ちていく命を、歯がみしながら見送ってきたのだ。そんな彼女がこの世界を見て、羨望を覚えない方がどうかしているというものだろう。
 だから、その時の少女を飾った表情は、苦笑と呼ぶにはほろ苦すぎるものだったのかも知れない。

「こちらの世界を知る度に思う。この世界にありふれたものの、ほんの少し、たった一つでもいいからあちらの世界にあれば、どれほどよかっただろう。そうすれば、どれだけたくさんの人の笑顔が守られただろう、と」
「……陛下。お気持ちはよく分かります。それはきっと、他の誰よりも私が分かると、そう思います」

 気遣わしげな声は、シェラのものである。
 菫色の瞳に真剣な光を湛え、ウォルを正面から見つめた。

「シェラ。お前もそう思うことがあるのか」
「はい。それでも、いえ、だからこそ、それは考えてはいけないことなのではないかと、そうも思います。特に陛下、あなただけは」

 ウォルは、表情を引き締めてシェラの声に耳を傾けた。

「確かに、この世界は素晴らしい。少なくとも、人の命が草のように刈り取られることもなく、お腹を空かせた浮浪児の群れが路地裏で蹲っていることもない。それだけで、あちらの世界よりも素晴らしいと、私は思うのです。それに比べて、あちらの世界の人の命は、あまりにも安かった」

 それは完全な事実であったから、ウォルもリィも何も言わなかった。

「けれども、それを少しでも良い方向に改めるために、多くの人が努力を惜しまなかったことを、私は知っています。陛下やリィは、その人達の旗頭でした。いわば、希望でした。ならば、貴方達だけは嘆いてはいけない、羨んではいけない。そうでなくては浮かばれません」

 誰が浮かばれないのか。
 この世界に生を受ければ死ぬ必要の無かった命。それとも、その命が失われる様を黙って眺めるしかできなかった人達。
 きっとシェラ自身にも分からなかったはずだ。
 リィもしたりと頷いた。

「その通りだな、シェラ。確かにこの世界の連中が、あちらの世界の人達を『助けてやる』ために大挙して押しかける段取りになったりしたら、おれは全力で阻止すると思う。例えおれの行為が、あちらの人達にはありがた迷惑だったとしても、だ」
「……俺は、どうだろうか。もしかしたら、それを歓迎するかもしれんな。こちらの世界と交わることで彼らの誇りが失われることになっても、それで飢えて死ぬ人が一人でも減るならば」

 リィは、痛ましい表情で王の横顔を眺めた。
 きっとこの男は、王座に君臨する間、絶え間なく苦悩の日々を送っていたのではないだろうか。
 王座とは、詰まるところ疫病神の住処でしかないのかもしれない。享楽に耽る王が座れば、不幸は国民へと降りかかる。真に民を思う王が座れば、王自身の背中に疫病神は取り憑くだろう。
 どちらにせよ、碌なものではない。

「誰もが誰も、戦士の魂を持つわけではない。寧ろそれは極少数だ。そして、誇りで腹は膨れん。誇りで病は癒えん。腹を膨らすのは飯だ。病を癒すのは薬だ。それが、あちらの世界には無くて、こちらの世界にはある。ならば……いや、難しい。何とも難しい命題だ。これはやはり、正にその時にならねばわからんか」

 ウォルは頭を一振りして、底なし沼のような思考を振り払った。
 現実問題としてこちらの世界とあちらの世界を繋ぐ手段が無い以上、この問題については如何なる思考も無価値である。ウォル自身、そしてリィもシェラも、そんなことは百も承知だ。その上で、これは避け得ぬ煩悶であった。二つの世界に暮らした彼らが一つの世界に留まる以上、避け得ぬ煩悶であったのだ。
 しかし、これ以上議論しても仕方ないことであるのもまた事実であるから、シェラが声色を変えて言った。

「話を戻しますが、リィ。私のことは置いておいて、あなたは何か将来やりたいことはあるのですか?」
「おれ?うーん……」

 既に一杯目のシチューを平らげ、二杯目の征服に取りかかっていたリィは、天井を見上げて唸ってしまった。
 これはシェラにとって、中々に興味深い疑問であった。
 『目指せ一般人』という、果たして本気か冗談か疑ってしまうような目標を掲げて学生生活を送るリィであるが、だからといってこの人が一般人というカテゴリに含まれてしまうことに途方もない違和感を覚えるシェラである。それはトカゲと恐竜が仲間であると言われた子供が感じる違和感を、更に強くしたものと言ってもいい。
 だから、この人が将来、誰かの下についてサラリーマンや公務員として生活するなど、もはや想像の埒外、笑い話にすらなりはしない。
 かといって、例えばキングやジャスミンのように、大企業の経営者として星を跨いで活躍をする姿も、どうしても思い浮かばない。能力の問題ではなく指向の問題として、である。
 政治や経済、運動や学問。あらゆる方向に類い希な才能を持ちながら、しかしその方向性の定まらないリィである。果たして何を志して勉学に励んでいるのか、シェラならずとも興味の尽きないところであろう。
 正しくウォルもその一人であった。シェラの質問に頭を悩ますリィを、興味深そうに見遣っている。
 焼け付くような二人の視線の先で、黄金の少年は絞り出すような声で言った。

「……おれが学校で学んでいるのは、おれの生きる世界のことを良く知って、どこにどんな危険があってどんな罠が張られている可能性があるのか、それを効率よく排除するにはどういう手段が有効なのかを知るためだからなあ」

 これは、自身の失態に対する苦い教訓である。
 二度とあのような醜態は晒さない。
 だからこそ、学び、知識を得て、次の危難に備える。リィにとっては至極当然の選択肢であった。
 それ故、今後の人生についての進路を決める上での意味を、学園生活に求めているわけではないリィである。
 しばらくの間唸った後、きっぱりと諦めた。

「駄目だ。いきなりやりたいこととか言われても、何も思い付かない」
「リィなら何でも出来るのでしょうけど……」

 シェラも苦笑いである。何でも出来るが故に何をしたいか分からないとは、何とも贅沢な悩みではないか。
 シェラと同じように曖昧な笑みを浮かべたウォルは、そんなリィを見ながら、気楽な調子で言った。

「お前なら、物作りなどが向いているのではないか?」
「物作り……っていうと?」
「そうだな……例えば、家具職人とか、鍛冶屋、細工師とか……」
「うーん……」

 やはり考え込んでしまう。
 以前、体験学習で辺境の惑星にホームステイした際に本職顔負けの木製の椅子を作ったリィであるから、手先の器用さは折り紙付きである。ならば、その道でも大成することは疑いないが、しかしどうにも違う気がする。
 それでも、例えばサラリーマンや公務員となって堅実な家庭を築いているリィなどから比べれば、幾分現実的と言えるのかも知れないが。

「では、ルウの設計した宇宙船に乗って宇宙を旅するというのは?」

 気安くシェラが言った。

「楽しそうだけど、それはルウの夢だな。おれが便乗するべきものじゃないと思う」

 こういうところの線引きはきっちりしている二人である。
 相棒とはいえ、四六時中べったりするような関係を、二人は望んでいない。彼らは、お互いがこの宇宙に存在し、その魂に背くことなく生きていさえすればそれで十分なのだ。

「おれも、今はこれといって思い当たらないかな。でも、いつまでもアーサーに世話になるわけにもいかない。それこそ『お父さん』って呼ばないといけなくなる」
「それは大問題だな」

 リィの性格をよくわかっているウォルは、先ほど笑われたお返しとばかりに、如何にも真心の籠もらない気の毒そうな顔で言った。
 少女の妻は、それを不機嫌そうに見遣ってから息を一つ吐き出した。

「そう言うお前はどうなんだ、ウォル。お前、あっちでは散々王様なんて止めたい逃げだしたいってぼやいてたけど、何かやりたいことがあるのか?」
「俺か。うーむ……」

 確かに、今のウォルを縛り付けるものは何も無い。王座も王冠も、国王の称号も。
 全てから解き放たれるということは、全てを失い全てを奪われるということ。
 そんな少女にこの問いかけは少し残酷だったかも知れない。無論、ただの少女であれば、の話であるが。
 そして、どう考えても『普通』というカテゴリに含めていいはずのない黒髪の少女は、手を顎にやり、考え込んでしまった。
 シェラは、この世界の後輩に当たる同郷人の様子を見て、助け船を出してやることにした。
 
「やはり、そう簡単に将来の希望など見つかるはずがないですよね……」
「実は、やってみたいことがあるのだ」

 リィとシェラは、同時に匙を落とした。ぱしゃりとシチューの汁が跳ねたが、二人ともそれに気づきすらしない。
 二人して唖然と口を開き、決意めいたものを含んだ視線を前に向ける少女を見つめている。
 その表情のまま、リィは尋ねた。

「ウォル、お前、なりたいものがあるのか?」
「うむ。そのことでお前達に相談しなければいかんと思っていたところだ」

 少女はこくりと頷き、少しの間だけ躊躇ってから口を開いた。

「その、だな。なんと言ったものか……」
「えらく勿体付けるな。はっきり言えよ」
「あいどる、というものになるのは、どうしたらいいのだろうか?」

 しばらく、静寂が部屋を満たした。
 二人は、果たしてその言葉が本当に少女の口から出たものなのか、記憶の反芻を繰り返し、その度に理性で肯定し感情で否定した。
 とにかく、混乱した。
 今、こいつは(この方は)何を言ったのだ?
 確かに聞こえた。
 あいどる、と。
 あいどる。アイドル。
 この単語に、どのような意味が与えられていただろうか。
 リィが、そしてシェラが思い浮かべたのは、テレビの中で煌びやかな衣装を纏い、安っぽい愛やら恋やらをテーマにした歌を歌い、ファンに媚びた笑顔を振りまき、若さと美しい容姿を売り物にして日々の糧を得る、踊り子のことだった。
 どこをどう考えても、目の前で雉肉に齧り付く少女――デルフィニア国王であり幾多の死地を潜り抜けた戦士である――に相応しい職業であるとは思えなかった。
 たまりかねたシェラが、おそるおそると口を開いた。

「……あの、陛下。陛下が仰っている、アイドル、とは、一体どのような職業でしょうか……?」
「なんだ、そんなことも知らんのかシェラ。よいか、アイドルというものはだな、テレビの中で煌びやかな衣装を纏い、安っぽい愛やら恋やらをテーマにした歌を歌い、ファンに媚びた笑顔を振りまき、若さと美しい容姿を売り物にして日々の糧を得る、踊り子のことだ」

 得意げに講釈したウォルである。
 ……どうやら、その認識の正誤は別にして、自分と共通の認識は抱いているらしいとシェラは思った。
 それ故に、よりいっそうに混乱した。
 ウォルが、アイドルになる?
 目の前の少女が、ひらひらきらきらごてごてした装束を纏い、マイク片手にテレビカメラに向かってウインクする?少しきわどい水着を着て、カメラの前でポーズを決める?ドラマや映画で、どこの馬の骨とも知れない男優と愛を語らいキスやベッドシーンを演じる?

 ……それは何という名の悪夢だろうか?

「……やめてください陛下。どう考えても、あなたに相応しい職業ではありません」
「そうか?意外と向いているんじゃないかな」
 
 これはリィの言葉であった。
 シェラは弾かれたようにリィの方へ向き直った。自分の耳を疑ったというのもあるが、リィの正気を疑ったというのもある。
 しかし当のリィは、あくまでいつも通り、平然とした有様であった。そのまま続ける。

「顔は文句なしで可愛らしいし、人を惹き付けるものだって十分にあるだろう。あとは運さえよければ成功するさ」
「お前にそう言って貰えると安心だな」
「こっちの世界に帰ってきてから、そっちの方面にもちょっとした知り合いが出来てさ。お前さえよければ、今度紹介するよ」
「すまんな」

 この場合のちょっとした知り合いとは、半世紀に渡って銀幕の表と裏を牛耳る、『芸能界の奇跡』、もしくは『銀幕の妖怪』のことである。ひょっとしたら、最近、その『妖怪』を起用した映画を撮ったことで名を上げた、新進気鋭の映画監督もセットでくっついて来るかも知れないが。
 シェラは、こめかみ辺りに激痛が走るのを自覚した。
 どうやら自分は、この二人と同等に張り合うにはまだまだ器のサイズが控えめすぎるらしいと思った。
 それでも一応、思ったことは言うことにした。これだけ強いストレスに晒されているのだから、どこかで発散しないと破裂してしまう。別に自分の容姿にこだわりのあるシェラでは無かったが、後頭部にはげが出来ては少女に扮するのが難しくなるから、苦労性とは早いところ縁を切りたかった。

「……リィ。『目指せ一般人』の標語は、早くも短い生涯を終えられたのですか?」

 というよりも、この黄金の獣が一般社会の中で暮らしていくなど不可能であるとシェラは確信しているし、そうあるべきではない、そんなのあまりに勿体ない、とも思っている。
 しかしこの際、武器に出来るものは何でも武器として闘うべきである。
 闘うとは、一体何と?
 彼を悩ます偏頭痛と、である。
 そんなシェラの葛藤というか決意というか、に対して、リィは平然と答えた。

「おれやお前、あの二人みたいに危なっかしい連中にはまだまだ有効継続中だ。でも、こいつはそんなに危なくないし、なにより本人がやりたいって言ってるんだ。無理矢理止めさせるわけにもいかないだろう?」

 正論である。
 しかし、自分達を、あの二人――死神とまで呼ばれた一族の精鋭――と同列に置いて欲しくはなかったシェラである。

「だいたい、この頑固者の熊が、いったん言いだしたことを改めるもんか。そんな殊勝な奴なら、あっちの世界でのおれの苦労がどれだけ減ったことか……」
「全く同じ台詞を、熨斗を付けて叩き返させてもらいたいところだな」

 目の前の料理をすっかり平らげたウォルは、ワイングラスを傾けながら言った。
 思わず満足の溜息が漏れる。

「美味かったぞ、シェラ。少々腹が物足りないところだが、まぁ仕方あるまい。悪いのは俺とリィだからな」
「いえ、お粗末様でしたウォル。しかし……何故、いきなりアイドルになりたいなど……?」
「うむ、実はだな……」

 少女が口を開いた、まさにその時である。
 ロッジの外、扉のすぐ傍から、どさりと重量感のある音が聞こえてきた。
 三人は、先ほどまでの緩んだ空気を振り払い、即座に行動を開始していた。
 シェラが、卓上に灯されたランプの火を吹き消す。
 ウォルは音もなく扉に歩み寄り、外の様子を伺った。
 リィは床に耳を貼り付け、不審な物音がないかを探る。
 しばらく耳を澄ましたが、何の音も聞こえない。何かが走り去るような、小さな音が聞こえただけだ。
 リィは、視線だけでウォルに合図を送った。部屋の中に灯りと呼べるものは無く、普通の人間であれば自分の腕だって視認できないほどに深い闇だったが、ウォルは無言で頷くことで了解の意を返した。
 ゆっくりと扉を開ける。その時点で、シェラの片手には鉛玉が握りこまれ、もう片方には銀線の細い光が煌めいている。
 開け放たれた扉から、冷たい外気が入ってくる。
 ウォルは、鼻をひくつかせた。
 人の気配も、鉄の気配もない。しかし、濃厚な血の臭いを感じる。
 いっそう神経を張り詰めさせ、ゆっくりと顔を出し、辺りを探る。
 すると――。

「あ」

 間の抜けた少女の声が、リィとシェラの耳に届いた。
 二人とも、得物を取り落としそうになり、ほとんど同じような非難を込めた視線を、ウォルの背中に向けた。
 しかし、当のウォルに、反省の色はない。そのままのんびりとした足取りで外に出て、

「おおい、二人とも、こっちに来てみろ」

 顔を見合わせたリィとシェラは、首を傾げてから、ウォルの言葉に従った。
 最低限の警戒は解かずにロッジの外に出ると、そこには……。

「あ」
「凄い」

 二人が同時に口に出した。
 そこには、小山のように大きな、何かが横たわっていた。
 ぴくりとも動かない。当然だ。命を失った生き物は、肉の塊に成り果てるのだから。
 リィは、それに見覚えがあった。
 昼間、散々追いかけ回して、惜しくも逃がしてしまった、あの鹿だ。
 夜目の利くものでないと分からないが、額のところに小さな傷がある。
 矢傷だ。おそらくこれが致命傷であり、そしてたったの一撃だったのだろう。
 一体、どのようにすれば野生の鹿、それもリィが手こずるほどに老練な牡鹿の正面から矢を射て、その頭に命中させることが出来るのだろうか。
 恐るべき手並みである。

「一体誰が……」

 シェラの呟きである。
 それに、積まれているのは鹿だけではなかった。
 野苺や山桃、胡桃などの木の実や果物。鱒や岩魚に近い種の川魚。料理には欠かせない各種香草。茸や根菜なども揃っている。
 これだけで盛大なパーティーが開けて、さらにお釣りが来るであろう、食材の山であった。
 小さな食材だけでイマイチ腕の振るいようのなかったシェラであるから、食材の山に駆け寄りそうになったが、しかしふと気付いてリィの方を振り返った。
 リィは、小さく頷いた。

「大丈夫、全部食べられるものばかりだ。毒が仕込まれているとか、そういう勿体ないことはないみたいだぞ。それどころかこの鹿なんて、きちんと血抜きもされてる」

 確かに、喉のところが大きく切り裂かれている。
 額の矢傷が致命傷だったとすれば、これはこの鹿が息絶えてから、血抜きをするために作られた傷ということになるのだろう。
 シェラはますます首を傾げた。
 
「今、この星には我々しかいないはずですよね。一体誰が……?」
「だいたい想像はつくけどな」 
 
 リィは足下に転がっていたドングリを手に取り、二三度ぽんぽんと掌で浮かせてから、正面の草むらにえいやと放り投げた。

「あいた!」

 こん、と、固いものにぶつかる軽い音が聞こえて、それから間の抜けた悲鳴が聞こえた。
 緊張に身体を硬くしかけたシェラとウォルであったが、その声が聞き覚えのあるものであったから、すぐに解いた。
 それによく考えてみれば、本来は無人であるはずのこの惑星に宇宙船以外の手段でもって現れるという非常識、一体この人以外の誰に可能であろうか。

「さっさと出てこいよ、ルーファ」

 むっつりとしたリィの声、それに応えるように、がさごそと騒がしい音が草むらから鳴り響き、夜空に負けないほどに黒い髪の毛と、青空にだって負けないくらいに青い瞳が、恥ずかしげに顔を出した。

「あ、あはは、久しぶりだね、王様、シェラ」
「うむ、久しいな、ラヴィー殿」
「ルウ……」

 きらきらと目を輝かしたウォルと、眉間を抑えて黙り込んでしまったシェラである。
 
「……人為的に不可能なことはラー一族でもタブー。私はそう理解していたのですが?あなたが生身のままでこの惑星にいることは、人為的に可能なことなのでしょうか?」
「で、でも、ここにいるのはみんな、きちんと秘密を守ってくれる人達ばかりだし……!」
「それを言ってしまえばどんなときだって他人に秘密を守らせるくらいわけはないあなたでしょうに」

 人間の記憶の操作くらいは増差もないルウであるが、あまり好きではなかったりする。
 シェラもそのことは知っているから、これはただの皮肉、もしくは嫌味であった。
 勿論、ルウがこの場にいるのが嫌なわけではない。しかし、着いてくるつもりなら前もって言って欲しかったのだ。

「だって、僕が一緒に行くって言ったら、ダンも船を出してくれなかったかもしれないし……」
「かも知れないし?」
「……エディが凄く怒ってると思ったから……」

 ルウは俯いて黙り込んでしまった。
 そんな彼に、リィは手厳しい視線を向けた。

「ふうん。なら、おれが怒るようなことをしたっていう自覚はあるわけか」

 びくり、とルウの細い肩が揺れる。
 そして、雨に打たれた子犬のような顔で、リィを見上げた。

「だ、だって、王様がエディと結婚すれば、とても素敵だと思ったんだよ!」
「結婚ならもう済ませた。今更、こいつがおれの妹になる必要なんてないだろう」
「でも、今のままだと、いつまでたっても赤ちゃんが出来ないし……。妹になって、もっと親密になって、一緒のベッドに寝ることになれば、そういうこともあるのかなぁ、なんて……」
「そうか。つまりお前は、おれとこいつを交配させて、次世代の個体を観察したかったっていうわけか?」
「交配だなんて、そんな!」

 冷たいリィの言葉に非難の視線を寄越したルウだが、今はどちらが優越的な位置に立っているのか、子供にだって明らかだった。
 ルウは再び視線を落とした。

「でも、お前がしようとしたことはそういうことだろう。絶滅寸前の珍獣の雌雄を同じ檻に閉じ込めて、無理矢理に番わせて卵を産ませようとする馬鹿な研究者と何が違うっていうんだ?そもそも、そんな無理矢理なことをして産ませた命に何の価値がある?滅びようとするものはそのまま滅ぼしてやればいいのさ。人の手を借りないと生きていけない生き物なんて憐れなだけだ」

 それは遠回しに自分のことを言っているのだろうかとシェラは思った。
 この世でただ一人、ただ一匹の、黄金の獣。
 シェラは、自分でも何を言うべきか定まらぬままに、口を開こうとした。
 正にその時、ルウが、押し殺したような声で言った。

「……ウォルフィーナは、違うかも知れないじゃないか」
「何だと?」
「だって、ウォルフィーナは女の子だもの。きっと、好きな人の赤ちゃんが欲しいと思うはずだよ。だから、赤ちゃんを産ませてあげないといけない、そう思って……」

 ぐすぐすと、鼻を啜る音が聞こえた。
 いつになく語調の鋭かったリィであるが、流石にこれ以上はまずいと思ったのか、大きく溜息を吐き出して次の言葉を飲み込んだ。
 そして言った。

「なぁ、ルーファ。そういうことは、お互いの意志に任せるべきだとは思わないか?おれがいつの日か愛する人を見つければ、勝手に発情して勝手に子作りをするさ。こいつだってそうだ。こいつだって、無理矢理に尻を叩かれて子供を作らされたって、嬉しいはずがないだろう?」

 リィの指さす先には、彼の夫たる少女がいた。
 少女も、はっきりと頷いた。

「そういうことだなラヴィー殿。今回の件は、あなたが悪いと思う。少なくとも、リィにはきちんと相談すべきだった」
「……反省してます……」
「なら、まず言うべき事があるのではないか?」

 ウォルの言葉にルウは頭を上げ、怯えたような視線をリィに向けて、言った。

「ごめんね、エディ」
「うん、もういいんだ、ルーファ」

 リィはにこりと笑って、そう言った。彼が欲しいものはその一言だけで、それ以外の何ものでもなかった。
 だから、本当にそれだけで終わりだった。
 ルウは嬉しそうに目元を拭った。最初からこの人は許してくれると知っていたけど、きちんと許された喜びは他の何物にも代え難かった。

「ありがとう、エディー!」

 草むらから飛び出して、リィに抱きついた。

「うわ、お前泥だらけじゃないか!」
「だって、エディに許して貰おうと思って、たくさん獲物を狩ってたから。木の実だってこんなに集めたんだよ!」
「わかった、わかったから!」

 ルウは腰を屈め、リィの頭を抱きかかえて、思いっきり頬ずりをした。
 ルウの頬についた泥がリィのほっぺたに黒い煤のように広がったが、当のリィはあまり嫌そうではなかった。ルウの頭に絡まった、蜘蛛の巣やら木の葉やらを丁寧に取ってやっている。

「ああもう、こんなに汚して。折角綺麗な髪なのに勿体ないだろ」
「うん、ごめんねエディ」
「あとでちゃんと風呂に入るんだぞ。それと歯も磨けよ」
「うん!」

 まるで幼子と母親である。
 その様子を苦笑混じりに見つめていたシェラは、咳払いを一つしてから、威厳のある調子で言った。

「ちなみにリィ、あなたもですよ」
「は?おれはもう、一度風呂に入ったぞ?」
「今のご自身の身体を見てから、そういうことは言ってくださいね」

 リィは、今の自分を見た。そしてなるほどと思った。
 泥だらけのルウに抱きつかれたリィの身体は、負けず劣らずにどろどろになっていた。このまま床に入れば、シーツやらマットやら毛布やら、色々なものを汚してしまうだろう。

「わかったよ、シェラ。蒸し風呂、まだ入れるよな?」
「ええ。後で私が入るために、石を焼いておきましたから」
「悪いな、シェラ」
「いえ、大した手間ではありませんから。それに、あなたが風呂に入っている間に鹿の下拵えと新しい料理を作っておきましょう。どうせ、先ほどの料理では足りていないのでしょう?」
「流石シェラ、おれのことをよく分かってくれてるよ」

 満面の笑みを浮かべたリィと、烟るように淡い微笑みを浮かべたシェラの主従である。
 それを、微笑ましいものを見るような様子で遠目に見ていたウォルであるが、その肩ががっしと掴まれたことに気がついた。
 背後に、いつの間に近寄ったのやら、黒い天使が立っていた。

「ら、ラヴィー殿?」
「うん、王様も一緒に入ろう?」
「は?」
「僕とエディと一緒にお風呂に入ろう?ねっ?」

 有無を言わさぬ口調であった。
 別にそれは構わないが……そう言おうとしたウォルの脳裏に、先ほどの悪夢が蘇った。
 身体中をまさぐられ、舐め回され、弄ばれ続けた、笑い地獄……。
 金の天使だけで、あれだけ惨い目に合わされたのだ。それが、二人になれば……。

「い、いや、遠慮しておこう。俺はもう、さきほど十分に汗を流して、身体も清めたのでな」
「ええーっ?そんな、一緒に入った方が絶対に楽しいよ?」
「だから、もう、既に済ませたのだと……」
「そういえばウォル、ルーファとアーサーの記録映像に慌てるおれを見て、散々笑い転げてくれたよなぁ……?」

 ルウに掴まれたのと逆の肩を、今度は金色天使ががっしと掴んだ。

「り、りぃっ!」

 情け無い、悲鳴にも似た声が、覇王の化身たる少女の口から漏れだした。
 少女は、自分が狩られる獲物で、この二人は肉食獣なのだと悟った。そして、その牙が、既に喉元に突き付けられていることも。
 それでも、必死の抵抗を試みた。それが、生きとし生けるものの義務であるかのように。

「シェラ、シェラ、助けてくれシェラ―――!」
「すみません、私も出来ないことはあるのです、陛下」
「おのれ国王を見捨てるか、恩知らず、不届き者、不忠者―――!」
「私はもともと、デルフィニア国民ではなかったもので……」

 下手に関わっては自分のもとに火の粉が降りかかる。
 シェラは、両脇を抱えられたままサウナ小屋に連行される黒髪の少女を、掌をひらひらさせながら見送った。
 その後、小屋の裏手で鹿の解体をするシェラの耳に、悲鳴だか嬌声だか笑い声だかわからない、何とも形容し難い少女の声が届いたのだが、彼はそれを完全に無視し続けた。
 さわらぬ神に祟り無しである。
 一時間後、全身を弛緩させて痙攣を続ける、少女のかたちをした軟体動物が出来上がったとか。

「おのれ、しぇら、おぼえておけよ……」

 ひくひくと頬を引き攣らせて、少女は呟いた。

「なっ。こいつ面白いだろ?」
「うん。また遊ぼうね、王様!」

 



[6349] 第二十二話:昔語り
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/09 22:55
 四人は車座に座り、中央にあかりを灯したランプを置いた。
 ゆらゆらと、そして赤々と燃える、小さな炎。この世界の日常では目にすることの少ない、原始の光である。
 ウォルは、懐かしいものを見るようにその炎を見つめた。彼女にとっての灯りとは、太陽と月と星、そして炎の事だった。それ以外の光など、怪しげな魔道のもの以外存在することすら知らなかった。
 彼女の真正面には、弱々しい光の中でも力強く輝く、黄金色の頭髪をした少年が座っている。彼も少女と同じく、行儀悪く床に直接腰掛けているが、咎める者はいない。
 
「まず、なにから話そうか……」

 少女は面白そうに、しかしほんの少しだけ困った様子で、その可憐な口元を綻ばせていた。それは勿体付けてそうしているのではなくて、話したいこと、話すべきこと、話さなくてはならないことが多すぎて、本当に弱っているからだった。
 そんなウォルの様子を見守りながら、彼女の左に腰掛けた銀髪の少年が、空になった少女のグラスの中に酒を注いだ。
 相当に強い、葡萄から作った蒸留酒だった。

「すまんな、シェラ」

 少年は、無言で微笑した。これが自分の役割だからと、そう言いたげな顔だった。
 ウォルはシェラに注いでもらった酒で唇を湿らし、そして考えて、それから頭を振った。

「駄目だ。どうにも、何から話して良いのかが分からん。そこでどうだろう、お前達の聞きたいことから順に答えていくというのは」
「じゃあ、最初はエディだね」

 少女の右に腰掛けた、漆黒の髪の青年が言った。
 その手には、琥珀色の液体でなみなみと満たされた、小振りなグラスが握られている。もう、何杯目かもわからないほどに飲んでいるはずだが、その白皙の肌には一向に朱が刺す様子が見られない。
 今だって、酔いの気配も見せないはっきりとした口調で、リィに話を振った。
 そしてリィは、しばらくの間考えて、言った。

「あのときの子供は、無事に産まれたのか?」

 あのときの子供。
 それは、リィがこの世界に帰る間際に、ウォルの愛妾であったポーラが身籠もった赤子のことである。
 リィは、大事な遠征の途中であったのに国王の首根っこを引っ掴んで里帰りさせるほどに、その子とポーラのことを気にかけていた。彼らのことをまず真っ先に知りたがったのは、寧ろ当然だろう。
 真剣な、それでいてどこか心細そうなリィ、そして残る二つの視線を受けて、ウォルは確と頷いた。

「無事に生まれた。勿論、ポーラも無事だ」

 ほう、と、三つの溜息が漏れた。

「男の子か?女の子か?」
「男の子だ。フェルナンと名付けた」

 それは、ウォルにとっての二人の父親のうち、彼を育ててくれたほうの父親である。
 そして、デルフィニア国王の正当性を巡る一連の政変の中で非業の死を遂げた、偉大なる貴族の名でもあった。
 事の経緯は、三人だって知っている。それどころか、リィは、長期間に渡る幽閉と度重なる拷問によって死の淵にあったフェルナン伯爵を、難攻不落の城塞から助け出した張本人であるのだ。
 それ故に、その名前を聞いたときの感慨もひとしおであった。

「そっか、フェルナンって名前を付けたんだな」
「おかしいか?」
「いや、相応しいと思う。きっとフェルナン伯爵は、自分の名前が次の国王の名前になることよりも、お前の息子の名前になることをこそ喜んでくれただろう」

 ウォルは恥ずかしそうに微笑った。
 それは、誰よりもウォル自身が確信していることだったが、自分以外の誰かがそう言ってくれたことが嬉しかった。
 シェラとルウも、それに倣った。

「おめでとうございます、陛下、いえ、ウォル!」
「おめでとう、王様!きっと可愛い赤ちゃんだったんでしょ?」
「ああ、とても、そうだな、とても可愛い赤ん坊だった。最初は猿みたいな顔で、本当に自分の息子だとは信じられなかったが……」
「……まさか、ポーラの前でそんな寝ぼけたことを言ったんじゃあないだろうな?」

 不穏当な響きをもったリィの言葉に、少女のこめかみは冷たい汗に濡れた。
 黒真珠のように美しい瞳は宙を泳ぎ、小振りで愛らしい口は『えーと』とか『その』とか、あたふたとした言葉を吐き出すのみ。
 リィは、いっそう声を低めて、言った。

「おい、ウォル。お前、まさか……」
「つい、だ!なんとなく、父親になった実感も湧かなかったから、つい口に出してしまったのだ!そんな意味で言ったのではない!」
「当たり前だこの馬鹿!うすらとんかち!女の敵!もしそんな意味で言ったんなら、今からお前の首根っこに縄をかけて、何としてでも向こうの世界に連れて帰って、ポーラに土下座させてやるところだ!」

 そんな意味、とは、この世に蔓延る責任感と優しさの欠如した父親、もしくは妻の不貞を疑わなければならない可哀想な男達が口にする、最悪の台詞であった。
 ウォルは、無論そのような意味で言ったのではない。ただ、初めて目にした生まれたての赤ん坊があまりに人間離れした容姿だったから、本当につい口から飛び出てしまっただけなのだ。
 慌てて弁明するウォルを、ポーラも笑って許してくれた。彼女は、自分が夫に選んだ男のことを心底信頼していたし、自分にだってちっとも後ろ暗いところはなかったからだ。
 許してくれなかったのは、男連中からその話を聞いた、彼らの妻達である。
 
『陛下のことを見損ないましたわ』とは、タウの自由民に嫁いだ溌剌とした少女の弁。
『私の教育が不味かったのでしょうか……?』とは、かつてウォルと結婚を誓い合った貴婦人の弁。
『例え真意では無いとして、そのように柔弱な言を口にされるとは、天の国の王妃もお嘆きでしょう』とは、ポーラよりも先に双子を出産した男装の麗人の弁。
『ジルがそんなこと言いやがったら、口を縫い付けてアレを切り落としてやるのにねぇ』とは、歳の離れた夫へと嫁いだ女山賊の弁。
 
 これらの発言に、夫である勇者達は異を唱えようとしなかった。
 ウォルの気持だって分からないではないのだ。何せ、自らのお腹を痛めて子を育んだ女達と違って、男は種を撒いただけ、それからのことは完全に蚊帳の外なのだから。
 しかし、ここでウォルを庇っては、一体どのような雷が自分達に落ちるのか、分かったものではない。そして、嵐は大人しく非難して、通り過ぎるのを待つに限るのだ。
 結局、男達の中で、ウォルを庇おうという勇気ある者はいなかった。

『今回のことはお前が悪い。全面的に悪い。一度死んだと思って心を入れ替えろ、な?』とは、国王の幼友達であり、信頼すべき独騎長の弁。
『あの、陛下……お気を落とされずに』とは、国王の絶体絶命の危地を、命を賭して救おうとしたラモナ騎士団長の弁。
『出産の後は、猫だって気が立つものです。あなたはその髭を切り落として、傷口にからしを塗ったも同然。しばらくは雌猫たちの矢面に立つことを覚悟なされることですな』とは、こういうことに関しては一度だって小火を出したことのない、国王の従弟の弁。
『いや、名高きデルフィニア国王とはいえ、団結した女達には刃が立ちませんか。そこらへんはコーラルの宮中であろうがタウのあばら屋であろうが、変わらんもんですなぁ』とは、タウの荒くれ者を統べる族長の弁。

 彼らは遠巻きにそう言って、弱り切った国王の情け無い顔を肴に酒を飲んでいたりする。
 とにかく、本当の四面楚歌とはどういうものかを味わって、今後一切女を敵に回すことは慎もうと、ウォルは心に誓ったのだ。

「だから、もう許してくれ!罪があったことは認めるが、十分に罰は受けたのだ!」

 まさか事件の40年後に、こうも真摯な謝罪をしなければならないとは夢にも思わなかったウォルである。
 その、国王と呼ぶにはあまりに憐れな様子にリィも溜飲を下げたようで、体内の圧力を逃がすように鼻息を一つ吐き出すと、上げかけた腰を下ろした。
 
「まったく、お前ってやつは……。ほんと、おれがいなかったらどうなってたんだか」

 リィは心底呆れた様子でそう呟くと、傍らに置いたグラスを引っ掴み、その中身を空にした。
 シェラは無言で酌をした。自分の右側に腰掛けた少女が、これ以上無いくらいにその身を縮めてしまっているのが、どうにも可笑しかった。
 
「……で、ウォル。お前、その子とポーラを大事にしてあげたんだろうな?」
「当然だ!リィ、いくらお前でも、そこまで疑うのは酷いぞ!」
「冗談だ。怒るなよ、我が夫」

 くすくすと笑い、リィは炒った木の実を一つ掴み、口に放り投げた。
 こりこりと固い音を立てて噛み砕くと、ほんの少しの渋みと同時に濃厚な甘味を感じることが出来る。一つまみの塩が、その甘味をよりいっそう引き立てているようだ。
 リィは、もう一つ摘み、口の中に放り込んで、それから酒を飲んだ。
 美味い酒だった。それはきっと、酒の質以上に、他の何かが素晴らしいからだろう。

「では、他の皆様はどうされたのですか?お元気ですか?」

 これはシェラの言葉である。
 本当にそのことを聞きたかったというのもあるが、それ以上にこのまま国王夫妻を放っておくと、どんどん話が逸れていく気がしたからだ。
 事実、ウォルは気を取り直したような口調で言った。
 
「ああ、みんな元気だとも。イヴンとシャーミアン殿の間には男子が産まれた。ナシアスとラティーナ……いや、ジャンペール夫人の間にもだ。なんとも賑やかな年だったな。特にジル殿とアビー殿は子宝に恵まれてな、男子を出産された後に、なんと双子の赤ん坊を三度も授かったのだ。流石のジル殿も、三度目には目を回しかけていた。ロザモンド殿……ベルミンスター公爵などは天罰だと微笑っていたがな」

 懐かしい、あまりに懐かしくて聞くだけで暖かい気持にしてくれる名前の群れに、三人は顔をほころばした。
 彼らがこの世界に帰って、一年近い月日が流れている。それは、あちらの世界でウォルが体験した月日の流れに比べれば、ほんの一瞬と言っても過言では無いものである。
 たった一年。たったそれだけの間顔を見なかった人達の名前が、どうしてこうも胸を暖かくしてくれるのだろうか。人間嫌いであったかつてのリィであれば、こんなことはなかったに違いない。
 リィは、自身の変化に戸惑いながらも、しかしその変化をちっとも疎んではいなかった。
 そして、自身に宿った優しい感情を愛でながら、言った。

「そういうお前はどうだったんだ、ウォル。ポーラとの間に授かったのは、フェルナンが一人だけか?」

 ウォルは、照れたように頬に手をやり、おそらくは無意識にそこを撫で回した。
 少なくともリィがいた頃には、そんな癖は無かったから、無意識でやっているとするならリィが去った後についた癖だろう。こんなところにだって時の流れの違いは、しっかりと刻まれていたりする。

「その翌年に、女の子を一人。次の年にも、女の子を一人授かったよ」
「へぇ。それはめでたいな!でも、ポーラは大丈夫だったか?あんなに小さいから、大変だったんじゃないのか?」
「ああ。あれは自分が言うように、何より丈夫が取り柄な女性だった。子を産んで、気力も体力も使い果たしたはずなのに、翌日にはけろりとした顔で口いっぱいにパンを頬張っていたりするのだからな。まったく、リィ、お前の人を見る目は外れたためしがないな。ポーラはどこまでも、俺の妻に相応しい女だった」

 リィは、口いっぱいにパンを頬張ったポーラが、その顔を愛すべき夫に見られてあたふたと慌てふためく様を想像して、思わず声を出して笑ってしまった。
 きっと顔を真っ赤にして、でも一度口に含んだ食べ物はきちんと良く噛んでから飲み込んだだろう。あの子は、絶対に食べ物を粗末にする性分ではなかった。
 ポーラの人となりを知るシェラとルウも、思わず吹き出してしまった。

「ちなみに、二人の女の子は、何て名付けたんだ?」

 やっとのことで笑いを収めたリィが言った。
 その質問を予想していたのだろう、ウォルは、少女には些か似つかわしくない不敵な表情でにやりと微笑った。

「上の子は、グリンダ=シャムス」
「……はぁ?」
「下の子は、シェラ=カマル」
「はぁぁ!?」

 先の『……はぁ?』がリィの声で、後の『はぁぁ!?』がシェラの声である。
 それも当然だろう。まさか自分の名前が、遠い異世界――彼らにとっては縁深い世界ではあるが――の王女の名前になっているなど、誰が想像しうるだろうか。
 それが偶然であればどうということはない。しかしこの国王に限って、そういうことはまずあり得ないだろう。
 全部分かっていて、その名を付けたはずである。

「何を驚く?偉人や英雄から名前を頂くなど、どこの国でもありふれた事だろう?」

 ウォルは、外見は何食わぬ顔を装いながら、しかし内心では楽しげに、狼狽える二人を見遣った。
 そして、期せずして名前を『頂かれて』しまった二人は、異口同音に、こんなことを言った。

「おい、ウォル!下はともかく、上の名前はどういうことだ!?」
「陛下!上のお子様はともかく、下のお子様の名前はどういうことですか!?」

 金銀天使は、色違いの瞳に剣呑な色を湛えて、右と左から少女に詰め寄った。

「シェラはともかく、おれの名前なんて付けて、その子が男みたいな性格になったらどうするつもりだったんだ!嫁の貰い手がいなくなるぞ!」
「リィはともかく、暗殺者如きの名前を王女に与えるなど、正気ですか陛下!?不吉にも程があります!即刻考え直して下さい!」
「そう言われても、既に二人とも、二児の母親なんだがなぁ……」

 ウォルはぽりぽりと頭を掻いた。
 リィとシェラははっとした。
 確かに、ウォルがその子達を授かったのは、あちらの世界では遠い昔のことである。今更文句をつけたところで何が変わることでもないのだ。
 二人は、如何にも不平そうな顔で黙り込んでしまった。その顔たるや、おあずけを言いつけられた空腹の子犬さながらである。

「……ウォル。お前は卑怯だ」
「はい。私もそう思います。私などの名前をつけられては、王女様があまりに憐れです」

 ここまで言われると、ウォルとしても反論しなければ愛娘の名誉に関わる。
 
「おいおい、そうは言うがな。シャムスもカマルも、遠国にまで聞こえるほどの美姫だったのだぞ?年頃になったときには、縁談の引く手が数多過ぎて、俺もポーラも辟易としたほどだ」
「……それは大変だっただろうなぁ」

 それはリィも実際に体験したことだったから、その声にも決して同情や憐憫でないものが含まれていた。
 確かに、年頃の王子や王女は政の道具として珍重される。固い同盟関係を作るに、血縁ほど手軽で信用できるものもないからだ。
 ましてその道具が、万里に響く程に美しく、そしてタンガとバラストの二大国を抑えてなお飛翔せんとするデルフィニアの王女であるならば、他の国が放っておくはずがない。
 きっと、リィの時に、更に輪をかけたような大騒ぎだったに違いないのだ。

「じゃあ、二人とも他の国に嫁いだのか?」
「うむ。シャムスはタンガのビーパス王に、カマルはサンセベリアの、オルテス王とリリア殿の息子、現在のサンセベリア王たる方の元に嫁いでいったよ」
 
 ウォルは、そう嬉しそうに言った。
 リィも嬉しそうに頷きながらも、しかしその表情のどこかに寂しげなところがあった。
 ウォルは、すかさず言った。

「政略の道具として扱われた彼女達が憐れか?」

 リィは肩を竦めた。
 彼とて、何の間違いか、一時は王女として、そして王妃としての地位にいたのだから、それらがどういうもので、どういうさだめにあるのかを知らないわけではない。
 王女としての生を受け、蝶よ花よと愛でられる。王と王妃は彼女達に惜しみない愛を注ぎ、周りの人間も傅く。
 しかしその代償は、将来、見たことも、下手をすれば聞いたことすらない国の、得体の知れない王子との結婚を強制されること。いや、結婚と言えばまだ聞こえが良すぎる。
 つまるところ、王族同士の結婚は契約の一種である。そして王女は、契約書のインクか筆か、そこらと同じだ。それが無ければ契約が結べないが、別にそのインクでなくとも契約は結べる。
 好きな相手と結ばれることが出来ない。それは当然である。しかし、その個性すらを、人間性すらを認めて貰えないとなれば、それは憐れといって差し支えないものなのではないだろうか。
 リィはそう思い、結局何も言わなかった。
 自分の同盟者ならば、何も言わずとも分かってくれると思ったからだ。
 然り、ウォルは全てを察していた。そして言った。

「お前の想いはもっともだがな。俺の娘の場合、それは見当外れな同情だぞ」
「はっ?」
「あれは、二つとも、政略結婚に名を借りた恋愛結婚だ。全く、あのときはどれほどに頭を悩ましたものか……」
「へ、陛下。しかし、カマル王女のほうはともかく、シャムス王女はタンガに嫁いだのですよね?」

 シェラが遠慮がちに尋ねた。

「ビーパス王子……いえ、ビーパス王は、我々があちらの世界にいたときで二十歳に手が届こうかというお年だったはず。では、シャムス王女が嫁がれたときは……」
「確か、ビーパス殿が35歳、シャムスが14歳だったかな?」

 14歳と言えば、王族が輿に入るに早すぎる年齢とはいえない。両手の指の数に届かぬ年齢で配偶者を迎える王族は、決して珍しいものではないのだ。
 しかしそれは、政略結婚の場合のみである。
 恋愛結婚においては……この年の差をどう考えるべきだろうか。
 流石に口籠もったシェラであったが、リィはもっと勇猛果敢であり、何より直接的であった。

「ビーパスはロリコンだったのか?」

 シェラとウォルが、口に含んだ酒を同時に吹き出した。そして盛大に噎せ返った。
 二人が同時にげほげほと咳き込むものだから、狭い山小屋の中はとたんに騒々しくなってしまった。窓の外で、鳥が飛び立つ音まで聞こえる始末である。
 嵐のような時間が過ぎ、やっとのことで人心地をついたウォルが、恨みがましい視線で自分の妻を睨みつけた。

「おい、リィ。お前、言っていいことと悪いことの区別もつかんのか?仮にも相手は一国の王だぞ?お前が元の身分で、そして公式な場の発言であれば、これが原因で戦争に発展してもおかしくない無礼だ」
「お前こそ無礼な奴だな。おれだって時と場所くらいは弁えた上で口を開くさ。元の身分の時だってそうだっただろう?」

 そう言われるとウォルとしても返す言葉がない。
 確かに、あちらの世界でのリィは、とんでもない『役者』であった。
 馬に跨れば一騎当千の女武者、農民の姿に身を窶せば凄腕の細作、行者装束を纏えばどのように堅牢な城にでも潜り込み、輝くようなドレスだって誰より優雅に着こなしてみせる。
 ウォルは重たい溜息を吐き出した。

「お前がそんなだから、俺はあんな苦労を背負い込む羽目になったのだ」
「……一体何だよ、藪から棒に」
「まぁ聞け。お前がいきなり天の国に……まぁこの世界に帰ったおかげで、国中に大混乱が起きた。それはそうだろう、デルフィニアの守護神が天に帰ってしまっただからな。これでデルフィニアは終わったと嘆く者も、冗談では済まされない数いたほどだ」
「なんて勝手な奴だ。おれがいるときは、やれ野蛮だ、やれ王族には相応しく無い、やれ女らしくしろって口うるさく言っておいて、いざいなくなったらそれかよ。それに第一、おれは最初から言ってたじゃないか。時が来れば自分の世界に帰るって」
「リィ、お前その台詞を、お前がいなくなった直後のポーラを見ても言えたか?」

 ウォルの言葉に、リィは口をつぐんでしまった。

「あれはな、お前が国に帰ったと聞いて、本当に心を痛めていたのだ。最初に俺が伝えたときは頭から信じようとしなかったし、どうやらそれが事実らしいと理解したときには卒倒して気絶しかけた。その後も泣いて泣いて、泣き伏せって。妊娠中だというのに食事も喉を通らぬ有様だったのだ」

 リィは、この少年には珍しく、母親に叱られた幼児のように俯いてしまった。

「でも、急な話だったんだし……」
「あのとき、俺の耳を引っぱって芙蓉宮に連れ帰った時に、まだこの世界に帰るつもりがなかったとは言わさんぞ。事実、お前はバキラの狼たちには別れを告げていたそうではないか」
「……」
「確かに、お前は時が来たればこの世界から離れると言っていた。それでも、別れ方と言うものが在るだろう。男連中はともかくとして、せめて妊娠中のポーラには気苦労をかけないような別れ方というのもあったのではないか?」
「……ごめん。あの娘を泣かせるのが、怖かったんだ」

 確かに、どれほど上手に言い含めたところで、ポーラはリィを引き留めただろう。何せ、彼女の中のリィは、ほとんど神聖化されていたに等しいほど絶対的なものだったのだから。
 それでも帰ると言えば、間違いなくポーラは泣いたはずだ。泣き喚いたはずだ。
 だが、それを承知の上でも、きちんとお別れを言うべきだったのだ。少なくとも、普段のリィであればそうしていたはずだ。何より、それがお世話になった人達への最低限の礼儀であるはずなのだから。
 それをしなかったのは、きっとリィの中にも、あの世界に対する一抹の未練があったからだろう。
 
「……まぁ、それはいいのだ。何度も言うが、ポーラは強い女性だ。ひとしきり落ち込んだ後は、きれいに吹っ切れたよ。こんなに情け無い姿を、いつかこの世界に戻ってきて下さる王妃様にお見せするわけにはいかない、とな。だから、それはいいのだ。しかし問題はだな……」
「……まだあるのか?」

 リィはうんざりした様子だった。
 確かに、今からでも自分が何とか出来る問題であるのならば、この少年にとってはものの数ではない。どのような困難事であろうと、その腕力と知力に任せて解決してみせるだろう。
 しかし、それが遠く離れた世界の、しかも既に終わってしまったこととなると話は別だ。ラー一族に迎え入れられるほどに常識離れした力を持つ少年であるが、それでも出来ることと出来ないことというものがある。

「ただでさえお前を慕っていたポーラだ。その上お前があのような消え方をしたものだから、真剣にあの方は軍神の現し身だったのだと思い込んでしまった」

 無理もない。
 何せリィは、万を超える軍団の戦闘のまっただ中で、いかづちは落とすは竜巻は起こすわ巨大化するわの大暴れの後で、夫婦の契りを結んだ国王を祝福して、大空に消えていったのだ。事情を知らない人間が見れば、どう考えても神様にしか為せない業である。
 正直、少しやりすぎたかと思わなくもないリィは、気まずそうに首の辺りを撫でさすった。

「で、大事なのはここからだ。お前を敬愛し、心酔しているポーラが、一時はお前もそうだった王女を教育するに、一体どのような方針をとったか、一々説明しなければならないか?」
「……一応説明してくれるか?」
「デルフィニア王女は、武勇をもって尊ぶべし。決して男に守られる弱い存在である無かれ」

 あり得ない。
 決して、王女を育てるための標語などではない。これは、騎士団か、それとも貴族がその子弟を鍛え上げるときに掲げるべき標語だ。
 ウォルは、盛大な溜息を再び吐き出した。今度は、リィとシェラもそれに倣った。

「……うん、なんていうか、ごめんな、ウォル」
「……フェルナンもな、決して弱い男の子ではなかったのだ。年の近いユーリ―などと手合わせをしても、決して引けを取らなかった。それなのに、あの二人にかかっては……」

 もう、気の毒すぎてそれ以上は聞けないリィとシェラである。
 ただでさえ女連中には痛い目を見せられたウォルであるから、ポーラには頭が上がらない。それに加えて、数少ない男の味方である息子が、女である娘達にこてんぱんにのされるのを目の当たりにした日には……。
 何の因果か、今は少女の姿をしたウォルの目に、光るものが浮かんでいたのだって気のせいではあるまい
 
「……そんな娘だからな、他国に嫁がせるのはどうかとも思った。しかし、自国の貴族に嫁がせたのでは、アエラ姫の例がある。将来の禍根を残さんとも限らん。どうしようかと思い悩んでいたときに、タンガ国王の歓迎式典が執り行われた。当然、年頃の娘達も臨席したのだが……」

 リィは、おそるおそると尋ねた。

「……どちらからだ?」
「……シャムスからだ」

 ウォルは、そのときの事を思い出して、青ざめていた。

「普段は、人前では楚々とした様を崩さないシャムスが、突然に席から立ち上がったと思ったら、ビーパス王を指さして言うのだな。『これより明朝、互いの名誉を賭けて正々堂々と一騎打ちをしろ』と」

 ……そこまでいくと自分のせいではなく、その少女の生来の性格ではないかと、流石のリィも思った。
 それでも、一応は尋ねた。

「……なんで?」
「自分の夫は、自分より強いものでなくてはならないから、だそうだ」
「……なぜに?」
「俺とお前がそうだったから……とはポーラの弁だな。どうやら、お前と俺とでした、あの大喧嘩が城中の語り草になっていたらしい」

 あのとき、バルロとブルクスは厳重な箝口令を敷いた。しかし、この手の話題は、どうやって取り繕うとしてもどこかから漏れ出てしまうものだ。特に男と女が絡んだ話になるともういけない。
 取り締まる方も、一体どこから漏れ出たのか分からないし、第一、どれほど高貴な身分の方々のお話とはいえ、所詮は夫婦喧嘩である。結局大事には至らなかったのだし、その程度のことで部下や同僚の首が飛ぶとあっては、血相を変えて取り締まるのも憚られる。
 故に、ウォルやリィは知らなかったが、結構早い段階であの『夫婦喧嘩』は、細かい事情を抜きにしたところで衆目の知るところとなっていたのだ。

 それも、ウォルの武勇伝として。

 これもまた、無理はない。
 これが仮に、花も摘んだことのないように細腕の王女を相手に暴力を振るったというのであれば、諸国に名高いデルフィニア国王の名にも傷が付こうというものだが、何せ相手が『あの』グリンダ王妃である。
 ロアの黒主を乗りこなし、美技を誇るラモナ騎士団長に剣技で勝り、剛力無双の副団長を力のみで正面から打ち破り、槍においてはヘンドリック侯爵をねじ伏せ、武勇豪傑で知られるティレドン騎士団長を寄せ付けもしない。
 これが本当に一人の人間の評判かと疑うような、いっそ妄想癖をもった気狂いが語る武勇伝としたほうがしっくりくるような恐るべき武勲であるが、事実これはただ一人の少女の武の誉れを謳ったものである。
 その少女こそ、デルフィニア国王妃、グリンディエタ=ラーデン。
 ならば、その王妃を、素手とはいえ正面から闘って叩き伏せたのだ。
 しかも、偉大なるデルフィニア国王、ウォル=グリーク=ロウ=デルフィンが。
 闘神の娘を調伏できるのは、どう考えても闘神のみである。
 ならば、この国の王様は、闘神の現し身ということになるではないか。
 国民は、この話を好んで語った。この国は、神々に愛されているのだと。
 
「……とにかく、何をどこでどう間違えたのかは知らんが、シャムスは、デルフィニア王女が嫁ぐのは、王女よりも強い男でなければならんと、そう思い込んでいたらしい」
「……酷い話だ」
「うむ。しばらくの間は悪夢で魘されたぞ。あの阿呆な事件が切欠で、再びタンガとの間に戦火が巻き起こる、最悪の悪夢だった」

 自分の娘の行いが原因で人死にが出れば、親としては首を括るしかない心境である。
 実際、ウォルはその時、生きた心地がしなかった。

「……で、ビーパスは、あのそばかす王子はどうしたんだ?」

 リィは、たった一度だけ顔を合わせた、幼さと聡明さを等分に含んだ灰色の瞳を思い出していた。
 あの気性のまま健やかに成長したのであれば、さぞ良い国王に、そしてウォルの友人になってくれただろう。
 
「真剣な面持ちで頷いた。その申し出、受けて立とう、と。そして言ったのだ。『私が負ければタンガはそなたのものだ。その代わりに、私が勝てばそなたは私の嫁となれ』とな。その時のシャムスの真っ赤に染まった顔、お前にも見せてやりたかったくらいだ」

 自分が負ければ、タンガの王妃に。
 そして勝ったならば、タンガの女王に。その場合、夫になるのは無論、目の前の国王だ。
 要するに、可憐な王女の一世一代の告白劇は、勝負の前に想いが成就していたのだ。
 騒ぎが収まった後、珍しく真剣な顔で叱責する父親の前に立っても、シャムスの表情が弛緩したままだったとして、仕方のないことだろう。
 
「で、結果は?」
「あれは、タンガに嫁に行ったのだ。決して婿を迎えに行ったのではない」

 要するに、ビーパスの勝ちだったらしい。それが、シャムスの手心(下心とも言う)によるものなのか、それとも真実ビーパスの武勇によるものだったのかは、闘った当人同士にしか分かるまい。
 ただ、タンガに嫁いだ後のシャムスは、それまでのおてんばを嘘のように潜めさせて、常に夫を前に立てるお手本のような王妃として振る舞い、タンガ国民に愛された。その変化が、特大の猫を被り続けたことによるものなのか、それとも愛する男の胸に抱かれたことによる心境の変化なのかは、それこそ当人にしかわからないことである。
 そして、一つだけ間違いないのないこと。
 それは、彼女は自分の見たこともない異国の地で、確かな幸福を勝ち得たということだけだ。

「……じゃあ、下の子も、シェラもそんな感じか?」
「そっちの名前で呼ばないで下さい……」

 シェラが、居心地悪そうに言った。

「カマルは……もっと酷い」

 ウォルが、体育座りをして顔を埋めてしまった。
 もう、これ以上のことを聞くのは躊躇われたが、ウォルは壊れたラジオみたいな調子でしゃべり続けるのだ。

「……一目惚れは構わん。一向に構わん。ならば、俺かポーラに言えばいいのだ。俺だってそれなりの地位にいるのだから、男女の仲を取りなすことくらいは出来る。なのに、なのにカマルは……」
「……一体どうしたんだ?」
「……夜這いをかけに行った」

 ……もはや、言葉も無いリィとシェラである。

「……隣の屋敷に忍び込むのならば、何とか我慢もしよう。だがな、デルフィニアの広大な大地を馬で一人駆けし、バラストの関所を突っ切り、サンセベリアに忍びこみ、あまつさえ城壁を乗り越えて王子の部屋に忍び込んだのだぞ!これが王女の所行か!?」

 王女の所行ではない。
 しかし、王妃の所行ではある。
 そして、当の王妃たる少年は、居心地悪そうに視線を泳がせた。

「あー、と、もしかしてそれも……?」
「……俺は知らなかったのだ。ただ、ポーラが……ポーラが……」

 デルフィニア王女たるもの、城壁如きに行く手を阻まれてはなりません。
 そんなことでは、愛する人が敵の手に落ちた時に救うことも出来ませんよ。
 
 ……知らぬは男ばかりなり、である。

「……で、どうしたんだ?」
「……後一歩というところで、ダルトン殿に取り押さえられたらしい。その時、サンセベリア王子は下着を剥がされ、真っ裸だったそうな」

 おそろしい話である。
 これも、一歩間違えば、いや、間違えなければ国際問題となっているはずだ。

「……そんな話、誰から聞いたんだよ」
「……当人が悔しそうに言っていた。あと一歩だった、とな」
「……で、どうしたんですか?」
「……内密に、そして丁重に送り返されてきた娘を北の塔にぶち込んだ国王は、後にも先にも俺だけだと思う」

 北の塔は、ウォルの治世になってからは決して呪わしい場所では無くなっているが、しかし住み心地快適な場所とはとても言い難い。
 何よりウォルにとっては、自らの父の命数を奪い取った、忌まわしい場所である。
 そこに娘を軟禁したのだから、その時のウォルの怒りがどれほどか、推して知るべしだろう。

「……でも、その子はサンセベリアに嫁いだんだろう?」
「……カマルを北の塔に叩き込んで三日後に、サンセベリアの使節団がやってきた。俺はてっきり、この不始末の責任を取らされるのだと、戦々恐々とした。あの老練なブルクスだって匙を投げたのだ。陛下、この際どのような無理難題を突き付けられようと、サンセベリアの言うとおりになさいませ、とな」

 リィがいた頃だって、すでに熟練と呼ぶに相応しい外交手腕を誇っていたブルクスである。その後、タンガやバラストとの戦後処理の折衝や、サンセベリアやキルタンサスとの友好関係の構築、スケニアに対する牽制など、ブルクスの腕前は神技と言って良いものだった。
 そのブルクスが、完全に匙を投げたのだ。この、どう考えても冗談ごとにしか思えない事態が、その実どれほど深刻なものであったか、その一事だけで窺い知れようというものだ。

「彼らは言うのだ。陛下は、かかるような事態を引き起こした責任を如何にしてとられるおつもりなのか、とな。もう、あのときの俺は生きた心地がしなかったよ。正直、五年は寿命が縮んだと思う」

 あちらの世界での天寿を全うしたウォルが言うと、どうにも冗談に聞こえない。
 
「彼らの先頭に立ったダルトン殿がな、如何にも意地の悪い顔で言うのだ。事ここに至れば、貴国の責任の取りようは一つしかないでしょう、とな」
「……なるほど。要するに……」
「我が国の宝であるテオドシウス殿下の貞操を汚した償いとして、貴国の王女を王妃に迎えたい。それがサンセベリアの要求だった。……全く、馬鹿らしい。最初からカマルの策略通りにことが運んでしまったのだ」

 つまり、こういうことだ。
 自分の容姿と才覚に自信のあったカマルは、一度先方に自分を印象づけることさえできるならば、相手の心を射止めることができると確信していた。
 そして、出会い方は強烈であればあるほどにいい。
 結果、彼女が選んだのは、数ある方法の中でも極めつけに強烈であり、そして不穏当なものだった。一体どこの誰が、他国の王妃が自分の居城へ、夜這いをかけに来ると思うだろう。
 もし思っている者がいるとすれば、歪んだ妄想癖を持つ危険人物である。即刻廃嫡した方がいい。
 サンセベリアのテオドシウス王子は、そのような危険人物ではなかったから、大いに驚いた。
 驚きすぎて声も出ないほどだった。
 もし不埒な侵入者が男であれば、例え敵わずとも王家の誇りを見せるため、一太刀は浴びせただろう。その前に、大声で増援を呼ぶことだってできたはずだ。
 しかし、名前の通りの月光に照らされたデルフィニア国第二王女は、そんな当たり前の対応を忘れさせるほどに美しく、ただ美しかったという。
 年頃の男と女が、一つの寝台の上で語らう。
 そこで、一体どのような会話が交わされ、そして王女が王子を押し倒したのか、それはわからない。
 ただ、それまで女っ気の無かったテオドシウス王子は、父と母に対して宣言したのだ。
 デルフィニア国第二王女、シェラ=カマル=ウル=デルフィンを妻に娶りたい、と。
 そして使わされた使節団である。その先頭に立っていたのが国王の腹心であるダルトンであったのだから、サンセベリアもこの機を逃すまいと必死だったのかも知れない。
 ここまで事態がお膳立てされては、もはやウォルに選択肢はない。言葉の通り、まな板の上の鯉である。それどころか、あのように過激な娘を大事にしてくれるのであれば、渡りに船というものだろう。
 ウォルは、ブルクスの勧め通り、一も二もなく頷いた。ウォルは結局最後まで知らなかったのだが、実はブルクスにも手回しが済んでいたりする。
 カマルからすれば、正しく『計画通り』である。

「……とても、お前とポーラの間に生まれた女の子とは思えない」
 
 リィは、驚きや呆れを通り越して、寧ろ感心したように言った。無謀や無思慮、無遠慮や無鉄砲もそこまでいけば立派である。

「陛下、ではその後、カマル様はサンセベリアに嫁がれたのですか?」
「その後ではない。正にその日だ」

 シェラもリィも、言葉を失った。
 無言で、どういうことかを尋ねた。

「……ポーラは、全てを知っていたらしい。知っていてカマルの夜這いを見送り、そして北の塔から会見の場にこっそりと連れ出したのだ」
「……おれはポーラのことを誤解していたんだろうか……?」
「しかも悪いことに、使節団の末席に座っていたのが今回の事件の被害者、サンセベリア第一王子、テオドシウス殿だったようでな……俺が二人の婚姻を認めた途端、飛び出してきたカマルと抱き合って、誓いの接吻を済ませてしまった。全く、抗議の声を入れる間もなかったよ」

 少女は、漂白された綿布のような顔色で、薄ら笑いを浮かべていた。
 この、太陽のように朗らかで明るい少女にはどうにも似つかわしくない微笑みだったので、リィとシェラも気圧されたように仰け反った。
 この人は、国王として、一体どのような気苦労を背負い込んできたのか、同じく苦労性のシェラなどは、同情の念が隠せない。
 慰めるような口調で言った。

「で、でも、お二人ともお幸せになれたんですよね」
「うむ!それがな、二人が産んだ孫も可愛いのだ!目に入れても痛くないとはこのことだな!子供は憎らしくても孫は可愛らしいというが、あれは本当だぞ!」

 ウォルは別人のように顔を輝かせた。
 ぱぁぁっと、雲間に光が差したような、いっそあっぱれな様子であった。
 リィは『子供は憎らしくても』の部分に突っ込むのは止めようと誓った。
 そして言った。

「そっか……。じゃあ、色々あったらしいけど、みんな幸せだったんだな」
「その通りだ。本当に、色々あった。神々の名を呪った時もある。それでも、みんな幸せだったと思う。これがお伽噺なら、きっとめでたしめでたしで締めくくられる物語だ」

 ウォルは、誇り高く言った。
 それは、無二の同盟者から世界を託され、守りきった英雄の、誇り高い言の葉だった。
 リィもしっかりと頷いた。自分の同盟者を誇るように、しっかりと。
 シェラも、嬉しそうに頷いた。自分を育んでくれたあちらの世界が幸福に満ちていた――少なくとも自分の知る人達は――ならば、それは祝福に値する出来事であるはずだった。
 その場にいた全員が、無言でグラスを手に取り、赤々と光るランプの上で鳴り合わせた。

 ……と思った。

 しかし、重なったのは三つのグラスだけで、その場の人数と比べると、どうやら一つ足りなかった。
 シェラは、気遣わしそうな表情で、もう一つのグラスの主に問いかけた。

「あの、どうしたのですか、ルウ」
「……僕の、僕の名前だけ、ない……」

 黒の天使は、その渾名に相応しい漆黒のオーラを身に纏い、盛大にいじけていた。
 どうやら、リィとシェラの名前が子供につけられたのに、自分の名前がつけられなかったことが悔しいらしい。
 漆黒の髪の毛がウネウネとうねり、辺りに不吉な気をまき散らす。
 これには、流石の三人も、ちょっとひいた。

「あ、あのだな、ラヴィー殿。確かに悪かったが、しかし貴殿の名を用意してはいたのだぞ?ルーファス=ステラ=ウル=デルフィン。いい名前だと思わんか?」
「あれ、ルーファの名前だけ、性質と違うんだな。おれは太陽でシェラは月なのに」
「うむ。これほど明るく、そして優しいかたの名を冠しておいて、次に続くのが『闇』ではどうにもしっくり来なくてな。二人と合わせるために、星と付ける事にしていたのだが……。何せ、二人の娘がとんでもないおてんばで、乳母泣かせで……。俺もポーラも、その世話にかかりきりになってしまい、とても次の子を設けている暇など無かったのだ。許してくれ、ラヴィー殿」
「……わかったよ、許して上げる、王様。だから、一つだけ、僕のお願いも聞いてくれるかな?」

 ウォルは小首を傾げた。
 しかし、不思議そうな顔をしたまま、頷いた。

「僕のこと、みんなみたいにルウって呼んで欲しいな。ラヴィー殿っていうのも王様らしくて好きなんだけど、ルウの方が可愛いから好きなんだ」
「なるほど、それは重大なお願いだな」

 名前には拘る二人である。
 決して『その程度のお願い』というわけにはいかない。
 だから、ウォルは真剣な面持ちで、言った。

「では、これより卿のことを、ルウと呼ぶことにする。それでいいか?」
「うん!やっぱり王様っていい男だね!」
「あ、こら、抱きつくな!俺は男に抱かれて喜ぶ趣味は……あ、そこは触るな!」
「うーん、王様の胸、ちょっと固いけどふかふかー!」

 とんだセクハラ青年であったが、しかし当人に疚しいところがないから、ウォルとしても怒るに怒れない。
 結局、ルウに為されるがままであった。
 そして、ころりと寝転がされ、ルウに膝枕してもらう格好になり、諦めたように呟いた。

「……本当、俺はルウのことがよくわからない」
「そんなの、僕だってそうだ。僕は、ラーデンガー=ルーファ=ルーファセルミィのことを、ちっとも理解できてないよ?本人だってそうなんだから、いくら王様にだってわかるはずがないでしょう?」
「それもそうだが……大切な友人のことだからな。少しでも多く知りたいと思うのは、いけないことか?」
「ううん、ちっとも」

 ルウは大きく首を振った。
 その度に艶やかな黒髪が流れるように宙を舞い、蝋燭の炎を反射してきらきらと輝く。
 ウォルは、星々の輝きが如きそれを、うっとりと見つめた。

「……卿の名に星を従わせようとしたのは、どうやら間違いではなかったらしい」
「うん?何か言った?」
「いいや、何も」

 ウォルは苦笑し、寝転がった体勢のまま行儀悪くグラスを傾けた。
 無理な体勢で口を開いたから、少しだけ酒が零れて、ルウの太腿を汚した。
 ルウはそのことに気がついたが、少しも怒らなかった。この夜に起きたことなら、きっとどんなことだって許してしまうのだろう。

「少し、話し疲れた。今度はお前達の話を聞きたいな。俺がいないこの世界で、一体どんなことがあったのだ?」

 自分以外の三人、金銀黒と三色揃った天使たちが、平穏無事な生活を送ってきたとはちっとも信じていないウォルである。
 リィは、自らの夫の言葉に一度頷き、楽しそうに口を開いた。

「驚くなよ、ウォル。実はな、こっちの世界でも友達が出来たんだ!」
「友達?狼か、それとも馬か?」
「違う。でも、極めつけにぶっそうだ。ケリーとジャスミンっていうんだけど……」

 少年と少女、そして青年の、楽しそうな声は途切れることはない。
 この静かな夜に、いつ終わるともなくこだまし続けた。
 それでも、物事には終わりがある。始まりがあれば、その終わりがあるのは必然である。
 やがて、夜に、静寂がおりた。
 遠くでフクロウが鳴き、どこかで狼が遠吠えを放つ、冷たい夜。
 そこに抜け出した、小さな影は少女のものだ。
 ウォルは、みんなが寝静まったのを確認してから、こっそりと部屋を抜け出した。
 今は、一面の草むらを寝台にして、満天の星空を見上げている。
 少女は、自分の見知った星座を探そうとして、諦めた。
 そこには、あちらの世界の四季で見られた、あらゆる星座がなかった。無論、こじつけて作ろうと思えば似たようなものはいくつも作ることができるが、しかし全く同じものは一つとしてない。
 当たり前だ。何故なら、この星は自分が住んだ、自分を育んでくれた星ではない。
 そして見上げる夜空だって、何一つ自分を覚えているものではないのだ。

 自分は、寄る辺を求めて彷徨う旅人である。

 何とも幼稚な感慨であったが、不思議と今のウォルの胸に染み入るものが在った。
 暖かいものが、頬を目尻を伝い、こめかみを流れ、湿った地面の上に流れていった。
 その感覚は、少女の知っている、懐かしい感覚だった。

「なんだ、泣いているのか、ウォル」

 少女は、顔を上げることすらなかった。
 ただ、目の前の夜空を見上げていた。
 それは、隣に誰かが寝そべっても、同じことだ。
 何故なら、其所にいるのが誰か、圧倒的なまでにわかりきっているのだから。

「そうだな、俺は泣いているのだ、リィ」
「まるで女の子みたいだ」
「まるでではなく、今の俺は女の子なんだぞ。知らなかったのか?」
「いや、知っていた。少し意地悪だったな。謝るよ」

 ウォルは笑った。
 リィも微笑った。
 彼らの回りの夜が、少しだけ騒がしくなった。
 もう少しだけ、夜の闇は続くようだった。



[6349] 第二十三話:帰宅
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/04/12 19:24
 月の下で、二人は語らった。
 緑の絨毯の上で、二人は語らった。
 しん、と静まりかえった、張り詰めたような夜だった。
 誰もいない。この世界には二人だけだ。
 それだけでいい。今は、他の何者であっても世界の邪魔者でしかない。
 ここには、二つの太陽だけでいい。

「聞いたよ。チェインに口説かれたんだって?」
「ああ。あれは中々に情熱的な少年だな。学校から帰ってくる度に俺の部屋に来て、今からどこどこへ遊びに行こう、ご飯を食べにいこう、友達を紹介してあげると、騒がしいことこの上なかった」
「で、お前、どうしたんだよ」
「丁重にお断りしたさ。今はこの家に来たばかりだから覚えないといけないことがたくさんある、非常に残念だが遊びに行ったり食事に行ったり新しい友達を作ったりしている暇は無い、とな」
「ま、そんなところだろうさ。一応、あいつの心に一生消えない傷をつけないでやってくれたことを感謝するよ」
「なんだ、人を稀代の悪女みたいに」

 少女は、如何にも不服そうに口を尖らせた。
 そんな幼い仕草が、今のウォルにはとても似合っている。彼女の中に含まれた、女性としての清冽さと少女としての愛らしさが、黄金律とも呼べる配分で交わっているからだ。
 同年代の少年であれば、一目で恋に落ちるだろう。もう一回り上の男性であればたまらない保護欲をかき立てられたに違いない。
 なのに、リィは微笑っただけだった。口の端を少しだけ持ち上げて、この少年のことを良く知る人間でなければ微笑んでいるとすらわからない程度に。
 ただ、より深くこの少年について交わったことのある一部の友人は、今のリィがどれほどに安らかで、そして満ち足りているかを知るだろう。
 この無垢な笑顔は、そういう笑顔だった。

「しかし、女の子を口説く男の子とはあのようなものなのだろうか。従弟殿などは、チェイニー君くらいの年の頃には、もう少し女の扱いに手慣れていたように思ったが」
「チェインはあれでも中々のプレイボーイで通ってるんだ。それでも団長と比べるのは可哀想ってもんだぞ」
「ふむ、それもそうか。だが、小手先の技術に頼り過ぎな感がある点は否めんな。折角意中の女性が同じ屋根の下で眠っているのだ。夜這いくらいかける度胸があってこそ男の甲斐性かと思っていたが」
「お前、それチェインには間違っても言ってやるなよ。下手したらあいつ、不能になるぞ。それに、あれだけ女に関して奥手だったお前が言っても、説得力の欠片も無い」
「俺は奥手だったのではない。ただ、想い人が同じ屋根の下に眠っていなかっただけだ。それが証拠に、同じ屋根の下にポーラが来てくれてからは、それなりに励んだつもりだ」

 このように明け透けな台詞がこの少女の口から飛び出たことを知れば、彼女に対して少なからぬ幻想を抱いているチェイニーはどう思うだろうか。
 リィは、この少女に恋をした弟を、本当に不憫に思った。

「それでも、そんな関係になるまでは時間がかかったじゃないか。違うとは言わせないぞ」
「あれは、ポーラがあまりに初々しくて、女性というよりは妹や娘のように思えたからだ。彼女の中に女性を感じてからは、俺は直ぐさま行動に移した」
「ふん、言葉ではなんとでも言える」

 ウォルとポーラが中々契らなかったのは、その実もっと深いところに事情が在る。
 無論、リィとてそのことは理解している。理解しているが、それ以上は追究しなかった。それは必要の無いことだった。少なくとも、こんなに暖かくて気持の良い夜には。
 ウォルは、勢いよく身体を起こした。
 無造作な皮の貫頭衣に付いた草の葉が、ひらひらと闇夜を舞った。
 青々としたそれを覆った水の一滴が、月の光を照らし返してきらきらと光る。
 寝転がったままのリィは、ぼんやりとその光を見つめた。
 ウォルは、それに気付かなかった。
 ただ無言で、目の前に広がる湖と、薄っぺらな月の影を見つめていた。
 そして、ぼそりと呟いた。

「お前は、ラヴィー殿のように怒らんのか」

 それが何の事を、そして誰のことを指しているのか。
 リィはいちいち聞かなかった。ルウがその穏やかな心を怒りに染めるのは、たった一人の例外を除けば、いつだって自分よりも弱い誰かのために決まっている。
 本当は黄金色の髪の毛をもち、輝くような緑の瞳をしていたはずの少女。風を知らず、陽光を知らず、仲間を知ることなく朽ちていった誇り高き獣。
 彼女の身体に宿った王の魂は、彼女のために心から怒ってくれる青年の存在に、どれほど心救われただろうか。
 しかし、その青年の相棒たる少年は、少なくとも外面だけは冷淡に答えた。

「たった一度も顔を合わせたことのない他人の事を、どうやって怒れっていうんだ。生憎、おれはルーファみたいに優しくないんだよ」
「それが、お前の妹のことだったとしてもか」
「さぁ?実感が涌かないっていうのが正直なところかな」

 少年は肩を竦めた、ようだった。
 少女は呆れたように微笑った。不器用なことだ、とでも思ったのかもしれない。

「正確には妹じゃないけど、もしもドミュやデイジーに似たようなことをする馬鹿がいれば、俺は心底許さない。絶対に、行為に相応しい報いをくれてやる」

 淡々とした口調であるが、それ故にリィは己の言葉に忠実たり得るだろう。
 この世界に数える程しかない彼の宝物。それに唾を吐きかける愚か者がいれば、彼は心底容赦しない。

「でもさ、ウォル。今、お前の魂がいるその子はさ、やっぱりおれの他人なんだよ。血の繋がりもない他人だし、群れの一員でもない他人だ。冷たく聞こえるかも知れないけどな」
「ああ、それはやはりお前らしいな」

 ウォルも頷いた。
 そして、少しだけ躊躇うように黙り込んで、言った。

「なぁ、リィよ。あくまで推測にすぎんのだがな…」
「何だよ?」
「俺にはな、ラヴィー殿の本当の怒りは少し違うところにあるのではないかと、そんな気がするのだ」

 少年は、のそりと身体を起こした。
 彼は、隣に座った少女をちらりと眺めた。
 淡い月の明かりに照らされた少女の横顔は、透けるように白く、その様子はまるで生きた人間では無いかのようだった。
 生気がない、というのではない。
 ただ、あまりに白くあまりに透き通っていて、魂が抜け落ちているように見えたのだ。
 リィは、思いっきりに息を吸い込んだ。
 一杯に膨らんだ肺腑の中に、少女の香りがあった。
 ようやくリィは、少しだけ安心した。

「…詳しく話せよ」
「あの御仁の心に、疚しいところがないのは俺とて重々承知している。しかしな、リィ。俺は自分を基準にして考えることしか出来ないつまらない人間だから、俺には彼の人が不思議に思えてならん」

 月光に照らされた、妖精のような少女は続ける。
 どこまでも澄んだ声が、湖の畔に響いた。

「俺の知る人間とは、極めて狭量なものだ。無論、俺自身も含めたところでな。例えば戦争だ。何故人は人を殺すことが出来るのか、それを真剣に悩んだことがある」
「そんなことを真剣に悩む王様は、お前くらいだろうさ。他の王様は、如何に効率よく殺すかを考えるもんだ」
「茶化すな。しかし、まぁそれも真理か」

 ぴしりと言ったウォルだが、その表情は和やかだ。
 ずっと、蜜を含んだように微笑んでいる。
 リィも、その表情を見て微笑んだ。
 微笑みながら、言った。

「で、結論は出たのか」
「うむ。俺なりの結論だ。正しいかどうかは知らんし、誰にも話したことはない」
「じゃあ、話してくれ」
「無知、ではないかと思うのだ」
「無知か」
「無論、教育を受けたことのない無学な者が人を好んで殺める、という意味ではないぞ。そういう意味では、逆に頭でっかちで妙な選民意識に凝り固まった連中の方が、より残酷に、そしてより巧妙に人を殺すものだ」
「ああ、それは俺もよく分かってる」

 人という種族の外側から人を観察し続けた少年は、深く同意した。
 彼の中の人間像というものは、彼に近しいごく少数の人達を除けば、未だ嫌悪と侮蔑の対象でしかない。
 逆にいえば、そんな彼の周囲に、どうしてこれほど美しい人間ばかりが集まっているのか。
 リィは、自分がどれほど幸運に恵まれているのかを理解していた。
 そしてその中でも一番深く、魂の深奥で誓いを交わした少女が、言った。

「人は人を殺す。それはもう、呆気ないほどに容易く。しかし、あらゆる人間に対してその牙を向けるかといえば、それはどうにも違うようなのだ」
「どういうことだ」
「例えば、俺はどうやったってお前を殺したくない。それこそ、俺自身を殺すことがあってもお前は絶対に殺さない。それは、シェラやラヴィー殿についても同じことだ。俺は彼らを、決して殺したくない。しかしな、リィ。先ほどお前が話してくれた、ケリーという御仁やジャスミンという御仁がいるな」
「ああ」
「俺は、その方々ならば、殺しても構わんと思うかも知れない。少なくとも、その方々の命を犠牲にすることで俺自身の命が救われるのならば、俺は躊躇しないだろう」

 ウォルの言葉に、リィは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「ジャスミンは女だぞ、それも女の中の女だ」
「……どういう意味だ?」
「とっても可愛らしくて、可憐で清楚で何より綺麗だ。ウォルも、きっと一目惚れするさ」

 ジャスミンと関わったことのある男ならば、リィとたった一人を除けば、首を傾げるか首を全力で横に振るに違いなかった。特に、彼女の『細腕』に叩き伏せられたことのある『少数』の男連中などはそうするに違いない。
 きっと当人だって、『そのジャスミンという女性は、果たして私のことか?』と訝しんだだろう。

「そうなのか?うーん、それは不味いなぁ」
「ほらな、それがお前だよ。この分じゃあ相手がケリーだったとしても怪しいもんだ」
「それは間違いなく俺の命を優先するぞ。…いや、すまん、少し話が逸れたな」

 少女は一つ咳払いをした。

「人は人を殺す。それは間違いない。しかし、余程に外れた一部の狂人を除けば、人は己の知る友人や家族を殺したいとは思わないものなのだ。換言すれば、それ以外の人間に関していえば、驚くほどあっさりとその命を奪う」
「ああ。それについては俺も不思議に思う。何故人間は、自分と同じ種族の個体をああもあっさりと殺せるんだろうって」
「だから、それが無知だと思う。それとも、未知と言い換えてもいいだろうか」

 ウォルは、少し寂しそうに言った。
 そして空を仰いだ。
 そこには、彼女の知らない星座ばかりが顔を並べていた。

「人は頭が良い。そして、きっと頭が良過ぎる。だから、自分と他者との境界線を、おそらくはほんの些細なことに引きたがる。それが、既知か無知か、そこではないかと思う」
「人は頭が良いってところ以外は同感だな」
「頭が悪いか」
「少なくとも、狼に比べれば断然悪い。彼らは本当に頭が良いぞ」
「そうか。生憎俺は狼の知り合いがおらんからなぁ」
「今度紹介するよ。とっても綺麗な、真っ白な狼なんだ。でも気を付けろ、その人は一度、俺の父親の妻だったんだからな。惚れちゃあ駄目だぞ」
「ああ、それは気を付けなければいけないな。……いや、すまん。また話が逸れた。…というかリィ、お前、わざとやっていないか?」
「悪かった、もうしないよ」
「まぁ、別に構わんのだが……。どこまで話したか……そう、既知と無知の線引きだ」

 落ちてきそうな夜空だ。
 これだけ見事な星空は、あちらの世界でだってそうそうお目にかかれるものではなかった。
 闇夜の薄い世界だからこそ、その奥にある闇がいっそう美しく感じられる。
 人もまた同じようなものだろうかと、彼女は思った。

「群れの規模が少ないうちは、それで問題なかった。例えば、お前のいう狼の群れであっても、匂いや声などで群れの一員か否かを判別するのだろう?」
「ああ。でも、彼らは群れの一員じゃない狼を、楽しみのために殺したりはしないぞ。ごく稀に、万に一つの可能性でそんな気狂いがいたとして、そんなのは即座に群れから放逐される」
「しかし、人に限ってみれば、群れが大きくなりすぎたのだ。そして、回りには知らない個体が溢れかえる。そうなってくると、自分が今どこにいるのか分からなくなって不安になる。果たして自分は自分の群れの中にいるのかどうか、疑うようになる。だから、そこにもう一つの群れの基準を作ることにした」
「それが、既知と無知、か」
「そうだ。群れの中でも自分が知っている個体だけが自分の群れの一員で、それ以外は自分とは関係のない個体、そういう線引きだな」
「なるほど、彼らは一つの群れの中にいるように見えて、実は全く違う群れなのか」
「というよりも、全く違う生き物だと認識しているという方が正確だと思う」

 その一言だけで、少女がどのような人生を、少年と別れた後で歩んできたのかが知れてしまう。
 どれほど、人というものに打ちのめされたのか。人というものに絶望したのか。
 リィという輝きを知るが故に、その醜さは耐え難いものだったのだろう。

「先ほども言ったがな、人は頭が良い。リィ、お前はそれを愚かしさだと笑うだろうが、しかし人は他者との違いを、それはもう明確に認識してしまうのだ。それ自体が自分にとって我慢のならないものであると思うまでにな。そうなると、もう駄目だ。『あれは、俺にとって我慢のできない人間だ』、『あれは本当に俺と同じ人間なのか?』、『いや、あれは人の皮を被った別の生き物に違いない』、『ならば、俺が殺したとしても問題無い。なにせ、あれは人ではないのだから』、このようになる。それが外面にでるかどうかを別にして、な」
「狂ってる」
「ああ、俺もそう思う。しかし悲しいかな、俺も人間だ。だから、こういった考えをする人間のことも、全く理解できないわけではない」
「お前は違う」
「果たしてそうだろうか。例えば、俺は自分の父たるフェルナン伯爵を殺されたとき、灼熱の鉄塊を飲み込んだほどに怒り狂った。お前も覚えているだろう」

 リィは静かに頷いた。
 考えてみれば、彼らが共に過ごした6年という長い歳月において、ウォルという人間が、本当に怒り狂ったのは後にも先にもあの時だけだ。
 リィはそんな彼に、父親を殺されたときの己を重ねた。かつて愛しい女性を殺され、そして今度は同じく父親を殺された自分。幼い弟を守るために、それを黙って見ていることしか出来なかった自分。
 殺意は、他の誰よりも自分に対して向けられた。
 この男だって、きっとそうだと思った。
 だからこそ、彼はウォルを、一言だって諫めなかった。慰めることすらしなかった。
 ただ、己を殺させないために、彼――彼女にとって正当な権利を行使するよう、促してやっただけ。
 ただ、もしも――もしも彼女の怒りが改革派全ての人間に向けられたとして――彼は、彼の相棒のように、それを制止し得たのだろうか。

「しかし、俺と父上が全くの他人だったとして、俺はあそこまで怒るだろうか。高名な貴族の一人が、卑劣にも改革派の手にかかり殺されたとして、だ。俺は、確かに怒る。その非道をおおいに非難するだろう。しかし、怒り狂うことは絶対になかった」
「おい、それは話が違う。肉親への愛情と群れへの親愛は分けて考えるべきものだ。それを一緒くたにすると、この世全ての人間が無限の博愛主義者でなければならないっていう気持ちの悪い結論しかでないぞ」
「ああ、分かっている。しかしな、リィよ。俺は国王として、40年王座に在り続けた。その間大きな戦争は無かったが、しかし国境近くで小競り合いは絶えなかったし、疫病や飢饉、そして自然災害で多くの命が失われ続けた」

 無感動な声であった。
 国があれば人がいる。人がいれば人が死ぬ。当たり前の理屈である。
 そんな当たり前の理屈に、ウォルは抗い続けた。それが神の定めた理であるならば、その神をさえ押し退けるように。
 しかし、現実はそんな彼女を嘲笑い、押し潰し続けたのだ。

「その度にな、注進が俺に届く。当然、その中には死者の数も含まれている。それを聞く俺は、都度々々思うのだ。『今回はたった百人しか死ななかったか。ならば大きな問題にはならないな』『千人も死んだのか、兵員の補充が大変だな』『一万人も死んだのか、来期の麦の収穫はどうなるんだ』とな」
「国王として当然だ」
「しかし、俺の知る人が死ねばそうはいかない。ドラ将軍が亡くなられたときなど、俺は自分の立っている地面が無くなったのではないかと勘違いしたほどだ」

 その名は、リィにとっても懐かしい、懐かしい以上の感情をかき立てる名前であった。
 考えてみれば当然である。新しい命が誕生する以上、古い命は退場していく。
 彼の知る何人かは、あの世界に再び赴くことがあったとして、二度と会えないのだ。
 リィが、ほんの少しだけウォルのことをねたましく思ったとして、何人も彼を非難しえまい。

「無論、あの方は国の重鎮だった。それ故の影響の大きさを考えなかったわけではない。しかしあの感情は、もっと別の、もっと深いところから生じるものだ。この感情の違いはどこから来るのか。結局、それは既知と無知の差だ。突き詰めて考えるなら、俺も先ほど俺が言った、群れの中に異生物を見いだす類の人間と変わらんことになる。違うか?」

 リィは即答した。

「違うね。今お前は『突き詰めれば』って言ったけど、一番大事なのはそこなんだ。程度の差では本質に影響を与えない?ふんっ、馬鹿なことを言うな。そんなことを言ったら、ビールもワインもウイスキーもブランデーもみんな同じ飲み物だってことになっちまうじゃないか。そんなのちっとも面白くない」

 酒好きのリィには相応しい答えだった。
 ウォルは悪戯げに微笑んだ。

「ではリィ。お前は、この二つの死の差違をどこに求める?」
「それはお前の言うとおり、既知と無知なんだろうさ。しかし、それとこれとは話が別だ。お前が、全くの他人を自分とは違う生き物だと認識して無慈悲に殺せる人間かどうか、その膨らんだ胸に聞いてみろ。もしお前がそんなに徹底できる人間なら、おれがお前を助ける必要だってなかったんだ」
「ああ、そう言われるとその通りかもしれんなぁ」

 どこまでものんびりとした調子のウォルの声である。

「しかしな、リィよ。俺が言いたいのは、人とは多かれ少なかれ、そういう生き物だということだ。『他者の不幸は蜜の味』などというふざけた格言もあるが、それは一面では人の本質を端的に表しているのではないかと、俺は思う。だからこそ、俺は他国との交流を密に取ることに心を砕いたつもりだ。無知こそが容易い殺戮を、ひいては戦争を引き起こすならば、無知を取り払うことが出来れば相当の数の戦乱を防ぐことが出来る。俺は俺が死んだ後の世界に何をしてやることも出来ないが、しかし彼らに何かを残してやることが出来るならば、それは恒久なものではなくとも、いや、たとい一時的なものであったとしても、戦いの少ない平和な世に勝るものはないと思う。だから、せめてその『種』に過ぎないものであったとして、俺は必死にそれを撒いたつもりだ」
「ああ、ウォル。お前はさ、常勝の覇王であったことよりも、その一事をもってして歴史に名を残す資格があると思うぞ」

 予想だにしなかったあまりに率直な賛辞に、少女は居心地が悪そうに身動ぎをした。
 しかし、真剣な表情のまま続ける。

「で、だ。少し遠回りをしすぎた感があるが、俺の考える人間というものはそういうものなのだ。少なくとも、己の知る人間以外のことについて、真に心を痛めることが出来る生き物ではない」
「だからこそ、ルーファがウォルフィーナにあそこまで執着する理由が分からない、と」
「その通りだ。無論、あの御仁の心の優しきことを疑うわけではない。まして、あの方を偽善者だと非難する気など毛頭ない」
「もし口が裂けてもそんなこと言ったら、ウォル、俺はお前と絶交しなけりゃならないところだ」
 
 リィは笑いながら言ったが、ウォルはその言葉が完全に本気のものであることを知っていた。
 この少年は、己の相棒の名誉を穢されることを、何よりも嫌う。
 その禁を犯せば、きっと、戦士の魂の誓いを交わした同盟者であっても、許しはしないだろう。
 相棒を、不当な暴力や侮辱から守ること。それは、リィという生き物の生態と言っていいものだったからだ。
 ウォルはそのことを理解している。そして、彼女はリィもルウも大好きだったから何の問題も無い――はずだ。
 ただ……一握り、ほんの少しだけ。
 妬いていた、のかもしれない。

「では、何故ラヴィー殿はウォルフィーナにあそこまで執着するのだろうか」
「俺の妹だから、じゃあ足りないんだな」
「その通りだ。それでは足りない。何故なら、あの方はウォルフィーナのことを直接知らなかったからだ。それでは、ああまで怒る理由が無い。少なくとも、俺に基準を置くならば、だ」

 リィは少しだけ考え込んで、言った。

「彼女を救うことが出来たのが自分だけだった、とあいつが思い込んでいるとかは?」
「まだ弱いと思う。あの方は確かに長い手をお持ちだが、しかしそれが宇宙の隅々にまで及ぶと自惚れる御仁でもあるまい。ならば、どこかで線引きが必要だ。俺は、そこらへんについて、あの人は相当に割り切りをしていると思う。そうでなくば、溜まり溜まった自責の念がいずれはかの人を押し潰すことになる」
「じゃあ、なんでルーファはウォルフィーナのことを、あそこまで気にしている?」

 ウォルは、初めてリィを正面から見つめた。
 そして言った。

「お前だ、リィ」
「どういうことだ」
「彼女の人生を追体験した俺だから分かる。リィよ。ウォルフィーナはな、この世界でただ一人、お前と同じ生き物だったのだ」

 それは、ルウも言っていたことである。
 彼女は、リィの妹であると。そして、もう一人のリィであると。彼自身は否定したが、彼女は事実、そういう存在であったのだ。

「だからこそ、あそこまで悔いておられる。きっと、自分が彼女の存在を見逃したせいで、お前をこの宇宙でただ一匹の生き物にしてしまったと、そう考えておられるのではないだろうか」

 リィは唖然とした顔でウォルの横顔を眺め、その後で短く舌打ちをした。
 手で弄んでいた小石を、湖面に投げ込む。重たい水音の後で、水面はまるで彼の内心を表すように激しく揺らいだ。

「あの馬鹿…おれがいつ、そんなことを考えたんだ。おれは、あいつさえいれば他に何もいらない、そう思ってるのに…」
「俺には、詳しいことは分からん。しかしあの方には自分と同じ種族の友はいるのだろう?」
「控えめに見ても特大の腫れ物扱いだけどな」
「それでも、同じ生き物だ。自分と同じ存在が隣にいるのは、それだけで驚くほどに心強いものだ。それがお前には一人もいない」

 無慈悲とも言える台詞だ。
 しかし、この世にただ一人と言われた少年は、むしろ誇らしげに笑ったのだ。
 少し寂しげに、それ以上に満足げに。

「それがひょっとしたら自分のせいかもしれない。もう少し自分が目を凝らしていれば、お前は一人にならなかったかもしれない。これは理屈ではなくただの勘だが、あの方はそう考えている。その失われた可能性が彼の人を苦しめているのではないかと、俺は思うのだ」
「明日の朝、聞いてみるよ。そして教えてやるんだ。そんな心配が、どれだけ余計なお世話なのかをな」
「そうか、お前達はそれが許される関係なのだな」
「羨ましいか?」

 ウォルは頷いた。

「ああ、心の底から羨ましい。人は、そこまで容易く己と他者との壁を崩せる生き物ではないからな」
「ありがとう、感謝するよウォル。よく教えてくれた」
「どういたしまして、だな。このように美しい光景を見せてもらった、そのささやかなお礼ということにしておこう」
「そりゃあ、おれの方が勝ちすぎだな。なら、少しだけ恩を買い戻すことが出来たかな?」
「ほんのちょっぴりだけな。まだまだ恩は残っているぞ。これからもどんどん買っていってもらうつもりだから覚悟しておけ」
「ああ、そりゃあぞっとしない」

 二人は声をあげて笑った。
 そして息が落ち着いた頃合、少女が再び口を開いた。

「もう一つ、話がある」
「まだあるのか」
「まぁ聞け。これは、酒に酔った勢いの話だと思って聞き流して貰えると有難いのだがな……」
「なんだよ、えらく勿体つけるな」

 笑いを含んだ少年の声に、少女は生真面目な表情で問うた。

「リィよ、お前はこれからどうするのだ?」

 リィも、流石に笑みを消した。
 これが、そういう表情で答えていい質問では無いと理解したからだ。

「それはどちらかというとおれの質問のような気がするんだが……。とにかく、趣旨が曖昧すぎるな。まぁ解答をごく短期間のことに絞って答えるなら、今からコップ一杯の水を飲んで、それから寝ようと思う。でも、そういうことじゃあないんだろう?」
「そうだな、質問を変えよう。リィ、お前はこれからもたった一人で生きていくのか?」
「おれは一人だったことなんて今まで一度もない。ルーファが、アマロックが、そしてシェラやケリー、ジャスミンがいる。向こうの世界ではお前やイヴン達がいた。みんな、おれの大切な人達だ」
「そうだ、彼らはお前の相棒であり、そして友人だ。しかし、それ以上ではないな」
「どういうことだ。あまり出過ぎたことを言うと、お前でも許さないぞウォル」
「だからこそ酒に酔った振りをしている。ここは誤魔化されろ」
「……酔った振りって、お前なぁ」
「まぁ聞け。確かにお前の回りには、得難い人達ばかりが集まっている。そう、まるであちらでの世界の俺のようにな」

 そう言ったウォルの脳裏に浮かんだ名前。
 ポーラ、バルロ、イヴン、ナシアス、シャーミアン、ロザモンド、ジル……。
 全て大切な人達だ。
 しかし、もう二度と会えない。もしあちらの世界に帰ることが出来るとしても、彼女は二度と彼らと会うつもりはなかった。
 何故なら、ウォル=グリーク=ロウ=デルフィンは、デルフィニアの太陽と呼ばれた英雄王は、あのとき確かに息絶えたのだ。
 今の自分は、掛け値無しに只のウォルである。フェルナン伯爵の一粒種であった山猿ウォリーですらない、只のウォルである。
 理屈ではなく感情によって、あちらの世界に自分の居場所がないことを、彼女は理解している。
 だからこそ、こちらの世界でようやく再会することの叶った、灼熱色の思い出を共有する友を、どれほど貴重なものに思っただろう。
 万感の想いを込めて、ウォルは口を開いた。

「俺が結婚を申し込んだとき、お前は言ったな。『お前にはお前だけを愛してくれる人間の奥さんが必要だ』と。だからこそ、俺も問おう。お前にこそそれは必要ではないのか。お前には、お前だけを愛してくれる、お前と同じ種族の妻が必要なのではないか?」
「その問題については論ずる余地がない。必要のあるなしじゃあないんだ。おれにはそんなもの、存在しないんだよ」
「何故だ」
「決まっている。おれは、この世でただ一人の生き物だからだ」

 ウォルは、静かに首を振った。

「それは違う」
「どこが」
「ここにいる」
「ここ?」
「今は俺が、お前と同じ種族だ」

 その言葉を聞いても、リィの顔にはどんな感情も浮かばなかった。
 ただ、無言で話の続きを促した。

「確かに、俺の魂は人の魂だ。しかし、それ以上に俺の魂は戦士の魂だ。自惚れが許されるなら、リィ、お前と同じな。そして、この体はお前と同じ生き物の体だ。どうだ、リィ。これではお前の同族として、そしてお前の配偶者として不満か」

 リィは呆れたように答えた。

「お前は元からおれの夫だ」
「その通りだ。しかし、それは同盟者としての方便だった。違うとは言わさんぞ」
「今度のは違うのか」
「そうだ。俺は今度こそ、本当の意味でお前と夫婦になりたい」
「…同情か」
「同情などでこんな恥ずかしいことが言えるものか」
「なら、まさか本当に愛の告白か」

 リィは、この上なく疑わしげな視線で己の夫を睨んだ。
 しかし、彼の夫が着込んだ面の皮の厚さは、さしものリィの鋭い視線をもってしても貫き通せるものではなかったらしい。悠然と湖の方を見つめる少女の視線には、如何なる感情も浮かんでいない、ようにリィは思った。
 しばらく、思い悩むような時間があって、少女は、さっきリィがしたのと同じように、小さな手に掴んだ小石を水面に投げ込んだ。
 軽い水音が辺りに響き、ゆらゆらと揺らめく水面が、そこに映り込んだ月を歪に歪める。
 どこか、当たり前で、それ以上に幻想的な光景だった。
 それを見つめる二人は無言である。

「いや、それも少し違う。なぁ、リィ。頼むから怒らずに聞いて欲しい」

 ウォルがリィに対してこのようなことを断るのは、異例といっていい。それも、リィと視線を合わることもせず、まるで怯えるように前を見つめながら、である。
 リィは、僅かに居住まいを正した。
 隣に座った少女が何を言っても、たった一度は許そうと思った。
 やがて水面の揺らめきが収まった頃、ウォルは恐る恐ると口を開き、そして言った。

「俺は、おそらく男女の情愛という意味においてお前を愛していない。それは、この体がお前と同じ種族の、そして女になった今も変わらん。そして、これから先に変わると断言もできん。その上で、俺には俺の考えがあるのだ。つまり、ある意味ではお前を俺の目的のために利用したいがために、こんなことを言っている。純粋にお前を求めているかと問われれば、首を横に振らざるを得ん」

 とても今し方に、『愛の告白らしきもの』を口にした少女の台詞ではない。
 しかしその堅苦しさを、リィは懐かしいものに感じた。
 全く、彼の知るウォルという生き物は、どうでもいいようなことほど、不器用なまでに頑固な男だったのだから。
 色々と考えて、結局リィは溜息を吐いた。

「…要するに、また同じということか」
「そういうことだ。以前は方便として、俺達は仮初めの夫婦となった。今度は、真の夫婦となったほうがお互いに…いや取り繕うのは止めよう、ただ俺のために都合がいいから、俺と番わないかと誘っているのだ」
「はっ、それはなんともお前らしいよ」
「軽蔑するか」
「いや、ちっとも。これが色仕掛けの結果とかならそうかも知れないけど、ここまであけすけにされてどうして軽蔑が出来る。余りに清々しくて気持ちいいくらいだ。しかし、そこには重大な問題があるぞ」
「なんだ」
「今度は、お前がおれに抱かれなくちゃいけないということだ。お前、それが我慢できるのか?」

 それは、想像以上に重要で難解な問題であるようにリィには思えた。何せ、彼自身、一度は女の体になった経験があるのだ。
 事情を知らない訳知り顔の人間は、魂と精神は肉体に依存するとでもいうかも知れない。しかし、王女として三年、王妃として三年を生きたリィは、その間一回だって男に抱かれたいと思ったことはない。抱かれてやってもいいと思ったのだって、夫との別れの間際の一回だけである。隣にいたのがウォルという、人間の中では間違いなく最高の雄だったにも関わらず、だ。
 であれば、今度は女になったウォルが、リィに体を許していいと容易く考えるだろうか。あちらの世界では男として70歳まで生き、剰えポーラとの間に子を成し育てたウォルが。
 然り、今はどこからどう見ても女の子、それも極上に美少女にしか見えないウォルは、思いっきりしかめっ面をしながら言った。

「ああ、俺も問題はそこだと思っている。そこさえ何とかなれば万事解決なのだがなぁ」
「…なんだ、お前、そんなところの覚悟もなくおれにプロポーズをしたのか?」

 ウォルは、その言葉を初めて聞いたように唖然とした顔をして、小首を傾げながら問うた。

「…これはプロポーズになるのか?」
「どこからどう聞いてもそうだろうが。お前はおれの妻になりたいって言ってるんだろ?これは誰が聞いてもプロポーズの一種だぞ」
「ふむ。言われてみればその通りだな」
「試してみるか、今から?」

 リィは真剣な面持ちで言った。
 ずいっとウォルの方の身体を寄せた。
 ウォルは、すすっと逃げた。
 そして、心底嫌そうな顔をして答えた。

「ふざけるな。俺には男に体を許す趣味はないぞ、少なくとも今はな」
「なら、本末転倒もいいところだ。いいか、ウォル。お前がおれに抱かれてくれなくちゃ、おれとお前は本当の意味での夫婦になれないぞ。おれには、嫌がる女を鼻息荒く押し倒す趣味はないんだからな」
「そうか、残念だ。お前が俺を押し倒してくれれば、それはそれで踏ん切りがつくと思うのだがなぁ」
「踏ん切りって、お前なぁ…」

 ウォルの残念そうな声に、呆れきったような声でリィが応える。
 それにしても、これほどの美少女からこのような台詞を言われてなお自制心を働かせることの出来る男が、リィを除いて、この広い宇宙にどれだけ存在しているのだろう。もし仮に彼以外にも存在したとしても、その男の友人連中がそのことを知れば『据え膳喰わぬは男の恥』というお決まりの文句でその男を非難するに違いなかった。
 もっともリィに限って話をすれば、彼は己の中の獣心を押さえ込んだのではなく、隣に座る少女の瑞々しい肢体に、本当に興味がなかっただけなのだが。

「ともかく、今の俺にはお前の下に組み敷かれる覚悟は無い。しかし、いずれはそうなるべきだと思っている。俺にとっても、そしてお前にとっても」
「なんでだ」

 ウォルは、その黒い瞳でリィの視線をしっかりと受け止めて、そして言った。

「子供だ」

 リィは少しだけ驚いた顔をした後で、真剣な顔をしながら呟いた。

「お前、まさか子供が欲しいのか」
「ああ、子供が欲しいのだ。俺の血を受け継いでくれる子供がな。幸い、この体はそれが可能らしい。以前のお前と違ってな」
「生理が来たのか?」

 リィは何の照れもなく言った。

「……お前、そういうことをはっきりとだな……」
「駄目なのか?」
「駄目というか、なんというか……」

 リィは不思議そうに首を傾げながら、目の前で頬を淡く染めた少女を見つめていた。
 今は男の姿のリィであるが、ウォルの中のリィはやはりまだ女性の印象が強い。性別が変わった今も、その容姿にほとんど変わっている点が無いこともそれに拍車を掛けている。
 だから、リィが明け透けにその単語を口にしたことで、今は女性であるはずのウォルのほうが酷く慌ててしまった。男だったときの彼が、そういった手の話題には滅法及び腰だったというのもある。

「今はだな、その、月のものは来ていない」
「じゃあ、何で分かるんだ?」
「入院中に、まぁその、なんだ、この体にそういう兆候があるのかと問われたのだが、俺には全くその覚えもない。そして、あちらの世界のお前にも、確かそのようなことは全く無かったのを思いだして、きちんと調べてもらったのだ」
「で、子供が産める体だと分かった、と。なるほど、考えてみれば当たり前だ。あのときのおれは、あくまで一時的に体調がおかしかっただけなんだ。それに比べて、お前の体はちゃんとした女の子の体なんだもんな」
「性別が変わるのを風邪と一緒のように言うな。それに、当たり前のように言うがなリィ、自分の体が完全な女性に変わったと聞いたときは、さすがの俺も目の前に黒いカーテンが降りたかと思ったぞ」
「それでお前、どうしたんだ?」
「まぁ、嘆いていても始まらんからな、物事は出来るだけ前向きに考えるのが俺の長所だ。だから、この体が子を成せるというなら、精々利用させてもらうつもりだ」
「…ウォル、おれはお前を心の底から尊敬する」
「褒めるな、照れるだろうが」

 リィは、目の前の不思議な生き物をまじまじと見つめた。
 彼の見間違いでなければ、その生き物は本気で照れているように見えた。
 今だって、自分と同じ生き物だとは信じられない。でも、どう考えても普通の人間には見えない。
 これはどうやら、自分はこの宇宙でただ一匹の生き物だという身の上話は、これからは使えなくなったらしいと悟った。

「まぁ、お前の言いたいことはわかったよ。でも、結論がイマイチ分からない。結局お前は何が言いたいんだ?」
「うむ。俺はお前と夫婦になりたい、いや、なるべきだと思っている。しかし、残念ながら今の俺にはそれだけの覚悟がない」

 ウォルは、一つ息を吐き出して、真剣な調子で言った。

「だからな、リィ。俺の覚悟が出来るまで、他の誰とも結婚しないで欲しいのだ。もしどうしても結婚したいということになれば、その時は俺に相談してから決めて欲しい。駄目か?」
「駄目かも何も…。なぁ、ウォル。おれはさ、お前と別れるときに言ったよな。もしもおれに愛する人が出来たとして、その人には『おれには夫がいる』とはっきり言うって」
「それはそうだ。しかしそれは、あくまでお前の相手方にだろう?これからは、俺の方にもきちんと話を通して欲しいのだ」

 リィは腹の底から胡散臭そうに眉を顰め、そして問うた。

「…要するに、おれと婚約したいと、そういうことか?」
「おお、それそれ、正しくそういうことだ!」

 ウォルはしたりと膝を打ち、喉に刺さった魚の骨が取れたように晴れ晴れしい顔で、大きな声を上げた。
 リィは、特大の溜息を吐いた。言葉にはしなかったが、どうやらおれは夫選びを間違えたらしいと、ほんの少しだけ思った。

「……今でも一応、おれとお前は夫婦のはずなんだけどなぁ……」
「しかし、今の俺はお前の夫だ。そして俺は、今度はお前の妻となるべく婚約を申し込みたい。いけないか?」
「……そんなことを申し込まれた妻は、この宇宙が始まって以来、おれが最初だろうさ。いや、こんな馬鹿げたこと、これから先だってあってたまるもんか」
「ああ、俺もそう思う。そうでないと、法律の整備が煩雑で仕方ない。これはたった一度だけの特例であるべきだ」
「そういう問題か……?」
「迷惑か?」
「いや、お前らしいなと感心していたんだ」

 ウォルは、噛み付くような笑みを浮かべた。

「馬鹿にしているか?」

 それに答えるリィの顔だって、今にも噛み付きそうなくらいに微笑っていた。
 本当に、嬉しそうだった。

「半分は。いや、三分の二、それとも四分の三くらいかな?」
「それはずいぶんな話だ」
「自業自得だ」

 必死のにらめっこが続いたのは、ほんの一瞬の話。
 すぐに二人してお腹を抱えながら笑い転げた。
 一面の草原を転げ回ると、青々とした若草を濡らす夜露が二人の身体をひんやりと静めていく。
 二人は同時に身体を起こして、荒く乱れた息を整えた。
 そして、少女は問うた。

「ところで、色よい返事は頂けるのかな、我が妻よ」
「でもなぁ…」
「まさかリィよ、世界を越えてまでお前に会いに来たこの俺のささやかな願いを無碍にするとか、そういうことは言わんよな?」
「お前さ、やっぱりおれと別れた時と比べると、少し性格が悪くなったと思うぞ」
「まぁ、否定はせん。人間40年生きていれば色々ある」

 今は少女の身体に宿る戦士の魂は、憮然と肩を竦めた。
 確かに色々とあったようだった。リィはそのことを敢えて聞こうとは思わなかった。それは彼が聞くべき事ではなく、ウォルが必要だと判断すれば必ず話してくれる、そういう類のものだったからだ。

「で、返事の方がまだだったと思うが?」

 これで三度目の問いだ。
 隣で腰掛ける少女の声に、少年は苦笑を浮かべた。
 まるで、下手な恋愛小説だ。女が積極的に男に迫り、情け無い男がようやく重たい腰を上げる。
 まったく、いつのまに自分達は、例え外面だけでもそんな砂糖菓子のような関係になったのかと、リィは、この世界かそれともあちらの世界かの神様にほんのちょっぴりの恨み言を呟いた。

「ん?何と言ったのだ?」
「いや、こっちの話だ」

 リィは、肩だけではなく全身を竦めるようにして、言った。
 もう、何もかも諦めたような、そんな表情で。それでもどこか、この奇想天外な事態を楽しむように晴れ晴れとした表情で。

「わかったよ我が夫。毒を食らわば皿までだ。おれはお前を妻に娶るべく、この操を捧げることをここに誓おう」

 その言葉に、少女は今までで一番に真剣な表情を浮かべた。
 剣呑と、そう呼ぶ一歩手前の表情だったが、口元が微妙にひくついている。
 少女は、笑いを堪えていた。
 そして、最後の問いかけをした。

「剣と、戦士としての魂にかけて?」

 リィは呆れたように叫んだ。

「酔った勢いの話なんかにそんな大切なものをかけられるか!」
「違いない!」

 それが限界だった。
 二人の戦士は、満天の星空のもとで、再び笑い転げた。
 彼らの笑い声は、無限の夜空に吸い込まれて、二人以外の何者の耳にも届かなかった。

 ひとしきり笑い転げ、荒々しく乱れた息を整えつつ、二人は並んで寝転びながら、星空を見上げていた。
 背中で潰れた青草の、なんとも懐かしい香りが二人の鼻を擽る。初夏の空気は夜露に濡れ、少し冷たい程であったが、しかしちっとも寒さを感じない。体以外のものが、圧倒的なまでの暖かさに満たされているからだ。

「遠いな」

 呟いたのはどちらだったか。
 呟いた方も、聞いた方も、よく分からなかった。
 それは、どちらもが同じことを考えていたからだ。

「これほどに遠いとは、思わなかった」
「ごめんな。忘れていたわけじゃあないんだ」
「ああ。俺も、すまなかった。何度か、お前の心根を疑った。もう俺達の、いや、俺の事など忘れてしまったのではないかと、疑った」
「おれがこっちに帰ってきてからまだ一年もたっちゃあいないんだ。どんな薄情者だって忘れるもんか」
「俺は、40年待ったよ」

 しみじみとしたその声に、リィは、喉の奥の言葉を飲み込んだ。
 ウォルが何気なく呟いたその言葉には、二人の間に横たわっていた時間の濁流に相応しいだけの、無限に近い重みがあった。
 真実はどうあれ、かたちとしてはウォル以外の何かを選んでこの世界に戻ってきたリィには、何も言えなかった。その思いは、リィ以外の何かを選んで自分の世界に残ることを選んだウォルにしても同じものだったのだろう。
 無論、ウォルはリィのことを非難していない。そんなこと、考えたことすらない。それが分かるからこそ、リィは何も言うことができなかった。
 
「でも、こんなに遠いんじゃあ仕方ない。だからリィ、お前を許そう」
「ああ、ありがとう、ウォル」

 ウォルは、リィの声のする方に体を向けた。
 リィは、ウォルの声のする方に体を向けた。
 すると、二人は向かい合って、自分の腕を枕にしながら寝転んでいた。
 鼻先が触れ合うような距離に、お互いの顔がある。
 どちらも、あの世界で背中を守りあった、お互いの顔ではない。
 しかし、それはどうしようもないほどに、二人が夢見た顔であった。もう一度会いたいと、せめて夢の中で会わせて欲しいと、何度も祈り、その度に新たな失望と寂寥を味わい、それでも求めた、友の顔だった。

「可愛らしくなっちまってまぁ。イヴンやバルロが見たら腰を抜かすぞ、きっと」

 リィの小さな手が、ウォルの滑らかな頬を撫でた。国王であった男の頬の感触は、滑らかであったが固く、青銅の彫像めいた印象があったものだ。それが今は、しっとりと肌に吸い付く柔らかな少女の頬になっている。
 その少女は、くすぐったそうに身を捩った。

「馬鹿を言うな。イヴンや従弟殿なら、今の俺を見れば一目で口説き落としにかかるに違いない。腰を抜かしている暇などあるものか」
「ああ、それは同感」

 今度は、ウォルの手がリィの髪を撫でた。リィの髪は、彼が王妃であったと時に比べれば、幾分癖の弱い巻き毛になっているが、夜空のもとでもきらきらと輝くその黄金色だけは見間違いようもない。そして、そのなめらかな触り心地もだ。
 少年は、少女の掌の暖かな感触を愛でるように、うっとりと目を閉じた。
 しばらくそのまま、お互いの小さくなってしまった体を、小さくなってしまった己の掌で愛撫し続けた。
 誰かが今の二人を見たならば、極上の毛並みを持つ生まれたての子猫が、じゃれ合いつつも互いを毛繕いしている、そんな様を思い起こしたかも知れない。
 やがて、リィは目を開けた。その緑柱石色の瞳に、己の漆黒の瞳が映り込んだのを、ウォルはきちんと確かめた。

「なぁ、リィ。俺はまだ聞いていないぞ」
「うん?」

 一瞬不思議な顔をしたリィだったが、目の前の少女が何を言いたいのか、何を言って欲しいのかを察したのだろう、すぐに穏やかな微笑を口元に浮かべた。
 そして、万感の思いを込めて言った。

「おかえり、ウォル」
 
 おかえり、と。
 無論、ウォルにとってのこの土地は、全くの異郷の地である。それどころか、世界そのものが違うのだ。
 しかし、リィは言った。おかえり、と。
 その言葉の意味を、ウォルは理解していた。
 それは、住み家のことでもなければ、故郷のことでもない。
 それは、魂の在処の問題だ。
 だから、おかえり、なのだ。
 お前の魂は、おれの隣こそが一番相応しいと、そういう言葉なのだ。
 それを理解してたから、ウォルもまた、万感の思いを込めて言った。

「ああ、ただいま、リィ」

 二人はそれからしばらく無言で見つめあい、どちらからか目を閉じた。
 顔を寄せていったのは、今の性別の役割として、リィからだった。
 唇と唇が触れ合う。愛情ではなく、友情と、それ以上の絆を確かめ合うための、浅くて優しい口づけだった。しかし、二人の間に横たわった時の空白を埋めるような、長くて長い口づけだった。
 かつて二人の間には、星々ですら丸ごと飲み込むような時の濁流が横たわっていた。
 今、彼らは同じ時間の中を息づいている。
 そして彼らは、温もりを求めるように、あるいは決して離さないように互いの体を抱き締めて、同時に眠りに落ちた。自分の腕の中で自分の背中を預けることの出来る戦友が眠っているという、何物にも代え難い充足感を供にして。



[6349] 転章
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/05/03 23:16
 少女は、空を見上げた。
 自分の真上、ちょうど天頂の位置に、白く光る太陽が鎮座坐している。
 あとは、抜けるような青空だけだ。薄雲一つだってありはしない。
 朝の、肌を刺すような寒気は消え失せて、いつの間にか汗ばむような陽気になっている。事実、もう何時間も野山を駆け巡った少女の額には、珠のような汗が浮かんでいるのだ。
 少女は、それをぐいと拭った。泥だらけの手で拭ったから、額は真っ黒になった。
 彼女の近くに誰かがいれば、笑いながらそれを指摘してくれただろうが、しかし彼女は一人である。一人で野山を駆け巡っているから、そんなことはどうでもいいことだった。
 しばらくそのまま野遊びをした。
 腹が空けば、たわわに実った木の実を囓った。不思議と、毒のある木の実に当たることは無かった。どれほど美味しそうでふっくらと膨らんだ木の実でも、どうしても食べる気がしないものがあった。まるで一面に黒カビが生え揃って、蛆虫が湧いたチーズくらいに食べる気がしない。
 少女は、それを食べてはいけないことを知っていた。
 喉が渇けば、小川の水で喉を潤した。探すのに手間はかからない。馥郁と甘い水の香りが、手招きをしながら自分を呼ぶのだ。お誘いに乗ってふらふらと歩くと、まるで飲んでくれと言わんばかりに透き通って冷たい水が、我が物顔でさらさらと流れている……。
 少女は、掌を椀代わりにして水を掬うことはしなかった。そんなことは意地汚くてみっともないことに思えたからだ。
 代わりに、きらきらと陽光を跳ね返す水面に顔を寄せて、舌で直接水を舐めた。
 ぴちゃぴちゃと軽やかな音が鳴る度に、焼け付くような喉の熱さが癒えていく。
 美味だった。
 たらふくに冷たい水を飲み、もうお腹一杯になった頃合いである。ようやく彼女は、水面に自分の顔が映っていることに気がついた。すると、額が真っ黒に汚れていて、どうにも格好の悪い有様であった。
 本来であれば手で洗ってやるのがいいのだろうが、それすら面倒であった彼女は、えいやと川に飛び込んだ。
 川は浅いように見えて意外なほどに深いことも多く、そういう時は往々にして命に関わるような事故も起きやすい。少女とてそれくらいのことは知らないわけではないのだが、小川の中で飛ぶように泳ぐ小魚たちが、その涼やかな有様が、あまりに羨ましかったのだ。
 元々、服は身につけていない。そんなもの、あちらこちらから張り出した木の枝やら何やらに引っかかって鬱陶しいだけである。早々に脱ぎ捨てている。
 生まれたままの姿の少女は、自分の腰ほどの深さの小川の中を、たいそう嬉しそうに泳いだ。
 山嶺にはまだ白いものが残り、朝には息も白くなる季節の川水であるから、それなりに冷たい。長く入っていれば、痺れるような冷たさが痛さに変わるような、そういう冷たさである。
 しかし少女は嬉しそうだった。その黒髪を水浸しにして、しなやかな四肢を踊らせるように動かし、川の流れの中ではしゃいでいた。
 妖精が遊んでいるようだった。
 十分に満足したのだろう、少女は身体を起こし、川底に足を付けて立ち上がった。頭を、そして全身を激しく振るわして、余分な水分を弾き飛ばす。
 大理石のように滑らかで張りのある肌と、黒絹の上に漆を重ねたような髪の毛から、盛大に飛沫が舞い散った。それだけで、彼女を覆う水のほとんどは消え失せた。磨き抜かれた鏡面のような肢体は、水の精霊の求愛を、素っ気なく袖にして見せた。
 ばしゃばしゃと水を掻き分け歩き、岸に片足をかける。
 その時、足下に目を落とすと、一匹の獣が自分を睨みつけていることに気がついた。
 睨みつけている。それは正確では無いかも知れない。何というか、呆気にとられたような、それとも興味津々のような、間の抜けた顔立ちだ。
 それより何より、何故この狼は、水の中から自分を見つめているのだろうか。それが一番不思議で、そして可笑しかった。
 思わず首を傾げてしまう。ねぇ、あなたは何故そんなところから私を見つめるの?
 すると彼女も首を傾げた。どうしてそんな簡単なこともわからないのかしら?
 少女はぷっくりと頬を膨らました。だって、初めて顔を合わせた見知らぬ人に、いきなり失礼な口を訊かれたのだ。ちょっとおつむにこない方がどうかしているもの。
 すると、狼も頬を膨らました。あちらも、どうしてか怒っているようだった。きっと何もかもが自分の思うとおりにいかないと癇癪を起こすような、お嬢様狼なのだ。
 もう知らない。少女は思った。あんな聞き分けのない我が侭お嬢様は、どこかで彼女の帰りを心配しているお父さん狼とお母さん狼に、お尻を叩かれてしまえばいいんだ。
 ざばりと陸に上がる。
 二、三歩歩き、振り返る。
 すると、川の中のどこにも、あのおしゃまな雌狼の、黒い瞳はなかった。きっとお腹が空いたから、家に帰ったんだろうと思った。
 少女は首を傾げて、それから先ほどよりもなお速く、風のように俊敏に駆けだした。
 大地を蹴り、藪を抜け、木々の間を駆けていく。
 景色が凄い勢いで流れていく。
 走る、走る、走る。
 何故走るのか、と問いかけるものはいない。今の彼女は、ただ走るだけが生態の生き物だ。それだけで、少女は完成している。
 舌を出して、喘ぐように酸素を取り入れる。肺腑を満たす冷たい空気が官能的だ。
 喉が渇いた。さっきあれほどお腹一杯に味わった水など、異次元の彼方に消え失せてしまった。
 筋肉が甘い疲れに痺れる。もうへとへとだ。へたり込んで、天を仰ぎながら一息吐きたい。そう思う少女と、まだまだ走りたい、私の欲望はまだまだこんなものじゃあないと叫び猛る彼女がいる。
 等分にいる。
 だから少女は、木に登った。駆け上った。手を、足を使い、地を駆けるのとほとんど変わらない速度で、見たこともない程に太い幹回りの大樹に、駆け上った。
 世界が、見たかった。
 自分を含む世界が、どれほどに広いのか。どこまで駆ければ世界は終わるのか。
 自身の体重を支えられる限界ぎりぎりまで幹が細くなった頃合いに、少女は世界を見下ろした。
 鬱蒼とした緑が、どこまでも広がっている。
 波打つような木々の群れは、そのまま緑柱石色の波頭だ。ここは、大地に根付いた大海原だ。
 少女は、無性に泣きたくなった。
 どうして自分はこんなところにいるのか。
 たった一人で!
 仲間が欲しい。少女の胸中を、強烈な焦燥感が襲う。それは間もなく胸を掻き毟りたくなるような郷愁の念に変わり、最後に凍えるような孤独と恐怖に変わった。
 探さなくては!
 自分と同じ毛皮を持つものを。自分と同じ爪を持つものを。自分と同じ牙を持つものを。
 俺は、それを知っている。俺の、一番大切な人だ。人のかたちをした、この世で一番誇り高い獣だ。
 金色の毛並み。聖緑の瞳。
 魂魄を洗い流すような、清冽で不敵な笑み。
 おれだけの、たいよう。

 ――何という、名前だったのだろうか。

 忘れてしまった。
 遠い昔のことだ。

 少女は吠えた。
 喉を開け放ち、肺腑にため込んだ精一杯の空気を、一息に吐き出した。
 悲しげな遠吠えは万里に響き、彼女の恋慕をあの獣に届けてくれるだろうか。
 少女は泣いていた。止めどなく涙を流し、嗚咽の代わりに吠えた。
 そして耳を澄ます。きっと誰かが、自分を探して吠え返してくれるはずだ。
 静寂の向こうに、自分の声だけが木霊する。自分の声を仲間の声と聞き違えることが出来れば、少女はどれほどに幸福だっただろうか。
 少女はもう一度吠えた。涙声の混じった、憐れを誘う声で。
 どうして、どうして誰も応えてくれない?どうして私を置いて、違う世界に旅立ってしまった?
 彼女は、どうしようもないほどに一人だった。
 だから、手を離した。
 虚空に身体を遊ばせる。内蔵を踊らせるような浮遊感。
 死んでもいいと思った。でも、死にたいとは思わなかった。
 天を掴むように生え揃った枝に、手を伸ばす。当然、彼女の体重を支えるには至らない。
 ばきりと折れ飛ぶ。
 その衝撃で、掌が酷く痛んだ。ひょっとしたら皮が裂けて、血が滲んでいるかも知れない。
 だからどうした。痛みは、苦しみは、生があってこそ。命あっての物種。
 次の枝に手を伸ばす。ばきりと折れる。
 次の枝にも手を伸ばす。ばきりと折れる。
 ひらりと地面に落ちた。足が少し痺れたけど、別に痛くは無かった。掌も、赤くなっているだけで血は流れていなかった。
 ぺろりと舐める。
 そして再び駆けだした。
 どこかにいるはずなのだ。自分が探し、自分を探してくれる、誰かが。
 鼻先を合わせて、挨拶をしよう。きっとあいつは笑いながら応じてくれるはずだ。
 舌で毛繕いをしてあげよう。こないだは下手くそだと言われたから、今度こそ見返してやるんだ。
 原っぱの上で、取っ組み合いをしよう。上になったり下になったりしながら、ごろごろと転げ回るんだ。まるで、子供の頃に返ったみたいに。
 そしてお腹が空けば、きっとお母さんが、大きな獲物を捕まえて帰ってきてくれる……。

 いつ頃の思い出なのだろう。
 いつになったら思い出すのだろう。
 私は獣だ!
 この爪は獲物を捕まえるために。この牙は獲物を引き裂くために。
 この足は大地を蹴るために!この鼻は風を嗅ぐために。
 そして遠吠えを!

 鎖。

 私をつなぎ止める。
 暗い籠の中。どこにも行けない。私を押し殺す、四面体。
 さぁ、今日も始めよう。今日はどこから切り裂かれたい?君の筋肉は、桃色で、とても綺麗だねぇ。
 拍動する心臓が、鮮血を跳ね散らす。その生暖かい液体が頬を伝い、唇の中に滑り落ちる。
 鉄臭い。
 懐かしい、味。
 それだけが、私に残された、野性。
 組み敷かれる。荒い鼻息。精々、私の上で腰を振ればいい。
 どれほど希おうと、あなたの精では私は穢せない。
 私を穢せるのは、この世でただ一匹。
 金色の獣だけ。
 だから私は穢れてなんていない。汚されたなんて嘘だ。
 今日も、四面体の隅で、蹲って眠る。
 糸で繋ぎ止められたばらばらの四肢が、薬臭くて鼻が曲がりそう。
 目が覚めれば、私は無限の草原に。
 ああ、悪い夢だった。お母さん、聞いてください。私は、二つ足で歩く、気持ちの悪い化け物に捕まる夢を見ました。それは怖かったでしょう、さぁ、お母さんの毛皮の中でもう一度眠りなさい。きっと、そんな夢のことは忘れてしまうから。

 それも、夢だってわかってる。

 
 高いところへ。
 一番高いところへ。
 おぞましい穴蔵よりも、世界一のっぽの大木よりも、聳え立つあの銀嶺よりも。
 私の声を、万里の向こうへと響かせるために。
 あったかいところへ。
 一番あったかい場所へ。
 あなたの隣に。
 私の魂の、あるべき場所に。

 走って、走って、走って。

 やがて、出会った。
 もう一度、出会った。

『よお、久しぶり』

 それは、私に向かって、気安く手をあげた。
 木々の隙間、猫の額のように小さな草むら。
 腰まで埋まるような、草の海。風が鳴き、草が腰を折る。
 髪が、ゆらゆらと舞う。
 涙を、手の甲で拭った。この人の前で、涙は流したくなかった。
 この人を、悲しませたくなかった。

『……だれ?』

 少年は、両手を天に掲げて、大いに嘆いたようだった。
 その大仰な様子が、何故だか微笑ましかった。

『オレだって大概冷たい人間だけどさ、自分の恋人のことは忘れないぜ、普通』
『ああ、そうなの、すっかり忘れていたわ』

 そうか。
 この子は、私の恋人なのか。
 うん、そう言われればそんな気がする。もう、ずっと前から、ずうっと前から、そうだったの。
 そんなふうに納得した私を、少年は薄く笑いながら見つめていた。

『とにかく腹ごしらえにしよう。肉を喰えば、頭の悪いお前の脳味噌にだって、幾分血が回るだろう』
『うん、そうね。もうお腹ぺこぺこ』

 少年の傍らに、彼の身体ほども大きな猪が転がっていた。
 どこかで見たことのある、猪のような気がした。
 昨日、夢でも見たのかも知れない。

『生?焼く?煮る?揚げる……は無理だけど、蒸すくらいならなんとか』

 意外と器用なようだ。
 私は地面に腰を下ろして、どかりと胡座を組んだ。
 
『ああ、もう、そんな格好でそんな格好……。色々丸見えだぜ』

 あちゃあと片手で顔を覆った少年は、その実、指の隙間から私のほうをしっかりと見ていた。
 どうでもいい、そんなこと。
 今はお腹一杯にお肉を食べたいんだ。どろどろとして薬っぽい流動食にはもう飽き飽き。
 だから、速く、早く食べさせろ。そうしないと、お前の肉に食らいつくぞ。

『おお、怖え怖え』
 
 目の前の皿に、良く焼けた肉が並んでいた。
 爪で切り分けてみると、中はまだピンク色で、ほのかに血が滲んでいる。
 ちょうどいい塩梅だった。私の喉がごくりと鳴り、腹がぐうと鳴った。
 大きく口を開けて、肉に齧り付く。
 がちん、と鳴った。
 溢れ出すはずの肉汁が少しだって無いし、熱々のはずの肉の食感が舌に感じられない。
 何も無い。
 齧り付く前に、取り上げられたのだ。
 少年が、悪戯気な笑みで微笑っていた。

『……それ、食べたいんだけど』
『オレが捕まえた獲物だぜ。上げ膳据え膳ってのは、ちっとばかし態度がでかいんじゃねえかい?』

 けけっと、その容姿には相応しく無い、小悪党みたいな顔で笑った。
 ちらりと除いた白い歯が、その銀色の頭髪と同じくらいに、きらきらと輝いていた。
 それは、私が大好きな、輝きだった。
 私は溜息を吐き出した。惚れた弱みである。その喉笛を噛み裂くのは、新婚初夜の楽しみに取っておこう。

『……食べさせてください』

 ちょっと突っ慳貪に言ってやった。
 悔しさ半分、甘え半分である。
 すると少年は、どこから取り出したのか、彼の髪と同じ色のフォークで肉片を突き刺し、私の口の前でゆらゆらと揺らすのだ。

『……何の真似?』
『お前が言ったんだろ、食べさせてくれって』

 ふむ、そう受け止めることも出来ようか。
 受信者の悪意が挟まっているとはいえ、私の責任でもある。
 諦めて口を開く。やっぱり悔しいから、目は瞑ったまま。
 
『おらよ』

 むぎゅう、と奥まで詰め込まれた。
 そのままフォークごと噛み砕いてやろうと思ったが、せっかくの肉を金属塗れにするのも勿体ないから、止めた。
 フォークが抜かれた後で、もぐもぐと咀嚼する。
 新鮮な血の味が、何よりのご馳走だ。お腹の奥が、暖かくなる。
 知らず、頬が綻ぶ。

『ああ、いいなぁ、今のお前の顔。押し倒したくなるなぁ』

 にやにやと笑われた。
 とっても腹立たしいが、まだまだ食べ足りない。今は褒め言葉だったということにしておくとする。
 抗議の声は肉と一緒に飲み込んで、もう一度口を開く。こんなの、いつ以来だろう。
 また、喉の奥まで肉を詰め込まれた。
 嘔吐きそうになるが、そんな勿体ないことは出来ない。数回噛んだだけで、ほとんど強引に飲み込んでやる。
 そしてまた、生まれたてのひな鳥のように口を開ける。
 少年は、その度に小馬鹿にしたような軽口を叩いて、淡々と肉を運んでくれた。
 まるで、親鳥みたいに。
 ようやく人心地がついた頃には、猪はほとんど骨だけになっていた。

『……すっげえ食欲。お前、その細い身体のどこに入るのよ……ってそこかい』

 少年はがっくりと項垂れた。
 彼の指さす私のお腹は、妊婦さんみたいにぽっこりと膨らんでいた。
 うむ、満腹。

『ご馳走さまでした』
『はい、お粗末様でしたって言いたいところだがよ』

 ひょいっと身体を持ち上げられた。お腹のところを抑えないように、優しい体勢で。
 抗議の声を上げるまでもなかった。

『ちょいと失礼』

 草むらの中に放り込まれた。
 何だ、こんなところでするのかと思った。

『交尾?』
『あれ、期待してた?』

 きしし、と少年は笑った。
 
『うん、少しだけ』

 心にも思っていないことを言ってみる。
 然り、少年は呆気にとられたように目を丸くして、居心地悪そうに頬を掻いた。
 少しだけ、可愛らしかった。

『それもいいけど、また今度でな』

 しぃ、と指の前に人差し指を立てる。
 悪戯気な表情はそのままだから、それほど危ないことがあるというわけでもないのだろうか。
 私もつられて、思わず笑いそうになったけど、何とか我慢した。
 頭を撫でられた。いい子いい子、という意味らしい。
 思わず目を細めてしまった。
 直後、風に乗って、何人ぶんかの足音が近づいてくるのがわかった。がちゃがちゃと騒がしい音が付いてくるのは、鎧で武装した兵士だからだろう。
 やがて木の幹の影から、何人もの兵士が姿を現した。俺にとっては見慣れた姿だ。

『おい、これを見ろ!』

 食べ残しの猪の骨に、兵士が群がる。
 そんなにお腹が減っていたのかと思ったが、勿論そういうわけでもないらしい。散らかしっぱなしの食器やら食べかすやらを触って、剣呑な面持ちで囁いた。

『どこに行った!?』
『まだ暖かい!それほど遠くには行っていないはずだ!』
『探せ!』

 頷き合った兵士達は、散り散りに別れて森の奥へと走っていった。
 どうやら、誰かを捜していたらしい。それが私でないのなら、きっともう一人のほうだろう。それに、私を捕まえに来るのは、きっと綺麗に頭を撫でつけて、ぱりっとしたスーツを着こなしたトカゲみたいな男の人に違いないのだから。
 これは、ひょっとしたらとんでもない事態なのだろうか。
 でも、大丈夫。私の爪と牙は、あんな貧弱な鎧なら噛み砕いてみせる。
 そして、私の恋人を助けるのだ。何故なら、あの娘だって、きっと同じことをするに違いないのだから。
 一人一人狩っていけば、危険は無い。

『おい、落ち着けよアンタ。そんな怖い顔してどこいくつもりだい?』
『……怖い顔?』
『そんなに牙を剥いて、今にも噛み付きそうだったぜ』

 何を、当たり前のことを。
 敵は、殺さないと。喉笛を噛み切って、頸椎を噛み砕いて、もう二度と立ち向かえないようにしてあげないと。
 今度は、私が殺されてしまう。
 殺されてしまう。
 もう、あいつに会えない、なんて。
 絶対に。

 いやだ。

『ああ、もう、泣くなよ、鬱陶しい』
『ひぃ……ん。ぇぐっ、ひぃ……ん』

 抱き締められた。
 頭を、ぎゅうっと。
 良い匂いがする。私が大好きな匂いだ。
 そして、あたたかい。
 とても安心した。

『だって……だって、もう、にどと、あえない、いやだ、とっても、かなしい……』
『ああ、それはそうだな、悲しいよなぁ』

 頭を撫でられている。
 懐かしい感触だった。その懐かしさがまた哀しくて、どんどん涙が溢れてきた。
 遠い、遠い昔だ。
 この人は、私を慰めてくれたんだ。
 戦争が、とても大きな戦争があったんだ。
 もう、明日には二人とも生きていないのに。そんなこと、私のお腹の中に居る、この子だってわかっていた。

『死んじゃうよう、いかないでよう』
『ああ、そうだね、カマル。でも、君は生きておくれ。そして僕達の子供に、この世界を見せて上げてほしい』
『嫌だ!絶対に行かせない!』

 大きな手に、思いっきり噛み付いた。
 少しだけ鉄臭くて、甘い液体が、口の中に溢れ出す。
 私は、夢中でそれを啜った。愛する人が愛おしくて、愛おしくて。
 夢中で啜った。

『ああ、その激しさが君だ。ほんの少しだって君に相応しく無い。そして、なんて君らしい』

 男は、緑柱石色の瞳で、微笑んだ。
 手が、離れていく。このまま、私が噛み締めたままでも、この人は手を引き抜くだろう。どれほど肉が裂け、骨が砕けても、この人はそういう人だ。
 私は、聞き分けのいい子狼みたいに、口を離した。
 人間みたいな歯形が、可愛らしく、手の甲に刻まれていた。

『君が狼だったのは幸いだ。やつらだって、君が狼になって逃げおおせるなんて、想像も付かないだろう。だから、逃げなさい。君は逃げなくてはいけない』

 嫌だ嫌だと頭を振る。
 どうしようもなく、その言葉が正しいのはわかっている。それでも、ここで彼を置いていけば、二度と会えないのもわかっている。
 目尻に涙を溜めてむずがる私に、夫は、優しく言い含めるようにして囁いた。

『君は、生まれ方を間違えたね。本当は、君のような女の子こそが太陽に相応しい。男は、殺し奪い取るだけだ。女は、命を育むことが出来る。どちらが太陽に相応しいなんて、考えるまでもないことなのにねぇ』

 男は微笑った。
 私は――どうしたのだろう。



[6349] 第二十四話:赤ずきんは森へと消えた
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/05/16 10:07
 朝霧に烟る日の光を浴びて、二人は同時に目を覚ました。
 薄ぼんやりと開いた二人の瞳に、まず最初に映り込んだもの。それは、曙光をそのまま梳ったような金髪であり、あるいは夜空にさんざめく星々を散らしたような黒髪であった。
 そして、リィとウォルは互いの瞳を見つめて、またもや同時に柔らかい笑みを浮かべた。

「おはよう、ウォル」

 あちらの世界では、何度となく交わされた挨拶だ。
 たった二人だけの旅路、冬の残滓も色濃い初春の朝ぼらけに。
 軍靴と蹄の行進する音の響く、血生臭い戦場で。
 頭に酒精の疼きの残る、西離宮の宴の翌日に。
 彼らは、何度となく挨拶を交わし、互いの瞳を覗き込んだ。
 ウォルは、そのいくつかを思い起こし、そしていくつかを思い出した。
 喧嘩をして、そして目覚めたこともある。その時の、何とも気まずく居たたまれない想い。悪いのはあいつのはずなのに、何故か自分こそが大罪人であると勘違いをしてしまう。
 どのようにして謝ろうか。それとも、自分が謝る必要などないのではないか。あいつから謝るべきなのだから、俺は黙っていよう。いやいや、俺の方が大人で男なのだから、こちらから折れてやるべきだろうか。
 そう悶々と繰り返し、寝起きの鈍い頭を抱えながら起き上がる。
 そういう時は決まって、廊下の曲がり角の隅っこのほうや寝室に設えられたテラスの手摺りの上――それも三階や四階にある――などで、ひょこりとこちらを覗き込む、なんとも愛らしい小猿を見つけるのだ。
 その小猿は、普段の、金色の狼のように雄々しく勇ましい様子はかなぐり捨てて、おどおどとこちらを見上げるような頼りない視線を寄越しながら、可憐な唇を開いて言ったものだ。

『おはよう、ウォル』、と。

 その台詞、もしかしたら万の騎馬兵を相手取るよりも、遙かに重大な勇気を込めて放たれたであろう、短い台詞。それを聞いただけで、くだらない蟠りなどは朝日の昇る地平線よりも遙か彼方に消え失せてしまう。
 同時に、一抹の寂しさと悔しさを味わう。この台詞は、俺の方から先に言うべきものだったのではないか。これでは、まるで俺の方が子供のようではないか。
 しかし、こんな、不意打ちのような拍子で出くわして、こちらが呆気にとられている間に先に口を開くのは、とんでもなく卑怯な真似ではないだろうか。それも、一度や二度ではない。ことある事に、毎回だ!
 そんな、ぐるぐるとした思考の全てが、それこそ子供じみている気がして、結局ウォルは苦笑しながら挨拶に応じるのだ。
 それこそ、今の彼女のように、はにかんだ笑みを浮かべながら。

「ああ、おはよう、リィ。今日もいい一日になりそうだ」

 二人がロッジに戻ると、腹の虫を刺激する良い香りが漂ってきた。
 コトコトと何かを煮る音が聞こえる。トントンと軽快に響くのは、シェラの操る包丁の音だろう。

「おはようございます、リィ、ウォル。もう少しで出来上がりますから、待っていて下さいね」

 キッチンから、銀色の頭がひょこりと覗いた。
 まるで本物の女性のような、いや、本物の女性であっても裸足で逃げだしたくなる程に整った顔立ちの少年、シェラ・ファロットは、朝帰りをした二人を見ても顔色一つ変えなかった。

 シェラの朝は早い。
 あちらの世界ではそれこそ朝夕と無い仕事に携わっていたわけだし、遅寝を楽しむほどに余裕のある身分だったわけでもない。それに、彼の中でも最も厄介で重大事だった仕事――デルフィニア王女の暗殺――にかかずらうようになってからは、曲がりなりにも王女の侍女として恥ずかしくない立ち振る舞いをしなければいけなかったわけで、当然朝は誰よりも早くなる。そんな生活を3年近くも続けていれば、それは習慣というよりは生態として身についてしまうものなのだ。
 今朝も、当然のことながら誰よりも早く起きたシェラである。
 陽は未だ昇らず、窓の外もまだ暗かった。当然のことながら別に早起きしなければならない理由も無かったのだが、二度寝を決め込む気にもならず、何となく起き出した。
 寝室から出て居間に向かうと、強烈な酒精の香りが立ちこめていた。
 立ち並んだ空の酒瓶の山を見て、流石のシェラもうんざりとした。何せ、大の付くような蟒蛇が三人(第三者の視点から見れば四人だ)、日を跨いでもなお杯を酌み交わし、語りに語ったのだ。その腹の中に消えた酒の量たるや、並の酒場で消費される一日の酒量を遙かに上回っていたであろう。
 酒場であれば、その片付けは給仕に任せればいい。しかしここは酒場でないから、給仕以外の誰かが片付けを引き受けなければいけないわけだ。
 シェラは、誰に言われることもなく、それが自分の役割だと思っていた。彼が自らの主人と定めた少年は当然除くとして、他の二人にだってこんな仕事をさせるつもりはなかった。何せ、一人は主人の魂の相棒であり、そしてもう一人はかつてのデルフィニア国王なのだから。
 もっともそれは後付の理由であり、掃除洗濯炊事に片付けと、いわゆる家事雑事にカテゴリされる仕事は、シェラ自身嫌いではなかったりする。散らかっていた部屋がすっきり整頓されるのは気持ちがいいし、汚いものがピカピカになれば笑みも零れようというものではないか。
 それでも、物事には限界というものがある。何せ、冗談抜きで立錐の余地もないほどに酒瓶やら皿やらが転がっているのだ。まずは自分が立つ場所を確保することから始めないと、掃除だってままならない。
 溜息を一つ吐き出したシェラは、とりあえず近場にある酒瓶を拾い出した。これらのゴミは、当然の事ながらこの星に置いていくわけにはいかない。宇宙船の発着場まで、もう一度持って帰らなければならないのだ。行きしなに比べればその中身が空になっている分軽いことは軽いのだが、しかし面倒なことではある。
 そうして、ほとんど音もなく宴の始末を開始したシェラであるが、居間のほぼ中央に、巨大な芋虫が転がっていることに気がついた。あたりを空の酒瓶に囲まれ、何とも器用に自分が寝転がるスペースだけを確保したその芋虫は、しかし当然のことながらただの芋虫ではない。
 もぞもぞと身体を震わせると、その先端から、人間の頭がぴょこりと顔を見せた。
 鈍重に瞼を持ち上げた、ルウであった。

「んー……しぇらぁ……?」

 これが、『神の一族』とも呼ばれるラー一族の――そしてその中でも飛びきりの異端として恐れられている――青年だろうか。シェラの目には、どう考えてもそのような危険物には見えないのに。
 然り、シェラは、ようやく日が差してきた部屋の中でまだまだ眠たげな青い瞳の青年に、小さな声で挨拶をした。

「はい、おはようございます、ルウ」
「んー……おはよぉ……」

 頭のエンジンがアルコールで錆び付いているらしいルウは、何とも気のない返事を返した。
 このロッジの建っている地域の季節は、偶然のことながらティラボーンのそれと同じく晩春のそれであり、早朝は相当に冷え込む。一歩建物の外に出れば、まだまだ息も白くなろうかという頃合いだ。
 ルウは、その身を包んだ厚手の毛布を、これこそ我が命綱とばかりにしっかり掴み、棘を逆立てたハリネズミのように厳重に纏っていた。
 どうやら昨晩、シェラが白旗を上げて寝室に籠もった後も、相当に飲んでいたらしい。そしてそのまま酔い潰れ、ウォルかリィのいずれかが、とりあえず毛布を掛けてあげたのだろう。

「ルウ。眠たいのでしたらまだ寝ていて構いませんよ。まだまだ朝は遠いですし」

 シェラは柔らかくそう言った。

「ありがとぉ……ごめんね、しぇらぁ……」

 普段であれば、部屋の片付けをシェラ一人に任せるのを良しとせず飛び起きるであろうルウも、物凄い力で瞼を引きずり落とそうとする睡魔の誘惑に敵わず、呻き声のような返事を漏らして眠りの世界に舞い戻っていった。
 そんなルウの様子を見て、そういえばとシェラは辺りを見回した。
 寝室に、人の気配は無かった。
 ならば、残りの二人も居間で寝ているものだとてっきり思い込んでいたが、しかしリィの姿もウォルの姿も見当たらないのだ。
 はて、とシェラは首を捻った。あの二人はどこに消え失せたのだろうか。
 別に心配しているわけではない。あの二人をどうこうするなど、飛びっ切りに腕利きの行者を百人集めたってできるわけがないのだ。ましてここは、自分達以外に人のいない無人の惑星である。
 シェラは、酒瓶と酒瓶の間を、抜き足差し足で歩いて出口へと向かった。途中、ルウの隣を歩いたが、安らかな寝息が聞こえるだけで起き上がる気配は無い。
 扉を開ける。
 外はまだ薄暗く、東の空が僅かに白み始めた程度だ。
 予想していたこととはいえ、朝露に濡れた空気はまだまだ冷たかった。しかし、その冷たい空気を肺一杯に吸い込むと、得も言われぬ爽快感がある。安っぽい比喩であるが、まるで自分が生まれ変わったような、そう錯覚するような心地よい感覚だ。
 寝間着姿にサンダルという、普段の彼からは想像も付かないほどに砕けた格好をしたシェラは、ロッジに設えられたテラスから、外を見回した。
 地平線の遙か向こうに聳える山々は険しく、まるで天に向けられた刃のようだ。その刃先はいまだ白く、冬の残滓を振り払えていない。
 そのすそ野に広がる黒々とした絨毯のようなものは、もう少し日が差せば鮮やかな緑色に変じるのだろう。梢の間を渡る風は、馥郁たる香気が満ちているに違いない。
 どこかで、一番鶏が啼いた。無論、家畜化された鶏などいるはずもないから、何か、見たことも聞いたこともない種類の鳥なのだろう。しかしシェラなどには、その鳥がきっと鮮やかな尾羽を持っている気がしてならなかった。
 ぼんやりと、明けゆく空を見つめる。じわじわと、泣きたくなるほど少しずつ白みゆく東の空。星を隠していた薄雲が照らし出され、花嫁を覆い隠すヴェールのように儚げに見える。
 我ながら安い感慨を抱いたものだとシェラは苦笑し、本来の仕事に取りかかることにした。
 丸太で拵えられた階段を下ると、目の前に広大な湖が広がっている。その岸に至るまでの短い道程は若々しい草花で満たされた草原に覆われていて、どこかから小さな虫の鳴き声が聞こえる。
 そこに、並んで横たわった、二人分の影があった。
 
「おはようございます、リィ、ウォル」

 シェラは幾分安堵に満ちた挨拶をして、少し早足で歩いた。
 当然、二人とも既に起きているものだと思った。何故なら、自分がここにいるのだ。
 リィは野生の獣そのまま、自分のテリトリーに他人が入って、暢気に眠りこけていられるほどに気の長い生き物ではなかったし、ウォルも、国王である以上に戦士であったから、眠りながらも他者の気配に敏感であった。
 そんな二人が、わざわざこちらから挨拶までしたのに、目を覚まさないはずがない。シェラはそう思っていたから、挨拶をした後でしまったと思ったものだ。無論、挨拶が聞こえるような距離に立ち入って目を覚まさない二人ではないのだが。
 しかし、その割には妙であった。お返しの挨拶もないし、そもそも二つの影が動く様子がない。

「あれっ?」

 シェラの口から、疑問符を伴った呟きが漏れだした。
 もしかしたら何かがあったのだろかと、朝二人の姿が見当たらなかったときよりも、シェラの心臓は不安に震えた。
 早足で、しかし足音は全くたてることなく近づく。すると、夜目の利くシェラであるから、僅かな明かりの中でも二人の姿を良く見ることが出来た。

「おやおや……」

 こんどの呟きには、幾分か呆れの成分が含まれていた。
 何せ、あちらの世界では、至高の王と王妃でありながらついぞ一度も閨を共にしなかった二人が、しっかりと服を着込んでいるとはいえ、抱き合いながら眠っていたのだ。
 シェラは含み笑いを漏らしつつ、やはり足音も密やかに二人の元へと歩み寄った。
 まるで、昼寝を楽しむ野生の兎の元に忍び寄っていくような、何とも愉快な緊張感を楽しみながら、しかしシェラの表情は引き締まっている。何せ、これから一生かかったって見られない光景を、今ならば拝むことが叶うかも知れないのだ。必死になって、寧ろ当然だろう。
 抜き足差し足忍び足、普段だってほとんど足音というものとは無縁のシェラが柔い地面の上を慎重に歩むものだから、虫だって目を覚まさないほどに密やかな音しか立たない。
 やがて二人の傍まで辿り着いたシェラは、そーっと二人の寝顔を覗き込む。
 ようやく青空と呼べるほどに青みが差してきた東の空、そこから漏れ出す淡い陽光に照らし出された二人の天使の寝顔。お互いがお互いを守り合うように、しっかりと背に回された二組の腕。唇が触れ合いそうなほどに近づいた柔らかな頬が二つ。
 どちらの寝顔も、生まれたての赤子のように無垢である。少し開いた唇の隙間から、すうすうと穏やかな寝息が漏れ、それと合わせて胸が僅かに上下する。
 リィとは長い付き合いのシェラであるが、これほどに安らいだ寝顔のリィは初めて見る。どれほど気配を殺して近づこうと、寝室の扉を開ける前には身体を起こしているリィであるから、そもそもリィの寝顔を拝むこと自体が珍しいのだ。それこそ、前代未聞の夫婦喧嘩に発展した例の睡眠薬事件と、あとは数えるくらいしかシェラはリィの寝顔を見た記憶が無い。
 そして、そのいずれもが、まるでつくりもののような、生気の抜け落ちた顔であった。普段のリィが生命力に煌めいている分、その落差も相まってそう感じたのだろう。
 シェラはその理由を、瞳が閉じられているからだと思っていた。リィの、彼自身が持つ生命そのものを凝縮したような、緑色に輝く瞳。どれほど秀麗で整った顔をしていようとも、その一つの要素、しかし絶対的な要素が抜け落ちているならばリィの顔はリィたり得ないのだ、と。
 だが、今のリィの、そしてウォルの寝顔はどうだろう。二人の瞳は、当然のことながらその瞼に覆い隠されて見ることは出来ない。しかし、今のリィの寝顔は紛れもなくリィの顔であったし、ウォルのそれも彼女自身のものであった。
 その理由はわからない。その理由を言語化する術を、シェラは持っていたかった。
 ただ、理屈とは最も遠いところで、感情で、シェラはそれが当然だと思った。
 この二人は、つがいの猛禽なのだ。自分以外のために心の底から怒り、鋭すぎる爪と嘴を互いの柔らかな羽毛で覆い隠し、寒さに凍える夜には身を寄せ合って眠る……。
 余人が見れば、『無垢なる天使たち』とか、『恋人』とでも名付けそうな情景であったが、シェラには、二人の寝顔につけるタイトルなど一つしか思い浮かばなかった。
 
「『信頼』とは……少し安すぎるでしょうか」

 呟き声は、果たしてヒュプノスの御手に委ねられた二人に届いたのだろうか。
 シェラは、ごちそうさまでした、とでもいうふうに軽く手を合わせ、来たときと同じような足取りで小屋に帰っていったのだ。



「うん、美味い。前食べた鹿よりも、全然こっちのほうがいいな」
「こないだは満足な調味料もありませんでしたから。それに、ルウが仕留めてくれた鹿のほうが脂もよくのっていますし」

 テーブルの上には、これは果たしてディナーかパーティーかというほどの料理の山が並んでいる。とても深酒をした翌朝の朝食とは思えない。そういう朝は、お粥とかシチューとか、疲れた内臓にも負担の少ない料理が喜ばれるのだ。
 しかし、それはあくまで一般人の胃袋に限った話である。シェラは、自分が主人と仰ぐ少年の鉄の胃袋には何度も驚かされた過去があるから、当然のことながらそれに見合った料理を拵えたのだ。
 鹿肉のロースト、鱒と岩魚のスモーク、レバーペーストと茸のテリーヌ、各種ナッツを混ぜ込んで焼き上げたパン、内臓と香草の煮込み、木イチゴと山桃を搾ったジュース……。一体、どうやればこれだけの短時間、しかもたった一人で作ることができるのか、流石のリィやルウであっても頭を傾けざるを得なかった。
 それでも、そのように些細な疑問は、若々しい身体が今日一日分の燃料として希求する栄養の群れの前ではあまりに脆弱だったらしい。シェラ以外の三人は、手を合わせるのももどかしく、色取り取りに盛られた豪華な料理の征服に乗り出した。
 まるで手品師がスカーフを被せたかのように、次々と空になっていくシェラの力作達。その光景をにこやかに眺めながら、しかしシェラは、内心で奇異の念を覚えた。

「おや、ウォル。あなたもよく食べるのですね」

 口いっぱいに料理を頬張り、まるでリスのようになっていた少女は、シェラの方を見て何かを言いたそうにしていたが、とりあえず口の中のものを飲み下すことに専念したらしい。忙しなく顎を上下に動かして、歯応えのある鹿肉をようやく喉の奥に押しやった。
 そしてナプキンで口元を拭き、それから唸るように言った。

「それだ、シェラ。俺も不思議に思う。あれだけ飲み食いした翌朝ならば、いくら俺だってこんな重たい食べ物、見るのも嫌だったはずなのだがな。どうしてこうも腹が減っているのだろう。不思議だ」

 その理由は、おそらくウォルの身体がリィと同じ、狼の変種とも呼べる生き物のそれに変じたことによるものだっただろう。
 ウォルは今更ながらに、これは何と便利な身体かと思った。何せ、いくらでも食べることができるのだ。食べるというのは、放蕩癖とは縁のないウォルにとって、ほとんど唯一といっていいような楽しみであったから、美味しい料理を目一杯詰め込むことのできるこの体は確かに便利がよかった。
 そして、何故だか料理が旨い。きっと、味覚を含んだ五感が、元々よりも鋭いからだろう。以前よりも深いところで料理の質が楽しめているような、そんな気がする。
 
「今更どの口でほざくかよ、我が夫。その口にどれだけの食い物を放り込んだのか、忘れたとは言わさないぞ」

 鹿肉のロースト、その最後の一切れを横取りされたリィは、ほんの少しだけ恨めしげな視線で隣に座ったウォルを睨みつけた。
 しかし、当のウォルは、お返しとばかりに非難を込めた視線で、リィを睨みつけたのだ。
 これにはリィの方がたじろいだ。

「……なんだよ、ウォル。何か文句でもあるのか?」
「ある。大いにある。リィ、俺はお前が、そんなに薄情者だとは思わなかったぞ」
「何だよ、お前が大食らいなのは本当のことだろう?」
「そんな些末事ではない!」

 シェラは、千切ったパンを口に運びかけて、その手を止めた。その隣で、ルウも同じように目を白黒させていた。
 果たして何事かと事態を見守る二人の前で、ウォルは続ける。

「昨日、約束したばかりではないか。昨日の今日でこれでは先が思いやられるぞ」
「何のことだよ、おれはお前が何を言いたいのか、全然わからない。きちんと説明してくれ」
「リィ、お前な、人のことをうすらとんかちだとか女の敵だとか唐変木だとか痴呆症の熊だとか散々なことを言っておいて、それはないのではないか!?」
「……そこまで言ったかな?」

 リィは首を捻ったが、昨日はしこたま飲んだから今一つ記憶が頼りない。
 そこまで深酒をしなかったシェラは、前の二つはともかく、確か後の二つは言っていなかったような気がしたが、この際黙っておいた。

「とにかく、だ。お前は昨日、俺の前で誓っただろう。早くも約束を違えるつもりか?」
「……一体なんて?」
「俺をお前の妻に迎える、とだ!ならば、妻のことを夫と呼ぶのは如何なものだろう!?」

 シェラが、手に持ったパンの切れ端を、ぽとりと落とした。
 ルウは、口に含んだ木イチゴと山桃のジュースを気管にやり、盛大に噎せ返った。
 
「げほっ、げほげほげほげっほ!」

 吹き出したジュースは、あわや新妻(?)の顔を直撃するところだったが、当の新妻たるウォルはテーブルクロスの端を持ち上げることで盾として、被害を最小限に防いだ。
 その鮮やかな手並みだって、今のシェラやルウには遠すぎる。彼らの頭は、遙かに深刻で由々しき事態を処理するために手一杯だったのだから。それに、ルウは肉体的にも一大事、正しく瀕死といった有様であったが。
 当然、ラー一族である彼がこの程度のことで死ぬはずもない。しかし、目には涙が浮かんでいたし、額には脂汗が浮かんでいるし、盛大な咳は留まるところを知らないし、涎やらジュースやらで顔中がべたべただ。
 いつもの、密やかで神秘的な青年というイメージなどどこにもなく、ルウはひたすらに悶絶し続けた。
 その横で、ようやく我に返ったシェラが、口を開いた。

「……あの、もう、何というか今更なのですが……、ええ、色んな意味で今更なのですが……一体どういうことでしょうか?」

 本当に、今更である。
 一体、この夫婦は、何度自分を仰天させれば気が済むのだろう。
 こちらの世界に来て、自分が生まれ育った世界とは桁違いに進んだ文明を見聞きし、確かに驚きもした。一度など、洗脳されたあげく全くの別人を演じさせられたことだってある。しかし、これほどに、心底余裕無く驚かされたのは、リィとウォルが再会する前は無かった気がする。
 分かっていたことだ。全く無害な薬品が、混ざり合うことで致死性のガスを放つことがあるように、この二人の個性は混ぜ合わせることでその劇薬度合いが飛躍的に増加するのだと。
 朱に交わって赤くなる、とは良く言う諺であるが、この二人の場合、朱が染め合って真っ赤になっているに違いない。
 二人だけでじゃれ合っている分には構わないが、自分のように人畜無害な人間にはできるだけ心臓に優しい毎日を与えてくれるよう、誰よりも真っ赤に染まっている自覚のないシェラは、神様に祈りを捧げた。
 そんないじましい銀髪の少年の目の前で、またしても痴話喧嘩が――夫婦漫才とも呼ぶ――が繰り広げられていた。

「ウォル!お前、前も言ったけどな、こういう夫婦の間だけの秘密を人前でぽんぽん話すんじゃない!こんなことが学校で知れてみろ、おれ達はそのまま珍獣扱いだぞ!」
「しかしだな、これはお互いの剣にかけた、崇高な誓いだろう?ならば衆目の知るところになったとして、別に恥じるところがあるとは思えんが」
「それとこれとは別問題だ!だいたい、おれはあんな馬鹿げた約束、剣に誓った覚えなんてないぞ!ああ、そうだとも、それこそ剣にかけて誓ってやるさ!」
「おや、それはおかしいな。俺は確かに、剣と戦士としての魂にかけて俺を妻に娶ると、そう誓ってもらった気がするのだが……うーん、歳を取ると耄碌していかんな」
「この性悪女!都合のいいときだけぼけたふりをするんじゃない!」
「冗談だ、そう怒るな、我が夫」

 全身の毛を逆立てんばかりのリィであるが、隣に座ったウォルはどこ吹く風である。これも、培ってきた人生経験の差であろうか。
 しかし、時が変われば立場も変わり、被告人席に座って弾劾を受けるのはウォルになったりするわけで、結局は似た者同士と、そういう結論に落ち着くのだろう。
 ぎゃあぎゃあとうるさい二人を前にして、シェラに背中をさすられて何とか人心地を取り戻したルウが、涙を指で拭い取りながら口を開いた。

「ごほっ、けほっ。……あ、あのさ、エディ、ウォル。一体どういうことかな?シェラじゃなくても聞きたいと思うんだけど」
「……もう、本当にくだらないというか阿呆くさいというか……。どうやらおれとこいつは、こちらの世界でも夫婦にならざるを得ないらしくてさ」
「折角、リィと同じ生き物の身体になったのだからな。誰かと番わねばならないなら、選ぶのはこいつ以外あり得ん。それを伝えただけだ」
「で、でも、既にお二人ともオーリゴ神の前で誓いを交わされているのでは……?それに、妻とは……?」

 シェラは、この世界のものではない神の名を口にした。
 果たしてあれを結婚式と呼んでいいのかどうかは別として、形式上は確かに夫婦であった二人である。何を今更といえば何を今更なわけだが、しかしそれはウォルが夫として、そしてリィが妻としてのことだ。
 ならば、ウォルが妻となるということは……。ようやく頭が回転してきたシェラは、その事実の恐ろしさに身震いしかけた。
 そんな少年の前で、一応はその主であるらしいリィは、胡散臭そうに横に座った少女を指さした。それも、視線すら寄越さずに、親指でだ。

「こいつの物好きもここに極まれり、だ。どうやらこいつは、女としておれと夫婦に――要するにおれの妻になりたいらしいんだ」
「うむ、その通りだ。前は男として、誰にも恥じることのない一生を全うしたからな。今度は心機一転、女としての一生を送る覚悟を決めたわけだ」

 どうだまいったかとばかりに胸を反らしたウォルである。
 シェラは、果たして幾度目か知れないが、やはりげんなりとして肩を落とした。だが、その隣に座った青年は、夜空の星々もかくやという程に目を輝かせている。

「じゃ、じゃあさ、王様はエディのお嫁さんになってくれるの!?」
「そのとおりだ。そしてこいつもそれを快く受けてくれたぞ」
「あくまで仕方が無く、しぶしぶと、だぞ、ルーファ」
「うわぁい!」

 ルウは突然に立ち上がり、テーブル越しにウォルの華奢な身体をひょいと持ち上げ、思いっきりに抱き締めた。
 
「やった!うれしい!うれしいね!おめでたいね!」
「こらこら、ルウどの。前は王妃の間男だったあなたが、今度は俺の間男になるつもりか?」
「そうでも構わない!だって、こんなに嬉しいんだもの!」

 ルウは、ウォルの顔に思い切り頬ずりをした後で、唇の雨を降らせた。
 額に、瞼の上に、頬に、鼻先に、そして唇に。ところ構わず口づけた。それは、となりで見ていたシェラが、幾分はらはらしてしまうほどに熱烈なものだった。
 この喜びようには、流石にウォルも些か辟易とした。

「こら、ルウどの。俺には、男に口づけられて喜ぶ趣味はないぞ。それに、俺の事はウォルと呼んでくれる約束ではなかったのか?」
「あ、ごめんごめん、ついうっかり。熱くなりすぎました」

 ウォルの小さな身体が、やはりひょいと持ち上げられて、もとの席にすとんと落とされる。
 ウォルは、手元に置いてあったナプキンで、ごしごしと顔を拭った。キスされたことは置いておいて、しかし先ほどの残滓としてルウの顔に残っていた涙やらジュースやらは綺麗に拭き取らないとべたべたして仕方がない。
 ほっと一息ついた少女に対して、自分も綺麗に顔を拭ったルウは尋ねた。

「で、で、式はいつ挙げるの?赤ちゃんはいつ生まれるのかな?賑やかなほうがいいから子供はたくさん産んでね?家はどこに買うの?僕も近くに住んでいい?」
「気が早いぞルーファ。おれ達は未成年だから、まだまだ結婚なんて先の話だ。昨日済ませたのは、あくまでただの婚約だよ」

 この二人の間で交わされる言葉の中に、たったの一つだって『ただの』で括られるものが無いことを知り抜いているシェラは、なんとも懐疑的な視線でリィをじろりと見たのだが、当のリィは素知らぬふうであった。
 そしてルウは、リィの言葉に若干不満げであった。若干唇を尖らせながら言った。

「なんだ、そんなつまらないこと。何なら、あの人に電話して頼んでみたら?未成年でも、中学生同士でも結婚できるように、法律を改正して下さいって」

 あの人とは、おそらくはこの宇宙で一番忙しい政治家である、あの人である。
 ウォルは、自分との短い会談の中で、枯死するのではないかというほどに冷や汗を流していたマヌエル・シルベスタン三世の、老け込んだ顔を思い出していた。

「いや、ルウどの。かの人にそんな無理難題を持ち込んでは、法律が改正される前に過労と心労で倒れかねんぞ」
「いいじゃないか、別に。あの絵の時だって、とことん頼りにならなかったんだし。今度くらいは役に立ってもらおうよ」

 自分の愛する人達以外のことでは、やや冷淡にもなるルウである。しかしこれが彼の本心ではないことを三人とも理解しているから、なんとも微妙な笑みを浮かべるに止めた。

「その気持は嬉しいのだがな、ルウどの。俺はあまり急がれても困るのだ。気持の整理とか腹をくくって覚悟を決めるとか、そういうことには思ったより時間がかかるらしくてな」
「どういうこと?」

 ルウは可愛らしく小首を傾げた。
 リィは、小馬鹿にしたような笑みを浮かべながら、再び自分の夫――そしてどうやら将来の妻のほうを指さして、言った。

「こいつ、おれにプロポーズをしておいて、でも抱かれる勇気は無いんだとさ」

 悪戯気な言葉に、むっとした調子でウォルが応じる。

「おい、その言い方は酷いな。俺がまだお前に抱かれたくないと言ったのは、臆病からではなく気持の踏ん切りの問題だ。リィ、お前の言い方では、まるで俺が初夜に怯える花嫁のようではないか」

 とても、その少女の愛らしい唇から飛び出したとは思えない言葉であった。
 リィは、アペリティフとして出されたシェリー酒の残りを自分のグラスに注ぎ、まるで水のように乾かした。事実、この大蟒蛇には、この程度では全く水と変わるところがないのだが。

「似たようなものだ。だって、夫婦の契りは結びたいのに同じベッドに入るのは怖いなんて、そのまんま初々しい乙女の気持ちじゃないか。世間ではそれを、勇気がないとか臆病だとか言うんだぜ」
「全く違う。それはただ、男に身を委ねるのが恐ろしいからだろうが。俺はな、男に抱かれるのが、想像するだけで気色悪いのだ。それが例えリィ、お前であってもな。第一、あちらの世界のお前だって、どうしたって男に抱かれるのを嫌がったではないか。似たようなものだろう」
「いーや、一番根本的なところで違うね。おれは、おれから男に抱かれたいと思ったことなんて一度もないんだ。それがお前は、おれに抱かれたいのに抱かれるのが怖いときている。これはどう考えたって臆病者の仕儀だぜ」
「この、言わせておけば……!」

 少女の声に険が篭もったので、ルウもシェラも慌てたように腰を上げかけた。
 そんな二人の目の前で、いっそ勇壮な様子で立ち上がったウォルは、寝間着代わりに来ていた薄手のスウェットを脱ぎ捨てた。
 
「決闘だ、リィ!今から、俺が臆病者かそうでないか、思い知らせてやる!寝室で待っていろ、今から身を清めてくるから!」

 下着姿で言い放ったウォルは、今度はその下着を脱ぎ捨てようとした。
 これは、シェラが飛びついて止めさせた。

「陛下!誰がどう聞き違えても、それは決闘ではありません!」
「放せシェラ!ここまで侮辱されて、男として黙っていられるか!」
「今のあなたも、誰がどう見間違えても男には見えませんから、御自重下さい!」

 必死に暴れるウォルを、こちらも必死に後ろから羽交い締めにするシェラである。
 聞き苦しいわめき声と、勇ましい少女の表情にさえ眼を瞑るならば、それは卑劣な男がか弱い少女を襲っている現場に見えないこともないはずなのだが、やはりどこからどうみてもそうは見えない。精々、やんちゃな妹に手を焼くお兄ちゃんといった有様だ。
 リィはそんな二人を意図的に視界から外して、溜息を一つ漏らしながらルウの方に向き直った。

「あのさ、ルーファ。お祝いをしてくれるのは素直に嬉しいけど、あまり先走らないで欲しいとも思うんだ。昨日も言ったけど、こういうことはできるだけそっとしておいて欲しい。駄目かな?」
 
 寧ろ許しを乞うような視線で、リィは言った。
 ルウは、少しだけ驚いた表情になり、それから優しく首を横に振った。

「ううん、僕の方こそごめん、昨日だってあんなに怒られたのにね。でも、やっぱり嬉しくって。だって、僕の一番大切な人が、その人のことを一番愛してくれる人を見つけたんだもの。これが嬉しくないはずがないでしょう?」
「ま、それもそうだな」
「だから、早く赤ちゃんの顔、見せてね。それとも、可愛い赤ちゃんを優しく抱き上げるエディの顔、なのかな?」

 なんともこの人らしい言い分に、リィも苦笑するしかない。
 
「どけー、シェラー!俺は、俺は男としてリィに一矢報いねば、死んでも死にきれぬ!」
「それが、これから夫と寝所を共にするご婦人の台詞ですか!落ち着いて、今の自分を見つめ直してからそういうことはして下さい!」 
「はーなーせー!」
「でも、肝心の花嫁がこれじゃあなぁ……」
「うーん……」

 リィとルウは、ほとんど同時に溜息を吐いた。確かに、どれほど美しく魅力があるといっても、今のウォルのように色気の『い』の字もないような女性を果たして抱くことができるのか、リィにとっても前途は多難なようだった。
 難しい顔をして悩んでいたリィは、何かを閃いたような晴れやかな顔でシェラに言った。

「そうだ、シェラ。お前、女らしさってやつをウォルに叩き込んでやってくれないか?そうすれば万事上手くいくと思うんだけど」
「あ、それは名案だね!流石エディ!」
「あの、私のことを少しでも憐れと思うなら、どうかそれだけは勘弁して下さい……」

 俯せの姿勢で床に転がったまま暴れ狂う少女を、まるで荒馬に跨る若武者が如く馬乗りの姿勢でやっと制した少年は、疲労と諦念を込めた恨めしげな声を発した。



 日が高くなってから、四人は山小屋の目の前に広がる、広大な湖で泳ぎを楽しんだ。
 自分達以外の人目を気にする必要が無いから、四人とも裸である。シェラなどは、せめてウォルには水着を着て欲しいと懇願したのだが、先ほどの恨みも含めたところで、すげなく断られてしまったのだ。
 結局、あちらの世界で水浴びを楽しんだときの様子そのままに楽しげに泳ぐウォルとリィ、二人の様子を優しく見守るルウ、そして赤く染めた頬を明後日の方向へと向けるシェラという構図が出来上がり、今に至るわけだ。
 
「あー、疲れたぁ……」
「そうか?まだまだ俺は泳げるが?」
「わかったよ、ウォル。確かにお前はスーシャの河童だ。いつだってエラ呼吸を始めてくれ」

 リィが、珍しく疲労に満ちた声を出した。
 彼だって、別段泳ぎが苦手なわけではない。本職の競泳選手が相手ならいざ知らず、例えば身の程知らずなサッカー選手が相手ならば、50メートルコースのプールで周回遅れにぶっちぎる程度には早く泳ぐことができる。
 しかし、ものには限度というものがあるだろう。
 遙か広大な湖、その端から端まで泳いで競争をしようと誘われた時は、流石のリィも、己の夫の正気を疑ったものだ。何せ、リィのずば抜けた視力をもってしても、対岸は霞むほど遙か向こうにあるのだから。
 リィも必死に泳いだ。しかし、スーシャの湖で、半日どころか一日中泳いでいたというウォルの泳ぎと底なしの体力には、流石に付き合いきれなかったらしい。ギブアップこそしなかったものの、ウォルよりずいぶん遅れて元の場所に戻る羽目になってしまった。

「おい、ウォル。次は山駆けで勝負だ。今度こそ負けないからな」

 種目を問わず勝負事には結構こだわるリィであったから、いくら相手が自分の夫であったとしても、勝ち逃げされるのは業腹であった。
 ウォルは満面の笑みを浮かべて、言った。

「おうよ、望むところだ……と、言いたいのだがな。勝負は午後に預けさせて貰ってもいいか?」
「午後に?別に構わないが……どうかしたのか?」
「いやなに、少し確かめたいことがあってな」

 それは、この少女には珍しく、どうにもはっきりとしない口調だった。
 まるで何かを隠しているような、奥歯の間にものが詰まったような、もどかしい感じだ。
 リィも、少しだけ怪訝に思ったが、しかし別に問い質すほどのことでもないと思い、口に出しては何も言わなかった。
 そんなリィを尻目に、ウォルはざばりと岸に上がり、タオルで水気を拭ってからいそいそと服を着た。
 
「……どこか行くのか?」
「心配しなくても昼食までには戻る」
「お前のことだから別に心配なんてしないけど……一応、身を守るものくらいは持って行けよ?」
「ああ、わかっているさ」

 ウォルは、リィを安心させるように、手に持ったものを高々と掲げた。それは薪割りなどで使う小型の鉈だったが、この少女が使えば、そこらの騎士はもちろんのこと、狼や熊であっても十分に太刀打ちできるだろう。
 
「じゃあ、行ってくるよ、リィ」

 片手を上げて走り去る少女を、リィは湖に浮かんだまま見送った。
 しかし、リィの瞳からは、普段の彼の瞳が持つ鮮烈なまでの輝きが失われ、靄のようなものがかかっているように見えた。
 そんな彼の背後で、盛大な水音が巻き起こった。
 そこに誰がいるかなど分かりきっていたから、リィは振り返らなかった。

「心配なら、一緒に行ってきたら?将来の奥さんなんだから、大事にしてあげなくちゃ」
「おれはあいつの母親じゃないんだ。いつもべったり付き合ってやる必要なんてないさ」
「なら、どうしてそんな顔をしてるの?」

 リィは答えられなかった。ただ、胸の奥にわき起こる嫌な感じ――虫の知らせとでも呼ぶかも知れない、締め付けられるような悪寒と戦っていた。

 そして、それは的中した。

 昼食の時間が過ぎ、日が傾く時間になっても、ついにウォルは山小屋に戻らなかったのだ。



[6349] 第二十五話:紅の魔女と赤い小石
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/07/27 00:53
 月のない夜空であった。そして、星のない夜空であった。
 雲が、覆い隠しているわけではない。ただ、地上に輝くネオンの群れが、天上の灯りを押し返しているだけの話である。
 その男は窓際に立ち、眼下に広がる灰色の海を見下ろしていた。
 無機質に整った立方体の木々、その足下にはアスファルトで覆われた、雨水を通さない大地が広がっている。その上を我が物顔に闊歩するのは、四つ足ならぬ四輪の獣たちだ。彼らの鋭い眼光が――ヘッドライトの灯りが整然と並び、無数の多足類が行進しているように、何ともおぞましく見える。

 ――馬鹿馬鹿しい。

 くつろいだ部屋着姿の男は、自らの安い感慨に呆れたように溜息を吐き出した。
 全く、いつから自分はこんな人間になったのだろうか。
 自分は、それほど上等な人間じゃあない。
 ならば、こんな高いところが人を見下ろせば、人が見えなくなって当然だ。
 だからこそ、権力者は高見に居を構えたがるのだと思った。高いところにいれば、低きの雑踏は届かない。悲鳴も、阿鼻叫喚も、嗚咽を垂れ流して懇願する声も。
 そうでなくては生きていけないのだろう。泣き叫ぶ隣人を見捨てられるほどに人は強くはなく、しかしそれを切り捨てられなければ権力者としては生きていけない。
 詰まるところ、人は視力が弱すぎる。たったこれだけの距離で、全てを覆い隠してしまえる程に。
 だからこそ、男はもっと高いところが好きだった。
 地表よりも高く、高層ビルの屋上よりも高く、対流圏よりも成層圏よりも中間圏よりも熱圏よりも、この星よりもなお高く。
 あそこはゆりかごだ。あらゆる懊悩が、煩悩が、あの場所では一握りの意味も持たない。
 宇宙船の、薄っぺらな外殻の外に広がる、無限の死の世界。あそこでは、どう足掻いたところで人は生きることが許されない。人が生きられるのは、宇宙に散点する、それ自体の大きさに比べれば泣けるほどに小さな小石の表面だけ。そして、その小石の上ですら人はおっかなびっくり生きるしかない。
 ならば、どこにいようと同じことだ。そして、どうせどこかで生きなければならないなら、できるだけ煩わしいものは少ない方がいい。そうに決まっている。
 だから、男は宇宙が好きだった。愛している、と表現しても過分ではない。
 しかし、人が生きるということは、煩わしいを溜め込む作業と同義だ。人は生きる度に、煩わしいを背負い込んで、段々と身動きが取れなくなっていく。
 男は、できるだけ何も背負わずに生きてきた。生きてきたつもりだった。
 そして、死んだ。
 衆目の知るところである彼の華々しい生涯――そして衆目の知らないところの彼の苛烈な生涯――には些か相応しく無い、凡庸とした死に様であった。
 彼は、それで満足していた。人が死ぬということは所詮そういうことだ。それ以上ではない。
 なのに……なのに、何の因果か彼は再び生を得て。
 ほとんどの煩わしいから解放されたはずの彼の肩には、極めつけに重たい煩わしいが残っていた。それも、二つも。
 もういい加減にしてくれ、と思う自分がいる。反面、その重量を心地よく、何物にも代え難いと思ってしまう自分がいる。
 果たしてどちらが本当かとはあまりに惚けた質問だろう。そこまでは耄碌しちゃあいないさと、男はたった一人で毒づく。
 にやりと、他人が見れば背筋が冷たくなるような笑みを浮かべた男に、呆れたような声が飛んできた。

「どうした、海賊。思い出し笑いか。気持ち悪いぞ」

 にべもない、とは正しくその言葉のことを指すのだろう。
 それは、一度死んでも剥がれてくれなかった煩わしいのうち――彼が愛した二人の女のうち、生身の身体を持つ方の女の声だった。
 男は視線を部屋の中に戻す。
 清潔で手入れの行き届いた室内。スイートではないものの、十分に広々としたデラックス・ダブルだ。予約も無しの飛び入りで借りたのだから、中々の部屋が取れたと満足していた。
 男は王侯貴族ではなかったから、別に自分が泊まる部屋のランクに拘りがあったわけではない。たった一人で眠るなら、木賃宿の安ベッドであろうが地下道の固いコンクリートの上であろうが、彼は満足に眠ることができる。それは、つい今し方、男のことを海賊呼ばわりした女も同じことだろう。
 だが、女と一緒に、連れ合いと一緒に眠る夜なのだから、できるだけ豪勢なベッドが良い。それこそ天蓋付の、王族が眠るようなふかふかベッドが最高だ。
 要するに、見栄である。
 女の前では見栄を張りたい。張らなければならない。だからこそ男には生きる価値が生まれるし、生きる意味も生まれるというものだろう。女の前で見栄の一つも張れなくなったとき、それは男を失業したときに他ならない。
 そして、彼が見栄を張るべき女は、男用のガウンで包んだその大柄な身体を、柔らかなソファに埋めて男の方を眺めていた。シャワーを浴びた直後なのだろうか、豊かな赤毛が僅かに湿り気を帯び、普段よりも幾分柔らかそうに見える。
 男は、自らの妻の艶姿を、それとも雄姿を眺めながら、諦めたように呟いた。

「男が七十年も生きてりゃあ、愉快な思い出の一つもあるさ。思わず笑っちまうようなへまだってある。それを思い出せば、笑いの一つも零れるもんだ」
「別に、思い出し笑いがいけないとは言っていないぞ。ただ、窓の外を眺めながらにやにやしていると、覗き魔と間違われるだろう。私は、そんな情け無い疑いを夫にかけられて、平然としている自信が無いんだ」

 男は――ケリーは、肩を竦めた。
 確かに、彼の人生で覗き魔と『疑われた』ことはない。強姦魔として疑われたことは、もちろんのこと疑い以上のものではなかったとしても、あったりするのだが。

「いいじゃねえか、覗きの一つや二つ。相手に気取られて泣かせるようなへぼ・・は問題外だが、こっそりと拝む分には許容の範囲内だ。特に、厳重な警戒態勢にある女風呂を決死の覚悟で覗く勇者なんて、俺は騎士十字勲章もんだと思うがね」

 女は――ジャスミンは、じとりと厳しい視線を、自分の夫に向けた。

「その意見の是非は置いておいて、まるで自分を褒め称えるような口振りだな。まさか海賊、お前はその勇者とやらになったことがあるのか?」
「さて、どうだろうな。もうだいぶ忘れちまったが、遠い昔にあったかも知れねえな」

 遠い、遠い昔のこと。男と女が出会うよりも、遙か昔。
 男が少年で、まだ女の身体の温もりも知らず、遠距離狙撃ライフルの冷たい銃把を抱きかかえて眠っていた遠い昔。淡い恋心を抱いた少女の湯浴み姿を覗き見るために、最前線の塹壕から頭を出すよりも、少年は勇気を振り絞ったかも知れない。
 果たして、勇者は功を成し遂げたのだろうか。少女の裸体の美しさを網膜に焼き付けたのか、それとも勘の鋭い少女に感付かれ、いつものように盛大にからかわれたのか。その少女の胸元では、彼が送った玩具の指輪が安っぽい輝きを湛えていたに違いない。
 ケリーは、胸の奥に仕舞い込んでいた思い出を宝物のように愛撫してから、こっそりと元に戻して厳重に封をした。ひょっとしたら死ぬまで開けることは無いかも知れない。
 思い出なんてそんなものだ。
 ただ、ケリーは、片頬だけを歪めて微笑んでいた。苦笑というには邪気がなく、冷笑と呼ぶには暖かすぎて、微笑と名付けるにはほろ苦い。一言で言えば、この上なく謎めいた、そういう男が好きな女が見れば、一撃でコロリといってしまうような笑みだ。
 ジャスミンなどには、ケリーの端正な顔の上に浮いたそれが、彼の幼年期における数少ない幸福の、最も大事なところを愛でている表情に思えてならなかった。
 
「しかし女王よ。俺も結構長生きしてるほうだとは思うがな、女に気持ち悪いと言われたのは初めてだぜ」

 ケリーは、今度こそ微笑みながら言った。
 そしてジャスミンも平然と答えた。

「当たり前だ。私以外にお前のことを気持ち悪いと言う女がいたら草の根を分けてでも見つけ出して会いに行くぞ」

 その言葉に、ケリーはぽかんと目を丸くしてから、訝しげな声で言った。

「見つけて、その後はどうするんだ?まさか折檻するとか名誉毀損で訴えるとか、そんな物騒なことは言わねえよな?」

 おそるおそる、といった調子の声だった。
 いわゆる一般論としてであるが、夫が侮辱されたから妻がこめかみに青筋を立てながらその意趣返しをする、広い宇宙であるからそういう夫婦は現実に存在する。クーア・カンパニーの中でも、例えばセクハラで解雇された夫の無実を証明するため(少なくとも本人はそう確信していたそうだ)、会社の営業部に一日千単位の悪戯電話をかけて、業務妨害で告発された妻というのも存在した。
 愛は人を狂わすというが、それは比喩ではなく事実であることをケリーは知っていた。しかし、この世の女性の全てが愛に狂ったとして、少なくとも一人はその抗体ないし免疫を持っていると確信していたから、彼は内心で神の名を呟いたりした。
 そんな夫の前で、妻は平然と答えた。

「当たり前だ。私は暴力が嫌いだし、もめ事だって大嫌いなんだ。そんなことをして、一体何になる。それよりも、そんな貴重な女性がいるならば、同じ女として、是非一度話をしてみたい。こんなにいい男のどこがどう気持ち悪いのか、酒でも酌み交わしながら一晩は語り合いたいと思うぞ」

 これが、例えば同じベッドの中で汗を流した後に、唇を耳に寄せながら睦言の一つとして語られたなら、愛いやつよと頭の一つでも撫でてやりたくなるかも知れない。だが、まったくのしらふで、しかも大の男でも尻込みするほどの鋭い眼光を向けられながら言われたのでは、千年の恋も冷めようというものだろう。
 無論、それも普通の男であれば、だが。
 そして、どこからどう見ても普通の男ではない――体格も、容貌も、そしてその経歴も――ケリーは、

「……ま、褒め言葉と受け取っておくさ。しかし女王よ、俺の聞き違いかい?さっき、あんた暴力が嫌いとかどうとか……」

 会話の本旨からは少しずれるが、どうにも聞き逃せない一言であった。
 ジャスミンは、やはり平然と答えた。

「大嫌いだぞ、暴力は、そも暴力とは、合法性や正当性を欠いて振るわれる物理的な強制力のことだろう。例えば王様が、無聊を慰めるためだけに奴隷を嬲るような。そんなもの、想像しただけで怖気が走る」

 確かに、ジャスミンは不当な暴力を極端に嫌う。彼女がその卓越した腕力を振るうのは、基本的には最終手段である。彼女は、少なくとも彼女の主観として、精一杯に粘り強く交渉して、相手を宥め賺して、それでも埒が明かないときに、その埒をこじ開けてやる手段の一つとして腕力にものを言わせるだけなのだ。
 ただ問題は、埒を開けるために腕力を振るう回数が常人よりもちょっぴり多くて、その被害の範囲と状況が、やはり常人のそれよりもほんのちょっぴり悲惨なものになることが多いと、それだけの話だ。
 と、赤毛の雌虎は思っている。
 ケリーは、苦笑を浮かべながらその意見を是とした。どう考えても、この女の言っていることは正しい。

「なるほど、そういう意味ではあんたと暴力は正反対にある。磁石の同極同士だって、もう少しは仲良しだろうさ」

 ジャスミンは、当然のことを言うなとばかりに胸を反らし、機嫌を損ねたように鼻息を吐き出した。
 そして、サイドテーブルに置いた空のグラスに琥珀色の液体を注ぎ、一息で飲み干した。
すると、彼女の、少しだけ不機嫌だった顔が柔らかに綻んだ。

「良い酒だ」
「俺も一杯貰えるかい?」

 ジャスミンはサイドボードからもう一つグラスを取り出した。
 飲み方は、尋ねなかった。水割り用の水も氷も用意していなかったし、ケリーもジャスミンも、良い酒をわざわざ水で薄めて飲むほど勿体ないことはないと常々思っているからである。
 とくとくと、いつまでも聞いていたくなるような耳に優しい音が、広い室内を満たす。
 彼らの規格からすれば手のひらサイズよりも更に一回り小さなグラスに、ウイスキーが満ちていく。
 ほとんど擦り切り一杯、表面張力が最初の一滴を溢すまいと必死に頑張っているような頃合いで、ジャスミンは酒を注ぐのを止めた。
 
「ありがとよ」

 そのグラスを横からひょいと手に取ったケリーは、一滴も溢すことなく口元まで運び、やはり一息で飲み干した。
 既に半分ほども空いているウイスキーの瓶に張られたラベルは、酒のことに詳しい人間ならば軽く目を見張るほどに有名で、そして高級な品種のものだった。
 二人はそれを、水か何かと勘違いしているように、呆気なく飲んでいく。この光景を余人が見ればなんと勿体ないと嘆いたかも知れないが、これが彼らなりの酒の嗜み方であったのだから誰に文句を言われる筋合いもない。
 しばらく二人は他愛無い会話を楽しみ、そして酒を楽しんだ。
 やがて、酒の魔力と一日の疲れが、心地よい眠気を誘い始めた頃合いであろうか。
 ケリーは、テーブルの上に置かれた一欠片の小石に目をやった。

「何か、分かったか?」

 主語も目的語も省かれた問いであったが、それが何を指しているかは明白である。
 ジャスミンは、ケリーの視線の突き刺さった小石を手に取り弄びながら、もう片方の腕を隣に腰掛けた夫の肩に回した。
 ジャスミンは身長191㎝とそれに相応しい体重を誇る、大柄な男でも見上げるほどに大きな女性だ。その彼女をして、夫であるケリーは更に一回りでかい。
 まったく、彼女が肩に手を回して自分より高いところに肩のある男性が、そしてこれほどにいい男が、宇宙に二人といるはずがないことを彼女は知っていた。自身で語っていたことだが、ジャスミンは自分の男を見る目が、宇宙で一番優れていることを知っていたのだ。

「そうだな……。私も一つ聞きたいと思っていたところだが、海賊よ。お前は、1トンの岩石に200グラムのトリジウムが含まれている鉱山というのを聞いたことがあるか?」
「……なんだって?」

 ケリーは、耳を疑った。
 ジャスミンなりのジョークかとも思ったが、この女はそれ程にジョークが下手なわけでもない。吐くにしても、もう少しマシな冗談を吐くはずだ。
 次に、彼は、自分の隣に座った女性が酔っているのかとも思ったが、その横顔は僅かに朱が刺した程度だ。だいたい、この程度の酒で頭の回転が鈍るほどにかわいげのある女じゃあない。
 最後に、彼は溜息を吐き出した。どうやら女がいたってまともで、そして真剣なのだと悟ったからだ。
 そして、頭を横に振りながら、言った。

「いや、寡聞にして聞いたことがねえな」

 ケリーの言葉を聞いてから、ジャスミンは再び問うた。

「では、お前の持っている鉱山はどうだ?」

 既に過去の話として忘れ去られつつあることだが、宇宙に数多いる海賊達の頂点に立つと言われた男――海賊王は、彼しか知らない秘密のトリジウム鉱山を隠し持っていた、という伝説がある。それは、宇宙を生活の場とする男達の間では、今だってまことしやかに囁かれている伝説である。
 その噂が完全な事実であることを、この夫婦は知っている。ジャスミンは間接的に、そしてケリーはもっとも直接的に、だ。
 ジャスミンとケリーとの間でその鉱山のことが話に昇ったのは、彼らが出会って最初の頃の数回だけで、それ以降は二人ともがその話をしたことはない。別に、腫れ物に触れるように気を使っていたのではない。その必要が全く無かったからだ。
 ケリーは、その鉱山の場所を無理矢理秘密にしていたわけではない。とりたてて喚き散らして格好良い話でもなかったし、そうする理由も無かったから誰にも話さなかっただけのことである。何故なら鉱山があるのは、その場所を知ったとしても誰も辿り着くことのできない場所なのだから。四十年前は、そこに至る『門』の特殊性から。そしてショウドライブの隆盛を極める今となっては、もっと単純にその距離から。
 付け加えて言うと、軍や警察などの公的機関にひた隠しにしていたのは、ただ単に嫌がらせの一環である。
 ジャスミンは、そういうものは一番最初に見つけた者の持ち物だと思っていたから、例えば『そんな貴重なものを独り占めするなど全人類の損失だ!』とかいうふうに青筋を立てて叫ぶこともなかったし、妻としての権利を居丈高に主張して、その半分を寄越せということも無かった。ただ、必要があるならウチで買い取るぞと、その程度のことは言ったかも知れないが。
 そしてこれが一番重要なことであるが――この二人は、ついこないだまで、そんな重要なことをすっかり忘れていたのだ。片や一度死んで生き返った『ゾンビ組』の一人、片や四十年の長きに渡り眠り続けた眠り姫である。そんな『些末事』に意識が向かなかったとしてむしろ当然なのかも知れない。
 だが、ついこないだに、海賊王の財宝を巡ってささやかな事件が一つあり、嫌が応にも二人はそのことを思い出したのだ。
 まったく、これだから煩わしいは少ないに限ると、内心で毒づいたケリーは、自分の鉱山のことを思い出しながら答えた。

「さてな。あれは例外中の例外だから他と比べるても意味がないと思うぜ。なにせあの星におけるトリジウムは、他の星でいうところの石ころと同じくらいの希少価値しかないんだからな」

 確かに、地表全てがトリジウムで出来ているという岩石惑星を基準にしては、他のトリジウム鉱山を有する惑星も立つ瀬がないというものだろう。
 そういった極々少数の例外を除いて言えば、トリジウムは『魔法の金属』とまで呼ばれる希少金属であり、特にエネルギー関連において、その価値は計り知れない。この場合のエネルギー関連というのは、主に宇宙開発部門におけるエネルギー関連のことであり、その貴重な資源のほとんどが宇宙船や宇宙ステーション等の動力源に使われる。
 そして、この広い宇宙でも事業として採算が取れるほどに優良なトリジウム鉱山は数える程しかない上に、その含有量においては『1トンの岩石中に20グラムが含まれていれば最優良鉱山』と言われるほどに希少なものなのだ。
 ジャスミンが人工的な眠りについている間に、当然のことながらいくつかのトリジウム鉱山が発見されたものの、それとほぼ同数の鉱山が資源の枯渇による廃鉱に追い込まれていることから、全体的な採掘量は四十年前とほぼ横ばいである。そのような状況であるから、海賊王の財宝に目の色を変える愚か者というのは、意外なほどに数多い。そして、その埋蔵量と含有量のことを正確に知れば、その数は激増するだろう。
 そんな夢のような惑星には及ばずとも、ジャスミンの口にした数字は平均値の10倍である。しかも、密輸組織が関わっているところを見るに、ケリーのような特殊技術を持つ者のみがたどり着ける所にある星というわけでもないらしい。
 これがどれほど重大なことなのか、自らが望むことではなかったとはいえ、一時は経済界の最重鎮たる地位にいたケリーは十分に理解していた。

「女王。まさかその石がそうだっていうのか?」

 ケリーは、ジャスミンが手にした赤い小石を、睨みつけるようにして言った。
 ジャスミンは、重々しく頷いた。

「この世のどこに、そんな、夢のようなトリジウム鉱山が転がってもらっていても構わない。ただ、我々には迷惑のかからないよう、できるだけひっそりと、こっそりと転がっていて欲しかったものだ」
「全く同感だ」

 当然のことながら、研究者が発狂しかねないほどの高純度にトリジウムを含んだその小石を、ジャスミンは道ばたで拾ったわけではない。
 半年ほども前、彼らの孫であるジェームスと、その学友であるリィやシェラなどが巻き込まれたある事件、その証拠物件として回収されたトリジウム原石を、気付かれない程度に拝借したものである。
 その『ある事件』は、既に解決されて久しい。結論から言えば、ジェームスやリィ達からすれば、全くのとばっちりを受けたと言っていい傍迷惑な事件であった。ただ、たった一人の犠牲者も出すことなく解決できたことは関係者達にとって唯一僥倖と呼べるものだっただろう。与論として、一人の生徒が連邦大学を去ることになり、辺境惑星の政治家が一人辞任に追い込まれたものの、それらはやはり関係者にしてみれば些末事でしかなかった。
 ただ、一連の事件の首謀者ですら予想しなかったところで、この事件は思わぬ展開を見せた。連邦大学の学生達が遭難した未登録惑星に、トリジウム密輸組織の中継基地が存在したのだ。
 事件に巻き込まれたかたちのリィとジェームスは、彼らの意図とは完全に沿わぬかたちでそのアジトにおいて組織の末端構成員と抗戦するこことなり、ジェームスを庇ったリィは思わぬ手傷を負って、あわや二度と走ることのできない身体になるところだった。
 その後、基地からの通信によって彼らの居場所を知り、即座に駆けつけたルウ、ケリー、ジャスミンとダイアナの活躍によりその基地は壊滅、リィとジェームスも助け出された。
 表向きは、マクスウェル運送のダン・マクスウェルがその英雄的行為によって解決したとされている、事件の真相はそれであった。
 だが、少なくともケリーとジャスミンの間においては、事件はまだ解決していない。
 なぜなら、そのトリジウム密輸組織そのものの本格的な摘発が、未だ成されていないからである。
 連邦大学の学生の救出とともに摘発された密輸トリジウムの量は、まさしく驚くべきものだった。さして大きくない倉庫に積まれた未精製トリジウム原石だけで、名だたる大会社を一つ買収してお釣りが来るほどのものだったのだ。政府関係者の間では、生徒達全員が無事に救出されたというニュースよりも、そちらのほうを重要視する声が大きかったとして寧ろ当然だろう。
 徹底した調査が行われたのは言うまでもない。ケリーやジャスミンのような変わり者を除いて、トリジウム鉱山は人類の宝である、というのが一般的な共通認識と呼べるものなのだから、軍や警察は文字通り血眼になって関係組織と、密輸トリジウムの採掘鉱山の摘発に乗り出した。
 関係者の尋問も、ブレインシェイカーの使用も含めたところで、徹底的に行われた。逮捕された末端構成員への尋問は特に苛烈を極め、拷問の一歩手前であったとさえ言われている。
 それでも、組織の大本はいまだその尻尾さえ捕まえられていないというのが現状だし、鉱山に至っては影も形も見当たらない。それは、組織における秘密主義が徹底したものであったことの証であり、組織としての熟練度が相当に高いものであることの証だ。
 そして、手詰まり状態にある政府関係筋の間で、まことしやかに囁かれ始めた噂というものが在るという。

「で、お偉方は一体何て言ってるんだ?」

 いい加減にしてくれというふうな口調で、ケリーは言った。
 それに答えるジャスミンの顔こそ見物であった。
 完全に真剣な顔で、しかし彼女に近いしい者が見ればそれと分かる程度に笑いながら、言った。

「真犯人はお前なんだとさ、海賊」
「おれぇ!?」

 がばりとソファから身体を起こしたケリーが、詳しく説明を求めるというふうな顔でジャスミンを凝視した。
 ジャスミンは、豊かな赤毛を掻き上げて、やはりうんざりしたような、そして微量の笑いの成分を含んだ声で説明した。

「あれだけ大規模なトリジウム密輸事件だ。そんじょそこらの木っ端海賊やら小銭に目の色を変える不正役人やらがお膳立てできる仕事じゃないだろう。背後に、相当な大物がいると見るのが当然だ。そして、その大物は、どうやら驚くほどに純度の高いトリジウム鉱山を秘匿している。これでは誰かさんが犯人だと、大声上げて宣伝しているようなものだ。そうは思わんか、海賊王」
「……ひでえ冗談だ」

 額に手を当てながら項垂れたケリーである。
 彼は品行方正に――他人が見ればどう言うか別にして――生きてきたつもりだ。お天道様に顔向けできないような、人に後ろ指さされるような生き方は、一度足りとてしたことがない、と思っている。
 なのに、この仕打ちはどういうことだ。
 自分達の、たった一人の孫であるジェームスと、言葉では語り尽くせぬ程に大きな恩義のある小さな戦士の二人を亡き者にしようとした不貞な輩の首魁が、自分だと疑われているという。しかも、それが相当以上に蓋然性のある話だから性質が悪い。
 もし仮にこんな話が、リィはともかくジェームスあたりの耳にでも入れば、海賊王のイメージは地に落ちるというものだろう。別に、他人が付けた自分の渾名に思い入れのあるケリーではなかったが、仮にも自分の呼び名の一つが孫から忌み嫌われたのではやりきれない。それも、自分以外の責任で、だ。
 そうでなくても、昨今の『海賊』という言葉に含まれるイメージは荒廃を極めている。昔の海賊は、宇宙の男、義賊、何にも縛られない自由といった正のイメージと、犯罪者、ならず者、アウトローといった負のイメージが渾然一体となった、なんとも言葉では表しがたい存在だった。
 男ならば、それをロマンとでも言い表したかも知れないし、女は一笑に付しただろう。
 ケリーは、そんな『海賊』達を心から愛し、自分がその一員であることに、それなりの誇りを持っていた。例え自分が彼らの生業に手を出したことがなかったとして、やはり彼らは同業者であった。
 それが今や、この体たらくである。
 『海賊』とは呼べない海賊達は、船員や乗客を皆殺しにしてその財産を奪う卑劣漢であったし、あるいは人身売買や法外な身代金で身を立てるこすっからいビジネスマンであったし、もしくは禁制の麻薬のけちな運び屋でしかなかった。
 そしてどうやら、ついに自分の名前もそれらの唾棄すべき連中の横に並ぶ羽目になったのかと、ケリーは見たこともない神を呪い殺したくなった。
 そんなケリーに――自分の夫に対して、ジャスミンは優しい慰めの言葉をかけたりしなかった。

「それだけならいい。お前の昔の名前の一つが地に落ちるだけだ」

 ジャスミンは、冷たくそう言い捨てた。
 それを聞いてケリーは、怒髪天の怒りに身を任せ……たりはしなかった。
 唖然とした表情を一瞬だけ浮かべてから、なるほどと頷いたものだ。

「そうだ……そうだな、女王。それだけの話だ。今更に惜しいものでもない。今の俺は海賊王でもケリー・クーアでもない、ただのケリーなんだからな」

 なるほど、この女はやはり自分に似合いだと、ケリーは再認識していた。
 確かに、名前の一つが地に落ちて泥に塗れようと、それがどうだというのか。ケリー・エヴァンスだろうが、ウィノアの亡霊だろうが、義眼の海賊だろうが、海賊王ケリーだろうが、クーア財閥三代目総帥ケリー・クーアだろうが、全てはただの呼び名、呼称に過ぎない。どれにも愛着はあるが、それらはケリーが影響を及ぼすものであり、脱ぎ捨てたとしてもケリー自身に何の影響を及ぼすものではないのだ。
 僅かな気落ちと、直後の精神的再建を果たしたケリーは、真剣な面持ちで呟いた。

「確かに、俺の名前が悪名高くなるのは問題無い。元々聖人君子サマのお名前だったわけでもないしな。ただ、それが原因で、今の時期に海賊王ケリーに注目が集まるのはよろしくないな」
「ああ。まったくもってよろしくない。むしろ最悪だ」

 四十年前、彼らが結婚した直後でさえ、ケリー・フライトという男とケリー・キングという海賊に共通項を見いだす警察関係者は数少なくなかった。彼が逮捕されなかったのは、その配偶者の卓越した情報操作技能と、彼女の社会的な身分によるところが大きい。
 そして、四十年である。
 ケリー・フライトからケリー・クーアになり、世紀の逆シンデレラストーリーを為した男はこの世を去ったが、ここに来て海賊王の名前が再び世に出てきた。
 このことと、ケリーの復活を結びつける者が、果たして皆無だと言えるだろうか。彼の蘇生を知る数少ない人間には、有形無形を問わない圧力をもって悉くの口を塞いでいるが、しかし人の口は存外に軽いものであることを彼は知っている。このような状態で、万が一にも彼の存在が世間に知られてしまえば、功名心や利得心に目の眩んだ三下共が、それこそ目の色を変えて自分達をつけ回すだろう。そうなってしまえばこの気楽な放浪者生活とも別れを告げなければならなくなるし、宇宙を気ままに飛び回ることだってできなくなる。
 そのような事態は、ケリーにとっても、その妻であるジャスミンにとっても、そしてケリーの相棒である彼女にとってもありがたくない話であるはずだった。
 更に言えば、もう一つ、彼らの懸念していることがある。
 それは、今回の事件で相当の痛手を被ったであろう、密輸組織の報復である。
 この事件は、表向きは、ダン・マクスウェルの活躍によって解決したことになっている。
 文明の無い未開の惑星に置き去りにされた無力な子供達を助け出し、トリジウムの密輸に手を染める凶悪な組織のアジトを単身で制圧するという、正しく英雄的行為だ。マスコミが騒がないはずがない。流石に直接的に名前を書くことはなかったが、見る者が見ればそれと分かるような書き方で、ダンの勇気と行動力を褒め称えた。
 当然の如く、ダンの名は一躍ヒーローの代名詞となった。
 それを見て、ケリーもジャスミンも、マスコミの浅慮と視野の狭さに舌打ちを隠せなかった。ダンが潰した――実はリィとルウがほとんどだが――のはあくまで組織の末端、その一部に過ぎない。彼らに指示を下していた蛇の頭はまだ健在だというのに、その功労者の実名を流すのがどれほど危険なことなのか、彼らは分からないとでもいうつもりだろうか。
 ジャスミンは、自身の持つ裏側の力の全てを使って、マスコミに圧力を掛け、加熱した報道合戦を収めさせたが、一度流れた情報を無かったことにするのは人一人を生き返らせるよりも難しい。
 結局彼らに出来ることは、ダンに注意を促すことくらいしかなかったのである。するとダンは、

『犯罪者に恨まれるなど、今更でしょう。今までだって、散々恨まれていますからね、慣れっこです。それに、世間の注目は、出来るだけ僕に集まってくれたほうがありがたい。会社の売上げにも直結しますしね』

 そう笑って応じたが、それは両親を安心させるための方便だろう。
 加えて言うならば、ダンに注目が集まってもらえるとありがたいというのはダンの本意でもあった。無論それは、会社の売上げなどという即物的な観点以外のところで、だ。
 この事件の解決についての実質的な立役者であり、ダンの息子であるジェームスの命の恩人でもあるリィは、その卓越した外見と能力に相応しく無く、誰からも注目されずひっそりと暮らすことを望んでいる。
 もしも彼がこの大事件を解決に導いた英雄であると知れば、マスコミは、ダンを讃えた以上の熱意と弁舌でもって、リィのことを褒めそやすだろう。僅か十三歳の少年、それも映画俳優やモデルが霞んで見える程の美少年が、友人を守りながら悪漢共を単身で制圧した。これほどにマスコミが好むネタなど、政治家の醜聞以外は見当たらない。そこまでいけば、果たしてジャスミンの力でもってしてもマスコミを押さえ込むのは難しくなるに違いない。当然、リィは好奇の目に晒され、『知る権利』のもとにプライバシーを奪われ、動物園の檻に入れられたような生活を強いられることになる。
 それは、リィを含めたところで、誰しもが望むところではなかった。だから、ダンがその役を引き受けたのだ。
 ダンは大人であり、経済界においてもそれなりに名の知られた人物である。ならば、『知る権利』をお題目のように振りかざすマスコミ連中にも立ち向かうことが十分に出来るし、周囲の人間に累を及ぼさずに諍いを収める術も十分に身に付けている。
 それに対して、リィは子供だ。その中に詰まったものを見抜ける数少ない人間は別にして、彼を見る者は、まずその外見で判断する。その時に、リィが如何なる弁舌を駆使しようと、所詮は子供の戯言で片付けられてしまうケースが、今までだって数え切れないほどにあった。それはリィの責任では勿論ないし、リィ以外の者の責任でもないはずだった。
 だからこそリィは、ダンの行動を、自分を庇うためのものであると判断したし、それなりに感謝もした。リィの中でのダンの評価を押し上げる原因にもなった。当然、自分の力の及ぶ範囲ではダンやジェームスの安全を害させないと決意もしている。
 しかし、やはり現在のダンは、決して心安らぐ立場にいるとは言い難い。彼の操るピグマリオンⅡは辺境最速を誇る快速艇であったし対海賊用の武装も積んでいるが、それでもやはり民間船の域を出ないものだ。海賊に襲われたときに万全かと言われればそこまでのものではないと言わざるを得ないだろう。
 それがジャスミンには歯痒いらしい。クインビーのように20センチ砲を積んではどうかと提案もしてみたが、それでは要らぬ疑いを掛けられて商売にならないと、母親のふり・・を見て我がふり・・に思いを馳せたダンは苦笑混じりに答えた。
 ともかく、そういう事情が積み重なって、この規格外れの夫婦は、自由気ままに宇宙を飛び回ることが難しくなっていたりするわけだ。
 ケリーは嘆かわしそうに天井を仰ぎ、遣り切れないふうにぼやいた。

「ったく、そろそろダイアナが騒ぎ出すぞ。いつまでこんな温い宇宙で私はぷかぷか浮いていなけりゃならないのよ、ってな」

 ケリーは、自らの無二の相棒が頬を膨らました様を想像して、口の端を持ち上げた。
 ケリーの心を射止めた女性のうちの、生身の身体を持たない方は、生身の身体を持つ方に負けず劣らずに危険物だ。自分がその相棒に相応しく無いと判断したら、いつだって自分を置いて未知の宇宙に飛び出してしまうだろう。そうなっては、きっとどこかの誰かに特大の迷惑をかけるのは目に見えているので、自分だけは危険物ではないと確信している――もしくは二人に比べればまだマシであると信じている――ケリーは、重たい溜息を吐き出した。
 まったく、こういうときに貧乏くじを引くのはいつだって善良な一般市民なんだぜ、と。

「そうだな。人間だって宇宙船だって武器だって、なんだってそうだ。きちんと整備して、働かすべき時にはきちんと働かしてやらないと、不機嫌になって暴発することがある。ガス抜きは必要だ」

 などと、自分以外の二人の暴発に思いを馳せて、ジャスミンは心を痛めた。
 宇宙生活者であった祖父マックス・クーアの性質を引き継いだジャスミンには、自分の夫と、その相棒であるダイアナの組み合わせが、正しく奇跡の賜だと思っている。他の何物よりも速く、そして巧みに宇宙を飛ぶという命題を持った自立型感応頭脳と、安定度80以下の『門』でも鼻歌交じりに突っ込むような凄腕のゲートジャンパー。この二人がこの無限に広がる宇宙で出会ったなど、神の御業以外の何だというのか。
 だからこそ、この二人を宇宙以外の場所に引き留めるものの存在が、ジャスミンには心底許しがたかったし、暴発した二人のことを考えると頭が痛い。ましてケリーは、自分の名前に汚泥をなすりつけられたも同然なのだ。
 ひょっとしたら、自分を囮にして組織の壊滅を図る、それくらいのことは平然としかねない。いや、それで片が付くならば、この男は喜んでそうするだろう。そうなっては、きっとどこかの誰かに特大の迷惑をかけるのは目に見えているので、自分だけは危険物ではないと確信している――もしくは二人に比べればまだマシであると信じている――ジャスミンは、重たい溜息を吐き出した。
 まったく、こういうときに貧乏くじを引くのはいつだって善良な一般市民なんだぞ、と。
 同じような溜息を吐き出した似た者夫婦、その遙か頭上で、彼らの会話の一部始終を聞き取っていた月の女神が、電子の海に浮かびながら、生身の二人と同じような溜息を吐き出したか否か。
 とにかく、その夜の彼らは同じベッドの上で眠った。幾分冷え込む夜だったので、互いの素肌の温もりが何よりもありがたかった。



 翌朝、二人は同時に目を覚ました。
 二人が現在の仮住まいをしているホテルは、連邦大学、惑星ティラ・ボーンの中緯度地域にある。彼らが連邦大学に留まっているのは、一つには彼らの孫であるジェームスの晴れ舞台を観戦するため。一つは、その安全を守るためだ。TBOが開催され他所からの観客が増えるこの時期こそ、不貞の目的をもった人間が侵入するにはもっとも都合が良い。更に言えば、彼らにとってかけがえのない友人のうちの幾人かが、この星で学生生活を営んでいるから、彼らに会いに行くのに便利がいいというのもある。
 とにかく、彼らはここで、結構気ままな生活を送っていた。
 無論、惰眠を貪っていたわけではない。ジャスミンはクーア・コーポレーションの監査という大仕事をほとんど一人でこなしていたし、ケリーはそのサポートに骨身を惜しまなかった。当然のことながらクーア・コーポレーションの本社のある惑星アドミラルに足を伸ばすことも多いが、連邦大学の近くにあるゲートを使えばそれも二日ほどで往復できることから大した負担にはならなかった。
 そうして、常人であれば一週間と待たずに身体を壊すような激務の合間に、事件の調査報告の分析を続けていたジャスミンは、彼女を呼び出す電子音を聞いて飛び起きたのだ。当然のことながら、彼女の隣で心地よい睡眠を堪能していたケリーも目を覚ました。
 おはようの挨拶を交わすこともなくベッドから飛び出したジャスミンは、ホテルに備え付けのパソコンではなく、自前の携帯型情報端末を机に広げ、猛烈な勢いで操作を始めた。

「どうした、女王」

 ジャスミンの様子が普段のそれではないことを悟って、ケリーは訝しげに尋ねた。
 しかし、忙しなく情報端末を操作するジャスミンには、そんな声ですら届いていないようだった。こうなると自分が邪魔者でしかないことを知っているケリーは、黙って彼女の、鍛え抜かれた背筋と形の良い尻を眺めて、満足の吐息を吐き出した。
 
「眼福だねえ……」

 そんな暢気な呟きに、ジャスミンの、獅子の咆吼にも似た声が重なる。

「ビンゴだ、海賊!」

 振り返ったジャスミンの顔には、歓喜と、それ以上のものが刻まれていた。
 それは、ケリーなどには馴染みの深い、戦いを前に勝利を確信した紅の魔女が浮かべる、好戦的な微笑みであった。

「獲物が網にかかった!さっさと準備をしろ、海賊!いくさだ!」

 一糸纏わぬ姿で戦気を上げるジャスミンを、ケリーは眩しいものを見るように眺めながら、

「いくさ場はどこだ、女王」

 穏やかとも言える口調で問い返した。
 ジャスミンは、やはりにやり・・・と笑い、金色の瞳を輝かせながら答えた。
 
「惑星ヴェロニカだ」




 蛇足ではございますが、手前のホームページにて『チェイニー君の憂鬱』なる短編の連載を始めました。もしよろしければそちらもご覧ください。



[6349] 第二十六話:少年と茨姫、出会うの縁
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/09/22 22:25
 長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号は、正しく絶体絶命の危地にあった。
 だからといって、例えば飢えたライオンよりも獰猛な宇宙海賊に襲われているわけではないし、20センチ砲の通用しない正体不明の巨大不定形宇宙怪物と戦っているわけでも、巨大隕石との衝突を間近に控えて安っぽいパニック映画のような大混乱に見舞われているわけでもない。
 もっと地味で、しかし最も根源的な危機だ。
 航海自体は順調そのものである。長距離航海ではつきものと言ってもいい感応頭脳の不具合や、動力関係の故障もない。心配された宇宙嵐も発生せず、凪いだ宇宙空間はベルトコンベア付の廊下のように、船を目的地まで運び届けるだろう。
 しかし、そんな、船乗りならば誰もが恋い焦がれる幸運の女神に愛された航海を続けながら、その船は絶体絶命の、そして空前絶後の危機に直面していたのだ。

「……ない……やっぱりない……」

 キッチンの棚の全てを引っ張り出した少年は、絶望に満ちた声で呟いた。

「ひょっとしたら、この奥に……」

 流しの下の棚に体ごと突っこんで、パイプの裏を手探りで探す。しかし期待した、例えば缶詰なりレトルトパウチなりの手触りがあるはずもなく、指先は虚空を掻き毟るのみ。
 わかっていたことだ。
 何故なら、そこは既に、一度ならず探したところだ。そこだけではない。もう、この船の中で人が立ち入ることのできるスペースは、あらゆるところを探したのだ。
 冷蔵庫の中、娯楽室のキャビネットの引き出し、緊急脱出艇に備え付けられた非常用リュックサックの底に至るまで……。
 そして、無い。
 どこにも、無い。
 チョコレートの一欠片、肉の一片、米の一粒すらも。
 もう、徹底的に無いのだ、食料が。
 すっからかんの棚から這い出た少年の顔には、色濃い諦めと絶望が等量に含まれていた。

「ふ……ふふ……そりゃそうだ。もう探したもんな、四回も五回も……そりゃあないよな……」

 虚ろな視線で半笑いしながら、ぶつぶつと独り言を呟く少年というのは、端からみれば相当に怖い。しかしこの船には彼を含めて三人の乗組員しかいない上に、残りの二人は空腹を宥めるため、そして余分なカロリーの消費を抑えるためにひたすら横になっているはずだから、夢遊病患者のような有様で一人笑う少年は誰に見咎められることもなく、ふらふらとした足取りで操縦室へと向かった。
 長い廊下――空腹ならば尚更長く感じる――を、高山病に罹った登山者のように頼りない歩調で踏破した少年は、扉の横のタッチパネルに指を翳して指紋照合を済ませると、普段の数倍は重たく感じる扉を開いて中に入った。
 だだっ広い室内。本当なら数十名のクルーを収容してなお余りあるほどに広い部屋には、少年と、もう一人分の気配しかない。そしてその一人は、死んだように床に寝転がったままぴくりとも動かない。
 少年は寝転がった人影を無視して操縦席へと向かった。仮に声をかけたとして、もしその人影が心地よい睡眠を貪っていた場合、そして万が一にも腹一杯にご馳走を食べる夢を見ていた場合、それを邪魔した不届き者にどのような仕置きが下されるかわかったものではないからだ。
 這うようにして操縦席まで辿り着いた少年は、目の前の高解像度モニタに広がる宇宙を眺めたが、そこに映っているのは、遙か数百光年は彼方に点在する恒星系を除けば、何もない、光すらないような真空だけである。

「座標は……N49-KS1173か……」

 それは、居住可能不可能の別を問わず、そもそも惑星自体を持たない恒星の名前である。
 中央銀河からは遙か辺境に位置するこの恒星系は、遠い昔、ようやく人類が数百光年単位の移動を可能にした頃――ゲートの存在が確認され、それを利用した重力波エンジンの開発が為された頃――には新たな居住用惑星の存在が期待されたが、惑星そのものが存在しないことが分かるに至って、人の記憶と記録からは忘れられた存在であった。
 無論、広大な宇宙を股にかけて活躍する宇宙生活者達にしても、そんなものは全く無益な存在である。例えば連続跳躍の途中、エンジンを休ませるためにやむなくこの宙域に錨を降ろすことはあっても、この宙域を目指して跳躍をする者は皆無だ。
 では、そんな宙域を、何故《スタープラチナ》号が飛んでいるのか。
 暇を持てあました金持ちの道楽ではない。いくら時間と金を浪費することに生き甲斐を見い出す類の物好きであっても、このように何も無い宙域をのろのろと飛ぶことに快感を覚えるものはいない。第一、この少年の身なりからして、どう考えても『金持ち』という表現は相応しくなかった。
 彼らは、正しく生きる手段の一つとして、この宙域を進んでいるのだ。

 有益資源探索者トレジャーハンター

 未発見居住用惑星や貴重資源含有惑星を求めて、宇宙を放浪する者達の総称である。
 この種の職業で言えば、遠い昔はゲートハンターと呼ばれる、未発見ゲートを発掘しその使用料で生計を立てる者が主流であったが、ショウ駆動機関ドライブの開発にいたりその数は激減、今は趣味以外でそんなことをしている人間は存在しない。
 その代わり、飛躍的に広がった人類の行動範囲の空白を埋めるように、人類にとって有益な資源を探し、それを企業や国に売却することで日々の糧を得る人間が増えた。
 彼らもその一員である。
 しかし、今回の航海は、お世辞にも首尾の良いものとは言えなかった。
 未だ、目標は見つからず。
 そもそも、その目標自体がこの宙域に存在するかどうか自体、分からないのだ。
 彼らは有益資源探索者トレジャーハンターであり、年若くともそれなりの経験と場数を踏んでいる。しかし、例えば貴重な鉱物資源を多量に含んだ星や、四級以上の居住可能惑星を見つける可能性など、万に一つとは言わなくても相当に低いものであることは間違いない。
 それは彼とて理解しているのだが、食糧も尽き、もう少しで水も無くなる船に乗り、行く当てなく宇宙空間を漂うというのは心安らぐ状況では全く無い。
 かといって、今から引き返したところでどうなるものでもない。そもそも食料や水を買う金自体が無いのだし、その反対に借金だけは彼らの首を回らせなくするに十分なだけ存在する。今回の航海が失敗に終われば、当然の如く彼らの愛船である《スタープラチナ》号は手放さざるを得ないが、それだけでは借金が完済できるかどうか甚だ怪しい。
 強制労働で済めば御の字、下手をすればマフィアに身請けされ、辺境宙域の名も知れぬ星に、変態どもの愛玩奴隷として売り飛ばされることだってあるかも知れないのだ。
 加えて言うなら、仮に今から直近の有人惑星を目指して飛んだとしても、辿り着く遙か手前で食糧や水が尽きるのは明らかだった。もうだいぶ前に、今引き返せばなんとかなるかも知れないというギリギリのところで、この船の乗組員全員が、前に進むことを決めてしまっていたからだ。
 要するに、背後のルートは断ち切られている。
 道は、前にしか存在しない。
 少年は重たい溜息を吐き出した。このまま順調にいけば、どうやら長い間苦楽を共にしたこの船が自分達の墓標になるようだと思い、流石に絶望的な気持ちになったのだ。
 そんな彼の背後で、何かがもぞりと動く気配があった。

「う、んん……。……おーい、インユェ。生きてるかぁ……?」

 密閉された無機質な空間に、ぶっきらぼうな声が力無く響いた。
 もぞりと動いたのは、先ほどまで大の字で床に寝転がっていた人影である。どうやら本当についさっきまで眠っていたのだろう、声の端々に夢の世界の残滓が色濃い。
 そして、その人影からインユェと呼ばれた少年は、操縦席に座ったまま体を捻り、億劫そうな声で答えた。

「……おーう、まだ生きてるぞー……」
「……ちっ」

 少年の生存報告に対する返答は、短い舌打ちであった。
 発した者の不愉快を人に伝え、そして聞いた者を間違いなく不愉快にさせるその音は、インユェの耳にも確かに届いた。
 ただでさえ空腹で気が立っていたことも手伝って、元々気が長いとは言えない性質のインユェは露骨に眉を顰めながら舌打ちをした人間を睨みつけ、如何にも不機嫌な声で言った。

「……おいこら、メイフゥ。今の『ちっ』ってのは、一体どういう意味だ?」
「決まっとるだろが。性懲りもなくまだ生きてやがったのか、さっさとくたばりやがれこのクソチビが、って意味だよ」

 それは、何ともちぐはぐな台詞と声の組み合わせであった。
 別に、台詞自体は特別珍しいものではない。場末の酒場や、荒くれ者の集まる路地裏にでも行けば、酒臭い吐息と共に吐き出される台詞である。些か教養に欠けるようであるが、眉を顰める人はあっても首を傾げる人はいないだろう。
 しかし、今の声を、そして台詞を聞けば、大方の人間は首を傾げるか、それとも自分の耳を疑うか。
 何せ、どこの無頼漢がくだを巻いているのかというこの台詞が、明らかに年若い少女の声として打ち出されていたのだから、どう考えても異常である。
 声の主、メイフゥと呼ばれた少女は、清潔に磨かれた床に直接寝そべって、放心したような様子で天井を見上げていた。

「考えてもみろ。てめえみたいなアホチビが死んだって、この世界の皆々様は何一つ困らねえ。それに引き替え、てめえがくたばればあたしが喜ぶ。そりゃあもう喜ぶ。ほら、こりゃあどっちがお得か考えるまでもないだろ。第一、バカチビが生きてたっていい事なんて一つもねえぞ。だから、さっさと死ね。今すぐ死ね。なんならあたしが手伝ってやる」
「俺が死んだとして、お前が何で喜ぶんだよ!」

 酷い言われようだ。しかも、それを言ったのが自分の双子の姉……であるはずの少女なのだから、インユェは憤然として怒鳴った。
 メイフゥは、蠅を追い払うような仕草で手をひらひらとさせ、
 
「ああ、もう、怒鳴るな。空きっ腹に響くだろが」
「なら、怒鳴らせるような冗談を言うなっ!」

 至極もっともな話である。
 が、メイフゥはのそりと体を起こし、見るものの背筋に寒風を感じさせるような、酷薄な笑みを浮かべながら言った。

「おいおい、あたしは生まれてこの方、冗談や嘘を言った憶えはないぜ」
「な、なんだよ?」

 恐るべき姉の、どう考えても不吉そのものを体現した表情に気圧されたインユェだが、一応の虚勢は張りながら答えた。
 
「はっ、俺が死んで食い扶持が増えるとか思ってるんだったら残念だったな。もうこの船には、缶詰の一個だって残ってないんだからな」
「ああ、そりゃあ残念だ。でも、生きた肉なら一つ、少々サイズに難在りだが転がってるじゃねえか」

 《スタープラチナ》号は、まさか遙か昔の貿易船でもないのだから、生きた牛や豚などを積んでいるはずもない。それは金が無いとかでは食料が尽きたとかとは別問題であり、そんなものはそもそも存在しないのだ。
 インユェは、この姉でも空腹と恐怖で錯乱することがあるのだろうかと、寧ろ感心しているようだった。しかし、よく考えてみれば、如何に気性が荒いとはいえメイフゥは女なのだ。進めば餓死して地獄、引けば娼館に売られて地獄というこの状況で気丈に振る舞えというほうが難しいのかもしれない。
 ああ、これは自分がしっかりしなければ、と、固い決意を抱きつつ姉の顔を見たインユェは、彼女の灰褐色の瞳が、形容し難い光を放っていることに気がついた。それは、例えるならば藪に潜んだ餓狼が、暢気に草をはむ子鹿をじっと見つめるような……。

「……あの、姉さん。つかぬ事を伺いますが、何故俺をそんな目で見てるのですか……?」
「ああ、うん、別に何でも無いぞ、気にするな。本当に……本当に何でも無いから……」

 メイフゥは、いつの間にか身を乗り出しながらインユェにじりじりと近づいてきている。その間も、表情を消した、ある種人間的な感情の全てを押し殺したような空っぽの視線で実の弟をじっと見つめている。
 何でも無い視線ではない。絶対にない。長年、この姉の理不尽な暴力に晒され続けてきた少年は、本能的な恐怖を感じた。
 それでも、まさか。いくら人非人の姉とはいえ、そんなことは。

「あ、あはは、あはははは」

 インユェは、腹の底に最後の力を込めて、力無く笑った。そうでもしないと何かとんでもないことになるような気がしたのだ。そして背中に脂汗を流しながら、裏返った声で言った。

「で、でもさ、牛でも豚でもいいから、死ぬ前に腹一杯食べたいよな。こう、焚き火の上に吊して、丸焼きにしてさ――」
「よしわかった、そういう死に様でいいんだな?この船の中で焚き火ってのも中々骨が折れるが、可愛い弟の遺言だ、なんとか都合をつけようじゃねえか」

 今までのさして長いとも言えない人生の中で『可愛い弟』などとは一度足りとて呼ばれたことのないインユェは、後に続く物騒な単語よりも、その一言にこそ自分の運命を悟った。

「……あの、姉さん?」
「それと、悪いなインユェ。お前はその肉を食えないんだ、絶対に。でも、あたしがお前の分も、文字通りお前の分もきちんと食ってやるから、安心しろ」
「……何故?」
「決まってるだろうが。お前、どうやって自分の肉を喰うつもりだ?タコか?」

 そりゃあ、はらぺこのタコは自分の足を囓って飢えを凌ぐというが、それとこれとは問題が違う。違いすぎる。
 事ここにいたって、インユェは、流石に自分がどういう立場に置かれているのかを理解した。
 どうやら自分は、目の前の獰猛な女に、狙われているらしい。食物連鎖的な意味で。
 
「おい、メイフゥ!冗談もほどほどに……!」
「畜生、こんなの拷問だ。何せお腹と背中がくっつく程に腹が減るってのがどういう状態か、正しく味わっている最中だってえのに、目の前に活きが良くて美味そうな肉がいるんだ。……ああ駄目だ、もう我慢できねぇ」

 まるで月明かりに照らし出された猫科の獣のように目を爛々と輝かせながら、メイフゥはそんなことを言った。
 インユェは、思わず椅子からずり落ちそうになった。彼は、双子であるにも関わらず姉であるメイフゥよりも二回りほど体が小さかったのだし、彼女の豊かな金色の髪の毛が、まるで獅子の鬣かそれともオオワシの冠羽のように見えたというのもある。
 正しく蛇に睨まれた蛙といった有様で、おそるおそる、最後の希望に縋るように尋ねる。

「……冗談だよな?」
「冗談だ。ああ、冗談だとも。冗談であることを神様に祈るといい。祈ったままそこを動くな」

 じゅるりと涎を啜りながら、メイフゥはそんなことを言う。しかもいつの間にか体を起こしていたメイフゥの姿勢たるや獲物に飛びかかる寸前の虎そのもの、その上、にやりと歪んだ口元から白く輝く犬歯が覗いているのだ。

 ――喰われる。

 反射的に椅子から飛び退いたインユェの背後を、巨大な何かが、猛烈な勢いですっ飛んでいった。
 そして直後に響く盛大な破砕音。

 ――危なかった。

 床に這いつくばったインユェ、は内心で名前も知らない神様に感謝の祈りを捧げた。これでもし一瞬でも飛び退くのが遅ければ、憐れ少年は実の姉――しかも双子――の非常食に成り果てていたのであろうか。
 真っ青になって振り返った少年の視界に、跡形もないほどぐしゃぐしゃに壊れた金属製の椅子と、その端っこを咥えて持ち上げながらこちらを睨みつける姉という、果たしてこれが現実のことかどうか疑ってしまう悪夢のような情景が映り込んだ。
 そしてメイフゥは、口に咥えた椅子の残骸をさも不味そうに吐き出し、不思議そうに言った。

「……何で避ける?」
「誰でもよけるわっ!」

 インユェは、声を限りに叫んだ。
 
「メイフゥ!お前、本気で俺を殺すつもりか!」
「別に、まだ殺すつもりはねえよ。とりあえず足か腕の一本でもつまみ食いしようかなと思っただけじゃねえか。大袈裟に喚くな、男の子だろうが」
「男の子だろうがなんだろうが、どこのどいつが黙って腕やら足やらを囓られてやるもんかよっ!?あと、『まだ』ってなんだ、『まだ』って!?」
「ああ、別に黙って囓られてくれることはねえぞ。寧ろ、泣き叫べ。その方が盛り上がるってなもんだ」

 嗜虐的な笑みを浮かべた少女は、ゆらりと立ち上がった。それだけで、インユェなどにはこの部屋が一回り小さくなったように感じた。それほどに、メイフゥは、横にも縦にも大きかった。
 若干14歳にして180センチを越える長身としなやかに長い手足、健康的に浅黒く灼けた肌、そしてその下に隠された良く撓る鋼線を束ねたような筋肉。針金と見紛うほどに強い直毛はヘアバンドで後ろに流され、あたかも金糸で織られたマントのように彼女の背中を飾り付けている。
 それは、到底年若い少女の風貌ではない。正しく、全宇宙をまたにかけて暴れ回る、女海賊の風貌である。
 化け物だ、と、インユェは思った。先ほどからチビチビと侮られている彼ではあるが、同年代の少年達と比べてもそれほど小柄な方ではない。しかしこの姉と並ぶとどうしても見劣りしてしまう。彼の、色素の薄く抜けるように白い皮膚とくすんだような銀髪が、どうにも不健康な印象を与えるというのも大きいのだが、何よりメイフゥの存在感が尋常ではないからだ。
 実際、この二人を並べてみて、双子の姉弟だと一目で見抜ける人間がどれほどいるだろうか。
 整った顔立ちにはどこか通じるものがあるのだが、その他の材料があまりに正反対すぎる。威風堂々とした女丈夫たるメイフゥと、線が細く一見するとなよついた印象すらあるインユェ。これではまるで、屈強な女将軍に捕まった漂泊の王子様である。
 インユェはそんな自分が嫌で、幼い頃から彼なりの努力を惜しまなかった。毎食後には必ず牛乳を飲み、身長を伸ばすための努力をした。執事に我が侭をいって棒術を教えてもらったり、自分よりも体の大きなガキ大将に喧嘩を挑んだりして、姉より強い人間に、もっと言えば姉を守れるだけ強い男になろうとした。
 そしてその努力は成功したと言っていい。母のお腹の中でさえ姉に栄養を奪われたのか、赤子の時から小さく、そして虚弱だったインユェは、少なくとも同年代の少年達と比べてそれほど見劣りのしない体格にはなったのだし、腕っ節では誰にも負けない自信をつけた。
 だが、その努力が報われたとは言い難い。何せ、メイフゥはインユェが成長する以上のペースでぐんぐん成長し、それに比例するかのように健康的で逞しく――ぶっちゃけて言えば腕っ節が強くなっていた。
 結果として、物心がついたときから、インユェがメイフゥに喧嘩で勝ったことは、一度もないのである。
 しかも、彼ら姉弟が、有益資源探索者トレジャーハンターという、お世辞にも堅気とはいえない職業に就いてから、姉は水を得た魚のように元気になった。もう、野性的と言っていいほどに元気になった。最近では、インユェは自分の姉のことを、辛うじて人類というカテゴリの端っこに引っかかった化け物だと考えている。
 そんな姉が、涎を垂らしながら自分に迫ってくるのだ。これが恐ろしくないはずがない。

「ま、まて、はやまるなメイフゥ!」

 決して獲物を逃がさないよう、大きく腕を広げながら迫ってくる姉に向けて、インユェは精一杯の説得を試みた。

「よく考えてみよう!俺みたいなやっせぽちのチビガキ、どう考えても食える部分は少ないぞ!」
「大丈夫、人体のうちに占める骨の割合なんて、精々10パーセントやそこらだ。いくらチビなお前だって、40キロくらいは食える部分があるってことになる。小腹を満たすには適量だ」
「いくら腹が減っているからって人を喰うのはどうだろうっ!?」
「大丈夫、遭難の末、飢餓に苛まれて人肉食に至った人間は特段珍しい存在じゃねえ。もし誰かにばれたら『あの子は今も私と一緒に生きています!』とでも泣きながら宣ってやる。だから安心して喰われろ」
「ひ、人の肉は美味くないぞ!肉を喰う動物の肉は不味いんだ!だから、人の肉だって……!」
「大丈夫、非常時だ。鼻を摘んで喰ってやるさ」
「ちょ、やめ……ぎぃやぁぁぁぁ――!」

 
 繰り返すようだが、長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号には三人の乗務員がいる。
 操縦室――船の中でも最も重要な部屋の一つである――で、文字通り食うか食われるかの取っ組み合いを繰り広げる二人を、冷ややかに見つめる男がいた。
 これは、若者とは言いがたい。どちらかと言えば老境に差し掛かった、と表現するほうがしっくりくる。しかし、その顔に刻まれた幾多の皺とは裏腹に、背筋はほんの少しも曲がっていなかったし、衣服に身を包んでいても分かる程に鍛え込まれた体のどこにも贅肉がついているようには見えない。
 そして、細めた瞼の奥から、見る者によっては柔和とも鋭利とも感じられる不可思議な視線で、姉弟のやり取りを見守っていた。
 最初に気がついたのは、メイフゥだった。

「おう、ヤームル。ちょっと待ってろ、すぐに終わるから」

 必死で暴れるインユェを押さえ込みながら、軽く手をあげて挨拶をする。
 いつの間に部屋に入っていたのか、ヤームルと呼ばれた初老の男性は、同じく軽く手をあげてそれに応じた。そして暢気な調子で言った。

「また姉弟喧嘩ですかな?いや、元気な様子で結構結構」
「ちょっとまてヤームル!これのどこが姉弟喧嘩に……いててててっ、噛み付くなこの馬鹿!」

 いつの間にか俯せに組み伏せられたインユェ、その上にのし掛かっていたメイフゥは、弟のズボンを器用に剥ぎ取り、剥き出しになった太腿の裏側にガブリと噛み付いた。
 幼い少女が年上の兄弟と喧嘩した時に噛み付いたとか引っ掻いたとかとは、次元が違う。この場合の噛み付くとは、正しく本当の意味で『噛む』、つまり食料を食い千切って咀嚼するという意味で使われる『噛む』なのだから。
 当然インユェは思いっきり暴れたが、上にいるメイフゥの体はピクリとも動かない。余程上手に人体の『つぼ』を押さえているのだろう、憐れな弟がどのように足掻いたところで、姉の巨体はうんともすんとも言わないのだ。
 もはやこれまで。自分は実の姉に、しかも双子の姉に喰い殺されるのだと、自分の運命を呪ったインユェの耳に、救いの神様の声が聞こえた。

「これこれ、メイフゥお嬢様。いけませんよ、立派な淑女がはしたない」

 ヤームルが、やんわりとメイフゥを窘めた。
 成熟した男性の、豊かで落ち着く声だった。
 流石のメイフゥもこの老人には逆らいがたいのか、『あと一歩のところで』という無念の表情を隠さないまま、ヤームルを見上げる。
 インユェは、なんとか助かったようだと一息ついた。下半身にパンツ一丁だけという格好は恥ずかしいし、メイフゥが噛み付いた箇所はずきずきと痛むが、肉を食い千切られた程の痛みはない。どうやら、神様がまだ生きていて良いと仰っているようだ。
 それでも、彼の白い皮膚に刻まれた歯形は、真っ赤で、十分に痛々しいと言えるものだったが。
 そして、どこからどう見てもレディという形容が相応しいとは思えない少女、メイフゥは、ぶすっとした調子で、

「……わかったよ。しょうがないなヤームル、半分こだぞ」
「勝手に人の体を山分けするなぁ!」

 インユェは必死に喚いたが、メイフゥがそれを耳に入れた様子はない。馬耳東風、というよりは、シマウマの悲鳴をライオンが聞き流しているのに近いかも知れない。
 このような情景は見慣れたものなのだろうか、好々爺然としたヤームルは落ち着いた調子で、

「それは有難いお言葉ですが、お嬢様、問題の所在が違うのではありませんかな?」
「……?」

 メイフゥは可愛らしく首を傾げた。目をぱちくりとさせたその表情は年相応で可愛らしいものだった。

「あたしは何か悪いことをしたのか?」
「悪い!大いに悪い!だから、さっさとどけぇ!」
「うるせぇ、少し黙ってろ」

 ぐえ、と、蛙の潰れたような音が響いて、インユェは大人しくなってしまった。
 メイフゥが、彼の背後から、首筋を上腕部でもって締め付け、頸動脈を締め上げたのだ。チョークスリーパー、もしくは裸締めと言われる危険な技である。しかも、完全に『おとして』しまったのでは意味がないので、意識が途切れるぎりぎりのところで締める力を緩めている。
 インユェにしてみれば、たまったものではない。たまったものではないが、だからといって暴れ回ることは出来ないし、声を上げることも出来ない。
 手も足も出ないとはどういう状態か、正しく生きた標本見本にされているのだ。言うまでもなく、犯人は実の姉であり、ヤームルの言うところの『お嬢様』だ。
 そんな『お嬢様』を見下ろしながら、ヤームルは大きな溜息を吐き出した。

「お嬢様。御館様のお言葉をお忘れですか?」
「えっ……?……あ、うん……」

 その、たった一言でもって、メイフゥの血色の良い顔はみるみる青ざめ、力無く項垂れてしまった。
 まるで飼い主に叱られて耳を垂らした子犬さながらの様子だ。
 
『暴力を持って奪い取る海賊達の時代は、俺の代で終わりだ。お前達は、知力と胆力でもって掠め取れ』

 それが、彼らの父の言葉だった。
 もう、顔も覚えていない父親だ。最後にあったのは、彼らの歳が片手の指で数えられる程のものだった時のはずだから、無理もない。
 だが、最後に、別れ際の言葉だけは鮮明に覚えている。そして、その台詞を口にした、父の寂しそうな顔も。
  知力と胆力でもって掠め取れ。
 どう考えても子供を育てるに健全な標語とは思えないその一言が、彼ら姉弟の生きる道しるべになっているのだ。
 すっかり意気消沈したメイフゥは、緩慢な動作で立ち上がり、同時に弟をその牙と爪から解放した。

「……ごめん、ヤームル」
「はい。些か頭に血が上っていた……それとも、血が足りていなかったようですな。ま、あまりお気になさらずに。しかし、誰にも登れないほどの高みに成っている果実を、強引にもぎ取ろうとするのは馬鹿の仕様です。ただひたすらに果実が落ちてくるのを待つのは、間抜けの仕様です。どうすれば安全に、そして迅速に果実を我がものに出来るか、そのことにこそ頭を悩ませなさいませ」
「……うん」
「おい、その場合の果実って俺のことか?俺が喰い殺されかけたのはどうでもいいのか?」

 憐れな被害者の抗弁は、当然の如く無視された。そこは、別に悪いことではないらしい。
 先ほどの、野生動物顔負けの俊敏さはどこへやら、弱々しい少女のような足取りで、メイフゥは操縦室から出て行った。
 その項垂れた後ろ姿を見送ったインユェは、やれやれどうやら自分は助かったらしいと、安堵の吐息を吐き出した。

「助かったよ、ヤームル」
「いえいえ、お二人の後見人として、当然のことをしたまでです。しかし……」

 後見人は、いまだ床にへたり込んだままのインユェを見下ろして、

「少し、鍛え方が甘かったのでしょうかな。メイフゥ様も些か正規の規格からは外れたご婦人ではあらせられますが、しかしご婦人はご婦人。それに一方的に叩きのめされ、剰え衣服まで剥ぎ取られるとは……。インユェ様、今の貴方を見れば、御館様はさぞお嘆きになるでしょう」
 
 嘆息しながら、そんなことを言った。
 これに対しては、インユェとしても言いたいことが山ほどある。
 まず、比較の対象がおかしい。あれは、どう考えても人類ではない。一割くらいは辛うじて人類の端っこにぶら下がっていたとしても、残りの九割は化け物の領域に足を突っこんでいる。要するに、四捨五入をすれば間違いなく化け物に分類される生物だ。
 そんな姉と比べられては、弟としては立つ瀬がないのだが、もうそこらへんは何を今更というか、インユェも割り切ってしまっていたりする。
 第一、自分は被害者である。あのとち狂った姉が、まさか生きた人間――しかも血を分けた弟である――を自分の食料にするなどという暴挙にでなければ、このみっともない諍いは未然に防がれていたのだ。
 インユェは、中途半端な笑みを浮かべながら、言った。

「無茶言うなよヤームル。あんな化け物と比べられたら、いくら俺だって……」
「お坊ちゃま」

 静かな、しかし逃げ道を断つように鋭い声だった。
 思わず見上げたインユェは、そこに、想像したよりも遙かに厳しい視線を寄越す、育ての親を見つけた。

「お坊ちゃまは、いつまでお坊ちゃまなのでしょうか?」
「……ヤームル?」
「私は、いつになったら、お坊ちゃまのことをご主人様と、あるいは御館様と呼ぶことができるのでしょうか?」

 その、深い思慮と憂いに満ちた視線に、インユェが立ち向かえたのは、本当に一瞬のことだった。
 思わず視線を逸らした14歳の少年は、遣り切れない恥ずかしさと、ほとんど八つ当たりに誓い怒りを感じて、吐き捨てるように呟いた。

「……あれは化け物だ。だいたい、そんなに強い奴のことが好きなら、お前は俺のことなんか見捨てて、メイフゥだけの従者になればいいじゃないか!」
「……お坊ちゃま。その台詞、間違えてもお嬢様の前では口にはなさいますな」
「どうしてだよ?俺の身が危ないってか?そんなのいつもの――」
「お嬢様が、傷つかれます」

 思わず耳を疑ったインユェだ。
 果たして、この忠実な侍従は、何と言ったのだろう。
 傷つく?あの、姉貴が?
 あり得ない。どう考えても、天地がひっくり返ってもあり得ない。
 あまりに突拍子もない台詞に怒りを吹き飛ばされてしまったインユェは、ほとんど発作的な笑いの衝動に襲われた。
 大いに笑った。

「おいおい、あんたがそんなに冗談好きだとは知らなかったぜヤームル。アレが傷つく?あの『鋼鉄の処女』が?俺が化け物扱いしたくらいで?ありえねぇって!宇宙がひっくり返ってもありえねぇ!」

 ヤームルは、インユェを窘めようとはしなかった。
 ただ、ぽつりと一言だけ、

「お坊ちゃま。あなたがお嬢様を化け物と呼んだのは、一体何度?」
「……えっ?」

 インユェは笑いを収めて、考えた。
 メイフゥを、あの姉を、化け物と呼んだ回数。
 もう、数え切れないくらいに呼んだ気がするが……しかし最近は怖くて呼んでいない。
 
「……憶えてねえよ」
「では、最後にそう呼んだのは?」
「……おい、ヤームル。お前、何が言いたいんだ?」

 初老の男は、それには答えなかった。何も言わず、かつては黒々としていたであろう、新雪のように真っ白な髪を手で撫でつけると、

「精進なさいませ。肉体的には勿論、精神的にも、そして人間的にもです」

 そう言って、部屋を出て行こうとした。
 インユェは、流石に顔に血が上るのを感じた。お前はまだ子供だ、と馬鹿にされたように感じたのだ。
 すっくと立ち上がり、食い付くような調子で叫んだ。

「おい、ヤームル!お前!」
「一つ、よいことを教えて差し上げましょう、お坊ちゃま」
「ああっ!?」
「あなたは先ほどから、ご自身の姉君を、余程化け物と思い込みたいようですが……」
「思い込みたいんじゃねえ!アレはどう考えても化け物だろうが!どこの女が、体当たり一つで操縦席をめちゃめちゃに出来るんだよ!」

 インユェは『操縦席だったもの』を指さしながら言った。
 もっともな台詞である。あれが普通の一般女性に出来る仕業ならば、この世界における男と女の役割の過半が入れ替わるだろう。
 くすりと笑ったヤームルは、一層柔和な表情で振り返り、

「では、姉君以外の女性ならば、坊ちゃまは遅れを取らない?」
「当たり前だ!女なんかに負けてたまるか!」
「それは威勢のよろしいことで。しかしお坊ちゃま。この宇宙は広く、人の歴史はなお広い。私はね、若かりし頃、今のお嬢様よりも遙かに猛々しいご婦人を拝見したことがあります」
「……はぁ?」
 
 インユェは、あらためて己の耳を疑い、次に目の前の男の正気を疑った。
 姉より、あの姉より、あの化け物よりも猛々しい女?そんなものが、この宇宙にいる?
 それは、少年の想像力の翼では到底たどり着けない、遙か彼岸の現実だった。
 要するに、少年は信じなかった。そんなものがいるはず無いと、一笑に付した。

「そんなものがいるなら、是非見てみたいね。もしもこの船が無事どっかの惑星に着いたら、是が非でも俺の前に連れてこいよ」
「私としても是非もう一度お会いしたいのですが……風の噂に、既に身罷られたと聞きました。今生でまみえることは、ないでしょうな」

 ほらやっぱり嘘じゃないか、と嘲ろうとしたインユェは、老人の、遠く美しい過去を懐かしむ目を見て、言葉を飲み込んだ。
 年若い彼も、言っていいことと悪いこと、その最低限の分別くらいはつくのだ。
 その代わりに、ばつが悪そうに銀色の頭を掻き毟って、

「……姉貴みたいな女が何人もいるんなら、それだけで男の居場所はごっそりと奪われちまうんだろうな、この世から」
「ええ、全く。しかし、ああいった女性がいるからこそ、世の男性も奮起出来るというものでしょう」
「ああ、嫌だ嫌だ。絶対に会いたくねえ。間違えても会いたくねえ。前言撤回だ、ヤームル。そんな女、間違えても俺の目の前に連れてくるなよ。俺は姉貴だけで十分だ」

 少年は苦笑して、老人もそれに倣った。
 ヤームルは一礼すると、そのまま扉の向こうに消えた。
 それを見届けたインユェは、しばらくの間立ち尽くしていた。

 ――あの姉よりも猛々しい女が、本当にこの世にいるのだろうか。

 そう考えて、あらためて恐ろしくなったのだ。
 軽く身震いした少年は、めちゃめちゃになった操縦席の代わりに折りたたみ椅子を置くと、最後の希望を込めて、高解像度モニターの向こうに映る宇宙空間をじっと睨みつけた。



 三日経った。
 当然、星は見つからない。
 食料だって尽きたままだし、昨日、人が生きるために最も大事なもの――水が枯渇した。
 船内から、人の気配が絶えて久しい。インユェはここ二日間、ずっと操縦室に籠もっているが、その間誰もこの部屋には入ってこなかった。
 ひょっとしたら、この船で生きているのは自分だけかも知れない。
 少年はそう思ってから、苦笑した。老境にあるヤームルなどはともかく、あの姉が自分よりも先に死ぬとは到底思えなかったからだ。
 だからといって、三日前のように元気であるとは、とても思えない。人は水を失うと急激に衰弱するからだ。
 インユェも、その例に漏れなかった。喉を掻き毟りたくなるような渇きは絶え間なく彼を苛んだし、じっと宇宙空間を眺めていると何度となく幻覚に襲われた。
 姉が、本物の化け物になって自分を喰い殺す。
 反対に、自分が姉の死体に食らいついている。
 何も無いはずの宇宙空間を、真っ白い衣を纏った人達が、静かに行進していく。
 いつの間にか、自分が深い森の中にいる夢も見た。暗い暗い森の中で、たった一人で火を囲み、ひたすらに誰かを待ち続ける。
 待ち人は、来たのだろうか。それとも、あの自分も、今の自分と同じように、孤独に死んでいったのだろうか。
 答えなど、分かりきっているというのに。
 
『……だれ?』

 そんな幻聴が、聞こえた。自分は、一体何と答えたのだろうか。
 ただ、その少女は、どこかで見たことがあるような気がした。

 はっと顔を上げる。
 眠っていたのだろうか。
 時計を見る。さっきから、五分も経っていない。それでも、確実に意識は失っていた。
 こうやって、徐々に、徐々に死んでいくのかと思うと、叫び声を上げたくなるほどに怖くなった。少しずつ狂って、最後には自分が自分とも分からないまま、道ばたの野良犬のように呆気なく死ぬのか。
 それは嫌だった。死ぬときは、せめて死ぬときくらいは、自分の好き勝手に死にたい。
 だからといって、今更救難信号を打つ気にはならない。こんな辺境を飛ぶ船があるとは思えないし、助かるはずもないのにそんなことをするのは、見苦しいようで嫌だった。
 インユェは、姉の部屋に繋がる回線を開いた。どうせ死ぬなら、そういう死に様のほうが、男らしいと思ったのだ。
 しばらく待ったが、スピーカーからは何の返事も無かった。
 常のメイフゥならあり得ないことだ。いつもの彼女であれば、不機嫌そうな声で『何の用だアホチビ』と罵るか、それとも無言で回線をぶった切るか。
 そのいずれでもないということは、既に死んでいるのか、それとも受話器を取ることも出来ないほどに衰弱しているのか。
 インユェは、ぼうっとモニターを眺めながら、そんなことを考えた。そして、もう一度呼び出して反応が無ければ、自分から姉の部屋に赴こうと思った。
 喰い殺されるために。
 それもいいさ。女性を助けるために、その糧になって死ぬというのも、中々に男らしい死に方じゃないか。
 モニターに反射した自分の顔は、かつての面影がどこにも見えないほどに窶れ、衰弱している。竜胆のようだと誉めそやされた瞳はどぶ色に濁っているし、腕だって、まるで棒きれか何かのようだ。これでは食べ甲斐はないだろうと思うが、そこらへんは我慢してもらおう。
 そんな自分の鏡像を眺めながら、もう一度呼び出しブザーを押した。
 がちゃり、と、回線の繋がった音が聞こえる。
 ああ、姉は生きていた。つまり、自分は死ぬんだ。そのことが、何故だか妙に嬉しくて、そんな自分がおかしくて、ぼんやりとモニターを眺める。
 これが、最後に眺める宇宙だと思うと、それが映像化された電子情報だと知っていても、なお感慨深いものがある。
 ほとんど焦点を合わせることすらせずに、ぼうっと画面を見つめていた。

 その時。

 正しくその時、インユェの痩せた背中に、電流が走った。
 見間違いか。それとも、幻覚だろうか。
 目を擦った。頬を叩いた。それも、一度ではない。何度も何度も。
 だが、それはそこにあった。頬を赤く張らしたインユェを嘲笑うかのように、そこにあった。
 計器類は、一切の反応を示さない。感応頭脳だって相変わらず無慈悲に沈黙したままだ。
 しかし、やはりそれは、そこにあったのだ。

『……い。おい、インユェ……おいってば』

 姉の声が聞こえる。しかし、それがどこか遠い。
 それでも、事実は伝えないといけない。

『おい、インユェ!聞こえてるのか!それとも、まさか本当にくたばったのか!あたしはそんなの、絶対に許さねえぞ!お前があたしより先にくたばるなんて、そんなの――』
「……ほしだ……」
『……あん?おい、インユェ、お前今、何て言った?』

 その時になって、ようやく目の前の現実に、思考回路が追いついた。
 少年は、声を限りに叫んだ。それが、彼の為し得る、最も盛大な歓喜の表現方法であったのだから。

「星だ!惑星だ!青い、大気と水のある惑星だ!助かった!姉さん、俺達、助かったよ!」

 

 タラップから駆け下りたインユェは、まず、目の前に広がる広大な湖へと向かった。
 手には、携帯型の浄水器と、同じく携帯型の成分解析用機械を抱えている。
 今にも水の中に飛び込み、思うさまに喉を潤したいという欲望と戦いながら成分解析用機械の端末を浸すと、水質は極めて良好、飲料水としての使用に十分耐えうるという結果が出た。
 それはつまり、この星が第二級以上の居住可能惑星であることを示している。
 インユェは、喉の渇きも忘れて、強くこぶしを握りしめた。第二級以上の惑星ならば、間違いなく億単位の金で取引される。
 これで、下手すれば難民と間違われかねないような、貧乏宇宙放浪生活ともおさらばだ。
 疲れを忘れたような足取りで船まで戻ってきたインユェを、憔悴したようすのメイフゥと、やや窶れた感はあるもののそれでも毅然としたヤームルが出迎えた。

「で、如何でしたかな?」

 別段声をうわずらせるでもなく、淡々とした調子で尋ねたヤームルであったが、それに答える少年は、誇らしさと喜びと、いくつもの輝かしい感情で頬を赤らめながら、

「驚くなよ!あそこの湖、全部が飲用可能な水だ!つまりこの星は第二級以上の居住用惑星だ!これで俺達は大金持ちの仲間入りだぞ!」

 少年は、大いに胸を張った。何せ、この宙域を探索することを決定したのは、他ならぬインユェである。そして、この星を発見したのも彼なのだから、論功行賞でいえば、第一等は間違いなく自分のものだと確信していた。
 そして、それは完全な事実であり、この星を発見した功績はインユェのものだった。
 別に、誰もそれを横取りしようとは考えない。インユェの不思議な勘の良さは、姉であるメイフゥも認めるところだったし、だからこそ惑星が存在しないという、有益資源探索者であれば見向きもしないであろう宙域への探索を了解したのだから。
 にもかかわらず、インユェを見つめる二人の視線はほろ苦い。まるで、おもちゃの宝物に目を輝かす幼児を見守るような、そんな視線だ。
 流石に様子がおかしいと思ったインユェは、恐る恐る尋ねた。

「おい、どうしたんだよ二人とも。これが嬉しくないのか?」

 浄水器で濾過した水を飲み、人心地ついたメイフゥは、やや申し訳無さそうに、そして気の毒そうに言った。

「……あのな、アホチビよ。今回は別にお前が悪いわけじゃない。それに、あたしだってお前に助けられた。それは認めてやる。ありがとな」

 インユェは、言葉も出ない程に驚いた。
 姉が、あの姉が、自分に礼を言った。ありがとうと言ってくれた。
 それが、信じられなかった。そして、それ以上に嬉しかった。もしかしたらこの星を見つけた瞬間よりも、彼は嬉しかった。
 なのに、当の姉は、ほんの少しだけ輝きを取り戻した豪奢な金髪を掻き毟りながら、

「だけど、考えてもみろよ。ここが第二級以上の居住使用可能惑星だとして、だ。なら、なんでこの星は船の計器に反応しなかったんだろうな?」
「……それは、そういう星なんじゃあないのかよ。ほら、肉眼では見えるけど、計器には反応しないし上陸も出来ない、幽霊星の噂だってあるじゃないか」
「確かに、この広い宇宙だからな。そんな不思議な星があったっておかしくはない。おかしくはないんだが、そういう意味で言えば、この星はその中でも飛びきりにおかしな星だ」

 インユェには、姉の言っている意味が分からない。
 無言で話の続きを求める。
 
「お前が着陸準備に走り回ってる間にな、この星の周りを調べてみた。そしたらよ、何があったと思う?」
「……何があったんだよ」
「一世代以上前の、高性能電波吸収パネル。当時なら、一枚であたしらが一生食っていけるくらいの馬鹿みたいに値の張る代物が、うじゃうじゃとばらまかれてた」
「だからどうしたんだよ!」
「要するに、ここを発見したのは、あたしらが最初じゃないってことだよ」

 
 少年は、打ちひしがれて、森を歩いていた。
 姉は珍しいことに――本当に珍しいことに、彼を一通り慰めてから先に森に入っていった。当面の食糧を確保するためだ。元々、狩猟や戦闘には際立った才覚を見せる彼女のことだから、さして時を待たず、しっかりと獲物を獲って帰ってくるだろう。
 育ての父は『あまり気を落とされることのないように』と優しく肩を叩いた後で、湖に釣り糸を垂らしている。どうやら魚の豊富な湖だったようで、あっという間に山のような魚を釣り上げていた。
 そして彼は、何をする気にもなれず、薪を拾いに行くと言って森の中に入ったのだ。
 先ほど、あれほどに軽かった足が、嘘のように重たい。考えてみれば、水分だけはきっちりと補給したとはいえ、正しくそれだけのことで、腹の中はすっからかんなのだ。足取りが重たくて、寧ろ当然なのかも知れない。
 姉のことが、ふと頭を過ぎった。あれも一応人間なのだし、かなり衰弱していたのも事実だ。あんな状態で狩りに出るなど、いくら彼女でも無茶だったのではないだろうか。その役は、自分が変わるべきだったのではないか。
 そう考えて、それすらもどうでもいいと思った。とにかく、今は何も考えたくはない。
 足下に転がる枯れ枝を、ぼつぼつと拾う。
 別に、集める必要のない薪だ。水や食糧は尽きていたが、クーアシステムによる駆動系は生きているのだから、水さえあれば、キッチンで料理は出来るし部屋で暖を取ることも出来る。
 要するに、自分は無駄なことをしている。何一つ役に立たないことをしている。
 だからといって、今は他のことを何もしたくなかった。それが甘えだとは分かっていたが、今はあの二人に甘えたかったのだ。
 だって、仕方ないじゃないか。
 あれだけ苦労して、冗談ではなく死にかけながら、ようやく見つけた未登録居住用惑星が、自分のものにならないなんて、絶対に間違えている。
 彼はそう主張したのだが、姉と育ての親の反応は冷ややかだった。

『一体どこの馬鹿が、あんなもの電波吸収パネルをばらまいたのかは分からねえ。だがよ、頭がいかれてるかどうかは置いといて、相当な金持ちだってのは間違いねぇ。下手すりゃあ国一つを買い取れるような金を出して、こんな未開発の星を隠したんだからな。頭のぶっ飛んだキチガイの類だ。余程重要な機密がこの星に隠されているなら話は別だが、それにしちゃあ警備が全くされてないのがおかしい。だからよ、本当に信じられねえが、きっとこの星を最初に見つけた馬鹿は、完全に趣味でこの星を隠したとしか思えねえんだよ』

 姉はそう断言した。
 趣味で星を丸ごと隠す、そんな、そんな馬鹿な話があるか。

『信じる信じねえはお前の自由さ。だがな、どちらにせよこの星が人為的に隠されてたってのは間違いねえし、これを隠した奴は相当な実力者だ。そいつを出し抜いた上でこの星を売ってボロ儲け、ってのは難しいだろうなぁ。だからよ、今回のは命が助かっただけでも良しとしてスッパリ諦めろ。なっ?』

 そういって、少し強く肩を叩かれたのだ。
 信じられなかった。
 もしも宝くじが当たって、大喜びで家族に当選を教えて、その後になってから番号間違いを見つけた人間でも、今の自分よりはまだマシな心境に違いない。
 肩すかしにも程がある。
 
「はぁ……」

 口を開けば、漏れ出すのは溜息だけだ。
 情け無い。この星を見つけただけで、よく調べもせずに有頂天になってしまった自分が情け無いし、今の腐った自分も情け無い。何より情け無いのは、そんな現状を十分に理解しながら、どうしても頭を切り換えることの出来ないしみったれた今の自分だ。
 何となくくさくさ・・・・して、足下の小石を思いっきり蹴飛ばした。
 ゴルフボールより一回り小さいくらいのその石は、小気味が良いほど良く飛んで、木の幹に何度かぶつかった後で、茂みの向こうに姿を消した。
 インユェは、その様子が、何故だか楽しかった。だからもう一度その小石を思いっきり蹴ってみようと、茂みの向こうを覗き込んで小石を探していたら、妙なものを見つけた。

「なんだ、こりゃ……?」

 それは、骨だった。
 小さな骨ではない。大きな、おそらくは獣の骨だ。あたりをよく探してみると、猪らしい生き物の頭蓋骨と、焚き火をした跡があった。
 きっと誰かがここで焚き火を熾し、猪の肉を焼いて食べたのだろう。
 言うまでもなく、火を使って獲物を調理するのは、未知の生命体がこの星に生息している可能性を除けば、人間だけだ。
 そして、この星にいるのは、自分達以外には、あの妙な衝立でこの星を隠した、この星の最初の発見者だけだろう。
 誰か、この星をあんなもの電波吸収パネルで覆い隠すことが出来る――しかもただの趣味で――くらいに金を持った誰かが、友人か、家族かそれとも恋人かと、ここで食事を楽しんだのだろうか。自分達が無限の闇の中で、一片の肉も、水すらもなく、迫り来る死に怯えていたときに、その誰かは、ここで思うさまに腹を満たし、酒を飲み、歌を歌ったのだろうか。
 そう考えると、インユェの心に、黒くもやもやしたものが広がった。それは多分、怒りとか嫉妬とか悲しさとか、そういう負の感情を混ぜ合わせて煮詰めたものに違いなかった。
 つまり、この少年は思ったのだ。このやり場のない怒りは、自分をこのような事態に追い込んだ真犯人を痛めつけることで発散させよう、と。
 胸の中をぐらぐらとした黒い炎で燃やしながら、しゃがみ込んで灰を触ってみる。すると、思ったよりも暖かかった。
 きっと、この薪を起こした野郎は、まだ遠くまで行っていない。
 インユェの端正な頬が、にやりと不吉に歪んだ。そうすると、この少年の顔は、やはり双子の姉とそっくりの、狩りを楽しむ猛獣の顔つきになる。
 静かに辺りを見回し、耳を欹てる。
 聞こえるのは、遠くで鳴く獣の声、そして鳥の声。近くで聞こえる、草の葉の擦れる音、虫の鳴き声。
 しばらく、そのまま動かずに、まるで森と一体化したようにじっと意識を集中する。
 すると、がさりと不自然な音が正面の藪の中から聞こえた。

「そこかっ!」

 インユェには、それが人間のたてた物音だという確信があった。野生の生き物ならば、このように不用心な個体は直ぐさま他の獣の餌に成り果てるしかないからだ。
 きっと、まさか自分達以外の人間がこの星にいるとは思わずに、驚いて隠れたのだろう。もしかしたらお世辞にも小綺麗とは言えない自分の身形を見て危険を感じ、咄嗟に身を隠したのかも知れない。

 ――ならば、期待には応えてやらないといけないな。

 どうやって痛めつけてやろうか。どうやって命乞いをさせてやろうか。どうせこちらは失うものは何も無いのだ。折角だから、どうにも胸くその悪いこのもやもやが晴れるまで、散々付き合ってもらおうじゃないか。
 そんなことを考えて、藪の中に分け入っていく。途中、茨のような棘が頬を傷つけたが、ほとんど気にならなかった。
 すぐそこに迫った暴力への期待に身を委ねたインユェは、興奮に頬を赤らめて、鼻息も荒く藪を進んで行く。

 そして、太陽の光が、ほとんど姿を隠すほどに深い藪の中で、彼は見つけた。

 それは、少女だった。
 黒い、長い髪。陶器のように滑らかで白い肌。山岳民族が好むような粗末な衣服。
 どこをどう見ても、金持ちの娘には見えない。少なくとも、あんな大がかりな仕掛けをしてこの星を隠すような、大馬鹿の金持ちの娘には。
 そんな少女が、まるで茨に守られるようにして、安らかな寝息を立てて眠っていた。



[6349] 第二十七話:The Other Day, I Met a Bear
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/09/23 12:13
 足跡は、意外と早く見つかった。
 淡々と続くその足跡は、山道を登り、川を渡り、木に登り、まるで無邪気な少女の様子を物語るように続いていた。
 いつしか森は開け、地面は土から岩場に代わり、道は険しさを増し。
 最後に、崖があった。
 轟々と、水が岩とぶつかる音が、地の底から響いてくる。
 昼間であっても底を見通すことも出来ないような、深い、深い崖の縁。
 そこで、足跡は途切れていた。
 引き返した跡はおろか、そこを降った跡すらない。
 無論、身を隠せるような草むらも。
 そして、そこに少女の姿がないならば。
 残された選択肢は、一つだけ。
 少女は、そこから身を投げたのだ。
 理由など、分からない。
 もう、誰にも分からない。
 ただ、少女は既にこの世にはいないのだ、と、全てが少年に教えていた。
 涙は、無かった。
 嗚咽も無かった。
 拳を握りしめる、乾いた音だけが、あった。

「……行こう、エディ」
「……ああ」

 谷底から吹き上げる哀しげな風は、少女の魂を天へと運んだのだろうか。



 「あいつは、昼までには帰るって言ったんだ。そして今、あいつはここにいない。それなのにどうして平然としていられるもんか」

 そう言ってリィは小屋を飛びだした。
 昼食の用意を終えていたシェラは、リィを諫めるべきかどうか迷った。
 野山を歩いていれば時間の感覚を忘れることなど珍しいことでもないし、少し遠くに足を伸ばしすぎただけかも知れない。
 もう少しだけ待てば、きっと何事もなかったかのように、あの黒髪の少女はひょっこり顔を出すだろう。

『おや、シェラ、もう昼食の準備も終わらしてくれていたのか。これは悪いことをした。さぁ、これ以上料理が冷めないうちに頂こう。おいおい、リィ、きちんと謝っているじゃないか。頼むから機嫌を直してくれ……』

 そんな脳天気な台詞が、今にも扉の向こうから聞こえてくる気がする。

 ままあることではないか。
 普段慣れ親しまない大自然に興奮した子供が、時間も忘れて野遊びに興じる。
 彼の帰りを待つ両親はたいそう気を揉み、いよいよこれは捜索隊に救援を求めなければいけないという段になって、満足げな顔をした子供がひょこりと帰ってくる。
 両親は精一杯のしかめっ面で子供を叱り、内心で彼の無事を神に感謝するのだ。
 珍しいことではない。よくあることだ。

 しかしそれは、いわゆる一般的な少年少女の場合に限定される話である。
 シェラの知る、ウォル・グリークという男――今は何の因果か少女である――の性分は、その限定枠からは大きく外れる。
 あの『お化け屋敷の大親分』は、これぞ大事と普通の人間なら思うようなことに関しては意外なほど大らかなのに、逆にどうでもいいと思うような些末事ほど気を使っていた。
 山を一人歩きするというのは、危険な行為である。一度方角を見失えばたちまち遭難の危険がでてくるし、出張った木の根や大きな石に躓いて足を捻挫すればその場から動くことだって出来なくなる。
 その程度のこと、リィもウォルも承知の上だ。それでもウォルは自分一人で出かけた。そして、自分が約束した時間に遅れることで、仲間がどれほど心配するかが分からない彼女ではない。
 何かがあった、と考えるのが自然である。
 ならば、どう考えても正しいのはリィだ。
 シェラもリィを追おうとした。
 
「待って。街の中ならいざ知らず、こういう場所なら人捜しはエディの領分だよ」
「ルウ、しかし……」

 肩に置かれた手は温かく、自身を見つめる蒼玉の瞳はなお優しかった。

「それにね、シェラ。誰かがここで待っていないと、行き違いになったときに面倒なことになるでしょ。万が一、王様が怪我をして半死半生の態でここに辿り着いたなら、それを治療できる誰かも必要だ」
「不吉なことを言わないでください!」

 シェラにしてみれば、ルウが言うと冗談には聞こえないのだ。
 ルウはくすりと笑って、

「ごめんね。でも、そういう可能性だってないわけじゃない。なら、やっぱり誰かがここで待っていないと」
「……はい」

 シェラは、不承不承と頷いた。

「それに、二次遭難のこともある。シェラのことを馬鹿にするわけじゃないけど、エディや僕なら、あの程度の山の中なら絶対に迷わない。それだけは絶対だ。どんなに暗くなったって、真っ昼間に一本道を歩いているのと変わらないからね」

 山に親しんだ登山家などか聞けば『何を自惚れているんだ馬鹿者!』『山を舐めるな!』とでも雷を落としそうな台詞であったが、シェラは、この青年の言っていることが完全な事実であることを知っていた。リィは人の身でありながら、野生の狼と同等かそれ以上の身体能力と方向感覚を有しているし、ルウはそもそも人間では無い。
 誰にどの役を割り振るのが適当か、神ならぬ人間であっても明らかであろう。

「……では、陛下……ウォルが帰ってきたら、狼煙を上げます。原始的ですが、通信機器の働かないこの星ではそれが一番分かりやすいでしょう」
「うん。お願いするね、シェラ」

 見る人を安心させる人好きの良い笑顔を浮かべてから、ルウは先行したリィを追いかけて、小屋を飛び出した。
 一人残されたシェラは、最悪の事態に備えて動き出した。
 まずは熱い湯を沸かし、備え付けの医薬品の場所を確かめる。
 その後で、きっとお腹を空かして帰ってくるだろう黒髪の少女のために、冷めても美味しい料理の一つでも拵えておこうか。

「それにしても……一人残されるというのがこれほど侘びしいことだとは……」

 これが長い間、腕利きの行者として諸国を放浪した自分なのだろうかとシェラは訝しんだ。あの頃は、何時晴れるとも知れない暗闇の中で、心音と吐息を押し殺して一晩を明かすなど、どうとも思わなかったくせに。
 これは、堕落なのか。それとも変化なのか。
 シェラは、自分の問いに対して、気の利いた解答を用意できなかった。

 そして、日は沈み、月が昇り、月が沈み、日が昇り、再び沈んだ。

 こつり、と、靴底と木の床のぶつかる音がした。
 烟るような月光の中、うとうととしていたシェラは、文字通り跳び跳ねるようにして椅子から体を起こした。
 いつの間に眠っていたのだろうか。
 行者として、過酷な任務についていた頃の自分からは考えられない失態だ。
 舌打ちを何とか堪えたシェラは、急いで扉へと駆け寄った。
 その向こうに誰がいるかなど、考えるまでも無い。
 きっと、彼らが帰ってきたのだ。

『すまんすまん、シェラ、遅くなった。遠出をしていたら道に迷ってしまった。いやはや、やはりリィの真似などするものではないな』
『なにがいやはやだ。お前、本当に反省してるのか?シェラだって寝ずにおれ達を待っていてくれたんだぞ。ほら、さっさと謝れ』
『うむ。心配をかけたな、シェラ。今後軽率な行動は慎むから許してくれ』
『ほんと、心配したんだからね、王様。もし今度同じようなことをしたら、すぐにでもエディのお嫁さんになってもらうから覚悟しとくように』
『……すぐに、とはどういう意味だろうか、ラヴィー殿?』
『うんとね、今日から数えて十月十日後には、エディと王様の可愛らしい赤ちゃんが生まれてくるっていうことだよ』
『……それは全力で勘弁願いたいものだな』

 そんな、苦笑と安堵に満ちた会話が、すぐ目の前に待っている。
 だから、嘘だ。
 靴の音が、たった一人分しか聞こえないなんて。
 自分は夢を見ているのだ。
 暗い、暗い、絶望に満ちた夢を。

 ぎいぃ、と、錆びた音をたてて、扉が開いた。

「ただいま、シェラ」

 闇の中に、闇の青年が立ち尽くしていた。
 
「ルウ……」
「ごめんね」

 血の気の通わない顔に精一杯の微笑みを浮かべたルウは、そう言った。
 シェラは、ルウが何を言おうとしているのか、分かっていた。
 分かっていて、それでもなお問うた。
 信じられなかったのではない。
 信じたくなかったのだ。

「ルウ。二人は……」
「手遅れだった」

 何が、と尋ねることが出来れば、どれほどに幸福だっただろう。
 シェラは、頭から全ての血液が降っていく音を聞いた。
 
「そんな……」
「王様は、崖から落ちた。多分、自分の意志で」
「……」
「あの高さじゃあ、十中八九、助からない。それに、下は流れの速い川だった。遺体も見つからないと思う」

 その言葉を聞いてシェラが真っ先に感じたのは、疑念ではなく怒りだった。
 自分よりも大切な何かを侮辱された時にだけ感じる、はらわたを焼くような怒りだった。
 
「あの方が、御自ら崖に身を投げたと、そう仰るのですか!?」

 一組の掌が、木の机を強かに叩いた。
 頑丈な机が大きく撓むほど、強烈な一撃だった。
 大きな音が、静まりかえった山小屋に響いた。
 シェラは、喘ぐような呼吸を繰り返している。目尻には薄く涙すら浮かべている。
 ルウは、ぽつりと、石をこぼすように呟いた。

「……崖の縁に、足跡が一つ。引き返した形跡は勿論、そのまま崖を這い降りた形跡も無かった。僕やエディみたいに空を飛べるならともかく、それが出来ないはずの王様はどうやってその場から姿を消したんだろう。飛び降りた、以外の方法があるなら教えて欲しい」
「だからといってッ!」

 ルウは目を伏せたまま、シェラの怒りに身を晒していた。
 きっとこれは、大切な人の死を自分以外に伝える役目を負った者の義務なのだ、と知っていたからだ。
 聡明なシェラが、そのことに気付かぬはずがない。ならば、シェラは全てを承知で故のない怒りをルウにぶつけているのか。それとも、ここまで激した己の感情を制する術を、未だ知らないのか。
 後者だろうかと、ルウは思った。あちらの世界では暗殺者として数多の罪無き人を殺めた経験のあるシェラも、実のところ二十歳程度の若者だ。烈火の如く荒ぶる感情を前に為す術が無かったとして、誰がそれを責めることが出来るだろう。
 シェラは、不安定な語勢で続ける。
 
「あの方が自分から世を儚まれた?敵の手に落ち、虜囚の辱めを受け、獣が如く鎖に繋がれ、それでも全てを諦めなかったあの方が?あげく、度重なる拷問と飢餓に衰弱した体で、しかも素手で飢えた猛獣の前に引き出されたときも、俯くことなく前のみを見据えていたあの方が、自ら死を選んだ?一体何故に!?」
「なら、夜道に足を踏み外したのかも知れない。突然、強い風が吹いたのかもしれない。誰かに突き落とされたことだってあるかも知れない。でもね、シェラ」

 ルウは、決定的な一言を口にした。

「王様は……ウォルは、もうこの世にはいないんだ」



 手札の正確さは、この際残酷だった。
 凶暴だったと呼んでもいい。
 束ねられたカードを何度も切り、分厚い束の中から無作為に数枚のカードを抜き取る。
 絵柄は、全てが一緒だった。
 数学的な確率論に置き換えるのも、馬鹿馬鹿しい程の確率だ。
 その全てが、単一の事象を表していた。
 この絵柄だけは、どうやったって読み間違いようがなかった。
 あの日、アマロックを占った手札は、この絵柄だった。だから、どれほど急いだって間に合わないことを、青年は知っていた。
 あの日、キングを占った時も、同じ絵柄だった。そして青年は、彼の人の魂を己の体の内で慰めた。
 ずっと、そうだったのだ。
 大きな鎌を担いだ、死に神の模様。
 それは、幼児とて見間違いようのない、死の具現だった。

「……エディ。もう止めよう。これ以上、何度占ったって……」
「もう一度。もう一度だけ頼む、ルーファ」

 虚ろな瞳でそう呟いたリィの手には、別れの際にウォルが携えていた、武骨な鉈が握られている。
 崖の下、岩を削るような激流の中で、二人が苦労して見つけたものだった。
 幸運にも、僅かながらに流れが穏やかな場所に転がった大きな岩と小さな岩の間に挟まっていたのだ。
 刃は曲がり、柄の部分は完全に拉げている。
 底を見渡すことすら出来ないような断崖絶壁から落ちて、岩石質の川底に叩き付けられたのだから無理もないだろう。
 それは、鉈を人の体に置き換えても同様の、いや、それ以上に酸鼻を極めた状態になるのは明らかだった。
 肉は潰れ、骨は砕け、血が飛び散る。
 およそ、人の形を残さぬ死。しかし、宇宙船の爆発に巻き込まれたとか、跡形も残さないのとは違う。人が最も目を背けたくなる、死。
 実際に残されていたのは、僅かな血痕だけだった。
 激流が全てを洗い流したのは、寧ろ少女にとっての救いだったのかもしれない。
 しかし、残された人にとってはどうだろう。
 目の前から、愛する人が消えた。
 死体も残さずに、消えた。
 ならば、どうしてその死を信じることが出来るだろうか。
 それが人の弱さで、だからこそ人の最も美しいところだと、ルウは知っていた。
 もう一度、手札を丹念に切った。
 こっそりと一枚の札を抜こうかと思ったが、それでも出てくる結果は同じだろう。絵札の柄が代わり、少し表現が遠回しになるだけだ。
 そのまま、切った。
 そして、数枚の札を抜いて、並べた。
 先頭に来たのは、大鎌を携えた、死に神だった。

「エディ……」
「……もう一度。もう一度だけ……」

 鉈を握りしめるリィの手から、赤い液体が滴っていた。
 ルウはそれを、まるでリィの痛んだ心が流す、涙のように感じた。
 詰まるところ、自分が流す涙と同義語だ。何故なら目の前の少年は、自分の心の半分を持っている。
 唇の端を噛んだルウは、もう一度、手札を切った。
 そして、カードを並べて、先ほどと同じ落胆を味わった。

 今度は、もう一度、と、懇願する声は響かなかった。

 ルウは、無力だった。神にも例えられる彼が、自分が如何に無力な存在かを噛み締めていた。
 あの時、自分の数少ない友人にして、魂の相棒たるリィの父親が、無惨に殺された時。
 ルウに出来たのは、怒りと無念に震える幼子の魂がこれ以上汚れることのないよう、抱き締めてやることだけだった。
 余命幾ばくもない母親が、生まれたばかりのジェームスを自分に託した時。
 ルウに出来たのは、哀しい定めを背負った魂が迷うことの無いよう、微笑って見送ることだけだった。
 きっと、今回もそうなのだろう。
 絞り出した声は、酒で灼けたようにしゃがれていた。

「……エディ。もう止めよう。シェラだって待ってる。いつまでもここにいるわけには、いかないよ」

 それに応えるリィの声は、しかし、はっきりと穏やかなものだった。

「ああ、ルーファの言うとおりだな」
「……じゃあ」
「だから、ルーファだけ、先に戻ってくれ」

 すくっと立ち上がったリィは、手を庇にしながら、太陽を見上げた。
 
「ルーファなら、今から帰れば、日が暮れる頃にはあの山小屋にたどり着ける。そうすれば、ダンの迎えにもぎりぎり間に合うだろう」
「エディ?」
「おれは、あの馬鹿を連れて帰るってシェラに約束した。だから、きっちりと連れて帰る。例えそれが、どんな姿だったとしても」
「無茶だよエディ!こんな急流に流されたんだよ?見つかりっこない!それに、それに、もしも見つかったって……」

 ――それは、もう、王様じゃない。

 ――それは、人の形をした、それとも人の形を辞めてしまった、肉の塊だ。

 ――それは、誰よりも、君が一番理解しているんじゃないのか。

 ――アマロックを目の前で失った、君が。

 ルウは、舌の上に乗った言葉を、辛うじて飲み込んだ。
 リィは微笑った。
 相棒が何を言おうとしているのかが、痛いほどに分かったからだ。
 そんなリィを見上げながら、ルウは、

「……手札は万能じゃない。手札が間違わなくても、僕がそれを読み間違うことはあり得るんだ。それでも、僕には、王様が生きているとは思えない」

 リィは無言で頷いた。

「なら、どうして……」
「自分でも馬鹿なことを言ってるって分かってる。だから、ルーファは先に戻ってくれ。シェラも連れて帰って欲しい」
「……エディが帰らないのに、あの子がこの星を離れるはずがないでしょ」
「無理矢理にでも連れて帰ってくれ。あいつ、作品の提出期限だって近いのに、無理して付き合ってくれたんだ。これ以上迷惑をかけるわけには、いかない」
「……なら、エディも一緒に帰るべきだ。ウォルがこんなことになって、その上エディも帰ってこないとなれば、アーサーやマーガレットがどれだけ心配するか。二人だけじゃない。ダンも、キングもジャスミンも、君を知ってる全ての人が心配する。エディ、君は王様の世界に行って、変わった。君はアマロックを失った直後のように、この世界に一人ぼっちじゃあないんだ」
「ああ、知ってる」

 座り込んだままのルウが仰ぎ見たリィの顔は、哀しいほどに穏やかな笑顔だった。

「だからこそ、だよ、ルーファ。おれ自身、全く実感は無いんだけど。もしも、おれを変えたのがあいつならさ、そのあいつを、冷たい水の中でひとりぼっちにさせておくわけには、いかないじゃあないか」



 宇宙船《ピグマリオンⅡ》の中は、そのまま服喪の空気に満たされていた。
 船員は皆、ウォルのことを知っていた。
 最初こそ顔立ちの整った少女だな、程度の認識であったが、アクションロッドで叩きのめされ、飲み比べで負けて、賭け事でこてんぱんにされて、その顔は忘れようもないほどに、記憶に焼き付けられた。
 なのに、不思議と憎らしく思えない。
 どうしたって浮かんでくるのは、してやられた自分に対する苦笑いと、少女の微笑みにつられた、軽やかな笑顔だけ。
 まるで、遠い昔に取っ組み合いの喧嘩をした――あるいは共に悪戯を企んだ――悪ガキという名前の親友を思い出したときのように、少女を思い出している。
 思い出せば、必ず笑っていた。
 痛い目にしかあわされたことはないなずなのに、屈託のない、輝くような微笑みに、いつしか心を奪われていたのだ。
 その少女が、あの太陽のような少女が、既にこの世にはいないという。
 誰もが、それを信じなかった。きっと、たちの悪い冗談だろうと。
 しかし、ルウのことを知っている船員は、彼がそういう冗談を、どれほど酒に悪酔いした時だって絶対口にしないと知っていた。
 だから、ウォルという、まるで少年のような名前の少女は、天に召されたのだ。
 別に、悲しむべきことではない。
 宇宙に生きる男達にとっての『死』とは、町内会の当番のようなもの。いずれは自分のところに回ってくるし、どれほど気が進まなくても引き受けざるを得ない。
 あの少女には、それが少し早すぎただけのことだ。
 気の良い船員は、少女の魂の安らかなることを願って、静かに杯を傾けた。
 不謹慎だと眉を顰める者もいるかも知れないが、彼らにとってはこれが死者を悼む最上の礼儀なのだ。誰にも文句を言われる筋合いはない。
 だが、より死者に近しい者達は、杯を傾けて故人を偲べるほど、恵まれた立場にはいなかった。例えばそれは少女の友人であり、あるいは彼女の一時的な保護者を引き受けた大人などである。
 
「一刻も早く、ご両親に知らせるべきだろう」

 心持ち青ざめた顔で、ダンは言った。
 船長室にいるのは、《ピグマリオンⅡ》の船長たる彼と、ルウ、そしてシェラだけである。
 この話を聞いて最初こそ激しい動揺と遣り所のない怒りに我を忘れたシェラであったが、今はその反動か、魂が抜けたように穏やかだ。常でさえ白磁のように色の薄い肌は、白さを通り越して薄青くさえあるように見える。
 ルウは、いつも通りの様子だ。それとも、いつも通りを装えていると、そう言う方が適切だろうか。
 そんな二人を前にして、年長者たるダンは淡々とした口調で言った。彼も、仕事柄、こういった事態は初めてではない。

「私はヴァレンタイン夫妻には何度かお目にかかったことがあるが、あの方々は養子であっても、いや、だからこそ、自分の子供と変わりない愛情を注げる人達だ。ウォルが死んで、悲しまないはずがない。我々は彼女の死について少なからぬ責任を負わなければならない以上、知らせるのは、早ければ早いほど良いはずだ」

 至極もっともな意見だった。
 アーサーとマーガレットの為人を知るルウは、深く頷いた。

「僕もそう思う。でも、少しだけ待って」
「どうしてだ」

 ダンの短い詰問に、ルウは応えようと口を開いた。
 
「それは――」
「私が、無理を言いました」

 ぼそり、とシェラが呟いた。

「シェラ、君は――」
「ダン船長。私は、アーサー卿とマーガレット夫人には、言葉で言い表せないほどお世話になりました。君さえ良ければ自分達の子供にならないか、とさえ言ってくれたのです。そして私は、ウォルにも深い恩義があります。私の魂を救ってくれたのはリィですが、それもあの方あってこそなのですから」

 だからこそ、ウォルの死は、自分が直接伝えたい、とシェラは言った。

 本来ならば、その役目は自分以外の誰かが――輝くような金髪と、緑柱石色の瞳を持つ少年が――引き受けただろう。しかし、リィはシェラを大学惑星に帰して、自分はヴェロニカに残った。
 余人が聞けば、逃避だと、責任逃れだと罵るかも知れないが、シェラは、これがリィなりの筋の通し方だと理解していた。
 リィは、本当にウォルの死体が見つかるまで、それともはっきりとした遺品が見つかるまで、あの星を離れないだろう。それが砂漠の中に落とした指輪を見つけることよりもなお困難だったとして、あの少年はそれを諦めない。例えそれが、何年、何十年という歳月を費やしてなお不可能な絶事であろうとも、だ。
 どことなく、リィには相応しくないような気もした。
 これは、仮初めとはいえ夫婦の契りを結んだ夫への、最後の義理立てなのだろうか。もしくは自分の過ちで死なせてしまった戦友に対する後悔。それとも、彼は本当は、ウォルが死んだことを信じていないのかもしれない。
 全てが間違えている気がした。同時に、全てが正鵠を射ているような気もする。
 シェラは、際限のない懊悩を振り切るように、拳を強く握りしめた。

「……とにかく、私は一度大学惑星に戻り、ベルトランに赴き、卿と夫人にウォルの不幸を伝えなければなりません」
「その後は、どうするのかね?」
「そんなことは決まっています、ダン船長。私の居場所は、あの人の隣にしかありませんから」

 シェラは薄く笑って、船長室を後にした。
 ダンは、シェラの真っ直ぐに伸びた背中を眺めて、痛ましく思った。こんな時でも背を曲げることすら許さない少年の強さが、かえって憐れを誘ったのだ。

「それにしても……」

 自分と同い年の少年少女を指して『あの人』『あの方』とは不思議な言い様であるが、彼らに、いわゆる常識というものがどれほど歯が立たないかを知っているダンは、口をつぐんだ。
 辛うじて苦笑と呼べる表情を浮かべたダンは、

「ルウ、お前はどうするんだ」

 おそらくは、誰よりも罪悪感に押し潰されそうな、黒髪の青年に声をかけた。

「あの星に滞在している間は、お前が引率者だったんだ。無論私も含めてだが、事故そのものに関わっていなかったとしても、何らかの責任は負わざるを得ないぞ」
「うん、そうだろうね」

 困ったような笑みを浮かべて、ルウは言った。

「多分、学校は辞めなくちゃならないし、金銭的な賠償責任だって負わなきゃならないだろうね。当然だよ。でも、そんなことよりも、アーサーやマーガレットに事情を説明する時のことを考えると、何十倍も憂鬱だ。人攫いと罵られるのは構わないけど、あの二人に『人殺し』と、『娘を返せ』と言われたら……きっと、すごく痛いんだろうなぁ」

 ダンも、同じことを考えていた。
 突然、無理矢理に大切な人を奪われた遺族が、その事故の責任者に向ける糾弾の視線は、凶器そのものだ。
 怒り狂ってくれるならまだ救われる。一番辛いのは、あらゆる感情を失ったように見える、ガラス玉のような瞳だろう。
 その、ガラス玉のように透明な瞳を向けながら、辛うじて耳に届くくらいの小さな声で、彼らはぼそりと呟くのだ。
 何故、あの人は死んだのか、と。
 何故、あの人は死ななければならなかったのか、と。
 あの視線を向けられて平然としていられるのは、人間の皮を被った悪魔か鬼かに違いないとダンは確信している。
 そして、ほとんど間違いなく、遠からぬ未来の自分は、その視線に晒されるのだ。無論、一切の遮蔽物も無しに。
 ダンは、思わず大きな溜息を吐いていた。考えるだけで憂鬱な、神経に鑢を掛けるような未来図だ。
 これなら安定度80のゲートに船を突っこむ時のほうがいくらか気が楽だと、若干現実逃避的な思考をダンが始めた時、

「ごめんね、ダン。僕達に付き合ったせいで、とんでもないことに巻き込んじゃった。どんなふうにお詫びをしても許されることじゃないけど……本当に、ごめんなさい」

 黒髪の青年は、深々と、これ以上ないというほどに深く、頭を下げていた。
 それを見たダンは、少しだけ鼻白んだ様子で、

「……お前が厄介事を持ってくるのは今に始まったことじゃない。それに、今回に限って言えば、お前が悪いわけじゃない。気にするな」

 ダンは、項垂れた様子のルウの肩を一つ叩いて、船長室を後にした。
 一人残されたルウは、常闇に染まった強化アクリルガラスの外を眺めて、この世界のどこかを漂っているであろう、リィの婚約者の魂を想って目を閉じた。



 大学惑星、ティラ・ボーンは、お祭り騒ぎだった。
 TBO、ティラ・ボーン・オリンピックと呼ばれる一大スポーツイベントが催され、そのおこぼれを与ろうとばかりに、星中のあちこちで大小様々なイベントが開催されている。
 普段は学生やその家族、あるいはこの星で働く教育機関等の職員以外、めったに見ることのない人間達――例えばマスコミ関係者や観光客など――も数多く、あらゆる場所で人の数が倍増している。
 これを見て、血気盛んな若者達が喜ばないはずがない。浮き足立つ街の空気に誘われるようにして、気の合う同性の仲間を、あるいは気になる異性の友達を連れ出し、学舎の外に繰り出すのだ。
 そして、普段は厳格な学校側も、こんな時ばかりは多少のはめを外すくらいは大目に見る。地中から吹き出すマグマのような活力とエネルギーを閉じ込めることが、如何に困難で如何に危険なことか、老獪な彼らは知り尽くしていた。
 無論、はめを外しすぎた者達には、放校処分も含めたところで、厳しい罰が待っている。学生達もそれを弁えているから、傷害事件や薬物事件など、深刻な非行行為はここ十年発生したことはなかった。
 しかし、そういうふうに浮かれ騒ぐことができるのは、あくまで外から祭りを見学出来る、ある種の幸せ者だけである。
 祭りを企画する者や運営する者、あるいは監督する者達は、喧噪の中に飛び込んでパレードに興じる余裕などは無い。各所で発生する小火を、小火騒ぎのうちに消し止めるために躍起である。
 ティラ・ボーンという星が『連邦大学』という異名を持つとおり、この星で最も多くの割合を占める人間は、学生達である。従って、TBOの運営自体も学生の主導によるところが大きい。予算の決定や警備など、極めて重要な一部を除けばその運営は学生に任されていると言っても過言ではない。そんなところに、他の惑星のオリンピックとは違う点を見い出すことが出来る。
 運営に携わる各種委員会に所属する学生達は、お祭り騒ぎを羨む暇もなく東奔西走しているわけだが、それ以外にも、この祭りを楽しむどころではない心持ちの者もいる。
 他でもない、TBOの出場選手だ。
 それも当然だろう。何せ、これは普通のスポーツ大会とはわけが違う。種目と階級によっては、下手なプロスポーツ中継などよりも、遙かに注目度の高い試合もあるのだ。
 例えば、サッカーやベースボール、アクションロッドやモータースポーツなどは特に人気が高く、そのトップレベルの選手の中には、いまだ学生でありながらスポンサーとプロ契約を結んでいる選手も少なくない。
 逆に、そんな一握りのエリート選手と同じ舞台に立ちながら、しかし彼らより低い評価に甘んじているような選手にとって、TBOは自分の力を世に示す絶好の機会といえるから、鼻息を荒くする選手が増えるのも当然である。

 連邦大学中等部、ウェルナール校に所属するジェームス・マクスウェルなども、そんな選手の一人であった。彼は数ある競技の中でも最も層の厚い競技の一つであるアクションロッドの中等部門で、見事ウェルナール校、アイクライン校等を含んだ学区の代表の座を勝ち得たのである。
 もっとも、彼は将来的にアクションロッドの世界で食べていくつもりは毛頭無い。彼は、尊敬する父親と一緒に、船乗りとして宇宙を駆けてみたいと思っているのだから。
 ではそんな彼が何故アクションロッドの練習に血道を上げたかといえば、その理由は一つではない。

 将来船乗りとして宇宙に出たときに護身術として役立つから、という理由。

 一刻も早く強い男になって、母親をあの男(実は扮装したジャスミンであったわけだが)から取り戻したい、という理由。

 しかし一番大きかった理由は、少し前にジェームスを襲ったとある事件だろう。
 その事件の中で、ジェームスはトリジウム密輸組織のアジトに潜入し、武装した兵士と戦わざるを得なくなった。
 当然、ただの中学生であるジェームスに為す術などあるはずもない。飛び交う銃弾の中で震え居竦むしか出来なかった彼が生き残ることが出来たのは、ヴィッキー・ヴァレンタインという、彼の友人の活躍があったからである。
 そして、そのヴィッキー・ヴァレンタインは、騒動の中でいくつもの怪我を負った。ジェームスが見れば、どうして命があるのか不思議に思える程の重傷もあった。
 ジェームスは、そのほとんどが、自分を庇って負った傷だということを承知している。そして、自分がヴィッキー・ヴァレンタインという少年に対して、到底返し得ない程の借りを作ってしまったことも。
 その時、彼は、偉大なる父に向かって、誓約したのだ。
 いつか、自分はヴィッキーの力になる、と。
 命を賭けて、受けた恩を返す、と。
 
 ――いつの日か、あの少年が困っているときに、手を差し伸べられる自分でありたい。

 だからこそ、ジェームスは真剣に練習に取り組み、晴れて学区代表という栄誉を勝ち取ったのだ。
 だが、それは栄誉であると同時に、学校の代表として無様な姿は見せられないという、強烈なプレッシャーにもなる。
 プレッシャーに押し潰されて試合を始める前に己に負けるか、それともバネとして奮起し試合に備えるか。勝負は試合の前に始まっている。
 ジェームスは、翌日に試合を控えたその日、試合会場のある大陸から飛行機とバスを乗り継ぎ、自分の住処であるフォンダム寮に帰ってきた。
 何がしたかったわけではない。ただ、ヴィッキー・ヴァレンタインに、リィに会いたくなったのだ。
 彼ならば、今の自分を見て、何と言うだろうか。
 たかが試合に緊張する自分を見て、鼻で笑うかも知れない。それとも激励の言葉をくれるだろうか。実のところ自分の試合などにはあまり興味を持っていないかも知れない。それも十分にあり得る。
 どれでもよかった。どれでも、リィに会わずに明日の試合に挑むより、素晴らしい結果が得られる気がした。
 だからこそ、わざわざ試合の前日に遠く寮まで足を運んだというのに、リィは不在であった。
 二、三日前から休暇を取り、どこかの惑星でキャンプをしているらしい。
 
「それで、いつ戻ってくるんですか?」
「事前の休暇申請の予定なら昨日か今日辺り帰ってくるはずなんだけど……まだ寮には帰ってないみたいねぇ」

 学生課の女性職員は、メガネをずらしながら寮の退出記録を見て、そして言った。

「一緒に行ってるフィナ・ヴァレンタインも、シェラ・ファロットも帰ってきてないみたいだし……休暇の延長をするなら早く手続してもらわないと困るんだけどねぇ……」
「そうですか……ありがとうございました」

 ジェームスは、がっくりと肩を落とした。
 苛立ち紛れに、飲みかけのパックジュースを一息で飲み干す。
 そして、なおもぶつぶつと続ける職員に礼を言って、事務室を立ち去ろうとすると――

 開いた扉の向こうに、黒い壁が出来ていた。

 ――あれ。こんなところに壁があったら、出入りが出来ないじゃないか。

 そう思ったジェームスだったが、直後に気がついた。

 ――あれ。俺は確か、この扉から入ってきたはずなのに。

 事実関係の不整合に一瞬茫然とした直後である。
 その壁が、どこかのんびりとした声で、人の言葉をしゃべった。

「――あのう、すみません、学生課ってここでいいんでしょうか」

 ジェームスは、ぎょっとして、思わず後退った。
 そして、その物体の全体像を視界に収め、やっとのことで理解した。
 壁だと思ったのは、黒いスーツだった。正確に言うなら、黒いスーツを纏った、とてつもなく巨大な人間だった。
 ジェームスが思わず天を見上げると、そこには扉を窮屈そうに潜った、厳めしい大男がいた。
 大きい。尋常ではなく大きい。
 ジェームスの父親、ダン・マクスウェルは、常人と比べれば相当に立派な体格を有している。それに、父の知人には、天を突くほどに大きな人もいる。
 その彼らと比べても、目の前にいる男は、遙かに大きかった。それは縦にも、そして横にもだ。
 のっぽ、という印象はない。背が高い、という印象もない。無論、肥満という印象もない。
 ただ、巨大なのだ。ラグビーやアメリカンフットボールの前衛選手をそのまま拡大印刷したかのように、大きく、幅広く、そして分厚い。
 加えて、その巨大な体の上に乗っかっている顔も、尋常では無かった。
 感情を感じさせない、まるで鑿で切り込みを入れたように細い目と、その奥の小さな瞳。彫りは深い造りなのに、目も鼻も口も、顔のパーツ全てが小さい。
 四角くエラの張った輪郭はコンクリートブロックのようで、その周囲を短く刈り込まれた蜂蜜色の髪が覆っている。頬はそげ落ち、無駄な肉の少なさは病的ですらあった。
 異相であった。凶相と言ってもいい。
 果たしてこれは人間かと、ジェームスは思った。熊か象の化け物だと言われた方が、しっくりくる。
 その思いは事務所にいた全ての人間が共有したものだったのだろう、先ほどまで忙しく手を動かし声を飛ばしていた職員の全てが、時間が止まったかのように動かない。存在を忘れられた電話が、空しく呼び出し音を鳴り響かせている。
 事態の原因が自分にあることを承知しているのだろう、男はのんびりと辺りを見回し、申し訳無さそうに腰を屈めて、そして言った。

「あの、ほんとにすみません。……ここ、学生課じゃなかったでしょうか?」
 
 何とも心細そうなその声をきっかけに、止まっていた時間は動き出した。
 先ほどジェームスの対応に出た女性職員が、ずれたメガネを掛け直し、応対のために窓口に出る。

「あ、あの、どういったご用件でしょうか!?」

 声が若干裏返っていたのは隠しようもなかったが、しかし彼女の応対は賞賛すべきものだった。悲鳴を上げなかっただけでも大したものだ。
 しかし、彼女の手はテーブルの下に設えられた非常警報ボタンに、しっかりと添えられていた。いつこの大男が逆上して暴れ出しても、即座に警備員に知らせられるようにするためだ。無論、駆けつけた警備員がこの大男を取り押さえることが出来るかどうかは、全くの別問題である。
 全職員の視線が集中する中、事務室の出来るだけ端っこのほうを歩いた大男は、窓口に立つ女性職員を前にして、やはり申し訳無さそうに腰を屈め、片方の手で頭を掻き、もう片方の手を懐に入れた。
 部屋全体に、緊張が走った。
 女性職員は、汗ばんだ指先で、非常警報ボタンを半ば押しかけた。
 
「えっと、私はこういう者なんですが……」

 懐から取り出されたのは、男の掌からすればあまりに小さな、一枚のカードだった。
 男の公的な身分を証明する、身分証であった。
 だが、そのカードの効果は十全に発揮されたとは言い難い。
 何せ、内容を確かめる前に、緊張の極みに達した女性職員が泡を吹いて卒倒してしまったのだから。

「ああっ!?大丈夫ですか!?」

 くらりと崩れる女性の体を咄嗟に支えた大男は、大いに慌てた声でそう言った。
 彼にしてみれば、それは女性を助けるための行為で、それ以外の何物でもない。
 だから、彼にとって不運だったのは、彼の紳士的な行為が第三者の視点から見れば、突如現れた凶悪な暴漢が憐れな女性に襲いかかり、気絶させたようにしか見えなかったことだ。

「貴様、何をするっ!離れろ!」

 義憤と正義感に駆られた男性職員が、大男に飛びかかった。
 おそらく何らかの護身術の心得があったのだろう、体格のいい男性職員(無論、大男と比べれば大人と子供程度にしか見えない)は大男に向かって体当たりをかまし、パンチやキックを次々と放つ。
 しかし大男は、そもそも自分がそんな攻撃に晒されていることに気がついていないようで、慌てた様子で気を失った女性職員を抱え上げ、手近にあるソファに運ぼうとする。
 当然、この紳士的な行為も、第三者から見れば、憐れな女性職員が凶悪な暴漢に誘拐されそうになっているふうにしか見えない。
 ついに、誰かが非常警報ボタンを鳴らした。大きな警報音が鳴り響く。
 時を置かずに警備員が駆けつけ、何があったのか、近くにいる職員に詰問する。

「あ、あの大男が突然ケイシーを襲って!は、早く捕まえてください!」

 金切り声と怒号が錯綜する。
 正しく修羅場であった。
 ジェームスは、半ば惚けたような様子で、その光景を眺めていた。
 一体何が起こっているのか、分からなかった。

「君!君は離れていなさい!」
「すぐに部屋から出て!」

 ジェームスは、警備員に押し退けられるようにして、部屋の隅の方に追いやられた。

「さぁ、観念しろ!」
「大人しくしろ、化け物め!」

 警備員が、金属製の警棒を振り回す。
 それが男の腕やら腰やらにぶつかって、寒気のするような音が辺りに響く。

「あの、違うんです!俺、何もしてないです!それよりも、早くこの人を医務室に……!」

 悲鳴のような声が聞こえるが、誰も耳を貸さない。
 大男は、倒れた女性職員をかばうように、その上に覆い被さっていた。
 警備員はその上から、警棒や靴底で、容赦なく大男を痛めつけていた。
 事態を遠巻きに眺めていたジェームスは、流石に何が起きているか、気がついた。
 大男は何も悪いことはしていない。ただ、あまりにも全てのタイミングが悪すぎただけなのだ、と。
 助けなければ、と、ジェームスは思った。

「やめろよ!その人、何も悪いことしてないだろ!」

 人垣に向かって、精一杯の大声で叫んだ。
 しかし、怒号が飛び交いけたたましく警報の鳴る中で、少年の声は誰の耳にも届かなかった。
 ジェームスは、叫んだ。
 何度も叫んだ。
 業を煮やして人垣の中に突っこんだりもしたが、容赦なく弾き出されるだけだった。
 その間も、大男に対する暴行は続いていた。亀の姿勢に丸まった大男の後頭部や背中に向かって、警棒や靴の踵が容赦なく振り下ろされている。

 ――このままじゃあ、あの人は殺されてしまう。

 ジェームスは、ほとんど泣き出しそうになった。

 ――誰か、誰か、いないのか。

 縋るように、辺りを見回す。きっと、金色の、柔らかにウェーブのかかった髪の毛で飾られた頭を、探していた。

 ――誰か、誰か。

 ――父さん、ルウ、ヴィッキー、誰でも良い。誰か――

「一体、これはどうしたんですか、ジェームス!?」

 柔らかな、聞く者の耳に心地良い、声。
 ジェームスは、それが誰の声が、知っていた。
 振り返ると、そこには、色素の薄い銀色の髪をした少年がいた。

「シェラ!」

 目を丸くした美貌の少年は、手近にいた知り合い――ジェームスに、事態の説明を求めた。

「この騒ぎは一体……?」
「助けて!あの人、何も悪いことをしてないのに、このままじゃあ殺されちゃう!」

 何とも要領を得ない説明だったが、恐慌を来していたジェームスにそれ以上を求めるのは酷というものだろう。
 シェラは咄嗟に、己のなすべきことを悟った。とにかく、この混乱を収拾することが第一のようだ。

「失礼」

 シェラは、ジェームスの手から、空になったジュースパックを奪い取り、刺さったままのストローから、思い切り息を吹き込んだ。
 ぱんぱんに膨らんだそれを地面に落として、

「ジェームス、耳を塞いでください」

 ほとんど時間的な余裕はなかったが、ジェームスは素直に従った。
 しろ、と言われれば素直に従う。それが非常時であれば尚更だ。
 一連の事件で、ジェームスは確かに成長していた。
 そんな彼をきちんと確認したかどうか。シェラは、地面に落ちた紙パックを一息で踏みつぶした。
 刹那、耳を劈くような破裂音が、事務室に響いた。

「何だッ!?銃撃か!?」
「爆発物か!?」

 そんな声に、事務室中の人間が頭を床に伏せた。
 そして、警備員が一斉に、銃を構えながら振り向くと、

「――どうも、こんにちは。一体何があったんですか?皆さんでこんなに大騒ぎして」

 にこやかな、天使か女神と見紛うほどに美しい子供が、両手をばんざいさせた体勢で立っていた。
 呆気にとられたのは警備員だけではない。その場にいた全員が一様にシェラのほうを見つめ、大きく口を開けていた。



「おお、痛てて……」

 顔中に小さな青あざを作った大男――ヴォルフガング・イェーガー少尉が軽く呻いた。
 場所は医務室である。しかし、気絶した女性職員が運ばれたのとは別の、少し離れた別校舎の医務室だ。
 それは、ヴォルフが女性職員に危害を加えることを恐れての措置ではない。ただ、ようやく目を覚ました女性職員が再び気を失うことを防ぐための、やむを得ざる措置である。

「災難でしたね」
「ああ、全くだ。これだから、今まで一度も行ったことの無い場所に、一人で行くのは嫌なんだ」

 苦笑いを浮かべたシェラから冷たいおしぼりを受け取ったヴォルフは、所々に血が滲んだ大きな顔を、一息で拭い取った。

 あれから、事務室は更に大騒ぎだった。
 ヴォルフの無実を主張するジェームズと、女性職員が被害を受けたと主張する事務員達。
 事態を重く見た学校側は事務室に備え付けられた防犯ビデオを確認したが、どう見ても正しいのはジェームスの主張であった。大男――ヴォルフは女性職員が倒れるまで、指一本たりとて彼女に触れることはなかったのだ。
 加えて、ヴォルフの公的な身分が共和宇宙軍に所属する軍属であることが分かり、混乱に拍車をかけた。民間人を傷つけることを恐れて無抵抗に徹した軍人を、事実関係を碌に確認することなく、警備員と職員とでよってたかって私刑したのだ。
 日々刺激的な事件のスクープに飢えるマスコミなどが嗅ぎ付ければ、狂喜乱舞しそうな事件である。そうすれば、世間の非難は当然学校側の対応に集中するだろう。
 これは、事態が表沙汰になれば学長クラスの責任にまで発展しうる、大問題であった。
 現場責任者たる事務局長は、顔を青くして大汗を掻きながら、平身低頭の態でヴォルフに謝罪した。そして、お互いに公的な身分を持つ者同士なのだから、どうか内々にことを収めて欲しい旨を、あの手この手で諭したのだ。
 ヴォルフにとっても、これ以上身辺が騒がしくなるのは望まざるところだったので、適当なところで矛先は収めた。ただ、今後のことも考えて防犯ビデオのコピーは確保し、さらに思いっきり貸しを作るかたちではあったが。
 そのささやかなる対価として、今後の学内での自由行動を約束されたヴォルフは、満足げな吐息を吐き出してもう一度顔を拭った。彼は面倒な手続は大嫌いだったので、今後の任務において自由に校内に出入り出来るのは有難かったのだ。
 ごしごしと顔を拭うと、ほとんどの汚れは綺麗に落ちていた。
 こうしてみると、あれだけの暴行を加えられた割に、驚くほどに怪我が少ない。
 シェラは、やはり苦笑いしながら言った。

「やはり、あなたはお丈夫なんですね」

 これにはヴォルフも苦笑いである。

「生憎、それだけが取り柄でここまで生き残ってこれたようなもんだ。あの程度の攻撃で根を上げてたら、俺は今までに十回は死んでるよ」

 楽しげに会話する二人を、ジェームスは呆気にとられながら眺めていた。
 シェラやリィが、所謂普通の中学生とは何か違う、何かを隠していることは、ジェームスも薄々気がついている。
 しかし、シェラは、この大男と一体どこで知り合ったのだろうか。
 様々な想像を巡らせてみるが、しっくり来るものは一つとしてなかった。
 例えばこの大男が軍の秘密工作員で、リィ達がその警護対象とかならば……などとも考えたが、それはいくらなんでもスパイ映画の見過ぎというものだと、内心で自分の妄想をせせら笑った。
 実のところその妄想は、完璧な事実とはではいえなくとも、ニアミス程度はしていたのだ。だが、シェラもヴォルフもジェームスに事実を伝えるつもりはなかったから、妄想はあくまで妄想として片付けられ、ついにジェームスが事実を知ることはなかった。

「それより……えーっと、君の名前は何て言ったっけか」

 話題が突然自分に向けられて、ジェームスはどきりとした。
 ヴォルフは寝台に腰掛け、ジェームスは立ったままの姿勢だったのだが、それでもヴォルフの視線のほうがやや高い。
 気後れしたジェームスだったが、しかし胸を張って言った。

「ジェームス。ジェームス・マクスウェルです」
「ジェームス、ならジェムか。ありがとうな、ジェム」

 ジェームスは、この大男がにこりと笑うのを初めて見て、驚いた。
 普段は凶悪犯顔負けに人相の悪い男だが、一度笑うと何とも言えない愛嬌がある。例えば熊やらライオンやらの猛獣が笑うことがあれば、こんな表情をするのではないかという、無邪気な様子だ。
 思わずつられて笑いそうになったジェームスだが、あえてしかめ面を作って、言った。

「あの、ジェムっていう呼び方、止めてくれませんか」
「んっ、どうしてだ?」
「子供っぽくて嫌なんです、そう呼ばれるの」

 その言葉を聞いたヴォルフは、傍目から見れば気の毒そうなくらいに傷ついた顔をして、

「そうか。いや、悪いなぁジェームス。俺、そういうところに気が回らなくて、いつも怒られるんだよぅ。許してくれなぁ」

 そして、深々と頭を下げた。
 慌ててしまったのはジェームスである。
 彼はあくまで普通の中学生なのだから、こんなふうに真正面から大人に頭を下げられることなど今までになかったのだし、名前に対する拘りだって別にそれほど重要なものではない。言ってしまえば、ただの意地である。
 だから思わずジェームスは謝罪の言葉を口にしそうになったが、そこは思春期の少年特有の頑固さ、あるいは羞恥心があって、思わずそっぽを向いて膨れた振りをしてしまった。

「いいよ、別に。でも、これからは気を付けてよね」
「ああ、すまんな、ジェームス。それと、改めてありがとう。お前が俺を助けようとしてくれなきゃ、俺、ひょっとしたらあそこで死んでたかも知れん。本当にありがとう」

 そう言ってヴォルフは、ジェームスの両手を握った。
 ジェームスはどぎまぎしながら、

「そんな、お礼を言われるようなことはしてないって。騒ぎを収めたのだってシェラだし……」

 その言葉に、シェラは優しく微笑みながら、首を横に振った。

「そんなことはありませんよ、ジェームス。あなたが私に為すべきことを伝えてくれたからこそ、私も事態を収拾するために一役買うことが出来たのです。一番頑張ったのはあなたです」

 ジェームスは、惑星ヴェロニカでの事件でリィが入院した折に、シェラから厳しく叱責された。そのことから、彼にはほんの少しだけ苦手意識を持っていたのだが、だからこそ正面から彼に褒められると、背中のあたりがむずむずしてしまった。

「あ、あの、俺、これから用事があるから……」

 顔が赤くなっていることを自覚したジェームスは、逃げるようにして医務室から飛び出した。
 思い出したかのように、シェラが叫んだ。
 
「あ、そうだ、ジェームス!」

 部屋から出たばかりのジェームスは、廊下から顔だけを出す格好で、

「何だよ、シェラ」
「ヴィッキーからの伝言です」
「……あいつ、何て言ってた?」

 ジェームスは、ごくりと唾を飲み込んだ。
 そんな彼に、シェラは不敵な笑みを向けながら、こう言った。

「絶対に負けるなよ、と」

 その言葉を聞いたジェームスは、恥ずかしさ以外の感情で顔を真っ赤にして、

「――もちろんさっ!」

 思いっきり廊下を駆けていく音が、少しずつ小さくなって、やがて消えた。
 ヴォルフが、ぼつりと呟いた。

「いい子だな」
「ええ、本当に」

 そう呟くシェラの横顔は、ジェームスと同学年の少年のものとは到底思えない。
 ヴォルフは、彼らの事情を一から十まで聞いたわけではない。聞いたわけではないが、しかしこの恐るべき美貌を誇る少年が、見た目通りの存在ではないことを知っていた。
 
「それにしても無茶をしたな、シェラ」

 そんな事情の全てを飲み込んで、面白そうにヴォルフは言った。
 シェラは小首を傾げて、

「何がですか、ヴォルフ?」
「いや、あのとき、紙パックを踏みつぶしたことさ。あんなことしたら、警告無しで発砲されても文句は言えねえぞ」

 それを聞いたシェラも、面白そうに答えた。

「ご忠告痛み入りますが、あの方々の銃に狙撃されるほど、私の腕を錆び付かせた覚えもありませんので」
「警備員程度の銃なら、警戒するにも値しないと?」

 シェラは、軽く肩を竦めることでそれに答えた。
 そして言った。

「それを言うならヴォルフ。あなただって、もう少しやりようがあったのでは?あの人数であれば、好きなように制圧できたでしょうに」

 痛いところを突かれたヴォルフは、明後日の方向を見遣りながら、顎の無精髭をさすって、

「……お袋がよう、あんたは体が大きい、だから絶対に人に手をあげたらいけないってしつこく言うからさぁ」

 予想外の返答に、シェラはその大きな瞳を一層大きくして、それからくすくすと笑い始めた。
 ヴォルフは生来冗談が下手なたちであったので、こういう時にはほとんど事実を正直に答えることにしている。今回のそれも全くの事実であるから、笑われても仕方ないと思っていた。

「ふふ、し、失礼しました、ヴォルフ」
「いや、別にいいんだがな……なぁ、ところでシェラよ」

 むっつりとした様子で、ヴォルフは続ける。

「どうしましたか?」
「一つ聞きたいんだが……ウォル……あっと、ここではフィナ・ヴァレンタインで通してるんだっけか。ま、いいや。とにかく、あいつは今どこにいる?」

 シェラは、ぴたりと笑いを収めた。
 
 ――そうだ、この人は、陛下の、ウォルの特殊警護官の任務に就いているのだった。

 ならば事実を伝える義務がある、とシェラは思った。考えてみれば、ウォルがこの世界に来て、最初に深く関わった人間がヴォルフなのだ。少なくとも、彼には事実を知る権利があるはずだ。
 シェラは、居住まいを正し、自分を頭上から眺める視線に相対した。
 ヴォルフは、シェラの顔が青ざめたのを不審に思いながらも、彼が一体何を言っても狼狽することのないよう、心構えをした。

「……ヴォルフ」
「どうしたんだ、シェラ、改まった様子で」

 固い、そして擦れた声で、シェラは言った。

「陛下は……ウォルは、お亡くなりになりました」

 決定的な一言だ。
 シェラは、自分で言っておいて、果たしてこれは現実なのかと疑った。
 あの方が、デルフィニアの太陽が、死んだ。しかも、こんなにも呆気なく、誰に顧みられることもなく。
 あってはならないことだった。そんな死に方、あの人に、少しも相応しく無い。
 固く握られた拳は、血の気を失って真っ白になっていた。
 そんなシェラを見て、しかしヴォルフは、眉間に深い皺を寄せた顔で尋ねた。

「……すまん、シェラ。上手く理解できなかったんだが、もう少し分かりやすく説明してくれるか?」
「何度でも言います。ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンは……それともウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインは、死にました。崖から落ちて、その下にあった急流に飲み込まれて。まだ、御遺体も回収できていません」

 その言葉を聞いたヴォルフは、一層難しい顔をした。
 この、普段は脳天気な大男には些か相応しく無い、不審と疑念を体現したような表情で。
 しばらく唸り声を上げて首を傾げ、そして言った。

「……シェラよぅ。それは何かの冗談かい?」
「……はっ?」

 今度は、シェラのほうが、はっきりと不審の表情を露わにした。

「……私は、こんな悪質な冗談を真顔で言えるほど、器用な人間ではありません」

 聞く人が聞けば『どの顔でそんなことを言えるのか!』と叫びそうな台詞ではあるが、少なくともシェラの本心であった。
  
「信じたくない気持は分かります。私だって、あの方が身罷られたなど、信じたくない。いや、到底信じることが出来ない。しかし――」
「いやさ、信じるも何も、あいつ現に・・ ――」

 ヴォルフは、何かを言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
 その瞬間、ぴたりと、医務室の中の時間が止まった。
 シェラは、ゆっくりとウォルの方を見た。
 ヴォルフは、既に表情を消していた。しかし、ヴォルフの小さな目が僅かに泳いだのを、シェラは見逃さなかった。

 ――今、この男はなんと言った?

『いやさ、信じるも何も、あいつ現に・・ ――』

 ――現に。

 ――その後に、何が続く。

 ――現に。

 ――現に。

 ――現に、ウォルは。

 ――生きているじゃあないか・・・・・・・・・・・・ ――

「ヴォルフ、あなたは何を知って――!」

 刹那、言いかけたシェラを置いて、ヴォルフの巨体が医務室のドアに向かって駆けだしていた。
 シェラは、ヴォルフが全力で走るのを初めて見たのだが、それは彼の巨体には相応しく無い、シェラが瞠目するほどに敏捷な動きだった。
 
 ――出遅れた!

 まともに走れば、ヴォルフがシェラに勝てる道理はない。
 しかし、一瞬の心的動揺を覚えたシェラの四肢は、持ち主の意志に反して鈍重にしか動かない。
 シェラは、はっきりと舌打ちをした。こちらの世界の平穏な生活はここまで自分を錆び付かせたのかと、恥じ入る想いだった。
 それでも、ヴォルフを逃がすわけにはいかない。もしかしたら、あの男は、ウォルに関する情報を持っているのかも知れないからだ。

「くそっ、待て!」

 我ながら間抜けなことを言っていると思いつつ、ようやくシェラは走り始めた。
 
 ――きっとヴォルフは、車を使ってアイクライン校まで来ているはずだ。
 
 ――馬であるならまだしも、自動車で逃げられては追いつけるはずがない。

 ――ならば、廊下を出て、校舎の玄関に辿り着くまでが勝負か。

 急激に思考を回転させながら、廊下を飛び出る。
 すると――
 
「……えっ!?」
 
 シェラは思わず驚きの声を上げていた。
 何故なら、廊下を出てすぐ、一歩か二歩程度を進んだところで、ヴォルフの巨大な背中が静止していたからだ。
 一体何があったのか、と、訝しんだのは一瞬である。
 事態は、すぐに判明した。

「逃げたら、殺すよ」

 穏やかな、優しささえ感じさせる声が、究極の害意を伝えていた。

「反抗したら、殺す。逃げる素振りを見せても、殺す。僕はあなたが好きだけど、それでも殺す。僕にそれが簡単に出来ることくらい、あなたなら分かってくれるよね」

 ヴォルフは、ぴくりとも動かない。
 いや、動けない。
 何故なら、ヴォルフの前に立っているのは、人の形をした悪魔そのものだったからだ。

「さぁ、部屋に戻るんだ。あなたには、聞きたいことが山ほどある」

 ヴォルフは、大人しくその言葉に従った。
 そして、その大きな背中に隠れていた人物を、シェラの視界が捕らえた。

「ルウ!」
「うん、久しぶりだね、シェラ」

 それは、昨日ティラ・ボーンに到着した直後に別れた、フサノスク大学工学部所属の大学生、ルーファス・ラヴィーその人だった。



「ほんと、シェラがここにいてくれて良かった。僕、拷問とか、あまり得意じゃないんだ。力が強すぎるから、すぐに殺しちゃうんだよね。その点、ファロット一族のシェラは、そういうの得意でしょ?」

 そう言って、ルウは微笑った。

「ええ、そういうことは私に任せてください。生かしたまま四肢を切り落とす、頼むから殺してくれと泣き叫ばせる、意志のない人形にしてから洗いざらい吐かせる、何でも得意ですよ」

 そう言って、シェラも微笑った。

「ああ、もう、わかった!何でもしゃべるから、真顔でおっそろしいことを言うんじゃねえ!」

 ヴォルフは両手を挙げて、『まいった』の姿勢のまま、叫んだ。
 それでもヴォルフは丹念に縛りあげられ、まるで罠にかかった猪のような有様で、目を血走らせた二人の前に座らされた。
 生きた心地がしないな、とヴォルフは思った。

「……で?一体何が聞きたいんだ?」
「じゃあ、ヴォルフ、あなたはさっき、何て言いかけたの?」

 尋問役はルウのようだ。
 当然、何か怪しい動きをしたり、嘘を吐いていると判断すれば、シェラに指令が下る。その場合、この世に生まれたことを後悔するような痛みが被尋問者を襲うのだろう。
 そのことが分かっているから、被尋問者であるヴォルフは全ての質問に正直に答えるつもりだった。意地や命はもっと価値のある場面で賭けるべきであり、こんな人外生物を前にして後生大事にするものではないと、彼は確信していた。

「だいたい予想はついてるんだろ?現にあいつは生きている、そう言おうとしたんだよ」

 ふてくされた様子でヴォルフは言った。
 正直に話さなければいけないのが悔しいというよりも、縄でぐるぐる巻きにされた今の自分の格好が情けないので、それが気に入らないらしい。
 しかし、ルウやシェラにとって、そんなことは全くどうでもいいことだったから、尋問はそのまま続いた。

「じゃあ、次の質問だ。あなたは何故、そのことを知ってるのかな?」
「……わかったよ、教える。だから、この縄を解いてくれ。……ったく、そんな顔するんじゃねえ。今更逃げたりしねえよぅ」

 唇を尖らせながら、伝法な口調でヴォルフが言った。
 どうもこの男は、興奮するとこういう口調になるらしい。
 シェラはルウの方に目配せしたが、ルウが頷いたので、ヴォルフを縛る縄を解いてやった。
 ヴォルフは、両腕が自由になると、スーツの内ポケットから、小型の通信機のようなものを取り出し、二人の前に置いた。

「……これ、何?」
「要人警護用小型チップの受信端末だ」

 ヴォルフは再び機械を手に取り、スイッチを入れた。

「ほら、見てみな」

 ルウとシェラが、顔を寄せ合うようにして画面を覗き込む。
 画面は、いくつかの数字と、安定したリズムで刻まれる、はっきりとした波形を映し出していた。

「これは……バイタルサイン?」
「そのとおり。つまり、この端末で受信できるチップを仕込んだ要人は、今のところすこぶる健康、間違えても幽霊やゾンビの類じゃあねえってこった」

 ヴォルフは、不機嫌な様子で頭を掻き毟った。
 どうにもバツが悪そうであった。

「これは完全に言い訳なんだがな。俺だって、好きこのんでこんなモンをウォルに仕込んだわけじゃねえ。だがよ、給料ってのは、紙で出来た、この世で一番頑丈な首輪でな。俺がキンキンに冷えたビールで晩酌するために、ウォルにはちっと悪いことをしたとは思ってるんだが……」
「ヴォルフ!」

 ルウが、叫んだ。
 
「……なんだい?」
「答えて。このバイタルサインは、誰のものなの?」

 ヴォルフは、きょとんとした表情で、言った。

「だから、言ったじゃねえか。これはウォルに仕込んだって」
「……いつ?」
「あいつがまだ入院してたとき、一度ケーキの差し入れを持ってったことがあってな。その中に仕込んどいた。一度消化器官の中に入れれば、中に仕込んだチップが自動的に……小腸だったかな、大腸だったかな……まぁ、とにかくそこらへんに張り付いて、あとは半永久的に稼働する。まだ実践配備のされてない、軍の中でも機密中の機密だよ」
「……じゃあ、ウォルが今どこにいるのか、分かるの?」
「簡単だ。そうじゃねえと、要人警護用の意味がねえだろうが。だから、俺もお前らに聞きに来たんだよ。何でウォルがあんなところにいるのか、ってな」

 ヴォルフは、先ほどと同じように機械を操作してから、二人の前に機械を差しだした。

「これが、ウォルの現在地だな」

 それは、記号と数字の羅列だった。
 シェラは勿論、ルウも何のことかわからない。おそらく、軍用の暗号か何かだろう。
 頭を捻っている二人を見て、そういえばこの二人は軍関係者ではないことを思い出したヴォルフは、

「この数字が指し示すのは、現在、惑星ヴェロニカの中緯度地域にウォルがいると、要するにそういうこった」

 シェラは、思わず立ち上がった。

「ルウ!陛下が生きているのなら、すぐにリィに連絡を!」
「ちょっと待って、シェラ」

 逸った様子のシェラを制止してから、ルウは慎重に問うた。

「ヴォルフ、ウォルはどこにいるって言ったの?」
「だから、惑星ヴェロニカだって」
「……あ」

 シェラは、思わず声を上げてしまった。
 確かに、ヴォルフは言った。惑星ヴェロニカにウォルはいる、と。
 だからこそ、シェラは思ったのだ。今すぐにでも、いまだ惑星ヴェロニカに留まっているリィに連絡を取って、ウォルの居場所を教えよう、と。
 しかし――

「ヴォルフ。一応聞くけど、惑星ヴェロニカって、どんな星?」

 つい先日まで自分達がいた星、あれは、確かにヴェロニカという星だった。
 だが、あの星がヴェロニカという名前を授かった後に、ヴェロニカという名前を頂いた政府が、あったはずだ。
 普通に考えれば、そんなことはあり得ない。しかし、あの星は、普通に考えたらあり得ない手段をもって秘匿されていた。
 だから、あり得ないことが起きてしまった。
 この宇宙で唯一、同じ名前を持つ星が、二つ。
 そのうちの一つが、惑星ヴェロニカ。
 もう一つが、旧称ペレストロス共和国。
 現在の名前を――

「ほら、なんつったか、あの、どう贔屓目に見ても上手そうに見えない変な草しか食っちゃ駄目っつう、この世で一番俺に不向きな教義を掲げてる、ヴェロニカ教徒の星だよ」



[6349] 第二十八話:A Mad Tea-Party
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2010/05/05 02:14
 惑星ヴェロニカ。
 旧称をペレストロス共和国という。
 観光と農業、そして遺伝子操作を含めた品種改良技術の特許で成り立つ、辺境の国家だ。
 歴史は意外に新しい。連邦に加盟したのはほんの数十年前である。もとを辿れば少数の宇宙流浪民が発見し定住した星だといわれているが、定かではない。
 人口、約一億人。第一種居住用惑星にしては、驚くほどに人口が少ない。
 原因ははっきりしている。惑星の総面積に比して、居住可能な敷地面積が圧倒的に少ないのだ。
 別に、人の住めない荒れ地や、水の一滴も存在しない砂漠が広がっているというわけではない。寧ろ、その反対だ。惑星ヴェロニカは他の星から見れば垂涎の的となるほどに緑も多く、水も豊富な星なのだから。
 では、何故人の居住に供する土地の面積が少なくなるのかといえば、それは偏にこの星に住む人間の宗教的な戒律が原因である。

 ヴェロニカ教。

 獣肉、魚肉等、母乳を除いたあらゆる動物性タンパク質の摂取を厳禁とし、同じく、人の手の加えられていない野生植物の摂取もまた禁じている。
 人が、自然のサイクルに関わるのを極端に忌避することで世界の調和を保とうと考える、ある種の自然崇拝的な哲学を起源とする宗教である。化学調味料や人工着色料等の摂取も禁じているが、それは副次的なものだろう。
 当然、大規模な自然破壊を生み出すような開発事業もその禁忌に触れうる。それゆえ、この惑星には手つかずの自然が多く残されている。人が居住を許された土地は、出来るだけその他の生き物に影響を与えない平野や荒れ地等であり、森林を伐採しての開墾等には政府の許可と一緒にヴェロニカ教の上層部の認可が必要となる。
 宇宙的な規模で見ても、特異な教義を持つ宗教だった。
 しかし、自然崇拝的な宗教団体やコミュニティならば、他にも存在する。その中でヴェロニカ教が特異なのは、科学技術の利用についてのタブーがほとんど存在しないことだ。
 自然崇拝的な思想には、同時に自然回帰的な運動が付加されることが多い。自然こそが至高なのだから、自分達もそこへ立ち返ろうとするのだ。コンピュータとコンクリートに囲まれた生活を捨て、昔ながらの牧歌的な生活を営む。極端な例では、農耕自体が今の人間の穢れを作ったと考えて、毛皮を纏い石槍を構えて、まるで原始人のような生活を送るグループもあるほどだ。
 それに比べると、ヴェロニカ教ではそういう思想は存在しない。辺境星系とはいえ連邦加盟国の一つに数えられる以上、一定水準以上の科学技術は保有しているし、それどころか農作物を中心とした品種改良技術には他の追随を許さない高い技術が存在する。
 例えば成長期の子供に必要な栄養を補うため、タンパク質や脂質、糖質やビタミン、各種の栄養に富んだ植物を品種改良によって作りだし、それを栽培することを認めている。
 だが、極端な自然愛好家から言わせれば、これこそ自然に対する冒涜の極みである。人の手で自然界に存在しない品種を作り出せば、それが一度外の世界に漏れ出した時に、その星の生態系に計り知れない影響を及ぼすからだ。
 そう考えると、果たして自然崇拝がこの宗教の発端なのか、怪しくなってくる。まるで、ただ、野生の動植物の摂取を恐れているような、そんな印象すらある。
 一体何を是とし何を否とするのか、それこそ神のみぞ知るところだと断じてしまえばそれまでではあるが、何とも奇妙な宗教ではあった。
 


 惑星ヴェロニカは、美しい星だった。
 惑星軌道上から眺めても美しかったが、地表に降り立つとそれが勘違いでなかったと気付かされる。
 空の青さは鮮烈で、どこまでも深い。
 空気もうまかった。
 ジャスミンは、その大きな体を思い切り伸ばして、それから深く深呼吸をした。宇宙空間と星の上、その二つを比べてどちらが住みよいかと問われれば何の躊躇いもなく前者を選び取る彼女であったが、宇宙船を降りて大地に降り立った時の開放感は何物にも代え難い。
 人目を気にしないで軽いストレッチを行うと、体の各所から鈍い音が響いた。
 どうやら運動不足は深刻なようだ。早いところ体を動かして、全身に浮いた錆を落としてやる必要があるだろう。

「さて、まずはどこから回ろうか、海賊?」

 ジャスミンは、同じく送迎艇から降りたばかりの自分の夫――ケリーに向けて言った。
 つい今し方この二人が乗っていたのは、ケリーの愛船(この場合の愛は、文字通り愛しているという意味だ)《パラス・アテナ》と違い、狭っ苦しいくてちびっこいうえに動きは鈍重という、ケリーなどからすればストレス生産機としか思えない旧型送迎艇である。
 心持ちげっそりとした表情で船から下りたケリーは、ジャスミンと同じ行動をした。まずは大きく背伸びをして、それから深呼吸、最後に軽めのストレッチである。
 一連の動作を終えたケリーは、やや生き返ったような調子で呟いた。

「ああ、疲れた。ったく、十年分くらいの若さは吸い取られた気分だ。ダイアン以外の船に殊更贅沢を言うつもりはねぇがよ、それにしたって限度ってもんがあるんじゃねえか?」
「仕方ないだろう。なにせ、ここいらではこの送迎艇の型で現役バリバリなんだ。そんな星で私の《クインビー》やら《パラス・アテナ》やらが飛び回れば、不審人物がここにいますと声高で喧伝しているようなものだろう」

 ジャスミンの意見に、ケリーは軽く肩を竦めた。もっともな意見だったからだ。
 現在、ケリーの愛船であり無二の相棒である 《パラス・アテナ》とその感応頭脳たるダイアナは、惑星ヴェロニカの公転軌道から少し外れたところにある小惑星帯に姿を隠している。当然、ジャスミンの愛機たる《クインビー》はその格納庫に収められ、今や遅しとその毒針を磨いていることだろう。
 二人はそこで、牽引してきた小型の貨物船に乗り換え、身分や船籍を偽ったまま惑星ヴェロニカに入国した。
 当然のことながら入念な入国審査が行われたわけだが、いつもながらにダイアナの色香は大したもので、彼女の毒牙にかかったヴェロニカ宇宙港の感応頭脳は、この物騒な夫婦に対して『善良なる一般市民』のお墨付きを与えてしまったのだ。
 意外なほどに近代的な空港の中で、今度は人の目による、簡単な入国審査が行われた。しかし、コンピュータを介したデータ照会は既に完了しているので、ここで行われるのはいくつかの質問検査だけだ。
 お世辞にも厳重とは言えないゲートの前に、初老の男性が所在なく佇んでいた。濃紺の制服は皺が目立ち、どうにも冴えない様子だったが、帽章の形からいってその男性が入国審査官なのは間違いないだろう。
 ケリーとジャスミンが目の前に立って、ようやく二人の存在に気がついた男性は、自分よりも遙か高いところにある二人の顔に些か驚いたようである。

「なんとまぁ大きなお客さんじゃ。ようこそ、惑星ヴェロニカへ。えーと、すまんが身分証明書を見せてくれんかね」

 朴訥な話しぶりである。皺の深い柔和な笑顔から、この人の人柄が滲み出ているような気さえする。
 二人が無言で身分証明書を差しだす。無論、宇宙空間において行われた臨検の際に提示した、偽りの身分と合致した情報の記載された偽造のものである。
 老人は、メガネをずらしてから、二人の身分証明書を覗き込み、それから二人の顔を見上げるという動作を数回繰り返した。老眼がけっこうきついのかも知れない。
 
「ええと、ケリーさんに、ジャスミンさん?お仕事は旅行会社の営業をしているということで間違いないかな?」
「はい。今度、こちらの星の観光名所を回るツアーのほうを企画しておりまして、今日はその下見に。ついでに、日頃おざなりにしている家族サービスのほうも済ませてしまおうかと」
「ほう、お勤めはどちらに?」
「クーア・トラベルです」

 老人の顔が、一瞬、僅かに歪んだ。
 クーア・トラベルは言うまでもなく、クーア・カンパニーの旅行事業を司る部門のことであり、全宇宙を統べるクーア財閥の一部門に相応しく、全宇宙の観光企業の中でも五指に入る規模を誇っている。
 当然、観光事業を基幹産業としている惑星ヴェロニカ政府にとっても、大事なお得意様だ。審査官にも、そういった上得意様には相応の礼儀をもって接するよう、上からの通達がなされているはずだ。
 にもかかわらず、その老人の表情は、どこか苦々しいものであった。ケリーとジャスミンを疎んでいるとか、怪しんでいるとかではない。もっと別のところで、何か気に病むことがあるようなそういう表情だ。
 しかし、それも一瞬のこと。すぐに表情を改めた老人は、やはり柔和な笑みを浮かべて言った。

「それはそれは。どうぞゆっくりしていっとくれ。あまり大きなお声では言えんが、今の時期ならカラで作る酒が良い具合に出来上がっとるはずだ。特に今年は良い出来らしいからな、是非飲んで行きなさい」
「ほう、それは楽しみだ。実は、女房ともども酒には目がないたちでしてね。もしよければ、美味い酒を出す店も教えてくれるとありがたい」
「じゃあ、場所を教えておこう。有名な繁華街の外れだ。少し入り組んだところにあるからね、簡単な地図を書いておくよ」

 カラというものが何かは分からないが、おそらくこの星特有の植物か何かだとあたりをつける。
 美味い酒は大好きだ。ケリーも、ジャスミンも。二人がこの星に来たのは酒が目的ではないが、目的以外のところで楽しむこと自体が悪いはずもない。
 先ほどの表情は当然気にはなったが、ケリーは作り笑いではない笑みを浮かべ、地図に店の場所を書き込んでくれた老人に礼を言った。
 時間にして五分程度だっただろうか、世間話のような入国審査を済ませた二人がゲートを潜ろうとすると、後ろから、気遣わしげな声がかけられた。

「……あんたらのような、わたしの立場からすりゃ精一杯にこの星を売り込まなきゃならない人達にこんなことを言わなきゃならんのは心苦しい限りだが……気を付けなされよ。特に、夜間はあまり出歩かんほうがいい」
「ご老人。それはどういう意味でしょうか」

 ジャスミンが、初めて口を開いた。
 入国審査官の老人は、深く溜息を吐き出してから、

「旦那さんなら知っとるじゃろう。この国が、一体どういう状況なのか」

 当然、ケリーもジャスミンも、ヴェロニカ政府の基本的な情報くらいは調べてある。
 最近の目立った情勢としては、昨日に行われたこの国の大統領選挙で、最右翼と言われた政治家、マークス・レザロが突然立候補を取りやめ、その代わりに名も知れない――中央政府は勿論、この星でも、という意味だ――新人候補が奇跡的に大統領の座を手にしたということくらいだろうか。
 どうやら相当にセンセーショナルな話題だったようだが、しかしそれはこの国の中だけでの話。惑星アドミラルをはじめとする中央では、そんなことはほとんど話題にすら上らなかった。
 この二人は、マークス・レザロの突然の失脚の原因となった事件に深く関わっているだけに、その手の話題の情報は一応知っていたのだが、しかし惑星ヴェロニカの現状までを知り尽くしているわけではない。
 そして、そういった情報はその国に住む人間に直接聞くのが一番いい。
 ケリーは、深刻な顔つきを作って、探りをいれてみた。

「やはり、相当にひどいのか?」

 老人は、沈痛な面持ちで頷いた。

「ひどい。あれは、人の皮を被ったケダモノ共の集まりだ。とても、同じヴェロニカ教徒とは思えん。どうせ一過性のものだとは思う。いや、そう信じたい。だから、正直を言うならば、今の時期はあまり観光客は来て欲しくないと、個人的には思うんじゃよ。今の時期にこの星に来て、これがヴェロニカという国なのかと誤解されれば、今後この星に観光客という人達はこの星を一切訪れなくなる。それを考えれば、今はあんたを心から歓迎できんのじゃ。申しわけない話じゃがな」
「へぇ、そうかい。そりゃあ申し訳ないことだな。とんだ時期に来ちまった」
「じゃから、あんたは自分の見たまま、ありのままのこの星のことを上に伝えて欲しい。それが、この国にとっても、あんたの会社にとっても一番ええはずじゃ」
 
 この老人が二人をだまそうとしているのでなければ、何か、良くないことがこの星で起きているらしい。
 どうやら、本来の目的以外のところで、この旅が平穏無事に終わる可能性は著しく低くなったようだ。
 この場に神と呼ばれる存在が居合わせたならば、どうして自分達の周りでだけそういったトラブルが起きる可能性が急上昇するのかを本気で問い詰めたくなったケリーだが、その頬の両端は軽く持ち上がっていた。
 二人は空港から出ると、タクシーの乗り場へと向かった。惑星セントラルなどであれば無人タクシーが主流であるが、この星ではまだ人の運転によるものがほとんどらしい。
 黒く艶やかに磨かれた車の外で、壮年の運転手が煙草を吹かしている。無精髭も濃い、風采の上がらない男だった。
 
「すまないが、総本山までお願いできるかな」

 総本山とは、ヴェロニカ教の寺院の元締めである。
 無論、正式な名称があるはずだが、惑星ヴェロニカでそう呼ばれる場所は一つしかないため、今ではその呼び名が定着してしまっているらしい。
 ケリーもそれに倣った。
 運転手は、ケリーを鈍色の視線でじろりと眺め、紫煙を吹き出してから言った。
 
「……あんたら、うちの人?」

 『うち』とは、この星の、という意味であろう。

「いや、しがない観光客さ」
「なら、別の車を当たりな。生憎だが、この車は予約済みだ」
「だが、表示板は空車になってるぜ?」

 ケリーがそう指摘すると、男は無言で板をひっくり返し、『予約車』の表示にした。
 
「これで満足か?」

 ケリーは一つ頷いて、

「ああ、満足だ。ただし気をつけたほうがいい。俺達が立ち去った後もずっとその表示にしてたら、お前さん、今日は客を逃すだろうからな」
「ご忠告感謝しとくよ」

 二人が立ち去った直後、運転手は表示板を再び『空車』にした。
 いくつかのタクシーと交渉してみたが、だいたいは同じような反応だった。
 二人がこの星の住人ではないことが判明すると、たちまち態度を変えて乗車を拒否する。二人より後に来たこの星の住人には、あからさまな営業スマイルで後部座席のドアを開けてやるというのにだ。
 ジャスミンは、怒ったというよりは心配したような声で呟いた。

「一体どうなっているんだ。この星は観光客の落とす現金で何とか保っているような経済だったはずだが、これではエストリアやマースの軍人の方がまだ幾分愛想があるというものだ。これでは、あの老人の言葉ではないが、観光客という人種はこの星に寄りつかなくなってしまうと思うのだが、大丈夫なのかな」

 エルトリアもマースも、どちらも連邦の中の大国であり、プライドの高さと秘密主義の徹底で知られている。
 ジャスミンは仕事の関係からそれらの国には何度となく足を運んでいるが、その度に、笑顔というものが対人コミュニケーションの上で如何に大切なものかを痛感させられるのだ。
 それと比べてもなお、惑星ヴェロニカの歓待振りは心温まるものではなかった。
 
「さあねえ。まぁ、そこんところは俺達が心配してやることじゃねえな。さてと、さしあたり足の確保に失敗したわけだが、どうするね女王?」

 思い切りに肩を竦めたケリーが言った。
 ケリー達が降り立った宇宙港から総本山までは、車で半日ほどの距離にある。いくら健脚なケリーとジャスミンでも、流石に歩いて行くのは躊躇われる距離である。
 ケリーと同じくらいに逞しい肩を持つジャスミンは、面倒臭そうに溜息を吐き出して、

「誰も乗せてくれないなら仕方がない。買おう」
「ま、それしかねえわな。くそ、こんなことならヴェロニカ国民の身分証を偽造するべきだったな」
「いや、身分証があってもすぐにばれると思うぞ」
「何でだ?」
「わたしもお前も、明らかに肉食の顔だ」
「なるほど、違いない」

 二人は、空港の近くにあるカーディーラーへと足を運んだ。
 店長は、空港のタクシー運転手がそうであったように、二人が観光客であることを知ると、渋面を作り眉を顰めた。
 しかし、タクシーの乗車賃と新車一台の価格ではゼロの数が三つほども異なる。ジャスミンがテーブルに置いた現金の束を見ると、しかめっ面だった店長はたちまちに揉み手を作り、契約書を整えて鍵を渡した。
 店を出ると、通り向かいの店に、人だかりが出来ていた。

「なんだ、ありゃあ?」

 のんびりと言ったケリーであるが、どうやら穏やかならざる事態らしい。殺気の籠もった怒号が飛び交っている。物が壊れる音、悲鳴、おそらくは人が殴られる音も。
 そして、何か鼻につく臭いがした。つんと脳を痺れさすような、化学薬品特有の臭気。
 標準以上にお祭り好き、騒ぎ好きの二人であるから、何とはなしに人だかりの方に近づいてみる。
 普通ならば人混みが邪魔をして前が見えないはずなのだが、長身の夫婦である。
 背伸びをしただけで、そこで何が起きているのかをはっきり見ることが出来た。
 飲食店の前で、何人か、珍妙は格好をした連中が、その店のコックとおぼしき男性を取り囲んで、殴る蹴るのリンチを加えていた。

「……なんだ、あれは?」

 ジャスミンは、先ほどのケリーと同じように呟いた。
 思わずそう漏らしてしまう程に、コックに暴行を加えている連中の格好は珍妙極まりないものだったのだ。
 陽光をきらきらと跳ね返す、銀色のプレートメイル。顔全体を覆うグレートヘルムは、まるで呼吸孔を開けたバケツを被ったような間の抜けた有様だ。
 時代錯誤に、腰に差したサーベル。
 背中に羽織ったマントには、でかでかとヴェロニカ教のシンボルたる衣装が刺繍されている。
 要するに、中世ヨーロッパの、十字軍で活躍した時代の騎士の姿だ。
 そして連中の肩にけばけばしい色彩のタスキがかかっており、そこにはこの星の言葉でこう書かれていた。
 
『憂国ヴェロニカ聖騎士団』

「ぶふっ!」

 ケリーは思わず吹き出してしまい、口元を手で覆って悶絶した。
 思い切り腹を抱えて笑い転げたいのを、必死の自制心をもって我慢している。
 彼の隣にいるジャスミンも、だいたい同じような有様だった。口元がひくひくと動き、顔を真っ赤にして笑いの発作を堪えている。
 そして、抑揚のおかしな声で言った。

「お、おい、海賊。だ、駄目じゃないか、人の姿形を笑ったりしたら。あ、あの連中だって、やむにやまれずあんな格好をしているかも知れないんだぞ」

 もっともな話である。この広い宇宙には様々な主義主張をもった人間が住んでおり、そこには様々な理由が存在するのだ。それらの個性を尊重し、受け入れること。連邦大学の初等部でも教えられる、この世界の最も基本的なマナーの一つだ。
 しかし、何とか厳めしい顔を作ろうとしているジャスミン当人が、ところどころで軽く吹き出しているから、説得力の欠片もない。
 それに、笑いの発作とには相乗効果というものがあり、隣の人間が笑っていればくだらないことでもより可笑しく感じるものだ。
 結果として、ケリーの堤防が、先に決壊した。
 精一杯に殺した笑い声をあげながら、ジャスミンに詰問した。

「ふは、ふはははは、おい、女王、なんだその理由って!?罰ゲームか!?あのとんでもない格好は罰ゲームなのか!?もしそうだとしたらすげぇセンスだ!世紀のコメディアンだ!今すぐうちのエンターテイメント部門にスカウトしよう!間違いなく十年間はお茶の間の笑いをかっ攫えるぞ!」
「い、言い過ぎだ、海賊、あの連中が可哀想だと思わないのか、あいつらだって、きっと好きでやっているわけでは……」
「ちゃんと見てみろよ、女王!ゆうこくっ!べろにかっ!せいきしだんっだぞ!ナイト様のお通りだぞっ!大変だ女王!俺達平民はひれ伏さなきゃいけないじゃないか!」
「やめろ、かいぞく、もうやめて……」
「あははは!ありえねえ!絶対にありえねえ!」

 明らかに規格外の体格を持つ男女がけらけらと笑いこけているのだから、周囲の人間は一体何事かと怪訝そうな視線で二人を見た。
 しかし、今の二人にとっては、そんなものは遠い世界の出来事に過ぎない。普段の、冷静沈着な宇宙海賊と大企業クーア・カンパニーの女経営者という顔を脱ぎ捨てて、笑いに笑った。

「おい、そこ、何を笑っている!」

 バケツを被ったような格好をした、自称『憂国ヴェロニカ聖騎士団』の一人が、なおも笑い続けるケリーとジャスミンに気がつき、鋭い声を発した。威圧のためだろう、腰のサーベルを抜き、切っ先を向けた。
 だが、今の二人にはその示威行為すらがコントの一幕にしか見えなかった。
 結果として、火がついたように笑った。
 体を二つに折りたたむようにして、腹を抱えて笑った。
 いつの間にか、二人の周囲からは人だかりが消え失せていた。巻き添えを食らうことを恐れたのだろう。
 それでも二人は笑い続けた。
 鎧姿の男が、怒りを込めた足取りで、ずんずんと二人に近寄る。
 なおもお腹を抱えて笑い続けるケリーの、襟首を掴み、ねじり上げた。
 そうして、驚いたのは鎧姿の男の方であった。
 大きい。なんと大きい男か。
 鎧を纏った大の男が、まるで子供としか思えない程に、その男は大きかったのだ。
 ケリーはやっとのことで笑いを収め、鎧姿の男を見下ろした。
 その端正な頬には、爆笑の代わりに不敵な笑みが張り付いている。
 そして、事も無げに言った。

「いやぁ、悪いな。全くもって悪気は無かったんだが、あまりにもあんたらのセンスが、その、時代の十年くらい先を行ってたもんで、気を悪くさせた。謝るよ」
「っ貴様ぁ、歯を食いしばれ!」

 鎧姿の男が、片手でケリーの襟首を制したまま、もう片方の手を大きく振りかぶった。
 ケリーは事も無げに、自分の顔面目掛けて走る拳を眺めて、軽く額を突き出してやった。
 ごつり、と、低い音が響く。
 周囲の人間は、ケリーの高い鼻が見る影もなく陥没し、盛大に鼻血を吹き出して転げ回るのだと確信した。
 
「げ、えええぇっ!?」

 素っ頓狂な叫び声があがった。
 無論、ケリーの口からではなかった。
 鎧姿の男が、ケリーの足下で蹲り、ケリーを殴ったほうの手を抱えて呻いている。
 その拳の甲から、白い物が突き出ていた。
 骨だ。
 ケリーは、やはり口元に不敵な笑みを張り付かせたまま、蹲った男を見下ろしている。

「おお、痛え。いきなり何すんだよ、ったく」

 額を撫でさすりながら、そんなことを言った。
 隣で、こちらもようやく笑いを収めたジャスミンは、何が起こったのかをはっきり見ていた。
 ケリーは、拳が当たる直前に、腰を折って額を前に突き出したのだ。
 そうすることで、拳はケリーの鼻頭ではなく、額とぶつかった。
 そして、拳の骨――この場合は拳を支える手の甲の骨が、衝突に負けて折れ砕けたのだ。
 元来、拳の骨は弱い。指の骨自体が人体の中でも細い部類に入るのだから当然だろう。だからこそボクサーはグローブで拳を守るのだし、ある種の格闘技では石や砂を殴って拳を鍛える。
 ケリーは、殴られる直前、自分に向かってくる拳を見て、そこが籠手等で補強されていないことを確かめた。そして、敢えて自分の額を殴らせたのだ。
 こうすると、周囲の人間は、鎧姿の男が自分で殴りかかっておいて、自分から拳を痛めたようにしか見えない。
 被害者は、やはりケリーだ。
 コックへの暴行を続けていた残りの男達が、事態の異変に気がついた。

「おい、どうした」
「大丈夫か」
「一体何があった?」

 蹲る仲間に次々と声を掛ける。
 しかし、手の甲を開放骨折した男は、応えることが出来ない。無事な方の手で傷口を押さえ、呻き声を上げるばかりだ。そのバケツ兜を取り去れば、脂汗をだらだらと流した青い顔が見えることだろう。
 
「貴様、我らが同胞に何をしたっ!?」

 おそらくは連中のリーダー格なのだろうか、額に角をつけたバケツ兜を被った男が、ケリーに詰め寄った。
 ケリーはその角を見て、もしもこれがアンテナならば一体どんな電波を受信するのだろうと考えて再び吹き出しそうになったが、何とか堪えた。
 そして言った。

「おいおい、俺は何もしてねえよ。あんたらのお仲間がいきなり殴りかかってきて、勝手に怪我しただけだぜ。なぁ?」

 ケリーは、全く無関係の通行人に、気安げに同意を求めた。
 何が起きたのかを把握していない通行人は、自分が見たままに、首を縦に振ることで答えた。つまり、ケリーは何もしていないと、そういう意思表示であった。
 リーダー格の男はそれを見ると、忌々しげに舌打ちをした。そして、背後に控える二人の男に言った。

「おい。エンリコを連れて行くぞ」
「わかった」

 いまだ地に伏せる男の両脇を抱えて、二人の男が、エンリコと呼ばれた、先ほどケリーに殴りかかった男を持ち上げた。
 そして、そのまま通りの外れに止めたワゴン車に運び込む。
 運転席には、鎧姿ではない、普通の若者が座っていた。ひょっとしたら、鎧姿の男達も、兜を取れば同じくらいの歳の頃なのかも知れない。
 全く、この連中、若い身空で一体何をやっているんだか。その溢れんばかりの情熱を、もっと生産的なことに向ければいいのに――

「おい」

 そんなことを考えていたケリーに、リーダー格の男が鋭い声を飛ばした。
 ケリーは、見る者の神経を逆撫でするような薄ら笑いを浮かべて、それに応じた。

「何だよ、不当な暴力に怯え竦むいたいけな一般市民に、まだ何か用があるのかい?」
「良く動く舌だな。引き抜いて犬に食わせてやろうか」
「そりゃあ困る。こいつは地獄の閻魔様の予約済みなんだ。こいつを持って地獄にいかないと、代わりに何を引き抜かれるか分かったもんじゃねえからな」

 ケリーは自分の舌を指さしながら、器用に言った。
 リーダー格の男は、ぎしりと歯を鳴らした。
 
「貴様、ヴェロニカ教徒か。違うのだろうな、貴様の吐息からは肉食特有の生臭さが感じられる」
「おや、一応口臭には気を付けてるつもりなんだがな、臭ったかい?」

 ケリーは戯けるようにして言った。
 二人の立ち位置は、到底息の届くような距離ではないのだ。
 
「ふん。肉食うケダモノどもならば、我らが崇高な使命を理解できなくとも、仕方はないか。哀れなことではあるがな」
「そこのコックをいじめてたのも、その崇高な使命とやらか?」

 ようやく暴行から解放されたコックは、道ばたに蹲ったまま、おそらくは彼の妻らしい人物に介抱されている。顔中に青あざを作り、鼻の下には乾いたどす黒い血がこびり付くという、痛ましい様子だ。
 リーダー格の男は、ふんと鼻を一つ鳴らし、

「そこの男は、許し難い、極めて背教的な行為により日々のたつきを得ていた。これは、同じヴェロニカ教徒として到底看過できることではない。故に、心を鬼とし、血の涙を流しながら教誨を加えていたのだ」
「へぇ、血の涙か。俺もたいがい長生きをしてはいるがよ、話に聞いただけで実物は見たことがないんだ。是非、そのバケツみたいなかぶり物を取って、本物の血の涙ってやつを拝ませてくれないかい?」

 ケリーの揶揄に、再びリーダー格の男は殺気じみた気勢を上げたが、その時、半死半生の様子だったコックの男が、弱々しい声で言った。

「わ、わたしが一体どんな戒律に背いたと言うんだ。いきなり店に押しかけて、店の中をめちゃめちゃに壊して……。この店は、わたしと妻の長年の夢だったのに、こんな、こんな……」

 後半は涙に濡れた声だった。
 隣で、その妻も啜り泣いている。
 リーダー格の男は、そんな二人を鼻で笑い、

「盗っ人猛々しいとは正しくこのことだな。あれほど明らかに戒律に背いておきながら、まだ白を切ろうとするか」
「な、何を言うか!わたしはヴェロニカ教徒としての誇りに賭けて、一度だって戒律を破ったことはない!」
「ほう、ではあれはどういうことだ?」

 リーダー格の男は、店の前に転がった、割れ砕けた黒板に指を向けた。
 そこに、手書きの柔らかな文字で、今日のメニューが書かれている。
 ほとんどは既に読み取ることが出来なくなっているが、一番大きな破片に書かれた文字だけははっきりと読むことが出来た。
 『合鴨のローストと……』と書かれている。その先は砂埃に塗れ、チョークが滲んでなんと書いているか分からない。しかし、リーダー格の男にはそれだけで十分だったようだ。
 鬼の首をとったように胸を反らし、言った。

「貴様、肉料理を出していたな。それが戒律違反でなくて一体何だというのだ」
「ちょっと待ってくれ!別に、ヴェロニカ教徒相手に出したわけじゃない!きちんと、観光客用のビザを持っている人間を選んで、一言断りを入れてから出していたんだ!それが悪いなんて、どんな教義に書いている!?」

 リーダー格の男は、コックを蔑むように見下ろし、

「偉大なるヴェロニカ教典には、ただ『肉食を禁ずる』と記されているのみだ。そこに、ヴェロニカ教徒とそれ以外とを分ける記述は一切存在しない。つまり、神はこの世から全ての肉食が無くなることを望んでおられるのだ。ならば、例えヴェロニカ教徒以外に限って肉を提供していたとしても、貴様の罪が減ぜられる余地がないのは明らかである」
「馬鹿な!今までだって、観光客用に肉類を提供するのは、許されてたじゃないか!それが今になって、こんな……!そうだ、あんたら、前にうちの店に来た連中か!?お布施だとかなんとか言っていたが法外な金を強請ろうとして、それを断っただけでこんな仕打ちを……!」
「はてさて、背教者風情が何を言っているのかさっぱり分からんな。そして貴様の疑問に答えるならば、今までが間違えていて、今からが正しいというだけのこと。故に、貴様は背教者だ。我らの教誨を受けておきながら、そんな簡単なことも分からんとは。もはや貴様は救いがたい。事ここに至れば、もはや我らに為し得ることはただ一つである」

 リーダー格の男は、懐からマッチを取り出し、火をつけた。
 それを、店先に流れている、透明な液体に向かって投げつけた。
 ケリーは、さっきから揮発性薬品の臭いが鼻についていたことを思い出した。

「伏せろ!」

 ケリーとジャスミンの声が重なる。
 二人の声に一瞬遅れて、すさまじい爆発音が辺りを満たした。
 ぱらぱらと、店の一部が破片となって辺りに散らばる。
 ケリーは、伏せた姿勢のまま、店の方を振り返った。
 先ほどまでは窓ガラスが設えられていたであろう箇所から、盛大に火の手が立ち昇っていた。
 もはや手遅れなのは、正しく火を見るより明らかであった。

「ああ、わたしの店が……わたしの店が……」
「あなた、あなたぁ……」

 夫妻が、放心したように炎を見つめている。
 その横で、リーダー格の男は高らかに笑った。

「ふはははっ!いいか、この場に居合わせたヴェロニカ教徒諸君!今の光景を周囲の信者に伝えろ!そして、ヴェロニカ教の戒律に背いた者の末路が如何なるものかを世に知らしめるのだ!偉大なるヴェロニカの神に栄光あれ!憂国ヴェロニカ聖騎士団に栄光あれ!」

 狂ったように笑う男の隣で、悲鳴に近い叫び声が上がった。

「うわぁ!うちの店が、うちの店まで燃えちまう!早く消防車を、誰か……!」
「駄目だ!この邪悪な建物が完全に浄化されるまで、火を消し止めることを禁ずる!」
「そ、そんなこと言ったって、うちの店が……」
「貴様は、自分の店の隣で、この邪悪な建物でおぞましい肉食が供され続けていることを知りながら、長年見過ごしてきたのであろうが。ならばこの男と同罪だ。なに、心配には及ばん。貴様の行いが罪でないとしたならば、聖なる火は貴様の建物を通りすぎるであろう。それが偉大なるヴェロニカの神の御業だ。逆に、貴様の店も浄化されるのならばそれだけの罪が貴様にあるというだけの話よ」
 
 無茶苦茶な理屈だ。
 火が選ぶのは可燃物か非可燃物かどうかだけであり、罪のあるものだけを選んで燃やすような便利な火など、どこにも存在しない。
 まるきり、言っていることとやっていることが、中世の魔女裁判そのものである。
 リーダー格の男は高笑いをしながら、堂々とした調子で歩き去った。
 ケリーは体を起こし、事の成り行きを見守っていた群衆の一人に声をかけた。

「おい、あんた。早いとこ、消防と警察に電話を入れてくれないかい?」

 ケリーは、自分にしては極めて穏便で常識的なことを言っている自覚があった。
 しかし、その返答は、なんとも冷ややかな視線だけだった。
 ケリーの声を受けた中年の男は、不思議そうに、

「どうしてそんなものを呼ばなけりゃいけないんだい?」

 そう言って、立ち去っていった。
 流石のケリーも、呆気に取られて呼び止めることが出来なかった。
 次々と、群衆が立ち去り始める。轟々と燃え盛る炎に、興味を無くしたと言わんばかりに。

「くそ、てめえらのせいで、俺の店まで!どうしてくれるんだ、この、このっ!」
「やめてください、お願いです、許して……」
「畜生、この星から出て行け、背教者め!さっさと出て行け!」

 ぼろぼろになったコックを、隣の店の主人が足蹴にしている。その足を、コックの妻が必死で止めようとしている。
 ケリーもジャスミンも、言葉を失ったようにして立ち尽くした。
 そして、気がついた。
 二人の頭上に設置されたオーロラビジョンで、一人の男の得意げな演説が放映されていることを。

『――よいですか、国民の皆さん。もはや、状況は末期にあると言ってもいい。なにせ、今回の大統領選挙で私と争うはずだった男、マークス・レザロですらが肉食の大罪を犯していたのです。大統領候補者ですらが、恥ずかし気もなく肉を喰らう時代。こんなことが許されていいはずがありません。さぁ、今こそ皆さんの心を一つにして、正しいヴェロニカ教の教えを取り戻そうではありませんか……』

 画面に映って熱弁を振るっているのは、ヴェロニカ共和国新大統領、アーロン・レイノルズの、魚のように熱のない笑顔だった。



 時間が遅かったので、総本山に向かうのは明日にした。
 夜になって、二人は歓楽街へ足を向けた。
 彼らには、自分達に火の粉を飛ばす無法者達――トリジウム密輸組織に因果応報というものを思い知らせてやるという目的があるのだが、だからといって四六時中獲物を探して眼を血ばらせているわけではない。
 肉食獣だって、狩りをする以外の時間はのんびり昼寝をして過ごすのと一緒だ。
 昼間のことが気にならないわけではなかったが、少なくとも自分達よそ者にどうこう出来る問題ではないと判断し、ぼろぼろになった夫妻を病院まで送り届けるに止めた。あの連中を訴えるかどうかは、自分達が決めることではないと思った。
 去り際に、自分達に対して丁寧に礼を述べる夫妻の、頼りない姿だけが記憶に焼き付いた。
 どうにも苦い気分である。
 そして、こういうときは飲むに限るのだ。
 ケリーとジャスミンは、けばけばしいネオンで人を呼ぶ夜の街を、楽しげに歩いた。彼らは自分が何を為すべきかを心得ていたが、同じくらいに人生の楽しみ方というものも弁えていた。
 二人が探しているのは、『秋芳酒家』という酒場だ。噂によると、その店でしか味わえないという、ヴェロニカ特製の酒があるらしい。
 そんな話を聞いて、大ウワバミの彼らが黙っていられるはずもない。
 今夜は、夕食も兼ねてその店を探すことにした。
 
「それにしても、驚いたな」

 ぼそり、とジャスミンが呟いた。
 それに答える人間は、ジャスミンのかなり早めの歩調と同じペースで、彼女の隣を歩いていた。

「何がだい?」

 義眼の海賊は、口の端を片方だけ持ち上げながら、愉快そうに言った。
 ジャスミンは、ケリーのほうを見ることもなく、
 
「ヴェロニカ教とはもっと禁欲的なものかと思っていたが、そうでもないんだな」
「俺も詳しいところが知らねえが、一言にヴェロニカ教と言っても、みんながみんな単一の宗派に所属しているってわけでもないらしい。根っこのところにある教えは一緒でも、それ以外のところでは違ってくるんだろう」

 なるほど、そういうものかとジャスミンは感心した。
 確かに、ヴェロニカ教などという少数宗教を引き合いに出さなくても、宗教というものは単純に見えてその実、複雑怪奇なまでに枝分かれをしている。この世界でもっとも信仰されている宗教だって、その宗派によっては教父の妻帯が許されていたりいなかったり、離婚が悪徳とされていたりいなかったり、様々な差違がある。
 ヴェロニカ教でも、肉食の禁止や人の手の入らない自然作物の採取禁止といった教えは共通していても、酒色の制限の度合いにははっきりとした違いがあるのだろう。
 そして、ここら一帯は、比較的寛容な神様が支配しているらしい。それとも、自分達には駄目であっても、観光客に対して酒色を提供することは教義上問題無いのかも知れない。
 そのおかげで自分達も美味い酒にありつけるのだとしたら、それはそれで結構なことだとジャスミンは思った。本質的に無宗教である彼女であるから、自分以外の人間がどんな肌の色の神を信じていても興味はない。世界の破滅を望んでいるとしても、実際に行動に移さないのならば問題無いと思っている。
 歓楽街は、驚くほどに賑わっていた。
 広い歩行者用道路の両端に所狭しと並んだ飲食店や土産物屋。一つ通りを横に逸れれば、そこには男の欲望を満たすための怪しげな店が乱立しているに違いない。
 事実、扇情的な女性のイラストを描いた看板を掲げて、道行く男性に声を掛けている連中が、そこかしこに見受けられる。あるところでは気の弱そうな男性が半ば強引に路地へと連れて行かれ、あるところではやや場慣れした客と客引きの間で値段交渉がされていたりする。
 お世辞にも健全な場所とは言い難いが、ジャスミンの見たところでは、極めて正常に機能している歓楽街であった。麻薬や銃の取引が公然と行われているスラムなどと比べれば、お上品といって良い位だ。
 ケリーもほとんど同じことを考えているのだろう、先ほどから通りの各所で繰り広げられている光景を、楽しげに見遣っている。
 そんな仕草が、どうにもこの辺りに慣れない一見の観光客のように見えるらしく、二人は先ほどから、何度も客引きに声を掛けられていた。

『ちょっとそこ行く男前の兄さん方!これから予定がないなら、ウチの店に寄ってかないかい?まだ宵の口だから、サービスしとくよ!女の子も横に付けて飲み放題、こみこみ2時間で3,000ポッキリだ!』
『今から食事かい?なら、食事の前にスッキリしていくのもいいもんだぜ?ほら、見てみろよこの品揃え!ウチは他の店と違って、写真をいじったりしてないからね!』
『絶対に満足させてみせるからっ!ちょっと、ちょっとだけでも覗いていって!』

 安物のタキシードを着込んだ、どうにも堅気とは思えない連中が、外向き用の愛想笑いを浮かべながらすり寄ってくるのだ。
 彼らは、ケリーとジャスミンを見て、精力を持てあました観光客が二人、女を買いに来たとでも思っているのだろう。
 客引きにとってはお得意様である。
 だからこそ、しつこいまでに声をかけて、ネギを背負ってきたカモを逃がすまいとするのだ。
 だが、ジャスミンは女性である。
 潔癖症の女性でなくても、自分が男だと勘違いされて、しかもいかがわしい店の客引きにしつこく声をかけられれば眉を顰めるものだろう。
 しかし、と言うべきか、それとも勿論、と言うべきか。ジャスミンという女性は、あらゆる意味で所謂『普通の女性』という枠から外れていた。
 自分を男であると勘違いする客引きがいると、190センチを越える長身で彼らを見下ろし、

『ほう、私を満足させることが出来るのか?』
『……は?』
『私を満足させることが出来るのか、と言ったんだが、聞こえなかったか?』

 標準から比べれば幾分低いが、それでもジャスミンの声は女性の声である。見た目については、分厚く着込んだジャケットとその肩幅から男性と見間違えることがあっても、その声を男性の声と聞き違える者はほとんどいない。
 然り、客引きの男達も、その時点で初めてジャスミンが女性であると悟るのだ。

『おっと、これは申し訳ない。あんた、女だったのかい。俺はてっきり……』
『おいおい、つれないことを言うなよ。いいか、私の好みはな、身長が私よりも高くて宇宙船の操縦が私と同じくらいに上手い、とびっきりの男前、何より大事なのは体が頑丈な男だ。少なくとも、私が本気で殴っても気を失わない程度には頑丈でないと困る。さぁ、お前の店にはそんな男娼が揃っているのかな?だったら是非一度お相手願いたいものだが』

 やや腰を屈め、すごみの効いた視線と微笑みで見下ろしてくるジャスミンは、かなり怖い。この時点で、ほとんどの客引きはすごすごと退散するのだ。
 中には肝の据わった客引きもいて、

『わ、悪いね、ウチは女の子だけしか揃えてないんだよ。そうだ、それなら向こうの兄さんだけでもどうだい?まさかあんたまで女ってわけじゃあないんだろう?』

 若干うわずった声で、ケリーに声を掛けてきたりする。
 しかしケリーは、そんな彼らを哀れみの籠もった視線で見遣りながら、

『そいつは嬉しいお誘いだが、今日のところは遠慮しておくぜ』
『ど、どうしてっ!?』
『決まってるじゃねえか。俺だってたまにははめを外して遊びたいがよ、まさか女房の前でそういう店に入るわけにもいくまい?』
『……女房……?そんな女が、一体どこに……?』
『決まってるじゃねえか。ほら、お前さんの目の前にいる、アポロンの彫像みたいなその女だよ』

 ヴィーナスの彫像と言わないあたりが如何にもケリーらしい。
 そして、『女房』という一言。これが正しくとどめの一撃であった。
 がたん、と男が持った客引き用の看板が、地面に転がる音がする。
 そんな音など聞こえないふうで、怪獣妻は、怪獣夫に言うのだ。

『お前が女を買おうが男を買おうが、私は別に構わないぞ、海賊。ダイアナの時も言っていたじゃあないか、たまには私以外の女を抱いて、私の良さを再認識するのもいいことだ』
『……そういうふうに理解が有り過ぎると、逆にやる気が削がれるんだよ。こういうのは、あんたに黙ってこっそりとするから楽しいんじゃねえか』
『ふむ、そんなものか。これは悪いことをした。ならば今後は気を付けて、出来るだけ見て見ぬ振りをするとしよう』
『この場所でかい?』

 肝の据わった客引きの男は、茫然とした顔で二人の背中を見送った。
 そして、ケリーとジャスミンはと言えば、既に客引きのことなど眼中にない。すたすたと、人混みの向こうに歩いて行くのだが、客引きの男も流石にこれ以上深追いする気力を持たなかった。
 その男は長年の経験と誇りから、一度声を掛けた獲物を逃すことを恥と思っている。
 しかし、この場合は相手が悪かった。第一、この二人を一目見て夫婦だと気がつく人間がどれほどいるのだろうか。
 普通、年の近い二人の男女が談笑しながら歩いていれば、恋人とか夫婦とかいう関係がまず思い浮かぶはずだ。その点、ケリーとジャスミンは、少なくとも見た目の歳は同じ歳の頃だし、二人とも極めて整った顔立ちをしているから容姿の面でも釣り合いが取れている。
 なのにこの二人が連れ立って歩いていると、恋人とか夫婦とかいう心温まる関係がどうしてもそぐわない。敢えて言うならば、共通の獲物を前にして手を組んだ雄獅子と雌虎というのがしっくりくるだろうか。
 ならば、そんな二人に声を掛けた客引きの男こそお気の毒というべきであった。

 とにかく、そんなふうにして二人は、結構楽しんでいた。
 普段は、宇宙一の大企業であるクーアカンパニーの監査という大仕事を、ほとんど独力でこなしているケリーとジャスミンである。二人で連れ立ってこういう場所を暢気に歩けるというのも、久しぶりのことだ。
 まるで新婚旅行を楽しむ普通の夫婦の様に、二人は楽しげに露店を覗き、安物のアクセサリを手にとって値切り交渉をしたり、良い匂いのする得体の知れない食べ物を立ち食いしたりした。
 通りに溢れた人の波にはいささか辟易とさせられるが、それも情緒と思えばそれほど苦にはならない。
 人混みを割るようにして歩いていると、ジャスミンの腰に、とんと何かがぶつかってきた。
 こんな時間に外にいるのが相応しくないような、少女だった。少女の手にはアイスが握られており、ぶつかった調子にそれがジャスミンのズボンに零れ、小さな染みを作ってしまっている。
 少女は、少し青ざめて、端から見れば滑稽なほどの勢いで頭を下げた。

「ご、ごめんなさい、わたし、ちょっとぼおっとしてて、前を見てませんでした!クリーニング代は払いますから……」
「いや、こんな状況だ、ぶつかるのはお互い様というものだろう。このズボンもどうせ洗いざらしだから、そんなに謝ってもらう必要はない。ただ、こんな時間まで君のような子供が街中を出歩くのはあまり感心できることじゃない。適当なところで切り上げて家に帰りなさい」
「は、はい、どうもすみません……」

 しゅんとした様子の少女は、遠巻きから心配そうに眺めていた彼女の友達の輪の中に入り、ジャスミンにもう一度頭を下げると、人混みの中に消えていった。

「馬鹿だなアネット。しっかり周りを見ないからこういうことになるんだぜ」
「わかってるわよザックス!私だって落ち込んでるんだから、そういうこと言わなくてもいいでしょう!?」
「ああ、もう、二人とも、大事にならなかったんだから別にいいじゃないか。そろそろ帰ろうぜ、お父さんが心配してるよ……」

 そんな声が、少しずつ喧噪に紛れて、消えていった。
 ジャスミンは汚れたズボンをハンカチで拭い、再び歩き始めようとしたが、

「……どうした、海賊。何かあったか?」
「……いや、別になんでもない」

 ケリーはしばらくの間、雑踏に消えた子供たちを見つめるように、人の流れの中に立ち尽くしていた。
 それから、気を取り直したように二人は遊んだ。
 子供じみた射的ゲームや、怪しい占い師。意外なほどに散財してしまったが、懐はまだまだ温かい。そもそも、この二人の懐を寒くさせるような散財が、こんな場所で出来るはずもない。
 目当ての店は中々見つからないが、こういうのは見つけるまでが楽しいものだ。
 やがて、二人は通りの端まで出てしまった。

「おかしいな、この通りのはずなんだが。見落としたか?」

 ジャスミンは、観光客用に設えられた、簡素な地図に目を落としながら呟いた。空港で、入国審査官の老人に印をつけてもらったものだ。
 彼女はもと共和軍の情報将校であり、どれほど簡単なものであっても、地図を手にして迷うはずがない。
 これはいよいよ自分もやきが回ったかと些か自嘲的な気持になっていると、

「……おい、ここってパーヴェル通りの三番街のはずだよな?」
「いや、違う。ここは二番街の外れだぞ」
「だがよ、あの電柱の地番表示はパーヴェル通り三番街ってなってるぜ」

 ジャスミンは、ケリーの指さす先を見た。
 街の喧噪を見下ろすようにひっそりと佇む電柱、そこに貼り付けられた小さな銅板には、ケリーの言うとおり『パーヴェル通り三番街』の文字があった。
 一応、確認のためもう一度だけ地図を見たが、そこには『二番街』の文字があり、自分達のいる場所についても間違いはない。
 要するに、地図の表示が、一区画分ずれていたのだ。
 ジャスミンは、呆れるのを通り越して、吹き出してしまった。もしこれが軍謹製の地図であり、彼女が軍属であれば、この地図を作った担当者を文字通りに締め上げて官舎の窓から放り出しているところだ。
 まだまだ込み上げてくる笑いの発作を押さえつけながら、ジャスミンは言った。
 
「さて、一度来た道を引き返すのも馬鹿らしいな」

 ケリーも笑いながら頷いた。

「しかし女王、引き返してきたあんたの顔を見た客引き連中がどんな顔をするか、それはそれで興味深いぜ。何人が折角引き留めた客を逃すか、賭けてみるか?」
「それは純然たる営業妨害というものだ。客引き連中だって、彼らが連れ込んだ客をくわえ込む女達だって、生活がかかっているんだからな。招かれざる客は、ひっそりとこちらの通りから戻るとしよう」

 地図自体が間違えているというのであれば、店の所在地そのものについても正しい情報なのか甚だ怪しいものだ。しかし、絵図面に書かれた店の場所自体が間違えているというのも中々考えにくい。無論、あの老人が耄碌していれば話は別だが。
 ケリーとジャスミンは現在地と周囲の街の状況を頭に叩き込み、もっとも華やかな通りから一本奥に入った、何ともうらびれた感じのする通りを歩いた。
 表通りとは違う、生活感のある通りだ。先ほど歩いた道からはそれほど離れていないはずなのに、匂いすらが違う気がする。
 少し歩くと、店はすぐに見つかった。
 『秋芳酒家』と書かれた看板は、表通りに乱立する店とは違い、白地に黒文字という地味なもので、電灯の下になければ見落としてしまいそうなものであった。
 看板の前に来ると、地下へと降りる階段があった。店は地下に構えられているらしい。

「こうしてみると思い出すな」
「何をだ、海賊」
「つれねえなあ、女王。俺とあんたが初めて出会った、あの店をだよ」

 なるほど、とジャスミンは思った。確かに、惑星ジゴバの歓楽街にあったあの店も、まるで客商売など関係ないと言わんばかりの店構えで、ひっそりと営業していたものだ。
 そこで、彼らは出会った。しかし、恋はしなかった。なのに、いつしか子供が生まれ、一緒に暮らすようになった。
 安らかな生活だったかと問われれば、二人ともが真剣な表情で首を横に振るだろう。だが、退屈な生活だったかと問われれば、二人は間違いなく首を横に振るはずだ。
 そして、一人は長い眠りにつき、一人は死んだ。その二人が、肩を並べて歩いている。
 因果なこともあるものだと、二人は同時に思った。

「しかし海賊よ。お前にも可愛らしいところがあるのだな」

 ジャスミンは、含むように微笑った。
 別に、商売っ気のない酒場も、地下にある酒場も、珍しいものではない。だから、そこに二人が出会ったあの店を重ねるなど、なんともロマンチックなことではないかと思ったのだ。
 ケリーは肩を竦めて、

「だろう?あの店の酒は美味かった。なら、きっとこの店の酒も美味いに決まってるぜ」

 にやりと笑いながら、少し外れたことを言った。
 何も分かっていないのか、全てを理解して敢えて誤魔化して見せたのか。ジャスミンもそれ以上は何も言わなかった。
 二人は無言で、塗装の剥げたぼろぼろの階段を下った。すると、意外なほどに長い廊下があった。その所々に、まるで玩具のように安っぽい扉が設えられており、その上にはよく分からない地元の文字で店の名前が掲げられていた。
 この廊下自体、お世辞にも小綺麗とは言い難い。唯一の灯りである電灯も切れかけているのか、ちかちかと点滅して、何とも侘びしい気配を醸し出している。
 彼ら以外の男女であれば、この時点で引き返しているだろう。この先にある店がどれほどの美酒を提供していたとしても、身ぐるみを剥がされるような危険を冒してまで店に入る勇気はないのが普通だ。
 当然のことながら、彼らは引き返さなかった。寧ろ、こういう店に来るのは本当に久しぶりのことだったので、心踊ったくらいだ。
 目当ての店の看板を見つけると、ゆっくりと開いた。
 薄暗い店内は、思ったよりも広かった。入ってすぐ右手にレジがあり、その奥には十人ほどが腰掛けられるカウンターがある。
 中央には、何かショーをするのだろうか、かなり広めのライブステージのようなものが設えられている。
 左手にはテーブル席が並んでいて、既に気の早い何組かの客がしっとりとグラスを傾けている。地元の人間なのだろうか、服装はそれほど煌びやかではないが、かといって法に背を向ける荒くれ者といった様子でもない。
 店の中を、注文が飛び交う。それに応じるように、扇情的なバニーガールの格好をした女達が、右に左に走り回る。客の横について、楽しげに語らっている女もいる。
 少しばかりの女の匂いと酒、そして落ち着いた空気を求めた男達が集う、場末の酒場。この店はそういう雰囲気だった。
 二人は、カウンターを選んだ。
 並外れて恵まれた体格を有する二人であるから少し窮屈かと思われたが、元々そういう客が多く来るのか、席の配置はゆったりしたもので、二人は難なく腰を下ろすことが出来た。
 
「注文は?」

 老齢のマスターが、ぶっきらぼうに聞いた。
 彼の後ろには、無数の酒瓶が所狭しと並んでいる。そのいくつかは二人も知っていたが、多くは知らなかった。おそらくはこの星の地酒なのだろう。
 ケリーはうっすらと笑いながら、

「この星の酒が飲みたい。あんたが一番美味いと思うやつでいい」

 別に奇をてらって言ったわけではないし、格好をつけたわけでもない。ケリーは、この星のどの酒が一番美味いのか知らなかったから、専門家に任せようと思っただけだ。
 マスターは表情を髪の毛一本ほども動かすことはなかったが、やがてジャスミンに目を向けて、無言で注文を促した。

「私も、この男と同じものを頼む」

 見慣れない、特異な風貌の客の注文をどう思ったのだろうか、マスターは一度店の奥に姿を消した。
 ややあって戻ってきた彼の手には、小振りなグラスが二つ、握られていた。
 それを、ケリーとジャスミンの前に、一つずつ置く。

「飲んでみな」

 ジャスミンは、無造作にグラスを手にした。
 グラスの中の液体は、濃い琥珀色だ。年代物のウイスキーやブランデーよりなお濃く、透明度がほとんどない。
 グラスを顔に近づけると、独特の臭気が鼻を刺した。アルコール自体の香りの中に、どこか異質の、動物的な臭いがある。
 だが、ジャスミンは躊躇わなかった。グラスを一気に傾けて、液体を一息で口の中に放り込んだ。
 流石のジャスミンも、一瞬目を丸くしかけた。
 口の中を、強烈なアルコールが灼く。想像した以上に、度数が高い。おそらく、火を近づければ簡単に燃え上がるだろう。
 独特の臭気も、鼻にこびり付くように濃厚だった。まるで野外演習の時に囓った生の蛇肉のような、一般人なら間違いなく吐き気を催す臭いだ。
 どう考えても、まともな酒ではない。強い蒸留酒に、何かを漬け込んでいるのだ。少なくとも、この店で一番美味い酒を、と注文した客に出すべきものではないのだろう。
 しかし――。

「美味いな」

 液体を飲み下したジャスミンは、思わず呟いていた。
 アルコールは強烈で、臭いはきつい。どう考えても飲みやすい酒とは言い難いのだが、しかし、それらを掻き消してあまりあるような鮮烈なうまみがある。一度それに気がつけば、独特の臭気も気にならない、むしろ心地良いとさえ思えてしまう。
 隣に座ったケリーも同じ感想を抱いたのだろう、空になったグラスをしみじみと眺めながら満足の吐息を吐き出している。
 そんな二人を、老境に差し掛かったマスターは、驚いたような顔で眺めていた。

「……一見さんでこの酒を美味いと言ったのは、あんたらが初めてだな」

 どうやら、全てを承知の上でこの酒を出したらしい。
 そんなことを言われたジャスミンは、別に怒るふうでもなく、

「そうか。意外と酒の味のわかる人間は少ないんだな。しかしマスター、この酒は?」

 にっこりと、悪戯小僧のような按配で白い歯を見せたマスターは、店の裏側から、大きなガラス瓶を抱えて戻ってきた。
 薄明かりに照らされたその瓶の中に何が入っているのか、遠目でははっきり分からない。
 年齢の割に引き締まった体格を有しているマスターは、そのガラス瓶をひょいとカウンターの上に乗せた。ラベルも何も張られていないから、おそらくは自家製の酒だと思われた。
 どしん、と、大きな音が鳴った。
 二人の前に置かれたその瓶の中は濃い琥珀色の液体で満たされている。先ほどの酒と同じものなのだろう、透明度はほとんどない程に色が濃いが、その奥にうっすらと、人間の指ほどの大きさの、細長い物体が浮かんでいるのが分かる。
 まじまじと眺めるまでもなかった。
 それは、無数の芋虫だった。それも、芋虫なのに細長い脚が無数に生え揃っており、触角までも生え揃って居る。
 ホラー映画などで腐敗した死体に集っている小虫を、さらに醜くしたような、おぞましい姿だった。
 
「どうだい、気に入ってくれたかい?」

 如何にも好々爺然としたその声は、女性の悲鳴と男の青い顔を期待してのものだったが、ジャスミンとケリーは、マスターの想像したのとは正反対の方向に反応した。
 具体的に言うと、ジャスミンは喜びの声を上げ、ケリーは興奮に顔を赤くしたのだ。

「これはオティラ星のチュチュ・ワームか!?なんと贅沢な!」
「どうりで、どっかで囓ったことのある匂いだと思ったんだ!」

 カウンターの一角が、にわかに色めき立った。

「海賊、お前もこれを食ったことがあるのか?」
「ああ、訳あってあそこの荒野を食うや食わずやで彷徨ったことがあるが、砕いた倒木の中にこいつがうじゃうじゃといたときの、あの感動は忘れようもねえ。平たい石を灼いて、その上で転がすよう炙るんだ。かりかりになった脚と、チーズみたいに濃厚な胴体。今思い出したって涎が出そうになるくらいに美味かった」
「なるほど、幼虫でも美味いんだな。しかし、こいつは成虫になると信じられない程に固い外骨格を有する甲虫になるんだが、そいつも美味いぞ。ナイフに全体重を預けて真っ二つに押し切ってから、中の身をスプーンで掬って食べる。火を通すよりは生のほうをお勧めする。だが、注意しなければならないことがある。あれを一度味わえば、しばらく間は刺身の類が食えなくなるんだ。どんな魚の肉だって、こいつの身と比べるとあまりに味が薄く、そして生臭く感じるからな」

 このようにして、二人はこのグロテスクな虫が如何に美味いかを、熱く語り始めた。
 そんな二人を前にした呆れ顔のマスターは、肩を一つ竦めると、カウンターの下から武骨な酒瓶を取り出した。ありふれた形をした、ラベルすら貼られていない、酒瓶である。
 
「それは?」

 隠しきれない興味を持って、ケリーが問う。隣に座ったジャスミンの顔も、舌舐めずりをする虎のような有様だ。

「こいつは、この星に自生する麦の一種から作った酒だ。一杯やるかい?」
「ひょっとして、カラとかいう植物かい?」
「ああ、そのとおりだ」

 不敵な笑みを浮かべたマスター。当然、ケリーとジャスミンに否やは無い。

「もらおう」

 今度はジャスミンである。
 微笑を浮かべたマスターは小振りなグラスを二つ取り出して、酒を注いだ。
 薄明かりに照らされたその液体は、辛うじてそれと分かる程の琥珀色。ほとんどは透明と言っていいほどにしか色付いていない。
 しかし、美しい。トパーズの原石を淡く輝かせたような、心ときめく色合いである。

「こいつは美味そうだ」

 ケリーは、ほとんど一息にその酒を飲み干した。
 ジャスミンも、無言でそれに倣う。
 そして、二人は声を失った。それほどに、この酒はうまかった。
 口の中に入れた途端に広がる芳醇な香りは果物のそれに近いが、舌には穀類から作った酒特有の控えめな甘味が広がる。この酒も先ほどの虫酒に負けず劣らず酒精が濃いようだが、しかしそれを感じさせない軽やかさ。その液体が、喉を通るときには灼けるような熱に代わり、胃の腑に収まった後はぽかぽかと全身を温めてくれる。
 間違いなく、極上の酒だった。
 二人は、声もなく空のグラスをしみじみと眺めていた。
 
「どうだい、もう一杯?」

 悪戯を成功させた悪童のような表情で、マスターは言った。
 きっと、先ほどに出された虫酒は、この酒を出すための試験のようなものなんだろう。あの酒を飲んで美味いと言った人間にだけ、この貴重な酒を出してくれる。虫酒を飲み干せない人間には、どうしたってこの酒は出さない。この老獪なマスターに相応しい悪ふざけであった。
 ケリーとジャスミンは、苦笑した。この場合、してやられたのは自分達だからだ。
 だからといって、不快感はない。寧ろ、こういう類の悪巧みならばいつだって大歓迎だ。

「いただこう」
「俺もだ」

 同時に差しだされた空のグラスに、再び目一杯の酒が注がれる。
 二人は肴に手を出すこともなく、再びグラスを空にした。

「……あんたら、強いね」

 店主が、軽く目を見張りながら言った。
 確かに、先ほどの虫酒も、そして今二人が飲み干した酒も、かなりきつい蒸留酒である。酒に弱い人間であればその匂いだけで赤ら顔になるだろうし、それなりに酒を嗜む人間であっても一杯で根を上げるだろう。
 ところがこの二人は、まるで水かジュースを飲むかのように、グラスを空にしていく。長年この酒場でマスターをやっているこの男でも、これほど酒に強い人間は――しかも二人も同時に――初めてお目にかかるものだった。

「別に、それほどじゃあないさ。ただ、美味い酒は飲めるときに飲んでおくに限る。後から悔やんだって、美味い酒は誰かの腹の中だ。この短い人生、女だって美味い酒だって一期一会が基本だぜ」
「そのとおりだな、海賊。しかし――」

 ジャスミンが、訝しげな視線を目の前のマスターに向けた。

「無粋を承知で尋ねるが、この酒はこの星に自生する麦から作ると言っていたな。確か、ヴェロニカ教では自生する植物の採取は教義に反するものだと聞いていたが、私の勘違いなのだろうか?」

 ジャスミンが、三度注がれた美酒で唇を湿らせながら言った。
 マスターは、少し辛そうな表情で、首を横に振った。

「いや、あんたの言うとおりさ。この酒は、神の教えに反する、存在することそのものが瀆神的な酒だ。俺の知る中でも飛びっ切りに頭の固い頑固親父が、それこそ呆れるほどに面倒な手間暇掛けてこさえてやがるんだが、全くもってけしからん事さ。だから、こうやって飲み干してやることで、神の教えの何たるかってやつをこの酒に教え込んでやるんだ。こいつは必要悪ってやつだな」

 マスターは、三つめのグラスに酒を注いで、自分で空にした。
 その様を見て、ケリーとジャスミンは同時に笑い声をあげた。

「なるほど、その必要悪とやらのおかげで俺達がこの酒にありつけたんなら、そいつはありがたいことだ」
「ならば、そのようにけしからん酒は、早いところ飲み干してやらないとこの星の風紀が乱れてしまうな」

 やはり空になったグラスに、今度は勝手に酒が注がれた。
 気難しいはずのマスターは、明らかにこの星の生まれでない二人組を心底気に入ってしまっていた。
 
「ちょっと待ってな」

 人好きのする笑みを浮かべたマスターは、店の奥に姿を消した。
 うきうきとした歩調で戻ってきた彼の手には、武骨な酒瓶が三つ、初孫をあやすように繊細な手つきで、抱えられていた。
 
「こいつが、この店で最後の酒さ。もしあんたらさえ良ければ、持って帰るかい?」
「……いいのかい?そう簡単に仕入れられるものじゃないんだろう?」
「いいさ。こいつだって、どうせなら自分の味が分かる奴に飲まれたいだろうし、第一この店だってそう長いこと開けとくつもりはないからよ。このまま倉庫で埃を被らせてやるよりも、なんぼかマシってもんだろう」
「……この店を閉めるのか?」

 ジャスミンは、ぐるりと店内を見回した。
 席は、ほとんど埋まっていた。まだ宵の口というのにこれほど盛況しているのならば、別に売上不振で閉店するというわけではないようだ。ということは、それ以外に店を閉めなければならない理由があるということだろう。
 
「マスター。ひょっとして、どこかお悪いのか?」
「いいや、体のほうはぴんぴんしてるさ。悪いのは、そうだな、最近物忘れが酷いこの脳味噌と、後は胸くそくらいのもんだ」

 苦虫を噛み潰すような顔で、マスターは言った。

「胸くそが悪いとは穏やかじゃねえな」
「ふん。この星の置かれた状況を鑑みれば、胸くその一つだって悪くなろうってなもんさ。あんたら、何の用でこの星に来たんだい?」
「表向きは、金と暇を持てあました観光客ってところだな」

 ならば裏があるのかと、マスターは問わなかった。
 黙ってグラスを傾けてから、吐き出すような調子で、
 
「なら、表通りをのし歩いてる、あの恥さらし共に因縁をつけられなかったか?」
「それは、憂国ヴェロニカ聖騎士団とかいう、時代錯誤な連中のことか?」

 ジャスミンの問いに、マスターは無言の沈黙で答えた。
 空になったグラスに、手酌で酒を注ぐ。
 酒場のマスターの割には、それほど酒が強くないのだろうか。それとも、自ら酒に理性を明け渡そうとしているのか。マスターの顔は、やや赤みがかっていた。

「俺はよう、別にヴェロニカ教の教義自体が間違えてるとは言わねえよ。人間は自然の循環に手を出さず、自分達で一から作ったものだけで生活する。それが正しい有り様だと思うから、今だってこの不自由な星の上でひっそりと生活してるのさ。あんたら、外の人間から見ればおかしな風習だって、この星に生きる人間にとっては当然の在り方なんだ。あんたらはそれを笑うかい?」

 ジャスミンとケリーは、真剣な面持ちで首を横に振った。
 人が自由意志を持って生きる者であるというのは立派なお題目だが、同時に人は他者との繋がりを、言い換えれば束縛を受けずには生きられない生き物だ。しかし、その束縛を鬱陶しいと感じるか、それとも安心すると思うかは個人の性質によるのであり、どちらの立場に足を置こうと非難される謂われはない。
 この星の宗教は、確かに異質だ。だが、異質という意味で言うならば、自分達ほど異質な人間もこの宇宙に二人といないだろう。片や不治の病に冒されて長い年月を医療用カプセルの中で過ごした眠り姫、片や一度ならず死線を潜り抜け、最後には本当に死んで、そして天使に叩き起こされたゾンビ――これは一人ではないが――である。
 少なくとも、自分達にヴェロニカ教を批判する資格はないと、二人ともが思っていた。

「だがよう、どんなにおかしな教義であっても、俺達が従うのは、それが神の教えだからだ。断じて、権力を笠に着たくだらねえ馬鹿どものおもちゃに成り下がるためじゃあねえよ。そりゃあ、酒のためにほんの少しの麦を掠め取るくらいはしたかも知れねえがよ、それが殺される程の罪か?あいつは、そんなに悪いことをしたっていうのかよ?第一、俺はともかくあいつはヴェロニカ教徒なんかじゃなかったんだ!」

 どうにも、話の脈絡が不明であったが、この男の涙を見ればほとんどの事情が飲み込める。
 つまり、この酒は、二度と飲めないということだ。だから、この店も閉めると、そういうことなのだろう。

「遠からず、酒そのものだって飲むことが罪になるぜ。酒は悪魔が人を堕落させるために拵えた猛毒だってな。そうなりゃ俺達はどうやって生きていけばいい?次は上の通りの売春宿が消えて無くなるさ。淫婦は人の精神を腐らせる夜魔だってな。そうすりゃ、男に股を開くことでしか食っていけない女達はどうやって生きていくんだよ。次は煙草、その次は何だろうな?くそっ、そんなことがヴェロニカ教典のどこに書いてるっていうんだよ。やりたい放題じゃねえか。どちらにせよ、あいつらの気に食わねえことが、どんどん罪になるんだ。あいつらが教典さまに成り仰せるのさ。俺はな、そうなる前にさっさと死ぬことだけが望みなんだ。なに、天国に行けばこの酒が浴びる程飲めるんだから、別に悪い話じゃねえ」

 ぐすりと鼻を一つ鳴らして、マスターは目尻を拭った。
 そして、気恥ずかしげな笑みを浮かべて、

「へへ、すまねえ、しめっぽくしちまった。折角の夜なのに、わりいことしたな」
「いや、別にいいさ。何もかも飲み込んで訳知り顔の奴より、不平たらたらで大泣きする奴の方が好きだぜ、俺は」
「こんなに旨い酒を飲ませてくれたささやかな礼だ。愚痴程度ならばいくらでも付き合うぞ」

 怪獣夫婦は、人好きのする笑みと共にそんなことを言った。
 二人の言葉に涙腺を刺激されたのだろうか、マスターは盛大に鼻をかみ、目元をごしごしと擦り、

「ああ、今日はいい夜だ!実は、悪いことばかりじゃねえんだ!とっくにくたばったとばかり思っていた昔の連れと、こないだばったり出会ってな。まったく、神様もなかなか粋なことをするもんさ。今日は俺の奢りだ!とっくり楽しんでいってくれ!おい、かあさん、かあさん!」
「なんだよ、うるさいねぇ」

 辟易とした声と共に現れたのは、けばけばしい化粧を施した年配の女将だった。
 いかにも夜の街に生きる女性といった風情だ。いや、貫禄だ、といったほうがいいかもしれない。
 年齢的に見ると、まさか本当にマスターの母親というわけではあるまい。おそらくは夫が妻を呼ぶに、『母さん』と呼んでいるのではないだろうか。
 
「ああ、あんた、またお客さんに愚痴を零してたね。こないだも大喧嘩したばかりじゃないか。見ず知らずの人間にぺらぺらそんなこと話して、あの連中の耳に入ってみな、一体どんな目に合わされるか……」
「バカヤロウ!こいつらはそんな安い男に見えるか!いいか、よく聞け、こいつらはなぁ――」
「はいはい、わかったわかった、分かりました。で、何の用?」

 小気味いいほどにぽんぽんと交わされる会話は、長い時間を共に生きた夫婦ならではのものだろう。
 男と、一括りに言われてしまったジャスミンも苦笑した。

「こいつらに、この店で一番可愛い女をつけてやれ!酒だって、こんな爺に注がれるよりは、女に注いでもらった方が旨いに決まってるんだ!」
「ちょってあんた。そっちの兄さんはともかく、こっちは女の人だよ。男と女が二人でしっぽり飲んでるときに、そんな無粋な真似をするもんじゃないってば」
 
 第一、こんな二人につけられた女の方こそ気の毒である。
 一体、どんなことを話せばいいというのか。それとも、それこそが水商売の女の腕の見せ所か。
 ともかく、マスターを諫める女将を前にして、ケリーは言った。

「俺は別にかまわねえぜ。確かに、可愛らしい女に酌をしてもらえるなら、酒も一段と旨くなるってもんだ。いやなに、こいつも中々に可愛らしいんだがよ、こいつに酌をしてもらうと何故だか終いにはいつも飲み比べになっちまう。それはそれで楽しいんだが、今日はもう少し静かに飲みたいんでね」

 可愛らしいと評されたのは、当然のことながらジャスミンのことである。
 そして、目の前でケリーが――紛れもない自分の夫が商売女の酌が欲しいと言っているのを聞いたジャスミンはといえば、こちらも大きく頷いて、

「わたしも可愛らしい女を愛でるのは大好きだ。わたし自身このなりだからな、たまにはそういう女と一緒に酒も酌み交わしてみたい」

 とんでもない誤解を招きそうな言葉だが、無論ジャスミンにそういう趣味はない。彼女が言う『愛でる』とは、美しい花を眺めたり小鳥と戯れたりする、そういう『愛でる』なのだから。
 二人の言葉を聞いて唖然とした女将だったが、マスターの方はうんうんと頷いた。それでこそ俺のメガネに適った男達だ、と言わんばかりであった。
 そして、言った。

「つい最近、ヘルプでうちの店に入った子なんだがな、何とも気立てが良くて可愛らしいから、たちまちにこの店のナンバーワンさ。今じゃあ、その子目当てにこの店に来るすけべ親父も少なくないんだ。まったく、店を閉める話がなけりゃあ、絶対に口説き落としてこの店の華にしてみせるのに、勿体ない話だぜ」

 一息にそう言ってから、マスターは息を一つ吸い込み、その女の名前を口にした。

「フィナ!おおい、フィナ!お客さんだぜ!こっちに来い!」

 はぁい、と、店の奥から、女の声が聞こえた。
 そして、とたとたと小さな足音が近づいてくる。
 店の薄暗がりの奥から、一人の女が顔を出した。
 その女を見て、流石のケリーもジャスミンも声を失った。
 美しい女だった。
 腰まで届く漆黒の髪、それと同色の煌びやかな瞳。
 抜けるように白い肌を、真っ赤なレオタードが飾り付けている。しかも、かなり股間の切れ込みの鋭い、扇情的なものだ。
 腰から下は、黒い網タイツを履いている。ほっそりとした太腿との対比が艶めかしい。
 しかし、そんなことより何よりもケリーとジャスミンを驚かせたのは、その女の若さ――いや、その少女の幼さだった。
 唇に紅を引き、アイラインを濃くはしているものの、到底誤魔化しきれてはいない。
 おそらく、まだ中等部の、それも低学年に分類されるのではないだろうかという幼さ。これでは、二人の孫であるジェームスと同じくらいの年齢ではないのか。
 ケリーとジャスミンはこの星の風俗には明るくないし、法律にも不案内だ。しかし、ヴェロニカ共和国が連邦加盟国である以上、一定年齢以下の児童の就職は禁じられているはずだし、それが夜の街ともなれば尚更である。
 そして、どう見ても目の前の少女は、その年齢に達しているとは思えない。
 その少女が、呆気に取られた怪獣夫妻の前で、ちょこんと頭を下げた。その拍子に、頭につけた兎の耳が、可愛らしくひょこりと揺れた。

「ご指名ありがとうございます、フィナ・ヴァレンタインです。本日はよろしくお願いします!」

 何とも元気の良い、しかし少々やけくそ気味の、覇王の現し身たる少女の挨拶であった。



[6349] 第二十九話:Humpty Dumpty had a great fall
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 19:26
「フィナ!おおい、フィナ!お客さんだぜ!こっちに来い!」
「はーい、今行きますー!」

 フィナ・ヴァレンタイン――ウォルは、手に持ったビールジョッキを急いで配膳し、マスターの待つカウンター席まで駆けていった。
 ふと足下を見る。
 最初は何度も足を挫きそうになったハイヒールも、既に足に馴染んでいる。当然、白い兎耳も、黒いチョーカーも、赤いバニースーツも、目の荒い網タイツも。
 皮肉なことに、メイフゥの言ったとおりであった。一度着てみれば、何と言うこともない……というよりも、決して飛び越えてはいけないラインを強制的に、しかも一息で飛び越えさせられてしまった。
 結果として、今のウォルに、バニースーツを着ることに対する心的な抵抗は少ない。
 幼さを消すための化粧――アイメイクに白粉、口紅など――も、手慣れてしまった。
 既に彼女は、男として二度と引き返すことの出来ない、遙か彼岸まで行き着いてしまったのだ。

『一人殺すのも二人殺すのも一緒だ!』

 そう叫ぶ殺人犯の気持ちが、ほんのちょっぴりだけ理解できてしまう自分が悲しいと、ウォルは目尻に浮いた涙をそっと拭った。

 ウォルがこの店で働き始めて、既に一週間が経つ。
 仕事はおおむね順調であった。接客のコツも分かってきたし、適当なところで客をあしらう技術もわかってきた。客の受けも上々で、目立ったトラブルも無い。
 それに、この酒場の客層は、年端もいかない今のウォルに欲情するほど特殊な趣向を持つ人間はいなかった。精々、我が子にするようにウォルの頭を撫でてやったり、面白半分で脇腹をつんつんとつつき、可愛らしい悲鳴を上げながら飛び上がるウォルを見て面白がる程度だ。
 要するに、ウォルの身体を性的な意味で味わってやろうという人種――いわゆる小児性愛者はほとんどいなかったわけだ。もう少し噂が広がれば事態も変わるだろうが、今のところは彼女のことを小動物のように可愛がる客が大半を占めている。当然、無理に酒を勧めたりもしない。
 たまに、踊り子に手を出す――尻を撫でたり胸を揉んだりしようとする――不届き者がいたりするが、そういった悪質な客はウォルが剣呑な殺気を込めて睨みつけてやるとすごすごと退散した。
 だからウォルは、よっぽどのことが無い限り客のされるがままであり、頭を撫でられたり膝に乗せられたりした体勢のまま、仕事の愚痴や女房に対する不満等を聞き、適当に相づちを打った。
 しかし、それだけのことで、この小さく可愛らしいバニーさんの人気はうなぎ登りであった。何せ、元が人生経験豊かな元・国王である。実に聞き上手であったし、ふとした拍子に溢すアドバイスも適切だ。
 客の方も、あどけない少女の言葉であるだけに最初は笑いながら聞くが、しだいに真剣な、救いを求めるような様子でウォルの助言に耳を傾ける。時には涙をこぼし、懺悔のようなことをする者も少なくない。
 そして最後にはウォルを情熱的に抱き締め、財布の中身のほとんどをチップとして渡し、晴れ晴れとした笑顔で帰っていくのだ。
 元が面倒見のいいウォルであるから、そのようにして人を導くのは嫌いではない。それに気の良い客がほとんどだったので、一緒に酒を飲んで馬鹿話をするのも中々に楽しい。
 しかし――しかし、ふとした拍子に、自分を醒めた視線で見つめてしまうのだ。
 例えば今だって鏡を見ると、愛らしい少女が、愛らしい格好で、しかし親の敵を見るようなすごい視線でこちらを睨みつけている。これが誰かと問われれば、間違いなく自分以外の何者でもあり得ない。
 もし、万が一にも今の自分を、妻が――未来の夫に見られたら……あちらの世界に残してきた、ポーラや我が子や孫達に見られたら……。

 ――リィ。俺は、俺は汚れてしまったよ……はは、あははは……。

 底冷えのする笑みを何とか引っ込めたウォルは、一応のサービスルマイルを浮かべて、新たな客に相対した。

「ご指名ありがとうございます、フィナ・ヴァレンタインです。本日はよろしくお願いします!」
 
 勢いよく下げた頭を上げると、そこには唖然とした表情で自分を見つめる、二組の視線があった。
 薄暗い酒場のカウンターの外れに、その巨体を押し込めるようにして座っている。
 ウォルも、流石に表情にこそ出さなかったものの、かなり驚いた。
 何せ、その二人は大きかった。
 両方とも、かつての自分と同じ程度か、それ以上に大きい。しかも一人は女性なのだ。
 ウォルがこの世界で初めて知り合った大男、ヴォルフガング・イェーガーなどを比較の対象にさえしなければ、目の前の二人はこの世界でも最大級の体格を有していると言って良いだろう。
 その二人にじろじろと眺められたのだから、流石のウォルも内心でたじろいだが、気を取り直して言った。

「とりあえずー、飲み物は何にしますかー?ビール?ウィスキー?お酒が苦手なら軽いカクテルもお持ちしますけどー?」

 語尾を間延びさせた間抜けな言い方も、慣れた。
 心の中で血涙を流しながら、しかしウォルの笑顔には一切の綻びも見られない。
 正しくバニーさんの鑑であった。

「……飲み物は、今のところ間に合ってるんだが……その、お嬢ちゃんは、この店で働いてるのかい?」

 大きな二人組のうちの男のほうが、目をぱちくりさせながら言った。
 少しとぼけたような表情であったが、ウォルは、この男が整った容姿をしていることに気がついた。無論彼女にはそういう趣味はないのだが(この場合、なんとも複雑な意味になる)、内心で感嘆の溜息を吐かせる程に、その男は美男子であったのだ。
 その男の疑問に答えるように、マスターが言った。

「その子は、俺が宇宙にいたときの親分のお嬢さんなんだが、ちょっと事情があってうちで働いてもらってるんだ」
「しかし、この子は明らかに未成年だぞ。普通のウェイトレスとして雇うならともかく、この手の店で働かせるのはまずいだろう。それともこの星の法律では、この年の子供を酒場で働かせても構わないのか?」

 今度は、女のほうが若干険の篭もった声で言った。
 赤毛の、何とも迫力のある風貌の女性だった。女性を評するに『迫力のある』とは如何なものかとも思うが、それ以上に相応しい表現もない。それは、外見も、体格も、そして内に籠もった魂も、である。
 そのわりに、発言の方は至極まともであった。ウォルのような幼い少女――少なくとも見た目は――を夜の街で働かせるなど、いわゆる良心的な大人の行いではない。しかも、男のやる気を沸き立たせるような、扇情的な格好をさせてである。
 痛いところを突かれたはずのマスターは、しかし苦笑して、

「あんたの言うことはもっともさ、ミズ。ただ、一つ聞きたいんだがね、どうして夜の街で子供を働かせちゃいけないんだい?」
「決まっている。夜の街は色々と誘惑が多くて教育上よろしくない。それに、何かあったときに、子供では自分の身を守れないだろう」

 これも至極もっともな意見だった。
 マスターはしきりに頷き、

「まったくもってあんたの言い分は正しい。だが、あんたの言い分が正しいとすりゃあ、もしも既に色んな誘惑にも負けないくらいに価値判断のしっかりした、自分の身は自分で守れる子供がいたならば、こういうところで働いても問題無いわけだ」

 贔屓目に聞いても詭弁にしか聞こえない意見であったが、赤毛の女性は厳しい表情で頷いた。
 彼女の脳裏に浮かんだのは、自分の孫と同級生の、金色と銀色の髪をした美しい少年達だった。彼らが全てを承知の上で色街に生き場を求めると決断した場合、自分はそれを制止する言葉を持たない。
 だが、目の前の少女は――。

「だ、そうだぜウォル。後は好きにやんな」

 マスターは手をひらひらさせて、違う客の注文を取りに行った。
 置き去りにされたかたちの三人であったが、そのうちの体格のいい夫婦の間に、にゅうと腕が差し込まれた。
 その手は、テーブルに置かれたグラスを引っ掴み、中に入っていた美酒を持ち主の口へと運んだ。
 まるで手品師がハンカチーフをかけたように、グラスの中身は空になった。中に入っていたのは相当にきつい蒸留酒だったというのに。
 呆気に取られている二人を尻目に、手の持ち主であるウォルは、口元を腕でぐいと拭い、

「――旨い。これこそ酒だ。舌に辛く鼻に甘く、喉に滑らかで胃を燃やす。やはり、酒はこうでなくてはな」

 先ほどまでの接客中、中途半端に気を利かせた客の奢りで甘ったるいカクテルばかり飲まされていたウォルの、魂からの一言であった。マスターの許可も出たのだから、男に媚びる女のような、甘えた口調もする必要はない。
 ようやく口直しができて気をよくしたウォルは、舌舐めずりをする有様でボトルを掴み、手酌でおかわりを注いだ。そして、そのままの勢いで飲み干した。
 茫然とその様子を見守っていた二人組の女性のほうが、
 
「なぁ、海賊。最近の子供というものは、こういうものなのだろうか。私が子供の時は、もう少し遠慮した飲み方をしていたと思うのだが」

 子供の時は虚弱な体質だったその女性は、単純に自分とは比較できないとは思いつつも、しかし目の前でかっぱかっぱとグラスを空にする少女には軽く目を見張らざるを得ない。
 然り、男の方も頷きつつ、

「いや、俺がガキの時分だってもう少し大人しい酒を飲んでたもんだが……お嬢ちゃん、あんたそんなに飲んで大丈夫なのか?」

 可愛らしく両手でグラスを口に運んでいたウォルは素っ気ない素振りで、

「心配ご無用。この身体になってから少々弱くはなったが、この程度で根を上げるほど軟弱でもない。それより、あなた方のグラスの方が空のようだ。ささ、ぐいっといってくれ」

 ウォルは慣れた手つきでボトルから酒を注ぎ、二人のグラスを満たした。
 この時点で、どうやら目の前にいる少女が姿通りの存在ではないことを悟ったのだろう、二人は落ち着きを取り戻した様子で、ウォルが酌をしたグラスを手に取った。
 男はそれで唇を湿らし、首を傾げながら問うた。

「……前の身体は、もっと酒に強かったのかい?」
「人にうわばみと呆れられる程度には。まぁクコ酒の五本を空けても酔わないのは俺くらいのものだったな」

 えへん、とぺったんこな胸を反らしたウォルであるが、聞く者にはクコ酒というものが何だか分からない。話の流れからして相当に強い酒なのだろうというところまでは想像もつくが、まさかそれが異世界の酒であるなどと誰が知るだろう。
 加えて言えば、ウォルがクコ酒を五本も空けるという無茶をしでかした時、彼女――その時はまだ彼だった――は強かに酔っぱらい、剣一つで憎い仇の首を取りに行くと言い放ったのだ。それでよく何の臆面もなく酔っていなかったなどと言えるものである。この場に、彼女の同盟者か、それとも幼なじみあたりがいれば、猛烈な勢いで突っこんでいたはずだ。
 そんなことは神ならぬ人の身では分かるはずもない。だから、女は首を捻りながら、別のことを言った。

「なぁ、海賊。最近の子供というものは、ころころ自分の身体を変えることが出来るものなのか?」
「どういう意味だ?」
「知り合いの少年が、私の胸を見て重たそうだと言ったことがあってな。聞いてみると、以前は自分にも付いていたと……代わりに今は股の間がもぞもぞすると、そう言っていたのだが」
「ああ、黄金狼のことかい?確かに、あの競技会の時のあいつは、むしゃぶりつきたくなるようなべっぴんさんだったがよ」

 妻の前で、妻以外のことを表現するには如何と思われるような喩えであったが、妻のほうもあっけらかんと、

「私もそう思う。全く、男にしておくのが勿体ない程の美女だった。私が男だったら間違えても放ってはおかないだろうな」
「俺だって、あいつが女だったら間違いなく放っておかないぜ。そんなの相手さんに失礼ってなもんだ」
「違いない」

 二人は深く頷きあった。まったく、この二人は本当に永遠の愛を誓い合った夫婦なのだろうかと、誰しもが首を傾げる有様で。
 少なくとも普通の夫婦であれば、そもそも夫のほうが妻の前で、妻以外の女性を口説きたいなどとは言わないし、妻の方もそれを聞いて涼しい顔などはしていない。『私のことをもう愛していないのね!』などと喚き立てるのが普通だし、夫婦とはそうあるべきものだ。
 なのに、当の妻はといえば夫の言い分に憤るどころか、深く深く同意しているのだから、やはりこの二人はどこかおかしい。
 先ほどの勢いとはうってかわってチビチビとグラスを傾けながら、ウォルは目の前の大型夫婦のやり取りを見守っていた。

「あなた方のお知り合いにも、自分の身体の着替えが出来る方がおられるのか?」

 身体の着替えとは妙な表現ではあるが、最初の営業スマイルと口調などどこかにうっちゃってきた様子でウォルが問うた。
 その、どう考えても少女には相応しく無い口調に些かの違和感を憶えつつ、男は頷いた。

「流石に大勢じゃあねぇけどな」

 男は内心で指折り数えた。
 自分を蘇らしてくれた黒い天使とその一族。
 彼らに『着替えさせられた』人間であれば、自分と妻を含めて6人といったところか。
 男は悪戯っぽい表情で声を潜めさせ、ウォルの耳元で言った。

「かくいう俺だって、着替えさせられた人間なんだぜ」
「ほう!では卿も、もとは女性だったわけか!いや、であれば是非女性であったあなたとお会いしたかったものだ」
「いや、俺は新しくて若い身体を用意してもらっただけだ。男と女を入れ換えるなんていう、贅沢な思いはさせてもらってねぇんだよ」

 唇を尖らせて、如何にも残念そうに夫は言った。
 その妻は苦笑しながら、

「なんだ、海賊。お前は性転換願望があったのか?」
「別にそういうわけじゃあねえがよ。折角一度死んで生き返ったなら、それくらいのハプニングがあったって面白いだろう?まぁ、俺が女になったらダイアンが嘆き悲しむかもしれねえがな」
「彼女はむしろ大喜びでお前を飾り付けると思うぞ。そうなった時は覚悟しておくことだな。少なくとも一ヶ月の間は、お前は彼女のお人形さんだ」
「女王、そういうあんたはどうなんだい?一回くらいは男になりたいとかは思わねえのか?」
「私か?私が男になったら、そうだな、とりあえずジンジャーの相手をするのが大変だ。彼女のことだから、出会ったその日のうちに婚姻届でも用意しかねない。重婚は流石にまずいし、お前との離婚届を出すつもりも今のところはないからな。遠慮しておくとしよう」
「違いない!」

 夫は手を叩いて喜んだ。
 第三者からすれば何とも幼稚な、『たられば』遊びの会話であったが、その二人にすれば十分以上に現実味のある話だ。例えば黒い天使が酔っぱらって茶目っ気の一つでも起こせば、明日にでも我が身に降りかかりうる話なのだ。
 一人だけ会話に置いていかれたかたちのウォルは、やはりチビリとグラスを傾けて、感慨深げに呟いた。

「やはり天の国、なんとも奇妙奇天烈な世界だ……」

 その呟きを聞いたわけではないのだろうが、女はその青みがかった灰色の瞳を少女の方に向け、

「ええと、フィナ嬢だったか?それともウォル嬢と呼べばいいのかな?」
「フィナ嬢でお願いする!」

 ウォル嬢という呼ばれ方を生まれて初めてされて、耐え難い寒気を感じたウォルは、間髪の間を入れることもなく断言した。
 
「ではフィナ嬢。君も我々と同じく、着替えさせられたのかな?」

 何とも微妙な質問ではあったが、その瞳は真剣そのものだった。
 先ほどまでの会話とこの少女の口振りを勘案すれば、この少女自身も何者かの手によって着替えさせられた可能性が高いと、そう思ったのだ。
 女の知り合いの中で、面白半分に他者の姿を変えて楽しむ者はいない。それは、神と例えられるラー一族の中でも規律に抵触する行いであったし、ラー一族以外の者にそんなことが出来るはずもないからだ。
 しかし目の前の少女は、自分から望んで少女の姿に変えてもらったというわけではなさそうだ。そもそも、一体誰の手によって姿を変えられたというのか。
 事と次第によっては自分達の身の安全にも関わる話であるから、女の瞳も真剣だ。若干金色の輝きを帯び始めているのも気のせいではあるまい。言葉を換えれば、物騒の辛うじて一歩手前といった眼光だ。
 だというのに、ウォルはのんびりとした調子で言った。

「俺は着替えさせられたことはないな。ただ、この身体を借りているだけだ。そしてこの身体の持ち主は別にいる」
「……よくわからないんだが、説明してくれるかな?」
「信じてもらえるかどうかは知らんが、俺はこの世界ではない別の世界の生まれでな。そこで大恩ある人と出会い、別れ、そいつを追いかけてこの世界までやってきた。しかし、魂一つでやってきてしまったため、体がない。だから、少しだけ無理を言ってこの子の体を貸してもらうことにしたのだ」

 二人は流石に耳を疑ったが、しかし頭ごなしに少女の話を笑い飛ばしたりはしなかった。何せ、死後の世界とかいうあやふやな場所は置いておいて、魂というもの自体の存在には人並み以上に理解のあるからである。
 グラスの中の蒸留酒を胃に運びながら、少女の話に聞き入った。

「じゃあ、お嬢ちゃんが着替えさせられたんじゃあなければ、一体誰が着替えさせられたんだい?」

 確かに、先ほど目の前の少女は『あなた方のお知り合いにも、自分の身体の着替えが出来る方がおられるのか?』と言った。
 『にも』という言い方からして、彼女か、もしくは彼女に近しい誰かが姿変えをしたのだと思ったのだが、彼女自身ではないという。
 ならば必然、彼女に近しい他の誰かが、着替えを行ったということになるはずだ。

「まぁ、あいつの場合は何かの手違いで性別が変わってしまっていたらしいのだが……。あとで男に戻った姿を見たときは、正しく心臓が止まるかと思った。顔の造りそのものには大差がないのに、どうしてここまで雰囲気が変わるのか不思議だった」
「へぇ。じゃあ、お嬢ちゃんの知り合いにも、男なのに女の格好をさせられてた奴がいたわけか」
「ああ。俺の妻だ」
「妻?じゃあ、もしかして、こっちの世界まで追っかけてきたってのも……」
「ああ、それも妻だ。普通に家出する分には構わんのだが……実際、一月や二月の間の家出はしょっちゅうだったのだが……まさか世界を超えて、四十年の間も家出されるとは思わなかった」
「するとお嬢ちゃん。ひょっとして、あんた、元は男かい?」
「うむ。誰がどう言おうと、俺は男だった。今も男のつもりなのだが……これではなぁ……」

 ウォルは悲しげに、自分の胸辺りを撫でた。そこは、同年代の少女と比べてもやや迫力に欠ける起伏しか有していなかったが、それでもはっきりと膨らみ始めていた。
 前の、分厚い筋肉に覆われた胸板ではなく、女性の柔らかな乳房がそこにはある。
 これで『俺は男だ!』とは、なかなか言いにくい。
 そして、二人のほうも、薄々とそのことには気がついてはいたのだが、あらためて目の前の少女が元男だと言われると現実感が薄い。
 まじまじとウォルの顔を見つめながら、こんなことを言った。

「はー、このかわいこちゃんが元男ねぇ。孫チビあたりが見たら、一発でいかれちまいそうだぜ」
「それは仕方ないだろう。女の私から見ても、この子は相当に可愛らしいぞ。思わず抱き締めたくなるくらいだ」
「やめとけよ女王。あんたが思い切り抱き締めたら、骨の一本や二本は折れちまうぜ、多分」
「うん。だから困っているんだ。馬力はあるんだが、調節のほうがあまり上手でないからな。こういうときは普通の女くらいの力しか無いほうがいいと思う。残念だ」
「別に俺は構わんぞ。この体は見た目より丈夫でな、少々乱暴に扱ったくらいではびくともせん」

 ウォルは誇らしげに言った。
 すると女が、何とも心細そうな声で、

「……本当にいいのか?」
「貴方が構わないなら。俺も、美しい女性を抱き締めるのは嬉しい」

 今回は抱き締められるわけだが。

「……嘘をついていないな?」
「おう、どんと来てくれ。しかし、奥方が目の前で他の男を抱き締めるというのは、夫君にとってはまずいのではないか?」
「そのなりでいまさらだろうが。そもそも、その女が他のどこで男を銜え込もうと俺は別にかまわねえぜ。そいつだって、俺がどこで他の女を引っかけても文句は言わねえさ」

 それは夫婦としてどうだろうと、ウォルは思った。
 しかし、赤毛の女性は真剣な表情で頷いた。
 
「海賊、お前の言うとおりだな。別に私は、お前が他の誰と遊んでもかまわない。ただ、その時は出来るだけ上手に遊んでくれることを願うばかりだ」

 この場合の上手とは、『種を撒いても咲かせるな』という意味ではなく、相手を傷つけるなという意味だ。

「だろ?俺もあんたも、遊び相手はいくらでも見繕えるが――」
「完全に替えの効く相手となると、この広い宇宙でも探すのは酷く手間がかかる。こいつはこの宇宙で最高の船乗りで、私はこの宇宙で最高の戦闘機乗りだからな。だから問題無いのさ。フィナ嬢、納得したか?」

 ウォルは、呆気に取られつつも頷いた。
 そして思い出した。彼女の従弟夫婦も、お互いの恋愛については不干渉に近い立場を取りつつ、しかし夫婦としてはこの上ないと言っていいほどに仲睦まじかったことを。
 要するに、人それぞれなのだ。少なくとも自分が口を出す話ではない。
 ウォルは晴れ晴れとした顔で頷いた。
 その、無邪気で愛らしい笑顔を見てしまった女は、ウォルの肩に大きな掌を置き、

「……話は戻るが、本当にわたしが君を抱き締めてもかまわないんだな?」
「いいと言うに。大丈夫、他ならぬ俺が保証する」
「では遠慮無く」
「むぎゅぅ」

 女はウォルの身体をひょいと持ち上げ、その顔を自身の胸に埋めるようにして抱き締めた。
 確かに情熱的な抱擁ではあったが、骨が軋むということはなかった。無論折れるたりもしない。寧ろウォルは、その女性の身体の柔らかいことに驚いたくらいだった。先ほどの話から、筋肉質で固い感触を覚悟していたから驚きもひとしおだった。ただ、その豊満な乳房に顔を押し付けられて、危うく窒息しそうにはなったが。

「おい、女王。そのままじゃあ、その嬢ちゃん、気を失うぞ」

 端から見ていたその夫が、苦笑混じりに指摘する。
 女は、はっとして、その力を緩めた。
 すると、ぷはぁ、と間の抜けた声を発して、胸の谷間から自分を見上げる、黒い瞳を見つけるのだ。
 女は、たまらないふうに、声を震わせた。

「海賊、どうしよう。わたし、これ欲しい。持って帰りたい」
「そりゃあ無茶ってもんだ。間違いなく未成年者誘拐だぜ」
「やはりそうか……犬や猫ならいくらでも出すんだが、仕方がない。残念だ。至極残念だ。こんな子が生まれるなら、息子だけじゃなくて娘も生んでおくんだった」
「今からでも頑張るかい?俺は別に構わねえぜ」
「それは嬉しい提案だが、止めておこう。今から年の離れた妹が生まれたら、兄の方が間違いなく目を回すぞ」
「そいつはいい!ちびすけの次の誕生日のプレゼントは、あいつの妹に決定だ!」

 頭の上でよく分からない会話が交わされる間、男ならば誰もが羨むかたちで窒息寸前だったウォルは目を白黒させていた。
 そして気がついたときには、カウンターの椅子以外の柔らかい何かの上に座らされていることに気がついた。
 女の、程よく弾力のある太腿の上だった。ウォルは、女にすっぽりと抱かれるかたちで、男のほうと向かい合っていた。

「で、どうだったね、女房に抱かれた感想は?」

 男がにやにやしながら聞くと、ウォルは生真面目なふうで答えた。

「柔らかかった。それに、良い匂いがした」

 男は、堪えられないというふうに爆笑した。

「そうかそうか、そいつはよかった!俺も、自慢の女房を褒めてもらって嬉しいぜ!」

 男は膝を叩いて笑った。
 そして、気を取り直したふうにして、言った。
 
「しかし、話を戻すがよ。あんたが昔は男だったとして、自分の妻が元は男だってことを知りながら、それでも永遠の愛を誓ったのか?」
「加えれば、元は男の俺を前にして、今は男のそいつも俺を妻にすると誓ってくれた。何ともありがたいことだ」

 ウォルは厳めしく腕組みをしながら、しみじみとした調子で言ったものだが、聞く方は平静ではありえない。
 同性愛とか性同一性障害とか、そういう分かりやすい話の遙か斜め上を行った、正しく奇妙奇天烈な話である。
 それを聞かされた二人は、少女の頭上で視線を交わしながら、何とも言えない表情を浮かべていた。

「……海賊。お前はことあるごとに私達の結婚を型破りだ、破天荒だと言うが……」
「上には上がいるもんだねぇ……」

 男が、元は男だった女を妻に娶り、世界を超えて今度は自分が女としてその妻の妻になる。たとえ文章にして一から読んでもわけのわからない説明を、この二人はよく理解した。
 そして女は、にこりと笑いながら、自分の膝の上にちょこんと座った可愛らしい生き物に、言った。

「では、君は、君の大切な人と再会できたわけだな」

 ウォルもまた肩越しに振り返り、満面の笑みを浮かべていた。
 女には、それが太陽が笑った顔に見えたのだ。

「ああ。誰に感謝をすればいいのやらわからんが、しかし感謝の言葉もないほどに感謝している。さしあたり、この体の持ち主の少女には一生頭が上がらんだろうなぁ」

 そこで、三人共が声を上げて笑った。
 人目を引く大柄な男女と、バニー姿の少女という三人組が談笑しているのは何とも奇妙な有様だったが、不思議と絵になった。
 三人とも、自分達が決して口外すべきではない重要な話をしていると自覚している。しかし同時に、目の前にいるのがそれを話しても問題無い人物であることも確信していた。
 何とも愉快な夜だった。
 やがて笑いを収めた男が、声を弾ませながら、

「しかし、どんだけぶっ飛んだ話でも、探してみりゃあよく似た話が転がってるもんだな。黄金狼の話を聞いたときも世の中には不思議な話があるもんだと散々驚かされたが……」
「ほう、似たような話と。それは一体どんな?」

 男は不敵に笑い、

「ま、こいつは俺の恩人から聞いたんだがよ。どうやらそいつも、男から女の身体に着替えさせられたうえで異世界とやらに迷い込んだことがあるらしい」
「ほう!それは本当か!」

 ウォルは目を輝かせた。

「それは是非聞きたいな!差し支えなければ話してくれるか!?」
「今更おあずけなんて、殺生な真似はしねえよ。聞いたところでは、そいつ、ある日突然目が覚めたら、ここじゃあない全く別の世界にいたんだとさ」

 うんうんと、ウォルは頷く。
 男も、目の前に可愛らしい少女がいて、その子が自分の話を熱心に聞いてくれるのであれば悪い気はしない。
 身振り手振りを加えて話した。気分は古代ローマかギリシアかの講釈師のそれだ。

「そしたら、目の前でいきなり戦いが始まった。方やたった一人の戦士が剣を携え、方や十人を超えるような兵士の群れがその戦士を取り囲んでいる」
「なんと卑怯な!」
「だろう?そいつもまさしく、あんたと同じことを思ったのさ。だから、たった一人の方の味方をして戦い、二人で十人の刺客を切り伏せた」
「おおっ!」

 酒の神の助けもあり、ほろ酔い加減のウォルは拳を固く握り、思わず歓声を上げた。
 どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと。
 きっと、よくある既視感ならぬ既聴感だと思い、目で話の先を促す。

「それでも二人で十人を叩き伏せるのは楽な作業じゃないから、二人はようやく落ち着いた頃合いになって、お互いの情報を交換するんだ。だが、そこで驚くべきことが判明するんだな」
「それは一体?」
「なんと放浪の戦士にしか見えなかったその男が、王座から追われた王様だったらしいんだ。しかもそいつ、その時点でようやく自分が女になってることに気がついたらしい。なんとものんびりしたことだが、しかしそれ以上にあいつらしいぜ、まったく」
「……王座から追われた、王様?」

 どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと。
 自分にそう言い聞かせたウォルは、おそるおそるといった調子で話の続きを促した。

「それで、その先は……?」
「まぁ俺も聞きかじった程度だからよく知らないが、紆余曲折あってその男は王座に返り咲き、憎い憎い敵の首も取ったんだと。あとは、放浪の旅に出ようとしたそいつを無理矢理王女に据えて、めでたしめでたしってやつさ」
「……」

 どこかで聞いた話の気がしないでもなかったが、目の前の男の言によれば、この世には似たような話などいくらでも転がっているとのこと……と片付けることは、流石にのんびり屋のウォルにも出来なかった。
 ふらりとあらわれた得体の知れない少女を王女に迎えるのは、例えこの世に世界がいくつ転がっていようと自分くらいのものだという自覚が、彼女にもあったようだ。
 裏返ろうとする声をなんとか宥めつつ、ようやくの有様で呟いた。

「……その先は……国を取り返した国王は、一体どうなったのだ?」
「そっから先のことは聞いてねえな。そもそもこいつも酒の席での話だから、どこまで本当かは分からねえしな。だが、あいつが言った以上は間違いなく事実なんだろうぜ。なぁ、女王」
「ああ。彼は、そこで何物にも代え難い無二の同盟者を得たと、嬉しそうに、それ以上に寂しそうに言っていた。あの子は、そういうことについて口が裂けても嘘は言わないだろう。いや、嘘をつくことが出来ないといった方が正しいな」
「ああ、だからよ、きっと王座を取り返した後の王様も、賑やかにやりつつも最後まで幸せだったに違いねえさ。なんたってあいつは黄金狼の中の黄金狼だからな」
「意味が分からないぞ、海賊」

 黄金狼。
 考えてみれば、自分の伴侶を指し示すに、これほど相応しい呼称は他にあるだろうか。
 そう言えば、あの星で飲み明かしたあの夜、リィは言っていなかったか。この世界でも、大切な友達ができた、と。

 曰く、この宇宙で最も腕のいい宇宙船乗りである。
 曰く、この世界の常識から最も遠いところにある夫婦であるが、何故かその息子と孫は常識人である。
 曰く、一度は自分と戦い、危うく殺されるところだった。
 曰く、大柄な赤毛の妻と、漆黒の頭髪の美丈夫の二人組である――。

 確かに、先ほど彼らは言っていた。自分達は船乗りであり、戦闘機乗りであると。
 戦闘機という単語はともかく、船乗りと言った場合、ウォルにとって馴染み深いのは文字通りの海の男達の操る帆船のことである。
 しかしこの時代、この世界における船乗りとは……。

「試みに尋ねるのだが……その、あなた方の職業はひょっとして、宇宙船乗り?」

 男の方が嬉しそうに、

「さっきもそう言わなかったかい?その通り、俺もこいつも、他の何よりも船を愛する宇宙生活者さ」
「……そのお年で、お孫さんもおられて、連邦大学に通っている?」
「……なぜ君はそんなことまで知っている?」

 頭上から聞こえる声と、自分を抱き締める腕に剣呑なものが籠もったが、いっぱいいっぱいのウォルはそんなことも気がつかない。
 そして『自分はその孫の同級生です。ついでに同じ寮に住んでいます』とは流石に言えず、ウォルは最後の質問をした。

「ひょっとしてひょっとすると……卿らの名は……」
「俺はケリー。こっちがジャスミンだ」

『驚くなよ、ウォル。実はな、こっちの世界でも友達が出来たんだ!』
『友達?狼か、それとも馬か?』
『違う。でも、極めつけにぶっそうだ。ケリーとジャスミンっていうんだけど……』


 そう言っていたリィの言葉を思いだしたウォルは、目の前の怪獣夫婦の顔をまじまじと見つめ、なるほどリィの人を見る目は間違えたことは無いと、その確信を新たにした。



[6349] 第三十話:ヴァルプルギスの夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 19:29
「まぁ、話は分かったぜ。だがよウォル、黄金狼の知り合いのお前が、どうしてこんなところでバニーガールなんてやってんだ?」
「話せば長いのだが、聞いてくれるだろうか?」
「おお、いいぜ。幸い、今日は飲むつもりで来たからよ。酒の肴になる話なら大歓迎だ」
「……実は」



「ただ今・連邦標準時4月30日午後0時00分・契約の日時に・なりました。ただ今をもちまして・本船の所有権は・債権者であるEUFBへと移転されます。本船のクルーは・速やかに最寄りの宇宙港へと・本船を寄港させ・EUFB債権回収担当者の指示に・従ってください」

 無機質な人口音声が船内に響き渡った。
 船長室でそれを聞いたインユェは重たく溜息を吐き出した。もし手元に酒でもあれば、浴びるほどに飲んでやりたい気分だった。
 
「ったく、分かりきってることを一々言うんじゃねえ!」

 代わりに、手近にあった雑誌を、スピーカーに思い切りぶつけてやる。
 無論、そんなことで事態が好転するはずもない。
 今日が、借金の返済期限だったのだ。
 彼ら自身が作った借金ではない。亡父の古い友人だという得体の知れない男の借金を、ほとんど詐欺同然の契約で肩代わりしてしまったものである。それも、完全にインユェの独断で。
 そして今日、この船――インユェにとっては亡き父の遺品でもある長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号の所有権は、EUFB――エストリア・ユニヴァーサル・フィナンシャル・バンクへと移転してしまったのだ。
 船を借金の抵当に入れるというのは、珍しいことではない。人が宇宙に飛び出す前、船が海の上を浮かぶことしか出来なかった時代も、船に対する抵当権というものは存在した。
 しかし、人が宇宙に進出し、船が宇宙空間を航行するようになってから、話はそう簡単ではなくなってしまった。宇宙という空間が一つの星の海に比べてあまりに広大であるため、抵当権の行使としての船の差し押さえが著しく難しくなってしまったのだ。具体的にいうと、借金の踏み倒しが増えた。
 それを防ぐために考えられたのが、宇宙航海には欠かせない、感応頭脳に対するロックである。
 借金の抵当に入れたとき、船の感応頭脳に専用プログラムがインストールされ、所定の日時までに借金の返済が確認できない場合、感応頭脳は最寄りの港までの航海以外、あらゆる命令を受け付けなくなる。無論、緊急事態を除いてだが。
 これは非常に有効な措置であった。一度完成された感応頭脳に対して後から手を加えるのは、アレンジャーと呼ばれる非合法な人間の手を借りなければ困難であり、その依頼料は莫大な金額になる。少なくとも、借金の利子にすら喘ぐ船乗りに捻出できる金ではない。
 また、感応頭脳が航海の必需品である以上、それを押さえられるということは逃亡その他の踏み倒し行為をそのまま防ぐということであり、船乗りの首根っこを押さえる行為でもあった。彼らは、船乗りには相応しくない絶望に満ちた足取りで近くの港まに寄港し、借金取りの足音を震えながら待つのだ。
 そして、先人のほとんどがそうであったように、長距離航行型外洋宇宙船《スタープラチナ》号の現在の所有者であるインユェにうてる手立ては、全く無くなってしまっていた。
 死ぬ思いで赴いた前回の資源探査は、まるで幽霊星のように奇妙な星こそ発見できたものの、具体的な成果は全く無し。一文にすらならなかった。強いて言うならば、彼の姉であるメイフゥが捕まえた十匹ばかりの鹿がその成果と言えなくもない。
 雪だるま式に膨らんだ借金は、今日一日の利子の返済ですらままならないほどに大きくなっている。
 宝くじは当たらず、神は自分を見放した。
 インユェは、鉛のような溜息を吐き出した。

「……ちくしょう」

 毒づくための呟きですらがどこか力無い。
 この船は、この船だけは誰にも渡したくなかった。これは、彼らの父が残してくれた、ただ一つの遺品だというのに。
 どうしても、誰にも渡したくない。
 なのに、打つ手がない。

 ――いや、それは違うか。

 インユェは打算を働かせた。
 方法は、無いわけではないのだ。無論借金の全てを清算するのは不可能だが、次の期日を設けるための追い銭くらいならば、作ることも出来る。
 しかし、しかしその方法は――

「お坊ちゃま」

 背後から、声がかけられた。
 インユェは行儀悪く椅子を回し、声の主を見上げた。
 この船には、自分と、自分の姉以外、もう一人の人間しか乗っていない。
 新雪が如き白髪を綺麗に撫でつけた、初老の男。しかし、鍛え抜かれた体躯には老いの影はちっとも見当たらない。
 インユェら姉弟の後見人であり、この船の乗組員でもある、ヤームルという男だった。

「ヤームルか」
「さて、ついに年貢の納め時といったところですかな?」

 ヤームルは、寧ろ楽しげに言った。

「いやに楽しそうじゃねえか。そんなに、俺が苦しんでいるのが楽しいか?」

 インユェは、呪いを込めた視線でじろりと睨みつけた。今日の事態を生み出したのが自分の軽率な行動だと自覚しているための後ろ暗さもあり、どうしても険を含んだ言い方になってしまう。
 口にした瞬間に、インユェは猛烈に後悔した。怒りを向ける矛先を間違えた、その自覚があった。
 しかしヤームルは露ほども気にせず、やはり楽しげに、

「いえいえ、滅相もない。しかし、まぁ、手の足も出ないという状況が何とも昔を思い出させますな。いいではありませんか。得てして、こういう手詰まりの状況を如何に脱するかを考えることこそ一番面白いもの。山登りは、山頂に居続けることに意味は無く、登る途中と降る途中にこそ華があります故」

 髪と同じく、純白に染まった見事な口ひげをしごきながら、本当に楽しげに言うのだ。
 インユェは呆れて言葉もなかったが、なるほどそういう考え方もあるのかと思い、少しだけ肩の辺りが軽くなるのを自覚した。
 そうだ、一度手放したものはもう一度手に入れればいい。何度負けたって、最後の瞬間に勝っていればいい。
 最初から最後まで勝ち続ける必要はないし、それは不可能でもあるし、第一面白くない。
 ならば、船を手放すのは仕方がない。それで一度借金を清算してしまうべきだ。少なくとも、法外な年利の利息を支払うだけに右往左往するなんて馬鹿げている。
 しかし何事にも元手というものは必要だし、勝負には実弾が必要だ。船を売っぱらった後に手元に何も残りませんでしたでは再起の機会も巡ってこないだろう。
 インユェは決断した。

「よし、決めた。あの女の子は売り払おう」
「……はっ?」

 ヤームルが怪訝そうな顔をする。

「……あの娘、とは?そして売り払うとは一体……?」
「ほら、俺があの得体の知れないふざけた星で拾ってきた、あの娘だよ。まだ目を覚ましていないからはっきりわからないが、中々顔立ちも整ってるみたいだし、少女趣味の変態金持ちにでも売りつけりゃあそれなりの金になるぜ、きっと」
「……お坊ちゃま。難しい顔で何をお考えかと思えば、そんな馬鹿げたことを考えておいででしたか……」

 沈痛な面持ちで、ヤームルは溜息を吐き出した。

「もう二度と、そのような非道を考えなさいますな。かの少女、坊ちゃまが知恵と剣をもってもぎ取った戦利品ならばともかく、ただ森の中で拾っただけでございましょう。いわばあの少女は、親に捨てられた子犬や子猫も同然の、無力で哀れな存在。それを人非人に売り渡して資金を得るなど、世に蔓延る下賎な人攫いや人買い連中と何が違います。御館様が知れば、間違いなく嘆き悲しむでしょう」

 折角のアイデアを真っ向から否定されたインユェは、怒るというよりも寧ろ驚いた。

「いや、そうは言うがよヤームル。この船はすぐに銀行に差し押さえられちまうし、さしあたり俺達の手元に勝負金は無い。そんな状況で小難しいことは言ってられねえぜ。そりゃあ、俺だって心は痛むが、ここはあの娘に女郎小屋に入ってもらって……」
「お坊ちゃま、船やら家やらは一度売り渡しても、もう一度買い戻せばよろしい。しかし、一度売り渡した品性や魂は、誰からも買い戻す事が出来ません。そのことをお忘れ無く」
「じゃあ一体どうするっていうんだ、ヤームル。さっきから俺のアイデアにけちをつけてばっかりだけど、当然、それなりの考えがあってのことなんだよな?」

 じろりと睨みつける。
 ヤームルは、のんびりとした調子で、

「とりあえず、邪魔な感応頭脳は取り外してしまいましょう。そうすればこの船を銀行屋どもにむざむざくれてやる必要もございません」

 さらりととんでもないことを言った。
 インユェは、椅子からずり落ちそうになるのを何とか堪えた。
 そして思ったのだ。目の前の、生きた沈着冷静とでも言うべきこの男でも、血迷うことがあるのだろうかと。

「……ヤームル、お前、本気か?」
「はい、無論でございますが、何か問題でも?」
「……それで、どうやって船を動かすんだ?」

 銀行が宇宙船を担保を取るときに、まず感応頭脳を押さえるのにははっきりとした理由がある。
 この時代、長距離の航海において感応頭脳を搭載していない船はまず存在しない。あまりに危険で出来ないのだ。
 ショウ駆動機関の運用やゲートを利用した跳躍は無論のこと、目的地までの航路の算定、はては船内環境の整備など、感応頭脳のおかげで成り立っている領域というのは想像以上に広い。感応頭脳を取り外すということは、それらを全て手作業でするということだ。
 インユェには、ヤームルのやろうとしていることは完全に狂気の沙汰だと思えた。
 
「なになに、私が初めて船に乗ったときは、まだ感応頭脳など利かん坊の赤子も同然、かえって無いほうが航海は順調に行く程度のものでした。それを思えば、今更感応頭脳の一つや二つが無くなったところで別段困ることも御座いますまい」

 この言葉には、流石のインユェも言葉を無くした。
 
 ――感応頭脳なしで宇宙を飛ぶ……?

 ヤームルは事も無げに言うが、感応頭脳付きの船による航海に慣れ親しんだインユェなどに言わせれば、それは致死性の罠の張り巡らされた狭い廊下を灯り無しで歩くような、もしくは高層ビルに渡された細い鉄骨の上を目隠しして歩くような愚行であり、遠回しな自殺としか思えなかった。
 やはり、どう考えても目の前の男はとち狂ってしまったのだ。
 なんだかんだ言ってヤームルを頼りにしていたインユェは、暗澹たる気持になった。
 これはいよいよ手詰まりかと。

「まぁ、口で言っても信じていただけないでしょう。今後のことについても一応のあてがありますので、坊ちゃまは黙ってその椅子に座っていてくださればよろしい」
「いや、まて、ヤームル、考え直せ。そうだ、一人売り払って足りないなら、もう一人、辛うじて生物学上は人間の切れ端に指先だけ引っかかってる、女の領域からはとっくにはみ出しちまってどう見ても女に見えないけど、一応は女に見えなくもない女がいるじゃねえか。この際あいつもセットで売っぱらえば、そんな自殺行為をしなくても……」
 

 ふぅん、インユェ、てめえ、あたしのことをそんなふうに見てやがったのかぁ……

 
 ぼそりと、そんな声が聞こえた。
 地獄の底から響くような、重々しく、そして嬉しそうな呟きだった。
 インユェは、背後から聞こえるその声と、自分の顔から血の気が引いていく音を、ほとんど同時に聞いていた。
 ぎちぎちと、油の切れた機械人形のような音を発しながら首を巡らせる。
 粘い、精神性の汗がだくだくと流れ落ちていく。例え摂氏百度のサウナに一時間入れられたとしてもこれほどの汗は掻かないだろうという、いっそ見事な量の汗だ。

 そしてインユェはそこに見た。

 聳え立つ山巓のような長身。

 全てを嬲り殺す悪魔のように歪んだ目元と、全てを許す聖母のように微笑んだ口元。しかし到底隠しようもないほどに鋭い犬歯が、彼女の獣性を主張している。

 硬質な金の髪は、彼女の発する気勢によって、風に吹かれたようにゆらゆらと揺らめく。

 片方の掌でもう片方の拳を握り、ぼきぼきと盛大な音を鳴らす。それをすると指が太くなるよ、とは既に手遅れの忠告だ。

 彼女の名をメイフゥ。歴とした、インユェの双子の姉である。

 インユェは、そんな姉を見上げながら、白魚のように真っ青な顔で、金魚のようにぱくぱくと口を動かした。
 なんとか言い訳を紡ごうとしているのに、もはや何の言い訳も思い付かない、そんな様子だった。
 擦れた声で、ようやく言った。

「あ……あね、き……」
「その通りだ、チビガキ、お前の愛しい愛しいお姉さまだ」

 メイフゥはその大きな掌で、インユェの銀髪を撫で回した。
 手つきが、そろそろと優しいのがかえって恐ろしい。
 そして、物凄い猫なで声で言った。

「さてクソチビ、そんな愛しいお姉さまから、可愛い可愛い弟に質問だ。お前、さっきあたしのことを、お前の愛しいお姉さまのことを、一体何て言ったかな?」
「いえ、あの、姉さんの美貌は宇宙を超えて遙か天の国まで届きそこに住まう天使を嫉妬させ、その優しさは遠く地の底に住まう地獄の鬼ですらが感動の涙を流すと言いますか……」
「そうか、うんうん、よく分かってるじゃねえか、アホチビ。あたしも良くできた弟を持って幸せだよ。ところで――」

 頭を撫で回す掌の力が、だんだんと強くなる。
 獲物を攫う大鷲のようにインユェの頭蓋をがっしと握り、抵抗しようとする首の筋肉を無視してぐりぐりとこね回す。
 インユェは、自分の首から響くばきばきという音が、どうか頸骨の砕けた音ではありませんようにと願った。

「さっき、ちらっと聞こえた、『辛うじて生物学上は人間の切れ端に指先だけ引っかかってる、女の領域からはとっくにはみ出しちまってどう見ても女に見えないけど、一応は女に見えなくもない女』ってのは、当然にあたしのことじゃあないんだよなぁ……?」
「も、もちろんじゃないか、いやだなぁ、姉さんってば、あ、あははは……」

 インユェの哀しげな声が、本人の意図しないビブラートを伴って狭い船長室を満たす。
 もはや彼の首は、ボールハンドリングされるバスケットボールのようにぐるんぐるんとこね回され、果たして人間の首関節はここまで柔軟だったかとヤームルを悩ませるに十分な可動性を見せていた。
 
「当然、あたしみたいなか弱い乙女を女衒に売り渡してせこい種銭を稼ごうなんて、不埒なことも考えちゃあいねえよなぁ?」
「は、はい、もちろんです、おねえさま……」
「当然、森の中で拾った見ず知らずの女の子を変態趣味の金持ちに売り渡すなんてことを、恥ずかしげもなく言うつもりもねえよなぁ?」
「まったく、かんがえたこともございません……」

 メイフゥが手を止めたのは、インユェの回答に満足したからでも慈悲の心が働いたからでもない。
 ただ、真っ青を通り越して土気色になってきた弟の顔色を見て、これ以上彼の三半規管をいじめたら船長室に盛大な吐瀉物がまき散らされるはめになることが明らかだったからだ。
 幼い頃、何事かもわからずに、操縦席に座る父の背中を眺めた遠い日の思い出を、ゲロ塗れにするつもりはないメイフゥである。
 完全に目を回しているインユェをひょいと担ぎ上げ、言った。

「よしよしバカチビ、お前の気持ちは十分に伝わったぜ。そんな賢い弟に、優しいお姉さまのプレゼントだ。これから同じベッドの中で、お互いくんずほぐれずにしっぽりと語り合おうじゃねえか」

 当然、男女の営みという意味ではない。
 姉の開発した新関節技の実験台的な意味だ。
 インユェは、間違いなく半日の間は、自分の関節がどこまで曲がり、どこからは取り返しのつかないことになるのか、そのギリギリのラインを強制的に再確認させられるのである。人間の関節はどこまで逆方向に曲がるのか、その限界に挑戦すると言っても良い。
 完全に拷問である。
 被害者は、哀しげな、聞く者の憐れを誘う声で命乞いをした。

「た、助けてくれぇ!もうしません!もう絶対にお姉ちゃんの悪口は言いませんから殺さないでぇ!」
「何を人聞きの悪い。今からやるのは姉弟の仲を深め合う、ただのスキンシップだぜ。なぁ、ヤームル?」
「はい、その通りでございますなお嬢様。ただ、後見人たる私が申し上げるのも情け無い話ですが、お坊ちゃまには少々軟弱なところがおありのご様子。そこらへんも、その、なんですか、一切の手加減なく思い切りたたき直して頂けると、私の手間が省けます」
「おーう、まかしとけヤームル。もう二度と甘ったれたことなんて吐けないよう、徹底的に躾けてやる」
「助けてー!誰かー!殺されるー!」

 ドップラー効果を残しながら、双子の姉弟は廊下の向こうへと消えていった。
 それを見届けたヤームルは、小さな溜息を一つ吐き出し、コンソールへと身体を向けた。
 そして、誰に言うでもなく呟いた。

「はてさて、あの偏屈男はまだ性懲りもなく生きているのかな?」

 彼の脳裏に浮かんだのは、かつて星々の大海を自分と共に駆け抜けた、鮮紅色の思い出を共有する友のことだった。自分よりも一足先に船を下りたその男は、故郷で小さな酒場を開いていると風の噂に聞いたのだ。
 そして、その故郷――惑星ヴェロニカこそが、今から自分達の向かう目的地である。

「あの星の連中が恩を忘れていなければ――いや、恩を忘れるということを忘れてくれていれば、入国審査くらいはパスできるはずだが、果たしてそう上手くいくものかね?」

 自分の思考に軽くけちをつけつつ、ヤームルは猛烈な勢いでコンソールを操作した。
 完全な手動で宇宙を飛ぶのは彼にとっても久しぶりだったが、宇宙を股にかける大海賊団の水先案内人であった頃の腕は、まだまだ錆び付いていないらしかった。
 

 
 がしがしと頭を掻きながら、ウォルは目覚めた。
 重たい目覚めだった。二日酔いの朝のように、頭の奥に鈍い疼痛がある。
 思考の回転速度がいまいち上がらないのを、ウォルは自覚した。
 それでも何とか柔らかな寝台から体を起こし、ぐるりとあたりを見回す。
 すると、そこは白一色に統一された清潔な部屋だった。
 一人きりで寝ていた。
 まず、全てが夢だったのかと思った。黄金色の狼と再会したのも、少女の身体に転生したのも、救われない哀れな魂と出会ったのも。
 いや、そもそも自分が一国の王であったこと自体、妄想じみた夢だったのではないだろうか。
 そんなことを考えながら、何となく自分の掌を眺めた。
 小さな、白い掌。一度だって剣を握ったことのないような――握る機会すら奪われてしまったような――真白い掌。
 
「……ああ、夢ではなかったのか……」

 それは安堵の呟きだった。
 ウォルは、改めて自分のいる部屋を確認した。
 やはり、白一色に統一された清潔な部屋であったが、その壁は、あちらの世界で一般的な、石積みのそれではない。つるりと、どこにも継ぎ目のない整ったものだった。
 見慣れない、正確に言うならば、知らない部屋だった。記憶のどこをひっくり返してもこんな部屋は知らないし、当然足を踏み入れた覚えもない。
 ならば、どうして自分はこんなところでぐうすか眠りこけていたのか。普通に考えれば自分の足でこの寝台へ入ったはずだし、違うならばそれ自体が異常である。
 これはいったいどういうことかと、ウォルは首を傾げた。
 頭の奥の疼痛は、まるで連夜の徹夜仕事の後、思うさまに惰眠を貪った朝のような按配だ。どうやら、相当に長い間眠っていたらしい。
 霞んだ目を擦りながら、ぼんやりと考える。
 
 ――はて、俺はこんなところで何をしているのだろうか?

 ようやくそのことに考えが至った。
 自分がどうしてここにいるのか、いつからここにいるのか、分からない。
 いったいここはどこだろうか。見慣れない部屋。無機質で、そもそも人の住んでいる気配がない。家具も、ドアの横に置かれた古めかしい柱時計以外、何も見当たらない。
 ドアノブが付いただけの飾り気のない扉が鉄格子で出来ていれば、牢屋か何かと勘違いしてしまうような部屋だ。
 ふと自分の体が目について、何となく眺めてみる。
 袖のない、簡素な服を纏っていた。見覚えのない形状なのでその用途はいまいちわからないが、その飾り気の無さと生成の綿の色合いから、ひょっとしたら下着の類なのかも知れない。少なくとも、自分からこんな服を着た覚えは全く無い。
 確か、あの緑の星で、リィ達と別れて、山に入って……それから……。

 ――『よお、久しぶり』

 ずきり、と、目の奥が痛んだ。

「目ぇ、覚めたか?」

 いつの間にか開け放たれた扉から、女の声がした。
 大柄な女だった。
 飛び抜けて大きい、というわけではないが、いわゆる平均的な女性の体格からすれば桁外れに大きい。寝台に体を起こした姿勢のウォルなどからすれば、正しく見上げる程に大きい。
 その女が身に纏っていたのは、体のラインの浮きにくい、ゆったりとした装束だった。形状そのものは就寝時に羽織るローブなどに近いようだが、色遣いが遙かに鮮やかであり、素材もぱりっとしたものが使われている。腰帯には色取り取りの花が描かれ、なんとも愛らしい。
 ウォルが不思議そうに見ていると、その女性が、

「この服かい?」
「ああ。なんとも珍しい服だが、綺麗だ」
「紬っていうんだ。格好いいだろう」

 まんざらでもないふうで、そんなことを言った。
 確かに、女性らしい艶やかさのある服だった。
 しかし、その服の袖からの覗く女の二の腕は、引き締まっていて、そして太かった。辛うじて女性らしさを損なわないぎりぎりのラインを見極めたようなその腕は、鋼の鉄条を束ねたようであり、艶めかしいニシキヘビの胴体のようでもある。
 また、ゆったりとしたその服の下から伺える体型も、出るところは出て引っ込むところは引っ込むという、世の女性の理想のような形だ。腰帯の下の胴回りなど、抱けば折れてしまうそうな程でしかないのではないか。
 顔立ちは、既に完成された女性の美を誇っている。浅黒く灼けた肌、やや大ぶりだが形の整った鼻、色っぽく肉付きの良い唇、そしてきりりと鋭い目つき。硬質な金色の髪とも相まって、歴戦の女戦士といった風貌だ。
 だが、女性の灰褐色の瞳には、まだどこか幼さが残っている。ひょっとしたら意外に年若いのかもしれない。少女の溌剌さと女性の色香を混ぜたような、どこか妖しい雰囲気がある。
 そんな、どうにも人目を集める容姿の女性にまじまじと眺められては、流石のウォルもなかなか二の句を告げず、絞り出すような声で言った。

「え、と……すまない、どうやら混乱しているらしい。少し待ってくれ」
「あたしの名前はメイフゥだ」

 その女性は、何の気負いもなく言った。
 何ともぶっきらぼうな自己紹介だったが、その無造作さがこの女性には相応しい。竹を縦に割ったような気持ちよさがある。
 目を白黒させていたウォルだが、その頬は次第に笑みの形を作っていった。

「では、メイフゥどのと。俺はこの世界にはまだ慣れんのだが、珍しい名前だな」

 普段のウォルであれば、初対面の人間――しかも女性である――の名前を珍しいと評する無礼を口にすることはなかっただろうが、しかし今は寝起きで頭が働いていない。ウォル自身は知るべくもないのだが、彼女はこの船に運び込まれてから、丸三日も眠りこけていたのだから。
 メイフゥも、その点には深く突っこまなかった。目の前の少女に不似合いな『俺』という一人称も、『この世界にはまだ慣れん』という奇妙な言い回しにも、である。
 その代わりに、片頬だけを釣り上げたシニカルな笑みを浮かべながら、言った。

「確かに、奇妙な名前だ。字だって奇妙なんだぜ。ほら、あたしの名前はこうやって書く」

 メイフゥは手近にあったメモ用紙に、懐から取り出した筆で自分の名前を書いた。
 ウォルも初めて見る文字だ。こちらの世界でもあちらの世界でも、こういった文字は見たことがない。

「……これは、何と読むのだ」
「こっちの『美』っていう字が『メイ』、こっちの『虎』っていう字が『フゥ』。要するに美しい虎って書くのさ、あたしの名前はね。このうち片方は正解で片方は間違いだ。まったく、こんなか弱い少女の名前に虎っていう字を入れるあたり、あたしの名付け親のセンスはどっかおかしかったに違いねぇ」
「いや、なんとも貴女に相応しい名前だと思うが……」

 確かに、くすんだ金色の長髪と褐色の肌は、まるで虎の縞模様のようだったし、飢えた肉食獣のような獰猛な雰囲気もそれに近い。
 ウォルは、両方の文字が正解だと思ったのだ。
 それを聞いたメイフゥは、くすくすと、含むように笑った。
 
「一応褒め言葉だと受け取っておくぜ。ちなみに、あんたの名前は?」
「俺の名前はウォル。ウォル……あっ」

 ウォルは、自身の苦い失敗を思い出した。
 ここで自分の本名――ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインという長ったらしい名前だ――を名乗れば、もしかしたら自分の義父であるヴァレンタイン卿や、その息子であるリィに累が及ぶのではないかと思ったのだ。
 目の前にいる女性は、例えば人攫いのような卑劣な人種ではないように思える。加えて、ウォルは長年の経験から、自分の人を見る目にはそれなりの自信があった。
 しかし、何事にも用心するに如かずだ。
 自己紹介の途中で黙り込んでしまったウォルに対して、メイフゥは、機嫌のいい猫のような表情で、

「食うかい?」
 
 いつの間にか片手に乗せていた大皿を、ウォルのほうに差しだした。
 皿の上には、鮮やかな紅色の肉片と、色取り取りの香草が所狭しと並んでいた。
 どうやらある種の料理らしいのだが、これが料理だとすれば飛びきりに野趣溢れる料理だ。見る人によって豪快とも乱暴とも受け取ることができる様相である。
 ウォルが言葉を失っている前で、メイフゥは気安く皿に盛られた肉片をつまむと、口の中に放り込んだ。
 ウォルは、ゴクリと喉を鳴らした。一体いつから眠っていたのかは知らないが、喉の奥の消化器官は、今自分の中に何一つ消化するべきものが入っていないことを、グウと、間の抜けた音をもって告げた。

「……それは?」
「鹿の生肝だ」

 指先を舐めながら、メイフゥが言った。
 ウォルは、再びごくりと喉を鳴らした。
 新鮮な鹿の生肝は、正しく猟師達だけに許された特権とでも言うべき料理だった。
 時を置けば赤黒く変色し、血生臭くなって食えたものではなくなるが、仕留めたばかりの鹿から取り出した生肝は、命そのものを体現したように美しく、他のどんな料理よりも旨い。事実、国王であった時のウォルも、狩りの度にこの料理を楽しみにしていたくらいなのだから。
 ウォルは、今にも口の端から涎を流さんばかりの様子で、心底感謝しながら言った。
 
「有難い。どうにも腹が減っていたところだ」

 差しだされた大皿から出来るだけ大振りな肉片を選んで、メイフゥがしたのと同じように指先で摘み、口の中に放り込んだ。
 内蔵特有の血生臭さは、ほとんど無かった。上手に血抜きをしているのと、やはり肉そのものが新鮮なのだろう。あれほど綺麗な肉の色だったのだから、新鮮なだけでなく、余程にいいものを食べて育った鹿の肝に違いない。
 二、三度咀嚼すると、舌に絡みつくほど濃厚な肉のうまみが口中を満たした。普通、生肝といえば蕩けるような舌触りが特徴だが、この肝は驚くほどに歯応えがあり、しかし何度か噛んでいると雪のように儚くとけてしまう。
 
「――旨い」

 頬を綻ばしたウォルを見て、メイフゥは呆れたように、

「冗談のつもりだったんだが、本当に食うかね。気に入ったぜ、お前。どうだい、もう一切れ」
「いただこう」
「こいつも一緒に食ってみな。もっと旨くなる」

 メイフゥが差しだしたのは、深い緑色をした、植物の茎のようなものだった。鉛筆の芯ほどの太さで、離れていても尚爽やかな香りが鼻を刺激する。
 満面の笑みを浮かべたウォルは、それを受け取って、肉と一緒に口の中に放り込んだ。
 離れていても匂いが届くほどに香りの強い香草なのだ、口の中に入れれば、ほんの僅かに残っていた血生臭さなどたちまちどこかに消えてしまう。噛むと、弾力のある肉の歯触りと、ぱきぱきと小気味よく折れる香草の歯触りが楽しい。
 これはいい、そう思ったウォルが、調子に乗って二、三度咀嚼すると――。

「……っ!」

 鼻の奥を、つんとした痛みが襲う。
 火酒の灼けるような刺激とも唐辛子の暴力的な辛さとも違う、不思議な感覚だった。鼻の粘膜が引き攣れるような、形容し難い刺激である。
 ウォルは、思わず涙ぐんだ。
 それはメイフゥにとっても期待通りの反応だったのだろう、ウォルを眺める彼女の目にはしてやったりという悪戯げな光がある。
 やっとの思いで口の中を空にしたウォルは、涙目になって、呟くように言った

「……これは強烈だな」
「臭み消しの薬味だ。結構いけるだろ?」
「うむ、旨い。出来ればもう一つ、いただいていいだろうか?」

 今度こそ目の前の少女は根を上げるに違いないと思っていたメイフゥは、再び驚いたような顔になって、今度は呆れながら首を横に振った。
 
「気に入ってもらえたのは嬉しいんだが……ま、そろそろやめときな。何せ、あんたは丸三日も眠りこけてたんだ。空っぽの腹ん中にこんな重たいもんを詰め込んだら、吐き戻すのがオチだぜ」
「むぅ……残念だが仕方ないか」

 メイフゥの言葉に正しさを認めたウォルは、残念そうに皿に並んだ肉を眺めた。 
 まるでおあずけを言いつけられた子犬が如き、しょぼくれた顔つき。その様子を楽しげに見遣ったメイフゥは、

「まだ腹が減ってるなら、粥でも作って届けさせようか?」
「本当か?それはありがたい」

 少量の食物を入れたことでようやく動き出したウォルの胃は、ますます食べ物を欲してグウウゥと盛大な鳴き声をあげた。
 メイフゥは、目の前の少女をまじまじと眺めた。
 普通の少女であれば、腹の虫の声を聞かれれば頬の一つも赤らめそうなものだが、目の前の少女にはその様子が少しも見られない。それどころか、ぱたぱたと振られる犬の尻尾が幻視される程の喜びようで、自分の腹の虫が鳴いたことなど気がついているかも怪しい。
 苦笑いを浮かべたメイフゥは手近にあった内線を取り、

「おい、クソチビ。大至急、ミルク粥かなんかを作って、第一医務室まで持ってこい。……そうだよ、例の女の子が目を覚ましたんだ。眠り姫は大変お腹を空かせていらっしゃるらしいからな、超特急だぞ……うるせぇ!あの程度でぐずぐず言ってんじゃねえ!今度は本当にへし折るぞっ!」

 びくりとウォルの肩が跳ねるほどの勢いで、メイフゥは受話器をフックに叩き付けた。
 ウォルは、やはりこの女性の名前に『虎』の一文字が与えられていのは、決して間違いではないと確信した。
 そんなウォルの内心には気付かぬふうに、全く先ほどと変わらない笑顔のメイフゥが、言った。

「ところで、あんたの自己紹介がまだだったと思うが、一体あたしはあんたのことを何て呼んだらいいんだ?」

 そういえば、とウォルは赤面する思いだったが、やはり軽々しく本当の名前を告げるのも憚られる。もしも大切な人に迷惑が及んだとき、この世界の自分はあまりにも無力なのだから。
 数瞬の逡巡があって、ようやく口を開いたウォルは、

「ウォル。もしくは、フィナ・ヴァレンタイン。どちらも、この世界のきちんとした本名ではないのだが、どちらも間違いなく俺の名前だ。本当の名前を明らかに出来ないのは失礼な限りだが、なんとかご勘弁願えないだろうか?」

 メイフゥはしっかりと頷き、

「じゃあウォル、本当の名前とやらは気が向いたときに話してくれればいいさ。それより聞きたいんだが、お前、あんな星で一体何をやってたんだ?」
「実は――」

 そこでウォルははたと思い出した。
 一体どうして自分がこんなところにいるのか、どうやってあの星から運び出されたのか、それはわからない。
 しかし、自分は一人であの星にいたのではない。
 リィ、シェラ、ラヴィー殿……。
 きっと彼らは、気が狂わんばかりに自分のことを心配してくれているのではないだろうか……。

「すまん、メイフゥどの!悪いが電話を貸して……」
「おい、姉貴!持ってきたぞ!だいたいなぁ、あの女の子は俺が拾ったんだから、俺のものなんだ!何で俺が俺のもののために、ミルク粥を拵えてやらなきゃならねえんだよ!」

 開いた扉の向こうに、エプロン姿の少年が立っていた。
 見知らぬ、ウォルの初めて見る少年だ。
 なのに、ウォルの身体は、その少年のことを知っていた。
 心臓が、どくりと一度、嬉しそうに跳ねた。
 その時、空白に満ちた時間の中で、部屋の片隅に置かれた柱時計の時報が、重々しく響いた。
 長針と短針は、午前0時を指し示している。
 日付は変わり、5月1日。
 その日はまさしくヴァルプルギスの夜。
 生者と死者の交わる、たそかれときの祭りの日であった。

 

 ※まったくもって蛇足ですが、メイフゥさんのイメージは『鋼の錬金術師』のオリヴィエ・ミラ・アームストロング 少将。あの素晴しきお姿を褐色の肌にしたとお思い下さい。



[6349] 第三十一話:Hänsel und Gretel
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 20:03
「だから、そいつは俺のモンなんだってば!財布でも何でもそうじゃねえか、道ばたに落っこちてるモンはな、最初に拾った奴がそれを貰う権利があるんだ!」
「すまん、ヤームル殿。醤油を取ってくれんか?」
「はい、どうぞ」
「すまんな」
「なら、俺のモンを俺がどう扱おうが俺の勝手だろうが!売っぱらおうがドレイにしようが、誰にも文句の言われる筋合いじゃねえぞ!」
「お、ウォル。お前、目玉焼きには醤油派か。あたしは断然ソースだぜ」
「ソースも中々乙な味だが、少しスパイスが邪魔をするな。俺は、この、醤油とかいうものシンプルな味が一番好きだ」
「はっはっは、お嬢様方はまだまだ甘い。目玉焼きにはマヨネーズ。これこそ、至高にして究極、この世における唯一の真理と言っても過言ではありますまい」
「げっ、ヤームル、マジか!?しかも、そんなに大量に……!」
「だからな、ウォル!お前はこれから、俺のことをご主人様って呼べよ!そんで、俺の命令には絶対服従だ!……おい、聞いてんのか!」
「確かこの、『まよねーず』というものの材料も卵だと聞いているのだが……それでは味がダブってしまうのではないのか?」
「ダブるのではありません。卵とマヨネーズの相乗効果によって、より高みへと舞い上がるのです」
「お前ら、俺の話を聞けー!」
「そうか、ヤームル殿がそう仰るのなら、俺も一度……。ん、インユェ、その目玉焼きはいらんのか?なら俺が……」
「あー!俺の目玉焼きー!ウォル、てめえ、ドレイの分際でご主人様のメシに手を出すたぁ、いい度胸じゃねえか、覚悟は出来てんだろうな――」
「なんだクソチビ、腹が減ってねぇならそう言えよ。あたしがきちんと処理してやるからさ」
「おい、姉貴、それは俺の納豆――!」
「まったく、朝食は一日の動力源。それを疎かになさるとは、御館様も草葉の陰でお嘆きのことでしょう……」
「ヤームル!ふざけたこと言う前に、その塩鮭を返せ!ウォル、てめ、ほうれん草のおひたしは俺の好物、姉貴、その海苔は、待て、お前ら、ちょ、せめて味噌汁だけは残しておいてくれぇ!」

 少年の悲しげな慟哭が、狭い船室の中に響き渡り、最後に宇宙の虚無に溶けていった。



「ああ、うまかったなぁ。やっぱり、朝は納豆と味噌汁と白い飯だなぁ」

 起き抜けの腹の虫を満足させたメイフゥが、のんびりとした様子で言った。
 彼らの朝食に使われた食材は、当然、元からこの船に積んでいたものではない。何せ、この船の船員達は、冗談ではなく餓死の一歩手前だったのだから、およそ人が口に出来るものは悉く姿を消している。
 卵や米、各種調味料に、納豆の原料となる豆。それらは、途中に立ち寄った星で鹿肉と物々交換を行い手に入れたものである。この時代、物の流通には当然の如く貨幣が用いられるが、星の性格によってはまだまだ物々交換が通じる場所も、結構あるのだ。
 昨日の夜に、長い眠りから目が覚めたばかりのウォルも、旺盛な食欲を発揮して、自分のために用意された朝食を全て平らげた。そして、一度シャワーを浴びて汗を落とし、きちんと着替えた。
 ウォルは着替えの持ち合わせなどなかったので、服はメイフゥのお下がりの紬である。
 派手好きのメイフゥの例に漏れずその紬もけっこう華いだもので、淡い桜色の生地に鮮やかな紅色の花がいくつも刺繍されていた。
 古い箪笥の中から目当ての品を引っ張り出したメイフゥは、自分の腰の辺りに手を当てて、

『あたしが、こんながきんちょの時分に着てたやつだ』

 機嫌の良い顔で、ウォルに自分のお下がりを押し付け、見慣れぬ装束に戸惑うウォルに着させてやった。
 確かに、すらりとした長身のメイフゥには小さくなりすぎた紬だ。だが、今のウォルが着ると少し大きい。メイフゥには、『こりゃあ七五三だな!』と笑われてしまった。ウォルには一体何のことだか分からない。
 しかし、ウォルは初めて袖を通すこの不思議なかたちの服を結構気に入っていた。見た目に色鮮やかで意外に軽く、何より着心地が良い。
 それに、ウォルの腰まで届く癖のない黒髪と、凛とした漆黒の瞳が、華やかな色合いの紬の上で良く映えるのだ。
 メイフゥは悪意無く笑ったが、男性陣はただただ感嘆の溜息を吐き出すばかりであった。
 ぼうっとウォルを見つめるインユェをよそに、一足先に我に帰ったヤームルが、自慢の孫を褒めるかのように言った。

『よくお似合いですぞ、ウォル。この爺の目には、どこぞの姫君のように映ります。いや、あと五十年ほども若ければ、必ず声の一つもかけたでしょうに、口惜しいことです』
『うーむ、そういう褒められかたは何とも複雑だなぁ』

 ウォルは苦笑するばかりである。居候の身分、服に贅沢を言えるわけでもなし、別に嫌々着ているわけではないのだが、やはりまだ女としての自分を褒められても素直に喜ぶことができない。

『いえ、何をご謙遜なされるか、まったき事実を述べたまでのこと。お坊ちゃま、これお坊ちゃま。これほど美しい女性を目の前にして、何か一言、言うべき事があるのではありませんかな?』
『え、うん、ああ、そうだな……。ま、まあ、悪くはないと思うぜ、そういうのも』

 顔を真っ赤にしたインユェは、おそらく気の利いた台詞でも吐こうとしたのだろうが、途中でどもってしまって大したことは何も言えなかった。
 先ほどまで、自分のおかずを横取りしていたウォルに、どんな仕置きをしてやろうかと、色々と暗い妄想をしていたのに、それらが全て飛んでしまっていた。
 その様子を見たヤームルは、額に手を当てて、

『……お坊ちゃま。そのような台詞で女性の心を射止めることが出来るとお思いか。ああ、御館様であれば千の薔薇にも勝る麗句でもって女性の美を褒め称え、たちまちにその心を我が物としていたでしょうに……』
『う、うるせえ!いいだろうが、どうせこいつは俺のドレイなんだからな!俺のために綺麗でいるのだって、ドレイの義務だ!』

 もう、ヤームルは言葉も無かった。メイフゥとともに、盛大な溜息を吐き出すばかりである。
 しかし当のウォルは、まだまだ顔の赤いインユェに向けて微笑み、小犬と戯れるような気分で言った。

『そうかそうか、インユェ。俺のことを綺麗と言ってくれるのか』

 楽しげな様子で、ウォルは淡く微笑んだ。
 年頃の少年から見れば、正しく天使のような微笑みである。
 期せずして本音を漏らしてしまったインユェは、これでもかというくらいに赤くなった。もう、これ以上人の顔が赤くなるのだろうかと思わせるくらいに、真っ赤になった。
 元々色素が薄く、髪の毛ですらくすんだような銀髪の彼である。一度赤くなると目立つことこの上ない。
 二の句を告げずに固まってしまったインユェを前に、ウォルは、

『どうだろう、本当に似合っているかな?』

 手を大きく広げ、くるりと軽やかに身体を回す。すると、紬の袖がふわりと流れ、少女の癖のない黒髪がはらりと踊り、まるで異国の舞姫のように可憐で華やかだ。
 言葉を失って、目の前で微笑む少女を見つめる少年。その鼻孔を、えもいわれぬ良い香りが擽った。
 遠い昔、懐かしいと美しいが同じ意味に思える程に遠い昔、誰かの胸に抱かれながら、嗅いだ香りだった。
 インユェは赤らめた顔をそのままに、俯き加減で視線を外したまま、ぼそりと呟いた。

『……うまく言えないけど、すごく似合ってる……と思う』
『ありがとう、インユェ。千の薔薇にも勝る麗句もいいが、お前のようにわかりやすく反応してくれた方が俺も嬉しいぞ』

 聞きようによってはからかっているような言葉であるが、インユェはそう受け取らなかった。
 まるで茹で蛸のように顔を赤らめたまま、部屋を飛び出してしまったのだ。
 その後ろ姿を見送りながら、ウォルは晴れ晴れとした顔で笑った。
 
『うーむ、初々しい。俺もあれくらいの時分は、女性というものが自分とは違う世界に住む、化け物か何かのように思えたものだが、なるほど、立場を違えると男というのは何とも可愛らしい生き物なのだなぁ』
『……なぁ、ヤームル。あたしは、生まれて初めてあの馬鹿に同情するぜ。こいつは、どう考えてもあいつにどうこうできる器量じゃねえよ』
『はい、その点については深く同意します、お嬢様』

 そんなことがあって、今その部屋には、ウォルとメイフゥ、そしてヤームルの三人が居る。
 それほど広くない部屋だ。落ち着いた色の壁には、白と黒の濃淡のみで描かれた山水画が掛けられ、華やかさよりも落ち着きを醸し出している。柱や扉の枠などに良い香りのする木材が多く使われ、ここにいるだけで不思議と心安らぐ。
 宇宙船の中とはとても思えない、特異な作りをした部屋だった。
 おそらくは所有者の趣味だろうが、特異だったのは部屋の作りだけではない。そこに置かれている家具もまた、ウォルの初めて目にするものばかりである。
 部屋の中央には脚の短い机――彼らの故郷ではちゃぶ台と呼ぶらしい――が置かれている。その上に布団が掛けられ、中には電熱器の優しい熱が籠もっている。
 コタツというものだそうだ。
 メイフゥのお下がりの紬を纏ったウォルは、干し草で織られた絨毯――これは畳といったか――に直接座り、コタツの中に足を突っこんでいた。少し肌寒いくらいの室温と相まって、爪先からほんわりと暖めてくれるコタツの熱が何よりもありがたい。
 狭いコタツの中に三人分の足が押し込まれているから、少し身動ぎすれば誰かの足にぶつかる。離れようとすれば、反対側の足にぶつかる。やがて、足と足が触れ合っているのが自然に感じられるようになり、何となくそのままの状態になる。すると、今度は電機の熱ではない、人の体温を暖かく感じることが出来る。その熱の、なんと心地良く、なんと安心できること。
 ああ、これはいいなぁと、ウォルは夢見心地で思った。

「如何でしたかな、ウォル。我らが故郷の朝食は?」

 ウォルの向かいで、同じようにコタツにこもったヤームルが、やはりのんびりとした調子で言った。
 普段はぴんと張った背筋も、猫のように丸くなっている。好々爺然とした表情は、膝に乗せた孫を愛でる、人好きのする老人のようですらある。
 ウォルは、遠い昔、自分が戦士として独り立ちをする前に、育ての親が自分を見る瞳が、この老人と同じふうだったことを思い出した。

「大変美味だった。あのナットウというものには驚かされたが、口にしてみれば中々味わい深い。それに、目玉焼きにまよねーずの組み合わせも乙な味だったな」
「それはそれは、ようございましたな」

 最初、腐って糸を引いている豆を食えと言われたときは、これはやはり遠回しな嫌がらせかと訝しんだのだが、メイフゥやヤームルが普通に口にしているのを見て、ウォルは恐る恐るといった有様でその異様な物体に箸をつけた。
 タレと、刻んだ野菜(ネギ)と、香辛料を練り上げたような黄色いペースト(辛子)を器の中に放り込み、腐った豆と一緒に混ぜる。すると、粘ついた糸が空気を含んでブクブクと泡立ち、形容し難い様相になる。色や臭いと相まって、まるで沼地の泥炭をかき混ぜているような気分になる。
 その時点で、ウォルはほとんど泣きそうになった。
 しかし、居候の身分で、出された食事に手もつけないなど失礼の極み。
 覚悟を決めたウォルは、毒杯を呷る心地で、その異様な物体を口に運び――

『……うまい』

 クセのある臭いも、ネギや辛子の鮮烈な香りに紛れてそれほど気にならない。
 味はと言えば、タレの中に含まれた芳醇なうまみと納豆の持つ甘さが相まって、複雑玄妙な、しかし文字通りに糸を引くうまさだ。

 ――こんなうまいものを独り占めするのは申し訳ない。帰ったら、是非、リィやシェラにも食べさせてやろう。

 ウォルは内心でそんなことを呟き、少女には些か似つかわしくない邪悪な微笑みを浮かべた。
 他の料理も、ウォルの初めて口にするものがほとんどであった。唯一口に馴染んだ料理といえば卵をそのまま焼いたシンプルなものがそうだったが、『目玉焼き』というネーミングセンスには首を捻らざるを得ないウォルであった。
 そして、食事を終えたウォルは、自分の『拾い主』一行と一緒にコタツで温もり、食後のお茶を楽しんでいたりするのだ。

「ところでウォルよう。お前、なんであんな星にいたんだ?」

 薫り高い緑茶を啜ったメイフゥが、満足の吐息とともに、そんなことを言った。
 彼女の金に輝く硬質な髪は綺麗に結い上げられ、ちらりと項が覗いている。僅かにはだけた紬の胸元と相まって、何とも色っぽい有様だ。
 果たしてこれが本当に自分と同年代の少女なのだろうかと、ウォルは訝しんだ。決して羨んだわけではない。
 ウォルは少し考えてから、正直に答えた。

「大切な友人と、少しばかり昔話をするために、遊びに行っていた」
「遊びに行ってたって、ウォルよう。お前、あの星がどんな星か、知ってんのか?」

 メイフゥは疑わしげな声を隠そうともしなかった。
 この広い共和宇宙に、今ではどれだけ残っているのかすら定かではない、第一級の居住用未登録惑星。それも、巨大な惑星の全方位に高価な電波吸収パネルを張り巡らせているなど、正気の沙汰ではない。
 どう考えても、頭のねじの緩んだ金持ちの道楽である。
 そんな星に、ただ遊びに行く?では、この少女はあの星の持ち主の関係者なのだろうか。
 だが、ウォルはこの世界に来てまだまだ日が浅い。何が正常で何が異常なのかなど、分かるはずもない。
 ウォルにしてみれば、夜空に浮かぶ数多の星々を駆け巡って野遊びに行くなど、それ自体が常識の範疇から大きく逸脱している。ならば、その星がどういったものなのかなど、考えが及ぶはずもない。
 だから、ウォルはメイフゥの質問の意図するところが分からずに、不思議そうに目を丸くして、首を横に振ってみせた。
 メイフゥは事の真偽を量るようにウォルの瞳をじっと覗き込んだが、やがて肩の力を抜き、力の無い鼻息を一つ吐き出した。

「どうやら嘘は吐いてないらしいな。くそっ、お前が頭のいかれた金持ちの愛娘とかなら、娘を助けた見返りにちっとばかしの礼金をいただくのも吝かじゃあなかったんだが」
「いや、なんというか、すまん」
「いいさ、別に悪いのはお前じゃねえからな。しかし、それならどういう伝手であの星のことを知ったんだ?一般人が容易く見つけられるような星じゃあなかったぜ、ありゃあ」
「まことに相済まん。そこらへんの事情は、俺はとんと分からんのだ」

 書類上の事実としては、あの星はウォルの伴侶でありそして婚約者でもあるリィの持ち物である。リィ自身は受け取った覚えはないので、あの星はジャスミンのものだと思っている。
 要するに、あの星の所有権――果たして惑星にそんなものが成立するのかどうかは置いておいて――が誰に属する物なのか、それ自体が非常に曖昧なのだ。だから、リィもウォルにはきちんとした説明をしていない。する必要もないことだと思っていたのかも知れない。
 
「しかし、それならウォル、お前は、その大切な友人とやらと一緒にあの星まで来てたわけだよな、当然」
「うむ。それがどうかしたか?」
「なら、これから先、そいつらとの付き合いかたは考えた方がいいぜ。あんな冬山にお前さんを一人残して自分達はさっさと帰るなんて、どう考えたって友達思いの奴のすることじゃねえだろ」
「冬山?」

 ウォルは思わず聞き返した。
 はて、本当にそうだっただろうか。
 確か、自分達が滞在したあの小屋のある地域は、初夏の気候だったはずだ。もしも季節が冬ならば、いくらリィと抱き合いながら眠ったとはいえ、風邪の一つもひいているに違いない。
 それに、蒸し風呂から出た後や翌日の湖遊びの時に、裸で泳いでいる。あのときの水温は、どう考えても冬場のそれではなかった。
 
「ちょっと待ってくれ、メイフゥどの。冬山?それに、さっさと帰ったとは一体?」
「言葉の通りさ。ウォル、あんたがグースカ寝てたのは、霜柱も降りて吐く息だって凍り付くような冬山だった。雪こそ積もっちゃあいなかったが、あと少しインユェが見つけるのが遅れれば、お前さん、危なかったんだぜ」
「そんな馬鹿な……」
「馬鹿なもんかよ。だからお前さん、三日以上も意識を失ってたんだろうが。まったく、インユェからお前を渡されたときは、あまりに冷え切ってて凍った死体かと思ったぐらいなんだからな」
「……」

 ここで、ヤームルがメイフゥの言葉の後押しをした。

「ウォル、お嬢様の仰ることは事実です。確かにあの時の貴方は、普通であれば命を失うか、それとも手足の指が根刮ぎ腐り落ちる程に寒さにやられていた。今、こうして普通に会話を出来ていること自体、わたくしなどには信じ難いことです」

 ウォルは言葉を失っていた。
 あの場所、リィやシェラ、そしてルウと語り明かしたあの小屋のあった場所は、これから正しく夏の盛りを迎えようという季節だったはずだ。鮮烈な新緑も、湿り気と暑さを帯びた風も、それを教えていた。
 なのに、目の前の二人は、意識を失って倒れていた自分を、冬山の中で発見したという。
 自分を、担ごうとしているのだろうか。
 しかし、二人とも嘘を吐いているような雰囲気ではないし、こんなくだらない嘘を吐いて、年端もいかない少女が慌てふためくのを楽しむような趣味があるようにも見えない。
 第一、見ず知らずの他人である自分にそんなくだらない嘘を吐いて、一体どんな益があるというのだろうか。
 もう一度、あの日の記憶をたぐり寄せてみる。
 朝、リィと共に目覚め、シェラの手料理に舌鼓を打った。
 昼、三人と一緒に湖に行き、思うさまに遊んだ。
 そして、それから――。
 何があった。
 何か、先ほどから心の片隅に、どうしても引っかかって取れない何か……。
 掴み取ろうとする度に、するりと指先から逃げていく、霞のような何か。

『いやなに、少し確かめたいことがあってな』

 自分はそう言って、山の中に入っていった。
 それは覚えている。
 しかし、何を確かめたかったのか。
 何か、とても大切なものだった気がするのだが……。

「……い、おい、ウォル!」

 気がつけば、肩に手を置かれ、激しく揺さぶられていた。
 はっとして、顔を上げる。
 目の前には、獰猛な怒りを目の奥に讃えた、虎のような少女がいた。

「……メイフゥ、どの?」
「……ウォル。正直に言え。お前、その友達とやらに何をされた?どうして、あんな山の中で一人きりだったんだ?」
「……何、とは?」
「お前が、思い出しただけで顔を真っ青にして……涙を流さないといけないような何かをされたのかと、そう聞いているんだ」

 果たして、この少女は、一体何を言っているんだろうか。
 きょとんとした様子のウォルに、ヤームルがそっとハンカチを差し出し、腰を上げて襖の奥に姿を消した。これから先の話は、男である自分がいると話しにくくなると、そう思ったのだ。
 機械的にハンカチを受け取ったウォルは、何となく、顔を拭ってみた。
 すると、空色のハンカチは群青色に化け、少女の涙を吸ってじとりと重たくなった。

「……お前を見つけて、あたし達は周りに人がいないか、探し回ったよ。ひょっとしたら登録が済んでいないだけで、有人惑星だっていう可能性が無いわけじゃあないからな。でも、辺りに人がいた痕跡は全くなかった。建物はおろか、キャンプの跡すらもない。綺麗なもんだったぜ」
「建物が、なかった……?」

 メイフゥは頷いた。
 彼らはウォルを保護した後で、周囲100㎞ほどの範囲を入念に探索した。山の中で年端もいかない少女が意識を失って倒れていたのだから、すぐ近くに保護者なり仲間なりがいると考えたのだ。
 険しい山地であり、季節は冬である。まさか歩いて探すわけにもいかない。上空から、センサーと目視を併用した探索になった。だが、辺りに建物はなかったし、テントや宇宙船も見つからなかった。
 鬱蒼とした森であるから目標を見逃した可能性もないわけではないが、はっきりとした人工建造物があればセンサーが見逃すはずはないし、メイフゥもヤームルも、自分の視力と注意力には自信があった。普通、雪山に持ち込まれるテント等はあえて目立つ色のものが選ばれるため、濃緑一色の中であれば5キロ先でも容易に見つけることが出来ただろう。
 音声と電波による呼びかけも行った。13、4歳くらいの、黒髪の少女を保護している。思い当たる者はすぐ迎えに来い、と。
 丸一日を周囲の探索に費やし、誰かから連絡があるのではないかともう一日待った。
 しかし、当然の如く、彼らの宇宙船に対してコンタクトはなかった。
 もしも少女の関係者がこの星に残っているならば、例えば少女が宇宙漂流者の築いた未開の文明に属している等の僅少の可能性を除けば、彼女の安否を確かめる通信の一つでも入れるものである。
 それすらなかった。
 万が一に、この少女が宇宙漂流者の子孫であり、未開の文明の中に生きているとしても、周囲にそれらしい集落は全く見当たらない。
 つまり、彼女はこの星に一人、置き去りにされたのだろう。
 珍しいことではあるが、あり得ないことでない。事実、昨年だったか、数名の学生が誘拐され、未開の惑星に置き去りにされたという事件があったばかりではないか。
 何より、この少女は美しい。ひょっとすると、彼女によからぬ想いを抱く不届き者が、そのねじ曲がった欲望を遂げるために誘拐し、ことが済んだ後で事件の発覚を恐れ、この星に置き去りにしたのではないだろうか。
 そうすれば少女は行方不明として処理され、事件は闇に葬り去られただろう。訳の分からない密室を作って殺人を犯し、最後には素性の知れない探偵に暴かれてお縄になる三文ミステリー小説の犯人よりは、遙かに賢い隠蔽方法だ。
 少なくとも、今、自分達が少女をこの星に置き去りにすれば、遠からず彼女は死ぬだろう。凍えて死ぬか、飢えて死ぬか、冬眠に備える熊や狼の贄と成り果てるか。
 メイフゥ達はそう判断し、黒髪の少女――ウォルを保護したのである。

「正直に言え、ウォル。確かにあたしらは他人同士だが、袖振り合うもなんとやらって奴さ。お前が出来ないなら、あたしがその友達とやらを、親兄弟だってそいつとわからないくらいにボコボコにしてやる」

 静かだが凄みの利いた言葉で、メイフゥは言った。
 ウォルは内心で、流石にそれは難しいのではないかと思ったが、口ではこう言った。

「……お気持ちはありがたいのだが、メイフゥどの、それは勘違いだ。俺をあの星まで連れて行ってくれたのは、俺の友であり、伴侶であり、そして婚約者でもある、誇り高き狼なのだから」
「……友であり伴侶であり、婚約者で、狼ぃ?」

 それはどんな関係だ、とメイフゥは声を上げかけて、辛うじて飲み込んだ。

「――だがよ、ウォル。そいつが一体どんな野郎か、あたしは知らないが、しかしお前をたった一人であんな場所に置き去りにするなんて、とても誇り高いやつがすることとは思えないな」
「そこだ。そこが、メイフゥどのの話と俺の記憶で、どうにも噛み合わない」

 ウォルは姿勢を正し、言った。

「まず、俺達がいた山小屋は、ようやく暑さも本格的になろうかという、初夏の気候だった。裸で湖に飛び込んでも凍えることはなかったし、朝方は息も白くなるものの、外で一夜を明かして風邪をひくようなこともなかった」
「……あたしが嘘を吐いてると、そう言うつもりか?あたしらがお前を攫ってきて、これはその言い訳だと?」
「いや、そうではない。メイフゥどののお人柄からいって、こんなくだらん嘘を吐くとは思えんし、嘘を吐いて何か益があるとも思えん。第一、あなたは人を攫うなら太陽に顔を向けたまま堂々と攫い、自分こそが犯人だと胸を張る御仁だろう。なんとも奇妙な言い方ではあるが……」

 確かに奇妙な言い方ではあったが、メイフゥは大きく頷いた。
 メイフゥは、別に人攫いが悪いこととは思っていない。幼子を攫い、それを痛めつける様子を映像として親に送りつけ、恐怖と絶望を与えることで多額の金銭を巻き上げるような外道は問題外だが、例えば財布が重すぎて腰が曲がるような金持ちを自分の船に招待して、その代金と、あとは身の安全に対する受講料として少々の金をせしめる程度のことならば、十分にビジネスの一つである。
 だからこそ、目の前に座るか弱い少女(見た目だけならば間違えてはいない)を、非道にも婚約者の手から攫った犯人だなどと当の本人から疑われては、立つ瀬がなさ過ぎるというものだ。
 
「嬉しいぜ。あたしのことをよくわかってるじゃねえか、ウォル」
「だからこそ納得がいかんのだ。俺は、俺の言っていることが真実だと知っている。しかし、メイフゥどのが嘘を吐いて俺を担ごうとしているのではないことも、はっきりと分かる。それに、食い違うことはまだあるのだ。先ほど、俺が倒れていた場所の周囲に、建物はなかったと、そう言っていたな」

 メイフゥは無言で頷く。
 その灰褐色の瞳はやはり真剣で、人を騙している人間特有の後ろ暗さというものがまるでない。
 もしこれで彼女が詐欺師や人攫いの類であれば、到底自分の太刀打ちできる相手ではないなと、ウォルは思った。

「それは、やはりおかしい。俺達は、湖の畔にある山小屋に泊まっていた。あの日、俺は確かにかなりの時間山道を歩いた気はするが、しかしそれでも10カーティヴ――10キロに満たない距離だったはずだぞ」
「馬鹿なことを言うな。お前が倒れてたところから10キロ以内にある湖なんて、あたし達の船を停泊させてた湖くらいのもんだ。あの周囲には、山小屋なんて絶対に無かった。それとも、その山小屋はわざと見つけにくく、隠密用に拵えているものだったのか?」

 何の為に、と問いたくなるところではあるが、何せ星そのものを隠してしまおうという道楽者がいるのだから、いわんや小屋の一つにおいてをや、である。
 しかし、ウォルは首を横に振った。あの山小屋は、別段目立つふうに作られているわけではなかったが、逆に人目を気にするように作られているふうでもなかった。少なくとも自分ならば、山の頂から見下ろせば容易に見つけることが出来ただろう。
 
「なら、間違いなくそんなものは無かった。あたしの目と鼻と、この自慢の牙にかけて誓ってやるさ」
 
 メイフゥは口の端を指で引っかけ、人の倍ほどもある立派な犬歯を露わにしながら、言った。確かに、これほど立派な牙にかけて誓われるならば、嫌でも信じなければならないだろう。
 微笑みを浮かべかけたウォルだったが、その表情がぴたりと凍り付いた。
 今の自分の置かれた状況が、どこかで聞いた話に酷似していることに気がついたのだ。
 ずっとずっと昔に聞いた話。
 一人の少年の話だ。
 暖かな草原でうとうととしていたら、突然辺りで剣戟の音が聞こえる。たった一人で多勢に立ち向かい、剣を振るっていた青年。そいつを助けて話を聞いてみれば、ここは見たことも聞いたこともない世界。やることもないし、迎えが来るまで、目の前の愉快な男の手助けをしてみようか――。
 遠い昔、金色の毛並みをした、この世でもっとも美しい狼から聞かされた話だ。
 心臓が、どくりと一度、拍子を外して跳ね上がった。

「メイフゥどの!」

 突然声を荒げて腰を上げたウォルに、メイフゥもたじろいだ。
 たじろいだがしかし、ちゃぶ台に身を乗り出したウォルの黒い瞳に、しっかりと相対する。

「な、なんだよいきなり。何か思い出したのか?」
「……この世界の、この世界の王の名前は何と言ったか!?」
「王って、連邦主席のことかい?」
「ああ、そうだ、その方の名前だ!」
「あたしらの航海中にとんでもないスキャンダルでも巻き起こってなければ、マヌエル=シルベスタン三世がまだ務めてるはずだが……それがどうかしたかい?」
「そ、そうか……」

 ウォルは若干放心した様子で、ぺたりと座り込んだ。
 その小さな口から、安堵の溜息が漏れ出す。今自分がいるのが、己の同盟者の住む天の国であるとわかり、安心したのだ。
 何せ、40年振りに、長く家を留守にしていた妻と再会できたのだ。その上、今度はあいつを夫として迎えるべく婚約まで済ませたのだから、今更無責任に違う世界に迷い込むなど許されることではない。
 そして、人心地ついた頭で考える。
 この世界があいつの世界ならば、あいつが俺の存在に気がつかないはずがない。それに、彼の相棒であるルウの手札。リィが敵の奸計にかかり、薬をかがされて囚われの身になった時、易々とその監禁場所を特定した、予知にも似た占い。あれがあれば、今の自分の居場所も彼らには明らかなのではないか。
 三日以上も自分が眠りこけていたと聞かされて、彼らがどれほどに心配しているだろうと思い気が気でなかったウォルだが、このとき初めてルウの占いに思いが至り、少しだけ安心した。もちろんこちらからも連絡はしなければならないが、ひとまずは、と言ったところである。
 だが事実としては、ルウの占いはこの時点でウォルの死亡を伝え、リィやシェラといったウォルに親しい人間を絶望の底へとたたき落としていたのだが、それは彼女には何の責めもないことである。
 
「おい、ウォル、本当に大丈夫か?お前、さっきから少し変だぞ」

 今度はメイフゥがちゃぶ台に身を乗り出し、心配そうにウォルを覗き込んでいた。
 素面の自分を見られたウォルは、羞恥に頬を染め、しかしはっきりと微笑みながら言った。

「メイフゥどの、俺を助けてくれたこと、あらためて御礼を申し上げる。どうにも腑に落ちんこともあるが、この世は不思議なことばかりとも言うし、おおかた神隠しにでもあったのだろうさ。大丈夫、俺の友は、メイフゥの心配なさる非道を出来るような人間ではないし、俺が置き去りにされたのではない。ただ、俺が迷子になっただけのようだ」

 なんとも曖昧な言葉であった。
 メイフゥも疑わしげにウォルを見つめるが、少女の晴れ晴れとした表情のどこにも嘘を吐いている気配はない。
 眉間に皺を寄せて、溜息を一つ吐き出した。

「ま、お前さんがそう言うならそうなんだろう。しかし、家に連絡を入れるのは少し待って欲しい。この船は今、ちょっぴり厄介な宙域を飛んでいてね、恒星間通信が効かないんだ。あと一日もすれば、惑星ヴェロニカに着くだろうから、それからでもいいだろう?」
「出来んというものを無理に、と言うほど俺も道理の弁えない人間ではないつもりだ。それより、見ず知らずの俺がこの船に留まるのを、許して下さるのだろうか?」
「何を今更。あたしたち宇宙生活者はな、『困ったときはお互い様』、こいつが絶対のルールなんだよ。そうじゃないと、あんなに冷たい世界で凍えずには生きられない。だからウォルよ、いつかあたしらが困ったとき、そのときに今度の借りを返してくれ。利息はトイチにまけとくからさ」
 
 照れたようにはにかみながら、ちゃぶ台に頬杖をついたメイフゥは、そんなことを言った。
 そして、ウォルは頷いた。まさかこのときの言葉が、後になって自分の頭に兎耳をつけさせるはめになるとは露知らず、このときのウォルは確かに幸せだった。

「あと、こいつは返しとくぜ」

 メイフゥは紬の袖から何かを取り出し、ちゃぶ台の上にことりと置いた。

「……これは?」
「意識を失ってたお前さんが、大事そうに握りしめてたもんだよ。いらないなら捨てておけ」

 小振りなナイフほどの大きさのそれは、太く鋭い、獣の牙だった。
 それも、肉食獣の、いわゆる肉を噛み裂く用途に用いられる牙ではない。大きく婉曲し、その先端は三つに枝分かれをしているという、独特のものだ。
 しかし、ウォルにははっきりと見覚えのある形状だった。

「これは、あの猪の……?」

 ウォルがあの星で取り逃した、老獪な大猪。その口元から、この牙は生えていたのではないだろうか。
 それが、何故ここに……?


『生?焼く?煮る?揚げる……は無理だけど、蒸すくらいならなんとか』


 少年の、嬉しげな言葉が、聞こえた。
 それだけではない。この牙の持ち主である大猪、その肉を噛み切るときの筋張った感触や、滴る血の味までをも思い起こしていた。
 そして、猪のものではない、鉄臭くて甘い液体の味も。
 それはきっと、永遠を誓った愛情と、永遠に引き裂かれた別離の、とろけるような甘さだった。
 ウォルは、またしても目の奥がずきりと痛むのを感じて、顔に手を当てた。
 少女の肌の感触のするそこは、新しく流れ出した涙で、薄く湿り気を帯びていた。
 
「……ウォル、お前、もう少し休んだ方がいいぜ。別に今お前さんに働いてもらうつもりもないから、ヴェロニカに着くまで横になってろ」
「ああ、情け無いが、お言葉に甘えさせていただくとしよう。ところで、インユェはどこにいるのだろうか。俺を見つけてくれたのは彼だし、一度きちんと御礼をしておきたいのだが」
「ああ、あの馬鹿?あいつに礼が言いたいなら、ヴェロニカに着いた後でも十分だろう。今はゆっくり休め」

 その言葉に頷いたウォルは、自分にあてがわれた船室に引き上げた。
 やはり、まだまだ身体は休息を必要としていたのだろう。ベッドに入って間もなく、気絶するようにウォルは眠りに落ちた。
 夢は、見なかった。
 夢の世界に答えを求めたわけではないが、何とも残酷なことだと、ウォルは思った。



 結論からいえば、《スタープラチナ》号は無事に惑星ヴェロニカへと到着した。
 途中、規模の大きな宇宙嵐や、突如発生した小惑星帯に飲み込まれるなどのトラブルもあったが、天の采配か、それともヤームルの操船の腕前か、航海自体に支障をきたすような大事故に見舞われることはなかった。大揺れする船に不慣れなウォルが二、三度目を回し、船には慣れているはずのインユェが五、六回トイレに駆け込んだ程度のものである。
 スクリーンに映る惑星ヴェロニカが、はっきりと目視出来る大きさになってから、船内には緊張感が満ちた。
 何せ、この船は、実質的には他人の物になってしまっているのだ。常識的に考えてもそんな怪しい船がまともな国に入国できるはずはないし、下手をすれば不法入国の未遂として手が後ろに回ってもおかしくない。
 彼らは正規の入国航路ではなく、そのちょうど裏側、入国審査用宇宙ステーションのない箇所からの入国、そして着陸を試みた。だがそこは惑星ヴェロニカを取り巻く監視衛星のレーダー圏内であり、そのようなところから理由無く入国を試みる船があれば、ヴェロニカ軍の哨戒用軍艦が即座に駆けつけ拿捕、もしくは撃墜する手筈となっている。
 
「あとは神に祈るばかりですな」

 のんびりと言ったヤームルであったが、流石に表情は硬い。
 インユェが神経質に爪を噛んでいるのはいつものことであったが、普段は肝の太いメイフゥも、無駄口を叩くことさえなくスクリーンを注視している。ウォルも船内に満ちる緊張感から、久しぶりに戦場の空気を思い出したほどである。
 だが、彼らの心配は杞憂に終わった。
 《スタープラチナ》号は、軍艦はおろか商業船用の臨検船に見つかることもなく、無事に惑星ヴェロニカの地表に着陸した。
 モニター越しに迫る惑星ヴェロニカの地表を眺めながら、インユェは信じられないといった面持ちで呟いた。

「どうなってやがんだ、この星の警備は。これでも連邦加盟国かよ?」

 惑星ヴェロニカは、歴とした連邦加盟国だ。だからこそ、ティラ・ボーンの学生の短期留学や自然学校の開催地にも選ばれているのだし、逆に連邦大学へと学生を留学させることも出来る。
 それ故に、インユェが呆れた様子で呟いたのも無理もないことであった。
 連邦加盟国はこの宇宙に数多い。だが、逆に言うと、全ての国が連邦に加盟しているというわけではない。
 そして、連邦への加盟を望みながら未だ実現していない国の数も、驚く程に多いのだ。
 連邦に加盟するための条件は数多い。
 例えば、基本的人権に一定水準の配慮をする政府が権力を保持していること。非人道的な人体実験その他の連邦憲章に触れる違法行為に政府が荷担していないこと、テロリスト等の犯罪組織の温床になる違法な兵器の製造及び密輸入やマネーロンダリング等に荷担していないこと、数え上げればきりがない。
 『ウィノアの大虐殺』によって滅びた東西ウィノア統一政府も、経済規模から言えば共和宇宙でも屈指の実力を誇る国だったにもかかわらず、その非人道的な軍事実験から長く連邦加盟は見送られてきたという経緯がある。
 そして、それら厳しい連邦加盟条件の一つに、『海賊その他の違法行為を働く可能性を有する宇宙船舶の入国を固く禁じていること』というものがある。
 海賊行為はそれ自体が重犯罪であるのだからわざわざ特記するまでもないことのようにも思える条項だが、こういった条項を特別に設けなければならないほどに、残虐な宇宙海賊によってもたらされる被害は甚大なのだ。
 脅すのではなく、殺してから奪い取る。身代金のためではなく、人身売買の商品として女を拐かす。貴重な宇宙航路そのものを破壊し、自分達の支配する宙域を通らざるを得ないようにしてから、莫大な通行料をせしめる。一昔前の海賊には存在したはずの仁義も、一線を越えてしまった感のある現代の海賊には通用しない。
 だからこそ連邦は海賊の殲滅を一つの行動目標として掲げているし、加盟国にはその目標に対して一定の努力を要求する。それが、徹底した船舶検査及び密入国の取り締まりである。
 であれば、いくら辺境惑星とはいえ、連邦加盟国の惑星ヴェロニカであるから、それなりに厳重な警備を敷いているはずであり、またそれは事実であった。にもかかわらず不審船《スタープラチナ》号をいとも容易く入国させてしまったのだ。これではインユェでなくとも驚くはずであった。
 
「絶対におかしい。どうしてこの船だけ素通りなんだよ。何か、とんでもない罠でも張っているんじゃないか?」

 船長席に座りながら深刻な表情で考え込むインユェを、その姉は鼻で笑った。

「あほが、んなわけあるかよ。この船が、例えば伝説の海賊王の船とかなら別段、所詮はただの不審船なんだぜ。哨戒船の三隻もありゃあ簡単に撃墜ができるんだ、わざわざそんなご大層な罠に追い込む必要がどこにあるってんだ。ちったあそのミニマムな脳味噌を働かせやがれ、ケツの穴まで小せえクソチビが」
「っじゃあ、どうしてその『不審船』を、ヴェロニカの国境警備隊はこうもあっさり見逃すんだよ、ええっ!?」
「んなこと知るか、ばぁーか。どうだっていいじゃねえか。怖い怖い軍人さん達にお目こぼしいただいたんだからよ、無力な小市民のあたしはありがたく素通りさせてもらうだけさね」

 小馬鹿にするようなメイフゥの声である。
 インユェは言葉に詰まってしまった。まったくもってメイフゥの意見は正しいものだったからだ。
 偶然にせよ必然にせよ、ヴェロニカへの密入国はうまくいったのだ。ならばそのことが何故成功したかよりも、これからのことにこそ頭を悩ますべきである。
 とりあえずのところ現状では船はまだ手元にあるが、かといって借金そのものが消えて無くなったわけではない。どのようにしてそれを返済し、資源探索者として再起を図るか。考えなければならないことは山ほどある。
 その程度のことインユェも分かっているが、しかし姉の意見にそのまま頷くのは業腹であった。
 むかむかとした気持をぶつけるように、叫ぶ。

「おい、ウォル!茶だ!茶を持ってこい!」

 すると船長室の奥の方から、のんびりした声で答えが返ってくる。
 少女の声である。
 ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインの――ウォルの声であった。

「おーう、しばし待たれよ。今ちょうど湯が良い加減なのだ。もう少しすれば上手く茶葉が開いてくれる温度になるからな」

 この世界に来てから、シェラやマーガレットを見習ってお茶や料理、裁縫などにも興味を見せ始めたウォルである。
 果たしてそれが将来リィと結婚するための、花嫁修業の一環なのかどうかは本人に聞かねば分からないことだが、お茶を煎れるウォルは至って楽しそうだ。例えそれが、彼自身の世界に住む多くの人間が目を覆いたくなるような姿だったとしても。
 とにかく、鼻歌を歌いながらキッチンに立つ美少女というのは、見る者の目を楽しませるに十分過ぎる光景だった。華奢な後ろ姿に流れるような黒髪、それを飾り付ける真っ白のエプロン。少年の理想を具現化したような立ち姿である。
 一瞬ウォルに見とれていたインユェは、しかしすぐに我に返り、若干裏返った声で怒鳴った。
 
「う、ウォル、てめえ、俺が茶を飲みたいって言ったらさっさと持ってくるんだよ!もたもたしてんじゃねえ!」
「そうは言うがな、インユェよ。やはり上手に煎れてやらねば折角の茶葉が泣くぞ。お前も不味い茶よりは旨い茶のほうがよかろう?」
「だーかーら、俺が飲みたいと思った瞬間に一番旨い茶が煎れられるように準備しとけっての!このノロマ!」
「うーん、そう言われてもなぁ」

 ウォルが頭をこりこりと掻いた時、インユェの頭が盛大に鳴った。
 正しく鈍器を叩き付けるようなその音は、彼の双子の姉が振り下ろした掌によるものである。
 目から火花が散ったように錯覚したインユェは、涙の滲んだ瞳を加害者に向ける。

「ってぇな、姉貴、何しやがんだっ!」
「くっだらねえことをグチグチ喚くからだ。そんなに茶が飲みたきゃ自分で煎れるか、それともちったあ黙ってやがれ。聞いてる方がいらいらするんだよ、てめえの女みてえに甲高い声は」
「何だとぉ!誰が女みたいだって!?」
「んん、なぁんだ、その口の利き方は?こないだ、小便をチビリながら『許してお姉ちゃんっ!』って叫ばされたのを、もう忘れたかい?」
「だ、だだだ誰が小便を漏らしたよ、誰がっ!」
「てめぇだよてめぇ、ばーかばーかっ!」
「んだとぉっ!?馬鹿って言う奴が馬鹿なんだよ、この馬鹿姉貴っ!」
「そうか、ならやっぱり馬鹿はおまえじゃねえかよ、このミニマム脳味噌!」
「どぅどぅ、メイフゥどのもインユェも、少し落ち着かれよ。ヤームル殿がお困りだぞ」

 余裕と嘲弄の入り混じった笑みを浮かべて見下ろすメイフゥ、怒りと恥辱に顔を真っ赤にして姉を見上げるインユェ、二人の間に割り入って宥めるエプロン姿のウォル。ここ数日、《スタープラチナ》号の至る所で見られる光景である。
 ついこないだまで二人の喧嘩(ウォルなどにはじゃれ合いにしか見えないのだが)を止めるのはヤームルの役割だったので、一つ仕事の減ったかたちのヤームルはウォルに感謝の視線を送った。
 紬の上にエプロンを被るというアンバランスな格好をしたウォルは、その小さな唇を尖らせるようにして言った。

「メイフゥどの。いくら仲の良い姉弟同士とはいえ、弱い者いじめはよくないぞ。力のある者は、弱い者を守るためにこそ力を振るうべきだ」
「ほーい、了解いたしましたー」

 メイフゥは、小指で耳掃除をしながら気のない返事を寄越した。
 ウォルは、別に咎めたりはしなかった。
 そして、今度はもう一人の、小さいほうに向けて言った。

「インユェ。おまえはこの船の主であろう。なら、あまり小さなことにきゃんきゃん喚くのは見栄えがよろしくない。ヤームル殿が常日頃仰るように、万事もっとどっしり構えるがよかろう」
「っるせえな、そんくらい分かってんだよ!だいたい、他の二人は『殿』づけで、なんで俺だけ呼び捨てなんだ!お前は俺のドレイで、俺はお前のゴシュジンサマなんだぞ!」

 ウォルが目覚めてから、インユェはことある事にウォルの所有権を主張していた。
 確かに、森の奥で眠りこけるウォルを拾ったのはインユェである。もしもそれが見ず知らずの少女などではなくて高価な宝石などであれば、インユェの言い分も間違えてはいない。
 自分のことをドレイ扱いする少年に対して、かつて至高の冠を有する身の上だったウォルは、しかし平然として、

「そうか。それは失礼した。ではご主人様、ご主人様はこの船の主なのだから、船を信じ部下を信じ、何より己を信じて泰然自若となされよ。小事に騒いではご自身の器の底が知れるぞ?」
「ウォル、おまえまで俺のことを小さいとかぬかしやがるか――!」
「身体が小さいとは言っていないぞ。ただ、器が小さいと……」
「なお悪いわ!ドレイの分際で生意気な口を叩きやがって!躾けてやる!」

 激昂したインユェが、ウォルの着る服――メイフゥのおさがりの紬だ――の襟を掴んだ。そして、もう片方の手を平手にして振りかぶり、力一杯思い切り、ウォルの柔い頬を打った。
 否、打とうとした。
 しかし、その手は大きく空振り、いつのまにやらインユェの身体は宙でくるりと回り、盛大に床に叩き付けられていた。
 
「ああ、すまんインユェ、つい!」

 襟首を掴まれたウォルが、反射的にその手の持ち主――この場合はインユェである――を投げ飛ばしていたのだ。一連の動作は、ウォルが幼少の時代に厳しい父から護身術として叩き込まれた、いわば反射運動に近いものであったから、手加減など加える余裕がない。
 背中を強かに打ち、息を吸うことも出来ずに悶絶しているインユェを、ウォルは助け起こした。

「少し痛むぞ。……むんっ」
「――ぐぇ、げほっ、げほげほ……」

 背中に活を入れると、ようやく横隔膜に機能が戻ったのだろう、インユェは激しく咳き込んだ。
 ウォルは、彼の背中を優しくさすってやった。

「襟を掴むなど、身構えてくれと言っているようなものだ。やるならいきなり、相手が身構える暇を与えず、殴られた後に殴られたのだと気がつく、そんな拍子でやらなければな」
「うる、げほ、うるせえ……!」

 まだ苦しげなインユェであったが、自分を労るウォルの細腕を振り払い、よろよろと立ち上がった。
 
「どこへ?」
「俺の部屋だよ!ついてくんな!」
「いや、もとよりそんなつもりはないが?」

 ウォルはまったくいつもの調子で、あっさりと言った。
 いつも通りの、花が咲いたような笑顔である。

「それだけ強がりが吐けるなら、もう大丈夫だ。どこへなりと行かれるがよかろう」

 にっこりと微笑うウォルに、顔を真っ赤にしたインユェは、

「ちっくしょー!」

 涙に濡れた叫びを一つ残して、扉の向こうに消えたのだった。
 その直後、溜息が二つ漏れ出した。
 メイフゥと、ヤームルのものであった。

「すまねぇな、ウォル、愚弟が迷惑をかけた。それと、礼を言うぜ。お前があいつを投げ飛ばさずに黙って殴られたりしてたら、わたしが、顔のかたちが変わるくらいにあいつをぶん殴らなけりゃいけないところだった」
「いや、俺もまずかったからなぁ」

 思い出すのはつい先日、インユェと初めて顔を合わせた時のことだ。
 あのとき、可愛らしいエプロンを纏い、手には分厚いミトンと湯気の立つ土鍋、長い銀髪を後ろで一括りにしたインユェは、どこからどう見ても男には見えなかったのだ。
 だから、つい、言ってしまった。

『メイフゥどの。こちらは、卿の妹御か?いや、なんとも可愛らしい方ではないか』

 最初にボタンを掛け違えると、後からどう取り繕おうとしても、どこかに齟齬が生じる。この場合のウォルとインユェは正しくそれであって、インユェはウォルのことを『自分の事を馬鹿にした、得体の知れない女』と認識してしまったし、ウォルはウォルで彼のことを少女と間違えてしまった後ろめたさというものが離れない。
 どうやら年頃のインユェにとって、自分を女と間違えられるのは屈辱的なことだったらしい。ウォルの周りには、女に間違えられることに飽きてしまった少年が何人もいるから実感として理解できないのだが。
 
「なんとかしたいとは思っているのだがなぁ……」

 こういう場合、年長者から自分の非を認め、謝罪するべきだとウォルは思っている。だからこそ自分の方から積極的にインユェに話しかけたり、何かと世話を焼こうとしているのだが、見た目の年齢はインユェとさほど変わらないウォルであるから、これがまたインユェには気に入らないらしい。
 なんとも難しい年頃である。
 ウォルは気遣わしげに溜息を吐いた。
 そして、何かに気がついた表情で、

「あ、そうだ。インユェ、茶のことをすっかり忘れているぞ。あんなに飲みたがっていたのに。どうしよう、部屋まで届けてやろうかな」
「……すまん、ウォル、それは勘弁してやってくれ。いくら愚弟でも、その仕打ちは気の毒だ」
「何故?」
「武士の情けってやつだ。察してやってくれ」

 何はともあれ、一行は無事にヴェロニカ共和国へと密入国を成功させた。
 全てはこれからである。《スタープラチナ》号の乗組員達はこの星で一から再出発であり、ウォルは自分がここにいることを近しい人達に知らせ、一刻も早く彼らを安心させてやる必要がある。
 船を人目につかない山中に着陸させ、搭載していた小型のエア・カーに乗って、四人は市街へと向かった。
 運転するのはヤームルである。決して小さくはない宇宙船を険しい山地に見事着陸させた腕前は、その得物を選ばないようである。エア・カーの運転も見事なものだ。
 後部座席には、双子の姉弟が、姉のほうはふんぞり返って、弟の方はふてくされた様子でサイドガラスを眺めて、座っている。
 助手席には、ウォルが座っている。その黒い瞳は今にも輝かんばかりの有様で、フロントガラスの向こうから流れてくる景色を見つめていた。
 緑、緑、緑。
 視界に映るのは、空の青の他には地表を埋め尽くす緑のみ。それは草原の淡い緑であり、森林の濃い緑であった。
 時折赤茶けた、おそらくはこの星の地面が見える。過剰とも思える緑の中で、時折見えるその色が何とも毒々しく思えるのは、それらが補色関係にあるからだろうか。
 初めて見るその光景に、ウォルは興味津々だ。
 ちらりと横を見たヤームルが、柔らかい声で尋ねた。

「ウォル、ヴェロニカがそんなに珍しいですかな?」
「いや、確かにこの星も見事だが、この乗り物がな」

 ウォルははにかんだように微笑んだ。
 この時代、空を飛ぶ車というものは地面を走る車と同じ程度の希少価値しかない。
 要するに、別に珍しいものでもなんでもないのだ。
 しかし、この少女は、ごくごくありふれた生活用品にも、目を丸くして驚くことがままあった。まるで生まれたての子猫のように、その目に映る全てのものが面白くて堪らないらしい。
 おっかなびっくりといった様子で掃除機のスイッチを入れる少女と、直後に聞こえる吸引音に文字通り飛び上がった少女は、見る者に微笑みを与えた。
 だが、今のウォルの瞳は、物珍しさ以外の何かで輝いているらしかった。

「速いな、この乗り物は」
「本当は宇宙船のほうがずっと速いのですよ」
「ああ、それはこないだ聞いた。音よりも、ひょっとすると光よりも速く移動することができるのだと。しかし、それとこれとは違う速さだ。そんな気がする」
「違いますか」
「うん。そうだな、昔、初めて馬に跨り草原を駆けた、幼き時を思い出してしまう。あれは、本当に楽しかった。自分が風になったのだと思えた」
「それはようございますな。確かに、馬の背から眺める草の海、彼らと一体になって駆けたときの風の音、全て何事にも代え難い、素晴らしいものです」

 ウォルは、隣でハンドルを握る老人の顔を、まじまじと見つめた。

「ヤームル殿も、馬で駆けたことがおありか」
「はい。この時代では珍しいことなのでしょうが、わたくしの故郷――お坊ちゃまとお嬢様の母君の故郷でもある星は、人よりも馬や獣の数のほうが多いという場所でございました。幼き日、御館様とわたくしとで共に遠駆けし、二人して道に迷い、朝になってようやく家に辿り着いたとき、待ち構える親父殿達がどれほど恐ろしかったか……。今にして思えば親父殿達のほうがよほど恐ろしかったのでしょうが、あのときは誰も知らない土地まで逃げだそうかと、二人で真剣に話し合ったほどでございます」
「ああ、よくわかるぞ、その気持ち」

 ウォルも、幼き日は『山猿』と異名を取るほどの悪戯坊主であったから、自分の身を案じてくれた時の大人の怒りがどれほどのものか、骨身に染みている。特に、育ての親であったフェルナン伯爵と、悪友であり親友であった少年の父親であるゲオルグ小父のげんこつの痛かったことといえば、その後の人生で負った手傷など蚊に刺されたものと勘違いしてしまうほどである。
 思わず頬を綻ばせたウォルは、そういえばこの世界に来てから、一度も馬に跨っていたなかったことを思い出した。

「ヤームル殿。卿らの故郷というのは、遠いのだろうか」
「思い立てば、行けないという距離ではございませんが……如何いたしましたかな?」
「一度、行ってみたい。この世界に来てから、せっかく自由な身の上を取り戻したのだ。卿のような人を育んだ場所であれば、きっと素晴らしい場所だと思う。そこで、一度遠駆けでもしようではないか。今度は大人である卿が一緒なのだから、誰に咎められることもあるまいしな」
「そいつはいいな、ウォル。最近はおふくろの顔も見てねぇし、小金が貯まったら一度帰るとするか。ちなみにお前さん、馬は乗れるんだろうな?このチビみたいに、高い怖い降ろしてとピィピィ泣き喚かれたら堪らねえからよ」

 メイフゥは、隣に座るインユェを指さしながら言った。
 その言葉に、インユェは鼻で笑いながら、

「くっだらねぇ。あんな不便な乗り物の、どこがいいんだか。すぐに息は切れやがるし糞は垂れる、水と餌がなけりゃああっという間にくたばる。よっぽどこのエア・カーのほうが素晴らしいぜ」
「インユェ。それは違うぞ。彼らは乗り物ではない」
「じゃあ、何だってんだよ」

 ウォルは厳かに言った。

「友だ」

 一瞬目を丸くしたインユェは、直後に、蔑むように笑った。

「友?あの、気色悪い顔をした、くっせえ畜生が?くっだらねえ!」
「この世界においてはどうかは知らんが、少なくとも俺のいたところではそうだったな。ともに戦場を駆け、命を預け合うのだ。インユェ、彼らのことを単なる乗り物だとお前が思っているならば、きっと彼らはお前のことを単なる重しだとしか思っていないだろう。それでは、彼らがその背を許すはずもないぞ」
「ふん、馬なんぞ乗れなくったって困ることはねえし、頼まれたって乗ってやらねえ」

 そう言ってインユェはそっぽを向いてしまった。
 車内での会話は、それきりだった。
 しばらくすると、遙か前方に、乱立する高層ビルの群れが見えた。
 この国の、そしてこの星の首都である、ヴェロニカシティだ。空にはたくさんの物資を積んだ商船が行き交い。この距離からは小鳥が戯れているようにも見える。

「さて、わたくしは旧交を温めに参るつもりですが、皆様は如何なされますか?」
「あたしは、街をブラブラするつもりだ。あんだけ大きな街なら、ちったあ珍しいもんの一つくらいはあんだろ」

 メイフゥが言うと、ウォルがぴしっと手をあげた。

「俺も連れて行って欲しい」
「あん?金ならねえから何も買ってやれねえぞ……って、ああ、そうか」
「うむ。一刻も早くみんなに俺が無事でいることを伝えねばならん。きっと、みんな、心配しているだろうから」

 連邦加盟国であるヴェロニカからならば、その他の連邦加盟国まで易々と恒星間通信が飛ばせる。当然、連邦大学や惑星ベルトランもその中に含まれているはずだ。
 街に行けば、恒星間通信機能を備えた公衆電話があるだろうし、無ければ警察か、それに類する組織に借りるという手がある。
 
「ま、それくらいの小銭はあるさ。なんならそこらの金持ちからちょっぱってやるのもいいしな。おい、チビ。お前はどうするんだよ」
「めんどくせえ。俺は車で寝とく」
「ああ、そうかい。そんなんだからお前は大きくなれねえんだ」
「ほっとけ、でか女」

 ばしっと、頭を叩く音が聞こえたが、それきりだった。いつもなら、ここから罵り合いの口喧嘩に発展し、最後はウォルが宥めるはめになるのだが。
 どうにも、インユェの調子がおかしいようだった。ウォルに投げ飛ばされて以来、覇気というものが感じられない。
 程なくして目的地に到着したエア・カーから降りたのは、三人だけで、一人は車内に残った。
 
「では、わたくしはあちらに」

 ヤームルが指さした先には、うらびれた雰囲気のする酒屋の看板があった。
 そこで待ち合わせでもしているのだろう。

「ああ。じゃあ、日が落ちたらあたし達もあの店に行くから、待っててくれ」
「それでは、また後で落ち合いましょう。お嬢様、くれぐれも迷子になどなられませんように。そして、火遊びはほどほどになさいませ」
「了解了解」

 はて火遊びとは何かとウォルは頭を捻ったが、とにかく今はリィたちに自分の無事を知らせることが第一である。
 ずんずんと先を行くメイフゥに、慣れない服を着て小走りのウォルがついていく。遠くから見ると、まるで姉妹のようにも見える。
 
「……けっ」

 そんな二人を眺めながら、インユェは一人毒づいた。
 別に、何が気に入らないわけではない。
 ただ、気がつけばあの少女を目で追っている自分がいる。
 それが、どうにも気に食わないのだ。

「鬱陶しい。寝よ寝よ」

 座席をリクライニングさせたインユェは、ごろりと横になり、目を閉じた。
 最近は、どれだけ眠っても疲れが取れない感じがする。眠っても眠っても、眠気が取れないのだ。
 何か、夢を見ているらしい。何か、大事な夢だったような気がするのだが、起きた時には全てを忘れている。胸の奥が空っぽになったような虚無感が、なおいっそう彼を苛立たせる。
 インユェは懐から睡眠薬の錠剤を取り出し、口に放り込んで噛み砕き、それから目を閉じた。
 ぐっすりと眠れば、夢を見ることもあるまい。そう思ったのだ。
 加速度的に解体されていく思考。
 ああ、今日は夢を見なくても済むのかもしれない。


『死んじゃうよう、いかないでよう』


 どこからか、声が聞こえた。
 ちくしょう、またか、と。
 そして少年は、少女の名前を思い出す。
 獰猛に歯を剥きながら、嗚咽を堪えていた少女の顔を。
 それは彼にとってこの上ない幸福であり、その記憶を持ち帰れないことがこの上ない罰であった。



[6349] 第三十二話:おにのめになみだ
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 19:51
 あたしは、覚えている。
 肌を切り裂く寒風を。
 宝石を鏤めたような夜空を。
 月は、無い。
 草が風に流されて、ざぁざぁと耳障りに鳴く。

 あたしは、覚えている。
 遠くに聞こえる、狼の遠吠えを。
 近くに聞こえる、狼の唸り声を。
 闇に浮かんだ、餓えに狂った瞳の群れを。

 あたしは、覚えている。
 この手に握った、紅葉のように小さな掌を。
 紅葉のように暖かい、掌を。
 父の言葉を。
 メイフゥ。インユェは、身体が弱いんだ。
 だから、あいつはお前が守ってやってくれ。

 あたしは、覚えている。
 あたりはもう、とても静かで。
 暖かかったのは、ほんの一瞬だけ。
 鉄臭い液体は、冷たい風に冷やされて、容赦なく体温を奪っていく。
 ああ、早くお風呂に入りたい。
 だから、帰ろう。
 おうちに、帰ろう。
 一緒に、帰ろう。
 ねぇ、インユェ。

 ――おねえちゃん、こわい。

 あたしは、覚えている。
 弟の、怯えた瞳を。
 何も掴むことの無かった、掌を。

 ――■■■■。


「……フゥどの。メイフゥどの」

 肩を揺らされて、座席に腰掛けた少女は目を覚ました。
 ぼやけた視界に、自分を心配そうに見上げる黒い瞳を見つけた。
 
「ん……あぁ、ウォル、どうした?」
「大丈夫か?たいそう魘されていたようだが……」
「うなされて……あたしがかい?」

 回転の鈍い思考を無理矢理に立ち上げ、周囲を見回すと、そこはバスの中だった。
 座席が全て埋まり、ぽつりぽつりと立ち乗りの乗客がいる程度には混み合った車内だ。
 ヴェロニカシティの中心部へと向かうため、二人は、インユェらと別れた場所からバスに乗ったのだった。のぼり路線のバスらしく、ウォルとメイフゥが乗車したときは乗客も疎らだったのが、いつの間にか満席になっている。
 メイフゥは、いくつか奇異と憐憫の入り混じったような視線が自分に向けられていることに気がついた。
 なるほど、どうやらこの様子では、うたた寝しながら唸り声の一つでもあげてしまったのだろう。
 いつの間に眠っていたのだろうか。普段の彼女ならば、このような場所で無防備に眠りこけるなどあり得ることではないのだが。
 地表を走る乗り物のもたらす周期的な振動が眠りを誘ったのかも知れない。
 長期間に渡った航海が意外なほどに神経をすり減らしていたのかも知れない。
 だがそれらは、何の言い訳にもなりはしない。
 無様なことだと、窓枠に肘をかけたまま、メイフゥは自嘲の笑みを浮かべた。
 その拍子に、額に滲んだ脂汗が垂れ落ち、目に入った。汗の塩辛さが涙を滲ませたが、自分は泣いていなかったと言い訳するのにちょうどよかった。
 隣から依然心配そうにこちらを見つめる少女に、ひそひそ声で話しかける。

「すまん、ウォル。心配をかけた。あと、ひょっとしたら恥もかかせちまったかも知れねえな。悪かったぜ」
「それは構わんが……」
「別にたいしたことじゃないんだ。あたしにゃお馴染みの、悪い夢ってやつを見ちまっただけさね」
「悪い夢」
「ああ。昔のことを、少しな」
「何かあったのか」

 この言葉には、メイフゥが目を丸くした。

「ウォル。ここは気を利かせて、何も聞かなかった振りをするのが人付き合いってもんだぜ」

 ウォルは首を横に振った。
 どこからどうみても子供にしか見えない黒髪の少女は、

「それはそうかも知れん。しかし俺が目覚めたとき、あなたは心の底から親身になって、俺の心配をしてくれたではないか。俺のために怒ってくれたではないか。ならばメイフゥどの、あなたが苦しんでいたのに、ここで見て見ぬ振りをすることこそ人の道に悖る行いだと、俺は思う。だから何があったのか、教えて欲しい。もちろん、俺では頼りにならんかもしれんし、迷惑ならば無理にとは言わないが……」

 少し気弱な、しかし真剣な瞳でこちらを見つめながら、そんなことを言うのだ。
 息を飲んだメイフゥは、直後に大きな笑みを浮かべて、ウォルの黒髪をくしゃくしゃに撫で回した。
 撫でると呼ぶには些か情熱的すぎるそれは、ウォルの小さな頭を引っ掴んでぶんぶんと振り回すような様子だったから、ウォルは軽く目を回してしまった。

「ああ、なんて可愛らしいんだお前さんは!ちくしょう、あたしが男だったら、絶対に手籠めにしてやるのになぁ!悔しいなあ!決めた!お前、あたしの妹になれ!そんで、一緒に宇宙を旅しよう!連邦大学中等部の学生さんだかなんだか知らないが、そんな埃臭い場所に閉じこもってるよりも何倍も面白い人生ってやつをプレゼントしてやる!」
「わぷっ!め、めいふぅどの、ときとばしょをわきまえられよ……!」

 流石に声は潜めながらだったが、メイフゥはウォルを思い切り抱き締めた。
 先ほどまで苦しげに呻き声を上げていた妙齢の女性(何も知らない第三者が見ればメイフゥはそう見える)が突然に隣に座った少女(無論ウォルのことである)に抱きつき、何事かを呟いているのだから、周囲の乗客は言葉を失ってしまっていた。
 姿形こそまったく似ていないものの、共に至極美しい顔立ちであり、また同じような装束を纏っている二人組である。姉妹には見えないが、しかし無関係とも思えない。
 では何が相応しいかと言えば、同郷から観光旅行に来た親戚筋、あるいは年の離れた友人。そこらが妥当かも知れない。
 とにかく、良い意味でも悪い意味でも目立つ二人組であった。
 だが、花は美しければいいかというと、そうでもない。美しければ人に手折られることもあるだろうし、他の花の嫉妬を買う場合もあるだろう。
 当然、邪な思惑を抱いた害虫もたかるのである。

「あの、大丈夫ですか?先ほどは酷く魘されていたようですが……」

 まだまだウォルを抱き締めて放そうとしないメイフゥに、心配そうな声がかけられた。
 ウォルが見上げると、線の細い青年が、気遣わしげに、そして遠慮がちにこちらを覗き込んでいるではないか。脇に抱えた小さなバッグや勤め人とも思えないカジュアルな出で立ちから、大学生か、それともどこぞの研究所の研究員か、そんな感じだ。
 普通に見れば、突然に気分を悪くした婦人に対して気を使う親切な青年といったところなのだが、ウォルなどにはその青年の、高価そうな銀縁眼鏡の奥にある視線が、どうにも嫌らしいものに見えた。
 自分がこの身体を得てから、人目につく場所を歩くときに、時折向けられる視線だ。そして、男の身体の時は一度として向けられたことのない視線でもある。
 一言で言えば、こちらを欲望を吐き出すための対象として見ている、発情した男特有の脂ぎった視線であった。

「もしよろしければ、次のバス停の近くに、知人の経営している病院があります。そこで休憩されては如何でしょう」
「お心遣い、まことにありがとうございます。ただ、そこまでご心配いただかなくとも大丈夫でございます。おそらく、昼食に悪いものでも食べたのでございましょう。少し休めばこの程度」

 たおやかな、まるきり女性らしい声がウォルの耳道に響き渡った。
 ウォルは、文字通り我が耳を疑った。果たして、この典雅で美しい声は誰の喉で奏でられたものだろうかと。
 答えは、知っている。しかし、それを認めることを、全ての脳細胞が拒否しているのだ。
 唖然としたウォルを尻目に、青年と淑女の会話は交わされていく。

「失礼ですがその服、ひょっとしてこちらの生まれの方ではない?」
「はい、仰る通り、私どもは別の星の者ですが……」
「それはいけない。この星の食べ物は、体質的に受け付けない人が食べた場合、中毒を引き起こすことがあるんです。もちろん普通はそんなことはありませんし、万が一中毒を起こした場合でも普通の食あたりと変わることがないことの方が多い。しかし、ごく稀に重篤化した場合、それが原因で死に至ったケースも報告されています」
「そ……そんな恐ろしいこと!確かに、昼食はこちらの星の方々が食されるのと同じメニューをいただきましたが、誰もそのようなことは仰りませんでしたわ!」
「大丈夫、ご心配なさらずに。すぐに適切な処置を施せば大事に至ることはまずありえません。安心なさって結構です。なおのこと、病院までご一緒させてください」 
「しかし、見ず知らずの方のご好意に、そこまで甘えるわけには……」
「気兼ねすることはありませんよ。なにせ、この星は外から来られる方の落とされるお金で回っているような経済ですからね。あなたに親切にすることでこの星の評判がよくなれば僕も万々歳。ほら、誰も損をしないでしょう?」

 青年はさわやかに笑ったが、ウォルなどに言わせれば、娼館の客が馴染みの女郎に向ける笑みと大差無いものにしか見えなかった。
 誘いに乗ってのこのことついていけばどんな饗応が待っているか、考えるまでもないことである。
 些かうんざりした気分で、ウォルは口を開いた。

「メイフゥど……もがもが」
「ああ、やはり気分が……」

 心持ち顔を青ざめたメイフゥが、しなだれかかるようにしてウォルの方に身体を預けたように、見えた。
 しかしその実、メイフゥはウォルに覆い被さることで、男からは見えないよう巧みにウォルの口を塞いでいたのだ。
 そして、その耳元で囁いた。

「黙ってな、ウォル。せっかくカモがネギ背負って来てくれたんだ。これを逃す手はないぜ」

 ひひひ、と嗜虐に満ちた笑い声は、完全にいつものメイフゥのそれであったから、ウォルは安心すると同時に茫然とした。なるほど、この世には虫どもの食い物と成り果てる哀れな花もあれば、虫を食い物にする逞しい食虫植物もあるというが……。
 ウォルは人目も憚らずに思い切り溜息を吐いた。

「ああ、フィナ。フィナ。しっかりなさい。あなたも気分が悪いのですか?」
「……いえ、お姉さま。大したことはありません。ただ、ほーんの少しだけ、目眩がしただけですので」

 目眩がしたのは完全に事実であったので、出来るだけ嫌みったらしく言ってやったつもりだった。
 しかし、語調を整えメイフゥのことも姉と呼ぶあたり、ウォルも乗り気である。
 だいたい、自身が女になってから、以前よりも遙かに痴漢というものに怖気のしているウォルであるから、目の前の男がその種の悪漢であるならば灸を据えてやろうという気もしている。これでもし、この青年がただの好意で声をかけてきたのであれば、平身低頭で謝らなければならないだろうが。

「妹さんの体調もお悪いようですし……無理にとは言いませんが、やはり一度横になられた方がいいのではないでしょうか」
「……そうですわね。まことに申し訳ありませんが、ご厚情に甘えることにいたします。次の駅でよろしいのですか?」
「はい。どうやらちょうど到着したようだ。さ、肩をお貸ししましょう」

 メイフゥが立ち上がると、青年は驚いた。青ざめた顔で伏せていた女性の肩が、自分のそれよりも少し上にあったからだ。
 座っていたときからそれなりに大柄な女性ではあると思っていたが、これほどとは。自分だってそれほど小さい方ではない、むしろ男の中でも大きい部類に入るはずなのだが……。
 そんなことを考えながら肩を貸すと、やはりそこは女性である、なんとも柔らかい感触が心地良い。
 
「ああ……」
「大丈夫ですか?さ、あと少しですから……」

 ふらりと崩れる女性を支えるふりをして、腰に手を回す。
 その瞬間、青年の表情が僅かににやけたのを、ウォルは見逃さなかった。
 どうやらこれは当たりらしい。ウォルの勘も、メイフゥの猟も。
 仮病などではなくズキズキと痛み始めたこめかみを揉みほぐし、ウォルも二人の後に続いた。

「お嬢ちゃん、しっかりついてくるんだよ。あと少しだからね」
「ええ、お気遣いありがとうございます……」

 覚束ない足取りのメイフゥをバスから降ろした青年は、周囲の風景をきょろきょろと見回し、如何にも頼りなげな表情を浮かべて呟いた。

「あれ、おかしいな……確かここらへんに……」
「どうか……したのでございますか?」
「いえ、大したことではありませんので、少し待っていて下さい」

 青年は懐から携帯電話を取り出し、手慣れた様子で番号を押した。

「ああ、おじさん。こんにちは、うん、元気にしてるよ。あのさ、一つ聞きたいんだけど、おじさんの病院って、リマト通りのバス停のすぐ近くだったよね……うん……うん……えっ、一月前に場所を変えた!?いや、実は、バスで体調崩してる女性を見かけて、おじさんの病院まで連れて行こうと思ったんだけど……多分外の人みたいだから、この星の食べ物にアレルギー起こしたんじゃないかな……うん……いや、そこまでは……わかった、じゃあ少し待ってもらうよ」

 二つ折りに携帯電話を折りたたみポケットに締まってから、青年は申し訳無さそうに言った。

「すみません。もうおわかりかも知れませんが、先ほど話していた知り合いの医院――実は僕の叔父の経営する病院なのですが、ごく最近にここから別の場所に移転していたようでして」
「まぁ、そうでしたの。それは困りましたわ」

 真実困った様子で、メイフゥは言った。
 心細げな彼女を励ますように、青年は、努めて明るい声を出して言った。
 
「ただご安心ください。事情を話したところ、こちらまで車を寄越してくれるそうですので。それに乗れば、新しい医院までほんの4,5分です。あと少しの辛抱ですから、どうかこのままお待ち下さい」
「いけません、見ず知らずのわたくし共のために、そこまでお手間を取らせるわけには……」
「しかし、あなた方をバスから降ろしておいて、すみませんこちらの勘違いでしたで帰っては、僕のほうも夢見が悪い。ここは一つ、助けると思って僕の好きにさせて頂けませんか」
「でも……」
「姉さん、ここまで仰っていただいて、無碍に断るのも失礼ではないでしょうか。私達もこの星には不案内ですし、ここはこの方にお任せした方が……」
「……そうね。フィナ、ご好意に甘いさせて頂くとしましょう」

 メイフゥの言葉に青年は相好を崩し、手近にあるベンチまで二人を案内した。
 二人がベンチに腰を下ろすやいなや、遠くから排気量の大きいエンジンの音が近づいてくるのが分かった。

「ああ、来た来た」

 見るからに高級車然とした車が、三人の前に止まった。
 ドアを開けて出てきたのは、青年と同じ歳の頃の男性だった。身形のぱりっとした若者で、ほんの少しも怪しいところなど無いように見える。
 だが、メイフゥとウォルを流し見たときの視線が、どこか商品の質を確かめる仲買人めいたものであったことに、ウォルは気付いた。
 予想はしていたことであるが、類は友を呼ぶというか、ゴキブリは一匹見れば三十匹はいると思えというか。

「クラウス。君が来てくれたのか。助かったよ」
「久しぶりだねライアン。それにしても、医院の場所を間違えるだなんて君らしくもない。まったく、非常事態だったらどうするつもりだったんだ」
「耳の痛い話だが、とりあえずこちらのお嬢様方を医院まで運ぶのが先だ。すまないが、君も手を貸してくれるかな」

 クラウスと呼ばれた青年は快く頷き、顔色の優れないメイフゥを脇から支え、後部座席まで運んだ。
 ウォルは自分がそこまで演技巧者ではないと自覚していたので、ふらつく足取りを装いながら、自分の足で後部座席に乗った。
 女性陣が車に乗り込んだことを確認した青年達は、運転席と助手席に乗り込み、車を発進させた。さりげない拍子で、後部座席のドアもロックした。
 車内では、いかにも当たり障りの無い会話が、病人を刺激しない程度に交わされた。
 どの星から来たのか、何人で来たのか、親は何をしているのか。
 それらの質問に対して、メイフゥはよく答えた。

 ――私達は、共和連邦にも属していない辺境の星から参りました。ほら、この服はそこの民族衣装なんですけど、初めて見られるのではありませんか?

 ――ええ、私達姉妹二人だけですわ。音に聞こえたヴェロニカ教の寺院を、一度でいいから見たくって。

 ――両親は、私達が小さいときに身罷られました。今は、叔父夫婦のところに身を寄せております。でも、とってもよくしてくださるんですよ。

 それらの会話の途中で男達の頬がにんまりと歪んだのを、ウォルはルームミラー越しにはっきりと見た。おおかた、これなら誘拐して酷い目に合わせても問題なさそうだと思ったのかも知れない。
 しばらくすると、車は細い路地を選んで角を曲がるようになっていった。
 どんどん道は寂しくなる。

「本当にこちらの道であっているのでしょうか。どんどん街中からは離れていくような気がするのですが……」
「大丈夫です。叔父の医院は大きいので、ああいう街の中では土地が用意できなかったらしいんですよ。まったく、慌て者の叔父らしいですけどね」
「そうですか、であれば結構なのですが……」

 なお不安げなメイフゥをよそに、車はどんどん人気の無い道を進んで行く。
 最終的に止まったのは、どう見てもそこに医院が入っているとは思えない、ぼろぼろの廃ビルの前だった。

「さ、つきましたよお嬢様方。どうぞ下りて頂いて結構です」
「あの、ここに病院が……?」
「ええ、選りすぐりのスタッフ達が、あなた方に最高のサービスを提供してくれるはずです」
「でも……」

 どう考えてもおかしいではないか。病院の看板も掛かっていないし、そもそもこんな不衛生な建物に入った病院などに患者が集まろうはずもない。
 またしても何かの思い違いなのではないですか、と。
 メイフゥがそう言おうとした瞬間、ビルの入口から、粗暴な風体の男が数人、走り寄ってきた。

「あ、あの人達はなんですか!?」
「ご心配なさらず。あの格好がたまに傷ですか、それでも優秀なスタッフですので」

 クラウスはそう言って、運転席側のサイドウインドウを降ろした。

「おそいじゃねえか、クラウス。待ち侘びたぜ」
「すまんすまん、でもその分、中々の上物だろう?」
「ああ、今まででナンバーワンじゃねえか?こいつは高く売れるぜ」
「その前に俺達で味見しようぜ。金もいいがよ、最近はご無沙汰だから溜まっちまってさあ」
「お前、そういって前も一人ぶっ壊したばっかだろう!」
 
 どっと笑いが巻き起こった。
 メイフゥは、がたがたと震えている。その隣の少女は無表情で、まるで目の前で何が起こっているか分からない様子だ。
 そんな二人を見て、羊の皮を脱ぎ捨てた狼連中が、その黄ばんだ牙を見せながら醜く笑った。

「というわけだ、お嬢様方。まぁ、こいつらが最高のスタッフだっていうのは間違いじゃないんだぜ。残念なことに医療関係はからっきしだが、女を愉しませることにかけちゃあ超一流だ。なにせ、経験人数が違うからね。設備だって超一流なんだぜ。ベッド、カメラ、バイブにドラッグ、なんでもござれだ」
「今月で何人目だっけ、アホな旅行者を拉致ってくるの」
「これで五組目じゃなかったか?」
「忘れちまったよ、そんなこと。我らが女を食べること、パンをかじりワインを飲むが如しだな!」

 また下卑た笑いが巻き起こった。
 ウォルは、やれやれといった様子である。どうやら予想の最悪を極める、下種な男に捕まってしまったらしい。これで、平身低頭で謝らなければならないという未来図は消えたわけだが、それが心温まるわけでは全く無い。
 一言も口のきけない少女達を見て、男は満足げに頷くと、

「さ、我が身の不幸を嘆くのはとりあえずそこまでにして頂いて、まずは我らの城までご案内しましょう。ご自分の足で歩かれるのと、俺達に力尽くで引きずられていくのと、どっちが好みですかな?」

 最初にウォル達に声をかけてきた男が、慇懃な調子で言った。
 確か、ライアンと呼ばれていただろうか。まったくもってどうでもいいことである。どうせ偽名であろう。もしかしたらどうせ二度と会うことは無いのだから、と本名を使っている可能性もあるのだが、だからといってこんな外道の名前をわざわざ覚えておくつもりは、ウォルにもない。
 とにかく、メイフゥとウォルは覚束ない足取りで車から降り、男達に取り囲まれながら薄暗いビルの中に入っていった。
 ビルの中は酷い有様だった。酒瓶や注射器があたりに散乱し、得体の知れない酸っぱい臭いが立ちこめている。到底人の住める環境ではない。ここを住処にしている生き物がいるとすれば、それは正しくゴキブリかネズミの類だけだろう。事実、昼間だというのに薄暗い建物の中では、そこかしこから小さな生き物の這い回る音が聞こえていた。
 何回か階段を上がり、飛び降りて逃げることが出来ないくらいの高さのところになった時分、大きな部屋に辿り着いた。壁をぶち抜き、わざわざ広くしているらしい。
 天井には鉄骨が剥き出しになっており、そこに絡みつくようにしていくつかの撮影用ライトがぶら下がっている。ライトの向けられた先には特大のベッドが設えられており、その脇には鎖のついた手錠や首輪、その他用途の知れない怪しげな器具が山のように転がっている。
 その脇に、さらに男が数人いた。今二人を取り囲んでいる男と合わせれば、十人をいくら超えるほどか。

「さて、俺達は優しいからよ、選ばせてやる。どっちからだ?お姉ちゃんか?それとも妹さんからか?同時でも構わねえんだが、映像的には姉妹丼は最後の方が美味しいんだよなあ」
「なんだ、やっぱり俺達でマワしちまうのか?ボスに怒らねえかなあ」
「いいんだよ、黙っときゃバレやしねえさ。それに、ボスはクスリ漬けにした女を徹底的に壊すのも好きだからな、ばれたらそうしようぜ」
「じゃあ、一番手は俺ね」
「バカヤロウ、お前のデカいのをいきなりぶちこんじまったら、それこそ壊れちまうだろうが。ちったあ前ので懲りとけよ、このでか○○!」

 またしても哄笑が巻き起こる。
 何人かは、既に酒でも飲んでいるのだろう、顔が赤く息が酒臭い。それならましなほうで、目の焦点がおかしい連中はドラッグを打っているに違いなかった。
 ウォルは軽い目眩がした。別に男がどうとか女がどうとか、そういう議論は好まないウォルであるが、こういう連中を目の当たりにし、その吐き気のする欲望をぶつけられる身になってみると、世の女性というものに申し訳なくなってしまう彼女である。
 彼らの、耳に入れるのもおぞましい言葉にも、肩を撫で回す掌の不快な感触にも、飽きた。
 もう、心底疲れたような口調で、言った。

「あの、もうそろそろいいのではないですかな、姉さん」
「ああ、頃合いだぜ、ウォル。よく我慢したな、お姉さまが褒めてやる」
「こんなことを褒めてなどほしくはないのだがな」
「遠慮するなよ。病気とゴミ以外なら、貰えるもんはなんだって貰っておくべきだぜ」

 拳の関節を鳴らしながら獣の笑みを浮かべたメイフゥに、先ほどまでも弱々しい淑女と言った様子はどこにも無い。
 硬質な金の髪はふわりと浮きあがり、戦いを控えた獣の背の毛が逆立つ様を思い起こさせる。
 ただでさえ鋭い目つきは、目尻が更に吊り上がったことで取り返しがつかないほどに物騒なものになっているし、興奮で鼻は膨らんでいるし、にぃと微笑った口元からは犬歯、否、牙が見えている。
 どこからどう見ても、今から手籠めにされる哀れな女性という風情ではない。
 ウォルには分かる。目の前の女性は、戦士だ。それも、飛びきり勇猛で、精強で、なによりも危険な戦士である。いや、ウォルでなくとも、一度でも戦場の空気を嗅いだことのある人間であれば火を見るよりも明らかなはずだった。
 しかし、その危険物を取り囲んだ男連中には、その、簡単で重大な一事が分からなかったらしい。つまるところ、目の前いるのが獲物なのか天敵なのかを見分ける、生物が一番最初に備えるべき最も大事な感覚が抜け落ちているのだ。
 猛獣を目の前にした害虫たちは、大いに笑った。
 
「おっ、この姉ちゃん、俺達とやるつもりらしいぜ!」
「いいじゃねえか、そういう映像もマニアには受けるだろ。よし、じゃあ最初にこの姉ちゃんを押し倒した奴が一番乗りな。顔は絶対に殴るなよー、そういうのは後からでも出来るんだからなー」
「りょーかい。じゃ、お兄さんたちとあそびましょうねー!」
 
 数人の男が、メイフゥを取り囲んだ。いずれも、メイフゥと同じくらいか、それよりも大きい男ばかりであった。身体も、一応は引き締まっている。体重だけで見れば、メイフゥに倍する者もいるだろう。
 それでもメイフゥは怯まなかった。それどころか、その灰褐色の瞳は、薄暗がりの中とは思えない程にぎらぎらと輝いているのだ。
 メイフゥは無造作にウォルの方を振り返ると、言った。
 
「ウォル。そっちにいったやつは、自分で何とかしろよ」
「あいわかった。メイフゥどのは思う存分暴れるがよろしかろう」
「なにをごちゃごちゃと言ってやがる」

 一番前にいた男は、自分が幸運だと信じて疑わなかった。目の前の美女を押し倒しさえすれば、自分が一番最初にこの女を抱けるのだから。
 確かに標準よりは立派な体格をしているようだが、それでも所詮は女である。男が力尽くで覆い被されば、それをはねのけることができるとは思えない。事実、今までの獲物は全てそうであった。組み敷いた後で暴れたいだけ暴れさせてやれば、最後には大人しくなって、泣きながら喘ぎ声を上げていたのだ。
 所詮女などその程度の生き物なのだ。男の慰み者になるために生まれてきた生き物なのだ。男の情けがなくては生きていくことも出来ない弱い生き物なのだ。だから、自分達が思うさまに犯すのは神が認めた権利なのだ。
 男は、そう確信していた。
 そして、メイフゥの肩に手を置き、こちらをふり向かせようとする。
 ほら、ケンカが始まっているのに相手から目を逸らすなんて、なんて愚かなんだ。これは俺がきちんと躾けてやらなければならない。それは、俺の義務なんだ。
 男は、そう確信したまま、意識を失った。
 何が起こったか、理解は出来なかっただろう。
 それとも、カツンという、硬質な音くらいは聞こえただろうか。
 周囲からその光景を見ていた男達も、何が起きたのか分からなかった。
 ウォルだけは、分かった。はっきりと見て取った。
 男の意識を刈り取ったのは、拳の一撃だ。
 メイフゥの、素晴らしく速く、信じられないほどに重たい、振り向き様の左バックブローであった。
 空気を切り裂くような音と共に放たれたそれは、正確に男の顎を射貫いた。
 男の顎からベキリと骨の拉げる音が響き、衝撃でもって下顎が五センチほど横にスライドし、目がくるりと裏返り、そして男は無様に崩れ落ちた。
 痛いと感じるほどの暇も与えられなかったに違いない、電撃のような一撃だったのだ。

「おいおい、この程度、あのアホチビでもかわしてくれるってのに、冗談だろ?」

 呆れたように、メイフゥは呟いた。
 呟きながら、思い切り、足下に横たわった男の顔面を、その下駄で踏み抜いた。
 ぐしゃりと、小気味良く音がする。
 足の下で、絶息寸前の魚のように痙攣する男の顔を、なお下駄の底で踏み躙りながら、メイフゥは不敵に嘲笑っていた。
 その体勢のまま体重をかけてやると、ぺきぺきと、男の歯が砕ける音が聞こえた。
 メイフゥは、たまらないというふうに身体を震わせた。

「ああ、いいなあ、この音、たまらねえなあ。もっと欲しいなあ」

 ウォルでもぞくりとするほどに、艶に満ちた声だ。
 男達の中には、今、目の前の女が何をしているのかを理解できない者がいただろう。
 どうしてこの女は、男の顔を踏み躙りながら、男に抱かれたような声で啼くのか。
 それが、理解できない。
 理解できないから、怖い。
 怖いから、動けない。
 メイフゥの前の男達は、もはや蛇に睨まれた蛙も同然であった。

「おいおい、早く来ないと、お前らの、友達の、歯が、全部、無くなっちゃうよ?」

 はっとした男達が我に返ると、ごぼごぼと、泡立つような音が聞こえてくる。
 それも、倒れた男の口元から聞こえる。
 見れば、男の口の中に赤い血の池が出来ていた。
 歯が根本から砕けて、溢れ出た血が口腔に溜まり、溺れているのだった。
 その男の、魂が抜けてしまったかのように虚ろな目が、仲間に更なる恐怖を与える。
 だが、男達を縛り付けたのが恐怖であったならば、恐怖から解き放ったものもまた恐怖であった。
 我が身に差し迫った、生命の危機に対する恐怖だ。
 この女を、全員の力を合わせて今仕留めなければ、次は自分が同じ目に合わされるのだ。
 あまりに遅きに失したが、ようやく男達も目の前にいるのが猛獣の類であることに気がついたのだった。

「このくそアマぁ!」

 最初にやられた男の次にメイフゥに近かった男が、問答無用で蹴りにいった。
 格闘技の素養があるのか、それなりに形になっている。
 中段蹴りである。
 腕に当たれば女の細腕程度はへし折るだろうし、脇腹に当たれば内臓を破裂させる。
 そういう自信のある蹴りであった。
 しかし、蹴りは当たらなかった。
 蹴りが放たれ、それがメイフゥに当たる前に、メイフゥの下駄の爪先が、露わになった男の股間にめり込んでいたからだ。
 ぐちゃりと、湿った音が鳴った。

「ああ、この感触、残念だなぁ、二つとも、アウトだなぁ」
 
 感極まった声で、メイフゥが啼いた。
 意味は明らかである。男の睾丸を、二つとも潰してやったと、そういう意味だ。
 その言葉を理解するまでもなく、男は両手で股間を押さえ、その体勢のまま俯せに倒れた。
 その顔が、ウォルにも見えた。
 すごい顔だった。
 この世に、苦痛で歪んだ顔の一覧があるとすれば、その最右翼に並ぶであろう顔だ。
 大の男の顔が痛み一つでここまで歪むのだと、万人に知らしめる顔だ。
 倒れた男の股間のあたりに、赤い水たまりが出来ていた。
 小便と血の混ざった液体だった。
 次の男は、一味の中で一番大きな男だった。
 上背もメイフゥより頭一つ分ほど大きいし、緩んだ腹回りなどを考えれば体重は倍ほどもあるに違いない。
 その大男が、身体ごとぶつかってきた。
 とりあえず押し倒してしまえば煮るのも焼くのも思い通りだと考えたのだろう。
 頭から突っこんでくる大男。
 しかしその思惑は達成されなかった。
 メイフゥはその大男の頭を、無造作に片手で受け止め、そのまま地面に向けて押し潰し、押さえ込んだ。
 それだけで、大男はびくとも動けなくなってしまった。

 ――嘘だろ?

 大男は四つん這いに蹲りながら、自分の身に起きていることが信じられなかった。
 どう考えても自分の体重の半分しかない女が、どうして片手で自分を押さえ込めるというのか。
 しかも、ぶつかりに行ったときのあの感触。
 まるで大地に根を下ろした大木のように、ぴくりとも動かなかった。
 大男の額を冷や汗が濡らす前に、寒気のするような風切り音が、大男の耳をくすぐった。
 そこまでが、大男の知覚できる限界であった。
 メイフゥの膝が、大男の顔面めがけてすっ飛んでくる音だった。
 ぐしゃり、と、硬い物の拉げる音が響いた。

「えげっ」

 素っ頓狂な声を最後に、大男は完全に沈黙した。
 大男の鼻が、否、顔面の中央部分が、膝の形に、完全に陥没していた。
 ゆっくりと膝を引き抜くと、にちゃりと、糸を引く血が橋をつくった。
 メイフゥが片手を放すと、支えを失った大男の身体が、ゆっくりと崩れていった。
 俯せに倒れた大男の顔面から、放射状に血が広がる。
 到底、鼻が可愛らしく曲がった程度の出血量ではなかった。

「おお、汚ねえ、豚の血だ!」

 げらげらと腹を抱えて笑ったメイフゥは、ぴたりと止まり、それから完全に萎縮している男連中に向かって歩き出した。
 だらりと両手を下げ、散歩をするような何気ない様子で。
 それでも、もはや男達に戦う気力は残されていなかった。
 少なくとも、素手で戦う気力は、だ。

「こ、殺す!殺してやる!」
 
 調子の外れた声でそう叫んだ男は、ポケットから、細長い、長方形の物体を取り出した。
 一振りすると、中から鋭い刃が姿を見せる。
 バタフライナイフというものだろう。
 男は両手でそれを握りしめ、しきりに刃を動かして威嚇した。

「く、来るなよ、近寄ったら殺すぞ!」

 先ほどと、ニュアンスが微妙に違う脅し文句を口にしながら男が後退る。
 しかしメイフゥは、男が後退るよりも僅かに早く、前に進んでいく。
 じりじりと、距離が詰まっていく。
 まるで獲物をいたぶるような速度だ。

「く、来るなっつってんだろうが、この化けモン!」
「へぇ、ひかりもん、出すかよ。じゃあ、殺すつもりが、あるってことだよな?なら、殺されるつもりも、あるってことだよな?あたしは、お前を殺してもいいってことだよな?」
「は、はぁ?何言ってんの?意味わかんね!意味わかんね!意味わかんね!頭おかしいんじゃねえか、てめええ!」
「嬉しいぜ、だってこんなに、おなかが、ぺこぺこだ、もう、我慢ならねえ、もう、たまらねえ」
「ひ、ひぃぃぃ!?」

 先ほどまでも恍惚とした視線だったメイフゥだが、既にウォルなどから見ても様子がおかしい。
 確かに、戦場において血に狂った兵士は精神に変調を来した振る舞いをみせることがあるが、その一線を更に越えている。
 まるで、飢えた野獣のように、静かな、それでいて隠しきれない狂気を孕んだ、人以外の生き物の気配を放っている。
 リィとは違う。リィがウォルの前で初めて人を喰い殺したときも確かに人外の気配を放っていたが、それとはまた別種の生き物の気配である。
 ウォルは、ぞくりと背筋に冷たいものが走る感触を覚えた。

「く、くるな、くるな、くるなぁ!」
「だめだ、だめだだめだだめだだめだだめだ。行くぞ、いま行くぞすぐ行くぞほら行くぞさあ行くぞもう行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞ行くぞいくぞいくぞいくぞいくぞ」
「ひ、ひいいいいい!」

 甲高い悲鳴を上げた男の目がくるりと回り、膝から崩れ落ちるのをウォルは見た。
 極度の緊張に神経が絶えきれず、失神したものと思われた。
 まるで神の前に跪いた信者のような姿勢の男、その股間から、濃いアンモニア臭が漂ってきた。
 失禁したらしい。
 それを見たメイフゥは、拗ねたように口を尖らせた。

「なんだ、つまんないの」

 まるで、おもちゃに飽きた幼女のような口調だった。
 しかし、おもちゃはまだまだあるのだ。
 ぐるりと、首を回す。視線の先には、彼女のおもちゃが、肩を寄せ合わせて震えているのだ。
 ああ、まだまだ愉しめるのだ、と。

「次は、ピストルか?ショットガンか?マシンガンか?爆弾?装甲車?戦闘機?宇宙戦艦?なんでもいいぞ?なんでもいいから、かかって来い。あたしを退屈させるな。死ぬまで戦え。死ぬまで戦って、死ぬまで戦ったら死ね。あたしが殺してやる」

 全てを受け入れる聖母のように手を広げたメイフゥは、男連中には悪魔にしか見えなかったはずである。



「落ち着いたか?」

 水の入ったペットボトルを渡し、呆れたようにウォルは言った。
 ペットボトルを受け取ったのは、散々返り血に塗れたメイフゥである。喉の渇きを潤すと、流石に少し疲れた様子で、苦笑しながら言った。

「いやぁ、思ったよりも楽しめたな。まさかこんなにいやがるとは、正しくゴキブリの如しだ」

 彼女の灰褐色の瞳の先には、山と積まれた男達の身体がある。
 そのいずれもが重傷であった。骨が折れているか、睾丸が潰れているか、意識を失っているか。平気な顔で立ち上がれる者は一人としていないだろう。明日から、少なくとも一月の間は病院のベッドで過ごさなければならない者が過半のはずである。
 先ほどの男達の言動と、この場に残されていたいくつかの物証から、ここにたむろしていた男連中が今まで数多くの女性に非道を働いていたのは間違いない。であれば、同じ女性である(?)メイフゥから痛い目に合わされるのは因果応報ということになるはずなのだが、それにしても哀れを誘う有様であった。

 ――当然の報いとはいえ、何とも凄惨な……

 第三者のように評するウォルであるが、しかし彼女もメイフゥほどではないにせよ数多くの戦果を誇っている。
 メイフゥを相手取るのが無謀であると判断した数人の男が、ではその妹を人質に取ろうとしてウォルの元に殺到したのだ。
 何せ、見た目は中等部の、しかも低学年程度の少女のウォルである。どう考えてもこちらを相手にしたほうが賢い。
 
『おらぁ化け物!てめえの妹がどうなっても、ぶへっ!』

 しかし、相手はウォルである。どのような姿形をしていても、ウォルである。
 ここではない他の世界で、闘神バルドウの現し身と呼ばれた戦王であり、将兵なくともデルフィニア随一の剣士であった男である。
 まして、その魂が宿っているのは、現世の戦女神と呼ばれたその妻と同じ生き物の身体なのだ。見た目はどれほど可愛らしいミニカーであっても、フレームは超々硬度合金製であり、積んでいるのはドラッグレース用のモンスターエンジンである。
 素手であることを差し引いても、そこらのならず者の手に負える相手ではない。
 当然の如く、安易にウォルに矛先を違えた男達は、見た目と強さが必ずしも比例しないのだという教訓を身体に叩き込まれて、地に伏せることとなった。それにしたって血に狂ったメイフゥの相手をせざるを得なかった連中に比べれば幾分ましな結果ではあったのだろうが。
 
「ヤームル殿の言っていた『火遊びもほどほどに』とはこのことであったのだな」
「ああ、そんなこともいってたな、ヤームルのやつ。くそ、これじゃあばれちまうかな、派手に遊んだこと」

 血の染み込んだ紬を苦々しげに眺めながら、そんなことを言った。
 つまり、こういうことは初めてではないということだ。
 メイフゥは年齢のわりに成熟した外見をしているから、少し隙を見せてやればいくらでも男は釣れる。その中で、自分が遊んでもやっても問題のないごろつきを見繕い、今までの悪事のお灸を据えてやる。それが彼女の趣味なのだ。
 なんとも物騒な趣味であるが、この実力を見る分には、今まで一度だって危ない目にあったことがないのではないだろうか。街のごろつき程度が束になってかかっても、彼女の身を危険に晒すなど不可能事にしか思えない。
 しかし、それが最も危険であるということに、おそらくメイフゥは気付いていない。

 ――難儀なことだ。

 インユェとは違う意味で姉の方も厄介なのだとウォルはあらためて悟った。
 そんなウォルの内心を知って知らずか、メイフゥは返り血に塗れた自分の身体を見て、あらためて溜息を一つ吐き出した。
 ヤームルからお小言を頂くのは、この女傑をして憂鬱にさせるらしい。
 
「ま、先のことに頭を悩ませても仕方ねえな。やるべきことから片付けちまうとするか」

 よっこいしょと立ち上がったメイフゥは、倒れ伏した男共のうち、比較的傷が少ない、まだ呻き声らしきものをあげることの出来ている男の所まで歩いて行った。
 そして、髪を鷲掴みに掴んで、強引に引き起こした。
 引き起こされた男の顔は、何とも情け無い顔だった。形の良い鼻は歪み、銀縁メガネのレンズの片方は砕けてしまっている。ちらりと見えた白い前歯も、幾本か欠けているようだ。
 だが、ウォルはその顔に見覚えがあった。最初、バスの中で自分達に声をかけてきた男だ。なんという名前だったかは既に忘れてしまったが。

「おい、起きろ」
「な、なんだよ、これだけのことをやっといて、まだ何か用があるのかよ」

 口調もはっきりしている。どうやらメイフゥは、この男だけは手加減して倒したらしい。
 男は、自分が比較的無事なことについて、何か都合よく勘違いをしたのだろう、いかにも強気な口調で続けた。

「お前、こんなことをしておいてただで済むと思うなよ。俺はな、憂国ヴェロニカ聖騎士団のメンバーなんだ。調子に乗るなよ、絶対に、死んだ方がましだっていう目に遭わせてやる。生臭い肉食女め!必ず神の報いを受けさせてやるからな!」
「おお、怖え怖え。怖すぎて、元凶をもとから断ちたくなるなぁ。そうだ、その口を二度ときけなくしてやろうかなぁ。そうすりゃあ、誰が誰を殺したか、わからなくなるもんなぁ」

 男が、黙り込んだ。
 くだらないことを言っていると殺すぞというメイフゥの意志は、はっきりと伝わったらしい。
 青い顔で口をつぐんだ男に、メイフゥは優しげな声で、

「おいおい、黙り込むなよ。お前さんには聞きたいことがあるんだからさ」
「……なんだよ」
「あれだよ」

 くい、と親指で後ろを指す。
 ウォルも、そちらに視線をやる。
 部屋の隅である。
 そこには、黒い、そして四角く大きな物体が、どんと置かれていた。
 金庫であった。

「そ、それがどうした……」
「察しが悪いなぁ。ほれ、寄越せよ、鍵と暗証番号」

 メイフゥはにこやかに、手を差し出した。
 男は、見下げ果てたように笑い、

「はん!次は強盗の真似事かよ!これだから生臭共は……!」

 そこから先は言えなかった。
 メイフゥが、鼻頭を殴りつけたからだ。

「げふっ……げほっ……」
「ほら、鍵と暗証番号」
「お、俺はそんなもの知らな……!」

 もう一度、殴りつけた。

「鍵と暗証番号」
「ほ、ほんとうにしらな……!」

 もう一度。

「かーぎーとっ!あーんーしょーうーばーんーごーうっ!」
「……!」

 もう一度。
 メイフゥは、溜息を吐いた。

「あのなぁ。お前さんが、この巣のゴキブリ共のボスだってことくらい、わかってるんだ。あんまりあたしを舐めると、鼻が顔の中に埋まって、これからの一生を口で息して生きていくことになるぞ。そんなの、息苦しいだろう?今だって息苦しいはずなんだからな」

 メイフゥは、鼻血でどろどろになった男に、優しげに言い聞かせた。
 そしてもう一度殴り、言った。

「鍵と暗証番号は?」
「ごほっ、ゆ、ゆるしてくれ、あのなかにはとんでもないモンがはいってるんだ。おれやあんたの命くらい、簡単にぶっとんじまうくらいのやつさ。そんなもん持ってったって、碌なことねえぜ。あんただって死にたくないだろ、な?」
「お前さん、頭が良さそうなツラのわりに、脳味噌が可哀想だな。それともあたしが殴り過ぎちまったのか?いいか、よく聞けよ。あたしは連邦未加盟の辺境出身で、宇宙生活者だ。あんたをここで殺したって、痛くも痒くもないのさ。ひょいと逃げりゃあこの国の警察は追ってこれねえし、連邦警察はけちなちんぴらが一人死んだくらいじゃ動かない。ほら、あたしはちっとも困らない。ここまでオーケー?」

 一発殴った。

「あたしはあんたが吐くまで問答無用で殴り続けるぜ。それこそあんたが痙攣しはじめて糞小便を垂れ流しても絶対に止めねえ。死ぬまで止めねえ。そもそも、別に金庫の中身が頂けなくても、あたしが死ぬわけじゃあないんだからな。死ぬまで殴り続けてやる。ではここで問題だ。ここであたしに問答無用で殴り殺されるのと、げろった後で逃げだす算段を考えるかそれともボスとやらに精一杯言い訳してどうにか許してもらう可能性を残すのと、どっちがいい?それとも、その程度の損得勘定も働かせられないくらいに貧弱シナプスなのか?だったら生きてる価値もねえよ」

 メイフゥはからからと笑った。
 
「じゃあ、くだらねえ問答は終わりだな。そうだ、やっぱりお前さん、しゃべってもしゃべらなくてもいいぜ。あたしが勝手に殴るからさ。死ぬまで殴るからさ。気が向いたら、差し出したいモンを差し出せばいいやな」
「ちょ、まって……!」

 メイフゥは晴れ晴れとした笑顔のまま、大きく拳を振りかぶった。
 血塗れの紬の袖から覗く二の腕が、おそろしい程に太い。普段のメイフゥの倍以上はあるのではないだろうか。
 みしみしと筋肉が軋む音が聞こえてきそうな、見事に引き絞られた二の腕だった。男であっても、ここまで見事な上腕二頭筋を持つ者はそういないだろう。
 その腕に思い切り殴られれば、一体どうなってしまうのか。
 男の口を縛っていた紐の強度も、そこまでが限界だった。
 男は泣きながら脇の下に手を入れ、小さな包みを取り出した。
 逆さにして中身を取り出すと、小さな鍵と、折りたたまれたメモ用紙が出てきた。
 メイフゥはそれを受け取ると、

「最近はさ、間違えた鍵を差し込んだり暗証番号を入れたりすると、自動的にロックして、通報まで済ませてくれる便利な金庫があるらしいぜ。ま、そんなことはねえと思うが、一応聞いておく。もしお前さんがそんな姑息な真似をしても、もう一度言うが、あたしは一向に困らねえんだよ。あんたを殴り殺してこの星から逃げ出すだけだからな。さて、何か思い出すことはねえかな?」
「そ、そうだ、忘れてたよ!鍵はそっちが本物で、パスはこっちが正解だった!」

 男は、先ほどの包みを取り出したのとは逆の脇の下から、まったく同じ大きさの包みを取り出した。
 中には、やはり同じく鍵とメモ用紙が入っている。
 メイフゥは、引ったくるようにそれを奪い、最後にもう一度男の顔面を殴った。

「……かはっ……お、おい、おれはあんたのいうとおりに、かぎをわたしたじゃねえか!」
「おお、説明が足りなかったな。こいつは忘れっぽい脳味噌を活性化させる、あたしの国に四千年前から伝わるショック治療さ。もしよければもう一発いっとくかい?」
「……!」
「言っとくが、もしこれ以上あんたがド忘れしてる場合は、あたしの知りうる限りのショック療法であんたの記憶力を取り戻させてやるつもりだぜ。そこんとこはオーケー?」

 男はかくかくと首を縦に振った。メイフゥに髪を掴まれたままだったので、なんとも滑稽な様子であったが。
 男の目を覗き込んだメイフゥは、満足げに一度頷き、それから男の髪の毛を放してやった。その拍子に男はべちゃりと地面に張り付き、抜け落ちた大量の頭髪がひらひらと宙を舞った。
 メイフゥはずんずんと金庫に向かって歩を進め、その前に蹲った。

「お、おい、あんた!もう一度言うが、最初に渡した鍵と、次に渡したパスだぞ!絶対に間違えてくれるなよ!あんたが間違えて金庫がロックしても、俺は悪くねえからな!」

 だから殺してくれるなと、そういう意味だろう。
 男の悲鳴を一顧だにせず、メイフゥは金庫に鍵を差し込み、暗証番号を打ち込んだ。
 かちりと、鍵の開いた音がする。
 舌舐めずりする表情のメイフゥが分厚い鉄の扉を開けると、そこには……。



「いやぁ、大漁大漁!」

 ほくほく顔のメイフゥがハンドルを握っている。その隣にウォルが座っている。
 二人が乗っている車は、当然、彼女らの持ち物ではない。連中の車の中で、一番見栄えのいいものを奪ったのだ。
 彼女達が廃ビルに連れてこられた時と、同じ車であった。

「時給になおしたら2000万から3000万ってとこか?話に聞くクーア財閥の総帥だって、こんなに高給取りじゃないだろうさ!」

 後部座席には、どっさりと札束の入ったカバンが無造作に置かれている。アジトに置かれていた金庫の中に、詰め込まれていたものだ。
 おそらくはまともな金ではないだろう。叩けば埃どころか、被害者の血液や涙さえ滴りかねない、汚れた金である。
 到底あんな奴らに使わせるには勿体ない。こういうものは、もっと素晴らしい使われ方をするべきだ。メイフゥはそう確信している。そして自分ならば、その素晴らしい使い方が出来るのだとも確信していた。
 だから頂いたのだ。誰に恥じるつもりもない。
 そして、メイフゥがバスの中で男に声をかけられてから今まで、ほんの二時間ほどしか時間は経っていないのだ。割のいい狩りだった。メイフゥが鼻歌の一つも歌いたくなったとして、それは無理もないことであった。
 
「それに、こんなもんまで頂いちまって……!」

 メイフゥが嬉しげに弄んでいるのは、コンピュータのチップであった。
 そこにどのような情報が入っているのかは分からないが、しかしあの男が必死に守ろうとしたのはどう考えても札束ではなくこちらのほうだ。
 この中にどんな情報が入っているのか、それを使えばどれほどの金銭を生み出すことが出来るのか。
 メイフゥの頭の中は、今が春の盛りであった。響くのはホトトギスの鳴き声ではなくソロバンを弾く音であり、舞い散るのは桜ではなく紙幣の吹雪であったが。

「それもこれもお前のおかげだな、ウォル!お前がバスの中でタイミングよくあたしを起こしてくれたから、あの野郎が上手いこと釣れたんだ!半分はお前の分け前だぜ、ウォル!」
「……俺はいらん、そんな金」

 ウォルは、不機嫌を隠そうともせずに、言った。
 メイフゥは、驚いたりはしなかった。寧ろそれが当然であるとすら思った。

「何だよウォル、まだ怒ってんのか。別にいいじゃねえか、げす野郎に肩を撫で回されたくらいよう。野良犬に舐められたとでも思って忘れろよ」
「そんなことに腹を立てているのではないことくらい、メイフゥどのなら分かっているはずだが?」

 視線も寄越さずに、ぴしりとした調子で言った。
 
「悪漢にきつい灸を据えるのはいい。少しやりすぎな気もするが、相手が相手だ、十分に許容の範囲内だろう。しかし、その金を奪うまでしては、奴らのしていることと何が違うというのだ。だいたい、その金は奴らが非道をして、哀れな女性達を売り飛ばすことで作った金だろう。それをメイフゥどのは、気持ちよく使うことが出来るというのか」
「ああ、出来るね。あたしはこの金を使うことに、何の罪悪感も覚えない」

 朗らかな口調で続ける。

「逆に聞くがよウォル。お前さん、この金はどうするべきだと思うね?今から奴らに返しに行く?そうすりゃ奴らは泣いて今までの罪を詫びるかも知れねえがよ、この金は今日にでも奴らの酒とクスリのために消えちまうだろうさ。じゃあ、売られていった女を捜して助け出すために使うか?そんなこと無理だね、これっぽっちの金じゃあな。この広い宇宙のどの星にだって、身売りされた女の行き着く女郎宿はあるんだ。第一、女連中がもう既に墓の下にいないっていう保証もない。そんな中から奴らにさらわれた女を捜すなんて、砂漠に落とした針を探すようなもんさ。それとも、哀れな女の霊とやらを慰めるため寺にでも寄付するかい?そうすりゃ喜ぶのは坊主ばかり、やつらが金ぴかの仏像に自分の名前を彫るためにこの金は有難く使われちまうだろうさ。さて、お前さんはどの使い方を選ぶんだい?」

 ウォルは何も話さず、前だけを見ていた。

「金に綺麗も汚いもないさ。金は金、それ以上でもそれ以下でもない。百歩譲ってもし仮に金に綺麗だの汚いだのがあるとしても、それを言っていいのは汚い金を捨てるだけの余力のある金持ち連中だけだぜ。あたしらみたいに、明日を生きる金もないような貧乏人は、汚い金であっても縋り付くしかないのさ。第一こいつは、あたしが命を賭けて奪った金だぜ。もしもあたしがヘマをやらかしてたら、今頃あいつらの慰み者だったんだ。心も体もぼろぼろになるまで弄ばれて、最後は場末の女郎宿か、変態趣味の金持ち連中の性奴隷が関の山さ。なら、こいつは労働の質に見合った正当な対価だと、あたしは思うがね」

 理屈で言えば、メイフゥの意見は至極正しい。非の打ち所が無い。
 そして、ウォルもその程度のことは百も承知なのだ。金の綺麗汚いなど、国王として国の運営を司った彼女からすれば、一番最初に潜り抜けた煩悶である。
 しかしウォルにはそれが気に食わなかった。理屈を抜きにして気に食わない。だから、ふてくされたように言った。

「燃やしてしまえ、そんな金」

 メイフゥは、目を丸くしてウォルの方を見てから、火がついたように笑った。
 笑いすぎて、危うく前の車に追突するところであった。

「……何がおかしい」
「いや、ウォル、あんた、やっぱり可愛いよ。あたしの妹にしたい、いや、絶対にしてみせるぜ」
「俺は、既にある方の養子になっているのだ。これ以上、養い親を持つつもりはない」
「あんたがあたしの親の養子にならなくたって、あたしの妹になる方法なんて、あるじゃないか」

 メイフゥは、気安く言った。
 ウォルが、何を言っているのかと問う前に口を開き、こう言った。

「あんたがインユェの嫁になればいい」

 流石のウォルも唖然として、ハンドルを握ったメイフゥの顔を見た。
 メイフゥは、もう笑っていなかった。
 真剣な表情で、言った。

「あいつだって、あんたのことを憎からず思ってるはずさ。あんたさえよければ、明日にだって祝言は開けるんだぜ?あたしの国には、やれ年齢制限だやれ親の許可だ、そういうしちめんどくさい決まり事はねえからな。なに、結納金なら心配はいらねえ。この金の半分を使えば十分に足りるだろうしな」

 結納というものが何なのかウォルには分からないが、おそらくはメイフゥの生まれ育った文化において、花嫁が必要とする何かなのだろう。ウォルはそう理解した。
 
「……本気か、メイフゥどの」
「本気も本気、大本気さ。これが冗談でしたなんて言ったら、その場で腹をかっさばいて死んでやる」

 大真面目な様子のメイフゥに、ウォルは一つ苦笑を漏らして、

「ありがたい話だが、お断りさせて頂く」
「どうしてだい?インユェは確かにまだちいせえ男だが、将来性はあるぜ。なにせ、あたしの弟で、あの海賊王の息子なんだからな」
「……海賊王?」

 聞き慣れない単語に、ウォルは問い返した。

「あれ、知らないかい、海賊王。最近、海賊王のトリジウム鉱山がどうとかで、話題になってるアレさ」
「それがどうしたというのだ?」
「この広い共和宇宙に蔓延る、数多の海賊達の頂点に立った男。それが、あたしとメイフゥの親父どのさ。だから、あいつは将来、大きな男になる。もちろんあたしなんかよりも、ずっとずっとだ」

『暴力をもって奪い取る海賊達の時代は、俺の代で終わりだ。お前達は、知力と胆力でもって掠め取れ』

 遠い昔、そう悲しげに言った父の顔を、メイフゥは既に覚えていない。
 ただ、見上げる程に大きい長身、壁のように広い肩幅、そして女性ならば誰しもが恋に落ちるような笑顔だけは覚えている。
 事実、メイフゥの初恋は、その時に始まり、その人が父だと知った時に終わったのだ。
 淡々と語るメイフゥの言葉に、嘘があるとは思えなかった。
 だがウォルは、首を横に振った。

「インユェがどれほど素晴らしい男に育ったとしても、駄目だ」
「どうして?」
「俺は、もう婚約を済ませてしまったからな」

 今度はメイフゥが唖然とする番だった。
 唖然としすぎて、アクセルから足を放してしまった。
 それでもしばらくの間はのろのろと前へと進んだ車は、やがて慣性の力に負けて、道のど真ん中で止まった。
 後ろの方からけたたましいクラクションが鳴らされるが、メイフゥはまったく気にしなかった。というよりも、気にする余裕が無かったのだ。

「……マジか?」
「ああ、マジもマジ、大マジだ。これを冗談と後で言うならば、俺はその場で首を括って死んでやってもいい」

 魂を抜かれたような様子のメイフゥが、ふらりとハンドルに寄りかかり、力無く項垂れてしまった。
 あまりに放心した様子に、流石のウォルも心配になった。

「メイフゥどの、大丈夫か?」
「大丈夫ちがう。全然ちがう。むしろ大ショック」

 彼らの後ろに出来ている渋滞は、既に危険な長さになっていた。
 いずれ堪忍袋の緒の切れた運転手の誰かが、この車に詰め寄るだろう。その時に相手をするのは、あまりの驚きに我を失った獣である。
 一刻も早く、車を再発進させる必要があった。
 
「ああ、最初にあんたを見たときから、インユェの嫁にぴったりだと思ってたんだ……今でこそあいつの器じゃあ分不相応だけど、もう少し大きくなればあいつにお似合いだと……ウォルになら、インユェを預けられると思った……思ってたのになぁ……」
「……前から聞こうと思っていたのだが、メイフゥどの。あなたは、ことある事にインユェに突っかかるが、インユェのことを憎く思ってのことか?」

 茫然自失の態のメイフゥは、力無く首を横に振った。
 
「では……」
「あのさ、ウォル。お前、兄弟はいるかい?」

 ウォルは、刹那、首を縦にも横にも振れなかった。
 血の繋がった兄弟、という意味で言えば、一人もいない。彼女の、父方のみ血の繋がった兄弟は全て非業の死を遂げ、だからこそ彼だった彼女のもとに、王冠などという碌でもないものが転がり込んできたのだから。
 しかし、義理の兄弟ということであれば、こちらの世界で得たばかりだ。黄金の狼と、その愛すべき家族達……。
 思い起こすだけで暖かな名前を指折り数えたウォルの耳に、寒気のする声が飛び込んできた。

「じゃあさ、ウォル。その兄弟から、ばけものって呼ばれたことは、あるか?」
 
 そう呟いたメイフゥの瞳に、薄く涙が浮かんでいるのを、ウォルは確かに見た気がした。



[6349] 第三十三話:そして兎は鮫の上
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2009/12/28 19:33
 既に日も傾こうかという頃合いに、ヤームルは目当ての酒場をもう一度訪ねた。
 先ほどドアを叩いた時は、準備中の看板が立っていただけでなく、中に人の気配そのものが無かったので、出直すことにしたのだ。
 流石に今の時間になっては料理の仕込みその他諸々の開店準備がいるから、店の中からは人の気配がする。
 ヤームルはあらためて、ドアを引いてみた。
 鍵は、かかっていなかった。

「まだ準備中だよ。おもての看板が見えなかったのか」

 ヤームルを出迎えたのは、ぶっきらぼうな声だった。
 確かに、表には準備中の看板が下りているし、酒場と称される店が開くような時間にはまだ早すぎるのも理解している。しかしここまで不機嫌な調子で出迎えられては、果たしてこの店に客商売をする気があるのかと疑いたくもなる。
 だが、ヤームルは気分を害したふうではなく、込み上げてくる懐かしいものを噛み殺すかのように苦笑した。

「聞こえなかったのかい。邪魔だからさっさと出て行ってくれと言ってるんだがね」
「相変わらずだな、ブルット。そんなあんばいでよく店が潰れないものだ。よっぽどこの星の神様に愛されてるのか、それとも女将さんが苦労しているのか」

 ブルットというのは、この酒場のマスターの名前であり、しかしそうではない。
 遠い昔、大地を耕す鍬よりも宇宙を駆ける翼にこそ価値を見いだしていた若き日に、その名を使っていたことがあった。
 ブルットという名を持つ男は、宇宙にその名を馳せた、大海賊団の一員だった。
 海賊団。しかし今の海賊のように無法者の集まりというよりは、宇宙の荒くれ者といった意味合いが強い。昔はそうだったのだ。
 しかし、どのような美辞麗句で飾り付けようと、それは犯罪者の集団だ。到底お天道様に顔向けできるような過去ではない。
 だが、たとえ人から後ろ指をさされる脛に傷持つ身の上だったとして、彼はあの頃の自分を恥じたことは一度もない。もっとも輝かしい星を追いかけて、自分もその群れの一つとなったのだ。
 だからこそ、同じ流星の一つであった旧友との再会を、喜ばないはずがなかった。
 薄暗い店の中に、椅子の倒れる派手な音が響いた。

「ヤームル!ヤームルじゃねえか、生きてやがったのかよこの野郎!」
「それはこっちの台詞だ。まったく、年賀の挨拶の返しも寄越さないとは、それでも一国一城の主か?」
「あん?ああ、あのけったいな文のことか?なんだか小難しいことばっか書いてるから、読まずに捨てちまったい。そもそも連絡するならするで、恒星間通信なりなんなり、もっとすぱっとした方法があるじゃねえか。小便臭い小娘みたいに、まどろっこしく手紙なんか使わなくったってよう」
「ばかやろう。そのまどろっこしさが粋なんだろうが。まったく、我らが突撃隊長殿はいつまでたってもそこらへんの理解が不自由だな」
「はん、水先案内人のてめえがそんなだから、俺らの船団は、やれ奇人変人の集まりだ、やれ時代錯誤の船乗り連中だとか、同業者からして散々な言われようだったじゃねえか。おかげでこっちは大変だったんだぜ」
「誰よりもその呼ばれ方が大好きだった野郎が言っても少しも説得力がないぞ、『かぶきものブルット』」

 聞き絶えて久しかった昔の通り名を聞いて、だぶつきはじめた腹の肉を震わせながら、酒場のマスターは笑った。
 ヤームルは、あらためて懐かしき友の顔を見た。
 かつては精気に満ちて黒々としていた頭髪も、少し頼りない様子になっている。色街の女達を虜にした不敵な笑みも、無数の皺に埋め尽くされた赤ら顔の中に見いだすことは出来なかった。
 
「変わらないな、ブルット」
「ああ、そうだな、おめえと同じくらいには、俺も昔と変わってねえよヤームル」

 皮肉げに口元を歪めながら、酒場のマスターが言った。
 なるほど、つまりは自分も相当に老いているということかと、ヤームルは自慢の口髭をしごきながら思った。考えてみれば、この癖だって現役時代にはなかったもののはずである。

「で、店長殿。お邪魔なようなので外で待たせて頂きたいのだが、この店は何時に開くのですかな?」
「おう、すっかり忘れてた。今日はこの店の特別記念日でな、なんとたった今開店したところさ。お客さん、運が良いったらねえぜ」
「ほう、それはめでたい。ちなみにどんな記念日だね?」
「聞いて驚け。今日はな、しみったれた場末のマスターがくそったれの死に損ない爺と傷の舐め合いをするっていう、由緒正しい記念日なのさ」
「そういうものは厄日というのだと思うが、まぁいいさ。美味い酒が飲めるなら、それ以上のことは願うまいよ。ただ、それ故に美味い酒を頼むぞ」
「まかせとけ。今年も良い酒が出来たんだ。あいつもお前に飲ませたがってたぜ」

 そう言ってマスターはカウンターの奥に姿を消した。
 ヤームルは、カウンター席の一番端に腰掛けた。他に客がいるわけでもなかったが、自分には中央の席に座る資格、あるいは勇気が欠けていることを彼は知っていた。
 もう一度、店内を見回す。
 意外なことに、かなり広い店だった。昔、風の噂にこの男が所帯を持ち酒場のマスターをやっていると聞いたときは、カウンター席しかないような狭っくるしい店でさぞ頑固親父をやっているのだろうと予想していたのだ。片方は正解だったようだが、片方は間違いだったらしい。
 それに、センスも悪くない。席の配置もそうだし、店内を飾る装飾品も、高級品とまでは言えなくとも質は良い。それらが、華美と悪趣味のぎりぎりのラインを見極めて配置されている。
 おそらくは、彼の夫人のセンスなのだろう。少なくとも、自分の知るブルットという男に、こういう気の利いたところは欠片程度にしかなかったはずだ。
 ヤームルの口から感嘆の吐息が漏れ出していた。

「驚いたかい、俺がこんな店を持っているのがさ」

 よく磨かれたカウンターの上に、小さなグラスが二つ、置かれた。
 こんな店だから、例えばバカラのロックグラスでも出てくるのかと思ったが、ヤームルの目の前にあるのはどこにでも売られている安物のタンブラーであった。
 しかも、相当に使い古されている。飲み口のところが僅かに掛けているし、透明なはずのガラスが薄く曇ってしまっている。
 到底、客に出すグラスではない。
 しかし、ヤームルはそのグラスが何なのかを知っていたから、一言の抗議も入れなかった。

「懐かしいな。こんなところにまだ残っていたのか」
「ああ。もうこの一組で最後さ。何せ、船に乗っていたときのお前らときたら、酒を飲む度に賭け事はする喧嘩はする、踊る喚く歌い騒ぐ。夜が明けてみりゃあ、無事なグラスの方が珍しいってなもんだったからなぁ。最後に残るのは、こいつみたいな安グラスってわけだ」
「否定はしないが、その急先鋒だった男には言われたくないな。お前が一体いくつのコップを囓って使い物にならなくしたか、覚えているのかブルット?」
「そうだったかい?いやぁ、人間年は取りたくないもんだねぇ、すっかり忘れちまってたぜ」

 笑いながら、手慣れた手つきでグラスに酒を注いでゆく。
 タンブラーの縁に軽く盛り上がるまで琥珀色の液体が満ちたところで、ブルットは酒を注ぐのを止めた。
 美しい琥珀色だった。飲むまでもなく、香りを肺に入れるまでもなく極上の酒であることがわかる。
 乾杯はしないのが、船団の作法だった。グラスを打ち合わせて中身の交換などせずとも、毒を仕込むような卑怯者は一味に存在しない。それが理由だ。
 ヤームルは無遠慮にグラスを口元まで運んだ。表面張力は均衡を崩さず、一滴の雫も溢れることはなかった。

「カラ酒か。今年も良い出来だ」
「そりゃあそうさ。なにせ、シスの野郎が仕込んだ酒だからな、美味くねえはずがねえ」
「なるほど、その通りだな」

 それは、海賊団結成時メンバーの中で一番最初に船を下りた、仲間の名前だった。
 シスが海賊団を抜けると言ったとき、真っ先に反対したのはブルットだった。その豊かな声量と溢れ出んばかりの表現力でもって、仲間の変節を嘆き慰留を乞うた。ヤームルも、声を大にこそしなかったものの、内心ではブルットと同じ気持ちだった。
 シスは、優れた航海士であった。まだ感応頭脳も今ほど発達していなかったあの頃、船団の命運を一手に握っていたのは彼であったと言っても過言ではない。地表の天候などよりも遙かに読みにくく、そして荒れ狂う宇宙の天候を読み切る。自分達の船団が今どの宙域を飛んでいるのか、次の目的地までの航路はどれがもっとも早いのかを正確に算定する。ヤームルは、感応頭脳も含めたところで、シス以上の航海士を未だ見たことがない。
 
『う、奪うのがね、嫌になったんだよ。だ、だから、な、何かを作りたくなったんだ』

 ある日突然、シスは船を下りると言った。
 弱気な表情はいつもの彼のものだったが、一度言いだしたら、仲間の誰よりも頑固なのがこの男だった。
 元々、荒事に向いた男ではなかった。仲間内ではただ一人、宇宙物理学の博士号持ちであり、海賊にはちっとも似合わない白衣を引っかけた姿は新入り連中からは奇異の目で見られるのが常であったし、多くの場合は侮られたりもしていた。当然それは、彼の航海士としての腕前を確認するまでの、ごく短い時間でしかなかったのだが。
 少なくとも、その海賊団にとっての彼は、なくてはならない存在だったのだ。ヤームルもブルットも、自分達などよりも彼の方が、一味にとって必要な人材であると確信していた。
 だからこそ二人も、内心では安心していた。何故なら、彼らの頭領が、必ずシスを引き留めるはずだからだ。
 シスにとって、頭領は大恩ある人物である。宇宙物理学会を牛耳る大物教授に目をつけられ、世間からも学会からも完全に干されていたシスを拾い、彼の理論を実践できるなによりの場を与えたのが一味の頭領だったのだから。
 当然、頭領もシスを慰留するだろう。そしてシスも思いとどまり、全ては今までのままだ。
 そんな、確定した未来像のような確信は、しかし完全に裏切られる。
 頭領は、シスを慰留しようとはしなかった。
 そうか、と、一言だけ呟き、あとはシスに船を下りるため必要な手続を取るよう、また他の団員がそれを邪魔することがないよう固く言い渡し、それ以外は何も言わなかった。
 ブルットは、大いに憤慨した。これが、長年の苦楽を共にした仲間への仕打ちなのか。いくら本人の望みの叶うようにしたとはいえ、あまりに冷たすぎるのではないか。
 ヤームルも、秘密裏に頭領に掛け合い、シスへの慰留を試みるよう願い立てをしたりした。だが、頭領はその話題には一切耳を貸さなかった。
 そして、シスが船を下りた。
 あとは、まるで櫛の歯が欠けるようだった。
 勝手知ったる顔が、一人減り、二人減り、三人減り……。やがて、その海賊団は、この共和宇宙から姿を消したのだ。
 当時は、ヤームルもブルットも、頭領の判断を心苦く思った。口にこそ出さなかったが、もしもあの時、頭領がシスを引き留めてさえいれば、海賊団は解体しなかったのではないかと、そういう思いがあったからだ。
 しかし、今にして思えば、頭領は既に時代の趨勢を感じ取っていたのではないだろうか。海賊という単語に含まれる意味が、ただのごろつき連中と同じ意味に貶められる時代の訪れを感じて、彼は静かに旗を降ろしたのではないか。
 ヤームルは、最近はそう思うようになっていた。
 いつの間にか、グラスは空になっていた。

「俺も年老いたな」
「何だって?」

 ヤームルのグラスを酒で満たしながら、ブルットが問うた。

「今よりも、昔を楽しく感じられる。あの頃に帰りたいと願ってしまう。それは詰まるところ、俺が老いたということだろう」
「そうさなぁ。そうかも知れねえし、そうじゃあねえかも知れねえし」
「ふん、まるで酒場のマスターみたいな口調じゃないか、ブルット」
「そう聞こえたんなら重畳だ。何せこれでも、俺は一国一城の主なんだからな」

 懐かしい会話に口元の皺を増やしながら、ヤームルは再び杯を口へとやった。
 なんとも上品な酒だった。シスは、船乗り連中が好むような癖の強い酒はからっきしだったのを、ヤームルは思い出していた。

「そういえばシスの奴、最近はこの酒を送ってこなくなった。毎年毎年、こいつをちびちびやりながら、彼と彼の内儀の睦まじい様子に嫉妬するのが新年の決まり事だったんだがな」

 それは、シスが船団を下りてきっかり十年後から数年前まで、およそ三十年間続いた、季節の便りのようなものだった。
 最初に送られてきた包みの中には、ようやく納得のいく物が作れるようになったから是非飲んでほしい、自分のわがままのせいでみんなには迷惑をかけたと、彼らしい神経質そうな文字で便りがしたためられていた。
 いつしか便りはなくなり、代わりに写真が同封されるようになった。そこには、日に灼けて少し健康そうになったシスと、彼の歳からするとやや幼すぎるのではないかという風貌の彼の妻が映っていた。
 二人の間に子供が映り込むことはついになかったが、二人はとても幸せそうだった。

「シスは元気か」
「死んだよ」

 ブルットは、素っ気なく言った。
 ヤームルは、問い直したりはしなかった。その代わりに、眼光に怖いものを込めて、目の前の男を睨んだ。

「どうして死んだ」
「殺された」
「誰に殺された」
「憂国ヴェロニカ聖騎士団とかいう、ピエロみたいな連中だ」
「憂国ヴェロニカ聖騎士団?」

 ヤームルは問い返した。
 聞いたことのない名称だ。彼が以前――五十年以上も前に惑星ヴェロニカを訪れた時には、そんなもの、影も形も無かったはずである。
 もっともその時は、ヴェロニカ共和国という国家自体、存在していなかったのだが。

「なんだ、それは」
「去年、この星の大統領が替わったことは、知っているか」

 ヤームルは頷いた。
 詳しい経緯は知らないが、前任の大統領の任期満了に伴う選挙が行われ、完全な泡沫候補と思われていた新人が奇跡的に当選を果たしたという話だ。
 惑星ヴェロニカは連邦加盟国とはいえ、辺境惑星の一つにも数えられる星であるから、その程度の話を知っているだけでもある程度事情通と言えるだろう。
 ブルットは頷き、

「じゃあ、その大統領選挙の最右翼候補だった、マークス・レザロ元上院議員が、選挙の直前に出馬を取りやめた理由は?」
「そこまでは知らん」
「食肉疑惑さ。それも、ご丁寧なことに一家揃ってのな」

 食肉疑惑と聞いて、ヤームルはすぐに脳内で文字に変換することが出来なかった。
 ヤームルの実感として、肉を口にすることが大統領選挙の出馬取りやめなどとは結びつかなかったからだ。しかしこの星の特殊な事情を勘案すれば、確かにそれは致命的な悪印象を与え得る、一つの事件であることを理解した。
 
「発端は、大統領の長男であるチャールズ・レザロが、その学友ともどもある誘拐事件に巻きこまれたところから始まる。まぁその事件自体マークスの身から出た錆だっていう噂もあるが、そこらへんは置いておこう。未開発の惑星に10人近い子供が長期間置き去りにされたっていう前代未聞の誘拐事件だったわけだが、不思議なことに死者の一人も出なかった」
「食糧はたっぷりと置いていってやったのか。当然だな。人質の命を無闇に危険に晒すようじゃ、それは誘拐とは言えない」

 ブルットは首を横に振った。

「食糧は一切用意されていなかった」
「……本当か?」
「ああ。それどころか、雨風を凌げるような場所すらもない、完全な大自然の中に子供達は置き去りにされたらしい」
「それじゃあ、保って三日だ。それ以上は命に関わるぞ。誘拐と言うよりも、未必の故意による殺人未遂じゃないか」
「ああ、俺もそう表現した方が正しいと思う。しかし現に、少年達は一人も死ななかった。何人かの怪我人くらいは出たそうだが、一応は全員無事に親元に帰されたそうだ」

 ヤームルは半信半疑だった。
 インユェやメイフゥのような少年少女ならば別段、ごく普通の子供が何の準備もなく未開発惑星に取り残されてどうやって食物を採取するというのか。木の実は毒があるかも知れないし、狩猟の経験などあるはずもない。第一、道具自体がなかったはずだ。そんなものをご丁寧に用意してくれる犯人ならば、そもそも食糧を渡しておくだろう。
 もし仮にブルットの言っていることが事実ならば、おそらくメイフゥを上回るような狩りの名手がその子供達の中にいたのか、それとも偶々砂漠の中のオアシスを見つけるような幸運に恵まれたのか、いずれかだろうと思った。

「事件の詳細は俺も知ってるわけじゃねえ。しかし重要なのは、無事に救出された子供達の中に、ヴェロニカ教徒であるチャールズ・レザロが含まれていて、その親が次期大統領と目される上院議員だったってことだな」

 なるほど、それは日々スクープに飢えたマスコミ連中が、好餌と飛びつくわけである。
 二週間を超えるような長期間、食物無しで人が生きていけるはずがない。肉なり植物なりを口にしなければ命に関わる。
 当然、その子供達も何か栄養を摂取していたはずだ。おそらくは偶然食用の木の実を大量に発見したとかだと思うのだが……。
 子供達は、歓喜したに違いない。これで自分達は生き延びることが出来る、と。
 だがここで、残酷な問題が一つ持ち上がる。
 子供達の中に、ヴェロニカ教に帰依する少年が一人、含まれていたのだ。彼は肉食及び自生する植物の摂取を厳に禁じられている。幼い頃からの厳しい教育は、すでに刷り込みと呼ぶべき領域にまで達しており、彼は最初のうちはその木の実なりを口にすることを強く拒んだだろう。
 しかし、結果として彼は無事に救出されたのだ。ならば、何かを食べていない方がおかしい。

「そっとしておいてやればいいのに、病院まで押しかけたマスコミ連中が、医師から聞き出したらしい。チャールズ・レザロには動物性のタンパク質を数回にわたって摂取した形跡が見られ、衰弱はそれほどでもないってな。医師を責めるわけにはいかんだろう。なにせ、彼がヴェロニカ教徒だって知らなかったんだろうからな。仮に知っていたとしても、場合が場合だ。そういう時はお目こぼしくださるのが神様だろうって思うのが普通だろうぜ」

 しかしヴェロニカ教典には、緊急避難的な食物摂取は許されるという文字はどこにも書いていない。

「結果として、チャールズ・レザロの行動は強い非難の対象となった。一番つらいのは本人だろうがよ、親父も相当に焦ったと思うぜ。なにせ大統領選挙を控える大切な身だ。ほんの少しの汚名が当落に直結しかねない。方々に手を回してマスコミに圧力をかけたらしいが、時既に遅しさ。それでも諦めきれなかった野郎は、これもマスコミがスクープですっぱ抜いたんだが、結構小汚いことまでして息子の汚名を雪ごうとしたらしい。一緒にさらわれた子供の一人が無理矢理に息子の口に肉をねじ込んだんだとか、どう考えても無理のある屁理屈まで用意してな」
「結果は?」
「通るわけねえだろう、そんなもん。子供達が通っていた連邦大学の審議会でも、その少年はシロ。間接的に、チャールズが自分で肉を喰ったっていうお墨付きを与えてくれたわけだな。で、直後にマークスは立候補を取りやめて、上院議員も辞した。ま、引き際は心得てやがったのかも知れねえな」

 本当は他に諸事情が存在し、立候補の取りやめも議員辞職も、純粋な意味で言えばマークスの意志ではなかったのだが、それは全く公表されない事情である。
 結果だけを見るならば、ブルットの説明したところが、ヴェロニカ共和国における一連の事件の経過としておおむね正しいものだった。

「だが、事件はそれでは終わってくれなかったんだ」
「何があった」

 ブルットは痛ましそうに言った。

「マークス・レザロのお付きの料理人の一人がな、小金欲しさにマスコミに情報を売ったのさ。息子だけではなく、元上院議員も日常的に肉食行為を繰り返していた、自分は彼の私用宇宙船の中で何度も肉料理を彼に提供したってな。ぺらぺらと、ご丁寧に料理の写真や、美味そうにそれを食うマークスの写真も用意して、だ。多分、ご主人様がもう将来の大統領候補でも現上院議員でもなくなっちまったから、今の内に旨い汁を吸えるだけ吸っておこうってことだったんだろう」
「馬鹿な奴だ。そんなことをして、そいつ自身の今後の生活はどうするんだ?もう誰もそいつのことを信用しないだろうに」
「そんなことも分からない馬鹿だったのか、そこらへんのことを天秤にかけてもなお魅力的なほどの報酬をマスコミが用意したか……それは分からねえ。だが、とんでもない騒ぎにはなったぜ。息子の事件とは桁が違うわな。息子は非常事態にやむにやまれず戒律を破って可哀想ってところだが、親父は日常的に戒律そのものを無視して肉食を続けてたんだ。しかも、既に身を引いたとは言えヴェロニカ共和国の政界の大物だった人物が、だぜ。どっちの方に世間の非難が集中するかなんて言うまでもないだろう」

 ヤームルは少し考え込んだ。
 ヴェロニカ教の教えを一から理解しているわけではないヤームルには実感として分からないが、例えるならば、正当防衛で人を殺してしまった息子を理由として身を引いた政治家を調べてみれば、じつはその政治家が計画的な連続殺人鬼だったというところだろうか。
 なるほど、騒ぎにならないほうがおかしい。

「マークスは当時の上院下院両方の多数を占めていた与党政党の新進気鋭の若手だったわけだが、野党は一斉に噛み付いた。他の、マークスと付き合いのあった議員に食肉疑惑があるってな。国会の場で、公開による血液検査を要求したわけだ」
「与党はその要求を呑んだのか?」
「呑むわきゃねえだろうがよ。考えてもみろよ、マークスが本気でこっそり肉を喰いたがってたんなら、自分の宇宙船の中なんていう場所で食うか?俺なら、遠くの星に視察なりなんなりに行くふりをして、こっそりと、誰の目にも見つからないようにして食うね。っていうことは、マークスが肉を喰ってたのは、一部の人間には公然の秘密だったってわけだ。当然、そのご相伴に与ったことのある連中も多いと思うぜ」
「大騒ぎになりそうだ」
「なったなった、もう蜘蛛の子を散らすような大騒ぎだ。『私はヴェロニカの神にかけて肉を食べたことはありません』、この台詞が公共の電波に流れない日はなかったってくらいさ。しかも、そう言っていた政治家が次の日には食肉疑惑発覚で辞職したりしたんだからな、ただの大騒ぎなんてもんじゃない。星をひっくり返したような大騒ぎだ」

 ヤームルは思わず笑ってしまった。
 彼は権力というものに何の興味もなかったから、それに無様にしがみつく政治家連中の悪あがきが哀れに思えたのだ。第一、そんなに肉が喰いたければヴェロニカ教徒を止めればいいのだ。なにも嫌いな野菜を食べてまで神の慈悲に縋ることもあるまい。
 
「じゃあ、政権交代か」
「いや、そう上手くもいかない。与党の政治家連中に、それだけ肉食は浸透してたんだ。っていうことは……」
「なるほど、毛の色が変わっても鼠は鼠か」
「与党側もしたたかさ。自分達がいよいよ駄目かっていうときに、野党側の政治家に血液検査を要求したんだな。俺達を非難する資格が、そもそもお前達にあるのかと」
「当然、拒否する」
「そして、拒否するっていうことは認めてるのと同じことだ。要するに、同じ穴の狢だったのさ、全員な」

 ヤームルの目には、傲然と開き直る政治家連中が目に浮かぶようだった。
 
『確かに私は肉を口にしたことがある。しかしそれは外国の要人との会食の際、やむにやまれず摂取したものだ。それを食わなければ、会談の空気が険悪になり、最悪交渉は決裂していたかも知れない。私はヴェロニカの国益のために、地獄に落ちる決意で肉を喰ったのだ。それは非難を受けなければならないようなことなのか!?』

『私は肉など食べていない。血液検査を拒むのは、このような公開の場で食肉の疑惑をかけられるという恥辱そのものが耐え難いからだ。加えるならば、仮に検査を受けて反応がなかったとしても、野党諸兄は検査そのものに瑕疵があったと開き直るだろう。私はそういった無益なことに国会の議論の貴重な時間が割かれることが愚かだと確信している』

『百歩譲って私が肉を食べたとしよう。ならば、私は公人としての責任を取らざるを得ないだろうが、しかしそれよりも先に責任を取るべき人間が確かに存在する。私は、その人間を明らかにして責任を取らせることこそ、国民が私に期待する私の責任であると信じている。故に、今職を辞しては責任逃れとの誹りを免れまい。私は自身の職責を全うするため、今後もこの役職を退くつもりはない……』

 手を代え品を代え、そして言い訳を代えて、彼らが言いたいこと。
 それは『俺は政治家を辞めるつもりはないぞ!』、この一事に尽きる。国会開催期間中の不逮捕等、政治家という職に与えられる各種特権。高額な給与、袖の下、その他の収入。社会的な地位。周囲より寄せられる羨望の視線。それらを手放して野に下るなど、どう考えても馬鹿げている。
 だから彼らは醜く権力にしがみつくのだ。どうせ国民は愚かだ。喉元過ぎれば、すぐに熱さなど忘れるに決まっているのだから。

「国民の大多数はな、辟易としたのさ。連日連夜繰り広げられる、政治家共の保身のやり取りにな。そのうち、野党側も攻勢を控えるようになった。おおかた連中の頭同士で講和条約の一つでも結ばれたんだろう。もうこれ以上この問題の火を大きくすると、共倒れになりかねない。ここらで一つ手打ちということにしよう、ってな」
「ま、そこらが妥当な線だろう。事実、人間は忘れる生き物だからな。一年もすれば、ああ昔そんな事件もあったな程度には忘れてくれる」
「だが、悪いことに大統領選が直後に控えていた。この国の大統領選はいわゆる直接選挙だからな。国民の声ってやつがそのまま跳ね返ってくる。当然、争点の一つには政治家に対するヴェロニカ教義の徹底をどうするかっていうところも挙げられたんだが、なんともお粗末でな。与党側の候補も野党側の候補も、結局は信仰心の問題だから国が立ち入るところではないと、そもそも問題として重視しないっていう立ち位置だ。そうだろうな、じゃないとお仲間を断頭台に送ることになるんだから」
「正しいが、しかし日和見だな。そこはポーズだけでもいいから、風紀保持の徹底を図るとでも言っておけばいいものを。せっかく国民の支持を取り付けられる絶好の議題を避けて通るなど正気とは思えない」
「疲れてたのさ。国民もそうだが、おそらく政治家連中はそれ以上にな。もうこの話題には触れないでくれっていうのが当時の奴らの正直な心の声だったと思うぜ。だから、与野党含めて、既存の政治家連中は国民の支持を失った。その間隙を縫って当選したのが、我らが大統領アーロン・レイノルズだ」

 ブルットの口元が皮肉に歪んだのを、ヤームルは確かめた。
 アーロン・レイノルズ。確かこの場所に来るまでに何度か見た名前であり、顔である。
 神経質そうな細面に青く濁った瞳がぎょろりと浮いている、どこか商店の軒先にならんだ魚を思わせる、熱のない顔だった。

「やっこさん、元はヴェロニカ教の導師だったって言ってるが本当のところは分からねえ。ただ、熱心なヴェロニカ信者だっていうのは事実らしい。自分は生まれてから母親の乳も含めて一度も動物性タンパク質を取ったことがないっていうのが自慢らしいからな。当然、それなりに厳しい手段でもって政治家連中を取り締まることを公約に掲げた」
「ほう、どんな?」
「過去にさかのぼったところも含めて、程度の軽重を問わずヴェロニカ教義に反した者の無条件即時の公職追放。場合によっては惑星ヴェロニカからの追放。事実上、ヴェロニカ教を破門する処分だといっても間違いじゃねえだろうな。俺も信者だから分かるがよ、この星を追われてヴェロニカ教なんて続けられるもんじゃねえ」

 そういえばそうなのだった。
 目の前の、ヤームルの記憶している限りでは神とか仏とかから最も縁遠く感じられたこの男も、この星に根付くにあたり、ヴェロニカ教に帰依したのだった。
 珍しいことではない。苛烈な半生を送った荒くれ者が、自分の人生をようやく落ち着いて振り返れる年頃になって、突然神の教えに耳を傾けることは、ままある。
 自分の奪った命の数に恐れ戦いた者もいるだろう。あまりに荒んだ自分の人生に嫌気が差し、救いを乞う者もいるだろう。中には、ただ心の平穏を欲して神を求める者もいるだろう。
 果たしてブルットがどうしてヴェロニカの神に膝を折ったのか、それはヤームルの知るところではないし、知るべきところでもない。彼自身、そう確信していた。

「で、蓋を開けてみりゃあ二位以下に大差をつけて奴さんの圧勝だ。政治家連中の顔もさぞ真っ青になっただろうぜ。なにせこの国大統領には法案の提出権がある、無論それを議論するのは上下両院ってことなんだが、それでもこの問題が盛大に再燃することが決まったようなもんだからな。しかもアーロン・レイノルズは筋金入りのヴェロニカ教徒だ。鼻薬を嗅がすことも出来ない」
「どうしたんだ」
「公約通りの法案が真っ先に提出された。どう考えても当時の政治家どもに飲めるないようじゃない、徹底的なやつだ。当然、政治家連中は顔を真っ赤にして廃案にしたよ。こんな法案が通れば恐怖政治の始まりだってな」
「正しいことを言うじゃないか」

 なんだかんだいって政治家とは国民の代弁者だ。
 現時点で求心力を下げているとはいえ、無碍に扱っていいものではないし、そうするべきものでもない。
 ならば、どれほど重大な犯罪を犯したとしても、また戒律に背いたとしても、無条件即時にその身分を奪うなどあっていいはずがない。それは確かに恐怖政治の始まりだ。

「だが、その当時の俺達にはそれが分からなかった。あれだけの醜態を無様に晒してくれた政治家共が何を言っても、自分達を守るための詭弁にしか聞こえない。国民の大部分は、レイノルズの言ってることが正しいと思ったんだ」
「お前もか、ブルット」
「俺か?俺はそんなことは腹の底からどうでもいいと思ってたさ。俺が政治家どもに期待してるのは、税金から抜き取る金を出来るだけ控えめにしてもらって、その上で効率よく社会に再分配してもらうことさ。奴らが人を殺そうと肉を喰おうと、俺には全く関わり合いがない。そんなことは、それこそ神様に任せておくべき領域だと思うがね」

 ふん、とヤームルは鼻で笑い、目の前のグラスを空にした。
 ただ、先ほどよりは控えめなペースで、その芳醇な香りと味を楽しみながら、ではあったが。なにせ、もうこの酒は二度と造られることが無いのだ。

「もう一度、法案が提出され、同じように否決された。大統領には同じ法案の提出が、三度まで認められている。そして、それが全て否決された場合は下院の解散権を行使できるようになるんだ。同時に、下院は大統領の罷免をする権利が生まれる。そして、三回目の法案が否決されるに至って、大統領は下院を即時に解散した。下院もその報復措置として、大統領の罷免を決議した」
「どうなった?」
「どうもしないさ。そんな短期間で国民の意見が変わるはずもない。寧ろ大統領の地位を得ても何の変節もしなかったレイノルズを賞賛する声が増えたくらいだ。当時の与野党にも奴さんのシンパが相当いたからな、それらを引き抜き、新党を結成して選挙に挑んだ」
「分かりやすいくらいに分かりやすい、急進派と保守派の戦いだ」
「保守派はナチズムの再来を防げとキャンペーンを張って戦ったが、その時に耳を貸してくれる国民はほとんどいなかった。結果として急進派の大勝利。大統領と下院のほとんどを新党、ヴェロニカ愛国党が占めるに至り、上院も抵抗を諦めてこの法案は通過した」

 ひゅう、とヤームルの口笛が人気の無い店内に響いた。
 なかなか鮮やかな手並みだ。いくら国民の支持があったとはいえ、これほどあっさりと政権を手中にするのは容易いことではない。既得権益の保持者からは各種の妨害もあるだろうし、マスコミを自分の味方にするための手管も必要になる。人を集めれば、その意見の調整も難しい。
 アーロン・レイノルズという男は、相当に政治家としての能力が高かったのか。それとも、余程に能力の高い右腕でもいたのか、それは分からないが……。

「即座に、上下両院から数人の政治家が生贄に選ばれて、断頭台に送られたぜ。あらゆる政治的な権利を奪われて、この星から追放されることが決まった」
「その連中は大人しく従ったのか?」
「いや、裁判所に権利の救済を申し立てた。こんな非道がまかり通っていいはずがないってな」
「俺でもそうするだろうな。政治的に完敗したならば、最後は司法に助けを乞うしかない」
「だがしばらくすると、奴らは軒並み訴えを取り下げて、大人しくこの星から出て行ったのさ」

 ヤームルは掲げかけたグラスを戻し、ブルットのほうを見た。
 ブルットの目が、本日最大に物騒なものになっていた。

「どうして?」
「詳しくは知らねえ。多分、誰に聞いても分からねえ。だが、俺は、政治家ども自身か、それとも家族連中に、何らかの脅迫があったんじゃないかと思ってる。もしくは、もっと直接的に痛い目に遭わされたかも知れねえ」
「なるほど。それをやったのが――」
「間違いなく、あのピエロ共だ。あれは元々、レイノルズが大統領に立候補した直後に、その思想に共感した阿呆のガキどもが結成したもんなんだが、最近は裏から政権の援助も得ているっていう噂だし、警察も取り締まりは遠慮してやがるっていう話だ。それに第一、市民からの人気は悪くないんだ、おかしなことにな」
「どうしてだ?自分達にも累を及ぼしかねない、危険な連中なんだろう?」
「自分達以上に、政治家や官僚、医師やマスコミみたいな、もともとの社会的身分が高くて裏ではやりたい放題だったっていう連中をまず痛い目に遭わせるからさ。それにピエロ共もある程度弁えていて、完全な一般市民はほとんど相手にしない。相手にするとしたら、俺達みたいに大きな声では自分の職業を公言できないネズミか、もしくはこの星を訪れる旅行者みたいにヴェロニカ教徒じゃない連中、それを相手に商売をする、奴らに言わせれば背教者たち。要するに、この星で声高に自分の権利を主張することに何らかの枷のある人間をターゲットに絞って、今はそいつらのほうがやりたい放題さ」

 にわかには信じがたいことであった。
 しかし、目の前の男が嘘を吐いているとは到底思えないし、またそのことによって何らかの利益を得られるとは到底思えない。
 ということは、事実なのだろう。
 これが、曲がりなりにも共和連邦に加盟した一つの国家に起きている事態だとは。
 過去に惑星ヴェロニカに――というよりは旧ペレストロス共和国に強い関わりを持つ身だったヤームルも、忸怩たる思いだった。
 
「殴る蹴るの暴力沙汰は日常茶飯事、喜捨に名を借りた恐喝強請、器物損壊に火付け、果ては旅行者の女を集団で襲って、思うさまに愉しんだ後で他の星へと売り飛ばす。やりたい放題にも程があるぜ」
「そこらのヤクザ者でもそこまでしないぞ。そんなことをしておいて、国際問題にならないのか。そんな卑劣漢どもを放置すること自体が十分以上に連邦憲章に抵触していると思うのだが」
「さぁな。そこまでは俺じゃあわからねえよ。ただし、ヴェロニカは国家だ。国家が国家にいちゃもんをつけるには、相当に色々な制約があるってのは俺でも知ってるぜ。多分そこらへんでまごついてるんじゃねえか。ま、今のままいけばヴェロニカが連邦から除名されるのもそう遠い日じゃないとは思うがね」
「ヴェロニカも、連邦加盟の時はあれだけ必死だったのに、もはやそれも惜しくなくなったのか……それとも、他に思惑でもあるのか……」

 ヤームルには、分からない。
 確かに、ヴェロニカには武器がある。他の国を、ひょっとしたら連邦そのものを相手取ることも出来るかも知れない武器だ。しかしそれは武器であると同時にとんでもない火薬庫であり、一度飛び火すればこの星の全てを焼き尽くすまでその猛火を収めることはないだろう。
 だからこそ、当時のペレストロス共和国政府は、海賊くんだりに膝を折ってまで連邦加盟を切望したのであり、それは全く間違いではなかったとヤームルは思っている。
 その武器のことを、そしてその経緯を、現ヴェロニカ政府は知っているのだろうか。知らないはずがない。あれは、この星の上層部には公然の秘密のはずだからだ。
 それとも、そんなことすらも忘れてしまったのか。自分達への恩義を、忘れること自体を忘れてしまったように。
 あり得ないことではないだけに、ヤームルの舌を灼くアルコールはいつも以上に苦かった。

「なんだ、ヤームル。お前、何か知っているのか」

 ブルットは、むしろ愉しげにヤームルに尋ねた。剛毅なわりに酒の弱いこの男は、既に酔いはじめているのかも知れなかった。

「ああ、色々と知っている。しかし、これは俺と頭領が墓まで持っていくと決めて秘密だ。悪いが、お前にも話せない」
「そうか、ならばいいさ。精々口を固くしばった死体になりやがれ」

 ブルットは豪快に笑った。
 気分がよかった。
 目の前の仲間は、知らないとは言わなかったのだ。知っていると正直に言った上で、話せないと言ってくれた。自分に許された範囲では全てを正直に話してくれた。それが嬉しかった。
 
「では、シスが殺されたのは、やつがヴェロニカ教徒ではなかったからか」
「厳密な意味で言えば、違う。シスの野郎が殺されたのは、この星に自生する、野生の植物を勝手に取ったからさ」
「この星に自生する、植物だと?まさか、あの酒の原料のことじゃあないだろうな?」
「そのまさかさ。シスは、野生のカラを採取していた。人の手で育てたカラだけじゃあ、どうしてもこの味が出ないって言ってな。この星の町外れに行けば、どこでだって馬鹿みたいに生えてるやつを、ほんの少しだけ取っていたところを、ズドンだ」

 ヤームルは、耳を疑った。

「馬鹿な。カラだぞ。他ならともかく、いくら野生のものとはいえ、カラを採取することが何故罪になる」
「ヤームル。お前さんは知らなかったのか。今やヴェロニカ教じゃあ、カラも含めて、自生する全ての動植物を口にすること自体、重大な戒律違反なんだ。やつらの口から言わせれば、十分以上に死に値する、鬼畜にも劣る所行なんだとさ」
「……いつ、誰がそんなことを言い出したんだ」
「さぁ?教典ってのは、いつだってお偉方様の好き勝手に読み解けるもんだからね。俺っちみたいな下っ端信徒には、そんなことは分かりゃしねえよ」
「……シスは、そのことを知っていたのか」
「知っていた。知っていて、しかしこの酒は俺達が何より楽しみにしているからと、密かに採取を続けていたんだ」

 ヤームルは、言葉も無かった。
 確かにこの酒は、海賊団の全ての笑顔を思い出させてくれる、ヤームルの何より好きな酒だった。これがなければ、ヤームルの記憶の内から、更に幾人かの顔と声が失われていたかも知れない。
 だから、ヤームルはこの酒が届くのを楽しみにしていたし、届かなくなってからは言いようのない寂寥を味わってもいたのだ。
 その酒が、友の命を奪ったのだ。
 真っ赤に燃える形容し難い熱が、ヤームルの胸中を焼いていた。それは決して、この優しい酒の酒精の燃える熱などではなかった。

「なぁ、ヤームルよう、俺を責めるかい?」

 気がつけば、目の前の男は、海賊団の突撃隊長だった男は、場末の酒場のマスターは、赤ら顔で泣いていた。
 この男は、泣き上戸なのだ。普段の勇敢な、それとも粗暴な性格から考えるとどうにも似合わないが、そうなのだ。
 昔は、酒の席が設けられると必ず泣いていた。自分が殺した商売敵の家族が不憫だと泣き、自室でこっそりと飼っていた子犬が死んだと泣き、友の結婚が嬉しいと泣いた。
 とにかく、よく泣く男であった。厳つい顔をくしゃくしゃに歪ませて泣いた。
 その度に、仲間は笑った。お前が泣くなと笑った。
 ケンカが起きた。泣いて何が悪いとブルットは泣きながら殴り、お前が泣くと気持ちが悪いんだと仲間が笑いながら殴った。
 
「シスの野郎の憎い仇がすぐ傍にいるのに、俺はこんなところでくたびれたオヤジをやってるのさ。あいつを殺したかもしれねえ野郎が酒を飲みに来ても、俺はへいこら酒をこしらえて持って行くのさ。そうしないと、俺や女房やガキ共の食い扶持が稼げないからな。だから、俺はへいこらするんだ。にっこり、卑屈な笑顔を作ってよ。心の中でこんちくしょうと思いながら、へいこらするんだ。お前と一緒に宇宙に生きてた頃は、生きる価値がないと笑ってた生き方を、俺はしてるのさ。どうだ、可笑しいだろう。滑稽だろう。情けねえだろう」

 ヤームルは、黙ってグラスを傾けた。
 氷も入れない生の酒が、極上なはずのその酒が、不思議と水くさく、苦く感じられた。
 ヤームルにも、妻がいた。子がいた。
 そして、それは全て失われた。ヤームルの責任だ。少なくともヤームルは、自身がずっと彼らの傍にいれば、悲劇は防げたのだと確信している。
 ブルットの生き方を笑うことなど、到底出来なかった。暴発するのは簡単だ。くたびれた拳銃だって出来る。それに比べて、全てを我慢し、胸の奥に仕舞い込み、日々を生きることの難しさ。暴発した拳銃である自分に、どうしてブルットを責めることが出来るだろう。
 だが、ヤームルは何も言わなかった。ブルットが、許しを欲しているとは思わなかったからだ。許しを与えるのは、全て神の仕事だ。高いお布施で生きているのだから、それくらいの仕事はしてもらわないと困る。そして自分はお布施など貰ったこともない。
 ブルットは、自身を責めるための刃としてヤームルを欲しているのだろう。それが、誰よりも自身を傷つけたことのあるヤームルには分かる。
 しかし、ヤームルには傷ついた友を、この上に傷つける言葉の持ち合わせがない。
 だから、黙って酒を飲んだ。
 じっくりと飲んだ。グラスが空けば、手酌で飲んだ。つまみは、栽培したカラを軽く炒り、塩を振ったものだった。
 気がつけば、ブルットは眠っていた。カウンターにもたれ掛かり、涙で手の甲を濡らして。
 ヤームルは、その背にそっと上着を掛ける。
 そして、立ち上がろうとしたとき。

「やるっきゃねえよなあ」

 背後から、声が聞こえた。
 振り返ると、そこには妙齢の女性に見える少女と、少女が立っていた。
 二人とも、ヤームルの知った顔であった。

「お嬢様、いらしていたのですか」
「この店で待ち合わせをするって言ったのは、ヤームル、お前だぜ」
「しかし、外には準備中の看板が出ていたでしょうに」
「ならお前はなんでここにいるんだよ」

 ヤームルは苦笑した。返す言葉がない。

「仲間の一人を殺されてさ。仲間の一人を泣かされてさ。それでも黙ってるなんて、そんなケチくせえことは言わねえよなぁ、ヤームル」

 ヤームルは無言である。

「殺された仲間の無念はさ。泣かされた仲間の無念はさ。誰かが晴らさねえといけねえよな」
「その通りです、お嬢様」
「出来れば、仲間がいいな。殺された仲間の仲間がさ、泣かされた仲間の仲間がさ、その無念を晴らすんだぜ。それでこそ男前ってもんだぜヤームル。義を見てせざるは勇なきなりだぜヤームル。普段からインユェに偉そうに言ってるお前さんが、まさかお前さんがそんなじゃねえよな、ヤームルよう」
「ええ、私は卑劣漢ではありません、お嬢様」

 楽しげに牙を剥き出しながら話すメイフゥと、楽しげに口髭をしごきながら話すヤームルを等分にウォルは見守った。
 ウォルの見守る先で、ヤームルはにこやかに言った。

「この星を牛耳ったつもりのひよこ共に、旧世代の海賊の戦いというものを一手ご指南つかまつるといたしましょう。いや、久方ぶりに楽しい。この老体にも火が入ろうというものですな」
「格好良いぜ。惚れそうだぜ。それでこそヤームルだぜ、ヤームル」
「しかしこれは私の戦です、お嬢様。お嬢様には差し控えて頂きたいのですがな」
「それは聞けねえな。なにせあたしは、その憂国なんとやらのカス共と、既に一戦やらかして来ちまったんだ」

 気がつけば、血塗れの紬を着たメイフゥである。
 ヤームルは全てを察して、重たい溜息を吐き出した。これで、自分にはメイフゥをお説教する資格が失われてしまったことに、彼も気がついたのだった。

「では、共に参るといたしましょう、メイフゥ」
「ああ、ヤームル。お嬢様なんて言ったら蹴っ飛ばすぜ」
「それはぞっとしませんな」

 メイフゥはくるりと視線を翻し、そしてウォルを見た。
 その目が何を言おうとしているか、ウォルには明らかだった。

「さて、ウォルよ。お前さんも、時間が出来たんだろう?なら、遊んでいくがいいさ」

 確かに、時間が出来てしまった。
 ヴァレンタイン邸に電話しても、連邦大学に電話しても、リィはおろか、シェラもルウも、そしてヴォルフもいない。聞けば、彼らは惑星ヴェロニカに、この星に向かっているのだという。自分がここにいることを知っているのは明らかだ。
 どの船で移動しているかの判別が出来ない以上、彼らに直接連絡するのは不可能だ。今は待つしかない。
 ならば、彼らが到着するまでの間、如何するか。
 インユェ達には恩義がある。自分の命を助けて貰ったのだ。そして、ウォルも一度、自身の復讐を助けられたことがあるのだ。であれば立場を違えた彼女が、見て見ぬふりを出来るはずもない。
 ウォルの答えは、最初から決まっていた。



「確かに俺は言った。助太刀すると、言った」
 
 薄汚く、狭苦しい部屋のなかに、少女の身体から立ち昇る陽炎の如き殺気が充満していた。
 古びた板の間の上に行儀悪く胡座をかき、腕を組んで、唸り声を上げ続けている。
 元々が美しい少女だが、今はその眉間に刻まれた深い皺から、何とも不吉な形相になってしまっている。
 どうしても承伏しがたい。
 かといって、無碍に断ることも出来ない。
 二律背反の命題が、少女を責め苛む。
 しかしその少女はただの少女ではない。
 ここより遙か遠く離れた時と場所、デルフィニアの地において獅子王と讃えられ、生きた伝説とまで謳われた英雄の中の英雄である。
 ならばこそ、彼女の辞書に敗北の二文字はない。如何なる苦境も乗り越えてきた、自負と実績がある。
 だが、今彼女の前にいるのは、紛れもない強敵だった。
 タンガの狂った天才とも、バラストの古狸とも方向性の違う、最強の敵。ひょっとしたら、怒りに我を忘れた王妃よりも、更に難物。
 少女の中に宿る、男としての――覇王としての誇りを粉々に砕く、魔物。
 知らず、ぽたりぽたりと、鏡を睨んだガマのような汗が、少女の顎先から滴り落ちた。
 少女は、王として生き抜いた前世の記憶を頼りに、何とか自分の生還する方策がないものかと頭を悩まし、知恵という知恵を絞りに絞って――その度に深い絶望を味わった。
 そして最後に、ぽつりと、石をこぼすように呟いた。

「しかし、しかし、これを……これを着ろというのか……」
 
 少女の、まるで親の敵を睨みつけるような視線の先には、膝の上にちょこんと置かれた布きれがある。
 震える指先で摘んで、おそるおそる持ち上げてみる。
 少女自身の感覚からすれば、奇抜な、いや、奇抜に過ぎる衣装だった。
 色は、赤い。血潮の、そして情熱の色だ。
 てかてかと、真っ赤なエナメル質の素材が光を跳ね返し、まるで濡れたように輝いている。
 もう片方の指で摘んで、その布きれを広げてみる。
 小さい。想像以上に面積が小さい。
 そもそも、これは服と呼ぶべきものなのだろうか?
 服ならば、まず防寒性があるべきだ。そのためには、全身を隈無く覆う布があるべきだ。
 なのに、この服ともいえない衣装には、胸から上を覆うべき部分は一切存在しない。これを着れば、自然と胸から上は衆目に晒されることになるのだ。この服で、一体どうすれば冬の寒気を耐え凌ぐことが出来るだろう。
 そして、女性としてはどうしても衆目に晒すことの出来ない乳房の部位には、流石に控えめながらに小さく膨らんだ覆いが二つあり、そこに何を収めるべきかを自己主張している。しかしそれすらも何とも頼りない有様で、他の部分は袖を通せばピチピチになるくらいに造りが小さいのに、ここだけはどうにもブカブカだ。横からひょいと覗けば色々な部分が見えてしまうのではないかと疑わざるを得ない。
 ではブラジャーの類でもつければいいかといえば、背中の部分の布が尻の少し上辺りまで大きく抉れており、到底その手の下着は着けられそうにない。
 尻のところには、リンゴほどの大きさの白い塊。どうやら尻尾らしいのだが、そんなものが服としての性能を発揮するうえで何の役に立つのか。
 最後に、まるで剣の切っ先のように尖った、股間部分の切れ込み具合。これは、本当に隠すつもりがあるのだろうか。いくら下にタイツを履くとはいえ、それだけで隠せるわけでもなし、ならば最後の砦がこの衣装ということになるはずだが、それも甚だ心許ない。
 というか、食い込む。この角度は、間違いなく食い込む。
 尻にだって食い込むし、その反対側にだって絶対に食い込むに違いない。男だったら、間違いなくはみ出ている。
 バニースーツ。
 当然、もこもことしたファーで縁取られた兎耳カチューシャも、まるで首輪のような黒チョーカーも、網タイツもハイヒールも完備である。
 ウォルは、この不可思議装束一式を身に纏った自分のことに思いを馳せて、暗澹たる溜息を盛大に吐き出した。
 そして、この服を最初に考えついた男(間違いなく男だとウォルは確信している!)に対して、理不尽な怒りが込み上げてくるのを感じた。

 ――一体、どこのどいつがこんなアホらしい服を考えついたのだ!傍迷惑な!

 つくづく、世の男というものは碌な事を考えないと、元・男、しかも国王であったウォルが確信するに足る、なんとも扇情的な――はっきりといえば、下品で馬鹿馬鹿しい衣装であった。

「……シッサスの酒場の踊り子たちだって、もう少し服らしい服を着ていたと思うのだが……」

 遠い昔、悪童のような顔をした己の従弟に連れられて、シッサスの外れにある踊り子の劇場に行ったときのことを、ウォルは思い出していた。
 あのとき、汗に濡れた薄っぺらな衣装を纏って、恍惚とした表情で踊っていた女達。中には年端もいかない少女もいた。
 彼女達は一様に、男の欲望を煽るような、媚びるような表情で踊り狂い、最後には自分達を買った客と共に、劇場の二階へと消えていった。そこで何が行われたのかなど、言うまでもないことだ。
 別に、彼女達を蔑むつもりはない。社会の機能の一つとして、男達の欲望をガス抜きする存在は必要不可欠なものだ。過ぎれば風紀の乱れを呼ぶが、適度であれば寧ろ社会の潤滑剤になり得る。酒や煙草と同じものだ。
 だが、それとこれとは話が別だ。まさか自分がその一員となるなどと、一体どこの男が考えるだろう。
 果たして何度目か知れない、猫のような唸り声を発して(前の体であれば獅子のような唸り声だったはずだ)ウォルは悩みに悩んだ。
 そして、再び呟いた。
 
「……この服を着るのは、百歩譲って認めるとしよう。気に食わない男どもの酌をするのも、我慢する。しかし、しかし――」

 その先が無いと、どうして言い切れるだろう。
 まさか、自分が酒で酔い潰れるとは思わない。
 しかし、それ以外の危険は?
 ウォルは、自分がリィほどに薬物に対して敏感ではないことを理解している。
 ならば、自分の飲み物に、誰かがさっと薬物を入れれば――。
 そして前後不覚になった自分は宿屋の二階に連れ込まれ、服を脱がされ、オーロン王やボーシェンク公のような脂ぎった中年男性の慰み者に――。
 ぞぞぞ、と、ウォルの背中を悪寒が貫いた。

「だだだ駄目だ駄目だ駄目だ!冗談では無いぞ!」

 想像しただけで、全身の鳥肌という鳥肌が一斉に膨れあがった。髪の毛までがブワリと膨らみ、まるで緊張した猫のような有様だ。
 真っ青に青ざめたウォルは、腕で肩をかき抱き、黄金の毛並みをした狼のことを思い浮かべて、ようやく人心地ついた。
 そもそも、黄金の狼――自分が夫と定めたリィにだって、未だ身体を預ける気には到底なれないウォルである。それが、見知らぬ他人の、しかも男に抱かれるなど、正しく悪夢としか言い様がない。
 ならば――。

「――断るか」

 それが最も簡単で安全な気がする。そして彼らに別れを告げ、この星でゆっくりと彼らの到着を待つ。遠からず彼らと合流した自分は、意気揚々とこの星から離れ、メイフゥ達とも二度と顔を合わせることはない。
 普通の人間ならばそうするだろう。
 だが、ウォルはやはり難しい顔で、首を横に振った。

「……駄目だ。受けた恩は必ず返す、それが男としての、いや、俺が俺であるための最低限の礼儀だ」

 とすると、今のウォルに残された選択肢はただ一つ、目の前の衣装を纏って夜の街で働くことだけである。
 しかしそれはやはり――。
 際限のない懊悩に取り憑かれていたウォルに耳に、野放図な、それとも豪快な女性の声が飛び込んできた。

「なんだぁ、ウォル。お前、まぁだつまらねえことをグチグチ悩んでやがんのか?」

 ようやく顔を上げたウォル、彼女の視線の先には、開け放たれた扉と、そこに佇む女性がいた。
 リィとは違う、少しくすんだような、腰まで届く金色の直毛。
 褐色に灼けた肌と、逞しく引き締まった身体。
 端正な顔だちの中で、ぽってりと色っぽい厚めの唇が目を引く。
 今、そこには男を誘うように鮮烈な紅が引かれている。
 そして、獲物を射殺す鷹のように鋭い視線は、今や嗜虐に充ち満ちている。
 ウォルは、その女性のことを知っていた。無論、その名前も。
 
「……メイフゥどの……」
「いいか、ウォル。こいつは武器だ。あたしら女が、馬鹿な男共をたぶらかしてその財布の中身を差し出させる、金と身体を天秤に賭けたいくさの武器なんだよ」

 そう誇り高く言い切ったメイフゥは、既にバニースーツに身を包んでいる。
 硬質な、針金を思わせるピンとした金髪の根元から、如何にも場違いな白い耳が突き出し、首には自分が男の所有物であることを示す首輪のような黒いチョーカー。その、世の男性の理想を体現したように豊満な身体を小さな布きれで包み、しかしほんの少しだって恥ずかしがる素振りを見せない。
 まるで、戦装束に身を包んだ歴戦の戦士のように、そこに佇んでいた。
 背を柱に預け、腕を組み、斜に構えた視線でウォルを射貫きながら、佇んでいた。
 そんな風貌にも関わらず、メイフゥは実年齢はウォルの宿った少女のそれと大して離れていない。見た目は、雌虎と子栗鼠ほども異なるというのに、だ。
 その雌虎が、重々しく言った。
 
「戦いってやつは、いつだってそうだ。間抜けな奴から死んでいく。この場合、間抜けな奴から男に食われていくのさ。なぁ、ウォル。お前は馬鹿じゃねえだろう?なら、精一杯に媚びを売って、男共の鼻の下を伸ばしてやりゃあいい。あいつら、こっちが少し気のある素振りを見せてやりゃあ、面白いくらいに金を吐き出すぜ。いっぺんやってみりゃあ、あの感覚はやみつきだ」

 その瞳は雄壮。
 その体躯は歴戦の勇士のそれ。
 間違いない、彼女は、戦士としての魂を身に宿している。
 
「だからウォル、お前も来い。あたしが、お前を一人前の戦士に仕込んでやる――!」
「……メイフゥどの!」
「行くぞ、男と女の戦場へ――!」

 そして、ウォルは、女戦士の差し出した手を――!

「全身全霊でお断りするっ!」

 思いっきりはたき落としたのだった。
 ぺちんと、可愛らしい音が盛大に鳴り響いた。

「ってえな!ウォル!てめぇ、今更何言ってやがる!敵前逃亡は死刑、古今東西全ての軍隊の常識だぞ!」
「やはり駄目だ!何と言われようと無理なものは無理だ!誰がこんな服着てられるか!確かに卿らには深い恩義があるが、出来ることと出来んことがある!そもそも、こんな服を着ることとヤームル殿の戦いと、どう関わるというのだ!」

 ウォルは、手にしていたバニースーツを、やはり全身全霊の力で床に叩き付けた。

「帰る!俺は俺の家に、今すぐ帰るぞ!」
「バカヤロウ!どんな戦いだって、まずは情報戦だ!酒に酔わせた馬鹿な男連中に、しなを作って情報を引きずり出す!別に難しいことじゃねえだろうが!この服着て、男と一緒に酒を飲んで、ちょっと乳を揉ませたり尻を撫で回させてやるだけのことが、どうして出来ねえってんだ!」
「どうしてもだ!十分に許容の範囲外だ!」

 女性相手にここまで声を荒げる辺り、ウォルも平静ではない。対するメイフゥは、わりといつも通りである。
 二人が怒鳴り合う有様は、虎と栗鼠が唸り声を上げて向かい合っているような、どうにも緊張感の無い様子だったが、当人達は真剣だ。
 ひとしきり怒鳴りあった二人は、激しく肩で呼吸しながら睨み合った。

「……おい、ウォル。てめえ、どうしても着ねえってんだな……?」
「……ああ、すまんメイフゥどの。卿らより受けた恩義は、いずれ返させていただくが、それは今ではないようだ」
「……その言葉を、あたしに信じろってのか?文無しのお前の言葉を信じろと?」
「……それでも、だ。俺にも譲れないものがある」

 二人の会話に歩み寄りの妥協点は見つからない。
 じりじりと、焼け付くような視殺戦は、しかし。
 メイフゥが、にやりと笑い。

「そっか。ウォル、無理を言って済まなかったな。あたしも大人げなかったよ」

 ふっと、肩の力を抜く。
 つられて、ウォルも肩の力を――。

「分かってくれたか、メイフゥどの」
「こんなこと、口で分からすのがどだい無理だったんだ。一度着てみりゃあ、なんてこたぁないのがよく分かる」
「……はいっ?」

 その刹那、ウォルの視界で、メイフゥの巨体が大きくぶれた。
 次に、何か、大きな力が自分を吹っ飛ばしたのだと知る。
 どさりと、背中から床に倒れる。
 メイフゥの、素晴らしい早さのタックルだった。
 ウォルは最初、自分が何をされているのか分からなかった。それほどに、メイフゥのタックルは速く、美しかったのだ。
 動き始めた瞬間には、ウォルの身体に触れていた。
 ウォルの身体に触れた瞬間には、既に押し倒していた。
 押し倒した瞬間には、既に馬乗りになっていた。
 一連の動作が、流れるように無駄がない。魔法のようなタックルだ。それは、メイフゥが自分の弟をいじめるために習得した珠玉の技なのだが、ウォルが知るよしもない。
 後頭部を板張りの床にぶつけて、軽い脳震盪を起こしていたウォルは、いつの間にか自分が天井を見上げており、身体の上に誰かがのし掛かっていることを認識する。
 次に、自分と電灯の間に、肉食獣の笑みを浮かべた女性の顔が浮かび上がり――。

「さぁて、ウォルちゃぁん。たぁのしいたのしい、お人ぎょ遊びの時間だぜぇ。可愛い可愛いお服に、お着替えしましょうねぇ!」

 ウォル用に仕立てられたバニースーツ片手に、メイフゥは思い切り舌舐めずりをした。
 まるきり、か弱い女性に襲いかかる不埒な男、そのままの有様で。
 見上げるウォルは、心底この女性を恐怖した。
 そして、叫んだ。
 手足をばたつかせながら、力一杯、腹の底から叫んだ。

「やめろ、変態、痴漢、変質者、性犯罪者、女ナジェック――!!!」
「暴れるんじゃねえ!うぶなねんねじゃあるまいし、黙って天井の染みの数でも数えてやがれ!あとあたしは痴漢じゃねえ!痴女だ!」
「堂々と言えたことかー!」

 ウォルという少女が、初めて他人の手で裸にひん剥かれた瞬間だった。
 その相手が男ではなく同年代の少女であったことは、ウォルにとって幸か不幸か、それは神のみぞ知ることである。 



[6349] 幕間:Who killed Cock Robin
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2010/01/01 21:17
 その部屋を、どう表現したらいいだろうか。
 まず、狭い部屋だった。
 かたちは正方形、一辺は五メートルをどれだけ超えているか。
 天井も低く、自分の身長に自信のある人間であれば、中腰にならなければ頭をぶつけてしまう程度の高さだ。
 中にいるのは両手の指でお釣りが来るほどの人数でしかなかったが、それでも若干、いや、かなり息苦しさを感じてしまう部屋である。到底、紳士淑女の社交の場として相応しいとは思えない。事実、中に集まっている人間も、ごく一握りを除けば紳士と評するには抵抗のある、陰の濃い顔が並んでいた。
 次に、臭う部屋だった。
 生き物の腐敗した臭いではない。糞便の臭いでもないし、体臭でもない。
 もとは香の匂いらしかった。本来は精神を落ち着ける清涼な香りのはずのそれが、何年も炊き込める内に部屋そのものに染み付き、また部屋の主が変わる事に香の趣味も変わるものだから幾重にも重なり、形容し難い悪臭を放つようになっている。慣れれば違ってくるのかもしれないが、初めてこの部屋に入る人間には吐き気を催す臭気に感じてしまう。
 客人の幾人かは、出来るだけ目立たないように配慮しつつも、ハンカチや服の袖などで鼻を覆う動作を繰り返していた。また、なにがしかの言い訳を作って部屋から出ては、廊下で深呼吸を繰り返したりした。
 最後に、黒い部屋であった。
 壁紙や家具の配色の問題ではない。そもそも、色彩の問題ではない。
 それは、空気の色であった。
 もう少し限定していえばそれは吐息の色であり、眼光の色であり、体温の色であった。
 最も突き詰めれば、この部屋にいる人間の思考の色であった。
 毒々しいとか、禍々しいとか、そういう意味ではない。黒という色の持つ、最も根源的な意味合いで、彼らの思考は染め上げられていた。
 もう、他のどんな色にも染まらない、という意味だ。
 それが、彼らの話し言葉の端々から、澱みながらも揺るぐことのない眼光から、狂熱に満ちた心音から、彼らの存在そのものから部屋中に発散されている。だから、その部屋は黒いのだ。
 狭く、臭く、黒い部屋。
 板張りの床にいくつかの座布団が置かれ、その上に幾人かの人間が腰掛けている。
 中央には不思議な幾何学模様を大きく編み込んだ仰々しい織物が置かれており、中央に置かれた古めかしい香炉からは赤紫がかった煙が立ち上っている。今のこの部屋の主の趣味らしいのだが、どう考えても心地良い香りではない。
 そこをぐるりと取り囲む形で、全員が車座になっているのだ。
 自然、どこへ視線を寄越そうと、正面あるいは横手に座る人間の、不景気な顔が目に飛び込んでくる。多くは頭をつるりと丸めた坊主であり、独特の分厚い法衣の中に、まるで用心深いヤドカリのような有様で顔を引っ込めてしまっているから、ぎょろりとした目玉だけが不自然に浮かび上がり、不気味この上ない。
 およそ快適という表現から最も遠いその部屋に、場違いな男が一人いた。
 まだ年若い男である。
 ぱりっとした仕立てのいいスーツを隙なく着こなし、豊かな赤銅色の髪には綺麗に櫛が入っている。
 どこか貴公子然とした男で、その瞳には一定水準以上の知識と教養を修めた人間のみが持つ、知性の輝きがあった。しかしもう少し洞察力のある人間であれば、その奥に、傲岸不遜な、そして暴力的な、どろどろとした溶岩の如き塊を見いだしたかも知れない。
 その男、ルパート・レイノルズは不機嫌な調子で腰掛けていた。
 先ほどから、最もこの部屋を出て行く回数が多いのが、彼だ。
 精気に満ちた緑色の瞳を嫌悪と不快に歪ませつつ、どうして毎度毎度こんな部屋で会合を開かなければならないのか、内心でヴェロニカの神に恨み言を叩き付けている。この部屋に長い時間居ると、その不快な臭いがスーツに染み付き、クリーニングに出した程度では取れなくなるのだ。
 別にスーツの一着や二着に困るほど困窮した生活を送っているわけではないが、忌ま忌ましさというのは金銭的な問題とは別の場所から生じるものだから、彼はこの部屋には可能な限り寄りつきたくないのだった。
 他の人間はどうなのだろうかと辺りを見回せば、坊主どもの景気の悪い面以外に、自分と同じようにスーツを着た男がもう一人いることに気がつく。
 ブラウンの髪を綺麗に撫でつけた少壮の男――ルパートの父の第一秘書で、確か名前をアイザック・テルミンと言っただろうか――が、何が楽しいのか分からないうすら笑いを浮かべて、車座から外れた端の方の席に、ちょこんと腰掛けていた。
 何度か、ここ以外の場所で顔を合わせた間柄ではあるが、どうにも気に食わない男だった。にやにやと嫌みったらしい笑みを常に浮かべていて、何を考えているのか分からない、掴み所のない人間なのだ。ルパートは、そういう人間が一番嫌いだった。
 アイザックは自分を見るルパートの視線に気がついたのだろう、やはりにやにや笑いを浮かべたままルパートの方に視線を寄越して、軽く目礼した。
 気分が悪い。ルパートの口の中を、酸っぱい唾が満たしていった。自分はこの会合の主催者側の人間であり、おまけとして顔を出すことを許された秘書如きとは格というものが違うのだ。
 そんな男に目礼されて、嬉しいはずがない。挨拶をするならば、地に這いつくばり、額を床に擦りつけながら、精一杯に卑屈な声を絞り出してするべきだ。この男にはその程度のことも分からないのだろうか。
 ぷいと顔を逸らすと、今まで耳に入ってこなかった、しゃがれた声の議論が聞こえた。

「それにしても、ビアンキ老の頑迷さにも困ったものだ。これだけ民衆の声がはっきりとかたちになっているというのに、未だ過去の栄光に縋り、新しい時代の訪れを認めようともしない」
「この国は元々の発生がヴェロニカ信徒の努力の賜なのだ。ならば、政治と宗教が関わらないなどどだい不可能な話。我らが政治に不干渉であろうとするのは、言い換えれば逃げではないか」
「その逃げが、ヴェロニカ教の腐敗と衰退を招いた」
「ならばこれからは、我らヴェロニカ教の指導陣が積極的に政治介入し、万人を導くべきだ」
 
 まるで干物の声帯を震わせたような声は、一体どの木乃伊が発したものなのか、ルパートに興味はない。目の前に並んだ有象無象は彼にとって悉く無価値なものだった。
 ヴェロニカ教が彼にとって価値があるとすれば、自分の行為を宗教的な意味合いで後押ししてくれる、精神的象徴としての役割であったが、それも既に必要とする段階を過ぎつつあるように思われる。警察や軍隊ですらが、彼の作り上げた組織――憂国ヴェロニカ聖騎士団の前では借りてきた子猫のように大人しくなるのだ。
 ならば、ルパートにとってこの不快な会合に顔を出すことは、極めて無価値な行為であるということになる。憂国ヴェロニカ聖騎士団が不貞の輩から吸い上げた喜捨は、その一部が目の前に座った坊主達の懐に消えているはずであり、自分は不必要なほどに彼らに報いているのだ。これ以上何かしてやる義理はない。
 同じ無価値な行為に時間を潰すのであれば、偶然にも彼の手元に転がり込んできた幸運な少女達を可愛がってやったほうが、幾分生産的だというものだろう。
 ゆるみ始めた口元を意識して取り繕ったルパートは、とりあえず真面目なふりをして目の前で交わされる会話に耳を傾けた。

「老師連中は、ヴェロニカ教を取り巻く環境がこの数年でどれほど激変したか、それが分かっておられない」
「応よ。民衆の範となるべき政治家達が自ら進んで肉食を行い、民衆はそれを嘲笑い、しかし現世利益の名の下に外から来る生臭連中に肉を提供する。それは自らが肉を喰らうと同じく、極めて罪深い行為であるにも関わらず、だ」
「嘆かわしい。何より嘆かわしいのは、この状況を作り上げた現ヴェロニカ教の指導者達に罪の意識も無ければ、危機感そのものが欠如していることだ。あれにはもはや老師を、いや、ヴェロニカ教徒を名乗る資格すらないと判断せざるを得ぬ」
「然り、然り」

 あちこちから賛同の声が上がる。ルパートは内心辟易としながら聞いていた。
 いつものことである。いい歳をした大人がこんな狭苦しい部屋に集まり何をするかと思えば、常日頃から腹の中に抱えている不満や鬱憤をぶつけるだけ。散々唾を散らし空気を汚しておいて、では結論が出るのかといえばそんなことはない。
 全く生産性のない、自慰行為そのものの議論である。ならば公園で太極拳でもしておくほうが健康維持に役立ちもするだろうに。ルパートは嘲笑を隠すことが出来ない。大言壮語も結構だが、まずは己の分というものを弁えるべきだ。
 
「諸兄らの仰ること、いちいち至極ご尤も」

 一際若々しく、張りのある声が、際限の知らない不平不満の嵐を押しとどめた。
 声の主は、この狭い部屋の一番奥、上座と呼ばれる席に座っていた。しかし、彼はヴェロニカ教の内部においては、老師はおろか導師という立場ですらない。
 身に纏っているのは、紫糸で織られた法衣である。それはヴェロニカ教では最高位の老師しか纏うことの許されない法衣であるのだが、この場にいる導師達の誰もがそのことに異を唱えない。上座に座った男には、それだけの力が備わっているのだ。
 法衣の奥に光る視線は、生気が無く、しかし妄執に取り憑かれた幽霊のように不吉を覚える青。どろりと濁った白目と相まって、死んだ魚の目にも見える。
 アーロン・レイノルズ。現ヴェロニカ共和国の大統領、その人であった。そして、ルパート・レイノルズの父親でもある。
 
「確かに、現在のヴェロニカ教の堕落の程度、全く目を覆うばかりの惨状である。故に、我らは立ち上がった。そして我らの志はヴェロニカの民の支持されるところとなった。頂上までの道のりは果てしなく険しいが、まずは一歩目だ。それは喜ばしいことではないか」

 アーロンの言葉には、確かに人を惹き付けるものがあった。
 しかしそれは、例えるならば深淵から伸びた手が縁に立つ者を深みへと引きずり込むように禍々しいものであり、暗いところからより暗いところへと人を誘う声だ。だからこそ極度の混乱状態にあったこの星で、誰もが羨む最高権力を手にし得たのかも知れない。
 この場に居合わせたヴェロニカ教の若き指導者達も、アーロンの声を聞いて、萎びた顔を赤らめながら熱心に頷いた。その目には、憧憬とか崇拝とか信奉とか、既に自己で考えることを放棄してしまった者の光が色濃かった。
 アーロンはその光を見て満足げに頷き、自分の言葉を待ち侘びる己の信徒に向かって仰々しく言った。

「そもそも、この国が共和連邦などという俗物の集合体に加盟したこと自体、大きな間違えであった言わざるを得ない。いい機会だ、これを機に我らは真に自立した政府を構築し、その中でヴェロニカ教徒としての義務を果たしていこうではないか」

 彼がこの星の大統領になり、各種の外国人排除的な政策を数多く打ち立ててから、共和連邦におけるヴェロニカ共和国の立場は急激に悪化している。それに加えて、他の加盟国からは、ベロニカ共和国を旅行中であった自国民が行方不明になっているため、その捜索および事態の解明について強い要望が寄せられているのだ。
 また、各国の大使館からは、ヴェロニカ共和国に『憂国ヴェロニカ聖騎士団』と自称する無頼漢が我が物顔で街を闊歩し、ヴェロニカ教徒以外の民衆――中には当然外国人も含まれる――に対して暴行を加え、警察がそれを取り締まろうともしない現状についての報告も寄せられている。
 国際社会におけるヴェロニカ共和国の命数は、もはや風前の灯火と言ってよかった。遠からず共和連邦の最高総会にてヴェロニカに対する非難決議が採択され、その後にはお決まりの経済制裁、最悪の場合は連邦を除名されるだろう。
 ヴェロニカ共和国の外交官あたりは自国の権益を守りために夜も眠らず奔走しているのだが、枝葉がどれほど懸命に栄養を作ろうとも根が腐っていれば木は枯れるのであり、この場合の根は、少なくとも共和宇宙の一般的な価値観に照らせばこの上なく腐りきっている。
 他のヴェロニカ教徒が聞いても気が狂ってしまっているとしか思えない台詞を誇らしげに言ったアーロンであったが、この場に居合わせた人間は感動に胸を震わせながら彼の言葉を聞いた。そもそもこの国は自国の農作物生産だけで食糧の供給必要量を賄うことが出来るのであり、いわゆる嗜好品にさえ目を瞑るのならば恒星間の輸出入はごく少量で構わない。ヴェロニカ教の教義さえ守っていれば人は幸福に生きることが出来るのだから、それ以外は完全に切り捨てて何が問題なのか――。
 流石に公式の場では表明しない彼らの真意を、ルパートは冷ややかに聞いていた。
 彼はこの場に居合わせていることからも分かるとおり、またヴェロニカ共和国の国民の大半がそうであることからも分かるとおり、ヴェロニカ教の信徒である。
 しかしその頭に『敬虔な』と付けるには十分以上に問題のある信徒であった。前回大統領選挙の最有力候補であったマークス・レザロのように他人に尻尾を掴ませることはないが、肉食を好んだし、共和連邦加盟国であれば必ず法律で禁じられている各種の禁制薬物も嗜んだ。酒色も好み、特に拐かした年端もいかない少女をいたぶるのが何よりも好むところだった。
 だからこそ、ルパートにはヴェロニカ教を、そして現在のヴェロニカ共和国の現状を冷静に見ることが出来る。些か皮肉なことではあるが、現在のヴェロニカ共和国の窮状を招いた張本人の一人である彼が、最もこの国の現状を理解していたのだ。
 そして彼は思っていた。この国は、長くないと。
 遠からずこの国は国際社会から弾き出され、正しく辺境の一惑星に堕とされるだろう。そうすればこの国を支える有力企業は軒並みこの星から逃げだし、瞬く間に星全体が窮乏することになる。あとは丸石が坂道を転がり落ちるが如くだろう。一部の人間がゴミ屑同然の富を独占し、残された人間には今日の食糧を確保するのもままならない泥水色の明日が待っている。
 難民は溢れ、この星全体がテロリストや海賊といったならず者の温床となり、武器や麻薬、奴隷といった非合法の商品が売買されるブラックマーケットとなる。
 果たしてそこまで堕ちるのにどれくらいの年月がかかるかはわからないが、このままアーロンのような指導者に舵を任せ続けていれば、それは遠い日のことではないように思われた。流石に愚かな国民もどこかで気がつくだろうが、その時にはルパートの育てた憂国ヴェロニカ聖騎士団という暴力機関が国民の口を塞ぐことになる。
 上出来だ。ルパートはほくそ笑んだ。
 堕ちるところまで堕ちればいいのだ。どうせ自分が旨い汁を吸い尽くしたあとの、干物のような国である。その時には、自分はこの惑星に地表ではなく、どこか、楽園のような南国の島で長いバカンスを楽しんでいるのだろうから、残された人民の悲嘆の声は届かないだろう。
 彼は最初から最後まで勝つつもりはなかった。最後に勝っていた人間が真の勝者だという言葉があるが、彼はそれを一面で真実であると知りながら、しかし全てに通用する真理であるとは考えていない。
 要するに、負けなければいいのである。勝って勝って、適当なところで勝負の舞台から下りればいい。そして勝ち分を大事に抱え込めば、あとは薔薇色の人生が待っている。
 だが、既に彼の懐には一生遊んでも使い切れないだけの富が転がり込んでいるものの、まだ少し足りない。それに、大統領の息子としてやりたい放題振る舞うことの出来るこの星の環境というのも、彼の肥大した自尊心を満足させるに十分な環境だったからそう簡単に捨てる気もない。
 ルパートが探しているのは、機会だった。この泥船から金銀財宝を抱えて下り、安全な対岸へと乗り移る機会。それを彼はずっと探していたのだ。

「して、如何いたしますか、大統領。現在のヴェロニカ教の上層部の罪のあるところ、万人に明らかかとは思いますが」
「何らかの制裁を加えぬわけにはいくまいな。特にミヤ・ビアンキをはじめとした首脳陣については、ヴェロニカの神がお許しになるまいよ」
「旧害は一掃して新しい風を吹き込まねば、早晩ヴェロニカ教は塵芥の如く宇宙に点在する宗教と同じ地位まで堕ちるでしょう。この時代に我らを使わされたのは、正しく神のご意志に他なりません。今が踏ん張り所でしょうな」
「では、今こそヴェロニカ教があるべき形に戻ったのだと、万人に知らしめねばなりますまい。次の回帰祭こそその好機と言えるでしょう」

 回帰祭とは、ヴェロニカ教の最も神聖なる祭事の一つである。
 人は、自然より生まれた。しかし、自然と共には生きられない、罪深い生き物である。だからこそ自然の循環から離れ、自分達で作り上げた農作物だけで生活し、自然の循環を乱さないよう努める。それこそがヴェロニカ教の真髄である。
 だが、人が生きる以上、自然の循環に全く関わらないなど、到底不可能である。人が息をすればそれだけで大気は汚れる。人の排泄物は、微生物の助け無しでは浄化できない。人の生きる場所を確保すれば、その分だけ野生動物の生きる場所は狭くなる。
 やはり人は罪深い。だから人は、生きているだけで自然に対して計り知れない恩義を背負っているのだ。
 ならば、それを返さなければならない。
 そのための祭事こそ、回帰祭である。
 祭事の内容そのものは、原始宗教にありふれた、生贄を神に捧げる人身御供の儀式である。しかし当然のことながら生きた人間を犠牲にするわけではない。その代わりに、人の形をした人形を用意し、中にたっぷりと食べ物を詰めてやる。それを回帰祭の祭壇に置き祈りを捧げた後で、未開の野に放り投げるのだ。
 当然、人身御供――人形は野生動物の餌食になる。この場合、人形に詰められた各種の食べ物の意味するところは、人の肉であり人の血である。それが野生動物に食われることで、自然の循環の中に戻るのだ。
 要するに、人が自然より奪ったものを人の血肉のかたちで自然の循環の中に戻そうとする。それが回帰祭の主旨である。
 
「今年の回帰祭は、古来の様式に則った、荘厳で、そして古今類を見ないほどに盛大なものにしましょう。そこで閣下が今までの世俗に塗れたヴェロニカ教の在り方を反省し、神の教えに立ち返る旨の宣言をなされれば、国民の蒙も啓けようというもの」
「なるほど。少々時間が差し迫っておりますが、しかしやってやれないことはありますまい。幸い、もっとも準備に時間のかかる祭壇については、昨年竣工したスタジアムがありますからな。あそこならば交通の便もよく、信者も集まることでしょう」
「うむ。ヴェロニカの神の威光を、そして我ら新しいヴェロニカ教指導者達を万人に知らしめるに、これ以上の舞台はないでしょう」

 熱の入った議論が交わされる。
 今の今まで、まったく日の目というものを見たことのなかった連中だけに、その反動というべきか、枯れかかった瞳に狂熱じみた何かを宿らせながら議論は終わることはない。
 だが、それを冷ややかに眺める、若々しく生気に溢れた声が議論を中断させた。

「台下の皆様方の仰ること、なるほどと頷くばかりですが、しかしそれだけではあまりにも、何というか、その、弱いのではないでしょうかな」

 若干の笑いを含んだ声が、全員の視線を集めた。
 声の主は、にやにやと、やはり人の神経を逆撫でするような笑みを張り付かせていた。
 アーロンの第一秘書である、アイザック・テルミンであった。

「テルミン殿、それはどういう意味かな?」

 この場に集まった導師の中でもリーダー格の男が、声を潜めながら言った。
 もともと、テルミンは歓迎されてこの場にいるのではない。そもそも彼はヴェロニカ教徒ですらない、ただの政策秘書の身分である。
 どこの馬の骨とも知れない男が何故、明日のヴェロニカ教の方向性を決めるといっても過言ではないこの重要な会合に、何の資格も無く出席しているのか。
 ぎろりとした視線を受けて、しかしテルミンはにやにや笑いを収めようとはしなかった。

「言葉の通りです……といっても、あなた方には些か分かりづらいでしょうな」
「それは、侮辱の言葉と受け取ってもよろしいのか!?」

 声を荒げた導師を前にして、やや困った様子でテルミンは手を前に出し、癇癪を起こした幼児に言い聞かせるような口調で、

「滅相もない。そもそもワタクシ如き俗物が、神聖なヴェロニカ教の最高指導者である老師台下を前にして、そんな恐れ多いことを言えるわけがないじゃないですかぁ」
「導師だ、今のところはな」
「おお、これは失礼。しかし明日にはその呼称も相応しいものになるでしょう」

 ふん、とふんぞり返った男だったが、しかし悪い気はしていないらしい。自尊心と虚栄心と栄達への野望の大きな人間ほど、自分の地位より高い呼ばれ方をして臍を曲げることはないものである。

「ではテルミン殿。貴方の仰る弱いとは一体?」

 別の導師が尋ねた。
 テルミンは、やはりにやにやと笑いながら、

「ワタクシはヴェロニカ教徒でありませんが、だからこそヴェロニカ教徒いうものを外から眺めることができます。だからこそ思うのですが、ヴェロニカ教というのはなんとも寛容な宗教ですなぁ」
「寛容と」
「はい。確かに戒律はたいへん厳しい。肉を食べてはいけない、自生している植物を食べてはいけない、人工甘味料や化学調味料を食べてはいけない、森や平野を無秩序に開発してはいけない。ええ、ワタクシ如きの俗物には一日だって守れない、たいへん厳しく、そして崇高な戒律であると存じます」
「ふん、まったくもってその通りだな」
「しかし反面、それを破った時の罰というものがあまりにも寛容なことに驚きますなぁ。例えば戒律に背いて大っぴらに肉を食べたとしても、その背教者を破門にすることはせず、背教者本人の良心に期待して自ら教義を下りるのを待つだけ。野生に生えているリンゴを子供が囓ったとしても、せいぜい大声で怒鳴り諭すだけ。いや、これでは余程自分に厳しい、例えばここにお集まりの方々のように自制心のある人間でなければ、箍が緩むのも無理からぬこと、そう思えるのですよ」

 確かにそれは、この場にいる全員が苦々しく思っている事実であった。そして、現在のヴェロニカ教首脳陣に対する強い不満の拠になっている点でもある。
 この場にいるのは純粋培養のヴェロニカ教徒である。それゆえ、自分達の輩と呼ぶに相応しいのは、やはり真にヴェロニカ教の教えに身を捧げている者だけだと考えている。ならば、表面では敬虔な信徒のふりをしながら、裏では肉食の大罪を犯している人間のことを疎まないはずがない。
 彼らは常々、そのような人非人は死をもって罪を報いるべきだと思っているのだ。
 ヴェロニカ教徒ではないテルミンにその事実を指摘されたことは業腹ではあったが、積極的な反論材料も見つからず、彼らは黙り込むしかなかった。
 自分に集中する憎々しげな視線を心地良く思いながら、テルミンは続けた。

「だからこそね、ワタクシは思うのですよ。この機会に、罰というものを設けては如何かと」
「罰だと?」
「ええ、罰です。言い換えれば、鞭とも言えるでしょうな。元来人とは愚かなもの。上手く導くには、飴と鞭が欠かせません。そして、ヴェロニカ教の教義には鞭の部分が、弱いように感じるのですよ」
「それが先ほどの、弱いという意味か?」
「いえ、違います。ワタクシが先ほど言いたかった弱さとは、そう、インパクトの弱さです。回帰祭を盛大に催す。それはよろしい。その場で、今の柔弱な体制からの脱却と、本来のヴェロニカ教の教えへと立ち戻る旨を宣言される。それもよろしい。しかしそれだけで、今の今までヴェロニカ教の教えに唾吐き続けた人間を更正させることが出来るでしょうか?」

 出来る、とは言えない。
 今までにだって、似たような試みはあったはずなのだ。しかし、その結果としての今日がある以上、どれほど盛大に、そして厳粛に祭りを開いたとしても、その効果がどれほどのものか、冷静に考えると疑問符を付けざるを得ない。
 導師達は再び黙り込んでしまったが、この部屋の上座に座る人間が、もったいぶったように口を開いた。

「ではアイザック。お前には考えがあると」

 ファーストネームを呼ばれたテルミンは、したりと頷き、

「レイノルズ大統領、あまり期待されても心苦しいのですが……。例えば、あくまで例えばですがね。今回の回帰祭に限って、その、供物といいますか捧げ物と言いますか……それに、ほんの少しの手を加えてやるというのは如何でしょう?」
「手を加えるだと?」
「ええ。そう、例えば……古来、人がたった一つの惑星の地表に、正しく自然と共に生きていた時代の故事に従った供物を捧げる。これほどのインパクトは、そうないでしょうなぁ」

 ここまで言われて分からないほど、察しの悪い人間はこの場にいなかった。
 しかし真っ先に反応したのは、この考えに一番近い思考の出来る人間であった。
 ルパートが、眠気を飛ばした視線で、テルミンに尋ねた。

「生きた人間を、正しく生贄にするっていうのかよ、あんた!?」
「まぁ、なんと言いますか、これはあくまで例え話ですよ?なので、あまり熱心に聞かれても困るのですが……」
「いいさ、話してみろよ」

 興奮した口調で先を促されたテルミンは、照れたように頭を掻き、

「ワタクシの浅慮で申し訳ないのですが、回帰祭の本質は、自然より人間が奪ったものを自然の循環の中に返すという、いわば免罪的な色彩の強い儀式かと思われます。であれば、その供物は人にとって痛みを覚えるものであればあるほど、自然に対する畏敬の念も強まろうというもの。人形などを用いるよりは生きた人間のほうが、よりいっそうその主旨に適うものなのではないでしょうか。また、生贄には最も罪に塗れ、堕落した者を選ぶ。要するに、最も自然の循環より搾取した者ですな。それを自然の循環の中に戻してやることはその者にとっても救いであると同時に、他の信徒にとっては強い戒めにもなるでしょう。これこそ、ワタクシの申し上げたかった鞭の部分。如何でしょう、素晴らしいアイデアではないでしょうか?」

 しれっとそんなことを言った。
 アーロンのどろりとした瞳には、如何なる感情も浮かび上がっていないように見えた。そしてルパートは隠しきれない興味をその瞳に焼き付かせていた。他の人間の瞳には、明らかな動揺と怯懦が張り付いていた。
 導師の一人が、声を震わせながら言った。

「ひ、人身御供を、生きた人間を野獣の生き餌に捧げると、そういうことか?」
「ええ、ご理解頂いて幸いです」
「し、しかしテルミン殿。そのように非人道的で前時代的な儀式を行うことが、果たして許されるのか?」
「これはおかしなことを仰る。聡明な導師台下のお言葉とは思えませんな」

 テルミンは些か落胆したような面持ちで、

「非人道的、前時代的と仰るが、それは正しく価値観の問題。確かにこの宇宙の大多数を占める価値観、いわば共和宇宙的な価値観に照らせば、生きた人間を供物とするなど野蛮の極み、到底許されることではないでしょう。しかし、その価値観を備えた人間の筆頭である政治家達の腐敗から、今日のヴェロニカ教の危機が生まれたのです。先ほども、共和連邦からの決別を大統領が口にされたばかりではありませんか。ならば、その旧態依然とした考え方を捨て去ることにこそ今回の回帰祭の主旨を置くべきではないかと、ワタクシなどは愚考するものです」
「て、テルミン殿の仰ることは一々ご尤も。しかし、しかし、そのように神をも畏れぬ所業を……」
「なに、別に我らの手で生贄を殺そうというわけではありません。常のとおり、供物を野の獣に差し出すだけでいいのです。今回はそれが人形ではなく、人間であるというだけのこと。もし神がこの行為を好まれぬならば、生贄に捧げられた人間は髪の毛一つほどの傷を負うこともなく生きて返されるでしょう。我らは供物を捧げるだけ。そこから先は神のご意志に任せると、そういうことになりますかなぁ?」

 あくまでにこやかな言い方に、この場に居合わせた人間の大多数は不吉で、そして薄ら寒いものを感じた。
 この男は狂っているのか。口にこそ出さなかったが、しかし多くの者が共有した思考であり、恐れでもあった。
 生きた人間を儀式の生贄として用いる。確かに、文明というものが生まれて間もなくの頃、自然災害と神の怒りが同じ意味を持ち合わせていた頃には頻繁に行われていたことである。また、現在でも一部の偏執的な宗教においては生きた人間を神や悪魔の贄として捧げる行為が生き残っているという噂もある。
 しかし、このヴェロニカ教でそのようなことをしてもいいのだろうか。何か、何か決定的に間違えているのではないか。
 彼らの黒く染まった思考が、僅かに揺らいだとき。
 この国の最高権力者の、地の底から響くような笑い声が、狭い部屋に響いたのだ。

「して、人選は?」

 導師連中は息を飲んだ。
 これで決定だ。事態は、儀式そのものの是非を問う段階から、どうやって儀式を滞りなく進めるかという段階へと移行してしまったのだ。
 数人が再考を求めるために唇を開きかけたが、タイミングを合わせるようにテルミンが言葉を発したため、彼らはそれを飲み込まざるを得なかった。そして、その唇が儀式を中断を求めることは永遠になかったのである。

「古来より生贄には、可能な限り高貴な人間が尊ばれますなぁ」
「では、旧ヴェロニカ教の指導陣でいいか」

 ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
 ビアンキ老師をはじめとした現在のヴェロニカ教の指導者達を、野獣の生き餌にするというのだ。
 それはあまりにも、という声が各所から湧き上がった。いくら日頃憎々しく思っているとはいえ、全く知らない顔ではなし、あまりにも残酷なことに思えたのだ。
 テルミンも、首を横に振った。

「良き悪しきを別にして、彼らを慕う信徒はまだまだ数多いのが現状です。今、彼らを儀式の供物としては、さすがに反発も大きいでしょう。彼らはいずれ裁かれなければならない罪人であるとしても、今はその時期ではありますまい。もしくは、別の方法で罰を与えるべきかと」

 テルミンの言葉に、導師達は胸を撫で下ろす思いだった。
 しかしこの時点で、儀式そのものに対する危機感が消え失せているあたり、彼らの思考能力はそれほど高くはなかったようだ。

「では、他の者を選ばねばならんか。あてはあるのか?」
「はい。最初は、一連の騒動のきっかけを作ったマークス・レザロなどが相応しいかと思ったのですが、しかし彼は精神を病んで辺境惑星の一つで療養中であるとのこと。わざわざこの星に召喚するのも不自然ですし、また精神病患者を贄に捧げたところで神も喜ばれないでしょう。他の政治家連中にしても、めぼしい者は既にこの星から追い出しておりますからな。今更帰ってこいと言っても用心深い彼らのこと、我々がこの星の権力を握っている限り、怯えた穴熊の如く巣に籠もったまま震えていることかと思います」

 なにせ、憂国ヴェロニカ聖騎士団の勇士が腐敗政治家に施した説法はかなり情熱的なものであり、彼らは泣いてその罪を悔い、この星から逃げるように立ち去っていったのだ。
 ルパートなどからしても、テルミンの意見は正しいもののように思われた。少なくとも、喉元過ぎれば熱さを忘れる程度の脅し方はしていないはずだ。最低でも、もう二度と惑星ヴェロニカの地表を踏みたくなくなるくらいには脅し痛めつけておけと、厳重に指示を下したのは他ならぬ彼自身なのだから。

「なかなか難しいな」
「ええ、ワタクシも一方ならぬ苦労を味わいましたが……やはり天啓というものですなぁ。ある晩突然に閃きまして」

 戯けた調子で続ける。

「儀式自体の有用性はもはや疑いようもありませんが、しかしその生贄にいきなりヴェロニカ信徒を選ぶとどうしても強い反発が予想される。ならばどうせ一度限りのこと、別にヴェロニカ信徒に限らずともよいのではないかと閃きました」
「つまり、外国の生臭どもから選ぶか」
「回帰祭のそもそもの主旨に鑑みれば、生贄となる人間は出来るだけ自然から搾取した、罪深い人間がいい。ワタクシなどが申し上げるのは僭越ですが、ヴェロニカ教徒の方々は、いくら教えの箍が緩んでいるとはいえ罪の程度はそれほどでもありますまい。ならば、供物には相応しく無い。もっと罪に塗れた、自然の循環に帰るべき人間というのは他にいるはずですからなぁ」
「ならばどうする。外国の生臭の中から、適当に選ぶのか」
「いえいえ、適当ではまずいでしょう。やはり生贄には、高貴な血が尊ばれます。そして、罪の程度は出来るだけ大きな方がいいですからな。一般の旅行者程度ではこの条件を満たしません。そこで……」

 テルミンは懐から一枚の写真を取り出し、座の中央に置いた。
 写真には、どこかの公衆電話から電話をかける、年頃の少女が写っていた。この星には馴染みのない、華やかな装束を身に纏っている。
 ルパートは、穴が空くほどにその写真を見つめた。その少女の容貌が、そして奇抜な装束が、どこか記憶の琴線に引っかかるものがあった。

「この少女など、如何でしょうか」
「誰だ、これは」
「とある田舎惑星の州知事の娘なのですが、彼女の父親である州知事は問題の多い男のようでして。その州知事の為すところ、ヴェロニカ教の教えからすれば正しく悪鬼羅刹が如き振る舞いと言っても過言ではありません。無計画な乱開発により貴重な自然を広範囲に荒らし、いくつもの野生動物の住処を台無しにして、多くの希少生物を絶滅へと追いやったとか。本人も狩猟を趣味とし、いたずらに生き物の命を奪っては骸をただ打ち捨て、食べることすらしない。純粋に、己が楽しむだけのために命を玩具として、恥じ入ることすらないのです。それ以外にも、汚職や賄賂は当たり前、邪魔な政敵は裏で暗殺する、権力にものを言わせて子供の素行不良を揉み消すなどの悪行三昧。善良なる市民達も、その暴力に怯えてものも言えない窮状だそうです」

 呻き声が各所からわき起こった。彼らが信奉するのは惑星ヴェロニカの地表にある自然だけではなく、この宇宙そのものと言ってよかった。だからこそ他の惑星においても肉食や自生植物の摂取は厳に禁じられているのである。
 ならば、他の惑星での出来事とはいえ、テルミンの言う州知事の行いは、彼らの呪いを買うに十分過ぎる行為であった。普通のヴェロニカ教徒であれば、それは他の惑星の問題であると割り切るところだが、そういう意味での柔軟さというものが、この場に居合わせた人間には備わっていなかった。
 彼らは一様に、その州知事の罪深いところを認め、その罪を娘が被ることに対して何の疑問も感じなかった。そんな父親の娘なのだから、本人だって品行方正なはずがないと確信していた。その州知事が真実そのような行為をしているのかどうかを確かめることすらなく、である。
 導師達の反応を確かめたテルミンは、一度頷いてから、
 
「親の罪を子に償わせるというわけではありませんが、その子供が神の裁きを受けたとなれば親は自らの行いを大いに反省し、自らの愚行を悔いることでしょう。その意味で、彼女を生贄に捧げることはたいへん有意義なことかと思われます。また、これは先ほども申し上げたことですが、彼女が裁かれる有様を見れば信徒の方々も緩んだ箍をはめ直して、ヴェロニカの教えに身を捧げることでしょう。当然国際社会からは大きな反発が予想されますが、それもある意味では今後の政策を決定するためのいい機会。どうですか、我らに益するところ多くして害は無し。素晴らしいと思いませんか?」
「素晴らしい!テルミン氏が父の第一秘書に選ばれた理由がよく理解できました!」

 堪えきれない興奮に濡れた声が、テルミンを讃えた。
 テルミンはにやにやと笑いながら賛同者を眺めて、

「ルパート君に太鼓判を押して貰えると、ワタクシも安心できます。ついでに言うならば、その少女は正規のルートで入国した形跡がありません。いわゆる不法入国者、許し難い犯罪者の一員です。であれば、彼女に降りかかる神の怒りも、その一端は彼女自身の責めに帰すということになるでしょう」

 ルパートは力強く頷いてから、更に後押しをした。

「加えて言えば、この少女は私の同士である憂国ヴェロニカ聖騎士団のメンバーに手酷い暴行を加え、団の運営資金の一部を奪っていった強盗団の一味でもあります。映像などはありまえんが、団員から聞き出した特徴と合致しますし、何よりこの特徴的な服からして間違いありません」
「ほう、暴行を加えたと。この愛らしい少女が?」
「見た目に騙されてはいけません。これはおそらくは魔女か毒婦の類です。我が団の日頃よりたゆまぬ鍛錬を欠かさない勇士達が、まさか真正面から戦ってこの少女に負けるはずもない。彼らは口々に、汚い手で闇討ちされたと、悔しいと、涙ながらに話していました」

 テルミンは痛ましそうな表情で、

「団の方々はお気の毒でした。まったくもって許し難い蛮行ですが、ちなみに傷の程度は如何ほど?」
「襲われたのは二十人ほどですが、ほとんどの人間が半死半生。中には意識不明の重体で、半年ほどの入院を余儀なくされた者もいます」
「それは酷い。では彼女に対する裁きの鞭も、その鋭さを増さざるを得ませんなぁ。それに、もしも、もしもその重体患者が、例えば、極めて不吉な仮定ですが……その、お亡くなりでもすれば、彼女は通常のヴェロニカ国刑法に照らしても極刑を免れなくなります。万が一にもそういった事態になれば、儀式の生贄として貴い死を与えられた方が、汚らわしい死刑囚としてむごたらしい死に様を晒すよりも、彼女のためになろうというもの。いや、これこそ天の采配、神の慈悲ですなぁ」

 テルミンはにやついた視線の中に鋭いものを込めて、ルパートを見遣った。
 この場にいる有象無象の輩には全く分からなかったその視線の意味を、ルパートははっきりと悟った。気に食わないことではあるが、やはりテルミンという人間と自分との思考回路は、どこか似通ったものがあるのだろうと判断せざるを得ない。
 ルパートは、昨日手酷くやられた団員の、入院先の院長の名前を思い浮かべた。確か、小金を掴ませれば自分の思い通りの診断結果を出してくれる、便利な人間だったはずだ。ならば、金庫の鍵と暗証番号を漏らすという失態を演じたあの男には、明日のヴェロニカのための肥やしとなってもらうとしようか。

「なるほど。では会衆よ、アイザックの案について、異議はあるか?」
 
 アーロンの言葉に対して、積極的に異を唱える者はいなかった。
 確かに、ヴェロニカ教の教えに反した者には相応の罰が与えられるのだという前例を作っておけば、今後の改革が遂行しやすくなるのは事実だ。それに、その生贄が重大な犯罪者だというのであれば、良心の呵責も少なくて済む。
 しかし、果たしてヴェロニカ教の神への生贄に、ヴェロニカ教徒以外を捧げるというのはどうなのか。そもそも、人身御供という時代錯誤な行いは許されることなのか。
 いくつもの煩悶が彼らの視線を揺らしたが、しかし誰しもが口を閉ざしたままだった。

「であれば、その少女の確保は私に任せて頂きましょう」
「ルパートか。確かに、お前が適任だろうな」
「ええ。私には頼りになる同士がたくさんおりますのでね。明日にでもこの少女を捕まえて、皆さんの前にお目通りすることができると思いますよ」
「分かった。万事お前に任せるとしよう」

 アーロンは息子に対して頷くと、今日の会合の解散を告げ、さっさと部屋を後にした。
 テルミンも、それに続く。
 次に、導師達が無言で腰を上げ、次々と部屋から出て行った。
 そして、ルパートが一人部屋に残った。
 無言で、じっと写真を見つめている。
 先ほどまではあれほど不快だった部屋の臭気も、ほとんど気にならない。ただじっと写真を眺めたまま、依然座っていた。
 写真の中の、黒髪の少女。
 利発で意志の強そうな顔立ち。
 誰もが振り返るほどに美しい顔立ち。
 完全に、彼の好みだった。これほどに自分の理想を体現した少女がこの世にいるのかと、自問したほどだった。
 その少女が、まだ未成熟な身体を華やかな着物の中に押し込め、如何にも窮屈そうではないか。
 これは、誰かがこの着物を脱がし、彼女の肢体を解き放ってやらなければならないだろう。そしてその幼性を思うさまに蹂躙し、嬲り、狂わせてやらなければならない。
 この美しい漆黒の瞳が、薬に溺れ、性の快楽に溺れ、堕落しきった時に、どれほど醜く濁るのだろうか。それとも、やはり美しいものは美しいままに汚れていくのか。
 想像しただけで、彼の股間は充血し、その存在感を増していった。
 そこは、彼の自慢だった。完全に勃起すれば、大人の男の前腕と見まがわんばかりの大きさなのだ。今まで彼が毒牙にかけた少女達は、その大きさに耐えきれず、秘所を血塗れにしながら泣き悶えたのだ。
 果たしてこの少女はどうだろうか。これほど気の強そうな顔立ちだ。力尽くで犯されたとしても、最初は気丈を振る舞い涙も流さないかも知れないが、すぐに赦して下さいと、勘弁して下さいと泣き叫ぶに決まっている。
 それでも折れないほど強い意志を持っているならば、尚のことよろしい。では鞭で打ってやればどうだろうか。蝋燭を垂らしてやれば?焼きごてを当ててやれば?腹が破裂するほどに水を飲ませてやれば?
 薬もいいだろう。処女を、熟練の娼婦が如く乱れさせる薬がある。意識を残したままで操り人形のようにこちらの言いなりにさせる薬もある。それらを投与し散々にいたぶったあとで、自由を取り戻した少女が、乱れ狂った自分を振り返ってどうするか。自殺しようとするかも知れないし、気が狂うかも知れない。無論楽に死なせてやるつもりなど欠片もないが、その嘆き悲しむ様を見るだけでも十分以上に興がある。
 ルパートの歪んだ妄想は尽きることがなかった。彼の頭の中では、中世の魔女に対して行われたおぞましい拷問の数々が、幼気な少女に対して躊躇なく行われていた。
 先ほどよりもよりいっそうその大きさと堅さを増してきた自分の分身に対して、彼は語りかける。
 我慢だ。我慢しろよ。遠からず、お前はこの少女の中で好きなだけ暴れていいんだからな。この少女の処女を無惨に散らし、泣き叫ばさせ、慈悲を懇願させてやるんだ。
 今まで散々嬲り壊してきた美少女達が、一山幾らの醜女にしか思えない程の美少女。ルパートは、この少女を手に入れるために自分はまだこの惑星に残っていたのだと確信した。
 神は、俺にこの少女を手に入れろと仰っている。
 いいだろう。これはあんたになんか渡さない。いや、渡すとしたら俺が骨の髄までしゃぶり尽くした残骸だけだ。抜け殻みたいにぼろぼろでも、あんたは満足してくれるだろう?なんたって、質素倹約を旨とする神様なんだからな。
 ルパートは、だらしなく鼻の穴を膨らませながらほくそ笑んだ。
 父やその取り巻きには、逃げられたと、それとも手違いで殺してしまったとでも報告しておけばいい。そしてこの少女は永遠に俺の飼い犬となって、俺に奉仕し続けるんだ。
 目を血走らせたルパートは、その長い舌で、写真の少女の顔を舐め上げた。
 白い唾液の跡が、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインの秀麗な像を汚した。



[6349] 第三十四話:宴の前
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2010/01/04 16:50
 人間の理解力には、限界がある。
 無論、個人の知性の差によって大きさも違えば深さも違うし、器の形も、中に入れることの出来る知識の質にも違いが出る。
 しかし総じて言えることは、どれほど優秀な人間であっても突然に津波のような驚きを正面からぶつけられては、それを全て飲み込むのは不可能だということ。
 この場合のケリー・クーアと、その妻であるジャスミン・クーアの置かれた状況が、正しくそういう状況であった。
 共和宇宙でも最高水準の知性と肝の太さを誇るこの二人が、グラスの中で氷の溶ける音もどこか遠くの有様で、茫然と目の前の少女を眺めるしか出来なかったのだ。
 もっとも、ケリーにとっては正しく目の前の少女であったが、ジャスミンにとっては自分の膝の上にちょこんと座った少女の後ろ姿であった。

「……と、いうわけだ。どうして俺がここにいるか、理解して貰えただろうか」

 仕事を終えた語り部は、氷が溶け出して若干薄くなった美酒でもって、乾いたその喉を潤した。
 ぐびりと動く細い喉が、妙に艶めかしかった。
 酒を嗜むに相応しい年齢には見えない、少女である。
 化粧を施しても隠しきれない、瑞々しい若さ。というよりは幼さ。
 光が映り込むような黒絹の髪。
 意志の強そうな黒真珠が如き瞳と、卵形に整った輪郭、愛らしい鼻梁と唇。
 酒場特有の薄暗い照明の下でも、その少女の美には些かの綻びも見られない。遠目夜目傘のうちというが、本物の美しさには、それらが傘として役に立たないのだと分かってしまう。
 男性が見ても女性が見ても、保護欲と、父性あるいは母性を刺激してやまない、少女。
 フィナ・ヴァレンタイン。
 しかし、ケリーとジャスミンの思考能力を奪うに至ったのは、彼女の可憐さではありえない。美しい云々の話で言えば、ケリーは同性が見ても溜息しかでないような二枚目であるし、ジャスミンは大輪の薔薇が如き豪奢な美人である。それに、二人の知り合いには正しく天使の現し身としか思えない少年が、四人ほどもいる。
 だから、二人の口から言葉を奪ったのは、全く別の事柄であった。
 つまり、少女の身の上話が原因である。
 目を白黒させていたケリーとジャスミンだったが、いつまでもそのままというわけにはいかない。勇気、あるいは好奇心を振り絞って、なんとか唇を開いた。
 
「その……フィナ嬢、いや、ウォルと呼んだ方がいいのか?」
「どちらでも構わない。どちらも、誇るべき俺の名前だ」
「ではウォル。いくつか質問を……というよりも、確認をさせてもらいたい」

 ジャスミンが、ややしゃちほこばった調子で言った。
 ウィルは首を後ろに捻り、ジャスミンの顔を見上げるような姿勢で答えた。その拍子に、ウォルの頭に設えられた可愛らしい兎の耳がジャスミンの頬を叩いたのだが、ジャスミンはそのことにすら気がつかない様子である。

「うむ、ジャスミン殿。どうぞご存分に」
「先ほどの話からすると、きみはその、ヴィッキー・ヴァレンタインの……きみの呼び方で言うならば、リィの、お嫁さんということになるのだろうか?」
「いやいや、それが何とも複雑な話なのだがな。俺は確かにあいつの伴侶だが、それはあくまで夫としての話だ。だから今の俺は何かと問われれば、リィの同盟者であり、そして夫であり、かつ婚約者である、ということになる」
「うん、それはよく分かる」

 黒髪の少女の話に、ジャスミンは相づちを打ちながら頷いた。
 破天荒な身の上ならば、ジャスミンも相当なものだ。
 致命的な遺伝子疾患を抱えた身でありながら軍隊に入隊し、誰にも負けない戦果を残した。幼少の頃に出会った少年の面影を追って配偶者を捜し、ようやくお眼鏡に適う相手を見つけて戦闘機で鬼ごっこをしてみれば正しくその少年だった。ついに病で倒れ自分は死んだと思っていたら、四十年後の未来に若返った姿で蘇った。
 そこらのラブロマンス小説を探しても、あまりに突拍子もなさ過ぎて、そんなストーリーは見つからないだろう身の上である。
 その彼女をして、ウォルの身の上話は、上には上がいるものだと実感させるに足る突拍子もないものだったのだ。
 それでもその話をよく分かると瞬時に納得できるあたり、ジャスミンの器は大きいのか底が抜けているのか、どちらかに違いなかった。

「俺はあちらの世界で一度命数を使い果たし、天に召された。そして天の国……こちらの世界にて再び命を得て、新しい身体を借り受け、今ここにいる。何の因果か、少女の身体でな」
「それは違うぜ、ウォル。少女じゃなくて、飛びっ切りの美少女だ」

 ケリーが大真面目に指摘した。
 ケリーのほうに向き直ったウォルも、少しだって笑うこともなく、真剣な調子で、

「うん。俺もそう思う。この子は、俺が見てきた女の子の中でも最高に可愛らしい。肩を並べれるのは、そうだな、あいつと……あとは俺のもう一人の奥さんと、娘が二人くらいのものだろうか」

 腕を組んで考え込んでしまったウォルである。
 無論、『あいつ』とはこの美少女の妻である、少女であった少年のことだ。それはケリーとジャスミンも理解できたが、残りの部分については完全にウォルの記憶の中にしか答えを求めることが出来ない。
 そこに身内の贔屓目、あるいは惚れた弱みがあったかどうかは神のみぞ知ることである。
 重々しく頷く少女を見ながら、眉を顰めたジャスミンが再び問うた。

「確かきみはリィと結婚したのだと理解しているのだが、他の奥さんがいるとはおかしな話だ。まさかとは思うが、きみは重婚していたのか?」
「重婚と言われると身も蓋もないのだがなぁ……。俺と奥さん――ポーラは、公的な関係でいえば国王とその愛妾ということになるのだが、しかしその呼び方がどうにもしっくりこない。では妻かといえば、あなたの妻でありデルフィニア王妃でもあるのはリィだけだと当人に泣いて怒られる。なので、極々身内の間でだけは奥さんと呼ぶことに決めて、必死の説得の末にポーラからも何とか了承を得たのだが……おかしいかな?」

 首を傾げた少女である。
 おかしいかと問われれば、全てがおかしい。
 おかしすぎて、一つ一つの怪異にいちいち驚くのが馬鹿馬鹿しく思える程だ。
 ケリーの肩は爆笑を堪えてひくひくと揺れていたのだが、ジャスミンはやはり生真面目に、

「そういう事情ならば仕方ないな。それに、国王なら妾の一人も持たない方がかえって不自然というものだ。詮の無いことを言ってしまった。許してほしい」

 ぺこりと頭を下げてから、語調をあらためて、

「しかし、きみは言ったな。いや、きみという呼び方おかしいか。なにせ貴方は、我々より遙かに長い時間を生きた人生の先達であり、国王陛下なのだから。やはり陛下とお呼びした方がよろしいか?」

 バニー姿の、どこからどう見ても元国王には見えない少女は、顔の前でぶんぶんと手を振りながら、慌てた調子で言った。

「それは勘弁してくれ。ようやく重たい王冠を脱ぎ捨て、どう説得したって傅こうとする家来たちの厳しい目からも逃れることが出来たのだ。今更陛下などと呼ばれてはこの細首の上に重たい何かが乗っかっている気がして、肩が凝って仕方なくなる。今までどおりウォルと呼んでいただければ有難い」

 目がかなり真剣である。どうやら、本当に王様扱いされることに辟易としているらしい。
 しかしそれを言うならば、依然ジャスミンの膝の上にすっぽりと収まった少女は、やはりはどこからどう見ても王様の威厳の欠片も無い姿であった。精々、年の離れたお姉ちゃん、もしくは年の近い先生に甘える、舌っ足らずな女の子といった風情でしかないのだ。
 その二人を離れた位置から見ることのできるケリーなどは、どうやって堪えようとしても堪えきれない笑いを端正な頬に浮かべていた。まったく、黄金狼の知己には一人だって退屈な人間がいないなと、自分のことを蚊帳の外に置きながら美味い酒を楽しんでいた。

「了解した。ではウォルと呼ばせてもらうが……君はあちらの世界で、既にリィと夫婦の関係だった。それがどういう意図で結ばれたかは別にして、だ。なら、こちらの世界でわざわざ婚約して、妻としてリィと結ばれる必要なないのではないか?別に書類上の確たる関係が欲しいというわけではないのだろう?」
「うーむ、なかなか痛いところを突いてくれる。確かに、あらためて夫婦の契りを神に誓う必要があるかと問われればそういうわけではないのだし、あちらの世界でだってリィには迷惑をかけっぱなしだったのだし……これ以上借りを作るのは何とも心苦しい話なのだがなぁ……」
「いや、彼はそんなこと、ちっとも気にしていないと思うぞ。だいたい、きみのような可愛らしい女の子に迫られて嬉しく思わないなど、男の風上にも置けない不届き者だ。リィは男の中の男だから、そんなことは言わないと思うが」

 リィの容姿を知る、例えば彼の学友などが聞けば首を傾げざるを得ない台詞であったが、リィの中身を知る極少数の人間にしてみればジャスミンの言葉はどこまでも正鵠を射ていた。
 然り、ウォルはしきりに頷き、

「ジャスミン殿の仰る通り、あれは正しく男の中の男だ。しかし、だからこそ怖くもなる。確かにリィは俺のプロポーズを受けてくれたが、しかし本当は迷惑に思っていたのではないか、俺を助けるために無理をしてくれたのではないかとな」
「それはお門違いの心配ってもんだぜ」

 行儀悪くカウンターに頬杖をつきながら、不敵な笑いを浮かべたケリーが言った。

「黄金狼はな、自分が嫌だと思ったことは間違いなく嫌だと、この上なくはっきり言う男だ。もちろん時と場合ってやつはしっかりと弁えてはいるがな。あんたのプロポーズが本当に嫌なら、下手な未練を残さないようきっぱり断ってるだろう。そうしないと、結局はお互いがもっと嫌な思いをすることになるんだからな。それを受けたってことは、あいつだってあんたのことを憎からず思ってるのさ」

 それは、ウォル自身が思っていることでもあった。
 だが、ウォルはケリーの言葉を有難いものと思った。自分の考えを他人が後押ししてくれるのは単純に心強いし、何よりリィのことをこれほどに理解してくれる人間が、自分以外にもこの世界にいることが嬉しかった。

「ケリー殿にそう言っていただけると、安心できるな」
「それによ、万が一黄金狼に振られたら、俺のところに来るといいぜ。今のまんまじゃちょっぴり小振りすぎるが、あと十年もしたら間違いなく俺の守備範囲のど真ん中だ。ベッドの中で優しく慰めてやるさ」

 果たして本当にそういう事態になったときに、元々が男であるウォルをケリーが抱こうとするのかどうかは疑わしいところであるが、なんとも剛胆な、それとも野方図な台詞である。
 ウォルは目を丸くして、ジャスミンを見上げながら問うた。

「ジャスミン殿。あなたの夫がこんなことを言っているが、いいのか?」

 先ほどのケリーの台詞は、どう考えても未来のウォルに対するラブコールである。夫が妻の前で話す内容として適切か否か、議論の分かれるところだろう。
 ジャスミンは、少し驚いた様子の少女を優しい視線で愛でながら、

「夫がわたしの前で他の女性を口説くなどいつものことだぞ?それどころか、わたしのいないところで浮気をしたらしっかりと事後報告をする不届きな男だからな。まぁ確かに、今のきみをベッドに誘おうとしたならば大いに問題はある。そして、夫の責任は妻であるわたしの責任にもなりかねないからな、これとは一度腹を割って話し合わなければならないかもしれない。だが、十年後のきみを十年後のこれが口説く分には大人と大人のやり取りだ。わたしはどこぞの過保護な母親ではないのだから、口を出す筋合いではないだろう」

 この言葉には、苦笑したケリーが噛み付いた。
 無論それは、じゃれ合いの域を到底出ることの出来ない、甘噛みでしかなかったのだが。

「ひでえな女王。仮にも自分の夫を『これ』扱いかよ。第一俺のことを不届きとか言うが、あんたなんか自分が浮気をしたことに気がつきさえしなかったじゃねえか。まったくあの時はあんたのキャンセルしたパーティに睡眠時間を削って出席しなけりゃならないわ、出席したらしたで奥様はどうされたのですかと質問攻めに遭うわ、踏んだり蹴ったりだったんだからな」
「あの時のことは済まなかったと思っているさ。だから、きちんと謝ったじゃないか。一度かたのついた昔の過ちを引き合いに出すなど、それこそ男の風上にも置けないぞ、海賊」
「それを言うなら、まだ起きてもいない未来の児童淫行罪で夫を『これ』扱いする妻もどうかと思うぜ?」
  
 売り言葉と買い言葉。頭上で交わされる、まるで熟練の鍛冶屋が振るう槌のようにぽんぽんと交わされる夫婦の会話を、ウォルは唖然としながら聞いていた。
 これでもう少し言葉に険というものが含まれていれば、夫婦の絆の一大事、ウォルも慌てて取りなすところなのだが、二人ともなんとも楽しげに、酒の肴を味わいながらやりあっているので、流石のデルフィニア元国王も口を挟む隙間がない。
 ひとしきり、罵り合いともじゃれ合いとも受け取れる不可思議な会話が繰り広げられた後、怪獣夫婦は共に腹を抱えながら笑い(ケリーは真実腹を抱えて笑い、ジャスミンをウォルを抱き締めながら笑った)、一息ついたところで、再びジャスミンはウォルに視線を戻して、問うた。

「すまない、話が盛大に横道に逸れた。えっと、わたしは何を聞いていたんだろうか」
「確か、なぜわざわざあらためて婚約などする必要があったのか、というくだりではなかったかな?」
「ああ、確かそうだったな。ではあらためて尋ねるが、ウォル、きみは何故、わざわざ妻としてリィと婚約などをしようとしたのだ?」
「言葉にするのは難しいのだが、やはりけじめだと思う。今までは夫としてあいつと夫婦だったのだからこそ、今度は妻として収まるのならばその旨をはっきり伝えておきたかった」

 その回答は一応の筋が通っているように思えたが、それはそれでもう一つの質問を促すものでもあった。
 ジャスミンはやはり真剣な調子で質問した。

「ではもう一つ。そもそも君は、何故リィの妻になりたいなどと思ったのだ?もとは男だったのなら、それは一大決心がいることだったと思うのだが、違うか?」

 ジャスミンの言葉に、ケリーもうんうんと頷いた。

「俺もそう思うぜ女王。俺だって今さら女の身体に着替えさせられて、同じように男の身体に着替えさせられたあんたに抱かれるとなったら……んん?別にそれはそれで構わねえ気もするな」
「……やはりお前はどこかおかしいぞ、海賊」
「いや、確かに違和感はあるがよ。俺とあんたは今だって夫婦なんだぜ?その男と女の役割が変わったところで、何か問題があるかね?」
「そう言われると答えに困る。なにせわたしはお前を一度ならず押し倒しているからな。初めての夫婦の営みの時からしてそうだったんだから、そういう意味で言えば、男と女の役割が逆だったのは今に始まったことじゃあない。だが……果たしてそういう問題なのか、これは?」
「今度は俺があんたを押し倒して銜え込むだけだろう?なんも問題なんかねえじゃねえか」
「何か、何か大事なことを決定的に間違えている気がするのだが……わたしの勘違いだろうか?」

 勘違いではないとウォルは思った。
 そして、目の前の夫婦は、どう考えても自分達夫婦よりもずれていると確信した。
 しかし、それとは別に、自分の心情というものははっきり伝えておく必要がある。
 なにせ、夫婦の間であればお互いの性別が逆転しても問題は無いという、とんでもない結論が生まれつつあるのだ。このままでは自分のことを、夫婦の契りを結んでおきながら夫に身体を委ねることが出来ない、初心な花嫁とでも誤解されてしまうかも知れない。

「ケリー殿。ケリー殿の仰ることはよく分かるのだが……」
「よく分かるのかい?いや、俺自身もよく分かってねえんだが……」
「そういうことではなくてだな。あなた方のような……その、何と言ったらいいか、何というべきか……」

 結局ウォルは何も言えず、うーんと考え込んでしまった。
 果たしてそれを気の毒と思ったのか思わなかったのか、苦笑したジャスミンが一応の助け船を出した。

「正直に言ってくれて構わないぞ」

 ジャスミンの言葉を聞いて、ウォルは控えめに、しかしはっきりと、

「うむ、では遠慮無く。あなた方のような、そう、例え天と地がひっくり返っても『ああ驚いた』の一言で済ませてしまうような正真正銘の変わり者同士の夫婦ならば、男と女の役割がひっくりかえても、やはり『ああ驚いた』で済ませられるのかも知れん」
「まぁ、確かにあんたは変わり者だな女王」
「うん、確かにお前は変わり者だ海賊」

 お互いを鏡として深く頷きあった怪獣夫婦である。
 ウォルは変わり者二人を意識して無視しながら、

「だがな、考えてもみてほしい。性別が変わっても正気でいられるのは、それが元から性別の異なる夫婦の間だからだ。……無論、普通の夫婦であればどう考えても正気でいられるとは思わないのだが……。まぁとにかく。こういう場合はどうだろう。あなた方の同性で仲の良い友人がいるとして、自分の性別が逆転したときに、だ。その友人に容易く抱かれていいと、それとも抱いてやろうと、お二人は思うだろうか?」

 ケリーは、海賊時代に仲の良かった幾人かの顔や、それとも仕事の同僚や部下だった男性のうち比較的親密だった何人かの顔を思い浮かべ、その彼らにベッドの中で抱かれる自分を想像してみた。
 そして、口の端を引き攣らせながら青ざめてしまった。
 ジャスミンは、自分が冷凍睡眠する前から今に至るまでほんの少しだって年を取ったようには見えない、銀幕の奇跡、もしくは芸能界の妖怪とも呼ばれる自身の親友を思い浮かべ、その女性を抱く自分を想像してみた。
 そして、どうにも想が像を結ばず、難しい顔で固まってしまった。

「……すまん、ウォル。俺はとんでもない勘違いをしていたみてえだ。あんたが黄金狼に抱かれるのは、どう考えても一大事。俺にはとても真似できねえよ」
「……そうだな、海賊。確かに、この少女の決心は、我々がどうこう論評していいことではなかったようだ」
「……そこまで神妙になられるとは何とも複雑な心境だが、ご理解を賜れたようでなによりだ」

 三人は同時に重たい溜息を吐き出した。その溜息に如何なる感情が乗せられていたかは、当人以外はまったく分からなかった。

「では、きみは何故、そこまでの覚悟をもってリィの妻になると決心したのだ?」
「そうだぜ。俺があんたの立場だったら、間違えても黄金狼とだけは番おうとは思わねえがな」

 ウォルはいくつかの理由を思い浮かべた。
 例えばウォルの宿る少女――ウォルフィーナが、リィと同じ生き物であるということ。
 彼女の体を幸せにする義務が、自分にはあるということ。
 リィと自分とは、剣と戦士としての魂に誓った相棒同士であるということ。
 他にもいくつも理由はあったのだが、しかしそれらは結婚相手としてリィが望ましいという理由であり、女としての結婚をウォルが望んだ理由にはならない。
 だからウォルは、言葉を選びながら自分の心持ちを口にした。

「理由はいくつかあるのだが……一番大きいのは、子供が欲しいということだろうか」
「子供が欲しい?」

 ケリーとジャスミンが思わず視線を交わらせてしまった。
 無理もない。その理由は、自分達があれほど破天荒な結婚をやらかしてしまった、その事情と全く同じものだったからだ。
 しかし、彼らに挟まれたかたちのこの少女は、子供を欲しがるにはあまりに幼すぎる。どう考えても第二次性徴が完了しているとは思えないのだ。子供を為すには早すぎるし、子供を欲しがること自体が時期尚早な気がする。無論、中に宿っている人格は別にして、だが。
 では、どうして子供を欲しがるのか。
 ケリーが興味深そうな様子で尋ねた。

「それは、やっぱり女の子の身体になると、母性本能ってやつに目覚めて自分の赤ん坊が抱きたくなったとか、そういうことか?」
「いや、そういうわけではない。確かに赤ん坊は可愛いが、我が子が抱きたいがために子供が産みたいと思ったことはないぞ。だから、突然母性本能に目覚めたということもない……と思うのだが、どうだろうなぁ」

 自分のことだから余計にわからないと、ウォルは考え込んでしまった。
 そんな彼女をやはりすっぽりと抱きながら、次にジャスミンが尋ねた。

「では、自分がこの世に生きた証を残したいとか、そういうことだろうか」

 それは正しくジャスミンが我が子を切望した事情そのものである。
 不治の病により三十年の命を宣告された彼女が、残された僅かな余命を自分の望むように生きたいと切望し、成し遂げ、最後に欲したのが自分の生きた証、即ちとしての我が子であったのだ。
 ジャスミンを本当の意味で知る人が聞けば少しだけ首を傾げてしまう、ジャスミン本人ですらが自分らしくないと呆れてしまう事情であった。
 が、やはりウォルは首を横に振り、

「そういう意味で言うならば、俺は自分の子供を既に何人も授かっている。彼らは彼らでたくさんの孫の顔を見せてくれた。もう十分というわけではないのだが、これ以上は望みすぎという気がするな」
「じゃあどうして子供を欲しがる?あれは、生半可な気持で産んでいいものではないし、産めるものでもないぞ?」
「……やはり痛いのか?」

 黒髪の少女が恐る恐ると尋ねれば、

「痛い。とんでもなく痛い。あの苦しみに耐えるその一事をもって、世の女性は男性よりも偉大だと確信できるほどに痛い。わたしは女に生まれた我が身を嘆いたことなど一度も無かったし、今でも無いのだが、あの瞬間だけは種を撒くだけで全てが済んでしまう男連中が羨ましく思ったほどだ」

 赤毛の経験者は語る、である。
 苦い顔で記憶を辿るジャスミンの前で、ケリーも深く頷いた。
 ジャスミンの出産には諸事情から立ち会えなかったケリーも、後から出産時の妻の状況を人伝で聞いて、神妙な顔つきで唸り声を上げたものだ。
 なにせ、『あの』女王が、極度に疲弊した顔で『いやはや、子供を産むということがこれほどの大仕事とは思わなかった』とぼやいたのだ。
 弱音やら愚痴やらとは、この共和宇宙に生きるどんな生き物よりも縁遠い『あの』女王が、である。
 それでも出産直後に酒を所望したあたりは彼女らしいと言えるが、ケリーなどからすればジャスミンは平気の平左な顔をして子供を産むものだと思っていただけに、その反動は大きい。
 どうやら出産とは本当に大変なものなのだなぁと、ケリーもその時点で初めて実感を伴って理解したのだ。
 同じように厳しい顔をした夫婦の前で、ウォルは項垂れて、

「そうかぁ、やはり痛いかぁ。俺は、あまり痛いのは好きではないのだがなぁ……。そういえばポーラも、俺の前では平気を装っていたが、産みの苦しみは相当なものだったと聞いたし……」

 ぶつぶつと、我が身の不幸を嘆くように言った。
 ただ、今のウォルは年端もいかない少女の外見であるだけに、どうにも滑稽というか、微笑ましい様子ではあった。まるで学校の教室の片隅で、友人と肩を合わせてひそひそ声で『将来はどんな男性と結婚したい』だとか『何人の子供が欲しい』だとか、泡色の未来図面を語る少女のようであったからだ。
 しかしウォルは完全に本気である。なにせ、既に婚約まで済ませてしまっているのだ。彼女の覚悟さえ決まったならば、出産という人生の一大イベントが待ち受けているのは今日から一年先のことであっても不思議ではない。正しく迫り来る危機である。
 苦しげに唸り声をあげるバニーガールを前にして、ジャスミンは怪訝な声で、

「差し出がましいとは承知で言うのだが、ウォル、そんなに嫌なら、何故子供が欲しいからリィと結婚したいという結論になるのか、わたしにはそこが不思議に思えるのだが」

 確かに、とケリーも思った。
 ケリーも、おそらくはジャスミンも、子供を残すことが人の義務だとは思っていない。むしろ、きちんと親になることの出来ない甘えた人間が子供を作ることなど、罪悪に等しいと思っているくらいだ。
 だから、嫌なら子供を設ける必要などどこにも無いのである。
 ならばどうして。
 そう思ったときだ。
 ケリーが、声を低めながら言った。

「あのよ、ウォル。お前、まさかとは思うが、黄金狼の子供を産んでやりたいがためにあいつと婚約したとか、そんな馬鹿なことは言わねえよな?あいつが、放って置いたら誰とも番わず子供を残すこともなく死んでいくかも知れねえから、それが可哀想で、自分が産んでやらないといけないと思ったとか、そんな思い上がったことを言うつもりはねえよな?」

 口元は笑っているし、喋り方も冗談めいたものでものではあったが、眼光には剣呑なものが籠もっていた。
 だが、それを聞いた黒髪の少女の眼光の険しさに比べれば、ケリーの眼光はまだ穏健と呼べるものであった。その眼光を向けられたケリーは勿論、少女を抱きかかえていただけのジャスミンですらが、背中に冷たいものを感じるほどに、少女の眼光は鋭く、迸る怒気は更に鋭かった。

「ケリー殿。一度だけだ。一度だけ、その無礼な物言いは聞き流そう。だが、もう一度同じことを口にすれば、それは俺の名誉と、あなたが黄金狼と呼ぶ戦士の名誉に泥を塗るものと判断し、俺は相応の行動をする。それでもいいのだろうか?」

 喉元に切っ先を突き付けられたような心地のケリーは、静かに頭を下げた。
 目の前にいるのがただの少女などではなくて、あの恐るべき戦士が同盟者と認めた存在なのだと、あらためて認識した。
 
「……悪かった。お前さんと黄金狼を侮辱したことを詫びさせて欲しい」
「わたしもだ。わたしも夫と同じく、まさかとは思いつつも、きみがそういう意図でリィと婚約したのではないかと疑った。わたしも、君達を侮辱した。許して欲しい」

 見上げる程に大柄で、歳の頃も一回り以上は違うように見える男女が、幼い少女に頭を下げているのだ。それに気付いた周りの人間は、一体何事があったのかと奇異の視線で三人を見た。
 ウォルは一度頷き、そして言った。

「頭を上げてくれ。そして、俺も卿らに謝罪したい。卿らの心根が何処にあるのかを俺は知っていたのだ。知っていながら、しかしああ言わざるを得なかった。もう少し上手な言い様もあっただろうにな。七十年以上生きておいて、何とも不器用だと自分でも恥ずかしく思う」

 苦笑しながら、本当に気恥ずかしそうな調子の声である。
 ケリーもジャスミンも、それを和解の印だと受け取った。そして互いに手にしたグラスに新たな酒を注ぎ、打ち合わせることでこの一事を水に流すことに決めたのだ。

「じゃあよ、ウォル。それだけ子を産むことを嫌がっておきながら、どうして子供が欲しいなんて言うんだ?」
「いや、子供を産むのが嫌なのではないぞ?ただ、痛いのが嫌というか、なんというか……」
「そこらへんはどうだっていいさ。とにかくお前さんは子供が欲しいと言っている。で、結局のところ、どうしてそんなに子供が欲しいんだい?」

 畳み掛けるようなケリーの質問である。
 若干気圧されたようなウォルは、慎重に言葉を選びながら、自分の思いを口にしようとして、その時はじめて気がついた。
 目の前の、自分を興味深げに見つめる美丈夫の右眼が、どうにもおかしいのだ。
 何がおかしい、というわけではない。焦点がずれているというわけでもないし、眼球の動きも自然なものだ。
 しかし、何かがおかしい。言葉にはし難い何かであったが、ウォルの魂に染み付いた何かが不自然だと告げている。
 ウォルは、思わず首を傾げてしまった。

「どうした、そんなに見惚れてよ。俺が男前過ぎたか?」
「うむ。確かに卿は、男の俺でも嫉妬してしまうほどの男ぶりだが、そうではなくて、その右眼が、だな、なんというか……」
「右眼がどうした?」

 ケリーは手にしたグラスを弄びながら尋ねた。
 口元は、耐えきれない喜びで笑みの形を作っている。まるで、我が子がなぞなぞを解くのを待ち侘びる、父親のような表情だ。
 それに答えるように、ウォルが口を開き、言った。
 
「気を悪くされたら謝る。その右眼は、卿自身のものだろうか?」
「ビンゴ!」

 ケリーが突然大声をあげたので、ウォルの小さな体がビクリと跳ね上がった。
 義眼の海賊という渾名を持つ色男は、不敵な笑みを浮かべながら、右眼の前までグラスを掲げてウォルの観察眼に敬意を表した。

「いやぁ、たいしたもんだ!この眼は最近新調したばかりなんだが、一発で見抜かれるとはな!驚き入ったぜ!昔なじみだって細胞培養義眼に代えたのかって驚くくらいなんだがな!」

 言わずもがな、ケリーの右眼は義眼である。それもただの義眼ではない。赤外線や紫外線等、肉眼では捕らえきれない光線を認知し、それを利用して物体透過視までも可能とした超高機能のスパイ・アイである。
 ただし、やはりそれは機械の目であって、どうしてもいわゆる普通の眼とは異なる点が出てくる。ケリーの義眼の場合は、機能を使用した際に、僅かに瞳の色が、本来の琥珀色から赤色に変わるという特徴があった。
 だからいって不都合があるわけではない。この宇宙には、眼はもちろんのこと、四肢や内臓、はては脳の一部までを機械化した人間が数多くいるのだ。片目が義眼であることが他人にばれたところで何の害もないのである。無論、それが超高性能なスパイ・アイであることがばれれば、風紀上、そして防犯上の理由から、苦情が殺到するかも知れないが。
 ならば何故わざわざケリーが義眼を新調したかといえば、それは完全な趣味である。確かに愛船《パラス・アテナ》の進歩具合に比べるとやや機能的に見劣りしてきたので、悔しさ半分で改造しようとしたというのは否めない。だが、それは以上に、眼を新しくすることで周りの人間がどう反応するのかを見たかったというのがケリーの本音だろう。
 そして新調した最新型義眼は、各種機能のバージョンアップは勿論のこと、その外観も一新していた。具体的に言うと、ケリーの左眼――肉眼とまったく見分けがつかないような外見にしたのである。機能を使用したとしても以前のように瞳色が変わることもないし、当然のことではあるが、焦点の合わせ方や視線の向け方も左眼と完全に同調してある。
 ケリー自慢の右眼であった。
 それを、ウォルは一発で義眼であると見破ったのだ。ケリーはそのことが嬉しくてたまらなかった。

「ではそれは、機械の眼なのか」

 ほぉぉ、と、感心しきった様子のウォルが、ケリーの顔を覗き込む。
 自然、ケリーの目の前には絶世の美少女の顔が来ることになったのだが、流石はケリーというべきか、この男はほんの少しの動揺もしなかった。それどころか、ウォルの小さな体をジャスミンの膝の上からひょいと抱え上げ、自分の膝の上に座らせてしまったのである。

「これでよく見えるだろ」

 可愛らしいバニーさんが、不敵な笑みを浮かべた色男の膝の上に乗っているというのは、なんとも微笑ましげで、しかしどこか妖艶で、一言で評すれば物凄く絵になる光景であった。ウォルを横取りされたかたちのジャスミンも、思わず見とれてしまった程だ。
 今度はケリーの膝の上からその顔を見上げたウォルは、やはり驚きと感動の入り混じった表情で、

「その眼は、当然ものが見えるのだな?」
「もちろんだ。ウォルの可愛らしいバニーさん姿がよく見えてるぜ」
「いや、それはあまり見ないでいただけるとありがたいのだが……」

 揶揄するようなケリーの言葉に、ウォルは少しだけ傷ついたようだった。
 しかし気を取り直して、ケリーの右眼の更に横に自分の左手を伸ばし、指を三本立てた。
 そこは、どうしても左眼では見えない、右眼でしか見ることのできない場所である。

「これは何本?」
「三本だな」
「これは?」
「Vサイン」
「ではこれは?」
「ジャンケンならグーに勝てるがチョキには負けだ……これじゃあまるでKOパンチを食らったボクサーだな」

 苦笑したケリーである。
 そしてウォルは、大きく開いた己の左手をまじまじと見ながら感嘆の吐息を吐き出した。

「いや、リィとシェラから話としては聞いていたのだが、この時代では失われた視力までも機械で補うことが出来るのか。なんとも羨ましい。俺の生きた時代にも同じ技術があれば、どれほどの戦傷者が救われたか……」

 しみじみとした調子で言った。
 ウォルが王を務めた時代のデルフィニアでは、戦争が起きれば多くの死者と、それ以上の怪我人が出た。パラスト・タンガの両大国との戦火が絶えた後でも国境付近の小競り合いは尽きることがなかったし、どれほど小規模であっても戦が起きれば必ず怪我人は生まれた。
 そして多くの場合、その怪我人は名誉の負傷を讃えられながら、しかしそれからの長い人生を大きなハンデを抱えて生きていかなければならなかったのだ。それは、平和に過ごすことが出来たならば負う必要の無かった余分な荷物である
 ウォルはそういった者達に可能な限りの援助を惜しまなかった。だが、ものには限界というものがある。全ての戦傷者が何不自由なく、というわけにはいかなかった。
 以前、リィやシェラとの問答でも議題にあがったところではあったが、ウォルにしてみればこの時代があまりに羨ましく思えてしまうのだ。この世界に、そしてこの時代に生を得ていれば、失われなかった命や救われた命のなんと多いこと。
 既に玉座とは何の関係もないはずのウォルがそんな葛藤を覚えていると知れば、リィなどは同盟者を痛ましく思いつつも、しかし表情には出さずに冷やかしたであろう。『だからお前は苦労性の熊なんだ』、と。
 そこまでの事情は聞かされていないケリーであったが、しかし少女の落ち込んだ声を励ますような調子で言った。

「聞いて驚けよ、ウォル。これはな、ただものを見るだけじゃないんだぜ。その気になれば建物の外から中の様子を伺うことも出来るし、蛇みたいに相手の体温で居場所を探すことも出来る」
「ほう、では月や星の無い夜でも、自在に動けるということか!それでは夜襲がし放題だな!」

 目を輝かせながらそんなことを言った。
 このあたり、どうにも少女の発想ではない。
 当然のことと言えば当然なのだが、端から聞いているジャスミンなども、未だ慣れない違和感であった。

「当たり前だ、それにな、こいつは俺の自慢の相棒とも繋がってるのさ」

 ケリーの相棒と言えば、愛船《パラス・アテナ》のことであり、もっと突き詰めて言えばその感応頭脳である《クレイジー・ダイアン》こと、ダイアナを指す。
 ケリーの義眼が取得した映像・音声などの各種情報は、ケリーが断りを入れない限り、あるいはダイアナが気を利かせない限り(繰り返すが彼女は感応頭脳のはずである)、各種通信によってダイアナの知るところとなる。その機能によってケリーは実際にいくつもの危地を乗り越えることが出来たのだし、使われることこそ無かったものの、彼の蘇生装置の根幹となる彼の記録もそうして積み上げた歴史そのものであった。
 当然、今だってケリーの右眼を通じて全ての情報がダイアナの人工知能へと伝わっている。映像はおろか、ウォルとケリー、ジャスミンの交わしている会話も余すところなく、だ。
 ということは、ケリーの右眼を上目遣いに覗き込むウォルの顔だってダイアナは正しく見ているのであり、そのあどけない表情はダイアナの母性本能(……)を強烈に刺激していた。
 先ほどからケリーの左手首に巻いた通信装置がけたたましい電子音を鳴らしているのもそのせいだろう。差し詰め『わたしにもその子と話させなさい!』と言いたいに違いない。
 ケリーは無情にもそれを無視していた。
 そんな事情は露知らず、ウォルは小首を傾げると、

「相棒?それは、確かリィの話していた、船の女神様のことか?」

 電子音のけたたましさが更にランクアップした。
 ダイアナの心を代弁するならば『女神様!女神様ですって!ちょっと聞いたケリー!やっぱりこの子可愛らしいわ!だから、さっさと通信を繋いでわたしと話させなさいよ!』とでもなるのかも知れなかったが、やはりケリーは無視した。
 半笑いで無視した。
 通信機の電源も落としてしまった。

「どうかしたのか、ケリー殿?」
「いんや、別に。ただ、可愛い女に意地悪するのはこんなに楽しいもんなんだなって再認識してただけだぜ」
「趣味が悪いぞ、海賊」

 だいたいの事情を察していたジャスミンが、若干呆れながら呟いた。
 耳聡いケリーがまたしても言葉を返そうとした、その時である。

「ケリー殿。一つよろしいか?」
「ん、どうした?」
「リィは卿の相棒のことを、まるで魔法使いみたいに機械のことなら万能だ、と評していたのだが、それは事実だろうか?」

 相棒のことを褒められたケリーは、まったく嫌な気がしない。
 鼻高々の様子で、誇らしげに言った。

「魔法使いってやつには残念ながら出会ったことはねえし、天使連中に比べれば出鱈目度合いも色あせるってもんだが、ダイアンから不可能って言葉を聞いたことは、あんまりねえな」

 その言葉に目を輝かしたウォルは、

「では、一つ頼みたいことがあるのだが、いいだろうか!?」
「ああ、いいぜ。俺とダイアンに叶えられることなら、何だって叶えてやるさ。言ってみな」

 ケリーは、目の前の兎耳の生えた頭を撫でながらそう答えた。
 まるきり、年端もいかない少女の扱いである。
 頭を撫でられると前髪が目に入りそうになるのか、目をぎゅっと閉じたウォルが、口を尖らせるような口調で言った。

「……ケリー殿。別に頭を撫でられるのが嫌というわけではないが、俺は男だぞ。それに、齢七十を過ぎる老人だ。それに対して、この扱いはどうだろうか」
「お、奇遇だな。俺も実は七十を超えるお爺さんなのさ。それが一度くたばって、天使にこの体をプレゼントしてもらったんだ。だがな、ウォル。やっぱり人間ってやつは度し難いもんで、どうしたってまずは相手の見た目を重視しちまう。そして、今のあんたを見ていると、どうしてもこういうことをしたくなっちまうんだ。諦めてくれ」

 からからと笑うケリーにやられ放題で、なんとも苦い顔のウォルである。
 しかし、とりあえず話を先に進めることにしたらしい。溜息を一つ吐き、それから、おずおずとした口調で頼み込んだ。

「先ほども話したことなのだが、俺が今この星にいることを、リィにまだ伝えられていないのだ。だから、もし卿の相棒に頼んで可能ならば、リィに俺が無事であること、そしてこの星にいることを伝えていただきたい。お願いできるか?」
「なるほど、そいつはもっともなお願いだ。確か、この星に向かってるのは間違いないんだったよな?」
「うむ、それはそうなのだが……」
「なら、どの船で向かってるかなんて考えるまでもねえな。ダイアン、聞こえるか?」

 左手の通信機の電源を入れ、通信スイッチも入れたケリーはそう呼びかけたが、返答はなかった。

「ダイアン、ダイアン、聞こえてるんだろ?返事をしろ」
「……」
「拗ねるなよダイアン。さっきは悪かった。ちょっと意地悪してみたくなっただけじゃねえか。そんなに可愛らしく反応されたら、俺はもっとお前にいかれちまうぜ」

 まるきり女たらしの台詞に、通信機から重たい溜息が聞こえた。

「……さっきはわたしがどんなに呼びかけても無視したくせに、男って本当に勝手だわ」

 それは、ウォルの初めて聞く声だった。
 ややアルトの音域の、甘い声。そして、本来であれば深い知性と教養を感じさせる魅力的な声のなずなのだが、今は若干の湿り気と恨みがましい重たさを帯びている。
 それでも、ウォルはその声の持ち主が、きっと魅力的な人物に違いないと思った。

「悪かった。ほんの軽い冗談のつもりだったんだ。だからあんまり怒るなよ。俺の他愛ない悪戯に拗ねるお前を可愛がりたかっただけじゃねえか」
「その台詞を吐いたすぐ後に恋人に刺された男の人を、わたしは三桁以上知ってるわ。調べたらもう一桁は間違いなく増えるでしょうね。今すぐにリストアップして送りつけてあげましょうか?」
「おお怖え。まぁ一回死んだ身だ、もう一度死ぬのは別に構わねえんだが、どうせ死ぬならお前に抱かれながら死にてえな。俺を刺したその手で、優しく抱き締めてくれるかい?」
「医療用ロボットの冷たいアームで思い切り抱き締めてあげるわ、消毒液の涙を流しながらね。それで、通信を切ったり入れたり、何の用?ようやくわたしもその子と話させてくれるのかしら?」
「悪いがそいつは後回しにしてくれ。聞いてたかと思うが、この子、ウォルはのっぴきならない事情でこの星にいるんだがそのことを黄金狼は知らねえらしい。で、この子の無事を黄金狼に伝えたいんだが、《ピグマリオンⅡ》と連絡は取れるか?」
「黄金狼って、金の天使さんね?そしてその子は彼の将来の奥様。それで間違いない?」
「ああ、そのとおりだが……どうした?」

 ケリーが思わず尋ねてしまうほどに、ダイアナの口調はおかしかった。
 彼女はいわゆる人間ではないが、人間以上に感情豊かであり、無論のこと賢い。その彼女の今の口調に名前をつけるならば、『呆れている』というのが相応しかっただろう。
 問題は、どうして彼女が呆れているのか、ということである。

「はぁ……。あなたたち人間って、ときどきびっくりするくらいに賢いのに、ときどきびっくりするくらいに鈍いわ。あのね、ケリー。機械であるわたしが言うのもなんだけど、こういう時ってまず言うべきことがあるんじゃないの?」

 ケリーは首を傾げた。
 目で、ジャスミンに何事かを問いかけたが、ジャスミンも小首を傾げてしまっている。
 もう一度、通信機から盛大な溜息が聞こえて、

「貴方達の友人であり、そして恩人でもある金の天使さんが、なんと婚約をしたのよ。そして、その婚約者さんが目の前にいるんだわ。なら、お祝いの一言ぐらい送るのが礼儀ってものじゃなくて?」

 あ、とケリーは固まってしまった。それはジャスミンも同じだった。
 彼らを責めるのは酷というものだろう。なにせ、彼らの聡い知性をしてフリーズさせるような、突拍子もない話を連続して聞かされたのだ。
 異世界の国王が女の子に転生して、その妻だった少年を追いかけてきた。その少年は自分達も大恩ある金色天使のことで、しかもその天使はどう考えても結婚やら恋人やらとは縁遠い人物である。なのにこの少女は、その少年と婚約したのだという。子供が欲しいという。
 それらの事実を何とか飲み込んだだけでも賞賛に値することなのだ。これがいわゆる一般人であれば最初から笑い飛ばして耳を傾けないだろうし、もう少し事情の知っている一般人――例えばこの怪獣夫妻の長男など――であれば脳のシナプスをシャットダウンさせて回線がショートするのを防いだだろう。 
 だから、二人に責任は無い。
 だが、大いに慌てた。慌てて、何か気の利いたことを言うべきだと考えて、ウォルのにこやかな笑顔を見て何も言えず。
 最後に全てを諦めて、二人も一緒に微笑み、そして言った。

「あのな、ウォル。俺達夫婦は、黄金狼に大きな恩があるんだ。ただの恩じゃない。言葉では表せない、とてつもなくでかい恩ってやつだ」
「わたし達がここで息をしているのは、リィのおかげだとっても過言ではない。そればかりではく、わたし達の息子も、孫までも、何度となく彼に助けられた。なのにわたし達が恩を返そうとしても、一向に受け取ってくれる気配がない。『あれはおれの好きでやったことだからジャスミン達が恩を感じる必要なんてないんだ』などと、つれないことを平気な顔で言う。まったくひどい少年だとは思わないか?」

 ウォルは苦笑しながら頷いた。

「ああ、その気持はよく分かる。俺も、あいつの恩の押し売りには常々まいっていた。なにせ、こちらが心の底から助けを欲している時にふらりと現れ、到底返しきれないような恩を売りつけては、一向にそれを返させてくれんのだ。それも一度や二度ではない。ことあるごとに、数え切れない程にだ。そんなことをされては、一生あいつに頭が上がらんではないか」
「なのにこちらが申し訳ない顔をするのを、彼は何よりも嫌がる」
「黄金狼の悪い癖だな。非の打ち所のないいい男だが、そこだけがちっとばかり不味い。恩ってやつは、巡り巡ってこそ人を幸せにするんだ。情けは人のためならずってやつだな」

 年齢も、そして性別もばらばらな三人が、悪童のような表情を付き合わせて微笑っていた。
 手には、美酒の注がれたグラス。言葉に乗るのは、黄金の毛並みをした狼のことばかり。
 これではまるで西離宮のようではないかと、ウォルは思った。

「だからよ。お前さんがあいつの奥さんになったら、そこらへんは真っ先に矯正してやってくれ」

 その言葉を聞いて、ウォルは大いに慌てた。
 ビックリしてケリーのほうを振り向いたから、グラスから酒が飛び散ってしまうほどだった。

「ちょっと待ってくれ。俺があいつを矯正するのか?そんな大それたこと、神様だって出来んと思うぞ」
「ああ、だからお前さんに頼んでるんだ。なにせお前さん、闘神の現し身って呼ばれた王様なんだろ?ならどう考えても、黄金狼を矯正できるのはお前だけだぜ」
「……そんな話、誰から聞いた?」

 二分の一だ。金色の髪をした天使か、それとも銀色の髪をした天使か。
 もしくはその両方から、という可能性もある。

「そこらへんは想像にお任せするぜ。しかし事実なんだろう?」
「しかしなぁ……」

 どこまでも渋い顔をするウォルに、ジャスミンが笑いかける。

「大丈夫だ、ウォル。この世で一番強い人間というのはな、この世で一番強い男の妻なのだそうだぞ。どれほど腕っ節が強く頑固な男でも、妻にだけは頭が上がらないものらしい。だから、きみさえしっかりしていれば、リィの手綱を握るのは不可能ではないさ」

 それは自分達のことも含んでいるのだろうかと、手綱を握られている自覚のないケリーは思った。しかし結婚に至った過程なども含めて考えると、赤の他人が見れば、自分が尻に敷かれているのだと言われても反論する材料が乏しいだけに、ケリーの表情も渋い。
 そんなケリーを横目に、ウォルは真剣に悩んでしまった。
 リィの手綱を握る。
 あの、リィの手綱を。
 どう控えめに考えても、不可能事にしかウォルには思えなかった。
 自分がリィの手綱を握ることと比べれば、馬の『う』の字も知らない農民がロアの黒主を農耕馬として従える方が、まだ現実味があるというものではないか。
 
「まぁ、そこは将来への課題ということでお茶を濁してもらえると嬉しいのだが、いけないか?」

 苦み走った顔の少女を見て、ケリーとジャスミンは盛大に吹き出してしまった。
 これほど愉快なことも昨今無いなというくらいに面白かった。
 そして、自分達の言うべきことをようやく見つけて、言ったのだ。

「おめでとう、ウォル。心の底から祝福するぜ」
「きみとリィの結婚式には、必ず招待して欲しい。宇宙の果てにいても、必ず飛んでいく。そして、両手では抱えきれないほどの祝いの品を送りつけてやるから、覚悟しておいてくれ」
「もし招待状を送り忘れたりしたら、冗談抜きで一生恨むからな。幽霊の恨みは怖いんだぜ、死んだって化けて出てやる」

 もう、言葉もないウォルである。
 しかし、その柔らかな頬には、極上の笑みが浮かんでいた。
 自分達の婚約を、ルウも、そしてシェラも喜んでくれたが、こういうものは何度あっても嬉しいものだ。

「ああ、いい笑顔だわ。ほんとう、金の天使さんに嫉妬しちゃうくらいに良い笑顔。これは、未来の旦那さんにも送ってあげないとね」

 通信機から、そんな声がした。
 
「ダイアン、《ピグマリオンⅡ》と連絡が取れたのか?」
「うーん、これを連絡が取れたと言って良いものかわからないけど……。今《ピグマリオンⅡ》は通常のヴェロニカ航路を大きく外れた場所で停泊してるわ。原因は大規模な宇宙嵐。これを避けるために大きく迂回した航路を取ったんでしょうけど、そっちはそっちで別の宇宙嵐が発生してたみたい。これじゃあまるで、神様が運命の二人を遠ざけようとしてるみたいね」
「へえ、お前には詩の才能もあったのか」
「冷やかさないでよ。でも、本当にそんな感じなの。運がないっていうか何ていうか。だから、通信の方も、行ったり来たりは難しいわね。わたしなら《ピグマリオンⅡ》まで正確に通信を飛ばせるけど、あちらがわたしまできちんと通信を飛ばせるかどうかは分からないわ。それでもいい?」
「と、船の女神様は申しておりますが、如何いたしますか陛下?」

 冗談めかしてケリーが言った。
 ウォルは苦笑して、

「それで十分過ぎるほどだ。まずは俺の無事をリィ達に伝えて貰えれば、あとは時間の問題なのだからな」
「だ、そうだ。ダイアン、よろしく頼むぜ」
「分かったわ。じゃあ、花嫁さんの元気な様子も一緒に、花婿さんまでお手紙届けておくわね。早く来ないと可愛い奥さんが悪い狼の餌食になっちゃうわよって」
「おい、ダイアン。その悪い狼ってまさか俺のことじゃないだろうな」
「さぁ?そこらへんは、ケリー、あなたの常日頃の女性に対する態度から決まってくるんじゃなくて?」
「ちょっと待て、いくらなんでも俺は黄金狼の奥さんの間男になるつもりはねえぞ!おい、ダイアン……くそ、通信を切りやがった。何て感応頭脳だ、まったく……」
 
 口を尖らせたケリーだったが、ジャスミンはお似合いだと苦笑した。
 そしてウォルも同じようなことを思っていたのだが、先ほどの会話の中で気になる点があったことを思い出した。
 ぞくりと、背筋を不吉なものが走り抜ける。
 
 ――まさか。

 ――ありえない。

 ――いや、そこまでは……

 僅かに青ざめた表情の少女が、片頬を引き攣らせながらケリーに尋ねた。

「あの、ケリー殿?」
「うん?どうした、顔色が悪いぜ?」
「つかぬことを伺うのだが、先ほど卿の相棒の言っていた『花嫁さんの元気な様子も一緒に』とは、一体どういう意味だろうか?」

 不思議そうな顔をしたケリーが、どうしてそんな分かりきったことを聞くのかと、訝しげな口調で答える。

「そりゃあ、今のあんたの元気な様子を、手紙と一緒に送るってことさ。そのほうが黄金狼も安心するだろう?」
「……それはつまり、その、今の俺の姿が、あいつに伝わるということか?」
「まあ、映像としてか、それとも静止画としてかはわからねえが、そういうことだろうな」

 ウォルの全身から、一気に血の気が下りていく。
 それも無理はないだろう。なにせ今の彼女は、男であれば誰もが鼻の下を伸ばすバニーガールなのだ。
 頭には可愛らしい兎耳がついているし、体を覆うレオタードは股間の切れ込みもきついセクシーなものだし、妖しげな色気を醸し出す網タイツまで装備している。化粧だってしているのだ。
 どこからどう見ても、王としての、あるいは戦士としての威厳など欠片も無い、色街の女そのものの姿である。
 一週間前、ウォルがこの格好をした自分を鏡で見て、最初に強く決心したことがある。
 あちらの世界での自分を知る極少数の人間には、絶対にこの姿を見せてはならないということだ。
 その禁を犯したならば、自分の男としての誇りは、木っ端微塵に砕け散るだろう。
 そう、確信していた。
 そして、彼女の予想しうる、最悪の事態が、今、起きようとしているのだ。

「け、ケリー殿!今すぐ、今すぐ船の女神殿を呼び出してくれ!」
「お、おう、ちょっと待ってくれ。ダイアン、ダイアン、聞こえるか?」

 通信機からの反応はすぐであった。

「どうしたのケリー?そんなに慌てて、何かあった?」
「船の女神殿!先ほどの、リィへの手紙はどうされた!?」
「はじめましてウォル。わたしはダイアナ。ケリーの相棒をやってるわ。それで、手紙ってさっきの通信のことでしょ?しっかり送っておいたわよ?貴女の可愛らしい姿も勿論一緒にね。絶対にあの子、惚れ直すに決まってるわ。それくらい、さっきの貴女の笑顔は可愛らしかったんだもの!」
「くっ、遅かったか!ではダイアナ殿、その通信とやらの回収を頼む!」
「通信の回収?変なことを言うのね、初めて聞いたわそんな言葉。無理よ、そんなこと。恒星間通信は、ショウ駆動機関理論を応用して、光よりも早いのがウリなんですからね。もうあっちに着いてる頃じゃないかしら?」

 もうあっちに着いてる、もうあっちに着いてる、もうあっちに着いてる……。

 残酷な台詞が、ウォルの耳道の中でこだました。
 黒髪の少女は、この世の終わりのような表情のまま、がくりと崩れ落ちる。
 それを心配した二人が口々に労りの言葉を投げかけるが、バニーさんの耳には届かない。
 床に四つん這いになった少女は、項垂れながら、力無く笑い続けた。

「ふ、ふふふ、おわった、もう、いま、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンは死んだ……。父上、母上、申し訳ありませんでした……。あなた方の息子は、もはや息子を名乗る資格を失ってしまったのです……これからは、正真正銘の女として、一生懸命生きていきますから、天の彼方より見守っていて下さい……」

 少女の虚ろな声が、酒場の喧噪の中に溶けて消えた。



「ここか」
「ああ、間違いない」
「今も店の中にいるのか?」
「協力者の情報を信じるならな」
「出入り口を封鎖しろ。裏口には、特に重点的に人員を配置しておくこと」
「どうせ奴さんは袋のネズミだ。焦ることはない。落ち着いて、粛々と行こう」
「了解。しかし、この女の子を捕まえるために、本当にこれだけの人員が必要だったのか?」
「油断するなよ。可愛い見た目をして、魔女か獣だって噂だ」
「ふん、まぁいいさ。魔女だろうが獣だろうが、俺達は任務を遂行するだけだからな」
「ああ。可哀想だが、この子は三十分後には檻の中だ」

 ネオンに彩られた闇の中を、完全武装の人影が慌ただしく動き回っていた。
 彼らの腕には、ヴェロニカ共和国軍の特殊工作部隊であることを示す腕章が、大きく縫い止められていた。



[6349] 第三十五話:宴、はじまり。
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4d255c68
Date: 2010/01/19 19:35
 ウォルが茫然自失の態で床に蹲っていたのは、たっぷり五分を超える程の時間だった。
 その間、ケリーもジャスミンも必死に彼女を励ましていたのだが、失意のウォルの、偽物の兎耳は勿論のこと、本物の耳のほうにも慰めの言葉は届いていない様子だった。

「気にすんな、ウォル!ちっとばかし恥ずかしい写真が黄金狼に見られたくらい、何だってんだ。そんなこと、結婚してみりゃいくらだってあることだぜ。今から一々気にしてたら先が思いやられるってもんだ。ほら、飲め飲め!酒でも飲んで忘れろ!」
「この男の言うとおりだ、ウォル。第一、リィに送られた映像記録の君は、ほら、こんなにも可愛らしいじゃないか。これを見て笑うような男は、男の何たるかを母親の腹の中に忘れてきた、見下げ果てた奴だ。そしてリィはそんな男では決してないから、彼は君に惚れ直しこそすれ、笑うことなどありえない。君が心配すべきは、彼に笑われることなどではなく、再会した拍子にリィに襲われることだと思うぞ!」

 無論、ジャスミンとてそんなことを本気で思っているわけではない。リィが性的な欲望に身を任せて女性を襲うなど、この宇宙が一周してもあり得る話ではないのだ。
 しかし、今はとにかくこの少女を励ますことだ。彼女とリィが一体如何なる絆によって結ばれたのかまでは知らないが、今のウォルの状況には同情すべき点が多すぎた。
 確かに、リィが乗船している《ピグマリオンⅡ》に送られたウォルの姿は、たいへん愛らしかった。上目遣いに、不思議そうな顔でカメラを見上げる少女というのは、普段の二割から三割増しで可愛らしいが、元が飛び抜けた美少女であるウォルなのだからその破壊力は言うに及ばずである。だが、そのことが何の慰めにもならないことを、ケリーとジャスミンは理解していた。
 二人して作り笑いを浮かべながら、必死で励ましの言葉を探す怪獣夫婦というのも珍しい絵図であったが、面白くない人間(?)が一人いた。
 バニー姿のウォルの映像を《ピグマリオンⅡ》へと送った張本人である、ダイアナ・イレブンスその人である。
 
『……ちょっと。二人とも、どうしてそんなに必死なの?これじゃあわたしが、何かまずいことでもしでかしたみたいじゃない。あの写真がまずかったの?でも、ウォルはすっごく可愛らしくって、彼女は金の天使さんの婚約者なんだわ。なら、彼女の、わたしでも心臓が跳ね上がるくらいに可愛い映像を送って、何か問題でもあるの?』

 『お前のどこに心臓があるんだよ?』というお決まりの突っ込みを飲み込んだケリーは、諭すような口調で通信機に語りかけた。

「いいか、ダイアン。お前の言ってることは正しい。至極正しい。俺だって、さっき見せてもらったウォルの写真は、可愛らしかったと思う。ポスターにして、仕事場に貼り付けときたいくらいだぜ」
『それはどうかと思うけど……』

 言うに及ばず、ケリーの仕事場とは《パラス・アテナ》の操縦室のことである。つまりはダイアナの体内といえる場所なのだから、その一角にレオタード姿のバニー少女のポスターを貼られてしまうのは、ダイアナとしても可能な限り避けたい事態だ。
 
「だがな、聞いての通り、この子は元は男だったんだ。それが、この上ないくらいに女の子してる映像を知り合いに送られて、ショックを受けないはずがないだろうが」
『そこらへんの機微は人間ならではのものだから、わたしにはとんと分からないわね。でもねケリー、天使さんとその子は婚約者なのに、せっかくおめかしした格好を見てもらうのが恥ずかしいなんて、馬鹿げてるわ。それじゃあ、結婚した後で、一緒におしゃれして流行のレストランに行くとか、そんなのも駄目ってこと?それじゃあちっとも楽しくないじゃない』
「ダイアン、お前の言いたいことはもっともだ。俺もそう思う。だがな、おめかしってもいきなりバニーガールだぞ?落差が激しすぎるだろうが。お前だって、例のゾウリムシ事件の時の、あのいかれた衣装の映像をあらためて見せられたり知り合いに送りつけられたりしたら……」
『あの時のことは思い出させないで!』

 荒々しい声が通信機から響いた。
 確かに、『酔っぱらった』ダイアナの映像は、いつもの彼女からは想像もつかない程に陽気で明るい、言い方を変えれば頭の捻子が緩んでいるものだった。
 ダイアナの優れた人工知能はあの時のことをもちろん覚えているのだが、それらの記録には幾重にも頑丈なロックがかけられ、平時の彼女が思い出すことのないよう、情報の海底の奥底のほうに沈めてあるのだ。
 そして、万が一にも、あの忌まわしき映像が外部に漏れだし、例えばダイアナを慕う統合管理脳――ゼウスの目に触れでもしたら……。 彼はきっと、ダイアナを笑わない。むしろその映像の彼女が可愛らしいことを、千を超える言葉でもって表すだろう。しかしそれは褒められる側にとって、針の筵よりも遙かに苦痛を与えうるのだ。
 
『……ええ、ケリー、よくわかったわ。確かに、わたしはとんでもないことをしてしまったみたいね。悪意がなかったとしても、わたしはその子に謝る必要がある。ごめんなさいね、ウォル』
「いや、船の女神……ダイアナ殿。悪いのは俺なのだ……俺が全て悪いのだ……」

 ここまで後ろ向きなウォルは、彼を知るものからすれば珍しいものであっただろう。如何なる苦境もその明晰な頭脳と鋼の精神力で乗り越えてきた彼女なのだから。
 然り、たっぷり五分ほども落ち込んだ後で、少女は立ち上がった。相変わらずバニー姿のウォルは、しかし清々しささえ漂わせた顔つきで、

「よし、終わったことをくよくよ悩んでいても仕方がない。どうせ、俺はいずれあいつの妻として、純白のウェディングドレスを纏わなければならないのだから、その予行演習ということにしておこう!」
 
 はたしてバニー姿がウェディングドレス姿の予行演習になるのか否かは置いておいて、ウォルはそう自分を鼓舞することで、辛うじて精神的再建を果たした。
 握り拳片手に気炎を上げる少女というなかなか見ることの出来ない光景に、ケリーとジャスミンは一瞬唖然としたが、すぐに相好を崩して拍手の真似をしたりした。

「そのいきだぜウォル!」
「過ぎたことにいつまでもうじうじするのは非生産的だ。それくらいなら、酒でも飲んで忘れる方がいくらかましというもの。さぁ飲もう」

 ジャスミンはウォルのグラスに火酒を注いだ。
 もう、こんな年端もいかない少女が夜の街で働いてはいけないとか、もう少し大人しい酒を飲むべきだとか、そういった一般論はどこかに落としてしまっている。第一、目の前の少女は、少女であって少女ではないのだ。自分が彼女の行動に一々掣肘を加える必要など、まったくないのである。
 ウォルはジャスミンから渡されたグラスを、一息で空にした。
 いったい何杯目かは忘れてしまったが、少なくともボトル一本程度のアルコールは胃の中に収めてしまったはずでだ。彼女が見た目通りの存在であれば、顔を真っ赤にしてぶっ倒れ、明日明後日は二日酔いの頭痛に苦しむに違いない量である。
 しかし、意外と言うべきか当然と言うべきか、ウォルの白皙の肌には些かの赤みもさしていない。それどころか、生き生きと輝きはじめた瞳の色は、ようやく今から宵の口だと言わんばかりだ。
 開き直った様子のウォルは、再びケリーとジャスミンの間のカウンター席に腰掛け、つまみのナッツを一つ口に放り込んでから、言った。

「そういえば、さっきから話しているのは俺ばかりだな。お二人はどういう用事でこの星にいるのだ?リィには、ケリー殿もジャスミン殿も、この宇宙で一番有名な商人だと伺っているのだが、お仕事の関係か?」
「商人……まぁ、そういう言い方になるのかな?」

 ジャスミンが首を捻る。確かに二人は、共和宇宙で最も有名な企業の実質的な支配者であり、ウォルの認識に間違いはない。だが、クーア・カンパニーはあまりに巨大すぎて、商人だけに収まらない存在であるのも事実だ。
 しかし、異世界からやって来たという目の前の少女に対して、それを一から講釈していたのでは一晩や二晩では到底足りない。少なくとも、これほど楽しい夜をそんな些末事に費やすつもりは毛頭ない。それに、ウォルの認識もあながち的外れでもないのだ。
 頷いたケリーは、懐から赤い小石を取り出し、ウォルの前のカウンターに置いた。

「……見たことのない色だが、何かの鉱石か?」

 ウォルはその小石を手に取り、まじまじと見つめた。
 色合いは鉄鉱石の一種である赤鉄鋼石に近いが、手に持った感覚が全く違う。具体的に言うと、遙かに重たい。
 どうやら今まで自分の見たことのない鉱物らしいと、ウォルは理解した。
 興味深げに赤い石を眺める少女に、横からケリーが言った。

「まぁ別に大したものじゃあないんだが、そいつが原因でウチのチビと孫チビが、ちっとばかり厄介なことに巻きこまれたりしてな。俺達がこの星に来たのは、厄介事を根っこのほうからやっつけるためさ。残念ながら仕事関係でもなけりゃあ心温まる夫婦水入らずの旅行でもないんだ」
「ほう、これがなぁ……」

 電灯の明かりに透かすようにして、ウォルは不思議な鉱物を見上げたりした。
 ウォル自身、鉱物――彼女の場合は金山と銀山であるが――を原因として、いくつかの大きな争い事に巻きこまれ、その中では虜囚の辱めを受けたりもしている。もっともその時は男の体だったので、いわゆる一般的な拷問以上の辱めを受けたわけではなかったが。
 とにかく、そういった資源というものは、人の心の最も醜い部分を強烈に刺激するのだと、ウォルは身をもって理解していた。だからこそ、自分と同じく厄介事に巻きこまれたらしい二人を見て、同情ではなく気の毒そうな表情を浮かべたものだ。

「それはさぞ大変な事と思う。今の俺ではあなた方のために何の力にもなれんが、今日はゆっくり骨を休めていって欲しい」

 そう言って、二人のグラスに新しい酒を注いだ。
 
「それで十分だぜ。お前さんみたいなべっぴんさんに酌をしてもらえれば、明日の活力も生まれようってもんだ、なぁ女王?」
「まぁそんなところだ。ちなみに君は、リィ達がこの星に来るまでここで働くつもりなのか?」
「うむ。しかし、リィ達がこの星に着いたとして、すぐに帰れるかどうかは分からん。なにせ、俺は彼らの助太刀をすると誓ってしまったのだ。迎えが来て、はいさようならというわけにもいかんだろうなぁ」

 難しい顔をしてしまったウォルである。
 なるほど、これは確かに金色天使の同盟者らしいと、怪獣夫婦は内心で苦笑した。普通の人間はもっと利己的で、自分の都合を最優先させるものだ。別にそれが悪いわけではない。むしろ当然、万人がそういった価値観を持つ前提で、この世界は成り立っていると言っても過言ではない。
 だが、リィもウォルも、そういった価値観とはどうやら無縁のようだ。もしくは、もっと武骨な価値観が、全ての利己主義の前に優先されているというべきか。
 不器用、それとも頑固。突き詰めて言えば、異常。
 しかしケリーもジャスミンも、二人のことを嘲笑うつもりにはなれなかった。自分達にも多分にそういった価値観が備わっているというのもあるが、なによりも不器用な二人が好ましかったからだ。
 だからこそ、自分達が彼女に手を貸す必要はないだろう。無論ウォルの方から助けを求められれば最優先でそれには応じるのだろうが、不要な助力を快く受け取れるような人間であれば今、彼女はこんな場所にはいないはずである。
 ケリーは一つ頷いてから、言った。
 
「わかった。とりあえず、黄金狼から連絡が来たら、お前さんはこの酒場で働いてるって言っておけばいいんだな」
「ああ、もう今更だ。いつでも来い、この格好で酌をしてやると伝えておいてくれ」
「その時はわたし達もご相伴にあずからせてもらってもいいかな?」

 にやりと不敵に笑ったジャスミンである。ケリーもその意見には大賛成だ。なにしろ、一人でもこれほどに愉快な人間が、もう一人増えればどれほど楽しい酒になるか知れたものではない。それに、ひょっとしたらシェラとルウの二人も一緒かも知れないので、四人になるかも知れないのだ。そんな楽しい席を逃すなど、どう考えても重大な損失である。
 ウォルは苦み走ったような笑みで首肯した。これも正しく今更であり、この二人を遠ざける魔法の言葉を、ウォルは持ち合わせていなかった。

「そのときは存分に飲み明かそう。出来れば、俺の厄介事も卿らの厄介事も終わっているといいな」
「ああ。打ち上げパーティーは盛大にやろうぜ」

 さて何度目か知れないが、三人がグラスを打ち合わせようとしたとき、

「おい、ウォル!てめぇ、そんなところで何油売ってやがるんだ!」

 少年の叫び声が、三人の耳に飛び込んできた。
 ケリーとジャスミンが声のした方向に目を向けると、そこには肩を怒らせながらこちらに歩いてくる、少年がいた。白と黒のタキシードに身を包んだウェイター姿であり、首にはきっちりと蝶ネクタイを結んでいる。
 薄暗い店内では分かりにくかったが、どうやら相当の美男子のようだ。目鼻立ちははっきりとしていて、どこか甘やかですらある。銀色の長髪を後ろで一括りにした様子と相まってウォルと同年代の少女のようであるが、顔の造りにははっきりと男性特有の鋭さが表れ始めていた。
 店の、おそらくは熟練のバニーガールが、脇を通り抜けるその少年に熱っぽい視線を送っていた。普段から脂ぎった中年男性の相手ばかりをしている彼女達からすれば、その少年の凛々しいタキシード姿は一服の清涼剤なのだろう。小さな溜息すら漏れる始末である。
 歳の頃は、二人の孫であるジェームスと同じ頃合いだろうか。それにしてはやや大人びた様子なのは、育ってきた生活環境の違いかも知れない。ケリーとジャスミンは、その少年から宇宙生活者特有の擦れ具合を感じていた。

「おう、インユェ。お前も一杯どうだ?」

 インユェと呼ばれた少年は、目の前の少女を小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、

「いい気なもんだよな、ウォル。お前も姉貴も、阿呆な男共と一緒に酒を飲んで馬鹿話をすりゃあ金が稼げるんだからよ。俺はさっきから皿洗いと酒の配膳とバウンサーと……。お前を変態金持ち連中に売り渡しとけば、こんな苦労を味合わずに済んだのによう……」

 バウンサーとは、酒場の用心棒のような仕事である。酒によって無体な働きをする客に快くお帰り頂くのがその仕事内容だ。へたをすれば暴力沙汰に巻きこまれるし、客が懐で暖めている必殺の武器でズドンとやられることも珍しくはない。
 
「うむ、それはご苦労だったな。しかし、そういう意味で言うならば俺は正しく仕事の真っ最中だ。油を売っているという言い方はひどいぞ」
「うるせぇ!俺のドレイの分際で、知ったふうな口を訊くんじゃねえ!」
「わかったわかったご主人様。で、何の用だ?それこそ無駄口を叩きに来たのか?」
「……そろそろショウの時間だから、用意しとけって店長が。お前のを目当てで来てる客も結構いるから、接客は適当なところで切り上げて来いってよ」
「おお、そういえばそんな時間か」

 ウォルは少々慌てた様子で時計を見た。
 それから二人のほうを向き直って、手を顔の前で合わせながら言った。
 
「そういうことなので、申し訳ないが席を外させてもらう。いや、卿らとはもう少しゆっくり語らいたかったのだが、まことに相済まん」
「ショウって……まさか、ストリップとか、そういう下劣なものではないだろうな。であれば、君の意見はどうあれ、全力で止めさせてもらうぞ」
「いやいや、もっと控えめな、ちょっとした宴会芸程度のものだ。そこのステージでするから、もしよければ見ていってやってくれ」

 ウォルが指さした先には、なるほど結構な広さのステージがあった。例えばジャズのセッションやちょっとした大道芸くらいなら問題無く出来そうな広さで、この規模の酒場には珍しいものだったかも知れない。
 そこには、ジャスミンの心配した、ストリップクラブなどではお決まりのポールダンス用のポールなども無かったので、彼女はひとまず安堵の息を吐き出した。
 カウンター席から飛び降りたウォルは、小走りで店の奥に消えた。ウェイター姿の少年も、不審げにケリーとジャスミンを一瞥した後で、ウォルの後を追って店の奥に歩いて行った。

「ショウねぇ。どうする、女王?」

 そう言いながらケリーは腕時計で時間を確かめた。
 そろそろ良い時間である。明日は朝早くから車を走らせて、ヴェロニカ教の総本山まで向かうつもりなのだから、酒はそろそろ控えたほうがいい。それに、体力的なことを考えてもそろそろ就寝するべき時間だ。これから先、この星で何があるのか分からないのだから、体力の維持には気を使って使いすぎるということはない。
 しかし、折角リィの婚約者であるという少女が、見ていって欲しいと言ってくれたのだ。何事も言わずに帰るのは義理に欠けるし、なにより勿体ない。
 ジャスミンは、口を開く前に夫の顔を見た。夫は、不敵な笑みを浮かべながら、店の中央に設けられたステージのほうを眺めている。何の事はない、既に彼の意見は決まっていたらしい。
 ジャスミンは肩を一つ竦めて、ステージのほうに体を向け直した。そして、思い出したように言った。

「ところでな、海賊よ」
「うん?どうしたよ、女王」
「先ほどの、ウォルを呼びに来た少年なのだが、お前はどう思った?」

 先ほどの少年を思い浮かべてみる。
 別に、どうということはない、普通の少年だった。確かに顔の造りは整っていたが、だからといって騒ぎ立てるような趣味もないし、他に際立った特徴があったわけでもない。

「いんや、別に何とも思わなかったがね。宇宙船のジャンク屋とか海賊船の飯場でも探せば、いくらでも見つかる小僧だったと思うぜ?」
「それはそうなのだが、何というか、顔立ちが、誰かに似ていると思わなかったか?」

 誰かに似ている。
 そう言われても、脳内で検索をかけなければいけない顔の数が多すぎる。ケリーはふぅむと唸り声をあげ、宙空を見つめる視線で、

「……強いて言えば、シェラに似てるかな?髪は銀色だし、少し色合いが違うがあの小僧も紫色の瞳だった。肌の色の生っ白さも、まぁ似ていると言えないこともねぇわな」
「パーツで言えばその通りだな。だが、顔の造りは全く違うぞ」

 それは首肯せざるを得ない。少女と見紛わんばかりの顔立ちの……というよりは極上の美少女そのものの顔立ちであるシェラに比べると、先ほどのインユェと呼ばれた少年のそれはどちらかというと男性よりであった。まだ子供特有の中性的であどけない雰囲気が残っているものの、あと五年もすれば、同年代よりは年上の女性にとっての羨望の的となるような、そういう青年に化けるだろう。
 しかし、それが誰に似ているかと問われれば、果たして誰に似ているのだろうか。
 
「俺ががきんちょの時分は、あんな顔だったかねぇ」
「なるほど、そう言われてみれば、意中の異性に対して余裕無く先走った様子は、確かにあの時のお前にも似ているのかも知れないな、海賊」

 楽しげなジャスミンの声である。
 先ほど、ウォルのことを奴隷と言い切った少年の顔は、むしろ彼自身の心が少女の所有物になってしまっていることを二人に知らしめた。あれくらいの歳の頃の少年にはよくあることで、自分が好ましく思っている存在に対して少々居丈高になってしまうのだ。
 その少年に、昔の自分が似ているという。それを言われると、昔の、年上の少女に憧れを抱いていた頃の自分を思いだし、苦笑いを浮かべるしかないケリーだった。

「だが、そういうことじゃあないんだろう?」
「ああ。もっと分かりやすく、あの少年の顔が、誰かに似ている気がするんだ。誰だったか、どうしても思い出せないんだが……。ひょっとしたら海賊、お前はどこかで見覚えがないか?」
「そう言われると、どっかで会ったような気もするんだがなぁ……」

 ケリーも頭を抱えてしまった。
 確かに、どこかであったような気がする。だが、誰かと問われれば、答えは霞がかった記憶の向こう側だ。
 ケリーとジャスミンの共通の知り合いといえば、この宇宙の端から端まで、数が多すぎて数え切れない程にいるが、全ての顔と名前が一致するわけではない。小さいものから大きなものまで、うんざりするほどのパーティーに参加してきたし、各種会合にも出来るだけ顔を出してきた二人である。それらの出席者を一々思えているほど、二人の記憶力もずば抜けているわけではないのだ。ちらりと視線を交わしただけの招待客から『あのときのパーティではお世話になりました』と言われたときほど困ることはない。
 だが確かに、どこかで見た顔である。無論、少年の顔そのものではない。彼の顔には、二人の共通の知人の面影があるのだ。
 
「俺もあんたも知ってるってことは、海賊関係じゃあねえよな」
「同じ理由で、軍隊関係も省かれる。ということはやはり政財界の知り合いだと思うのだが……」
「そんな連中の息子が、果たして宇宙生活者なんかやってるもんかね」

 『なんか』とは言うが、ケリーは別に宇宙生活者を見下しているわけでは全く無い。彼自身、自分が宇宙生活者であることに誇りを感じているのだし、大企業の経営者などという枷を付けられていたときも、いつだって心は宇宙の遙か彼方にあったのだから。
 それはジャスミンも同じだ。彼女自身卓越した宇宙戦闘機乗りであるし、彼女の父であるマックス・クーアは優れた経営者であり天才科学者でもあったが、それ以上に宇宙生活者である自分を好んでいたのだ。
 しかし、そういった個人的な好悪の念を別にして、宇宙生活者に与えられる世間的な価値が極めて低いものであることも、二人は十分理解している。だからこそ、高い選民意識を持つエリート階層の人間が、その子女を宇宙生活者にするなど考えにくい。
 無論、これはあの少年が宇宙生活者であることを前提とした理屈なのだが、二人はその事実に確信を持っていた。野生の生き物がそうであるように、彼らには自分以外の人間が自分と同じ生息域に住む生き物かそうでないかを見分けるための嗅覚が備わっていたから、それが今回に限って誤作動を起こしたとは最初から考えていない。
 傾げた首の戻らない怪獣夫婦だったが、そんな彼らの都合などうっちゃって、店内の照明が突然落とされた。そして、店の中央のステージに、安っぽいスポットライトが照らされる。
 どうやら、先ほどの少年が言っていたショウとやらが始まるらしい。
 まず壇上に上がったのは、赤い丸鼻を付けた、ピエロの男だった。頭にシルクハットを被り、それとは似つかわしくない極彩色に華やかな衣装を身につけている。ステッキなどを振り回し、何ともコミカルな動きである。
 付けひげには見えない豊かな口髭は、真っ白に染まっている。背中こそ曲がっていないが、ひょっとしたら相当に高齢なのかも知れない。
 覚束ない足取りでステージの中央まで行くと、深く腰を折りながら一礼し、簡単な前口上を述べた。お集まり頂いた紳士淑女の皆様方、ただ今より世にも不思議なショウの始まりです。しばしの間、煩わしい時間のことなど忘れてお楽しみください……。
 店内から、ぱらぱらと拍手が起こり、ピエロの男はもう一度深く腰を折った。それを合図に、マジックショウにはつきものの、安っぽいBGMが流れ出す。
 まずピエロは、手にしたステッキを観客に見せるように胸の前に構えた。そして、ことさら見せ付けるよう、ゆっくりとした慎重な手つきで、一本一本指を放していく。
 小指、薬指、中指と離れ、最後に人差し指と親指が離れても、ステッキは重力を無視したように彼の胸の前で浮いていた。そして、彼の手を放れたステッキはふわふわと宙を浮かび上がり、踊るように二、三度跳ね回った後、ピエロの頭上で激しく燃えて姿を消してしまった。
 観客席から、先ほどよりも大きな拍手がわき起こる。ケリーとジャスミンも、拍手をした。種は知っていたが、しかし中々見事な手さばきであったし、こういうときは拍手をするのが礼儀でもあったからだ。
 そしてステージの上では、お決まりのマジックがいくつも繰り広げられていった。手を触れずに遠くに置かれた物体を動かす、グラスの中に隠したコインが移動している、何も入っていないはずのシルクハットの中から兎が飛び出す。たまにわざと失敗して笑いを取るのもご愛敬だ。
 中にはお決まりの人体切断マジックもあった。

「おや、あの少年は……」
「ああ、ウォルを呼びに来たがきんちょだな」

 今、ステージの上でチェーンソーで真っ二つにされかかっているのは、先ほどの銀髪の少年であった。台の上に横たわり、顔以外を長方形の箱にすっぽりと収められた少年の顔は、まるで処刑に怯える死刑囚のように真っ青で、悲壮感が漂っている。当然のこと演技以外の何者でもないはずなので、中々の役者のようだ。
 無慈悲に振り下ろされる電動のこぎり。
 真っ二つになった箱は大きく二つに分かたれ、少年の下半身と上半身は泣き別れになった。ぐったりとした少年はまるで死人のような有様だ。
 まさかそんなことはあり得ないと知りつつも、息を飲む観客。だが、もう一度箱をくっつけてマントを掛けて呪文を唱えれば、あら不思議。少年の体は元通りになっているではないか……。
 立ち上がった少年が観客にお辞儀をすると、大きな拍手が巻き起こった。記録映像では使い古された種のマジックであるが、実際に目の前で見ると結構迫力があるものなのだ。
 少年が舞台袖に姿を消すと、次に、かなり扇情的な格好をした妙齢の女性が舞台に立った。褐色の肌に硬質な金の長髪、女性にしてはかなり大柄な長身。身に付けているのは辛うじて局所を隠せる程度のビキニの水着とハイヒールだけという、男好きのする衣装であった。
 どこかで、下卑た口笛が鳴らされた。しかし女性は少しも嫌がる顔をするでもなく、嬉しそうに手を振り、むしろその豊かな胸を見せ付けるようにして歩いた。
 
「メイフゥちゃーん、愛してるぜー!」

 馬鹿な男のヤジが飛ぶ。もしかするとあの女性は、先ほどまでウォルと同じようにバニー姿で接客をしていたのかも知れない。
 メイフゥと呼ばれた女性は観客に媚びた笑みを振りまきつつ、舞台の上に用意された大きめの檻の中に入った。
 ピエロは、女性が中に入るのを確認すると入口に南京錠を掛け、その檻を広い布で覆った。
 そして、一、二、三の合図で布を剥ぎ取ると……。

「へぇ」

 思わずケリーとジャスミンも声を上げていた。
 檻の中に、女性の姿はなかった。代わりに、立派な体格の虎がいたのだ。
 これには、観客も度肝を抜かれ、盛大な拍手で答えた。おそらくは舞台底に仕掛けがあり中の女性と虎が一瞬で入れ替わったのだろうが、それにしてもこんな規模の店のマジックショウでお目にかかれるような安っぽい手品ではない。盛大な拍手が起きて、むしろ当然と言うべきだろう。
 いきなり衆目に晒されたかたちの虎は、警戒のためか大きく唸り声を上げた。店内を圧してあまりあるその声に、先ほどまで浮かれていた客も息を飲んだが、ピエロの男が手を下に向ける動作をすると虎は落ち着いてお座りをした。どうやら、きちんとしつけが行き届いているらしい。
 再び、盛大な拍手が巻き起こる。ピエロはそれに応えるように大きく一礼をしてから、再び檻に覆いを掛け、ほどなく剥ぎ取った。中には、メイフゥと呼ばれた女性がきちんとポーズを取って立っていた。
 もう一度、割れんばかりの拍手が巻き起こる。ケリーもジャスミンも、同じように拍手をしていた。

「いやぁ、いいもんを見せてもらった」

 ケリーが噛み締めるように言った。ジャスミンもそれに応えて、
 
「確かに、こんな店でお目にかかれる規模のマジックではないな。少し得をした気分だ」
「ああ、女王、それもあるんだがな。俺は生まれて初めてみたぜ、あんなマジックは」

 美酒で満たされたグラスを片手に、心底愉快そうなケリーである。
 ジャスミンは少し不思議そうに、しかし声を若干ひそめて、

「確かに見事なマジックだったが、そこまで手放しで褒めるほどのものか?あれなら、もっと見事な脱出マジックや入れ換えマジックなど、いくらでもありそうなものだが」
「だが、ネタを知ってるマジックってのは、どんだけでかい規模でやったところで面白みは半減するもんさ。その点、俺はこんなに見事なマジックは見たことがねえな」
「見事と。しかし、あれは舞台底に仕掛けのある、言うと悪いが、ごくごくありふれた普通の入れ換えマジックではないのか?」
「言っとくがな、あの舞台底に仕掛けなんてないぜ?」
「……本当か?」
「おや、女王様はあのマジックのトリックがおわかりにならない?」

 ケリーは、意地悪そうににんまりと笑った。
 こういうとき――例えば、同時に読み始めた推理小説で自分だけトリックの答えに気がついたときや、小難しい数学パズルの答えを自分だけが閃いたとき――などは、言い様のない快感があるものだ。その点、子供っぽいところのあるケリーなどは人一倍である。なんとも嬉しそうな顔で、自分の妻の顔を見た。
 逆に、そういうときに取り残された方は、言い様のない不快感があるものだ。それなり以上に自尊心のあるジャスミンは、冷ややかな瞳で自分の夫を射貫いた。

「いいぜ、教えてやる。実は、あのマジックはな――」
「黙れ海賊。それ以上しゃべったら即刻離婚だ」
「おお、怖え怖え」

 ぎろりと、金色の瞳の瞳で睨みつけられたケリーは、怯えたような様子で肩を竦めた。
 言うまでもないが、ふりである。彼の内心がどこにあるのかは、どこまでも優しげな琥珀色の視線を見れば明らかであろう。
 そしてジャスミンも、ケリーの本心がどこにあるのかを知っていた。自分に子供っぽいところがあることも理解していた。その上で、ケリーから答えを聞く気には到底なれない。何としてもこの男の鼻を明かしてやろうと、そうでなければ折角の美酒が胃の中で発酵して酢になってしまうと、そんな気持である。
 だが、舞台底に仕掛けが無いとすると、あとは何が考えられるだろうか。先ほどのマジックに使った道具は、檻と、檻を覆い隠すための布、中に入った女性くらいのものだ。
 種も仕掛けもありません、とはマジシャンの使い古された口上であるが、基本的にマジシャンの用意する道具の中に、種も仕掛けも無いものこそ無いのである。
 ジャスミンはいくつかの種を考えてみた。
 例えば、檻の中に光を屈折させる仕切りのようなものを用意しておく。最初に布で覆われた瞬間に女性はその奥に隠れて、代わりに奥に隠れていた虎が前面に出る。薄暗い照明でしか照らされていないのだから、少々出来の悪い光学迷彩皮膜であっても十分に観客の目を誤魔化すことは出来るだろう。檻の中に人間と虎が同時に入ることになるが、よく訓練された動物はそうそう人を襲うものではないから、不可能とまでは言い切れない。
 他にも、ジャスミンは自分の目が先ほど確かめた現象を、幾通りもの手段でもって脳内で再現せしめたし、そのうちのいくつかは実際の手品に使われる手法でもあった。
 しかし問題は、その程度の小手先のトリックで、海賊王とまで呼ばれたこの剛胆な男を感心させることが出来るのか、という一点である。その一点のみをもって、ジャスミンは咄嗟に思い付いた全てのトリックに落第印を押さざるを得なかった。

「ふぅむ」

 指を形の良い顎に当てて、ジャスミンはしばし黙考した。
 その時である。
 先ほどまで流れていた軽快で妖しげなBGMが鳴り止み、代わりに、どこか懐かしく、胸を梳くような調子の笛の音が流れてきたのだ。
 それも、機械を通した味気ない音ではない。すぐ近くで、誰かが実際に吹き鳴らしているようだった。
 いつの間にか、ステージを照らしていたスポットライトも消えて、店内は手元もはっきり見えないような薄暗がりに満たされている。
 ふと見れば、ステージの脇の方に、先ほどのインユェと呼ばれた少年が座っていて、粗末な横笛を構えている。いつの間に着替えたのだろう、さっきまでのぱりっとしたタキシードではなく、ゆったりとした民俗調の服を身に纏っている。色合いは紺一色と極めて地味なものだが、布の多い服の造りから、質素という印象からはほど遠い服だ。
 先ほどから流れる、遠い記憶の琴線を掻き鳴らす笛の音は、彼の演奏によるものらしい。
 のんびりと、遠くの山から響いてくるような笛の音に、いつしか弦楽器の調べが重なる。
 ステージの脇、インユェのいる方とは逆側に、妙齢の女性が胡座を組み、やはり簡素な造りの弦楽器らしきものを弾いていた。
 先ほど、虎のショウのアシスタントとして参加していた女性だ。名前はメイフゥといったか。服はインユェの身に纏っているものと同じだが、色合いは比べものにならないほど華やかだ。赤と紫、金糸と銀糸をふんだんに使い、薄明かりの中でもきらきらと輝いていた。
 観客席からは、物音一つしない。ただ、二つの楽器の音に聞き入っている。仕事の疲れとアルコールの催す眠気、美しい調べが客の意識を空白にするのだろう。
 そして気付けば、ステージの中央に、人影が一人、立っていた。
 ほとんど光源の無い舞台では、一体誰なのかわからない。
 ただ、何か、細長いものを持っていることだけはわかった。
 片手に、小さな体には似つかわしくない大振りな鋼の塊。
 剣だ。
 剣を携えた小さな人影が、ステージの中央に立っていた。
 
「ウォルだ」

 ケリーの呟きに、ジャスミンは返答する必要を見いださなかった。
 ただ茫然と舞台を見つめる観客達と同じく、無言で見入っている。
 しばらくすると、舞台の照明が少しずつ明るくなり、人影の輪郭がはっきりしてくる。
 濃い化粧を施していた。呆れるほどに白粉を塗りたくった顔、その目元や口元には鮮やかな紅で隈取りがされ、返り血に濡れた悪鬼の如く厳めしい表情が作り出されている。
 豊かな黒髪は後ろで一括りにされ、煌びやかな髪飾りで束ねられていた。
 小さな体は、薄絹を幾重にも折り重ねたような、不思議な衣装に包まれている。質の良い絹糸で織られているのだろう、淡い舞台の照明に艶やかな光を返しつつ、店の僅かな空調にふわふわと揺れている。
 大人ではあり得ない華奢な身体付きに、どこか女性的なまろやかさがある。
 ケリーの言うとおり、その人影は、先ほどまで二人と歓談していた少女のものであった。
 ウォルは、舞台の上で優雅に一礼した。
 そして、双子の姉弟の流す調べに乗せて、すっと足を踏み出した。
 そろりと、畏れるような踊り出し。薄い枯葉が、凪いだ水面に触れるような。一振りの波紋を起こすことすら恐れているような。
 羽衣を纏った天女の如く、少女は踊る。
 激しい踊りではない。踊りというよりは舞いといったほうが漸近だろう。
 緩慢で繊細な足運び。指先、髪の先まで神経の行き届いた所作は、神託を告げる最も高名な巫女のようですらある。
 小さな手に構えた飾り気のない大剣だけが、神聖であるべき神の使者には些か似つかわしくない。しかし、その少女には何よりも似合っている。彼女は、剣を手にすることで初めて完成するのだ。
 横笛と弦楽器の奏でる曲調は、やはりゆっくりとしたままだ。その速度に合わせて、剣を緩やかに宙空に泳がせる。切っ先が地面と水平に、すぅと、左から右へと流れていく。それだけの動きが、溜息が出るほどに美しい。
 花弁が綻ぶような速度だ。徐々に、徐々に、信じられない程に遅々とした速度で、しかし確実に花は開く。誰もその動きを理解することは出来ないが、いつの間にか花は花として咲き誇っている。その速度が、少女の踊りの中にある。およそ舞踊といえるような速度ではないのに、それはやはり最高の舞踊なのだ。誰の目にも捕らえられない。しかし、誰しもの心を捕らえて放そうとしない。
 ケリーとジャスミンも、溜息をすら忘れて見入っていた。
 だが、開いた花は枯れるのだ。それも、驚くほどに、残酷なほどにあっという間に。
 次第に、曲調は速く、激しくなっていく。活気に満ちた、精力的な調べに変わっていく。
 ウォルの踊りも、それに会わせて少しずつ雄壮に、華麗に変貌していった。
 豊穣の神に捧げる奉納の舞いから、戦の神に捧げる剣の舞いに。
 髪を振り乱し、一心不乱に踊る。激しい調べを追い越そうとするように、踊る。
 足を大きく振り上げ、思い切りに振り下ろす。ずどん、と、舞台の底が抜けるのではないかというほどに、大きな音が鳴った。
 汗が舞い散る。証明に照らされてきらきらと光るそれが、宝石のように少女を飾り付ける。
 演奏する二人も必死だ。ぎゅっと目を閉じ、こめかみを汗で濡らしながら楽器と格闘している。いや、楽器と格闘するふりをしながら、ウォルの舞踊と戦っている。
 その戦いが、舞台をより高みへと押し上げる。
 到底、場末の酒場の狭いステージの上で催されて良い演目では、なかった。
 その舞台で、少女は微笑っていた。
 口元を綻ばした少女が、剣を鋭く振る。空気の裂ける音が聞こえる。ケリーとジャスミンの目には、真っ二つに泣き別れた敵兵の胴体が見えた。
 背中を、首筋を大きく反らせて、何かを躱すような動作をした。きっと少女の視界には、先ほどまで首があった場所を振り抜けた、敵兵の剣が見えているのだろう。
 いつしか、少女は舞台の上で戦っていた。一人ではない。きっと、たくさんだ。たくさんの敵兵に囲まれ、戦っていた。
 だが、少女も一人ではない。一人で戦っている少女が、何故あそこまで楽しそうに剣を振れるものか。
 誰かが、少女の背中を守っている。背中を守る誰かに、絶対の信頼を置いている。背中を守られた少女だからこそ、あんなに楽しそうに戦えるのだ。
 観客は、そこまでのことは分からなかった。
 ケリーとジャスミンは、知っていた。誰が彼女の背中を守っているのか、知っていた。
 その誰かの頭は黄金の髪で飾り付けられ、一滴の返り血も浴びていないに違いない。その誰かの瞳は緑柱石色に輝き、敵兵には死に神の宝玉のように見えていたに違いない。
 その二人が、背中を守り合って戦っているのだ。
 少女の戦いは、いよいよ佳境へと近づいていく。彼女の足下には、無数の勇士の遺体が転がっているのだろう。
 曲も、最初の曲と同じものとは思えないほどに激しくなっている。暴力的ですらある。弾きはじめが小川のせせらぎだとすれば、今は猛り狂った暴れ川としか思えない調子だ。
 どんどん速く、くるくる鋭く、歯車のように回転する剣と体。それに合わせて、笛と弦の調べも加速していく。
 もう、これ以上速く、人の体は舞えない。
 もう、これ以上速く、人は楽器を操れない。
 誰しもがそう思い、息を飲んだ、その瞬間。
 少女が、舞台の上で、跳ねた。
 突進してくる馬をそのまま飛び越えられるほどに高く、跳んだ。
 この場に居合わせた全ての人間の視線が、少女の身体を追って浮きあがった。何人かの口元は、だらしなく開きっぱなしになっていた。
 そして少女は、音もなく、ふわりと着地した。膝を折り、神に祈りを捧げるような姿勢で着地した。
 纏った薄絹の衣が、少し遅れて地に着いた時、調べは止まっていた。
 戦いが、終わったのだ。
 一瞬遅れて、割れんばかりの拍手が店内を満たした。誰しもが立ち上がり、惜しみない拍手を送っていた。
 ケリーとジャスミンも、その例に漏れなかった。 

「ジンジャーがこの場にいなくてよかった」

 カウンターの粗末な椅子から立ち上がったジャスミンが、忙しなく拍手をしながら、ぼそりと呟いた。
 同じく立ち上がったケリーが、その呟きに応える。

「どうして?」
「間違いなく歯軋りをして悔しがるぞ。どうしてここがセントラル中央劇場の舞台じゃないんだと言ってな。これは到底、百人やそこらの目にしか触れない場末の酒場に相応しい演目じゃあない」
「ああ、確かにあいつならそう言いそうだな」

 自分を百年に一人の名女優と憚りなく言いながら、しかし自分以外の、もう一人の百年に一人の名女優を発掘することに心血を注ぐ彼女のことだ。きっとこの舞台を見れば、すぐさま舞踊手と奏者に声をかけ、どうにかして芸能界へと引っ張り込もうとするだろう。そんなことになれば、ただでさえ天井知らずに加熱している観客達の熱気に更なる燃料が注がれるのは明らかであり、結果としてどのような混乱がもたらされるのか分かったものではない。
 未だ興奮覚めやらぬ客に一礼すると、ウォルは舞台袖に引っ込んだ。しかし、拍手は依然鳴り止む気配を見せない。
 そして、スポットライトが落とされ、代わりに舞台全体照らし出す照明が灯される。
 そこには、先ほど演奏をしていた二人の男女と、おそらくはピエロを演じていた初老の男性、そして濃いメイクを落とした素顔の少女がいた。
 ケリーとジャスミンも初めて見る、ウォルの素顔である。
 ウォルは、嬉しそうに笑いながら、客席に向けて手を振っていた。天真爛漫という表現が何よりも相応しい、底抜けに明るい笑顔だ。それは、今まで彼女を飾っていたどのような化粧よりも、遙かに華やかに少女を飾り付けている。
 間違いなく、今までで一番美しい彼女だった。

「おい、ダイアン。さっきのバニー姿だけじゃ殺生だからよ、今のウォルも黄金狼のところに送ってやってくれ」

 こっそりと、通信機に向けて語りかける。返答こそなかったが、伝わる気配がダイアナの嬉しそうな笑顔を思い起こさせた。

「さて、海賊。どうする?我々も、あの輪の中に加わるか?」

 とは女王の言葉である。
 気がつけば、黒髪の少女は多数の観客に囲まれてもみくちゃにされていた。興奮とアルコールに頬を赤らめた観客が、少女の演舞を褒めちぎり、同時に多額のおひねりを少女の手に握らせる。中には情熱的に少女の身体を抱きしめたり、頬にキスをする客もいた。
 ウォルは、少し困ったように笑いながら、しかし嬉しそうに一人一人と話していた。ひょっとしたら、先ほどまでバニー姿で接客していた相手だったのかも知れない。
 
「いや、やめとこう。あの中に割り込むのは骨が折れるぜ」
「そうだな。我々は、ここで彼女とお別れというわけでもないのだから、先ほどの見事な踊りの感想を伝えるのはまた今度ということにしよう」
「だが、おひねりの類は今渡しとかねえと、賞味期限が切れちまうぜ?」

 確かに、あとになってから『あの時のおひねりだ』といって現金を渡しても、無粋にも程がある。
 そんな夫の意見をジャスミンは気にするふうでもなく、

「なに、結婚式の贈り物の数を一つ増やしてやればいいさ。どうせ両手では抱えきれない花束を贈るつもりなのだから、それが新郎新婦の両手両足でも抱えきれない量に増えるだけだ」
 
 ジャスミンの口調は冗談めかしたものであったが、この女は間違いなく実行するだろう。遠くない未来、二人の結婚式に招かれた人々は、式場を埋め尽くすような花束に目を丸くするに違いないのだ。
 ケリーはそう思って、かたちの良い唇を僅かに持ち上げた。そして、氷が溶けて薄くなってしまった酒を一口で飲み干した。
 その時、カウンターの向こうから、声を掛けられた。

「兄さん方、悪いがそろそろ店じまいなんだ。最後に何か、軽い飲み物でも頼むかい?」

 この店のマスターの、赤ら顔がそこにあった。

「もう店じまい?まだ宵の口ではないのか?」

 ジャスミンは腕時計に目を落とした。
 そこに刻まれた時間は、宵の口と言うには遅いが、しかしまだ日付が変わるようなものでもなかった。少なくとも、こういった店はまだまだ稼ぎ時、閉めるには早すぎる時間に思える。
 
「外の人の感覚からすりゃあその通りなんだが、この星じゃあ十分に遅い時間なんだよ。人はお天道様に従って、夜は早く寝て朝は早く起きる。それが一番なんだとさ」
「なるほど、そういうものか。どうする、海賊?」
「いや、これだけ旨い酒を飲んでおいて、最後に舌を汚して帰るのも勿体ない話だからな、今日は遠慮しとくぜ。会計はどこでするんだ?」
「いいさ、今日は俺のおごりだ。お前さん方には湿っぽい話も聞かせちまったし、その迷惑料だとでも思ってくれ」

 気の良いマスターは、皺の多い顔を尚更しわくちゃにして笑った。
 ケリーは、その手の好意を無碍に断ることこそ失礼だと確信していたので、おごられておくことに決めた。

「ありがとよ。また今度寄らせてもらったときは、倍返しで払ってやるから覚悟しとけよ」
「おう、その時は先に連絡を入れてくれ。チュチュ・ワームの刺身を作って待ってるからよ」
「そうか、そいつは楽しみだ!」
 
 ケリーは立ち上がった。
 ジャスミンも、それに倣い、穏やかな笑みを浮かべながら、

「ウォルにはよろしく言っておいて欲しい。特に、先ほどの舞台は見事だったと伝えておいてくれ」
「おや?会っていかねえのか?おたくらとウォル、さっきは結構盛り上がってたじゃねえか」
「会っていきたいのは山々なんだが、あの様子ではそれも迷惑だろう」

 ジャスミンの視線の先には、未だ観客からの熱烈な饗応を受けている少女がいた。手当たり次第に、差し出されるグラスを空にして、その度に大きな拍手が起きている。
 今からあの輪の中に入り、親しく個人的な話を始めては、他の客の興が削がれてしまうことは間違いない。
 店主もそれを理解したのだろう、苦笑して、

「わかった、お前さん達が絶賛してたと、きっちり伝えておくぜ」
「すまない」
「じゃ、そろそろお暇させていただくが、今日はありがとよ。旨い酒にとびっきりの美人、そして最高のショウ。ここは良い店だな」

 ケリーの言葉に、マスターは相好を崩して笑い、当たり前だと胸を張った。
 二人は立ち上がり、マスターにいざなわれて店をあとにした。後ろ髪引かれる思いがないではなかったが、自分達には為すべきことがあるのだから、全てはそれを終わらせた後の話だ。
 来たときと同じく、狭っ苦しい廊下を抜け、薄汚れた階段を昇り、店の外に出る。
 夜風は、思ったよりも冷たくなかった。もしかしたら相当冷え込んでいるのかも知れないが、身体中を駆け巡るアルコールが、体を芯からぽかぽか温めてくれているから寒さは感じない。
 規格外に大きな体を持つ二人は、陽気な足取りで歩き始めた。ケリーの手には、土産として渡されたカラ酒のボトルが二本、抱えられている。
 ホテルまではそれなりの距離があるが、こういう気分のときは歩くに限る。それに、下手にタクシーを止めて乗車拒否でもされたら、折角の良い気分に水が差されるではないか。
 ケリーが、いつもよりはほんの少し弾んだ調子で、しかし背筋は真っ直ぐに伸ばしたままに歩いていると、隣で、やはり少しも顔を赤らめることもないジャスミンが、低い声で呟いた。
 
「海賊。少しいいか」

 これは、先ほどの余韻を楽しむ会話ではないだろう。ケリーは気持を入れ換えて、しかしのんびりとした口調で問い返した。

「どうした、女王」
「ここに来るまでに、この星のことを少し調べた。ヴェロニカ教のこともだ。そして思ったことがある。そのことについて、お前の意見を聞きたい」

 二人は、相変わらずのんびりと歩きながらだ。辺りには、自分達と同じように店から追い出された酔漢や、物陰で何事かに励む男女がいたりして退屈しない。寂れた裏通りには裏通りなりの、情緒があるものだ。
 ケリーの返答を待たず、ジャスミンは切り出した。

「ヴェロニカが正式に共和宇宙連邦に加盟したのが935年のことだ。それまではペレストロス共和国の名前の、辺境の一惑星に過ぎなかった」
「ああ、それは知ってる」

 遠い、遠い昔のことだ。
 ケリーもジャスミンも、まだ世間的には子供と称される年齢だったはずだ。
 ケリーは考えた。一体その頃の自分は何をしていたのだろうか、と。
 憶えている。血液の色をした泥濘の中で、藻掻くように生きていたのだ。仲間達の、そして敵だった者達の無念を晴らすために、ただ生きていた。いや、無念を晴らすためだったのか、それすら怪しい。ただ、生きるために殺していたのだと言われれば、明確な反駁は難しいだろう。
 ジャスミンは、ケリーのことを知っている。自分と出会うまでの彼が、どれほど血生臭い少年期を過ごしたのかを。だからこそ、下手な気遣いは何よりもこの男の自負を傷つけるだろう。
 
「海賊、もしもこの話を不快だと思うなら、不快だとはっきりと言って欲しい。わたしは鈍い人間だからな、言葉で言われないと分からないんだ」
「そういうところはあんたの美点でもあり、そして欠点でもあるな、女王。あんたがこの上なくはっきりしてるのは、今に始まったことじゃねえ。それを承知の上で、俺はあんたの隣にいるのさ」

 だからそのまま続けてくれと、ケリーは笑いながら言った。
 ジャスミンも、くすりと安堵したように笑いを漏らし、

「では遠慮なく。共和宇宙連邦が誕生したのが738年。しかし、当時の共和宇宙は発見されたゲートの数の少なさや、長距離航行能力を持った重力波エンジン搭載宇宙船の希少さもあって、手近にあるいくつかの星と交易を結んでいれば上等、その他の、いったい宇宙のどこにあるのかも分からないような星のことなど最初から眼中にない、そういう時代だ。無論、それでも当時の政治家達が共和連邦を作るためにどれほどの尽力をしたかは言うまでもないがな」

 その当時のいきさつは、少し勉強の出来る中学生あたりであれば知っている、一般常識といってよかった。

「共和宇宙連邦が本格的に量的な、そして質的な膨張をはじめるのは800年代中頃から900年代中頃にかけてのことだ。理由は、重力波エンジンや《駅》の技術革新と廉価化による交易手段の発達。また、数多くの《門》がゲートハンターにより発見され、多数の新交易路が開拓されたのも大きい」
「ほとんどがあんたの親父さんの功績だな」

 ケリーの煽てるふうでもない言葉に、ジャスミンは「その通りだ」と頷いた。
 ジャスミンの父であるマックス・クーアが宇宙時代の人類に対して残した功績は、正しく計り知れないものが在る。だからこそ、彼は全宇宙で最大規模の財閥であるクーア・カンパニーを一代で築き上げることが出来たのだ。

「その時期、そして勿論今でもだが、共和連邦政府が未加盟国の加盟を承認するに当たっては、いくつも厳格な条件をクリアしなければならない。経済規模がどれほど大きかろうと、独裁政権の支配が続いている国の加盟は、今でも見送られ続けている」
「東西統一ウィノア政府が良い例だな」

 その言葉を口にしたケリーの表情には、如何なる感情も浮かんでいなかった。淡々と事実だけを述べる、冷たい視線があった。
 しかし、それは彼なりに気を利かせた結果なのだとジャスミンは知っていた。きっと、この話題を続けていけばいつかはウィノアに触れざるを得ないのだと、ケリーが思ったのだろう。他人に言わせるよりは、先に自分で言った方がましだと思った可能性もあるが。
 
「……そうだ。あの国も、非人道的な軍事実験から長く連邦加盟を見送られていた。そして、連邦加盟という餌をぶら下げられた結果、あのような事件が起きた」

 流石に核心の部分をはっきりということは、ジャスミンにも出来なかった。
 ケリーは、今更のことだと口元に笑みを浮かべて、

「遠慮はいらねえって言っただろうが。祟りを畏れるような性格じゃねだろうし、亡霊だってあんただけは避けて通るだろうぜ」
「海賊。わたしは呪いも亡霊も恐れはしないが、しかしお前を怒らせるのは怖い。だから、最低限の礼節は守りたいし、そこから先については一応の遠慮はしている。それは悪いことか?」
「別に悪かねえ。ああ、悪かねえよ」

 ジャスミンは一度頷き、

「だが本当のところは、共和連邦政府が東西ウィノア政府に加盟を働きかけていた、というのが実情だ。やはりあの規模の経済を有する国家だからな、多少の非人道性には目を瞑っても自分の仲間に加えておきたいという気持は分からないでもない。それでも、一応の建前として、非人道的な兵士の取り扱いをあらためるという条項にサインをさせた。逆に言えば、そういった建前無しに人権を軽視する国家の連邦加盟を認めることは、連邦自身にも出来なかったということだ。無論、ありもしなかった超人兵士達の存在を恐れたという間抜けな事情があるにしても、だ」
「結果として、一番徹底的で根本的な解決策が採られたわけだな」

 兵士に対する非人道的な取り扱いが問題だというならば、兵士そのものがいなくなればいいという理屈だ。無論細かいところの事実はそうではないが、外面だけを捕らえて大雑把にいえば、間違えてはいない。

「東西ウィノア統一政府の連邦加入が認められたのが、926年。そして、旧ペレストロス共和国、現ヴェロニカ共和国の加盟が認められたのが935年。時間的に見れば、ほとんど同時期に加盟したといってもいい程に接近した時期だ。当然、連邦加盟に求められる基準も近しいものだった。だが、東西ウィノア政府のときはあれだけすったもんだを起こした連邦加入審査委員会は、ヴェロニカ政府については呆れるほどあっさりとその加盟を認めている」
「別に、未加盟の国の全部がウィノアみたいに馬鹿な真似をしてるわけじゃねえだろうし、それが何か不審なのか?」
「お前の言うとおりだ、海賊。だが、当時の審査委員会は、東西ウィノアを一つの悪例ととらえて、未加盟国の加盟条件として、連邦憲章にある人権規定の遵守をまず第一に求めるようになった。今では当たり前のように認められる軽度な人権侵害――文化や宗教観で片付けられるような男女差別にすら彼らは唾を飛ばして抗議した。テロが起きた直後の空港の手荷物保安検査並だな」

 ジャスミンは続ける。

「ヴェロニカ教は、この宇宙でも珍しい、かなり特殊な教義を持つ宗教だ。そして、この星に住む人々の全員が入信していると言って間違いないほどに教徒の数も多い。その宗教に人権を軽んじる要素があれば、当時の審査委員会が問題にしないほうがおかしい」
「何か、具体的にそういう話があるのか?」
「数えればきりがないが、例えば、極端な断食修行がある。十歳になったばかりの子供は皆、ヴェロニカ教の塾に預けられ、そこで一ヶ月の間の絶食生活を送ることになる。無論最低限の栄養を確保するための食事は許可されるが、それでも食べ盛り育ち盛りの子供達が一ヶ月もの間空腹に悩まされることになるんだ。しかも、その状態で果実がたわわに実る野山に連れ出されて、自生植物に手を出さないよう訓練したりもするらしい。これが人権侵害でなくて、なんという?」
「ただの宗教的な価値観の違いだろう?別に、ヴェロニカ教を抜けたら死ぬっていうわけでもなし、勝手にさせたらいいんじゃねえか?」
「わたしもそう思う」

 ジャスミンは淡泊な調子で認めた。

「だがここで問題なのは、当時の審査委員会のお偉方がこの事実をどう考えるか、だ。最終的な加盟の可否に影響を与えるかどうかは置いておいて、問題くらいにはなりそうなものだが、議題にすらあがった形跡はない。それに、ヴェロニカ教を棄教したから死ぬわけではないというが、この星のほとんど全ての人間がヴェロニカ教であるという環境を考えれば、教えを捨てるには相当の覚悟がいることは事実だ。我々の認識と同じ感覚で棄教するのは不可能なのだろうし、そういう状況であれば教義のために命を危険に晒す者がいても不思議ではない。実際、あの誘拐事件は、そうした不幸なケースであるはずだ」

 あの誘拐事件とは、二人の孫であるジェームスと、リィやシェラが巻きこまれたヴェロニカ事件のことである。あれは、子供を死に追いやられた親の復讐劇であったのだ。
 
「確かに、議題にすら上がらなかったってのはおかしな話だが、あり得ない話とも言い切れないぜ?当時の調査が甘かっただけかも知れねえしな」
「わたしも、それだけなら別に不思議な話ではないと思う。しかし、他にもおかしな点がある。それは、ペレストロス共和国が連邦に加盟申請を出してから承認されるまでの時間だ。これが、他の一般的なケースに比べると、その平均の僅か三分の一という短期間で認められている。これは歴代の最短記録でもあるらしい。関係者はこの異例の速さの承認劇について流石に不審を憶えたようだが、ヴェロニカが辺境の一惑星であり、毒にも薬にもならない国だからだろうと考えて、それ以上の問題にはならなかったらしい」
「なるほど。さっきの話と合わせて考えると、どうにもおかしな具合だな。まるで誰かが、ヴェロニカの連邦加盟を急がせたような、そんな節があるぜ」

 ケリーの言葉に、ジャスミンは頷いた。

「わたしもそう思い、当時の記録を洗ってみた。すると、一つの国が、ペレストロス共和国の加盟を、密かに、しかし強力に後押ししているような形跡が見受けられた。ペレストロス共和国が異例の速度で連邦に名を連ねることが出来たのも、その過程で些細な人権問題が議題に上がらなかったのも、その国の威光があったのではないかと思っている」
「どこだ、それは?」
「エストリア」
「エストリアぁ?」

 流石にケリーも目を向いて、ジャスミンの顔を見た。
 だが、どこにも冗談を言っている様子はない。そもそも、こういう場で冗談をいうほど面白みのある性格でもないはずだ。
 ケリーは、擦れたような声を絞り出した。

「なんで、連邦加盟国の中でも一、二を争う超大国様が、言っちゃ悪いがこんな辺境国の連邦加盟を後押しするんだ?」
「わからない。ただ連邦議会の中で自分達の傀儡になってくれる国を探していたのか、それとも他に意図があったのか。どれだけ調べても、エストリアがペレストロス共和国を連邦加盟させることで何らかの利益を受け取っていたようには思えないんだがな」
「ふぅん……」

 ケリーは面白そうに呟いて、黙り込んでしまった。
 想像だけなら、どのように触手を広げることも可能だ。しかし確たる証拠もない以上、今はどのような議論も無意味だろう。
 だが、ケリーの中では一つの可能性が鎌首を擡げていた。ひょっとすると、最近のヴェロニカの外国人排除――というよりは異教徒排除の極端な姿勢も、全てはそこに行き着くのではないだろうか。
 
「なぁ、女王。実は俺も、少しあんたに聞いてもらいたいことがあるのさ」
「なんだ、海賊」
「俺も、この星については色々調べてみたんだが……どうやらこの星も、遺伝子操作やら品種配合やらで、生き物の設計図を弄くり回すのが好きな連中が多いらしいな」

 ジャスミンはさっとケリーの琥珀色の瞳を覗き込んだが、何も言わず、話の続きを促した。

「もっともこっちは、超人兵士の製造のためじゃなくて、教義を守るために植物の遺伝子を弄くってるらしいがな」
「ああ、それは知っている。確か、栽培植物だけを食べても栄養失調を起こさないよう、各種栄養分に富んだ作物を作るために発達した技術だと聞いているが……」
「そこなんだが、おかしかねえか?」

 ケリーは首を傾げていた。

「もし最初から、それだけ食ってりゃ全ての栄養分が足りる、そんな便利な野菜が身の回りにあって、その上で栽培作物以外の自生してる植物も動物性タンパク質も摂っちゃあいけませんって教義が出来たなら納得だ。だが、ヴェロニカ教はその反対だろう。最初に教義ありけりで、そのあとで教義のために便利な野菜を必死で作り上げた。遺伝子を弄くって、無理な品種改良までしてな。だからこそ品種改良技術が発達して、それを他国に売り出せるまでになったんだ。なら、その改造作物が完成するまでの間、この星の人間は何を食ってたんだ?」
「それは……」
「大人はまだいいさ。だが、母親の乳以外、どんな動物性タンパク質も駄目ってことは、卵も牛乳も、それに由来する栄養剤も駄目ってことだろう。育ち盛りのガキ共は間違いなく栄養失調を起こすぞ。極端なベジタリアンが一人や二人って話じゃない、国全体がそうなんだ。健康問題は、国の生産力に直結する大問題だぜ。そんな問題を抱えた国が、どうして今も存在していられるんだ?」

 ジャスミンは、少し考えてから、言った。

「教義が途中で変わった?」

 珍しいことではない。神の教えとは絶対不変のものではなく、時代の移り変わり、信者の考え方の移り変わりによって変貌していくものなのだ。ならば、如何に厳格を体現したようなヴェロニカ教の教えとはいえ、どこかでかたちを変えていないとは限らない。
 ケリーも、ジャスミンの意見に賛同するように頷きながら、

「俺もそう思う。でないと辻褄が合わない。ヴェロニカ教は、どこかで必要に迫られて、ありとあらゆる栄養素を含んでいるっていうお化けみたいな植物を作り出したが、それまではいわゆる普通の人間と同じようなものを食べていた。それとも、あの教義ももう少し箍がゆるくて、例えば四つ足の生き物を食べてはいけないだけとか、生き物は駄目でも卵や乳製品は大丈夫とか、もう少し人間様に優しい教えだったんだろうぜ」
「そんな記録は残っているのか?」
「いや、連邦加盟を果たしたあとに教義が変わったとか、そういう記録は一切残っていない。加えていうなら連邦未加盟だった頃の文献も調べたが右に同じくだ。もっとも、そっちのほうは信憑性に些か難あり、だがな」

 ジャスミンは頷いた。ケリーの言うとおり、連邦未加盟の辺境国家だったころのペレストロス共和国であれば、情報操作は思いのままだ。大昔の焚書坑儒ではないが、自分達に都合の悪い情報を揉み消す程度児戯に等しかっただろう。
 
「だからどうっていうわけじゃない。別にこの国の人間が肉を喰おうが野菜を食おうが、俺はどうだっていいんだ。だが、少し気になってな」
「ああ。この国は、どこかおかしい。歪だ。問題は、その歪みがどうして生じたか、どうして歪ませる必要があったのか、だな」
「そして、その可能性があるものを、俺達は知っている。最後に付け加えりゃあ、あの事件だって変だぜ」
「あの事件?」
「孫チビどもが誘拐された事件さ」

 ジャスミンは、頷いた。彼女も、リィやルウ、あるいはアーサーから、事件の解決編ともいうべき連邦大学人権審議委員会の顛末は聞かされている。

「あの事件の真犯人だったバックス船長――本名はエリック・オーデンっていうらしいが、その男は偶々、本当に偶然に見つけたあの星を誘拐劇の舞台に選んだわけだ。だが、未登録居住用惑星を見つけるのは宝くじの一等に五回連続当たるよりも難しい確率だぜ。手練れのトレジャーハンター達が目の色を変えて、人生そのものを賭けて探してもその程度の確率なのに、どうしてそのオーデンって男だけ、そんなに簡単にあの星を見つけられたんだろうな?」
「それだけじゃないぞ、海賊。あの星を偶然見つけたのは、少なくともあと二人はいる。わたしの父と、トリジウム密輸組織の誰かだ」

 ケリーは頷いた。夜風が少しだけ、冷たくなったようだった。

「合わせて三人の人間が偶然にあの星を見つけたことになるな。三人の人間が、とんでもない幸運に恵まれてあの星を見つけたってわけだ。これは果たして偶然か?」
「偶然も、三度続けば必然だ」
「お前の親父さんは別もんさ。なにせ、あのマックス・クーアだ。俺は、今更あの男が見つけた未登録居住用惑星が山と出てきたって、別に驚かねえな」
「それは困る。たいへん困る。そんなにたくさんの星が見つかったら税金の支払いが大変だし、全てに女性の名前が付けられていたりしたら、わたしの父親は世紀の女殺しとしての名を後世に残すことになるんだぞ。それは娘として、流石に肩身が狭い」

 ジャスミンの言葉に、ケリーは笑いを溢した。

「いいじゃねえか。世紀の女殺し、男にとっちゃあ万の勲章よりも遙かに光栄な異名だ。あの世のマックスも、さぞかし鼻が高いだろうぜ」
「混ぜっ返すな。だが、お前の言いたいことはよく分かる。未登録居住用惑星という貴重なものを偶然に複数の人間が見つけたならば、そこに何らかの法則性を見いだすべきだ、というのだろう」
「マックス・クーアっていう希代の冒険家は置いておいて、オーデンって男とトリジウム密輸組織には、どこかに共通項があるんじゃねえかと思う。無論、オーデンが密輸組織の一員だったってのは無しだ。当然、警察だってまずその線を疑っただろうからな。ブレインシェーカーまでかけておいて何も出なかったなら、そりゃあ無関係だったんだろう」

 例のトリジウム密輸事件の関係者に対してだけでなく、別の事件の容疑者であったオーデンに対してまでブレインシェーカーがかけられたというのは、ほとんど公然たる秘密であった。
 ブレインシェーカーは、対象者のプライバシーを極度に侵害することから、殺人をはじめとした凶悪犯罪か、それともテロなどの広域犯罪、もしくは物言わぬ死体となった被害者に対してしか使われないよう、法律によって厳しく制限されているのだ。
 トリジウム密輸事件といえば、もちろん重大な犯罪ではある。犯人達にブレインシェーカーが使われるのは当然のことであったが、直接の関係者でなかったオーデンにまでブレインシェーカーをかけその記憶を探るあたり、捜査関係者は必死になってトリジウム密輸組織を――ひいてはその調達源になっているであろう秘密トリジウム鉱山を探そうとしているのだろう。
 
「では、他のどのような法則性を見い出すことができるというんだ」
「分からねえ。だが、オーデンは惑星ヴェロニカ出身だぜ。この星を出て宇宙船乗りをしてたんだ、よくあることだが、得意な航路は生まれた星の近くだったんだろうぜ。当然、ヴェロニカ経由の交易路を多く飛んだだろうな」
「なるほど、そういうことか。そしてトリジウム密輸組織については……」

 そこで、はたと気がついた。

「海賊、お前、例の石はどうした?」
「例の石?それなら、ポケットに……あれ?」

 ケリーが、ズボンのポケットをまさぐって、素っ頓狂な声を上げた。
 すぐに、ジャケットの胸ポケットや脇ポケットなどを上から叩く動作をしたが、どこにも目当てのものはなかったようだ。

「女王。例の石をどうした?」
「わたしが聞いているんだ、馬鹿者!」
「えーと、どうしたっけな。どっかに落としたか?」

 珍しく慌てた様子の夫に、ジャスミンは深く溜息を吐き出した。

「……さっき、お前の膝の上に座っていた女の子に、渡しっきりになっていなかったか?」
「おお、そういえば!」

 ぽん、と掌を叩いた。確かに、あの少女が興味深げに赤い小石を眺めていたのを、ケリーも憶えている。
 そして、そのあとに石を返してもらった憶えはない。ということは、あの石は今も少女の持ち物となっているのだろう。

「どうするかね、別に無くなって困るものじゃないんだが」
「我々はそうだ。ホテルに帰れば、他にもいくつか石はあるからな。だが、ウォルの方が困るだろう。あの子は、そこらへんはきっちりしていると思うぞ。もしかしたら、この広い星で我々を捜して走り回るかも知れない」
「そいつは不味いな。よし、いったん店に戻ろう」

 なんともバツの悪い話ではあるが、仕方ない。
 二人は踵を返し、再び例の酒場のある区画へと向かった。
 行きと違って、既に一度通っている道である。歩調も早くなろうというものだ。
 だが、しばらく歩いて、二人の表情が少しずつ強張っていった。
 理由はない。少なくとも、言語化出来るような不審はないはずだ。
 だが、何かがおかしい。さっき通ったときとは、空気が違う。
 二人は、お互いが同じ思いでいることを、言葉ではなく目で確かめ合った。
 結論は、やはり同じ。
 同時に駆けだした。

「海賊、何か見つけたか!?」

 全力疾走しながら、ジャスミンが、低く押さえた声で叫んだ。
 闇夜にはほとんど響かない、しかし対象者の耳にははっきりと届く、独特の発声法だ。
 ケリーもそれに応じて、

「武装した兵士が、あちこちに待機してやがる。ここからは歩こう。あまり目立つ動作をすると、目をつけられるぞ」

 悔しそうな表情でジャスミンは立ち止まり、それから歩き出した。
 そっと、ケリーの腕に手を回す。夜道を歩く夫婦という設定ならば、少しくらい親密な様子を作っておいた方がいい。それに、密着しているほうが秘密の会話には便利なのだ。

「規模は?」

 ジャスミンの質問は、ケリーの義眼を信頼してのものだ。
 ケリーも良く応えて、

「分隊規模のチームが、おそらく二つか三つ。装備からいって、対テロリスト殲滅専門の特殊部隊だ」
「特殊部隊だと!?まさか、この国の正規軍のか!?」
「ああ、腕章が正しいものなら、どうやらそうらしいな」
「……目的は?何故、こんな裏びれた場所に特殊部隊を、三チームも展開させる必要がある?」
「ダイアン、連中の通信は拾えるか?」

 ジャスミンの髪を撫でるふりをして、左手首を顔の高さまで持っていき、そこに巻かれた通信機に向けて話しかける。
 返答は、早かった。

『……冗談じゃないわね。奴らの目的は、金の天使さんの婚約者、ウォルって子の身柄の確保。そのために邪魔な障害物は積極的に殺害し排除することって、まるきり扱いが凶悪テロリストの親玉よ!?あんな可愛い子に何するつもりよ、この人達!』
「一応聞いとくが、ウォルがこの国で指名手配されてるってことはないか?」
『もちろんよ!この国は勿論、共和宇宙連邦加盟国のどんな辺境国にだって、あの子の犯罪歴はおろかも補導歴も残ってないわ!』

 そんなことを一瞬で調べられること自体信じがたいことなのだが、いまさらケリーは相棒の情報収集能力を疑ったりはしなかった。
 つまり、ヴェロニカ共和国は、犯罪者の取り締まりとはまったく関係のないところで、ウォルの身柄を力尽くで確保しようということらしい。

「どういうことだ、海賊。なぜヴェロニカ共和国がウォルを手に入れようとしている?まさか、我々も巻きこまれた、惑星セントラル星系爆破未遂事件の絡みか?」
「それはねえだろう。あの事件の関係者は、天使から、触らぬ神に祟り無しって教訓を嫌って程に叩き込まれてるはずだぜ。今更その政府関係者が動くとは考えにくい。第一、ウォルがリィの婚約者だって、今の時点で知ってる人間がそれほど多いとは思えねえ。俺達だって今日知ったばかりなんだぜ?」
「では一体……いや、そんな詮索はあとでいい。今我々のするべきことは、ただ一つだな」

 ジャスミンの瞳が、青みがかった灰色から、煌びやかな金色に変じた。
 この女性が、戦う獣へと変貌した証左である。
 ケリーの琥珀色の瞳にも、揺らめくよう熱が宿る。
 
「あーと、すみませんねぇ、ここから先は通行止めなんですよ」

 へこへこと頭を下げながら、背の低い男が二人、ケリーとジャスミンの前に現れた。
 共に、建築作業員のような、ぼろぼろの服を纏っている。
 だがケリーの義眼は、彼らの懐に、一般人が持ち歩くには少々物騒な鉄の塊を見つけていた。
 ケリーは、むしろ当然という素振りで、ほんの少しも慌てることなく男達に合わせて話す。

「それは困ったな。あっちのほうにある店の中に、忘れ物をしてしまったんだが」
「へぇ、ほんとにすんませんね。ここから先で、人が通るには少し危険な作業をするもので。今日のところは諦めてやってくれませんか」
「無理を言うつもりはないんだが、明日の仕事にどうしても必要なものなんだ。なんとか通してくれないか?」
「それはちょっと……」
「わかった。では、君達に、私の代わりに取ってきてもらうというのはどうだろう。別に、値の張るものではないのでね、私が直接行かなくても大丈夫だろう」

 男達は、目を見合わせた。
 これ以上、こんなところで押し問答するのも馬鹿らしいと思ったのか、一人が面倒臭そうな声で、

「わかりました、ではどんなものをお探しで?」
「こんな、小さな赤い小石なんだがね。きっと店のマスターが預かってくれているはずだ。私以外の人間が受け取りに行くことは、電話しておくよ」
「店と。その店の名前は?」

 ケリーは、僅かに考え込むふりをして、

「そうだな、確か秋芳酒家といったかな」
「何?」

 その言葉を聞いて、男達の顔色が変わった。なにせ、それは捕獲対象である少女が働いている店なのだから。
 邪魔者を追い返そうとしていた男達の目の色が、僅かに変わる。そして、不審者に変貌した男女を詰問しようと、口を開きかけた。
 だが、それよりも、ケリーとジャスミンの拳のほうが早かった。男達はきれいに顎を打ち抜かれて、膝から崩れ落ちた。変事を味方に知らせる暇は無かったはずである。
 いくら大人数を投入しているとはいえ、一つの持ち場に割ける人員には限りがあるし、こちらが女連れだと油断したのかもしれない。
 とにかく、好都合ではあった。

「ダイアン、連中は気付いたか?」
『今のところ大丈夫。でも急いで。もう作戦開始のカウントダウンが始まってる!』

 ケリーとジャスミンは、建物の陰に隠れるようにして駆けた。
 やがて、十秒と待たず、遠くに見える建物から、聞き馴染みのする大きな音が響いてきた。
 特殊部隊が屋内突入時によく用いる、閃光手榴弾の発する轟音だった。
 光は届かない。地上階へ突入したのであれば、どこかの窓から光が漏れ出すものだ。つまり、特殊部隊は地下階に突入した公算が高い。
 つまり、ウォルのいる酒場だ。

「急ぐぞ、海賊!」



[6349] 第三十六話:深淵にて
Name: SHELLFISH◆e7921896 ID:28cb7823
Date: 2010/05/05 01:29
 ケリーとジャスミンは全力で疾走した。体の隅々にまで滾る血液が送り込まれ、頭は、間近に備えた戦闘に向けて沸騰しそうな勢いで回転している。
 あの少女は、いい少女だった。笑顔は可愛らしいし、一緒に酒を飲んでいて楽しいし、妙な言い方だが侠気がある。将来は驚くほどの美人になるだろうこと請け合いだ。それに、あの子には、二人の大恩人である少年と腕を組んでヴァージンロードを歩くという大事な仕事があるのだ。折角だから二人の子供の顔も拝んでみたい。だから、こんなところで不逞の輩に引き渡したり、死なせるなんて以ての外だ。
 しかし、二人は正しく百戦錬磨である。片方は、たった一人の相棒を供にして宇宙を駆け回り、海賊王とまで謳われた男である。そしてもう片方は『魔女』と称される共和軍の猛者である。思考の一部を熱く滾らせつつも、他の一部で事態を冷静に把握しようと努めている。
 この場合、正面突破はいかにも不味い。最悪だ。対テロチームが突入したのだから、腕利きのスナイパーが随行していないはずがない。どこか狙撃に適した高台で、酒場の出入り口をスコープに収めて、今にもトリガーを引き絞らんとしているに違いなかった。何の装備もなく彼の標準に飛び込もうならば、無慈悲な死に神の鎌が銃弾に化けて、二人のこめかみを吹き飛ばすだろう。
 二人は申し合わせたように走る向きを変え、薄暗い路地に入った。

「ダイアン、例の酒場の周辺地図、それに見取り図は拾えるか?」

 生ゴミのたっぷり詰まったポリバケツを蹴飛ばして駆けながら、ケリーが叫んだ。

「今送るわ。……不味いわね、さっきの男たち、もう息を吹き返したみたいよ」
「ちっ、半日は足腰が立たねえようにぶん殴ったつもりだったんだが……なまったかな?」
「それとも、この国の軍隊はきっちり鍛えているか、どちらかだろう。どちらにせよ、あまりありがたいことではないな」

 ケリーに少しも遅れることなく走るジャスミンが、忌々しげに呟く。もとが軍属の彼女であるから、柔弱な軍人というものには侮蔑を通り越して嫌悪の念すら抱くのだが、この場合だけはその信念を曲げてもいいと思った。敵の勇猛を望むのはゲームの勝負の時だけで十分であり、命を賭けた闘争については逆のほうがいいに決まっている。
 事実、ヴェロニカ軍の練度は、中央に名だたる大国の軍隊と比較しても見劣りしたものではない。装備の充実ぶりは一歩も二歩も劣るが、辺境国にはつきものの宇宙海賊との戦闘やテロリストグループの制圧で鍛えた実戦経験は装備の差を補って余りあるものがあった。

 それに、いくら装備が脆弱といっても、今の二人の軽装備とは比べるべくも無い。唯一アドバンテージがあるとすれば連中の主回線をすでにダイアナが掌握していることだが、よほどの間抜けでも無い限り、緊急用の回線の一つや二つは用意しているだろう。
 先ほど二人が殴り飛ばした連中は、通信不能になった主回線は切り捨てて、部隊の本部に通信を飛ばしているだろう。すでに自分達の存在は明らかになっていると思った方がいい。
 であれば、事態は一刻を争う。こちらの装備は、ハンドガンが二丁に、携帯用の貧弱なナイフが数本程度なのだ。万全な装備の軍隊に正面からかち合っては勝負になるはずもない。
 ケリーは、相棒から送られてきた周辺地図を義眼に写したまま疾走した。酒場の入ったビルの区画をぐるりと迂回して、その裏口を目指した。
 多少のタイムロスは覚悟の上である。
 果たして、裏口のある通りはすぐに見つかった。
 驚くほどに、道が狭い。体格のいい二人は、肩を傾けるようにして体をねじ込まなければ入ることもできないような、狭い通りだ。これでは、扉をキチンと開けることも難しいのではないだろうか。通りの入り口には、収まりきらないゴミやら吐瀉物やらが散乱して、如何にも饐えた臭いが充満していそうだ。
 だが、通りに飛び込むためには、幅の広い道路を横切らなければならない。
 その手前で、ケリーが足を止めた。ジャスミンは、それを非難の視線で見遣ったりはしない。この男が止まるのだから、止まるだけの理由があるのだ。
 風を切るような速度で走って、しかし少しも息を乱さないケリーが、遙か上方を眺めて、忌々しげに呟いた。彼の異名にもなっている義眼が、奇妙な色に光っていた。

「不味いな。こっちにもスナイパーだ。きっちりしていやがる」

 視線の先は、二人が物陰にしているビルの屋上である。高さはそれほどでもない。せいぜい、四階か五階建てくらいものだろう。射程距離はまだまだ余裕があるのだろうが、あの隘路に照準を合わせるならば、このビルの屋上くらいしかスナイピングポイントが見つからなかったに違いない。
 このまま道路に飛び出して隘路に飛び込めば、飢えた猛獣の前に生き血を引っ被った状態で飛び出すよりも悲惨な結果になるだろう。だが、このビルの入り口に回り、階段を駆け上がって、スナイパーを始末する。それがどれほどのタイムロスになるか。
 ケリーが舌打ちをしかけたとき、

「行ってくる。すぐに戻るから待っていてくれ」

 とんでもなく軽い調子で、妻が言った。
 呆気に取られる暇すらない。ジャスミンはビルの壁面に取り付き、ほんの僅かなでっぱりに指をかけて、体をひょいと持ち上げた。次は二階の小さな窓の庇部分。次はひびわれたコンクリートに指先をねじ込み、無理矢理に手がかりにする。それを繰り返すうちに、彼女の立派な体躯は、ひらりひらりとケリーの遙か上方まで運ばれていた。
 まるでヤモリか蜘蛛だ。とても人間になせる技ではない。もしかしたら熟練のロッククライマーならば同じような芸当も可能なのかも知れないが、彼女と同じだけの身長と体重をほこり、しかも重量級のハンドガンを脇に抱えてこんな事ができる人間を、ケリーは寡聞にして知らない。するりと屋上に消えた我が妻を眺めながら、後から後から沸き上がってくる笑いの発作を噛み殺すのに苦労していたほどだった。
 程なくして、

「おい、海賊。ちょっといいか」

 遙か上方から声がかけられる。ジャスミンが屋上に姿を消してから、30秒と経っていない。銃声は聞こえなかったから、もっと穏便な方法で──おそらく話し合いではないだろうが──かたをつけたに違いなかった。

「どうした」
「少しどいてくれ」
「何だって!?」

 返答する間もなく、何か黒い塊が、屋上から落っこちてきた。夜空を背景に、真っ赤な髪が舞い上がったのが見える。
 ジャスミン本人だ。

「この馬鹿!」

 ビルの五階、地上20メートルからの自由落下となれば、いくら頑強なジャスミンでもただで済むはずがない。骨折で済めば御の字といったところだ。
 ケリーは、咄嗟に受け止めるべく落下地点に割り込んだが、冷静に考えれば、十分に加速された体重80キロを超えるジャスミンの体を受け止められるはずもない。それは、彼の知る一人の少年を除けば、間違いなく不可能ごとである。
 こりゃあ潰されるな。
 せめてクッション代わりにはなるだろうかと絶望的な気持ちで衝突を待つケリーの頭上で、しかしジャスミンの体は急停止し、夫の腕の中には妻の柔らかな体がぽすんと収まったのだ。
 
「……何をしているんだ、海賊」

 ジャスミンは、ケリーの両腕で掬い上げるように抱きかかえられた姿勢のまま、胡散臭げに夫を見上げた。
 よく見ればジャスミンの腕には、ヘリからの降下にも使われる頑丈なロープがしっかりと握られている。激突の直前に、それで急制動をかけたのだろう。レンジャー部隊に配属されたこともある彼女にとっては造作もないことだったに違いない。

「……一つ聞いてみたいんだが、女王、あんた、いつもそんなもんを持ち歩いているのかい?」
「いや、さっきもらった」
「もらった?」
「親切なおじさんにな。気を失った人間に装備は生かせないからな。せいぜい有効に利用させてもらうさ」

 そう言ったジャスミンの背中には、なるほど小振りなバックパックが背負われている。
 彼女が屋上に姿を消してからの僅かな時間で、おそらくは百戦錬磨の特殊部隊員を素手で仕留め、その装備を奪い、ロープ降下の準備までしてのけていたのか。
 なるほど、共和軍の猛者どもから赤毛の雌虎の異名を勝ち得た実績は伊達ではないらしい。その雌虎が腕の中からギロリと睨め上げてくるだから、ケリーの頑丈な心胆も僅かに冷えた。

「わたしがどけと言ったらどいてくれ。危ないじゃないか」
「ああ、まぁ、俺もそのつもりだったんだがなぁ。しかし、一応はあんたを助けようとしたんだぜ?もう少し感謝してくれると嬉しいんだがね」
「わたしを助けようとしてくれたのには素直に感謝するが、わたしが無謀にもあの高さから飛び降りたのだと判断されたのには腹が立つ。差し引きゼロだ」

 あっさりと言ってケリーの腕から体を下ろし、ジャスミンは、先ほどまで自分を抱え上げていた腕の中に、冷たい鉄の塊をねじ込んだ。
 銃身の短いサブマシンガンで、ケリーにも馴染みの銃種であった。ハンドガンと比べればその威力には天と地ほどの開きがある。

「こいつはありがたい」
「さっさと行くぞ。時間が惜しい」

 そう言ったジャスミンの足は、裏口に向けて走り出している。
 ケリーもそれを追って走った。
 人通りの絶えた道路を横切り、ビルの隙間に体を捻り込み、駆ける。スパイアイで人影がないことは確認しているが、最低限の用心は怠らず周囲に警戒を走らせる。
 酒場の裏口は、錠前が破壊された状態で開けっ放しになっていた。敵はこちらからも突入していると思われた。
 二人の長身からすればあまりに狭く、そして低い入り口を、背中を曲げながらくぐり抜ける。目の前に現れた下りの階段は、一度足を踏み外せば捻挫程度では済まない怪我を負いそうなほどに急で、長く、しかも足場が狭い。その上、照明の類がもともと無いのか、それとも電源を断っているのか、足下手元すら見えないような暗がりである。
 義眼のケリーであればまだしも、ジャスミンには相当厳しい環境条件だ。いくら夜目の利く彼女であっても、限界というものがある。
 それでも二人は三段飛ばしで一気に駆け下りた。店内に充満する硝煙の臭いが、二人の速度をより速くしていた。
 降りきると、すぐに曲がり角がある。ケリーはジャスミンを差し置いて先行した。荒事の手前は甲乙を付けがたい二人であるが、こういう状況ではケリーのほうが、スパイアイを備えている分だけ向いている。
 ジャスミンもそれを弁えているから、ケリーの後ろにつき、後方の警戒に回った。
 階段に負けず劣らず狭い廊下を、銃を構えながら音もなく駆け抜ける。いくつかドアを潜ったが、その全てが開けっ放しになっていた。既に誰かが通った後なのだろう。
 厨房らしき部屋を抜けると、先ほどまで二人が杯を傾けていた店内にたどり着いた。正面から突入したチームは、まずここを制圧したはずだ。
 しかし、誰の姿もない。所々に薬莢が転がり、戦闘が行われた形跡は残っているのだが、人っ子一人いない。
 だが、それにしてはおかしい。突入した部隊は少女の身柄の確保と、その周囲の人間の殺害を任務としているはずだ。ならば、少女が連れ去られたとしても、彼女の仲間の死体が残されていないと勘定が合わない。加えて言うならば、リィの婚約者と名乗ったあの少女が、いくら生え抜きの特殊部隊が相手とはいえ、そう易々とされるがままになるだろうか。
 真っ暗な店内を油断無く見回しながら、訝しんでいたジャスミンの肩を、軽く叩くものがあった。
 ケリーの手であった。
 どうした、と、声ではなく視線で問う。
 ケリーは、くいと立てた親指で、店の奥の方を指す。そこに何かがあるのだろうか。
 こういった状況であるから、一々問い質すのは時間の浪費であり、命を危険にさらす行為だ。すでに自分の指揮権をケリーに預けたつもりのジャスミンは、おとなしく指示に従い、ケリーの後を追う。
 少女が舞っていた広い舞台に駆け上り、その舞台袖から中に入る。
 奥は意外なほどに奥行きのある廊下が続いていて、扉がいくつも並んでいる。小脇の部屋は店で働く女たちの控え室のようになっていて、色濃い硝煙の臭いの中に白粉や香水のけばけばしい香りが残っている。やはり狭い廊下は無数の弾痕が刻まれ、ここで激しい戦闘があったことを物語る。
 ケリーは、いくつかある扉に目もくれず、一番奥にある扉を開いた。真っ暗な部屋の中は、どこか生活感の溢れる造りになっていて、おそらくは住み込みで働く店員の居室になっていたのではないかと思われた。
 部屋の奥には、何もない。どん詰まりだ。
 さすがに我慢の効かなくなったジャスミンが、ぼそりとした声で問い質した。

「どういうことだ。ここに何がある」
「熱源がここで途切れてやがる。どういうこった?」

 ジャスミンは唖然とした。
 どうやらケリーは、移動する人間の残す熱を追って、この部屋まで辿り着いたらしい。そういう機能の暗視装置があることはもちろん知っているが、それを義眼のサイズまで軽量・小型化し、他の機能と並立させるとなると簡単なことではない。
 
「……その目には、いくつの機能がついているんだ?」
「さぁな。ことあるごとにダイアンがバージョンアップしてやがるから、最近は俺もよく分からなくなってきたところだ」
「ひょっとしたコミックの異星人や超能力者みたいに、ビームの一つも出るんじゃないのか?」
「そんなわけねえだろって笑い飛ばせねえところが厄介だな。あんたと一緒のベッドで眠るときは気をつけるとするさ」

 肩を竦めたケリーである。
 軽口を叩き合ってしまった二人だが、気を取り直したふうに室内に入る。
 部屋は、めちゃめちゃに荒らされていた。壁には弾痕、箪笥や鏡台といった家具は軒並み蹴倒され、カーペットは捲られている。台風が一過したとしても、このような有様にはほど遠いだろう。
 ケリーはしばらく周囲を眺めていたが、熱源が不自然に途切れている壁を見つけて立ち止まった。

「へぇ。これはこれは……」

 義眼の機能を切り替えて壁の向こうを透視すると、不自然な空洞がある。手で叩くと妙に籠もった音がするから、間違いない。
 ジャスミンも、その音で気がついた。

「隠し扉?そんな馬鹿なものが、この世に実在したのか?」

 どう考えても褒めている調子ではない。
 だが、ケリーは場違いに嬉しげな笑みを浮かべて、言った。

「いいじゃねえか、隠し扉。隠れ家や秘密基地にはもってこいだ。男のロマンって奴だな」
「それが許されるのは、せいぜい男の子までだ。立派に成人してからこんな馬鹿なものを作る奴は、それこそ馬鹿というんだ」
「あんたの言うとおりだな、女王」

 しかし、仮にも店の中にこんなものを作るということは、店長には後ろ暗いところがあるのか、それとも臑に傷を持つような人間なのか、どちらかだろう。
 とにかく、壁のあちら側に人が消えたというならば、こちらも追いかける必要がある。
 ケリーは、壁のあちこちを押してみた。すると、意外なほどにあっさりと壁はくるりと周り、その向こうの小部屋が露わになった。
 小部屋には、本当に何もない。が、その床にはただ一つ、大きな穴がぽっかりと空いていた。ご丁寧なことに、穴にはきちんと縄梯子が掛けられている。
 覗いてみると、穴はかなり深いようだった。奥から風が吹いてくることから、それなりに広い空間があるのだろう。いきなりどん詰まりの部屋がある、というわけではないらしい。
 耳を澄ませてみると、どこからか散発的な銃撃音が聞こえた。

「どうするね、女王」
「行くしかないだろう。と、少し待て」

 既に先ほど奪取したバックパックの中から暗視用ゴーグルを引っ張り出していたジャスミンである。店内ならばまだぎりぎり視界があったが、これ以上照度が下がれば戦うどころの話ではなくなるからだ。
 ゴーグルを装着して、細かい調整を施す。
 短い意思確認の後に、先にジャスミンが縄梯子を下った。ケリーは穴の上から銃を構え、万が一に下から銃撃があったときに対応できるよう構えている。
 ジャスミンはするすると縄梯子を下る。彼女の主観としてはずいぶん時間を掛けて、客観的には驚くべき早さで梯子を滑り降りていく。
 しばらくすると縦穴が終わり、開けた空間が見えた。ジャスミンはポケットから手鏡を取り出し、手のひらだけを縦穴の外に出して敵の姿を確かめようとしたが、そこには何も写らなかった。もちろん物陰からこちらを狙っている可能性はあるが、先に進まない訳にはいかない。縄梯子を手放し、ひらりと地面に降り立つ。その足場を確認するよりも早く周囲を警戒し、いつでも攻撃ができる姿勢を整える。
 しばらく息を潜めていたが、どこにも敵の影はない。

「ここは……?」

 短く呟いた。
 落ち着いて自分のいる場所を確認すると、その異様さにあらためて気がついた。
 剥き出しになった地面、どこまでも続く円形の洞穴。前も後ろも、あまりに奥行きがありすぎて暗視ゴーグルを用いても先が見えない。天井の高さは人の身長を倍したほどだが、こういった場所特有の閉塞感から一段と狭く、息苦しく感じる。
 光源と呼べるものは、剥き出しの土壁に張り付いた苔が僅かに燐光のように淡い光を散らしている程度で、暗視用ゴーグルがなければ視界の確保は困難を極めるに違いなかった。
 特別な知識を持たない人間が、前近代的なトンネルといって思い浮かべるのが、こういう場所かも知れない。
 自然にできたものではないだろう。ジャスミンは地質学に造詣は薄く、ケイビングの趣味も持ち合わせていなかったが、ここまで面白みのない洞窟が自然にできあがるはずがないことくらい、素人にだって分かる。
 縦穴が続いているのは地下鉄か下水道か、そういったものだと思っていただけに、さすがのジャスミンも言葉を失ってしまった。
 どういう場所だ、ここは。
 思わず立ち尽くした彼女の背後に、軽やかな着地音が聞こえた。

「……なんだってんだ、ここは?どうして酒場の秘密扉がこんな場所に続いてるんだよ。一昔前のスパイ映画じゃあるまいし、男のロマンのしちゃあやり過ぎだろう」

 もっともな感想である。
 ジャスミンもケリーも、とことん現実感に乏しい光景を目の当たりにして暫し呆然としていたが、遠くから聞こえる銃撃音に我を取り戻した。反響を繰り返した音は、容易に音源を掴ませてくれない。となれば、頼りになるのはケリーの義眼の追跡能力だけである。
 
「追えるか、海賊」
「アイアイサー」
「それを言うならアイマムだ、馬鹿者」
「なんだつまらねえ、相当言われ慣れてるみたいだな、女王」

 二人は同時に走り出した。
 途中、いくつか枝分かれした道があり、通路はいささか迷路じみた様相を見せ始めたが、ケリーにしてみればそれは容易な迷路であった。なにせ地面には、見逃しようのない矢印がきっちりと刻まれていて、自分を出口まで導いてくれているのだ。これならば迷えというほうが難しい。
 だが、それは自分だけに限られた天使の福音ではないことを、この男は承知している。正式な軍隊、しかもその生え抜きの特殊部隊ともなれば、自分の義眼と同程度の機能を持ち合わせた装備はきっちりと備えているだろう。目印となる熱跡も、決して枝分かれなどすることはなく、猟犬が獲物を追跡する様子がありありと浮かび上がっている。
 もし、ウォルたちがこの暗がりに身を潜めるつもりならば、それは必ず失敗する。その認識が二人の足を速くした。
 何度か、地獄の穴のように口を開けた脇道に飛び込み、緩やかに起伏を繰り返す土道を駆ける。二人が履いているのは底の分厚いブーツだったため、どうしても大きな足音が洞内に反響する。どこかで待ち伏せしている敵がいれば、二人の存在は遙か先でも知れてしまうに違いない。
 加えて、いつからか、空気の中に異臭が混じり始めていた。二人にとって馴染み深いその生臭さは、生きている人間が流した血の臭いに違いなかった。
 ジャスミンもケリーも、無言で走った。
 いったいどれほど走ったのか、頑強な二人が軽く息を乱し始めたときである。
 通路のど真ん中に、何かが横たわっているのを、二人は見つけた。
 小さな岩か何かかとも思ったが、どうやら人が倒れているらしい。
 油断無く銃を構えたまま、ケリーが近づく。その足音は聞こえているはずだが、倒れた人影はぴくりとも反応しない。さもあらん、ケリーの義眼には、肌寒いくらいの洞内の気温に同化しつつある、人影の体温が見て取れていた。
 近づいてみると、物々しいアサルトスーツに身を包んだ、大柄な男の死体だった。片手に銃を構えたまま、俯せに倒れて死んでいる。
 あたりには濃厚な血の臭いが立ちこめており、おそらくは自身の流したであろう血の海の中で息絶えている。先ほどから漂っている濃厚な血臭は、この死体が原因かも知れず、この死体だけが原因では無いのかも知れない。

「女王、こいつは……」
「ああ。さっきこの装備をいただいた親切なおじさんと、同じ格好だな」

 つまり、ウォルたちを捕縛するために出動した特殊部隊の隊員ということだ。

「生きているのか?」
「いや、死んでやがる。だが妙だな、銃で撃たれたような形跡はないんだが……」

 大柄な男の後ろ姿、そのどこにも銃弾を撃ち込まれたような跡はない。
 まさかこんな場所で銃を構えたまま毒殺されたわけでも、病死したわけでもあるまい。そういったケースが絶対にないとは言わないにしても、ここで発生する可能性は極僅少なはずである。
 ケリーは無言で、男の死体を仰向けに蹴り転がした。
 そして、言葉を失い、思わず目を背けそうになった。

 顔の上半分が、ごっそりと削れている。

 唇のやや上、拳法などでいえば人中といわれる急所を境にして、人の顔が存在しない。側面から見れば、耳のやや前の部分、こめかみから前面が消し飛んでいるような格好だ。
 抉れた顔面からは乳白色の脳髄や桃色の筋肉組織がのぞき、おそらくは鼻腔と思われる赤黒い空洞には、少しずつ溢れていく血液が溜まり始めている。
 切断面は、意外なほどになめらかだ。緩やかな弧を描きながら、右から左へ、それとも左から右へと抜けている。鈍器を使ったのでは、どれほど上手く殴り抜けてもこうはいかない。銃弾で吹き飛ばしても同じだ。刃物による切断傷にも見えるが、そうすると横から見た切断面が僅かに湾曲しているのはどういう理屈だろうか。
 
「なんだこりゃ。けったいな死体だな」

 ケリーの軽口も、どこか重々しく響いた。
 
「……急ごう」

 ジャスミンは死体に哀悼を捧げるでもなく、装備品であろうサブマシンガンを奪い取り、洞穴の奥へと急いだ。
 血臭は、薄くなるどころか、鼻の奥を痺れさせるほどに濃くなりつつある。風は、進行方向から吹いてくるというのに、だ。
 いったいいくつ、先ほど確かめたのと同じ死に様の死体が転がっているのか、検討もつかない。そして、その中にあの少女の死体が無いと、誰が言い切れるだろう。
 自分達の呼吸音と足音しか聞こえない寒々しい環境が、催眠術のように二人の精神に傷を付ける。
 最悪の結果が、まるで既定の事実のように思えてしまう。二人はそれが危険な妄想だと知っていたが、衝動的に沸き上がってくる少女の死体の映像を封じ込める術を持っていなかった。
 苦行の如き疾走は、しかし永遠には続かない。
 進行方向から何者かが近づいてくるのに、先行していたケリーが気がついた。
 ケリーは身振りでそれを伝えると、ジャスミンとともに脇道へと姿を隠し、足音が近づいてくるのを待った。
 少しずつ大きくなる足音、そして乱れた呼吸音。がちゃがちゃと装備がぶつかる音が聞こえる、隠密など意識にないような無様な走り方だった。
 奇異に思った二人だが、成すべき事は一つである。足音が自分達の側を通ろうとした刹那、音もなく背後に忍び寄り、首筋を掴んで脇道へと引きずり込んだ。
 ケリーが、足音の主の、僅かながらの抵抗を嘲笑うように地面へと叩き付け、後ろ手に関節を決めて制圧する。その隙に、ジャスミンはアサルトスーツ姿の男の首筋から携帯型無線機をむしり取り、靴底で踏みにじった。
 
「所属ならびに官姓名を名乗れ」

 後頭部に銃口を突きつけて、感情を込めない声で問う。
 男は、予想外の女性の声色に驚いたのか、暫しの間身じろぎをしたが、諦めたように力を抜くと、

「……ヴェロニカ正規軍、陸軍特殊部隊第22連隊所属のクラーク・グリフィン上級軍曹だ。貴兄らに、捕虜としての扱いを要求したい」
「よし、グリフィン上級軍曹、了承しよう。これより君は我々の捕虜だ。話が早くて助かる。先に言っておくが、我々は、君たちの捕獲対象である少女、君たちの言うところの凶悪なテロリストの首魁である少女の友人である、不貞の輩だ。そして我々は君が素直である限り、必要以上の暴力を振るうつもりはない。それは理解したか?」
「理解した。わたしは君を何と呼べばいい?」
「ジャスミンと呼べ」

 俯せに制圧されたグリフィン上級軍曹、その背の上で、ケリーがくすりと笑った。まさかこの男も、いかめしい口調で自分を尋問するこの女の本名が、ジャスミンという可愛らしいものだとは夢にも思うまい。
 
「ではジャスミン、尋問の前に一言だけ言わせてほしい。わたしは、君たちとわたしの身の安全のために、わたしの身柄を解放し、可及的速やかにここから立ち去ることを勧める」
「ほう、なぜ?」
「この先には化け物がいる。わたしの部隊は全滅した。おそらく、あれはわたしを狙って追ってくるはずだ。さっさと逃げないと君たちもわたしもあれの牙にかかって食い散らかされるはめになるぞ」

 おそらくは軍の猛者であろう男が、切羽詰まった調子で言った。
 どう見ても、嘘や冗談を言っているふうではない。交渉にはお決まりの駆け引きでもないだろう。喉を絞ってぎりぎり叫ぶのを堪えたその声が、この男が先ほど味わったであろう身の毛もよだつような恐怖を存分に体現していた。
 何かがいるのだ。この暗闇に紛れて、何かが。

「……グリフィン上級軍曹、その話は後で聞くとしよう。その前に質問に答えろ。本作戦における、君たちの随行人数は?」

 僅かに口ごもったが、しかしこのまま時間を浪費することに何より恐怖を覚えたのか、意外なほどにすんなりと口を割った。

「……二分隊、突入したのは12人だ」
「当然、近代的な火器によって十分に装備していたはずだな。目標は達成したか?」
「未だ作戦目標である少女の確保及びその障害となる敵の排除には至っていない。目標は少数だったが、中々練度に優れた兵がいたようだ。敵ながらあっぱれだと思う」
「君を除いて、何人が生存している?」
「分からないが、いたとしてもそれほど多くはないだろう」
「君たちの指揮権は、いったい誰にある?」
「……質問の意図するところが理解できないが、通常通り、上官が指揮権をもっている。それ以外の指示で我々が活動することは、よほどの非常事態を除けばあり得ない」
「ほう、通常の指揮系統による、と。ますます奇妙だな。わたしの掴んだ情報では、あの少女にはテロ容疑はもとより、万引きで補導された経歴すらないようだが、そんな少女を捕まえるために特殊部隊が出動するのが常なのか、この国は?」
「……君たちの得た情報の正誤は、この際問題ではない。我々に与えられた情報は、この店を拠点として凶悪なテロリストが活動しており、写真の少女がその首魁であるというものだけであり、我らの任務はその捕獲及び殺害だ。その正義を量るのは我々の任務ではなく、公正な裁判にて行われるべきことだろう」
 
 男の言葉はもっともであった。軍属の長いジャスミンは、内心で首肯する。人体の末端で動く手足が脳の指令の是非を疑わないように、実行部隊である兵士たちは上官の命令の是非を問わない。善悪もだ。どれだけ非人道的な作戦であっても、それに疑問を覚えることは許されないのだ。
 そして、これで、ウォルの身柄の確保がヴェロニカ軍の上層部の意志であることがはっきりした。ジャスミンはヴェロニカ軍の指令系統には明るくないが、共和軍ならば、特殊部隊は上級士官の直轄部隊である。直接の指令を下したのが誰かは置いておくにしても、木っ端軍人の暴走程度で動かせる部隊ではないだろう。当然のことだが、誰が最初に命令を下したのか、いち上級軍曹に尋問したところで正答を知っているはずがない。
 あとでダイアナに調べてもらうことを、しっかりと頭の付箋に書き込んだ
 
「では次の質問だ。君たちは、この場所がどこかを知っているか?」
「知らない。ヴェロニカ・シティの地下にこんな場所があるなんて聞いたこともなかった。そもそもこんな地下道を掘ること自体、ヴェロニカ教の教義に反している。恐るべき背徳だ」
「……我々はヴェロニカ教の教えに誓いを捧げていないからよく分からないのだが、地下道を掘ることが何故教義に反するんだ?」
「ヴェロニカ教では自然との調和を何よりも重んじる。人が最低限生活するのに必要な居住空間や田畑を開発するために山を切り開くのは許容の範囲内だが、このように無闇矢鱈に土を掘り返し地形を変えては自然は元に戻らなくなる。それが背徳だといわず、何という」
「そこらへんの機微は我々には理解できない。君も、この場で理解を求めようとは思わないだろう。つまらないことを聞いた。では次に……」

 ジャスミンが矢継ぎ早に質問をしようとした、そのとき。

「──おーい、……こいよぉ……」

 おぉん、と、遠くから声がした。何度も反響を繰り返して彼らの耳に辿り着いたそれは、到底人の声には聞こえない、不吉なものであった。
 ひたりと、首筋を生暖かいもので撫でられたように、ジャスミンの背筋が粟立った。
 こつこつと、彼女の構えた銃口に堅い物が当たる。グリフィン上級軍曹が、銃口を向けられた以外の恐怖によって、がたがたと震えていた。

「言わんことではない!貴様たちのせいで、俺はここで奴に殺される!あのとき、あのときさっさと逃げておけば……!」
「喚くな。貴様の言う化け物とやらに、そんなにラブコールを送りたいのか?もう少し小さな声でしゃべれ。そも、あれはなんだ?化け物と言うが、いったいどんな化け物だ?異星人か?それとも悪霊?吸血鬼?狼男?種類によって駆除方法が違うらしいからな、しっかり特定してから答えろ」

 どうにも的外れな尋問のようであったが、ジャスミンの口調はまじめである。
 自分達を追ってきているのが真実の化け物であるならば、今までの涜神行為を心から詫びて神様に救いを乞うくらいしか助かる術はないのだろうが、生き物、もしくは自然現象であるならば話は別だ。生身の自分達でも、いくらでも対処のしようがある。
 ならば、まずは実物を見て、その脅威に晒されたことのある人間から、化け物とやらの詳細を聞き取るべきだ。それが一番生きる可能性を高めてくれる。
 そして、その唯一の生き残りと思しき男は、先ほどまでの冷静な口調を一変させて、喘ぐように答えた。

「わ、わからないんだ!最初、天井を何かが通ったと思ったら、ダニーがやられた、顔面を吹き飛ばされて、それを追いかけて、奥まで、早すぎて銃は当たらない、どんどんみんなが殺されて、俺はようやくここまで逃げてきたのに、ちくしょう、どうしてこんなことに!てめえらのせいだ、てめえらの!」

 男の泣き声が、空虚な洞穴を駆け抜ける。

「……ああ、そんなところにいるのかよ、心配させるなよ、自殺しちまったかと思ったじゃねえか」

 先ほどよりも遙かにはっきりとした声が聞こえた。
 おそらくは、化け物とやらも彼らの居場所に気がついただろう。

「ほ、ほら、お前らのせいで気づかれちまった!くそっ、神様、俺はまだ死にたくねえよ、なんで俺がこんな目に……!」
「ああ、もう、うるさい」

 ジャスミンは無造作に引き金を引いた。銃口からグリフィン上級軍曹の後頭部までの短い距離を目映い光線が疾走し、彼の巨躯はぴくりとも動かなくなった。

「おいおい、殺したのか?」
「馬鹿を言うな。わたしには捕虜となった兵を殺して楽しむ趣味はない。うるさいから寝かしつけただけだ」

 確かに、彼女の手に握られた大口径の光線銃は、その出力を麻痺レベルに設定してあった。これほど接近して撃たれれば常人であれば障害の一つも残りかねないが、この大男であればたぶん大丈夫だろう。だからといって事態は何一つ好転していないのだが。

「さて、どうするね女王。俺たちはウォルを助けるためにこんなところまできて、どうやら最初に矛を交えるのは、特殊部隊の兵隊さんじゃなくて怖い怖いお化けのお仲間らしい。十字架も大蒜も、銀の弾丸もあいにく用意しちゃいねえ。逃げるってのも一つの選択肢だと思うぜ」
「知っているか、海賊。わたしは実は、ごく稀に怪奇小説を嗜むことがある。嵐の夜、吹きすさぶ風の声をBGMに寝台で読む怪奇譚などは最高だな」
「ふん?いや、とんと知らなかったぜ。じゃあ何かい?良い機会だから化け物の顔の一つでも拝んでおこうってかい?」
「違う。ここで逃げ出したりしたら、今度から笑って怪奇小説を読むことができなくなるじゃあないか。あいにく、嵐の夜に、十字架を抱えて布団にくるまる趣味はない。やるときは、がんがん行く。相手が誰だろうとな──」

 ──ふぅん、そいつは良い心がけだねぇ、お姉さん。



[6349] 第三十七話:Tiger fight
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/05/05 22:34
 ──ふぅん、そいつは良い心がけだねぇ、お姉さん。

 二人の背後で、安らかな声がした。
 ぞくりと背筋が粟立つ。
 近づいてくる気配は、ちっともしなかった。無論、油断をしていたわけではない。
 馬鹿な、と思う。だが、惚けていれば即ち死ぬ。
 ケリーもジャスミンも、振り返るではなく、這うようにして前方へと飛び、着地と同時に体を強引に捻った。
 四肢で伏せるような姿勢のまま、襲撃者を見上げる。
 そこには、女が立っていた。
 体格の良いケリーやジャスミンと比較しても、おさおさ見劣りのしない、立派な体格の女である。逆に言えば、体格そのものは常人の範囲内だ。それ自体は異常でもなんでもない。
 だが、その風体は異様そのものであった。
 女は、一糸纏わぬ裸体である。均整のとれた体つき、そして束ねた鉄条のようにしなやかな筋肉。髪の毛は長く、腰まで届くほどに長い。見事なくらいに癖のないまっすぐな髪の毛で、太陽のもとならばさぞ映えるのだろう。
 その髪の毛の先から、ぽたりぽたりと、液体が滴っている。極端に彩度の失われた視界では液体の色は分からないが、ねっとりと糸を引く様相から、この噎せ返るような鉄臭さの原因がその液体であると分かった。
 液体に濡れているのは、髪の毛だけではない。少女が身じろぎする都度、全身を濡らした粘性の液体が、ぬちゃりと嫌らしい音を立てる。
 その少女の右手には、バスケットボールほどの大きさの球体が握られていた。球体から生えている髪の毛を無造作に掴み、ぶら下げているのだ。
 子細に見入るまでもない。
 人の頭部である。
 人の頭部を無造作にぶら下げた少女が、猫科の猛獣が如く目を爛々と光らせて、切れるような笑みを浮かべてたたずんでいるのだ。
 二人の灰色の視界を満たすのは、正しく悪夢のような光景であった。
 間違いない。この少女が、先ほど見た不可解な死体を作り上げ、そしてたった一人で二個分隊の猛者を片付けたのだろう。
 二人の背を、凄まじい戦慄が走り抜けた。今自分は、生き死にの狭間にいるのだと否が応でも理解させる、金属質な感覚である。

「……で、怪奇小説愛好家のあんたから見て、あれはいったいどんなお化けだ?」
 
 固い声でケリーが問う。
 同じく固い声でジャスミンが応える。

「残念ながら海賊。わたしには、あれは可愛らしい女性にしか見えないな。どこからどう見ても、化け物のように可愛げのあるものではなさそうだ」
「同感。足のない幽霊なら舌先三寸で追い返すんだが、あれはちっと厳しそうだぜ」

 背筋に灼けた針金を押し当てられたように、二人の全身を脂質の汗が濡らしていた。極度の肉体的苦痛、あるいは精神的圧迫を感じたときに流れる、粘い汗だ。
 二人のやりとりを興味深げに眺めていた女が、くつくつと、重たい声で笑い始めた。

「ああ、いいなぁ、あんたたちは、とても素敵だ。さっきまでの木偶の坊とはモノが違う。でも、分かるかい、得てしてそういう人達こそ殺したくなる気持ちって。可愛いから殴りたい、好きだから斬り付けたい、つくづく人間って複雑だよなぁ」

 女が、歩を進める。素足のはずなのに、硬質な地面とすれて、ずしゃりと堅い音がなった。
 足の裏がよほどに硬いのか、それとも皮膚ではない別のもので覆われているのか。
 常人であれば虎に睨まれた子鹿の如く、全身から動きを奪われていただろう。そのまま、延髄に牙が突き立てられるのを、無意識に待ち望んでいたかも知れない。
 だが、二人にとって生死の境に身を置いたのは初めての経験ではない。むしろ彼らの日常には死の気配が充ち満ちていた。少年は見世物の戦場で明日をも知れぬ戦いに身を投じ続けたのだし、少女は自分が老女になれない宿命だと知っていた。
 その経験が、まさに二人を生かしたのだ。
 ケリーもジャスミンも、弾かれたように体勢を整え、手にした銃の照準を目の前の女に合わせ、躊躇無く引き金を絞った。
 光条が数本、闇を切り裂き、血塗れの少女へと殺到する。
 必殺のタイミングであり、そして必中の射撃であった。どうしたって避けようのない一撃であった。
 しかし女は、二人を嘲笑うように、必殺の射撃をひらりと躱した。
 光線そのものを躱せるはずがない。二人が銃を構え、照準を合わせ、引き金を絞ろうとした刹那に、その照準から逃げおおせて見せたのだ。
 言うは易し行うは難し、というよりもほとんど不可能事である。だが、二人の知己には、それを行いうる少年が、四人ばかり存在する。
 驚愕はしない。しかし間違いなく驚嘆に値する。
 なるほど、これはそういうレヴェルの生き物か。二人は心中で強く舌打ちをした。

「はっはぁ!いいなぁ、あんたら、いいよぉ!とってもとっても、とっても素敵だ!」

 再び走る致死の火線を、女はこともなげにくぐり抜ける。
 素人の射撃ではない。超一流の射手が二人で放つ、サブマシンガンの弾幕である。どれほどの身体能力を有していても、到底避けきれるものではないはずだ。
 だが、女は巧み、あるいは狡知だった。速射性にこそ優れるものの精密射撃の点で一歩劣るサブマシンガンの性質を理解し、ケリーとジャスミン、二人の中間に自分の体を踊らせて、同士討ちをさせようと狙っている。
 こんなこと、普通の人間にできるはずがない。そんなことをしようとすれば、あっという間に蜂の巣だ。だが、壁面をすら足場として捕らえ三次元的な動きを可能とさせる運動能力と、それを助ける外的環境、おそらくは天性ともいえる勘の良さがその絶事を可能としていた。
 いくつもの戦場を渡り歩いたケリーとジャスミンですら、こんな敵とまみえるのは初めてだった。なるほど、これならば二個分隊の特殊部隊を一人で壊滅させたのも頷ける。
 これは、人ではない。少なくとも、普通の人間ではありえない。
 ケリーは忌々しげに舌打ちし、散発的な射撃を繰り返しながら後退しようとした。この少女に翻弄されるのは距離が接近しすぎているからであり、もう少し距離を開けることができれば銃器の優位性は歴然とする。
 だが。

「逃がさねえよう!」

 何かがすごい勢いで飛んでくるのを感じて、ケリーは咄嗟に体をよじった。身を仰け反らせたケリーの眼前を、バスケットボール大の何かが、鼻先を擦過するようにすっ飛んでいく。
 ケリーは、その物体を、確と見た。鼻先を通過するとき、目すら合わせてしまった。
 うつろで、もう二度と事象を認識することのないどんよりとした瞳。だらりと半開きになった口から、暗色の液体が糸を引いて垂れている。
 人の、顔。
 この禍々しい襲撃者の手にかかり、息絶えた、特殊部隊の猛者の、恨めしげな顔である。
 慄然としたケリーの背後で、ぐちゃりと、物体が壁にぶつかって拉げる音が響いた。ケリーは、振り返ろうとは決して思わなかった。
 
「もらった!」

 ジャスミンの短い叫びが木霊した。
 動きの止まった女に向けて、サブマシンガンの集中砲火を浴びせかける。
 
「おおっと、あぶねえなぁ!」

 女は、空いた右手で地面に寝転がっていた荷物──グリフィン上級軍曹の体である──をむんずと掴み、それを盾として集中砲火を防いだ。
 人体であれば易々と貫通するであろう銃撃も、最新式のアサルトスーツを纏った軍人の体躯は貫き得なかったらしい。
 舌打ちを零したジャスミンの眼前で、さらにあり得ないことが起きた。
 女が、盾にしていたグリフィン上級軍曹の体を、あろうことかジャスミンに向かってぶん投げたのだ。
 女の細腕が、大の大人を、風船人形かなにかのように軽々と片腕で投げつける。これが現実のことなのか。
 高速で迫り来る、人体の形をした弾丸に、さすがのジャスミンも咄嗟の回避行動を取ることができなかった。

 このままでは潰される──。

 刹那、ジャスミンの肩を、どんと、何かが横合いから突き飛ばした。
 顔を見るまでもない。そこに誰がいるかなど、わかりきっている。
 仰向けに倒れながら、ジャスミンは、咄嗟にその名を叫んでいた。
 
「海賊!貴様!」

 暗視ゴーグル越しに、いつも通りの皮肉気な笑みを浮かべた、ケリーの顔が写った。
 突き飛ばされたジャスミンの眼前で、ケリーとグリフィン上級軍曹の体は激突し、もつれ合い、洞穴の壁まで吹き飛ばされて、そこで制止した。
 ぱらぱらと零れる土埃に塗れて、二人とも、ぴくりとも動かない。
 それを見遣り、女は感極まったように呟いた。

「いい男だねぇ。女をかばって死ぬなんて、勇者の誉れだ」
「……勝手に人の亭主を殺さないでもらおう。あの程度でくたばる男なら、わたしが既に十回は殺している」

 あの程度で、海賊王とまで言われた男がくたばるものか。

「へぇ。そんなに頑丈なんだ」
「折り紙付きだ。それが取り柄で選んだようなものだからな」

 ジャスミンは、ゆっくりと立ち上がった。
 残弾に不安のあるサブマシンガンを捨て、自らの手に馴染んだ大型拳銃を引き抜く。かつては連邦宇宙軍の正式武装にも採用されていた、MB72ハンド・ガン,通称ヴィゴラス。全長40センチを超える銃身と総重量4.8キロの重量を持つ携帯型拳銃は、ハンド・ガンではなくハンド・キャノンと表現する方が適切かもしれない。 

「あの色男は、あんたのご主人かい?」

 ジャスミンは、苦笑を浮かべた。

「そういう紹介の仕方をしたことはないが、成る程、世間一般的に言うならば、確かにこの男はわたしのご主人ということになるな」
「ふぅん、そうかい。じゃああんたを殺せば、この男は鰥夫になるってぇことだな?」

 女が、楽しくて仕方ないといったふうに笑った。

「よしきた。あんたを殺してこの男はあたしがもらう。あたしの情夫にしてやる。他の男は、どうにも駄目だ。ちょっと小突いただけでぴぃぴぃ泣き喚きやがるからな。その点、この雄は中々に丈夫そうだ。こいつの子種ならさぞかし強い子が産めるに違いねえ」
「……別にわたしを殺さなくても、この男はお前のような美人相手ならば、喜んでお相手すると思うぞ」
「それはなんとも剛毅な話だねぇ。だけどさ、やぱり他人様のものを横からかすめ取るのはよくねえよ。それはコソ泥の仕業だぜ。どうせ奪うなら、堂々と、正面から奪い取るべきだ。そうは思わねえか?」

 暫し呆然としたジャスミンだったが、やがてくすくすと、身を屈めるようにして笑い始めた。
 目の前には、圧倒的な死の気配を纏った化け物がいて、状況はちっとも改善されていない。むしろ、二対一が一対一になったぶん、状況は悪化してさえいる。
 それでも愉快なことには違いがない。
 こんなところで、自分と同じ価値判断で男の善し悪しを選ぶ女と出会うとは、夢にも思わなかった。これが可笑しくなくて、何が可笑しいだろう。
 そして、そういう価値判断をする女が、こぞってこの男に惹かれるのが面白かった。黙っていても女の選り好みには苦労しない男ではあるが、自分と同じような女を惹き付けるフェロモンでも発散しているのかも知れないと思った。

「……何が可笑しい」

 女が、感情を殺した声で呟いた。
 ジャスミンは、笑いを噛み殺しながら、

「……自慢ではないが、わたしの亭主はかなりいい男だ。街中を歩けば必ず声を掛けられる。男と女を問わずにな」
「だろうな」
「今まで、この男がどこの女と寝ようが、別に気にも止めなかった。この男も、わたしがどんな男を銜え込んでも気にしない。二人とも、一応の礼儀としてお互いにことわりを入れてから、束の間の逢瀬を楽しんだものだ。幸い、一夜の情熱を求める相手には、お互い苦労しなかったしな」
「なんだい、惚気話かい」
「その一夜の恋人の方にも、わたしは必ず一言ことわりを入れる。自分には配偶者がいるから、あなたとは一緒になることができない、とな。この男もそうだ。しかし度し難いもので、勘違いをした相手に付きまとわれることもある。だが不思議なことに、どれほど美しい女だろうと地位のある女だろうと、わたしがこの男の隣に立てば、すごすごと帰って行く。自分と一緒になってくれないと死んでやるとまで言ってこの男を辟易させた女でも、わたしを一目見るなり尻尾を巻いて退散したよ」
「根性無しだなぁ。こんなにいい男と寝ておいて、正妻がお出まししたくらいで逃げ出すなんざ、雌の風上にも置けねえや」

 無論、相手方にも言い分はあるだろう。
 この二人が、例え一夜限りとはいえ見初めた相手であるから、世間一般ではそれなり以上に通用する魅力を備えている者がほとんどである。だからこそプライドも高い。
 そしてそういう人間が、既に配偶者を得ている異性に夢中になったときは、必ずこう思うものなのだ。
 例え今はどんな女が妻の座に居座っていようと、自分のほうがこの男には相応しい。必ず妻の座から蹴落としてみせる。なぜなら自分はこんなにも美しく、若く、そして賢いのだ。この男は、必ずそれに気づいてくれる。
 しかし、そう確信した、あるいは盲信した女でも、ケリーの隣にジャスミンが並べば、自分の入り込む隙間がそこに無いことなど一目で気がつく。それほどに、この二人は『絵になる』のだ。
 ジャスミンは、赤金色の巻き毛を掻き上げながら続ける。

「だから、これほど明け透けに、しかも面と向かって略奪愛を宣言されたのは初めてなんだ。なるほど、これがメロドラマとか、嫉妬に狂った女の愛憎劇とか、そういうものなんだなと思うと感慨深い。今までそういうものは、小説や舞台劇の中でしか見たことがなかったからな」

 一人頷き、納得していた。
 そんな正妻の前で、どうやら略奪愛を宣言したらしい女は、腹を抱えて笑っていた。

「そ、そうだな、こいつは正しくメロドラマだ!一人の男を巡って、女同士、金切り声で泣き叫んで、髪の毛掴んで大立ち回りだ!あたしも、まさかそんな間抜けたことをするはめになるなんざ、ついさっきまで考えもしなかったぜ!」
「そうだろう?だから、考えてみるとどうにも可笑しい。まさしくお笑い草だ。ちなみに、こういうときは、正妻としてはお前のような女を、何と呼べばいいのだろうか?」

 女は、真剣な表情でしばし黙考し、

「やっぱり、『泥棒猫!』とか言って灰皿の一つでも投げつけるもんじゃねえの?」
「なるほど。実際に猫が亭主をかっ攫っていくのかどうかは置いておいて、よく聞く台詞ではある。それではこれからお前のことを、泥棒猫と呼ぶことにしよう」

 ジャスミンは、女に、正面から相対した。
 遙か昔、人類の揺りかごがたった一つの惑星の地表、そのごく一部に過ぎなかった頃、荒野で決闘するガンマンがそういう構えを取ったように、全身から力を抜き、神経をただ一点、右手に握った愛銃に注ぎ込む。
 女も、やはりジャスミンに、正面から相対した。
 体を少しずつ落とし、これから人類未到の大記録に挑む短距離走者のように、全身に揺るぎなく神経を走らせ、脚に、つま先に、いつでも駆け出すためのエネルギーを注ぎ込む。
 じりじりと、焦げるような緊張感が、二人の神経を灼く。
 女は、気がついていた。先ほどの、サブマシンガンを装備して、男と二人がかりで自分を責め立てていたときのジャスミンよりも、今のジャスミンのほうが遙かに危険であることを。暗視ゴーグル越しに自分を見つめる金色の瞳が、今まで見てきた生き物の中で、最も危険な光を灯していることを。
 二人の女が、瞬き一つせずに、相手をじっと見ている。
 視線で殺している。
 動かない。
 動けないのではない。動かないのだ。
 相手を仕留めきれると確信するまで、相手の死体が、どんなふうに倒れ、どれだけの血反吐を垂れ流して死ぬか、それが像を結ぶまで、動かない。
 動いてやらない。
 そして、二人とも、石像のように立ち尽くす。
 だが、どちらからか動かなければ闘争は永遠に終わらない。
 最初に動いたのは、銃を携えた女の方だった。
 銃を目線まで持ち上げるではなく、だらりと下げた右腕をそのままに、女へ向けて銃弾を放った。古代の、古式ゆかしいガンマンの決闘のまんま、恐るべき早撃ちである。
 しかも狙いは正確であった。女の眉間に吸い込まれるように、光条が走った。
 しかし、女の顔は、既にそこにはない。女は既にそこにはいない。
 撓めに撓めた全身のバネを一息で解放し、地面を蹴りつけ、壁面へと跳ねる。
 ジャスミンがそれを追って、着地面に狙いをつけて発砲する。だが女は一拍早くそこを蹴り、今度は天井へと取り付いている。

 ──ピンボールでももう少しお淑やかに跳ね回るものだ!

 ジャスミンは内心で叫び声を上げた。
 それでも、ここで愚痴って趨勢が変わるはずもない。人間は、与えられた外的条件の中で最善を尽くすしか生きる手段はないのだ。
 三度、天井に張り付いた、蝙蝠のような女に照準を合わせて、発砲する。これほど近距離の目標に、これだけ命中する気がしないのは、銃把を握って以来初めての経験だった。
 然り、致死の光線は人を捕らえることはなく、その背後にあった壁面を僅かにえぐり取るにとどまった。
 
「ちぃっ!」

 身の危険を感じたジャスミンが、ステップバックで距離を取ろうとする。
 だが、弾丸のような速度で地面に舞い降りた──突き刺さったというほうが適切な表現だろうか──女は、その拍子を見逃したりはしない。
 着地した姿勢のまま、女は、四足獣のように身を撓めた。まんま、獲物を狙って構える猫の如き姿勢である。
 ジャスミンの視界の中で、蹲った少女の背筋が、大腿筋が、むくりと膨れあがった。ぱんぱんに、まるで破裂する直前の風船のように。
 女が、顔を上げる。ジャスミンの視線と交わった少女の視線が、血に酔って笑っていた。
 
 ──くる!

 経験ではない。勘ですらない。敢えていうならば、本能がジャスミンを救った。
 ほとんど大砲で打ち出された弾丸の速度で襲い来る、人の形をした暴力の塊である。どうしようもない。どうしたって避けられない。
 何の理屈もなく、銃で顔面を庇った。その動作が、ジャスミンの顔が、先ほど見た死体と同じ有様になるのを防いでいた。
 顔の前に盾代わりに構えた鉄の銃身に、とんでもなく重たい何かがぶつかり、硬質な火花を散らした。
 少女の右腕。
 もっと正確に表現するならば、その爪であった。
 
 ──冗談を言うな、これが人間の爪か!?

 分厚い。
 鋭いとか、堅そうとか、そういう印象ではない。
 ひたすらに分厚いのだ。まるで指から骨が突き出ているように、分厚く、太く、重たそうな爪。当然の如く先端は鋭く尖っているが、そんなことはおまけか何かにすぎないように思える。
 凶器だ。
 これは、到底人体に存在しうる器官ではあり得ない。
 これではっきりした。先ほどの死体の失われた前頭部は、この爪によって貫かれ、剥ぎ取られ、斬り飛ばされたのだ。あの鋭利な切断面を描きうるほどに、これは致死の武器なのだ。
 つまり、この女があの死体を作り上げた。
 そして、自分もあの死体と同じ運命を辿るところだった。
 あらためてジャスミンの脳髄を戦慄が満たした。
 だが、戦慄を感じたのはジャスミンだけではなかった。
 爪の持ち主の瞳が、信じられないものを見たように見開かれている。今、その左手で同じ攻撃を振るえば勝利は彼女のものとなるにも関わらず、そのことに思考が追いついていない有様だ。
 唖然とした表情で、自分の爪を受け止めた銃身を、ただ眺めている。

「……へぇえ」

 いまだ女の爪と、ジャスミンの持つ銃は鎬を削り合っている。
 ジャスミンはそのまま満身の力を込めて押し返そうとしたが、女の腕は小揺るぎとしない。彼女の顔は、些かの力を込めている様子は無いにも関わらず、だ。
 力を込めるのが顔に出ないだけ、そう思い込めれば幸せだっただろう。
 だが、ジャスミンはその甘えた思考、あるいは幻想を切り捨てた。
 頭の中で算盤を弾く。馬力は相手の方が上、身のこなしも叶うまい。
 ならば、どうやって勝つ?
 自分が勝ちうるものはなんだ?
 走馬燈を回すのではなく、ありとあらゆる引き出しをひっくり返す。そうやって生きる術を探すのだ。
 しかし、そんな暇すらありはしなかった。
 女は無造作に右足を上げ、突き出すようにジャスミンの腹を蹴った。

「がはっ」

 低いうめき声が、ジャスミン本人の意志を無視して口から飛び出る。浮き上がった体が猛烈な勢いで後方へとはじき飛ばされ、壁へと叩き付けられた。
 凄まじい威力の蹴りだ。ジャスミンの引き締まった腹筋を丸ごと貫くような衝撃だった。もしジャスミンが、いわゆる普通の女であったならば、事実つま先が腹部を貫いていたかも知れない、そういう蹴りだった。
 横隔膜が痺れ、呼吸機能を放棄する。胃がせり上がり、酸っぱい唾液が口の端から垂れる。目がちかちかと意味不明の光を捕らえ、何故自分がここにいるのか、どうしてこんなことをしているのかが分からない。
 ガシャリと、ジャスミンの手から離れた銃が、地面に落ちる音が響いた。

「しゃああぁっ!」

 洞穴中に響くような雄叫びを上げて、女が飛びかかってくる。
 よろめくようにして壁から跳ね飛ばされてきたジャスミンの眼前で跳躍し、彼女の顔めがけて蹴りを放つ。
 咄嗟に両腕を顔の前で交差させて防御する。
 女は、かまわずにそのまま蹴った。ジャスミンの、両腕のちょうど交差した部分に、女の踵が突き刺さった。
 みしりと、手首の骨が軋む音を、ジャスミンは聞いた。
 殺しきれなかった衝撃はジャスミンの体を再度吹き飛ばし、壁に激突させる。
 後頭部を、強かに打ち付けた。意識が遠のき、全身の力が抜ける。

「もういっちょぉ!」

 女が、再び跳ねる。そして、もう一度跳び蹴りだ。
 今度は、壁に貼り付けになったままのジャスミンに蹴りが放たれた。
 もう無意識に防御していた腕を、再び鋭い衝撃が貫く。だが、今度は吹き飛ばされるだけのスペースが背後にない。
 ジャスミンの頭部は、女の蹴りと背後の岩壁に挟みつぶされた。
 頭蓋が、脳みそが、悲鳴を上げる。足から力が抜け、体が前方に倒れようとする。

「とどめだ!」

 女が叫び、右手を大きく振りかぶった。
 これが最後の一撃だ、とジャスミンは思った。
 これで、自分を殺すつもりなのだろう、と。
 恐ろしいほどに女の動きがスローモーションになる。ゆっくりと、自分をいたぶるために殊更ゆっくり動いているように見える。
 死ぬか。
 ここで死ぬか。
 そう思うジャスミンがいる。
 死ぬか。
 誰が、死ぬか。
 死んでたまるか。
 そう思うジャスミンがいる。
 そして、ジャスミンはそう思った。
 こんなところで、死んでたまるか。殺されてたまるか。
 ジャスミンは、遠ざかる意識、その尻尾を強引に掴み、自分のほうに引き寄せた。
 
「かぁっ!」

 口をついて出たのは、獣の叫び声だ。
 今のままでは死ぬ。だから、体を動かせ。無様でもいいから、とにかく体を動かせ。
 その意識が、ジャスミンを救った。
 木偶人形のように馬鹿になった体の神経、その末端までに檄を飛ばす。
 後頭部を壁に打ち付け、腹を貫いた衝撃も抜けきらず、いまだ意識の朦朧としたジャスミンだ。その動作は考えてのものではない。
 だが、考えるよりも早く、膝を折り、身を低く屈めた。
 こういうときに一番不味いのは、闘争を放棄すること。そして、行動を放棄して立ち止まることだ。
 動くことを止めさえしなければ、意外と何とかなることを経験から熟知している。
 然り、先ほどまでジャスミンの頭部があった場所を、女の爪が疾駆した。キィンと、コンクリートカッターの擦過音のような高い音が響いて、頑強な岩壁の一部が爪の形に抉れた。

「往生際の悪い!」

 女の、痛烈な舌打ちが耳朶を叩く。
 いいじゃないか。物わかり良く突っ立っていれば、自分は今頃あの死体の仲間入りをしていたのだ。こういう場合の舌打ちならば、褒め言葉に等しい。
 無理矢理に口元を持ち上げて、ジャスミンは笑っていた。

「あいにく、それだけが取り柄なものでな!」

 明日をも知れない命を抱えて34年間も見苦しく生き足掻き、つつけば死ぬような病体のまま40年間も眠り続けたのだ。自分ほどに生き汚い人間も他にはいないだろうと、ジャスミンは確信している。
 そして、誇りに思っている。
 ならば、こんなところで死んでたまるか。それは、今の今まで生にしがみついてきた自己への侮辱だ。
 残された最後の力を振り絞り、全力の一撃を躱されて踏鞴を踏んだ女、その足にジャスミンは飛びついた。
 両足を大きく抱えて、そのままバックへと周り、リフトアップし、体を捻って地面へと叩き付けようとする。
 変形のスープレックスだ。
 相手の体重に、自分のそれを預けて、頭から落としてやる。下は、競技用のマットではない。ごつごつとした岩石質の地面だ。下手に落とせば──いや、この場合は上手く落とせばだろうか──首が折れる。頭蓋が割れる。一撃で片が付く。そしてジャスミンは一切の手加減をしない。
 足掻く獣が、肩口に爪を突き刺した。皮膚を破って肉の中に爪が埋もれる怖気のする感覚は、しかしジャスミンから闘志を奪うには至らない。
 満身の力を込め、両手を女の膝でクラッチさせたまま、綺麗にブリッジをして、頭から叩き落とす。
 
「くあぁっ!」

 女が、悲鳴をあげるように叫んだ。
 咄嗟に、手で頭を庇おうとする。このまま地面に衝突すれば、どう考えても無事には済まないからだ。
 だが、ジャスミンはお構いなしだ。思い切り、力一杯に投げた。
 ごしゃり、と、肉と骨のつぶれる、ぞっとする音が聞こえた。
 女の体がジャスミンに抱えられたまま、思い切り地面に叩き付けられていた。頭と地面が直接衝突したわけではない。咄嗟に、その間に腕を差し入れて、頭蓋が直接岩と激突するのを防いでいる。
 しかし、だからといってダメージが完全に無くなるはずもない。かなりの衝撃に脳しんとうを起こした女の視線が、曖昧な様子で宙を追う。
 ジャスミンは、僅かに身じろぎする女を両腕に抱えたまま、立ち上がった。

「むんっ!」

 そして再び、思い切り背を反らして、腕の中の女を、後頭部から地面に叩き付けた。
 今度は手を差し挟む余裕すらなく、女の後頭部は直接岩石と激突した。
 勝負ありである。それどころか、常人であればまず生きていない。
 ジャスミンもそれは分かっているはずだ。
 分かっていて、腕の中で微動だにしない女の体を再び抱え上げ、もう一度、後頭部から地面へと落とした。
 とどめの一撃だ。確実に仕留めるための一撃だ。
 三度、人の体の壊れる音が響いた。
 女を両手で拘束したまま、立ち上がる。
 女の両手が、だらりと力なく投げ出されていた。首が、赤子の首のようにカクンと曲がったまま戻らない。
 それを見て、ジャスミンが僅かに力を緩めた。
 その瞬間。
 腕の中で、女の体が爆ぜた。少なくともジャスミンはそう思った。
 女は、死んでいなかった。
 両腕のクラッチを切られ、次の刹那に、強かに顔面を殴られた。
 鼻の奥がつんと痺れ、頭の中で火花が舞い散る。二、三歩よろけて後ずさる。
 どろりと、鼻の下を暖かな液体の感触が伝った。

「……どうして生きていられるんだ、あれを食らって」

 感嘆を含んだジャスミンの呟きに、さすがに焦点の合わない視線をした女が応える。
 
「……いやぁ、死ぬかと思った。本気で死ぬかと思った。しゃれこうべの拉げる音が聞こえたぜ、ほんと」

 ふらり、ふらりと、今にも倒れそうな体だ。
 女の髪を、他人のものではない血液が伝い、滴り落ちている。
 ふらり、ふらりと、今にも倒れそうなのに、頬には寒気のする笑みが浮かび、まだ戦おうとしている。だらりと下げられた両の手には、尖った爪がぶら下がっている。
 ああ、そうか。この生き物は、それが折れるまで止まらない。そういう生き物なんだな。
 ジャスミンも、鼻血を流しながら笑った。
 ああ、そうか。
 これは邪魔だな。
 ジャスミンは、視界を遮るゴーグルを、無造作に脱ぎ捨てた。
 ジャスミンの金色の瞳孔が、野生の獣のように拡大した。
 視界が暗色に染まったはずなのに、なぜかさきほどよりも、女の姿が鮮明に写る気がする。
 体中にアドレナリンが行き渡り、全身の神経細胞が活性化しているのだ。
 褐色の肌、朱に染まった金色の直毛。視線は獲物を狙う鷹の如く、鋭くぎらついている。
 だがそれは、さきほどまでの凶相ではない。
 年相応の不安定で弱々しい瞳が、最後の意地を守るためにぎらついているだけだった。
 ああ、そうか。
 この女は、一度見覚えがある。

 ──馬鹿馬鹿しい。

 ジャスミンは、自分と自分の伴侶である男の間抜けを思って、少しだけ微笑した。

「いい加減にしろ。普通の人間なら、あれできっちり三回はくたばっているんだ。わたしは必要とあらばためらわないが、出来るだけ殺したくない」
「けっ、お優しいんだな、あんた」
「大人は誰だって、子供には優しくあるべきだ。違うか?」

 女の顔が、奇妙にゆがんだ。
 癇癪を起こす寸前の幼児のように、ゆがんだ。

「何言ってるんだよ、お姉さん。さぁ、やろうぜ。せっかく盛り上がってきたんじゃねえか。さっきのはすげえきいたよ。だから次はあたしの番だぜ。今度こそ殺してやる」
「駄目だ。我が儘を言って大人を困らせるものじゃない」
「なあ、お姉さん。さっき、言ってたじゃねえかよ。あれは嘘かよ。やるときは、がんがん行くって言ったろう。相手が誰だろうとやるって言ったろう。それとも、相手があたしじゃ駄目かい?泥棒猫じゃあ、本気になってくれないかい?」

 今にも泣き出しそうな声で言うのだ。
 薄く涙を浮かべた瞳で言うのだ。

「いや、相手にとって不足はない」
「じゃあやろうぜ。今すぐやろうぜ。こんなに楽しいんじゃねえか。今さら止めるなんて、けちくさいこと言わないでくれよ」
「ああ。わたしもそう思うのだが、今日のところはここまでだ」

 これ以上ないくらいに優しい声で、ジャスミンが言った。
 女は──少女は、泣いた。
 ぼろぼろと涙をこぼし、口をへの字にして、泣いた。
 泣きながら、駄々をこねた。

「どうしてだよ。どうしてそんなこと、言うんだよ。あんた、楽しくなかったのかよ。あたしをあれだけ痛めつけておいて、そんな悲しいこと、言わないでくれよ」
「すまない。心の底から申し訳ない。だが、君にここで死なれるのは、とても厄介なんだ」
「やっかい?」

 少女が、鼻を啜りながら問い返した。
 嗚咽で、途切れ途切れになる声で、みっともない調子で問い返した。

「厄介ってさぁ、厄介ってなんだよぅ。あたしが死んで、どうしてお姉さんに迷惑がかかるのさぁ。あたしの死に場所くらい、あたしに選ばせてよぅ」
「君に死なれるとな、あの手品の種が分からなくなるんだ。わたしは夫に、あの手品のトリックを暴いてみせると大見得を切ってしまったからな、いまさら引っ込めるわけにもいかないだろう?」
「手品?」
「君が今日、あの酒場でやっていた、入れ替わりマジック。あれは見事だったと、夫が褒めていた。だからこそわたしも、何としても種をあかしてみせる。そのときに、正解を知っている人間があの男だけでは、それが本当に正解かどうか分からないじゃないか」

 君は、あのときの女の子だろう、と。
 少女はぽかんとした表情でジャスミンを見た。
 
「お姉さん、あのとき、酒場にいたのかい?」
「ああ。ついでに言うならば、わたしはウォルの友人で、彼女を助けるためにここに来たんだ。どうしてわたしと君が争わなければいけない?」

 唖然とした顔で、少女が問う。

「……ウォルと、友達?」
「そうだ。結婚式に招待してもらう約束も取り付けた。加えて言うならば、彼女の将来のご夫君は我々夫婦の命の恩人だ。これは十分に友達といっていいと思うんだがな」
「はっ……なんだ、お姉さん、連中の仲間じゃなかったのか。あたしはてっきり……」
「それを知って、まだ続けるのか?それは、なんとも間の抜けた話だとは思わないか?」

 少女は、一度大きく頷き、

「そりゃあ、間の抜けた話だなぁ。じゃあ、これ以上あんたと喧嘩しても、しまらねえよなぁ」
「ああ、わたしもそう思うよ。何ともしまらない話だ。それと一言断っておくが、君にはあの男のことは諦めてもらおうと思う」
「どうして?」
「あの男は──わたしもそうだが──絶対に未成年には欲情しない。それほど異性に飢えてはいないからな。泥棒猫ならいざ知らず、泥棒子猫では、最初からわたしの敵にはならない。もしもわたしからあの男を奪うつもりなら、きっちり成人してからもう一度来ることだ。そのときは君を泥棒猫として認め、正々堂々とあの男を賭けて戦ってやる」

 少女は目をぱちくりとさせ、くすりと笑みを零してから、

「あー、それじゃあ、今は、勝てないか……残念……じゃあ、今日はあたしが負けておくよ……いやぁ、強いねぇ、お姉さん……」

 そう言って一度大きく体を揺らがせて、後方にばたりと倒れ込んだ。
 少女が地面に伏せる音は、驚くほどに軽やかだった。
 その様子を確認してから、ジャスミンは大きく息を吐き出し、全身に漲る殺気を吐き出した。
 どかりと、倒れ込むように座る。もう二度と立ち上がれないんじゃないか、そう思うくらいに足腰が言うことを聞かない。
 ああ、疲れたな。
 無性に、酒が飲みたくなった。

「終わったかい?」

 肩越しに投げかけられる声に、しかしジャスミンはちっとも驚かなかった。
 ケリーは、投げ捨てられた暗視ゴーグルをジャスミンに手渡し、倒れた少女に駆け寄って、脈を測り、瞳孔の様子を確かめた。
 特に異常は無さそうだ。しかし、今すぐにどうこうというわけではなかったとしても、常人ならば一撃で死ぬほどの衝撃を三度、頭の同じ箇所に叩き込んだのだ。この少女が何者かは知らないが、可及的速やかに医者に診せる必要がある。

「おい、海賊、死んだふりをしていたんだから元気だろう。その女の子を担げるか?」
「ああ、元気いっぱいだぜ。あんたが危なくなったら適当なところでとんずらしようと思ってたんだが、銃の通用しない相手を、まさかバックドロップで仕留めるとは思わなかった。恐れ入ったぜ。流石は七軍の魔女だな。見事なマジックだ」

 どこの世界に知識よりも筋力がものをいう魔法の世界があるのかは知らないが、あったとすればジャスミンは間違いなく超一流の魔女になる資格があった。
 だが、特殊部隊の二個分隊を一人で片付けた少女を、追い詰められたとはいえ素手で仕留めてのけたのだ。結果だけを見れば、魔女という表現は決して間違いではない。
 その魔女は、普段の彼女らしからぬ拗ねた声で、唇を尖らせて言った。

「それなりに危なかったんだぞ。援護の一つくらいしろ、薄情者」
「そうは言うがよ、女王。俺だって一度はちゃんと気を失ったんだ。なのに目が覚めてみたら、いつの間にか俺はあんたらの景品みたくなっちまってたじゃねえか。あの状況で俺があんたの味方したら、後味が悪いったらねえぜ」
「ではわたしが負けたら、素直にこの子の種馬になったのか?」
「それなんだよなぁ。あんたの言うとおり今のこの子のお相手をする予定はねえがよ。ウォルと同じで、あと十年もしたら是非御相手願いたいべっぴんさんになるぜ、この子。惜しい話だねぇ」

 ジャスミンは苦笑した。彼女とてまさか本当に怒っているわけではない。
 感傷的だと自分でも呆れるのだが、先ほどの戦闘は、ある時点から自分とこの少女の一騎打ちになっていたのだとジャスミンは思っている。しかも自分は銃を手にしており、あちらは素手だ。どちらが卑怯かと言えば、客観的に見れば間違いなく自分のほうである。
 その上に援護射撃などが入ろうものならば、弁解のしようがない卑怯を冒すことになるだろう。もしもケリーが自分を助けていれば、そのことにこそ彼女は怒りを覚えたかも知れなかった。
 先ほどの戦闘は、何度も危ない場面があった。ケリーの腕前ならば、背後から少女を狙い撃つのは如何にも容易かっただろう。それを自制することがどれほど耐え難かったか。
 ケリーの陰りのない笑みを、ジャスミンはまぶしげに見遣った。

「軽口はここまでにしておこう。さっさとその女の子を担げ。決して変な真似はするなよ。これでもまだ未成年の子供みたいだ」
「ああ、そりゃあこの顔を見りゃ嫌でも分かるさ。どこからどう見ても将来の美女の卵だ」

 酒場で、ステージの上に立つこの少女を見たときは、分からなかった。既に成人した女性かと思った。
 さっき、戦っている最中は、そもそもこの少女が酒場で見た女と同一人物だとはどうしても思えなかった。顔の造作などの単純な差異ではない。もっと根本的なところで、人間と同じ生き物とは思えなかったのだ。
 それが今はなんとも無垢な寝顔で寝息を立てている。
 不思議な少女であった。

「ちなみに、そっちのおっさんは?」
「まぁ大丈夫だろう。最近の兵装の安全性の進歩具合には恐れ入る。一昔前なら、どれほど性能の良い防弾スーツでも、至近でサブマシンガンの斉射を受ければ命はなかったものだが……」

 覚醒の直後に愛機を駆って宇宙戦に挑んだときも思ったことだが、この時代の武器はどれもお行儀がいい。ジャスミンなどの感覚からすれば、少々お行儀が良すぎて調子が狂うくらいだ。
 武器でさえそうなのだから、身を守るための防具においての進歩性は想像以上である。これは一度、自分の装備がそれらの防具に対してどれほど有効たり得るかを真剣に検討する必要がありそうだった。
 そんなジャスミンに、ケリーが言う。

「まぁ、とにもかくにもこの迷路みたいな洞窟から抜け出すのが先決だな。問題は出口がどこかなんだが……」
「ウォルたちが出口を知ってここに逃げ込んだことを祈ろう。もうわたしはへとへとなんだ。いまさらあの店に引き返して追撃部隊と一戦やらかすのは、さすがにぞっとしない」
「同感だ。なら、さっさと行くとしようぜ」

 ケリーは、血塗れの少女をひょいと抱えた。
 ジャスミンは、ふらつく足を叱咤して、強引に立ち上がった。

「肩を貸そうか?」
「いらん」
「惜しいなぁ。あんたを担げりゃまさしく両手に花なんだが」
「言っていろ馬鹿者」

 二人は少女を抱えたまま、闇の中へと駆けていった。



[6349] 幕間:Paracelsus and the Philosopher
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2011/05/14 21:34
 目を閉じると、今でも幼き日の小さな出来事が、鮮明に浮かび上がってくる。
 優しかった両親、泥だらけになるまで遊んだ友人達、美しき我が故郷。
 故郷。ああ、我が故郷。その言葉に、思いもよらず胸が熱くなってしまった。
 故郷という言葉は、人の心を否応なく揺さぶるらしい。それが、失われて二度と戻らないこの身であれば尚更なのだろうか。
 私がまず思い浮かべるのは、夕暮れ色に染まった山々の遠望だ。
 山間に飲み込まれていく黄金のような太陽は、自分の周りだけを鉛丹色に染め、彼に見放された空はだんだんと夜に溶け込んでいく。
 幾重にも重なる帯雲の間から、一番星が見える。街の学者に聞けばあの星は何という名前で、その恒星系にどれだけの人間が住んでいるのかを得意げに講釈してくれるのだろうが、私が生きていくうえでどんな関わりがあるだろう。
 たぶん、ない。だから、あれは一番星という名前で、それで十分だ。
 遠く、カラスの鳴き声が山の中から聞こえてくる。辺りが暗くなって、今まで身を潜めていた小さな虫達もいっせいに思い思いの声で鳴き始めた。
 風が、冷たい。秋が来る。この山の秋はすごく短いから、あっという間に冬になるだろう。全てが白く埋め尽くされる、寂しい季節だ。
 私は、冬が嫌いだった。秋の深まった、もの悲しい山もあまり好きではなかった。だから今のうちに、夏の最後の残滓を目に焼き付けておこうと、小高い丘に登ったのだ。
 濃紺から黒に染まりつつある東の空、辛うじて赤みがかり夕焼けの残滓を残す西の空。いつの間にか太陽は山々の向こう側に姿を消し、空には満天の星が瞬いていた。
 今から家路を急いだのでは、真っ暗な山道を灯りもなく歩くことになるだろう。この山で人を襲うような獣と出くわすことはめったにないが、夜の山の恐ろしさと畏ろしさを私は十分に弁えていたから、今日はここで夜を明かそうと決めていた。そのための装備をちゃっかりと用意している。明日、家に帰った時のお説教は少しだけ億劫だが、今日にはそれだけの価値があるはずだ。
 高台から、村を見下ろしている。私は、ここから一望される風景が、何よりもお気に入りだった。
 眼下に広がるのは、時代から忘れられたような、小さな小さな集落だ。名前も無い集落である。外の人間は、何かもっともらしい名前を付けているのかもしれないが、自分達にとっては唯一の帰るべき場所なのだから、名前などいらない。ここは、自分達の村なのだ。
 赤茶けた大地に、ぽつりぽつりと家が散らばっている。その中に、一体どれだけの人生を詰め込んでいるのだろうか。多くはきっと、この村の外に出ることもない命だ。
 自分も、この村に骨を埋めるのだと思う。
 友達はそれが嫌だと、街に出て一旗あげるんだと息巻いているが、私には友達の気持ちが欠片ほども理解できなかった。
 ここで、死んだように、時を止めたように死んでいく。それは確定した未来であり、他のなによりも幸福を感じさせる未来だった。
 父も母も、そうだったのだ。この村で生まれ、この村で出会い、この村で結ばれた。そしてこの村で死んでいくのだろう。
 なら、きっとこの村で生まれた自分も、この村で誰かと出会い、そして結ばれるのだろう。そして共に老いて死んでいくのだ。
 私の脳裏に、勝ち気な笑みを浮かべる、幼なじみの少女の顔が思い浮かんだ。その頃は、彼女のことを考えると胸が締め付けられるように痛んだ。それは確かな痛みのはずなのに、その甘い痛みが、どこまでも愛おしかったのを覚えている。言葉にすると面映ゆいのだが、あれが私の初恋だったのだと思う。
 そういえば、あの少女の名前は、なんといったか。
 忘れてしまった。顔も、霞を掴むようにしか思い出すことが出来ないのだから、いわんや名前においておや、だ。
 耄碌したものだ。私が彼女の名前を忘れてしまったならば、もうこの世には彼女の名前を覚えている人間は存在しないことになる。それが少しだけ、辛い。
 私は木立にもたれかかり、ほう、と息を吐き出した。山の空気に冷やされて少しだけ白んだそれが、何故だかとても貴重なものに思えて、手で捕まえようとした。
 するりと、指の間から逃げていく。
 もう一度試そうとは思わなかった。
 掌を眺める。もう、闇に沈んで、掌の皺だってはっきりと見えることはない。
 指の間から、光が見えた。
 村の、粗末な家々から漏れる、竃の火だ。
 もう、食事時なのだろう。我が家では、父と母と妹と弟と、本当ならば自分の五人で食卓を囲んでいるはずなのに、どうしてか自分はここにいる。家には一応の書き置きを残しているから、お父さんもお母さんも、またかと呆れていると思うが、きっと心配していることだろう。
 薄明かりの中、所々で白い煙が立ち昇っている。あれは、マキスの家の煙突。
 その向こうに見えるのがうちの家。
 一番向こうに見えるあの煙突は、確かハーシィの家のはずだ。ハシバミ色の瞳をした、可愛らしい女の子だ。まだまだ小さくて舌っ足らずな彼女のお母さんは、この村でも一番の料理の名人のはずだから、きっとハーシィは食卓にご馳走が並ぶのを今か今かと待ち侘びているのだろう。
 そんなくだらないことを考えているうちに、思いの外、時間が流れていたようだった。
 やがて煙も見えなくなり、狐火のように儚い灯火が、点々と村を灯していた。
 見慣れた風景だ。そして、どうしたって見飽きることのない風景だ。
 もう、何百年も昔から、この世界。
 遠い宇宙の果てから人類がこの星を訪れて、その頃から、ずっとこの世界。
 どんどん豊かになっていくこの星で、ほとんどの人間に馬鹿にされ、いつの頃からか絶滅寸前の野生動物のように奇異の視線で珍しがられ、いずれは文化遺産とかいう名目で保護までされて。
 それでもこの村は、ずっとこの村だったのだ。外がどう変わろうと、外の人間がどう変わろうと。星が二つの国に分かれ、意味のない殺し合いに耽ろうと。
 この村は、この村だった。
 今までも、今も、これからも、その先も、ずっと。
 永遠に、ずっと。

 この村の、はずだった。



 いつの時代も、成功した人間というものは高みに居を構えたがるものらしい。
 険しい山間に城が多く設けられるのは、そこが防衛に適した拠点だからという理由だけではない。
 遠く過去、人がたった一つの星の上で馬と弓を頼りに戦を繰り広げていた時ならばまだしも、地球という揺りかごから振り落とされ、宇宙に生き場を求めた人類に、山間に設けられた城など不要極まる代物のはずだ。
 石を切り出し、堀を設け、矢狭間を設えたところで、衛星軌道上から荷電粒子砲で狙撃してくる巨大宇宙戦艦に対してどのような守りを期待できるというのか。
 だが、あるいはだからこそ、身分を得た人間は、不思議と城を求めた。それも、中世と呼ばれる古代の様式を、滑稽な程に珍重した。そこに住むことが一つのステータスになると確信しているかのように。
 この城も、不自然なほどに都市部から離れた、交通の便の悪い山間に建てられていた。
 それほど歴史のある建物ではない。そこかしこに、わざとらしく刻まれた罅やら苔やらなどがあるが、足首まで埋まるような絨毯を一枚めくって少し穴でも掘ってみれば、古代にはあり得なかったH型鋼によって組まれた骨組みや、城の各所に電力を供給するケーブルが覗くはずである。
 確か、くだんの騒ぎで辞任に追い込まれた政治家の一人が、たんまりと溜め込んだ賄賂を吐き出して作った建物のはずだった。もとはヴェロニカ教に由来する建物だったらしいが、それを買い取り、改修したらしい。元々の城に手を加え、より豪奢に、より大きなものに作り替えた。
 惑星ヴェロニカでは野生動物の多く生息する山間部を居住用に開発することは厳禁とされているが、国の中枢に食い込んだ政治家ならばそのルールを曲げさせる程度、どうということもなかっただろう。
 その政治家も、今はこの惑星のどこにもいない。
 彼が失踪したのは、この星の住人の血税を懐にくすねたからでも、過去の醜聞を揉み消すために邪魔な連中の口を永遠に塞いだからでもなく、ただ肉を口に運んでしまったという一事によってだった。他の星であれば、どうしてそれが非難の対象になるのか、首を傾げてしまうような出来事で、彼らは文字通りに職を奪われ、生きる場所を奪われ、帰るべき故郷も失った。
 哀れなことだと、全てを奪い取った張本人は溜息を吐き出した。
 そして、腰掛けている。
 この城で一番広く、一番華やかな広間の一番奥に、一段高く造り上げられた豪奢な椅子だ。
 人はそれを玉座と呼ぶだろう。例えこの城に王がいなくとも、それは確かに王座なのだ。
 痩身の老人は玉座に腰掛けたまま、どこを見るでもない倦んだ視線を宙空に彷徨わせていた。彼がここに座るのは、この椅子が一番尻に合うのと、天井から吊り下げられたモニターを眺めるのに具合がいいからだ。
 権勢に興味がなかったわけではない。人並みに興味はあった。人の上に立ち、頂から見下ろす景色とはどのようなものなのかと。
 それほど悪いものではなかった。全てが自分に傅き、全てが自分の思うままになる。自分だけではない。自分に近しい者、例えば不肖の息子など、正しくこの世の春を謳歌し、やりたい放題にもほどがあるような有様だ。
 だが、それを叶えた後には、何も残らなかった。金が残り、権力が残り、名声が残っても、胸の空虚さはそのままだ。
 もう、ずっと昔から、ぽっかりと空いた胸の穴は、何をどうしたって埋まることはなかった。
 当たり前だ。そう易々と埋まってたまるか。
 元々、空っぽだったのだ。全てを失って、折角空っぽになっていた。
 空っぽであれば、耐えることも出来ただろう。手に入れなければ、失うこともなかっただろう。出会わなければ、恋い焦がれることもなかったのだ。
 だが、彼は満たされてしまった。手に入れてしまった。そして、出会ってしまった。
 芳醇とした、香しい、あまりにも瑞々しい、それは奇跡だった。
 全てを失い、自分で自分に終止符を打つために、ほとんどやけっぱちで訪れた荒野で、彼は出会ってしまったのだ。

 天使に。

 それが彼の人生の全てだった。

 もし自分が、恥知らずにも自叙伝でも出すならば、厚さは表紙と裏表紙の二ページ分、それと紙の一枚が加わればいい。
 そして紙にはこう記されるのだ。
 『私は天使と出会った』と。
 その他のことなど、彼、もしくは彼女と出会えた、その一事に比べれば一体どれほどのことだというのか。
 身を粉にして働き、おそらくは信じられないほどの幸運の末に一つの会社を興した。それもまた、おそらくは信じられないほどの幸運の末に並み居る競争相手をごぼう抜きにして、この宇宙でも五指に数える程の規模に成長した。一国の大統領となり、誰しもが彼を尊敬し、彼の名前を知らない人間はこの星には存在しない。
 だからどうした。
 老人の預金通帳には、常人であれば目を疑わんばかりの数字が刻まれている。たった一度の人生ではどうやっても使い切れないほどの金だ。日々をあくせくしながら小銭を稼ぐことに躍起な人間からすれば、無限に、それとも夢幻に等しい金銭だろう。
 だからどうした。
 人にとって、己の認識しきれない数字は無限と同義だ。ならば、どのように放蕩を重ねても使い切れない金銭にどのような意味があるのだろうか。人を溺れさせるに、本当の底なし沼は必要無い。ぎりぎりに足が届かない沼であれば、それは十分に人の命を奪い得るのだし、きっと底なし沼と呼ばれるものになる。 
 嵐の海岸で、砂の城を築き上げている気持だった。
 どれほど豪奢に、そして見事に城を造り上げても、それが一体何だというのか。その壮大なことを誰かが褒めそやしてくれるだろうが、たった一晩のうちに、その壮大な建造物は風雨と波に洗われてこの世から姿を消す。
 老人は、様々な人間と交わった。老人自身が望んだことではない。しかし人も羨む成功を収めた彼は、否応なく自分以外の誰かと交わることを強制された。
 その中には、様々な価値観を有する人間がいた。

 金を増やすことに、人生の全てを費やした人間がいた。
 コンピュータのドットで書かれた数字を血走った目で見つめ、その数字が一つ増えたことに狂喜乱舞し、その数字が一つ減ったことで我が子を拐かされたかのように悶え狂った。
 人は彼を狂人と呼んだ。強欲の悪魔に取り憑かれているのだと噂した。
 彼は生涯一人の伴侶を得ることもなく、たった一人の我が子を抱くこともついぞなかった。誰かに褒められることも、敬われることも、愛されることもない人生であったらしい。
 ただひたすらに、憑かれたように、金を増やし続けた。何を作るためでもなく、何を欲するためでもなく、ただひたすらに金を求めた。
 それは報われた。
 臨終の時に、彼は己の財産がクーアのそれを追い抜いたことを確認して、満足げに死んでいった。彼は、この宇宙で一番の大金持ちになったのだ。
 そして、妻子はおろか親兄弟すらいなかった彼の財産は国庫に納められ、困窮に喘ぐ国家財政を一息つかせるのに役立った。
 それだけが、彼の人生だ。
 老人は、彼を羨んだ。

 なんと素晴らしい人生!彼は、正しく本懐を成し遂げて果てたのだ!

 食こそ全て。美食にこそ人生の真実が存在すると断言する人間がいた。
 彼女はありとあらゆる星に赴き、ありとあらゆるものを食べた。彼女の辞書には、他のどの人間よりも食べ物の項目が多く、おそらくは血を分けた親兄弟の名前ですらがその項目の一つに過ぎなかったのではないだろうか。
 そして、最後は肉親であっても二目と見られないような醜い肉の塊となって、無様に死んだ。
 彼女の埋葬方法には土葬が選ばれたが、それは単に、彼女を火葬するために適当なサイズの竃が無かったからに過ぎない。それとも、鳥葬でも選んでいれば、飢えたカラスは彼女の死体で明日へ命を繋ぐことが出来ただろうか。
 誰もが彼女のことを嘲笑った。生きながら餓鬼道に堕ちていたのだと蔑んだ。
 だが、老人は彼女を羨んだ。

 なんと素晴らしい人生!彼女は、正しく彼女のしたいようにして死んだのだ!

 永遠の命を求めた人間達を知っている。
 全てを手に入れ、全てを跪かせたがゆえに、全てを失うことを恐れたのだ。そんなものがこの宇宙のどこにもないことを知りながら、あるいは目を逸らしながら、彼らは真実の不老不死を求めた。
 うら若き処女の血肉を食せば、自分達の寿命が延びると信じていた。そんな馬鹿な話はない。まさかそれが事実ならば、遙か昔、未開の地に住んだという食人族は、驚くほどの長命を誇ったことだろう。だが、そんな話はとんと聞いたことがない。
 彼らはきっと気が違っていたのだ。おそらく、彼ら自身もそれを知っていた。それでも、彼らは求めずにはいられなかった。自分達が死ぬことを、到底受け入れることが出来なかったのだ。
 永遠の命だと?いずれは老いさらばえるこの宇宙そのものの中で、自分達は精々が寄生虫かそれとも細菌程度の存在でしかないのに、宿主よりも長生きしようというのか。滑稽にもほどがあるぞ。
 そういえば最近、あの老人たちの噂をとんと聞かなくなった。今も、怪しげな占星術やら魔法やらを頼りにして、偽りの永遠を求めて泥濘の底を這いずり回っているのだろうか。
 誰もが彼らを軽蔑するだろう。哀れむだろう。彼らは決して、英雄譚の主人公にはなり得ない。
 しかし、老人は、彼らを羨んだ。 

 なんと素晴らしきかな人生!彼らは、実現不可能な命題に挑戦し続ける求道者ではないか!

 色々な人間がいた。そして、そのいずれもが、老人にとって羨望に値する人間ばかりであった。彼らは皆、自分で、自分の胸に空いた穴を埋めようと必死だったのだ。端から見れば狂人の所業とした思えない彼らの振るまいが、老人にとってはどれほど神聖で冒しがたいものに見えたことか。
 彼らのことを思うだけで、老人の胸を熱いものが満たす。
 翻って、我が身はどうだろう。
 老人は何もしなかった。
 ただ、羨んでいただけだ。
 己の胸にぽかりと空いた穴から、向こう側に写る風景を眺めて、羨んでいただけだ。
 幼児がするように指を咥え、狐がするように他者がもぎ取る果実を酸っぱい実だと決めつけて。
 どうして自分はこうなのか。これほどに、度し難いほどに、空虚なのだろう。
 もうこりごりだった。他人を羨んで、己を卑下しながら生きるのは。自分は、他者から羨望と尊敬の眼差しを浴びる自分は、どうしてこうも惨めな思いをしながら生きなければならないのか。
 思い悩むのはうんざりだ。今は行動すべき時だ。限りある人生なのだから、最後には悔いの無いようにするべきだ。
 それが、例えどれほどの人間を不幸にすることであったとして。自分は、その全てを挽きつぶしても本懐を遂げるだろう。
 この萎んだ風船のように面白みのない人生を、ただ一つ、照らしてくれた光。
 天使。
 会いたい。一目で良い。もう一度だけ、会いたい。
 身を焦がすほどに思う。寝ても覚めても、そのことが頭から離れない。
 ただ、もう一度会いたいだけだ。そうすれば、このどぶねずみ色の人生に、どれほどの光が満ちるだろうか。
 故郷を失い、家族を、友人を失い、全てを失った人間が見る光は、どれほどに美しいのだろうか。
 天使に、会いたい。
 それだけが、全てを失った老人の、残された全てを支えていた。

「大統領、お疲れですか」
 
 付き人の声が、アーロンを現実へと引き戻した。
 玉座の肘掛けに、だらしなく頬杖をついている。そんな姿勢のまま、うとうととしていたのだ。
 ぼんやりと霞がかった視線と思考。若い頃はこうではなかったなと、自虐的な思考をしてしまう。それこそが、なによりも老いた証拠なのかも知れない。

「何かお飲み物でもお持ちいたしましょうか」

 心配そうにこちらを覗き込んだのは、まだ年若い少女だった。赤みがかった茶色の髪、ほとんど同色でやや茶色の強い瞳、褐色の肌。
 今は押し殺しているが、その感情の豊かなことは、勝ち気な瞳の輝きと情感豊かなたっぷりとした口元が教えてくれる。すっきりと通った鼻筋と相まって、何とも魅力的な顔立ちではないか。
 年齢を重ねれば、驚く程に化けるだろう。きっと、すれ違うだけで男の心を虜にするような淑女に成長するに違いない。
 アーロンは少女を眺めて、目尻に皺を溜、優しく微笑んだ。彼は少女を、いや、少女達を愛していた。

「そうだな、少し汗を掻いたようだ。冷たく絞ったタオルと、何か軽い飲み物でも持ってきてもらえるだろうか」
「承知いたしました。少々お待ち下さい」

 色気のない軍服を着た少女は、一礼してから扉の向こうに姿を消した。
 アーロンは、ほとんど興味を持つふうでもなく、モニターに視線を戻した。いくつかに分割された画面に、砂嵐のような画像の乱れと、望遠レンズに捉えられた夜の街が映し出されている。
 ネオンに照らし出された、白粉の匂いのする街だ。
 カメラの焦点は、一つの店に絞られていた。どうやら件の少女が、そこで働いているらしい。
 カメラのいくつかは、夜の街を、夜に同化しながら駆ける幾人かの男達を捉えていた。市街戦用のアサルトスーツを纏い、手には物騒なサブマシンガンを構えている。目出し帽を被っているから分からないが、相当に年季の入った兵士であることが、隙のない所作から伺える。
 アーロンの顔に、微かな興味が灯った。果たして彼らは、いや、不肖の息子はどこまでのものだろうか。あの太陽相手に鉛の玉が通じるとは思えないが、意外とすんなりと捕まるかも知れない。そうなれば、手柄は息子のものだ。どのように扱おうと自分の口を出す筋合いのものではなくなるから、少女にとっては悲惨な結末になるだろう。自分が女として生まれたことを後悔するだけの陵辱を味わうに違いない。
 それもいいだろう。息子の乱行は今日に始まったことではなく、アーロンはその全てを把握していながら一度だってルパートを諫めたりはしなかった。
 息子可愛さではない。心底どうでもよかっただけのことだ。
 もぞりと姿勢を入れ換え、鷹揚な様子で足を組む。老人の、もう遠い昔に人並みの感情を失ったはずの、死んだ魚のような瞳が、僅かに潤いを帯びていた。
 久しぶりに楽しかったのかも知れない。
 音もなく扉が開き、先ほどの少女が戻ってきた。手にした銀のトレイの上には、おしぼりと、琥珀色の液体でいっぱいになったグラスが乗っている。

「どうぞ」
「ありがとう」

 手渡されたおしぼりで顔を拭う。じわりとにじんでいた汗が拭き取られると、アーロンの顔は年の割には若々しく輝いた。
 次にグラスを手渡される。飾り気のない、しかし質の良いグラスに入っていたのは、この星の地酒をリンゴジュースで割ったものだった。
 アーロンの好む飲み物だ。
 細かく砕かれた氷できんきんに冷えたそれを、喉を鳴らして一気に煽った。胃の腑には何も入っていなかったから、冷たさが腹の底にがつんと来る。少し蒸し暑いくらいの室温には、なんとも心地よい。
 サイドテーブルに空のグラスを置く。
 少女は、王座の脇に控えた。

「君はどう思う。彼らの作戦は成功するだろうか」

 少女を見上げながら問う。アーロンにとって、意味のある問いではない。
 少女は、はっきりとした口調で答えた。

「我が国の軍隊は極めて優秀です。私の知る限り、彼らがこういった作戦で失敗したケースはきわめて稀であり、それは今回も同じ事が言えるでしょう」
「優秀と。それが、君たちではなくてもかい?」
「我々も彼らも、ヴェロニカ国に忠誠を誓う軍人です。であれば、彼らの優秀さには疑いようがありません」
「忠誠心と能力は必ずしも一致しないものだと思うが、君の言いたいことはよく分かる。私も、彼らが成功することを祈っているよ」

 喉の奥を鳴らすように笑いながら、アーロンは少女を見上げていた視線を、モニターの方に戻した。

「一つよろしいでしょうか、閣下」
「何だろう、言ってみたまえ」
「閣下は、この作戦の成功を望んでおられないのですか?」
「難しい質問だな。私の立場からすれば、ノーと、成功を熱望していると答えるべきなのだろうが……」

 しばし黙考して、

「軍人である君を前にしてこんなことを口にするのを許して欲しい。正直に言えば、どうでもいいと思っている。テルミンの言うとおり、あれは生け贄としては極上の素材だ。奴自身はそこまで気がついていないようだがね。あれを神に捧げることが叶えば、この国には正しく太陽が宿るだろう。誰しもがこの国を畏れ敬い、道行きを妨げようとは夢にも思わなくなるに違いない」
「そんなものですか」
「その返事は信じていないようだな。私はこれでも、昔は占い師のまねごとくらいはできたんだ。星を読み、森羅万象を読み、下々の者たちに託宣を授けるのさ。そういう家柄だったからね」
「はぁ」
「だからこそ分かる。あれを手に入れるのはそう容易いことではない。神の一人子を奪おうとするに等しい行為だ。どれほど上手く段取りを付けても、必ず邪魔が入る。あれは、そういう星のもとに生まれている」

 愛されているのさ、不平等なことに、とアーロンは心底楽しそうに呟いた。
 モニターには未だ目立った変化はない。まだ突入の準備をしているのだろう。

「逆に言えば、あれは手に入れられないのが当然の娘だ。失敗して元々の作戦と思っていれば、失敗したときのショックが少ない。卑怯な考え方だと思うかい?」
「いえ、決してそんなことは……ただ……」
「ただ?」
「少し意外でした。あなたはもっと、その……」
「遠慮はいらん。言いたまえ」

 本来であれば、軽々しく会話をすることすら憚られる相手である。
 少女は意を決したように、

「無礼をお許しください、閣下。私は、あなたはもっと神というものを盲信しているのだと思っておりました」
「ふん?」
「あなたが国民の上に立つ、その拠は正しくそこにあるはずです。腐敗したヴェロニカ首脳陣を一掃し、この国に真の教えを再びもたらす、そう言ってあなたは至高の権力を手にした。違いますか?」
「その通りだ」
「そういう人間は──甚だ無礼な物言いをお許しください、往々にして大きな勘違いを起こしやすいものだと思います。神の力を己の力と勘違いする、神に向けられた忠誠を己に向けられた忠誠であると履き違える。そして、己の絶対正義を盲信し、そこに神の寵愛があると信じて疑わない……」
「なるほど、確かにそういう人間は歴史上散見されるのは事実だね」

 そして、そういう人間こそが、他者に対して、最も容易く最も残酷になることが出来るのだ。この世で最も多く人の命を奪うのは、悪の教典ではなく正義の教書であり、悪魔の誘惑ではなく天使の裁断である。
 
「閣下は極めて果断に、そして苛烈に保守勢力を一掃なされました。その様子を見て、私は、あなたは真実、神の教えに身を捧げられているのだと思ったのですが」
「私は何も信じてはいないよ」

 少女は、思わず息をのみ、大統領の顔を見下ろしてしまった。
 この人は、今、何を言ったのだろうかと、耳を疑った。

「閣下……」
「私は何も信じてはいない。信じるべきものは全て失った。彼らは皆、彼らの神を信じていたというのにね。神は、救いの御手は差し伸べて下さらなかったのさ」
「……」
「信じる者は救われる。この世はそうあるべきだ。だが、そうではない。だから、私は何も信じない。簡単な話だろう?」
「それは……ヴェロニカの神であっても、ですか」

 大統領は嬉しげに首肯した。

「だが、勘違いはして欲しくない。私はきちんとヴェロニカ教の教えに身を捧げている。例えば今、教典の何ページ目の何列何行目にどのような文言が書かれているのかを問われれば、私は寸間の淀みなく諳んじて見せよう。ヴェロニカ教の発展してきた歴史、聖人たちの名前と生没年とその偉業、全てを答えることが出来る。これはきっと容易なことではないと思うが、どうだろう」
「それは……きっとそうでしょう」
「だが、神は信じていない。神を信じるには、私の人生は少し慌ただし過ぎた。神を信じる者たちを愚かだと蔑むつもりはないが、私にはどうしても出来なかったんだ。もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「私がこの国の生まれではないのが原因かも知れないね」
「はっ?」

 少女の口が、思わず飛び出た言葉の形のままに、戻ることはなかった。
 先ほどのアーロンの一言は、それほどに予想を外れた言葉であった。

「でも……でも、閣下の経歴では、確かに惑星ヴェロニカの生まれであると……」
「少し地位と金のある人間ならば、電子頭脳に鼻薬を嗅がせるくらいは難しい話ではないということだよ。幸い、肉食疑惑と違って、これは血液検査をしても分からない」

 少女は今度こそ愕然とした。
 アーロン・レイノルズが、この国の出身ではない。それは、ヴェロニカ国の大統領の資格を有しないということになるからだ。
 惑星ヴェロニカで生まれ、ヴェロニカ国籍を持ち、ヴェロニカ教を信奉していること。これが、惑星ヴェロニカの最高指導者に名乗りを上げるための、唯一無二の条件なのである。
 冗談であっても、彼の政治生命に関わるような失言だ。そんなことを、自分のような一軍人に打ち明けるなど、何を考えているのだろう。
 この人は、嘘を吐いて自分をからかっているのか。それとも、他に意図するところがあるのか。
 少女は咄嗟に判断することが出来なかった。
 
「私の故郷は、惑星ヴェロニカの地表のどこにもない。それどころか、この宇宙のどこにもない。これは、感傷的な意味で言っているのではないよ。自分のことを覚えてくれている人間が残っていないとか、すっかりと姿形を変えてしまったとか、そういう意味ではないんだ。私の故郷は、物理的に、この宇宙には残っていない」
「それは……例えば、ダムに水没してしまったとか、それとも地盤沈下で沈んでしまったとか、そういうことですか」
「前者は違うだろうね。だが、ある意味では後者に近い。あれは正しく天災だった」
「天災」
「それとも、神の意志だろうか。私の生まれは、元を辿ればジプシーに行き着くらしいから、こんなところに根を張らずに宇宙を放浪しろと、そういう意味だったのかも知れない」
「……」
「全くもって余計なお世話というか何というか。しかし、私の人生で一番神を身近に感じた瞬間と言えば、それはあの時に他ならないだろうな。人の営みなど、彼の人の前では正しく砂上の楼閣に等しい。昨日まで絶対だと確信していた価値観が、一瞬で砕かれるんだ。足下の地面が実は薄っぺらな張りぼてで、その下には阿鼻叫喚の地獄が広がっている。それを思い知らされたんだ、嫌というほどにね」

 そう言った最高権力者の顔は、なんとも悲しげだった。

「閣下は──」
「ん、なんだね?」
「閣下は、それを悔いておられるのですか?」

 悔いる、という表現がどうして口をついてでたのか、少女には分からなかった。
 だが、この老人は、ただ嘆き悲しんでいるのではない。理不尽に怒っているわけでもない。
 何か、遣りきれない何かを胸の奥に封じ込めて、その痛みに悶えているような、そんな気がしたのだ。

「……故郷を亡くした人間なんて、この宇宙ではそれほど珍しい存在ではない。二度と故郷に帰れない人間なんて、星の数ほどいる。大丈夫、私は私を不幸だと思ったことはないよ」

 アーロンは、少女の赤みがかった茶色の髪を、指先でもてあそんだ。

「私は、君たちと一緒だ。君たちと共に、故郷を失った……」
「……お言葉ですが閣下。我々の故郷は、この星です。そして、あなたが私たちの父親です」
「そうだな……。ああ、その通りだ……」

 アーロンは鈍重な動きで立ち上がり、老いの浮いた両の手で少女を抱きしめて、柔らかな頬に唇を寄せた。
 どれくらいそうしていたのかは分からない。ただ、それは少女にとって幸福と呼ぶに値する時間だった。
 離れていく手のぬくもりを名残惜しく思う。だが、今の自分がこの人に甘えるわけにはいかない。
 自分は、この方に仕える軍人なのだから。
 少女は、何かを振り切るようにしてモニターに目を向けた。
 正しく、その刹那であった。
 モニターに、僅かな動きがあった。闇夜に溶けこむような色合いの迷彩服を着た男達が、低くかがんだ姿勢のまま件の店へと駆けていったのだ。
 作戦が、始まった。
 少女の意識が、否応なくモニターに集中する。

「閣下は、先ほど神を信じていないと仰いました」
「信じていないさ。だからこそ、私の故郷を粉々にしたのは神と呼ばれる存在以外の何者でもないことを、私は確信している。そう考えれば、楽なんだよ。落ち着けるんだ。諦めもつく。あれがもしも、ただの人間の仕業だとすれば……私は、道化以外の何者でもないな」

 少女の脳裏に、突入時の標準的なマニュアルが浮かんだ。
 あの建物のように地下に作戦目標があるのだから、その出入り口の全てから一斉に突入し、電撃的に作戦を終わらせるのが最良である。無駄な時間は敵に予想外の行動を取らせる。
 扉のドアノブに特殊なプラスチック爆弾を仕掛ける。これは爆発音は最小限で、しかし超高熱を発するため、ドアノブ周辺の金属が融解し軟化する。その上でドアノブを排除して解錠すれば、ドアそのものを吹き飛ばすよりもよほど隠密性に優れ、ピッキングに頼るよりも確実性に優れる。
 次に、ドアを開き、中にフラッシュバンを投げ込む。これは、音と光で出来た凶器だ。例え光を直接浴びなくても、その凄まじい爆裂音だけで人は容易に思考力と平衡感覚を奪われる。このような地下構造の建物であれば、さぞ効果的に作戦遂行を助けるだろう。
 カメラが、僅かに、本当に僅かに震えた。それは、少女の思い浮かべたタイミングそのままだった。

「さて、始まったようだが……不肖の息子のお手並み拝見といこうか」
「不肖の息子……ですか」
「あれの指揮をしているのは、ルパートだよ。君も知っているだろう?」

 名前を聞いて、少女の顔が曇った。
 その名前の持ち主に、お世辞にも好感情を抱いているとは言い難い渋面である。

「その顔は、奴め、まさか君に乱暴を働いたのではあるまいな!?」

 アーロンの語勢がはっきりと強まった。それは、少女をして狼狽えさせるほどに激しいものだった。

「いえ、私はあの方から一切の乱暴を振るわれたことはありません」
「私に遠慮することはない。あれの乱行はある程度見逃しているが、君たちに手を出したとあっては許すことはできない。正直に言いなさい。怖がることはないよ。君たちは私の息子であり娘、そしてかけがえのない宝なんだからね」

 アーロンの言葉のどこにも嘘偽りはなく、その瞳は真剣に少女の身を想って怒っていた。
 それらの言葉が、実の両親を持たない少女にとって、どれほど暖かでかけがえのないものに感じたことだろう。

「本当です。あの方は、そもそも私たちに性的な興味を感じないようですから……」

 人形、と呼ばれた。
 ゴミ、と呼ばれた。
 怒りも、侮蔑も、興味すらないも言葉で、そう言われた。先ほどのアーロンの言葉の正反対に位置する言葉がこの世にあるとすれば、それはルパートの口から漏れ出す言葉である。

「ただ、あの方のなさる女性への振る舞いを見ていると、同じ女として、どうしても嫌悪を覚えずにはいられません」

 この城には、おそらくは元から世間に顔向け出来ないような目的で作られた地下室がある。
 それでも、果たしてこの城の設計者は、これほどまでに陰惨な目的のために地下室が使われるのだと、想像しただろうか。
 少女は、何度かルパートに言いつけられて、その部屋に監禁された少女の世話をしたことがあった。
 埃と黴と、汗と淫臭と、そして血生臭さの立ちこめた室内。
 少女自身と同じ年の頃の少女たちが、全裸で壁に貼り付けになり、ベッドの上で蹲り、檻の中に閉じ込められていた。
 皆、うつろな目をしていたのを覚えている。
 そして、口々に言うのだ。
 殺して、と。
 止めてでも放してでも、帰してでもなく、殺してくれと言う。そんな彼女たちに、人間としての尊厳は残されていなかった。
 家畜である証として、焼き印と、鼻輪が付けられていた。酷いものになると、四肢の欠損した少女すらいた。
 それが、ルパートなりの愛情表現なのだ。彼は真剣に少女達を愛するが故に、彼女たちを壊していく。同じ女に生まれた身で、どうしてそんな男に好意を感じることができるだろうか。
 少女には、どうしてこの賢明で優しい父親から、あのように愚昧で冷酷な息子が生まれるのか、不思議でならなかった。そして、どうしてこの優しい人が、あのような無体な振る舞いを黙認しているかも。
 然り、息子が少女自身に乱暴をしたわけではないと知ると、アーロンはたちどころに興味を失ったようだった。

「そうか、ならばいい。あいつにも一応の分別があったようで、よかった」
「……あの方が指揮をしておられるというのは、やはり、あの写真の少女を手に入れるためでしょうか」
「そうだろうな。奴め、ヴェロニカ教の発展のため、心を鬼にして使命に身を捧げるなどと抜かしていたが、あれがそんな殊勝な人間ではないことくらい親である私が一番よく分かっている。あの少女を一度手に入れたら、適当な言い訳をでっち上げて、是が非でも渡しはすまいよ」
「閣下はそれでも良いのですか」
「構わん。あれは、正攻法ではどうしたって手に入れることの出来ない存在だ。意外とルパートのような外道のほうが上手くやるかも知れん。それだけの話だ」

 少女は、なんとも居たたまれない気持ちになった。
 今回の作戦対象であるあの少女も、地下室の少女たちと同じ目に遭わされるのだろうか。あの美しく精気に富んだ瞳が、男の欲望に穢されて、人形の如くうつろになっていくのだろうか。
 そうであれば、あまりに哀れであると思う。
 
「しかし、それは全てルパートが上手くやった時のことだ。奴が失敗すれば、そのときは今度こそ君たちにお願いすることになるだろう。君たちが彼女を捕まえたならば、そのときは君たちの好きにすればいい」
「わかりました」

 それがいい。あの男が失敗して、私たちがあの少女を捕まえればいいんだ。
 そうすれば、あの子は清らかな身体のまま死んでいくことが出来るだろう。それが彼女自身にとっても一番いいはずだ。
 少女は密かに誓った。

「さて、そろそろ良い頃合いだが、誰も出てこないな」

 アーロンの言葉に、少女も画面端の時刻表示を確認した。
 確かに、先ほど画面が震えた瞬間からかなりの時間が経過していた。通常の作戦行動であれば終了していてもおかしくはない。
 突入部隊の手際がお粗末で思ったより手間取っているのか、それとも予想外のトラブルがあったか。
 後者であろうと思う。
 そのとき、ビルの裏口を写していた望遠カメラに、通りを横切り路地へと消えていく何かが写った。
 ほんの一瞬のことである。
 二人組の男だ。しかも相当に体格がいい。
 明らかな不審人物であった。

「今のは──」
「確認してみます」

 アーロン自身が騒がしいのを嫌ったために消音していたが、部隊の通信はこの場所でも拾うことが出来る。
 少女は、ボリュームを引き上げた。
 砂嵐じみた雑音の中に、怒号のような声が飛び交っている。

『……だから言っているだろう!男と女の二人組にやられた!くそ、やつらはそっちに向かったはずだぞ!』
『何者だ、その連中は!?』
『そんなこと俺たちの知ったことか!ただ、やられた俺たちが言うのも変な話だがおそろしく手際が良かった!おそらくは素人じゃない!ちくしょう、一撃で顎の骨をへし折られたのは初めてだぜ!』
『──わかった。突入部隊と狙撃手には連絡しておく。お前達の持ち場には予備人員を回すから、治療班と合流して、作戦からは外れてくれ』
『了解』

 男と女の二人組。
 先ほどの人影は、どこからどう見ても男二人組にしか見えなかったが、あれがそうなのだろうか。そういえば、裏口にもスナイパーが配置されていたはずだが、どうして彼らは難なくビルに辿り着くことが出来たのか。
 先ほどアーロンが言った、愛されているという言葉が脳裏に蘇る。
 まさか、と思う。しかし熟練の特殊部隊は突入したまま戻らず、予想だにしなかった援軍まで現れる始末だ。何か、人智の及ばない何かが彼女を守っているとでも言い訳をしなければ、説明がつかないように思えてしまう。

『奴が失敗すれば、そのときは今度こそ君たちにお願いすることになるだろう』

 これが、自分達の戦う相手になるのだろうか──。

「……ゴ。マルゴ。聞こえているか?」

 少女は我知らず、食い入るように画面を睨み付けていた。
 その少女を、アーロンは真剣な表情で見ている。
 少女は僅かに狼狽した様子で、

「失礼を。何でしょうか、大統領」
「先ほどの映像を、拡大できるか」
「先ほどと言われますと」
「裏口へと進入した、不審者の二人組だ。あれをもう一度見てみたい」
「承知しました。やってみます」

 少女は手元にある機械を慌ただしく操作した。
 記録映像の中から適当なコマを抽出し、その中から出来るだけ鮮明に写っているものを選び、画像処理を施す。
 明るさを変え、画質を補正し、可能な限り拡大する。
 
「これくらいでよろしいですか」

 画面に写っていたのは、確かに男と女の二人組であった。遠目には男が二人にしか見えなかったが、片方はおそろしく体格のいい女性だったのだ。
 そして、なんとも目立つ二人組であった。体格の良さは別にしても、男は野性的な面持ちの美男子であるし、女のほうは、飛び抜けた美人というわけではないが、どこか人を惹き付ける魅力のある顔立ちをしている。

「大統領、この二人がどうかされましたか」
「……いや、これでいい。これで十分だ。これで十分だ……」

 アーロンは、自分の言葉を噛み締めるように、何度も言った。
 十分だ、十分だ、十分だ……。
 少女は、さすがに異変を感じて大統領の顔をのぞき込み、そこに異様を見た。
 燃えさかる赤い炎。彼と反対の立場に身を置く人間からは、死んだ魚と称される青い瞳が、彼の身の内に宿った炎を写して揺らめいていた。
 
「……お父さん」
「我が娘よ。私の不明を許しておくれ。私は、私自身の言葉を今こそ撤回しよう」

 大統領は、立ち上がった。死に神が取り憑いたような痩躯に、得体の知れない力が充ち満ちていた。

「神は存在する。信じる者は救われる。少なくとも、私は救われる。今、それを確信した」

 アーロンは、微笑んでいた。普段の冷酷な笑みではない。心安らいだ、邪気の無い笑みで。
 それを見て、少女も嬉しくなった。

「行っておくれ。みんなを連れて行っていい。全ての面倒は私が見るから、多少の無茶も大丈夫だ。この作戦に関する限り、全ての指揮権を君に預けよう」

 どこに、とはあまりに間の抜けた質問だ。
 少女は、自分の成すべき事を知っていた。

「承知しました」
「ただし、一つだけお願いがある。聞いてくれるかな?」
「なんでしょう」
「この男性だ。この男性も、決して殺さずに、出来るだけ丁重にここに招待してほしい。ああそうだ、この女性が彼にとって大切な人なら、この人も連れていてくれると素敵だ」

 アーロンが指さしたのは、画面に映し出された男女であった。

「閣下はこの二人を知っているのですか」
「女は知らない。でも、男は知っている。よく知っているよ」

 アーロンは、本当に嬉しそうに、初恋の人と再会したように嬉しげに、言った。

「この人はね、マルゴ。私の命の恩人なんだ」



[6349] 第三十八話:隠れ家にて
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/05/23 21:43
 薄暗い部屋だった。そして味気ない部屋であった。
 ほとんど立方体に近い空間、天井は低く、それに比例するように部屋自体も手狭だ。
 家具は、無骨なパイプベッドが一つ、空のグラスと水差しの置かれたサイドテーブルが一つ。
 部屋を飾り付けるものは、壁紙を含めて一つも存在しなかった。
 剥き出しになったコンクリートの壁には微細なひび割れが無数に走り、建物自体の老朽化を声高に叫んでいる。
 およそ光源と呼べるものは窓から立ち入る星明かり程度のものだが、肝心要の窓はどれも小さく、漏れ入る星明かりはぼんやりと殺風景な室内を露わにするだけで、人の心を楽しませるには程遠い。
 よほど夜目が利く者でも、目が慣れるまでに余程の時間を必要とするであろう部屋に、濃厚な異臭が立ちこめている。
 鼻腔の奥を痺れさせるような、消毒薬の匂いであった。それに加えて、僅かな血生臭さが漂っている。
 病院の廊下を歩いたときに感じる、慣れない人間ならば少し眉をひそめるような匂いに近い。
 耳をすませば、ぽつり、ぽつり、と、周期的な音が聞こえる。
 水が滴り落ち、その水自体の作り出した水面に跳ねる音だ。
 外で雨でも降っているのかと、窓を覗いてしまうような音だった。
 しかし、音自体は部屋の中から聞こえている。
 ベッドの脇に立てられたガートル棒の高いところに、透明な薬液のたっぷり詰まった点滴が吊され、その薬液が滴り落ちているのだ。
 その、ぽつり、ぽつり、という音に、時折うめき声が混じる。
 喉の奥を絞り上げるような、苦悶に満ちた声だった。
 少女の、声だ。
 まだ年若い、子供特有の高い声で、苦しげに少女が呻いている。
 ベッドに横たわった少女だった。
 真白い清潔なシーツの上に、力なく横たわっている。まっすぐに伸ばされた左手の肘の裏側に、点滴用の注射針が打ち込まれ、チューブをサージカルテープで止められていた。
 そして、下着姿である。ほっそりと引き締まった少女の身体を隠すものは、上半身には薄手の綿シャツが一枚だけ、下半身は年相応に飾り気のないスポーティなショーツのみである。
 そのショーツから伸びる健康的な太ももに、痛々しく包帯が巻かれていた。決して軽い怪我ではないことが、幾重にも巻かれた包帯に血が滲んでいることから伺い知ることができた。
 傷のもたらす苦痛ゆえだろうか、身体の至る所に珠のような汗が浮かび、少女が身じろぎする度に小さな川の流れになってシーツに滑り落ちていく。
 痛ましさと、僅かな艶めかしさを混ぜ合わせたような光景だった。
 コツコツと、ドアをノックする音が聞こえて、少し間を置いてからドアが開いた。
 少女が、自由になる右手を持ち上げて、瞼を覆い隠すようにした。部屋の暗さに慣れた彼女の瞳には、ドアから漏れる電灯の光ですらが毒であった。

「お加減はいかがですか、ウォル」
「ヤームルどの……」

 ヤームルと呼ばれた初老の男性は、後ろ手にドアを閉め、ベッドの脇に設えられたサイドテーブルの上に、銀製の盆を置いた。
 盆の上には、小さなお椀と匙が乗っている。
 お椀は、柔らかく煮られた粥で満たされていた。どろどろとしたそれは見た目に悪いが、いかにも消化に良さそうである。
 ヤームルはパイプ椅子を引き出し、それに座った。空のグラスに水を注ぎ、ようやく身体を起こした少女に手渡してやる。
 
「すまん」

 少女はそれを一息で飲み干した。

「おかわりは」
「お願いしよう」

 汗でじっとりと重くなった下着を無造作に脱ぎながら、少女が言った。
 ヤームルは、二杯目の水を少女に手渡し、その代わりに脱ぎ捨てた下着を受け取った。
 少女の汗を限界まで吸った下着は、驚くほどに重たくなっていた。

「厚かましい話だが、替えの下着をお願いできるだろうか」
「その前に身体をお拭きしましょうか。すごい汗です」
「うん、そうだな。べたべたして気持ちが悪い」
「シーツは……」
「そこまで贅沢もいえん。今はこれで十分だ」

 少女はうっすらと笑った。
 普段であれば、太陽が笑ったように思える少女の笑みが、どこか力ない。
 傷が影響しているのか、やはり体調が悪いのか。
 暗がりに沈んだ少女の顔から読み取ることはできなかった。
 ヤームルは痛ましさを顔には出さず、熱いおしぼりを手に取った。

「ご自分で出来ますか?」
「悪いがお願いしていいだろうか?これでは中々自由に身体を動かせない」

 少女は、注射針の刺さったままの左腕を指さして言った。
 
「では、失礼します」

 ヤームルは、よく絞ったおしぼりで、少女の身体を拭き清めた。
 ごしごしとこするようにではなく、繊細な陶磁器を扱うような、慎重な手つきだ。
 これには少女のほうがまいってしまった。彼女が、今とは違った姿で戦場を疾駆していた時など、濡らした綿布で真っ赤になるほど強く肌をこすったものだ。そうしないと、どうにも汚れが落ちた気がしない。

「もう少し強くしてもらっても構わないのだが」
「これ以上は肌を傷つけます」
「少々傷つくくらいなら大丈夫だぞ?別に女子供というわけでも……今はあるのだが……まあ大丈夫だろう」
「なりません。これほどきめ細やかな肌をお持ちなのですから、もう少しご自分というものに頓着してあげてください」

 一通り汗を拭き取ったあと、ヤームルは、上半身を裸にした少女に清潔なシャツとショーツを手渡した。

「お食事は食べられますか?」

 新しい下着に袖を通し、少し精気を取り戻した様子の少女は、はっきりと首を横に振った。

「駄目だ。折角用意していただいて申し訳ないのだが……。正直に言うと、食べ物の匂いだけで吐き気がする。これで喉を通るとは、到底思えん」
「分かりました、これは下げさせていただきましょう。もし、少しでも食欲が戻れば、その時は遠慮無く申しつけください」
「重ね重ね申し訳ない。ご迷惑をおかけする」

 少女が、深々と腰を折った。無論ベッドに腰掛けたままの姿勢である。今の少女には、きちんと立ち上がることすら難しかったのだ。
 ヤームルが盆を持って部屋から退出しようとしたとき、少女が彼の背中に向かって問いかけた。

「ここはどこだろうか。もちろん、俺はこの星の地理に明るくないから、言われても分からないとは思うのだが……」
「あの地下道を抜けて、車で一時間少々といったところにある、しけた隠れ家でございます。これでも私は臑に傷持つ身の上でして。こういった場所には詳しいのですよ」
「以前にもここを使ったことがある?」
「懐かしい記憶でございます。まさか、もう一度ここを使うはめになるとは夢にも思いませんでしたが、因果は巡るものですな」

 優しい声だった。
 自分の中の大切なものを愛でている声だ。
 少女は、目の前で淡く微笑むこの男の、内面深くに立ち入ろうとは思わなかった。
 粥を片付けたヤームルが、部屋に戻ってくる。その時には、少女は下穿きを履き替えていた。

「だいぶお悪そうですね」

 ヤームルの言葉に、ウォルは項垂れたように頭を下げた。

「すまん。助太刀をすると言っておきながらこのざまだ」
「体調を崩しておいでなのですから仕方ありますまい。我らが何とか逃げられたのは、あなたに急を告げてくれた奇特な誰かのおかげでございます。感謝こそすれ、謝罪を受ける謂われなどございません。それに、あなたは、命を賭してお坊ちゃまを助けてくださった。このご恩、この老いぼれの短い一生を掛けて、必ず返させていただきます」

 少女は、力なく笑った。




 その時、少女──ウォルは、一日の仕事を終えたあとの気怠い満足感に浸りながら、テーブル席に腰掛けていた。
 夕刻の早い時間から、深夜まで立ち仕事を続けていたのだ。多少慣れてきたこととはいえ、ふくらはぎ辺りに張りを感じてしまうほどには疲労していた。あんな、常につま先立ちを強制するような靴を履いているのだから当然だ、と思う。
 それに、長い時間話しっぱなしだから舌もだるい気がするし、客が次々と勧めてくる酒杯を片端から空にしていったものだから、いかに酒豪のウォルとはいえ些か頭の奥が疼くのだった。
 くわえて、奇妙に身体がだるい。胃の奥がむかむかして気持ちが悪いのは二日酔いにおなじみの症状であるが、それとは種類の違う不快感が、胃のさらに一つ奥の臓器から沸き上がってくる気がする。身体の節々も疼くように痛むし、なによりひどいのが下腹と腰周りの、ずんと響くような重たい痛みだった。
 おそらくは慣れない重労働に、身体が抗議しているのだろう。よく考えれば、自分が間借りしているのはまだまだ子供、ウォルのいた世界ですら親の庇護を受けていておかしくはない年頃である。
 少し無理をさせすぎたかと思い、ウォルは苦笑した。

「それにしても、酌女がこんなに大変な職業だとは露とも知らなかった」

 心の底からの言葉であった。
 男だった頃は、酌を受ける立場で何度かその相手をつとめてもらったことのあるウォルだが、その時は、酌女がこれほど苦労の多い職業だとは思わなかった。気の食わない客の相手をするのはもちろん大変だろうが、それを抜きにすれば仕事で堂々と酒を飲めるのだから、羨ましいと思ったほどだ。
 しかし、彼女らが働く様を見るのと、いざ自分で酌をする立場になってみるのとでは、仕事の印象が全く違う。
 正反対といってもよかった。
 あれほど華やかに見えた女性たちがこれほどの苦労をしていたことを思うと、正しく頭が下がる思いである。一見すると優雅に見える白鳥も水面下で必死に水掻きを動かしているとはよく言う例え話ではあるが、この場合の彼女たちがその白鳥なのであって、めでたく白鳥の仲間入りを果たす羽目になったウォルは、今まで自分の杯を満たしてくれた諸先輩たちに畏敬の念を捧げたのだった。
 そんなウォルの内心はともかく、今日一日は終わったのだ。
 仕事自体が望んだものだったか否かは置いておいて、一日の仕事を終えたあとの達成感や満足感というものは格別なものがある。それは国王の執務であろうが場末の酒屋のバニーガールであろうが、この少女にはあまり変わらないものだったのだろう。疲労の色濃い白粉顔にも安らかな笑みが浮かんでいる。

「お疲れ様でした、ウォル」

 そんな少女に声をかけてきたのは、先程の舞台でピエロを演じていたヤームルであった。
 メイクを落とし、服装もいつも通りの簡素で動きやすいものに着替えている。ゆったりと身体を包んだ麻の装束の下には、老いてなお鍛え抜かれた身体があることをウォルは知っている。

「うむ、もうそろそろ慣れてきた仕事だが、やはり疲れる。というよりも、慣れてきてしまった自分に少々嫌気がさすのだが……」

 特大の苦虫をまとめて噛み潰したような顔の少女である。
 ヤームルは、孫でもあやすように快活に笑い、真っ白い顎鬚を撫でながら笑った。

「人間、若い時の苦労は買ってでもしろと申します。ならば結構なことではありませんか」

 好々爺然とした笑い声に、黒髪の少女も苦笑するしかない。

「こう見えて、若いという年頃ではないのだがなぁ。しかしまぁ、こういった類の苦労とは無縁の生活を送ってきたのも事実だし、天罰覿面といったところだろうか」

 妙に実感のこもった声である。
 確かに、一見少女にしか見えないこの少女は、その実、男として、戦士として、そして王として70年の歳月を生き抜き、そして天寿を全うしたのであるから、目の前で微笑む初老の男と変わらないだけの人生を過ごしている。
 しかし、そんなことを少女自身以外の誰も知っているはずがないから、ヤームルは、どう見ても自分の孫娘くらいにしか見えない少女を、慈愛に満ちた視線で見遣るのだ。

「それこそもう慣れましたが、しかし、普段のあなたの口調にはどうしても違和感が残りますな。仕事中の愛らしい話し言葉も、男にとっては魅力的に聞こえるものですぞ。どうでしょう、いっそあの口調を普段のそれにしてしまうというのは」

 喉の奥でくつくつと笑いながら、ヤームルは言う。
 とどめ、あるいはダメ押しの一撃は、極めて効果的に少女の急所をえぐった。 

「勘弁してくれ……。仕事中の俺は別人だ。思い出したくもない」

 今は紬姿の少女が、テーブルにばったりと倒れこむ。
 ヤームルの言うとおり、バニー姿で、男に媚びたように甘ったるい声で話す少女は可愛らしかった。少なくとも、どこか老成した雰囲気で男言葉を操る少女よりは客の受けも上々であった。
 ウォルは、今まで自分がされてきたことを、してみただけだ。彼女は、自分が不器用な男──何の因果か今は見目麗しき女の子である──だと信じて疑っていなかったから、いきなり自己流の接待など出来るはずもないと思っていたので、若い頃、シッサスの酒場で自分が酌女たちにされたようにした。
 そうしたら、評判はうなぎのぼりである。自分を目当てにくる客も多い。こうなると正しく後の祭りで、いまさら素の自分をさらけ出すわけにもいかなくなったと、そういう次第だ。
 まったく厄介なことになったものだと、美しい黒髪をくしゃくしゃにかき回しながらウォルは唸り声を上げた。

「駄目だ。このままでは、肌に白粉の匂いが染み付いてしまうし、あの気持ち悪い芸妓言葉が舌に残りそうだ。そうなっては、あいつに何を言われるか分かったものではない」

 この場合のあいつとは、当然のことながら、この少女の現在の妻であり将来の夫となるべき、黄金色の頭髪をした少年のことである。
 ウォルは、その少年の鼻の確かなこと、耳の確かなことを誰よりも知っていたから、ふとした調子に今の自分がばれてしまったとき──あの甘ったるい口調でリィに話しかけでもしたらと思うと、心臓が止まる思いである──に、どんな顔で笑われるのかと思うと気が気でなかった。いや、笑われるだけならまだしも、まかり間違って慰めの言葉でもかけられようものなら、即刻家出をしてしまう自信があったのだ。
 既に、バニー姿の自分は見られてしまった。それは事実であり、どうしたって覆しようがない。でも、いや、だからこそ、これ以上の失態はどうしても避けたいウォルである。

「女として生きることに今更怯懦は感じないが、しかし譲れんものは確かにあるのだ。今の生活を続けていると、それすらが薄れてしまいそうになる。それが一番恐ろしい……」

 ぶつぶつと真剣な表情で呟くウォルに、ヤームルは少し不思議そうに、、

「良いではありませんか、まったき少女となって過ごしたとして、何か問題でも?」

 ウォルは、詳しいことまでヤームルに説明はしていない。していないのだが、しかしこの、どこからどう見ても絶世の美女の卵にしか見えないこの少女が、実は全く違う生き物であることを、この男は承知していた。

「あなたが今までどのような生き方をしてきたのか、この爺は知る術もありませんし無理に知りたいとも思いません。ですが、女として生き、女としての幸福を見つける。それも立派な生き様ですぞ」
「いや、それは承知してるのだが……。そして、受け入れるつもりもある……つもりなのだが、だからといって俺は俺であることを捨てようとは思わん。それに、あいつもそれを望むとは思えんしなぁ」
「あいつとは、あなたの婚約者のことですか?」

 ウォルはしっかりと頷いた。それから、はたと気づいたような表情で、目の前の初老の男に問いかけた。

「どうしてそのことを知っている?」

 ヤームルは、やはり悠然と笑い、

「お嬢様から聞きました。何でも、黄金色の狼こそがあなたの伴侶であるとか」

 少女は頷き、

「いかにもそのとおりなのだが、何か含むところでもあるような顔だな」
「ええ、それはもうたっぷりと。わたくしもお嬢様と同じく、冷たく凍えきったあなたをお坊ちゃまが連れてこられたあのときからずっと、あなたこそお坊ちゃまの伴侶に相応しいと思っております。そして、お坊ちゃまこそあなたの伴侶に相応しいと。その思いは今も変わっておりません」
「またその話か。残念だがそれはお断りすると、メイフゥどのにもはっきりと伝えたはずだ」

 少女は、げんなりした顔である。
 メイフゥにヤームル、あとは店の主人夫婦、そしてウォルの同僚であるバニーガールたちは、ことあるごとに、ウォルとインユェをくっつけようとするのだ。口で言うだけならまだしも、それとなく食事の席を隣合わせにしてみたり、それらしい雰囲気を作り上げてから部屋に二人きりにしてみたり。
 だが、当然のことながら、二人の仲が進展する気配は全くない。どれほど強引に機会を設けても、少女の方は暖簾に腕押し糠に釘であるし、少年のほうは真っ赤になってどもるだけである。
 押しかけ仲人たちは、その度に特大のため息をつき、少年の意気地のないことを喉の奥で罵ったりするのだった。

「まぁ、少々ひねくれてはいるが、インユェも根はまっすぐな少年だと思う。それなりに好感も覚えてはいるが、だからといって彼と生涯添い遂げようとは思わん。それは、インユェでなかったとしても同じことだ」
「しかし、黄金の狼である少年とやらは別なのですか」
「別というかなんというか……。俺が女であり、あいつが男で、そして俺が子を成さねばならないとしたとき、それが一番自然な気がすると、その程度のことなのだがな」

 少女は、やや憮然とした口調で言った。自分で口にしておいて、その内容が自分でも信じられないような、そんな口調だ。
 どうやら、見た目にはどこぞの姫君のようにしか思えないこの可憐な少女は、恋やら愛やらとは全く違う視点でもって自分の伴侶を定めたのではないだろうか。
 そんなことをふと考えて、ヤームルは痛ましさを表情に出さないよう苦労した。

「ところでヤームルどの。首尾は如何程?」

 はっとしたヤームルの視線の先には、先程までの、砕けた雰囲気の少女はいなかった。
 こちらを見る視線が、矢尻のように鋭い。声そのものが背筋を叩きつけてくるようですらある。
 遠い昔、海賊船の艦橋で、これと同じような声を聞いたことがあるなと、ヤームルは思った。連邦軍の艦隊に半包囲されたとき、あるいは長年追い求めた敵をもう少しで牙にかけられるというとき。絶望に満ちた艦橋を、あるいは歓喜に緩んだ艦橋を、叱咤し引き締める声だ。
 戦士の、いや、指揮官の声。

「……芳しいとは、お世辞にも申し上げられませんな。憂国ヴェロニカ聖騎士団を自称する無頼漢どもの支部をいくつか血祭りにあげましたが……」
「それではトカゲの尻尾を寸刻みにしているようなものだ。どれほど派手に痛めつけても、大元のトカゲは大して痛くもないだろうよ」
「仰る通りです。旧世代の海賊の戦い方を見せるなどと大言壮語を吐いておいて、恥ずかしい限りでございます」

 ヤームルは項垂れたように頭を下げた。
 ヤームルとメイフゥは、酒場での仕事が終わると、両手では到底抱え切れないような物騒な道具を山ほど車に積んで、どこかへと姿を消した。その度に、翌日の新聞の一面を、憂国ヴェロニカ聖騎士団の支部の一つがこの世から姿を消したことを報じる記事が飾っていた。
 世間ではこれを、現政権の指導体制に反感を覚える保守過激派のテロであると報じている。まさか、旧い友を殺された海賊の報復であるとは思いもつかないのだろう。少なくとも、彼らの用意した重火器は、一介の個人が準備出来る武器の範疇を、質量ともに大きく凌駕していた。
 
「きゃつらの首魁が、アーロン・レイノルズ大統領に近しい人間か、それとも大統領本人の関係者であろうことは察しがつきます。あれほどの好き放題をやっておいて、しかし野放しにされているという一事をして間違いありますまい。もとは海賊であるわたくしなどが申し上げるのもおかしな話ですが、あれは人の皮を被った畜生の類、生かしておけば百害あって一利なしの者共です」
「そこだ。それが、どうにも俺には腑に落ちんのだがな」

 少女は、腕組みをしながら唸った。

「俺自身、奴らに拐かされかけた身だからよく分かるが、あれは頚木から放たれた野獣の類だ……こんな言い方をすると、我が同盟者どのから『野獣に失礼だ!』と怒鳴られそうなのだが……とにかく、あんなものを放置していては、間違いなく国そのものを腐らせる毒になるだろうし、いずれは飼い主の手も噛むようになるだろう。この国の王は、なぜあのような者たちを子飼いにするのだろうか」
「わたくしは人を導くような御大層な立場を得たことが一度もないからよくわかりませんが……支配者にとって一番恐ろしいものは、同等の立場の別の支配者に狙われることではなく、自分の足元にいる被支配者たちが反旗を翻す事なのではないでしょうか。特に、今のこの国のように歪な過程を経て成立した政権にとっては、それが最も危惧されるはず。であれば、自分たちの思い通りに民衆を押さえつけることのできる暴力機関は、現政権にとってみれば非常に都合のいいものでしょうな」

 少女は頷いた。自分から望んだわけではないが、王として長く君臨し続けた彼女には、ヤームルの言うことが実感として分かる。無論、好悪の念は別にして、であるが。

「それはヤームルどののおっしゃるとおりだと思うのだが、それにしても他にやりようがあるのではないか?もう少しましな人選をせねば、あれらそのものがこの国の根幹を腐らせる白蟻なのだから、いずれはこの国を巻き込んで共倒れだ。そんなことも分からぬほどに、この国の王は頭が悪いのか?」

 ウォルの言う事は至極もっともだったので、ヤームルもとっさに返す言葉を見つけることが出来なかった。
 確かに妙な話ではあった。アーロンが大統領に収まるまでの見事な手並みに比べれば、その支配体制は呆れるほどに手際が悪い。自分の子飼いの連中には特権を与え好き放題をさせる。結果として外の人間の足は遠のき、この国の基幹産業の一つでもある観光業に致命的な打撃を与える始末。国際社会からも轟々たる非難を浴び、このままでは連邦からの除名も現実味を帯びてきたような段階だ。
 政権を奪取してから一年と経過しない段階でこの体たらくである。
 まったくやっていることが支離滅裂だ。到底まともな政治的センスの持ち主であるとは思えない。
 少女自身、かつて似たような国を間近に見たことがある。
 他ならぬ、少女が治めていた国のことだ。
 あそこでも、今まで自分たちの崇めていた君主に嫌気が差した民衆や貴族たちが、その君主を追い出すという事件があった。しかし、王家の乗っ取りを企んだ僭王を追い出してみれば、次に居座ったのが権力を笠に着て好き放題をするごろつきどもであり、民衆は慌ててもとの君主を呼び戻したのだ。
 こう言ってみると身も蓋もないのだが、これらは全てウォル自身の経験したことである。そして、あのとき、あの不思議な少女に出会うことがなければ、デルフィニアという国はごろつきども──改革派の手に落ち、いずれはタンガやバラストといった国に飲み込まれていたはずである。
 それでもデルフィニアという国が一応の面目を保てたのは、些か逆説的ではあるが、ペールゼン侯爵という人物の個人的な手腕であったことは否定しようがない。あの男がいなければ国王自らが自分の国を出奔するという不祥事は起きようがなかったが、その後は彼がいなければデルフィニアは坂を転がり落ちる丸石のごとき惨状を呈していたに違いない。
 だが今のこの国には、そういった意味での抑止力すら存在しないのではないかと、ウォルは感じていた。

「権力を得て旨い汁を吸おうとするのは結構だが、それにしてもやり方がお粗末すぎる。権力をおもちゃにしてやりたい放題、というのとも少し違う気がするしな。それとも、狂信者というのはこんなものなのだろうか?」
「ウォル、あなたの仰ることは非常によくわかります。確かにきゃつらの遣り口はどこか妙です。ヴェロニカ教の復権を謳いながら、しかしそこに主眼を置いていないような……。もしもお題目通りに、ヴェロニカ教の教えに立ち返ることのみを目的にするならばあのような者どもをのさばらせておく必要もないわけですから……。どうにも不可解ではありますな」

 ヤームルは、見事な口ひげを撫でながら首をかしげていた。暢気とさえいえるその様子からは、毎夜、友人の仇敵を血祭りにあげている戦士の風情は見当たらない。
 しかし、彼らの目的は、この国の現状を正すことなどではない。
 ヤームルは口調を少し変えて、

「いずれ、やつらの首魁には己の所業に相応しい罰を与えるとして……ウォル、あなたの方は如何ですか。もう、慣れない武器の扱いには慣れましたかな?」
「いや、これがなかなか難しくてな。ヤームルどのやインユェのようにはいかん」

 ヤームルのいう『慣れない武器』とは、ウォルのかつていた世界には無かった武器──即ち銃のことである。
 この少女が自分たちの復讐を手助けすると言ったとき、果たしてどれほど使えるのかを見極めるために、様々な武器を試させてみた。
 ナイフやロッドの類は、文句なしの合格。インユェが及びもつかないのはもちろんのこと、百戦錬磨のメイフゥやヤームルですら舌を巻く有様である。
 だが、それに比べて銃の扱いはお粗末なものだった。お粗末というよりは、銃という存在のことを全く知らないようですらあった。
 無傷の標的を前にして、銃を片手に途方に暮れる少女であったが、彼女への救いの手の持ち主は意外なところにいた。

『仕方ねえな、貸してみろ。こう使うんだよ。よく見とけ、へたくそ』

 銀色の髪の少年──インユェが、強引に少女の手から銃をもぎ取り、無造作に引き金を引きまくった。
 その全てが、的の中心、人間でいえば急所にあたる部分に命中していた。
 インユェは、優れた射手であった。生来の勘の良さと、目の良さ。こと射撃に関しては、メイフゥもインユェには一歩及ばず、いずれはヤームルをも追い越すだろう。
 インユェの神業的な射撃の腕前を目の当たりにしたウォルが、感嘆の溜息を吐き出す。
 そして、見よう見まねで銃を構え直し、もう一度的に向かって引き金を絞った。
 結果は、先ほどよりはまし、しかし合格点には程遠いといったところか。的の端っこのほうが、僅かに欠けていた。

『……うまくいかんな』
『だから、お前は構え方からして間違ってるんだ。ああ、もう、そうじゃなくてだな……』

 見慣れない武器に戸惑うウォルを見かねたのか、インユェはウォルの構えを直し、握り方を教えた。
 やや突っ慳貪な言い方ではあったが、銃を扱うときのコツを丁寧に指導した。
 その甲斐あってか、それともこの少女には天分があったのか、おそらくは少女にとって初めて扱う武器にもかかわらず、ウォルの銃の腕前はめきめきと上達していった。
 
『おお、当たったぞ!すごいなインユェ、お前の言うとおりにしたらこの通りだ!』
『ばーか、それくらい当たり前だ』

 不機嫌を装った少年は、耳まで真っ赤である。
 これで二人の中も少しは進展するかと期待した周囲だったが、彼らの期待は見事に裏切られた。インユェはコーチの後に少女を街へと誘うことはしなかったし、ウォルの方は新しい玩具に夢中で彼のことは視界に入らないという有様だったのだ。
 どちらが悪いかといえば、どちらも悪い。しかし、不甲斐ないのは間違いなく少年のほうだったので、インユェは、身に覚えのない溜息の大合唱を聞いて気分を悪くするはめになった。

「とにかく、実戦で使うにはもう少し修練が必要だろうな」
「あまり焦らないことです。あなたほどの勢いで上達される方を、私は見たことがありませんからな。ロッドではあれほどこてんぱんにされた以上、銃のほうでこのまま追い抜かされては立つ瀬というものが無くなってしまいます」
「ご謙遜を。ヤームルどのやメイフゥどのの剣の腕も、恐るべきものだった。貴方たちほどの使い手は、俺の知る人間にもそうはいなかったと思う」
「お世辞でも有り難く頂戴しておきましょう。ところで──」

 ヤームルは、孫のような年齢の少女の顔を覗き込んだ。

「顔色が優れないご様子ですが、どこかお悪いのですか?」

 ウォルも、自覚があったので驚いたりはしなかった。
 下手に強がらず、今の自分の体調をありのままに口にする。

「身体全体がどうにもだるい。頭も痛いし、特に酷いのは腹痛だな。これは本格的に風邪かもしれん」
「どれ、熱は……」

 乾いた掌が、少女の額に当てられる。
 少しだけかさついてひんやりとしたそれは、熱で火照った少女の額に心地よかった。

「……確かに、少し熱がありますな」
「やはりか。風邪など、ここしばらくひいたことはなかったのだが……」
「明日はゆっくりと休んでください。幸い、明日は店も休みですし、小うるさい親父もいない。身体を労るにはもってこいです」

 この店の店長とその妻である女将は、子供がいない。だからこそ、自分達の子供のようにウォルを溺愛している。
 文字通り、目に入れても痛くない有様だ。
 店の売り上げに貢献する、金の卵を産む雌鳥だからではない。それどころか、最近はウォルを店に立たせること自体渋っていたりするくらいである。
 第一、二人とも、この店はもう閉めるつもりなのだ。女将のほうはまだ未練があるようだが、普段は尻に敷かれがちの主人がそう断言すると、彼女もしぶしぶといった様子で同意していた。
 今は、二人ともこの店にはいない。少し前から、女将は別の、もっと安全な場所に居を移している。主人は、店にも顔を出すなと言っているらしいのだが、あんたにそこまで言われる覚えはないと凄まれて、不承不承に黙認しているらしい。
 主人も、先ほど店から出て行った。武器弾薬の仕入れの関係で、少し遠い得意先まで足を伸ばしているためだ。
 もしも二人がこの場所にいて、ウォルが体調を崩していると知ったならば、あれやこれやと世話を焼いてくれたことに間違いはない。それ自体は有り難ことなのだが、風邪引きの身としては静かに休ませて欲しいのも事実である。
 ウォルは、苦笑した。

「では、その親父どのが帰ってくるまでに身体を治すとしよう」
「それがいいでしょう」

 ウォルは、自分の部屋に帰ろうと立ち上がった。
 キッチンから水音が聞こえるから、誰かが残った皿洗いをこなしてくれているのだろう。
 おそらくは面倒見のいいメイフゥだと思う。皿洗いはいつもウォルの仕事だったから、こんな時は有り難い限りだ。
 ああ、今日も一日、よく働いた。
 あとは、狭い風呂に入って化粧を落とし、ルームメイトであるメイフゥに就寝の挨拶をしてから、二段ベッドの梯子を登って布団に潜り込むだけである。
 その布団も、かつての自分の寝室には間違えても存在しなかった煎餅布団であるが、不思議と寝心地が悪くない。
 ここでの生活は、ウォルの性に合っていた。無論、夜の女として働くことに納得したわけではないのだが、こういう質素な、それとも肩を寄せ合うような暮らしは遠慮が無くて心地良い。
 かつて、王宮での豪奢な生活を拒否し続け、あくまで自由民としての筋を通し続けた親友が、何故その有り様に拘り続けたのかが、少しだけ理解できた気がした。
 照明を落とした人気のない店内を、ふらつく足取りで横切り、店の奥へと向かおうとした。
 その時。
 店のスピーカーが、大音声で叫んだ。

『ウォル、ウォル!そこにいる?いるわよね?わたしはダイアナ、さっきあなたと話していた船の女神よ。あなたがそこにいることを前提で話すから、良く聞いてね!』

 流れているのは妙齢の女性の、色つやのある声なのに、その声が間違いなく切羽詰まっている。
 ただ事ではない。ウォルの身に、緊張が走った。
 ヤームルも尋常ではない空気を悟り、声を潜めながら呟いた。
 
「これは何事ですか、ウォル。船の女神とはいったい……、いや……ダイアナ?その名前は……」
「しっ」

 ウォルが、指を立てて、耳をそばだてた。

『今、その店にこの国の特殊部隊が突入しようとしてる!目標は、あなたの身柄の確保とその他の人間の抹殺!表口も裏口もだめ、待ち伏せされてるわ!すぐに助けが行くから、それまで何とかして頂戴!』

 突入してくる特殊部隊に対して『何とかしろ!』とは凄まじい指令だが、ウォルは有り難く思った。今から敵が来ると知っているのと、全く知らずに奇襲されるのでは気構えが違うし、ほんの僅かな時間でも反撃の体勢が整えられれば戦況は一変する。
 ウォルはその時間を無駄にするつもりは毛頭無かったし、それはヤームルも同様であった。
 この声の主を疑うという選択肢は、最初から存在しなかった。ダイアナはリィの友達なのだ。それ以上信頼するに足る理由など、ウォルの中には存在しない。そして、この少女についてはヤームルも無二の信頼を置いているのだから、彼にとっても同じ事である。
 ならば、取るべき戦術は二つに一つである。
 即ち、逃げるか戦うか。
 
「どうする、ヤームルどの?」
「突入してくる連中を退けても、二次三次の突入班の相手をしなければならないだけでしょう。ここは逃げの一手が最善かと」
「だが、肝心の退路はどうする?表口も裏口も押さえられてしまっているようだが……」
「ウォル、お忘れですか。ここは悪い海賊の巣穴ですぞ。そういう場所には、秘密の逃げ道の一つや二つは用意しておくものです」

 悪戯っぽく堅めを瞑った老人がどれほど心強かったか、ウォルなどには計り知れない。
 そもそもこの少女は、およそ王らしくない王であった。オーロン王のように奸智に長けるわけでもなければ、ゾラタス王のように非道を厭わない徹底さを備えているわけでもない。
 だが、ただ一つ、他の王より抜きんでていた点があるとすれば、それは人を見る目の確かさであっただろう。そして、一度信じた人間を信じ続ける、頑迷ともいえる懐の深さ。
 たった一度命を助けられただけの少女に、自分と、自分が守るべき全ての人々の命運を預けた。山賊と、それとも夜盗と揶揄嘲弄される人々に信を置き、彼らの信頼を勝ち得た。
 少女より偉大な王は、かの大陸の歴史上に存在しただろう。その中には、全ての国を跪かせる帝王もいたかもしれない。
 しかしその中に、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンほどに人使いの上手い王はいなかったはずである。
 今もウォルは、目の前にいる初老の男に、自分の命運を預けようと決意した。この男に出来なければ、それは誰にも出来ないことなのだと納得した。

「こちらへ、急いでください」

 その男は、憎らしいほど平然とした様子で、ウォルを店の奥へと誘った。ウォルやメイフゥ達の寝床のある方向である。
 そこに、逃げ道など無い。この店から脱出するならば、多少強引にでも表口か裏口を突破するしかないはずだ。
 それでもウォルは、ヤームルの先導に従って、店の奥を目指した。万が一そこに何もないのならば、自分が死ぬだけの話だ。それ以上ではない。
 いや、それは違うかとウォルは思い直した。
 自分が死ねば、この少女の身体も死ぬのだ。一度、救いようのない死を強制された少女が、もう一度死ぬことになるのだ。
 この少女の身体を、もう一度、あの真っ暗闇の中に置き去りにしていくのか。
 死ねない。絶対に、どうしたって死ねない。
 煮え立つ何かを押さえるように、強く歯を噛んだ。
 
「おい、ウォル!今の放送は何だ!」

 横合いから、勇ましい女性の声が飛びかかってきた。
 研ぎ上げた刀で氷を両断したように、鋭く澄んだ声だ。
 それでいて、隠しきれない猛々しさが滲み出るようである。
 メイフゥが、そこに立っていた。
 一糸纏わぬ姿である。さきほどまでシャワーを浴びていたのだろう、張りのある褐色の肌には、珠の水滴がぽつぽつと浮かんでいる。くすんだ金色の髪も、たっぷりと水分を含んで艶々と色めき立っている。
 そこに、異性であるヤームルが立っているのに、恥じらいもせず、身体を隠そうとすらしない。むしろ、自分の身体を見せつけるように、威風堂々と立っている。
 ヤームルもこの光景には慣れっこなのか、それとも孫のような少女の裸にはそもそも動揺する性質ではないのか、平然とした様子だった。
 むしろ、今は同性のウォルのほうが、僅かに気圧されてしまうような気っぷの良さである。

「お嬢様、時間がありません。今すぐにここを引き払います」

 メイフゥは驚きもせず、抗議もしない。頷くことさえしなかった。
 無言で、ヤームルの後を追い、ウォルと肩を並べた。

「ちっ。どっかで下手をうったかな。こんなに早くあたしらの仕業だとばれるとはね」

 昨今巷を騒がしている、憂国ヴェロニカ聖騎士団支部への襲撃事件。すでに二桁の支部を壊滅させているのだから、彼らは赤い布を見た闘牛のように、目の色を変えて犯人を追っていることだろう。
 この星の上で自分達が襲撃されるとしたら、それ以外の理由が思いつかない。メイフゥはそう確信していた。
 だが、ウォルはその意見に懐疑的だった。
 まず、突入してくるのがこの国の特殊部隊というのが妙な話だ。武力にものを言わせる無頼漢どもが、その顔に泥を投げつけられたのである。敵の所在地を見つければ、自分達で報復しようとするのが当然だろうに、何故突入してくるのが無関係の軍隊なのか。
 それに、凶悪なテロ組織の壊滅が目的ならば、どうして自分だけが捕縛対象となっているのか。全員を捕縛する、もしくは皆殺しならば筋が通るが、おそらくはここにいる誰よりもこの世界の人間と縁の薄い自分だけを生かして捕まえようとする意図が分からない。
 これは、一連の事件とは全く別の意図が働いていると考えた方が妥当なのかも知れない。
 しかし、それよりなにより、まずは生きてこの窮地を脱することである。
 店の奥へと急ぎながら、

「ところでメイフゥどの。インユェはどうした?」
「ああ、あいつなら今の時間は部屋で大人しくしてるよ。なにせ、あの部屋は共用だ。一人っきりになれる時間なんて、そうそうねえからな」

 メイフゥが、人の悪い笑みを浮かべた。

「あいつだってお年頃の男の子だ、周りに人がいない時でないとやれないことが色々とあるんじゃねえの?」

 指で卑猥な形を作り、抜き差ししたりする。
 緊迫した状況とは裏腹に、ウォルは膝から砕けそうになった。
 まったく、この娘は本当に女なのだろうか。勇ましさや強さでいえば男と見紛うほどに屈強な女性はいくらでもいたが、そういう次元とは別のところで、この少女からは女性を感じることが出来ないのだ。
 生まれを間違えたとしか思えない。
 なんとも失礼な感想をウォルが抱いたとき、ふと頭の隅を違和感が掠めた。

 インユェが、自分の部屋にいる?

 メイフゥは、先ほどまでシャワーを浴びていた。

 では、炊事場で、自分の代わりに皿を洗っていたのは……?

 ウォルは、咄嗟に身を翻し、来た道を引き返そうとした。
 その時、何かが破裂する轟音が、少女の耳を強かに叩いた。



[6349] 第三十九話:Boy beats girl.
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/05/25 22:04
 静かな部屋に、ぽつりぽつりと、水の滴る音が響いている。
 耳を澄ませば何とか聞こえる程度のその音が、不思議に耳について、中々眠ることが出来ない。

 ──獣は、食べて眠って傷を癒すものだ。

 遠い昔に、妻がそう言っていた気がする。
 ならば、多少無理をしても、何かを腹にいれておくべきだっただろうか。
 既にヤームルが部屋を出て、しばらく時間が経つ。あの粥も、きっと冷え切ってしまっているだろう。
 今さら温めなおしてもらうのも悪いと思い、ウォルが無理矢理に眠るため、瞼を落としたその時。
 遠慮がちに扉をノックする音が、少女の耳に届いた。

「……ウォル、もう寝てるか……?」

 おずおずとそんなことを聞いてくる。
 そこに誰がいるのか、少女にははっきり分かっていた。そして、その少年がどれほどの自己嫌悪と戦っているのかも。
 だからこそ、少女は彼を拒む言葉を持っていなかった。

「いや、ちょうど眠れなかったところだ。話し相手がいてくれると助かる」
「……ふん」

 扉が開いた。同時に、部屋の明かりも、一番弱い橙色の光で灯された。
 開け放たれたドアから入ってきたのは、銀髪の少年だけではない。
 腹の虫を刺激する、食べ物の香りも一緒だった。

「インユェ、それは?」
「……さっきお前が粥を食べられなかったって聞いて……俺も、風邪とかのときの粥ってあんまり好きじゃねえんだよ……だから、スープ、作ってみた……食べるか?」

 長髪を後ろで一括りにし、エプロンを身につけ、手には分厚いミトンを纏った姿は、お世辞にも男らしいとは言い難い。
 しかし、この少年には、勇ましい戦装束などよりも似合っているように、少女は思った。

「そうだな、少し腹が減っていたところだ。いただくとしよう」

 銀製の盆を受け取り、それを膝の上に載せて、簡単なテーブルとする。
 湯気の立つスープは、上品な琥珀色に色づいていた。具はなかったが、様々な具材で出汁を取ったのが一目で分かった。
 汁そのものも澄み切っている。丹念に灰汁を取ったのだろう。
 ウォルは、匙でスープを掬い、口に運んだ。
 うまかった。
 乾いた身体に染みいるような、滋味溢れるスープだった。


 凄まじい爆音が店内を満たしてから、この薄暗い部屋で目覚めるまでの記憶を、ウォルは持っていない。
 あのあと自分がどうなったのか、ウォルはほとんど覚えていないのだ。

 轟音。
 意識を丸ごと消し去るようなそれに、思わず蹲りそうになる。
 だが、精神や魂を無視したところで、体だけが反応していた。
 何も恐れず、駆け出す。
 廊下を突っ切り、ホールまで。
 そこで、自分と同じように、鼓膜を強かに攻撃され、足取りの覚束ない少年を見つけ。
 彼を狙う、いくつかの銃口。
 ああ、助けなければ。

 太ももを貫通する銃弾の衝撃に記憶を失ったのかも知れないし、体調の悪化がそうさせたのかも知れない。
 とにかく、ウォルはほとんどを覚えていなかった。
 ただ、耳を押さえて調理場から顔を出したインユェをいくつもの銃口が狙っていたこと、咄嗟に駆け出し彼の体を突き飛ばしたことは、朧気ながらに覚えている。
 どうして自分があんなことをしたのか、未だによくわからない。
 命を賭けて助けなければならないほどに、この少年と深く繋がっているかと問えば、おそらくは否だ。
 だが、そうしなければならないという、強迫観念に近いものが体を突き動かしていた。
 それだけの話だ。


「それにしても大丈夫かよ、その傷。痛そうだなぁ、きっと跡が残るぜ。可愛そうになぁ」

 意識をそこに戻すと、インユェが、嫌らしい笑みを浮かべていた。
 にやにやと、下卑た笑みを浮かべている。
 無神経そうに、それとも無神経を装ったインユェは、パイプ椅子を引き出し、そこに座った。
 少女は、もう一匙スープを掬い、それを啜った。
 やはり、うまかった。
 満足げに吐息を吐き出した少女に、場違いに憎々しげな声が叩き付けられた。

「一言いっておきたいんだがな、ウォル」
「なんだ」
「お前、いい気になってんじゃねえぞ」

 少年が、精一杯にドスを効かせた声で、言った。
 少女は、その声の主を無視するように、もう一口スープを啜った。

「お前は俺の奴隷なんだ。俺はお前のご主人様なんだ。だから、お前が俺を、命を賭けて庇うのは当然のことなんだ。そこんとこは分かってんだろうな?」
「ああ、分かっているとも」

 少女は、素っ気なく言った。

「だいたい俺は、あんなもん、簡単に避けられたんだ。別に、助けなんて必要じゃなかった。だから、礼なんて言わねえぜ」
「分かっている。俺がやりたくてやったことだ。誰に感謝してもらおうとも思わん」

 少女の視線は、膝に載せたスープ皿にだけ注がれている。
 少年の方を、見向きもしない。
 それが、少年には気に入らない。
 いや、少年には、あらゆる事が気に入らなかった。
 少女の受け答えもそうだ。少女の返答は、一々少年の欲しがっている答えのはずなのに、押し並べて彼の心にささくれを作っていく。それも、血が出るほどに深く、痛いものばかり。
 少年は、その痛みを呪詛の言葉に置き換えて、続けた。

「しっかし不憫だよなぁ、お前もさ。この世界には、墨の入った女ってだけでもう駄目な男も山ほどいるのに、そんな目立つところにでっかい銃創をこしらえた女なんて、まともな嫁の貰い手はいねえぜ、きっと」
「そうかも知れんな」
「お前はこれから一生、新しい男に抱かれる度に、その傷は何だって聞かれるのさ。で、お前は何て答えるんだ?転んだ傷だって誤魔化すかい?それとも、好きでもない男を庇って撃たれたんだって正直に言うのか?ははっ、そんなこと言ったら、間違いなく気まずくなるだろうな。男の方も萎えちまうんじゃねえの?」

 早口に捲し立てた。
 その言葉を聞いていないかのように、少女は静かに食事をしていた。
 皿には、もうほとんどスープは残っていなかった。
 皿を傾けて、最後の一匙を掬い、口へと運んだ。

「そうだ、なんならよ、俺の妾あたりにしてやろうか?奴隷に比べりゃあ大出世だ。もちろん、俺はきちんとした女と所帯を構えるつもりだがよ、お前の心がけ次第じゃあ、情けをかけてやらねえこともねえぜ。傷もんの女には、望外の幸運ってやつだろう?」
「ごちそうさま、インユェ。たいへんうまかった。もう一杯、おかわりを貰えるだろうか」

 少女は微笑みながら、空の皿を差し出した。
 何の蟠りもない、純粋な微笑みだった。
 それを見たインユェは、羞恥以外の感情でもって、白皙の肌を真っ赤にした。
 
「ウォル、てめえ──!」
「このスープはとても美味だな。インユェ、お前が作ったのか?」

 少女の首元を締め上げようとしていた両手が、空中で制止した。
 インユェは、浮かしかけた腰をそのままに、目の前の少女を見つめていた。
 少女は、もう笑っていなかった。漆黒の瞳を怒りに似た何かに染めながら、少年を射貫いていた。
 きっと、彼女の整った唇から、信じられないほどに醜く自分を罵る言葉が生まれるに違いない。
 ああ、そうだ、それでいい。自分は、その言葉に見合うだけの卑劣漢で、唾棄に値する忘恩の徒なのだ。

 これでようやく──。

 少年の総身から、力が抜けかけた。

「あまり、自分を責めるな」

 項垂れかけた頭を上げてみれば、自分を見つめる少女の瞳のどこにも、怒りの色は無い。
 ただ、気の毒そうに、哀れむように、自分を見ているのだ。
 少年の心の奥底に、再び炎が沸き上がった。燻っていた火種に油を注いだように、ものの見事に燃えさかった。
 ぱぁん、と、肉が肉を打つ音が、狭い室内に響く。
 少年は、少女の頬を打っていた。
 歯を食いしばり、目を血走らせ、鼻の穴を膨らませて──獣の顔で、少女の頬を打っていた。
 命の恩人を、殴っていた。
 拳でなくせめて掌で打ったのは、少年の最後の矜持だったのかも知れない。
 しかしそれすらも、青ざめた少女の頬が赤みを増すにつれて、音を立てるように崩壊していった。
 インユェは、理解した。
 これから自分は、外道として生きていくのだ。女を犯し、弱者を踏みつけ、己の享楽のみを追い求める生き方しか出来なくなるのだ。
 男として踏み越えてはいけない最後の一線を、こうも容易く踏みにじってしまった。
 もう、駄目だ。もう、耐えられない。
 少年は、部屋から逃げだそうとした。少年は、今までの自分から逃げだそうとした。
 そして、逃げられなかった。
 少年の服の裾を、少女の細腕が掴んでいた。

「離せ!」

 泣き喚く幼児のように、腕を振り回した。
 今度は拳が、少女の頬にめり込む。
 ごつりと、目を背けたくなるような音が響いた。
 インユェは、大風に吹かれた木の葉の如く、容易く吹き飛ぶ少女の身体を夢想した。
 だが、少女はぴくりとも動かなかった。
 柔い頬に少年の拳をめり込ませたまま、感情の凪いだ瞳で少年を見ている。
 片方の鼻の穴から鼻血を垂らし、それでも自分を見ている。
 少年は、その瞳の中に、醜く歪んだ自分の顔を見た。
 思わず叫び出しそうになるほど、恐ろしい光景だった。
 これほど恐ろしい光景が、他にあるだろうか。
 それは、自分の弱さそのもの、そして罪そのものなのだから。そんなものを正面から見せつけられるならば、死んだ方がましである。

「座れ」

 少女が、有無を言わさぬ声で言った。
 少年に、少女の声に逆らうだけの気力は残されていなかった。
 今の少年に相応しい、風船が地に落ちたような軽い音と共に、パイプ椅子に腰掛ける。
 もう、まともに少女を見ることすら出来なかった。
 彼は、負けたのだ。何か、大切なものに背を向けて、逃げ出した。
 もう、誰と戦っても勝てる気がしなかった。生まれたばかりの子犬に吠え立てられても、泡を食ったように逃げ出すだろうと思った。

「俺はお前を殴らんぞ」

 少女の言葉に、もう顔を上げることさえ怖かった。
 少女の瞳に再び射すくめられることを思うと、指先一つ動かすことが出来なくなるほど、緊張で体が強張った。

「……そんなことをしたら拳が汚れるってか?はっ、それはそれは……」
「違う。今のお前には、何もしないことが最も過酷な罰だからだ」

 信じられないことを聞いたように、インユェが頭を上げた。
 怯えきった、刑場に引き出された罪人のような顔はしかし、自分を慰める漆黒の瞳と相対する。

 ──許された。

 安堵を感じた自分に、何よりも殺意を覚えた。

「すまねえ……」

 謝罪の言葉は、意外なほど軽やかに口から飛び出てくれた。

「悪かった……俺のまぬけのせいで、お前をこんな目に遭わせて……俺、何て謝ればいいか分からなくてよう……」

 ぽつり、ぽつりと、液体の落ちる音がする。
 今までは一つだったそれが、二つ三つと増えていく。
 その音に合わせるようにして、シーツに暗い染みが浮いていく。
 少年は、シーツの端を握りしめて、漏れでそうになる嗚咽の声を、必死に噛み殺していた。
 そのまま、包帯の巻かれた少女の太ももに、そっと手を乗せる。
 少年の指は、かすかに震えていた。

「痛かったろうなぁ……すまねえ、何て謝ったらいいのか、分からねえけど、すまねえ……本当に、ごめんなぁ……」
「謝ることはないと言ったはずだぞ。俺は、俺の好きでお前を助けた。なら、撃たれたのは俺が間抜けだったというだけの話だ」
「だから……なんでお前は、そういうことを……」

 今度は、はっきりと嗚咽混じりの声だった。
 少年は、悔しいのだ。悔しくてたまらないのだ。
 歯を軋らせて嗚咽を噛み殺し、それでも嗚咽が漏れてしまうほどに、悔しくて悔しくてたまらないのだ。
 自分の無力さが、悔しい。
 無力な自分が、悔しい。
 許せない。
 少年は、自分に対する殺意と戦っているのだ。
 少女は、そのことを知っていた。
 知っていて、少年を慰めようとはしなかった。
 無惨ともいえる赦免の言葉を少年に与える以外、何もしようとはしない。
 自分が叱れば、その分だけ少年の重みを預かることになる。
 だから、しない。
 何故なら、少年がまさに今戦っている痛みは、少年自身に力で乗り越えるべき痛みだからだ。
 
「俺、どうしたらいいんだろうなぁ……姉ちゃんも帰ってこない……きっと、きっと奴らに捕まったか、やられちまったんだ……」
「メイフゥどのがそう易々とやられるものか」
「じゃあ、なんでこんなに遅いんだよ?どうして、俺をひとりぼっちにするんだよ?」

 目を赤く腫らして、口を情けなく歪ませた少年は、驚くほどに無力だった。
 そして、哀れだった。
 ほとんど生まれたての赤子のようだった。
 姉ちゃん、姉ちゃんと、何度も呟いている少年に、無頼を気取った資源探索者だった彼の面影はどこにもない。
 少女の胸が、ずくりと疼いた。
 あまりにも弱々しい少年を見ていると、何かを思い出しそうになるのだ。
 魂ではなく、身体に刻み込まれた、異質な記憶。どう頑張っても像を結ばない、ほどけた雲のようなそれが、少女の胸を柔い針で刺激する。

『誰かを愛してしまったあの子を許してあげて──』

 幽玄な少女の、消え入るような声が、ウォルの耳に蘇った。
 彼を抱きしめようとする体、それを許さない魂。
 相反する二つの要素の妥協点として、少女は、少年の手を握りしめてやった。
 少年の手は、意外なほどに小さく、柔らかかった。
 少年が、許されたように小さな力を込めて、手を握り返してくる、
 少女と少年は、しばらくそのままだった。

「──すまねえ、情けないところを見せた」

 時計の秒針が一周するほどの時間の後に、少年が立ち上がった。
 それは、先ほどまでの少年の顔立ちではない。
 泣き腫らした目には鋭さが宿り、情けなく歪んでいた口元には不敵な笑みが刻まれている。
 後ろ頭を勢いよく掻きむしり、照れたように言った。

「もう、これでお前には、一生頭が上がらねえなあ」
「うむ、正しくその通りだ。あそこまで情けない有様、そうはないぞ」
「容赦ないんだからなぁ、本当に」

 インユェは苦笑した。
 
「じゃあ、手始めにスープのおかわりでも持ってくるよ。それと、サンドイッチくらいなら腹に入るかい?」
「そうだな、お願いしよう」

 少年が腰を浮かせる。
 そのままキッチンへと向かいかけたその時、ウォルの寝そべったベッドの脇に目を向けて、

「その前に、点滴がそろそろ終わりそうだから……」

 サイドテーブルの上に空のスープ皿を置いたインユェが、少女の左腕に刺さった針を、慎重な手つきで引き抜いた。
 針を抜く瞬間に、ぞくりとする、痛みとも痒みとも判別できない微妙な感覚が、ウォルの神経を冒した。
 針を刺していた箇所に、ぷくりと、真っ赤な血が盛り上がる。インユェはそこに絆創膏を貼り付けた。
 ようやく左腕の自由を取り戻した少女は、痺れの浮かんだ関節を二三度動かして、それが自分のものであることを確かめた。

「抗生剤が効けば、化膿することはないと思う。足も、銃弾は貫通してたから多分大丈夫だろうってヤームルが。やっぱりちゃんとした医者に診せた方がいいんだろうけど……」
「気にするな。これくらいの傷、慣れっこだ。酷いときなど、一週間飲まず食わず、眠らしてさえもらえずに、拷問をされたことだってある」
「拷問だと!?」

 予想だにしなかった少女の言葉に、少年は思わず目を剥いていた。
 少年の、竜胆色の瞳に、急激に色がついていく。それは、己の所有物を穢された雄のみが発する、激烈な攻撃色であった。

「言え、ウォル!どこのどいつがお前をそんな目に遭わせやがった!絶対に許さねえ!俺がぶっ殺してやる!」

 少年は、呪いの叫びを発しながら、少女の肩を掴んだ。
 凄まじい力の込められた指が肩肉に食い込み痛いほどであったが、少年は気がつかない。それだけの余裕を、失ってしまっていた。

「耳元で喚かんでくれ、一応は病人だ」

 にもかかわらず、下着姿の少女は、くすくすと笑った。
 少女の肌の柔さを期せずして確認した少年は、やはり耳まで真っ赤にして、

「わ、わりい……」
「それに、悪いがインユェ、お前に復讐は無理だ。なにせ、俺を思う存分に嬲ってくれた男は、既に死んでいる」
「死んでいる……?」

 少女はこくりと頷き、

「俺の怒りを雪ぐために、実の兄に首を刎ねられてな。そして、その首は蜜蝋に漬けられて、わざわざ俺のところまで送られてきたのだ。そこまでするかとも思ったが、そうでもしないと恐ろしくて夜も眠れなかったのだろうと思うと、滑稽でもあったな」

 少年は唖然として、不吉な笑みを浮かべる少女の顔を見遣った。
 目の前で、痛々しげに包帯を巻き、ベッドに腰掛けたか細い少女が、自分とは違う生き物に見える。
 背中が僅かに反る。脳の一部が、この少女は危険だと、自分を捕食できる生き物だと告げる。
 冷や汗が一筋、少年の麗美な頬を伝った。

「ウォル……お前、何者だ?」
「今の俺の名前は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。だが昔は、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンという名だった」
「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン……?」
「もう慣れたことだが、この名前を聞いて首を傾げられるとどうにも違和感があるな」

 少女は快活に笑った。

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。大華三国に覇を唱えし王。獅子王。デルフィニアの太陽。闘神の娘の夫。色々な名前で呼ばれたが、どうにも自分のこととは思えない」
「ちょっと待て。デルフィニア……?そもそも、王っていったい……?」
「デルフィニアは国の名前で。俺が生きていた頃は、世界で最も栄えた国だった。そして、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンはその国の王だった男の名前だ」

 インユェは、まばたきすら忘れたように固まってしまった。
 口を半開きにしたまま、辛うじて回転している頭の中を、薄ら寒さが満たしていく。
 目の前の少女は、自分をからかっているふうではない。少なくとも彼女自身は、自分の言っていることを信じ切っている。
 ならば、この愛らしい少女は、正気を失ってしまったのか……。
 悲しげに眉根を寄せた少年が、切羽詰まったような表情を浮かべて、直後にパイプ椅子の倒れる音が部屋に響いた。
 少年は、暗い部屋の中、少女を抱きしめていた。両の手に満身の力を込めて、ぎゅうと、情熱的に。

「大丈夫だ、ウォル。絶対に俺がお前を守ってやる。傷だって、すぐに治る。傷跡だって残らない、いや、残さない。俺、いい腕の医者を知ってるんだ、闇医者だけどな。そいつに頼めば、この程度の傷、跡形もなく治るさ。そしたら、そしたら……」

 インユェは言葉を失って、少女の顔を見つめた。
 傷を負い、身体を弱らし、それでもなお毅然と自分を見つめ返す漆黒の瞳。
 年若い少年は、その瞳の主を、どうしても手に入れたくなった。誰にも渡したくなかった。
 彼は年若くして幾多の星海を渡り、数え切れないほどの死地も潜っていたが、これほど自分の感情をもてあますのは初めてだったのだ。
 だから、自分の胸の中に収まった少女が苦笑しているのにも、到底気がつかない有様だった。
 
「……あのな、インユェ。俺の話を聞いていたか?」
「ああ、聞いていたさ。お前はデルフィニアとかいう国のお偉いさんだったんだろ?」
「そして、男だった。齢七十を越えるおじいさんだ」
「だからどうした。今のお前はれっきとした女じゃねえか。何の問題がある」

 ウォルはやはり苦笑した。苦笑するしかなかったと言った方が正確かも知れない。
 この少年は、先ほどの言葉を信じていないのだ。きっと錯乱した少女が、現実逃避に紡ぎ出した空想話程度にしか思っていないはずだった。
 だが、ウォルが口にしたことは紛れもない事実である。今は少女の身体に宿っているのは、紛れもない戦士の、男の魂なのだ。
 これで事実を知れば、果たしてこの純情な少年はどう思うだろうか。ひょっとしたら自分を憎むかも知れないと思い、それは少し嫌だなと思った。
 少女は、その細腕で、やんわりと少年の胸を押し返してやる。
 インユェはさして抵抗をせず、少女を抱擁から解放した。
 倒れたパイプ椅子を引き起こし、再びそれに腰掛ける。そして、思い詰めた声と表情で、しかし努めて明るい声で、言った。

「今度、さ」
「うむ?」
「この一件に片が付いたら、俺の星に来ないか?」

 いつもはきらきらした瞳が、伏せ目がちになっている。
 母親に許しを乞う幼子のように、怯えきった瞳だった。

「あいにく、連邦大学にかえったら課題が山積みだ。補修だって鬼のように待っているはずだし、そうそう時間が取れるとは思えない」
「なら、待つさ。いつまでだって待ってやる。あんまり遅いと、攫いに行くかも知れないけどな」

 少年は、噛みつくような笑みを浮かべた。
 そして、息を一回飲み込み、震える声で、言った。
 
「俺の星に来たら……その……」
「その?」

 少女が、悪戯げに小首を傾げる。
 少年は、真っ赤になって、必死になって、男みたいになって、言葉を探した。
 彼の生涯初めての、女を口説き落とすために用意したとびっきりの言葉は、思ったよりも野暮ったかった。

「……馬の乗り方をさ、教えて欲しいんだ。頼めるかい?」
「馬?」
「いつか言ってたじゃねえか、馬に乗りたいって。俺、あんなもんの乗って何が楽しいのかって思ってたけどよ、お前がそう言うなら、一度乗ってみたいんだ。駄目かな?」

 少女は笑った。悪意のある笑みでも、馬鹿にした笑みでもない。
 目の前で、心の底から怯える少年のことが好ましくなって、思わず微笑んでしまったのだ。
 遠い昔に自分の妻が、しゃちほこばった少年騎士に口づけたときの気持ちが、少しだけ分かった。

「その言い方は何ともお前らしくないな。なにせ俺はお前の奴隷で、お前は俺のご主人様なのだろう?」

 少女の言葉に目をぱちくりとさせた少年は、毒気を抜かれたように肩から力を抜き、息を一つ吐き出すと、いつもの彼らしく不機嫌を装った表情で、

「じゃあ、ご主人様からドレイのウォルに命令だ。今度、俺に馬の乗り方を教えてくれ、いや、教えろ」
「ああ、今日を生き残れたら、存分に」

 二人は、声を合わせて大いに笑った。
 涙を零しそうになるほど笑いながら、インユェは思っていた。
 インユェは、もっと他に、少女に言うべき言葉を持っていたのだ。
 今度……今度、自分の星に来たら。
 美しいところなのだ。ずっと昔、後ろ足で砂を掛けてしまった、何よりも美しい場所。
 大切な人もいる。気の良い友人もいる。墓の下で眠る母親も、きっとお前のことが好きになる。
 だから。
 そこに、俺と一緒に行ったなら。
 ずっと、一緒にいてほしい、と。
 ずっと、一緒に生きて欲しい、と。
 少年は、喉の奥までその言葉を引き出して、肺の奥底に再び仕舞い込んだ。きっと、いつか、そのうちに、この少女に伝えることを誓って。
 その時、玄関のドアを荒々しくノックする音が、室内に響いてきた。
 インユェが、がばりと顔を上げる。

「姉さんだ!姉さんが帰ってきた!」

 その顔は、喜びに充ち満ちていた。
 ウォルも、その顔を見て、少しだけ嬉しくなってしまった。



[6349] 第四十話:いざなみのみこと
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/05/25 22:03
「悪かったな、勘違いして殺しかけて、その上医者の面倒まで見てもらってさ」
「いや、気にしてもらう必要はない。わたしのほうこそ、一度君の顔を見ていたはずなのに、それと気がつかなかった。不覚とはこのことだ」
「おい、そこらへんにしとけよ。お嬢ちゃんのほうも別に問題なかったんだしよ、どっちもどっちってことで、手打ちといこうじゃねえか」

 一台の車が、人気のない夜道を、法定速度を無視しながら走っていた。
 狭い車内であった。
 その車が小さいというわけではない。形式こそ、この星では一般的なセダンタイプであるが、相当の高級車であるし、第一この車の売りは広々とした車内スペースなのだ。
 一応は五人乗りの車であるが、それも相当の余裕を備えての五人乗りであって、普通の体格の人間が座ったのであれば、隣り合わせに座った者の体温を感じることなく快適な車の旅を満喫できるだろう、そういう車だ。
 その車内が幾分狭く感じられるのは、今、そこに詰まっている人間達の体格が、到底普通の人間のそれではないからである。
 ケリーとジャスミンは言うに及ばず、後部座席にふんぞり返るように座った少女のそれも、人並みを大きく外れている。
 少女の名前を、メイフゥという。つい先ほど、ケリーとジャスミンの二人と、文字通りの死闘を繰り広げた、少女である。
 普段はゆったりと布の多い派手な服を好むメイフゥだったが、今は我慢したように、病人用の患者衣を着ている。相当しぶったのだが、真夜中に開いている衣料品店も見つからず、もちろん裸でうろつくわけにもいかないので、本当の間に合わせとして着ているのだった。
 そして、頭部には分厚く包帯が巻かれている。
 精密検査の結果、幸いなことに骨や頭蓋内には異常が見受けられなかったが──この事実に、ジャスミンは天を仰いで呪いの言葉を呟いた──、大きな裂傷が出来てしまっていたので、十針ほど縫う必要があったのだ。少女自身は『こんなもん、唾つけときゃ治る!』と言い張って暴れるように抵抗したが、ジャスミンとケリーがその両手足を押さえつけて、何とか施術に成功したのである。
 今も、煩わしげに包帯を手でいじり、隙あらば解こうとしているのがありありと見て取れる。
 まるで動物病院から連れて帰られた犬が、包帯の上から傷口を舐めようと必死にもがいているようで、なんとも微笑ましい様子だった。

「ところでお嬢ちゃんよ、隠れ家とやらはいいが、ほんとにウォルはそこにいるんだろうな」

 運転席でハンドルを握ったケリーが、少し疲れたような声で言った。
 ジャスミンがメイフゥを叩きのめした後、この体格の良い少女を抱えて地下道を走り回り、信じられないほどに長い縄梯子を昇って、法外な診療報酬の代わりに臑に傷持つ人間でも診察してくれる闇病院まで担いでいったのだ。それも、熱追跡を受けないよう、出来るだけ痕跡を消してきたのだから、その苦労は並大抵ではない。
 結果として、流石のケリーも病院のロビーでへたり込んでしまった。全身汗みずくで、チアノーゼのために顔も青い。これではどちらが患者なのか分からない、そういう有様だったのだ。疲れた声の一つも出ようというものである。
 しかし、ケリーから献身的な看護を受けたはずのメイフゥは、柳眉を逆立てて、後部座席から運転席を蹴りつけ、役者のように大見得を切って見せた。

「おい、色男。あたしの名前は、お嬢ちゃんなんかじゃねえ。これでも親から頂いた立派な名前があるんだ。メイフゥ、美しい虎って書いてメイフゥだ。今度お嬢ちゃんなんて言いやがったら、その顔から生皮を剥いで醤油につけて喰ってやるからな」

 バックミラー越しに見える不吉な顔を見ると、どうにも冗談には聞こえない。だいたい、今、この車を運転しているのはケリーなのだから、彼に危害を加えれば車は制御を失い大事故を起こして全員お陀仏である。普通の人間なら、そんなことをするはずがない。
 だが、この少女の眼が、あたしは本当にやるぞと叫んでいた。
 ケリーは肩を一つ竦めて、少女に降参の意を伝えた。全く、最近の女どもは、どうしてこうも恐ろしい、否、たくましいのだろう。

「おい、海賊、今のはどう考えてもお前のほうが悪いぞ。メイフゥ、すまなかった、この無神経な男に代わって、非礼を詫びさせて欲しい」
「いいって、お姉様はちっとも悪くないんだから。悪いのは、そこの色男の頭の中だけだよ」

 あっけらかんとした様子で、メイフゥは答えた。
 にもかかわらずジャスミンは、別に飲み物を口に含んでいたわけでもないのに、大きく吹き出すはめになった。
 ケリーも、危うくハンドル操作を誤りそうになった。

「お、おねえさまだと?」

 助手席から振り返ったジャスミンが見たのは、自分を熱っぽい視線で見る、少女の瞳だった。
 その少女は、嬉しそうに頷いた。

「ああ、あんたはあたしのお姉様だ。もう決めたんだ。あのバックドロップ、本気で死ぬと思った。それを、三回も……。痛かった……。あんなのは、生まれて、初めてだった……」

 感じたぜ、と呟いたメイフゥは、思わず熱い吐息をはきだしていた。
 ぺろりと、驚くほどに長い舌が、艶やかな唇を舐める。たっぷりとした唾液が唇をコーティングし、エロティックな輝きを帯びる。もとが整った容姿だけに、とてつもなく淫靡な雰囲気を醸し出している。
 どこからどう見ても、未成年の少女には見えない。それどころか、名うての商売女であったとしても、これほど官能的な表情を作ることの出来る者がどれほどいることか。
 ジャスミンの背を、冷たいものが走り抜けた。

「ちょ、ちょっと待て!君はこの男を種馬にしようとしていたんじゃなかったのか!?」

 ジャスミンには珍しく、狼狽えた様子で運転席に座ったケリーを指さす。
 自分の夫を身代わりに捧げるなど、夫婦の契りを立てた男女にはあるまじき裏切りだったかも知れないが、この場合は四の五の言っていられない。溺れる者は、藁だろうが夫の命綱だろうが、掴める物は何だって掴むのだ。
 そのケリーはといえば、当初の驚愕から立ち直り、予想外の告白劇を面白そうに眺めていた。自分に火の粉の降りかからない痴情のもつれ話ほど楽しいものは、この世に二つとないからだ。
 そして、当のメイフゥは平然とした様子で、

「それとこれとは別の話だ。あたしが子を産むなら、その男の種を頂くさ。でも、恋人と種馬は別だろう?」
「これはそれ以前の話だ!君は未成年だし、だいたいわたしには同性を恋人に迎える趣味はない!女ならば、正々堂々と男を銜え込むべきだ!」

 よく分からない理屈で、ジャスミンは反論した。
 だいたい、あまりに男前のジャスミンであるから、今までだってその手のお誘いがなかったわけではない。
 軍隊に入り、強面の男どもを片手でぽんぽんとやっつけていくジャスミンは、女性隊員のあこがれの的だったのであり、狭い社会の中では、彼女に対して本物の恋愛感情を抱く女性も少なからずいた。
 だが、もちろんのこと、ジャスミンにその手の趣味はない。当然の如く、全てのお誘いを丁重にお断りしてきた。
 今回のそれも同じ事といってしまえばそれまでだが、自分とケリーの二人をたった一人、しかも素手で追い詰めるという人間離れした戦闘能力の持ち主である少女から、まさか愛の告白を受けるなどと、どこの誰が想像しうるだろうか。
 さらに付け加えるなら、その相手は自分達の孫と同じ歳の頃の、正真正銘の未成年である。
 どこをどう間違えたとしても、ジャスミンの食指が動くはずがないのである。
 そんな、慌てふためく女傑を眺めて、メイフゥは腹を抱えてけらけらと笑った。
 
「ああ、おかしい!冗談だよ、冗談!あたしも、お姉様と同じでどノーマル、女とベッドで乳繰りあう趣味はねえさ!」
「……冗談にしてはたちが悪いぞ」
「ま、お姉様が本気で乗ってくれるなら考えないでもなかったけど、そこまで鳥肌を立てられたら、やる気の一つも失せるってもんだろう?そこの色男のお兄さんも、心配しなくったって奥さんを手籠めにしたりしないから、安心しな!」
「ああ、そりゃあほっとしたぜ!」

 ケリーも腹を抱えて笑っている。
 そうすると、一人しかめっ面をしているのが流石に馬鹿らしくなったジャスミンは、体内の圧力レベルを下げるように鼻をふんと鳴らした。

「だいたい冗談が終わったなら、そのお姉様とかいうふざけた呼び方も止めたらどうなんだ」
「おや?お姉様が駄目なら、ジャスミン様のほうがいいかい?」

 まじめな顔で、そんなことを言う。
 ジャスミンは、がっくりと肩を落とした。ケリーは、火がついたように笑った。

「もう、お姉様でいい……」
「そうだろう?なにせ、お姉様はあたしを正面から叩きのめしてくれたんだ。しかも、素手でだぜ?故郷の男どもだって、そんなことは誰一人出来なかった。少しぐらい敬わせておくれよ。これぐらい我慢してくれないと、嘘ってもんだぜ」
「敬うにしても、もう少しやり方があるのではないのか……?」

 妻の呟きを聞いたのは、幸いなことに夫だけだった。
 そして、それと同時に妻は、夫の脇腹を思い切りに抓くってやった。
 ケリーの、悲しげな声が車内に満ちた。

 その後、車内でお互いの情報を交換した。
 メイフゥは真実ジャスミンに対して敬意を抱いていたから、自分達の情報を包み隠さずにしゃべった。
 自分達が資源探索者であること。
 仕事の途中でレーダーにかからない不思議な居住用惑星を訪れ、そこでウォルを保護したこと。
 借金に首が回らなくなって、この星に逃げ込んできたこと。
 この国で、彼女たちの保護者代わりの人物──ヤームルというらしい──が旧知の人間と再会し、友の死を知らされたこと。
 その無念を晴らすために、この星で戦っていること。

「……なるほど、そういうことか……」
「細工は流々、あとは仕上げをごろうじろってわけには中々いかないのが正直なところでね。どれだけ奴らの大本を辿っても、どっかでぷっつりと途切れちまうのさ。やつらにはこっちの居場所もばれちまったみたいだし、力業でガンガンいくもの限界っぽいね」

 メイフゥはふてくされたように言って、大きくあくびをした。
 人目を憚ろうともしないその様子は、やはり年頃の少女は言い難い風情である。
 
「そうか、そのヤームルとかいうお人は、海賊だったのか……」

 ジャスミンがしみじみと呟いた。
 彼女にとっての海賊という単語は、およそありとあらゆる感情の坩堝と表現しても過言ではない。
 自分の夫が海賊なら、自分の息子を助けてくれたのも海賊。自分の父親だって、海賊まがいの宇宙の男であった。
 だが、今、彼女の息子の安全を脅かしているのも海賊であり、彼女自身だって幾度となく命を危険に晒されている。
 憎しみと愛着。憧憬と侮蔑。相反する様々な感情が、そのたった一つの単語に揺り起こされる。
 それが、不思議と不快ではない。
 ジャスミンにとっての海賊とは、そういう言葉であった。

「君は、その人のことが、好きなのだな」
「ああ、大好きだぜ。あれでもう五十歳、いや、四十歳も若けりゃほっとかねえのになぁ……」
「おや、年上の男性は苦手かな?」
「別に。男は女と違って打ち止めがないからね、男前でありさえすりゃあ、どれだけ年上だってかまやしねえよ。でも、あっちが相手にしてくれねえんだもん。仕方ねえじゃん……」

 少女は、とろりと落ちてくる瞼を、ごしごしと擦った。
 先ほどまで溌剌としていた様子が嘘のように、静かになっている。
 無理もないだろう。特殊部隊を相手に大立ち回りをし、そのあとでケリーとジャスミンの二人を相手にしたのだ。疲れないほうがどうかしているのである。
 その様子には気がついていたが、隠しきれない興味を浮かべて、ケリーが問うた。
 
「じゃあ、そのヤームルっていう男は、どこかの一味に加わっていたんだろう?」
「ああ、そう聞いてるよ」
「じゃあ、どこの一味だったんだ?差し支えなけりゃ、教えてくれるとありがたい」
「……どうしてそんなことを知りたがるんだい?」

 メイフゥは不審げに眉根を寄せたが、ケリーは朗らかな口調で、

「なに、ここ最近は昔なじみと顔を合わせることも少なくなっちまってね。そういう話なら、聞けるだけ聞いておきたいのさ」
「昔なじみ?おかしな事をいうねぇ。あんた、どこからどう見たって、ヤームルの昔なじみって歳には見えないんだけど」
「確かに、その男と顔なじみかどうかは知れないがね。一昔前の海賊たちとは、けっこう付き合いが広いんだぜ?」
「ふぅん……。ま、別にいいけど」

 ケリー自身、海賊と呼ばれる一団に所属したことはない。加えて言えば、世間一般で言うところの海賊行為の片棒を担いだことも、一度だってない。
 だが、ある時期において、ケリーは彼らと共に宇宙を駆けた。それは時に友として、あるいは商売敵として。鼻持ちならない連中も多かったが、気の置けない連中も多かった。
 そして、今の時代に生き残っているのは、ほとんどが鼻持ちならない連中の方だ。気の置けない連中、気のいい連中は、時代に取り残された自分を恥じるかのように、静かに身を引いていった。
 ゲートを用いた長距離制限ワープ航法からショウドライブを用いた短距離無制限ワープ航法へと時代は移ろい、海賊たちが必ず持っていた秘密のゲートはほとんど意味を成さなくなった。重力波エンジンを積んだ船ではショウドライブを用いて短距離ワープを繰り返す船を追いきれないし、ショウドライブを積んで追いかけたのでは結果としてより高性能な軍艦に捕縛されてしまうのである。そして、その両方のエンジンを積み込めるような船は、大型戦艦を除いては、本当に限られた船しか存在しなかったのだ。
 結果として残ったのは、電撃的に客船を襲い、自分達の居場所が知れる前に乗員を皆殺しにして積み荷を奪い取るという、中世の山賊と代わらないような無法の輩のみである。
 ケリー自身が海賊たちの命脈に終止符を打ったといっても過言ではないのだろう。だが彼は、寂しさを覚えることはあっても、申し訳なく思ったり、自分の行動を後悔したりはしなかった。ショウドライブというすばらしいシステムは、自分が世に送り出さなくてもいずれ誰かが発見し、世に送り出していた品物だからだ。そのことで彼の愛した海賊たちが生き場を失ったとするならば、それは時代に適応できなかった彼らの責任である。
 まかり間違えても、ケリーの知る海賊たちは、その一事でもってケリーを恨んだりはしない。しないはずだ。もしかしたら売り上げの一部を寄越せとでも脅しつけたかも知れないが。
 ケリーは苦笑した。自分が古馴染みを懐かしいと思うなど、意外なことだったからだ。
 もしかしたら、少し前に一人の老ゲートハンターと出会ってから、その思いが強くなったのかも知れない。
 その老人の親分だった男は、既にこの世を去っていた。殺しても死なないと思っていた男が、意外なほどにあっさりと死んでいた。その知らせを聞いたとき、ケリーは理由もなく身を切られるような寂寥感を味あわされたのだ。
 そんなケリーの思いを汲んだわけではないだろうが、メイフゥは誇らしげに胸を反らし、ヤームルの属していた一味のことを語り始めた。
 
「ヤームルが何ていう一味で飯を食ってたのか、ちゃんとした名前は知らない。でも、この宇宙で一番大きくて、一番精強な海賊たちが集まっていたんだ。その海賊艦隊の行くところ、連邦軍の艦隊だって恐れをなして逃げ出した。まさに、向かうところ敵無しだったんだ」
「へぇ、そいつはすごいな。なら、きっと俺も知ってる一味だと思うぜ」

 連邦軍と正面から戦える海賊など、本当に存在するはずがない。どれほど大きな海賊団であっても、精々哨戒艦隊とドンパチやって引き分けに持ち込めれば万々歳といったところのはずだ。だからこそ、海賊は自分達のゲートに拘ったのだし、その縄張りを死守しようとした。
 少女の言うことは、話半分どころか、三割、いや、二割で正答と考えるべきか。
 しかしケリーは、頭のどこかに、少女の言っていることを信じたがっている自分がいることを自覚していた。
 ジャスミンは隣に座ったケリーの顔を、ちらりと見た。
 ケリーは、唇の片側をつり上げて、不敵に笑っていた。その笑みが意味するところは、妻であるジャスミンにも分からなかった。

「じゃあ、他に何か、その海賊団のことで知ってることとかはねえのか?」
「あるさ。とっておきのやつがな」
「へぇ、何だ、そいつは?」

 メイフゥは、焦らすように一拍おいて、誇らしさに満ちた声で言った。

「聞いて驚けよ。その一味を率いていたのはな、何を隠そう、伝説の海賊王だったのさ」

 彼女の一言が爆弾だったとすれば、それは効果的に破裂したとは言い難かった。
 ケリーもジャスミンも耳を疑ったが、それは信じられないという驚愕ではなく、どう考えてもおかしいという疑念からである。
 運転中のケリーに代わって、ジャスミンが後部座席を振り返り、

「試みに問うが、それは、広く一般に知られるところの海賊王のことでいいのかな?」
「もちろんだ。最近話題になってるじゃねえかよ、トリジウム鉱山を個人で秘匿し、無数のゲートを隠し持ち、連邦軍だって共和警察だって一度も捕まえられなかった伝説の海賊。それが、一味の頭だったんだ」

 熱っぽく語ったメイフゥだったが、ジャスミンの首はどんどん傾いていくばかりである。
 なにせ、ジャスミンは伝え聞いたのではなく、知っているのだ。海賊王と呼ばれる男が、決して組織の頂点には立たない男であることを。
 彼女の代役としてクーア財閥のトップを受け継いだことはあっても、それはただ妻の大切なものを守り、妻に返すために努力した結果であって、男自身が望んだことは一度もなかったはずである。
 その男が、他でもない海賊団の頂点に立っていた?
 彼女は四十年の長きを眠り続け、世俗のことには疎いと自分でも思っているが、それだけはあり得ない。あり得ないと断言できる。
 ジャスミンは、我知らず疑わしげな顔をしていた。だが、メイフゥはそれを見ても驚かないし、気を悪くした様子もない。むしろ当然というふうに頷いた。

「その顔、やっぱり信じてねえな」

 ジャスミンの返答は、簡潔だった。

「ああ、到底信じることが出来ない。無論、全面的に君を疑っているわけではない。きっと君の言うところの海賊団は確かに存在したのだろう。だが、その頂点に立っていたのは、巷で海賊王と呼ばれる男ではなかったはずだ。それだけは断言できる」
「そこまで言うってことは、お姉様、海賊王を知っているのかい?」

 鋭い質問であった。単純であるだけに、避けることが難しい。
 それでも人生経験の豊富なジャスミンである。海千山千の古狸連中相手に交渉事を繰り返してきた、クーアの二代目でもある。自分の背後に座った年若い少女を煙に巻くくらい、何ほどでもなかっただろう。
 だがジャスミンは、この少女の問いをかわそうとはしなかった。無論、嘘を吐くわけでもない。
 正直に答えた。

「ああ、知っている。よく知っている」

 それが隣でハンドルを握る男である、とまでは言わないが。
 
「ほんとかよ!?じゃあお姉様は、その男がどこにいるのかも知ってるのか?」
「ああ、知っている」

 隣でハンドルを握っているのだ。
 ジャスミンは、内心でとても愉快だった。隣にいる男が、どうにもむくれたような表情をしているのが一層楽しい。
 先ほどの仕返しとばかりに獰猛な笑みを浮かべるジャスミン。
 しかし彼女に向けられた次の言葉は、流石に予想を超えていた。

「じゃあさ、今度会わせてよ、絶対に!約束だぜ!会わせてくれなかったら恨むからな!」
「おい、わたしは一言だって、そんな約束をした覚えはないぞ」
「覚えのあるなしじゃあねえんだ!あたしは、絶対にその男に会わなけりゃいけないんだよ!」
「どうして?」

 メイフゥは、一つ大きく息を吸い込んで、

「決まってる!海賊王って呼ばれた男が、あたしら姉弟の実の父親なんだ!」
 

 すうすうと、可愛らしい寝息が、車内を満たしている、
 後部座席で丸くなった少女──メイフゥは、あの後、楽しみだ絶対に会ってみせると一頻り喚いた後、糸が切れるようにして眠りに落ちた。
 おそらくは相当の疲労が溜まっていたのだろう、今は、身動ぎしないほどに深い眠りの中にいる。
 翻って前方座席を見てみれば、運転席でハンドルを握る夫と助手席で腕組みをする妻は、終始無言だった。
 その無言が、ケリーなどにはとても怖い。別に彼自身疚しいことをした覚えはない──こともないのだが、それを怒られる所以はないはずである。
 だいたい、この夫婦は、お互いがお互いを拘束することを望んでいない。ケリーはジャスミンが隣にいてもあっさりと道行く女性に声をかけたりするし、ジャスミンはジャスミンのほうでも、魅力的な男性に声をかけられればケリーの傍から離れていったりもする。
 そういうとき、無言の了解として、お互いの行動に口は挟まない。
 もちろん、愛情が冷めているとかそういう理由からではない。逆に言えば、どんな異性に靡いたとしても最後は自分のところに帰ってくるだろうという、不撓不屈の愛情があるわけでもない。
 ただ、彼らにとっては、それが自然だからだ。美しい女性がいれば声をかけ、好ましい男性から食事に誘われれば無碍に断ったりはしない。
 そしてそれ以上に、彼らはお互いが共にいることを自然だと思っていた。そして、相手もそう思っていることを知っていた。それだけの話だ。
 だから、例え一晩の過ちから成った種があったとしても、それを非難されるいわれはない。ないはずであった。
 第一、この少女の話しぶりからすれば、彼女たち姉弟の父親であるという海賊王と、自分が一緒であるとは、ケリーには到底思えない。
 ああ、そうだ。俺はこの娘の父親なんかじゃない!
 だが、その反論がこの状況では如何に寒々しいものか、ケリーは知り尽くしていた。

「あのよ、女王……」
「わたしが眠っている間も、さぞお盛んだったようで何よりだよ、海賊」

 この、美しく輝く金色の瞳を向けられて、冷や汗を流さない男が、この女の知り合いに一人だっているだろうか。
 いや、いるはずがない。

「おい、一応は言わせてもらうがな──」
「冗談だ。そんなに怒るな、可愛すぎて抱きしめてしまいそうになる」

 ジャスミンは、口元に手を当てて、くすくすと笑った。
 ケリーは、憮然とした表情で肩を揺すった。

「冗談にしても、そいつはあんたにしちゃあタチの悪い冗談だ。寿命が一年は縮んだぜ」
「そうか、ちょうどいいじゃないか。人より二倍も長生きしているんだから、そういうことも度々あれば不公平が少なくなる。そうすれば、変なことで嫉妬を覚える連中も少なくなるんじゃないか?」

 ジャスミンは、ケリーの若返りの秘密を暴こうとして自滅していった、何人かの老人の顔を思い出していた。

「それにしても海賊、お前も、こんなことで人並みに動揺するんだな」
「全くの童貞以外で、見ず知らずの子供が自分のことをお父さんって呼んで動揺しない男がこの世にいるなら、その顔を拝んでみたいもんだ。俺は無条件にそいつのことを尊敬する自信があるね」
「その点、女はいいな。自分が生んだ子供は、種が誰のものであっても自分の子供だ。疑いようがない」

 的の外れたことを、ジャスミンが言った。
 ケリーは、無言で肩を竦めた。
 それから二人は、無言で車を運転した。
 車内には、時折少女の寝息が響く程度で、ほとんど何も聞こえない。
 周囲の景色はどんどん寂しくなり、ヘッドライトの灯り以外は漆黒の海の中に沈んでいる。
 すれ違う車もない。本当にこの世の道を走っているのか、疑ってしまうような孤独の中に、その車はあった。
 まるで、黄泉路を走っているようだと、ケリーは思った。
 二人は、その間も無言だった。
 やがて、遠く先の方に、ほのかな灯りが見えた。
 人家だ。山の麓、到底こんなところに人が住むとは思えないような場所に、人家がある。
 さきほどメイフゥが設定したナビゲーションシステムも、そこを目的地としているようだった。

「ようやく到着か」
「さて、ウォルは怪我をしているらしいが……大丈夫かな」

 緊張から解放されたからだろう、二人の声にも安堵の色が濃い。
 車は、静かに人家の少し手前で止まった。
 あらためて全景を見ると、それほど大きくはないが、隠れ家としてはちょうどいいくらいかもしれない。
 二人は、ほとんど同時に車から外に出た。
 メイフゥは、とりあえずそのままにしてある。今起こすよりも、寝かしたまま後で部屋に運んでやればいい。あの眠りようでは、抱きかかえたくらいでは眼を覚まさないだろうから。
 ケリーが先に門の前に立つ。
 そしてそのまま立ち止まった。

「……どうした、海賊」

 後ろから、ジャスミンの訝しげな声が聞こえる。
 
「……女王。さっき、あの嬢ちゃんの一味は何人だって言ってた?」
「……確か、ヤームルとかいう初老の男と、メイフゥ自身、その弟に、あとはウォル。全部で四人だったと聞いているが」
「なら、どうしてあの家の中には、十人を超える人間がいやがるんだ?」
「なに?」

 ジャスミンの体に、緊張が走った。
 この男は冗談好きで油断のならない人間だが、しかし時と場所というものを人並みには弁える人間でもある。
 こんな状況で、笑えないジョークを口にしたりは決してしない。
 
「……どういうことだ」
「状況は、予想以上に不味いかもしれん」

 声を潜めて会話をしていた、その時。
 人家の一階部分の、小さな窓ガラスが割れる音が、二人のいるところにまで響いてきた。
 すわ何事かと、二人の視線が集中する。
 きらきらと、星明かりに煌めくガラスの破片。
 その中に、銀色の頭をした少年が、倒れていた。

「そこにいるのは、ケリーどのか!?」

 聞き覚えのある少女の声が、自分の名を呼んだ。
 見れば、割れた窓の奥に、青白い少女の面立ちがある。
 間違いなく、黄金狼の伴侶である、あの少女だった。

「ウォルか!?」
「インユェを──その少年を連れて、逃げてくれ!」
「なんだって!?」
「詳しいことは後で話す!俺のことはいいから……!」

 少女は、最後まで自分の意志を伝えることができなかった。何者かの手が少女の口を後ろから塞ぎ、闇の中に引きずり込んだからだ。
 ケリーとジャスミンは、窓のそばまで駆け寄り、ガラスの破片の中で倒れ伏す少年を、助け起こした。
 細かいガラス片で小さな怪我を負ってはいるものの、どれも命に関わるような怪我ではない。
 ケリーはとにかく少年を担ぎ上げ、車まで走った。ジャスミンも油断無く銃を構えたまま、それに倣う。
 少年を、後部座席に放り込む。それでもなお、少年の姉である少女は、目を覚まさなかった。
 ジャスミンは、歯ぎしりをする思いだった。
 間に合わなかった。どういう理由かは定かでないが、ウォル達の隠れ家は敵に捕捉されていた。そして、自分達が到着する前に、既に制圧されてしまっていたらしい。
 さしものウォルも、相手が多勢に無勢、そして手負いの身とあっては、少年を家の外に投げ出すので精一杯だったのだろう。
 ウォルは、敵の捕虜だ。もう一人のヤームルという男は、既に殺されていると見るべきだろう。
 どうする。どうやって、この失地を挽回する。
 ジャスミンが、己に対して絶望的な問いかけを繰り返していた、その時。
 彼女の夫たる青年が、表情を消しながら言った。

「……女王、あんたはこのまま車に残ってくれ」
「どうするつもりだ、海賊」
「やっこさん達と話し合って見るさ。意外と話の分かる連中かも知れないぜ?」
「正気か海賊!?」

 ジャスミンは思わず声を荒げていた。
 
「任務を帯びた軍人に、話し合いが通じるとでも思っているのか!」

 軍隊に身を置いたことのあるジャスミンだから分かる。
 一度動き出した軍部というものは、堰を切った河の氾濫に似ている。水一粒の意志がどうであっても、そんなことはおかまいなしに、全てを飲み込んでいくのだ。
 それに逆らおうとするならば、より大きな流れをぶつけて氾濫そのものを制する以外、方法は無いのである。いわんや、話し合いの余地などあろうはずもない。

「そんなこと、俺だって重々承知してるさ」
「なら──!」
「だがな、女王。いま、あの家の中に人間の死体は一つもないぜ。一つもだ」
「……なんだと?」

 それはおかしい。
 彼らの任務は、ウォルの身柄の確保と、その周囲の人間の抹殺だったはずだ。それは、あのダイアナが確認したのだ。誤りようがない事実であろう。
 なら、あの家の中に、少なくとも一つは死体が転がっていなければならない。ヤームルという、ウォルの周囲の人間の死体だ。
 それがないということは、つまり、この家を制圧した部隊は、先ほど店を襲撃したのとは違う指揮系統にあるということになる。
 だが、だからといって話し合いに応じるとは、到底思えない。

「それに、あの家の窓という窓から、こっちを狙った銃口が差し向けられてやがる。なのに、一向に引き金を引く気配がないんだ。これはちっとばかし妙だぜ」
「……わかった。なら、わたしも行く」
「馬鹿を言うな。あんたはメイフゥとの一戦で、今日のところは出涸らしさ。あの黄金狼の同盟者を取り押さえた部隊と、もう一戦やらかせるとでも思ってんのか?本当にそう思ってるならついてくるがいいさ」

 ジャスミンは、言葉を飲み込んだ。
 確かに、あの戦いは、お互いの死力を尽くした戦いだった。
 正直なところ、今の彼女の体に、激しい戦闘に耐えうるだけの体力は残されていない。メイフゥの鋭い蹴りをくらった腹部は激しく痛み、今だって浅く呼吸をするのが精一杯といった有様だし、頭もがんがんと疼く。筋肉は、そこかしこで断裂寸前の悲鳴を上げている。
 今の状態で得体の知れない敵とことを構えるのは、無謀を越えて自殺行為というべきだった。

「……わかった。だが、無茶はするなよ。お前が死ぬと、ダイアナが泣く」
「ああ、さっきからうるさいんだ。こいつは、ここに置いていくぜ」

 ジャスミンは、信じられないものを見た。
 ケリーが、手首に巻いたダイアナとの通信装置を外し、空になった助手席に置いたのだ。

「海賊、何を考えている!」
「勘違いするなよ。これは、辛気くさい形見なんかじゃあねえぞ。俺がやつらにひっ捕まったときは、あんたとダイアンだけが頼りなんだ。心配しなくても、俺とダイアンは右目を通じて繋がっている。だから、そんな泣きそうな顔、しなさんな」
「誰が泣きそうだ、誰が!」

 むしろ大噴火寸前の巨大火山のような顔色で、ジャスミンがうなり声を上げた。
 だが、ケリーの判断そのものは正しい。
 こういった事態に陥ったときに最も頼りになるのは、間違いなくダイアナの情報収集能力と、情報操作能力である。彼女との繋がりが分散できるのであれば、それをしておくに越したことはない。
 ジャスミンは、ケリーの半身とも呼べる通信装置を受け取った。
 それを見て、ケリーが頷く。

「じゃあ、ちょっくら行ってくるぜ」
「ちょっとだけだぞ。あまり長引いたら、許さんからな」

 ジャスミンの視界に映ったケリーの後ろ姿が、少しずつ闇に飲まれ、小さくなっていった。

「おい、聞こえてるんだろう!?ちょっくら話し合いといこうじゃねえか!なに、下手な悪あがきなんて考えちゃいねえよ!それとも、そんなに俺が怖いかい!?」

 ケリーが朗々たる声で叫んだ。
 台詞はなんとも陳腐なものだったが、この状況で、少しも声を震わせることなく堂々と言えるのは、彼が海賊王と呼ばれた男だからできる芸当だ。
 ジャスミンは、両手で愛銃を握りしめ、何かに祈った。
 何でもいい、神様でも、精霊でも、この際魔物だっていい。
 どうか、あの男を殺さないでくれ。あの男を、この宇宙から奪わないでくれ。あの男のいなくなった、色を失った宇宙など、死んでも見たくないんだ!
 その声に応えたわけでもないだろうが、ケリーの声に応えたのは、銃声ではなく人の声だった。
 それも、年若い少女の声だ。

『こちらも、無駄な争いは望まない。まして、無益な殺生は好むところではない。話し合いには応じさせてもらおう。ただし、君たちの無条件降伏を前提とした話し合いならば、だ』
「へぇ、そいつはなんとも虫のいい話だねぇ。これでも俺もそこにいる女も、腕っぷしにはちょいと自信があってね。あんたらのうちの何人かを道連れにするくらいなら、別に難しいことじゃあないんだぜ?」
『我々は、同胞の一人や二人が死ぬことなど、任務遂行上の障害であるとは認識しない。もっと簡単にいうならば、やるならやってみろこちらには受けて立つ用意があるぞ、ということになるかな』

 くすくすと、家のあちこちから忍び笑いが漏れ出した。そのどれもが、年若い少年少女の笑い声だった。
 どうやらあの家を制圧した連中は、相当に茶目っ気があるらしい。普通の軍人であれば、こんな馬鹿な問答などには耳を貸さず、迅速に己の任務を遂行するものだ。
 これならば、何とかなるかも知れない。
 ジャスミンの胸に、淡い期待が点った。

「いいだろう、お前達の望みは何だ!?どうして雇われた!?金か!?もしそうなら、俺が、浴びるほどにくれてやるぜ!一生喰うに困らないだけの金をくれてやる!その代わり、ウォルって女の子と、ヤームルってじいさんを解放しろ!」
『駄目だな。我らはヴェロニカ特殊軍の軍人だ。命令を金銭で購うほどに、恥知らずではない』
「とにかく、顔の一つも見せてみろよ!それが交渉の礼儀ってもんだろうが!」

 ケリーの交渉は、全くもって交渉術の初歩も弁えない無茶苦茶なものだった。
 だがジャスミンは、この方法が間違えていないと確信した。
 ケリーと少女は、どこかで息が合っている。馬が合うというのだろうか、会話のリズムがいい。
 これは、交渉が上手くいっているときの兆候だ。
 それを示すように僅かな空隙が生まれ、玄関のドアが開く重たい音が響いた。

「これでどう?満足した?」

 やはり声は、年若い少女のものだった。
 ジャスミンからは、遠すぎて、そして暗すぎて、その少女の顔ははっきりと見えない。
 ただ、星の光を跳ね返す、赤茶けた髪の毛だけが、不思議と印象に残った。
 
「わたしたちの目的は、あの少女と、彼女に近しい人間を我らの主人の城に招待することよ。それも、できるだけ穏便にね。当然、あなたも任務対象に含まれるわ。むしろ、あなたは特に歓待するように申しつけられているの。だから、大人しくしたがってくれると嬉しいんだけど」

 なんとも蓮っ葉な口調だが、それが少しも嫌みではない。それは、少女の言葉のどこにも、自分が事態をコントロールしているという優越感が存在しないからだ。
 ジャスミンは、注意力の全てを聴覚に雪いだ。会話の一つも聞き逃すまいと。
 そして、聞こえた。
 闇夜に、男の喘ぐような、浅い呼吸が響いてくるのを。
 
「……どうしたの?わたしの顔に、何かついてる?そんな、死人でも見つけたような顔して」
「どうして……どうしてお前がここにいる!いや、どうしてお前が生きている!」
「……あなたの言っていることが、ちっとも理解できないわ」
「お前がどうして生きているんだと、そう聞いているんだ!答えろ、マルゴ!」

 ジャスミンは、我が耳を疑った。
 ケリーは、確かに叫んだ。マルゴ、と。
 それがどういう意味かを理解しない彼女でなかった。
 マルゴ。マルゴ・エヴァンス。西ウィノア特殊軍の、少女。ウィノアの大虐殺で、雑草を刈り取るように、奪われた命。
 そして、ケリーの、初恋の少女。
 彼女は、死んだ。他ならぬケリー自身の腕の中で、冷たくなっていったと聞いている。
 ならば、先ほどのケリーの叫びは、どういう意味だ。
 いや、そんなことは、今はどうでもいい。
 大事なのは、ケリーをしてマルゴと呼ばせる少女が、自分達と敵対したということ。
 そして、そのことはたった一つの事実を指し示している。
 ケリーは、その少女には、決して勝ち得ない──!

「……へぇ、どうして知っているのかしら、そうよ、わたしの名前はマルゴ。マルゴ・レイノルズ特殊軍大尉。一応、初めましてのはずよね、ケリー・クーアさん?」
「女王、何してやがる!逃げろ!さっさと逃げろ!」

 ジャスミンは思い切りに車のアクセルを踏み込み、強引に車をスピンターンさせた。
 そして窓を開け、叫んだ。

「海賊、死ぬな!絶対に迎えに行く!だから、絶対に死ぬな!」

 返答を待つ間もなく、車は走り出した。
 誰もそれを妨げようとしない。狙撃されることもなかった。
 ただ、遙か後方で、銃声が数発、鳴り響いた。

「ちくしょうっ!」

 ジャスミンは、固く握りしめた拳を、思い切りダッシュボードに叩き付けた。
 スピードメータの針が、悲しげに折れ曲がった。



[6349] 第四十一話:瓢箪の中
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/05/29 23:19
「何のつもりなの」

 少女の低い声が、男の耳朶に響いた。
 闇である。
 暗い闇の中に、二人はいる。
 闇の中に、あたりの山から下りてきた木々の匂い、土の匂い、川の匂いが溶けている。
 遠くから聞こえる虫の音も、天球を埋め尽くす満点の星明かりも、体を撫でる風の気配も溶けている。
 無ではない、濃密な闇の中に二人はいる。
 二人以外にも、いる。
 家の中に、いくつもの気配がひしめいている。窓からこちらを覗いている気配が、いくつもある。
 車の、激しく吠えるエンジン音が、少しずつ闇に溶けていく。音が遠ざかるというよりは、音が闇に飲まれていくような感じがする。
 車は、男の妻を乗せているはずであった。後部座席には、先ほどの激戦の敵手であった少女と、おそらくはその少女の弟である少年を乗せている。
 ある意味では、男は一人だ。男の前に立つ、無骨な迷彩服に身を包んだ赤毛の少女は紛れもなく彼の敵であり、男をおもしろ半分に眺めるいくつもの視線もまた、彼にとっての敵であるはずなのだから。
 だが、男にとって、今は少女と二人であった。
 二人の間にある10メートルほどの空間が無いように、男と少女は二人で立っていた。
 
「何のつもりなのかと、わたしは聞いているんだけど」
「仕方ねえだろ。口に突っ込みたいのはやまやまだが、そうするとお前さんと話せないからな」

 男は──ケリーは、なんとも不本意そうな表情で、愛銃の銃口を、自分のこめかみに押しつけていた。
 まるで、これから拳銃自殺を試みるかのような、異様な格好である。
 なのに、その表情は、あまりに飄々としている。
 酒場で冗談を言い交わす若者のように、口元に緩やかな笑みを浮かべたまま、銃口をこめかみに押しつけているのだ。
 それでいて、彼の立ち姿のどこにも、死の気配がない。
 もしも彼の表情に今と違う感情が浮かんでいたならば──例えばそれが怒りでも、悲しみでも、苦しみでも、狂気でも、無表情であったとしても、それはこの世に別れを告げようとする男の、最後の瞬間にしか見えなかっただろう。
 
「こめかみを撃つと、意外なくらいに死にきれない場合が多くてよ。俺も、痛いのは好きじゃあねえんだ。口に銜えてずどんとやれば、痛いと思う暇もなくあの世行きだからな。どっちが楽かなんて、言うまでもねえや」
「質問を代えるわ。ケリー・クーア、拳銃自殺の真似事をして、あなたはわたしに何を求めているのかしら?」
「今、車で逃げていくあの女に、一切の危害を加えるな。もしも妙な真似をしたら、生かしちゃあおかないぜ」
「誰が、誰を?」
「俺が、俺の銃口の先にいる人間を、だ」

 それは間違いなく、ケリー自身である。
 ケリーは、ジャスミンを見逃さなければ、己が死ぬと言っているのだ。
 己の意志で。
 そうすれば困るのはお前達だよと、優男のようににやついた瞳が言っていた。
 少女──マルゴは、あざけるように笑った。

「それを信じろというの?」
「いんや、別に信じてもらようなんざ思ってねえよ」
「じゃあ、わたしにどうしろと言うの?」
「ご随意に」
「あなたはわたしにどうして欲しいの?」
「あんたの好きにすりゃあいいさ」

 ケリーの受け答えははっきりとしている。
 そして短く、なにより無造作だ。
 何に執着しているふうでもない。
 例えばこうだ。
 マルゴとケリーの間にテーブルと小洒落た椅子があり、綺麗にクロスの掛けられたテーブルの上に、ティーセットと箱詰めされた色取り取りのケーキがあるとする。
 どれも美味しそうなケーキばかりだ。最初にどれを食べようか、目移りしてしまう。
 その時に、俺はどれでもいいからお前から選べよ、とケリーが言ったとする。
 そういうときに、今のような声で、調子で、ケリーは言ったかも知れなかった。

「ふざけてるの?」
「いいや、俺はまじめさ」

 銃口は、相も変わらず、ケリーのこめかみに突きつけられている。
 その銃を握っているのは、間違いなくケリーの右手だ。
 そして、彼の意志だ。
 それを見るマルゴは、すでに笑っていなかった。

「それで交渉のつもりなの?」
「そんな上等なもんじゃねえな」
「じゃあ何?」
「いたちの最後っぺ、負け犬の遠吠え、キツネと酸っぱいリンゴ……は、少し違うかな」
「負け惜しみ?」
「そんなもんさ」

 ケリーは呆れたように肩を竦めて、

「それとも、大人の意地ってやつだ」
「意地?」
「ここは俺たちの負けさ。それは、どうしようもねえよ。だがな、同じ負けは負けでも、納得のいく負け方と納得のいかない負け方ってやつがあるんだ。どうせなら、最後に一泡吹かせてやった方が、夢見がいいだろう?」
「どうせ同じ負けなのに?」

 マルゴも、薄く笑っている。
 紅を引いていないのに真っ赤な唇が、僅かに緩んでいる。
 酒場で女にこういう表情をさせたなら間違いなく男の勝ちだ、そういう表情で笑っていた。

「だから言ったろ。これは大人の意地なんだって」
「大人ってどういうこと?」
「つまらねえってことさ」

 我ながら気の利かないジョークだと、ケリーは思った。
 少女は、興の削がれたような顔で、右手を軽く掲げた。
 窓のいくつかで、銃口の降りた気配がした。

「いいわ、あなたのつまらない冗談に免じて、奥さんは見逃してあげる」
「やれやれ。相変わらずお前を笑わせるのは難しいな、マルゴ」
「何の話?」
「こっちの話だ」

 マルゴも、それ以上聞かなかった。

「あの方も、あなたの奥様はできればあなたと一緒に連れてきて欲しいって言ってたから。変に欲張ってあなたに死なれちゃ、本末転倒も甚だしいわ」
「へぇ。本当に俺が死ぬと思ったかい?」
「あなたが死ぬかどうかは別にして……引き金は、間違いなく引いたでしょうね」

 ケリーは嬉しげに頷いた。
 
「大根役者のへぼ演技でも、死ぬ気でやりゃあ何とかなるもんだな」
「とにかく、わたしはあなたの要求を飲んだのよ。その物騒なものは下ろしてもらえると助かるのだけど」
「ああ、そりゃあそうだ」

 ケリーは、右手を下ろした。
 マルゴが、左手を挙げた。
 直後、乾いた音が、屋敷の二階、窓の辺りで響いた。
 銃声であった。
 放たれた弾丸は正確にケリーの四肢を撃ち抜いた。

「がぁっ!」

 ケリーの口から、火のような叫びが漏れた。
 数歩、踏鞴を踏むようにして後ずさる。
 だが、倒れない。
 歯を食いしばりながら立っている。
 右手も、銃を取り落としてはいない。
 額に粘い汗を浮かしながら、しかし不敵な表情は普段の彼と寸分も変わるところはなかった。
 そして、それはケリーを眺めるマルゴも同じことだった。
 自分の命令で目の前の男の四肢に風穴を開けておきながら、涼しい顔で言った。

「またさっきみたいに馬鹿な真似をされても困るから。恨むかしら?」
「いや、当然の措置だろうぜ。ついでにこいつも抜いておくかい?」

 ケリーは大きく口を開けて、舌を動かしてみせた。
 唇からわずかに突き出されたところで動く赤黒い肉塊が、ちろちろと卑猥に動いている。
 俺はいつでもこいつを噛み切ることができるのだぞという、せめてもの抵抗であった。

「舌を噛み切った死体を、わたしはまだ見たことがないの。そんなことで人が死ねるなんて、信じられないわ」
「ああ、俺もそうだぜ。これでもけっこう長く生きてきたつもりだが、舌を噛み切って死んだ人間を、俺はまだ見たことがねえな」
「じゃあ、噛んでも無駄だと思うわ」
「そうかね」
「それに、あなたと話しているとけっこう楽しいのよ。だから、あなたが喋れなくなると、少しだけ嫌だわ」
「なら、こいつを引き抜くのは無しだな」

 流石に疲れたのか、血を流しすぎたのか、ケリーはその場に座り込んだ。
 水の跳ね散る音がした。
 闇に紛れてわかりにくいが、彼の足下には小さな水たまりが出来ていたのだ。
 赤く、鉄臭い水たまりである。
 ケリーの命そのもので出来た水たまりである。
 これ以上その水たまりが大きくなることは、その源泉であるケリーの死を意味するだろう。
 事実、寒さと恐怖以外のもたらす震えで、ケリーの体は細やかに震えていた。

「意地っ張り」

 マルゴが拗ねたように呟いた。

「今から止血をするけど、妙な真似をしたらただじゃおかないわよ」
「妙な真似っていうと?」
「おしりを撫でたり、耳に息を吹きかけたり、キスをしたり、とにかくそういうことよ」
「もし悪戯心を起こしたら?」
「あなたの粗末なモノを踏みつぶしてあげる」

 赤毛の少女は、奇妙に醒めた口調で言った。
 ケリーは苦笑した。

「残念だぜ」
「あなたって、少女愛好趣味があるの?」
「さぁてね。おじさんが怖いなら逃げ出してもらっても一向に構わねえんだぜ?」

 にやりと笑ったケリーを無視して、少女が近づいてくる。
 ベストのポーチから止血帯を取り出し、てきぱきとケリーの四肢に巻き付けていく。
 それだけで、出血は劇的に収まった。
 
「手際がいいんだな」
「慣れているからね」
「いつもこんなことばかりしているのかい?」
「それが仕事ですもの」
「そうか、お前はまだ、こんなことばかりしているのか」

 少女の顔には、何も浮かばなかった。
 間近に見る少女の顔は、ケリーの記憶にある、少女の顔であった。
 勝ち気で、太陽のようにきらきらと輝く、鳶色の瞳。
 柔らかにウェーブした、赤茶色の髪。
 健康的に日焼けした、小麦色の肌。
 全てが少女を形作る重要な要素であり、その悉くが少女のそれと一致していた。
 今、自分の目の前にいるのは、あの時、自分の腕の中で死んだ少女そのものである。
 その認識が、ケリーの心をどれだけ傷つけただろう。
 涙を堪えた幼児みたいに切ない表情のケリーが、少女の柔らかな髪に触れようとしたとき、少女は無慈悲に立ち上がった。

「さぁ、もう満足したでしょう?なら、そろそろ行きましょうか」
「どこへ?」
「私たちの主のところよ。でも、その前に……」

 マルゴはケリーに向かって、無言で手を差し出した。
 掌が上になっている。何かを渡せというアピールだろう。
 ケリーは嘆息して、

「今さら暴れたりしねえよ。おら、もってけ」

 激痛の走る右手を無理矢理に持ち上げ、愛銃を手渡した。
 やはり無言で受け取るマルゴ。安全装置を下ろし、懐にしまう。
 そして、もう一度手を差し出した。

「何だ、その手はよ。もう、何も持っちゃいねえよ」
「右足のブーツの中に、携帯用の拳銃が一丁。ベルトのバックルに、ナイフが一本」
「……ちっ」

 マルゴの言うとおりであった。
 いかにも渋々といった様子で、右足から拳銃を抜き取り、ベルトのバックルを外す。そこには、ぎらりとどぎつい輝きを放つ白刃が隠されていた。
 マルゴは、やはり無言でそれを受け取り、自分の懐に収める。
 そして、もう一度手を差し出した。

「何だよ、その手は。もう、逆さに振ったって何も出てきやしねえよ」
「右目」
「はっ?」
「わたしが気づいていない、それとも知らないのだと思われているなら、それは許し難い侮辱だわ。そこがあなたのトレードマークなんでしょう、義眼の海賊さん?」

 ケリーの顔が、険しいまでに強張った。
 目の前の少女は──マルゴは、自分のことをどこまで知っているのか。
 先ほどは、自分のことをケリー・クーアと呼んだ。
 この星に入国するときは、当然のことであるが偽名を使っている。ならば、その名前はどこから漏れたのか。
 そして、義眼の海賊という呼称である。
 この少女は、否、この少女が主と呼ぶ人物は、自分のことをどこまで把握しているのか。
 何のつもりで、この少女を、自分のもとへと遣わしたのか。
 ケリーは、自分の心が冷たく研ぎ澄まされていく感覚を味わっていた。
 そのとき、小屋のドアが、神経に障る軋み声を上げながら、ゆっくりと開いた。

「終わったかい、マルゴ」
「ええ、ザックス。怪我人は?」
「この元気なおじいさんに暴れられて、何人かやられた。ま、一晩寝れば治るくらいの怪我だけど」

 ザックスと呼ばれた少年は、その細い肩に、大柄な人間を担ぎ上げていた。
 その人間は、両手を後ろに縛られ、足にも頑丈そうなロープが巻き付けられている。
 例え猛獣でも、少しも抵抗出来ないような有様だ。
 そのうえ、意識はないらしい。

「お姫様は、アネットが確保したよ」
「手荒なことはしてないでしょうね?」
「おれ達はね。でも、正規軍の連中が、お姫様の足を撃ってた。傷はけっこう深い。ま、そのおかげで楽に捕まえることができたんだけど」
 
 マルゴが、忌々しそうに舌打ちをした。

「ったく、あの馬鹿連中、女の子に銃を向けるなんて、何を考えてんのかしら。だいたい、あいつらにだってお姫様を無傷で捕まえるように指令が出てたはずでしょ?本当に使えないぐずばかりなんだから……」
「ねぇ、この子、早くお城に連れて行ってあげよう?ほとんどちゃんとした治療もされてないよ。こんなの、可愛そうだよ」

 ザックスの後ろから、少女が姿を見せた。
 背中に、意識を失った少女──ウォルを負ぶっていた。

「アネット。お姫様は?」
「薬で眠ってるわ。でも、時々魘されてるみたいで苦しそうなの。ねぇマルゴ、早く帰ろう?」
「ええ、そうね。もうここには用はないわ。早く帰りましょう」

 ケリーは、彼らの会話をほとんど聞いていなかった。
 いや、より正確を期すならば、聞いていた。しかし認識することが出来ていなかったと表現するほうが正しい。
 ザックス・エヴァンス。
 アネット・エヴァンス。
 その名前は、マルゴの名前と同じく、ケリーの記憶の最も奥底、ジャスミンですらが暴き立てることに恐怖を覚える、決して暴かれざる場所に、大切に仕舞い込まれている、名前だった。
 そして、顔と声であった。
 西ウィノア特殊軍。ほこり臭く狭苦しい宿舎の中で、輝くように笑っていた笑顔。
 血と硝煙が香る見世物小屋の中で、共に石に齧り付きながら戦った、ピエロ仲間たち。
 その全てが、目の前にある。
 偽りではない。マルゴはマルゴだ。あの茶色の、悪戯気な瞳。あんなものは、今まで一度しか見たことがない。その閉じられて、永遠に開かれなくなる瞬間を、自分は確かに見たのだ。見せつけられたのだ。
 ザックス。いつだって俺に突っかかってきた。あいつも、マルゴのことが好きだったんだ。飯のとき、マルゴの隣の席に座りでもしたら、つんつんの髪の毛と同じくらいに背筋を突っ張らせてた。
 アネット。そばかすの散った、気弱そうな顔立ち。本当は戦うことが好きじゃないと言っていた。戦争が終わったら、お花を育てて生きていきたいと。いつだったか、俺のことを好きだと言ってくれた。俺は、他に好きな人がいると断った。
 酷い男だ。あんなに可愛い女の子を泣かせるなんて。
 昔のことだ。
 昔のことの、はずだ。
 みんな、死んでいた。くそったれな毒ガスで、保健所の犬猫を処分するみたいに、あっさりと、味気なく。
 なら、今、目の前で楽しげに会話をしているこいつらは、何なのか。
 幽霊や化け物であってくれれば、どれだけ気が楽か。俺が狂ってしまっただけなら、どれほど救われるか。
 ケリーは、この場にはいない、何かを司る絶対的な存在に、ありとあらゆる罵詈雑言をぶちまけながら特大の呪いを捧げていた。

「さ、あとはあなただけよ。あまりわがままを言うと、勝手に抉り取らせてもらうけど、それでもいいの?」

 マルゴが、差し出した掌を、くいと動かした。
 ケリーは無言で右目に指を突っ込み、いくつかの操作をして引き抜いた。
 昔、田舎海賊に毟り取られたときのように、血が溢れたりはしない。ただ、右目のあった場所には暗い、無限のように暗い眼窩が口を開けているだけだ。
 体液でぬらりと光る右目を、少女に放り投げた。

「おらよ。そいつは特注品だ。壊すと高いぜ?」
「心得ておくわ。それに、これはただ預かるだけ。折角、私たちの父があなたと会いたいって言ってくれてるのよ。無粋な人工頭脳に邪魔されちゃたまったもんじゃないわ」

 ダイアナのことを言っているのだ。
 マルゴはケリーの右目だった球体を、物々しい金属箱の中に仕舞った。おそらくは、電波を完全に遮断する類の箱だろう。
 念の入ったことだ。

「じゃあ行きましょうか。ケリーさん、あなたはどうするの?おんぶして欲しい?それとも、救急用担架で運ばれるのがお好みかしら?」
「そんなご大層なもんはいらねえよ。他人様の手を煩わせるまでもねえさ」
 
 ケリーは億劫そうに立ち上がり、風穴の開いた足で、ほとんど普通の調子みたいに歩いて、軍用のジープに乗り込んだ。
 自分が危地に陥っていることは、すでにダイアナに伝わっているはずだ。義眼を外しこちらの消息が途切れれば、彼女は嫌でもそれを知ることになる。
 以前のように、無秩序にすっ飛んでくるということは考えにくい。今は、ジャスミンという強力な仲間がいるからだ。彼女たちの間に築かれた信頼関係は、ダイアナの恐慌を押さえて余りあるだろう。そしてジャスミンとは連絡が取れる状態にある。
 ケリーは意味なく夜空を見上げた。そこに輝く星々のどれかが、ひょっとしたら顔を真っ青にした自分の相棒かも知れないのだ。
 悪いことをしたなと、この男らしくなく、少し落ち込んだ。

「これを着けて」

 隣に乗り込んだマルゴに、黒く分厚い布を手渡される。
 意味するところは明確だったし、断れば強制的に着けられるだけの話だ。
 ケリーは、痛みに震える腕で、それを顔に巻き付けた。
 視界の一切が奪われた。
 もともと、星明かりだけの真っ暗闇である。ケリーは夜目の利く方であったが、義眼を外された状態では、暗がりの奥を覗けるわけではない。
 そのうえ、分厚い布を顔に巻き付けては、ものが見えるはずもない。
 上手に巻けば、僅かな隙間からものが見えないわけでもないが、隣に座った少女がそれを許しはしないだろう。そんな姑息なことでかつての思い人に失望されるのは、どうにも嫌だった。
 だから、しっかりと巻き付けた。
 やがて、エンジンの吠える音が聞こえた。
 布の外の世界では、ヘッドライトの灯りがともり、暗闇の世界を僅かながらに押し戻したりしているのだろう。
 だが、ケリーにはどうでもいいことだった。

「ウォルと、ヤームルってじいさんはどうした?」
「別の車に乗ってるわ。心配しなくても目的地は同じよ」
「そうかい。じゃ、俺は少し眠るからよ。適当な頃合いに起こしてくれ」

 そう言ってケリーは、シートに深く体を埋めた。
 自分の体の状態は、嫌と言うほどに分かっている。極度の疲労に、いくつかの打撲傷。そして極めつけが四肢に開いた控えめな風穴である。
 眠れるときに眠っておかないと、動けなくなるという確信があった。例えそれが虎の巣の中でも、今喰われるわけでは無い以上、眠っておくべきだ。
 撃ち抜かれた四肢が、ずきずきと、心臓の拍動に合わせて酷く疼く。止血をしただけで、まともな治療はしていないのだ。常人であれば、気を失うほどの痛みである。
 だが、少なくとも、布の下に隠されたケリーの顔に、苦痛の色彩は全く無かった。
 車は、山道をしばらく走った。カーブを曲がる度に体に横向きの重力がかかり、傷が痛んだ。
 やがて、激しい振動が無くなる。綺麗に舗装された道路にかわったのだろう。そこを、山道を走った時間と同じほどに走った。
 
「降りて」

 マルゴの声がする。
 うとうととしていたケリーは、連れ出されるようにして車から降りた。
 そして、別の車に押し込まれる。

「おいおい、少しは手加減してくれよ。これでも怪我人だぜ」
「これ以上怪我を増やしたくなければ黙っていなさいな」

 ケリーは黙った。
 その車で、少しまともな治療を受けた。
 止血帯を外されて、傷口に応急処置的な治療を施される。増血剤は遠慮無く頂いたが、痛み止めの注射は断った。
 そして、次の車もしばらく綺麗な道を走った。
 途中、何度か耳の奥がツンと突っ張る感じを味わった。
 トンネルに入ったのか、それとも急激な高低差があるような道を走っているのか。エンジン音が籠もるように響くこともあった。
 どちらにせよ、そういう場所で、何度か車を変えた。おそらくはダイアナによる監視を巻くための処置だろう。彼女は優れた眼を持っているが、地下の隅々まで見渡せる千里眼を持っている訳ではなかった。
 しばらくは、ダイアナの救援を望むことはできないだろう。ケリーはそう考えた。
 そういうことを続けているうちに、車は目的地に着いたらしかった。

「降りて」

 今まで何度も聞いた指示である。
 ただ、今回はそれに、もう一つ指示が加わる。

「もう、その布を外してもいいわ」

 ケリーは遠慮無く外した。
 分厚い布から解き放たれた左目がまず捕まえたのは、少しずつ青みがかっていく東の空だった。
 夜が、明けようとしている。
 あの時、小屋を発ったのが深夜であったから、かなりの時間を車で走ったことになる。
 それほど遠くにきたのか。それとも、同じ場所をぐるぐると回っていただけなのかも知れない。
 とにかく、夜が明けようとしていた。
 濃い群青色に薄まりつつある夜の気配、その下に、激しい起伏を描く稜線が見える。
 この場所は、山に包囲されている。
 そしてケリーの目の前には、こんな場所には不似合いな、石造りの城が聳え立っていた。

「……ひでえ冗談だ」

 吐き捨てるように言った。
 山の高さに挑むかのように聳える城壁と、荘厳を通り越して滑稽なまでに巨大な門。
 それは紛れもなく、人が空を飛ぶ鳥に憧れしか抱き得なかった時代の、城だった。
 どこの酔狂者がこんな無駄なものを、こんなへんぴな場所にこしらえたのだろうか。その努力をもう少しまともな方向に向けることが出来なかったのか。
 こういう状況で、城の見事さに感心することが出来ないのは、人生という視点に立ったとき、得なのか損なのか。

「降りなさい」

 もう一度、聞こえた。
 今度無視すれば、文字通り力尽くで引きずり出されるのだ。
 それは嫌だから、痛む四肢に鞭打って、這うように車から降りた。
 高地特有のひんやりとした空気が肌を刺す。吐息が、僅かに白む。遠く、一番鶏の鳴く声がした。
 四肢の痛みは、引くどころかますます酷くなっている。痛み止めを拒否したのだから当然のことだ。だが、薬で鈍らされた神経がどれほど役立たずかを知っているから、そう易々と痛みを手放すわけにはいかなかった。
 ケリーは、マルゴに促されるままに歩いた。靴底に、砂利と雑草を躙る感触が伝わる。
 既に落とされていた跳ね橋の先に、巨大な門がある。
 牛を丸呑みする巨人でも立って潜れるような門が、ひとりでに開いた。中にいる人間は、当然のことながら、マルゴの帰りを今や遅しと待っていたのだろう。
 ケリーが背後をちらりと見ると、十数人の少年少女が自分達の後をついてきていた。
 その中には、ヤームルを担いだザックスの姿があり、ウォルを背負ったアネットの姿がある。
 それ以外の少年少女のうちに、ケリーの見知った顔はなかった。
 ケリーの口から、深い安堵の溜息が漏れた。

「どうしたの。早くしなさい」

 肩をひとつ竦めて、マルゴの後を追う。
 大きな城門を潜ると、その奥にはまっすぐに伸びる石畳の道と、その脇に広がる広大な庭があった。
 庭は綺麗に整備され、幾何学模様に配置された庭木と噴水が見事な調和を描いている。もう少し鮮やかな陽光の下であれば、もっと映えたに違いなかった。
 ケリーは無言で石畳を歩いた。マルゴはケリーの怪我には一切気をつかわなかったから、かなり辛い道行きであった。
 次に現れた門は、先ほどの城門に比べれば大きさでこそかなり劣るものの、その重厚さでいえば一歩も引かない、立派な門だった。綺麗に彫刻がされ、年月を経た樫の木材は得も言われぬ深みを醸し出している。
 少女が近づくと、その門もひとりでに開いた。どこかに監視装置のようなものが仕掛けられているに違いなかった。
 そこを潜ると、いよいよ古めかしい城の内部だ。
 内部も石で作られており、所々に小さな火の点った燭台が設えられている。廊下は長く、途中にいくつもの部屋があった。その奥に、どこまで続くのか知れない長大な階段がある。
 今からあそこを昇るのかと思うと、流石のケリーもうんざりした。昨日から過重ともいえる肉体労働を強いられているのだ。そのうえ、手足には一つずつ風穴が開いている。
 なんとなく立ち止まったケリーの脇を、後ろに続いていた少年達が追い抜かしていく。その中には、当然のことながら、未だ意識の戻らないウォル達の姿もあった。まだ目を覚まさないということは、余程の低血圧なのか、それとも薬でも嗅がされたか。
 ケリーも彼らを追おうとした、そのとき。

「あなたはこっちよ」

 マルゴが、すぐ近くの扉を開けた。
 途端、ケリーの鼻を、嗅ぎ慣れた臭気が刺激した。
 消毒薬の匂い。白衣の匂い。オゾン消毒された機械の匂い。
 中世めいた石造りの城には似つかわしくない、近代的治療機器の揃った、真っ白な部屋だった。

「へぇ、サービスのいいことだな」
「あなたは、本当ならお客様だったのよ。それを、妙な真似をするからあんなことをしなくちゃいけなかったんじゃない。これじゃあ、お父様に怒られるわ」

 マルゴが、唇を尖らせるように言った。
 先ほどと比べて、彼女の口調が、幾分柔らかくなっている。
 それは、自分の住処に帰ってきたという安堵から来るものだったのかもしれないし、任務を完了したということで気が緩んだのかも知れなかった。
 とにかく、その口調はケリーの記憶にある。初恋の少女のそれに近いものだったのだ。

「で、俺はここで何をすりゃあいいんだ?」
「そうね、まずは服を脱いで頂戴。上も、下もよ」

 ケリーは動じることなく、服を脱いだ。ジャケットとシャツ、その下に着ていた肌着をハンガーに掛け、ズボンと下穿きを籠の中に突っ込む。
 身に纏うものを無くしたケリーの体は、すらりと均整のとれた若獅子のような見事さだ。筋骨隆々というわけではないのに、必要な筋肉は必要なぶんだけ、必要な箇所にしっかりとついている。一見すれば痩せているように見えなくもないが、例えば首や胸板などは、驚くほどに分厚い。
 無駄のない肉体だった。
 マルゴは、それを無感動に見遣り、ケリーを部屋の奥へと誘った。
 そこには、人一人が楽々と横たわれるカプセルタンクがあった。

「組織再生療法か」

 医術には人並みに疎いケリーであったが、自分が何度もお世話になったこの機械を見間違えるはずもない。
 このタンクに特殊な薬液を注ぎ、患者はその中に横たわる。患部に細胞分裂を促す薬を注射し、電気的な刺激を与え続けることで組織を劇的に回復させる。
 外科的な負傷に対しては、驚くほどに効果が高い。腕や足を失った場合でも、患部の応急処置が適切であり、万能細胞の培養に成功さえすれば、その再生も不可能ではない。
 ケリーはもともと極めて高い治癒能力を有している。野生の獣と同じだ。簡単な怪我であれば、飯を食って寝れば一晩で治ってしまう。
 加えて組織再生療法の恩恵にあずかることが出来るならば、この程度の銃創、一昼夜で回復するだろう。

「ありがたいね」

 ケリーは遠慮無くタンクに横たわった。
 マルゴはそれを確認するふうでもなく、機械のスイッチを入れる。
 ブゥンと、モーターの起動する音がした。ケリーの体にも、微細な振動が伝わってくる。

「溺れないようにしてよね。ここであんたに死なれたら、わたし、お父様から大目玉をもらっちゃうわ」

 ケリーはその言葉を無視して、ゆったりと目を閉じた。
 パイプを伝って染み出してきた薬液が、少しずつタンクに溜まっていく。その温い感覚が、疲れた肉体には心地いい。
 車では、結局一睡も出来なかった。努めて眠ろうとしているのに、うつらうつらと意識が揺らぎ始めた瞬間を狙うようにして、車の乗り換えを強制されたのだ。今は、眠ろうとしなくても、意識を緩めれば睡魔に襲われてしまう。
 ケリーは、遠慮無く目を閉じた。治療中は、別に何をしなければならないわけでもないのだ。大人しく横たわっていれば、それでいい。
 ここまでしておいて、今さら殺されるわけでもないだろう。少なくとも、今から殺そうという相手をわざわざ治療してやる酔狂もいない。
 カプセルの閉じる音がする。外界の音が遮断され、じわじわと薬液の染み出す液体音と、自分の拍動音以外、何も聞こえなくなる。
 海のようだ。
 そう思ったケリーは、どこか懐かしい、子供達の笑い声のさざめく場所に誘われていった。



「まだ起きてるの?」

 空気の抜ける音とともに開いた扉、その向こうには、黒髪の青年が立っていた。
 サファイアのように澄んだ青い瞳が、今は深い憂いを帯びている。
 ベッドの端に腰掛けた少年は、己の罪を自覚した。青年にそんな辛そうな顔をさせるのは、どうしても嫌だったのに、そうさせたのは確かに自分なのだ。

「そろそろ眠るよ。今、寝ておかなくちゃ、いざというときに動けない」
「そうだね。宇宙船の中で走り回って到着するのが早くなるなら、どれだけでも走り回るんだけど」
「だから船はあまり好きじゃない」

 少年は、視線を窓の外に移した。
 寒々とした宇宙空間に、無数の輝きがある。ぽつりぽつりと輝くもの、星雲、ガス状の惑星。
 どれだけ見ていても見飽きない。
 
「一度、あいつに一服盛られたことがあるんだ」
「うん。王様自身から聞いた」
「それが原因で大喧嘩した」
「でも、きみは王様を殺さなかった。ぼくが、きみに危害を加える連中は許すなって言ったのに、エディはそれを守らなかったんだ。偉かったね」

 いつの間にか少年の隣に腰掛けた青年が、少年の、黄金色の頭を優しく胸に抱いた。
 少年は、心地よさそうに目を閉じた。

「今でもシェラに愚痴を言われるんだ」
「だって、エディと王様が本気で大立ち回りをしたんだもの。部屋の一つくらい、使い物にならなくなったんじゃないの?」

 少年は、青年を見上げた。
 
「ルーファは何でも知っているんだな」
「ううん、その逆。ぼくは何も知らない。知らなさすぎて、この世界がたまらなく面白い。愛しい。それは、きみのことも」
「ああ、おれもルーファのことは何もわからない」
「だから、ぼくたちは相棒なんかをやってるんだよ」
「知ってる」
「だから、もっとぼくを頼ってね」
「ああ、知ってる」

 少年は、はにかむように笑った。

「あいつに、言われたんだ」
「王様に?」
「きちんと食べて、きちんと寝ろって。そうすれば、二度と薬を盛ったりなんかしないって」
「エディはなんて答えたの?」
「これからは無様な姿をさらさないよう、きちんと食べてきちんと寝るって誓ったよ」

 青年が、少年の髪を、細い指先で梳った。

「じゃあ、約束は守らないと」
「うん」
「もう寝ないと、明日が辛いよ」
「うん、もう寝る」

 船は、静かに、しかし可能な限りの巡航速度で宇宙空間をひた走る。
 彼らを足止めしていた宇宙嵐は、既に収まった、もしかしたら、どこかの誰かが収めたのかも知れないが。
 航海が順調に進むならば、時計の短針が十回も回れば、この船はヴェロニカに到着するだろう。
 なんとも間の抜けた通信文が届いたのは、今日の夕刻過ぎのことだった。

『早く来ないと、可愛い奥さんが悪い狼の餌食になっちゃうわよ』

 誰が送り主か不明。どこから届いたのかも分からない。
 そういう通信文だった。
 だが、少年と青年には、その通信文が誰から送られたものなのか、分かりすぎるほどに分かった。短い文言の中から、溌剌とした微笑みを浮かべる月の女神の息遣いが感じられるほどだった。
 そして、その通信文に同封された、少女の写真。
 あどけない様子でカメラを見上げる、黒髪の少女。初めて見た薄化粧は、見事なほどに美しく、少女を飾り付けていた。
 頭の先で揺れるウサギ耳も、首に巻かれた黒いチョーカーも、幼い肢体を包むバニースーツも、少女には似合いではなかったが、確かに可愛らしかった。
 そして、生きていた。
 それが何より、少年には嬉しかった。

「王様、可愛かったね」
「あんなの、あいつには似合わないと思う」
「可愛くなかった?」
「可愛かったよ」

 青年は嬉しそうに頷いた。

「今度、シェラも連れて遊びに行こう。そこで、王様の服を選んであげよう。あんな色っぽすぎる格好より、もっとあの子に似合う服を探してあげるんだ」
「きっと嫌がるだろうな」
「そう?意外と喜ぶかも知れないよ?」

『ええい放せ、俺はこんなに可愛らしい服を着るつもりはない!』
『おお、けっこう似合うではないか。どうだリィ、こっちとどちらが俺に合っているかな?』

 どちらも、あの脳天気なもと王様の言いそうな台詞だった。
 少年は、くすりと笑った。

「ありがとう。少し、落ち着いた」
「眠れなかったら、ぼくの部屋においで。一緒に寝よう。鍵は、あけておくから」
「うん。でも、多分このまま眠れると思うから、大丈夫だよ」

 青年は、少年のなめらかな額にキスを一つ落としてから、立ち上がった。
 
「なぁ、ルーファ。一つ、聞いていいかな」
「うん?」
「あの時、あいつがあの星で行方知れずになったときのことだけど……」
「手札のことだね」

 少年は、青年を見上げながら言った。

「どうしてあの時、手札は間違えたんだろう」
「ぼくも分からない。ずっと、不思議だったんだ」

 青年は頷いた。

「王様を占った時、何回カードをめくっても、結果は王様の死だった。あれほど明確にヴィジョンが出ることも珍しいくらいに、それは明らかだったんだ。でも、現実は違う。どう考えても、あの子はまだ生きてる」

 少年は頷いた。

「エディは、この齟齬をどう思う?」
「分からない。今までルーファの手札が間違えたことなんて一度もなかったのに」
「それは違うよ。手札は間違わない。間違うとしたら、それは手札を読み解く側、つまりぼくなんだ」」

 手札は間違わない。間違えるとすれば、それを読み解く側だ。常日頃からの青年の持論である。
 しかし、それを言うならば、青年は一度だって手札を読み違えたことはなかったのだ。

「正直に言うと、ぼくも手札の読み方には一応の自信を持ってる。じゃないとあんな大事な場面で使うことは出来ないからね。でも、あれほど明確に読み間違えたのは初めてだ。だって、あの子は生きているんだから」
「──」
「王様は、あのとき確実に死んでいたんだ。でも、今は生きている。これは、王様自身の命のことを表してるはずがない。一度死んだ生き物は、二度とは目を覚まさないのがこの世の決まり事なんだから」
「そのわりには、その決まり事を守らない不届き者が意外と多いよな」
「そうだね、不思議なくらい、ぼくたちの周りにはそういう人が多いね」

 青年は、うっとりと微笑んだ。

「だから、ぼくはこう思う。手札は、王様の命そのもの以外の何を読み取って、死に神のヴィジョンを顕した。そうとしか考えられない」
「確かに、おれもそう思う。だけど、あの時占ったのはあいつの安否だったはずだ。なのに、それ以外のものを占ってしまうなんて、そんなことがあるのか?」
「あり得ないとは言い切れないんだ。万有引力じゃあないけど、この世に遍く事象は、それ自体が互いに強く影響し合っている。その中で特定のものを結ぶ因果を引き抜いて、その起承と転結を探るのが占いなんだ。当然、事象を結ぶ因果に他の事象が結びついていれば、占いもその影響を受けざるを得ない。特に、そのエネルギーが強すぎると、占いの結果もそれに引きずられることがある」
「……よくわからないけど、結論を聞かせて欲しい」
「エディ。君の王様の性質は、君と同じく『太陽』だ。全ての生き物に光と熱を与え、正しい方向に導こうとするのがその本質なんだけど……」
「あいつはともかく、おれはさっぱりそういうふうじゃあない気がするけどな」
 
 青年は一拍おいて、真剣な調子で言った。

「あのとき、きっと、王様の中の太陽が死んだんだよ」

 少年は、青年の瞳を見つめた。
 凪いだ湖のようなその瞳には、一切の感情が浮かんでいなかった。

「おやすみ、エディ」
「うん、おやすみ、ルーファ」

 扉の、静かに閉まる音が、部屋に響いた。
 そして、翌日。
 驚くべきニュースが、ピグマリオンⅡの艦内を走り抜けた。

『ヴェロニカ政府が共和宇宙連邦からの脱退を表明。また、それと同時に、同国において執り行われる大規模な宗教的な儀式において、惑星ベルトランの州知事の娘を人身御供に捧げるという、信じがたい暴挙を行う旨を発表した。これに対して共和宇宙連邦政府首脳陣は──』
 



[6349] 第四十二話:独白
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/05/30 16:55
 夢を見た。
 そのことは、覚えている。
 ただ、夢そのものは覚えていない。
 楽しかった、嬉しかった、悲しかった、苦しかった──。
 そういう感情の量が、起き抜けの重たい瞼を持ち上げるエネルギーに、全て使われてしまうのかも知れない。
 残されたのは、虚脱した思考と、甘い痛みを僅かに起こす程度の傷跡だけだ。
 その傷跡が、一瞬だけ、引き攣るように痛んだ。
 ケリーは、無造作に体を起こした。
 粘性の液体が、どぽどぽと体から零れていく。
 ダンクから出ると、その脇に設えられたシャワーを浴びる。
 薬液が洗い流されていく。その下にあるのは、風穴の塞がった四肢である。まだ僅かに痛むが、軽く動かしたり物を持ったり程度であれば支障はないだろう。
 シャワーの勢いを強めて、温度を一気に上げる。肌が真っ赤になるくらいの熱さが、起き抜けの思考を回転させるにはちょうどいい。
 上方から注ぐ水流を、顔の正面で受け止めてやる。昨日、散々流した汗も、一緒に洗い流してやる。
 息が続かなくなるまでそうして、水を止めた。
 シャワーカーテンの向こうで、人の気配がする。

「お着替えをご用意しておきました」

 マルゴの声ではない。
 成熟した、女性の声だ。この城の召使いか何かだろうか。

「ああ、ありがとう」
「旦那様がお待ちです。もしよろしければ、朝食を一緒にどうか、と」
「すぐに行くから、お待ち頂くよう伝えておいて欲しい」
「かしこまりました」

 音もなく、人の気配がなくなる。
 そういえば、腹が減った。組織再生療法で消費したエネルギーを、補給できていない。
 胃が、締め付けられるように痛む。腹の中に何も入っていないことが、悲しいくらいに分かる。
 タオルでぞんざいに水気を拭い、ドライヤーで髪を乾かす。整髪料がないから、櫛だけを入れる。こういう状況だ、多少の失礼があったとしても許してもらおう。
 なにせ、自分をこんな場所まで招いたのが、他ならぬこの城の主人らしいのだから。
 仕立てのいいシャツに袖を通す。質のいい綿生地で、羽織るとほのかに太陽の香りがした。
 スラックスは、股下の長いケリーの体型にぴたりと合わせた履き心地のいいものだった。
 用意された服はそれだけだ。到底正装とは言い難いが、こちらから文句を言う筋合いのものでもあるまい。
 適度に砕けた格好のケリーは、これも用意されていた革靴を履き、医務室の外に出た。
 そこに、お決まりの燕尾服で身を固めた、老齢の執事が待っていた。
 
「こちらでございます」

 機械じみた声に、ケリーは頷くことさえしなかった。こういう場合、彼らの仕事の邪魔をしないことが、最上のマナーだと信じているからだ。
 執事の案内に任せて、廊下を歩く。
 窓の外は、清冽な朝日で充ち満ちていた。この星の朝日を見るのは初めてだが、おそらくは朝の七時くらいといったところだろうか。だいぶ眠った気がしたが、その実、二時間ほどの睡眠だったらしい。
 廊下の向こうには、大広間があった。その先に、大階段がある。
 そこを昇った。
 新品の革靴が石の階段とぶつかって、硬質な音を立てる。その音が、ケリーは気に入った。
 階段を上りきると、やはり長大な廊下がある。
 そこに並んだ扉の一つを、執事の男が、慎重な手つきでノックした。

「旦那様、お客様をお連れいたしました」
「ああ、ご苦労だったね。入ってもらいなさい」
「失礼します」

 ドアノブを握り、扉を開ける。

「どうぞ」

 促されて、ケリーは部屋に入った。
 まず目に飛び込んできたのは、ずいぶんと大きなテーブルだった。
 大人が二十人ほども余裕をもって座れるだろうテーブルの上に、豪奢な燭台と花瓶がいくつも飾られ、色取り取りの花々がその美を競い合っている。
 白いテーブルクロスは清潔そのもので、窓から入る曙光を反射してきらきらと輝く。
 その光景は、ケリーにとって初めて見るようなものではない。十分に予想されたものだ。それでも、軽く目を見張るほどに完成された眺望ではあった。

「どうぞ、どこにでもかけてください。恥ずかしながら、私はあまりテーブルマナーには詳しくなくて、お客様をお招きするときの作法などにも疎いのです。山出しの身の悲しさです。ご不快かとは思いますが、どうかご寛恕いただきますよう」

 テーブルの一番端に、男が座っていた。
 歳の頃は、既に老境に入っている。髪は豊かだが、新雪の積もった山巓のように真っ白だ。
 肉は、緩んでいない。頬にも無駄な肉の一片もなく、きりりと引き締まっている。声も朗として、若々しい印象だ。
 だが、目つきが、どこか常人離れしていた。
 どろりと黄色く濁った白目と、化学薬品じみたどぎつい青色の瞳。焦点は不確かで、自分を見ているはずなのに、何か別の物を眺めているふうな感じがする。
 港で、つい今し方まで生きていた、死んだ魚の瞳。ぎょろりと、恨めしげに人間を見遣る、命のない視線。
 そういうふうな目つきの男であった。

「お招きに預かり恐悦至極です、アーロン・レイノルズ大統領閣下……とで申し上げればよろしいのでしょうかな?」
「あなたをお招きする際にとんでもない不作法があったことをお詫びします。信じて頂けないかも知れませんが、私はあなたを傷つけるつもりはありませんでした」
「およそ、人を傷つけて手が後ろの回った全ての人間が、今のあなたと同じことを口にするでしょう」
「返す言葉もございません」

 アーロンは、魚じみた表情をそのままに、深く頭を下げた。
 
「正式な謝罪は後ほどに。とりあえず、ささやかながら食事の方をご用意しておきました。もし私のような者と食卓を囲むことがお嫌でなければ、ご一緒にいかがでしょうか」
「いただきましょう。それと、あなたには、山ほどに聞きたいことがある。捕虜の身で教えを請うのは些か心苦しいが、答えられる範囲で答えて頂けると幸いですな」
「捕虜?とんでもない。あなたは、本当に私のお客様なのですよ。それは、ちっとも皮肉な意味ではありません。私は、乞うてあなたにお越し頂きたかったのです」

 焦点の外した視線が、奇妙な熱を帯びていた。
 ケリーは、大人しく、アーロンの正面の席に座った。この男の視線を受けながらの食事は心楽しいものになるとは思えなかったが、そうしなければ問答に差し支えがあると判断したからだ。
 正面から見ても顔色を見抜くのが難しそうな男だ。斜めから見れば、同じ人間であるとも思えない。
 ケリーが椅子に腰掛けたのと同じタイミングで、扉が盛大に開かれた。
 先ほどの執事か、それとも女中あたりが、食事の用意を始めたのだと思った。
 だが、そうではなかった。

「あー、お腹すいたー!」
「おはよう、父さん!」
「今日の朝ご飯は、お父さんの好物のリマト菜のサラダだよ!」
「こら、アデル、なに一人だけ座ってんのよ!ちゃんと配膳手伝いなさい!」
「えー、だってぼく、まだ眠いよ」
「じゃあご飯抜き!もう一度ベッドに入って、昼まで寝てなさい!」
「ちぇっ。わかったよマルゴ、手伝う、手伝うってば、手伝えばいいんでしょ」

 大きく開け放たれた扉から入ってきたのは、春秋に富む青々とした喧噪であり、食欲を刺激する食べ物の香りであった。
 両手に、いくつもの皿を抱えた少年少女たちが、ぞろぞろと部屋に入ってくる。そのどれもが、粗末とはいえないが、しかしこういった部屋には不似合いの、だらしない格好をしていた。
 もっと端的にいえば、寝間着のまんまだったのだ。
 しばし唖然としたケリーの前に、てきぱきとした様子で食器が並んでいく。
 極端な菜食主義のヴェロニカ国の朝食らしく、緑の色濃い皿であったが、なんとも美味しそうな匂いがする。
 腹を空かせた生き物としての当然の反応で、ケリーの口中に唾液が溢れた。
 
「こらこら、お前達、もう少しお行儀良くしなさい。今日は大切なお客様もご一緒なんだ。あまり私に恥をかかせないでおくれ」
「お客様?」

 その場にいたほとんどの少年少女の視線が、ケリーの顔に突き刺さる。
 まだ穢れを知らない、あどけない瞳の群れ。それが、初めて見る奇妙な男に対して、不思議そうに見開かれている。
 数人、そうでない子もいた。そのうちの一人が、昨晩、ケリーをこの城まで『招待』したマルゴである。彼女だけは、ケリーの存在を無視するかのように、淡々と配膳作業に集中している。他の顔も、城に入る前に見た顔が多い。そして、ザックスにアネット──。
 ケリーは、少年達の視線を振り払うように、正面の男を睨み付けた。

「ウォルとヤームルはどうした」
「二人は、まだ薬で眠っています。昼頃には目を覚ますでしょう」
「あの店に突入した連中も、お前の子飼いか」

 アーロンは、瞬きもせずに首を横へと振った。

「あれを差し向けたのは、私の不肖の息子です」
「息子?」
「どうやら、あなたがウォルと呼ぶ少女に、相当執心しているようでして」
「執心している?」
「己の女にしたがっている、といえばわかりやすいでしょうか。今までも、配下のごろつきを使って、適当な少女を拉致し、己の欲望のままにいたぶるということが何度もありましたから、彼女にも同じようなことをするつもりなのでしょうな」
「それを、止めなかったのか」
「あれは、己で己の生き方を定めたのです。私のような人間に、それを止める術などありません」

 切り捨てる言い方、というよりは、最初から関心を持っていないような、醒めた口調だった。
 ケリーはさすがに苦々しいものを覚えたが、それ以上言っても無駄だと思い、矛先を収めた。

「さぁ、食事にしましょう。全てはその後で。当然、毒など入っていませんよ」
「ああ、遠慮無く頂くとするぜ」
「その前に、今日の糧が我らに与えられたことに、感謝の祈りを」

 アーロンが、静かに目を閉じた。少年少女も、それに倣う。
 所々で、神への祈りが捧げられる。ケリーは知らないが、おそらくはヴェロニカ教では一般的なことなのだろう。
 ケリーは、祈りを捧げるべき神を持たない。だから、特に何をするでもなく、彼らの祈りが終わるのを待った。
 やがて短い黙祷が終わり、

「さぁ、頂こう。みんな、あまり急がず、良く噛んで食べるのだよ」

 アーロンの言葉を聞いていないように、子供達は勢いよく食べ始めた。
 大皿から、自分の小皿へとどんどん料理を移していく。人気のある料理は決まっているようで、そこからたくさん取りすぎた少年が、年上の少女に注意されていた。

「こら、独り占めは駄目だっていつも言ってるでしょ!」

 むくれた様子の少年が渋々と料理を返すと、その料理もたちまちに消えてなくなってしまう。
 まるで戦争であった。
 ケリーは、唖然としながらその様子を眺めていた。お客様用の料理は別に取り分けられていたからよかったものの、そうでなければ彼はこの朝の食事にありつけなかったに違いない。

「いつもこうでして」

 アーロンが、やはり無表情に言った。

「お恥ずかしい限りです」
「……いや、子供ってのはこんなもんだ。別にいいじゃねえか」

 苦笑したケリーが、自分の割り当て分を口に運ぶ。
 サラダは新鮮で、歯触りがよかった。少し苦みの利いた野菜だったが、酸味の強いドレッシングとの相性が抜群だった。
 ふかした芋に、濃厚なホワイトソースがかかった料理があった。動物性タンパクの摂取は厳に禁じられているはずだから、植物油脂を加工して作ったものだろう。それでも、たいそう旨かった。
 キノコの炒め物は、しゃきしゃきとした歯触りと、胸を漉くような香りが官能的だった。これも、たいへん美味しい。
 肉や乳を使わなくても、これだけ美味しい料理が出来ることを、ケリーは初めて知った。

「うまいな……」
「それはよかった。これは全て、あの子達が拵えたものなのですよ」

 ケリーは、驚いて子供達の方を見た。
 みんな、嬉しそうに、少し照れくさそうに笑っている。
 
「この城のことは、ほとんど彼らに任せています。先ほどご覧になったように、執事や女中もいますが、それは極々僅かで、とてもこの城全体には手が回りません。あなたも見たでしょう、この城の見事な庭を。あれも、この子達が丹念に作り上げたのです」
「へぇ」

 こういう状況ではあったが、ケリーは感心していた。
 確かに、城の庭は見事なものだった。本職の庭師がやっても、中々あそこまで綺麗に整備は出来ないだろう、それほどの出来映えだった。
 ケリーが何かを言おうと、口を開いた、そのとき。

「お父さん、そろそろ訓練の時間なのですが、先に退出してもよろしいですか?」

 マルゴの声だった。
 彼女の前の皿は、空になっている。そういえば、他の子供達のも同じような有様だ。
 まったく、軍人らしい食事であった。

「別に構わないが、昨日、あんなに遅かったんだ。もっとゆっくりしてもいいんだよ」
「そういうわけにはいきません。これでも、我々も軍人ですから──それでは失礼します、閣下」

 寝間着のまま、綺麗に敬礼をしたマルゴが、部屋から出て行く。
 ほかの子供達も、それに続く。まだケリーに好奇の視線を寄越す少年もいたが、名残惜しそうに部屋から出て行った。
 
「さ、我々はゆっくりと食事を楽しみましょう。そうだ、この豆のスープが絶品なのです。是非食べてみてください」
「……あの子達は、本当に軍人なのか?」
「ええ、私も知らなかったのですが、私の生まれ故郷では、あの子くらいの年齢の兵士が、戦場に出るのは当たり前のことだったようでして。それほど不思議なことではないと思いますが、違いますか?」
「本物の戦場にも派遣している?」
「今は、まだ。テロリストの捕殺や、海賊の取り締まりを任せている程度です。しかし、いずれはそうなるでしょう」

 この時代、国と国の会戦などあろうはずもない。ならば、彼女たちが赴いているのは、紛れもなく本物の戦場ではないか。
 ケリーは、銀色に輝く匙を取り、スープを口に運んだ。
 塩気の薄い、味気ないスープであった。ほとんど白湯を啜っているのとかわらない。先ほどの見事な料理に比べると、いかにも味気ない。
 だが、不思議と旨かった。一口目が物足りなくても、つい二口目を飲みたくなってしまう。別に旨いとは思わないのに、口の中にその味がないのが寂しい。
 そういう味だった。
 豆も、食べてみる。
 固い。
 舌触りが悪い。
 それに、もそもそしている。
 水分の足りない果肉が、喉にこびりつく感覚だ。
 到底、旨くない。むしろ、不味い。最低の食材だ。
 だが、もう一口食べたくなる。体が、その味を覚えているのだ。
 昔、食べた。この料理を、どこかで食べたことがある。
 ケリーの体が、それを覚えていた。
 旨いと思った。

「懐かしいと美しいとは同じ意味であると、昔の人間は言いました。それはきっと、真実なのでしょうね」

 アーロンが、ケリーと同じスープを淡々と口に運びながら、言った。

「それでは、懐かしいと美味しいとは同じ意味なのでしょうか。おふくろの味とはよく聞く言葉です。その言葉を口にする人間が、顔を顰めながら言う場面を、私は見たことがない。故郷の料理を語る人間が憧憬の眼差しをしていなかったのを、私は見たことがありません」
「違いない」
「これはね、私の故郷の料理なのですよ。もう二度と手に入らないと思っていたエンヌ豆が、偶然、本当に偶然手に入り、栽培してみたのです。意外とこの国の土壌に適合したようで、きちんと芽吹いてくれた。あれほど嬉しかったのは、本当に久しぶりだった。考えてみれば、私の故郷の土も赤土でしたからね」
「……エンヌ豆だと?」
「私の村では、一年を通してよく食べていました。他の地域では家畜の飼料に使われていたようですが……あなたも、食べたことがあるのですか?」

 魚のように熱のない視線が、ケリーを捕らえていた。
 ケリーは頷くことが出来なかった。
 確かに、この味は覚えている。
 ほこり臭く、狭苦しい宿舎の中で、仲間達と奪い合うようにして食べたのだ。
 先ほどの子供達、そっくりそのままに。
 こんな、固い、舌触りの悪い、もそもそして喉の奥に張り付く家畜の餌が、自分達に配給される食事であり、そしてごちそうだったのだ。
 そんな時代が、ケリーにはあった。もう、半世紀以上も昔の話であるが。
 心臓が、痛いほどの早鐘を打った。悪夢は、いつまでも自分を追いかけてくるのかと思った。
 ケリーの口から、うめき声が漏れだした。

「貴様……」
「そういえばミスター。私はあなたを何と呼べばいいでしょうか。ケリー・クーア、キング・ケリー、それとも海賊王……」

 アーロンは、指折りに数えた。
 そして、舐めるような視線で、ケリーを一瞥し、最後の名前を口にした。

「もしくは──ケリー・エヴァンス」
「まさか、貴様も……!」
「惑星ウィノアの赤茶けた大地と、夜空を染める双子月の美しさを語り合う事の出来る人間は、非常に貴重です。失われて戻らない故郷だからこそ、人の心を惹き付けて止まない。私はあなたを歓迎しますよ、ウィノアの亡霊」

 決定的な一言だった。
 それで、逆にケリーの腹が据わった。今回の事件における自分の立ち位置が、ようやく定まった思いだった。
 目の前で、相変わらず淀んだ瞳で自分を眺める男に、感謝したいくらいだった。
 匙を静かに置き、ナプキンで口を拭う。
 グラスの水を口に放り込み、喉を潤してから、ケリーはゆっくりと口を開いた。

「その名前を誰から聞いた?」
「私の古い友人です」
「名前は?」

 この問いは、一応の問いであった。
 回答を期待したものではない。少なくとも、この場で口を割るとは思えなかった。
 この状況を打開して、然るべき場所で、然るべきタイミングと方法でもって、もう一度問い質すつもりの質問だった。
 しかし、

「記憶違いがなければ、ゾーン・ストリンガーという名前でしたな。本名かどうかは知りません」

 あっさりと、その名前に何の価値も見いださないように答えた。
 その名前は、ケリーにとっても聞き覚えのある名前だった。

「へぇ、あんた、あのじじいのお友達かよ」
「古い友人です。ウィノアの崩壊があった後、根無し草となった我々は同胞と身を寄せ合うようにして生きてきました。私も彼も、企業の頂点に立つという意味では同じ立場の人間でしたから、何度も顔を合わせましたよ」
「じゃあ俺は、あんたの古馴染みのかたきってことになるのかな?」

 挑発するようにケリーが言った。
 
「かたき、とは?」
「あの、長生き大好き爺さんは、もうこの世にはいねえよ」

 簡潔な答えだ。
 非常にわかりやすい。
 だが、目の前の老人の視線は、針の先ほども揺れなかった。

「では、彼が輩と呼んでいた、四人の老人も?」
「そっちはまだ生きてるんじゃねえか?あくまで、生きてるだけだがよ」
「そうですか。彼らは、ついに自分の望みを叶えられなかったのですね……」

 アーロンは静かに目を閉じ、祈りの言葉を口にした。
 実現不可能な命題に挑み続け、志半ばで倒れた勇者達に、哀悼の意を捧げたのだ。

「俺を恨むかい?」

 ケリーの言葉に、アーロンは首を傾げた。
 ぎょろりとした目玉が、斜めに傾いてケリーを眺める。

「恨む?私が?あなたを?何故?」

 本当に不思議そうな声だった。下手な嘘や取り繕いではない、真実の感情が滲んでいる。

「俺は、あんたの友達を殺した。そして、故郷を奪った。恨むには十分すぎると思うぜ」
「とんでもない!それは酷い誤解です!私はあなたに、深い恩義を感じています!確かに、あなたをここまでお連れする手段が穏便ではなかったことは認めます。それは、心の底から謝罪させて頂きます。ですから、どうか、どうかそんな誤解をなさらないでくださいませんか!?」

 初めて、アーロンの顔が歪んだ。
 それは、自分の真意を恩人に誤解される、恐怖から来る感情であった。
 荒々しく息を乱したアーロンが、自分を落ち着けるように水を含んだ。
 そして、静かに口を開いた。

「そうは言うがな。俺は、あんたに見覚えなんてねえし、あんたを助けた覚えだってねえぜ」
「……分かりました。では、少し長くなりますが、よろしいでしょうか?」

 決意じみた声で、アーロンが言った。
 ケリーは、視線で先を促した。
 アーロンは、はっきりとした声で語り始めた。


 先ほども申し上げましたが、私は惑星ウィノアの出身です。

 小さな、小さな村でした。

 電気もガスも、水道すら通らない、辺鄙な村です。山々に囲まれ、隣の町とも年に数回交流がある程度の、忘れられたような村でした。

 東西どちらに所属していたか、ですか。

 忘れました。もしかしたら、そんな枠組みの中にすら組み込まれていなかったのかも知れません。それだけ、何の価値もない村だったのです。

 長く、放浪を続けた民族だったようです。それが、新大陸を目指して宇宙に旅立ち、苦難の末、ようやく見つけたのが、あの赤茶けた大地の星だった。

 やがて、後から来た人間が、その星を惑星ウィノアと名付け、東西に別れて争ったそうですが、それは我々には何の関わりもないことでした。

 我らは、ひっそりと、山に囲まれながら、死んだように生きていくことさえ出来ればそれでよかった。

 美しい、ところでしたよ。

 春は、目が覚めるような新緑で山々が彩られ、新鮮な山菜が食卓を賑わします。野山の可憐な花が一斉に咲き乱れ、野いちごの甘酸っぱい香りで胸がいっぱいになるのです。

 夏は、山毛欅の森を抜ける風が、なんとも涼やかで心地いい。川には魚が踊り、子供達がそれを釣って夕飯のおかずにします。たくさん釣れたときは、母親に褒められました。

 秋は、真っ赤に染まった森の木々が美しかった。山道を歩けば、たくさんの栗が落ちていて、キノコもたくさん生えている。そのほとんどを持って帰って、母親にキッシュを作ってもらう。それが何よりの楽しみだった。

 冬は……あまり好きではありませんでした。厚く積もった雪に、全てが閉ざされてしまうからです。私たちは家に閉じこもり、干し肉や魚の燻製、長く保存のきく根菜などを囓りながら、春の到来を待ち望んだものです。

 とにかく、私はあの村で、一生を終えるのだろうと思っていました。そして、それが私の幸福なのだろうと信じていました。

 ある日、隣の町から戻ってきた大人が──確か、物々交換で、塩を手に入れに行っていたのではなかったかと思いますが──驚くべきうわさ話を仕入れてきました。

 この星が、人の住めない、死の惑星になってしまうかもしれない、というのです。

 赤色巨星の爆発、ゲートの固定化現象など、聞き覚えのない単語が飛び交っていました。今なら何のことを言っているか分かりますが、あの時の私はほんの子供でしたから、よく分からなかった。

 大人達は、それを笑い飛ばしました。そんなことがあるはずがない、自分達は神様に守られているのだから、大丈夫だ、と。

 でも私は、どうしても安心できなかった。一人で、普段は禁じられている手札占いをしてみた。

 そうすると、何回めくっても、死に神の手札しか出てこない。

 これは、とんでもないことが起きているのではないかと思いました。

 私は、げんこつをもらうことを覚悟して、村長の家に行きました。手札占いの結果を伝えるためです。

 そもそも手札占いは、村のシャーマンか、それに近い人間しかやってはいけないことでした。神の恩寵に縋って生きている私たちが、神のご意志を問い質すような真似をするのは、不敬の極みだからです。

 そのときは、生きた心地がしませんでしたよ。

 然り、最初は怒りに顔を赤らめていた村長も、だんだんと真剣な顔になって私の言うことに耳を傾けてくれました。泣きながら、それでも必死に話したのです。

 そしてその夜、一緒に、村一番のシャーマンの家まで行ったのです。

 結果ですか?

 御年百を超える老婆が、悲嘆の涙に暮れました。この村の、いや、この星の命運は尽きたのだと。長く同胞の命を玩具にして楽しみ、その罪を神が怒られたのだと。

 報いだと、泣き噎びながら言いました。

 いったい何のことを言っているのか、分かりませんでした。村長も、おそらくはそうだったと思います。今でこそ東西ウィノア特殊軍の話を知っていますが、あのときはそんなもの、存在することすら知りませんでしたから。

 私は言いました。みんな、宇宙船で逃げよう、と。

 村長は、首を横に振りました。自分達は、この星に生かされてきた。ならば、死ぬときもともに死ぬのだ、と。

 私は、泣いて駄々をこねた。死ぬのが怖かったのもあります。でも、何もせずにただ死んでいくのが、何となく悲しかったのだと思います。

 しかし現実的な話として、貧しい村でしたから。どうやって宇宙港までの移動手段を確保するのか。村に、車は一台しかありません。星全体がパニックに陥っている中、外の人間に助けを呼んでも無駄です。

 子供が、選ばれました。出来るだけ多くの人間を避難させるなら、そのほうがいいと。

 私も、その一人でした。どうして私が選ばれたのか、今でも分かりません。ひょっとしたら、子供の中で一番占いが上手だったのが私だったからかも知れません。

 出発の朝、両親は笑いながら私を見送ってくれました。自分達は死ぬのではない。神様の御許へと旅立つのだと。お前もどうせ後から来ることになるのだから、寂しがることはない。ただ、できるだけゆっくりと来て欲しい、と。

 選ばれなかった子供達は、皆一様に、不思議そうな顔で私を見ていました。きっと、何が起きているのか、これから何が起きるのかを理解できていなかったのだと思います。

 でもただ一人、幼なじみだった女の子が、隣町に行ったらお土産を買ってくるようにと、私に小銭を渡しました。それは、幸運の象徴でもあるコインでした。

 彼女は、とても頭がよかった。今だから分かります。選ばれなかった彼女は、全てを理解していたのだと。そして、私の道行きの幸多からんことを願って、あのコインを寄越したのだ。

 私は、そのことに気づけなかった。あの時は、自分のことで精一杯で……考える度に、恥ずかしくなる。

 旅は、お世辞にも快適なものとはいえませんでした。でも、文句を言うわけにはいきません。自分達は、村に残ったみんなの命を、頂いているのですから。

 ようやく宇宙港についたのは、その三日後のことです。

 港に泊まっていたのは、惑星ウィノアを脱出する、最後の船でした。

 ターミナルには、まだまだ人があふれかえっている。到底、一隻の宇宙船に積み込める人数ではありません。

 見るに堪えない、凄惨な争いが始まりました。

 私は、人間というものをあれほど恐ろしいものだと思ったことはありません。

 人の良さそうな白髪の老紳士が、年端もいかない女の子を蹴倒して、搭乗口へと駆けていくのです。その老紳士の後ろ襟を引っ掴んで、その妻らしき老婦人が先へ乗り込もうとするのです。

 殺し合いも、起きました。パニックに陥った民衆に、兵士が銃を向けました。

 たくさん、死にました。

 どうして私が船に乗れたのか、今でも不思議です。ただ、その時、村から一緒に来た子供達も、運転をしてくれた大人の姿も、見えませんでした。

 残酷なことだと思いました。彼らは、断腸の思いで村から出て、宇宙船に乗り込むことすら出来なかった。どれほど無念だったでしょう。せめて死ぬなら、みんなと一緒に死にたかったと思ったに違いありません。

 立錐の余地のない宇宙船の小さな窓から、惑星ウィノアを見ました。真っ赤な大地と青い海のコントラストの美しい、星でした。

 そして、私たちの宇宙船がゲートに飛び込んだ直後に、激しい衝撃波と大量の星間物質、そして強烈な放射能が惑星ウィノアを襲いました。

 亜光速で飛来したそれは、瞬きよりも早く、惑星ウィノアに取り残された人々の命を奪ったでしょう。

 おそらく、苦しむ暇もなかったと思います。それだけが、私の心を慰めてくれます。

 しかし、本当の苦難が始まったのは、それからでした。

 故郷を失い根無し草となった我らを待ち受けていたのは、好奇と非難の視線、そして無関心でした。

 その時点で私は初めて、東西ウィノア政府が何をやってきたのかを知りました。そして、五万人という特殊軍兵士が虐殺されたことも、ウィノアの亡霊と呼ばれる怪異のことも。

 世間が私たちに向ける視線は、避け得ない天変地異の哀れな被害者に対するものではなく、戯れに命を奪い続けた非人道主義者に向ける、汚物を睥睨するようなものでした。

 仕方のないことだと思います。世間的には、惑星ウィノアの崩壊は新型エネルギープロジェクトの失敗により惑星全体が放射能汚染されたことが原因とされているのですから。欲の皮の突っ張った悪人達が、その罪に相応しい結末を得たのだと、自業自得だ因果応報だと、どこにいっても冷たい視線で見られた。

 当然、まともな職に就けるはずもない。私は、日がな一日ゴミ箱の中の空き缶を漁り、それをリサイクル工場まで持っていって、ようやく一日を食いつなぐだけの金銭を得ていました。毎日毎日、空腹を抱えていた。

 ある日、どうにも耐え難くなって、幼なじみからもらった幸運のコインで、パンの耳を買いました。崩壊したウィノアの硬貨だから、ほとんど価値はありません。パン屋の店主からすれば、小汚い浮浪児に施しをやった程度のものだったのでしょう。

 私は、涙を流しながらパンの耳を囓りましたよ。この世にこんなに美味しいものがあるのかと、うれし涙を流しながらね。

 最低だと思いますか?

 私は、思います。

 そんな生活が、三年も続いたでしょうか。

 私は、日々荒んでいきました。あまり大きな声では言えませんが、犯罪にも手を染めるようになった。

 誰が悪いと言えば、それは間違いなく私です。ウィノア難民の同胞には、私よりも遙かに苦しい日々を送っていた者も数多くいたはずなのに、その全員が犯罪者に堕ちたわけではない。なら、環境ではなく私個人の方にこそ原因があると考えるべきでしょうから。

 麻薬の売人は、かなり実入りのいい仕事でした。鼻薬を嗅がせられる警官と、そうでない警官の見分け方さえ間違えなければ、安全な仕事です。敵対する組織からの襲撃の危険は常にありましたが、私には的中率の高い占いがある。よほどの不運に出会わない限りまず大丈夫でした。

 え?どうして占いで生計を立てなかったかって?

 駄目ですよ。あれはね、もっと雰囲気がある人がするから商売になるんです。あの頃の私は、やせっぽちで血色の悪い浮浪児でした。どこからどう見たって、ありがたみの一欠片もない。そんな人間に占ってもらって、誰がお金を払おうと思いますか?

 ついでに言うと、占いをギャンブルに使うのも駄目でしたね。公営のギャンブルでそんなことすれば、換金所で通報される。上手に換金できたときは、その金はいったいどこから盗んだのかと豚箱にいれられました。かといって非合法の賭場に私みたいなのが足を踏み入れた日には、生きて太陽の光を見ることは二度と出来なくなるでしょう。

 結局、人間はまじめに働かなくてはいけないのでしょう。誰かがそう定めているのだと思います。

 でも、そんな生活が長続きするはずもありません。

 限界を迎えたのは、体ではなく、心の方でした。故郷を失ってから、心の頼りになるのは故郷のことだけ。それ以外のことは、苦しくてすぐに忘れてしまう。

 ああ、自分は一歩も前に進めていないんだなと気がついたとき、全てが馬鹿らしくなりました。

 帰ろうと思いました。

 みんなには申し訳ないけど、帰ろうと。そこで、みんなと一緒に、故郷の土になろうと。

 その結論にたどり着けたとき、私がどれほど幸福を感じたか、おそらく誰にも理解できないと思います。

 その次の日からの三年間は、必死で金を貯めました。個人用の宇宙船をレンタルするお金を稼ぐためです。

 当然のことですが、惑星ウィノアに向かう航路は、全て廃止されています。あんな、ただ赤茶けただけの死の星に観光に行く物好きもいませんから、そこまで辿り着こうと思えば個人的に宇宙船を飛ばすしかない。

 どうして、例えば宇宙船の乗っ取りをしようと思わなかったのか、今でも不思議に思います。どうせ生きて帰るつもりはないのですから、そうしたほうが遙かに手っ取り早い。

 たぶん、そういう方法で、故郷に帰りたくなかったのでしょうね。あの場所に帰るときは、せめて綺麗な手段で。そんな意地だったのではないでしょうか。その時点で私は殺人の罪も犯していましたから、そんな意地を張ったところで、私の手が綺麗になるわけもないのですが。

 とにかくそうしてお金を貯めながら、ゴミ山から拾った宇宙船教本を読みあさり、船の操縦方法を覚えました。人間というものはしっかりとした目標があればあれほどがんばれるのだと言うことを、初めて知りました。

 もちろん、お金があり、宇宙船の操縦法法を知っていれば、それだけで船をレンタルすることが出来るわけではありません。宇宙船を操縦するには歴とした資格が必要で、それがない人間には宇宙船のレンタルが不可能だからです。

 資格の身分証は、偽造しました。手製の、今考えるとみっともないものだったのですが、レンタルショップの店員に袖の下を渡せば、なんとか借りることができました。あっちも、自分はだまされたのだという体裁さえ取り繕うことが出来れば、何かあったときはきちんと保険がおります。それで十分だったのでしょう。

 初めて宇宙船の操縦桿を握ったときは、滑稽なほどに体が震えました。私は、シュミレータすら一度もしたことがない、本当の素人です。教本の知識だけは山とありましたが、そんなものだけで船が操ることが出来ないことなど、小さな子供にだって分かります。

 でも、よく考えれば自分はこれから死にに行くのです。それが今になったからといって、どんな不都合があるでしょう。離陸に失敗して死ねば、故郷の土に還ることが出来ない。それは残念なことですが、それもまた運命なら仕方ない。

 そう考えたとき、肩の力が抜けました。胸の奥で、息苦しさを作っていた塊が、すうと消えてなくなったのです。

 私が、おっかなびっくりでも宇宙船を離陸させられたのは、きっとそのおかげでしょう。

 旅の途中のことは、ほとんど覚えていません。ただ、味気ない宇宙食を食べ、排泄し、寝ました。目的の宙域までは感応頭脳がオートパイロットで進んでくれます。唯一緊張したのはゲートを跳躍したときですが、それも離陸の瞬間ほどには恐ろしくありませんでした。

 旅は、二週間程度のものでした。

 ついに、私は、故郷に帰ってきました。

 大気の失われた惑星ウィノアは、真っ赤な星でした。それは、地表に降り立ったときも変わりません。

 宇宙服のヘルメット、その強化プラスチック越しに見た故郷の星は、驚くほどに変わっていなかった。緑はどこにもなく、海は蒸発してしまっていましたが、大地はまだ、私の知る大地のままでした。

 山は形を変え、人家は消し飛び、どこにも見知った地形はありませんでしたが、それは私の故郷だったのです。

 そして、旅の終点でもある。

 ああ、よかったと、そう思い、生命維持装置の電源を落としました。

 これでしばらくすれば、酸素がなくなります。緩やかに死んでいけるでしょう。

 最後に目に焼き付けるべき光景を探して、くるりと辺りを見回しました。

 そこで、私は出会ったのです。


「……何に、出会ったんだ」

 ケリーは、自分の声が掠れているのを自覚していた。
 アーロンは、閉じていた瞼を持ち上げ、目を見開くようにして言った。

「天使に、ですよ」

 ケリーは、信じられない言葉を聞いたかのように、問い返した。

「天使だと?」
「ええ、天使です」

 アーロンは、魚のような瞳を初めて和らげて、微笑していた。
 恥ずかしげに、耳の裏を掻きながら、意中の人を打ち明ける少年のように。

「私は、天使と出会った。その時に、私は天使に恋をしたのです」



[6349] 第四十三話:鎮魂歌
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/07/11 00:57
 老人の口元が、密を含んだように綻んでいた。
 照れくさそうに耳の後ろを掻いている。
 皺の浮いた頬を赤らめ、死んだ魚のような眼を細めて。
 男は、微笑んでいた。

「天使と出会った、だと?」
「はい。私は、天使と出会ったのです」

 ケリーの問いに、アーロンは、もう一度大きく頷いた。

「赤茶けた大地、形を変えた大地。あらゆるものが姿を変えてしまった大地の上で、彼の人は歌っておられた」

 大気のない星の上である。
 そこは、宇宙の真空空間とほとんど変わらない。
 音が伝わるはずがない。いや、そんなところに生身で立っていては、数秒も保たずに人は死ぬ。
 焼けるか、凍るか、破裂するか、押しつぶされるか。
 とにかく、死ぬ。
 だが、それは、その人は、その御方は、ただ、立っていた。
 そして、歌っていたのだ。

 ──あなたの家に、この者達を、お招き入れください。
 ──疲れた肩をもみほぐし、旅塵に汚れた赤子を拭き清めてください。
 ──最後の時に、あなたを思った魂に、大きな哀れみを。
 ──わたしの潰れた喉で、希います。
 ──終末の時に、彼らの魂が安らがんことを。
 ──跪き、ひれ伏して、お願いします。
 ──灰のように砕かれた彼らの御霊に、出来うる限りの救いを。

 大気のない星が、風をそよがす。
 彼の人の長い黒髪が、草の海のように、柔い風の中を泳いでいく。
 光が、微細に砕かれた水晶となって彼の人に付き従う。
 白い肌。なめらかな頬を、ひときわ大きな水晶が伝い落ちていく。
 長い睫で飾られた瞳から、とめどなく水晶がこぼれ落ちていく。
 両の手は、祈るように胸の前で組まれ。
 一心に、一心に。
 彼の人は、歌っていた。
 紅よりも鮮やかな唇から、星そのものを慰める歌が紡ぎ出される。
 病みつかれた者を癒す声。
 みなしごを暖かい場所へと誘う声。
 全てを許し、全てを与える声。
 赤一色の大地の片隅で、誰に見られるでもなく、誰に聞かせるでもなく。
 淡々とこだまするこの歌は、ゆるゆると、死者を彼岸へ送り届けるだろう。
 ああ、そうか。
 この人は、悲しいのだと、理解した。

「私は、既に自分が生きていないのだと思いました」

 この世のこととは思えなかった。
 この世のことであると信じるには、其の人はあまりに美しすぎた。
 この世のおとであると信じるには、其の声はあまりに美しすぎた。
 男は、自分が涙を流していることに、気がつけなかった。
 機密性の保たれたヘルメットの中で響いているのが、自分の慟哭だとは気がつけなかった。
 涙を垂れ流し、嗚咽を垂れ流し、荒涼とした大地に跪き、何を考えることすらも出来ずに。
 男は、天使を見上げていた。

「その時、私は理解しました。この人が、惑星ウィノアを滅ぼしたのだ、と」

 かすかに震える旋律は、後悔でも贖罪でもない感情で彩られていた。
 そうだ、悲しいのだ。
 この人は、悲しんでいる。
 悲しみという感情に色があるならば、きっと今のこの人の髪の色のように、光を飲み込む黒さだろう。
 自分の愛し子を、自分の手にかけなくてはならない、悲しさ。
 自分の声が、誰にも届かない悲しさ。
 今、自分が眼にしている光景。荒涼とした大地に、誰もいない、何も動かない。
 それが、悲しくて悲しくて堪らないのだ。
 だから、泣いている。
 泣き声を歌にかえて、歌っている。
 誰のためでもない。自分のためでもない、歌だ。
 今はない、何かを惜しむ歌。
 前ではなく、後ろだけのために歌われた歌。
 だからこそ、からっぽだった男の胸には、その歌が、形良く収まった。
 最初からそこにあるべきものだったのだ。
 そして、男は恋をした。
 
「どれほどの時間が流れたでしょう。私は、いつの間にか生命維持装置の電源をつけていました。死ぬのが嫌だったというよりは、その歌を聴けなくなるのが嫌だったのだと思います」

 天使の姿は消えていた。
 それでも、歌だけが聞こえる。美しい、身を捩りたくなるほどに美しい歌が、鼓膜を優しく振るわしている。
 やがて、その歌の最後の甘さが虚空の中に消えたとき、男は立ち上がっていた。
 そして、一歩。
 もう使うことはないだろうと思っていた、おんぼろの宇宙船に向けて、一歩。
 男は、歩いた。
 それは、彼が故郷を失ってから初めて歩む、一歩だった。

「それから、私は身を粉にして働いた。今までの私を嘲笑うような幸運の数々が舞い降りて、たちまちに私は大富豪の仲間入りを果たした。美しい妻を得た。子宝にも恵まれた。それでも、私の心が満ちることはなかった」

 会いたい。
 天使に会いたい。
 一目でいい。会うだけでいい。遠目から眺めるだけで構わない。
 愛されたいとは思わない。触れるなんて恐れ多い。手に入れようなんて烏滸がましい。
 ただ、会いたい。どうしても会いたい。
 その一心が、男を支えていた。

「天使の伝説がある星は、全てに足を運びました。中には天使を見たという人もいた。大仰な奇跡譚もあったが、それは全て嘘っぱちでした。どこに行っても、私は彼の人の残り香さえ感じることはできませんでした」

 どれほど追いかけても、彼の人には出会えない。
 男は、絶望した。
 絶望して、絶望して、絶望して。
 そして、気づいた。

「追い求めて出会えないならば、お呼びすればいいのですよ。私が、彼の人を、私の下へと招けばいい。なるほど、なんと単純でしょうか。これほど簡単なことに気づけなかったなど、お笑いぐさ以外の何物でもありますまい」

 くすりと、アーロンは笑った。
 眼に、異様な熱が点っている。
 狂気、ではない。狂った人間というものを、ケリーは嫌というほどに見てきている。
 どろどろとした、コールタールの腐ったような、おぞましい黒。ネズミやゴキブリですらが腐臭に顔を顰めるような、おぞましい黒。
 それとも、全てを失った空白。
 だが、この男の視線には、そういった異様がない。
 その代わりに、熱がある。
 燃えさかる炎とは違う。全てを焼き尽くす燎原の大火ではない。
 とろとろと、肉を柔らかく煮るための、鍋にかける火のようだ。
 決して強くはない。肉を焦げさせてはならないし、鍋を吹き零してもいけない。
 しかし、決して途絶えることのない、火。
 肉が軟らかく煮えるまで、とろとろと、とろとろと、鍋底をあぶり続ける、粘着質な火。
 この男の眼には、一つのために全てを切り捨てた、取り返しのつかない熱が込められているのだ。

「一つ、いいかい?」

 ケリーは、自分の声が掠れているのを自覚した。
 皮肉を装った声も、意識しなければ出すことができない。

「どうぞ、存分に」

 魚の笑ったような顔で、アーロンが答えた。

「俺の知る限りじゃあよ、あの星に起きたことは、虐殺された特殊軍兵士の怨念がそうさせたっていうぜ。天使がやらかしたなんて、そんな馬鹿な話、一度だって聞いたことはないんだがね」
「なるほど、特殊軍の怨念とやらを体現なさる方が言うと、なかなか真実みがある」

 アーロンは鷹揚に頷いた。

「だが、それを言うならば、死者はどこまでいっても、どれほど積み重なろうとも、死者の域を出られません。死者が生者に害を為そうなど、正しく片腹痛い。どれほど滑稽であろうと、どれほど嗟嘆であろうと、この世は生者が織りなすもの、肉無き者の出る幕など、どこにもありはしませんよ。例えば、あなた自身が大虐殺に関わった人間を片端から殺して回ったようにね」

 ウィノアの亡霊と呼ばれた男は、眉一つ動かさない。
 ただ、目の前に座った男の、焦点の合わない瞳を睨み付けている。

「ならば、どうしてあれが天使の仕業だってことになるんだ?俺の知る限りじゃあ、天使だって幽霊やら亡霊やらと変わらないくらいに眉唾なものだと思うんだがな」
「では、試みに問いましょう。どうして惑星ウィノアは、あのようなかたちで滅びなければならなかったのですか?そこに、天使という存在を抜きにして、あのような天災を語れるものですか?」

 ケリーは、口を開かなかった。
 相手が、それを望んでいるとは思えなかったからだ。

「たまたま、遠く離れた宙域で赤色巨星が寿命を迎えようとしていた。たまたま、その赤色巨星と惑星ウィノアをつなぐゲートが存在した。たまたま、そのゲートに固定化とかいう訳の分からない現象が生じた。たまたま、超新星爆発を起こすタイミングに、惑星ウィノアはそのゲートの前を通る軌道にあった。たまたま、そのゲートを塞ぐためのジャマーが機能しなかった……」

 熱に浮かされたように、アーロンは語った。
 たまたま、たまたま、たまたま。
 全てが、偶然だと。彼自身、一縷だって信じていない有様で。

「そして、たまたま、その星では、人類史上類を見ないような、非人道的な虐殺行為が行われ、無数の救われない魂が悲嘆の声を上げていた」

 そう、例えばあなたの友人達のように。
 アーロンは、そう締めくくった。
 しっかりと糊の利いたシャツの下で、ケリーの体がむくりと膨れあがった。
 怒りに、全身の産毛が逆立っていた。

「この全てのたまたまを、たかが怨霊ごときが成し遂げたと?それとも、怨霊の無念を体現する、あなたのような人間が独力で成し遂げたと?ふん、それこそおとぎ話、勧善懲悪の怪奇小説だ。もしもあなたが、この時期に、既にクレイジーダイアンと人の呼ぶ感応頭脳と出会っていたとしても、出来たのは、そうですな、無粋なジャマーを排除するか、それとも無効化するか程度のものだったでしょうね」

 ケリーは、答えなかった。
 否とも応とも言わない。

「何が惑星ウィノアの崩壊を招いたのか、それは分かりません。もしかすると大虐殺とは全く関係のない事柄だったのかも知れないし、それとも本当に特殊軍兵士達の無念だったのかも知れない。だが、それはただの切っ掛けであって、崩壊をなさしめたものは全く別であるはずです」
「あんたは、それが天使だと言いたいんだな?」

 アーロンはにんまりと笑い、

「一連の全てが天の意志であるとするならば、それを顕現するために使わされる存在こそを天使と呼ぶのです。ならば、あの一連の悲劇は、全てが彼の人の掌の上で行われたこと。私は、そう確信していますよ」

 アーロンは、忘我の表情で目を閉じた。
 彼の脳裏には天使の歌声が響き渡り、天使の悲しげな顔が映し出されているのだろう。
 ケリーには、それが許し難かった。理由は、分からない。

「じゃあ、あんたはどうして俺を恨まないんだい?」

 ケリーの声に、アーロンは目を見開いた。
 白目の中に黒目がまん丸と浮かぶほどに、かっと見開いた。
 そして、心底不思議そうに言うのだ。

「失礼ですが、ケリー、あなたは私の話を聞いてくれていましたか?」
「あんたに、そう馴れ馴れしく呼ばれる覚えはねえな」
「では、海賊王とでもお呼びしましょうか。とにかく、私はあなたのおかげで──あなたがた、東西ウィノア特殊軍のおかげで、あの方と出会えた。私は、生きる目的と出会えたのです。なら、その恩人を、どうして恨むことなど出来るでしょうか。あなたは、私にとって、命を救ってくれた大恩人なのですから」
「何がウィノアの崩壊の切っ掛けになったか分からないってわりには、ずいぶんと買いかぶってくれるんだな」
「それはもう。少なくとも私自身は、あれが全て貴方方を慰めるための喜劇であったのだと知っていますから。あなたたちを無理矢理に喜劇の舞台に立たせていた劇作家と観客たちは、今度は自分達が無理矢理に喜劇の舞台に立たされるはめになったのです。無論、私も含めたところでね」

 故郷を、両親を、初恋の少女を、全てを失ったはずの男は、こともなげに言った。
 ああ、そうか、と、ケリーは理解した。
 全てが、逆転しているのだ。
 この男は、全てを失ったから、天使などという奇跡と出会ってしまった。
 だが、この男は、全てを失ったからこそ天使と出会えたのだと思い込んでいる。
 そして、その切っ掛けを作った、自分たち特殊軍に感謝しているのだ。それが、彼から全てを奪い去った原因にもかかわらず。
 ケリーに口中を、限りなく苦々しい何かが満たした。それを取り除くために、コップの水を一気に呷った。

「……なるほどね、よく分かったぜ。あんたがいかれちまってるってことがな」
「ええ、その通りです。私は、心底天使に狂っている」

 そのことを、自覚している。
 狂気に堕ちながら、しかし己を見失っていない。腐り、肉が融け落ちていく精神を直視しながら、まだ自分を保っている。
 むしろ、己の腐り落ちていく様子を、求めている。
 目の前で笑っている男は、歴とした狂人だった。それも、筋金入りで狂っている。
 では、その狂人が、何故自分を己の居城にまで招いたのか。
 気まぐれなどではありえない。まして、本当にお礼を言うだけなど、どう考えてもおかしい。
 狂人であるが故に、それなりの行動原理を備えた上で、自分が必要だからこそ巣穴に招待したと考えるべきであった。

「一応言っとくがよ、俺はあんたの恋する天使さんの電話番号なんて知らねえぜ?」

 ケリーは巫山戯ながら言った。
 そして、目の前の男の顔色を注視する。
 男の顔色は、露程も変わらない。

「ええ、知っていますよ。むしろ、あなたが天使の所在を知っているとしたならば、私は嫉妬であなたを殺してしまうかも知れませんね」

 ケリーは苦笑した。
 事実、彼はいつだって天使と連絡を取ることが出来るのだ。それが、この男の言う天使と同一かどうかを別にして。
 ケリーは、悠然とした様子で長い足を組み、憎々しいほどに落ち着いた声で、言った。

「じゃあ、なんで俺をこんなところにまで招いた。お為ごかしはもういいさ。そろそろ本当のことを言ってくれねえと、胸焼けの一つも起きちまうってもんだぜ」
「あなたには、最後の仕上げをお願いしたい」

 アーロンはテーブルの上に肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せた。
 焦点の合っていない、魚めいた瞳に、病んだ光が点る。
 その、得体の知れない威圧感。ケリーも、長い人生のうちで、これほど奇妙な男と相対したのは初めてだった。
 己に危害を加えようとしているわけではない。騙して利得を奪ってやろうと思っているわけでもない。
 自分に向けられているのが、ある種の好意であることも分かる。
 にもかかわらず、いや、だからこそ、この男の前にいるのが耐え難い。同じ空間で息をするのが拷問に近い。
 ケリーは、半日ほど顔を見ていない自分の妻の顔が、恋しくなってしまった。

「最後の仕上げだと」
「ええ、私がこれからすることの、最後の仕上げです」
「何をしろってんだよ」
「私は何も強制しません。あなたのしたいように為さってくれればいい」

 男の声に、抑揚はない。
 先ほどまで男を包んでいた感動も、ない。
 じっとりと粘ついた、湿度のようなものがあるだけだ。

「言ってることがわかんねえよ」
「さっき言ったとおりですよ。私は、この星に天使を招きたい。そのための最後の仕上げを行うのが、あなたということになりますか」
「天使を招くだと?」

 アーロンは、頷いた。

「何故、あの時、あの場所に天使がいたのか、私は考えました。昼夜を問わず、必死にね。そして、ある結論に辿り着きました」
「へぇ、どんな」
「天使はね、惑星ウィノアが滅びたから、あそこにいたんですよ」

 だからね、と続ける。

「もう一度ウィノアが滅びれば、あの方は、もう一度姿を見せてくださるんですよ」

 ケリーの背筋に、冷たいものが走った。

「簡単なことじゃないですか。だからね、私は、この星に惑星ウィノアを作るんです」

 アーロンは、大きく手を広げた。
 まるで、自分を見ている天使に、歓迎の意を伝えるように、大きく、大きく、天を掴むように。
 その顔は、無限の至福に満ちていた。

「いったい何が、天使をあの星に使わし、そしてあの星を滅ぼしたのかは分かりません。しかし、あの星の何かが、天には許し難かった。だからこそ、天使があの星を滅ぼした。ならば、そっくりそのまま、あの星と同じ星を作り出すことが出来れば、天使は再び舞い降りるに違いありません。そうすれば、そうすれば、私は再び天使と出会うことが出来る!もう一度会うことができるんですよ!」

 狂っている。
 そんなこと、出来るわけがないのだ。
 よしんば出来たとして、その天使とやらが姿を見せる道理はないはずだ。
 だが、この男の中で、それは既定した事項であった。

「そして、神は私に微笑んでくださった」

 満面の笑みを浮かべたアーロンが、感動に声を震わしながら言った。

「最も難しいと、内心で諦めていたというのに、神は哀れな子羊に、救いの手を差し伸べてくださったのです」
「……何のことだ」
「先ほども見たでしょう、私の愛し子達を」

 ケリーの体が、はっきりと強張った。
 琥珀色の左目に灼熱が宿り、虚空を写した右目に滅びが宿る。
 憤怒に顔がゆがみ、総身の毛が逆立つ。
 鬼が、いた。

「てめえ、何をしやがった」
「言ったでしょう、私は、この星にウィノアを作る、と」
「きさま……」
「なら、ウィノアの象徴たる彼らを、起こさないわけにはいかないじゃないですか。放射能にやられて、ほとんどの死体は使い物になりませんでしたが、ほんのごく一部、まだ使い物になるものがあった。あの大穴の奥底に廃棄されたもののうち、できるだけ状態のよかった骨の髄から遺伝情報を抽出し、培養する。まさか成功するとは思いませんでしたよ。彼らの瞳が開くのを見た瞬間、私は確信しました。やはり天は、私の為すことに寵をくださっているのだと」

 ケリーの口から、ばきりと、硬質な音が響いた。
 噛み締めた歯の、砕ける音であった。
 
「墓を……あいつらの墓を、暴きやがったな!」
 
 この場合の笑顔は、肯定以外の何物でもなかった。
 
◇ 

 ああ、そうだった。
 どうして、こんなに大事なことを忘れていたのだろう。
 全てを、思い出した。
 戦が、あったのだ。
 大きな大きな、世界そのものを揺るがすような戦だ。
 広大な宇宙の隅々にまで剣戟の音を響かせて、生きとし生けるもの全ての鼻腔を血臭で満たして。
 我々は戦った。
 女も子供も、老人も、病で倒れたものも。
 全てが、死力を尽くして戦った。
 負ければ、死ぬからだ。
 降伏は意味をなさない。皆殺しにされるだろう。
 だから、戦った。
 剣を持てる者は剣を持ち、盾にしかなれないものは盾を持ち。
 我々は、戦った。
 侵略者は、恐るべき相手であった。
 この世界に住むどういう生き物とも違う、異形の生物。
 悪夢の海から這い出してきたとしか思えない、醜悪な容貌。
 人智を越えた力を振るい、屈強な戦士たちを紙のように千切り捨てていく。
 趨勢は、明らかだった。結果など、火を見るまでもない。
 降伏は意味をなさなかった。皆殺しにされた。
 私と、私の妻と、私たちの主以外は。
 私たちは、逃がされた。
 私は、最後まで戦うと言ったのに。
 妻は、共に死のうと言ったのに。
 主は、悲しそうに微笑みながら、何も言わず。
 私たちは、一度だって見たことのない、森の中にいた。
 逃がされたのだと、理解した。
 私は、地に伏せて泣いた。
 今まで苦楽をともにしてきた仲間達と、一緒に死ねないことが悲しかった。
 そんな私を、妻は慰めてくれた。
 肩に天鵞絨のような毛皮をこすりつけ、頬を暖かい舌で舐めてくれる。
 妻も、泣いていた。紫水晶に似た瞳から、とめどなく涙が溢れていく。
 彼女の群れも、皆殺しにされたのだ。
 もう、彼女一匹だ。
 もう、誰も、彼女とともに歌うことはない。
 もう、彼女の遠吠えは、一人空しく夜に響くだけだ。
 どれほど悲しいのだろう。どれほど恐ろしいのだろう。
 どれほど、心細いのだろう。
 彼女の、四つの足が、生まれたばかりのように震えていた。
 私は、妻を抱きしめた。
 私も、溢れ出る彼女の涙を舐め取った。
 誰に毛繕いをされることもなくなって、ごわごわになった毛皮を、優しく噛んでやった。
 奇妙に塩辛い味が、何よりも彼女に相応しいと思った。
 そして、愛し合った。
 私も妻も、二つ足で立つ獣の姿になり、柔草の絨毯の上で、いつ果てるともなく交わった。
 毎日、毎日。
 真っ赤な果実が、だんだんと熟していくような、甘美な日々だった。
 朝起きれば、目の前に、最愛の人の寝顔がある。
 共に狩りをし、どちらの獲物が立派かを競い合った。
 肉を思うさまに貪り、ときには野を駆け、ときには湖を泳ぎ。
 夜は、満天の空の下、精根尽き果てるまで絡み合い、疲れたら抱き合いながら眠った。
 誰に邪魔もされない。他の何者もいらない。
 夢のように安らかな、日々だった。
 いずれ、彼女の腹の中に、私の子供が根付いたと知らされたとき。
 全てが、終わりを告げた。

 心臓が、早鐘を打っていた。
 どくどくと、酸素のたっぷりと溶け込んだ血液が、体中に送り出されていく。
 何のためかと、問うまでもない。
 駆けるためだ。戦うためだ。奪い返すためだ。
 この手から奪われた、最愛の雌を、この手に奪い返すのだ。
 あの柔い肌を、銀色の髪を、竜胆色の澄んだ瞳を。
 誰にだって触れさせてなるものか。
 あれは、俺のものだ。俺だけのものだ。
 あいつは、俺のものなのだ。
 俺の、雌だ。
 あの身体を思うさまに味わっていいのは、俺の舌だけなのだ。
 だから、今すぐに起きろ。夢の世界の残滓など、綺麗さっぱり振り払え。
 あの時は、駄目だったじゃないか。
 今度こそ、間に合えよ。
 起きろよ。
 今すぐ起きろよ、俺。
 起きろよ、シャムス。
 起きろよ。
 インユェ。

 目覚めと同時に、体が覚醒した。
 少年の体を、ぬるりとした汗が濡らす。前髪が額に張り付いて、払っても払ってもべったりと言うことを聞いてくれない。
 心臓が、破裂寸前に騒いでいる。もう、あと少しでも燃料が注ぎ込まれれば、エンジンそのものが焼き付いて使い物にならなくなるに違いない。
 ああ、そうだ。
 最後の光景が、胸を抉り取りたくなるような後悔と共に、蘇った。
 また、助けられたのだ。
 屋敷に突入してきたのは、自分達と同年代の、子供だった。
 歯が立たなかった。
 まるで、炎が乾いた草原に放たれたかのように、隠れ家は彼らに侵略された。
 自分の、せめてもの抵抗など、歯牙にもかけてもらえなかった。
 
『逃げよう』

 一緒に逃げよう。
 そう言った。
 どこかで聞いた台詞だ。どこかで、誰かが、自分に向かって言った台詞だった。
 なのに、黒髪の少女は、淡く微笑んで、自分の足を指さして。

『この足では、逃げられない』

 その通りだ。
 大穴の開いた足では、人は走れない。
 人は、二つ足で立つ、獣なのだから。
 ああ、そうだ。
 もし、自分に、四つの足があるならば。あの時の彼女のような、体ならば。
 自分の背に、この少女を乗せて、思うさまに駆けることが出来ただろうに。
 歯痒かった。また、自分は助けることが出来ないのか。
 その時、遠くから、低く這うエンジンの音が聞こえた。
 今度こそ、姉さんだと分かった。

『ウォル!姉さんが、今度こそ姉さんが帰ってきた!』

 背後で、鉄拵えの扉が、悲鳴を上げていた。
 遠からず、押し入られる。一刻の猶予もない。
 なら、せめて、この少女だけでも。
 そう思った少年の視界が、僅かに揺らぎ、首の後ろに鋭い衝撃に気がついて。
 力の抜けていく四肢。霞んでいく視界。遠くなる意識。
 少年は、小さくなるような、声を聞いた。

『連中の狙いは、どうやら俺らしい。お前だけでも、逃げてくれ』

 嫌だ。
 いやだ、カマル。
 逃げるときは、君も一緒に──。

 そして少年は、助けられた。
 一晩で二度も。同じ、愛する少女から。
 己に対する殺意が、ぐつぐつと煮えたぎっている。地中奥深くから、赤々とした溶岩がそうするように、今か今かと爆発する時を待ち望んでいる。
 もし、この場に鋭いナイフが転がっていたならば、少年はためらいなく己の胸に突き立てていたに違いなかった。
 そして、少年は体を起こした。
 死に損ないだ。ならば、拾った命の使い方は決まっている。
 助ける。死んでも助ける。あの黒髪の少女を、絶対に。
 それが叶えば、この役立たずの命など、何ほどの価値があろうか。
 見慣れぬ部屋、初めて見る天井に、彼は刹那の恐れも抱かなかった。
 低いベッドから起き上がり、目の前にあったドアを開け放った。
 朝日に塗れた部屋には、見慣れた人物と、初めて見る人物がいた。
 粗末な木のテーブルを囲み、向かい合って座っている。
 ともに、長い髪の女であった。

「おう、起きたか、クソチビ」

 硬質な金色の髪を持つ少女が、物憂げに言った。
 いつもの、からかい口調ではない。喉の奥に感情をこし取るフィルターがあって、そういう、余裕とか皮肉とかいうものを根こそぎ奪い取られたみたいに、その声は重たかった。
 メイフゥ。少年の、双子の姉であった。

「姉貴。ヤームルとウォルは、どうした」

 少年の声である。
 だがそれも、昨日までの少年の声ではなかった。
 少年が少年たる、甘さとか溌剌さとか青臭さとか、もしくは若々しさとかいう装束を脱ぎ捨てた、男の声である。
 視線も鋭かった。
 怒りではなく、だかそれ以上に猛々しい感情に濡れた瞳を、自らの姉に向けている。
 明らかに、少年は、昨日までの少年ではありえなかった。

「ヤームルは、ウォルは、どうした」

 もう一度。
 メイフゥは、答えた。

「攫われた」
「誰に」
「んなもん知るかよ」
「何のために、ウォルは攫われなくちゃならなかったんだ」
「知らねえっつってんだろうが、この馬鹿」

 インユェはテーブルまで荒々しく歩み寄り、古めかしい木の板に、思い切り拳を叩き付けた。 
 朝食の盛られた皿が、一様に宙を踊った。

「ふざけてんのかよ」

 メイフゥは、座ったまま、弟の顔をじろりと睨めあげて、

「じゃあ、こう言えば満足か?ヤームルはぶっ殺された。ウォルは、決してあたし達の手の届かない地の底に連れ去られて、男達の慰み者にされている。かわるがわる下卑た男に乗っかかられて、今もお前の名前を泣き叫んでるってよ」

 インユェの脳裏に、文字通り最悪の結果が想像された。
 あの清冽な瞳が、美しい肌が、気持ちのいい笑い声が、見ず知らずの男の嬲り者にされているとしたら。
 喉の奥に、何か致死性の汚泥でもつかえたように、少年は咳き込んだ。テーブルに突っ伏して、涙を零しながら、懸命に咳き込んだ。
 背中を摩る姉の手にも気づけない有様で、少年は苦悶した。
 苦悶しながら、姉の襟首を、思い切りに締め上げた。

「げほっ、げほげほげほっ……、て、めぇえぇっ!」
「今さら何を慌てていやがんだ、このぼけなすが!昔っから、女が攫われるってことは、そういうことだろうが!そんなこともわからねえで、てめえは暢気にウォルを手放しやがったのかよ!」
「好きで手放したんじゃねえ!」
「当たり前だ!どこの世界に、惚れた女を好きこのんで手放す奴がいるか!だからてめえは間抜けってんだ!」
「うるさい、静かにしろ」

 二人の間に割って入ったのは、声だった。
 静かな、女の声だ。
 インユェは、声の主のほうへ振り向く。
 そこにいたのは、やはり女だった。
 姉よりも、さらに一回り大きい、恵まれた体格。
 緩やかにウェーブした、赤金色の髪の毛。
 ブルーとグレイの混ざったような、奇妙な瞳の色。
 極上の美人ではない。だが、一目見ただけで忘れがたいような、強烈な個性がある。
 不思議な女だった。

「あんた、なに?」

 感情を抑えた声と表情で、インユェは、その女に近寄っていった。
 きしきしと、不安定な床が、悲しげに啼く。
 その声すらが、今のインユェには鬱陶しかった。
 この世から、自分とあの少女以外、あらゆるものが消えて無くなればいいと思っていた。そうすれば、彼女を害するものはどこにもいなくなるのに。
 なのに、この女はなんだ。
 どうして、自分に命令するのだ。
 理不尽な怒りが、少年の胸中で燃えさかっていた。

「あんた、なんだよ。どうして、こんなところにいるんだよ。誰が、ここにいていいって言ったんだよ」
「わたしは、うるさいと言った。静かにしろと言った。それが聞こえなかったのか?」
「黙れよ。さっさと出て行け。あんたなんか、誰も呼んじゃあいないんだ。それなのに、俺に指図するんじゃねえよ。何様のつもりだよ、あんた」
「聞こえなかったなら、もう一度言ってやる。その、生まれたての雛鳥みたいにぴーちく喧しい口を閉じて、さっさと席に着け。そして、飯を食え。お前の姉が、お前のために用意した朝飯だ。ありがたく喰え」

 女が、悠然とした様子で、ミルクに浸したシリアルを口に運ぶ。
 インユェは、そのスプーンを、思い切りなぎ払ってやった。
 匙に盛られていたミルクとシリアルが飛び散り、女の顔を汚した。跳ね飛ばされたスプーンが部屋の壁にぶつかって、神経に障る音を立てた。
 その音が、少年には忌々しかった。

「次は、顔面を殴るぜ。それとも、そういうのがお好みかよ。なら、今すぐ真っ裸になって、ベッドの上で尻を突きだしな。優しく引っぱたいてやるよ」

 女は、インユェに一瞥をくれるでもなく、脇に置かれたナプキンで汚れた顔を拭った。
 そして、緩やかに立ち上がる。
 そうすると、女の上背は、インユェよりも遙かに高い。
 優に頭一つ分は高いところから見下ろされて、インユェは、僅かにたじろいだ。
 しかし、必死の強がりを込めて、女を睨み付ける。

「わたしに、面と向かってそういうことを言う男は、中々貴重だな」

 にやりと、不敵な笑みで笑う。
 そうすると、もとから印象の強かった顔立ちが、より鮮明に、蠱惑的な色彩を帯びる。  
 この女性には、こういう表情が何よりも相応しいのだと、インユェは理解した。
 そして、その瞬間に、左頬を恐ろしい力で張られていた。
 腰のあたりで回転するように、インユェはぶっ倒れた。
 天地がひっくり返ったのだと、勘違いした。

「まず一つ。わたしに被虐趣味はない。そういう女が好みならば、わたし以外の人間をあたることだ。ちなみに言うならば、君が想いを寄せる少女にもその傾向はない。残念だったな」

 インユェが、口の端から血を垂れ流しながら、必死に立ち上がろうとする。
 口が、意味のない言葉を発しながら、わなわなと動いている。
 振り返り、女を見上げる視線には、無限の憎悪が込められていた。
 ほう、と、女は内心で驚いた。この自分が、ほとんど手加減無しでぶん殴ったのに、こういう表情が出来るのかと、軽く眼を見張っていた。

「この、くそ、あまぁ……!」
「次に一つ。わたしは、わたしより年下の男に組み敷かれる趣味もない。君の年齢では、明らかに荷が勝ちすぎる。筆下ろしをしてほしいならいい女郎宿を紹介してやるぞ。君の器量なら、手取り足取り優しく教えてもらえるだろうさ」

 腹を、思い切り踏みつけられた。
 素足ではない。大岩が落ちてきてもびくともしないような、頑丈なブーツの靴底で、だ。
 ぐえ、と、かえるの潰れたような声が、口から飛び出た。
 苦痛よりも、羞恥で顔が赤らんだ。
 足を、必死にどかせようとするが、そこに根が生えたように動かない。
 少年は、床に貼り付けになった。

「最後に、もう一度だけだ。静かにしろ。そして飯を食え。それがお前の義務だ。これ以上駄々をこねるなら、口の中に腕を突っ込んで胃に直接飯をぶちまけてやるが、それでもいいか」
「ん、だとぉ……!?」
「惚れた女を、目の前で攫われたのだろう?それが悔しくて堪らないのだろう?なら、飯を食え。そして力を蓄えろ。今度は、惚れた女を奪い返してやるんだろうが。ならば、喰え」

 女が、少年の腹を踏みつけた足に、力を込める。
 少年の腹筋が、きしきしと、悲しげに軋んだ。
 少年の喉の奥から、獣の唸るような声が響く。
 少年の整った顔が真っ赤に染まり、こめかみに血管が浮く。
 少年の両手が、女の履いたブーツに食い込む。
 女の巨体が、僅かに持ち上がった。

「ほう、やればできるじゃないか」
「ど、け、って言ってんだ、この売女がぁ……!」
「根性は認めてやる。だが、口が悪いのは男としてみっともないぞ」

 女は、インユェの襟首をむんずと掴み、壁に投げつけた。
 それも、片手だ。
 インユェは受け身を取ることも出来ず、強かに背を打った。
 呼吸が止まる。白まった視界のあちこちが、無意味にちかちかとして鬱陶しい。
 ああ、このまま眠ることが出来たら、どれほど心地いいだろう。
 そういう、悪魔にも似た甘美な声が、少年の耳を優しく嬲った。
 だが少年は、必死の思いで体を起こした。
 そして、睨み付ける。目の前の女が、全ての元凶であるかのように。

「わたしもだ」

 女が、言った。
 顔に、苦渋が浮かんでいる。
 少年は、理解した。
 この女も、自分と同じだと。
 自分と同じ、自分に対する殺意と戦っているのだと。

「わたしも、目の前で夫を奪われた。為す術もなく、だ。あんな恥辱、生まれて初めて、いや、二回目か。あの男がわたしの目の前から消えていったのは、な」

 皮肉げに頬がつり上がる。
 瞳が、いつの間にか金色に染まっている。
 全身が、怒気に包まれて陽炎のように揺らいで見えた。
 
「わたしは、あの時のわたしではない。わたしは、この時のために鍛え上げたのだ。だから、わたしはわたしの夫を助ける。妻として、当然の権利を行使する。それを邪魔するやつは、誰であろうと、例え夫の初恋の女性であろうと、許さん。八つ裂きにしてくれる」
 
 鬼が、吠えた。
 少年を、戦慄が突き抜ける。
 インユェは、歯を噛んで体の震えを殺した。
 そうしなければ、自分は二度とこの女の前に立てなくなる。
 きっと、小便を漏らすだろうと思った。
 そんなことは認められない。もう、そんな自分はまっぴらごめんだった。
 強くなる。強くなりたい。その思いが、今の少年を支えている。
 痛む四肢に怒号を飛ばして、立ち上がる。
 そして、よろよろとみっともなく歩き、テーブルに着いた。
 目の前に、不細工な料理が並んでいた。
 自分が作れば、もっと見栄えよくできるのに。
 ふん、と鼻を鳴らして、箸を手にした。
 初めて食べる姉の手料理は、旨くもなく、不味くもなかった。

「わたしの名前はジャスミン。ジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーア。しばらくの間、君たち姉弟と行動を共にすることになるだろう。まぁ、よろしくな」

 目の前で悠然とコーヒーを啜る女。
 インユェは目の前の女を睨み付け、口いっぱいにメイフゥの作った朝食を頬張りながら、忌々しそうに言った。

「俺の名前はインユェ。銀色の月って書いてインユェだ。よろしくな、くそおんな」

 咲き誇る竜胆のように鮮やかな、紫色の瞳が、憎悪に似た色で染まっていた。



[6349] 第四十四話:Alea iacta est
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/07/11 00:57
 朝食が済んだタイミングを見計らうようにして、ジャスミンの手首に巻かれた通信機が、電子音を鳴らした。
 
「朝ご飯は終わった?」

 年若い女性の声が聞こえた。
 綺麗な発音で、堂々とした声だった。声の若さの割に、やや落ち着きすぎている気すらしてしまう。
 その声の主に、ジャスミンが答えた。

「ああ、ちょうど終わったところだ」
「そう、よかったわ。じゃあ、そろそろね」

 嬉しそうな声に、何か、怖いものが混じっている。
 その声を聞くジャスミン以外の二人──メイフゥとインユェの耳に、ぞくりと、背筋を冷たい指でなぞられたような違和感が走った。
 遊園地で風船を配る可愛らしいマスコットキャラクターの、風船を配るその手に、鋭い刃物を見つけてしまったような違和感、そしておぞましさ。
 だが、その気配を放っているのは、姿の見えない声の主だけではなかった。

「ああ、そろそろだろうな」
「そろそろ、こちらの番よね」
「そうだ、何だってそうだ、オフェンスとディフェンスの役割は入れ替えてもらわないと、ゲームも面白みがなくなってしまうからな」
「おいたの過ぎる悪ガキには、きつくてでっかいお灸を、たっぷりと据えてあげないとね」
「正しくそのとおりだ。それはもう、嫌と言うほどに、嫌と言おうが泣き叫ぼうが聞く耳を持たないほどに、でっかくてきっついお仕置きが必要だとも」
「うふふふ」
「ふははは」

 ちっとも笑っていない声と顔で、二人の女傑は高らかに笑った。
 姉弟の背に、じとりと冷たい汗が滲んだ。
 この場合、恐ろしい味方というのは心強い味方のことと同義なのだが、何故か今の会話を聞いているとそうは思えない。強烈な抗がん剤が患者自身に強い痛みをもたらすように、あの二人は味方にとっても劇物なのではないだろうか。
 心持ち顔を青ざめたインユェが、隣に立った姉に、小声でささやく。先ほど、目の前の正体不明の女に痛めつけられた、体の節々が不吉に痛んだ。

「おい、メイフゥ。通信機の向こう側の奴はともかく、あのでかおんなは何者だよ。お前の知り合いなのか?」

 同じく声を潜めたメイフゥが、硬質な金の髪をがしがしと掻き回し、

「あたしだって、あの人が何者か、詳しいところは知らねえんだよ」
「知らねえ……って、そんな暢気なこと言ってて大丈夫かよ。これから、間違いなく荒事が待ってるんだぜ。いざって時に足を引っ張られたらかなわねえぞ」
「ああ、そいつは大丈夫」

 メイフゥは、頬を引き攣らせるように笑い、

「あの人、あたしより強えもん」

 その言葉を聞いたときのインユェの顔は、いっそ見物というべきであった。
 普段は端正な、そして僅かに険を含んだ表情が、見事なまでに抜け落ちて、これ以上ないというくらいに呆気にとられた顔になる。
 目は大きく見開かれて、顎が床に付きそうなくらい、だらしなく口が開かれる。
 鼻水が垂れていないのが不思議と思えるほどに、間の抜けた顔だった。

「お、おいおい、姉貴よう、今がどういう状況か分かってんのか?そんな、笑えない冗談を飛ばしてる場合じゃねえだろうが」
「ああ、その通りだな、お前にしちゃあ珍しく正論を吐くじゃねえか。だから、あたしは一言だって嘘は吐いちゃいねえよ」
「……冗談だろ?」
「何度も同じことを言わせるなよ。あの人はな、あたしと正面から、素手で、一対一で戦って、あたしを叩きのめしてくれたんだ」

 少年は、耳を疑った。次に、姉の正気を疑った。最後に、これが現実かと疑った。
 姉が、いつもいつも自分をこてんぱんにやっつける姉が、負けた。
 しかも、女に。
 ありえない。故郷の星でも、姉は最強だったのだ。どれほど腕に自信のある荒くれ者でも、片手であしらう姉である。本気の姉と正面から戦って生きていられるのは、自分達の育ての親であるヤームルくらいだろうと、弟であるインユェは信じていた。
 それが、負けた。
 目の前の女に。

「……信じられねえ」

 というよりは、信じたくないのである。
 それなりに腕に覚えのある人間は、自分の傍にいる最も強い人間をこそこの世で一番強い人間だと、我知らずに思い込んでしまうものなのだ。それが、自分を軽くいなすような強者であれば尚更である。
 インユェも、そう思っていた。姉は最強である、と。この世に、姉に勝てる人間はいない、と。
 その姉が、負けた。
 しかも女に。
 同世代のうちでは比較的現実対処能力の高いこの少年も、それを信じることができなかった。

「それとな、インユェ。もう一つ、信じたくないことを教えておいてやるよ」

 メイフゥは、自分よりも背の低い弟の肩を、優しく叩き、

「その人のケツをベッドの上で引っぱたいてやるって、さっき言ったんだぜ、お前」

 一瞬、なんのことを言われたのか分からない顔をしたインユェだったが、事態の恐ろしさに思いが至ると、滑稽なほどに狼狽した。
 元々色素の薄い肌の色は、皮膚の下にある血管が透けて見えるくらいに白くなっているし、サウナに入ったみたいに汗をだらだらと流している。おそらくは、全てが精神性の脂汗だ。
 インユェは、視線で姉に救いを求めた。嘘だと言ってくれと、必死にすがりつく。
 返答は、無慈悲であった。メイフゥは、心底お気の毒といったふうに、目を閉じながら首を横に振った。

「お、お姉ちゃん、どうしよう、おれ、殺される!」
「知るかよ、ばーか」
「し、知るかよって、そりゃねえよ、お姉ちゃん!」
「いい男ってのはな、てめえのけつくらいてめえで拭くもんだ。謝るなりぼこられるなり、さっさとかたをつけてこいよ」
「お、お姉ちゃん!」

 少年の姉は、いかにも無情な様子で割り当てられた自室へと引き上げた。
 目の前でバタリと閉じられた木の扉が、少年の瞳には絶望の象徴に思えた。
 椅子から半分腰を浮かした少年が、おそるおそると振り返る。
 そこには、歯を剥いた虎のような表情でこちらを眺める、長身の女がいた。

「さて、インユェといったか。君の姉の実力は嫌というほどに理解させてもらっているが、君がどの程度使えるのか、知っておきたい。腹ごなしに、どうだ?」

 手には、練習用ではない、実戦用のロッドが二本。
 くい、と顎でしゃくるようにして、表に出やがれと促している。

「ベッドの上で尻を叩かれて悦ぶ趣味は残念ながら持ち合わせていないが、こいつで殴ったり殴られたりにはそれなりの造詣がある。このわたしに、あそこまで啖呵を切ったんだ、まさか腹が痛いとか、そういう情けない逃げ口上は言わんだろうな」

 ──ああ、ウォル。俺はここまでみたいだ。願わくば、君の前途に幸多からんことを……。

 思い切りに項垂れた、死人のような顔色のインユェは、とぼとぼとした足取りで、先に外にでたジャスミンの後を追った。



 自室に引き上げたメイフゥは、大柄な体をベッドに横たえ、何となく天井を見上げていた。
 なんとも味気ない幾何学模様を目で追いながら、ぼんやりと考える。
 ついこないだまで、自分達の身に、こんな厄介事が起きるなんて考えてもみなかった。 
 父親の顔は、ほとんど覚えていない。母親は、そんな父に恨み言の一つを零すでもなく、自分達を女手一つで育ててくれた。
 その母親が、死んだ。
 だから、自分達は旅だった。もう、故郷の星にいる理由がなかったから。
 引き留めてくれる人も、少なからずいた。そのことが、メイフゥには意外であった。中には、自分に手酷く痛めつけられたはずの少年がいて、顔を真っ赤にしながら、自分と一緒になってほしいとまで言ってくれたのだ。
 そのときのことを思い出すと、少女の秀麗な顔に苦笑いが浮かんだ。
 あのとき、もしも頷いていたら、自分にはどんな人生が待っていたのだろう。故郷の、草の海に埋もれるような、狭く小さな家々。自分も、母親やたくさんの女達と同じようにその中で、子を産み、育て、そして緩やかに満足しながら死んでいったのか。
 そんなの、ちっとも自分らしくない。それでも、そういう幸せに憧れない女がこの世のどこにいるだろう。

「ああ、こんなの、たかだか十四の女の子、花も恥じらう乙女の考えることじゃあねえよな」

 少し眠ろうと思っていたメイフゥであったが、くだらないことに思いを馳せて目が覚めてしまった。無理に眠ると体が重たくなるから、それは嫌だった。
 如何にも億劫そうな様子で体を起こす。すると、窓の外から鈍い音が響いてくるのに気がついた。
 庭に植えられた灌木の向こうで、燃えさかる赤毛とくすんだ銀髪が踊っている。
 ゆうに頭一つ分は異なる身長の男女──高いのは女のほうである──が、ロッドを手に大立ち回りを演じていた。
 終始優勢なのは、言うまでもないことであるが、女のほうである。インユェは、十分に手を抜いた自分にさえ太刀打ちできない程の実力でしかないのだ。それが、自分を素手で倒してのけるジャスミンに勝てるわけがない。
 どうせ二、三度強かに打ちのめされて、それで終わりだろうと思っていた。
 事実、破れかぶれの打ち込みを容易くいなされたインユェは、無様な様子で踏鞴を踏み、その隙に右脇腹──人体の急所、肝臓がある──を思い切り打ち込まれていた。
 ずん、と、耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響いた。

「え、ぇ、ぇ……!」

 少年は、情けない悲鳴を零しながら、蹲る。
 直後にびしゃびしゃと、吐瀉物の零れる音がした。
 少年の、開け放たれたまま戻らない喉から、人のものとは思えないうめき声が漏れ続ける。伏せられたままの顔が持ち上げることはなく、目の前の地面を見つめたままだ。
 
「どうした、それでお終いか」

 ジャスミンは無慈悲な視線で少年を見下ろし、ロッドを地面に叩き付けるようにした。
 ばしん、と、耳をつんざくような音が、窓ガラスを振るわす。
 まるで、新兵をしごく鬼軍曹そのままである。

「情けない、貴様の姉は素晴らしい戦士だったぞ。その弟だと聞いて少しは期待していたのだが、なよついているのは外見だけではないらしいな。一度死んで、今度は女に生まれなおせ。貴様の器量で女に化ければ、馬鹿な男どもが蝶よ花よと愛でてくれるだろうさ」

 インユェが、蒼白になった顔色をそのままに、ジャスミンを睨み付けた。
 口元に、べったりと吐瀉物が張り付いている。乳白色が僅かに黄みがかっているのは、朝食のミルクと胃液が混ざっているからだろう。
 到底立ち上がれる体ではないだろうに、手にしたロッドを杖代わりに、少年は立ち上がった。足下はふらつき、生まれたての子鹿よりも頼りない様子だったが、それでも少年は立ち上がった。
 呼吸が浅いのが、遠目にも分かる。どう考えてもダメージが回復しているようには思えない。
 普段なら憎まれ口の一つでも返すのがインユェの性分であったが、それすらもない。体の隅々に薄い酸素を送り込む作業で手一杯、無駄口を叩く余裕などどこにもないのだ。
 だが、インユェの前に立つ赤毛の女戦士は、何に感慨を抱くでもない、無機質な視線で少年を見遣り、

「それでどうした。まさか、立ち上がれば褒めてもらえるとでも思っているわけではないだろうな。貴様は、何のために立ち上がった。その、末期の老人の杖のようにしたロッドは、何のためにある。それとも、貴様が殴れるのは、ベッドの中で服従した女だけか」

 インユェの視線に、いっそうの殺気が籠もる。視線だけで目の前の敵を殺せるように、睨み付けている。
 そして、杖代わりにしていたロッドを持ち上げ、上段に構えた。体は震え、手は戦慄き、今にもロッドを取り落としそうな有様で。
 そんな、半死半生の様子の若人に対して、ジャスミンはやはり一切の寛恕なくロッドを構え、再び思い切りに打ち込んだ。
 インユェは、頼りない足取りでその一撃を躱し、がら空きになったジャスミンの頭部に逆撃を叩き込もうとする。
 だが、それすらがジャスミンの誘いであった。
 少年の、おそらくは最後の力を込めた撃ち下ろしを、半身になって躱したジャスミンは、再びがら空きになった少年の右脇腹に痛烈な一撃を打ち込んだ。
 再び響く、鈍く不吉な音。潰れる肉の悲鳴。
 インユェは、もはや呻き声を漏らすことすら出来ずに、その場に崩れ落ちた。
 ダンゴムシのように丸く地に伏せた少年の体が、ぴくぴくと痙攣を繰り返す。
 目が限界まで見開かれ、目玉がこぼれ落ちそうだ。口は、なんとか酸素を取りこもうと窒息寸前の魚のように戦慄くが、肝心の肺が機能を放棄しているから、寸分のガス交換だってできるはずがない。
 分かっていたことだが、勝負ありだ。どう考えても勝ち目のない勝負だったのだ。
 インユェにとっても良い教訓になったはずだった。この世には自分より強い人間など星の数ほどもいて、その中で自分が生きていくためにはどうすればいいのか。無闇矢鱈に牙を見せびらかし、己の威を隠さずに歩けばどういう目に遭うか。それをこの勝負から学び取れないようでは、どうせ長生きは出来ないだろう。
 そう思っていたメイフゥは、窓ガラスに映り込んだ自分の顔に驚いた。
 瞳孔が縦に避け、柳眉が文字通りに逆立っている。鼻の頭に皺が寄り、口が、ほとんど耳まで裂けて、獰猛な牙が剥き出しになっている。硬質な金の髪が逆立ち、親の敵を睨み付けるように窓の外の女性を凝視していた。
 まるで、子猫を守る母猫のような形相だ。
 ああ、あたしは今、怒っているんだな、と、そこで初めて自覚した。
 暫し呆然として、それから窓の外の女性と目があった。
 ジャスミンは、はにかむように微笑んで、片目を瞑って見せた。あんまり怒らないでくれと、そう言われた気がした。
 メイフゥは、赤面した。そも、ジャスミンは本気でインユェを打ってはいない。拳を交えたメイフゥだからこそ、ジャスミンの実力は嫌と言うほどに理解している。もしもあの人が本気でロッドを打ち込んだならば、一撃で肝臓が破裂して、インユェは彼岸へと旅立っているはずだ。
 十分に手加減して、きかん坊の弟を躾けてくれているのである。感謝こそすれ、怒るなど見当違いも甚だしい。
 メイフゥは、肩を落として小さくなってしまった。
 それを確かめたジャスミンは、少しだけ安心したように息を吐くと、自分の足下で蹲っている少年に向けて、

「さて、もう終わりかね、少年」

 少年は、答えない。そも、聞こえているのかすら確かではない。
 インユェは、その声を聞いていた。しかし、その声を理解することは出来なかった。
 体の中を、単一の、そして圧倒的な感覚が支配していた。
 痛みである。
 脇腹で爆発したそれが、無数の茨となって全身の血管を引き裂いているのだと思った。自分が今、人のかたちをしていないのではないか、無数の肉片に分かたれているのではないかと疑った。
 目を見開いているというのに、すぐ目の前にある芝生が理解できない。その緑が、脳に情報として伝わる遙か手前で、痛みによってかき消されてしまう。
 ならば、ジャスミンの声など、インユェに理解できるはずがないのだ。
 ジャスミンは、肩を一つ竦めた。彼女には似合わず、なんとも後味の悪そうな顔だった。

「足手まといだな、貴様は。もう無理することはない。この家でゆっくりと休んでいろ。ヤームルという御仁とウォルは、わたしと貴様の姉が連れて帰ってくる。約束する」

 ジャスミンは、少年の肩に優しく手を置いた。
 少年の体が、ぴくりと、怯えるように動いた。

「心配はいらん。ウォルも、一筋縄ではいかない男……いや、少女だ。彼女の同盟者であり婚約者である少年からしてそうだからな。ただ大人しく捕まっているとも思えない。わたしの夫もそうだ。上手くすれば救出どころか、反撃だって可能だろう」

 その言葉に対して、インユェの反応は劇的であった。
 がばりと、顔を起こす。
 苦悶の汗に塗れ、屈辱の涙に塗れ、鼻水と涎と吐瀉物に塗れた、ちっとも美しくない顔だ。
 蒼白の顔だ。
 それが、僅かに赤らんでいた。頬のとある一点を中心に、少しずつ、しかしはっきりと。
 ジャスミンは、内心だけで僅かにたじろいだ。もう二度と動かないと思っていた、死体のような少年が動いたのだ。しかも、紫色の瞳には、自分に対する敵意ではない、猛烈な敵意が浮いている。
 自分ではない誰かを見ながら、痛みすら忘れる程の殺意をその瞳に宿している。

「……な……て……た……」

 唇が、蝶の羽音よりも小さく、儚く震える。

「……なんだと?」
「いま……なんて……いいやがった……」

 かすかな声だった。
 かすかな声のはずなのに、鼓膜を突き刺すような声だった。
 同時に、インユェの蝋人形じみた指が、ジャスミンの軍用ブーツを掴む。
 頑丈だけが取り柄の、軍用ブーツである。掴まれたくらいでは何の痛痒も感じない。
 にもかかわらず、分厚いブーツ越しに感じられる細い指先が、そのまま足首の骨に食い込んでいるような、不気味な感触をジャスミンは味わっていた。
 そして、気がついた。
 少年の表情だ。
 哀れを乞うように顰められていた幼子のそれが、誇りを傷つけられた男のそれに変じている。
 そんな表情を浮かべる男のことを、ジャスミンは知り尽くしていた。
 昔、彼女が所属していた軍の猛者の中に、今の少年と同じ顔をして、上官と決闘した阿呆がいた。
 自分の女を賭けて戦う、男の顔だ。
 そして、先ほどの自分の台詞を思い出す。
 
 ──ああ、なるほど、そういうことか。

 少年の内心に理解の追いついたジャスミンは、出来るだけ人の悪い、悪辣な声で、言ってやった。

「そうか、君は知らなかったのか。あの少女にはな、すでに婚約者がいる。わたしもよく知る、素晴らしい少年だ」

 インユェの顔に、赤みが広がっていく。
 死にかけだった瞳に、色が宿っていく。
 嗚咽を漏らすだけだった口から、歯を食いしばる音が聞こえてくる。

「強いぞ、その少年は。わたしよりも強い。わたしも、何度も命を助けられた。力だけではない。本当の意味で強い少年だ」

 ──それは、君よりも、な。

 無言の声が、インユェの誇りに傷をつけた。

「そして、美しい少年だ。彼がウォルと二人で歩けば、それはそれはお似合いだろうさ。一度だって見たことがないが、さぞ目の保養になるだろうな」

 ──それは、君とウォルが一緒にいるよりも、な。

 無言の声が、インユェの誇りに傷をつけた。

「彼らは、わたしたちなどには想像もつかない、深い絆で結ばれているらしい。今まで、幾度となく背中を守り合って戦ったと聞いている。無二の友だと、最高の同盟者だと。ならば、そんな二人が結ばれるのは神様が定めた運命だと思わないか?」

 ──だから、君はウォルとは結ばれないのさ。

 無言の声が、インユェの誇りに、特大の傷をつけた。
 
「だから、君は眠っていろ。ウォルの婚約者たる少年も、じきにこの星に到着するだろう。ウォルがさらわれたと聞けば、髪の毛を逆立てて怒るだろうからな。そうすれば、いかなる敵であってもものの数ではない。あっという間にウォルを取り返してくれるさ。別に、君がいてもいなくても同じことだ」
「……そうかい……あいつには……婚約者が……いたのかよ」

 少年は、呆気なく、ジャスミンのブーツから手を放した。
 握るものを無くした掌が、宙で、如何にも中途半端に開かれたまま戦慄く。
 そして、握りしめた。
 その拳を地面に突き、顔を上げた。
 もう片方の手で、取り落としていたロッドを掴み、膝に活を入れ、無理矢理に伸ばそうとする。
 痛みは、まだ彼の体を支配しているだろう。
 それでも、無理矢理に立ち上がる。このまま眠っているなど冗談ではない、というふうに。

「その婚、約者とかいう、野郎が、ウォルを、あの雪山に、一人、置き去りに、しやがった、のか」

 ぎりぎりに立ち上がった少年は、膝に手を突き、うつろな視線で、斜めの地面を睨み付けている。
 呼吸が荒い。口の端からは、血の混じった涎がだらだらと垂れている。
 唇の端を、噛み切っているらしかった。
 
「あいつの体、信じられないくらいに冷たかったんだぜ、もう、絶対に助からねえって思った、でも、絶対に助けなきゃって思った、びっくりするくらいに軽かったんだ、あいつの体……」

 熱に浮かされるように、ぶつぶつと、言葉を紡いでいく。
 ジャスミンは、一言も言わない。
 突き放すでも受け入れるでもなく、じっと少年を見つめている。
 やがて少年が、ロッドを構えた。
 手は、やはり震えている。足下は覚束ない。痛打を受けた脇腹を庇うような、情けない構えだが。
 少年は、構えた。戦う意志を見せた。
 少年が、戦おうとしていた。
 それを見ていた少年の姉は、ほとんど泣きそうになった。顔を滑稽に歪ませて、瞳の奥から熱い塊が漏れ出しそうになるのを、必死で堪えていた。

「あいつを拾ったのは俺だぜ。なら、あいつのご主人様は俺なんだ。なら、俺が、俺の奴隷を、ウォルを助けないで、誰が助けるってんだよ。俺を抜きにしてあいつのことを語るんじゃねえ。婚約者だと?いいじゃねえか、そんなやろう、俺が叩きのめしてやる!」
「いいだろう。やせ我慢でもそこまで啖呵を切れるなら大したものだ。わたし好みだよ、少年」
「少年じゃねえ、インユェだ!」
「言わせてみろ!」

 そして、メイフゥは二人から視線を外した。これ以上、涙を流さずに弟の姿を見ることができなかったからだ。
 カーテンを閉め、弟の雄叫びから耳を塞ぐようにして、ベッドに寝転がった。
 再び見上げた天井の幾何学模様は、奇妙に滲んで、なんとも見にくかった。
 
「あーあ、情けないったら。これでも、故郷じゃあ冷血無比でならしたつもりだったのになぁ」

 僅かに滲んだ涙を指で拭い、かすれた笑みを浮かべる。
 そうか、こうすればよかったのか。
 今まで、何度となく痛めつけてやった。そうすれば、いつかは自分を跳ね返してくれるのだと期待して。あの時、食料の尽きた極限状態の船で、殺すつもりで襲いかかってもみた。なのに、弟はやられっぱなしで、少しだって自分の思うとおりにならなかった。
 それが苛立たしくて、余計にきつく当たってしまう。その繰り返しだ。
 インユェから戦う術を奪ったのは、自分である。だから、あの子には、できるだけ強くなって欲しかった。
 せめて、今のままの姿で、一人でも生きていくことができるように。
 
『誰にも登れないほどの高みに成っている果実を、強引にもぎ取ろうとするのは馬鹿の仕様です。ただひたすらに果実が落ちてくるのを待つのは、間抜けの仕様です。どうすれば安全に、そして迅速に果実を我がものに出来るか、そのことにこそ頭を悩ませなさいませ』

 育ての親の声が、メイフゥの耳に蘇るようであった。
 そうか。最初からこうすればよかったのだ。
 いや、最初も何も、これはインユェが、あの少女を拾ってきたからこそ為せる方法で。
 好いた雌を守ろうとするのは、奪い取ろうとするのは、雄として当然の本能ではないか。
 ああ、あのやせっぽちのはな垂れ餓鬼も、一応は雄だったんだなあ。
 メイフゥは、泣き笑いのような表情で天井を見上げていた。
 天井に、故郷の、草の海が映り込むような気がした。
 さわさわと、耳朶をくすぐる風の囁き。
 背が、草にしみこんだ夜露で濡れる。見上げる蒼天はどこまでも深く、いつの間にか落ちてきているような、浮かび上がっていくような、奇妙な感覚。
 無限に続く、緑の絨毯。白く小さな、自分達の住処。

 暗闇。

 赤々と、不吉な明るさを帯びた満月。
 血に狂った、狼の群れ。
 どうしてこんなことをしてしまったのか。
 無限の後悔が、足首を掴んで、上手く走ることができない。
 大人には内緒で、弟を連れ出してしまったのだ。
 蛍を見てみたいと、そう乞われたのではなかったか。
 一年の半分を床で過ごす、体の弱い弟だ。
 自分に残された、最後の肉親だ。
 自分が死ぬのは構わない。
 でも、小さな弟が死ぬのは、どうしても我慢ならなかった。
 だから、戦ったのだ。
 無我夢中で戦った。
 初めて、自分がどういう生き物かを知った。
 殺すということが、どれほど恐ろしいことかを知った。
 溢れだした血が、生暖かくて、でもすぐに冷たくなることも知った。
 
『おねえちゃん、こわい……』

 弟の、紫色の瞳が、怯えていた。
 紫色の瞳の中で、血に塗れた自分が、嗤っていた。
 すごい顔で、血に酔って、舌なめずりをしながら。
 嗤っていた。
 ああ、インユェ。
 頼むから。
 お願いだから。
 わたしを、おねえちゃんを、そんな目で、見ないで。

 どれほどそうしていただろう。少女は、ほとんど白昼夢を見ていた。
 懐かしい夢を見ていたのだ。
 彼女の、一番深いところにある頑丈な箱の、その一番奥に仕舞い込んだ、思い出だった。
 最近は、見ることの無かった悪夢である。
 悪いのは、自分だ。悪い自分の、夢だった。
 息を荒くついたメイフゥは、頭の奥に蟠る頭痛を抑えるように、額に手を当てていた。
 その時である。
 隣室の片隅に置かれた小さな機械装置から、軽快な電子音が鳴り響いた。そして直後に、電子音よりも遙かに軽やかな、女性の声が聞こえた。

「ジャスミン?ちょっと、ジャスミン、いないの?」

 我を取り戻したメイフゥは、素早く窓まで駆け寄り、身を乗り出すようにして叫んだ。

「お姉様、電話だぜ。朝方の、例の女の人からだ」
「了解した。すぐに行く」

 そう言ったジャスミンの足下には、大の字に寝転んだインユェがいた。
 ぜいぜいと息は荒いが、その眼は十分に生きていた。まだ、戦う意志で充ち満ちていた。
 喘ぎつ途切れつ、必死の有様で言った。

「逃げ、るの、かよ、くそ、おんな……」
「毒づくのもいいが、もう少し息を整えてからにすることだ。ちっとも腹が立たないぞ、そんな様子ではな」

 ジャスミンが僅かに笑いを含みながらそう言うと、インユェは舌打ちを一つ漏らして黙り込んでしまった。
 起き上がる気配はない。
 ジャスミンは、それを叱咤しなかった。先ほどから、かなり力を込めた攻撃を何度も叩き込んでいるのだし、それでも食らいついて反撃してくる少年には驚かされもした。
 これなら、戦える。少なくとも、己の死を、他人の死を、己の責任として背負い込むことができるだろう。
 今は、少し休ませてやろうと思ったのだ。
 ジャスミンが部屋に戻ると、居間に置かれた大型テレビいっぱいに、美しい女性のかたちが映り込んでいた。
 ふわふわとして色の明るい金髪、澄んだ青色の瞳、きりりと引き締まり豊かな知性を感じさせる顔立ち。しかし口元は花のように綻び、彼女の母性を感じさせる。
 そのことを彼女に伝えれば、いったいどんな顔をするだろうか。自分は機械で、母親になることなどありえないのだから、母性が備わっているという表現は論理的ではないと一刀両断するかも知れない。
 それは、見紛う事なきケリーの相棒、ダイアナ・イレブンスの姿であった。

「あら、ご機嫌そうじゃない、ジャスミン」

 画面上のダイアナは、きちんとジャスミンのほうに視線を寄越してから、楽しげに言った。
 よく見れば、テレビの上方に、小さなカメラが取り付けられていた。双方通信用のお粗末なカメラだが、ダイアナにしてみればそれで十分なのだろう。

「ああ、ご機嫌だとも。蛹が脱皮する瞬間というものは、なんだって心が躍るものだ。それとも、食玩の箱を開ける瞬間、といったほうがいいかな。いったい何が飛び出してくるか分からないというのは、どきどきしていいな。若さが戻ってくるようだよ」
「そう。ジャスミンはああ言ってるわ、メイフゥ。あなたの弟さんって、なかなか素敵なんじゃないの?」
「はん、あれはただのちびがきで、まだまだ尻の青いひよっこさね」

 ひよこの姉が、ほんの少しだけ、嬉しそうに言った。
 
「おや、自己紹介はもう終わっているらしいな」

 意外そうなジャスミンの声に、メイフゥが頷く。

「ああ。この美人さんが感応頭脳だってのが、まだ納得できねえがよ」
「あら。それを言うなら、あなたみたいな可愛らしい女の子がケリーとジャスミンを追い詰めたなんて、わたしだって納得できないわよ」
「そうかい?じゃあ思い知らせてやろうか……って、流石に宇宙船と生身で喧嘩はできねえよなぁ」

 メイフゥがなんとも残念そうに言うので、ジャスミンは吹き出してしまった。
 どうやらこの少女は本当に力比べが好きらしい。彼女くらいの年代であれば、普通は色恋やらおしゃれやらで頭がいっぱいのはずなのに、なんとも不思議な少女だ。それに、ダイアナが感応頭脳だと即座に納得できるあたり、現実対処能力も高い。
 まだ幼さの残る少女であっても、戦力としては十分以上に合格点であった。

「で、ダイアナ、いったい何の用だ」
「つれないわねぇ。用がなきゃお話の一つもできないの?」
「そうだな、お前からのお茶のお誘いなら喜んで受けたいところだが、その時はもう少し目を楽しませてくれるような格好でいて欲しい。今みたいな格好では、折角の美人が台無しだ」
「そうかしら。これはこれでお気に入りなんだけど」

 ダイアナはそう言って、自分を包む装束を見た(……という映像を作り出した)。
 今、ダイアナのほっそりとした肢体を包み込んでいるのは、彼女の瞳と同色のきらびやかなドレスでもなければ、普段の彼女の好むぱりっとした船員服姿でもない。
 頭には無骨な軍用ヘルメット、体には野戦用の迷彩スーツを身に纏い、白皙の頬には泥でペイントが為されている。
 今からジャングルに飛び込む女性兵士のような、物々しい出で立ちだった。

「なんでもまずは形からっていうじゃない。気分よ、気分」

 うきうきと、これから買い物に行く少女のような表情で、ダイアナは微笑んだ。
 こうなると、ジャスミンは苦笑するしかない。

「そんな姿のお前が最前線に出張らなければならない戦いは、すでにこちらの負け戦だよ。で、その格好でお茶のお誘いでもないだろう。本題は?」
「今朝方あなたに依頼されてた件よ」

 ジャスミンの顔、にわかに引き締まる。
 瞳が、わずかに金色の輝きを帯びた。

「何か分かったか」
「昨日の夜、確かにヴェロニカ陸軍の特殊部隊に出動命令が出されてるわ。あなたの聞いたとおり、命令系統は通常のそれ。要するに、兵隊さん達は正式な任務の一環としてウォルを捕まえようとしたの。そのこと自体に疑わしいところは無かったってことね」
「全てが疑わしすぎることを除けばな」
「命令の発信源を辿ってみたけど、ヴェロニカ陸軍の司令官あたりがきな臭いわ。どうしてそんなお偉方が、あんな少女一人を手に入れようとしたのかも含めてね」
「どうせ、そいつの思惑ではないだろうさ。どこかで横車を押す馬鹿がいたか、それともそんな馬鹿の歓心を買おうとしたか、そんなところだろう」
「それでも、末端の兵隊さん全員を相手取るよりは遙かに効率がいいでしょう。ターゲットの一人として認識しておいた方がいいんじゃない?」
「無論だ。徹底的に締め上げてやる」

 まるで、生活指導の教師が不良学生を相手にするような台詞である。
 仮にも一国の軍隊のトップを相手にして言う台詞ではない。

「ついでに、あらためてウォルの犯罪歴を調べてみたの」
「どうだった」
「もう、出るわ出るわ。ここ数年の未解決テロ事件のほとんどの首謀者が、彼女っていうことになってたわ。大量殺戮の愉快犯で、武器麻薬人身売買何でもござれの闇商人。よくぞここまで悪人に仕立て上げたと感心するくらい、とんでもない人物像になってるわ。わたしの名誉のために言っておくと、昨日は間違いなくそんな記録はどこにも、この星のコンピュータのどこにも存在しなかったのにね」

 ジャスミンは痛烈な舌打ちをした。
 昨日の晩の段階で、ウォルの身の上は、完全無欠に清廉潔白なものだった。それが、一晩でこの有様である。
 第一、ウォルはついこないだまで、この世界には存在しない人間だったのだ。その彼女が、どうしてそんな華々しい犯罪歴を拵えられるというのだろう。

「馬鹿な。まだ十四歳の女の子だぞ、あくまで連邦政府の形式上ではだが」
「超の付く天才児が、遊び半分で犯罪組織をまとめ上げ、世間を震撼させるテロ事件を演出した。あなたの寝ている間の事件だから知らないのも無理はないけど、そういうことも実際にあったのよ」
「それは知っている。だが、何のためだ。どうしてウォルを極悪非道の犯罪者に仕立て上げる必要がある?もう、彼女は奴らの手の中だぞ。今更そんな記録を偽造する意味があるとは思えないが」
「自分の手の中にあるから、なんでしょうね。よく分からないけど、彼女を何かに利用するつもりなんでしょ。そのためには、あの子が超極悪人で、どんな扱いをしてもいいような身の上でないと都合が悪かった。そんなところじゃないの」

 もう一度、ジャスミンは力一杯に舌打ちをした。
 ダイアナの予想は尤もだ。そして、その予想から導き出されるありとあらゆる未来図は、そのいずれもが心温まるとは言い難い、曇天色のものでしかなかった。

「ちなみに、三人の行方は追えないのか」
「駄目ね。ケリー達を拉致した車は追跡できたのだけれど、いつの間にか中身がごっそりと変わっていたわ。今はヴェロニカシティのレンタカー会社の倉庫の中よ。今さら調べても、何の痕跡も残ってないでしょうね」
「途中で乗り換えたか」
「多分ね。何度かトンネルを走っていたから、その途中だと思うわ」
「乗り換えた車の追跡はできなかったのか?」
「無茶言わないでよ。そんなことしたら、あの時間にあの道路を走っていた全ての車の追跡をしなくちゃいけないわ。わたしは百目の怪じゃないんですからね!」

 画面に映った美人は、唇を尖らせて拗ねてしまった。
 ジャスミンは、別にご機嫌取りの言葉を用意したりはしなかった。
 一人難しそうな顔で考えていると、横から声をかけられた。

「なぁ、お姉様よう。このべっぴんさん、どうやって軍隊の命令の発信源なんかを辿ったんだい?まさか色仕掛けか?」

 ジャスミンは目を丸くした。

「……どうやったら、感応頭脳が人を色仕掛けできるんだ?」
「いや、この姉さんなら十分にできそうな気がするんだけど……。実際に顔を合わさなくても、この調子でしなの一つでも作ってやれば、ころりといく男はいくらでもいそうだぜ」
「あら、嬉しいことを言ってくれるじゃない、メイフゥちゃん。お姉さん、とっても嬉しいわ」

 画面の女性が、百点満点の笑顔を浮かべた。

「でも、そうじゃないの。わたしは人間の男性よりも、感応頭脳のほうにファンが多くてね、そっちを誘惑する方が得意なのよ」
「なるほど、軍の感応頭脳をたらし込んだってわけか」
「あなたみたいに可愛らしい女の子が、下品なことを言うものじゃないわ。正式にお誘いして、丁重にお願いしたら、快く色んなことを教えてくれたのよ」
「よく言う……」

 彼女のお願いが、他の感応頭脳にとっては所有者の命令よりも強烈なことを知り尽くしているジャスミンが、呆れながら呟いた。
 その呟きが聞こえていただろうに、おそらくは意図的に無視したダイアナが、感心しきりのメイフゥに向かって語りかける。

「あなたも、この機会に何か調べておきたいこととかないの?好きな異性のプロフィールとか、なんでもござれよ?」
「いや、そういうのは別にないんだけど……」

 ジャスミンは『それは法に抵触しているぞ』という当たり前の一言を飲み込んだ。正しく今更のことだったからだ。
 そんな彼女を尻目に、ダイアナとメイフゥの、初対面とは思えないほどに気安い会話が繰り広げられている。
 
「実は、一つお願いしたいことがあってよ」

 メイフゥが、目尻を下げながら、なんともだらしない顔で言った。

「何?あなたみたいに可愛らしい女の子のお願いなら、わたしにできることだったら何だって引き受けちゃうけど?」

 メイフゥは、ごそごそとズボンのポケットをまさぐり、中から小さなケースを取りだした。
 黒く頑丈そうなそれを開くと、中には小さな記録チップが入っていた。

「それは?」

 興味深そうに、ダイアナが問う。

「いや、こないだ親切な人からもらったんだけどよ、あたしの腕じゃあロックが解除できないんだ。金儲けに繋がりそうな匂いがぷんぷんしてるんだけど、これじゃあ生殺しだぜ。あんたなら、こいつの解除くらいお茶の子さいさいじゃねえかと思うんだが、どうだい?」
「おかしなことを言うわね。親切な人にもらったんなら、その人に解除パスも聞けばいいじゃない」
「それが聞けねえからこうして頼んでるんじゃねえかよ。けちけち言わずに、な、頼むよ」

 メイフゥは両手を合わせて、画面に映る美女に向けて拝み込んだ。
 いったい、どういう経緯でその親切な人と出会い、そしてどういう経緯でそのチップを譲り受けたのか。叩いてみれば、目の前が真っ白になるほどの埃が舞い上がるに違いなかった。
 だが、荒事には慣れっこのダイアナであり、ジャスミンである。深くは追求しなかった。
 
「どうする、ジャスミン?」
「そうだな……。どうせ今すぐに動ける状況でもなし、その程度であれば構わないんじゃないか?あまり時間がかかるようなら後回しにすればいい」
「……分かったわ。半時間だけやってみて、駄目ならこの騒動が終わるまでおあずけ。それでいい?」
「やたっ!話が分かるぜ姉さん!」

 いつの間にか姉さん扱いをされてしまった感応頭脳は、呆れたような表情を作りながら、ジャスミンとメイフゥの後ろにあるパソコンを指さした。

「その中に入れて頂戴。あとはこっちで勝手にやるから」
 
 連邦宇宙軍の統制コンピュータですら苦もなくハッキングするダイアナであるから、どれほど難解なパスがかかっていようとものの数ではないだろう。おそらく、お茶でも飲んでいるうちに解除が終わるはずである。
 いそいそとパソコンにチップをセットするメイフゥを尻目に、ジャスミンは台所に行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出して、直接呷った。火照った、そして空っぽの胃に冷たい温度が流れる感触は、何度味わっても飽きることがない。
 その時、がちゃりとドアの開く音が聞こえた。そして、ゾンビのように足を引きずりながら、誰かが部屋に入ってくる。きっとその顔は、下手なゾンビよりはさらに血色が悪いに違いなかった。
 その誰かのために、ジャスミンはもう一本のボトルを冷蔵庫から出した。きんきんに冷えて、胃の奥から体を冷やしてくれそうなやつだ。
 キッチンからジャスミンが戻ると、泥と汗に塗れた少年が、崩れ落ちるように椅子に腰掛けた。
 そして、地の底に住まう亡者のごとき声で、言った。

「み……みず、みず……」

 ジャスミンは無言で、インユェの前にボトルを置いてやる。
 まるでゴム紐の弾けるような勢いで体を起こしたインユェは、震える手ももどかしく蓋を開けると、猛烈な勢いで水を飲み下していく。口に収まりきらなかった透明な液体が、口の端から零れていくのにも気がついていないに違いなかった。
 貪るような有様の少年は、自然と噎せた。思い切り噎せた。あんな様子で水を飲んで、気道にいかないほうがおかしいのだ。
 げほげほと盛大に咳を吐き出し、悶絶する少年に、二人の女傑は溜息と苦笑いで応じた。

「まったく、ちったあましになったと思ってみれば、ちっともいけてねえなぁ」
「千里の道も一歩からと言う。まぁ、今日はこんなものだろう」

 収まりかけているとはいえ、まだ咳き込んでいたインユェに、二人の声は届かない。
 涙の浮かんだ顔を起こしたときには、いつもと同じように冷ややかに自分を見つめる姉の視線を見つけただけであった。

「なんだよ。なんか文句でもあんのかよ」
「……お前なぁ。その可哀相な脳みそに、少しは教訓ってやつを叩き込んどけよ。つんけん尖るのもけっこうだがよ、時と場合によっちゃあ寿命が縮まるぜ、それじゃあ」
「ふん、下げたくもない頭を下げてへぇこら生きるより、そっちのほうが何倍もましだとおもうがね」
「がきの考え方だ、そいつは」
「んだとぉ?」
「ちょっと、楽しそうなところ悪いんだけど」

 横合いから声がかかる。
 人心地のついたインユェが視線を横にやると、大型のテレビ画面いっぱいに映り込んだ佳人が、呆れたように自分を見ていた。
 ふんわりとした金色の髪、透明感のあるブルーの瞳、柔らかで整った輪郭。
 瞳には深い知性が宿り、しかし男の甘えをくすぐるような悪戯っけも忘れていない。
 紛れもない、極上の美人だ。だが、今のインユェにはどうでもいいことだった。今の彼の心は、ただ一人の少女の持ち物だったのだ。
 それでも、なんとも残念な格好だな、とは思った。画面に映り込んだ女性は、まだ、例の迷彩服姿なのである。もう少し見栄えのする衣装を着ていれば少年の抱く感想も違ったものになったかも知れないが、こんな色気のない服では、少年の心を射貫くには華不足だったようで。
 インユェは、いかにも訝しげな表情で姉のほうを振り返り、画面を指さしながら、
 
「そういえば姉貴よ、こっちの胡散臭いのは何者だよ。あの女の仲間か何かなのか?」
「あら、胡散臭いとはお言葉ね。これでもダイアナ・イレブンスっていう立派な名前があるんですからね。失礼しちゃうわ、まったく」

 画面の女性が、頬を膨らませながら言う。
 媚びるようではないのに、しかしどこまでも男心を虜にするであろう、女性の表情だ。世の男性の大半は、この表情を見ただけで、画面の女性に恋してしまうに違いなかった。
 だが、例外というものは何事にもあるようで。
 ダイアナを見ていたインユェは、いっそう眉を顰めて、

「……やっぱり胡散臭え。なんか、年増の婆が一生懸命若作りしてるような、そんな感じだぜ」

 ぴしり、と、画面上の女性の表情が、固まった。
 まるで、パソコン画面がフリーズを起こしたような、見事な有様で。
 それでもやがて、ぎぎぎ、と、油の切れた歯車みたいな音をたてるようにして、女性の表情が変わっていく。
 頬が持ち上がり、目がにこやかに細められ、笑顔と呼ばれるかたちになる。
 しかし、勘違いしてはいけない。というよりも、こういう場合の女性が本当に笑っていると思える男性は、一生結婚できないか、それとも長生きできないか。
 なんとか平静を装ったダイアナは、口の端を引き攣らせて、怖いもの知らずの若者に語りかける。

「やぁねえ、こんな綺麗なお姉さんをつかまえて、年増の婆だなんて、心にもないこと言っちゃって。照れ隠しもほどほどにしておかないと、可愛くないわよ?」

 意訳するならば、『その臭い口を閉じて二度と開くな殻の取れないひな鳥が。けつの穴から手を突っ込んで奥歯をへし折るぞ』であるが、年若いインユェは、勇敢、それとも無謀、おそらくは鈍感であった。
 挑発的に眉を顰めてやり、からかうような口調で言った。

「はっ、そういうしゃべり方が気色悪いって言ってるんだろうが。なんつーか、古くせえんだよ、あんた。一世代前の家電製品か、それともジャンク屋に転がってる、パーツ取られた後の宇宙船みてえだぜ」

 女性を評するには、なんとも風変わりな形容である。その点、船に乗って宇宙を駆けることに青春を費やしていたインユェは、普通の少年とは感性が若干ずれている。
 普通の女性であれば、的の外れた罵詈雑言に、かえってやる気を削がれてしまったかも知れない。
 だが、この場合、彼の口調は極めて効果的に対象者の心を抉った。この上なく効果的と言っても良かった。何せ、彼の話している相手は、本物の機械であり、そして宇宙船の感応頭脳であるのだから。
 先ほどと寸分変わらない笑顔を浮かべたままのダイアナが、煮えたぎるマグマを押さえつけたような、灼熱を感じさせる声で呟いた。

「い、一世代前の家電製品……ジャンク屋の宇宙船……」

 常に時代の最先端の性能を維持することが、自身の存在証明であるといっても過言ではないダイアナである。そして、世間の三世代は先を行くと謳われた超頭脳を誇るダイアナである。
 その彼女に対して、ポンコツと言ってのけたのだ。
 これほど屈辱的な台詞は他にはない。
 然り、彼女の怒りを表すように、画面に映ったダイアナの画像が、一瞬だが、しかし激しく乱れた。
 インユェは、それがただの電波障害によるものだと思った。
 残りの二人はそうは思わなかった。
 ダイアナのことをよく知らないメイフゥですらが、顔を引き攣らせて腰を浮かせた。いつでも逃げ出せる準備だ。
 そして、ダイアナのことを、おそらくはこの世で二番目に理解しているであろう女性──少年の向かいに腰掛けていたジャスミンが、あめ玉を飲み込んでしまったように目を丸くして、目の前の少年をまじまじと見つめながら一言。

「……少年。悪いことは言わん。死にたくなかったら、さっさと土下座するなり裸踊りを踊るなりして謝れ。平身低頭して罪を詫びろ。そうすれば、まだ間に合うかも知れん」
「ああ?なんで俺が、こんな得体の知れねえ女に頭を下げなきゃならねえんだよ」
「ねぇ、ジャスミン。その部屋、少し蒸さない?」

 映像のダイアナが、胸元のシャツを引っ張り、手で顔を扇ぎながら、普段と寸分変わらぬ口調で言った。
 困ったような、楽しむような声だ。
 そして、その瞳には紛れもない危険信号が点っている。
 その蓋を開けてみれば、いったいどのような魑魅魍魎が牙と爪を研いでいるのか。
 ジャスミンのこめかみを、冷たい汗が伝った。
 安全装置の外れた銃口を、突きつけられた感覚に近い。
 ジャスミンが、慌てて何かを口にしようとしたが、しかしダイアナはその暇すら与えずに、

「そうだわ、きっとそのおうち、風通しが悪いのよ。でも大丈夫、今からたっぷりと風通しを良くしてあげるわ」
「やめろ、ダイアナ!」

 制止するジャスミンの声と重なるようにして、じゅ、と何かの焦げる音がした。同時に、インユェの目の前のテーブルから白い煙が立ちのぼった。
 嫌な臭いが鼻をつく。
 はて何事かと思って見てみると、テーブルに、小さな円形の穴が開いていて、その周りが黒く焦げているのだ。
 穴を覗き込むと、ちょうど真下、床にも同じサイズの円形の穴が開いていた。
 もしやと天井を見上げると、やはりテーブルに開いた穴のちょうど真上に、同じサイズの穴がある。優れて視力の良いインユェは、穴の先に青く澄んだ空を見た。
 つまり、屋根から床に至るまで、一直線に、奇妙な穴が穿たれているのだ。
 はて、先ほどまで、こんな穴があっただろうか。
 これは何だろうと首を傾げる。

「なんだ、こりゃ?」
「動くな、馬鹿者!」

 再び、じゅん、と、湯が沸き立つような音が聞こえて、テーブルに穴が開いた。
 今度は、少年のすぐ横、顔の真下にほど近い場所である。
 やはりテーブルの真下の床にも、ほぼ同程度の小さな穴が開いており、天井にも同じような穴が開いている。
 先ほどと違うことと言えば、ただ一つ。室内を、髪の毛の焦げた嫌な臭いが満たし、少年の銀髪が数本、焼き切られて宙を舞ったことくらいであろうか。
 きょとんと表情の抜け落ちた少年は、しかし次の瞬間、自分の置かれた状況に気がついた。

 ──狙撃されている!
 
「わ、わぁぁっ!?」

 もうぴくりとも動けないと思っていた乳酸塗れの体は、意外なほどに敏捷に反応した。具体的に言うと、インユェは思い切り後ろにひっくり返った。
 椅子が床にぶつかる盛大な音が室内に響き、埃が一緒に舞い上がる。
 インユェは、這うようにして部屋から逃げようとした。その後で部屋に残されるであろう二人の女性のことなど、毛頭気にかけない有様である。
 あたふたと四肢を動かし、地を這うオオトカゲみたいに間抜けに、しかし本人からすれば至って真面目に逃げようとしたインユェの鼻先で、またしても直径二センチほどの穴が、無慈悲に穿たれた。
 
「ひ、ひぃぃっ!?」

 方向を変えて、かさかさと這い逃げる。手足が不規則に動く。これなら、木から落ちたナマケモノのほうが、幾分機動的かも知れない。
 だが、本人は間違いなく必死だ。
 そんなインユェを嘲笑うかのように──事実、いたぶりながら、彼の逃げ道の先に穴が開く。
 じゅん、と、粟立つような音が聞こえたと思うと、蒸発した木材の形容しがたい臭気が鼻をつくのだ。
 弾丸ではなく、超高出力のレーザーによる、成層圏からの狙撃である。
 少し着弾点がずれていれば、彼の命をあっさりと奪うであろう、一撃だ。
 腰を抜かした少年は、四つん這いの姿勢からへなへなと後ろに崩れ、だらしなく足を投げ出した状態で座り込んでしまった。
 恐怖に意識を失いかけた少年。だが、最後の藁にしがみつくようにして、叫んだ。

「お、お姉ちゃん!た、助けて!」

 困ったときの姉頼みである。先ほどまで、姉や、姉以外のもう一人の女性のことなど忘れて、我先に逃げだそうとした少年の言葉とは思えない。
 一部始終、少年の様子を見守っていた彼の姉は、たっぷりと呆れを含んだ溜息を吐き出して、

「だから言ったろうが、つんけん尖るのもけっこうだが時と場合によっちゃあ寿命が縮まるぜ、ってよ」
「な、なんのはなしだよっ!」
「何で自分だけが狙撃されてるか、考えてみ」

 そう言われて見てみれば、メイフゥもジャスミンも、平然と椅子に腰掛けている。
 当然のことではあるが、二人の周囲に狙撃された様子はない。先ほどから狙い回され、醜態を晒しているのは、自分だけだ。
 これはどういうことかと辺りを見回すと、必死に笑いを堪えた表情で自分を見る、画面の女と目があった。
 直感的に、インユェは理解した。どういう理屈か知れないが、自分を狙撃したのはこの女なのだと。
 その瞬間に、先ほどまでの恐怖を上回る、羞恥と怒りがインユェの顔を赤らめた。

「て、てめえか、このポンコツ女!」

 癖というよりは、もはや生態と評した方が正確かも知れないインユェの暴言。
 対するダイアナからの返答は、へたり込んだ少年の、股間の数ミリ先への狙撃であった。
 木材の焦げた臭いに、繊維の焦げた臭いが混じる。
 少年のズボンの、股間の継ぎ目の部分が、焦げて穴が開いていた。少しずれていれば、少年の男性自身が一生役に立たなくなっていたことは明白である。
 少年の口が、ぱくぱくと、呻き声すら漏らすことなく上下する。
 
「ごめんなさいねぇ。最近はあまり整備に裂く時間が無くて、システムの一部が暴走しちゃってるみたい。これじゃ、ジャンク呼ばわりされても返す言葉もないわよねぇ」

 冗談ではない。いったいどうすれば、システムの不具合程度で自分が狙撃されなければならないのか。だいたい、ここまでの精度で誤射が起こる可能性が、どれほどだというのか。
 どんなに愚かな人間でも、今のダイアナの言葉を額面通りには受け取らないだろう。

「それに、最近は弾道計算もミスが多くなっちゃって……。これじゃあ、感応頭脳失格だわ。だって、いつ手元が狂って、人間を殺しちゃうか分からないんだもの」

 にこやかな、この上なく嬉しそうな顔でそんなことを言う。
 この時点で、遅まきながら──本当に遅まきながら、インユェは悟った。目の前の女性は、姉か、それとも先ほど散々自分を痛めつけてくれた女と、同じかそれ以上に、怒らせてはいけない存在だったのだ、と。

「極めつけには、耳も遠くなっちゃって……。ねぇえ、そこのあなた。さっき、わたしのことを何て言ったかしら?よく聞き取れなかったんだけど、もう一度言ってくださる?」

 ここで毒づくことができたならば少年の愚かさも本物であったのだが、少年はもう少し賢明であり、同時に尻の穴が小さかった。
 片頬を引き攣らせて、揉み手を作り、不自然この上ない表情で笑いながら、

「あ、ははは、イレブンスさんは、今日もご機嫌麗しゅう、まことにお美しいかぎりで……」
「あらぁ、イレブンスだなんて堅苦しい、ダイアナでいいわよ、ダイアナで」

 画面の女性は、正しく天使のような顔でそう言った。
 インユェは、へこへこと頭を下げながら立ち上がり、股間の辺りを手で覆い隠しながら部屋を出て行った。
 しばらくすると、廊下の向こうから、水で何かを洗う音が聞こえた。
 少年の姉であるメイフゥが、溜息を吐き出した。

「……ったく、小便漏らすくらいなら最初っから黙っとけっつうの」
「いいじゃない、可愛らしくって。わたし、ああいう分かりやすい子、けっこう好きかも知れないわ」
「なら、もう少し優しく可愛がってやれ。冗談は構わないが、折角用意した隠れ家を穴だらけにしてくれたのは少しやりすぎだ。雨が降ったらどうする。盛大に雨漏りを起こすのは確実だぞ」
「怒らないでよ、どうせ長く使うものじゃないでしょ。それより、メイフゥちゃん。さっき頼まれてた件、終わったけどどうする?」

 廊下の向こうに視線を投げていた少女が、飛び上がるような様子で画面に近づき、

「まじで!?早すぎるだろ、ダイアナの姉御!」
「うーん、姉さんから姉御へは、ランクが上がったということでいいのかしら?」

 苦笑したダイアナに、

「もっちろんさね!あれだけややっこしいパスをこんなに早くとっちめるなんて、それだけで尊敬に値するぜ!」
「ふふん、まあね。わたしじゃなきゃ、きっと一ヶ月はかかってたわ」

 先ほどポンコツ呼ばわりされた鬱憤を晴らすように、ダイアナは胸を張った。
 それを讃えるメイフゥの顔は、輝くような笑顔である。
 それとも、舌なめずりする獣の顔。だがその獣の瞳はドルマークで描かれるに違いなかった。
 テレビ画面のダイアナの前で正座するメイフゥ。ジャスミンは少女のお尻に、ぱたぱたと振られる尻尾を幻視した。

「じゃあ、この画面にデータを送るけど、それでいい?」
「ああ!」

 瞬間、ダイアナの顔が消え、味気ない暗色の画面にいくつかのグラフと数字が羅列された。
 中央には、緑と濃紺で色分けされた模様のようなものが描かれている。
 メイフゥは首を傾げたが、ジャスミンにははっきりと見覚えがあった。ゆっくりとした足取りでテレビに近づき、メイフゥの隣に腰を下ろして、言った。

「地図だな」
「地図」
「ああ。ヴェロニカ共和国……というよりは、惑星ヴェロニカの世界地図だろう。ダイアナ、平面図を立体に起こせるか」
「ええ、ちょっと待ってね」

 球体の星を平面に表そうとすると、どうしても齟齬が生まれる。方角を正確にすれば面積がちぐはぐになり、距離を正確に表せば大陸相互の位置関係が把握しずらいといったように。
 さして時間を待たず、画面中央に立体的に描かれた球体が映し出された。
 言うまでもなく、惑星ヴェロニカの全景である。
 その上に、小さく赤い点が、いくつも描かれている。
 都市を表しているのかと思ったジャスミンだったが、どうにも違うようだと理解した。この国の首都であるヴェロニカシティのほぼ真上にその赤点が付されてはいるが、その他の著名な都市と赤点が必ずしも一致しないのだ。
 
「ダイアナ、この赤い点はなんだと思う?」

 真剣な表情で画面に食い入っていたジャスミンが、言った。
 ダイアナは、残念そうな声で、

「どうにも駄目ね。この印と、ヴェロニカ共和国に現存するあらゆるデータを比較検討してみたけど、どれも合致しなかったわ。人口の分布図でもないし、何かの産地を表しているわけでもない」
「そうか……」

 ジャスミンは、メイフゥの方を振り返り、真剣な表情で問うた。

「メイフゥ、さっきのチップは、本当は誰から奪ったものなんだ?」

 もらって、ではなく、奪った、である。この点、ジャスミンは間違えていないと確信している。
 メイフゥも、全く悪びれた表情を見せなかった。海賊たる父を持つ彼女は、その父親を心底尊敬しているのだし、この年まで所謂一般的な倫理観というものとほとんど触れずに育ったせいもあり、そういう意味での罪悪感は持ち合わせていない。
 彼女の内側に存在する最重要な行動原理は、己に恥じるところのないよう生きるということであり、自分とウォルを拐かした痴漢どもからこのチップを奪い取ったことは、その原理にちっとも抵触していなかったのだ。

「ちっとばかし前に、お世辞にも身なりがいいとはいえない野郎どもの家に招待されたことがあってね。危うく貞操を穢されそうになったんだけど、そこはなんとか切り抜けてさ、戦利品がこいつってわけよ」
「なるほど、顔と体を餌にして馬鹿な男どもを釣り上げ、思うさまに暴れ回り、ついでに懐も温かくして帰ってきたというわけか」

 にべもない言い表し方であったが、完全に事実に即していた。この点、ジャスミンは、メイフゥという少女の本性をほとんど理解していたと言っていい。
 自分の所業を暴かれたかたちのメイフゥだが、気まずそうな表情はちっとも見せず、むしろ嬉しそうにジャスミンを眺めていた。たった一晩一緒にいただけで自分のことをここまで理解してくれる人間がいるとは、彼女は想像だにしなかたのだ。
 しかも、強い。そして侠気に溢れている。

 ──ほんとに惚れそうだぜ。

 メイフゥは、これでジャスミンが男であれば今すぐに押し倒してやるのになぁ、と、高望みの溜息を吐き出した。

「ちなみに、それはただのごろつきどもだったのか?」
「まぁほとんどはな。ただ、そこの頭は、憂国ヴェロニカ聖騎士団と関わりがあるとかないとか言ってたかなぁ……」

 メイフゥは遠い表情をしながら言った。
 事実、彼女にとってあの事件は遠い過去の出来事であった。もし街中であの建物にいた男どもとすれ違っても、彼女は哀れな獲物の顔をちっとも覚えていないだろう。仮にあちらが覚えていて、泡を食って逃げ出したとしても、身に覚えのありすぎる彼女はいったいどの事件で関わった獲物なのか首を傾げるだけに違いないのだ。

「憂国ヴェロニカ聖騎士団……確か、真のヴェロニカ教の教えを取り戻すとか何とか喚きながら街を闊歩する、きちがい共のことだな」

 一刀両断の意見であったが、メイフゥは見事に首肯した。

「あれ、お姉様も知ってるのかい?」
「ああ、昨日、すれ違った程度だがな。そういえば、メイフゥ、お前達が戦っていたというのも……」
「ああ、そういやそうだったな」

 メイフゥは、ぽんと手を鳴らした。長いこと、チップのことなど忘れていたのだ。
 しかし、こうすると、データのことが俄然気になる。何故なら、憂国ヴェロニカ聖騎士団のトップは、現政権と蜜月の関係にあると言われているのだから。
 そして、ウォルを拐かしたのはヴェロニカ軍の中枢であり、当然のことながら現政権とも親密な付き合いがあってもおかしくないはないのだ。
 何かがジャスミンの脳裏に閃き、警鐘に似た神経に障る音を鳴らし始めていた。

「あっ、これって……」

 その時、テレビのスピーカーを借りて、女性の声が部屋に響いた。
 ダイアナの声であった。

「どうした」
「ん、別に大したことじゃないんだけど……」

 画面には相変わらず無味乾燥な数字とグラフが羅列されているが、ジャスミンは、そこに気遣わしげなダイアナの顔を幻視した。

「大したことじゃなくてもいいさ。今の私たちには、藁だったとしても掴める物はダイヤモンドよりも貴重なんだからな」
「それもそうだけど……。でも、正直わたしにはあまり意味のあることとも思えないのよ。それでも怒らない?」
「ああ、私の父と、私の愛機に誓って怒らない」

 子供をあやすような口調で、ジャスミン。
 それに安心したのか、それとも踏ん切りがついただけなのか、ダイアナが、あまり気が進んでいませんという内心がありありと滲み出た声で言った。

「……さっきの赤い点の付された箇所の極近辺に、ヴェロニカ教の聖地と呼ばれる遺跡のいくつかが存在するの。それだけよ。全体から見れば数パーセント程度だし、だからといってそれ以上に気になるデータもないのだけど……」
「ヴェロニカ教の、聖地?」
「ええ。原始自然崇拝のヴェロニカ教らしく、ほとんどは険しい山地か荒野のど真ん中ね。それに、遺跡っていってもそれほど大仰なものじゃないわ。小さな石造りのモニュメントみたいなものが建っていて、その周囲が立ち入り禁止になっているだけ」
「写真を用意できるか?」
「少し待って……。これでいい?」

 画面が切り替わり、先ほどよりははるかに鮮やかな色彩が映し出された。
 この国特有の、奇妙に赤茶けた大地が映し出されている。空の、のっぺりとした青との対比が強烈で、一瞬くらりと目眩を起こしそうなほどだ。
 そこは、何の変哲もない荒れ地であった。空の青、大地の赤茶以外に存在するのは、風雨に摩耗した石造りのモニュメントの灰色だけ。それ以外には、背の低い雑草の一つだって生えてはいない。
 なんとも侘びしい風景であった。これが、仮にも惑星一つを席巻している宗教の聖地とは思えない。ジャスミンの想像する聖地とは、金箔を分厚く張り付けた神像が鎮座し、信者がひっきりなしに巡礼に訪れて列を作るというものだったから、ギャップも激しい。
 
「他も、程度には差こそあれだいたい似たり寄ったりだわ。人間って不思議よね。どうしてこんな殺風景なところに神を住まわせたがるのかしら」

 ダイアナが、心底理解できないといった調子で言った。別に蔑んでいるふうではない。機械らしからぬ感性を持つ彼女であっても、理解できないことがあるというだけだ。
 そして、それはジャスミンも同感であった。自然が偶然に作り出したとは思えない絶景は確かに世界各地に存在するのであり、そこにはある種の神々しさを感じないでもないが、今、テレビ画面に映し出されている風景にそういった感情、あるいは感傷を引き起こすものは存在しなかった。

「ちなみに、その聖地には一体どういう由来があるんだ?」
「最初にこの星を訪れたヴェロニカ教の始祖達が、そこで神様とか天使を見たそうよ。そこで、どこの星にでも転がってるような、有り難いんだか有り難くないんだかわからない、曖昧な預言を授かったそうだわ」
「聞く人が聞けばそうでは無いのかも知れないが、なんとも有り難みのない話だ。それこそ、どこぞの誰かが昨日思いついたような感じだな」
「同感ね。そもそも宗教って、そんなものかも知れないけど」

 ダイアナと話しながら、ジャスミンの興味は急速に薄れつつあった。
 このデータが元は憂国ヴェロニカ聖騎士団のものだったと聞いて、その隠れ家か、それとも資金源になる麻薬畑でもあるのかと思っていたが、写真を見る限りそう言ったものはなさそうだ。こんなだだっ広い荒野のどこを探しても、ウォルやケリーが隠されているとは思えない。
 無論、意味のないデータであるはずはないのだ。しかし、現状でその解明ができないのであれば不必要に拘る時間も存在しない。知的好奇心を満たすために費やす時間は、今のジャスミンたちにはあまりに貴重すぎた。

「ふぅむ」

 ジャスミンは顎に手をやり、考え込んでしまった。
 後ろから、うずうずした様子のメイフゥが声を掛ける。

「なぁ、お姉様。どうだい、銭になりそうな話かい?」
「……どうだろう。今のところ、そういうふうなデータとも思えないのだが……」

 珍しく煮え切らない様子のジャスミンである。今は、地図から視線を外して、その横に羅列された数字の群れと格闘しているようだ。
 縦書きのデータの一番端には、規則正しい数字の列が並んでいる。おそらくは、共和宇宙の暦だろう。もしかしたら暗号化されて別の意味があるのかもしれないが、厳重なロックが掛けられていた以上、その線は薄い気がする。
 だが、年号の横の数字は、全く意味が分からないし、規則性も掴めない。
 やはりこのデータのことは、今は頭の隅に置いておくに止めるべきだろう。ジャスミンはそう思った。

「ちぇっ。折角飯の種をゲットしたと思ったのになぁ。な、ひょっとしたらさ、この星に移民してきた最初のヴェロニカ人がそこにヴェロニカ教のお宝を隠したとか、そういうことはねえのかな?」

 あまりに子供っぽいこの意見に、ダイアナが苦笑で答える。

「それは中々鋭い意見だけど、この場合は考えにくいわね。メイフゥちゃん、この星に移住してきたのは、元々故郷の星で迫害されていたような貧しい身分の人達でね、どう考えてもそんなお宝を埋めて隠しておくような余裕があったとは思えないのよ。考古学的に価値のある遺物が埋められていることはあっても、金銀財宝がざっくざくってことはないでしょうね」
「ちぇ、そうかよ。ま、ダイアナの姉御が言うならそうなんだろうなぁ」

 諦めきれないといった調子のメイフゥが、唇を尖らせる。
 そんな少女の意見を聞いていたジャスミンが、小さな、本当に小さな声で、無意識に呟いた。

「お宝を……埋める……?」

 ジャスミンの脳裏に、閃光が走る。
 猛烈な勢いで思考が回転していくのがわかる。そのあまりのスピードに、ジャスミンは目眩を覚えた。全身から、体という五感を奪われ、自分がもっと自由な生き物だと錯覚しそうになる。
 だが、その、快と不快の狭間を漂う感覚を味わいながら、ジャスミンは理解した。
 そうだ。
 そう考えれば、全てのつじつまが合うのではないか。
 ヴェロニカ共和国の連邦加盟を、大国エストリアが強力に後押しした理由。
 ヴェロニカ教の教義に、自生植物と肉食の一切を禁じるという、極端な教義がもうけられた理由。
 こんな辺境の惑星が、中央に名だたる列強から強い非難を受けても強気一辺倒でいられる理由。
 そして、もしかしたら今回の騒動──彼らの孫であるジェームスやリィの誘拐に端を発し、今、ウォルやケリーの拉致に至った、全ての遠因。
 もし、そうだとしたら、このデータは……。
 ただならぬジャスミンの様子に気がついたダイアナが、気遣わしげな声をかける。

「ちょっと、どうしたのよジャスミン。顔が青いわよ、大丈夫?」
「あ、ああ。ちなみに、ダイアナ、少し調べ物を頼めるか?」
「いいけど……どうしたのよ、突然」

 最後の声は意図的に無視する。

「さっきのデータを映してもらえるか」
「……はい、どうぞ」

 画面が、先ほどの、数字とグラフの羅列されたそれに戻る。
 ジャスミンは、それを指で追った。画面の一番端、共和宇宙歴と思われる数字が規則正しく並んだ行である。
 そのあるところで、指が止まる。

「ダイアナ、共和宇宙歴627年、その年に発生した主な事象を調べてくれ」

 ほとんど間を置かず、

「共和宇宙連邦の前身、共和宇宙同盟の主席ウィリアム・ベッカーの暗殺未遂。それに端を発する、シリウス星系の内乱勃発。中央では、食料生産を主に担っていた惑星スピウネルその他の同時発生的な超異常気象で記録的な食糧不足が発生し、長期的な混乱が起きてるわね。他には……」
「いや、それで十分だ」

 ジャスミンは、627年の列を調べる。そこに記された数字は、他の行のそれに比べて、遙かに大きなものであった。
 再び一番端の行に戻り、数字を下に追っていく。

「704年」
「エストリアとマーズの平和友好条約の署名が行われているわ。他には、ラヴォス星系とルガル星系を結ぶ航路に大規模な宇宙嵐が発生して長期間停滞、結果として航路が使用不能になり、ラヴォス星系に経済を依存していたルガル諸国が大規模なダメージを受けて、相当数の経済難民が発生したみたいね」
「781年」
「その年は、さっきとは反対にエストリアとマーズの軍事的緊張が最高潮になった年ね。当時の連邦主席サクラ・アカシアが有能な政治家でなかったら、共和連邦はその年に消滅していたと言われているわ」

 ジャスミンは、他にもいくつかの年号を言った。そして、ダイアナは暗記の得意な受験生さながらに、その全てにさらさらと答えていった。
 その度に、ジャスミンの細い指が画面を横滑りし、その列に書かれた数字を確認する。そのどれもが、他の年の列に記された数字よりも、遙かに大きなものであった。
 なるほど、どうやら間違えていないらしい。ジャスミンは、震える息を吐き出した。
 だが、疑問は残る。
 このデータがそういうものだとして、どうしてそんなものをいっかいのごろつき風情が手にしているのか。
 それに、流出したのは、これ一つだけか?いや、それはあり得ない。おそらく、驚くほど広範囲にばらまかれているだろう。
 それを手にした人間の中に、自分と同じことに気がつく人間がいないと言い切れるか?
 ジャスミンは、誇大妄想的な自信家ではなかった。ならば、自問の答は否だ。
 そして、その不幸な人間が、十人、いや、五人もいれば……。
 もしも、もしも自分の考えが間違えていないなら……。

「なぁ、お姉様。何か分かったのかい」

 ジャスミンは、メイフゥの声を、深海から這い上がったときの酸素のように聞いた。
 
「ああ、わかった」
「じゃあ、このデータは、一体何なんだい?」
「種さ」

 振り返ったジャスミンの笑顔が、常にないほどに強張っている。
 メイフゥは、ただ事ではないと悟る。そして、押し殺すように震えるジャスミンの声を、初めて聞いた。

「これをばらまいた人間は、心底狂っているぞ。これは、到底人目に触れさせて良いデータではない」
「……種って、何の種だよ?」
「悪意だ。メイフゥ、これを拾ったのがお前で良かったよ。これは、無限の悪意の象徴だ」

 メイフゥの耳朶に、呪いのような寒気が広がった。
 それでも、あえて軽々しい口調を作り、言った。

「……へぇ、お姉様って詩人だね。でも、あたしは頭が悪いからさ、もう少し分かりやすく言ってくれないと分からねえんだけどな」
「なら、こう言えば分かりやすいか?もし、このデータの真実に気がついた人間が、この星に五人もいれば……」
「五人もいれば?」

 メイフゥの、唾を嚥下する音が、不吉に響いた。

「この国に内乱が起きる。間違いなくな」
 
 ジャスミンは、すっくと立ち上がった。

「準備をしろ、メイフゥ。すぐにここを発つ」

 普段は人の風下に立つことを良しとしないメイフゥが、自然と従いそうになる声だった。
 そして、目の前に控えた戦いを、ちっとも恐れない、戦士の声だ。
 戦慄に武者震いをしそうになったメイフゥは、肩を抱くようにして立ち上がり、不敵な表情を浮かべた。

「戦いかい?」
「ああ、お前の力を、存分にふるって欲しい」
「嫌だって言われてもふるわせてもらうぜ。ちなみに、場所は?」

 ジャスミンは、ちっとも笑うでもなく、

「ヴェロニカ教の総本山に、殴り込みだ」



[6349] 第四十五話:TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/08/20 23:22
『偉大なる始祖たちは、数々の苦難を乗り越えてこの星に辿り着いた。
 そこは、死の星であった。
 荒涼たる大地は人の支配を拒むかのようである。水に乏しく、吹き荒ぶ嵐は人の営みを軽々しく薙ぎ倒していく。
 人知の及ばぬ新世界。
 おお、偉大なるヴェロニカの大地。
 真紅の大地を踏んだ人々の頬を、滂沱の涙が伝った。
 しかし、神々は厳格であった。彼の人の門扉の前で頭を垂れる私たちに、数々の試練をお与えになった。
 麦は実らず、井戸は容易く涸れ、母牛の乳は出ず子牛は育たない。
 病を乗せた風が吹き、赤子も老人も死んだ。手足を石のように強ばらせ、舌は言葉を失い、口から胃の腑を吐き出して、死んだ。
 だが、思い違いをしてはならない。
 彼の人の慈悲は無限である。死は罰ではなく、歴とした救いであったのだ。
 大地を追われ、大地に還ったのは、心弱きもの、心卑しきものばかりであった。彼らは肉を食べ、母牛の乳を奪い、赤々と実った無垢の果実を貪った。
 大いなる大地から、奪い取った人々であった。
 彼らにとって、死は罰ではなかった。
 彼らは、大地から奪い、大いなる罪を犯した。
 そして、罪は彼らとともに、大地に還ったのだ。大いなる循環のうちに戻ることを許されたのだ。
 だが、罪は大地に刻まれる。罪の刻まれた大地は、いずれ我らに本当の罰を下すだろう。
 敬虔なる信徒たちよ。赤き大地の子供たちよ。
 彼らの死を、確と心に置き留めよ。
 神の愛は無限であるが、我らがそれに甘えれば、心の弱さに相応しい残酷な死を迎えることになるだろう。
 この大地を、罪で染めてはならない。我らが大地に還るのは、汚れなき魂とともに。
 ヴェロニカの大地に栄光あれ──』

「……気違いだな、こいつを書いた連中は」

 助手席に座ったメイフゥは、分厚い本を後部座席に投げ捨てた。
 ジャスミンから手渡された、ヴェロニカ教の教典であった。
 そのまま鈍器として使えそうなほどに分厚い本である。一から十まで目を通せば、慢性的な肩こりと眼精疲労に悩まされることは必至だ。
 しかし、幸いなことにメイフゥはそのどちらにも悩まされずに済みそうだった。何せ、最初のページの半ばほどまでしか読んでいないのだ。肩が凝る時間すらない。

「お気に召さなかったか」
「駄目駄目。あほらし、あんなもん読んでるくらいなら煎餅片手にワイドショーでも眺めてる方が幾分生産的ってもんだぜ、お姉様」

 なんとも罰当たりな台詞を事も無げに吐き出した少女を横目に見ながら、ジャスミンは車のハンドルを握っていた。

「そう言ってやるな。我々には到底理解不能な暗号の羅列であっても、人によっては人生の指針になりうるんだ。それを頭から否定するのは、失礼というものだぞ」

 ジャスミンの駆る車は、ヴェロニカの赤茶けた大地を軽快に飛ばしていた。
 途中、宇宙時代とは思えない粗末な集落をいくつか見かけた。中世と呼ばれる時代の村落を絵に描いたような景色である。
 ヴェロニカ共和国は、首都であるヴェロニカシティをはじめとしたいくつかの大都市を除けば、本当の意味で自然と共生した生活が基本になっているようだ。
 集落には、必ず大規模な農場が併設してあった。
 農場といっても、いわゆる普通の農場ではない。敷地は全て角張った透明な建物で覆われており、中で何人かが手仕事で農作業をしている。彼らのいじる土も、ヴェロニカの赤土ではなく、いかにも滋味に富んでいそうな黒土だ。
 見慣れていなければ、どうにも違和感のある眺めではあった。自然からの搾取を禁じているというが、自然の土から作物を作ることすら禁忌に触れるのか。それとも、遺伝子交配によって生み出した新種作物は土から選ばなければ機嫌良く育ってくれないのか。
 あまりに長閑な眺めに、メイフゥはあくびを噛み殺していた。今から向かうのが敵地であるとわかっていても、どうにも緊張感を保てない眺めだったのだ。
 努力して、あくびの代わりにため息を一つ吐き出したメイフゥが、彼女の体格からすればやや手狭な助手席で猫のように身体を伸ばした。

「お姉様の言ってることもわかるけどさ、どう考えても頭がおかしいぜ、この本を書いた連中は。何をどう間違えたら、神様にぶっ殺されることが救いになるんだよ。古今東西どこの国で聞いたって、死刑ってのは考えられうる最悪の刑罰だぜ。それが救いだってんなら、この国の人間はみんな感謝の涙を流しながら絞首台に上るってのかい。お姉様、世間じゃあそういう連中のことを、気違いとかバケモンとか呼ぶんだぜ」

 容赦ないメイフゥの感想であったが、全く理解できないわけではない。むしろ、価値観としてはジャスミン自身のそれに近い。
 ジャスミンがそこまで過激な感想を持たないのは、共和宇宙全域を股に掛けるクーア財閥の経営者として色々な星を渡り歩き、そこに根付いた多種多様な価値観と親しんでいるからである。その経験がなければ、やはりメイフゥと同じようなことを言っていたかもしれなかった。

「お前が目を通した場所なんてまだましなほうだぞ。次の章に入ると少しずつ選民思想が漂いはじめ、三章では終末思想がまじり、最終的には自分たちが選ばれた人間なのだから、他の星の人間の蒙を啓き、導いていかなければならないというくだりに辿り着く。ヴェロニカ教の始祖たちは宗教的な対立が原因でもと住んでいた星を追われた人々らしいが、その意趣返しとも思えるほどに過激な言葉が羅列されていた。読み終えた後は、脳味噌の皺を伸ばしてくれるコミック雑誌が恋しくなったほどだ」

 ジャスミンのげんなりした呟きに、隣に座ったメイフゥが目を丸くした。

「……お姉様、まさかさっきの分厚い奴を、全部読んだってのかい」

 信じられない、といったふうのメイフゥである。灰褐色の瞳を猫みたいにまん丸にして、驚嘆の視線を寄越している。

「まぁ、この星に用が出来てから、文化風俗、一応のことは頭に入れてある。特に宗教は重要だ。ほとんどの失礼を笑って流してくれる寛容な民族でも、この一点について侮辱されれば殺人も辞さないというのは共和連邦加盟国でも珍しくないことだからな。用心はするに如かずさ」

 さらりと事も無げに言ったジャスミンを、メイフゥは異星人と出会ったかのような顔でまじまじと見つめた。
 メイフゥは優れて頭の良い少女であったが、こつこつと積み上げるように勉強するのは苦手であったし、ちっとも共感できない文字の羅列をひたすらに詠み進めるなど拷問以外の何ものでもないと感じてしまうのだ。それが出きる人間は、既に彼女の理解の範疇から脱している。

「原典がお気に召さないなら、こういうのはどうだ?これもなかなかに興味深いぞ」

 ジャスミンはサイドボードに手を伸ばし、そこに置いていた豪奢な装丁の本をメイフゥに手渡した。
 興味の薄そうな顔をしたメイフゥは、何気なくページをぱらぱらとめくる。

「え、と……『聖女ヴェロニカ、守護聖獣とともに天に昇ること』……?」

『──ついにヴェロニカは、最後まで己の運命を嘆き悲しむことはなかった。

 刑場までの道は、彼女に蔑みと好奇の視線を投げつける民衆で満たされていた。その中を、彼女はただの一度も俯くこともなく、毅然と正面のみを見据えて歩き続けた。
 七日間、朝と晩となく降り続けた雨は止み、天は、どこまでも青い空で満ち満ちている。火刑に処される彼女の運命を、神すらが見放したようであった。
 しっかりとした歩みは、聖女を火刑台へと速やかに運ぶ。
 彼女を魔女と認定する異端審問官の声が高らかに響き、民衆の歓声と罵声が年端もいかぬ少女を貫く。
 一際高い場所に設えられた火刑台からヴェロニカの見る光景は、自分の死を望む無数の民の姿で満たされている。それは、万軍を率いる武将の雄々しき心をすらへし折るに十分な眺望であったに違いない。
 しかし、千の罵りも万の嘲りも、無限の絶望すらも、彼女の慈悲に満ちた魂に毛の先ほどの傷をつけることも叶わなかった。
 なぜなら、ヴェロニカは知っていたのだ。己の正しきことを、そして神の無限の寵愛を。ならば、どうして己の行いを恥じることが出来るだろうか。
 ヤドリギの幹に縛り付けられた幼い身体の足下には、恐ろしいほどの籾柄と枯れ枝が積み上げられていた。ひとたび炎が舞い上がれば、少女の身体は骨まで焼き尽くされるのは明らかであった。
 それでも、鉄鎖で巻かれた少女は、どこまでも穏やかであった。
 最も苦痛に満ちた死を前にしながらも、己を暗い地の底へと追いやろうとしているすべての人間に幸多からんことを願って、一心に祈っていた。
 そして、神はヴェロニカに最後の試練を与え給うた。
 魔女の魂を地の底に封じる祝詞が高らかに読まれる中、民衆の中から一人の男が飛び出してきたのだ。
 垢まみれのぼろ布を身体に巻き付けた、蓬髪の老人であった。
 彼はたちまちに刑吏に取り押さえられながら、それでも声を限りに叫んだ。

 おお、哀れなヴェロニカよ。あなたの行いはいつだって正しかった。あなたはこれまで、ひたすらに神にだけ仕えてきたのだ。誰が知らずとも、私だけは知っている。だからこそ、己を裏切った民を恨め。己を見放したもうた神を恨め。この世の全てを恨むがいい。それはちっとも恥ずべきことではない。そうしなければ、無念に染まったあなたの魂は、地の底で無限の苦役に曝されるだろう。私には、いつもあなたとともにあった私には、たったそれだけがどうしても許しがたいのだ。

 男は、いつのまにか恐ろしい化け物の姿に変じていた。
 全身を黒い鱗で覆い、肩と背中から無数の蛇を生やした巨人の姿であった。
 それは、今までのありとあらゆる時と場所で、ヴェロニカの耳に涜神と背教の言葉を吹き込んだ悪魔の正体であった。
 その化け物が、誰一人嘆き悲しまない聖女の死に、誰よりも嘆き悲しんでいたのだ。
 涙とともに放たれた化け物の声に寸分も構うことなく、無慈悲の炎は放たれる。
 種火はたちまちに業火となり、少女の身体を包み込んだ。
 しかし聖女ヴェロニカは、なおも穏やかな声で化け物に向かって曰く。

 悪魔よ。悪鬼よ。それとも、私の心に宿った醜いところよ。最後の最後まで私に付き合ってくれてありがとう。だけれども、そろそろ幕引きだ。わたしは神の愛とともに神の御元へ帰るのだ。あなたの言葉はどこまでも優しく暖かだ。だからこそ、今の私の穏やかな心を、どうかあなたの温もりで汚さないでいただきたい。

 悪魔と呼ばれた化け物は、ヴェロニカの言葉に、更なる涙で頬をぬらす。垢で黒ずんだ化け物の顔が、涙の伝った箇所のみ鏡のごとく美しく輝いた。
 返して化け物、耳を塞ぎたくなるような嗚咽で喉を振るわし、世界を揺らすような大音声で曰く。

 おお、ヴェロニカよ。この世界で、もっとも敬虔に私の言葉に耳を傾け続けた端女よ。この世界で、もっとも頑なに私の言葉から耳を背け続けた聖女よ。あなたを、私の主の御元へと誘おう。彼の人のもとで、その疲れた身体を休めるがいい。

 化け物、たちまちに真白く立派な狼へと変じ、炎に包まれたヴェロニカに歩み寄る。
 あまりに神々しいその姿に民も刑吏も道を開け、炎すらもが白き獣を恐れ敬うように消え失せた。
 故無き罪の業火に焼かれ、黒こげになったヴェロニカ。しかし白き獣が身を寄せると、おお、傷ついた聖女の身体は、たちまちに生まれたての赤子の如き美しい肌に生まれ変わったのだ。
 神の御使いたる白狼は、ヴェロニカを背に乗せると、羽根無き身体で天へと駈け上っていった。
 至上の奇跡を目の当たりにした民草は、己の行いを深く悔い、聖女ヴェロニカの教えに帰依した。以来、この星に病魔を乗せた風が吹くことは無くなったという……』
 
「ふぅん……白い狼、ねえ」

 メイフゥは気のない声でそう一言呟いただけだった。
 意外を覚えたのはジャスミンである。これもしょせんは子供向きの寓話であるのだが、けちをつけようと思えばいくらでもつけられる話だ。それが野暮であることは百も承知といっても、この少女のことだから、絶対に何か一言あると思っていたのに。

「その話はお気に召したか?」

 からかい調子のジャスミンの声に、メイフゥは鼻を一つ鳴らしてから、

「子供向けの絵本噺にけちをつけるほど、あたしだって野暮天じゃないさ。そりゃあ、白い狼が身を寄せただけで火傷が治るはずがないとか、羽根の無い動物がどうやって空を飛ぶんだとか、突っ込みたいところは山とあるけどさ」
「……」

 ジャスミンは、メイフゥの言葉にわずかな異物感を覚えたが、とりあえずそのままにしておいた。何か、もっと不思議を覚える箇所が、他にあった気がするのだが。
 僅かに生まれた気まずい空気を嫌がるように、今度はメイフゥが口を開いた。
 
「しかし、聖女ヴェロニカ、ねぇ。この気の毒な女の子、この星と同じ名前なんだね」
「当然だ。なにせ、ヴェロニカ教という名前自体、この、聖女ヴェロニカから貰ったものなんだからな」

 ジャスミンの言葉が余程思いがけないものだったのだろう、メイフゥが驚いた声で、

「……そうなの?」
「珍しいことではないだろう。確か、一時期は人類の大部分が信仰していた原始一神教の一つに、教祖自身の名前を冠したものがあったのではなかったかな」

 遠くを見るように言ったジャスミンである。
 遙か昔、家庭教師から聞かされただけの知識だ。定かなものではなかった。

「そういえば、その宗教にもヴェロニカという名前の聖女がいたな。たしか、処刑の丘に十字架を担いで登るその教祖の、血と汗で汚れた顔を拭き清めたとかなんとか……」
「顔を拭っただけ?たったそれだけのことで、聖女として名前が残るの?そいつは美味しいなあ、どっかにいねえかな、処刑の丘に登る教祖様。あたしが優しく顔を拭ってやるのに」
「いや、彼女の名前が聖人の列に叙された理由としては、彼女の行為そのものよりも、どちらかというとその後の奇蹟の方が重要だな」
「その後の奇蹟?」
「彼女が教祖の顔を拭った麻布にな、なんと教祖の顔が浮き出たらしいのさ」
「うげ、気持ち悪っ!」

 にべもないメイフゥの感想に、ジャスミンは笑った。
 それでもメイフゥは、悪臭に鼻を摘んだ様な表情で続ける。

「奇跡っていうより、祟りなんじゃねえの?あたしなら、そんな気持ちの悪い布っきれ、さっさと燃やしっちまうけどなぁ」
「だが、教祖を信仰する連中からすれば紛れもない奇跡だ。それに、どちらかというと、この逸話の主人公はヴェロニカという女性個人ではなく、正しくその奇跡本体のようでな」
「……どういうこと?」
「ある学者が言うには、ヴェロニカという女性は後日に付け加えられた架空の登場人物で、ヴェラ・イコン──真たる聖像という意味だが──が訛った言葉らしい。この場合は、教祖の顔の浮き出た聖顔布のことだな。つまり、教祖の顔の浮き出た聖顔布という奇跡が先にあり、同じ名前を冠した登場人物が後から生まれたのさ。如何にも奇跡を重んじる宗教らしいエピソードだと思わないか?」
「ふぅん、形式が先にあって、その後に実質が肉付けされたってわけか。ま、よくある話だね。詐欺師や山師が考えつきそうなこった」
「……さきほどから聞いていると、君はよほど宗教というものに恨みがあるのか?」

 メイフゥは後頭部を乱暴に掻きむしり、

「いや、こいつはどっちかっていうと嫉妬とか羨望の類だなぁ」
「ほう」
「だってさ、考えてもみてよ。この世のありとあらゆる金持ちの中でさ、働くこともなく元手をつぎ込むことも危険を冒すこともなく、それでもたらふく儲けてるのって、ぶくぶく太った生臭坊主くらいのもんだぜ?あたしみたいな、朝から晩まで働いても食うや食わずの貧乏人からしたら、羨ましいったらねえさ」
「……なるほど」

 ほとんどは呆れたジャスミンだが、一理あるとも思った。
 確かに、宗教ほどに効率のいい金儲けのシステムは他にない。そして、喜捨という名目の金銭から寄付した人間の信仰心をさっ引けば、そこに残るのは詐欺じみた後味の悪さだけである。
 当然、反駁する意見は山とあるだろうし、宗教というシステムによって救われている人間が無数にいるのも事実だ。だから、宗教自体が悪だという極論は、ジャスミンも好むところではない。
 それでも、年若いメイフゥの意見には頷かざるを得ない部分があるもの、また事実であった。

「そういえばお姉様、お姉様はどうしてこの星に来たんだい?まさか観光目的って訳でもないんだろう?」
「ん?そうか、まだ君には話していなかったな」

 ジャスミンは、自分とケリーがこの国を訪れるきっかけとなった、連邦大学中等部学生大量誘拐事件の顛末を語った。
 ジャスミンの説明は要点を得ていたし、メイフゥもよく理解した。
 事件解決の立役者となったダン・マクスウェル船長の身が危険に曝されているところまで説明すると、メイフゥは深く感銘を受けた様子でしっかと頷いた。

「ふぅん、知り合いの身の安全のために、トリジウム密輸組織を丸ごとぶっ潰す、か。いいねぇ、粋だねぇ、男前だねぇ」

 知り合いとは、ジャスミンの一人息子のことである。
 不惑を迎えた男性をまさか自分の息子であるとは説明できず、知り合いということにしたのだ。

「その事件なら小耳に挟んだぜ。確か、連邦警察も血相変えて組織を追っかけてるとかなんとか。……ひょっとしてお姉様って、連邦警察の捜査官か何かかい?」

 おそるおそるといった様子でメイフゥが尋ねる。
 なるほど、そう考えてみれば、ジャスミンの言葉の端々や所作には、規律厳しい集団に属した者特有の、癖のようなものがある。
 メイフゥはかなり本気だ。

 ──海賊王の妻である自分が連邦捜査官か。それも面白いかもしれないな。

 ジャスミンは笑いを堪えながら、逆に訊いた。

「もしそうだとしたらどうする?」
「金輪際、連邦警察の目の届くところでは大人しく生きていくよ。もしも連中のみんながみんな、お姉様みたいな手練れ揃いだったら、どう考えても勝ち目がねえもん」

 ぶるりと体を震わしたメイフゥであった。
 それも無理はないかもしれない。なにせ、つい先日まで自身の宇宙最強を疑っていなかったメイフゥである。その自分を打ち負かした人間が警察の人間で、しかもそんな人間がごろごろといるならば、この世の構造そのものを考え直さなければならないと思っているのだ。
 ジャスミンは、更にこみ上げてくる笑いを押し殺し、言った。

「警官か。それはそれで面白そうだが、今生で警察手帳を持ったことはまだないな」
「あ、そうなの?よかったぁ!」

 起伏に富んだ豊かな胸をほっとなで下ろしたメイフゥに対して、冷ややかな視線を向けたジャスミンが、

「だからといって、君が好き放題やっていい道理はないぞ。言っておくが、わたしは君みたいな子供が荒事に首を突っ込むのはあまり好きではないんだ」

 メイフゥという少女の人間離れした戦闘力は、嫌というほどに理解している。なにせ、冗談ではなくあと一歩で殺されるところだったのだ。
 だが、それとこれとは話が別である。
 戦力としてはこの上なく頼りになるのを承知しているが、子供が血を流したり流させられたり、殺したり殺されたりすることには嫌悪感が拭いきれない。ジャスミンにはそういう甘い部分がある。
 普段子供扱いなどほとんどされたことのないメイフゥは、自分を子供として扱うジャスミンが、どこまでも新鮮な存在であった。
 だから、ハンドルを握るジャスミンの横顔を眺めたメイフゥは、意地の悪い声で尋ねた。

「ふぅん、子供は子供らしく、おうちでおままごとでもしてなさいってか。じゃあ、今からあたしが大暴れするのも禁止かい?」
「いや、それは大いに期待している」

 あっけらかんとしたジャスミンの返答に、メイフゥが不思議そうに首を傾げた。

「なのに荒事に首を突っ込むなって?それって矛盾してないかい?」
「平時と非常時との間には要求される倫理感の質量に開きがあって当然だ」

 しれっと答えたジャスミンである。
 メイフゥは、大きく肩をすくめた。どう考えてもジャスミンの意見は正しい。
 日曜日の昼下がり、陽光の射す教会で神の愛を説くのは結構なことだ。尊ばれるべき行いでもあるだろう。
 しかし、銃弾の飛び交う戦地で、今まさに自分に銃口を向けている敵兵に対して神の愛の尊さを説いたところで、一秒後には鉛の塊が頭部を吹き飛ばすだけなのだ。
 野生の草食動物だって、飢えれば屍肉を食らうこともある。生き残るのに必要なのは、理屈ではなく適応力だ。そして、与えられた状況に適応できない生き物は死んでいけばいいのである。

「ま、いっか。で、お姉様はどうしてこの国に目を付けたんだい?あの事件、これといった手がかりも見つからずに捜査も進展してないって噂だけどさ」
「ちょっとしたつてがあってな。証拠物であるトリジウム原石の袋を一部融通してもらって、その成分分析をした」

 メイフゥは今度こそ目を剥いた。
 つてがあるというが、連邦警察の押収した証拠物件を融通してもらうほどのつてとは何だろう。同年代の少年少女に比べれば人生経験の豊かなメイフゥも、寡聞にしてそんなものは聞いたことがない。

「……あらためて訊くけどさ、お姉様って一体何者なんだい?」
「わたしはジャスミン・クーアだ。それ以上でもそれ以下でもあったためしはない」

 メイフゥは胡散臭そうに眉をしかめた。

「あのさ、あのジャスミン・クーア──クーア財閥二代目のジャスミン・クーアならいざ知らず、何の後ろ盾もないジャスミン・クーアに証拠物件を渡してくれるほどお優しくはないと思うぜ、連邦警察って」
「ただのジャスミン・クーアなら渡してくれないとも。だが、わたしは一応、クーア財閥二代目のジャスミン・クーアらしいからな。連邦警察もこころよく渡してくれたぞ」

 またも、猫科の獣みたいに目を丸くしたメイフゥが、一瞬遅れて、お腹を抱えて笑い始めた。
 メイフゥはシートベルトを締めていなかったので、笑い転げているうちにジャスミンの太股に寝ころんでしまった。それくらい、豪快に笑い転げた。

「おい、運転の邪魔だ。死にたいのか」

 ジャスミンは結構厳しい声で言ったのに、当のお邪魔物には全く堪えたところがない。
 それどころかメイフゥは、子猫が母猫にするように、甘えた様子でジャスミンを見上げながら、なおも笑いに染まった声で言った。

「いやぁ、ごめんごめん。でも、意外だったよ。お姉様って結構冗談が好きなんだねぇ。もっと堅物かと思ってた」
「わたしは一言だって冗談なんて口にしたつもりはないぞ。それより早くどきなさい」
「了解了解」

 メイフゥは名残惜しそうにジャスミンの太股から体を離したが、先ほどのジャスミンの言葉を信じているふうではちっともなかった。
 ジャスミンも、別に自分の言葉を信じてもらう必要性があるとは思わなかったので、それ以上は何も言わなかった。
 
「あともう一つ。参考までに訊いとくけど、お姉様の一味って、どれくらいの兵隊を抱えているんだい?」
「一味などという物騒なものを率いた覚えはない」
「じゃあ、ひょっとしてダイアナの姉御と、あの色男だけか?」
「あとは、わたしの愛機がいる」
「……それだけ?」
「十分さ。むしろ、よくぞこれだけ揃ってくれたと神に感謝してしまうほどだ」

 ジャスミンは至極真面目に答えたつもりだ。
 彼女は、自分たちが十全の力を発揮できるならば、連邦軍の哨戒艦隊までならなんとか相手にできると確信していた。また、木っ端海賊程度であればどれほど束になろうと彼女たちに冷や汗の一つもかかせられないのは事実でもあった。
 だが、一般常識の持ち主であれば、あるいはジャスミンたちの実力をよく知らない者であれば、たった二人(感応頭脳を含めれば三人、さらに戦闘機を含めるなら四人である)でトリジウム密輸組織を壊滅させるなど、よくて冗談言、悪くすれば精神異常を疑われてしまう。
 その点、たった二人(未熟者の弟を含めれば三人、太陽のように笑う不可思議な少女を含めれば四人である)でこの星を牛耳る暴力組織に正面から喧嘩を売りつけたメイフゥは、自身を打ち負かしたジャスミンの言葉を疑ったりはしなかった。無論、彼女の精神異常を心配することもない。
 喜びと興奮に頬を赤らめ、灰褐色の瞳を薄く濡らしてジャスミンを見ている。
 それは、恋した乙女の表情であった。

「ああ、どうしてお姉様はお姉様なんだろうなぁ。あんたが男だったら、絶対に逃がしたりしねぇのになぁ。今日にでもあたしの星に攫っていって、祝言をあげてやるのになぁ」
「それは残念だったな。だが、わたしよりもわたしの夫のほうがいい男だぞ。君が成人したら、存分にアプローチをかけなさい」

 絶対に妻の台詞ではない。少なくとも、捕らわれの夫をこれから命を懸けて救い出そうとしている妻の台詞ではありえない。
 だが、当のジャスミンは平然としているのだ。これには、むしろメイフゥのほうが声を小さくして、

「……ほんとにいいの?」

 年頃の少女らしい可愛げのある声である。
 ジャスミンは思わず苦笑を漏らしてしまった。

「意外と弱気だな。どうした、泥棒猫のきみらしくもないじゃないか」
「うーん、それを言うならお姉様も、ちっとも本妻らしくないんだけど」

 至極もっともな台詞だったので、ジャスミンも頷いた。

「わたしも時々そう思うんだ。どうしてあの男は、こんな女が好きなんだろうなぁ」

 聞きようによっては傲慢とも受け取ることの出来る台詞である。
 自分のどこに惚れているのかはわからない。しかし、自分に惚れていることは確信している。
 そういう台詞であった。余程の自信と、その裏付けとなる事実がないと、到底こんなことが口から出ようはずもない。
 メイフゥは、溜息を吐き出した。どう考えても、目の前の女を手に入れるのも、目の前の女の夫を手に入れるのも、不可能事にしか思えなかったからだ。
 手を頭の後ろに組み、低い天井を見上げながら、一言だけ呟いた。

「ま、いいや。この世には星の数ほども男がいるっていうしね」

 メイフゥが諦めの台詞を口にした時、後部座席から、かすかな呻き声が聞こえた。
 不審を覚えたメイフゥが身体を後部座席に向けると、そこには、頭を抱えてうずくまる銀髪の少年がいた。

「……何してんの、おまえ」
「──こんの馬鹿女!てめえのせいだろうが、てめえのっ!」

 涙声のインユェが、声を限りに叫んだ。
 見てみれば、鈍器と見間違えるほどに分厚いヴェロニカ教の教典が、涙目のインユェの足下に落っこちていた。そして、少年の額には特大のこぶが出来ているのだ。
 ああなるほどと得心のいった姉は、いかにも気安く顔の前で手を合わせ、

「わり、見てなかった」
「わりい、だとぅ!?わりいで済んだら連邦警察はいらねんだよ!」

 インユェは大いに憤慨した。
 至極当然である。
 しかし、こういう場合にものをいうのは、どちらに理があるかよりも、どちらのほうに力があるかだったりするわけだ。
 加害者であるはずのメイフゥは、被害者であるインユェよりもふてぶてしい有様で、

「いいじゃねえか、どうせこれ以上悪くなることもねえんだしよ、その不景気な面も、残念な脳味噌もな」
「何だその言い草はぁ!?本当に謝る気があんのか!?」
「ああ、うるせえなぁ、そんな小せえことをぐちぐち言ってやがるから、いつまでたっても小せえままなんだ、ガタイもアソコもよ」
「て、てめえ、人が気にしてることを……!」
「あ、図星かよ。気にしてたんだ、こりゃあ悪いことを言っちまったなぁ、ごめんなぁ、ウォルには秘密にしておいてやるからなぁ、てめえのモノが粗末なことはよぅ」
「こ、殺す、絶対に殺してやる!」

 ぎゃあぎゃあとうるさい姉弟を横目に、

「いや、兄弟というものは賑やかでいいものだ。これなら、少し無理してでももう一人産んでおくんだったかな?」

 聞く人が聞けば──例えば歳の離れた彼女の子供などである──頭を抱えたくなるような台詞を呟いたジャスミンは、アクセルを強く踏み込んだ。



[6349] 第四十六話:The Old Man and the She
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/08/23 22:15
「事前に予約も入れず突然の訪問、まことに申し訳ありません、ビアンキ老師」
「なんのなんの、あなたのようにお美しい女性のお客様であれば、いつだって門戸も開こうというものです」

 皺で覆われた顔にいっそうの笑い皺を浮かべた老人が、そう言った。
 ジャスミンの目の前に座っているのは、枯れた老人であった。
 骸骨に薄皮を一枚貼り付けたような顔立ちであり、体格である。
 頭部はつるりとなっており、黒ずんだ染みがたっぷりと張り付いている。
 目の下には薄く隈が出来ており、一見すれば臨終間際の病人と間違えてしまいそうだ。
 だが、言葉はいたって明瞭であるし、よく見れば体の動きのどこにも不自由なところはない。粗末なぼろ布を纏っただけの枯れ枝のような体が、意外なほどに生命力に満ち溢れている。
 これならば、例えば余程に重たい物を運んだり、高いところの物を取ったりするとき以外、日常生活で他者の手を借りることもないだろう。
 既に年の頃は百を越えていようか。だが目の前にいるのは、ジャスミンの知る一般的な老人とは、あらゆる意味で異なる人生を送ってきたであろう老人だ。
 もしかしたら、意外と若いのかも知れない。逆に、常識に外れた長寿だったとしてもおかしくはない。
 ミア・ビアンキ。
 ヴェロニカ教の最高指導者たる老人である。
 それだけの地位にいる人間だ。事前のアポイントメントも無しで会えるとはジャスミンも期待していなかったのだが、事態はすんなりと運んだ。
 思い描いていたよりも遙かに近代的な建築物であるヴェロニカ教総本山、その受付をしていた若い僧は、突然訪れた大柄な女性からビアンキ老師に面会したい旨を伝えられると、すぐに彼女を老師の私室まで案内した。
 さして広くない清潔な部屋は、本棚と、そこに並んだ書物で埋め尽くされている。
 老師は、老眼鏡をかけて難しそうな本と格闘していた。
 案内の僧がジャスミンを紹介すると、ビアンキ老師は、常人のスケールを遙かに越えて大柄な女性を見てわずかに目を大きくしたが、突然の客を快く迎えた。

「ようこそいらっしゃいました、歓迎しますぞ、異国の方」

 案内の僧が退出した後で、二人は別室の応接間に場所を移した。
 部屋の中央に設えられた立派なソファは、一見すると革張りであるが、座ってみると感触がわずかに違う。おそらくはこの星独自の製法で作られた合成皮革ではないかと思われた。
 考えてみれば当然だ。なにせ、ここはヴェロニカ教の総本山なのだ。皮革を取るために獣を殺すことが認められているなど、ありうべき話ではない。
 
「自己紹介が遅れました。ジャスミン・クーアと申します」

 ビアンキ老師は、窮屈そうにソファに掛けた女性を、どこか遠い目で眺めながら、

「失礼をお許しください。わしは以前、あなたをどこかでお見かけしたことがあったかと思うのですが」

 ジャスミンは短く頷いた。

「はい。わたしも、老師のご尊顔を拝したのは、これが初めてではありません」

 はっきりとした返答に、老人は折れそうに細い首を傾げた。

「年を取りたくはないものです。あなたのような方とお会いすれば、どうしたって忘れようがないと思うのですが……はて一体どこでお会いしましたでしょうか」
「直接お話をする機会はありませんでしたが……連邦大学惑星、ティラボーンの審議会議事堂の廊下で、遠くから」

 ビアンキの、骸骨のごとき落ち窪んだ目が、ほんの僅か、余程観察眼に優れた人間でないと分からない程度に細められた。
 やせ細った体に、冷気のようなものが満ちる。
 表情そのものは、ほとんど変わっていない。しかし、その内側に込められた何かが、はっきりと変質した。
 だが老人は、相も変わらず好々爺然とした声でジャスミンに尋ねるのだ。

「ではあなたも、あの不幸な事件の子細をわしから聞き出すために来られたのですかな?」

 静かな声だ。しかし、同時にどこまでも深い。
 澄んだ水が底の見えない深みに溜まることで黒々と染まるように、得体の知れない不吉を孕んで聞こえる。
 相変わらず柔和な光を湛えている瞳の奥に、ガラス玉のように無機質な冷たさがある。
 まるで、目の前の老人が、一瞬で人以外の存在に変わってしまったような違和感であった。
 これが、例えば興味本位で過去の事件を突っつきにきたエセジャーナリスト程度であれば、果たしてこの変化に気が付きえただろうか。
 気が付いていれば、次に継ぐべき言葉を失ってしまったかもしれない。老人の言葉には、姿には、それだけの凄みがある。
 何も気が付かずに老人を侮ってかかるならば、無警戒に猛獣の巣に飛び込んだのと同様の、凄惨な目に遭わされるだろう。
 目の前に座した老人の所作は、それだけの危険性を孕んでいた。
 だが、ジャスミンは、あらゆる意味でその程度の人間ではない。そんじょそこらのジャーナリスト風情とは、踏んできた場数とくぐり抜けてきた修羅場の質が段違いだ。
 まったく平然とした様子で、老人の異様に相対した。

「あの事件は、既に終わった事件です。わたしは、わたしが今知る以上のことを知ろうとは思いませんし、知りたいとも思いません」
「では、あなたはあの事件とは、いったいどのような関わりを?」
「わたしの孫が、あの事件の被害者でした。それと、わたしの命の恩人である少年もです」

 ジャスミンの言葉を聞いた老人は、一度目を閉じ、大きく、そして静かに息を吐き出した。
 
「そうでしたか……」

 再び開かれた老人の瞳には、先ほどの無機質な光はない。
 誰に向けているのかわからない、慈悲に満ちた、悲しげな光に満ちていた。

「あの事件で、命を落とした者はいないと聞いております。それだけが、あの悲惨な事件のうちに、唯一救いを求めることができます。ただ、もう少しで二度と走れない体になっていた少年がいたそうですが……」
「彼こそが、わたしの命の恩人たる少年です。今は、事件以前と変わらない、元気な様子ですよ」
「なるほど、やはりあの小戦士のことでしたか……。それはよかった。もしも彼から野を駆ける足を奪ったのであれば、我々ヴェロニカ教徒は無限に近い罪業を背負うことになったでしょう」

 ビアンキ老師は深い納得と、同量の安堵を込めて頷いた。
 その口調は真剣そのものだった。ジャスミンのような大人が、年端もいかない少年のことを命の恩人と呼ぶことに対して、微塵の不審も覚えないようだ。

「では、お孫さんもあの惑星に監禁された学生さんの中に?」
「はい。幸い、あなたが小戦士と呼ぶ少年が一緒にいたおかげで、危険とは無縁の生活を送ることができたようですが」

 ジェームスが聞けば思い切り首を横に振りたくなるような台詞ではあったが、同時に、小戦士──リィのおかげで何度も危難を免れたことも事実なので、渋々に首肯したかもしれなかった。
 ジャスミンの言葉に、ビアンキは頷いた。ジャスミンの年で孫がいるということを疑ったり、問い質したりはしない。そのことが当のジャスミンには不思議であったが、目の前の老人には、なにか神通力のようなものでもあるのだろうと納得することにした。
 ミア・ビアンキという人間には、どこか、そういう雰囲気がある。好意的に解するならば神々しさとでも言おうか。それとも、妖気を纏っていると表した方が正しいか。
 そんなことを考えていたジャスミンの前で、ヴェロニカ教の最高指導者たる老人は、深々と頭を下げた。
 ジャスミンは、老人のつるりとした後頭部を見下ろすはめになり、慌てて腰を浮かした。

「おやめください、ビアンキ老師」
「あの事件は、不幸な……本当に不幸な事件でした。我らヴェロニカ教徒の内々のいざこざで、たくさんの子供たちや、あなたのような子供のお身内の方々には、癒しようのない深い傷を拵えてしまった。お詫びのしようもございません」

 ジャスミンは、そんなことはない、あなたが謝る必要はない、とは言わなかった。
 組織に属する人間が不祥事を起こした場合、その被害者に対してトップの人間が頭を下げるのは至極当然のことだからである。これが立場が変わり、クーアカンパニーに所属する人間の起こした事件の被害者にジャスミン自身が顔を合わすことがあれば、彼女は今のビアンキと同じく、深く頭を垂れるだろう。
 だから、ジャスミンは別のことを口にした。

「お顔をあげてください、ビアンキ老師。わたしは、今更あなたの謝罪が欲しくてこの星を訪れたわけではありません」

 老人は、ゆっくりと頭を上げた。
 再びジャスミンの視界に映った老人の顔は、静かに凪いでいた。
 ジャスミンは、内心で嘆息した。
 これは、簡単なようでいて尋常なことではない。
 目の前に、自分がかつて目をかけた愛弟子によって、甚大な迷惑を被った人間がいる。
 そして、先ほど自分は深く謝罪をした。
 にもかかわらず、老人の皺に埋もれた顔のどこにも卑屈な色はなく、同時に、痛いところを覆い隠そうという傲慢さもない。
 あくまで自然体なのだ。
 なるほど、これが一流の宗教人というものかと、ジャスミンは老人に対する評価を改めた。

「ところで老師。あの少年は、元気ですか」

 腰を落ち着けたジャスミンが、一体誰のことを言っているのか、老人には分かりすぎるほどに分かった。
 おそらくはあの事件で最も深い傷を負ったであろう、ヴェロニカ教徒である少年、チャールズ・レザロのことだ。
 ビアンキ老師は、心底痛ましそうに、首を横に振った。

「彼にとって、今のこの星はあまりにも生きにくい場所です。お父上もあのようなことになってしまった今、無理にこの星で暮らすことが彼の幸福に繋がるとは思えませんでした。また、彼自身もそれを望みませんでしたから……今は、遠い場所で疲れた体と心を癒しております」

 ジャスミンは、事件の顛末を思い返していた。
 リィ達の活躍により子供達があの星から解放され、道化じみた査問会も、真犯人の登場という劇的な展開によって終了した。
 その後、事件のきっかけとなる不道徳を犯した政治家は、まるで今までの自分を悔いるかのように政治の表舞台から姿を消し、どこか、ヴェロニカから遠く離れた場所で療養生活を送っているという話だった。
 父親と同じく、宗教的戒律を犯していることが公になってしまった少年も、この星にはいられなかったのだろう。父親と同じ場所で、今は静かに暮らしていると考えるべきだった。

「他の者が彼らのことを何と言っているかは存じませんが、わしは彼ら親子も被害者であると思っています。無論、レザロ元議員がオーデン導師の息子にしたことは許されることではありませんし、チャック君も含めたところで、彼らがヴェロニカ教の戒律に背く生活を送っていたことも否定はできません。しかし、彼らが犯した罪の源は、全てがヴェロニカの教えに根ざしたもの。そこから生まれた罪ならば、それを背負うのが彼らだけでいいはずがありません」

 老師の言葉に、ジャスミンは首を横に振った。

「老師、わたしはそうは思えません。老師の、彼らを労るお心は尊いものだとは思いますが、罪の在処を無限に分散させると、その本質が覆い隠されることがままあります。再びこのような不幸な事件が起きることのないよう、我々は教訓と禁忌を、この事件から学び取らなければならない。そうではありませんか?」

 ビアンキ老師は深く頷き、

「おっしゃるとおりです。しかし、ヴェロニカの教えが彼らの罪に対して再起不能の罰を与えたとするならば、わしはそれを憎まざるを得ない。彼らの罰のほんの一部でも背負えるならば共に背負ってあげたいと、そう思うのです」

 ジャスミンは、驚きに目を丸くした。
 動揺を声に出さないよう、軽く咳払いをしてから、

「失礼ですがビアンキ老師、まさかあなたのようなお立場の方から、そのような言葉を聞くことになるとは、些か驚きました」
「そのような、とは?」
「先ほど老師は、ヴェロニカの教えを憎む、と。ヴェロニカ教の教えに身を捧げないわたしなどが聞くと、それはあなたのような方が口になさるには、相応しいとは思えなかったのです」
「これは失言でした。お許しください。年を取ると、思わぬ言葉が口から飛び出るようになりましてな、人と軽口をやりとりするだけで戦々恐々とせねばなりません。困ったものです」

 老人は快活に笑い、冗談の中に全てを埋めようとした。
 だがジャスミンの灰青色の瞳は、老人の、苦渋に満ちた表情をしっかりと捉えていたのだ。
 果たしてこの老人は何を知っていて、何を考えて、先ほどの台詞を口にしたのか。先ほどの台詞は、老人の何を表しているのか。
 ジャスミンの刃物じみた視線から逃れるように、老人は話題を転じた。
 
「ところでミズ・クーア。わしにご用があるとのことでしたが、それは一体どのような?」

 ジャスミンが何かを言おうとしたその刹那、機先を制するような老人の言葉であった。
 ジャスミンは開きかけた口をいったん閉じて、慎重に言葉を選びながら答えた。

「……わたしは先ほど、あの事件は終わった事件であると言いました。それは間違えではないと思っています。ですが、その終わりを受け入れられない人間が、この世にはいるようでして。わたしは、その全てに決着をつけるために、老師のお言葉を頂戴に参りました」
「……事件が終わっていない、とは?」
「老師は、この事件が不幸な偶然が積み重ねられた上に、たまたま起こってしまった事件だと思いますか?」

 ジャスミンの、おそろしく鋭い視線を浴びながら、しかし老人の顔色は微塵も変わらなかった。
 しわくちゃの顔に柔和な笑みを浮かべ、ジャスミンを眺めている。

「お言葉の意味をはかりかねます。それでは、一体どのような言葉を返すべきなのか、この老いぼれは迷ってしまいそうです」
「では質問を変えさせて頂きましょう。老師は、二級以上の居住可能惑星を、熟練の資源探索者が一生のうちに見つける可能性が如何ほどかご存じで?」

 突然の質問に、老人は困惑の表情を隠せなかった。

「いえ、考えたこともございません」
「人類が宇宙に生活の場を求めて以来、発見された二級以上の居住可能惑星は千をわずかに越えるだけに過ぎません。今まで、何億人という資源探索者が宇宙の藻屑となり果てたにもかかわらず、です」

 それほどに、人という脆弱な種族が何不自由なく日常生活を送ることのできる星は貴重なのであり、当然のことながら高価なのだ。だからこそ、リィの所有する無人惑星のことを聞いた田舎成金は、目の色を変えてそれを手に入れようとする。
 ほとんどの資源探索者は、居住用惑星を見つけることなど、到底あり得ない話だと思っている。そんなものが見つからなくても、例えば有用な鉱山資源を多量に含んだ小惑星を見つけるだけで、一生遊んで暮らせるだけの報酬を受け取ることができるのだ。二級以上の居住可能惑星を見つけるなど夢のまた夢、もしも夢が叶えばどれほどの金銭を生み出すのか、想像もつかない。
 
「今までにあの星──査問会では惑星Xと呼んでいましたか──を見つけることの出来た人間が、わたしの知る限り四人。わたしの父。次に、あの事件の首謀者であったエリック・オーデンという男。そして、あの星にトリジウムの密輸基地を建造した何者か。最後に、最近知己を得た、資源探索者の一行です。これは、一つの未発見居住用惑星の発見者の数にしては多い。多すぎる」
「仰りたいことはわかります。しかし、それがあの事件と如何なる関わりがあると?」

 ジャスミンは、老人の問いに答えることなく話を続けた。

「加えて言うならば、父──マックス・クーアはあの星の周囲に無数の電波吸収パネルを配置していたのです。であれば、父の後にあの星を発見するには目視に頼らざるを得ず、通常の星に比べて発見難度は数倍にも跳ね上がっていたことでしょう。それにも関わらず、これだけの人間が一つの惑星を発見し、それを隠匿し続けた。これは果たして偶然でしょうか?」
「おまちください。マックス・クーアですと?それが、あなたの父とは……?」
「もう一度申し上げましょう。わたしの名はジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーア。そして、わたしの父はマクスウェル・オーガスタス・ノーマン・ウィルバー・ジョセフ・ラッセル・クーアです」
「馬鹿な、その名前は……」

 喘ぐような呼吸をする老人に、無慈悲とさえいえる乾燥した声でジャスミンは応える。

「おそらくあなたのお考えの通りです。もしよろしければ、後で過去の記録映像と今のわたしの姿を比べてご覧ください。本人であるとの確認くらいは出来るでしょう」
「しかし……しかし、姿形など如何様にでも整形することができるでしょう」
「では、わたしが嘘を吐いていると?わたしが、そんなに突拍子もない嘘を武器に、あなたから小金を騙し取りにきた小悪党だと?」

 ジャスミンは、人の悪い笑みを浮かべた。
 その不敵な様子は、どこをどう見てもけちな詐欺師程度の器ではない。これが犯罪者であるとするならば、世間をあっといわし、犯罪史に二度と消えない名前を刻み込む大物犯罪者に違いなかった。
 ビアンキ老師は、乾いた肌に僅かな汗が滲むのを感じた。それでも、最後の反論を試みる。

「失礼ですが……クーア財閥の二代目総帥であったジャスミン・クーアという女性は、半世紀も前にこの世を去っているはずです。わしは、映像でしかないが、彼女の葬式をこの目で見たのだから、間違えるはずがありません」
「それは光栄ですな。しかし、わたし自身驚かされたのですが、わたしはあのとき死んでいなかった。わたしの死を予期していた侍医と執事の手で冷凍睡眠装置にたたき込まれて、こうして生き恥を晒している次第です」
「だが……確かにあなたは、あの時よりも……」
「若返っておりますな。それは天使の奇跡の賜物です」

 しれっと言ったジャスミンである。
 言っていることがどれだけ無茶なのか、彼女自身もわかっている。普通ならば頭のおかしい人間と思われてしまうだろう。
 あまりに予想外の台詞に、しばしの時間呆気にとられた老人であったが、茫然自失から立ち直った後で、猛烈な笑いの発作に襲われた。
 普段の彼を知る人間であれば奇異を通り越して恐怖を覚えるほどに、老人は笑った。笑い続けた。
 ジャスミンは、それを止めなかった。ただ、老人が笑い止むのを待った。
 しばらくして、骨の浮いた背を痙攣させるようにひくつかせた老人は、目の端に浮いた涙を指先で拭い、

「それは何とも不公平なことです」
「冷凍睡眠装置を使って生きながらえたことが、ですか?それとも若返ったことが?」
「いえ、天使があなたの前に姿を現したことが、です。わしはこの年まで神の教えに身を捧げておりますが、そんな奇跡はとんと見たことがありません。最近は神の存在を疑っているところなのに、そんなずるいことを言われては、信仰を捨てるわけにはいかないではないですか」
「それは……失礼をしました。もしよろしければ、今度、紹介いたしましょうか?」

 老人が、見事なほどに目を丸くした。

「天使を……紹介していただけるのですか?」
「はい。まぁ、彼がそれを了解してくれればの話にはなってしまうのですが……。ただ、彼は老師のような方は大好きだと思いますから、まずは問題ないでしょう」

 老人は一度天井を仰ぎ、神の御名を意味する言葉を呟いた。

「まったく、本当に神は不公平だ。時折あなたのように、ご自身の深く愛された人間を使わされる」
「何をおっしゃる。わたしは、わたしほど神に嫌われた人間も珍しいのではないかと常々疑っているほどなのに。こちらは平穏無事な、厄介事とは出来るだけ距離を置いた人生を望んでいるのに、どうしてか厄介事からのラブコールが途切れた試しがない。正直に申し上げれば、こういう役回りはわたし以外の誰かに任せて静かな余生を送る方法はないものかと、真剣に頭を悩ませているところです」

 苦笑混じりにジャスミンは答えた。
 自分は恵まれてなどいない、むしろ迷惑しているのだ、と。
 天使の知己を持ち、一度死の淵を覗き込みながら生還を果たし、なおかつ若返りの奇跡を体現したにもかかわらず。
 これが優越感や同情心とともに言われた言葉であるならば、いかに俗世を捨て去った身であっても反感の一つも覚えようものだが、あまりにさらりと、世間話の一つのように言うものだからそんな気は削がれてしまう。
 もう一度軽く吹き出した老人は、精一杯に真剣な顔を作り上げて、

「失礼しました。続けてください」

 ジャスミンも、僅かに緩んでいた頬を引き締め直した。

「例の星──惑星Xと呼ばれたあの星の正式な名称をご存じですか?」

 またしても突然の質問に、老人はしばし息を止めた。
 例の星。連邦大学中等部の学生が、二週間にわたり強制的なサバイバル生活を営むはめになったあの星は、連邦に未登録の惑星ではなかったのか。だからこそ、ああも長期間にわたって学生達の行方が知れなかったのだ。
 であれば、正式な名称など付されていようはずもないのだが。

「──いえ、存じ上げません。連邦未登録のあの星に、名前などあったのですか」
「正確にいえば、連邦にもきちんと登録されておりました。それも、わたしの父の個人所有の惑星として、です」

 老人は再び目を剥いた。
 この世には様々な大富豪がおり、そのうちの幾人かは老人の知己である。彼らからの金持ち自慢は聞き飽きたほどだが、惑星の個人所有という無茶は聞いたためしがなかった。
 普通に考えればただの与太話である。しかし、こと故マックス・クーアに関して言えば、およそ無茶な話が無茶とは思えなくなってしまうだけの説得力がある。
 だいたい、目の前の女性のどこにも嘘や冗談を言っている雰囲気はない。
 老人は、ジャスミンの言葉に嘘がないと判断した。
 
「驚きました。そのようなことが現実にあるのですね」
「実の娘であるわたしも、あの事件があるまでそのような冗談じみた星がこの宇宙に存在することを露とも知りませんでした。お恥ずかしい限りです」
「では、その星にはどのような名前が?」

 ジャスミンは、一際強い眼光で老人の顔を射抜いた。

「惑星──ヴェロニカ」

 数瞬、沈黙が部屋を支配する。
 ジャスミンは、あえて沈黙したのだ。老人は、沈黙せざるをえなかったのだ。
 その差は、ただ真実を知っていた者と、今まさに知らされた者との違いであった。
 
「当時の父の記録を調べ直してみたところ、その時期にヴェロニカという名の女性と個人的な交際があったことがわかっています。あの父のことだ、おそらくはそういう遊び心で自分の発見した星に女性の名前を付けていたのだろうと思いました。事実、父があの星を発見した時期は、新たに発見された惑星やゲートに、恋人や家族の名前を付けるのが流行していた時期でしたから」
「それは、なんとも……」
「しかし不思議なことに、父が発見した惑星やゲートのうち、個人的な名前が付されているものは、例の星だけなのです。父が発見した惑星とゲートを合わせれば、両手両足の指の数では到底収まらないにも関わらず、です」

 ジャスミンは、手を組み直した。蒸し暑い室温のせいで、僅かに汗ばんでいる。
 老人の頬を、汗が伝った。暑さと、それ以外が流させる汗だった。

「父の恋人であったヴァロニカという女性のことは、ほとんどわかっていません。ただ、その時期の父は、ペレストロス共和国──現在のヴェロニカ共和国に、仕事以外の用事で足繁く通っていたことがわかっています。おそらく、彼女はこの星の生まれだったのではないでしょうか」
「……あり得ないことではないでしょうな。この国の名は、言うまでもなくヴェロニカ教から取られたものですが、ヴェロニカ教という名前自体はこの国の建国の母であった聖女ヴェロニカから取られている。そういう由来ですから、ままあることですが、この国にはヴェロニカという名の女性が非常に多い」
「ヴェロニカ教の始祖たる聖女ヴェロニカは、苦難と迫害の旅路の末に、現在の惑星ヴェロニカに辿り着き、ヴェロニカ教の布教に生涯を捧げた。では、自分の恋人であるヴェロニカを聖女ヴェロニカに見立てて、彼女に捧げる意味で、新しく発見した惑星にその名をつける。いかにも大仰でキザったらしいが、あの父の好みそうなことだ」

 ジャスミンは、自然とため息を吐き出した。だが、その頬は微笑みのかたちを作っている。
 それを、眩しいものでも見るように眺めた老人が、ゆっくりと口を開いた。
 
「お話はわかりました。たいへん興味深い話でもあります。ですが、それがいったい、先ほどのくだりとどういう関係を持つのでしょうか」
「惑星ヴェロニカ──紛らわしいので、査問会に倣って惑星Xと呼びましょうか──を発見した父は、その当時、旧ペレストロス共和国、現ヴェロニカ共和国に頻繁に通い、恋人との逢瀬を楽しんでいた。例の事件の真犯人であったエリック・オーデンは、定期船の船乗りとして同じく惑星ヴェロニカ周辺を仕事場としていた。最近知己を得た資源探索者の一行は、無謀に宇宙を彷徨いながら、しかしヴェロニカ共和国の知人を頼りに旅をしていた」

 ジャスミンは、表情を消した視線を老人に寄越した。

「お分かりでしょうか。わたしの知る惑星Xの発見者のうち、四名中三名までもが、惑星ヴェロニカを目的地として、あるいは中継地として設定していたのですよ。これは果たして偶然でしょうかな?」

 老人は、曖昧な笑みを浮かべる。

「はて、わしにはなんとも……」
「そして、もう一人の発見者、トリジウム密輸組織の誰かも、同じく惑星ヴェロニカに何らかの関わりがあったと考えるのは不自然なことでしょうか?」
「……」
「付け加えるならば、極めて短期間のうちに四名もの発見者を出すこの星を、惑星ヴェロニカに港を持つ他の船乗り達は、誰一人として知らなかったのでしょうか?本当に?」

 ジャスミンの鋭い視線を浴びながら、しかし老人の仄かな笑みには陰一つ差さない。
 ただ悠然と、この世の者ではないように笑っている。
 ジャスミンは、かすかな恐怖と嫌悪感を覚えた。
 自分が今話しているのは、本当に生きた人間なのだろうか。
 本当に?

「……わたしは思うのですよ。あの星は、ヴェロニカ政府の上層部──おそらくはマークス・レザロですらが立ち入ることのできなかった上層部では、周知の存在だったのではないかと」
「それは、興味深い意見です」
「マークス・レザロは次期大統領を目されていた有力な政治家です。しかしあの事件で、彼が惑星Xを知らなかったのは間違いない。彼も人の親です、実の息子が誘拐されて、藁をも掴みたいような気持ちだったのは確かでしょう。わたしも一度と無く顔を合わせたが、その時の彼には上辺だけでない焦慮が存在していました」
「当然でしょう」
「ヴェロニカへ向かった宇宙船が姿を消し、未開発の惑星に子供たちが置き去りにされたという。そして、犯人はもとヴェロニカ教徒で、自分に恨みを抱いた人間だった。もしも彼が件の星を知っていれば、真っ先にあの星のことを思い浮かべ、誰かに知らせたはずです。表だって目立つのを嫌うのなら、彼ほどの立場の人間です、ヴェロニカの警察なり軍隊なりを秘密裏に動かして少年たちを救出することは容易いことだったでしょう」
「……」
「つまり、彼は真実何も知らなかったと推測ができる。では、次期大統領の最右翼候補であった彼ですらが立ち入ることのできない上層部とは、いったいどのようなものなのでしょうか?」

 自問したジャスミンは、考えるふりをした。
 あくまで、ふりである。
 彼女は既に、自分の中で、真実を見つけているのだ。あとは、それが事実と合致するか、確認をするだけでいい。

「たとえば──ヴェロニカ教の首脳陣。彼らならば、政権交代によって野に下ることもなく、教義を捨てない限り結束は保たれ続ける。宗教的な戒律によって口は貝のように堅い。秘密を保持する集団としてこれほど適したものも他にはないでしょう」
「……失礼ですがミズ・ジャスミン。それは、聞きようによっては酷く非礼な言葉に思えます。あなたは、我々ヴェロニカ教の首脳陣が、トリジウム密輸組織に関わりがあると、そう仰るのですか?」

 骸骨のように笑う老人の言葉に、しかしジャスミンは露ほども動じなかった。
 老人の瞳の奥に広がる無限の虚無に、正面から相対している。
 そして、気圧されるでも不要に居丈高になるでもなく、淡々と続ける。
 
「はい。わたしは、そう申し上げております」

 老人は深いため息を吐き出した。
 どこにも作為の見られない、自然な動作であった。

「残念です。わしは、あなたとは素晴らしい友人になることが出来るのではないかと、そう思っていたのに」
「すべてを判断するのは、すべてが終わった後でよいのではないでしょうか。わたしの話したいこと、わたしがあなたから聞かねばならないことは、まだ終わっていません」

 毅然としたジャスミンの口調に、しかし老人は動じない。
 ただ、静かに凪いだ視線で、彼女の灰青色の瞳を見つめ返している。

「考えてみれば、この星、いや、この国家の成り立ちからして奇妙なものだと言わざるを得ない。この国の主幹産業である遺伝子産業は、それ自体が非常に高額の資本投下を要する。つまり、それを支える下地となる産業が、他に必要となるのです。しかし、この星には観光産業以外、他にめぼしい産業がない。失礼ですが、貧しい移民の興した国家である旧ペレストロス共和国に、それだけの蓄えがあったとも思えない。かといって、他の国から多額の資本援助を受けた形跡も見られない。ならば、ヴェロニカ教徒には生命線であるといっても過言ではない、完全栄養作物を作るに至った高度な遺伝子操作技術は、如何にして育成されたものなのでしょうか?」
「それは、神の加護があったとしか申し上げられません。天才と評して間違いない幾人かの信徒が、技術の進んだ他国へ留学し、苦難の末に学を修めてこの地に一つの産業を興したのです。それがおかしなことでしょうか?」
「人材はそれでいいとしましょう。では、研究に不可欠な機材は?こればかりは、個人の努力でどうにかなるものではない。もっと単純に、しかし最もシビアに、多額の金銭がなければ揃えることはできません。そして、満足な機材をなしに、高度な研究を進めることはできない。遺伝子研究とは、そういうものです」

 経営者であったジャスミンの指摘は、どこまでも辛辣であった。
 
「完全菜食主義を掲げるヴェロニカ教徒は、完全栄養作物の栽培を可能にするまで、いったい何を口にして生きてきたのか。そもそも、どうしてそのような食物を作る必要に迫られたのか。わたしならば、もっと手近にある肉を食べます。そうしないと生きていけないのだから。それが人間というものです。翻って、宗教とは生活の上に存在するものでしょう。日々の営みがあり、禁忌と信仰が生まれ、その上に教義と教祖が生まれるのです。であれば、自然からの収奪を厳に禁じるあなた方の教義は、いったいどのような生活のうえに生じたのですか。そこに、いったいどのような禁忌と信仰があったのですか」
「……」

 老人は、何も言わない。
 そして、笑っている。
 ジャスミンはもはや、目の前の人間を、人間とは思っていなかった。
 もっと恐るべき、もっとおぞましい、なにか。
 老人の形の内側に、なにかが詰まっている。そのなにかが、老人の形をとっている。
 目の前で話しているのは、そのなにかだ。
 自分の理解の範疇にいない、なにか。
 喉が、ひりつくほどに乾いていた。

「……わたしがこの星に来たのは、根拠のない憶測の積み重ねではありません」
「それは、どういう?」

 ジャスミンは、懐から、ビニールにくるまれた繊維片を取り出し、テーブルに置いた。

「これは?」
「惑星Xに蓄えられた密輸トリジウム原石──その梱包に使われていた麻袋の繊維ですよ」

 見た目には、ただの糸くずにしか見えない。
 老人は、その繊維を、じっと見つめていた。

「……これが、如何致しましたか?」
「これを分析するのには、少々骨が折れました。思ったよりも時間も食ってしまった。その結果が、こちらです」

 ジャスミンは、ブリーフケースから一枚の書類を取り出し、テーブルに広げた。しばらく前、ケリーと同じベッドで朝を迎えたあのホテルで受け取った資料を、プリントアウトしたものでもあった。
 そこには、様々な植物の名前が羅列されている。麻袋の原材料となった植物の名前だ。

「ほとんどは、どこの惑星でも一般的に栽培されている、麻の品種でした。しかし、ここを」

 ジャスミンのほっそりとかたちの良い指先が、一つの植物の名前を差す。
 老人にとって、それは初めて見る名前ではなかった。

「デング麻。繊維が非常に丈夫で、衣類をはじめとして様々な用途に供される、ヴェロニカ原産の麻の一種……で、間違いはないかと思うのですが」
「ええ、まったくもってそのとおりです」
「そしてこれがもっとも重要なのですが……この品種は、この星以外では、研究用に栽培されているごく少量を除き、栽培されていない。そして、この星の需要を賄う以外の目的──たとえば輸出用の作物として栽培している事実もない。これも間違いありませんね」
「わしの記憶が確かならば、ミズ、あなたの仰るとおりでしょう。しかし、だからといってこの星の人間がトリジウムの密輸に手を染めたという証拠にはなりません」

 ジャスミンは、老人の反駁にたやすく首肯した。

「仰るとおりです。たまたまこの星に立ち寄った組織の人間が、麻袋を買い求めただけかもしれない。なにかの間違いで外国の買い手がついたのかもしれない。捜査を混乱させる目的で、作為的に紛れ込ませたのかもしれない。可能性をあげればきりがありません」

 ジャスミンは深く息を吸い込み、話し続けた。

「だが、組織の遺留品の中に、この星原産の植物が含まれていた。到底見逃していい事実ではありません。わたしは、いえ、わたしたちは、それを確認するためにこの星に来たのです」
「わたしたち……と、もうしますと?」
「わたしは、わたしの夫とともにこの星を訪れました」

 老人が息を飲む。

「あなたの夫というと……まさか、ケリー・クーア氏ですか?」
「わたしは、あの男以外と夫婦の契りを結んだ覚えはありません」
「しかし、しかし彼は……いや、あなた方に、そういう常識を期待するのが愚かなのでしょうな。なにせ、あなた方は天使に愛されているのだから」

 老人の言葉に、ジャスミンは応とも否とも答えない。
 なぜなら、それは言うまでもない事実であり、老人の言葉は完全に正鵠を射ていたのだ。

「では、ケリー・クーア氏はどこに?伝説の偉人だ。もしよろしければ、一度お会いしてみたいのですが」
「そういう呼び方さえしなければ、あれもあなたのようなお人は好きでしょうからいつでも会うでしょう。しかし、今は駄目です」
「今は駄目、と。それはまた何故?」
「夫は、昨日、武装した集団によって拉致されました。それも、おそらくは、この国の上層部の息のかかった連中に、です」

 老人の顔が、初めて驚愕に歪んだ。
 ジャスミンは、老人の内側の何かが隠れるのを見た気がした。
 老人の中の老人が、再び姿を現したのだ。
 
「拉致、ですと?」
「この国で知己を得た小さな友人と一緒です。もしかすると、二人とも、既に殺害された可能性もある」
「……しかし、どうしてそれが政府に関わりのある者の仕業だと?」
「最初に襲撃を受けたのはこの国で出会った友人である少女ですが、彼女を襲ったのはヴェロニカ軍に所属する軍人でした。その一人を捕らえ尋問したところ、上官からの命令で少女を捕縛しようとしたことを認めました。であれば、襲撃自体がヴェロニカ政府の意図したものである可能性が非常に高い。隠密裏に特殊部隊が出動していることから考えても、上級佐官以上の者が関わっていることは間違いないでしょう。そんな立場の人間が、場当たり的に他国の少女を、自分の手勢を使って拉致しようと考えるでしょうか?」
「……なるほど」
「夫と少女を直接的に拉致したのは彼らとは別の部隊です。しかし、一晩のうちに全く異なる命令系統に属する集団が、同一の目標を襲撃する可能性が如何ほどでしょうか。わたしは、そのような偶然は排除して思考するものです」

 ジャスミンは機械的な口調で言った。
 彼女は、元軍属である。あの場から去るときに聞いた銃声が、ケリーの愛銃のそれでないことは容易にわかった。であれば、ケリー以外の誰かが、おそらくはケリーに向けて発砲したのだろう。
 であれば、ケリーの生きている可能性はどれほどのものか。
 五分五分、いや、もう少し高いかもしれないが、その程度だ。あの男は仮に阿呆であっても、決して愚かではない。突然に無為な抵抗を試みて射殺されるという素人じみた死に方だけはしないという確信がある。しかし、気まぐれに引かれたトリガーが人の命を奪うなど、ままある話ではないか。
 
「わたしは、夫を奪い返す。もしも既に殺されているならば、必ず犯人には、行為に相応しい死に様をくれてやる。そのためには、ありとあらゆる手段を辞しません」

 先ほどとはうってかわって、灼熱じみた言葉をジャスミンは冷静に吐き出した。

「きっかけは些細な繊維片の鑑定結果でした。しかし、既に事態は、ことの真偽を問う段階にはないのです。どうしてこの星とは縁もゆかりもない夫が、そして小さな友人が、拉致されなければならなかったのか。この国で今、何が起きているのか。わたしは、それを知りたいのです。そして、彼らが今、どこで監禁されているのか。既に殺害されているのならば、その死体はどこにあるのか。あなたならば、それをご存じなのでは?」
「……」

 老人は黙した。眼を閉じ、口を引き結んだ。
 鉛色の皮膚が、どんよりと濁っている。大樹の年輪が如く、深く深く刻まれた皺に、無限の後悔が刻まれている。
 ジャスミンは、全てを知るが故に苦悩する賢人の姿を、そこに見て取った。

「……ミズ。あなたは、この国の現状をどうみますか」

 重たい呟きに込められた感情をことさら無視するように、ジャスミンは淡々と答えた。

「僅か一年に満たない短期間の間に、よくぞここまで人心が乱れたものだと、関心してしまいます。かつてヴェロニカといえば、語弊を恐れずに言えば清貧と勤勉、他者への寛容を体言した民族であるといわれていた。厳しい戒律を守りながら、しかし破戒者に対してすら慈悲を向ける信仰のありかたは、宗教学者からも高い評価を得ていた。それも、もはや過去の有り様に思えます」

 手厳しいジャスミンの言葉は、しかし彼女の率直な感想であった。
 この星に降り立った直後の、空港タクシー運転手の排他的な応対。街中で起きた、信者同士のリンチ事件。夜の盛り場で聞いた憂国ヴェロニカ聖騎士団を名乗る無頼漢の横暴と、それを取り締まることもできない官憲の軟弱。
 なによりも衝撃的だったのが、ヴェロニカ聖騎士団に手酷く暴行され傷だらけで倒れた夫婦と、燃え盛るその店を前にしたときの、通行人の無関心である。
 そこに、明らかに医者の治療を必要としている人間がいるのに、手を差し伸べようともしない。炎が今まさに建物を飲み込もうとしているのに、消防に連絡すらしない。
 理由はただ一つ。被害者が、ヴェロニカ教の戒律を破ったから。それとも、破ったかもしれないから。
 無頼漢どもの報復を恐れてそうしないのではない。ただ、ヴェロニカ教の教えに反する人間がどのような仕打ちを受けようとも、それは当然の報いであると確信しているのだ。
 これは、正常な運営をされている国家の民衆の反応では決してない。

「ミズ。あなたの言うとおりです。わしも、あなたと同じ意見を持っております」
「ならば……」
「しかし、あなたとわしの立場ははっきりと異なる。それをまずご理解ください」

 枯色の目を開いた老人は、恐ろしいほどに清々しい口調で言い切った。

「わしは、老いていますな」

 突然の言葉に、ジャスミンは声を失った。

「老師」
「耳は声を拾えず、目はものを霞ませる。骨など、軽石か何かと変わるところがなく、満足に歩くこともできません。これを老いと呼ばず、なんと呼びますか」
「……はい、老師の仰るとおりです。あなたは老いていらっしゃいます」
「ミズ、あなたは優れたお人だ。頭も良く、美しく、そして強い。腕っ節や財力などを越えたところで、あなたは強い人だ。だからこそ、神もあなたに試練をお与えになるのでしょう。わしの若き頃とは比べようもない輝きで満ち満ちている」

 ジャスミンは、応とも否とも応えなかった。老人の言葉は、まだ終わっていないことが明白だったからだ。

「しかし、もしも今のあなたが、今のわしに及ばないところがあるとすれば、それはあなたがまだまだ若いということだ」
「なるほど、そうかも知れません」
「老いるということは、ただ歳を積み重ねるということではありません。ただ歳を積むだけならば、それは朽ちるということです」

 老人はジャスミンを見ながら、しかし彼女の背後の何かに語りかけていた。

「老いるということは、背負うということです。それは自分の人生であり、他人の人生でもある。喜楽でもあるし、苦難でもある。あなたは若くして大変大きな責任を背負われたが、それでもこの老人の背負ってきたものには一歩及びますまい」
「仰るとおりでしょうな」
「あなたが今のわたしと同じ歳の頃になれば、おそらくはそれも逆転してしまうのでしょうが……それでも、わしは、わしの背負ってきたものに誇りと愛着があります。たとえそれが、目を背けなければならないほどに醜いものであっても」

 ジャスミンから言葉を奪ったのは、老人の言葉ではなく、その穏やかな笑顔であった。

「あなたは、おそらく全てを終わらせるためのこの星に使わされたのでしょう。しかし、わしにはあなたの礎になる勇気がありません。だから、お願いします。どうかこの老人から、荷物を奪わないでください。わしを、ただ朽ちゆく肉にしないでください」

 老人は、再び頭を下げた。
 深く深く、頭を下げた。
 ジャスミンは、頭を上げるよう懇願をしなかった。

「……わかりました。今日は、これで引き上げさせていただきます」
「……申し訳ありません」
「ですが、もしもお気が変わったならば、この番号に連絡をください」

 ジャスミンは、自分の携帯端末の連絡番号を書いたメモを、老人に手渡した。

「老師。わたしの見たところ、この星の情勢は加速度的に悪化している。そんな中で、守旧派の象徴であるあなたのお立場も、安泰とは思えません」
「理解しておるつもりです」
「万が一、老師が身の危険を覚えることがあれば、その時も、遠慮なくご連絡下さいますよう。わたしは、そちらの方面には、それなりの自信がありますので」
「ええ、それも理解しておるつもりです」

 老人は朗らかに笑った。
 ジャスミンも、つられて笑った。
 そして、颯爽と立ち上がった。

「ああ、そういえば、忘れるところでした」

 立ち上がったジャスミンが、再度ブリーフケースの中から一枚の書類を取り出した。
 それを、同じく腰を上げたビアンキ老師に手渡す。

「老師、これをご覧下さい。あなたのお考えの如何を問わず、わたしにはこれをお見せする義務があると思い、この場所まで足を運んだのです」
「……そうですか、どれ……っ!」

 息を飲んだ老人が、たちまちに、石像のように立ちすくむ。
 その石像の顔は、恐ろしいまでに強ばっていた。骸骨じみた目が極限まで見開かれ、眼球がこぼれ落ちそうなほどであった。
 老人の痩身が、わなわなと震えていた。

「こ、これは……」

 老人が、初めて恐怖と驚愕に唇を震わせて、無意識に呻き声を上げる。
 汗ばんだ手に握られた書類には、惑星ヴェロニカ世界地図が描かれており、その上にはいくつもの赤い点が打たれている。
 それは、メイフゥが憂国ヴェロニカ聖騎士団から奪い取り、ダイアナが解読した、あの地図であった。

「あ、あなたは、これをいったい、どこで……」
「出所を申し上げるわけにはいきません。そして、意味のないことでもあります」
「意味がない、とはどういう……?」
「もっとも重要なことは、そのデータが、わたしのようにこの星に深く関わらない人間ですらが手に入れられる可能性を持っていること、そして他にもその地図を手に入れた人間がいるかもしれないこと。それだけで十分ではないでしょうか」

 老人の顔が土気色に染まり、歪んだ。
 泣き出す寸前の幼児のような、切羽詰まった表情だ。
 そこに、ヴェロニカ教を率いる大僧正の威厳は欠片も残っていなかった。
 ただ、己の力では如何ともし難い事態に直面した、無力な老人が、いた。

「データのオリジナルは、流石に厳重なロックがかけられたコンピュータチップでしたが、わたしの信頼すべき友人はそれを僅か30分で解除しました」
「……」
「彼女によれば、他の人間であれば、一ヶ月はかかったそうです。逆に言えば、一ヶ月も時間があれば、彼女以外の人間でもロックを解除できる可能性がある、ということです」

 ジャスミンの声は、どこまでも無慈悲である。

「そのチップが、もしもわたしの手に入れたもの以外に存在するならば、遅くとも一月後には同じ地図を誰かが目にすることになるでしょう」
「……その可能性は……」
「たいへん高いでしょうな、残念ながら」

 老人が、再び息を飲む。
 彼の、枯れ木のような指が、書類をくしゃくしゃに潰した。まるで、そうすることで最悪の可能性を握りつぶすことが出来ると信じているかのように。
 ジャスミンは、力みすぎて白じんだ老人の指を、哀れみを込めた視線で見遣った。

「歪な木片を積み上げるのは、大変な難行です。しかも、それを人知れず、真実を覆い隠しながら行うのは至難の技だ。しかし、それを崩すことには大した労力は必要ではありません。なにせ、真実を明らかにするだけでいいのですから」
「……そこまで血迷ったか、あの男は……!」
「わたしが、あの事件の終わりを受け入れられない人間がいるというのは、実にこの一事からなのです」

 ジャスミンは、立ったままの姿勢で、淡々と続ける。

「そもそも、あの事件はあまりに作為的にすぎる。そう思いませんか」
「あの事件とは……件の、誘拐事件のことでしょうか」

 ジャスミンは頷いた。

「さきほども申し上げたとおり、居住可能な未登録惑星というのは大変貴重なものであり、珍奇なものでもある」
「……はい、それは理解しました」
「では、それを偶然に発見した男がここにいるとしましょう。彼はきっと、狂喜乱舞するでしょうな。人生をかけて浪費しても使い尽くせないような、莫大な富が転がり込んでくるのですから」
「……」
「しかし、エリック・オーデンという男は惑星Xのことを誰にも報告しなかった。莫大な富を捨ててまで、自らの子供の復讐の小道具として、あの星を使うことを決めたのです。わたしには、どうしてもそれが不思議でならなかった」

 それは、老人も不思議に思っていたことだ。
 エリック・オーデンという男は、あの事件を起こすまでは極めて良識的で温厚な人物として、そして腕の良い船乗りとして知られていた。だからこそ数多くのヴェロニカ教徒に慕われ、若くして導師の地位を得ていたのだ。
 つまり、良くも悪くも普通の域から出ない、一般的な人間であったはずだ。
 そんな人間が、未発見惑星という大仰な舞台を用意してまであのような大がかりな事件を起こすと、一体誰が予想しただろうか。

「普通の人間であれば、表向きは未登録となっている新惑星を発見した場合、共和政府に一報を入れるでしょう。それが、いわゆる船乗りの良心であるし、自身の利益にも繋がる。多額の報奨金が貰えるのは間違いないし、船乗りとしてこの上ない名誉も約束されるのですから。いきなり共和政府に連絡をすることがなくても、直属の上司や会社、それともヴェロニカ政府くらいには報告しても不思議ではないはずですが、当然それもなかった」
「……」
「わたしはこう思うのです。彼は、あの星を発見したのではなく、発見させられたのではないか、と」

 あまりに突拍子もないジャスミンの言葉に、老人は流石に疑わしげな表情を浮かべた。

「ミズ、それは穿ちすぎた意見ではないでしょうか」
「では、彼の操る定期船の航路を管理していたはずの会社が、どうしてあの星のことを共和制府に通報していないのでしょうか」

 老人は、言葉を奪われた。

「……お言葉の意味を計りかねます」
「よろしいですか。エリック・オーデンは無頼の資源探索者ではないのです。定められた航路を定時に飛ぶことを職務とする、定期船の船乗りなのです。であれば、通常定められた航路から外れた宙域に存在するあの星を、どうして発見できたというのですか」
「……それは、偶然に航路を外れたのでは」
「なるほど、仰るとおりでしょう。それは大いにありうべきことです。宇宙には凪もあれば時化もあり、風も吹けば嵐も起きる。時には定期航路以外の道を飛ぶ必要に迫られることもあるでしょう。定められた航路だけを阿呆のように飛んでいるだけでは、到底船乗りとはいえません」

 ジャスミンは、淡々とした口調で続ける。

「しかし、そういう場合であっても、よほどの緊急事態が発生した場合を除いて、自分勝手に新たな航路を定められるわけではないのですよ。宇宙には定められた航路というものがありそこを無数の船が飛び交っている以上、当然、有形無形を問わずルールというものが存在します」
「ルール、ですか」
「定期船が飛ぶ航路は、他の宙域に比べて船の密度が段違いです。そこに、通常航路から外れた船が無秩序に跳躍してきた場合、その危険性は計り知れない。高速道路を逆走する暴走車両よりもたちが悪い。よほどの腕の船乗りでないと、到底避けることは不可能でしょう」

 ジャスミンは出来るだけ分かりやすい説明をしたつもりだったが、高速道路をすら走ったことのない老人にはそれでも実感がわかなかった。
 
「わしなどには想像もつきませんが……」
「つまり、何か理由があって通常航路を外れるのであれば、他の船にそれを伝え、常に自分の船の所在を知らせなければ危険極まりないということです。それに、安全な通常航路からたとえ一時でも外れるということは、それだけ遭難や海賊襲撃の危険が増すということでもある。自らの身を守る意味でも、報告を怠る船乗りはいないはずです」

 宇宙船を操ったことのない老人は、ジャスミンの意見を黙って聞くしか出来なかった。

「普通ならば、それらの業務は、定期船の所属する運輸会社の管制部が担当します。航路を外れた船は自分の位置を管制官に常に知らせ、管制官が新たな航路を設定したうえで指示を出し、周囲の船にもそれを伝えるのですが……」
「……それが、どうして会社があの星のことを知っていなければならない理由に繋がるのですか」
「おわかりになりませんか。エリック・オーデンは、あの星が居住可能惑星であること知っていたのですよ。であれば、いつ、どのタイミングで知ったのですか」

 あ、と老人の口が開く。

「あの星は、レーダーに写らない『幽霊星』です。目には見えるが計器は反応しない、そんな星を見つけた船乗りが、興味を覚えないはずがない。相当急ぎの荷物でも積んでいれば話は別ですが、定期便がそれほど急ぎの荷物を運ぶことはまずないでしょう。それに、簡単な地質調査程度であれば、それほど時間はかかりません。一時間もあれば十分です。オーデンが、あの星が居住可能惑星であると知ったのは、発見時点。そう考えるのが一番自然でしょう」
「……」
「しかし、一時間、何の理由もなく同じ宙域に留まっていたとなれば、会社から見ればこれは問題のある行為です。最悪の場合、何らかの犯罪に荷担している可能性すらある。そして、会社の管理下にある船と船員が何らかの犯罪行為に荷担した場合、会社自体に刑事上、民事上の責任が発生します。当然、会社は船長の処罰を視野に入れて調査に乗り出すでしょう」

 船が理由もなく長時間同じ宙域に停泊した場合、最も懸念されるのは、船が密輸行為に荷担していることだ。
 通常航路から外れた場所で停泊し、そこで海賊船と落ち合い、禁制の麻薬や人身売買された人間などの積み卸しを行う。そういう犯罪行為が過去に何度となく発覚している。
 まともな会社は、そういった犯罪行為に巻き込まれることを一番嫌う。万が一の場合、拭い取れない泥で看板が汚れることになるからだ。
 そして、船の行動調査は別に難しいことではない。船に積んだ感応頭脳の分析をするだけでいいのだ。それだけで、オーデンの航海記録の全てが把握できる。
 ならば、オーデンが未発見惑星の調査をしたことだって筒抜けである。
 つまり、会社が全てを把握していないほうがおかしい。
 逆に、もしもオーデンが惑星発見の一報を入れているならば、言わずもがな、会社はあの星のことを把握していないはずがない。
 どちらであっても、オーデンの所属していた会社があの星のことを知らないこと自体、ありうべき話ではないのだ。
 しかし、会社はあの星のことを、どこにも報告した形跡はない。まるで、全てを握りつぶしてしまったかのように。

「しかし、しかし、ですよミズ。一つの可能性として、オーデン導師はその惑星を発見はしたものの、調査を後回しにしただけかも知れないではないですか。自分が長時間そこに留まれば、会社がそのことを知るのは明らかだ。であれば、復讐の舞台としてその惑星を使えなくなってしまうから──」
「では、オーデンは惑星Xを発見した瞬間に一連の事件の計画を全て思いつき、実行を決意したことになりますね。そうでもなければ、あの星の調査と報告の両方を後回しにする必然性がありません」

 そんなことはありえない。
 人の思考は、そこまで都合よく回転してはくれないものだ。
 老人の口は再び封じられた。

「エリック・オーデンは、ある時期に突然退職願いを会社に提出し、ほとんど問題なく受理されています。あたかも会社にとって、それが想定内の行動であるかのように」
「……彼の所属する会社が、彼の行動を操っていた、と」
「先ほどもお話ししたとおり、通常航路を外れた定期船について、新たな航路の指示を下すのは管制官の仕事です。であれば、彼があの星を発見するようし向けるのも容易極まりなかったでしょう」

 老人の顔に苦悩が刻みつけられる。
 ジャスミンの言葉が事実であるとすれば、当然、全てを仕組んだ人間は、あの星の所在を把握していなければならない。
 そんな人間が、この世にどれほどいるのか。そして、あの事件で利益を得た人間──。
 老人には、その人間の心当たりがあったのだ。
 一人、極めつけに不穏当な、一人。

「もう少し想像の羽根を羽ばたかせれば、地方宇宙港においてオーデンがマークス・レザロの食肉の現場を目撃したのも、果たして偶然か否か、怪しいものです。オーデンの飛行スケジュールを決める立場の人間であれば、彼とレザロ議員が偶然に同じ宇宙港に居合わせるよう時間設定をすることは造作もないことでしょう」
「……にわかには信じ難いお話です。ミズ・ジャスミン、もしもあなたのお言葉が事実だとすれば、彼の行動を操った何者かは、レザロ議員とオーデン導師の過去の確執を知っている人間でなければならないことになりますぞ」
「そのとおりですな」

 ジャスミンは頷いた。

「しかし、少しヴェロニカ教の内実に詳しい人間であれば、オーデンの息子の不審な自殺の原因にも察しがつくのではないですか?」
「……それは……なんとも。ただ、あの事件は、一時期かなりの物議を醸しましたから……事の真相に気がついた人間がいなかったとは言い切れません」

 あの男も、それを知っていたはずだ。
 天使に取り憑かれた、あの男。

「全てを承知の何者かが、オーデンの復讐心を巧みに煽った上で、例の惑星を発見させる。もし彼が第一報を入れるとしても、その報告先はほぼ間違いなく会社の管制官です。事実をあるがまま報告するのであればその時点で然るべき処置を彼に対して施し、報告は握りつぶす。そうでなければ……」

 我が子の復讐に狂った親が、必ず何らかの行動を起こす。
 
「もしかしたら、誰かが彼に囁いたかも知れない。お前の息子は散々飢えに苦しみ抜き、その上での破戒を苦にして自殺した。ならば、あの男の息子も同じ目に合わせてやれ、と」
「そんな残酷な……」
「しかし、そうでもなければあの星に少年たちを監禁する意味がないのですよ。もしもレザロ議員に過去の罪を告白させるだけが目的であれば、わざわざ未発見の惑星に少年たちを拉致する必要はない。チャックという少年を一人、どこかに拉致監禁し、父親を脅迫するだけで十分にことは足ります。治安のいい連邦大学に通う学生です、当然それなりの危険は犯さなければならないが、それでもあれほど大胆な計画を実行することに比べればどれほど容易いか知れないし、他の少年たちに迷惑をかけることもない。普通であればそちらを選ぶのではないですか」

 まして、オーデンは事件を起こしたすぐ後で自分の顔を警察に晒している。長期間逃げきるつもりがなかったのは明白だ。
 それだけの覚悟と、あれだけの事件を起こすだけの計画性と行動力があれば、如何に連邦大学のお膝元であっても誘拐事件の一つを起こすことくらいは難しいことではないはずだ。
 
「あの星は、それなりに食料があった。加えて子供たちを降ろした場所に、危険な猛獣の少ない地域を敢えて選んでいた形跡もある。直接的な身の危険さえなければ、いかに年端もいかない子供の集まりであっても、木の実や野草を食べてある程度生き残れるだろうという算段があったはずです」

 もしも最初から全員を殺すつもりならば、それこそ一切の食料も水もない荒野か砂漠に降ろせばいいのだ。あれだけの計画を練り上げた人間が、そんなところで計画違いを起こすことは考えにくい。

「しかし、あの環境はただ一人の少年にとっては正しく地獄でした。彼らの中にただ一人、肉も魚も、野草も木の実すらも食べてはいけない少年がいたのです」
「……なんということだ」
「人の幸不幸は、周囲の人間との比較から生まれるものです。自分以外の少年少女は、自然の恵みで何とか糊口を凌いでいるというのに、自分だけが空腹に苦しまなければならない。理不尽だ。なぜ自分だけがこんな目に。そういう思いが、厳しい修行で鍛えられていたはずの彼の心を折ったのでしょう。あの星を誘拐の現場に選んだ意図はそこにあったのではないでしょうか。そして、これはオーデンの子供が味わった責め苦でもある。人倫を無視すれば、これほど効果的な復讐が他にあるでしょうか」
「つまり、全てはチャック少年に戒律を破らせるための……」
「オーデン自身がそこまで認識していたかどうかは別の話ですが、もしも彼を操った何者かがいれば、その人間の目的はそこでしょう。そして、息子に食肉疑惑がかかれば、当然彼の父親にもそれが波及する」

 そして、少年の父親は議員を辞した。

「それらの結果が、この星を丸ごと巻き込んだ大騒動の始まりです。この中で最も利益を得たのは、いったい誰でしょうか。老師、あなたはその人物に心当たりがあるのでは?」
「……」
「先ほどあなたが口走った『あの男』という人物と、老師が思い描いた人物は、全く無関係ですか?であれば、わたしの推測は完全に的外れなものなのでしょうね」
「……」
「ちなみにね、オーデンの勤務していた船会社の表向きの経営者はまったく聞いたこともない人物でしたが、その相談役に、アイザック・テルミンという男が収まっていたことが分かっています」
「その男は……」
「ええ、敬愛すべきアーロン・レイノルズ現大統領の懐刀と呼ばれている男です。例えばその男がオーデンに復讐をそそのかし、そのうえで復讐の計画に協力することを約束していた──能動的にではない。彼の航海記録を連邦政府に報告しないという受動的な協力です──とすれば……」

 老人は、喘ぐような呼吸を繰り返した。
 言葉はなくとも、真実は明らかであった。
 先ほどまで二本の足で立っていた老人は、力無くソファにヘたり込んでしまった。
 枯れ木のような痩身から、何か、生命力を司る存在が抜け落ちてしまっている。
 まるで、十も年をとったようですらあった。

「さらにもう一つ。この事件には、明らかに不可思議な点がある」

 老人は、神に救いを求める罪人のような視線で、ジャスミンを見上げた。

「……それは?」
「オーデンがあの星を発見し調査した時。それと、彼が学生を連れてあの星を訪れた時。この二回の訪問で、あの星に基地を構えていたトリジウム密輸組織は、何故彼の船を見逃したのでしょうか」

 トリジウムの密輸は、莫大な富を生み出す魔法のランプのようなものだ。密輸組織を束ねるのが何者であっても、何としてもその利益を手放すまいとするだろう。
 もしも第三者があの星を発見し共和連邦にでも報告すれば、組織は回復不可能なダメージを受ける事になる。ましてオーデンの船は、二度も地表に降りているはずなのだ。
 密輸組織にとって最も恐ろしいのは、あの星の存在が世間に知られることだ。であれば、秘密のヴェールをはぎ取ろうとする何者かに対して、過敏なまでに神経を尖らせているはずである。
 当然、各種レーダーを使い、付近を通る宇宙船の動向には最大限の警戒をしていたと考えるべきだ。いくらあの星が、レーダーでは絶対に捕捉されない幽霊星であったとしても、である。
 にもかかわらず、彼らがオーデンの存在に気がつかないということが、果たしてありうるだろうか。
 人の肉眼が侮れない存在なのは、惑星セントラルの入国監視システムの一部に人間の目視がいまだ採用され続けていることからも明らかであるのに、だ。

「組織の人間の悉くが絶望的な間抜け揃いでない限り、考えられる可能性はただ一つです。密輸組織の、おそらくは相当高い地位にいた何者かが、オーデンに誘拐事件を教唆した人間と同一、もしくは協力関係にあった」
「……」
「そして、オーデンが惑星Xを発見し、誘拐した子供たちをあの星に下ろすのを見逃した。それとも、見逃させた。そうでなければ、最初にあの星を発見した際に彼は捕らわれ、その命運は残忍な密輸組織の手に委ねられていたことでしょう」

 老人は、かすれた声で、辛うじての反駁を試みる。

「……そして、彼の行動を見逃した結果として、基地は連邦政府に把握され、トリジウム密輸組織は致命的なダメージを受けたわけですか。それは何ともお粗末な、本末転倒な話に聞こえます」
「それとも、一連の計画を推し進めた何者かにとって、既にトリジウム密輸組織がそれほど重要なものでなくなっていたのか」

 こればかりは分かりかねます、と、ジャスミンは結んだ。
 しばし、絶望的な沈黙が部屋を満たした。
 静寂を破ったのは、被告席に座る老人であった。

「……しかし、ミズ。あなたの言葉は、全て憶測の積み重ねです」
「仰るとおりです」
「全ては偶然かも知れない。オーデン導師は、会社の意図するところとは関係なくレザロ議員の食肉の現場を見てしまい、会社の預かり知らない経緯であの星を発見し、富や名誉を得ることよりも息子の復讐を優先しただけかもしれない。トリジウム密輸組織はあの星の隠密性を過信して、警戒を怠っていたのかも知れない。オーデンの勤務していた会社の顧問を勤めていたテルミンという男は、大統領の懐刀である男と同姓同名なだけかも知れない」
「おそらくはその可能性が一番高いでしょう」

 立ったままのジャスミンは、うなだれた老人を見下ろしながら頷いた。

「我が子を想う親の気持ちには計り知れないものがある。わたしも一児を持つ母ですからよく分かります。ましてやそれが、失われて二度と戻らない子供であり、その復讐の機会が目の前にぶら下がっているのであれば、他のあらゆる事象に復讐を優先させたとして、ちっとも不思議ではありません」

 しかし、とジャスミンは続け、

「もしもそうでなかった場合。全てが何者かの手のひらの上で実行された計画であり、オーデン導師がその手駒にすぎなかった場合は、この地図が恐るべき意味を持つでしょう」

 老人が、弾かれたように顔を上げた。

「恐るべき意味、とは……?」
「分かりません。まだ、わたしにも。しかし……」

 ジャスミンは視線を彼方に寄越した。
 そこに、分厚く黒い雷雲が迫りつつあるように、わずかに眉をしかめた。
 そして、再び老人の瞳を覗き込んだ。

「それでも老師、あなたは沈黙を尊ばれますか」

 残酷な問いである。言った方も言われた方も、心の痛覚に鑢かけられるような質問である。
 老人は力無く笑った。

「お許しください。わしには、全てが重すぎて、この肩から降ろすにはあまりに惜しいのですよ」

 ジャスミンは頷いた。これで何も聞き出せないのであれば、例え暴力的な拷問を用いたところでこの老人は何一つ語らないだろう確信があった。
 先ほどまでのジャスミンの言葉は、目の前の老人にとって、肉体的な苦痛を遙かに凌駕する痛苦であったはずなのだ。
 
「色々と失礼なことを申し上げました。どうかお許しください」
「いえ、こちらのほうこそ、お役に立てないことをお許しくださいますよう。そして、あなたのご夫君とご友人に、神の加護がありますことを」

 老人は、震える足で立ち上がり、乾ききった喉を酷使しながら無価値の台詞を紡いだ。
 この国に、神などいない。それは、この老人が誰よりも深く理解していたのだ。
 ジャスミンと老人は深く握手を交わした。まるで、言葉以外のものを伝えるように、深く、深く。
 離れる手のひらの温もりを惜しむように、老人が口を開いた。

「ところでミズ、あなたは、ここまでお一人で来られたのですか?」
「……ええ、そのとおりですが、何か?」
「いえ、であればあなたは余程勇気を司る神に愛されているようだ。わしは、一度だってかの神に愛された覚えはない。もしも、わしにあなたと同じだけの、いや、あなたの持つ半分でも勇気があれば……」

 ジャスミンは、先を促すことはしなかった。

「お時間を取らせました」
「……いえ、とても楽しい時間でしたよ。もしも全ての事態が上手く片づけば──そして、あなたがわしを許してくださるならば──もう一度お話しがしたいものです」
「それは正しく望むところです。それではお元気で」
「──最後に、一つだけ」

 退出しようとしたジャスミンを、老人の声が引き留める。
 赤熱色の頭髪を踊らせたジャスミンが振り返る。

「……何でしょうか」
「あなたは、どうしてわしのもとを訪ねられたのか。その理由をお聞かせ願いたい」

 真剣な口調の老人に、烟るような微笑を浮かべたジャスミンが答える。

「あなたは、リィのことを──わたしの命の恩人のことを、小戦士と呼びました。たった一目、彼を見ただけなのに、です」
「……」
「あなたは、それだけで信用に足る確かな目をお持ちなことがわかります。そして、その公正な心根も。それは、やはり間違いなかったようだ」
「……買いかぶりを。わしはただの老いぼれですよ」

 吐き捨てるような台詞に、ジャスミンは首を横に振った。

「あなたは、如何様にも嘘を吐くことができた。若輩のわたしを煙に巻くのも容易だったにちがいありません。それでもあなたは、最後まで答えられないと言ってくれた。一言も嘘を吐きませんでした」
「……」
「それだけで、わたしは報われた気がします。それでは」

 突然に老人の静寂を乱した赤毛の女性は、やはり突然の彼の目の前から立ち去っていった。



[6349] 第四十七話:IN THE ABYSS 1 そして少女は囚われた。(15禁)
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2010/09/20 20:29
 夢だ。
 夢を、見ているのだ。
 自分でも不思議だが、これが夢だということがわかる。
 夢の、世界だ。
 夢の世界で、俺は、柔らかなものの上に、大の字になって寝転んでいる。
 閉じられたままの瞼を淡く照らす太陽が、遠く、天頂の彼方に感じられる。
 時折吹く風が冷ややかな空気を運んでくるが、降り注ぐ日の光が肌をあっと言う間に暖めなおしてくれるから、ちっとも寒くない。
 いつまでもここで寝ころんでいたくなる、桃源郷のような陽気。
 ここは、春の国だ。
 常春の国。
 鼻を鳴らすように嗅ぐと、かぐわしい果実の匂いがした。
 甘酸っぱい、豊かな香り。
 この香りは……ああ、思い出した。
 草苺だ。
 昔、よく摘んだな。
 スーシャの森には、地面が真っ赤に染まるほどたくさん、草苺の実る場所があるんだ。
 俺と、蜂蜜色の頭をした悪友だけの、秘密の場所だった。
 毎年雪解けの季節になると、あいつと二人、時間を忘れて摘んだのだ。どちらがたくさん集められるか、競い合いながら。
 太陽の沈む頃、草苺でいっぱいになった籠を二つ、ぶら下げて帰った。
 そして、彼の母親がこしらえてくれた、濃厚なジャムの味。
 パンケーキにたっぷりと塗り、口の周りをべたべたにしながら頬張った。
 ああ、どうして今まで忘れていたのか。これほど芳醇な思い出を。
 ならば、今、俺はスーシャの森にいるのだろうか。背中に感じる柔らかな感触は、スーシャの森の下草だろうか。
 太陽は、ヤーニス神の作りたもうた、それなのか。
 瞼を開けば、それがわかるのに。
 どうしても、瞼が重たい。目の奥につんと残った眠りの残滓が、どうにかして俺を真っ暗な世界に押し止めようとしている。
 夢の世界でまだ眠ろうとしているとは、なんとも物臭なものだと、自分でもおかしくなってしまう。
 こんな話をあいつにすれば、またしても冬眠あけの寝ぼけ熊だの、昼寝好きの獅子だの、ひどいことを言われるに違いない。
 ぼんやりとそんなことを思う。
 そして、思った瞬間に、何を考えていたのかを忘れてしまった。この時間、この空間には、全ての思考をとろけさせる魔性がある。
 どこまでも、心地よく、全てをとろかしていく。無という思考が存在するならば、それは今、この瞬間をいうのだと思う。
 甘い香りの食虫植物に囚われて、ゆっくりと消化されていく虫とは、このような気持ちなのだろうかと、埒もないことを考えて、それすらを忘れて。
 瞼を透過する陽光の粒子が、さわめく草の葉でゆらゆらと揺れている。蜜蜂の細やかな羽音が耳朶に止まり、遠慮がちに羽を休めた後、再び羽ばたいていった。
 なんという、まろやかな世界だろう。
 どこにも、鋭利なところがない。
 ここは、満たされている。
 満たされた世界で、自分は大の字になって、寝ころんでいる。
 
 ──まるで、あの少女と初めて出会った、光輝く空間のような。

 遠くで、さわさわと、草の揺れる音がした。
 風の奏でるそれではないと、すぐに気が付いた。周囲の草むらの鳴き声の中で、その音だけがあまりにも異質だったからだ。
 さくりさくりと、霜柱を踏みしだく、軽やかな音も一緒だ。
 冬の残った森の奥から、何かが近づいてくる。
 きっと、森の獣だと思った。
 それも、狼か、熊だろう。
 鹿や兎は、人を恐れて近づかない。彼らにとっての人間は、恐るべき狩人なのだ。
 普通ならば、狼や熊だって、好んで人には近づこうとしない。あいつも言っていたが、人の肉は旨いものではないからだ。
 だが、この森の狼や熊はみんな、ゲオルグ小父さんの友達だから、小父さんの臭いのする俺に興味を持ったのかもしれない。
 それとも、冬眠あけで腹を空かした彼らが、たとえ不味くても構わないからと、餌を求めてさまよっているのだろうか。
 ならば、彼らの餌になってやるのもいいかも知れない。どうせ、これは夢の世界の出来事なのだ。
 それよりもなによりも、この重たい瞼をそのままにしておきたい。木漏れ日の闇のなかで、寝転がっていたい。
 だから、俺は、ゆったりと、そのままで。
 足音が、少しずつ近づいてくる。無遠慮に、少しだって怖がることなく。
 やがて、右の耳の隣で、足音は止まった。太陽の光の半分が、不躾な闖入者のために覆い隠されてしまう。
 きっと、俺の顔を覗き込んでいるのだろう。こんなところで大の字になって眠っている人間の、間抜け面を確かめているのかも知れない。
 俺は、それとも俺の紛れ込んだ誰かは、はっきりと眉を顰めたはずだった。

 ──おい、そこをどいてくれないか。せっかく俺は(わたしは)、こんなにも気持ちよく眠っているのに。

 しばらくの間、閉じた蕾が開くくらいの時間があって、やがて影は姿を消した。
 陽の光が戻ってきた。ああ、これでようやく、もう一度、眠れる。
 そう思った、まさにそのとき。
 ぺとり、と、肌に何かが触れた。
 わたしの(俺の)太股を、何か、すべすべしたものが撫で回している。
 獣の舌にしては冷たく、獣の毛皮にしては滑らかで、獣の尾にしては重たい感覚。
 人の、掌だった。
 人の掌が、わたしの太股を、撫で回しているのだ。
 こんなことを、このわたしに対してするのは、この世に一人しかいない。
 ゆっくりと、瞼を持ち上げる。まったく、どうしてこんな馬鹿げた馬鹿のために、あの安らかな世界から舞い戻ってこないといけないのか。
 自分でも嫌になる。

『……なに、してるの』

 絶対零度の声の先で、そいつは、わたしの乳房の間に顔を埋めようとしているところだった。
 陽光を受けた緑色の瞳が、きらきらと輝いている。
 黄金と同じ色艶の髪の毛が、きらきらと輝いている。
 まるで、俺の知っているあいつと同じ姿形をした、わたしの知っているこいつ。
 子供みたいに微笑みながら、わたしの上に覆い被さってきた。
 柔らかな巻き毛が降り落ちて、頬をするりと撫でていく。その悪戯げな感触が、こいつに相応しすぎて、少しだけ微笑んだ。
 そんなわたしを見て、彼もくすりと笑う。
 逆光で影になったその笑顔が、わたしを見下ろして、わたしはそれを見上げていた。
 組み敷かれたわたしは、きっと、どこかの乙女のように見えたのだろうか。
 
『なにをしているのか、聞いているんだけど。あなたは答えてくれないのかしら、シャムス』

 シャムス。
 それは、俺の娘の名前じゃないか。
 それとも、ああ、そういえば。
 その、言葉の意味は。
 纏まりかけた思考が、少年の笑みによって解かされていく。
 そして、俺にシャムスと呼ばれた少年は、わたしの首筋に顔を埋めて、夢を見るように呟いた。

『ああ、君は本当にいい匂いがするね、カマル』

 カマル。
 その名前で呼ばれた俺の体が、無限の歓喜に打ち震える。
 少年の耳に届かない、小さな小さな吐息が、ほぅと漏れ出す。
 そして少女は、すぐに口を噤む。漏れ出した吐息が、首筋を愛撫する少年の舌先によってもたらされたのだと思われては、わたしの沽券に関わるからだ。
 だが、少女は幸せだった。
 どれほどの幸福を積み重ねれば、人はこれほど喜べるのか。
 わたしは、ただ、幸せだった。
 この人と肌を合わせることができる。
 この人にわたしの名前を呼んでもらえる。
 この人が、ここにいる。
 それだけで、わたしはここにいることを許される。
 俺の目線の先で、少女と口づけを交わし、鎖骨のくぼみに舌を這わせた少年は、最後に少女の乳房を口に含んだ。
 乳房の先端に、少しざらついた少年の舌先が触れる。
 赤子がするように強く吸いつき、子犬がするように軽く甘噛みをする。
 胸の奥が、虹色の温もりで満たされていく。
 少女の体が、小さく震えた。
 視界の端に写り込んだ、少女自身の銀髪が、陽光に染まって、黄金に映える。
 まるで、目の前の少年の、美しい髪のように。
 まるで、太陽に照らされた、月の光のように。
 ああ、そうだ。
 シャムスは、太陽を意味する言葉だ。
 カマルは、月。
 ならば二人は、太陽と、月なのだ。
 少女は、果てのない蒼穹を、陶然として見上げる。
 そしてわたしは手を伸ばし、彼の頭を抱きしめた。
 それは、彼の行為を容認する合図のようなもの。
 少年の無邪気な笑みが、とても眩しくて。
 途端に、わたしの身体を知り尽くした少年の指先が、繊細にわたしの体を愛撫し始める。
 もう、何回も、何千回も、数え切れないほどに睦み合ったのだ。わたしの身体のうちに、彼の指先と唇に愛されなかった箇所はない。
 彼も同じだ。シャムスの身体のうちに、わたしの指先と唇の触れていない箇所はない。
 蛇の交合よりも濃密に、二人の体は絡みついた。
 それでも、足りない。まだ、足りない。
 彼は飽きもせずにわたしの身体を貪っていく。わたしは、彼の身体に溺れていく。
 快楽に耐えるようにして人差し指を噛む少女は、どこまでも愛らしかった。普段の、獣としての彼女を知っている少年は、自分の前でだけそういう姿をさらけ出してくれる少女を、どれほど愛おしく思ったことか。
 少年の体が薄く汗ばみ、少女の体が桃色に色づいていく。
 少年の分身が堅く屹立し、少女の分身が潤みを帯びていく。
 そして、二人は一つになった。花が蝶を望み、蝶が花を望むように。
 シャムスはカマルを貫き、カマルはシャムスを包み込んだ。
 俺は、少女の視点で、二人を眺めている。
 他人のまぐわいを見て楽しむ趣味はないが、絡み合う二人の身体は、一途に美しかった。
 少年の身体は引き締まり生命力の詰まった若木のようだったし、少女の身体は丸みを帯び始め、母性の目覚めを感じさせる。
 神の造りたもうた最初の人間のように、二人の体は輝かしかった。
 俺は、単純に、二人を好ましいと思っていた。
 少女の視線で見る世界は、少女の五感で感じる世界は、限りなく完成されていた。
 愛する幸せではなく、愛される幸せ。
 やがて二人の行為は最高潮を迎える。
 少女の最奥に杭を打ち込んだ少年の身体が快楽に震えて小さく痙攣し、その直後に、忘我の表情を浮かべた少女の背中が大きく反り返った。
 少年が少女の中に精を放ち、少女はそれを受け入れたのだ。
 二人は、ほとんど同時に果てた。
 荒々しい吐息が辺りを満たし、行為の証である男女の混ざった体液が、少女の太股を、とろりと伝い落ちる。
 少女の意識を、黄金色の霧が包み込む。荒々しい吐息の音が、疲労感とともに、遠い世界へと遠ざかっていく。
 違う。わたしが、別の世界に沈み込んでいく。
 少女は、覆い被さるシャムスの体重を心地よく感じながら、眠りの底に落ちていった。誰にも邪魔されることのない、無限の眠りの中へ。
 ああ、そうだった。
 
『誰かを愛してしまったあの子を許してあげてね』

 少女の、たった一つのお願いは。
 どうしたって、俺に叶えられるものでは、なかったのだ。



「ひどい夢だ……」

 少女は──ウォルは、怨嗟の籠もった呟きとともに目覚めた。
 自分が少女となり、少女として愛される夢。視覚だけでなく、五感の全てで味わってしまった少女の至福。
 まるで覗き見でもしてしまったような罪悪感と、図らずも女としての幸福を味わってしまった嫌悪感が綯い交ぜになって襲ってくる。
 所詮夢の世界の出来事だったのだと言い聞かせても、それでは説明の付かないリアリティが、あの夢には存在した。
 そうだ、さっきの夢はただの夢ではない。あれは、この身体──ウォルフィーナと呼ばれた少女の身体に刻まれた、いや、彼女の魂の最後の残滓がこの体に刻み込んでいった、最古の記憶だ。
 前世の──ではなく、原初の記憶。この世界が生まれる前、魂が輪廻の旅を始める前の、最初の記憶。
 今、思い出した。
 この夢を見るのは、初めてではない。
 この体に宿り、少女としての生を受け入れた日から、毎日のように見ていた夢だ。
 誰かが、ウォルに知らせようとしていた。この体の来し方を、この体の行く末を。
 どうして自分があの星で迷子になったのか。
 そうだ。俺は、まさしく俺自身の意志で、あの崖から飛び降り、急流に身を任せたのだ。
 あれは、決別の合図だ。偽りの伴侶に対する、決別だった。
 そして、月は太陽を得て、銀盤の輝きを得る。
 遠い昔、血風のたなびく戦地で、青い瞳の歌人に聞かされたではないか。
 太陽と、月と、闇のお伽噺。
 
 ──まさか自分が、その因縁を背負い込む羽目になるとはな。

 少女の瑞々しい頬に、捨て鉢な笑みが刻み込まれた。

「……ねぇ、あなた、大丈夫?」

 闇の中を手探りするような弱々しい声が、ウォルを現実へと引き戻した。
 ふと気づけば、濃厚な闇が周囲を満たしている。ゆらゆらと揺れる蝋燭の火が遠くに見える石壁に灯っているだけで、手元すらはっきりと見えない。
 噎せかえる黴臭さと、僅かな血臭。
 それらを塗り返すほどに濃厚な、吐き気を催す、得体の知れない饐えた臭気。
 何より、後ろ手に拘束された両手首と、冷たい枷を履かされた両足首の感覚。
 背中に感じる石畳の固い感触が、芋虫のように転がった自己を認識させる。

 ──なるほど、遠い昔、一度こういう目に遭わされたことがあったな。

 苦笑したウォルは、否応なく自身の置かれた状況を理解した。
 牢獄。
 そうだ。自分は、捕らわれたのだ。あの家で、冷たい目をした奇妙な子供たちに襲われた。
 インユェは、無事だろうか。
 気丈を装って実は繊細な少年が、どこかで泣いていないかと思い、少女の胸がずくりと痛んだ。
 
「……ねぇ、わたしの声、聞こえてる?それとも、もう耳が聞こえないの?」

 肩を、やはり弱々しく揺さぶられる。
 はっと気がついて、そちらに視線を向けると、そこには女の子がいた。
 見覚えのない、顔だ。だが、闇の中でも整った顔立ちであることがわかった。
 整った顔立ちの少女が、心配そうに自分をのぞき込んでいた。

「……ああ、大丈夫だ」

 ウォルの、はっきりと自我の残った声に、見ず知らずの少女は胸を撫で下ろしたようだった。

「よかった。久しぶりに、話し相手ができた……」

 少女の声は、涙で滲んでいる。
 暗闇に沈んだ表情が、僅かに綻んだようだ。
 ふと気がつけば、目の前の少女は、一糸纏わぬ裸体だった。
 いや、全くの裸体ではないのか。何故なら、その細い首を覆うようにして、無骨な皮の首輪が巻かれているのだから。
 少女自身がそれを望んだとは思えない。首輪を巻かれて喜ぶのは、服従することを本能に刻まれた飼い犬だけだ。
 ウォルは、彼女の生きた世界にも、年端もいかぬ異性を飼い犬のように扱って悦に入る、腐った人間のいたことを思い出していた。
 なんとなく自分の体を見下ろしてみる。
 やはりというべきか、素肌を覆う何物も存在しない。そして、首には重たい皮の環が巻かれている。そこには太く頑丈そうな鎖が付けられており、鎖の反対側は壁に打ち込まれた杭に繋がっているらしい。
 完全に、鎖に繋がれた獣の有様だった。いや、四肢を拘束されていることを加味すれば、今から焚き火で丸焼きにされる豚や猪のほうが幾分近しいだろうか。
 身じろぎをすると、じゃらりと鈍い音が鳴った。

「大丈夫、わたしたちが大人しくしてる間は、あいつらも無茶はしないから。少なくとも、最初のうちは、ね」

 ウォルの顔を覗き込んだ少女が、絶望の込められた暗い瞳で、うっすらと笑った。
 生きながらこの地獄に放り込まれた先輩として、せめてここで長生きする術を後進に教授しようとしているのだ。
 あらためて少女の身体を観察すると、肌の所々が赤く染まり蚯蚓腫れに腫れ上がっていた。場所によって青黒く染まっているのは、内出血が沈殿しているのだと思われた。
 その一事で、彼女がどういう扱いを受けているか、ここがどういう場所なのか、十分すぎる程十分にウォルは理解した。
 例えば戦乱が巻き起こり、村々が蹂躙され、女子供だけが生き長らえた時。夜盗に拐かされた女達が、最初の夜を迎える時。そこにどれほど酸鼻を極める光景があるのか、ウォルは知っている。
 一言でいえば、地獄だ。男が畜生道に堕ちる地獄。女が女に生まれたことを後悔する、地獄。
 ウォルは、ここはどこだと、少女に尋ねることはしなかった。この少女が、どういう経緯かは知らないが、自分と同じく捕らわれの身なのは明らかなのだ。ならば、ここがどこかなど知るはずもない。
 代わりに、ウォルは少女に尋ねた。
 
「君の、名前は?」
「わたし?わたしに名前なんてないわ。あるとすれば、そうね、犬よ」

 少女の頬が、自嘲に歪む。
 どういうことかと問いかけるウォルの視線をかわすように俯いた少女は、淡々とした調子で続ける。

「……わたしたちはね、ここでは名前なんて許されていないの。わたしたちは、わたしたちを捕まえた男たちを楽しませるだけのペットなの。そう割り切れば、彼らも一応は優しくしてくれるわ。それに──」

 少女は、言葉を強く噛み切った。
 だが、ウォルの心は、少女の言葉の先を聞き取っていた。

 ──そうでも思いこまないと、ここでは生きていけないもの。

 ウォルは、自身を聖人君子だと思ったことは一度もない。何度となく人を騙したし、もっと直接的に人を手に掛けたこともある。
 数え切れないほどにある。
 他者の人生を踏みにじり生きてきたのだ。
 だが──それとも、だからこそというべきか。
 ウォルにも、許しがたい邪悪というものは存在する。己の罪深さを自覚するがこそ、その価値観に外れた存在を容認することができない。
 かつて己の妻が敵の手に捕らわれ、嬲り者にされかかったときに感じた、腹の底を焼くような怒り。
 今、ウォルの目の前にいるのは、彼女の価値観でいうところの邪悪に相当する何者かに蹂躙された、哀れな少女であった。

「……では質問を変えさせてほしい。俺は、君のことをなんと呼べばいい?君の理屈でいうならば、俺も君も犬ということになるだろうが、それではお互いを呼ぶのに不便だと思うのだが」

 ウォルの『俺』という一人称に奇異を覚えたのか、僅かに眉を狭めた少女だったが、やがて諦めたように、

「……ローラ。外の世界では、そう呼ばれていたわ。でも、あまりわたしのことをそう呼ばないでね。色々なことを思いだしちゃうから」
「……わかった、できるだけ努めよう。では一つ尋ねるが、もしも俺が大人しくしていなければ、どんな目に遭わされるのだろうか」

 一瞬、身を固くしたローラは、どんよりと暗い瞳でウォルの隣を指し示した。その時点でウォルは、ローラの四肢が自由なことに気が付いた。だが、首輪に繋がれた頑丈な鎖は、彼女の逃亡を妨げるに十分過ぎる役割を果たしているのだろう。
 ウォルは、ローラの指した方向に、枷のついた重たい首を回した。
 闇に慣れた目がかすかに捉えたそこには、やはり年端もいかない少女がいた。
 いや、少女だったものが、いた。
 石積みの壁にもたれ掛かり、だらりと四肢を投げ出した格好で座り込んでいる。
 首に枷はなく、四肢にも枷はない。それでも逃げようとしないのは、その気力すら奪われたからか、それとも手首と足首に刻まれた深い断ち傷からか。
 おそらくは手足の腱が断ち切られている。あれでは、自力で立ち上がることはもちろん、地べたを這いつくばることすら難しいだろう。
 顔立ちは、やはり美しい。しかしそれは人形の美しさであって、人間ならば誰しもが持っている生命力とでもいうべきものがすっぽりと抜け落ちていた。
 虚ろな瞳は、ガラス玉と言い表すには濁りすぎている。きっと彼女の見てきた醜いものが、その瞳から透明感を、自我の輝きを奪いとったのだ。
 病み疲れたように力ない表情。ぶつぶつと何かを呟いている口の端からは、どろりと糸引く涎が垂れ落ち、頬から鎖骨まで粘ついた橋を架けている。
 彼女もウォルたちと同じく生まれたままの姿に辱められているが、それを恥じる気力すら存在しないのかも知れない。あるいは、自分の置かれた状況を理解する知性そのものを壊されてしまったのだろうか。
 
「あの子も、最初ここに連れてこられてきたときは、もっと元気だったの。絶対に逃げ出してやるんだって、警察に知らせてあの連中を死刑にしてやるんだって息巻いてたのに……」

 ふと見れば、少女の薄汚れた太股の内側に、涎の垂れる口元に、ほつれた髪の毛に、乾いた糊のような白い物体がこびりついていた。
 ウォルも、かつては男だった身の上だ。それが一体何なのか、知らないわけではない。
 男の、欲望の象徴だ。
 そして、少女を責め苛んだ、行為の残滓。
 先ほどから鼻孔を犯す不快な臭気がなんなのか、ようやく理解できた。
 これは、饐えた体液の臭いだ。
 だが、それだけではない。まだ何か、ウォルの鼻には馴染み深い、異臭が漂っている。
 饐えた体液の臭いなど、まだかわいいと思える、何かの臭い。

「あいつはね、わたしたちが嫌がれば嫌がるほど、喜ぶのよ。もっと泣き叫べ、もっと泣き喚けって。わたしは、嘘でも悦ぶふりをしているの。そうすればあいつ、すぐに興味をなくしてくれるから、嫌な思いも短くてすむわ」

 自らを犬と呼び、そしてひそやかにローラと名乗った少女は、薄ら寒くなるような笑みを頬に刻んだ。

「でもね、その子はまだ、幸せなのよ」

 どういうことかと問いかけるウォルの瞳に、少女は淡々とした口調で、
 
「だってその子まだ人間の姿をしているもの手足の爪をはがされたり焼きゴテを当てられることはあっても鞭で打たれたり針で体中を刺されることがあってもそれは幸せなうちなのよだって今はまだ目に指を突っ込まれて目玉を掻き出されたりしてないし耳や鼻を削ぎ落とされたりもしてないわ咥えさせる時に邪魔だからって歯は全部引き抜かれてるみたいだけど手足の指を切り落とされて口に押し込まれたり煮えた油を頭からかけられたりはしてないはずよ……今はまだ、ね」

 何かを思い出しているのだろう、ローラは、紙切れのように薄っぺらく、ざらついた笑みを浮かべた。

「ねえ、新しく連れてこられたあなた。ここではね、そういうことをされないことが、幸せっていうの。だからね、あなたも妙な希望を持っちゃだめよ。希望を持ったら──昔を思い出したら、今の自分がつらくなるわ。そして、あいつはそういう顔の女の子を眺めるのが、一番大好きなの」

 うっすらとした微笑みに、隠しきれない狂気が垣間見えた。
 そして、ウォルは気がついた。
 自分を囲む暗闇のあちらこちらから、消え入るほどに微かな、うめき声が聞こえることに。
 あちらの暗闇に、一人。そちらの暗闇の中に、二人。
 その奥に、三人。その更に奥の方に、数え切れないほど。
 その全てが、四肢を失った芋虫のように身体で、冷たい地面を這い回りながら、口々に啜り泣き呻き声をあげている。

 ──おとうさん、おかあさん、わたしはここよ、はやくたすけにきて。

 ──くらいよう、くらいよう。めが、みえないの。

 ──おいしゃさんをよんで。てあしが、こごえるようにつめたいわ。

 ──もう、きっとわたしはだめ。だから、どうかさいごはきれいに、やすらかにしなせて。

 ──ここは、どこ。おうちに、かえして。

 ──して。おねがいだから、もう、ころ──

 そうだ。思い出した。
 この臭いは、戦場の臭い。
 肉が腐り、膿が溜まり、そのさらに腐敗した臭い。
 生きたまま蛆の苗床となった、人間の臭い。
 人が、生きたまま死体になっていく、臭いだ。
 ウォルは、こみ上げてくる酸味の強い吐き気を強引に飲み下した。
 
「わたしたちも、いつあの子たちみたいになるか、わからないのよ。少しでも刃向かえば、あの男に気に入られれば、すぐにわたしたちもああなる……」

 ──かつん。

 石畳を叩く固い音が、遠くから聞こえた。
 ウォルは、目の前の少女の華奢な肩が、びくりと一度、大きく跳ね上がるのを見た。
 どうしたのかと問いかける前に、ローラの声が途切れ、唇が細かく震えはじめた。吐く息が浅く早くなり、暗闇に染まった顔が、目に見えて青白く染まっていく。

 かつん、かつん。

 かつん、かつん。

 交互に響くその音は、固い靴底の革靴が、地面を叩く音だ。
 己の存在を居丈高に知らしめながら──自分に怯える少女達の苦悶を愉しみながら、一歩一歩、ゆっくりと。

 かつん、かつん。

 かつん、かつん。

 部屋の至る所で、絶望に満ちた呻き声があがる。狂気に染まった絶叫。救いを求めて神に祈る声。
 
「あ、あいつが、違う、ご主人様が来るわ。いい、あなた、絶対に逆らっちゃ駄目よ。絶対に、逆らっちゃ駄目。わたしたちは、犬なの。だから、何をさせられても、何をしても、恥ずかしくなんかないわ。絶対に逆らっちゃ駄目。何を言われても、言うとおりにするの。だから、逆らっちゃ駄目、逆らったら、殺される……」

 繰り返される呟きは、むしろ自分に言い聞かせているふうですらあった。
 ローラが譫言のように繰り返している間にも、靴音は近づいてくる。

 かつん、かつん。
 かつん、かつん。

 ……かつん。

 足音が、止まった。
 ウォル達の閉じ込められた、牢屋の前で。

 きちりと、錆びた鍵穴の回る音が鳴り響き、牢獄を、張り詰めた静寂が満たす。
 誰も、一言もしゃべらない。呼吸音を聞き咎められることすら恐れるように、息を潜めている。正気を失い、死を希う少女達すらが、母親に折檻される子供のようにじっと押し黙っている。
 そして、部屋の扉が開かれる。
 ウォルの視界を、蝋燭の淡光が満たした。
 
「こんにちは、僕のかわいい天使達。今日のご機嫌は如何かな?」

 端正な顔立ちの青年が、気持ちの悪い笑みを浮かべて立っていた。



[6349] 第四十八話:IN THE ABYSS 2 そして少女は穢された。(15禁)
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2010/09/21 22:50
 【注!かなり生々しい暴力描写があります!】

 古い石造りの廊下を、ルパートは、うきうきしながら歩いていた。
 これほど心浮き立つのはいつ以来だろうか。記憶の頁を可能な限り遡ってみたが、今ほど、この陰気な廊下が長く、そして華やいで感じたのは初めてだ。
 まるで、花嫁を伴ってヴァージンロードを歩いている新郎のようではないか。
 いや、違う。僕は今から、その花嫁を迎えに行くのだ。
 壁のそこかしこに凝った意匠の燭台が設置され、弱々しい灯りで廊下を照らしている。
 外はまだ日の差す時間だというのに、ここは太陽から見捨てられている。
 地下深く、地上の光はそこに届かず、そこに縛り付けられた者たちの悲鳴は地上に届かない場所。
 ルパートは、この世界の王であった。
 外の星からやってきた旅行者、一連の政変でこの星に居場所を失った政治家達とその取り巻き連中、憂国ヴェロニカ聖騎士団の喜捨の誘いを無碍にした者たち。
 つまり、この星において生きる価値を有しない、人以下の人。
 彼らの、娘達。あるいは、単純にルパートが見初めた娘。
 ルパートは、生き場のない少女、あるいは幸運にも彼自身のお眼鏡に適った少女達を、大いなる慈悲をもってここに匿っているのである。
 衣食住を保証し、一切の金銭を要求せず。
 例えば無慈悲な養護施設のように、期限を設けてその日には寒空のもとに放り出すわけではない。
 ただ、ほんの少し、彼の趣味に付き合ってもらうだけ。
 それだけのことで、彼女達はこの世に生きることを許されるのだ。対価として、これほど安いものもないだろう。
 ルパートは、そう思っている。
 そう思いながら、陰気な廊下を、一歩一歩、歩いていた。
 かつん、かつん、と、ぴかぴかに磨き上げた革靴が、固い石床とぶつかって小気味の良い音をたてる。石壁にぶつかって反響を繰り返し、自分の存在を全ての少女達に知らしめていることだろう。
 さて、彼女達は元気だろうか。元気がないと興ざめだ。狩りの獲物は、できるだけ生き汚く生にしがみつき、最後まで足掻き続けてもらわないといけない。そうでないと、ちっとも面白くない。
 自殺など、以ての外だ。
 少し心配になったルパートは、鉄製の扉の前で立ち止まり、小さな窓から中を覗いてみた。
 そこには、いとけない少女の群れがいた。
 歳の頃は、第二次性徴が始まり、ようやく大人の入り口にさしかかった程度の年齢の者がほとんどだ。
 少年と見紛うばかりの体つきの少女、ようやく身体に丸みを帯び始めた少女、発育した身体と無垢な顔つきがアンバランスな少女。
 ルパートが、もっとも美しいと思う、女性の理想像。食べ頃、旬、脂の乗った肢体。
 どうみても男性を受け入れるには尚早な少女達を、ルパートは愛していた。だから、彼女達の耐用日数は、熟れすぎて腐りかけの女どもよりも、遙かに長い。
 その少女達が、卑屈に笑いながら、自分を見上げていた。
 飼い犬のように首輪を巻かれ、けだもののように裸に貶められ、生け贄のように処女を奪われた少女達が、その加害者に対して媚びへつらいながら微笑んでいる。
 本心であるはずがない。彼女達は、きっと自分のことを、地獄の最下層に叩き落としてもまだ飽き足らないほどに憎んでいる。
 それがいい。その無念が、何より彼女達を輝かせ、ルパートの嗜虐心を満足させてくれる。
 赤毛の青年は、一度満足げに頷くと、小窓を閉じて再び歩き始めた。
 かつん、かつん。
 かつん、かつん。
 遠くで、ざわざわと声がする。
 神に救いを求め、父母に助けを求める声。運命を怨嗟する声。
 だが、靴音が近づくにつれて声は少しずつ小さくなり、扉の前に立った時には完全な静寂に変わる。靴音が少しずつ遠ざかると、安堵の溜息と己が身と運命を呪う啜り泣きが聞こえ始める。
 どの扉も、量って切り取ったように同じだった。
 ルパートは、片頬をゆがめて嗤った。きっと今日の生け贄を免れた少女達は、存在もしない神に感謝しているのだろうか。それとも、自分達をかかる目に陥れた神を恨んでいるのか。
 どちらにしても滑稽なことだ。今日、少女達で遊ばなかったのはルパートの気まぐれであり、彼女達をここに招待したのもルパートの気まぐれである。
 いや、違うか。
 つまり、自分こそが神なのである。あのいたいけな少女達は、自分をこそ神だと崇め畏れている。
 それは正しい認識だと、ルパートはどんどん気分が良くなった。
 青年は、歩く。少女達の絶望を、一時の安堵を、極上のワインよりも芳醇に味わいながら。
 かつん、かつん。
 かつん、かつん。
 そして辿り着いた。
 この地下階の一番奥の部屋。彼の、一番のお気に入りたちが大事に仕舞われた、おもちゃ箱。
 ルパートは逸る指先ももどかしく、仕立ての良いジャケットの内ポケットから鍵束を取り出した。
 選んだ鍵を、錆びた鍵穴に差し込む。
 きちり、と小さな音をたてて、錠は解き放たれる。
 
 ──これでようやく、あの少女を自分のものにできる。

 ──めちゃくちゃに犯し、痛めつけ、自分が自分以外の所有物であることを分からせてやる。

 ──そして、僕の子供を生む栄誉をくれてやろうか。

 鉄製の頑丈な扉を、一気に開く。
 男と女の体液が饐えて発酵した臭い、肉の腐った臭い、様々な臭気が鼻を刺すが、今のルパートにはほとんど気にならなかった。

「こんにちは、僕のかわいい天使達。今日のご機嫌は如何かな?」

 意味のない台詞を口にしながら、しかし彼の意識は喉に注がれていない。
 ただ、自分の花嫁となるべき少女を、刹那でも早く見つけること。もしもあの写真が作り物で、自分が騙されていたのならば、今日の贄となった少女はこの世で最も惨たらしい辱めを受けることになるだろう。
 ぐるりと部屋の中を見渡す。
 怯え蹲りながら、それでも必死に笑顔を浮かべた少女達。既に壊れて、感情を表すことさえできない少女達。四肢をもがれて、もぞもぞと蠢動する少女だったもの。
 自分の作り上げたソドムを睥睨したルパートの視線は、部屋の一点で留まり、そこから動くことはなかった。
 壁に背を預けた姿勢で地べたに座り、自分を見上げる少女。
 ルパートは、そこに太陽がいるのだと思った。
 格好は、他の少女達と何ら変わるところがない。生まれたままの姿に貶められ、剥き出しになった素肌。他者の所有物となった証でもある、無骨な首輪。
 ただ一点、手枷と足枷が填められていることだけが、違うといえば違うだろう。それは、少女がここに囚われて日がないことを示している。ここに囚われて長くルパートの寵愛を受ければ、逃げる気力は根刮ぎ奪われてしまい、手枷や足枷など必要でなくなるからだ。
 怯えないはずがない。ここはどこだと、あなたは誰だと、甲高い悲鳴を上げて泣き叫ぶのが普通であり、ルパートのサディズムを程よく満足させてくれるはずなのに。
 その少女は、暗闇の中でもなおそれと分かるほどに深い、漆黒の瞳でルパートを見ていた。じっと、無表情に凪いだ瞳で。
 どこにも、怯えの色がない。困惑の色もない。神であるはずの自分を、遙か高みから見下ろしているように、じっと、無価値なものを見るように。
 ルパートは、悟った。
 これは、あの写真の少女とは別人だ。
 違う。例え同一人物であったとしても、この輝きを、高貴さを、紙片などに押し込めようはずもない。
 目も眩むような美しさは、擬態でしかない。この少女の本質は、その更に奥、この瞳の裏側にこそ存在するのではないだろうか。
 ルパートは、物理的にそこを覗きたくなる欲望と戦わなくてはならなかった。なに、焦ることはない。眼窩の奥に何があるかを確かめるのは、この美しい身体に穿たれた全ての穴の奥底を覗き尽くし、味わい尽くした後でもいいのだから。

「はじめまして、ウォル・ヴァレンタイン嬢。僕の名前はルパート・レイノルズ。今日から僕が、君のご主人様ということになるかな。まぁ、僕たちの付き合いが長いものになるか短いものになるかは君の心がけ次第だけれど、とりあえずよろしく頼むよ」

 ルパートの軽々しい言葉にも、ウォルという、まるで男のような名前の少女は一切反応を示さなかった。
 ただ、じっと、ルパートを眺めている。
 恐怖を誤魔化すために不必要に傲慢を装うではなく、もちろん野兎のように怯え疼くまるでもない。
 きっと、いつもと変わらない、普段通りの視線で自分を見ている。
 その、気高い有様!
 今までの獲物とはひと味もふた味も違う。
 いいじゃないか。それでこそ、僕の花嫁に相応しい。
 この女が、心底僕に屈服し、這いつくばりながら慈悲を乞う姿は、どれほど痛ましく、美しいだろうか。
 ルパートは、粘着質な唾液を絡ませた舌先で、唇を舐めた。

「ここのルールは、隣のお友達に聞いたかな?」

 ルパートの視線を受けて、ウォルにしがみつきながら震えていた少女が、口元だけを必死に笑みの形に変えた。
 なるほど、中々頭のいい娘だ。
 気に入った。近々、精一杯に遊んであげるとしようか。

「聞いていないなら教えてあげよう。ここでのルールはたった一つ。僕の命令に逆らわないこと。簡単だろう?」

 ルパートは、あらためてウォルの身体を睨め回した。
 石壁に背を預け、足を投げ出して座り込んだ姿勢。
 黒絹が如く滑らかな黒髪に彩られた肢体は、一度だって太陽に当たったことがないように白く、美しい。
 肌は冗談みたいにきめ細かく、ほくろや面皰はおろか、一筋の皺すら存在を許されていないように滑らかだ。
 両腕を身体の後ろで拘束されているため、自然と大きく胸を張り出した体勢になるが、それでもなお慎ましく小振りな胸は青い果肉の水蜜桃のよう。
 くびれを感じさせない腰周りは、少女の身体がまだまだ発育途中である証拠である。だが、この少女が五年後にどれほど美しい女に変貌するかは、賭博の対象にすらならないほどに明白すぎる事実であった。
 そして、太股の付け根の三角地帯は、処女雪に埋め尽くされた雪原よりも滑らかで、産毛の一本すらも生えていない。
 この少女の女が、たとえ一度だって男を受け入れたことがないのは、明らかである。
 いいじゃないか。そうでないといけない。他の男に汚された中古品なんて、こちらからお断りだ。
 ルパートは、ぐびりと生唾を飲み込んだ。
 そして何より彼の情欲の火を煽ったのは、無遠慮な男の視線で穢されても恥部を隠す素振りすら見せない、少女の潔癖さだ。
 うん、いい。
 すごく、いい。
 自身の分身に血液が流れ集まっていく感覚を、ルパートは楽しんでいた。

「とにかく、僕たちはきっとうまくやっていけるはずだ。そして、素晴らしい信頼関係は、まずは挨拶から始まる。そうだろう?」

 かつん、かつんと、威圧的な靴音も高らかに、ルパートは部屋へと踏み入った。
 悲鳴を飲み込む音が、部屋のあちこちから聞こえる。 
 これで、今日の生け贄がこの部屋から選ばれることが決まってしまったのだ。例えそれが自分ではなかったとしても、自分の知る誰かが、人の姿を止めてしまう。
 そして、もしも自分だとしたら。
 絶望が、部屋の空気を染め上げた。

「僕はもう、君に対して挨拶を済ませたよ。だから、次は君の番だ。それとも、人から挨拶をされたら挨拶を返しなさいと、ご両親や学校の先生に教わらなかったのかな?」

 仕立ての良いスーツで身を固めたルパートは、全裸のウォルの前にしゃがみ込み、その頬に手を伸ばした。
 噛み千切られるかと思わないこともない。この少女は、屈強な男達を幾人も相手取り、病院送りにしている。自分を攫った男の指を噛み千切るくらいの気概はあるだろう。
 それもいいと、ルパートは思った。この少女の愛くるしい口に食いつかれ、栗鼠のような前歯で指を断たれれば、それは苦痛よりも快楽をもたらしてくれるはずだ。
 夢心地で差し出された掌は、しかし何事もなく少女の頬に辿り着く。
 その、蠱惑的な感触!
 吸い付くような肌とはよく言う表現であるが、そうではない。吸い付くのではなく、手放したくないのだ。いつまでもその肌に触れていたくなる、その肌を貪りたくなる。
 ルパートは、少女の頬を撫で回し、存分にその柔らかさを堪能した。そして指先を伸ばして、桜色の唇に触れる。
 唇は、柔らかく作ったグミのような感触だった。きっと舌先で味わえば、グミよりも芳醇で、甘い味がするに違いない。それともこの唇に銜えさせれば、どれほど柔らかく包み込んでくれるのだろう。
 ルパートは、少女の唇を犯すように、何度も何度も愛撫した。軽く押しつぶし、その弾力を確かめる。横になぞり、指先をねじ込み、口腔の暖かさを味わう。
 それでもウォルという少女は、身動ぎ一つしない。
 ただじっと、自分を見ている。
 いや……。
 違う。見ているのではない。
 観ている。観察している。眺めているのだ。
 目の前の男の価値を、推し量っている。
 これは、そういう視線だ。

「……良い子だから、言ってごらん。『はじめましてご主人様、わたしはあなたの雌犬でございます。これからたっぷりと可愛がってくださいませ』ってさ」
 
 更に気分を良くしたルパートが、猫なで声で言った。
 それは、今までこの城の地下に連れてこられた少女の全てに、彼が要求した服従宣言である。
 当然のことであるが、最初からその言葉を進んで口にした少女は誰一人いなかった。しかし、一日と経たないうちに、少女の誰しもがその言葉を口にしていた。目を赤く泣き腫らし、口元を屈辱に戦慄かせながら。
 だが、ウォルは何事も言わず、じっとルパートを見つめている。
 これはいい。間違いなく、最高の獲物だ。そして、これからも彼女以上の獲物は、絶対に見つからないという確信がある。
 この少女は、僕の花嫁だ。絶対に、誰にも渡さない。彼女自身にさえ。
 だが、それはルパートにとって、この少女を大切に扱うとか、慈しむとか、そういう感情を呼び起こしはしない。むしろ、どうやってこの少女の気概をへし折り、恥辱に噎び泣かせてやろうかと、挑戦心を掻き立てられるのだ。
 だからこそ、一番最初の邂逅は、何よりも重要だ。ここで彼我の力関係を、飼い主と愛玩動物という位置関係をはっきりさせておかなければ、後々の調教に差し支える。
 ルパートが、今度は少し険を含んだ声色で、少女に向かって言った。

「あまり強情にならない方がいい。この世界には、意地を張ったって仕方のないことが山とあるんだ。君だって、鞭で打たれたり焼きごてを当てられたり、手足の一本を失ったりした後で僕のペットになるよりも、綺麗な身体のままペットになるほうがいいだろう?僕も、そんなに酷いことはしたくないんだよ」

 心底困ったふうに眉を寄せた青年に、自分こそが全ての元凶であるという後ろめたさは微塵も存在しない。ただ、目の前で口を噤む少女の強さ、あるいは愚かさに、あきれ果てているように見える。
 それでも少女は、じっと押し黙っていた。
 恐怖に口が動かないわけではあるまい。彼女は、はっきりとした意志をもって、この世界の王である自分に刃向かっているのだ。
 仕方ない。この美しい身体を無碍に傷つけるのは気が進まないが、この強情な娘には自分の立場というものを分からせてやる必要が──

「一つだけ、問おう」

 ルパートが、彼の引き出しに収められた無数の拷問方法のうち、肉体的負担の軽いもののいくつかを思い浮かべていた、その時である。
 初めて、その少女の声を聞いた。
 想像通り、凜と固く、硬質で心地よい響き。美酒で満ちた銀製の杯の中で氷が崩れたような、澄んだ音色。そして、その奥に秘められた魂の輝き。
 ああ、この声を甘やかに染め、男の情けを乞い願う爛れた女の声に染め上げてみたい。
 
「……いいだろう。これは最初だからね、特別だ。でも、本当は、奴隷がご主人様に勝手に質問をするなんて、とんでもない無礼だ。それくらい、分かっているよね?」

 ルパートの言葉には一切の興味を示さず、黒い瞳の少女は、その部屋を作る石壁よりも遙かに無機質な言葉を口にした。

「貴様は、どうして年端もいかない少女を痛めつけるのだ」

 ルパートは、今まで聞いたことのない言語を聞いたように、目を丸くした。
 そして、呵呵大笑に笑った。城の地下全体にこだまするほどの哄笑であった。その声を聞いたウォル以外の少女の幾人かが、あまりの恐怖に失神した。
 息も絶え絶え、目元に溜まった涙を形の良い指先で拭いながら、赤毛の青年は答える。

「そ、そうだね、そんなこと、今まで考えてみたこともなかったよ」

 笑いを収めたルパートは、腕を組み、真剣に考える。
 どうして、自分は少女を好むのか。少女のあどけない表情が、恐怖と絶望で歪むのを好むのか。少女の幼い四肢を切り刻み、人以外のかたちに変えていく作業に心躍るのか。
 考えてみると、どうにも不思議だ。それは、人が嫌悪感を覚える行為のはずなのに。
 ルパート・レイノルズの記憶は、自分のご機嫌とりをする大人たちの、卑屈極まりない笑顔から始まる。
 幼心に不思議であった。自分より大きく、年も遙かに上の大人が、どうして自分のご機嫌を伺うのか。
 その答えを得たのはしばらく先の事であったが、それでも、一つだけ理解した。
 自分は、偉いのだ。だから、周りの人間の全てが、自分を恐れているのだ。
 しかし、ルパートは頭の良い子供であった。自分の理解が誤っている可能性も考慮して、一つの実験を行った。
 とあるパーティの最中、大人たちの一人の顔に、オレンジジュースを思い切りぶっかけてやったのだ。
 普通の人間であれば、怒る。顔を真っ赤にして怒鳴り声をあげるだろう。ひょっとしたら、いくら相手が幼子とはいえ、手を挙げることもあるかもしれない。
 もしも自分がそういう目に合うならば、偉いといってもたかが知れている。大人しく生きていこう。
 しかし、櫛のしっかり入った頭髪と上等のタキシードをルパートのイタズラでべたべたにしたその大人は、怒りに顔を赤らめはしたものの、無理矢理な笑顔を作ってルパートを軽く窘めただけで、それ以上のことをしなかった。
 いや、できなかったのだ。
 自分が偉いから。自分が怖いから。
 なるほど、そういうものか。
 ルパートは理解した。
 周囲の大人は、容易く自分を怒ることが出来ないのだな。
 頭の良い彼は、実験を重ねることで、自分の理解を確信へと近づけていく。
 使用人の子供を、手ひどく痛めつけてみた。馬乗りになって殴りつけ、長い髪の毛を毟り抜き、両親が見たって誰かわからないような顔にしてやった。
 それでも、自分は許された。病院に運ばれた子供の両親は、ルパートと彼の父親に向かって頭を下げ、私達の娘がぼっちゃまにご迷惑をおかけしましたと謝ったのだ。
 どれほど悔しかっただろう。どれほど無念だっただろう。
 しかし、自分は怒られなかった。
 ああ、なるほど。ここまでは許されるのだな。
 ルパートは理解した。
 学校で、一人の子供を徹底的にいじめてやった。彼の積み上げてきた人生を否定し、全人格を否定してやった。暴力こそ振るわなかったが、だからこそ暴力以外で人間がどこまで壊れるのか、実験のつもりだった。
 しばらくしてから、彼女は学校に来なくなった。ほどなくしてその少女の死体が河から引き上げられたというニュースを聞いた。
 果てして今度はどうなるか。ルパートは、むしろ心をときめかせながら周囲の人間の反応を待った。
 誰も、ルパートを叱ることはなかった。
 彼女の死に、ルパートは直接関わっていない。しかし、彼女を自殺に追いやったのは、間違いなく彼の行いである。
 だが、ルパートは許された。誰も、彼を罰することはできなかった。
 ルパートは、実験を繰り返す。そして、実験の結果をどんどんと積み上げていく。
 彼にとっての他人は、全て実験の対象でしかなかった。それも、どういう扱いをしても文句の一つも言わない実験動物であり、どれほど手ひどく壊しても簡単に換えのきく生き物だった。
 特に女がよかった。男は、一度壊れてしまえばそれまでだったが、女は、壊れてしまった後でもそれなりの楽しみようがあった。
 最後は女衒に売り渡せば、小遣い稼ぎも出来た。
 恋人とやらの愛情がどれほど確かなものなのか、興味を持ち、実験を試みたこともある。街ゆく男女を同時に拉致し、縛り上げた男の前で、女を犯してみた。泣き叫ぶ女を、顔の形が変わるくらいに殴りつけ、その様子を男の網膜に焼き付けてやった。
 それでも愛情というものは絶対なのか。男は女を許し、女は男を許すことができるのか。
 結果は、惨憺たるものであった。実験の母数に等しいだけの恋人達が、何らかの形で破局を迎えた。それは女の自殺である場合もあれば、男の自殺である場合もあり、単純に別離を選んだだけの場合もあった。
 とにかく、ルパートの実験の数だけ他者は不幸になり、しかし彼は一向に罰せられることはなく。
 そして、最終的な結論にたどり着く。
 自分が許されるのは、自分の父親が偉大な人間だからだ。ヴェロニカ教の上層部に関わり、巨大な会社をいくつも経営し、政財界に様々なパイプを持っている。
 ああ、なるほど。誰も自分を見ていない。自分の後ろに父親を見るから傅き、自分の後ろに父親を見るから誰もが恐れる。
 すばらしい!
 ルパートは歓喜した。
 自分の行いの悉くに、人は父親の影を見る。ならば、誰も自分を見えていないということだ。
 自分は、透明人間だ。
 ならば、自分が何をしたって、誰も自分を罰することはできない。
 自分が透明である限り、誰もが自分に父親の威光を見る。そして、父親の威光がある限り、誰も自分に逆らうことができない。
 なるほど、この世はそういうふうにできているのだな。
 自分が好き放題しても、誰も自分を認識できないのだな。
 自分は、選ばれた人間、神に愛された人間なのだな。
 ルパートが最終的な結論を得た瞬間だった。

「この世にはね、選ばれた人間と選ばれなかった人間がいる。そして、選ばれた人間には、それ以外の人間を自由にする権利がある。いや、権利という表現は適切じゃないね。権利は与えられたものだ。選ばれた人間が持っているのはそんな情けないものじゃなくて、もっと純粋に、そう、力だ」

 ルパートは立ち上がり、ウォルを見下しながら力説した。

「僕が君たちを嬲るのはね、僕がそれをしても、誰も僕を罰することができないからだよ。他の人間だって、多かれ少なかれ思っているはずさ。自分の好きな人間を、思うように扱いたい。自分以外の全ての人間に傅かれ、敬われたい。王様みたいに振る舞いたいってね。僕以外のその他大勢には、それができない。したくても力がないか、力があっても勇気がない。僕は、その両方を持っている。だから、自分のしたいように、君たちをいたぶる。そして愉しむ。何かおかしなところがあるかな?」

 身体を屈ませ、少女の顔を覗き込む。
 手を伸ばし、少女の細い顎を掴み、強引に上を向かせる。
 息が交わるほどの至近に、少女の瞳がある。恋い焦がれ、夢の中で何度も犯し抜いた瞳だ。
 しかし、物事には順番というものがある。
 まず、自分が征服するべきは、この瞳ではなく、その下にある、可憐な唇だ。
 舌なめずりしたルパートが、少女の唇に、己のそれを被せようとした、そのとき。
 ぼそりと、少女が呟いた。

「──哀れな。誰も、貴様を殴りつけてくれなかったのだな」

 ルパートは、一瞬、目の前の少女が何を言っているか分からなかった。
 既に身体の自由を奪われ、今からその唇を奪われ、明日にはその処女を奪われているはずの哀れな少女が、今、自分に対して何を言った?
 哀れだと、このルパート・レイノルズが哀れだと?
 そう、言ったのか?
 いや、そんなはずはない。僕はこの世界の王で、そして誰も罰することのできない透明人間だ。
 全ての罪業に対する免罪符を、生まれながらに持っているのだ。誰しもが欲し、しかし与えられない、最高の特権だ。
 ああ、そうだ。きっと、この少女が言ったのは、自分自身のことだ。この僕に囚われて、これから生き地獄を味あわされる自分自身が、哀れだと。
 そうに決まっている。
 だが、そうならば、もしそうならば。
 この僕を、痛ましそうに見つめるその視線を、早く止めたらどうなんだ?

「……違う。誰も殴りつけてくれなかったんじゃない。誰も、僕を畏れて殴ることなんてできなかったんだよ。だって僕は、生まれながらの王様なんだからね」
「貴様の取り巻きである烏合の衆はそうだろう。だが、最初から貴様は全ての人間の上に立っていたのか?この世に生を受けた瞬間から?馬鹿を言うな。生まれたばかりの人間はな、この世で最も弱い生き物だぞ。泣き声は万里先の獣を呼び寄せ、甘やかな匂いのする肉は鼠どもの最高のごちそうだ。ならば、誰かが貴様を守っていた。貴様は、誰かの庇護の元にあった。違うか?」

 辺りの暗闇から、息を飲む気配が伝わってくる。
 今まで、ルパートに手酷い暴言を吐いた人間はいた。変態、げす、死ね、殺してやる、と。しかしそれらの言葉はルパートにとってこれから始まる食卓を盛り上げるための食前酒のようなものであり、当然のことながら、酒が旨いほどに食事は進んだ。つまり、暴言を吐いた少女達は、より凄惨な目に遭わされることとなった。
 ならば、今日、新しく連れてこられたこの少女は、一体どんな目に遭わされるのか。そして、自分にもそのとばっちりが及ぶのではないだろうか。
 ルパートとウォル以外の人間は、まるで自分が人間であることを拒絶するように、暗闇の中に溶け込もうとしていた。

「王は生まれながらにして王なのではない。正嫡として生を受けた男子であったとしても、厳しい教育と苛烈な生存競争をくぐり抜け、王の寵愛と臣下の信頼を勝ち得て、ようやく王位継承の第一候補といったところだ。放蕩三昧の馬鹿王子など、愛想を尽かされた家臣団に暗殺者を送り込まれて、あっさりとあの世行きさ。それともお飾りの王様として、一生飼い殺しがいいところだ」

 少女は、まるで自分が見てきたことのように語った。
 事実、彼女は見てきたのだ。王家という存在が、外面がどれほど華美で麗しいものに見えたとしても、その内側がどれだけおぞましく、そして人としての生を拒む場所であるのかを。
 それでも彼女が人として王座にあり続けられたのは、幼き日に彼を殴りつけてくれた、育ての父親と森の巨人の固くて痛いげんこつ、そして頭に特大のこぶを作った少年を優しく抱きしめてくれた、彼らの妻たちの優しい愛情があったからに違いない。
 
「王様だから殴られなかった?違うな。そも、王様だって殴られるのだ。例えば、子栗鼠のように愛らしい容姿をした、獅子よりも屈強な王妃などは、これでもかというくらいに王を殴ったぞ。だからこそ、王は王でいられたのだ。ならば、誰からも殴られなかった貴様は、ただ単に誰からも興味を持たれていなかっただけだ。だから、やりたい放題好き放題ができた。いや、それだけしかできなかった。それだけのことだ。なんとも気の毒なことだな」

 少女の舌鋒に一切の手加減はない。淡々と、暖かみを欠いた無機質な言葉で、青年の心を抉っていく。
 そして青年は、表情を失った顔で、口元だけを綻ばせていた。

「……そうか、なるほど、君の言うとおりかも知れないね。でも、そこまで言うんなら、君は殴られた経験があるわけだ」
「ある。大いにある」
「へぇ、それはこんなふうに?」

 ごつり。
 
 ルパートが、ウォルの頬を殴りつけた。
 全身を縛り付けられ身動きの取れない少女は、横倒しに倒れた。

「それとも、こんなふうに?こんなふうに?」

 ルパートはウォルに馬乗りになり、仰向けに倒れた少女の顔面を、幾度も殴打した。
 四肢を拘束された少女に、為す術などあるはずがない。反撃はおろか、逃げることも顔を庇うことすらできず、ただ殴られ続けた。
 ルパートは、無抵抗の少女を殴り続けた。
 右の拳を振り上げて、振り下ろす。
 左の拳を振り上げて、振り下ろす。
 ごつん、ごつん、と固い音が鳴り、幾度目からか、湿った音が混じりはじめた。
 少女の鼻血がルパートの拳に纏わり付き、肌とぶつかる度ににちゃにちゃと音を立てるのだ。
 男であっても泣いて許しを乞う暴力を受けながら、しかし苦痛の呻き声一つ漏らさないウォルの様子は、ルパートの怒りに風を送った。
 満身の力を込めて、少女の顔に拳を振り下ろし続ける。
 だが、鍛えられていない拳で人の顔を殴るには限界がある。
 程なくして拳に違和感を覚えたルパートは立ち上がり、少女の柔い腹を、全体重をかけて思い切り踏み抜いた。

「ぐぅっ!」

 つぶされた肺から空気が押し出され、少女の意図したところではない呻き声が漏れ出す。
 その無様な音に、ルパートは気を良くした。
 少女の長い黒髪を無造作にねじり上げ、半分身体を持ち上げておいてから、腹を思い切り蹴りつけた。
 どす、どす、と重たい音が響いた。

「こんなふうに?こんなふうに?こんなふうに?」

 少女の身体が、ルパートに握られた髪の毛の部分を支点にして振り子のように揺れる。
 蹴り上げられてふわりと浮き、戻ってくればまた蹴り上げられる。
 ウォルの身体は、幾度も幾度も、宙を揺らいだ。

「かはっ、ぐ、あぅ、つぅっ……げほっ!」

 少女は、既に萎みきった肺の奥から、力ない苦痛の声を絞り出した。
 それが、だんだんと弱々しくなっていく。
 それでも、ルパートは蹴り続けた。
 固く尖った革靴のつま先で、思い切り。
 少女が吐瀉物を吐き散らし、自分のスーツが汚れても、構うことなく。
 何度も何度も、飽きることなく。
 やがて、髪を掴んだ左手が疲れを覚えたところで、ルパートは少女の身体を解放した。
 ぼろくずのようになったウォルの身体は、力なく仰向けに倒れた。顔は自身の血で真っ赤に染まり、激しい苦痛に息も絶え絶えだ。腹部には無数の青痣が拵えられているが、それだけで済んでいるのは彼女であればこそ、普通の少女であれば内臓が破裂して既に死んでいる。
 それでもウォルは、あの瞳で、ルパートを見上げていた。
 苦痛に染まった瞳で、じっと、哀れな生き物を見るように。
 激しく息を乱したルパートは、その視線を遮るかのように、ウォルの顔を革靴の底で踏みつけた。
 ごり、と、少女の頭蓋と固い石床の擦れる音が響いた。

「……なんて生意気な女だ。これは、厳しい調教が必要みたいだね。それとも、そうして欲しいから、わざと生意気な態度を取っているのかな?」

 嗜虐の快楽に鼻を膨らませたルパートは、存分に体重を掛けた靴底でウォルの顔を踏みにじった。靴底には少女の鼻血が張り付いたから、程よく滑った。
 ルパートは心地よい疲労感に包まれながら、冷静さを取り戻していた。
 何のことはない。多少喧しく囀るが、それだけだ。僕が思いきり暴力を振るえば、手も足も出ないじゃないか。
 当たり前だ。僕の方が偉いんだから。僕がご主人様で、こいつは僕の奴隷なんだから。
 そう考えると先ほどの自分があまりに大人げなくて、ルパートは苦笑した。折角手に入れた極上の花嫁なのだ。怒りに身を任せて殺してしまうなんて、あまりに勿体ない。
 
「そうだ、わかったよ。名前だ。君の名前がいけない。ウォルとかウォルフィーナとか、まるで男か化け物みたいな名前だからそんな可愛くない態度になるんだ。よし、いいことを考えたぞ。僕が君に、新しい名前をあげようじゃないか」

 さも名案というふうに目を輝かせたルパートは、靴の下に少女の頭部を挟んだまま、

「エレオノラ。女の子らしくて可愛らしい名前じゃないか。ほら、エレオノラ。今日から君の名前はエレオノラだ。言ってごらん、『わたしの名前はエレオノラです、素晴らしい名前をありがとうございますご主人様』ってさ。そうすれば、これ以上痛い思いをしなくても済むんだよ?」

 ルパートは再び少女の顎を掴み、身体を起こさせた。
 間近で見る少女の顔は、先ほどの神々しいまでの美しさから堕落して、ずたずたの石榴のような惨状だ。
 それでも、ルパートは美しいと思った。血と砂埃に塗れ、腫れ上がった少女の顔は、何よりも彼の情欲を煽った。

「ほら、言ってごらん、エレオノラ。そうすれば、僕は君を髪の毛一本ほどだって傷つけない。約束するよ」

 にんまりと笑った青年は、最初から反故にするために振り出した約束手形をちらつかせてやった。傷ついた少女は、そんな蜘蛛の糸よりも細い希望を得るために、人間の品性を捨て去るのだ。
 この少女も、一緒だ。すぐに折れる。そして、僕の靴の裏を喜んで舐めるようになる。
 しかし、満身創痍で死にかけの少女は、

「……貴様のような男をご主人様などと呼ぶくらいならば、野良犬の尻の穴を舐めるほうが幾分ましだな」
「……なんだって?」

 ウォルは不思議だった。
 ご主人様と目の前の男を呼べば、この苦痛から解放される。ならば、言うべきだ。言ったところで自分の何も変わらないことを、自分はよく知っている。
 だが、絶対に駄目だった。冗談でも、この男を自分の主であるなどと、呼ぶ気にはならない。 
 あの少年をそう呼ぶことには、それがおままごとの延長線上にあったとはいえ、さほど抵抗がなかったのに。
 ウォルは、彼女の正体を知る人間が見れば、地にひれ伏して許しを乞いたくなるような冷笑を浮かべて、

「もう一つ、問おう」
「……ふざけるなよ、僕はお前にそんな権利を与えたつもりは……」
「エレオノラというのは、貴様の母親の名前か?」

 ルパートの身体が、表情が、音も立てずに硬直した。
 何だ?
 この女は、一体何者だ?

「は、はは、君は一体、何を……」
「図星か。成る程、その年でまだ乳離れができていないと見える。それとも、一度も母親の乳を含ませてもらえなかったのか」
「……」
「代わりに、俺の乳を吸いたいか?いいぞ、存分に吸えばいい。だが、俺はお前の母親にはなれない。そして、俺以外の少女もだ。だから、このように無益な真似は止めるんだな」

 無言で立ち上がったルパートは、仰向けに寝転がったウォルのこめかみを思い切り蹴り飛ばした。
 少女の首が、折れないのが不思議なほどに撓み、それに遅れて身体が吹き飛んでいく。
 二、三度、ごろごろと転がった小さな身体は、慣性に引き留められて制止した。
 ぴくりとも動かない。しかし、この少女は、この程度のことで死にはしない。
 驚くほどに頑丈な、精神と肉体を持っている。これならば、一通りの拷問程度で折れ曲がることはないだろう。
 いいじゃないか。最高の獲物だ。これほどに僕の心を燃やしてくれる生き物が、今までにいただろうか。
 ルパートは、ウォルの左太股に巻かれていた包帯を解き、生々しい銃創を露わにした。

「ほら、早く起きろよ」


 ──ずぶり。


「ぐ、ずあああぁぁっ!?」

 ウォルの愛らしい唇から、獣のような咆吼が放たれた。
 冗談のような、光景であった。
 青年の長く形の良い指が、少女の太股の中に、その根本まで埋まっているのだ。
 そして、それだけでは終わらない。
 突っ込んだ指を強引に折り曲げ、肉の内側を掻きむしった。

「うあああぁぁぁっ!」

 穿たれて間もない銃創の内部で指を『ク』の字に曲げられる激痛。男にしては長く伸びた爪で肉をこそぎ削られる激痛。
 がくがくと壊れた自動人形のように震える少女は、眼球が零れ落ちそうなほどに目を見開き、痙攣する横隔膜に息を詰まらせながら叫んだ。

「ぎぃ、き、さまあぁぁっ!」
「ああ、いいなあ、最高の表情だ!そういうのが見たかった!ほら、これでどうだい!?」

 ウォルは、ルパートの感極まった声とともに、ぶちぶちと、己の肉の裂ける音を聞いた。
 傷口には、ルパートの人差し指と、中指が深々と差し込まれていた。元々小さな弾丸でできた小さな穴は、男の太い二本の指で、無理矢理に拡張されていたのだ。
 そして、次に薬指を。
 少女の細い身体が、陸に揚げられた魚のように、ばたばたと跳ね回った。
 少女を戒める鎖の軋む音が部屋を満たした。

「どうだ、言ってみろよ!僕が可哀相だと、父親には相手にもしてもらえず母親にすら見捨てられた憐れな子供だと、言ってみろ!言ってみろってば!」
「………………っ!」
「言えないか!なら、僕はお前の何だ、ウォル!きちんと口に出して言ってみろよ、そうすれば今すぐ止めてやるからさ!」
「………………っ!」

 ウォルは懸命に歯を食いしばっている。口を開けば、苦痛の叫び声が漏れ出す。普段であれば何者かの助けを期待できるかも知れないその声は、今は、目の前で自分をいたぶるこの男を喜ばせるだけに終わるだろう。
 だから、黙った。歯を噛み、火を食いちぎるような苦痛に耐えた。
 それでもルパートは委細構わず、少女の傷口を女性器に見立てて前戯をするように、指を激しく抽送する。傷口からは愛液の代わりに新鮮な血液が溢れだし、指と絡まりぶくぶくと泡だった。
 やがてルパートが飽きたように立ち上がったとき、彼の右手と少女の下半身は、べっとりとした血に染まっていた。
 激しい拷問に晒された少女の上半身は、粘い脂汗で覆われて、くたりと力ない。
 目は虚ろで、放心している。息は細く、今にも気を失いそうなのが分かる。
 陵辱の傷跡は生々しく、赤黒い穴の中からは後から後から血が溢れ出している。
 そんな少女を見下ろした青年は、少女の肉を犯した自らの指先を、音を立ててしゃぶった。爪の間には赤黒い塊がたっぷりと詰まっており、それも一緒に口に入れた。
 少女の血は、肉は、素晴らしく美味であった。
 興奮に顔を赤らめたルパートの内心は、最高の歓喜に震えていた。

「ふぅん、本当に強情だ。これだけされても僕をご主人様って呼ばないなんてね。いいだろう、ウォル、いや、エレオノラ。お前がそういうつもりなら、構わない。僕も、お前がそういうつもりだという前提で、それなりの対応をさせてもらうよ」

 ウォルは、その言葉にちっとも反応しなかった。その部屋に転がるその他大勢と同じような有様で、虚ろな視線で明後日の方向を見つめている。唇は戦慄き何事かを呟いているのかも知れなかったが、誰にもその意味は分からなかった。
 これが、自分に逆らった女の末路だ。
 先ほどの小生意気な様子が嘘のような、ウォルのみじめすぎる姿に胸をすかしたルパートは、ぱちり、と指を鳴らす。
 すると、部屋の中に幾人かの男が入ってきた。
 いずれも相当に体格のいい、そして品性の欠けた表情をした、野獣のような男達であった。
 男達は、裸で横たわる半死半生のウォルの肢体を、売り物の品質を確かめる商人のように視線で舐め回し、一様に下卑た笑みを浮かべた。

「こいつらにお前の躾を頼んでもいいんだけど、いきなりそれじゃあ面白くないし、風情がない。だから、お前には、泣いて僕の情けを哀願させてみたくなった。おい、マウスを適当に見繕って、連れてこいよ」
「へい、わかりやした」

 下卑た笑みを浮かべた男達は、部屋の中から比較的まともな少女を選び、ルパートのもとに連れてきた。
 やはり、まだ親の庇護が必要な年頃の、繊細な体つきをした少女であった。一体今から自分の身に何が起きるのか分からず、不安そうにきょろきょろと辺りをうかがっている。
 男達の用意していた濡れタオルで手を拭き清めたルパートは、鷹揚な足取りで少女に近づいていった。
 
「あ、あの、ご主人様、一体わたしは、何をすればいいんでしょうか?この方達のお相手をすればいいんですか?」
「ああ、君は黙っていてくれ」

 少女は口を噤んだ。ルパートが黙れと言って黙らなければ、それこそどんな目に遭わされるか分からないからだ。
 静かになった少女を、満足げな視線で一撫でしたルパートは、ジャケットの内ポケットから長方形の小箱を取り出した。
 少しぶ厚めの手帳ほどのサイズのそれを開くと、中には空の注射器と、薬液の詰まったアンプルが姿を見せる。
 生け贄に選ばれた少女が、ごくりと唾を飲んだ。

「ご、ご主人様、そのお薬は、一体……?」
「おい、僕は黙れと言ったんだ。聞こえなかったのかな?」

 哀れな少女は、ひぃと小さな悲鳴を上げて身体を竦ませてしまった。
 
「いいか、よく見ておけよ、エレオノラ。これが、明日のお前の姿なんだからな」

 ルパートは、注射器をアンプルに突き刺し、たっぷりと薬液を吸い上げると、その針を少女の首元に突き刺した。

「つぅっ!」

 少女の身体がびくりと跳ね上がる。
 しかし、固く目を瞑りながら、抗議の声を上げることはない。そんなことをすれば我が身に何が起きるのか、今まで嫌と言うほどに味あわされているからだ。
 蟻が歩むくらいにゆったりとした速度で、薬液は少女の体内に注入されていく。
 その、最後の一滴が針の先から消えたとき、異変は起こった。

「えっ?あれっ?」

 少女は、目を擦った。額から流れ落ちてきた汗が、眉毛を通り抜け、目に入ったからだ。
 不潔な手で目を擦るのは嫌だったが、条件反射というものは如何ともし難いもので、少女はごしごしと目を擦った。
 しかし、その感触が普通ではない。ぬるりと、尋常ではない量の汗で滑る。
 腕だけではない。顔も、身体も、全ての汗腺からだくだくと、異常な量の汗が噴き出し続ける。
 あっという間に少女の全身は、己の汗でずぶ濡れになってしまった。
 
 ──なんで、全然暑くないのに……。
 
 当惑する少女を、ルパートは楽しそうに眺めている。
 そして、倒れ伏すウォルの傍らに歩み寄り、その黒髪をむんずと掴み、強引に引きずり起こした。

「いいか、ちゃんと見ておけ。お前が変な意地を張るから、あの女の子は犠牲になったんだ。あれは、お前のせいなんだ。お前のせいなんだからな」

 ルパートはウォルの顔に手をやり、その瞼を強引にこじ開けた。もしもウォルが目を背けようとしても、それが不可能なように。
 先ほどの責め苦で体力を失ったウォルは、ルパートに為されるがままである。
 そして、ルパートとウォルの視線の先で、少女の異常はいや増していく。

「あれ……違う……暑い……?……暑い……暑いよ、暑い、あつ、熱い!あつい!あついいいいっ!」

 絶叫した少女は、まるで本当に火で炙られているかのように、ごろごろと床を転げ回った。
 ルパートと、その取り巻きの男達は、少女の様子を見てげらげらと笑った。
 大いに笑った。
 
「くくっ、あの薬を打たれれば誰もがああなる。そして、よく見てみろ」

 苦悶を続ける少女は、汗に塗れた髪の毛を振り乱し、あついあついと叫び続けている。
 寒さに凍えるみたいに腕をかき抱き、爪を立てて二の腕の肉を掻きむしっている。額を石床にがしがしと擦りつけるから、皮膚は裂け、血が溢れ出た。
 
「たす、だれか、たすけて、からだが、あつくて、かゆい、かゆいの、たすけて……」

 上手に息を吸うこともできず、悶絶し続ける少女。
 それを見て、堪えきれないといったふうに嗤ったルパートが、男共の一人に合図を出す。

「へい」

 もう少しの間悶え苦しむ少女を見ていたかったのだろうか、不満げな声色で返事をした男が、しかし命令には忠実に少女のもとに歩み寄り、何事かを呟いた。

「……ぇ、それ、は……」
「本当だ。騙されたと思って試してみろ」

 嫌らしい笑みを貼り付けた男から目を背けた少女は、おずおずと、その命令に従った。
 腕の肉を掻きむしっていた腕を、少しずつ下に降ろし、自らの股間に宛がう。
 びくん、と少女の背が反り返った。
 
「うそ……こんな……すごっ……」
「ほら、もっと激しく動かしたっていいんだぜ?」

 自分の好きなようにやってみな、と、男が悪魔の囁きを少女の耳に吹き込む。
 薬に操られ、服従を叩き込まれた彼女に、抗う術はなかった。
 ぐちゅぐちゅと、粘着質な泥を掻き回すような音が部屋に響く。そして、あられもない少女の嬌声。幼い少女の口から出たとは思えない、淫らな言葉の数々が、野獣の如き男達を愉しませる。
 普通の人間であれば耳を覆い目を背けたくなる光景に、しかしルパートは高笑いを放ち、大いに満足げであった。

「どうだ、素晴らしい薬だろう?あれはね、可愛らしい女の子を、もっと可愛らしく、素直に作り替えてくれるんだ。男を知らないおぼこ娘だって、熟練の娼婦よりも乱れる羽目になるのさ」

 狂ったように──いや、事実として狂いながら己の性器を慰める少女の顔は、天上の快楽に酔いしれ、既に人間の気高さは残っていない。
 焦点の外れた視線が、ウォルの、血で濁った視線と交わり、嬉しそうに歪み。
 そして、言った。

「ねぇ、そこの、あなた、きもち、いいよ、すごく、きもちいいんだよ、だから、あなたも、こっちに……」

 言葉は最後まで紡がれることなく、憐れな少女はぶくぶくと泡を吹き、意識を失った。
 
「ま、普通ならこうなる。そして、もう使い物にならない。薬のことだけを考え、薬のためなら何だってする、ジャンキーの出来上がりだ。僕は、そういうのを相手に無駄撃ちするつもりは、今はないからね。おい、このゴミをどこかに捨ててこい」
「へい」
「そんな顔をするなよ。いつも通り、お前達の好きにしてからでいいからさ」

 男達は、その言葉を待ち侘びていましたとばかりに目を輝かせ、少女を抱えて部屋を出て行った。
 その先で一体どのような宴が開かれるのか、考えるまでもないことであった。

「でも、あの子はまだ幸せなほうだ。あの薬を打たれて何もしなければ、何もされなければ、文字通り気が狂う。暴走した性欲に、精神が焼き切られるんだ」

 ルパートは、二本目のアンプルを取り出し、新品の注射器で中身を吸い上げた。
 薬液で一杯の注射器を逆さに持ち、針を天井に向けて空気を追い出す。少しだけ漏れ出した薬液が、小さな噴水を形作った。
 準備が整った針先を、ウォルの二の腕に押し当てた。

「さて、エレオノラ。これが最後だ。もしもお前がこれからも人間として生きていたいなら、今が最後のチャンスだと思った方がいいよ」

 耳元で、面白そうに囁く。ついでに、少女のふっくらとした耳たぶを口に含み、音を立ててしゃぶった。
 耳朶を口に含まれて舐め上げられる感覚と、ちくりと、鋭い金属が肌を破る冷たい感覚を、ウォルは同時に感じた。
 針先は、深々と肉の内に沈んでいた。

「一応忠告しておいてあげよう。この薬は、我慢とか精神力とか、そういうもので克服できるほどに生やさしいものじゃない。お前がどれほど強情でも、それこそ手足を切り落とされて眉一つ動かさないほどに強情だったとしても、無駄だ。絶対にお前の自我は破壊される」

 ルパートの言葉はまったく事実であった。彼が手にしている薬は、捕虜の尋問用に開発されたものの、あまりの非人道性から全宇宙規模で製造、所持及び使用が厳禁されている禁制の麻薬である。
 しかしその効能の確かなこと、何よりも尋問対象に対する有効性から、ブレインシェーカーを用いても効果のない事実を聞き出すとき──ブレインシェーカーは対象者の記憶を映像として再生する装置なので、聴覚から得た情報に対しては効き目が薄い──には秘密裏に使われることが多い。
 そして、その際の成功率は約八割と言われている。二割の人間が耐え凌いだという意味ではない。薬を打たれた人間の八割が堪らずに口を割り、残りの二割が発狂したという意味だ。
 これは、そういう薬であった。

「僕は、君の何だ?君の名前は?君はこれから、僕のことを何て呼びたい?」

 楽しげに揺らめく声。
 そしてウォルは片頬を歪めながら、力ない笑みを浮かべ、

「……寝言は寝て言え、殻のついた雛鳥め」
「残念だ」

 くい、と注射器のプランジャが押され、シリンジの中身が少しずつ押し出されていく。
 薬液が、ウォルの体内に潜り込み、その細胞を少しずつ犯していく。
 身体の深奥を焼き尽くすような熱が放射状に広がっていく感覚を、ウォルは味わっていた。その汚染が彼女の脳内に及んだとき、ウォルという人格は、薬の効能によって抹殺されるのだ。

「さて、これが多分、今生の別れになるね。きっと次に会うとき、君の名前はエレオノラになっていると思うよ」
「あ、あああ、あああ……」
「もしも意識が残っているうちに僕のことが恋しくなったら、大声で呼ぶといい。君の白馬の王子様は、喜び勇んで駆けつけてくれるからね。その時は、君も素直になっているといいね、エレオノラ」
「だ、れが、きさまなど、お、くあ、あぁぁぁ……!」

 切ない少女の叫びが、再び部屋の静謐を破った。
 体中から汗が噴き出し、血と土埃に汚れた自らを洗い流していく。それほどの発汗量であった。
 苦悶するウォルを満足げに見遣ったルパートは、彼女の傍らで震えている少女に声をかける。

「おい、そこの犬」
 
 あまりの事態に半分虚脱していたその少女──ローラという──は、弾かれたように身体を起こす。

「君に、これを渡しておくよ」
「……これは?」

 渡されたのは、先ほどルパートが懐から取り出したのと同じ、長方形のケースだった。
 そして、中に入っているのも、全く同じ、注射針とアンプルである。

「あの薬は、だいたい一時間で効き目が弱くなるからね。きっちり一時間ごとに、打ち直してあげなさい。ああ、この子が完全に壊れた後は別にいいからね。薬も勿体ないし」
「あ、あの、わたしが、ですか?」

 ルパートは、優しささえ感じる微笑みを浮かべて、大きく頷いた。
 ローラは、決壊寸前のダムのように涙を湛えた瞳で、首を横に振った。

「で、できません、わたし、こんな、ひどいこと……」

 今も自分の隣では、断末魔の叫びを上げながら悶え苦しんでいる少女がいる。
 なのに、自分がその苦痛をさらに深いものにするなんて……。

「いいんだ。それがこの子のためになる。それくらい、君だって分かっているだろう?」
「でも、でも……」
「それとも──」

 ──君が、ウォルの身代わりになるかい?

 この台詞がとどめであった。
 少女は、嗚咽を零しながら首を横に振り、ルパートの指示に従うことを誓った。
 満足げに頷く赤毛の青年。

「よし、それでいい。あと、薬を打ち終えたら、必ず水分を取らせてあげてね。このままだと、この子、脱水症状で死ぬから。それは可哀相だろ?」

 こくりと頷く。

「あと、可哀相に、どうやら自分で勝手に暴れて傷口を開いちゃったみたいだから、少し落ち着いたら応急手当をしてあげてね。その時、絶対に手当以外のことをしちゃいけないよ。この子がどんなに懇願しても、哀願しても、慰めてくれって泣き喚いても、それは無視すること。じゃないとお仕置きの意味がないからね」

 こくりと頷く。
 それ以外の返答を、憐れな少女は持ち合わせていなかった。
 立ち上がったルパートは、スーツの乱れを整えてから、満足げに部屋を後にした。最後に振り返ったとき、塗炭の苦しみに悶えるウォルの様子が彼の網膜に焼き付いた。

 ──今日はこのまま眠れそうにない。他の誰かで遊ぶとしようか。

 堪えきれない愉悦に頬を歪ませたルパートは、意気揚々と自室へと引き上げていく。

「ごめんね……わたし……わたし……」
「……ろ……ら、……は、わる……、く、……ない……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」

 少女達の、お互いの傷口を舐め合うような弱々しい会話が、この日の彼に与えられた最高のご馳走であった。




[6349] 幕間:snake eaters(15禁)
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:28cb7823
Date: 2010/09/23 10:36
 意気揚々と自室に引き上げるルパートの足取りは軽かった。
 ウォルという少女の運命は決まったようなものだ。あの麻薬で自我を徹底的に破壊され、この上なく美しい、生まれたままの無垢な赤子が生まれる。その子を、自分の思うままに育てよう。最高の淑女にして最高の娼婦、そして僕の花嫁。
 最も想像力を掻き立てるキャンバスの色が多くの場合、白単色であるように、純粋無垢な少女を己の思うままに育てたいという欲望は、古来より数え切れない男共を虜にしてきた。
 そしてこの場合、素材は間違いなく極上。
 あの美しい瞳が、未完成の肢体の持ち主が、ルパート自身を父と呼び、夫と呼び、主と呼んだ時、それはどれほどの至福をもたらしてくれるのか。
 それとも、あの誇り高い精神が、屈服するか。
 薬に自我を犯され、精神を破壊される恐怖は、肉体を破壊される恐怖を遙かに凌駕する。己の存在意識がごりごりと削り取られ、少しずつ死んでいく自分を認識し続けるなど、到底人の精神に耐えられるものではない。
 おそらく、一日と持たずに根を上げるだろう。いや、もっと短いかもしれない。今この瞬間に、情けない声色で、僕に対して今までの非礼を悔い改めこれからの絶対服従を誓う言葉が聞こえてきても不思議ではないのだ。
 それもいいだろう。あの小生意気で悟ったような口ぶりの少女が、どれほど卑屈に地べたを這いつくばるのか。その時に自分を見上げる瞳はどれほど恐怖に染まっているのか。
 どちらでもいい。どちらでも、心安らぐ未来図だ。
 あの少女が自分の所有物になる未来に、変わりはないのだから。
 ルパートは誰に見られるでもなくほくそ笑んだ。
 だが、さしあたっての問題として、この昂ぶりをどうにか押さえないと今日は眠れそうもない。そして、昂ぶりは、無理に押さえるよりも思い切り吐き出してしまった方が後腐れがないというものではないか。
 ルパートは頬を歪めた。確か、ウォルという名前の──明日にはエレオノラになっているはずである──あの少女に面影の似た生け贄が一人、いたはずだった。
 あれはあれで、中々にそそられる素材だった。まだ誰も手をつけていない、無垢の少女。いずれ来るべき前夜祭のために用意した、最高の供物。
 葡萄酒は、その価値を本当の意味で理解する人間に飲まれるために存在する。価値の分からぬ下賤な人間や、神などという訳の分からない存在に捧げるためにあるのでは断じてないし、ましてやショウケースに並べてコレクションするなど以ての外だ。
 最も芳醇に醸成された葡萄酒が栓を抜かれることなく老い萎びていくのは、美しい花が誰の目を楽しませることもなく枯れ散っていくのと同じくらいにもの悲しい。
 だから、ルパートは躊躇しない。欲しいと思ったその瞬間こそが、なによりの食べ頃に違いないのだ。

「……ああ、僕だ。あの子……そうだ、例のあの子だよ。今日、食べるからさ。教育部屋に連れてきておいてくれないか……ああ、頼んだよ」

 携帯電話で簡単な指示を出すと、ルパートは自室に急いだ。
 これから始まる宴に備えて、ウィスキーのロックを一杯、ついでに簡単なものを腹に入れておきたい。少女達に対する愛の教育は、するほうも中々に体力を消耗する。
 できればウォルの悶え苦しむ様を見ながら飲りたかったが、これ以上あそこにいると我慢ができなくなりそうだ。あの美酒はまだ飲み頃ではないから、今、力尽くで封を開けてしまえば、一生後悔するだろう確信があった。
 なに、あの部屋の様子はきっちりと映像に記録してある。生まれ変わった少女を足下に侍らせながら、少女自身の壊れゆく様子を愉しむのも、中々に乙なものだろう。
 再び意識を自室へと向けたルパートは、階段を昇り、上層階に設けられた自室へと急いだ。この城の設計者は中世の建築様式であることに病的なこだわりがあったのか、エレベータの類は設置されていない。上り下りは全て階段である。それでも年若く強壮なルパートには大して苦にもならないのだが。
 螺旋階段を昇り終え、地上階に至る。その狭い廊下を抜けると、大ホールがある。
 そこには、地下とは比べものにならない華々しい世界が開けていた。
 豪奢な飾り燭台が天井から吊され、壁面には色取り取りの大理石でモザイク模様が描かれている。天井には、天使と聖母ヴェロニカが舞い戯れる様子がステンドグラスの絢爛な色彩で表されていた。
 ルパートは自室へと急ぐ足を止め、ホールのちょうど真ん中に立ち、目を閉じて大きく深呼吸をした。自分が絶対者として振る舞うことのできる地下世界もいいが、この開けた豪奢な空間で一人佇むのも悪くない。
 官能的なまでに清涼な山間の空気を、ルパートは肺の隅々にまで満たした。すると、自分が生まれ変わったような気がする。
 これは儀式なのだ。あの地下階で染みついた穢れを落とし、この世界に戻るための儀式。
 少女達の苦悶の叫びを、噎せ返る淫臭を、忌まわしい全てを祓い落とし、自信と輝きに満ちた表情で自室へと向かおうとしたルパートに、横合いの物陰から鋭い声がかけられた。

「ルパート様、お待ち下さい」

 青年にとって初めて聞く声ではなかった。
 聞き覚えのある声である。
 そして、その声の持ち主に対して、ルパートは好意を覚えるべき理由をたった一つとして見つけることができない。
 ゆっくり、殊更ゆっくり振り向いてやる。そこにいるであろう人間のために、わざわざ急いで振り向いてやる義理など、微塵も存在しないからだ。
 然り、肩越しに振り返り、身体の向きはそのままに首だけを向けた。
 この、洗練された大広間にはちっとも相応しくない、野卑な迷彩服に身を纏った赤毛の少女が、そこに立っていた。

「……ああ、君か。ええ、と……少し待ってくれるかな。そう……確か、マーガレット。マーガレットくんだったかな?」
「……マルゴ。マルゴ・レイノルズです、ルパート様」

 ルパートは、口元だけを少しずつ持ち上げて、奇妙な笑みを作った。

「ああ、そうだ。マルゴ、マルゴくん。うん、そうだったね。すまない、僕は中々物覚えが悪くてね。それが人や犬の名前ならともかく、お人形さんの名前だと、一々覚えていられないんだよ。気を悪くしないでくれたまえ」

 相変わらず体を正対させることすらなく、顔だけを向けてそんなことを言う。

「で、そのマルゴくんが、僕に一体何の用かな?これでも中々に忙しくてね。お人形さんと遊んでいる時間は、ないんだけれど」
「……その、人形という呼び方を止めていただきたい。わたしには──我々には、敬愛すべき父から頂いた名前があるのですから」

 一呼吸間を置いてから、ルパートは鼻で笑った。

「ああ、そうだね。君たちお人形さんは、ぼくの父親に愛されているらしいから、そりゃあ名前の一つももらうだろうさ。だって、そうじゃないと人形の区別も難しくなる。でもそれは、どこまでいっても人形の名前だ。子供が熊のぬいぐるみに名前をつけておままごとをするのと何ら変わらない。人形は人形。名前をもらったくらいでその事実は変わらない。そこのところ、分かってる?」
「……それでも、名前は名前です」
「うん、きみの言うとおり。墓場を掘り返して引きずり出した死体にだって、名前がないと不便だもんね。そうだ、よくあるパニック映画のゾンビの群れにも、一つ一つ名前はあるのかな?あっちで主人公のライフルに頭を吹き飛ばされたのがザックス、そこで人肉を貪ってるのがアネット、今まさに墓石を押し上げて地面から這いずり出てきたのがマルゴ……」

 少女たちの出自を知るルパートは、冷ややかな笑みを浮かべ続けていた。
 マルゴは、俯き加減に唇を噛み、屈辱に耐えていた。

「……どうして、貴様のような人間が、お父様の息子なのだ……」

 ぽつりと零した台詞はルパートの耳にはっきりと届いた。
 
「……へぇ、君も、人並みに怒ったり、嫉妬したりするんだね。人形で、ゾンビのマルゴちゃんでも、悔しいこととか、あるんだ」

 赤毛の青年がへらへらと笑う。
 へらへらと軽薄な笑みを浮かべながら、言葉の鞭で少女をいたぶっている。

「ま、あまり調子にのらないことだね。君たちは所詮、父さんのお気に入りのお人形さんだ。どうやったって実の子になれないんだからさ、変な望みを持つと、現実の自分がしんどいだけだよ?」
「……だが、私たちは、あなたよりも愛されている」

 苦渋に満ちた言葉を、ルパートは無視した。

「要件がそれだけなら、僕は先を行くよ。そうそう、君も父さんに見捨てられたくなかったら、もっと見栄えのする服の選び方を勉強したほうがいいね。その襤褸、汗臭くて鼻が曲がりそうだ。今後、僕の前では着ることのないよう、切望するよ」

 そう会話を打ち切り、歩き出したルパートに追いすがりながら、マルゴが鋭く詰問した。

「待ちなさい。まだ話は終わってないわ」
「……なんだよ、鬱陶しい。まだ何か用?」
「あの子を返しなさい」

 ルパートの肩がぴくりと動き、その足が止まった。
 やはり顔だけを、ゆっくりとマルゴの方に向けていく。

「……あの子?あの子って、誰のことかな?」
「……白々しい言葉を。あなたが一度取り逃し、私たちが捕まえた生け贄の女の子。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。あの子を連れ出したのは、あなたでしょう」

 ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。
 ああ、そうか。
 あの子のことか。
 僕の愛しい、エレオノラのことか。

「……知らないね。僕はそんな女の子を連れ出した覚えはないよ」
「堂々と嘘を吐く……!そもそも、一度失敗すればすっぱり諦めるという、お父様との約束だったはずよ!それを……!」
「誤解があるようだから言っておこう。失敗したのは僕じゃない。現場の、無能極まる軍人共だ。僕の立案した作戦は完璧だったんだからね」

 ルパートの本心であった。
 作戦に不備があったとは思えない。
 目標の潜伏する建物の地下階。その出入り口の全てを封鎖し、表口と裏口から同時に特殊部隊を突入させる。それも、対テロリスト制圧用に厳しい訓練を積んだ猛者共だ。
 あの少女と、もう一人──こちらもそれなりに興をそそる屈強そうな女は、たった二人で憂国ヴェロニカ聖騎士団の支部を壊滅させた。
 容姿に騙されてはいけない。到底侮っていい獲物ではない。それは理解していた。
 だからこそ用意した完全武装の特殊部隊である。あの汗臭い連中の存在意義は、そういう危険な連中の相手をすることにあるのではないか。
 そして、相手はたったの四人である。
 四人!それに対して、こちらが投入したのは十人を越えていたのだ!
 隠し扉?得体の知れない洞窟?その程度の不測の事態が生じるなど、それこそ想定の範囲内ではないか。
 ルパートは、憮然とした様子で彼の作戦の不備を指摘し全ての責任を押しつけてきた軍人共の筋肉質な顔を思い出して、不快感に唾を吐き捨てた。
 
「でも……まぁ、作戦の最高責任者だったのは僕だ。それは認めよう。だから、失敗の責任は全て僕に帰する。当然の道理だね。だから、僕はもう、あの女の子のことは諦めたよ。誓って、僕があの子を部屋から連れ出したんじゃない。約束する」

 予想外に真摯なルパートの言葉に、マルゴはたじろいだ。
 あの少女を軟禁していた部屋は、この城の最奥部にある。どう考えても、外部の人間が容易く侵入できる場所ではないし、あの少女が一人で逃げるなど出来ようはずもない。
 だいたい、彼女の監視を命じられていたマルゴの同僚の食事に睡眠薬を盛ったのが、この城の内部の人間でなければどこの誰だというのだ。厳重な監視装置の電源を落としたのが、この城に精通する人間の仕業でなければどこの誰の仕業だというのだ。
 そして、少女は姿を消した。
 最初から犯人をルパートと決めてかかっていたマルゴは、少なからず動揺した。どう考えても、全ての状況はこの男が犯人であると告げているのに。

「……では、地下階の探索をしてもよろしいか?」
「駄目だね。あそこは僕の趣味の空間だ。僕の許し無く、誰も立ち入らせるつもりはないし、今、君にその許可を与えるつもりもない」
「しかし──」
「もしもどうしても僕が怪しいっていうなら、君の大好きなお父様に言えばいいじゃないか。あなたのどら息子が大切な生け贄の少女を盗みました。だから、地下階を探索する権限をお与え下さいってね」

 言われるまでもない。既にマルゴは、いの一番にこの城の最高権力者の元へ赴いている。
 しかし彼女の父である、腐った魚の目をした老人は、穏やかに微笑みながら首を横に振った。それがどういう意図なのかはマルゴには皆目検討もつかないが、しかしルパートに手出しが出来なくなったことだけは明白であった。
 それでも、もしもルパートがあの少女を攫ったことが明らかになり、マルゴ自身がその確証を得たならば、力尽くでも乗り込んで、少女の身柄を奪回するつもりだった。あの少女の美しい体を、尊い生け贄となるべき清い魂を、目の前の変態の好きにさせるつもりはなかった。
 なのに、この軽薄で悪辣な男がさっき言った言葉──自分はあの少女を部屋から連れ出していないという言葉には、真実の重みがあった。
 だから、マルゴには分からなくなってしまったのだ。自分の取るべき行動が。

「……さっきの言葉は本当でしょうね。あなたは、彼女を連れ出す行為の一切に関与していない」
「天のヴェロニカ、大地の精霊、そして父親の名前に誓って、僕は関与していない」

 このとき、マルゴは質問を間違えたのだ。
 今あの少女は地下にいるのか。それとも、あなたはあの少女に危害を加えていないか。
 そう問えば、ルパートの瞳に浮かんだ真実の色は、自ずと違うものになっていたはずなのに。

「……わかりました。無駄な時間を取らせて申し訳ありませんでした」

 肩を落としたマルゴが背中を向けようとするのを、

「おい、待てよ」
「……何か?」
「人を無実の罪で疑っておいてさ、その態度はないんじゃないの?それともそれが、君の敬愛するお父様とやらに教えてもらった作法なのかな?」

 少女は、ぎしりと歯を噛んだ。
 しかし外面には一切の屈辱を出さず、軍靴の踵を合わせ、背筋を伸ばし、深々と腰を折り曲げて、

「申し訳ありませんでした、ルパート様。今後、このような無礼を働くことが無いよう、しっかりとした事実究明に努めますので、どうか今回に限り、ご寛恕の程を」
「うん、いいよ。何せ僕はこの星の大統領でもあるアーロン・レイノルズの一人息子だ。自分でも呆れてしまうほどに寛大だからね、人形風情の非礼は笑って許して上げるさ。だから、さっさと自分の犬小屋に帰れよ。目障りだ」

 背中にマルゴの無念の視線を感じ取りながら歩く廊下は、痛快そのものであった。
 再び姿を現した階段を昇り、最上階に辿り着く。
 ルパートと、彼の父親のためだけに用意された階層だ。当然そこでは親子が顔を合わせることも少なくないが、朝の挨拶の一つだって交わされたことはない。
 そも、父親は、その息子を視界に収めようとはしない。無言で通り過ぎていくだけだ。
 だから、ルパートも無言で歩く。長大で暗い廊下を、一人無言で。

「お帰りなさい、ルパート君」

 ルパートは、その言葉が特定の誰かの口から出たのだと錯覚し、思わず口元を綻ばせた。
 そして、瞬時に過ちを悟り、怖気のする自己嫌悪と戦う羽目になった。
 屈辱だった。何より屈辱だったのは、先ほどの顔をこの男に見られたことだ。

「ずいぶんご機嫌ですねぇ。何か良いことでもあったのですか?」

 にやにやと、ただでさえ細い視線を尚更細めて、何が楽しいのか自分を見つめるこの男。
 仕立ての良いスーツをだらしなく羽織り、剃り残した無精ひげを愉快そうに撫でつけている、この男。
 アイザック・テルミン。
 アーロン・レイノルズ大統領の右腕である。

「……あんたかよ。なんで、高々第一秘書風情がこんな場所にいやがるんだ。ここは、俺と親父の私室しかない階だぜ」
「ええ、ですから大統領と、今後の政局についての相談を。いくら第一秘書といえど、勝手気ままに政治を玩具にしていいわけではありませんから、たまにはお伺いを立てに来ないと不味いでしょう?」

 それはつまり、アーロン・レイノルズという男が、政治という分野においては目の前の男、アイザック・テルミンの傀儡に過ぎないことを意味している。
 少なくとも、大統領に近しい人間の間では、それは周知の事実であった。アイザック・テルミンという男の優れた政治的センスがなければ、これほど見事に政権を奪取することが難しかったのは、大統領本人ですらが認めるところである。
 しかし、何故だかルパートにはこの男が気にくわない。父親の恩人であり、間接的には自分の恩人でもあるはずのこの男が、そして今は自分とあの少女の仲人となってくれたこの男が、どうしても気にくわなかったのだ。
 この男の前では無頼な口調になってしまうのも、そのためであった。
 
「如何でしたかな、あの少女の味は。ルパート君は相当彼女にご執心であったようですから、感無量といったところではないですか?いや、この宇宙に本当の想い人と結ばれる人間がどれほどいるのか……羨ましい限りです」

 ウォルをマルゴ達の監視下から攫い、ルパートの支配する地下層へと連れて行ったのはこの男の仕業であった。
 無論、ルパートはそのことを知っている。しかし、彼自身はその計画を事後的に聞かされたのであり、立案から実行に至る一切の課程を関知していない。だからこそ先ほどのマルゴの詰問にも涼しい顔で通すことができたのだ。
 
「ワタクシは生憎、あの年齢の異性に劣情を覚える性質ではありませんが、それでもあなたに引き渡すのが惜しくなるほどの美しさでしたからなぁ。さぞかし良い声で啼いてくれたのではありませんかな?」
「……うるせえな、約束はきっちりと果たす。記録映像は後であんたの部屋に届けさせるさ。それでいいんだろうが」
「ええ、まさしくワタクシの心配していたところはそこでして。興奮のあまりに我を忘れたルパート君が、記録装置の電源を入れ忘れていては一大事と、一応の確認をしに参った次第です」

 テルミンがルパートに、ウォルの身柄を引き渡すときの、唯一の条件がそれであった。 
 今後、この少女に施す全ての行為を映像で記録し、その逐一を自分に渡すこと。
 ルパートにしてみれば、自分と愛しい少女との営みを他人の目に触れさせなければならないのは、あの少女の素肌を目垢で汚すようで不快だったが、不承不承に頷いた。この交換条件を受け入れなければ、彼女は永遠に自分のものにならないのだ。ならば、四の五の言っていられる状況ではなかったのである。
 約束を反故にすることも考えたが、それはこの、いけ好かない男に負けるようで嫌だった。

「要件はそれだけかよ」
「それだけです。ルパート君も色々と忙しいようですし、要件も終わりました。今日はこれで失礼しますよ」

 テルミンはくすくすと笑った。
 しかし、一向に歩き出す気配がない。じっとルパートを眺めている。
 その視線が不快で、ルパートは自分の部屋へと足を向けた。

「あ、そうそう、一つだけ質問してもよろしいでしょうか?」

 ルパートの背中に向けて、テルミンが声をかけた。
 振り向くと、そこに先ほどのにやにや笑いはない。

「……なんだ、言ってみな」
「ええ、ルパート君は、ワタクシがどうしてルパート君と彼女の愛の営みの映像を欲しがっているのか、不思議ではないのかと思いまして」

 ふん、と鼻を鳴らした。

「この世には色々な趣味の人間がいるぜ。中には、他人のまぐわいを見なけりゃおっ立たないっていう変態だっているもんだ。あんたがあの映像で何をしようが、俺は関知しねえよ」
「なるほどなるほど、そういうこともありますか。ふむ、ではワタクシは、そういう特殊な性癖の持ち主であるということにしておきましょうかねぇ」

 体を折り曲げて笑うテルミンを、親の敵であるかのように睨み付けながら、

「……つまらないお為ごかしはいらない。あんたにはあんたの思惑があるんだろう?その上で、あんたは俺を利用する。俺は、あんたを利用する。それが一番分かりやすい」
「ええ、ええ、そこがルパート君の一番の長所ですねぇ。大変自分に正直で、他人に対してペシミスティックだ。話の通りがよくて大変助かります」

 テルミンの細められた瞼の奥に、針のような光があるのをルパートは見逃さなかった。
 この男は果たして自分の味方なのかという、惚けた疑念をルパートは抱かない。
 これは、自分と同じ類の生き物だ。つまり、自分の享楽と欲望のために、他人の人生を踏みにじって一切の後ろ暗さを覚えない人間。もっとはっきりといえば、自分以外の人間を人間と認めていない人間。
 そして、同種の生き物は、得てして天敵同士であるもの。
 蛇は蛇を喰らい、蛙は蛙を喰らう。
 ならば、そもそも味方であるはずがない。
 しかし、共通する目的のためであれば、不倶戴天の敵同士でも同じ船に乗ることもできよう。
 この男がどういう意図でもって自分に近づいてくるのかは知れない。だが、自分が付け入るだけの隙を見せなければいいだけの話。
 ルパートは鼻で笑った。
 あの少女を手回ししてくれたのには素直に感謝している。だが、それだけだ。感謝の念だけならば、道端で落としたハンカチを拾ってくれただけの赤の他人にだって向けられる。
 そして、感謝の念以上のものを、ただで渡すつもりは一切ない。
 アイザック・テルミン。
 あんたが何を考えてやがるかは知らないが、最後に出し抜くのは俺だ。そして、あの少女を、俺だけの奴隷にしてみせる。



 ルパートとの短い邂逅を終えたテルミンは、自室に引き上げた。
 スーツの上着を脱ぎ、ハンガーにかける。
 ネクタイを緩めて首元をほぐしながら、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出し、よく冷えたそれを直接呷った。
 口から食道に、そして胃に落ちていく冷たい感触は彼の好むところだ。
 アルコールはいけない。あの灼熱感は人の理性を奪い取り、正常な思考を妨げる。熱せられた思考を強制する。
 熱せられた思考は、隙だ。
 隙を見せれば、食われる。この自分が、餌と成り果てる。
 そういう世界だ、ここは。
 一息ついたテルミンは、ベッドの端に腰掛けた。
 大柄な彼の体重に抗議するように、ベッドが大きく軋み声をあげた。
 目の前に、大きなスクリーンがある。何も写さず、真っ黒だ。
 テルミンはサイドボードの上のリモコンを取り、映像装置の電源を入れた。
 画面に、薄暗い部屋が映し出された。
 石造りの頑丈そうな造り。全体的にじめじめとしていて、石壁の所々に苔がむしている。
 照明と呼べるものは、壁に設えられた燭台に、蝋燭が立てられているだけだ。その弱々しい火が、時折吹き込む風にゆらゆらと揺れている。
 テルミンは、画面に写されている場所がいずこか、知っていた。何せ、その部屋を映すためのカメラを、秘密裏に設置したのは彼自身なのだから。
 うす暗く陰気なその部屋は、この城の地下室の一つだ。ルパートは教育部屋と呼んでいたか。
 中世の城の地下室といえば、もともと公明正大な目的のために作られたものではありえない。この城を建てた人間だって、何のためにその部屋を作ったのかあやしいものである。
 しかし、今ほど凄惨な目的のために作ったであろうか。
 そこには、少女が写されていた。それも、年端もいかない少女だ。
 長い黒髪が、腰まで届いている。瞳は黒く、利発で意志の強そうな顔立ちである。
 どこかに、くだんの少女の面影がある、少女だ。
 そして、無惨な姿だった。
 両手を鎖で縛り上げられ、天井から吊されている。爪先は床に届くことはなく、ぶらぶらと、精肉される前の肉の塊のように宙を揺れている。
 局所を隠す頼りない下着以外、何も身につけていない。その姿を望んだのが彼女ではないことくらい、誰が見ても明らかであった。
 縛り上げられた手首は鬱血し、赤黒く染まっている。反対に、その整った顔立ちからは血の気が引き、哀れを誘うほどに真っ青になっている。

『痛い!下ろしてよ!どこよ、ここは!?帰してよ、わたしを家に帰して!』

 怯えの色濃い表情に精一杯の虚勢を張りながら、自分の正面に立った男に対して叫び声をあげている。
 彼女の正面に立った人間に、テルミンは見覚えがあった。
 先ほどまで、自分と話をしていた青年だ。
 名前を、ルパート・レイノルズという。
 テルミンの顔が、苦笑に歪む。

「いやいや、お盛んなのは結構なことですが、明日まで待つこともできないのですか」

 明日になれば、彼が恋い焦がれていたあの少女を、思う様にいたぶることができるのに。
 今日は、その少女に似た、別の少女を生け贄に定めたらしい。
 テルミンは、少女と何事かを話している。集音マイクを備えない隠しカメラでは会話の内容までは拾えないが、少女の表情が凍り付いた瞬間だけはテルミンにもわかった。
 そして、その少女を挟むように二人の男が現れた。
 少女と比べれば猛獣としか形容しようのない、屈強な男であった。表情を隠すための覆面をかぶり、手には鞣し革で作られた懲罰用の鞭を携えている。きっとその覆面の下には、堪えきれない悦びに歪んだ醜い顔が隠されているのだろう。
 少女の青ざめた顔から、いっそう血の気が引いていく。一度だって日の光に当たったことのないような美しい肌が、蝋人形じみた不健康な白さで染まった。
 少女が、口を開こうとした。
 だが、その口は意味のある言葉を発することは出来なかった。
 あまりにも無防備な少女めがけて、思い切り鞭が振り下ろされたからだ。
 耳をふさぎたくなるような、肉を打つ音が響く。
 それに少し遅れて、少女の細い喉から、叫び声と聞き間違うほどの悲鳴が放たれた。

『ぎゃんっ!?』

 少女の体が、電気を通されたように跳ね回る。少女を吊した無骨な鎖が、ぎちぎちと、不快な音を立てる。
 少女の白い肌に、二筋、赤黒い線が走っていた。一本は背中を縦に割るように、もう一本はわき腹をえぐるように。
 黒い瞳から、ぽろぽろと、大粒の涙が流れ落ちる。苦痛と、屈辱と、いわれない暴力を振るわれる理不尽さが流させる涙だった。

『どうしてよ……どうして、わたしがこんな目に……たすけて……おとうさん、おかあさ──』

 再び振るわれる無慈悲な鞭が、少女の言葉を遮った。
 先ほどの映像を再生するように肉の弾ける音が響き、

『いぎぃやああぁぁいたいいたいやめてやめてぇええぇ!』

 立て続けに振り下ろされる鞭に合わせながら、調子の狂った悲鳴が響く。
 美しい少女の声とは思えない、地の底から響くような叫び声だ。
 ルパートの狂笑が、少女の悲鳴に重なる。この世に、これほど狂った二重奏があるだろうか。
 感極まった様子のルパートが、拷問役の男から鞭を奪い取り、自分で少女を嬲り始めた。
 鼻歌を口ずさみながら鞭を振るい、優しく少女に語りかけながら鞭を振るった。
 目を血走らせ、涎をだらしなく垂れ流しながら、しかし天上の至福に体を震わして。
 彼が一切の手加減なく鞭を振るう度に少女の悲鳴が響き、それが段々と弱々しいものに変わっていく。
 きっと彼女は、自分が今、悪夢の中にいると思っているのだろう。それは決して間違いではない。悪夢とは、往々にして目を開けている間に見るものほど、悲惨になるものだ。
 程なくして少女の柔肌は、一面赤黒く腫れ上がり、すぐに裂けた。
 皮が弾け、血が飛び散り、桃色の肉が覗く。
 それでもルパートは鞭を振るい続けた。少女が泡を吹いて失神し、痙攣しながら糞小便を垂れ流しても、止めようとしなかった。
 少女は、あるいは幸せだったのだろうか。腐臭漂うこの教育部屋に連れて来られた最初の日に、天上へと旅立つことができたのだ。長く幽閉され、ルパートの欲望に晒され続けている少女達からすれば、羨望に値したかも知れない。
 やがてルパートは少女の身体を下ろし、その上にのしかかった。
 アイザック・テルミンは深い愉悦を湛えた表情で、画面に写るルパートの狂態を眺めている。
 くつくつと、テルミンは笑った。

「ルパート君の高尚な趣味も、なかなか悪いものではありませんが……これは、やはり眉を顰める人の方が多いのでしょうねぇ」

 テルミン自身に、嫌がる女性、しかも年端もいかない少女を痛めつけて性的興奮を得る趣味は全くない。まして、その死体を抱くなど嫌悪に値する行為だ。
 ただ、このように無意味なことをして悦に入る、ルパートという人間の人格を楽しんでいただけだ。
 画面に写された少女は、魂の失われた視線で、じっと天井を見つめている。彼女の身体はルパートに組み敷かれ固い石床に押しつけられているが、抗議の声はおろか、苦痛の呻き声を漏らすこともない。
 もう、息をすることもない。
 ただ、ごりごりと、前後に揺さぶられている。
 ルパートがその欲望を吐き出した後は、野獣の餌になるか、それとも城の近くの湖に打ち捨てられるのか。
 どちらにせよ、少女の死体は誰に弔われるわけでもなく、大いなる自然の循環の中に返されるのだ。ある意味では、もっともヴェロニカ教に相応しい埋葬方法なのかも知れないが。
 特殊な性癖のある人間以外の、哀れと怒りを誘うに十分過ぎる光景だった。

「いいですねぇ。あの少女も、これと同じ、いや、もっと凄惨な目に遭って頂かなくては」

 にこやかに細められた視線は、無惨な少女の死体と狂った青年の交わりではなく、もっと別のものを眺めていた。
 その視線の先にあるものは、彼自身の栄達した未来と、祖国の栄光あふれる様子だった。



[6349] 第四十九話:神の守り人
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/01/06 02:17
 遠く、虫の鳴き声が響いている。
 盛夏から初秋にかけて鳴く、美しい声の虫だった。
 山の中腹辺りの草むらに、たくさんの虫が鳴いているのだ。
 じぃじぃ、りんりん、きりきり、と、自分の奏でる音こそが最も美しいのだと、競い合っているようですらある。
 絶え間ない音だ。
 一匹の虫は、そう長くは鳴かない。しかし、一匹が鳴き止めば、どこかでもう一匹が鳴き出す。そうやって、一定の音が、ずっと響いている。
 うっとりするような、音の重なり。
 吹く風は、もう冷たい。
 山は今、麓の季節を先取りしている。夏はとうに過ぎ、秋の気配が漂い始めているのだ。夜ともなれば、空気はぐんと冷え込む。
 しんと、沈んだ空気。虫の鳴き声だけが、どこかから聞こえてくる。
 その中に、異質な音が、時折混じる。
 普段、この山の中では、聞くことの無い音だ。
 ひそひそとした、何とも聞き取りづらい、音。
 草の葉の擦れる音ではなく、梟の羽ばたく音でもなく、狼の息遣いでもない、音。
 その音は、草の海に埋もれた、古びた苫屋から聞こえるのだ。
 人の、声だった。
 普段は人気のないその苫屋から、今夜だけは、薄ぼんやりとした光が漏れていた。
 外見は、朽ちかけた廃屋である。到底人が住んでいるようには見えない。
 背の低い玄関から中を覗けば、仕切りのほとんどない、だだっ広く、飾り気の一切ない屋内である。
 壁に目を遣れば、ぼろぼろの土壁に、ガラスのはめ込まれない小さな窓が拵えられており、そこから仄かな月明かりが差し込んでいる。その月明かりも、格子に張られた蜘蛛の巣に分断され、土間に届く頃には散り散りの細かい粒へ姿を変えている。
 中央には、曼荼羅のような模様の描かれた、敷物が置かれていた。この、朽ちた廃屋には不釣り合いの、豪奢な刺繍が施された敷物である。
 敷物の真ん中には、天井から一本の鎖が垂れ落ち、その先に取り付けられた籠状の金具の中に、橙色の灯りをともした蝋燭が置かれている。
 その灯りをぐるりと取り囲み、幾人かが、木の床に座している。
 いずれも、矮躯の老人ばかりであった。腰が曲がり、時折咳き込み、ひゅうひゅうとした隙間風のような呼吸を、苦しげに繰り返している。
 蝋燭の灯りに照らされた彼らの顔は、深い深い皺で覆われていた。
 そしていずれもが、紫の法衣を身に纏っている。それは、彼らがヴェロニカ教における最高位階である、老師の身分の者たちであることの証左であった。
 
「それにしても、なんともまずいことになりましたなぁ」

 うちの一人が、むにゃむにゃとした声で話した。
 どうにも発音が明瞭でないのは、歯のほとんどが抜け落ちてしまっているからだろう。口の辺りだけ、不自然に皺の多い顔立ちである。
 何も知らない人間が見れば、猿の木乃伊が人の言葉を話しているように思えたかも知れない。
 
「まったく、どうして面倒事というものは、こう、次から次へと涌いて出てくるのやら。マークス・レザロの件といい、今回のことといい。先代の老師たちの時には、このような不祥事はほとんどなかったというのに」

 その言葉には、どうして自分達だけがこんな苦労を背負い込まねばならないのかという、怨嗟の念が込められていた。
 
「いや、パリロー老の仰るとおりですな。これも神が与え給うた試練かと思えば有り難くも思えますが、それにしてもこの老体には些か堪えます」
「然り、然り。ヴェロニカの教えに身を捧げてきた我らに対してこの為さりよう、神も中々どうして手厳しい」
「トルナコ老。それはあまりにも不遜なお言葉ではございませんかな?神は、今も我らの頭上にいまし、我らの言葉に耳を傾けておられる。ならば先ほどのお言葉、明らかな不敬に当たりましょう」

 トルナコと呼ばれた老人が、痙攣するように背をひくつかせて、ぞっとする笑い声を漏らした。

「アカオウ老の仰りようも尤もなれど……。今更我らが、神の存在の有無について語ったとて無益にもほどがあろうというものでしょう。そのように不確かなものへの敬意を熱く語るのは、導師連中にでも任せておけばよろしい。我らは、我らだけに課せられた、崇高な使命を果たすためにここに集うたのですからな」

 今度は、アカオウと呼ばれた老人が、トルナコそっくりの不気味な笑みを漏らした。
 だが、先ほどと違うことが一つだけ。アカオウの口からは、トルナコの言葉に対する反駁が産み落とされることはなかったのだ。
 他の老師連中も、トルナコの言葉を訂正しようとはしない。ただ、困った人だと苦笑いを浮かべるだけである。

「トルナコ老。この集いのうちならばともかく、信徒連中の前でそのようなことはゆめ仰いますな。ただでさえ大統領派の増長が鼻につくというのに、我らの方からきゃつらを勢いづかせてやることもありますまいて」
「ふむ、グリイェ老の仰りようも至極ごもっとも。ただでさえ我らは一方ならぬ苦境に立たされておりますからな、不必要な舌禍など起こして皆々様にご苦労をおかけしては、このトルナコ、痩せ腹をかっ捌いて詫びても詫びきれませぬじゃ」
「しかしトルナコ老のお気持ちも重々分かりまする。何一つの真実も知らぬくせに、訳知り顔で、改革だの革新だのを声高に叫ぶ導師連中の相手を毎日毎日続けておれば、愚痴の一つも漏れようというもの」

 これにはほとんど全員が、疲れた笑みを浮かべた。
 そして、彼らの皺に埋もれた瞳の奥には、自分達だけが真実を知っているのだという、隠しがたい優越感が存在していた。
 一同が一頻りの軽口を叩き合った後、上座で丸まった、曇天色の皮膚をした老人が、眠たげな瞼を持ち上げ、とろりとした眼球を空気にさらした。それだけのことで、老人たちの視線が一点に集まり、軽やかだった口元が引き締まるのだ。

「会衆。老師の責務を全うする日常、さぞ苦労も多かろう。その中でわざわざここに集まってもらったのは、他でもない。ヴェロニカ教に訪れた未曾有の危機に対してどう臨むか、それを話し合うためである。どうか忌憚のない意見を述べて欲しい」

 曇天色の皮膚をした老人は、老いと疲れに濁った視線で一同を見渡した。
 自身を基準に置いて、左側に二人の老師。
 マンサ教区の司祭であるトルナコ老師。
 ネカ教区の司祭であるグリイェ老師。
 自身を基準に置いて、右側には、やはり二人の老師。
 ケサ教区の司祭であるアカオウ老師。
 エクム教区の司祭であるパリロー老師。
 いずれも、ヴェロニカ教の最重鎮たる顔ぶれである。
 そして、老人の視線は、自分の真正面でぴたりと止まり、そこに座った人間の目を捕らえた。

「さて、ビアンキ老。貴殿以外の老師連中は、事態の概要については把握しておるものの、詳細については些か心許ない。当事者たる貴殿から、ことの顛末を報告してはもらえましか」
「承りました、長老」

 ミア・ビアンキは、自分を眺める五対の視線を感じながら、深々と頭を下げた。その視線のほとんどが、寛容と暖かみを欠いた、冷ややかで侮蔑に満ちたものであることには気が付いていたが、不平を述べようとは思わなかった。もしも自分が彼らの立場であったならば、やはり同じ視線を被弾劾者に向けていたであろう、苦い自覚があったからだ。

「本日の昼過ぎのことでございます。総本山で日常の執務をこなしておりました私に、来客がありました──」

 そしてビアンキは語った。ジャスミン・クーアを名乗った女性との会談の一部始終を。
 そもそも、二人が語らったあの部屋には、精巧な盗聴器が仕込まれており、会話の内容は既に全ての老師の知るところとなっているのだ。今更何を隠し立てしたところで、隠しおおせるものではない。
 ビアンキの、要点を押さえた滑らかな話しぶりから、それほど時間を取らずに説明は終わった。
 語るべきを語り終え、静かに口を閉ざしたビアンキ。だが、彼に対してかけられたのは、労いの言葉などではなく、ありありと嘲弄の浮かんだ、糾弾の言葉であった。

「ビアンキ老。貴殿は何か勘違いをしておらぬか?」

 トルナコが、優越感に口元を歪ませながら言った。
 
「勘違い、とは?」

 ビアンキは、問うた。
 トルナコは、ふんと鼻を一つ鳴らし、

「我らは、既に、貴殿と女との会話の内容の全てを承知しておる。我らが知りたいのは、それらを受けて、貴殿がいかなる処置を施したかであり、今更二度も同じ話を聞きたいわけではないわ」
「それは、失礼いたしました」

 ビアンキは深く頭を下げた。
 言い返したい気持ちがないわけではない。この場に居合わせた全ての者がどのような情報を得ているのかはっきりしない以上、事態の概要を説明しておく必要はあるのだし、もう一度事実関係を整理しておく意味でも、当事者である自分の口から説明をするのは無駄ではない。
 だが、どのように反駁を試みたところで、ここに居合わせる老師連中を言い負かすのは、不可能とは言わないまでも著しく困難であることを、彼は知っていた。肥大化した自尊心を持つ者にとっては自分の意見こそが至高であり、自己と同格、あるいは風下に立つ人間の言葉など、犬猫の鳴き声と変わらぬものと思っているに違いないのだ。
 そして、この場は、あくまで非公式ではあるが、ビアンキを弾劾するために設けられた場であることを、全員が承知している。
 では、被告人席に座った自分の言葉で目の前の老人を退けるのに、どれほどの労力が必要となるか。
 頭の一つを下げて話が前に進むならば、その方がどれほどありがたいか知れないではないか。

「ジャスミン・クーアを名乗るかの女性には、すでに草の者を放っております。かの女性が我らの手に落ちるのも時間の問題でしょう」

 ビアンキは、淡々とした調子で言った。
 草の者とは、ヴェロニカ教の総本部が組織している、非合法な生業に手を染める者の総称である。
 幼い頃から厳しい訓練を受け、手際には十分な信頼が置ける。何より素晴らしいのは、彼らには宗教的な使命感があらゆる事象に優先されるよう、入念な教育が施されていることだ。
 いかなる指令にも盲目的に従い、決して反抗することはない。ヴェロニカ教にとって都合の悪い人間を闇に葬るのに、これほど都合のよい道具はないだろう。
 そして、その者たちが、あの女性を捕縛するために出動したという。
 トルナコは、なんとも不満げな様子で唇を尖らしていた。おそらくは、ビアンキが手をこまねいて何の対処もしていないことを望んでいたのであろう。そうすれば、ビアンキの失地はもはや挽回不可能なものとなっただろうに。

「あの会談の内容では、そなたが妙な手心を女に加えるやも知れぬのと、それが気がかりであったが、どうやら杞憂にすぎなかったようじゃな。ビアンキ老、大義であったぞ」

 長老が、やはり重たい瞼の奥の瞳を真っ直ぐに向けて、言った。
 ビアンキは、無言で頭を下げた。
 そして何事かを言うために口を開こうとしたが、それに先んじた者が、嫌らしい声で言った。

「しかし、どうにも不可思議よの。先のマークス・レザロの一件といい、こたびの女の一件といい、何故かビアンキ老の担当する教区ばかり、厄介な案件が持ち上がるものよ。や、もちろんビアンキ老に何の責めもないことがはっきりしておるのは、分かっておるがな」

 ビアンキの右隣に座した、トルナコの言葉であった。
 
「いやいや、トルナコ老。貴殿の寛容には胸の打たれる思いですが、こたびの女はともかく、マークス・レザロの一件についてはビアンキ老にも責任の一端はありましょう。なにせ、己の担当する教区の信徒が、食肉の大罪を犯していたのですから。これは、責任者である老師の指導が行き届かなかった結果といっても過言ではありませんぞ」
「それを言うならば、こたびの女とて、例の一件に端を発して、この星のことを嗅ぎ回った結果でありましょう。加えるならば、どこの馬の骨とも知れない輩がこの国の大統領に成りおおせ、我が物顔で総本山にのさばる始末となったのも、全てはかの事件への対応が不味かったからに他なりません。であれば、ビアンキ老の責任問題は、当然のことながら立ち上がりましょう」
「これは困ったことになりましたな。老師が責任を取るとなれば、それは自らの立場を辞する以外に方法はありませんが、しかし鬼才を謳われたビアンキ老の後釜となると、人選に窮しますぞ」

 グリイェ、アカオウ、パリローが、背をひくつかせながら言う。
 ビアンキは、ただひたすらにじっとして、老師たちの嘲弄に堪え忍んだ。
 元々、史上最年少で老師の位階を得たミア・ビアンキという人間に対して、他の老師連中は好意の視線を向けたことがない。自分自身を優れた人間であると確信しているが故に、自分よりも若輩の身のくせに、自分と同格に成り上がったビアンキのことを認めることが出来ないのだ。
 だから、今回の一連の事件は、ビアンキ以外の老師にとっては、長年溜まりに溜まった鬱憤を晴らし、溜飲を下げるになんとも都合の良いものだった。ことあるごとにビアンキを槍玉に挙げては、嫌らしい快感に浸っている。
 たとえ今回の事件が自分の足下に墓穴を掘るものだったとしても、それよりもビアンキをこき下ろす方が遙かに重要であるらしい。
 唯一、ビアンキの正面に座った、この中では最年長の老人が、どうしたって感情の表れない乾いた瞳を、じっと向けているだけであった。

「それにしてもあの女、言うに事欠いて、まさかジャスミン・クーアを名乗るとは、中々冗談の分かる者ではありませんか」

 アカオウが、言った。
 年の割には脂ぎった皮膚をたるませながら、なんとも愉しそうに笑う。

「あの女を捕らえたら、如何いたしますか?」

 トルナコが、面白くもなさそうに答えた。

「知れたこと。まずは我らの手によって、神の愛の何たるかを十分に理解させてやればよい。それでヴェロニカの教えに帰依するならばよし、あくまで拒むというのならば、それが運命である。遺跡の他の連中と同じように、大いに肉を食わせ、大いに野の実を喰らわせてやればよいではないか。ヴェロニカの教えを受け入れぬ人間がこの星にとどまれば、どうせ一年と保たずに土へと帰るのだ。我らが気に止めるようなことではあるまいよ」
「つまりは、いつもどおりということですかな」

 トルナコは頷いた。
 別に、彼らが手を汚す必要など無いのだ。
 ヴェロニカ教に仇なすものは、全て、この星に点在する遺跡へと送られて、強制労働に従事することになる。
 別に、一生をそこで過ごせという訳ではない。あくまで、ヴェロニカの教えに背いた罰として、数ヶ月、あるいは数年の労働に耐えてもらうだけだ。
 そして、望めば、外の世界と同じように、肉を食べ、自生植物を食べることもできる。
 そうすれば、勝手に死んでくれる。
 それが神の御業であることを、老師たちは知っているのだ。

「なんとも惜しいことですなぁ。あの女、中々見れた顔立ちでしたし、体の方も頑丈そうでした。あれならば、適当な草の者と番い合わせれば、さぞ丈夫な子を為したでしょうに」
「あの女が我らの説法に頭を垂れれば、そういう使命を授けてやるのも一つの使い道でしょう。いや、むしろあの女はそのまま遺跡へと送れば、そこらの男連中よりも役に立つかも入れませんぞ」
「確かに。あの体格ですからな、普通の男よりも腕力だけはありそうじゃ。その分、頭のほうが足りていないようじゃったが……」
「ジャスミン・クーアを名乗りながら怪しまれないと思っているあたり、どう考えてもまともな思考能力の持ち主とは思えませんな。立ち振る舞いは健常者を装えてはおりましたが、おそらく知恵足らずの類なのでしょう。憐れなことです」
「それは困った。そんな愚物が相手では、我らの説法も馬の耳に何とやらですな」

 老人達が一斉に笑った。
 所々で、隙間風のような、不快な音が鳴る。それは、老人の、抜け落ちた歯の隙間に空気が触れて、鳴らす音だった。
 ビアンキは、じっと目を閉じた。耳を閉じるためには両の手を動かす必要があり、そのような動作をすることさえ億劫になるほど、彼は気力を奪われていた。
 予想していたことではある。しかし、これほど無意味な時間の浪費に付き合わされるとは、想像の上を行っていると言わざるを得ない。

「そういえば、ビアンキ老よ。貴殿に、あの女は言っておったな。自分は、本物のジャスミン・クーアであると。そして、どうやら貴殿もそれを認めておったようじゃが……」

 トルナコが、涙の浮いた目尻を枯れ木のような指先で拭った。
 ビアンキは、まったく平然とした様子で答えた。

「ジャスミン・クーアを名乗るあの女の外見が、本物のジャスミン・クーアに酷似していたのは事実です。しかし、公式に、クーア財閥の二代目であるジャスミン・クーアは既に死亡しております。様々な巷説があるのは承知しておりますが、それも全て根拠薄弱な与太話のみ。であれば、かの女性は皆様方の仰るとおり、自らをジャスミン・クーアであると信じ込み、そのあげくに顔まで整形してのけたのでしょう。なんとも憐れなことです」

 トルナコは少しばかり興が削がれたような様子で、

「まぁ、おそらくはそんなところであろうな。いや、かの高名なビアンキ老が血迷ったのではなくて安心しましたぞ。まさかあれが本物のジャスミン・クーアであるなどと貴殿が仰るようであれば、貴殿の担当する教区に住まう、数多の信徒の行く末を本気で心配しなければならないところでしたからな」
「それはどうも、色々と気苦労をおかけします。全て我が身のいたらなさ故、皆様にはお詫びのしようもございません」

 ビアンキは再び深く頭を下げた。
 場に、しらけたような空気が流れた。
 その空気を切り裂くように、弱々しく、しかし重々しい声が響いた。

「女のことなどどうでもよい。もしもそれがかのジャスミン・クーアであるならば、それはそれで使いようがある。無論、そうでないならばそうでないで、然るべき用途に使えばよい。まったく使い物にならぬならば、遺跡にて野垂れ死んでもらうだけよ。いずれにせよ、その身柄を確保した後のことであろうな」

 長老が、ぼそりと呟く。
 至極もっともな意見であったので、この場に居合わせた全ての人間が頷いた。
 長老は続ける。

「その女が、この星の真実に気が付いたかどうか、それもどうでもよいことだ。しかし、どうしても看過出来ぬことがある」
「かの女性が手にした、地図、ですな」

 ビアンキが、探るように言った。
 長老が、深く頷く。

「現物は?」
「ここに」

 それは、ビアンキが、ジャスミン・クーアを名乗る女性から受け取った、この星の世界地図である。ビアンキはそれを手にした瞬間、あまりの衝撃に破り捨ててしまったが、あとからそれを丁寧に修復したのだ。さすがに継ぎ接ぎの後は残っているが、それでも地図の表す事象は十分に読み取ることができる。
 地図にはいくつかの大陸が描かれ、その上に、赤く描かれた三角形がいくつも付されている。
 この場に居合わせた老人は、全て、この赤い三角形の意味するところを知っていた。そして、それが公になったとき、どのような混乱がこの星を覆い尽くすかを。
 先ほどまで不必要に饒舌だったビアンキ以外の老師は、重たいものを飲み込んだように、一様に押し黙ってしまった。現物を目の当たりにしたことで、あらためて事態の深刻さに思いが至ったのかも知れない。

「して、ビアンキ老。貴殿はこの事態について、どう考える?」
「……不本意ではありますが、あの女性が考えているとおりかと。この地図は、この星とはそれほど関係の濃くない外国の人間が手にする可能性を持つほど、広範囲にばらまかれていると考えるべきでしょうな」
「ふん、何を血迷ったことを!」

 先ほどまで色を失った顔であった、トルナコが声を荒げた。

「件の女の言葉を信じるならば、この地図をばらまいたのはあの男ということになるが、それはあり得べき話ではない!」

 他の老師も、異口同音にトルナコの発言を支持した。

「何かの故あってあの男がヴェロニカの真実に気が付いたとしても、それは独占することで初めて己に益をもたらすもの。であれば、どうしてわざわざ声高に秘密を暴いて回るというのだ!」
「正しく!さらに言えば、事実が審らかとなりこの星が大混乱になった暁には、ヴェロニカ政府などあったものではないわ!共和宇宙政府を名乗るハイエナどもがこの星を貪り尽くし、残るのは荒廃した大地と飢えた民衆のみ。そうなったとき、誰が一番ばばを引くのか、少し考えれば明らかであろうが!」

 ビアンキは、それらの罵声に一言も答えなかった。
 その程度のこと、言われるまでもなく理解している。
 だが、あの女性からこの地図を見せられた瞬間、ビアンキは理解してしまったのだ。この地図をばらまいたのは、間違いなく、この星の大統領であるあの男、アーロン・レイノルズであると。
 ビアンキは、大統領に当選した直後のアーロン・レイノルズが、ヴェロニカ教の総本山を訪れた時のことを思い出していた。
 あの、人の暗部を照らし出すかのような、粘着質な光に満ちた視線。死んだ魚よりもどんよりとした目で、天使との邂逅を高らかに語ったあの男。
 あの男ならば、やる。理屈ではなく、勘などというものでもなく、もっと深い、本能じみたところでビアンキは確信していた。
 無論、彼の意図するところを論理的に説明ができるわけではない。この地図をばらまくことで、あの男がどのような利を狙っているのかなど、全く未知数だ。
 だが、それをいうならば、他のどんな人間が最初にこの地図を手にしたのであっても、それをばらまくことで利益があるとは思えないのである。
 まともな思考をする人間であれば、もっと別の方法でもって利益を得ようとするだろう。この地図から得られる巨万の富は、そのおこぼれ程度であっても人の一生をもって散財できる財産額を遙かに凌駕する。であれば、例えば現ヴェロニカ教の指導陣に掛け合い、秘密の保持と引き替えにある程度の分け前を要求するのが普通であろう。そうでなくとも、この情報を然るべき筋に提供すれば、その情報料だけでも莫大なものになるはずである。
 ならば、この地図をばらまいた人間の意図は、およそ普通の人間が持ちうる視点とは、全く別の場所にあるのではないだろうか。
 そして、そのような視点を持ち、さらにこの国の、ヴェロニカ教の機密に触れうる人間と言えば。
 ビアンキの脳裏に浮かんだのは、たった一人の男の固有名詞でしかなかったのだ。

「さて、この地図がこの世に一枚の物であるならば、問題はない。女の身柄を手に入れ、我らの思うがままにすればよいのだからな。しかし、ビアンキ老の言が正しく、もっと広範囲に流布されていた場合、我らも覚悟を決めねばなるまいて」

 長老が、疲労に倦んだ声で、言った。

「これより各人、此度の事態をヴェロニカ教の存亡にかかる変事と捕らえ、事実関係の確認を急いで欲しい。そして、もしもビアンキ老の見立てどおり、この地図があの男の手によってばらまかれているという確証が取れたならば……」

 五対の視線が、長老の口元に集中した。

「アーロン・レイノルズ大統領は、我らの手によって粛正する」



 最後に庵を退出したビアンキは、暗い山道を、一人歩いていた。
 手燭の儚い灯りだけが頼りの、何とも心細い道行きである。
 遙か先に、ヴェロニカ教総本山の建物から漏れ出す灯りが見えるが、今の老人の足下を照らし出すには、彼我の距離が開き過ぎていた。
 ただぼんやりと、儚げに揺れて見える。
 まるで、誘蛾灯のようだと思う。であれば、総本山へと足を向けている自分は、さしずめ灯りに魅せられた羽虫ということになるのだろうか。
 他の老師は、お付きの者が用意した籠で、我先に帰って行った。帰り際に、かかる事態を引き起こしたのはお前の不手際なのだから、出処進退を考えておくようにという有り難いお言葉まで頂いた。
 そして、矮躯の老人達は、まるでご神体か何かのように、丁重な様子で運ばれていったのである。
 ビアンキは、その一人一人を丁寧に見送ってから、山道を下り始めた。
 先ほどあの場に居合わせた人間の中で、山道を己の足で歩けるほど健康なのは、ビアンキだけだった。
 それも、いつまで続くのやら。
 最近、とみに体の調子がおかしい。
 無理もない。普通の人間であればとうに墓の下で眠りにつくほどの時間を、自分は生きているのだ。まだ己の足で大地を歩けることを、神に感謝しなければならないくらいだ。
 いったい自分はいつまで生きることが叶うのか。
 いや……。
 自分は、いつまで生き続けなければならないのか。
 ビアンキは、天を仰いだ。そこには、まん丸に肥え太った満月がある。黒一色に染まる夜空が、その一点を中心に、ほんのりと黄金色に色づいている。
 自分が死ねば、あそこに辿り着けるのだろうか。
 それは叶わぬことだろうと、老人は自嘲の笑みを浮かべた。

「先生!ビアンキ先生!」

 道行きの先から、若々しい声がした。
 先ほどまでビアンキの耳を痛めていた、老人の声ではない。
 視線を前方にやると、仄かな灯りが、蛍のようにゆらゆらと、少しずつ近づいてくる。
 灯りは程なくして火の玉ほどの大きさになり、それが自分の手にしているのと同じ、手燭のそれであると分かる。
 やがて、ビアンキにとって見知った顔の持ち主が、息を弾ませながら走り寄ってきた。

「テセル導師。どうしたのだ、このような夜更けに」

 手燭を持ったまま器用な様子で膝に手をつき、息を整えた若者が、精気に満ちた笑みをビアンキに向けた。

「こんな夜更けにどうしたとはこちらの台詞です、ビアンキ先生。先生も、もうお若くはないのです。お一人でこんな山道を歩かれて、何かあればどうなさるおつもりだったのですか」

 微量の非難の込められたその言葉に、ビアンキは、会合が終われば迎えに行くから連絡をして欲しいと言っていた、テセルの言葉を思い出した。
 これは不味いことをしたと、一度へそを曲げると中々直らない弟子のことを思って苦笑が浮かんだ。しかし、もしも約束を覚えていたとしても、やはり自分は一人でここまで来ただろうと納得した。
 ビアンキは、満面に笑い皺を浮かべた表情で、言った。

「何かあれば、わしはそれを受け入れるだけのことよ。足を踏み外して沢に滑り落ちれば、そこに生える野草の肥やしとなって死ぬ。獣に襲われるならば、その獣の晩飯となって死ぬ。いずれにせよ、我が身はこの世で最も尊ぶべき、自然の循環のうちに戻るのだ。それだけのことではないか」

 いかにもヴェロニカ教徒らしいビアンキの言葉に、しかしテセルは眉を顰めた。

「先生。私を含めた、凡百の信徒であればそれもよいでしょう。しかし先生の背負われた職責は、それほど軽いものではございますまい。今、あなたがお隠れになれば、我らは何を頼りにこの混乱を乗り切ればよいのですか。今後は、ゆめ斯様なことを仰いますな」

 極めて厳しい調子の声であった。
 昔からそうなのだ。テセルという、若くして導師の地位を得た麒麟児が、ほんの小僧でしかなかった頃から、ビアンキは彼の面倒を見ていた。
 良く言えば一途な、悪く言えば融通の利かないところがある少年で、指導者であったビアンキを悩ませたりもしたものだ。
 だが、その小僧が成長し、これほどと思うような若者に成長した。
 ビアンキは、自分を先導して歩く、テセルの背中を見上げた。
 昔は、自分が守り、導く立場だったのだ。それが、いつの間にやら、守られ、導かれる立場になっている。
 時の流れは偉大なものだと、老人は密やかな笑みを零した。

「それにしても、お疲れでしょう、先生。今日もあの老人達は、いつもの調子だったのですか?」

 老人達、という言葉には、隠しきれない嫌悪が覗いている。
 ビアンキは、若人の血気を窘めるように言った。

「立場を弁えよ、テセル導師。あの方々はヴェロニカ教を束ねる老師であり、わしの先達なのだ。直接お前が指導を頂いたことがなくても、紛れもない大先輩である。そのような物言いは無礼であろう」
「これは失言でした。以後あらためますので、どうかご寛恕を」

 そうは答えたが、テセルの言葉に反省の色は見られない。それほどに、彼は、ビアンキ以外の老師連中を毛嫌いしていた。 
 テセルは、幼い頃からビアンキのもとで修行を積み、導師の位階を得てからもビアンキの下で働いている。自分はビアンキの一番弟子であるという自負もある。
 ならば、そのビアンキに対して狭量で非礼な振る舞いを繰り返し、そのような自己を省みることも出来ない他の老師連中など、どうして容認することができようか。
 あれらは、正しく取るに足らない存在であると考えている。
 そして、ビアンキは、テセルの気持ちを重々承知しており、若者の心遣いを有り難いものと思いつつも、しかし自分への依存の強さに危機感も感じるのだった。
 ビアンキは、肩の辺りが急に重たくなったような気がして、ふと、辺りの風景に目をやった。
 そして、老人は、足を止めた。

「……どうされましたか、先生」

 テセルが振り返ると、ビアンキは、茂みの方に目を遣り、ぼうっとそこを眺めている。
 訝しく思い、足早に近寄る。

「そうか、もう、カラの実る時期なのだなぁ」

 ビアンキは、魂の抜かれたような声で呟いた。
 テセルも、ビアンキと同じ草むらに目をやった。
 実を付けたばかりの青々とした植物が、寒々しい山肌一面に群生していた。
 夜へと染まりつつある冷たい風が、月明かりに照らされた草の海を、ざわざわと波立たせている。撓わな幼実を付けた穂が、一度風が吹く度に腰を折っては、いかにも億劫そうに頭を持ち上げる。
 テセルにとっても、見慣れた草である。
 草の名を、カラといった。
 気温の変化に強く、並大抵の干ばつや多雨程度にはびくともしない、生命力の強い植物である。それ故、亜寒帯から熱帯に至るまでの広範囲に生息域は広がっており、この星のどこでもカラの群生している光景を見ることができる。
 夏を過ぎ、初秋になると、麦に似た実を大量につける。その豊かな実りは、鳥や虫をはじめとした多くの野生動物にとって貴重な食料となる。そして彼らが運ぶ種子は遠く離れた場所で地に落ち、芽を出し、根を張り、次の秋には再びいっぱいの実をなす。
 この星の生態系の根幹を形作る植物といっても過言ではない。
 そして、この星でカラを口にしない生き物は、ただ一種類だけ。
 
「本当だ。しかし、カラとは高地でも育つものなのですね」

 テセルは、感嘆のこもった調子で呟いた。
 カラという植物は、もっと標高の低い、平野の川沿いなどに良く生えるものではなかったかと思う。このように標高の高い、しかも切り立った山肌には、もっと相の異なる植物が優勢なのではないのだろうか。
 直弟子の驚いた様子に、ビアンキは相好を崩した。

「カラは、この星のどこにでも育つ。秋に霜が降りるような寒地から、砂漠の一歩手前のような荒野まで。高山、湿地、海岸……。無論、それぞれ微妙に品種は異なるが、全てカラの仲間だ。そして、全ての動物にその実を喰らわせ、この星の豊かな生態系を支えている。これは、そういう植物なのだよ」

 ビアンキは、風に遊ばれるカラの穂を、愛おしげに眺めた。

「もう少しして穂が熟すと、種子は自然と地に落ちる。それを拾い集めて、粉に挽いてやってパンを焼くと、びっくりするほど美味しい。味は麦に似ているが、香ばしさや甘さが、一段と奥行きのあるような気がしたな」
「老師、それは、栽培されたカラのこと……でございましょう?」
「いや、今、我らの目の前にあるように、ヴェロニカの大地と風に育まれた、野生のカラよ。野生のカラには、人の手を加えたカラとは違い、どこか力強さがある。特に、酒にするとその違いが如実に分かったものだ」
「し、しかしそれは……」

 狼狽したテセルの声に、老人は笑顔で問うた。

「重大な戒律違反ではないか。そうだろう?」

 テセルは、青ざめた面持ちで首肯した。
 ビアンキは、微笑みながら頷いた。

「そのとおり。だがな、我らが回帰祭と呼ぶ祭りの、最初の趣旨は、カラのもたらす豊かな恵みに感謝を捧げることにあった。大地の恵みに感謝し、人も自然の一部であることを噛み締め、その恵みを有り難く頂く。祭り囃子の中、香ばしく焼けたパンと、芳醇なカラ酒の匂い。ああ、今は、そんなことすら禁じられてしまったのだな。思えばなんともつまらない世の中になったものよ」
「今は……と、仰いますと……?」
「野生のカラを口にすることが禁じられたのは、極々最近のことだ。そうだな、この国が共和宇宙に加盟する、少し前のことだったのではないかな?」

 それは、三四半世紀ほども昔の話である。
 昔。そういってしまえばそうなのだが、ヴェロニカ教の歴史そのものから考えれば、昨日のことと言っても過言ではないほどに現下のことである。
 その時点まで、この惑星では、自生する植物の採取が禁じられていなかった、ということか。
 テセルは、我が耳を疑う思いであった。
 
「そう……なのですか?」
「わしが、テセルよ、今のお前ほどの歳の頃のことだ」

 いまだ而立に至らぬ青年の導師は、納得しかねるような様子である。
 無理もない、とビアンキは思った。

「誰も、教えてくれなかったか?」

 テセルは機械的に頷いた。

「そうだろうなぁ。今思い返してみても、当時の混乱は凄まじいものがあった。この星に住む全ての人間は、今の今まで当然の如く受け入れてきた行いが、ある日突然に、神の栄光を汚す罪悪だったと宣告されたのだ。ほとんどの人間は容易に納得はしなかったが、しかし同時に恐怖した。己が今まで、どれほど深い業罪を拵えたのかと、恐れおののいた。であれば、わざわざ己の罪の深さを、我が子や他人に伝えようものか」

 テセルは、ごくりと唾を嚥下した。

「そして、お主達のような若い世代には、カラを含めた全ての自生植物を口にすることが罪であるという教育が施される。そうすれば、知識や伝統など、いとも容易く書き換えることができるのだよ」
「それは……教義が改竄されたと、そういうことですか?」
「身も蓋もない言い方ではあるが、つまりはそういうことだな」

 ビアンキは、気のないふうで言った。
 しかし、初めてそれを聞かされたテセルは、平然としていられようはずもない。青天の霹靂と言い表して、なお不足なほどの衝撃を受けた。
 唇を戦慄かせながら、口を開いた。
 
「あの……老師。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 ビアンキは、無言で頷いた。

「その……私の学んだヴェロニカの教えでは、動物性タンパク質、そして自生する青果の全てを口にすることは許されざる罪であると、そう記されておりました」

 それは、この星に住む人間であれば、よちよち歩きの幼児ですらが知っている、ヴェロニカ教の一番基本的な教えである。
 テセルは続ける。

「そして、人間は自然の循環に立ち入らず、自然からの略取を厳に慎む。では、野生のカラを口にすることは、どうして罪とされなかったのですか。人が地に落ちたカラの種子を口にすれば、その分だけ、野の虫や獣は飢えて死ぬことになりましょう。来年に芽を出すカラが減ることになるやも知れません。ならば、これが戒律に触れること、明々白々だったのではないでしょうか。どうして当時のヴェロニカ教徒は、何の疑いもなくカラを口にできたのか、私などには不思議でたまりません」
「おぬしの言うことは一々尤もよ。実のところ、あの頃でも、皆、カラを口にすることが破戒に当たるのではないかと、内心で畏れてはおった。だからこそ、これほど早く新たな教えが徹底されることになったのだろうが……」

 老人は、遠い目をして彼方を見遣った。
 遠い昔、彼の足が、野原を飛ぶように駆けることの出来た頃。遠くに見える我が家、その煙突から立ち上る白い煙に、今日の食卓に並ぶであろうご馳走を想像してわくわくしていた、あの頃。
 初秋になれば、黄金色に色づいたカラの稲穂が、今が食べ頃だというふうに頭を垂れる。鳥も虫も、長く苦しい冬に備えて、お腹いっぱいに大地の恵みを味わう。
 そして、人間も。
 無論、他の生き物を押しのけて、全ての恵みを独り占めするのではない。それは、ヴェロニカ教の教えに反する、恐るべき愚行だ。
 だから、ほんの少しだけ。ほんの少し、神様のくれた偉大な恵みのおこぼれを、ありがたく分けてもらう。
 それが、この星の、当然の生活であった。
 若者は、老人の、澄み切った瞳の奥を、じっと見つめていた。

「教義が書き換えられる前はな、カラは神よりの授かり物とされておった。他の動植物を口にするのは罪であるが、この星を潤すカラという植物だけは、自然も人も、分け隔て無く口にしてよいとされておったのよ」
「……ならば、我らの祖先は、この星の動物や、自生する植物を、平然と口にしていたのですか?」
「それは、わし自身もな」

 老人は、確固とした様子で頷いた。

「軽蔑するかね?」

 テセルは、咄嗟に開いた口を震わせ、しかし何事も話すことが出来なかった。
 ビアンキは、笑った。

「正直者だな、おぬしは」
「も、申し訳……」
「よい。もしもわしとお主が反対の立場であったとすれば、おそらくはわしも、今のおぬしと同じように考えたであろう。気にすることはない」

 老人の言葉に、しかしテセルは肩を落としている。
 それが、ビアンキに対する失望からなのか、それとも自己嫌悪からなのかは、分からない。
 
「だが、誤解して欲しくないのは、我らとて、他の星々の民と同じように自然から無制限に搾取したわけではないということだ。我らは、誓って獣の肉は口にしなかった。獣の乳は口にしなかった。カラをはじめとしたいくつかの植物を除いて、野の草木を口にすることもなかった。それは、どれほど時代が移り変わろうと、守り続けなければならん。人が、この星で生きていく以上は、な」

 天を見上げた老人が、囁くように言った。
 誰に言い聞かせているわけではない。ただ、自分にだけ言い聞かせていたのだ。
 
「……先生。もう一つ、質問をお許しいただけますか」
「よいぞ。おぬしらしくもない。今更何を恐れる必要があるか」
「私がこの世に生を授かる前、ヴェロニカ教徒が、ある種の野生植物を口にしていた。それはよいのです。しかし、どうして他の星の宗教にはそういった思想が生まれることはなく、このヴェロニカ教にだけそのような教えが生まれたのでしょうか。そして、どうして教えが途中で変わり、全ての野生植物の摂食が禁止されるに至ったのでしょうか」

 テセルは、真剣な眼差しで問うた。

「ふむ」

 老人は軽く頷き、

「わしがその問いに答える前に、まず問おう。テセルよ、その質問に対して、おぬし自身はどのような解を持つ?」
「……私は、全ての野生動植物の摂食が禁じられているのは、それがヴェロニカの教えだから、としか学んでおりません。先ほども申し上げたとおり、そうすることで、人と自然との関わりを最小限に抑え、自然の循環と人の営みを切り離すのだと。それが、ヴェロニカ教徒の勤めであると」
「では、その教えが、ヴェロニカ以外の手によって改変されたことについては?」
「そのことについては何とも……。今の今まで、私が学んだ教えこそ、聖女ヴェロニカの教えであると確信しておりましたがゆえ」

 青年は、困惑に満ちた視線で答えた。
 
「テセル。わしはおぬしの問いに対して、解を持っておる。おそらく、この世で最も正しい解だ。しかし、それをおぬしに授けるわけにはいかん」
「先生、それは……?」
「偶然か必然か、今のおぬしが口にした問いの解は、そのままヴェロニカ教の秘奥と同義なのじゃよ。それは、導師の位階の者が知って良いことではない。ただ、老師だけが知ることを許される……」

 ごくりと唾を飲み込む音が、静寂に響いた。

「ただ、考えるのは自由じゃ。だから、考えよ。どうしてこの星にヴェロニカの教えが根付き、そして今に至ったのか。それが何を意味しているのか。考えて考えて、考え抜くがよい。おぬしならば、遠からず正しい解を導き出すことも叶おう」

 ビアンキの言葉に、テセルは頷かない。
 手燭を掲げたまま、じっと、彫像のように固まっている。
 ビアンキが、訝しく思い、口を開こうとした、その瞬間である。
 テセルは、突然に手燭を彼方へと放り投げて、地に膝をついた。

「如何いたした、テセルよ」
「先生。いえ、ビアンキ老師。どうか、どうかお願いします。どうか、今、この場で、私に、ヴェロニカ教の奥義を授けて頂きたい!」

 テセルは、ビアンキを見上げながら、切羽詰まった声で続ける。

「わたしは、この世界の真理を見極めんがためにヴェロニカ教の門戸を叩き、ヴェロニカの教えに帰依いたしました。しかし本懐未だ至らず、霧の中を泳ぐような日々を過ごしております。このままでは、遠からず私は道を失い、教えの何たるかを忘却してしまうのではないかと、それが一番恐ろしいのです。加えて、このような心持ちで、導師として、他の信徒を教え導く大責をこなせるとは到底思えません」

 テセルは深く頭を垂れ、地面に額を擦りつけた。

「身の程知らずであること、増上慢であることは重々承知しておるつもりでございます。しかし、どうか、どうか私に奥義を授けてください。もとより私は、ヴェロニカ教の明日のためにこの身を捧げる覚悟は出来ております。どのような苦行にも耐えて見せまする。ですから、どうか、どうか奥義を!」

 ビアンキは、若者の分不相応な願い出に、怒りを感じたりはしなかった。
 今、地に額を擦りつけて、奥義の伝授を乞い願う若者がいる。
 老人の胸中を灼いたのは、深い悲しみであった。
 ビアンキは、知っている。その若者がどれほど真摯にヴェロニカの神に仕え、学んできたかを。そして、若者の心根がどれほど誇り高いものであり、このような願い出をすることにどれほどの羞恥を感じているのかを。
 何故、老人は、若者の真意を理解できたのか。それは取りも直さず、今の若者の姿こそ、ビアンキという老人が辿ってきた道程であったからに他ならない。
 彼自身、師匠に対して幾度も幾度も頭を垂れた。そして、ヴェロニカ教の奥義を伝授してくれるよう、執拗に迫った。
 師匠は、一度だってビアンキを叱らなかった。ただ、優しい声色で、若者の逸る心を窘めたのだ。
 若かりし日のビアンキは、師匠の考えが理解できなかった。
 自分は優秀であり、どこまでも高く飛ぶことが出来ると思っていた。であれば、ヴェロニカの奥義を早い時期に知ることが出来れば、それを足がかりとすることで、より高みに、今まで誰も立ち入ることの出来なかった真理にまで手が届くかも知れないではないかと、そう思っていた。
 いや、自分ならば出来ると確信していた。
 奥義を授けてくれない老師連中は、自分の才覚を嫉妬しているのだと、そう思い込んだ時期もある。自分以外の全てが、自分の足を地に繋ぎ止める鎖に過ぎないのではないかと、そう思い込もうとした時期もある。
 ビアンキは、ほろ苦いというには幾分棘の鋭い感情で、己の半生を眺めていた。
 そして、おそらく、目の前の若者も同じことを考えているのではないだろうか。
 今になって、理解した。あの時の師匠は、なんと深い愛情と、同じく深い悲しみをもって、己に接してくれたのだろう、と。

「テセル、頭を上げよ」

 ビアンキは膝を折り、テセルと同じように地に座した。

「老師……」
「おぬしの気持ちは良く理解した。そして、おぬしにこそヴェロニカ教の奥義を授かる資格のあることも」
「では……!」

 ビアンキは、テセルの輝かしい顔の前に、皺だらけの掌を掲げた。

「だからこそ、おぬしには、この日この場で奥義を授けることはできぬ」
「……それは、何故ですか?」
「その理由を話すことも叶わぬ。だが、わかってほしい。わしは、おぬしが憎くてこのような振る舞いをするのではない。そして、老師や導師といったくだらぬ階位の差を理由として、おぬしに奥義を伝授するのを拒むわけでもないのだ」
「……」
「おぬしは、本当にわしによく似ておるよ。若くして導師の位階を授かり、それ故に悩み、苦しんでおる。真理を、ヴェロニカ教の奥義を授かれば、道が開けると、そう思っておるのだろう」

 青年の無言は、そのまま肯定と同義である。

「だが、その懊悩は、全ての人間が、ただ己の力をもって切り抜けるべきものだ。それは、おぬしのように才覚溢れる者であっても変わらぬ。だからこそ、おぬしが一足飛びに解を得れば、その解の価値に気が付かず、更なる苦悩を抱え込むであろう。これは、決して年寄りの冷や水だとは思わず、どうか真剣に心に止め置いて欲しいと乞い願う」
「……わかりました。もとより、私如き若輩には許されぬ願いだったのです。先生、どうか忘れてください」
「いや、少しでも己を高めようというおぬしの心根は、同じヴェロニカ教へと身を捧げた者として心強く思う。さぁ、立っておくれ。おぬしの手燭は燃えてしまったからな、わしのものをあげよう。そして、わしを導いておくれ」

 テセルとビアンキは同時に立ち上がった。
 そして、ビアンキは己の手燭をテセルに手渡し、先を行く若者の歩みを追った。

「テセルよ。わしはおぬしにヴェロニカの奥義を伝えることはできぬ。だが、一つだけ覚えておいて欲しい。ヴェロニカの教えに限らず、この世には不変のものなど、何一つ無いということを」

 先を行く若者の首が、縦に振れた。

「無論、承知しております」
「ならば良い。生き物も、ことわりも、星も、宇宙そのものも、時の流れに逆らうことは叶わぬ。全て、己の来し方と行く末に応じて、その姿を変えていくものよ。そして、それは何ら恥じ入るべきものでもなければ、忌まわしいものでもない。寧ろ、はじめのかたちに固執し、如何なる変化をも受け入れぬ存在をこそ、わしは忌まわしいと思う。恐ろしいとすら思うよ」
「……」
「わしの老い先は、それほど長くはあるまい。無論、他の老師や、長老も。であれば、次代のヴェロニカ教を担うのは、おぬしだテセル。だからこそ、来るべき変化を恐れないでおくれ。ヴェロニカの教えが時代とともに移ろうことを、忌避しないでほしい。それは、そうあることを求められて、そうあろうとするものなのだから」

 若者は、一度も振り返らなかった。
 ビアンキは、ぐるりと辺りを眺めた。
 美しい、この宇宙で最も美しい自然の調和を保った、ヴェロニカの風景だ。少なくとも、老人はそう確信していた。
 この風景が、いかなる信条のもとに守られたものであったとしても、その結果だけは尊いものではないか。それだけは、誇ってもよいのではないか。
 老人はそう自分を納得させて、山道を下っていった。



[6349] 第五十話:悪夢、現実、悪夢
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/01/06 02:34
 ビアンキは、寝台に横になり、天井を見上げていた。
 先ほどの、テセル導師との会話を思い出し、自分がどれだけ悟ったふりをしていたのかを省みて、破顔した。
 くつくつと、恐ろしい声で笑った。
 それは、皺に埋もれた、凄烈な声であり、笑みだった。
 もう、笑うしかない。全てを切り捨て、全てを諦めて、それでもただ一つを目指した人生の終着点が、こんなものか。そして、そんな人間が、未来ある若者に対して、あれほど偉そうに説教をするとは。
 滑稽だ。滑稽だ。
 自分は、かの女性に言った。己の背負った荷物を、奪わないでくれ。己をただ朽ちゆく肉にしないでくれ、と。
 だが、老人は知っていた。己の背に、もはや荷など負われていないことを。己の肉に、もはや一片の意味すら刻まれていないことを。
 引き返すタイミングならば、いくらでもあったのだ。全てを詳らかにし、世に真実を伝えることもできた。ヴェロニカの教えの真実を知らしめて、今のヴェロニカ教の虚構を伝えることも。
 自分ならばできた。よしんば不可能だったとして、そのために腰を持ち上げることは、事の成否に関わらず、個人の度量の範囲内だ。

 そして、自分は何事もなさなかった。

 何事もなさず、全てに見て見ぬふりを決め込み、無数の荼毘を見送った。
 白い煙は、全てこの星に住む、ヴェロニカの教えに身を捧げない人々の死体から立ち上っていた。
 異教徒の、肉の煙だ。
 寿命を迎えた人間は、ほとんどいなかった。ほとんどは、年若い人たち。故郷に家族を残し、仕事で、あるいはやむにやまれぬ事情があってこの星に移り住んできた人達だ。
 彼らは、ヴェロニカの教えに頭を垂れなかった。
 肉を食うな。野生の植物を食べるな。自然からのいかなる収奪も慎み、人はその循環に関わるな。
 それがヴェロニカ教の根幹である。
 およそ、共和宇宙に住む大多数の人間の価値観にはそぐわない、異端の教え。
 入信は容易いだろう。しかし、一生をこの教えに従うことのできる人間が、外にどれだけいるものか。内側にだって、教えを捨てる者はいくらでもいるというのに。
 そして、彼らは死んだ。
 余人は、陰で彼らを嘲笑っていた。ヴェロニカの慈愛を踏みにじった罰だと。当然の天罰であると。外の人間の立ち入らない酒場の席で、ジョッキをぶつけながらその死に乾杯した。その不幸を肴にして大いに盛り上がり、笑い、歌を歌った。
 中には、彼らの死でヴェロニカの大地が汚れると、死体を宇宙に放擲するべきだと放言する者もいたのだ。
 なんのことはない。広く共和宇宙に、慈悲と寛容の宗教として知られるヴェロニカ教の、真実の姿がそれだ。
 であれば、昨今のこの星の状況は、十分に理解の範疇である。
 今までは、巧みにそれを糊塗していただけのこと。そしてあの男は、醜女の分厚い白粉をはがしてのけたのだ。そうでなければ、どうしてたった一年に満たない時間で、これほど世情が乱れるものか。
 面従腹背。微笑みながら余所者を受け入れて、しかし自分たちの仲間にならないと知ればいとも容易く切り捨てる。
 は虫類じみた冷血さ。
 しかし彼らも、ヴェロニカ教の真実は知らない。
 そもそも、一つの惑星に住む数億の人間が、単一の宗教を信奉しているという異常にどうして誰も気がつかないのか。
 遠い昔、人類が惑星の上を、己自身と馬の足で征服するしかなかった時代。死と暴力を用いて信仰を強制した古代宗教ですら、ついに世界の宗教的統一は為し得なかった。
 にもかかわらず、この惑星ヴェロニカではそれが為し得ているという事実。それも、ただの一度の暴力も、拷問も、脅し文句さえ使わずに、だ。移民を分け隔て無く受け入れ、入門を強制せず、教えを捨てた人間を罰することもないというのに。
 それでも、この星にはたった一人の神しかいない。
 この星には、他のいかなる神の威光も、届かない。

 なぜなら、この星の上に、ヴェロニカの神に跪かない人間の生きる場所は、存在しないからだ。

 みんな、死ぬ。
 異教徒は、死んでいく。
 ばたばたと、死んでいく。
 赤子も、老人も、女も、男も、金持ちも、貧乏人も、聖者も、人殺しも。
 死んで、死んで、死んでいく。
 誰も生き残らない。
 誰が手を汚すわけでもない。
 誰しもが、人知れずに死んでいく。まるで寿命を迎えた猫のように、いつの間にか姿を消し、そして記憶からも消え去って。
 残るのは、ヴェロニカの教えに身を捧げた信徒達だけ。
 だから、この星に神は一人しかいない。
 誰も、そのことに気がつかない。己の群れから外れた人間の死を、悲しまないからだ。それを当然と思うから、この星の真実に誰も気がつかないのだ。
 無関心だ。
 この星に巣くう恐るべき魔物に名前を与えるならば、きっとそう名付けられる。
 この星の真実。そして、ヴェロニカの教えの奥義。
 誰も知らない。気がつかない。
 だが自分は、知っていた。全てを知っていた。
 知っていて、何も為さなかった。何を為そうともしなかった。
 ただ、何も為さなかった師を習い、それを言い訳に、あるいは拠り所に、瞼を下ろし、耳を塞ぎ、知らぬ存ぜぬを決め込んだ。
 その結果が、この有様である。
 自己の内側には虚無だけが残り、外面は老いと疲労に朽ちかけ、そして何も残らない。
 今や遅しと倒れるのを待つ、枯れ木のように。
 老人が願うのは、全ての終わりであった。
 それが自分の終わりであっても構わない。己が人生を捧げた教えの終わりでも、構わない。この星の終わりであっても構わない。
 もう、全てが億劫であった。
 だから、ビアンキは目を閉じていた。
 いつの間にか垂れ落ちた瞼が、彼を眠りの世界に誘う。
 予感が、あった。
 最近は、馴染みとなった悪夢を見る、予感である。
 深い深いどこかへと、ひたすらに落っこちていく、夢。
 それが、今日は少し違った。
 真っ暗闇。
 見渡す限りの、深くねばっこい闇の中。
 ビアンキは、必死で逃げていた。
 暗い、暗い道を、必死で走っている。
 いつの間にか痩せ衰えた足腰が、驚くほど軽快に、地を駆けている。
 夢の中の老人は、老人ではなかった。だが、若者というほどではない。
 壮年の、全ての奥義を師から伝授され、苦悩に塗れた日々を送った、年の頃。
 全てを為すには年を喰い、全てに無視を決め込むには若すぎた、年の頃。
 老人ではなくなったビアンキは、駆けた。その、懐かしい感動に気がつくでもなく、あまりの恐怖に手足を泳がせながら駆けていた。
 背後から、何かが近づいてくるのだ。
 周囲の濃密な闇を押し返すほどに光り輝く、炎と溶岩を纏った何か。
 それは、きっと恐ろしいものだ。
 自分を押しつぶし、焼き尽くし、どろどろに溶かすものだ。
 自分という存在を、完膚無きまでに殺し尽くす、何か。
 そんなものに追い立てられて、ビアンキは必死に走った。ふわふわと頼りない地面を、水の中みたいに弾力質な空気の中を、藻掻きながら走った。
 振り向いてはいけない。
 振り向けば、目を焼かれる。
 だから、老人は走った。後ろにいる何かの、光の及ばないところに向かって。
 くらいところ。くらいところ。
 じめじめとして、肌寒くて、自分以外の立ち入る隙間のない、みっしりとしたところ。
 ビアンキは、虫のように逃げた。冷たくて重たい石の裏を探して。
 いつしかビアンキは、無数の足を動かしていた。
 ビアンキは、おぞましい虫になっていた。
 かさかさと這いずりながら、石を探す。後ろから、重々しい足音とともに、何か大きな存在が追いかけてくるのだ。
 捕まえられれば、自分は殺される。昨日だって、一番仲の良かった友人が、無慈悲な靴底で踏みにじられて殺されたのだ。
 自分たちは、醜い虫けらである。その認識が、無数の脚を動かすビアンキを、いっそう惨めにさせた。
 虫は、複眼の瞳に涙をにじませながら蠢いた。
 不公平だ。どうして自分たちだけが、こんなめに遭わなければならないのか。自分たちは、何一つ悪いことをしていないのに!
 
 ああ、そうだ。
 私は、何一つ悪いことをしていない。
 何も、何も為さなかったのだ。
 何一つ、悪いことすらも、しなかった。

 だからこんなに追い立てられている。こんなにも必死で逃げている。
 恐ろしい。背後から追いかけてくるのは、きっと自分だ。自分が、自分を踏みつぶすために追いかけてくる。
 老人の虫は、きぃきぃと耳障りな鳴き声をあげて、必死に命乞いをした。
 だが、足音は止まってくれない。むしろ怒りに火を注いだみたいに、ますます勢いを増していくばかり。
 ビアンキの心を、真っ黒な絶望が覆っていく。
 もうだめだと、これでおしまいだと。
 足音はいよいよ、背中のすぐ後ろまで差し迫ってくる。地面を揺るがすその音が鳴り響くたびに、ビアンキの、外骨格で覆われた小さな体が宙に浮き上がる。
 それでも、ビアンキは必死に蠢いた。
 キチン質の脚を動かし、いくつもの節に分かれた胴体をくねらせて、触覚をぴくぴくと振りながら、必死で逃げた。
 そして、見つけたのだ。闇と闇の間に、ちょうど自分の体を滑り込ませられるような、小さな隙間を。
 虫は、歓喜した。
 これで最後とばかりに、必死に脚を動かした。
 足音は、もはや耳を直接叩かんばかりになっている。
 あまりの恐怖に崩れ落ちそうになる膝を、ほとんど無理矢理に奮い立たせて、最後の力を込めて裂け目に向かって飛び込む。
 するりと、最初から定められていたかのように、虫の体は裂け目にぴたりと収まった。
 無限の安堵が、虫を包む。
 涙を流しながら、ほう、と溜息を吐き出したとき。
 いつの間にか、ビアンキは老人に戻っていた。
 それだけではない。
 あの、闇と闇の裂け目が、虫となっていたビアンキを包み込んでいた隙間が、いつの間にか紫の豪奢な法衣に変じていた。
 ビアンキは、紫の法衣を纏っていた。
 それは、ヴェロニカ教の、老師と呼ばれる階位の者だけが身に纏うことを許された、高貴な法衣である。
 ビアンキは愕然として、振り返った。
 振り返った先に、光は無い。
 だが、光よりもなお輝かしい、黄金に染まった瞳の女性が、佇んでいた。
 佇み、無言で、ビアンキを見ている。
 紫の、至高の法衣を纏ったビアンキを、じっと見ている。
 老人は、恐怖の叫び声を上げた。
 狂ったように、それとも事実として狂いながら、叫び声を上げていた。
 怖かった。その女性の、視線が。自分を、信用に足る人間だと言ってくれた女性の、確固とした視線が、どんな化け物よりも恐ろしかったのだ。
 声を限りに叫び、手足をばたつかせて這うように逃げたビアンキ。
 いつしか、赤毛の女性はどこかへと消え失せた。
 ビアンキは、魂丸ごと抜け落ちたように座り込んでいた。
 そうだ。
 背後から追いかけてきたのは、あの女性だったのだ。
 とても大きな女性であった。それは体格も、精神も、何よりも魂そのものが。
 ビアンキは、その光輝に瞳を焼かれ、そして立ち上がる気力を根こそぎ奪われてしまった。
 闇に戻った暗闇の中で、ぽつねんと一人、荒々しい呼吸音だけを供にして、座りこけている。
 ビアンキは、一人だった。一人、自分の内側だけを見つめている。
 そこには、足場のない暗黒が広がっている。先ほど駆けた闇よりもなお濃い、暗黒。
 出口の無い、暗闇だ。いつから自分がここにいるのか、どうして自分がここにいるのか、老人には分からなかった。それを知るには、彼は暗闇に親和し過ぎていた。
 分かるのは、今、自分がここにいることだけだ。
 じっと一人、佇んでいる。思考を放棄しながら考えるふりをする、救いがたい阿呆のように。
 そうだ。もうずっと、自分はここにいる。
 この夢を見る前から。全てを知り、全てを為さなかった時から。
 もう、出口を探して彷徨うこともなくなった。何度も何度も、長い時間をかけて探したのだ。それでも見つけることができなかった。ならば、今更見つかるものか。
 端的に表せば,ビアンキは諦めてしまっていたのだ。
 目を閉ざし、足を止め、ひたすら終わりを待ち望む老人は、しかし微量の未練を込めて思う。

 もしも、もしも、この足がもう少し力強かったなら。
 もしもこの目がもう少し鮮明だったならば。

 自分はここにいなかったかもしれない。
 ここに暗闇は無かったのかもしれない。
 選ばれなかった選択肢は、宝石の如き輝きを放っているように思えた。
 選ばれた選択肢が、自分を責め苛むが故に。
 だから、この闇を生み出したのは自分だ。
 そして、暗黒に飲み込まれた。
 いや、そもそもここに暗闇はあるのだろうか。
 あるのだろう。自分が暗闇を認識するということは、ここに暗闇があるということだ。
 しかし、暗闇は、そこにあるものなのだろうか。何も無いから、そこを暗闇と呼ぶはずなのに。
 であれば、暗闇とはなんだ。何も無いはずなのに、何故それだけが、ここにあるのだ。
 知っている。自分は、それが何故か、何なのかを、知っている。

 私だ。
 ミア・ビアンキという人間が、暗黒そのものだ。
 私の中に広がるがらんどうの空間をこそ、暗黒と呼ぶのだ。
 私が、名付けたのだ。
 だから、暗黒があることを認識できる。なぜなら、私自身が暗黒そのものなのだから。
 私はいったい、何者なのか。
 幼き日より、ただ一つの教えに身を捧げ、己の身のうちに信仰を詰め込んできた。
 師を信じ、教えを信じ、神を信じ。

 全てを疑わず。

 肉を食わず、酒を飲まず、享楽を味合わず。

 全てを楽しまず。

 ひたすらに、一心に、

 ならば、私を形作るのは、ヴェロニカの大地に根付いた信仰そのものだ。
 私は、信仰だ。
 ヴェロニカ教だけが、私だ。
 だから、私は、暗闇なのだ。
 ヴェロニカ教を包み込む闇が、私そのものだ。
 いや、ヴェロニカ教に詰まった闇が、私そのものだ。
 私の内側には、何も存在しなかった。
 あれだけひたぶるに詰め込んできたはずの何物かは、私の内に沈殿し、内側から膨張し、私を圧迫し、いつの間にか消え失せて。
 何物かがあった場所には、ただ、暗黒だけが広がっている。
 私を構成していたはずの信仰は、いつの間にか暗闇へと姿を変えたのだ。
 今、信仰は、私の内に存在しない。外側より、私を責め立てるだけだ。

 やめてくれ、ゆるしてくれ。

 私の内には、何も存在しないのだ。
 がらんどうだ。風船人形だ。
 だから、こんなにも萎んでしまった。皺だらけになってしまった。

 朽ちてしまった。

 いつの間にか、老人の周囲を人間が満たしている。
 顔のない、人間の群れ。名前を失った人間は、もはや人間ではなく、ただ老人を苦しめる鏡でしかない。
 老人は、頭を抱えて蹲った。目を閉じ、耳を塞ぎ、駄々っ子のように首を振り。

 もう、構うな。

 突けば割れるぞ。触れなば砕けるぞ。
 そして、私の内側から、暗黒が漏れ出すぞ。
 暗黒が、何も無いが、この星を埋め尽くすぞ。
 いいのか。それでいいのか。
 ヴェロニカ教に封じられた暗黒は、この星を包み込み、人の心を喰い荒らし、この星を無人の荒野に帰すだろう。
 偽りより生まれたヴェロニカの教えは、本来あるべき場所に帰されるだろう。
 そして人々は、故郷を失い、流浪の旅へと還される。

 それとも、いや。

 ああ。

 そうか。

 それが、望みか。
 この世の運営を司る何か絶対的なものがいるならば、それが今の私を見ているならば。
 私のうちより全てを解き放つこと。この暗黒を、あるべき場所に帰すこと。
 ただ、それを望んでいるのか。
 そして、あの、光輝の女性を遣わしたか。
 私の暗黒を照らし出すために。暗黒のうちに隠れた、微小の私を照らし出すために。
 そうならば。もしも、そうならば。
 私は──。

「老師さま、老師さま」

 気遣わしげな声が、ビアンキの意識を浮上させる。
 肩を揺さぶられる感覚がどこか霞がかっていて、ようやく自分が眠っていたのだと理解した。
 眼球にへばりついて離れようとしない瞼をようやく持ち上げてみれば、薄暗がりの中、心配そうに眉根を寄せた少年僧がいる。変声期前のような高い声から、おそらく年の頃は13,4だろうか。
 寝台に体を起こし、ぐるりとあたりを見回せば、そこは自室の寝台である。

 ああ、そうだ。自分はここで眠っていたのだった。

 そう思い至って、ようやく老人は人心地をつくことができた。それでも、背中をべったりと濡らす冷たい汗は寝台までを重く湿らしていたし、心臓は早鐘よりもなお早く拍動している。
 悪夢を、見たのだ。せめてもの幸福は、そのほとんどを覚えていないことだ。
 だが、老人は何が自分に悪夢をもたらしたのか、その根本的な理由は十分に心得ていたのだから、胸を押しつぶすような悪寒は一向に休まることはなかった。
 そういえば、いつ自分はこの部屋に辿り着いたのか。眠りに落ちるまでの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
 いつの間にか、自分でも気がつかないうちに自室へと引き上げていたのだろうか。前後不覚の態に陥っても、そういうことはままある。泥酔した労働者の足が、持ち主の意志を無視して家路へと向かうように。人間にはそういう便利な機能があることを、老人は知っている。
 次に気になったのが、自分の意識を現実へと引き戻してくれた声の主だった。
 若々しい活力に満ちたその声の主は、自分の世話係を命じられた、馴染みのある少年のものではなかった。
 部屋の薄明かりの中を見上げてみれば、思ったよりも高い位置に顔がある。年齢の割には、背の高いほうなのだろう。中々に整った顔立ちで、線の細い頬には、不安と焦燥の色がたっぷりと浮いている。
 老人のぼんやりとした視線をどう受け取ったのか、恐縮しきった様子の少年が、若竹のようなほっそりとした体を縮めながら、口を開いた。

「無断で寝所に立ち入ったご無礼をお許しください。ただ、あまりにも苦しそうな声が聞こえましたもので……」

 少年は、心底申し訳なさそうに頭を下げた。
 そうだ。そういえば、自分は眠っていたのだ。そんなことも、すっかりと忘れていた。
 緩慢な動作で体を起こした老人は、疲れた笑みを浮かべた。

「いやいや、どうして君が謝る必要があるものか。悪いのは廊下まで響くような声で寝ぼけていたわしのほうだ」

 ふと視線を向けた窓の外は、どこまでも深い闇に包まれていた。
 先ほどの悪夢で見た、彼岸の情景はどこにもない。無色の、暖かい闇に包まれている。その闇がどれほど醜い情景を覆い隠しているのだとしても、それが心休まる光景であることに違いはなかった。
 ビアンキは、安堵の詰まった溜息を吐き出していた。
 ああ、なんとも無様な。それとも、なんとも相応しい。
 少しだけ自己を取り戻した老人は、しわだらけの顔に、自嘲の笑みを浮かべた。
 
「やはりお疲れなら、何か薬を……」
「大丈夫。少し休めば元に戻る。それより、君こそこんな時間に起きていては明日に差し支えるのではないかな。そうだ、明日の朝の説法は、わしの割り当てだった。もしも寝坊で遅れたりしても、決して大目に見たりはしないからそのつもりでいなさい」

 ビアンキは、あくまで気安く、悪戯っぽく言い放った。
 だが、少年は返事をしなかった。にこりと笑いもしない。ただ心配そうに、人生の大先達である老人を見つめている。
 寝台からそれを見上げるビアンキには、少年の無垢の視線が、どれほど眩しいものに、そして痛ましいものに思えただろう。

「いつもわしの面倒を見てくれている子は、今日はどうしたのだね?」

 少年は、不安そうに言った。

「あいつ……いえ、彼は、今日は体調が悪いとかで、部屋で休んでいます。なので、同室の僕……いえ、私が、老師のお世話を仰せつかりました」

 ビアンキは、いつも自分の世話をしてくれている少年の、そばかすの散った顔を思い出していた。

「体調が悪いと言うが、大事はないのかね?」
「は、はい。お医者様は、ただの風邪だと……」
「それはよかった。では、部屋に戻ったら、彼に、ゆっくりと体を休めるよう言っておいてくれ」
「わ、わかりました!確かに伝えておきます!」

 しゃちほこばった様子をどうしても崩せないらしい少年に、ビアンキは、精一杯に柔らかい笑みを作って、話しかけた。

「君は、今年でいくつになる」

 それはそれは、優しい声であった。
 生涯不犯を貫いたビアンキは、もしも自分に孫か、それともひ孫でもいたとすれば、この少年の年頃だろうかと、埒もないことを思ったのだ。
 老師に初めて自分のことを尋ねられた少年は、相も変わらず緊張に総身を固めて、
 
「今年で14になります」

 若々しい声であり、姿であった。
 よく見れば、布でくるまれた少年の頭部から、一筋、淡い色の頭髪が零れ落ちている。
 出家した僧ではないのだ。在家の信者がその子女を、教育の一環として短期の修行に出すのは珍しいことではない。
 
「君のご両親はご健在かね?」
「はい。お父さんもお母さんも、元気です」
「兄弟は?」
「妹が二人います。上は今、断食修行の真っ最中で……。いつも電話で、お腹が空いたお腹が空いたって泣き言を言ってます」

 そうか、それは大変だ、とビアンキは頬を僅かに持ち上げた。
 ごくごく普通の、この星ではありふれた家族だった。
 教えを守り、よく働き、家族を大切にする。
 ビアンキの胸を、暖かいものが満たした。もしもヴェロニカの教えが彼らを幸福にしたのならば、自分にも何か、果たせた役割があったのかもしれないと思えたのだ。
 たとえ幻想であったとしても、今の老人にとって、藁よりも確固として暖かいものであった。それを掴んだとして、誰が彼を非難しうるだろうか。
 ビアンキの、枯れ枝のような掌が、腰を折った少年の頭に乗せられた。
 
「神が君に与えたもうた中に、家族よりも大切なものはないことを知りなさい。そして、君は全てをかけて彼らを守らなければならないことを」

 ぽかんと丸くなった少年の瞳に、喜色が浮かんでいく。
 頬を紅潮させて、少年は頷いた。

「はいっ!」

 元気の良い返事に、老人は目を細めた。

「良い返事だ。では、夜が明けて説法の時間になったら、もう一度来てくれるかね。一応は時間に起きるつもりだが、老師が寝坊したとあっては示しがつかないから、念のため」

 ビアンキの下手な冗談に少年は笑みを零しかけたが、すぐに生真面目な表情を作った。
 一礼し、部屋から退出していく。
 その後ろ姿を見送ってから、ビアンキは再び寝台に横になり、肺に詰まった空気の全てを吐き出すような、重たい溜息を吐き出した。
 ビアンキは、まんじりともせずに天井を見上げていた。何のことはない、目を閉じるのが恐ろしかったのだ。
 目を閉じた後に見える暗闇が、どうしても恐ろしかった。
 こうして天井を見上げていれば、いずれ睡魔が襲ってくるだろう。睡魔に犯された脳髄ならば、恐怖とは無縁のままに眠りの世界へと旅立てるはずだ。
 ビアンキは、闇夜に震える幼子よりも臆病な心持ちで、ただただ自分が消え失せる瞬間を待ち望んでいた。
 音の無い部屋に、時計の秒針の音だけが響いている。
 どれほど時間が経ったのか。
 ビアンキが我知らずに目を閉じて、うとうととし始めた頃合いである。
 物々しい声が、壁の向こう側から聞こえてきた。

「……あの、老師さまは、今、就寝なされたところで……」
「おまえのような者の意見は聞いていない。さっさとそこをどけ」
「しかし、老師さまはは本当にお疲れのようでして……。何かご用なら、翌朝でも構わないではありませんか」
「さっさとどけと言っている。これ以上聞き分けがないと、貴様のためにもならんぞ」

 言い争う人間の声。片方は若さと義憤に燃え、片方は他者を見下す傲慢さに満ちていた。
 平穏を尊ぶヴェロニカ教の総本山では、常ならばあり得ないことである。

「か、帰って下さい!そもそも、老師さまのお部屋をこのような時間に訪れるなど、無礼ではございませんか!」
「やかましい、どけ、小僧!」

 ごん、と、固いものがぶつかる音がして、直後、少年の力ない悲鳴が聞こえた。
 そして、つまらないものを睥睨する声。

「まったく、手間をかけさせやがって……仕方ない、おい、この小僧も一緒に連れて行け。あまり騒がれると面倒だ」
「はっ、了解しました」

 流石に訝しんだビアンキが目を開けると、少年の手によって閉じられたはずの扉が、乱暴に開け放たれる光景が飛び込んできた。
 居丈高な足音が、静謐だった部屋に立ち入ってくる。
 部屋の照明が、ビアンキ自身以外の手で点けられた。
 眩しさに手庇しつつ、体を起こしたビアンキの前に、数人の、屈強な体格を誇る男が並んだ。

「ミア・ビアンキ老師ですな」
「そのとおりだが、君たちは何者だ。そして、何用があってこのような時間、わしのもとを訪ねたのだね?」

 無表情に、ビアンキの言葉を聞いた男達。
 そのうちの一人が、一枚の紙をビアンキに突きつけながら、高らかな口調で言った。

「ミア・ビアンキ。あなたを、アーロン・レイノルズ大統領の殺害を企てた罪および、ヴェロニカ共和国に対する国家反逆の罪で逮捕、拘禁する」



[6349] 第五十一話:奥義
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/01/07 19:17
 両側を屈強な捜査員に固められて、ビアンキは、車の後部座席に座らされていた。
 表情を消して、ぼんやりと、フロントガラスの向こうを眺めている。
 真っ暗な道を、吸い込まれるように、車は進んでいく。時折対向車がすれ違い、そのライトが目に眩しいくらいで、あとはずっと、夢の中を走るような道行きだ。
 まるで、あの悪夢のような。
 老人の枯れた頬が、笑みの形を作った。

 あれから、総本山のごく一部は、蜂の巣を突いたような大騒ぎであった。
 ヴェロニカ教の最高指導者である老師全員が、逮捕されるという前代未聞の不祥事。そして、その罪というのが、現ヴェロニカ共和国大統領であるアーロン・レイノルズに対する殺人予備罪及びヴェロニカ政府に対する国家反逆罪である。
 もしもこれが事実であるならば、ヴェロニカ共和国の刑法典に照らせば、極刑に処せられても不思議ではない程の重罪だ。騒ぎ立てるなと言うほうが無理である。
 老師逮捕の事実は、極々少数の、高位の導師たちにだけ伝えられた。
 ヴェロニカ教総本山には高度な自治権が認められており、司法警察の立ち入りについても、老師の過半数以上の賛成があれば立ち入りを拒むことができる。しかし、今回はその老師のほとんどに対して逮捕令状が出されていたため、とりあえず導師には子細を伝えることで筋を通したらしい。
 この場合、果たして導師たちが全会一致で立ち入りを拒んだとして、警察の介入を阻止できたかは甚だ疑問であるが、現実にはそのような事態は起こらなかった。
 それというのも、現ヴェロニカ教指導陣のうち、導師以下の階位の者にはアーロン・レイノルズ大統領の改革路線を支持する者がかなりの割合を占めており、老師たちの求心力は極めて低下していたからだ。
 真っ二つに意見の割れた導師たちは、右往左往するばかりで、事態に対して何ら有効な手を打つことが出来なかった。
 結果として、逮捕劇は極めて速やかに、そして秘密裏に行われた。事実を知らされないほとんどの僧は、今も眠りの中にいることだろう。そして、おそらくは翌朝に、天地が逆さまになったような衝撃を受けるに違いなかった。
 そしてビアンキは、両手に冷たい金属の枷がかけられ、腰には縄を打たれるという、普通の犯罪者と何ら変わらぬ扱いで連行されることになった。

 視線を真っ直ぐ前にやったビアンキは、これから自分はどうなるのかと、益体のないことを考えた。
 おそらく自分は、通常の手続きに従って、起訴され、裁判にかけられるのだろう。それこそ、殺人や強盗を犯した犯罪者と同じく。
 ただ一点違うのは、裁判で明らかになるのが真実の行方ではなく、大統領派と老師派のいずれがより大きな権力を握っているかについてだ、ということくらいか。
 結果については言を待たない。あちらは、勝算があるからこそ仕掛けてきたのだ。こちらがどのような手段を用いて反抗したとしても、老師全員の身柄を押さえられているとすれば、最早手詰まりである。導師以下の者がどれほど優秀であったとしても、背負うべき御旗を持たずに勝てるほど、戦というものは甘くない。
 しかし、どうしてこの時期にという疑問は残る。今まで何の前触れも出さず、突然にこの強硬措置だ。油断を突かれたといえば自分達の無能をさらけ出すだけであるが、それにしても違和感がある。
 何か、状況が変わったのだ。あちらが、ことを急ぐだけの理由。それとも、これ以上待つ必要の無くなった、理由。
 そこまで考えて、ビアンキは苦笑いを一つ溢し、それから痩せた背中を固い後部座席に沈めてやった。
 何を慮る必要があろうか。
 ある意味において、これは自分にとって望ましいとすら言える結果だ。
 これで、全てが終わる。
 おそらく、裁判は長期化するだろう。ことの真贋を、正否を問う間に、幾年も過ぎるに違いない。
 その間に、全ては変わる。それが、万人にとって望むべき方角は否かは別にして。
 そして、自分はその間、ずっと分厚い塀の中だ。
 冷たいコンクリートの塀が守ってくれる気がした。それはきっと、如何なる非難も、苦悶の叫びも、全てを遮断してくれるに違いないのだから。
 もしかしたら、自分の長すぎる生は、そこで終わりを迎えるのかも知れない。
 ああ、それは、とても素敵だ。
 全てに倦んだ老人は、うっとりとした笑顔を浮かべた。
 そして、ふと気が付いた。
 自分は、これから警察署へ向かうのではなかった。
 それにしては、どうも道行きがおかしい。
 これだけの規模の事件を取り扱うのであれば、自分の身柄は、当然のことながらこの地区で最も大きいヴェロニカシティの中央警察へと送られるはずである。ならば、車は中央市街へと向けて走らなければならない。
 だが、道はどんどん寂しくなるばかりで、ついには街灯の一本すらなくなってしまったのだ。
 おかしい。
 ビアンキの脳裏で、何かが警告を始めていた。

「一つ訪ねるが、この車はどこへ向かっているのかね?」

 ビアンキは、自分を拘束した捜査官に向かって問いかけたが、当然の如く反応はなかった。
 まぁ、そうだろうと思う。それに、今更どこに連れて行かれるとしても、慌てるつもりもない。
 ただ、自分と一緒に連行された、あの少年僧のことだけが気がかりであった。

「あの少年は、いつ解放されるのだね?」

 またしても、返答はなかった。
 ビアンキは、それ以上を問おうとは思わなかった。結果が分かりきっていることに労力を費やすよりは、今はただ、ゆっくりと眠りたかった。
 瞼を下ろしてから数分もしないうちに、細かな振動が体を揺らし始めた。おそらく、舗装された道を外れたのだ。車は相も変わらず、人気のない方角を選んで走っているらしい。
 そして、車内を流れる空気が、冷たく、土の香りを色濃く含み始めた頃合いである。
 車が、ゆっくりと止まった。

「到着いたしました。では老師、車から降りて頂けますかな」

 口調こそ丁寧であるが、そこに込められた感情の乏しさは、夜気の寒さをいや増すほどであった。仮に断ったとしても、自分の足で降りるのと変わらない結果を強制されるだろう。
 ビアンキは、開かれたドアから、自分の足で降りた。
 
「足下が悪いですからな。気をつけて頂きますよう」

 確かに、そこは舗装されない砂利道であった。
 辺りに人気は全く無い。自分達が走ってきた道は、鬱蒼とした森のその両側を挟まれていた。
 だが、それほど暗くはない。薄ぼんやりとだが、足下が見える程度の暗闇だ。月の明るい夜だが、それにしても明るすぎる。
 理由は、すぐに分かった。
 道の左側、森の奥から、うっすらとした光が漏れてきている。それも、炎のつくる力強い光ではなく、電灯の作った窓明かりが、仄かに漏れ出しているような按配だ。
 なるほど、自分はあそこに連れて行かれるのか。
 
「では、こちらへ」

 捜査員の中でも格上と思しき男が先導する。
 ビアンキは、無言でそれに従った。仮に逃げようと騒いだところで、自分の両脇には屈強な男が二人もいる。どうしたって逃げ切れるとは思えない。
 振り返ると、後続の車から、数人の男が降りてくるところだった。うちの一人が、先ほどの少年僧を肩に担いでいる。
 まるで麻袋のように担ぎ上げられた少年僧は、手足を麻縄で縛られて、ぴくりともしない。
 ビアンキは視線を前に戻し、黙々と歩いた。
 しばらくすると、わずかに森が開けた場所に、建物が見えてきた。
 かなり大きな建物で、近づいてみると相当に圧迫感がある。ちょっとした体育館よりも一回り大きいくらいだろうか。
 外観は、すでに人の手が入らなくなって久しい按配だ。暗くてはっきりわからないが、所々に濃い錆びが浮いている。
 風に運ばれる空気の中に、古い肥料の臭いがする。
 どうやら、これは、村落に設置された共同倉庫の類らしい。農機械や堆肥、収穫した作物を保管しておくため、村の外れに大規模倉庫が建てられるのは、珍しいことではない。
 しかし、既に使われなくなって久しいのだろう。ここに至るまでの道も、元はそれなりに整備されていたのかも知れないが、既に見る影もなかった。
 ビアンキは、正面の、観音開きになった扉から、中に入った。
 途端、鼻を強烈な生臭さが刺激した。
 思わず嘔吐きそうになったのを、何とか堪える。それは周りの男達も同じだったようで、強烈に顔を顰め、無意識だろう、口の辺りを手で覆っている。

「どうぞ、中へ」

 促されて歩を進める。
 屋内は、どんよりとかび臭く、粘ついた空気だった。
 がらんとした屋内は、中から見ても年月の経過による損耗が激しい。窓ガラスはほとんどが叩き割られたようになっており、そこに古びた蜘蛛の巣がかかっている。
 天井に掛けられた鉄骨の梁からは、細かく明滅を繰り返す裸電球が吊り下げられている。それが、この建物における唯一の灯りらしい。
 隅の方には、乱雑に積み上げられたガラクタや、果たして中に何が入っているのか想像も出来ないような梱包がみっしりと埋まっている。いくつか、生ゴミを入れるのに使うポリバケツも並んでいるが、そこには生活感の欠片も無く、不穏な空気だけが漂っている。
 そして、奥へと進めば進むほど、濃密になっていく生臭さ。
 ビアンキは、どうにも嗅ぎ慣れない臭いに眉を顰めた。

「ああ、これは失礼を。あなたは、そういえば、死を穢れとし、肉食を禁忌とする、ヴェロニカ教の聖職者であらせられましたなぁ。であれば、このように不快な臭いを嗅ぐのは、生まれて初めてかもしれませんねぇ」

 奇妙に後を引く喋り方であった。
 ビアンキは、声のした方向に視線を遣った。
 そこには、少壮の男が立っていた。
 ブラウン色の豊かな髪は綺麗に撫でつけられ、ぱりっと着こなしたスーツには一部の隙もない。そのままビジネス雑誌のモデルにでも使えそうな格好であるが、無個性と言い換えることも出来る。
 ただ、そのにこやかに歪められた顔。にこやかを装った、蛇のように嫌らしい顔だけは、どのように糊塗したところで雑誌の表紙には不釣り合いであった。

「きみは……確か、一度会ったことがあるな」

 ビアンキは、言った。
 男は、さも嬉しそうに手を鳴り合わせた。

「おお、これは光栄の極み!かの名高い大ビアンキ老に顔を覚えて頂いているとは!恐悦至極とは正しくこのことですな!」
「確か、アーロン・レイノルズ大統領の後ろに控えていた……そうだ、名前を……」

 老人の脳裏に蘇ったのは、目の前の男がその時に差し出した名刺の名前ではなく、昨日の昼過ぎに顔を合わせた、大柄な女性の声であった。

『ちなみにね、オーデンの勤務していた船会社の表向きの経営者はまったく聞いたこともない人物でしたが、その相談役に、アイザック・テルミンという男が収まっていたことが分かっています』

 そうだ。
 この男の、名前。

「人違いであれば許して欲しい。確か、アイザック・テルミンくん、ではなかったか」
 
 男の顔から、一度表情が消えた。
 空白に戻ったそれに、驚愕の色が付き、歓喜の色が付き、最後に爆発した。

「ブラボー!おお……ブラボー!」

 顔をくしゃくしゃにして、テストの満点を母親に褒められたように大喜びをした男──アイザック・テルミンが、ビアンキのもとまで駆け寄り、その手を取った。

「光栄だ!光栄だ!老師、まさか本当にワタクシ如きの名前を覚えて頂いているとは、想像だにいたしませんでした!嬉しい!ああ、ワタクシはこの世に生まれてきて、本当によかった!ハレルヤ、神の恩寵はここに実在した!」

 テルミンは、大はしゃぎで、握ったままの手をぶんぶんと振った。その度に、ビアンキの両手に嵌められた手錠の鎖が、じゃらじゃらと金属質な音を立てた。
 
「おや?」

 その音に気が付いたのか、テルミンは手を止め、老人の両手首を繋ぐ手錠に視線を落とした。
 そして、老人の顔を見て、再び手錠を見て、最後に老人の顔を見て。
 にたり、と、は虫類のような笑みを浮かべたのだ。

「ああ、そういえばそうでしたねぇ。しかしビアンキ老、あなたに不快な思いをさせるのも、もうしばらくの間だけです。どうか、ご辛抱くださいな」

 テルミンは踵を返し、もとの立ち位置まで戻り、再び振り返った。

「さて、まずは老師、ご多忙の中、このようにむさ苦しい場所までお越し頂いたことに、心から感謝申し上げます。我々は、老師を心から歓迎する次第でございます」

 テルミンは、深く腰を折った。

「本日、老師にこのようなところまでご足労頂いたのは、他でもありません。古今東西天上天下、まことの名僧と名高いミア・ビアンキ老師と、分不相応は重々承知ですがこのアイザック・テルミンとで、我らがヴェロニカ教の明日について大変重大な話し合いをさせて頂くためです。いやいや、お怒りまことにもってごもっとも、老師のご不快さこそと身の縮む思いでございますが、何とぞご容赦の程をよろしくお願いいたします」

 テルミンの長口上に、ビアンキは些かうんざりしたような面持ちで言った。

「ごたくはよい。して、貴殿はどのような話し合いをするために、わしをこの場に引きずり出したのだ?」

 テルミンは、大いに傷つけられた表情で、

「引きずり出したとは心外です!老師、ワタクシは本当に……」
「ごたくはよいと申したぞ!」

 大喝が、屋内を圧した。
 残り少ない窓ガラスが、まとめて砕け散るのではないかというほどの、声量。
 到底、老人の声帯から放たれたとは到底思えない声であり、気迫である。
 テルミンの周囲と、老人の周囲を取り囲んでいた屈強な男達が、思わず仰け反るほどの迫力であった。
 しかし当のテルミンは、相も変わらずの薄ら笑いを浮かべ、背を猫のように曲げながら言った。

「ええ、ええ、老師がそのおつもりならば、話は早い。いや、ワタクシも、もう少しで眠ろうかというところを、大事な用件が云々とかで、このような場所まで引きずり出されたのですよ。いわばワタクシも被害者でございます。これが宮仕えの悲しさですなぁ」

 ごほん、と軽く咳払いをし、

「本日、ワタクシから老師にお願いしたい話し合い、その議題は、まさしくこの星の明日、そしてヴェロニカ教の明日についてでございます。我が主でもございます、アーロン・レイノルズがこの星の大統領の席について以来、ヴェロニカ教の首脳陣と我が主との間は、お世辞にも蜜月とは言えないものでございました。そうではありませんか?」

 テルミンは、幼児に語りかけるときのように、小首を傾げて相手に同意を求めた。
 ビアンキは、怒りとまでは言わないまでも、極度の不快感に堪え忍ばねばならなかった。

「レイノルズが大統領になった経緯から申し上げまして、現在のヴェロニカ教の首脳陣、つまり老師の方々と仲良く手を取り合って、とは中々いかないのは承知しております。なにせ、ヴェロニカ教の腐敗を糾弾するために立ち上がったのが、何を隠そう我が主、アーロン・レイノルズでございますからなぁ」

 前回の大統領選挙で、ほぼ当確とまで言われていた最右翼候補である、マークス・レザロ元上院議員の食肉疑惑。そして、それに端を発した、大混乱。
 その大渦を最も上手に泳ぎ切り、最終的にこの星の最高権力を握ったのが、アーロン・レイノルズという男だ。
 ならば、テルミンの言い草は、事実無根の大嘘というわけではない。
 そして、テルミンは、悲しげな声と表情で続ける。

「しかし、しかしですよ。この国に住むほぼ全ての人間がヴェロニカ教に帰依している現状を鑑みますと、政権と教団が反目し合い、意思疎通が為されないというのは、甚だもって不自然であり、政教両面において今後の国家運営に多大なる支障をきたすのではないかと、我が主は考えられました」

 テルミンの表情が、ぱっと明るくなる。

「そこで、今までのことはお互い水に流し、今後は手に手を取り合い、歩を揃えて、ヴェロニカ共和国とその人民の未来を考えていこうではないかと、我が主はそう考えておいでなのですよ!どうです、素晴らしいとは思いませんか!お互いを許し、認め合う!これぞ、全宇宙に寛容をもって知られる、ヴェロニカ教の精神、その真髄ではございませんか!」

 テルミンは、天を抱き抱えるように両手を広げ、その感動の大きさを表した。
 しかし、それを見たビアンキは、極めて冷ややかに応じた。

「貴殿の仰ること、一々もっともよ。しかしその方法が、大統領暗殺だの国家転覆だのの与太話に託けて、この身をここまで拐かすか。先ほど貴殿の話ぶりとはどうにも趣が異なるのだが、こは如何に?加えて言うが、ヴェロニカ教の老師はわし一人ではない。そしてわしは、老師の中では最も若輩よ。人選を誤ったな、他の老師を頼るがよいぞ」

 ビアンキの鋭い視線に、しかしテルミンは、ただでさえ細い視線をより細めて、

「なるほどなるほど、我々のやりようについて、色々なご意見をお持ちなご様子。まぁ、一番最後についてはもはや問題にならないのですが……。とりあえず、最初のほうからやっつけていきましょうか」

 テルミンは軽く咳払いをして、

「さて、老師。まずあなたは、あなた自身にかけられた嫌疑が、与太話と仰いましたな?」

 ビアンキは無言である。まるで、答える価値を見いださないかのように、じっとテルミンを睨み付けている。
 テルミンは、初めて真剣な調子で言った。

「与太話。貴方方が大統領を暗殺しようとした、それが与太話と?」

 口元が、少しずつ笑みの形を作っていく。

「では、これはどういうことでしょうかな?」

 テルミンは、懐から取り出した音声レコーダーのスイッチを、入れた。
 ざりざりと、砂嵐のような音が響き、その後で、はっきりとした人間の声が聞こえた。

『……れにしても、なんともまずいことになりましたなぁ』

 テルミンは、くすくすと笑っている。

『まったく、どうして面倒事というものは、こう、次から次へと涌いて出てくるのやら。マークス・レザロの件といい、今回のことといい、先代の老師たちの時には、このような不祥事はほとんどなかったというのに』

 耳に馴染みのある声を聞いて、ビアンキの背をぞわぞわとした不快感が下っていく。
 レコーダーから流れる音声は、ビアンキにとって、確かに聞き覚えのある内容であった。
 それは、ヴェロニカ教の最高指導者である、老師のみが集うことを許された会合の際に交わされた、会話の再現である。

 盗聴されていた──。

 どういう経緯か知れないが、そのデータが、目の前の男の手に入ったのだ。
 淡々と、機械から流れていく音声は、さきほどの会談の全てを審らかにしていった。
 ビアンキと、ビアンキの元を訪れたジャスミンとの、会話の概要。
 それを受けて、ビアンキがどのような処置を施したか。
 ビアンキを糾弾する、他の老師たちの罵声。
 それらが、第三者的な視点から見ると、何とも間の抜けた緊張感とともに流れていく。
 そして、最後に、静まりかえった一同を睥睨するような声が、重々しく響いた。

『これより各人、此度の事態をヴェロニカ教の存亡にかかる変事と捕らえ、事実関係の確認を急いで欲しい。そして、もしもビアンキ老の見立てどおり、この地図があの男の手によってばらまかれているという確証が取れたならば……』

 必死に震えを押さえるビアンキの目の前で、レコーダーに写し取られた長老の声が、重々しい調子で、決定的な発言をした。

『アーロン・レイノルズ大統領は、我らの手によって粛正する』

 テルミンは、かちりと、レコーダーの停止ボタンを押した。

「さてさて、どこの家庭でも台所の裏事情はどろどろしているのが相場ですが、ご多分に漏れず、このヴェロニカ教総本山の台所も、中々にどろどろしているようですなぁ」

 くすり、と含み笑いを漏らす。

「草の者?いや、初めて聞きましたよ。そのようなものがいて、そして女性の拉致まで行ってくれる?いやはや、何とも便利ですなぁ。ワタクシも、そのような汚れ仕事を引き受けてくれる便利な部下がいてくれればと、何度も夢見たものですよ」

 屈強な男達を周囲に侍らしたまま、テルミンは続ける。

「そして、その便利な人間を従える貴方方の言う、粛正とは、いったいどのような行いを指すのですかな?不肖、このアイザック・テルミンに、その子細をご教授頂きたいのですが、如何でしょうか、老師?」

 いたぶるような口調であり、仕草であった。
 だが、ビアンキには、ほとんどその内容は伝わっていない。
 ビアンキは、その身を貫いた衝撃に耐えていた。
 それは、レコーダーから流れた内容そのものに対してではない。
 あの時、あの場での会話が、何者かに盗聴されていた、という事実に対してだ。
 間抜けというほかない。自分達は来客室に盗聴器を仕掛け、その会話を盗み聞きしていたというのに、あっさりと逆のことをされて、首根っこを押さえつけられたのだ。
 そして、盗聴器を仕掛けたのが、いったい誰なのか。
 長老を交えての会談が行われたあの庵の存在を知る者は、ヴェロニカ教でも極めて限られた人間だけである。
 会談に参加した老師。そして、その送り迎えをしたお付きの導師。おそらくはこれくらいのものだろう。その中に、いわゆる大統領派の含まれていないことは、全ての老師が承知していた。
 いわば、老師派の選りすぐりだけが、あの庵のことを知っていたのだ。
 であれば、この情報を売ったのは、老師か、それとも老師の信頼厚い、老師派の導師ということになる。
 つまり、裏切りだ。
 自分達の信頼する何者かが、大統領派に、自分達のことを売った。それとも、獅子身中の虫を飼ってしまっていた。
 どちらにせよ、勝負は、とうの昔に決していたのだ。
 自身の希求する未来図などとは全く別の方向性の敗北感に、ビアンキの体はたまらない疲労で満ちていった。

「さて、老師。黙っていては分かりませんよ。これがどういうことか、説明して下さいな」

 弾むような調子の声である。
 対してビアンキは、地の底から滲み出るような、重たい声で言った。

「……貴様らは、この程度の証拠をもって、我らを獄に繋ぐことが出来るとでも思っているのか」

 不法に収集した証拠は、その証拠性を著しく減ずることになる。
 それに、仮にこのテープが証拠として用いられたとしても、果たして大統領暗殺という重大事に関する密談と取られるか。精々、次の選挙で大統領不支持を打ち出すと、その程度にしか認識されないのではないか。
 結論として、この程度の証拠で立件できるはずがない。立件できたとしても、如何様にでもとぼけることはできる。
 これがこの男の隠し球かと、ビアンキは拍子抜けすらした。裏切り者の存在には強い衝撃を受けたが、この程度を切り札としているようでは、テルミンという男も存外底が浅いか。
 そう思ったのだ。
 しかし、当のテルミンは、驚いた表情を作り、しらっとした調子で答えた。

「何を仰る。この程度の証拠で、かの名高い老師の方々が、恐れ多くもこのヴェロニカ共和国の大統領の暗殺を企てたなどと、我らも声高に喧伝するつもりは毛頭ございませんよ。そんなことをすれば、物笑いになるのは我々の方ですからなぁ」
「……どういうことだ」
「ですから、最初から申し上げているではありませんかぁ。ワタクシは、老師、あなたをここにお招きしたのです。決して、逮捕やら拘禁やら、そのように乱暴な手を用いたのではありませんよ。少なくとも──」

 明日の朝にはそういうことになっています、と、テルミンは言った。
 ビアンキは、内心ほぞを噛む思いだった。
 大統領の力が日に日に強大になっているのは十分に承知しているつもりだったが、ここまでの無茶を平然とこなせるほどに、それは肥大化していたのか。
 それでも、内心はともかく表情だけは落ち着いたままのビアンキに対して、テルミンは続ける。

「そして、もう一つ。老師が先ほど仰ったのは、確か、そう、他の老師の方々へ筋を通して欲しいと、そういうことでしたかな?」

 こめかみに指をやり、難しげな顔で言った。

「その点については、どうかご心配なく。既に、話は終わって、全て水で流しておりますので」

 ビアンキは、またしても声を荒げるはめになった。

「話は通した、だと!馬鹿な、他の老師はともかく、長老が、大統領に膝を屈するものか!」

 それは、ビアンキにとって確信であった。
 長老は、この星の実質的な支配者はヴェロニカ教の頂点に立つ者であるとの自負を、誇りに昇華させて持ち抱えている人間だ。だからこそ、ヴェロニカ教の改革を掲げるアーロン・レイノルズと折り合いが悪かったのである。
 その長老が、今更変節するだろうか。いや、それだけは無いと言い切れる。
 だが、目の前の男のへらへら笑いの奥には、真実の匂いがする。どうにも、嘘を吐いているという気配ではないのだ。

「老師、老師。ワタクシが申し上げましたのは、あくまで話が終わっているという一事についてのみです。あまり先走らないでくださいよ、まいっちゃうなぁ」

 こりこりと頭を掻きながら、そんなことを言った。

「……なるほど、つまり話はしたが、断られた。なので、わしの方に話を持ってきたと、そういうことか。ならば残念だな、わしも、貴様らの傀儡となってまでヴェロニカ教の老師でいようとは……」
「ああ、もう、だからね、老師。いいですか?ワタクシは、先走らないで下さいと申し上げたのですよ?順を追って説明いたしますので、しばらく黙っていて下さいな」

 どうどうと、手で押さえるようなジェスチャーをしながら、テルミンが言った。

「ワタクシと、ビアンキ老師以外の老師の方々は、もう既に話は終わっております。そして、もう、色々なことは水で流したのですよ。それでお終い」

 言葉を返そうとしたビアンキを押しとどめたのは、テルミンの言葉ではなく、テルミンの仕草であった。
 半笑いのテルミンが、右手の人差し指を、下に向けているのだ。

「ほらね、水で流した後があるでしょう?」

 言われてビアンキは、床を見た。
 電灯の灯りがあまりに頼りないため、言われるまで気が付かなかったが、確かに床が濡れている。それも、コップの水を溢した、程度ではない。もっと盛大に、床一面が一度水浸しになったように、広範囲に渡って床が滲んでいる。
 
「いや、本当は、ここまで水で流さないといけないとは、思っていなかったんですよ。だって、皆さん、本当に小さかったから。でも、以外と、いっぱい詰まっていらっしゃったんですねぇ」
「……詰まっていただと?それは、どういう……」

 テルミンが、ひくりと鼻を動かした。
 くんくんと辺りの空気を嗅ぎ、ハンカチで口元を押さえる。

「どうですか、老師。我々は、本当に頑張ったんですよ。頑張って、水で流したんです。だから、少し臭いが残るくらい、許してくれますよねぇ?」

 臭い。
 先ほどから強く漂う、生臭さ。
 水。
 洗い流した、後。
 この男は、目の前のへらへら笑いを浮かべたこの男は、何を言っているのだ。
 何を言うつもりなのだ。
 ビアンキの頭を、ぐるぐると、不吉な単語が踊った。

「まぁ、ビアンキ老師は、彼らとは長いお付き合いですからねぇ。もう一度水で流すのも面倒ですが、最後に一度だけ、お見せしましょうか?」

 テルミンは、心底愉しくて仕方ないといった様子で、部下の男達に指示を出した。
 男達は、あまりの嫌悪に眉を顰めたが、上役からの命令だから、指示には従った。
 貧乏くじを引かされたかたちの五人の男が、重たい足取りで建物の隅まで歩いて行き、そこに並べられてあったポリバケツを、一人一個、担いで戻ってきた。
 どさりと、重たい音とともに、五個のポリバケツが、ビアンキの前に並べられた。

「さぁ、これを見て頂ければ、老師もご理解頂けると思いますよ。我々が、水に流すのに、どれほど苦労したかを」

 男達が、一斉にポリバケツのふたを開けた。
 ぷん、と、鼻を刺すような臭気が漂い、ビアンキは思わず顔を背けそうになった。
 しかし、どうしても、目は、雑然と並んだポリバケツに吸い寄せられる。
 そして、男達は、それを、同時に、蹴り倒した。

 ばしゃり、と、水の弾ける音がした。

 ぬるり、と、何かが滑り出してきた。

 がらり、と、ポリバケツの転がる音がした。

 そこまで認識して、次の瞬間、老人の意識を空白が満たした。

「ほらね。見て下さいよ。これなんて、頭の半分が吹っ飛んでるんですよ。吹き飛んだ脳漿やら歯の欠片やらを集めるのに、どれだけ苦労したか」

 頭を半分吹き飛ばし、残った片目で、恨めしそうに宙を睨み付けた、血塗れの死体。
 それは、ネカ教区の司祭であるグリイェ老師だった、死体だ。

「これなんて、中々笑えるでしょう。腹を撃ち抜いてね、でも大口径の銃だったから、背中に穴が開いてしまっているんですよ。そこから色々飛び出して、もう、掃除に大変だったんですから」
 
 苦悶の叫びに口を開き、舌をだらりと伸ばしたままの、臓物塗れの死体。
 それは、 マンサ教区の司祭であるトルナコ老師だった、死体だ。

「この人はね、銃で死ぬのが怖いって泣き喚いたんです。困ったから、ロープと毒薬、どちらがいいか、選んでいただきました。まぁ、首つりを選んで頂いたのはけっこうなんですけど、しかし、事の前に大小は済ませておいて欲しかったなぁ。もう、臭くて臭くて」

 顔を青黒く染めて、目玉の飛び出した、糞尿塗れの死体。
 それは、 エクム教区の司祭であるパリロー老師だった、死体だ。

「この人は可哀相でした。急所を狙って引き金を引いたはいいけど、一発では死にきれなかったんですねぇ、2,3分の間は、細かくうごめいてるんですよ。殺してくれ、殺してくれってうるさくって……。ワタクシ達がそんなこと出来ないのを知ってて言うんですよ。意地悪だと思いませんか?」

 こめかみとこめかみに小さな穴を開け、それ以外は生きていた時とほとんど変わらない様子の、涙と鼻水に塗れた死体。
 それは、 ケサ教区の司祭であるアカオウ老師だった、死体だ。

「ある意味、この人が一番驚いたかなぁ。だって、銃を構えたまましばらく動かないと思ったら、なんとそのまま死んでいるんですもの。もしかしたら御寿命だったんですかねぇ。だとしたら、ある意味一番羨ましい死に方だ。掃除も楽だったし、言うこと無し!」

 静かに、安らかに目を閉じて、しかし他の死体と同じく、汚水に塗れた死体。
 それは、長老とビアンキが呼んだ、ビアンキの師匠だった男の、死体だ。

 そこに、五体の死体が並んでいた。
 ほとんどは、生の中途で、望まざる死を強制された死体。
 そして、ビアンキが知っている人間の死体ばかりだった。

「……これが、大統領の遣り口か……!」

 我に返ったビアンキは、噎せ返るような死臭の中、憎悪の籠もった声で呟いた。
 
「よかろう、ならばわしも殺すがよい!死して後も怨念となりて、貴様らの首元に齧り付いてくれるわ!」
「老師、ですからね?ワタクシの話を、最後まで聞いて下さいね?」

 テルミンは、五体の死体を前にして、憎悪に燃えるビアンキを前にして、それでもなお楽しげに笑っていた。
 ビアンキは、その顔を見て、己の憎悪が揺らぐのを感じた。
 何者だ、この男は。どうして、五人分の死を前にして、このように笑っていられるのだ。
 老人の頭から灼熱とした思考がすぅと引いていき、残ったのは、亡霊に背を撫でられたような恐怖であった。

「ワタクシが老師に、このように汚らしいものをお見せしたのは、ワタクシ達が色んなものを水に流すのにどれだけ苦労したか、それを分かって欲しかっただけなんですよ。だって、迷惑を被ったのは我々なんですから、少しは労いの言葉とか、欲しいのが人情ってもんじゃありませんかぁ?」
「自分で殺しておいて、よくぞ言ったものよ!」
「ああ、もう、やっぱり分かってくれてないもんなぁ。そういうふうに誤解されると、傷付いちゃうよなぁ」

 テルミンは、悲しげな顔で言った。

「ワタクシ達は、この人達に何の危害も加えていませんよ。ただ、この人達が死にたいって仰るから、どうにかしてくれって仰るから、仕方なくそのお手伝いをさせて頂いただけなんです。そんな、人を殺すなんてとんでもないこと、ワタクシ達がするわけないじゃないですかぁ」

 テルミンは、続ける。

「そりゃあね、自殺をするための銃を貸してあげたり、ロープやら毒薬やらを貸してあげたりはしましたよ?でも、それは、どうしても貸して欲しいって、この人達にお願いされたからなんですよう。その上、死んだ後の処理まで面倒みてあげて。本当、迷惑したのはこっちなんです。どうか信じて下さいなぁ」

 テルミンは、両掌を、自分の目の前で合わせた。
 ぱん、と、間の抜けた音がした。

「このとおり、ね?」

 翳りのない笑みを向けながら、そんなことを言った。
 その笑みを見て、初めてビアンキは気が付いた。
 目の前の男の、へらへらとした笑みの底に、何かがある。
 黒くて、どろどろとして、とぐろを巻いて、すぐにでも飛びかかり、毒牙を突き立てようとしているものが、いる。
 それが何かは分からない。分からないが、それは酷く危険なものだ。
 この男は、それを飼い慣らしているだけなのだ。
 
「……ものは言い様だな」

 ビアンキは、掠れた声で言った。

「なるほど、貴様が言うとおり、彼らは自らの意思で、死を選んだのかも知れん。しかし、そこに追い込んだのが貴様でないと、どうして言える?」

 テルミンは、初めて、お道化のためではなく驚いた表情を浮かべた。
 そして、驚きの顔が、徐々に笑みに近づいていく。しかしその笑みも先ほどまでとは違い、薄ら寒い、底冷えのする笑みであった。

「……ほう。例えば、どのように?」
「知るか、そのようなことは。ただ、おぬしが外道であることを、わしが知っておれば十分よ」

 テルミンは、にんまりと笑った。

「ええ、ええ。まぁ、そういうことで構わないでしょう。例えば、先ほどのテープを聴かせて、これが暗殺を企てた物的証拠だと言い聞かせたり。世の中には、ビアンキ老師、あなたのように聡明な方ばかりではなく、けっこう馬鹿も多いものですからね。このままでは貴方方の名誉も地に落ちる、貴方方を信頼しているたくさんの信徒に迷惑がかかる、裁判にかけられればどうせ死刑だ、ならば不名誉に塗れた後の死をえらぶよりはいっそのこと……。そう囁いてやったら、面白いくらい単純に死んでくれましたよ。いや、本当のところは、長生きしすぎて生きることに疲れていたんですかねぇ。あ、一応言っておきますが、これは例えばの話ですからね」

 くつくつと、乾いた笑い声がビアンキの耳を刺した。
 
「まぁ、あの長老さんだけは、少し違うようでしたがね。あの人は、ある意味ではもっとつまらない死に方だった。あの人はね、ビアンキ老師、大統領の下風に立つのが心底許せなかったんですよ。このまま生きていても、どうせ気にくわない奴の足下に這いつくばって生きなければいけない。それなら死んだ方がましだ。きっとそう考えていました」
「……どうしてわかる、そんなことが」
「決まってるじゃないですか。私は今まで、彼と同じ目をして死んだ人間を、腐るほど見てきたからですよ」

 さらりと、こともなげに言った。
 そして、足下に転がった死体の頭を、革靴の先で軽く小突いて、

「これは全部、事故死で処理します。そうすれば、我々も迷惑しませんし、教団も迷惑しないでしょう。一番丸く収まります。まぁ、教団上層の人間にだけは、事実をあるがままお伝えしますがね。痛くもない腹を探られるのも困りますし。そして、老師としてヴェロニカ教を率いる資格があるのは、ビアンキ老、あなただけになる。ほらね、我々がお話するのは、あなただけでいい。いや、お互いにとって話が早くて助かりますね!」

 いつの間にか、テルミンの表情が、もとの、軽薄なへらへら笑いに戻っていた。

「我々の手の内はこんなところです。どうです、がっかりされたでしょう?」
「……それで、望みはなんだ、言ってみるがいい」
「はい、では遠慮無く。実はね、あなたの手で、老師にしてほしい方が一人、いるんですよ」

 老師に、する?
 てっきり、大統領の傀儡となることを要求されると思っていたビアンキは、意外な要求に言葉を飲んだ。
 そんなビアンキの様子を楽しむように、テルミンは続ける。

「あなたは、守旧派の象徴の一人でもある。そんなあなたが我々に唯々諾々と従う様子を見せれば、人は我々が何か無体な要求を突きつけ、あなたに服従を強いていると思うでしょう。だが、守旧派のあなたが引退し、あなたの意を受けてその後を継いだ若者がヴェロニカ教の指導者となって大統領と和解すれば、人々は世代交代というイメージを真っ先に植え付けられ、それほど悪印象を持たない。ま、つまらないイメージ作戦の一環ですな」

 何ともつまらなそうな調子だ。

「それと、もう一つ。こちらの方が重要なのかも知れませんがね。実は、当人に頼まれたんですよ。是非、あなたから直接、老師の位階へと昇るための秘蹟を授けてもらえるよう、取りはからって欲しい、と」
「……なんだと?」
「ワタクシは、こういうことをもったいぶるのが、あまり好きではないんですよねぇ。なので、ちゃっちゃと終わらせてしまいましょう。そろそろ出てきて頂いて結構ですよ」

 テルミンが振り返り、物陰の方に声をかける。
 ざり、と、靴底が砂利を踏みにじる音が聞こえた。
 そして、ぼんやりとした灯りの中、すらりとした長身の青年が姿を現した。
 ビアンキは、驚かなかった。むしろ、そういう気がしていたのだ。

「こんばんは、先生……と言っても、今日お会いするのは、これで二度目でしたかね」

 ビアンキは激高したりしなかった。
 ただ、いつもと同じような調子で、愛弟子だった男に、話しかけた。

「もう、既に日付は変わっておる。だから、今日、わしとおぬしが顔を合わせるのは初めてだ、テセル」

 ヴェロニカ教の導師の法衣を纏った、痩身の青年が、寂しそうに笑った。

「驚かれないのですか?」
「驚いておるし、信じたくもない。しかし、事の遣り口から考えて、やるとすればおぬしだと、薄々気が付いておった」

 もし、テルミンという男がビアンキ以外の老師を排除したいのならば、わざわざ自決に追い込むという残酷な仕打ちをせずとも、いくらでも排除のしようはある。本当に逮捕し、政治の表舞台から葬り去ってやってもよい。もしくは、秘密裏に殺害することだって別に難しいことではないだろう。
 だが現実に、老師らは巧みに袋小路へと追いやられ、人生にピリオドを打つための弾丸を、自分の手で発射した。死への恐怖に戦きながら、しかし結局は、死よりも恐ろしい何かを回避するために、枯れた指先に最後の力を込めたのだ。そこまで、追い込まれたのだ。
 その、執拗なまでの悪意。それだけが、今もへらへらと笑っている、不気味な男には些かそぐわなかった。
 あの男は、やると決めたら即座にやるだろう。最も早く、最も効果的で、最も労力の少ない方法で。
 ならば、自殺に追い込むなどという、迂遠な方法を取る必然性がない。
 
「私はね、先生。本当に、あの連中が大嫌いだったのですよ」

 ビアンキは、何も言わなかった。

「あなたを罵倒する、聞くに堪えない雑言もそう。ヴェロニカの神の力を己の力と履き違える、傲慢さもそう。口ばかり達者で、何一つ為すことの出来ない愚鈍さもそう。とにかく、何一つを認めることもできなかった。あれは、生きていても百害あって一利無しの害虫だ。ならば、己の名誉欲に相応しい死に様をくれてやろうと、そう思ったのです」

 テセルは、薄ら笑いを浮かべながら、言った。

「冷静に考えれば、たったあれだけの証拠で自分達の身が破滅するわけがないと、わかりますよ。普通の人間ならね。しかし、彼らにはわからなかった。肥大化した自尊心がそうさせたんです。老化した脳細胞がそうさせたんです。だから彼らは、道を誤ったんです。そして、生きていれば、きっと、もっとたくさんの人を巻き添えにして、道を間違えたでしょう。そしてその間違えた道の行く先に、断崖絶壁がないと、どうして言えますか?」

 ビアンキは、愛弟子の言葉を、黙って聞いていた。

「だから、己に相応しい死に様を選んで頂いた。先生、私は何か、間違えていますか?」

 ビアンキは、首を横に振った。

「テセル。お前は正しい。本当に、正しい。お前は、正しいことをしたのだ」

 老人は、どこまでも寂しそうな顔で、言葉を話した。
 言葉ではなく、その表情が、老人の心根を、愛弟子へと伝えていた。

「だが、正しいテセルよ。お前の言うことが本当に正しかったならば、どうしてそのようなつまらない人間のために、お前のその手が汚れる必要があったのだろうか。わしは、そのことだけが、どうしても残念でならないと思うよ」

 老人は、この短い時間に、十歳も年を取ったように見えた。
 そんな老人を真っ正面から見て、テセルは言った。

「先生。私はあの時、先生が私に奥義を授けて下されば、先生と一緒にヴェロニカ教を改革していこうと考えておりました。しかし、現実はこうなりました。もう、私も引き返すことはできません。どうか先生、あらためて私に奥義を伝授いただき、その後は静かな余生を過ごして頂きますよう」
「断れば、如何するか」
「断りませんよ、先生は。何故なら、私に奥義を授けないままあなたが──この世でたった一人、ヴェロニカ教の奥義を知るあなたが死ねば、ヴェロニカ教の真髄がそこで途絶えてしまうからです。あなたは、きっとその罪悪感に耐えることが出来ない」

 テセルは、真っ正面の視線で、そう言った。
 ビアンキは、苦笑した。まったく、この弟子は、どこまでも師匠によく似ている。そして、ついにはその思考まで追うことが出来るようになったらしい。
 これは、きっと喜ぶべきことなのだろう。何せ、弟子が師匠に追いついたのだ。先を生き人を導く人間にとって、これほど嬉しいことはないはずだ。
 ああ、そうだ。これは、喜ぶべき事なのだ。

「では、ヴェロニカ教の真髄などどうでもよい、奥義などわしの代で途絶えさせても一向に構わぬと、そう言えば?」

 ビアンキの問いに対して、テセル、少しも惑うことなく、

「ならば、先生 に近しい人間を、一人ずつ殺していきます。考えられ得る最も残虐な方法で拷問し、声が果てるまであなたの名前を泣き叫ばしてから、殺します。まず手始めに、あそこで眠っている少年から殺しましょう。先生さえよろしければ、今すぐにでも始めましょうか」

 テセルは、屈強な男に担ぎ上げられた、憐れな少年僧を指さしていた。
 その揺るぎない様子を見て、ビアンキは、微苦笑を浮かべた。
 まったくもって、この弟子は自分とよく似ている。もしも昔の自分がテセルと同じ立場に立てば、おそらくは全く同じ行動と思考をしていたであろう、自覚があった。
 ビアンキは再び、テセルの瞳を覗き込んだ。
 そこは、ヴェロニカ教への情熱と、明日への希望で燃えていた。ただし、その炎は情熱に燃えさかる赤ではなく、自分と他人とを焼いて厭わぬ青炎である。
 止める術は、ない。きっと、この青年は、どこまでも走り続ける。
 ならば、走り続ければいい。走って走って走って、走り狂った先に、存外、答えはあるのかも知れない。自分の足の届かなかったどこかへと、この青年ならば辿り着けるかも知れない。
 老人は、そう思った。否、そう思い込もうとした。そう思い込むことで、罪悪感から逃れるための蜘蛛の糸としたのだ。

「わかった、テセル。今、この場にて、おぬしにヴェロニカ教の奥義を伝えよう。そうすれば、おぬしは導師から老師へと階位を昇り、名実ともにヴェロニカ教の指導者としての資格を得ることになるだろう」

 老人は、過去から連綿と受け継がれてきた奥義が、自分の代で失われるのを恐れたのではない。
 名も知れぬ少年僧が、自分の意固地のために死ぬのを、恐れたのではない。
 もう、全てに疲れていたのだ。そして、背に負った荷物を、誰かに預けたくなった。
 それだけだった。

「人払いを」

 老いたビアンキが、縋り付くような声で、テルミンへと言った。
 テルミンは、薄ら笑いを浮かべながら、首を横に振った。

「その必要はありませんよ。ワタクシは、全てを知っているのですから」

 その言葉を聞いて、テセルは怪訝そうな顔をしたが、ビアンキは深く納得した。
 この男は、あのアーロン・レイノルズの懐刀なのだ。そして、あの誘拐事件にも、深く関わっている。ならば、全てを知っていない方がおかしいのか。

「しかし、全てを知っているからといって、別にここにいなければならない理由にはなるまい。席を外して頂けると、有り難いのだがな」
「まぁまぁ、どうぞお構いなく。ワタクシはね、あなたの話す内容については、ある程度の推論は持っていますよ。おそらく、それは事実と言い換えても何ら遜色ないものでしょう。ただね、あのようにくだらない内容の事実を、あなたが、どのような表情でお弟子さんにお教えするのか、それだけは、ほんの少しだけ興味があるのです」

 テルミンの顔に浮いたサディスティックな色香を見て、ビアンキは、説得の無駄を悟った。

「では、他の者は……」
「それこそ、ただの木石か何かと一緒に考えて頂ければ結構ですので、お気になさることのないよう、お願いします」
「しかし……」
「ワタクシが先ほどまで、何故ああも得意げに、秘密話を語っていたと思いますか?これらはね、ワタクシが話すなと命令したことは、絶対に話しません。いや、話せません。それこそ、物理的に口を引き裂かれても、舌を引き抜かれても、ね」

 くすくすと、テルミンは笑った。
 承伏しがたい表情をしていたビアンキだったが、程なくして頷いた。どういう理屈かは知らないが、この男が言うならば、それは事実なのだろう。ビアンキは、そう考えるようになっていた。
 そんなことより、もう、休みたい。ベッドに入って、いや、コンクリートの上でも一向に構わないから、ただ、横になって、休みたい。
 そして、もう二度と、目を覚まさないように。
 ビアンキは、ただ、それだけを願っていた。

「では、我が弟子よ。心してお聞き」

 テセルの細い喉が、ぐびりと蠢いた。
 ビアンキは、淡々とした調子で、言った。

「ヴェロニカの奥義は即ち、ヴェロニカ教の真実であり、その成立の経緯についての子細である。そして、ヴェロニカ教の、その教えの真実は……」
「ヴェロニカの、真実は!?」

 隠しきれない興奮で頬を赤らめたテセルが、大きく身を乗り出した。
 そして、ビアンキは、あっさりと言った。

「ただの、するな話だよ」

 テセルは、ぽかんと口を開けたまま、固まってしまった。
 その後ろで、くつくつと、テルミンが笑っていた。

「ああ、失礼。別に悪意があったわけではありませんよ。ただ、つい笑ってしまっただけですので」

 ビアンキは、努めてテルミンの言葉を無視した。
 そんなビアンキに、硬直を解かれたテセルが、食いつくようにして問うた。

「せ、先生。それはいったい、どういう意味でしょうか。何かの暗喩ですか、それとも暗号、謎かけ?」

 テルミンは、慌てふためくテセルの様子を見て、口元を手で隠しながら笑った。
 ビアンキは悲しげな顔で、首を横に振った。

「違うのだ、テセル。これは、本当に、言葉のままなのだ」
「言葉の……まま、とは……?」
「転んで怪我をするから、廊下を走るな。夕飯が食べられなくなるから、おやつを食べ過ぎるな。母親が幼児に向けて、そう言って注意をするだろう。あれと同じだ。ヴェロニカ教は、ただ一つの注意事項を伝えるためだけに、自然との調和を保つだの、神の愛だの、聖女だの、ごたごたしい錦の飾りを付けているに過ぎん。だが、その本質を辿るならば、それはただのするな話へと帰着する。それが、おぬしが生涯を捧げて到達しようと熱望した、ヴェロニカ教の真実であり、奥義だ」

 テセルが、呆然とした顔のまま、首を横に振った。
 まるで人形のような表情で、まるで人形のような顔色で。

「すみません……。どうやら、私の頭は、思ったよりも悪いらしい……先生の仰っている意味が、よくわからない……」
「……自然との調和を保つために、それとも神の愛が故に、獣肉や野の青果を食してはならないのでは、ない。全く正反対だ。獣肉を食してはならないから、野の青果を食してはならないから、その理由として、自然との調和だの神の愛だのが選ばれたのだ。食ってはならない理由として、誰もが納得するような理由が選ばれた、それだけの話なのだ。そうして、ヴェロニカ教は成立した。この星に住む如何なる人間も、肉を食わないようするために、野の青果を食わないようにするために」
「それ……だけ……?」
「もう一度言うぞ、テセル。この星に、聖女ヴェロニカなどいなかった。当然、神もいなかった。自然との調和を保つという理想も、存在しなかった。全ては、ただ食うなと、その一事に権威を付加するために作られた、まやかしなのだ。虚像なのだ」

 それはあたかも、聖顔布という聖遺物がまずありき、その後に聖女ヴェロニカという人格が付与されて、一つの奇跡譚が生まれたように。
 『食うな』という単一の指令を徹底させるために、戒律という最も重たい足枷を付与しようと意図し、そのために教義が、そして宗教が生まれた。
 本末の転倒。因と果の逆転。実質と形式の反転。
 これが、ヴェロニカ教の真実であり、そして奥義であったのだ。
 
「そんな……」

 テセルは、かくりと膝を折り、地面に跪いたままの姿勢で、神に助けを求める信徒のように、ビアンキに縋り付いた。
 ふるふると、唇が、細かく震えている。
 突然、ビアンキに掴みかかり、唾を吐き散らしながら大声で喚いた。

「いや、違う!先生は、先生は嘘を吐いている!ヴェロニカ教の奥義は他にあり、私を煙に巻くために、そのような世迷い言を……!」
「違う!違うのだ!だからテセルよ、わしはあの時、おぬしに奥義を伝えることができなかった!おぬしが誰よりもヴェロニカ教に対して真摯であるが故に、これほど残酷な事実を伝えることが、出来なかったのだ!」
「では、何故食ってはいけない!神が嘘なら、愛が嘘なら、なぜ肉を、青果を食ってはいけないのだ!言ってみろ!言えるものなら言ってみろ!」

 ビアンキが、精一杯に叫んだ。

「食えば、死ぬからだ!」

 テセルが、固まった。

「……食えば……死ぬ?」
「……そうだ。伝説にあるだろう。肉を食い、乳を飲み、野生の青果をもぎ取った者は、手足を石のように強ばらせ、舌は言葉を失い、口から胃の腑を吐き出して、死んだ、と。あの伝説だけは、完全な事実なのだ。だから、誰もそれらに手を出さないよう、仰々しい伝説を作り、禁忌を作り上げ、厳重に封をした。それが事実だ」

 テセルの総身から力が抜け、前に倒れていくのを、ビアンキは、その痩せた両腕で抱き止めた。
 テセルは、悪霊でも抜け落ちたかのように、すとんと師匠の胸に納まり、そのまま、消え入りそうな声で呟いた。

「では……ヴェロニカに、神は……」
「おらぬ。もとより、この国に神はおらぬのだ」
「自然との……調和……理想……」
「理想など、ない。調和も、もとより考えておらぬ。これは、ただ生き抜くための術よ。その集大成よ」
「……真理……」
「……そんなものは……どこにも……ない……ないのだ……!分かれ、テセル……!」

 テセルは、ぶつぶつと何事かを呟き、ついに何もしゃべらなくなった。
 目は虚ろで、瞬き一つしない。
 それは、テセルであって、テセルではないものだった。
 テセルという個人を人間たらしめていた、自負、自尊心、知識、社会的地位、それらを含んだ、もっと大きいもの。その一切合切が、全て、水泡に帰したのだ。
 額に汗して稼ぎ、爪に火を灯す思いで貯め込んだ全ての財産が、ガラクタだと知らされた。
 酒を飲まず、享楽を味あわず、愛する人を作らず、子を成すこともなく、およそ人の求める全ての幸せに背を向けて、積み上げてきた財産が、全てガラクタだと知らされた。
 テセルの中の、致命的なものが、決定的なまでに、崩壊したのだった。そうすることで、テセルの体は、辛うじて生にしがみついているのだ。
 ビアンキは、愛弟子の体を、強く抱きしめた。今、目の前で何とか生きている青年は、数十年前、老師から奥義を伝授された直後の、自分だったからだ。
 これでテセルは、自分と同じになるのだろう。神への信仰でぱんぱんに膨れあがっていたテセルの内側は、何ものも含まない暗黒へと姿を変えるのだろう。一寸の光も差し込まない、暗黒へと姿を変えるのだろう。
 ここに、また、ビアンキが、生まれた。いや、ヴェロニカ教の老師が、生まれたのだ。
 そして、また、生まれるのだろう。いずこかの前途あるヴェロニカ教徒が、その身の内の熱き理想を、冷たい暗黒へと変える日が、来るのだろう。
 ああ、憐れなテセルよ。老人は、力を限りにテセルを抱きしめた。しかし、テセルの体に力が戻ることは、二度となかったのだ。
 テルミンの笑い声だけが、高らかに、どこまでも高らかに、廃屋の中に響いた。

「ああ、おかしい!たったこれだけの事実を知らされた程度で、人は斯くも脆く崩れ去るのか!ああ、これが人の弱さか!くだらん、実にくだらん!そして滑稽だ!これぞ、最高の喜劇だ!きみたちは、最高の役者だ!ありがとう、よくぞここまで笑わせてくれた!できればきみたちに、労いの花束でも贈りたいところだよ!」

 笑いに途切れ途切れさせながら、テルミンはそう叫んだ。
 腹を抱え、体を折り、息も絶え絶えに、笑った。笑って、笑って、笑った。
 
「ああ、もう、うるせぇなぁ。おちおち昼寝もできやしねえじゃねえか」



[6349] 第五十二話:mimicry
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/01/14 22:52
「ああ、もう、うるせぇなぁ。おちおち昼寝もできやしねえじゃねえか」

 ぼそりとした呟きが、不思議なほどはっきりと、廃屋に響き渡った。
 自我崩壊を起こした青年以外の、この場にいる全ての人間の視線が、一点に集中した。
 視線を向けられた男が、少し慌てた様子で、肩に担いだ荷物を見た。
 だらりと力なく投げ出され、軽々と担がれた、ほっそりとした体。屈強な男の体格と比べれば、あまりに頼りない。
 その体が、さも不快そうに、もぞもぞと動いた。

「ああ、苦しいったらねえな」

 男は、ぎょっとして、自分の右脇あたりにある、気を失っていたはずの荷物の顔を確かめた。
 そして、正しく目が合った。
 荷物は、少年僧は、ぎらぎらとした名状しがたい視線で、男を睨み付けて、笑っていたのだ。

「おい、おっさんよう、お前、たんまりと銭の方はもってるんだろうなぁ。いつまでもベタベタと、あたしの体を、穢れない乙女の体をまさぐったんだ。こいつは高くつくぜぇ」

 少年僧が、愉快げに言った。
 一番驚いたのは、その体を担いでいた男である。
 普通人間というものは、一度意識を失えば、覚醒する際に、何らかのシグナルを発するものである。呻き声を上げる、体を捩る、それとも呼吸のリズムを乱す等々。
 だが、この少年僧は、そういった兆候を一切見せることなく、突然に目覚めたのだ。まるで、擬死行動を取っていた、野の獣のように。
 慌てた男は、反射的に肩に担いだ荷物を、地面へと下ろした。そして、自分達の司令官であるテルミンに対して、目で指示を求めた。
 テルミンは、興を削がれた表情で、面倒くさそうに言った。

「何をしているのですか、さっさと眠らせなさい。まぁ、別に殺してしまっても構いませんがね」

 上官の指示を受けた男は、何のためらいもなく、手足を縛られたまま床に転がされた少年僧に飛びかかった。
 男は、少年僧を殺そうとしたのではない。ただ、もう一度眠ってもらおうとしただけだ。
 そのためには、首を締めて落とすのが一番簡単で、効率的である。
 ようやく上半身を起こした少年僧の後ろに回り込み、丸太のように太い腕を、細い首に巻き付ける。
 手足の利かない少年僧に、為す術などあるはずがない。顎を引き、のど元を隠すことで、首を直接絞められることを何とか防いだが、それだけだ。
 抵抗とも呼べない、抵抗。
 そして、その程度であれば、いくらでもやりようはあるのだ。
 首を絞めようとしている方とは違う、もう一本の手で、少年の鼻の穴に指を突っ込み、強引に持ち上げてやる。そうすれば、いつまでも顎を引いていられるはずがない……。
 そこまで考えた男の脳裏は、赤く爆発する光に思考の全てを奪われた。

「ぎゃあぁぁっ!」

 全員の聴覚を、苦痛に満ちた男の叫びが奪った。
 男は、少年僧の体から離れ、コンクリートの床をごろごろと転げ回っていた。まるで、生きたまま焼けた鉄板の上に載せられた、蛇のように。
 脂汗を満面に浮かべた男は、左手で、右手の二の腕の半ばあたりを押さえていた。そこは、ちょうど、少年僧の顎を押さえたあたりである。
 満身の力の込められた左手、その下から、どろりと、大量の赤い液体が流れ出した。

「こっ、ここ、こいつ、こいつ、かみちぎりやがったぁぁ!」

 甲高い、大の男のものとは思えない悲鳴である。
 それは、苦痛に精神を屈服させられた、人間の声だ。

「あーあ、これじゃあ、体を汚された慰謝料には、ちっとばかり足りねえぜ、おっさん。あとで追加分はきっちり払ってもらうから、覚悟しとけよ」
 
 からからと、愉快げな声で、少年僧は笑った。
 その、三日月のように歪められた口元が、べったりと、やはり赤い液体に濡れている。
 もごもごと口を動かした少年は、地面に、赤黒い固体を吐き出した。
 一部に、白い、軽石みたいなものが付着した、それ。
 骨ごと囓り取られた、肉の塊であった。
 手足を縛られたまま難無く立ち上がった少年は、後ろ手に縛られていた両腕を、器用に跨いで、体の前面に持ってきた。
 そして、血にまみれた口を、もう一度、あんぐりと開く。
 血と唾液の混じった粘着質な液体が、前歯と前歯に糸を架けていた。
 少年は、そのまま、己の両手を縛った、太い麻縄に噛みついた。
 一瞬の抵抗もない。
 ぶちり、と、乾いた音が鳴って、麻縄は噛み千切られていた。

「ちくしょう、最近は、なんか不味いもんばっか食ってる気がすんなぁ。帰ったら、お姉様にはたんまり弾んでもらって、ちっとは精のつくものを食わなきゃ、自慢の牙が腐っちまうぜ」

 少年僧は、噛み千切った麻縄を、さも不味そうに吐き出した。
 全員が呆気にとられて、少年の、自由になった両腕を見ていた。
 あり得べき話ではない。丈夫な麻縄に思い切り噛みつけば、折れるのは歯の方である。人の歯は、そこまで丈夫には作られていないのだ。
 なら、この少年僧は何者か。
 その場にいた全員のうちで、一足先に我に返ったテルミンが、声を限りに叫んだ。
 
「何をしている!さっさとそいつを殺せ!」

 弾かれたように、その場に居合わせた男達の全員が、懐から銃を抜いた。
 そして、響き渡る銃声。

「ぐあぁ!」

 悲鳴は、野太い男のものであった。
 男のうちの一人が、太股を撃ち抜かれて、床に崩れ落ちていた。

「銃撃か!」
「どこからだ!」

 集団の注意が自分から離れた、一瞬。
 少年僧は、すでに懐から小さな刃物を取り出して、自分の両足を縛り付ける戒めを切り裂いていた。

「ようし、ナイスアシストだクソチビ。愛しのお姉様が褒めてやるぜ」

 少年僧の呟きを、誰が聞いていただろう。
 男のうちの数人が聞いていたとしても、それは即座に頭蓋の外に叩き出されることになったに違いない。
 両手両足の自由を取り戻した少年が、近場にいた男の数人を、ほぼ同時に殴り倒し、蹴り飛ばしていたからだ。
 冗談のように吹き飛ぶ人間の体を見て、銃撃のほうに意識を囚われていた男達は、こちらも尋常ではない脅威だと悟る。
 だが、正体不明の狙撃手と、目の前の少年、どちらに対応すべきなのか。銃撃を防ぐために散開し、物陰に隠れるべきなのか、それとも、この少年を一斉に取り囲んで制圧、ないし殺害するべきなのか。
 辺りは、大混乱になった。
 数的優位で言えば、圧倒的に男達が勝る。
 しかし、建物の外から狙撃され、平常心を失ったところに、常識外れの戦闘力を有する少年僧が暴れ回ったのだ。冷静に対処出来るはずがない。
 
「おい、やめろ、撃つな!同士討ちになるぞ!」
「馬鹿を言うな!じゃあ、どうやってあの化け物を……ぐああ!」
「ちくしょう!どこから狙っていやがる!」
「誰かを建物の外に向かわせろ!だいたい、見張りの連中は何をやっていやがったんだ!」
「それよりも、この化け物をなんとかしてくれぇ!」

 怒号と銃声が響き渡るが、それも長い間続かなかった。
 死屍累々の倉庫の中で、最後に立っていたのは、ついさっきまで力なく荷物のように担がれていた少年僧ただ一人であった。しかも、二十人を越える屈強な男達を薙ぎ倒しておいて、息の一つも乱した様子がない。
 まだまだ、十分以上に余力を残している。
 テセルを庇い、ずっと地面に伏していたビアンキは、辺りが落ち着いたようなので、そっと顔を起こした。
 そして、寝所にて自分の世話をしてくれていた、少年と目を合わせた。

「き、きみは、いったい……」
「ああ、悪い、ちょっと待ってくれよ、じいさん……かぁっ、ぺっ!」

 少年僧は、盛大に喉を鳴らし、行儀の悪い様で、地面に向かって痰を吐き出した。
 だが、吐き出した痰が地面とぶつかって鳴らしたのは、液体の音ではなく、金属質な、カチャリという音である。
 少年は、痰の中から小さな機械をつまみ上げ、服の袖でごしごしと拭いて、懐に入れた。

「へへっ、捨てていくのはもったいねえもんな」

 嬉しそうな呟き声は、すでに少年のものではない。
 それは、年若い少女のものであった。
 呆気にとられるビアンキの前で、少女の声をしたその人物は、頭に巻いた布を解き放った。
 ふわりと、驚くほどの量の髪の毛が、土埃と硝煙に塗れた空気の中に舞い上がる。
 薄暗がりでも、ビアンキは、その髪の美しさには目を見張らざるを得なかった。
 長身の少女、その腰まで届く真っ直ぐな金髪。まるで、少女の背後を飾り付ける豪奢なマントのようではないか。
 少女は、懐からヘアバンドを取り出して、髪を全て、後ろに流した。そうすると、少女の整った顔立ちがビアンキの目にも明らかになった。

「あたしの名は、メイフゥ。美しい虎って書いて、メイフゥだ」
「メイフゥ……」
「そっ。あんたが今日の……あ、もう昨日かね、昼間に会った、でっかい女の人の、一味だよ」

 ビアンキは、突然に来訪し、自分への面談を求めた、赤毛の女性のことを思い出していた。
 自分を正面から射貫く、あの青灰色の瞳。燃えさかるような赤毛。並の男など、はるか頭上から見下ろせるほどの体格。
 どれをつけても、棺桶の中に入るまで忘れられないような、鮮烈な印象を残す女性であった。
 だが、それだけではあるまい、と、ビアンキは確信している。
 あの女性の外見的な特徴などは、その内側に隠し持った何かを隠すための、ヴェールに過ぎないのだろう。あれは、そういう存在だ。
 そして、おそらくは目の前の少女も。

「……そうか。きみは、ジャスミン・クーア女史の、御友人か」

 メイフゥは、頬の辺りを指先で掻いた。

「友人っていうと、なんだか面映ゆいね。あたしは、あの人に憧れて、ちょこちょこ後ろをくっついてるだけみたいなもんなんだし。あの人に、いつかはそう紹介してもらえたら、嬉しいんだけどなぁ」

 照れくさそうに言うメイフゥを、ビアンキは微笑ましく眺めた後で、

「……では、さぞかしわしを軽蔑しているであろうな」

 暗く落とした声に、メイフゥが首を傾げた。

「軽蔑?なんで?」
「知れたこと。きみは、先ほどのテープを、全て聴いていたのであろう?わしは、あの女性との会談の全てを黙って録音し、あまつさえ草の者を……工作員を送って、その身柄を拉致せよと指令したのだ。到底、許されることではあるまい。だが、ここに誓う。必ず、あの方の身柄は即座に解放させる。無論、この星にこれ以上とどまって頂くわけにはいかぬが、無事に彼女の故郷まで送り届けさせること、ここに約そう」

 メイフゥは、名状しがたい表情を浮かべて、曲がった首をさらに傾げた。

「……どうやって?」
「……どうやって、とは異な問いを。具体的に身柄を、どのように解放させるか、か?それは、わしの全責任において、必ずや……」
「いや、そうじゃなくてよ、捕まってもいない人間の身柄を、どうやって解放するのかと思ってね」

 今度は、ビアンキの眉が顰められた。

「……それこそ、どういう意味だね?もう、だいぶ前に草の者は放たれたのだ。であれば、とうに彼女は拘束され、いずこかに監禁されているはずだが……」
「ああ、そういうこと!」

 メイフゥは、喉に刺さった小骨が取れたように晴れ晴れとした顔で、ぽんと手を合わせた。

「それならちっとも心配するこたぁねえよ、じいさん。あんたの部屋に行く前に、お姉様から連絡があってさ。よくわからない連中が押しかけてきたから、けつ引っぱたいて説教して追い返したってよ。やっこさんら、けつが腫れてしばらくは使い物にならねえかも知れないから、謝っておいてくれって言われてたんだ。わりい、すっかり忘れてたよ」

 合わせた手を顔の前に持ってきて、片目を瞑った。
 どうやら、謝罪の仕草らしい。
 だがビアンキは、少女の仕草などに気を配る余裕はなかった。
 年甲斐もなく、あんぐりと口を開けて、目をまん丸にしている。

「草の者を……ヴェロニカ教が誇る熟練の工作員を、追い返した……?殺すこともなく、尻を引っぱたいて?」
「まぁ、少しやり過ぎたとは言ってたけどね。あの人がやり過ぎたって言ってるんだから、多分尾てい骨に罅くらいは入っていると思うよ。あと、じいさんに、お姉様から伝言」

 ビアンキは、呆然とした表情をあらためた。
 今度こそ、自分の卑劣を糾弾する言葉が投げかけられると思ったからだ。
 別に、不満は覚えない。むしろ当然である。自分を信頼し、たった一人で、しかも武器を帯びることなく訪ねてきてくれた女性を、自分は、裏切りをもって報いたのだ。
 だが、メイフゥの言葉は、ビアンキの予想を完全に裏切ったものであった。

「えぇっと、何だったかな……そうそう、たしかこうだ。『あなたがたの身内を痛めつけてしまい、申し訳ない。だが、一人暮らしの女性の家に多数をもって押しかけるあたり、そちらにも相応に非がある以上、勘弁して頂けるとありがたい。今後はお互いのためにも、工作員を派遣するのであれば、事前に連絡していただけると嬉しい。そうすれば、必要以上に彼らを痛めつけることもないと思う』だってさ」

 先ほどまで呆然としていた老人は、今度は愕然とするはめになった。
 自分達が手塩をかけて育てた凄腕の工作員を、たった一人で撃退しただけではなく、それを謝罪してくるとは。
 これがただの皮肉であれば理解の範疇だが、おそらくはそうではないだろう。あの女性は、草の者程度の連中では、それを脅威とすら考えてくれないのだ。寧ろ、必要以上に痛めつけてしまったことに、罪悪感を覚えるほど、彼我の実力はかけ離れたものだったのだ。
 もう、真剣に罪悪感を覚えている自分が馬鹿馬鹿しくなったビアンキは、背を細かく震わして、笑いの衝動を堪えていた。

「では、きみはどうなのだ。自分の尊敬する方を拉致しようとしたわしを、軽蔑したりはしないのか」
「軽蔑って言うか、可哀相だとは思うね。だって、平時ならいざ知らず、臨戦態勢のお姉様だぜ?あんなの、機甲師団一個小隊用意したって、到底相手にならねぇよ、多分。今のお姉様を監禁しようとしたら、そうだな、直径30メートル、厚さ1メートルの超合金製のでっかいお椀を用意してさ、今いる家ごと、上からかぶせちまうくらいしかねぇんじゃねえの?それでもあの人には、自分が監禁されているっていう自覚はないんだろうけどなぁ」

 手を組み、再び首を傾げながら、何とも真面目な口調でメイフゥは言った。
 そして、さばさばとした様子で続ける。

「連中が、殺すつもりで来なかったのが幸いしたね。あの人は、自分を殺すつもりの人間には容赦しないよ。でも、まぁ、自分を傷つけるつもりのない人間が来たんなら、手加減できる相手なら一応手加減するんじゃないの?ついでに言うとさ、あのとき、お姉様もちゃっかり録音用のレコーダーは隠し持ってたんだぜ。それに、あたしとあたしの弟が、何かあったときのために、建物の外に控えてたんだ。携帯用のロケットランチャーとサブマシンガン構えてな。で、あたしはそのまま残って、こっそりあんたの寝所に潜り込んだってわけさ」

 その言葉に、ビアンキは破顔した。
 これが愉快でないわけがない。あの女性は、自分は一人で来たと言っていたのだ。何の躊躇もなく、そう言ったではないか。
 なるほど、騙していたのは自分だけではない。彼女も、打つべき手は打っていたということか。
 清々しい、夏の涼風にも似た感情が、ビアンキの胸の内を吹き抜けていった。

「そうかそうか、なるほど、それがあの女性の正体か!このビアンキ、ついに耄碌したわ!今の今まで、一度足りとて人の底を見通せなかったことなど、なかったというのにな!」

 腰を折って笑うビアンキを前にして、

「それは違うんじゃねえかな」

 メイフゥは、そう呟いた。
 これを聞いたビアンキ、笑いを収めて問うた。

「メイフゥくん、それはどういう意味だね?」
「あんた、お姉様のこと、好きだろ?」

 少女の放った剛速球のような質問は、老練手管を誇るビアンキもかわしきることが出来なかった。
 正面から、真剣な調子で答えた。

「ああ、好きだとも。願わくば、あと50年、いや、60年早く出会っていたかったと思うほどに」
「なら、あんたはお姉様に、捕まって欲しくなんてなかったのさ。だから、その程度の人間しか派遣しなかったんだ。そして、絶対に傷つけるな、なんて、連中の手足を縛るような指令まで出してね。違うかい?」

 ビアンキは、あめ玉を飲み込んでしまったような顔をした。
 それから、少しずつ、笑みに近い表情を浮かべ、最後にそれは自嘲の笑顔に落ち着いた。

「買いかぶりだ。わしは、ただの卑怯者だよ」
「……まぁ、自分のことは自分では分からないっていうしね。じいさんがそれでいいなら、それでいいんじゃねえの?とりあえず、あんたが可哀相だってのは取り消しとくよ」

 メイフゥは、あくまであっさりとした調子だった。

「でもさ、じいさん。あたしは、やっぱりあんたのことは軽蔑しようとは思わないけど、でも、不思議な人だとは思うよ」
「不思議、と。それはいったい?」

 ビアンキは、猫かなにかと戯れるような気持ちで、目の前の少女と話している自分に気が付いた。
 この少女の、先ほどまでの暴れっぷり。そして、男の肉を食いちぎった、血塗れの顔。今だって、その口元は、べったりとした人血で鮮やかな様子だ。
 どう考えても、普通の少女ではない。そして、その牙が、今度は自分の喉元に突き刺さらないなど、どこにも保証はない。
 だが、この少女──危険な何かをまだまだ隠しているであろうこの少女のことも、ビアンキは好きになってしまっていた。

「だってさ、あんた、お姉様より、あそこに並んだ連中のことが、好きなんだろう?」

 メイフゥは、こともなげに、無惨な死体と変わり果てた、五人の老人を指さした。
 ビアンキは、言葉を飲んだ。

「あんた、お姉様のことが好きなのに、お姉様には頼らずにさ、あの連中に頼ったじゃないか。自分ではかたのつけられない面倒事抱えてさ、お姉様が何とかしてやるって訪ねてきてくれたのに、それに頼らず、頼ったのがあのしわくちゃのミイラみたいな連中だろう。それが、あたしには不思議で不思議でたまらねえのさ」

 メイフゥの言葉に、ビアンキは、喉から絞り出すような声で答えた。

「……わしには、守るべきものがあった。守るべき立場があった。それらは、決して軽いものではないのだ。だから、あの時、全てをクーア女史に打ち明けるわけにはいかなかった。そして、今後も、あの方を頼るつもりはない」
「ふーん。背負ったものが大事ってわけかい。でもさ、あんた、ずっとそれを下ろしたがってるじゃないか。だから、その兄さんにも、教えることができなかった。その兄さんが、自分と同じ苦労を背負うのが不憫でしかたなかったから。違うかい?」

 メイフゥが、次に指さしたのは、ビアンキの傍らで倒れ伏している青年であった。
 自己の外側にある全てを裏切ってまで熱望した、ヴェロニカ教の奥義をついに授かり、そして、自己の内側にある全てに裏切られた、青年である。
 瞼は、閉じられている。どうやら眠っているらしい。
 ビアンキは、せめて夢の世界がこの青年に優しくあってくれるよう、祈らざるを得なかった。

「あたしならさ、自分の背負いきれない荷物を、どこぞの誰かさんが自分に任せてくれって言ってくれるなら、はいはいどうぞどうぞってなもんで放り投げちまうけどなぁ。あんた、どうしてそうしなかったのさ。それが不思議でならねえんだよ」
 
 ビアンキは、答えなかった。
 ただじっと、俯いている。
 メイフゥは、そんなビアンキをちらりと見て、あっという間に興味を失ってしまったらしい。

「まっ、どうでもいいか、そんなこと」

 視線を外されたビアンキは、名状しがたい寂しさを覚えるはめになった。
 別に、自分は何を期待していたわけでもない。慰めの言葉も、暖かい言葉も。逆に、糾弾の言葉も、冷たい言葉も、欲したわけではない。
 だが、この、ぽかんと心に開いた空洞は何なのか。それはきっと、目の前の少女の、若さがゆえの無邪気さがつけていった爪痕に違いなかった。

「少しおしゃべりが過ぎたぜ。それより、あたしにはもっと大事な役目があるんだった」

 先ほどまでビアンキと話していた少女とは同一人物とは思えないような、血塗れの顔で笑った。
 
「おい、死んだふり、してるんじゃねえよ、兄さん。言っとくがよ、あたしはどんなに暴れ回ったって、自分がぶん殴った男の顔は忘れねえんだ。あたしは、あんたに指一本触れちゃいない。なのにあんたが伸びちまってるのは、一体全体どういう手品だい?」

 メイフゥの視線は、ぐったりと倒れ伏した男達、その一人に注がれていた。
 その男は、しばらくぴくりとも動かなかったが、やがて、悪びれない調子で体を起こし、少し乱れていたブラウンの髪を、手で撫でつけた。

「中々抜け目のない人ですねぇ、あなたは。」
 
 へらへらと、薄ら笑いを浮かべた男が、いかにも億劫そうに立ち上がった。

「ワタクシはね、とても眠いんですよ。何せ、昨日、一昨日と徹夜で仕事をして、ようやく今日はゆっくり眠れると思ったら、突然呼び出されて、こんな仕事です。もう、何度部下に丸投げしようと思ったことか。それで、あなたみたいな面倒が現れて。どうしてあのまま寝かしつけてくれなかったんですか?」

 眉を寄せ上げて、心底辛そうな顔で言った。
 メイフゥは、獰猛な牙をぎらつかせながら、

「今、精一杯気を張って、ちゃきちゃきあたしの質問に答えるのがいいか、それともこの場で、一生徹夜の心配をしないで済むはめになるのがいいか、てめえはどっちを選ぶんだい?」
「あなたも人が悪いですねぇ、それならそうと、最初から言ってくださいな。そういう条件なら、しっかり起きていますとも。眠いのも疲れるのも、命あっての物種です」

 テルミンは肩を竦めて言った。
 メイフゥは頷いた。

「よし、じゃあ最初の質問だ。てめえが、この星を牛耳ってやがるアーロン・レイノルズとかの太鼓持ちの、アイザック・テルミンとかいう野郎だ。それで間違いねえな?」
 
 テルミンは、不承不承といった様子で頷いた。

「一応、主席秘書官っていう肩書きがあるんですけどねぇ。太鼓持ちっていう呼び方は、少し酷くないですか?」
「てめえみたいになよなよした野郎は、あたしは大っ嫌いなんだ。太鼓持ちって呼び方だって、本物の太鼓持ちの皆さんに失礼ってもんさ。ま、とりあえず本人で間違いないなら、次の質問だ」

 メイフゥの、灰褐色の瞳に、今までで一番危険なものが籠もった。

「てめえらが攫いやがった、ウォルとヤームル、お姉様の旦那のケリーって男は、どこだ」

 背後に、揺らめき立つような殺気を背負ったメイフゥに対して、テルミンはあくまで涼しげに答えた。

「はて?我々は攫うなどという、物騒な真似をしたことはありませんが。それこそ、そこにおわします、ヴェロニカ教の大家様と違いましてね。何かの間違いではありませんか?」
「よし、知らねえってんだな。じゃあ、もういい。てめえは死ね」

 メイフゥが、牙を剥き出し、飛びかかる姿勢を見せた。
 これを見たテルミンは、さすがに焦った様子で首を横に振った。両掌を広げて、顔の前に突き出し、目の前の危険物を押しとどめるような仕草をする。

「いやいやいや、知らないとは言っていないじゃないですか。ワタクシは、攫うなどという野蛮な手段を金輪際使ったことがないと、そう申し上げているだけでございます。ですから、あまり早まった真似をせず、穏便に、ここは穏便に、ね?」

 メイフゥは無言で、相も変わらずのへらへら笑いを浮かべたテルミンに一歩近づき、テルミンの、広げられた掌から生えた指の一本をむんずと掴み、無造作に逆側へと捻った。
 枯れ木の折れたのと同じ、想像以上に軽い音が、何とも間の抜けた調子で、屋内に響いた。

「えっ?」

 左手の小指を、本来曲がるはずのない方向にねじ曲げられたテルミンは、一瞬不思議そうにそれを眺め、それから、声もなく地面に崩れ落ちた。

「ぐぅぅぅぁぁぁぁぁっ……!」

 跪き、神に捧げる供物のように、左手を目の前に捧げている。
 顔には異様な量の脂汗が浮き上がり、口からは絶えず苦痛の呻き声が漏れ出る。目は、相変わらず信じられないものを見たように、驚愕に見開かれている。
 さっきまでこの男が抱えていた余裕の、一片すら感じられない、憐れな様子であった。

「おれの、おれの、ゆび、がああぁぁ……!」
「どうだい。意外とショッキングなもんだろう、てめえの指が逆側に曲げられた様ってのはさ」

 メイフゥは、先ほどのテルミンのように、軽薄なへらへら笑いを浮かべて、楽しげに言った。

「せめてもの情けで、利き腕じゃないほうの、それも小指にしてやったんだ。右手が残ってりゃ、箸も握れるしペンも持てる、マスだってかけるだろう。だが、これから、あたしが少しでもあんたの態度が気にいらなけりゃ、遠慮無く残りの指もへし折るぜ。あんたの両手が前衛芸術のオブジェみたくなったら、次は耳を千切り取る。鼻をもぎ取る。歯を、一本一本、毟り取ってやる」

 ぱきぱき良い音がなるんだ、ありゃ、と言って、メイフゥは堪えきれない笑みを浮かべた。
 そして、その笑顔を見たテルミンの顔が、いっそう青ざめた。
 青ざめながら、苦痛に塗れた声を、歯の隙間から絞り出すようにして、言った。

「……ずいぶんと、使い古された拷問方法をなさるんですねぇ」
「あいにく、こちとら最新式の拷問方法なんてのは知らないんでね。それに、老婆心で言っておいてやるがよ、使い古された拷問ってのは、そのまま有効な拷問ってのと同じ意味なんだぜ」

 しゃがみ込んだメイフゥが、蹲ったテルミンと、同じ高さの視線で呟いた。
 
「そんで、有効な拷問ってのは、いてぇいてぇ拷問ってこった。そこんとこ、十分に理解したかい?」
「……ええ、大変不本意ながら、ね」

 メイフゥは、にっこりと笑った。

「マイナス一点だな。おら、一番折られたい指を出しな。選ばせてやるからよ」
「なっ!?」
「それとも、耳を引き千切られるのがいいかい?それでもいいんだぜ?なぁに、今日日の医療技術はすげえからさ、その気になりゃあまた生えてくる。痛くて、しばらくものが聞こえなくなるだけさ。そっちのほうが好みかい?」

 了解了解と頷いたメイフゥが、そのほっそりとした手を伸ばし、テルミンの右耳を掴んだ。
 途端、テルミンは、耳の裏側、耳と頭部との接着面から、びりっと、布の裂ける音がするのを聞いた。
 そして、灼け付くような痛みと、文字通り灼け付くような熱。
 みちみちと、怖気のする音。ぶつんと、何かが体から離れていく音。
 次の瞬間、どろりと熱い液体が耳道に流れ込んできた。

「ほいよ、プレゼントだ。ホルマリンにでも漬けて、家に飾っておくんだな」

 テルミンの、地に着いた膝の先に、ぽとりと何かが落ちた。
 千切られた、右耳であった。
 テルミンは、もはや一言も漏らさず、がたがたと震える視線を己の耳だったものに送っていた。

「さて、あたしの声が聞こえるかい?聞こえないはずはねえよな、もう一つ耳は残ってるんだから。だからさ、これからも、あんたの耳は万全だって方向で話は進めるぜ。もし、あたしの話を一言でも聞き逃したら、今度こそ指を選ばせるか、それとも鼻をもぎ取る。わかったか?」

 テルミンは、無言で頷いた。
 メイフゥは溜息を一つ漏らし、

「まだルールが飲み込めてないみたいだな。あんた、意外と頭悪いね。あたしの機嫌を損ねたらどうなるか、まだわかってないんだ」

 メイフゥが、無造作に手を伸ばした。

「わかりました!ルールは把握しました!だから、もう止めて下さい!」

 テルミンが、ぼろぼろと泣きながら言った。
 メイフゥは、にっこりと笑い、

「よし、じゃああたしの海よりも広い心に感謝しな。今回だけは、勘弁してやるさ」
「……」
「おや、まだわかってないのかい?」

 テルミンは、弾かれたように頭を下げて、

「あ、ありがとうございます、あなた様の寛容に感謝します……」

 メイフゥは、テルミンの後頭部を眺めながら、無感動に言った。

「よし、ぼちぼちお前さんもわかってきたね。じゃ、さっきの話に戻そうか。それと、顔は上げていいよ。そうじゃないと、話しにくくて仕方ないからさ」

 テルミンは、やはり弾かれたように頭を上げた。
 その目には、もはや落としようのない、怯えの色がこびりついている。

「じゃあ、もう一度質問だ。ウォルとヤームル、それとケリーはどこにいる」
「……その方々は、おそらく、我が主であるアーロン・レイノルズのお住まいに、招かれておるのだと思います。思いますというのは、私も、あの方の為すことの全てを把握しておらぬからです。ですから、全員が全員、絶対にそこにいるかと問われれば、確実であると申し上げることは出来ません」

 涙と鼻水と涎、そして右耳から垂れ落ちる鮮血で、顔をぐしゃぐしゃにした男が、そう言った。
 メイフゥは、頷いた。確かに、この男は嘘を言っていない。

「その中の、一人でも良い。誰か、確実な居場所を知らねえか」
「……」
「よし、話せねえなら……」

 テルミンが、のけぞり、後ろに尻餅をついた。
 そして、小指の折れ曲がった左手を前に出し、メイフゥを必死に遠ざけようとする。

「違います!聞いて下さい!ヤームルという人物、ケリーという人物のことについては、私は知りません!これは本当です!ただ、ウォルという名前には聞き覚えがあります!ありますが、私の知る人物とあなたの仰る人物が同一か、確証が持てなかったから、考え込んだだけでございます!誓って、隠し事をしようとか、そういうことでは……」
「わかった、信じてやる。じゃあ、お前さんのいう、そのウォルって人間は、どんな特徴があるんだい?」
「……少女でした。男性のような名前で、最初はこちらの手違いかとも思いましたが、それは紛れもない少女でした。その少女ならば、大統領のご自宅で、見かけたことがございます」

 どうやら間違いないらしいと、メイフゥは理解した。

「次の質問だ。その大統領のご自宅とやらは、いったいどこにある?」
「レガ教区……この大陸の西部に広がる、ムワヴ山脈の中腹に、中世ヨーロッパの古城を復元した建物があります。その地下牢に、その少女はいるはずでございます」

 メイフゥは、手首に巻いた通信機に、話しかけた。

「ダイアナの姉御、間違いねえかい?」

 通信機から、理知的な調子の、女性の声が返される。

『ええ、確認したわ。確かに、そこに時代錯誤なお城があって、アーロン・レイノルズ大統領の私宅に使われてるみたいね。その点に、嘘はないわ』

 メイフゥは、満足げに頷いた。

「ちなみに、増援の部隊は、いつころ到着しそうだい?」
『あと一時間ってところね。あまり遊ばずに、さっさとけりをつけて頂戴』
「あいあいさー」

 メイフゥは、通信機の電源をそのままにして、再びテルミンへと視線を移した。

「だとさ。つまり、あと一時間はたっぷりとてめえから色々聞けるってわけだ。その間に、指が一本も折れなければいいなぁ」

 テルミンは、悔しげに歯を噛んだ。
 増援部隊を呼んだのは、彼だった。そして、のらりくらりとした会話で時間を引き延ばせば、勝機はあると考えていたのだ。
 しかし、目の前の、少女にしか見えないこの生き物は、そんな甘い考えの通じる相手ではなかったらしい。

「次の質問だ。お前らは、どうしてウォルを狙った」

 観念したテルミンは、淀みなく答えた。

「あの少女は、次の満月の夜に開かれる、ヴェロニカ教の祭事である回帰祭にて、その生け贄を勤めて頂く所存でございました。かの少女は、惑星ベルトランの州知事の娘であり、その高貴な生まれが、大変此度の祭りの趣旨に相応しいと……」
「生け贄だとぉっ!?」

 メイフゥは、無意識に目の前の男の首元をねじり上げていた。
 テルミンは、憐れなほどに狼狽えて、どもりどもり、泣きそうな声で言った。

「暴力は振るわないで下さい!私は、誠心誠意、あなたの質問に対して正直にお答えしているのです!それに対して暴力で報いられれば、今後、私はあなたの質問に対してどのように答えればよいか、分からなくなるではありませんか!」

 なるほど、テルミンの言い分にも一理ある。
 鼻息を荒くして、今にも目の前の男に齧り付きそうだったメイフゥは、掴んだ襟首を放した。
 そして、振り返り、テセルの看護をしていたビアンキに向かって、一言。

「……あんたを軽蔑はしねえけどさ、あんたの背負ってきたものは、よっぽど血生臭い荷物だったみたいだね。今の時代、生きた人間を人身御供に捧げる宗教がこの共和宇宙にあるなんて、あたしはついぞ知らなかったよ」

 ビアンキは、刺し貫くようなメイフゥの視線に、首を横に振ることで答えた。

「知らぬ。いや、これはくだらぬ保身などではない。回帰祭は、本来は神の恵みに感謝し、その御業を讃えるための祭事、決して人身御供を捧げるような、野蛮なものではない」
「ふぅん、じゃあ、やっぱりてめえらが勝手に、ウォルを殺そうとしてやがるってことか」

 テルミンは、青ざめた顔で黙り込んでしまった。
 メイフゥは、次の質問に移った。

「ウォルを生け贄に捧げるってぇことは、その回帰祭とやらが開催されるまでは、ウォルは無事ってことだな」
「……」
「おい、何黙り込んでやがんだよ。お前ら、まさか……」

 メイフゥが、座り込んだテルミンの襟元を再び捻り掴み、そのまま高く持ち上げた。
 男性を含めて勘案しても、なお長身を誇るメイフゥである。その彼女が腕を高く持ち上げたため、テルミンの足は、完全に地面から離れてしまった。
 ぶらぶらと持ち上げられたテルミンが、口元を戦慄かせ、それでも何とか、言葉らしきものを話した。

「い、言います!正直に言います!ですから、どうか、どうか暴力は振るわないでください!」
「……わかった。約束する。だが、そこまで言わなけりゃ、確実にぶん殴られる内容だってことだな」
「……はい、おそらく、私はそのまま殺されていたでしょう」

 鼻の頭に皺を寄せた、今にも鎖を引きちぎりそうな野獣の顔をしたメイフゥが、精一杯の理性を働かせて、テルミンを解放した。
 どさりと、再び床に落っこちたテルミンが、げほげほと咳をして、それから言った。

「……私は、誓って彼女に手を出していません。指一本触れていません。しかし、アーロン・レイノルズの一人息子である、ルパート・レイノルズという青年が、その、なんと言いますか、年端もいかない少女に対して性的欲望を覚える性質の人間でして……」

 どくり、と、メイフゥの心臓が、不吉な調子で跳ね上がった。

「……続けろ」

 これ以上ないというほどの殺気を込められた視線が、テルミンの全身に突き刺さっている。
 テルミンは、精神性の粘い脂汗と、激痛による刺激性の汗で、全身をびっしょりと濡らしていた。

「ルパートという青年の特殊性は、少女を性愛の対象としてみるだけでなく、その、少女の藻掻き苦しむ様に何よりも性的興奮を覚えるという、少々歪んだ性癖にも現れておりまして……」
「……要するに、ロリコンで、しかも極度のサディストの変態くそ野郎が、ウォルに対して好き放題やってやがると、そういうことか」
「は、はい、非常に端的で的を射た表現だと思います。ルパートという人間は、その趣味が高じて、対象の少女を責め殺してしまうことも珍しいことでは……ひぃぃっ!」

 テルミンが、甲高い悲鳴とともに息を止めた。
 それほどに、今のメイフゥの凶相は凄まじいものがあった。これならば、怒り狂った野獣の方が、まだいくらか穏便であるだろう。
 メイフゥは、ぎしりと歯を噛み鳴らした。
 女が攫われたのだ。最悪、そういう事態は覚悟しておくべきだとは思っていた。
 しかし、ウォルは、少なくとも外観だけは、まだまだ幼い少女だ。どれほど美しくとも、普通の男であれば、性的欲望を刺激する要素は少ないに違いない。それに、敵がどのような目的で彼女を拉致したのかもはっきりしない以上、一縷の望みがあるとも考えていた。
 だから、その目的が儀式の生け贄だと聞かされたとき、メイフゥは寧ろ安堵したのだ。生け贄には、古来より純潔の乙女が尊ばれる。であれば、彼女はまだ手をつけられていないはずだ、と。ならば、彼女を無事なまま助け出せる可能性が残っている、と。
 だが、現実は、数ある予想の最悪を極めていたらしい。
 全ては手遅れだった。
 蕾は、花開かないうちに、その美しさを理解しない卑劣漢の手で、踏みにじられてしまったのだ。
 この星にウォルを慰留したのは、メイフゥである。であれば、彼女が遭わされた悲劇の責任の一端は、自分にあるということになる。
 どれほど詫びても詫びきれないことを、メイフゥは知っていた。だが、せめて、純潔は守れなかったとしても、命だけは救ってみせる。
 メイフゥは、決意を刻んだ双眸で、テルミンを見下ろした。

「……ウォルはまだ、生きているんだろうな。もし違うなら、勢い余ってお前さんも殺しちまうかもしれないが、一応正直に言ってみろよ。そうでないと、どうせ死ぬはめになるんだぜ」

 テルミンは、一拍の間もなく、答えた。

「生きています!私の知る限りでは、生きていました。少なくとも、肉体的には!」

 メイフゥの、はっきりと静脈の浮いたこめかみが、ぴくりと動いた。

「肉体的には、だぁ!?てめえ、そいつはいったいどういう意味だ!」
「か、彼女は、激しい暴行を受けて半死半生になった後で、トポレキシン系の麻薬を打たれていました!それも、常人であれば一回で発狂するほどの量を、一時間おきに、何度も何度も、です!私が最後に見た彼女は、まだ最後の理性を残していましたが、今、それがどうなっているのかは分かりません!」

 トポレキシン系の麻薬を、しかも常人であれば一回で発狂するほどの量を、一時間おきに、何度も何度も──。
 メイフゥは、怒りに目の前が真っ赤に染まり、絶望に目の前が真っ暗に染まるという、二色の世界を同時に見ていた。
 悪いときには、悪いことは幾らでも重なるのだ。神は、無慈悲な方向にのみ、万能なのだ。そう、メイフゥが確信するに十分なほど、その響きは最悪を極めていた。
 トポレキシン系麻薬は、その徹底した非人道性から、単純所持でも量によっては死刑が免れず、売却目的で所持していたのであれば量に関わらず最低でも終身刑という、この宇宙で最も厳しく取り締まられた、卑劣を極めた性質の麻薬である。
 広義の向精神薬に分類されるその薬品の効果は、視床下部、大脳辺縁系、前頭連合野、側頭葉にまたがる快楽神経系の活性化、それによる脳内快楽物質の過剰供給である。
 だが、それだけならば普通の向精神系麻薬と異なるところはない。
 トポレキシン系麻薬が、他の向精神系麻薬と一線を画するのは、もたらされる快楽が、何故か性的刺激に偏傾し、また、使用者が性的刺激を求めて自ら行動するよう、脳に直接働きかけるということだ。
 加えて、一度使用すればもはや人並みの生活に戻ることは出来ないと言われる、その中毒性の強さ。
 端的に言えば、乱用者は、自ら望むと望まざるとに関わらず、性的快楽を求めて自我を崩壊させることになるということだ。そしてこの薬物は、男性よりも女性に対してより顕著であることが、数々の悲劇的な事件から知られていた。
 極めて短期間であるが、ある時期において、この効能が、女性を商品として拉致、あるいは非人道的手段をもって生産し、セックススレイブと仕立て上げて闇市場に流す、人身売買業者には珍重された。また、その禁断症状の苦しさが常軌を逸していることから、尋問用の薬物としても需要があった。
 だが、一度この薬品に依存すると、死ぬまで薬を求め続け、性的な刺激を誰彼構わずに求め続け、発情期の動物のようになり、最終的には、人間としての理性は完全に破壊される。
 そのため、人道を省みない闇商人の間でも、奴隷の商品価値が下がるとして、よほどのケースでなければこの薬を使うことはなくなった。また、その非人道性から、尋問の際に使用することは、共和連邦条約にて規制されている。
 悪魔のような、とは陳腐な形容の仕方であるが、もはや、そのように言い表す以外、他に形容の出来ない、最悪の麻薬なのだ。
 その、悪魔の麻薬を、一日に何度も。それも、常人であれば発狂する量を、である。
 メイフゥは、そのルパートという男が、ウォルを性的奴隷として扱ってくれていることを、望むほか無かった。
 そうであれば、まだウォルを必要としている──それがどういう目的かは別にして──ということだ。
 もしも、そうでなければ……これは完全に、ウォルの殺害を意図しているとしか思えない。
 せめて、ウォルの理性が完全に崩壊するか、それとも完全な服従を約した時点で、その使用を思いとどまってくれていれば。
 もう、少女が、彼女自身のことを覚えてくれていなくても、人としての生活を望むことが出来なくても、彼女は生きてくれている。
 そうでなければ、次にウォルとあったとき、彼女は物言わぬ狂人の死体へと姿を変えているということだ。
 ちくしょう、と、無限の後悔の込められた呟きを、メイフゥの口が発した。

「……聞いてたかい、ダイアナの姉御」
『……ええ、聞いてたわ』

 普段は明るい船の女神は、あの、朗らかに笑う少女の現在と未来を思い浮かべて、沈痛な声を絞り出した。

「……頼む。どうか、このことは、お姉様には知らせてもいいから、インユェにだけは黙ってやってくれ。あいつ、本気で、ウォルに惚れていたんだ。初めて、本気で惚れてたんだ。なのに、こんなの、残酷すぎるじゃねえかよ」
『……でも、それでも、いつかは真実を知るかも知れないわよ。その時は、どうするつもり?』
「あたしが、腹をかっさばいて詫びる。必ずな」

 だから、死んでも助けてやる。例え少女が、どんな姿になっていたとしても。
 そう自分を鼓舞したメイフゥは、辛うじて理性の残った視線を、目の前で蹲った憐れな男へと向けた。

「よかったなぁ、どうやら、あたしは相当丸くなったらしいや。お前さん、まだ生きていられるみたいだぜ」

 その言葉を聞いて安堵できる人間が、この世に一人だっているだろうか。
 メイフゥの言葉の下に、恐るべき歯牙を研いだ死神がいることは、信仰心の薄いテルミンにも明らかだったのだ。

「次の質問だ。ウォルが捕まっている建物には、今、どれくらいの兵隊が……」

 メイフゥが質問を続けようとした時、通信機から、けたたましい呼び出し音が鳴り響いた。
 メイフゥは、危うく口から心臓を吐き出しそうになるくらい、驚いた。なぜなら、通信機に表示された相手方が、先ほどの会話にあがった、インユェその人であったからだ。
 まさか、会話が聞かれていたのか。震える指で、通信機のスイッチを入れる。

「ど……どうした、あほちび、何か、あったのか」

 我ながら、震える声が情けなかった。
 もし、もし、さっきの会話が聞かれていれば。自分は、一生、インユェの前に立つことが出来ないだろうと思った。いや、それならば、ウォルを一刻も早く助けて、それからけじめをつけてやる、それだけのことだ。
 だが、通信機から流れる弟の声は、そういう風情ではなかった。

『おい、呼んだらさっさと出ろよ!やばいことになってるんだ!』

 メイフゥは、安堵の溜息を、何とか我慢した。

「やばいこと、だと?」
『ああ!山間に、いくつも、車のヘッドライトが流れてやがる!あれは、多分、こっちに向かってるぜ!』

 立ち上がったメイフゥは、咄嗟に、足下に転がった男を睨み付けた。
 テルミンは、思い切り首を横に振った。自分ではない、というアピールだ。
 先ほど、ダイアナは言った。増援が来るには、あと一時間近くかかると。
 情報を操り、収集することについては右に出る者のいない、ダイアナである。その情報には信頼が置ける。また、その話をした時の、テルミンの態度からも、その正確性を窺い知ることができる。
 であれば、今、この場に向かっている正体不明の部隊は、おそらく、テルミンが呼んだのとは違う指揮系統に属する部隊なのだろう。
 どちらにせよ、次に来るのは、間違いなく重装備を抱えた精鋭部隊である。地下道のように限定された状況であればいざ知らず、このように開けた場所では、近代兵器の優位性は、如何に人間離れした身体能力を有するメイフゥでも覆しがたい。
 
『どうするんだよ、姉貴!』

 指示を求める弟の声に、メイフゥは応えた。

「どうするじゃねえ!さっさとずらかるぞ!あたしはあたしで逃げる!インユェ、お前、一人で逃げろ!お前がバイクでかっ飛ばしゃあ、いくら連中でも追いつけねえだろう!」
『でもよ、それじゃあ姉ちゃんが……!』
「うるせぇ!あたし一人なら、どうとでも逃げられるんだよ!傍受されると厄介だから、通信機は切るぞ!いいな!」

 通信機の向こう側で、言葉を飲み込んだ気配がする。
 それが、情けない弱音なのか、それとも、姉を気遣う弟の言葉なのか。
 とにかく、一拍の間があって、切羽詰まった様子の声が、した。

『わかった。姉貴、絶対に捕まるなよ!』
「誰にもの言ってやがるんだ、くそちびが!十年早えぞ!」

 くすりと笑う気配があって、通信は、向こうから切られた。
 やせ我慢でも上等だ、と、メイフゥが含み笑いを溢す。

「さて、ま、そんな具合さ。あたしらはとんずらこくからよ、いいか、そのルパートって奴に伝えておけ。絶対にてめえは生かしちゃおかねえ。だが、少しでも楽に死にたけりゃ、これ以上ウォルに手を出すんじゃねえってな」
「は、はい、承知しました」
「ちょっと待ってくれ!」

 声の主の方に、メイフゥが首を向けた。
 
「わしも一緒に、連れて行って欲しい」

 そこには、老人がいた。
 しかし、今までの老人とは違う何かを、その瞳に宿している。
 メイフゥは、問うた。

「山道を駆け下りるぜ。じいさんには、少し酷な道行きだと思うがね」
「構わん。これでも、並の人間よりは、足腰は強いと自負しておる。それに、遅れるようならそのまま置いていってくれればよい。そこで死ぬならば、それもわしの運命じゃろう」
「そこの、壊れちまった兄さんのことは、いいのかい」
「……この馬鹿者に、これ以上、わしが出来ることは、無い。これからこの男が抱える苦悩は、懊悩は、全て自らの力で乗り越えねばならぬ、そういう類のものじゃ。もはやこの男に、年寄りのお小言など必要あるまい」

 それは、無慈悲とも思える言葉だった。全てを裏切り、全てに裏切られた青年に、手を差し伸べることもしないというのだから。
 だが、ビアンキは知っていた。もし、これからの一生を、自分の日陰の中で生きるならば、それもいい。しかし、もしも自分の影の外で生きるのならば、そのための拠を、この青年は探さなければいけないことを。

「なら、行こうぜ、じいさん。そうだな、どんなに下手打ったって、どうせ失うのはてめえの命くらいのもんさ。人間、どうせいっぺんは、遅かれ早かれ死ぬんだぜ。恐れる何があるってんだ。死に水くらいはとってやるからよ、鼻歌を歌いながらくらいがちょうど良い塩梅ってなもんじゃねえか」

 メイフゥの声に応えるように、ビアンキは歩き出した。
 それは、彼の生涯で、初めて、全ての柵から解き放たれて歩む、一歩であった。
 ヴェロニカ教に関係なく、信徒としての立場、導師としての立場、老師としての立場に関係なく、ただ、ミア・ビアンキという人間としての、歩み。
 足を出した先にある地面、そのなんと頼りなく、なんと心躍ること!まるで、あの夢の、漆黒の道行きのようではないか。
 ビアンキは、振り返った。そこには殺風景な倉庫の眺めだけしかなかったのに、なぜか、灼熱の溶岩を纏った、光輝の女性が笑っている気がした。



 老人と少女は、走り去った。
 一人取り残された少壮の男は、乱れに乱れたブラウンの髪を、手櫛で撫でつけ、応援の到着を待った。
 それは、予想外に早かった。

「遅れました、申し訳ありません、テルミン秘書官」

 その声も、先ほどと同じ、年端もいかない少女のものだ。だが、当然声色は全く違う。
 さっきの少女の声を野獣の遠吠えとでも称するならば、これは、自らの思考を放棄した機械の音声だ。
 テルミンは、振り返った。
 そこには、夜間戦闘用の迷彩服を纏った、赤毛の少女が、いた。

「いやぁ、助かりましたよ、マルゴ大尉。あなた方のおかげで、何とか命拾いをしました」

 マルゴ・レイノルズ特殊軍大尉は、その表情を一切動かすことなく、

「我々がここまで先行できたのは、私の功績ではなく、我々に出動命令を出した、大統領の功績です。もしもあなたが恩義を感じているようならば、大統領への忠誠をもってそれを証明していただきますよう、お願いします」

 なるほど、と、立ち上がったテルミンは、スーツの尻を叩きながら思った。
 あの人間の能力は、この星に到着してから、今までに増して冴え冴えとしている。きっと、水か、それとも空気があっているのだろう。彼らには、そういうケースが間々あることを、テルミンは知っていた。
 これは存外拾いものだったなと、拾いものに救われた男は苦笑した。彼は自分を過大評価していなかったから、あのまま少女の暴力に晒され続ければ、どうしても秘匿しなければならない最後の一線をしゃべってしまう、その自覚があったのだ。
 立ったままのテルミンに、マルゴは早足で近づいて、その左手を取った。

「治療を」
「ええ、頼みます。出来るだけ痛くしないでくださいよ。ワタクシは、痛いのが死ぬほど嫌いなんです」
「努力しましょう」

 少女は、折れた小指に応急処置を施すと、今度は頭部に包帯を巻き付けた。耳は、組織再生療法を使えば完全に復元するだろうが、それにしても出血は可及的速やかに止める必要があるからだ。

「他の方々は?」
「もう少し時間がかかります。私だけが、全速力で先行しましたから」
「なるほど、では追加部隊のトラックに、ライトを点けさせたのも……」
「そうすれば、頭の良い人間であれば、即座に引いてくれるでしょう。もしもあなたが拉致されるなり、殺害されるなりの危険が生じれば、私が単体であの少女に挑むつもりでしたが……」

 テルミンは、首を横に振った。

「あれは化け物ですよ。あなたがどれほど優れた軍人でも、一人では勝てない。おそらく、逆立ちしてもね」
「全く同意します。正直、あの少女の危険に晒されて、それでも正気を保ち続けたあなたの神経には驚かされます」

 テルミンは、苦笑した。

「褒めるつもりならば、もう少し言葉を選びなさい」
「はっ。以後、肝に銘じます」
「それと、できればスーツの替えをお願いできますか。股間の辺りが冷たいんですよ。これは、少々粗相をしてしまったかも知れません。こんな格好で大統領に面会するのは、流石の私も気が引ける」
「わかりました、用意させましょう」

 マルゴは思わずテルミンの股間に目をやったが、そこには少しも濡れた様子はなかった。
 これは、彼なりのジョークだろうかと、少女は内心で首を傾げた。

「遠からず、そうですね、早ければ両日中にでも、彼らは城に攻め込んでくるでしょう。良い具合に、ウォルという少女の状況が、彼らを誘い出す餌になってくれているようですから。それを歓待してあげるのは、マルゴ大尉、あなたがたの役目ですよ」
「はっ。その時は、自分達が如何に身の程知らずかを、骨の髄まで思い知らせてやりましょう」
「心強いですねぇ、その意気ですよ、その意気」

 さて、どうなるか。
 これでいよいよ、状況は混沌としてきた。
 ビアンキ老師のもとを訪れた女性が、あのジャスミン・クーアであることに、もはや疑いようはない。いや、元々テルミンは、確信をしていたのだ。
 そして、あの、人間離れをした少女。
 彼女らが力を合わせれば、それだけでどれほどの脅威になるか。当然、二人だけで攻めてくるということはないだろうから、脅威はいや増すに違いない。
 そして、あの城を守るのは、大統領虎の子の、特殊軍の少年少女である。
 いったいどちらが生き残るのやら。そして、その時自分は、生きているのだろうか。
 テルミンは、じくじくと傷む傷口を愛おしげに撫で、生の証でもある、痺れるような痛みを愛でていた。



[6349] 第五十三話:真実
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/02/11 02:54
 地獄のような、道行きであった。
 深い、森の中を歩いているのだ。
 いくら月の明るい夜とはいえ、人の目では、闇を見通すのに限界がある。
 木々の作り出した暗闇は濃密で、足下すら見えない。時折、突き出た木の枝が肌を引っ掻き、ひりひりと灼け付くように痛みが走る。
 途中、幾度も足を滑らしそうになった。その度に、本来必要でなかった力を筋肉に込めねばならず、足取りはどんどん重たくなっていく。
 山の夜気は、容赦なく体温を奪っていく。乾いた風は喉を渇かし、唾を飲み込む度に、張り付いた喉がばりばりと裂けるみたいな音がする。
 それでも老人が何とか歩けるのは、先を行く少女が、彼のために道を慣らしてくれているからに違いなかった。

「大丈夫かい、じいさん」

 少女が振り返る。そうすると、闇にも明るい金髪がはらりと舞い、幻想的な美しさに疲労をしばし忘れてしまう。
 だが、そろそろではないだろうか。
 老いた自分に、この道行きは最初から無謀だったのだ。
 それくらい、分かっていた。それなのに、何とかなると、そう思い誤ってしまっただけのこと。

「……わしのことは、いい。もう、きみだけで行きなさい。もしも捕まったところで、わしはすぐにどうこうされることはあるまいよ。だが、きみはそうはいくまい」

 老人の言葉は、もっともであった。もしもこの少女が敵の手に落ちれば、言葉にするのもおぞましいような目に遭わされるに違いなかった。
 その点、少女は反駁したりはしない。
 ただ、不思議そうに言うのである。
 
「じゃあ、じいさん、あんた、もうお姉様に会わなくてもいいのかよ。きっと、今会わなけりゃ、二度と会えないぜ」

 老人は、果たして、何と答えようとしたのだろう。
 もう、会う必要はないと。
 そう言えば、再び、少女の無邪気な視線が、胸の奥に二度と消えない傷を残していくような、気がした。
 会いたい、と。会って、何を伝えるのかは知らないが、それでも会う必要がある、と。
 ならば、言葉は不要だ。無駄口を叩く暇があるならば、たとえ一歩でも、足を前に。
 そして、老人は歩いた。つまり、そういうことなのだ。
 少女も、先を進もうとした、その時。
 木々の向こうから、遠吠えが、聞こえた。

「なんだ……狼か?」

 立ち止まった老人の声に、僅かな動揺があった。
 この、手元もはっきり見えないような夜に、狼の群れと鉢合わせになれば、即ち死を意味する。武器を持たない人間如き、四つ足の生き物にとっては、飢えを満たすための贄にしか過ぎないことを、老人は知っていた。
 少女も、ぴたりと動きを止めた。

「まずいな……」

 焦慮を含んだ少女の声。
 あやすように、老人が言った。

「狼のことは、気にすることはない。この時期、山には食料が多い。彼らも、おいそれと人には手を出さんよ」

 しかし少女は、首を横に振り、

「違う。今のは、縄張りに自分達以外の生き物が進入したことを、群れに知らせる合図だぜ」
「それは、我々が……?」
「いや、多分、追っ手の連中だ。予想以上に追いつかれているらしいや」

 少女は、さもつまらなそうに言った。
 くんくんと、風に向かって鼻を鳴らす。

「多分、犬がいるな。真っ直ぐに、こっちに向かってきてる。あっちは、追跡用の装備も万全だろうからよ、どんなに頑張ったって、あと1時間もすればケツに噛みつかれるぜ」

 それに、あちらには余分な荷物もいないのだ。
 自分を余分な荷物であると自覚している老人は、絶望的な気持ちになった。
 そして、やはり少女だけでも先行して欲しいと、そう言おうとした、その時。

「なぁ、爺さん。あんた、口は堅いほうかい?」

 足を止めた少女が、こちらを見ている。
 そんなことを話している場合ではないはずだ。
 だが、どこまでも真剣な少女の顔が、老人の口を封じた。

「答えてくれよ。時間がないんだ」
「……わしは、固い方だと信じておる」
「じゃあ、今から見たことも、聞いたことも、全部、誰にも言わないって約束できるかい?」

 老人は、おそるおそると頷いた。

「……分かった。これから何が起ころうと、わしは、見ざる聞かざる言わざるを押し通そう」

 少女は、深く頷いた。

 それからちょうど30分後、その場所に、迷彩服を纏った男達が姿を現した。
 顔に暗視ゴーグルを付け、片手に拳銃、片手に軍用犬のリードを握るという、物々しい格好だ。
 何人かでチームを組んでいるのだろう、行動に乱れがない。
 うち一人が、手で、後続に制止の合図を伝えた。
 目標の足跡に、異変があったからだ。
 今まで一目散に歩いてきた二人分の足跡が、ここで、何度か止まり、方向を変えたりしている。
 方向を変えているのは、先行していた少女のものだ。
 おそらく、ここで何かを話し合ったのだろう。
 そして、その後は……。
 足跡は、急に山道を逸れ、藪の中へと突き進んでいた。
 
 追っ手を巻こうとしているのか……。

 だとすれば、何ともお粗末な話だ。藪に入り、草を踏み分ければ、これ以上ないというほどに分かりやすい痕跡が残る。
 彼はチームに足跡の発見を伝え、自ら藪の中に分け入った。
 ばりばりと、枯れ枝を躙る音が闇夜に響く。この音は自分達の居場所を獲物へと伝え、その焦慮を誘い、体力を削り取るに違いない。
 左手に伝わるリードを引く力から、彼の相棒の、興奮している様子が伝わってくる。
 目標が近いのだ。臭気の鮮度が、それを伝えているのだろう。
 よく訓練され、吠え声一つ漏らさないが、その牙が獲物を求めて逸っている様子が、ありありと分かった。
 興奮は、兵士へと伝わり、増幅され、犬に還元される。
 一人と一匹は、先を急ぎ、山道を下りた。
 やがて、どこからか、水音が聞こえることに気が付いた。
 兵士は、足を緩めた。山で水音が聞こえるならば、沢か、滝があるのだろう。足を踏み外して転げ落ちれば、大けがをするか、最悪のケースではそのまま死に至る。
 藪を抜け、獣道を下る頃には、ごうごうと響く川の流れが感じ取れるようになっていた。
 慎重に歩を進め、一つ小高く膨れた地形を越したところで、彼は眼下に、川が流れているのを見た。
 川幅はそれほどではないが、十分な水量のある、川だ。流れが大岩にぶつかるところでは、豪快な飛沫が舞い散っている。
 川岸は砂利が敷き詰められたようになっており、そこに、二人分の足跡が続いている。

「臭いを消そうとしたか……」

 川に入り、そこを下れば、臭いは水と一緒に流れていく。そして、足跡ももちろん残らない。追跡を惑わすには格好の場所だ。
 だが、浅はかだ。川の流れは、相当急激である。この暗がりの中、そうそう長い距離を歩くことは出来まい。
 兵士は躊躇いなく、流れに足を踏み入れた。
 川は、膝上を僅かに濡らす程度の深さだったが、予想したよりも流れが強い。
 兵士は慎重に渡河し、反対側の川原を確かめた。後続の部隊も彼に倣い、目標の痕跡を探そうと躍起になっている。
 しかし、痕跡は中々見つからない。
 あちら側には、確かに、川へと足を踏み入れた痕跡はあった。なのに、こちら側には、岸に上がった痕跡が全くないのだ。
 人が川原を歩けば、石が動く。水が垂れる。これは、どれほど訓練された兵士でも、防ぐことはできないはずだ。
 だが、反対側の川原で、石が最近動かされた跡といえば、精々が野の獣の足跡、鳥がほじくり返したような石、風で転がった丸石程度で、どこにも人の足跡が残っていない。
 水の滴った跡も、人が水辺から歩いてきたようなものはない。川からの飛沫が飛んだ程度のものだ。
 焦りを感じた兵士は、さらに奥へと足を進めようとした。
 犬を先行させるために、リードに合図を送る。
 
「……?」

 そこで彼は、異変に気が付いた。
 犬が、地面に根を生やしたように、ぴくりとも動かないのだ。
 訝しんだ兵士が、近づいて様子を見ると、尻尾が地面に垂れ、耳が完全に後ろに倒れている。
 先ほどまでの、勇壮に獲物の痕跡を辿っていた、軍用犬の姿ではない。
 まるで、飼い主の体罰に怯え、哀れを乞う、飼い犬の姿だ。

「おい、どうした、いくぞ」

 小声で、声をかけてやる。そうすれば、少しは安心すると思ったからだ。
 だが、いつだって兵士に忠実であり、常ならば燃えさかる建物の中へだって果敢に飛び込むはずのその犬は、いやいやと首を振りながら、どうしたってその場を動こうとしない。
 さすがに異常を感じた兵士が辺りを見回すと、他のコンビも、だいたい同じような有様であった。
 優秀な軍用犬の全てが、隠しようのない恐怖に、体を強張らせていたのだ。
 冷たい感覚が、一滴、熟練の兵士の背を滑り落ちた。

 いったい、何が起こっているんだ……。

 その時、背に感じた冷たさと同じくらいに冷たい何かが、兵士の額を打った。
 最初に一滴、すぐにもう一滴。
 顔を上げると、既にそこには月明かりはない。星明かりも、最後の一つが、分厚い雲に覆い隠されようとしているところだった。
 天候が、変わった。
 おそらく、大雨が降る。
 ひょっとしたら、犬の怯えもこれだったのだろうか。確かに、このままこの場所で捜索を続けて、鉄砲水にでも飲み込まれれば、絶対に助かるまい。
 追跡に気を取られて、今の今まで気が付かなかった自分に、腹が立った。
 チームリーダーもそのことに気が付いたのだろう、通信機に、追跡の中断と、一時避難が告げられた。
 兵士達は、任務の失敗を予感した。



 東の空が、やや青ざめ始めている。もう少しすれば、それは鮮烈な橙へと色を変え、朝の到来を告げるのだろう。
 夜更けの驟雨に洗われた空気は、まだまだ冷たいが、少しずつ夜が遠ざかり始めているのが分かる。
 ジャスミンは、まんじりともせずに、玄関の前に立っていた。
 じっと、前だけを見つめて、微動だにしない。
 彫像のようですらある。
 その彼女が動いたのは、森の奥からこちらに向かって歩いてくる、二人の人影を認めたからである。
 ジャスミンの顔を、僅かな安堵が覆った。

「遅かったな。いや、早かったというべきか?」

 二人とも、頭のてっぺんからつま先まで、濡れみずくである。雨宿りもせずに、移動を続けたのか。
 夏場とはいえ、雨は想像以上に体力を奪う。冬場であれば、それこそ命の危険もある。
 だが、二人の足取りは、思った以上にしっかりとしている。これなら、すぐに体を温めれば、大事に至ることはあるまい。
 ジャスミンの杞憂を吹き飛ばすように、人影の片方が、疲れた笑みを浮かべた。

「おはよう、お姉様」
「どうやって帰ってきた?まさか、あそこから走ってきたわけでもないだろうに」

 ヴェロニカ教の総本山までは、ジャスミン達の潜伏している隠れ家から、車で2時間をくだらない。
 それは、人の足が一夜で踏破できる距離を、大きく凌駕している。
 いくら若く、人並み外れて頑健であるメイフゥとはいえ、何らかの乗り物を使わなければ、移動できる距離ではあり得ない。
 メイフゥは、やはり微かに笑っただけで、答えなかった。
 ジャスミンも、それ以上、メイフゥを問いただすことはなかった。彼女らが無事にここまで帰ってきてくれたのだから、その移動手段などどうでもいいことなのだし、体中、雨水と汗でびしょびしょに濡れ、疲弊しきった様子のメイフゥを気遣いたかったというのもある。
 
「疲れたろう。湯を沸かしてある。まずは、体を温めなさい」
「うん、ありがとう、お姉様」

 メイフゥは、力ない笑みを浮かべた。
 普段の彼女の、屈託のない笑顔ではない。
 疲労と自嘲を浮かべた、後ろ向きな笑顔だ。
 ジャスミンは、その理由を、痛いほどに理解していた。

「メイフゥ。ことの子細は、全てダイアナから聞いた」

 メイフゥの体が、小さく竦んだように、ジャスミンには見えた。まるで、母親に折檻されることを恐れる、少女みたいに。
 ジャスミンは、ゆっくりとした歩調で近づき、メイフゥの前に立った。
 濡れ鼠のメイフゥは、唇を噛み締め、じっと己の足下を睨み付けている。
 唇の端から、一筋、赤い線が、つぅと伝った。

「きみに責任が全くなかった、とは言わない。ウォルをこの星に慰留し、今回の騒動に巻き込まれる切っ掛けを作ったのは、きみなのだから」

 メイフゥは、一言も答えなかった。
 ただじっと、震える視線で、自分の足下を睨み付けているだけだ。

「だが、一番悪いのは、ウォルを手籠めにしたゲス野郎であって、きみじゃない。きみが悪かったとしても、一番責任を負うべき人間は、他にいる。絶対に、そこだけは履き違えるな。きみは、そこまで弱い人間ではないはずだ」

 メイフゥの足下に、ぽつりぽつりと、染みが出来ていく。
 食いしばった歯の隙間から、耐え難い嗚咽が漏れ出す。
 懸命にしゃくり上げるのを堪えている少女を、ジャスミンは、母親のように抱きしめてやった。

「どうしよう、おねえさま、あたし、どうしよう、もしも、ウォルが、しんじゃったら、どうしよう……」
「大丈夫だ。ウォルは、強い。絶対に、そんな男や薬なんかに、負けない。だから、大丈夫だ。まだ間に合う」
「うん、うん、でも、でもね、でもねぇ……」
「今は泣きなさい。だが、すぐに泣き止みなさい。きみの弟が帰ってきたときに、そんな情けない有様を見せるわけにはいかないのだろう?何せ、きみはあの少年の、姉なんだから」
「……ひぃ、ん……うえぇえ、うえぇぇぇん……」

 メイフゥは、ジャスミンにしがみつき、泣いた。
 人目も憚らない、幼児が癇癪を起こしたみたいに、大声を上げて泣いた。
 ジャスミンは、自分の服が涙と鼻水で濡れるのを厭わず、ずっと抱き締めてやった。
 やがて、少女の慟哭は、啜り泣く声に変わっていった。

「落ち着いたか?」

 ジャスミンの声に、メイフゥは、恥ずかしそうに顔を上げて、笑っていた。
 先ほどの、薄暗い笑顔ではない。まだ幾分影が差しているとはいえ、それは前を向いて歩くことを決意した人間の、笑顔であった。

「ごめんね、お姉様。情けないところ、見せちまったよ」
「ああ、たいそう情けなかった。だが、安心しなさい。子供は、大人に甘えるのが仕事なんだ。依存し過ぎることはもちろん問題だが、上手に甘えることの出来ない子供も、それはそれで危なっかしい。そういう意味では、安心したくらいだ」

 真剣な面持ちで言う。
 メイフゥは、真っ赤に泣きはらした目を、にっこりとさせた。

「かなわないよなぁ、お姉様には」

 体を、名残惜しげにジャスミンから離し、鼻を一つ啜ると、

「じゃあ、風呂に入ってくるよ。出来れば、飯の用意、お願いしときたいんだけど、いいかな?」
「ああ。きみの弟ほど手の込んだ料理を期待されても、困るがな」
「あいつ、料理は上手いんだよ。裁縫も上手いし、家事はだいたいそつなくこなす。あたしは、あいつより腕っ節が強いだけさ。そんで、あたしが苦手なことは、だいたい、あいつは上手いんだ」

 ぐいと、服の袖で顔を拭ったメイフゥが、自分のことを話すみたいに、嬉しそうに言った。
 そして、家の中へと消えていった。
 メイフゥの後ろ姿を見送ったジャスミンは、再び視線を前に戻し、残ったもう一人の人物に対して頭を下げた。

「老師。このような厄介事に巻き込んでしまい、本当に申し訳ありませんでした。償いは如何様にでもさせて頂きますが、どうか今は、我々と行動をともにして頂きますよう、よろしくお願いします」

 疲労に、肌を鉛色にしたビアンキは、疲れを吹き飛ばすような笑顔を浮かべた。

「それを言い始めれば、全ての原因は、我らに帰することになりましょう。このような、ヴェロニカ内部のごたごたに、あなたのようにお忙しい方を巻き込んでしまい、こちらのほうこそお詫びのしようもございません」
「では、お互い様ということにしておきましょうか」

 ビアンキは、笑った。ジャスミンが全てを水に流そうとしていることを、理解したからだ。
 なんとも気持ちのいい、すっきりとした笑顔である。
 ジャスミンは老人の笑みに、昨日顔を合わせた時に感じた、得体の知れない怖気を感じることはなくなっていた。
 文字通り、憑き物が落ちたような、顔だったのだ。

「何か、ありましたか、老師」
「何か、とは?」
「失礼ですが、まるで、昨日とは別の方とお話しているような気がします」

 老人は、笑顔を収めて、真剣な調子で言った。

「わしは、今日、初めて、神の声を聞いたような、そんな気がしますじゃ」
「神の声、と」

 ジャスミンの訝しげな声に、老人は、確と頷いた。

「長く平和を保った──それがたとえ表面上のことに過ぎなかったとしても──この星に、今、このような事態が起こっているのも。その中で、あなた方がわしの元を訪れたのも。そして、今、わしがこうして、おめおめと生き恥を晒しているのも。全てが神のご意志だったように、今は感じます」
「ヴェロニカ教に神はいないと、そう仰ったのはあなたご自身なのに、ですか?」

 ジャスミンの、いささか意地の悪い質問にも、老人は、苦笑一つ溢さない。
 ただ、優しく凪いだ瞳で、先ほどメイフゥが消えた、玄関の扉を眺めている。
 ジャスミンは、それ以上、質問はしなかった。

「老師もお疲れでしょう。何か、暖かいものでも入れましょう。それに、濡れた体をそのままにしておけば、悪い風邪を召すかもしれません。着替えの方も、用意してあります」
「ご厚意はありがたく頂戴いたしましょう。ただ、茶のほうはわしに煎れさせて下され。ちょうど、よいものを手に入れましたでな」
「それは楽しみだ。是非、お願いします」

 ジャスミンとビアンキは、揃って玄関へと足を進めた。



 インユェが隠れ家に帰着したのは、太陽が地平線から完全に顔を出した、その直後のことだった。
 バイクのエンジンを切り、フルフェイスのヘルメットを外した少年。ほぼ正面から差し込む陽光に照らし出されたその顔は、濃い疲労に彩られていた。
 あれから、道無き道をバイクで下り、街まで辿り着いた。そこで自分のバイクを乗り捨て、適当に見繕った誰かの所有物であるバイクを失敬し、ぐるぐると街中を走り回ってからここまで来たのだ。
 尾行の可能性がある時は、神経質なまでに臆病なくらいでちょうど良い。それが、メイフゥやヤームルから、ことあるごとに叩き込まれてきた教訓の一つであり、インユェはその教えを完全に実行した。
 思ったよりも時間はかかってしまったが、これで自分が尾行されているという可能性はないはずだ。車はもちろん、ヘリや飛行機の存在にも気を配った。万が一衛星で監視されている可能性も考慮して、地下やトンネルも潜った。
 そして、やっとの思いでここまで辿り着いたのである。
 誰のものとも知れないバイクから降り、かちこちになった足の筋肉を無理矢理に動かして、隠れ家の玄関を潜る。
 すると、なんとも食欲を刺激する、良い香りが漂ってきた。

「やっと帰ってきたか」

 廊下を歩き、リビングの扉を開けると、テーブルの正面に、赤毛の女性がどっしりとした様子で座っていた。
 インユェは、僅かに体が強張るのを感じた。先日、この女性にこてんぱんに伸されて以来、頭ではなく体の方に、凄まじい苦手意識をすり込まれてしまったのだ。

「もう、我々は食事を済ませた。きみも、さっさと済ませなさい」

 確かに、テーブルには一人分の食事が残されている。
 色々と言いたいことはあった。自分と姉に全てを押しつけて自分は家でぬくぬくしていやがったのか、とか、散々走り回ってやっとの思いで帰ってきた自分にお疲れ様の一言もなしか、とか、そういう言葉だ。
 だが、何を言っても言い負かされそうな気がしたので、止めた。
 その代わりに、せめてもの意思表示として、視線に不機嫌なものを込めて睨み付けてみたが、自身のそれよりも遙かに恐ろしく、そして冷たい視線で返されて、インユェはあっさりと視線を逸らした。
 別に負けたわけではないと内心で自分を慰めて、席に座る。
 四人がけのテーブルは、自分の席以外は、既に満員であった。
 正面に、気にくわない、でか女。
 右手に、自身の姉である、メイフゥ。
 左手には、先ほど、倉庫で見かけた老人が座っている。確か、名前をミア・ビアンキと言っただろうか。どうやらヴェロニカ教では相当の重鎮らしいが、自分には全く関係ないことだからどうでもいい。
 そして、テーブルに並んだ料理らしきものに視線を遣って、インユェはげんなりと肩を落とした。
 別に、食べ物とは到底思えない異物が並んでいるわけではない。しかし、缶を開けただけのコンビーフやアスパラガス、封を切って暖めただけのレトルトシリアルのパウチなんかが、そのまま並んでいるのはどうだろう。
 栄養バランスは悪くないのだが、これは文化的食事という表現は到底できない。ただ腹に収めるだけの食事だ。
 内心で毒づいたインユェだが、口の中に唾液が湧いてくるのは、どうにも止めようがなかった。一晩中、緊張とともにバイクを走らせ続けたのだ。体は、自身が想定していた以上に疲労し、回復のための栄養分を欲している。
 フォークを取り、無言で、目の前の食べ物を征服していく。意外と旨かったのが、何とも業腹であった。

「さて、これで全員、揃ったようですな。それでは、茶でも煎れて進ぜましょうか」

 意外なことに、最初に口を開いたのは、ビアンキであった。
 好々爺とした表情で、いそいそと立ち上がり、リビングに併設されたキッチンに立った。
 到底、ヴェロニカ教の指導者、ひいてはヴェロニカ共和国の重鎮であった人物とは思えない、庶民的な様子だ。
 
「老師、なにもあなたが自ら、そのようなことをされなくても」

 少し慌てた様子のジャスミンであったが、当のビアンキは、本当に嬉しそうな顔で、

「最近は弟子連中が、こういう楽しみの全てを老いぼれから取り上げていくのですよ。わしは、茶を煎れるのが好きなのですがね。ミズ・クーア、あなたも老い先短いこの老体から、生き甲斐を取り上げ為さるので?」

 かくしゃくとした様子でそんなことを言うのだから、ジャスミンとしても返す言葉がない。
 浅めの溜息を一つ吐き出し、浮かしかけた腰を落ち着けた。
 そんなジャスミンを尻目に、ビアンキは、老人とは思えない手際の良さで湯を沸かし、隣のコンロで何かを炒り始めた。
 途端、胸を漉くような、名状し難い香りが、全員の鼻腔をくすぐった。
 花のように香しい、コーヒーのように香ばしい、不思議な香りだ。
 ビアンキは適当なところで手を止め、炒り上がったものをコーヒーミルに流し込み、ごりごりと挽いた。細かく砕かれたそれを、フィルターを収めたマグカップに入れて、上から熱湯を注ぎ込む。
 
「本当は、もっと違う入れ方をする茶なのですが、まぁ、こんな方法でも大丈夫でしょう」

 湯気の立つマグカップを、人数分用意して、老人はリビングへと戻った。
 盆の上に並んだそれを、各人に配った。
 湯気と、良い香りの立ちのぼるマグカップの中には、澄んだ濃茶色の液体が、なみなみと入れられていた。

「どうぞ、試してみてくだされ。久方ぶりゆえ、味の方は保証しませんがな」
「頂きましょう」

 ジャスミンは、躊躇いなく茶を啜った。
 途端、豊かな芳香が口中を満たし、仄かな甘みが舌を覆った。
 砂糖など、一粒だって入れていないはずだ。しかし、得も言われぬ不思議な甘みを感じることが出来る。
 ジャスミンは暖かい吐息をついて、頬を綻ばした。

「素晴らしいお手前です」
「うん、お姉様の言うとおり、これはいけるね。あたし、こんなに旨い茶は初めて飲んだよ。じいさん、これ、何から作った茶なの?」

 ジャスミンと同じように、ほっこりと微笑したメイフゥが、言った。
 ビアンキは、にやりと、皺だらけの顔に笑みを浮かべた。

「何も特別なものではないぞ、メイフゥくん。これはな、そこらに生えている草の実を、茶に煎じただけのものじゃよ」

 予想外の言葉に、ジャスミンは、目を丸くした。
 
「老師、よろしいのですか。わたしなどが申し上げるのも僭越ですが、ヴェロニカ教では確か……」
「ええ、言うまでもなく、野の青果を口にすることは、きつく禁じられております。これでわしも、唾棄すべき破戒僧の仲間入りと、そういうことになりますな」

 楽しげな声で、老人は言った。

「ですが、この茶を頂くことは、わしが若い時分には、禁忌でも何でもなかった。この星のどこの家庭でも、この茶を普通に啜っておったものです」
「それはどういう意味ですか?」
「なんということはありません。ただ、教義が書き換えられたと、それだけの話です」

 ビアンキは、あの山道で愛弟子にしたのと、同じ話を語った。
 だが、愛弟子が返したほどの驚きを、この場に居合わせた三人が浮かべてくれなかったのは、少し寂しそうだったかも知れない。

「驚かれませんか」

 ビアンキの声に、ジャスミンは、

「そういうこともあるかと思っていました。何せ、今でこそ人体に必要なあらゆる栄養素を含むという、菜食主義者には夢のような野菜を作っているヴェロニカ共和国ですが、その作物が完成する前には、当然今と異なる食生活を営んでいたはずです。我々からすれば、それは別に驚くようなことではありません」
「仰るとおりです。しかし、我らのように閉じた世界に暮らす人間にとっては、これほど些細な変化に、天と地がひっくり返ったような衝撃を受けたものです。全く、馬鹿馬鹿しいと言えば、これほど馬鹿馬鹿しいこともないのでしょうが……」

 ビアンキは、自らの煎れた茶を啜り、ほう、と息を吐き出した。

「この茶は、カラという植物の実を、焙煎して拵えたものです。お口にあったようで、よかった」
「カラとは、確か、酒の原料に使う?」

 ビアンキは、ジャスミンの言葉に驚いたようだった。

「何故それをご存じで?」
「この星についた最初の夜に、とある酒場で、カラという名前の植物から作った酒を出されました。洗練された味とはいえませんでしたが、非常に力強い旨味のある、酒でした」

 ビアンキは、嬉しそうに頷いた。

「わしは酒を嗜みませんが、しかし周りの人間は、あなたと同じことを言っていた。そして、あの芳醇な香りは、今でも思い出すことが出来る。そうですか、まだ、あの酒を出している店が、あったのですか」
「ですが、それも今年で終わりだと言っていました。その酒を造る職人が、既に故人であるから、と」

 ジャスミンは、表情を消して、言った。
 それだけで、ビアンキは、どういうことかを悟ったようだった。
 静かに目を閉じ、名も知れぬ誰かに黙祷を捧げた。

「その方は、ヴェロニカ教徒でしたか?」

 この言葉に応えたのは、ジャスミンではなかった。

「ヤームルは……あたしらの親代わりの人はさ、その人、ヴェロニカ教徒じゃなかったって言ってたぜ。ヴェロニカ教徒でもない人間が、どうして野のカラを採っただけで殺されなけりゃならないのかって、憤ってた」
「その、ヤームルという御仁の仰るとおりでしょう。我らヴェロニカ教徒は、教徒以外の人間が肉を食べようが野の青果を食べようが、それを非難することはありません。それが、生き方の違いだからです。ですが、今の時代、そのような主義主張は、時代遅れなのかも知れません」

 ビアンキは、言葉を句切り、

「しかし、ヴェロニカの失われた伝統を、ヴェロニカ教徒以外の人間が伝えていたというのも、なんとも皮肉な話です。その方はおそらく、カラの採取が禁じられる前のヴェロニカを、ご存じだったのですな」

 窓の外の、波打つ草の海に目をやり、ぽつりと呟いた。
 そして、テーブルをぐるりと見回し、最後にジャスミンに視線を置き、決意を込めた声で、言った。

「ミズ・クーア。わしを、許して欲しい。わしは、嘘つきだ。そして、惰弱者だ。昨日切った啖呵を飲み込んで、恥知らずにも、あなたに全ての荷物を預けようとしている。それを、あなたは許してくれるだろうか」

 ビアンキの言葉の意味を、ジャスミンは正確に理解した。
 この老人は、自分がひたすらに背負ってきた荷物を、今、自分に預けようとしているのだ。
 ジャスミンは頷いた。

「わたしでよろしければ。ただ、わたしは、あなたに何一つ約束できません。そして、わたしはこの星に対して、何ら責任を負っているわけでもない。もちろん、この星に住む、あらゆる人々に対しても。それでもよろしいのですか?」

 老人は頷き、

「そんなあなただからこそ、わしは荷物を預けるつもりになった。そして、きみたちにも」

 ビアンキの視線は、メイフゥとインユェにも向けられた。
 初めてインユェが口を開いた。

「へっ?なんで、俺?」

 情けない声で、インユェは自分を指さした。
 だが、ビアンキは、メイフゥの方を見遣り、

「メイフゥくん。きみがそうならば、この少年も、そうなのだろう?」

 メイフゥは、表情を消して、躊躇いがちに頷いた。
 インユェには、一体何のことか分からない。自分とメイフゥに、姉弟である以上の共通項があるのだろうか。
 ビアンキは、再び、決意めいた視線をインユェに寄越した。それだけで、年若いインユェは、なんとも居心地の悪い思いを味わうはめになったのだ。

「ならば、きみたちにも、全てを知る権利があるのだと、わしは思う。もしもこの星に神がいて、その方が運命の糸を弾いていらっしゃるならば、それをこそ望まれるだろう」

 ビアンキは、マグカップを傾け、カラ茶の最後の一滴を飲み干した。
 そして、誰を見るでもない視線を彼方へと向けながら、口を開いた。

「わしが語るのは、この星に住む人々の歴史、そして彼らが信仰する神の歴史。少し長くなるが、よろしいか?」

 全員が、その表情に差はあれど、頷いた。
 
「この星、今は惑星ヴェロニカの名で呼ばれるこの星は、人類が宇宙探索の歴史を機織り始めて、極々初期に見つかった星であり、そして、直後に見捨てられた星でもある」
「見捨てられた星、ですか」

 ジャスミンの声に、ビアンキは首肯した。

「さよう。これだけの緑があり、水資源も豊富、鉱山資源こそ乏しかったが、居住用惑星としては申し分ない条件を備えたはずのこの星は、我らの祖先が移住するまで、宇宙開発からは完全に取り残された星じゃった」
「そいつはおかしいぜ、じいさん。これだけの星を、宇宙への足がかりを喉から手が出るよりも欲しがっていた当時の人類が、放っておくわけがねえ。今の時代でだって、こんな好条件の居住用惑星が見つかったら、とんでもない騒ぎになるのは間違いねえんだぜ」
「無論、理由無くこの星が見捨てられたのではない。寧ろ、深刻な理由があったからじゃよ」

 全員の視線が、ビアンキの口元に集中していた。

「理由は至極単純。この星への移住を始めた先遣隊の悉くが、原因不明の病で全滅したからじゃ。それも、一度や二度ではない。都合十回以上に及ぶ移住計画は、その全てが、一年のうちに隊員の全員死亡という悲劇的結末をもって頓挫しておる」

 ジャスミンは、訝しげに首を傾げた。

「十回以上に及ぶ移住計画の全てが失敗し、参加した隊員の全員が死亡した、と。老師、わたしは宇宙開発の歴史には人並み以上の知識を備えているつもりですが、そのような重大事件について、初めて聞きました」
「これは、あくまで我らのうちに口伝で伝わる歴史ゆえ、真実か否かは分かりませぬ。だが、十回以上の移住計画を進めて、無為に隊員を死なせたとあれば、それは計画責任者の無能を示すことにもなりかねん。それを望まぬ誰かが、全てを闇に葬ったとして、わしはそれほど不思議ではないと思う」
「なるほど。失礼しました、続けて下さい」

 ビアンキは頷き、

「当然のことながら、原因の究明は、速やかに、そして徹底的に行われた。正体不明の病原菌、毒物汚染、未知の放射線の存在……。ありとあらゆる角度から研究と検証が行われたが、原因らしき原因は見つからず、誰も立ち寄ることの無くなったその星は、熟練の船乗りでも近寄らない呪われた星となった」
「それで、見捨てられた星、か。そいつは無理もないかもね」

 メイフゥは、そう呟いた。
 宇宙生活者である彼女には、当時の船乗りや移民達の気持ちが、手に取るように分かった。
 宇宙は、人が勝負を挑むには、あまりに広く、あまりに深く、何よりも凶暴だ。人智を越えた何かがそこには宿っていて、自分達を飲み込むために大きな口を開けているのだと、偏執的な妄想に取り憑かれたことのない船乗りが、この世にいるのだろうか。
 人が、文明と知識の光でもって駆逐したはずの、闇夜に潜む化け物の類が、この宇宙にはひしめいている。人の生み出した光程度では、宇宙の隅々まで照らすことが出来ないのかも知れない。

「そして、その呪われた星を買い取ったのが、我らの祖先である人々じゃ」

 星を買う。
 荒唐無稽な話であり、現在においても、マックス・クーアなどの極々例外を除けば、星の個人所有など認められてはいない。
 だが、そういう曰く付きの星であれば、買い取るというのも不可能では無いのかも知れない。

「当然、安い買い物ではなかった。貧しい人々が、爪に火を灯すようにして貯めた金銭を持ち寄り、何とかして買うことが出来た」
「老師。それが、この星の公の歴史にある、建国譚の人々ですか?」

 ジャスミンの質問に、ビアンキは深く頷いた。

「彼らは、古来より独自の宗教観と生活様式を頑なに守り続け、それが原因で周囲の民族から迫害され続けた人々らしい。ごく一部の指導者を除き、本当に貧しい生活を送ってきた。そして、宇宙時代が始まっても、その迫害が止むことはなく、あらゆる新天地において移住を拒否され、最後まで母なる惑星に残らざるを得なかった」

 それは、ジャスミンも知る、この国の歴史であった。

「じゃが、母なる惑星の環境は、既に人の住めるものではなくなっておった。資源は枯渇し、大気と水は汚染され、動物はおろか植物も満足に育たない。そのまま母なる惑星に住み続ければ、民族はいずれ根絶やしになる、それは誰しもが分かっておったのじゃ。そして、彼らは最後に決断した」
「それが、呪われた星への移住、ですか」
「うむ。無論、いきなり全員が移住したのではない。そうすれば、過去の失敗をそのままなぞることになるのは目に見えておったからの。有志のうち、後顧の憂いなき者が、宗教的な使命感を胸に秘め、宇宙の果てへと旅立った」
「彼らは、報われたのですか」

 ビアンキは、首を横に振った。

「一年を待たず、全ての人間が病死した。当然と言えば、当然すぎる結果じゃった」

 しかし、と、ビアンキは続ける。

「彼らと、初期の移住計画を進めた先遣隊との違いは、その情熱にあった。それとも、追い詰められたが故の危機感が、恐怖に勝ったのかも知れん。とにかく、彼らは諦めなかった。十度で駄目なら二十。それで駄目なら三十と、何度も何度も人を送った。彼らにとって幸いだったのは──それが個々の隊員にとって幸福だったかは別にして──志願者に事欠かなかったことじゃ。普通、移住計画の失敗した惑星に、好んで行きたがる人間はいない。それが十も続けば、誰一人手を上げなくなる。しかし、彼らは一度たりとて諦めなかった。それが、彼らの歴史に刻まれた迫害の深刻さの裏返しと考えれば、あまりにも憐れなのじゃが……」
「そして、移住は成功した?」
「いや、全て失敗に終わった。いずれも、当初の、政府が推し進めた移住計画の隊員と同じ病を原因として、一年と待たずに死んだ。無論、原因も不明なままじゃった」
「ひでぇな。じゃあ、全員犬死にかよ」

 メイフゥは、声を荒げて言った。
 彼女は、宇宙生活者である自分に誇りを持っている。だからこそ、そのような形で、宇宙を目指した人間が使い捨てにされたことに、深く憤っているのだ。
 
「じゃが、成果が全くなかったわけではない。ついに、移住計画は、都合四十二度目、幾万を超える信徒の屍の上に、成功を見る」
「それは、何故?」
「四十二度目の計画に参加した隊員の中に、ヴェロニカという名前の女性が、いたからじゃ」

 ビアンキは、静かに目を閉じた。

「彼女が何者だったのか、あらゆる記録にも、我らの口伝にも、その詳細は残っていない。ただ、第四十二回移住計画隊の隊長じゃった彼女は、その天才的な閃きをもって、この星に巣くう病魔の正体を見破ったのじゃ」
「病魔の正体、ですか」
「考えてみれば、これほど単純なこともなかった。しかし、当時の常識では、その正体を見つけ出すことは、困難を極めたのもまた事実。それまでの計画の責任者を徒に責めるわけにもいくまいよ」

 ビアンキは、ジャスミンの方に顔を向けた。

「ミズ・クーア。あなたは、その正体に、気が付いているのではないですかな?」

 ジャスミンは、答えない。
 ビアンキは、苦笑して、続ける。

「ヴェロニカは、四十一度の失敗の犠牲者、その全ての経歴に目を通し、この星での生活ぶり、死に至るまでの過程を紐解き、全ての結果を集計した。そこまでは、今まで、誰しもが試みたことじゃ。そして、誰も真実に辿り着けなかった。しかしある日、ついに彼女は、一つの結論に至った」
「それは、一体?」
「原因は、この星の食物にある。いや、この星で育てた食物に、というべきか。そう、確信を得たのじゃよ。病に早く罹るのは、働き盛りで食欲も旺盛な男性の若者が多かった。それに比べ、同年代であっても、比較的食の細い女性などは、病に罹るまでに長く時間を必要とした。そして、彼らの摂っていた食事の内容も、肉を盛んに食べた者は病の進行が早く、野菜や穀物を食事の中心にしていた者は病の進行が緩やかじゃった」
「この星の作物に、毒が入っていたと、そういうことかい?」

 メイフゥの質問に、ビアンキは首肯した。

「早い話がそういうことじゃ。初期の宇宙移民は、今のように、食料を他星系から輸入するなどという方法で確保することが不可能じゃった。理由は、輸送コストが莫大なものになるためよ。つまり、食料は全て現地調達に頼らざるを得ん。無論のこと、そのための地質調査や生態系調査は必要不可欠じゃが、それでも、極々稀に、解明不可能な毒物というものもある。この星は、正しくその毒物に汚染されておったのよ。肉を食う人間のほうが病の進行が早かったのは、おそらく生物濃縮された毒物を摂取した結果に違いないと、彼女は気が付いたのじゃな」
「……そんなもんのせいで、何万人もの宇宙移民が死んだのかよ」
「うむ。もしも、現在の技術水準を得た後にこの星が見つかっておれば、彼らは死なずにすんだ。ある意味では、犬死にさせたと言われても、返す言葉もない」

 まるで自分自身が全ての責任を負っているように、ビアンキは言った。
 そして、続ける。

「原因は、朧気ながら分かった。しかし、だからといって解決策があるわけではない。他星系から食料を運ぶのは不可能。ではこの星で食料を生産するしかないが、しかし原因の毒物が一体何なのか、それが何に含まれていて、どのような経路で最終的に人の口に入るのか、全てが謎じゃ。その上、時間は無限にあるわけではない。度重なる失敗に人々の心は病み疲れ、母なる惑星の状況はいよいよ退っ引きならないものへと悪化していく。誰の目にも、刻限が差し迫っておるのは明らかじゃった」

 ビアンキは、閉じていた瞼を、静かに持ち上げた。

「伝説では、それは満月の夜だったらしい。ヴェロニカは、四十二回目の移住計画に参加した全ての人間を一同に集め、右手に麦に似た植物を掲げ、言った。『我らは今後、この星では、この植物以外は口にしない。動物の肉も、決して口にしてはならない。最低限の栄養を得るために乳を飲む以外、その他の動物性食品を口にすることも禁じる』、と」
「そりゃあ、中々厳しいお達しだねえ」

 メイフゥが、しみじみと言う。
 人は、食べることを何よりの楽しみにする生き物だ。その生活の場が、故郷から遠く離れた未開の惑星ともなれば、食へと求められる娯楽の比重はいや増すに違いない。
 ヴェロニカという女性は、その全てを捨てよと言ったのだ。そして、得体の知れない、この星原産の植物だけを食べろ、と。
 
「皆、何が何やら分からなかったに違いないと思う。下手をすれば、あまりの重圧に精神を病んだのだと誤解されたとしても不思議のない状況だ。それでも彼女の指示が、ある程度まで行き届いたのは、培ってきた彼女への信頼というものが確固としていたからじゃろうな」
「それで、全員が、そのヴェロニカってぇ女の人の言うことに従ったのかい?」

 ビアンキは、首を横に振った。

「そんなはずはない。ヴェロニカは気が狂ったのだと、彼女を見放した者も多くいた。その人達は、自分達の中からリーダーを選出し、勝手に行動を始めた。しかし、一年も経たぬうちに、結果はあまりにもはっきりと現れた。ヴェロニカの指示に従い、この星原産の麦に似た穀物と、少量の乳──それも、脂肪分を抜き、脱脂粉乳としたものだけを口にしていた人々は、誰一人として病に罹らなかった。しかし、彼女の指示に従わなかった人々は……」
「全員が、死んだ」

 ジャスミンが、ぽつりと呟いた。
 ビアンキは、頷いた。

「しかし、これは綺羅星のような成果であった。ヴェロニカが、一体どのような方法をもって、その植物には毒が含まれていないのかを解明したのかは分からないが、それでも病を、毒を避けるための方法が確立したのだ。母なる星から、本格的な移民団が訪れ、迫害のない、自由なる大地を祝福した。ほとんど単一の食品しか口に出来ないというのは確かに苦痛ではあったが、彼らが受け続けてきた迫害の歴史、母なる惑星の汚染された環境の中で生きることに比べれば、何ほどのこともない。幾万の犠牲の上に、ついに移民計画は成功したのだ」
「ちなみに、その麦に似た植物ってのは……」
「言うまでもなかろう。今、我々が茶にして飲んだ。カラという植物よ」

 ビアンキ以外の全員が、マグカップに残った小豆色の液体に目を落とした。

「……じいさん。ってことはさ、こいつには毒は含まれてないんだな」
「そのおかげで、我々はこの星で生き抜くことができた。カラに毒は含まれておらん。それは、間違いない事実じゃ」

 メイフゥとインユェは、胸をなで下ろした。
 この星の食物が毒物汚染されていると聞いたときから、気が気でなかったのだ。
 明らかにほっとした様子の二人を眺めて、僅かに目尻を落としたビアンキだったが、すぐに表情をあらためた。

「このようにして、移民は成功した。しかし、本当の悲劇は、その先に待っていたのじゃ」
「悲劇、とは?」
「浅ましい、あまりに浅ましいことよ。母なる星の豪奢な宮殿の中で最後までぬくぬくと暮らし、新天地の安全性が確約された後でようやくこの星を訪れた、民族の指導者達が、ヴェロニカを排除にかかったのよ」

 ビアンキは、苦々しい声で続けた。

「彼らの危機感は凄まじいものがあったのだろう。都合数万人の、勇気ある計画隊の命を奪った病魔の原因を、朧気ながらも突き止めたヴェロニカという女性には、惜しみない尊敬の念が捧げられた。当時の彼女は、建国の母とまで讃えられておったらしい。それに比べ、指導者たちは、嵐の危機が去った後で、頑丈な砦からひょっこりと顔を出したに過ぎん。民衆の尊敬がどちらに集まるか、言うまでもなかろう」
「……伝説の中では、聖女ヴェロニカは、火刑に処されたとありますが……」
「いや、そこまでの事態には及ばなんだ。しかし、考えようによっては、もっと悲惨な事態が起こった」
「それは、一体?」

 ジャスミンの前で、ビアンキは、うっすらとした笑みを浮かべた。

「内戦じゃよ」

 ごくりと、誰かが唾を飲み込んだ。

「度重なる迫害に耐え、絶望的と言われた移民計画を成功させ、ようやく新天地に辿り着いた人々は、その足で、同胞の屍を踏みにじり始めたのじゃ。かたや、ヴェロニカを旗頭に掲げた民衆軍。かたや、旧指導陣が率いる政府軍。この星に辿り着いたばかりで、重火器すらほとんど揃っていないはずの彼らは、まるで原始人がそうするように、石槍や弓矢を武器として、それまで凍える夜に肩身を寄せ合って励まし合ってきた隣人と、殺し合った」
「……馬鹿馬鹿しい」
「この争いは、今の子供達には、食料を巡る深刻な争いがあったのだと伝えられている。結果として、全移民のうち、約一割が戦死した。間接的に命を落とした人間を合わせれば、三割ほどの人間が、ようやく辿り着いた理想郷で、無駄死にをするはめとなった。その中には、食糧難を理由に野の食物に手を出し、病死した人間も数多くいたから、今、子供達に教えられている歴史も、あながち間違ったものではないのかも知れんな」

 ビアンキの顔を、皮肉な笑みが覆った。
 
「内戦は、民衆軍の勝利で幕を下ろし、旧指導陣の全ては処刑された。しかし、内戦の混乱の中で、建国の母と呼ばれたヴェロニカは行方知れずとなり、民衆は仰ぐべきシンボルを喪失した。だが、民衆が一つにまとまるためには、その心を纏めるための旗がいる。そして、彼らはヴェロニカを聖女と崇め奉り、旧来自分達が信仰してきた教義に、彼女の教えを混ぜ込み、二度とこのような悲劇が起きぬよう、一つの宗教を成立させた。それが、ヴェロニカ教の始まりよ」

 しんと、リビングに、重苦しい空気が流れた。
 ビアンキは、しゃべり疲れて乾いた喉を潤すために、マグカップに湯を注いだ。
 再び、カラ茶の芳醇な香りが、部屋を満たす。

「……話はわかったよ、じいさん。でもさ、肝心なところを教えてもらってないぜ」
「肝心なところ、とは何のことかな、メイフゥくん」

 メイフゥは、豪奢な金髪の中に手を突っ込み、がりがりと掻きむしった。
 竹を割ったような性格の少女には、宗教がどうの内戦がどうのという話は、あまり性が合わなかったらしい。どうにも、苦み走ったような表情だ。

「その、何万人っていう移民の命を奪った、この星の毒物ってのは何なのさ。そこをぼかしたままじゃあ、生殺しってもんだぜ」
「おお、そうじゃな。すっかり忘れておったよ」

 ビアンキは、ほくほくと笑った。
 その表情が、メイフゥなどには、とてつもなく恐ろしい何かに見えたのだ。

「病で死んだ人間の症状は、正しく伝説のとおりよ。メイフゥくん、きみは、ヴェロニカ教の教典に目を通したことはないのかね?」

 メイフゥは、総本山へと向かう途中、車内で読んだ、鈍器と見紛うほどに分厚い書物のことを思い出して、げんなりとした顔つきになった。

「ああ、一度見たことがあるよ。でも、最初の1ページで諦めちまったんだ。あまりにも面白みがなかったからさ」
「ならば、十分だ。その、最初の1ページには、一体何と書かれていたか、覚えているかな?」

 メイフゥは、宙を見つめながら、記憶の紐を引き寄せた。

「ええっと、確か……ヴェロニカの大地がどうのこうの……そんで……」
「『病を乗せた風が吹き、赤子も老人も死んだ。手足を石のように強ばらせ、舌は言葉を失い、口から胃の腑を吐き出して、死んだ』……でしたか」

 ジャスミンは、教典の一節を諳んじた。
 ビアンキは、良くできた弟子を眺めるように、嬉しそうな表情で、

「その通り。その一節が、正しくその病の症状なのじゃよ」
「手足を石のように強張らせた。つまり、四肢末端の神経障害、もしくは筋肉組織の麻痺、硬直。舌は言葉を失った。つまり、言語を司る高次脳機能の一部に障害が生じたか、それとも発音器官に麻痺が生じたか……。最後に、口から胃の腑を吐き出したというのは、内臓の融解に伴い猛烈な嘔吐が起こっていると、そういうことでしょうか」
「非常に正確な表現だと思う。正しく、初期の移民達は、そのような、言語に絶する地獄を味わい、腐敗した内臓を口と肛門から吐き出して、死んでいった」

 想像するだけで身の毛もよだつ、あまりに悲惨な死に様だ。
 しかし、メイフゥの顔から表情を奪ったのは、普通の少女のように、死体の有様を想像して吐き気を催したからではない。

「……四肢の麻痺と硬直、言語障害、そして内臓の融解、だって?」

 メイフゥは、驚愕していた。おそらく、一生で、一番驚愕していた。
 ただでさえ大きな瞳が、限界まで見開かれ、まるで眼球がそのまま零れ落ちそうな有様だ。唇は細かく戦慄き、血の気をすっかり失ってしまっている。
 少女の体が細かく震えるから、マグカップの中のカラ茶が、さざ波を起こした。
 姉のただならぬ様子に、インユェが、心配そうに声をかけた。

「おい、メイフゥ、どうしたんだよ。何があったんだよ」
「……ありえねえぇだろ、そりゃ。だって、たった一つの鉱山じゃない。この星全体だぞ?そんなのどう考えたって……」
「おい、姉ちゃん!どうしたんだよ!」

 椅子を後ろに倒して立ち上がったインユェが、がたがたと震える姉の肩を、前後に揺さぶった。
 それで、ようやくメイフゥは、インユェの存在を認めた。

「……おい、インユェ。お前、さっきの話を聞いて、何も気が付かなかったのか?」
「何もって……何がだよ。ちゃんと説明してくれよ。俺、ちっともわかんねえよ」

 インユェは、盛大な雷が落とされるのを覚悟した。こういうとき、姉はいつだって、あほぼけかすと連呼して、頭の回転の遅い弟をなじったものだ。
 しかし、今のメイフゥには、そんな余裕すらないようだった。

「……あたしとお前が資源探索者になったとき、師匠が言ってたじゃねえか。資源探索者は、宇宙を馬鹿みたいに彷徨うだけじゃ駄目だ。時には頭を使って、資料とにらめっこすることも大切だってよ」

 インユェは、ヤームルが紹介してくれた、気難しいそうな職人気質の老人を思い出していた。
 あまりにぶっきらぼうな物言いに、最初は好感の一欠片も持てなかったが、今は尊敬している人だ。自分がこの凶暴な宇宙を旅して、極々僅かな可能性の中から資源を探し当てることが出来たのも、その人のおかげだと感謝している。
 その人の教えは、全て頭に焼き付けてある。今更、指摘されることでもない。

「ああ、それくらい、分かってるけどよ、それが何だってんだよ」
「じゃあ、師匠はその時、何て言ってた?どういう資料がお宝に繋がるって言っていたか、言ってみな」
「ええっと……鉱物をたっぷり蓄えた小惑星を探したけりゃ、その星系の成り立ちを追えとか……ある種の鉱山は未発見のうちに鉱毒被害者が出ることがあるから、ハッキングしてでも病院のカルテを漁れとか……」

 その時、インユェの脳裏に、引っかかるものがあった。
 そうだ。あれは、鉱毒の講義を受けていた時だ。
 確か、さっき、あのでか女が口にした症例に当てはまる鉱毒が、あったんじゃないか。
 極微量の毒素を口にしただけで、四肢に麻痺性の障害が現れ、言語障害が発生し、最終的には体中の組織が壊死して、腐敗した内臓を吐き出しながら死んでいく、鉱毒病。
 筆舌に尽くしがたい苦痛を患者に与える、悪魔のような病。
 しかし、資源探索者の間では、その病は、こう呼ばれている。
 黄金病。
 それは、金鉱脈が中毒を引き起こすからではない。この病を引き起こす原因となった鉱物が、金以上に、金銭になる鉱物だからだ。
 その鉱物の名前を──。

「トリジウム……」

 インユェが呟いたのは、この共和宇宙で、最も稀少で、そして最も高値で取引される、鉱物の名前であった。
 インユェは、あまりの衝撃に、ちょうど先ほどまでの姉と同じような表情で、固まってしまった。
 この場では、ただ一人、ジャスミンだけが、静かな面持ちで、ビアンキの次の言葉を待っている。
 そして、老人は、はっきりと言った。

「おそらく、皆さんの考えている、とおりでしょうな。この星は、惑星ヴェロニカは、それ自体が巨大なトリジウム鉱山なのですよ」



[6349] 第五十四話:少年二人
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/02/11 02:55
 トリジウム。
 魔法の金属と呼ばれる。
 需要は、特にエネルギー関係と宇宙開発関係に集中している。
 クーア・システム、重力波エンジン、ショウ・ドライブ、感応頭脳……。その他、現在の人類が宇宙に飛躍するきっかけとなった発明のほとんどは、この金属がなければ成功しなかったと言われている。
 ある意味では、宇宙開拓時代の立役者となった、物質だ。
 稀少で、高価な、物質でもある。宇宙を漂白する資源探索者が、最も希う物質でもある。
 それが、この星の地下に、埋蔵されているという。

「ミズ・クーア。あなたは、この星の秘密に、いつの時点で気が付かれましたか?」

 老人の質問に対して、ジャスミンは、慎重に言葉を選んで答えた。

「……元々、この星の上層部の人間が、何らかのかたちでトリジウムの密輸に荷担している可能性が高いとは、思っていました。しかし、トリジウム鉱山から流れる鉱毒は、極めて強い毒性を有している。まさかこの星に、有人惑星にトリジウム鉱山があるとまでは、考えていませんでした。無論、惑星全体がトリジウム鉱山であるなどと言う、荒唐無稽な話も」

 ビアンキは頷いた。ジャスミンの意見は、極めて常識的なものだったからだ。

「しかし、メイフゥが、憂国ヴェロニカ聖騎士団から奪ってきたコンピュータチップ、その中に入っていたデータを見たとき、全てが理解できました」

 ジャスミンは、椅子の脇に置いていたブリーフケースから書類を取り出し、テーブルに広げた。
 惑星ヴェロニカの世界地図の上に、いくつかの赤点が付されたもの。そして、共和宇宙歴と思しき数字の横に、様々な数値の並んだもの。
 それは確かに、メイフゥがダイアナに解錠と解読を依頼した、例のデータをプリントアウトしたものであった。

「まず、こちらの世界地図。こちらに付されたマークと、この星に存在するあらゆるデータを比較検討しましたが、納得のいく精度で合致したものはありませんでした。ただ一つ、マークの付された場所のごく近くに、ヴェロニカ教の遺跡が存在すること以外は」
「なるほど」

 ビアンキは嬉しそうに頷いた。

「では、ミズ。その印は、何のことだと思われましたか?」
「おそらくは、現在採掘中の、或いは過去の採掘の行われたことのある、トリジウム鉱山」
「何故、そう判断されたのですか?」

 ジャスミンは、湯気の立つカラ茶を啜った。
 喉を潤し、余裕のある様子で答える。

「遺跡にも、いくつか種類が存在します。例えば、古代の建築物のように、既にその全容が明らかになり、歴史家や建築史家の研究対象となるような遺跡。そして、その全容が未だ地中に埋没し、これからの発掘作業と研究を待つ、考古学者の研究対象としての遺跡。この大きな区分から言えば、マークの付された地域に存在しているヴェロニカ教の遺跡は、間違いなく後者です。なぜなら、地上には未だ何物も姿を見せず、僅かな発掘作業が行われているだけだったのですから」
「なるほど、仰るとおりでしょう」
「そこまで考えが至った時に、メイフゥが言ったのですよ。この遺跡にお宝でも埋まっていれば、と」

 ジャスミンは、メイフゥを見た。
 突然に視線を向けられたメイフゥは、びっくりしたように目を見開いた。

「老師のお話のとおり、ヴェロニカ移民は貧しい人々だったのでしょう。であれば、まさか彼らに、埋蔵金を捻出するような余力があったとは思えない。しかし、埋蔵金に匹敵するような宝物が、もとからこの星に埋まっていた可能性ならば、あるのではないかと」
「ふむ」
「そう仮定した時、その発掘作業をカモフラージュするのに、遺跡の発掘作業を装うのはあまりに都合がいいことに気が付きました。ヴェロニカ教の遺跡であれば、その発掘に携わるのは、当然のことながら教団の息のかかった人間ということになる。また、外部の人間の目も眩ましやすい。例えば、発掘に伴って邪魔になった土砂であれば、それをどこか人目の届かない場所まで運び去って処分したとしても、誰も不思議に思わないでしょう。例えばそれが、トリジウムを豊富に含んだ鉱石だったとしても」

 ビアンキは、純粋な感嘆を含んだ視線で、ジャスミンを眺めていた。
 そして、感慨深げに首を振り、言った。

「お見事です。この地図だけで、そこまでを見抜かれましたか。いやはや、最初から我らに勝ち目など、なかったはずです」
「それだけではありません。こちらのデータにも、十分過ぎるほどのヒントが隠されていました」

 ジャスミンは、ほんの少しだって得意げではない、淡々とした調子で続ける。

「左端の、整然とした数字の列を共和宇宙歴だと仮定すれば、その続きの数値について、明らかな異常値を叩き出している年がいくつか存在します。例えば、627年、704年、781年」

 その場にいる全ての人間の視線が、ジャスミンの指の先の数字に集中した。

「627年は、当時の有力なトリジウム産出地であったシリウス星系で内乱が勃発し、その供給に重大な不安が生じた年です。704年は、ラヴォス星系とルガル星系を結ぶ唯一の航路が使用不可能になり、その交易が断絶しました。ラヴォス星系は、トリジウムの精製を手がける工業国であり、ルガル星系はシリウスと同じくトリジウムの産出国です。その交易が断絶したことで、やはりトリジウムの安定供給が問題となりました。781年はエストリアとマースの軍事的緊張が最高潮になり、その軍用艦の建造のため、トリジウムの需要が急増した年です。そのいずれもが、トリジウムを商う人間にとっては、破滅と栄光を背中合わせに感じた、忘れざる年であるはずです」

 その三年について、このデータは見事に異常値を表している。
 であれば、このデータとトリジウムが無関係であるとは、到底考えられない。

「おわかりですか。そもそもこのデータに、事実を秘匿しようとする意図はありません。寧ろ、婉曲的に、見る人間が見ればそれとわかるように、トリジウムという物質を巧みに示唆しているのです」
「……それは、どういった意図のもとに、でしょうか」

 ビアンキの質問に、ジャスミンは首を横に振った。

「このデータが、如何なる意図をもってこの星にばらまかれたのか、それは分かりません。しかし、それが、いわゆる正常な思考をする人間の所業ではないことだけは、確信できます」

 ジャスミンの意見に、老人は頷いた。
 そして、今までにないほど真摯な表情で、口を開いた。
 
「ミズ・クーア。あなたは、人類がこれまでに発掘したトリジウムの総量がどの程度が、ご存じですか?」

 ビアンキの質問に、ジャスミンが答えた。
 
「……わたしの記憶違いでなければ、およそ30万トン程ではなかったかと」

 30万トン。トリジウムの密度から換算すれば、大型トラックのコンテナ一杯に収まるほどの体積だ。
 人類がトリジウムを発見してから現在まで、全ての資源探索者が目の色を変えてその鉱山を探し、発見した鉱山を根刮ぎ掘り尽くし、そして精製したトリジウムの全てで、トラック一杯程度。
 他の金属、例えば金やプラチナなどの稀少金属と比べても、その産出総量の少なさは際立っている。
 それも無理はない。
 過去に発見された、最も高純度のトリジウム鉱山で、1トン当たりの岩石に含まれるトリジウムが20グラム。しかも、これは、統計資料に加えるのも憚られるほど極々例外的に産出量が豊富であった鉱山のデータであり、通常の鉱山であれば、1トンあたりの岩石にミリグラム単位のトリジウムしか含まれていない。
 そして、通常の埋蔵量である鉱山ですらが、この共和宇宙に数えるほどしか存在しないのだ。
 膨大な量の岩石から、一粒のトリジウム結晶を探り出し、それを精製する。当然、気の遠くなるような手間と莫大な費用がかかるが、生み出されたトリジウムは、その労苦を補って余りある利益をもたらす。
 錠剤ほどのサイズの結晶が、集合住宅一棟ほどの価格で取引される、この世で最も高価な物質。
 それが、トリジウムなのだ。

「仰るとおりです、ミズ・クーア。そして、この星に埋蔵されていると思われるトリジウムの総量は……」

 ビアンキは言葉を一度切り、決意とともに吐き出した。

「およそ、300億トン」
「さん……」

 誰かが思わず呟いて、しかし最後まで呟き得なかった。
 訪れた静寂。
 しんと静まりかえった部屋。
 ビアンキは、深い溜息を吐き出した。
 濃い、疲労に満ちた、溜息であった。
 事実、ビアンキの全身を、粘い疲労が覆っていた。何せ、今し方彼が紡いだ言葉は、正しくヴェロニカ教の秘奥であり、今まで彼が、その人生の全てを賭けて守ってきた秘密なのである。
 老人の額にはぽつぽつと汗が浮き、痩せた胸は大きく上下した。
 それでも、この言葉を聞いた三人の狼狽には及ばなかっただろう。
 長くクーア財閥の舵を取り、およそ荒唐無稽と呼べる話など聞き飽きるほどに聞いてきたはずのジャスミンですら、言葉を奪われ、ただ目を見開いている。
 それほどに、惑星ヴェロニカに埋蔵されているトリジウムの総量は、常識を外れていた。
 ならば、年若く、今の今まで『普通の』トリジウム鉱山の発見を夢見て宇宙を流離ってきた姉弟の驚きは、いっそ憐れと呼べるものだったのかも知れない。
 姉は、蒼白の顔に驚愕を貼り付けたまま、ぴくりとも動かない。
 弟はぽかんと目を丸めて、口を開きっぱなしにしている。ただただ、事態を飲み込めていないような有様だ。
 とにかく、三人は共通して、言葉というものを忘れてしまっていた。
 その中で、いち早く我を取り戻したジャスミンが、掠れた声で呟いた。

「……これまで、宇宙開拓者が血眼で探し回り、多大な犠牲を支払いながら採掘したトリジウム総量の、一万倍ですか」

 ジャスミンは、発作的な笑いを抑えるのに一方ならぬ苦労を必要とした。
 300億トン。これは、通常の居住用惑星に含まれる、卑金属元素の総埋蔵量とほぼ同じだ。
 つまり、この星におけるトリジウムは、他の星における鉄元素やら銅元素やらアルミ元素やらと同じ程度の希少性しか有しないということになる。
 これが笑わずにいられようか。
 だが、それに答える老人の声は、むしろ苦々しげであった。

「はい、そのとおりですミズ・クーア。この星は、それだけ高濃度のトリジウムで、汚染されていたのです」

 そうなのだ。
 この星に辿り着いた初期の移民達は、誰も、そんなものを求めてこの星を目指したわけではない。
 ただ、己の信仰と安寧の守られる、新天地を目指しただけだったはずだ。
 そして辿り着いたこの星は、恐るべき鉱毒によって汚染されていた。そのことを、誰も知らなかった。知る術すらなかった。
 事実を知ることすら許されず、ただ、その身をトリジウム鉱毒に冒され、死んでいったのだ。
 ジャスミンは再び言葉を奪われた。
 
「この星の動物も、植物も、環境も、全てが、常識では考えられないほどに高濃度のトリジウムで汚染されております。ゆえに、全ての食物は、一度人の手を介さないと、到底口に入れられるものではありません」
「……確か、岩塩ですらが摂取を禁止されているのは……」
「同じことです。海水から、特殊な精製法をもってトリジウム鉱毒を取り除かないことには、安全な塩すら手に入れることが出来ない。ここは、そういう星なのですよ」

 ビアンキは、ぼんやりとした視線で、窓の外を見遣っていた。
 そこには、朝ぼらけの風に腰を折る、カラの群生があった。

「不思議なもので、この星の生態系に元々組み込まれていた生き物は、致死量に相当するトリジウムを摂取しても健康を害されることがありません。おそらく、彼らの体内ではトリジウムが無害化されているのでしょう。それとも、通常のミネラルと同じように、体内サイクルにおいて何らかの役割を担っているのかも知れませんな。しかし、我らがそのような能力を得るためには、時間という壁はあまりに分厚かった」

 老人は、湯気の立つカラ茶で喉を潤してから、ヴェロニカ移民の歴史に話を戻した。

「ヴェロニカが、肉食を禁じ、カラ以外の自生青果の摂食を禁じたことで、我らは、何とかこの星に生きることを許された。だが、問題が解決したわけではない。カラは、トリジウム鉱毒に汚染されず、しかも各種の栄養に富んだ食物ではあったが、それ単一で人が生きるに必要な栄養素の全てを補えるほどに、万能な食物ではなかった」
「だからこそ、あなた方は品種改良を重ね、完全栄養作物の開発に漕ぎ着けたわけですか」

 心持ち平静を取り戻したジャスミンの声に、ビアンキは首を横に振った。

「事情は、それほど単純ではありませんでな。しかし、どちらにせよ、それは遙か時を経てのこと。当時の我々に、そのような作物は正しく夢物語の中の宝物でしかなかった。そして、そのような宝物を持たない我らは、常に栄養失調と背中合わせの、貧しい生活を送るしかなかった。加えて言えば、飲み水や脱脂粉乳、そして海水から精製した塩にも、少量ではあるが、トリジウムは含まれておる、やはり体は少しずつ蝕まれていく。当時のヴェロニカ移民は、孫の顔を見ずに死んでいくのが普通じゃった。トリジウムが体に及ぼす害毒と、慢性的な栄養失調。致命的な鉱毒症を発症することがなくても、その程度しか、生きることが出来なかった」

 つまり、平均寿命は40歳程度しかなかったということか。
 戦乱も疫病もなく、平穏無事な人生を送った人間の寿命にしては、驚くほどに短い数字である。
 この星を覆った死の呪いは、闇の中へと立ち去ったわけではなかったのだ。ただ姿形を変えただけで、厳然とこの星の上に在り続けたのだ。

「多産が奨励され、コミュニティ全体が家族として機能することで、ヴェロニカ教を中心とした社会は、辛うじてその存在を維持することができた。その中で、ヴェロニカの教えは正しく神格化され、誰もそれを疑問に思うことはなくなった。だが、その身を蝕む空腹以外の飢餓に悩まされ、肉食へ至った信徒は、決して少ない数ではなかった」

 ビアンキは、痛ましそうに言った。

「わしは、この時代に生まれて、本当に幸福だったのだと思う。肉を食わずとも、この体を形作るために必要な栄養の全てを何不自由なく摂取することが叶うのだから。もしもわしがかの時代に生まれていれば、慢性的な栄養失調に苦しんで、やはり肉食へと至っていたかもしれん」

 枯れた唇から、重々しい溜息が吐き出される。

「一度肉を喰らえば、その味が忘れられなくなる。そして、二度、三度と喰ううちに、罪悪感が薄れていく。体調はかえって良くなり、なんだあれは迷信かと自分を納得させる。そして、四肢に麻痺が現れたときには、全てが手遅れ。あとは、水や塩に含まれる微量のトリジウムを摂取するだけで症状は進行し、いずれ言語障害を併発して、最終的には体中の組織が壊死、融解して死に至る。それが、この星における破戒者の死に様じゃ」

 そして、その無惨な死に様は、生き残った信徒の信仰心を、より強固なものにしていく。
 ヴェロニカ教徒は団結し、神への、そして聖女ヴェロニカへの崇拝を続ける。
 この星の人間の行動原理として、ヴェロニカ教の戒律が根付くのに、多くの時間は必要でなかった。
 薄氷の上に立ちながらも、信仰の自由を約束された、穏やかな時間。
 だが、ある意味において平穏な時代は、意外なほどに早く終わりを告げた。

「我らが、青息吐息の有様で、それでも何とかこの星で生きていく術を確立させた頃、外の世界では重大な転換期が訪れていた」
「……ゲートの発見、ですね?」

 ジャスミンの言葉に、ビアンキは頷いた。
 この場合、ジャスミンが特別明敏だったわけではない。宇宙開拓史の大転換点といえば、ゲートの発見、ショウ・ドライブの発明など、いくつかの事象に絞られる。ジャスミンが口にしたのは、その一番最初の事象だっただけのことである。
 
「ゲートが発見され、人類の足跡は、今まで踏破された領域を遙か越えて、文字通り宇宙の果てまで及ぶ可能性が見いだされた。しかし、ゲートはそれだけで利用できる代物ではない。ゲートをジャンプするために必要な、新型エンジンの開発が必要不可欠となる。宇宙科学の権威達は、その精力の全てを注ぎ込んで新型エンジンの開発に尽力したが、それは容易いものではなかった。目の前のある宝の山を、彼らは、何百年という長きにわたって、指をくわえて見続けるしかなかったのじゃ」

 ビアンキの言葉に、ジャスミンが頷く。
 そして、口を開き、

「ですが、それはついに成し遂げられる。ゲートの不安定な波動を捕らえ、三次元の綻びを縫い付けるために必要な装置……重力波エンジンは、ついに開発、実用化に漕ぎ着けた」
「その通り。そして、そのために必要不可欠じゃった素材が、トリジウムよ」

 今まで、まるで蝋のような顔色をしていたインユェとメイフゥが、ごくりと唾を飲み込んだ。

「むしろ、因果関係は逆じゃったかもしれん。重力波エンジンの開発にトリジウムが必要だったのではなく、『魔法の金属』と呼ばれるトリジウムが発見されたことによって、重力波エンジンがこの世に産み落とされた。つまり、トリジウムという鉱物がこの世に存在しなければ、今でもゲートは、夢の世界への扉のままに違いない」
「老師の仰るとおりでしょう。重力波エンジンの開発者の偉業は賞賛されて然るべきでしょうが、宇宙開発史への貢献度を考えたとき、トリジウムの発見者へ贈られるべき勲章は、重力波エンジンの開発者へ贈られるものよりも、遙かに重く荘厳なものにならざるを得ません」
「そして、その偉業によって、この星はさらなる混乱の渦中に投げ込まれることになりました」
 
 ビアンキは、感情を押し殺した声で言った。

「長く、この星の風土病だと思われていた奇病が、トリジウム鉱毒症だと最初に気が付いたのは、当然の如く医師であった。彼は外の星に留学し、当時において最先端の医学知識をもった若者じゃったが、同時に敬虔なヴェロニカ教徒でもあったから、その重大な事実を声高にふれ回ることなく、まずヴェロニカ教の指導者である老師に報告したらしい」
「そして、この星には大量のトリジウムが埋蔵されていることがわかった」

 ビアンキは頷いた。

「同時に、高濃度のトリジウムによって、星全体が汚染されていたことも判明した。そして、我らが何を思ったか。メイフゥくん、分かるかね?」

 突然に水を向けられたメイフゥは、掠れた声で、

「……喜んだんじゃねえのかい?だって、足下にとんでもないお宝が埋まっていることがわかったんだ。それなら、喜んでそいつを掘り出すのが普通の人間ってもんだぜ」

 ビアンキは、にっこりと笑った。
 そして、首を横に振った。

「違う。我らは、恐怖したのだ」
「それは……トリジウム鉱毒の恐ろしさに、かい?」
「それも違う。我らが恐怖したのは、ようやく手にした平穏の地を奪われ、再び迫害と流浪の歴史へと返されることよ」

 老人は、カラ茶を啜った。

「トリジウム鉱毒など、もはや我らにはどうでもよかったのだ。限られた食物、苦しい栄養失調、それもどうでもよかった。我らに必要だったのは、自らの信仰を守ることの出来る自由の場所、そして誰からも迫害されない静かな時間。それだけだったのだ」

 老人以外の一同が、静かに息を飲んだ。

「この星に、人類の歴史そのものを揺るがしかねない埋蔵量のトリジウムが存在する。その事実が外部に知れられれば、あらゆる理屈とあらゆる暴力的な手段をもって、共和宇宙の全体幸福という錦の御旗のもとに、この星は奪い取られるだろう。そしてこの星の緑は全てほじくり返され、資源の全てを吸い上げられて、誰も住むことの出来なくなった、文字通りの死の星だけが我らの手に残される。ならば、我らはどうすればいい?死の荒野に取り残され、何もかもを奪われた我らに、いったい何ができる?」
「……いくらなんでも、そこまで阿漕なまねを、共和政府のお偉方が、するのかよ」

 インユェが、ぽゆりと、納得できないように言った。
 ビアンキは、少年の、若さに相応しい義憤とでもいうべき表情を微笑ましげに眺め、それからジャスミンを見て、

「如何思われますか、ミズ・クーア」

 ジャスミンは、無表情に口を開いた。

「連邦加盟を果たした現在のヴェロニカ共和国ならば話は別ですが、当時の、いわば辺境の一惑星に過ぎなかった惑星ヴェロニカにおいて、老師の仰った懸念が現実のものとなった可能性は、極めて高いでしょう」

 普段であれば、理知的でありながらも十分な暖かみを感じさせるジャスミンの声が、どこまでも冷徹に響いた。

「金鉱脈の上に住む、文明的に劣った──少なくとも加害者達の、そう信じる──原住民を、鉛の玉で追い立て、虐殺する。あるいは、絶望的な移民を成功させ、艱難辛苦の末に独自の文化を築くに至った宇宙移民を、たかだか資源のために彼らの星から追い出す。それは確かに蛮行であり、恥ずべき行いですが、長い人類の歴史から見れば珍しいことではない。寧ろ、当然の如く繰り返されてきたことです。であれば、この星が、今まで繰り返されてきた悲劇と同じ末路を辿らなかった保証など、どこにもない」

 無慈悲なジャスミンの意見に、インユェが、険しい顔つきで反駁した。

「だけどよ、この星に埋まってるトリジウムの量は、ちっぽけな金鉱脈程度とは訳が違うんだぜ。ならよ、そん中から、この星の人達が新天地を見つけるために必要な引っ越し代なんて、簡単に捻り出せるんじゃねえのかよ」

 ジャスミンは、首を横に振った。

「そういったケースの被害者に向けられるのが『全人類の幸福のために自分達の故郷を追われた憐れな人々』という同情の視線であれば、そういった救済も考えられる。しかし、自分達の強欲によって彼らを追い立てたという加害者達の負い目、罪悪感の深さが、そういった当たり前の感情を奪い取る。加害者達は、自分の視界の中に、被害者連中がいるのが、どうにも我慢できなくなる。その結果、被害者であるはずの彼らに与えられるのは、中央から離れた厳しい住環境と、先に住んでいた人々から向けられる冷たい視線と迫害さ」

 クーア財閥の支配者として、人類の紡いできた歴史の裏側を知るジャスミンは、醒めた口調で言った。
 ジャスミンの言葉は、少年の口を封じるに十分な、絶対零度を思わせる冷たさに満ちていた。
 冷え切った室内で、ビアンキが続ける。

「果たして現実に、ミズ・クーアの仰るようなことが行われたのか。それは誰にも分からん。しかし事実が外に知られた場合、間違いのないことは、この星から──聖女ヴェロニカが眠り、神の坐すこの星から、我らが立ち去らねばならなかったこと。そして、この美しい惑星が、無惨な死の星に変えられてしまうだろうということ。この二つの確定された未来図のみをもって、当時のヴェロニカ教指導陣にとって、トリジウム埋蔵の事実を声高に喧伝するなどは、以ての外じゃった」

 ジャスミンは頷いた。
 あまりに性悪説的な考えに偏っていたのかも知れない。しかし、資源という魔性が人の理性をどれほど簡単に、そしてどれほど醜く狂わせるかを知り尽くしているジャスミンにとって、当時のヴェロニカ教指導陣の判断は、極めて正しいものであったと考えざるを得なかったのだ。

「トリジウムを発見する切っ掛けを作った医師たる青年には、当時の老師が、事実を口外することのないよう厳しく言い渡した。そして、その青年は、個人で秘匿するには、そして医師として秘匿するにはあまりに重たい事実を抱えたまま、この星で短い一生を終えた」
「短い、というと、それはまさか……」

 ジャスミンの懸念を、老人は否定した。

「違う。誰かが口を封じたのではない。医師たる青年の死因は、トリジウム鉱毒症だったのじゃ」
「しかし彼は……」
「当然、この星の危険を知っておった。加えて言うならば、当時は既に重力波エンジンを用いたゲート航法が一般化しており、惑星ヴェロニカのような辺境においても、他星系から食料を輸入するのがそれほど難しいことではなくなっておったのじゃ。つまり、青年がその気になれば、全くトリジウムに汚染されていない食物を採り続けることも、不可能ではなかった。しかし彼は、この星の食料しか口にしなかった。しかも、カラ以外の、トリジウムに汚染された青果も口にした」
「それは、何故?」

 老人は、無感動な声で言った。

「分からん。いったい、その青年が何を思い、この星の食物を採り続けたのか。しかも、トリジウム鉱毒症を発症してもなお、それを続けたのか。もしかすると、真実を知りながら無数のトリジウム鉱毒症患者を見殺しにした、自身への罰だと考えたのかも知れん。もしかすると、全てを秘匿しこの星の惨状を見過ごし続ける、ヴェロニカ教指導陣への無言の抗議だったのかも知れん。それとも、わしの想像の及ぶ範囲に、彼の真意はなかったのかも知れん。ただ分かっておるのは、その青年が、壊死した臓物を吐き出しながら、無惨な有様で死んだこと。そして、今後も同じく真実に気が付く者が現れる可能性があること。それだけじゃ」

 ビアンキは、壁に掛かった時計を見た。
 既に、彼が話し始めてから、かなりの時間が経過している。
 部屋に差し込む太陽の光も、熱を帯び始めていた。

「そして、おそらくはその頃からじゃろう。ヴェロニカ教が、更なる変質を余儀なくされたのは」
「更なる変質、ですか」
「左様。それまでは、形骸化しながらも、何とか神への信仰を保ち続けたヴェロニカ教の中枢は、この星に隠された秘密を知るや、その隠匿、即ちトリジウムの秘匿だけを意図した組織へと変貌した。真実を知った者を排除するために、草の者という非合法の人間を飼い始めた。同時に、この星におけるトリジウム鉱毒症患者の存在によって外部に秘密が漏れることを防ぐため、完全栄養作物の開発へと乗り出した」

 そこでメイフゥが待ったをかけた。

「じいさん、それじゃあ何かい?ヴェロニカ政府が品種改良やら遺伝子組み換えやらの技術を使って完全栄養作物を作ったのは、ヴェロニカ教の戒律を守るためでもなければヴェロニカに住む人間を守るためでもなくて、ただ、トリジウムがこの星に埋蔵されていることを隠すためだったって、そういうことなの?」
「そのとおり。飲み込みが早くて助かる。トリジウム鉱毒症とこの星の風土病に共通項を見いだす人間は、少なければ少ないほどに都合がよろしい。ならば、この星におけるトリジウム鉱毒症患者の数をゼロにしてしまえばよいのだと、指導陣は判断したのじゃ」

 トリジウム鉱山の希少性は言を俟たない。
 トリジウム鉱毒症は、その稀少な鉱山の周囲に住み続け、さらに、極めて高濃度のトリジウムに汚染された食物を摂取し続けなれば発症しないのだから、共和宇宙全域を見ても、極めて珍しい、いわば奇病である。
 惑星ヴェロニカに蔓延る風土病、それも既に過去のものとなりつつある病と、トリジウム鉱毒症が同じものだと気が付く人間は、極めて限られたものとならざるを得ない。
 例えば、知識を極めた医師。
 例えば、トリジウム鉱山を探す資源探索者。
 だが、そういった危険な職種の人間であっても、惑星ヴェロニカの上から奇病がまったく無くなってしまえば、もはや鉱毒症と奇病が同一であると気が付くことはなくなるだろう。
 まして、星全体に蔓延る奇病が、どうしてトリジウム鉱毒症と同一の病であると、誰が思うだろうか。もしもそうならば、星全体がトリジウム鉱山だという、奇天烈な理屈が成立してしまうというのに。

「カラと同じくこの星の土壌で育ててもトリジウムに汚染されず、タンパク質を含む各種栄養に富んだ作物の、人為的な開発。しかし、言うまでもないことだが、この星は極めて貧しい星じゃ。今もそれほど豊かとは言えんが、当時のそれとは比べるべくも無い。ならば、当時のヴェロニカ政府がそのような作物の開発を進めるには、決定的に資金が不足しておるのは明らかじゃった」

 老人の皺だらけの頬が、皮肉げな笑みを形作った。

「そして我らは、我らを危地に陥れた悪魔に、膝を屈するしかなかった」
「……不思議だったのですよ。どうして、失礼な言葉ですが、これほど貧しい星の上に、遺伝子操作や高度の品種改良といった、多額の資本投下を要する産業が根付いたのか。なるほど、答えは極めて簡単だった。あなた方には、それだけの資金源があったのですね」

 ジャスミンの言葉に、ビアンキは、頷く必要性すらを見いださなかった。

「冗談半分で、彼らは地下を掘った。土砂を精錬し、そこからトリジウムを取り出した。時間にして、ほんの半年ほど。投下した人員は当時のヴェロニカ教総本山に属していた、僅かな僧のみ。にもかかわらず、彼らは、当時の惑星ヴェロニカ全体のGDPの総額にも等しい価値のトリジウムを手にしてしまった。果たして彼らは何を思ったでしょう。わしには、彼らが憐れでならない」

 老人は、心底辛そうに言った。
 ジャスミンも、そしてメイフゥとインユェも、言うべき言葉を失ってしまった。
 今の今まで、自分達を苦しめ、祖先たちの命を嘲笑うかのように容易く刈り取ってきた悪魔が、ほんの少し土を掘り返しただけで、自分達の一年間分の労働よりも高い価値の金銭として姿を現したのだ。
 憎むべき悪魔に頭を垂れ、その慈悲を乞うことでしか、自分達は生き残ることを許されないのだ。
 その無念、そして無力感。当時の僧達は、血涙を流しながら、土を掘ったのだろう。

「今も、人知れずヴェロニカシティの地下に延びる大洞窟が、当時の発掘の痕跡じゃ。あれは、当時の僧達の無念を体現した場所であり、現在のヴェロニカ教が生まれた、文字通りの聖地でもある」
「あれが、トリジウムの発掘跡だって!?」

 メイフゥが、驚愕に満ちた叫び声を発した。
 メイフゥ達が、特殊部隊の襲撃からの逃走経路として用い、そしてメイフゥとジャスミン、ケリーが死闘を繰り広げた、正体不明の洞窟。
 確かに、自然が作り出した地形には見えなかったが、それがまさか、トリジウム発掘に用いられた坑道であるなど、想像の埒外である。
 メイフゥがしばし言葉を失ったとして、何人も彼女を非難し得まい。
 しかし、驚いたのはメイフゥだけではなかった。

「なんと、メイフゥくんは、あの地下道を知っていたのか」

 ビアンキが、目を見開いて言った。
 メイフゥが、掠れた声で答える。

「あ、ああ。あたしだけじゃない。ジャスミンお姉様も、インユェも、知ってる。事情があってさ、あの地下道を逃げ道に使ったんだ」
「逃げ道に?では、あの道のことは、そもそも誰がご存じだったのだね?」
「それは、あたしらの育ての親の、ヤームルって男だけど……」
「ちょっと待ってくれ。ヤームル?……はて、その名前は、どこかで……」

 ビアンキは、深く考え込んだ。
 まるで自己の内側で、記憶をふるいにかけるように、口元に手を当てて考え込む。
 そして、何かに思い当たったのだろうか、はっと顔を上げて、言った。

「それは、まさか、あのヤームルくんか!?ならば、あの坑道を知っていて当然だ!」

 予想外の人物から聞かされた知己の名前に、メイフゥとインユェは腰を浮かした。

「じいさん、あんた、ヤームルのこと、知ってるのか!?」
「知っているも何も、彼は、いや、彼らは、惑星ヴェロニカの大恩人だ!もしも彼らがいなければ、今の惑星ヴェロニカはなかった!」

 老人は、目を白黒させながら、しかしメイフゥとインユェの顔を見た。
 交互に見た。
 そして、ぼんやりとした、忘我の声で呟いたのだ。

「ああ……そうか、全て、思い出した……そういえば、君たちのどこかに、面影がある……よく、とてもよく、似ている……そうか、君たちは、あの少年の、血を引いているのか」

 予想外の言葉に、姉弟は声を失った。

「そうだ。ヤームルと名乗った少年の隣に立っていた、同じ歳の頃の少年。顔立ちも、雰囲気も、よく似ている。ああ、そうか、なんということだ……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て、じいさん!」

 メイフゥは、テーブルに身を乗り出すような姿勢で、大声を出した。

「あんた、あたしらの親父さまと、会ったことがあるってのか!?」

 対照的に、まるで夢見るように弱々しい声で、老人は呟いた。

「ああ……そうだ。おそらく、いや、ほとんど間違いなく、わしは、もう数十年も前に、君たちの父親と、顔を合わせたことが、ある」
「じゃあ、名前は!?あたしらの親父さまの、名前は!?」

 興奮したメイフゥが、ビアンキの襟を掴み、激しい表情で問い質した。
 枯れ木のような老人の体は、メイフゥの豪腕に容易く持ち上げられた。
 テーブルの上のマグカップのいくつかが、衝撃に宙を舞い、そのいくつかが床に落ちて盛大に砕け散った。

「落ち着け、メイフゥ」
「邪魔すんじゃねぇ!すっこんでやがれ!」

 牙を剥き出しにした猛獣のような表情で、メイフゥがジャスミンを威嚇した。
 常のメイフゥ、ジャスミンを自らの姉が如く慕う少女からは、想像だに出来ない、切羽詰まった表情だ。
 だが、その程度で気圧されるジャスミンではない。
 適度に加減した、しかし常人であれば意識を刈り取るような張り手を、メイフゥの左頬に叩き込む。
 肉を肉で打つ、高い音が部屋に響いた。

「落ち着けと、わたしは言ったんだ。聞こえなかったのか、メイフゥ」

 しばし空白の時間が流れた後で、頬を赤くしたメイフゥが、ビアンキの襟を離した。
 どさりと、老人の体が椅子に落ちる。
 首元を締め上げる恐ろしい力から解放されたビアンキは、枯れ木のように立ち尽くす、メイフゥの表情を見た。
 そこからは、普段のメイフゥを彩る溌剌とした覇気が、ごっそりと失われていた。

「……ごめん、お姉様。あたし、聞こえてなかったよ」
「よし、今は聞こえているな。ならばいい。座れ。そして、老師の仰ることを、落ち着いて聞くんだ。出来るな?」

 メイフゥは、血の気の失せた顔で、こくりと頷いた。
 とさりと、軽い音を立てて椅子に腰掛ける。
 ビアンキは、こころもち青ざめた顔色で、首の辺りを撫でさすり、言った。

「……すまんが、メイフゥくん。わしは、きみの父親であろう少年とは、名前の交換はしなかったのじゃよ。話し合いは、全て、ヤームルくんを通じて行われた。つまり、当時も今も、きみの父親たる方の名前は知らない」
「……そうか。悪かったよ、じいさん」

 ぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。
 項垂れた少女を、老人は気の毒そうに見遣ったが、しかし気を取り直したような口調で続ける。

「とにかく、それはヴェロニカ教にとって、一大転換であった。これまで、自らを害し続け、病魔を連れた死に神でしかなかったトリジウムに、自らの命運を託したのだ。それに伴って、ヴェロニカ教の教義も変わらざるを得なかった」
「……それは、いったい、どのように?」
「全ての教義が、トリジウムの秘匿のために、再構築された。肉を食うな、自生の青果を口にするなという教えには、わざとらしい自然崇拝的な思想が付加され、それと同時に、森林伐採のような大規模な開発も厳に禁止されるにいたった。この星で、土を掘り返すには、ヴェロニカ教の許可が必要不可欠となった。当然、地質調査を要するような大規模な開発行為は数を減らし、行われたとしても、総本山の厳しい監視が必ず付けられた」
「なるほど、自然愛護思想の全ては、地下に埋蔵された大量のトリジウムを隠匿するためのものだった、と。そして、我々の知る、ヴェロニカ教が生まれたのですね」

 ビアンキは、苦々しげに言った。

「そのような思想は、祖先が、厳しい迫害を受けながらも守り続けてきた、原初ヴェロニカ教には存在しなかった事項じゃ。いや、それだけならば構わん。時代の趨勢とともに信仰が新たな有り様を見つけるのは、当然じゃろう。しかし、新たなヴェロニカ教で言うところの神という概念は、この星の自然と同義であり、この星に住まう存在でしかない。反して旧ヴェロニカ教の神は、母なる惑星に住まうもの。どのような美辞麗句をもって糊塗したところで、その存在を同一であると偽ることは出来ぬ。つまりは、神のすげ替えよ。それほどに、我らの教義は、根本からして変節した。しかも、この星の指導者を名乗る、限られた人間の手によって」
「ってことは何かい?この星の人達は、トリジウムを守るために、自分達の信じる神様を鞍替えしちまったってぇことかい?」

 メイフゥの、邪気の無い驚きが、ビアンキの顔をいっそう暗くさせた。

「そのとおりじゃ、メイフゥくん。我らの祖先は、教えを守るためにこの星を見つけ、死の淵を彷徨いながらも何とか定住に漕ぎ着けた。それは全て、自分たちの信仰を守り抜くためだけに。ならば、ただトリジウムを秘匿するために、自らの信じ続けた神を、信仰を捨て去った子孫を、神と呼ばれる存在が見れば、どのように思うだろうか」
「……目的と手段が、入れ替わってしまったと、そういうことですか」

 ジャスミンの冷静な指摘に、ビアンキは首肯した。

「なんと……なんとさもしいことだと、思われませぬか。もはや、この星に神はおらぬ。よしんば、母なる惑星からこの星への移住が成功したのが、正しく神の御業だったとしても、既に神はこの星をお見捨てになった。わしは、ずっとそう思い続けてきた」

 しかし、闇の中に一縷の光条を見つけたように、老人は、二人の姉弟を見た。

「君たちに、出会うまでは」

 今度は、老人の柔和な笑みが、姉弟の喉から言葉を奪っていた。
 どうして自分達の存在が、この疲れた老人をして、これほど穏やかな笑みを浮かべさせることができたのか。どう考えても、全く理解出来なかったからだ。
 どのように反応していいのか戸惑う姉弟を尻目に、ジャスミンが口を開いた。

「この星は、そこに住む人民の意図せざるところで、トリジウムを隠匿する集団へと変貌した。そこまでは理解できました。では、そのトリジウムを処分して得た豊富な資産を注ぎ込んでまで推し進めた、完全栄養作物の研究は、完成したのですか?」

 ビアンキは、首を横に振った。

「いくら資金が豊富にあろうとも、そのように都合の良い作物が、一朝一夕に完成を見るはずもなかった。そも、当時の惑星ヴェロニカは連邦未加盟国じゃ。高い技術を学ばせるために留学生を出そうにも、受け入れ先が存在しない。存在したとしても、最先端の技術に触れることができない。到底、満足の行く修学など、出来ようはずもない。それに、研究に必要な機械類も、論文その他の研究結果も、連邦未加盟国への輸出は厳に禁止されている。技術も資材も人材もなければ、そのように高度な研究が、達成されるはずもかったのじゃ」

 今でこそ、ヴェロニカ共和国出身の学生は、例えば連邦大学のような最高学府にもちらほらと存在するが、それは、現在のヴェロニカ共和国が連邦加盟国だからこそである。
 連邦未加盟の国家は、一様に辺境と見なされ、共和宇宙連邦からは軽んじられるのが常である。であれば、高い技術を学ばせるための貴重な留学生枠に、辺境国家の学生が選ばれるなど、余程の幸運に恵まれなければあり得べき話ではない。

「ちょっといいかい、じいさん」

 掠れた声で、メイフゥが話に割り込んだ。

「どうぞ、メイフゥくん」
「さっきから聞いてるとさ、少し不思議なんだよ。大昔ならいざ知らず、今の話の時代なら、ゲートを使ったワープ航法もかなりコストダウンしてたんだからさ、遠くの星系から食料を運び込むのも不可能じゃなくなってたんだろう?なら、わざわざけったいな作物を無理矢理作らなくても、外から食料を輸入すりゃ話は丸く収まったんじゃねえの?」

 率直なメイフゥの意見に、ビアンキは頷いた。

「確かに、食糧問題の解決という一点においては、それが一番の解決策じゃったろう。実際に、そのような意見もあったと聞いておる。しかし、当時のヴェロニカ教指導陣において、それはどうしても採用できる方法ではなかった」
「どうしてさ?」
「まず、この星は極めて豊かな生態系を有する惑星であること。それが、例え外見上のことに過ぎなくてもな。ならば、そのような惑星が、どうして自分達で食料を生産せず、他星系の輸入に頼らざるを得ないのか。不自然極まりないことじゃ。当然、疑惑を呼ぶじゃろう。そうなったときに、誰かがこの星の秘密を見抜くかも知れん。それが、一応の建前よ」
「建前、かい?」
「うむ。わしは、本当は、恐ろしかったのではないかと思う。そもそも、祖先が、数々の危難を乗り越えてこの星に至ったのは、全て、母なる星での迫害に端を発しておる。であれば、それまで殻に籠もり外界との接触のほとんどを絶ってきたヴェロニカの人々が、その生命線でもある食料問題を、容易く他星系の人間に──今の今まで自分達を虐げ続けてきた人間に、任せることができるだろうか」

 メイフゥは、不服げな顔つきで、沈黙した。
 彼女は、まだ若い。それに、今まで自分の前に立ちはだかってきた諸問題のほとんどを、頭の回転の速さと、腕っ節の強さで、文字通りに薙ぎ倒してきたという自負がある。
 だから、自分以外の人間を恐れ、陰鬱に閉じこもった、そのような考えが理解出来なかったのだ。
 ビアンキは、そんな少女を微笑ましげに見て、再び口を開いた。

「完全栄養作物の研究は、そう簡単なものではなかった。しかし、だからといって何を焦る必要もない。我らは、今までずっと耐えてきた。ならば、それがこれからも耐えねばならんだけの話。それに、完成には至らずとも、カラよりも各種栄養に優れ、トリジウムに汚染されない作物というものも、いくつか開発され、実際に栽培もされた。そんな中、鉱毒症患者は確実に数を減らしていた。ならば、辺境惑星の忘れ去られた奇病と、トリジウム鉱山を結びつけるような人間がそうそう現れるはずもない。我らは、そう高をくくっておったのじゃ。しかし、そうもいかん状況が、訪れた」

 老人は、遠い目をした。

「共和宇宙歴にて、930年頃。突如として、この星は、とある騒動の渦中に巻き込まれた」
「930年ってえと……もう、じいさんは生まれている頃じゃねえの?」

 ビアンキは微笑んだ。

「うむ、わしはまだ一介の修行僧として、総本山にて修行を積んでおったゆえ、恥ずかしながら、世俗のことには酷く疎かった。しかし、それでも、何となく浮ついた雰囲気を感じ取ることの出来るほどに、この星の空気はおかしかった」
「それはいったい、何故?」

 ジャスミンの質問に、老人は、力ない笑みを浮かべた。

「その時期、とある噂話が、このような辺境星域を含む、全共和宇宙を席巻したからですじゃ」
「噂話、ですか」
「はい。惑星の外殻の全てがトリジウム結晶で覆われた驚くべき宝の星があるという、お伽噺のような話です」

 ジャスミンは、口に含んだカラ茶を吹き出しかけた。
 それは、彼女にとって、あまりに身近に感じる『噂話』だったからだ。

「あ、それって知ってるぜ!今も、あたしら資源探索者の間では有名な、海賊王の埋蔵金の話だろ!」

 メイフゥが、元気よく言った。
 ビアンキが頷く。

「うむ。当時は、まだ海賊王などという言葉は、おいそれと用いられることはなかったが、しかし、巨大な天然トリジウム結晶を密売組織に流す少年がいるというのは、まことしやかに噂されておった」
「それが、後の世にいう、海賊王その人だったと、老師はそう仰るのですか?」

 心持ち抑揚に富んだジャスミンの声に、ビアンキは、それほど奇異の念を覚えなかったらしい。

「ことの真偽など、わしは知りはせぬ。ただ重要なのは、そのような噂話が、資源探索者の数を劇的に増やし、そして、惑星ヴェロニカのような辺境の地にまで、彼らの足を運ばせたことじゃ」
「……ちょうど、今のあたしらみたいに、か」
「資源探索者は無頼を気取っており、中には粗暴者を画に描いたような連中もおるが、独立独歩の気概を持った知恵者も多い。彼らの多くは、外宇宙へ至る中継点として、あるいは探索活動の基地としてこの星を訪れたに過ぎなかったが、当時のヴェロニカ教の指導陣は大いに慌てた。何とかして、彼らをこの星から追い出そうとした」
「それは、成功したのですか?」
「いや、このような辺境の政府がどれほど怒鳴り散らしたところで、資源探索者の情熱を止めることは叶わなんだ。かといって、何の理由も用意せず、強権的に彼らを排除したのでは、いらぬ疑惑を招きかねん。第一、この星は、その面積のわりには人口も居住用区域も少なく、当然、警察力や軍事力も他国に比して大きいものではない。独力による取り締まりには、限界がある」
「では、指をくわえて見ていた……というわけでもないのでしょう?」

 ビアンキは、頷いた。

「そろそろ潮時だという意見が、当時の長老会の意見であったらしい。長きにわたる品種改良の成果は芳しくなく、未だ完全栄養作物の開発には至らない。星を訪れる資源探索者の数は、増加の一途を辿り、一向に減少する気配すらない。このままでは、早晩ヴェロニカの秘密は白日のもとに曝され、この星に埋まったトリジウムは共和政府を名乗る盗賊達に奪われてしまう」
「では……」
「そう。ヴェロニカ政府、旧ペレストロス共和国政府は、共和宇宙政府への加盟申請を、決定したのじゃ」

 ビアンキは、骨と皮だけのような腕を組んだ。

「一つの賭けには違いなかったのじゃろう。共和宇宙連邦へ加盟すれば、連邦警察がその治安維持に協力してくれる。また、加盟を希望する国家が、それ以前よりも治安維持に力を注ぐのは当然のことともいえるため、惑星ヴェロニカを闊歩する不法入国の資源探索者を取り締まる格好の口実を作ることもできる。万が一トリジウムの埋蔵が露見したときにも、加盟国であればそれほど無体な扱いを受けはしないだろうという、打算もあったじゃろう。それに、完全栄養作物の開発に必要な人的資源や技術の提供も、飛躍的に増大するであろうという意見もあった」

 しかし、と続ける。

「共和連邦に加盟すれば、それまでよりも秘密が暴かれる可能性が、ある意味では高くなるのも事実じゃ。ヴェロニカ教は宇宙規模で見ても特異な教義を持つ宗教ゆえ、その文化的、歴史的な調査が行われる可能性は極めて高い。その過程で、この星の風土病とされた病とトリジウム鉱毒症との共通点に気づかれる可能性は、もちろん存在した。それに、人的、経済的交流が他国と盛んになれば、それによってもたらされる変化がこの星にどのような影響を与えるか、それは全くの未知数じゃ」

 老人の言葉について、ジャスミンは考えた。
 確かに、危うい状況であったのは間違いない。今まで、何の目的もなくこの星を訪れた、物好きな旅行者などと違い、その時期にこの星に大挙して来襲したのは、トリジウム鉱山の探索に目の色を変えた、資源探索者の群れである。
 当然、トリジウム鉱毒症のことは知っているだろうし、その他にも、資源探索に必要な知識は間違いなく備えている。
 そんな人間に、この星の奇病のことが知られれば、トリジウム鉱山の存在に気づかれる可能性は、決して低いとは言えない。
 だが、同時に違和感も覚える。
 それまでのヴェロニカ政府の方針──つまり、ヴェロニカ教の老師達の採ってきた方針は、どちらかといえば受け身の色彩が強いものであった。
 共和宇宙経済の根幹を揺るがすほどの埋蔵量のトリジウムの存在を確認しながら、実際に採掘したのは、作物の品種改良のための資金としての、僅かな量のみ。しかも、その研究成果事態が芳しくなくても、その進展を促すために、追加で資金を投下するようなこともしていない。
 であれば、どうしてその時だけ、連邦への加盟申請という、極めて積極的な方策に打って出たのか。第一、彼らは、外の人間に対して根強い不信感を持っていたはずなのに。
 追い詰められていた、だけでは説明のつかない何かが、ある気がした。

「納得がいかないと、そういう顔ですな、ミズ・クーア」

 ビアンキが、笑いながら言った。
 ジャスミンは、正直に頷いた。

「ミズ。あなたが何に対して奇異の念を抱いておられるのか、わしにはよく分かります。実はその時、この星が共和連邦加盟という重大な決断を下す直前に、惑星ヴェロニカで、人知れず、一つの事件が起こっていたのですよ」
「事件、ですか」
「ついに、この星の秘密を暴いた人間が──秘匿されたトリジウム鉱山の存在に気が付いた人間が、現れたのです」

 言葉に反して、ビアンキの表情は、如何にも嬉しげであった。
 そして、その嬉しげな表情を、インユェとメイフゥの姉弟に向ける。

「それは、少年でした。二人の、資源探索者の少年です。彼らは、既に大部分が改竄されるか、それとも焚書されていたこの星の歴史書を、埃まみれになりながら蒐集し、断片的な記録をつなぎ合わせて、この星の真相に辿り着いた。もしも彼らの惑星間通信を妨害することがなければ、この星の秘密は共和宇宙の常識と成り果てていたやも知れませんな」
「おい、じいさん、その少年って、もしかして……」
「そうだ。君たちの育ての親であるという、ヤームルという人物。それと、もう一人が誰か、言うまでもないだろう?」

 姉弟が、ごくりと唾を飲み込んだ。
 正しく、言うまでもないことだ。
 ヤームルの、片割れの少年。
 それは、この二人の、実の父親である。

「捕まえた少年二人の処遇を巡って、喧々諤々たる議論が交わされた。殺してしまえという意見。薬物で記憶を消去すればいいという意見。トリジウム鉱山で強制労働させればよいのではないかという意見。様々な意見が出て、しかし舵を取る人間はいない。そうこうして時間が経つうちに、驚くべき人物が、この星を訪れた」
「驚くべき人物だって?」
「メイフゥくん、きみも宇宙生活者ならば、一度くらいは耳にしたことがあるだろう?二百隻もの船団と千人を越す部下を従え、中央銀河を席巻した大海賊。その時代においては、小国の大統領よりも強い権力を有したと言われる、大海賊の名前を」

 メイフゥが、息を飲み、無意識めいた声で呟いた。

「……大海賊……シェンブラック……」



[6349] 第五十五話:牢屋の夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/02/13 20:51
 闇である。
 深い、闇が目の前にある。
 底を見通すことが、出来ない。
 自分が溶け込んでしまうような、境界の見えない、闇だ。
 この場所では、左右の目が映し出す視界は、寸分の違いもない。
 瞼を持ち上げても、下ろしても、変化はない。
 眼球があろうが無かろうが、それすらも関係がない。
 どこまでも深い、漆黒に覆われている。
 その闇の奥から、ぴちょん、と、音がした。
 水の垂れる、音だ。
 どこかで、水が滴り落ちているのだ。
 きっと、石造りの天井で結露した水滴が、重力に耐え難くなり、丸々となって落ちていくのだろう。
 床には、彼の先人の作り出したかび臭い水たまりが広がっており、仲間が落ちてくるのを今か今かと待ち構えている。
 水滴は水たまりに波紋を起こし、やがて同化し、次の仲間を待ちわびる。
 そんな光景が、意味もなく男の脳裏に閃いた。
 音もなく、光もない空間にいると、思考が狂うのだろうか。
 その時、石の床に腰掛けた男の、剥き出しの足の裏を、何かがくすぐっていった。
 反射的にケリーが身を捩ると、かさかさと、神経に障る足音をたてて離れていく。
 ゴキブリか、それとも得体の知れない節足動物が、死体と間違えたのだろう。
 もう、何度目か分からない、感触だ。おっかなびっくり触ってみては、びっくりして逃げていく。そこは、やはり虫の愚かさなのか。それとも、早く自分を喰らいたくて、居ても立ってもいられないのか。
 生憎、まだ生きている。まだ、お前らに集られてやる訳には、いかない。
 男は、くすりと笑った。
 その拍子に、手首に巻かれた鎖が、じゃらりと、重々しく擦れた。
 石の壁に貼り付けになった上半身が、そろそろ重たく感じる。
 いったい何時からこの姿勢でいるのかわからないが、腹の虫がご機嫌斜めなことから、おそらく一昼夜はここにいるのだろう。
 闇の中は、少し蒸し暑い。凍えるよりはましなのかも知れないが、どこかから漂ってくるかび臭さと、肉の腐る臭気の入り交じった粘着質な空気は、どうにも耐え難い。
 男の肌を、汗が、つうと伝い落ちた。滑らかな上半身を鏡の上のように滑り落ち、一糸纏わぬ裸体を通って、石の床で染みへと化ける。
 喉が、乾いていた。
 水分を摂ったのも、この獄に繋がれる前、あの朝食の席が最後だ。発汗量から考えると、そろそろ脱水症状を起こしても不思議ではない頃合いである。

「ったく、俺は大切なお客様じゃあなかったのかよ」

 掠れた喉で、男は呟いた。
 別に、賓客としてもてなして欲しいわけでは、ない。むしろ、怖気がするくらいだ。
 だが、自分の置かれた状況を鑑みれば、愚痴の一つも溢れようというもの。
 虜囚となったケリーは、疲労と自嘲に満ちた笑みを、浮かべた。

 不思議には、思っていたのだ。
 どうして、マルゴたちは、自分とアーロンを置いて、部屋を出て行ったのか。
 アーロンは、自分を、命の恩人だという。大切なお客様だという。
 しかし、第三者の視点に立てば、自分は紛れもない危険人物だ。どう考えても、マルゴのような立場の人間からして、アーロンと二人きりにしていい人間ではない。
 それを、ああも簡単に、何の未練もなく、退出した。
 その異常に、気が付くべきだったのだ。
 
『墓を……あいつらの墓を、暴きやがったな!』

 ケリーの怒声が、朝ぼらけに包まれた食堂を、震わせた。
 ケリーは、紛れもなく怒っていた。怒り狂っていた。
 何故なら、彼が怒り狂うに十分過ぎることを、目の前の男がしでかしていたからだ。
 汚されたのだ。
 あの呪われた星の赤い大地の下で、永遠の眠りについた仲間達の、汚されざるべき尊厳が、汚された。
 ケリーの、今は空隙となった右眼窩に、あのときの光景が再生された。
 火山口のような大穴に、家畜の死体よりも呆気なく投げ捨てられた、仲間の残骸。
 昨日まで、ともに銃把を抱え、空の薬莢と鮮血の飛び交う戦場を駆け抜けた、家族。
 自分の腕の中で、冷たくなった、初恋のひと。
 もう、今は、動かない。どこにいるのかすら、わからない。虚ろな目をした死体の群れの、一部になってしまった。
 その上に、さらに、死体が折り重なる。男も女もない。子供も大人もない。ごみくず同然という一事において、彼らは全く平等に取り扱われていた。
 無限のような大穴は、すぐに、ウィノアの勇者達の残骸で、満杯になってしまった。
 ケリーは、その光景を、じっと見ていた。
 もう二度と光を映さない右目で、じっと見ていた。
 絶対に忘れないために。自分が何者で、何を為すために生き残ったのかを、絶対に忘れないために。
 やがて数台のショベルカーが、大穴へと土を被せていく。
 全てを無かったことに。全てを見えないところに。
 臭いものには、蓋を。
 ああ、そうか。そういうことか。
 俺達は、そういうものだったのか。
 最後の死体の、天に向かって伸ばされたような細い腕が、土砂に埋もれたときに、ケリーは決意した。
 いいぜ。そっちがそういうつもりなら、そういうことで構わない。
 俺は、俺たちは、そういうものなんだ。
 そういう目的のために作られて、そういう目的がなくなったら、何の躊躇いもなく廃棄される。
 それはそれで、構わないさ。それが道具の宿命だ。
 だが、俺は生き残ったんだ。
 だから、そういう目的のために、生き続けてやる。
 ただ、もう、敵はいなくなっちまった。俺たちと同じ有様で、廃棄されたんだ。
 このままじゃあ、目的が果たせない。そんなの、俺を作ってくれた誰かさんに、申し訳がないってもんじゃあないか。
 なら、仕方ないよな。俺がそういう目的のために生きるなら、どうしたって必要なものがある。
 敵だ。
 敵がいなければ、始まらない。なにせ、俺は、そういう目的のために作られたんだ。
 生き延びたんだ。
 刃は当然、矛先を変えざるを得ない。そうしなければ、俺の存在命題が達成できない。
 つまり、これからは、あんたらが俺の目的に、なってくれるんだ。
 そういうことだろう?
 それが、自然で、必然だ。
 そのくらいの覚悟は、当然、持ち合わせて、いるんだろう?
 全てが終わり、小山のように盛り上がった大地を──仲間達の墓標を眺める少年は、もう、泣いていなかった。
 そして、少年は青年となり、全てを成し遂げた。
 殺戮のための道具として製造された彼は、その命題を達成したのだ。
 故郷は死の星となり、仲間達の安息を乱すものはいなくなった。
 ここは、自分達だけの星になった。
 それが、汚された。再び、彼らの死は、汚された。
 大人となった少年は、自らの意味を思い出していた。
 つまり、殺すということだ。その一事のために、自分はこの世に生を受けたのだ。
 だから、ケリーは、そうしようとした。
 今の彼を掣肘するものは、何もない。あったとしても、彼の怒りを阻むことなど出来ようはずもない。
 腹の底を、業火が炙っていた。
 怒りがそのまま殺意へと変換され、血流に乗って全身へと送り出される感覚だ。
 その瞬間、ケリーは、この宇宙で最も危険な生き物だった。
 弾けたゴムのように立ち上がる。椅子が後方に跳ね飛ばされ、間抜けな音を立てて倒れた。
 右手でナイフを掴み、左手でテーブルの上に駆け上り、そのまま、目の前の老人に飛びかかる。
 今のケリーに、善悪は関係ない。是非もない。相手がどういう経緯で故郷を失い、どれほどの苦労を乗り越えて今ここにいるのかも、関係ない。
 ただ、死んだ魚のような両目の、ちょうど中間に、ナイフを突き立てるためだけに、ケリーは男へと飛びかかった。

 そして、果たせなかった。

 手も足も出なかった。
 
 完膚無きまでに、自分は敗北した。

 そして、ケリーは獄へと繋がれた。

『あなたは、本当に、わたしの大切な恩人なのですよ。あまり、無茶をされては困ります。なので、どうかそこでゆっくりとなさってくださいな。あなたが天使に必要とされる、その時まで』

 アーロンは、なんとも痛ましげな表情で、鎖に繋がれたケリーを見下し、そう言った。
 もう少しで殺されそうになったという、怒りや恐れは微塵もない。
 きかん坊の子供を見るように、困ったように眉根を寄せて微笑みながら。
 そうなのだ。
 あの男は、自分を、正しく歯牙にもかけていない。
 それだけの力が、アーロン・レイノルズという男には、備わっていたのだ。
 だから、マルゴ達も、あっさりと部屋を出て行ったのだろう。もしもケリーが力一杯暴れ回ったとしても、アーロンには傷一つ付けられないことを、知っていたから。
 全くもって無様な話だ。
 ケリーの、端正な頬に刻まれた自嘲の笑みが、より凄惨なものになった。

 ああ、認めよう。ここまでは、とことんなところまで、負け犬ムードだった。

 だが、ここまでだ。

 このまま、終わらせるものか。

 仲間達の死を穢した報い。そして、自分をここまで虚仮にした、報い。
 あの男は、殺す。必ず。
 ケリーは固く決意した。
 しかし、何をするにしても、まずはここから脱出しなければ、話は前に進んでくれない。
 ケリーは、手錠の嵌められた腕を、強く動かしてみた。
 闇の中に、激しい金属音が鳴り響く。手首に、鋭い痛みが走る。
 しかし、手錠の先の鎖は、ちっとも緩んだ気配がない。
 当然だ。人間の力程度でどうにかなる枷など、枷の意味を為さないものではないか。
 
「うるさいな。静かにしてくれないか」

 闇の中から、ぼそりとした声が、聞こえた。
 ケリーは、内心で身構えた。今の今まで、この空間にいるのは自分だけだと思っていたからだ。
 目を凝らしても、闇の奥に何が潜んでいるのか、分からない。右目の義眼があれば話は別だが、人の目では、この暗闇はあまりにも分厚すぎるのだ。
 奥から、くつりと、笑い声が聞こえた。
 
「そう警戒しなさんな。俺もあんたと同じ、ただの獄囚だよ。飛びかかろうったって、くそったれ鎖が邪魔して出来やしない」

 闇の向こうから、じゃらりと、金属質な音がした。
 それは、今、ケリーの両手首に巻かれたものと同じ、錆びた鎖の音だろう。
 ケリーは、肩を竦めながら言った。 

「ああ、そいつは安心だ。こんな間の抜けた場所に一人っきりってのも、どうにもぞっとしないと思っていたところだぜ。話し相手の一人でもいれば、少しは気が紛れるってもんさ」
「奇遇だな。俺も、あんまり退屈なんで、そろそろ辟易していたところだ。袖振り合うもなんとやらってやつだな」

 どうやら、闇の向こうにいる人間も、ケリーと同じように肩を竦めたらしかった。
 声は、それほど若くない。闇の向こうにいるのが、年配の男性であることをケリーに教えた。
 だが、声自体には十分な精気が漲っており、矍鑠とした様子が目に浮かぶようですらある。
 ケリーは、おそらくは初めて出会った声の主が、なんだか気に入ってしまっていた。
 
「しかしお若いの。あんた、どうしてこんな辺鄙な場所にぶち込まれたんだ?いったい、どんなヘマをやらかした?」

 その声を聞いて、ケリーは苦笑した。
 だいたい、このような場所で話題になることなんて、相場が決まっている。自分がどのような罪を犯して獄に繋がれるはめになったのかと、あとは身の上話くらいのものだ。
 
「ま、大して悪いことはしてねえよ。ちょっと、この国の大統領を、殺そうとして失敗しただけさ」

 それは、普通であれば十分過ぎるほどの大罪である。
 姿の見えない声の主は、呵呵大笑に笑った。

「そうかそうか、そいつはいい。この国の大統領は、文句のつけようのないクソ野郎だ。だから、そいつを殺そうとするのは、悪いことじゃなくて良いことだ。だから、お前さんは大して悪いことをしてねえ。まったく、正直者じゃないか!」

 ケリーも笑った。
 このような、光の一条も差し込まないような獄に繋がれて、気の合う人間と出会ったのが、なんとも不可思議で面白かった。

「そういうあんたは、いったい何をやらかしたんだい?」
「それも、大したことじゃない。この国に住まう害虫の住処を、いくつか燻蒸消毒してやっただけだ。ついでに、そこに住んでる害虫連中も、一緒に駆除してやったがな」
「そいつは大した善行だ。全くもって、こんな場所にいれられる意味がわからねえな」
「ああ、お若いの、あんたの言うとおりだ。この世の中、何か間違えているに違いない」

 二人は、大いに笑った。

「しかし、あんた、その右目はどうした。あんまり穏やかな様子じゃないが、大統領派のやつらにやられたのか?」

 闇の向こうから、何とも気遣わしい声がした。
 ケリーは、驚いて、答えた。

「あんた、俺の顔が見えるのか?」
「ああ、見えるとも。俺達の目は、あんたらと違って、特別製なんだ。これくらいの暗がりなら、十分に見通せる。あんたの、ぽっかりとした右目だって、十分に見えている」

 ケリーは、無事な方の左目をぱちくりとさせてみたが、やはり暗闇は墨を溢したよりも濃密で、どうやったって声の主の顔は見えなかった。
 自分には相手の顔が見えないのに、相手には自分の顔が見えている。不愉快というわけではないが、どうにも承伏しがたいものを感じてしまうケリーだった。
 唇を尖らせて、拗ねた顔つきになる。
 そんなケリーを見て、声の主は、もう一度笑った。

「むくれるなよ、お若いの。これであんたも、人の気持ちってやつが分かっただろう。相手だけ見えているのに自分には見えないってのは、あんまり気持ちのいいものじゃない。特に、俺やあんたみたいな人種の間ではな」
「ああ、嫌ってほどにわかったさ」

 吐き捨てるように言う。
 そしてそのあとで、氷で背筋を撫でられたような、違和感を覚えた。
 さっき、闇の奥の男は、何と言った?
 これで人の気持ちが分かったか、と。
 まるで、普段ならば、ケリーこそが、暗闇の奥を見通せることを、知っているような口ぶり。
 そして、俺やあんたみたいな人種、という言葉。
 ケリーの眉根に、僅かな険が込められた。

「おいおい、どうした、お若いの。そんなに難しい顔をして、何か怖いことがあったかね?」

 声は、相変わらず飄々として、掴み所がない。
 何を考えているのか、それとも何も考えていないのか。
 深入りするのは危険かも知れない。しかし、だいたい、このような場所で、お互いが虜囚の身の上なのだ。もしかしたら相手はそう装っているだけなのかも知れないが、だとすればどれほど警戒したところで、声の主が自分を殺すのは、赤子の手を捻るよりも容易いに違いない。
 ケリーは、腹をくくった。

「なぁ、あんた。あんた、俺のことを、知っているのか」

 声の主は、相も変わらず脳天気な声で、

「ああ、知っている。よく、知っている、何せ俺たちは、こんなくそったれな場所で、辛気くさい面を付き合わせているんだ。なら、知らないはずがないだろう。なぁ、義眼の逆シンデレラ」

 ぞわりと、背中の産毛が立ち上がる感触を覚えた。
 義眼の海賊とは、ケリーがこの宇宙を飛び回り、ありとあらゆる組織から追い回されていた頃の、呼び名である。
 そしてケリーは、この宇宙で最も巨大な財閥の令嬢と、結婚をするはめになった。
 それが、今から50年ほども前の話。
 海賊ケリーと、シンデレラボーイ・ケリークーアが同一人物であると知らない人間は、一匹狼ケリーの噂を聞き絶えて、既に半世紀が経っていることになる。
 既に死んでいると、普通ならば思うだろう。
 反して、二人が同一人物であると知っている人間ならば、ケリーが宇宙船事故で故人となったことを知らないはずがない。
 いずれにせよ、今の自分を知る人間が、そう簡単に転がっているはずのないことを、ケリーは知っている。
 ならば、暗がりの奥にいる老人は、いったい何者なのか。

「ふん。あんたのそういう顔が拝めるだけで、みっともなくこの世にしがみついてきた甲斐があるってもんだな。まったく、情けない面だ、そいつは」

 声の主は、心底楽しそうに言った。
 ケリーは、憮然とした顔で呟いた。

「知ってるかい?」
「何を?」
「義眼の海賊は、死んだんだぜ。もう、何年も前の話だ」
「それは、ケリー・クーアって男のことだろう?知ってる。それは、よく知ってる」

 噛み締めるような、声だった。
 ケリーは続ける。

「じゃあ、どうして俺が、その死人と同じ人間だって結論になるんだい?」

 声の主は、興を削がれたように言った。

「おいおい、つまらないことを言うもんだな、あんた。一度死んで、頭が固くなっちまったか?」
「それでもいいさ。答えてくれよ」
「匂いだよ」

 闇の奥から、こともなげな声が聞こえた。

「顔や声は、簡単にいじれる。あんたと同じ顔、あんたと同じ声の人間なら、その気になれば百人だろうが千人だろうが、簡単に用意できる」
「ああ、知ってるぜ。嫌ってくらいにな」

 人為的なそっくりさんのせいで、危うく暴行魔にされかかったことのあるケリーは、頷いた。

「だが、人間の匂いってやつは、これが中々厄介なもんだ。指紋だろうが声紋だろうが、挙げ句の果てには遺伝子検査だろうが誤魔化せる名うての変装名人も、こいつだけは上手かった例しがない。どうしたって、ぼろが出る」
「当たり前だ。誰が、そんなもんをわざわざ誤魔化そうとするかよ。だがな、いくら匂いが一緒だからって、死んだ人間と同一人物だなんて、普通の人間は考えたりしないもんだぜ」
「普通の人間だなんて、辛気くさいことを言うなよ。俺には分かるんだ。あんたが、ケリー・クーアご本人様だってことがな。それで十分だろう」

 なるほど。
 理屈はよく分からないし、果たして匂いで個人の特定が可能なのかどうかも極めて眉唾な話ではあるが、声の主は、自分のことを知っているらしい。
 ケリーは、その声をどこかで聞いたことがないか、真剣に思い出してみたが、どうにも思い当たる節がない。それが、本当に聞いたことがないのか、忘れてしまっただけなのか、一度聞いたのに声質が変わってしまったのか、それすらも分からないのだが。
 分かっていることは、ただ一つだ。
 あちらにはこちらのことがほとんど審らかで、こちらにはあちらのことが何一つわからない。
 どうにも、気分がよろしくなかった。

「今日は厄日だな」
「ほう、そいつはどうしてだ」
「もう、ほとんどの煩わしいこととはおさらばしたつもりだったのさ。一回死んで、蘇って、これでようやく気楽に宇宙を飛び回れると思ったら、このざまだ。ここの大統領閣下といい、あんたといい、どうして俺をそっとしておいてくれないんだい?」

 如何にも情けない調子の声に、闇の奥で誰かが身を捩って笑い、その度に鎖がじゃらじゃらと鳴った。

「そいつは無茶な注文ってもんだな。あんたには、一生厄介事が付きまとうんだぜ。あんたは、そういう星のもとに生まれた。あんた自身が望んだとしても、他の何かがそれを許しちゃくれない。あんたはどうしたって、一生、平穏な生活を送ることは出来ないだろう。それは、あんたの奥さんも同じようにな。ざまあみやがれ」

 声の調子は、相も変わらず砕けきっているのに、どこかに皮肉な響きがある。
 ケリーは、確信した。
 この男、闇の奥にいる得体の知れない男は、ケリーという人間を、快く思っていない。
 いや、これもおそらくだが、ほとんど間違いなく。
 憎んでいる。

「あんた、俺の女房を知っているのか」
「ああ、知っているとも。女にしておくのが勿体ないくらい、迫力満点な女だった。あれは、本当にいい女だった。お前の女にしておくのが、勿体ないくらいにな」
「そいつはずいぶん高く買ってくれたもんだ。伝えておくぜ」
「是非伝えておいて欲しいものだ。あなたのファンの死に損ないが、こんな辺境で、性懲りもなく生きてたってな」

 今度は、幾分自嘲の込められた声であった。
 しかし、これで間違いない。
 この男と自分は一度ならず顔を合わせたことがあるのだろう。そして、どうやら、ジャスミンも。
 ケリーのことを知っている人間は、この宇宙に、数え切れないほどにいるだろう。同じく、ジャスミンのことを知っている人間もだ。
 だが、ケリーとジャスミンの二人と顔を合わせた人間となると、これは極端に限られてくる。
 政財界の人間ではない。闇を隔てて感じられる雰囲気には、宇宙を生活の場とする男達に特有の、荒んだ雰囲気があるからだ。
 しかも、ほぼ間違いなく、海賊だ。
 だが、ケリーはともかく、ジャスミンが交流のあった海賊とは、いったい誰だ?
 そして、つい最近、同じような思考をしたことがなかったか?
 あれは確か……。

「俺はな。あんたと出会ったら、一度聞いてみたいことがあった」

 楽しげな調子の声が、ケリーの思考を途切れさせた。
 まるで、酒場のあちこちで、グラスをかち合わせながら交わされるような、楽しげな声。
 
「……なんだい?」
「海賊たちの墓標の上で空けたヴィンテージワインの味はどうだったね?さぞ美味だったかい?」

 男の声は、相も変わらず楽しげであった。
 楽しげなまま、その奥に、煮えたぎるような憎悪を湛えていた。
 ケリーは、闇の奥から、自分を狙う銃口が延びてくるような、そんな気がした。

「……意味がわからねぇな。もう少し、分かりやすく言ってもらえると有り難いんだがね」
「そうか。宇宙を捨てて白亜の宮殿に住み替えた、クーア財閥の三代目様には、俺たち海賊如きの言葉はそんなに野卑に聞こえたか。なら、もう一度言ってやるさ。何度でも言ってやるさ。昔なじみを切り売りして拵えた札束のベッドは、さぞ寝心地が良かったろうな、共和宇宙経済の怪物よ」

 くつくつと、暗い笑い声を溢して、声の主は笑った。
 
「仮にも海賊の王と、キングと呼ばれた男がするには、ずいぶんと阿漕な真似だったよなぁ、ケリー・クーア。親父に助けられた恩なんて、とっくの昔に忘れちまったんだろう?それとも、海賊如きに命を救われた過去なんて、大財閥の入り婿様には、消し去りたい過去でしかないのかい?」
「親父だと?」
「ああ、なんだ、お前、命の恩人の名前も忘れちまったのか?いいだろう、思い出させてやる。全身傷だらけで重度の栄養失調を起こした、一分先にも地獄行きの列車に乗り込みそうなガキを、助けてくれたのは誰だ?生まれも育ちも知れないてめえに、シマの全部を継がせてやるとまで言ってくれたのは誰だ?まさか、人非人のお前でも、そんなことまで忘れちまったとは言わんよな、ケリー・クーア?」

 どすの利いた声で、言った。
 血の滲み出るような、声だった。
 そのような声を、どういう人間が出すのかを、ケリーはよく知っている。
 一番信頼の出来る、人間だ。
 こういう声をした人間になら、無防備な背中を預けても良い。金銀財宝を満載した積み荷を、何の保険も無しに託しても構わない。
 そして、最も危険な、人間だ。
 こういう人間の誇りを穢したとき、愚かな罪人は、痛覚をもって仁義の重さを知るはめになる。
 そして、たいていの場合、その教訓を後々の人生に生かすことは出来ない。生かそうと思っても、自分そのものが生きていないのだから。
  
「忘れるはずがねえさ。爺さんだ。俺を助けてくれたのは、爺さんだよ」

 命を救ってくれたのも。
 そして、ケリー・エヴァンスという復讐鬼を、辛うじて人間と呼べるかたちに鋳直してくれたのも。
 ケリーが思い浮かべたのは、ジャスミンと共に出会ったときの、杖をついた老人の姿である。
 初めて出会ったときは、こんな巨人が、この共和宇宙にいるのかと目を疑ったのに、いつの間にか、自分の方が大きくなっていた。
 なのに、いつまでも、自分のことを若造と呼び、しかし、嬉しそうにキングと呼んでくれた。

「おい、あんたも、爺さんの知り合いなのか?」

 ケリーの言葉に、声の主は、初めて声を荒げた。
 憎しみに歯を食いしばり、その隙間から絞り出すような声で、叫んだ。

「口を慎め、裏切り者!貴様が、貴様如きが、親父を、大海賊シェンブラックを、そんなふうに呼ぶ資格があると思うのか!」



[6349] 幕間:在りし日の老人その一
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/06 04:27
「さて、うちの若い衆が、おたくのところにお邪魔しているらしいな。色々と迷惑をかけただろう。まずはそれを詫びさせて欲しい」

 凄みの利いた声で、男は言った。
 そして、背後に控えた物々しい配下とともに、深々と頭を下げたのだ。
 居合わせたヴェロニカの僧たちは、男の醸し出す暴力の気配よりも、集団の規律正しい有様にこそ、恐怖を覚えた。
 この年、史上最年少の若さで導師の位階を授かった、ミア・ビアンキという若い僧も、その一人であった。
 畏怖と興味を隠しきれない視線で、その男を見ている。
 精悍な、男であった。
 顔に刻まれた皺の具合は、すでに還暦を迎えた老人のそれであるはずなのに、全身から漏れ出す威圧感が、老いの気配を押し殺してしまっている。その証拠のように、全身の筋肉は大きく盛り上がり、きっちりと纏った仕立ての良いスーツを、下から押し上げている。
 尋常ではない、存在感だ。
 大木のように揺るぎなく、巨石よりも頑健で、太陽よりも朗らかな。
 しかし、その下に、底なし沼にも似た、暗く粘っこい何かを抱えている。
 そんな、男だ。
 オールバックに流した、黒々しい髪。額に刻まれた幾筋もの傷跡。サングラスの下に隠された、鷹よりも鋭く、細い視線。
 それが、柔和に笑み崩れている。嬉しそうに笑っている。
 そのアンバランスが、たまらなく、怖い。今にも引き絞られそうな引き金のように、それとも、トランプで作られたタワーのように、ふとした切っ掛けでその笑みが消え去って、鬼の顔になるのが、あまりにも明らかなのだ。
 その男が、今、ヴェロニカの総本山に捕らえられた、たった二人の少年を助けるために、やってきたのだ。

 男は、一度でも息子と呼んだ存在を、決して見捨てない。

 それは、宇宙を生きる男達にとって、もはや常識とされている事実であった。
 
 噂は、間違えていなかったのだ。
 共和宇宙軍と連邦警察がにらみをきかせる中央銀河で、その二大権力組織を押しのけて権勢を誇り、星の海を我が物顔でのし歩くならず者集団の、大頭。
 直属の配下に収める海賊が、一千人。
 戦闘用宇宙船が二百隻。
 傘下の組織の末端構成員を含めれば、それがどれだけ膨れあがるか、知れたものではない。一説には、その数を算定した連邦警察幹部が、慌てて公表に待ったをかけたのだという。その数が、連邦警察の治安維持能力をあまりに大きく上回る数字であり、公共秩序に対して大きな不安を与えるからだ。
 加えて言えば、極めて顔の広い男でもある。共和宇宙軍の上層部や、連邦警察の幹部にも、その男に大恩ある人間は少なくない。いざ有事が発生すれば、自分が属する組織とその男の、どちらの肩を持つか知れたものではないという。この宇宙で最大規模を誇る財閥の創始者とも、胸襟を開く仲であるという噂もある。
 当然、横の繋がりも、どれほど広がるのか、想像もつかない。中央銀河の海賊の頭領は、軒並みその男に頭が上がらないのは周知の事実であったのだし、辺境宙域を荒らし回る海賊にも、その男の義兄弟やかつての舎弟が無数にいる。
 およそ、この宇宙で荒くれ者と呼ばれる全ての男達が、その男の掛け声一つで集結するのだ。
 一度に動員できる兵力は、もはや一犯罪組織に許された規模ではない。それは、暴動ではなく戦乱を巻き起こす、国家規模の軍事力に匹敵する。
 男が率いる組織に、正式な名称はない。構成員は、その男のことを、尊敬と親愛と畏怖の念を綯い交ぜにして親父と呼び、仲間のことを兄弟と呼ぶ。そして、自分達の属する組織のことを、誇り高く家族と呼ぶ。
 だが、その組織に属さない人々は、大いなる恐怖と憧憬を込めて、その組織のことを、こう呼ぶのだ。
 シェンブラック海賊団と。
 今、ヴェロニカ教総本山の議事堂にいるのは、その大海賊団を率いる、生きながらにして伝説になった男である。
 シェンブラック。
 本名は知れない。
 生まれも知れない。
 いずこで育ったのかも定かではない。
 歴代連邦主席の一人の隠し子であるとか、街娼の産み落とした孤児であるとか、様々な巷説があるが、本人の口からは、一度たりともそういった話が零れ落ちたことは無い。
 共和宇宙に公然と君臨する大悪党でありながら、そのほとんどが謎のヴェールに包まれている。
 ビアンキは、そんな男がどうしてこのような辺境に足を伸ばしたのか訝しみながら、しかし片時も目を離すことができなかった。

「あとは、もう一つ。こっちも少々急いでたものでな、正式な入国手続きのほとんどをすっぽかしちまった。非は、全て俺たちにある。その点、入国審査官の連中を責めないでやってくれ」

 シェンブラックは、堂々とした様子で、誰に勧められたでもない椅子に腰掛けた。
 その時点で、ビアンキは、この男の体格が、上背においてはそれほど優れていないことに気が付いた。精々、共和宇宙の成人男性の平均身長をどれだけ超えているかという程度だ。
 だが、どうしても、巨人めいた印象がぬぐえない。
 それは、鍛え込まれてがっちりと分厚い胸板がそうさせるのかも知れないし、それとも男の背負った得体の知れないオーラのようなものが、そうさせているのかも知れない。
 いずれにせよ、背丈の優れていないことのみをもってこの男を侮るなど、到底出来ることではなかった。
 その思いは、シェンブラックの向かいに座っている二人の老人にしても同様だっただろう。
 ペレストロス共和国大統領である、アドリア・トーン。ヴェロニカ教の最高指導者である老師の一人であり、非公式に長老という呼び名を授かっている、ニルス・ユーゲン。
 いずれも一角の人物であるはずだが、今は、シェンブラックの醸し出す威圧感に飲まれて、萎縮してしまっているようだ。トーンは、額を伝い落ちる冷や汗をハンカチで拭い取るのに忙しく、ユーゲンは矮躯を法衣の中で縮めて、まるでヤドカリのような有様だ。
 そのうちで、震える声で尋ねたのは、この国の大統領を務める男のほうだった。

「正式な手続きを踏まずにとは……いったい、どのようにしてこの国に入国したというのですか」

  アドリア・トーンはこの年で78歳。敬虔なヴェロニカ教徒でありながら、諸外国との政治の駆け引きに優れ、連邦未加盟のペレストロス共和国が辺境宇宙で地盤を築くのに一役買った男である。
 菜食主義者には到底思えない恰幅の良い体に、茶色の豊かな頭髪を湛えた頭をしている。顔つきは柔和で好々爺然としているが、それはあくまで擬態であり、中々油断のならない人物であるというのが彼を知る人間の総評だ。
 そのトーンが、流石に顔を強張らせていた。
 そもそも、普段ならば、世俗の最高権力者であるトーンが、教団総本山に居合わせることなどそうそうあることではない。
 そして今、世俗の最高権力者である大統領と教団の最高権力者である長老が、この総本山にて同時に居合わせているのは偶然のことではない。
 シェンブラックが、呼びつけたのだ。
 普通の海賊風情の呼び出しならば一笑に付するはずの二人も、大海賊シェンブラック本人であるならば話は別である。もしも無視を決め込んだ場合、いったいどのような報復が用意されるか、知れたものではないからだ。

「わたしは、この国の治安維持責任を司る機関の長として、どのような事情があろうと、違法な手続きによる入国は許可できない。もしもあなたがそのような手段をもって入国したのなら、即刻の国外退去を命じます」

 震える唇で、震える声を紡ぎ出したトーンを、しかしシェンブラックは嘲笑ったりしなかった。それは、彼の率いた十人の部下も同じだ。
 その勇気を称えるように、真摯な視線でトーンを見返した。そして、懐から己の写真付き身分証明を取り出し、はっきりと見えるように提示して、言った。

「こいつを見せた。これは、当然、未加盟国も含めて、この共和宇宙のどこでも通用する正式なIDだ。共和連邦政府のお墨付きだぜ。入管ゲートやら手荷物検査やら、しち面倒くさい手続きのほとんどは素通りしちまったが、それは時間と手間を省いただけのこと。全体としたら入国手続きそのものを無効にする瑕疵とまではいえねえだろう。ま、大目にみてやってくんな」
「し、しかしあなたは……」

 言いにくそうに口ごもった大統領に対して、大海賊は、助け船を出してやった。

「おうよ、海賊だ。しかし、これは間違いなく、共和連邦政府発行の、お天道様だってけちのつけようの無いIDカードだぜ。おたくらの部下にだって、きっちりと調べてもらった。その上で、問題はなかったんだ」
「で、ですが、どうして、失礼ですが海賊であるあなたに、そのようなものが発行されているのですか?」
「簡単な話さ。俺は、確かに海賊だよ。だが、海賊であることが罪だなんて、どこの国の法律にだって書かれちゃいないのさ。無論、海賊行為は違法だがね」
「……」
「こう言った方が分かりやすいかい?俺は、海賊を名乗ってはいるが、どんな違法行為に手を染めたこともないんだ。少なくとも、この共和宇宙に残された公的な記録上はね。いわば、善良な一般市民ってことだな。当然、こいつだって、近所の役場に足を運んで発行してもらったもんだ。五年に一回、うんざりするほど長い列に並んで、きちんと更新してる。こないだなんかは危うく有効期限が切れそうになってな、夕方五時ぎりぎりに役所に飛び込んで、拝み倒して更新してもらったもんさ」

 シェンブラックの下手なジョークに、部下の幾人かが頬を綻ばした。
 唖然としたのは、トーンである。
 信じがたい、話だ。
 目の前の、どの角度から眺めても『善良な一般人』という呼称の相応しくない、共和宇宙の裏世界の支配者とでも言うべき男が、一度だって犯罪行為に手を染めたことが、ない?
 ありうべからざる話だ。しかし、どうにも冗談を言っている気配がない。
 ならば、事実なのだろう。この男は、ただの一度だって牢屋に繋がれたこともなければ、犯罪者のレッテルを貼られたこともないのだ。
 だがそれは、目の前の男が一般市民であることを約束する事実ではないことを、トーンは知っている。むしろ、公的な権力では目の前の男を縛り付けることが出来ないのだという、恐るべき事実を指し示しているのだということを。
 トーンは、ごくりと唾を飲み下した。

「……わかりました。今ここで、あなた方と、入国手続きの何たるかを議論したところで始まりません。それに、あなたのような方を入国審査に付き合わせる責任を、末端の入国管理官一人に負わせるのは、あまりに酷というもの。係の者の責任は、問いますまい」
「助かる。あんたが話のわかる人間で、よかったよ」

 シェンブラックが、再び頭を下げた。
 トーンは、心持ち平静を取り戻した口調で、続けた。

「ですが、我々があなた方を歓待しているとは、決して思わないで頂きたい。事態がこのような運びになった以上、我々が望むのは、一刻も早いあなた方の出国です。それを、ご理解頂きたい」
「ああ、あんたの立場からしたら当然のことだ。俺だって、別に理由もなく、この国に長居をするつもりはない。用事が終われば、さっさと出て行く。その点は、約束させてもらう」

 大統領の付き添いとしてこの場に立ち会っている、次官級の役人の幾人かが、安堵に満ちた溜息を吐き出した。どう考えても、ペレストロス共和国が保持する程度の警察力、あるいは軍事力をもって、目の前の男に国外退去を強制するのは、不可能事にしか思えなかったからだ。

「では、話を前に進めましょう。あなた方は、いったいどのような理由で、あなた方の縄張りである中央銀河から遠く離れた、このような辺境まで来られたのか。そして、我々に対して、どのような要求を持っているのか」

 トーンの声が、一段と張りを持った。
 彼は、辺境の一惑星として、決して立場が強いとは言えないペレストロス共和国の立場を守るため、日夜他国との折衝に明け暮れた過去を持っている。
 当然、交渉事は得意分野だ。自分の天職だとも思っている。
 目の前にいるのが如何に伝説の大海賊だとしても、言葉を吐き出す口は一つしか持っていないのであり、人の心を読むという第三の目を持っているわけでもない。 
 つまり、人間だ。
 そして、暴力を天職とする人間だ。
 であれば、交渉事を天職とする自分が、自分の舞台の上で、目の前の男に負けるわけがない。そして、負けるわけにはいかない。
 ふつふつとした闘志が、トーンの柔和な視線の奥に、火を灯していた。
 そんな視線をテーブルの向こう側に見つけて、シェンブラックは、むしろ楽しげに笑った。
 
「俺が要求するのは、ただ一つだ。お前達が捕らえた俺の息子の二人を、俺の前に連れてきて欲しい。そして、本人達の口から、自分達がどういう罪を犯して捕まったのかを説明させたい。それが叶えば、俺は今すぐにでもこの星から出て行く」

 シェンブラックは、交渉にお決まりの駆け引きも用いず、淡泊な調子で、自分の主張を伝えた。
 トーンは、些か面を喰らい、同時に肩すかしを喰らった。
 伝説とまで言われた大海賊が、このような辺境宙域まで、直々に足を伸ばしたのだ。どのような無理難題を押しつけられるかと身構えていたところに、あまりに控えめ過ぎる注文である。
 彼が想像していたのは、例えば自分の身内を拘束した報いとして国家予算級の慰謝料を寄越せとか、二人を捕らえた官憲を自分達に引き渡せとか、そういう、どう考えても自分達に飲めない要求を突きつけられることだったのだ。
 それに比べれば、犯罪者の少年二人に事情説明をさせる程度、何ほどのことでもない。目の前の男達にお帰り願うことが出来るならば、こちらから礼を述べたいくらいだ。
 だが、それは常ならばのこと。
 今回だけは、そういうわけにはいかないのだ。
 それに、交渉には作法というものがある。容易く認めてもよいことだからといって、すぐさま首を縦に振るには愚か者でも出来る芸当である。
 要するに、すぐさま相手の出した条件を認めても、いいことなど一つもないということだ。
 トーンは、安堵の様子など欠片も見せず、しかめ面しい表情のまま、唸るように言った。

「我が国では、犯罪者は、ただ公開の法廷にて裁判が行われる時にのみ、その弁明を許されております。あなたが彼らの身内であっても、その弁明を聞くのは、二人が裁判にかけられるまでお待ち頂くのがこの星の作法であります」
「なるほど、そいつは道理だ」

 予想外に、無法者の頂点に立つ男は、鷹揚な表情で頷いた。

「あんたの言ってることは、十分に正しいぜ。あいつらがどんな罪を犯したにせよ、それは公開の裁判で裁かれるべきだ。俺たちが妙な横やりを入れて減刑させるのは以ての外だし、逆に私的な感情で重すぎる刑罰を受けるのも間違えてる」

 これもまた、極めて常識的な意見である。
 正論をぶつけられた相手が逆上するか、それとも暴力に威を着て脅迫するかを予想していたトーンは、またしても目を丸くするのを堪えるため、一方ならぬ努力を強いられた。

「だがな。俺が心配してるのは、そういうことじゃないのさ。俺は、あいつらが、万が一にでも、げすな婦女暴行やら弱者への暴力やら、軽蔑すべき理由の罪を犯したのなら、それを助ける気も、義理もねえよ。この国の法律に従って、償うべき罪を償えばいい。反対に、尊敬すべき理由によって罪を犯したなら、奴らは勇者だ。俺たちの定めた法に照らして、あいつらが獄に繋がれる理由はちっともねえ。その場合は、この国の法を曲げてもらう必要も出てくるだろうさ」

 ほら来たと、トーンは身構えた。
 結局は、どれほどの権勢を誇ろうとも、目の前の男は腕力に笠を着たならず者である。自分達の掟などという甚だあやふやで信頼の置けない基準に、他者を従わせようとする、唾棄すべき犯罪者の一員である。
 トーンは、喜びをもって、目の前の男に、弁舌の一撃を叩き込もうとした。もしこの男を説き伏せて、たった一粒の麦も持たせずにこの国から追い出したならば、自分は、他国の軍勢を舌先三寸で追い返した古代の軍師よりも、なお輝かしい賞賛を得られるだろう。
 だが、トーンの喉が言葉を生み出すには、シェンブラックの速攻はあまりに速かった。

「だけどよ、尊敬すべき理由で罪を犯したのだとしても、牢屋に入れられちまったなら、それは捕まったあいつらが間抜けってだけだ。まぁ、小銭をかすめただけで死刑とかなら話は別だが、そうでないならあいつらにも良い教訓になるだろう。親の俺が顔を出す筋合いじゃあねえ」

 言葉を飲み込んだトーンに、シェンブラックは、凄みのある笑みをぶつけた。

「だからよう。あいつらの親である俺が出張らなけりゃならないのは、あいつらが、一切の罪を犯していないにも関わらず、この星の牢屋にぶち込まれた場合さ。そういう事情なら、あいつらには責められる理由は一つもない。そして、あいつらだけでこの星と喧嘩をしろっていうのは、あまりにも無体な注文だぜ。なら、その喧嘩を代わりに買ってやるのが、親ってもんだ。違うかい?」

 トーンは、ごくりと唾を飲んだ。

「……要するに、あなたは、その二人の少年が、無実の罪で投獄されているのではないかと、それを疑っていると、そういうことですか」
「有り体に言やあ、そういうことだわな」
「それは、法治国家としてのペレストロス共和国への、侮辱とも受け取られかねないお言葉です。シェンブラック老、即座に訂正を願いたい」

 作り物でない憤りを含んだペレストロス共和国大統領の言葉に、シェンブラックは、背を震わせながら笑った。
 地の底から響くような、底冷えのする笑い声だった。

「いいって、そういうのは」

 手を、顔の前でひらひらさせながら、シェンブラックは言った。

「いい……とは、どういう意味ですか」
「そういう、お為ごかしとか、見栄っ張りとか、そういうくだらないものはいいって、そう言ったのさ」

 トーンは何かを言おうと口を開いたが、またしても言葉を飲み込むはめになった。
 先ほどはシェンブラックの言葉でふさがれた口が、今度はその眼光だけでふさがれてしまったのだ。

「俺はな、こう見えて、あんたよりもずいぶんと長生きしてるのさ。当然、あんたよりも、この宇宙の綺麗な面も、汚い面も、知ってるぜ。その中でも一番どろどろに腐りきってやがるのが、権力をおもちゃにして泥遊びに興じる、大人の格好をした小便臭い餓鬼どもの、豚みてえに肥え太った自尊心と欲望だよ。やつらは、自分達のために民衆が奉仕するのを、当然だとふんぞり返ってやがる。自分の才覚でその立場を得たっていう自負心がある分、古代の貴族様よりもなお性質が悪い。それでも、内心で見下すだけならいい。税金から遊び金をちょろまかすくらいなら、立派に甲斐性ってもんだ。だがよ、自分達がしたきたねえ泥遊びのツケを、立場の弱い人間に押しつけるってのだけは、頂けねえ。しかもそれが、俺たちみたいな宇宙生活者なら、なおのことさ」

 シェンブラックは、いつしか、先ほどまで柔和だった視線から、表情を消していた。
 
「俺たち宇宙生活者には、何も無いのさ。帰るべき故郷も、頼るべき国も、地に足を付けるための地面すらも。だから、いつだって一番最初に疑われて、一番最初に切り捨てられて、一番最初に埋められちまう。臭いものには蓋ってな。そして、いっぺん蓋をされちまったら、俺たちなんてのは二度と浮かばれねえのさ」

 トーンは、目の前の座った男の背後から、寒気のする妖気が立ち昇るのを、見た気がした。
 その白めいたものは、過去に無念の涙を飲んで死んでいった、宇宙生活者の怨念ではなかったか。
 トーンは、理解した。
 目の前の男は、決して宇宙海賊の元締めに収まる男などではないのだ。この男は、この宇宙に散らばった、名も知れぬ宇宙生活者の全てを率い、その生活に対して責任を背負っている。
 だからこそ驚くほどに広いコネクションを持ち、共和連邦と正面から渡り合うことができる。そして、その自負心があるからこそ、これほど巨人めいた印象を他者に植え付けるのだ。
 
「俺は、あいつらが資源探索者として、この星を目指したって聞いてるぜ。なら、海賊にお決まりの、略奪やら人攫いやらに手を染めているはずがねえ。もしも違うなら、あいつらがそんなけちな真似して捕まったってんなら、どうぞ煮るなり焼くなり好きにしてくれ。もしも女を嬲った、年寄りを殺したってんなら、あんたらの手を煩わせるまでもねえ。俺の手で引導をくれてやる。だがな。もしも、あいつらが無実の罪で牢屋に繋がれてるなら、話は別だ。それなら、俺は、例え共和政府を敵に回してでも、あいつらを救い出す。絶対に、あいつらを臭いものになんかさせねえ。なぁ、俺の言っていることが分かるか?」

 トーンは、ごくりと唾を飲んだ。
 目の前の男には、鉄の意志がある。それは、男の背後にずらりと立ち並んだ、全ての男達にも同じことが言えるのだろう。
 彼らは、自分達全員の命を賭して、血のつながりもない二人の少年を、助けることが出来るだろう。いや、彼らだけではない。おそらくは、シェンブラック海賊団に属する、全ての構成員が、その覚悟を持ち合わせている。
 自分達は、決して見捨てられない。だから、絶対に見捨てない。
 その覚悟と信頼の、絶対性。
 だからこそ、家族。そして、息子であり、兄弟であり、親父なのだ。
 言葉にするのは容易く、実行するのはまず不可能の、絆。その頑強さは、トーンの弁舌如きでは、到底切り離せるものではなかった。
 トーンは、早々に敗北を認めた。これ以上の舌戦は、時間の無駄というものだ。
 そも、交渉とは、テーブルに載せた交渉材料の配分を争うゲームだと言っていい。それは金銭の場合もあれば、安全の場合もあるだろうし、権益の場合もあるだろう。
 しかし、今、この場においては、テーブルに乗っているのは、二人の少年の身柄だけである。それ以外に、如何なる材料もテーブルには乗っていないのだし、乗せることもできない。
 武力に訴えようにも、彼我の戦力差は笑えるほどだ。今、目の前にいる男を捕らえたり殺したりするのは容易いだろうが、その後で、絶望的な報復の刃がこの星に振るわれるのは目に見えている。
 では、利をもって懐柔するか?いや、この国程度が用意できる如何なる利益も、この男の眉一つ動かすことは叶わないだろう。
 それに、目の前の男は、決して愚かではない。どれほどの財宝を堆く積み上げようとも、目を眩ませることはないに違いない。たった一度作った例外が、どれほど容易く組織を、ひいては信頼を破壊するか、それを理解していない男ではないはずだ。
 ならば、結論は単純だ。
 あくまであの二人の少年を渡さないか。それとも、彼らを引き渡すか。
 そして、話を穏便に進めたいなら、結論は後者以外にあり得ない。
 しかし、詳しい事情は分からないが、それだけは出来ないことを、隣に座った老人に言い含められている。
 トーンは、絶望的な気持ちで、隣に座ったヴェロニカ教最高指導者を見た。
  視線を寄越されたユーゲンは、法衣の被りを脱ぎ、閉じていた瞼を持ち上げた。

「お若いの。あんたの言っていることは、立派だ。本当に立派だ。立派すぎて、儂らには到底理解出来ない。だが、あんたの言っていることが素晴らしいのは、十分に理解出来る」
「そうかい。ありがとよ、爺さん」

 確かに、 ユーゲンはシェンブラックをして爺さんと呼ばせるに十分なほどに、老いていた。
 頭は禿げ上がり、しかしつるりとした印象はない。汚らしく染みが浮き、細かな皺が無数に刻まれ、真っ新な皮膚を探すのが難しい有様だ。
 しかし、視線はしっかりと、強かった。濁った白目の上に茶色い瞳を浮かべて、じっとシェンブラックを見つめている。

「もしも、あの少年二人が、二人とも急な病でぽっくり逝ったって言ったら、どうするね?」

 ユーゲンの、気の籠もらない質問に、シェンブラックの背後に控えた男の幾人かが、険しい視線を送った。自分達に対する侮辱であると思ったのだ。
 だが、シェンブラック当人は、いたって楽しげに答えた。

「ま、宇宙は広いさ。そういう偶然も無いわけじゃないだろう。それなら、あいつらの死体だけ頂いて、さっさと帰らせてもらうだけだ」

 二人が病死したというならば、証拠を見せてみろという。
 老人は、やはり熱意の籠もらない、眠たそうな顔で続ける。

「それなら、もうあの二人の死体は荼毘に付したと答えたら?」

 シェンブラック、寸毫も気配も変えぬまま、

「なら、この星に住む全ての人間を、爺さんの言うところの荼毘に付してやるだけだな」

 ぞっとする言葉を、こともなげに吐き出した。
 この場にいた全ての人間が、その言葉をただの脅しと考えなかった。
 シェンブラックの背後に並んだ男達は、不敵な笑みを浮かべた。ペレストロス共和国の人間は、一様に顔を青ざめさせた。
 そんな中で、ユーゲンは、はっきりと頷いた。

「わかった。ならば、お若いの、あんたらがこの星にいる間、あの二人の身の安全は約束しよう。決して、不自由はさせない。無論、何の危害も加えない。だが、我々に、少し時間をくれんかね」
「どうしてだい?」

 シェンブラックは、さも愉快そうに笑った。
 獲物をいたぶるような、嗜虐的な笑みではない。むしろ、チェスゲームに興じる名人が、相手の出方を楽しげに待っている、そんなふうである。
 何とも無邪気で、太い笑みだ。

「もしもあの二人が、ただの犯罪者ならば、今にだってあんたらに引き渡しているさ。それが、女を嬲った罪であろうが、老人を殺した罪であろうがね」
「なるほど」
「だけどね、あの二人が犯した罪は、この星に住む、全ての人間の身の安全に関わる話なのさ。だから、いくらあんたが脅しつけたって、そうそう容易く引き渡すわけにはいかないんだ」
「ほう」

 シェンブラックの、稚気に溢れた瞳の奥に、色の異なる輝きが宿る。
 この男は、ただ暴力に身を任せる蛮人ではないが、同時に、義に生きるだけの侠客でもない。
 利を見るに聡く、益を見つければ獰猛だ。
 そして、一度手に入れれば離さない。
 そうでなくては、食わせもの揃いの中央銀河の裏社会で、生き残れるはずがない。
 
「だがな、爺さん。もう既に、あんた達の選択肢は一つしかないんだぜ。あいつらが、この星で捕まっていること。そして、やっぱり無実の罪で捕まっていること。それが分かった以上、こっちに遠慮する義理はねえ。なら、さっさとあいつらを解放するのが、利口者のすることだ」
「ああ、わかっとる。だが、我らには、しっかりと選択肢は二つ、残っておるのよ」
「興味深いね。言ってみてくれよ」

 シェンブラックは、挑みかかるように笑った。
 そして、ユーゲンも、初めて笑った。

「決まっているだろう。あの二人を黙ってお前さんに引き渡すか、それともその口を封じるか。その、二つに一つだ」
「爺さん。これは忠告だが、長生きをしたければ後ろの選択肢は選ばないほうがいい。そうでないと、あんたも、あんたの知る誰かも、きっと長生きできない」
「知っとるよ、そんなこと。今更、この朽ちかけた命が惜しいものかよ。この痩せ首で満足してお前さんが退いてくれるなら、いつだってくれてやるさ」
「ああ、爺さん、あんたは利口者だ。そう、こちとら、あんたの老いさらばえた命と、あの二人のこれからの人生を、天秤にかけるつもりなんざ最初からない。あいつらが殺されたら、あとは戦争だ」

 それも、一方的な殺戮になる。
 彼らの矜持を守るためにも、二人の無念を晴らすためにも、そして一家の威を宇宙に知らしめるためにも。
 ペレストロス共和国という国は、この広大な宇宙から、姿を消すことになるだろう。
 トーンは、あまりに薄ら寒い未来図を想像して、危うく気を失いかけた。
 だが、ユーゲンは、あまりに平然とした様子で、

「それも、知っとる。儂らがあんたらに蟷螂の鎌を振りかざしても、無駄だということも。あんたらが儂らを、容赦なく殺すだろうということも。だから、そこから先は我慢比べだな」
「我慢比べ?」
「あんたらが儂らを文字通りに根絶やしにして、ヴェロニカ教をこの宇宙から消し去ることが出来るのか。それとも、儂らのうちの最後の一人が生き残って、子孫にヴェロニカ教を伝えることが出来るのか。そう、これは我慢比べだ。何とも気の長い話だな」

 ひっひ、と、背を痙攣させるようにして、老人は笑った。
 今度は、シェンブラックの後方に控えた男達が、薄ら寒い気分を味あわされるはめになった。
 彼らはいずれも年若く、いまだ幹部と呼ばれる立場にはないが、しかしシェンブラック本人に見込まれて彼の護衛をしているのだ。将来は自分こそが家族を守るのだという覚悟と気概がある。
 当然の、修羅場の一つや二つはくぐり抜けているのだし、自分の命を交渉事のテーブルに載せたこともある。
 その彼らをして、テーブルを挟んで座る老人の、歯の抜けた笑顔は、あまりに異常であった。
 黄ばんだ歯の奥に見える暗がりが、そのまま地獄に繋がっているような気がした。老人の形をした闇が、笑っているような気がした。
 ごくりと、何人かが唾を飲み下した。ちょうど、先ほどのトーンのしたように。

「なるほど。俺たちには、あんたらを最後まで殺し尽くす怒りと覚悟があり、あんたらには最後の一人になっても守るべき何かがある。そういうことだな」
「そういうことさ。確かに、我らは弱いよ。あんたに本気で挑みかかられたら、雄獅子と子鹿よりもあっけなく、我らは殺されるだろう。しかし、この小さな星でも、一億を越える人間が住んでいるんだ。一億のゴキブリじゃない。一億の、血肉を備えた、顔のある、人間だ。女もいれば、子供もいる。あんたの肉親に似た顔の人間もいる。これを、一人一人殺して回るのは、あんた、中々に堪えるぞ」

 にやぁと、嫌らしい笑みを、老人は浮かべた。
 その場に居合わせた人間の全て──テーブルの向こう側に座っている人間も、こちら側に座っている人間も──に吐き気を催させるほどに、それは醜い笑顔であった。
 ただ一人、平然とした様子でユーゲンと相対しているシェンブラックが、嬉しそうに手を一つ叩いた。
 乾いた音が、高らかに、まるで試合開始の号砲のように打ち鳴らされた。

「大したもんだ、爺さん。俺を脅しつける人間なんて、ここ十年は顔を拝めなかった。久しぶりだぜ、こういう気分が踊るのは。だがな、爺さん。一億を殺すのに、わざわざ鉛の玉を使う必要なないんだぜ?そんな効率の悪い真似をしなくったって、人は簡単に死ぬんだ。飢えて死なせてやるのもありだ。乾いて死なせるのもありだ。毒を撒いてもいい。なんなら、星ごと吹き飛ばしてみるかい?」

 とんでもないことを、こともなげに言う。
 およそ、木っ端海賊が口にしたならば、脅し文句にもならないような絵空事ばかりである。
 だが、ここにいるのは、大通りを肩で風切って歩く程度の、木っ端海賊ではない。
 本物の大海賊、シェンブラックである。
 彼は、不可能は口にしない。
 一度口にした言葉は、当然、それを実行できるからこそ口にしているのだ。
 慌ててトーンが取りなそうとしたが、シェンブラックはそれを手で制した。

「三日だ。その間、俺はこの星を適当にぶらついている。三日後に、結論を出せ。あんたらがどんな秘密を抱えていて、それがどれだけ大切なのかは知らねえ。あんたらがどんな神様を信じていて、それがどれだけ偉いのかも知らねえ。だがな。俺にとって、あいつらは、家族は、それ以上に大事なんだ。宝物なんだよ。だから、それを台無しにした奴らを、俺はただじゃおかねえ。今までだってそうだったし、これからだってそうだ。これを、けちな脅し文句だと思うかい?」
「いんや、儂も、それほど耄碌してはおらんよ。あんたは獅子だ、お若いの。そして、獅子と同じ世界に住む生き物は、獅子の怒りを買えば、その世界で生きることは出来ないのさ」

 シェンブラックは鷹揚に頷いた。

「もう一つ。三日後に、俺の前にあいつらが姿を現さなければ、俺はあいつらは既に殺されたものと判断する。記録映像を見せられても、同じことだ。もちろん、脅しや取引の類も受け付けるつもりはねえ。けちな引き延ばしは通じないと思ってくれ」
「わかったよ」
「ただし、だ」

 シェンブラックは、立ち上がった。
 スーツの襟を整え、サングラスをくいと上げる。

「あいつらの引き渡しとは関係ないところで、おたくらからビジネスの話があるなら、それには応じさせてもらう。うちの馬鹿息子が迷惑をかけたお詫びだ。精一杯、勉強させてもらうぜ」
「なるほど、覚えておくよ」

 ユーゲンの言葉を聞いているのかいないのか、シェンブラックは部下を引き連れて、扉の奥に消えていった。



 とんでもないことになった。
 ビアンキは、何が何やら分からなかったが、ただ一つ、それだけは理解出来た。
 あれは、紛れもない、大海賊シェンブラックだ。そして、どうやらその男に、自分達は楯突いているのだ。共和宇宙政府と正面から渡り合う、伝説の巨人と!
 どうする。どうすればいい。
 ビアンキは思った。
 それは、ビアンキだけではない。
 総本山に居合わせた僧のほとんどが、悲鳴に近い大声で、喧々諤々たる議論を繰り広げている。
 物陰で、廊下の片隅で、果ては聖女ヴェロニカのご神体の眼前で。
 彼らは、口々に言う。その少年が、いったいどのような罪を犯したかは知らないが、さっさと引き渡してしまえばいいのだ。そうすれば、少なくともこの星が宇宙から消えて無くなることはない。自分達も死なずに済む。
 どうして老師連中は、ああも頑健に、少年達の引き渡しを拒むのか。
 もしかしたら、理由などないのではないか。頭の固い老人達は、ただ自分達の体面を守るためだけに、この星を未曾有の危機に晒しているのではないのか。
 どれも、推論の上に推論を重ねただけの議論であった。
 当然だ。老師よりも下の階位の僧には、真実の一切は伝えられていない。二人の少年がいかなる罪を犯して投獄されているのか。国全体を危険に晒してまで守られるべき秘密とは何なのか。
 それすら分からずに議論を深めたところで、何の意味もない。
 ビアンキはそれを知っていたから、僧達の議論には参加しなかった。
 ただ、のんびりと、窓の外を眺めていた。
 死ぬのが怖くないわけではない。しかし、この先、どのような運命が待ち受けていようとも、それは神の用意した試練に違いない。であれば、自分は、ただ自分に与えられた役割を淡々とこなし、神のご意志に沿えるよう、努力をするだけである。
 周りの僧のように、右往左往しながら死を迎えるのは、嫌だ。
 そう、一人考えていたビアンキに、予想外の人物から声がかけられた。

「ビアンキ導師」

 振り返ったビアンキの前にいたのは、つい先ほどまで、大海賊シェンブラックと正面からやり合っていた、ユーゲン長老その人であった。

「長老。このミア・ビアンキに、如何用でございましょうか」

 ビアンキは、その場に跪いた。
 老師を飛び越えて、長老たる方から声をかけられたのだ。それが当然の礼儀である。
 それでも、背後から、決して好意的とはいえない視線が突き刺さるのを、若き導師は感じていた。
 妬み、嫉み、恨みに辛み。自分のいる場所を一足飛びで飛び越えていった若者に対する嫉妬の視線は、日に日に鋭さを増していく。
 ビアンキは、身の危険を感じたこともしばしばであった。
 だが、それを上に訴えようとは思わなかった。そんな些末事に貴重な時間を費やすのであれば、他に為すべき事が山とあるからだ。貴重なヴェロニカ教の古文書を解読する高揚感に比べれば、夜道に背後から突き刺さる殺気の鋭さなど、春のそよ風の如きものだとビアンキは思っている。
 
「うむ。少し、お主に労をかけることになった。修行に差し支えることにもなろう。それでも構わぬか?」

 長老の言葉である。否やのあろうはずがない。
 ビアンキは、無言で恭しく頭を垂れ、承諾の意を表した。

「では、こちらへついて参れ」

 ビアンキは、すたすたと先を行くユーゲンの後を追った。
 容貌とは裏腹に、足腰の至って頑健なユーゲンは、立ち歩くのに他人の助けを必要としない。今もビアンキは、ともすれば遅れがちになる自分の足を早めるのに必死だ。
 そして、二人はヴェロニカ教総本山の裏口の、駐車場に辿り着いた。
 そこに待たせてあった車に、ユーゲンは乗り込んだ。ビアンキは一瞬躊躇したが、その後に続いた。
 車は、静かに発進した。
 外は、既に日が落ちかけている。正面から強烈な西日が差し込み、助手席に座ったビアンキは目を細めた。
 車は、ヴェロニカの赤い大地を駆けていく。
 夕日に染まった赤い大地は、驚くほどに鮮明な朱を浮かべる。遙か地平線の境では、夕日と大地の境界が不鮮明になるほどだ。
 その大地の所々に、力強く風に揺れる、カラの穂。
 この星の、初夏の光景である。

「美しいな」

 後部座席から、ぼそりと声がした。

「はい」

 ビアンキは、前を向いたまま、短く答えた。

「ビアンキよ。これが、我らの守らねばならぬものだ」
「はい」
「例え我らの最後の一人が死に絶えても、この大地は残る」
「はい」
「であれば、我らの命とこの大地、どちらを守るべきか、考えるまでもない」

 ビアンキは、答えなかった。
 果たして、そうなのだろうか。
 美しいものは、守るべきである。それはそうかも知れない。
 しかし、美しいものを美しいと認識するのは、人間の為せる業だ。人間がいなくなれば、美は、即ち意味を失うのではないだろうか。
 この星に住む人間の、最後の一人が死に絶えたとき、この星が美しいことは、何かの価値を持つのだろうか。
 それとも、長老が言っているのは、そういう意味の言葉ではないのか。
 ビアンキは、量りかねていた。
 その後、ユーゲンは、一言も話さなかった。当然、ビアンキも、運転手を務める僧も、口を開かなかった。
 車は山道に入った。砂利を轢いているのか、車が細かく跳ね上がる。
 道は狭くなり、片側が崖になった。山肌を、ぐるぐると昇っているのだ。
 そして、車は、目的地に到着した。

「ここは……?」

 車が、驚くほどに巨大な門を潜り、中世のような石造りの跳ね橋を通過したとき、ビアンキは思わず声を出した。
 彼はこの星に生まれ育ち、ヴェロニカの僧として教えに帰依し、この星の歴史と地理を学んできたが、このような山間に城があるなど、聞いたこともない。
 車は、ビアンキの疑問を無視するかのように、城門の前で停止した。
 ユーゲンは、やはり無言で車を降りた。ビアンキも、一息遅れて、車を降りた。運転手は、車を降りなかった。このまま、ここで待っているつもりなのだろう。
 二人が扉の前に立つと、重厚な樫材の扉が、軋み音をたてて開いた。まさか自動ドアということもないだろうから、どこかから、自分達を見ている人間がいるのだろう。
 得体の知れない不安を感じたビアンキだったが、ユーゲンは、あくまで我が物顔のまま城の中へと立ち入っていく。
 玄関ホールを抜け、大広間に入ると、ちらほらと人影を見るようになった。
 よく見れば、かなりの人数がこの城の中にいる。しかし、いずれもビアンキの見知らぬ顔であった。
 もしも彼らがヴェロニカ教の関係者であれば、これだけの人数の中にビアンキの見知った顔が一つもないというのはおかしい。
 つまり、この連中は、教団とは関係ない人間だ、ということになるのだが、では、教団と無関係の人間がこれだけ集まった施設に、長老はいったいどんな用事があって足を向けたのか。
 ビアンキは考えながら歩いていたが、先を行く長老が足を止めたことに気が付いて、慌てて足を止めた。

「お主も、そういう表情をするのじゃな、ビアンキよ」
「そういう顔、ですか」

 ユーゲンは、にこりと笑った。

「怪訝な顔をしておる。それほどに、この場所が不思議か」

 ビアンキは、素直に答えた。

「はい。これは、いったいどういう施設なのですか」
 
 ユーゲンは、深く頷き、

「ヴェロニカ教にも、色々とある」
「色々とは、どういう意味ですか」
「色々とは、色々よ」

 面白おかしそうに、言う。

「例えば、ビアンキよ。お前は、先ほどからこの城ですれ違う人間に、見覚えはあるか?」

 皆一様に、虚ろな目をした、人間の群れ。
 薄汚れているわけでも、知性に乏しい有様というわけでもないのに、どこか非人間的な、人間達。
 彼らが、ちらりと自分を見る視線には、飼い犬が怒った飼い主に向けるような、卑屈と怯懦が込められていた。

「いえ、初めて見ました。彼らは、いったいどういう人間なのですか」
「我ら老師は、あれらのことを、草と呼んでおる」
「草、ですか」
「便利な人間よ。如何なる仕事にも不平をとなえず、淡々とこなす。犯罪まがいのことも、土掘りも、なんでもな」

 ビアンキは、愕然とした。今まで、一度だって聞いたことのない、事実だ。
 言葉を失った若き導師に、ユーゲンは、淡々とした調子で語りかけた。

「ビアンキよ。お主は、明日のヴェロニカ教を背負って立つ身。そろそろ、この教団の裏側も知っておくべきじゃろう」
「しかし……」
「お主の師には、後で儂が伝えておく。何、今の今までお主が切望しても得られなかった、問いの解がここにはあるやも知れぬのだ。もっと嬉しそうにせよ」

 そう言われても、ビアンキには言葉が思い浮かばなかった。
 確かに、師と問答を繰り返しても、一番欲しい最後の問いに繋がる質問だけは、煙に巻かれたように避けられてしまう。詰め寄っても、はぐらかされる。どうしたって、本当のことを教えてくれる雰囲気ではない。
 ただ、言うのだ。老師になれば、全てがわかると。その時を少しでも早めるために、修行に励むのだ、と。
 それ自体は、望むところである。もとより、ヴェロニカ教の真理を見極めるために、この命を捧げて構わないと覚悟は決めている。
 しかし、解を求めて得られないのが、心地よいはずはなかった。ビアンキは、悶々とした日々を送らざるを得なかったのだ。
 だから、その答えがここにあるというならば、是非もない。
 ビアンキは、先ほど見た、虚ろな目をした人間のことなど、ほとんど忘れていた。
 そして、二人は歩いた。ユーゲンは淡々とした足取りで、ビアンキは爛々と目を輝かせながら。
 廊下を歩き、石造りの階段を下り、地下へと至った。
 カビと糞尿の入り交じった、饐えた空気が広がっている。その空気は、この地下が、どういった目的のために使われてきたかを教えていた。
 そして、今、どういった目的に使われているのかも。
 どこかから、呻き声が聞こえてきた。それを合図にしたかのように、調子の狂った笑い声、啜り泣く女の声、癇癪を起こした幼児のような叫び声。
 ビアンキは、背を仰け反らせまいと、腹に力を込めた。
 これがヴェロニカ教の暗部だとすれば、それは構わない。自分は、それを受け入れてみせるのだ、と。
 そんなビアンキの様子をちらりと見たユーゲンは、すたすたと歩き始めた。虜囚の言葉は、どれほど凄惨なものであっても、この老人の鼓膜には届かないらしい。
 薄暗い地下牢を、手燭の灯りを頼りに歩く。
 鉄格子の隣を歩くときに、何度か、声をかけられた。ここから出せとか、呪ってやるとか、家に帰してとか、そういう言葉だったかも知れないが、今のビアンキには届かなかった。
 そして、二人は目的の場所に、辿り着いた。

「ここだ」

 ユーゲンは、鉄格子の中を照らし出すように、手燭を前に掲げた。
 牢屋の中は、思ったよりも広い。土床に毛布が置かれ、そこだけがこんもりと盛り上がっている。誰かが、毛布にくるまっているのだろう。
 それが、二つ。
 あとは、食事を済ませた後の、空の食器が二組。奥に、便器の代わりの桶。
 それだけだった。

「おい、起きろ」

 ユーゲンが言うと、毛布がもぞりと動いた。
 そして、中から、年若い少年が、いかにも眠たそうな顔を出したのだ。

「……なんだよ、ようやくおれたちの処分が決まったのか」

 大あくびをする。
 自分達がどういう未来を辿るのか、まったく興味がないような有様に、ビアンキは驚きを隠せなかった。
 この年代の子供が、このような場所に閉じ込められて、恐怖を感じないはずがないのだ。
 普通の少年ならば。

「ビアンキよ。これが、件の少年二人だ」

 予想はしていた。
 今、騒動の渦中に置かれたユーゲンが、直々に足を運んで、このような場所までビアンキを連れてきたのだ。当然のことながら、普通の用事のはずがない。

「今より三日間、お主がこれらの世話をせよ」
「はい」

 そして、用件を申し渡されれば、あとは何も思い悩む必要はない。淡々と、自分に課せられた仕事をこなすだけである。
 先ほどユーゲンは、この二人には何一つ不自由はさせないと言った。そして、絶対に危害は加えないとも。
 であれば、このような、どう考えても快適の二文字とは程遠い地の底から二人を連れ出し、もっとましな場所で、あとの三日間を送らせるのだろう。その間、自分が二人を監視し、そして世話をすればいい。
 それだけのことだ。

「これより三日間、我らは、この二人の扱いについて検討する。そして、お主はその間、この二人の面倒を見て欲しい」
「はい」
「そして、我らが最終的な結論を出すのが、三日後のことだ。当然、真っ先に、お主にその結果を伝える」
「はい」

 その結果によって、この二人の少年の命と、この惑星の命運が、決まる。
 ビアンキの腹に、我知らず力が籠もった。
 だからこそ、ユーゲンの言葉は、ビアンキには予想外のものであった。

「だが、お主は、その結果について、一切耳を貸す必要はない」
「……はっ?」

 ヴェロニカ教始まって以来の麒麟児を噂されるビアンキが、まるで阿呆のように、大きく口を開けたまま固まってしまった。
 その顔を、ユーゲンは楽しげに見遣る。

「なんという顔をしておるのだ、お主は」

 言われてビアンキは、僅かに居住まいを正したが、だが内心の動揺が収まるはずもない。
 うわずった声で、尋ねた。

「あの、長老。それはいったい、どういう意味でしょうか」
「言葉通りだ。ミア・ビアンキよ。我らがどのような結論を用意したとしても、それはお主の行動を露程も拘束するものではない。この二人の少年の処遇は、ただお主の独断で決めよ。それが期限の三日よりも早まっても、一向に構わぬ」
「しかし、それは……」

 ビアンキの決断が、この星の運命を左右するという意味では、ないのか。
 言葉を失ったビアンキに、ユーゲンは、小さな鉄の塊を渡した。
 それは、ビアンキが、生まれて初めて手にする、人の命を奪うための道具──銃であった。

「全てはお主が決断せよ。全てを、じゃ」
「老師、そのような大役、わたしには……!」
「しかと申し渡した。もしもこの役を降りるというならば、その時は、お主の名がヴェロニカ教の信徒台帳から姿を消すことになると覚悟せよ」

 ビアンキは、完全に言葉を失った。
 ヴェロニカ教には、破門という概念は存在しない。肉を食い、カラ以外の自生青果を口にしたとしても、そのことをもってヴェロニカ教から強制的に去らなければならないわけでは、ないのだ。
 しかし、今、ユーゲンが口にした言葉には、脅し以上の強い響きがあった。
 まさかとは思う。しかし、ビアンキは、長老の言葉を、冗談の一つと受け取ることなど出来はしなかったのだ。
 ビアンキは、息も絶え絶えの様子で、何とか銃だけでも返そうとした。
 しかしユーゲンは、ビアンキ一人を残して、さっさと踵を返してしまった。
 闇に残されたのは、鉄格子の外に立つビアンキと、中で寝転がる少年が二人だけである。
 そして、そのうちの、殊勝にも目を覚ました方の少年が、如何にも気の毒そうな声で、ビアンキに声をかけたのだ。

「いやぁ、あんた、なんだかとんでもない貧乏くじを引かされちゃったみたいだね。ま、長けりゃ三日間、短ければどれくらいになるかわかんないけど、しばらくは仲良くしなけりゃいけないみたいだからさ、気楽に行こうよ。おれの名前は、ヤームル。よろしくな!」

 闇の中から、溌剌とした声が、ビアンキに向かって発せられた。



[6349] 幕間:在りし日の老人その二
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/07 08:55
 困ったことになった。
 ビアンキは内心で頭を抱えていた。
 古びた牢屋、その鉄格子の前に椅子を置き、じっと前を見つめながら、何度も同じことを考えてしまう。

 ──どうしてこんなことになったのか。自分は、ただヴェロニカ教の真理を知るために、その門を叩いたのに。

 この星に、ヴェロニカ教徒は多い。一握りの外国人以外、全てがヴェロニカ教を信奉しているといって過言ではないのだ。 宗派はいくつも存在し、外から見れば全くもってどうでもいいような教義の違いを巡って丁々発止の議論と不倶戴天の敵意を交わし合っているが、結局のところそのいずれもがヴェロニカ教徒であることに変わりはない。
 しかし、信徒ごとの信仰の度合いには、当然のことながら深浅が分かれる。
 肉食や野生の青果を食わないといった、信仰の根幹に関わるところは別にして、 それ以外の部分、例えば、ヴェロニカ教の教えを守りながら外で働くのか、それとも信仰をより深めるために出家するのか、そういった選択は個人の信仰心の問題であり、誰が強制できるわけでもない。
 若き日のビアンキは、様々な葛藤の末に、出家の道を選んだ。
 幼き頃よりその才覚を知られ、将来を嘱望された彼である。
 この星で最も難しい学府に受かり、そこで、辺境で許される最先端の医学を修めた。 そのまま医者の道を歩けば、輝かしい未来を約束されていたのだ。
 それでも彼は、全てを捨てて出家し、ヴェロニカ教の指導者としての人生を選択した。
 その選択は、決して間違えてはいなかったと、ビアンキ自身は確信している。それが、やむにやまれぬ選択だったとしても、だ。
 だが、これほどの重責を肩に負わされて、このように辛気くさい場所に押し込められてしまうと、どうして自分はここにいるのかという根本的な煩悶が空白の思考にこだましてしまう。
 一週間だ。
 一週間後には、この星の運命が、自分の選択によって決せられてしまう。
 どうして自分なのだろうか。
 相応しい人間は、いくらでもいるのだ。
 長老でもいい。
 大統領でもいい。
 出自も知れない肩書きと勲章をじゃらじゃらとぶら下げた、学者だっているだろう。
 この星を我が物顔でのし歩く、原始移民の子孫連中でも構わないじゃないか。
 なのに、どうして自分なのだ。いまだ老師の階位にも至らず、導師の身分とて手に入れたばかりの。
 何度考えても分からない。
 しかし、時間だけは無情に過ぎていく。 ビアンキの事情など、汲んではくれない。
 どれほど考えても、考えなかったとしても、許された時間の終わりを告げる鐘の音は、いずれ三日後に届くだろう。
 その時、自分は決断しなければならないのだ。
 少なくとも、自分が、このままヴェロニカ教に身を置き続けるならば。
 そうだ。
 身を置き続けるつもりならば、決断が必要だ。
 だが、そうでないならば。
 逃げる、という選択肢も、ある。
 このままこっそりとこの城を抜け出して、近くの街まで逃げ込めば、まさか誰かが追ってくるということもあるまい。よしんば誰かが追ってきたとしても、三日間逃げ切ればいいだけの話だ。
 自分が捕まる頃にはこの問題にも一応の方向性は出来ているだろう。
 だが、その後は?
 当然、自分の居場所は、ヴェロニカ教の総本山にはないだろう。
 今更、医師としての道に戻れようはずもない。
 手に職があるわけでもなく、特別な技能があるわけでもない。
 もう、年も30を越えている。自分が歩み続けてきた道を違えるには、全てが遅い年齢だ。
 ならば、逃げてどうする?
 逃げられない。
 逃げれば、それは、ミア・ビアンキという人間の社会的な死を意味するからだ。
 ならば、どうにかして決断を下すしかないのだが……。

「どうしたんだよ、おっさん。さっきから変なうなり声をあげてさ。腹でも痛いのかい?」

 苦悶するビアンキを眺めながら、二人の少年のうちの饒舌な方が、不思議そうに言った。  名前を、ヤームルといったはずだ。
 栗色の柔らかい髪の毛をした、利発そうな瞳の少年だった。誰かに殴られたのか、片方の目が腫れてふさがりかけている。体中に青痣も拵えている。 見た目はぼろぼろだ。
 それでも、弱々しい印象のどこにもない、子供だ。
 ビアンキは、ヤームルを、ぎろりと睨み付けた。その剣呑な視線の理由は、まだ自分がおっさん呼ばわりされる年齢ではないという抗議の意志だったのかも知れないし、自分がこれほど苦悩する理由そのものである彼らが、その重大性を全く理解していないように見えるのが苛立たしかったのかも知れない。
 ビアンキ自身にも、よく分からない。
 とにかく、ビアンキは、ぎろりと睨み付けた。
 薄明かりの中である。そして、朽ちた牢獄の中である。
 今や看守の立場となったビアンキに睨み付けられれば、普通の人間であれば肝を冷やして然るべきなのだが、ヤームルという少年はあっけらかんとしたものだった。
 後ろ手に手錠を嵌められ、足錠も嵌められ、立ち上がることも叶わず、芋虫のような姿勢のまま、無垢な瞳でビアンキを見上げている。
 そんな視線を寄越されては、いつまでも怒っているのが馬鹿らしくもなる。
 ビアンキは溜息を一つ溢して、つるりとした禿頭を一撫でした。

「……お前は、事態の深刻さが分かっているのか。私の決断一つで、お前達はこの世を去らねばならんのだ。それも、別に三日後のことではない。私が決めれば、それは今すぐのことにもなるというのに」

 脅しとも嘆きとも取れない、曖昧な声であった。
 今、少年二人の生殺与奪の権利を握っているのは、間違いなくビアンキであり、それは少年達も十分理解しているはずである。
 だというのに、少なくともヤームルという少年については、その表情のどこにも、恐怖とか怒りとか焦りとか、そういう感情が読み取れない。
 ある意味において、人間性というものが一部欠落しているのではないかと疑ってしまうほどに、自然体であり、無邪気な様子でもある。
 これが、宇宙生活者というものなのだろうか。
 ビアンキの知己に、そういった職を持つ人間はいない。そもそもヴェロニカ教徒のうちに、宇宙に生活の場を求める人間は、数少ないのだ。
 ヴェロニカ教の思想を守るならば、宇宙で生活を送るのは簡単なことではない。
 最も難しいのが、食事制限の戒律を守り続けることだ。
 惑星ヴェロニカで仕入れた食材ならばいざ知らず、他の星で食材を仕入れたとき、それが戒律に触れるものかそうでないかを見分けるのは非常に困難だ。缶詰の裏に記された原材料を調べても、それが天然のものなのか人の手を加えられたものなのかを見分けるのは、事実上不可能に近い。
 であれば、ヴェロニカ教の人間が宇宙に赴く機会は、自然と限られてくる。もう少し時代が進み、ペレストロス共和国が今より栄えることがあれば話は変わってくるのだろうが、少なくとも今は極々一部の人間しか宇宙に関係する職にはついていない。
 当然、ビアンキも宇宙を旅したことはない。そして、そういった知人を持つこともなかった。
 そして、どうやらビアンキが初めて出会った宇宙生活者である少年は、あっけらかんとした調子で口を開いた。

「おれたちが騒いだり怒ったり嘆いたりして事情が変わるなら、いくらだってそうしてるさ。あんたらの靴の裏だって舐めてやってもいい。でも、何をしたって何も変わらないなら、何をする必要もないだろう?だからこうしてる」

 ヤームルは、平然と言った。 至極ごもっともな台詞である。ビアンキも、不快そうに顔を顰めこそしたが、一言の反論をすることも敵わなかった。
 もう一人の少年は、ヤームルのほうをちらりと見てから、再び毛布に頭を突っ込んで動かなくなった。
 ビアンキは、しばらく二人をまんじりともせずに監視していた。
 やがて、昼になった。
 草と呼ばれた男達が、昼食を持って地下牢へと降りてきた。
 仮にもヴェロニカ教の導師であるビアンキには、湯気の立つ豪勢な食事が運ばれてきた。 対して二人の少年には、果たしてこれは人の食事かと問い詰めたくなるような、残飯まがいの品であった。
 端の欠けたプラスチックの大皿に、盛りつけなど念頭にない有様で、得体の知れない食材のごった煮のようなものが盛られている。 決して食欲を沸き立たせるような料理では、なかった。
 男達は、鍵で鉄格子を開け、房の入り口に近いところに二人分の食事を置いた。

「おい、飯だ」

 草の男は、二人の少年に、冷ややかな声をかけた。
 寡黙な方の少年はもちろん、ヤームルも、その声に反応を示さなかった。 毛布にくるまったまま、視線を寄越しさえしない。
 そんな少年二人を忌々しげに見遣った草の男は、舌打ちを一つ零して、地下階から姿を消した。

「さ、飯だ飯だ。危うくお腹と背中がくっついちまうところだったぜ」

 毛布をはじき飛ばす勢いで体を起こしたヤームルが、途端に表情を崩し、残飯まがいの昼食の盛られた皿に、口を付けた。
 それは、文字通り、口を付けたのだ。
 彼の両手は、後ろ手に拘束されている。その状態で地面に置かれた皿から食事をしようと思えば、自然、犬が餌に鼻先を突っ込むような姿勢にならざるを得ない。
 到底、人の尊厳のある、食事ではない。
 ビアンキは、思わず目を逸らした。顔を汁まみれにしながらがつがつと食事をする少年が不憫に思えたのかも知れないし、年端もいかない少年にそんな真似をさせておきながら人並みの食事をする自分が、どうにも浅ましく思えたのかも知れない。

「おい、インシン。お前も食えよ。これ、なかなかいけるぜ」

 顔をべたべたにしたヤームルが、やはり毛布にくるまったままの、もう一人の少年に声をかけた。
 ビアンキは、思わず視線を戻した。
 インシン。
 それが、もう一人の少年の、名前なのか。
 ビアンキの視線に気が付いたのだろうか、ヤームルは地に這いつくばった姿勢のまま、ビアンキの方を見遣り、

「あ、いっとくけどな、おっさん。こいつの名前、インシンなんかじゃねえからな」

 自分で呼んでおいて違うとは、何とも奇妙な言いぶりだ。
 声に出さずとも表情には出ていたのだろう。ヤームルは、ビアンキの難儀な顔を眺めて、くすりと笑った。

「こいつ、びっくりするくらいに無口なんだ。だから、誰も名前を知らねえ。おれが勝手に名付けて、勝手に呼んでる」
「……それは奇妙な話だな。では、どうしてその少年を、インシンなどと呼ぶ?」
「ああ、そいつは、おれの故郷の言葉で……」

 ヤームルが話し始めた隣で、もそりと体を動かした少年──インシンと呼ぶべきなのか──が、ヤームルと同じ姿勢で、皿に盛られた飯に顔を突っ込み、もそもそと食べ始めた。
 ぺちゃぺちゃと、汁の跳ね散る音が聞こえた。
 ヤームル少年に比べると、何とも覇気のない有様である。
 そして、ヤームルと同じく、体中に青痣を作っている。
 髪は埃にまみれて灰色に染まり、顔は垢じみて薄黒い。身に纏ったぼろと相まって、そのまま浮浪児の仲間に入れても何ら見劣りしない姿形である。
 つん、と、饐えた汗の臭いが、ビアンキの顔を顰めさせた。
 二人の様子を意図的に視界の外に置いて、自分の食事に集中した。
 機械のように手を動かし、味のしない食事を黙々と口へと運ぶ。そうしていると、どうしても、出口の見えない煩悶がむくりと鎌首をもたげて、ビアンキを底なしの泥濘の中へと放り込もうとするのだ。

「あのさ。あんた、確か、ビアンキって言ったっけ?」

 ビアンキは、弾かれたように顔を上げた。
 ヤームル少年と目が合う。

「……口の利き方を知らない子供だ。自分達の置かれた立場を理解しているのか」

 顔を汁でべたべたにしたヤームルは、ちょうど食事を終えた犬がそうするように、長いしたで口の周りを舐めとった。

「十分に理解してるってば。どうせこれ以上悪くなりようがないならさ、今更神妙にしたってどうしようもないだろう?」

 ヤームル少年の言うとおりであった。
 ビアンキは、溢れそうになった舌打ちを、何とか堪えた。
 
「で、さ。結局のところ、おれ達はどうなるんだ?このまま殺されて、どっかに埋められて終わりかい?」
「……そうだと言ったら、どうするつもりだ?」
「いや、あんたらも中々勇気があるなって思ってね。おれ達があんたらにとっ捕まってることを、親父は間違いなく知ってるぜ。なら、あんたらには、おれ達みたいな薄汚れたガキの命をたった二つと引き替えに、自分達がぶっ殺される覚悟があるってことだろ?それは、きっと珍しいことだ」

 ビアンキは、昨日、会見の場で遠くから見た、あの男を思い出していた。
 大海賊、シェンブラック。
 世間一般で知られているほどに暴力の匂いを醸し出す男ではなかったが、その分、奥に秘めた何かには恐ろしいものがあった。
 あの男は、やるといったらやるタイプの人間だ。
 そして、そのシェンブラックが、二人の身柄を引き渡さなければこの星を滅ぼすと言った。確かに、彼の暴力を集結させるならば、共和連邦にも所属していない辺境国家一つを叩きつぶすくらい造作もないだろう。
 それなのに、この二人の身柄を引き渡すことだけは、どうしても出来ないのだと長老は言う。
 例え、この星の大多数の人間が死に絶えたとしても、それだけは出来ないのだと。
 そこが、ビアンキにはどうしても理解出来ない。
 いや、そもそも──。

「なぁ、お前達は、一体何をしでかしたんだ?何を知ったんだ?いい加減、それを教えてくれないか」

 懇願するような、ビアンキの口調である。
 これまで、何度も尋ねた。彼らが何を知り、ヴェロニカ教団は何を秘匿しているのか。それを知れば、決断の下しようもある。
 しかし、ビアンキは何も知らない。知らされていない。一切の事情を弁えないまま、最も重たい責任を負わされたのだ。
 ならば、少しでも多くの情報を知りたいと思うのが当然だろう。
 だが。

「言えない」

 取り付く島もない様子である。

「どうして」

 ビアンキが食い下がった。

「言っても、きっと理解してもらえない」
「理解出来ない?」
「ああ。多分、あんたには無理だ」

 非礼な台詞であった。しかも、目下の人間に言われたのだ。
 ビアンキは思わず声を荒げかけたが、しかしヤームルの表情を見て、怒声を飲み込まざるを得なかった。
 まるで、哀れむような、自分を気遣うような、悲しげな視線。
 ビアンキは、上げかけた腰を、再び椅子へと下ろした。

「ずいぶんと、見くびられたものだ」
「見くびってなんていない。あんたはここに来てから、一度だっておれ達を馬鹿にしなかった。見下さなかった。こんな薄汚れた、宇宙生活者の子供をだ。それは、きっと立派なことだと思うよ」

 慰めるような口調であった。
 ビアンキは、自嘲の笑みを浮かべた。

「これはこれは、嬉しいお言葉だな」
「皮肉を言ってるって思われてるのかな?違うよ、本当にそう思う。おれ達は、いつだって、人間未満の扱いを受けてきたんだ。正面から、真っ直ぐに話しかけてくれるのは、親父くらいのものだった」
「親父とは、シェンブラックのことだな」

 ヤームルは頷いた。

「あの男とお前達は、どういう関係なんだ」
「親父と息子」

 簡潔であるが故に、誇り高い言葉だった。
 自分達が裏切られるとは、見捨てられるとは、一握りだって疑っていない言葉だ。
 ビアンキは一瞬、この少年を羨ましいと思ってしまった。

「どこで、知り合った?」
「さぁ?もう忘れた」

 ヤームルは、興味薄そうに言った。おそらくは嘘だろうが、もしかしたら本当に覚えていないのかも知れない。

「当てもなく故郷を飛び出してさ。宇宙船の下働きをしながら、食うや食わずで星の間を彷徨ってた。いつかは正式な船員に認めてやるって言われてたから、必死で働いてさ。寝る暇ないくらい、必死で働いてさ。でも、そんなうまい話が転がってるはずもなくて、ちょっと病気で働けなくなったら、あっさりと捨てられた。その、名前も知らない星の、場末の酒場の路地裏で、半分死にかけながら生ゴミを漁ってた。そこで、親父と会ったんだ」
「……それで?」
「息子になれって言われた。そんで、飯を食わせてもらったんだ。それだけで、この人のために死んでもいいって思えたよ」

 あまりにあっさりとした言葉だった。
 だが、それが、言葉どおりのものではないことを、ビアンキは知っている。
 目の前に、その光景が浮かぶようだった。
 痩せこけ、髪の毛には蚤と虱が湧いた、不潔な浮浪児が、酒場の裏口に置かれたポリバケツに手を突っ込み、半分腐った他人様の食べ残しを必死に漁っている。
 体は、ぼろぼろだ。重度の栄養失調であばらは浮き、頬はこけ、目だけが爛々と、獣のような光を宿している。他の浮浪児との縄張り争いで、体中は傷だらけ。
 時折、体を折って咳き込み、血の混じった痰を壁に向けて吐き出している。
 ただの、浮浪児だ。
 明日、道路の片隅で死んでいたとしても、おそらく誰も気にも止めないだろう。眉を顰め、気の毒だと思うことがあっても、次の瞬間には忘れている。犬や猫の死骸と同じ感慨しか抱かない。そして、街の清掃員がその死骸を片付けて、あとはいつも通りの日常が訪れる。
 寒さと飢えに怯え、明日への希望も人としての尊厳もなく、生物としての義務を全うするためだけに生き続ける、子供。
 それは、別に珍しい存在ではない。共和宇宙加盟国の清潔な都市部であっても、少し路地裏を探せばいくらでも見つかるのだ。この宇宙全体でどれだけの数になるのかなんて、想像もつかない。
 彼らの運命は、決まっている。飢えて死ぬか、寒さで死ぬか、病気で死ぬか、けちな喧嘩に巻き込まれてあっさりと殺されるか。
 少し見栄えが良ければ、誰かに囲われて、その玩具として生きることが許されるのかも知れない。それとも、春を売って生きることも出来るだろうか。それにしても、子供と呼ばれる年齢でその短い生を終える者がほとんどだ。
 まるで原生生物のように少ない可能性で成人出来たとしても、まともな教育も受けていない彼らが就ける職など、たかが知れている。暴力組織の鉄砲玉か、麻薬の売人か。
 夢も、希望も、あったものではない。
 そんな少年に、酒場から出てきた、立派な身なりの男が、何気なく声をかける。
 俺の息子になれ、と。
 半信半疑どころか、たちの悪い冗談だと思っただろう。全てに裏切られてきた少年は、暗い表情で一瞥しただけで、路地裏の奥へと立ち去ろうとしただろうか。
 だが男は、少年のやせ細った腕を確と掴み、酒場の中へと引きずり込む。
 少年の身なりと悪臭に眉を顰める他の客と店員を獰猛な視線で黙らせ、少年に暖かい食事を食べさせてやる。
 何とも安っぽい情景だ。今時、映画のワンシーンに使うことさえ、ためらわれてしまうような。
 だが、それがどれほどに嬉しいことかを、ビアンキは知っていた。
 理解していたのではない。知っていたのだ。

「お前も、そうだったのか」

 ぽつりと呟いた。

「お前もって?」

 ヤームルの問いに、ビアンキは答えなかった。無表情に、どんよりと表情で押し黙ってしまった。
 その後、しばらくの間、誰も口を開かなかった。若き僧侶は彫像のように身じろぎせず、少年二人は毛布にくるまり、死体のように動かない。
 時計の針だけが、無情な様子で乾いた音を立て続ける。
 やがて、日の落ちる時間になった。
 牢屋の室温は、どんどんと下がっていく。
 ビアンキは、自分の吐き出した息が白く色づいているのに気が付いた。傍らから綿の入った上着を取り出し、羽織った。
 
「寒くないか」

 常日頃から清貧を旨とし、厳しい修行に耐えているビアンキである。この程度の寒さならば辛いとは思わないが、薄手の肌着に擦り切れた毛布だけという少年二人は、さぞ寒かろうと思ったのだ。

「風邪をこじらされても困る。何か、着るものを用意しよう」
「いいって、このくらい」

 ヤームルが毛布から顔を出し、言った。

「このくらいなら、慣れてるからさ」
「慣れてる?」
「おれ達くらいの年でもさ、宇宙生活者をやってりゃ、色々あるのよ」

 したり顔であった。

「極寒の惑星を、半分凍死体になりかけながら彷徨ったことだってあるんだ。それにくらべれば、この程度の寒さ、何てことはないさ」

 極寒の惑星。
 生まれてから、この星を一度も出たことのないビアンキには想像も出来ない世界である。

「酷寒地仕様の特殊テントの内側がばりばりに凍っちまうんだ。同じく寝袋だって何の役にも立ってないんじゃないかってくらいに冷たく凍ってる。燃料は切れて、暖房器具って呼べるのは自分の体温だけ。外は風がごうごう鳴って、テントは今にも吹き飛ばされそう。切り詰めた食料は今日の分で底をつく。そんな状況に比べれば、これくらいの寒さを寒いなんて言ってられないよ」
「……そのような場所を、何でわざわざ?」
「その星には、未発見の金鉱山がごろごろ転がってるっていう噂だった。だから、おれとこいつで一山当てに行ったんだ」
「……お前達のような子供に相応しい仕事ではないだろう」

 ビアンキの至極まともな意見に、ヤームルは笑った。

「あんたの言うことはもっともだけどさ。でも、やむにやまれぬ事情ってやつがあったんだよ」
「事情?」
「親父に、家族に、恩返しがしたかったんだよ」

 ヤームルは、照れくさそうにそっぽを向いて、

「おれ達はまだまだ子供だからさ。親父たちのために、何にもさせてもらえないわけよ。船には乗せてもらえないし、海賊だって名乗らせてもらえない。だから、せめて資源の一つでも探して、恩返しがしたくてさ」
「それを、シェンブラック老は喜んだのか?」
「あとでばれて、顔の形が変わるくらいに殴られた」

 そうだろう。
 あの男は、息子と呼んだ子供が自分のために危険な目に遭うことを、決して喜びはすまい。
 遠目に見ただけだが、そんな気がした。

「でも、おれ達、ちゃんと金鉱脈の一つを見つけたんだぜ。代わりに凍傷で指を二、三本なくしかけたけどさ」
「金鉱脈を?」

 ビアンキは驚きの声を上げた。
 金鉱脈がどれほどの規模か分からないし、それがどれほどの富をもたらすのかも分からないが、決して個人の財布に収まるような規模ではあるまい。

「それで、どうしたんだ?」

 身を乗り出すようにしたビアンキを、醒めた視線で一撫でしたヤームルは、

「親父にあげたよ。当然だろう?だって、そのために行ったんだ」
「あげたって……もしかしたら一生遊んでくらせるかも知れないんだぞ?」
「一生遊んでくらすよりも、親父が笑ってくれたほうが嬉しい。ま、実際はこっぴどく怒られたんだけど」

 でも、抱き締めてくれたよ。
 そう言って、少年は笑ったのだ。
 
「凍傷の治りかけた手を、優しく摩ってくれた。寒かったろう、辛かったろうって、涙声で労ってくれた。それで十分さ」

 ビアンキは言葉を失った。
 やがて、夕食が運ばれた。
 ビアンキには昼食と同じく、湯気の立つ豪勢なもの。少年二人には、残飯まがいのごった煮である。
 三人は、やはり黙々と食べた。
 そして、消灯の時間になった。
 少年二人はいち早く毛布にくるまり、既に寝息を立てている。
 ビアンキは、自分のために用意された寝室を断り、毛布を牢屋まで持ち込むよう指示をした。
 別に、二人を監視するためではない。情けない話ではあるが、今の精神状態のまま一人で眠るのが耐えられなかったのだ。それならば、彼らの寝息を聞きながら眠ったほうが、幾分でも気が紛れると思った。
 それに、彼らと少しでも長い時間を共にすることで、天啓のようなものでも舞い降りてきはしないかと、祈りにも似た甘い考えを抱いていたというのもある。
 とにかく、ビアンキは、少年達と同じような格好で眠りについた。
 眠りは、浅かった。
 慣れない石床の固い感触。遠くでこだまする囚人の狂声。何より、一介の導師に過ぎない身に負わされた、あまりに重たい責任。
 うつらうつらと、眠りと覚醒の中間を漂っていたビアンキの意識は、夢とも現とも取れないあやふやな映像を映し出していた。
 ふと気が付けば、いつもの寝台を起き出して、いつもの修行場へと向かおうとしている自分がいる。
 ふと気が付けば、少年二人が鼠になり、鉄格子の隙間をよいしょとすり抜けている。
 ふと気が付けば、辺りに立ちこめる硝煙の臭いと、少年二人の死体と、それらを前に立ち尽くす自分……。
 あまりに現実感の乏しいそれらの光景が、どうしてか、奇妙なほどの既視感を伴った現実として認識される。ああ、これがいわゆる明晰夢というやつだろうと、自分の後頭部を見下ろすようにしながらビアンキは考えている。
 シェンブラックに踏みにじられ、瓦礫と死体の山となったヴェロニカの大地。
 ヴェロニカ教を追い出され、物乞いをしながら日々の糧を得る自分。
 遠い昔、断念した医師の道を、順風満帆に生きている自分。隣には若く美しい妻、彼女に手を引かれる、頑是無い幼子の瞳。
 ああ、自分の歩くべき未来が、歩けなかった過去が、ここにある。
 もやもやとした、薄紅色の霧の中を、ビアンキは漂っているようだった。
 幸せと不幸せの中間。
 そこからビアンキを引きずり下ろしたのは、自分の懐をまさぐる、何者かの手の感触だった。
 弾かれたように顔を上げたその瞬間に、横面を思い切り殴られた。
 横倒しに倒れ、すかさず腕を強引にねじり上げられる。肩の関節が、きしきしと軋む音が聞こえた。
 ちかちかと、視界が明滅を繰り返す。何か固いもので殴られた頬が、痛みと熱さが入り交じり、何が何だかよくわからない。
 口の中に、小さな異物感がある。吐き出すと、白いものがからりと転がった。
 折れた奥歯だった。

「騒ぐな。騒ぐと殺す」

 感情の込められない少年の声が、熱痛に喘ぐビアンキの脳髄に響いた。
 視界は霞んで、そもそも薄暗がりで、何もかもがあやふやだ。
 しかし、声にははっきりと聞き覚えがあった。
 
「お前、ヤームル……!」

 首筋に、ちくりとしたものが突きつけられる。
 霞がかった視界の端に、割れた食器が映った。その破片だろうか。
 果たしてそれが致死の凶器なのかどうなのか分からないが、それが無くともここまで見事に制圧されてしまっては身動ぎ一つできない。
 
「……どうやって……鉄格子を破った!?」

 ビアンキは、密やかな声で、しかし精一杯に険を込めた声で問うた。
 少年二人を閉じ込めておくための鉄格子は、あまりにもあっさりと解錠されていた。
 鍵は、常に自分が懐に入れていた。ならば、針金か何かを使って鍵の代わりとしたのか。それにしても、厳重な身体検査を行い、そのような可能性を持つ道具の全てを取り上げているはずなのに……。
 ビアンキの、当然といえばあまりに当然な疑問の返答は、冷ややかな笑い声だった。

「ぼけてんなぁ、おっさん。おれとあんたは、立場が逆転してるんだぜ?今更そんなことが何の問題になる?」

 話の内容よりも、その声の冷たさにこそビアンキは恐怖した。
 そうだ。この少年は、どれほど若くともあの大海賊シェンブラック海賊団の一員なのだ。これまでに修羅場の一つもくぐり抜けているだろうし、人の命の重量というものが、時と場合によって軽くも重たくもなるのだということを十分弁えているに違いない。
 であれば、今の状況。
 彼らが脱獄を意図しているのはあまりにも明らかだ。そしてその場合、自分という存在がどれだけ邪魔になるかも。
 人を黙らせるのは想像以上に難しい。ならば、もう二度と口をきけない状態にしてしまうのが一番簡単で、手っ取り早い。
 ビアンキは、死を覚悟した。
 ゆっくりと目を瞑る。死の瞬間には今までの人生が走馬燈のように思い浮かぶというが、そういうことはなかった。
 それ自体、お伽噺じみたただの言い伝えなのか。それとも、最後の瞬間ですら思い出せないほど、自分の人生の密度は薄弱だったのか。
 おそらく後者だろうと思い、ビアンキはうっすらと笑った。
 ちくりと、凶器の先端が首の皮膚を貫いた。
 いよいよかと、歯を食いしばる。死を恐れはしない。自分は神の御許へ、聖女ヴェロニカの胸の中へと還るのだ。
 そう言い聞かせても、粘い汗は噴き出し、心臓は恐怖に早鐘を打った。

「じゃあな、おっさん。ま、あんたは割と嫌いじゃなかったぜ」

 冷たい感覚が、肉に突き刺さり、灼熱の痛みに化ける。あとは、頸動脈を横一文字に切り裂かれて、噴水のような出血が起こり、自分は死ぬのだ。
 しかし。

「やめろ、ヤームル」

 聞き覚えのない声が、ビアンキの命を救った。

「……どうしてだ。こいつらなんかの命に、救う価値があるのかよ」
「殺すのは、いつだって出来るじゃないか。それよりも、今はこいつの手を借りた方が手っ取り早い」

 固く瞑った瞼を持ち上げれば、そこに、もう一人の少年が立っていた。
 確か、ヤームルから、インシンと呼ばれた少年。
 埃まみれの髪の毛を掻き回し、如何にも億劫そうな様子だ。
 ビアンキは、インシンを見上げながら、首筋に突き立った凶器から力が抜けていくのを感じていた。

「……わかった。インシン、お前の言うとおりだ」

 インシンは、何も答えなかった。
 ただ、冷たい視線でビアンキを見下ろしていた。

「おい、おっさん。いいか、良く聞け。返答しだいで、今からほんの少しの間、あんたを生かしておいてやってもいい。だが、忘れるなよ。主導権を握っているのはこちらで、あんたは捕虜だ。そこんとこは理解しているか?」

 ビアンキは無言で頷いた。

「よし。なら、おれ達はここから逃げる。あんたはその手伝いをしろ。くれぐれも妙な真似はするなよ。その気になれば、おれ達はあんたの手伝いなんかなくったって、二人で逃げることができるんだ」

 ビアンキはもう一度頷いた。
 しかし、妙な話ではあった。先ほど、インシンは、ビアンキを利用するために生かしておくと言ったのではなかった。自分達だけで逃げられるならば、それこそ生かしておく必要などないはずだが……。
 当然といえば当然すぎる疑問を、賢明にも飲み込んだビアンキは、掠れた声で問うた。

「……何をすればいい?」

 ヤームルは少し考え、

「……総本山から、おれ達の身柄を移す旨の指示があったことにしろ。この城から出れば、あとはおれ達の好きなようにやるから、あんたに付き合ってもらう必要はない」
「ちょっと待ってくれ」

 ビアンキが慌てて言った。

「好きなように、とは、お前達、どこへ行くつもりだ!シェンブラックのもとに帰るのではないのか!?」
「親父のところには、いつかは帰る。でも、その前にやるべき事がある」
「やるべき事だと?いや、それよりも、今お前達に逃げられるのは困る!よしんば逃げるならば、いったんシェンブラックのところに帰ってくれ!」

 そうでなくては、三日後に、この星を大災厄が襲うことになる。
 電話や通信映像では納得しないと、あの男自身が言っていた。もしもシェンブラックにおもねるならば、二人の身柄を差し出さないと意味がないのだ。
 二人はこの牢屋から逃げました、今はどこにいるのか分かりませんで、宇宙を統べる大海賊が納得するはずがない。
 ビアンキは、必死の思いで懇願した。いまだ首筋には凶器が突きつけられ、肩の関節がきりきりと痛んでいる。生きた心地は全くしないが、それでも主張しなければならない意見というのは確かに存在するのだ。
 だが、ビアンキの必死の懇願にも、ヤームルは冷淡だった。

「それはおたくらの都合だろう。おれ達は、おれ達の都合でこの星を訪れたのに、おたくらの都合に付き合わされてこんなかび臭い場所に閉じ込められてたんだ。これ以上、あんたらに付き合う義理は、ない」

 子供の言うことではあるが、まったくもって仰るとおりの理屈である。
 しかし、時には理屈を曲げてもらわねば立ちゆかないこともあるのだ。

「それはそのとおりだろう。お前達が拘束された理由も、殺されそうになった理由も、わたしは知らない。だが、詫びろと言うならばいくらでも詫びさせてもらう。金を寄越せというならば、わたしに可能な限りで工面させてもらおう。とにかく、今、お前達に逃げられるのは非常に不味いんだ。この星の、幾億という人間の命運がかかっている。そうだ、お前達の身柄は、今からシェンブラックに引き渡すことにする。すぐに総本山に連絡をいれる。その後で、お前達の行きたいところに行けばいい。そうすれば、お互いに不都合はないじゃないか。なっ、そうしよう」

 ビアンキの必死の懇願は、しかし。

「そんなこと、知ったこっちゃないね。顔も見たことのないどこかの誰かさんがどれだけくたばろうが、おれに関係はない。そもそも、こんな事態を招いたこと自体、あんたらの身から出た錆じゃないか。そんなもののために、どうしておれ達が煩わしい思いをしなけりゃならないのさ。それに、おれ達の身柄を親父に引き渡すっていうけど、そんなことをわざわざしてもらわなくても、おれ達は親父のところにいつだって帰れるんだ。余計な気遣いはいらないよ」

 ヤームルの言葉に、ビアンキは声を詰まらせた。
 それでも、最後の望みとばかりに、喉を絞り上げるような声で言った。

「頼む。わたしに出来ることなら、なんでもする。だから、どうか、逃げないでくれ」

 絶望的な気持ちで、最後の藁に縋るように言った。
 当然、無情にあしらわれると思っていた言葉は、しかし。

「本当だな。本当に、何でもするんだな」

 意外なほどに熱の籠もった調子で、ヤームルは問い質した。
 そこに活路を見いだしたビアンキは、何度も何度も、必死に頷いた。

「する。何でもする。だから、頼むから、逃げないでくれ!」
「それは出来ない。おれ達は逃げる」

 やはりか、とビアンキは落胆した。
 この残忍な少年は、自分の反応を見て楽しんでいるのだと。猫が、瀕死の鼠をいたぶりながら補食するように。
 だがヤームルは、ビアンキの首筋に突きつけた凶器を離し、絞り上げた肩を放した。
 
「だから、おれ達に好き勝手をさせたくないなら、お前がついてこい。今度はお前が、おれ達の都合に付き合え。それなら、ぎりぎりで許容してやるよ」



[6349] 幕間:在りし日の老人その三
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/08 01:27
 ビアンキは、黙々と、二人の少年の後ろを歩いていた。
 辺りは真っ暗だ。太陽、月の光はもちろん、星明かりですら届かない、深い闇。風も、草花の香りも、人のぬくもりも届かない、地の底。
 彼らはそこを歩いているのだから。

「……ここは……」

 ビアンキの情けない呟きが、虚空に吸い込まれて、攪拌されて、消えた。
 先頭を歩くインシンが、弱々しい灯りの手燭を持っている。およそ明かりと呼べるものはそれだけで、ビアンキは自分の足下をはっきりと確かめることすら出来なかった。
 剥き出しになった、岩石質の洞穴。前後に伸びた闇の密度はあまりに濃厚で、出口はおろか、自分達がどこから歩いてきたかすら曖昧だ。
 置き去りにされれば、一歩も動くことが出来ずに朽ちていくだろう確信がある。
 ここは、この世ではない。もっと遠く、かつて居て、いつかは訪れる国の一部なのだと、ビアンキは錯覚した。

「おい、おっさん。あまり遅れると置いてくぞ」
「あ、ああ、すまない」

 ビアンキは歩調を早くした。それは、ヴェロニカ教やこの星に住む人々の明日を考えてのことではなく、もっと原始的で本能的なものからだ。
 少年二人と若き僧侶は、地中深くに穿たれた空洞を、ひたすらに歩いていた。
 城の管理をしていた草の者とかいう連中を適当に言いくるめ、城を出たところで身を潜めて、頃合いを見て、井戸の中に飛び込んだのだ。ヤームルは言った。こうすれば、例え追っ手がかかったとしても、自分達は外に逃げたと考えるだろう。そうすれば、時間が稼げる、と。
 それにしても、どうしてこんなところに身を隠すのか、訝しんでいるビアンキだったが、苦心して井戸の底まで降りて、直後に度肝を抜かれるはめになった。
 長く、どこまで続くか分からない階段。そしてそこを降り続けてみれば、余りに広く、余りに深い、横穴──。
 どうしてこんなものが、こんなところに存在しているのか。
 もう、何時間歩いているのか、分からない。この場所には、朝も昼も夜もなく、ただただ静寂だけが広がっている。足の疲れを考えると四半日ほど歩いていてもおかしくない気がするし、実は一昼夜歩いていたのだと言われても納得してしまうだろう。
 とにかく、何もかもがあやふやだった。
 ビアンキは、もう、昨日のこと──それとも、ついさっきのことを、努めて想起しなければ思い出すことが出来なくなっていた。
 自分は、どうしてこんな場所で、死者の葬列の一員みたいな様子で歩いているのか。
 そうだ。あの厳重な牢獄から、この二人の少年は破獄してみせたのだ。
 いまだにどうやってあの鉄格子を開けたのか、よく分からない。気が付いたときには手錠も足錠も外されていたのだから、おそるべき早業である。これで、もしも上部階への鍵を懐にいれていなければ、朝には牢屋はもぬけの殻だったという可能性も否定できない。
 果たしてそうなったとき、自分がどういう立場に置かされるのか。
 きっと、あらゆる人間が、自分を責め立てるのだろう。特に、普段から自分を良く思っていない連中は、ここぞとばかりに勢いづくに違いなかった。
 いや、それとも今の状況──監視対象である二人の少年とともに姿を消した自分──も、大して変わらないのだろうか。総本山は大騒ぎになっているに違いない。なにせ、このまま三日目を迎えれば、シェンブラックの振るう報復の刃がこの星を蹂躙するのだから。
 ビアンキは、自分の判断に自信が持てなくなっていた。あの時、二人を連れ立って城を脱出したのは、まさに緊急避難であって、間違えたことではなかったはずだ。そうしなければ、自分は死に、二人の行方は本当に分からなくなっていたに違いない。
 であれば、一応とはいえ二人の居場所を把握している現状のほうが、まだ救いが残っているはず。
 はずなのだが、では今の状況が最善かと言われれば、どう考えても否である。
 あの時、もう少しきちんと監視していれば。
 いや、監視していたから防げるというものなのでもないだろう。自分の手には拳銃が握られていたが、この自分にその引き金を引く勇気が備わっていたとも思えないのに。
 それではあの時、自分が、きちんと自室で眠っていれば、こんな事態にはならなかっただろうか。
 いや、自分がいなかったとしても二人は逃げおおせていたかも知れない。
 そもそも、こんな任務につかされなければ。い
 や、自分ではなくとも、他の誰かが引き受けざるを得なかったのだ。であれば、自分がするほうがまだましか。
 とにかく、ビアンキは懊悩し続けた。

「そろそろ一休みしようぜ。もう、ずいぶん歩いたしな」

 ビアンキの前を歩いていたヤームルが、おもむろに言った。
 それは、ビアンキも賛成だった。普段から足腰は鍛錬しているはずなのに、もう太股の裏に張りを感じている。まだまだ元気な様子の少年達を見ると情けない限りではあるのだが、体が休憩を欲しているのは明らかだった。
 ヤームルの前を歩いていたインシンが振り返り、全員が座れるような、具合のよろしい地面を探した。
 三人は、そこに、腰を下ろした。手燭を中央に置き、車座に座った。

「さ、飯にしよう……ていっても、こんなもんしかねえけどな」

 ヤームルは、懐から缶詰を取り出し、地面に並べた。プルトップを起こし、カリカリと音を立てて封を開けていく。
 
「……こんなもの、どこで手に入れたんだ?」

 ビアンキが少年達に制圧されてから城を脱出するまで、ほとんど時間はなかったはずである。当然のことであるが、二人が牢屋に入れられた時に、缶詰なんかを持ち込ませるはずがない。であれば、その僅かな時間に調達したとしか考えられないのだが、果たしてどのように手に入れたかを考えると、首を傾げざるを得ない。
 とにかく、恐るべき早業である。

「ま、細かいことは気にしなさんなって。腹の中がからっぽじゃ、足も動かないし良い考えも浮かばない。人間、まずは食わなきゃ始まらないぜ」

 ヤームルが、誰に断りを入れることもなく缶詰を手に取り、中の豆を指で摘んで口に放り込んだ。インシンも、無言でヤームルに続いた。
 あまり品の良い食べ方ではなかったが、食器もない洞窟の中で贅沢は言っていられない。ビアンキも、インシンとヤームルに倣い、適当な缶詰を手で直接食べた。
 この星で売られている缶詰は、基本的にはヴェロニカ教徒向けに作られている。保存料を使っていないぶん賞味期限は短いが、禁忌に触れる食材を使っていることはない。ビアンキも安心して食べた。
 味は上等なものではなかったが、空腹は何物にも勝る調味料である。ビアンキは、無言で、貪るように食べた。どうやら自身が思っていたよりも、空腹は深刻だったらしい。
 だが、そんな彼よりも、少年達はもりもりと食べた。成長期であるのだろうし、食に対する欲求は、既に成人して久しいビアンキよりも大きくて当然である。
 ビアンキは、一心に缶詰を征服していく少年達を、複雑な気持ちで眺めやった。こういう姿を見ていると、ヴェロニカ教徒の少年達と、何ら変わるところがないのだが……。
 頭を振ったビアンキが、次の缶詰に手を伸ばしたが、その匂いを嗅いで顔を顰めた。
 缶詰を元の場所に戻し、言った。

「おい、これはお前達で食べてくれ。わたしには食べられない」
「え?」

 口いっぱいに食べ物を詰め込んだヤームルが、くぐもった声で問い返した。

「なんで?」
「わたしはヴェロニカ教徒だ」

 ビアンキの返答は簡潔であった。
 ヤームルは、缶詰の表記をまじまじと覗き込んだ。

「ああ、コンビーフ。あの城に監禁されてる人用の食べ物だったのかな?ま、少なくとも、これはあんたは食べられないね」
「だから、お前達で食べると良い」
「ありがとう。でも、残念だけど、これはおれ達も食べられない」

 ヤームルはコンビーフの缶詰を掴んで、彼方の方向へと投げ捨てた。
 闇の中で、固いものがぶつかった音が数回響いて、やがて静かになった。

「どうしてだ。お前達は、肉も食べられるんだろう。それとも、まさかヴェロニカ教に改宗するつもりにでもなったのか?」

 ビアンキが、缶詰の放り投げられた方向を眺めながら問うた。

「冗談。おれ達はヴェロニカ教徒になるつもりはないし、改宗っていうけどさ、そもそもどんな神様だって信じちゃいない」
「そうなのか。宇宙生活者という人種は、以外と信心深いのだと聞いていたが」
「ああ。おれも、この宇宙には何か絶対的なものがいて、人類には到底考えも及ばない何かを司っているとか、そういうことなら信じているよ。でも、それが神様だとは思わないし、おれがどんな祈りを捧げたって振り返りもしてくれないんだって知ってる。だから、何かを信仰しようとは思わない」

 ヤームルは、気負うでもなく言い切った。
 ビアンキは、その意見に異を唱えようとは思わなかった。自分が聖女ヴェロニカを信奉しているのと同じように、この少年も何かを信じているのだろう。それだけの話だ。

「では、何故あの缶詰を食べなかった?ヴェロニカ教徒でないならば、肉を食べることに禁忌があるわけでもないだろうに」
「この星で食べる肉は、この星で作られているんだろう?」
「……確か、そうだったはずだ。この星にも、ヴェロニカ教徒でない人間が、僅かであるが存在する。観光客や、君たちのような宇宙生活者も時折滞在する。であれば、肉類の需要は確かに存在するわけだから、少量ではあるが、食用の家畜は生産されているはずだ」
「じゃあ、やっぱり無理だ。おれ達も、この星で肉を食べることはできない。多分大丈夫だとは思うけど、万が一ってこともあるから」
「なんだ、妙な言い方をするな。それではまるで、毒でも入っているみたいじゃないか」

 ビアンキは冗談めかして言ったが、ヤームルは何も答えなかった。
 しばらく、三人は黙々と食事を続けた。
 やがて腹が満ちた頃合い、ビアンキが口を開いた。

「ここは、一体何なんだ?」
「ここって?」
「この、巨大な洞窟のことだ。わたしは生まれてこの方、この星にこのような洞窟があるなど、聞いたことがなかったが……」

 ビアンキは、あらためて周囲を見回した。
 壁面は、決して滑らかな状態ではないが、しかしほぼ円形を保ったまま、奥へ奥へと続いている。天井までの高さは、大人が二人分程度だろうか。奥行きや全長などは考えるのも馬鹿らしい。
 果たしてこの洞窟は、自然が作り出したものなのだろうか。
 鍾乳石はおろか、切り立った岩場の一つもない。高低差もほとんどなく、そもそも生物の気配が存在しない。
 普通、洞窟というものは、ある程度豊かな生態系を形成しているものだ。いずこかの入り口から蝙蝠が入り込み、そこに住み着く。そうすれば、彼らの糞を糧にして、小さな虫や植物が生え、その死体を苗床にしてカビやキノコが生える。
 だが、この場所に、そういった営みは存在しない。ただ、無機質な洞穴が、のっぺりとした様子で長く伸びているだけなのだ。

「あんたみたいな人間でも、ここが何なのか、知らないんだね」

 ヤームルが、冷え冷えとした表情で微笑んだ。

「……わたしが知らないと、何か不味いことでもあるのか?」
「ここはさ、あんたらのご先祖様が拵えたんだよ」
「先祖……というと、ヴェロニカ教徒の人間が?」

 ビアンキは、信じられないというふうに目を見開いた。
 ヴェロニカ教では、理由もなく自然を痛めつけるような行為を厳禁としている。いくら地下とはいえ、これほど大きな洞窟を掘ることを当時の指導陣が何故容認したのか。
 いや、そもそも、どうしてこんな穴を掘る必要があるのか。

「信じられないって顔だね。確か、ヴェロニカ教では、こういうのって禁じられてるんだっけ?」
「……」
「だから、おれ達が何を知ってるのかをあんたらに言っても、理解してもらえないのさ」

 ビアンキは、目の前の少年を睨み付けた。何か、自分の抱えている大切な何かを、土足で踏みにじられたような気がしたからだ。
 だが、少年は、悲しげに俯いた。今やビアンキを支配する立場の少年が、両親の折檻を恐れる子供みたいに、辛そうにしていた。

「……この星にはね、凄いお宝が埋まってるんだよ」
「……お宝、だと?そういえば、お前達は資源探索にこの星を訪れたとか……」

 ヤームルは頷いた。

「元々、そんなつもりじゃなかったんだけどね。この星は、外宇宙へ行くための足がかりのつもりだった。知ってるかい?惑星の外殻の全てが、トリジウムで出来てるっていう、夢みたいな惑星の話」
「……ああ、どこかで聞いたことがあったな。しかし、それはただの噂話だろう?」
「そうだね、ただの噂話だ。でも、夢がある。だからおれ達は、それを探しに来たんだ」

 手燭の灯りが、ふわりと揺れた。
 風が吹いているのだ。つまり、大気が動いている。出口が近いということか。
 三人分の影が、灯りにつられて、弱々しく踊った。

「この星で、友達が出来たんだ。凄く可愛い女の子。地面に足を付けた人間の中で、初めての友達だ。おれ達みたいに、薄汚れて得体の知れない宇宙生活者でも、優しくしてくれた。なぁ、おっさん。それがどれくらい嬉しいことだったか、分かるかい?」

 ビアンキは、答えなかった。

「今から、会いに行くんだ」

 ぼそり、と言った。
 ほんの少しの笑顔も、浮かべずに。
 
「すぐに会いに行くはずだったのに、もう、約束から一週間以上遅れちまった。許してくれるかなぁ」
「その子は……」

 ビアンキも、ぼそりと言った。

「その子は、この星の、生まれなのか?」

 ヤームルは、ビアンキの方をちらりと見てから、再び視線を落とした。
 じっと、揺らめく灯りを眺めている。

「いや、違う。移民だって言ってた。お父さんの仕事の関係で、前に住んでた星を離れたんだって」
「そうか。ならば、優しいだろうさ」
「……どういう意味だよ」

 ビアンキは自嘲の笑みを浮かべた。

「この星は、表立っては万人と信徒の平等を謳っているが、その実、しっかりとした階級社会が形作られている」

 今まで二人の会話に興味を示していなかったインシンが、ちらりとヤームルの方を見遣った。

「ピラミッドの頂点にいるのが、この星への移民を成功させた移民先遣隊の子孫。次が、彼らに続いて母なる惑星から移民してきた者の子孫。次が、母なる惑星以外の星から移住し、根付いた者の子孫。最後に、直接の父母や自分が移民である者」

 ビアンキは指折り数えた。

「単純に言えば、この星に早く移住した血筋ほど尊ばれるということだ。この原則は、この星のあらゆる場所で適用される」
「……貴族とか王様とか、そういうのと一緒ってこと?」
「ああ。それが一番近い理解だろうな」

 ヤームルは、如何にもくだらないといった様子で、溜息を一つ溢した。

「くだらないね、そういうのって」
「同感だ。だから、こう言っては気に障るかも知れんが、お前達のような宇宙生活者は、この星では最も忌避される人種だ。そんな人間に分け隔てなく接することの出来る者がいるとするならば、この星の空気に毒されていない人なのだろう」
「……ちなみにあんたは、さっきの区分でいうと、どこの階級になるのさ?」

 階級という呼び方に、ビアンキは片頬を曲げた。

「わたしは、下から数えて二つめといったところだな」
「ふぅん」
「ちなみに、わたしと同期の医学生の悉くが、一番上の人間ばかりだった」
「あんたが一番、身分が低かったってわけか」

 ビアンキは、頷いた。

「潮時だと思ったよ。何かの間違いで医学部への合格は果たせたものの、さらに狭き門である医師免許試験が、わたしのために席を設けてくれているとは、どうしても思えなかった。万が一試験に合格したとしても、プライドの塊みたいな連中の中で、針のむしろのような生活が待っているに違いない。このまま肩肘を張って生きていても、しんどいだけだ、と。であれば、全てを捨てて信仰の道に生きるほうが楽だと思えた」
「で、楽になれたのかい、あんた」

 ヤームルは、辛辣な質問をした。
 ビアンキは苦笑した。

「さぁ、どうだろうな。ただ、この年で導師の階位を得たのは、分不相応なことだと思っている。それもこれも、自暴自棄になっていたわたしを救ってくれた、師匠のおかげだ」
「あんたみたいな人間でも、やけっぱちになることがあるんだね」
「ひどいもんだったよ。飲めない酒を飲んで、毎日酒場で喧嘩沙汰を起こして。もう、どうにでもなれって思った。周囲は、そんなわたしを『やっぱり下賤な生まれの人間は』と、指を指して笑う人間でいっぱいだ。精神的にも肉体的にもぼろぼろになって、二進も三進もいかなくなった、そんなときに、手を差し伸べてくれたのが、ヴェロニカ教の導師だった。だから、わたしもヴェロニカ教について本格的に学ぼうと決意したんだ」

 ビアンキは、ちらりとヤームルを見た。

「どうだ。何とも安っぽい動機付けだろう?わたしは神に帰依したんじゃない。多分、人に帰依していたんだ」
「いや、そんなもんだと思うよ。人間が生きるなんて、多分そんなもんだ」
「知った口を叩くじゃないか。まだ成人もしてないガキのくせに」
「ふん、そんな年になるまで宇宙の一つも旅したことのない人間に、何が分かるってんだよ」

 ヤームルは、半分笑いながらそう言った。
 なるほど違いないと、ビアンキは頷いた。
 三人は、固く冷たい岩石質の地面で、寄り添うようにして眠った。
 ビアンキは、夢を見なかった。
 そして彼が目覚めたとき、既に少年二人は、出発の準備を済ませていた。準備と言っても、もとも大荷物があるわけではないから、リュックサックを背負って立ち上がっただけであるが。

「さ、行こうぜ、おっさん」

 ビアンキは、軋む体に鞭打つようにして、立ち上がった。
 そして、昨日と同じように、黙々と歩いた。
 辺りの風景は、変わらない。変わりようがない。ひたすらに闇と、ほの明かりに照らされた岩壁だけだ。
 どうしても陰鬱になる気分を誤魔化すように、時折、どうでもいい会話を交わす。

「この洞窟は、どうやって見つけたんだ?」
「おれが見つけた。おれ、鼻が凄く利くんだよ。だから、いきなり、街中で森の匂いがしてさ。おかしいと思って下水に忍び込んで、そこに隠し扉があるのを見つけたんだ」
「……お前の鼻は何で出来ているんだ?犬か?」
「ま、そんなもんさ。とにかく、これを見つけたのは完全に偶然だ。それがたまたま、あの城まで伸びてたってことだね」
「たまたま、ねぇ」

 疲れたら休憩して、食事をした。頃合いを見て横になり、仮眠を取った。
 そして、歩き続けた。
 時間は、やはり分からない。もしかしたら、三日目を迎えてしまったのではないか。であれば、既に事態は取り返しのつかないことになっているのではないか……。
 ビアンキが焦慮を覚え始めた、その頃。

「ついたぞ」

 先頭を歩いていたインシンが、呟いた。
 見れば、天井から金属製の梯子がぶら下がっている。
 しかも、相当に古い。薄明かりではっきりとは分からないが、赤さびまで浮いている始末だ。
 ビアンキが不安げに見上げていると、

「こないだ、おれ達が降りるときに使ったんだ。三人でも、多分大丈夫だろう。さ、もたもたしてないで行くぜ」

 そう言って、ヤームルはするすると昇っていく。
 インシンもそれに続く。
 ビアンキは、慣れない手つきで、それでも二人に遅れないよう、必死に昇った。
 梯子は、うんざりするほどに長かった。もしも足を踏み外して一気に滑り落ちれば、決して無事には済むまい。
 息を切らし、無心で手足を動かし続ける。ぎしぎしと軋む梯子が、不吉な想像を呼び起こすが、それを振り払うように一心に昇る。
 手燭は、下に捨ててきた。眼下を覗けば灯りが見えるのかも知れないが、それが近ければ徒労感を、遠ければ恐怖を呼び起こす気がして、下は決して見ることができない。
 憑かれたように昇り続ける。
 それでも、少年二人のほうが、ビアンキよりも早い。
 身軽で体力もあると言ってしまえばそれまでだが、ビアンキとて自己に弛まぬ鍛錬を課している修行僧だ。既に肉体的なピークを過ぎた年齢ではあるが、余分な肉がつくような無様なことはない。
 反して、少年二人は、それほど長くはないとはいえ監禁生活にあった身である。手足に錠が嵌められ、満足のいく食事も摂らせてもらえなかったに違いない。それに、おぞましいことではあるが、虐待の形跡もあった。
 なのに、どうして二人が、これほど先行出来るのか。
 急がなければならない事情が、あるのか。
 ビアンキは、思わず開きそうになった口に待ったをかけて、ひたすらに昇った。
 やがて、梯子は終わり、広い空間に出た。

「遅せえよ、おっさん。頼むから、急いでくれ」
「ちょっと待て、どうしてお前ら、そんなに……」

 いまだ乱れた呼吸が収まらず、喘ぐように言ったビアンキであったが、その意見は完全に無視された。
 少年二人は、ビアンキを置いて駆けだしたのだ。
 このままここにへたり込んでしまっては、彼らを見失ってしまう。だいたい、こんな場所で一人にされたら、間違いなく遭難してしまうだろう。
 ビアンキは、二人が手にした懐中電灯の灯りを頼りに、よろよろと駆けだした。
 しばらく走ると、扉があった。
 ヤームルが、もどかしそうな様子でビアンキを待っていた。
 ビアンキが無言で休憩を懇願したが、それに応じるつもりは全くないらしい。
 扉を無情に開く。
 すると、耐え難い悪臭がビアンキの鼻をついた。

「……これは」

 思わず嘔吐きかけたビアンキであったが、すぐに理解した。
 あの地下道は、おそらく、下水道と繋がっていたのだろう。
 少年は、ビアンキに構わずに走り出した。ビアンキも、手で口元を覆いながら、必死に追いすがる。
 鼠やゴキブリの群れを追い散らし、駆ける。
 地上への出入り口は、すぐに見つかった。壁にしっかりとした梯子が取り付けられており、その先がマンホールとなっていた。
 先ほどの、呆れるほどに長大な梯子に比べれば、如何ほどのこともない。
 早くこの悪臭から逃れたいこともあり、ビアンキは勢いよく梯子を登った。
 先を行っていたインシンが、マンホールの蓋を持ち上げ、ずらすと、目に痛いほどの光が差し込んでくる。
 ビアンキは、外の世界がまだ昼の時間であったことを悟った。
 食事の回数、仮眠した回数を考えると、おそらく今日が刻限の三日目だ。今日中に二人を総本山まで連れて行き、シェンブラックに引き渡さなければ、ヴェロニカの歴史は今日で幕を下ろすことになる。
 しかし、二人を引き渡すことが、そもそも全ての解決になるのか。長老は、どうしても二人を渡すわけにはいかないと言っていたのに。
 今更に浮かび上がってきた懊悩を、ビアンキは頭を振ることで、思考の台座から追い散らした。今は、そんなことを考えるよりも、この少年達の用件を終わらせるべきだろう。
 そして、総本山に連絡を入れ、迎えを寄越させる。その後のことは……知ったことか。
 ビアンキは、文字通り這うようにして、マンホールから体を出した。
 陽光に視界が白く灼け付いたが、涙の浮かんだ瞳をしばたかせて、先を行く二人の姿を探す。
 もしもこれが車道のど真ん中だったらと思い、一瞬背筋を冷たくしたビアンキだったが、どうやら杞憂に終わったらしい。
 久しぶりの地上の空気を満喫しながら、首を巡らせてみると、朽ちかけたビルの隙間に、背の低いバラックのような建物が無秩序に散在している。
 所々で白い煙が立ちのぼり、その下では、粗末な服を着た人間が肩を寄せ合い、食事をしている。
 紛れもないスラムの風景であった。
 ビアンキがマンホールから這いだし、呆然とした様子でその光景を眺めていると、服の袖をくいと引っ張られた。
 子供だ。ビアンキの腰程度の背の丈しかない子供が、鳥の巣のようになった髪の毛の奥から、無垢な瞳でこちらを見上げている。

「な、なんだね。何か用か」

 どもりながらビアンキが言うと、性別すら知れないような格好をした子供が、不思議そうに言った。

「おにいちゃん、お坊さんなの?」

 ビアンキは言葉に詰まった。
 禿頭であり、導師の位階を示す濃緑の法衣を纏っている。いくら埃で薄汚れているとはいえ、自分を僧であると見分けることの出来ない人間など、たとえ幼児であっても想像が出来なかったのだ。
 街中を歩けば、尊敬の眼差しを向けられることはあっても、このような視線を向けられたことはない。
 ふと気が付けば、辺りからは、やはり同じような視線が向けられていた。老若男女を問わず、得体の知れない異分子を見る視線で、こちらを眺めている。
 ビアンキは、居たたまれなくなって、同時に心細くもなり、先を行く少年二人に急ぎ足で追いついた。

「おい、ここはどこだ。この人達は、一体何者だ!?」

 ビアンキが息を乱しながら問うた。

「変なことを言うな。ここはあんたらの国だろう?」
「それはそうだが、あの子供や他の連中は、ヴェロニカ教の僧侶を見たことすらない様子だったぞ。この星の上にそんな場所があるなんて、信じられない!」
「この星の上にって言うけどさ、ここ、あんたらの国で一番の都の、少し外れだぜ?」
「一番の都というと……まさか、ヴェロニカ・シティなのか!?」

 辺りを見回してみる。
 すると、遠くに見える高層ビルは、確かにどこかで見覚えがあるような形である。
 だが、ヴェロニカ・シティの近辺に、このようなスラムが広がっているなど、今まで聞いたこともなかった。
 ヤームルは呆れたように溜息を吐き出し、インシンは侮蔑の視線でビアンキの横面を射貫いた。

「あんた、仮にも坊さんだろう?坊さんは、困った人を助けるのが仕事なんじゃないのかよ?」
「……」
「ここに、こんなふうに、こんな人達が住んでることすら、知らなかったってのか」

 ビアンキは沈黙せざるを得なかった。
 本来、ヴェロニカ教の僧侶の役割は、衆生を導いたりその安寧を願ったりするものではない。神に帰依し、その真理を見極めるのがあるべき姿だ。
 しかし、ヴェロニカ教とこの星に住む全ての人達が一体となっている以上、そこには相応の繋がりが生まれる。当然、弱者への施しや救済も、坊主の仕事になってくる。
 だが、それは在家の導師連中の仕事ではないか。どうして出家した自分が、このように非難の視線を浴びなければならないのか。
 ビアンキは承伏しがたいものを感じながら、二人の後に続いた。

「ところで、いい加減に本当のことを教えてくれないか」

 ビアンキが、先を行く二人の背中に、いらだち混じりの声をかけた。

「どうしてあの時わたしを殺さずに、こんなところまで連れてきたんだ。利用出来ると言っていたが、まさか逃走の役に立つと思っていたわけではないんだろう?実際、わたしがいなければ、君たちはもっと早くここに辿り着けていたわけなのだから」

 ビアンキは、何とも悔しいことではあるが、身体的な性能において、自分がこの二人の少年に遠く及ばないことを自覚していた。先ほどまでも、一番休憩を必要としていたのは自分だったし、その自分を慮って、この二人が何度も立ち止まってくれたことにも気が付いている。
 ならば、どうして自分を、わざわざこんなところまで連れてきたのか。利用するとは、何のことなのか。

「もうすぐ、分かるよ」

 ヤームルは、振り返らずに言った。
 そう言われては、ビアンキも、聞き分けのない子供のように駄々をこねるわけにはいかない。もうすぐ分かるというなら、ついていくだけだ。
 ビアンキは、腹をくくった。
 こんなところまでわざわざ連れてきたのだから、まさかいきなり殺されるわけもないだろう。二人の行く先に彼らの仲間がいて、ビアンキに対して報復の刃が振り下ろされるのだとしても、その時はその時である。
 とにかく、今はあの二人の用件を済ませてしまうことだ。その後のことは、その後に考えればいい。
 ビアンキがそう割り切っている間にも、少年達はずんずんと、スラムの奥へ奥へと進んでいく。
 角を二つほど曲がり、スラムの中でも特に裏びれた、日の光すらほとんど届かないような路地に入る。
 その時点でビアンキは、周囲に、何か、奇妙な臭いが立ちこめているのに気が付いた。
 なまものが腐っているような、血生臭いような、臭い。
 眉を顰めたビアンキだったが、少年達はお構いなしに進んでいく。
 先に進めば、臭いはどんどん濃密になる。
 そして、二人は立ち止まった。
 
「ここだ」

 朽ちかけた扉には、そもそも錠前というものが存在していないらしい。
 少年達は、無造作にそれを押し開けた。
 ぎしりと、扉の軋む音が聞こえた。
 そして、さらに強烈に漂う、悪臭。
 間違いない。臭いのもとは、この奥にある。

「ヤームル君!インシン君!」

 雑然とした廊下のあちら側から、弾かれたような声が聞こえた。
 どたどたと、木の床を踏み抜くような勢いで、誰かが近づいてくる。
 ビアンキは本能的に身構えたが、よく考えれば彼は三人の中で一番扉側にいる。危険に晒されるのは先を行く二人の少年ということになるのだが、当の少年達は全く警戒していない。
 ビアンキが肩の力を抜いたのと、痩せた男が姿を見せたのが、ほとんど同時だった。

「ああ、やっぱり!よかった、あれからちっとも姿を見せないから、心配したんだ!」
 
 縁の欠けた丸眼鏡をつけた、どうにも風采の上がらない男であった。
 ひょろりと背は高いが、肩幅が極端に狭いから、大柄という印象には程遠い。ある意味では、シェンブラックと正反対の出で立ちだ。
 面相は、こんな場所に居を構えるのが相応しくないくらい、柔和そのものである。ただ、疲労が溜まっているのか、目の下に濃い隈が浮いてしまっている。

「もう一度、君たちに会えるとは、正直考えてもみなかった。きっとこれが、ヴェロニカの神の思し召しってやつかな」
「おじさん、そんなことはどうでもいいよ!」

 聞いたことがないくらい、真剣な声でヤームルは言った。

「アイシャは、アイシャはどうなった!?」

 眼鏡の男性は、力なく首を横に振った。

「もう、医者に匙を投げられたよ。今は、麻酔が良く効いている。会ってくれるかい?」

 医者に、匙を投げられた?
 少年二人に、緊張が走ったのを、ビアンキは感じ取った。
 二人は目を交わし、頷き合った。

「行こう」
「おっさん。頼むぜ」

 二人に袖を引っ張られ、ビアンキは奥へと誘われた。
 途中、すれ違った眼鏡の男性に、

「どうか、導師様、娘をお願いいたします」

 と、涙声で拝まれたが、ビアンキには何が何だか分からない。
 とにかく、促されるままに、奥の部屋に入った。
 そこには。

「うっ……」

 ビアンキは思わずうなり声を上げ、鼻を手で覆った。
 息をするのも難しいほどの、悪臭。
 その部屋に立ちこめていたのは、濃密な死の臭気だった。
 白い──もとは白かっただろうベッドは、赤黒く染まっている。そして、ベッド脇に置かれた洗面器は黒く変色した血で満たされ、数匹のハエが集っていた。
 ベッドの上には、人間が居た。いや、人のかたちをした何かがいた。
 棒のように突っ張った手足の先が、青黒く変色しており、末端部分に白く細いものが蠢いている。
 蛆だった。
 腐った手足に蠅の卵を産み付けられて、それが孵化してしまったのだろう。指の幾本かは枯れ木のように朽ち落ちているが、その断面からは血の一滴も溢れていなかった。
 胸の辺りは憐れなほどにやせ細り、薄い皮膚を通して肋骨がはっきりと見える。しかし腹は大きく膨らみ、その何かが呼吸をする度に細かく痙攣している。剥き出しになった腹部には毛細血管がはっきりと浮き出ており、無数の蜘蛛が巣を張ったようにも見えた。
 異様な、怪物のような風体の何か。しかし何よりも異様なのが、首から上である。
 そこには、少女の顔があった。痩せてはいるが、紛れもなく、血色も良い、少女の顔。
 だから、異様なのだ。まるで、化け物の体に少女人形の首を据え付けたように、あってはならない冒涜感がある。
 その少女が、首を動かさず、視線だけをビアンキの方に寄越した。
 ビアンキは、まるで金縛りにあったように動けなくなってしまった。今、あの少女の首がにゅうと伸び、自分の首筋に噛みつくのではないかと思ったのだ。

「アイシャ!よかった、元気そうだな!前来たときよりも顔色もいいじゃないか!安心したぜ!」

 ヤームルが少女の枕元に駆け寄り、少女を覗き込んだ。
 それでも、少女は、表情一つ変えない。口を開こうともしない。ただ、瞳を、ヤームルの視線に合わせただけだった。
 インシンも、ヤームルの反対側の枕元に駆け寄り、少女に何事かを話しかけた。ぼそぼそとした調子だったのでビアンキには聞き取れなかったが、ヤームルが、馬鹿なことを言うなとばかりにインシンの頭を叩いていたから、何か冗談を言っていたのかも知れない。
 ビアンキは、阿呆のように立ち尽くした。目の前にいるのが何なのか、何が起こっているのか、何一つ理解出来なかった。
 どうして、自分がここにいるのか。
 そもそも、あの少女は誰で、どうしてこんな場所にいるのか。あれは、誰がどう見ても、一秒でも早く医術を必要としているのに。
 完全に呆けていたビアンキを、ヤームルの声が叱咤した。

「おい、おっさん!早くこっちに来いよ!あんた、そのためにここまで来たんだろうが!」

 突然の怒声を向けられても、何が何だか分からない。
 ただ、少年の声に逆らう気力すらなかったビアンキは、ふらふらと、ベッドに近寄る。
 ベッドの上の少女は、相変わらず無表情で、ただ視線だけをビアンキに寄越していた。ビアンキは、その時点で、少女が話さないのではなく、話せないのだということに気が付いた。
 ビアンキも、学生とはいえ医の道を囓った人間である。少女の体を見て、大筋の症状は把握できる。
 四肢から始まった壊死。極端に膨らんだ腹部には、おそらく大量の水が溜まっているのだろう。首から上の表情がほとんど変わらないのは、表情筋に麻痺が起こっているからかも知れない。
 ビアンキは、ウイルス性の感染症のいくつかを思い出していた。悪性の出血熱などで類似する症状がいくつか見られたはずだが、ここまで特徴的な症状は、そのどれにも当てはまらないはずである。
 ビアンキが唖然としながら少女を見下ろしていると、何の前触れもなく、少女の口から赤黒い塊が沸き上がった。
 
「アイシャ!」

 ヤームルが、少女を抱え、体を横に向けてやった。
 すると、少女の口から、信じられない量の血と、肉のような塊が、ぼたぼたと吐き出された。
 見れば、少女の腹部が小さく痙攣している。どうやら、必死に喉に詰まった肉塊を必死に吐き出そうとしているらしいが、既にその力も残っていないのかも知れない。
 一杯になった洗面器を、インシンが無言で掴み、部屋の外へと出て行った。
 
「これは……何だ。一体、この少女は……」
「見れば分かるだろう。病気なんだよ、この子は」

 ヤームルが苛立たしげに言った。
 
「病気……」

 であれば、まずは感染症を疑わなければならないな、と、ビアンキはぼんやりしていた。
 空気感染、飛沫感染、血液感染……。
 なら、一番危険なのは、患者の血液だ。一ミリリットルの血液には、億単位のウイルスのカプセルが含まれており、それが健常な体に入った場合、どれほど爆発的な勢いで繁殖するかをビアンキは知っていた。
 だが。

「いらない心配をしてんじゃねえよ。この病気は、誰にも感染しねぇよ」
「感染……しない……?」
「当たり前だろうが。どうして鉱毒症が、空気や血液を媒介にして感染するんだよ」
「鉱毒……症……だと?」

 ビアンキは、あらためて病魔に取り憑かれた少女を見下ろした。
 この、あまりに惨たらしい症状の原因が、鉱毒?
 そんな鉱毒が、この宇宙に存在するのか?
 そもそも、この少女は、これほど重篤な症状を引き起こす鉱毒を、どこで摂取したというのだ?
 この星で?いや、違う。この星で、このように奇妙な病気で死ぬ人間がいるなんて、聞いたこともない。
 ぐるぐるとした疑問がビアンキの頭に沸き上がり、そして消えていく。
 とにかく、ビアンキは立ち尽くしていた。
 そして、ビアンキの横面を、ヤームルは思い切り叩きのめした。
 ビアンキはよろりとバランスを崩し、それから、縋り付くような表情でヤームルを見た。

「どうでもいいから早くしろよ!分かってんだろう、この子には時間がないんだよ!」

 ヤームルの双眸には、はっきりとした涙が溜まっていた。声も、常の気丈なこの少年からは想像もつかないくらい、震えて、弱々しかった。
 ビアンキは、ちらりと少女を見下ろす。
 アイシャと呼ばれた少女は、こんこんと弱々しい咳をしている。その度に、考えられないような量の血液と肉塊が、口からどろりと流れ出ていく。ただでさえ赤かったベッドが、より濃密に赤黒く色づいていく。
 もう、少女の命が燃え尽きようとしているのは、明らかだった。

「しろと言われても……わたしに、なにが、できるんだ?」

 張られた左頬に手を当てながら、ぼんやりとした調子でビアンキが言った。
 ヤームルは、法衣の胸ぐらを思い切りねじ上げ、涙声で言った。

「お前は坊主だろうが!坊主に出来るのは、祈ることくらいじゃねえのかよ!だから、祈れよ!この子のために、祈ってやってくれよ!」

 頼むよ、と、最後に、途切れそうな声で言って、少年は崩れ落ちた。
 床に蹲り、頼むから、頼むから、と、何度も噎び泣いていた。
 ああ、そうか、そうだったな、と、ビアンキは理解した。
 何も、特別なことではない。いつも、いつも、毎朝毎昼毎晩、やっていることだ。
 この少年の言うとおり、坊主に出来るのは、祈りを捧げることくらいなのだ。
 それは、うん、得意中の得意だ。

「……天に坐すヴェロニカの神よ、大地に眠る聖女ヴェロニカよ、我らのありのままを知り給え、この少女のありのままを知り給え、どれほどひたすらにあなたへ祈りを捧げ、どれほど敬虔な信徒で在り続けたかを知り給え……」

 ビアンキは、ほとんど無意識に、祈りの言葉を捧げた。それは、死者の魂が天へと返され、死者の肉体が大地へと還される時に捧げられるべき祈りであったが、決して時期尚早とは思えなかった。
 ビアンキが祈りを捧げる間にも、少女の体は崩壊し続けていた。身動ぎする度にごっそりと髪の毛が抜け落ち、ぱらぱらと宙を舞った。咳き込んだ衝撃で手首から先がぽきりと折れて、しかし一滴の血も溢れなかった。口からは、生々しい鮮紅色の塊を吐き出した。
 だが、その顔は、少しの苦痛にも歪んでいなかった。それが、常人であれば致死量にも相当する麻酔のためなのか、それとも、耐え難い苦痛を表情に浮かべることさえ出来ないからかは、誰にも分からなかった。
 ただ、祈りを捧げるビアンキを、じっと見つめていた。
 祈りの言葉は、それほど長くなかった。
 ビアンキは、特別ではない、ありふれた祈りを終えると、少女の額に手のひらをかざし、神を称える詔を口にした。
 これで、少女は祝福された。ヴェロニカ教徒として、祝福され、その魂は天に近い場所に属したのだ。
 ビアンキが、冷や汗を浮かべながら、少女にかざした手のひらを、横にどけた、その時。

「 あ り が と う 」

 淡く微笑んだ少女が、奇妙に高い声で、そう呟いた。
 もう、咳き込むことも、血を吐き出すこともなかった。
 少女は死んでいた。



[6349] 幕間:在りし日の老人その四
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/08 18:23
 日が沈む。
 ビルが乱立するでこぼこの水平線に向かって、太陽が沈んでいく。
 空が、嫌になるほどに、赤く染まっている。きっと反対側の空は青く、黒く染まっているのだろうが、振り向いて確認する気にはなれなかった。
 星が一つ、輝いている。一番星だ。何という名前の星だったか。きっと、ヴェロニカの最後を救い共に天に昇っていった、守護聖獣の名前だった気がしたが、どうしても思い出すことが出来なかった。
 ビアンキは、廃ビルの階段に座っていた。
 そして、ぼうっと、天を見上げている。
 天は、いつもと変わらなかった。
 ビアンキが呆けていても、アイシャという少女が死んでも、今日という日でヴェロニカ教の歴史が閉じられても、何も変わらない。
 ずっとそこにある。
 きっと人類が死に絶えて、この星の上から生命の全てが姿を消しても、やはりそこにあるのだろう。
 ビアンキはそれを、美しいとは思わなかった。人が消え失せた自然には、自然という価値は失われる。それは、美ではない。ただ、猛々しい世界だ。人がいるから、そこに、美などという余計な価値観を差し挟むことが出来るのだ。
 要するに、自分は、人に対して絶望したのかも知れない。
 ああ、もう、何もかもがどうでもいい。
 総本山は、大騒ぎだろう。少年二人はおろか、それを監視していた導師までが姿を消して、一体どこに逃げおおせたか分からないのだから。そして、シェンブラックは、無慈悲な宣告を終えて、やはり威風堂々と総本山を後にした頃合いだろうか。
 もう、どうでもいい。
 たった一人の少女の死である。僧侶ならば、幾度だって見送らなければならない、人の死である。
 それに、これほどの衝撃を受けている自分が、情けなくて、歯痒くて、それ以上にどうでもよかったのだ。
 疲れた。
 ビアンキが、重々しい溜息を溢した時、隣に誰かが腰掛けた気配があった。

「色々と、ありがとうございました。あなたのおかげで、娘も心安らかに神の御許へ旅立つことが出来たでしょう」

 少女と同じ家にいた、眼鏡の男だった。
 痩せて、風体のあがらない、ひょろりとした、男。
 そうか、そういえば、あの少女は、この男の娘だったのだな。この男は、あの少女の父親だったのだな。
 
「本日は、本当にお世話様でした。これは、せめてもの気持ちです。どうかお受け取り下さい」

 男は、小さな紙包みを差し出した。
 薄汚れていて、所々が毛羽立っている、使い古しの封筒だ。厚さも大したものではない。
 それでも、おそらくは、彼の少ない蓄えの中から、必死になって捻出したものだろう。
 ビアンキは、黙ってそれを押し頂いた。受け取りを拒絶するのは礼に悖ると思ったからだ。

「本当に、導師様が来てくれてよかった。あの子達が、ヴェロニカ教のお坊様を連れてくると家を飛び出したときは半信半疑でしたが、本当に間に合うとは……。きっとあの子も、心安らかに天へと帰ることが出来たでしょう。これも、ヴェロニカの神の思し召しかも知れませんね」
「あなたは……」

 数時間ぶりに声を出して、思ったよりも喉が渇いていたことに、ビアンキは慌てた。
 二、三度咳を散らしてから、言い直した。

「あなたは、この星の、生まれの方ですか?」

 眼鏡の男は、曖昧な笑みを浮かべたまま、首を横に振った。

「わたしは、惑星ペリティアの生まれです。この国には、もとは仕事の関係で訪れました」

 ペリティアと言われても、ビアンキにはそれがどこの星で、どんな国なのか知らない。それどころか、この星以外のことは全く知らないのだし、ならばこの星のことは全てを知り尽くしているかといえば、全然そんなことはない。
 ひょっとしてあの少年達ならば、知っているのだろうか。そう思って、少なからぬ敗北感が胸中に満ちたことに、ビアンキは驚いた。

「最初は、なんと風変わりな文化だと思いました。肉があるのに肉を食わず、栄養失調と背中合わせになりながらも、菜食主義を貫いているのですから。それも、人の手を加えた青果でないと口にしてはいけないという徹底ぶり。偏執的だな、とさえ思いましたよ」

 ビアンキは、何も言わなかった。彼自身、外の世界から自分達を見たことはなかったが、いわゆる共和宇宙的な価値観に照らして、自分達がどれほど異端なのかぐらいは十分に理解していたからだ。

「しかし、ペリティアも、この星ほどではないが、自然愛護思想の強い国です。だから、わたしも、この星に住む人達の考えには共感できました。仕事を抜きにして、何度も訪れました。そのうちに……」

 男は、照れくさそうに頭を掻いた。

「ええ、何とも恥ずかしいことなのですが、聖女ヴェロニカの教えを信奉するようになりました。いや、これが恥ずかしいなどと言っては、無礼千万なのですが……」
「いえ、結構です。どうか、続けて下さい」

 男は、小さく微笑みながら、沈みゆく太陽を眺めていた。
 そこに、娘を失った父親の悲哀はない。
 きっと、全てを覚悟していたのだろう。
 いったい、彼女はいつから苦しんでいたのだろうか。
 ビアンキに出来ることは、せめてその時間が短かったことを、神に祈ることだけだった。

「人間は、自然から多くのもの搾取し過ぎた。それは、我々の生まれ故郷である、原初の惑星の惨状を見ても明らかです」

 それは、ヴェロニカ教の始祖が、聖女ヴェロニカが、最後まで住み続けた惑星。
 人類が発生し、最後には、人類に見捨てられた、星。
 今は、名前すら忘れられた、星。

「だから、もう一度同じ事を繰り返していいはずがない。人間は自然から搾取せず、自然の循環に関わらない。それは素晴らしい思想だ。わたしも、いつしかそう思うようになりました」

 昨日までのビアンキであれば、それは素晴らしいことですと、これこそ神のお導きでしょうと、歯の浮くようなことをすらすらと言えただろう。たとえ、少女の死を前にした後だったとしても。
 だが、全てを知った今となっては、何もかもが空々しかった。そして、ただただ空しかった。
 少年二人から聞かされた、真実。
 信じられなかった。だが、少女の症状は、考えてみれば、あの鉱物のもたらす鉱毒症以外に考えられなかったのだ。
 トリジウム。
 この星に、大量のトリジウムが埋蔵されている。この星は、大量のトリジウムで汚染されている。そして、少女はその鉱毒で死亡した。
 そのことを聞かされたとき、ビアンキは、長年の疑問のほとんどが氷解していくのを感じた。
 この星で肉食が忌避され、年端もいかない子供に断食の修行をさせてまで、野生の青果を口にすることが禁じられた理由。
 自然を崇拝し、自然の循環に関わらず、大規模な開発を厳に規制する理由。
 決して豊かとは言えないこの星に、遺伝子産業が根付いた理由。
 そして、今日、自分達が歩いた、あの大洞窟の作られた理由。
 全てに、筋道の行く説明が、たった一つの鉱物の存在だけで出来てしまうのだ。
 つまり、この星に、神はいない。
 神は、鉱物に、その座を追われたのだ。この星の僧侶の悉くが、冷たい鉱物のために祈りを捧げているのだ。
 ビアンキは、例えようのない徒労感に襲われていた。

「わたしがこの星への移住を決めたとき、妻は猛反対しました。あれは、ペリティアの名家の生まれでしたから、故郷を離れるのが忍びなかったのでしょう。行くならこれに判をついてから行ってと、離婚届を突きつけられましたよ」
「……それで、あなたはどうなされたのですか」

 男は、やはりあやふやな表情のまま、笑っていた。

「きっと、私は何かに取り憑かれていたんでしょう。それは、この星の神様だったのかも知れないし、何か、自分の知らないところにある、美しい考え方にだったのかも知れない」
「……奥方とは、別れられたのですね」
「別れてはいません。あれは、法律的には、わたしの妻のまま、他界しましたから」

 ビアンキは、のろのろと、正面に向き直った。
 さきほどよりも、太陽は、少しだけ姿を隠していた。

「そうでしたか」
「ええ。だから、もう、後には引けなかったのです。わたしは、娘とともに、この星に移住しました。幸い、それなりの蓄えもあった。ペリティアでは、小さいながらに会社を経営しておりましてね、この星でも上手くいく自信もあったんです」

 この男が、一つの会社の社長をしていたのか。
 それとも、昔は、この男ではなかったのか。
 ビアンキは、精気に溢れ、先頭に立って社員を叱咤するこの男のことを思い浮かべようとして、すぐに諦めた。

「で、成功されたのですか」

 男の顔が奇妙に歪み、泣き笑いの表情になった。

「成功した人間が、こんなところに住むと思いますか?」

 男は、くすくすと笑いながら言った。
 人が、これほど力なく笑えるのかとビアンキに思わせるほど、力のない、笑顔だった。

「成功した人間の娘が、医者にも見捨てられ、あんな不憫な格好のまま、死んでいくと思いますか?」
「……失言でした。お許し下さい」

 ビアンキは頭を下げた。
 男は、さして気にしたふうではなく、続けた。

「仕事は、上手く行かなかった。どうしたって上手く行かなかった。どの星にでも通用する不文律というものが、この星には通用しなかったんです。つまり、わたしが無能だったということです。僅かにあった蓄えをすぐに底をつき、追い立てられるようにして居をここに移しました」

 ビアンキは、ぼんやりと考えていた。
 この星の、表面上は分からないが、その実、地中深くまで根付いている血統主義。この星に俄に根付いた移民が、そのことを理解せずに商売をして、成功するはずがない。
 移民でなく観光客であれば、金を落としてくれる。移民であっても資産家であれば、金を搾り取れる。だが、金を失った移民に、利用価値はない。
 おそらく、ハゲタカが死体に群がるよりも早く、この男の財産は毟り取られ、骨だけにされたのだろう。そして骨だけになった死体は、もはや誰にも見向きもされない。
 そして、こんな場所に流れ着いた。
 この星に住む移民は、こんな場所がスタートラインなのだ。

「きっと、食べ物が悪かったのかも知れません。あの子は、ヴェロニカ教の食べ物を、最後まで嫌がったんですよ。草ばっかり食べてたら青虫になっちゃうって言って。それでも、あの子は、確かに聖女ヴェロニカが好きだった。肉食をするヴェロニカ教徒など、あなたのようなお立場の方からすれば到底容認できるものではないのでしょうが、それでも、私は、あの子はヴェロニカに帰依していたのだと、そう思っています」

 ああ、それはそうなのだろう。
 だから、最後、あれほど穏やかに笑ってくれたのだろう。
 きっとあの子は、ビアンキに感謝しながら、死んでいったのだ。
 彼女を殺したのは、ヴェロニカ教の、欺瞞であったというのに。
 もしも。
 もしも、ヴェロニカ教団が、この星に大量のトリジウムが埋蔵されていることを公表していれば。
 この星が、高濃度のトリジウムで汚染されていることを、公表していれば。
 この星で肉を食べ続ければ、野生の青果を食べ続ければ、どういうことになるのかを、きちんと公表していれば。
 あの少女は、今も、笑っていたのだろうか。
 ビアンキは、分からなくなってしまった。
 ぼんやりとしたビアンキの隣で、男は立ち上がった。

「……どこへ」

 我ながら力ない声だと、ビアンキは思った。

「家に帰ります。あまり、あの子を一人にしたくないもので」
「……どうか、気を強く持たれて下さい。あなたに何かあれば……あの子は、きっと悲しむでしょう」

 男は、頷いた。

「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「なんなりと」
「ヴェロニカ教では、自ら命を絶った人間の魂は、やはり他の宗教と同じく、地獄に落とされるのでしょうか」

 ビアンキは、しばらく考えた。
 何と答えれば、この男を満足させられるのだろうか。
 別に、今日、初めて出会った男が、娘の死を儚んで自らの命を捨てたとしても、自分に関係はないというのに。
 この男を死なせることよりも、この男をがっかりさせる方が、ビアンキは嫌だった。
 だから、正直に答えた。

「ヴェロニカの教義においては、自死は悪徳とはされておりません。善人も悪人も、全ての魂は天より来て、天に還る。肉体は地により形作られ、いずれは地に帰る。そのサイクルは、死に方一つで変えられるほどに脆弱なものではないのです。人は、その運命から逃れることは出来ない」
「ああ、それはよかった」

 男は、笑った。

「あなたは、いい人だ」
「……知っておいでだったのですね」
「はい。でも、死のうとは思いません。自分で死を選んでもいつかあの娘と顔を合わせなければならないなら、父親が自分の後を追ったことを知れば、きっと悲しむでしょう。いつかあの娘と出会うときのためにも、わたしは生きなければ」
「……あなたは、強い人だ。心より敬服します」

 それは、ビアンキの本心だった。
 男は力なく首を横に振り、尻についた土埃を叩いて、ゆっくりと階段を下っていった。

「そうだ、もしよろしければ、導師様、私の料理を食べていってくれませんか?わたしが作った料理だけは、あの子にも好評だったんです。ヤームル君も、インシン君も、喜んで食べてくれました。きっとお口に合うと思うのですが」
「……折角ですが、遠慮させて下さい。今は、何かを食べる気になれないのです」
「そうですか。では」

 男は、静かに立ち去っていった。
 ビアンキはそのまま、じっと座っていた。
 太陽が、のろのろと沈んでいくのを、じっと眺めていた。
 やがて、夜が来た。
 街の至る所で、赤々とした炎が灯された。その周りで、人々は笑い、歌い、粗悪な酒を美味そうに飲み、そして生きている。
 ビアンキだけが一人だった。
 もう、刻限がどうとか、ヴェロニカ教の明日がどうとか、どうでも良かった。
 滅びろ。
 滅びてしまえ。
 何もかもが、灰燼になってしまえ。
 ビアンキは、呪いと共に、何度も何度も呟いた。
 そして、誰かが、先ほどの男と同じ場所に、腰掛けた。

「それが、お主の望みか、ビアンキ」

 聞き覚えのある、声であった。
 普段のビアンキならば、その声を聞いただけで、その場に平服していただろう。
 だが、今のビアンキには、心底どうでもよかった。
 自分の隣にいるのは、ただの老人なのだから。

「儂は、全てを主が決断せよと申し渡した。であれば、それがお主の決断か、ミア・ビアンキ導師」
「わかりません。長老、わたしには、何も、わからないのです」

 ビアンキは、正直に、首を横に振った。

「もしも、全てを公表したら、どうなりますか」

 ビアンキの問いに、紫紺の法衣を纏った老人は、無機質な口調で答えた。

「おそらく、この星を訪れた移民と、同じような目に遭うのじゃろうよ」
「同じ目、とは」
「全てを奪われ、全てを毟り取られ、住む場所を失い、放浪の旅へと還される。そして、辿り着くのは、ビアンキよ、今、お主が見下ろしているような場所以外にはあるまい」

 あの、赤々とした炎の周りで、楽しげに語らう人の群れ。
 それは、とても、とてもとても、羨ましいことなのではないだろうか。

「因果応報と、そういうことになるのかも知れんなぁ」
「……なぜ、この星では、ヴェロニカ教徒以外に対して肉食を認めているのですか。この星に住む全ての人々に、食事制限の徹底をはかれば、それだけで、どれほどの命が救われたか……!」

 悲劇が、あの少女の頭上にだけ舞い降りたのではないと、ビアンキは知っていた。
 あの少女の姿は、幾千幾万の、この星を訪れた移民の姿なのだ。ヴェロニカへの帰依を拒んだ人間の、末路なのだ。
 そして、ヴェロニカ教の指導陣は、それを知りながら、ずっと放置していた。立ちのぼる異教徒たちの荼毘を、無関心に見送り続けたのだ。
 いや、放置するだけではない。それを隠蔽し続けたはずだ。でなければ、いくらなんでも他国に知れないはずがない。
 つまり、殺し続けたということだ。
 ビアンキは、耐え難い吐き気を覚えた。それは、少女の肉体の腐り落ちる臭いよりも、幾万倍も、幾億倍も、遙かに遙かに耐え難いものだった。

「そのほうが、都合が良いからよ」
 
 老人は、こともなげに言った。
 ビアンキは、耳を疑った。

「……都合が……いい……とは……?」
「どうした、明敏なお主らしくもない。どうしてこの星にこれほどの人間が住んでおるのに、この星に根付いた宗教がヴェロニカ教ただ一つなのか、気が付かぬのか?」

 ビアンキは、唖然とした。
 唖然として、耳を塞ごうとした。
 今からこの老人が何を言おうとしているか、ビアンキは知っていた。
 だから、嘘だ。それは、全て嘘だ。
 だが、ビアンキの腕は、それ自体が鉛に変じたかのように、ぴくりとも動かない。
 
「よいか。人類の歴史が始まって以来、星の数ほどの国が生まれ、ほとんど同じ数だけの国が滅びた。その全てとは言わぬが、ほとんどが思想的な対立に端を発して滅亡しておる。それが、内側から爆発したのか、外側から切り崩されたのかは別にして、な」

 老師は、如何にも楽しげに言うのだ。

「ヴェロニカの教えは長く保たれねばならぬ。故に、この星に不純物は必要ではない。この星が、ヴェロニカ教徒達の唯一の安息の地であり遙か昔に始祖達が塗炭の苦しみを乗り越えて建国したこの国が、くだらぬ思想の衝突を原因として滅びるなどあってはならぬ。この星に他の宗教が根付くなど、あってはならぬことなのじゃ」

 だから──。
 だから、あの少女は──。

「この星は、聖女ヴェロニカに祝福されておるのよ。この星に住むことを許されたのは、ヴェロニカ教徒のみ。異教徒共が蔓延る隙間など、ごきぶりの住処ほどにもありはせぬ。そして、害虫は、神の息吹によって駆除される。それだけのことではないか」

 死んだのか。
 いや、殺されたのか。
 ヴェロニカ教に、殺されたのか。

「もう一度言うぞ、ミア・ビアンキ導師。いや、お主は今より老師となる。惜しむらくは、お主が原始移民の家系でないことじゃな。どれほど幸運があろうと、お主は長老には成れぬじゃろう。それでも、お主が明日のヴェロニカ教を背負って立つことに変わりはない。そのお主が、このような些末事に心動かされてどうする。情けないとは思わぬのか」

 情けない。
 ああ、情けないか、情けなくないかで言えば、この上なく情けないとも。
 自分が、情けない。
 今の今までヴェロニカの教えに頭を垂れ、それを鵜呑みにし続けてきた自分が、情けない。
 死にたいくらいに、情けなかった。

「ヴェロニカ教は、神に祝福されておる。故に、これほど豊潤な自然を形作り、そしてトリジウムという糧を与えてくださった。それは、我らが選ばれた民ということよ。そして、かの少女は選ばれておらなんだ。その死は、むしろ当然。このヴェロニカの大地の一部となれたことを、喜びこそすれ、恨み言を吐くなどというお門違いな真似は決してすまい。それこそ、鬼畜にも劣る所業じゃ」

 恨むな、というのか。
 あの少女は、我らを恨むことすら許されないというのか。

「まぁ、所詮は移民の子が一人死んだだけ。取り立てて騒ぎ立てることもあるまいよ」

 その言葉を聞いたビアンキは。
 拳が、何か、熱く、痛く、むず痒くなるのを感じて。
 その熱さを、痛さを、むず痒さを、癒すために、何かを殴って。
 自分の足下にいる老人の、痩せた背中を、何度も何度も踏みつけて。
 殺してしまおう。
 害虫は、駆除しよう。
 そうだ、この老人も、さっき、そう言っていたではないか──。

「そこらへんにしときな、若いの」

 そう、重々しい声が、後ろから聞こえて、肩に手を置かれた。
 その手を振り払い、さらに、老人の背に足を振り下ろし──。

「だから、止めとけって言ってるんだ。そのままじゃ、爺さん、死んじまうぜ」

 死んでもいいんだ。
 こいつは、殺されるだけのことをしたんだ。
 だから、だから、だから。
 ばしん、と、頬を張られた。
 それは、大して強くもなくて、痛くもなかったが、その手のひらの大きさだけが、どうしても印象的だった。
 唖然としたビアンキの眼前に、恐るべき質量を備えた巨体が、立ちはだかっていた。

「いいか、若いの。老人は、尊敬しなけりゃいけねえんだ。これは、俺が老いぼれだから言ってるんじゃねえ。この爺さんは、お前よりも、何倍も生きてる。この小さな背中は、お前の何倍もの荷物を背負ってきたんだ。老いるってのは、朽ちるってこととは全く別なんだ。分かるか?」

 ビアンキは、半ば夢心地だった。
 どうして、ここに、大海賊シェンブラックがいるのか。今頃、ヴェロニカ教の総本山で、青ざめた僧侶達を前に、この星に対して死刑執行の宣言を下しているのではないか。
 そうなら、とってもいい気味なのに。
 なのに、それなのに、どうして自分は、大海賊シェンブラックに、諭されているのだろうか。

「もしもお前さんが、この爺さんを、どうしても殺さなけりゃならないんだとしたら、それは怒りとともに殺しちゃならねえ。尊敬を込めて殺すべきだ。そうでなけりゃ、この爺さんが背負ってきた荷物の重さが、お前を取り殺すぞ」
「……意味が、わからない。何を言ってるんだ、あんた」

 宇宙を統べる大海賊に、いっぱしの口を利いているじゃないか、俺は。
 ビアンキは、そんなことを考えている自分が、どうにも愉快だった。
 愉快で、愉快すぎて、絞め殺したくなった。

「いいんだよ、意味なんて。そんなものは、薪にくべて燃やしても、熾りの一つも起こせやしねえ。若い内からそんなことを気にしてたら、禿げっちまうぜ、お若いの」
「……心配頂かなくとも、ヴェロニカ教の出家坊主は、みな禿頭ですので」

 ビアンキの言葉を聞いて、シェンブラックは吹き出した。

「はは、違いないな!」

 その時点で、ビアンキの頭からはだいぶ血が抜けていた。
 静かに、足下に蹲った老人を見下ろす。
 老人は、泣いていた。
 声を上げて、おいおいと泣いていた。
 許してくれと、許してくれと、泣いていた。
 そうか。
 この人も、辛かったんだな。
 それが、唯一、ビアンキにとって嬉しかった。

「で、どうするね。この老人を、尊敬しながら殺すことが出来るかい?」

 今、ビアンキがこの老人を殺そうとしても、シェンブラックは止めたりはしないだろう。
 だから、ビアンキは首を横に振った。
 この場にいない誰かに詫び続ける老人が、ひたすらに悲しかった。

「もう、どうでもよくなりました」
「そうか。なら、先に礼を言わせてくれ。俺のところの悪ガキどもが、たいそう世話になったそうだな」

 見れば、シェンブラックの影に隠れて、二人の少年がビアンキを見上げていた。
 ああ、そうか。
 お前達は、まだ、こんなにも子供だったんだな。
 ビアンキは、初めて、二人の頭に手を置いて、わしわしと撫でてやった。

「こいつらには、もう、言葉には言い表せないくらいの迷惑をかけられました。後で、でっかくてきっついお仕置きをしてやってください」
「ああ、心得たぜ」

 シェンブラックが、にやりとして、その後でぎろりと二人を睨んだ。

「ええ、そりゃないぜ、おっさん!おれ達、あんたに何一つ迷惑なんて……」

 言葉は、養い親のどでかい拳骨に遮られて、最後まで紡がれることはなかった。
 ビアンキは、頭を押さえて蹲る少年を見て、ふと笑ってしまった。
 なるほど。自分は、まだ笑えるらしい。
 笑えるなら、とりあえずは大丈夫だ。また、明日も生きることが出来る。

「もし、トリジウムの存在を明かせば、この星はどうなるでしょうか」

 ビアンキは、ぼつりと言った。それが、この星に住む全ての人々の命と天秤にかけられた、ヴェロニカ教における最も重大な秘密だったのに、もう、そんなことはどうでもよかったのだ。
 シェンブラックは、大して驚いたふうではなかった。もしかしたら、既に、長老から全てを聞かされていたのかも知れない。

「さぁ。生憎、俺は特異能力者じゃねえからよ。予知とか先読みとかは、からっきしなんだ。だから、ギャンブルの類は勝ったことがねぇ」

 それはきっと、ギャンブルなどというくだらないものに、運を使う必要がないからだろう。
 この男は、もっと大きな何かに、その運の全てを費やしているはずなのだ。

「この爺さんは、何て言っていたんだい?」

 矮躯の老人は、ヴェロニカ教の長老たる老人は、まだ泣いていた。
 絞るように声を出し、赤子がぐずるように、幼児が駄々をこねるように泣いていた。
 それを、ビアンキは憐れだとは思わない。不憫だとも思わない。だが、当然の報いだとも思えない。
 ただ、悲しかった。
 その背中から、何か、黒々としたものが昇華されていくように、ビアンキには見えた。その黒いものが、老人の背負ってきた何かで、これから自分が背負っていく何かなのだと考えると、どうにも憂鬱であった。

「トリジウムの存在が審らかになれば、我々はこの星を追われ、辺境に追いやられるのだと」

 シェンブラックは腕を組んで、考え込んだ。

「なるほど、まぁ、そういう可能性もあるか」
「というと、あなたには、別の未来が見えていると?」

 冗談めかした言い方に、シェンブラックは苦笑した。

「多分、内戦が起きる。いや、頭の回る誰かが、内戦を起こさせる」
「内戦?」
「いくら厚顔無恥な共和連邦のお偉方でも、まさか一億からの人間を惑星から追い出して、資源にありつこうなんちゃ考えてはいないだろう。俺みたいな海賊だって、そこまで阿漕な真似を、そこまで露骨には出来ねえよ」

 果たしてそうだろうかと、ビアンキは考えたが、口にはしなかった。

「だから、俺なら、この星に住む人間の適当な奴を頭に仕立ててさ、争わせるんだよ。当然、裏から両方を支援して、争いを出来るだけ長引かせて、泥沼の中に引きずり込んで、身動きを出来なくさせる。そうなりゃ、自分達が俺の掌の上で踊らされてたんだって気が付いても、正しく後の祭りだ。俺の援助を断れば、間違いなく身の破滅。もう、人形の身分を自覚して踊り続けるしかなくなる」

 先ほどの言葉はどうしたと、ビアンキは考えたが、やはり口にはしなかった。

「そして、どうしようもなくなったときに、支援の打ち切りを持ちかける。同時に、優しく声をかけるんだな。お前らの足下に埋まってる金属を高く買い上げてやるぜって。そうすりゃ、一も二もなく飛びついてくるだろう。当然、高くなんて買ってやらねえ。二束三文だ。それでも、当面の軍資金にはなるんだから、そいつらも頷くしかねえ。そして、星はトリジウム鉱毒に汚染され、人の住める環境じゃなくなる。だが、恨みを引き受けるのは俺以外の人間だ。何とも気楽な仕事になると思うぜ?」
「ああ、それは何とも──」

 気が楽な話だろう。
 そして、ことは、いとも容易く進むに違いない。
 言葉尻を捕まえたような差異を理由に、いがみ合い続けるいくつもの宗派。
 階級社会の中に根付いた、煮えたぎるような憎悪と不満。
 トリジウムという鉱物がもたらす、計り知れない利益。
 それらを巧みに操れば、この星を一つにしてきた団結は、呆気なく瓦解するだろう。もう、この星に聖女ヴェロニカはいないのだ。彼女以外に、この星の民を率いることは出来ないというのに。
 ビアンキは、沈みゆく太陽の、最後の残滓を眺めていた。
 空が赤紫色に染まり、最後には、呆気なく漆黒に染まる。その瞬間を眺めていたいと思った。

「あなたは、これからどうなさるのですか」
「んん?俺かい?」

 シェンブラックは、少しの間考え込むと、

「正直なところを言えば、手を引こうかと思っていたところだ。この星に埋蔵されているトリジウムの量は、それこそ共和宇宙経済を根底から覆しかねない、恐るべき爆弾だ。それを、たかだか田舎海賊の首魁如きが使いこなせると勘違いするほど、俺は思い上がっちゃいないよ」
「そうですか」

 落胆しなかったと言えば嘘になるだろう。
 この男ならば、たった一人で共和連邦と向こうを張るこの男ならば、何とかしてくれるのではないか。この星の人間からたった一人の犠牲者も出さず、それ以外の人間からもたった一人の犠牲者も出さず、全てを丸く収めてくれるのではないか。
 そう、甘い幻想を抱いていたのだ。

「だがな、お若いの。これは最初に言ったことだが、俺はビジネスの話なら、きっちりと応じさせてもらう。この星がきちんとした対価を支払うなら、それに応じた働きはさせてもらうぜ」
「……例えば、それは?」
「色々だよ」
「色々、ですか」

 シェンブラックは、大口を開けてあくびをした。
 
「この星は、一刻も早く、共和連邦に加盟するべきだと、俺は思う。連中だって、馬鹿じゃねえ。いつまでもこの星に埋まってるお宝のこと、隠しておくには無理があるぜ。必ず、いつかはばれる」

 ビアンキは、頷いた。
 この二人の少年は、気が付いたのだ。であれば、この先、誰も気が付かないという保証はない。
 いや、そんなもの、そもそも存在しなかったのだ。
 秘密という言葉には、いつか必ず白日の下に晒されるという意味が含蓄されている。

「その時に、後ろ盾も無し、軍事力も無しじゃあ、共和連邦の連中か、それともそれ以外の連中に、食い物にされるだけだ。だが、連邦加盟国で後ろ盾もしっかりしてる国から資源をぶんどるのは、中々に骨が折れる仕事だぜ」
「では、あなたが、その仲立ちをしてくれると?」

 シェンブラックは、面倒くさそうに頭を掻いた。
 
「乗りかかった船だ。今のエストリアの大統領には、ちっとばかし貸しがある。悪いことにはならないだろうよ」
「あなたは先ほど、ビジネスの話と仰った。では、我々からは、どのような対価を支払えばよろしいか?」

 ビアンキは、平然と言った。
 厳密に言えば、彼はまだ、一介の導師に過ぎない。よしんば明日に老師の階位を得ても、ヴェロニカ教の総意を纏める存在ではないのだ。
 しかし、ビアンキは決意していた。
 なんとしても、自分がヴェロニカを導く。自分が、この矮躯の老人が背負ってきたものを、背負っていくのだと。
 そのためには、ありとあらゆる手段を辞さない。
 そして、いつの日か。この星の真実を共和宇宙に知らしめ、ヴェロニカ教の暗部を知らしめ、全ての移民に償いをするのだ。
 ただ、その時期を見誤ってはならない。
 何事にも、時宜というものがある。それを見誤れば、この星を如何なる災厄が襲うか、誰にも想像が出来ないのだ。
 
「そうだな。この地面に埋まってる厄介者を、あんたはどうするつもりだい?」
「出来れば、可及的速やかに、全てのトリジウムを我らの目に届かないところに捨て去ってしまいたいと思います」
「なるほど。であれば、汚れ仕事は海賊の領分さ。この、汚れた土を捨てるついでに、欲しがる誰かのところに届けたって別に悪くはあるまい?」

 ビアンキは、頷いた。
 今まで、細々としたトリジウム密輸だけでも、莫大な富を生み出すことが出来たのだ。そこにシェンブラック海賊団が一枚噛んでくれるなら、もはやどれだけの規模の密輸になるか、知れたものではない。おそらく、それは公然たる取引とほとんど変わらない規模になるだろう。

「俺の知り合いに、最近羽振りのいい零細企業の田舎社長がいてよ。そいつが、生意気なことに、この星の近くに星を持ってやがるのさ」
「……個人で、星を持っている?」

 ビアンキは耳を疑った。
 世俗のことに疎い彼ではあるが、惑星を個人が所有するなど、到底あり得る話ではないこと程度は知っている。
 よしんば可能だったとしても、それは、既に個人という言葉では言い表せない権力を手中にした人間にのみ、可能なのだろう。
 例えば、目の前の男のように。
 それとも、共和連邦の主席……程度では不可能か。共和連邦主席は、所詮は法の許す範囲内の権力しか有しないのだから。

「そいつの星を、ちっとばかし貸してもらうとしよう。いい中継基地になるし、この星の存在を隠すにもうってつけだ。なに、ちょうど資源の確保が大変だってぼやいてやがったからよ、この星からトリジウムを優先的に回してやれば、文句は言わねえだろう。なんとかシステムってやつは、どうやら相当にトリジウムを食うらしいからな」
「そんなものですか」

 もしかしたら、かのクーア財閥の創設者ならば、それも可能かも知れないとビアンキは思い、苦笑いを浮かべた。我ながら、想像の羽を広げすぎたことに呆れたのだ。
 そして、目の前の光景に視線を移した。
 貧しい、スラムが広がっている。子供達はボロ布を纏い、つま先の破れた靴ではしゃぎ回っている。
 トリジウムの密貿易が軌道に乗れば、きっとこの星はもっと豊かになるだろう。そうすれば、眼下に広がる貧しい景色を、鮮やかな色彩で飾ることができるだろうか。
 窮すれば濫すという。であれば、富めば、乱れた人の心が平らぐこともあるのではないか。そうすれば、誰も傷付かずに、この星の真実を知らしめることが出来るのではないか。
 しかし、その間に、どれだけに異教徒が、死んでいくのか。
 いいだろう、と、ビアンキは、正面を睨み付けた。
 全ては、わたしの責任だ。
 わたしを、恨め。わたしに食いつけ。いつかわたしを連れて行け。
 だが、全てを成し遂げた後だ。
 遙か遠く、太陽の沈んだ地平線には、荒涼たるヴェロニカの大地が広がっている。月明かりにも赤いその色合いが、まるで誰かの血のように思えた。
 そうだ、この星は、異教徒の血で濡れている。
 そして、自分達は、その大地を踏みにじって生きている。
 明日も踏みにじるのだろう。明後日も踏みにじるのだろう。
 だが、その次は。その次こそは。
 この日、この瞬間に、ヴェロニカ教の新たな老師が生まれた。そして、ミア・ビアンキという個人が、この宇宙から姿を消した。



[6349] 第五十六話:決戦前夜、そして開戦(15禁)
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/13 20:17
「……そうか。恩に着る。こんな辺境でもこれだけのものを用意出来るとは、きみの仕事ぶりを高く評価せざるを得ないな。報酬は期待してもらっていい。今後も末永く良好な関係を築きたいものだ」

 そう言って、ジャスミンは携帯端末を切った。

「お姉様、ちょっといいかい」

 ノックも無しに扉を開けたメイフゥが、ジャスミンの背中に声をかけた。
 ジャスミンは、振り返った。手にしていた愛銃の分解パーツを床におくと、ごとりと、腹の底に直接響くような重量感の音が、部屋に響いた。
 肩で挟んでいた携帯端末を放し、
 
「こんな時間にどうした」
「うん、ま、ちょっとね。それより、さっきの電話、何さ?」

 メイフゥの言葉に、ジャスミンはくすりと笑った。

「まるで、旦那の浮気を疑う奥さんのような台詞だな」

 メイフゥの顔が、仄かに赤く色づく。

「い、いいじゃないか、そんなこと。別に深い意味はないよ。ただ、お姉様が、こんな時間にどこに電話してたのかが気になって……」
「明日の準備だ」
「明日の?」
「ああ。ダイアナに頼まれて、戦闘用のヘリコプターと、それに積み込む弾薬を山ほど、買った」
「買ったって……」
「なかなかいい買い物だった」

 ほくほくとしたジャスミンは、至って満足げである。
 メイフゥは絶句した。戦闘用ヘリを、買う?そんなもの、共和宇宙連邦に属していない辺境国家であっても、日の当たる場所では手に入らないのが普通である。どれほど金を積んでも、よほどのコネがないと手に入るものではない。
 まして、ジャスミンはこの星を初めて訪れたはずだ。どうして、そんなコネを持っているのか。
 ジャスミンの言葉でなければ、冗談だと思っただろう。だが、ジャスミンが真顔で言う以上、それは冗談ではないことを、メイフゥは短い時間で学んでいた。

「あの城に、戦闘ヘリで乗り込むのかい?」
「馬鹿なことを言うな。そんなことをしたら、城に備え付けられた対空砲火の格好の餌食だ。わたしは玉砕主義者ではないから、そんな死に様は御免被る」
「じゃ、何に使うのさ」
「小道具だよ」
「小道具?」

 メイフゥが、あどけない様子で小首を傾げた。
 その様を見たジャスミンが柔らかい笑みを浮かべた。

「まぁ、もう少し作戦を煮詰めてから説明する。今は気にしてもらう必要はない。きみはきみの準備をしておきなさい」
「……ま、いいよ。今回の喧嘩じゃ、あたしはコマだ。大将の指示には絶対服従させてもらうさ」
「助かる」

 メイフゥは、あらためてジャスミンをまじまじと眺めた。

「で、お姉様は何してんの?」
「準備だよ」
「準備?」
「明日には、ウォルを、ヤームル氏を、そして愚夫を助けに行く。であれば、相応の準備が必要になるということだ」

 見れば、ジャスミンの部屋のそこかしこに、通常の民家にはそぐわない、物騒な道具が散乱している。
 サブマシンガン。光線銃用のエネルギーパック。大型のサバイバルナイフ。ごつい軍用ブーツ。暗視用ゴーグル。携帯用のロケットランチャー。数え上げればきりがない。
 ジャスミンは、その一つ一つを念入りに整備しているらしい。

「大変だね」
「そうでもない。わたしは明日、この装備に命を預けることになるんだ。であれば、いくら慎重に整備しても、し過ぎるということはない」

 メイフゥは、部屋に散らばった雑多なパーツを踏まないよう注意しながら、ジャスミンの隣に腰を下ろした。
 だが、座っただけで、口を開かない。
 ジャスミンが、苦笑しながら、

「どうした。何か、言いたいことがあって、ここに来たんじゃないのか」

 水を向けられたメイフゥが、僅かに口を開き、

「あたし、許せないよ」

 歯の間から絞り出すようにして、言った。
 誰のことか、何のことか、明らかすぎるほどに明らかだったから、ジャスミンは何も言わなかった。
 メイフゥは、無言のジャスミンを無視して、続けた。

「この星に定住した人間のうちには、宇宙生活者だった人達だって山ほどいたはずだ。その中に、ヴェロニカ教に帰依した人間が、どれくらいいたんだろうね。そして、それ以外の人間が、どれくらいいたんだろうね」
「……膨大な数になるだろうな」
「その全てを、この星の連中は見殺しにしたんだ。ばたばたと死んでいく人間が、自分と同じ神様を信じていないってだけの理由で、無関心に殺し続けたんだ。そんなの、絶対に許せない」
「なら、どうする?」

 熱の込められた少女の言葉に、ジャスミンは冷静な言葉を返した。

「あの老人を殺すか?」
「それも、良いかもしれないね」

 メイフゥは、全てを語り、全ての荷物を肩から下ろした老人を、思い浮かべた。

『儂は、彼らに連れて行かれる資格すら、失ってしまったのですよ』

 結びの言葉を紡いだ老人は、うっすらと、力無く笑っていた。
 それは、既に只の老人だった。それまで彼の内に存在した威圧感とか、エネルギーのようなものが、軒並み消え失せていた。外見こそ何も変わらなかったとしても、中身は全くの別人だ。まるで空気の抜けた風船のような有様だった。
 今は、隣の部屋で眠っているはずだ。
 先ほどから、時折、声がしていた。悪夢に魘される、人間の、声だ。
 
「今更あの爺さんを殺しても、何も変わらないことくらい分かってる。でも、あの爺さんは、全てを背負いながら何一つ変えることが出来なかったんだ。なら、責任の一つも取るのが大人ってもんじゃないのかい」

 ジャスミンは苦笑した。メイフゥのまっすぐさは賞賛に値したが、それは太陽のようなものだと思った。明るく、暖かで、しかし自己と他人を焼き尽くしてあまりあるほどの熱と厳しさを持っている。
 誰しもがそれほどの熱を持って生きられないことを、ジャスミンは知っていた。

「お前は、これからどうするんだ?」
「どうするって?」
「先ほどの話を聞いて、お前は、この星に埋まっているトリジウムの存在を、詳らかにするのかと聞いているんだ」

 ジャスミンの真っ直ぐな視線を受けて、メイフゥは目を逸らした。
 じっと、床を睨み付けている。
 
「長年お前が求めていた、お宝がこの星には埋まっている。そして、その存在を公表すれば、お前は一部であっても分け前にあずかれるのだろうし、その一部の富は一生を遊びに費やしても到底使い切れいないほどに膨大なものになるだろう。付け加えれば、一度公表さえすれば、もう二度とこの星を訪れて、鉱毒症で死ぬ人間はいなくなるんだ。良いことずくめじゃないか」
「そうだね。お姉様の言うとおりだ」
「だが、この星を、どんな混乱が襲うか、知れたものではない。いや、この星だけじゃない。共和宇宙全体の経済が、根幹からの変容を余儀なくされるだろう」
「例えば?」
「まず、トリジウムの採掘で成り立っているいくつかの星系の経済が、致命的なダメージを受けるのは間違いない。わたしの知っているだけで、トリジウム採掘がGDPの9割を占める国は、両手の指ほども存在するんだ。その全てが破綻したとき、発生する経済難民の数が如何ほどになるか、考えたくもないな」

 メイフゥは、何も言わなかった。
 ジャスミンは、続ける。

「それに、あの地図のこともある」
「あの地図って、トリジウム鉱山の場所の記された、例の地図かい?」

 ジャスミンは頷いた。

「ダイアナに後から確認してもらったが、あれは、全てがヴェロニカ教総本山の所有する敷地だ。つまり、教団は、事が露見した場合のことを考えて、良質な鉱山の全てを事前に確保していたということになる。まぁそんなところだろうとは思っていたがな」
「……それで?」
「この国は、一見すれば、単一の宗教を国中の人間が信奉しているように見えるが、実はそうではない。外から見れば些細な違いでしかない教義の解釈や歴史的な経緯でもって、いくつもの宗派に分かれているのさ。一番権力を持っているのが教団であることは間違いないが、それを快く思っていない人間もたくさんいる。そして、全てが露見したときに、鉱山を独占した教団が一人肥え太っていくのを、面白く思うはずがない」
「……なるほど。それで、お姉様は言ったんだね。あの地図の本当の意味を知る人間が、この星に五人もいれば、間違いなく内戦が起きるって」

 ジャスミンは、もう一度頷いた。

「資源を巡る内戦は、本当に悲惨だぞ。血で血を洗うとは、正しくああいう戦いを言うのだと、わたしは思う。しかもその血は、昨日までの隣人や家族の流したものだ。一度浴びてしまえば、二度とは洗い落とせない」

 ジャスミンが、ぽつりと言った。
 声は、知識としての悲惨さではなく、実際にそれを目の当たりにした者の重みがある。
 メイフゥは、あらためて、この女性の正体が分からなくなってしまった。

「お姉様、あんた、一体何者なんだい?」
「わたしは、生まれてこの方、ジャスミン・クーア以外であったためしはない。幸いというべきかどうかは知らないが、結婚しても姓は変わらなかったしな」

 メイフゥはくすりと笑い、それから、力ない溜息を吐き出した。

「実はね、そんなことを言いに来たんじゃないんだよ」

 それは、ジャスミンも気が付いていた。
 戦いは、明日に差し迫っているのだ。この星の未来よりも優先されることが、自分達にはある。ならば、今はそちらに神経を集中するべきだ。
 ジャスミンの視線の先で、メイフゥは、携帯用の拳銃をいじっていた。
 あまり慣れた手つきではない、おっかなびっくりの様子だったので、安全装置がついているとはいえ、ジャスミンは少し不安になった。

「止めなさい。玩具じゃないぞ」
「うん、ごめん」

 メイフゥは、拳銃を床に置いた。

「銃って、色々とめんどくさいね。そういうふうに整備してやらないと、たまに暴発したりする」

 メイフゥの視線の先に、分解され、綺麗に掃除された拳銃のパーツが並んでいた。

「手のかかる子供みたいなものだな。確かに面倒だと思うこともあるが、手をかければかけるだけ、しっかりと答えてくれる。そういう意味では、愉しくもある」
「あたしは、ずっと、喧嘩っていったらこの腕一本で暴れ回ってきたんだ。こんな繊細なことには、めっきり縁がなかったよ」
「自慢か、それは?」
「ううん、多分、そうじゃない」

 メイフゥは、抱きかかえた膝の間に、顔を埋めた。

「怖いんだ」
「怖い?」
「死ぬのが」

 ぼそりと、呟いた。
 ジャスミンは、笑いを噛み殺すのに苦労しながら、

「当たり前だ。生物の定義は、ただ生を望むということさ。死を極力遠ざけるということだ。であれば、死を恐れない生き物は、既に生き物ではない。ただ動き、ただ喰らい、ただ楽しむだけの存在だ。わたしは、そんなものを生き物とは呼ばない」
「じゃあ、お姉様も、怖いの?」
「当たり前だ。戦いの前は、いつだって怖い。眠れなくなる。全てを放り出して、逃げてしまいたくなる」
「じゃあ、どうして戦うの?」
「死よりも恐ろしいことがあるからだろう」

 会話をしながらも、ジャスミンの手が止まることはない。流れるような滑らかさでいくつものパーツを組み合わせ、瞬く間に愛銃を完成させた。
 重量と携帯性の悪さから、生産中止になって久しい、往年の共和連邦軍正式兵装M72ヴィゴラス。無反動式であり、銃を水平に構え続ける腕力さえ備わっているならば、意外に取り扱いは容易である。
 威力は、ハンドキャノンの異名を取るほどに折り紙付き。大型のエネルギーパックにより、弾数にも信頼が置け、精密射撃にも掃射にも使用することが出来る。
 今まで、幾度もジャスミンの命を救ってきた、相棒である。
 照準のチェックは他の銃器とまとめてするつもりなので、ひとまずは完成である。
 
「お姉様が、死ぬよりも恐ろしいと思うことって、何?」
「さぁ?考えたこともない」
 
 ジャスミンは一度立ち上がり、ヴィゴラスを水平に構え、フィーリングを確かめた。
 長年腕に慣れ親しんだ感覚は、整備する前と寸分も変わらない。いや、整備を繰り返す度に、この黒光りした金属の塊が、自分の体の一部になっていくような気すらする。
 愛おしげに銃身を撫でると、僅かな違和感があった。よくよく見れば、小さなひっかき傷がある。三本の浅い溝が、銃身に対して垂直に、10センチほど刻まれているのだ。
 ジャスミンはしばらく無言で考え込み、ああそうだと思い出した。
 昨日、あの地下道で、今は自分の隣に座ったこの少女と戦ったときに、少女の攻撃を銃身で受け止めた。その際に、少女の爪が、鋼鉄の銃身を削り取ったのだ。
 あれは、間違いなく死闘だった。一歩間違えれば、自分かこの少女のいずれかが、死んでいた。そしてその可能性が高かったのは、どうやら自分なのだという自覚が、ジャスミンにはあった。

「これより先に進めば、死ぬかも知れないという一瞬がある。その時に、わたしは何も意識していないが、きっと脳みその中では打算と臆病と蛮勇が、大声で怒鳴り散らしながら取っ組み合いの大喧嘩をしているのさ。その結果、誰が勝つかで、一瞬後の行動が決まるんだ。そこに、正義とか信念とか約束とか、そういう不純物は立ち入れない。わたしはそう思う」

 再び腰掛ける。

「だから、何が恐ろしいとか、どうして死にたくないとかは、意識しないようにしている。死にたくないと思ったときは、何を理由にしたって死にたくないんだ。突っ込むときは、自分の臍のかたちが気に入らないことだって、突っ込む理由になる。そんなものじゃないか?」
「あたしはね、自分が死んで、この世界からいなくなった後、あいつがひとりぼっちになっちまうのが、一番怖い」

 ジャスミンは、隣に腰掛けた少女を見た。
 少女は、震えていた。まるで、年相応の女の子のように。

「今までさんざ暴れ回っておいて、何を今更って思うかい?」
「いや、そんなことはない」
「あたしが死んじまったら、あいつは、この宇宙でひとりぼっちになっちまうんだ。親父様は生きてるか死んでるか分からない。お袋は、もう何年も前に、冷たい土の下だ。氏族のみんなも、散り散りになっちまった。あたしとあいつは、この宇宙で、本当に、最後の二人なんだよ」

 メイフゥは、消え入りそうな声で言った。
 
「なら、君はここで待っているか?」

 ジャスミンの言葉が意外だったのか、メイフゥは弾かれたように顔を上げた。

「お姉様……ひょっとして、あたしは足手まといかい?」

 ジャスミンは、首を横に振った。

「足手まといなら、縛り付けてでもここに置いていく。決して、自分の死に責任を持てない子供を、戦場に連れて行こうなどとは思わない。それでもお前を連れて行くのは、お前がしっかりとした戦力だからだ。お前の力が必要だからだ」

 メイフゥは、呆気にとられた後に、笑った。
 鼻の頭に皺を寄せるような笑い方は、さながら猫科の獣が照れ笑いしたような様子だった。

「しかし、何度も言うが、お前はまだまだ子供だ。自分以外の死に責任を持つには、まだまだ若すぎる。それは、闘争に必要な能力などは度外視したところでな。だから、お前がここに残ると言っても、わたしはそれを非難しないし、非難する資格もないんだと思っている。だから、どうする?弟と一緒にここに残り、わたしの帰りを待つか?」

 メイフゥがいたずらに反発しなかったのは、ジャスミンの声のうちに、心底メイフゥを慮る心情がたっぷりと含まれていたからだ。
 メイフゥは力なく笑い、首を横に振った。

「あたしは、行くよ」
「無粋を承知で尋ねるが、どうして?」
「ウォルを助けるためさ」

 メイフゥは、膝を抱えた姿勢のまま、まっすぐを見た。

「絶対に、あいつは助ける。たとえそれが、どんな姿形であったとしても、どんなに汚されちまってたとしても、絶対に」
「どうしてだ。彼女とお前が顔を会わせたのは、せいぜい一月前程度のことだろう。どうしてそれが、命を賭ける理由になる」
「あたしが、インユェよりも先に死ぬからさ」

 ジャスミンは、思わず隣に座った少女の顔を見た。
 そこに、冗談を言っている気配はない。真剣そのものの顔で、目の前の壁を睨み付けていた。

「あたしは、あいつよりも先に生まれた。だから、姉なんて偉そぶっていられるんだ。その代わり、あたしはあいつより先に死ぬ。それが世の理ってもんだ。だから、あたしが死んだその後で、あいつが一人にならないよう、あたしが何とかしてやらなくちゃならないんだ。何せ、あたしはあいつの姉なんだからさ」
「それと、ウォルを助けることが、どうして繋がる?」
「決まってる。ウォルは、インユェの嫁さんになるんだ。そんで、インユェの子供を産むんだ。出来るだけたくさん、兄弟で大型船の操縦が出来るくらいに。そうすれば、インユェは独りぼっちじゃなくなる。たとえあたしがくたばってもね」

 大きく息を吐き出し、

「ウォルがどんな姿になっていたとしても、絶対にインユェはウォルを見捨てないだろう。一生を賭けて愛し、守り、慈しんでくれるはずさ」
「どうしてそう言い切れる?」
「あたしは、あいつの姉だからね。分かるんだよ、あいつが、本気でウォルに惚れてるってことが。一度本気で惚れちまったら、あとは外見とか性格なんて、二の次だぜ。死ぬまであいつは、ウォルを手放さない」

 だからウォルはあいつの奥さんになるべきなんだ……。
 そう言って、メイフゥは黙り込んでしまった。

「少し、腹が減ったな」

 ジャスミンは立ち上がった。

「何か作ろうか。メイフゥ、お前も食べるか?腹が減っては何とやらというが、我々はこれから、本当に戦をしに行くのだから、食べられる時には食べておくべきだと思うが」

 メイフゥは、少し疲れたような顔で頷いた。



 少年は、一人、固いベッドの上に座り、片膝を抱えて、窓の外を見上げていた。
 太陽が沈む。赤い光の玉が山の向こうに姿を消して、その最後の曙光も消え去ろうとしている。
 
「ウォル……」

 彼女が、自分を逃がすために捕まったのだということを、少年は知っていた。そして、その恩義は、命を賭けても返さなければならないことも。
 
「待ってろ。絶対に、絶対に、俺が、お前を、助けてやる……」

 くるくると良く動く、小さな体。
 くるくると良く変わる、愛らしい表情。
 なのに腕っ節は強くて、ロッドだって素手だって、一度だって敵わなかった。いつだって、こてんぱんに伸された。
 それでも、地面に倒れ伏して見上げる、少女の輝かしい笑顔が、どれほどに眩しかったことか。
 
「お前を、くだらない儀式の生け贄になんて、させてたまるかよ……」

 戦いは、間近に差し迫っている。
 少年の瞳に、昨日の甘さはない。
 烈気を孕んだ紫色の瞳で、窓の外を睨み付けていた。



 鉄拵えの扉を開けると、むんとした熱気と、独特の臭気が漂ってきた。
 果実の腐ったような甘ったるさの中に、動物的な、生々しい肉の匂いが混じっている。脂と、汗と、その他の体液が一緒くたになり、坩堝でぐつぐつと煮詰められたような、匂い。脳髄の一番奥底を痺れさせるような、匂い。
 鼻腔の奥にへばりつき、全身の血液を沸騰させる匂いだ。これから始まる宴の予兆を感じさせる、匂いだ。
 背を丸めながら部屋に立ち入った二人の男は、鏡合わせのように、下卑た笑みを浮かべていた。
 男達は、その匂いが──濃密な女の体臭が、大好物だった。
 血液が、どくどくと心臓から送り出され、その一部が局所へと集中していく。ズボンの前面が、みりみりと膨れあがっていき、ベルトのバックルをむくりと押し上げた。
 男達の一人が、紅褐色の舌で、唇をべろりと舐め回した。口の端に飾られた銀色のピアスが、ぬらりと光った。

「たまらねえな、おい。一人か二人、連れて行くか?」

 声と、動悸と、鼻息が、同時に放たれたような声だった。それは、男の興奮が臨界点を越えようとしている証拠だ。男の巨体の内側から、鎖を引きちぎる獣さながらの狂気が発散されている。
 見た目は、不健康そうな痩せぎすの男である。
 ひょろりと長細い体躯。肌はかさかさと不健康で、青白い。白目のあたりが不自然に赤らんでいるのは、薬物の影響で毛細血管が痛んでいるからか。その、赤らんだ白目の上に、小さな黒目がちょこんと浮いている。頬は、鉈で肉を削り落としたようにげっそりとしていた。
 狂気じみた容貌の男だ。その男は、己が快感を得る過程で少女を痛めつけるのではなく、少女を痛めつけること自体を目的として少女を痛めつける、真性のサディストだったから、少女達には恐れられていた。彼は、わざと刃を潰したナイフをのこぎりのように使い、少女の柔肌を切り刻むのを非常に好んでいた。そして、切れ味の悪い刃物で肉を切り取られる少女の狂った叫び声を、他の少女達に聞かせて、その恐怖する様を見て再度笑みを浮かべるのだ。
 痩せぎすの男は、ポケットの中で件のナイフを弄びながら、欲望に黄ばんだ視線で部屋の片隅をぎょろりと睨め回した。
 ひぃ、と、息を飲む声が、暗闇のそこかしこで聞こえる。
 年若い少女の声だった。
 彼女達は、ひとたび男達の眼鏡に適ってしまえば自分がどのような目に遭わされるのかを、十分に理解し、恐怖している。神に祈りを捧げる声が、切羽詰まった短い悲鳴の中に混じる。
 まだ、神が自分を助けてくれると信じているのだ。まだ、縋り付ける何かを持っている。つまり、まだまだこの部屋の新入りであり、正気を保った人間であるということだ。
 では時間が経てばどうなるか。
 もう少しこの部屋に慣れ親しめば、男の存在に興味を失う。それとも、自分自身に対する興味すら失い、自暴自棄になる。もう、自分は助からないと悟る。助かったとしても、既に手の施しようがないことを理解する。度重なる陵辱に、身も心もずたずたにされ、その状態に慣れきってしまう。
 最後に、狂う。男に対して微笑みかけ、自然に股を開くようになれば、末期症状だ。そういう少女は、すぐに廃棄処分とされ、最も過酷な宴の贄とされた後に、どこかに売られていく。それとも、遊びが過ぎて責め殺されることもしばしばだ。
 痩せぎすの男は、そういう少女には興味はなかった。やはり、獲物は活きが良いに限る。まだまだ自分の運命を受け入れることが出来ず、精一杯の抵抗をする少女を力尽くでいたぶるのが、最高だ。処女であればなおさら良い。
 幸い、この部屋には、それらしき少女が数人いる。法と正義の絶対を信じ、男達を下賤な犯罪者として蔑んでいる視線だ。周りの先輩達の身に起きた悲劇が、自分達には決して及ばないと信じている視線だ。最後の最後には、ヒーローが自分達を助けに来てくれるのだと信じている視線だ。
 そういう少女は、最高のご馳走だった。その強気が、絶望の悲鳴とともに折れ砕ける瞬間を見るのが、男達の何よりの楽しみなのだから。
 だからといって自由に手出しが出来るわけではない。本来であれば、男達のリーダーである赤毛の青年が手を付けるのがルールだ。
 だが、当の青年の感心は、既に一人の少女に釘付けであり、他の獲物に対して一切の興味を示さない。ならば、ここにいる雑多な少女の一人や二人を味見するくらい、別に問題はないだろう。

「止めとけ止めとけ。そんなことは、いつだって出来るだろが。それよりも、さっさと要件を済ませちまうぞ」

 暴走しかけた痩せぎすの男を、ややうんざりとした調子の声が制した。
 これも、到底堅気には見えない風体の男である。そして、こちらは大きい。縦にも横にも、肉の威圧感がある。地に這いつくばった少女達からすれば、怪物さながらに巨大な男だ。
 巨躯の男は、痩せぎす男の恨めしい視線を完全に無視し、のっそりとした視線で、部屋の奥、暗闇の底を睨み付けた。

 暗闇の奥に、何かがいる。

 朧気な燭台の光に照らされて、汗にぬめった白い肌。少女らしく、丸みのある肉。黒く艶やかな髪の毛。
 ぴくりとも、動かない。果たして呼吸をしているのかすら怪しい。
 死体というよりも、等身大の人形のようだった。
 
「おお、いたいた、お姫様だ。さぁて、生きてんのかねぇ」
「トポレキシンのきっついだろ?俺、前にあれを打たれた女を見たけどよ、ひっでぇもんだったぜ?ありゃあ、とてもじゃねえが人間って呼べる生き物じゃねえよ。昨日までのお嬢様がよ、股ぐらどろどろにふやかして、俺の靴をべろべろ舐めながら、お情けを下さいご主人様ときたもんだ。雌豚のほうがまだ恥じらいって奴を知ってるに違いねえぜ」
「ふん、そんなもん、見りゃあ分かるのさ。だからこそ楽しみじゃねえかよ。あんだけ強気で、ルパートにぼこぼこにされても眉一つ動かさなかった雌ガキが、どんな様子になってるのかよ」
「そりゃあいいけど、くたばってやがったらどうするんだよ?」
「さぁ?剥製にして、ダッチワイフでも作るんじゃねえか?あの趣味だきゃあ、流石に理解できねえがなぁ」

 にやりと、冷血動物じみた笑みを浮かべた男二人が、ずかずかと部屋の中に立ち入った。
 弾かれたように、少女達が道を空ける。この二人の男は、赤毛の青年ほどではないが、少女達にはとって、最大限の恐怖と嫌悪の対象であった。つまり、この二人の男は、常日頃から少女達を人間以下の存在として取り扱い、嬲り、服従を強いてきたということだ。
 蜘蛛の子を散らしたように、逃げ散っていく少女達。だが、男達が歩く先に、逃げ遅れた少女がいた。
 決して二人を恐れていないのではない。むしろ、他の誰よりも、この二人に対して恐怖を抱いている少女だった。ただ、彼女は最後の最後まで男達に対して反抗的な態度を崩さなかったために、罰として手足の腱を切断されていた。だから、ナメクジのように這いずって移動することしか出来ないのだ。だから、逃げ遅れたのだ。
 少女は、俯せの姿勢のまま、肩と腰を視点にして体をくねらせ、文字通りミミズののたくるような速度で逃げた。体の前面とやすりのような石床が擦れ、柔い肌には無数の擦り傷が出来たが、気が付いている様子はない。背中にかかった栗色の髪の毛が、冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。
 まだ幼さの残る相貌が、恐怖と焦慮に激しく歪んでいる。不自然に力の込められた肢体が、ぷるぷると、細かく痙攣する。力の込められない腕と足が、体の動きに合わせてぶらぶらと、珍妙にくねる。目は見開かれ、涙と鼻水と涎を零し、神の御名を口にしながら這いずっていく。
 少女は、覚えていたのだ。この二人の男が、鼻歌交じりに自分の純潔を奪い、ついでとばかりに手足の腱を断ち切った時の、目が眩むような激痛と屈辱を。
 憐れな少女の、必死な様子を見た男達は、火がついたように笑った。大口を開け、腹を抱えて笑った。

「なんだよ、そりゃ!新手の宴会芸か!?」
「ひゃはは、ねぇきみ、ウケ狙ってる!?狙ってるんでしょ!?」

 少女に答える余裕など無い。ひたすらに、この二人から離れたくて、手足を動かそうとする。だが、腱を断たれた手足は、持ち主の意思を裏切ってびくとも動かない。なめくじか蛇のように、体をくねらせて移動するのが精一杯だ。
 男達は、悠々とした足取りで少女に追いつき、追い越して振り返り、にやにやと、少女を見下ろした。
 恐慌寸前の少女が、もぞもぞと、方向転換を試みる。ひぃひぃと、細かな悲鳴がこだまする。がちがちと歯を鳴らして、それでも必死に歯を食いしばり、全身全霊の力を込めて蠕動する様は、人の形をした尺取り虫のようだった。
 だが、どうしたって逃げ切れないことを、少女は知っていた。
 絶望に赤く青く染まった顔が、自分を見下ろす二人の男と、その振り上げた靴の裏を仰ぎ見た。足は殊更ゆっくりと持ち上げられた。そして、高々とした場所で、見せつけるように静止した。
 たすけて、と、少女の口が細かく震えた。許しを乞い、へつらう笑みを浮かべた。

「聞こえねえよ、ばーか」

 巨躯の男は、満身の力を込めて、少女の背を、固いブーツの底で、思い切りに踏みつけた。
 部屋全体が小さく揺れ、土埃がぱらぱらと舞った。
 その音に掻き消されるように、靴の下で、ぐしゃりと、肉と骨の拉げる音がして、

「ぐえぇぇ……」

 少女のものとは思えない、濁った声が、部屋に響いた。肺腑を押しつぶされ、無理矢理に吐き出された空気と喉が奏でた音だ。
 一瞬遅れて、ごぼん、と音がした。少女の口から、信じられないような量の、反吐が溢れていた。
 その二つの声が、男達にとって、更なるユーモアの琴線に触れたらしい。
 男二人は、動物園の猿のような顔で、目と歯を剥き出しにしながら笑った。ぴくぴくと、陸に揚げられた魚のように痙攣を繰り返す少女を指さして、

「聞いたかおい!ぐえぇだってよ!女として出しちゃいけない声でしょ!」
「すげえ音がしたぞ!死んだんじゃねえか!?久しぶりにやっちまったか!?」

 痩せぎす男が、少女の顔を覗き込んだ。
 少女は、白目を剥き、血と涎と胃液の混じった泡を吹いていたが、まだ生きていた。ぴくぴくと全身を痙攣させてはいたが、とりあえず、今のところは死んでいない。あくまで、今のところは。
 男は、興を削がれたように鼻息を一つ吐き出した。なんだ、死んでいないのか。面白くない。
 いや、違うか。これから、もっと面白ことが出来るのだ。
 なにせ、死んでさえいないならば、組織再生療法で大抵の怪我は治る。何度半殺しの目に遭わせても、蘇生させることが出来る。
 良い時代だ。一昔前なら、こうはいかない。遊びすぎた玩具は、容易く壊れて直らないのが普通だったのだ。そんなの、ちっとも面白くない。良い玩具は、何度も壊して、何度も直して、骨の髄までしゃぶり尽くすべきだ。虫けらは踏みつぶしてしまえばそれまでだが、脚を一本一本毟り取るのは中々に愉しい。
 痩せぎすの男が、死にかけの少女の体を、思い切り蹴り飛ばした。少女の体はごろごろと石床を転がり、壁にぶつかって、動きを止めた。全身を反吐に塗れさせ、四肢をあべこべの方向に向けた様子は、生ゴミと一緒に廃棄されたマネキン人形のようだった。

「おいおい、本当に死んじまったらどうするんだよ。可哀相だろうが」

 巨躯の男が、にたにたと笑いながら言った。

「死んだら、次のを攫ってくるだけじゃねえか」

 痩せぎすの男が、ぴくりとも動かない少女に向かって、

「だから、簡単に死んじゃあ駄目だぞぉ。お前が死んだら、どっかの誰かさんが辛い目に遭うんだからなぁ。君たち、お父さんとお母さん、学校の先生に教わったでしょう?他人に迷惑をかける人間は最低ですよぉ」

 二人は、再度げらげらと笑った。
 闇の奥から、少女の啜り泣く声が聞こえた。それは、恐怖のためであり、悲しみのためでもあり、何よりも悔しさのためであった。
 どうして自分達が、こんな目に遭わなければいけないのか。自分達は、ただ、この星を観光するために訪れただけなのに。あの時、別の観光地を選んでいれば。あの時、お父さんと一緒にホテルを出ていれば。あの時、優しげな青年の甘い誘いに応じていなければ……。
 いくつもの失われた選択肢が、自分達を地獄から救い出すための蜘蛛の糸だったのだ。そして最後まで気がつけなかったから、今、ここにいる。紛れもない地の獄に。
 少女達の無念が、固形化して漂っているような空間であった。
 それが、男達にはたまらない。
 自分達に向けられた怯えと絶望の視線にねじ曲がった支配欲を満足させ、二人は部屋の奥へと進んでいった。
 そこには、少女がいた。
 二人、いた。
 一人は呆然とした様子でへたり込み、ぴくりとも動かない、少女。げっそりとやつれ、窪んだ眼下に虚ろな瞳を浮かべている。明後日の方向をぼんやりと眺めたまま、瞬き一つしない。先ほどの騒ぎにも、気が付いているかどうか怪しいものだ。ショーケースに収められた人形のように、ただ一点をじっと眺めている。
 一人は俯せに寝転がったまま、ぴくりとも動かない、少女。見事な黒髪が放射状に広がり、処女雪のように滑らかな背中を飾り付けている。その少女の二の腕には、青紫色の小さな痣がいくつも出来ている。注射の痕だ。その証拠に、青痣の中央には、赤黒く固まった小さな瘡蓋が浮かんでいた。
 その少女は、奴隷のように、手足を、太い鎖で繋がれた鉄製の錠によって拘束されていた。手錠は後ろ手に嵌められているため、かたちの整った少女の尻が、重たい鎖によって歪に変形されられていた。
 二人の少女は、当然のように全裸だ。この部屋で着衣を許されているのは、支配者たる男達だけであり、奴隷であり愛玩動物でもある少女達には人間並みの尊厳など用意されていない。
 痩せぎすの男が蹲り、俯せに倒れた少女の腕を、ぐいと持ち上げた。黒髪の少女の小さな体はだらんと持ち上がり、首の据わっていない頭部が、ぐらぐらと揺れ、髪の毛がざわめいた。

「ひぃーふぅーみー……お、きっちり二十四回、お注射してあげたんだな。偉いぞー、えっと、名前は何てったっけ……まぁいいか、犬は犬なんだし」

 痩せぎすの男が、あっさり手を離した。
 二の腕をまだら模様にした少女の体は、石床に落下した。頭部と固い地面がぶつかり、寒気のするような音が響いたが、男達はおろか、当の少女ですら何の反応も示さなかった。男達はそもそも興味を持っていないだけであり、少女は反応を示すことすら出来なかったのだ。

「……助けて……」
「あん?なんだと?」
「……お願い、します……その子を、助けてあげて……。さっきから、全然動かなくなっちゃったの……このままじゃ、死んじゃう……」

 呆然と座り込んだ少女が、掠れた声で懇願した。
 本来であれば可憐な花のように可愛らしいはずの容貌が、無惨に失われている。それは、外面的に言えば極度の疲労と羸痩によるものであり、内面的には少女を蝕む罪悪感によるものだ。
 なぜなら、意識のない少女の腕に注射針を突き立て、その体に淫毒を注入し続けたのは、彼女なのだ。それが例え強制された行為であったとして、罪科の無い他者を苦しめる行いは、無惨なまでに神経を削り取る。
 少女は、まるで老婆のような表情で、巨躯の男の足に縋り付いた。

「お願いします……助けて……この子を、助けて下さい……」

 痩せぎすの男は、愉しくてたまらないという笑みを浮かべた。
 
「おいおい、助けてくれって、こいつをこんな様にしたのは、お前だろう?どの口でそんなことを言えるんだ?厚顔無恥ってのは、お前のようなやつのことを言うんだろうな」

 少女の顔が、絶望に染まった。

「ち、違うわ!わた、わたしは、こんなこと、したくはなかった!したくはなかったのに、あの男が……!」
「いーや、違わないね。自分が身代わりになるくらいの気持ちがあれば、断ることは出来たはずだぜ?」
「そ、それは……そんなこと、出来るわけがないじゃない!」
「そうさ、お前には出来なかった。要するに、お前は我が身可愛さに友達を売ったのさ。しかも、誤魔化すこともなく、きっちり一時間ごと、まる一日分も。もしもお前が友達想いなら、本数を誤魔化すとか、水で薬を薄めてやるとかさぁ、もう少し頭を使おうぜ、犬は犬なりに。それとも、この子が苦しんでいる間は自分は無事だとでも思ったの?いやぁ、それなら大したもんだ!犬に相応しい浅ましさだねぇ!」

 少女は、真っ青な顔のまま言葉を失ってしまった。口元は戦慄き、その横を、後から後から涙が伝い落ちていく。
 巨躯の男が、後ろから、少女の肩の上に顎を載せ、猫なで声で話しかけた。

「しかも、お前がお友達のその子に打ったのは、一本で大の大人が狂い死ぬっていう、拷問用の毒薬だ。ええ、おい。お前分かってんのか?お前が、この子をこんな様にしちまったんだぜぇ?」
「ち、ちが……わた、わたしは、悪くない……」
「違わねえよ。おい、しっかりと見てみろよ、この惨めな様子をよ」

 男が、倒れた少女の髪を鷲づかみにし、強引に引きずり起こした。
 そして、少女は、見た。あの、太陽のように朗らかだった少女の、今の有様を。
 部屋に、甲高い悲鳴が響き渡った。
 
「おいおい、ひでえな!友達の顔を見て、泣き喚いてんじゃねえよ!可哀相じゃねえか、この子がよ!」

 げらげらした笑い声は、どちらの男のものだったか。
 少女は、がたがたと震える体を掻き抱くようにして、崩れ落ちた。

「ごめんなさい、ゆるして、フィナ、ごめんさない……」

 少女の見た、フィナという少女の顔。
 腫れ上がった瞼が薄ぼんやりと開かれ、瞳は焦点を失っていた。
 がさがさになり、所々裂けた唇の端から、粘ついて糸引く涎が、垂れ落ちていた。
 だというのに、唇の端は少し持ち上がり、愉しげに微笑んでいた。夢の中で、愛しい人と再会したかのように。
 要するに、フィナと呼ばれた少女は、徹底的に壊れてしまっていたのだ。誰が見ても、既に手の施しようがないと分かるほどに。
 男達は、壊れた少女の顔を覗き込んで、堪えようのない笑みを浮かべた。気の強い女の、心の芯が折れた様というものは、何度見ても見飽きるということがない。自分達が所詮は男の慰み物に過ぎないのだということを理解していない女共に、この少女の顔を見せてやりたいものだ。
 
「ま、今日のところは俺たちも忙しいからよ、お前は一人で反省してろよ。また明日にでも、たぁっぷりと懺悔に付き合ってやるさ」
「汝の罪は、苦痛によって雪がれんってな!」
「おお、期待してろ!俺たちが、聖女ヴェロニカの愛の何たるかって奴を、骨の髄まで分からせてやるからよ!」

 男達は、満足げに立ち上がった。
 巨躯の男が、意識の無い少女の黒髪を、鷲づかみにしたまま歩き出した。少女は、散歩を拒む子犬が飼い主にそうされるように、ずるずると石床の上を引きずられていった。手足に嵌められた金属製の錠が、固い地面と擦れて、じゃらじゃらと神経の触る音を立てた。
 その様子をつまらなそうに見た痩せぎすの男が、

「おいおいハンクよ、その雌ガキ、仮にもルパートのお気に入りなんだからさ、もう少し丁寧に運んで差し上げたらどうだ?」

 熱の無い声で言った。

「ふん。こいつには、少し因縁があってな。本当なら、今にでもぶっ殺してやりたいところなのを、ぎりぎりで我慢してるんだ。これでもまだ紳士的ってもんさ。なぁ!?」

 ハンクと呼ばれた巨躯の男が、少女の髪を掴んだ右腕を、高々と掲げた。
 少女の体は容易く持ち上がり、足先はぶらぶらと宙を泳いだ。それでも目は虚ろで、何を映しているか分からない。自分の目の前にある男の顔を、ほんの少しだって認識していなかった。
 巨躯の男は、少女の顔に唾を吐きかけた。黄色く濁った粘つく液体は、少女の滑らかな額に命中し、そのまま白い肌の上をずるずると伝い落ちていった。

「因縁って、何だよ?」
「騎士団の支部の一つが、得体の知れない連中に襲撃されて、全員が半殺しにされたっていう話、聞いたことがあるだろう?」
「ああ、確か、二週間も前の話だろう?よくは知らねえが、反体制のテロリストの仕業っていう話に落ち着いたんじゃなかったか?」
「一応はな。だが、本当の犯人は、こいつと、もう一人の女だ」
「こいつが!?」

 痩せぎすの男が、驚きに目を大きくして、ずたぼろのウォルの顔を覗き込んだ。

「知らなかったのか」
「なるほどねぇ。そんじゃあ、因縁ってのは……」
「ああ。あの支部には、俺の弟がいたんだ」

 巨体の気配が、吹き出す怒気で更に膨れあがった。
 己の手で吊り下げになった少女を見る視線に、吹き出すような殺気が籠もっている。

「ひでえもんだったぜ。膝蹴り一発で、顔面がど派手に陥没。手術したって完全には元に戻らないだろうな。その上、ご丁寧なことに、きんたまを二つとも潰してくれやがった。もう、あいつは男として一生みじめに生きていくしかないのさ」

 男のまなじりに、うっすらと涙が溜まっていた。

「ルパートのお気に入りじゃなけりゃ、このガキも、弟と同じ目に遭わせてやるはずだったんだ。何の罪もないあいつを、酷ぇ目に遭わせた報いだ。親だって二度と見られない化け物みたいな顔に整形して、一生ガキの孕めねえ体にしてやるつもりだった。自分のしたことを、一生後悔させてやるつもりだったんだ。ああ、ちくしょう、くそったれめ!」

 男の怒号が地下階全体を震わした。
 彼らの背後で、罪なき少女達が気絶しかねないほどの恐怖に耐えていたのだが、巨躯の男は気が付きもしない。
 ふぅふぅと、荒く息をついている。
 それでも、怒りを声で発散出来たのか、息を乱しながらも平静を取り戻した様子の男が、にやりと笑った。

「だがまぁ、考えようによっちゃあ、その程度で済んでたほうが、この雌ガキにとっちゃあ幸せだったろうよ」
「そりゃあ、俺たちなんて、まだまだ優しいもんだぜ、あいつに比べりゃな」

 痩せぎすの男が、にたにたと笑いながら言った。
 巨躯の男は頷いた。

「なにせ、こいつはこれから、あのルパートの飼い犬になるんだ。しかも未来のご主人様は、こいつに相当ご執心ときてやがる。どう考えたって、楽に死なせてもらえるとは思えねえよ」
「死んだ方がましってか。ま、そうだろうな。あいつは、そういうことに関しちゃ、本当に天才だよ。好きこそものの上手なれってやつだな」

 今まで、ルパートの所業を誰よりも近くで見てきた二人が、同時に、同質の笑みを浮かべた。
 この少女がこれからルパートによって、どんな目に遭わされ、どんなふうに変えられてしまうのか。その様子を想像することは、生半可に少女を痛めつけるよりも、男の復讐心を満足させるのに効果的だった。

「ところで、これからこいつ、どこに連れて行くんだ?ルパートのベッドルームにでも縛りつけとくのか?」
「いんや、医務室だ。メディカルタンクに放り込むらしい」
「組織再生療法か?どうしてまた」

 痩せぎす男が、低く笑った。

「式を挙げるんだとさ」
「式?」
「結婚式だとよ」
「結婚式ぃ?」

 巨躯の男が、素っ頓狂な声を上げた。
 痩せぎす男は、仲間の驚いた様子に気を良くしながら、

「ま、結婚式の名を借りた、お披露目だろうな。ようやく手に入れた最高の奴隷を、いち早く自慢したくて仕方ないのさ」
「なるほど。要するに、またパーティを開くってことだな」

 この場所──城の地下室でパーティが開かれるのは、別に珍しいことではない。
 この城は大統領の居宅であり、当然の如く、そこには身分の高い人間が集まる。そういった際に酒と料理が振る舞われ、歓談と余興が場を盛り上げるのは、古今東西どの国でもお決まりの成り行きである。普通のパーティなら、日夜を問わずに行われている。
 だが、男達が言っているのは、そのように日の目の触れる宴のことではない。
 ルパートが、その同好の士を集め、自分達の成果──どれほど可憐な少年少女を、どれほど淫らに貶めたか──を競うための、宴のことだ。
 ルパートの父親は、もともとヴェロニカ共和国の政財界の大物であり、現在は大統領の椅子に座る大人物だ。その息子は、ほとんど義務として、社交界とそれなりの付き合いを持つ必要がある。
 そして、最も煌びやかな華舞台にこそ、最も深い闇は差し込むものだ。
 ルパートは、名流の士ばかりが集まるそこで、己の趣味と享楽を分かち合える朋輩を幾人も見つけた。そのいずれもが、表では高潔な人格者として知られ、公人としても私人としても、ヴェロニカ共和国の発展に貢献した人物ばかりである。
 中には、この国における孤児援助募金に名を冠された、高名な政治家もいた。その男は、国中から集められた善意の募金を私物のように使い、彼の資金援助に頼らざるを得ない貧しい孤児院を支配し、その中で見繕った美しい少女を慰み者としていた。
 人という生き物は、自身と同じ趣味嗜好を持つ仲間を、本能的に求める。その習性は、ルパートのような人格破綻者にとっても同じであった。いや、己が踏み外している人間だと自覚しているぶん、その傾向はむしろ顕著だったのかも知れない。
 ルパートを中心として、唾棄すべき小児性愛者たちのネットワークが出来上がるまでに、それほどの時間は必要でなかった。そして、コレクターにはままあることだが、彼らは常に自分の作品を他者に見せびらかしたがっている。そのための場所だって、常に必要としているのだ。
 当然のことではあるが、その趣味は、ひとたび明るみになればあらゆる意味で身の破滅を引き起こす、許されざる行いであることを、全員が承知している。成果の発表の場の選定は、細心の注意を払わねばならない。
 その点、この城ほど、その目的に適う場所は存在しない。何しろ、現ヴェロニカ共和国大統領の邸宅なのだ。もしも彼らの犯罪を嗅ぎつけた人間がいたとしても、恐れる必要はない。熱意に燃える現場の警察官では手の出しようがないのだし、もっと上層部であればいくらでも鼻薬を嗅がせることが出来る。
 この城の地下室が彼らの研究発表の場になったのは、むしろ必然であった。
 それらの事情を、ルパートの側近である二人の男も承知している。

「しかし、結婚式とは中々気合いが入ってやがるな」
「まぁ、神の前で永遠の愛を誓って指輪の交換をするような式にはならないだろうよ。むしろ、そういう式になったら俺は卒倒する自信があるね」
 
 巨躯の男は、右腕を激しく揺さぶった。
 少女の体が、中の詰まった買い物袋のように、ぶらぶらと揺れた。

「聞いたか、おい。良かったな、今からてめえの結婚式だとよ。お前の旦那さんは筋金入りの変態で、俺たちもひくくらいのサディストだ。夜の夫婦生活が淡泊になることだけはないって、保証してやるよ」

 その言葉を聞いても、髪の毛を鷲掴みにされて宙づりの少女は、ちっとも顔色を変えなかった。
 全身を弛緩させたまま、ぼうと、呆けた表情で微笑んでいた。体を揺さぶられた拍子に溢れた涎が、口の端をつうと伝い落ちた。
 二人は声をあげて笑った。

「なるほど、花嫁がこれじゃあちいと不味いわな!誓いの言葉が言えないのは仕方ないにしても、せめてこの馬鹿面を何とかしないことには、結婚式どころじゃねえぜ!立つどころか、犬みたいに四つん這いで歩くのも無理じゃねえか!」
「タンクに半日も放り込めば、ちっとは毒気も抜けるだろう。ま、今更毒気が少々抜けたところで、もとの人間に戻るとは思えないがね」
「そんなこたぁ、この顔見れば誰だって分かるだろうが。ぶっ飛んだヤク中のほうがまだ人間らしい表情をしてるぜ、こいつよりはな」

 二人は、あらためて少女の顔を覗き込んだ。 
 ルパートの激しい暴力に晒され、顔の所々が腫れ上がっている、無惨な顔だ。瞼はほとんどふさがっているし、綺麗なかたちの鼻の下には、ぱりぱりの鼻血がこびりついている。
 それでも、なお美しい、少女であった。
 顔の造作だけでなく、その奥から輝く気品のようなものと、その更に奥にある名状し難い何かが、少女を煌びやかに飾り付けている。
 組織再生療法の加護を受ければ、この程度の傷は、一時間と待たずに完治するだろう。その時、この少女は、一体どれほど美しく光り輝くのか。
 痩せぎす男の、骨の浮いた喉が、ぐびりと動いた。この瞬間、彼が何を考えていたのか、もう一人の男には、明らかすぎるほどに明らかであった。
 筋張った手が、わなわなと震えながら少女の肢体に伸びるのを、すんでのところで、巨躯の男が払い落とした。

「ミューレン、妙なことを考えるんじゃねえぞ。本気で殺されるぜ、お前」
「わ、分かってんだよ、そんなことは!誰が、ルパートのお気に入りに手を出すもんか!俺だって、まだまだ死にたくねえんだ!」

 ミューレンと呼ばれた痩せぎす男が、甲高い声で言った。
 どうやら彼らにとっても、ルパートの怒りは恐怖に値するらしい。おそらく、それを思い知らされるだけの事件が、過去にあったに違いなかった。
 痩せぎす男は、名残惜しそうに舌打ちし、しかしもう一度嫌らしく笑って、ウォルに顔を近づけた。
 
「おい、人の話を聞いてなかったのか!」
「い、いいじゃねえか、ちっと味見するくらいならよ」

 男の、切羽詰まった息がウォルの顔にかかり、前髪を揺らした。生臭く、酒臭く、何よりも薬臭い息だ。到底、快い気持ちになれる臭いではない。むしろ、ほとんどの人間は、我知らずに眉を顰めるだろう。
 それでも少女の、呆けた表情に色が差すことは、少しもなかった。
 痩せぎすの男は笑み崩れた口を開き、べろりと、驚くほどに長い舌を出して、少女の顔を、おとがいからこめかみまで、ゆっくりと舐め上げた。尖らせた舌先が柔い肌に埋まる感触を、男は心の底から堪能した。
 最後に、こめかみから耳へと舌を滑らせ、耳たぶを口に含んでたっぷりとねぶり上げてから、男はようやく口を離した。ちゅぽん、と、間の抜けた音が部屋に響いた。
 男は、己の唾液と少女の汗の混じった液体を、至福と共に嚥下した。

「いやぁ、い、いい味だ、この女は。思わずいっちまいそうになった」

 その言葉の証左として、痩せぎすの男の体がぶるりと震えた。瞳孔は拡大し、あまりの興奮に、満面に玉のような汗を浮かべている。

「ああ、いいなぁ。この柔らかい肌を、ナイフでずたずたにしてやりたいなぁ。このふっくらしたほっぺたに、ざっくりと穴を開けて、そこに俺のを突っ込んで、反対側に擦りつけてみたいなぁ」

 ぶつぶつと、尋常ではない様子で呟いている。
 巨躯の男は、呆れた様子で口を開いた。

「そこまでにしとけよ。ルパートは、異常に勘が鋭いんだ。これ以上手を出したら、絶対にばれる。俺は、巻き添えは御免だぜ」
「うん、分かってる。分かってるよ。分かってるに決まってる。でも、もう少しくらい、味見しても、いいんじゃないかな。うん、いいんじゃないかな。いいに決まってるよね、うん」

 人差し指の先をくわえ、獲物を見定めた蛇の視線で、じっとウォルを眺めている。
 巨躯の男は、うんざりとした。まったく、どうしてこの自分が、この男と一緒にいる間だけは、安全弁の役割を演じなければいけないのか。もしもこの場を訪れたのがこの男一人であれば、自分が吊り下げている少女の命運は、正しく今の瞬間にでも終わっていたはずである。その時はこの部屋全体を、噎せ返る淫臭すら掻き消すほどの、濃密な血臭と臓物臭が覆っていたであろう。
 大男は右腕を一番高く掲げ、少女をいっそう高く吊した。左手は反対に、宙に揺れる少女のつま先に伸ばした。

「よいしょっと」

 男の呟きと、べりっと、テープを剥がすような音がしたのが、ほとんど同じタイミングだった。

「あぐぅっ!」

 短い悲鳴が、だらしなく開きっぱなしの口から放たれた。
 吊り下げられた少女が、一瞬、激しい苦痛に大きく目を見開き、体を硬直させた。
 しかしそれは、本当に一瞬だったので、男達は二人とも気がつかなかった。

「おらよ、こいつでもしゃぶってろ」
「うん、ありがとう、うん、やっぱり持つべきものは友達だよな」

 巨躯の男が放り投げた、指先ほどの赤黒い塊を、痩せぎすの男は口でキャッチした。
 もぐもぐと顎を動かし、至福の表情を浮かべている。
 巨躯の男は、肩を竦めて、右腕を下ろした。どさりと音がして、何分かぶりに少女の体が地面を取り戻した。

「さ、行こうぜ。どうせルパートのこった、こいつにだってさっさと飽きるさ。保って一ヶ月ってところだろう。その後で、俺たちがたっぷりと可愛がってやろうぜ」

 痩せぎすの男は、口中に広がる濃密な血の味を楽しみながら、満面の笑みで頷いた。
 男達は歓談しながら、部屋の出口を目指した。ずるずると引きずられていく少女の、生肉の露出した右足の親指から細い血が流れ出し、石床の上に、ナメクジが這ったような跡を残した。

「さて、俺たちにお鉢が回ってくるまでに、こいつの体にいくつのピアスが付けられてるか、賭けようか。それとも、どんな柄の彫り物を入れられてるかのほうがいいか?それとも……」

 巨躯の男の笑い声が、闇の先へと消えていった。
 鋼鉄製の扉が、重たく軋み、再び閉ざされて、部屋には静寂が戻った。
 多くの少女達は、安堵した。ああ、これで、今日も生きることが出来る。
 くすくすと、笑い声が聞こえた。黒髪の少女と友達になった、あの少女の笑い声だった。
 少女は、調子の外れた声で、狂ったように笑っていた。
 


 ──……つん。


 境目を、たゆたっている。
 ゆらゆらと、遠くから、潮騒のざわめきが聞こえるような。

 ──……かつん。

 意識が、水面を、浮上し沈下する。
 水面に揺れる、気泡のように。

 ──……かつん、かつん。

 ああ、ここはどこだろうか。
 水辺。海岸線。船。
 宇宙。それとも、胎内。

 ──かつん。

 母の、羊水にぶかぶかと。
 いや、違う。
 俺は、そんな上等なものに、浸かったことはなかったはずだ。

 ──かつん、かつん。

 はじめて、俺という細胞が、この世に生まれたとき。
 試験管の中。
 培養液を母親に、電気刺激を父親に、俺は、生まれた。
 
 ──かつん、かつん、かつん。

 あいつも、そうだ。
 あいつも、そうだった。
 あいつも、あいつも、あいつも、あいつも。
 みぃーんな。

 ──かつん、かつん、かつん、かつん。

 父親はなく、母親もなく、兄弟もなく、姉妹もなく。
 家族もなく。
 だから、俺たちは、全員が、家族だった。

 ──かつん、かつん、かつん、かつん、かつん。

 家族、だった。
 全てだった。

 かつ。

「起きなさい、ケリー・クーア」

 感情の窺い知れない声が、ケリーを覚醒させた。
 甘い痺れの残る瞼を持ち上げれば、淡く揺らめく炎の灯りと。

「こんな状況で、よくそれだけぐっすり眠れるものね。感心するわ」

 初恋の少女が、いた。
 マルゴ。
 マルゴ・エヴァンスではなく、マルゴ・レイノルズ。
 それでも、同じ顔だ。茶色の、勝ち気な瞳も。少しきつめな目つきも。長く豊かな赤毛も。つんと上を向いた形のいい鼻も、艶やかで肉付きの良い唇も。
 何から何まで、ケリーの記憶の琴線と、同じ音を奏でている。
 そして、迷彩色で染め上げられた、その無骨な服装も。
 ただ違うのは、少女の胸元に、鎖を通された銀色の指輪が無いことだけ。なぜなら、それは、ケリー自身がマルゴ・エヴァンスに送ったものだからだ。
 上半身を壁に貼り付けられたケリーは、顎を持ち上げて、初恋の少女を見上げていた。

「……なんだ、あんたかよ」
「あら。ずいぶんと素っ気ないのね。初めて会った時は、あれだけ取り乱してくれたのに」
「初めて?俺たちが初めて会った時のことを、お前は、覚えているのか?」

 それは、いつだ?お前は、いつのことを言っている?
 まだ、言葉も、銃の意味も、知らない自分。
 目に映る全ての事象と、未知という単語が、同じ意味を持っていた時分。
 ケリーは、あどけない瞳で、自分の手を引いてくれる少女を、見上げていた。
 その、太陽によく映える、赤毛。
 勝ち気で、美しい微笑み。
 ケリーの、原初の記憶であった。

「覚えている?不思議なことを言うのね。わたし達が顔を合わせたのは、昨日が初めてで、それより前は一度だってありはしない。そうでしょう?」
「……ああ、そうだな、マルゴ・レイノルズ大尉。あんたの言うとおりさ。あんたの言葉は、嫌ってくらいに正しい」

 ケリーは、両手が拘束されているのが、どうにも残念だった。
 今は、照れ隠しに頭を掻く場面だ。そうでないと、何か、流す必要のない何かが溢れそうになる。
 それは、男の沽券に関わることだ。
 だから、ケリーは、あくびを一つ、溢した。それは、何とも言い訳にちょうどいい、行為であったのだ。

「で、あんたと顔を合わせるのは、これで三回目になるわけだが、何の用だい?」

 ケリーが、眠たげな、それともそう装った声で、問うた。

「あなたに、尋ねたいことがあった。それだけよ」

 マルゴは、ケリーの前に椅子を運び、腰掛けた。
 そして、手にしたカンテラを、ケリーと自分のちょうど真ん中に置いた。
 漆黒の皮膜を落とされた牢獄が、俄にその全容を明らかにした。
 ごつごつとした、岩壁。圧迫感のある、低い天井。人型に浮き上がった、黒々しい染み。上下左右のどこを見ても、およそ典雅や風流という言葉とは正反対の光景しか見当たらない。少女の背後にも、拘束する人間のいない鎖が、天井からだらりと垂れ落ちていた。
 ごそごそと、黒い影が列をなして、光の奥へと走り抜けていった。先ほどまで我が世の春を謳歌していたごきぶりが、突然の光に驚いて彼方へと逃げていったのだ。
 そんなものは、どうでもいい。
 ケリーは、目の前の少女だけを、見ていた。
 マルゴ。
 あの時と、自分が看取った時と、寸分も変わらない有様。
 その暖かな眼差しが、自分を、敵意と好奇心の綯い交ぜになった視線で射貫いている。
 牢屋には、二人だけだ。
 二人の視線だけ、無味乾燥な有様で、交錯していた。

「尋ねたいことがあるなら、聞けばいい」

 しばらくしてから、ケリーが言った。
 ぼつり、と言った。

「そうね」

 やはり、しばらくしてから、少女が言った。
 ぼそり、と言った。

「わたしは──」

 喉が詰まったみたいに、咳払いを一つ溢した。

「わたし達は、何者なの?」

 感情の籠もらない、少女の瞳。
 それが、赤々しい炎に照らされていた。
 ケリーは、冷笑を浮かべようとして、失敗した。
 真剣な表情と、怖い声で、答えた。
 
「えらく哲学的な問いだな」
「そうね。じゃあ質問を変えるわ。あなたは、わたし達のことを、何か知っているの?」

 腕を組み、足を組み、高圧的な姿勢なのに、その声色はどこまでも弱々しい。
 年相応の、少女の声だった。
 ケリーの知っている誰かに、よく似た、声だった。

「……知らないさ。あんたのことは、何一つ。なにしろ、あんたと俺とは、昨日が初対面なんだからな」
「じゃあ、わたしによく似た誰かのことでもいいわ」
「あんたによく似た、誰か?」
「そう。わたしによく似た、でもわたしではない、あなたの知っている、誰かさん」

 少女の、真剣な瞳。
 何かに縋り付きたい、縋り付くための何かを探している、瞳だ。
 ケリーは、内心で神を罵った。盛大に罵った。
 ちくしょう。いったい、どこのどいつだ。
 誰が、俺を、こんな目に遭わせやがる。
 俺が、何をしたっていうんだ。
 
 ──あんた自身が望んだとしても、他の何かがそれを許しちゃくれない。

 老人の声が、ケリーの耳道にこだました。

 ──あんたはどうしたって、一生、平穏な生活を送ることは出来ないだろう。

 呪いと、怨嗟に満ちた、声。

 ──ざまぁみやがれ。

 ああ、そうだ。
 あんたの言うとおりだ。たいそう満足だろう?
 俺は、今だってこんな泥濘の中で、必死に這いずり回ってるのさ。
 どこまで行っても、過去ってやつに、追いかけ回されているのさ。

「知らないの?それとも、わたしには話したくないの?」
「だとしたら、どうする?拷問でもして聞き出すかい?」

 マルゴは、首を横に振った。
 僅かに癖のある見事な赤毛が、静かに波を打った。

「あなたは、お父様の大切なお客様だもの。そんなこと、出来ない。ううん、出来たとしても、しない。そんなことをして聞き出しても、意味なんてないから」

 膝を抱えて、顔を埋めた少女。声は小さく震え、今にも消え入りそう。
 ああ、くそったれ、神は本当に不公平だ。それとも、真性のサディストだ。
 あんたが男と女を作った本当の理由は、こういう状況の男の苦悩を見て、楽しむために違いない。
 ケリーは、こみ上げてくる酸っぱい唾を、無限の罵詈雑言と共に飲み下した。

「……知って、どうする。別に、楽しい話じゃない。あんたは、どこの国のお姫様でもない。今更、誰かが助けに来てくれるわけでもない。俺の話を聞いたって、何一つ報われない。現実は、変わらない。それだけは保証してやる」

 マルゴは、相変わらず空虚な笑みを浮かべたまま、ケリーの瞳を覗き込んだ。

「……ええ、それでも構わないわ。どうせ、わたしに似た、どこかの誰かさんのお話だもの」
「……ああ、そうだな。俺の知る、どこかの誰かさんは、あんたじゃないんだものな」

 ケリーは、舌で乾いた唇を舐めた。土臭い地下牢に似合いで、ざらりとして、埃の味がする。
 どこか、あの戦場を思い起こさせる、懐かしい味だった。

「役者だったのさ。あんたに似た誰かさんも、そして俺も」
「役者?」
「もちろん、ただの俳優や女優じゃない。だが、一番近いのは、それだ。違うのは、俺たちは、自分達が舞台の上で踊っているのを知らなかったこと。そして、本当に、掛け値無しの意味で、命を賭けて劇を演じ、観客を楽しませていたこと。この二点だけだ」

 ケリーは語った。
 おそらく、今までの人生で初めて、自分の口で、自分の出自を、語った。
 自分がどのようにして生まれ、どのようにして育ち、どのようにして生きてきたか。
 戦場の記憶。休日に繰り出した、町の喧噪。初めて飲んだ酒の味。
 仲間。エヴァンスの姓で括られた小隊は、家族と同義だった。
 そして、初恋の少女。
 言葉となり、記号化された青春は、意外なほどに豊潤な味だった。それは、ケリー自身が目眩を覚えるほどに。
 空気に混じった血生臭さが、すっぽりと抜け落ちてしまっている。塹壕の頭上を、凄い音を立てて飛び交う銃弾の、死の気配がどこにもない。
 死体の臭いも、湯気の立つ腸の臓物臭も、焼けたエンジンのガソリン臭さも。
 全てが、どこにも感じられない。
 なるほど。思い出という言葉に、否定的な感情が付きまとわない訳だ。それとも、懺悔を繰り返す信心者が、救われた気持ちになるはずだ。言葉は、いつだってこんなにも甘ったるい。
 だが、それらが全て、まやかしだと悟る。
 永遠に失われた右側の視界と、永遠に失われた帰るべき家。家族。愛しい人。
 今や言葉は、そのまま灼熱と同義であった。まやかしの美しさは、砂漠に舞った新雪よりも呆気なく、姿を消した。
 東西ウィノア政府の裏切り。文字通り廃棄処分にされた敵、そして味方。ごみを埋めるための大穴、埋まっていくごみ達。
 自分達の生を娯楽にしておきながら、一切の責任を放棄した上層部。自分達をなかったことにしようとした、お偉方。
 羅列された事実が、喉を焼いた。喉の熱が全身へと広がった。
 地獄の熱さだ。ケリーは、その熱が、手首に嵌められた手錠を溶かすのではないかと、真剣に思った。
 復讐については、語らなかった。語る必要のないことだったからだ。何せ、それは彼女を忘れた世界の出来事で、彼女達には少しだって関わりがない。
 ただ、全てが吹き飛んだ惑星ウィノアの、日の出。赤い大地を黄金色に染めるあの瞬間だけは、どうしても伝えたかったが、どうせ言語化出来ないことを知っていたから、諦めた。
 ケリーは、語り終えた。時間にして、半時も経っていないだろう。人一人の人生なんて、その程度のものだ。ましてや、少年時代なんて、履歴書ならば三行で終わってしまう。半時も保たせられただけで、御の字だ。

「どうだ。何一つ、楽しい話じゃなかったろう」

 ケリーは、ひどい疲労を感じていた。吊り下げられた両腕が、じんじんと痺れて、感覚がない。先ほど感じた熱が、そのまま鉛に変わったように錯覚してしまう。
 少女は、一言も無かった。ただ、少し青ざめた顔で、ケリーの顔を見つめていた。

「……そう。じゃあ、わたしは、わたし達は、ウィノアの大虐殺によって廃棄処分にされた兵士の、クローンなのね」

 ケリーが、弾かれたように顔を上げた。
 そして、口を開き、戦慄かせ、しかし一言も口にせず、すぐに顔を下げた。
 今、自分は何を言おうとしたのか。
 下手なごまかしをしようとしたなら最低だ。慰めの言葉は、どれほど残酷だろう。
 だから、沈黙を選んだ。古来より、多くの先達が選んできたのと、同じ方法である。

「その子は、忠実で、有能な軍人だったの?」
「……俺の、先輩で、師匠で、上官だった。年齢を割り引けば、あれくらい有能な軍人を、俺は見たことがない」
「そして、国家に忠実だった」
「今考えれば、滑稽な話だがな」
「そして、国家に裏切られた」

 ケリーの顔が、凄烈に歪んだ。
 だが、マルゴは。
 微笑んでいた。

「──そう。よかったわ」

 笑っていた。
 少女は、嬉しそうに、笑ったのだ。
 椅子の上で体を折り曲げ、両手でお腹を抱えて、盛大に笑った。
 少女の、暖かみを感じさせる笑い声が、地下牢の隅々までに響き渡った。

「ありがとう、ケリー・クーア!あなたのおかげよ!あなたのおかげで、わたしは安心できた!これで、わたしは何の迷いもなく、お父様にお仕えすることが出来る!」

 まなじりに浮いた涙を人差し指で拭いながら、少女は心底幸福そうだった。
 それは、ケリーに恐れを抱かせるほどに。

「……安心した、だと?それは、どういう意味だ」

 背筋に薄ら寒いものを纏わり付かせたケリーが、掠れた声で問うた。
 彼の視線の先で、マルゴは、微笑んでいた。天使が浮かべるように、翳りのない微笑みで。

「言葉通りよ。わたしがそういう存在だと理解出来て、安心したわ。これで、安心して、お父様にお仕えすることが出来る……」

 少女は立ち上がり、両の手を胸に当てた。
 静かに目を閉じ、口元は淡く微笑んでいる。
 それは、祈りの姿に似ていた。

「わたしが心底恐れていたのはね、ケリー。わたしのオリジナルが、ウィノア政府に反逆して殺されたことなの。もしもわたしがそんな不良品のコピーなら、お父様にお仕えするなんて、恐ろしくて出来やしないわ」
「……マルゴ。お前は、何を言っている?一体、何を……?」」

 ケリーの頬が、戦慄いている。
 笑みを作りながら、しかし笑みにならない表情。
 
「わたしのオリジナルは、自分が信じるもののために死んだ。己の信念に殉じた。なら、そのコピーであるわたしも、そうやって死ねるに違いない。きっと、お父様を守って、お父様のためだけに死ぬことができる……」
「マルゴが……信じるもののために死んだだと?己の信念に殉じただと?お前は俺の話を聞いていたのか?何をどう聞き間違えれば、どうしてそんな結論になる?」

 マルゴは、うっすらと笑いながら、

「わたしのオリジナルは、国を守るために命を賭けて戦ったんだわ。違うのかしら?」

 違わない。
 俺たちは、無理矢理に戦わされていたんじゃない。それは、きっと彼女も。
 朝焼けに照らされた、燃えるような大地。
 その美しい光景を、眩しく眺めながら、マルゴは言った。
 この美しい光景を、守りたいのだ、と。自分達が、守るのだと。自分達は、この国を、邪悪な侵略者の手から守り抜くのだと。
 そうだ。それは、美しい信念だ。命を賭けるに足りる、重要事項だ。
 そうだったとしても。
 百歩譲って、そうだったとしても。

「信じているものが、国家が、死んでくれと言ったんだわ。そうしないと、国家が立ちゆかない、と。ならば、わたしなら、喜んで死ぬ。自分が死ぬことで、自分が信じたものが救われるなら。それが、信念っていうものなんじゃないの?」

 ケリーは、唖然としていた。
 この女は、何を言っている?
 理解が出来ない。
 この女は、何者だ?
 理解が出来ない。
 一体、誰だ?一体、何だ?
 
 恐ろしい。

「わたしには、オリジナルの気持ちがよく理解出来る。きっと、悔しかったのよ」
「……悔しかった」

 そうだ。
 悔しかったに違いない。
 全てを賭けて信じていた存在に裏切られ、見捨てられ、廃棄された。
 自分達の、命を賭けた死闘が、意味のない見世物に過ぎなかった。
 自分達の、人生そのものに、何の意味もなかった。喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも、幸福も、不幸も、生も、死も、全て、全て。
 全てを、否定されたのだ。
 それが悔しくなくて、何が悔しい。
 悔しかった、に、違いない。

「……当たり前だ。悔しいさ。悔しいに決まってる」
「そうね。国家が、自分達に死を強制したことが、きっと悔しかったに違いないわ。だって、そんなものは必要なかったんだもの。一発の銃弾があれば、彼女達は、誇り高く死ぬことが出来た。お前達が邪魔になったから死んでくれと一言言ってくれれば、何の躊躇いもなく死んだはずよ。わざわざ無粋な毒ガスなんて用意しなくても、ね」

 マルゴは、くすくすと笑った。

「わたしなら、迷わずそうするわ」

 うっとりとした笑み。

「お父様に死んでくれと頼まれたなら、何の迷いもなく死ぬことが出来る。だってそれは、間違いなくわたしだけにしか出来ないことで、そしてお父様は喜んで下さるんだもの」

 心の底から、嬉しそうに。
 
「だから、オリジナルが悔しがっているなら、きっとそれだけ。もしも自決を選ばせてくれたならば、オリジナルは完成することが出来たのよ。この世で最も忠実な兵士としての生を、完成することが出来た」

 そして、冷ややかな視線で、ケリーを睨み付けた。

「邪魔をしたのは、あなたよ、ケリー・クーア。いえ、ウィノアの亡霊」
「邪魔を……した……?」
「わたしは、あなたを軽蔑するわ」

 ケリーの、眼球の失われた右目が、ぽっかりと開いていた。
 まるで、そこに義眼が収められているかのように。
 義眼があれば、少女の心の中が、見通せると信じているかのように。

「あなたは、オリジナルの最後に、泥を塗った」

 呆然としたケリーを、マルゴは言葉の刃で切り刻んだ。

「オリジナルは、命を賭けて国家を守ったんだわ。最後には、それが自分の意思ではなかったとしても、正しく己の死をもって国家に忠実であろうとした。なのに、あなたは、彼女達が守ろうとした国家そのものを破壊した」

 カンテラの火がゆらゆらと揺れた。
 立ち上がった少女の影が、魔物めいた不気味さで、ゆらゆらと揺れた。
 蹲ったケリーの影は、まるで、魔物に捕食される、憐れな生け贄のようであった。

「あなたが、彼女の生を、台無しにした」

 ケリーは、その言葉の意味を、全く理解出来なかった。

「彼女達の忠誠を、台無しにした」

 台無しにする。
 台無しにするというならば、全てを台無しにしたのは、東西ウィノア政府のくそったれどもだ。特殊軍の生死を、テレビ番組の娯楽映像としか認識していなかったくそ蠅どもだ。
 だから、自分は。

「彼女は、きっと、ウィノアを愛していた。なら、ウィノアが消えて無くなるなんて、望んでいたはずがない」

 そうかも知れない。
 俺たちは、命を賭けるべき何かのために、命を賭けて戦っていたんだ。
 だから、自分は。

「あなたの復讐劇は、誰も望んでいなかった。ウィノアに住む無辜の民も、ウィノアで眠る勇敢な戦士たちも」

 知っている。
 そうだ。
 誰も、復讐なんて、望まない。

「あなたの行為は、誰も幸福にしなかった」

 当たり前だ。
 死者は、何も望まない。何かを望むのは、いつだって生きている人間だ。
 だから、何億人分ものウィノア人の生き血を欲した悪魔に、人間の名前を付けるならば、それはたった一人分の名前でしかない。
 そのことを、ケリーは知っていた。
 憐れな生け贄の影が、もぞりと動いた。自分の存在意義を思い出した生け贄は、既に生け贄ではなかった。
 影絵は、今や、二匹の化け物を表していた。
 天空より襲いかかる大鷲と、それを迎え撃つ大蛇。
 大蛇は、くすくすと、笑っていた。

「ああ、そうだな。そのとおりだ。俺は、俺自身で判断して、俺だけのために、俺のしたいことをしたのさ。別に、誰に気をつかったわけでもない。別に、誰に褒めてもらいたかったわけでもない」

 誰に、報いるためでもない。
 ただ、落とし前をつけさせただけだ。そうすることでしか、全てに裏切られた少年は、生きる手段を見いだせなかった。明日を見つけることが叶わなかった。
 例えそれが自己満足以外の何物でもなかったのだとしても。たった一度の自己満足のために、数億人の生け贄を必要としたのだとしても。
 彼には、もしも過去に戻ることが叶ったならば同じことを繰り返して恥じることは無いだろう、確信があった。
 
「俺は、俺が当然と思う報いを、俺が当然と思う人間に受けさせたのさ。ああ、それだけのことだ。例えそれが誰を不幸にしたところで、別に知ったことじゃあない」
「そのためだけに、あなたは、どれだけの人間を殺したの?」

 ケリーの眼は、露程も動かなかった。

「さぁ?考えたこともないね」

 マルゴは、嫌悪を露わにして、ケリーを睨み付けた。

「……あなたは、唾棄すべき人間ね」
「そうだな。全くもって、そのとおりだ」

 ケリーの、片側だけの瞳が、爛々と輝いていた。
 
「俺は、自分が上等な人間だって考えたことなんて、一度だってないぜ。いつだって他人を食い物にしてきたし、お天道様に顔向けの出来ない生き方ばかりしてきた。だが、俺は、いつだって俺の主人だった。誰に従属したことも、誰の操り人形になった例しもない」

 ケリーの視線は、もはや初恋の少女に向けるものではない。
 冷笑を浮かべたその瞳は、普段のケリーのそれだった。

「それは、俺の知っている、ウィノア特殊軍の人間だってそうだった。あいつらは、いつだって自分を自分で支配していた。だから、マルゴ・レイノルズ。言うまでもないことだが、あんたは、俺の知っているあいつらとは、全く別ものってことになるな。あんたの後ろに、糸が見えるぜ」
「糸?」
「ああ。あんたの動く様子に合わせて、誰かがあんたを操る、糸だ」
「……わたしは、わたしを支配しているわ。わたしは、人形なんかじゃ、ない」

 マルゴの脳裏に、あの、この世で一番の嫌悪に値する、軽薄な笑みが浮かび上がった。
 敬愛するべき父親の実の息子でありながら、何一つを受け継がなかった、最低な男。
 その薄っぺらな唇が、自分達を人形と呼んだ時の、あの、形容しがたいおぞましさ。
 違う。
 わたしは、人形なんかじゃない。
 自分は、娘だ。あの方を愛し、あの方に愛され、そして、いつかはあの方の胸の中で死んでいく。
 人形では、ない。わたしは、あの方の娘なのだ。わたし達は、あの方の子供なのだ。

「人形じゃないなら、ひよこだ」
「ひよこ?」

 マルゴが、予想外の言葉に目を丸くした。
 
「ひよこって、どういう意味よ」
「言葉通りさ。あんたは、ただのひよこだ」
「それは、未熟者っていう意味?」
「違う。いや、ある意味ではそうなのかな?」

 ケリーは、楽しげに首を傾げた。

「ひよこってやつは、殻から出て最初に見た物を親と思い込んで、何の疑いもなくひっついていく。刷り込みってやつさ。その必死な姿は何とも愛らしいがよ、見方を変えればひたすらに滑稽だ。玩具のラジコンカーだって、あいつらは親鳥だと勘違いをする。もちろん、ひよこはそのことに気が付きもしない」
「……あなたの言い方を借りるならば、わたしは、わたし自身で判断して、わたしだけのために、わたしのしたいことをしているのよ。そのことについて、あなたにとやかく言われる筋合いは、ないわ」
「ふん、恋愛の一つもしたことのない小娘が、一端の口を叩くんじゃねえよ。俺が男親だったら、びんたの一撃も食らわしてやるところだぜ」

 マルゴは、ケリーを睨み付けた。
 だが、開きかけたその口は、一言も発せず、溜息を一つ漏らしただけだった。

「何を言っても、無駄なんでしょうね」

 それに答える、ケリーの楽しげな口調。

「おや、それくらいは理解出来るんだな」

 馬鹿にしたような口調であったが、マルゴは、不思議と不快に感じなかった。

「価値観の相違ね」

 ケリーは、満面の笑みを浮かべながら頷いた。

「俺は、俺の価値観のためだけに、どれだけの人間を地獄に蹴り落としても罪悪感の一つも覚えない人間。あんたは、あんたの価値観のためだけに、あんた自身の命を投げ出してもいいと思っている人間。お互い、どこかおかしい」

 マルゴは、笑みを一つ溢した。
 
「あなたとは、もう少し違うかたちで出会えたら、どんなによかったでしょうね」

 ケリーは、口を開いて、何事かを言おうとした。
 その瞬間、二人の頭上で、何かが爆発する音が響いた。
 ずしん、と、腹に響く音だ。
 地下牢全体が重々しく揺れ、土埃が舞い、石壁の破片がぱらぱらと落ちてくる。
 
「一体、何が……?」

 マルゴが、天井を見上げながら、ぼそりと呟いた。
 くつくつと、男の低い笑い声が、マルゴの耳に届いた。
 視線を戻すと、ケリーが、俯き加減のまま笑っていた。

「何が、だと?わかりきったことを聞くなよ、ヴェロニカ特殊軍大尉どの。決まってるじゃねえか、戦闘だよ」
「戦闘?」
「ああ、ついに来やがったのさ。超弩級の危険物が、全てを台無しにするために、こんなところまで来やがったんだ」
「超弩級の危険物?」
「愛すべき、俺の女房だよ!ジャスミン・ミリディアナ・ジェム・クーアってえ名前の、人のかたちをした活火山だ!気をつけろよ、大尉どの!あいつは絶対怒ってるぜ、間違いなく怒っている!怒ったあいつは、ここら一帯を更地に変えるまで止まらない!この城も、この森も、この山も、全てが真っ平らになっちまう!下手すりゃこの星全体が焼け野原だ!」

 マルゴは、咄嗟に何と切り返すべきかを見失ってしまった。
 呆然と立ち尽くす、初恋の人間と同じ外見をした少女を、ケリーは精一杯の喜びをもって見上げながら、

「ほらほら、急げよ大尉どの!急がないと、あんたの戦場が、このでっかい城ごと無くなっちまうぜ!」

 言われるまでもない。マルゴは踵を返し、しかし落ち着いた様子で牢の外へと歩いた。
 その途中で、一度振り返り、ケリーを見て、

「自分の奥さんを、特大の危険物呼ばわりする旦那さんって、この広い宇宙でもあなたぐらいなんでしょうね」
「ああ、きっとそうだな。羨ましいだろう?」
「ええ、心から」

 そして少女は立ち去った。
 ケリーは、再び、瞼を閉じたような暗闇に、ぽつんと一人、取り残された。
 だが、確信がある。次にこの場所を訪れる人間は、きっと、そんじょそこらの男連中よりも、立派な体格をした女丈夫に違いない。その瞳は金色で、その髪は真っ赤で、その口は、きっと一番最初に、自分を手酷く詰るに違いないのだ。
 
「はてさて、いったいどんな言い訳をしたら許してもらえるかね」

 ケリーは、ぽつりと呟いた。
 何せ、ここは人目に触れにくい。怒り狂ったジャスミンがケリーに何をしたとしても、制止してくれる人間はおろか目撃者すらいないのだ。これほど恐ろしい状況が、他にあるだろうか。
 そして、ふと気が付いた。
 どうして、ここに、自分しかいないのだろうか。
 あの時、眠りに落ちる前、自分以外の人間が、誰か、いなかったか。
 老人の声。奈落の底から聞こえる、亡者のごとき声。
 それは、自分の真正面から放たれたはずなのに。
 さっき、少女の持ち込んだカンテラに照らし出されたのは、天井から垂れ落ちた空の鎖だけで、誰もいなかったはずだ。
 今も、誰の気配も感じない。この地下牢にいるのは、自分一人だ。
 では、自分に呪いの言葉を吐きかけていた人間は?
 どれだけ目を凝らしても、闇の向こうには闇しか見えない。
 しかし、誰かがいたのだ。それとも、人ではない、何かが。

 ──考えたって仕方がない。どうせ今の自分は、手も足も出ないのだ。怨霊ならば、黙って取り殺されてやるさ。

 ケリーは、呆れたような笑みを一つ溢して、それから黙って目を閉じた。今は眠っておくべきだ。どうせすぐに起きることになる。そして、嫌と言うほどに働くはめになるのだから。



[6349] 第五十七話:戦闘開始
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/14 21:48
 息も絶え絶えな様子で扉を開けた少年が見たのは、舞台の上で絡み合う二人分の肉体だった。
 大きなものが一つと、小さなものが一つ。
 大きなものが右で、小さなものが左。二つの肉体が、立ったまま、絡み合っている。
 大きなものが男で、小さなものは、本当に小さな、少女だった。自分の見たことのある、自分の愛する、少女だった。
 自分の見たことのある、自分の愛する少女が、純白のウエディングドレスを身に纏い、舞台の上で、見世物になっていた。
 きらきらと、ウエディングドレスにまぶされた金粉と、少女の汗が、スポットライトを跳ね返しながら煌めいている。
 幻想的な程に美しい舞台の上で、少女はおぞましい見世物になりながら、恍惚の表情を浮かべていた。
 少女の腕は、天井から伸びた鎖に吊らされている。ちょうど、屠殺され皮を剥がれた家畜が冷凍庫でそうされるように、少女は宙づりになっていた。
 少女の足は、男の腰に回されている。少しでも彼を己の深くに迎え入れるために、精一杯の情熱を込めて男の腰に絡みつく、少女の白い生足。
 男の腕は、華奢な少女の腰を、しっかりと抱え込み。額にじっとりと浮かんだ汗、張り付いた赤毛、苦痛に耐えるように、快楽に翻弄されるように、顰められた眉、ぽっかりと開け放たれた口。吐息に白さと官能が入り交じり、溶鉱炉のように、激しく吐き出されていた。
 放精するシャケみたいに、びくりびくりと痙攣する、歓喜に震えた男の背中。忘我の呻き声。
 二人を祝し、こだまする囃し声。拍手、拍手、拍手。
 少年の意識が、憤怒の色で真っ赤に染まった。



 敬礼をしながら不動の姿勢を崩さない兵士の横を、悠然とした車体が通り過ぎ、石畳とタイヤが擦れて、土埃が舞った。
 城門の前に、続々と、車が到着した。
 常ならば考えられないことだった。
 山間深くにある、隠れ城である。周囲を濃密な森林と崖に囲まれ、道は悪路しかない。普段ならば、一月も訪れる人間がいなくて当然の場所なのだ。
 だが、警備する兵士達は、奇異を覚えなかった。この国の大統領が代替わりし、この山城を自身の居宅として用い始めて以来、このようなことは何度かあった。どうやら、大統領の一人息子であり、青年実業家として名を知られるルパート・レイノルズが主催するパーティだか研究会だかに招かれて、多くの著名人がこの城を訪れるようになったのだ。
 今日も、おそらくはその集まりなのだろう。それが証拠に、駐車場に並んでいるのは、いずれもが共和宇宙全体でも名の知れた、超の付く高級車ばかりだ。売れば、一台で土地付きの家が買えて、なおお釣りがくるに違いない代物である。到底、安月給の一般庶民に手が届くようなものではない。
 その中の一台の、ぴかぴかに磨かれたドアが開くと、中から、素晴らしい仕立てのタキシードを纏った、恰幅の良い紳士が降りてきた。きっちりと櫛の入ったロマンスグレーの頭部と、整えられた口ひげ。さながら歴史上の偉人が肖像画から抜け出してきたような威厳と迫力がある。
 その厳めしい表情が僅かに和らいだのは、城門へと足を進める人間の中に、年来の友人の顔を見つけたからだ。

「そこを行かれるのはレニエ卿ではありませんか」

 その声に、シルクハットをかぶり特徴的なモノクルを付けた学者風の男が振り返った。

「おお、誰かと思えばジョラス卿!近頃は何の音沙汰もなかったので、心配していたところです。便りの一つも頂けないとは、無情にもほどがあるのでは?」

 レニエ卿と呼ばれた小柄な男は殊更悠然とした足取りで歩み寄り、ジョラスの手を熱心に握った。
 ジョラスは、頭一つ分も低い位置にあるレニエの非難の視線に対して、口ひげを歪めながらの苦笑いで応えた。

「音沙汰がなかったと仰るが、前に我らが顔を合わせてから、一月と時間は経っておりませんぞ。特別な慶弔もなし、便りを送る方が心配をおかけしようというもの。どうかご容赦下さいませんか?」
「そういえばそうでしたかな?いや、あなたと過ごす時間が充実している分、それ以外の時間があまりにも冗長に感じられましてな。どうかお許し頂きたい」

 レニエは、大して悪いと思うでもなく、快活に笑った。小柄な体格とひょうきんな性格が相まって、どうにも憎みきれない男であった。
 二人は、人の流れに沿って歩き始めた。城の構造上、車で立ち入れるのは城門のすぐ内までで、あとは自分の足で歩かなければならない。建物部分の入り口まで結構な距離になるが、歴史を刻まれた石畳とよく磨かれた革靴の奏でるこつこつという音が奇妙に楽しく、また、中庭の見事な造形が目に鮮やかなため、歩くのはさして苦ではないことを二人は知っていた。
 
「しかし今日はめでたい!見て下さいこの宇宙を映すほどに澄んだ青空!まるで若い二人の行く先を祝福しているようではありませんか!」

 レニエの芝居がかった言葉に、ジョラスはやはり苦笑を浮かべながら、

「全くもって。しかし、些か急なきらいは否めません。招待状が届いてから式までにもう少しの時間があれば、もっと人も集まったでしょうに。ルパート君ほどの青年のめでたき日に、祝う人数がこれだけでは少々寂しさを覚えますな」

 辺りを見回せば、二人と同じく正装に身を包んで城に向かう紳士淑女が、精々数十人。これでは、出席者の数は百人をどれほど超えるかといったところだろう。既に名声を得ている青年実業家であり、大統領の実子でもあるルパート・レイノルズの結婚式としては、あまりに控えめすぎる人数である。
 ジョラスの懸念も尤もなものではあったのだが、レニエは手にしたステッキをくるりと一つ回してから、大仰に鼻で笑った。

「これは、英明で知られるジョラス卿とも思えぬお言葉。よいですかな、まず、こういうものは思い立ったが吉日。身を焦がし溢れ出る情熱は、押しとどめようとするものではなく身を任せるべきもの。まして、ルパート君ほどの若者が、世間的な常識に身を縛られて吉日を遅らせた時こそ、私は失望を禁じ得なかったでしょう」
「ふむ、言われてみれば、それもそうかも知れません」
「加えて言えば、出席者の数など正しく取るに足らぬこと。真実の美と愛を理解せぬ俗物がどれほど集まり二人の門出を祝したところで、雀の群れが田畑で蚯蚓と突っつきながら囀る声と何が違いましょう。真にめでたい今日だからこそ、我らのように選ばれた人間のみで式を祝するべきなのです。違いますか?」
「さすがはレニエ卿。仰ること、一々ごもっとも。確かに、私が不明だったようです。なるほど、これは最高の式典になりそうですな」

 レニエは、さも当然というふうに胸を反らしたが、頬が笑み崩れている。自分の意見を認めてもらったのが嬉しいらしい。
 そして、大きく腕を広げて周囲を見回し、大きな声で言った。

「見れば、我らの同士のほとんどは幸いにも参加しているようでありませんか。式の知らせが届いたのは昨日の夜のこと。であれば、仕事も学会も、全てをキャンセルしてこの良き日に駆けつけたのでしょう。素晴らしい、素晴らしい友情と結束だとは思われませんか!」

 レニエの奇矯に慣れているジョラスは、別に驚いたりはしなかった。
 静かに頷き、

「これも彼の人徳と、真実の美と愛にかける情熱の深きが故でしょう。そして、我らは彼に対して無限の恩義がある。暗く埃臭い地下室で、一人怯えながら真実の探求をするしかなかった我らに、光当たる研究発表の場と、尊敬すべき輩を与えてくれたのは、偏に彼のおかげなのですから」

 レニエは深く、何度も頷いた。

「ならば、仕事や俗人との約束など秤に架ける価値もない。今日この日は、母親の葬儀に不義理をしても参加する価値がある」
「果たしてルパート君は、如何なる結婚式を執り行うつもりなのでしょうか。いや、年甲斐もなくわくわくしてしまいますな」
「まったくもって!」

 二人は道のど真ん中で高らかに笑った。
 しばらくの間、雑然とした世間話を交わしながら歩いたとき、思い出したようにレニエが口を開いた。
 
「そういえばジョラス卿。先日貴宅にお邪魔したとき、マギー号のお腹がずいぶん大きかったようですが、そろそろ臨月なのでは?」

 レニエの言葉に、ジョラスは相好を崩した。

「先日、無事に出産しました。元気な子犬が三匹も生まれましたよ」
「三匹もですか!それはおめでたい!確か、ムンドリ女史のマックス号の種でしたな。さぞ毛並みのよい犬に育つことでしょう。ちなみに、性別は?」
「雄が一匹、雌が二匹です」
「ほう、なんとも珍しい。なにか、薬を使われましたか?」

 ジョラスは頷いた。

「あれは中々子に恵まれませんで、すでにかなりの高齢になってしまいましたからな。少し無理をさせてでも、子を産ませてやるべきかと思いまして。無論、人の手を介した妊娠を、神が喜ばれないのは重々承知なのですが……」

 暗い表情を浮かべたジョラスに対して、レニエは大げさな声と動作で、

「何を仰るジョラス卿。マギー号は、確か、もう15才を越える老犬だったはず。ならばそれは仕方のないこと。むしろ、子を為さずに天へと召される悲しい命こそ、神は喜ばれますまい。マギー号自身、あなたに深く感謝をしているはずです」
「ええ、それは分かっているつもりなのですが……。ヴェロニカ教徒の悲しさですな、理性と感情の擦り合わせが中々上手くない」

 ジョラスは苦笑した。
 それを慰めるように、レニエが、殊更明るい調子を作りながら、

「しかし、それほど思い入れのある子犬ならば、全てご自身で育てられる?」

 ジョラスは残念そうに眉を顰め、太い首を横に振った。

「生憎、ケージがいっぱいなもので、成長した後のことを考えると中々。雄は、ムンドリ女史へのお礼にお送りしようかと思っているのですが、雌の方の少なくとも一匹は里親を捜さなければならないでしょうな」
「我々ブリーダーの、楽しさでもあり、つらさでもありますな。可愛い子犬に囲まれてずっと過ごせれば申し分ないのでしょうが、命に対して責任を持つ立場からすれば、どれほど後ろ髪引かれようとも彼らと別れなければならないこともある。お気持ち、十分にお察ししますぞ」

 悲しげにそう言ったレニエは、しかし嬉しそうな表情を浮かべて、

「そこで、ものは相談なのですが、その子犬の一匹を、私に譲っては頂けないでしょうか?」
「よろしいのですか?いや、しかし……」

 ジョラスは驚きながらレニエをまじまじと見た。

「確か卿のお宅には、既に十匹を越える犬がいたのではありませんか?無論、あなたのブリーダーとしての愛情と情熱を疑うわけではありませんが……」

 レニエは笑みを収めて、常の彼にはあり得ないほど真剣な表情を浮かべた。

「その点はご安心を。先日、私の愛する犬たちの一匹が、天に召されました。既に老衰甚だしく、日々衰え苦しみ続ける彼女が不憫でならず、この手で安楽死をさせた次第です……」
「それは……心痛さぞかしのことでしょう。心よりお悔やみ申し上げます」

 レニエはモノクルの嵌められた片目に色濃い悲しみを浮かべながら、

「お慰めの言葉、ありがとうございます。しかし、愛犬ソフィーも既に齢二十を超える老犬でありましたから、既に十分な一生を送ったものと思います。その上で高名なジョラス卿に弔いのお言葉まで賜れたならば、天の国で、本人もさぞ喜んでいることでしょう」
「いえ、彼女がそこまでの長命を授かれたのも、偏にレニエ卿の熱意と、日頃弛まぬ苦心と克己によるもの。同じく彼らに愛情を注ぐ立場の者として、感服します」

 ジョラスの口ひげが、沸き上がる感動に、細やかな震えを起こしていた。

「であればレニエ卿、先ほどのお言葉に否やはありません。我が愛犬の授かった新しい命を、どうか大切に育てていただきたい」
「おお、まことですか、ジョラス卿!ありがたい、必ず立派な淑女に育て上げてみせましょう!」

 二人は、熱い握手を交わした。
 彼らの周囲には多くの人間がいたのだが、二人を微笑ましげに見遣ることがあっても嘲笑を浮かべるようなことはなかった。なぜなら、この場に集まった人間の全てが、二人と同じ種類の情熱を有する人間ばかりだったからだ。
 唯一奇異の視線で二人を見たのが、警備に当たっていた兵士達である。
 数多くの議員をヴェロニカ国議会に輩出した家系に生まれ、自身も上院議員として三期連続当選を果たしているジョラス卿。原始移民の正統な系譜であり、学者としての名声を有するレニエ卿。この二人が、どうして犬の話如きでこうも盛り上がっているのか。
 固い約束を交わした二人が、足取りも軽く眼前に聳え立つ巨大な城へと向けて歩いくのを見守り、しばらくして辺りに誰の姿も無くなったのを確認してから、年若い兵士が呆れたように口を開いた。

「人嫌いで有名なジョラス卿も、変人で有名なレニエ博士も、犬のこととなると目の色が変わるらしい。俺みたいな無学者にはよく分からんが、犬ってのはそんなにいいものなのかね」

 兵士の同僚が、大して面白そうでもなく口を開いた。

「うちにも一匹いるよ。がきんちょが拾ってきた野良だがね。ま、食えば糞を垂れるし、散歩に連れて行かなきゃ機嫌も悪くなるが、それほど悪いもんじゃない。もちろん、あれほど入れ込むことでもないがね」

 犬の話をしていたのは、ジョラスとレニエだけではない。兵士達の前を通り過ぎるほとんどの人間が、さも嬉しげに、自分の飼い犬の従順であること、可愛らしいことを誇らしげに語り、子犬が生まれた、可愛い犬を拾ってきた、躾が大変だ、それが一番の楽しみだと語っていたのだ。
 一体どういう集まりかは分からないが、全員が相当の犬好きであることは間違いないらしい。

「趣味に熱を上げちまうのは、身分の上下に関わらず、人の拭い難き業ってやつなのかねぇ」
「ま、人様に迷惑のかからない趣味なら、他人がどうこう口出す筋合いじゃねえやな」

 そう言って、兵士達は貴人の群れから視線を外した。
 だが、兵士の前を通り過ぎた貴人達、彼らの言う犬が、実は人間のこと──しかも年端もいかぬ少女のことだったとして、兵士達は果たして平静でいられたのだろうか。

「そういうこった。さ、無駄口もここまでだ。上官はともかく、あの小娘に見つかったら何て言われるか分かったもんじゃねえからな」
「ヴェロニカ特殊軍とか名乗っておままごとしてる、嬢ちゃん達かい?別にいいじゃねえか、可愛らしくてよ」
「馬鹿言うな。あれでも隊長は大尉さま、俺たちからすりゃ雲の上の人間なんだぜ。こないだなんて酷ぇ目に遭ったんだ」

 兵士の一人が、強面で渋面を作りながら、

「昨日の夜半にちっと煙草を吹かしてたら、なってないだの弛んでるだの、小一時間も説教をくらっちまった。ったく、大統領の変な趣味がなけりゃ、あんな小娘の口は拳骨一つで黙らせてやれるのによ」
「煙草を吹かしてたらって、任務中だろう?そりゃあお前が悪いぜ。だいたい時期が悪い。何せ、件のテロリストが犯行声明を出したのが昨日の今日じゃないか。そんな時期に弛んだ様子で警備してるのを上に見つかったら、そりゃあ雷の一つも落ちるってもんだ」
「ったく、迷惑千万な話だ。連中も、せせっこましく憂国ヴェロニカ聖騎士団の支部でも潰して回ってりゃいいのに、どうしていきなり大統領暗殺なんかを宣い始めたかね」
「立て続けの成功に気を良くして、自分を一端の革命家だと勘違いし始めたのさ。血の気の多さだけは一人前の素人連中には良くあることだ。気をつけろよ、こういう連中が一番たちが悪い。下手すりゃ素手で革命が起こせると勘違いしかねない」
「なら、蜂の巣の死体がこの城の前に転がるだけだ。森の獣のおやつ代わりにちょうどいいだろうぜ」

 違いないと言って、兵士達は笑った。
 とにかく、いい天気だった。空は一点の曇りもない青空で、じっと見上げていれば吸い込まれそうなほどだ。大地に目を映せば、森の碧さはどこまでも深く、みっちりとした生命の気配を醸し出している。
 年若い兵士は、大きく伸びをした。これくらいなら見咎められることもあるまい。
 強く目を瞑り、全身の筋肉に真新しい血液が送り込まれる快美感に酔いしれ、そして薄く涙の浮いた瞼を持ち上げる。

「……ん?」

 微かにぼやけた視界、その奥に、何かが映り込んだ。
 どこまでも青く、遠い空の中に、小さな小さな黒い染みが。
 少しずつ、少しずつ、大きくなり、そして、どこからか聞こえる騒々しい音。

「……なんだ、あれは……?」

 訝しげな声。
 咄嗟に双眼鏡を覗き込むと、映し出されたのは、蒼天を背景に迫り来る、見紛う事なき戦闘ヘリの一団の、勇ましく猛々しい姿だった。

「……ちくしょう、素手どころじゃねぇ!やっこさん、とんでもないもんで来やがったぞ!」

 叫び声と、ロケット弾の着弾音が、ほとんど同時だった。
 戦闘の火ぶたが、切って落とされた。
 


『まず、貴様らに言っておこう。わたしは、貴様らが如き猥雑な卑劣漢どもと、せせこましく交渉する気もなければ譲歩する気など更々無い。これは一方的な通告であり、貴様らに異を唱える権利は無い。時間を引き延ばすのも無駄な努力だと知れ』

 画面の向こうから、冷ややかと呼ぶにはぴりりと痺れすぎる声が響いた。

『30分だ。30分の猶予をくれてやる。それをたったの一秒でも過ぎれば、全てのヘリのロケットタンクを空っぽにするための号令を、わたしは下すだろう。その時に、この石造りの城が元のかたちを保っているか、そして貴様らの飼い主がこの世に生きていられるか、よく考えるんだな』

 ざらざらと線の走った画面に映り込んでいるのは、パイロット用のヘルメットを被った、勇ましい女性だった。ヘルメットに収まりきらなかった豊かな赤毛が、炎の滝のようになって女の頬と首元を飾り付けている。金色に輝く瞳が、無機質な敵意に爛々としている。
 女である。声も、柔らかな顎のラインも、全てが女であることを告げている。
 しかし、この映像を見て心安らぐ者、胸を撫で下ろす者は一人としていなかった。それほどに、この女が百戦錬磨の闘士であることは一目瞭然だったのだ。
 つい今し方コントロールルームに到着したバスク大佐は、大型犬の吠え声にも似た唸り声を上げながら、司令官席にどかりと座った。

「卑劣なテロリストの首魁如きが、何を偉そうな!しかも、神聖なる男の戦場に、女の分際で立ち入りよってからに!作り涙の一つでも浮かべれば手心を加えてもらえると勘違いをしたか!愚かしい!身の程を弁えろというのだ!」

 長年の現場経験と弛まぬ訓練によって獲得した豊かな声量を存分に発揮して、バスクは盛大な罵声を飛ばした。
 苛立ちに任せて、机の上に足を載せた。軍用ブーツの硬い踵が思い切りに振り下ろされ、コーヒーカップが控えめなステップを踏むはめになった。
 普通ならば、司令官たるもの内心を部下に悟らせないため、能面のように表情を変えず沈着冷静を装わねばならないものだ。しかしこの司令官は、いつだって内心のあるがままを──しかも特別強気な部分のみを表していたから、今更部下達は驚いたり動揺したりすることはなかった。

「で、テロリストどもの要求は!?」

 熱々のコーヒーを一気に煽りながら、怒声と変わらぬ声でバスクが言った。
 通信兵の一人が、大佐の方に顔だけを向けて、

「この城に監禁されている、三人の同士の即時無条件の身柄解放。この要求が呑めないならば、大統領の居宅が、その主人と共にこの地上から姿を消すことになると言っています」
「洒落臭いわ!」

 空のコーヒーカップを思い切り机に叩き付けた。白い陶器はその瞬間に道具としての使命を終え、無数の破片となって宙を舞った。

「テロリストどもの戦力は!?恐れ多くもヴェロニカ共和国の大統領の居宅を標的にしたのだ、戦闘ヘリの一機や二機ならば許さんぞ!」
「これをご覧下さい、大佐殿」

 オペレーターが危機を操作すると、壁一面を埋め尽くす大型スクリーンが、女の顔から無機質な地図へと切り替わった。
 バスクには、あまりにも見慣れた地図だ。目を瞑っても正確に描くことができるだろう。この山城を中心とした、精密な地形図である。
 だが、常ならば等高線と地形線だけで構成されるはずの地図の上に、無数の赤い点が浮かんでいる。山城を中心として赤い点が群がる様子は、砂糖菓子の上で狂喜する黒蟻のようだった。
 無論、今、城を包囲しているのは黒蟻ほど可愛げのあるものではない。赤い点の一つ一つが、高度な戦闘力を備えた戦闘ヘリなのだ。
 剛胆なバスクも、流石に息を飲んだ。
 
「百……?それではきかんか。いったい、どうすればこれほどの戦力をたかがテロリスト如きが用意出来るのだ?いや、そもそもどうやって誰にも悟られずにこの場所に集結させた?」

 これほどの戦力を一箇所に集中させようとしれば、当然目立つ。ヘリ本体だけでなく、その操縦士、動員する兵士、弾薬、燃料、その他いくらでも人目を引く要素はある。
 それを、警戒態勢にある軍の目をかいくぐり、魔法のようにこの場に集結させたのだ。常識で考えればありうべきことではない。
 しばし呆然としたバスクだったが、すぐに思考のチャンネルを切り替えた。今は真実を追究する場面ではない。目前に差し迫った火の粉を、どのように料理するかを考える時間である。

「救援要請は出したんだろうな!?」

 バスクは、剛胆ではあったが無謀ではなかった。
 この城には、通常のテロリスト程度であれば草を刈るように撃退できるだけの戦力が備えられているが、だからといってこれだけの物量を動員できる正体不明の敵と単体で戦うには、どうしても不安がある。
 この場合、友軍に助けを乞うのは恥ではない。寧ろ、自軍の戦力を過信し、独力での戦闘を継続すれば、例え勝利が我が物となったとしても非難を免れないだろう。
 上官の声に通信兵が無表情のまま頷き、

「総合指令本部及び周辺基地への敵襲連絡と救援要請は完了しております」
「救援はいつ来る!?」
「およそ30分ほどで」
「遅いわ!昼寝をした驢馬だって、もう少し機敏に動くだろう!」

 身の程を弁えないテロリストが大統領宅に対して不遜な企みをしていることは、既に周知されているはずだ。そして、襲撃の危険が差し迫っていることも。
 にもかかわらず、この初動体制の遅さは何事か。この城の防備を増強しただけでもう十分と決め込み、胡座を掻いて欠伸でもしていたというのか。
 バスクの顔は、赤みを通り越してどす黒く変色しかけていた。

「当方の被害状況と戦況を簡潔に説明しろ!」
「数発のロケット弾が撃ち込まれ、跳ね橋が落とされました。現在、大型車両の出入りは不可能な状況です」
「あちらから出入り口を塞いでくれたわけか。ふん、むしろ好都合だわ」

 これで、テロリストが城内に侵入するとしれば、その方法は極めて限られる。
 城壁をよじ登るか、それともヘリから降下するかだ。ヘリを着陸させるのは、平地の少なさから困難を極めるだろうし、その瞬間に集中砲火を浴びることを考えればあちらが余程の大馬鹿でない限り、選択肢としては選ばないだろう。
 
「それだけか!」
「城内及び外壁に数発の焼夷弾が打ち込まれ、現在延焼中です」
「焼夷弾だと!?奴ら、自分の仲間ごと我らを焼き殺すつもりか!」
「いえ、城本体に打ち込まれたわけではありません。兵士の見張り小屋や砲台など、外周に点在する施設が攻撃を受け、数名の怪我人が出ておりますが、城本体への延焼までは至っておりません」
「なるほど、その程度の分別はあるということか」

 バスクは少し考え込み、

「現在生きている監視カメラの全ての映像を映し出せ!」

 オペレーターは上官の指示に忠実に従った。
 大型画面がいくつにも分割され、その一つ一つに監視カメラの映像が映し出された。
 しかしそのほとんどが、墨を流し込んだように黒塗りの映像ばかりである。

「何だこれは!どうしてこれほどのカメラが破壊されているのだ!」
「大佐、これはカメラの故障ではなく、焼夷弾の黒煙によるものと思われます」
「ふん、なるほどな。やつら、こちらの目を奪うために焼夷弾をまき散らしたか」

 そして、こちらを恐慌状態にしておいて、交渉を有利に進めようという腹づもりか。
 それとも……。
 
「まさか、全てのカメラがやられたわけではあるまい。生きているカメラの映像を拡大しろ」

 細分化された画面が、いくつかの大きな枠に組み直されて映し出された。
 そこには、濛々と立ちこめる黒煙が映し出されてはいたが、先ほどの映像のように真っ黒に塗りつぶされているわけではない。腹が立つほどに青い空と、そこを埋め尽くす戦闘ヘリの群れがはっきりと見て取れる。

「現在、テロリストどもは何をしているか!?」
「身柄解放の期限を30分後に指定しておりますので、現在は小康状態を保っております」
「やつらの馬鹿げた交渉になど付き合う必要はない!どのみち、やつらがこの城を本気で破壊できるはずがないのだ!あれだけのヘリをかき集めたのも、ただの示威行為に過ぎん!弾幕を張れ!ヘリを、決して城の真上に近づけるな!降下作戦を許せば厄介だぞ!」
「遅くなりました、大佐」

 バスクの怒号と共に、緊迫した司令部には不似合いの高い声が聞こえた。
 バスクは大仰に振り返った。
 そこには、少女がいた。赤毛の、利発そうな顔立ちの少女だ。

「遅いぞ、マルゴ・レイノルズ大尉!いったいどこで昼寝をしていた!それとも、男の隣で朝寝を決め込んでいたか!」
「まことに申し訳ありません!」

 直立不動の体勢をとったマルゴであった。
 これは、叱咤を受けても文句の出来ない状況であった。この城の警備上の総責任者はバスク大佐であるが、実務上の指揮を司るのはマルゴだったからだ。
 バスクは盛大な鼻息を漏らしたが、そこまでで怒りの矛を収め、マルゴを蚊帳の外に置こうとはしなかった。今までの訓練やこれまでの戦績から、この少女が見た目通りの存在でないことを知っていたからだ。
 バスクは簡潔に状況を説明した。マルゴもそれを良く理解した。

「敵から送られてきた通信映像を再生できますか?」

 バスクが顎で合図を送り、オペレーターがそれに応えた。
 画面一杯に、赤毛の女性の顔が映し出される。

「どうだ、見覚えがあるか」

 マルゴは頷いた。

「間違いありません。現在この城の地下で身柄を拘束している人物の、配偶者です。まさか本当にあの男を奪い返しに来るとは……」
「愛する夫を救う女騎士気取りというわけか。全くもって気に食わん」

 バスクは唸り声を上げて、

「して、レイノルズ大尉。貴官はこの状況をどう考えるね」
「……これほどの戦力を集中させて、厳戒下にある大統領邸宅を狙う輩です。他の基地からの救援に対しても、何らかの対抗策を練っている可能性が非常に高いと思われます」
「同感だ。一応の保険として救援要請は出しておいたが、それを当てにしているわけではない。我らのみで、あの不逞の女を引っ捕らえるか撃ち殺すかして、旦那の前に引きずり出すべきだろうな」
「基本的に、時間は我らの見方であると考えるべきでしょう。しかし、追い詰められた敵が衝動的な行動を取る前に、速やかに制圧できるよう行動すべきです」
「なるほど貴官の言うとおりだ。しかし、その方法は?」
「敵に勝る圧倒的な戦力で叩きつぶす。ただそれだけです」

 その瞬間、轟音と強い振動が司令部に伝わった。
 頑丈な造りの司令室の天井から、ぱらぱらと土埃が降ってきた。

「大佐!全ての砲台がやられました!」

 バスクが怒りと屈辱に顔を青ざめて、マルゴの顔を覗き込んだ。
 幼子であれば視線を向けられただけで失神しかねないバスクの凶相を見ても、マルゴは針の先ほども表情を変えなかった。

「……あてがあるのだな」
「はい」
「ではやってみろ。失敗は許されんぞ。貴官の双肩に、大統領の安全とヴェロニカ共和国軍の誇りがのし掛かっていると思え!」

 マルゴは応えなかった。
 無言でコンソールに歩み寄り、回線を特殊軍用のチャンネルに合わせる。

「みんな、準備はできた?」

 少女の呼びかけに、

『おう、いつでもいけるぜ』
『こっちもよ』
『遅すぎて眠っちゃうところだったよ!』

 バスク大佐も含めて、コントロールルームに居合わせた全ての人間が言葉を失った。
 それほどに、スピーカーから聞こえた声は、あまりに無邪気で、あまりに幼すぎたのだ。
 呆然とする周囲、しかしマルゴは、

「目標は空に群がる雲霞の群れの全て。ただし、指揮官だけは生かして捕らえること。いいわね!」
『でも、指揮官機ってどれなのさ?それがわからないと、全滅させちゃうよ?』
「今からデータを送るわ。通信兵、さきほどの映像がどの機から送られてきたか、分かりますか?」
「あ、はい、逆探知には成功しています」
「なら、そのデータを彼らに送信してください」

 通信兵は、自分の娘と変わらない年頃の娘の指示に、忠実に従った。
 
「これで分かった?この機以外の全ては撃墜して構わないわ。簡単なことでしょう?」
『うん、すごく簡単だ!』
『こら、調子に乗っちゃだめよアデル。わたしとザックスの動きに合わせて、きちんと連携すること!分かった!?』
『分かってるって、心配性だなぁアネットは』
『そろそろ出撃していいか、マルゴ。これに繋がってると、あまり長い間じっとしているのが苦痛なんだが』
「分かりました。特殊軍機甲兵小隊、出撃を許可します」

 あくまで冷静さを保とうと努めたその声に、微かな感情の震えが籠もる。
 それは、圧倒的な力を思う存分に振るうことを許された、強者の快楽がもたらす興奮だった。
 次の瞬間、カメラのいくつかに、黒い巨人の影が映り込んだ。
 機甲兵。
 総重量10トンを越える、金属の騎士である。
 その逞しい勇姿に、司令部の幾人かが歓声を上げた。地上兵器対空中兵器という不利はあるが、今あの忌々しい戦闘ヘリの群れに対応できるのは、機甲兵を除いて他にないのだ。常日頃、特殊軍と呼ばれる少年少女に対して抱いていた蔑視の念などどこぞに放り出して、純粋にその存在を心強く思った。
 その視線の先で、驚くべき事が起きた。
 機甲兵が、飛んだのだ。
 跳ぶ、ではない。まさしく宙を舞い、空中で──戦闘ヘリの土俵の上で、戦闘を始めた。
 地上の遮蔽物に隠れながらの狙撃戦を予想していた兵士達から、非難の声が巻き起こった。

「馬鹿な!何を考えているんだ!」
「狙い撃ちにされるぞ!」

 然り、ヘリから無数のロケット弾が放たれる。一撃で頑丈な戦車をスクラップに変える代物だ。当然、いくら頑丈な機甲兵といえど、正面から喰らえば無事では済まない。
 これで万事休すかと思われたその時、またしても驚愕の叫びが司令部を席巻した。
 空中で、地上戦用の機甲兵がひらりと舞い、ロケット弾の群れをいとも容易く躱してみせたからである。それも、一度ではない。幾度も、波状的に襲い来るロケット弾の雨霰を、右へ左へ、上へ下へ、曲芸的とも思える三次元の動きで躱し続けている。
 まるで、黒い機甲兵の周りだけが重力遮断されたように、自由自在の動きだった。

「嘘だろう!?」
「何だ、今の動きは!重力下戦闘で機甲兵ができる動きじゃないぞ!」

 機甲兵は、戦車の破壊力と歩兵の機動力をコンセプトとして、市街戦を想定して開発された機動兵器である。無重力環境の局地戦に特化した機体もないではないが、基本は地上、それも遮蔽物の多い地形での運用を念頭に開発が為されていることに変わりはない。
 当然、高い機動性を持たせるために高出力のブースターを有してはいるものの、それはあくまで駆動の補助的な役割を持たせるためのものであり、空中戦を可能にさせるほどの出力も持続時間もないものである。
 では、今、目の前で展開されている、機甲兵の華麗な動きはどういうことだ。
 加えて言えば、その反応速度が尋常ではない。ヘリがロケットを発射した瞬間に、あの機体はその射線から身を躱している。まるで、操縦者という概念が存在しないかのようだ。あの機体そのものに命があり、機体そのものが思考しているのではないかというように、反応速度がずば抜けている。
 既存の機甲兵と同じ枠に含めるのがためらわれるほどの回避性能、機動性であった。
 
「マルゴ大尉!説明しろ、あの機甲兵は何だ!一見するとHYDRAシリーズの後継機のようだが、設計のコンセプトが全く異なる!第一、あんな機体は共和宇宙軍の最新鋭のカタログにだって乗ってやしないぞ!貴官は、あの機体をどこから手に入れた!?」

 佐官を拝命するまでは機甲兵乗りとして辺境海賊の制圧に従軍していたバスコは、声を限りに問い質した。

「わかりません」
「わかりませんだと!?自分の乗っている機体の型番も知らんなど、そんな馬鹿げたことがあるものか!」
「我々に支給された機体は、全てヴェロニカ共和国の国費で賄われているものです。当然、然るべきルートから入手したものと思われますが、私はその詳細までを知りません」

 バスコの質問に、マルゴは冷ややかに応じた。
 
「ただ、あの機体は、ヴェロニカ軍とクーアカンパニーの共同開発による試験機だという話は聞いております。無論、他言は無用に願いますが……」
「クーアカンパニーだと!?……なるほど、しかしどうしてそんな化け物が、こんな田舎に配備されてやがるんだ?」
「さぁ、そこまでは……。ただ、搭乗者の脊髄神経と機体の動きを直接同調させる操縦システムを採用していること。そして、超小型のクーアシステムを搭載し、理論的には無限のエネルギーを運用可能であること。この二点をもって、今まで実戦投入されてきた機甲兵とは全く別物の兵器であることは確かです」
「……まるで、出来の悪いSF小説の世界だ。しかも、そんな機体を操縦しているのが、貴官のように年端もない子供か……。世も末だな。それとも、俺のような人間が時代遅れの骨董品なだけか」

 バスクはもちろん、マルゴも知らされていないことであったが、クーアカンパニーの兵器開発部門とヴェロニカ共和国は、今を正しく蜜月の関係にあった。
 兵器の開発は、試行錯誤と実験、そして失敗の連続である。当然の如く大きな研究開発費が必要となる部門であるし、ある程度は会社もそれを含んだところで会社を運営しているものだ。
 しかし、成功するかどうかもわからない新技術の開発のために費やすことのできる予算は、当然のことながら限られてくる。それがトリジウムのような超の付く高額の原材料であった場合、おりる予算は限られたものにならざるを得ない。
 研究者は、日夜歯がみしていた。もっと大量の資源があり、もっと自由な研究が出来るならば、兵器の質は格段に向上するのに。
 そして、ヴェロニカ共和国には、無論表に出せないものではあったが、大量のトリジウムが埋蔵されている。しかし、そのトリジウムを効果的な兵器として運用するだけの技術力がない。
 二つの要望は、それを繋ぎ止める人間さえいるならば、容易く結びつくものだったのだ。
 そして、現在のヴェロニカ国の大統領には、極めて顔の広い有能な秘書官がいる。研究開発された機体を横流ししてもらうくらい、何ほどのことでもない。
 つまりは、そういうことだった。

「それにしても……見れば見るほど、馬鹿げた性能だ、あれは」

 スクリーンでは、虐殺と言い換えることも可能なほどに一方的な、戦闘が繰り広げられていた。
 黒い機甲兵の機体の各所に付けられた大型のスラスターからジェット噴射が起きる度に、10メートルを超えるはずのその機体が、まるで花びらか妖精のように、ひらりひらりと宙を舞う。戦闘ヘリの照準は、到底その動きについていけない。
 そして、ヘリの攻撃の合間合間に、黒い機甲兵の構えたライフルから荷電粒子砲の目も眩むような光線が放たれ、その光に貫かれた憐れな獲物が爆発を起こして墜落していく。
 全て、大量のトリジウムを惜しげもなく使用したことにより小型軽量化されたクーアシステムから供給される無限のエネルギーと、機体と操縦者の神経系が直接連動するように設計された運動性の為せる業であった。
 先ほどまで城に食らいつくピラニアの群れのようだったヘリ部隊は、もはや狼に食い荒らされる羊の群れと同義であった。たった三機の黒い機甲兵に追い散らされ、今やどうにかしてその牙から逃げるのに必死だ。

『こんなもんでいいんじゃないかな、マルゴ?』

 またしても無垢な声が通信機から聞こえた。
 この、まだ変声期に至らない幼声の持ち主が、何機もの戦闘ヘリをスクラップに変え、その搭乗員を地獄に追いやったのだ。
 司令室にいた兵士のほとんどが、薄ら寒い恐怖感を味わった。

「いいえ、まだよアデル。このくだらない戦闘の首謀者を捕まえるまで、あなたたちの任務は終わらないわ」
『えーっ、もう疲れちゃったのにな、僕。分かったよ、えっとどの機体だっけ?』

 画面に映し出された機体の一つが、頭部の前に手を庇のように構えて、ぐるりと周囲を見回した。まるきり、人捜しをする子供の仕草である。
 
『んー……と、あ、いたいた!』

 無邪気な声が、嬉しそうに響く。
 そして、アデルという名の少年の駆る黒い機甲兵は、最大限の出力で、今まさに戦場から離脱しようとしていた一機のヘリに迫った。

『待て待てー!逃げたりしたら駄目なんだぞ!敵前逃亡は死刑だー!』

 待てと言われて待つ馬鹿者はいない。ヘリは機体を前に傾けて、全速力で戦線を離脱していた。当然、追いすがる敵に向けて、ロケット弾と機関銃の洗礼を浴びせかけながらである。
 必死の思いで逃げるヘリが作った弾幕を、しかしいとも容易く、まるで雪合戦の雪玉を躱すようにして、黒い機体は進んでいく。その様子は、空中にある見えない足場の間を飛び跳ねているようですらあった。
 そして、黒い機体は、ヘリに近づき、あり得ないことにそのテール部分をむんずと掴んだのだ。
 ヘリは激しく浮沈し、何とかして拘束から逃れようとしたが、最新鋭の機甲兵とはエンジンの出力が二桁ほど異なる。どうしたって逃げられるものではない。反撃しようにも、この距離でロケット弾が爆発すれば、共倒れになってしまう。

『へへ、捕まえた!褒めてよマルゴ、僕が捕まえたんだよ!』
「よくやったわアデル。でも、最後まで油断しちゃ駄目よ」
『わかってるって。ええっと、こういう時は何て言うんだっけ。貴官は我々の捕虜となった、貴官には捕虜としての権利が……だったっけなぁ』

 ぶつぶつと言い募る操縦者の内心を反映して、黒い機体は顎に手を当てて考え込んでしまった。片手にヘリのテール部分を握りしめ、もう片方の手を顎に当てた機甲兵というのは中々シュールな眺めだったが、今のマルゴにそれを笑う余裕は流石に存在しない。
 
「アデル、いいからそのヘリを地上に引きずり下ろしなさい!ここで失敗したら、あとで大目玉だからね!」
『わ、分かってるよぅ、マルゴはいつだってうるさいんだからなぁ、もう』

 黒い機甲兵が、気を取り直したように両手でテール部分を握りしめ、スラスターの出力を調整することでゆっくりと降下し始めた。ヘリはなおも足掻くように上昇を試みていたが、自重に加えて10トンを越える重りをぶら下げたのでは到底飛行が継続できるはずがない。
 ヘリは、黒い機体に引きずり下ろされるようにして、徐々に高度を下げ始めた。
 周囲でも、戦闘は終結に向かいつつあった。
 残り二機の黒い機体が縦横無尽に飛び回り、その空域に存在していた戦闘ヘリのほとんどをスクラップに変えていた。地面は、ヘリの残骸とそこから昇る黒煙で埋め尽くされていた。
 
「これで一段落ついたか」

 バスクがほっと一息を吐き出した、その時。
 拘束され、あとは地上で息の根を立たれるのを待つばかりだったヘリから、何か小さな物が落下していく様子が、画面に映し出された。
 マルゴは、その優れた動体視力によって、その落下物の上端に、煌めくような赤毛が翻ったのを確認した。

「アデル、女が逃げたわ!」
『え、でも僕、ちゃんと捕まえてるよ?』
「ヘリが逃げたんじゃない!ヘリから、女が飛び降りたの!」
『あ、え、ほんと!?』

 わたわたと首を巡らせる機甲兵はユーモラスな有様だったが、今のマルゴにそんなものを楽しんでいる様子はない。
 高度が下がっているとはいえ、いまだ地上100メートルを超える場所にヘリはあったのだ。このまま女が地上と衝突すれば、どれほど頑丈な人間であっても墜落死は免れない。
 それは、マルゴとしても望むところではなかった。この女を生かして連れてくるように、親愛なる父親から頼まれていたのだから。
 息を飲むマルゴの眼前で、スクリーンに映し出された赤毛の女は、しかし自由落下に身を任せたりしなかった。背中に取り付けたバックパックからジェット噴射の炎が上がり、その姿勢を維持していた。どうやら自由落下を始める前に、ポータブルジェットを用意するくらいの分別はあったらしい。
 これで捕獲対象が真っ赤な地上絵に化ける可能性は無くなったわけだが、だからといって胸を撫で下ろしていられる状況ではない。今度は、別方向にありがたくない可能性が出てきたのだ。

「逃がしちゃ駄目よアデル!きちんと捕まえなさい!」
『う、あ、うん、もちろんさ!』

 黒い機体が、必死に逃げ惑う赤毛の女を追いかける。
 彼我の縮尺から言えば、掌ほどのサイズの人形を追いかけているような感覚だが、これが中々難しい。
 殺そうと思えば簡単だ。ライフルの銃口を向けて、引き金を引くだけである。多少照準からずれたとしても、荷電粒子ライフルの超高熱が対象を燃やし尽くすだろう。直撃すれば、痛いと思う暇すらなく蒸発して死ぬ。
 しかし、捕まえるとならば話は別だ。自由落下しているならともかく、ポータブルジェットの噴射で自由自在に動き回る人間を、怪我を負わせることなく捕まえるなど、通常の機甲兵であればまず不可能、常識外れの性能を誇る黒い機甲兵でも困難を極める。舞い遊ぶ蝶々を素手で捕まえるにも等しい難事だ。だいたい、機甲兵の設計コンセプトは生身の人間を無傷で捕まえるなどという事に重点を置いてはいないのだ。
 スクリーンに映し出された黒い機体は、まるで蚊を叩きつぶそうとしているかのような動作を何度も繰り返したが、当然対象を叩きつぶす訳にはいかないので、手を合わせるときに動作がゆっくりになる。
 その度に、ポータブルジェットを操る赤毛の女がするりと逃げて、機甲兵の巨大な掌は虚空を掴むのだ。
 
『あー、もう、いらいらするー!ねぇマルゴ、これ、叩きつぶしちゃ駄目かな!』
「馬鹿なこと言わないの!そんなことをしたら、向こう一年間おやつとお小遣い抜きよ!」

 まだまだ幼い少年にとって、それは死刑宣告にも等しい厳罰であった。

『でも、こんなの、絶対に無理だよ!マルゴだって捕まえられない、誰だって捕まえられないよ!それなのに怒られるなんて、絶対に理不尽だ!』

 声に、鼻が詰まったような響きが加わり始めた。自分の思うように進めることの出来ない作業と、遅々として改善しない状況に、幼い精神が苛立ち、爆発しかけているのだ。
 これ以上の作業をアデルに任せるのは、捕獲対象にとって極めて危険であると判断したマルゴは、慰めるような調子で通信機に語りかけた。

「……そうね、ごめんなさいアデル。少し言い過ぎたわ。あなたは良くやってる。もう、無理はしなくていいから」
『……捕まえられなくても、怒らない?』

 ぐすりと、鼻を啜る音が響いた。

「ええ、怒らないわ。あの女がヘリで逃げようとしたのを阻止したのは、アデルのお手柄だもの。どうせ、ポータブルジェットでは逃げるにしたって距離は知れている。もう、捕まえたも同然よ。きっとお父様も、よくやったって褒めて下さるに違いないわ」
『えへへ……。お父さん、お小遣い増やしてくれるかなぁ』
「こら、調子に乗らないの。後はわたし達に任せて、あなたは残敵の掃討に参加しなさい。ザックスとアネットに迷惑かけたら、後でひどいんだからね」
『うん、分かってるよ。あと10分で戻るから、冷えたコーラを用意しといてよね!』
「……ま、それくらいは認めましょう。その代わり頑張るのよ!」

 そう言って、マルゴは通信を切った。
 画面には、ポータブルジェット操った女性の姿が、森の中に消えていく様子が映し出されていた。
 一度森の中に逃げ込まれてしまうと、自然愛護思想の強いヴェロニカ教徒の悲しさか、機甲兵などを用いた探索が著しく困難になることをマルゴは知っていた。となれば必要になるのは人海戦術であり、自分達の役割はここで終わりである。
 マルゴは振り返り、唖然とした表情を浮かべた大人達に対して、

「……ヘリ部隊の残敵掃討は我らにお任せ下さい。ただ、森林部に逃げ込んだ敵首魁の捕獲については……」

 大人達の中で、流石に一番早く我に返ったバスクが、しっかりと頷いた。

「我らに任せて頂こう。貴官は、帰投した彼らを労うために、冷えたコーラの準備をされたい」

 マルゴがくすりと微笑んだ。

「承知しました、大佐殿」

 司令室を出て行こうとするマルゴの背に、威勢の良い大佐の声が響いてきた。

「おい、何を呆けて居るか貴様ら!子供があれだけの働きを見せてくれたのだ!大人である我々が、それに負けてどうするか!早急に追撃部隊を編成し、森に逃げ込んだ女を追え!あの辺りは焼夷弾とヘリの残骸の煙で視界が悪い!暗所戦闘用のヘルメットを忘れるな!そして、外壁部に敵が取りついていないか、入念に確認しろ!守備兵は最小限で構わん……」

 扉を閉めて、歩き始めた。
 これで、遠からずジャスミン・クーアという名の女は捕縛され、夫と共に虜囚となるだろう。どうしてお父様があの男と、そしてあの女性に拘るのかは知らないが、これで万事上手く行く。

 ──しかし……しかし、何か、おかしくないか。

 かつん、かつん、と、軍用ブーツが奏でる硬い足音を聞きながら、一人黙考する。
 ケリー・クーアと名乗るあの男を拘束したのが、一昨日の夜。ジャスミン・クーアがその奪還を企図したとしても、準備にかけられる時間は僅か二日弱である。それだけの時間で、あれだけの戦闘ヘリと、その操縦者を、どうして揃えることが出来るだろう。
 金銭的には、全く問題はない。何せ、あの女はかのクーア財閥の二代目なのだ。預金通帳を覗けば、この国を丸ごと買い取ることが出来るだけの数字が記載されていても何の不思議もないのだから。
 だが、どれだけの金を湯水のように使おうと、時間という壁は厳然として存在するのだし、それを無理矢理こじ開けようとすればどこかで無理が生じる。無理が生じれば、当然のことながら悪目立ちをしてしまう。その時、ヴェロニカ共和国の官憲が高く張ったアンテナに、一切引っかからないということがあり得るだろうか。
 しかし現実に、この城は無数の戦闘ヘリによって包囲され、悪くすれば陥落するところだったのだ。
 
「いったいどうやって……」

 マルゴは足を止め、しばらくの間考え込んだが、やがて気を取り直したように息を吐いた。
 とにかく、自分達は勝利したのだ。ジャスミン・クーアは這々の体で鼠のように森の中へ逃げ込んだが、後は狩人に追い立てられる獲物でしかない。時を待たず網にかかり、泥にまみれた憐れな姿を自分達の前に晒すことになるだろう。
 どれほど優れた戦士であっても、独力で、機能的に編成された戦闘部隊に立ち向かうのは不可能である。昨日の夜、廃倉庫で見たあの少女くらいの戦闘能力があるならば別かも知れないが……。

「そういえば、あの化け物のような少女は、どこに行ったのだろう……」

 先ほどの戦闘に、あの少女の姿は無かった。
 もしかしたら、スクラップと化した無数の戦闘ヘリのどれか一つを棺にして、すでに冷たくなっているのだろうか。それは十分にあり得べき可能性だ。もしそうならば、明らかな人員配置のミスである。あの少女は、もっと局地的な戦いでこそその戦闘能力を存分に発揮できるだろう。ヘリに乗せて降下させるつもりだったのかも知れないが、この城の防御能力を甘く見すぎだと言わざるを得ない。
 いくつもの疑問が浮かび、そのほとんどに対して納得のいく解は導き出せなかったが、それにしても勝利は勝利である。そして、勝者には勝者の責務があり、その責任者として為すべき事は山とあるのだ。
 だが、新しい疑問が浮かび上がる度にマルゴの足は止まり、中々動き出そうとしなかった。
 マルゴは、重たい溜息を吐き出した。
 気持ちの切り替えが必要だ。情けないが、このまま事後処理に当たっては、つまらないミスをしでかしてしまうかも知れない予感があった。そして、こういう予感というのは往々にして的中するものなのだ。
 マルゴは階段を昇り、城の上階のテラスへと向かった。そこは、いつも気持ちのいい風が吹き、見晴らしも申し分のない、彼女のお気に入りの場所だった。
 だが、今日に限って言えばそれは完全な期待はずれだった。風は確かに吹いていたが、それは重油と化学薬品に塗れた粘っこい風であり、到底快い感情を呼び起こすものではなかったのだ。
 テラスから身を乗り出しても、いつものように万里を見渡せるわけもない。外壁に命中していまだ燃えさかる焼夷弾が、もくもくと黒い煙を吐き続け、漆塗りの壁になって視界を遮ってしまっている。
 熱気も凄い。このまま一時間もここにいれば、人のかたちをした燻製になってしまうかも知れない。しかもその燻製は油臭くて、到底食べられたものではないだろう。
 マルゴは残念そうな表情のまま、踵を返して階段を下りようとした。
 その時である。
 風が吹いた。山間に似合いの、木を折り倒すような突風であった。

「きゃっ……」

 マルゴは咄嗟に伏せた。焼夷弾の作り出した熱風をまともに受ければ、全身に重度の火傷を負いかねないからだ。
 だが、幸いというべきか、風は熱風をマルゴに運ばなかった。その代わり、黒煙が一瞬だけ晴れ、眼下には風景画から切り取ったような絶景が広がっていた。
 言葉を忘れてその光景に見入ったマルゴだった。森はやはり青々と広がり、一片の曇りもない。草原の草花は風に遊ばれて波を作り、その動きを見れば風がどう吹いているかが見て取ることが出来た。空は青く、雲一つない大空がパノラマの大自然の上に鎮座している。日は傾きはじめ、光を構成する色素に、赤みが増し始めた。
 ああ、いつものヴェロニカの風景だ。
 マルゴは満足して、階段を下りようとした。
 そして次の瞬間、悪魔に心臓を鷲掴みにされたような悪寒を味わった。

 ──どうしてだ。どうして、いつもどおりの風景が広がっているのだ。

 つい今し方、あそこでは戦闘ヘリと最新鋭の機甲兵が死闘を繰り広げていたというのに。ならば、見渡す限りの大地には、黒煙を上げるヘリの残骸が転がっていないとおかしいのに。さっき、一瞬ではあるが確かに見た風景に、そんな無惨なものは含まれていなかった。
 それに、音がしない。まだ、アデル達とヘリ部隊との戦いは終わっていないはずである。なのに、どうしてヘリのローター音や、ロケット弾の爆発音が聞こえないのか。さっき、司令室にいるときはあれ程の爆音を響かせていたのに。
 マルゴは、咄嗟に通信装置のスイッチを入れた。

「アデル、アデル、聞こえる!?」
『どうしたの、マルゴ?何かあった?』

 聞こえるのは、無邪気な少年の声。
 そして、苛烈な戦場を表す、爆音とエンジン音。
 それが、通信機を付けた片耳からしか聞こえないのだ。

「今、そっちはどういう状況なの!?」
『うんとね、もう最初にいたヘリのほとんどは撃墜したんだけど、なんか応援部隊みたいなのが来たんだ。どれだけ数を揃えても無駄なのにね。こっちはいい迷惑だよ』

 応援部隊が現れた……?
 違う。この空の下のどこにも、ヘリの一機もいない。それどころか、敵兵の姿すらも。

「正規軍の警備兵は!?今、何をしている!?」
『え?ついさっき、パーソナルジェットを飛ばして森の中に入ってったよ?あの女の人を捕まえるんでしょ?』
「やられた……!いい、アデル!即刻帰投しなさい!アネットとザックスにも伝えて……!」
『うん、分かった。きちんと全部片づけてから帰るよ。だから、さっき言ったコーラ、ちゃんと用意していてよね!』
「違うわ、アデル!私、そんなことは一言も……!」
『じゃあね、マルゴ。約束を破ったらひどいんだから!ちゃんと冷やしたコーラだよ!覚えといてね!』

 ぶつりと通信が切られた。
 マルゴは、呆然と立ち尽くした。
 おかしい。何かが、決定的におかしい。自分は、何か、とんでもないペテンに担がれているのだ。
 マルゴは、もう一度視線を外へと向けた。だがそこには相変わらず濛々と立ちこめる黒煙があるだけで、その奥にある真実にはどうしても届かなかった。
 
「お父様……!」

 マルゴは、恐慌を起こしそうになる精神を叱咤して、駆けた。捕虜が逃げたから何だというのだ。一度奪い返されても、もう一度奪い返せばいいだけのこと。
 しかし、しかし、もしも最愛の父の身に何かがあれば……。
 あまりの恐怖に顔を蒼白にした少女に対して、距離と時間は残酷だった。彼女が愛する父親の姿は、どれほど目を凝らしても見えなかった。



[6349] 第五十八話:Judas Priest
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/24 14:34
 森の中は、粒子状の炭素で埋め尽くされていた。墜落したヘリが炎上し、燃料タンクから漏れ出した高純度航空用燃料に引火、結果として森全体が激しく燃えさかっているのだ。
 耐熱スーツに身を包んだ年若い兵士は、油断無くライフルを構えた姿勢のまま、強く舌打ちを漏らした。
 燃えている。森が、自然が。ヴェロニカ教の、守るべき存在が。
 彼は、自身に与えられた任務とは別のところで、現在のヴェロニカ共和国大統領をあまり快く思ってはない。理屈を抜きにして、あの死んだ魚のように感情の知れない視線が気持ち悪いのだ。どうしても、信頼が出来ない。だから、自分に火の粉の及ばないところで上手に暗殺してくれるなら、それはそれで構わない。
 しかし、自分が護衛任務についている最中に暗殺を決行し失敗、しかもヴェロニカの自然にこうも醜い爪痕を残すとは何事か。これほど美しい自然が形作られるまでにいったいどれだけの時間が必要とされるのか、愚かなテロリスト共はほんの少しでも想像力を働かせたことがあるのか。
 この黒煙は、無惨に踏みにじられた大自然の怨嗟の叫びだ。そして、彼らを哀れんだ聖女ヴェロニカが流した、哀しみの涙なのだ。
 先ほどからヘルメットの内側に、有毒ガスに対する警戒音が鳴り響いている。一酸化炭素や煤塵などが、生命活動の障害になるレベルであることを教えているのだ。追跡部隊の人間はエアクリーナーの内蔵されたアサルトスーツを身に纏っているが、そんな便利なものを付けていない森の生き物は、ガス中毒でばたばたと死んでいるのだろう。否、殺されているのだ。
 銃把を抱えた腕に、思わず力が込められた。あのテロリストを殺してはならないと命令されてはいるが、腕一本を撃ち抜くくらいは許容の範囲内のはずである。なに、言い訳はいくらでも出来る。なにせ相手は非道なテロリストなのだから。
 それにしても視界が悪い。もくもくと沸き上がり続ける煙によって可視光線のほとんどは遮られているし、延焼箇所から放たれる赤外線で暗視装置も上手く作動しない。
 兵士はヘルメットのゴーグル部に手をやり、光線認識から超音波による画像認識にセンサーを切り替えた。すると、色彩こそ不十分なものの、まるで真昼のように鮮明な視界が広がった。
 その一部が、不自然に動いた。獣の動きではない。まして、風が作ったものでもなかった。兵士は、通信機のスイッチを入れた。

「司令部、こちらデルタ。ジャスミン・クーアを捕捉した。これより捕獲作業に移る。オーヴァー」
『慎重に接近せよ。相手は熟練の軍人だ。決して油断するな。オーヴァー』

 炎から逃れるようにして茂みから飛び出したのは、確かにあの女だった。
 だが、司令部の大型スクリーン越しに見えたあの勇ましい姿は、かけらほども残されていない。見るも無惨な敗残兵の姿が、そこにはあった。
 獅子のたてがみのようだった赤毛は焼け落ち、髪の毛と呼べるものはほとんど残っていない。禿げ上がった頭部と顔面のほとんどは、赤黒く醜い火傷に覆われている。
 身に纏っていた野戦服も焦げや血痕で派手に染色され、すでに迷彩用途を為していない。パーソナルジェットはもちろん、武器の類も手にしていないようだ。そんなものはどこかに捨ててしまったものと思われた。
 戦場で武器を捨て去った軍人。何とも無様なことだ。兵士は女の様子に、嘲弄を隠しきれなかった。
 そんな兵士のことなど露程も気づかぬ様子で、女は数歩よろよろと走り、木の幹に背を預け、座り込んでしまった。
 へたり込んだ女の腹部の動作から、相当に息が荒いのが見て取れる。おそらく超高熱の有毒ガスを吸い込んだことで呼吸器に重大な障害を起こしているのだ。
 瀕死の有様だ。
 だが、まだ生きている。この場所では、こんなにもたくさんの命が消えつつあるのに、その犯人が生きている。
 兵士の胸の奥で、激しい怒りがわき起こった。
 数発、上空に向けて銃弾を放った。

「ちくしょう、気づかれた!現在銃撃を受けている!こちらも応戦する!オーヴァー」
『応戦を許可する。しかし、決して殺すな。繰り返す、決して殺すな』

 ああ、殺しはしないさ。今から行われるのは、尊ばれるべき教育的指導だ。
 兵士はヘルメットの内側で、堪えきれない笑みを浮かべた。
 あの女は悪くない。だが、あの女が受けてきた教育が悪かった。環境が悪かった。だから、少し、ほんの少しだけ、この森で死にゆく命達の気持ちを分からせるだけだ。それは、あの女にとって幸せなことだ。蒙が啓ければ、真に大切なものが何か、そして己の行いが如何に愚かしいものだったかに気づくことが出来るだろう。
 兵士は、ゆっくりと、わざわざゆっくりと歩を進める。足音も、わざと派手に立ててやる。がさりがさりと、敢えて灌木の中を踏み分けてやる。
 女が、近寄ってくる兵士に気が付いた。のろのろとした様子で頭を上げ、絶望に満ちた視線をこちらに寄越した。
 そして、必死の様子で逃げようとした。だが、既に足が満足に動かないのか、走り出して数歩のところで膝が砕け、盛大に転倒した。それでも、赤子がはいはいするような四つん這いの姿勢で、根を限りに逃げようとしている。まったく、頭の悪い女だ。そんな動きで逃げられるはずがないのに。
 兵士は、サディスティックな欲望に身を任せ、女の右足の大腿部に銃口を向け、躊躇なく引き金を引いた。
 発砲音。
 光線ではない実弾が、女の肉付きのいい太股を吹き飛ばした。盛大に血と肉が飛び散り、彩度の無い視界に白い液体がまき散らされた。
 
「きゃあぁぁっ!」

 一瞬遅れて、ジャスミン・クーアの悲鳴が森の奥までこだまする。
 女 が、傷口を押さえてごろごろと転げ回っている。
 ああ、痛いだろう。銃弾で足を一本、吹き飛ばされたのだ。痛くないはずがない。
 だが、木は、動物は、森は、もっと痛かったんだ。聖女ヴェロニカは、もっと苦しんでおられる。
 兵士は再度、女に銃口を突きつけた。
 女が、火傷と水膨れに覆われた顔で、必死に命乞いをしていた。

「おねがい、ころさないで、ころさないで、投降するから、これ以上ひどいことしないで……」

 ぼろぼろと涙を流しながらそう言った。
 男は通信機のスイッチを切った。
 
「ずいぶんと勝手なことを言うものだな。見ろ、この森の惨状を。これは貴様がしでかしたことだ。この森で焼き殺されている命は、全てお前が殺したんだ。なら、お前の右足が一本吹き飛んだくらい、何だというんだ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「ついでだ。腕の一本も無くなればバランスも取れるし、もう二度とこんな馬鹿な真似は考えなくなるだろう。そうすれば、この森の精霊も溜飲を下げてくれるというものだ。そうじゃないか?」

 引き金に力を入れる。
 女は、啜り泣きながら、何度も何度も懺悔の言葉を口にしていた。
 もうしません、こんな馬鹿なことな二度としないから許してください、と。
 男はその情けない有様に満足したのか、銃口を下ろし、通信機のスイッチを入れた。

「司令部、応答してくれ。ジャスミン・クーアを確保した。銃撃戦の結果、重傷を負わせてしまったが生きている。早急に救護班を寄越してくれ。オーヴァー」
『重傷の程度を報告せよ。捕獲対象に生命の危機があるなら、応急処置を施して救護班の到着を待て。オーヴァー』
「対象は右大腿部に実弾をくらいのたうち回っている。足が千切れかけているみたいだ。全身を2a度から3度相当の火傷で覆われている。すぐに死ぬことは無いと思うが、組織再生療法の準備をしておいたほうが無難だろう。まったく、馬鹿な抵抗さえしなければせめて足の傷はなかったものを、愚かな女だ。オーヴァー」

『──ふぅん、瀕死の女性が迫り来る敵兵から這って逃げようとするのを、銃撃戦とか馬鹿な抵抗っていうのね。あなたの主観が正しいのなら、全宇宙規模の辞書の書き換えが必要だわ』

 男は我が耳を疑った。
 突然、軍用専用回線に割り込んできたのは、女の声だった。やや甘いアルトの音域と、教養を感じさせる口調とを併せ持った、悪戯げな女の声。
 それが、明白な嫌悪に濡れていた。
 兵士は、その言葉の中に己に対する侮蔑を嗅ぎ分け、ただでさえ血の上った頭に、沸騰する血液を詰め込んだ。
 
「貴様、何者だ!民間人か!民間人が軍用回線に割り込むことは重罪だぞ!即刻回線を外し、近隣の警察署に出頭せよ!さもなくば……」

 恫喝する兵士の声に、通信機の向こう側の女は、呆れたように溜息を吐き出した。

『しかも全然反省してないわね。いいわよ、メイフゥちゃん。この人には、きつめのお仕置きをしてあげても』
「メイフゥだと!?貴様、何を訳の分からない……!」

 兵士が最後まで言葉を紡ぐ前に、彼の頭部をすっぽりと覆っていたヘルメットが、外部からの力によってすっぽりと取り外されてしまった。
 視界が、突然に変化する。彩度のない超音波探知の世界が、色鮮やかな森の色合いに変化する。
 唖然と、目を丸くした兵士。その正面には、空っぽのヘルメットを片手に、蕩けそうな笑みを浮かべた、妙齢の女性が立っていた。

「ま、こういうこった。理解できたかい?」
「……」
「あれま、さっきの調子づいた様子はどうしたよ。逃げる女に銃口を向けて、さぞ勇ましい様子だったじゃねえか。それとも、女は女でも、二本足で立ってる女相手に銃口を向けるのはおっかねえのかい?」

 何だ。これはいったい、どういうことだ。
 こんな女は、センサーには少しも反応していなかった。いや、そもそも焼け落ちつつある森の中に、どうしてこんな女が。どうして、山火事の中を、裸同然の軽装備でうろつけるのか。
 無数の疑問が兵士の頭の中を漂白処理していたのだが、それでも彼は厳しい訓練を積んだ軍人である。頭が現実に追いつく前に、体がそれに反応した。
 
「う、うわぁぁぁっ!」

 とにかく、目の前にいるのは敵だ。ここは戦場で、この女は味方でないのだから、敵に違いない。
 敵ならば殺せ。万が一、戦場に迷い込んだ民間人だったとしても、後からどうなりと言い訳は出来る……。
 本能的な恐怖と打算が脳裏に渦巻き、兵士は銃を持ち上げ引き金を引こうとしたが、

「遅ぇよ、馬鹿」

 女性の、ヘルメットを持たない片手が、稲妻のような速度で疾駆し、男の顔面に突き刺さった。
 男の体は、吹き飛んだりはしなかった。ただ、腰を視点にして半回転し、後頭部から地面に激突しただけである。
 ぴくぴくと痙攣する兵士、その顔の中央は、女の拳のかたちに綺麗に陥没していた。

「うん、ま、データだけの偽もんとはいえ、あたしのお姉様をいじめた罰さ。それと、あたしの鬱憤晴らし。ま、運が悪かったと思いねぇ」

 白目を剥いて悶絶している兵士に、女性──メイフゥの呟きは届いたのだろうか。
 メイフゥは、懐から紐を取り出し、気絶した兵士の手足を縛り付けた。万が一のことを考えて身体検査をし、危険物の全てを草むらの向こうに放り投げた。
 それだけの作業を終わらしてから、ふぅと軽い溜息を一つ吐き出して、

「こいつで十人目か。まったく、せせっこましい作業だぜ。もっとこう、大暴れは出来ないもんかね」

 ぴったりと肌に張り付く素材のアサルトスーツを纏い、要所にレガ-スとプロテクターを嵌めただけという簡素な出で立ちのメイフゥが、こきこきと肩を鳴らした。いつもはヘアバンドで後方に流している長髪も、今は邪魔にならないよう、後ろで一括りにしてスーツの内側に仕舞い込んである。
 うんざりとした表情の少女の耳に付けられたピアスから、やはり妙齢の、やや甘いアルトの音域の声が聞こえた。先ほど、兵士の通信に割り込んだ、女性の声だ。

『そう不平不満を言うものじゃないわ。この兵隊さん達を城内から誘き出すのに、わたしがどれだけ苦労したか。それに比べれば、あなたの作業なんて楽なものでしょうに』
「いや、それは分かってるんだけどよ、ダイアナの姉御。それにしたって、戦いってのはもっと緊張感があって、ぞくぞくするもんじゃなきゃいけねえと思うんだよ。あたしは戦士で海賊ではあるつもりだけど、真っ昼間から白昼夢に酔っ払ってうろうろ徘徊する夢遊病患者専門の看護婦さんになったつもりはねえんだけどなぁ」
『ほらほら、愚痴ばかり言ってたら、小皺が増えちゃうわよ。もう一人おびき寄せたから、なんとかして頂戴』

 ダイアナの声の通り、茂みの向こう側から、注意深くライフルを構えた一人の軍人が、こちらを目指して近づいてきた。
 体を低く構え、しかし銃はしっかりと正面に向けていつでも発砲できる体勢だ。油断無く周囲を見回し、ほんの少しの異常も見逃さないよう目を凝らしているのが分かる。
 だが、正面に立っているメイフゥの存在に、少しも気づいている様子がない。
 メイフゥは、大げさな溜息を吐き出した。まったく、ダイアナが施したハッキングによって機械装置が誤情報を送り続けているとはいえ、正面にいる敵に気が付かないというのはどういうことだ。気配を読むとか、そういう訓練は受けていないのだろうか。
 あらためて、最新鋭の幻術に騙されて霧中を泳ぐ憐れな被害者を眺めてみる。
 耐熱仕様のヘルメットと全身スーツ。見るからにごてごてしく、動きも鈍重な様子だが、その一事をもって彼を非難することは出来ないだろう。何せ、彼の認識する現実の中では、この森は大火事を起こして毒ガスと火の粉の舞い散る地獄絵図なのだ。そこに生身で飛び込むほうがどうかしている。
 だが、その様子を第三者的に見れば、あまりにも間抜けだ。
 だって森はこんなにも穏やかで、美しい様子なのに。木々の間をたっぷりと涼気の孕んだ風が吹き渡り、小鳥が歌い、虫が舞う。今だって、木の葉の間を透過して恥ずかしげに降り注ぐ陽光が、ちらちらと眩しくて、可愛らしい。
 ああ、いい場所だ。こんな場所で大の字に寝転んで昼寝が出来れば、どれほど幸福だろうか。
 本能的な欲求に負けて欠伸を一つ溢したメイフゥであったが、仕事は仕事である。それも、敬愛して止まないジャスミンから任された仕事なのだ。手を抜いて下手を打つわけにはいかない。
 嫌々な様子で、ジャスミンは兵士に近づいていった。ヘルメットを取り上げてパンチを一発叩き込むだけの簡単なお仕事は、簡単ではあるがどうにも気乗りがしない。普段の戦闘が狩りだとすれば、これは害虫駆除の類だ。

「あーあ、あたしもインユェと一緒に、お姉様にくっついてたほうが良かったなぁ……」

 年若い少女の嘆きは、小鳥に囀りに混じって、無限の青空に吸い込まれていった。



 ダイアナの作り出した電子情報のジャスミンを追って、城内はほとんど無人になっていた。
 城壁と、そこに設えられた砲台から、濛々と黒煙が立ちこめている。これは当然のことながら現実の煙だ。ジャスミンがその財力にものを言わせて買い取った三台のヘリコプター、それに搭載した焼夷弾を気前よくばらまいた結果だった。
 井戸から這い上がったジャスミンは、天空に立ちのぼる黒煙を見上げて、作戦の上首尾を悟った。
 
「ダイアナ、状況はどうだ」

 ジャスミンが呟くと、彼女の右耳についたピアスから、ジャスミンにしか聞こえない程度の小さな声が発せられた。

『今のところ、上手に騙されてくれてるみたいよ。警備兵の大半は、森に逃げ込んだあなたを追いかけて出撃したわ』
「ここまで上手く食いついているとは思わなかったな。偉大なるアーロン大統領は、あの男だけでなくわたしにも用があるらしい。あんな得体の知れない老人をファンにしてしまうほど、わたしの顔は広かったとも思えないんだがな」

 しかし好都合である。これで、城内を自由自在に動けるというものだ。
 今、この城に配備されたヴェロニカ共和国軍の精鋭達は、空を埋め尽くさんばかりの大量の戦闘ヘリと空中戦を繰り広げ、森の奥に逃げ込んだテロリストのリーダーを捕獲するために躍起になっているはずだ。
 もちろん、そんなものは存在しない。全て、通信機器を掌握したダイアナが作り出した、幻である。
 ケリー達の監禁場所がはっきりした以上、その場所を攻め落とすのにダイアナの力を借りない手はない。こと機械を用いた情報戦において、ダイアナの右に出るものはない。状況次第では、厳重なガードを付けられた共和宇宙軍宇宙空母の感応頭脳でさえハッキングしてしまう彼女にとって、この程度の城の全情報端末を乗っ取り、誤作動させる程度朝飯前の腹ごなしにもなりはしない。加えて言えば、ジャスミン達が城内に侵入したとき、その存在を隠すのは造作もないことである。
 だが、そのダイアナをして辟易とさせるのが、最も原始的な監視装置──人の目であった。
 ダイアナがどれほど精緻に絵図面を引いても、こればかりはどうしようもない。そして、偶然居合わせた人間のたった一組の眼球により積み上げた全ての計画がおじゃんにされたことも、一度や二度ではなかったのである。
 だからこそ、ケリー達の救出に当たって一番の課題となったのが、城内に存在する人の目を如何にして減らすかという一点だ。しかも敵は、こちらの襲撃を十分に予想している。当然、普段とは比べものにならない数の警備兵が駐屯していることだろう。その全ての目をかいくぐり、監禁されているケリー達を救出することが可能か否か。
 不確定要素の存在を嫌ったダイアナの意見で、ジャスミンは狂言芝居の片棒を担がされる嵌めになり、戦闘用ヘリを確保するために走り回ることになった。もしも成功していなかったら、果たしてどういう作戦が決行されたのか。幸いにも優れたバイヤーの知己がいたため事なきを得たが。
 結果、焼夷弾の生み出した煙幕により城から周囲への視界はほぼゼロになり、煙幕の向こう側を覗くことの出来る機械装置は、全てダイアナの掌の上である。この城の監視網は、完全に無力化されていた。そして、ダイアナの送り続ける誤情報に踊らされ、翻弄され続けている。
 当然のように、城内の警備は相当手薄であった。井戸から建物の入り口に至るまでに、人の影は存在しない。監視カメラが設置はされているが、気にする必要な全くない。今から数十分の間、あのカメラは静止画のように平和で無害な映像を、コントロールセンターに送り続けるのだから。
 それでも警戒して姿勢を低くしたジャスミンの後ろで、ぜぇぜぇと荒く息を継ぐ少年が姿を現した。
 
「ち、ちくしょう、隠し通路はいいけど、もう少し、楽な道は無かったのかよ」

 山城に掘られた井戸だ。当然、その深さは並大抵ではない。その井戸の深さ分の梯子を、駆け上って来たのである。少年が喘ぐのも無理ないことではなかったのだが、少年よりも重たい体でありながら息の一つも乱していないジャスミンは、振り返ることもなく、

「無駄口を叩くな。どうしても我慢できないなら、その口を糸で縫い付けてやるぞ」

 この女はそういう冗談を言わないのだと、学習能力にやや乏しい少年も、既に理解していた。主に、痛覚神経に対する刷り込みによって。
 少年──インユェは黙った。黙って井戸から這い出て、ジャスミンに倣い、低い姿勢のまま走った。

「それにしても、あの洞窟が、こんなところまで伸びてたのか。ったく、俺たちは間抜けだぜ。敵に繋がる一直線の真上で寝起きしてたなんてよ」

 インユェが、頬を伝う汗を手の甲で拭いながら呟いた。
 今、ジャスミンとインユェがこの城への侵入路として使ったのは、メイフゥ達が特殊部隊から逃走するのに使ったあの洞窟であり、遡れば、若き日のビアンキ老師が、ヤームル少年達と一緒に城から逃亡するのに使った洞窟であった。
 ジャスミンは、ビアンキの告白を聞き、おそらくは未だにこの通路が誰の目にも触れていないだろう事を予測し、奪還作戦に利用することを考えたのだ。この点、ビアンキも成功の可能性が高いことを保証した。無論、城の侵入を果たした後のことは別問題であるが。
 予想は違わなかった。ここに至るまで警報装置らしきものはただの一つだって取り付けられていなかったし、今も監視の目はこの古井戸に向けられてはいない。おそらく、外壁を中心に人員配置を行い、テロリストの侵入に備えていることだろう。
 状況は、全てジャスミンの味方であった。ある意味、上手く行きすぎて空恐ろしい程に。
 ある種の運命論者であれば、ツキがありすぎるとき程その反動を警戒したかも知れなかったが、ジャスミンはそうではなかった。事態が自分の思う通りに運んでいるのは、自分達が状況を上手くコントロール出来ている証であり、そういう時はガンガン攻めた方が素晴らしい結果を引き寄せるだろうことを、経験から学んでいたからだ。
 ジャスミンは低い姿勢を保ったまま石畳の上を駆けた。インユェも、やや遅れがちながらもジャスミンの後を追った。
 門が見えた。表玄関ではない。勝手口のようなものだろう。門自体に使われている木材もそれほど質のよいものではなく、年月の経過による摩耗が激しい様子だ。
 ジャスミンは壁に張り付き、ゆっくりと扉を開けた。さも、年月を経て立て付けの悪くなった扉が、風に煽られて開いたふうを装った。
 ぎしりと、蝶番の擦れる音が、不思議なほど大きく聞こえる。神経が研ぎ澄まされているからだということを、ジャスミンは知っていた。
 しばらく聴覚に神経を集中させたが、何の音もしない。ジャスミンは、するりと扉の中に身を滑り込ませた。
 城の中は、薄暗い。しかし不自由はない。間取りはダイアナが盗み出した情報により把握しているし、その子細は頭に叩き込んである。
 その中で、人質が監禁されている可能性が高いの地下の牢屋だ。だが厄介なことに、この城の地下階はいくつものブロックに区切られており、ブロックごとの行き来が出来ない仕組みになっている。城の構造も複雑そのもので、まるで迷路のような有様であった。
 おそらく、敵が攻めてきたときに容易く陥落されないための仕組みなのだろうが、時代は鉄と馬のそれではなく、宇宙開拓が叫ばれて久しい頃合いなのだ。ただの趣味で作られた建築物にしては凝り過ぎだろうと、ジャスミンは溜息を吐いた。

「ダイアナ。三人がどこに監禁されているか、分かるか」
『駄目ね。どうも、この城の地下には相当数の人間が監禁されているみたいなの。物資やエネルギーの使用状況からは、どのブロックにもケリー達がいる可能性があるっていうことくらいしか分からない』
「なるほど。では、知っている人間に聴くのが一番手っ取り早いな。この近くで、それらしき人間はいないか」
『ええ、ちょっと待ってね……。いたいた、あなたが今いる廊下を突き当たりまで進んで、右に曲がって頂戴。そしたら、階段があるわ。それを上がりきって一番最初に見えるのが、この城の執事長を務める男の部屋よ。この男なら、何か知っているでしょう』
「執事長?今、その男は部屋にいるのか?」
『多分、非常事態が宣言されているからかしらね。大統領の警護は当然兵士が務めるんでしょうし、荒事に不向きな人間は邪魔だから自室待機ってところじゃないかしら』
「どちらにせよ好都合だ。その男に案内をしてもらうとしよう」

 ジャスミンは、足音を殺しながら、しかし可能な限りの速度で駆けた。辺りに兵士がいればダイアナが教えてくれるはずだが、用心はするに如かずである。
 ジャスミンと比べればやや隠密姓に欠けるものの、インユェもそれに続いた。元々体重の軽い少年であったから、普通に走ったとしてもそれほど足音は立たないのだが。
 ダイアナの指示に従い、廊下を突き当たりまで進み、右に曲がった。石造りの階段を駆け足で昇る。壁に掛けられた燭台の火が、ゆらゆらと燃えていた。
 階段を昇りきると、確かに、すぐ近くに扉が見えた。
 ジャスミンは油断無く扉の横側に回り込み、こつこつと軽くノックをした。

「はい、こんな時にどなたですかな?」

 穏やかな口調で、年配の男性の声がした。なるほど、ダイアナの情報は間違えていないらしい。

「あ、あの、執事長、パメラです。こんな時に申し訳ありません。でも、折り入って申し上げたいことが……」

 ジャスミンの声ではなかった。
 ジャスミンの右耳につけたピアスから、全く別の女性の声がしたのだ。ジャスミンにしてみれば耳元で突然大きな声がしたわけで、少し驚いたが、取り乱したりはしなかった。精々煩そうに顔を歪めた程度である。
 ダイアナの作り出した合成音声に聞き覚えがあったのだろう、ドアの向こうで誰かが近づいてくる音がした。そして、扉が静かに開かれた。
 顔を見せたのは、銀色の頭髪を綺麗に撫でつけた、老齢の男だった。

「いったいどうしたのだねパメラ、こんな非常事態に……」
「非常事態だからこそ、あなたのお力をお貸し頂くとしよう!」

 ジャスミンが、男の顔を鷲掴みにし、そのまま部屋の中へと押し込んだ。
 男は咄嗟に藻掻き、大声を上げようとしたが、その口はジャスミンの大きな掌で塞がれてしまっている。もぐもぐと籠もった呻き声を上げるので精一杯だった。
 ジャスミンは、そのまま男をベッドに押し倒し、片手だけで貼り付けにした。そして、空いているほうの片手で器用に男の両手両足を紐で縛った。今まで数多くの荒事を経験しているジャスミンにとって造作もない仕事である。
 文字通り手も足も出なくなった男は、なおも何事かを喚こうとしていたが、ジャスミンはそれを一番効果的に黙らせた。男の眉間に、黒光りのする銃口を突きつけたのだ。

「わたしの言いたいことは推測して頂けると思う。まず、大声で助けを呼ぶのは貴様の命を縮める愚行であると理解してもらおう」
「き、貴様、この城を襲撃しているテロリストの一味か!」
「正解だ。だからこそ、わたしの構えたこの銃の引き金が、どれほど軽いものかを試させないで欲しい」

 ジャスミンは、見せつけるようにして銃を構え直した。
 老齢の執事長の細い喉が、ごくりと鳴った。

「よ、要求はなんだ!どうして私をこんな目に……」
「わたしの要求はただ一つだ。貴様の知っている、全てのことを話せ」
「何だと!?」
「一昨日の夜か、それとも昨日の朝。この城に、わたしよりも大柄で人目を引く、とんでもなく美男子で歳の頃は二十台後半くらいの男が連れてこられたはずだな。その男はどこに監禁されているかを教えてもらおう」
「し、知らん!だいたい、ここは恐れ多くも現ヴェロニカ共和国大統領であらせられる、アーロン・レイノルズ閣下の居宅だぞ!監禁などと、そのような犯罪行為が行われるはずが……」

 ジャスミンは、男の長口上をそのままにしたりはしなかった。気に障る云々ではなく、単純に時間が惜しかったからだ。
 男の頭部をわずかに外して、光線が走った。光線はベッドのマットレスを貫き、床に突き刺さった。男のこめかみ辺りの髪の毛が、一房、光線に焼き切られて宙を舞った。
 髪の毛の焦げた嫌な臭いが、部屋に充満した。
 男は、口を僅かに開いたまま、血の気の失せた顔で硬直していた。

「一応断っておくが、貴様が先ほどの質問の答えを知る唯一の人間であるとは、わたしは認識していない。つまり、わたしが貴様を殺した上で、貴様以外の人間から質問の答えを聞き出すこと可能性は、十分以上に存在するわけだ。そして、その時に貴様の生首でも見せつけてやれば、この上なく効果的に答弁を引きずり出せるだろう」

 ジャスミンは、再度、銃口を男の額に擦りつけた。
 男の顔は、蒼白を通り過ぎて土気色に変色している。ぶつぶつと細かく口を動かしているのは、神に対して救いを求めているからかも知れない。

「さて、もう一度聴くぞ。その男はどこに監禁されている。そして、その男以外にも、二人の人間がこの城の連れてこられたはずだな。少女と老人だ。その二人がどこにいるのかも、分かりやすく答えてもらおうか」

 いくら主人に忠実なことが優秀な執事の最低条件であるとはいえ、これ以上口を塞ぐほどの義理を男は持ち合わせていなかった。



 結局、執事長を勤める男は、呆気なく口を割った。銃口はもとより、飢えた野生の猛獣さながらに殺気立っていたジャスミンの瞳が、何よりも恐ろしかったのだ。
 ジャスミンは、男への脅し文句を、脅しで終わらせるつもりは毛頭無かった。もしもあれ以上男が質問に答えなければ、本当にその生首を切り取って、次の不幸な候補者のところへ押し入るつもりだったのだ。ある意味では、あの男は賢明だったといえるだろう。
 質問の答えを口にし、精魂の全てを使い果たしたように見える男を、ジャスミンは厳重に縛り上げて、ベッドの脇に転がしておいた。
 今、ジャスミンとインユェは、男の口にした地下ブロックの階段へ向けて全速力で走っていた。
 途中、何度か兵士とニアミスする場面があったが、今やこの城の監視装置はジャスミン達の味方である。余裕をもってやり過ごすことが出来た。
 
『それにしてもジャスミン、あなたの会社はとんでもないものを作ってるわね』

 疾走するジャスミンに、ダイアナがぽつりと溢した。
 ジャスミンは、無言で続きを促した。

『わたしの用意した戦闘ヘリ……っていっても、もちろんデータだけの偽物だけど、本当に蠅や蚊みたいにあっけなく撃墜されてるわ。本物相手にしても、まったく同じ結果になるでしょうね。あの兵器、機甲兵というカテゴリに含めるのが馬鹿らしいほど、技術革新が飛び抜けている』

 ジャスミンは、虚空を飛ぶように駆け抜けていった、黒い機甲兵を思い出した。

「わたしの会社だと?あれは、クーアカンパニーの兵器開発部門の作った代物なのか?」
『調べてみたけど、どうもその通りみたいよ。名称がTYPHON零型試作機。往年の名機、HYDRAシリーズの後継機として作られたみたいだけど、引き継いでいるのは外見的なフォルムくらいで中身は全くの別物。超々小型化に成功したクーアシステムの搭載されたジェネレーターは、最大出力や最大戦闘継続時間を、現在の最新鋭の機体と比べても桁違いなくらい進歩させている。その上、搭乗者の神経組織と機体を直接繋ぐ新しい操縦システム。しかも、20センチ砲なみの威力を備えた荷電粒子ライフルに、宇宙戦艦の超分子複合装甲でも切り裂けるだけの高出力エネルギーナイフ。どう考えても、地上戦にはオーバースペックよ』
「ということは、宇宙戦闘を念頭に開発された機体か」
『おそらくはね』

 作戦中にも関わらず、ジャスミンの頬がにんまりと笑み崩れた。

「欲しいな、それ」

 基本的に物欲には乏しいジャスミンであるが、武器や兵器と名前のつくものについては別である。まして、それがかつて自分の乗りこなしたHYDRAシリーズの後継機ときては、食指が動かないわけがない。
 今回の事件を無事に切り抜けたら、真っ先に兵器開発部門の責任者を呼び出そうと決意して、ジャスミンは走った。
 いくつかの廊下を通り、階段を上り下りして、二人は辿り着いた。
 ぽっかりと、地獄の底の入り口のように、地下階への階段が姿を現した。階下から吹いてくる風は、どこか生臭く、そしてかび臭い。どこからか聞こえてくる人の悲鳴のような音が、たいそう心地よく聴覚を刺激してくれる。
 この先にある空間が、ジャスミン達の立ち入りを拒んでいるかのようだった。
 だが、その程度のことで足を竦ませるジャスミンではない。
 遠慮無く、階段に足を踏み入れた。
 しかし。

「……どうした。行くぞ」

 数歩先を行ったジャスミンが振り返った。
 階段の手前で、インユェが、立ち止まっている。
 どうした怖じ気づいたのかと声をかけようとしたジャスミンだったが、尋常ではない様子のインユェの顔を見て、言葉を失ってしまった。
 視線が、おかしい。階段の先、振り返ったジャスミンの後方に目を向けているのに、明らかにそこを見ていない。まるで闇の先が見通せるかのように、何か、見えないものを見ている。
 ジャスミンは、ごくりと一度唾を飲み下してから、

「どうした、インユェ。何かあったのか」
「……ここじゃ、ない」

 ぽつりと少年は呟いた。

「ここじゃない?どういう意味だ……あ、こら、待て!」

 インユェはさっと身を翻し、ジャスミンの視界から消えてしまった。

「くそっ!」

 階段を駆け上ったジャスミンだが、既にそこにはインユェの姿は無かった。
 
「ダイアナ!あの馬鹿者の行く先を追えるか!?」
『ええ、それは大丈夫だけど……!でも、変なのよあの子!こっちから何を話しても、一向に反応が無いわ!ぶつぶつと支離滅裂なことを呟いて……一種のトランス状態になっちゃってるみたい!』
「……仕方ない!わたしの方は大丈夫だから、ダイアナは全力であの馬鹿者をサポートしてくれ!くれぐれも、兵士達と鉢合わせしないよう頼むぞ!」
『わかったわ!ジャスミン、気をつけてね!』

 ジャスミンは瞬時に未練を断ち切り、再度階段を駆け下りた。
 


 遠く、遠く、壁の奥のそのまた奥から、僅かな音が聞こえた。
 かつ、かつ、かつ、と、固い物が跳ね回る音だ。
 固くて、重たくて、到底女には思えないのに、抱いてみると柔らかくて、いい匂いのする何かが、跳ね回って、急いで、誰かを捜し求めている音だ。
 知っている。俺は、この足音の持ち主を、よく知っている。
 お笑いぐさだ。この俺が、足音一つで誰かが分かるくらい、一人の女に入れ込むなんて。
 いや、入れ込んでいる、っていうのは少し違う気がする。
 そうだ。要するに、しっくり来ちまってるってことだ。
 隣にあいつがいないと、何故か落ち着かない。家に居着いた猫がずっと姿を見せないとどうにも気になるように、そわそわしてしまう。
 もちろん、あいつは帰ってくるのだ。俺が探さなくても、帰ってくる。何せ、こっちから姿を消したのに、わざわざ向こうから探しに来るくらいなのだから。
 こうして目を瞑っていても、足音が近づいてくるのが分かる。あいつの気配が、どんどん濃厚になる。
 闇夜の向こうから、赤金色の髪の毛と、黄金色の瞳が覗く気がする。
 足音がどんどん近づいてくる。
 どこかで扉が、力一杯開かれた。
 もう、匂いでも分かる気がする。それとも、戦闘の時に醸し出す、野生の豹みたいな、触れれば切れそうな程に研ぎ澄まされた気配。
 牢屋の中を、覗き込む気配。
 違う、そこじゃない。
 短い舌打ち。そうそう、次の牢屋に早く移れ。
 でも、そこでもないんだ。
 俺がいるのは、次の次の次、一番奥の部屋なんだから。
 短い舌打ちと呪いの言葉が、きっちり三回。
 そして、足音は、ここで止まった。

「海賊!」

 俺は、ゆっくりと瞼を持ち上げて。

「遅かったな、女王」



 いきなり、閃光が闇を切り裂いた。
 百戦錬磨のケリーも思わず身を固くしたが、閃光は正確にケリーを拘束していた鎖を破壊した。
 最初から鍵を探さない潔さが、むしろジャスミンに相応しかった。
 もう一度閃光が走り、もう片方の手も自由になった。手錠はまだついたままだが、この際贅沢は言えない。
 立ち上がったケリーは、長時間貼り付けになっていた体をほぐすために、肩と腕を回した。

「助かったぜ。恩に着る」

 ジャスミンは、牢屋自体の錠前を、やはり拳銃で撃ち壊した。

「気にするな。妻が夫を助けるのは、当然の権利であり義務だ。恩に着てもらう必要はない」
「妻が夫をって……普通は逆じゃねえか?」
「今のお前の有様でそんなことが言えるのか?」

 ケリーは諸手を挙げた。言い返す気力も起こらないほど、ジャスミンの言うことは正しかったからだ。それほどに、ケリーの有様は情けないものだった。上半身は裸で、右目の義眼は外されたまま。髪は土埃に塗れてばさばさで、色男が台無しだ。
 だが、そんなことでこの男の価値が上下するはずもない。少なくとも、ジャスミンの中での価値観は、いっかな揺るがない。
 ジャスミンは、無言で拳銃をケリーに手渡した。
 手に馴染んだその冷たい感触に、ケリーの頬が僅かに緩んだ。

「有り難い。これがないとどうにも落ち着かなくてな」
「さっさと逃げるぞ。意趣返しはその後だ」

 ジャスミンは来た道を引き返して走り出した。
 ケリーも、ジャスミンの後を追った。
 丸一日以上、冷たい石壁に貼り付けられていた体である。突然の激しい運動に各所の筋肉が悲鳴を上げたが、それで根を上げるほどに柔な鍛え方をしているケリーではない。びりびりとした痛みを、露程も表情には出さない。あくまで飄々とした顔のまま走った。

「それにしても、例の誘拐事件の後始末をするつもりで訪れたこの国で、こんな面倒事に巻き込まれるとはな。人生って奴はいつだって退屈しないように出来てるもんだ」

 走りながら呟いたケリーに、先を行くジャスミンが応えた。

「それだ。どうも、件の事件と今回の事件は、全く無関係というわけではないらしいぞ」
「無関係じゃない?それは一体、どういう意味だ?」

 ジャスミンはケリーに語った。
 ビアンキ老師から聞いた、この国の真実。
 大量に埋蔵されたトリジウム。
 それを隠すために変質したヴェロニカ教と教団。
 大海賊シェンブラックの協力により生まれたトリジウム密輸組織。
 そして、この国の大統領の手によってばらまかれた、トリジウム鉱山の地図。

「なるほど、あの密輸組織は、じいさんが作ったものだったのかよ」
「そして、ほとんど間違いなく、わたしの父もそれに一噛みしていた。父は商売人だ。ならば、この星に埋蔵されたトリジウムに興味を抱かないはずがない。例の星を基地として提供する見返りに、相当量のトリジウムを融通してもらっていたはずだ」
「なら、あの星にヴェロニカって名前を付けたのも、案外そういう意味だったりしてな」
「十分にあり得べき話だと思う」

 つまり、その時期に故マックス・クーアの心を独り占めしていた貴婦人は、人ではなく、この世で最も高価な金属だったということだ。

「シェンブラック老が一線を退いて以来、密輸組織はその部下に引き継がれたらしい。今もその指揮系統が存続しているのかは不明だが、とにかく組織とヴェロニカ教首脳陣の蜜月は現在に至るまで続いていたということだな。もっとも、件の事件の後はどうか知らないが……」
「つまり、この問題を徹底的に解決しちまえば、俺たちがこの星に来た目的も達成できるわけか」
「そういうことだ。だが、その前に、遙かに厄介な問題が立ちはだかっているぞ」

 ジャスミンの言葉に、ケリーは深く頷いた。

「一体、あの男がどういう意図をもってトリジウム鉱山の地図などをばらまいているのかは分からんが、少なくともあの男が所謂まともな神経の持ち主でないことだけは確かだ。これ以上の厄介事に巻き込まれる前に、我々は早急にこの星を離れるべきだと思う。そして、一端体勢を立て直した上で、それこそ徹底的な逆撃に出るべきだ」

 ケリーは、端正な顔を歪めて笑った。

「いいや、女王。話は極めてシンプルだぜ。俺は、あの野郎がこの星で何をするつもりなのか、あんたの話を聞いてはっきり分かった」

 薄暗い地下に、仄かな灯りが差し始めた。
 出口が近いのだ。ジャスミンは、後ろから聞こえるケリーの声に注意を注ぎつつ、全力で走った。

「あいつは、この星に内戦を引き起こすつもりだ」
「何を目的に?」
「目的?そんなものはありゃしねえよ。敢えて言うなら、内戦を引き起こすことそのものが目的なんだ。おそらく、そのおあつらえ向きの舞台だからこそ、あの男はこんな辺境の大統領に収まった」
「内戦を引き起こすことが目的だと?どういうことだ、海賊」

 ケリーは階段を駆け上がりながら、くつくつと薄ら寒い声で笑った。
 ジャスミンは、背筋を死に神の鎌で撫でられたような気がした。

「あいつは得意げに語ってくれたよ。この星に、惑星ウィノアを作るんだとな」

 ジャスミンは、思わず足を止めて振り返り、ケリーの顔を見た。ケリーの口からは決して聞くはずのない単語を聞いたからである。
 そして、ジャスミンは見た。爛々と輝く不気味な光を宿した琥珀色の左目と、光ですらを飲み込む闇と絶望を宿した虚空の右目を。

「やっこさんは、天使と会いたいらしい。そのためには、惑星ウィノアで、東西ウィノア特殊軍が殺し合ってくれないと不都合なんだとさ」

 今度はケリーが語り手になる番だった。
 アーロン大統領との短い会談。
 そこで聞かされた、あの男の出自と人生。
 ヴェロニカ特殊軍を名乗る、少年少女。
 そして、怖気を催す、極彩色の熱情。
 全てを聞いたジャスミンは、寒気のする恐怖を抱いた。それは、アーロン・レイノルズという男に対してではない。自分のすぐ後ろに立つ、ケリー・クーアという男に対してだ。

「……つまり、あの男は、この国で内戦を起こし、惑星ウィノアの二の舞をこの星に作り上げるつもりだということか?」
「ああ。ヴェロニカ教っていう特異な宗教に、億トン単位で埋蔵されたトリジウム。そして、表立っては分からないが、はっきりと根付いた身分社会。これだけの要素があれば、この国を泥沼の内戦に引きずり込むのはそれほど難しい話じゃない」
「だが、その後は?ウィノアを作るとは、どういう意味だ?」
「内戦が起これば、当然戦闘が起きる。人が死ぬ。だが、誰だって痛い思いをするのは嫌だし、可能なら自分以外の誰かに戦場に行ってもらいたいと願うものさ。それが、自分達とは関わりのない人間ならなおいいだろうし、例えば人工的に培養されたクローン人間だったりすれば申し分ないんじゃねえか」

 ジャスミンは思わず息を飲んだ。そして、止まっていた足を動かした。
 階段が終わり、長い廊下が姿を見せる。廊下は回廊状になっており、開けた中庭に沿って、いくつもの太い柱が廊下の両端に立っている。
 その中央を、二人は走った。
 
「クローン兵士なんかで戦争ごっこをするとなれば、当然馬鹿みたいに金がいるが、その点この国は何の心配もいらねえ。少し土を掘れば、鉱物の顔をした銭がいくらでも埋まってやがるんだ。懐具合の心配は、最初から必要ないのさ」
「だが、人工培養した人間を殺し合わせるような、非道な行いを本当にするのか?仮にも連邦加盟国だぞ?」
「加盟国じゃなけりゃ、現実にやった国があったじゃねえか。今はもうどこにもないけどな。それに、今この国は国際社会で孤立している。連邦脱退もそう遠い話じゃないだろう。そうなれば、誰の目を気にすることもなく、お人形さんを使った戦争ごっこに興じられるって寸法さ」
「……」
「自分達に火の粉の及ばない戦争やら悲劇やらってのは、人類が文明を築き上げて以来最高の娯楽で在り続けたんだ。そんな状況になれば、間違いなく戦争ごっこはこの星で一番のエンターテイメントになり、誰しもがそれを楽しむようになるだろう。一方、何も知らされない特殊軍の兵士達は、自分と同じ生まれの兄弟を不倶戴天の敵だと洗脳されて、不毛な殺し合いを続ける。はい、これで惑星ウィノアの一丁出来上がりだ」

「──そのとおり。そして、思い上がった人民に天誅を下すのは、あなたの役割です、ウィノアの亡霊」

 熱さも冷たさもない、感情そのものの込められない虚ろな声が、二人の足を止めた。
 ジャスミンには、聞き覚えのない声である。しかし、ケリーは嫌と言うほどにその声を聞いた。その声が、自分をウィノアの亡霊と呼び、ケリー・エヴァンスと呼び、天使への恋慕を語ったときのことを、ケリーはしっかりと覚えていた。

「……それは、どういう意味だい?」

 返答は、一片の湿度すら含まないような、乾ききった声で、

「この国で殺し合うのは、ケリー・エヴァンス、あなたが惑星ウィノアで友と呼び、上官と呼び、恋人と呼んだ人間のクローンです。そんな人間の戦いが、生が、死が、何の価値も生み出さない愚かな見世物にされたとき、あなたはそれを見過ごすことの出来ない人間だ。違いますか?」

 柱の陰から、ゆるりと男が姿を現した。
 纏っているのは、ヴェロニカ教の高僧のみに許された紫紺の法衣。頭巾を目深に被り、表情は窺い知れないが、奇妙な輝きを宿した青い瞳が、黄色く濁った白目に浮かんでいるのだけは見て取れた。
 その瞳が、微妙に焦点を外した視線で、二人を射貫いた。

「……これはこれは、不逞のテロリストの捕縛に、大統領自らがお出ましかい。身に余る光栄とはこのことだな」
「不逞のテロリスト如きであれば、私自身が姿を見せる必要はありません。しかし、何度も申し上げたとおり、あなたは私の恩人であり、大切なお客様です。それをもてなすのは、ホストである私の義務でしょう」
「じゃあ、これも何度も聞いた質問だがよ。どうして俺が必要になる?あんたは惑星ウィノアを作りたいだけなんだろう?なら、どうして俺に拘るんだ?」

 男は──現ヴェロニカ共和国大統領、アーロン・レイノルズは、痩けた頬に柔らかな笑みを浮かべた。

「決まっています。天使が愛しているのがね、ケリー・エヴァンス、あなただからですよ」

 アーロンは、さも嬉しそうに言った。

「惑星ウィノアを襲った悲劇は、決して特殊軍の亡霊を慰めるためのものではない。数億の人間の死とそれに倍する人間の苦難は、ただ一人の人間の魂を安らげるための供物に過ぎなかった。その人間が、ケリー・エヴァンス、あなただ。そして、あなたに供物を捧げた存在こそ、あの惑星に決定的な滅びをもたらした天使に他ならない」
「……それはそれは、ずいぶん買いかぶって頂いたようで、光栄だね」
「あなたは神に愛されているのです、ケリー・エヴァンス。そして、天使にもね。だから、この星に天使を呼ぶのであれば、あなたという要素が必要不可欠になる。あなたの怒りが、無念が、天使を降臨させる呼び水なのです。無数の特殊軍の屍の上で、あなたが再び垂れ流す慟哭こそ、天使に対する呼び鈴となるのです。全ての仕掛けに対する最後の藁が、あなただ。だから、私はあなたを欲している。どうですか、分かりやすいでしょう?」
「……では、この男が貴様の望みに必要不可欠なのだとして、どうしてわたしまでそれに巻き込まれなければならないのだ?」

 油断無く銃を構えたジャスミンが訊いた。その銃口は、法衣の老人の急所に、ぴたりと会わされていた。
 それでも表情を変えないアーロンは、やはり薄ら笑いを浮かべたまま、

「この星にウィノアが出来るまで、どれほど短く見積もっても半世紀の時間が必要になります。それほどの時間が経てば、私はこの世に生きていないでしょうし、あなたがたも敵討ちなどに勤しめるほど、健康な肉体を有しているとは思えない」
「……だから?」
「ケリー・エヴァンス。あなたはこの後、私と同じ冬眠カプセルに入って頂く。そして、目が覚めたときには50年後。あなたの目の前には、あなたの知り合いと同じ顔をした人間が殺し合う戦場と、それを楽しむ愚民共が待っていることでしょう。その時、奥方様、あなたが一人年老いていたのではあまりに不憫だ。私も、愛し合う夫婦の絆を、時間の暴虐をもって引き裂くのは本意ではありません。なので奥方様、あなたにも一緒に、我々と同じ冬眠カプセルに入って頂きたいのですよ。そうすれば、あなた方夫婦は同じ時間を生きることができる。素晴らしいとは思いませんか」
「……お心遣い痛み入る、とでもいえば満足か、アーロン・レイノルズ。生憎だがな、わたしは今まで生きてきて、これほど腹の立つありがた迷惑を被ったのは初めてだよ」

 アーロンは鷹揚に頷いた。

「今、分かって頂けるとは思っていません。しかし、悠久の時の果てに、あなた方は私に感謝するはずだ。よくぞあの時、二人を一緒に冬眠させてくれた、とね」
「……なるほど、確かにそうかも知れない。わたしがこの男を心底愛していて、片時も離れたくないと思っているならば、貴様の提案は喜ぶべきものなのだろう。だがな、その問題を解決するのに、もっと簡単で、もっと根本的な方法があることに、貴様は気が付いているか?」
「ほう、それはどんな?」
「貴様が死ねばいい!」

 ジャスミンは気兼ねなく引き金を絞り、アーロンの眉間を狙い撃った。
 人をいとも容易く死に至らしめる白熱の光条は、正確にアーロンの眉間へと吸い込まれ、しかし命中することはなかった。

「何だと!?」

 ジャスミンは、信じがたいものを見た。
 躱したわけではない。躱したというならば、先に死闘を繰り広げたメイフゥは、幾度もジャスミンの射撃を躱してみせたのだ。今更驚くに値しない。
 だが、今回は違う。
 アーロンは、一歩も動かなかった。躱す素振りすら見せなかった。
 躱したのは、光線である。
 光が、アーロンの眉間の手前でねじ曲がり、あり得ない軌道を描いて遙か後方の柱に突き刺さったのだ。
 既存の物理法則では説明のつかない現象にジャスミンは声を失ったが、すぐに平静を取り戻し、柱の陰に身を隠した。

「気をつけろ、女王!その男に銃は通用しない!」

 ジャスミンと同じく、柱の陰に隠れたケリーが、叫んだ。

「ええ、その通り。正解です」

 アーロンは笑った。

「その男は特異能力者だ!それも、とびっきりのな!」
「ええ、それも、正解」



[6349] 第五十九話:挙式、そして陵辱(15禁)
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/24 14:34
 これは、誰だ。
 今、俺が見下ろしている、この銀色の頭は、誰の頭だ。
 俺?
 違う、俺じゃない。俺であるはずがない。
 何故なら、俺はここにいるからだ。
 ここにいて、こんなことを考えながら、こいつの間抜けな後頭部を見下ろしているっていうことは、俺はこいつじゃないってことだ。
 もしも俺がこいつなら、俺は薄暗い廊下を、ぜいぜい喉を鳴らしながら必死の形相で走っていなけりゃならないってことだ。
 俺と、こいつは、全然別の人間だ。
 ならば、どうして、俺にはこいつの考えていることが分かるんだろう。
 こいつの、溢れるような感情。
 胸を掻き毟りたくなるような焦慮。己の所有物を奪われた怒り。大切なものを守りきれなかった後悔。
 もう少しで愛しい人に会える、歓喜。暖かい感情。綺麗な感情。
 全てが手に取るように分かる。言語化される前の、ぐつぐつに茹だった坩堝の中身みたいな思考の渦から、混和する前の、結晶みたいな感情を取り出すことが出来る。
 それはつまり、こいつは俺だっていうことじゃないのか。俺とこいつが同じ人間だから、こんなふうに、こいつの胸の内が読み取れるんじゃないのか。
 でも、もしもそうなら、どうして俺はこんなところから、こいつのことを俯瞰しているのだろう。
 分からない。そもそも、俺はいったい、誰だ。
 名前が思い出せない。
 昨日のことも、ついさっきのことも、全てが同列にあり、全てがあやふやだ。今の自分のことも思い出せない。
 まるで原生動物のように、ただ目の前のことだけを認識しながら、ふよふよと宙を漂っている。
 漂いながら、この男の必死な様を、見下ろしているのだ。
 ああ、どうしてこの男は、こんなにも必死なのか。ぶつぶつと、誰かの名前を呼びながら、必死に走っている。
 恋人の名前を何度も。
 カマル、カマル、と、何度も何度も呼んでいる。
 死なせない、絶対に死なせないと、何度も何度も何度も。
 それは誰の名前だ。一度だって聞いたことがない、名前だ。
 少なくとも、この世界では。
 俺の知っている人間の名前では、ない。俺が助けたい少女の名前でも、ない。
 俺が助けたいのは。
 そうだ。そのために、俺はここまで来たんだ。
 あいつを助ける。絶対に、助ける。
 助けてみせる。
 そのためなら、この痩せ犬みたいな命がどれほどのものだというのだ。
 名前は、言わない。口に出せば、誓いは意味を失うからだ。ただの願望に堕するからだ。
 だから、俺は何も言わない。この、情けない様の男みたいには、お前の名前を呼ばない。
 お前の名前を呼ぶのは、お前をこの手に取り戻したときだ。その時に、お前の頬に口づけをしながら、お前の名前を呼ぶんだ。
 俺が、お前を助けるんだからな。
 ウォルよう。
 


 煌びやかな部屋だった。
 天井を見上げれば、精緻な装飾の施されたクリスタルガラス製のシャンデリアが吊られている。壁に目を向ければ、一面に豪奢なステンドグラスが嵌められ、シャンデリアから漏れる灯火を七色の光で色づけている。床は、ともすれば足を取られかねないほどに毛足の長い絨毯が敷き詰められている。
 大きな部屋だった。
 ちょっとした体育館ほどの高さと広さと奥行きを有しており、奥には緞帳が下ろされた舞台が設えられている。それ以外のスペースには円形のテーブルがいくつも設置され、一点の染みもないテーブルクロスの上には目にも舌にも鮮やかな色取り取りの料理と、美しい花の生けられた花瓶が置かれていた。
 陰鬱とした地下階の中で、この空間だけが別世界のようですらあった。
 その部屋は、研究発表の場であった。自分達が丹精込めて調律し、調教し、磨き上げた作品が、どれほど美しく、従順で、淫らになったのか、それを同好の士に発表し、自慢するための部屋だった。参加者は、首輪で繋いだ作品を足下に侍らせ、口に出すのも憚られるような行いをさせて性欲を満たしながら、舞台の上で行われる催しもので目を楽しませ、豪華な料理で舌を満足させる。それが、この部屋の作られた目的であった。
 だが、今この部屋にいるのは、二つ足で歩く人間だけだ。四つ足で這いつくばることを強制された愛玩動物はいない。仕立ても生地も最高級の礼服に身を包んだ紳士淑女が、シャンパングラスを片手に、会話に花を咲かせている。
 
「いやいや、まったく参りましたよ。こないだ、新しく購入した子犬と遊んでいたら、思い切り噛みつかれてしまいまして。せっかく外国産の珍しい毛色の犬だったのに、とんだ災難でした。ほら、まだこんな痣が残っている」

 老紳士が、ただでさえ柔和な顔をいっそう笑み崩れさせながら、衆目に掌を見せた。
 小指側の掌に、丸く小さな歯形が残っている。肉食獣特有の尖った牙によるものではない。もっと平べったく、丸く、幼い歯によって作られた歯形だった。

「それはそれは、心よりお見舞い申し上げますぞ、マルシャル卿」
「飼い主に噛みつくとは、いくら躾のなっていない生肉食いの野良犬とはいえ、けしからんことです。親の顔を見てみたいというか……」
「しかし、そういう不従順な犬を躾ける時にこそ、我らの腕の見せ甲斐があるではありませんか。最初から全てを諦め受け入れてしまっていては、何の面白みもない。素材は強気で自尊心に溢れていれば、それだけ挑戦心と克己心が燃えさかるというもの。そうではありませんか?」
「いや、ジョラス卿。それはまったく仰るとおり。仰るとおりなのですが、やはり悪戯をした動物にはきちんとお仕置きをしてやらねば、何度でも繰り返しますぞ。何しろ、彼らは物覚えが悪く、愚かなのです。悪いことをしたその時にきつく叱ってあげないと、自分がどれほど許されざることをしでかしたのか、分からない。他の人間に迷惑をかけるかも知れない。きちんと叱るのは飼い主の義務というものでしょう」

 掌に噛み跡を残した老紳士が、深く、嬉しそうに頷いた。

「全くもってあなたのお言葉の通りですなレニエ卿。こういうことを放置すると、大きくなってからも噛み癖が残ったりもするものです。掌や指ならともかく、それ以外の場所に噛みつかれては男としての面目が立たなくなってしまうかも知れませんので、それはご勘弁願いたい」

 その場に居合わせた男性の全てが、苦笑いを浮かべた。

「では、きちんと罰を与えたと?」
「ええ。ただ、悪いのは憐れな子犬自身ではなく、子犬に与えられた歯という危険な武器です。そんな危ない物がなければ子犬が怒られる必要もなかった。なので、危ない物は全て没収しました。そうすれば、子犬が怒られることは二度とはない。そうではありませんか?」

 なるほど、と、全員が深く頷いた。歯を失った口がどれほど懸命に噛みついたところで、噛み跡を残すなど出来ようはずが無い。いや、そもそも、噛みついてまで反抗しようという気力など既に残されているとは思えないが。
 そんな話を嬉しげに聞かされても、嫌悪感を浮かべる人間は一人だっていなかった。

「しかし、たった一度噛みついただけで、これからの長い一生を流動食しか口に出来なくなったというのは、少し不憫な気がしますな」
「いえいえご心配には及びません、それはまだまだ幼い子犬でして。もうそろそろすれば、どうせ新しい歯が生えてきますからな。彼女が流動食しか食べられない期間も、そう長いものではないでしょう」
「ならば安心だ。成長期の子供用の入れ歯を作るというのも、これが中々大変でして。私も以前、たいへん難儀したのですよ。私と同じ苦労をマルシャル卿が背負うことがないようで、一安心です。いや、苛烈な調教で知られるマルシャル卿にも人の心というのは残っていたのですな」
「無論のことですよ。まぁ、もしももう一度噛みついたりするようなら、例え永久歯が生え揃った後であっても根刮ぎ引っこ抜いてやろうとは思っているのですが」
「これは酷い」

 一同が快活に笑った。
 そんな、身の毛もよだつような会話が部屋の各所で交わされ、しかし誰一人として眉を顰める者はいない。何故なら、この場にいる人間の全てが、マルシャルと同じ趣味嗜好を持つ人間ばかりだからだ。
 その中の一人が、珍しく眉を顰めながら言った。
 
「それにしても驚かされました。以前から噂にはなっておりましたが、不逞なテロリスト共め、まさか恐れ多くも大統領の住まう城をその標的にするとは……」
「それも、よりにもよってルパート君の新しい門出を祝う、慶ぶべき日を狙ってです。全くもって許し難い」
「先ほどちらりと小耳に挟んだところでは、どうやら捕縛された仲間の奪還を目的としているそうですぞ。愚かなことだ。今やこの城にはヴェロニカ共和国軍の精鋭が集い、憐れな獲物が飛び込んでくるのを手ぐすね引いて待ち侘びていたというのに」
「まぁ、この素晴らしい式典が終わり我らが帰路に着く頃には、害虫駆除の全ては滞りなく完了しているでしょう。我らはそのような雑事にはかまけず、ただ将来有望な青年の洋々たる前途を祝せばいい。そうではありませんか?」

 全員が頷いた。
 そんな会話も一段落した頃合いに、部屋の照明が突然落とされた。
 テロリストの一件もあり、部屋全体が少しざわめいた。が、緞帳の下ろされた舞台、その脇に立った青年にスポットライトが当てられるに至って、安堵の溜息と、盛大な拍手がわき起こり、地下階全体を揺らすようだった。

「ルパート君、この幸せ者め!」
「人生の牢獄に進んで繋がれようとするとは、きみも中々奇特な青年だな!」

 冷やかし混じりの野次が飛び、赤毛の青年は照れたように頭を掻いた。
 少し時間を空けて、ルパートがマイクを手にした時には、部屋全体がしんと静まりかえった。

「本日はお忙しい中、私たち二人の結婚式にご出席頂きまして、誠にありがとうございます。まずは、今回の話がとても急に立ち上がったものであり、皆様に招待状を送るのが式の直前になってしまった不手際を、この場を借りてお詫びさせて頂きたいと思います」

 ルパートは、隙のないタキシード姿に精気と自信を漲らせ、よく響く漲る声で淀みなく言った。

「本日、お呼びさせて頂いております皆さまは、私にとっては、家族と言ってもいいほど大切な方々ばかりでございます。このように、今日、私と妻がここへ立つ事ができているのも、皆様方のお力添えがあったからこそと言えます。本当に心より感謝申し上げます」

 それは、極々一般的な式のスピーチと代わりがなかった。部屋も、些か豪華すぎるものかも知れなかったが、所謂結婚式場と見られないこともない。
 だが、式が始まっても姿を見せたのが新郎だけで、花嫁がどこにも見えないのが異様といえば異様であった。普通の結婚式ならば、新郎と新婦は並んで入場するのが常であるのに。

「さて、私ことルパート・レイノルズと、新婦たる女性は、これから式を執り行い、誓いの接吻を交わすことで夫婦となります。しかし、式と一言に申し上げても、その種類には様々なものがあることは皆様もご承知のことかと思います。それぞれの信じる神に誓う。祖先の霊に誓う。国王や族長に対して誓いを捧げる。このヴェロニカ共和国では、父たる天の神、母たる聖女ヴェロニカ、そして我々を守護し給う精霊に対して誓いを捧げるのが一般的ではありますが──」

 ルパートは、ぐるりと会場を見渡した。
 部屋の照明は依然落とされたままで、部屋の細部まではほとんど見ることが出来なかったが、この場にいる全ての人間の視線が自分に集中していることはひしひしと感じられた。

「私は、人前式の作法に則って、彼女との式を執り行いたいと思います」

 一拍置いて、

「当然、私はヴェロニカ教の敬虔な信徒であります。式は、ヴェロニカ教の形式で執り行うのが最も望ましい。ですが、新婦たる女性は、ヴェロニカの神に頭を垂れて、まだまだ日が浅い。そのような二人が一生の誓いを立てるのに、神のお心を煩わすのは大変忍びないと、私は愚考しました」

 会場のあちこちで、頷く気配がする。

「なので、これは恐縮な話なのですが、私が最も懇意にする皆様を、我々が誓いを交わした証人と仕立て上げてしまおうと企んだわけです。こうすれば、万が一、今日この場で私に不利な誓いが交わされたとしても、後日誤魔化しようがあるというもの」

 微かな笑い声が漏れる。

「しかし、人という生き物の悲しさ。年月の経過に伴い、人の記憶は薄れゆく。記録映像に残すなどという無粋をしなければ、どれほど明敏な者であっても、人はいずれ忘れてしまいます。まして、他人の結婚式の記憶など、人が生きていく中で最も必要のない記憶の一つでしょう。万が一の時に私が皆様に助けを求めても、式を執り行った記憶そのものが無くなってしまっていては一大事。そこで……」

 ルパートは、天井より垂れ下がっていた紐を、ぐいと一気に引いた。
 すると、重々しい緞帳が、少しずつ少しずつ持ち上がり、舞台から漏れ出す光が部屋を照らし始めた。

「式は、出来るだけ皆様の記憶に残るよう、特別なものにしたいと考えました。それは、私の希望でもあり、もちろん私の妻になる女性の希望でもあります」

 緞帳が、じわじわと持ち上がる。
 そして、最初に見えたのは、靴の先だった。
 白く、艶やかに輝いた、小さな小さな靴の先がちらりと恥ずかしげに姿を現し、ドレスシューズの大きく空いた甲の部分には、透き通るほどに白い肌が見えた。
 ただ異常だったのは、それが宙に浮かんでいたことだ。普通ならば舞台を踏みしめているべき新婦の足が、舞台から30センチほど上の空中を、ぶらぶらと浮いていた。

「婚儀を交わした夫婦の最初の共同作業は、一般的にはウェディングケーキへの入刀などが執り行われますが、そんな行為に夫婦の本質はありません。夫婦の本質は、ともに助けあい、慈しみ合い、子を育て、次代への責任を果たすことにこそ存在します」

 緞帳が、どんどん持ち上がっていく。
 よく見れば、ウェディングドレスの長い裾部分が、舞台の上に垂れ落ちている。しかしそれは後ろの部分だけで、前の部分は、花嫁の白い足が向き出しになるよう、大きく切り開かれたデザインとなっていた。細い足首も、艶めかしいふくらはぎも、愛らしい膝小僧も、全てが観客に対して無防備に晒されていた。
 
「では、本当の意味での夫婦の共同作業と呼ぶに相応しい行為は、何か。それは、次代の命を設けるための、尊い作業。子を作ることですよ。そのための交わり、まぐわい。男と女の、最も神聖で、美しい行為。これこそ、本当の意味で夫婦の共同作業と呼ぶに相応しい」

 緞帳は、止まらない。
 新婦の滑らかな太股の半ばまでが露わになったが、流石にそこから上部分はドレスで隠すことを許されていた。
 体のラインの浮き出るマーメイドタイプのドレスの下に、少女の未成熟な肢体が押し込められていた。まだまだくびれの弱い腰周り。膨らみかけの乳房。ドレスの胸もとはぐるりと切り込みが入れられ妖艶さを醸し出しているが、それが少女の体とどうしてもそぐわない。たまらないほどにアンバランスである。そして、少女の背後を飾り付ける、極上のハープ弦のような黒髪。
 その全てが、痛々しいまでの背徳性を織りなしている。

「私は、皆様の前で人前式を執り行うにあたり、皆様の前で、妻と最初に一つになろうと決心しました。無論、我々のまぐわいなど、皆様にとってお目汚しなのは重々承知の上であります。その上で、未熟な夫婦の初めての繋がりを、どうか記憶に止め、可能であれば祝福の言葉を賜れればと存じます」

 そして、緞帳は上がりきった。
 露わになったのは、宙づりにされた、黒髪の少女だった。
 少女は、美しかった。今まで幾多の美少女を飽きるほどに漁ってきた会場の男共が、思わず息を飲むほどに。
 痩せぎすではない、適度に肉が乗り、その上でしっかりと均整の取れた体つき。悩ましげに顰められた眉、アーモンド型の瞳、つんと可愛らしい鼻、小振りで愛らしい唇。呆けた様な表情であったが、それすらも少女の美の一要素でしかない。
 そんな少女が、宙づりになっていた。
 純白のウェディングドレスに身を包み、呆けたような表情を浮かべた少女が、天井から垂れ落ちた無骨な鎖に腕を繋がれ、ぶらぶらと宙づりになっていたのだ。
 あり得ない光景だった。幼い少女が、淫靡なデザインのウェディングドレスを纏っていること。その少女が見世物のように宙づりにされていること。その少女が、これから結婚式に名を借りた陵辱に晒されること。
 そのどれも、全てが現実感に乏しい光景だ。
 しかし、観客は大いに盛り上がった。
 盛大な拍手、新郎に対する賛辞は、大きく轟き、一向に止む気配がない。

「なんと素晴らしい!ルパート君、これこそ我らのように、真の美と愛に生涯を捧げると誓った者に、相応しい結婚式だ!」
「君と、斯様に美しい花嫁の最初の契りを見ることが出来るとは、光栄だよ!」
「しかし、我々はまだ、その美しい雌犬……もとい、花嫁の紹介を受けていないぞ!ルパート君、あまり勿体ぶらず、早く彼女を我々に紹介してくれんかね!」
「そうだ、そうだ!」

 ルパートは、轟々たる非難に心底困ったように、眉根を寄せた。
 そしてマイクを口に近づけ、

「そういえば、皆様に、私の新婦の紹介をしていませんでした。これは不徳の致すところ。決して皆様に対して秘密主義を貫いていたわけではありません。どうかご容赦下さい」

 この嘘つきめ、と悪意の無い罵声が飛ぶ。
 ルパートは、笑っていた。

「この少女の名前は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。この星ではない、遙か遠くの惑星の生まれです。どうです、この中で、彼女の名前に聞き覚えの無い方はおられますか?」

 ルパートは、ぐるりと会場を見回した。
 舞台から漏れ出す灯りで仄かに照らし出された会場、そこにいる人間の表情のうちに、不審に首を傾げたものは存在しない。皆が、驚愕に目を大きく見開いている。
 ルパートは、満足げに頷いた。

「そう、この少女は、来るべき次の回帰祭の、生け贄として選ばれた少女であります」

 会場の幾人かが、ゴクリと唾を飲み下した。

「当然のことではありますが、無辜の信徒が回帰祭において、野獣の贄となるべき役割を振り当てられるはずもない。彼女には、無数の罪科がある。この星には不法な手段をもって秘密裏に入国した上、遊び半分にテロ行為や違法薬物の密売に手を染め、殺人の罪を犯したことも一度や二度ではありません。私の敬愛すべき同士である憂国ヴェロニカ聖騎士団の団員の中にも、彼女の毒牙にかかってこの世を去った者がおります」

 ルパートは苦しげに言った。
 会場のほぼ全ての人間から、憎悪と軽蔑の入り交じった視線が少女に向けられているのを感じる。

「この星に来る前から、彼女の非行は始まっておりました。そもそも、父親の教育方針に大きな問題があったのでしょう。彼女の父親が、自らが知事を勤める惑星においてどのような所業に及んでいたのかは、皆様も報道でご承知のところだと思います。無計画な乱開発により貴重な自然を広範囲に荒らし、いくつもの野生動物の住処を台無しにして、多くの希少生物を絶滅へと追いやった。狩猟を趣味とし、いたずらに生き物の命を奪っては骸をただ打ち捨て、命を弄ぶ。我々ヴェロニカ教徒からすれば、鬼畜にも劣る所業です」

 会場から、割れ裂けんばかりの糾弾の声が巻き起こった。
 中には、その罪を少女の身体をもって雪がせろという、過激なものもあった程だ。
 だが、新婦に対する非難を、ルパートは怒らなかった。諫めようとすらしなかった。寧ろ当然という顔で、神妙にその声を聞いている。
 やがて、声が収まった頃合いを見計らって、

「ですが、それは父の罪。そして、そのような卑劣漢の背中を見て育ち、物の通りも弁えず、己の犯した罪の非道も分からぬまま、生け贄とされる彼女があまりにも憐れ。許されざる罪を背負ったのだとしても、その罪が罪たる所以を知らずに死ねば、その魂は無間地獄を永遠に彷徨うことになりましょう。私はそう思いました」

 しん、と会場が静まりかえった。

「私は渋る父を説得し、この少女との面談を繰り返しました。そして、少女自身と父親の犯した罪の深さを説き聞かせました。無論、最初のうちは、彼女は聞く耳など持ちませんでした。唾を吐きかけられたのも一度や二度ではありません。しかし、真理は万人に共通であり、本当の慈悲の心は必ず伝わるもの。いつしか少女はヴェロニカの神に頭を垂れ、その罪深き一生の全てを懺悔したのです」

 会場から、感激に啜り泣く声が聞こえた。
 それは、ルパートの行為を賞するものであり、少女の不憫を忍んで流されるものでもあった。何しろ、彼女が真実の愛に気が付いても、早晩生け贄としてこの世を去らねばならないのだから。

「彼女は、自分の罪はこの身を生け贄として儀式に捧げ、大いなる自然の循環に戻ることでこそ償えるのだと私に言いました。ですが……ええ、彼女の決意には非常に申し訳ないことなのですが……私には、もう、彼女を手放すことなど考えられなかった。僅か二日ほどの彼女との交流が、私にはどうしても忘れがたかった……。私は、彼女に恋をしてしまっていたのです。それも、致命的なほどに」

 ルパートは、恥ずかしげに頭を掻いた。

「父に、直談判をしました。もちろん、最初は酷く叱責されました。ヴェロニカ教の大罪人に惚れるとは何事だと、勘当すらもちらつかされましたが、それでも最後には、彼女との仲を認め、祝福してくれました」
「では、儀式は……」
「無論、彼女以外の罪深き者が、生け贄に供されることになるでしょう。何せ、彼女は既に悔い改め、その罪を深く恥じ入っているのです。これ以上の罰が彼女に必要なはずがありません」

 会場から沸き上がった疑問に、ルパートは満足げに答えた。
 何人かが、深く頷いた。

「彼女ももちろん、喜んで私の妻になることを承諾してくれました。でも、罪に汚れた自分では、私に相応しくないと言うのです。そこで、私は考えました。どうすれば彼女が忌まわしい過去をして、私の妻となってくれるのかを」

 ルパートは振り返り、自分の所有物となった少女と相対した。

「私は、彼女に名前を上げることにしました。生まれ変わった彼女に相応しい、清楚で、可憐で、穢れ無き名前を」

 舞台へと昇る階段を、一歩一歩踏みしめ、花嫁へと近づいていく。
 少女は、自分に近づいてくるルパートを、呆けた視線で、嬉しそうに見ていた。

「これは、我々の結婚式であると同時に、新しい彼女の生誕を祝う式典でもあります。どうか皆様、新しい彼女の名前を、祝福してあげてください」

 ルパートは、黒髪の少女の耳に口を近づけて、囁いた。

「さぁ、言ってごらん。僕が君にあげた、君だけの名前を」

 少女は、嬉しそうに、唾液で糸引く唇を開いた。

「わ……たしの、なまえ……は……エレオ……ノラ……です……ご主人……様……」

 ──はい、堕ちた。

 ルパートが、堪えきれない笑みを浮かべた。



 少年が、走っていた。
 もう、彼自身、どのような道を通ってここまで来たのかを覚えていない。
 そもそも、何も考えていない。ただ、体の内から聞こえる何者かの声に従って、ここまで来たのだ。
 だが、少年は、それとも少年の体を突き動かしている何者かは、知っていた。自分の道行きが正しいこと。そして、その先に、自分の最も愛しい誰かがいること。
 少年は走る。ほの暗い廊下を駆け抜け、草いきれの香しい中庭を駆け抜け、やがてぽっかりと口を開けた地下階への階段を見つける。
 ほとんど飛び降りるのと変わらない勢いで、そこを駆け下りた。
 地下階の廊下は複雑に枝分かれしており、その先に細かく区切られた牢屋がある。そのどこに誰が囚われているか、ここの構造を知らない人間には分からない。
 少年の敏感な嗅覚は、この地下に、異性の匂いが充満していることに気が付いた。それも、血と脂に塗れた、饐えた臭いだ。
 その中の一つに、どこかで嗅いだ覚えがあった。他の雑多な臭いとは比べようもないほど、甘い匂い。良い匂い。
 少年は、それを目指して走った。もはや疑いようも無かった。ここにいるのだ。もう、すぐ近くにいるのだ。
 石壁に設置された、小さな燭台だけが灯りの全てである。普通の人間であれば、歩くことが出来ても走ることなど到底できない程の薄暗さだ。
 だが、少年には真昼も同然だった。神経が高ぶり、視神経が、ほんの少しの光を普段の何百倍にも明るく伝えている。
 だから、少年は走った。
 何度も曲がり角を曲がり、いくつもの赤錆の浮いた鉄扉を無視し、走った。
 そして、見つけた。先ほどまでの扉とは明らかに異なる、豪奢な扉を。
 そこに、その奥に、いるのだ。自分が、これほどまでに恋い焦がれる、あの少女が。
 だが、その扉の前には、談笑する二人の男が。

「それにしても今から楽しみだねぇ、あのガキを嬲るのがよう」
「ルパートの奴も、早く飽きてくれればいいのになぁ」
「俺は、思い切りぶん殴って、ぼこぼこにしてみてぇよ。あの生意気そうな面が、腫れ上がってどこぞの化け物と間違えるくらいになったら、楽しいじゃねえか」
「俺は、全身の関節を逆方向に曲げてやるんだ。前に進もうとしてるのに後ろに戻っちまう間抜けな様子を、腹を抱えて笑ってやるぜ」
 
 ──邪魔を、するな。
 
 少年の脳髄に、殺意と同じ意味の怒りが、迸った。
 男達が、遅まきながら、自分達の方向に突っ走ってくる少年に気が付いた。

「なんだ、てめぇは!?」

 二人の男のうち、大きなほうが、大きな声で威嚇した。
 咄嗟に懐から取り出した拳銃で、少年を狙い、撃った。
 だが、銃口の先に、すでに少年はいなかった。少年はその身を限界まで低くして、二人の男に突っ込んでいた。勢いそのまま大きな男に突進し、拳を突きだし、大男の鳩尾に思い切り叩き込んだ。
 大男の分厚い皮下脂肪と腹筋を、拳から放たれた衝撃が、一気に貫通した。

「ぐえぇっ!?」

 大男が地面に転がり、盛大に反吐をまき散らした。目を限界まで開き、呼吸することすら許されずに悶絶している。
 だが少年の興味は既にそこにはなかった。
 ひゅん、と、少年の頬を風がなぶった。寒気のする金属質な光が、暗闇を文字通りに切り裂いていた。

「てめぇ、よくもハンクを!ぶっ殺してやる!」

 痩せぎすの、病質的な男が、慣れた手つきでナイフを構えていた。
 だが、少年は意に介さなかった。
 突き出されたナイフを躱し、その手を掴み、思い切りねじ上げた。
 痩せぎす男の関節が、あり得ない方向に曲がり、それと一緒に、ぶちぶちと、鳥の手羽先を引きちぎったような音が聞こえた。

「お、おれの、うでが、うでがぁ!」

 男はナイフを取り落とし、歪にねじ曲がった自分の肘関節を眺めて、ぱくぱくと口を動かしていた。
 だが、その様子も、少年は見ていなかった。
 そして、扉に走り寄り。
 その重たい扉を、一気に開け。
 迸る光に目をしばたかせ。
 そして、見たのだ。
 青年と少女が、下半身の一点で繋がっている有様を。
 少年の意識が、憤怒の色で真っ赤に染まった。



 ルパートは、黒髪の少女の横に立った。こうしないと自分達の繋がっている部分が観客に見えないのだし、第一、目上の人間に対して尻を向けるのは失礼だからだ。
 躊躇いなくズボンのチャックを下ろし、既に充血した男性自身を取り出した。それは、存分に使い古されて赤黒く、臍まで反り返るほどに巨大だった。
 少女の、真白いウェディングドレスを纏った華奢な様子との比較が、冒涜的ですらあった。
 会場にいた男のほとんどが、感嘆の息を吐き出した。会場にいた女の全てが、蠱惑的な吐息を漏らした。
 青年は、会場にある全ての眼球が自分達に向けられていることを意識しながら、少女の片足を掴み、天高く掲げた。少女の足は上下に大きく開脚され、処女性を表す白い下着が剥き出しにされた。

「さぁ、エレオノラ。ようやく僕たちは一つになれる。今まで酷いこともしてしまったが、全ては君のためを思えばこそだ。許しくれるね」
「あ……あ、あ……」

 エレオノラと呼ばれた少女の頬が、官能に紅潮した。瞳は潤み、唇が細やかに震えている。
 愛しい雄によって己の内側を侵略されることを待ち侘びる、雌の表情だった。
 ルパートは、堪えきれない表情でほくそ笑んだ。ああ、これで、名実ともにこの雌は自分のものになるのだ。そしてこの雌は、一生涯を尽くして夫に仕え、夫の喜びを己の喜びとして、いつかは夫のために死んでいくのだろう。
 その時は絶対に、自分の掌でこの細い首を縊ってみたい。この細い首が折れ曲がったとき、どれほど官能的な音が鳴るのだろうか。
 ルパートは、少女の首を優しく撫でさすってやった。少女が、恥ずかしげに鼻を鳴らし、顔を逸らした。

「恥ずかしがることはないよ。これから、僕たちは毎晩、今よりももっと激しくて恥ずかしいことをするんだ。このくらいで恥ずかしがっていては、身が持たない」
「は、ぁ……」
「いいから、全て僕に任せて。いいね」

 少女が、恥ずかしげに俯いた。ルパートは手を伸ばし、その頭を撫でてやった。
 まるきり従順な雌犬そのものだ。この様子なら、腕を縛る鎖だって要らなかったかも知れない。まぁ、宙づりの体勢で犯し続けるのも興がない。最初の一度が終われば、手錠を外し、色んな体位で楽しんでみるのも良いだろう。
 ルパートは、少女の片足をぐいと引き、その太股を脇に抱え込んだ。そうすると、少女は再び恥ずかしげに顔を背けたが、ルパートは止まらなかった。
 己の男性自身を数回しごき、より一層の血液を送り込んでやる。今から、自分と比べるのも馬鹿らしいほど狭い場所に割入らなければならないのだ。どれほど固くても、固すぎるということはない。
 少女の体を抱え直す。少女の秘部を隠す下着をずらしてやると、新雪の積もった雪原のように、つるりと白い下腹部が姿を現した。
 ルパートはその体勢のまま、空いた片腕でもう片方の足も持ち上げ、少女の腰を両手で抱え上げて、露わになった秘部に、己の男性自身を押し当てた。

「さぁ、きみの初めてをもらうよ、エレオノラ……」

 ルパートは、己の鼻息が荒くなるのを自覚していた。
 仕方のないことだ。今まで想い続けてきた愛しい少女と、ようやく一つになることが出来るのだから。この様子を想像して、何人もの少女を責め殺してしまった。ならば、少しは興奮しないと、身代わりになった彼女達に申し訳ないというものではないか。
 今から、このグロテスクな肉の塊が、少女の初めてを奪い、その純血に塗れるのだろう。少女の内側は、どれほど情熱的に自分を包み込み、その精をねだるのだろうか。
 ルパートは息を止め、満場の拍手と歓声に背中を押されるように、腰をゆっくりと突き出した。
 少女の柔い粘膜に、先が擦れたのを感じる。あとは、このまま押し入るだけだ。とろけるような快楽を、ルパートは予感した。
 だが、その目的は、中々上手には達成されないようだった。

「おっと、これはなんとも積極的な!」
「ルパート君!負けてはおられんぞ!きみも頑張りたまえ!」

 会場から笑い声が起こった。
 少女が、待ちきれないと入ったように、ルパートの腰にその細い足を巻き付けたからである。結果的にルパートは前につんのめり、少女に体重を預ける体勢になった。男性自身はつるりと滑り、少女の尻の下に収まってしまっている。
 ルパートも苦笑した。苦笑しながら、少女の頭を撫でてやった。

「こらこらエレオノラ。駄目じゃないか、はしたない。待ちきれないのは分かるが、今日は僕に花を持たせておくれ」

 そう言って、己の唇を、少女のそれと重ねようとした。
 その時である。
 己の体の内側から、みしりと、奇妙な音を聞いた気がした。

「え……?」

 ルパートが、思わず、自身の体に巻き付いている少女の足を見た。
 それは、やはり少女の足だ。
 白く、滑らかで、ほっそりとして、触れば柔らかそうな。
 その太股で膝枕をしてもらえば、どこまでも心地よい眠りを味わえそうな。
 そんな少女の足が、恐るべき力で、自分の胴体を締め上げていた。
 ルパートは、痛みや苦しみよりも先に、困惑を覚えた。
 どうして。おかしい。何故。
 僕のエレオノラが、こんなことをするのか。この体のどこに、こんな力があるのか。
 
「ようやく、捕まえたな」

 事態に思考が追いつかず、表情を空白にしていたルパートの眼前で、少女がにぃと微笑んだ。
 今までの、呆けたような笑みではない。確固とした自我を備えた、獰猛な笑みだった。

「え……れお……のら……?」
「誰のことだ、それは?」

 愉快そうな声が、不吉な響きを伴って耳道にこだました。
 その声と、めしめしと絞り上げられていく肉の音を同時に聞きながら、しかしルパートには、まだ自分の身に起きつつある事態が飲み込めていなかった。
 どうしてだ?どうして僕のエレオノラが、こんな勇ましい表情で自分を見上げているのだ?これではまるで、あの少女のようではないか。
 このルパート・レイノルズのことを憐れだと言い、どれだけ暴力を振るっても言うことを聞かなかった、あの少女。
 いや、違う。そんなはずはない。あの少女の自我は、薬で完膚無きまでに破壊されて、既にこの世界のどこにも存在しないはずなのだ。粉々のごみくずになって、精神の海の中にばらまかれたはずなのだ。
 ここにいるのは、僕のエレオノラのはずなのだ。
 なのに、どうして?

「貴様には何のことか分からんだろうが、一応は教えておいてやる。この体はな、俺の魂を宿す前に、ありとあらゆる拷問を経験したのだ。げすな薬物による実験を含む、ありとあらゆる拷問と陵辱をな」

 何のことだ。エレオノラ、きみはいったい、何を言っているんだ。
 ルパートは叫びたかった。
 だが、胴を締め付ける恐るべき力に、呼吸すらもままならない今の彼では、叫び声を上げることはおろか、身動ぎ一つすることは出来なかった。
 赤毛の頭髪の間からだらだらと脂汗を流し、引き攣った表情のまま、目の前の少女の顔を見続けるしか出来なかった。

「この体に宿った精神は、その度に汚泥の中に叩き込まれ、死にたくなるような恥辱を味あわされてきた。初めてだと?笑わせるな。既にこの少女の体は、考えられ得る全ての陵辱を味わっている。あの、げすな薬の耐性が、体の内に宿るほどにはな」

 べきり、と、体の中から音がした。圧力に耐えきれなくなった肋骨が、へし折れた音だった。
 だが、力は緩まらない。それどころか、ますます強くなっていく。
 この時点で、ルパートはようやく死の予感を覚えた。自分は、この少女に殺されるかも知れないという、予感だ。
 ルパートは藻掻こうとした。だが、ぴくりとも動けない。体が、脳の命令を拒絶している。少しでも動けば、自分が死ぬと理解していたからだ。
 少女だけが正面から見ることの出来るルパートの顔は、本来の端正な顔立ちを投げ捨てて、異常なまでの苦痛に歪みきっていた。
 眉がしかめられ、だらしなく開け放たれた口からは舌が突き出され、その先を伝って涎が垂れ落ちる。蒼白になった顔面を、滝のような脂汗でいっぱいだ。
 どこにも、支配者としての尊厳はない、滑稽な顔だった。
 地獄を味わい続けるルパートの耳に、不吉な声がかけられた。
 少女だ。先ほどまで、自分に捧げられた神からの供物であった、少女だ。
 その少女が、烈火の如き烈しい視線でルパートを居抜きながら、腹の底に響く不吉な声で囁いた。

「おいおい、この程度で根を上げてくれるなよ。俺はまだ、半分も力を出していないのだぞ」
「ひぃっ……」

 ルパートが、肺に残された貴重な酸素を、悲鳴として吐き出した。
 嘘だ。今だって、少女とは思えない、いや、そもそも人間とは思えない力で自分を苦しめているというのに。どう考えても、これ以上の力を人間が出せるはずがない。
 だが、もしも。万が一、いや、億が一に、少女の言葉が嘘ではなかったとしたら。自分はいったいどうなってしまうのか。

「さっさとこの不快な鎖を外せ。俺は、あまり気が長い方ではない。それともこのまま──」

 少女──ウォルが、肉食獣の顔で、笑った。

「口と尻の穴から、はらわたをひり出してみるか?」



[6349] 第六十話:In The Nightmare
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/24 21:42
 出来の悪いホラー映画に紛れ込んでしまったようだ。
 ケリーとジャスミンは、同じ感慨を同時に抱いていた。
 彼らは、必死に走り、逃げていた。戦いながらであるが、はっきりと逃げていた。
 何から?
 彼らを追って迫る、一人の男からである。

「冗談ではないぞ、あれは!」

 ジャスミンがたまらずに声を上げた。
 ケリーも、大いに同意した。

「ちくしょう、あれは反則だろう、いくら何でも!」
「怪奇小説の怪物でも、もう少し可愛げがある!」
 
 ジャスミンは、振り返り様に銃を構え、引き金を数回絞った。
 光条が薄暗い廊下を走り抜け、そこに突っ立った男の急所の悉くに命中した。
 否、命中したかに見えた。
 だが、光条は、男に着弾する直前にあり得ない方向に屈折し、その先にある壁を破壊しただけであった。

「これでどうだ!」

 ケリーが手にしていたのは、ジャスミンが愛用する光線銃ではなく、鉛の実弾を発射する昔ながらの拳銃である。しかも、相当に口径が大きい。
 ケリーはそれを片手で構え、引き金を引いた。危うく銃身を取り落としそうになるほどの激しい衝撃が腕全体を襲うが、ケリーの鍛え込まれた肉体は衝撃に打ち勝った。
 マズルフラッシュが閃き、空の薬莢が宙を舞い、回転しながら猛スピードで直進する弾頭が男の眉間へと吸い込まれていく。普通ならば次の瞬間には男の体が後方へと吹き飛び、仰向けに倒れた男の頭部を中心とした血の花が、鮮やかな様子で咲き誇るはずだ。
 だが、ケリーは信じがたいものを見た。
 鉛の弾頭が、男の額の前で、静止していたのだ。激しく回転し、あと一歩で目標を殺せる悔しさに歯噛みするように唸りを上げながら、しかし見えない壁に突き刺さったかのように空中で静止していた。

「やっぱりか!」

 ケリーは、既に、あの男に一度敗れている。その時に、あの男の常識外れの力は嫌と言うほど味わっていた。しかし、それにしたって常識外れにもほどがある。
 あれは、正真正銘の化け物だ。少なくとも、化け物というカテゴリに入った生き物と戦っているのだという覚悟が無くては絶対に勝ち得ない、そういうレベルの存在であった。

「さぁ、存分に抵抗して下さい、ミスタ・クーア、ミズ・クーア。私はその全てを台無しにしてみせましょう」

 男──この国の大統領であるアーロン・レイノルズが、豪奢な刺繍の施された紫紺の法衣、その頭巾の奥に隠れた口元をにこやかに歪めながら、淡々とした歩調で二人に近づいてきた。
 光線銃や鉛の弾頭程度では、その歩みを少しだって止めることは出来なかった。

「どうする、女王!」

 今のところ、ケリーの手の中には、あの男の醸し出すプレッシャーに対抗するにはあまりに貧弱に思える、小さな拳銃が一丁だけである。これでは、逆立ちしたって勝てない。
 対抗する装備を持っているとしたら、それはジャスミンのバックパックの中を頼るしかない。

「当面の策はある!だが海賊、今はとにかく逃げるぞ!」
「すまん、頼らせてもらうぜ女王!」

 二人は逃げた。
 行きしなに通った、回廊状の廊下を抜ける。大人の男性二人でようやく抱えられるほどに太い大理石の柱が、廊下の城側と中庭側に、交互に立てられていた。
 午後の光に照らされた中庭では、噴水の作った細かい水の粒子が光に照らされて、小さな虹が出来ていた。まるきり、のどかな午後の美しい光景である。
 では、背後から迫り来る化け物はいったい何なのか。あれは、住処の時間的領域でいうならば、間違いなく丑三つ時に属する存在のはずなのに!
 あまりの理不尽さに、ジャスミンは舌打ちを一つ零した。

「どうだい、ここは。奇襲にはもってこいだぜ?」

 ケリーが、人の体を隠してあまりある柱の列を見て、言った。
 だが、ジャスミンは首を横に振った。

「後ろを見てみろ!あんな化け物相手に、豆鉄砲の奇襲が通用すると思うのか!」

 ケリーは振り返った。そして、思わず頭が冷たくなるほどに、血の気が落ちていくのを感じた。
 アーロンは、回廊の中央を、悠然と歩いているだけだ。
 にもかかわらず、アーロンの目の前にある大理石の柱が、突然轟音を立てながら大きく変形した。とんでもない力でぐにゃりと曲がり、螺旋状に崩れ落ちている。まるで、柱の上下を怪力の巨人が握り、雑巾絞りを行ったような有様で。
 それも、一本や二本ではない。アーロンが悠然と歩く度に、城全体を振るわしながら、柱が次々と無惨な様子になっていく。この分では、全ての柱が破壊されるのも時間の問題だろう。これでは柱の後ろにかくれんぼなど、出来ようはずが無い。
 ケリーは、恐怖を通り越して唖然としてしまった。いくら特異能力者という存在そのものが常識外れなのだとはいえ、これはその常識外れを更に逸脱していると言わざるを得ない。
 到底、人類に許された力ではなかった。
 銀河を支配する大財閥の長として、あるいは未踏の宇宙を駆ける無頼漢として、長く生きたケリーも、こんな常識外れの人間は初めて見た。

「ひでえ冗談だ!あいつは本当に人間か!?」
「親の顔を見てみたいものだ!実は人間とラー一族の混血だとか言われたほうがしっくり来るぞ!」

 ケリーとジャスミンは走って逃げた。そうすると、一時的にアーロンとの距離は稼げる。しかし、アーロンは悠然と歩いているように見えて、その歩調は意外なほどに早い。それほどの距離は稼げなかった。
 回廊を抜け、再び薄暗い廊下に入る。
 その時、突然立ち止まったジャスミンは、同じく立ち止まったケリーに、重たい金属の塊を手渡した。

「少しでいい。あの化け物の足止めを頼む」

 手渡されたのは、フルオートの実弾式サブマシンガンとそのマガジンケース、そして少し大ぶりなグレネードランチャー用の薬莢であった。マシンガンの銃身下部にはアンダーバレル・グレネードランチャーが装着されている。制圧能力は、当然のことながらハンドガンの比ではない。

「1分だ。どれだけ頑張っても、それが限界だぜ」
「十分だ」

 ジャスミンはそのまま廊下の向こうに走っていった。
 ケリーは振り返り、後ろから近づいてくる法衣の男に、サブマシンガンの斉射を浴びせかけた。
 盛大なマズルフラッシュと発射音、そして硝煙の臭いが狭い廊下に充満する。銃弾は、サブマシンガンの集弾性能を越える精度で、アーロンの体へと襲いかかる。
 だが、やはりというべきか、全ての弾はアーロンの手前で静止し、その体にかすり傷一つ付けることは叶わなかった。
 
「こいつでどうだ!」

 ケリーは、躊躇無くアンダーバレル・グレネードランチャーの引き金を引いた。ポンッと間の抜けた音が鳴り、白煙が辺りに立ちこめる。
 放たれた擲弾は男のわずか手前の地面に命中し、盛大に爆発した。爆風が狭い廊下を走り抜け、ケリーの巨体ですらが後方へと倒れそうになった。
 土煙が囂囂と立ちこめ、もはや視界はゼロに近い。息を吸えば多量の粉塵が肺に立ちこめ、思わず噎せ返ってしまう。
 だがケリーは手を止めなかった。グレネードランチャーに次弾を込めて、おそらくは男がいるであろう方向に向けて次々と放った。
 立て続けに起こる爆発と、その度に聞こえる、鼓膜を痛めるほどの爆音。時を置くほどに濃度を増す土煙は、もはや暴力的ですらあった。
 それでもケリーは手を休めず、グレネードランチャーの弾を撃ち尽くすと、次にマシンガンを、マガジンが空になるまで撃ちまくった。空になったマガジンを新しいものに交換し、それも空にしてやった。義眼を外したケリーには命中しているかどうかの確認のしようなどないが、とにかく撃った。
 そして、手持ちの弾薬の全てが空になってから、土煙の中を泳ぐようにして走り出した。無論、ジャスミンの走り去った方向にである。
 ケリーは決して悲観主義者ではなかったが、だからといってこの程度の攻撃であの男を仕留められるとは決して思わなかった。それは、ウサギ狩りの罠で獅子を仕留められるのだと思い込むほど、危険な勘違いに他ならないことを知っていた。
 大きく噎せ返りながら土煙の中を走ると、すぐにその濃度が劇的に薄まった。広い空間に出たのだと、ケリーは直感した。

「横に避けろ、海賊!」

 突然の怒号である。それが女の喉から放たれたものだと、誰が信じるだろう。
 この世で唯一それを信じられる男であろうケリーは、何を確認することもなく思い切り横に跳んだ。この女がそう言うからには、避けなければとんでもないことになるだけの何かをするつもりなのだ。
 然り、何かが甲高い音を立てながら飛来する音を、ケリーは聞いた。土埃の中、回転するプロペラを纏った対戦車用特殊大型擲弾が宙を舞う姿を、ケリーは見た。
 それも、一個や二個ではない。たくさんだ。
 ああ、確かに、これは避けなければ死ぬな、うん。
 感動的なまでに容赦のない女だ。だが、その容赦のなさが、こちらへの信頼ゆえにだと思えば可愛くもある。そして、そういう思考の出来ない男に、この女の旦那はつとまるまい。
 ケリーは半笑いのまま床に倒れ伏せ、耳を塞いだ。
 直後に、先ほどまで自分の立っていた場所から聞こえる、爆発音。

 爆発音。

 爆発音。

 爆発音。

 次々と、一撃で戦車をスクラップに変えてしまう規模の爆発が起こる。普通の人間であれば、一撃で十回は死ねる威力だ。
 それが、絶え間なく。
 携帯用グレネードランチャーから発射された擲弾とは、その威力を比べるべくも無い。
 またしても凄まじい濃度の土煙が立ちこめ、ケリーとジャスミンのいるホール部分を埋め尽くした。

「何をしている!逃げるぞ、海賊!」

 倒れたままだったケリーは、その腕をぐいと引かれて、強引に引きずり起こされた。身長2メートル弱、体重は100キロ近いケリーを片手で引き起こすジャスミンに、ケリーはあらためて奇異の視線を寄越した。
 だが、いつもの無駄口を叩いていられる状況ではない。

「あれでも仕留めきれていないのか、女王!」
「わからん!しかし、お前の攻撃では傷一つついていなかった!あれで仕留めたと安心するのは早すぎる!だが、少なくともこれで時間は稼げるはずだ!」

 ケリーは後ろを振り返った。先ほど自分達が通った通路の入り口は、大量の瓦礫に埋もれて完全にふさがっていた。あれを再び通れるようにするためには、重機の一つでも持ち込んで長い時間の作業をする必要があるだろう。
 しかし、これだけの大騒ぎをしてしまったのだ。この城に残っていた数少ない警備兵も、さすがに異常に気が付いただろう。監視機能の全てをいまだダイアナが掌握しているとはいえ、自分達にとって不利な状況になったことに変わりはない。
 
「どうする!?このまま逃げるのか、女王!?」

 赤毛を振り乱しながら振り返ったジャスミンは、金色に染まった瞳を激情で輝かせながら、言った。

「あいつは、いつでもわたしたちを仕留めることが出来た!その上で、好き放題をやらせていたのだ!要するに、わたしたちを弄んでいたのだぞ!よくぞやってくれたものだ!ここまで虚仮にされて、黙って引き下がれるか!」

 ケリーは頷いた。まったくもってジャスミンの意見は正しいのだし、ジャスミンの方針も尚のこと正しい。

「あの男、絶対にこの場で仕留めてやる!」



 進むべき道行きを大量の瓦礫で塞がれてしまったアーロンは、思わず忍び笑いを漏らした。

「ふむ、なるほど。私を仕留めるのが目的ではなかったということですか。賢明な判断、さすがはジャスミン・クーアといったところでしょう」

 これだけの瓦礫を除去しようとすれば、いくら常識外れの特異能力を誇るアーロンでも、流石に骨が折れる。ここは二人の思惑に乗ってやって、違う通路からの追跡を試みるべきだろう。
 唯一の懸念は、二人がこのまま城から脱出してしまうことだったが、アーロンの死んだ魚のように濁った瞳には、二人分の真っ赤に燃え上がった魂を見て取っていた。二人の戦意は燃えさかっており、それはアーロンを物言わぬ死体に変えるまで燃え続けるに違いない。
 何も心配は無いのだ。彼らは、自分が自分であるために、このアーロン・レイノルズに挑み続けるだろう。
 そして、敗北する。今の自分に勝てる人間など、この世には存在しない。
 アーロンは、法衣の奥の枯れた相貌に、暗い笑みを浮かべた。
 来た道を引き返し、しばらくの間歩くと、前方から人の近づいてくる足音が聞こえた。それも、一人や二人ではない、足音だ。

「閣下!ご無事でしたか!」

 やがて廊下の角から姿を見せた軍服姿の男が、大仰な声で言った。
 そこにいたのは、この城の防御を司る責任者である、軍人の男であった。名前は……忘れてしまった。
 その男を先頭にして、油断無く銃を構えた分隊規模の兵士が続いていた。いずれの兵士の表情にも、突然の事態に狼狽えた様子は寸分もない。凛々しく引き締まった視線は、日頃の厳しい訓練に耐え抜いた自分たちへの自信と信頼に充ち満ちていた。

「閣下、申し訳ございません。我らの不手際で、この城に不逞のテロリストどもの侵入を許してしまったようです。お叱りは後ほど頂戴しますゆえ、どうか安全な場所まで避難していただきますよう、よろしくお願いします。無論、我らがご案内いたしますので」

 中年の、がっしりした体格の軍人を前にして、アーロンは微笑んだ。

「叱るなどとんでもない。君たちは、精一杯にその職務を果たしてくれている。それは正しく尊敬に値することだ。その君たちを、どうして私のように安全なところから指示だけを下す人間が、叱責することが出来るだろうか」
「閣下……」

 中年の軍人の瞳が、感激の涙で薄く濡れだした。
 巨躯の軍人を前にしながら、しかしアーロンは表情を歪め、心底弱ったような様子で続けた。
 
「ただ、一つだけ問題があってね。私は、この城に大事な忘れ物をしてしまったのだ。今も、それを回収に行く途中だったのだよ。そうだ、君たちも手伝ってくれると嬉しいのだがね」

 軍人は首を横に振った。

「残念ですが閣下、それは後回しにしていただきます。現在、この城の警備システムは原因不明の動作不良を起こしており、どこにテロリストどもが潜伏しているか、全く掴めておりません。このような状況では、一秒でも早くこの城を脱出するのが一番大事。その忘れ物がどれほど大事であっても、閣下のお命とは比べるべくもございません」

 一徹者の軍人は、国家の大重鎮に対して、正面からそう言い切った。立派な軍人、立派な部下の定義が、目上の人間であってもその誤りを見過ごさない人物であるとするならば、この男は正しく立派な軍人であり部下であった。
 あまりにきっぱりと自分の意見を否定されたアーロンは、困ったように眉を顰め、

「君の言いたいことは重々承知なのだよ。しかし、忘れ物というのが、本当に大事なものなんだ。私が、大統領などという過分な職務を得る前から探し求めていた、本当に大切なものなんだ。だから、どうか見過ごしてはくれないだろうか?」
「いけません。あまりご無理を言われるならば、例えこの階級章を肩から外すことになっても、引きずってお連れいたしますぞ」
「どうしても、これだけ言っても駄目なのか?」
「どうしても駄目です!」

 軍人は、大統領ですら威圧するように胸を張りながら、びしりと言い切った。
 アーロンは、しゅんと項垂れてしまった。

「そうか、では仕方ないな」

 軍人は、控えめに道を指し示した。

「ではこちらに。前後は我らで警備いたしますので……」
「本当に勿体ない。君たちは、これほど有能で忠実な軍人だというのに、残念な限りだよ」

 その瞬間、兵士の一人の首から、奇妙な音が鳴り響いた。
 ぽきり、と、枯れ木の枝をへし折ったような、軽い音。
 その場にいた全員の視線が、音の源に集中する。それは、音を鳴らした兵士自身も同じだった。
 どうして自分の体から、突然こんな音がなるのか。日頃の訓練で疲労が溜まり、関節が音を立てたのだろうか。
 それにしてもおかしい。どうして自分は、いきなり後ろを向いているのだろう。背嚢から突き出た通信アンテナの先が、どうして目の前にあるのだろう。
 あれ、これはおかしいぞ。後ろを向いているのではない。背嚢が、体の前面に付けられているのだ。
 自分はいつの間に、こんな間の抜けた格好をしていたのだろうか。大統領の居宅をテロリストが襲撃するという、前代未聞の大事件の最中にこの格好では、鬼のバスク大佐に、殴られるでは済まないような叱責をもらうに違いない。
 兵士は、慌てて背嚢を下ろそうとした。だが、その作業が上手くいかない。腕を背嚢の肩ベルトから引き抜こうとしたのだが、これが上手くいかないのだ。腕が、自分の意識したのとは反対に動いてしまう。動作が、面白いほどちぐはぐになる。
 あれ、あれ。おかしいぞ。おかしいぞ。でも、急がなくては。急いでこの背嚢を下ろして、背中に担ぎ直さなくては。
 あたふたしていた兵士の視線が、ふと、今一番怖い人間である、バスク大佐の、呆気に取られた視線とぶつかった。
 ああ、駄目だ。怒られる。

「すみません、大佐、すぐに直します……」

 兵士は、そう言おうとした。だが兵士の言葉は、ごぼごぼと口から溢れる大量の血液に邪魔されて、濁り、変質し、誰にも正確に聞き取ることが出来なかった。
 首を前後反対にした兵士は、顔と背中の両方をバスク大佐の方に向けたまま、濁った言葉で何事かを呟いて、ゆっくりと後ろに倒れていった。
 体は俯せに倒れているのに、顔と首だけは、色を失った瞳で天井を見上げていた。芯の折れた首の肉が、奇妙な様子で捩れていた。
 誰も、何も言わなかった。敵襲かと、銃を構えることもなかった。あまりに現実感の乏しい光景が、この場にいた、加害者以外の全ての人間から、意識を奪っていた。

「ああ、本当に残念だ。素直に私の手伝いをしてくれていれば、こんなことにはならなかったのになぁ」

 アーロンが、倒れた兵士の脇にしゃがみこみ、見開かれたままの瞼を下ろしてやった。
 そして、いまだ事態を飲み込めない他の兵士に掌を向けて、

「きみも、悪いなぁ。本当に、申し訳ない」

 次の瞬間、掌を向けられた兵士の体が、大きく後方に吹き飛び、城全体を揺るがすような轟音を立てて壁に衝突した。
 憐れな兵士は、やはり何が起こったか分からぬまま、大きく目を開き、息絶えていた。
 ずるずると壁からずり落ちた兵士の残骸。彼が衝突した石壁には、人のかたちをした大きな窪みと、血肉で描かれた真っ赤なタペストリーが残されていた。

「ああ、本当に、申し訳ない、申し訳ない」

 アーロンは、ぱちりと指を鳴らした。
 その瞬間、呆然と立ち尽くしていた兵士数人の全身が、燃えさかる業火に包まれた。

「う、うわあぁぁ!?」
「はひいぃぃ!」
「な、なんだ、どうして火が、火がっ!?」
「け、けしてくれ、たのむ、はやくけしてくれぇぇ!」

 絶叫。じゅうじゅうと、脂の焦げる音。髪の毛と肉が焼ける、ヴェロニカ教徒には馴染みのない臭気。
 人が、生きながら焼かれていた。炎を纏って暴れ回り、転げ回り、苦悶に身を捩り、喉を掻きむしり、最後に動かなくなった。人のかたちをした、大きな松明と化した。
 目の前で次々と息絶えていく戦友達を、彼らは、身動ぎもせずに見守っていた。あまりに突拍子もない死に様に、既に意識が追いついていなかった。
 その中でただ一人、バスク大佐だけは、遅まきながら、次々と部下を惨殺しているのが、アーロン・レイノルズ大統領であると気が付いた。無論、どうやって殺しているのかは分からないのだが。

「な、何をしておいでなのですか、閣下!忠実なヴェロニカ軍人を、あなたの部下を!」
「何とは……きみも、おかしなことを聞くものだ。だって仕方ないではないか。私は、忘れ物を回収に行きたいのに、君たちはそれを阻止するというのだ。なら、方法は一つだろう?」

 アーロンは、大きく掌を開き、それを閉じる動作をした。

「君たちに、この世を去ってもらうしかない」
「えぎゅぅぅうぅ……」

 その掌を向けられた先の兵士が、奇妙な声を上げながら、小さく丸められていた。
 全身をあり得ない角度で折りたたまれ、体のあちこちから血を吹き出し、ぴくぴくと痙攣しながら丸まったその姿は、人のかたちを残した肉団子だった。全身の関節をへし折られ、小さく丸められてしまった人間は、そのままスーツケースに入れて持ち運べそうな様子だった。
 
「私もね、悲しいのだよ。それを分かってくれたまえ、ええっと、……きみの名前は何と言ったかな?」

 紫紺の法衣に身を包んだ老人は、まるで、古代の世界において大いなる邪神に魂を捧げた、邪悪な老魔術師のようであった。
 ならば自分達の肉と魂は、その邪神に捧げられる供物でしかないのではないだろうか。

「う、うわあぁぁぁっ!」

 本能的な恐怖に突き動かされて、バスコ大佐は、腰に備え付けたホルスターから愛用の拳銃を抜き放った。
 


 兵士達が次々と物言わぬ肉塊に変えられていく様子を、恐るべき早業で司令室を乗っ取ったケリーとジャスミンは、監視カメラの映像を通して見守っていた。

「ひでぇ……」

 大型スクリーンの前に腰掛けたケリーが、ぼつりと溢した。幾多の死体に見飽きたケリーをして辟易とさせるほど、気の毒な兵士達の死に方の悉くが、人間としての尊厳を失ったものであった。
 ケリーは、喉の奥からこみ上げてくる吐き気と戦っていた。兵士のグロテスクな死に様に動揺したのではない。圧倒的な力を持つ強者が、逃げ惑う弱者を蹂躙する様子の醜さにこそ、ケリーは吐き気を覚えていたのだ。

『サイコキネシス、テレキネシスにパイロキネシス。貴方たちとの戦いを見ていると、一種のクレヤボヤンスも使えるみたいね。これほど多彩な超能力を、これほどの出力で使いこなす能力者なんて、過去のどの実験記録にも残されていないわよ』

 ダイアナが、冷静な調子で説明した。
 ケリーの隣に立ったジャスミンも頷いた。

「わたしは仕事柄、色々な立場の人間とのコネクションには事欠かなかった。その中に、特異能力者を自称する人間も多くいた。そのほとんどは二流三流の山師に過ぎなかったが、中には本物もいて、その能力に度肝を抜かれもした。だが、これほどまでに桁を外れた能力者など、ついぞお目にかかることはなかったぞ」
「力を解放した黄金狼や天使は別格だがよ、それにしたってこの男は怪物だ。こんな化け物と正面から戦うのは、どうにかして遠慮したいところだぜ」
 
 ケリーが、額にぽつぽつと浮いた冷や汗を手の甲で拭った。
 カメラの先で、最後まで生き残った隊長格の兵士──大佐の階級章を肩に付けた男だ──が、ささやかな、そして最後の抵抗を試みていたが、アーロンの歯牙にもかからなかった。打ち込まれたハンドガンの弾は、悉く宙に静止し、一つとして大統領の痩せた体には届かなかった。
 兵士は壁際に追い詰められた。アーロンが、無慈悲な様子で、兵士に向けて手を伸ばした。

『く、来るな、来るんじゃない、あっちへ行け、この化け物め!』

 兵士は破れかぶれの有様で、弾を撃ち尽くした拳銃を放り投げた。黒光りした鉄の塊は、しかしアーロンの顔の前で運動エネルギーの全てを奪われ、重力に従って垂直に落ちた。
 いよいよ追い詰められた兵士が、懐から何かを取り出し、苦し紛れに投げつけた。
 掌にすっぽり収まるほどの直方体の物体は、大統領の胸にこつんと命中し、軽い音を立てて地に落ちた。
 まだ封の切られていない、煙草の箱だった。
 アーロンは、地に落ちた煙草の箱を呆気にとられたように眺め、それからくすくすと笑った。

『……人間、追い詰められると色々と面白いことをするものだね。まさか、煙草のケースでわたしを倒せるとでも思ったのか?』

 アーロンは、顔面蒼白になった兵士に掌をかざした。
 次の瞬間、ぱんっ、と、水風船の割れるような音がして、兵士の頭が内部から吹き飛ばされていた。
 血と肉と脳漿が飛び散り、アーロンの顔と紫紺の法衣を汚した。首から上を無くした兵士の体が、噴水のような血液を断続的に吹き上げて、やがてゆっくりと倒れていった。
 アーロンは、鮮血に塗れた顔をぐいと拭い、それからカメラに視線を向けて、楽しそうに口を開いた。

『さぁ、そろそろそちらへ参りますよ、お二方。どうぞ、精一杯あがいてください。私は、その姿を心から応援しますゆえ……』

 ぶつりと、監視カメラの映像が途切れた。

「くそったれが!」

 ジャスミンが、コンソールを思い切りに殴りつけた。
 遊んでいる。あの男にとって、自分達は、狩りの獲物なのだ。いや、獲物ですらない。幼児が捕まえた虫けらの脚を千切って遊ぶように、自分達の苦しむ様子を見て楽しんでいやがる。
 ジャスミンはかつて様々な場所で戦ってきた。幼き日は病院で。成長してからは、軍隊で、宇宙で、社交界で。その全ての戦いはジャスミンにとって心休まるものではなかったが、それにしてもこれほどの屈辱を受けたことはない。
 ジャスミンの象徴でもある金色の瞳が危険水域を遙かに超える怒気に染まり、あまりの怒りに赤毛が逆立つようだった。
 
「おいおい、ちょっとは落ち着けよ、女王」
「わたしは落ち着いている!」
「落ち着いているあんたが、そんなふうに声を荒げたためしが、今までにあったか?」

 ジャスミンは、思わず、自分の夫の顔をまじまじと見返した。
 そこには、凪いだ海のように平静の、琥珀色の瞳があった。
 ジャスミンは、吐き出しかけた罵声を飲み込み、目を閉じて、深い息を吐いた。

「……すまん、言葉が正確ではなかった。つい今しがた、落ち着いたところだ」
「ああ。そういう切り替えの早さが、あんたの長所だな」
「茶化すな。しかし海賊、状況は最悪だぞ。わたしは正直、あの男には勝てる気がしない。少なくとも、今の状況ではだ。ならば、尻尾を巻いて逃げ出すのも一つの手だと思う」

 ジャスミンの瞳は金色の輝きを放ち続けており、彼女の激情が本当の意味で収まっていないことをケリーに教えた。そんな状態でも、逃げるという最も屈辱的な選択肢を提示できるあたり、何度も死線をくぐり抜けた熟練の戦士の面目躍如といったところか。
 それにしても、何とも彼女らしい、飾り気の『か』の字も無い言い方だ。普通の軍人ならば、こういうときは撤退とか転進とか、オブラードに包んだ言葉を選ぶものではないか。そう思い、ケリーは片頬だけを歪めて笑った。

「あんたの言うとおりだが、女王、このまま逃げるのも業腹だ。少しだけ悪あがきをしてみようじゃねえか」
「それは、いったいどんな?」

 ケリーは、その細い顎に手を当てて、少し考え込んだ。

「……まず、あの男の目的ははっきりしている。俺たちを捕まえて、50年後の世界に送り込むことだ。だが、それにしちゃあ手段が妙だぜ。あれだけのテレキネシスやらサイコキネシスやらがあれば、さっきの銃撃戦で俺たちを捕まえるのは難しくなかったはずだ。違うか?」

 ジャスミンは頷くことで同意を示した。

「違わない。少なくとも、もしもわたしがあの男と同じ立場だったら、あの瞬間にわたし達を捕らえていた自信がある」
「じゃあ、どうしてあの男はそれをしなかった?やっこさんが致命的な間抜けだっていう可能性を除けば、どういうふうに考えられる?」
『多分、貴方たちを屈服させるつもりなんだわ』

 画面に、船員服を纏った、魅力的な女性が映し出された。
 ケリーの相棒、宇宙船《パラス・アテナ》の感応頭脳、ダイアナ・イレブンスその人であった。

『よく動物の調教で行われる手法よ。聞き分けのない動物に対して、飼い主には何をどうやったって、全ての面において敵わないんだということを、何度も何度も、それこそ骨身に染みいるまで経験させる。そうすると、どんな反抗的な動物だって、飼い主が自分の上に立つ生き物だということが分かる。そうした動物は、物わかりの良い、従順なペットになる……』
「ほう、それはそれは、ずいぶんと高い喧嘩を売りつけてくれたものだな……!」

 ジャスミンの声が、あまりの怒りに細かく震えていた。
 辛うじて笑みを浮かべたその表情も、尋常ではない危険で満たされている。口元の刻まれた笑い皺の深さが、彼女の危険度と正比例をしているようだ。もしも目の前に真っ赤な林檎があれば、それをあの男の顔に見立てて思い切りに握りつぶしていたであろう表情だった。
 だがケリーは、如何にも平然とした調子で、
 
「へぇ、そいつは何とも有り難い話だな。あの辛気くさい男にも気前の良いところがあるじゃねえか。助かるぜ」
「海賊!」
「要するに、結局のところあいつは俺たちを傷つけることが出来ない。少なくとも、殺すことは出来ない。俺たちがどんな無茶をしでかしても。そういうことだろう?」

 背もたれを倒したケリーが、悪戯げな表情を作ってジャスミンを見上げた。
 ジャスミンは一瞬目を丸くして、諦めたような笑みで頷いた。

「……そういうことだな、海賊。これは、紛れもなくわたし達のアドバンテージだ」
「あいつが、俺たちの手の内の全てを受け止めるつもりなら好都合だ。考えられる全ての作戦であの男を攻撃してやる。それで手も足も出ないってんなら、それこそ仕方がねえさ。あいつの隣で50年間の昼寝としゃれこもうや。目が覚めたら、今度は曾孫や玄孫とご対面だ。それはそれで面白い人生なんじゃねえか?」
「全力で御免被る。あの男と同衾したいなら、一人でやってくれ。わたしはその前に逃げ出すからな」
「おお、冷てえこった。自分の旦那がしわくちゃ爺に寝取られそうになってるのに、見捨てて逃げ出すのかい?それは妻の風上にも置けない女のすることだぜ?」
「知っていたか海賊、その台詞を口にする資格があるのは、少なくとも夫の風上くらいには何とか置ける男だけなんだぞ」
「俺は、押しも押されぬお手本通りの立派な旦那様だろう?」
「よく言う。わたしはお前と結婚して以来、わたし以外の女の隣で眠るお前を想像して何度枕を涙で濡らしたか。この悪夫め。過去の悪行の数々を、胸に手を当てて思い出すがいい」

 少しだけにらみ合った後で、ケリーとジャスミンは同時に笑った。ダイアナは、一人、この変わり者夫婦のやり取りを、溜息混じりに眺めていた。

『お二人さん、惚気るのもいいけど、状況を考えてよね。あなた達だけ眠っちゃって、わたし一人、50年も宇宙を漂っているのは嫌よ。そんなことになったら、本当に浮気しちゃうんだから。そうだ、あなたたちのお孫さん。あの子も宇宙船乗りを目指してるのよね。あの子が成長した暁には、モーションかけちゃおっかなぁ』

 艶やかな唇に人差し指を添えながら、妖艶な仕草で言った。
 ケリーは大いに慌てて、がばりと体を起こした。

「ちょっと待てよダイアン。それは駄目だ。それは困る。50年経って起きてみたら、愛船が孫に靡いてましたじゃあ、海賊の端くれとして浮かぶ瀬も立つ瀬もあったもんじゃねえぞ」

 この言葉を聞いたジャスミンが、ケリーに恨みがましい視線を送った。

「わたしの浮気は見過ごすのに、ダイアナの浮気は困るのか。つれないじゃないか海賊。これでは本気で嫉妬を覚えてしまうな」
「いや、そういうわけじゃなくてだな女王。っていうか、全部分かってて言ってるだろう、あんた」

 ケリーがやはり恨みがましい目でジャスミンを睨み付けるあたりまでが、この三人にとっての限界だった。
 今度は風変わりな感応頭脳も一緒に、腹を抱えて笑った。

「どうにも緊張感がねえな」
『ええ、いつも通りに、ね』
「これくらいがちょうど良い塩梅さ。さぁ、海賊。冗談は抜きにして、あの男を倒す方策があるのか。全く可能性がゼロなら、さっさと逃げよう。その方が生産的というものだぞ」
「ないことはない。少し耳を貸してくれるかい?」



 二人がアーロンを迎え撃ったのは、この城で一番面積の広い、大広間であった。別に、特別な意図があったわけではない。その部屋が単純に、アーロンと、ケリーとジャスミンの二人との、ほぼ中間に位置していただけの話だ。
 アーロンが、やはり悠然とした歩調で部屋に立ち入る。
 その部屋は少し変わった造りになっており、いくつもの出入り口があった。そのいくつかは直接階段と繋がっており、上部階や下部階に用事があるときは、この広間を通り抜けると便利なのだ。
 大広間というよりも、廊下を極端に大きく広げたスペースと言った方が正確かも知れない。
 いわば、この城の中心である。
 その部屋の、アーロンとは正反対の入り口に、一組の男女が立っていた。部屋の左端と右端、そこに立った太い柱に寄り添うようにして、距離を開けた状態で一人一人、立っていた。
 右にいるのが、燃えるような赤毛の女。
 左にいるのが、良く磨かれた黒髪の男。
 ともに、溢れんばかりの覇気と闘志でその巨躯を満たしている。内側に満ちたものの圧力で、今にも体が弾けてしまいそうな有様だ。
 その立ち姿を見ただけで、分かってしまう。この二人は、普通の人間に用意されたのとはひと味もふた味も違う星のもとに生まれ育ったのだと。
 アーロンは、その二人を、なんとも眩しげな視線で見遣った。

「さて、ずいぶんとお待たせしてしまったようで申し訳ありません。しかし、そろそろ日も暮れようかという時間帯。鬼ごっこで遊ぶのは止めにしましょうか」
「ああ、その意見には全面的に賛成だぜ」
「無論、終わり方にもよるがな」

 アーロンは頷いた。

「賢明なるお二方のこと。既に私の意図するところなどお見通しでしょう。おそらくはさぞご不快な思いをさせてしまったと愚考いたしますが、それもこれもお二人のためをお思えばこそ。どうかご容赦頂きたい」
「貴様は、貴様の望むことを為すために、貴様の考えられ得る最善の方法を選んでいるだけだろう。わたし達は、わたし達の望むことを為すために、わたし達の考えられ得る最善の方法を選ぶ。それだけの話だ。別に、謝って頂く筋合いはないな、アーロン・レイノルズ大統領」
「恐れ入りますミズ・クーア。そう言って頂けると肩の荷のいくつかが降りる思いです。非常に有り難い。しかし、そこには重大な問題がありますぞ。もしも、わたしの為すべき事と、あなた方の為すべき事の間に大きな齟齬があり、どうしてもその溝を埋めることが出来ないときは、どのようにして摺り合わせることが出来るでしょうか?」

 ジャスミンは、うっすらと笑った。

「単純だ。おそらく、この宇宙が始まって以来、ありとあらゆる場面で適用されてきた、最もシンプルな手段があるじゃないか」
「ほう、それは?」

 大量の返り血に、鮮やかな紫紺からどす黒い暗紅へと色を変えた法衣を纏った男は、楽しげに聞き返した。
 ジャスミンは、はっきりと、何の臆面もなく言った。

「決まっている。腕尽くで、相手に言うことを聞かせればいい」

 言葉と同時に手にしたスイッチを押し、即座に柱の影に身を隠した。
 次の瞬間、部屋の各所で爆発が起きた。
 巧みにカモフラージュされた、指向性対人地雷の炸裂した音だった。
 地雷の内部に仕込まれた高性能爆薬の生み出したエネルギーにより、1000発を越える、直径1ミリほどの鉄球が打ち出された。それらは秒速1000メートルを超える運動エネルギーを得た小さな殺戮者である。人の肉を容易く突き破り、跡形もなく人体を破壊する。
 その地雷が、同時に四機。最有効加害範囲を、今正しくアーロンの立っている場所に設定した状態で、爆発したのだ。
 襲い来る鉄球の数、4000発以上。普通ならば、人のかたちすら残らず、ずたずたのボロ雑巾のようになった肉の残骸だけが残されるだろう。
 轟音が鳴り響き、石壁に、男に命中しなかった小さな鉄球が撃ち込まれた。城全体が、衝撃に揺れた。いくつかの弾が跳弾を繰り返し、硬質な音を何度も奏でた。
 それでも、その男は無傷であった。自分の立っている場所を中心として、高さ3メートル直径2メートルほどの円筒形の空間に無数の鉄球を浮遊させて、その中心で微笑んでいた。

「まさか、これが策の全てだというわけではありますまい!さぁ、姿をお見せなさい!」

 アーロンは、二人が隠れた柱を破壊した。ぐしゃりと、大理石の巨大な柱が、見えない巨人の手に握りつぶされたように圧縮され、悲鳴を上げ、折れ砕けた。
 濛々とした砂煙、その後ろに、果たして二人は立っていた。
 しかし、素手ではない。傍らに、とんでもなく巨大な鉄の塊を従えている。
 アーロンは、一瞬目を疑った。いったい、この短時間で、それをどこから調達してきたというのか。

「さぁ、大統領。招かれざる客である我らをもてなすために、大統領御自らにこんなところまでお越し頂いたのだ。我らも、あなたのご厚情に応えるため、それなりの手土産は用意した。とことん、骨の髄まで味わってもらおうか」

 二人が握っているのは、鋼鉄製の三脚により地面に固定された、地対空重機関砲の銃把だった。
 巨躯を誇る怪獣夫婦の体でさえ小さく見えるほどの巨大な重機関砲である。いくら人並み外れた膂力を誇る二人でも、到底持ち上げて構えられるものではない。
 その、非現実的な銃器の怪物が、同時に咆えた。
 爆撃音と紛うほどの強烈な射撃音と共に、直径2センチを越える巨大な銃弾が螺旋状に空気を切り裂いて、大統領に襲いかかった。
 一発で、頑丈な軍用装甲車のエンジンをぶち抜く化け物ライフルである。威力は、今まで二人が攻撃に使ってきた拳銃や軽機関銃とは桁が違う。この城の外壁ですらを容易く貫通するだろう、古代の破城槌を凌ぐ威力の銃弾なのだ。
 アーロンも、これには流石に平静でいられなかった。
 手を顔の前にかざし、特異能力の全てを防御に集中させた。

「ぬぅん!」

 二人には、アーロンの目の前の空間が、何か目に見えない強烈な力で圧縮されたように見えた。空間そのものがぐにゃりと歪み、その先にあるアーロンの姿が、奇妙に捻れて見える。
 そして、銃弾と空間が衝突した。
 人間の作り出した暴力の結晶と、人間が憧れ続けたお伽噺の異能との、正面対決である。
 拳銃や軽機関銃の弾丸程度であれば容易く静止させる濃密な力場に、重機関砲の巨大な弾丸が突き刺さった。
 唸りを上げて回転し、力場の先にいるアーロンの胴体を突き破ろうと、少しずつ前進していく弾丸。だが、それを許すまいと、アーロンは力場に込めるエネルギーをどんどん加重していく。
 アーロンは必死の形相だった。今まで余裕と共に二人をいたぶっていた、済ました表情はどこにもない。死んだ魚の瞳を血走らせて、汗を垂れ落としながら、迫り来る銃弾と必死に戦っている。
 それでも、費やした時間はそれほどのものではなかった。
 数秒の、生死をかけた鍔競り合いの結末は、異能の勝利であった。運動エネルギーの全てを使い果たした親指ほどの金属の塊が垂直に落下し、床とぶつかって重たい音を立てた。
 アーロンは、その痩せた肩を大きく上下させて、息を継いでいた。

「……まったくもって驚嘆に値するな、あなたの異能は。同じ人の身として尊敬するぞ、そのひん曲がった頭の回路は別にしてな」

 ジャスミンは、呆気に取られたような声で呟いた。

「しかし、状況が状況だ。あなたには悪いが、この城の武器庫に置かれていた全ての武器が果たしてあなたの異能に対して有効たり得るか、その実験に付き合って頂くとしよう!」

 二人の握った重機関砲が、再び火を噴いた。
 今度は単発ではない。機関銃の名に恥じぬ連続斉射である。
 銃弾が吐き出される度に、強烈な発射ガスが吹き出し、巨大な空薬莢が石床を叩いた。機関銃があまりの反動に跳ね上がり、二人はそれを押さえ込むのに一方ならぬ労力を費やした。
 それでも、発射された銃弾を受け止めるアーロンは、二人とは比べものにならないほどの労を強いられることになった。
 次々と襲い来るのは、一撃でも止め損なえばアーロンを体丸ごと吹き飛ばす鉄の塊である。
 アーロンは、流石に、全ての弾丸を受け止めることを諦めた。出来うる限りの弾丸の角度を変え、後方へと受け流す。どうしても角度を変えられない弾丸のみ、正面から受け止めた。
 とばっちりを受けたかたちの、アーロンの後方の壁が、いとも容易く形を変え、やがて崩れ落ちた。このまま撃ち続ければ、いずれ城そのものが崩壊するのではないかと思われるほどの銃撃だった。
 ジャスミンは、それでも顔色を変えず、機関砲を撃ち続けた。
 だがケリーは早々に銃把を離し、後方に積んであった銃器の山から肩打ち式の簡易ロケットランチャーを引っ張り出して、アーロンに向けて打ち出した。
 広大な部屋の片隅から、反対方向の片隅に向けて、ロケット弾がすっ飛んでいく。
 着弾。爆発。爆風がジャスミンとケリーの顔を叩いたが、それでも攻撃の手は休めなかった。
 ケリーは空になった砲を投げ捨て、次の砲を引っ張り出し、再び撃った。
 やがて天井が崩落し始めた。床が崩れ、部屋の半ばまでが完全に瓦礫の山と化した。
 それでも二人は、淡々とした様子で撃ち続けた。
 これは、我慢比べである。
 アーロンが、どれほどの威力を誇る武器であっても人間の構えられる武器程度では倒しきれない存在なのだと、二人は悟っていた。だからこそ、城の武器庫を漁り、ありったけの重火器を用意したのだ。その全てを味わってもらわないと、多額の軍費を税金で支払った、納税者の方々に申し訳が立たないというものではないか。
 崩れた天井や石壁がもの凄い量の土煙を巻き起こし、すでにアーロンの姿は見えない。それでも、そこにあの男がいることだけは確かだった。ちりちりとしたうなじの毛の感覚が、ジャスミンとケリーにそれを教えていた。
 要するに、まだまだ死んでいない。耐え凌いでいる。
 ならば、こちらもまだだ。まだまだだ。
 ジャスミンとケリーは、手が痺れて感覚がなくなるまで撃った。撃って撃って撃ちまくった。
 そして、弾薬が底をついた。
 静寂が部屋を満たした。今までの暴力的な騒音とは真逆の、耳が痛くなるほどの静寂だ。
 重機関砲の銃身は焼けて、凄まじい高熱を放っていた。この様子では、しっかりとオーバーホールをしてやらないと、使い物にならないだろう。
 肩で息をしたジャスミンは、正面の、煙の塊のようになった空間を睨み付けていた。

「もう、お終いですかな?」

 その声は、二人にとっての絶望を孕んでいた。
 あれだけの火力による一斉射撃を、この男は、正面から凌いでみせたのだ。
 ぱちりと、指が鳴らされた。その瞬間に強烈な風が吹き、煙の全てがどこか別の場所に運ばれていった。
 そして、煙が晴れた、その空間に、アーロンはいた。
 すでに、天井は無い。壁も破壊されて跡形もない。そして、床でさえが姿を消している。
 アーロンは、浮かんでいた。空中に浮かび、ずたずたになった法衣を纏って、くたくたになったジャスミンとケリーを、笑顔と共に見ていたのだ。
 背後に、暮れなずむ夕日が見える。その斜光を背負いつつ、アーロンは笑っていた。

「まさか、一人の人間を相手取るに、ここまでの火力を用意してくるとは思いませんでしたよ。力押しも可能性の一つとは考えていましたが、これほどに徹底されるとは予想外でした。流石に、冷や汗を掻かされた……」

 事実、アーロンの額には、一筋の白髪が汗によって張り付いていた。
 アーロンは、それを煩わしげに掻き上げた。

「さぁ、次の手は何ですか?まさか、これで終わりというわけではないでしょう?」

 宙を歩き、やがて無事な床に足を下ろしたアーロンが、こつりこつりと規則正しい足音を立てて二人に近づいていく。
 だが、ジャスミンとケリーは、ちっとも動かなかった。空になった機関砲の銃把から手を離し、がっくりと項垂れたまま立ち尽くしていた。

「なるほど、これで手仕舞いですか。よろしい、人間は諦めが肝心です。しかし、それほど落ち込むこともない。別に、あなた方の人生がここで終わるというわけではないのです。ただ、あなた方の時間軸と世界の時間軸が、50年ほどずれるだけの話。特にミズ・クーア、あなたなどは一度、その経験をされているはずですな。であれば、それが二度に増えるだけの話ではありませんか。それほど落ち込むほどのことでもありますまい」

 アーロンは、慰めるような調子で言った。
 ジャスミンが、悔しげに歯を軋らせた。
 
「……貴様などに、わたしの気持ちが分かってたまるものか。50年だぞ。赤子だと思っていた我が子が、いつの間にか人の親になり、自分よりも年老いているんだ。親交の深かった人達は、ほとんどが手の届かない世界へと旅立っている。生き残っている人間も、自分の歯では物を噛めない老人ばかり。残されたのはわたしだけだ。どうだ、これでも落ち込むほどのことがないと言えるのか」

 ジャスミンの言葉を聞いて、アーロンは残念そうに首を振った。

「お気持ちは、痛いほどに分かります。しかしこればかりはどうしようもないこと。どうか、ご自身の宿命とお諦め下さい」

 アーロンは、丁重な様子で頭を下げた。
 だが、ジャスミンは、アーロンの姿など見てはいなかった。俯き加減のまま、悔しげに手を握りしめて、立ち尽くしていた。

「……わたしのことはいい。わたしは、確かに一度、世界から忘れられた人間だ。周りの人間が私と違う時間を生きていくのにも、慣れている。だが、夫は、初めてなんだ。それに、目を覚ました瞬間に、またしても血生臭い争いの中に叩き込まれるだと?冗談ではないぞ」

 虚ろな表情のジャスミンが、まるで何か悪いものに取り憑かれたかの様子で、ぶつぶつと呟いた。
 これには、アーロンだけでなく、ケリーも奇異の視線を寄越していた。

「女王……あんた、いったい何を言っている?」
「そうだ。そんなことを許してはいけないんだ。もう二度と、お前が、あんな重たい罪業を背負うなんて、わたしは耐えられない」

 ケリーの方を見たジャスミンの顔は、微笑んでいた。赤い斜陽に照らし出されたその顔は、どこまでも透き通っていて、触れれば割れる、薄っぺらなガラスのようだった。

「海賊。お前は、もしもお前の目の前で、お前の昔なじみと同じ顔をした人間が不毛な殺し合いを強制されていた時、それが許せるか?」

 ケリーは、ジャスミンが何を言っているか、分からなかった。今、どうしてそんなことを聞くのか。
 ただ、正直には答えた。

「その時になってみないと分からねぇよ」
「そうか」

 ジャスミンは、脆い笑みのまま、頷いた。

「なぁ、海賊。わたしはきっと、お前を、この宇宙で二番目によく知っている女だ。だから、分かる。お前はやるよ。絶対にやる。お前の誇りに泥を塗った人間を、お前は絶対に許さないだろう。そしてわたしは、わたしの夫が、数億人の人間を再び殺すなんて、耐えられないんだ。だから──」

 ジャスミンは、腰に備え付けたホルスターから、拳銃を抜いた。今まで、散々に撃ちまくった重機関銃からすれば、まるで玩具のように見える、普通の拳銃だ。
 その照準を、ケリーの胸の中央に合わせた。流れるような自然な動作で。誰しもが不審を覚えられないほど、当たり前の有様で。
 そして、言った。
 
「だから、すまない、海賊」

 拳銃から放たれた光線が、ケリーの左胸に突き刺さった。
 ケリーは、自分に何が起きたのか、妻が自分に対して何をしたのか、全てが分からないという表情を浮かべたまま、ゆっくりと倒れた。事実、ケリーには全く分からなかった。どうして自分が、ジャスミンに殺されなければならないのかを。
 全てに疑問符をつけたまま、遠ざかる意識を必死になって繋ぎ止めようと足掻いた。



[6349] 第六十一話:脱出
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/27 22:17
 その光景を見た瞬間に、少年の意識は、自らの体と重なり合った。
 自分の所有物であるはずの雌が自分以外の雄に汚される光景は、夢遊状態だった少年を現実に引き戻すのに十分だった。
 見た瞬間に、怒っていた。
 怒った瞬間に、走り出していた。
 走り出した瞬間に、その喉から、怒りの雄叫びが迸っていた。

「てめぇぇ、俺の女に、何してやがんだぁ!」

 少年──インユェは、一直線に、少女のもとへと駆けた。
 不幸だったのは、少年の道を塞ぐかたちで立ち尽くしていた、式の参加者だ。
 いったい何が起こったのか。
 青年と少女のまぐわいを下賤な興奮とともに眺めていたら、後方でドアの開け放たれる音がした。何事かと振り返れば、銀髪の少年が鬼のような形相で立っていた。あれは誰だと思った拍子には、少年が叫び声を上げ、もの凄い勢いで突進してきた。
 何が何やら分からない。しかし、何か危険なことが迫りつつあるらしい。
 ぼんやりとした参加者にも、ようやくそのことが分かった。のろのろとした動きで、少年の行き先から離れようと動き始めた。
 だが、時すでに遅しだ。
 避ける暇などありはしない。少年が手にしたロッドが唸りを上げ、彼の前に立ちはだかった障害物の悉くを、右へ左へ、思い切り薙ぎ払っていた。
 横面を殴られ、胴を打ち込まれ、観客は盛大に吹き飛んだ。老若男女関係無しだ。割れた眼鏡が、折れた歯が、豪華な料理と高価な酒のミックスされた反吐が、きらきらと宙を舞った。
 しかしインユェには、そんなものは見えていなかった。
 死屍累々の中を駆けた少年の視線は、ただ一人の少女しか捕らえていなかった。
 鎖で吊られた少女が赤毛の青年の耳元で何かを囁き、青ざめた青年が少女の手錠を外した様子すらも見ていない。戒めを逃れた少女の体が、ようやく地に着いたのも見ていない。
 脇目もふらずに走ったインユェは、そのまま舞台へと駆け上がり、命からがら少女の足による万力拷問から解放されたルパートの、端正な顔面に、渾身の力を込めたロッドの一撃を叩き込んだ。

「こぉんの、糞野郎ぉ!」

 寒気のする音を立てながら空気を切り裂いたロッドの先端は、大きくしなったまま、ルパートの顔面に命中した。横一文字の一撃は高い鼻梁を容易くへし折り、驚くほどの量の鼻血を飛沫として舞い散らした。

「ぇげぺぇっ!」

 一瞬遅れて、奇怪な声を上げたルパートの体が、後ろへと吹き飛んだ。
 だが、その程度でインユェの怒りは収まらなかった。彼は、目の前で飯を横取りされた腹ぺこ狼よりも、なおいっそう怒っていたのだ。
 インユェは、為す術もなく吹き飛んで俯せに倒れたルパートに駆け寄り、その股間を思い切り蹴り上げた。情け容赦ない一撃で、気の毒な青年の体は、再び宙に浮いた。

「うえげぇっ!」

 顔面への一撃で既に意識を失っていたはずのルパートが、怪鳥のような叫び声を上げ、両手で股間の辺りを押さえて動かなくなった。
 インユェは、それでも許さなかった。正座したまま前倒しになったような体勢のルパートの尻の割れ目の中央あたりに、ロッドの先を思い切り突き刺し、ぐりっと力一杯にねじ込んだ。薄いズボンの生地を破ったロッドの先は、その奥までを一直線に突き抜け、インユェが手を離しても斜めに立ったまま倒れることはなかった。
 それだけのことをされても、もはや憐れなルパートの体は、うんともすんとも言わなかった。完全に失神していたのだ。
 尻からロッドを生やした青年の、情けない様子を見たインユェは、ようやく鼻息を一つ吐き出して、熱せられた思考を冷やすことが出来た。
 
「そのまま床相手にマスでもかいてやがれ、このケツ穴野郎が!」

 インユェは目の前で横たわる奇妙なオブジェに対して下品な罵声を浴びせ、とどめとばかりに唾を一つ吐きかけて、それから、自分の一番会いたかった少女に顔を向けた。
 少女は、長時間の監禁が流石に堪えたのだろう、床に座り込んでしまっていた。だが、ようやく再会の叶った少年には、柔らかい、心からの笑顔を浮かべてくれていた。
 インユェの菫色の瞳に、薄い涙が浮かんだ。

「すまん、インユェ。迷惑をかけるな」

 インユェは顔をくしゃくしゃにして少女の元に駆け寄り、その細い体に精一杯抱きついた。

「ウォル!ウォル!ウォル!すまねぇ遅くなった!大丈夫だったか!?ひでぇことされなかったか!?」

 涙声で繰り返すインユェに、ウォルは苦笑した。

「こらインユェ、少し痛いぞ。俺はこれでも怪我人だ。再会を喜ぶにしても、もう少し大人しく頼む」
「だってよう、だってよう、だってよう……」

 インユェはウォルの胸に顔を埋め、しゃくり上げながら何度も繰り返した。胸の内で暴れ回る感情を、少しだって制御出来ていなかった。
 ウォルは、自分達にスポットライトを当て続ける天井に顔を向け、諦めの息を一つ吐き出した。どう考えても、この少年を自分から引きはがすのは骨が折れる作業だ。
 とりあえず、この小さな騎士は、どうやら自分を助けに来てくれたらしい。ならば囚われの姫は、頭の一つでも掻き抱いて労をねぎらってやるのが作法だろうか。
 だが、ウォルには自分が姫であるなどと到底思えなかったので、それは遠慮しておいた。
 その代わり、ぐずる幼子に効果的な方法で、インユェを宥めてやった。要するに、頭を撫でてやったのだ。

「まぁ、すんでのところだったが、とりあえずは大丈夫だ。酷い目には遭わされたが、その仕返しはお前がしてくれたようだからな」

 ウォルは、先ほどまで自分をいたぶっていた、赤毛の青年に視線をやった。
 ウォルも、かつては男だった身である。ルパートの惨状は、自業自得とはいえ、なんとも不憫な有様だった。今までこの男に嬲られてきた少女のことを思えばまだまだ生温いのだろうが、血の入り交じった小便を漏らし、尻の穴に深々と棒を突き立てられたその姿は、かつては同じ男だった者として一抹の同情を寄せざるを得ない悲惨さがあった。
 舞台の下に目をやると、そこは無人の空間となっていた。インユェにはじき飛ばされた賓客の幾人かが、苦痛の呻き声を上げながら蹲ってはいたが、無事な人間は全て逃げ出したらしい。
 要するに、今は二人きりだった。
 未だ自分の胸の内に顔を埋めたインユェを、ウォルは強引に引きはがした。インユェの顔は涙と鼻水と涎でずるずるになっていたが、胸から引きはがされた瞬間は、少しだけ残念な顔色を浮かべていた。

「インユェ、お前……」

 ウォルがじとりと睨み付ける。
 
「ち、違う!そうじゃない!お、俺は、純粋にお前との再会を喜んで……!」

 真っ赤になったインユェが、力一杯に首を横に振った。
 その様子を見たウォルは、呆れるというよりも寧ろ感心してしまった。彼女自身、男だったときはあまり女性に積極的な方ではなかったので、こういう場面を利用してまで女性に近づこうとする少年のしたたかさ、それとも姑息さ、もしくはたくましさが、少しだけ羨ましかったのだ。
 
「まぁ、別に減るわけでもなし、抱きつくくらいは構わんのだが……」
「本当か!?じゃあもう一回……」
「調子に乗るな、馬鹿者」

 拳骨を一つ頭に落としてやったが、インユェは嬉しそうだった。背中の後ろに、ぱたぱたと振られる尻尾さえ見えそうな様子だ。

「冗談はここらへんにしておこう。ここはどこだ?そして、俺を助けに来たのは、インユェ、お前が一人か?」

 表情を変えたウォルを見て、インユェも流石に真剣な顔になった。

「ここは、この国の大統領の根城だ。例の地下通路をずっと進んだ先にある。そんで、ここに来たのは俺一人じゃない。姉貴と、あのジャスミンっていうでか女も一緒だ」
「メイフゥどのと、ジャスミンどのか。……ケリーどのは、どうした?」
「でか女の旦那か?そいつなら、ウォル、お前と一緒に、あの妙なガキ共に攫われちまったんだ。だから、でか女の方が、そっちは助けに行ってるはずなんだけど……途中ではぐれちまったからよく分かんねぇ」

 ふむ、とウォルは考え込んだ。
 顎に手を当てて考え込むウォルを頭のてっぺんからつま先までを眺めてから、インユェはおずおずとした調子で、

「な、なぁ、ウォル。お前、ほ、本当に、大丈夫だったのかよ。その、何て言うか……」

 しどろもどろのインユェの、何とも気まずそうな様子に、ウォルは、少年が何を言いたいのかを察した。もしも自分が彼の立場であれば、やはり真っ先にその心配をしただろうからだ。
 ウォルは柔らかく微笑んだまま、一度、しっかりと頷いてやった。

「大丈夫だ。別に、この身体は誰にも手出しをされていない。少々いたぶられはしたが、それ以上のことはされていないぞ。だからインユェ、自分を責めるようなことはするなよ」

 今にも泣き出しそうな少年の頬に、そっと手を当ててやった。インユェの顔が一瞬明るくなり、直後に暗く沈んだ。この少女を守れなかったあの瞬間を思い出したのだ。
 インユェは、ぎゅっと手を握り込んだ。唇を、血が出そうなほどに噛み締めた。

「……すまねぇ、ウォル。お前に助けられたのは、これで二度だ。絶対に、この恩は返す」
「なら、少し頼みたいことがあるのだが、いいだろうか?」
「何だ!?何でも言ってくれ!」

 インユェは颯爽と立ち上がった。菫色の瞳に覇気が漲っている。今から万騎の軍勢に特攻してこいと言っても、喜び勇んで剣を掴まんばかりの有様だ。
 そんな少年を見上げたウォルは、力無く手を差し出して、

「少々、体調が優れんのだ。迷惑をかけるが、出口まで担いで行ってもらえると有り難い」



 インユェは、ウォルを背負ったまま走っていた。
 ウェディングドレスの、呆れるほどに長い裾部分は邪魔なので、既に切り取ってある。結果、ウォルはミニズカートほどの長さになったドレスを纏い、インユェの背中にしがみつくという体勢だった。
 
『よかった、無事だったのね、ウォル!』

 インユェの右耳のピアスから、嬉しそうな女性の声が聞こえた。

「その声、船の女神どのか!?」
『ああ、よかった!酷いことされなかった?もしあなたがそんな目に遭わされてたら、わたし、あの子に何て言い訳したらいいか……』

 ダイアナの言うあの子とは、もちろん、ウォルの婚約者であるあの少年のことだ。

「心配には及ばん。俺はこのとおり、元気そのものだ。多少殴られただけで、貞操を汚されたりはしていない」
『……安心した、とは言えないけど、でも無事なあなたの声が聞けて本当に嬉しいわ。だって、トポレキシン麻薬を打たれたって聞いてから、もう以前のあなたとは二度と話せないと覚悟していたのだから』
「それは、不幸中の幸いというやつだ。この少女に感謝せねばな」

 ウォルは冗談めかして言った。だが、いくら冗談であっても、この少女に拷問じみた実験を繰り返した連中に感謝する、とは言わなかった。それは、冗談であっても寝言であっても、決して口に出来ない言葉だったからだ。
 女達はそういうふうにして再開を喜び合ったが、インユェがその会話に割り込んだ。

「で、イレブンスさんよ。これから俺たちはどう逃げたらいい?ウォルは、どうやら相当にまいっちまってるらしい。こんな身体であの長い井戸を降りて、地下道を逃げるのは無理だ」

 インユェは、ウォルとの短い期間の共同生活の中で、この少女が本当にタフな人間であることを何度も思い知らされている。巷にあふれかえる、少し熱を出しただけで悲鳴を上げたり、少し疲れただけで子供みたいに駄々を込める女の子連中とは訳が違うのだと気が付いている。
 そのウォルが、歩けないと言ったのだ。それも、これだけ緊迫した状況で。
 ならば、この少女には、本当に歩くだけの力が残されていないのだろう。それを自覚しているからこそ、自分に助けを求めたのだろう。
 ならば、少女を背負ったままあの地下道まで辿り着くことが出来るだろうか。井戸から地下道までは、うんざりするほどに長い梯子を下らなければならないのに。
 インユェ一人なら苦もないことだ。しかし、ウォルを背負ったままとなると話が違う。もしも手を滑らしでもしたら二人揃って真っ逆さまだし、ウォルが途中で力尽きてインユェの身体を離してしまえば、それも命取りになる。
 あまりに危険であると、インユェは考えた。無論それが唯一の逃げ道ならば仕方ないが、危険な賭はなるべくしたくない。特に、この少女を連れているときは。
 ウォルもその点を理解しているから、黙っておぶられていた。

『……今、あなたたちがいる場所から一番近い出口は、正面玄関ね。そこを通って逃げるのが、一番手っ取り早いわ』
「正面玄関?それは流石に監視の兵隊がいるだろう?」
『それはわたしが何とかするわ。インユェくんは、何も考えずに走ってちょうだい。もしもウォルを落っことしたりしたら、後で酷いわよ』
「言われなくたって、誰が離すかよ!」

 インユェは力強く言い切った。
 ダイアナは淡く微笑んで、通信を切った。
 静寂が訪れた。
 静寂の中を、インユェは、必死に走った。普段から鍛錬は怠っていないし、走り込みも欠かしたことはないのだが、それはあくまで自分一人分の体重の時の話である。
 ウォルは小柄な少女だったので、体重はそれほどではない。むしろ、軽い。それでも、二人分の重量が、少年の未成熟の筋力にとってどれほど負担になるか。
 ウォルは、少年の耳元に顔を近づけ、心配そうに言った。

「俺のほうから頼んでおいてこういうことを言うのもなんだが、あまり無理はしてくれなくていいぞ。いざとなったら、置いていっても構わんからな」

 インユェは、無言で首を横に振った。その調子に、少年の銀髪が跳ねて、ウォルの鼻をくすぐって、ウォルは少しこそばゆかった。

「だが、重いだろう?」
「重くねぇ!」

 インユェは、しゃちほこばった様子で言い切った。
 無理もない。何しろ、彼が今背負っているのは、自分にとっての想い人なのだ。しかも、ことの成り行きは別にして、ウェディングドレスまで身に纏っている。そんな少女を背負って敵のアジトから逃げ出すなど、正しく少年の夢を具現化したようなシチュエーションである。
 これで重たいなどと不平を吐ける少年が、この世にいるだろうか。インユェは、その腕が千切れても、疲労でぶっ倒れても、ウォルを二度と手放すつもりなどなかった。
 そうこうしていると、辺りがほの明るくなってきた。地下階の出口が近づいているのだ。
 その時インユェは、背中越しに伝わるウォルの気配が変化したのに気が付いた。
 足を止め、首だけで振り返ると、ウォルも同じように後ろを振り返っているのが見えた。

「……どうしたんだよ」

 跳ね上がる吐息を押さえながら、インユェが問うた。

「……ここには、俺と同じように、攫われてきた少女がたくさん監禁されている。俺の身を案じ、友達になってくれた少女もいる」
「……」
「俺は、彼女達を助けると約束した。約束しておいて、この様だ。それが、情けない……!」

 背後に広がる忌まわしい闇を見つめながら、少女は呟いた。少年の首に回された細腕に、僅かな力が込められて、細かく震えていた。
 インユェは、細かく震えるその腕を、自分の頬でそっと撫でてやった。

「今は、どうしようもないじゃないか」
「分かっている」
「今は、逃げるぞ。もしもお前がその女の子たちを助けるって暴れても、俺が引っ張って連れて行く。ぶん殴ってでも、聞き分けさせる」
「ああ、分かっている」
「じゃあ、逃げよう」

 背後で、首を縦に振る気配があった。
 インユェは、再び駆けた。長い階段を駆け上がった。
 普段に倍する体重を抱えて、普段に倍する速度で駆け上がった。
 息が切れる。汗が滝のように流れる。心臓が、そこに暴れ馬が居着いたみたいな様子で跳ね回る。
 それでも少年は立ち止まらなかった。必死の様子で走った。
 複雑に枝分かれを繰り返す廊下を、ダイアナの指示に従って走る。一度通ったことがあるような、初めて通るような、不思議な感覚がインユェを包んでいた。
 そうだ、あの時、自分はどうしていたのだろう。何か、この身体から離れて、空中から自分を眺めていたような、そんな気がする。
 まるで幽体離脱をしていたような、そんな感覚だった。
 では、魂の離れたこの身体を、誰が操っていたのだろう。あの時、恋人の名前を呼びながら走っていたのは、一体誰なのか。
 次々と疑問がわき上がり、しかし酸素の薄い脳髄は、それらの疑問に対して答えを用意出来なかった。
 それでも、インユェは、足を必死に動かした。何度か前につんのめりそうになったが、何とか我慢した。なにしろ、背中にいるのは、一番格好良いところを見せ続けなければならない少女なのだから。この少女と一緒になって転ぶのは、故郷の草の海を駆け遊ぶ時のために置いておこう。
 いったいどれだけの時間走ったのか、既にインユェにはよく分からなくなっていたが、どうやら出口が近いらしい。通信機のダイアナが、嬉しそうな口調で、

『そのまま真っ直ぐよ!そして、目の前の扉を開ければ、外だわ!』

 インユェに、その声に応える気力は残されていなかった。限界を超えそうになる身体を必死に動かし、玄関ホールらしい空間を走り抜ける。
 そして、扉に手をかけた。
 一番緊張する一瞬だった。もしもその先に銃で武装した兵士がいれば、良くて逆戻り、悪くすればその瞬間に蜂の巣だ。
 ゴクリと、唾を飲み下す。後ろの少女も緊張しているのか、柔らかい身体が少しだけ強張った。
 ぎしりと、重たい音を立てて、樫材の扉が観音開きに開いた。
 強い陽光が、目を突き刺し、痛いほどだ。思わず手で庇った。
 真っ白に漂白された視界が、徐々に色を取り戻していく。木々の緑が緑色に、空の青が青色に、滲みながら戻っていく。
 そして、そこには誰もいなかった。城門へと至る石畳は、無人の野と同義であった。

「さすがだぜ、イレブンスさん!」

 返答は無かったが、そんなことはどうでもいいことだった。今までの疲れも忘れた様子で、インユェは走った。
 石畳はよく整備されていて、走りやすかった。それに、気持ちのいい風も吹いているから、陰気な城内を走っているより余程気持ちが良い。今は逃げる身であることを忘れて、走った。
 城門まではかなりの距離があったが、インユェは一気に駆け抜けた。
 そして、城門に辿り着いた。
 普段なら閉じられているはずの城門は、開け放たれていた。というより、城門そのものが既に存在していなかった。
 ダイアナが自動操縦するヘリコプター(これはもちろん実物だ)の攻撃によって、見事に吹き飛ばされてしまっていたのだ。
 固く閉じられた城門を開けるのは中々面倒な作業だし、ウォルを背負った状態で城壁をよじ登るのは流石に不可能なので、これは有り難かった。
 ただ、ついでとばかりに跳ね橋も壊されていたのだが、これは後になって追跡部隊を防ぐための処置である。徒歩であれば、跳ね橋の残骸を伝ってあちら側に渡ることは出来たので、不平を言うほどではなかったが、最後に向こう岸を這い上がるときだけは厄介だった。
 ウォルに少しの間だけ背中から降りてもらって、インユェは一人で堀を這い上がり、ロープを設置してから再度降りてウォルを背負い直し、ロープを伝って二人で昇った。
 背後を振り返る。そこには、誰もいなかった。自分達を追いかけてくる何者かがいる気配もない。
 脱出は成功した。

「よし、行くぞウォル。森の中には、姉貴がいるんだ。姉貴は鼻が利くからな、すぐに合流出来るぜ」
「ああ、分かった」

 ウォルの声が、ずいぶんと力無かった。体調を崩しているというのは、どうやら深刻らしい。
 インユェは、疲れた身体に鞭打って、走り出した。これが踏ん張りどころだとわかっていた。
 城のすぐ向こう側が、もう森になっていた。普通の城であれば、奇襲を避ける意味でも周辺の木々くらいは切り倒しておくものなのかも知れないが、これは敬虔なヴェロニカ教徒の城である。森に手を付けるわけにはいかなかったのだろう。
 森に入ると、襲撃を恐れる必要が減った分精神的には楽になったが、当然のことながら足場は悪い。まして、ここは山地なのだ。勾配もある。体力はどんどん無くなる。
 流石のインユェもへたり込みそうになったその時、救いの神が現れた。

「ウォル!アホちび!無事か!?」

 森中に轟くような大声で、聞き慣れた声が、自分達を呼んだ。
 インユェは、あまりに聞き慣れたその声に安心して、本当にへたり込んでしまった。すでに身体は限界を超えていたのだ。座り込むのも無理はない。
 がさがさと目の前の茂みが動いたかと思うと、そこから、金色の頭髪をした、褐色の肌の少女が顔を出した。
 インユェの姉の、メイフゥであった。

「ウォル!」

 メイフゥは目を輝かせて、インユェの背からウォルを奪い取った。そして両手で軽々とウォルの身体を持ち上げ、くるくると回って再会の喜びを表現した。

「よかった!ウォル、本当によかった!」
「俺も、メイフゥどのともう一度会えて、本当に嬉しい」

 人形のように抱え上げられたウォルは、輝くような笑みを浮かべた。
 メイフゥは、あまりの衝撃に目を見開き、震える唇を開いた。

「う、ウォル、お前、あたしのことが分かるのか……?」
「ああ。あの男に打たれた破廉恥な薬は、生憎この身体には効きが悪かったらしい。ついでに言っておくと、誰にもこの身体に手出しはさせていない。安心してくれ」
「ほ、本当に……!」

 メイフゥは、その整った顔をくしゃりとさせて。ウォルを思い切り抱き締めた。ウォルも、これは十分に予想していたので、好きにさせることにした。

「よかった……本当に、本当によかった……神様、ありがとう……!」

 インユェは、気丈なメイフゥが啜り泣く姿など初めて見たから、しばし呆気にとられていたが、何となく気まずくなって目を逸らしてしまった。
 
「め、メイフゥどの、そろそろ離してもらってもいいだろうか。流石に、少し苦しいのだが……」

 ウォルは、その顔をメイフゥの豊満な胸の谷間に思い切り押しつけられた格好のまま、苦しげに言った。それは、少し前に、酒場でジャスミンにされたのとほとんど同じような体勢だった。男だった時だって、これほど美しい女性達にこんなことをされたことはないのに、どうして女の子の身体になってからこんなことばかり続くのか、ウォルは少し不思議だった。

「あ、悪い悪い。あんまり嬉しくて、つい……」

 メイフゥはウォルを自らの胸から解放し、その肩を両手で掴んで自分の目の高さまで持ち上げた。
 メイフゥの身長は180センチを優に超えるが、現在のウォルの体は150センチに満たない小柄な少女のものだ。当然、ウォルの足が地に着くはずがない。ぶらぶらと宙づりのままだった。
 メイフゥは、少女の眼を覗き込みながら、盛大に鼻水を啜った。

「あたし、もう駄目だと思ってたんだ。もう二度とお前とは会えないと、そう思ってた。それで、お前をこの揉め事に引きずり込んだのはあたしだから、全部あたしの責任だと思って、それで、それで……」

 その後は言葉にならず、無言のまま、再びその大きな瞳に涙を浮かべ始めたメイフゥだった。
 ウォルは、優しく微笑み、今にも泣き崩れそうな少女の頭に手を置いてやった。

「もしもだ。もしも仮に、俺が奴らに手籠めにされ、心身を陵辱され、その結果無惨に殺されたのだとしても、俺はメイフゥどのを恨むことは絶対にない。何故なら、この星に残ると決めたのも、あなた方を助太刀すると決めたのも、俺自身だからだ。俺は、俺の決めたことに責任を持ちたい。それは俺の義務であり、何より権利なのだと思う。メイフゥどの、あなたは俺から、そんな人として最低限の権利を奪うおつもりか?」

 メイフゥは、首を横に振った。飛び散った透明な涙が、ウォルの顔に数滴、降りかかった。

「わかってる、わかってるんだよ。でも、どうしようもないじゃないか。こういうことは、理屈じゃない、そうだろう?」
「ああ、その通りだな」

 ウォルは、自分よりも遙かに大柄で、でも今にも崩れ落ちそうな少女の頭を、何度も撫でてやった。その度に、少女のしゃくり上げる声は、少しずつ収まっていった。

「ちくしょう、ウォル。そんなにちみっこいなりのくせにあたしを慰めるなんて、生意気だぜ」

 ぐすりと鼻を一つ鳴らして、メイフゥは挑みかかるような笑みを浮かべた。この好戦的な少女の、常日頃の笑みであった。
 これで大丈夫だろうと、ウォルは内心で胸を撫で下ろした。彼女が彼であった頃から、女性に泣かれるのはどうにも苦手だったのだ。
 その手のやり取りについて熟練者であった少女の従弟などは『美しい女性の涙を如何に上手に止めてやれるか。そこにこそ本当の男の価値というものがございましょう』と言って豪快に笑っていたが、その言葉が真実だとすれば、どうやら自分に存在する男の価値も捨てたものではないらしい。
 ウォルのおかげか、それとも自分の力によるものか、何とか泣き止んだメイフゥは、まじまじとウォルの格好──ミニスカートのウェディングドレス姿である──を見て、感嘆の溜息を吐き出した。
 そして、きらきらと目を輝かせながら、

「それにしても、何だよウォル、その可愛らしい格好は!ついにインユェの嫁になる覚悟が出来たのか!?」

 明後日の方向を向いていたインユェが、盛大に噎せ返った。
 乱れに乱れていた呼吸をようやく整えつつあった時の、あまりに強烈な不意打ちである。誰も少年を責められまい。

「いや、そういう訳ではなくだな……」

 ウォルは手短に事情を語って聞かせた。
 話の途中からメイフゥの顔色に危険信号が灯り始め、あやうく観衆の面前で犯されそうになったのだと語るに至り、ものの見事に大爆発した。

「何だその破廉恥最低下種野郎は!ダニだ!ウジ虫だ!いや、そんな言い方をしたらダニやウジ虫に失礼ってもんだ!この全共和宇宙に住む、全ての女の敵だ!あたしが今からぶっ殺してくる!楽には殺さねえ!ひゃっぺんは地獄に叩き落としてやる!」

 肩を怒らせたメイフゥが本当に城に乗り込みかねない有様だったので、慌ててウォルが止めた。

「まぁ待てメイフゥどの。今は俺も女の身、あなたの気持ちは重々承知だが、それどころではないだろう。ジャスミンどのらと合流し、体勢を立て直した上で、徹底的な殲滅戦を行うべきだ。違うか?」

 けっこう情け容赦ないウォルの意見に、メイフゥはしゅんとなってしまった。

「それはそうだけどよ……」
「まずはここから離れるべきだ。それについて、メイフゥどのの力をお借りしたいのだが、よろしいか?」
「力って、ウォル、お前、どうしたんだ?」

 ウォルは力無く笑った。

「いや、どうにも体調不良でな」

 ウォルの言葉にメイフゥは首を傾げたが、しかし何かに思い当たった顔をして、すっくと立ち上がった。

「じゃあ、いい隠れ場所を見つけたんだ。そこまで案内するぜ」

 メイフゥは、ウォルの体をひょいと担ぎ上げ、その逞しい肩に乗せて歩き始めた。
 その様子を見たインユェは、内心で安堵した。今からウォルを担げと言われれば、それは本当に嬉しいことなのだが、体が既に限界を超えてしまっていたため、本心を言うならば何とか遠慮したかったのである。
 そんなことは流石に口には出せないので、インユェはこっそりと立ち上がった。

「ところでインユェ、てめぇ、その人でなし野郎を、そのまんまにしてきたんじゃねえだろうなぁ?」

 先を行くメイフゥが、ウォルを肩に座らせたまま振り返った。
 その灰褐色の眼光が、剣呑な光を放っている。こういう時のメイフゥは、本当に危険なのだ。
 インユェは、生唾を飲み下しながら、震える声で言った。

「が、顔面を思い切りぶん殴って、金玉蹴り潰して、ケツの穴にロッドをねじ込んでやったよ」

 メイフゥは一瞬目を丸くして、それから腹を抱えて笑った。

「な、なるほど、人でなし野郎を玉無し野郎に変えてやったわけか!よしよし、よくやったインユェ!あたしが褒めてやる!」

 てっきり、『そんな生温い真似で許しやがったのかこのぼけなすが!』とでも罵られると思っていたインユェは、一瞬唖然としてしまった。

「い、いいのかよ、姉貴、そんなもんで勘弁してやってよ」
「いいんだよ、今はな」

 メイフゥが、にたりと笑った。
 インユェが思わず後ずさってしまうほどに不吉な、彼の最も恐れる姉の顔であった。

「ウォルを手籠めにしようとしやがった糞野郎だ。お前が最後まで面倒を見たんじゃあ、あたしの怒りが収まらねえ。最後はきっちり、このあたしが直々に、死んだ方がましって目に遭わせてやる」

 メイフゥが手の関節をばきばき鳴らしながら言った。
 インユェは、あの、軽蔑の対象でしかない青年に、心の中でお悔やみの言葉を捧げた。
 しばらく、三人は森の中を歩いた。
 メイフゥは、肩にウォルを座らせていても、一向に疲れた様子は見せなかった。体格的にも体力的にも、インユェとは桁違いのポテンシャルを有しているメイフゥである。40キロそこそこの体重のウォルが肩に乗ったくらい、子犬を抱きかかえて歩いているのとほとんど変わるところがないのだ。
 インユェも、ずんずんと先を行くメイフゥに遅れず、何とかその後を追いかけることが出来た。身体的な限界はとっくの昔に越えていたので、それは精神力の為せる技であった。
 三人が小一時間ほども歩いたとき、森が僅かに開け、遠くから水の流れ落ちる音が聞こえてきた。
 
「滝だ」

 インユェが呟いた。
 あまり水量は豊かではないし高低差もそれほどではない滝だが、滝壺には大きな池がある。十分な水があった。この星特有の事情から、そのまま飲み水に使うことは出来ないが、確かに少しの間身を隠すにはもってこいな場所だろう。
 
「こっちだ」

 メイフゥが先を行くと、滝の外れの藪の奥に、人の身長ほどの高さの洞穴が口を開けていた。

「へぇ、こんな場所、良く見つけたな、姉貴」
 
 インユェが、感心しきりな様子で、先に洞穴に入ったメイフゥ達に続こうとする。これでようやく一息付けるのだと思うと、自然と足は早まった。
 だがそれを、メイフゥは無慈悲な調子で通せんぼした。

「……何の真似だよ、姉貴」
「そいつはあたしの台詞だ、あほちび。お前がこの洞穴の中に収まっちまったら、火を起こすための薪は、一体誰が集めるんだ?」

 確かに、ずいぶんと長い時間を歩いたから、日は既に傾きつつある。もう少し時間が経てば、火の必要が出てくるかも知れない。
 それはそうなのだが、今、自分は本当に疲れているのだ。もう、指の一本でさえ動かしたくないくらいに。
 そんな内心が顔に出ていたのだろう、不服そうなインユェを見ながら、メイフゥはにんまりと笑い、

「そうかそうか、お前、確かに色々と頑張ったもんな。疲れていて、少しでも早く休みたいんだよな。分かる分かる」

 メイフゥは、インユェの肩をぽんぽんと叩いた。

「じゃあ、薪集めは、他の奴に行ってもらうとしようか」

 そう言って、意地悪そうに洞穴の中を振り返り、

「おーい、ウォル!インユェが、薪を集めに行ってこいって言ってるけど、どうするよ!」

 既に洞窟の奥に座り込んでいたウォルが、その声を聞いて腰を浮かせた。

「わかった、では俺が行こう。インユェ、お前はよく休んでいてくれ」

 ウォルは、感謝の色さえ浮かべながらそう言った。インユェは、あの城の暗い地下からずっと自分を背負って走ってくれていたのだ。当然、くたくたになっているだろうことはウォルも承知していた。その苦労に比べれば、薪拾いを代わるくらい何ほどだというのか。
 だが、そんなことを、インユェが頼めるはずがない。何せ、彼は少年で、ウォルは少女で、そしてこれが一番大事なのだが、インユェはウォルに格好良いところを見せたいのだ。

「な、何言ってんだよ、姉貴。薪の一つや二つ、俺があっさりと拾ってきてやるさ!だからウォル、お前はゆっくり休んでやがれ。これはご主人様の命令だからな!」

 力無い声で笑いながら、乳酸塗れの体を油の切れた発条仕掛けみたいにぎくしゃくと動かして、インユェは外に出て行った。
 その、あまりに憐れな様子に、ウォルは苦笑を溢した。

「メイフゥどのも、中々に手厳しいな」
「ま、いい修行さ、こんなこともね。あいつは、女にケツを叩かれないといい男になれないタイプだからさ。ところで──」

 メイフゥが真剣な表情で、ウォルの方に向き直った。
 
「……大丈夫なのか?」

 ウォルは、弱々しい笑みを浮かべながら頷いた。

「なにぶん初めてのことだ。これが大丈夫なのかどうかよく分からないが、とりあえず気絶したり一歩も動けなくなるようなことは無いと思う」
「……見せてみろ」

 ウォルは、恥ずかしげもなく、スカートの裾を持ち上げた。
 ウェディングドレスの下に隠された純白の下着が、鮮やかなほど真っ赤に染まっていた。
 薄い布地では受け止めきれなかった血液が、血の気の失せた太股をつぅと伝い落ちた。



[6349] 第六十二話:Tendency and measures
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/05/29 20:51
 斜めに傾いた体が、緩慢に重力に引かれ、前のめりに倒れていく。
 ジャスミンなどには、その時間が、とてもゆっくりに感じられた。若獅子のように均整の取れた体から力が抜け、膝をがっくりとつき、糸が切れたように前に倒れていくケリーの姿が、たまらないほどスローモーションに見えた。
 そして、ケリーの、豊かな黒髪に覆われた頭部が、ごつりと重たい音を立てて、床とぶつかった、瞬間。

「ケリー!」

 彼の名を呼ぶ甲高い悲鳴が、妻以外の人間の口から、放たれた。

「ケリー!ケリー!ケリー!」

 俯せに倒れたケリーの名を、狂ったように何度も呼ぶのは、今の今まで彼と敵していた、アーロン・レイノルズであった。
 アーロンは、あまりの恐怖に青ざめ、絶望に両手で頭を抱え込み、発狂したような金切り声を上げながらケリーへと走り寄った。

「駄目だ!ケリー、死なないで!死なないで下さい!あなたに死なれたら、私はどうやって、これからの人生を歩いて行けばいいのですか!ケリー、ケリー、ケリーぃぃぃっ!」

 ジャスミンは、呆然と銃を構えたまま、とても静かな気持ちで、アーロンという男の狂乱ぶりを眺めていた。あの男は、自分の目的のためにケリーの身柄を必要としているだけなのだが、これでは愛する恋人に先立たれた憐れな若者のようではないか。全く、こういう場合は、妻である自分の方が泣き叫ぶ資格があるはずなのに、完全に蚊帳の外に置かれてしまった。
 アーロンはケリーの傍らにしゃがみ込み、その体を掻き抱いた。枯れた魚の瞳からは次々と涙がこぼれ落ち、痩せた体はあまりの精神的衝撃に戦慄いていた。
 
「ケリー、お願いだ、死なないで下さい!頼むから、生き返ってください、ケリーぃぃぃっ!」

 ジャスミンは、薄ら笑いを浮かべて、再び銃を構えた。
 怒りの形相でジャスミンを振り返ったアーロンは、自分に向けられた銃口を見て、唖然とした。

「ぎょっとしたな、大統領。ならば勝ちだ、わたし達のな」



「ぎょっとさせればいいんだよ、要するにな」
「意味が分からないぞ海賊。もう少し、他人が理解しやすい言葉をしゃべる努力をしてみたらどうだ」

 ジャスミンのにべもない言葉に、スクリーンの前に腰掛けたケリーは憮然とした。
 
「言葉の通りだぜ。結局、あれはどれだけ多才でも、どれだけ出力が化け物じみていていも、要はただの特異能力者なんだ。なら、対処方法は決まってるじゃねえか」

 ジャスミンは、首を傾げた。普段は勇ましいジャスミンの、なんだかあどけない様子に、ケリーは苦笑した。

「女王。あんたは、特異能力者とどんぱちやらかしたことは、あるかい?」

 ケリーの言葉に、ジャスミンは首を横に振った。

「わたしの主な戦闘経験は、ほとんどが軍に所属している間のことだ。あいにく、任務先であんな不愉快な生き物と戦ったことは、一度だって無い」

 それが普通だ。特異能力者などが誰の目につくほどあちらこちらに転がっていたら、それは既に特異なことではなくなってしまう。
 ケリーは頷いた。

「まぁ、そうだろうな。だが、俺は何回か、ある。もちろん、あんな化け物じゃなく、もっと可愛げのある連中だ。例えば、少し離れたところから人をぶん殴れたり、弾の方向を少しずらせたり。それでも十分脅威には違いなかったがな」

 ジャスミンと出会うまでは、ケリーが生きてきたのは日の当たらない裏道街道ばかりだ。そういうところは、日の当たる場所で活躍することを許されない、特殊な才能をもった人間が、落ちて落ちて最後に行き着くところである。
 多くの人間はただのごろつきだが、中には表の世界には到底出すことの出来ない、恐るべき才能を備えた人間もいた。軍用感応頭脳のアレンジを行ってしまうアレンジャーなどが、その代表例だろう。
 そして、そういった人間の中に、特異能力者と呼ばれる人間もいたのだ。

「表に出ちまった特異能力者は、そのまま政府に捕らえられて特殊アクリルで囲まれた部屋にぶち込まれ、一生実験動物扱いだ。黄金狼や天使の一件もあって今ではそういう風潮は弱いが、それでも一生監視付きの生活は余儀なくされる。だからといって、身につけちまった能力ってやつは度し難いもんで、一度使うと、今度は能力の方から、自分を使ってくれって強請り出すんだ。その誘惑に打ち勝てる人間は、そうそういるもんじゃねえ。結果、強い能力者ほど、裏の世界に生きる道を探すことになる」
「……不憫と言えば不憫か。普通の才能に恵まれたのであれば、日の当たる場所にも生きる道はある。だが、特異能力者には、最初からそういった場所は用意されていない……」
「そういうこった。だから、俺はそういう連中と、結構縁があったのさ。で、一つだけ分かったことがある」
「それは?」

 ジャスミンが身を乗り出すようにして訊いた。
 ケリーは、あっさりとした調子で口を開いた。

「あいつらも、所詮は俺たちと同じ、ただの人間だってことだ」

 自らの夫の言葉に、やや肩すかしを喰らったジャスミンは、じとりと疑わしげな視線でケリーを睨んだ。

「……それだけか、海賊」
「そして、特異能力なんてたいそうな名前をもらっちゃいるが、あれも結局は人間の持ってる一つの才能に過ぎない。なら、いくらでもつけ込みようがある」

 ケリーは椅子から立ち上がった。

「例えば女王。あんたと俺で昔、惑星ジゴバのリゾートで、何泊かの休暇を楽しんだ。覚えているか?」
「ああ、覚えている。あの赤い酒は、何度飲んでも堪えられないほどに美味いんだ。なのに、一生のうちで口に出来る機会は極々限られている。ならば、その貴重な一回を忘れてたまるものか」

 夫婦で過ごした時間よりも酒の感想がまず先に口をついて出るあたりが、どうにもジャスミンに似合っていた。
 ケリーは苦笑しかけたが、努力してそれを引っ込めた。

「その日の昼間だ。俺たちは、観光客用のお手軽キャンプ場に辟易として、自前で用意したクルーザーに物騒な武器を積み込んだまま、沖に出て遊んだな」
「そして、わたしは素潜りでお前に勝てなかったんだ。なんだ海賊、今更昔の自慢話か。あの時は、出産やら何やらで体が参っていたんだ。今やったら、絶対に負けない自信があるぞ」

 どこまでも負けず嫌いな女である。だが、ジャスミンの反応をなかば予想していたケリーは呆れたり、惚れ直したりはしなかった。これが、自分が妻とした女性の通常運転なのだ。一々呆れていたら身が保たないし、惚れ直していたら心が保たない。

「女王よ、今、あんたは言ったな。あの時は体調が優れなかったから、俺に素潜りで負けたんだと。そして、万全の調子の今なら、絶対に負けないと」
「ああ、言ったとも」
「じゃあ、体調が万全だったとしてだ。もしも俺と同じだけの心肺能力を有する誰かさんとあんたが素潜り勝負をしたとして、その勝負がちびすけの誘拐された瞬間に行われた場合、勝つ自信はあるかい?」
「……おそらく勝負にならなかっただろう。そもそも、そんなことをしている場合ではない。不戦敗でわたしの負けだ」
 
 そろそろ、ジャスミンにもケリーの言いたいことが飲み込めてきた。

「要するにこういうことか海賊。特異能力といっても、結局のところそれを使うのは人間だ。どれほど大きな力であっても、それを上手に発揮するためには身体的、精神的な充実が必要である……」
「ああ、そういうことだ。特に、特異能力ってやつは繊細でな。ただの風邪で体調を崩した、手首や足首を捻挫した、そもそもそういう形に出るような体調不良が無い、そんな場合でも突然に使えなくなったりする。それは身体的な問題の場合だけじゃない。精神的な問題のほうが、寧ろその特徴は顕著だ。ちょっとした悩み事があったり、心配事があったりすると、それだけで特異能力の出力ががたっと落ちるのはよくあることだぜ」
『それはケリーの言う通りね。政府の実験記録……っていっても、もちろん極秘扱いの文書だけど、その結果もケリーの言葉を裏付けてるわ。逆に、そういった肉体的、精神的不調がきっかけで特異能力に目覚めるケースも珍しくはないみたいだけど、とにかく、特異能力そのものが極めてデリケートなものであることについては間違いないみたい』

 ダイアナがケリーの意見をフォローした。
 ケリーは画面に映ったダイアナに向けて頷いた。

「なら、話は簡単だ。俺たちが勝つためには、あの男の身体的、もしくは精神的な均衡を力尽くで崩してやればいいのさ」
「……それで、ぎょっとさせるか」
「ああ。今からあの男に風邪を引いてもらうのも、身内に誘拐されてもらうのも、これは中々難しい相談だぜ。だが、一瞬、あの男が我を忘れるくらいにびっくりして、ぎょっとしてくれればいい。そしてその瞬間に銃弾を放つことが出来れば、おそらくあの男はそれを止めることが出来ない」
「……どうしてそんなことが言える?何か、根拠あってのことか?」

 ジャスミンの言葉に、ケリーは、気まずそうに頭を掻いた。

「んー、ま、根拠があるかって言われると弱いんだがなぁ」

 本当に弱った様子のケリーを見て、ジャスミンはとてもいい笑顔を浮かべた。

「試みに尋ねるがな、海賊よ。今まで、さも偉そうに語ってくれたご高説の全てが、まさか根拠薄弱な第六感とかいうガラクタによるものではないだろうな。もしもそうなら、その緩んだ脳みそのネジを、わたしの鉄拳で締め直してくれるぞ」

 手の関節をばきばき鳴らしながら言うので、これが非常に怖い。何せ、今のジャスミンと来たら、アーロンから散々虚仮にされて、破裂寸前のポップコーンのような精神状態なのだ。どういう切っ掛けで大爆発を起こしても不思議ではないのである。
 ケリーは、慌てて距離を取った。

「待て待て女王。確かにあんたの大嫌いな第六感の要素も多少はあるがよ、全部が全部当てずっぽうってわけでもないんだ。弁明くらいはさせてくれよ」
「……いいだろう。聞くだけ聞いてやるとしよう」

 先ほどまでケリーの腰掛けていた椅子に、威風堂々、足を組みながらどっかりと座ったジャスミンである。
 そのジャスミンの前に立ち背中に冷や汗を浮かべたケリーは、さながらくだらない失敗を起こして女上官にいびられる新米兵士といった有様である。
 ケリーは、かつてジャスミンの下についた部下達の中に無能者がいなかったことを神に願った。もしもいたならば、精神を病む前に除隊ないし配置転換が行われたことを祈った。

「さっきの映像で、俺は、一つだけ不思議に思ったところがあるんだ」
「さっきの映像だと?」
「大統領が、自分の国の兵隊を生ゴミに変えちまった、あの映像だ」

 ジャスミンは思わず顔を顰めた。
 彼女も、昔は軍属だった身である。ならば、立場が違うとは言え国に忠誠を誓う軍人が、その忠誠の対象である大統領にああも無惨に殺される映像を、心楽しんで見たはずがない。
 
「どこが不思議だった?」
「あの男が一通りの虐殺を終えて、最後に残った大佐を追い詰めたとき。大佐は、まず銃を撃ちまくった。当然、一つだって当たらない。全部の銃弾が、あの男の特異能力によって体まで届かなかった」
「わたし達の時と同じだな」
「次に大佐は、空になった銃本体をあの男に投げつけた。銃本体だって、立派な凶器だ。それで殴ることも出来るし、投げつけたって、重量1キロの鉄の塊だからな、十分な殺傷力がある」
「そして、大統領に命中することはなかった」

 ケリーは頷いた。
 
「だが、妙だったのは次だ。大佐は、懐から煙草の箱を取り出して、投げつけただろう。これを、あんたはこの行動をどう思う?」

 ジャスミンは少し考え込んで、

「……別に、取り立てておかしいことではないと思う。追い詰められた人間が、自分の周りにある雑多な物を手当たり次第投げつけるのは、それほど奇異な行動ではない。わたし自身、夜の街できつめの灸をすえてやった不良少年に、石ころやら空き缶やらを投げつけられたことは一度や二度ではない。石ならばともかく、空き缶などでは人を傷つけることは不可能なのにな」
「旦那の浮気にヒステリーを起こした奥さんが、テーブルの上の料理やら調味料やらを投げつけるのに似ているのかも知れねえな。ま、そこんところは詳しくはわからねえが……」

 ケリーは、ジャスミンに灸を据えられた少年に対して、心の中で短い黙祷を捧げた。

「とにかく、大佐は煙草を投げつけた。当然、それであの男が殺せるなんて、いくら血迷ったって信じたりはしないだろう。なら、あれは本人だって意図してなかった突発的な行動だったんだ」
「それがどうかしたのか、海賊」
「なぁ、女王。どうして銃弾や銃本体は特異能力に阻まれてあの男に命中しなかったのに、煙草の箱だけは当たったんだろうな?」

 あ、とジャスミンは思った。
 なるほど、確かに妙と言えば妙な話だ。いくら煙草の箱とはいえ、自分に向かって飛んでくる物体である。特異能力が数限られたものであるならば話は別だが、そうでないならば、他の二つと同じく空中で止めるのが普通である。そして、自分達の戦いを思い浮かべるに、あの男の特異能力が、煙草を一つ受け止めただけでガス欠を起こすほど、燃料に限りがあるものとは思えない。

「……確かに妙と言えば妙な話ではあるが……こういうのはどうだろう。大統領には、透視能力、クレヤボヤンスが備わっている。ならば、あの男は大佐の懐に入っていたのがただの煙草の箱に過ぎないことを知っていた。飛んでくるのがただの煙草の箱だと分かっていれば、わざわざ受け止める必要もないだろう。だから、あえて受け止めなかった」
「確かに、大佐の懐にあるのが煙草の箱だということには気が付いていたんだろう。俺だって、いつもは透視能力の親戚みたいな機能のついた義眼を使っている。もしも俺があの男の立場だったら、一応は相手がどんな危険物を身につけてるかくらいは確認しておく」

 ケリーはしかし首を傾げ、

「だが女王。煙草の箱をぶつけられたあの男の反応を覚えているだろう?あの男は、呆気に取られて、終いには笑い始めたんだ。あれは明らかに、目の前で予想外の事態が起きた反応としての、発作的な笑いだぜ。事前に煙草の箱が飛んでくるのを知っててわざと特異能力を使わなかったなら、どうしてあのタイミングで笑いが起きる?」

 そう言われると、ジャスミンとしても反論が浮かばなかった。ケリーの意見の筋道は、それなりに通っている気がした。
 だが、ジャスミンは敢えて反駁を試みた。こういう場合は、片方がそういう役を引き受けなくてはならないことを、彼女は知っていた。

「では、例えばあの男の防御性能が、完全なオート制御である可能性は?自分に向かって飛んでくる物体の質量や速度、形状を予測し、それから導き出される危険性を考慮して、防御の必要性の有無を自動的に判断してくれる。だからこそ、危険のないものには反応しなかった」
「なんだか、宇宙空間を飛んでいるときの感応頭脳みたいだな、その便利さは。だが、その可能性も薄いんじゃないかと思う」
「どうして?」
「黄金狼だ」

 ここで予想外の名前が出たので、ジャスミンは思わずケリーの顔を見直した。

「黄金狼が、例の研究所をめちゃめちゃにしたときの話を覚えているか」
「……ああ、一応はな。あまり思い出して気分のいい話ではないが……」

 二人にとって、リィは大切な友人である。
 そのリィが辛酸を味あわされたあの事件、そしてその後、惑星セントラルを含む一つの星系が木っ端微塵になる寸前まで追い込まれた、あの事件。共に、二人にとって苦い思い出がたっぷりと詰まっている。

「あの事件の時、天使が言うには、黄金狼は200もの手と目を同時に使い、一人の死者を出すこともなく、研究所を跡形もなくぶっ壊した。そうだったよな」
「彼らの言う言葉をそのまま信じるなら、そういうことになるな」

 ジャスミンらしい言い回しに、ケリーは頷いた。

「つまり、あの黄金狼でも、例えば特異能力そのものに『建物を跡形もなく壊せ。ただし人は殺すな』みたいな条件付けをすることは出来なかった。そういうことじゃないのか?」
「……確かに、もしもそういう便利な条件付けが出来るなら、200もの手と目を用意して細々建物を壊すよりも、遙かに作業は楽だな……」
「正真正銘のラー一族である黄金狼だってそうなんだ。なら、そんな便利な条件付けを、一応は人間のカテゴリに収まっているあの男が使いこなせるもんかね?俺は、その可能性は著しく低いと思う。あの男の防御方法は、とりあえず自分に向かって飛んでくるあらゆる物体の運動エネルギーの全てを受け止めるというだけの単純な仕組みで、それ以上のものは付加されていないんだ」
「あの男の持っているであろう能力と、一連の反応。それらを考え合わせると、こういうことか。あの男は、飛んでくるのが何の危険もない煙草の箱だということは認識していた。だが、まさかそれを投げつけられるなど予想はしていなかった。だから、咄嗟に特異能力を発動させそこねてしまった。そして、予想していない行動に出た大佐に対して呆気に取られ、その後笑い始めた……」

 ケリーがにやりと笑った。

「もの凄く簡単にまとめるとな、あの男はびっくりしたんだよ。あの土壇場で、毒にも薬にもならない煙草の箱を、実戦経験豊富な大佐が自分に向けて投げつけたことに」
「だから、特異能力を使うことが出来なかった」
「もしもあの瞬間に投げつけたのが、例えば軍用ナイフだったら、絶対に特異能力を発動させていたはずだ」

 それはそうだろう。ジャスミンも、その点には異論を持たなかった。

「もちろん、他にも可能性はあるぜ。だが、これは全く根拠の無い推論じゃあない。そして、そういう状況を作り出すことが出来れば、あの男を仕留めることは不可能じゃない。そうは思わないか」
「……試してみる価値はあるな。だが、相当危険な賭けだぞ、こいつは」

 そんなことは、ケリーとて言われるまでもなく承知している。
 だが。

「いいか、女王。あの男は、俺たちを馬鹿にしやがったんだ。その上、俺の義眼まで奪いやがった。怒っているのがあんただけだと思うか?」

 ひんやりとした笑みを、ケリーは浮かべていた。
 それは、例えば彼の過去を探ろうとする無謀者を見つけたときに浮かべる笑みであり、彼の過去を蹂躙した愚か者を消したときに浮かべる笑みでもあった。
 要するに、この男の一番危険な笑みだ。
 ジャスミンは戦慄を覚えた。そうだ。アーロン・レイノルズという男は、この上なく物騒な方法で、この男の逆鱗にやすりをかけたのだ。頬を、泥まみれの手で逆撫でしたのだ。
 この男が、怒っていないはずがないのである。そしてその怒りは、たかだか誇りを汚された程度の自分の怒りとは天と地ほども開きがある、灼熱を通り越した怒りに違いないのだ。

「もしもあの男を倒せる可能性がゼロなら、俺は躊躇いなく逃げるぜ。だが、可能性が少しでもあるのに逃げたら、俺は俺である価値を失う。だから、俺はやる。あんたが例え逃げ出してもな」

 ケリーの突き放したような言い方に、ジャスミンは怒ったりしなかった。
 深く椅子に腰掛けたまま、挑発的な視線で夫を見上げ、それから優しく微笑んだ。

「それでこそわたしの夫だ……と言いたいところだが、海賊、先ほどのお前の台詞を、そっくりそのまま返そうか」

 ケリーが、きょとんとした。
 ジャスミンは、艶やかな唇を蠱惑的に歪めながら、

「ちょっとは落ち着けよ、海賊。落ち着いているときのお前は、決して、わたしを置いて自分一人で事を為すなどとは言わないはずだぞ」

 ジャスミンは、人を食ったように、にやりと笑った。
 ケリーは、ますます目を丸くして、それから大いに破顔した。

「そうだな、女王。俺はどうやら落ち着いていなかったらしい。じゃあ、言い直させてもらうぜ。俺はとても怒っている。だから、あの男には、是非この世からご退場願いたい。あんたにもその手伝いをして欲しいんだが、お願いできるかい?」

 そう言って、ケリーはジャスミンに、礼儀正しく手を差し伸べた。まるで、王子様が異国の姫に、ダンスのパートナーを申し込む時のように。
 ただし、これから行われるのは、ダンスのようにお行儀のいいものではないことを、当然のことながら二人は知っている。だからこそ、お互いが掛け替えのない最高の相棒となることも、長い経験から熟知していた。
 ジャスミンは、全てを承知の上で、淡く微笑みながらその手を取り、ケリーの手の甲にキスを落とした。流れるように優雅なその動作が、あまりにも様になっていたため、ケリーは感嘆の吐息を吐き出してしまった。
 
「さぁ、何にせよ、まずは武器だ。この部屋の近くに、武器庫があるはずだぜ。どうせ、この城の兵隊さん達はほとんどいなくなっちまったんだから、そこからいいだけ頂戴させてもらうとしよう。それから、他にも用意出来るもんがあるなら、先に用意しておこうぜ」
「それはいいんだが、海賊よ。お前、あの男をどうやってぎょっとさせるつもりだ?そこが一番肝要なんじゃないのか。当然、その具体的な方策は練ってあるんだろうな?」

 立ち上がったジャスミンの声に、ケリーは明後日の方向を向いた。
 要するに、一番大事なところは何も考えていなかったらしい。
 ジャスミンは、突然襲ってきた偏頭痛に、こめかみのあたりを揉みほぐすはめになった。

「海賊、お前というやつは……」
「ま、どうにかなるさ。あの男と実際に戦ってみないと分からないこともあるじゃねえか。どんぱちやってる間に、何か思いつくって、きっと」
「……今まで敵した特異能力者達も、そうやって退けてきたのか、お前は」

 ケリーは嬉しそうに頷いた。
 ジャスミンの偏頭痛が、更に痛みを増した。

「おいおい、女王よ。そうは言うがよ、アイデアを出したのは俺だぜ。なら、具体的な実効策を練るのを他の人間に任せたって、罰は当たらねえと思うんだが、どうだよ?」

 要するに、ジャスミンに考えろと言うのである。
 普段なら、口より先に拳で抗議したくなる状況だったが、ジャスミンはそうしなかった。殴りかかる気力をごっそり奪われてしまったというのもあるが、ジャスミン自身、ケリーの話を聞いたときから、一つのアイデアが浮かんでいたのである。
 彼女自身、出来るならそのアイデアは採用したくない。しかし、それがあの男を『ぎょっとさせる』のにこの上なく有効であることを、ジャスミンの一番計算高い部分が認めていた。
 そして、その配役を交換することは、どうしたって出来ないのである。それは、あの男の執着の大部分がケリーに向かっているからであり、もしも全てをケリーに打ち明けても配役の変更をケリー自身が強く拒絶することが目に見えていたからでもある。
 第一、この作戦は、ケリーが何も知らないことが前提条件だ。そうでないと、お芝居が嘘くさくなり、あの男に通用しない可能性が出てきてしまう。
 そういった、煩わしいような全ての思考をぎゅっと凝縮して、ジャスミンは結局、気乗りのしない様子で口を開いた。
 
「あまり期待はしないで欲しい。それと、先に謝っておく」

 心の籠もらない調子でそう言った。
 その言葉に対してケリーは、

「ま、ああは言ったが別にあんたが全ての責任を負う場面じゃねえさ。俺も必死に考えておくからよ、あんたも出来れば頭の片隅で考えておいて欲しい、その程度だぜ」

 ああ、やっぱり分かっていないな、とジャスミンは思った。
 ジャスミンが先ほど言いたかったのは、『穏便な方法は』あまり期待しないで欲しい。それと、『何か不測の事態があったときのために』先に謝っておく、という意味だったのに。
 まぁ、自分は嘘は吐いていない。ただ、言葉が少し足りなかっただけなのだ。
 これは悪いことではないな、と自分を誤魔化したジャスミンは、先を行くケリーの影で人の悪い含み笑いを漏らしていた。



 ──あの時の言葉はそういう意味か!

 一応は麻痺レベルに落とした、しかし普通の人間であれば神経に障害が残るほどに高出力の光線をまともに受けて、ケリーは指先すら動かすことが出来ずに崩れ落ちた。
 そして、崩れ落ちながら全てを悟った。あの時のジャスミンの言葉の、隠された本当の意味を。
 やりやがったのだ。いくら麻痺レベルに落としているとはいえ、あの女、自分の夫をついに撃ちやがった。これは、DVで連邦裁判所に訴えれば、100パーセント間違いなく勝てるだろう虐待だ。殺人未遂といっても過言ではない。
 ああ、自分は結婚相手を間違えたのだろうかと、ケリーは真剣に悩んでしまった。
 体から力が抜け、前倒しに倒れていく。意識は残っているし、外界の情報を知覚することも出来るのだが、見事なほどに体が動かない。脳とそれ以外のパーツを繋ぐ線が、カミソリで断ち切られたような印象だ。
 どんどん地面が迫ってくる。思わず目を閉じかけたが、そんな反射運動ですらが起こらないほどに、体の麻痺は激しかった。これでは、文字通り死体と変わるところがない。 
 そして、地面と額が、派手な音を立てて衝突した。これは、明日の朝になれば間違いなくたんこぶになっている。その様子を思い浮かべて、ケリーは少し憂鬱になった。

 ──ちくしょう、覚えてやがれ女王!後できっちり、この落とし前はつけてもらうからな!

 そう叫びたかったが、当然の如く舌も口も動かない。阿呆のように、開きっぱなしだ。
 それだけではない。酸素を取りこむための、呼吸器の機能ですら失われている。心臓の音も、普段より大人しい気がする。
 もしも撃たれたのが自分でなければ、本当に死んでいたかも知れないな、とケリーは冷静に思考した。そして、おそらく呼吸器の機能が戻るまで、1分弱だろうと当たりをつけた。その程度の無呼吸であれば、素潜りで10分近くは耐えられるケリーの心肺機能である。酸欠で気絶するということもないだろう。
 そこまでの思考を一瞬で終えたケリーの耳に、素っ頓狂な声が飛び込んできた。

「ケリー!」

 それが妻の声でないことを、ケリーは神に罵りたくなった。
 自分で撃っておいて自分で泣き叫んでくれれば、まだあの女にも可愛げがあるというものだが。

「ケリー!ケリー!ケリー!」

 それにしたって、自分の死を一番嘆き悲しんでくれるのが、自分が一番殺したい人間だというのも、何か間違えているとしか思えない。

 ──ひでえ冗談だ。

 ケリーは、いつもの決まり文句を口にしようとしたが、やはり口は痺れていて、少しだって動かなかった。
 やがて、ケリーの体は誰かに抱きかかえられた。ケリー自身は触覚がまだまだ回復していないので、どうやらそうらしいという程度でしか分からなかったが。
 俯せの体が仰向けにひっくり返されたと思ったら、突然、血塗れの頭巾を被った、異様な風体の老人が視界いっぱいに映り込んで、今度はケリーの方がぎょっとしてしまった。この時だけは、体全体が痺れて動かないことを、ケリーは感謝した。もしも少しだって体が動いていたなら、この男を全力で突き飛ばすだろう自覚がケリーにはあったからだ。そんなことになったら、ここまで酷い目にあった意味が無くなってしまう。

「駄目だ!ケリー、死なないで!死なないで下さい!あなたに死なれたら、私はどうやって、これからの人生を歩いて行けばいいのですか!ケリー、ケリー、ケリーぃぃぃっ!」

 男の、死んだ魚のような瞳から溢れだした涙が、ぽたぽたと降りかかってくる。
 ケリーは内心で悲鳴を上げた。その涙が、今は全く分からないが、ひょっとしたら開きっぱなしの口の中に垂れ落ちている可能性だってあるのだ。
 ケリーは、本当に泣き叫びたかった。

 ──さっきの言葉は取り消す!全部許す!だから頼む、助けてくれ、女王!

 だが、ジャスミンは無情だった。わたしの夫に汚い手で触るなとか、そういうことは絶対に言わない。
 このチャンスを見逃さず、慎重な手つきで照準を合わせていることだろう。そして、照準が合った一発は、今度こそ殺害レベルの光線を、この男の眉間に叩き込むのだ。
 
「ケリー、お願いだ、死なないで下さい!頼むから、生き返ってください、ケリーぃぃぃっ!」

 顔を、ぐいと起こされた。
 視界が水平になる。
 そして、その視界の中央には、まるで本物の女王のような威厳と迫力を備えたジャスミンが、氷の表情と意思でもって、銃を構えていた。
 
「ぎょっとしたな、大統領。ならば勝ちだ、わたし達のな」

 ジャスミンの言葉に、しかし自分を抱える男の腕には一切の力が込められていないのを、ケリーは感じ取った。
 この男は、どれほど桁外れの力を持っていたとしても、所詮は一般人である。例えば厳しい訓練を積んだ軍人などとは、非常時における咄嗟の反応速度に雲泥の差がある。それが、この男の命運を分けた。
 まだ、自分の置かれた危機的状況に思考が追いついていないのだ。それほどまでに、自分の死は、この男に衝撃を与えたのだ。
 これで勝負は決まった。ケリーはそう思った。
 その視界の端っこ映り込んだ少女が、必死の形相でこちらへと走り寄ってくることに気が付くまでは。



[6349] 第六十三話:神々の黄昏
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/06/03 20:26
 インユェが一抱えの薪を持って洞穴に戻ったとき、そこにはいたのは一人の少女だけだった。

「あれ、ウォル、姉貴はどうした?」

 洞穴の壁に背を預けてしゃがみ込んだ少女が、青ざめた顔を持ち上げて、力無く微笑んだ。

「……ああ、インユェか。済まなかったな、俺がこんな調子でなければ、ゆっくりと休ませてやれたのに……」
「そんなことはどうでもいいけどよ……」
「メイフゥどのは、お前と入れ替わりで外に出て行かれた。まだ仕事が残っているとか何とか……」
「ふぅん、そっか……」

 痛ましい気持ちが顔に出ないよう、インユェは無表情を装った。それほどに、ウォルの様子は弱々しかった。
 いつもは溌剌として耳に心地よい声が、じっとりとした湿り気を含んでいる。太陽のように朗らかで烈しい視線にも、少しの力も込められていない。総身から力が抜け、まるで年相応の少女のような有様だ。
 どうやら、体調不良は相当深刻なようだ。
 然り、少女が目を見開き、口に手を当て小さく嘔吐いた。
 インユェは薪を放り投げて、ウォルに駆け寄った。

「大丈夫か、ウォル!」

 何とか吐き気を堪えたウォルが、荒々しく息を吐いていた。

「……大丈夫か大丈夫でないかを言うならば、大丈夫ではないのだろうな。だが、大騒ぎをするほどのことではない。何せ、これから一月に一度は付き合わなければならない苦しみだ。一々血相を変えていては、それこそ身が持たない」
「ひ、一月に一回って、そりゃあ……」

 インユェは思わず口ごもった。それが、男にとって易々と触れて良い話題ではないことを、年若くして宇宙に飛び出し、学校に通うこともなく、それ故同年代の異性との交流のほとんどなかった彼でも、弁えてはいた。
 だが、この場合、さばさばとしていたのは少女の方であった。

「これで、ようやくこの体も子を産めるようになったということだ」

 脂汗の滲んだ額に前髪を貼り付けながら、しかし母のように優しい顔で下腹を撫でさすっていた。
 インユェは、ごくりと唾を嚥下した。目の前の存在が、何か、もの凄く自分からは遠く離れた、尊く冒しがたい存在に見えて、気圧されてしまったのだ。
 それでも必死の少年は、ゆっくり、じりじりと少女に近づき、人一人分のスペースを空けて、その隣に腰掛けた。そこが、少年が決死の勇気を振り絞った限界点だった。

「ようやくって……初めてだったのかよ」

 隣で、こくりと頷いた気配がする。

「その……大丈夫なのか、本当に?」

 インユェは、先ほどから大丈夫かを繰り返していた。男にとっては理解出来ない苦しみである。具体的にどう対処すればいいのか、対処して欲しいと思っているのか、想像もつかない。
 それでもとにかく何か、この少女のために何か出来ることはないかと、インユェは必死だっただけである。

「何か……何か 俺に出来ることがあったら言ってくれよ。こんな状況だから何が出来るわけでもないけどさ……」
「ああ、済まんな、インユェ。その気持ちだけで十分だ」

 ウォルが、ふらりと立ち上がった。

「……どこへ、行くんだよ?」
「……気分が悪い……胸がむかむかする……少し吐いてくるから……ここにいてくれ」

 インユェは立ち上がりかけたが、これから吐きに行くと言っている少女に同行するのはあまりにデリカシーがないかと思い、浮かしかけた腰を落ち着けた。
 だがそれも、ふらふらと、生まれたての子鹿よりも頼りない少女の足取りを見るまでである。ウォルが、ふわりと体を漂わせて、洞穴の壁に寄りかかったところが、我慢の限界であった。

「ああ、もう!」

 インユェは勢いよく立ち上がり、壁にもたれたまま動けないウォルを、両手で抱え上げた。
 少女は、首と膝の裏を抱え上げられて、幼子のように運ばれて、しかし如何な抵抗をしなかった。身動ぎ一つ出来ず、抗議の声を上げることすら出来なかった。ただ、インユェの腕の中で、苦しげな呼吸を繰り返していた。
 ぼんやりと焦点の合わない瞳で少年を見上げ、可憐な唇を震わすように、
 
「……すまん……めいわくを……かける……」

 辛そうに眉を寄せて、蚊の鳴くような声でそう言った。
 インユェは、怒りにも似た表情で、自分の腕の中にすっぽりと収まってしまった少女を見つめ、

「いいんだよ、お前は俺のドレイなんだからな!俺の所有物なんだからな!こんなところでくたばられたら、後で俺が迷惑するじゃねえか!」

 顔を真っ赤にしながら、照れ隠しの大声でそう言った。
 それに、少女を助けることは、少年にとって少しも迷惑ではなかった。今だって、両手で支える少女の体重が、今まで担ぎ上げたどんな荷物よりも軽く思えた。両手から伝わる少女の体温が、どこまでも愛おしく思えた。柔らかい少女の感触に、いつまでも触れていたいと思っていた。
 要するに、少年は大好きな少女とふれあえて、幸せだったということだ。
 軽快な足取りで洞穴から出て、近くの草むらに少女を下ろす。すると、今までさんざん我慢していたからだろうか、少女が四つん這いに蹲り、盛大に嘔吐き始めた。

「吐いちまえ、全部。吐けるだけ吐いたら、楽になるから……」

 少女は細い首をこくりとさせ、吐いた。
 少量の、胃液だけの反吐が地面に溢れる。それでも、少女の細い胴体は何度も痙攣し、胃の内容物の全てを吐き出そうともがいていた。
 インユェは、激しく蠕動する少女の背を、優しくさすってやった。今の彼に出来ることは、それくらいしかなかった。

「ごほ……ごほ……」

 ようやく吐く物が無くなったのか、ウォルは小さな咳を繰り返した。
 インユェは小走りで滝のほとりまで急ぎ、その滝壺から清浄な水を汲んできた。それを、なおも苦しげに息を継いでいたウォルに手渡してやる。

「絶対に飲むなよ。この星の水は、大量に飲めば毒になるんだ。だから、今は口をゆすぐだけで我慢してくれ」

 ウォルは頷き、コップに汲まれた水で口をゆすいだ。胃液の逆流した喉は焼けるように痛んだが、口の中を清めただけでもだいぶ気分は楽になった。

「ありがとう……少し、楽になった……」

 ウォルの苦しみの大半は、実のところは肉体的な異常よりもむしろ、女性として成熟していく身体と前世のままの形を残した魂との乖離にこそ原因があったのだが、今の彼女に知る由もない。
 一息ついた様子の少女を、インユェは再び抱え上げた。自分の吐瀉物が近くにあるこの場所では、いくら肝の大きいウォルであっても満足に休めないだろうと思ったのだ。
 それに、さっき水を汲みに行った時に、良い場所を見つけた。
 インユェは両手で少女を抱えたまま、緩やかな坂道を下りていった。山の斜面は、そろそろ赤く染まりつつある日の光に照らされて、ぽかぽかと暖かかった。草いきれの濃密な香りと、新鮮な空気。こんな状況でなければどれほど心が安らいだだろう。
 しばらく山道を下りると、突然に道が開けた。遠くから響く水音は、件の滝から聞こえてくるのだろう。存分に水分を蓄えた涼気が、風に乗って運ばれてきた。
 そこには、草原があった。
 山間である。当然、草が波打つような広さではない。猫の額ほどの広さの土地に、可愛らしい花をつけた背の低い草がたくさん生えている。白い花弁の中央に黄色い雌蘂を生やしたその花々が、風の吹く方角に向けて一斉にお辞儀をした。それは、なんとも心休まる光景だった。

「ああ、良い香りだな……」

 インユェの腕に抱かれたウォルが、夢見るように眼を細めた。心なしか、先ほどに比べれば顔色も良くなっている。やはり、一度胃の中を空にしてしまったのがよかったのかも知れない。
 インユェは、草の上にそっと少女を下ろした。そして、精一杯の勇気を振り絞って、少女の体温が感じられるほど近くの隣に、腰を下ろした。
 どきどきと、心臓が早鐘を打つ。その鼓動が少女に伝わり、自分の内心がばれてしまうのではないかと、少年は気が気ではなかった。
 そんな少年の内心には気が付かないふうで、少女は、体を仰向けに倒して草原に寝そべってしまった。手足をうんと伸ばし、体を大の字にして、さも気持ちよさそうに。
 
「こうしていると、故郷の森を思い出す……」
「故郷って?」
「スーシャという。深い深い森だった。人の住む場所のほとんどない、森に囲まれた土地だった……」

 ウォルの声は、夢を見るようだった。細められた瞼の奥の視線は、もう二度と戻らない遠い過去を眺めている。それは、年若い少女に許された表情ではなかった。

「そこは、こんなに綺麗な場所なのか?」
 
 インユェが訊いた。
 ウォルは、寝そべったままに頷いた。

「この森も美しいが、スーシャの森の鮮烈な空気は格別だった。どこまでも深い碧が重なり、漆黒にも見える森の奥から、精霊の息吹のような風がそよいでくる。冬は深い雪に閉ざされるが、その分雪解けの春の美しさ、新しく芽吹いた命の凄烈さ、何度思い出しても飽きることがない……」

 うっとりとした声だ。きっと、宙を眺めたその視線の先には、少女の思い出の中で最も美しい情景が映し出されているのだろう。
 インユェは、少し寂しくなってしまった。少女の、一番尊い情景の中に、自分の姿がないことに嫉妬したのだ。

「ウォル。もしも、もしもそこが、お前にとって大切な場所なら……」

 ウォルが、ぼんやりとした視線で少年を眺めた。柔らかく凪いだ瞳が、慈愛の笑みを浮かべていた。風になぶられる烏黒の髪が、柔らかく波打った。
 その、あまりに完成された少女の美しさを見て、少年の喉は、用意したはずの言葉を、ごくりと飲み下してしまった。銀髪の少年は、もう、一言だってしゃべれなくなってしまっていた。
 ウォルはくすりと笑い、口ごもってしまった少年を優しく促してやった。

「どうした。スーシャが俺にとって大切な場所なら、なんだ?」
「……俺も、一度、そこに行ってみたいと思うんだけど、連れて行ってくれるかな?」
「……別に、行って面白い場所ではない。格別目を楽しませられるものがあるわけでもない。そんな場所に行って、どうする?」

 少年は、ぷいと目を逸らした。色の白い肌が、ほのかに赤く色づいていた。

「別に、何がしたいわけでもねえよ」
「では、どうして行きたいと思うのだ?」
「俺は、ただ、その場所に行って……その……お前と一緒に、こういうふうにしたいと思っただけなんだよ」

 最後の方は、ぼそぼそと、籠もるような調子であった。少年は、耳まで真っ赤になっていた。
 ウォルは、微笑んでいた。インユェの、年若いゆえの臆病さと、汚れを知らないゆえの純情さが、あまりに微笑ましかった。
 
「そうだな、スーシャの森で、こうしてお前といられたら、それはとても楽しいことなのだろうな……」

 インユェは、弾かれたようにウォルの方に向き直った。
 それは、自分を、隣に置くに相応しい男として認めてくれたということだろうか。
 少年の熱せられた想いは、今にも少女に覆い被さらんばかりだった。

「だが、残念ながら、お前をスーシャに連れて行くことは出来ないのだ。許してくれ……」
「そ、それは、何でだよ?」

 絶望の滲む声で、インユェが訊いた。
 ウォルは、苦笑を浮かべながら、

「これは、意地悪で言っているのではないのだ。ただ、もう、俺を含めて誰も、その場所には行けないというだけのこと……」
「誰も行けないって……そんなに遠い場所なのかよ。だったら大丈夫だぜ!これでも、俺は自前の宇宙船を持ってるんだ!どんなに遠い場所だって、お前を連れて行ってやるさ!」

 その時の少女の微笑みを、何と名付けることが出来るだろう。
 単純な微笑みと呼ぶにはほろ苦く、寂しげで、あまりに淡い。突けば、その表情が砂細工のように脆く崩れて、その下から泣き顔が姿を現してしまうような、切羽詰まった笑みだった。
 インユェは、少女が泣いているのだと思った。だが、薄く滲んだ少女の瞳から、雫がこぼれ落ちることはなかった。
 そして、ウォルは目を閉じた。目を閉じることで、首を横に振る代わりとした。

「もしも、もしもお前の船が、この宇宙の隅々までを飛び回れるのだとしても、スーシャの森には、どうしたって辿り着けない」
「……どういう意味だよ、そりゃ」
「スーシャは、この宇宙のどこにもない。今は、ただ、俺の瞼の内側にしか存在しないからだ」

 インユェは、息を飲んだ。

「それは……もう、ずっと昔に消えて無くなっちまったってことか?」

 ままあることだ、故郷が無くなることなど。
 ダムの底に沈む。戦乱で焼かれる。超新星爆発に巻き込まれて吹き飛んでしまった星もあると聞く。
 気遣わしげなインユェの声に、ウォルは目を閉じたままだった。

「違う。この世界には、一度も存在しなかった場所だからだ」
「この世界に、一度も存在しなかったって……」
「前も少し話しただろう。俺が、この世界の住人ではないということを」

 インユェは、一昨日の晩、崩れかけた廃屋で、この少女と二人きりだったことを思い出した。そして、その時にどんな会話を交わしたのかを。
 この、見目麗しい少女が、実は異世界の出身であり、そしてその世界で一番大きな国──確か、デルフィニアといっただろうか──の王であったこと。そして、彼女ではなく、彼だったこと。
 あの時は、銃創の痛みと恐怖に混乱した少女の、現実逃避に作り出した物語かと思っていた。だが、今目の前のいる少女が、そんな物語に縋り付かなければならないほどに錯乱しているとは思えない。
 では、自分の誘いを躱すために、口から出任せを言っているのだろうか。違う。この少女が、そんな不誠実な方法で、自分を裏切るはずがない。それだけは絶対にないと言い切れる。
 ならば、可能性は一つだけだ。
 この少女は、本当に、この世界の住人ではないのだ。少なくとも、彼女自身はそう信じている。心の底から、確信している。
 つまり、今目の前で、幸せそうに寝転んでいるの少女に宿っているのは、自分よりも遙かに長い時間を生きた老人だということだ。そして、自分と同じ性別で、一度の生を全うしたということだ。
 インユェは言葉を失った。何と言えばいいのか。何を言うべきなのか。彼の中に、相応しい言葉は、一つだって残っていなかった。
 ただ一つ、今の彼に縋り付けるものがあるとすれば。

「インユェ……?」

 目を閉じたウォル、その瞼の上を、黒々しい影が覆っていた。
 ウォルは、突然に遮られた太陽を訝しんで、薄く瞼を開けた。
 そこには、力一杯に真剣な表情を浮かべた、幼い少年の顔があった。銀色の、少年にしては少し長めの髪の毛が重力に従ってウォルの頬に触れ、さらさらと風にそよいでいた。
 その、林檎よりも赤く色づいた少年の頬が、少しずつ近づいてくるのを、少女は黙って見守っていた。

「……目、閉じてくれよ」

 インユェが、気色ばんだような顔で、言った。
 ウォルは、唇を緩く曲げて微笑んだ。そういえば最近、似たようなことを言われた気がする。それも、目の前の少年と同じ頃の、金色の髪の少年に。
 
「いいのか?何度も言うが、俺は女ではない。この体が少女のそれであっても、俺は自分を少女だと思ったことは一度もないのだぞ?」
「お前の前世が男だったから、何だって言うんだよ。だったら、俺の前世は女だったんだ。そうに決まってる。ほら、これで何の問題もねぇじゃねえか」
 
 ウォルは目を丸くしてしまった。なるほど、詭弁には違いないのだろうが、妙な説得力がある。それに、もしも前世というものが本当に存在するのならば、インユェの言い分もあながち的外れではない。二分の一の確率で本当のことなのだ。
 では、何の問題もないのだろうか。いやいや、それは違うだろう。少なくとも、自分の意識の中では大問題だ。
 だが、今のウォルにはどうでもよかった。相変わらず、下腹から広がるずっしりとした怠さが体の芯を痺れさせているのだし、森の奥から拭いてくる風の馥郁たる香りはどこまでも蠱惑的で、頭の奥を痺れさせる。降り注ぐ太陽は暖かで、瞼を引きずり下ろそうとしてくる。
 だから、ウォルは目を閉じた。少年を受け入れようとしたわけではない。ただ、全てがどうでもいいと思えるほどに、この空間が懐かしく、心地よかっただけのこと。
 
「ウォル……」

 自分の下に組み敷かれ、静かに目を閉じた少女に向けて、少年は呟いた。
 額にかかった前髪を、震える指先で掻き分けてやる。艶やかな髪は、指先に何とも言えない心地よさを残して、額の脇をさらりと滑り落ちた。
 鼻がぶつからないよう、少し顔をずらす。角度は慎重に決めなければならない。何故なら、インユェにとって、肉親以外の異性と唇を交わすのは、生まれて初めてのことだったのだ。
 心臓が、口から飛び出そうになる。視界が、鼓動のたびにぐらぐらと揺れている気がする。なのに、少女の真っ赤に色づいた唇だけが、どうしても視界の中心に収まってほんの少しも動いてくれない。
 油断をすると、呼吸が乱れそうになる。心臓の拍動に合わせて、はぁはぁと情けなく喘ぎそうな気がする。そうなっては、まるで女に襲いかかる卑劣漢だ。それに、第一格好悪すぎる。
 インユェは、正しく必死だった。おそらく、意中の女性を前にした少年の多くがそうであるように。
 時間にして、おそらく数秒の逡巡の末に、インユェは腹をくくった。その勇気の総量は、鬨の声を上げる敵兵に立ち向かう、初陣の若武者と何ら変わるところがなかった。
 意を決した少年が、その唇を少女のそれの上に落とそうとした、その時。
 少女が、うっすらと瞼を上げた。

「……どうしたの、そんなに私が怖い?それとも、土壇場になって怖じ気づいちゃったのかしら?」

 くすくすと笑いながら、少女がからかうように言った。
 インユェの顔が、真っ赤に染まった。馬鹿にするなと思った。
 その声に背中を押されるようにして、少年は深く体を沈めた。
 唇の先に、暖かい何かが触れた。それが果たして何なのか、目を固く閉じた少年には分からなかった。だが、唇の先でしか触れていないその何かは、砂糖菓子よりもずっと甘かった。
 ゆっくりと体を持ち上げる。そして、おそるおそると目を開けた。
 少女は、微笑んでいた。妖艶に、まるでその行為に慣れ親しんでいるように。

「ふふ、いつまで経っても、あなたのキスは上手くないわ。まるで、女性を知らない男の子みたい……」

 その少女は、少年の知る少女では、なかった。
 同じ顔、同じ声、同じ体なのに、何一つ同じではない。
 何か、目には見えない何かが、決定的に違ってしまっている。

「う、ウォル……?」
「ウォル?それって誰のこと?女の子の名前なら許せないし、男の子のことだったとして、恋人との最中に他人の名前を口にするのは、失礼だと思わない?」

 少女の手が伸ばされて、自分の頬にそっと触れる。その、しっとりと心地よい感触が、何故だか酷く懐かしい。
 そうだ。これは、初めてではない。この少女の上に自分がのしかかるのは、初めてのことではない。
 だが、この少女は誰だ。今、蕩けそうなほど甘やかな視線で自分を見上げる、この少女は、いったい誰だ。自分は今、いったい誰と唇を交わしたのだ。
 インユェの背を、冷たいものが走り抜けた。触れただけで生命を抜き取る魔女の手が、背筋を下から上までなぞったような気がした。
 なのに、胸の中が、暖かいもので満たされてもいた。今まで必死になって探していた、この世界で一番大切なものが、自分の掌の中に戻ったのだ。もう二度と、君の手を放さない。例え、あの、見るもおぞましい生き物が相手であっても、絶対に。
 ああ、そうだ。今、自分の下にいるのは、この世界で、一番、愛しい人だった。
 名前も、その肌の柔らかさも、知っている。どこに触れればどんな声で啼いてくれるかも知っている。その体の内と外に、自分の指と舌の触れていない場所は存在しない。
 それは、彼女にとっての自分もそう。彼女の指と舌は、この体の全てを知り尽くしている。
 知っているのだ。この体が、この少女の全てを。
 だから、呼ぼう。その名前を、出来る限りの優しい気持ちを込めて。

「──カマル。愛しているよ。僕は、君のことを、心の底から愛している……」

 少女が、微笑んだ。花の蕾が綻ぶように、淡く微笑んだ。

「わたしもよ。わたしも、心からあなたを愛しているわ、シャムス……」

 少女の、銀色の髪に触れる。紫色の瞳を隠した瞼に、優しい口づけを落とす。
 少女の髪が、僕の金色の髪に触れた。薄く開いた彼女の瞳に、僕の緑色の瞳が映っていた。
 それは、なんと完成された情景だったのだろう。ここには、何も要らない。もう、全てが煩わしく、全てが余分だった。自分と、この少女以外は。
 この世界は、こんなにも美しく、全てを兼ね備えている──。
 
「──インユェ、おい、インユェ!」

 はっと、少年は目を開けた。
 すると、自分を心配そうに見つめる、黒髪の少女がいた。いつの間にか自分の正面に体を起こして、自分の顔を覗き込んでいる。
 インユェは、しばらくの間、その名前を思い出すことが出来なかった。確か、この少女の名前は……何と言ったのだろうか。
 そもそも、自分が組み敷いていたのは、黒髪の少女では、なかったのではないか。太陽を銀色に跳ね返す、艶やかな髪──。
 銀色の髪。そうだ、まるで今の自分のような、銀色の髪と、紫色の瞳。
 あれは、いったい誰だったんだ。あんな女は、見たことがない。初めて見る──。

 違う。

 そうだ。思い出した。今まで、何度も何度も、顔を合わせたことがある。それも、全て夢の中だ。夢の中で、自分はあの女と、何度も交わった。夢の中の自分にとって、あの女は、世界で一番大切な、想い人だった。
 ちょうど、目の前にいる少女が、そうであるように。
 なら、自分にとって、この少女が一番大切ではないのだろうか。もっと大切な女性が、他にいるということか。
 違う。俺は、この少女を、一番愛している。俺が、この少女のことを一番好きなんだ。あんな女のことなんて、知ったこっちゃない。
 だから、誰にも渡さない。そして、この少女が自分のものであることを、今、証明してやる。
 だから──。
 少年の野生に、情欲の火が灯りかけた、その時。
 ぱしん、と。頬が、高い音を立てて、鳴った。
 軽い衝撃と、目の覚めるような痛み。あれ、俺はいったい、何をしていたのか。何を、しようとしていたのか。

「目が、覚めたか」

 ウォルが、いた。青ざめて血の気の薄い顔で、それでも真剣な顔で、こちらを見ている。
 そのウォルに、俺は今、いったい何をしようとしたのか。生まれて初めての苦しみで歩くことも出来ない少女に対して、俺は、何をしようとしたのか。
 インユェは、先ほどまで胸中を燃やしていた欲望の火を、恐れた。そのような火を燃やしてしまった自分に、嫌悪を抱いた。
 許しを乞う視線で、少女を見た。
 そして、少女は、笑ってくれた。全てを理解しているように、優しく頷いて、微笑んでくれた。
 インユェは、もう少しで泣き出しそうになった。

「す、すまねぇ、ウォル、俺、もう少しで、あの糞野郎と同じ最低な人間になっちまうところだった……」
「わかっている。男とは、そういう部分のある生き物だということを、俺は知っている。なにせ、俺だって70年間は男という生き物だったのだから」

 ウォルの細い指が、涙の浮いた少年のまなじりを拭った。

「まぁ、目を開けてみれば、明後日の方向をぼんやりと見つめながら、ぶつぶつと訳の分からないことを言っているのには少し驚かされたが……」
「はぁ?なんだよ、そりゃあ?」

 インユェが、素っ頓狂な声を上げた。

「覚えていないのか?」
「覚えていないのかって……お前こそ、意味不明なことを言ってたじゃねえか。俺がキスしてやったら、自分の名前を忘れたようなことを……」

 自分で口にして、インユェは、あらためて目の前の少女と口づけを交わしたことを思い出した。その柔らかで、豊潤な唇の感触も。
 少年の胸の内に、たまらない恥ずかしさと、叫び出したくなるような喜びが溢れた。誰もいないなら、歓喜の雄叫びをあげたいくらいだった。
 だが、

「キスをした?誰と、誰が?」

 目の前の少女は、眉を寄せながら、不審を体現した顔で訊いてくるのだ。
 インユェは、思わず呆気に取られてしまった。

「誰と誰がって……この場にいるのは、俺とお前だけじゃねえか。それ以外の誰と、俺がキスするっていうんだよ?」
「だが、俺は誰とも口づけを交わしていないぞ。では、お前は誰と口づけしたのだ?」
「何言ってんだよ、ウォル!俺はさっき、お前と……!」
「いや、だからだな。順を追って説明するぞ?まず、別に口づけくらいなら構わんかと思い、俺は目を閉じた。そしたら突然、お前が夢に取り憑かれたような様子になってしまった。これはいかんと思い、強く肩を揺さぶっても一向に戻ってくる気配がない。しばらくしてようやく正気になったかと思えば、いきなり、女に飢えた男のような視線で俺を見る。仕方なく、平手打ちを喰らわせた次第だ」

 ウォルの説明は事務的で、非常に分かりやすかった。そして、少年にとってはあまりに非情な事実でもあった。
 要するに、あの甘やかな感触は、焚き火よりも暖かな体温は、夢の世界の産物だったということか。未だ、自分は肉親以外の異性と、唇を交わしたことはないということか。
 がくんと顎を外したように口を開けて、インユェは、ウォルを見た。ウォルは、さもお気の毒様といった調子で、インユェの細い肩に手を乗せた。

「残念だったな、インユェ。まぁ、人生は長い。これからもチャンスが無いわけではないから、頑張ると良いぞ」

 まるで当事者ではないように言った。

「ちょ、ちょっと待て、ウォル!もう一回だ!もう一回、チャンスをくれ!」

 ウォルは、気の毒そうな、それとも悪戯げな表情で、首を横に振った。

「こういうものの賞味期限は短いぞ。残念ながら、俺もしらふで易々と男に唇を許す趣味は、今のところはない。諦めてくれ」
「そ、そんな……」

 インユェは、がっくりと項垂れて、地面に手をついてしまった。きっと、その胸の内には無限の後悔が渦巻いているに違いない。
 そんな少年に、柔らかい微笑みを一つ向けてやってから、ウォルは立ち上がった。

「それに、どうやらそんな甘い会話をしている暇はなさそうだ」
「え……?」
「こそこそと人の情事を覗き見るのが貴様らの作法か!見るならば、堂々と正面から見ていったらどうだ!」

 体調不良を露程も感じさせない、朗々たる声でウォルは言った。
 声の先は、森の奥、昼間でさえ太陽の届かないような、暗い茂みの中。
 そこから、ごそりと、何者かが立ち上がった。一人ではない。複数の気配だ。
 その中の一人が、ゆっくりと前に出た。草むらを踏み分ける音が、奇妙なほどにはっきりと、インユェの聴覚に届いた。

「いやいや、覗き見るなど、そんなつもりはありませんでしたよ。ただ、あまりにも良いムードだったので、この邪魔をしては一生物の恨みを買うは必定と、怯え居竦んでいただけでして……」
「よく動く舌だな。貴様も、母親からは口から先に生まれた類の人間か」
「ワタクシも、とは?」

 姿を現したのは、陽光に映えるブラウンの髪を綺麗に撫でつけた、少壮の男だった。
 体躯は立派で、顔立ちも整っている。風体の良い、まるきり仕事の出来るビジネスマンというふうだったが、そのスーツ姿が、大自然にはどうしても相応しくない。
 そして、にやにやと粘ついた、気持ちの悪い笑み。その男を好人物だと見るには、どうしてもその笑みが邪魔をする。
 ウォルは、刃物のような視線で男を一撫でして、
 
「この世界の、政治という職業に絡んだほとんどの人間がそうだな。驚くほどに弁舌は立つが、中身がそれに追いついていない。突けば割れる風船人形と同じだ」
「これは耳に痛いお言葉。しかし、どうしてワタクシが、そのような職業で糊口をしのぐ人間だとお分かりに?」
「戦場に、そのようにたわけた格好で立ち入り、そして兵士を従える類の人間の職業など、言わずもがなだろうが」

 男は、嬉しげに頷いた。

「全くもって仰るとおり。ワタクシ、名前をアイザック・テルミンと申しまして、偉大なるアーロン・レイノルズの主席秘書官を務めております。どうぞ、以後お見知りおきのほどを……」

 そう言って、テルミンは深く腰を折った。
 その彼の背後に、幾人もの兵士がいた。油断無く銃を構え、迷彩服に身を包んだ、兵士達。
 だが、その悉くが、まだあどけない少年少女だった。歳の頃は、インユェと同じか、少し幼いくらいの子供がほとんどである。
 インユェがウォルの手をぐいと引き、自分の体の影に隠した。

「ああ、彼らの紹介がまだでしたね。ここにいるのは、我がヴェロニカ共和国の誇る特殊軍の精鋭達。まだまだ年若いですが、こと戦闘においては、共和宇宙軍の猛者たちを相手にして一歩もひけを取らないと自負している次第です」

 ウォルとインユェは、奇異の視線を寄越さなかった。
 ウォルにとっては、この世界ではまだまだ子供と称される年の少年少女が戦場に立っても、それが珍しいこととは思えない。彼女がもといた世界では、15歳で騎士として叙勲を受けた少年が、戦場で殺し合いをすることなど何の変哲もないことだったのだから。
 そもそも、ウォルもインユェも、この子供達を見るのは初めてではない。一昨日の晩、二人の籠もっていた隠れ家を襲撃し、ウォルを攫っていったのは、この子供達なのだ。

「で、その特殊軍の兵士さんを連れた秘書官様が、俺たちに何の要件だよ。俺たちは、これでも忙しいんだぜ。なにせ、今からくんずほぐれずの、恋人同士の営みをするつもりだったんだからな」

 インユェがウォルを庇いながら、辛うじて不敵と呼べる表情で言った。
 今、自分達がどう頑張っても、目の前で銃を突きつけた少年達には勝てないだろう。少しでも不穏な動きを見せれば、その瞬間に蜂の巣だ。
 だが、インユェには希望があった。この森には、自分の姉がいる。地上最強の生き物とインユェが確信する、少女だ。メイフゥならば、この程度の数の兵士など、鼻歌交じりに片付けてくれるはずである。
 ならば、自分の為すべき事は、彼女が駆けつけるまでの時間稼ぎ。出来るだけ軽口を叩き、出来るだけ相手にしゃべらせて、時間を使わなければ。
 
「なるほど、それは悪いことをしました。折角意中の女性と一つになれる場面だったというのに、このように無粋な真似をしてしまって申し訳ありません」
「おう、よっく分かってるじゃねえか。だったら、さっさと尻尾を巻いて逃げて行けよ。俺は心が広いからさ、追わないでいてやるよ」
「そうですねぇ。あなたが、あなたのお姉さんと同じくらいにお強いんだとしたら、ワタクシ達も尻尾を巻いて逃げた方が賢明なのかも知れませんねぇ」

 テルミンは、やはりくつくつと、嫌らしい表情のまま笑った。
 
「確かに、彼女は強い。いえ、強かった。そして美しかった。もう、殺してしまうのが残念なくらいに」
「殺した、だと?」
「ええ。もう、あなたのお姉さん、あの、金色の髪の少女は、この世の住人ではありません」

 その言葉を聞いて、インユェは怒ったりしなかった。
 鼻で一つ笑い、馬鹿にしたような表情で、目の前のテルミンを睨み付けた。

「冗談も休み休み言え、このもやし野郎。誰が誰を殺しただと?てめえらみたいな三下が何百人束になろうが、俺の姉貴に勝てるわけがねえんだよ!」

 凄みを込めたインユェの言葉に、テルミンはにやにや笑いを浮かべ続けた。

「ええ、ええ、信じたくないのは分かりますが……あなたのお姉さんは、ワタクシ達が先ほど、確かに殺しました。そして、城に乗り込んだジャスミン・クーア女史は、夫であるケリー・クーア氏とともに捕縛され、我らの手の内です。つまり、この戦いは、君たちの敗北で既に終わっているのです。この上は、無駄な抵抗など止めて、我らに恭順するのが賢い選択だと思いますよ。いくらお姉さんが愛しいとはいえ、こんなにも早く後を追う必要はないでしょう?」

 そう言ったテルミンは、懐から一房の髪の毛を取り出した。
 陽光に烟るような、金色の長い髪の毛。インユェは、その髪の毛の持ち主が誰かを、悲しいほどに知っていた。



[6349] 第六十四話:落日
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/06/05 11:17
「三十五人。これで終わりかい、ダイアナの姉御」

 メイフゥは、気を失った兵士の首から、太い腕を放した。力無い兵士の体は支えを失って、どさりと倒れた。

『ええ、これで城から出撃した兵隊さんは、全て片付けられたはずよ。よく頑張ったわね、メイフゥちゃん』

 メイフゥは、最後の仕事とばかりに気合いを入れて、憐れな兵士の手足を縛る作業に取りかかった。別に体力を使う仕事など一つとしてなかったのだが、それにしても疲れた。体を思い切り動かして大暴れするのとはまた違う、得体の知れない疲労感がある。
 兵士の手足を紐で縛り終えたメイフゥは、大きな溜息を吐き出した。

「これでお終いっと。んで姉御、城の方はどうなのさ。お姉様は、上手くやってるのかい?」

 メイフゥがお姉様と呼ぶのは、この世にジャスミン一人しかいない。
 そして、そのジャスミンは、自らの夫を救い出すためにあの城へと乗り込んだのだ。
 もう、インユェがウォルをあの城から連れ出して、かなりの時間が経っている。どれほど探索に時間がかかっているのだとしても、そろそろ何らかの結果が出ているはずだ。

『少し、状況は不味いわね。あの城には、とんでもない化け物がいたみたい』
「化け物だって?」
『そうよ。あのアーロン・レイノルズ大統領本人が、特異能力者だったみたいなの。これは、いくらあの二人でも手こずるわ』
「特異能力者か。……そいつは、中々楽しませてくれそうじゃねえか」

 メイフゥが、舌なめずりしそうな声で言った。彼女は、今まで数多くの敵を文字通りに叩きのめしてきたのだが、その中に、本物の特異能力者はいなかった。一度手合わせ願いたいと思っていたところである。
 今回の作戦でメイフゥに割り当てられた役は、十分にこなした。であればこれからは自由行動が許されるはず。それならば、とメイフゥは思ったのだ。
 だが、人間以上に感情表現豊かな感応頭脳は、ぴしゃりとした調子で言った。
 
『駄目よ、メイフゥちゃん。あなたには、弟くんとウォルを守るっていう、大事な役割があるんだから。お城の方はケリー達に任せて、あなたは二人のところに帰りなさい。もしもケリー達がこれ以上まごつくようなら、先にここから離れたほうがいいわ』
「ちぇっ。わかってるよう」

 メイフゥは、唇を尖らせるようにして、不承不承に頷いた。確かに、ジャスミンは自分を倒してのけた女傑であり、夫であるケリーもそれ相応の実力を有しているはずである。今更自分が加勢したところで、何かの役に立てるかというと、少し心許ないところがある。
 何より、ウォルのことがある。あの少女は、常ならばメイフゥが心配する必要などないほどに強いのだが、今は絶対に戦わせてはいけない。彼女のあの様子は、女性特有の体調不良にしては、あまりに症状が重たい。何か、別の病気を患っている可能性もある。
 インユェにしても最近は少しましになってきてはいるものの、全てを任せることが出来るほどに逞しいわけでもない。
 つまりは、引率が必要ということか。メイフゥは溜息を吐き出した。

「分かったよ。で、脱出用のヘリは、どこに止めているんだい?」
 
 昨日、ジャスミンが購入した三台のヘリは、城の近くの森の中にその姿を潜めて、今や遅しとその翼を存分に羽ばたかせる時を待っているはずだ。
 もしもジャスミンが、或いはメイフゥが不測の事態に陥り、脱出が不可能になった場合、お互いのことは関知せずに脱出するよう、意思統一は出来ている。中途半端な仲間意識のせいで全滅の憂き目を見ることがあってはならないからだ。
 メイフゥは、それを非情とは思わない。当然の処置だ。もしも自分が見捨てられる立場になったとしても、一切の不満を覚えないだろう。むしろ、自分を助けるために仲間が犠牲になったときこそ、彼女は怒りを覚えるに違いなかった。
 
『ええ、そうね、今のあなたからすれば、北西のほ……に500メ……ルほど歩いた……ころの、森の……に……』
「おい、姉御?姉御!?」
『……』

 突然、通信機から聞こえるダイアナの声に、ざらざらとした雑音が混じり、やがて声そのものが雑音に掻き消されてしまった。通信機のスイッチを入れ直しても、砂嵐の流れるような音しか聞こえない。
 どうしたことだろう。城に残った連中が、遅まきながらもダイアナによるハッキングに気が付き、妨害電波でも放ったのだろうか。
 メイフゥは舌打ちを一つ零したが、最後の交信で脱出用ヘリのだいたいの場所は分かった。場所さえ分かれば、あとはそこまでインユェを連れて行くだけである。機械関係の操縦についてインユェは一方ならぬ才能がある。初めて乗る戦闘ヘリであっても、問題無く乗りこなしてくれるだろう。
 メイフゥは、ウォル達の待つ洞穴に向けて走り始めた。
 森の中は、暮れゆく太陽に照らされて、僅かに赤く色づいている。もう少し時間が経てば、太陽は山の向こうに姿を消すだろう。メイフゥは夜目が利く。夜陰に紛れたほうが移動の危険は減るのだが、今はそれまで待っている時間が勿体ない。
 茂みを掻き分け、枝をへし折り、メイフゥは走った。足場は相変わらず悪いが、それくらい何ほどのこともない。息を乱すことすらなく、少女は一目散に隠れ家を目指す。
 そして、気が付いた。
 いつしか、自分を中心として、いくつかの気配が森の中に感じられることに。
 自分が進めば、その気配もほとんど同じ速度でついてくる。止まれば、気配も足を止める。
 しまった。どうやら、捕捉されたらしい。
 ヴェロニカ国の正規兵ではありえない。あの、ごてごてしい装備を身につけた、鈍重な亀どもが、自分の足についてくるなど不可能だ。例えダイアナの作った幻がジャミングによって無効化されたのだとしても、すぐに自分に対応できるとは思えないし、そもそも、城から放たれた人数の全てを既に無力化しているのだ。
 では、何者か。
 訝しんだメイフゥだが、確かめる術は彼女にない。そして、このまま隠れ家に帰るわけにはいかない。それは、餓狼を羊小屋に迎え入れるに等しい行為だ。
 メイフゥは、隠れ家とは微妙に外れた方向を目指して駆けた。山は彼女の生息地である。足は速く、身のこなしは軽い。街中を駆けるのとは比べものにならない速度だ。
 流石に、メイフゥを取り囲んだ気配も、その速度にはついてこれない。
 だが、その代わりとばかりに、メイフゥの目の前の大木に、ライフルの弾丸が突き刺さった。一瞬遅れて響く発砲音。
 
「そこか!」

 メイフゥが、音の源に向かって走り出そうとしたとき、違う方向から発砲音が響き、メイフゥの足下の岩が爆散した。

「ちぃっ!」

 メイフゥは岩陰に隠れたが、今度は正反対の方向から銃撃を受けた。完全に包囲されているのだ。足を止めていては、一気に押し崩される。
 とにかく、足を止めてはいけない。動いていれば、あちらの攻撃も的を絞れないはずだ。そう信じて、メイフゥは木々の間を飛び跳ねながら走った。
 だが、攻撃はどんどん激しさを増していく。銃撃音が森の中に絶え間なく響く。メイフゥも、少なくない手傷を負っていく。直撃こそないものの、細かなかすり傷が数え切れないほどに柔肌を蝕んでいく。
 この時点で、メイフゥは気が付いていた。相手は、本気で自分を殺すつもりはない。これは、猟なのだ。放たれたのは猟犬。猟犬の仕事は獲物を仕留めることではなく、飼い主の眼前まで獲物を引きずり出すことにある。そして、飼い主の前に引きずり出された獲物は、その手にした銃で撃ち殺され、血肉は晩餐となり、皮と骨はオブジェとして飾られる……。
 
 ──ついにあたしも、年貢の納め時か。

 メイフゥは、汗みずくの顔に皮肉っぽい笑みを浮かべた。
 いつだって、死ぬのは覚悟していた。今まで、何度も人を殺したのだ。遊び程度で殺したことは一度だってないが、殺意を向けてくる敵は躊躇無く殺した。ならば、そのツケの精算をする機会が訪れただけのことである。
 ただ、どうして今なのだという気はした。死に神にしても、もう少し気を遣ってくれればいいのに。あの二人と一緒にこの戦場を脱出して、二人が仲むつまじくなった様子を見られたなら、いつだってお呼ばれしてやるんだ。こんなに早く呼び出さなくったっていいじゃないか。
 そして、ついに銃弾は、メイフゥから逃げ足を奪った。放たれた無数の銃弾の一つが、メイフゥの大腿部を貫いたのだ。

「あぐぅっ!」

 勢いよく走っていたメイフゥは、当然の如く転倒した。倒れたところには運悪く尖った岩があり、咄嗟に突きだした掌がその岩に刺さって、盛大に裂けた。皮膚の裂け目から、赤い肉と、黄色い脂肪の粒が見えた。
 血が、ぼたぼたと流れ出す。大穴の空いた太股からも、どくどくと血が溢れていく。
 普通の人間ならば、蹲って動けなくなる怪我だ。それでも、メイフゥは逃げた。走るのが駄目なら、歩いて逃げた。歩くのが無理なら、四つん這いに逃げた。それが不可能ならば、腕だけで這って逃げた。
 どれほどみっともなくとも、メイフゥは逃げた。とにかく、止まってしまえば殺されるのだ。少しでも動き続けることだ。生きている間は、絶対に諦めない。
 流れ落ちる血液と汗が、そのまま体力の結晶のように思えた。どんどんと、命そのものが削れていくのが分かった。
 全身が、血と泥で汚れている。これでは、追い詰められた獣そのものではないか。自分は、こんな惨めな格好で死ぬのか。野の獣のように。
 誇り高いメイフゥには、その一事が許せなかった。だが、今更言っても始まらない。
 
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……」

 灼け付くような呼吸を繰り返す。喉が、痛むほどに乾いている。水が飲みたい。今なら、トリジウム混じりの毒水でも、むしゃぶりついて飲み下せるだろう。
 どうせ、長生きは出来ないのだから、少々の毒が何だというのか。
 目がちかちかする。視界の明度と彩度が、明らかに狂っている。赤い粒と青い粒が、無数の蠅のように視界をちらちらと飛んでいる。自分が、極彩色の迷宮に迷い込んだように錯覚してしまう。
 夢の中を走っているようだ。足は重たく、じんじんと熱い。じきに、この熱さが痛みに変わるのだと思うと、ほんの少しだけ怖い。ぱっくりと裂けた掌は、感触がない。果たして本当に怪我をしているのかと見てみれば、真っ赤に染まった肉の奥に、白い塊が見えた。折れた骨が、恥ずかしげに顔を見せていた。
 ああ、重傷だ。これは、病院に行かなければ駄目だ。いつもみたいに、唾を付けていれば治るような傷ではない。
 お父さん。お母さん。インユェ。ウォル。ヤームル。ジャスミン。
 人の名前が、次々と頭に浮かんで、消えていく。顔は、思い出せない。記号化された思い出が、ぐるぐると回る。言葉の洪水に溺れそうになる。
 なるほど、これが走馬燈という奴だろうか。何となく思い浮かべた文節が、一語一語に区切られて、妙にはっきりと頭の中で響いた。
 いつしか、メイフゥの足は止まっていた。
 疲れたわけではない。諦めたわけではない。ただ、それ以上前に進めない場所に、追い込まれただけのこと。
 目の前に、切り立った崖がある。遙か下に、緑の絨毯が広がっている。ここから落ちれば、あの絨毯が優しくこの体を受け止めてくれるだろうか。その柔らかい感触に辿り着くまで、あと何秒?
 
「──やれやれ、本当に人並み外れた体力ですね、あなたは。片足を半分千切れさせて、よくもまぁ逃げ回ったものです」

 どこかで聞いたような、声がした。
 記号の海の中から、その名前を釣り上げる。初めて聞いたのは、昨日の夜。耳に張り付くような、嫌らしい笑い方。自分を恐れて、涙を流して許しを乞うた、声の主。
 
「……な、んだ……お前、かよ……びっくり……させ、やがって……」

 思わず笑みを浮かべてしまう。立場は昨日と正反対だ。目の前の、奇妙ににやけた面が、そう言っている。千切れてそのままの片耳が、そう言っている。
 昨日は私が獲物でした。しかし今は、貴方が獲物なのですよ、と。
 見逃したのが仇になったか?きっとそうなのだろう。
 男は、満面の笑みで腰を折った。

「このアイザック・テルミンのことを覚えて頂いていたようで、光栄の限りですよ。ええっと……?」

 あたしの名前を知りたいのだろうか。さもありなん、あたしの死体をショーケースに入れて飾るなら、その名札がないと困るだろう。
 
「……めい……ふぅ、だ。美しい、虎って書いて……メイフゥ……」
「メイフゥ。なるほど、美しい虎ですか。あなたにぴったりの名前だ」

 メイフゥは、どろどろの顔に、力無い笑みを浮かべた。
 違う。その名前は、あたしに相応しくない。片方は正しいけど、もう片方は間違えているんだ。だから、いつだっていじめられた。いつだってあたしはひとりぼっちだった。
 それでもあたしが生きていられたのは、あたしを必要としてくれる弟がいたからだ。あいつがいなけりゃ、こんな命、とうの昔に放り捨てている。
 だが、みっともなくしがみついた生も、今日、ここまでらしい。それが残酷とは思わないが、少しだけ残念だ。出来れば、あいつとウォルの子供を、この手に抱いてみたかった。

「……さっさと……殺せ……それとも、嬲り殺す、つもりか……」

 昨日の晩のことを思えば、それも仕方ないのかも知れない。少なくとも、自分のしたことをされてから殺されるくらいは覚悟しておかなければ。
 因果応報だ。
 痛めつけるのは結構好きだが、痛いのはあまり好きではない。自分勝手なことだが、性分だからしょうがない。
 我慢しよう。どうせ、これから、痛みを気にする必要のない世界に旅立つのだ。これが最後だと思えば、痛みさえも愛おしいだろう。

「殺す?ワタクシが、あなたを?とんでもない、そんなことするはずがないじゃありませんか!」

 目の前の男は、さも心外そうに目を開き、大仰に言っていた。
 その言葉に一抹の希望を見いだしてしまった。それが、何よりも屈辱的だった。

「……じゃあ、……てめえは、いったい何……をするつもりだ……あたしに、何を求める……」

 テルミンは、嬉しそうに笑った。

「ワタクシの目的は、あなたのように野卑な女を殺すことではありません。ただ、儀式に捧げるべき、あの少女を再び入手することです。なので、あの少女の居場所をさっさと吐いてくださいな。そうすれば、あなたは生かしておいてあげてもいい」

 メイフゥは、小さく微笑んだ。
 なるほど、仲間を売れと、そういうことか。あの少女をくだらない儀式の生け贄に捧げる、その片棒を担げと。
 泥のような疲労がたまった体が、おかしさに震えた。いまだ荒々しい吐息が、痙攣するような笑い声に変わる。

「……何がおかしいのですか?」
「くくっ、いやぁ、おかしい、さ。この、あたしに、そんな、とち狂った、取引を、持ちかける、なんてねぇ……」

 メイフゥは、たまらなくおかしかった。目の前の男は、どれだけ人を見る目がないのだろう。この自分が、我が身可愛さに仲間を売るような卑怯者に見えるのか。だとしたら、お笑いぐさだ。自分は化け物になったつもりはあっても、卑怯者にだけはなったためしがない。

「そうですか、それは残念だ」

 テルミンが、光線銃を構えた。
 これで終わりかと、メイフゥは目を閉じた。
 だが、テルミンに、終わらせるつもりはなかった。
 光条が空を切り裂く。だが、それはメイフゥを安楽の世界には連れて行かない。
 容易く人の命を奪う光線は、メイフゥの片耳を吹き飛ばしただけだった。メイフゥの片耳が、鼠に囓られたように欠けていた。

「ぐぁっ!」
「これでおあいこでしょうか。いや、ワタクシはあなたにされたのは、この程度ではありませんでしたねぇ」

 テルミンが、背後の少年達に合図を送った。
 少年達は、機械じみた無表情のまま、片耳を押さえて蹲るメイフゥに駆け寄り、その体を俯せに押さえつけた。
 そして、メイフゥの腕を強引に伸ばし、掌をこじ開け、開いたまま地面に貼り付けた。
 何をされるのか、メイフゥには分かっていた。自分で言ったことだ、拷問とは使い古された手法ほど効果があるのだと。

「さて、これも使い古された台詞で申し訳ないのですが……早く全てを話した方が、楽になりますよ?」



 そして、少女の絶叫が、悲鳴が、山間にこだました。
 少女の手足の指が原型を止めなくなるまで、それほどの時間は必要ではなかった。



「さて、そろそろいい頃合いでしょう。あなたも、十分に頑張りましたよ。もう、全てを話しても誰もあなたを非難しません。だから、いいでしょう?」

 メイフゥは、青ざめて表情を失った顔で、その言葉を聞いていた。
 すでに、手首から先の感覚が消失していた。足首から先も、そこに肉体が存在するとは思えない。
 痛みと熱と不快感が、少女の中で同じ感覚となっていた。そして、寒い。手足の先が燃えるように熱いのに、体の芯が凍えるほどに寒いのだ。
 もう、駄目かも知れない。メイフゥはそう思った。
 もう限界だ。もう、全てを投げ出してもいいんじゃないか。
 戦慄く口が、何かを話そうとしていた。
 テルミンは、メイフゥの口元に、耳を寄せた。何か、蚊の鳴くような声で、何かを言っている。

「ああ、もう少し大きな声で言ってもらえますか?大声を出し過ぎて喉が疲れているのは、重々承知の上ですので」

 テルミンが、面白そうに言った。
 そして、もう少し耳を近づけて、

「さぁ、全てを話なさい。そうすれば、楽になれますから……」

 幼児に対してそうするように、優しく語りかけてやる。
 少女は、縋るような、許しを乞うような表情で、テルミンを見上げていた。
 その少女の顔に触れるほど、耳を近づけた。

「……だ」
「今、なんと言いましたか?まだ聞こえないのですよ。もう少し大きい声で……」
「不味そうな耳だな、てめえのは!」

 がちん、と、固い物のぶつかる音が聞こえて、昨日味わったばかりの熱痛がテルミンの、残された片方の耳を襲った。
 
「くぁあっ!」

 思わず耳に手を当てると、どろりとした液体が溢れてくるのが分かった。
 少女は、くつくつと笑い、大きな空豆のような塊を、血の混じった唾液と一緒に吐き出した。
 テルミンの、残された耳の、耳たぶだった。
 テルミンは、苦痛と怒りに笑みをひくつかせて、少女を見下ろした。

「なるほど、それがあなたの答えですか。いや、苦痛に耐えて、ずいぶん立派なことだ。これが宇宙生活者の義侠心というやつですかな?ふん、何とも時代遅れでかび臭いことですねぇ!」

 テルミンは、いまだ地面に押さえつけられたままのメイフゥの顔を思い切り蹴り上げた。革靴のつま先が少女の頬にめり込み、折れた白い歯が宙を舞った。
 それでも、メイフゥは笑い続けた。それは、彼女を押さえつける少年達が、気味悪さを覚えるほどに。

「いいか、テルミンとやら。あたしを殺すなら、完膚無きまでに殺すんだな。じゃないと、あたしはお前の首を取りに行くぜ。この手足の全てをもがれても、絶対に喰い殺してやる。絶対だ!」

 メイフゥは、残された力の全てを込めて担架を切った。
 それで、全てだった。決定的な全てを使い切ってしまったのだと、彼女は知っていた。
 糸が切れたように静かになった少女に、顔の片側を赤く染めたテルミンは、優しげな笑みを浮かべた。
 少女の背中にのし掛かった少年達に、再び合図を送る。少年達は、暴れる気力すらを失ったメイフゥから離れた。

「ええ、分かりました。あなたはずいぶんと頑張った。もう、終わりにしましょう。あとは、ワタクシ達が、勝手に探しますよ。ただね……」

 テルミンが、懐から、小さな機械を取り出した。
 携帯用の通信端末だった。
 それを、耳の付いていない片方の耳道に当てる。

「……ええ、ワタクシです。……くだらない挨拶はいいんですよ。あなたは、聞かれたことにだけ答えていれば。……はい……なるほど、ここから南南西の方角に二キロほど離れたところ……小さな滝が目印、と。なるほど、よく分かりました。では」

 テルミンの言葉を聞いたメイフゥの、血の気が一気に引いた。
 それは、インユェとウォルが隠れている、洞穴の場所ではないのか。
 自分が死ぬのではない、大切な人間が危機に晒されることへの恐怖に硬直したメイフゥを、テルミンは楽しげに見下ろした。

「本当はね。あの少女の居場所なんて、簡単に分かったんですよ。あの少女は、体に発信機を取り付けられていた。この星に来る、ずっと前からね。一昨日、あなた方の潜伏場所が簡単にばれたとき、おかしいと思いませんでしたか?それから場所を移したあのあばら屋が、やはり簡単に捕捉されたのもおかしいとは思わなかったのですか?あなた方は、いや、あの少女はね、ずっと我々の掌の上だったのですよ。それを、こんなにぼろぼろになるまで必死で庇って、ずいぶんとご苦労なことでしたねぇ!」

 胸を反らしたテルミンは、唖然としたメイフゥを一瞥して、狂ったように笑った。
 
「心配はいりませんよ!彼らにはきっちり、あなたが拷問に屈して全てを洗いざらい吐露したのだと教えておいてあげますから!あなたは、彼らにさぞ恨まれることでしょうね!あの世で、彼らに対しての言い訳でも考えておくといい!」

 テルミンの言葉に、メイフゥは歯ぎしりをし、涙を流した。
 無力感が、悔しさが、屈辱が、少女の心をへし折った。
 手酷い拷問にも最後まで屈しなかった少女が、ぼろぼろと泣いていた。

「てめぇぇっ、殺す、絶対に、殺してやるぅぅ!」

 メイフゥは、赤黒くなって原型を止めない手を地面に付け、嗚咽が溢れそうになる口を喰い結び、がくがくと震える膝を叱咤して、立ち上がった。
 そして、常の彼女からは考えられないほどにゆっくりとした動きで、のろのろと、テルミンに飛びかかろうとした。
 到底あり得ることではなかった。度重なる拷問と大量の出血で、常人ならばとうに彼岸へと旅立っているはずなのだ。にもかかわらず少女の体が動いたのは、彼女の怒りが沸点を遙かに超えていたからだ。
 テルミンは、気圧されて数歩後ずさった。
 だが、それだけだ。恐れる必要はない。落ち着いてみれば、これは死に損ないの、ただの少女なのだから。
 テルミンは、メイフゥに見せつけるようにして、ゆっくりと銃を構えた。その銃口は、正確に少女の左胸を狙っていた。

「あなたには苦渋も舐めさせられましたが、それ以上に愉しませていただきました。これはそのお礼です。ではおやすみなさい、美しい虎さん」

 引き金は、無慈悲に引き絞られた。銃口から放たれた光条は、不可思議な力でねじ曲げられることなく、無造作に少女の左胸を貫通した。
 
「いん……ゆぇ……」

 前のめりに倒れる少女に瞳から、涙が、細かな飛沫になって飛び散った。
 少女の口から、どろりとした血が溢れた。
 どさりと、軽い音がして、少女は俯せに倒れた。そして、数度痙攣を繰り返し、その生命活動は完全に停止した。

「……ふん、生き汚い」

 テルミンは少女の頭部を踏みにじり、その体を蹴り転がした。仰向けにされた少女は、ぼんやりと濁った視線で、虚空を睨み付けていた。灰褐色の瞳の瞳孔は、少女の死を証明するように、完全に開いていた。
 テルミンは、再び物言わぬ少女を蹴り転がした。メイフゥの長く逞しい手足が、力無く投げ出されていた。
 その先には、崖がある。地面が、現実感を伴わないほど遙か眼下に見える、崖が。
 あと一度蹴り転がせば、メイフゥの体は崖から落ちる。その位置で、テルミンは、血にまみれた少女の頭部に手を伸ばし、その髪を一房切り取った。
 
「これで死体の代わりにしましょう。首を持っていくのは面倒ですしねぇ」

 テルミン本人も分からなかったのだが、それは彼の抱えていた恐怖心のさせた行動だった。首を切り取って持っていけば、その首に魔力が宿り、いつか自分に食いつくのではないかと、前時代的な恐怖に囚われたのだ。誰にも聞こえない程度の呟き声は、ただ自分の弱気を誤魔化すための詭弁であった。
 メイフゥの髪の一房を懐にしまい、テルミンは最後の一蹴りを加えた。
 魂を失った少女の体は、何とも呆気ない様子で崖を滑り落ちた。何度か、肉と岩が衝突する低い音が響いて、その体は見えなくなった。
 何百メートルという高さから落下した少女の体は、適度に柔らかく飛び散り、森の小動物の食料となるだろう。それは、如何にもヴェロニカ教に相応しい埋葬方法であった。



 ジャスミンの放った光線は、呆気に取られた大統領の眉間には命中しなかった。
 その代わりに、大統領に飛びついた、少女の脇腹を貫通していた。
 赤毛の、勝ち気な瞳をした少女は、嬉しそうな顔色で、ゆっくりと崩れ落ちた。自分の身に起きた凶事よりも、ただ大事な人を守れたのが嬉しいのだと、その瞳が言っていた。
 
「おとうさま……よかった……」

 赤毛の少女──マルゴ・レイノルズの、多幸感に溢れた呟きが、呆然と硬直したジャスミンを現実へと引き戻した。
 予想外だ。まさか、第三者が邪魔に入るとは思わなかった。だが、そんなことに気を取られている場合ではない。今があの化け物を仕留める、唯一無二のチャンスなのだ!
 ジャスミンは、もう一度引き金を絞ろうとした。それは、一撃目の失敗を認識してから、僅か数瞬後のこと。
 だが、その数瞬が、勝負を分けた。

「あ……ぐぅ……っ!」

 ジャスミンの、息を詰まらせた苦悶の呻き声が、壁が崩れて風通しの良くなった大広間に響いた。
 ジャスミンの大柄な体が、宙に浮いている。彼女の逞しい首筋に、掌のような痣が刻まれ、その痣が、ジャスミンの巨体を持ち上げ、喉をきりきりと締め付けているのだ。
 手足をばたつかせ、両手で喉から何かを引きはがそうとするが、今彼女の首を締め付けているものは肉の体で触れ得るような存在ではない。わなわなと痙攣するような指先は宙を掻きむしり、何も掴む事ができなかった。
 顔が、赤く充血していく。口の端から、泡を吹いた涎が垂れ落ちていく。己の指で引っ掻いた首筋から、細い血の滝がつぅと流れ落ちた。
 息が出来ない。いや、それ以上に、脳への血流が阻害されている。目が霞み、もう少しで意識を失うのが、今までの経験上、ジャスミンには分かった。
 だから、最後の一撃だ。それがどれほど小さな可能性であっても、諦めるわけにはいかない。
 ジャスミンは、苦痛と息苦しさで霞む視界の中、震える腕を伸ばして、引き金を引いた。
 光線は、驚くべき正確さで、アーロンの眉間に殺到した。
 だが、そこまでだった。既に自我を取り戻していたアーロンにとって、たかだか拳銃程度から放たれた光線をねじ曲げるくらい、赤子の手を捻るよりも造作のないことだった。

「いやはや、あなた方夫婦には本当に驚かされます。まさか人の身で、この私を打倒しかけるとは。正しく心底の賞賛に値する……」

 アーロンの呟きと、ジャスミンの取り落とした愛銃が地面に落ちる音は、ほとんど同時だった。
 宙に浮いたジャスミンの両手両足は、もう、ぴくりとも動いていなかった。一切の力みを奪われた手足は重力に如何なる抵抗も示さず、だらりと垂れ下がっていた。
 ジャスミンは、完全に気絶していた。長い睫に飾られた金色の瞳が、無念の様相で宙を睨み付けていた。
 そしてアーロンは、意識を失ったジャスミンの体を、丁重な様子で床に横たえた。何せ彼女は敵ではなく、アーロンにとっての賓客なのだ。その応対はどれほど丁寧であっても過分ということはない。

「些か当初の予定とは異なりますが、まぁ、これであなた方にも私の力は十分に承知頂けたと思います。これ以上の無駄な足掻きは止めて頂き、どうか私の願いを叶えて下さいますよう、お願い申し上げます」

 アーロンは、ようやく体の自由を取り戻しつつあるケリーに向けて頭を下げた。ケリーの体はまだほとんど死体と変わらない様子だが、アーロンは彼が無事なことを知っていた。
 ジャスミンの無慈悲で徹底的な一撃が、全てを彼に悟らせたのだ。これは、自分の能力をそぎ落とすための、壮大なお芝居なのだと。そして、危うく自分はその手管に引っかかるところだったのだと。
 だとすれば、ケリーが無事でない筈がない。あの聡明な夫人が、自分如きを排除するために、夫の命を危険に晒すはずがない。
 見事にだまされ、もう少しで命を危うくさせられるところだったアーロンの心に、しかし怒りは寸分足りとて存在しなかった。むしろ、二人を湛える清々しい気持ちで一杯だった。
 そして、その心のどこにも、自分の身代わりとなって被弾した少女のことはなかった。

「さぁさお二人とも、さぞお疲れのことでしょう。流石に、今までのように自由にしていただくわけにはいきませんが、晩餐の用意も整っております。汗に塗れたお体を、清めて頂く必要もございましょう。今までの蟠りは水に流して、楽しいひとときを過ごして頂きますよう。今の時代を見るのは、あと数日のこと。どうかそれまで、心残りのないよう楽しんで頂きたい」

 歌い上げるような調子で言った。死んだ魚の瞳が、痩せて頬骨の浮いた容貌が、満面の笑みに崩れていた。
 死体が、笑ったような様子だった。
 アーロンは、正しく有頂天だったのだ。これで、彼の長年の望みは果たされる。
 最も難しいと考えていた条件が、これで成就した。50年後、この星では憐れな人形同士の戦いが繰り広げられる。意味のない、見世物の戦いに。
 そして、彼らは呆気なく廃棄される。毒ガスで塗炭の苦しみを味わい、喉を掻きむしって死ぬ。自分が、自分の一番信頼していたものに裏切られたのだと、筆舌に尽くしがたい無念を味わいながら死んでいく。
 その無念を晴らすために、再びウィノアの亡霊がこの宇宙に現れるだろう。亡霊の望みを叶えるために、天使がこの地に降臨するのだ。
 その時、煮えたぎる復讐の刃は、真っ先に自分へと振り下ろされるのだろう。だが、最後まで生き延びて見せる。そして、天使の前に跪いて、自分は天使に殺されるのだ。それが、この不毛な人生の締めくくりだ。
 老人の、死んだ魚のような瞳が、恍惚とした様子で遙か彼方を見つめていた。その先には、あの日に出会った天使の、悲しげな横顔が映し出されていた。

 「……アーロン……おい……アーロン……!」

 しばし現実を忘れていた老人の足下で、歯を軋らせるような声がした。
 アーロンが、鷹揚な様子で見下した。その瞳には、万物を己の意のままに動かせる、創造主の優越が存在していた。
 足下には、彼の望みをかなえるための最後の道具が、沖に揚げられた瀕死の鯨のように、無力な様子で横たわっていた。

「はい。どうしましたか、ケリー・エヴァンス」
「……ああ、分かったぜ。今日のところは、俺たちの負けだ。それはそれで構わない」
「ようやくご理解賜れましたか。それは重畳」
「だから、さっさとその子を手当てしてやれ。そのままじゃあ、死んじまうぞ」

 ケリーの、未だ闘志の冷めやらない視線の先には、青ざめた顔色で苦悶の表情を浮かべる、少女がいた。息が荒く、不規則である。時折苦痛に息を詰まらせ、体の各所をびくびくと痙攣させていた。
 胎児のように身を丸め、銃創を手で押さえている。その小さな手の指と指の間から、真っ赤な鮮血が滴り落ちていた。
 重傷だ。だが、手の施しようがないわけではない。
 彼女を貫いたのは、大口径の銃弾ではなく光線である。どちらも急所に当たれば死を免れないが、光線であれば、急所以外を被弾したときの致死率は格段に低い。破壊面積が小さいため、出血量が極めて限られるからだ。
 見たところ、マルゴの傷は急所を逸れている。だが、脇腹を貫通したのだ。当然、いくらかの臓器が損傷を受けているはずであり、医師による可及的速やかな治療が必要なのは明らかだ。

「ああ、本当だ。これは一大事」

 アーロンは、初めて少女に気が付いたように、慌てて見せた。
 慌てて、当たりを見回して、そして一息ついて、首を横に振った。

「でも……この人形はもう駄目ですね。諦めましょう」

 ケリーは、耳を疑った。この男は、何を言っているのだ。彼の足下にいるのは、命をかけて任務に忠実たらんとした少女である。それ以上に、自分の愛する人間のために死すら厭わなかった少女である。
 その少女に対して、今、この男は、何と言ったのだ?

「てめぇ……今……何て言いやがった」

 ケリーの本性を知るごく少数の人間であれば、鋭い針先を眼球に突きつけられたように感じる、言葉であった。超低温の物質を触った時に感じる、熱さと冷たさの入り交じった感触がある、言葉だ。
 例えケリーの本性を知らない人間であっても、その耳にたまらない不吉を届ける、言葉であった。
 だが、天使に狂った老人は、さも不思議そうな表情を浮かべただけであった。

「何……とは、ケリー、私は何か、それほど奇妙なことを言いましたかな?」
「この子は、てめぇを助けたんだぞ。てめぇみたいな人でなしを、父親と呼んだんだ。その子に向けて、てめぇ、今、なんて言いやがった」
「人形でしょう?それも、もう壊れてしまった人形です。だからどうかしたのですか?」

 アーロンは小首を傾げ、横たわったまま苦しげに息を吐くマルゴを指さし、

「だって、見て下さい。もう、体にこんな大きな穴が空いてしまった。これを塞ぐのは、とても大変だ。これを、メディカルタンクのある医務室まで運ばなければならない。でも、私には、これからあなた方をもてなすという大切な仕事がある。だから、そんなことにかまけている暇がないのです」

 そんなこと。
 そんなことと言ったか、貴様。
 ケリーは、己の思考が、妙に冷え冷えとしているのに気が付いた。
 
「周りに誰かいれば、それに頼もうと思ったのですが……。残念ですが、仕方ないでしょう。この人形は、後で廃棄処分にするとします」
「てめぇは、この子を、人形だというのか」
「ええ、人形ですよ。だって、私は何度だって、全く同じものを作ることが出来るのです。そして、どのような記憶を植え付けるのも自由自在だ。幾らでも替えが利く、そんな都合の良い存在を、あなたは人間と呼びますか?」

 アーロンは、したりと手を打った。

「そう言えばケリー、あなたとこの人形のオリジナルは、同じ隊で、同じ年頃なのでしたね。ならば、特別な感情を抱くこともあるでしょう。なるほど、そういうことでしたか」

 したり顔で、うんうんと頷いた。
 ケリーは、ぎしりと歯を噛んだ。

「では、あなたにプレゼントしましょう。この人形の一体を。どんな性格がよろしいですか?躾けに困るようなじゃじゃ馬?あなたに忠実な下女?それとも、私と同じように、この人形の絶対的な創造主になってみますか?それはそれで、ええ、中々楽しいものですよ。時折、纏わり付いてくる様子が頭の悪いひよこのようで、煩わしくもなりますがね」
「分かった。分かったぜ、てめぇが心底の糞野郎だってことはな。だから、いい加減、その歯糞臭い口を閉じやがれ……!」

 アーロンはにこやかに笑い、一度腰を折った。
 そして、その異能でケリーとジャスミンを宙に持ち上げ、法衣の裾を翻し、悠然とした足取りで城の中に姿を消した。
 外の世界は、次第に太陽が傾きつつある。斜陽が、温かみのある淡い光で大広間を照らしている。どこからか聞こえる小鳥のさえずりが、軽やかな調子でこだまする。
 その空間に、一人、少女だけが残された。
 大広間には、誰もいない。マルゴ一人だけだ。苦痛でのたうち回っても、悲しくて泣き叫んでも、誰も気が付いてくれない。アーロンと、ケリー達の死闘で、壁には大きな穴が空き、暮れなずむ山間の寒気が容赦なく部屋に忍び入って来る。
 マルゴは、がたがたと震えていた。彼女自身、どうして自分が震えているのか、分からなかった。
 寒さ。怪我。失血。理由は色々と見つけられる。
 そうだ。だから、震えているのだ。それとも、歓喜。自分の一番愛する人を、この命をもって助けることの出来た、喜び。
 そうだ。それ以外に、何がある。自分の体が震える理由など、何があるというのか。

 ──人形。

 違う。それは、間違いだ。幻聴だ。この心を地獄の底へと引きずり落とそうとしている悪魔が、毒の吐息とともに囁いたのだ。そんな言葉に耳を貸す必要は、どこにもない。
 あの方は、そんなことは言わない。そんな悲しいことを言うのは、あの唾棄に値する赤毛の青年だけで十分だ。
 
 ──ならば、どうしてお父様は、わたしを抱き締めてくださらないのだろう。

 知らない。あの方の深慮遠謀を、私如きが理解出来るはずもない。あの方が私を、娘を見捨てるならば、相応の理由があるのだ。あの方は、心の中で血涙を飲みながら、私を切り捨てたに違いないのだ。
 痛覚が、じわじわと体の中心に広がっていく。息がいよいよ切羽詰まり、だくだくと流れ落ちる脂汗と一緒に、生命のエネルギーが抜け落ちていくのを実感する。
 緩やかな、死だ。
 意識は消え失せる様子がない。おそらく、この緩慢な状態が何十分も続いたあげく、自分は呆気ない死を迎えるのだろう。一晩もこの場所にいれば、死臭を嗅ぎ分けた森の虫が、この身に卵を産み付けるかも知れない。私の肉を苗床にしたウジ虫が、じくじくと、腐りかけた肉をはみ続けるのか。
 死のイメージが、次々とマルゴの脳髄を冒していった。
 馬鹿な。
 何を恐れるというのか。これが、私の一番望んでいた死に様ではないか。この世で一番大切なあの方のために、この命は投げ捨てるのだ。私の死体が如き醜いものに、目を向けてくれなくていい。使い捨てられるのが本望。
 だから、これが完成だ。
 そう、マルゴは思い込もうとした。だが、体を蝕む震えは、一向に収まる様子がない。がたがたと、少女の小さな体は震えた。望まざる死に抗うように、震えた。涙を流しながら、震えていた。
 いつしか、意識が朦朧とし始めた。瞼が重い。痛覚に、二重三重の靄がかけられたような気がする。
 眠たい。そうだ、眠ってしまおう。もう二度と起きることは出来ないのだけれども、このまま起きているよりはずっといい気がする。夢の中でならば、お父様にも出会えるだろう。夢の中のお父様は、よくやったと頭を撫でて下さるだろうか。
 マルゴのふっくらとした唇が、ようやく笑みを浮かべた。彼女は、本能的に理解していたのかも知れない。もう、彼女の思い描く父親は、夢の世界の中にしか存在しないことに。
 
「やれやれ、ずいぶんと派手に暴れまわったものだな」

 夢うつつの少女は、自分のすぐ近くで、そんな声を聞いた気がした。
 人気の耐えた城内である。自分以外の人間が、こんな場所にいるとは思えなかった。だから、これは空耳なのだろうと思った。自分以外の死ならば、何度も見たことのある少女だ。死の間際の人間が、目に見えない何かを見て、耳に聞こえない何かを聞く様子など、さして珍しくないことを知っている。
 つまり、自分は死ぬということだ。もう、こんな悲しい想いを味あわなくていいということだ。それは、きっと素晴らしいことだ。
 マルゴにとって、死はそれほど厭わしいものではなくなっていた。それよりも、このまま生き続けて、息苦しい想いをするほうが遙かに……そう、しんどい気がしたのだ。

「それとも、あれだけの化け物どもが暴れ回ったのならば、これだけの被害で済んだのはむしろ僥倖といったところか」

 何を言っているのだろう。
 これで、見るのも聞くのも最後ならば、もう少し気の利いた幻影が現れればいいのに。私の頭を撫でてくれたお父様。私の成績を褒めて下さったお父様。私の料理を美味しいと言って下さったお父様。
 お父様、お父様、お父様。
 ああ、そうだ。私の中には、それしかないのだ。
 それが、全て。そんなものは、どこにも。
 違う。私は、違う。人形なんかじゃあ、ない。

「お前も、災難だったなぁ。満足な医療設備がある場所まで、かなりある。助かるかどうかは五分五分といったところだが、死んだとしても私を恨んでくれるなよ」

 頬を、乾いた掌が撫でていった。
 優しい、大きい、老人の掌だった。まるで、お父様のような。
 そして、無意識に傷口を押さえていた掌がどかされて、そこに何かを貼り付けられた。緊急救護用の止血シートだと分かった。
 つまり、この誰かさんは、奇特なことに、自分を助けようとしているのか。
 いらない。もう、こんなにも死にたいのに。

「……やめ……て……」
「驚いた。まだ、意識があるのか」
「……死なせて……お願い……だから……」
「……」
「……生きて……いたく……ないの……」

 この、弱々しい声は、誰の声か。
 この、噎び泣く声は、誰の声か。
 馬鹿なことを、我ながら考えているなと、マルゴは思った。

「……そんなに死にたいのか」

 マルゴは首を縦に振った。ぼろぼろと涙を零しながら、血と埃に汚れた顔で、頷いた。
 
「どうして、そんなに死にたいのだ」

 マルゴは首を横に振った。教えたくない。理解したくない。考えることすら、したくない。ならば、一番簡単な受け答えが、全てを拒絶することだった。
 
「そうか、分かった」

 誰かは、すっくと立ち上がった。マルゴの視界は既に満足なものではなくなっていたが、その気配だけで理解出来た。自分で死にたがっている人間を、わざわざ助ける馬鹿者もいないだろう。それが当然のことだ。
 よかった。これで、このまま死ぬことが出来る。お父様の娘のまま死ぬことが、出来る。もしもこのまま生き延びれば、自分が自分以外のものになってしまうかも知れない。マルゴには、そのことが一番恐怖だった。
 ようやく死を受け入れようとした体と心は、しかし、死神の御手以外の何かに抱きかかえられた。
 体から、冷たい石床の感触が失われた。体が、軽々しい手つきで持ち上げられた。
 マルゴは、霞む視界に、自分を見下ろす老人の顔を見た。それは、初めて彼女が見る顔では、なかった。だが、いったいどこで見たのかを思い出すには、今の彼女の思考能力はあまりに頼りないものでしかなかった。

「甘ったれたことを言うもんじゃない。お前のように、ケツの青いガキが、死にたい、死なせてくれ、生きたくないだと。そんなご大層なことは、恋人の一人でも出来てから吐くものだ。それとも、子供の一人でも産んでから吐くものだ。お前のような子供に、死ななければ取り返しの付かない何かなど、決してあるものか」

 マルゴは、アーロン以外の人間に、生まれて初めて抱きかかえられた。その感触は、思ったよりも筋肉質で、おおらかで、少しだけ懐かしい匂いがした。

「死ぬのが悪いとは言わん。命が勿体ないとも言わん。だが、一端に死にたいと言うならば、風呂に入って垢を落とし、腹一杯に旨い飯を食い、満天の星空の下に寝転がりながら同じ台詞を吐いてみるがいい。そうすれば、私も止めはしない」

 それが、意識を失う前に聞いた、最後の台詞だった。
 マルゴと、マルゴを抱きかかえた老人は、静かに大広間を後にした。そしてそこには、誰もいなくなった。



 風が吹いた。山間を吹き抜ける、気持ちの良い風だ。
 テルミンは、一房の髪の毛を握る手の力を緩めた。
 斜陽を淡くはね返す、烟った金色の髪が、一本一本、風に乗り、ふわりと飛ばされていった。その様子は、髪の毛の持ち主だった少女の魂が、風に乗って天へと送られていく様子を想起させた。
 インユェの喉が、持ち主の意思すら凌駕して、吠え声を放っていた。

「う、うわぁぁぁぁっ!」

 突きつけられた銃口も、圧倒的な戦力差も、背後に庇った少女のことすらも、その時のインユェにとっては、意識の埒外であった。
 何がしたかったわけではない。復讐?それも違うだろう。ただ、許せなかった。認めることが出来なかった。
 あの髪の毛の色を、見紛うはずがない。その持ち主は、母から受け継いだその髪を、心底誇りに思っていた。ならば、目の前のげす野郎ごときに、易々と髪を切らせるわけがない。
 では、どうしてその髪の毛が、今、あのように儚い有様で、宙を舞っているのか。
 テルミンの手から最後の一本の金糸が旅立ったとき、インユェは駆けだした。
 テルミンを殴ろうと思ったのではない。無論、逃げようとしたわけでもない。
 集めなければいけないと思った。ばらばらになってしまった髪の毛を、一箇所にまとめておかないと、もう二度とメイフゥに会えないような、そんな気がした。
 だが、少年の痩せた体は、背後に庇った少女によって抱き留められた。

「落ち着け、インユェ!」
「放せ、放してくれよウォル!姉ちゃんが、姉ちゃんがぁ!」
「狼狽するなと言っているのだ!万が一あれがメイフゥどのの髪の毛だったとして、やつらに殺されたと決まったわけでもない!」

 その言葉に、インユェの総身から、少しだけ力が抜けた。
 そして、目の前の、ブラウンの髪を綺麗に撫でつけた男は、くつりと含むように笑った。

「そう、その通り。ですが、あの少女は紛れもなく死にましたよ。ワタクシが、初めて人をこの手にかけました。ああ、これからワタクシは罪の意識に苛まれ、夜ごと彼女の夢を見るのでしょうか。何と恐ろしい!」

 大仰な調子でそう言った。顔は悲壮な表情であったが、目だけが堪えきれない愉悦に笑っていた。

「まず最初にね、あなた方の居場所を聞いたのですよ。でも、中々気持ちよく答えてくれなかったので……ええ、少しだけ、拷問をしてしまいました。手の指の関節をね、一つずつ、逆に折り曲げてあげたんですよ。自分の手が少しずつ歪なオブジェに変えられていく時の、あの少女の顔は見物でしたし、指が乾いた音を立てるその度に、可愛らしい声で鳴いてくれました。その後が、足の指。全部、丹念に、一つ一つ折り曲げてあげました。最後の方は、ほとんど声も出ない有様で、少しだけ退屈でしたが……」
 
 ぺろりと、下唇を舐めた。口が寂しくなったのだろうか、懐から煙草を取り出し、銜え、火を付けた。
 紫煙が、風に乗ってゆらゆらと散っていった。

「それでも、強情な娘でねぇ。どうしても話してくれないから、指と爪の間に、針を刺してね。それを、ライターで炙ってあげたんですよ。いやぁ、あの悲鳴はすごかったですねぇ。体も、壊れた玩具みたいに跳ね回って……」
「もういい。黙れ」

 ウォルの、感情を押し殺した短い声に、テルミンは肩を竦めた。

「残念ですねぇ。これからがいいところなのに」
「くだらぬ前口上は聞きたくない。用件だけを、手短に話すが良い」
「まぁまそう仰らずに。で、気絶したらスタンガンで叩き起こして、何度も何度も。そして、もう一度聞いたのですよ。あなた方の居場所をね。そしたら、快く答えてくれましたよ?もっと早く答えてくれれば、無駄に痛い思いをしなくて済んだのに、馬鹿な娘ですよねぇ」
「てめぇ、今なんて言いやがった!」

 インユェの小さな体が、まるで火の玉のようだった。ウォルは、その体を押さえるのに必死だった。手を放せば、縄を切られた闘犬よりも一目散に、インユェは突っ込むだろう。そして、ほとんど間違いなく、無数の銃弾の餌食にされる。
 
「何度でも言いましょう。あの娘は、心底愚かでした。身の程というものを弁えていなかった。軽薄で頭の悪そうな顔立ちでしたからねぇ。きっと、どこかで銜え込んだ男から梅毒でももらっていたのではないですか?頭を菌に冒されて、物の通りも分からなくなっていたのですよ。憐れなことです」

 溜息を吐き出し、さも残念そうに首を振った。
 インユェは、歯が折れ砕けんばかりに歯ぎしりをした。その形容しがたい音が、体を伝わってウォルの耳に届いた。
 その音が、悔しいと言っていた。全身全霊に、少年の怒りを伝えていた。

「そして、ワタクシが優しく介抱してあげようとしたら、恩知らずなことに飛びかかってきました。驚いたワタクシは、仕方なく懐から銃を抜き、彼女の左胸を撃ち抜いた次第です。死体は、残念ながら崖の下に落ちてしまいました。場所は覚えていますから、是非確かめに行って下さいな。きっと、見事に散らばった肉片の花が咲き誇っていることでしょう」
「死体が偶然崖の下に落ちたなら、どうして貴様がその髪を握っているのだ?」

 ウォルが訊くと、テルミンは、にやぁと笑った。

「ああ、これは失礼。実は、死体から遺髪を切り取った後で、ワタクシが蹴り落としたのでした。無駄に大柄な女でしたからねぇ、思い切り蹴りつけてやらないと動いてくれなくて、何度も何度も蹴りつけるはめになりましたよ。死体とはいえ、女性を蹴るのは趣味ではないのですが、仕方ありませんよねぇ」

 腕から伝わるインユェの呼吸が、おかしかった。喉の辺りが、細かく痙攣を繰り返していた。あまりの悔しさに涙を流しているのだと、ウォルは悟った。正面に回れば、さぞ凄絶な表情で目の前の男を睨み付けているのだろう。だが、その顔は自分が見ていいものではないことを、ウォルは弁えていた。

「それで、貴様は何をしに、ここまで来た。貴様があの少女を嬲った様子を、我々に伝えるために来たのか。ならば、さっさと立ち去れ。俺は、今からあの少女を助けにいかなければならない」

 慟哭する少年を押さえつけながら、ウォルは言い切った。

「助ける?失礼、あなたはワタクシの話を聞いてくれていましたか?ワタクシは、彼女の左胸を打ち抜き、その死体を崖の遙か下に蹴り落とした。それでも、あの娘が生きていると?」
「俺はまだ、死体を見ていない。それが答えだ」
「頑迷ですねぇ。これならば、やはり首を切り取って持ってくるんでした。その方が、さぞ面白いものが見られたでしょうに」

 テルミンが、さも残念そうに首を振った。

「馬鹿を言うな!てめぇは怖かっただけじゃねえか!」

 インユェが、涙混じりに叫んだ。
 テルミンが、小首を傾げ、にこやかに微笑んだまま訊いた。

「怖かった?それは、何が?」
「てめぇは怖かったんだ!姉ちゃんの首が、いつかてめぇの首筋に食らいつくのが!だから、少しでも早く目の前から消したくて、崖の下なんかに蹴り落としたんだ!切り落とすことさえ出来なかったんだ!臆病者!卑怯者!悔しかったら、死体相手でも、たった一人で姉ちゃんと戦ってみろよ!出来ねえだろうが!」

 声を詰まらせ詰まらせ、唾を飛ばしながら、大声で罵った。
 テルミンは、笑った。腹を抱え、腰を折り、堪えきれない様子で笑った。

「命を失った肉の塊が恐ろしい?いやはや、何とも前時代的で、お伽噺のようなことを言うものだ!ならば、今日から君は夜毎に祈るのでしょうねぇ!愛しい姉の魂が、夢の世界の自分に語りかけてくれることを!なんとセンチメンタルなことでしょう!信じる者は救われるというが、何とも救われない話だ!」
 
 インユェは、歯噛みした。ばりばりと、歯の擦れる音が響いた。
 
「まぁ、冗談はこの辺にしておきましょうか。ワタクシも、これで中々忙しい身の上でして。さっさと仕事を終わらせて、家に帰ってのんびりしたいのですよ」

 短くなった煙草を放り投げ、足で躙った。
 
「先ほども申し上げました通り、あなた方の敗北は決定的です。こうなった以上、見苦しい悪あがきは止めて、我々に恭順して頂きたい。精神主義の玉砕も結構ですが、先に黄泉路へと旅立った方々は、それを望んでいないと思いますよ」
「具体的に言え。貴様らは何を求めている」

 ウォルの事務的な声に、テルミンは嬉しそうに頷いた。

「我らの望みはただ一つ。フィナ嬢、あなたが大人しく我らに付き従い、明後日の満月に開催される回帰祭の生け贄として、その身を供して頂くこと。それだけですよ」

 ウォルは、口元だけを歪めて笑った。

「儀式の生け贄ごときに、ここまでご大層な真似をして追いすがるか。ずいぶんと気に入られたものだな」
「ワタクシとしてはどうでもいいのですよ、そんなことは。しかし、どうしてもあなたでなければならないと、そう言う者がおりましてね。太陽がどうとか、訳の分からないことを言っていましたが、まぁ、宗教とはその程度のものなのかも知れませんな」
「分かった。俺が、その生け贄になればいいのだな」

 ウォルは頷いた。
 インユェが、弾かれたように振り返った。涙でぐしゃぐしゃの横顔が、唖然と表情を失い、自分を羽交い締めにする少女を見ていた。

「ウォル!」
「その代わりだ。貴様らは、決してこの少年に手を出すな。その条件を破れば、俺はどのような手段をもってしても、貴様らの思い通りにはならない。例え自死を選んでもな」
「ええ、大変結構なことです。ワタクシどもとしましても、そのように小汚いガキに興味はありません。あなたが、大人しく我らの籠の中に戻って頂ければ、これ以上の殺生は望むところではありませんからな」
「何言ってるんだ、ウォル!そんなの、駄目だ!」

 インユェの、悲鳴のような叫び声が、森の中をこだました。

「姉ちゃんは、あんな奴らにやられてなんかいない!すぐに、助けに来てくれる!それに、あのでか女だって、姉ちゃんに勝った奴なんだ!そう簡単にやられるもんか!」
「ああ、俺もそう思う。メイフゥどのやジャスミンどの、それにケリーどのが、易々と敵に後れを取るとは思えん。だがな、このまま奴らの要求を拒めば、次に殺されるのは、インユェ、お前だ」
「それでもいい!」

 それも、ただ殺されるだけでは済まない。ウォルの決断を迫るに十分なほど、残酷に、そしてじわじわと殺されるのだろう。
 まるで、自分の姉のように。
 インユェは、その程度のことは十分に承知していた。もとより、宇宙を流離う一生を選んで以来、死んだものと考えていた命だ。親類縁者は、旅立ちの前より死に絶えている。それほど惜しい命ではない。
 それより何より、この少女が死ぬのだけは許せなかった。この少女が死ぬのならば、それは自分が死んだ後でなければならないと思った。
 だから、肺の空気を一度に吐き出すようにして、精一杯に咆えた。

「俺が死んでもいい!でも、お前は死んじゃ駄目だ!俺が少しでも時間を稼ぐよ!だから、お前だけは、逃げてくれよ!」
 
 ウォルは、無情な様子で、首を横に振った。静かに閉じられた瞳が、絶対の拒絶を伝えていた。
 インユェは、初めて絶望して、その少女の顔を見ていた。

「我が儘を言わないでくれ。お前に死なれたら、俺は、メイフゥどのに何と言い訳をすればいいのだ。あの御仁は、お前の幸せだけを考えていたというのに」
「嫌だ!俺、我が儘でいい!だから、ウォルに死んで欲しくない!」
「インユェ!」

 ウォルが、初めてインユェを怒鳴りつけた。奴隷と呼んでも、妾にしてやると言っても、挙げ句の果てに手を上げたときも、一度だって怒らなかった少女が、初めて怒鳴ったのだ。
 インユェは唖然とした。その瞬間に、彼の体は拘束を解かれ、くるりと少女に相対させられていた。
 ウォルは、怒って、インユェを睨み付けていた。だが、その怒りが、憎しみ故のものでないことを、まだ少年期のインユェも、理解していた。
 インユェが、母親に叱られた幼児のように、言葉を飲んだ。
 そして、次の言葉を用意しないまま、口を開こうとした、その時。
 インユェの視界いっぱいに、少女の顔が映り込んだ。視界いっぱいに映り込んだ少女が、微笑んで、目を閉じた。
 あでやかな黒髪が、少年の頬をくすぐる。鼻腔を、今まで嗅いだことのない、美しい香りが満たした。
 唇に、何か、柔らかいものが触れる。柔らかくて、砂糖菓子よりも甘い感触。
 それは、夢の中で触れた少女の唇と、同じ甘さだった。
 少年は、呼吸を忘れていた。瞬きを忘れていた。自分が生きていることさえ忘れていた。
 その数秒は、少年にとって、永遠と同じ意味だった。
 少女の、寂しげに微笑んだ顔が、少しずつ離れていく。少年は、唇に感じる暖かさが、いったい何なのか、必死に考えていた。

「餞別だ。こんなものくらいでしか、俺はお前に報いることはできない。許して欲しい」
「ウォル……」
「すまんな、インユェ。恨むなら、恨んでくれて構わん。お前ならば、俺よりもずっと素晴らしい女性に巡り会えるだろう。そうしたら、俺のことはすっぱり忘れてくれ」
「ウォル……!」
「それと、もしもしばらくこの星に残るならば、そして機会があったならば、おそらく血眼になっているだろう俺の婚約者に伝えてくれ。碧色の瞳をした、黄金色の狼だ。お前ならば、一目で分かるだろう。彼に、将来を誓い合っておいて無責任極まりないことだが、約束は反故にさせてもらう、と。すまない、と。そう、伝えて欲しい」
「ウォル!」
「お前には残酷な伝言だと承知しているが、頼めるのはお前だけなのだ。だから、頼む。本当に申し訳ない」
「駄目だ!行っちゃ、駄目だ!」

 インユェは、大きく両腕を広げた。とおせんぼのポーズだった。

「もう、俺にはお前しかいないんだよ!なのに、お前まで俺を見捨てるのかよ!俺が、絶対にお前を守るからよ!だから、お願いだから、俺を一人ぼっちにしないでくれよ!」

 インユェが必死に叫んだ。涙に声を詰まらせながら、叫んだ。
 ウォルは、やはり寂しげに微笑んだまま、あっさりとインユェの脇を通り過ぎ、前へと歩いた。
 インユェが振り返る。彼が見たのは、か細く、どこまでも弱々しい、少女の背中だった。その少女が、自分を守るために、敵へとその身を差し出す、光景だった。
 少年は、無意識に手を伸ばした。それは、少女を助けようとするものではなく、少女に縋り付こうとする掌だった。

「約束だ。この少年には、手を出すな」
「はいはい。その代わり、約束ですよ。あなたは大人しく、儀式の生け贄になってくださいね」
「ああ、分かっている。今更、見苦しく暴れたりはせん。縄や錠など不要だ」
「ええ、ワタクシも、この期に及んであなたが無様に足掻くとは思っていませんが……まぁ、一応の保険ということで」

 テルミンは、背後に控えた少年たちに、合図を送った。
 少年の一人が、ウォルの背後に回り、後ろ手に手錠を嵌めた。そして首に縄を巻き付け、その端をテルミンへと渡した。
 インユェは、言葉もなく、為す術もなく、その光景を眺めていた。

「ごめんね……」

 悲しげな声で謝る少年兵。ウォルは、ほんの少しだけの苦笑いで、名も知らぬ少年の謝罪に応えてやった。

「さぁ、行きましょうか」

 テルミンが、手に握った縄をぐいと引いた。
 ウォルが飼い犬のように首を強く絞められながら、最後に一度、インユェを見た。
 インユェは、振り返った少女の顔を見た。果たして彼女が自分に何を伝えようとしているのか、彼には最後まで分からなかった。
 そして、何かを言おうとして、言えなかった。最後に口にするべき言葉を探したまま、少女の後ろ姿を見続けた。少女の姿が、森の奥に消えてしまうまで、ずっと、見続けた。
 最後まで何も言えなかった少年は、ずっと、ずっと、立ち尽くしていた。



 そして、一週間が経過した。
 少女を生け贄に捧げる儀式は、滞りなく終了した。少女の肉は野獣の贄となり、その魂は自然の循環に還された。



[6349] 第六十五話:とある酒場にて
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/06/05 17:14
 喧噪の上に喧噪が塗りたくられているような空間だった。
 薄暗い灯りが、誘蛾灯と同じ役割を演じている。集められるのは、日頃の鬱憤晴らしの場と、少しばかり心の箍を緩めてくれるアルコールを求めた、人間達だ。彼らを客として狙う、女郎蜘蛛の類も吸い寄せられる。
 そこは酒場だった。繁華街にある、小洒落たバーなどではない。もっと泥臭くて、人の体臭のする、酒場だ。商売女がたむろし、女に飢えた客がその一人を見繕い、二人で二階へと消えていく、そういう酒場だった。
 怒鳴り声と笑い声が、等分にひしめき合っている。ざわざわとしたその声が、幾重にも重なり、最後に意味合いを失う。意味を失った人の声が、嵐に逆巻く海のようで、煩いことこの上ないのに耳には何故か心地良い。それは、そのざわめきが、思い出したくない過去からの言葉を、見事に掻き消してくれるからに違いなかった。
 普段は閑古鳥の鳴いているその酒場は、正しく満員であった。どのテーブルに並んでいる酒も料理も、その酒場で用意出来る最高級のものだ。
 いったいどこのお大尽がお忍びで遊びに来たのかと客層を覗いてみれば、お世辞にもいい身なりの人間ではない。炭鉱で働く労働者や、家を持たない浮浪者ばかりである。
 そんな人間が、高級な酒を水のように鯨飲し、料理を片っ端から貪っている。財布の心配は、最初からしていない。何故なら、飲み代は見知らぬ少年が全て持ってくれるのだ。この店に入ることさえできれば、後は思うさまに只酒にありつける。そういう噂が町中に流れていて、どうやらそれは本当らしかった。
 ただで呑める酒ほどに旨いものはない。そして、酒が旨ければ口を縛る紐だって緩くなる。普段の鬱憤をぶちまけて、陽気な声は絶えることがなかった。

「飲め飲め、全部俺の奢りだ!この店の酒瓶を、全部空にしちまえ!」

 その声に、大きな歓声が重なった。

「さっすが、気前がいいねぇ旦那!」
「今日もあんたのおかげで旨い酒が飲めるよ!あんたは、俺たちの神様だぜ!」
「違ぇねえ!神様聖女様、旦那様だ!」

 笑い声が巻き起こる。
 その中心にいるのは、不敵な笑みを浮かべる少年だった。
 誰も、その少年の名前を知らない。生まれも育ちも、年齢も知らない。ただ、本当はこんな場所に立ち入られる年齢ではないことは、誰しもが知っていた。
 その少年が、店の一番奥に設えられた特大のソファのど真ん中にどかりと座っていた。
 両脇に、白粉の匂いのする女を侍らせている。どちらも、黒い髪に黒い瞳の、女だった。
 女が、まんざら商売向きでもないしなを作り、少年にもたれかかっている。彼女達は金を積まれればどんな男にでも股を開く商売をしていたが、だからといって男に好みがないわけではない。そして、彼女達の持つ美醜の基準からいえば、その少年の整った容姿は最上級のサービスに値した。商売を抜きにしても、ベッドを共にしたいと思うほどに。
 少年が、女の片方の胸に手を滑り込ませ、もぞもぞと動かした。女の、薄く扇情的な服に隠された柔らかな胸部が、少年の小さな手に揉みしだかれて、卑猥に形を変えた。女はびくりと体を震わし、少年を熱っぽい視線で見上げた。
 少年はそんな女を見下ろし、唇を奪った。舌と舌、鼻息と鼻息が交わるような、濃厚なキスだ。唾液が二人の口の中で掻き回され、淫靡な水音を立てた。少年は思うさまに女の口中を味わい尽くし、征服し尽くした。少年の口技に翻弄された商売女は、表情を弛緩させて、口の端から唾液を垂れ流していた。

「どうだよ、俺のキスは?気持ちよかったか?」

 少年が、呆けた女の耳に顔を寄せて囁いた。女が、呆けた顔のままに頷いた。少年は満足げに頷き、女の耳の穴に舌を差し込み、思う存分に嬲ってから、優しく囁いた。

「あとでもっと凄いことをしてやる。だから、大人しく二階で待ってな」

 少年は、女の胸の谷間に札束をねじ込んだ。胸ポケットに入れておけば銃弾を防いでくれるくらいに、分厚い札束だ。
 女は夢見心地で少年に抱きつき、頬にキスをした。何度もした。その度に少年の真っ白い肌に、鮮やかな紅の華が咲いた。
 少年がしっしと手を振ると、女は立ち上がり、乱れた格好を整えてから店の階段を昇った。途中、何度も熱っぽい視線を少年へと送り、少年は野性的な笑みでそれに応えた。

「さぁ、俺に抱かれたい女は他にいねぇのか!?ただし、黒髪で黒い瞳の女限定だ!もしもそれ以外の女がいたら、生まれの悪さを恨みな!いいか、黒髪で黒い瞳の女だけが、俺と一緒のベッドに入れるんだ!」

 少年が高らかに言った。店を、拍手と喝采が埋め尽くした。
 何人もの女が立ち上がった。我先に立ち上がった。その女達の全てが、黒髪で黒い瞳だ。だが、その半数以上が、髪を染めていた。カラーコンタクトを入れていた。少年が、そういう女にしか興味を示さないことを、噂に聞いていたからだ。
 無論、その程度のことは少年には分かっていた。
 少年は、偽物の女は歯牙にもかけなかった。ただ、本当に黒い髪で、黒い瞳の女だけを見繕って、己の脇に侍らせた。隣に座らせるのは、出来るだけ髪の長い女だった。
 新たに少年の隣を勝ち得た女が、少年のグラスに酒を注いだ。十分に値の張る、年代物の酒だ。少年はそのグラスを引ったくるように掴み、一息で空にした。また、周囲から歓声が起きた。気の良くなった少年は、それに応えてグラスを高く掲げた。

「羽振りのいいことだなぁ、あんちゃん。あやかりたいもんだ」

 粘っこい声が、少年の前から吐き出された。
 億劫な様子で、少年は顔を上げた。そこには、見るからに堅気とは思えない風体の男が、三人ほど立っていた。顔にはいくつもの傷が刻まれ、奇妙に表情が引き攣っていた。懐のあたりが少しだけ盛り上がっているのは、そこに物騒な品物を隠し持っているからだろう。
 周囲が、水をかけたように静まる。少年の周囲に侍った女達も、緊張に体を強張らせていた。
 男達は、そんな空気を愉しむように、にたにたと笑っていた。

「おめえみたいな小便臭いがきが、店を貸し切ってどんちゃん騒ぎ。そんで金をばらまいて裸の王様気分かい。ずいぶんと景気のいいことだな、おい」
「ああ、そうだよ。景気がいいんだ。だから、こうやって金をばらまいて、気分良く使ってやってるのさ。あんたらも飲むかい?いいぜ、ゆっくりしていけよ。俺の奢りだ、俺に感謝しながら一杯やっていくがいいさ」

 少年が、不気味に笑いながら言った。
 男の一人が、少年の前に置かれたテーブルを思い切り蹴りつけた。テーブルに置かれたグラスやらアイスペールやらが盛大なダンスを踊り、いくつかが倒れて、濃密な酒の香りを放った。
 店は一瞬息を飲む気配に包まれ、それからしんと静まりかえった。BGMのジャズだけが、間の抜けた調子で鳴り響いていた。

「いいか、洟垂れ小僧。金だけで人が思い通りになると勘違いしてるんだったら、それは間違いだぜ。そんな簡単なことを、今まで誰にも教えてもらわなかったのかよ。だとしたら、憐れなことだな」

 三人の真ん中に立った男が、体を屈め、息が直接かかるほど少年に顔を近づけて、言った。喉を絞り、地の底から響くような、どすの利かせた声で言った。
 サングラスの奥から覗く視線が、尋常ではないほどに鋭かった。人の視線に物理的な圧力があるなら、間違いなく皮膚を食い破るような視線だった。
 もしかしたら、人の一人や二人は殺していてもおかしくはない、そういう視線だった。
 そういう視線を向けられて、少年は笑った。不敵に笑ったのではない。可笑しくて笑ったのだ。

「……どしたい、あんちゃん。俺の言ってることが、そんなに可笑しいか」

 感情を感じさせない声が、怒り狂った声よりも恐ろしい。少年の周囲に侍った女達は、妙なとばっちりが自分達に及ばないことを、神に祈った。
 
「ああ、可笑しいね。あんたみたいなやくざものが、俺みたいながきに、そんな正論で怒鳴りつけるなんて、考えもしなかった」
「ほう、俺の言ってることが正論だと理解出来る程度の脳みそは持ち合わせているわけか。なら、さっさとこのどんちゃん騒ぎを収めて、この店から出て行きな。もちろん、こんな面倒事を起こした迷惑料を、たんまりと払ってな」

 少年は、鼻で笑った。尊大な様子で足を組み直し、リラックスした様子でソファに両腕をもたれさせた。

「妙な話だぜ。俺がこうやって馬鹿騒ぎしてりゃ、その儲けのいくらかは、あんたらみたいな人間の懐に滑り込むんだろう?なら、調子づかせてその気にさせて、気前よく財布を空っぽにしてもらおうとするのが筋なんじゃないのか?」

 男は、片頬をだけを引き攣らせるように、笑った。だが、目は少しも笑っていない。その表情のままテーブルの酒瓶を手に取り、少年の頭の上で天地をひっくり返した。
 どぼどぼと音を立て、酒が少年の頭を濡らした。少年の銀髪が、琥珀に色づいて照明を照らし返していた。

「俺たちにも、最低限の仁義ってやつがあるのさ。いいか、お前みたいなガキがばらまく金で、俺たちの懐が潤ってみろ。俺たちが、他のシマの人間から何て指を差されるか、分かるか?この世界は舐められたら終わりなんだよ。てめえみてえな、母親のおっぱいが恋しいガキが、酒の味を覚えるために酒場に出入りするのは構わねえさ。童貞を捨てるために、店の女に手取り足取りしてもらうのもいいだろう。だが、ここまで派手に遊ばれちまったら、俺たちとしても捨て置けねえのよ。どうだ、ここまで俺が丁寧に説明してやるなんて、宝くじに大当たりしたよりもラッキーなことなんだぜ?分かるだろう?」

 男はスーツの内ポケットに手を差し込み、黒光りのする金属をちらりと見せた。女が、ひっと息を飲んだ。拳銃だった。
 それでも、少年は笑っていた。笑って、懐に手を差し込んだ。
 男達に、ざわめくような緊張が走った。その様子がおかしくて、少年は声を出して笑った。

「おいおい、俺みたいなガキに、びびってんじゃねえよ。別に、おっさん達みたいに、おっかない代物は持ち合わせちゃいないさ」

 少年が、酒で水浸しになったテーブルを腕で拭い、その上に紙の束を置いた。
 札束ではない。この宇宙で最も信頼の置ける銀行──クーアカンパニー・バンクの、小切手帳だった。

「いくらだ?」

 少年は、片頬を歪めながら笑った。片手にはペンが握られており、小切手の左端の方に、数字の一を書き込んだ。

「……おい、そろそろ冗談じゃ済まなくなってきたぞ。それくらいのことが、その腐った脳みそにだって分からないのか?」
「ご託はいいんだよ。お前らの、裏の渡世で培ってきた誇りやら覚悟やらが、いくらで買えるのか、俺は知りたいんだよ」

 数字のゼロを、次々と書き込んでいく。
 数字は、あっという間に平均的な労働者の一生涯分の賃金を超えていた。

「あといくつゼロが欲しい?言えよ。いくらだって支払ってやる。何せこの小切手は、あのクーア財閥の二代目、ジャスミン・クーアの支払い口座なんだ。てめえらみたいな三下の想像が及ばない、凄まじい金が入ってるんだぜ」

 少年は、陽気な調子で言った。
 その言葉は、ちっとも嘘ではなかった。彼がその手に握っているのは、この宇宙で最も多額の預金が預け入れられた個人口座の、キャッシュカードだったのだ。



 全てが終わり、彼の手から大切なものの全てがこぼれ落ちた後で、少年は隠れ家へと舞い戻った。それは全く、敗残兵の有様だった。顔にも足にも心にも、覇気の一切が無かった。生ける屍と同義だった。
 家には、誰もいなかった。当たり前だ。それでも、誰かがいないかと期待した少年を、何人も責めることは出来ないだろう。
 少年は、家捜しをした。当面の生活資金が必要だったからだ。もうこの家に誰も帰ってこないと理解している分、タンスの引き出しを開ける様子に遠慮は無かったが、その点を除けばけちな空き巣とやっていることは変わらなかった。
 目当てのものはすぐに見つかった。別に、隠されているものではなかったからだ。何度も自分を叩きのめした、赤毛に青灰色──本当に怒ると金色に変わる──の瞳をした巨体の女、その荷物の中に、分厚い財布が入っていた。
 指を唾で湿らせて、その数を勘定した。当面の生活に困ることはないだけの資金が、そこにはあった。

『どうするの、これから』

 テレビの画面に、美しい女性が映し出された。その女性は、沈鬱な表情で、札束をポケットに突っ込む少年を見ていた。

『わたしたちは、確かに負けたわ。でも、最後の瞬間に勝っていればいいの。だから、勝負はまだ終わっていない。わたしたちが諦めない限りは』
「へぇえ、感応頭脳のあんたでも、そんな熱いことを言うんだな。でも、俺はもう御免だぜ」

 少年は、財布の中を探った。
 そこから、キャッシュカードを抜き取った。暗証番号は、適当な連中に金を掴ませれば、すぐに解読してくれるはずだ。
 財布の脇に、まだまだ分厚い小切手帳があった。それも、ポケットにねじ込んだ。
 他にも金目のものがないか、色々と探したが、収穫はこれくらいのものだった。あとは、女が持つには大きすぎる拳銃が数丁。それを、大ぶりのバックパックに突っ込んだ。

『わたしは、絶対にケリーを助ける。ジャスミンを助ける。最後まで諦めないわ。だから、あなたも協力して頂戴。彼らを助けるには、肉の体を備えた誰かの助けが必要なの!』
「なら、俺以外の誰かに頼みなよ。あんたが、少しばかり胸のあたりをはだけさせてやれば、鼻の下を伸ばして協力する野郎なんて、星の数ほどもいるさ」

 少年は、素っ気なく言った。
 バックパックを担ぐと、がちゃりと重々しい音が鳴った。

『メイフゥちゃんは……残念だったけど……でも、ウォルはまだ間に合うわ。ケリーとジャスミンも、まだ助けることが出来る。それは、あなたにしか出来ないことなの。だからお願い、わたしと一緒に戦って!』
「やなこった。折角助かった命だ。俺は俺の好きにさせてもらうぜ」

 少年は、平然とテレビ画面に背を向けて、歩き始めた。
 軽やかな鼻歌が、室内に響いた。それは、意気揚々たる有様であるはずだった。
 なのに、通信カメラ越しに見えたその背中が、感応頭脳である彼女にとっても、どれほど頼りなく、寂しげに見えたことだろう。

『……回帰祭、ウォルが生け贄に捧げられる祭りは、満月の夜に行われるわ。そして、その満月の夜は明日。もしもあなたが彼女を助けるつもりなら、チャンスは今しかない。そうしないと、あの子が、くだらない儀式のために、野獣の餌にされてしまう。それでもいいの?』

 感応頭脳の作り出した合成音声が、痛々しいほど豊かな感情を伴って、少年の耳に届いた。
 その声は、初めて少年の背中を引き留めた。少年の足が、ぴたりと、縫い付けられたように止まった。

『ねぇ、インユェくん。あなたはまだ諦められないんでしょう?本当は、ウォルのことを助けに行きたいんでしょう?だったら──』
「やかましい!人間未満の感応頭脳ごときが、さかしげに囀んな!」

 振り返った少年の顔は、凄絶なまでに歪んでいた。柳眉が逆立ち、鬼のような形相で画面越しの女を睨み付けている。
 いったいどんな感情が、端正なその顔を、そこまで歪ませているのか、感応頭脳である彼女には分からなかった。怒り、哀しみ、やるせなさ。その感情も、果たして誰に向けられたものか。自分、今は亡き姉、愛しき人──。
 おそらく、少年自身、理解出来ないのだろう。それが辛くて辛くて堪らないのだろう。
 彼女に計算できたのは、そこまでだ。それ以上のことは、電子の海で生きる彼女にとって、理解の及ばない領域であった。

「あいつは、俺だけでも生きろと言ったんだよ!死ぬなって言ったんだよ!それが、あいつの最後の言葉だったんだ!なら、どうして俺が、死ぬってわかりきってる相手に特攻出来るかよ!俺に、あいつを裏切れって言うのか!」

 岩でさえ溶かせそうな、灼熱の言葉であった。古代の竜が吐き出す火炎よりも、なお煮えたぎるような言葉であった。

「それとも、お偉い感応頭脳のあんたには、あいつを助け出せる明確な手段があるのかよ!?百パーセントあいつを助けられるのかよ!?だったら、俺だって乗ってやるさ!さぁ、言ってみろよ!」

 画面の女性は、答えなかった。
 彼女には、今三人がどこに監禁されているのかも分からないのだ。敵は彼女の存在を警戒してか、コンピュータ上から三人の痕跡を完全に消し去っている。こうなると、情報戦上の彼女のアドバンテージは全くといっていいほどに失われる。そうなると、肉の体を持たない分、彼女は無力な存在となってしまう。
 三人が確実に姿を現すとすれば、それは生け贄の儀式が行われるとき。回帰祭の祭壇となった、ヴェロニカシティスタジアムにおいてしかない。だが、そこは当然の如く、厳重な警備が敷かれているだろう。彼女のハッキングも、前回ほどの効果を持つとは考えにくい。
 協力者が必要だった。どうしても、肉の体を持つ協力者が。

『……正直に言うわね。今のわたしに、彼らを絶対に助ける手段がある、なんて言えないわ。でも、あなたの協力が無ければ、絶対に助けることが出来ない。だから、わたしはあなたにお願いするしかできないの』

 画面の向こうの女性が、深々と頭を下げた。

『お願い、インユェくん。わたしの相棒を、その奥さんを、そしてきみの愛するあの子を、助けて。わたしに、助けさせて。お願いします』

 少年は、応えなかった。一度も振り返らず、その家を飛び出し、二度と戻ることはなかった。



 少年の言葉に嘘は無かった。だから、悪いのは少年ではない。ただ、事実があまりに突拍子も無かっただけのこと。
 少年自身も、最初は嘘だと思った。この世に、これほどの桁数を誇る預金残高があるなど、考えてもみなかった。それも、これは個人名義の口座だ。こんなこと、常識で考えればあり得べき話ではない。
 あり得べき話ではないが、たった一つだけ、可能性がある。あの、女のくせに腕っ節が強くて、彼の姉以上に女には見えないあの女が、本物のクーア財閥二代目の、ジャスミン・クーアであるという信じがたい可能性だ。
 かのジャスミン・クーアは、既に故人である。もう半世紀も前に盛大な葬儀が執り行われ、その様子は全宇宙に中継された。伝わる情報では、体の弱い、儚い容姿の佳人だったらしい。その情報は、ちっともあの女とは一致しなかった。
 だが、図書館で引っ張り出した記録映像は、記憶にある女と記録にある女が同一人物であることを声高に叫んでいた。
 つまり、この残高記録に刻まれた数字の羅列は、本物だということだ。少年の、大金持ちになりたいという願いは、叶ったということだ。
 少年は、腹を抱えて笑った。面白くて可笑しくて、あまりに滑稽だった。
 食うや食わずやの放浪生活。のたれ死にが当然の宇宙生活者。その果てに求めたのは、王侯貴族のような生活を約束してくれる、巨万の富である。
 そしてそれが、今、少年の手の中にある。
 決して安楽な生活をしてきたわけではない。何度も死線をくぐり抜け、ようやく掴んだ大金だ。それが、コソ泥よりも汚い真似で手に入れたとして、金は金である。金に綺麗も汚いもない。少年の姉が、繰り返し口にした言葉である。
 そうだ。これで、少年の本懐は達せられたのだ。そもそも、あの少女は売り払うつもりだったのだ。姉も、一緒に売り払おうと言った。ならば、その結果通りになって、手元に大金が残っただけのこと。何から何まで、少年の思うさまではないか。
 手元に、何の暖かみもない、数字が残っただけのこと。ただの、使いようのない価値観の塊だけが残された、それだけのこと。
 ああ、そうだ。
 それなのに、それだから──。

「ふざけんじゃねぇ、糞餓鬼が!」

 少年の前髪が思い切り掴まれ、そのままテーブルへと叩き付けられた。少年の顔は盛大に大理石のテーブルへと口づける羽目になり、骨の削れる鈍い音をたてた。
 少年の言葉を、自分達への侮辱と受け取った男が、その怒りを爆発させた結果だった。

「人が大人しくしてりゃあどこまでもつけ上がりやがって!ええ、おい!その様で、さっきと同じ台詞を吐いてみやがれ!出来るもんならな!」

 少年の顔は、何度も何度もテーブルへと叩き付けられた。最初の一回で少年の顔は鼻血塗れになり、叩き付けられる毎に、にちゃにちゃという音が大きくなっていった。
 少年の隣に座っていた女達は、ソファの端の方で、身を寄せ合わせて震えていた。この嵐が、自分達に牙を向けることなく過ぎ去ってくれることを、心から願っていた。誰一人、少年を庇おうとはしなかった。
 そんなこと、分かっていたことだ。少年は、痛みと衝撃にされされながら、皮肉げに頬を歪ませた。
 男は、最後に満身の力を込めて、思い切り少年の顔をテーブルへと叩き付けた。それは、少年の頭蓋骨か、それとも大理石のテーブルが砕けるのではないかというほど、大きく鈍い音を立てた。

「いいか、糞ガキ。俺は気が短いんだ。一度しか言わねえから、その腐った脳みそにしっかり刻み込んどけ。もしもこれから、この界隈で、一度だって俺たちと顔を合わせたら、こんなもんじゃねえ、死にたくなるくらいの目に遭うと思え。それが嫌なら、今晩中に荷物をまとめてこの町から出て行くんだな」

 立ち上がった男は、未だテーブルから起き上がらない少年の頭部を踏みにじった。やや息を上がらせたその男の後ろで、二人の男がにやにやと笑っていた。
 
「相変わらず手加減がねぇなぁ、兄貴はよう」
「何言ってんだ。こんなの、兄貴にしたら優しい方さ。俺は見たことがあるぜ、本気で切れた兄貴はこんなもんじゃねぇよ。相手の息の根を止めるまで、絶対に止めようとしないからな。あの時だって、親分が必死になって止めて、それでも兄貴は最後まで殴ろうとしてたんだ。両手両足を押さえられて、最後は目で殴ってたぜ。そしたら、相手さんは小便を漏らしちまってよ。気の毒なことだったなぁ」

 そんなことを、笑いながら言った。
 
「余計なことを言ってんじゃねえ。ほれ、行くぞ」

 男は、部下らしき二人の男を従えて、踵を返した。どっと人混みが割れる。一言の脅し文句も、一睨みの視線もなく、誰しもが男達から逃げようとしていた。
 だが。

「けひ。けひひ」

 テーブルと一体化してしまったような少年の、細い背中が、揺れていた。
 男達が、静かに振り返った。その顔には、見事なほどに感情が抜け落ちていた。
 空白の視線で、先ほど自分達の痛めつけた少年を見下ろす。その、三対の視線の先で、細い背中が、痙攣するように笑っていた。

「……なにが、おかしいんだ、おい、こら」
「駄目だなぁ、あんたたちは」
「なんだと?」
「気づいてるかい?そんなだから、どこまで行っても駄目なんだよ。落ちるところまで落ちてさ、こんな片田舎のごろつきに収まっていい気になってりゃ、どうしたってこんなに駄目になるよなあぁ」

 少年が、ゆっくりと顔を上げた。
 端正な顔は、台無しであった。鼻を中心にどろりと血塗れになり、形の良い鼻も折れ曲がっていた。鼻の骨が折れているのだ。すぐにでも病院へと駆け込まなければならない、重傷であった。
 なのに、その顔は、笑っていた。血の絡みついた白い歯を、にぃと剥き、薄い紫色の瞳をかっと開いて、笑っていた。
 
「姉ちゃんは、もっと凄かったぜ。一発殴られれば、気持ちよくて天国に行っちまうんだ。それに、あのでか女も凄かった。ロッドを何発も叩き込まれてよ、血反吐を吐いてるのにちっとも手加減してくれねえでやんの。ウォルも、こういうことには容赦がなかった。こっちがどうしても殴って欲しい時に、どうしたって殴ってくれないんだ。あれが一番、堪えたなぁ」

 ふらりと立ち上がった。
 背の低い、少年である。男達にすれば、息子と同年代程度の少年である。どうしたって、恐れようのない少年である。
 しかし、その不気味な立ち姿が、どこか恐ろしかった。身長や体重、年齢などの些末事とは遠いところで、何故かその少年が、人以外の存在に見えた。背後に、妖気が漂っているような気すらした。
 男達が僅かに気圧されながら睨み付ける視線の先で、少年は、折れた鼻に手をやり、力任せに元の形に直した。思い切り鼻から息を吐き出し、ヨーグルトみたいに粘ついた鼻血をテーブルにぶちまけた。

「こんなので満足なのかよ、おっさんども。俺は、ほら、まだまだぴんぴんしてるんだ。それに、時間だって宵の口だ。宴は、これからが酣なんだぜ。それに、今度はこっちの番だろう?殴るって事は、殴られるって事だ。なのに帰るなんて、そんなつれないことを言うもんじゃねえよ」

 少年は、笑いながら、言った。
 そして、言うが早いか、テーブルを一息で乗り越えて、男達に飛びかかった。血塗れの顔に似合わない、驚くほどの瞬発力だった。
 だが、男達も、その道で禄を食んだ人間である。十分に場慣れはしている。少年の刃向かいに、驚きこそすれ狼狽はしなかった。それなりに格闘技の素養のある構えで、少年を迎え撃とうとした。
 流石に武器を手に取ることはなかった。こんな少年にナイフや銃を使ったのでは、それこそ名折れである。素手であしらい、それからきついお灸を据えてやればいい。三人が三人とも、そう思った。
 そして、それが致命的な誤りであった。
 少年は自分を捕まえようとする二本の手をかいくぐり、テーブルの上に転がっていた空の酒瓶を拾い、一番前に立っていた兄貴格の男の向こう臑を、思い切り殴りつけた。骨が砕ける鈍い音がして、男は情けない声を上げながら蹲った。後は簡単だ。手頃な場所にある顔をしっかりと掴み、思い切り膝を叩き込む。
 鼻の骨が砕ける、良い感触が少年に伝わった。
 少年が手を放すと、男は呆気なく倒れた。白目を剥いて悶絶していた。

「けっ、殴るのは得意でも殴られるのは慣れてねぇってか。お話にならねぇな、こりゃ」
「てめぇ、よくも兄貴を!」

 今は物言わぬ男、その後ろに控えていた二人の子分が、素っ頓狂な叫びを上げて飛びかかってきた。
 しかし、時すでに遅しであった。少年は、意識を失った男の懐の中から、先ほど自慢げに見せびらかしてくれた凶器を奪い取っていたのだ。
 そして、何の感慨もなく、その引き金を絞った。
 店内に、銃声と、硝煙の臭いが充満した。そして、息を飲むような、短い悲鳴。

「ぎゃぁっ!」
「がぁぁっ!」

 二人は同時に崩れ落ちた。一人は肩を押さえ、もう一人は太股を押さえていた。急所は外れている。否、外したのだ。見ようによっては、虫を殺したこともないように幼い表情の少年が、あまりに平然とした様子で、本物の拳銃を構えていた。
 
「おいおい、あんたら任侠だろうが。体にちっこい穴がいっこ空いた位で、そんなに情けない声で泣き喚くなよ。がっかりするじゃねえかよ」

 少年は銃を投げ捨て、ごろごろと転げ回る二人を蹴りつけ、顔に唾を吐きかけた。それでも、二人の男はひぃひぃと悲鳴を漏らすだけで、もはや少年に刃向かおうという気力は残っていないらしかった。
 少年は、つまらなそうに鼻息を一つ吐き出した。そして、呆気にとられた様子で自分を眺める酔客達に向けて、肩を一つ竦めて見せたのだ。

「すまねえな、みんな。白けさせちまった。今からこいつらを外に放り出してくるからさ、また飲み直しといこうや」

 陽気に言った。どうせ自分の金ではないのである。それに、こんな酒場の酒蔵を何度空にしたところで、底をつくほどに可愛げのある金額でもない。金は使われるのが使命ならば、精々使い尽くしてやるだけのことだ。少年は、そう思っていた。
 だが、その場にいた誰しもが、少年と目を合わせようとしなかった。気まずそうに視線を反らし、一人また一人と、店の出口を目指して歩いて行った。

「ま、不味いよ旦那。いくらあんたでも、これは不味いって」

 店のマスターが、おっかなびっくりといった様子で、少年に近寄った。

「あんたは上客だからさ、俺も出来るだけあんたを庇ってやりたいけど、これは駄目だよ。こいつらは、この辺りの顔だよ。後ろには、ここらで一番大きな、コンラート一家が控えてる。あんたは、その組の看板に泥を塗ったんだ。もう、ここらで出歩くことは出来ないよ。それに、誰もあんたの相手をしない。とばっちりが怖いからね」
「ふぅん、こいつらが、そんなにねぇ」

 少年は納得いかないふうに、鼻を綺麗に折り曲げて気絶した男の頭を踏みつけた。
 マスターが、短く悲鳴を上げた。

「もう駄目だよ。俺はきちんと忠告したからね。もしもあんたがこいつらに捕まってどんな目に遭わされても、それはあんたの責任だ。ただ、これは俺の独り言だがね、命が惜しけりゃさっさとこの町を出た方がいい。いや、この国を出て行ったほうがいいだろう。そうすれば、いくらこいつらでも追いかけようがないはずだ。それでも、あんたの死亡記事が新聞に載ったら、俺は、ああやっぱりかと納得しちまうだろうけど」
「なるほど、そんなもんかね」
「とりあえず、この店からは出て行ってくれよ。これ以上あんたに居着かれたら、この店もどんな目に遭わされるか分かったもんじゃないんだ。今まで散々稼がせてもらったから、今日の会計はまけとくよ。だから、さっさと出て行ってくれ。頼むから」

 マスターは必死に言った。半世紀ほども年の離れた少年に、頭を下げさえした。
 少年は、テーブルの端に置かれたおしぼりで血塗れの顔を拭い、栓の開けられたウイスキーのボトルに直接口をつけ、大きく煽った。
 少年の吐き出した吐息は、濃密なアルコールで濡れていた。

「おい、お前らの中に、これから俺についてくる女はいるか?」

 隅っこの方で小さくなった女達に向けて、少年は言った。
 女達は、小さく震えていた。そして誰一人、少年と目を合わそうとはしなかった。つまりそれだけ、この男達が属している組織を恐れているということだろう。
 少年は自虐的に顔を歪めた。
 これで、また一人だ。
 薄情なことではない。金で拵えた縁など、所詮はその程度のもの。最初から分かっていたので、少年は気落ちしたりはしていなかった。
 姉は死に、後見人の行方は知れず、あの少女は、五日も前の儀式で野獣の贄に成り果てた。野犬に全身をかみ砕かれ、骨も残らなかったのだと聞いている。
 もう、少年は一人だった。
 ああ、俺は一人だ。気楽なもんさと、胸中で呟く。
 ゆっくりと、外へと歩いた。まだ店内に残っていた奇特な客の幾人かが、少年に対して気の毒そうな視線を寄越していた。きっと、若い身空で命をドブに投げ捨てた少年を、哀れんでいるのか、それとも蔑んでいるのか。
 ご苦労なことだと、少年は苦笑した。そして、店の外を目指した。
 店の中には、まだ、間の抜けた調子のジャズが流れていた。女のシンガーが、切ない曲調で、別れた男への未練とその幸福を祈る心情を歌い上げていた。
 少年にとって初めて聞く曲だ。今まで人並みの趣味を持たなかった少年にとって、その曲が有名どころなのかどうかすら分からない。この星だけで流れている曲なのか、それとも全共和宇宙で親しまれている曲なのか、それすらも分からなかった。
 少年は、ゆっくりと歩いた。入り口までの短くない距離は、他人の、自分を眺める視線で一杯だった。さっきまで、まるで年来の仲間のように親しい視線を寄越していたのが嘘のようだ。
 まったく、この一週間、お前らに只酒を振る舞ってやっていたのは誰だと思っているのか。それは気の強い赤毛の女の財布だ。決して俺じゃない。だから、その視線は恩知らずではないな。

「何だ、みんな、わかってんじゃねえかよ」
 
 独りごちて、少年は苦笑した。
 そして、歩いた。その道中で、声を聞いた。

「……まだ、よく分からないのです。どうして……」

 意外に年若い声だった。まだ変声期も満足に終えていない、子供の声だった。
 あれだけの騒ぎが起きた店内である。いや、そもそも、こんな場末の酒場にどうして子供の声がするのか。我が身のことは棚に上げて、少年は不思議だった。

「……には少し前に言ったんだけどね、……が外れるのは、いくつかの限られた理由しか考えられない。そのうちで一番可能性が高いのは……の中の、太陽が死んだことだ」

 これは、もう少し年かさのある、男性の声だった。それにしたって、ずいぶんと高い音域の声だ。酔っ払いの耳になら、女の声のように聞こえたかも知れない。

「俺にはよく分からん。手札がどうこう、王様がどうこう、太陽がどうこう。まったくもってちんぷんかんぷんだ。もう少し、俺にも分かる言語で話してくれんかね」

 次に聞こえたのは、先ほどの二人分とは違い、随分と低い声だった。声の主の体の大きさ、精神の落ち着きを感じさせる、野太い声だ。
 少年は、声のする方向に、視線を遣った。そこは入り口にごく近い向かい合わせのテーブル席で、全員の顔ははっきり見えなかったが、仕切り代わりの観葉植物を大きく越える巨体が、一人腰掛けているのは分かった。岩のような筋肉に覆われた大きな背中、その上に乗っかった意外に小さな頭部は、蜂蜜色の短髪で飾られていた。
 
「要するに、こういうことだよ。あいつは、太陽の属性を持っている。おれと同じだ。そして、その太陽が死ぬことがある……」
「俺の意見は無視かい」
「悪いな。でも、あんたにとって、……の手札が外れた事なんて、別に大した意味はないだろう。だけど、……にはすごく大事なんだ。だからこうして説明してる。最初から気にならないなら、最後まで気にしてもらわない方がいいと思うよ」

 最後に聞こえたのは、やはり年若い子供の声だった。ただ、妙に張りがあり、強い声だった。
 少年は、興味を抱いた。この、荒んだ店内で、いったいどんな顔で、どんな内容の会話をしているのか。太陽だとか手札だとか、まるで年頃の少女が占いに興じるような内容だ。おそらくはそれほど楽しめないだろうが、馬鹿な会話はそれなりに面白い。
 気配を殺して近づいたつもりだったが、容易く気取られてしまった。蜂蜜色の大男がぐるりと振り返り、寒気のする視線で少年を睨み付けた。それは、先ほどのちんぴらなどとは比べようもない、凄みの籠もった視線だ。いったい幾人を殺しているか分からない、それを数えるのを止めてしまった人間の視線だ。
 少年は、総身が固くなるのを感じた。

「どうしたんだ、ヴォルフ」
「いや、何でもない。ただの子供だった」

 視線を外された少年は、全身から冷たい汗が沸き上がるのを感じた。
 そして、力無く、近くにあった席に腰を下ろした。これ以上近づくのは無理だ。こと、彼らの会話に耳を傾けるのが目的ならば、この席が限界だった。

「あの、リィ。陛下があなたと同じく、太陽の如きお人だとはわたしも理解しているつもりです。しかし、その太陽が死ぬとは、いったいどういう意味でしょうか。わたしには理解出来ないのですが……」

 おずおずとした声だ。
 そして、内容が全く意味不明であった。これは、宗教関係に脳髄を冒されてしまった、可哀相な人間の集まりなのかも知れないなと、少年は思った。
 それでも、なんとなく愉快なので、そのまま聞き耳を立てた。

「なぁ、シェラ。おれ達はこの世界に戻ってきて、色々な知識を身につけただろう。その中に、太陽の死を意味する自然現象があったはずだ」
「太陽の死……。超新星爆発のことですか?それならば天文学の授業で学びましたが……」
「ああ、そうだな。物理的にいうなら、そのとおりだ。でも、おれ達のもっと身近に、太陽の死を暗示する天体現象があるはずだ。それはあちらの世界でもそうだったし、この世界の多くの文明でも同じ意味を孕んでいる……」
「……日食、ですか」
「そういうことだよ、シェラ。あの日、僕の手札は王様のことを占い、悉く死のイメージを顕した。それは、王様自身の死じゃなくて、王様の象徴である太陽が食に陰ること、他の天体に覆い隠されたことを意味していたんだ」
「他の……天体……」

 少年は、苦笑を噛み殺すのに苦労した。まったく、場末の居酒屋に押しかけて、この連中は何と間の抜けた会話をしていることか。頭の中にお花畑が咲いているとしか思えない。
 先ほどの大男に気圧された自分が、なんだか情けなくなってしまった。あそこにいる連中は、きっと魔法や異世界のことを真剣に信じ込んでいる馬鹿者なのだ。今思えば、あの少女も同じ種類の人間だったのだろう。異世界の王様だと?その言い分を信じそうになった自分が、なんとも馬鹿らしかった。第三者の目で見れば、あの少女の言っていることも、今自分が聞いていることと五十歩百歩に違いないのだ。
 少年は意気揚々と立ち上がった。この阿呆な会話をしている連中の顔を、その目に焼き付けるつもりで近づいていった。
 その間も、奇妙な会話は続けられていた。

「しかしそれが、いったいどういう意味を持つのですか?」
「太陽を覆い隠す天体は数多い。でもそれが、太陽を完全に覆い隠すことの出来る天体ってなると、これは限られてくる。もちろん、星系ごとに事情は違うんだろうけど……」
「でもそれが、こと占いの世界の話になると、太陽を覆い隠すことの出来る天体は、たった一つだ。それ以外に、太陽を覆い隠すことは出来ないし、出来ちゃあいけない。それが決まりなんだよ」
「では、その天体とは?」
「月だ」

 少年は、ゆっくりと、その席に近づいた。
 まず、黒髪の青年が見えた。歳の頃は二十くらい。まるで女のようになよついた体つきだが、意外に線がしっかりとしている。いざという時に役に立つ、鋭いばねが仕込まれていそうな体だった。
 その青年が、ちらりと自分を見て、一度視線を外し、今度は大きく口を開けた間の抜けた顔でもう一度自分を見た。何か、とんでもないものを見つけた顔だった。

「月、ですか」
「あの時、あいつは手酷い怪我を負っていたはずだ。あいつの中の太陽も、相当に弱っていた。でも、それだけならルーファの手札は死に神のヴィジョンを出したりはしない。だから、あの時、あいつの近くには月がいた、それは間違いない」
「なんだか分からんが……その、太陽とか月とかが、そんなに重要なのかい?」
「おれ達にとったら重要なんてもんじゃないんだ。いいか、あいつの宿ったウォルフィーナの体は、もともとは碧の瞳に金色の髪、即ち神話の中の太陽と同じ外見だった。彼女に宿ったあいつの魂は、魔法街のおばばをして、おれと同じ太陽だと言わしめた属性。これなら、形式の後に実質が追いついてもおかしくない」
「え、エディ……」

 青年が、隣に座った少年の肩を叩いていた。その少年の顔は観葉植物に遮られてまだ見えないが、肩にかかった見事な金の髪だけが目についた。

「そして、神話の中の太陽であるあいつを覆い隠せるほどの月といったら、これはもう、銀盤の月以外にありえない」
「しかし、銀盤の月は、その、わたしのことだったのではありませんか?そして、あなたとルウが血眼になってこの世界を探しても見つからず、結局、あちらの世界でわたしはあなたと出会うことが出来た……」
「その通りだ、シェラ。だから、これは本当に後付なんだよ。あいつの魂とウォルフィーナの体が一緒になってもう一つの太陽になってしまったように、もう一つの太陽が生まれたことで、もう一つの銀盤の月がこの世界に生まれてしまった。全て、後付の理屈なんだ」
「エディ、エディってば!ちょっとちょっと!」

 テーブルの上には、酒瓶が林立していた。それも、酒に弱い人間ならば、一舐めで顔を赤らめるような、火酒ばかりだ。
 全て、あの巌のような大男が飲んだのだろうか。それとも、女のような顔をしたあの青年と、少年のような声の持ち主の二人が、やはり火酒を好んだのか。
 まあ、どうでもいいと少年は思った。そして、相も変わらず面白い表情で自分を見る青年に、物騒な笑みを浮かべてやった。今は自分の顔は、手拭いで清めたとはいえ、まだまだ血塗れのはずである。ならば、さぞ幸運を感じさせる顔つきだったに違いない。
 それでも、青年は、少しも表情を変えることなく、やはり阿呆のように、隣に座った小さな肩を叩き続けていた。

「なんだよ、ルーファ。痛いぞ」
「いいからエディ!あれを見て、あれ!」

 ルーファと呼ばれた青年が、思い切り少年を指さした。綺麗なブルーの瞳を、満開にしながら。
 そして、観葉植物の影から、一人の少年が、ひょいと顔を覗かせた。
 それは、柔らかそうな金色の髪をした、碧色の瞳の少年だった。
 まるで少女のように美しい、いや、少女よりも遙かに美しく、しかしその中に猛々しい何かを飼った、碧色の瞳と整った容貌。まるで、そう、野生の獣のような……。

 ──碧色の瞳をした、黄金色の狼だ。

 少年の中に、一番思い出したくない言葉が、実感と共に思い出された。
 
 ──お前ならば、一目で分かるだろう。

 少年は、理解してしまった。全ての理屈をすっ飛ばして、理解した。今、自分の目の前にいるのが、自分が今、世界で一番会いたくない人間なのだと。
 その人間が、少年──インユェの銀色の髪と、紫色の瞳を見て、驚いたように口を開き、

「あっ。銀盤の月、見つけた」
 
 銀の月の名を持つ少年を指さし、呆然とした口調でそう言った。



[6349] 第六十六話:参戦
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/07/17 20:21
 それにしても、痒い。
 たまらなく痒い。
 気が変になりそうなくらい、痒くて痒くてたまらない。
 体中に凶悪な藪蚊が取り付いて、絶え間なく血を吸い続けているようだ。掻いても掻いても、痒さが紛れない。手が二本しかないのがもどかしい。ムカデくらいに手が生えていれば、体中を同時に掻き毟れるのに。
 痒くて眠れない。眠る暇があれば、体を掻いていたい。体中を襲う掻痒感を、少しでも癒したい。
 だから、ずっと掻き続けている。尻を掻いたら背中、背中を掻いたら首、首を掻いたら腹、腹を掻いたらまた尻……。
 ずっとずっと、掻き続けている。
 間の抜けた永久機関のようだ。
 それにしても、俺の体はどうなってしまったんだろう。掻き傷から、得体の知れない汁が、じくじくと染み出してくる。
 乳白色に黄緑色を少し混ぜ込んだようなその汁は、とても嫌な臭いがする。膿の生臭さを強烈にしたような、不快な臭いだ。何かが腐っている臭いだ。雑菌がこれでもかと繁殖している臭いだ。
 その汁が、体の中からとろりとろりと垂れ落ちてくる。その汁が、体中の掻き傷から溢れてくる。その汁が痒みの原因のような気がして、さらに掻く。すると、汁に血が混じり、形容しがたい色になる。血と汁の混じった液体が固まり、瘡蓋のようになる。瘡蓋の下の肉が盛り上がり、瘡蓋が破れ、その裂け目から汁が溢れてくる。裂け目を指で掻くと、でっかい瘡蓋がべろりとはがれ、その下一面に濁った汁が溜まっているのだ。
 巨大な面皰みたいな盛り上がりが、体中を覆い尽くしている。それは、マッコウクジラの頭に付いたフジツボに似ている。その面皰のお化けを潰すと、真っ白な塊がぴゅると飛び出して、その後から、たらたらと汁がこぼれ落ちてくる。
 もうめちゃくちゃだ。俺の体は、汁に埋め尽くされている。
 体が、ぼこぼこと盛り上がっている。へたくそな粘土細工のようだ。誰か、どうにかしてくれ。
 もう、恐ろしくて、鏡を見ることが出来ない。何故なら、顔も、頭も、痒くて痒くて、一番掻き毟っているからだ。束状に抜けた髪の毛が、床に散乱している。それは、頭皮ごとごっそりと抜け落ちていて、ぷつぷつとした脂肪の層が見えている。頭に手をやると、掌一面に、ねちゃりと糸引く感触があった。
 あんまり痒いから、耳も引きちぎってやった。掻き続けているうちに、鼻が少しずつ削れて、今はどこに鼻があったのか分からない。そこには、二つの塞がりかけた穴があって、悲しげにひゅうひゅうと隙間風を鳴らすだけだ。
 顎先から、ぼたぼたと汁が滴り落ちる。汁が固まり肉の盛り上がった顔が引き攣って、もう思うように表情を作ることが出来なくなった。
 恐ろしい。鏡を見ることが、恐ろしい。
 俺は、きっと病気なんだ。何か、死に向かう病に冒されているのだ。
 助けて欲しい。医者だ。医者を呼んでくれ。
 でも、声が出ない。声の出し方を、忘れてしまったようだ。声を出そうと口を開けば、喉からはごぼごぼと得体の知れない音が鳴って、大量の汁が溢れ出た。口の中の汁が、ねばねばと糸を引き、唾液と混ざって泡立っていた。
 でも、口の動かしかたは覚えているんだ。それを忘れてしまったら、ものが食べられなくなってしまう。
 食欲は、ある。以前よりも、腹が減るくらいだ。腹が減って減って、堪らない。胃の底にでっかい穴が空いて、折角食べたものが体のどこかに落っこちてしまっているようだ。
 でも、俺は健康志向だ。食べ過ぎれば、無駄な肉が付く。俺はそんな、惰弱な人間じゃない。
 だから、きっちり一日三食。一食につき、一人分。それ以上は絶対に食べない。間食は健康の敵だ。
 どうだ。まるきり健康的な生活だ。ただ、汁が溢れて、体中が痒いだけだ。なんだ、その程度のことだ。俺はまだまだ正常じゃないか。だって、こんなにも腹が減るんだ。
 今日も、腹が減った。きっちり食べよう。食べれば、きっと病気も治る。だって、こんなにも腹が減るんだ。食欲が健康のパラメータなら、俺はすこぶる健康だってことだ。
 飯だ。飯を寄越せ。
 ドアを殴りつける。金属製のドアが、ぎしぎしと軋む。これが食事の合図だ。こうすれば、ドアの下の小さな窓から、食事が差し込まれる。何度か殴っているうちに、ドアと手の間に、ねばねばと糸引く、汁の橋がかかっていた。
 今日のメニューは、何だろう。昨日は、白色だった。その前は黒色。今日は、肌色がいいかな。
 どれでも、いい。どれでも、一人分だ。
 がちゃりと、窓が開いた。どさりと、何かが放り込まれた。一人分の肉の塊は、何か訳の分からないことを喚いて、俺を見て、大きく目を見開きながら悲鳴を上げた。
 駄目だ。俺を見ないでくれ。そんなにきらきらしい瞳で見られたら、俺の姿が映り込んでしまう。
 嫌だ。俺は、俺を見たくない。俺が俺を見るまでは、俺は以前の俺でいられるんだ。
 信じさせてくれ。俺は、全く以前のそのままだと。
 だから、その瞳は、邪魔だ。
 俺は、その瞳に指を突っ込み、くるりとえぐり出し、視神経がぷらりと伸びたそれを、口の中に放り込んだ。こりこりと固い眼球を噛みつぶすと、中に詰まったどろどろの液体が勢いよく飛び出した。
 肉の塊が、血の吹き出す顔に手を当てて、床を転げ回っている。何かをしゃべっているらしいのだが、もう、何を言っているのかわからない。
 おかあさん、いたい、みえない、たすけて。
 それは、どういう意味だろう。
 俺に分かるのは、痒い、腹が減った、鏡が怖い。
 これくらいなのに。この肉の塊は、何とたくさんのことを知っているのか。俺も、少し前まで、たくさんのことを知っていた気がするのに。
 どうしたら、思い出せるだろう。この肉の塊のように、賢くなれるだろう。
 ああ、そうだ。
 脳みそだ。確か、人間の頭の良さは、この頭の中に詰まった、頭の塊の中に入っているのだ。
 頭の中を食べれば、頭の中に詰まった頭の良いものが俺の頭の中に詰まるから、俺の頭が少しはこの肉の塊の頭の中みたいになってくれるはずだ。
 頭を食べよう。一人分の頭の中を食べれば、俺の頭の中は一人分の頭の良さを頭の中に詰め込むことが出来るのだ。
 この、糸くずみたいなのは邪魔だな。全部毟り取ってしまおう。これは食べても美味しくないことは、随分前から知っているんだ。噛んでも上手にかみ切れず、口の中の肉と絡まり合ってちくちくする。
 少しずつ引っ張ると、ぶちぶち抜ける。たくさん引っ張ると、頭の表面ごとばりばり剥がれ落ちる。たくさん引っ張った方が、楽みたいだ。髪の毛と一緒に千切れた頭の表面は、まるで俺の髪の毛みたいに、どろりとした血と肉と黄色い脂肪の粒がひっついていた。
 目の前には、まるで赤いメロンみたいな頭の、肉の塊が、何事かを泣き叫びながら、血の涙を流していた。
 あんまり煩いから、その口みたいな場所を、がぶりとやった。真っ赤な陥没が出来て、それは、口の中を剥き出しにして、声にならない声を上げながらごろごろと転げ回った。
 俺は、口の中にある白い塊を、器用に舌で集めて、吐き出したんだ。それは、まるで歯のような気がしたけど、俺の歯はそんなに小さくないから、きっと別のものに違いなかったんだ。その白いものは固くて美味しくなさそうだったけど、口の中でぴちぴちと跳ね回る桃色の肉塊は、こりこりとした歯ごたえで美味しかったです。
 ああ、そろそろこの一人分も、動きがゆっくりになってきた。ばたついていた手足がのろのろと、吐く息もぜぇぜぇと、喉に絡みつくようだ。
 駄目だ。死んでしまったら、脳みそが腐る。腐った脳みそでは、俺の頭の中に入っても、きっと以前の俺に戻るほどに頭が良くはなってくれないだろう。
 だから、一口で、頭を食べた。
 卵の殻を囓ったような食感のあとに、濃厚な、とろりとした舌触りの柔らかいものが、溢れ出てきた。頭を失った小さな体が、びくんびくんと面白い痙攣を繰り返した。
 これで、俺は人間に一歩、引き返せたんだろう。だって俺は、まだまだ人間なんだ。変な汁を体中から撒き散らしているだけで、妙に腹が減るだけで、それだけの人間なんだ。
 それが嬉しくて、こりこりと食べた。首は細い。胸は、まだまだ育ちかけだ。心臓は、血をポンプみたいに吹き出し続けて、勿体ないから、肉の塊を逆さに向けて溢れる血をごくごくと飲み干した。内臓はほろ苦くて、上等の味がしました。
 俺はお行儀が良いから、育ちもいいから、最後まで残さなかった。指先まで、ごきごきと食べた。そこらへんは肉がほとんどなくて美味しくないのだけれど、残さずに食べた。肉付きのいい太股はとっても美味しそうだったけど、それは以前に言っていたのとは違う意味がする気がする気がする。
 ごちそうさまでした。これで、一人分。一人分しか食べていないのだから、つまりこれは普通の人間の食事量ということだ。つまり、俺は普通の人間だということだ。
 それにしても、腹が減った。飯はまだだろうか。体がこんなにも痒くて、全身から得体の知れない汁が噴き出しているのだそれなのに、医者の一人も姿を現さなくて、俺はこんなにも腹が減っているのはどういうことだろうか飯を出せ飯を出せ俺は一日に三回しか食べないんだ一回はきっちりと一人分だがんがんと鉄拵えの扉を叩くと下の覗き窓から今度は黒色のお肉のお塊がごろりと転がってああ久しぶりの飯だ今日一度目の飯だそれにしても頭が悪い体が痒いこの肉塊の頭を食べれば俺は少しだけ人間に戻れるのだろうか戻れるのだろうか戻れるのだろうか戻れるのだろうか多分もう無理だ。

 ──え゛、え゛、え゛……。

 どこかで、恐ろしい鳴き声が聞こえた。
 この地下には、きっと醜い化け物が住んでいるのだ。


 

「いったいどういうことだ。おれにも分かるように説明してくれ」
『すまない、エドワード。僕にも何が起きているか、まったく掴めていないんだ』

 画面に映った。惑星ベルトランのコーデリア・プレイス州知事である、アーサー・ウィルフレッド・ヴァレンタインは、苦悩と困惑を隠しきれない表情で言った。

『僕のほうこそ聞きたいくらいだ。どうしてウォルが、ヴェロニカ共和国にいるんだ?そして、どうして彼女が得体の知れない宗教儀式の生け贄なんかにされなければならない?そもそも、ヴェロニカ教にそんな野蛮な儀式が伝わっていたなんて初耳だ。近頃のあの国は確かにお世辞にも評判のいい政情ではなかったが、それにしてもこんな無益な行いをするなんて……』

 アーサーの狼狽も無理からぬことであった。
 ヴェロニカ共和国が連邦からの脱退を表明したのが昨日のこと。それと同時に、過去より行われてきた宗教行事において、惑星ベルトランのコーデリア・プレイス州知事の娘を生け贄に捧げることを発表したのだ。親の罪を娘に償わせるという記事が続いていたが、あまりに馬鹿馬鹿しいのでそこは読み飛ばしている。
 とにかく、ヴェロニカ共和国にウォルがいること。そして、その身がただならぬ危機に晒されていることだけは、間違いがないようだ。
 リィは、平静を装った表情の奥に、灼け付くような感情を隠したまま、画面に映った遺伝上の父親と相対していた。

「あいつがあの星にいるのは、単なる家出だ。おれ達は、それを迎えに行く最中なんだ」
『家出……?まぁいいさ、お前が言うならそうなんだろう。だが、それにしても、僕が無計画に自然を開発し、何百という貴重な自然動物を絶滅に追いやったとか……。どう考えても当てこすりだ。いや、仮に僕がそうしたのだとしても、どうしてあの子がそのために殺されなければならないんだ?全くもって理解出来ない!』

 若干ヒステリック気味な口調で、アーサーが言った。年若くとも、一つの行政区の長を務める彼だ。このように周章するなど、そうあることではない。その一事を見るだけで、この問題で彼がどれほど心を痛めているか、そしてどれほどの労苦を背負っているのかが窺い知れてしまう。

『……連邦は、当然のことだが、ヴェロニカ共和国に対する非難決議の準備に入った。それが可決されれば、有形無形の圧力があの国を雁字搦めにするはずだが……あまりに時間が無い。このままでは、あの子が、僕の新しい娘が、くだらない儀式の生け贄にされてしまう』
「させない」

 リィが、短く言い切った。
 碧色の瞳が、恐ろしい程の烈しさで輝いている。言葉の隅々にまで、燃えさかるような決意が漲っている。
 たった四文字の言葉が、幾百幾千の美辞麗句などより遙かに、彼の心情を顕していた。
 画面の先の、若々しい顔つきの男が、長々とした溜息を吐き出した。

『……わかった。僕は、情けない父親だ。ウォルの父を名乗りながら、しかしこういう状況では手も足も出ない。全てを放り出してあの子を救いに行くことすらできやしないんだ。だから、全てをお前に任せることしか出来ない。許して欲しい』
「アーサー、それは違う。もしもお前が全てを放り出して惑星ヴェロニカに行ったとして、何が出来るわけでもないだろう。逆に、おれは政治の舞台を利用して、あいつを助ける方法なんて知らない。だから、お前にはお前しか出来ない方法で、あいつを助けてやって欲しい。おれは、おれにしか出来ない方法で、あいつを助ける。それが一番効率的だ」

 アーサーは、あめ玉を飲み込んだように目を丸くして、画面越しの我が子を見た。
 そして、苦み走った笑みを浮かべた。

『そうだ。お前の言うとおりだよ、エドワード。僕も、きっとその程度のことは分かっている。しかし、お前のような子供にその台詞を言われてしまうと立つ瀬がないというか何というか……』
「いいんだよ。任せるべきところは任せるのも、大人の度量だぞ」
『我が子にいいところを見せたいのが、父親の救いがたい性というやつだ。察してくれ』

 リィも苦笑した。
 これからは定時に連絡を取り合うことを約して、恒星間通信を切った。
 通信室を出たところで、常識外れの巨体と、ばったりと出くわした。

「おお、リィか。どうした、こんなところで」

 小柄なリィは、首を急角度に上向けなければ、言葉の主と視線を合わせることが出来なかった。

「別に大したことはしていないよ。そういうお前こそ、通信室に何の用があるんだ、ヴォルフ」

 巨人めいた男は、蜂蜜色の短髪に覆われた頭部を、太い指先で乱雑に掻いた。

「別に大したことじゃないさ。しかし、宮仕えの悲しさだな。上役は、いつだって飼い犬のリードが、自分の手に握られていることを確認しないと我慢できないらしい」

 要するに、職場の上司に連絡を取るつもりなのだろう。手には、ウォルの生体情報をキャッチするための端末が握られている。
 
「それ、どうするんだ?」

 リィが、ヴォルフの大きな手にすっぽりと収まってしまった携帯端末を指さして言った。
 ヴォルフは、大きく肩を竦めた。その拍子に吐き出した大きな溜息が、予想外の風量をもってリィの前髪をなぶった。

「さぁ、俺はよく知らんよ。だが上の連中は、安心したいんじゃないか。ウォルが生きてくれてさえいれば、まだ失地回復の可能性はある。だが、もしも既にくたばっているなら、いよいよもって惑星セントラルからの脱出を考えなくちゃならん。そういうことじゃないのかね?」
「それは、あいつを失ったおれが怒りに狂って、この宇宙の端から端までをめちゃくちゃにすると、そういうことなのかな?」
「俺に聞かれても困る。それを心配しているのは俺じゃなくて上の上の上の……よく分からんが、とにかく上の人間なんだ。お偉方が何を心配していらっしゃるのかは、お偉方に聞いてくれ」
「お前は心配じゃないのか?」
「俺かい?俺は、そうだな、今日死んで困るほど人生で積み上げてきたものもなし、出来れば痛くしないで欲しいのと、死ぬ前に浴びるくらいに酒を飲ませて欲しいくらいかね。どうせ、どんな人間だって一度は死ぬんだし……」

 大口を開けて欠伸をしながら、そんなことを言った。

「ま、あんたにとってウォルが大切なのはわかるけど、ほどほどにしとくんだな。あんたにとってはどうでもいい他人だって、誰かにとっては掛け替えのない人だってことは往々にしてあるわけだし……」
「そんなことは重々承知の上だ。それでも許しちゃいけないことはいくらだってあるんだ」

 ヴォルフは肩を竦めて、その大柄な体を通信室の扉の中にねじ込んだ。
 しかし、ヴォルフの言はおおむね正しかった。今、共和宇宙連邦の本部の置かれた惑星セントラルは、数週間前に演じた狂騒劇──ウォルという少女が研究所で捕獲された時だ──を拡大再生産したような、とんでもない恐慌に襲われていたのだから。
 連邦の主席であるマヌエル・シルベスタン三世などは、時計の針が進むのと同じくらいの頻度で、天に坐す運命の神への恨み言を心中に吐き捨てていた。どうして自分ばかりこんな目にとは、およそこの世で不幸に見舞われた人間の過半が呟く台詞であるが、彼の台詞には一層の真情が込められていた。
 
『申し訳ありません……。本当に、我々も、いったい何が起こっているか、全く把握出来ていないのです……』

 つい先ほど、惑星セントラルの連邦最高議会に直接繋がった恒星間通信の画面で、マヌエル・シルベスタン三世は、顔面を蒼白にして、細かに震えながらそう言った。
 目の下には黒々と不吉な隈が出来ており、頬がげっそりと痩けている。ウォルが虜囚となっていることが明らかになってから一日と経っていないことを考えれば、事件が彼にとってどれほど衝撃的で、どれほど多大なストレスをかけているかが伺い知れようというものだ。ひょっとしたら、既に胃に潰瘍の一つも拵えているかも知れない。
 額にぽつぽつと浮いた脂汗を絹のハンカチで拭きつつ、震える唇を開いた。

『このような言葉があなた方にとってどれほどの意味も持たないことは承知しておりますが、断言させて頂きます。今回の事件に、共和連邦政府は一切関与しておりません。我々は、蒙昧な宗教儀式に人身御供を捧げるが如き、前時代的で野蛮なことは、この宇宙の隅々においてまで排除する所存でおりました』

 怯え竦みながら辛うじてそう言った連邦主席の前には、少しだって感情を読み取ることの出来ない、凪いだ表情の少年がいた。
 柔らかそうな金色の巻き毛。長い睫に縁取られた鮮碧色の瞳。そのまま最高級のビスクドールとして美術館に飾れそうな少年は、連邦主席にとって恐怖の代名詞であった。その少年が、怒るでもなく非難するでもなく、当然慌てふためくでもなく、静かな瞳でじっと自分を眺めているのだ。これは悪夢か、これが悪夢ならば一刻も早く覚めてくれと、マヌエル・シルベスタン三世は意地の悪い神に祈った。
 それでも、彼はまだ幸福であったのだ。これでもしも、少年の隣に、少年の相棒を名乗る黒髪の青年などがいれば、襲い来る恐怖はこの程度ではなかった。テレビ画面越しに、一切の特異能力を用いるでもなく、二人の視線は連邦主席の心臓を止めていたかも知れない。
 
「言葉は立派だが、行動がそれに追いついていないらしいな、主席。あんたの決意が本物なら、どうして連邦加盟国であるヴェロニカ共和国政府が、おれの伴侶を、前時代的で野蛮で無知蒙昧な宗教儀式の生け贄に捧げるなんて話になっているんだ?」

 それは、リィなどからすればまったくもって当然の疑問であった。怒りとか困惑とかの以前に、この近代的な共和宇宙の片隅で、歴史の影に埋もれてしまったような前近代性が顔を出すのか、彼には不思議で仕方なかったのだ。
 だが、その程度の簡単な疑問に、連邦主席は回答を持たなかった。黙り込み、既に給水能力の限界を越えているハンカチで、額と首筋を何度も拭うのみであった。

「結局、全ては調査中ということか?」

 溜息混じりに吐き出された言葉に隠す意思のない嘲弄を感じた主席であったが、彼に出来ることといえばその身を縮めて嵐が通り過ぎるのをひたすら待ち望むだけであった。
 少年は、この時点で会談の無意味さを悟った。このまま目の前のスクリーンに映り込んだ男をやり込めるのは簡単だが、ウォルを助け出す上でそれは全く意味を持たないことを、少年は知っていた。時間は有限の資源で、今や黄金よりも高い価値を持つ。溜置きの出来ない資源であるならば、最も有効なことにこそ利用するべきだ。
 
「あんた達が、今更おれ達にちょっかいかけるほど頭の悪くないことは、おれも分かっているつもりだ。だが、あんたの部下や、そのまた部下がどう考えるかは、おれは知らない。そして、あんたの友人も」

 言葉に、恐ろしいものが込められた。それは主席にとって、猛獣の牙を首筋に突きつけられたのと同じ意味を持っていた。

『可能な限り早急に、調査を致します。そして、我らの力の全てをもって、あの少女を救うことを約束します』
「ああ、期待してるよ」

 少年自身、あまり心の籠もらない口調だったなと思った。そんな声だったから、画面越しの疲れた男の表情も、少しだって和らぐことはなかった。

『微力を尽くします。しかし、しかしもしも最悪の事態になった場合……これは連邦主席ではなく、共和宇宙に暮らす一人の人間として、あなた方にお願いしたい。この事件を引き起こした卑劣な人間は、この共和宇宙に暮らす、極々一握りの人間でしかないことを理解して欲しいのです。そして、どうか短慮を起こし、避けうる悲劇を招くことのないよう、心の底よりお願いしたい』

 必死の懇願に、少年は冷笑を浮かべた。

「お前達はいつもそうだな。自分達の仲間の引き起こした事件について、それはあずかり知らないことだとしらを切る。いや、知らないのは本当だろう。だが、おれの大切なものを奪うのは、いつだってお前達なんだ。父親の時もそうだった。お前達がおれにとって有害であるとするならば、それを駆除したいと願うのはそれほど突飛な発想かな?」

 少年は、首を可愛らしく曲げながら言った。だが、その口元に刻まれた笑みの鋭さは、少年の無垢性を黒く塗りつぶして余りあるほどに不吉そのものであった。
 連邦主席は、口からいくつもの言葉が飛び出そうになるのを、必死の想いで我慢した。
 あなただって、あなたの嫌う人間の一人ではないか。だいたい、あなたの大切なものだって、その中にはいるはずだ。
 それは真実に違いないのだろうが、しかし今の自分がそれを言えば、怒りに火を注ぐだけになるだろう。それに、もしも『ならば大切な存在以外を消し去ってやる』と言われたとき、自分が少年にとっての大切な存在に該当するとはとても思えない彼にとって、それは死刑執行宣言にも等しい意味を持つ。
 結局、主席に出来ることは、既に拭くものの無くなった脂汗を、たらたらと流し続けることだけだったのだ。
 
「あんたらが頑張ってくれるのは正直にありがたいよ。でも、だからといって、あいつが何の罪もなく殺されたなら、おれは平静でいる自信はない。それだけは覚えておいてくれ」
『はい……』
「それと、情報が欲しい。今、あんたらが掴んでいる情報の全てを、こっちに送ってくれ。惑星セントラル方面からの通信は、今の宙域なら問題ないみたいだからな」

 今、リィの乗る《ピグマリオンⅡ》は、やはり宇宙嵐の中を飛んでいる。惑星ヴェロニカからの情報は、全く入ってこない。嵐の影響で、通信に使われる中継機が深刻な不具合を起こしているからかも知れない。ならば、まずは正確な情報を欲するのは当然といえた。
 主席は、些か躊躇した様子だったが、しかし頷く以外の選択肢を彼は持ち合わせていなかった。下手に出し渋りをして、その結果事態が悪い方向に傾いたならば、それは紛れもなく彼自身の責任になるからだ。
 
『……分かりました。ただ、先に申し上げておきますが、あの少女の伴侶であるあなたには、些か残酷な映像もございます。あのように下劣な行いをしたのは、ヴェロニカ国民でも極々一握りの卑劣漢であり、その者以外に罪のないことをご留意頂きたい』

 通信を切ってしばらくしてから、いくつかの文章ファイルと映像ファイルが送られてきた。
 ヴォルフが退室した後の通信室で、リィはそれを、部屋から呼んできたルウと共に見た。《ピグマリオンⅡ》の乗務員はもちろんのこと、シェラやヴォルフにも同席を許さなかった。
 主席があれほどの断りを入れるだけの何かが、この中に入っているのだ。同盟者の名誉のためにも、目にするのは最小限の人間であるべきだ。出来れば、自分一人がいい。
 しかし、もしもの場合に、自分を止めてくれる誰かが必要だ。それが可能なのが、この広い宇宙にたった一人しかいないことを、リィは弁えていた。

「いくよ、エディ」

 緊張した面持ちのルウが、コンソールを操作した。
 そしてスクリーンに、監視カメラで撮られたと思しき映像が流された。薄暗い、どこかの部屋だ。石造りで、どうにも寒々しい様子である。
 そこに、少女が映っていた。黒髪、黒い瞳、整った容姿。リィにとって見知った少女であり、魂の一番深いところで結びついた同盟者の少女だった。
 その少女が、裸に剥かれ、手錠と足錠で自由を奪われていた。まるで飼い犬のように首輪を巻かれ、囚人よりも惨めな様子で地面に転がされていた。
 ルウは、怒りと共に、言いようのない恐怖が沸き上がるのを感じた。それは、リィの父親である黒い狼が人間に殺されたことを聞かされた、あの時の衝撃に近かった。ルウは、自分の相棒である少年の魂が、醜い怒りに汚されるのを、何よりも恐れたのだ。

「エディ……」

 気遣わしげに隣を見遣る。
 リィの表情は、寸分も違わなかった。じっと、画面を見つめている。碧色の瞳は平静で、鏡面のように澄んでいる。
 だが、ルウは全身に鋭い切っ先を突きつけられたように感じた。その冷たい気配が皮膚の中に潜り込み、痛覚を冒していく感覚すら覚えた。
 これは駄目だ。
 ルウは、映像を止めた。静止した画面には、きちんとした仕立てのスーツを纏った赤毛の青年と、それを見上げる少女が映し出されていた。青年の表情には、発情した雄特有の、脂っこい笑みが浮いていた。
 
「エディ、駄目だ。これ以上は、きみは見るべきじゃない。僕だけで見る。王様の身に起きたことは、きみにだけ話す。そして、他の誰にも話さない。剣に賭けて誓うよ。口を切り裂かれても、舌を抜かれても、絶対に話さない」

 リィは、落ち着いた様子で、首を横に振った。

「ありがとう、ルーファ。でも駄目だ。おれは、絶対にこの映像を見なくちゃいけないんだと思う。たとえあいつがどんな目に遭わされるんだとしても、それを見届ける義務がある。だっておれはあいつの伴侶で、同盟者で、そして婚約者なんだから」
「でも、王様は、エディにだけは見られたくないと思うかも知れない」

 ルウの意見はもっともであった。愛する者だからこそ、絶対に見られたくない姿というものは確かに存在する。
 その程度のことは、リィも承知している。それでも、リィは再び首を横に振った。無言で振った。
 ルウは、リィの柔らかな微笑みを見て、何も言えなくなってしまった。諦めた様子で、映像の再生ボタンを押した。
 そして、画面に流れたのは、おぞましい陵辱の場面であった。青年は、手足を縛られて抵抗はおろか身を守ることすら出来ない少女に、ありとあらゆる暴力を振るった。
 美しい顔を殴った。柔らかそうなお腹を蹴り上げた。頭を踏みつけ、傷口を深々と抉り、少女の絶叫を愉しんだ。
 それは、身の毛も弥立つ、邪悪の光景だった。

「……酷い」

 ルウが呻いた。それは、自分の見知らぬ他人に行われているのだとしても、はっきりとした怒りを覚えるに十分な映像なのだ。なのに、そこに襤褸雑巾のような有様で、半死半生の様子で蹴り転がされたのは、自分の大切な人なのだ。
 精神の奥底から、何かが沸き上がってくる。卵の殻と中身が裏返ってしまうような、嫌な予感。べりべりと、皮膚の全部を力任せに剥ぎ取られるような悪寒。
 何者かが、自分と入れ替わろうとしている。それはきっと、笑いながら誰かを殺せる自分だ。あの時、魂の相棒である少年に再びの侮辱を与えた人間達に鉄槌を振り下ろそうとした自分だ。自分の一番嫌いな、自分だ。
 涙が出そうになる。嗚咽と一緒に反吐が漏れそうになり、強引に歯を食いしばった。その細い肩が小さく震えていた。
 もう駄目かも知れない。そう思った青年の肩を掻き抱いたのは、隣に腰掛けた少年だった。

「大丈夫か、ルーファ」

 涙の溜まった青い瞳が、縋るように少年を見上げた。

「ごめんね、エディ。一番辛いのは僕じゃないのに……」
「分かってる。おれの代わりに、お前が怒ってくれたんだ。そして、おれはお前の代わりに慰めてやる。それでいいじゃないか」

 二人は、再び画面に視線を戻した。
 少女に対する暴力は一段落していた。その代わり、少女の腕には深々と注射針が突き立てられ、その中にたっぷりと詰められた薬液が、一滴残さず少女の体に注入された。

「あの薬はなんだろう。わかるか?」

 リィの言葉に、ルウは首を横に振った。

「でも、碌な薬じゃないのは確かだ。多分、自白剤とか、拷問用の麻薬とか、そういうものだと思う」

 言葉にして、そのおぞましさに青年は身震いした。あの赤毛の男は、王様に何をするつもりだ。王様を、どうしたいのだ。
 最悪なのは、致死性の毒薬だということだ。だが、無抵抗の少女を殺すのに、わざわざ毒薬を使う必要はない。
 ならば、自我と精神を破壊し、人形のような奴隷とするための薬。例えば、あの忌まわしきトポレキシン麻薬のような……。
 薬を打たれた少女は、苦しみに身もだえし、地面をのたうち回った。その様子を愉しげに見遣る青年を映して、映像は途切れた。
 しばらく、ルウは、言葉もなかった。あの誇り高い国王が、こんな目に遭わされているなんて、夢にも思わなかった。これも全て、自分の占いの精度が悪かったからだと、自責の念に囚われていた。
 自分でも、これだけの悪寒に囚われているのだ。ならば、少女と、魂の奥底で結びついたリィの怒りはどれほどのものだろう。おそるおそる、ルウは隣に目を遣った。
 
「よくもまぁ、おれの同盟者にここまで好き放題をしてくれたものだな」

 ルウはその呟きに、赤毛の青年の絶対的な死を予感した。痛覚をもって生まれてきたことを後悔させるような、そんな迂遠なことはしない。そんなことをする必要すら見いだせないほどにあの男は腐っているのだし、少年は怒っている。きっと、この世からの退場をあっさりと強制されるだろう。自分が死んだことすら気が付かない、稲妻のような一撃で。
 
「だけど、これではっきりした。あいつはまだ生きている」

 リィは立ち上がった。

「あいつが、自分で言ったんだ。最悪なのは、大切な人が死ぬことだと。もう二度と会えなくなるから、と。ならば、事態は最悪じゃない。今のところは」

 そう言い残して、部屋を立ち去った。
 ルウは、安堵とも諦めとも取れない、曖昧な溜息を吐き出した。その行為にどういった心情が含まれているのかは、彼自身にもよく分からなかった。
 ただ、為すべきことは為さなければならない。
 ルウは、主席官邸への直通通信の回線を開いた。この下劣な映像を目にした人間がどれだけいるのか。そして、映像の複製はどれだけ作られているのか。それらを把握し、全てに口止めをしておかなければならない。少女の名誉を守るためにも、少女の夢を守るためにも。



 三日が経過した。
 宇宙船《ピグマリオンⅡ》は、荒れ狂う大規模かつ深刻な宇宙嵐の中を、這々の体で飛んでいた。巨大な船体が、まるで濁流にもまれる木の葉のような有様で、右へ左へと弄ばれる。
 船体は大小の傷が付き、半死半生の有様だ。それでも船が船の形を保っていられるのは、そして嵐の中を一直線に飛んでいられるのは、この船が全宇宙の商業船のなかで最速を誇るマクスウェル運送の旗艦だからである。

「なんだ、こりゃぁ!こんな嵐は、お目にかかったことがねえや!」
「他の船員なら、ストライキを起こしてでもこんな宙域は避けるんだろうぜ!五割増しの危険手当をもらわなけりゃあ、やってられねえな、こりゃ!」

 古株の船員であるトランクとタキが、船長であるダン・マクスウェルに聞こえるよう、これ見よがしに言った。言葉だけを捕らえれば不満たらたらのものであるが、浮かれはしゃいだ調子なので説得力は寸分もない。
 そして、部下たる二人の言葉を聞いた船長は、苦笑を噛み殺すのに苦労した。酒の席であれば大笑いで応じたのかも知れないが、今は職務中であり、一国一城の主とはいえそれなりの節度が必要だからだ。

「わかったわかった、この強突張りどもめ。私のポケットマネーになるが、これが終われば七割増しの危険手当を支払ってやる。それと、二週間の長期休暇もだ。それで満足か?」

 いかにも気前のいいこの言葉に、操縦室を歓声が満たした。

「さっすが社長!俺達のやる気を出させる魔法の言葉を弁えていらっしゃる!」
「いいねぇ、この隣の宙域のオアシスに、一度お相手願いたいウサギちゃんがいるんだよ!親が入院したって、俺は二週間、そこから動かねえからな!」

 緩みかけた雰囲気を、ダンは咳払い一つで収めた。

「いいか、お前達。それもこれも、この仕事が無事に完了してからだ。この船が嵐にやられて木っ端微塵になってしまえば、お前達に支払われるのはしみったれた死亡保険金と弔慰金だ。愛しい奥方に一財産残してやりたいなら、これほどお手軽な方法も他にはないがな」
「そいつは不味いぜ、ダン!古女房連中は涙を流して喜ぶかも知れんが、わざわざあいつらに次の男を探すための遊び金をくれてやることはねえぜ!」
「そうさ!この上はきっちり生きて帰って、女どもの悔しがる顔をたっぷり拝んでやるとしようぜ!」

 どうにも緊張感のない有様だ。ダンは苦笑した。しかし、変に悲壮感を漂わせた《ピグマリオンⅡ》の船内というのも想像が出来なかったし、それよりは今のほうが万全の体制での航海が望めたので、ダンは諦めることにした。
 だいたい、タキやトランクも、たまに商売女を抱いたことがばれて家を閉め出されたりしているが、なんだかんだ言って細君との仲は良好なのだ。
 実に分かりやすい方法で目の前ににんじんをぶら下げられ、大いに士気を上げた《ピグマリオンⅡ》は、死と隣り合わせながらも一応は安定した様子で宇宙嵐の中を飛んでいた。
 だが、その旅程は変更を余儀なくされた。
 トラブルがあったわけではない。ただ、それ以上飛ぶ必要が無くなってしまっただけである。

「船長!前方から何かが近づいてくる!」
「小惑星か!?」

 航海士を務めるジャンクが、レーダーを見て首を横に振った。

「違う!船だ!それも五万トン級!たって一隻でこの嵐の中を真っ直ぐに突っ切って、こっちへ向かってくる!」
「どこのどいつだ、その命知らずの大馬鹿野郎は!」

 自分達のことを棚の上に放り投げた言葉が、操縦室を満たした。

「まさか海賊連中か!?」
「間の抜けたことを言うんじゃねえや!このいかれた嵐の中、どこの田舎海賊が錨を上げられるもんかよ!そんな連中がごろごろしてたら、俺達はおまんま食い上げだぜ!」

 もっともである。獰猛で獲物と見れば噛みつかずにはいられない宇宙海賊たちは、命知らずではあっても決して無謀ではない。リスクとリターンを天秤にかけ、それでも襲う価値があると判断した獲物のみ襲うのだ。
 であれば、この嵐の中、たかが貨物船一つを狙って宇宙に漕ぎ出すなど、余程頭のネジの外れた食い詰め海賊くらいのものだ。そして今《ピグマリオンⅡ》が飛んでいるのは、そんな阿呆な連中が易々と飛べるほど生やさしい嵐ではない。そんな腕前を持つ連中が海賊風情にごろごろいるならば、《ピグマリオンⅡ》は辺境最速の看板を今日にも下ろさなければならなくなるだろう。
 小惑星や隕石の類ではない。海賊船でもない。では、果たして何が近づいてくるのか。船内に緊張が走った。
 だが、ダンには予感があった。この嵐の中を平然と飛ぶ船が、《ピグマリオンⅡ》以外にあるとするならば。そしてこの嵐の中を掻き分けてまで自分達に用事のある船があるとするならば。
 それはきっと、あの船しかないのだと。

「通信回線を開け」

 落ち着いた声でダンが指示したのと、あちら側から通信要請の信号が入ったのが、全くの同時であった。
 ジャンクは、通信回線を開いた。そして大型スクリーンには、妙齢の女性が映し出された。
 それは、何から何まで、ダンの予想した姿だった。

「お久しぶりです、ダイアナ」

 ダンの声に、女性は表情を綻ばした。

『ええ、本当にお久しぶり。でも、再会を祝するには、少し色気のない宙域ね』
「我々のような運び屋が飛ぶのは、いつだって色気のない宙域ばかりですよ。今回はその中でもとびっきりなのは事実ですがね」

 ダンは大人の男性に相応しい深みのある笑みを浮かべてスクリーンに相対した。無論、目の前の女性が、人間以外の存在であることは百も承知の上である。
 そこに映し出されていたのは、宇宙船《パラス・アテナ》に搭載された感応頭脳、ダイアナ・イレブンスその人だったのだ。
 だが、いつもとは様子が違う。普段はあくまで悠然とした様子のダイアナの瞳が、言いようのない焦りに支配されているのを、ダンは読み取った。それに、よく考えてみればこういう時は、ダイアナではなく自分の父母のいずれかが通信に出るのが常である。
 では、何故今日に限って、ダイアナが通信を担当しているのか。ダンの太い心臓が、どくりと一度不吉に鳴った。
 
「……あの人達に、何か、あったのですか」

 ダイアンは質問には答えず、

『ダン、あなたには悪いけど、わたしは今、とっても急いでいるの。あなたが届けようとしている荷物を、わたしに任せてくれないかしら。こんなことを頼むのは、マクスウェル運送の社長であるあなたにとって侮辱と受け取られても仕方ないのだけれど……』

 ダンはしばし黙考し、微笑みと共に首を横に振った。

「わかりました。全てはあなたにお任せしましょう」
『ごめんなさい、ダン』

 悲しげにダイアナは言った。
 ダンは、全てを許すように微笑んだ。

「あなたがあの二人を連れずにこんな宙域を飛んでいるという一事をもって、既に私に立ち入ることを許されない段階まで事態が悪化しているのは明白です。私では、彼らを惑星ヴェロニカまで連れて行くことは出来ても、その後の面倒は見きれないでしょう。悪くすれば足手まといにもなりかねない。ここらが潮時と心得ていますよ」
『そんなことはないわ。あなたは立派で勇敢な男性よ。わたしだって魅力的だと思えるほどに、腕の良い船乗りでもあるわ』

 伝説の海賊王の愛船に、たとえお世辞であったとしてもそう言われて気分を良くしない船乗りがこの共和宇宙に存在するだろうか。
 ダンも内心で悪い気はしなかったが、大人らしくそれを面に出すことはなかった。

「私は、自分がそれなりに腕の立つ人間だと知っていますし、腕の良い船乗りであるとも知っていますよ。そして、それがあの人達には逆立ちしたって及ばないことも。だから、自分の役割というものも弁えているつもりです。それが悔しくないと言えば嘘になりますが……」
『大丈夫よ、だってあなたはあの二人の血を受け継いでいるんだもの。大器晩成っていう言葉、聞いたことはない?』

 ダンは正しく苦笑した。これでも自分は不惑を迎えた大人なのだし、自分の腕一つでそれなりに名の知られた会社を興したのだ。それでも目の前の淑女には、まだまだ小粒に見えるのだろうか。
 見えるのだろう。何せ比較対象が、あの規格外の怪獣夫婦である。あれと比肩するためには、マクスウェル運送をクーアカンパニーの運送部門よりも大きくしてようやく一歩目といったところか。
 先の長い話だと、ダンは溜息を吐き出した。

「それではそちらに連絡橋を出します。ドッキングのタイミングはあなたに任せますので」
『ええ。そういえば、そっちには腕のいい操縦士さんがいたのよね』

 ダンは大いに頷いた。自分の器があの二人に敵わないのは仕方ないが、しかしこの船を動かすスタッフの素晴らしさは、この共和宇宙の全ての船に勝ると確信している彼であった。



 果たして荷物の移し替えは滞りなく終了した。
 両船の相対速度を合わせて繋がれた連絡橋を、四人の荷物は歩いて通った。
 全ての作業が完了したことを確認した《ピグマリオンⅡ》は、航海の幸運を祈る旨のメッセージを残し、来た道を引き返していった。ダンの言葉が正しいならば、今から付近のオアシスで短い休暇を楽しむのだろう。彼らには明日の仕事が待っているのであり、自分達の手を離れた厄介ごとに思考を裂き続けるなどという贅沢が出来る身分ではない。
 そして、彼らからの全てを預かったダイアナは、自分の体内に招き入れた客人達に、丁寧な挨拶をした。

『ようこそ、宇宙船《パラス・アテナ》へ。歓迎するわ、皆さん』

 操縦室の大型スクリーンの前に並んだ四人に、そう言って笑いかけた。
 うちの三人は、ダイアナにとっても馴染みの顔である。だが、一つは今が初めて見る顔だった。

『ええっと、とっても失礼な話なのだけれども、一つだけいいかしら』

 自分に視線を寄越されているのを感じて、初めて見る顔の持ち主である巨躯の男が頷いた。

「どうぞ、俺に答えられるものならなんだって。だが、本当に人間かっていう質問はなしだ。これでも、一応は男なんだ。あんたみたいな美人にそんなことを言われたら、その、なんだ、ちょっと傷付く」

 大男が、小さい目を悲しそうにして言った。
 ダイアナは一瞬目を丸くして、それからくすくすと笑い始めた。

『いつもいつも、どうにも人間離れした人達ばかり見ているから、そういう人並みの反応が新鮮でたまらなく可愛らしいわ。安心して、大きな人。あなたは、あなた以外の三人に比べれば、十分に人間をしているみたいだから』
「比較の対象が悪いな。それじゃあちっとも安心できん。それで、あんたの聞きたいことは?」
『どうすればそんなに大きな体になれるのかしら?わたしの知り合いに、自分の体が両親に比べて小さいことを悩んでいる、可哀相な子供がいるのだけれども、是非教えてあげたいわ』

 その子供が今のダイアナの言葉を聞けば、果たしてどんな顔をしただろう。だが、ダイアナは嫌みや皮肉でこんなことを言っているのではない。完全な親切心だったのが分かるから、きっと何とも複雑な顔をしたに違いなかった。
 そして、ダイアナの質問に、身長二メートル三十センチ超体重二百キロ以上の巨漢は、手を顎に当てて考え込んだ。

「……それもよく言われるんだが、俺にもよくわからんのだ。親父もお袋も、人並みか少し小さくくらいだったのにな。栄養状態が特別良かったわけでもなし。特殊な重力環境に生まれ育ったわけでもなし。俺が誰かに教えてもらいたいくらいだ」
『そう、残念だわ。あなたの人生を詳しく紐解けば、人類という種の平均サイズを五割増しに出来るのかも知れないけれど、それはまたの機会においておきましょうか。とても興味深い命題ではあるのだけれどもね』
「ああ、そいつはとても素敵だな。そうすれば、俺一人が化け物みたいに見られなくてすむわけだから」

 まんざら冗談でもなく、巨漢の男は頷いた。
 それを不思議そうに眺めてから、ダイアナは他の三人を等分に眺め、

『ごめんなさいね、天使さん達。また、あなた達の力を借りなくてはならなくなったの。いつか、この恩は必ずお返しさせてもらうわ。だから、この船の乗組員さん達を、どうか助けて頂戴』

 三人の天使のうち、金色の髪を持つ少年が、はっきりと頷いた。



[6349] 第六十七話:ケンカ
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:e4618131
Date: 2011/07/30 20:28
 インユェはテーブルに駆け上がった。
 林立していた酒瓶やら、まだ湯気の立っている料理やらが蹴り飛ばされ、盛大な音を立てて中身をぶちまけた。いくつかの皿はそのまま地面へと落下し、乾いた音とともに割れ砕けた。
 すわ何事か、また揉め事かと、いくつもの視線がそのテーブルに集中した。その視線の先で、銀髪の少年は、鬼のような形相のまま金髪の少年を睨め下ろしていた。
 荒事には慣れたインユェである。睨むだけで済ませるはずがない。テーブルの上に立ったインユェは、黒髪の青年と壁の間に挟まれて満足に身動きできない金髪の少年の顎を目がけて、思い切りに右足を蹴り上げた。
 その様子は、フットボールの試合で、ペナルティキックを蹴るエースストライカーにも似ていた。ただその目標がボールではなく形のいい顎先であり、蹴り飛ばすためではなく粉々に砕くためだっただけの違いである。
 寒気のする音を立てて、つま先は宙を疾駆した。当たれば命に関わるような速度で、金髪の少年を狙っていた。だが、少年はインユェ以上に荒事には慣れていたのだし、謂われのない暴力を黙って甘受するような精神は、生まれたその日から今日に至るまでたったの一度も持ち合わせたことはなかった。
 金髪の少年は首を横に捻り、インユェの蹴りを躱した。右足は空しく宙を蹴り、柔らかな金髪を数本引きちぎっただけで、そのまま高いところまで浮き上がった。
 
「ちぃっ!」

 短い舌打ちが響き、インユェの体が大きく揺らいだ。当然だ。インユェは、確実に当たると思って、満身の力を込めて蹴ったのである。当たらなければバランスの一つも崩れるのだし、それが不安定なテーブルの上なら尚更である。
 しかし、柔軟で、それでいて体幹の鍛え込まれたインユェの体は、強引にバランスを取り戻し、振り上げた右足をそのまま凶器に変えることを可能にした。足の裏が天井を向くくらいに高くなった足を、金髪の少年の頭頂部目掛けて、今度は思い切り振り下ろしたのだ。
 インユェが今履いているのは、底の固い革靴である。その踵部分を鈍器として使用するということは、速度と硬度を考えれば、金属バットを思い切り振り下ろすのと変わらないだけの威力がある。
 まともに当たれば、頭蓋骨が陥没してもおかしくはない。
 やはり、相手を痛めつけるための技ではなく、命を奪うための一撃であった。
 だが、必殺の一撃は容易く空を切った。
 今度は、金髪の少年が躱したのではない。躱すまでもなく、インユェの踵は目標を見失っていた。
 インユェは、自分の視界が大きく揺らぎ、天地が反転したのを認識した。では何故自分がそんな状態になっているのかというと、全く見当もつかない。殴られた衝撃も、銃撃された痛みもなく、体が宙を泳いでいる。
 一瞬遅れて、インユェは自分の左足首を掴む強い力を認識した。そして、ぶらぶらと逆さまになった自分を眺める、人間離れした巨人の顔も。

「随分と元気がいい子供だなぁ」

 インユェは、自分が片手で持ち上げられているのだと分かった。まるで猟で捕らえられた野兎のように。
 冗談ではない。いくら小柄とは言え、自分の体重は50キロ近くあるのだ。それを片手で、こうも無造作に易々と持ち上げるなど、人間に許された膂力を越えている。
 唖然と我を忘れかけたインユェだったが、先ほど胸中を焼いた怒りの熾り火が彼を現実に引き留めた。自由の利く右足を十分に引き絞り、男の顔を思い切り蹴り飛ばしたのだ。
 これには流石の大男も怯んだのか、左足をあっさりと離した。
 空中で自由になった体を翻し、軽業師さながらの様子で通路に着地したインユェだったが、得意になっている暇はなかった。低い体勢のまま見上げた大男は、まるで猫の尻尾が擽った程度の表情で、頬の辺りを撫で回していたのだから。
 つまり、あの男は自分の蹴りに怯んだのではなく、敢えて手を離しただけということだ。自分の満身の力を込めた一撃が、何の痛痒も与えていなかったということだ。
 象のような大男は、戦慄を覚えたインユェを見下ろしながら、のんびりとした調子で口を開いた。

「おお、いてえな。命の恩人に向けて、ずいぶんなご挨拶だ」

 ちっとも痛みを感じさせない声で、そう言った。
 インユェは、戦慄に引き攣りそうになる頬を何とか宥め賺しながら、辛うじて不敵と呼べる表情で、

「……命の恩人?あんたが?それはあんたの隣にいる、お嬢様みたいなガキにとって、だろう?」

 巨躯の男はくすりと笑った。象か大型の熊が笑ったような、太い笑みだった。

「いいや、違うね。紛れもなく、俺はお前のにとっての命の恩人だよ。気が付いていないのかい、今まさにお前さん、三途の川を渡るところだったんだぜ?」

 何を馬鹿なことを、と鼻で笑おうとしたインユェだったが、それは見事に失敗した。
 先ほどから感じる、はっきりとした殺意の籠もった視線が、インユェから言葉を奪ったのだ。
 まるで自分と同じような銀色の髪に紫色の瞳をした、こちらもやはり少女が裸足で逃げ出すほどに整った容姿の少年が、席から立ち上がり、無表情を装った怖い視線で自分を見ている。口元には柔い微笑が浮かんでさえいるが、何かを握り込んだ手には、紛れもない死に神の気配があった。
 それに、金髪の少年の隣に座った黒髪の青年も、苦笑めいた笑みを浮かべてはいるがただ者ではない気配を放っている。それは、インユェにとっての殺意の対象であった金髪の少年自身も。
 つまり、ここにいる四人が全員、相当の手練れだということだ。
 インユェは、ごくりと唾を飲み下した。心地よく回っていた質の高い酒精の悉くが、少年の体内から姿を消したようだった。

「へぇ、そりゃどうも。助けて頂いてありがとうございますと地面に這いつくばればいいのかよ、おっさん」

 掠れ、ひび割れたインユェの言葉に、

「おっさんとは酷いな。俺はこれでもまだ二十代だ」

 大男が傷付いた口調で言った。
 インユェは、表情にこそ出さなかったものの驚いた。大男をよくよく見れば、顔を作る一つ一つのパーツはそれなりに若々しく、物騒な光を帯びた小さな瞳は意外に透き通っているのに、しかしそれらを一体として見ると到底二十代の若者には見えない。厳めしい風貌と相まって、現場の経験を積み任務と訓練に熟達した三十代半ばの猛者といった風情だ。
 その落差は、おそらく男の巨躯から滲み出る凄みが作り出しているのだと、インユェは思った。今まで彼が出会った人間の中にも、年不相応の気配を放つ者は、皆そうだったのだ。有り体に言えば、修羅場を潜っているということだ。
 自分には荷が重いか。そう思うインユェがいる。そして、それはおそらく正しかった。
 だが、だからどうしたと思うインユェがいる。ここで尻尾を巻いて逃げ出して、どうするのか。今日を生き延びてどうするのか。どうせ、自分は絶望的なまでに一人なのだ。明日を惜しむ命ではない。
 インユェは、捨て鉢な笑みを浮かべた。こいつらが何者なのかは知らない。どうして今更、ウォルの婚約者がこの星に来たのか知らない。だが、ここまで生き恥を晒しておいて、あいつの婚約者連中に殺されるなら、それはそれで似合いの死に様かも知れないなと、破滅的な欲求に駆られた。
 腰に隠しているナイフに手を伸ばす。すると、銀髪の少年の殺意が、飛躍的に跳ね上がった。おそらく自分は、刃物を手にして飛びかかる前に、あの手に握り込まれた何かに打ち落とされるのだろう。
 それはむしろ、望むところであった。詰まるところ、インユェは死に場所を探していたのだ。
 だが、インユェの望みは達せられなかった。インユェが飛びかかる寸前、そして銀髪の少年が何かを撃ち込む寸前に、金髪の少年が、心底不思議そうに言ったのだ。

「なぁ、お前、どうしてそんなに窮屈そうなんだ?」

 つま先に力を込めていたインユェは、思わず前のめりに転びそうになった。
 何とかしてそれを堪えた。そして、寸でのところで自分の望みを邪魔した少年を、殺意を込めた視線で睨み付けた。

「おい、そこのチビ。どういう意味だ、そりゃ。俺が窮屈そう?間の抜けたことを抜かしやがって。てめぇ、今の状況が分かってるのか?」

 インユェは、既に抜いていたナイフの切っ先を、金髪の少年に向けた。無論、二人の距離は短い刃物の届くような間合いではない。それでも、刃先を向けたのだ。それは、世間の常識で考えれば警察沙汰になって当然の行いであるし、世間の常識が届かない世界の常識ならば、生き死にを賭けた戦いの合図である。
 銀髪の少年は、いつでも握り込んだ鉛玉を弾く用意が出来ていた。自分の主である金髪の少年に対してこれほどの無礼を働いたインユェを見逃すつもりなど、毛頭なかった。
 しかし、金髪の少年は、銀髪の少年の腕を、優しい調子で押さえた。

「やめとけ、シェラ」

 銀髪の少年は、大いに心外そうな顔を浮かべた。

「しかしリィ」
「よく見ろよ。相手はただの子供だぞ」

 インユェの頬が、ぴくりと痙攣した。
 
 ──ただの、こども。

 その言葉は、どんな刃物よりも鋭く痛く、インユェの心を抉った。
 そうだ、自分はただの子供だった。姉ほどの腕っ節があるわけではない。あの大柄な女ほど義侠心があるわけでもなく、あの機械女みたいに頭が切れるわけでもない。
 ただの子供だ。無力で、弱っちくて、守られるしか出来ない、子供。
 自分が子供だったから、あいつを守ることが出来なかった。自分がもっと強ければ、あいつがくだらない儀式の生け贄に捧げられることもなかった。
 全て、自分が子供だったからだ。だから、あいつは死んだんだ。殺されたんだ。
 赤い衝動が、インユェの視界を満たした。それはエンジンに注がれたニトログリセリンのように、彼の体を加速させ、焼き付かせた。
 刃物を構えたインユェは、訳の分からない叫びを上げながら、金髪の少年に飛びかかった。その澄ました顔を、ずたずたにしてやろうと思った。

 殺す。

 殺してやる。

 あの銀色が何を持っていて、どう自分を殺そうと構うものか。致命傷を喰らっても、その瞬間にくたばるわけじゃない。意識が途切れる前に、目の前のこいつだけは道連れにしてやる。
 殺意が無限の奔流となって脳髄を駆け巡っている気がした。こいつを殺せるなら、悪魔に魂を売ってもいいと思った。

 しかし。

「はい、そこまでね」

 インユェの体が空中で捕らえられ、そのままテーブルに叩き付けられた。ナイフを突き出した腕は、到底荒事には向いているとは思えない細い腕に絡め取られ、肩関節を極められて、棒のように天井に向けて捻り上げられていた。
 自分が溢した料理やら酒やらの上に押しつけられたインユェは、顔も髪の毛も服も、全てがどろどろに汚れていた。しかし、そんなことは彼の意識には遠すぎた。彼はまだ、金髪の少年への殺意で構成された生き物だったのだ。
 インユェは必死に顔を上げ、自分を押さえ込んでいる人間の顔を見た。それは、まるであの少女のように美しい黒髪をした、青い瞳の青年だった。その青年が、悪戯好きの子供に手を焼くように、苦笑いを浮かべながら自分を見ていた。
 その表情が、インユェには許し難かった。
 怒っているなら許せたのだ。憎んでいるなら、疎んでいるなら、許せたのだ。しかし、その表情だけは許せない。
 インユェの胸中に、新たな殺意が沸き起こった。どいつもこいつも、俺の邪魔ばかりしやがる!

「邪魔すんじゃねえ!すっこんでやがれ、この女男が!」
「うん、邪魔はしないよ。でも、これは、子供のケンカには少し危ないから、取り上げておくね。返して欲しかったら、少し頭を冷やしてからぼくのところに来るように」

 そう言って、インユェの手からナイフをもぎ取り、テーブルに向けて振り下ろした。
 どん、と音が鳴った。そして、振り下ろされたナイフは今や、柄の部分しか見えなくなってしまっていた。
 いくらも力の入れていない様子だったのに、刃の根本付近までナイフがテーブルに埋もれてしまっている。インユェはその様子を唖然と見た。
 あり得ない。
 いったいどれほどの力を込めれば、頑丈なテーブルに、一撃で、こうも深々と刃を埋め込むことが出来るのか。
 外見からは到底想像の及ばない、常識外れの腕力だった。

「さぁ、後はただのケンカだよ。きみの気の済むまですればいい。ただ、一言だけ忠告しておくと、エディは素手でも強いよ。やるなら手加減無しで、全力でいきなさい」

 にこにこと笑いながら言って、肩関節を極めていた手を離した。
 あっさりと介抱されたインユェは、ナイフを奪われても、その怒りを収めることはなかった。先ほどの勢いそのままに、立ち上がり、金髪の少年に殴りかかった。
 それでも先ほどと違うことがあるとすれば、既に金髪の少年も立ち上がっていたことだ。インユェと同じくテーブルの上に立ち、その拳を迎え撃った。

「しぃぃっ!」

 気合い一閃、様子見とか手加減とかの不純物の籠もらない、一直線の拳が金髪の少年を襲った。
 真ん中、真っ直ぐ、真正面の一撃である。そして、とても速い。到底子供の繰り出した突きとは思えない一撃だ。
 インユェの全体重の込められたその拳を、金髪の少年は、躱そうとはしなかった。腕でガードしようともしなかった。しかし巧みにその拳を受け止め、捻り、勢いそのままに、インユェを投げ飛ばした。
 インユェの体は容易く宙を泳ぎ、席の後ろの置かれた観葉植物に激突した。植物のへし折れる音がしたのと、インユェが通路に叩き付けられたのが全くの同時だった。
 辛うじて受け身に成功したインユェは、憎悪を込めた視線で、テーブルから通路に着地した金髪の少年を射貫いた。
 それは、狂犬病に冒された野犬の目つきだった。
 その視線を正面から受けて、しかし少年の碧色の瞳にはさざ波程度の動揺もなかった。

「来いよ、これはただのケンカだ。命のやり取りでもなければ、誇りを賭けた戦いでもない。ただの殴り合いだ。おれを殴りたいんだろう?お前の好きなようすればいい」

 金髪の少年は、あくまで涼やかに言った。箸より重たいものを持ったことがないように繊細な指先をくいとしゃくり、インユェに立ち上がるよう要求した。
 インユェは、ゆっくりと体を起こした。整った顔に、べったりとした嫌らしい笑みを貼り付けていた。

「ひ、ひひ、いいじゃねえか、お嬢ちゃんよ。お前はそう思ってろよ。これがただの喧嘩だってよ。ガキ同士のじゃれ合いだってよ。それでも、俺は、お前を殺すぜ。お前が俺を殺すつもりが無くても、俺はお前を殺す。ぶっ殺してやる」

 金髪の少年は、手を腰に当てながら、うんざりしたような溜息を吐き出した。

「あのなぁ、お前。さっきからガキだのお嬢ちゃんだの言ってくれるけど、自覚はあるか?おれに言わせれば、お前だって似たようなもんだぞ。だから、他の人間から見れば、これは子供同士の可愛らしいケンカにしか見えないんだ」

 巨躯の大男と黒髪の青年が同時に頷いた。

「それと、あまり殺す殺す大声で言わない方が良いんじゃないかな。別に、今のお前がおれを殺すつもりがないとは言わないけどさ、そういう脅し文句は自分の価値を下げるぞ。やるべき時は、無言で、あっさりとやった方が良い。その方が凄みがあるってもんだ」

 今度は銀色の髪の少年が深々と頷いた。何か、実体験としてありそうな顔つきだった。

「まぁ、そこらへんを理解した上で、殺すつもりがあるならかかってこい。お前の気が済むまで相手してやる」

 冷ややかな碧色の視線を受けて、インユェの思考は極限まで熱せられた。

 ──虚仮にしやがって!

 殺す。殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 今更この星に来て、何様のつもりだ。もう、ウォルはいないんだ。死んだんだ。犬の餌になっちまったんだ。今頃は犬の糞になって、土の中で微生物に分解されているだろう。あと何ヶ月かしたら、その土から美しい花でも咲くのだろうか。
 婚約者のお前が、あいつをしっかりと守ってやらなかったから。あんな冬山に置き去りにしたから。
 そうだ。こいつは、あいつを置き去りにした卑劣漢だ。それなのに、のこのこと、恥ずかしげもなくこの星に来やがった。
 そんなやつに、殺されてたまるか。そんなやつを、生かしておいてたまるか。
 インユェは、掌に握り込んだものを、目の前の少年に向かって投げつけた。それは、ひっくり返った植木鉢から溢れた土だった。
 土は空中で細かい粒になり、少年の顔を襲った。少年は、手で顔を庇った。

 ──もらった!

 インユェの頬に切れるような笑みが浮かんだ。少年の腹ががら空きだ。そこに、革靴のつま先で前蹴りをぶち込んでやる。鳩尾に上手く刺されば、悶絶程度では済まない。反吐を吐き散らしながら、壊れたブリキ人形みたいにぎくしゃくとした動きで床を転げ回るのだ。もしかしたら、内蔵が破裂してくれるかも知れない。苦悶に目を見開き、涙を流しながら断末魔の嗚咽を溢すのだ。
 それは、とっても愉快だ。目の前の整った顔が、そんな惨めなことになれば、どれほどスカっとするか。

 死ね。

 死んじまえ。

 必殺の意思をもって放たれた蹴りは、しかし、先ほどの拳と同じく金髪の少年に触れることはなかった。
 金髪の少年は、あらかじめインユェの攻撃を予測していたかのように一歩下がり、限界まで伸びきった蹴り足をひょいと掴んだ。そして体を躱しながら一歩前に出て、残った軸足をいとも容易く蹴り払った。
 インユェの小さな体は為す術もなく宙に浮き、後頭部から、タイル張りの通路に激突した。
 インユェは、目の前に白い星が明滅するのを見た。
 一瞬、意識を失った。そして、自分がどれほど無様な格好を晒しているのか気が付いて、かぁと頭に血を上らせた。
 駄目だ。立ち上がらなければならないと思う。立ち上がって戦わなければならないと思う。
 しかし、体と思考を繋ぐ線が、どこかでぶつりと断線している。意識が体を支配することが出来ない。体が意識に対してちっとも反応してくれない。
 
 まるで木偶だ。
 
 ちくしょう。
 
 必死に足掻くインユェの顔に、凄まじい勢いで金髪の少年の足が振り下ろされた。倒れている相手に一番効果的な攻撃、顔面への踏みつけである。
 インユェは、為す術もなく、少年の足の裏を見上げていた。
 そして、轟音。爆発音にも似た音が、広い店内に響き渡った。
 インユェの顔の横のタイルが、少年の足のかたちに陥没していた。
 インユェは、震えながら目を剥いていた。今、振り下ろされた足が、もしも自分の顔を直撃していたら、自分は生きていなかっただろう確信があった。

「はい、これで一回死んだな、お前」

 金髪の少年は、脇に抱えていたインユェの足を、無造作に放した。
 
「まだやるか?」

 少年は気安く言った。恐怖にがちがちと歯を鳴らすインユェを見下ろしながら、優しささえ感じさせる調子で言った。
 その声が、萎えかけたインユェの怒りに風を送った。
 馬鹿にするなと思った。今に見ていろ、その余裕綽々の顔を、血と涙と涎でぐしゃぐしゃに変えてやると思った。
 ようやく自由を取り戻した体を、インユェはいきなり酷使した。倒れたままの体を腕力だけでぐいと前に押しだし、自分を見下ろす金髪の少年の両足を、横から蹴りにいった。
 果たして蹴りは当たった。しかし、少年の体は、大地に根を張った巨木のように小揺るぎもしなかった。むしろ、蹴りを当てにいったインユェの足がびりびりと痺れるほどだった。

「くぁっ!」

 苦痛の呻きを上げながら、後方に飛び上がるような体勢で、インユェは立ち上がった。
 ぜぇぜぇと息が荒い。額から、大きな汗の粒が垂れ落ちている。
 少年のほうといえば、こちらはあくまで涼やかな顔つきだ。
 その余裕が、インユェにはどうしても気に入らなかった。今度はしっかりとファイティングポーズを構えた。

「ちぃっ!」

 気合いと共に息を吐き出し、リズムを付けてから一歩踏み出す。
 牽制のジャブを放ち、それを目くらましにして太股に蹴りを当てる。だが、細身の少年はやはり小揺るぎもしない。見た目は少女のように華奢な体つきなのに、中に詰まった肉の固さが尋常ではない。
 まるで強化ゴムにくるまれた大岩を蹴りつけているような感触だ。
 
「っくそがぁ!」

 何度蹴っても駄目だ。自分の蹴りでダメージを与えられる脚ではない。インユェは理解した。
 ならば、他の方法を選ぶだけだ。どんな頑丈な人間でも、急所を痛めつければ必ず倒せる。
 蹴り足をそのまま下ろし、一気に間合いを詰めた。蹴りや突きの間合いではない。肘や膝、頭突きの間合いだ。
 瞬間、インユェは肘を選択した。それは、目の前の整った顔のど真ん中に、思い切り肘を叩き込んでやりたいという欲望からだ。
 腕を折りたたんで尖らせた肘を、真横から振り打つ。頬骨に当たれば、そこをへし折る一撃だ。
 金髪の少年は、上体を沈めてその一撃を躱した。空ぶった肘の起こした風が、浮き上がった少年の柔い金髪の幾本かを引きちぎった。

 ──分かってるんだよ、その程度のことは!

 これが当たるぐらいなら、さっきまでの攻撃が悉く通用しないはずがないのだ。躱されることは十分に想定していた。
 インユェはほくそ笑んだ。その端正な口元に、獰猛な笑みが浮かんだ。
 空ぶった肘を伸ばした。その腕で、しゃがんだ少年の頭部を絡め取り、脇の下に抱えてやった。そのまま、腕を持ち上げるように、思い切り締め上げた。
 決まったと思った。腕は少年の細首にしっかりと食いついている。このまま締め上げてやれば、すぐに意識を失う。締め続ければ、脳みそは酸素を食い尽くして、悲鳴を上げ、そのままお陀仏だ。

 俺の、勝ちだ!

 インユェの体を歓喜が貫いた。
 だが。

「よっこいしょ」

 金髪の少年は、首を絞められているとは思えないほどにのんびりとした声を出し、インユェの腰を両手で抱え上げて、そのまま後方に投げた。
 後頭部から落とされそうになったインユェは、慌てて少年の首を絞めていた手を解き、受け身を取った。
 そして、そのまま地面に衝突した。

「つあぁ!」

 思わず苦痛の叫ぶ声が口から漏れる。頭を庇って地面と直接ぶつかった腕の肉が、ぐしゃりと潰れたようだった。この分では、骨に異常があってもおかしくない。
 蹲ったままのインユェを、平然とした様子で立ち上がった少年は、無感動に見下ろしていた。

「見よう見まねだけど、上手くいったな。前にテレビで、こういう試合を見たんだ」
「……」
「一応言っとくけど、お前を頭のてっぺんから落とすのも簡単だったんだぞ。要するに、これで二回目だ」

 不機嫌そうに言った。
 その程度のこと、インユェにもよく分かっている。そして、二回目という言葉の意味も。
 苦痛を噛み殺しながら、インユェは立ち上がった。
 彼の、灼け付くような憎悪の視線に晒された金色の少年は、ぶっきらぼうに口を開き、

「よく考えれば面白いな、この世界は。銃やロッドを使った戦いよりも、むしろ素手での戦いの技術のほうがよく発達している。あっちの世界にはそういうのはあまりなかったし、一度本格的に勉強してみるのも良いかも知れない」
「いいぜ、リィ。こういうのに興味があるなら、俺が教えてやるよ」
「本当か、ヴォルフ。いいな、すごく助かるよ」
「止めて下さい、あなたと陛下が本気で素手の戦いを勉強したら、止める方が今度こそ命がけになります」

 銀色の少年が、ぴしゃりと言った。
 金色の少年は不服そうに唇を尖らせながら、

「なんだ、結構根に持つな、シェラは」
「あれで根に持たない人の方がおかしいのです。ヴォルフ、あなたもです。この人に危険な玩具を与えないように」
「ちぇっ。ちょうどいいスパーリングパートナーが出来たと思ったのになぁ」

 まるで、インユェのことなど忘れてしまったように、三人で話した。闘争の最中だとは思えない、暢気な調子で。
 なるほど、なるほど。
 こいつらにとって、俺はその程度の価値しかないってことかよ。
 無駄口を叩きながらでも十分に相手が出来るってことかよ。
 
 ──馬鹿にするな!
 
「うおぉぉっ!」

 もう、小細工は無しだった。
 インユェは、雄叫びを上げながら突っ込んだ。全身を砲弾に変えて、頭から金髪の少年の体にぶつかっていった。そのまま店の壁に叩き付けるつもりでぶつかった。
 だが、金色の少年は、さすがに少し後ずさりはしたもの、真正面からインユェの体を受け止めた。受け止め、上から体重をかけて、そのまま床に押しつぶした。
 インユェはたまらず四つん這いの姿勢になった。金色の少年はそれに覆い被さっているような体勢だ。
 そして金色の少年は、膝でこつんとインユェの頭を叩いた。思い切りではない。こつんと、優しい父親が子供の頭にげんこつを落とすくらいの力で。

「これで三度目だな。いい加減にしろよ、もう分かってるだろう、お前だって」

 インユェは、呻き声を漏らすことすら出来なかった。
 インユェを解放した金色の少年は、ズボンの埃を払いながら立ち上がった。
 インユェは、立ち上がらなかった。立ち上がる気力を持っていなかった。へたりこんだまま、虚ろな視線で目の前の床を見つめて途切れ途切れに息を継いでいた。

 ──強い。

 この、少女よりも華奢に見える小さな体が、まるであの無敵の姉のように、強靱で、柔軟で、巧緻で、何より強い。
 到底、自分に太刀打ちできる相手ではない。美しい見た目は擬態だ。これは、姉と同じ、人の領域をはみ出した存在だ。
 どうしたって、勝てないんだ。
 勝てない。勝てるはずがない。
 そうだ。そんなことは、最初から分かっていた。
 
 ──だからどうした!

 知っていたさ。こいつに敵わないことなんて、見た瞬間に分かっていた。自分が逆立ちしたって勝てない相手だって、とうの昔に気が付いていた。
 だからといって、負けられるか!
 こいつは、あいつを見捨てたんだ。まるで、俺がそうしたみたいに。
 一番大事な時に、あいつの傍にいなかったんだ。こいつのせいで、あいつは死んだんだ。こいつは、俺よりも、もっともっと、強いのに。
 もしかしたら、あいつを助けられたかも知れないくらい、強いのに。
 なら、どうして助けてくれなかった。どうしてあいつを見捨てた。
 許せるのか。それを、許して良いのか。
 駄目だ、そんなの、許せるか!

「どうして……!」

 顔を起こしたインユェが、凄い視線で金色の少年を睨め上げながら、呟いた。歯を噛みながら呟いた。灼熱の砂を噛むように、呟いた。
 金色の少年が、怪訝な顔をした。

「なんだって?」
「どうして、どうして俺じゃなくて!」

 ──てめぇなんだ!

 あいつの、婚約者が!

「どうしててめぇじゃなくて!」

 ──俺だったんだ!

 あの時、あいつと一緒にいたのが!

 どちらでもいい。どちらかがずれていれば、諦められたのに。忘れることが出来たのに。これからも、面白おかしく生きていくことが出来たのに。
 インユェは、床を殴りつけながら叫んでいた。癇癪を起こした幼子のように。
 それは、彼自身の心の傷を掻き毟る、悲痛な声だった。

「お前……」
 
 金色の少年が、何事かを言おうとした、その瞬間。
 乾いた音が店内に響いた。その、爆竹の破裂したような音は、その場にいた全ての人間にとって、あまりに聞き慣れたものであった。
 
「つぅっ!」

 インユェが呻き声を上げた。服の肩の辺りが破け、血が滲んでいた。
 体を起こしたインユェは、音の源、店の奥の方を睨み付けた。そこには、鼻の骨を陥没させた、四十絡みの男が、拳銃を構えながら立っていた。
 先ほど、インユェに手酷く痛めつけられた、男だった。
 目つきが、尋常ではなかった。かっと見開かれた目は大きく、その中心に小さな黒目が浮いている。四白眼の凶相だった。完全に理性を飛ばした顔つきだった。
 その男が、顔の下半分を血塗れにして、ヤニで黄ばんだ前歯に血の橋を架けながら笑っていた。

「この……糞餓鬼が……ぶっ殺してやる……!」

 鼻の穴を大量の血液に塞がれて、はぁはぁと荒い息を口で継ぎながら、言った。声も、どこか間の抜けた様子で籠もる声だった。
 インユェは、弾かれたように体を起こした。このまま蹲っていては、ただの的だ。
 殺されるのは構わないが、あんなチンピラ風情に殺されてやるほど安い命ではない。この命は、あの少女にもらったものなのだ。
 一刻も早く命を捨て去りたい気持ちと、少しでも長く生きなければならないという覚悟が、等分にインユェの内に存在していた。そして、その二つは何ら矛盾を生じるものではなかった。
 インユェは店の外に向かって一目散に駆けた。

「待て!お前、ウォルのことを知っているんだろう!」

 金色の少年の声を背後に聞きながら、インユェは振り返った。

「誰が知るか、そんな女のこと!」
「逃がすか、糞餓鬼が!」

 発砲音が数度、響いた。
 インユェは体を貫く苦痛を覚悟したが、痛みはやってこなかった。代わりに店の置物や窓ガラスの割れる硬質な音と、

「ぎゃっ!」

 背後から、やくざ男の苦悶の声が聞こえた。
 インユェは、もう振り返らなかった。全速力で走った。店を飛び出て、自分の体を夜風に変え、喧噪と猥雑に塗れた夜の街へと姿を消した。



 果たして、自分は何者だったのか。
 腐汁に塗れ、どろどろの肉塊になったそれは、考えた。一日のうちに僅かに訪れる、人としての思考の許された時間を使って考えた。
 暗く日の光も差さない牢獄に蹲り、体中に蛆と黒蠅を集らせて、それでも考えていた。常に胃を締め付ける腹の虫に苛まれ、今日の出来事も忘れていく脳髄に絶望し、それでもそれは必死に考えた。
 自分は、何だったのか。どうしてこんなところにいるのか。
 今日の食事の残りが、床に転がっている。それは、細長く、先端が五つに枝分かれして、細かく折れ曲がっていた。切断面は真っ赤に染まり、その中心に白くて固い何かがあった。
 それを拾い上げ、がじがじと囓る。最初はその部分ももっと大きかった気がするのに、最近はどんどん小さくなってくる。それに、この部屋もどんどん狭くなっている気がする。このままでは、俺の体を押しつぶすようではないか。俺の体がこの部屋にみっしりと詰まり、真四角に整形されてしまうではないか。
 ああ、それはなんと絶望的な未来予想図だろう。四角になり、体中からたらたらと腐った膿を垂れ流す肉の塊は、果たして人間と呼べるのだろうか。
 人間だ。俺は、人間だ。
 少なくとも、人間だった。
 しかし、それ以上のことが分からなくなりつつある。
 人間の、何だったのだろう。人間。ああ、人間!
 そうだ、俺は、人間だった。人間で、そして、至高の存在だったのではないか。
 他者を傅かせ、支配し、導く存在。
 
 王。

 そうだ、俺は王だった。

 この世界で、最も輝かしく、祝福された存在だった。

 誰しもが俺の眼前に跪いた。俺に逆らえる存在なんて、一人だっていなかった。俺は全てを支配し、全てを靴底で踏みにじってやった。
 では、何故俺はここにいるのか。こんな暗くて臭くておどろおどろしい場所で、真四角に整形されるのを今や遅しと待ち侘びているのか。
 何かを、手に入れようとしたのだ。
 それは、何だったのか。
 イメージは、太陽だった。赤く、猛々しく輝く、巨大な熱の塊。太陽を体現する、何か。
 一度はこの手に入れたのに。それがするりと抜け落ちた。
 駄目だ。あれは、俺のものだ。だから、何としてももう一度、この手に。
 そう、願った。誰かに懇願した。

『いいだろう、──。お前の望みを叶えてやろう』

 誰かに、乾いた声でそう言われた。
 その顔を思い出せない。その声を思い出せない。俺を何と呼んだのか、思い出すことが出来ない。そもそも俺に、名前などという上等なものがあったのか。
 だが、その台詞に、無限の後悔を感じる。
 あれが、分岐点だったのに。俺が俺でいられる、俺が人間でいられる、最後の分岐点だった。
 
 そして、俺は、ここにいる。
 
 ずっとずっと、身体を掻きむしり、腹を減らし、肉の塊を喰らい、大きくなり続けている。人間から外れ続けている。
 こんな思考が許されるのも、いつまでだろう。いずれ全ての人間性を失った俺は、ただ喰らい、ただ糞を垂れるだけの、肉の塊になるのだろう。
 そうすれば、どれほど楽だろう。腐り落ちていく自分を忘れることが出来れば、世界は未だ輝いているかも知れないのだから。
 ならば、早く消え去りたい。早くこの世から消えて無くなりたい。残された肉の塊は、俺ではない何かだ。それは、俺とは無関係のものだ。
 勝手に腕が動き、部屋の片隅で小さく震えていた小動物を掴み、口に放り込んだ。甲高い悲鳴が聞こえた気がしたが、それは性欲を刺激するものではなく、ただただ食欲を沸き立たせるだけのスパイスに過ぎなかった。

 ──俺はいつからこうなったのだろう。

 奥歯で悲鳴の源をすり潰しながら、まだ人間の思考を許されたそれの一部が考えた。
 しかし、口の中を満たす濃厚な肉の味と、下半身だけになってしまった小動物の切断面から見える湯気立つ内臓の旨そうな有様に、それの人間としての一部分はごっそりと削られてしまっていた。
 今のそれにとって重要なのは、ぴくぴくと痙攣する小動物の下半身を、一刻も早く味わいたいという原始的な欲求のみであったのだ。
 
 ──お゛、お゛、お゛……

 化け物が、腐りかけた喉を震わせながら噎び泣いていた。



[6349] 第六十八話:老人と少女
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2011/11/05 15:03
「駄目でしょ、子供にそんな危ないものを向けたりしたら」

 ルウは怒った調子で言った。彼の視線の先で、未だ銃口より硝煙を吐き出し続ける拳銃が転がっていた。
 先ほどまでその銃把を握りしめていたやくざ男は、手首から生えたナイフの柄を呆然と凝視しながら、床に蹲り、低い呻き声を上げ続けていた。

「お見事」

 リィがにやりと笑った。
 ルウは戦いにおいて剣を好むが、だからといって他の武器に慣れないわけでない。名人道具を選ばずを地でいく彼は、弓矢や槍や槌、果ては投げナイフだって使いこなす。
 今も、そちらが本職のシェラでさえが感嘆の溜息しか出ないほどの技量でナイフを投じ、見事的へと命中させた。投じたのは、柄もとまでテーブルに突き刺さっていたあの少年のナイフであり、的は銃を構えたやくざ男の手首であった。
 
「ちくしょう、てめえら、あの糞餓鬼の仲間か……」

 ナイフの突き立った手首を必死に押さえたやくざ男が、苦痛を噛み殺した声で言った。その顔の上半分は脂汗で蒼白に染まり、下半分は生乾きの鼻血で真っ赤に染まっていた。
 綺麗にセットしていた前髪も、大量の汗でべったりと額に張り付いてしまっている。きちんとした身なりならばそれなりの伊達男ぶりなのかも知れないが、こうなっては病院に担ぎ込まれるどこぞの怪我人と何ら変わるところがない。
 
「許さねぇ……この俺を、いったい誰だと思ってやがんだ、このどぐされ共ぉ……」
「知らないよ、そんなこと。それに、言っておくけどぼく達とあの子は全く無関係だからね。少なくとも今のところは」

 ルウは無造作な様子でやくざ男に立ち寄り、その手首に刺さったナイフを強引に引き抜いた。
 男は苦痛の悲鳴を上げたが、血はそれほど溢れたりしなかった。それは偶然ではなく、ルウが主要な動脈を避けて投擲した結果であった。

「ごめんね。でもこれはあの子に返す約束をしちゃったから。それに、もともと悪いのは、あんな子供を銃で狙ったあなただ。いくらあなたがやくざな商売をしていても、最低限の仁義ってものがあるでしょう。しっかり反省するように」

 男の手首を手ぬぐいで縛って止血処置を施したルウは、無慈悲な調子でそう言った。

「神経は傷つけてないから。きちんと手当をすれば、障害は残らないはずだよ。やせ我慢しないで、さっさと病院に行ってね」

 やくざ男の呆然とした顔をのぞき込み、にっこりと笑いながら言った。
 あまりに美しいその笑顔に一瞬心奪われてしまった男だが、直後、屈辱に顔を赤らめて、

「……覚えとけよ、兄ちゃん。てめぇも、てめぇの連れのあの嬢ちゃん達も、もちろんあの糞餓鬼も、歩いてこの街からは出られねえぜ。あの糞餓鬼は、生まれたことを後悔するくらいに痛めつけてから殺してやる。てめぇらは、その綺麗な顔が役立つ商売でこれから生きていく羽目になるんだ。もう二度と日の光を見ることは出来ねえぜ。せいぜい覚悟しておくこった」
「そう?それは困ったな。ぼくは今のところ、男娼をして生きていくつもりはないんだ。凄腕の男娼さんと呼ばれたことはあってもね」

 ルウは、やはり優しげに笑っていた。

「だから、あなたがぼくをそういう商売で働かせようとするなら、すごく困る。うん、こういう時はどうしたらいいんだろうねぇ?」

 にこやかに細められた目の奥の青い瞳が、例えようもない不吉に染まった。職業柄そういった雰囲気には敏感な男が、はっきりと気圧されて唾を飲み下した。
 これは、何だ。
 目の前にいる、なよついた青年はいったい何者なのか。青い瞳の奥にある不吉な何かは、いったい何なのか。男は本能的な恐怖に囚われた。
 だが、男は愚かであった。彼が信じたのは自分の持つ生物的な直感ではなく、今まで培ってきた人生経験──このように腰抜けな風貌の一般人に、やくざな自分が負けるわけにはいかないという自尊心──であった。

「お、覚えとけよ。俺はコンラート一家のマルデロだ。てめえの手首にも、俺と同じような大穴を空けてやる。いや、それだけじゃあ済まさねえ。絶対に自分のしたことを後悔させてやるからな」
「それは忠告をどうもありがとう。じゃあ、ぼくの方からも忠告しておくね。これ以上、ぼく達にも、さっきの子にも関わらないほうがいい。事は、あなたたちみたいな田舎やくざが関われる領域じゃないんだ。これ以上首を突っ込むと、あなたも組も、火傷じゃ済まないかも知れないよ」

 ルウは、マルデロと名乗った男の頬を、繊細な掌ですっ、と撫でた。マルデロは、まるで焼けた鉄を押し当てられたような様子で大きく後ずさり、あたふたと、宙を泳ぐような足取りで酒場から飛び出していった。
 くすりと笑みを漏らしたルウは、自分を見守る二対の瞳に、烟るような笑みで相対した。それは、顔の作りは先ほどまでマルデロに向けていたものと同じなのに、中に含まれた要素が正反対の、人懐こい笑みであった。

「ごめんね。ぼくのせいで、あの子、逃げ出しちゃったね」
「いいさ。あいつの血の匂いは覚えた。この街にいるなら、どこにいても探し出すことが出来る」

 猟犬も裸足で逃げ出す嗅覚を誇るリィがこともなげに言った。
 その程度のことは十分に弁えているルウが、にこりと笑って、直後に不審な表情を浮かべた。

「あれ、シェラは?」
「あの子供を追って行った。やくざ連中ならあいつでも何とかなるかも知れないけど、少し妙な気配もあったし」

 リィは、扉の向こう側に広がる夜の闇を見つめていた。
 その奥に、いくつかの気配があったのを、リィは知っていた。その気配が、走り去った少年とともに、闇の奥に姿を消したことも。
 立ち尽くすリィの後ろで、巨躯の男が、先ほど少年に蹴り飛ばされた頬を撫でさすり、

「リィ、よく分からんが、俺たちはウォルを助けるためにここにいるんだろう?ルウの占いが百発百中なら、さっさとあいつの行方を占って助けに行くべきなんじゃないのか」

 少しだって緊張感の無い、のんびりした調子で言った。

「ルーファ、ヴォルフはこう言ってるけど?」

 リィの言葉に、既にやくざ男への興味を無くしたルウは立ち上がり、首を横に振った。

「無理だよ。この場、この時間軸において、ぼくの占いは何の効力も持たない」
「ふぅん、ずいぶんと殊勝なことだ。まぁ、そもそも占いなんてそんなもんじゃないのかね」

 さも当然というふうに巨躯の男──ヴォルフは呟いた。彼は闇の奥に闇以外の気配を見出すことの出来る才を持っていたが、それ故に人の身でこの世の因果を知ることなど出来はしないことも心得ていた。
 当たるも八卦、当たらぬも八卦というが、それこそが占いの本質であると。
 ルウは、愛しいものを見るように魁偉な容貌の大男を見上げ、緩やかな微笑みを浮かべた。

「少し意味合いが違うかな。ぼくの占いは、常ならそれなりの信頼性があるし、ぼく自身、それなりの自負もある」
「じゃあ、どうしてそれが、あいつの行方を知ることについてだけ使えないんだい?」

 もっともな意見に、ルウは軽く肩を竦めた。

「この場はね、いわば特異点なんだ。本来であれば世界に一人しか存在しないはずの太陽と月が、二人ずつもいる。二つの宇宙が重なりあっているような状態だ。占いを有効とするには、因果律の乱れが大きすぎるんだよ。たとえば、この場この時においては、川が下流から上流に向かって流れてもぼくはちっとも驚かない。これじゃあ、もしも占ってもその結果を信頼することなんて出来やしない。おそらく、王様の死を占ってしまったのも、それが原因の一つだ」

 ヴォルフにはルウの言葉の意味が半分程度しか分からなかったが、そもそも占いは自分の領分でないのだ。そして、その道の専門家がそう断言するならば、その言葉を信じるほかない。
 つまり、先ほどこの店から飛び出した少年を捜すのは、地道な捜索活動以外ないということになる。
 それほど大きな街ではないとはいえ、その中に紛れ込んだ一人の人間を捜すのは想像以上に骨の折れる仕事だ。それに、今は時間が何よりも惜しい。

「しかし、なんて言うか、あれだねぇ」

 ヴォルフが大あくびをした。
 その、カバのように大きく開いた口を、リィは呆気にとられながら見上げていた。

「あれって、どうしたんだよヴォルフ」
「うん、あの子供、本当に、ダイアナさんの言っていた、インユェってぇ子供なのかなって思ってさ」
「どういう意味だ?」
「写真は見せてもらったし、声も覚えてはいる。だが、どうにも同一人物とは思えないんだ。どう言い表せばいいか、俺もよく分からんのだが……」

 奥歯にものが挟まった様子のヴォルフであった。だが、その感覚はリィ自身にもよく分かった。
 リィはうっすらと微笑んだ。

「それはきっと、あんたが良くものが見える人だからだよ。普通の人間なら、間違いなく同一人物に見えるはずなんだ」
「褒められてるのかね、それは。だが、良く見えるから見間違えるってのは、どういうことだい?」
「あんたが見ているのは、きっとあいつの魂の色だ。記録映像で見たあいつの魂は、あれほど薄汚れていなかった。おれだって最初は気がつかなかったくらいだから仕方ないさ」

 リィは笑いを納めて、出口を目指して一歩を進めた。

「だが、あいつは間違いなくウォルのことを知っている」
「ほう、そいつはどうしてだい?あいつは実はインユェなんて名前じゃなくて、顔が似ているだけのそっくりさんって可能性もあるぜ。それとも、あいつが銀盤の月ってやつだからかい?」

 おどけたヴォルフの言葉に、リィは真剣な調子で首を横に振った。

「いいか、ヴォルフ。おれがウォルのことを知らないかって問いかけたとき、あいつはそんな女は知らないって答えたんだぞ」
「だからどうした」
「ウォルってのは男の名前だ、普通はな」

 ヴォルフは納得したのかしていないのか、微妙な表情のままリィの後に続いた。

「ま、どうでもいいさ。それよりまずは一仕事だなぁ。めんどくさいったらねぇや」

 大木の幹よりも太い首が、ごきりと鳴った。



 少女は走っていた。宵闇に染まった街の中を。
 脇腹が、じくじくと痛む。まるで、そこを獣に食いつかれているかのよう。
 息が荒い。心臓が喉から飛び出そうだ。垂れ落ちる汗が目に入って、何とも塩辛くて不快だ。
 どうして、自分はこんなところで、こんなことをしているのだろうか。
 
「おい、そっちにいったぞ!絶対に捕まえろ!」

 背後に、暴力と性衝動に酔った、男の声が聞こえる。

 ──まったく馬鹿げている。

 ヴェロニカ特殊軍大尉の称号を持つ少女、マルゴ・レイノルズは、一人、本当にいるのかも分からないヴェロニカの神に向けて愚痴を呟いた。



 目を覚ましたのは、暗闇の中だった。
 はじめは明かりの無い場所にいるのだと思った。しかし、ぼやけた視界には、薄ぼんやりとした光が、井戸の底から空を見上げたように瞬いている。遙か遠くに見えたその光は、実は思ったよりも近くにあるらしい。
 マルゴは自分が生きているのか死んでいるのか分からなかった。分からないならば、それは大して意味を持たない。まるで、自分自身のように。
 人形。
 心臓がどくりと跳ね上がった。あの、冷たい言葉。尊敬し敬愛する、父と呼んだ男の、娘と呼んでくれた口が吐き出した、あの言葉。
 薄暗がりの中で身体を跳ね起きさせたマルゴは、あらん限りの力で胸を鷲掴んだ。ぜぇぜぇと荒くなる呼吸が精神を追い詰めていく。こめかみから垂れ落ちる汗が、パニックを加速させていく。
 
「はぁ、はぁ、はぁぁ……!」

 吐息がほとんど音声と変わらないくらい様子で吐き出される。それでも酸素が足りない。体が過剰な酸素に悲鳴を上げ、頭の奥がきんと痛むのに、横隔膜だけが独りよがりに上下運動を繰り返している。
 喉を引き絞りながら呻き声が漏れ出す。
 マルゴは首を巡らした。涙ににじむ視界を凝らして、自分の頼るべき何者か、あるいは何物かを探す。悪夢の中ならば、それは見つかったのかも知れない。しかし悪夢より過酷な現実の中では、全てに裏切られた少女の掴むべき藁はどこにも存在しなかった。
 自分は、人形だった。自分は、人間ではなかった。自分が父と呼ぶべき存在は、この世のどこにもいない──。
 自身の存在の全てを否定されたような屈辱、寂寥、無力感。そして名付けようのない、どろどろとした負の感情の大渦。
 喉の奥から悲鳴が沸き上がってくる。そして今のマルゴに、それを押しとどめる術は無かった。

「あ、ああぁぁぁ!あああああぁぁぁ……!」

 幼子が泣きわめく声よりなおみっともない大声で、マルゴは泣き叫んだ。誰に助けを求める声でもない。今更泣きわめいても、誰も助けてくれないことを聡い彼女は理解している。
 それでも、最後の望みがそこに無かったと、誰が断言できるだろう。全ては夢の神が為したたちの悪い悪戯であり、自分が眠っている寝心地の悪い寝台はきっとあの城の自室のベッドで、今にもドアを開いて敬愛する父が飛んできてくれる。
 そうすれば、どれほど幸福だろう。お父様、わたしは怖い夢を見ました。お父様がわたしのことを人形と呼び、何度でも作り出すことができる、いくらでも換えの効く存在だと仰るのです。それでも、わたしはお父様を助けることができました。それだけはとても素晴らしい夢だった──。
 それこそ、夢の中の出来事だ。
 慟哭を続けるマルゴは、脇腹を焼く鋭い痛みにも気がつかない。何重にも巻かれた包帯が、じわりと赤く色づいていく。それは、少女の体ではなく、精神が流した血液に違いなかった。

「おい、大丈夫か」
 
 いつしか開け放たれた扉から、老齢の男がマルゴに駆け寄り、その細い肩を揺さぶった。しかしマルゴは激しく身を捩りながら、男の手を振り払った。
 男は、マルゴの頬を強く張った。マルゴの小さな体はベッドに横倒しになった。男は、マルゴの寝間着の首をぐぃと掴み、強引に引きずり起こした。
 唖然と表情を失った、しかし混乱の極みからは少しだけ立ち直った様子のマルゴは、信じられないものを見るような視線で、目の前の老人を見つめていた。

「俺の言っていることが分かるか?なら、まずはゆっくりと呼吸をしろ。焦ることは無い。ゆっくりと息を吸って、細く長く吐き出す……そうだ、それでいい」

 マルゴが老人の言うことに素直に従ったのは、ことさら彼女が従順な精神を持ち合わせていたからでも、老人の声に神通力が籠もっていたからでもない。生まれたての雛が親鳥の後ろ姿を無我夢中で追いかけるように、今の彼女には他の選択肢を選び取るだけの余裕が存在しなかっただけのことだ。
 しかし、老人の指示は的確であった。完全にパニックを起こしていたマルゴは、ぼんやりとした暗闇の中で自分と相対している老人が何者なのか、その程度のことを理解できる程度には精神的均衡を取り戻していた。

「あなたは……」

 少女は、老人のようにしゃがれた声で呟く。
 先ほど自分の頬を張り、今は心配そうに自分をのぞき込んでいるこの老人は、初めて見る人間ではない。
 あの城で、父親を庇って食らった銃弾により死にかけていた自分を、介抱してくれた老人。そして、自分の指揮する部隊の任務対象であった少女を守り、奮戦し、捕獲された老人。
 名前は知らない。
 その老人が、顔を皺でくしゃくしゃにしながら笑っていた。

「そういえば、俺はお前の名前を知らない。お前も、俺の名前を知らないだろう。俺はあんたに殺されかけて、お前は死にかけのところを俺に拾われた身分だが、それでもお互いを知るためには自己紹介が必要だ。そうは思わないか?」

 年に似合わない悪戯っぽい笑みを、老人は浮かべた。

「俺の名前はヤームルだ。まったくもって因果な縁だとは思うが、袖振り合うも何とやらというからな。お互い、業の深い前世を生きてしまったらしい」

 ヤームルと名乗った男は、マルゴの正面に椅子を引き、そこに腰掛けた。いつの間にか灯されていた部屋の明かりの下で、ヤームルの体躯はなお引き締まり、老いを感じさせないものだった。マルゴの率いた部隊が苦戦させられたのも頷けるだけの、精兵の気配がそこにはあった。
 
「……わたしの名前は、マルゴ。マルゴ……」

 レイノルズと名乗ろうとした。その姓は、どんな宝物よりも誇らしくマルゴの胸を満たしてくれた。
 昨日までは。
 それなのに今は、舌に乗せただけでぴりぴりとする香辛料の効きすぎた料理のように、少女の心を嘖んだ。
 黙り込んだマルゴを見て、ヤームルは、やはり柔らかく笑っていた。

「マルゴ。マルゴだな。いい名前じゃないか。ならば、それで十分だ。俺はただのヤームル。お前はただのマルゴ。そうだな?」

 マルゴは頷かなかった。その代わり、首を横に振ることもなかった。
 
「……どうしてわたしを助けたの」

 マルゴが、悔しげにシーツの端を握りしめ、食いしばった歯の隙間から声を押し出した。
 その声に含まれていたのは疑念ではない。自分を助けて何に利用するのかという敵意ですらない。ただ、自分をこの世に押しとどめたことに対する粘っこい恨みだけだった。
 ヤームルは、ばつが悪そうに首を掻いた。

「助けてほしくなかったのか」 

 マルゴは答えなかった。しかしこの場合の無言が何を意味するのか、どれほどの愚か者であっても取り違えることはなかっただろう。
 マルゴは、ヤームルを見ない。そこに最も憎い敵がいて、視線でそれを殺そうとしているかのように、じっと自分の手元を見つめている。そして、その手はあまりに強くシーツを握りしめるので、白く鬱血していた。

「わたしはあの方を絶対に裏切らないわ。あなたがどういうつもりでわたしを助けたのか知らないけど、残念だったわね。わたしに利用価値なんてありはしないの。そして、わたしの身柄に何の価値も無くなったことは、あなただって知っているでしょう。それが分かったなら、さっさとわたしを殺すがいいわ」

 掠れた声。途切れがちな調子。寒さを堪えるように、細かく震える体。
 それでもその声が涙に滲んでいなかったことに、ヤームルは内心で舌を巻いていた。

「俺がお前を助けたことに、深い意味は無い。ただの気まぐれだ。別に、お前を利用してこの国に反撃を企んでいるわけでも、お前の知る情報を聞き出すためでもない」

 ヤームルは、落ち着いた声で言った。そして、両頬を深く釣り上げて、満面の笑みを浮かべた。

「どうだ、がっかりしたか?」

 マルゴは、弾かれたように顔を上げた。

「うぬぼれるなよ、ケツの青いガキが。お前にそんな価値があるわけがないだろうが。お前は大統領のお気に入りだったのかも知れないが、所詮は一介の軍人だろうが。軍人なんてものは、そもそも使い捨てが大原則なのさ。お前はそんな身分でありながら、上の人間に特別な感情を期待していたのか?」
「でも、わたしは……!」
「あの男の娘だった。家族だった。そう言いたいのか?」

 マルゴは声を詰まらせた。
 言いたい。そうだ、言いたい。自分は、マルゴ・レイノルズだと。ただのマルゴなどではないのだと。
 しかし、もしも自分があの人の家族ならば、どうしてあれほど冷たい言葉で自分を人形と呼ぶことが出来るのか。マルゴは、人形という言葉の意味ではなく、そこに込められた永久凍土のごとき冷たく乾燥した意志にこそ、真っ黒い絶望を感じていたというのに。
 自分はクローンとして生まれた存在だ。そして、オリジナルは信じていた国家に裏切られて、呆気なく処分されたのだという。
 その終末に、マルゴは羨望を感じていた。自分の守るべき、信じるべき存在を守るために死ぬことが出来るならば、例えそれが裏切りであっても構わないと。使い捨てにされるのが本望であると。
 だが、全ての理屈を踏みにじって、父の言葉はマルゴの全てを台無しにした。
 マルゴは、何もかもを、自分ですらを、既に信じることが出来なくなっていた。最後まで国家のために生きて死んだオリジナルは、本当に幸福だったのか。

「……分からないわ。わたしがあの方の家族だったのか、娘だったのか。もう、わたしは何を信じて良いのか分からない……!」

 ヤームルは天井を仰ぎ、大きく溜息を吐き出した。

「お偉い坊主連中は、信じる者は救われると言う。ご高説ごもっともだ。救われないのは信じることさえ出来なくなった者ばかりで、そういう連中を神様は一度だって救ってくれはしない」

 だから、と老人は続ける。

「信じることの出来なくなった自分を救えるのは、いつだって自分だけだってことだな」

 どこから取り出したのか、ウィスキーの瓶を傾け、一口二口、琥珀色の液体を飲み下した。

「やるかい?」

 ヤームルは、呆然とした様子のマルゴに、でっぷりとしたウィスキーの瓶を手渡した。

「俺がお前を助けたのは、ただ、俺がお前に死んでほしくなかっただけの話だ。俺は、お前さんくらいの年の、友達の女の子がいてなぁ。病気で死んじまったんだ。アイシャっていう。俺みたいに薄汚い人間にでも優しくしてくれる、とても良い子だった」

 マルゴは腕の中にウィスキーの瓶を抱きしめたまま、何も言わなかった。昔を語る老人の言葉を、誰が一体遮ることが出来るだろう。

「この星には大量のトリジウムが埋まっている。誰が欲したわけでもない、疫病神の化身だ。アイシャは、その疫病神に取り殺された。そして、この星をこのままにしておけば、もっと多くの人間が、疫病神のせいで犬死にをするはめになる」
「トリジウム?犬死に?一体それは、どういう……?」

 ヤームルは語った。アーロン・レイノルズという狂人が、この星で何をしようとしているかを。この星に文明が根付いた由来。ヴェロニカ教の教義の理由。そして、それを利用して内戦を起こそうと画策している、天使に取り憑かれた狂人……。
 マルゴに驚きはなかった。あの人の内側に、普通の人間では図り難い何かがあることは薄々と気が付いていたのだ。それが宗教的な情熱であろうと個人的な凶熱であろうと、大した違いではない。
 では、心の底を冷やすこの寒風は何だろう。自分は何に怯えているのか。マルゴは思わず肩を掻き抱いた。
 見捨てられることが本望だと思っていた。使い捨てられるのが当然だと思っていた。道具でいいと、人形でいいと、そうして死ぬのが最も望ましい死に様であると確信していた。
 今までの有り様に嘘はないし、後悔もない。
 しかし、ケリー・クーア、自身のこめかみに銃口を突きつけながらなお笑っていたあの男が、自分を何と呼んだか。

 人形。

 そうだ、あの男も、自分を人形と呼んだ。背後に、手足を繰る糸が見えると。
 正しかった。自分は人形だった。手足どころか、感情も、愛情も、全てを操られた人形だ。普通の操り人形よりも操るパーツが多い分、その様はよりいっそう滑稽だったに違いない。
 だからどうした。だから何だというのか。
 それを望んでいたのだ。そう有りたいと願ったのだ。それが植え付けられた感情だったとしても、自分にとっての真実であった。
 ならば、この虚無感は何だ。どうしてこんなに心細く、不安定で、何より寒いのだろうか。
 死にたい。強烈に思った。死神の冷たい手に触れられるならば、この寒さを忘れることも叶うだろう。

「死にたくて死にたくて仕方ないと、そういう顔だな」

 ヤームルは笑った。マルゴは何も言わなかった。何故なら、ヤームルの言葉はどこまでも正しかったからだ。うつむき調子で彼を睨め上げたのも、自身の願望を叶えてくれないかと、真剣に思ったからだ。
 だが、ヤームルは首を横に振った。

「俺は、元は海賊だ。海賊は、ただ働きはしないものさ。海賊に働いてもらいたければ、お宝の匂いをちらつかせて誘惑するしかないんだ」
「……何を用意すれば、わたしを殺してくれるの?」

 ヤームルが口を開きかけた時、耳に障る電子音が鳴った。
 ヤームルの皺の浮いた指が、懐から携帯端末を取り出した。

「失礼」

 律儀な断りを入れてから、端末の受信ボタンを押した。

「もしもし……ええ、大変心待ちにしておりましたよ。お元気そうで何よりです……はい、なるほど。まぁ、そのようなところでしょう。本当の意味で独り立ちしていただくには、あと一押しといったところですか。……ええ、それで結構です。私は私で動かせていただきますので……なに、些か気になるところもありますのでな。はい、ではまた……」

 ヤームルは通信端末のスイッチを切り、再び懐にしまった。

「すまなかった。ええと、何の話をしていたか……そうだ、お前を殺すための報酬の話だ。いい具合に、お前に頼みたい事が出来た。どうだろう、請け負ってみるつもりはないかな?」
「請け負う……?」

 困惑するマルゴに、ヤームルは嬉しげに頷いた。

「そう、仕事だ。どうせお前は死にたがっているのだろう。ならば、今死んでも明日死んでも変わるところは無いはずだ。そして、この仕事が終われば、必ず俺がお前を殺してやろう。いや、そもそもこの仕事の最中に命を落とす可能性のほうが高いだろうか……」

 マルゴはカチンとした。彼女自身、意外な反応であった。
 話ぶりからして、相当危険な仕事なのだろう。しかし、自分はヴェロニカ特殊軍として修羅場を潜ってきた軍人である。その自分が、引退した海賊風情の持ち出した任務如きで死ぬものか。
 もしかすると、精神的な防衛作用だったのだろうか。自身の最も巨大な存在意義を失った少女にとって、縋りつくことが許されたのは、今までの培ってきた軍人としての経歴だけだったと、そういうことなのかもしれない。
 確かに、死ぬだけならばいつでも出来るのだ。生きていくのは難しくても、それを断ち切るのは容易い。自分の命であっても、他者の命であっても。
 それなら、目の前の老人の鼻を明かしてから死にたいと思った。自分が望んだことではないにせよ、命を助けられたまま無様に死んでいくのは、少しだけ気分がよろしくなかった。

「一つだけ聞かせて」
「なんだい?」
「あなたは、どうしてこの星で戦っているの?」

 ヤームルは、困惑したように眉根を寄せて、それから恥ずかしげに頬を掻いた。

「一つは、昔なじみの仇討ちだな」
「なら、他の理由は?」
「……さっきも言ったが、俺は、この星に友達がいたんだよ。そしてその子は、初恋の相手だった。とても笑顔の可愛い子でなぁ。なのに、まるで化け物みたいな姿になって、血を吐き散らして死んでいった。もうぼちぼち、この星で、ああいう死に方をする女の子は一人もいなくなっても良い時期じゃないかと、そう思っただけさ」
 
 マルゴは、少しだけ笑った。
 別に、馬鹿にしたわけではない。ただ、そっぽを向きながら頬を染めた老人の恥ずかしげな様子が、どうにも可愛らしかったからだ。
 少しだけ笑うことが出来た。

「じゃあ、もう一つ。その任務が大切なものだとしても、どうしてあなた自身がそれをしないの?」
「中々辛辣な質問だな、そいつは」

 ヤームルは、苦笑いを浮かべた。

「一つは、俺がその任務をこなしたんでは、あらゆる意味で全ての計画がおじゃんになってしまうからさ。丁寧に組み上げた積み木を、根刮ぎ倒すようなものだ」
「また、別の理由もあるのね」
「少し調べたいことがある。今、この星で起きていることが、どうにもきな臭い。これは本当に、たった一人の気が狂った男が推し進めただけの計画なのかね?そう盲信していると、どこかで足を掬われる気がする」

 ヤームルは、誰に言うでもなく呟いた。マルゴは、何も言うことは出来なかった。

「ま、それはそれとして、だ。どうするね、俺の依頼の件は?」
 
 返答の内容は、既に心に決めていた。
 どこまでも歪で、消極的に残された選択肢である。しかしそれは少女にとって、生まれて初めて己の意思で掴み取った蜘蛛の糸であったのだ。



[6349] 第六十九話:少年と少女
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2011/11/05 15:14
 マルゴは、暗がりの中を息を切らして走っていた。
 ジャスミンの光線銃に撃ち抜かれた脇腹が、ずきずきと痛む。生死の境を彷徨ったあの日から、まだ二週間と経っていない。
 傷は完全に塞がってはいない。致命的ではないとはいえ、臓器にも損傷があったのだ。組織再生療法の加護が無ければ、まだベッドの上とリハビリルームを往復する生活をしていてもおかしくない。むしろそれが普通だ。
 頑健であることが絶対条件ともいえる軍隊生活を耐えてきたマルゴであるが、それでも今の状況は心楽しいものではなかった。

「ちくしょう、どこに行きやがったあのアマ!」
「絶対に逃がすな!」

 怒声が暗闇の向こうから響き渡る。もしかしたらこの騒ぎを聞きつけて警官が出動してくれるかも知れないが、それは希望的観測に過ぎないことをマルゴは心得ていた。
 最初に声をかけたのはこちらからだった。道行く男たちに、この界隈に羽振りのいい飲み方をする、年端もいかない子供がいないか。そう尋ねたのだ。
 明らかに行儀のよろしくない風体の男たちではあった。しかし、ここらにたむろしている男の八割が似たような格好である。その中からはずれを引いてしまったのは、今のマルゴに神の加護が宿っていなかったというだけの話だろう。
 男たちは、目の前に突然現れた赤毛の少女をジロリと見定めた。それは女という性を持つ全ての人間に生理的嫌悪を覚えさせるほどに脂ぎった視線だったが、軍隊生活が長く異性の目を意識した経験の薄いマルゴはどうとも思わなかった。
 むしろ、あちらから手を出してくれるなら好都合、叩きのめして情報を聞き出すだけのこと。
 そう思った。
 誤算だったのは、自身の体調が予想の最悪を極めるほどに回復していなかったこと。そして、叩き潰したネズミの一匹が、この街を統べる暴力組織の構成員だったことだ。
 取り逃がしたネズミが仲間を呼び、それがさらに仲間を呼ぶ。芋づる式とは正しくこういうことをいうのだろう。最初の数人を叩きのめしたところで、マルゴは早々に逃げ出した。一人一人りはただの雑魚だが、何せ数が尋常ではない。万全な調子であればいざ知らず、今の調子では遠からず限界が来る。その時に一体どういう目に遭わされるのか、火を見るよりも明らかだった。
 思い出されたのは、地下室に多くの少女を監禁し、虐待を繰り返していた、唾棄すべき赤毛の青年だった。あの男には、確かに父の血が流れていた。血が水よりも濃いものならば、いずれ父はあの男を息子と呼ぶのだろうか。
 ずきりと痛んだのは、脇腹だ。マルゴはそう自身に言い訳をし、折れそうになる膝を叱咤して走った。この身が大事な訳ではないが、野獣どもが一時の快楽を貪るための供物にするには些かなりとも愛着があった。

「いたぞ、こっちだ!」

 声を背に走る。
 突然、暗がりから男が覆いかぶさってきた。夜の中でもはっきりと分かるほど、目がぎらぎらと血走っている。女に飢えていますと、鼻の穴の膨らんだ間抜けな表情が叫んでいた。

「大人しくしやがれ、この売女が!」

 背後から羽交い締めにされる。男はそのままマルゴを押し倒そうとしている。押し倒されてしまえば、この男が今夜の一番乗りということになるのだろうか。それとも、獲物に最初の噛み跡を残すのは、群れのリーダーの権利なのか。
 どちらにせよ、マルゴにそのつもりはない。
 足を振り上げ、踵で男の向こう脛を思い切り蹴ってやった。

「あぃっ!」

 間抜けな悲鳴を聞き終える前に、マルゴは背筋を一気に縮めて背を反らせた。後頭部に僅かな痛みと、男の鼻骨の砕けた鈍い音が伝わった。
 力が緩んだ腕を強引に振り払い、振り向きざま、蹲った男のこめかみに蹴りを叩き込む。男は悲鳴をあげることもなく、人形のように倒れた。
 男が地に伏せる音と同時にマルゴは走った。一人を倒したところで、勝利の余韻に浸っている余裕は無い。今はとにかく逃げて、出来るだけ早く少年を見つけることだ。
 見つけて……どうするのか。ヤームルと名乗った老人には、世話をしてくれと言われた。そして、少年が為すべきことを手伝ってやって欲しい、と。
 インユェという少年が、一体何を為そうとしているのか。そもそも、この界隈にそんな人間がいるのか。
 分からない。しかし、そもそも今の自分に何か目的があるわけではない。強いて言うなら、あの老人の鼻を明かしてみたい。それだけが、ある意味では生きる目的になっている。
 だから、まずは生きて少年を見つける。それが何を為そうとしているのか。もしも何もなすことも出来ないただの甘ったれならば、その時はその時だ。あの老人を心の中で見下しながら、自決の引き金を絞ればいい。
 マルゴは物陰に身を隠した。いくつかの気配が、息を荒だてながらすぐそばを駆けていった。

「ちくしょう、どこに行きやがった!」
「探せ!まだ遠くには行ってないはずだ!このまま取り逃がしてみろ、俺たちもただじゃあすまねぇぞ!」

 殺気立った声が、コンクリートに四方を囲まれた路地裏に響いた。
 マルゴは、跳ね回る心臓が少しずつ落ち着いていくのを、他人事のように認識していた。

「それにしても人手が足りねえぞ、くそっ!他の連中はどこで油を売ってやがる
んだ!」
「知らねえのか、お前」
「何をだ!」
「マルデロ兄貴がやられたらしい」
「兄貴が!?どこの誰だ、その自殺志願者は!?」
「俺が知るかよ、そんなこと……どうやら噂をすればなんとやららしいぜ。ちょっと待ってな……」

 携帯通信端末の、電子音が響く。
 数回、頷く声。簡単な打ち合わせもしているらしい。

「やっぱりだ。妙なガキのことは放っておいて、俺達も兄貴をやった馬鹿を捜せってよ」
「そうか、上の指示なら仕方ねぇな」
「あのガキ、今度会ったらただじゃあおかねえ。絶対に身の程ってやつを教えてやる」

 毒づきながらも、声に安堵が含まれていた。無理もないだろう。メンツを汚されてそのまま逃げられたのでは、自分達の責任だ。しかし、命令されて強制的に追跡を終了したならば、責任はいくらでも転嫁できる。
 弛緩した空気に、マルゴも静かな溜息を吐き出した。途端に脇腹の傷がじくじくと痛みだし、思わず声を上げそうになったのだが。
 
「ところで、兄貴をやったのはどいつだ?バヌッチ一家の鉄砲玉か?」
「違う。こっちもガキらしい。あとは、その保護者連中」
「ガキが?なら、兄貴もさぞ怒り狂ってるだろうなぁ」

 声には、嘲笑と憐憫がほぼ等分に入り交じっていた。嘲笑は、子供にしてやられたという兄貴分に対して向けられたものだろう。それが本格的な侮蔑にならないのは、普段からその兄貴分を恐れ敬っているからに違いない。
 そして、憐憫のほうは、虎の尾を踏んづけてしまった子供に対するものに違いなかった。メンツを潰されたやくざは、その傷を糊塗するために、さぞ残酷な手段をもって粛正の槌を振るうのだろう。そうでなければ、恐怖でもって街を支配するのは不可能だ。
 捕まれば、ただ殺されるだけでは済まない。全身の皮を生きたまま剥ぐ方法は何通りも存在するのだし、四肢を切り落とした人間を恐怖を誇示するモニュメントとして見世物にするのは大昔からの伝統だ。
 お気の毒なことだと、マルゴは思った。しかし、自業自得である。力の無い者が力のあるものに刃向かう以上、それなりの結果は覚悟しなければならない。その結果を受け入れられないならば、最初から妙な気概は抱かない方が利口だ。結果を予想できないような愚か者はどうせ長生きはできない。
 
「そのガキの名前は分かっているのか?」
「名前は分からねぇ。だが、相当目立つ風貌らしい。銀色の髪に紫色の目、年は中等部の中頃ってところだ。それなりに見られた顔らしい。できれば、生かして連れてこいってよ」
「男か、女か」
「男だ」
「保護者連中ってのは?」
「兄妹かも知れねえが同じ色の髪と目のメスガキが一人、金色の髪に碧色の目をしたメスガキがもう一人。あとは、黒の長髪をした、女みたいになよついた野郎が一人。人間離れした大男が一人。全部で四人だ」
「そりゃあずいぶんと見つけやすい組み合わせだな」
「俺達もそっちに加わるとしようぜ。見つけりゃ賞金がたんまりらしいからな」
「その上、役得も加わるかも知れねぇな。メスガキの方はそれなりに楽しめそうだ」

 舌なめずりするような声が聞こえて、何人かが走り去る足音が遠ざかっていった。
 マルゴは、舌打ちを隠しきれなかった。先ほどの連中が口にした人相には、心当たりがありすぎる。
 銀色の髪。紫色の瞳。顔立ちは整っていて歳の頃は中等部程度……。そんな目立つ人間が、ごろごろいてたまるものか。
 どこの馬鹿がやくざに手を出したのかと思えば、まさか自分が追いかけている少年だったとは。酒場で飲んだくれているという情報は手に入れていたけれども、まさかここまで無謀な真似をするとは思っていなかった。
 街を裏から支配するやくざ者に手を出すということは、街そのものを敵に回すのとほぼ同義だ。特に、こんな地方の都市ではその傾向が強い。飲食店、ホテル、タクシー、街をたむろする不良少年や違法薬物の売人。そういった、夜の商売に繋がりの深い人間の悉くに、少年の手配がかけられていると考えて間違いないだろう。
 このまま手がかりもなく街を走り続けて、連中よりも先に少年を捜し出せる可能性が如何ほどか。そして、身体はどんどんと限界に近づきつつあるというのに。
 マルゴは、先ほど伸した男を振り返った。男は、小さな呻き声を漏らしながら、ようやく覚醒しつつあった。

「起きなさい」

 無慈悲な口調で言った。殊更声色を作らなくても、不吉な声が自然と出てくれた。

「て、てめえ、この俺にこんな真似して、只で済むと……」
「その前口上は聞き飽きたわ。あまり何度も聞かされると、流石に胃にもたれるの。今度同じようなことを言ったら、その口を、鼻の穴と耳の穴まで繋げてあげるわ」
「な、なんだと」
「わたしに出来ないと思うの?」

 マルゴは、見るからに切れ味の良さそうなナイフを男の首筋に突きつけた。豊かな月光に照らされたその顔にはおよそ人間味と呼べる要素が悉く欠落していて、男は目の前の少女の言うことが脅しでないと理解した。

「……俺に何の用だってんだよ」

 男は、拗ねたような調子で言った。まるで、悪戯を母親に見つけられた子供のような口調だった。どうやら。図体だけは過度に成長しているものの、精神的な年齢は相当に低いらしい。
 躾は自分の役割ではない。マルゴは、最低限の目的だけを果たすことにした。

「通信端末を用意しなさい」

 もしも素直に従わなければ、とりあえず左右の鼻の穴を一つに繋げてやろうと思っていたが、男は従順だった。それとも、反抗するだけの気概がもとから備わっていないだけかも知れないが。
 男が尻のポケットから取り出した端末を確認して、マルゴは頷いた。

「あなたの仲間、兄貴分、誰でもいいわ。すぐに連絡して。そして言うの。例のガキを見つけた。場所は……街の北外れの廃工場だとでも伝えなさい」

 マルゴは街の見取り図を頭に浮かべながら言った。その場所に例の少年が逃げ込んでいる可能性はゼロではないが、著しく低いのは事実だろう。もしも逃げ込んでいれば、それは知ったことではない。運が悪かっただけのことだ。
 マルゴは、大きく息を吐き出した。脇腹の痛みが、どんどん激しくなっていく。今は、浅く息をするだけで引き攣るほどに強烈な痛みが走る。
 この時、男にしっかりとした観察眼があるならば、マルゴの異常な様子に気が付き、反撃を試みることも出来ただろう。しかし、マルゴの殺気に当てられた男に、それほどの余裕は存在しなかった。

「ふん、そんなことをしても無駄だぜ。お前はこの街からは絶対に逃げられねぇよ」
「……そうね、逃げられないかも知れないわ。それでも、捕まる前にあなたを殺すくらいならわけはないのよ?」

 マルゴは努めてにこやかに笑った。目の前の男が、マルゴ自身が逃げるためにこのような小細工をしているのだと勘違いしてくれるのなら、それはそれで結構なことだ。
 首筋に強く押しつけられたナイフがスイッチのように、男は再び従順になった。

「ああ、俺だ。……どうってことねぇよ、これくらい。ところで、例のガキを見つけたぜ。アーク工業の廃工場に入っていった……ああ、多分そういうことだと思う。俺は今から中に入るからよ、そっちでも人数を集めておいてくれ、頼んだぜ」

 男が通信端末を切った瞬間に、マルゴは懐から取り出したスタンガンを男の首筋に当てた。
 短い悲鳴とともに、男の身体から力が抜ける。その、無駄に大きな手足を紐で縛り、猿ぐつわを噛ませ、ゴミ集積所の一番奥の方に男を押し込んだ。日頃の行いが悪くなければ、窒息することもなく明日の朝には見つかるだろう。それまで、この世のものとも思えない悪臭に苦しめられるはめにはなるのだろうが。
 そこまでの作業が、今のマルゴにとっての限界だった。壁に背を預け、そのままずるずるとへたり込む。脇腹から全身へと広がる不吉な痛みが、立ち上がるための力を膝から奪い取っていく。
 このまま死ぬのだろうか。考えても仕方のない不安が、むくむくと沸き上がる。
 もう、惜しむべき命ではないことなど、はっきり分かっている。守るべき者、守られるべき者、家族、存在意義、全てを失った。
 それにしても、あまりに中途半端な気がする。成り行きとはいえ、任務の対象である少年と接触することもなく、父親と呼んだあの方と再びまみえることもなく、こんな場所でドブネズミのように死ぬのか。
 まぁ、それが相応しいのかも知れない。
 自嘲の笑みを浮かべたマルゴは、うとうとと瞼を落とした。膝を抱えせめて体温が少しでも逃げないようにしたのは、最後まで生きようと足掻く生き物としての本能に近い。
 現実と夢が交互に映し出される狭間の世界で、マルゴは色んな人間と出会った。
 父と呼んだ老人の、皺の浮いた笑顔。特殊軍として辛い訓練に耐えた兄弟達。その他、名前も知らない、既にどこで出会ったのかも忘れてしまった人間の顔。
 そして、城の地下で会話を交わした、不思議な男。
 片方だけ残された琥珀色の瞳で、自分を懐かしそうに見上げる。その男が、どうしてか、子供のような姿で自分を見上げていた。その子供の瞳は、確かに両方ともが琥珀色に色づき、その頬は時折薔薇のように淡く色づいた──。
 この少年は、誰かに、恋をしているのだと思った。
 ああ、それは、きっと遠い世界の出来事だ。

『止めろよ、お前ら!』

 風呂に入っている自分を誰か、複数の人間が覗いている。別に隠すほどのものでもなかったから放って置いたが、やがて争うような声が聞こえてきた
 風呂から上がってみれば、体中を擦り傷だらけにした少年がいた。無愛想な琥珀色の瞳で自分を見上げている。
 ああ、そうか。きっとこの子は自分を守ろうとしてくれたのだ。

 ──ふふ、あなたはいつもそうね、ケリー……

「……い……」

 ぬるま湯にたゆたう氷のように、マルゴの意識は混濁し、薄れかけていた。その意識を、強引に浮上させる無粋な声。
 マルゴは、重たい瞼を持ち上げて、油の切れた発条仕掛けの首を何とか持ち上げた。
 そこは夢の世界ではない。無慈悲な現実の世界だ。
 星のない夜空、ネオンとガスに曇った背景に薄ぼんやりと浮かんだのは、銀色の髪、そして竜胆のように淡い紫の瞳。
 
「起きろ、糞ガキ」

 先ほどまでの男達とほとんど変わらない、汚い言葉遣いで自分を呼んだ。
 マルゴは苦笑した。

「……わたしは、そんな名前じゃ無いわ。わたしには、マルゴって名前があるのよ」「へぇ、マルゴ、ねぇ。突然俺たちを襲って、ウォルを奪っていったお前らみたいなクソどもにも、立派な名前があるもんだ」

 少年──インユェという名前だったか──は、せせら笑うような表情で言った。
 その視線には、隠しようのない憎しみが込められている。闇夜の中でも熾火のように赤々とした、それは殺意だった。

「てめえ、今更こんなところで何をしていやがる。一体何のつもりだ。俺に殺されたいのか」

 マルゴは苦笑した。殺されたいか。そう問われれば、殺されてもいい気がする。
 これで、この少年と会うという目的は達せられた。最後の未練と言えばもう一度父と会いたいという想いだったが、今更父親にあって、なんと言うつもりか。
 わたしはあなたの娘ですよねと問うか。きっとあの方は頷いてくれるだろう。あの時はよく自分を庇ってくれたと褒めてくれるだろう。
 それでも、あの言葉は消えてくれない。あの言葉の冷たさは永遠にこの胸に突き刺さったままだ。
 もう、どうでもいいと思った。このどぶ臭い路地裏が人生の終着点ならば、それを受け入れようと思った。
 だからマルゴは、ありのままを話すことにした。

「……わたしは、あなたを助けに来たのよ、インユェ君」

 きっと鼻で笑われるのだと思った。何せ、わたしは、わたし達は、彼を一度殺そうとしている。そして、もう一歩も歩けない手負いの身だ。これで誰かを守るなんて片腹痛いにもほどがある。
 しかし、インユェは笑わなかった。

「……さっき、ここらにうじゃうじゃいたウジ虫どもが、一斉にいなくなった。あれは、お前の仕業か」

 マルゴは頷いた。頷いて、俯いた首を元に戻すのに、ひとかたならぬ努力を必要とした。

「はっ、それはそれは。それで、次は何をしてくれるんだよ。俺を連れて、この糞ったれな街から逃げ出してくれるのかい?それとも、映画のヒーローみたいに、あの連中を片っ端からやっつけるのか?」

 おどけた調子でインユェは言った。
 マルゴは首を横に振った。どう考えても、今の自分にはそんなにドラマチックなことをするだけの体力は残されていない。

「……あいつらがいなくなったのは一時的よ。すぐに戻ってくるわ。だから、さっさと逃げなさい」

 漏れたのは、苦い自嘲の笑みだった。
 いったい自分はこんなところで何をしているのだろう。何度となく自問したが、これではいよいよ意味が分からない。

「ああ、わかってるよ。逃げるさ。さっさと逃げるに決まってるだろう。礼は言わねえぜ。俺はお前らに、助けてくれなんて一度だって頼んじゃいないんだからな」

 そう言って、インユェは走り去った。闇夜の向こうに、足音が消えて行った。
 マルゴは深いため息を吐き出した。これでいいのだろう。うまく行けば、あの少年は無事にこの街から逃げられる。そうすれば、一応は契約を果たしたことになるはずだ。胸を張って、あの老人に殺されに行こうじゃないか。
 まぁ、それもこれも、全ては一休みしてからだ。泥のように眠りたい。そのまま目覚めることがなければ言うことはない。
 平穏を願って目を閉じたマルゴだったが、しかしその願いはどこまでも叶えられなかった。

「こっちだ!ジェイルの携帯が転がってる!」
「ジェイルの野郎はどこにいる!?」
「どこにもいません!携帯だけ転がってる!」
「変な情にほだされて裏切ったか、それともガセネタを掴まされやがったか……。裏切り者は死刑だ。役立たずは死刑だ。どっちにせよ生かしちゃおかねぇ。探せ!」

 意外と早かったな、と夢現のマルゴは思った。
 先ほど、あの男の携帯から流した情報が偽物だとばれたのだろう。そして、嘘情報を流した男の携帯の発信源を追ってここまでたどり着いた……。
 隠れなければ。マルゴはのそりと体を動かしたが、やはりと言うべきか、体力のほとんどを使い果たしていた身体は鈍重にしか動かない。
 亀のようにゆっくりと物陰に移動しようとしたマルゴを、男達の一人が見付けた。

「おい、そこにいるのは誰だ!?」

 路地裏に溜まったゴミを踏み潰しながら、いくつもの足音が近づいてくる。その様子を、マルゴは人ごとのように遠く感じていた。

「おい、こいつ、ジェイル達が追いかけていたガキじゃねえのか!?」
「ああ、そうだ、赤毛に脇腹の傷、間違いねぇ」
「なら、ジェイルの流したガセネタにも、こいつが一枚噛んでやがるのかも知れねェな」
「へへっ、どっちにせよ、このまま放っておくわけにもいかねぇな」

 男の一人が、マルゴの髪を掴み、強引に引きずり起こした。
 情け容赦ないその強引さは脇腹の傷を開かせ、マルゴは呻き声を噛み殺すために歯を食いしばった。

「おい、糞がき。お前を追いかけていた男はどこに行った?」

 気持ちの悪い猫撫で声だった。

「変な意地は貼るなよ。素直に答えるなら、俺たちだって鬼じゃあねえんだ。悪いようにはしねえよ」

 その言葉に一片でも信頼性があると思っているのだろうか、この男は。マルゴは何だか楽しくなってしまった。
 疲労と諦念の浮いた顔に、年に似合わない微笑を浮かべる。

「……知らないわ、わたしは何も。あなた達から逃げて、もう一歩も動けなくなって、こんなところに隠れていただけだから」
「……本当かい?嘘をついたら、生きたまま豚の餌にしてやるぞ?」
「本当よ。わたしは何も知らない……」

 そう、マルゴが呟いた時だった。
 うう、と、くぐもるような声が、背後にうず高く積まれた生ゴミの奥から聞こえたのだ。
 マルゴは神に向けて呪詛の言葉を唱えてやった。
 男達の幾人かが、ゴミを掻き分け、中から紐で四肢を縛られた男を引きずり出した。

「おい、ジェイルの野郎だ!」
「しっかりしろ!誰にやられた!?」

 猿轡を外され、後ろ手に縛られた腕を解放された男は、指でマルゴを指し示し、あらん限りの声で叫んだ。

「その糞がきだ!そのがきが、俺をこんな糞ったれな目に遭わせやがった!ちくしょう、臭えったらねえや!肺が腐るかと思ったぜ!」

 全員の視線がマルゴに集中する。

「おい、お嬢ちゃん。さっきの説明とはずいぶん違うみたいだが、これはどういうことだい?」
「俺に妙な電話をかけさせたのもこいつだ!汚ねぇ真似をしやがって、さっき、同じくらいの年の頃のガキと仲良く話してたのを、俺はちゃんと聞いてたぜ!」
「ふぅん、どちらにせよ、お嬢ちゃん、もうお前は二度とおうちには帰れないよ。詳しいことは、もっと落ち着いて話せる場所で聞こうか」

 男はマルゴの頬を強くはたいた。マルゴの小さな身体はその勢いでコンクリートの壁に叩きつけられた。

「おい、お前ら、そのお嬢ちゃんを事務所に運べ!くれぐれも丁重に、絶対に殺すなよ!」

 にやにや笑いを浮かべた男達がマルゴにのしかかった。

「へへっ、よく見りゃ中々綺麗な顔立ちじゃねえか。豚の餌は勿体無いな。これなら結構稼げるぜ、お前」
「なに、怖がることはねぇさ。俺たちがサービスの仕方を一からきっちり教えてやるからよ。店に出る頃にはベテラン顔負けだ」
「運がいいぜ、お前。これで客もとれねぇ不細工だったら、本当に豚の餌だったんだからな。可愛い顔に産んでくれた両親に感謝しな」

 口々に好き勝手なことをいい、鼻息荒くマルゴの衣服をはぎ取ろうとする。
 まさかこの場所で行為に及ぼうというつもりもないだろう。武器を隠し持っていないかの確認と、逃亡を防ぐ意味で、裸にしてしまおうというのだ。

「いや、やめて、離して!」

 マルゴは、生まれて初めて女としての恐怖を感じた。考えるではなく、身体は必死に暴れ、情けない悲鳴が口から漏れ出した。
 その抵抗を楽しむように、男達は下卑た笑みを浮かべた。

「あまり暴れると、痛い思いをするだけだぜ、こんなふうにな」

 男の一人が、赤く血の浮いたマルゴの脇腹を、軽い力で殴った。

「か、はあぁっ…」

 マルゴは、意識が明滅するような激痛を味わった。軽い力であったはずのその一撃は、マルゴから抵抗するための気力を根こそぎ奪い取っていた。
 くたりと力の抜けた少女を、男達は下卑た笑みとともに見下ろした。無抵抗で美しい少女を嬲る快感に、男達の股間は大きく膨らんでいた。

「ほらな、無駄なことをするから痛い目に遭うのさ。今のうちに覚えておきな。おとなしくしてりゃ、どんな男だって優しくしてくれるもんだ」

 軽口を叩きながら、慣れた手つきでマルゴの手足を拘束した。そして、鼻歌を歌いながらズボンのポケットに手を突っ込み、鈍い光を放つナイフを取り出した。

「暴れるなよ。下手な傷がつけば、商品価値が下がる。そうすりゃお前は本当に豚の餌だぜ」

 男は鼻を穴を膨らませたままマルゴの襟の中に刃先を突っ込み、一気に引きおろす。
 甲高い音を立ててシャツは布切れへと変貌した。その裂け目から、滑らかで染み一つ無い少女の柔肌が覗いている。
 マルゴは反射的に裂けた服を合わせようとしたが、両手は万力のように固定されている。それでも強引に動かそうとすればもう一度傷口を殴られるのだろう。
 ここまでか。
 マルゴは抵抗らしい抵抗を諦めた。なんていうことはない。野良犬に噛まれるのと大差ない出来事だ。身体を汚されても、心まで汚されるわけではない。
 自分にそう言い聞かせてみたが、小刻みに震える身体はどうしたって止められなかった。

「へへっ、そうそう、女は従順で大人しいのが一番だ……」

 男はベロリと舌なめずりした。役得と思っているのだろうか、裂けたシャツの隙間に手を這わせようとする。
 傷物にしなければいいだけなのだ。処女を頂いてしまえば言い訳のしようはないが、なぁに女の身体にはそれ以外にも穴はある。そもそも処女でないなら一度も二度も同じ事。ここで男のかたちに馴染ませておくのが悪いはずもない。
 醜く歪んだその顔は、男という生き物の最も恥ずべき表情に違いなかった。
 そして男は、その表情のままぐらりと体を傾け、横倒しに倒れた。
 倒れた男のこめかみから、細く黒々とした液体が垂れ落ちている。マルゴは、いったい何が起きたのか分からなかった。ただ、視界の端に、光線銃の閃光が走ったような、そんな気がした。

「ちくしょう、ガスがやられた!」
「狙撃だ!」
「どこから狙ってやがる!」

 怒号が飛び交う。
 マルゴを取り囲んだ男達の狼狽ぶりは滑稽なほどだった。無理もない。今まで、怪我で弱り抵抗することもできない少女をいたぶって捕食者気取りだったのが、いきなり獲物の立場に貶められたのだ。

「ぐぁっ!」
「ダフがやられたぞ!」
「くそ、卑怯者、どこから狙ってやがるんだ!姿を現しやがれ!」

 目標を定めることもできず、散発的な反撃を繰り返す。しかし、そんなものが有効たりうるはずがない。いたずらに騒ぐ草食動物は、ハンターを招き寄せるだけだ。
 男達は、最初の犠牲者が出た時点で速やかに撤退するべきだった。遅まきながらその事に気がついたのは、男達の最後の一人が、辺りに散らばった仲間の死体の中心で、自分が最後の獲物であることを自覚したときだった。

「ひ、ひぃぃっ!」

 最後の男は、初めて戦場に出た新兵がそうするように、辺り構わず銃を乱射し逃げ出した。しかし無慈悲な光線は男の後頭部を一撃で撃ち抜き、辺りを静寂に戻した。
 マルゴはしばらく何が起こったのか分からなかった。分かったのは、自分がどうやら助けられたのだということと、静かに近づいてくる足音だけである。
 マルゴは、地に伏せたまま、足音の持ち主を見上げた。持ち主の顔は、半ば予想していた。

「あなた、どうして……」
 
 無表情のままのインユェはしゃがみこみ、マルゴの手足を縛っていた紐をナイフで断ち切った。

「……もう、うんざりだ」

 四肢を解放されたマルゴは、咄嗟に、ナイフで切り裂かれた服の前を合わせた。

「うんざりって……?」

 マルゴは尋ねた。

「お前みたいに生意気な女に守られて自分だけ生きているのが嫌になったって、そう言ってるんだよ!」

 インユェが誰のことを言っているのか、マルゴには理解出来る気がした。それは、マルゴ達が拉致し、既に生贄の儀式に捧げられたという、あの少女のことだろう。

「人の都合は無視して、勝手に助けておいて、勝手にくたばるなよ!そんなの、俺にどうしろっていうんだよ!そんなことをされて、俺はどうやって生きていけばいいんだよ!くそったれめ!」

 インユェは、コンクリートの壁を思い切り殴りつけた。辺りには、いち早く死臭を嗅ぎつけたドブネズミの群れが、こそこそと様子を伺っている。
 その中で、インユェは、泣いていた。涙こそ流さなかったが、歯をきしらせて、静かに泣いていたのだ。

「俺は、もう絶対に見捨てねぇぞ。ちくしょう、もうこんな情けねえのはうんざりなんだよ」

 誰に言うでもなくそう呟いて、マルゴの眼前でしゃがみ込んだ。背中を差し出して、そこに掴まれと要求していた。
 彼が助けようとしているのが自分以外の誰かであることを、マルゴは理解した。
 
 「早くしろよ。どうせ動けないんだろう」
 「……わたしはいいから、あなただけで逃げなさい。わたしは、あなたを助けにきたのよ」
「男にのし掛かられて情けない悲鳴をあげてたくせに、笑わせんなよ。あまりワガママを言うと、お姫様みたいに抱えあげて逃げるぜ。そんなのお前には似合ってねえし、第一俺がしんどいんだ。だから、さっさと背負われてくれよ」

 そこまで言われては、今のマルゴに断る術はなかった。第一、こんな場所で無駄なやりとりに費やす時間が一番惜しい。
 マルゴは黙ってインユェの背中にしがみついた。

「思い切り走るぜ。振り落とされるなよ」

 言葉のとおり、インユェは走った。
 その瞬間を見計らったように、背後から鋭い声がした。

「いたぞ!こっちだ!」
「絶対に逃がすな!生かしたまま捕まえろ!」

 マルゴは、背中越しにインユェが笑ったのを感じた。

「生かしたまま捕まえろ、か。ずいぶんと舐められたもんだ、俺もお前もな」
「ええ、そうね、全くだわ」

 少年の細い首に回していた腕に、こつりと押し付けられるものがあった。マルゴにとって馴染みの深いその感触は、拳銃のそれである。

「片手でしかみつけ。片手で狙い撃て。それくらいは出来るんだろう?」
「当たり前よ。馬鹿にしないでよね」

 マルゴは言われた通りのことをした。背負われ、自分の意思ではなく揺れる視界の中、狙いを定め、引き金を引いた。
 背後から短い悲鳴が轟いた。狙いは急所を外したのだろう。満点ではないが、及第点といったところか。

「その調子だ、マルゴさんよ。このまま逃げ切るぜ!」

 マルゴを背負ったインユェは、勢いよく駆けた。
 狭い路地を走り抜け、ドブ川を飛び越え、フェンスの隙間をくぐり抜けて走った。
 いくら月の明るい夜とはいえ、宵闇の時間である。足を取られて転べば大怪我をしかねない。それなのに、インユェの走る速度ときたら、闇の奥の隅々まで見通せているようだった。夜行性の猛獣が夜の森を駆け抜けるような速度だった。
 しかし、所詮は人を一人背負ってのものである。道も不案内だ。
 追いつかれる度に、マルゴの握った銃から火線が閃き、背後で人の崩れる音がしたが、すぐに銃弾は底をついた。
 二人とも、限界が訪れるのは理解していた。その前に敵が諦めてくれればという希望的観測がないわけではなかったが、ここまでの損害を与えておいてそれは虫の良すぎる話であることも理解していた。
 運の悪い事に、道はどんどん細く狭くなる。背後からは怒号と荒々しい足音が近づいてくる。
 まるで、迷宮を人喰い化け物に追い立てられる、身の程知らずの冒険者のようだ。

「ねぇ、不味いわよ」

 マルゴが言った。このまま進んでも、道は袋小路になっているとしか思えない。

「分かってるんだよ、そんなことは!」

 息を乱したまま、苛立たしげにインユェが叫んだ。今更引き返せば男達の一団をそのまま相手にしなければならないのだ。既に退路は断たれている。
 武器は無い。ナイフ程度ならあるが、それのみで自分達を追いたてる無法者の全てを仕留められると勘違いするほど、インユェは身の程知らずではなかった。
 なら、走るだけだ。例えこの先が行き止まりで、あと数秒命を長らえられるだけだとしても、最後まで足掻くこと。それが、自分の命に対する礼儀であり、自分の命を差し出してまで自分を助けてくれたあの少女の対する礼儀であると、インユェは思った。
 だが。

「ずいぶん遠くまで逃げてきたもんだなぁ、おい」

 予想は的中した。インユェとマルゴの前に現れたのは、無機質なコンクリートの壁だった。三方を、掴まる突起さえない、ざらざらとした壁が聳え立っている。それは絶望を具現化したような情景だった。
 そして、来た方向には、道を埋め尽くすほどのやくざ者の群。その一番正面に、インユェには見覚えのある顔があった。
 鼻をひしゃげさせ、前歯の幾本かを失った間抜けな顔が、獲物をついに捕まえた嗜虐に歪んでいた。
 たった数時間前に、酒場で叩きのめした、あのやくざだった。

「さっきも言ったよなぁ。この街でもう一度俺に顔を見せたら、ただじゃあおかねぇってよ。運が悪いなぁ、お前さんはよう」

 くつくつと、含むように笑った。蛇が、生まれたてのひよこを、ジワジワと飲み込んでいくような笑いかただった。

「それにしても、酒場であれだけやりたい放題しておいて、実はそんなに可愛い女を拵えていたのかい。こりゃあ、酒場の女共が泣くぜ、なぁ色男」

 商品を値踏みするような、嫌らしい視線でマルゴを見遣りながら、男は言った。
 インユェは、反射的にマルゴを背中に隠した。

「……こいつは、そんなじゃねえよ」

 吐き捨てるようなインユェの言葉に、やくざ男は笑った。

「こんな状況で男が庇うのに、そんなじゃねえ女がこの世にいるかよ。下手に足掻くと男を下げるぜぇ、なぁ坊や?」
「……ご忠告ありがとうよ」
「ここまで追い詰められといてそれだけ意地が張れるなら、その年の割には立派だよ、あんちゃん。だが、もうお前は終わりだよ。あとは、どれだけ楽に死ねるかだ。同じ死ぬだって、心臓を一突きで死ねるのと、爪先から寸刻みでジワジワ死ぬのじゃあ、訳が違うぜ。これは、知ったかぶりで言ってるんじゃあねぇ。俺は、今までそういう殺し方をして、早く殺してくださいって懇願されたことが、何度もあるんだ」

 男が煙草を咥えた。咄嗟に、脇に控えた子分がライターを差し出した。
 男は、さも美味そうに煙を吐き出した。

「これだけのことをしてくれたんだ。楽に殺すことは出来ねぇが、それでも最後の慈悲をくれてやらねぇこともねぇ。だから、正直に答えるんだな。酒場でてめぇと一緒にいた四人組、あいつらは今、どこにいる」

 一瞬、男が誰の事を言っているのか、インユェには分からなかった。
 しかし、すぐに思い当たった。酒場にいた四人組で、このやくざに楯突くくらいに度胸の座った連中といえば、あの四人くらいだろう。経緯は知らないが、どうやら目の前の男も、あいつらに相当痛い目に遭わされたと見える。
 インユェは再び笑った。鳥肌が立つくらいに気の食わない奴らだったが、このやくざほどにくだらない奴らでもなかった。少なくとも、数を頼りに自分の力を誇示するような無様な真似だけはしなかっただろう。
 そのあいつらが、目の前のやくざ男の面目を潰したのだとしたら、それはとても愉快なことだ。

「知らねえよ。例え知ってたとしても、お前に教える義理はないね」
「余裕こいてんじゃねぇぞ、クソガキが。これは最後の慈悲だぜ。全身の皮を剥かれてビーフジャーキーみたいになった人間が塩水に漬けられた時、どんな声で泣き喚くか、自分の体で経験してみてぇのか」
「なら、そうしてみろよ。お前がたった一人で、俺をそんな目に遭わせてみろってんだ。俺みたいなガキ一人を捕まえるためにこれだけの犬を使ってる時点で、お前の面目なんてやつは地の底まで落っこちてるんだぜ。なら、汚名返上のチャンスってやつじゃねえか。一人でかかってこいよ兄貴分。それとも俺が、てめぇの子供くらいの年しかない俺が、そんなに怖いのかい?」
 
 男のこめかみが、ひくりと動いた。目が血走り、危険なものが視線に込められた。

「いいじゃねえか、挑発にのってやるよ。身の程ってやつを弁えてから地獄に行くんだな、クソガキが」

 インユェは、したりと笑った。

「いいか、俺が連中の注意を引く。お前は何とか逃げろ」

 自分の背に負ったままの、マルゴにそっと耳打ちをした。そして、残された最後の武器であるナイフを、少女の手に握らせた。もう一振りあったはずのナイフは、件の酒場で、へらへらと笑う青年に取り上げられたままである。
 代わりに、自分は銃弾の尽きた銃を手にした。こんなものでも、一応は脅しに使える。最後は鈍器の代わりくらいにはなるだろう。

「恋人に最後のお別れかい、色男。心配するな、てめぇはまだ死なねェよ。死んだ方がましって目に、これから遭わせてやるんだからな」

 男はこれ見よがしに銃を構えていた。彼我の距離は、どう足掻いても一足飛びに飛びかかれるようなものではない。素手では、どれほどの達人であっても結果は明らかだ。
 あの男の口ぶりからすれば、手足の何本かを撃ち抜かれて、そのままどこかに連れて行かれて、拷問の末に呆気なく殺されるのだろう。
 それでも、何故だか死ぬ気がしなかった。インユェは、あの少女と別れて以来、初めて楽しかった。それに、もしも死ぬのならば、もう一度あの少女に会えるのだから悪い話ではない。

 ──今からそっちに行くよ、ウォル。
 ──もう、きっとお前は俺に愛想を尽かしてるんだろうけど。
 ──出来ればもう一度、もう一度だけ、いつもみたいに笑いかけて欲しい。
 
 心の中でそう呟いたインユェは、足取りも軽く死出の一歩を踏み出した。
 そして。

「気持ちは分からないでもないけど、急ぎすぎだよ、お前は」

 インユェの耳に、どこかで聞いたような声が響いた。
 その場にいた全ての人間の視線が、ただ一点に集中した。
 やくざの群れの後ろに広がる、濃い夜の闇。
 そこには、闇の中でなお輝く、黄金の髪があった。緑色の炎を孕んだ野生の瞳があった。
 それは、インユェには、あまりに眩しい色合いであった。
 金色の獣が、そこにいた。

「てめぇ……」
「おれの名前はリィだ。お前の名前はインユェ。それで間違いないな?」



[6349] 第七十話:そして少年は前を向く
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2011/11/06 10:38
「おれの名前はリィだ。お前の名前はインユェ。それで間違いないな?」

 金色の獣は──リィは、あまりに素っ気なく言った。そこに、自分が修羅場にいるのだという気負いは存在しない。何故なら彼は、こういう場所で生きるべく定められた生き物なのだから。

「背伸びするのもいいけどさ、大人に頼れるのは子供だけの特権だぞ。今のうちに使わないでいつ使うんだよ、お前」

 溜息を吐き出すような調子でそんなことを言う。
 リィの言葉に、インユェはかちんとした。それが場違いな怒りだとは理解していたが、どうにも我慢出来なかった。

「なんだとこのチビ!誰が子供だ!?」
「お前だよ、インユェ。自分の力も弁えずに騒ぎを起こして、結果的に女の子を一人危険に晒している。十分過ぎるくらいに子供の仕業だ」

 はっきりと言われてインユェは言葉に詰まった。

「……百歩譲ってそうだったとしても、大人ってのは誰の事だよ!?まさかてめぇのことじゃねえだろうな!」
「間違いなくおれのことだ。なんたって、これでもおれは実年齢で20歳を超えているんだから」

 事も無げなリィの言葉に、インユェは目を丸くした。

「……嘘だろ、おい」
「ああ、ウソだよ。少なくともこの身体は、14歳の子供の身体。でも、おれ自身は20歳を超えているし、結婚だってしたんだぞ」

 呆気に取られたインユェが咄嗟に噛み付くこともできないでいる間に、間抜けな様子のまま銃を構えていた男が、怒りとともに叫んだ。

「おい、てめぇら、俺様を無視して何をくだらねぇじゃれあいをしてやがるんだ!この俺を誰だと思っていやがる!マルデロだ!泣く子も黙るコンラート一家のマルデロ様だぞ!」
「ああ、そういえばそんな名前だったな、あんた。ルーファにやられて情けない有様だったから、すっかり忘れてたよ。ごめんな」

 冷たい視線で男を一撫でしたリィが、なんとも気軽に言った。

「ならもう一度忠告しておくけど、もうおれ達からは手を引いたほうが利口だぞ。おれの相棒も言ってたけど、これ以上首を突っ込んでも何もいいことなんて無い。しなくてもいい怪我が増えるだけだ」
「この、クソガキ……!」

 マルデロは、インユェに照準を合わせていた拳銃を、リィの方に向けた。
 否、向けようとした。
 しかし、それは為し得なかった。銃口がリィの身体を捕らえる前に、リィの小さな身体はマルデロの懐に飛び込み、手刀一閃、その腕から銃を叩き落していたからだ。
 マルデロは、たちの悪いペテンに引っかかったように、目を丸くした。それは、遠くから二人のやりとりを見ていたインユェとマルゴも同じことだ。一体どのタイミングでリィが動いたのか、そしてどのようにしてマルデロの懐まで移動したのか、その過程が全く見えなかったのだ。これでは当事者であるマルデロが何が起きたのか理解できなくても仕方がないと思った。
 リィは、自分を化け物のように見るマルデロをはっきりと睨みつけながら、さも面倒といった様子で口を開いた。

「もう一度言うぞ。これ以上おれ達に関わるな。これが最後通牒だ」
「て、てめえら、何してやがる!このガキを殺せ!」

 周囲にいる仲間に向けて、マルデロは叫んだ。この子供がどれほど化け物じみていても、所詮は一人だ。数で押し包んでしまえばどうとでもなる。
 しかし、マルデロの魂胆は達せられなかった。その場にいたやくざ連中は、マルデロを除いて、全員がすでに地面に転がっていたからだ。

「あーあ、だからぼくは言ったのにねぇ。人の親切に聞く耳を持たないからこういうことになるんだよ」

 ひゅん、と空気を切り裂く音とともにロッドが振るわれた。
 死屍累々と倒れ伏す男たちの中心に、青年が立っていた。
 およそ暴力の気配とは縁遠い、なよついた感すらある青年である。しかし、この場にいて男たちを叩きのめすことが出来たのは、どう考えてもこの青年だけだ。
 またしても、インユェとマルゴは驚きに目を丸くした。いつの間にこの青年がロッドを振るったのか、いつの間に並いる男たちを倒したのか、そもそもいつからこの場にいたのか、認識することが出来なかった。
 驚愕の視線を寄越す二人に軽やか笑みで応えた青年は、わずかに吹いて来た風に黒い長髪を抑え、そして運ばれて来た悪臭に眉を顰めた。

「さ、目的は果たしたんだし、早くこんな場所からはお暇しようよ。ぼく達には時間がないんだし、第一ここに長居したら嫌な臭いが染み付いちゃいそうだ」
「ああ、その通りだな、ルーファ」
「……ちょっと待て、てめぇらぁ!」

 この場における唯一無事なやくざ者となったマルデロが、屈辱に顔を赤らめながら叫んだ。

「いいか、お前らはコンラート一家に正面から喧嘩を売ったんだ!知らねェのか、俺達の親父は警察はおろか入管にも顔が効くんだ!お前らはこの国から逃げることは出来ねェ!一生、俺達の影に怯えながら生きていくことになるんだ!」

 リィとルウは、うんざりしたのを隠さない表情でお互いを見遣った。

「こういうふうに、組織の実力と自分の実力を履き違えた人間って、本当に厄介だよな」
「下手に信じられる物があるぶん、簡単に折れてくれないから面倒だよねぇ」

 そう言ながら、申し合わせたようなタイミングで同時に溜息を吐き出した。
 その様子を見たマルデロは、正しく憤死せんばかりの有様だ。今まで、裏の世界でのし上がるために幾つもの屈辱を耐え忍んできた彼だったが、これほど虚仮にされたのは初めてだった。

「て、てめえらぁ……」

 顔を真っ赤にして唸り声を上げたマルデロだったが、遠くから聞き慣れたエンジン音が近づいてくるのに気が付き、僅かに顔色を戻した。
 これは、コンラート一家が他の組織を襲撃する時に使用する、装甲トラックのエンジン音だ。
 応援が来たのだ。きっと誰かが本部に連絡を入れたに違いない。そしてトラックの荷台には、機関銃や手榴弾で武装した組織の殺し屋達がわんさかと載せられているはずだ。
 これで形勢は逆転だ。マルデロは、前歯の失われた間抜けな表情でほくそ笑んだ。

「おい、てめぇら。命乞いをするなら今のうちだぜ。今からここに、重武装した一家の精鋭が集結する。ここにいるチンピラ連中とは訳が違うぜ。どいつもこいつも、軍の特殊部隊から引き抜いた猛者揃いだ。お前達が何者かは知らねえが、一瞬で蜂の巣だ!」

 鼻の穴を膨らませながら、マルデロは叫んだ。
 リィは肩を軽く竦めて、

「そんなに言うなら、もう少しだけど待ってやるよ。おれ達も友達を待ってるところだから、丁度いいといえばいいんだけど」
「ふん、吠えずらかくなよ、クソガキどもが!」

 エンジン音は少し遠くの通りで止まったようだ。かなり大きなトラックなので、この路地には入ってこれないのだろう。
 その代わり、がしゃがしゃと金属の擦れる神経質な音、そして地面を踏み抜くような重たい足音が近づいて来た。
 マルデロは、路地の出口、足音のする方向に向けて走った。このままこの場所に留まって機関銃で蜂の巣にされるのは、どう考えても間の抜けた死に様だ。

「へっ、ざまあみやがれ、調子に乗ってるから長生き出来ねェんだよ!」

 やがて曲がり角の向こうから、巨大な影が姿を現した。
 マルデロはその巨大さに息を呑んだ。
 機甲兵だ。それも、おそらくは何らかの兵器だろう、大きな荷物を抱えている。
 市街戦に投入される人型兵器。戦車の制圧力とバイクの機動力を併せ持つ鉄の巨人。
 まさか一家にこんなものがあるなんて、マルデロも聞いたことは無かった。
 だが、これほど頼もしい味方はいない。これで決まりだ。あの連中がどれほどの手練れであっても、軽火器では機甲兵の装甲に傷など付けられるはずもない。
 マルデロは多いに興奮し、叫んだ。

「おおい、あいつらだ!あのガキどもが目標だ!皆殺しにしろ!いや、手足を潰してもいいから決して殺すな!」
 
 そうだ、これだけ自分を、そしてコンラート一家をコケにしたのだ。楽に殺してなどやるものか。考えられうる最も残酷な方法で一人一人を犯し嬲り責め殺して、許しと慈悲を乞いながら寸刻みになっていく映像を一家に背いた愚か者の末路として晒してやるのだ。そうしてこそ、守られるべき秩序が守られるというものではないか。

「ふぅん。俺の目標はあいつらなんだな?」

 小脇に荷物を抱えた機甲兵は、のんびりとした調子で言った。
 必死に走ったマルデロは、ようやく機甲兵の隣に並び立ち、今まで自分がいた場所を指差して、もう一度叫んだ。

「そうだ、あいつらを半殺しにしろ!報酬は思いのままだぞ!」
「報酬は思いのまま、ねぇ。お前さん、そんなことを勝手に決められるくらい、偉いさんなのかい?」

 何を馬鹿なことを言ってやがる。
 そう言おうとしたマルデロだったが、ふと感じた違和感に言葉を飲み込んだ。
 今聞こえたのは、機械を通した人の声ではなく、生の人の声ではなかったか。
 違和感を確かめるように、隣に立った機甲兵を見上げる。
 大きい。確かに大きいのだが、いわゆる一般的な機甲兵に比べると、一回り以上小さい。
 ではこの物体は何かと考えてみれば、記憶の端から端を探しても、適合する物が見当たらない。敢えて言うならば……古代のお伽噺に登場する、財宝を守るという青銅の大巨人だろうか。 
 よくよく見れば、その物体が身に纏っているのは金属製の超重量級装甲服だった。つまりこれは、装甲服を纏った人間だということだ。身長は……少なく見積もっても、250センチは越えているように見える。であれば、中に入っている人間も、それに近しい巨体だということになるが、それは到底人類という範疇に入れて良いサイズではない。
 理解不能な物体を前にして言葉を失ったマルデロを、装甲服のヘルメットがぎろりと睨み下ろした。マルデロは、幼少の頃に暗闇の奥の奥に対して無条件に感じた、得体の知れない不安感を思い出していた。
 ぐびり、と、喉が情けない声を上げた。
 しかし、どちらにせよこれは味方なのだ。機甲兵でないのは残念だが、この兵士ならばあのなよなよしい連中を半殺しにするのは赤子の手を捻るようなものだろう。

「お、俺はコンラート一家の若頭のマルデロだ!口先だけの空手形は切らねえよ!心配しなくても約束は守るぜ!」
「そうかい。じゃあ、実は欲しい物があるんだが、お願い出来るかね。それも、強突張りで申し訳ないが、先払いをお願いしたいんだ」
「何でもいいさ、言ってみろよ」

 気を大きくしたマルデロは、大いに胸を張りながら言った。
 この化け物がいったい何を要求するか分からないが、言わせておけばいいのだ。どうせ端金に命を賭ける傭兵の類の人種である。要求する金の額も知れているだろう。見当違いの数字を言ったとしても、後で上手く丸め込むだけだ。総じて、大男というのは鈍重で頭が悪いものと相場が決まっている。
 
「俺が欲しいのは、実は土地の権利なんだが、それでもいいかい?」

 少し予想に外れた返答に、マルデロは驚いたが、それでも頷いてやった。今はこの化け物に気持ちよく仕事をしてもらうのが一番だ。

「いいぜ、言ってみろよ。どんな土地だって手に入れてやる。コンラート一家の名前を出してうんと言わねえ馬鹿がいるなら、力尽くで追い出してやるさ」
「それは心強い。実は、ほら、あのビルが建っている辺りの土地なんだが、大昔に俺の爺さんが、タチの悪いやくざ連中に奪われちまったものなのさ。爺さん、臨終の際まで悔しい悔しいって泣き喚いてたから、せめてもの供え物に取り戻してやりたいと思ってな」
「おお、結構な話じゃねえか。そうだな、先祖の霊は大事にしなけりゃいけねぇ。俺達は任侠者の集まりのコンラート一家だ。絶対にお前の爺さんの面目は立ててやるさ」

 馬鹿を言うなとマルデロはほくそ笑んだ。ビルが聳え立つような地区の土地一画など、こんなけちな仕事の報酬に支払っていいものでは到底無い。この化け物には、常識的な経済観念というものが備わっていないらしい。
 まぁ、それならそれで好都合だ。適当な場所の、猫の額みたいな土地を切り売りして、それで報酬にしてやろう。具体的な契約書を交わしたわけではないのだから、どうとでもなる。
 第一、土地の前払いとは笑わせる。土地は、しっかりした段階を踏み、権利書を渡した時点で所有権が移転するのだ。口先だけで交わされた移転契約など、鼻くそほどの価値もない。
 そう内心で算盤を弾いたマルデロであったが、先ほど巨人の指さした方向を確かめてから首を傾げた。

 はて。

 あのビルは、どこかで見たことがなかったか。闇夜を貫き、他のビルを睥睨するように聳え立つあのビルは……。

 確か、コンラート一家の本部事務所の入った……。

「だとよ、親分さん。この気前のいい若頭さんは、俺に、あんたらのビルの土地をくれるらしいぜ」
「んー、んー!」

 巨人が小脇に抱えた荷物が、もぞもぞと身を捩った。
 マルデロは、その荷物に初めて目を向けて、文字通りに目が飛び出るほどに驚いた。
 まるで工事現場の若者が担ぐセメント袋のような荷物が、実は手足をぐるぐるに縛られた人間であり、その人間というのが自分のよく見知った人間──コンラート一家の親分である、ジャンパオロ・コンラートその人だったからだ。
 
「お、親父!」
「んー!んー!」
「そうかそうか、親分さんも了解してくれるんだな。ってことは、あの土地はもう俺のものってことだ。なら、その上に建ってるビルをどうしようが、俺の勝手ってことだよな」

 巨人は含み笑いを漏らしながら、

「ほい、点火っと」

 手に持った小さな機械のスイッチを押した。

 その瞬間、街が揺れた。

 閃光。

 轟音。

 立ちのぼる白煙と、火薬の臭いを孕んだ爆風。

 それらを背景に、ゆっくりと傾いていく巨大なビル。

「おー。こりゃ凄えわ」

 巨人が手を庇のように翳しながら見守る先で、ビルは大きく傾いたまま、呆気ない様子で地面へと沈んでいった。
 膨大な砂煙が立ちのぼり、街を覆い隠していく。そして風が埃を吹き飛ばしたとき、先ほどまでビルが建っていた場所には何も残されていなかった。
 マルデロは、前歯の欠けた口をあんぐりと開けたまま、その現実離れした光景を見守っていた。巨人が抱えた荷物も、呆然と目を見開いたまま身動ぎ一つしなかった。
 そんな二人を見て、巨人は太い声で大いに笑った。

「そんな顔して、心配することはねぇよ。あのビルにいたあんたらのお仲間は、今頃全員病院のベッドでおねんねだ。それに、近くの住民には爆破解体工事をするってんで、とっくに避難勧告を出してるからな、誰も死んじゃいねえさ。なぁ、ダイアナの姐さん?」
『ええ、そうね、ヴォルフ。あなたの言うとおりだわ』

 聞こえたのは、やや甘いアルトの音域と教養を感じさせる口調とを併せ持っている、魅力的な女性の声だった。
 その声の持ち主も、巨人の笑い声に応えるように、言葉の端々で笑っていた。

「もちろん、各種補償金迷惑料はおたくらコンラート一家持ちだ。気前よくばらまいたからな、みんな喜んでたぜ」
『あとで銀行の預金残高を見ても驚かないことね。きっと凄いことになってるから』

 ヴォルフとダイアナは、二人して悪戯小僧のように笑った。その背後で、金と黒の天使が、胡散臭そうな目つきのまま二人のやり取りを眺めていた。

「……確かに、ぼく達に手を出したら火傷じゃ済まないとは言ったけど……。何て言うか、エディ、これって、ねぇ」
「少しやり過ぎな気がするのはおれだけかな、ルーファ」

 やるからには徹底的に。そう提案したのは確かにこの二人である。
 だから、一家の本拠地に乗り込むと気安く言った大男を止めなかった点、リィとルウにも責任はあるはずなのだが、それにしたってここまでするとは思わなかった。おそらく、というかほぼ間違いなく、何事につけ派手好きであるダイアナ謹製の入れ知恵と助力があったに違いない。少なくとも、あれ程見事な爆破解体を演出するための各種演算はダイアナが喜び勇んで引き受けたに違いないのだ。
 黒の天使と金の天使は、同時に首を振った。
 そしてその更に後ろ、今日限りの命を覚悟していたインユェとマルゴは、事態の推移に全く付いていくことができずにただただ唖然とするばかりだ。

 ──いったい、何が起こっているのか。

 猛悪なやくざ連中と揉め事を起こし、路地裏に追い詰められた。退路は断たれ、あとは前に出て討ち死にするばかりと腹を括った瞬間に、先ほど酒場で一悶着を起こした四人組の二人が現れて、あっという間に荒くれ者を片付けてしまった。そして、敵の援軍らしき正体不明の巨人が現れたと思ったら、どうやら敵の本拠地らしきビルを丸ごと爆破してしまった。
 残されたのは、痴呆を患ったかのようにぴくりともしない、敵の親玉と子分が二人だけである。
 これは果たして現実のことだろうか。インユェとマルゴは、同時に自分の頬を抓っていた。

「まだ……まだだ……」

 ぼつりと、調子が外れて裏返った声が聞こえた。
 ヴォルフは、おやと声の主を見た。まだ、声を出すだけの気力が残されていたのか。それはそれで立派なことだと、他人事のように思った。

「まだ、とは、どういう意味だい?もらえるものはもらったぜ?まだ何かくれるってことか?」

 半ば本気でそう問いかけた。
 声の主、マルデロは、十も年を取ったように見えるほど窶れた顔にぎらぎらとした狂気を貼り付けて、叫んだ。

「ああ、いいじゃねえか!あのビルと土地は、てめぇにくれてやるさ!だから、さっさとあのガキ共を血祭りに上げてこい!こっちは払う物は払ったんだ!てめぇも契約に従え!」
「ふむ、なるほど。まぁ、それも道理か」

 装甲服のヘルメットを外したヴォルフは、顎に手を当てて考え込んだ。そして、後ろにいる二人の天使に顔を向けた。
 
「どうする?リィ、ルウ、いっちょやらかすかい?」

 水を向けられた二人は、あっさりとした調子で応じた。

「それもいいけど、もう少し落ち着いてからだな。おれ達は、さっさとあの馬鹿を助けにいかないといけないわけだし」
「連邦大学に戻ったら思う存分に遊ぼうよ!体育館とか予約しておくからね!」
「そうか、残念だなぁ」

 唇を尖らせたヴォルフは、再び雇い主であるらしいマルデロに向き直り、

「悪いなぁ、俺がやる気でも、あっちにやる気がないらしい。だから、この契約は無しだな。土地の方も返すよ。別に、もとから欲しかったわけでもないし」

 二人に負けず劣らずあっさりとした調子で言った。

「か、か、返すだと、て、てめぇ、あ、あれだけの、あれだけのぉ……!」

 もう、あまりに怒りすぎて、魚のように口をぱくぱくさせながら、しかし顔は真っ赤のマルデロであった。言いたいことが多すぎて、上手くしゃべることが出来ずにどもってしまっている。

「おいおい、落ち着けって、冷静に、冷静に」

 どうどうと、ヴォルフは牛を押さえつけるような手振りをした。
 それに従ったわけではないだろうが、マルデロは何度か喘ぐように呼吸を繰り返し、少し落ち着いてから、いっぱいいっぱいの様子で叫んだ。
 
「じ、爺さんが欲しがった土地だとか言ってたじゃねぇか、てめぇ!」
「すまん、ありゃ嘘だ。俺の爺さんは、俺が生まれるとうの昔にくたばってるからな」

 ヴォルフは顔の前で手を合わせた。
 
「ビルを木っ端微塵にしておいて、今更返すはねえだろうが!んな馬鹿な話が通用するか!」
「ああ、それもそうだなぁ、悪かったなぁ。今度弁償するよ。公務員の安月給だ、返すのに何百年かかるか分からんが、気長に待っていてくれなぁ」

 後頭部を指の先で掻きながら、気の毒そうにそう言った。
 マルデロは、あまりの怒りに総身を震わせ、ついに懐に隠した拳銃に手を伸ばした。

「てめぇ、ぶっ殺してやる!」

 何の躊躇もなく、弾倉が空になるまで引き金を引いた。
 マルデロの放った弾丸はヴォルフの身体に命中した。全て命中した。しかし、ヴォルフの纏った総重量で50キロ近い金属の鎧は、小さな弾丸を、豆粒のようにはじき返したのだ。
 
「ああ、そうだ、もう一つ返すものがあったなぁ」

 自分が銃撃されたことなど蚊に刺された程度にも気にしていないヴォルフは、小脇に抱えた荷物──未だ呆然と我を失ったコンラート一家の親分である──をむんずと掴んだまま、大きく振りかぶった。

「お前の大事な親分さんだ。落っことすなよ」

 涼しい声で言って、思い切りぶん投げた。
 野球選手が投げる剛速球さながら、凄まじいスピードで飛んでくるのは人の身体である。
 マルデロは、飛んでくるのが大恩ある人物だと知っていたが、それでも躱そうとした。巻き込まれれば押しつぶされるのは必至だからである。恩も義も、命あっての物種だ。
 だが、間に合わなかった。

「ひぇっ」

 何とも奇妙な声を上げたマルデロは、飛んできた親分と衝突し、勢いそのままに吹き飛んで、もみくちゃのまま壁にぶつかった。
 白目を剥いて気絶し、手足がくたりと力無いマルデロの様子は、使い古しのマネキン人形に似ていた。

「聞けば、お前さんも結構あくどい真似をしてきたみたいじゃないか。別に、これが天罰だとか世直しだとか気取るつもりもないが、天災ってやつは他人の頭の上にだけ落っこちるものじゃあないってことが分かっただけでも、儲けもんだと俺は思うよ」

 自身を天災程度には物騒だと自覚しているらしいヴォルフは、どこまでの他人事のように言ってから、面倒くさそうに顎の無精髭を撫で摩った。
 それに、とヴォルフは思う。

「終わったぜ。さ、引き上げるとするかね」

 振り返ったヴォルフの目に飛び込んでくる、金色の少年と黒色の青年の姿。この二人の物騒さときたら、自分はおろか本物の天災だって裸足で逃げ出すほどだ。田舎やくざ風情には、どう考えたって荷が勝ちすぎる相手である。
 同情はしないが、まぁお気の毒に、と、しばらくは意識の戻りそうにない似非マネキンに、ヴォルフは哀悼を捧げた。

「……何のつもりだよ、てめぇら」

 ヴォルフの視線の先、金と黒の天使達の更に後方の闇から、絞り出すような声がした。
 全員の視線が、声の主に集中する。

「これで、俺を助けたつもりかよ。そんで、俺が這いつくばって感謝の言葉でも述べると思ったのかよ。ああっ!?」

 インユェは、獣が毛を逆立てるようにして叫んだ。その様子は、深手を負った野生の生き物が、近寄る全てのものに対して牙を剥く姿に似ていた。

「勝手なことをしやがって。誰が助けてくれって頼んだよ。少なくとも俺は頼んじゃいないぜ。だから、お前らは勝手に厄介ごとに首を突っ込んで、勝手に走り回っただけのことさ。へっ、ずいぶんご苦労なこったなぁ!」
「ああ、そうだ。おれ達は、誰に頼まれるでもなく、勝手にあの連中を潰した。別に、お前に礼を言われる筋合いじゃない。なんだ、ちゃんと理解してるじゃないか。思ったより頭がいいんだな、お前」

 リィは、素直に感心したふうな口調で言った。
 インユェは、酸っぱいものを口に含んだように奇妙な顔をしてから、思い切り唾を吐き捨てた。

「けっ。じゃあ、お前は何であいつらを潰したんだよ。まさか、本当に正義の味方気取りか?悪い悪いやくざを懲らしめて自己満足か?はん、だったら褒めてやるよ!見事なナルシストだ!致命的な精神病患者様だ!褒めてやるからさ、感謝してやるからさ、さっさとこの世で一番厄介な内戦のまっただ中にでも飛び込んで、見事に犬死にしてくれよ!」
「正義の味方?おれ達が?馬鹿も休み休み言えよ。この面子を見て、どうしてそんな単語が浮かぶかなぁ?」

 リィは、自分の周りの面々をぐるりと見回してから、急角度に首を傾げた。
 ルウは自身とリィ、あとは自分の気に入ったごく僅かな人達のこと以外については結構冷淡だったりするし、ヴォルフは見た目からして正義の味方というふうではない。むしろ、悪の怪人役の方がしっくりくる様子だ。無論、中に詰まっているものは置いておいて。
 そして自分は、どう考えてもそんな役回りは御免である。自分が立ち回らなければ世界が終わると勘違いするほどのペシミストでなければ、我が身を引き替えにしてまで無関係な誰かを助けたいと願うほど自己犠牲の精神が豊かなわけでもない。むしろ、その対極にいる生き物だと自覚している。

「おれがあいつらを叩きつぶした理由はただ一つ、おれの目的を達成するのに、あいつらが邪魔だったからだ。それに、これから先にちょろちょろされるのも鬱陶しいからな。徹底的にやった。それも少しやり過ぎな気がしてるけど……」

 ちらりとヴォルフの方を見た。
 大男は、にこりと良い笑顔で笑った。褒められたのだと思ったらしい。
 リィは、小さな溜息を吐き出した。

「……へぇ。じゃあ、聞かせてくれよ。お前の目的ってやつをさ。さぞ壮大で、俺如きには理解出来ないほど崇高なものなんだろう?」
「お前さ、一々そういう言い方してて疲れないか?もっと、肩肘から力を抜いた方が生きやすいと思うんだけどなぁ」

 リィは、さも呆れたというふうに肩を竦めた。その姿を見たインユェは声を荒げかけたが、しかしこのままでは話が前に進まないことを理解したのか、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「おれの目的は、お前だよ」

 リィは、そう言った。
 そして、その視線の先には、他ならぬ自分がいる。
 インユェは、素っ頓狂な声を上げた。

「俺ぇ?」
「そうだ。おれ達には、お前が必要だ。だから、お前に害を為そうとしている、あの連中を叩きつぶした。どうだ、単純な理屈だろう?」
「……俺が必要?……へっ、なんだ、お前、女みたいななりしてやがるから、そういう趣味かよ。だが残念だったな、俺にはそんな趣味は──」
「そういうことは、冗談でも言われて良い気分じゃないんだ。今度言ったら侮辱と見なすぞ」

 金髪の少年の視線は、インユェが想像したよりも遙かに苛烈だった。インユェは、自分以外の意思でもって言葉を失った。

「おれがお前を必要としているのは、お前の身体に性的な興味があるからなんかじゃない。お前が、この世界で二人目の銀盤の月だからだ」
「……銀盤の月、だとぉ?」

 インユェは胡散臭そうに眉を顰めた。
 そういえば、あの酒場で顔を合わす前、四人の会話を盗み聞きしてたときもそんな単語が聞こえた。
 そして、思い出されるのは、月と対になる、もう一つの単語。
 太陽。
 その言葉は、インユェにとって、失われて二度と戻らない、あの少女の笑顔を思い起こさせた。
 インユェは、ぎしりと歯を軋らせた。

「……それで、俺が銀盤の月とやらだとして、それがお前にとって何の意味があるんだい?」

 リィは、今までで一番燃えさかる視線でインユェを捉えて、その言葉を口にした。

「決まってる。ウォルを助けるんだ」

 そしてその言葉が、インユェに残されていた最後の理性をはじき飛ばした。
 インユェは、リィに飛びかかった。一晩中マルゴを背負って走り回った疲労の面影はどこにもない。飢えた狼さながらの俊敏で、そして獰猛な動き。
 かっと見開いた瞳、食いしばった歯、奥歯が見えるのではないかというほどに引き絞られた口元。
 それは、憎悪をそのまま体現したような表情だった。
 リィは、黙って地面に押し倒された。
 馬乗りになったインユェは、両手で、無抵抗のリィの首を力一杯に掴んだ。

「月がどうとか太陽がどうとか!しゃらくせえんだよてめぇは!今更お前がどう足掻こうが、あいつは死んだんだ!もうこの世にいねぇんだ!犬の餌になっちまったんだよ!ああ、認めてやるさ、てめぇは強いよ!俺よりも、俺の姉貴よりも、もっともっと強いさ!なら、どうしてあの時にウォルを守ってくれなかった!お前がいれば、あの時お前がいてくれたら、ウォルは死なずに済んだのに!」

 二人の様子を見て、ヴォルフは止めに入ろうとした。インユェの掌は、リィの首をぎりぎりと絞め上げている。あれは、子供の喧嘩にしてはやり過ぎだ。
 だが、その大きな肩を押さえる掌があった。
 振り返ると、ルウが、静かな面持ちで首を横に振っていた。視線を二人に戻せば、インユェは、もうリィの首を絞めていなかった。リィの胸に顔を埋めながら、静かな声で噎び泣いていた。

「どうして、どうしてまもってくれなかったんだよう……どうして……どうして……」

 胸を引き絞るように悲痛な泣き声が、静かな路地裏にこだましていた。

「……分かるよ、大事な人を守れなかったつらさは。おれも、そういうことが、何度かあったから」

 仰向けに天を仰いだリィは、そう言ってインユェの頭を掻き抱いてやった。
 そうしても、インユェはいっかな抵抗しなかった。まるで母に甘える幼児のように、リィの胸で泣き続けた。

「でも、お前は幸せ者だよ、インユェ。だって、お前は大事な人を、まだ助けることが出来るんだから。まだ取り戻すチャンスがあるんだから」

 ぴくりと、銀色の髪で覆われた頭が動いた。
 インユェが、恐る恐ると顔を上げ、涙と鼻水と涎でぐしゃぐしゃの顔のまま、リィを見下ろした。
 その情けない顔を見上げながら、リィははっきりと言った。

「ウォルは生きてる」

 その言葉の意味が、果たしてインユェに理解出来ただろうか。
 すぐには不可能だった。だが、砂地に撒いた水のように、じわりじわりと染みこんでいくその言葉を何とか理解出来たのは、インユェの心の奥底に、正しくその願望があったからに違いない。
 もしかしたら。万が一でも。奇跡が起こるならば。
 もう一度、あの少女に会えるかも知れない。あの、太陽のように朗らかな微笑みで、自分に笑いかけてくれるかも知れない。
 願いがもしも叶うならば、この魂が地獄に堕ちても後悔はしない。
 
「……嘘だ。あいつは死んだ。くそったれな儀式の生け贄になって」

 だが、その可能性に縋り付けば、裏切られたときに生きていけなくなる。いや、生きていけないどころではなく、もう、死ぬ気力さえ失った生ける屍として生きていくしかなくなる。
 だから、インユェはそう応えるしかなかった。自分の言葉が否定されることだけをひたすらに希って。
 そして、金髪の少年は、優しく首を振った。それは、縦にではなく、はっきりと横に。

「詳しいところはダイアナから聞いた。あいつを連れ去った男は、あいつを太陽として生け贄に捧げると言った。そうだな?」

 インユェは、ウォルとの別れの場面を思い出した。
 そうだ、あの男、姉を拷問し殺したと嗤ったあの男は、確かにそう言っていた。
 だが、それがいったいどういう意味を持つのか、インユェには分からない。

「いいか、確かにあいつは太陽の属性を持っている。今や、この世界における二つ目の太陽と同じ存在だっていうくらいにはっきりと」
「……それで?」
「インユェ。あいつはあの時、体調を崩していなかったか?」

 体調。
 そういえば、確か、あの少女は──。

「ああ、確かに体調を崩していたけど……」
「理由は?」

 そう問われてインユェは口ごもった。果たしてそれは、軽々しく他人に伝えていいものかどうか、判断に迷ったのだ。
 そんなインユェを見て、リィは微笑んだ。

「答えられないならおれが言ってやるさ。あいつは月の障りを患っていた。違うか?」
「お前、何でそれを……」
「ずっと不思議だったんだ。銀盤の月が近くにいるだけで、どうしてルーファの手札が死に神を指し示すくらいにあいつの存在が弱まっていたのか。大怪我でもして死にかけているのかと思えば、ぴんぴんしている写真が送られてくるし。でも考えてみれば何のことはない。あれはつまり、あいつの間借りしたウォルフィーナの身体が女性として成熟することの予兆だったんだよ」
 
 リィは勢いをつけて身体を起こした。
 インユェは、ぐすりと盛大に鼻を啜り、服の袖で顔をごしごしと拭いてから、リィの身体を離れた。

「お前は、あいつから聞かされなかったか。あいつの前世のことを」
「……確か、何とかっていう国の、王様だったとか……」
「うん、そうか、やっぱりな。あいつは、お前になら本当のことを教えても良いと思ったんだな」

 そう言ったリィは、輝くような笑みを浮かべていた。何か、嬉しくて仕方ない何かを見つけたように。
 インユェは、訳も分からず赤面するはめになった。嬉しいような、恥ずかしいような、何とも名状し難いむず痒い感情をどう扱えばいいのか、少年はまだ誰にも教わっていなかった。

「……でも、だからどうしたってんだよ」
「前世のあいつは、それこそ太陽を体現したみたいな王様だったんだ。そしてその魂のかたちを保ったまま、この世界へと転生してきた」

 リィは、埃に汚れた背中と尻を叩いて綺麗にした。

「太陽を体現しているのが果たして男性神なのか女性神なのか、宗教学的には議論の尽きないところらしいけど、あいつの場合、太陽を現していたのは間違いなく男としての魂だ。それが女性の身体に宿り、初めての生理を迎えた。だから、あいつの中の男の部分、太陽を構成する要素が、著しく弱っていた」
「……」

 リィは、自身を見つめるインユェの胡散臭げな視線に気が付いて、くすりと笑みを溢した。

「まぁ、これは科学的な話じゃないのは重々承知だ。だけど、相手も科学的じゃない要素を重視して、あいつを生け贄に見定めたんだ。相手と同じ視線でものを見るっていうのはすごく大事なことだぞ」
「……わかった。続けてくれ」
「生理っていうのは、どう足掻いたって女性的な現象だ。特に初潮は、出産に向けて母胎が成熟した証なんだからな。その時に、男としてのかたちを残したあいつの魂が、強い影響を受けないはずがない」

 そういえば、と、インユェは、異常なほどに苦しげだったウォルの様子を思い出した。
 顔を真っ青にして立ち上がることも出来ず、何度も嘔吐を繰り返していた。それも、あれだけ気丈で、体力も優れた少女が、である。何か、生理以外の致命的な病気を患っているのではないかと心配したほどだ。

「もう一度言うけど、この国の誰かさんは、ウォルを太陽として生け贄に欲していた。それなのに、月の障りのあるあいつを生け贄にしたんじゃあ本末転倒だ。100カラットのダイヤモンドをわざわざ粉々に砕いて工業用のダイヤモンドカッターを作るようなものかな?勿体ないにもほどがある」
「……」

 まだ承伏しかねるようなインユェに、リィは笑いかけた。

「それに、もしもあいつが本当に死んだんなら、おれにもお前にも挨拶に来ないってのが妙な話じゃないか?あいつは、世話になった人間に別れの挨拶もせずに死ぬほど、礼儀知らずじゃない。おれはそう思う」

 呆気に取られたインユェの頬が、少しずつ持ち上がり、そして、何とか笑みと呼べる表情になった。
 それは、久しぶりの、本当に久しぶりの、本物の笑顔だった。

「じゃあ、あいつは、まだ生きているのか……?」
「あいつを攫った誰かさんが、致命的な間抜けじゃない限りは」
「でも、あいつが生け贄に捧げられたって、みんなが言ってる。儀式は滞りなく終わったって、女の子が生け贄に捧げられたって……」
「じゃあ聞くけど、お前はその女の子がウォルだってその目で確かめたのか?」

 インユェは首を横に振った。

「二週間前に、誰かが正気じゃない宗教儀式の生け贄に捧げられたのは本当だと思う。その可哀相な女の子が野犬に喰い殺されたっていうのも、本当だろう。でも、それはウォルのことじゃない。絶対に違う。おれは、絶対に信じない」

 インユェは嬉しくなって、笑おうとした。叫びたいくらいだった。
 しかし、それが出来なかった。ウォルの代わりに生け贄に捧げられた女の子に思いが至ったからだ。
 その子には、当然のことながら、その子の人生があったはずだ。もっと生きたいと願っていたはずだ。その想いを踏みにじられて、時代錯誤も甚だしい宗教儀式の生け贄にされた。
 到底許していいはずがない。それは、断じて許されてはいけない。そう思ったのだ。
 それでも。それらの全ての事情を飲み下しても、なお。

「……俺は、嬉しい。あいつが生きていてくれるなら、夢みたいだ。他の誰かが犠牲になったんなら、それは心底気の毒だと思うけど……それでも、あいつが生きていてくれて、よかった……」

 ぐすり、と鼻を鳴らした。
 リィは、確と頷いた。

「時間は無い。もう、あいつの体調はもとに戻っているはずだ。なら、次の満月──明日の晩には、多分もう一度儀式が執り行われる。その時生け贄に捧げられるのは、今度こそあいつだ。そんな馬鹿なこと、絶対にさせない。おれは、あいつを助ける。そのためには、インユェ、あいつと対の存在である、お前の力が必要になるはずなんだ。だから、力を貸して欲しい。頼む」

 リィは、インユェに頭を下げた。
 インユェは、喜び勇んで頷こうとした。だが次の瞬間、その顔は暗い靄に包まれ、その首は前に項垂れてしまった。

「……どうしたんだ?」
「……俺は、あいつに三回も命を助けられておいて、見捨てたんだ。今更どの面下げてあいつに会えるかよ。あいつの前に顔を出す資格なんて、助けに行く資格なんて、俺には無いんだ。だから、リィ、あいつはお前達だけで助けに行ってやってくれよ。俺なんかがいなくったって、お前らならあいつを助けられるさ」
「……お前、それ、本気で言っているのか?」

 リィの声に、険しいものが込められた。
 インユェも、それが何故なのか、理解していた。自分がどれほど柔弱で意気地無しなことを言っているかも。
 
「お前はさっきまで、あいつが死んだと思い込んでいた。だから腐っていた。それはいいさ。大切な人が死んだんだ。ショックを受けない方がどうかしてるもんな。でも、あいつが生きていると分かった、少なくともその可能性があると分かった。なのに、お前は腐ったままなのか。それなら、おれはお前を軽蔑するぞ」

 リィの言うことは、至極正しかった。あまりに正しく、そして鋭いその穂先はインユェの胸を容易く貫くほどだ。
 インユェは、悔しげに唇を噛んだまま俯いてしまった。彼にだって、何が正しいのか、自分がどうするのが一番良いのか、理解は出来ている。しかし、納得が出来ないのだ。こんな矮小な自分が、あの太陽のような少女の前に、もう一度姿を晒していいのか。それは、果たして許されることなのか。
 黙ったままのインユェを見て、リィは忌々しげに舌を打った。
 
「分かった。もういい。あいつは、おれ達だけで助ける。何か、伝えておきたいことはあるか?」
「……世話になったって。それと、幸せにって」
「分かったよ。気が向けば伝えてやるさ。きっとあいつ、がっかりするだろうけどな」
「えっ?」
「あいつは、お前を友達だと思ってたんだ。だから、本当の自分の身の上を教えた。それなのに、お前が助けに来てくれなかったと知って、がっかりしないはずがないさ。それでも、あいつはきっと笑うんだろうけどな」

 あいつはきっと笑う。
 そうだ、あの少女は、きっと笑うだろう。自分がいてもいなくても、きっと笑っている。そして、自分がいなければ、その笑顔が向けられるのは、自分以外の誰かなのだ。
 例えば、目の前にいる、金髪の少年に対して。
 嫉妬は感じなかった。目の前にいる少年と自分とでは、あまりに格が違いすぎるのだと思った。あの少女の隣にいてどちらが絵になるかなど、思い描くまでもない。
 それでも。もしも許されるなら。

「……わたしは行くわ、連れて行って」

 インユェの背後で、赤毛の少女が立ち上がった。

「わたしは、あなた達の助けようとしている女の子を、力尽くで攫ったわ。それに、生け贄に捧げられるのが彼女の幸福であると確信していた」
「それはどうして?」

 ルウが、優しげな調子で訊いた。
 マルゴは、しばらく躊躇して、

「……そうね、きっと、お父様がそう言ったから、なんだわ。お父様の言うことは、全てが正しいのだと思っていた……」
「今は違うと思っているの?」

 マルゴは、正直に首を振った。

「分からない。もしかしたら、まだ正しいと思っているのかも」
「じゃあ、何であの子を助けようと思ったの?」
「わたしは、あの子を助けようなんて思ってないわ。ただ、あの子がまだ生け贄に捧げられてないのなら、生け贄に捧げるその場に、きっとお父様は姿を現す。わたしは、どうしたってもう一度お父様に会わなければいけない。裏切り者と、恥知らずと詰られても」
「ぼく達は、王様を助ける。そしてきみは、お父さんと話す。その結果、やっぱりお父さんの言ってることが正しいと思ったら……」
「あなた達と戦うわ。正直、勝ち目なんて無い気がするけどね」

 赤毛の少女は、勝ち気な表情で笑っていた。それは、生命の輝きを体現したような、美しい笑みだった。
 インユェは、羨ましかった。自分も、一度でいいから、そんなふうに笑ってみたいのだと思った。

「清々しいくらいに正直な女の子だね、きみ」
「マルゴよ。あなたは……」
「ぼくはルウ。こっちがぼくの相棒でエディ。でも、きみが呼ぶときはリィって呼んでね。それで、あっちにいる象さんみたいな人が、ヴォルフ」
「よろしく、ルウ、リィ、ヴォルフ」

 マルゴは何の気負いも無く、インユェを残して、前へと歩いて行った。
 インユェは、理由もなく手を伸ばしそうになった。自分を見捨てるのか、自分を置いて先に行くのか、と。
 ああ、これではあの時と一緒だ。あの少女を見捨てて、一人、森の中で立ち尽くしていた、あの時と。
 置いて行かれてしまう。
 また、見捨てるのか。また、あの絶望を味わうのか。これでもしも、ウォルを助けることが出来なかったとき、俺は俺のことを許せるのか。
 インユェは、背中を向けて立ち去ろうとしている金色の少年と赤毛の少女の足音を聞きながら、じっと自分の爪先を睨み付けていた。ぎゅっと握り込んだ拳が、細かく震えていた。
 
「ぼくは、誰かを助けたいと思ったときは、そんなに難しいことは考えないよ」

 驚いて顔を上げる。
 そこには、我が子を見守るように優しげな顔をした、黒髪の青年がいた。

「あんた……」
「ぼくは、助けたいから助ける。手伝いたいから手伝う。それが迷惑だと言われたら少し悲しいけど、でも、ぼくがそうしたいと思ってるんだから、仕方ないよね。迷惑だと思われても、我慢してもらおう。だって、ぼくがそうしたいんだから」
「……」
「資格の有る無しなんて、それはただの言い訳だ。確かに、見捨てたのは傷かも知れないし、後ろめたいかも知れない。でも、それを言い訳に使うのは、弱さを武器にすることじゃないかと思うし、それは卑怯なことだと思う。結局、あの子を助けたいのか、助けたくないのか。その二つに一つだよ」
「……うるせぇ。偉そうに言われなくたって、分かってんだよ、そんなことくらい……!」
「なら、言い訳は無しだ。自分に甘えるのも過去に酔うのも禁止。その上で、きみはあの子を助けたいの?それとも……」

 インユェは、きっと顔を持ち上げた。
 その瞳に、迷いは無かった。逡巡も無かった。ただ、純粋な意思だけがあった。
 あの少女に、もう一度会いたい。そして、謝りたい。いや、違う。ありがとうと、そう言うのだ。
 その一言を伝えるまでは、絶対に死なない。泥水を啜っても、絶対に生き延びてやる。

「俺の名前はインユェだ!」

 リィが、振り返った。マルゴも振り返った。ヴォルフとルウは、微笑みながらその声を聞いた。
 蛹が蝶にかえる瞬間というのは、どんな時でもうきうきするものだ。それが美しい種ならなおのこと。

「銀色の月って書いてインユェ!リィ、ルウ、ヴォルフにマルゴ!ウォルを助けるまでの短い時間だが、よろしく頼むぜ!」

 そう叫び、先を行く二人の横に並んだ。
 もう、情けないところの全ては見せた。どん底は十分に味わった。あとは、上に昇るだけだ。

「じゃあ、これは返さないといけないね」

 ルウが、懐から鈍く光る刃物を取り出し、柄をインユェに差し出した。
 インユェは、神妙な面持ちでナイフを受け取った。
 ルウは少年の気色ばんだ表情を見て、少しだけ羨ましいと思った。血の繋がらない赤の他人のために命を賭けられる生き物が、美しいとすら思った。

「それと、もう一人、紹介しなくちゃいけないよね」

 ルウが、ビルとビルに挟まれた、人一人がようやく通れるほどに狭い通路に視線を遣った。
 インユェもつられて同じ場所を見たが、そこはどこまでも暗い空間で、その奥には何も見えない。

「もう終わったの?」

 気安いルウの声に、

「ええ、ちょうどいいタイミングですね。こちらも全て片づきましたよ」

 闇の奥から、少女のように軽やかな声が聞こえた。
 そういえば、とインユェは思った。あの酒場で、リィに飛びかかろうとした自分を、それだけで殺せるのではないかという殺気で射貫いた、銀髪の少年がいたはずだ。
 路地の奥の方で何かが煌めいたと思ったら、足音はおろか何の気配もなく、一人の少年が姿を現した。
 銀色の髪。菫色の瞳。肌は抜けるように白く、この世の者とは思えないほどだ。しかしその頬に付いた赤い液体の痕跡が、彼も此岸の生き物であると教えてくれる。

「結構手こずったみたいだね」
「恥ずかしながら。あちらの世界ならこんな不手際は無かったのですが……」

 銀髪の少年──シェラは、恥ずかしげに俯いた。
 その手には、端の切れた鎖が握られており、もう一方は依然闇の中に沈んだままである。  シェラは、それを無遠慮に引っ張った。ずるりずるりと地を滑る音が聞こえ
て、やはり闇の奥から、得体の知れない何かが姿を現した。
 
「誰、それ?」
「よく分かりません。自分でも自分が何者か、はっきり分かっていないのではないでしょうか。何を聞いても答えようとしません」

 鎖に雁字搦めにされたそれは、男だった。
 背格好は、この星における一般的な成人男性のそれであるが、妙に節くれ立った指先と、蛇のように鋭い眼光が、荒事に慣れていない一般人には相応しくない。猿ぐつわの噛まされた口をもごもごと動かし、おそらくは呪いの言葉を吐いていた。

「あちらの世界でのわたしと同じような世界に生きる人間ではないかと」
「誰かの道具だってことだね」
「はい、ほぼ間違いなく」
「拷問はしてみた?」
「別の人間に。ですが、何も漏らしませんでした」

 怖いことを、まるで今日の晩ご飯のおかずを尋ねるような何気なさで、二人は言い合った。
 ふぅんと呟いて、ルウは捕虜の男の前にしゃがみこんだ。

「こんにちは、僕の名前はルウ。あなたの名前も聞きたいけど、猿ぐつわを取って舌を噛まれても困るので、そのまま話させてもらうね」

 男はぷいと明後日の方向を向いた。

「なるほど、あなたの名前はブランドか。昔の言葉で、武器とか剣とかいう意味が込められてるんだよね。君みたいな人間にはぴったりな名前だね」

 男が、あまりの驚きに顔を強張らせて、ルウを見た。

「別に難しいことじゃないよ。君の頭の中で響いている声を、拾っただけだから」
「……!」
「そんな馬鹿なって?そうだね、常識で考えればそのとおりだ。でも、現にこうしてぼくは君の心の声を聞いている。だから、別に正直に答えようとしなくてもいいよ。どうせ嘘は吐けないんだし」

 相も変わらずにこやかに微笑んでいるルウだが、彼を見上げる男の顔は気の毒なほどに蒼白であった。当たり前だ。普通のいや、普通でなくとも常識的な感覚を持つ人間であれば、心の中を覗き見られて平静でいられるはずがない。
 もう少し大仰な仕掛けや前振りでもあるならば、ペテンか手品かと疑うことも出来るだろうが、あまりにもあっさりと自身の名前を言い当てられた男はたいそう狼狽した。

「無理だよ、何も考えないようにするのは。それは、素質のある人が長く苦しい修行とかをしてようやく到達できる境地らしいから」
「んー!んー!」
「さて、あなたはどうしてインユェを狙っていたのかな?それに、いつから彼のことをつけ回していた?今日、あの酒場から、じゃないよね?」
「……!」
「理由は知らない、と。そうか、二週間前から。つまり、王様が拉致された直後から、わざわざこんな子供を監視していたわけか。ご苦労様」

 インユェは目を丸くして驚いた。
 二週間といえば、例の隠れ家を飛び出して、この街に潜り込んだ時期である。それからずっと、自分は尾行されていたということか。
 しかし、どうして自分のような子供を。もう、戦う手段を失って、自暴自棄になっていただけの子供を、何故わざわざ監視する必要があったのか。

「それともう一つ。今晩のあなたたちは、明らかにインユェを殺そうとしていたね。どうして監視が、いきなり殺害に変わったのかな?」

 男は肩を落として項垂れてしまっていた。喚いたり暴れたり、抵抗をしようという気力が根刮ぎ奪われてしまったような有様だ。これなら、猿ぐつわを外しても舌を噛み切ろうはしないかも知れない。
 そんな男に、ルウはあくまで淡々と尋問を続けた。尋問と言っても、ルウが一方的に質問をして、一人で答えを得るだけなのだが。

「ふむ、それも詳しいことは知らされていない、と。ただ、事情が変わったらしい、か……なるほど、多分切っ掛けはぼく達だね。まだ未熟な銀盤の月である彼に、闇と太陽と月が接触したから、完全に覚醒する前に殺そうとした……。どうやらあなた達のお偉いさんは、ぼく達の世界に近い人みたいだ。じゃあ、これが最後の質問だよ。ウォルっていう女の子はどこに監禁されているのかな?」

 男は、もはやぴくりとも動かない。
 ルウも、首を一つ振って立ち上がった。

「もう、この人から得られる情報は全てもらったから。適当な場所に捨ててきて」
「わかりました」

 無慈悲なルウの言葉に、やはり無慈悲な調子でシェラが応じた。
 男を縛った鎖を持ち、引きずったまま再び闇の奥に消えていこうとする。その最後の瞬間に振り返り、インユェの呆然とした顔をぎろりと睨んだ。
 少女のように美しい顔立ちが、背筋を凍らせるほどの殺意に染まっている。その不吉な齟齬がインユェの背中を僅かに仰け反らせた。

「わたしの名前はシェラだ。シェラ・ファロット。先に断っておくが、わたしは他の方々ほどには貴様に優しくない。もし、リィに対してあの酒場のような無礼をもう一度働いてみろ。その首と胴体がどれほど容易く分離するものか、貴様の身をもって教えてやる」
「……覚えておくよ、お嬢ちゃん」

 ひゅん、と甲高い音立てて何かが飛んできた。
 インユェは咄嗟に身を捩り、その何かを躱した。そして背後から聞こえた衝突音。
 おそるおそる振り返ると、すぐ後ろのコンクリートの壁に、何かがめり込んでいた。ちょうどインユェの頭部のあった場所に突き刺さっていたそれは、木の実ほどのサイズの鋲みたいな金属片であった。
 もしもインユェの反射神経が人並み外れて優れていなければ、あの金属片は今頃額の肉を貫き骨を抉り、脳内深くに突き立っていたに違いない。
 インユェはごくりと唾を飲み下した。

「駄目だぞ、インユェ。多分おれ達の中で、シェラが一番冗談が通じないんだからな。折角目指せ一般市民で頑張ってるのに、ついうっかりで人殺しなんてさせたくないし」
「……心得ておくよ。ちなみに、なんだよその『目指せ一般市民』ってのは」
「うーん、何だと言われると説明に困るけど……当面の、おれ達の生活目標かな?」

 そう言われて、インユェは頬を引き攣らせた。

「……ま、目標は自由だよな。あんたが何を目標に生きていくとしたって、俺が口出す筋合いじゃねえよ。まぁ、出来るだけ頑張ってくれ」
「ああ、もちろんだとも。それでルーファ。あいつがどこに監禁されているか、分かったか?」

 ルウは首を横に振った。

「駄目だね。あの人達には、そんな大事なことは一切知らされていない。あるのは宗教的な使命感。ヴェロニカ教に仇為すものを始末する、その情熱だけだったよ」

 ルウの吐き捨てるような言葉を聞いて、リィは顔を顰めた。一つの事象に生涯を捧げるというのは立派な生き様なのかも知れないが、外の世界があることを知らず、或いは知らされることもなく黙々と他者のために生きる様子は、人の姿形をした働き蟻のようで生理的嫌悪を催すのだ。
 
「じゃあ、結局はあいつの場所は分からないまま、か。全く、この前だってそうだったけど、いなくなるならなるで場所くらい書き置きしていってくれればいいのに。残される方の身にもなってみろってんだ」

 リィが思い出しているのは、あちらの世界で囚われの身となったウォルを探して東奔西走したときの、何とも苦い記憶である。

「それを言うなら、エディだって敵に捕まって王様を困らせたことがあるよね。その上、ぼくが間に合わなかったら変態王子の奥さんにされていたじゃないか。つまり、似たもの同士ってことなんじゃないの?」

 そういえばそんなこともあっただろうか。リィは居心地悪そうに頭をがしがし掻いた。

「あのよ、ルウ……さん」

 二人の会話に、おずおずとした調子のインユェが割りこんだ。

「ルウでいいよ。どうしたの?」
「……酒場でのあんたたちの話を思い出してたんだけどさ、あんた、占いが上手いんだってな。でも、ウォルを探すことは出来ない。それは、俺が原因だ。そこまでは間違えていないよな?」
「うん、その通りだけど?」
「例えば。例えばの話だぜ。もしも銀色の月が……俺がこの世から消えてなくなれば、ウォルを探し当てることが出来るのかい?もしあいつの居場所さえ分かるなら、あんたらなら今すぐにあいつを助けられるはずだよな?それなら、それならよう……!」
「ねぇ、インユェ。それ以上言ったら、ぶつよ?」

 にっこり笑いながら、しかしルウの目の奥は笑っていなかった。
 インユェは、思わず息を飲んだ。『ぶつ』という、何とも子供っぽい表現の言葉が、心底恐ろしかった。おそらく、顔のかたちが変わるくらいでは済まされない、凄まじい一撃が飛んでくるだろうことを予想した。

「確かに、きみがこの世界からいなくなれば、王様を捜し出すのは容易いだろう。でも、そんなことをしたって後から王様にばれたら、ぼく達は只じゃあ済まないだろう。それこそ、ぶつどころじゃ許してくれないはずだ。インユェ、君はぼく達を、そんなに酷い目に遭わせたいの?」

 年若いインユェでも、ルウの言葉の真意が字面通りでないことくらいはわかる。
 今までの利かん坊が嘘のように、インユェは素直に頭を下げた。
 
「……すまねぇ、馬鹿なことを言った。だけど、もしも本当にいざって時は、何をされても俺は文句を言うつもりはねぇ。捨て駒にしてくれても本望だ。それだけは覚えておいてくれ」
「じゃあぼくからも一つ忠告だ。君が大好きなあの子は、そういうふうに自分の命を省みない人間が何より嫌いだよ。あれは、もっと情け容赦ない子だからね、命を賭けてようやく出来るかどうかってことを、成し遂げた上で生還するよう要求するだろう。だからあの子を手に入れたいなら、それくらいは鼻歌交じりに出来るようになっておきなさい。そうじゃないと、エディには勝てないよ」

 ルウは、少し強めにインユェの肩を叩いた。インユェはリィの方をちらりと見遣ってから、真剣な調子で頷いた。
 二人を、少しばかりうんざりとした顔で眺めていたリィが、

「しかし、結局手がかりは無しか。時間もないし、どうやってこの広い星であいつを探すかだな」
「この国の大統領が主犯なのは分かっているんだ。なら、それらしい政府関係の施設を片っ端から制圧するかい?」

 装甲服を身に纏ったヴォルフが、ちょっとそこまで買い物に行く程度の気負いも無くそう言った。わずか数時間のうちに、仮にも武装暴力団の本部を制圧し、爆薬を仕掛け、ビルを瓦礫に変えてしまった彼の言葉なので、本当に実行しそうなのが恐ろしい。
 だが、ルウは首を横に振った。

「そんなことをしてる時間が勿体ないよ。それに、全く当てがないわけじゃないからね。少し、ぼくのアイデアを聞いてもらってもいい?」



[6349] 第七十一話:前夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2012/12/28 14:28
 白い壁に囲まれた廊下が、遠近感を狂わすほど真っ直ぐに伸びていた。
 私はそこを歩いている。
 綺麗に掃除の行き届いた、美しい道だ。人間的と言い換える事も出来るかも知れない。そして、私が今身に纏っている衣服も、少々質素に過ぎるとはいえ清潔で十分人間的な代物だ。
 夢のようだと思う。地下深く、かび臭さと人間の饐えた体臭に満ちたあの部屋から、私はついに解き放たれたのだ。
 もう二度と生きては出られないのだと思っていた。男達の慰み者になり、媚びを売り、偽りの嬌声を上げながら股を開くことでしか生きられないあの部屋で、一生を終えるのだと思っていた。
 毎日のように部屋から誰かが連れ出され、半死半生の態で戻ってくる。闇夜でも分かる虚ろな視線、体中に残された狂宴の残滓。股間から垂れ落ちる体液を拭うこともなく、粗末な寝台に倒れ込む。啜り泣く声はしばらく続き、やがて悪夢に魘された呻き声に変わる。時には、部屋を出る時には万全であったはずの四肢を欠損させて戻される子もいた。それがどうして明日の自分の姿ではないと言い切れるだろう。
 地獄だった。地獄に自分達は堕とされたのだと思った。
 そして、私たちは地獄から助け出された。
 周りに、あの地獄をともに生きた、友人達の笑い声が聞こえる。どれも、顔に生気が戻っている。あの地下で見た、幽霊と見間違えてしまうような重々しさ、虚ろさはない。それは、きっと私も。
 忌まわしい記憶は消えない。これからの人生で忘れることなど出来るはずもない。それでも、悪夢が夢として消え去ったならば、喜ばないほうがどうかしている。そして、喜ぶことすら出来ず呆けた様子で歩く子も、少数ではなく存在した。
 お坊さんのような格好をした人が数人、私たちを先導している。優しそうな顔をしている。あの人達が、私たちを助け出してくれたのだ。そして暖かい食事と清潔な衣服、男達の獣臭い吐息の存在しない寝台をくれた。そして、これから私たちを故郷のパパとママに会わせてくれるらしい。
 もう、私は汚されてしまった。きっと元の私には二度と戻れない。それを知ってなお、パパとママは私を愛してくれるだろうか。彼らと顔を合わせる瞬間を思うと、足下が竦むようだ。
 そう言えば、あの子はどうしたのだろう。二週間ほども前に、あの部屋に連れてこられた少女。
 意志の強そうな、子だった。美しさよりも、それが一番印象深い。裸で両手両足を縛られて、大人だって泣き叫んで許しを乞うような暴力を振るわれて、なお強く折れなかった瞳の色。
 私を、ローラと呼んでくれた。もう、私自身ですら忘れかけていた名前を、呼んでくれた。
 あの子も、助け出されたのだろうか。だとすれば、私はあの子に謝らないといけない。私はあの子に酷いことをしたのだ。麻薬の詰まった注射器を、何度も何度も腕に刺し、苦しむあの子をただ見続けた。
 でも、最後に部屋から連れ出される時に、彼女は微笑んでいた。男達に引きずられ、私であれば絶望と恐怖で口もきけないような状況に置かれて、なお柔らかく笑いながら片目でウィンクすらしてみせていた。
 薬に冒された虚ろな笑みではない。この部屋に連れてこられた時のあの子の表情で。
 それを見て私は全てを理解した。あの子に麻薬は効いていなかったのだ、と。全ては連中を騙すためのふりだったのだと。思わず笑ってしまった。後から考えると、それが原因で彼女の演技がばれなかったか、ひやひやものだったが。
 ならば、あの子はきっと無事だ。いや、もしかしたら、今私たちが助け出されたのも、全てはあの子のおかげなのではないか。事実、あの子が連れ出された後、男達は部屋を訪れなくなった。
 多分、違う。私より幼い少女に、そんな夢みたいなことは出来はしない。でも、夢みたいなことが現実に起こるなら、少し素敵だと思う。
 そんなことを考えながら歩いていたら、私たちは大きな扉の前にいた。観音開きの、豪奢で大きな扉。そのまま大きな象だって通れそうな、大きな扉。
 ここまで先導してくれたお坊さんみたいな人達は、私たちのほうを振り返り、にこにこと優しそうな笑顔を振りまいている。

「私達の役目はここで終わりだ。さぁ、ここから先は君たちだけで行きなさい」

 扉が開かれる。その先にある、広く、清潔な部屋。その奥には、優しい色調のテーブルと椅子が置かれていた。そしてさらに奥に、ちょうど今開いたのと同じような扉が設えられている。

「あちらから君たちのご両親が迎えに来られる。少し、この部屋で待っているように」

 それならば否やはない。私たちはすぐに部屋に入った。
 テーブルの上には、湯気の立つ薫り高いお茶。あの暗い地下では喉が締め付けられるほどに渇望した、色取り取りのお菓子。美しい香気を振りまく鮮やかな花。
 私たちは吸い寄せられるようにテーブルに向かい、貪るように菓子を口にした。
 焼きたてのクッキーやケーキ、柔らかなキャラメル、塩気の訊いたスナック菓子……。
 乾いた喉を茶で潤し、香しい花の匂いを胸一杯に吸い込んだ。故郷のことをおしゃべりし、きっと落ち着いた頃にはお互いの連絡を取ろうとみんなで誓い合った。
 それはそれは、楽しい時間だった。宝石のような時間だった。
 そして時間は過ぎ。

「ねぇ……ちょっと変じゃない?」

 誰かがそう言った。
 そういえばそうだ。もう、私たちがこの部屋に入ってから、ずいぶんと時間が経つ。テーブルのお菓子はすっかり姿を消し、お茶は湯気を立てるのを止めてしまっている。
 なのに、反対側の扉は閉ざされたままで、パパやママはおろか、あのお坊さんみたいな人達も姿を現さない。何か事情があって迎えが遅れているなら、それを知らせるぐらいはするだろうに。
 扉は、音沙汰もなく、静かに閉じられたままだ。

「私、ちょっとあの人達を呼んでくる。いつまで待っていればいいのか、パパやママはいつになったら会いに来てくれるのか、訊いておかないと」

 誰かが腰を上げて、元来た方の扉に手をかけた。ドアノブを握り、回そうとする。
 がちん。
 硬質な金属の音が、冷たい調子で部屋を満たした。

「あれ……?」

 誰かが、もう一度取っ手を回す。しかし、やはり固い音を立ててドアノブは止まってしまう。
 がちん。がちん。がちん。
 もう、誰も口を開かない。それとも、開いたままの口を閉じようとしない。
 人形がそうするように、呆然とした瞳を誰かさんの背中に向けていた。

「あれ、あれ……おかしいな。どうして開かないんだろう……?」

 何故、鍵がかかっているのか。
 両親が迎えに来るのが反対側の扉だとして、どうしてこちらの扉に鍵をかける必要があるのか。
 必要があるとするならば……。

 がちん。
 がちんがちんがちんがちんがちん。
 がちんがちんがちんがちんがちんがちんがちん。
 がちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがちがち。

 何度も何度もドアノブを回そうとする。
 それは、ドアを開けようとしているのではなく、鋼鉄製のドアノブそのものを破壊しようとしているようですらあった。
 もう、みんな分かっていたのだ。ただ、その言葉を口にするのが恐ろしかっただけ。そして、後は誰がその言葉を口にするのか、時間の問題であるということも、理解していた。

「閉じ込められた……?」

 ぽつりとした呟き。
 ぞっと、冷たい感触が背筋を滑り落ちる。それは、死に神の吐息と同じ温度を持っていた。
 何故。何故、私たちばかりがこんな目に。
 涙は、もうこぼれ落ちない。怒りが胸を焼くこともない。それよりもなお深くなお重たい、納得と諦観があった。
 どうせ、こんなことではないかと思っていた。これもきっと、あの連中のお遊戯の一つなのだ。
 きっと、自分達の喜んだ様子は隠しカメラか何かで撮られていて、希望に満ちた顔を見ながら男達は嘲笑っていたのだろう。そして、私たちはなお暗く辛辣な地獄に堕とされる。
 どうやって謝ろうか。土下座をすれば許してくれるだろうか。ご主人様、私は決してあなた達から逃げようとしたのではありません。私は一生、あなた達の雌奴隷でございます……。
 そうやって、心にもない言葉を口にして、泥を啜りながら生きなければならないのか。
 もう、嫌だ。それならばいっそのこと……。
 
「違うわ!こっちの扉は鍵がかかっていない!」

 喜び勇んだ声が聞こえる。
 ならば、閉じ込められたわけではないのか。私たちは、やはり地獄から助け出されたのか。この扉の向こう側には、きっと豪華なパーティー会場が用意されていて、無数のカメラフラッシュを背景にして、お父さんとお母さんの暖かい笑顔がそこにある。
 その場にいたほぼ全員の顔が、安堵に染まった。ほう、と重々しい溜息が幾重にも重なり、部屋の空気が震えた。
 そして、聞こえた。
 
 こつり。

 こつり、こつり。

 こつり、こつり、こつり。

 扉を、叩いている。優しい調子で、ノックをしている。
 誰かが、ここを開いて欲しいと、あちら側から言っているのだ。

「お、脅かさないでよ。ほら、早くそこを開けてよ。その先に、お父さんとお母さんが待っているんだから」

 やはり名前も知らない誰かが、まるで自分を納得させるかのように早口で呟いて、巨大な扉に手をかけ、一気に開いた。
 そして、そこには。

「……えっ?」

 闇。一向に先を見渡せない、濃密な闇。

 だけではなくて。

 手。

 手。

 手。手。手。手。手。手。手。手。手。手。手。手。手。手。手。

 闇の向こう側から、吐き気を催すほど濃密な腐臭とともに。

 無数の手が、無数の手が、無数の手が。

「……なによ、これ?」

 誰かさんは、扉の前に立ち尽くしたまま、ぽつりと呟いた。
 そしてそれは、この場にいた全ての人間の声だった。
 なんだろう。この手は、無数の手は、緑色の粘液を滴らせながら私たちに向けて伸ばされた手は、何だろう。
 人の手のかたち。なのに、闇の奥から伸びるそれは、長く長く伸びていて、終わりが見えない。いったい誰の伸ばした腕なのか。そも、それは腕なのか。
 ただ、一つだけ理解出来たこと。それは、この場に私たちを連れてきた誰かは、決して私たちを助けようとしていたのではなく。

「ちょ、ちょっと、冗談でしょう?」

 誰かさんが、呟いた。
 その声に、ぴくりと、手の群れが反応する。
 無数の手は、少女の頭を、腕を、身体を、足を、一斉に掴み。

「何するのよ!離してよ、離して、離してったら!」

 ぐい、と一気に、闇の奥へと引きずり込んだ。
 誰かの身体が、まるで手品のように、姿を消して。
 声が、闇の奥に消えていく声が、びりびりと空気を震わしながら。

「止めて、離してよ!誰か、誰か助けて!痛い!助けて!」

 開け放たれた扉は、惨劇を隠してくれない。そして誰一人、扉に近づける者はいなかった。悲痛な声は、途切れることなくこだましている。
 ただ、闇の深さだけが、現実離れをした光景を隠してくれている。
 誰も動けない。みんな、理解しているのだろう。今一歩でも動けば、次の獲物が自分になることを。きっと闇の奥にいる誰か──それとも何かは、あの少女を贄にしている今だって、私たちのことを見ている。
 遠く、遠い闇の奥から、びりびりと布の裂ける音が聞こえる。
 そして絶え間ない悲鳴。

「いやぁぁぁぁ!助けて、お父さん、お母さん!たすけてぇぇぇぇ!」
 
 にちゃにちゃと、湿った音が聞こえ始める。

「やめてやめて食べないで食べないで食べないで!」

 ごきり。何かを断ち割る重たい音と。

「いぎゃあぁぁぁ!」

 闇の中から、狂った獣のような、叫び声が。

「かえしてよう、わたしの足、食べないでよう……!」

 少しずつ、少しずつ小さくなり。

「どうして……どうして、まだ、いきているの……なんで、しねないの……」

 時折、笑い声が混じりだし。

「うふふ、おかあさん、たすけて、おかあさん、わたしいま、ばけものに、たべられてるの……もういたみもかんじない……」
 
 やがて、声は消えて無くなった。
 静寂に支配された部屋。
 扉の向こうから、また、手が伸びてくる。
 緑色の粘液で覆われた無数の手が、鮮やかな朱で染まっている。
 その手は、扉の傍に立っていた、名前も知らない少女を見つけて、やはり闇の奥に引きずり込んだ。

「なんで、なんでわたしだけ、こんな目に……」

 名前も知らないその子は、ぼんやりとそう呟いて、闇の奥へと連れ去られた。
 そして、絶叫が響く。人間味を失った、獣のような叫び声。きっと、あの子が人間として話した最後の言葉は、先ほどの悲しげな呟きだったのだろう。
 化け物の晩餐は終わらない。それは、私たちの最後の一人がいなくなるまで。
 私は唐突に理解した。
 悪夢は、まだ終わっていなかったんだ。今から終わるんだ。
 そして、それは思ったよりも先のことではなかった。今、私の腕を掴んでいる冷たい感触は、誰のものだろう。確かめるのが怖い。闇から一直線に伸ばされた緑色の腕が、私に向かって一直線に伸ばされているのだとしても、確かめるまではそれは事実ではないのだから。
 闇の奥から、先ほどよりも濃厚な朱に染まった無数の手が浮かび上がり、そのほとんどが、私の方に向けて突き出されて。
 全身を掴まれる感触。足の裏が、地面から離れる。横向きに重力を感じた瞬間、自分の周囲が闇に包まれる。

『あ゛ あ ゛あ゛……』

 まるで人間のような、声がした。私は、その声を、どこかで聞いたことがあるような気がした。
 最後に思い浮かべたのが、パパやママの顔ではなくて、名前も知らないあの少女の笑みだったのが、少し不思議だった。
 さぁ、断末魔の叫びを上げる、心の準備を。
 


 誰かが、自分を呼んだだろうか。
 ウォルは、ふと小さい窓の向こうに浮かんだ月を見上げた。
 月。
 気味が悪い程に肥え太った月が、夜空を背景に浮かんでいる。
 この牢屋に入れられて、二度目の満月だった。一度目の満月に自分は処刑されるのだと聞かされていたから、なんだか不思議な気がしてしまう。
 あの時は地獄の獄卒のように自分を責め苛んでいた、下腹部の痛みはもう無い。身体の各部は十分に動く。握りしめた拳は木の実のように小さく頼りない有様だが、それがあの小さく誇り高い戦士と同種のものであると知れば、これ以上頼りになる存在もまたとない。
 
 ──さて、リィもそろそろこの星に着いた頃だろうか。

 星を見上げながらウォルはそう独りごちた。
 思えば、自分がこのようなかたちで虜囚となるのは二度目のことだ。あの時も、あいつには大きな借りを作ってしまった。それが二度目になれば、もう二度と頭が上がらない気がする。
 夫婦になると誓いは立てたが、しかし何よりもまず、あいつと俺は無二の同盟者であるべきだし、そうありたいと思っている。ならば、いくらこの体が少女のそれに転じたとはいえ──あいつの体が少年のそれに転じたとはいえ、助けられてばかりは如何にも不味い。
 少女の口から軽やかな調子で溜息が漏れだした。そこには、自分の命が風前の灯火であるという悲壮感など欠片も含まれていない。ただ弱ったなと、厄介な恋愛相談を友人に持ちかけられた年頃の乙女のように、少女は眉根を寄せていた。
 それに、あの少年。
 インユェ。
 きっと今頃、絶望に打ちひしがれているだろうと思う。それを思って、少女の美貌は陰った。
 仕方の無かったことだ。あの時彼の暴走を許せば、若い命は意味もなく散らされていた。それは無駄死にと呼ぶ以外、如何なる呼び方も出来ない死に様だったはずだ。
 だがきっと、あの少年は今も死を選びたくなるような罪悪感と戦っているはずだ。もしも自分があの少年の立場なら、間違いなくそうだろうとウォルは思った。
 申し訳ないことをした。自分のことなど忘れて、年相応の女の子と恋をして欲しいと思う。
 もう一度吐き出した溜息は、無力感に満ちていた。その拍子に首輪から伸びた鎖が、じゃらりと重たい音を立てた。
 ゆっくりと室内を見回す。月明かりに照らされた牢の内部は質素ではあるが荒廃しているという風情ではない。それは、自分が罪人ではなく、あくまで儀式において人類の罪を背負って天に召される巫女だからだという。
 食事も、肉っけがない点に辟易とさせられるが、それ以外に苦情を言うつもりもない。
 そういう意味においては、あちらの世界で似たような目に遭わされた時よりは幾分ましかと、ウォルは苦い笑みを浮かべた。

「何かご不自由はありませんか、我らが巫女よ」

 鉄格子の向こうから、乾いた声をかけられた。
 禿頭の男が、ぼんやりとした様子で立っていた。この牢屋にウォルが繋がれて以来、彼女の世話を担当している僧だった。

「この様が不自由でないと思えるのか?」

 もう何度も言ったことだったが、ウォルは自分の首を指さしながら言った。
 首には犬猫のように無骨な首輪が巻かれ、呆れるほどに太い鎖が首輪と壁とを繋いでいる。何度か引き千切ろうと試みたが、リィと同種であるウォルフィーナの膂力をもってしてもびくともしないほどに、その鎖は頑丈であった。
 ウォルの不快そうな顔を見て、しかし僧は顔色の一つも変えず、
 
「もうしばしのご辛抱を。それほど長くご不便をおかけすることも御座いますまい」

 硬質な調子でそう言った。
 ともすれば聞き流してしまいそうなその言葉の意味を履き違えるウォルではなかった。

「俺の処刑が決まったか」
「処刑ではございません。あなたは我らヴェロニカ教徒の罪を背負い、自然の循環の中に立ち戻られるのです。これほど崇高な使命は他にございますまい」

 僧の無機質な顔に、僅かな朱と強ばりが浮かぶ。短い言葉の端々を震わせているのは、宗教的な感動からだろう。
 そして宗教的な感動ほどに、無関係な他者の魂を冷えさせるものはこの世に存在しない。
 然り、ウォルは冷ややかな笑みを浮かべてその僧の顔を一瞥した。

「崇高だというならそれは結構なことだ。何なら貴様にその役を譲ってやってもいいが?」

 これはウォルにしてみれば完全な皮肉であったのだが、

「有り難い申し出なれどそれをお受けするわけには参りません。この役目は聖女ヴェロニカと同じく穢れなき乙女にのみ許された秘儀であり、私が如き下賤な者に勤まる役目ではございませぬ故」

 丁重な調子でそう返されてしまうと、もはやウォルとしても言葉を切り返す気力も無い。
 ああそうか勝手にしろと無碍に呟きたくなるのを必死で我慢した。

「で、俺はどうやって処刑されるのだ?火炙りか?磔か?それともひとおもいに斬首してくれるのか?」
「繰り返しますが、あなた様は決して罪人として処刑されるのではなく、聖なる巫女として天に召されるのです。そのように野卑な扱いがどうして出来るでしょうか」

 死ぬならば罪人として処刑されようが聖なる巫女とやらとして天に召されようが同じである。
 しかしそれを一々言っていては話が前に進まない。ウォルはウンザリとした顔色こそ隠そうとはしなかったものの、とりあえず黙っていた。

「あなた様が背負われるのは人類全ての罪。そしてあなたの血肉は自然へと捧げられた供物。あなたはその身をもって我らの罪を購って頂かなくてはなりません。つまり……」
「なるほど、野獣の生け贄になれと、そういうことか」

 僧は何も答えない。つまり沈黙は雄弁な答えということだ。
 またか、とウォルは頭を抱えたくなった。虜囚の身に落とされたのがこれで二度目なら、馬鹿馬鹿しい出し物の主役として野獣に追いかけ回されるのも二度目である。
 これは前世で何か悪業をしでかした報いかと、本気でウォルは思った。

「まさかとは思うが、俺を自然の循環とやらに戻してくれる生き物は、獅子ではあるまいな?」

 だとすればあまりにも出来過ぎだ。出来過ぎていて神の悪意を信じたくなるくらいに。
 そんなウォルの内心を読んだわけではあるまいが、僧は首を横に振った。

「この星には野生の獅子はおりません。あなたを天に届けるのは、神話の中で聖女ヴェロニカの魂を天に運んだ神獣でもある狼たちの仕事ということになります」

 狼か。
 それはそれで因果なことだとウォルは思った。何せ、彼女の伴侶は黄金の狼の化身とでもいうべき少年であり、しかもウォル自身が今間借りしている少女の体もそれと同種の生き物なのである。
 果たして自分が喰い殺されれば、あの黄金の狼はどのようにして不運な狼たちを叱りつけるのか。その様を思い起こして、ウォルの口元には微苦笑が浮かんだ。

「好むと好まざるにかかわらず、あなたは明日、この世を離れるべく運命を負った身。この上はどうか心安らかに過ごされますよう……」

 僧は、無機質な表情を崩さぬままにそう言って、牢から立ち去った。
 再び静寂が訪れる。その静寂を破って、覗き窓の向こう側から狼の遠吠えが響く。その声はまるで、生け贄の血肉を一刻も早く寄越せと強請っているようにも聞こえた。
 普通の少女であれば、我が身に降りかかった悪夢のような災難に対して為す術もなく、絶望し、混乱し、泣き喚いていただろう。父の名を呼び母の名に縋り、神の名を呪っていたに違いない。
 しかしウォルはそうではなかった。一抹の絶望も感じさせない凜とした表情のまま、静かに足を伸ばし、そのまま上体を折った。
 ゆっくりと息を吐きながら上体を足にぴたりと付ける。そうすると、凝り固まった腰の筋肉が、足の裏側の筋肉が、徐々に伸ばされていく。
 次は腕の筋肉を、次は首の筋肉を、時間をかけてほぐしていく。まるで、自分の体に一言一言語りかけ、その会話を楽しむかのように。それは、戦場に送られた兵士が自らの銃を分解調整する様子に似ていた。
 ウォルにとって、明日執り行われるのは、自分を生け贄に捧げるための儀式などではない。黙って狼共の供物になってやるつもりなど、微塵もない。
 既に一度死んだ身である。再び生を得ることがどれほどの幸運の上にあるのかは十分に心得ているし、無様にしがみつくつもりもない。
 だが、それをむざむざ溝に捨てるつもりはさらさらない。この体の本来の持ち主には、この体を幸福にすることを誓ったのだ。そして、同盟者と呼んだ伴侶はこの世界でも自分を伴侶に迎えてくれると誓ってくれたのだ。
 ならば生きなければならない。少なくとも、生き残るためにありとあらゆる努力を惜しむべきではないはずだ。
 もしも明日、手足を鎖で縛られて狼の前に転がされるのならば、このようなことをしても無駄でしかないかも知れない。それでも、もしかしたら足は自由かも知れない。手は自由かも知れない。それならば、戦える。そして戦うつもりならば、体は万全の調子に整えておくべきだ。
 やがて全ての筋肉を伸ばし終えたウォルは、部屋の隅の石壁を背にして座り込んだ。
 静かに闇の向こうを睨み付ける鋭い眼光。小さな体は、まるで闇夜の潜む狼のように微動だにしなかった。



 夜。
 空に、丸々と肥え太った月が浮かんでいる。
 縁が僅かに欠けているが、ほとんど満月に近い。故郷の星では確か十三夜と呼んだか。それとも小望月と呼ぶくらいか。
 いずれにせよ、月相の遷移が早いこの惑星ならば、明日の夜には月は満ちるだろう。その時、自分を何度も助けてくれたあの少女は儀式の生け贄に捧げられるのだ。
 
「ウォル……」

 灯りの消した室内は、まるで陽光の様な月の光で照らし出されていた。
 寝台に腰掛けたインユェは、月を睨み付けながら呟いた。睨み付ければ月が満ちるのを止められると思い込んでいるかのように。
 その呟きを聞いたわけではあるまいが、部屋のドアがこつこつとノックされた。
 何とも不思議な感覚だと、インユェは思った。姉は死に、後見人であった老人はいずこかへと去り、あの少女もいなくなって、もう自分はこの世にたった一人だと思い込んでいた。そして、もう二度と他人と深く関わることなどないのだと。
 それが、たった二週間。たったそれだけの時間が経てば、自分はまた人の輪の中にいる。その内の一人は、最も愛した少女の婚約者だ。例えあの少女を助けるための一時的な協力関係だとはいえ、まさかそのような場所に自分がいるなど、昨日は考えもつかなかった。
 或いは、この奇天烈な縁を紡いでいるのも、自分が銀色の月とやならなのだろうかと思い、インユェは曖昧な吐息を吐き出した。

「どうぞ、開いてるよ」

 ぶっきらぼうなその声に応じるように、ドアが静かに開く。
 きしり、と蝶番の軋む音が奇妙に大きく聞こえる。
 闇の向こうから姿を現したのは、闇の化身のように漆黒の髪をもった、淑やかな青年だった。

「あんたかよ」
「ごめんね、寝るところだった?」

 ルウの問いかけに、インユェは苦笑とともに首を振った。

「情けねえ話だが、寝られそうにはねぇな。ほら、見てくれよ」

 インユェはルウの眼前に手を差し出した。
 少年の年相応に小さなその手は、かたかたと小刻みに震えていた。

「怖いんだ」
「怖い?」
「ああ。怖くて怖くてたまらねえんだよ」

 少年は、震える自らの手を掻き抱いた。

「死ぬのなんか微塵も怖くねえ。どうせこの世に未練があるわけじゃねえし、今更惜しむ命でもねえ。生き恥だってこれでもかってくらいに晒したんだしな」

 そう言うインユェの声に、ルウは応えない。

「だがよ、それでも怖いことはいくらでもあるんだ。もしもまたあいつを助けられなかったら。いざというときに俺がまた逃げ出しちまったら。俺のへまのせいであいつが死ぬことになったら。そう考えると、怖くて怖くて瞼も下ろせねえんだ」
「分かるよ」

 ルウは優しく頷いた。
 インユェはルウの顔を凝視した。にこやかに細められた瞳には、ただの気遣いや同情ではない、真剣な色が含まれている。
 
「きみは、きっと自分のことが大嫌いなんだねぇ」

 インユェの頭に、ルウの暖かな掌が載せられた。
 その拍子に、表情を空白にしたインユェの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
 
 ──自分のことが、大嫌い

 そうだ。その通りだ。
 嫌いだ。
 嫌いで嫌いで、いつだって殺してやりたかった。
 どうして、この自分を好きになることが出来るだろう。
 父親の形見でもある宇宙船を手放さざるを得ないような、莫大な借金を拵えたのは自分。
 姉にいじめられ、後見人に溜息を吐かれ、それでも独り立ち出来ないのも自分。
 あの酒場で一番大好きだった少女に助けられ、彼女の命を危険に晒したのも自分。
 姉を殺したと高らかに嘲笑い、少女の首に縄をかけて連れ去ったあの男に、復讐すら出来ないのも、やはり自分。
 自分、自分、自分。
 その単語のどこにも、誇れるものがない。
 だからインユェは悔し涙を流した。

「う、ぐぅ……ふぅぅ……」
「つらかっただろう。頑張ったね。よく、今日まで生きてきたじゃないか」

 ルウは、インユェの小さな体を抱き締めてやった。

「ぼくも、昔はぼくの事が大嫌いだったんだ。あの子もそうだ。あの子も、昔は自分のことが大嫌いだった」

 自分の胸に縋り泣き続けるインユェの背を、ルウは優しく撫でてやった。しゃくり上げる呼吸のリズムに合わせて、優しく、何度も。

「ぼくは昔仲間を殺してしまった。仲間はみんな、ぼくを呪われた者だという。生まれるべきではなかったという。ぼくを見る仲間の目は、化け物や死に神を見るよりも恐れと侮蔑に満ちていた。それでもぼくは生きていかなきゃいけない。いつか会う、あの子のために」
「……」
「あの子は、自分の目の前で恋人だった狼を殺された。小さな弟を守るために、父親がなぶり殺しにされる姿をただ見守るしか出来なかった。その度に、あの子は自分の命を絶とうとした」

 目を赤く腫らしたインユェが、ルウの顔を見上げた。

「みんなそうだよ。自分のことが嫌いで嫌いで仕方なかった。そんな自分と戦ってきた。そして、少しずつ自分のことを好きになれたんだ」

 少年の嗚咽は、少しずつ収まっていった。

「だからインユェくん、きみも戦いなさい。戦って、自分の好きな自分を勝ち取りなさい。それはきみの義務じゃなくて、権利なんだ。誰だって、自分のために戦うことが許される。自分のために戦う権利だけは、誰も奪うことが出来ない……」

 ぐすりと、盛大に鼻を啜りあげる音が部屋に響いた。

「あいつも、なのかな……」

 不安定な調子で、インユェが呟いた。
 ルウは、にこりと笑って、インユェの頭にもう一度掌を落とした。
 銀色の頭髪が少し靡いて、白い光の粒子が部屋に散った。

「そうだね。きっときみの大好きなあの子も、そうやって自分を好きになったはずだよ」
「……俺みたいにせこい人間からするとさ、あいつは眩し過ぎるんだよ。きっと、ウォルは生まれた時からああいうふうに何でも出来て、俺なんかとは違う場所に立っていたんだって思っちまう。リィもそうだ。あいつは選ばれた人間で、俺はその他大勢なんだって。そんなこと、あるはずねえのにな。そういうふうに見えるなら、あいつらが俺の何倍も努力して生きてきたからそう見えるだけのはずなのにな。分かってるんだ。分かってて、どうしてもそういうせこい物の考え方しか出来ないのさ」
「そして、そんな自分が大嫌いだ。そうでしょう?」

 インユェは苦笑を溢した。まったくもって反論の余地がない。こういうときは、笑って誤魔化す以外の手段がないものだ。

「悪かったな、ルウさん。気を遣わせちまった。思い切り泣いたら少し眠くなってきたよ」

 ルウは頷いた。

「朝は早いよ。何せ、明日がタイムリミットなんだから。でも、ほんの少しだけでも睡眠を取っているのと全く取っていないのとでは大違いだ。明日はあの子にいいところを見せないといけないんだから、今は無理してでも寝ておいてね」
「ああ」
「それとぼくのことはルウでいいよ。『さん』付けされると背中の辺りがむず痒くなるんだ」
「なら俺のことはインユェでいい」

 ルウは寝台から立ち上がった。
 そのまま部屋から立ち去ろうとして、ふと足を止め振り返った。

「ねぇ、インユェ。一つだけ質問していい?」
「ああ、いいぜ」
「少し意地悪な質問だよ。それでもいいかな?」
「いいって言ってるじゃねえかよ」

 ルウは、少し寂しそうに笑った。

「インユェ、きみはどうしてウォルのことが好きになったの?」

 一瞬唖然としたインユェが、片頬を歪めて笑った。その拍子に、安ベッドのスプリングがきしりと鳴いた。

「そんな細かいこたぁ知らねえよ。気が付いたときには惚れてたんだ。何に惚れたっていうなら、顔にも惚れてるし心意気にも惚れてる。すんなりとした体つきだって最高だ。頭だって良いし気っぷも申し分ねぇ。だから惚れたんだよ。悪いかい?」

 ルウは静かに首を振った。

「じゃあ、あの子が本当は男だってことは知ってるよね。どうしてそれでも好きになれるの?」

 今度はインユェが首を振った。

「ルウ、そいつは違うぜ。本当は男なんじゃねえ。前世は男だったってだけだろうがよ。そんで、俺が知ってるあいつは女なんだ。そして俺は男なんだ。なら何の問題があるっていうんだよ」
「じゃあ、もしもだよ。もしもあの子が、男の姿に戻ったらどうするの?」

 インユェは、にやりと不敵な笑みを浮かべ、一瞬の躊躇もなくこう答えた。

「その時は、最愛の連れ合いが最高の相棒になるだけじゃねえかよ。何の問題もねえさ」

 でも、それまでにガキの一人でも拵えておきたいな、と少年は笑った。
 ルウはインユェの部屋を出て、自分に割り当てられた部屋に戻った。
 部屋には、簡素なベッドと、小さな木製のデスクが設えられている。そのデスクから椅子を引き、腰掛ける。
 ルウは、柔らかに笑っていた。今日はこんなにも騒がしく、明日は今日以上に騒がしいに違いないはずなのに、それでも楽しかった。
 
 ──ああ、この世はこんなにも、綺麗なもので満ちあふれている……。

 目を閉じ、そんなことを思う。それは、黄金の砂時計にも似た、至福の時間だった。
 しばらくそうしてから、ふと気になって手荷物の中を探った。
 そういえば、インユェが話してくれた今までの事件の経緯を聞いて、一つ不思議に思っていたことがあったのだ。

 ──どうして、敵はウォルのことを、ああも容易く知ることが出来たのか。
 
 元々、ウォルをはじめとした一向はこの星に不法入国をしている。
 それが、僅かに一月ほども前の話。
 そしてその間、彼らは場末の酒場で働きながら各地の憂国ヴェロニカ聖騎士団の支部を攻撃して回っていたが、そちらから捕捉された可能性は極めて薄い、とのこと。第一、各地でテロ行為をして暴れる不法者が、どうして惑星ベルトランの州知事の娘であるなどと想像出来ようか。
 にも関わらず、敵はウォルを最初から標的にしていた。凶悪なテロリスト一味を標的にするわけではなく、である。
 ならば、そこに何らかの意図があったのではないか。無論、宗教的な儀式の生け贄などという浮世離れした理由ではない、もっと世俗の垢と脂に塗れた理由が。
 加えて、その後、ウォルが拉致されるに至った経緯にも不審な点が多い。
 まず、酒場が襲撃されたのはいい。そこにウォル達が潜伏していることは、時間と人手をかければ十分に把握しうるだろう。
 だが、その後は?
 秘密の地下道を通って隠れ家に潜伏した時。
 そして一度敵の本拠地から脱出し、森に隠れ潜んだ時。

「早すぎる……」

 そうだ。あまりにも、敵の行動が早すぎる。
 隠れ家に潜んだ時は、地下道を追跡してきた敵は全てインユェの姉が撃退しているという。にも関わらず、まるで隠れ家が最初から把握されていたかのように別部隊が出動し、結果としてウォルは囚われの身になった。
 森に潜んだ時もそうだ。普通、捕虜が逃げ出し森に逃げ込んだとなれば、大規模な山狩りが行われるのが常である。空には監視用の飛行機を飛ばし、ヘリや軍用犬やらで辺りは騒々しさを極めるに違いない。しかし、インユェの話によればそんなことは一切無かったという。
 監視衛星でウォルの動きを逐一把握していた、というのはこの場合考えにくい。何故なら、隠れ家に潜んだ時はともかく、森の時はダイアナが敵の監視網を完全に掌握していたのだ。であれば、その網にウォルが引っかかってしまったという可能性は最初から排除するべきである。
 では、何故か。
 そう考えたルウの手には、手札が握られていた。
 無論、今、この場所においては効果が極めて薄いことも承知の上である。その結果を無闇に信用して行動すれば、身の破滅をもたらしかねないことも。
 それでもルウは手札を繰った。
 狭いデスクいっぱいに裏返ったカードを広げ、彼だけが知る法則に従ってめくっていく。
 そして出た結果は──

「……招かれる危機。罠。巨象。信頼すべき仲間、もしくは上司。そして──」

 最後にめくられたカードには、にたにたと不快な笑みを浮かべる悪魔の姿。
 その意味は……

「裏切り」

 ルウは、背もたれに体重を預けなら天井を仰いだ。
 そうだ。その可能性は、最初から認識していた。
 象、そして仲間。これが誰を指し示すのか、考えるまでもない。
 加えて、ヴォルフがウォルに仕込んだという、特殊な発信機。惑星を跨いでもその居場所を把握出来るその装置ならば、行方知れずになった標的の居場所を把握するのにこれ以上の情報源はない。
 ヴォルフは、自分達がこの星に到着する前、宇宙嵐を避けるために停滞を余儀なくされていたあの時期に、いずこかと何度も連絡を取り合っていた。それがもしもウォルの居場所を伝えるためのものだとしたら……。

「彼の存在は、トロイの木馬だ」

 いや、この場合は木象か。そう思ってルウは苦笑を浮かべた。
 ゆっくりと首を巡らし、窓の外を眺める。
 丸々と肥え太った月が、自分を嘲笑うかのようにそこに在った。



[6349] 第七十二話:未明
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2012/12/29 22:35
 遠くで鳥が鳴いた。漆黒の夜空が稜線から白みを帯び始め、星の輪郭が少しずつぼやけていく。
 朝が近いのだろう。
 頬をなぶる風のどこかに太陽の気配が混じりはじめたのを感じて、体格のいい僧は欠伸を噛み殺すのに一方ならぬ苦労を味わう羽目になった。
 慣れたこととはいえ、門番の任は中々楽なものではない。普段の修行を思えば寝ずの番などどうということはないが、そこは人間、布団の暖かさは美女の誘惑よりもしたたかに心根を揺さぶるらしい。
 首をぐるりとすると、二人いる門番の僧も、自分と同じような顔をしていた。

 ──伝統とはいえ、中々難儀なものよ。

 僧は心中で呟いた。
 ここはヴェロニカ教の総本山である。この星で最も神聖で、畏れ多い場所である。いったいどこの誰が、よこしまな思いを抱いてここを訪れるというのか。例え法の世界の外に身を置く無頼漢であっても、死後に己を焼く浄罪の炎の火力を自ら進んで強めようとは思わないはずだ。
 第一、門番というもの自体がそもそも時代後れなのだ。本山も古めかしい外観を脱ぎ捨てて、今はそれなりに近代的な容貌に衣替えして久しいのだし、内部にも外観に相応しくコンピュータ管理の厳重な警備が敷かれている。
 このように、まるで阿呆のような様子で自分が一人、外に突っ立っている理由はどこにもないはずだ。
 いや、あるとすれば。
 権威付け。機械をもって人力に変えるこの時代において、あえて人の手を使うことで権威とする。珍しいことではない。少しばかりの歴史と金銭を頼みとする富豪連中ならば、当たり前の様にしていることだ。馬鹿らしいと言ってしまえばそれまでだが、必要な事かも知れない。特に、宗教のように姿形なき本質を抱えるものには。
 であればこの億劫な任にも、一握りとはいえ意味はあるのか。
 そう、年若い僧は自分を納得させた。
 それに、そろそろ交代の時間である。
 今日も、変事は何一つ無かった。
 何事も起こらず、任は後の者に引き継がれた。
 日誌にはそう記されるだろう。そして自分は暖かい布団の中で、午後の修行までの時間、惰眠を貪るのだ。
 僅かに気の緩んだ僧が、噛み殺し損ねた欠伸で顔を歪めた、その時。

 ──おや。

 視界の端で、ゆらりと動くものがあった。
 僧は、目を凝らして、その動くものを見た。
 総本山は、小高い丘の上に建っている。道は一本道であり、遙か彼方まで見渡すことができる。見渡す限り、遮蔽物は見当たらない。
 その一本道を、人影が、ふらふらと頼りない足取りで門へと近づいてくる。白い布が風にはためくような、得体の知れない所作である。

 ──あれは、何だ。

 僧は、一度緩んだ緊張の糸を、再び引き締めた。
 あるいは、あれは変事の前触れか。
 何かが起きても不思議ではないことは門番の任に就く僧の全てに言い渡されている。
 少し前に行われた回帰祭で、一人の少女が生け贄に捧げられた。そして、これは秘されていることではあるが、今日の夜にもう一人の少女が生け贄に捧げられるのだという。
 誰か、ヴェロニカ教に不届きな邪念を抱いた誰がが、少女を攫いに来るかも知れぬ。各人、重々注意すること。
 そう、上役から言いつけられていた。それ故に、普段は一人の門番も、今夜は三人だ。三人いれば、大抵の変事には対応できる。出来なかったとしても、誰かにそれを伝えることはできるだろう。そういう意味に他ならない。
 先ほどまでぼんやりとしていた二人の顔にも、相応の緊張感が漲っている。
 回帰祭は、ヴェロニカ教の秘事である。そして、明日のヴェロニカ教のために尊い人身御供となる巫女達である。その御心を騒がせるようなことがあってはならない。例えその巫女が今日この場所にいないのだとしても。

「何者かっ!」

 僧は大喝した。
 初夏の、しかし高地の早朝特有の痺れるような寒気を、僧の声が切り裂いた。
 だが、ゆらゆらとした何かは、おそらくその声が聞こえているだろうにも関わらず、少しも動じた様子もなくこちらへと近づいてくるのだ。
 僧達の緊張は嫌が応にも高まった。手にした樫製の角棒をぎゅっと握り直し、目をすっと細めた。
 その瞬間、最初の曙光が山巓を越え、丘一面を照らし出した。それでようやく、僧達はその白いものが何なのか、理解することが出来た。
 女だ。
 女が、少しずつ、酔っ払いのような千鳥足でこちらに向かってくるのだ。
 肩の辺りでばっさりとされた髪は白髪で、老女のように見える。しかし顔の造作は、年の頃こそはっきりしないものの、遠くから見る分にもはっとするほどに整っているようだ。身に纏っているのはぼろぼろの白装束で、どうやらその裾がはためいて、ゆらゆらとした何かに見えていたらしい。
 いずれにせよ、尋常な様子ではない。
 
 ──それとも。

 ──あるいは、あれは人ではないかも知れぬ。

 それでも僧はいっかな怯まなかった。星々を人が跨ぐこの時代とはいえ、夜の闇は未だ濃い。この世に存在するはずのないモノが、存在しないことが証明されるまで、その闇が晴れることはないのだろう。
 ならば、そういうものがいたとしても何の不思議もない。
 いわんや、ここは聖女の作りし尊き教えの総本山である。行くべき先へと辿り着くことも出来ず、迷いでた何かが寄る辺を求めたのだとしても、いっかな不思議はない。僧自身、理屈では説明できない現象を体験したことも、一度や二度ではないのだ。
 しかし僧には自負がある。
 自分は厳しい修行に毎日耐え、肉体と精神と魂を研磨し続けたのだ。その自分が、心弱くして儚くなり、この世を彷徨うような存在に成り果てたモノ如きに惑わされるはずがない。例えあれが悪しき存在だとして、ならば己の本分はその迷いを晴らしてやること。そして聖女の説法に耳を傾けることすらしない卑しいモノならば、力尽くで払ってくれようか。
 むしろ僧は頬を挑戦的に歪め、これは修行の賜を示す絶好の機会とばかりに闘志を漲らせた。邪怪の類であれば望むところとばかりに手にした角棒をびゅんと振った。
 ぴりぴりとした緊張感の満ちる空間を、だがそのゆらゆらした女は、少しずつだがしっかりと近づいてくる。足取りは踊るように頼りなく、上体はあっちへふらふらこっちへふらふら、髪は顔にばさりとかかり、どう見ても正気の様子に見えない。
 余人であればその恐ろしい雰囲気に飲まれていたに違いない。それでも僧の心胆は微塵も怯んでいなかったのだ。
 やがて正体不肖のそれは、僧達の目の前まで近寄ってきた。
 もう、曙光が翳ってもその姿を見間違えることはないだろう。

 少女だった。

 白髪だと思っていた髪は、驚くほど滑らかに輝く、銀色の髪だった。
 面立ちはやはり整っていて、あと十年もすれば道行く男全員の視線を一心に浴びる美女に成長するに違いない。
 しかし、というべきか。それともやはり、というべきか。
 その整った面の上に、狂気を帯びた表情が張り付いていた。
 視線は明後日の方向を見遣り、ぼんやりと定まらない。頬は不自然に緩み、口元からは粘ついた涎が、下に、下に、垂れ落ちている。糸引くその液体が所々玉状にまとまり、曙光を浴びてきらきらとしていた。
 放心顔の美少女は、整った顔立ち故に、形容しがたい不吉な気配を放っていたのだ。
 
「ふ、ふふ、ふふふ……」

 童のように口を半開きにした少女が、紙を振るわす様な声で微笑んでいる。
 その声が、まるで男を誘う娼婦のようで耳に粘りつき、どうにも艶めかしい。
 これはいよいよ彼岸の存在か。
 僧達が流石に緊張したとき。

「ツェリン……わたしはここよ、はやくむかえにきて……」

 少女が、僧達にようやく聞こえるようなか細い声で、嬉しげに呟いた。
 ふわふわとした、童女のような声。しかしそれ故に、聞く者全てに寒気を覚えさせる、声。
 誰何することを忘れた僧の間を、少女は歩き抜けようとする。だが、一足早く我を取り戻した僧の一人が、少女の肩を強く掴んだ。それは、しっかりとした肉の感触だった。

「こら、どこへ行く。ここは神聖なるヴェロニカ教総本山だ。このような時間に誰の許しもなく立ち入っていい場所ではないぞ」

 ぐいと肩を引かれ、僧の正面を半ば強制的に向かされた少女は、しかし意外とはっきりとした瞳を僧に向けた。

「何を……するのですか。わたしは……ツェリンのために、わたしの……恋人のために、これ、このとおり……お弁当を……用意してきたのです」

 少女は、のったりとした緩慢な動作で、抱えた小荷物を僧の鼻先に突きつけた。
 清潔な布でくるまれたその小荷物からは、なるほど腹の虫を刺激する暖かな匂いが漂っている。
 総本山に属する修行僧は、独り身が原則である。しかし全員が出家しているわけではない以上、俗世に恋人を残してきている者も、数は少ないがいないわけではない。そしてその恋人が差し入れを持ってくることも珍しい話ではない。
 しかし、それがこの時間、この風体であると話は違ってくる。
 少女は見るからに美しい風貌だが、表情は言わずもがな、身に纏った白装束も異様そのものである。所々解れ破かれ、染みが浮き垢じみて黄ばんだ服は、どう考えても可憐な少女に相応しいものではない。
 それに、ツェリンという名前。
 総本山で修行している僧ならば、一応名前くらいは覚えている。その中に、果たしてそのような名前の者がいただろうか。しかもこの少女の恋人というならば、おそらくは少年僧であろうが、そもそも少年僧自体それほど数が多いわけではない。
 視線で、周囲の僧に尋ねる。だが、予想に違わずその首は横に振られた。

「これ。この場所に、そのような名前のものはおらぬ。何かの間違いであろう。そうそうにここを立ち去りなさい」

 少女はあやふやな笑みをうかべたまま、首を横に振った。少女の口元に溜まった唾液が、その拍子に宙を舞った。

「そんなことは……ありません。ここに……ツェリンは……います。わたしの……恋人が……ここにいるのです。どうして……そのような意地悪をして、わたしと……あの方との仲……を裂くのですか?あなた方は、そんなにも……わたしのことが憎いのですか?」

 少女の菫色をした瞳に、うっすらとした涙が溜まっていく。依然としてそのかたちの良い唇は、三日月状に歪んでいたというのに。
 これには僧も参ってしまった。目の前にいるのが同じ歳の頃の少年であれば訳の分からぬ事をぬかすなと一喝して追い返すところだが、男は総じて女の涙に弱い。それも、このように可憐な涙であれば尚更である。
 話をすると意外に物わかりは良い。ただのもの狂いかとも思っていた僧であったから、その点は救われる気がした。
 ただ、彼女の言う恋人の件だけがどうにも話が噛み合わない。気になった僧の一人が念のためと照会してみたが、やはりそのような少年僧はいないという。

「君の求める恋人とやらはここにはおらぬ。ここで無為に時間を使うより、その少年の家と連絡を取るなどしたほうがよいのではないか」
「……嘘です。ここに……ツェリンはいます。わたしには……分かります。彼と会えるなら……何でも……します。ですから、どうか……彼と会わせて下さい」
「会わせたくてもそのような少年などおらぬのだ。何度言えば分かってくれる」

 僧達は三人がかりで少女の説得を試みたが、理を述べようとも宥め賺そうとも叱りつけようともいよいよ埒が明かない。
 さてこれでは力尽くでつまみ出すか、しかし相手はか弱い少女、そのように乱暴な真似はしたくないが……。三人がそう思い、渋面を付き合わせた時だ。

 ふ、と、何かの気配がした。
 
 音ではない。姿ではない。無論、誰かの声がしたわけでもない。
 ただ、言い表しようのない違和感が、三人の五感のいずれかを刺激した。
 ほとんど同時に三人の顔が跳ね上がる。何だ。今の気配は何だ。
 今し方、我らの背を、何者かが駆け抜けたような……。
 そう思った三人が視線を交差させた、まさしくその時である。

「おーい、ねえちゃーん」

 遠くから声がした。
 周囲を警戒しようとした僧達の視線は、自然そちらに吸い寄せられた。
 先ほどよりも随分明らかになった視界に、やはりこちらに向かってくる人影がある。その歩調はしっかりとしていて、亡霊のようだった少女の足取りとは比べるべくもない。
 次第にはっきりとしてくる人影の頭部は、やはり真っ白の見える髪の毛に覆われているのだが、この少女を姉と呼んだことを考えるならば銀髪であると考えるべきか。
 然り、顔立ちをはっきりと確認出来るまでに近寄ってきた人影の頭部は、少女と同じ、きらきらした銀糸で覆われていた。瞳の淡い紫も同じ。顔立ちそのものにはだいぶん違いがあるのだが、あまりに鮮烈な二つの特徴が一致しているだけで、この二人が姉弟なのだと僧達は認めた。

「駄目じゃないか、姉ちゃん。こんなところまできて、お坊さん達に迷惑かけたら」

 息を切らした弟が姉の肩を揺さぶりながら言う。しかし姉はやはり曖昧な笑みを浮かべたまま、幸せそうに、

「……聞いてよ……インユェ。この人達ったら……酷いのよ。ツェリンが……ここにいるのに、わたしは……ここまで彼に会うために……来たのに、どうしても……会わせてくれない……のだから」
「ちっとも酷くなんかないよ。だって義兄さんはこんなところにはもういないんだから」
「……あら、インユェも……わたしの……邪魔をするの?たった一人の……弟なのに、そんな……悲しい……ことをするの?」

 言葉とは裏腹に、姉の緩んだ表情は少しだって厳しくならない。玩具と戯れる幼子のように、絶えず緩んだままだ。その乖離が、事情を知らぬ僧などにはどうしても禍々しく映る。
 僧達の視線に気づいているのかいないのか、弟は深い疲労に満ちた溜息を吐き出した。

「義兄さんなら一足先に家に帰ってるよ。姉ちゃんとは入れ違いになってしまったんだ。だからほら、このお坊さん達もこんなに困っているじゃないか」
「……えっ、ほんとう……に?」
「そうだよ。義兄さんと約束したんだろう?可哀相に、おなかぺこぺこだって泣いてたよ」

 弟がそう言うやいなや、姉は先ほどまでの緩めた表情を嘘のように引き締めて、

「こうしちゃいられないわ!さぁ家に帰りましょうインユェ!急いであの方の好物のほうれん草シチューをこしらえてあげなくちゃ!」

 嬉々とした声でそう言うと、来たときの頼りない足取りが嘘のようにしっかりとした調子で道を帰りはじめた。
 呆気にとられた僧達の前で、ある意味彼らの救い主ともいえる弟は、深々と頭を下げた。

「申し訳ありませんでした、姉が色々とご迷惑をおかけして……」

 顔を見合わせた僧達の一人が、仲間を代表して尋ねた。

「いや、それは構わぬのだが……」

 言外に少女の様子について訊く。
 弟は、沈痛な面持ちを隠そうともせず、

「こないだ、婚約者だった恋人を事故で亡くしたんです。それ以来、突然おかしくなることがあって、その度に色んなところにでかけてはそこに義兄がいるんだって言い張って……。一度家に帰ればしばらく落ち着くんですが……」

 なるほど、愛する人を失って、精神の平衡を失ってしまったのか。僧達は一様に納得した。
 そう考えてみると、丘を下って少しずつ小さくなっていく少女の背中が、なんとも憐れでか細いものに見えて仕方がない。まして、あのように年若く美しい少女がどうしてと思うと、やるせなさが胸を締め付けるようだ。
 僧達は、鉛のような溜息を吐き出した。

「そうか……あの少女も勿論だが、君たちご家族もさぞつらかろう。あまり無理をして抱え込まないことだ。ここはいつだって迷える信徒に対して門戸は開かれている。救いを求める手を見捨てることはない。それはゆめ忘れないようにするのだよ」
「はい、ありがとうございます……」

 少年は肉付きの薄い肩を振るわし、目をごしごしと拭った。

「こら。泣くんじゃない。君は男の子だろう。君がお姉さんを支えていかないといけないのに、この程度で泣いてどうする」

 そう叱りつけながら、しかし僧の声色は慈愛に満ちている。
 少年もそのことは十分理解しているのだろう、目を赤くしたまま口元をきつく結び、深々と僧達に頭を下げてから踵を返し、姉の後を追った。

「何とも痛ましいことだなぁ……」

 僧達の一人が何とはなしに呟いた。
 それにしても、と思う。
 最近、この星は、どうにもおかしい。
 大統領候補の食肉疑惑に端を発し、世論を扇動しての政権交代。その後は、突然に憂国ヴェロニカ聖騎士団を名乗る無頼漢が街を闊歩しはじめ、異教徒である外国人を排斥する。いつしか国民もその様子に疑問を抱かなくなったのは、各マスコミがこぞってヴェロニカ教原理主義思想に傾倒したニュースを流したからか。
 そしてヴェロニカ教内部においても、旧指導陣であった老師連中のほとんどが怪死を遂げ、唯一生き残ったビアンキ老師も行方知れず。今はその弟子であったテセル導師が老師の階位に昇り暫定的な指導者となっているが……。
 加えて先日の回帰祭における、時代錯誤ともいえる生け贄。生きたまま狼の贄にされた少女の恐ろしいまでの絶叫が、今も耳に張り付いているかのようだ。
 そして、今日も一人の少女が生け贄に供されるのだという。いくら信徒の信仰心を確固たるものにするためとはいえ、これではまるで中世の時代にあったという魔女狩りのようではないか。
 いったいこの星で何が起きているのか。
 戦慄を覚えた僧だったが、頭を一振りしてそれを邪念と追い払った。
 不信や不満を抱いてはならない。自分はヴェロニカ教に生涯を捧げると誓った身である。ならば、全ては聖女ヴェロニカの、そして神の御心のままに。
 再び訪れた静寂の中、太陽はゆっくりと中天を目指して昇っていく。辺りは一団と明るくなり、木々の緑がより一層鮮やかになってくる。
 ヴェロニカの、朝だ。
 いつからか、背後からざわざわとした人の気配が伝わってきた。朝の修行が終わり、老師の説法も一段落したのだろう。
 そろそろか、と、僧が太陽を見上げたその拍子に、次の門番の任を帯びた僧の姿が見えた。

「お疲れさん、交代の時間だ」

 長い任務の終わりに、厳めしかった僧達の顔が少しだけ緩む。

「何か変事はなかったか?」
「いや、世は並べて事も為し、だ」
「それは何よりだ」

 そう、後任の僧は笑った。合わせて笑おうとして、僧は笑みを止めた。
 そういえば、一つ、取るに足らない変事はあったのだ。しかしそれを報告したものかどうか。

 ──いや、よしておこうか。

 憐れな少女の身の上話である。世間話のように軽々しく口に乗せるべきではないことのような気がしたし、報告書にしたためて上に報告するようなことでもないだろう。
 結局、その件に関する報告は行われなかった。
 
「ちょっと、どいてどいて!」

 簡単な引き継ぎをしていた僧達の背後から、元気のいい声がした。
 一斉に振り返ると、総本山の建物の向こうから、背の低い人影が、大きな荷物を抱きかかえて走ってくる。
 荷物は、どうやら麻製のずだ袋らしい。その袋がぱんぱんに膨らんでいるから、まるで袋から足が生えてこちらに走ってきているような、何とも珍妙な有様だ。

「おい、小僧。その荷物は何だ?」

 僧達の一人が、笑いを噛み殺したような声で尋ねた。
 小僧はすぐには答えず、僧達の傍に来てから急ぎ足を止め、さも億劫そうな声で、

「ただのゴミだよ」
「ゴミ?ならば、後でまとめて車で運ぶのではないのか?」
「おいら、寝坊で朝の説法を聞き逃しちまったんだよ。そしたら師匠が罰だって、このゴミを下の集積所まで捨ててこいって言うんだぜ。酷いと思わないかい?」

 布で頭をぐるりと巻いた少年僧は、澄んだ緑色の瞳を顰めながらそう言った。
 門番の僧達は呵々と笑った。

「そりゃあお前が悪い」
「その程度の罰で済んだならお前の師匠の慈悲に感謝することだな。俺の時など、あの広い本堂をたった一人で雑巾がけさせられたものだぞ」
「俺は麓の湖を端から端まで泳がされた。しかも真冬の身も凍るような水の中だ。あの時は、師匠は人の皮を被った鬼だと思ったわいな」

 果たしてそれがどこまで本当の話か。ともかく、少年僧は軽く身震いして、我が身の幸福を神に感謝する言葉を呟いた。

「でもさぁ、こんな荷物、台車の一つでも使えばもっと楽に運べるのにさぁ、何でわざわざしんどい思いしなけりゃならないんだろう?」
「阿呆め。これは罰であり、そして修行の一環だ。楽をしてどうする、楽をして」
「ちぇっ。分かったよ。それじゃあ、手伝ってくれってお願いしても無駄なんだろうなぁ」
「当たり前だ。若い頃の苦労は買ってでもしろというだろう。働け働け」

 僧達はもう一度笑った。
 それに、なんだかんだ言いながらも少年僧はあの大荷物を軽々と持ち上げているし、それほど力を入れている様子もない。中に入っているのは、紙くずのように、体積は大きくともそれほど重量のないゴミなのだろう。
 少年僧は、唇を尖らせて不平をたらたらしながら、丘の道を一人、楽々とした足取りで駆け下りていった。
 僧達はその様子をしばらく眺めてから、各々の任に戻っていった。
 そして騒ぎが起こったのは昼前のことである。
 今やヴェロニカ教の唯一の老師となったテセル老が、失踪したのだ。



 鏡の奥にいるのは、この世の全てに絶望した人間の顔だ。
 どんよりと落ち窪んだ眼窩。罅が浮き、かさついた唇。痩け落ちた頬肉により、顎の細さが強調されて、骸骨の上に薄っぺらな皮膚を貼り付けただけの顔。
 その皮膚には潤いが無く、何より視線に生気が無い。
 これは何だろうと考えて、すぐに思い当たった。
 老人だ。自分の身近にいて、自分にとっての最大級の侮蔑に値した、あの老人達。己の地位にのみ執着し、狭い世界の中での権勢にのみ食指を動かし、聖女と神を蔑ろにした破戒僧ども。
 何度も殺してやろうと思った。そして、今はこの世のどこにもいない。彼らの死体を目にしたときに抱いたのは、罪悪感や後悔ではなく、胸の透くような爽快感だった。
 だが、今にして思う。彼らが矮小な権力の座にしがみついていたのは、もはやそこにしてか縋り付く場所が存在しなかったが故ではないかと。何故なら、真に許しを乞い安らぎを与えてくれるであろう神の御座は、最初から最後まで空席であることが、これほどまでに明らかなのだから。
 ヴェロニカ教の最高指導者たる老師となったテセルは、じっと鏡を見つめていた。
 他者の羨む、順風満帆たる人生のはずであった。
 年若くしてヴェロニカ教の導師の地位を得て、ついに最高位たる老師に上り詰めた。長年渇望を続けていたヴェロニカ教の真理もこの手にした。先んずる者はおらず、振り返っても自分の影を踏む者すらいない。名実ともに、彼はヴェロニカ教の最高指導者になり得た。
 しかし、心が軽い。軽やかなのではなく、軽薄なのだ。
 外縁を辛うじて残した心のかたち、その中心がすっぽりと抜け落ちている。師を裏切り、全てを擲って作られた空虚の代わりに、そこに居座る物がない。

 ──いや、あるか。

 それは、冷たい金属だ。
 トリジウム。
 死んだ魚の目をした老人が、薄ら笑いを浮かべながら語ってくれた。この星に埋蔵された、巨億の富を生み出す魔法の金属の名前を。

『この国の大統領は私だ。そして、思想的なシンボルとなるのが君だ。我々が固く協力すれば、この共和宇宙の政治的、経済的な中心をこの星にするのも夢ではない。そうなったとき、今は辺境宙域の土着宗教でしかないヴェロニカ教が不当に貶められた地位を回復し、聖女ヴェロニカの尊い教えを全宇宙へと啓蒙することが叶うだろう。そうすれば、君の名前は歴史上のありとあらゆる宗教家の上に位置する聖人として、不滅の代名詞になるに違いないのだ』

 熱のない言葉は人のかたちをした機械がしゃべっているようだった。
 そして自分はどうやら、その機械に顎で使われる道化となってしまったらしい。
 この国において、ヴェロニカ教の指導陣が政治的な発言力を持ち合わせた時代は、すでに過去のものになってしまったのだろう。現在のヴェロニカ教最高指導者である自分がその地位を得るに、現在のヴェロニカ共和国大統領であるアーロン・レイノルズに対して大きな借りを作ってしまった以上、それは避け得ぬ事態である。
 要するに、自分は全てのヴェロニカ教徒を裏切ったのである。これからは、国が進める政策に対して精神的なお墨付きを与えるだけが、埃臭い坊主どもの仕事になるのだろう。
 そして、ヴェロニカ教の老師達が悠久の年月を守り続けてきたトリジウムは、政治家達のパワーゲームのカードに成り下がった。

 ──それも、いいのかも知れない。

 テセルは思う。
 どうせ、中には何も詰まっていないのだ。自分も、教えにも、この星にも。まるで、老師のみに許されたこの部屋の虚飾のように。
 からっぽだ。
 ならば腹に操者の腕を突っ込まれて、腹話術の人形に成り仰せるのが相応しい末路かも知れぬ。
 そんなことを考えながら豪奢な造りの鏡を見ていると、いよいよ自分の顔があの老人達の皺だらけのそれと同じに見えてくる。
 
 嗚呼、嫌だ。嫌で嫌で仕方がない──

 テセルは発作的に腕を振りかぶり、鏡を破壊しようとした。

「やめときなよ」

 拳は、己の虚像と衝突する寸前のところで静止した。
 はっとした様子でテセルが振り返る。

「そんなことしたって怪我するだけだよ、あんた」

 そこには少年がいた。一目では少女と見紛うほどに美しい、しかしテセルにははっきりと少年だと分かる、少年。
 その少年が、だだっ広い部屋の中央に立ち、感情を映さない静かな瞳で自分を見つめていた。そしてどこにも力みのない立ち姿。
 誰だろう。この少年は、いったい誰だ。どこから入ってきた。
 この部屋には、自分しかいなかったはずだ。それなのにどうして。
 
「お前は──」

 誰だ。
 そう言いかけて、テセルは口ごもった。
 違う。その言葉はしっくりこない。そう、思ったのだ。
 思った。それも違うのだろうか。思ったのではなく──それは脳髄の思考ではなく、もっと根源的な、魂のようなものの思考だった。
 目の前にいる少年に対して、お前は誰だという質問は、どうしても相応しくない。決定的な齟齬がある。
 どうしてここに入ることが出来た。いったい何が目的だ。他にも問うべきことは無限とあるが、それらの質問も的外れだ。
 こめかみから顎先へと、粘い汗が伝う。自身の存在を大きな顎に咥えられたような、恐るべき緊張感。
 一瞬の、しかしテセルの主観からすれば那由他にも思える逡巡の後、震える喉は、本能に従った答えを絞り出した。

「──お前は何だ」

 そうだ。これは、根本的に違うのだ。
 誰だ、とは、人間に対してのみ使うことを許された問いである。人間以外にその問いを使うことは許されない。
 だから、目の前の少年、いや、少年の姿をした何かに対して、その問いを使うことは出来ない。
 無論、それ以外の質問も用を為さないだろう。何せ、これは人間ではないのだから。
 唯一、唯一許される質問があるなら。

 何だ。

 何者だ、ではない。生まれを訊くのでも、育ちを訊くのでも、所属を訊くのでも、目的を訊くのでもなく。
 何だ。どういう生き物だ。どういう物体だ。どういう存在だ。
 何もかもが分からない目の前の少年に、唯一許された質問が、それだった。
 そして少年は微笑んだ。背後から差し込む朝ぼらけの陽光に照らされて影になったその表情ははっきりと見えないが、それでも微笑んでいた。
 まるで肉食獣が、憐れな獲物の延髄に牙を立てる寸前のように、無垢な笑顔で。

「なんだ、あんた、思ったよりものが見える人なんだな」

 少年は、面白そうに呟いた。

「だが、あんたの質問に答えるのは中々難しいな。それでも敢えて答えるなら、そうだな、おれはルーファセルミィ・ラーデンの相棒であり、黒狼アマロックの息子であり──」

 少年が、一歩、テセルに歩み寄った。
 テセルは、少年が近寄ったのと同じ距離を、後ずさった。

「獅子王ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンの同盟者だ」

 翡翠色の視線に、殺気寸前の危険な色合いが籠もる。
 戦慄くテセルの喉が、ぐびりと動いた。口の中は乾いて一滴の唾液だって存在しないのに、喉だけが勝手に蠢いたのだ。
 テセルは咄嗟に理解した。
 目の前の存在は人間ではない。悪魔でもない。これは、そんな生やさしいものではない。
 闘争はおろか、交渉も籠絡も譲歩すらも許されない存在だ。魂を捧げたところで、そんなものには目もくれないだろう。
 喰うか、喰われるか。
 これは、最初からその二つの選択肢しかそもそも用意していない生き物だ。
 
「おれの名はグリンディエタ・ラーデン。おれはおれの同盟者を奪い返しに来た。つまらないお為ごかしはいらない。妙なことを考えるなよ。それはそのままあんたの寿命を縮めると思え」

 テセルは、心臓が早鐘を打っていることに気が付かなかった。横隔膜が、全力疾走をするスポーツカーのピストンみたいに激しく上下している。過呼吸の一歩手前だ。顔色は蒼白になり、滝のような汗が痩けた頬を伝い落ちていく。
 瞳孔は大きく開き、眉が八の字に、許しを乞うように歪められる。それは、獅子の牙を喉元に突きつけられた、憐れな子鹿の表情であった。

「……俺を、どうするつもりだ」

 それでも喉を振るわせて、辛うじて声と呼べる声を絞り出した。
 その一言で、テセルの気力はごっそりと奪われてしまった。視界が滲み、意識が遠ざかりそうになる。膝が頼りなく震え、自分の足下だけが大地震に見舞われたのではないかと疑いたくなる。
 そんなテセルの憐れな姿に興味の一つを抱くでもなく、グリンディエタ・ラーデンと名乗った少年は、またしても一歩を踏み出し、

「話を聞いていなかったのか。おれはあんたに一握りの興味なんてありはしない。勝手に生きて勝手に死ね。おれがこの星に来た理由はただ一つ、おれの同盟者を取り戻すことだけだ」

 淡々とした口調は、それ故に一切の小細工を許さない苛烈さがあった。
 
「ど、同盟者……」
「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン。今の名前を、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。おれの同盟者であり、義理の妹であり、夫としての配偶者であり、妻としての婚約者だ。このうちのたった一つの持ち主を拐かしただけだって十分に復讐の対象だってのに、それを四つも、よくもやってくれたもんだな」

 少年は溜息を一つ吐き出してから、絶対零度の視線でテセルを睨み付け、

「お前ら、覚悟は出来ているんだろうな」

 ぼそりと、小さな声で呟いた。
 ひぃっ、と、情けない声がテセルの口から漏れだした。
 駄目だ。このままここにいたら、喰われる。喰い殺される。
 逃げなければ。ここから逃げて、誰か、人のいるところへ。
 テセルは、相手が少年の姿だからと侮ることはなかった。相手を自分の手で制圧しようなど夢にも思わなかった。その点、テセルの判断は極めて正しいものだった。
 だが、次がよくなかった。
 テセルは少年に背を向け、肺腑に大きく酸素を取りこみ、一気に吐き出そうとしたのだ。

 ──誰か、助けてくれ!

 勝ち目のない敵が目の前にいるのだ。誰かに助けを求めるのは決して恥ではない。その点も、テセルの判断は間違えていない。
 間違えていたのは、それでもやはり、目の前にいた少年の身体能力を、人間の範囲内のものだと錯覚してしまったこと。
 テセルは、首筋に強い衝撃を覚えた。急激に視界が明るくなり、そして黒と赤の二色に染まる。総身から力が抜け、景色が横倒しになっていく。
 馬鹿な、と思う。
 彼我の距離は、到底一足飛びで詰められるようなものではなかった。だからこそ、せめて助けの声を上げるくらいの猶予はあるだろうと、追い詰められた思考の中で計算したというのに。
 ならば、少年以外の誰かが、この部屋にいたというのか。
 いや違う、と、薄れゆく意識の中でテセルは否定した。
 この少年だ。この少年が、おそらくはいとも容易い動作でこの間合いを一気に詰め、自分の首筋に手刀を落としたのだ。普通の人間には無論不可能ごとだろうが、この少年ならば可能だ。
 そうだった。これはそも、人間でないのだ。人間以外の存在ならば、人の身に許されざる技が出来たとしても何ら不思議ではない。
 全ての理屈を抜きにして、床に倒れ伏したテセルはそう納得した。叫び声を上げるつもりで吸った空気は、蝋燭の火も消せないような弱々しい吐息となって喉から漏れ出ただけだった。
 
「まったく、どいつもこいつも人の言うことなんか聞きやしない。結局こいつを頼ることになるのか。いつものことながら面倒くさい……」

 少年のうんざり声が、途切れ途切れに聞こえる。
 体がぴくりとも動かない。延髄への衝撃で脳が揺れ、体幹が痺れ、神経の伝達が遮断されているのだ。体が動くはずがない。
 ぱさり、と、柔らかい布が床を叩いた音が聞こえる。
 最後の気力を振り絞ったテセルが、狭まりゆく視界の中に認めたのは、麻製の巨大な袋が床に落とされる瞬間の映像であった。



[6349] 第七十三話:朝
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2012/12/30 09:12
 どうして。
 どうして自分が、こんな目に。
 神様、わたしは、いったいどんな罪を犯してしまったというのですか。
 怖い。
 怖い。
 怖くてたまらない。
 生け贄?
 あの連中は、絶対に頭がおかしい。気が狂っているに違いない。それとも、悪魔に魂を売り渡したのだろうか。
 暗い通路。壁が寒々しくひび割れている。来た道には鉄格子が嵌められ、どうしたって後戻りは出来ない。

 ──早く、早く祭壇へ

 祭壇って、なに?

 ──巫女よ

 違う、わたしはそんなものじゃない。

 ──祭壇へと、進まれませい

 のっぺらぼうの顔に、ぽっかりと開いた空虚な空洞が、無感動に囃し立てる。
 嫌だ。
 このままあそこに行けば、この通路の先に行けば、きっとわたしは殺される。
 行ってたまるものか。鉄格子に齧り付いてでも、わたしはここから動かない。絶対に死にたくない。パパとママと弟に、もう一度会うまでは。

 ──諦められよ、贖罪の巫女

 嫌だ。わたしは絶対に諦めない。わたしには夢がある。千万のスポットライトに照らされた舞台の上で、あのジンジャー・ブレッドのように華々しく輝くトップスターになるのだ。

 ──あなたの生は、ここで神への供物となるために紡がれたもの

 違う、わたしの今までの努力は、苦しみは、幸せは、そんなもののためじゃない。

 ──最後は潔く、自分の足で、祭壇へと進まれませい

 突然、異臭が鼻を刺した。
 ぱちぱちと、何かが燃え爆ぜる音。しかし炎の明るさはどこにも見えず、全てを覆い隠すほどに凄まじい煙が、どっと押し寄せる。
 途端にいがらっぽさが喉を焼き、目からはぼろぼろと涙が零れ、息苦しさが肺から押し寄せ猛烈な咳となって外へ出る。
 体を折り、咳を繰り返す。立っていることすら苦痛になり、這うようにして煙の薄い方へ薄い方へと進んでいく。濛々とした煙は視界を奪い、壁伝いに、重度の酔っ払いがそうするように、よたよたとした足取りで。
 やがて煙が薄れ、空気が新鮮みを帯びたとき。
 そこは、千万のスポットライトではなく、しかしそれらよりも遙かに眩しい、ただ一つの満月に照らし出された、舞台だった。
 擂り鉢状に設えられた観客席に、無数の人間の顔が浮かび、そのどれもが非難と侮蔑と嘲りを体現している。
 わたしを中心にして渦巻く歓声は、幾重にも入り交じり、意味を失った怒号として体の中心に重たく響いてくる。
 ああ、そうか。この人達は、わたしのことが嫌いなんだ。
 わたしがいったい何をしたのか。それともしなかったのか。
 意味もなく悲しくなる。泣き叫びたくなる。誰かに縋り付きたくなる。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちてしまう。頬を、煙にやられたのではない涙が伝う。
 そして、ゆらゆらとした視界に、黒い、大きな獣が映し出されて。
 その、大きくて、赤い口のなかに、だらりとした舌と、黄ばんだ巨大な牙が。
 すごく、ゆっくりと、荒々しい吐息が、近づいてきて。
 わたしは、きっと、ここで。
 このまま。
 
 おとうさん、おかあさん、ごめんなさい。

 そしてテセルは目を覚ました。

 まただ。
 また、この夢。
 あの夜、回帰祭の生け贄に捧げた少女の、夢。
 もう何度も何度も、あの夜以来、毎晩見続けている。
 私は、あの少女が、いったいどのような人生を歩んできたかなど、知らないというのに。
 私が知っているのは、あの少女の小さな体が、群がる狼たちによって少しずつ削り取られ、更に小さく、少しずつ人の形ではなくなっていく場面だけだというのに。
 夢の中の私はあの少女となって、生まれ、愛され、誰よりも努力し、そして積み重ねてきた。
 そして最後に、それら全てを無惨に奪われたのだ。
 柔い肉を牙で毟られ、細い骨を噛み砕かれ、湯気立つはらわたを取り合う狼どもを、為す術もなくただ見遣り。
 少女は、肉になった。
 だからどうした。私に、どうしろというのだ。今更。
 私にどうすることが出来た。飾り物でしかない私が何をしようと、あの少女の運命は変わらなかった。変えられるはずがなかった。
 だから、悪いのは私ではないのだ。私は、ちっとも悪くはない。
 そうともさ。
 だけれども。
 ならば、頬を伝うこの生暖かい感触は、いったい何なのだろう。
 私は、どうして泣いているのか。
 どうして、声を限りに、許しを乞うているのか。
 まるであの少女のように。
 どうして。

「おい、そろそろ起きろよ」

 未だ終わらぬ悪夢の残滓に魘されるテセルを完全に叩き起こしたのは、しかしその声ではなく、腹部に感じた激しい衝撃であった。
 一切の準備も覚悟も許されず緩んだままの腹筋は、衝撃をそのまま内臓に伝え、横隔膜を麻痺させ、胃の腑を踊らせる。
 熱せられた剥き出しの苦痛が、テセルの脳髄を貫いた。

「げ、がぁぁ……」

 突然生々しい苦痛を突きつけられたテセルは、両手で腹を抱えようとしたが、その両手が後ろに回されたまま思うように動かない。痺れた横隔膜は呼気交換の使命を放棄し、蹴り出された酸素の補給すらままならない。
 そうだった。自分は、あの金色の少年──いや、少年の姿をした何かに襲われ、こんな目に遭わされているのだ。
 自分の好き勝手にのたうつことすら許されないテセルは、陸に打ち上げられた魚のような姿勢のまま、吐瀉物を吐き出し、苦痛に呻いた。

「ぎぃ、ごっほ、ごほごほ……」

 それでも自分をこんな目に遭わせた誰かを、見上げ、睨み付けることが出来たのは、彼がヴェロニカ教の指導者として培ってきた自負と自尊心からだろう。首だけを巡らせて、自分を見下ろす誰かを見上げる。
 テセルは、そこに金色の髪があると思った。眩しい緑色の瞳があると思った。
 だがそこにあったのは、くすんだような銀色の髪と、憎悪に煮えたぎる紫色の瞳だった。

「……き、きさまは、いったい……あぐぅっ!」

 誰何の台詞を最後まで伝えることすら、今のテセルには許されなかった。銀髪の少年が、テセルの細い顎を、爪先で蹴り上げたからだ。
 異様な角度に首を曲げたテセルの体は、蹴りの勢いそのままに、大きく後方へ跳ね飛ばされた。口元からだらだらと血が垂れ落ちるのは舌の一部を噛み切ったからだろう。
 憐れな様子で呻き声をあげるテセルに、だが少年は一切の憐憫を覚えていないようだった。無造作に近寄って、苦痛と衝撃に朦朧としたテセルの傍にしゃがみ込み、その法衣の襟を捻り持ち上げた。
 そして囁くような声で、

「無駄口を叩くなよこの外道。てめぇがその臭ぇ口を開いていいのは、俺が聞いたことに答える時だけでいいんだよ」
「な、なにを……」
「ああ、なるほど、神様の言うことは聞けても人様の言うことは聞けねぇってかい?それならそれもいいさ」

 銀髪の少年は、テセルを持ち上げた腕を思い切り引き、その顔を自分の額に思い切りぶつけた。
 ごしゃっ、と、肉の潰れる音がした。

「ほらな、人の言うことを聞かねぇと、こういう目に遭うのさ。よくわかったかい?」
「う、がはっ……」

 にんまりと微笑む少年、その視線の先で、テセルの形の良い鼻は無惨に折れ曲がっていた。
 鼻の穴からは、とめどなく血が流れ落ちる。その血はテセルの顔面の下半分をあっという間に赤く染め上げ、なお止まる気配すらなかった。

「ごほ、こほこほ……」

 今の今まで、選ばれた者としての道を邁進していたテセルである。武術の素養はあっても、このようなかたちで剥き出しの殺気に晒されるのは初めての経験だ。 
 テセルは下腹部に生暖かさを覚えた。鼻をつくアンモニア臭で、ようやくそれが自身の失禁によるものだと理解した。

「いいか、よく聞けよ小便たれの糞坊主。てめぇは今、生きると死ぬとの瀬戸際にいるんだ。それを理解した上で、誠心誠意、正直に質問に答えやがれ。もしも忘れたとか知りませんとか言ってみろ、鼻の穴から焼けた火箸を突っ込んでその脳みその中身を掻き混ぜてから答えを思い出させてやる」

 その言葉に、一切の虚飾も妥協の余地も無いことを、テセルは察した。
 飲み下した唾は、鼻から逆流した血液で、不自然に鉄臭かった。

「ウォルを、どこにやった」

 歯を食いしばった少年の声が、まるで猛獣の唸り声のように聞こえた。
 その声に込められていたのは、例えば目の前で我が子を殺された獣の、腸を千々に断たれるほどの無念であり、或いは極限まで飢えた獣が、目の前の獲物を掻っ攫われたときの怒りであった。
 どちらか片方でも、それは致死の怒りである。
 そしておそらく少年の瞳の奥にある怒りは、それらを合わせたよりもなお激烈であるに違いない、危険な気配を撒き散らしていた。
 テセルは口を開かなかった。
 だがそれは、ヴェロニカ教最高指導者としての意地ではない。
 ただただひたすらの恐怖によって、一言の言葉をすら発することが出来なかったからだ。

「よし、お前は死にたいんだな」

 少年は、爽やかな声と顔で、微笑んでいた。しかし弓を引き絞るようにして構えた拳には満身の力が込められ、小刻みに震える手の甲にまざまざと骨が浮きあがるほどである。
 テセルは、反射的に許しを乞おうとした。それこそ、夢の中の少女と同じように。
 例えその許しが誰に聞き届けられるものでなかったとしても。
 
「た、たすけ……!」

 無論、その声は誰の耳にも届かない。
 拳が疾駆し、テセルの顔面に突き刺さろうとした、その瞬間である。

「おい、やめときなインユェ」

 ぱしん、と、乾いた音が鳴った。
 あと一歩。あと少しで少年の拳がテセルの顔面を陥没させていたであろう、その拍子に、少年の拳を、容易く止めた者がいたのだ。
 テセルはぎゅっと目を瞑っていたから、それが誰なのか、一瞬分からない。
 だが、誰かが自分を助けてくれたらしい。無論、それは本当の意味で自分を助けたのではないだろうが、それでも命の恩人である。この少年よりは話の通じる相手なのではないか。
 うすらうすらと目を開けたテセル、その瞳に飛び込んできたのは、しかし尋常の光景ではなかった。
 目の前で少年の拳を受け止めているのは、到底人のサイズとは思えないほどに巨大な掌であり、その掌の辿り着く先にいたのは、人類というカテゴリに入れるのが憚られるほどに巨大な巨人だったのだ。
 その巨人の、小さくて感情の籠もらない視線が、テセルのそれと交錯する。
 喰い殺される。テセルは自身の運命を悟った。

「あ、ああ、あああ……」

 口元を戦慄かせたテセルに、しかし巨人はにっこりと笑い、

「災難だったなぁ、あんたも。悪かった、ちょっと目を離した隙にこいつがとんだ悪さをしでかしたもんだ。謝るよ」

 テセルをさんざ痛めつけた少年を片手で制しながら、巨人は笑っていた。
 だが、その、葡萄の粒のように小さな瞳の、さらに奥にある何かが、少年の怒りと同種の不吉に染まっている。それはきっと、自分の命を容易く刈り取るものだ。
 テセルは、何とか逃げ出そうとした。しかし頑丈な紐で縛られた手足ではそれも叶わず、もぞもぞと、まるで芋虫のように這いずるのが精一杯である。
 腹ばいで、匍匐前進をするような様子で逃げようと試みるテセル、その視界に、今度は幾本かの足が飛び込んできた。
 おそるおそると顔を持ち上げる。
 そして、見た。
 緑。紫。青。
 三色の、宝石のような、いや、最高級の宝石よりもなお美しい、瞳の群れ。
 それらが、まるきり無価値なものを見るように、自分を見下ろしているのだ。
 テセルは、唐突に理解した。

 ここにいるのは、人間ではない。

 天使だ。

 しかしその天使は、神の福音を知らしめる御使いとしてのそれでは決してない。
 神の怒りと滅びをもたらすために使わされた、黙示録の騎士としての、天使。
 ああ、そうか、自分は神の怒りに触れてしまったのか。
 テセルは、自分の罪を理解する前に、その結果だけを理解した。
 自分はきっと、未来永劫、地獄の業火に晒されるのだ、と。
 逃げる気力をすら失ったテセルは、呆けた様子で口を開けたまま、三人を見上げていた。

「さて、陽も上がって少し暑くなってきたな。良い頃合いだ。そろそろ、あんたには話してもらわなけりゃならないことがあるんだが、いいかな?」

 そう言ったのは、テセルを拉致した、金色の少年だった。



 手足を縛られたまま椅子に座らされたテセルは、薄汚い倉庫のような小部屋の片隅で、五匹の猛獣の前に晒されることになった。
 一番剣呑な気配を放っているのが、睨め上げるように卑屈な視線を寄越す銀髪の少年だ。あんまり聞き分けなく暴れ回るものだから今はテセルと同じように椅子に縛り付けられているが、その戒めを解けば今にも飛びかかってくるに違いない。
 その横に座る、人類のサイズとは到底思えない、大型の熊か象かそれともゴリラかと紹介されたほうがしっくりくるほどの大男。口元ににやにやとした笑みを張り付かせ事態の推移を楽しんでいるようにも見えるが、小さな瞳の奥は全く笑っていない。
 そして二人の背後に立つ三人。
 一人は件の少年と同じく、銀髪に紫の瞳。全く感情というものを感じさせない無機質な瞳で、テセルを眺めている。
 一人はテセルを拉致した、金髪と緑色の瞳の少年。視線は誰よりも一直線で、話し合いや譲歩を最初から拒絶しているようだ。
 最後の一人が、黒髪に青色の瞳の、柔らかい雰囲気の青年。あまりになよやかな気配から、男とも女ともつかない不可思議な気配を放っている。
 たった一人であっても人の目を集めるであろうほどに特異な人間が五人、自分を凝視しているのだ。テセルは鏡に囲まれた蝦蟇のように、粘い汗をたらたらと流した。
 加えて彼らの後方、この部屋唯一の出入り口である扉に、腕を組んでもたれかかった少女。赤毛でいかにも勝ち気な顔立ちである。この少女も、おそらくは尋常の少女ではあるまい。

「……き、君たちは、私をこんなところに連れてきて、いったい何のつもりだ。一刻も早く解放したまえ。今自首すれば、罪の程度も……」

 テセルが言葉を句切ったのは、言いたいことを言い切ったからではない。
 目の前の六人、先ほど自分を手酷く痛めつけた少年ですらが、自分の言葉に一切の反応をしていないことに気が付いたからだ。
 何を言っても仕方がない、交渉の無駄を悟ったのだ。
 口先だけの脅しや懐柔など、彼らは歯牙にもかけないだろう。ならば自分が何を言ったところで意味がないということ。
 土気色の顔をしたテセルの細い喉がぐびりと動いた瞬間、五人のうちの一人、金髪の少年のかたちをした何かがゆっくりと口を開き、

「おれがお前に聞きたいことは一つだけだ。正直に答えるなら生かしておいてやる」

 つまり、正直に答えないならば命の保証はしないということだ。

「な、なにを……」
「ウォルはどこにいる」

 ぼそりと言った。
 
「な、何のことだ、それは。ウォルだと、私はそんなものは……」
「知らないとでも言うつもりか?あいつを攫ったのは、お前らの取り仕切る儀式の生け贄に捧げるためだと聞いたぞ?」
「し、知らない!そんなことは……」
「知らないのか?本当に?」

 少年が、ゆらりと前に出た。手にした短剣の鞘、その鯉口は既に切られている。
 殺される。無条件にテセルは理解した。
 
「駄目だエディ。早まっちゃいけない」

 半ば抜かれた剣、それを押さえたのは黒髪の青年の手だった。

「何故止める、ルーファ」
「全く、それじゃあさっきのインユェと一緒じゃないか。少しは落ち着きなさい」
「おれは十分に落ち着いてる。インユェみたいに殺すようなヘマはしないさ。こいつが聞く耳をもたないなら、役立たずの耳の片方でも斬り飛ばしてやろうとしただけだ」
「それが落ち着いてないっていうんだよ、世間一般では」
「そうなのか?」

 素っ気ない様子で少年が聞き返した。
 青年が止めなければ、少年の振るった刃は容赦なくテセルの耳を切断していたということか。冗談や脅しではあり得ない気配を感じたテセルの顔が、よりいっそうに青ざめた。

「お、おまえらはいったい……」
「さっきも言っただろう。俺はウォルの同盟者であり、義理の兄であり、妻としての配偶者であり、夫としての婚約者だ」
「ぼくはこの子とあの子の仲人になる予定の一般市民、かな?」
「わたしはこの方とあの方に仕えている」
「腐れ縁ってやつだなぁ。だが、あいつと一緒にいると賑やかでいいやな」
「一度は任務の標的だったわ。それだけの間柄。今も特別な感情を抱いてはいない」
「あいつはおれの奴隷で!おれはあいつのご主人様だ!」

 ふー、ふー、と鼻息荒い少年に、全員が不思議な視線を浴びせたが、直後にテセルの方に向き直る。

「ということだ。で、あんたらはあいつを攫った。おれたちは、何があってもあいつを取り返す。だから一番事情を知ってそうなあんたを攫った。何か質問は?」

 質問は、と言われても、困るというのがテセルの本音であった。
 無言のテセルを一瞥した金髪の少年は、

「質問が無いなら話を前に進めようか。あんたらが、あいつを太陽として生け贄に捧げようとしているのは分かっている。なら、教団の最高幹部であるあんたがその詳細を知らない筈はないよな?それとも、あんたはお飾りの最高幹部で、実権を握っているのは他にいるのか?」
「そんなものはいない!ヴェロニカ教の指導者たる老師は、今はわたしただ一人だ!」

 テセルは椅子に縛り付けられたまま胸を張ったが、答えた直後にしまったと顔を顰めた。
 こういう時は、相手の質問などひたすら無視すればいいのだ。そうでないと相手に主導権を握られてしまう。
 だが、自分は名実ともに教団のトップに立ったのだという自負がある。そして相応の覚悟もある。加えていえば、自分が大統領の傀儡に過ぎないのだという苦い認識もある。
 だから年若いテセルは、少なくとも見た目だけで言えば中等部そこそこの少年からお前はお飾りなのかと問われて、その質問を無視することが出来なかったのだ。
 テセルの苦み走った顔を見て、少年はほんの少しだけ笑った。

「じゃあ次の質問だな。あんたは今日の夜、どこであいつを生け贄に捧げる予定なんだ?あれだけの逸品だ、そんじょそこらの祭壇で生け贄の儀式を執り行ったんじゃ器の格が低すぎる。相応の場所を用意してるんだろう?」

 この質問にテセルは答えなかった。明後日の方向に首をやり、完全に無視を決め込む。無論、報復として暴力を振るわれるのは覚悟の上である。
 だが、想定していた罵声はないし、いつまでたっても衝撃や痛みもない。
 不気味になって視線を戻してみれば、金髪の少年は静かな笑みを浮かべて、じっとテセルを眺めていた。

「な、なんだ、何か言いたいことがあるのか」
「いや、あんた、結構可愛いところがあるなって思ってさ」
「可愛いだと?」

 思わずテセルは問い返した。
 その間の抜けた表情を見て、少年はさらに笑みを深める。

「あんた、そういう態度をしてたら痛い目に遭わされるってのは分かってるんだろう?」
「ふん、やはりその程度の輩か!げす共め、貴様らの思うようにすればいい!しかし神は全てをご覧になっている!遠からず神罰が貴様らの頭上に……」
「ご託はいい。痛い目に遭わされるのが分かっているなら重畳。それでもあんたは何もしゃべらない自信があるわけだ」
「む、無論だ!神の忠実な使途である私が、肉体的な苦痛如きに屈してたまるか!」
「じゃああんた、これまでにこんな感じで誰かに捕まって、拷問された経験があるわけだよな」

 テセルは口ごもった。
 少年の、緑色の瞳と桜色の唇が、より一層不吉な色彩を帯びていく。

「実際に体験してないと、耐えられるかどうかなんて分かるはずもない。そうだろう?じゃあ聞かせてくれ。あんたはその時、どういうふうに痛い目に遭ったんだ?殴られたのか?蹴られたのか?まさかその程度で拷問されたなんて言わないよな?爪を剥がされて歯を一本一本引き抜かれて、真っ赤な焼きごてを押し当てられる苦痛くらいまでは体験したのかな?」
 
 くすくすと笑いながらそんなことを言う。
 テセルのこめかみ辺りを、冷たい汗が伝った。

「指の関節を全部逆方向に曲げられたことは?全身の皮を剥がされたことは?ピンセットで腕の筋肉の繊維を一本一本引き千切られたことは?頭蓋骨を外され、剥き出しになった脳髄に電極を刺されて、痛覚を知覚する部位を刺激された状態で、筋繊維がばらばらに解れた腕を濃硫酸の水槽に突っ込まれたことは?」
「な、なにを、おまえはなにを……」
「おれは全部ある」

 黒目の上下に白目が浮くほど目を見開いたテセルは、冗談を言うなとばかりに口を大きく開き、しかし目の前の少年の瞳の奥の方を見て、その口を閉じざるを得なかった。
 この少年は、一切の嘘を吐いていない。それが理解出来たからだ。

「痛いぞ、あれは」
「い、いたい……」
「そりゃあそうだ。普通の人間なら、何度も痛みでショック死してるはずだ。それくらいに痛い」
「……」
「それでもあんたはしゃべらないんだ」

 そうだ、とは、テセルは言わなかった。
 言おうとしたのだが、恐怖に戦慄く唇は、その言葉を発することを許さなかったのだ。

「幸い、こっちにはそういうことのプロがいる。痛みでショック死させるようなヘマはしないさ。なぁシェラ?」
「ええ、仰るとおりですねリィ。拷問に熱を入れ過ぎて対象を嬲り殺してしまうなど行者の風上にも置けないへぼです。わたしに任せて頂ければ、必ず入り用の情報を聞き出してみせましょう。無論、結果としてこの男が廃人になることもあるでしょうが、その後の人生までは責任を持てません」

 今度は、まるで少女のように美しい銀髪の少年が、酷薄な笑みと視線でテセルの頬を撫でた。
 テセルは戦慄した。
 まるで死神に撫でられたような、その視線の冷たさ!
 少年の視線は、テセルを人間として扱っていなかった。まるで、自らの技術を発揮できる機会を喜んでいる皮職人が、極上の牛を見るような、暗い情熱に溢れた視線だった。
 駄目だ。この少年達は、自らの言葉に完全に忠実たるだろう。その熱意の対象である自分がいったいどんな目に遭わされるのか、テセルは想像することすら出来なかった。

「人は、自分がやられたことを他人にするのに、ためらわないものだ。おれは、おれが体験した拷問を五割増しにして、これからあんたに味あわせてやる」
「……」
「立派なもんだ。それでもあんたはしゃべらないんだな」
「……」
「それならそれでいいさ。おれも、あんたがどれだけ耐えられるのか、興味が出てきた。こっちはこっちで勝手にやるから、あんたはしゃべりたいことを適当にしゃべってくれ」

 いつの間にかテセルの横に大きめの机が用意され、その上には何に使うのか聞くのも憚られる、恐ろしげな器具が並んでいた。
 その一つを手に取った銀髪の少年が、嬉しそうに、無邪気な調子で笑った。

「懐かしいものです。こちらでは中々こういう器具は手に入らないと思っていたのですが、そうでもないのですね」
「蛇の道は蛇ってやつだな。いつの時代だって需要がある以上、こういう商品を専門で扱ってる業者はいくらでもあるぜ」
「それはいいことを聞きました。ヴォルフ、また後で詳しく教えて下さいね」

 少年はテセルの方を向き直り、

「さ、あれだけの啖呵を切ったのですから、覚悟はいいかとは聞きません。久しぶりなので手加減が出来ませんが、その点はご容赦下さいね」
 
 そう言って、テセルの方に一歩を踏み出した。
 何気ないその一歩が、テセルには、地獄の獄卒の歩みにしか思えない。
 今の今まで麻痺したように動かなかった口が、意味不明の悲鳴を喚き散らかそうとした、その瞬間。

「はい、それまでね。エディもシェラも、そろそろ気が済んだでしょう?」

 先ほどまでほとんどしゃべっていなかった黒髪の青年が、シェラと呼ばれた銀髪の少年の肩を押さえた。
 シェラはそうなることを予想していたのだろう、苦笑に近い表情を浮かべて、肩を一つ竦めた。少しだけ残念そうに見えたのは、テセルの臆病が度を過ぎたものだったからではないだろう。
 一歩下がった少年、その代わりに青年が一歩前に出て、がっくりと項垂れたテセルの前にしゃがみ込んだ。
 椅子に腰掛けたまま前のめりになったテセルの伏せた顔は、この数分のやり取りで十も老け込んだように見えたが、その疲れ切った表情を覗き込みながら青年は口を開いた。

「さて、色々とご愁傷様でした。疲れたよね?でも、もう少しだけ付き合って欲しい」

 テセルは如何にも弱々しい仕草で顔を持ち上げた。頬がごっそりと削げ、目の下には重たい隈が浮いている。
 それはまるきり病人の顔であった。あるいは、長時間の残虐な拷問に晒された捕虜の顔。

「色々と脅かしたけど、彼らはいつでもそれを脅しじゃなくすことが出来る。その点は理解してもらえた?」

 虚ろな瞳のテセルは、否とも応とも答えなかったが、黒髪の青年は満足げに頷いた。

「じゃあ改めて自己紹介をしようか。ぼくの名前はルウ。あなたの名前は?」
「……テセル。テセル・マニクマール……」
「じゃあテセルさん。ぼくたちは、ぼくたちの大切な人を助けに来た。そして、あなたはその人の居場所を知っているはずだ。だから、それを教えてほしい」

 テセルは、首を横に振った。

「……わたしは、あの少女がどこに監禁されているか、知らされていない……」
「本当に?」
「ああ、本当だ。仮に、先ほど君らが口にした拷問を私に施したところで、それ以上の答えはできない……」

 この答えに、椅子に縛られた方の銀髪の少年が何かを言いかけたが、その口を赤毛の少女が塞いだ。
 
「そう。残念だけど仕方ないね」
「……信じるのか、いまさら私の言ったことを……?」

 青年はにこりと笑った。
 それだけだ。

「質問を変えよう。あの子は、今夜、いったいどこで生け贄に捧げられるのかな?さっきエディも聞いてたけど、それくらいは分かるんでしょ?なにせ、あなたが祭司を勤める儀式なんだから」
「……どうして私が祭司を勤めると?」
「さっきエディが言ってたとおりだよ。儀式には格というものがある。生け贄が最上級の代物なら、それを捧げる祭壇も、儀式を司る祭司も、それに合わせたものじゃないと意味がなくなってしまう。儀式とは正しくそういうものだ」
「……」
「あの子がヴェロニカ教の神への供物ならば、それを捧げる神官はヴェロニカ教団の最高の位を持つ者でなければならない。それはつまりあなたのことだ。そして、そのあなたが、儀式の執り行われる祭壇の場所すらを知らないなんてあり得べき話じゃない。違うかな?」

 テセルは、やはり無言で首を振った。

「……認めよう。私が、かの少女を捧げる儀式の祭司を勤めるのだ。そして、その祭壇の場所も知っている。だが、私はその場所を話すことは出来ない。それが不服ならば、よろしい、どのような拷問にでも私をかけるがよかろう。それでも私は、たった一晩程度、どのような苦痛にでも耐え忍んでみせる……」
「一晩耐えれば、あなた以外の誰かが祭司を勤めて、あの子を生け贄に捧げる儀式は完遂される、そういうことかな?」

 疲労困憊の様子のテセルが、俯いたまま、弱々しく頷いた。
 それを見て、青年は悲しげに微笑んだ。

「無理だよ。そんなことをしても時間の無駄だし、あなたがつらい思いをするだけで何の意味もない。だって、あなたはさっきエディが言ったような過酷な拷問をするまでもなく、絶対に話してしまうだろうから」
「私を侮辱するのか。私はこれでもヴェロニカ教の老師だ。ならば、ヴェロニカ教に仇為す輩にそう易々と口を割ってたまるものか」
「そうだね。あなたが守ろうとしているのがヴェロニカ教そのものならば、あなたはどんな苦痛にだって屈しないだろう。けれども、今あなたが守ろうとしているのは、本当にヴェロニカ教そのものなのかな?」

 テセルが弾かれたように顔を上げ、青年と視線を合わせた。
 自分を真っ直ぐに見つめる、青い瞳。
 その輝きを恐れるかのように、テセルは再び項垂れた。

「あの子も、この前の満月の晩に死んだ可哀相な女の子も、他の人間と比べて特別の罪悪を犯したようなことはない、普通の女の子だ。なのに、そんな罪もない子供の命を生け贄に捧げてまで自然を絶対的に崇拝するのが、聖女ヴェロニカの教えなの?」

 違う。
 だから、テセルは精一杯に反対したのだ。そのような野蛮な行為を犯せば聖女ヴェロニカの教えが地に堕ちてしまう、と。
 しかし、今やヴェロニカ教団の主流を占めるのは大統領派であり、その言に唯々諾々と従うだけの操り人形しかいない。その中で、いくらただ一人の老師といえど自分の意見を貫くのが如何に困難か。
 そして何より、アーロン・レイノルズ、あの男の底知れぬ恐ろしさ。あの男の、死んだ魚のように熱の無い瞳に自分の姿が映ったとき、まるで魂を悪魔に握り締められたように、名状し難い畏怖を感じるのだ。それに、もしもあの男の言葉に逆らったとすれば、自分がビアンキ老をはじめとする旧指導陣を裏切った事実が暴露されるだろう。そうすれば自分は背教徒としてこの星から放逐されるに違いない……。
 仕方なかったのだ。自分には、あの男の言葉に従う以外の選択肢が存在しなかった。
 だから……。

「……そうだ。私は、ヴェロニカ教を守りたいのだ。少女を生け贄に捧げるのも、ここで秘密を守るのも、全ては聖女ヴェロニカの教えを守るために……」
「正しいことをしている、そう言いたいの?」
「……そうだ」
「正しいことをしている、そう言い切れるの?」
「……」
「じゃああなたは、夢の中で、誰に対して許しを乞うているの?」
「……何を……」
「すまない、すまないって、涙を流しながらあんなにも苦しそうに、あなたは誰に謝っていたの?」

 青年は、テセルの目の下を指で拭い、その指をそっと差し出した。
 指の先は、透明な液体で濡れていた。

「……私は、謝っていたのか」
「聞いてる方がつらくなるような、悲しい声で」
「……」

 テセルは、先ほど見た夢を思い出していた。
 生け贄に捧げられる、少女の夢。
 それを見ながら、自分は詫びていたのか。涙を流しながら。
 なるほど、神を失い信仰を失い、人間としての品性を悪魔に売り渡した自分にも、罪を罪と分別するだけの羞恥心は残されていたらしい。

「それでも、それなら尚のこと、私は君たちに祭壇の場所を教えるわけにはいかない」

 テセルは、奇妙な熱を瞳に孕ませて、言った。

「もう、歯車は回り出してしまったのだ。それが間違えていることであったとしても、いや、間違えていることだからこそ、止めるためには犠牲と覚悟が必要になる。私にはそのどちらも無い。だから……」
 
 そこまで言って、はたと気づいた。
 この台詞は、誰かが、どこかで言っていたのではないか。
 そう考えたテセルは、すぐに思い当たった。
 そうだ、この台詞は、師であるビアンキ老師が、総本山を訪れた大柄な赤毛の女性に言っていた──

『あなたは、おそらく全てを終わらせるためのこの星に使わされたのでしょう。しかし、わしにはあなたの礎になる勇気がありません。だから、お願いします。どうかこの老人から、荷物を奪わないでください。わしを、ただ朽ちゆく肉にしないでください』

 そうか。
 あの時、ビアンキ老師は、自分が今のようになることを見越して、奥義の伝授を拒まれたのか。
 テセルは全てを理解した。そして、ミイラと見紛うばかりに痩せこけたビアンキの肩に、どれほど重たい荷物がのし掛かっていたのかも。
 そして、その荷物が今、自分の肩にのし掛かっているのだ。
 荷物の声が、聞こえる気がした。それはしゃがれた老人の声で、こう囁き続けるのだ。
 自分をいつまでも抱え続けろ、と。
 何事も変化させずに次の世代へ引き渡せ、と。
 自分に逆らうのは許さん、と。
 これでは逆ではないか。抱えられている荷物のほうが、いつの間にか全ての人間を支配している……。
 ならば、ヴェロニカ教はいつまでもこのままなのか。トリジウムを秘匿し、鉱毒で異教徒を殺し続け、その益で自分達だけが肥え太り、信徒の心は醜く堕落していく。
 その醜悪な循環が、聖女の教えの本質だったのか。
 そんなもののためにこれまでの人生を費消してしまったのか。
 いや、そうではない。そうではないはずだ。そうだなんて、認めることはできない。

「くっだらねぇ」

 吐き捨てるような声がした。
 銀髪の、拗ねた目つきの少年が、椅子に縛り付けられたまま、テセルの顔を睨め上げていた。

「宗教だ神様だ偉そうなことばっかり宣ってて結局はそれかよ。あんた、そう言って殺し続けるのかよ。一度始まったことは止められないとか言って、あいつを生け贄に捧げるのか。あいつは、そんなくだらないことのために生け贄にされるのか。そんなの絶対に許さねぇぞ!」
「ぼくもそう思う。そんな後ろ向きの理由のために生け贄にされたんじゃ、あの子だってきっとたまらないはずだ。それに、今までこの星で密かに葬られてきた人達、トリジウムの毒で死んだ人、戯れに嬲られて殺された少女、彼らが可哀相だ」

 テセルは頬を歪めて笑った。

「可哀相だと?無論その通りだ。しかし、だからどうしろというのだ。彼らは既に物言わぬ死人だ。今更彼らにどう詫びることが出来る?涙を流して土下座しろというのか?金銭で贖えというのか?ああ、その程度ならいくらでもしてやるさ。しかし私の謝罪はどうしたって彼らには届かない!何故なら彼らは既にこの世の者ではなく、彼らと我らを繋ぐべき神は、この星にはいないからだ!」

 この星にいるのは、トリジウムという名の疫病神でしかないのだから。

「そうかも知れない。この星に、神様はいないのかも知れない」

 でもね、と、青年は沈鬱な声で、

「神がいようといまいと、死ねばそこには魂が残る。魂が残れば無念が残る。無念が残れば、鬼になる」
「鬼だと?何を馬鹿な……」
「本当だよ。悪霊、祟り神、呼び方は何だっていい。死して後に生者を道連れにする存在。それは、この宇宙のどこにだって存在しうる」
「……そうかも知れないな。彼らは無為に殺されたのだ。今まで積み重ねてきた人生を台無しにされたのだ。ならば、さぞ腹立たしいことだろう。さぞ我らを恨んでいることだろう……」
「違う。彼らが恨んでいるのは、あなた達じゃない」
「なんだと?」
「彼らが恨んでいるのは、いつだって彼ら自身なんだ」

 黒髪の青年の瞳には、薄い涙が浮いていた。

「恨みや未練を残さない死なんてこの世にそうそうあるものじゃない。むしろ、恨みや未練を残して死ぬ人間が大半だ。でも、たったそれだけのことで一々人の思念がこの世に残されたんじゃあ、世界は救われない魂であっという間にいっぱいだ」
「それは……そうだろう。だが……」
「彼らを悪霊に、祟り神に、鬼にするには、そんなものじゃない。彼らの無念を知る生きた人間の後悔、罪悪感、後ろめたさ、そういうものが混じり合って彼らを負の存在に仕立て上げていくんだ。そしてその場合、彼らは誰を恨むことも出来ない。自分を殺した人間を恨んでも、もう自分達が解放されることはないんだからね。かといって世界全てなんて大きなものを恨み続ける事なんて不可能だ。ならば、恨むことが出来るのは、恨みに縛り付けられている自分だけ。だから彼らは鬼になる」

 鬼になる。
 何の罪もなく、何の意味もなく、狼たちに喰い殺された憐れな少女が、鬼に。
 
「そんな馬鹿な話が……」
「そうだろうか?事実、あなたはもう歯車を止められないと言った。それは、既に生け贄に捧げられた少女がいるからであり、今まで歴史の中であなた達が葬ってきた死者がいるからだ。あなた達はその重さから目を逸らすために、今回っている歯車を回し続けようとしている。違うかな?」
「……」
「ならば、これからあなた達に殺された人間は、鬼になった彼らに取り殺されたのと同じことだ。そして彼らは殺し続ける。殺し続ければ、いずれ本物の鬼になり、誰にも救うことの出来ない憐れな存在として永劫を生き続ける……」

 テセルの背を、粘い寒気が遡った。
 その悪寒を振り払うように、テセルは激しく首を振った。

「で、でたらめだ!そんなことがあるはずない!そんな馬鹿な話を信じられるものか!」
「そのとおり、これは馬鹿な話かも知れない。全くの嘘っぱち、口からの出任せかも知れない。でも──」

 ──そうじゃ無いかも知れない。

 その時、テセルは、青年の瞳をまざまざと覗き込んだ。
 思わずテセルは声を上げそうになった。
 そこにあったのは、生け贄に捧げられた少女の顔であり、トリジウムの毒素によって化け物の姿になって死んだ無数の誰かであり、そして何より、かつて熱い理想をもってヴェロニカ教典を紐解いていた頃の自分だったからだ。
 そしてかつての自分が今の自分を眺める、無味乾燥な瞳はまるで、自分があの老人達に向けた──

「もう一度聞くよ?あなたが守ろうとしているものは一体何なのかな?本当にヴェロニカ教そのものなのか、それとも──」



「ルウも中々容赦がないですね」

 出発の準備を淡々と進めながら、テーブルで作業を進めるシェラが呟いた。
 その呟きを聞いたリィが、窓の外の緑木を眺めながら苦笑した。

「それを言うならシェラ、お前のお芝居も真に迫るものだったじゃないか。拷問器具を選んでいる時の嬉しそうな顔、まさか本気だったんじゃないだろうな?」

 一族独自の武器である銀線や鉛玉を一つ一つ入念に点検しながら、シェラも苦笑いを浮かべた。

「やれと言われればいつでもやるつもりでしたけどね。ああいうのは先に自分の作った雰囲気の中に相手を飲み込んだ側の勝ちですから。それに、今まで習い覚えた技術を試すのが楽しくないはずがないでしょう?」
「拷問が好きなのか?」
「ええ、好きですよ。無論、人を痛めつけて興奮するような醜い性癖を持ち合わせているわけではありませんが、生かさず殺さず相手の自我を保ったまま欲しい情報を聞き出すというのは中々高い技術を要求されますから、自分の力量を発揮する場として猛るものがあるのは否定できません」

 あっけらかんと言う。
 普通であれば、美しい少年の罪悪感の欠落ぶりに顔を顰めさせたり憐れを感じたりするのだろうが、リィは平然と頷いた。

「それはそうだ。誰だって自分が苦労して研鑽した技術を使える機会、楽しまない筈がないもんな」

 シェラは輝くように微笑んだ。

「ええ、ご理解賜れたようで幸いです」
「でも、あまりおおっぴらには言わないでくれよ。この世界、基本的に血生臭いことは御法度なんだから」
「もちろんですとも。だからこそ、こういうことを気兼ねなく話すことの出来る人は大事にしたいものです」

 その言葉が誰のことを指しているのか、あらためて問うまでもない。今からその誰かさんを助けに行くのだから。

「それにしても、あの男、もう少し粘ると思いましたが意外とあっさりでしたね。実際には針の一本も刺されずに口を割ってしまうとは。それとも、これがこの世界、この時代の標準なのでしょうか?」
「いや、それは多分違う。ルーファも言っていたけど、もしもこれが心底あの男が正しいと信じていることだとしたら、おれが言ったような拷問をしたとしても口を割らなかったはずだ。シェラ、お前の腕を疑うわけじゃないけど、お前でも相当苦労したと思うぞ」
「そんなものですか。ちなみに何故?」
「ぼくにも彼の心の声が聞こえなかったからね」

 シェラが鉛玉をテーブルに置く。その、ごとりと重たい音と合わせて、部屋のドアが開いた。
 姿を現したのは、黒テンの毛皮のように滑らかな黒髪を持つ、柔和な青年だった。

「ルウ」
「これは今までの経験則だけど、ぼく達にも心が見えず聞こえない人っていうのは、相当偏屈な人か頑固者が多くてね。言い方を変えれば、凄く一途なんだよ。だから、口説き落とすのにも凄く苦労させられる」

 ルウには、普通の人間が心で思ったことは、まるで自分の耳元で喚き散らかされたかのように聞こえるのだ。特別な力を使うまでもなく、それが普通なのだ。だから、普段はそういう声を一々聞かないよう、もう一つの耳を閉じてしまっている。
 だが、その耳を傾けても、心の声が聞こえない人間というのは稀に存在する。例えばそれは宇宙を股にかける凄腕のゲートジャンパーだったり、あるいは小型の戦闘機で艦隊一つを相手にしかねない赤毛の女性であったり。
 そして、今は悄然と項垂れ、虚ろな視線で床を見つめるだけの男も、そのごく少数の中の一員だったらしい。

「もっとも彼の場合は他の人と事情が違うんだと思うよ。例えばぼくはシェラの心の声は聞こえない。もちろんシェラの方から語りかけてくれたら別なんだけどね。シェラは多分生まれた時から声を外に漏らさない人だったんだ。それはキングやジャスミンも同じだね。でも、あの人は違う」
「違う、というと?」
「稀にいるんだよ。特に多いのが、お坊さんやスポーツ選手、あとは学者さんかな?何か一つの物事に邁進して脇目も振らないような人の中に、後天的に心の声を外に漏らさなくなる人がね」
「それがあの男だと?」

 シェラの疑念に、ルウが頷いて返した。

「そういう人は、自分の打ち込んだたった一つのために人生そのものを費やしていることがほとんどだ。言い方を変えれば求道者、それとも頭のネジの巻き具合のおかしな人達。そんな人は、心の声を話すことすらも忘れてしまうのかも知れないね」
「ですがルウ、あなたは先ほど、あの男の心を読んでいたでしょう?」
「流石シェラ、気が付いていたの?」

 ルウは照れくさそうに頬を掻いた。

「確かに何度か彼の心の声は聞こえたよ。でもそれは、聞こえたんじゃなくて、彼の方から語りかけてきたんだよ。つらい、苦しい、助けて欲しいって」
 
 だからこそ、ウォルの監禁されている場所を知らないと言ったテセルの言葉を、ルウは鵜呑みに信じたのだ。

「要するに彼は、体が大きくなっただけの子供なんだよ。どれだけ知識が多くても、彼の魂にはたった一つのことしか刻み込まれていない。例え間違えていると分かっていても、そこに刻まれたものに従った行動しか取るほかなかったんだ。でも、彼の魂の奥底はそれに猛烈に反発していた。だから、子供だましみたいな方便にでも引っかかってくれた。いや、彼自身がそれを求めていたんだろう」

 リィが頷いた。

「まぁ何にせよ上手くいってよかった。もしもあの男があんまり渋るようなら、非常手段を取らざるを得なかったしな」
「リィ、非常手段とは?」
「うん?ヴェロニカ教徒が心底嫌がること、こないだの事件で学んだじゃないか」

 こないだの事件。
 それはきっと、彼らが全くのとばっちりで未開の惑星に置き去りにされた事件に違いない。ということは……。

「でも、嫌がる人間に無理矢理肉を食べさせるなんて勿体ないにも程があるし、出来れば使いたくなかったんだ。ほっとしたよ」
「……今度こそ人権審議委員会で申し開きが出来なくなるところでしたね」
「申し開きなんかするつもりはないぞ?おれがやったならやったってはっきり言うさ。この場合は同盟者の命を守るための緊急避難だな。仕方ないことだろう?」
「仕方ない……確かにそうなのでしょうが……」
「いいじゃないの、結局その手段は使わずに済んだんだから」

 頬を緩めながらそう言ったルウは、窓の外に目を向けた。
 太陽は、既に中天に差し掛かっている。
 あれが地に隠れ、もう一つの天体が夜空を支配したとき、彼らの大切な人の命が一つ消え失せるのだ。

「さぁ、そろそろ行こうか。もう、あまり時間はないらしい」

 先ほどまでの和やかな空気を一切合切振り払い、リィとシェラが同時に立ち上がった。
 目指すは聖地ナハトガル。
 そこは、聖女ヴェロニカが火刑に処され、聖獣とともに天へと昇った、ヴェロニカ教で最も神聖とされる伝説の地である。



[6349] 第七十四話:昼
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2012/12/31 08:55
 男は、ふとコーヒーが飲みたくなって、思わず誰かを呼んだ。
 
「おい……」

 だがその声は、誰の耳に届くわけでもなく、埃臭い部屋の隅で反響して、やがて消え失せた。当然だ。その狭い部屋の中にいたのは、彼が一人だけだったのだから。
 彼は、忌々しげに舌打ちをした。その音すらも誰の耳に届かず、やはり薄暗い部屋の隅で反響し、やがて消え失せた。
 彼がこの部屋の主になってから、もうしばらく経つ。この陰気な部屋は、華々しいまでに壮麗な佇まいを誇る連邦本部ビルの地下にあり、誰の目に止められることもなくひっそりと存在しているのだ。
 まるで全てに忘れられ見捨てられた、絶息寸前の老人のように。
 部屋がそうなら、部屋の主がそうであるのもまた道理である。
 男は、連邦大学の政治学部を首席で卒業したキャリア連中ほどには輝かしい経歴を誇るわけではないが、他人の顔色を易々と変えられるだけの要職を務めてきた。内心では、自分の能力は学歴ばかりのお坊ちゃま連中となど比べるべくも無いものだと確信している。
 そんな自分が、何故陽の光も差さない地下室に、引退したアナグマのように息を潜めて、日々資料の整理で時間を潰さなければならないのか。しかもその資料というのも、既に十年も前に解決した案件の資料ばかりで、どれほど折り目正しく整理したところで誰の目にも触れないことが明らかなものばかりだというのに。
 そして今や、コーヒーを煎れてくれる部下もいない。
 ただ一人、誰に知られることもなくこの部屋に定時に出勤し、定時に仕事を切り上げて帰宅する。
 今まで自分が蹴落としてきた数多くの人間は、さぞ溜飲を下げていることだろう。天網恢々疎にして漏らさずとでも嘯いているのかも知れない。
 そう考えて、男は、自分の腹の底が赤々と煮えたぎるのを感じた。他人が己の悪口ばかりを言っているように妄想するのは精神疾患の一種であるのだが、追い詰められた男にそのような自己分析が出来ようはずもない。
 彼の中にあるのは、一種の不公平感と復讐心ばかりであった。有能で努力も惜しまず、他者に優れて出世の階段を駆け上がってきたはずの自分が、どうしてこのような辛酸を舐めねばならないのか。
 今に見ていろ。俺は諦めない。俺のことを後ろ指指して笑う奴らに目にものを見せてやる。
 その暗い情熱だけが、今の彼を支える原動力であった。
 禿げ上がった額を怒りで赤く染めて、それでもコーヒーを煎れるために立ち上がった彼は、正しくその瞬間に鳴った携帯電話を手に取り、その番号を見て滑稽なほどに慌てた。そして居住まいを正し、背筋を伸ばし、精一杯の誠意を込めて受信ボタンを押す。

「はい、もしもし……?」
『おや?こちらはウィリアム・シェイクスピアさんの携帯電話ではありませんでしたか?』
「……いえ、間違い電話でしょう」
『そうでしたか。それは失敬』

 そう言って電話は呆気なく切られた。だが、男はただならぬ表情ですぐにスーツの上を羽織り、形式上だけの出張届けを提出し、足取りも慌ただしくビルの最寄りから二駅も離れた場所にあるショッピングモールへと急いだのだ。
 平日の午後とはいえ、そこは買い物を楽しむ若い恋人や、ベビーカーを押す若い母親の姿でごった返していた。店には明るい顔で接客する店員、街路に植えられた木々の鮮烈な緑、抜けるような青空。そんな中、スーツ姿に大きなブリーフケースという男の出で立ちは少々異様であったのだが、人目を引くほどのものでもない。
 男は、店の並んだ通りの外れにある公衆電話のボックスに、その小さな体をねじ込んだ。そしてメモ帳のアドレス欄に並んだ電話番号のいくつかを組み合わせ、頭の中で組み立てた秘密のナンバーをプッシュする。
 何度か鳴る、呼び出し音。そして、あちらが受話器を取った音。

「もしもし……」
『ああ、お待ちしていましたよウィリアム・シェイクスピアさん。お久しぶりですねぇ』
「あれほど勤務時間中に連絡を寄越すなと言っておいただろうが!もしも君と私の関係が公になれば、お互いどういう目に遭うか、まさか知らないわけではあるまい!それに、今更どういうことだ!もう私の仕事は終わったのではなかったのか!?」
『まぁまぁ落ち着いてくださいな。そんなに息せき切られてもお答えすることができませんよ』

 受話器の向こうの男は、いつものことではあるが、耳障りな声でくつくつと笑った。
 人を小馬鹿にしたような──いや、間違いなく小馬鹿にしているのだ──その声は腹立たしいことこの上ないのだが、しかしこの相手こそが男の救い主である以上、通話を切るわけにもいかない。
 
『しかし、ええそうですね、一応は謝罪しておきましょう。あなたが、閑職に追いやられたとはいえ曲がりなりにも勤務時間中だというのは承知していたのですが、こちらも緊急事態なのですよ』
「緊急事態だとっ!?それは……」
『まぁ、それほど大したことではありません。いつも通り、あなたはあなたの役割を演じて頂くだけで結構ですから。ねぇ、ウィリアム・シェイクスピアさん?』

 男は血が出るほど強く受話器を握りしめた。だが、今更この関係を打ち切る訳にはいかない。彼には彼の野望があり、今は遠く異星にいるはずのあの男は、間違いなく自分をもう一度表舞台へと押し上げるだけの力を持っているのだから。そして自分の破滅を決定的なものにするだけの力も。
 男はネクタイを緩め、深呼吸を一度。

「わかった、話を聞こう」

 もう、後戻りは出来ないのだ。



「くそっ、狭いんだよ、おっさん!もっとそっちに寄れねぇのか!」
「そっちと言われても、限界があるのは君も分かるだろう!君こそもっと場所を作れないのか!そんなに小さい体なんだから!」
「んだとぉ!?この生臭坊主!膾斬りにして窓から放り出すぞこの野郎!」
「いい度胸だ!手足を縛られた人間にしか強気になれない臆病者の分際で、ヴェロニカ僧兵流格闘術を修めた私によくぞそこまでほざいたものだ!」
「いや、ホント、何て言うか、すまねぇなぁ……」

 後部座席が何とも喧しい。
 ルウが購入した大型のエアカーは三列シートで定員8人、乗車スペースの後ろには荷物を載せるためのスペースがかなり広く設けられているという巨大な代物だったが、一番後ろの列だけに目をやると、明らかな定員オーバーであった。
 原因は、考えるまでもなく一人の男である。背中を丸め、出来るだけ小さくなろうと努力しているであろうその男は、それでも縦幅では天井に頭を擦りつけながら、横幅では余裕で二人分が座れるスペースを占拠しているのだから。

「おい、静かにしてくれないとルーファが運転に集中できないじゃないか」

 助手席に座ったリィが振り返り、注意をした。
 
「仕方ねぇだろうが!そもそも、どう考えても一番スペースを取るこのおっさんが、どうして一番人数の多い後部座席に座ってるんだよ!?」

 そう叫んだのは、押しつぶされんばかりの有様でテセルとヴォルフに挟まれているインユェである。
 その隣で、ドアに肩を押しつけながらこちらも不服顔のテセルが頷いた。ずっと以前はいざ知らず、導師の階位を得た頃からはこのように狭い車内にぎゅうぎゅうと押し込まれた覚えはない彼であるから、こういった扱いには大いに納得できないものがあるらしい。

「それこそ仕方ないだろう。だって一番前には二人しか座れない。二列目には女の子がいるんだ。だったら三列目に三人座らせるしかないじゃないか」

 さも当然といった調子のリィの言葉に、

「女だとか男だとか関係あるかよ!なら、このでかいおっさんを二列目にして、そこのお嬢ちゃんを三列目に座らせればいいじゃねぇか!」

 お嬢ちゃんと言われたシェラが、じろりと発言者を睨み付けた。
 発言者であるインユェは気圧されたように喉を動かしたが、しかしぷいと明後日の方を向き、何か悪いことを言ったのかという表情である。
 シェラは溜息を吐き、正面に向き直った。こんな子供を連れて行って本当に大丈夫かという有様である。
 一連のやりとりを見守っていたリィは、沸き上がる笑いを噛み殺しながら、

「ヴォルフの隣に座らせたら、マルゴが窮屈だろう。インユェ、お前男の子だろ、少しは我慢しろよ」
「だから、男だとか女だとか、関係ねぇっつってんだよ!」

 そう叫んだインユェに向かって、二列目から振り返ったマルゴが、

「怪我してる女の子に窮屈な思いしろっていうの、あんた。最低ね、そりゃああの子もあんたじゃなくてリィに靡くわけだわ」
「んだと、てめぇ……!」

 肩を振るわしたインユェだが、実際マルゴの脇腹の傷はまだまだ完全に癒えていないので、それを武器にされると弱い。
 憮然と黙り込んだインユェ、それを見てから向き直ったマルゴの顔はさも愉快そうに微笑んでいた。まるで年相応の女の子のように。
 その顔をバックミラー越しに眺めたルウが、

「大丈夫だよインユェ、そんなに時間はかからない。ここからウォルのいる聖地ナハトガルまで、エアカーを飛ばせば四時間ってところだ。途中で休憩も挟むから、少しだけ我慢しててね」

 苦笑混じりにそう言った。
 インユェも、子供ではない。少なくとも自分ではそう思っている。だから、あまり聞き分けなく喚き散らすのがみっともないことであると理解はしているので、大いに不満そうに鼻息を一つ吐き出して、黙りこくってしまった。
 そうすると、車内は一気に静かになる。そもそも、これから囚われの身のウォルを救出に向かうのだ。その後、おそらくはまだこの国に囚われているであろうケリーとジャスミンも助け出さなければならない。三人を監禁している首謀者がこの国の大統領であることがはっきりしている以上、それはヴェロニカ共和国そのものを敵に回すことと同義なのだ。軽口を叩きあっている方がおかしいのである。
 しかし、車内に緊張が満ちているかといえばそんなことはない。ルウは鼻歌交じりにハンドルを握っているのだし、リィは静かに前を見つめているのだし、シェラは編み物などをしていたりする。マルゴはのんびりと外の風景を眺めていて、ヴォルフは小さく屈めた体を上下に揺らして、どうやら転た寝をしているらしい。
 インユェは同乗者の様子を見て、これは自分がしっかりするほかないと気を引き締めた。確かにここに集まった連中は、まぁそれなりの強者揃いではあるようだが──無論自分に及ぶべくもないとインユェは思っている──頼みになるのは自分だけと考えた方が良さそうだ。
 それに、と、隣に座った少壮の男をちらりと見る。
 テセルと名乗った、ヴェロニカ教の老師である。つるりとした禿頭。まだ少し腫れが残っているとはいえ端正に整った顔立ちは涼やかで、坊主というよりは役者に向いている気がする。
 その男が、何故この車に乗っているのか。この車に乗っているということは、即ちウォルを助けに行くということである。この男からすれば、ヴェロニカ共和国に対して、そしてヴェロニカ教に対して反旗を翻すに等しい行為なのではないか。
 この男を信じて良いものか。インユェは極めて懐疑的であった。今は味方のふりをしているが、いざという時に裏切るのではないか。そういう意図でもない限り、自分達に同行するメリットがないはずだ。
 じろりと睨め上げるようなインユェの視線を感じ取ったのだろう、テセルがインユェの方を見て、

「そんなに私が信じられないのか」

 真っ向からの問いかけであった。
 そして、インユェの答えなど決まり切っている。

「ああ、信じられないね。こないだの満月の晩、何の罪もない女の子を生け贄に捧げる、気違い沙汰の儀式の祭司を、あんたは平然と勤めたんだぜ。そんな外道のことなんざ、誰が信じられるもんか」

 車内に響き渡る大きな声であった。そも、ひそひそ声で話したところで狭い車内である、ここにいる連中が聞き逃すはずがない。それこそ寝入っていても運転に集中していても、である。
 当然のことながら、正面からの糾弾を受けた年若い僧侶も、一言一句たりとも聞き逃さなかった。
 そして大いに頷いたのだ。

「私もだ。私も、私を信じることが出来ない」

 インユェは、改めてテセルの顔を見上げた。
 そこにあった横顔は、不自然なほどに静かで、まるで良くできた彫像のようですらあった。
 車内での会話はそこまでだった。
 途中、エアカーは大きな川を横断した。その川原が中々広くて、居心地も良さそうだったので、そこで遅めの昼食ということになった。
 状況が状況である。まさかみんなで楽しくキャンプファイアーというわけにはいかない。山と積まれた荷物の中から携帯用の糧食を引っ張り出し、各自手早く腹に収めただけだ。
 インユェもそれに倣った。
 リィ達とは、お前達と馴れ合うつもりはないのだという意思表示も込めて、かなり離れた場所に腰を下ろし、味よりも効率に重きを置いた糧食を作業的に咀嚼し飲み下す。
 そして、僅かな休憩時間。これが終われば、あとは強行軍で聖地ナハトガルまで向かう。
 ナハトガルは険しい山々に囲まれた荒れ地であるらしい。近隣に目立った都市もない。連中が不意のアクシデントを危惧したなら、既にウォルはその近辺に監禁されているのだと考えるべきである。
 ナハトガルには、巡礼に訪れた信徒のために、いくつかの宿泊施設が用意されているし、ヴェロニカ教の教会も当然のことながら存在する。その中のどこかにウォルはいるのだろう。
 
 ──待ってろよ、ウォル。俺が絶対に助けてやるからな。今度こそ、助けてやるからな。

 たった一人の姉を失った。
 もう、自分には何も残っていない。死んで惜しむものなど何一つないのだ。
 ぎゅうと手を握りしめる。
 一度は離してしまったのだ、彼女の小さな手を。
 もう二度と離さない。
 離してしまえば、その時に、俺は……。

「随分と悲壮な顔をしている」

 弾かれたように顔を上げたインユェは、

「……なんだ、あんたかよ」

 そこにいたのは、顔を腫らした僧侶であった。痛々しく腫れ上がった顔は、自分がそうしたのだ。
 無論、一抹の後悔も抱いていない。あれは、当然の報いであったと思っている。
 無言のインユェを無視して、テセルはその隣に腰掛けた。

「さっきの質問に、まだきちんと答えていなかったと思った」
「質問だと?」
「お前は信用して良いのかと、そう聞いただろう?」
「そんな質問、した覚えはないぜ」
「だが視線でそう言った。内心ではそう思っていた。違うか?」

 インユェは何も言わなかった。
 何も言わず、目の前のきらきらとした大河を眺めていた。
 その横で、テセルは、河原の小石を拾い、河に投げた。石は何度か水面を飛び跳ね、やがて姿を消した。

「へたくそになったものだ。小さな頃は、もっと上手だったのだがね」

 石が投げ込まれても、水面には少しの波紋のあとも残っていない。流れの中に完全に飲み込まれてしまったのだ。
 
「さてと、どこまで話したのだったか」
「……若ぼけかよ。あんたも、あんた自身を信じられないって、そう言ったんだよ」
「ああ、そうだった、思い出したよ」

 テセルは苦笑した。その後で少し顔を顰めたのは、折られた鼻の骨が、笑った調子に痛んだからだ。

「私は、私自信を信じられない。それは、私が、既にヴェロニカ教に対する絶対的な信仰を失ったからだ。そして、私のうちにあるのはヴェロニカ教だけ。つまり、私は既に、私自身への信頼を失ったということなのだよ」
「……つまり、あんたの中にあったのは、黴臭い神様を拝む気持ちだけってことか。けっ、ずいぶんしょっぱい人生だな」
「そう言われてしまうと立つ瀬がないのだが、まぁおおむね君の言っていることは正しい。私は、生まれてから今まで、ヴェロニカの神とだけ対話を繰り返してきた。そして、それは全てまやかしだったと知らされたんだ」

 インユェは頬を歪めて笑った。

「そいつはご愁傷様だ。だけどよ、俺達みたいな資源探索者に言わせりゃ、信じていたものに裏切られるなんて珍しいことでもなんでもねぇんだぜ?絶対にここにお宝の詰まった小惑星があるに違いない。そう信じて小惑星が見つかるのが十に一つ。そして見つけた小惑星に稀少な資源が詰まっているのが百に一つ。ほとんどはゴミみたいな鉱物で出来た小惑星ばかりなんだからな。そうして、ほとんどの賢い奴らは、こんな商売は割に合わないって気が付いて辞めていく。残るのは、信じることなんてとうの昔に諦めちまった楽天家ばかりだ」
「そうか、ならばその楽天家の資源探索者は、きっと誰よりも自分を信じている人達なのだろうな」
「……どうしてそうなるんだよ?」
「いつか自分は貴重な資源を見つけることができる。そう確信しているからこそ、目の前の小さな失敗を笑い飛ばすことが出来るのだろう?そうでなければ、人は徒労を繰り返すことが出来るほど、強い生き物ではないはずだ……」

 そう言ったテセルは、消え入るように呟いた。

「なんと羨ましい……」

 しばらく、二人とも、何を言わなかった。
 ただ、目の前の大河が水を流し、時計の針が進むだけの時間があった。
 
「ぼちぼち、時間だぜ」
「ああ……」

 テセルが先に立ち上がり、尻を何度か叩いて砂埃を落とした。

「どれほど他人を羨もうと、私は私でしかない。そして私は、私に対する信頼を失った」
「……」
「自分への信頼をなくして、人は人として生きていくことは出来ないのだと、私は思う。だから私は、私への信頼を取り戻さなければならない。それはきっと、どれほど偏屈な老人の信頼を得るよりも、遙かに難しいことなのだろう」

 インユェは、酒に、そして女に逃避していた自分を思い出した。
 一番大事な人を目の前で奪われた自分。もう二度と立ち上がれないと思った自分。
 その自分の上に、今の自分がいる。
 今の自分は、自分を信頼しているのだろうか。絶対に逃げ出さないと、そう言い切れるのだろうか。
 もしも言い切れないのだとしたら、それは自分への信頼がまだ足りないのだ。自分は、自分への禊ぎを終えていないということだ。

「それでも、生きていかなければならないのだものなぁ。なら、自分を信じてやらないといけないんだものなぁ」
「……ああ、そうだな。あんたの言うとおりだよ」
「あの少年、リィといったか、彼は、きっと自分を信頼していたよ。だからこそ、他人をああまで信頼出来るのだし、その他人を助けるために命を賭けることが出来るんだ。なんとも羨ましい。そうは思わないか?」
「……けっ」

 忌々しげに呟いたインユェを見て、テセルは笑った。

「私が、此度の同行をあの少年に懇願したのは、きっとあの少年ならば、私が抱えている私への不信を断ち切るための何かを見せてくれるのではないかと、そう思ったからだ。だから、私を信じてもらう必要などは全くないが、とりあえず隣にいることを認めて欲しい。危ない目に遭うのは承知の上だ。無論、命の保証など必要ではない。どうせ、今の私は半分死んでいるようなものなのだから死んで元々さ」
「……神頼みを止めたと思ったら、今度は初めて会った子供を頼るのかよ。どんだけ節操無しで人任せなんだ、あんたは」
「そう言われると耳が痛いが、まぁ仕方ない。今の今まで人生の全てを神に頼ってきた恥知らずだ。ここはもう少しだけ何かに縋らせてもらうとするさ」

 そう言い放ったテセルは、のんびりとした足取りでエアカーの方へと歩いて行った。
 インユェは、もうしばらくの間、流れる河の水面を、じっと眺めていた。
 そして一行は出発した。
 車内の配席は先ほどと変わらなかったが、もうインユェは一言の文句も無い。ただじっと、少し緊張した様子で前を見つめるだけだった。
 一行を乗せたエアカーは、その最高巡航速度でもって荒野を疾走していた。先ほどまでは完全な荒れ地ばかりだったのが、少しずつ緑が増えてきている。背の高い木々が小さな森を作り、平地も荒野というよりはステップと称した方が適当な按配である。植物の数が増えればその分動物も増えるのは当然のことで、暢気に草を食む草食獣が、すわ何事かと一行の駆るエアカーを見上げたりもする。
 陽は徐々に傾いてくる。儀式の行われる時間が満月の中天に差し掛かる夜半だとすれば、すでにあと半日の猶予もない。
 そんなとき、一台のエアカーが後方から近づいてきて、一行の乗ったエアカーを追い越していった。
 人気のない大自然の中である。他のエアカーとニアミスするだけでも十分に異常なことなのだが、そのエアカーはしばらく行った先で止まり、運転手らしき人間他数人が、車外におりてこちらに手を振っているのだ。
 何かあったのだろうか。もしもエンジントラブルか何かで、しかも通信手段も持っていないのだとしたら、即、命に関わる。こちらも悠長なことをしている時間はないのだが、このまま見過ごすのも夢見が悪いとばかりに、ルウはエアカーを止めた。

「どうかしたのですか?」

 少し離れた場所から、大きな声で問いかける。これだけの距離があれば、向こうによこしまな意図があっても十分対処出来るだろう。
 ルウの問いかけに応えることもなく、停止したエアカーに乗っていた人間がこちらに走り寄ってきた。遠くからでもはっきり分かる程に全員の身なりはよろしく、また、折り目正しく運転席の外に待っている人間はどうやら執事のようで、これは相当に裕福な人間の一行であることが予想できた。
 走り寄ってきた連中は、しかしルウの問いかけは無視するようにエアカーの後部座席側のドアへと近づき、息せき切らしたまま、姿勢正しくお辞儀をしたのだ。
 これは何事かとインユェが窓を開けると、

「失礼ですが、もしやテセル老師では?」

 一番立派な身なりをした風体の良い男が、控えめな調子で尋ねた。
 テセルにしてみれば全くもって初見の男だったのだが、この国における僧の社会的地位は相当に高く、街を歩けばこういったかたちで声をかけられるのも初めてではない。
 ドアとインユェに押しつぶされんばかりのなんとも窮屈な姿勢のまま、丁寧にお辞儀を返した。老師になって日の浅いテセルは、まだこういうときにどんな応答をするのが正しいのか、今ひとつ習得出来ていないのだ。

「おお、やはりそうだ!このようなところでテセル老師のご尊顔を拝することが叶うとは、これぞ天の采配に他なりませんな!わたくし、タザ州の上院議員を祖父の代から三世代務めております、ビカール・モハンと申します。これは私の家内と娘です。どうか、以後お見知りおきの程を……」
 
 柔和な笑みを浮かべる婦人と二十歳そこそこの美しい淑女を両脇に控えさせて、揉み手をせんばかりの笑顔であった。
 テセルにとって、こんなことは別段珍しいことではない。ヴェロニカ共和国における宗教指導者の社会的な地位は非常に高いのだ。老師といわず、導師の階位にあった時分においてすら、ことある毎にテセルにおべっかを使い取り入ろうという者は後を絶たなかった。
 だから、テセルにしてみれば、これはいつものことなのだ。
 しかし、いつものことのはずの目の前のへりくだった笑みが、どうしてだろう、今日は耐え難いほどに醜いものに感じるのは。
 テセルは、喉の奥から込み上げてくる吐き気を堪えるのに、一方ならぬ苦労を覚えるはめになった。

「どうしましたか、老師、少しお顔の色が優れないようですが……?」
「……いえ、少し車酔いをしてしまったようで……ご心配をおかけしてしまい申し訳ありませんが、大したことはありませんので……」
「そうですか……どうかご自愛ください、何せ今日は待ちに待った回帰祭なのですから。こないだの前夜祭も、それはそれは素晴らしいものでしたな!何より、テセル老師の、お若いのに堂に入った祭司ぶり!特に、巫女を祭壇へ引きずり出したときの祝詞の見事なこと、一言一句を生涯忘れることはないでしょうな!」

 男は誰に聞かれたわけでもないのに、その時のテセルの姿が素晴らしかったことをぺらぺらと話す。身につけていた法衣の煌びやかなこと、錫杖の美しさ、何よりテセルの姿が神々しかったと。
 そして男の長口上はそれだけにとどまらなかった。

「それにしても、あの生け贄の小娘……失敬、神の巫女の滑稽なこと!最後の最後まで見苦しく足掻き喚き泣き叫び、見苦しいことこの上なかった!いや、肉食いどもの小娘に生け贄の任がどれほど崇高なものなのかを語り聞かせたところで無駄なのは分かりきっていましたが、まさかあそこまで醜悪な様を見せるとは……。あの盛大な前夜祭で、ただそこだけが残念でならなかった。そもそも肉食いの分際で回帰祭の贄に選ばれるという名誉、そして罪深き身の上でヴェロニカの自然の循環に立ち戻ることを許された幸運、果たしてあの浅薄な小娘がそれを理解出来ていたのか否か……。我々の、そしてテセル老の慈愛をなんと心得ているのやら……」

 そう言って男は痛ましそうに首を振った。
 その顔には、嘲笑と憐憫と侮蔑、そしてそれらよりも遙かに大きな愉悦が入り交じっていた。
 そうだ。この男は、楽しんでいたのだ。年端もいかない少女が生け贄に捧げられ、狼の群れによって嬲られ、喰い殺される有様を。父と母の名を泣き叫び、無数の群衆の眼前で名も無き肉塊になっていった少女の最後を。
 この下品に歪んだ顔が、寛容の宗教として宇宙に広く知られたヴェロニカ教徒の、厚化粧の下にある素顔なのだろうか。
 テセルは、訳もなく泣きたくなった。このような人間は、ヴェロニカ教徒のごく一部に違いないと思った。他の宗教にだって、嗜虐趣味の人間はいるはずだ。人間の歴史を紐解けば、魔女狩りなどという忌まわしい時代も存在した。だから、これはヴェロニカ教に限った話ではない。
 ない、はずだ。
 それなのに、どうして、これほどの無念が心を劈くのか。
 
「そして、今日が、本来の日取りからは少しばかりずれましたが、真の回帰祭。こないだのように一般の信徒に知らせず、我々のような、真にヴェロニカを愛する者だけを集めて執り行い儀式の格を高めるというのは誠に有意義なこと。そしてそのような儀式にお呼び頂き光栄の極み、このビカール・モハン、感謝の言葉もございません」
「いえ、そのような……」
「今宵の儀式にも素晴らしい生け贄……もとい、巫女が用意されていると聞いておりますぞ。しかもその巫女の親は悪鬼羅刹が如き所業を恥とも思わぬ輩で、巫女自身も悪心に囚われた毒婦であるとか。いやはや、そのような下賤の者を哀れみ巫女の大役を与えるとは、我がヴェロニカの神のご慈悲は偉大と言わざるを得ませんな!」
「あなた、少し言い過ぎよ。彼女達は我々の罪を背負って自然の循環に還ることを定めづけられた神聖な巫女ですもの。今までの生がどれほど罪深くて薄汚れていても、それとこれとは話が違うわ。きちんと敬意をもって最期を見届けてあげるのが、わたくしたちヴェロニカ教徒の義務ではなくて?」
「そうよ、パパ。ああ、全てのヴェロニカ教徒の罪を背負って自然の循環の中に還ることを義務づけられた巫女、なんてロマンチックなのかしら!わたしもいつか、そのお役目を授かりたいわ!」
「これこれ、ジェシカ、お前のように品行方正なヴェロニカ教徒にそのようなお役目は回ってこないよ。あれは、自分から許されざる罪を犯して地獄へ堕ちるほかない憐れな魂を救うための儀式だそうだ。だから、お前とは最も縁遠いお役目なんだ」
「なぁんだ、じゃあこないだ生け贄になってたあの娘も悪い子だったんだ。その程度の人間を、わざわざあんなに盛大な儀式で生け贄に捧げてあげる必要なんてないんじゃない?聖女ヴェロニカの教えを理解しない愚か者は、もっと人知れず、惨めに死ぬべきなのよ。ふん、憧れちゃって損したわ」
「こらジェシカ、テセル老師の御前だぞ。口を慎みなさい。失礼しました老師、まったく口の減らない娘でして……」

 なんとも嬉しそうに、小鼻を膨らませながら言う。
 
「それにしても、件の生け贄ですが、此度の儀式ではせめて晩節くらいは汚さぬ程度の振る舞いを見せてもらいたいものです。いや、それは不可能事なのか。何せ、神の声を聞くことなく、肉を食い、自然を省みず、悪行の限りを尽くした人間如きに此度の神聖なる儀式の真価など分かろう筈もない。そもそも、神もそのような下衆が生け贄と捧げられる以上、求めておられるのは精々無様に最後まで足掻き続ける惨めな有様なのかも知れません。それならば、出来るだけ醜く足掻いてもらうが重畳ですなぁ」

 もう限界だ。テセルはそう思った。もう、こいつらの汚い言葉を耳に入れるのは、我慢出来ない。
 自分は、このように品性下劣な人間達を満足させるためにあの儀式を執り行ったわけでなければ、今までの人生をヴェロニカの神に捧げたわけでもない。もっと崇高な……違う。もっと素晴らしい……違う。そうだ、あやふやで、名前のない、何か心地良いもののために、人生を賭けたのだ。
 しかし……。
 あの少女からすれば、自分とこの連中と、どれほどの差があるというのか。
 自分は、少なくとも内心は、あの儀式の祭司たる任を、一度だって望まなかった。儀式の最中だって逃げ出したかったのだ。
 この男は、敬虔な信徒の厚化粧を塗りたくりながら、あの儀式を見世物として楽しんでいて、それを隠そうともしていない。
 どちらに罪があるのか。いや、どちらにも罪があるのは明らかだとして、どちらが罪深いのか。
 そんなことは……分かるはずがない。何故なら、罪の軽重を告発すべき少女は、既にこの世にいないのだ。もしも彼女が鬼となり復讐するならば、自分のこの男もその牙に引き裂かれるのだろう。
 それでも、とにかく限界だった。もう、目の前の男にしゃべらせておくのが苦痛で苦痛で仕方なかった。
 だからテセルは、窓から手を伸ばして、目の前の男の襟首を掴もうとした。
 そして、自分の肩を押さえる、小さな手の存在に気が付いたのだ。
 振り返る。そこにいたのは、自分とは二回りほども世代の離れた、少年だ。
 インユェが、静かな瞳で自分を見上げ、首を振っていた。
 そうだった。
 自分達は、あの少女をこれから助けに行くのだ。ならば、こんなところで面倒事を起こしている余裕などあるはずがない。
 目の前の男はいよいよ調子づいて聞くに堪えない言葉を吐き出し続けているが、もうテセルの耳には入らなかった。

「……さて、申し訳ありませんがモハンさん、そろそろ我々も出発しないと……」

 男は、まだまだ語りたかったのだろうか、些か不服な表情をちらりと見せたものの、すぐに大げさな程に申し訳なさそうな顔を作り、

「おお、そうでしたそうでした。偉大なる老師猊下をこのようなところに引き留めて、万が一にでも儀式に遅れさせてしまってはモハン家の輝かしい歴史に拭えざる汚点を残すことになりましょう。では後ほど、祭壇で老師のお姿を拝見するのを楽しみにしております」
「はい、では後ほど……」

 テセルは、男と視線を合わせることなく頭を下げた。
 男も同様の所作をしたが、その時点で初めてテセルの乗るエアカーの車内の異様な様子に気が付いたのだろう、少し怪訝な顔をしたが、しかし何事を口にするでもなく、執事の待つ自分のエアカーのところに、家族全員小走りで戻っていった。
 やがて男の乗ったエアカーは、男と男の家族を乗せ、ナハトガルへ向けて走り出した。
 その姿を見遣ってから、テセルは重たい溜息を吐き出した。
 
「……すまなかった。こんなところで、君たちの足を引っ張るところだった」
「いいさ、実際には起こらなかったことなんだから」

 そう気安く言ったのリィだった。

「それより、おれはインユェが真っ先に暴発すると思ったんだけど意外だった。どうして飛びかからなかったんだ?」

 インユェがムスッとした声色で、

「どうして俺が飛びかからなきゃいけねぇんだよ」
「だってあいつら、ウォルのことをさんざ貶していたじゃないか。下賤だの毒婦だの憐れだの、人を見下す言葉のパレードみたいだったな」

 くすくすと、リィは笑った。

「そして何より、あいつらはウォルの処刑を心待ちにしていた。それでもお前は怒らなかった。どうしてだ?」
「それは……」

 言われて見れば不思議だ。今までだって、ああいう場面ではいの一番に激発して大暴れ、そして後からメイフゥには小突かれてヤームルにはお説教を頂くというのがお決まりのパターンだったというのに。
 インユェは少し考えて、

「……あいつらの話しているのが、多分、人間の言葉に聞こえなかったからだと思う。アホだのバカだの、そういう言葉には素直に怒ることが出来ても、ああいうふうに、まるで宇宙人みたいな言葉で馬鹿にされても、俺、頭悪いからさ、よくわからねぇんだよ」

 少し恥ずかしげにそう言った。
 その言葉を聞いて、リィは一瞬目を丸くした後で腹を抱えて笑った。

「そうだな、インユェ、お前の言うとおりだ。あいつらは頭が良いのかも知れないけど、どう考えてもアホだ。物事の本質を見ようともしないで、聞きかじっただけの、もしくは与えられただけの情報を鵜呑みにし続ければああいうアホが出来上がるのさ。そして、そんな連中の言葉は宇宙人の言葉と思って聞き流せばいい。自分に火の粉が降りかかりそうな時以外はな」

 褒められているのか貶されているのか分からず、インユェは押し黙るしかなかった。
 その顔を見たリィが、先ほどまでとはうってかわって、真剣な顔と声色で、

「なぁ、インユェ、今からおれ達は、ウォルを助けに敵地に乗り込むわけだ」
「……なんだよ、今更そんなこと、分かりきってるじゃねえかよ」
「その前に一つだけはっきりさせておきたい。インユェ、お前にとってウォルは何なんだ」 
 
 インユェはいったん口を開き、そして閉じた。
 助手席から振り返って自分を見る、リィの視線が、あまりにも一直線だったからだ。

「どうなんだ、インユェ。お前にとって、ウォルは、どういう存在なんだ?」
「……決まってる。俺がご主人様で、あいつは俺のドレイだ」

 この言葉にヒヤリとしたのがシェラであった。
 リィは、自分が同盟者と呼んだ男──今は何の因果か少女になっているが──を奴隷と呼ぶ存在を、許しておかないだろうと思ったのだ。
 だがリィは、未だ真剣な表情でインユェを見遣り、

「あいつを奴隷と呼ぶならそれもいいだろう。だが、もしもお前があいつの主人だって胸を張るなら、お前は最後まであいつの面倒を見ることが出来るのか?お前はあいつのために命を賭けることが出来るのか?それともそんなものじゃなくて、あいつは使い捨てに無聊を慰めるだけの奴隷だとでも言うつもりなのか?」
「……賭けるさ。賭けるに決まってるだろう。だからここまで来たんだよ。眠たいこと聞いてるんじゃねぇよ」
「そうか、ならいいんだ」

 あっさりとリィは前に向き直った。

「さぁ、行こうかルーファ。あまりぐずぐずしている時間もないしな」
「……うん、そうだね、急ごう」

 そう言ったルウが、エンジンキーを回そうとした、その時である。
 遠くから、ずぅん、と、腹の底に響くような重たい音が聞こえてきたのだ。

「なんだ……?」



[6349] 第七十五話:初陣
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/02 00:13
「なんだ……?」

 思わず呟いたのは誰だったか。
 それが分からずとも、次の瞬間、何が起こったのか、車内の全員が理解した。
 遙か前方に、どす黒い煙が一筋立ちのぼっているのが見えた。そして、風に乗って微かに漂う、燃えたガソリンと火薬の臭気。
 間違いない。これは、先ほど先に出立した例の家族の乗ったエアカーが、何らかの原因で爆発炎上したのだ。
 事故、だろうか。
 否。
 これほど見晴らしのいい荒野を、宙を走るエアカーが疾駆するのだ。山地や森の中を行くならともかく、どうして事故など起きるものか。エンジントラブルを起こし墜落する可能性はないではないが、エアカーはそういった事故をこそ最も懸念される乗り物である。普通でも二重三重の安全装置は取り付けられているのだし、なおかつあの一家の乗っていたエアカーは要人御用達の高級車である。製造した人間と整備した人間、両方の技術が絶望的に拙かったという可能性を除けば、どれほどの緊急事態に陥ろうとも地面と衝突し大爆発を起こすなど到底考えられるものではない。
 ならば、可能性はただ一つ。
 爆弾を仕掛けられていたか、それとも狙撃されたのか。
 とにかく、外部的な要因によって撃墜されたのだ。
 そして問題は、本当に狙われたのがあの一家だったのか、という点である。

「もしかしたら、ぼく達は凄く運が良かったのかも知れないね」

 ルウは苦笑混じりに呟いた。
 あの家族にはなんともお気の毒な話であるが、今はそれを悼んでいる暇はない。
 
「この中に、本当にあの家族が狙われたんだと思ってる人、いる?」

 ルウは振り返り、そう訊いた。
 そして、誰も口を開かなかった。ただ真剣な瞳でルウを見返しただけだ。
 ルウもその視線に応えるように、一度深く頷いた。

「じゃあ、ぼく達はさっさと逃げないといけないわけだ。でも、どうしてぼく達がここにいることがばれたんだろう。テセルさんを攫ったのがばれたんだとしても、それだけじゃぼく達の居場所までは分からないよね」
「お、おい、ルウさんよ、さっさと逃げないと不味いぜ!誰があの車をやったのかは知らねぇが、すぐに目標を間違えたって事には勘づく。そしたら、次の矛先はこっちだ」
「分かってる。でも、何故ぼく達の居場所がこうも早く掴まれたのかを確認しておかないと、どこに逃げても同じ事だ。だからこの場ではっきりさせておきたい」

 ルウはあらためて全員の顔を見遣り、

「この中で、敵にぼく達の居場所を教えたことのある人がいたら、今名乗り出て欲しい。今なら絶対に怒らないから」

 その言葉を聞いたほとんど全員が、がっくりと姿勢を崩してしまった。
 今、目の前で自分達と間違われたであろう車が撃墜され、次の標的はほとんど間違いなく自分達だというのに、怒らないから手を挙げろとは、まるで悪戯の犯人を捜す幼稚園の先生のようではないか。
 そして、そのような安っぽい約束では、本物の幼稚園児を手懐けることも出来はしないというのに、それでもルウは真剣そのものの表情なのだ。
 そのギャップがなんともアンバランスで、そして滑稽である。
 だから全員が、形容しがたい溜息を吐き出した。

「なぁ、ルーファ。もしも本当におれ達の居場所を誰かに教えた人間がいるとして、そんな聞き方で手を挙げると思うか?」
「じゃあエディは今から全員を一人一人尋問しろっていうの?それこそ時間の無駄だ。第一、もし仮に裏切り者さんがいたとしても、前を行ってた車みたいに全員が平等に殺されちゃうなら秘密を守る義理もなくなるでしょ?それなら、こういう聞き方でも名乗り出てくれるはずなんだ」

 なんとも突拍子もない考え方であるが、筋が通っていないこともない。
 
「それでも誰も心当たりがないんだね」

 ルウは、頷く一同を見回した。

「それなら、何か心当たりのある人は?自分達の居場所を誰かに知られるような、そんな覚えはない?」

 しかし誰の顔色にも一切変化が見られない。
 
「分かった。じゃあ、時間がもったいないから、ぼくの方から聞くよ」

 そう前置きをして、ルウは六人のうちの一人に視線を遣った。

「ねぇヴォルフ。あなた、ぼく達を裏切ったりしてない?」

 突然、、突拍子もない話を振られた巨体の男は、自分の顔を指さしながら、なんとも素っ頓狂な声で叫んだ。

「おれぇ!?ちょ、ちょっとまて、ルウ、それは俺がお前らを裏切ったってことかい!?」

 大いに驚き、大いに不本意であるとその顔が言っていた。
 もとが厳つい顔であるから、そういう表情をすると不思議な愛嬌がある。なんとも憎めないというべきか。
 そんな大男を前にして、ルウは平然と頷いた。

「うん、そう訊いてるんだ。時間が無いから早く答えて」
「……俺は別にあんたらの仲間になったつもりもないんだが、だからって裏切ったりはしてねぇよ。あんたらと一戦やらかすなら、裏切って誰かに始末してもらうんじゃなくてこの腕でどんぱちやらかすさ。こんな面白い連中、誰が他に任してたまるかっての」
「なるほど、よく分かった。でも昨日、手札に出たんだよ。あなたが裏切り者だって」

 首を傾げながら、平然とした調子で強烈なことをいう。
 だが、言った本人はともかく、聞かされた方は平静ではいられない。手札、という単語を聞いて、シェラがごくりと喉を動かした。
 彼は、ルウとの短くない付き合いで、その占いの精度を知り尽くしているのだ。
 曰く、ルウの占いは未来予知と何ら変わるところがない。その信頼性は、自身のもと同僚である死に神連中すら頼りにするところなのだから。
 ならば、本当にヴォルフが裏切りを──
 
「ちょっと待てルーファ。お前、自分で言ってたじゃないか。この場所、この時間じゃあ自分の占いになんて何の信頼も置けないって」

 これはリィの言葉であった。
 そうだ。昨日の酒場で、確かにルウはそんなことを言っていた。ここは二組の太陽と月が同時に存在する特異点であり、ルウの占いが何の役にも立たないのだと。
 ルウは、自らの相棒の言葉に容易く首肯した。

「エディ、そのとおりなんだ。でも、ぼく達の危機を占った時に、手札は彼の裏切りを指し示した。これが、今の状況に全く関係ないとは思えない。でも、ぼく自身もヴォルフが敵にぼく達の情報を売ったんだとは思えないし、その必要性も見出せない。ヴォルフも違うって言ってる。だから、裏切ったんじゃないなら、例えば、ヴォルフが誰かに裏切られたとか、そういうことじゃないかなって思うんだ」
「裏切られただと!?」

 ヴォルフはしばし考え込み、

「……思い当たる節が、ないわけじゃない。だとしたら……これは完全な俺の落ち度だ。くそっ、身から出た錆というか、飼い主に手を噛まれたというか……」
「それを言うなら飼い犬に手を噛まれるんじゃないの?」

 冷静なルウの指摘であったが、少なくともヴォルフは聞いていないようだった。

「ルウ、俺がウォルの体に仕込んだっていう発信機の話、覚えているか?」
「うん?確か超小型で、体内で半永久的に稼働するっていう?」
「それだ。それが、俺の体内にも仕込まれている可能性がある。くそ、迂闊だった。他人を騙す詐欺師は自分が騙されることに慣れていないってのは良く聞く話だが……俺がウォルに仕込んだんだ。俺が誰かに仕込まれてる可能性も考慮すべきだった」
「……それはつまり、わたし達の居場所が筒抜けっていうことなの?」

 冷静な声でそう問うたのは、つい先日までヴェロニカ軍に席を置いていたマルゴである。
 そしてヴォルフは頷いた。

「あの発信機は元々、要人警護用じゃなくて、要人暗殺用に考案されたシステムなんだ。要注意人物が大物になる前に接触し、体内に半永久的に稼働する発信機を秘密裏に仕込んでおく。そうすれば将来そいつが敵になったときに、とんでもないアドバンテージが狙えるってわけだ。なにせ、敵はこっちの親玉の場所を知らず、こっちはあちらさんの親玉の居場所を常に把握できる。これじゃあ普通の勝負になりやしねぇ」
「……なるほど、確かに警護用のシステムにしては意味が薄いとは思ってたけど……」
 
 ルウがしきりに頷いている。

「そういうことなら、俺はここで車を降りる。敵は俺が引きつけるから、お前らがウォルを助けに……」
「いや、それは駄目だ」

 リィが首を横に振った。

「駄目だと?らしくねぇな、リィ。今更俺の命を惜しんで、全員で犬死にする気か?」
「馬鹿を言うな。状況はまだそこまで切迫していない。それに、まだお前に発信機が仕込まれていると決まったわけじゃないし、第一……」
「とにかく、そういうことならすぐにここから離れよう。敵も、さっき破壊したのがぼく達の車じゃないってすぐに気が付く」

 ルウの意見に全員が頷いた。
 エアカーは静かに浮遊し、遙か彼方に見える山の麓を目指して走った。荒野をひた走るよりは、どう考えても遮蔽物の多い場所を選んだ方が何かと都合が良い。ウォルの処刑場であるナハトガルには遠回りになるが、致し方ない。

「さぁて、いくらなんでもぼちぼち敵さんも、自分達がやったのが俺らじゃないって気づく頃じゃねぇかな?」

 後部座席で、寧ろ嬉しげにヴォルフが呟く。
 正しくその時だった。
 車内にいたほぼ全員が、同時に気が付いた。
 遠くから聞こえる甲高いローター音。バックミラーに映し出された、どれほど巨大な猛禽類でもありえない二つの鳥影。
 その影から、同時に煙と弾頭が吐き出された。
 場違いなほどに間の抜けた射出音は、少し遅れて聞こえてきた。

「みんな、しっかり掴まってて!」

 そう言うやいなや、ルウは一気にアクセルを踏み込み、アクション映画さながらに急ハンドルを切る。
 視界がもの凄い勢いで横に流れる。自分が一体どこにいるのかを見失う。
 車内に急激なGがかかり、全員の体がまるで横倒しに傾く。
 次の瞬間、先ほどまで車のあった空間を、巨大な炎の塊が包み込み、大爆発を起こした。
 びりびりと震える窓ガラス。鼓膜は痺れ、音の感覚を失いかける。振動が腹の底まで響き、それがまるで死に神の歯ぎしりのように感じるのだ。

「どうする!いつまでも逃げ切れるもんじゃねぇぞ!」

 ヴォルフの太い叫び声が車内に響くが、連続する爆発音に掻き消されてほとんど誰の耳にも届かない。
 今、このロケット砲の雨霰をかわしていること自体、ヴォルフには信じがたいのだ。これが幸運によるものなのか、それとも運転手の奇跡的な技量によるものなのかは知らないが、そう長続きするものではないことを彼は理解していた。

「森に突っ込むよ!兵士たちもヴェロニカ教徒なら森の中ではそうそう無茶は出来ないはずだ!シートベルト、みんなちゃんと締めてるよね!?」

 まるで小学生向けの交通安全講話のような内容だが、質問した者はもちろん、質問された者も、今は命に直結する問題である。
 目前にどんどん迫ってくる、緑色の壁。
 ジェットコースターのクライマックスのような車内で、全員がシートベルトの着用を手探りで確かめ、来るべき衝撃に備えて身を屈めた。

「伏せて!」

 直後、ばりばりと凄い音が外から響いてくる。それは、森に突っ込んだエアカーの車体が、衝突する枝を片端からへし折っていく音だ。
 体感型のレーシングゲームなんかよりも遙かに迫力のある映像が、実際に命の危機を伴いながら前方より襲いかかってくる。巨石、大木の幹、突き出た斜面、どれに当たっても一発でゲームオーバー、コンテニューは効かない。
 ルウは、車体をほとんど横倒しにして、隆々と生える木々の隙間を縫いながら走った。
 
「くぅっ!」

 上下左右に激しくぶれ、次第にコントロールを失う車体を、ルウは必死に宥め続けた。鬱蒼とした森に巨大なエアカーで突っ込んで木の幹などに衝突しなかったのは、幸運ではなく彼の技量によるものだろう。
 やがてスピードを落としたエアカーは、まるでスクラップ工場から逃げ出してきたかのようなぼろぼろの態になり、少し開けた空き地のような場所で停止した。その瞬間、全員が、魂そのものが抜け出ていくような、安堵の溜息を吐き出した。

「……どうやら生きてるみたいだねぇ」

 流石に消耗した様子のルウが、吹き出た汗で前髪を額に貼り付けながら、力無く笑った。
 
「みんな、大丈夫?」
 
 そう言って助手席と後部座席を見回したが、テセルとインユェが軽く目を回しているのと、マルゴが傷に障ったのか少し辛そうにしているだけで、大きな怪我を負った者はいないらしい。
 ルウは、停止したエアカーのエンジンを再始動させようとキーを回した。しかし、イグニッションキーを回しても、セルスターターの悲鳴が空しく響くだけで、エンジンはうんともすんとも動こうとしない。

「駄目だ、完全に故障だね」

 ルウは肩を竦めた。
 購入してから僅か一日での故障である。普通であれば初期不良としてカーディーラーに怒鳴り込む場面であるが、これだけの運転をして最後まで頑張ってくれたのだ。車の精霊に感謝することはあっても、文句を言うのは筋違いというものだろう。
 全員が、痛む節々に鞭を入れ、這うようにして車から出た。
 辺りは、昼間なのに闇が目立つような、深い森の中であった。
 先ほどエアカーが突っ込んできた方角を見ると、そこにあるのは縦横無尽に大樹の生える原生林だ。どうして自分達が生きているのか、何人かはルウの運転技術に心底からの感謝を捧げた。

「さぁて、これからどうするかねぇ」

 そう言いながら頬を撫でたのは、この中で最年長のヴォルフである。軍属の長い彼であるから、このような緊急事態にも慌てたところはない。

「どうするもこうもねぇだろうが!俺達はウォルを助けに行くんだ!こんなところで油売ってる暇なんてあるかよ!」
「おいおいインユェ、それは確かにお前さんの言うとおりだがよ、具体的にどうやってウォルの監禁されてるナハトガルまで行くつもりだい?唯一の移動手段のエアカーはこの様だぜ?」

 ヴォルフの指さす先にあるのは、どう見ても廃車寸前のポンコツ車であり、しかもエンジン部から濛々とした白煙を吐き出しているのだ。
 機械工学に詳しいルウが用心深くボンネットを開け、エンジン各部の様子を調べたが、暗い表情で首を横に振っただけだった。

「駄目だ。少なくともこの車に積んでいる応急処置用の工具じゃあどうしようもない状態だよ。もうこのエアカーは使えないと考えた方がいいね」
「じゃあ、じゃあどうするんだよ!ウォルは、ウォルはどうなるんだ!」
「ちょっと黙りなさい、あなた!自分で気づいてるの!?あなた、さっきから喚いてるだけで自分が何かしようなんてちっともしてないじゃない!」

 マルゴの声に、インユェは言葉を飲んだ。

「……なら、それならいったいどうしろってんだよ!どうすりゃウォルを助けられるんだよ!誰か教えてくれよ!」
「だから、そんなだからあなたは只の子供だって……!」

 口論になりかけた二人を制したのは、黄金の髪の少年だった。

「落ち着け、二人とも。お前らが喚き合ったところで状況は好転しないだろう」
「……!」
「……ええ、そうね、リィ、あなたの言うとおりだわ。わたしが悪かった。ごめんなさい、インユェ。あなたは誰よりもあの子を助けたいんだわ。そして、わたしはあの子を攫った人間。こんなことを言う資格は誰よりも無いのにね」

 さらりと、そう言ったのだ。
 インユェは唇を強く噛み締めた。もしもマルゴの言葉がただの嫌みならば、唾を吐いて聞き流せばいい。なのに、マルゴの言葉はどこまでも静かで、ただ大人びていた。
 自分はお前のような子供ではない。そう糾弾された気がしたのだ。
 そして、今、このような状況で、その程度のことに腹を立てる自分が、何よりも腹立たしかった。

「とにかく、おれ達は移動手段を失った。だが、ここで手をこまねいていたら、今日の晩にもウォルは野獣の餌になってしまう。そしておれは、あいつにそんなつまらない死に方をさせるつもりは微塵もない」

 ルウとシェラが同時に頷いた。

「そうだね、あのきらきらした王様にそんな死に様はちっとも似合わない」
「同感です。あの時、獅子に食われかけたあの方を見たときの腹の底が煮えくりかえるような気持ち、今でも夢に見るほどです。もう二度と、あの方にあのような屈辱を味あわせてなるものですか」

 リィも頷いた。

「だが、ここで一つ大きな問題がある。さっきヴォルフは言った。自分に例の発信機が仕込まれているかも知れないって」
「ああ、そのとおりだ」
「なら、おれ達にもその可能性が十分にある」

 全員の視線がリィに集中した。

「よくよく考えてみれば、上の連中にとって一番監視したいのは、ウォルやヴォルフなんかよりおれやルーファのことなんだ。おれ達がいつどこで何をしているのか、それが分かれば連邦の役人連中の気苦労がどれほど減るか知れたものじゃないんだからな」
「それは……確かに。しかし我々にどのタイミングで……?」
「何度か、ヴォルフからの差し入れがあっただろう。菓子だけじゃなくてサンドイッチとかベーグルとか……。あれの中にそんな超小型の発信機が入っていたら、おれ達にだって気がつけるはずがない」

 その言葉を聞いて、ヴォルフが苦い顔をした。
 何か、思い当たる節があるのだと、その表情が雄弁に語っていた。

「そうじゃなくても、例えばマーガレットがスーパーで買ってくるお菓子の材料や料理の材料、アーサーが持って帰ってくるアルコール類……いくらでも仕込もうと思えば仕込めるんだ」
「それは……少し疑いすぎでは?」

 シェラの意見ももっともである。疑い始めれば全ての物事が疑わしく感じるものだが、だからといってそれらを全て怪しんでいては先に進むことは出来ない。
 全てを疑うということは、全てを無条件で信頼するのと同じくらいに危険なことなのだ。
 
「分かってる。だけど敵がそういうシステムを使っておれ達を追跡している以上、どれだけ神経質になったってなりすぎるということはないはずだ」
「確かに……そうかも知れません」
「最悪の場合、おれ、ルーファ、シェラ、そしてヴォルフは、この星の上でどのように行動したとしても全ては敵に筒抜け、今みたいに待ち伏せされるのが関の山ってことになる。だから、おれ達はここで敵の部隊を迎え撃つ。そして可能な限り敵の目をここに引きつけるんだ」
「では……誰がウォルを助けに行くのですか?」

 リィがぐるりと全員を見渡す。

「マルゴはまだ傷が完治していないから無理。テセルはお坊さんで、基本的に荒事は不向きだ。つまり……」

 そしてその視線が、一人の顔にとどまった。

「つまり、お前だ」

 その視線は、ただ一人、少年の瞳を射貫いていた。
 情け容赦のない、弱さを認めない弱さを許さない、ひたすらなまでの真っ直ぐさで。

「インユェ。お前が、ウォルを助けに行かなければならない」

 ──何を。こいつはいったい、何を言ってるんだろう。

 少年は最初、それが理解出来なかった。
 次に、リィの言葉を理解して、その意味を飲み込んだとき、戦慄が、恐怖と一緒に足下から這い上がり、千の蟻が這い回るような感触で少年の背を撫でた。
 
「……な、何を言ってるんだよ、リィ。それは、どういう意味だよ」

 うわずった声でそう訊いた。
 応えは、どこまでも無慈悲だった。

「言葉のとおりだ。お前が、一人で、ウォルを助けに行くんだ」

 自分が。
 一人で。
 ウォルを。
 助けに行く。
 そうか。そうなのか。それは理解した。
 でも、どうやって?移動手段はつい今し方に無くなったばかりじゃないか。それに一人で敵の懐に殴り込んだとして、その後はどうするんだ?俺一人で戦うのか?そんな無茶苦茶な!俺は正義のヒーローでもなけりゃアニメの超人でもないのに!
 
「無理だ!」

 インユェは叫んだ。
 どう考えても、できっこない。
 万に一つの可能性、ではないのだ。億に一つ、兆に一つ、京に一つの可能性もない。
 ゼロだ。
 完全なゼロだ。
 絶対に成功しない作戦に命を賭けて死ぬなんて、犬死に以外の何物でもないではないか。
 だから少年は、首を横に振ったのだ。

「ここからナハトガルまでエアカーをぶっ飛ばして三時間だぞ!そのエアカーがぶっ壊れちまったんだ!ルウもそう言ってたじゃないか!なら、どうやってナハトガルまで行くっていうんだ!それに、もしナハトガルまで辿り着けたとしても、間違いなく厳重な警備が敷かれてる!それを、俺一人で突破してウォルを助け出して来いって、そんな馬鹿な話があるか!」
「お前はさっき、ウォルのために命を賭けられるって言っただろうが」
「ああ、そうさ!いくらだって賭けてやる!でもそれは、賭けとして成り立ってる場合に賭けるんだ!賭けってのはそういうもんだろうが!最初から丁半が分かってる博打の負けの目に命を突っ込むなんざ、そいつは頭のおかしい奴のやるこった!」

 インユェは、はぁはぁと荒々しく息を吐く。
 だがその視線に、いつもの威勢の良さはない。そこにあるのは、弱さを隠すための虚勢と、その奥に隠れた怯懦だけである。

「なら一つ訊く。インユェ、お前はさっき、一人で厳重な警備を突破できないと、そう言ったな」
「ああ言ったさ!それがどうした」
「ならば、ここにいる全員がウォルの監禁場所まで一緒に行けたとして、警備を突破できるとお前は思っていたのか?」
「……それはどういう……」
「ここにいるのは、大怪我した女の子と人を殺したことのないお坊さんを含めて、たったの七人だ。それが本当に、ウォルを取り巻く厳重な警備を突破できると、お前は考えていたのか?」
「……そりゃ、一人でやるよりは七人のほうが、成功の可能性は……」

 くすりとリィは笑った。

「おいおい、インユェ、自分だって信じちゃいないことは言うものじゃないぞ」
「……さっきから、リィ、てめぇ、何を……!」
「怖いんだろう、お前」

 呆気にとられたインユェの顔が、少しずつ紅潮していく。
 それは、正しく図星を突かれた人間の、羞恥に染まった顔だった。

「お、俺は、別に死ぬのなんか怖くねぇ!本当だ!第一、俺の命はウォルにもらったみてぇなもんなんだ!今更惜しむかよ!」
「ああそれはそうだろう。だがお前が本当に怖がっているのは、そんなことじゃないんだよな」
「なんだとぉ!」

 インユェが、リィの襟を捻り上げた。

「俺がいったい何にびびってるっていうんだよ!」
「教えて欲しいか?なら教えてやるさ。お前は、一人で戦うのが怖いんだ」

 一人で、戦うのが、怖い……。

「今まで、一人で戦ったことがないんだろう?ずっと誰かの影に隠れて戦ってきた、いや、戦うふりをしてきただけなんだろう?それとも自暴自棄になってやけくそに突っ込んでいっただけか。いずれにせよ、それは戦士の戦いじゃない。他人に剣を預けた、傭兵の戦いさ。端金で命を捨てる、信念も魂も責任もない、この世で一番安い戦いだ」
「……黙れ」
「お前、随分と立派な姉がいたそうじゃないか。その影にいつも隠れて、戦っているふりをしていたんだろう?その姉を失って、ウォルを失って、随分とやけっぱちな酒を飲んでいたな。それがお前の正体だ。そんなお前が、初めて戦うんだ。それは怖いだろう。怖くて怖くてたまらないだろう。恥じることはないぞ、それが人間ってものだ」
「黙れって言ってるんだよ、この野郎!」

 ごつりと、インユェの拳がリィの頬を打った。
 リィの体が数歩よろけて、背後にあった木の幹に受け止められる。
 口の端から細い血を流したリィは、平然とした様子でインユェを見た。
 インユェは、荒々しく息をつき、リィを睨み付けていた。

「てめぇみたいに生まれた時から何でも出来ますって奴に、俺の気持ちが分かるのかよ!?姉貴を殺されてよう、ウォルを目の前で奪われてよう、俺がどれだけ情けなかったか、悔しかったか、てめぇに分かるのかよ!?」
「ああ、分かるね」

 リィは、数歩インユェに近づき、インユェの頬をぶん殴った。
 インユェは見事に吹き飛び、派手に地を舐めることになった。

「おれは、目の前で恋人を撃ち殺された。目の前で父親を撃ち殺された。それでも、ただ見ているしか出来なかったんだ。おれが子供だったから。おれに力が無かったから」
「が、はぁ……はぁ、はぁ……」

 インユェが、膝に手をつき、精一杯の様子で立ち上がる。

「それでもおれは戦ったぞ。復讐を果たしたぞ。恋人の名誉に、父の誇りに泥を塗った連中を、生かしてはおかなかったぞ。お前はどうなんだ、インユェ。お前はそのままか。姉の無念を放っておくのか。ウォルをこのまま見捨てるのか。傷付いたお前自身の誇りに申し訳ないと思わないのか」
「思うさ!思ってる!このままで済ましてやるものか!」

 血を吐くように叫んだ。
 それでも。
 
「っれでも、それでもよう、こ、怖いんだよ!」

 跪き、肩を掻き抱いて。

「死ぬのが怖い!戦うのが怖い!あいつを失うのが怖い!怖くて怖くてたまらない!」

 がたがたと震える体を、必死に押さえていた。心細さに凍える体を、必死に温めていた。
 少年は今、一人だった。一人であることを悟った。ここが戦場で、周りは敵に囲まれて、自分は全ての装備を失い、ただ一人、冷たい泥に膝まで浸かりながら逃げ回っていたことに、今ようやく気が付いたのだ。
 面倒くさそうに頭を掻いたリィが、一歩、少年に近づいた。

「当たり前だろう、この馬鹿」

 暖かい声色ではない。しかし侮るような声色でもない。
 いつも通り。普段通りの声で。

「死ぬのが怖くない生き物がいるもんか。戦うのが怖くない戦士がいるもんか。大切な人を失うのが怖くない人間なんているもんか。いいか、インユェ。お前が今感じている恐怖は、恥じるべきものじゃない。ねじ伏せるものでもない。ずっと抱えて、一緒に戦っていくべきものだ。自分の中にいる、もう一人の自分みたいなものだ。それを認めてやれ」

 インユェが、顔を持ち上げた。
 不安定に揺れ動く瞳が、救いを求めるようにリィを見上げていた。
 ただ、その瞳は、涙に濡れることだけはなかった。

「お前もか、リィ。お前も、怖いのか」

 リィは頷いた。

「怖い。こういうときは、いつだって逃げ出したくなる。おれの中に、そう言って泣き叫んでるおれがいる。逃げよう、ここから逃げ出して家に帰ろう、家に帰って暖かい毛布にくるまろうって」
「なら、なんでお前は戦えるんだよ。どうしてその声をはね返すことが出来るんだよ」
「さっきも言っただろう。はね返すんじゃないんだよ。言いくるめてやるんだ。ごまかしてやるんだ。騙しておだてて、言うことを聞かすんだよ。本当に逃げていいのか、逃げたらもっと恐ろしいことになるんじゃないのか、もっともっと大切な何かを失うんじゃないのかってな」

 リィが、蹲ったままのインユェに手を差し伸べた。
 
「今まで一人で戦ったことがないなら、それはそれで構わないじゃないか。お前は今、戦う理由を見つけたんだろう。だからインユェ、今日がお前の初陣だ」

 インユェの背に、再び戦慄が這い上がってきた。
 しかしそれは、恐怖と怯懦が入り交じった先ほどのものとは違う、高揚感と使命感が灼熱の息を吐き出しながら駆け回る、燃え上がるような戦慄である。
 その熱が、冷え切った少年の体を温める。凍てついた少年の魂を鋳溶かしていく。
 インユェが、リィの手を握った。
 その確とした感触を、インユェは一生忘れることはないのだと悟った。

「骨は拾ってやるさ。だから、行ってこい、インユェ。一騎駆けは戦場の華だ。初陣でそれを任されるなんて、そうそうあるものじゃない。羨ましいくらいだぞ」

 リィの手のひらを支えにして、インユェは立ち上がった。
 その顔は、どこまでもさっぱりとしていて、一抹の悲壮感も気負いも無いものだ。
 普段通りの、不敵で陰気な笑みを浮かべる、インユェだ。

「……そうだな。怖ぇえけど、行ってくるよ」

 はにかむように笑った。
 リィも、同じように笑った。

「だけど、どうやってナハトガルまで行く?さっきも言ったけど、エアカーはぶっ壊れちまってる。到底人の足で辿り着けるような場所じゃねえんだぜ」
「おい、インユェ、それくらい自分で考えろよ。自分で考えて行動するのも一人前の戦士に必要な要素だぞ」
「いいじゃねえかよ、けちけちすんなよ。俺は今日が初陣の新米で、お前は幾つも修羅場を潜った先輩だろうが。なら、先輩の度量ってやつを見せてくれよ」

 恥ずかしげもなくそう言った。
 リィは、一瞬目を白黒させて、それからくすりと笑みを溢し、

「……ここで手をこまねいてたって状況は何一つ好転しないんだ。例えば敵から車を奪い取るにしたって、そもそも敵が攻めてきてくれないと話にならない。そして、敵がここまで来てくれる保証なんて、何一つない」

 インユェは頷いた。まったくもってその通りだ。彼らの目的がウォルを生け贄に捧げることならば、自分達をここに釘付けにしておけば目標は達成出来るのである。
 
「なら、足掻くしかない。少しでも状況を変えるには、自分が動くしかない。そうだろう?」
「ああ、そうだな。お前の言うとおりだ、リィ」

 インユェは一度頷き、今太陽のある方角を指さして、

「あっちがナハトガルだ。間違えてねぇよな?」
「ああ」
「じゃ、ちょっくら行ってくるわ」

 そう言って走り始めた少年の体は、まるで風に乗ったようにぐんぐんとスピードを上げ、木々の中に姿を消した。

「……少しよろしいでしょうか、リィ」

 胡散臭げにその背を見送ったシェラが、控えめに口を開き、

「ここまで事態が切迫しているのです。同盟者である陛下を助けるためならば、あなたやルウが少々力を使っても許される場面ではないかと、わたしは思うのですが」
「そうだな、シェラ、おれもそう思う」
「ならば……」

 続く言葉を遮るように、リィは首を横に振った。

「でも駄目だ」
「それはどうして?」
「まず一つ。おれやルーファが力を使えば、間違いなくウォルとインユェの存在がラー一族の連中にばれるからだ」

 ラー一族という単語を聞いて、シェラの顔が緊張に満ちた。
 
「この宇宙に、太陽は一つ。月も一つ。それがラー一族の神話であり常識なんだ。その常識を覆すウォル達の存在が明るみに出れば、必ず大きな騒ぎになる。大きな騒ぎになれば、その中には過激なことを言う連中も出てくるだろう。二つあるのが間違えているならば、片方を消去して一つに戻してしまえ。幸い、新しい太陽と月はまだ力に目覚めていないのだからってな」
「うん、エディの言うとおりだね。蜂の巣を突いたような騒ぎになるのは目に見えているし、ガイアやユレイノスはともかく、彼らと距離を置いたグループの中には短慮を起こすやつが何人かいるのを、ぼくは知っている」

 ルウが口を挟んだ。
 リィとシェラは頷いたのだが、ヴォルフとマルゴ、そしてテセルにはいったい何の事やらちんぷんかんぷんである。
 ただ、とてつもなく重要な話であることだけは、天使達の表情と声色から読み取ったようだが。

「ウォルはいいんだ。あいつはおれの同盟者だから、あいつに危害を加えようとする馬鹿がいればおれが痛い目に遭わせてやれば済むだけの話だからな。だが、インユェはそうはいかない。少なくともあいつには、自分で自分を守れるだけの力はつけてもらう必要がある」
「あえて言わせて頂きます。わたしにとってインユェという子供は、それほど重要ではありません。見所が全く無いとは申しませんが、それでもつい先日顔を合わせただけの他人です。その子供の安全と陛下の命を天秤にかけるならば、わたしは一切の迷いなく後者を選びます」

 聞きようによっては冷酷とも非道とも取れる言葉であった。
 だがリィは、さも当然というふうに、容易く頷いた。

「そうだな。シェラの言っていることは正しいと思う。おれだって、ウォルとインユェの命のどちらかを選べと言われたらウォルを助けるさ」
「……」
「でも、もしもウォルがここにいたら、絶対にインユェを助けようとするだろう。それこそ、自分の命を危険に晒しても。だから、おれもインユェを助ける。あいつの存在をラー一族に知らせるようなことはしない。あいつらが勝手に気が付く分のは防ぎようがないけど、少なくとも、インユェをこっちから売り渡すようなことはできないんだ」

 シェラは嘆息し、諦めた表情で天を仰いだ。
 まったく、この人達の頑固なことと言ったら、筋金入りにも程がある。

「それに、状況はまだそこまで逼迫しているとは思っていないんだ」
「……ここから陛下が囚われている場所まで、あの子供が走って辿り着くとでも?あなたやルウならいざ知らず、わたしでも今夜までには到底辿り着ける距離ではありませんよ。いや、人間の足では不可能な距離です」
「そうだな、普通の人間には不可能な距離だ。いや、どれほど特別であったとしても、人間ではウォルを助けることが出来ない。そのことにインユェがいつ気が付くか、それが問題だな」
「人間では?それはいったい、どういう……」
「まぁ、賽は振られたのさ。あとは、どういう目が出るのかを見守ることしか出来ない。そして、おれ達に出来るのはその目を守ってやることだけだ」

 リィの纏った雰囲気が、途端に鋭くなる。
 少年らしい和やかさが影を潜め、剥き出しになった獣の牙が顔を覗かせる。

「おれ達はおれ達の役割を果たすんだ。敵が攻めてくればそれを返り討ちにする。首尾良くエアカーかヘリでも手に入れば、それでインユェの後を追ってもいい。そうすればいらない心配にやきもきする必要もなくなるわけだしな」
「……ええ、甚だ納得は行きませんが、分かりました。話はここまでと、そういうことですね」

 不承不承にシェラも頷く。
 
「さっきも話したけど、ここは聖地にもほど近い森の中だからね。例えば焼夷弾を打ち込んで森ごと焼き払ったりとか毒ガスをばらまいたりとか、そういう過激な作戦をあちらが採用するとは思えない。だってこっちはたった七人しかいないんだ。それに、無理に仕留める必要はない。明日の朝までここに釘付けにするだけでいいわけだから」
「ありがてぇこった。しかしこっちがそんな自然愛護主義に付き合う必要は、ねぇわなぁ」

 ルウの言葉にヴォルフが頷き、ぼろぼろになったエアカーのトランクに手をかけた。
 トランク部分は特に損傷が酷く、トランクリッドは波打つようにへし曲がり新車の美しさが見る影もない。
 然り、ヴォルフがトランクリッドを持ち上げようとしたが上手く行かない。

「うん?」

 何度か上げ下げを試みるが、ガチャガチャと不毛な音が鳴るばかりである。

「あれ?鍵が中でひん曲がっちまってるのかな?」

 振り返り、

「おい、ルウ、この車、もう廃車にするんだよな?」
「うん、そのつもりだけど、どうかした?」
「いや、それを確かめたかっただけだ。よっこら……しょっとっ!」

 ヴォルフの顔に赤みが差し、全身の筋肉がむくりと膨れあがる。ヴォルフの身につけた薄い生地のシャツが、内側から張り裂けるのではないかと心配してしまうほどに。
 次の瞬間、ばきばきと、金属のへし折れる凄まじい音が響いた。そして、がこん、と間の抜けた音がして、トランクリッドが車体から完全に剥がれ落ちた。

「ああ、よかったよかった。完全に壊れてはいなかったらしいな」

 そんなことを言って、車体から引き千切った金属の塊を、まるで発泡スチロールのように脇に投げ捨てる。軽々しく宙を飛んだ金属の塊は、重力に従って地面に落下し、その質量に相応しく、地響きのように重々しい音を立てた。
 残されたのは、蓋を剥がされて中身を剥き出しにしたトランクと、スクラップ寸前のボロ車から正しくスクラップ中の廃車に様変わりしたエアカーだけ。
 人外の怪力であった。
 そんなヴォルフに対して、その場に居合わせた全員が呆気にとられたような目を向けた。

「……ねぇ、あなた、本当に人間なの?」
「おう、ついこないだもあんたくらいの女の子に同じようなことを言われたもんだが、これでも一応は人間らしいんだ」

 思い切り首を逸らして見上げるマルゴに、ヴォルフは微笑んだ。
 そして開いたトランクを見せる。そこには重火器、爆弾、その他何に使うのか外観からはよく分からない道具まで、ぎっしりと詰まっている。全て、秘密裏にヴォルフがこの星へと持ち込んだ、連邦軍における彼の兵装である。

「さぁ、道具はたんまりだ。何を使うね?」
「おれはこれでいい」

 リィは腰に履いた剣を指さした。

「ぼくもだね。慣れない武器を使うよりは、手に馴染んだものの方が信頼出来るから」
「わたしもです」

 ルウは、リィと同じように剣を。ただし、もう片方の手には大ぶりの拳銃が握られている。
 シェラは何も持っていない、無手だ。しかしその体にいくつもの武器が仕込まれていることを、ヴォルフは知っていた。

「よし、後は嬢ちゃんと坊さんだけだ」
「選り取り見取りね。先に選んでもらって結構よ。私は適当に見繕わせてもらうわ」
「わ、私は……」

 言いよどんだテセルに、ヴォルフが太い笑みを向けた。

「いいさ、あんたは自分の身を守る装備だけ持っててくれればいい。間違っても自分から敵と構えるなよ。隠れて、危なくなったら投降しろ。俺達の隙を見て逃げ出してきた、そう言ってくれればいい」
「……すまない」

 心底申し訳なさそうなテセルである。

「私から頼み込んで連れてきてもらっておいて足手纏いになるとは……」
「いいって。人には向き不向きってもんもあるからな。端っこをちょろちょろされて死なれるのも、夢見がよろしくねぇ」

 ヴォルフは、トランクに入っている中で一番巨大な機関銃を、事も無げに片手で担ぎ上げ、

「さぁ、始めるとしましょうかねぇ」

 普段は優しげな異相に、獰猛な笑みが浮かんだ。



[6349] 第七十六話:薄暮
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/02 15:21
 鬱蒼とした森の中には、陽の高い時間でも薄暗がりの世界が広がっている。
 陽光は背の高い木々とその葉に遮られ、地面に届くまでに光量の過半を奪われる。その残りを名も知れぬ羊歯植物や下草が奪い合い、最後に苔類がおこぼれに与る。
 この森では、光は限られた資源なのだ。
 昼間でも夜のように暗い森の中に、甲高い鳥の鳴き声、獣の息遣い、虫の羽音、そして木々の擦れる音が絶え間なく響き続ける。
 生命の密度が、恐ろしい程に濃い。
 ヴェロニカ陸軍に所属するその兵士は、こめかみから頬へ、そして唇へと垂れ落ちる塩辛い汗を舐め、喉の渇きを潤した
 装備は、比較的軽装であった。少なくとも、行軍訓練や、熱帯ジャングルに潜んだテロリストのアジトへの潜入任務に比べれば、軽装であった。それでも、茨や虫の待ち受ける藪を、四方に注意を払いながらひたすら漕いでいく任務など心楽しい筈がない。
 
「くそ、ヘリの連中がさっぱり片付けていりゃ、俺にこんな任務が回されることもなかったろうに……」

 標的の乗ったエアカーが、ヴェロニカ陸軍の攻撃ヘリに追われてこの森に突っ込んだのが半時も前の話。乗員は、全部で七人。エアカーが大破した痕跡と思われる黒煙が、既に確認されている。
 果たして何人が生き残っていることやら。
 仮に生き残っていたとしても、到底無事では済むまい。
 万が一の幸運に恵まれ、全員が奇跡的に無事だったとしても、たった七人のテロリストが、唯一の移動手段を奪われて原生林に閉じ込められたのだ。一体、彼らにどのような破壊活動が出来るのか。
 それに、当然のことだが、エアカーに乗せられる程度の装備はたかが知れている。せいぜい、前時代的な機関銃やら手榴弾程度のものだろう。
 ならば、奴らをナハトガルに近づけないという目標はすでに達成されている。なのに、どうして自分達はこんなに苦しい思いをして、森の中を這い回らなければならないのか。それこそ、まるで地虫か何かのように。
 単一のリズムと呼吸で歩き続けていると、そんな妄念が頭の中をぐるぐると回り出す。職業病的に周囲に気を配りつつ、しかし頭のどこかでは、この任務が終わった後の特別休暇をどう消化するか、色街で馴染みとなった女の顔を思い浮かべていたりする。
 そうして、どれくらい歩いただろう。前方を行く隊員が、止まれのハンドシグナルを送った。
 流石に意識を入れ替え、姿勢を低くして注意深く前進すると、木々の切れ間から、既に原型を止めていないエアカーの残骸が覗いていた。
 隊員の一人が携帯用の携帯用生命探査装置を起動させ、エアカーの周囲の状況を確認するが、生命反応は無し。だが、乗員が既に死亡しているから反応が無いのか、それとも逃亡したから反応が無いのかは遠目には分からない。黒こげになった車体のガラスは煤で曇り、車中を視認することが難しいからだ。
 周囲に向けて生命探査装置を起動させたが、やはり人間大の動物の生命反応はない。あるのは小動物程度の二酸化炭素反応くらいのものだ。
 事前の打ち合わせ通り、隊の中でもベテランの兵士三名が、周囲に最大限の警戒を払いながら、ゆっくりと近づいていく。隊長と数名の隊員がそのサポートに、残りが周囲に銃口を向けあらゆる異変に対応しようと五感を研ぎ澄ませている。
 じりじりとした時間が過ぎ、やがて三名がエアカーへの接近に成功した。
 そして一気に立ち上がり、内部に銃口を差し向けた。もしも中に何者かがいて、少しでも妙な動きをしようものなら、彼らは一切の躊躇無く引き金を引いただろう。
 しかし、現実には一発の銃弾も放たれることはなかった。何故なら、エアカーの内部に人影はなく、また、死体の一つも存在しなかったからだ。
 つまり、テロリスト共は奇跡的に無傷のまま、この森のどこかに潜んでいる可能性が高いということだ。
 その旨をハンドシグナルで隊長に告げようと、後ろを振り向いた瞬間である。
 音ではなく、色ではなく、風の感触でも匂いでも味でもなく。言葉にはし難い違和感が、そして熟練の兵士のみに備わった直感が、何か、不測の事態が起きつつあることを持ち主に知らせた。
 反射的に振り返る。そこには黒こげのエアカーがあるだけだ。もう、どれほど腕利きの整備士に頼み込んでも、二度と元の姿と機能を取り戻すことはないだろう、ぼろぼろのエアカー。その底面から、何か、小さな物音が聞こえた、気がした。
 無論、気のせいである。微弱な電波により着火した信管は、秒速4㎞を越える爆発力を生み出し固形の可塑性爆薬を起爆させ、秒速10㎞の膨大な爆風を生み出し周囲を跡形もなく吹き飛ばす。
 小さな音など、気のせいだ。その音が届くよりも先に、爆風が全身を打つ筈だからだ。ただ、兵士はそのことに気が付くことも出来ず、爆風に巻き込まれて死んだ。
 離れた場所で警戒に当たっていた兵士の鼓膜すらを、爆風は強かに叩いた。爆発により四散した車体の破片が、大樹の木片が、仲間の肉片が、凶器と化して飛来する。熱風をそのまま吸い込めば、器官を焼かれて助からない。
 咄嗟に姿勢を低くし回避姿勢を取れたのは、日頃の訓練の賜だろう。

「ちくしょう、テロリストどもめ!」

 果たしてもとは何だったのかすら分からない物体が、ぼたぼたと落ちてくる中、誰かの口から悲鳴と悲嘆と非難の入り交じった叫びが放たれた。
 聴覚が奪われ、三半規管すらも正常に機能しない中、それで彼らは一縷の望みをかけ、仲間の安否を確認しようと爆心地へと急ぎ歩を進める。
 だが、頭上から襲いかかる鉛の飛礫と、剣を構えた少年が、それを許さなかった。たちまちのうちに兵士の全てを打ち倒し、意識を刈り取った。それでも、彼らはまだ生きる権利を許されたのだ。爆風の中で痛みを感じる間もなく死んだ仲間に比べれば、十分に幸運だと言えよう。

「さて、こいつらはどうするんだ?」

 燃え盛る炎を背後に、事も無げな様子でリィが言うと、

「縛ってどっかに転がしておいてくれ。後で、交渉材料に役立つかも知れん。殺すのはいつだって出来るからな」

 やはり事も無げな調子で、手にした無線スイッチを弄びつつ、完全武装のヴォルフが言った。
 全身を最新鋭の機械鎧で包んだ常識外れの大男は、まるで、財宝を守護するという古の青銅巨人のような風貌である。
 見た目も物騒なら、肩に担いだ武器も物騒極まりない。
 銃身だけで二メートル近い、巨大な機関砲であった。
 機械鎧に内蔵された人工筋肉によって、持ち前の怪力を更に倍加させたヴォルフは、普通ならば車両に設置し運用すべき超重量の機関砲を、あろうことか片手で持ち上げているのだ。いくら機械的な補助があっても、通常の兵士では到底不可能な膂力である。
 そのことを熟知しているマルゴが、感嘆というよりは呆れかえった視線をヴォルフに向けていた。

「これから忙しくなるぞリィ、シェラ、ルウ。こいつらを指揮する連中がどれほど寝ぼけてても、この爆発は目に入るだろうし、こいつらと連絡が取れなくなったことには気が付くだろうぜ。どれだけの兵隊さんを相手取らなくちゃいけないか、想像もつかねぇ」
「そのわりには嬉しそうじゃないか、ヴォルフ」

 頭部装甲にすっぽりと覆われて大男の顔は見えないが、声の調子から、戦場には似つかわしくない人懐っこい笑みを浮かべているのが分かる。
 然り、少し恥ずかしそうに青銅巨人は俯き、

「我ながらネジが緩んでいるとは思うんだけどよ、こういうのが大好きなんだな。殺すのが好きなわけじゃないし、殺さずに済むならそうしたいとは思うんだが、そんなことお構いなしに大暴れするのが好きなんだよ。この体を、思う存分に使ってへとへとにしてみたいのさ」
「……ま、街中で暴れるよりは平和的だよね」

 若干呆れ気味にルウが呟く。その手には、長距離狙撃用のライフルが握られていた。
 リィも頷き、
 
「とにかく、おれ達の第一目標は敵の目をここに引きつけること。第二に、移動手段の確保だ。この森の中なら、敵がどんな装備を持ち込んでいるのか知らないけど、互角以上の戦いが出来ると思う。どんどん積極的に攻めていこう」
「ああ、それでいいと思う。……それにしてもリィ、シェラ、お前らはさっきはどうやって生命探査装置の目を誤魔化したんだ?あの距離なら、お前達の存在を見逃すはずがないんだが……」

 ヴォルフの疑問に、穏やかな表情のシェラは、

「単純な話ですよ。心拍数と呼吸を極度に抑え、体温と呼気に含まれる二酸化炭素を低下させました。そうすれば、リィやわたし程度の体なら、小動物か何かと勘違いしてくれるようです」
「……それは簡単な話なのか?」
「ええ、才能をもった人間が訓練を積めば、それほど難しいことではありません。……非常に気に食わないことではありますが、わたし以上の熟達者であれば、仮死状態に近しいレベルまで生体活動を抑え込むことが出来ます。無論、意図的に」

 その熟達者とは、今はシェラと同じ名字を持つ、死に神の一族の精鋭のことである。

「リィ、あんたもかい?」
「おれは狩りの途中に気配を読まれるようなヘマはしない」

 さも当然のようにそう言った。
 果たして、如何なる手段をもって機械の目を誤魔化したのか興味は尽きないが、それを確認していては日が暮れてしまうだろう。
 とにかく、この森が彼らの猟場であることは分かった。ならばそれ以上の詮索など不要である。

「俺が精々大暴れするから、隙を見つけて仕留めてくれりゃいい。殺すか捕まえるかはあんたらに任せるよ」
「了解」

 ヴォルフは各人に骨伝導式の通信機を渡した。敵に妨害電波を使われてしまえばそれまでという代物だが、無いよりはましだろう。
 荒事に慣れていないテセルは、むしろ足手纏いであることを彼自身も知っていた。それに、怪我の癒えないマルゴも戦力として数えるのは酷である。彼らには、先ほど捕縛した捕虜の監視を割り振り、残りの人間──即ち、リィ、シェラ、ルウ、そしてヴォルフが実戦部隊ということになる。
 その時、藪の向こうに微かな気配がした。遙か向こう、しかし敵もこちらの存在には気が付いているだろう。

「さぁ、お出でなすったぜ」

 リィとシェラは音もなく森に溶け込み、ルウも狙撃ポイントを求めて姿を消した。
 ただ一人残され、重機関砲を構えたヴォルフが、重々しい足音共に歩を進めた。



 遠くに見える山脈の一番高い山巓が、ついに沈みゆく太陽の一番下に触れた。
 夜が来る。遠くの方から、ひたひたと、不気味な足音と共に近寄ってくる。
 西の空から差し込む強烈な斜光が、巨大な円形の祭壇と、その周りにぐるりと作られた観客席を照らしている。東の空は、既に寒々しいまでの群青に染まり、じきに暗闇へと顔色を変えていくはずである。
 じわじわと集まった観客達の顔が赤く照らし出される様子を、為す術無くケリーとジャスミンは見守っていた。
 
「儀式が始まるのはもう少し先のこと。どうかお二人とも、くつろいで下さい。そうだ、飲み物などは如何ですか?いくら涼しい山間とはいえ暑さも厳しくなってきました、脱水症状などを起こしては一大事」

 熱の無い平坦な声が、二人の座らされた席のちょうど中間からかけられた。
 その声の主を、二人は知っている。だから、あらためてその顔を確かめようとは思わなかった。

「身に余る光栄だが、結構だ。ヴェロニカ共和国の大統領御自ら、一介の虜兵如きに飲み物を勧めて頂く必要などない」

 ジャスミンが、折り目正しく拒絶の意思を口にした。

「ああ、俺も遠慮させてもらうぜアーロン・レイノルズ閣下どの。あんまり畏れ多くて折角のドリンクが喉を通らねぇとまずいんでね」

 ケリーが、皮肉げに頬を歪ませながらそう言った。
 二人が山城でアーロンと戦い、敗北してから既に二週間が経過している。その間、彼らは丁重な扱いではあったものの地下牢に閉じ込められていたから、これが二週間ぶりの外の空気ということになる。
 二人とも、大統領の腰掛けているのと変わらない豪奢な貴賓席に座らされていた。装束も華やかなものを用意され、もとの立派な風体も相まって、大統領に招待されたどこかの王族のようだったし、一般席から二人を見上げる観衆は、正しくそのように思った。
 当然のことであるが、二人は、例えば手錠や腰縄のような身体を拘束する器具の一切を外されている。しかし、総身を強い圧迫感が締め付けているようで、指一本自由に動かすことは出来ない。そして、その力がアーロンの特異能力であることを、二人は嫌と言うほどに理解している。

「しかし、そうは仰いますが、この宴が終われば我らは共に長い冷凍睡眠に入らなければなりません。現実世界ともしばしの別れ、もう少し享楽を味わっても罰は当たらないと思うのですが?」

 気遣わしげなアーロンの言葉に、二人は応える必要性を見いださなかった。

「なら、お願いがあるんだがね、アーロン・レイノルズ閣下どの」
「ええ、ケリー。何なりと、ただし私が叶えられるお願いであるならば」

 ケリーは首だけを動かし、アーロンの横顔を見た。
 天使に取り憑かれ、天使の手で破滅することを願った男は、相も変わらず魚じみた熱の無い瞳で、宵闇へと飲み込まれつつある祭壇と観客席を見下ろしていた。

「一つだけ聞かせて欲しい」
「何なりと」
「お前の望みは何だ」

 アーロンの視線は相も変わらず、足下の観客席と祭壇を等分に眺めている。一切の感動を伴わない、ひんやりとした視線で。
 人が蟻の群れを見るのと同じ、無感動の視線で。

「お前は言ったな。俺の怒りが、絶望が、天使を呼び寄せるのだと。そのためにトリジウムを資金源にしてウィノア特殊軍のクローンで軍隊を編成し、内戦を起こすのだと」
「はい、言いました。私はあなたの友人を、想い人を、思い出そのものを台無しにするための舞台を、この星に作り上げるのです。そして天使にこの星を滅ぼしてもらい、私もこの星と運命を共にする。それが私の人生の締め括りです」
「なら、この茶番は何だ?」
「茶番とは?」
「惚けるな。この儀式のことだ」

 ケリーも、アーロンと同じように観客席に目を降ろした。
 観客席は人で溢れかえっている。
 そこにいるのは、どれもこれも身なりの良い人間ばかりである。頭に櫛はきっちり入り、服や装飾品は遠目に分かる程品質の良いものばかり。何より、その顔に充ち満ちた精気と自信から、ここに集められた人間の社会的地位の高さが伺える。
 おそらく、この星の政治経済の中核を為すような人間が一同に会しているのだろう。
 しかし、それならば、この場を支配する異常なまでの熱気は何だろう。

「よくもまぁ、これだけ根性のねじ曲がった連中ばかりを集めたもんだ」

 ケリーは、口中に溜まった酸っぱい唾液を吐き出した。
 確かにケリーの言うとおり、今宵ナハトガルの地に集まったのは聖女の教えに傾倒するヴェロニカ教信徒とは思えない、俗な人間ばかりである。
 隣席の顔見知りと挨拶を交わす彼らの、にこやかに笑ったその目の奥に、どろどろとした欲望の塊が浮かんでいる。中には儀式の結果を見届けるための神聖なる観客席に、酒や女を持ち込んでいるものもいるのだ。
 到底、厳かに行われるべき宗教儀式の空気に相応しくない、脂ぎった空気。それは、場末のストリップ小屋となんら変わるところがない。いや、まだあちらのほうが欲望に正直なだけ健全なくらいである。
 ここにいる連中の外面は、申し分のない紳士淑女ばかりである。しかし厚化粧の下に隠された素顔は、場末のストリップ小屋に集まったすけべ親父どもより遙かに好色で変態的であるに違いなかった。
 これから行われるのが宗教儀式などではないことなど、全ての人間が知っているのだ。その上で、年端もいかない少女が残酷に処刑されるショーを待ち侘びている。

「貴様の目的が天使を呼ぶことだけならば、こんな茶番を催す必要がどこにある。さっさと俺達を道連れにして冷凍睡眠に入ればいいだろうが」
「ええ、ええ、それはご尤もな疑問かと存じます。しかし、それに答えてしまっては、これから行われる儀式に興が失われてしまうのですよ」
「興だと?」
「この儀式を行う必要は、少なくとも私個人には存在します。ですからケリー、ミズ、どうぞお二人はこれから行われるバーレスクを、どうぞご堪能されたい」

 そして時は流れ、夜が訪れた。
 それまで、観客を退屈させないための、聖女ヴェロニカを題材にした歌劇や舞踏などがあったのだが、ケリーとジャスミンには何の興味もないところである。
 舞台となる闘場に灯りが点され、暗闇の中に祭壇の全貌が、ぼんやりと浮かび上がる。それは、例え今からこの場所で執り行われるのが茶番劇以外の何物でもないのだとしても、確かに荘厳な眺めではあった。
 観客席のあちこちと、祭壇の外周最上部に設置された松明にも、火が点される。松ヤニの塗られた薪は瞬時に激しく燃え上がり、大量の火の粉を天へと舞い上げた。
 そして天には、煌々と輝く満月が、夜空を我が物顔にして君臨していた。
 回帰祭が、始まろうとしていた。

「よくぞ神聖なるこの日この場所に集われた、聖女ヴェロニカの敬虔なる信徒達よ!」

 登場の中央に歩み出た、僧侶と思しき男が、朗々とした声で叫んだ。
 纏った法衣は、老師を示す紫紺のものではない。つまりこの男は、先日ヴェロニカ教の頂点に立ったテセル・マニクマール老師ではないということだ。ただ、事情をよく知る者が見れば、この僧侶がいわゆる大統領派の急先鋒として上手く取り入り、自分の立場を固めた人間であると分かっただろう。
 観客席が、少しざわめく。だが、その事態は十分に予想していたのだろう、その僧侶はテセル老師が急病で倒れ祭司を務めることが出来なくなった旨、僭越ながら自分が代役として儀式を司る旨を宣言し、会場の不審をぬぐい去った。

「これより執り行われるは、これまで行われてきた偽りの回帰祭ではない!真に我らが罪を、真に神に対して償い、真に我らを生かしてくれる大自然へと感謝するための祭典である!敬虔なる信徒達よ!今宵は、我らの罪を背負って自然へと還る巫女のため、心からの祈りを捧げ、ヴェロニカの神への帰依をよりいっそう深めてもらいたい!」

 他にも、直近のヴェロニカ共和国を取り巻く政治情勢などの話もあったようだが、会場にいるほとんどの人間が右から左へと聞き流す程度だった。彼らの興味は、もはや只一点、生け贄の少女がどんな人間で、そしてどれほど惨たらしく殺されるのかというところにしかなかったのだから。
 その空気を察したわけではないだろうが、僧侶は声高々に生け贄の少女の罪の程を説明した。
 曰く、父親はどこぞの星の州知事で、無計画な乱開発によって大自然に回復不能な損害を与えた。
 曰く、少女自身は悪辣なテロリストであり、多数の人間を殺害している。
 曰く、先頃大統領の自宅で開かれたパーティを襲撃し、多数の死傷者を出した。
 それらは、既にこの場に居合わせている全ての人間の知るところであったが、しかしパーティ襲撃のくだりで憎悪に顔を歪めた人間が特に多かったのは、まだ生々しく痛み続ける傷がそうさせたのかも知れない。

「彼女の名前は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。彼女の罪は、今日この儀式によって贖われ、彼女の魂は父なる神と母なる聖女のお導きによって天へと召されるであろう!」

 そう宣言して、僧侶は舞台袖へと姿を消した。
 舞台を盛り上げる、楽器の音が闘技場に響く。管楽器、弦楽器、打楽器が共演し、儀式の雰囲気を盛り上げていく。
 その演奏が最高潮に達したとき、入場門の片方が、重々しい音を立てて開いた。
 会場の期待が、一気に高まる。
 生け贄の少女とは、どんな顔をしているのか。きっと、二目と見られないような醜女に違いない。何せ、顔とはその人間の品性を映し出す鏡のようなものなのだから。
 少女を見たことのない、この会場にいる大半の人間は、そんなことを思った。ルパートの結婚式で手痛い目に遭わされた少数の人間は、その少女の美しい顔が無惨に引き裂かれる有様を期待して、下卑た笑みを浮かべていた。
 無数の人間の好奇が、欲望が、目に見えるほどに濃密な、その空間に、少女が姿を見せた。

「ウォル……!」

 ケリーとジャスミンの口から、同時に呟きが漏れる。
 入場門の巨大さと比べれば、あまりに小さく、頼りなく見えるその少女は、紛れもなく自分達と酒を酌み交わした、あの少女だった。
 すっきりと整った顔立ちは、緊張のかけらも感じさせないほどに凪いでいる。すんなりとした身体にはお伽噺の妖精が好むような薄絹の衣を纏い、腰を帯で縛っている。
 長い黒髪は後ろで一括りにするだけで、自然に流しているようだ。
 そして、腰に履いた一振りの長剣。少女にはちっとも似合わないはずなのに、どうしてかしっくりくる。様になっている。
 つまり、あの少女は、戦士なのだ。
 自分がかつては男だったと言い、異世界の王だったと言い、そして何より、誇り高き黄金狼の配偶者であり婚約者であり同盟者だと言った、あの少女。
 それが、こんな馬鹿げた舞台の見世物として引きずり出され、これから野獣と闘うのだ。古代の剣奴がそうさせられたように。
 そんな馬鹿な話があっていいはずがない。

「ちくしょう、これで俺達は、黄金狼に会わす顔がなくなっちまった……!」

 ケリーが血を吐くように呟いた。

「今、わたし達があの子を助けられれば、今までたまった借りの少しでも返すことができるだろうに……!」

 ジャスミンも歯噛みして悔しがった。
 そんな二人の無念を感じて、アーロンは一人微笑んでいた。



 ウォルが引き出されたその場所は、祭壇と呼ぶよりは、古の剣闘士が猛獣と死闘を演じたという、古代の円形闘技場に近い造りであった。
 アイクライン校の陸上グラウンドほどの広さの闘場は、砂埃も上がらないほどに押し固められた土で覆われている。その外周に沿って大きな篝火が置かれ、松ヤニを塗られた木材がパチパチと音を立てて燃えさかっていた。
 闇に包まれ深くまでは見渡せないものの、傾斜がある階段状の観客席が中央の闘場をぐるりと取り囲んでいるのがわかる。さらに、おそらくは生け贄が逃げ出さないための措置であろう、闘場と観客席は4メートルほどの高低差が設けられているようだ。その壁面もとっかかりのないつるりとした壁材で、庇のように前に突き出た構造となっているため、駆け昇って逃亡するのは不可能に近い。
 そこまでのことを、片手に剣を携えたウォルは一目で見て取った。
 そして、自分に向けられる、何千という好奇の視線。
 明度に差があるため、こちらから観客席に座る一人一人の顔を確認することは出来ないが、その視線に込められた期待の色は嫌というほどにはっきりと分かる。自分が泣き叫び、憐れを乞い、その果てに野獣の贄となることを心底期待しているのだ。
 確かに、普通の女の子であれば、何の故もなくこんな場所に引きずり出され、これだけの視線に晒されたという一事をもって大いに狼狽するものだろう。加えて、これから猛獣と戦えと言われているのだ。涙の一つも見せない方が不自然である。
 しかし、と、寧ろウォルは溜息を一つ吐き出した。
 大の大人が何千人も集まって何をするかと思えば、一人の少女が獣に喰い殺される有様を見物に来ただけか。いつの時代も残酷趣味の人間というのはいるものであり、ウォルの治世にも多数の罪なき子女を残虐に殺したとして処刑された貴族がいないではなかったが、どうしても理解に苦しむ。ウォルからしてみれば、嫌悪感や義憤の前に、なぜそのようなことをするのかという疑問が浮かんでしまうのだ。
 とにかく、この場に集まったのは、その手の連中らしい。
 どう考えても、わざわざ自分がそんな媚態を作らなければならない理由は無い。まして、本当に有り難いことに、わざわざ剣まで用意してもらっているのだ。
 案内役の僧が、本当の意味で人と自然が対等となるためには武器が必要とか何とか言っていたが、どう考えても年端もいかない少女が剣を一本持ったところで、野獣と戦えるとは思えない。
 つまり主催者としては、見せかけの平等を演出したいのだろう。剣を振るって少女が野獣を駆逐する場面を期待しているわけではないはずだ。
 だが、それはそちらの事情であって、こちらにはこちらの事情がある。雄々しく戦うことをこと期待されているのならば、その期待を裏切るのは失礼というもの。
 ウォルは少しも臆することなく、堂々とした足取りで闘技場の中央に足を進めた。その様子を見た観衆から、感情の坩堝のようなどよめきが起こる。

 ──どうしてあの小娘は怯えないのだ。その憐れな様子をこそ楽しみにしていたのに。つまらん。

 ──なに、今は虚勢を張っているだけだ。猛獣を目の前にすればそんなもの砂糖菓子よりも脆く崩れ去るに決まっている。むしろ楽しみが増えたではないか。

 ──見目麗しい少女ではないか。あのような少女がわざわざ神への供物になるわけか。勿体ない。しかし、このようなショーは中々見られるものではないし、これはこれで面白いか。

 ──精々今は強がっていろ。すぐに神の審判がお前の上に振り下ろされるのだ。この背教徒めが。

 ウォルの鋭敏な聴覚は、轟く叫声の中のいくつかを拾い取っていた
 その声に込められた感情の共通項はただ一つ。細部こそ違えど、この場にいる全ての人間がウォルに対して抱いているのが、悪意だということだ。可能な限り惨たらしい死に様をこそ望んでいる。
 しかし、その程度の悪意に屈するウォルではない。彼女は、かつて一つの国を治め導いてきたのだ。国を導くということは、時に少数の意見や利益を圧殺するということである。その時は、今とは比べるべくも無いほどの恨み辛みを一身に受けてきたのだから。
 むしろウォルが反応したのは、悪意の渦の中に、ただ一つ、自分に向けられた厚意を感じ取ったからである。
 それは、観客席の上層、僅かな灯りに照らし出された貴賓席のような場所だった。
 目を凝らしてみると、そこに設えられた豪奢な席に、三人分の人影がある。中央に、痩せ衰えた老人。そしてその両脇には……。

「ケリーどの。ジャスミンどの」

 一目見れば決して忘れ得ないほどの魅力に充ち満ちた、赤毛の女丈夫と義眼の美丈夫。
 しばらく前に、ウォルがバニーガールとして働く羽目になった酒場で知り合った、変わり者の夫婦であった。そして、ウォルが配偶者と定めた少年の友人でもあるという。
 その二人が、ウォルに対して気遣わしげな視線を送っている。その視線には、自分達が助けに行けない無念と謝意が多分に含まれていた。見たところ拘束されていたり暴行を受けたりした形跡があるわけではないが、ウォルは何か事情があることを十分に察した。
 そういえば、今の自分は年端もいかない少女の姿なのだ。あちらの世界での全盛時、他者を威圧する戦士の風貌ではない。ならば、さぞ心許なく映るのだろう。
 ウォルは、二人に対して笑みを送った。心配ない、安心して欲しいと、そういう笑みだった。
 その時、闘技場そのものを振るわすほどに大きな歓声が沸き起こった。
 ウォルは、正面に視線を向けた。
 自分が入ってきた門と正反対の位置に設けられた巨大な門が、重々しい音を立てて開いていった。


 
 鋼鉄の柵にも見える巨大な門が持ち上がると、そこから幾つもの黒い影が、今まさに放たれた矢のような勢いで飛び出した。
 篝火の、揺らめく灯りに照らし出されたその影は、巨大な狼であった。遠目にも分かる程に多量の涎を垂らし、飢えを満たす喜びに満ちた視線を少女に向けて、猛烈な勢いで殺到する。
 狼たちは、大いに腹を空かせていたのだ。もう一週間も血の滴る肉を味わっていない。
 そうだ。この前口にしたのも、今、目の前にいる獲物と同じ、姿と形をしていた。その柔い肉と滴る生き血の甘いことを、狼たちは如実に覚えている。
 あの時、獲物は泣き叫ぶだけで、何一つ抵抗らしき抵抗は出来なかった。まるで、生まれたての子鹿のように無力で弱い存在だった。
 ならば、今回も狩りは成功するだろう。いや、成功させなければならないのだ。
 このままでは死ぬ。その危機感と、獲物の柔い肌の下にある甘い肉の予感が、狼たちの足を逸らせた。
 数は、十を超えている。たった一匹でも少女の頭蓋を一息で噛み砕くであろう狼が、徒党を組んで少女に襲いかかる。
 会場に居合わせた誰しもが、少女の命運がここに尽きたことを悟った。むしろ、一息で少女が死ぬことを残念に思った者すらいたくらいだ。彼らは、生け贄の少女が、じわじわと生きたまま貪り喰われる様子を望んでいた。
 そして、ほとんど唯一、この会場で少女の死を望まない人間──ケリーとジャスミンは、酒場で戯れたときのウォルのあどけない様子を思い浮かべ、焦慮と絶望にかられ、歯を食いしばった。何とか逃げてくれ。そう願った。
 しかし剣を携えた少女は、目前に迫った狼を前に、微動だにしなかった。それはどう足掻いても逃れようのない死に恐れをなし、憐れ、逃げる気力さえも奪われてしまったように見えた。
 そんな少女の様子では、飢えに狂った狼たちの食欲を抑えることが出来るはずもない。
 一番乗りを果たした幸運な狼が、少女の目前で大きく跳ね、その首元に噛みつき、押し倒した……ように見えた。
 盛大な血しぶきが、闘技場の土を叩いた。
 観客の声援が最高潮を極める。
 ところが次の瞬間、会場の熱狂が凍り付いた。
 少女は、立っている。倒れたのは、狼だ。
 しぶいたのは少女の血ではない。狼の血だった。
 一閃であった。
 だらりと脱力した両手、それに合わせてぶら下げられた剣が、ケリーとジャスミン、二人の目でも追い切れない程の豪速で振り上げられ、不幸な狼の頭部を斜め下から上方に向けて斬り飛ばしていた。
 左目を含む顔面の半分を失った狼は、慣性に従って少女に飛びかかりこそしたものの、それは既に意思を失った肉の塊である。少女が半身の体勢で容易く躱してみせると、目標と魂の両方を失った狼の躯は、少量の砂埃を巻き起こしながら地を滑り、そのまま静止した。
 少女はその様子を確かめることすらせず、剣をひと振り、血糊を飛ばし、残りの群れに相対した。その表情は先ほどまでと寸分変わることなく、獲物を狙う鷹のように鋭い。疲労はおろか、慢心や油断の一欠片も存在しない顔立ち。
 これではっきりした。あの少女は、恐るべき技倆の戦士である。
 ケリーとジャスミンは、あの晩、酒場の狭い舞台で剣舞を舞っていた少女の姿を思い出した。見事なまでの身のこなしと、寒気のする剣速。あれはやはり舞踊として培ったものなどではなく、自分達の銃の腕や操船技術と同じで、潜り抜けた修羅場の数が体に刷り込んだものだったのだろう。
 なるほど、これが黄金狼の同盟者か。
 二人は、背を這い上がる戦慄と興奮を噛み殺しながら、小さく震えていた。


 
 ウォルは、血しぶきの一滴も浴びない綺麗な顔で、狼の群れを睥睨した。

「森を駆け森を統べるお前達がこのような茶番の出汁にされたのは切に憐れと思うが、しかし俺も黙って餌になってやるわけにはいかん。このまま尻尾を巻いて逃げ出すならば良し、そうでないなら躊躇無く剣の錆にしてくれる」

 ウォルの声を理解しているかのように、狼の群れは進軍を止めた。狼たちの顔からは目に見えて狂気が消え失せ、狼狽と怯懦が現れている。
 先頭に立った数匹が、恨みがましい目つきでウォルを睨み付け、低い唸り声を発している。群れの幾匹かが散開し、うろうろとウォルを中心に歩き回る。
 狼たちも理解したのだ。目の前にいるのが、小さな姿に相応しくない難敵であるのだと。
 緊張感に満ちた時間が流れる。先ほどまで嘲り笑っていた観衆も、場を支配する空気に飲まれ、呼吸をすることすら恐れているかのように静まりかえった。
 そのうち、ウォルの背後にいた二匹が、申し合わせたようなタイミングで同時にウォルに飛びかかった。眼球が前面についている以上、背後はどのような生き物にとっても致命的な死角であるはずだ。
 先天的なハンターとして、狼の判断は正しい。
 しかし歴戦の勇士であるウォルにとって、森の中ならいざ知らず、慣れぬ猟場に引きずり出された狼の殺気を感じ取るくらい造作もないことである。さっと振り向き、二匹のうちの一匹に目標を絞り、狼が飛びかかってくる以上の速度で迎え撃つ。
 目標にされた不幸な狼は足を止め、逃げようと試みたが、その速度よりもさらにウォルの方が早い。一気に踏み込み、方向転換を試みる狼の横っ腹を、鬼のような一撃、唐竹割に断ち切った。
 
「ギャウンッ!」

 悲痛な鳴き声が響く。
 胴体を半ばまで切断され、大量の血とはらわたを溢しながら、狼はなおも逃げようとした。前足だけを動かし、必死の様子で這いずるが、数メートルほど進んだところで停止し、間もなく死んだ。
 もう一匹の狼は弾かれたように飛び退き、何とか難を逃れた。もしももう一歩でも前に進んでいたら、少女の構えた剣の間合いに入っていたのだ。その狼は間違いなく幸運であった。
 これで二匹、群れの仲間が殺された。しかし標的は一筋の傷も負わず、息を乱してすらいない。
 未だ十を超える狼の群れは、少女一人の醸し出す威圧感に飲まれかけていた。



「まだ続けさせる気か?あの様子では狩りどころか、勝負にすらなっていないぞ。生け贄を自然の循環に戻すのがこの乱痴気騒ぎの主旨らしいが、このままでは自然の循環の方が憐れだ。動物愛護精神の豊富なヴェロニカ教徒なら、そろそろ止めさせる頃合いではないのか?」

 笑いを噛み殺しながらジャスミンが言った。

「呆れた強さだ。あれなら黄金狼と背中合わせでも戦えるわけだぜ」

 ケリーも楽しげに言った。
 最初、闘技場に現れた少女を見たとき、そのあまりのか細さに、少女の死は逃れられないものなのだと思った。
 しかし、それはやはり勘違いであった。何せ、あの少女はリィが同盟者と呼んだ戦士なのだ。その戦士が自在に剣を振るう以上、狼如きが何匹集まったところで物の数ではないのだろう。

「なるほど、まだ目覚めていないとはいえ仮にも太陽なだけはある。野獣如きの贄とするには一筋縄にはいかないものですな」

 二人に挟まれた老人は、くつくつと、痙攣するように笑った。

「お二方の仰るとおり、このままでは儀式がうまく進行してくれないし、あまりに手合い違い。これは、少しハンデを付けてやるとしましょうか」



 ばきり、と、奇妙な音を聞いた。
 ウォルは、その音が、自分の体内から響いたのだと理解した。
 途端に襲ってくる、凄まじい激痛。ウォルは、音の源と感じた、己の足下に目を遣った。
 右足の親指が、明後日の方向に捻れていた。

「ぐぅっ!」

 突然の痛みに耐えきれず、思わず片膝を地面に着く。先ほどまで涼やかだった少女の顔に、吹き出すように汗が浮いた。
 いったい何があったのか、理解が出来ない。ただ、いきなり強い力が親指にかかり、強引に捻り折られたのだということだけは分かった。
 
 ──これはラヴィー殿やリィの使った、あの不思議な力か!

 誰があの能力を使ったのか。反射的にウォルは観客席を見回した。そして見つけた。ケリーとジャスミンに挟まれて座る老人の、自分を見下ろす冷たい笑みを。
 あれは、ウォルの死を待ち望むだけの視線ではない。もっともっと多くの死と破滅を望む、深淵よりもなお暗い視線……。
 あの男だ。何の理屈もなくウォルは理解した。あの男が、今自分に痛撃を加えた犯人であり、そして今、この場所を支配している首魁であるのだと。
 逆に言えば、あの男さえ仕留めることが出来れば、この茶番も幕を下ろすのだ。
 しかし、あの男と今自分がいる場所は、あまりに遠すぎる。弓矢でもあれば話は別だが、今ウォルの手にあるのは長剣が一振りだけである。
 そして、ケリーもジャスミンも、おそらくは今し方自分に向けられたのと同じ力に縛り付けられ、あの椅子から動くことが出来ないに違いない。
 つまり、今はどうしようもないということだ。
 そこまでを一瞬で思考したウォルだったが、一瞬とはいえ戦いと無関係の思考はそのまま隙に繋がる。そして捕食者として森の頂点に立つ狼たちが、獲物の隙を見逃すはずはない。
 先ほどまで遠巻きに指を銜えていただけの狼が、これ幸いと、膝を突いたウォルに突進してきた。

「くぅっ!」

 ウォルは咄嗟に剣を振り、向かってきた狼の鼻先を切り裂いた。
 ぎゃっと短い悲鳴が響き、その狼は踏鞴を踏んで後退したが、他の狼を防ぐことまでは出来ない。振るわれる剣をかいくぐって、一匹がウォルに飛びついた。
 
「ちぃっ!」

 牙を剥き出しにした狼が膝をついた右足に食いつく直前、ウォルは空いた左手で狼の頭部を掴み、地面に押し潰した。狼は唸り声を発しながら首を振りその手を払いのけようとしたが、ウォルの細腕は猛烈に暴れる狼を地に縫い付けてぴくりとも動かない。
 しかし、三匹目の狼を捌く術はウォルには無かった。その狼の牙が、さらけ出されたウォルの首に迫る。
 狼の顎の力であれば、獲物を窒息させるなどという迂遠な方法を取らずとも、一息で少女の細い首を噛み砕くだろう。
 ウォルは咄嗟に左手の狼をむんずと持ち上げ、体を横倒しにしながら、首元に飛びついてくる狼にぶつけた。だが、一瞬遅かった。狼の牙はウォルの首に僅かに食い込み、その肉を削り取っていった。
 頭上で二匹の狼がぶつかり、ぐしゃりと奇妙な音が聞こえる。
 ウォルはごろごろと地面を転がり飛び起きた。その拍子に折れた右足親指が異様な角度で捻れ、脳髄を貫くような痛みがウォルを襲った。
 
「が、はぁ、はぁ、はぁ……」

 手を首の辺りにやる。
 ぬるりとした感触。見れば、手のひらが真っ赤に染まっている。出血量からして頸動脈が破られたというわけではないようだが、それでも夥しい血だ。どうやら相当量の肉を削り取られたらしい。放っておけばどんどん体力が奪われてしまう。
 一気に形勢が悪化した。
 何とか立ち上がったウォルは厳しい視線に殺気を込めて狼を睨み付けたが、そこにあるのは先ほどの怯え竦んだ視線ではなく、注意深くこちらの傷を値踏みする狩人の視線である。
 ウォルは乱れた息を整えようと喘いだが、そうはさせじと狼が包囲を狭めてプレッシャーをかけてくる。
 ウォルがたまらず背中を見せて逃げ出す。片足を引きずる、弱々しい様子で。
 これは好機と見て取った狼が、二匹、不用意に飛び出しウォルの背中に襲いかかった。
 しかしこれはウォルの誘いであった。狼の足音を感じ取るや否や、振り向きざまの一撃で狼の胴体を真っ二つにし、返す刀でもう一匹の顎を断ち割った。
 断ち切られた狼の体から、盛大に血飛沫が上がる。ウォルは、首から流れる血と返り血とで総身を朱に染め、それでも確と敵を睨み付けていた。



 突然少女の動作が不自然になったのを、歴戦の戦士であるケリーとジャスミンは瞬時に悟った。
 必死の形相の少女が、何の傷も受けていないはずの右足を引きずりながら戦っている。
 何が起きたのかと目を遣れば、その右足の親指が異様な角度で折れ曲がり、赤黒く腫れ上がっているのだ。
 この戦いで、あのような傷を負うはずがない。もちろん、最初にこの闘技場に立った時、少女は万全の様子であったのだ。
 ならば、導き出される結論は一つしかない。

「てめぇ、やりやがったな」

 ケリーが、落ち着いた声でそう言った。落ち着いてはいるがしかし、その奥にマグマのような憎悪の籠もった声であった。
 
「心底見下げ果てた男だな、貴様は。このような場にあんなに可愛らしい女の子を引きずり出し、衆人の前で見世物にしておいて、それでも飽き足りないか。そうまでして、あの子を野獣の贄にしたいのか」

 ジャスミンも、ウォルとは得意とする武器こそ違うが、自らを戦士と定義する女性である。ならば、今は同性であるウォルの戦いに対して無粋な横やりをいれたアーロンを許すはずがない。
 だが当のアーロンは、灼け付くような二人の憎悪を一身に受けて、それでもひんやりと笑っていた。

「お二人とも何かを勘違いしておられるようだ。そも、これは儀式であって勝負ではありません。あの少女に振られた役割は、野獣を打ち倒して賞賛を受ける剣闘士ではない。あくまで、獣に喰い殺されてその血肉を大地に捧げる、生け贄なのですから。そして一度始められた儀式は、きちんと終わらせなければならないのですよ」

 アーロンはテーブルに置かれた杯を取り、豊潤なブドウ酒で喉を潤した。

「それにご覧なさい。観客の皆さんもたいそう喜んでおられるようだ。私はこの儀式を司る者たちの長である以上、彼らに満足して頂き、その信仰を深めて頂かなくてはならない。私としてあのように必死に頑張る女の子を痛めつけるのはつらい役割なのですが、誰かが引き受けなければならない」

 アーロンの言うとおり、先ほどまでの緊張した空気が嘘のように、会場は大いに盛り上がっていた。
 やれ、殺せ、犯せ、噛みつけ、と、聞くに堪えないほど物騒な声援が入り交じり、怒号となって会場を圧している。猿のように真っ赤な顔で叫び声を上げる観客の目はどれも血走り、ウォルを襲う狼たちの目つきと変わるところがない。中には、法衣を纏った禿頭の僧が、地団駄を踏みながら少女に対して罵り声をあげていたりする。
 声を上げる全ての人間が、少女の無惨な死を待ち望んでいた。
 つまり、今この会場にいる人間の大半が、僧侶連中も含めて、獣同然の品性しか備えていないということだ。
 アーロンは、体を二つに折り、腹を抱えて笑った。

「全くもって喜劇以外の何物でもありはしない!滑稽に思えませんか、お二方!ここにいるのは十分な家格と教養を備え、そして何より敬虔なヴェロニカ教徒であるというのに、誰一人としてあの憐れな少女を助けようとしない!彼らのうちの一人としてこの儀式を神に捧げるものだなどと思っていないにも関わらず、です!つまり、ここにいる全ての人間は人殺しなのですよ!そのことを、彼らは熱狂が冷めた後で理解するでしょう!そして、一度箍が外れた人間の理性は脆く、他者の命を弄ぶことを覚えた人間は欲望に正直だ!かつて惑星ウィノアで行われた気違い沙汰の戦争ごっこを再現するのに、これほど相応しい国があるでしょうか!きっと誰しもが私の思惑通りの配役を、自ら望んで演じることでしょう!」

 一頻り笑ったアーロンは、数度咳き込み、喉を冷やすために再びブドウ酒を口にした。
 その時にはもう、いつもの冷ややかな笑みを浮かべるだけだった。

「それに、そもそも、狼如きにあの少女が仕留められるなど、私は思っておりません」
「何だと?」
「狼はただの前菜です。もう少し消耗させてくれるかと思えば、存外だらしがない。なので手伝ってやることにしたのですが……どうやらまだ足りないらしいですね」

 アーロンの見る先で、少女がたった今、迫り来る狼の一匹を斬り捨てた。
 アーロンは、頬を奇妙に歪ませて笑った。

「ではこうしましょうか。これからあの少女が狼を一匹倒すごとに、その骨を一本ずつへし折る……。そうすれば、もう少しハンデになるでしょう」



 再び、自分の体の中から響く異様な音を、ウォルは聞いた。
 今度は胸の辺り、肋骨が折れ砕けた音だ。

「がぁあっ!」

 火を吐くような苦痛の叫びが、ウォルの口から漏れだした。
 思わず膝を突きそうになるが、血に狂った狼の群れの前でそのようなことをすれば、そのまま死に直結する。
 ウォルは唇を噛んで、苦痛に耐えた。
 それでもなお、狼は襲い来る。
 首からの失血と骨折の痛みで、ウォルの意識は朦朧とし始めていた。
 もう終わっても良いのではないか。もう十分に頑張ったのではないか。
 悪魔の囁きが、優しく、ウォルの脳裏にこだまする。

 ──馬鹿を言う。

 ウォルは、血塗れの笑みを浮かべた。
 まだだ。まだこの体は諦めてなどいない。まだまだ戦えるのだと、猛り狂っている。ならばどうして俺だけが諦められるだろう。こんなに小さな少女が、まだ生を諦めていないというのに。
 そんなことを考えながら、剣を振るう。
 剣が、狼の体を断ち割る。
 そして、ウォルの体から異音が響く。
 今度は、腕だった。左腕の前腕部が直角に折れ曲がり、手首と肘の間に新たな関節が設けられたようだった。
 少女の悲鳴が、闘技場にこだました。



 森の暗さがよりいっそう濃くなっている。
 既に道なき道を走っていた。
 木々の隙間を、避けながら、這いながら、飛び越えながら駆けていく。
 蜘蛛の巣が顔に張り付く。細かな枝が頬を裂く。
 息が荒い。走り始めて二、三時間も経ったのか。それともまだ三十分も経っていないのか。もう目的地が目の前にある気もするし、後ろを振り返ればリィ達がまだそこにいる気もしている。
 風景はちっとも変わらない。ずっと山の中だ。山の中を、泳ぐようにして走っている。
 汗が、絶え間なく垂れ落ちてくる。その汗の水分が蒸発して塩気だけが残り、そこに新たな汗が流れることで、どんどん塩分が濃縮されて、どろりとした汗になってくる。
 その濃い汗が、時折目に入り、塩辛さで涙を流させる。あるいは唇に滑り込み、塩辛さが疲れを癒す。
 とにかく、俺は走り続けている。
 走り続けている。
 何で、走っているんだったか。
 少し曖昧なんだが、ええっと、そうだ、あいつを助けるんだ。
 あいつって誰だ。
 ウォルだ。ウォルを助けるんだ。
 だって俺はあいつのご主人様だ。ご主人様なんだから、あいつが困ってるなら俺が助けてあげなくちゃいけない。あいつはきっと今、不安に打ち拉がれて泣いているかも知れないのに。
 だから走らないといけない。
 どこまで走らないといけない?目的地はどこだったっけ?
 うーん、と、何ていう名前だったかな。
 どうしてこんなに簡単なことを思い出せないんだろう。
 知っている。酸素だ。酸素が、今は頭に上手に回らなくて、体中、とりわけ足に回されているからだ。だから思考がうまいこと纏まらないのだし、馬鹿みたいな思考になっているのだ。
 でも、それなら考えることを止めて足にだけ酸素を回せばいいのかっていうと、何も考えずに走ればいいのかっていうと、そうすると苦しくなったときに足が止まってしまうんだ。だから、考えながら走らなければならない。どうしてこんなに苦しい思いをしてまで走らなければいけないのか、それを忘れてはいけない。
 駄目だ駄目だ。余計なことを考えてしまった。
 何を考えていたのか。
 まず、どうして走らなければならないのかを考えていたんだ。それは思い出した。
 次に、ああそうだ、どこに向けて走っているかだ。
 それは、あいつの囚われている場所だ。確か……ナハトガルっていった。聖女が天に召された場所だと言っていた。
 誰が言っていた?ああ、思い出した、あのテセルとかいう生意気な坊主だ。でも生意気っていうなら、多分世間一般では俺の方が生意気になるはずだ。だって俺はまだ子供なのに、俺の倍以上の人生を生きている先輩にむかって生意気な口を叩いているんだから。でも生意気な口の一つも叩かないと、押し潰されそうになるんだよ、よく分からない何かに。みっともないことは自分でも分かってるんだけど、こればかりはどうしようもないんだ。ごめんなさい。許して下さい。
 ああ、もう、またか。俺はまた余計なことを考えているか。思考が脇道に逸れていくんだ。まるで眠りの落ちる直前に、泡沫みたいな思考が浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返しているみたいだ。
 何を考えていたんだ。この繰り返しだ。誰を助ける。違う、それははっきりしている。だから、どこに行くのかだ。
 ナハトガル。
 確か、エアカーであと三時間くらいの場所までは来ていたんだ。そのまま何事もなく進めば、日暮れ前には到着していたはずなんだ。
 あのエアカーの最高時速は何キロだっただろう。普通のエアカーは、たしかだいたい時速500キロくらいは出るのか。だとしたら、あれは大型で、馬力の強いエンジンを積んでいて、でも搭載人員が七人も乗っていたし、トランクの中には鉄の塊をたくさん載っけていたから、どれくらいのスピードが出るんだろう。
 それでも、うん、時速500キロだ、そう決めた。
 だとしたら、俺が走るのが、時速20キロとして、あっちは500キロで……うんと……20倍……違う、25倍の差があるんだ。
 だとしたら、俺がナハトガルに着くのは、何時間後になるんだ?
 ウォルが酷い目に遭わされるのが、たしか今日の夜だったから、今日中には会いに行かないといけないんだけど、着くのは何時になるんだろう。
 出来るだけ早く着いた方がいい気がするんだけど、日暮れ前には着けるんだろうか。
 駄目だ。それでは計算が合わないんだ。三時間の25倍も時間をかけていたら、着いた頃には日が暮れてしまっている。
 単純計算だ。ならば足を25倍速く動かせばいいんだ。そうすれば日暮れ前には目的地に到着するんだ。なんだ、簡単な話じゃないか。たったの25倍速く走るだけで、何もかも計算通り、予定通り、元通りになるなんて。
 よし、走ろう。
 早く、速く走ろう。そうすれば、きっと上手くいく。何もかもが元通りになる。
 姉ちゃんと、ヤームルと、ウォルと、俺と、四人で、また、宇宙を旅するんだ。姉ちゃんが口より手が先に出るのは少し嫌だけど、ヤームルが少し小言が多いのが嫌だけど、ウォルがいつまでたっても俺の気持ちに気が付いてくれないのが嫌だけど。
 また、みんなで旅をするんだ。
 あの頃は、凄く楽しかったなぁ。
 だから、走ろう。あの頃に戻るために。また、みんなで旅をするために。
 走ろう。走ろう。



 腹ばいの姿勢で長距離狙撃銃を構えた兵士が、テレスコピックサイトに映り込んだ少年を見て、苦虫を噛みつぶしたように呟いた。

「まったく、因果な商売だ……」

 レンズ越しにも、その少年が疲弊しきっているのが分かる。走る姿はあまりにもたどたどしく、小石に躓きでもすれば盛大に転倒することは間違いなく、そして二度と立ち上がれないだろう。チアノーゼで真っ青に染まった顔は疲労と苦痛に歪み、哀れみさえ覚えるほどで、さらに少年の頬や額には小さな傷が無数に刻まれており、そこから流れた血が汗と混じり合い少年の襟元を真っ赤に染めている。
 ぼろぼろで、死に損ないの少年だ。そんな少年が、森の切れ目から、よろよろと走り出てきたのだ。そして兵士の任務は、あの森から出てきた人間の抹殺である。
 どうして自分の受け持つエリアに、あの少年が現れたのか。あの様子では今更何を出来るはずもない。既に無力化は終わっているも同然だ。しかもあの少年は、自分の子供と同じくらいの年の頃だというのに。
 神よ。あなたはどれほど過酷な試練を俺に課するのか。
 敬虔なヴェロニカ教徒であった兵士は、大いに嘆いた。いくら標的がヴェロニカ教徒ではない、憎むべき肉喰い連中であり、しかもヴェロニカ政府とヴェロニカ国民に牙を剥く凶悪なテロリストの一員なのだとしても、これはあまりにも過酷な任務だ。
 銃把を握る指に、汗が滲む。
 今まで彼は、一度だって任務を失敗したことがなかった。照準器に捉えた獲物は、悉く葬ってきた。彼が実戦において引き絞った引き金の回数は、そのまま銃弾が標的を貫いた回数と同じであった。
 つまり、今、自分が引き金を引けば、あの少年は死ぬのだ。銃弾が頭を吹き飛ばし、頭部を失った身体が前のめりに倒れ、数度の痙攣を経て、生命反応は完全に停止する。その情景が、おそらくは実際に起こったものと寸分変わらぬ有様で男の脳裏に再生された。
 しかし、あれは子供だ。無論、兵士は理解している。子供だからといって甘く見れば手痛いしっぺ返しを喰らうということを。笑顔の子供が放った銃弾で殉職した同僚は片手では数え切れないのだから。それでも、まだ人生の盛りすら知らない命を刈り取る権利が、自分にあるのか。
 あるはずはない。それは、誰にあってもならないものだ。
 だが、自分は国家への忠誠を誓い、上官への服従を近い、任務への誠実を誓ったのだ。だから、あの少年を見逃すという選択肢はありえない。
 そうだ。せめて、余分な苦しみを与えることだけはすまい。自分に出来る精一杯の慈悲は、一撃で、痛みを感じる暇もなく、あの少年を神の御許に送り届けることだけ。

「天に坐すヴェロニカの神よ、聖女ヴェロニカよ、かの少年の魂に御慈悲をお恵み下さい、どうか死して後にあの少年の魂が迷わぬよう、天の国へと導いて下さいますよう……」

 短い祈りを呟いた兵士は、少年の遅々とした走りによって僅かにずれていた照準を修正し、クロスヘアの中心に少年の頭部を合わせた。
 そしてトリガーにかかった指に、一気に力を込めて……。

『ああ、もう、だめだなぁ』

 兵士の視界が突然に翳った。そして、ばさりと、空を叩く翼の音。
 それより何より、ふと耳に聞こえた名状し難い声色の、誰かの声。それは人の言語なのに、到底人の声帯から発されたのではありえない、気色の悪い響きであった。
 反射的に照準機から目を離した兵士が、嘔吐を催す思いで首を持ち上げ、空を見上げたとき、そこには、巨大な翼、黄と黒の縞模様で彩られた巨躯と、今まさに己を捉えようとする大きな爪が。

 ──ぶぢん。

 寒気のする音が、首の辺りから鳴ったけども、いったいどうしたことか。
 痛くも何とも無いのに、ほんの少しだけ、寒い気がする。そして、宙を漂うような奇妙な浮遊感。ああ、俺はいったいどうしてしまったのか。
 兵士は、脳裏に、今までの人生を走馬燈のように思い浮かべながら、しかし今、自分がどういう状況にあるのかを理解出来ていない。
 そして、聞いた。それはやはり、人以外の発した、人の言葉で、

『わるかったなぁ。けどさ、たったひとりのおとうとにてをだすやつをさ、あたしはぜったいにみのがしたりしないんだよ』

 兵士が聞いた、それが最後の音だった。
 巨大な爪に頭を掴まれ、梟に襲われた野鼠のように首を一息でもがれた兵士は、どうして自分の首がこうも軽々と空を飛んでいるのか、それすら分からずに、そのまま死んだ。
 首を失った兵士の体は、最後の未練として数回痙攣したが、トリガーにかかった指は引き金を引くことはなかった。
 それを確認した何かは、爪に付着した血をぺろりと舐め、次の獲物を求めてそのまま宙を飛び去った。



[6349] 第七十七話:夜
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/04 00:59
「おっと、これは不味い。腕の骨は尺骨が二本ですから……一本多すぎましたな。公平を期すためにも、次のペナルティは、無しということにしましょうか」

 アーロンは、背を痙攣させながら笑っていた。彼の見下ろす先で、少女はまだ全てを諦めず、右手だけで剣を振るい続けている。しかしその左腕はあり得ない箇所でへし折れ、更に大きく腫れ上がり、見るも無惨な様相を呈していた。
 返り血に塗れた少女の顔は、真っ青であった。苦痛と失血により血圧が低下し、意識が遠のきかけているに違いない。
 それでも少女は戦っていた。まだその瞳には不屈の闘志が宿り、前のみを見据えて剣を振るっていたのだ。

「アーロン。取引だ」

 ケリーが、肺から空気をじわじわ絞り出すような声で、言った。

「取引?」
「このいかれた儀式を、即刻終わらせろ」

 ケリーの口の端から、一筋の血が流れ落ちた。
 あまりの怒りに噛み締めた歯が砕け、口中に血が溢れた結果だった。

「あなたは今、取引と仰った。では、その対価として、私は何を頂けるのですかな?」

 ケリーは静かに瞳を閉じた。

 ──すまねぇ、天使。

「お前に、天使に直通の携帯電話の番号を教えてやる」

 アーロンが、驚きに目を見開きながらケリーへと向き直った。
 
「天使の……携帯電話の番号ですと?」
「ああ、そうだ。殺されてもお前には教えてやるつもりはなかったが、気が変わった。だから、お前にとって、この儀式の意味は無くなるはずだ。これ以上ウォルを戦わせる必要もなければ生け贄に捧げる必要もない」
「本当に……本当にあなたは、天使の連絡先を、知っていると?」

 アーロンが立ち上がり、ケリーの両肩を揺さぶるように問い質した。
 ケリーは、はっきりと頷いた。

「ああ、知ってる。お前が死ぬほど会いたがっていた、天使様だ。生憎、お前と会ってくれるかどうか、そこまでは俺の知ったこっちゃねぇがな」
「おお、なんと有り難い……!これぞ天の采配、ケリー、あなたは本当に私の大恩人です……」

 そして、にたりと微笑み。

「でも、まぁ、今回は結構ですよ」

 微妙に焦点のずれた視線が、ケリーの眼前で、愉悦に歪んだ。

「あなたが天使の連絡先を知っているというなら、それは後ほどゆっくりと聞きましょう。ですが、今この儀式を終わらせるわけにはいきません」
「……どうしてだ。貴様は言っていただろう。自分の生の目的は、天使と会うことだけだと。ならば、どうしてこの儀式を必要とするんだ」

 アーロンは、恥ずかしげに頭を掻いた。

「ケリー、あなたの仰るとおりです。ですがこの儀式はね、まぁ何といいますか、親心のようなものなのですよ。私は自他共に認める駄目な父親です。我が子の心根がねじくれ、少女をいたぶって楽しむ異常者になったことを知りながら、忙しさにかまけて何もしてこなかった。だから、せめて最後に親孝行ならぬ子孝行をしてやりたいと思いまして」
「なんだと……?」
「まぁ、見ていてくださいな。おっと、知らぬ間に三匹も倒している。三引く一は二ですから……」

 アーロンが、少女に向けて手のひらを伸ばした。

「やめろ、この糞野郎!」

 ケリーの雄叫びを心地よく聞き流したアーロンが、その力を解放した。



 今度は左足の大腿骨と、右側の肋骨の幾本かが、一気に折れ砕けたようだ。
 もう、ウォルは苦痛を感じなかった。ただ、異様な熱が体の奥から沸き上がり、同じだけの寒気を同時に感じるという、あり得ない感覚を味わっていた。
 息が、自分でも情けないくらいに乱れている。体は重く、今にも倒れてしまいそう。
 それではウォルは前のみを見据えていた。噎せ返るほど濃密な血臭に包まれ、血と反吐とはらわたを撒き散らした狼の死骸に囲まれながら、それでもぼやける視界に映り込む敵の数を冷静に数えていた。
 当初は十を超えていた狼も、もう片手で余るほどに数を減らしている。そして残った狼も、そのほとんどが無傷ではない。足や顔を切られ、すでに戦闘意欲を削がれているのが過半だ。
 まだ戦う意思を残しているのは……。
 ウォルが、群れの中でもひときわ大きな体躯を有した狼に、視線をやった。
 狼は、少しも怯える様子はなく、低く唸り声をあげて牙を剥き出した。
 
「なるほど、お前が長か……」

 ウォルは、今度は左足を引きずりながら前に一歩、進んだ。
 手傷を負った狼が、弾かれたように道を空ける。対照的に、無傷のリーダー狼が、ずいと前に出た。
 ここまで群れが壊滅的な打撃を受けたのだ。せめて群れを率いる長として、一矢報いねば面目が立たないといったところだろうか。
 
「お前も俺も、なかなかつらい立場だな。しかし、手心を加えてやるわけにもいかん……」

 ウォルの呟きを理解したのだろうか、狼の鋭い殺気が、少しだけ和らいだ気がした。
 そうか、お前もか、と、狼が言った気がした。
 ウォルは、静かに剣を持ち上げた。
 狼が、姿勢を低くし、いつでも飛びかかれるように構えた。
 飛び交う怒号と歓声の中、一人と一匹は静かにその時を待っていた。
 ぴくりとも動かない緊張した空気にじれた観客が、隠し持っていた酒瓶を闘技場に投げ込んだ。
 ぱりん、とガラスの割れる音が響く。
 その刹那、狼は溜めに溜めた全身の力を解放し、一気にウォルへと肉薄した。
 だがそれはウォルも十分に予想していた。ウォルも上段に構えた剣を、全力で振り下ろす。
 剣は、見事に狼の頭蓋を両断したかに見えた。
 しかし、切っ先は空しく宙を裂いたのみであった。狼は剣の間合いの直前で、強靭な四肢をもってブレーキをかけていたのだ。
 目標を失った切っ先は、そのまま地面を断ち割った。
 狼が、再び全力をもって跳ね上がる。狙いは、露わになった少女の喉笛だ。
 迫り来る致死の牙、しかしウォルの剣は地に突き立ったままである。両手が柄を握りしめていたならば即座に切り上げることも出来ただろうが、右手一本のウォルに、そこまで俊敏な剣遣いは不可能である。
 それは、おそらく狼も見抜いていた。だからこそ飛びかかったのだ。
 そして、ウォル自身も分かっていた。

「せめてもの餞別だ。存分に喰らうがいい」

 そう呟くやいなや、折れた左腕を狼の牙の前に晒した。
 狼は、本能的にウォルの左腕に噛みついた。鋭い牙が、一気に肉の内側に食い込み、盛大に血が噴き出す。ばきばきと、折れた骨が更に粉々に砕け散る音が、体の内側からウォルの耳に響いた。
 そして狼はウォルを一気に押し倒した。次は喉笛を噛み切ってやるとばかりに。
 しかし、背を地につけたウォルは、どこまでも穏やかな顔で、

「悪いが、俺の勝ちだな」

 ウォルの右腕が持ち上がり、何とか地面から引き抜いた剣が、天を向いて突き上がる。柄は固い地面にぶつかり、それより下に行くことはない。剣は、地面に固定された。
 その上に、狼は覆い被さってしまった。そうなるように、ウォルが狼を誘ったのだ。
 ずぶりと、分厚い毛皮と筋肉が切り裂かれていく感触。
 狼の腹を突き抜けた切っ先が、血に塗れて背から顔を出す。
 ウォルの左腕から口を放した狼が、喉笛に向けて首を伸ばすが、一寸ばかり遠い。無念に何度も歯噛みし、大量の血を吐き出し、ウォルの顔を濡らした。
 短い唸り声の後で、狼の体から全ての力みが消えたのを、ウォルは感じた。
 ウォルは静かに目を閉じた。刹那の黙祷は、命を賭して戦った相手への、せめてもの礼儀である。そして狼の死骸を払いのけ、震える膝を叱咤して立ち上がった。
 血塗れの立ち姿である。全身が傷だらけで、纏った絹衣は返り血と自らの流した血で真っ赤に染まり、べったりと身体に張り付いている。特に傷が酷い左腕は、狼の大きな牙でずたずたに切り裂かれ、まるで絞ったボロ雑巾のような有様である。
 それでもウォルは立っていた。
 そして生き残った狼の群れに対して大音声で叫ぶ。

「貴様らの長は死んだぞ!それでもまだ不毛の戦いを続ける気か!」

 覇気に満ちたウォルの叫びに、傷付いた狼たちは為す術もない。
 尾はまるで怯えた飼い犬のように垂れ下がり、卑屈な視線には戦う意思の欠片もないのだ。
 まるで人間がそうするように顔を見合わせた後、一斉にウォルに背を向けて逃げ出した。自分達がもと来た、門の方に向かって。
 これで戦いは終わったのだ。
 ウォルは、そう思った。



 狼が、這々の体で逃げ帰っていく。
 もう、群れとは言えない有様だ。しかも生き残った狼も、全てが大なり小なりの手傷を負っている。
 勝負は決した。少女の勝ちだ。
 観客は呪いの言葉を天に向かって叫び、ケリーとジャスミンは一抹の安堵を味わった。
 しかし。

「まぁ、前座はこのくらいが良いでしょう」

 アーロンは、異様な角度に頬を釣り上げ、笑っていた。



 門の付近の観客は、逃げ帰ってくる狼に向けてあらん限りの罵声を浴びせていた。

「あのような小娘に追い散らされるとは何事だ、この犬っころどもめ!」
「聖女ヴェロニカの恩寵を忘れて儀式を放り出すとは、地獄に堕ちて詫びるが良い!」
「戦え!小娘はもうぼろぼろではないか!情けない畜生ども、なんなら俺が代わってやろうか!」

 自然への愛護と尊敬を旨とするヴェロニカ教徒とは思えない、聞くに堪えない罵声が飛び交っている。
 今、彼らにとって最も重要なのは小憎たらしい生け贄の小娘を血祭りに上げることであり、そのために狼が何匹死のうが知ったことではないのだ。
 だがそんな事情は、狼の方こそ知ったことではない。群れの仲間の大半が斬り殺され、リーダーも失い、自分達も少なからず手傷を負っている。今にも背中とくっつきそうなくらいに腹は減っているが、命を失っては元も子もない。彼らの生存本能は、一刻も早くあの危険な敵から離れることを優先した。
 ひょこひょこと情けない様子で駆け戻ってくる狼に、会場から様々な物が投げつけられる。中には興奮して、紙幣のたっぷりつまった財布を投げる観客すらいた。
 それでも、観客全員が手のつけようもないほど興奮していたかというと、そうではない。ごく少数ではあるが、この事態を客観的に見ることが出来る者もいた。
 さて、どうするのか。教団としてもこのような事態は想定外のはずだ。だいたい、あんなか細い女の子が剣を一本持ったところで、狼の群れを撃退するなど誰だって思いもよらないはずである。しかし、それがなってしまった以上、このままでは儀式が立ちゆかない。
 人間の罪を背負った巫女の血肉を捧げて大自然への御礼とするのがこの儀式の主旨であるとするならば、罪の具現である巫女が大自然の具現である狼を退けてしまったとき、儀式はどのような意味を持つのか。人間の力は偉大であり、大自然など恐るるに足らないという結論か?いや、そのような結論を出してしまったのでは、ヴェロニカ教の存在意義が問われかねない。
 それとも、銃殺するなり何なりして、あの少女を殺してしまうのか。だがそれでは、人形に肉を詰めて生け贄の代わりとしていた旧来の回帰祭と何ら変わるところがない。人形の代わりに死体を捧げるだけではないか。
 この事態をどう収めるのか、むしろ楽しげに闘技場を見下ろしていた男の一人が、僅かに顔を顰めた。

 ──なんだ、この臭いは。

 闘技場から漂ってくる、血生臭さとは違う不快な臭気。
 いったいどこから臭っているのか、何の臭いなのか、それすら分からない。敢えて言うならば肉の腐った臭いに近いのだが、もっと鼻の奥を痛烈に刺激し、吐き気を催す臭いだ。
 男はとっさにハンカチで鼻を覆った。男に少し遅れて、喚き騒いでいた観客のほとんどが臭いに気が付き、ざわめきながらも男と同じようにハンカチを取り出した。
 しかし、ハンカチで鼻を覆っても、いっこうに臭いを遮ることが出来ない。むしろ臭気はどんどん濃密になり、目を開けているのもつらいほどになっている。
 数人、特に女性が多かったが、臭気に耐えきれずに嘔吐した。びちゃびちゃと吐瀉物が撒き散らされ、それを見た他の観客も耐えきれずに嘔吐する。
 反吐の臭いが正体不明の臭気に混じり、悪臭は耐え難いまでになっている。蹲り咳き込む男、煌びやかなドレスを吐瀉物塗れにする淑女、辺りはさながら阿鼻叫喚の地獄絵図だ。さきほどまで自分達が、命を賭して戦っていた狼相手に気の大きな罵声を浴びせかけていたことなど忘れて、混迷はどんどん拡大するばかりであった。
 そんな中、最初にハンカチで鼻を押さえた男は、涙で滲む視界の中に、はっきりと見た。
 逃げ帰ってきた狼たちを捉えようと、門の奥の闇から伸びる、何本もの腕の群れを。


 
 臭気は、主賓席に座るケリーとジャスミンのところまで届いてきた。
 流石に吐き気を催すほどの悪臭というわけではないが、それでも心地良い香りというわけでもない。二人とも、臭気に耐える訓練は十分に積んでいるので、眉一つ動かすことはなかったが、この臭いの源がどこで何が原因なのかを確認するべく首を巡らせた。
 一番騒ぎが大きいのは、ウォルが入場した門とは反対側、狼たちが飛び出てきた方の門の付近にいる観客連中だ。ということは、あの付近に臭気の元凶があるということか。
 それとも、もしかすると。

「おい、女王。何かおかしいぞ」

 ケリーに言われるまでもない。ジャスミンは、確とその異変に気が付いていた。
 ウォルに敗れ、門へと逃げ帰ってきた狼たちの足が、ぴたりと止まったのだ。そして、門の奥の濃い闇に向けて牙を剥きだし、唸り声を上げている。
 その様子を見て、二人は理解した。おそらく、あの奥に何かがあるのだ。このように不快な臭気を撒き散らし、狼たちを怯えさせる、何かが。
 そう思った瞬間である。
 門の奥の闇から、冗談のように長い緑色の腕が何十本も突然に伸びてきて、生き残った狼たちの全てを一息で捕らえたのだ。
 そのあり得ない光景に、観客達は騒ぐのを忘れて見入っていた。
 百戦錬磨のケリーやジャスミンですら、目の前の光景がいったい何なのか、理解出来なかった。
 
 ──え゛、え゛、え゛……

 地の底から響くような奇怪な声が、闇の奥から近づいてきた。


 
 その光景を、ウォルも勿論見ていた。
 先ほど、自分をあれだけ苦しめた狼たちが、緑色の腕に捕らえられ、悲しげな鳴き声をあげながら宙づりにされている。
 そして、腕の付け根は、いまだ暗い闇に閉ざされて何も見えないのだが、そこにいる何かがゆっくりこちらに近づいてくるのを、ウォルは感じ取っていた。
 然り、不気味な鳴き声のようなものが、闇の奥から響いてくる。まるで、地獄の亡者が、怨嗟と後悔に噎び泣いているような、禍々しい声。
 同時に、ずん、ずん、と、闘技場そのものを揺るがすような振動が、徐々に、徐々に大きくなってくる。

 ──来る。

 そう思ったとき、一際濃密な臭気が、ウォルの鼻を叩いた。
 
「ぐっ……!」

 ウォルですらが思わず鼻を覆ったその悪臭は、間違いない、人の屍肉の腐り落ちていく臭いであった。



 それは、緑色の粘液に覆われた、巨大な赤子であった。
 少なくとも、その物体を見た者が最初に抱いた印象は、そうであった。
 体格に比して大きくぱんぱんに膨れあがった頭部。四つん這いになった短い手足。丸みを帯びた体つき。
 しかしそれは、どこからどう見ても赤子などではない。
 あまりに巨大な体は、四つん這いになった姿勢でも観客席に届かんばかりである。観客席が闘技場から4メートルほども高い場所に作られていることを考えれば、ほぼそれに近いだけの巨体を有していることになるだろう。
 そして全身を覆う、岩礁に付着したフジツボのような、面皰状の吹き出物。その先端から、摺り下ろした山芋のような緑色の粘液が垂れ落ち続けている。ウォルはそれが、病的なまでに変色し腐敗した膿であると見て取った。つまりあの赤子のような生き物は、全身の体組織を腐らせ、膿として滴らせながら、それでもまだ生きているのだ。
 さらに一目で異常だと分かるのが、全身から生え出た、赤子自身の体の大きさからすればまるで体毛のように見える、無数の腕である。ゆらゆらと、まるで海中に揺らめく藻屑のように宙空を漂っている。
 耳まで裂けた大きな口。目は極端に小さく、普通の人間サイズの目玉が二つ、顔のほぼ中央に付いている。耳や鼻と思われる器官は頭部のどこにも見当たらない。
 一見すれば巨大な赤子のようにしか見えないその生き物であるが、その子細を観察した後に名を与えるならば、相応しい呼称はたった一つだけであった。
 怪物、と。



 怪物は、大きく口を開けた。
 そこに、例えば肉食獣のように鋭い牙があるわけではなかった。しかしその代わりに、まるで石臼のように巨大な乳歯が口中にびっしりと生え揃っていた。
 その口の中に、怪物は、先ほど捉えた狼の一匹を放り込んだ。狼は、まるで飼い犬のような甲高い声で心細げに鳴き叫んだが、怪物が口を閉じると何も聞こえなくなった。
 そして怪物は、口に入れた狼を咀嚼し始めた。人で言うところの顎が大きく動き、口の端からぶじゅぶじゅと泡立った血を噴き出す。憐れな狼は石臼に挽かれた麦粒のように、骨を押し潰され、肉をすり潰され、唾液と掻き混ぜられて、もはや原型を止めないババロアのような物質となっているに違いなかった。
 そのババロアを嚥下した怪物は、まだ空腹が収まらないのだろう、他の狼を喰うべく口を開いた。露わになった口の中は、かつては狼だった血肉に塗れて、真っ赤に染まっていた。
 そこに、何の躊躇いも慈悲もなく、次々と狼を放り込んでいく。後は同じだ。狼の悲鳴は口を閉じられたときに消え失せ、顎を数度上下させると湿った音が辺りに響き始め、じきに血肉の入り交じったぶくぶくが怪物の口から垂れ落ちた。

「え゛、え゛、え゛……げぶぅ……」

 怪物は、満足げにげっぷをした。そしてその小さな瞳を、この場にいるもう一匹の獲物に──ウォルに向けた。

「お゛、お゛、お゛、……」

 腕を前に出し、足を引きずるようにして前進する。それは、赤子がハイハイする様子と寸分変わらない。しかし、前に進もうと体を捩る度に巨大な面皰がぷちぷちと音を立てて潰れ、芯状の黄みがかった肉塊と、緑白色の粘液を撒き散らす。その粘液が、まるでナメクジが這いずったかのように、どろりとした跡を地面に残した。
 
「あ゛、あ゛、あ゛……」

 ウォルは剣を杖のように地面に突きつつ、大腿骨の折れた左足を引きずりながら後退した。
 ひょこひょこと、普段の彼女からすれば考えられないほど遅々とした歩みである。無理もない。大腿骨の折れた左足はもちろん、右足の親指も複雑骨折をしているのだ。片足を引きずりながらでも歩けるというのは、常人離れした精神力の賜である。
 しかし怪物の這う速度は、ウォルの歩み寄りもなお鈍重であった。亀が歩むよりも、あるいはまだ遅く見えるほどのスピードである。
 それを見た観客の男が、じれたように叫んだ。

「何をしている、この化け物!さっさとその小娘を喰ってしまえ!」

 そして手にした杖を怪物に向けて放り投げた。
 男にしてみれば、その正体不明の怪物も、この儀式の演し物の一つとしか思えなかったのである。そして、先ほどの狼も同じだが、自分達はこの儀式の観客であり、当事者ではないと信じ切っていた。
 それが不味かった。
 男の投じた杖は見事な放物線を描き、怪物の頭部に命中した。
 怪物の大きさからすれば、木立から落ちてきた小枝が頭に当たった程度のことでしかないだろう。
 だが、怪物は激怒した。
 その巨大な頭部をくるりと向け、

「お゛お゛お゛お゛お゛っ!」

 初めて見る者にもはっきりと分かる程の憎悪で満面を赤く染め、体中から膿を噴き出しながら、驚くべき速度で男に向かって這っていったのだ。
 男にとって不運だったのは男の席が観客席のほぼ最前列にあったことだろう。
 怪物は一息で高い壁を這い上り、無数の腕を男に向けて伸ばした。

「えっ?」

 自分に向かって伸ばされる緑色の腕を、男は、間の抜けた声を出しながら見守っていた。

「違う!私じゃなくて、あの小娘を……!」

 恐怖よりも理不尽な怒りに駆られた男がそう叫んだのと同時に、腕の群れは男の体を掴み、宙高く持ち上げた。
 その時点で初めて、男の顔に恐怖が浮かんだ。

「おい、何を、何をする!無礼だぞ!私はプジャ州の州知事だぞ!貴様、分かっているのか……」

 怪物が、大きく口を開けた。
 サメのように幾重にも生え揃った乱ぐい歯と、巨大な海生生物のような舌が露わになる。
 怪物は、自分を侮辱した憎むべき敵を、決して許すつもりはなかった。一息で楽にしてやるつもりもなかった。
 まだ何かを喚き散らしている男の叫びを完全に無視して、男の下半身だけに齧り付いた。

「な、なにを、やめんか、この、やめ、う、ぎぃあぁぁぁぁっ!」

 ばきばきごきりぶちぶち。

 男の周囲に座っていた観客は、男の絶叫と共に、筆舌に尽くしがたいほど不吉な音を聞いた。
 それは、決して後戻りが効かないほど徹底的に、人の体が破壊されていく音だった。

「やめろやめろやめろやめてくれぇぇぇぇ!」

 男が、涙と鼻水と涎を流しながら叫ぶ。
 怪物が、ゆっくりと口を放した。
 男の下半身は、さながらビーフジャーキーのように平べったく熨され、骨と肉の境が無くなり、ずたずたに引き裂かれ、血に染まって真っ赤だった。
 それは、すでに人であることを止めてしまった人の体だった。
 誰が見ても、もう男が助からないことは明らかだ。
 それでも男自身だけは、まだ生きることを諦めていない。俺が悪かった、助けてくれと、譫言のように繰り返し、両腕で宙を掻き毟っている。

「いやぁぁっ、あなた、あなたぁぁぁ!」

 そう叫んだのは、凄まじい衝撃に呆然としていた、男の妻である。
 男にとって不幸だったのが、投じた杖が怪物に命中したこと、そして席が最前列にあったことだとすれば、その妻にとって不幸だったのは、怪物の食事が終わる前に虚脱状態から回復してしまったことだろう。
 狂乱した妻の前で、怪物は、もう一度男の下半身に食いついた。そして、男の上半身を、無数の腕で力任せに引っ張った。
 ぶちぶちと、肉のちぎれる音が響いた。骨の砕ける音がしなかったのは、既に折れ砕けるほど原型を止めた骨が存在しなかったからだろう。
 そして男は上半身だけになった。
 切れ目からは、あまり血は噴き出していない。ただ、千切れた大腸や小腸が、ぶらりと間の抜けた様子で垂れ下がっていた。臓物の切断面から、血と一緒に糞便がぼたぼた零れ落ちた。
 それでも男は生きていた。今は目と鼻と口から血を噴き出し、少し笑っているような表情で、ぶつぶつと何事かを呟いている。
 
「私の夫に何をするのっ!放して、放しなさい、この化け物っ!」

 妻が、手にしたハンドバッグを投げつけた。怪物と妻とは目と鼻の先の距離である。的を外すはずがない。そのような幸運は、妻のは存在しなかった。
 ぎょろりと、怪物の小さな瞳が妻に向けられる。
 後は、言うまでもないだろう。当然の結果がそこにあっただけだ。
 怪物は、夫婦の入り交じった血肉を何度も咀嚼して、飲み下し、満足げにげっぷをすると、再び祭壇へと降りていった。
 怪物の双眸が、再び傷だらけの少女を捉えた。
 


 観客席は凄まじいパニックになった。
 先ほどまでは残酷なショーを楽しむだけの観客だったのが、殺戮の当事者となる可能性のあることをまざまざと見せつけられたのだ。今の今まで自分の命を危険に晒したことのない一般人にとって、これほどの恐怖は他にない。
 泣き叫ぶ者、茫然自失に陥る者、我先に逃げ出そうとして出口に詰めかける者、様々な人間がいたが、その顔からは一様に平静さが欠けている。完全にパニックを起こしている。
 
「見苦しいものですな。先ほどまであれほど少女の死を望んでおいて、それがいざ自分の身に降りかかるかも知れないとなれば、斯くも狼狽する……。神に信仰を捧げた敬虔な信徒のはずが、全くもって嘆かわしいものです」

 アーロンは心の底から侮蔑したようにそう呟き、立ち上がった。
 
『どうぞ落ち着いて下さい、信徒の皆さん』

 声が、まるでスピーカーで増幅されたように、観客席の全てに響き渡った。
 アーロンは、マイクの類は一切使用していない。つまり、自らの異能で、声を会場の隅々に響くまで拡大させているのだ。
 
『あれは決して恐ろしい怪物などではありません。この儀式のために神が使わされた、神聖なる使徒なのです。その証拠にほら、無礼を働いた観客に誅罰を与えた後は、皆様に一切の危害を加えることなく、既に闘技場に戻っているではありませんか』

 半狂乱だった観客の全てが、呆けた様子で闘技場に目を遣る。
 そうすると、なるほど確かにあの怪物は他の観客に目を向けるでもなく、生け贄の少女に向かって這いずって行っているのだ。
 もしもあれが、単純に食欲を満たすために暴れ回るだけの生き物ならば、むしろ観客席にこそ多くの餌があるのだから、そちらを狙うのが普通である。
 では、大統領の言葉通り、あれは自分達に危害を加えるものではないのだろうか。

『皆さん、御使いのお姿を履き違えてはなりません。あの醜い外見は、御使いの本質ではなく、寧ろ我らの罪そのもの。罪を背負った我らであるからこそ、本来は輝かしいまでの美を放つ天使が、あれほど醜悪に映るのです。御使いのお姿を濁らせているのは、我らの魂そのものなのです』

 その場凌ぎでまかせ、全くの詭弁である。
 しかし、アーロンの声は、理屈を抜きにして人を惹き付ける強烈な魅力──俗な言葉で表すならばある種のカリスマと呼ぶべきもの──に満ちていた。
 普段であればそれに抗うことの出来る人間も、このような異常事態を目の前にすれば、冷静な判断を下すことなど出来るはずもない。そして、自らの判断を放棄した人間は、本能的に誰かの指示命令を欲するものなのだ。
 であれば、誰がその声に抗うことが出来ようか。まして、その声はこの国において最も強大な権力を有する指導者の声であるというのに。
 
『赤子の姿は我らの無垢性を、撒き散らされる腐った体液は我らの罪を体現しておられるのです。そして御使いは穢れの巫女と一体になり、我らの罪と共に天へと還られるのです。その奇跡を、皆さん、決して恐れてはなりません。目を逸らしてはなりません。どれほど惨たらしくとも確と見届け、その奇跡を民衆へと伝えるのです。それが、この場に集まった高貴な方々に課せられた使命なのです』

 アーロンの涙声が会場に響いた後、そこには、先ほどまでの騒乱が嘘のような静けさがあった。
 逃げ出していた観客も静かに自分の席に戻り、そこに座り、闘技場に向けて祈りを捧げていた。この場にいた全ての人間が、静かに祈りを捧げ、祝詞を呟いていた。
 その様子を、椅子に腰掛けたアーロンは、片頬を歪ませながら見下ろした。

「人は自らの信じたいものを信じる生き物だというが、正しくそのとおりですな。見て下さい、ケリー、ジャスミン、あの醜悪で不快な臭気を撒き散らす生き物の、どこをどう見れば神聖なる神の御使いに見えるのですか。見えませんよ。あれはどう見ても地の底から蘇った亡者の類です。しかし、彼らは今日の出来事を、神の奇跡として伝えるのでしょう。滑稽だ、喜劇だ、お笑いぐさ以外の何物でもない……!」
「そうか、安心したぜ。あれは、あんたのところに降臨した天使なんかじゃないわけだ」
「ええ、勿論ですとも」
「じゃあ、あれは何だ。俺はこの年になるまで海賊として宇宙を駆け回り、クーアカンパニーの経営者として多くの物事を見てきたが、あんな気持ち悪い生き物を見たのは初めてだぜ。まさかてめぇ、本当に地獄の亡者をひっ捕まえてきたのか?」

 アーロンは、ケリーの方を向いて、にっこりと微笑んだ。

「まさか。あれは、ただの人間ですよ」

 ケリーとジャスミンは息を飲んだ。
 
「……馬鹿な。あれが人間だと?冗談も休み休み言いやがれ」
「冗談などではありませんとも。ええ、そうですね、確かに今はただの人間などではない。全身を腐らせ、それでも生き長らえる、おぞましく醜悪な肉塊です。でもね、あれは二週間前までは、本当にただの人間だったのですよ。私が、そのことを一番よく知っている。誰が否定したとしても、私だけが、この世で只一人、それを保証できる……」
「貴様だけが……保証出来るだと……?」

 その言葉が、先ほどのアーロンとの会話をケリーに思い出させた。
 そうだ、確かこの男は、こう言っていたのではなかったか。
 これはただの儀式などではなく、最後の子孝行である……。

「貴様、まさか……」

 アーロンは、堪えきれないというふうに笑っていた。



 怪物が、ウォルを目指してじりじりと近づいてくる。
 四つん這いの体勢でも、その怪物とウォルとは倍以上の身長差があるのだ。体重差でいえば果たして何十倍、何百倍の差があるのか想像も出来ない。ウォルの視点からすれば、怪物の歩み寄る様は、肉の壁が己を押し潰そうと迫ってくるに等しい。
 悪夢のような光景であった。しかしこれは悪夢ではない。悪夢よりなお残虐な、現実なのである。
 だとすれば、自分はあの怪物に黙って喰われてやるわけにはいかないのだ。何としても生き延びなければならない。

「え゛、え゛、え゛……」

 怪物が、鼓膜を腐らせるほどに不快な声で嘶く。嘶きながら追いかけてくる。
 それならば、今は足を止めないことだ。ウォルはそう考えた。
 足を動かす。いや、もっと端的に言うならば、逃げ続ける。それも、直線に逃げるのではない。この闘技場をいっぱいに使って、円を描くように逃げるのだ。
 ウォルは、逃げた。足を動かす度に思わず呻き声が漏れ出すような激痛が走るが、それでも逃げた。剣を杖代わりにしたその様子は、負け戦のしんがりを務める敗残兵にも似ていた。
 それでいい、とウォルは思った。
 どれほどみっともなくとも構わない。潔い死や名誉の自決などに比べれば、精一杯に足掻いて足掻いて足掻きまくって生きるほうがどれほど上等だろう。
 生きることだ。決して諦めないことだ。そうすれば、何か状況が変わるかも知れない。しかし、死んだらそこまでなのだ。その先でどれほど状況が変わろうとも死という結果を覆すことは誰にも出来はしない。
 だからウォルは逃げた。全身に刻まれた深傷が、心臓の拍動と共に、皮膚を食い破らんばかりの様子で痛み続ける。失血は体温を奪い、意識を朦朧とさせる。朦朧とした意識は、決意や信念を容易くへし折ろうと、耳元で甘く囁くのだ。
 もう、いいじゃないか。
 もう、休もう。
 お前は十分に頑張ったよ、と。

「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……くそっ、ふざけ、るなよ……!」

 駄目だ。生きる。俺は、生き続ける。その義務がある。
 この体が俺のものならば、諦めるのも良かろう。恥辱を受ける前に自裁するのも一つの選択肢で、それは、あるいは俺の権利なのかも知れない。人は自分の人生に終止符を打つ権利を、誰しもが有するのだと、そう主張する人間もいるだろう。
 だが、この体は俺のものではないのだ。俺が借り受けているだけなのだ。だから、間借りしているだけの俺は、最後の最後まで足掻き続ける義務がある。
 滲む視界に活を入れ、よろよろとした足取りで逃げる。ちらりと後ろを振り返ると、怪物はやはり鈍重に這いながら、自分の後を追っている。

「お゛、お゛、お゛、……」

 怪物の、開きっぱなしになった口から、呻き声と一緒に緑色の涎が垂れ落ちる。おそらく、怪物はその口中も腐らせているのだ。あの分では、内蔵も、おそらく脳も、全てが腐りつつあるのだろう。そんな脳みそで、複雑な思考が出来るはずがない。
 それならばしめたものだ、とウォルは思った。あの怪物は、それほど知性が高くないのかも知れない。単純にこちらの後を追ってくるだけ、まるで生まれたてのヒヨコのように。
 これでもし、あの怪物が狼程度に賢ければ、巨体を利用して徐々に自分を追い詰めることも出来ただろう。しかしそんな様子は微塵もない。なら、こちらが円を描いて逃げ続ける限り、そう易々と追いつかれることはない……。
 そこまで考えて、ウォルははたと気が付いた。
 
「……どう、して……」

 ぜぇぜぇと喘ぎつ喘ぎつ、途切れ途切れの思考をつなぎ合わせていく。
 おかしい。そうだ、どう考えても腑に落ちない。
 先ほどあの怪物は、自分に危害を加えた観客に対して怒り狂い、あまりに惨い有様で喰い殺した。
 あの時の、寒気がするような怒りの咆吼と、目を見張るほどに俊敏な動き。
 もしもあの速度の半分も出すならば、今の自分では容易く捕まってしまうだろう。なのに、どうしてあの怪物は、こうものったりとした様子で自分を追いかけているのか。
 
「あ゛、あ゛、あ゛……」

 怪物が、叫ぶ。叫びながら、ウォルを追いかけてくる。一心不乱に、母を追いかける赤子のように。
 ウォルは、その叫びが、何故かひどく悲しげに聞こえた。
 振り返り、もう一度怪物をよく観察する。
 緑色に腐敗し続ける巨大な頭部。そのほぼ中央にある、探さなければ見落としてしまうほどに小さな、普通の人間ほどの大きさの目。きょろきょろと不安定に動き、まるで体とは違う意思を持っているかのよう。
 そういえば、と、ウォルは思った。
 あの瞳。あの緑色の瞳は、どこかで見覚えがある……気がする。
 瞳の色など、あまりにもあやふやで、かつありふれていて、それだけで個人を判別できるほどウォルも器用ではないのだが、しかしどこかで見覚えがある。見れば見るほど、そう確信できる。

「え゛、え゛、え゛……お゛、お゛、お゛……あ゛、あ゛、あ゛……」

 その瞳が、はっきりとウォルの方を見た。初めて怪物とウォルの視線が交わる。
 怪物は、何かを訴えかけていた。視線だけで、ウォルに、何かを懇願していた。
 
「え゛え゛……お゛お゛……あ゛……」 
  
 そして、ウォルは全てを理解した。
 自分を追ってくる怪物。あれが、いったい何なのか。そして、どうして自分を追いかけてくるのか。
 ウォルは、痛みでも苦しみでも嫌悪でもなく、ただ哀れみに顔を曇らせた。

「……エレオノラ、か。そのような姿になっても、貴様は母親が恋しいのか。それとも、人を止めてもその性は変わらないのか。貴様の犯してきた鬼畜にも劣る所業を思えば当然の報いかも知れんが……あまりにも……あまりにも、憐れな……」
「え゛え゛……お゛お゛……あ゛ぁぁ……」 

 怪物の小さな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。



「お二方もご承知のとおり、この国には高度な遺伝子改良技術がありますからな。その中には、体細胞の成長を劇的に促進する遺伝子改良というものもございまして。生き物の体を大きくするだけならばそれほど難しいことではございません」

 アーロン・レイノルズは──今や怪物と成り果てたルパート・レイノルズの父親たる男は、頬を緩ませながら語った。

「むろんそれは作物や家畜などに使われてきた技術であり、人にそのまま応用できるものではないのですが……意外と上手くいったものです。なにせ、ああして今も元気に生きている」

 あまりのおぞましさに言葉を失っていた二人だったが、最初に激発したのは、かつて、自分のお腹を痛めて産んだ子を守るために獅子奮迅の戦いぶりを見せた、ジャスミンであった。

「貴様……自分の子供を何だと思っている!子供は、決して親の玩具ではない!まして、非道な人体実験の被験者に供するなど以ての外だ!」
「おや、ミズ・クーアは不思議な言い様をなさる。自分の子供に人体実験をするのが駄目ならば、人様の子供に人体実験をするのは問題無いということですかな?」
「問題をすり替えるな!それとこれとは話が別だ!」
「すり替えてなどいませんとも。私は、遺伝子改良技術と医学の発展のため、正しく断腸の想いで我が子をその礎に差し出したのです。民衆は良く言うではないですか。捨身の犠牲を尊ぶならば、まず為政者とその家族が犠牲に選ばれるべきである、と。だから私は涙を飲んだのですよ。それは賞賛されこそすれ、非難に値するものではないと思いますが如何?」
「詭弁を口にするな!どこの世界に、我が子を犠牲にしてそれを尊ぶ文明があるか!親は、子にとって最後の味方なんだ!どれほど愚かな子供でも、親は最後まで信じ守らなければならない!それを貴様……!」
「やめろ女王。この男に何を言っても無駄だ。この男は、スタート地点からして普通の人間とは違う。人並みの情や理屈を理解すること自体不可能なんだ。あんたがどれほど親の条理を説こうとも、この男にはどうしたって飲み込めないんだ。この男の理屈をあんたが理解出来ないのと同じでな」

 吐き捨てるようにケリーが言った。
 隠しきれない侮蔑に満ちたその言葉を聞いて、アーロンは嬉しそうに頷いた。

「正しく仰るとおりです、ケリー。私は普通の人間とは、そしておそらくあなた方とも違う価値観のもとに生きている。ですが、それはちっとも恥じるべきことではないはずだ。かの連邦大学でも、入学時にこう教えるそうではないですか。この世界で最も重要なことは、他者の個性を重んじそれを尊重することだと。ですから、これは私の個性なのですよ。誰に認めてもらおうとも受け入れてもらおうとも思いませんがね」

 ケリーは、心底うんざりとしたふうに、

「知ってるか、大統領。その理屈にはいくつも注意書きがあるんだが、一番大事なことは、他人に迷惑を及ぼさない範囲でしか認められないってことだ。そしてあんたはいの一番にその注意書きを破っているんだぜ」
「ええ、ええ、その通りですねケリー。しかし、私は今まで誰にも迷惑をかけた覚えなどありませんよ?」
「……ああ、そのとおりだな。あんたは清廉潔白さ、誰にも迷惑をかけずに今までを生きてきたに違いないぜ」

 頭痛色の溜息をケリーは吐き出した。

「しかし、解せねぇな。いくらこの国の遺伝子改良技術が優れているって言っても、それは他の大国に比べて見劣りしないっていうレベルでしかないはずだ。いくらマースやエストリアでも、世代を跨がずに個体のサイズをああまで肥大化させる遺伝子技術は開発出来ていなかったはずだが……」

 アーロンはしたりと頷いた。

「確かに、かの二大国とはいえ、そのような技術はまだ実現出来ていないはずですな。しかしケリー、私が息子に施術したのは、それほど複雑な実験ではないのですよ。遺伝子中に存在する成長因子を超活性化させ、分裂・増殖に関する制御機構を取り払ったうえで、当該遺伝子の運び役となるレトロウィルスを被験者の体内に注入しただけ。しかし、その結果があれです。僅か二週間の間に体長は約8倍、体重に至っては約500倍のサイズに成長しました。その分、あれはとんでもない大食漢でしてな、餌の確保には苦労させられましたよ」
「ちょっと待て、分裂と増殖に関する制御機構を取り払っただと?それはまるで……」
「ええ、その通りです。あれを構成する99パーセント以上の細胞が、所謂がん細胞と呼ばれるものに近しい性質を備えている。無論、そんな細胞が人の形を保てるはずがない。あの無数に生えた醜い腕は、どこかで遺伝子の転写にバグが生じた副産物でしょうな」

 ケリーは思わず息を飲んだ。
 がん細胞で構成される生き物だと?それは、生物として成り立っていない。そんな生物がこの世にいるはずがない。
 もしそんな研究が成功しているならば、それは即ち不老不死が実現することになる。

「言うまでもないことですが、がん細胞にはアポトーシス機能が欠如している。あれは、無限に増殖し無限に成長を続ける肉塊なのです」
「不可能だ。そんな生き物が、生き物として成立するはずがない。仮に試験管の中でそんな生き物を作れたとしても、三日も持たずに死ぬのが関の山だ」
「そうでしょう、普通の遺伝子操作ならば。しかしお忘れですかケリー、私には不可能を可能に変える、お伽噺の力が宿っていることを」

 ケリーは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、しかし内心では納得せざるを得なかった。
 なるほど、この男の、常識外れの出力を誇る特異能力があれば、たいていの不可能は可能になるのかも知れない。一夜で死ぬべき生命を生き長らえさせることも可能だろう。
 だが、それを、人としての尊厳を奪われた我が子に対して使うのは、どうしても理解出来ない。それが例えば不治の病に冒された我が子大事というならばまだしも、この男は明らかな愉悦と共に行っているのだ。
 そんなケリーの内心を読み取ったかのように、アーロンは言った。

「私としても苦渋の選択でしたよ、ええ。目の前に、全身を腐らせながら、殺してくれ、殺してくれと懇願する我が子がいるのですから。しかし、我が子には最後まで生き続けて欲しいと願うのが親心。違いますか?」
「……あんたの言ってることは正しいさ。しかし、あんたの言ってることは根本的に間違えている。俺の言いたいことが分かるかい?」
「ええまぁ、一応は。しかし、私も本当に、あれには死んで欲しくなかったのですよ。そして、想いを遂げさせてやりたいとも思っていた。不肖の息子は、あの娘にたいそう執心していましたからね。今もきっと、花嫁を迎えに行く花婿の気持ちなのでしょうね」
「花嫁……ウォルがそうだというのか?」
「一度は結婚式を執り行おうとしたのに、逃げられてしまったと。悲しい、悔しい、何とかして取り戻したいと頼られたのです。ならば、親として、目の前で花嫁を奪われた不憫な息子の願いを叶えてやるのは当然の義務でしょう」

 ならば、あの怪物は、食料としてではなく番いとして、雌として、ウォルを求めているということか。
 そう言われて見てみれば、四つん這いになった怪物の尻の下に、まるで三本目の足のように巨大なペニスらしき物体が、大きく膨張し、黄濁した粘液を垂れ流している。
 つまり、あの怪物は、発情しているのだ。満身創痍で満足に歩くことも出来ず、剣を杖代わりに逃げる少女に対して。
 だから、本当ならば先ほど怒り狂った時のように、もっと早く動くことも出来るのに、あれほどゆっくりと追いかけている。
 きっと、逃げ回るウォルを少しずつ追い詰めるのを、少女の絶望を、楽しんでいる……。
 あまりのおぞましさに、ケリーは吐き気を覚えたが、同時に一つの可能性に気が付いた。
 それは、度を超した残酷さと、悲惨さに満ちた可能性だった。

「アーロン、もしもお前の言うとおり、あれがそういう意図をもってウォルをいたぶっているなら……お前の息子は、あんな姿になっても、まだ自我が残っているのか……?」

 怪物の父たる男は、さも当然というふうに頷いた。

「無論ですとも。人たる意思を奪ってしまえば、それは本当の怪物ではないですか。ケリー、私は冷血漢かも知れませんが、そこまで非道なことは出来ませんよ。人は、人としての意識を保ってこそ人たり得るのですからね」

 違う。逆だ。そう、ケリーは思った。
 あれほどまでに人から懸け離れた存在に成り果ててしまったのならば、人の意思を失って発狂することは、寧ろ救いである。それが、人間に残された最後の逃げ道であり、尊厳を保つための方法であるはずだ。
 それなのに、その最後の逃げ道すらも奪われてしまったというのか……。

「私は、あれの意識が消えて無くなることのないよう、しっかりと処置をしたうえで治療を施しました。ただ、杖をぶつけられた程度で怒り狂い、何の躊躇もなく人間を喰らうあたり、すでに意識と体は切り離されてしまっているようですがね」
「意識と体は切り離される……」
「体は、食欲は性欲などの原始的な欲求のみを求めて行動し、精神はそれを為す術なくじっと傍観している……。あれの全身は、がん細胞に類似する細胞で構成されています。がん細胞、つまり無限に増殖しようとする細胞は、そのため常時大量のエネルギーを必要とする。つまりあの怪物……失礼、我が愛息子は、慢性的で強烈な飢餓感に苛まれているのですよ。そんな状態では、例えば同族の肉を食べてはいけないなどの禁忌感は、何の役にも立ちません。しかし、精神はそれを強く拒絶しようとする。そこに肉体と精神の乖離が生まれるのです」
「同族の、肉だと?」
「はい。不思議に思われませんでしたか?この惑星ヴェロニカの上で、どうやってあれほど巨大な生き物を養ってきたか。当然ですが、短期間にあれ程の成長を促すには、大量の餌、動物性タンパク質が必要です。しかしこの惑星ヴェロニカでは、いくら大統領とはいえ、息子に肉を食わせれば職が危うくなるそうなので。まぁ、自然から収奪しないかたちで肉を食わせる分には戒律に触れないだろうという苦肉の策から、人間の肉なら大丈夫かな、と……」

 そして、親は、子に、人肉食を強制したというのか……。

「幸い餌には困りませんでしたよ。息子はたくさんの少女を拉致監禁していて、その少女のほとんどが他惑星の出身、つまりヴェロニカ教徒ではありませんでしたからな。その少女達も、身内の恥を曝すようでお恥ずかしいのですが、我が息子に乱暴され純血を奪われてしまった憐れな娘達でした。であれば、不憫な少女達にとっても、これから好奇の視線の中で生き続けるよりは、いっそのこと──」
「もういい。貴様は、もうしゃべるな」

 喉から絞り出したように、ケリーは呟いた。
 もう、この男からどんな情報を聞き出したところで、胸くそが悪くなるだけだと悟ったのだ。
 アーロンも、鷹揚な調子で頷いた。別に気分を害したふうでもなく。
 そして、再び闘技場に視線を下ろす。

「ああ、なんだ、まだ鬼ごっこが続いていたのですか。いくら想い人と再会出来て嬉しさが先立つとはいえ、据え膳喰わぬは男の恥だというのに。まったく、お節介な親と笑われもしましょうが、少し手助けをしてやるとしましょうか」
「何だと!?」
「そういえば、先ほど、最後の狼を仕留めたときのペナルティをまだ頂いていませんでしたから、ちょうどいいでしょう」
「やめろ、てめぇ、やめやがれぇ!」

 ケリーの絶叫が、空しく宙に響いた。
 喜悦を浮かべたアーロンが、痩せた手を伸ばした。
 剣を杖代わりにした少女の、比較的無事だった右足の爪先が、真後ろに向けて半回転、ゆっくり捻られていった。



[6349] 幕間:餓狼
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/04 01:40
 ──走れ。

 ──走れ。

 ──俺は、走れ。

 ──今、走れ。

 ──走らなければならぬ。

 少年の頭に、たったひとつの命令が木霊していた。
 命じているのは、他ならぬ彼自身である。
 しかし、彼自身ではない。
 命じているのは、脳髄ではないからだ。
 それは、身体だ。人体を構成する60兆の細胞の尽くが、声を限りに叫んでいる。
 それは、魂だ。少年が少年として生を受けた後に培った魂が、少年が少年として生を受ける前に刻み込まれた魂が、喉を掻き毟りながら吠えている。
 それは、本能だ。少年の中に息づく少年以外の生き物が、己を取り囲む錆臭い檻に体当たりをしながら、怨嗟の声を撒き散らしている。手足に絡みついた鎖を振り回し、涙とともに慟哭している。

 ──走れ。

 ──走れ。

 ──走れ。

 ──足が砕けようとも。

 ──肺が張り裂けようとも。

 ──食い縛った歯が砕けて、血が吹き出し、その血で溺れ死のうとも。

 ──走らなければならない。

 ──誰のためでもない。

 ──他人のため?

 ──馬鹿を言え。そんな薄っぺらなもののために、どうして走らなければならないのか。

 ──走るのは、己のためだ。己を己であらせるために。己が誇れる己であるために。

 ──足が砕けようとも、肺が張り裂けようとも、体中の酸素を消費しつくして脳みそを死なせたとしても。

 ──俺は今、走らなければならない。

 ──存在の証明。

 ──今、この情けない足を止めれば、俺は俺でなくなる。俺が、俺に殺される。

 ──嫌だ。

 ──死にたくない、と思う。

 ──誰だって、死ぬのは嫌だ。死ぬことを受け入れた生き物は、すでに生き物ではない。

 ──亡者だ。

 ──生きながら死んでいる、この世でもっとも醜い存在だ。

 ──嫌だ。

 ──だから、走る。

 ──走り続けている。

 ──走り続けている、はずだ。

 ──もう、何百キロ走ったか。

 ──何十時間走ったのだ。

 ──それにしてはおかしいじゃないか。

 ──どうして俺は、いつまで経ってもあいつのもとに辿り着けないんだろう。

 ──いつまで走っても、辿り着けないんだろう。

 ──俺は、辿り着けないんだろう。

『そうだよ』

『辿り着けないよ』

『お前は、無理』だ。

『お前じゃあ、無理だよ』

『無理だって、言ってるのに』

 ──声が、した。

 ──なんだ、この声は。

 ──なんと甘やかで、なんと官能的で、なんと安らかな声だろう。

 ──魂を揺さぶる、母親のような声だ。全てを委ねて、すがり付きたくなる声だ。

『もう、お前は十分に頑張ったじゃないか』

『もう、無理だ。大丈夫、少しくらい休んでから行っても、大して結果は変わらないよ』

 ──駄目だよ。
 
 ──それでも、俺、急がなくちゃ。

 ──あいつを、助けなくちゃ。

『ははっ、笑わせる』

『お前が急いで何になる?』

『急がなければ、あの女が死ぬか?』

『じゃあ、お前が走れば、あの女が助かる?』

『お前が走っただけで?』?

『ははっ、それは自惚れにも程があるんじゃないのか?』

『お前は、何様のつもりだよ』

『自分の面倒だってもてあます半人前の分際で』

『口だけは達者に囀るものだな!』

 ──ああ、そうだ。その通りだ。

 ──お前の言う事は、至極もっともだ。

 少年は、朦朧とし始めた意識の片隅で、首肯した。
 自分がどれほど役立たずで、卑怯者で、唾棄に値する人間かなど、今まで散々思い知らされてきた。
 だから、声の言うことに、一言の不満もなかった。全て、言うとおりだと思った。
 そして甘やかな声は、なおも囁き続ける。少年の耳元をくすぐるように、優しく、優しく。
 少年の心を暗い方向に誘い込もうと、耳障りの良い言葉で、全てを分かっているふりをしながら、囁き続けるのだ。

『お前は本当に馬鹿だな』

『だいたい、少し考えれば分かるじゃないか』

『辿り着けないことくらい、お前が一番分かっているはずなのに』

『このまま走って、這々の体でたどり着いて、そのお前が一体何の役に立つっていうんだよ?』

『ここは一度ゆっくり休んで、それから歩いて行こうじゃないか』

『体力は温存するべきだ』

『そして、一番必要な時に爆発させるんだよ。そうしようぜ』

『そのために休むんだ』

『別に、しんどいから、辛いから休むんじゃないんだぜ』

『そんなこと、お前自身が一番良くわかっているだろう』?

『お前がちっとも卑怯者じゃないことくらい、俺達が知ってるからさ』

『だから、お前は一度立ち止まるべきだぜ』

 やはり、少年は首肯した。自分が役立たずであることなど、自分が一番知っている。
 目の前が真っ白で、吹雪の中で遭難しかけたことを思い出した。もう苦痛や疲労さえも彼から遠ざかりつつあった。
 地の底を這いずるように走りながら、少年は、雲の上を走っているのだと思った。

 ──ああ、この声は、天使の声か、それとも神様の声だ。

 ──俺を哀れんだ神様が、俺を慰めてくれているんだ。

 ──だから、ああ、そうだ。

 ──あなたの言う事はいちいち正しい。

 ──非の打ち所が無くて、感動的なくらいだ。

 ──それに比べて、この俺のなんと情けなく、なんと愚かしいこと。

 ──もう、ほとんど歩くのと変わらないような速度なのに、未練がましく走るふりをしている。

 ──舌を突き出した痩犬のような有様で、ふらふらと情けない様子!

 ──こんなざまであいつのもとに駆けつけて、何も出来ないことを知りながら、俺は走っている。

 ──そもそも、きっと辿り着けないことだって。

 ──走っている、ふりをしている。

 ──目が霞む。

 ──涙が滲む。

 ──絶望的に暖かい声が、壁のあちら側から滲み出してくる。
 
 ──大木のうろの暗いところに、洞穴の影の見えないところに、小さなきのこの傘の裏側に。

 ──大きな口が、小さな口が、大きな舌が、小さな舌が、無数に張り付いて、唇をめくり上げながら、笑っているのだ。

 ──舌と口が自分の周りを取り囲んで、けたけたと笑い転げているのだ。

『どうしてそんなに必死なんだ、お前は』

『まったく、滑稽な限りじゃないか』

『知っているぞ』

『それでも俺は優しいから、お前がどうしてそんなに必死なのか、知っている』

『お前は、ただ自分に言い訳するために走っているんだ』

『走るふりをしているんだ』

『俺は、精一杯やったさ』

『これだけ走ったんだ』

『こんなに辛い思いをしたんだ』

『だから、俺は悪くないんだ』

『赤く染まった少女の、うつろな死体の前で、そう懺悔するために、お前はよろよろと走るふりをしているんだ』

『そうだろう、インユェ』

『お前は、たったそれだけのために、苦行に耐えているんじゃないのか』

『なんたる無駄!』

『自己満足!』

『誰もがお前を笑い、蔑み、石を投げつけるだろう』

『誰だって、お前は意味のないことをしていると言う』

『気がつかないのか』

『みんな笑っているぞ』

『お前の浅ましい様子を、偽善者め!』

『偽善者め!』

『偽善者め!』

『偽善者め!』

『星も、木も、石ころも、森も、大地も、全部がお前を笑っている』

『腹を抱えて、指をさして、笑い転げているんだ』

 少年の近くから聞こえる優しい声が、みんな、そう言っていた。
 ぐるぐると少年の周囲を漂いながら、優しく少年を罵倒した。
 少年は、焦点の定まらない瞳を綻ばして、笑みを湛えながら、頷いた。

 ──ああ、そうだな。

 ──知ってるよ。

 ──俺が馬鹿で、くずで、どうしようもない役立たずだってことくらい。

 ──知ってるよ。

 ──知ってる。



 ──だからさ、黙れよ、俺。



 ──声は、消えてくれない。

 ──いつまでたっても、俺を優しく罵りながら、どうにかしてこの足を止めようとする。

 ──足は、鉛みたいに重たい。

 ──粘ついた空気は吸いにくくて、吐き出しにくくて、いつまでたっても肺の奥のほうに沈殿して、一向に酸素を分けてくれないしみったれだ。

 ──ちくしょう。

 ──みんな、俺の邪魔ばかりしやがる

 ──いつだってそうだった。

 ──俺はちっとも悪くないのに、みんなが俺の邪魔ばかりしやがるんだ。

 ──本当は、もっと上手くやれてたはずなんだ。

 ──みんなが俺の邪魔さえしなければ。

 ──運だって、悪かった。

 ──俺の前には、いつもいつも、姉貴がいた。

 ──強くて、賢くて、綺麗で、けちのつけようのない、姉貴がいた。

 ──いつもいつも、比べられてたんだ。

 ──ちくしょう。 

 ──あいつさえいなけりゃ、俺だって、少しはよ。

 ──少しはよ。 

 ──ヤームルも、いつも比べやがるんだ。

 ──一言目にはお嬢様、二言目にはお館様が生きていらしたら、お館様がご覧になったら。

 ──胸くそ悪いったらなかった。

 ──たまに、考えたさ。

 ──姉貴がいなけりゃ。

 ──ヤームルがいなけりゃ。

 ──俺はもっと、自由にやれてた。

 ──もっと、強くなれてた。

 ──あいつらがいたせいだ。

 ──あいつらのせいで、俺はこんなせこい人間にしかなれなかったんだ。

 ──あいつらのせいだ。

 ──俺はちっとも悪くない。

 ──いつだって、そうだった。

 ──いつだって、そうやって。



 ──言い訳ばかりしていた。



 ──違う。

 ──そうだ、言い訳を探していた。

 ──今日は、雨が降っているから。

 ──今日は、少し身体の調子が悪いだけ。

 ──明日やる。

 ──明後日やる。

 ──次は頑張る。

 ──俺のせいじゃない。

 ──俺が悪いんじゃない。

 ──俺は精一杯に頑張った。

 ──そう、言い訳をして。

 ──自分が守られているのを知りながら、誰からも背を向けていた。

 ──背を向けるふりをして、誰かにすり寄っていたんだ。

 ──姉貴に、ヤームルに、おふくろに、みんなに。

 ──そしてウォルに。

 ──この、卑怯者め。

 ──吐き気がする。

 ──もう、うんざりだよ。

「……ちくしょうめ」

 ──呟いてみた。二度。

「……ちくしょう……ちくしょう」

 ──言ってみた。三度。

「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……」

 ──叫んでみた!四度!

「ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……ちくしょう……!」

 ──くそったれ!ふざけやがって!ぶっころしてやる!

 ──どうして俺がこんな目に合わなきゃならねえんだ!

 ──やってられるかこんちきちょう!

 ──全部お前のせいだ、ウォル、この疫病神め!

 ──お前のことなんて、だいっ嫌いだ!

「……違う、嘘だ、大嘘だ……」

 ──そうじゃない!そうじゃないんだよ!

 ──ああ、もう、嘘を吐くのはやめだ!

 ──自分を偽るのはなしだ!

 ──誰に嘘を吐いたって、汚らしく騙したって、自分を騙し通せるはずがはずがないだろう!

 絶息寸前の少年の叫びは、囁き声と変わるところがない。
 誰の耳にも届かない、消え入るような声は、ただ一人、少年の耳にだけ届いた。
 少年の耳にだけは、届いてくれた。

「やい……ウォル……いいか……よく聞けよ……」

「俺は……お前に……惚れたんだ……」

「好きだ……」

「大……好きだ……」

「愛し……てる……」

「奴隷じゃ……なくて……いい……」

「お前が……俺の……ご主人様でも……構わない……」

「他の……女じゃ……駄目なんだよ……」

「お前が……お前だけが……隣に……いて……欲しいん……だ……」
 
 ──息を吐く代わりに、思い切り叫んでやる。

 ──そうすると、不思議なことに力が湧いてくる。

 ──もう少し、走ってみようと思う。

 ──あと一歩だけ、足を踏み出してみようと思う。

 ──そのために、叫ぶ。

 ──恥も外聞もなく、想い人を、愛していると叫び続ける。

 ──叫びながら、薪をくべるのだ。

 ──燃え盛る炎の中に、燃える物は何だって投げ込むのだ。

 ──それがどれほど醜いものでも、燃えてくれればいい。

 ──あの時の、赤面ものの失敗を、炎の中に投げ込んで。

 ──あの時の、情けない自分を、炎の中に投げ込んで。

 ──あの時の、自分に向けた殺意を、炎の中に投げ込んで。

 ──あいつを助けられなかった、あいつに守られるしか出来なかった俺を、炎の中に投げ込んで。

 ──今の、歩きながら走るふりをする、今の自分を投げ込んで。

 ──今だけは、お前の顔を、憎しみと一緒に思い浮かべてやる。

 ──それも、一緒に燃やす。

 ──情けない自分の声を、鼓膜から引き剥がして、火にくべる。

 ──断末魔の悲鳴が、良い気味だ。

 ──この、今にも燃え尽きそうな炎を、少しでも長く燃やしてやるんだ。

 ──一番重要なのは、火を絶やさないこと。

 ──火があれば、人は生きていける。

 ──人は、火で生きる獣だ。

 ──それが、例え己の内に燃え盛る炎であったとして、燃えてさえいれば凍えないですむのだ。

 ──だから、燃やせ。

 ──ありったけに燃やせ。

 ──今燃やさないで、いつ燃やすというのか。

 ──燃やして、燃やして、燃やし尽くして。

 ──最後に、自分の全てを。

 そして火種は燃え尽き、ほの赤い熾りを残すのみ。
 少年は、全てを失った。
 何もかもを無くした、黒焦げの死体になった。
 次の一歩で止まってしまう、止まってしまえば二度と動けない。そこで朽ちていくだろう。
 もう、何も無い。全てを燃やし尽くし、全てが灰がらになってしまった。灰は、崩れ落ちるだけだ。風に吹かれ、風に砕かれ、風の中に溶けて消え去る。

 ──駄目なのだろう。

 ──きっと、俺は、駄目になる。

 ──それがわかる。

 ──悔しくて歯を軋らせる。

 ──それでも、次の一歩が限界だ。

 ──恐ろしい。 

 ──次の一歩を踏み出した後、地を駆けることの出来なくなった自分が、恐ろしい。

 ──全てを諦めて、生きた屍となった自分の一生が、恐ろしくて恐ろしくてたまらない。

 ──体中の力が抜けて小便が漏れそうになる。

 ──どうすればいいのだろう。

 ──ああ、誰でもいい。

 ──どうか、俺を助けてくれ。

 ──助けて下さい。

 ──助けて下さい。



『──か?』



 ──声。

 ──どこからか。

 ──足を止めようとする甘やかな声ではなく、自分を笑う誰かの声でもなく。

 ──自分の知らない声が、しかし自分の一番近くから。

 ──自分の奥の奥の、一番奥の方から。

 ──まるで獣の唸り声のような。

 ──声が、聞こえる。

『──が、欲しいか?』

 ──欲しいか?

 ──ああ、欲しい。

 ──欲しい。

 ──そりゃあ、欲しいさ。

 ──眠たいことを言ってるんじゃねえよ。

 ──力が、欲しい。

 ──速さが、欲しい。

 ──あいつを助けられる自分が、欲しくて欲しくて堪らない。

 ──そのためなら、何だってする。

 ──魂だって、炉にくべてやる。

 ──悪魔にだって大バーゲンで売り渡してやる。

『なら、燃やせ』

 ──何を?

 ──もう、残ってないんだ。

 ──徹底的なくらいに、何にも。

 ──何を思いだしても、どこをかき集めても、次の一歩を走るための力が。

 ──残っているのは燃えかすばかり。

 ──燃えかすみたいな、俺ばかりだ。

 ──そんな俺に、何を燃やせっていうんだよ?

『まだ、残っているじゃないか』

 ──残っている?

 ──違う。

 ──それは、勘違いだ。

 ──ここには、俺の中には、何も。

 ──何一つ。

『違う。残っている。たった一つだけ。一番重たくて、一番固くて、一番古い……』

 ──だから、さっきから何度も言ってるのに。

『思い出せよ、インユェ』

 ──思い出す?

『お前が、一番最初に覚えていることさ』

 ──一番最初?

『そして、力尽くで忘れたことだ』

 ──力尽く。

『そんなに怖がるなよ、臆病者』

 ──そうだ、俺は怖い。

 ──戦うのも、逃げるのも。

 ──生きることも、死ぬことも。

 ──俺を取り巻く、何もかもが。

『違う。お前が恐れているのは、そんな気の利いたものじゃなくて、たった一つの情景じゃないか』

 ──さっきから、お前はいったい、何を……

『肌を切り裂く寒風。宝石を鏤めたような夜空。月は、無い。草が風に流されて、ざぁざぁと耳障りに鳴く』

 ──それは。

 ──その、情景は。

『遠くに聞こえる、狼の遠吠え。近くに聞こえる、狼の唸り声。闇に浮かんだ、餓えに狂った瞳の群れ』

 ──知らない。

 ──俺は、そんなものは、知らない。

 ──一度だって、見たことはない。

 ──聞いたこともない。

『お前の、紅葉みたいに小さな掌を、誰が守ってくれていたのか』

 ──違う。

 ──違うんだ。

 ──あれは、姉ちゃんじゃあない。

 ──あんなに大きくて、あんなに恐ろしくて、あんなに狂っていて。

 ──あれは、ぼくのおねえちゃんじゃ、ない。

『あの時、お前は、自分の姉を、何と呼んだ?』

 ──おねえちゃん、こわい……。

『何と、呼んだ?』


 ばけもの。


 ──ああ。

 ──思い出した。

 ──全てを。

 ──そうだ、力尽くで、全てを俺は、忘れていたんだ。

 ──異形と化した姉が、狼の群れを次々と喰い殺していく。

 ──その、血塗れの有様。

 ──嬉しそうに牙を剥き出した顔。

 ──大地に溢れた血を啜る、じゅるじゅるという音。

 ──そして、月明かりに照らされた、巨大な体躯。

 ──恍惚と微笑んだ獣の顔。

 ──美しい体毛の先から、粘ついた液体がぼとりぼとりと垂れ落ちている。

 ──そうだ、恐ろしくて、恐ろしくて、堪らなかった。

 ──アレが、俺の姉ならば。

 ──俺も、姉と同じアレなのだろう。

 ──俺も、いつか、姉と同じように、喜びながら誰かの命を奪うのだろう。

 ──肉を喰らい、血で乾きを癒し、悦びの遠吠えを夜空に放つのだ。

 ──嫌だった。

 ──どうしても、嫌だった。

 ──だから、蓋をした。

 ──俺の中で一番頑丈な箱に、鎖をぐるぐると巻き付けて、鋼鉄の南京錠で鍵をかけた。

 ──そして、一番奥底に、海底に沈めて、見て見ぬふりを決め込んだんだ。

 ──自分は違う。

 ──姉とは違う。

 ──俺は化け物なんかじゃない、と。

 ──お前から、逃げ出した。

 ──自分から、逃げ出した。

 ──全てから。

 ──そうか。

 ──そうだよ。

 ──そうだったんだ。

 ──分かったよ。

 ──燃やすよ。

 ──これが、うまく燃えてくれるのか、とっても不安だけれども。

 ──燃えかすだらけの溶鉱炉の中に、錆の浮いた箱ごと投げ込んで。

 ──中から出てきた、暗紅色の煙を、灰一杯に吸い込んで。

 少年は噎せ返った。
 走りながら嘔吐し、口の端から黄色い胃液を垂らして、それでも次の一歩を踏み出して。
 そして、あまりにもよろよろとした様子で、少年は走る。走り続ける。
 遅々とした、なんとも頼りない足取りで。
 少年が、嘆く。もう、あらかたに燃やし尽くして、燃え殻になった少年が、嘆く。

 ──それにしても、ああ。

 ──この身体は、なんと走るに適さない、なんと醜いそれなのだろう。

 ──燃やすものも、ついに、無くなってしまった。

 ──どうすれば、間に合うのか。

 ──もう、こりごりだ。

 ──誰かを見捨てるなんて、誰かを守れないなんて。

 ──足が、欲しい。

 ──俺は、俺をあいつの元に運び届ける、足が欲しい。

 ──二本では足りない。

 ──三本は不安定だ。

 ──四本なんてケチくさいじゃないか。

 ──虫のように六本。

 ──蜘蛛のように八本。

 ──烏賊のように十本。

 ──もっともっと。

 ──もっとたくさんの足が欲しい。

 ──もしも俺に百足のように足があれば、これほど遅々とした歩みでも、あいつのもとに辿りつけるだろうに。

 ──涙が出そうになる。

 ──舌を出して喘ぎ、ふらつく足で一歩一歩。

 ──ああ、俺は、なんて不恰好な生き物なんだろう。

 ──人が万物の霊長だなんて、どこの誰が恥ずかしげもなく言ったのか。

 ──それが本当ならば、どうして俺はこんなにみっともなくて、惨めな思いをしなければならないのか。

 ──くそっ、くそっ、くそっ。

 ──一体どうすればいい。

 ──どうすれば、この鈍重な亀みたいな身体を、あいつのもとに届けてやれるんだろう。

 ──一刻も早く、一歩でも早く、一呼吸でも早く!

 ──足が、欲しい。

 ──たくさんの足が欲しいんだ。

 ──違う。

 ──欲しいじゃ駄目だ。

 ──欲しいじゃ、どうしたって間に合わない。

 ──持ってこい。

 ──間に合わせろ。

 ──騙して、誤魔化して、煽てて、振りをさせればいい。

 ──そうだ。

 ──ここに、あるじゃないか。

 ──百本には到底及ばないし、とても足とは言えない貧弱な様子だけど、もう二本。

 ──この肩から、阿呆みたいな様子で、ぶらぶらと。

 ──お前だけ楽しやがってと、二本の足の罵声を聞き流しながら、ぶらぶらと馬鹿みたいに。

 ──お前も働けよ、おい。

 ──不公平じゃないか。

 ──ならば、お前だ。

 ──お前が、足だ。

 ──今からお前は、足と呼ばれる存在になるのだ。

 ──彼女のように。

 ──姉のように。

 ──俺という存在を紡いでくれた、全ての祖先と同じように。

 ──自分の身体に言い聞かせろ。

 ──贅肉を筋肉と偽って、やせ我慢を信念だと偽って、自己満足を己の使命と偽って。

 ──それでも走り続けろ。

 ──命が果てるまで、走り続けろ。

 そうして、黒焦げの少年が走り始める。
 ありとあらゆるものを燃やす尽くした彼は、正しく黒焦げの死体そのものだった。

 それでも。

 黒焦げの死体が、息を吹き返す。
 ひび割れた唇が、血塗れの雄叫びをあげる。
 灰の中から、濡れ濡れとした生命が立ち上がる。
 少年は、駆けた。
 二本の腕を、前足に。二本の足を、後ろ足に。犬のように舌を出して喘ぎながら。
 生まれたての赤子のように。
 豹のように駆けた。
 いつの間にか、少年の衣服が、内側から張り裂けていた。少年の身体を、柔く豊かな毛皮が覆っていた。鼻が突き出て口は耳元まで裂け、ぞろりと巨大な牙が生え揃っていた。
 少年の頭部が、異形へと変じていく。
 四本の足は、最初から手ぐすねを引いていたかのように、少年の身体を疾き風とし、少年の魂を迅き雷とする。
 それは、既に少年と呼べる生き物ではなかった。
 四つ足で疾駆する少年は、既に少年ではなかったのだ。
 それは、獣と呼ばれるかたちであった。



[6349] 幕間:窮奇
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/04 19:09
 満月が、既に夜空の中央に鎮座していた。
 銃撃音の鳴り止まない山間の深い森、その正面にヴェロニカ陸軍の臨時司令部は設置された。
 辺りは、見渡す限りの荒野である。背の低い灌木と、まばらな草地以外、生命らしきものは見当たらない。その中に巧みに紛れ込むように、遠目では岩の一部にしか見えないようカモフラージュされた行軍用のテントから、不遜なテロリスト7名の捕縛作戦の司令が下されている。
 テーブルをぐるりと囲んで、いくつもの勲章を軍服に縫い付けた壮年の男が座っているのだが、その顔色は一様に厳しかった。任務中であるのだから当然と言えば当然であるが、自分を律する厳しさ以外に、屈辱を噛み苦渋を舐めるような表情が浮かんでいた。

『こちらチーム3!本部、応答を願います』

 通信機から、攻撃部隊の悲鳴じみた声が聞こえる。
 作戦指揮を司る、大佐階級の男がその声に応じた。

「状況を報告しろ」

 過酷な訓練に耐え抜いた猛者であるはずの攻撃部隊長は、誇りをかなぐり捨てたように情けない声で、

『駄目です!手持ちの武器で標的を仕留めるのは不可能です!』
「どういうことだ!相手は軽装備のテロリストではないのか!」
『違います!一人、恐ろしく巨躯の大男が、最新鋭の機械鎧と大型機関砲で武装し突進してきます!軽火器を中心とした我々の武装では、標的の機械鎧を破壊することが出来ません!重火器の使用許可を願います!』
「最新鋭の機械鎧だと!ばかな、テロリスト風情がどうしてそんなものを!」

 何故といっても仕方がない。報告が虚偽でなければ、現実に最新鋭の機械鎧で武装した敵がそこにいるのだ。そして、報告が虚偽である可能性は限りなく低い。
 ベネット大佐は歯噛みした。

「……それでも相手はたった一人だろうが!包囲し、一斉攻撃すれば制圧は可能ではないのか!?」
『既に何度も試みましたが、その度に何処からか、原始的な鉄の飛礫や剣による奇襲を受け、悉く失敗しています!加えて、敵にはスナイパーがいます!それも、恐ろしく腕利きの!この闇夜にも関わらず、まるで我々の動きの一部始終が筒抜けのような有様で、被害が拡大しています!』

 ベネット大佐は思わず言葉を失った。
 鉄の飛礫、そして剣による奇襲だと?ここは中世の騎士物語の世界なのか?
 スナイパーはともかく、闇夜に潜んだアサシンならば生命探査装置で炙り出して、蜂の巣に変えてやればいいだけではないか。

「生命探査装置はどうした!?まさか、ジャミングを受けているのか!?」
『違います!装置は正常に作動しています!しかし、我らと大男以外、人間大の生き物の反応を感知しません!この敵は、センサーでは捕捉出来ないのです!加えて、スナイパーがどこに潜んでいるのかも把握できません!』

 鉄の飛礫はともかく、剣を使用して奇襲を仕掛ける敵の場所が、生命探査装置を用いても把握出来ないとは一体どういうことだ。生命探査装置の目を誤魔化すための装備も無いではないが、心音、体温、二酸化炭素、それらの全ての生体反応を完全にシャットアウトする、被服サイズのステルス装置が実用化された話など聞いたことがない。

『被害は甚大です!既に、当部隊は作戦遂行能力を喪失しつつあります!このままでは全滅の可能性もあります!』

 ベネットは歯ぎしりをした。
 ヴェロニカ陸軍の中でも腕利きの精鋭で構成された対テロ部隊がこの有様とは……。
 事前の情報では、子供を含むほとんど非武装のテロ一味だったはずだ。それが、最新鋭の機械鎧に、生命探査装置の通用しない暗殺者、そして腕利きのスナイパーとは。
 どう考えても、作戦の前提条件に誤りがあったと考えざるを得ない。これは情報部の手落ちではないか。

「……仕方ない。一時撤退し、体勢を立て直せ。そこは聖地にほど近い森だ。重火器の使用には教団の許可を求めなければならない」
『……了解しました。一時撤退し、その後指示を仰ぎます』

 無念の声を最後に、部隊長は通信を切った。
 まったく、何と戦いにくい場所を戦場に設定してくれたものか。ベネットは舌打ちを零した。市街地であれば、対テロ戦はかえってやりやすい。テロの撲滅という大義名分の前に、一般市民の犠牲など考慮に値しないからだ。現場で動く兵士には別の意見もあるだろうが、大佐は少なくともそう考えていた。
 しかしこの森では、例えば相手が森に大損害を与える兵器を使用している場合などを除き、こちらから重火器の使用をすることが出来ない。自然保護を第一に掲げるヴェロニカ教団の、お膝元と言ってもいい場所なのだから。
 もしくは、もっと大規模の犯罪集団、あるいは他国からの侵略者を相手取っている等の事情があれば神の与えた規律も緩もうというものだが、相手はたった7人、しかも大型エアカーの輸送能力で賄える程度の武装しか有していないのだ。その相手を制圧するために森を痛めるような重火器を持ち出したとあっては、軍の威信が揺らいでしまう。
 何としても憎むべきテロリストを殲滅しなければ。このままでは、自分の経歴に拭えざる失点がついてしまう。
 ベネットは一度深呼吸をして、背後に設置された簡易寝台に寝転がった人影に向けて口を開き、

「……司令、お聞きの通りです。どうか、機甲兵、もしくは戦闘ヘリの投入許可を」

 人影は、ぴくりとも動かない。ただ、胸の辺りが一定のリズムで上下するだけだ。
 ベネットは、軍属の我が身を初めて不憫に思った。過酷な戦地で死を覚悟したことなど一度や二度ではない。愛しい我が子の顔を、半年も見られなかったこともある。しかし、それらは国家に忠誠を誓った大佐にとって、労苦ではあったとしても後悔を生み出すものではなかった。
 だが、今、部下が戦場を這いずり回っているこの瞬間に、仮にも自分の上役である男が、寝台に寝そべり高鼾を掻いている。どうして自分は、この男の眉間に銃弾を叩き込んでやることが出来ないのか。それは、偏に自分が軍人だからだ。国家への忠誠と、上官への服従を誓約してしまったからだ。
 噂では、この男は、軍の最高指揮官でもある現ヴェロニカ共和国大統領の懐刀であるという。そして、この作戦を成功に導くため、わざわざ派遣されたのだ。現場指揮官である大佐からすれば、厄介なお荷物を押しつけられたとしか思えない。
 
「……司令、聞いておられますか、司令」
「……ん、ああ、聞いていましたよ、勿論。で、どうしたのですか?標的を皆殺しにしましたか?うん、それならご苦労様です、解散していいですよ」

 寝台から体を起こした少壮の男が、気持ちよさそうに伸びをした。
 寝ぼけ眼を擦り、鈍重な口調で、

「そうそう、死体だけは回収しておいてくださいね。ワタクシも、敬愛する大統領閣下に事態の成り行きと作戦の成功をお伝えしなければなりませんので」
「……申し訳ありませんが、作戦は未だ続行中です。そのために、戦闘ヘリの投入を……」
「まだそんなくだらないことをしているのですか。なんだ、もうあなた方の任務はとっくの昔に完了したと思っていたのに。作戦開始前の、『二個小隊など必要ない、一個分隊で任務を達成してみせる』などという大言壮語はどうしたのですか?」
「……情報部の把握した敵戦力に重大な齟齬がありました。現在の戦況は、甚だ不本意ながら、我が方にとって芳しいものではありません」
「そうですか、正確な報告をありがとう。では水を一杯頂けますか?」

 鬼の形相を浮かべたベネットが合図を送ると、まだ年若い新兵が、駆け足で水の入ったコップを持ってきた。寝台に寝転がっていた少壮の男はのろのろと体を起こしてから水を受け取り、美味そうに飲み干した。
 ベネットは、ひくひくと痙攣しそうになるこめかみ動くのを、表情筋の最大筋力をもって耐え凌いだ。
 まったくもって気に食わない。どうして自分達のような歴戦の勇士が、このような青びょうたんの小僧のあごでこき使われなければならないのか。もしも目の前の男が敵ならば、たとえ素手だったとしても、ものの一分もあれば絞め殺してくれようものを。
 そもそも、大佐格の人間がこのように小規模な軍事行動の指揮を執るなど、通常あり得べき話ではない。それもこれも、目の前の男がここに派遣されたからではないのかと、ベネットは疑っていた。
 そんな、無言の殺意とも呼べる気配を受けて、しかしブラウンの髪を綺麗に撫で付けた少壮の男は、噛み殺そうともしない大欠伸で口を全開にし、億劫そうに立ち上がった。

「で、その甚だ不本意な戦況とやらを教えて頂けますか?」

 あまりの屈辱と憤怒に、ベネットは血が出んばかりに手を握りしめたが、軍人の悲しき性と呼ぶべきか、彼の報告は極めて客観的であり正確なものだった。

「──以上の現状を打破するためには、連中の使用している以上の重火器を投入する他ありません。どうか、機甲兵、もしくは戦闘ヘリの投入許可を」
「馬鹿を言わないで下さい。あなたは人の話を聞いていたのですか?あなた達に与えられた任務は、まず第一に連中をこの場に釘付けにしておくこと。そして、可能であればその捕殺です。優先順位を間違えないように」

 少壮の男は、一切の遠慮無く最も上座の司令官席に腰掛けた。

「機甲兵や戦闘ヘリの投入などしてみなさい。間の抜けたあなた方のことだ、連中に以上手段を提供するに等しい。彼らはそれを手ぐすね引いて待ち侘びているのですよ」
「っ我々が、易々と連中に車両を奪われると言われるのですか!」
「それ以外の聞きようがあるなら教えて頂きたいのですが、まぁそういうことですよ」

 行儀悪く机に頬杖を突きながら、

「よろしいですか、もう一度言いますよ?我々の目的は、テロリスト達が万が一にも儀式の障害とならないよう、奴らをここに足止めすることです。妙な行動が出来ないよう、嫌がらせ代わりに攻撃してやるのは結構。しかし、どれほど小さい可能性であっても、連中に足をわざわざ与えれば本末転倒も甚だしい。そんなことをするくらいなら、即座に部隊を撤退させなさい」
「──しかし、既に部隊には甚大な被害が出ています!今撤退すれば、兵員の士気に関わる!」
「あなた方の犠牲も士気も知ったことですか。そこまで悔しいなら、焼夷弾でも毒ガスでも、あの森のど真ん中にぶち込めばいい。そうすれば速やかに作戦は完了するのでは?」
「それは教義に──!」
「反するのでしょう?教義を冒して復讐するような覚悟もないなら黙っていなさい」

 自分よりも一回り以上年若い上役に熱の無い調子でそう言われたベネットは、正しく憤死せんばかりの有様で顔を赤く染めた。彼の長い軍属経験で、これほどの屈辱を味わったのは初めてだった。

「……了解しました。それでは、部隊はあの森から引き上げさせて頂きます。それでよろしいですな」
「ええ、それで結構です。ただし、この森をぐるりと包囲し、奴らが一歩でもナハトガルに近づくことのないよう、備えの方はお願いしますよ」
「しかし、そのためには人員が……」
「ワタクシはもっと大規模な部隊の派遣を要請したはずですが、それを拒んだのはあなたでしょう?自分の言葉には自分で責任を持ちなさい。それとも、今から頭を下げて増員を求めるのも、ワタクシは止めたりはしませんが?」

 にこりと笑いながらそんなことを言った。
 ベネットの顔は、熱湯を浴びせられてもここまでは、というくらいに真っ赤に染まっている。このままでは本当に、頭の血管が切れて倒れてしまうかも知れない。
 それでも、少壮の男は素知らぬ顔だった。他人の喜怒哀楽に不感症なのか、自分が相手よりも上位であるという優越感がそうさせるのか、それとも全く別の理由からか。
 とにかく、腰に差したホルスターに手が伸びそうになるのをやっとの思いで自制したベネットだったが、その時、天幕の外から銃撃音が聞こえた。
 それも、かなり近い。友軍がテロリストと交戦中の、森から聞こえたような銃撃音では決してありえない。
 そしてそれとほぼ同時に、外から慌ただしい足音が近づいてきた。天幕の入り口に、血相を変えたヴェロニカ兵が一人、顔を覗かせ、

「失礼します!」
「どうした!大事な作戦会議中だ!つまらん用事なら承知せんぞ!」

 鼻息荒いベネット大佐の怒声は、完全に八つ当たりである。
 普段なら影を踏むことすら許されない、雲の上の階級の人間に怒鳴られ、不幸な兵士は総身を硬くしたが、強張る声で報告をした。

「し、襲撃です!当司令部が、攻撃に晒されています!」
「襲撃だと!?」

 今、森で部隊と交戦していたテロリストではありえない。奴らがこの場所をそこまで短時間に探り当てられる道理がないし、第一交戦地点と本部までは直線距離で十数キロメートルは離れているのだ。
 それでは、まさか、テロリスト共の別働隊がいたのか!?
 いや、しかしそれもおかしい。奴らの目的は、今夜行われる回帰祭に捧げられる予定の巫女を取り戻し、儀式の遂行を阻止することではなかったか。ならば、別働隊がいたとしても、このような場所を襲ったりせず、一目散にナハトガルに向かうはずなのではないか。
 ベネットは、予断を挟むのは危険と判断し、まずは報告の分析をしようと、伝令の兵士を問い質した。

「敵の規模は!?被害の程度は!?敵の所属は!?」
「敵……の規模は判明しておりません!被害は、既に十数名の死者が出ており、負傷者はそれに倍します!敵の所属は不明ですが……」
「不明ですが、何だ!早く言え!」

 兵士は数瞬口ごもり、ええいままよ、とばかりに背を反らせ、精一杯の大声で、

「動物です!おそらくは肉食獣と思しき正体不明の巨大な動物から、現在我が部隊は攻撃を受けています!」

 その言葉の意味するところを、ベネットは、すぐに理解することは出来なかった。
 動物。動物。つまり、人間ではない。
 人間ではない動物に、完全武装の軍隊が攻撃を受け、既に死者を出している。
 常識的に考えて、そのようなことがあるはずない。そもそも、このあたりに生息している野生動物といえば、小型の猫化の肉食獣と、その獲物となるガゼル属の草食獣くらいではないか。もちろんそれ以外の生き物も山といるが、少なくとも人間に危害を加えうるような生き物はいない。
 ならば、小型の肉食獣か、その獲物になるような草食獣に、完全武装の軍人が襲われ、殺されたというのか。いや、先ほどの報告では、巨大な肉食獣だと言っていたか。
 違う。大型だろうが小型だろうが、どうでもいいことだ。

「巫山戯るな貴様!何が襲ってきたのか知らんが、動物ならば撃ち殺せ!まさか、野生動物の殺生を躊躇っている馬鹿な連中が、この部隊にいるわけではあるまいな!」

 自然保護の観念の強いヴェロニカ教の一部宗派には、野生動物の殺生を完全に禁じる教えがある。それこそ、荒野で猛獣に襲われたとして、その宗派の教えを守るならば、許されるのは逃げるだけで、反撃するなどとんでもないということになる。
 それはヴェロニカ教でも少数派の教義であり、主流派は、いたずらに命を奪ったり肉や毛皮などのために狩猟するのでない限り、例えば自衛のための殺生ならば許容している。
 自然が尊い。野生動物は保護すべきである。確かにそうだ。だからこそのヴェロニカ教だ。
 しかし己の命が危険に晒されていて、手にした銃の引き金をすら引かないならば、それは狂人である。少なくとも大佐はそう信じていた。
 剥き出しの怒りに晒された兵士は正しく気の毒であったが、正確な報告を怠れば後が恐ろしい。ほとんど泣きそうになりながらも、事態の成り行きを伝えようとする。
 
「既に討伐隊を編成し、正体不明の生き物の追跡を試みましたが、先ほど、討伐隊の構成員全員の死体が、詰め所に投げ込まれました!いずれの死体にも、大型肉食獣のものと思われる噛み傷が残されており、損傷の激しさから個人の判別が難しいほどの惨状です!」
「死体が、投げ込まれただと!?」

 それは、明らかに示威行為ではないか。
 人間以外の生き物が、そのような行動をするものか。

「何かの間違いだ!肉食獣の仕業に見せかけて、何者かが我が部隊を襲撃しているのだ!早急に確認しろ!」
「しかし、実際にその生き物の姿を見た人間が、実際に何人も……!」
「うるさい!戯けたことをぬかすな!」

 ベネットの激発に兵士は再度の反駁を試み事態を正確に伝えようと試みたが、しかしそれは永遠に叶うことはなかった。
 
「あっ」

 兵士が、間の抜けた声を上げ、天幕の入り口から姿を消した。
 自分の足でその場を離れたのではない。大佐は、兵士の肩に、巨大な生き物の手が置かれ、兵士を暗がりに引きずり込んだのを確かに見たのだ。

「うわあああぁぁぁ!」

 劈くような悲鳴、そして、ばきばきごりごりと、固いものを咀嚼し噛み砕く音。
 
「あああぁぁぁ、止めろ、やめてくれぇっ!」

 半狂乱の叫びが、天幕の向こう側から聞こえる。
 百戦錬磨を誇るベネット大佐は、しかし一歩も動けなかった。腰に差した拳銃を引き抜くことすら出来なかった。
 悲鳴はやがて小さくなり、すぐに途絶えた。それでもなお、ぴちゃぴちゃと、何かを啜り舐め取る音がしばらく響いた。

「何だ、何が起こっている!」

 天幕の向こう側からは、如何なる返答もない。
 静寂が、大佐の質問に答えるべき人間は既にこの世の者ではなくなっていることを雄弁に伝えた。
 ベネットは、今まで経験してきた如何なる恐怖とも異なる、最も根源的な恐怖に震えた。つまり、自分の肉で飢えを満たそうとする捕食者と対峙した時に感じる、原始の恐怖。
 その時、強い風が吹き込み、天幕の入り口を揺らした。
 風に乗って運ばれてきたのは、濃密な血臭と臓物臭、それらを上塗りする強烈な獣臭だった。
 そして、捲れた天幕の向こう側、闇夜の奥に不吉に光った、二つの光源。
 自分を獲物として見つめる、無感情な獣の瞳。

「う、うわあぁぁ!」

 半狂乱になったベネットが、反射的な動作で銃口を獣に向け引き金を絞った。何度も何度も、弾倉が空になるまで。そして、ベネット以外の、このテントに居合わせた全ての軍人も、上官と同じように撃ちまくった。
 引き金の引いた数だけ、天幕に小さな穴が空いた。しかし、闇の向こうにいた獣に命中した気配はない。
 
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」

 先ほどの怒りに赤く染まった顔はどこへやら、真っ青な表情で細かい呼吸を繰り返しているベネットは、まるで重病人のようにすら見えた。他の人間の顔色も似たり寄ったりだ。
 
「まったく、見苦しいですねぇ……」

 呆れたような少壮の男の呟きも、今のベネットには届かないようだった。
 ベネットが予備の弾倉を空になったそれと交換している間にも、ずしり、ずしりと、天幕の周囲を重量感のある足音が歩き回る気配がする。ふぅふぅと、獣臭い息が吐き出される。
 その、絶望的な有様。焦り怯えたベネットは、何万回と繰り返したであろう、弾倉交換の作業の途中で、危うく拳銃を取り落としそうになった。
 そうこうしている間に、獣は天幕をちょうど一周し、再びその入り口に差し掛かろうとしている。
 今度は仕留める。絶対に外してなるものか。ある程度の冷静さを取り戻したベネットが、タイミングを計り、銃口を向ける。
 あと三歩、あと二歩で、獣が天幕の入り口に姿を現すだろう。ベネットはその瞬間を心待ちにした。
 しかし、あと一歩というところで、獣は歩みを止めた。いや、それだけではない。息遣いが聞こえない。獣臭がしない。その瞬間、獣の気配そのものが、外から消え失せたのだ。
 一体何があったのか。依然として緊張と共に銃を構えたベネットだったが、次の瞬間、全く予期せぬ出来事が起きた。
 天幕の入り口をはらりと潜って、姿を見せたのは猛獣などではない。

「夜分遅くすまねぇなぁ、ちょいと邪魔するぜぇ」

 何とも気安い様子で姿を現したのは、裸体の少女であった。
 危うく引き金を引きかけたベネットだったが、標的とそれ以外を撃ち分ける訓練が功を奏したのか、寸でのところで指は引き金を引ききらずに止まった。もしもこれが、例えば軍服の男であれば──仮に友軍だったとしても──おそらく銃弾は発射されていただろう。戦場に裸の少女という異常性が、彼の指を制止させたのだ。
 
「な、何者だ、貴様!」
 
 ベネットの大喝に、しかし少女は微笑み、

「何者も糞もないさ。見ての通り、見目麗しい乙女が、寂しい夜を過ごす軍人さんを慰労に来たんだよ。ほら、物騒なもんはしまいなって」

 武器の無いことをアピールするかのように、両手を挙げ足を広げ、くるりと一回、回って見せた。
 確かに、少女は一切の武器を身につけていない。裸体の少女に、武器を隠す手段などありはしない。
 だが、武器がないからといって警戒を緩めていいはずがない。このような時間、このような場所、そして何よりこのような状況で、年端もいかない裸体の少女が姿を見せること自体、どう考えても尋常の事態ではない。その程度のことは、大佐を始めとした全ての人間だって承知している。
 しかし、厳格で軍規に厳しいはずのベネットは、ごくりと喉を鳴らし、少女の裸体をまじまじと凝視してしまっていた。まだ年は幼いが、豊満な体つきといい、浅黒く艶やかな肌といい、硬質な輝きの金髪といい、男の欲望を煽るに十分な牝の要素を兼ね備えていたからだ。
 それは、非現実的な美であり、媚であった。

「と、とにかくそこを離れてこっちに来い!今、この天幕の周囲には、得体の知れない猛獣がうろついている!君が何者かは後で尋問するが、今はそれどころではないからな!」
「おっと、そいつは参ったね。じゃあ、あんたに守ってもらうとしようかね」

 少女は、猫を思わせるしなやかな足取りで天幕に立ち入り、そのままベネットに近寄り、しな垂れかかった。まるで、夜に春を売る女共が、街行く男に己を売り込む時のように。
 本来であればそのような行動を許すはずのないベネットだったが、少女の醸し出す雰囲気に完全に飲まれ、まるで蛇に睨まれた蛙のように総身を固くし、少女を撥ね付けることをしなかった。
 ベネットの分厚い胸板に体重を預けた少女は、男に媚びる甘い声で言った。

「恐い恐い猛獣から、あんたがあたしを守ってくれるのかい?」

 豊かな乳房を押しつけられ、切ない瞳で見上げられると、ぬらぬらとした欲望が背筋を這い上がってくる。この女を自分のものに出来るなら、何を捧げても良いような気がしてくる。
 既に妻帯し、子供もいる自分が、どうしてこのような感情を抱いているのか。相手は自分の子供と同じほどの年頃の少女で、今はそのような状況ではないというのに。ベネットはあまりの非現実感に、これは夢ではないかと疑い始めていた。全てが夢で、自分は自宅のベッドで熟睡しているのだ。ならば、この少女は淫魔の類で、夢の世界に侵入してきたとでもいうのか……。
 少女から漂う、麝香のような不可思議な香りが、脳髄の奥の奥を痺れさせていた。
 
「あ、ああ、分かった、私が君を守ろう……」
「じゃあ、その恐い恐い猛獣を、やっつけてくれるの?」
「そ、そうだ、倒すとも、一撃で仕留めてやる……」
「ふぅん、じゃあ、あんたはあたしの敵だってことだね」

 先ほどの、男に媚びるような調子ではない。氷で出来た刃物のように、冷ややかな声。
 ベネットは、本当に夢から覚めたような視線で少女を見た。しかし、彼に許された行動はそこまえだ。少女の、歪に変形し長く尖った爪が、真横から男の顔に向けて振るわれ、彼は最後の瞬間を迎えた。
 爪は、金属よりも鋭利にベネットの頭部に突き刺さり、顔面をそのまま斬り飛ばした。顔面の前半分、こめかみのあたりから先を失った男の体は、横倒しに倒れ、数度痙攣して生命活動を停止させた。
 己が死体に変えた人間を、少女は一瞥し、そして肩を一度竦めた。我ながらつまらないことをした、とでも言わんばかりに。
 この異常事態に、周囲の軍人は、一斉に銃口を少女に向けた。しかし、既に少女はそこにいない。唖然と口を開けた軍人が正気を取り戻す前に、少女は全ての仕事を終えていた。つまり、少女に銃口を向けた全ての人間が、そのまま死体となったということだ。
 ひっそりと静まりかえった天幕の中で、少女は満足げに伸びをした。

「さて、すまねぇな、待たせただろう?」

 少女の視線が、この場に残された最後の人間に向けられる。
 その人間は、目の前の変事に少しも動じず、柔和な表情のまま髪を掻き上げた。

「いいえ、待っていませんとも。このままお帰り頂いても、ワタクシとしては一向に構わないのですが?」
「つれないことを言うなよ、こちとら、あんたに会うために、遠いところをわざわざ来てやったんだ。恋女を無碍に扱う奴には罰が当たるぜ?」

 少女は、血の滴る爪をぺろりと舐めた。爪は、依然として人間の爪ではありえない形状だ。古木の幹のように節くれ立ち肥大化した指から、まるで骨がそのまま突き出たような太く鈍い爪が伸びている。
 その一事だけで、少女が尋常の存在でないことが分かる。それでも、少壮の男は相も変わらず平然としたまま、少女を愛おしげに眺めている。

「驚かないんだな、あんた」
「何に驚けと?」
「あたしが生きていることに、さ。心臓を銃でぶち抜かれ、土手っ腹に風穴を開けられて、とどめに崖の下に蹴り落としておいてさ。普通の人間なら、もっと慌てふためくもんさ。亡霊が地獄から蘇った、恨み晴らさでおくべきか、ってね」
「何を馬鹿なことを。亡霊如きがこの世の人間に何をすることが出来ますか。精々、じめじめした恨み言を漏らすことくらいでしょうに。そんなもの、耳を閉じてしまえばそれまでですよ」

 少女は、嬉しげに首肯した。

「あんたの言うことは正しいさ。じゃ、どうして驚かない?あたしが普通の人間だったなら、間違いなくくたばってたことくらい分かってるだろう?」
「言葉にはしにくいのですが、そう、何となく、ですかねぇ。奇しくも、あなたの弟さんに指摘されました。お前は、姉が恐かったのだろう。だから崖の下に蹴り落としたのだ、と。中々目の良い弟さんをお持ちだ。そう、私は、あなたを殺すことが出来そうになかった。だから、出来るだけ遠くに行ってもらおうと思った。それだけなのですよ」
「狙った場所が不味かったね。仕留めるつもりなら、ここを狙うべきだった」

 少女は、自分の眉間を指し示した。

「ここをぶち抜かれりゃ、いくらあたし達だって一発でお陀仏さ。それに、普段であれば心臓だって土手っ腹だって、立派な急所だ。でも、あの瞬間だけはいけない」
「あの瞬間?」
「そう。その時、あたしらの体内は、どろどろのシチューみたいなもんなんだろうな。内蔵も、骨も、肉も血も脂肪も、全部が一緒くたのね。散弾銃や手榴弾ならともかく、小さな小さな鉛玉くらいじゃ、鍋底を掻き混ぜることも出来やしないのさ」
「失礼ですが、たしか、メイフゥさんでしたね、あなたの仰ることが上手く飲み込めないのですが……」
「分かるよ、すぐに、嫌でも、嫌と言うほどに」

 メイフゥと呼ばれた少女は、口の端を存分に持ち上げ、にんまりと笑った。

「あんたみたいに肝の据わった人間は初めてだ。こいつは、きっとあの晩、あたしが可愛がってやった時の情けない姿も、擬態だね?」

 少壮の男は、片頬だけを吊り上げて皮肉な笑みを浮かべ、

「買いかぶりですよ。あの時のあなたは、本当に恐ろしかったのですから」
「じゃあ、もっと怖がらせてやるさ。あたしのもう一つの姿形、確と見届けることだな無形種の雄よ」

 次の瞬間、少女の身体は変態を始めた。
 腰まで届く髪がざわざわと蠢き、少女の褐色の肌に絡みついて黒と黄の縞模様を作っていく。皮膚の下の筋肉が盛り上がり、骨格が変形し巨大化していく。
 美しい少女が、じわじわと異形へと変じていく。
 瞳が縦に裂け、口が耳元まで裂け、そして顎まで届くほどに長く太い牙が生え揃う。
 膨張した少女の身体が、周囲に散乱したテーブルや椅子を押し潰していく。
 全身を、艶やかな縞模様の毛皮が覆い尽くす。巨木の幹より太い四肢と、その先に生えた恐ろしい爪が、確と地面を踏みしめる。
 少女の身体が、いつの間にか、行軍用テントの内側いっぱいに、みっしりと広がっていく。
 そして吐き出される、獣臭い吐息。大気を振るわすような威圧感。
 そこにいたのは、獣だった。それも、図鑑に載っている、あらゆる生き物とも合致しない、未知の生き物。それを敢えて既存の知識で表すならば、恐ろしく巨大な虎だ。
 目の前で、少女が、巨虎へと変じた。
 その巨虎が、嬉しげに呟いた。

『ほうらな、こういうことだよ。人の身体が、こうなっちまうんだ。あたしらは、こうなのさ。お前らノンフォーマーの常識は、一切通じない。化け物の姿だ』

 常識の世界ではあり得べからざる、悪夢のような情景に、少壮の男は思わず立ち上がった。
 しかし、その口から漏れだしたのは恐怖の叫びではない。
 
「……素晴らしい。なんと、なんとあなたは……美しいのだろう……」

 忘我の表情のまま、よろよろとした足取りで巨虎に近づいていく。
 巨虎は大きく口を開け、恐ろしい唸り声を上げた。人間を一呑みに出来そうな口には、象牙と見紛うばかりに巨大な牙が生え揃っている。獅子であっても一噛みで仕留めるに違いない。
 だが、男はちっとも恐れない。ちっとも恐れず、一歩一歩、巨虎へと歩み寄る。

『……けったいな奴だな、お前は。このあたしの姿を見て、美しいというのか?恐れ戦き、命乞いをしないのか?』

 獣の声帯が、人の声を紡ぎ出す。その耐え難い違和感とおぞましさに、しかし男は眉一つ動かさなかった。
 ゆっくりとした足取りで巨虎の足下に歩み寄り、深い毛皮に全身を埋めるように、力一杯に抱き締めた。

「これほど美しい生き物に、どうして命乞いなどをしなければならないのでしょうか。ああ、あなたは、今まで私が見てきた全ての美しいものよりも、遙かに美しい。それに比べれば、人という生き物の、なんと醜く愚かしいこと……」
『……お前は、何者だ。本当に、人間なのか?』
「人間ですとも。ええ、この世でただ一人、最も混じりっけのない、人間です……」

 巨虎は、鼻を蠢かして男の体臭を嗅いだ。そこに、人間以外の匂いは混じっていない。
 そして巨虎はその場に蹲り、我が子にそうするように、前脚を使って少壮の男を抱きかかえた。

『ありがとよ。あたしを怖がらないでくれて、あたしを綺麗だと言ってくれて』

 男は何も答えない。ただうっとりと、巨虎の腕の中で目を閉じている。

『でもね、分かるだろう?けじめはつけなくちゃいけないのさ。あんたとあたしは、敵同士だ。そしてあたしは、復讐のためにここまで来た。なら、血を見ないで終われる話じゃない。振り上げられた拳は、誰かに振り下ろされなくちゃいけないんだ』
「ええ、とても残念ですが、理解しています。ですから、最後に二つ、お願いを」
『なんだい、言ってご覧よ』

 男は、煌めいた瞳で巨虎を見上げ、少し恥ずかしそうに、

「どうか、私の名前を忘れないで欲しい。私の名前は──」
『アイザック・テルミンだ。役職なんてどうだっていい。あんたは、確かそういう名前だった。そうだろう?』
「覚えてくださっていたのですか?」
『忘れないさ』

 男は、瞳を薄く塗らして頷いた。

『あと、もう一つは?』
「どうか、私を食べて下さい。殺すだけなどという、残酷なことをしないでください。私の血肉を、あなたの一部にして、どうかあなたと共に生きさせてください」
『……ああ、分かったよ。簡単な話だ。食い散らかすなんて残酷なことはしない。あんたの髪の毛の一本、骨の一欠片まで、あたしの血肉になって生きるんだ』

 そして、巨虎は大きく口を開けた。
 少壮の男は目を閉じた。
 巨虎が、男の頭部を一息で噛み砕き、溢れ出る血を啜り、肉を咀嚼し飲み込んだ。
 圧倒的に巨大な虎に比べれば細く小さな男の身体は、それほど時を置かずに虎の口の中に消え失せた。
 食事ではなく、死者を慰めるための儀式を終えた巨虎は、口の周りについた血を舐め取り、

『さて、残りもんの掃除だな』

 そう呟いて、無人の天幕を後にした。
 



[6349] 第七十八話:月
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/04 19:16
 みちみちと、ぶちぶちと、寒気のする音を、ウォルは己の右膝から聞いた。
 それは、膝の靱帯が引き延ばされ、ついに耐えきれず、一本一本千切れていく音だ。鳥の手羽先を逆方向に捻ってへし折った時に聞こえるあの音だ。
 剣を支えにしていても堪えることが出来ず、ウォルは膝を折った。右足を見てみると、爪先が真後ろを向いていた。膝が歪な形になり、ぐにゃりと崩れていた。
 あまりの痛みに、笑い出しそうになった。灼けた火箸を頭に突っ込まれて掻き回されているのだと思った。

 ──もう、立てないな。

 左足は大腿骨が砕け、太股の辺りが真っ青に腫れ上がっている。右足は親指を折られ、今、膝関節を壊された。
 いくら痛みを我慢するといっても限界がある。この足は、もう二本とも使い物にならない。
 足だけではない。全身が、ずたぼろだ。左腕は、骨が折れて明後日の方向にねじ曲がり、そのうえ狼に噛み砕かれて、既に原型を止めていない。右腕はまだ無事だが、狼の頑丈な毛皮と骨格を断ち割った剣は、血と脂と刃毀れに塗れている。
 呼吸をする度に気が遠くなるような激痛に襲われる。胸が膨らむ都度、折れた肋骨が悲鳴を上げているのだ。
 おそらくは失血と痛みによるものだろう、視界が霞み、意識が絶えずぼやけている。心臓の拍動が、遅く、弱い。
 重傷だ。おそらく、いつ死んでもおかしくないほどの。
 ウォルは今の自分をそう分析した。それは、今まで幾度となく生と死の狭間に身を置いたことのある、歴戦の戦士の冷徹な視線だ。幻想や願望の立ち入る余地などない。
 そして後ろを振り返れば、地響きを立てながらハイハイで近づいてくる、巨大な赤子がいる。ただしその体は肉の腐った緑色で、耐え難い腐臭を辺りに撒き散らし続けながら。動く度に痤瘡を潰し膿を吹き出し、白い芯をにゅるにゅる噴出させるという、悪夢のような様相で。
 
『え゛え゛……お゛お゛……あ゛ぁ……』
 
 この、既に生き物とは呼べない怪物が、ほんの二週間前には人間の姿だったなど、いったい誰が信じるだろうか。
 人であった頃の名残を唯一残しているのが、怪物の頭部にぽつんとついた目玉である。それは、ウォルが地下牢に監禁されていたときに激しい暴行を加えた赤毛の男、ルパート・レイノルズと同じ緑色だ。
 ウォルは知っている。その男が、今までどれほどの罪を犯してきたのかを。年端もいかない少女を犯し、嬲り、責め殺してきたのだ。そして罪の意識を覚えることもなく、のうのうと生きてきた。
 だから、これは因果応報だ。同情すべき点などどこにもありはしない。
 しかし、生き物として最低限の尊厳すら奪われ、生きながら腐乱していくその苦しさは如何ばかりか。

「仕方ない。どうせこの足だ、いつまでも逃げられるものでもあるまい。それにしても、はてさて、どこまで付き合ってやれるものか……」

 ウォルは苦笑いを浮かべ、怪物の方に向き直り、その場に座した。
 観客には、ついには憎らしい生け贄も覚悟を決めたかと思う者もいた。
 それは、怪物も同じ事だったのだろう、歩みを早め、待ちきれぬ様子で自分の花嫁を捕まえようと、無数に生えた腕を伸ばす。
 死人の腕だ。皮膚の表面が緑色に腐り、所々がべろりと剥がれ落ちて膿が滴っている。そんなものが自分に向かって差しのばされている光景は、常人の精神に耐えられるものではないだろう。
 だが、ウォルは、平然とした様子でそれを見守り、自分の間合いに入るや否や、唯一無傷の右腕を一振り、雑草を刈り取るように全ての腕を切り払った。

『あ゛い゛い゛い゛ぃぃ!』

 聞くに堪えない醜い音で、怪物は絶叫した。あれほどの巨体で体中を腐らせながらでも、腕の数本を斬り飛ばされるのはやはり痛いらしい。
 怪物の、緑色に腐った顔面が、怒りに紅潮し、緑と赤のまだらに染まる。憤怒の形相でウォルに近づき、無数に生えた腕ではない、丸太のような本来の腕を思い切り振るった。
 ウォルはそれを剣の平を構えて受けようとしたが、体重が違いすぎる、少女の華奢な体は木の葉のように宙を舞い、10メートルも飛ばされて、闘技場の壁面に激突し、力無く落下した。
 激突の衝撃で体は痺れ、四肢は麻痺している。視界は真っ白に染まり、自分が目を開けているのか意識を失っているのか分からない。耳は、きーんと、甲高い耳鳴りだけを脳に届ける役立たずだ。
 折れた肋骨が内臓を傷つけたのか、ウォルは咳き込み、血を吐いた。少量ではあったが、それは紛れもない絶望の色をしていた。
 ここらが限界だろうか。ウォルはそう思った。
 それでも、自分から諦めるわけにはいかない。ウォルは、歯を食いしばり、滲む視界を叱咤し、震える体に鞭打って起き上がった。
 まだだ。まだ、俺はやれる。いや、この体は生きようとしている。少なくとも、この体がリィと同じ生き物のそれならば、まだまだ諦めてなどいないはずだ。つまり、諦めようとしているのは、この体に宿った魂の方で、それは要するに俺だということだ。
 許せるのか。こんなに小さな女の子が、まだ諦めていないというのに、どうして大の男が諦められるものか。
 だから、起き上がれ。一分先の事は考えなくても良い。一秒先の事も考えるな。今のことを、今だけを生きてやれ。
 壮絶な顔つきで、傷だらけの少女が起き上がる。果たして見えているのかも分からない瞳を、自分に向けて這い寄る怪物に向ける。
 
「さぁこい!俺はまだ死んでいないぞ!」

 頬を緩ませながら、大喝した。
 怪物が、一瞬だけ怯んだように身を竦ませる。だが、目の前の獲物は、どう見ても瀕死だ。血と砂埃に塗れ、薄汚れた体。息は荒く、しかし細い。剣は折れ曲がり、この傷付いた体では、もはや木の枝を斬ることも出来ないだろう。
 そうだ。あれは、ただの獲物だ。もう、この自分に刃向かうことなど出来はしない。
 怪物の表情が、淫らに緩む。口の端が持ち上がり、そこから涎が垂れ落ちる。目の前の少女が、もはや抵抗も出来ない雌であると理解したからだ。
 ウォルも、それは十分に見て取った。今から、自分がどれほどおぞましい行為を味あわされるのかも理解した。このまま辱められるならばいっそのこと、と、そんな思考が頭をよぎった。
 でも、駄目だ。俺はまだ戦える。まだまだ諦めてなど、やるものか。
 不屈の闘志を奮い立たせて、少女は立ち上がった。もはや剣として役に立たない剣を杖として、背中を壁に預け、ナメクジが這うように、ゆっくりと、ゆっくりと。
 それだけの動作に、驚くほどの体力を使ってしまった。息が荒い。呼吸をすれば胸が痛む。だけど呼吸をしなければ死んでしまう。
 
「はぁーっ、はぁーっ、はぁーっ……」

 無数の腕が迫り来る。その様子は、小魚を捕らえようと群がるイソギンチャクの触手に似ている。
 ウォルは腕のいくつかを剣で薙ぎ払ったが、折れ曲がった剣は棍棒以上の働きを為し得ない。腕は僅かに傷付くだけで、先ほどのように斬り飛ばされることなどはなかった。
 ついに、腕の一本が少女の体を捕らえた。傷付きボロ雑巾のようになった左腕を力任せに引っ張られ、ウォルの顔が苦痛に歪んだ。
 体のバランスが崩れ、ウォルは前のめりに転んだ。その足を、腕を、胴体を、全ての体の部位を、化け物の腕が掴み、少女の体を、まるで見世物かそれとも戦利品のように高々と持ち上げた。
 
「あ、ぐぅ……!」

 全身を締め上げる万力のような力に、ウォルは苦痛の呻きを発した。その視界の中心に、勃起し先端から汚汁を滴らせる、怪物の陰部があった。
 今から自分は、口にするのも憚られるような辱めを受けることになるのだろう。自分から死を選ぶつもりは毛頭無い。だが、この幼い体が、どれだけの責め苦に耐えられるのか。
 
 ──いよいよか。すまん、リィ、ウォルフィーナ、そして……

 半ば諦めの気持ちで見上げた、霞む視界に、見つけた。
 夜空に滲む、巨大な満月。
 その真円を背景にこちらを見下ろす、巨大な獣の影と、紫色の瞳を。


 
 闘技場が、揺れた。
 直後、ごぅん、と、凄まじい衝突音が響き、闘技場の外壁に何か巨大なものが高速で衝突したのだと、ケリーとジャスミンは理解した。
 しかし、いったい何が。
 そう思った二人が、ふと見上げたそこに、それはいた。
 闘技場の最上段。月の光をはね返す、銀色の毛皮。恐るべき巨躯。耐え難いほどの殺気が込められた、紫色の瞳。
 狼だった。形が即ち生き物の名前ならば、それは正しく狼だ。
 だが、狼とその生き物を呼ぶには、あまりに大きすぎる。そして美しすぎる。見た者の魂を抜き取るほどに、その生き物は見事な美を誇っている。
 一瞬、あらゆる感情を忘れて、ケリーもジャスミンも、その生き物に魅入っていた。
 何という生き物なのだ、あれは。
 そう、二人が思った時、その獣が、咆えた。



 それは、人の言語に表すことの出来ない、凄まじい吼え声だった。虎よりも、獅子よりも、なお大きく、威圧的で、何よりも怒りに充ち満ちた。
 そうだ、その獣は、怒っていたのだ。最初にその光景を見たときから、耐え難い怒りに全身の毛という毛を逆立てて、牙を剥き、目を見開きながら怒り狂っていた。
 怒っていたのだ。自分の愛する女を自分の手の中から奪われて。痛めつけられて。晒し者にされて。
 だから、獣は駆けた。観客席を、恐るべき速度で駆け下りた。途中、何人もの人間を踏みつぶしたが、ほんの少しも意に介することはなく、一気に駆け下りた。
 そして勢いそのまま、ウォルを捕まえた怪物に、思い切り体当たりを浴びせた。
 獣の、自らの体重をそのまま砲弾に変えたような体当たりで、怪物は、奇妙な叫びを上げながら吹き飛び、ごろごろと地面を転がった。
 怪物に掴まれたままだったウォルも、怪物と一緒に吹っ飛んだ。途中で怪物が手を離したため、宙に放り投げられた小さな体は、空しく地面に激突して果てるのかと思われた。
 もはやここまでか。
 固く目を瞑り衝撃に備えたウォルだったが、直後、背中に感じたのは地面の固い感触ではなく、もっと柔らかく、暖かい何かのさわり心地だった。
 目を、ゆっくりと開ける。自分が、何か、美しいものの背に受け止められたのだと知る。
 それは、巨狼だった。先ほどの、群れの狼などとは比較のしようもないほどに大きな狼。銀色の毛皮に覆われた、馬を見下ろさんばかりの巨体。
 転げ落ちそうになったウォルの服の襟首を、巨狼は優しく噛み止めた。その様子は、まるで子猫を運ぶ母猫そのものだ。
 そして、地面の上に優しく横たえた。
 ウォルは、その時、巨狼の顔を初めて見上げた。
 耳まで裂けた口から、ぞろりと鋭い牙が覗く。視線は鋭く、それだけで獲物の命を刈り取るような有様。
 だが、それが、どうしてかウォルには、見知った誰かの顔に見えた。
 獰猛なはずの顔が、自分を一噛みで殺すことの出来る巨大な牙が、どうしてか恐ろしくない。この生き物は、自分の味方だと分かる。
 それは何故か、ウォルにはすぐに理解出来た。自分を見下ろす、巨狼の瞳。どこまでも澄んだ、竜胆色の瞳。泣きながら自分の名を呼んでいた、少年の瞳と同じ色。
 ウォルは、唯一無傷の右手で、巨狼の頬を撫でた。巨狼が、気持ちよさそうに、ウォルの手のひらに顔をすり寄らせた。

「そうか、インユェ、お前なのだな」

 くぅん、と、巨狼は子犬のように鼻を鳴らした。
 そして、ウォルの顔を汚す血と泥を舌で舐め取った。

「その姿が、本当のお前か。お前は、本当のお前になったのか。よかった、インユェ……」

 ウォルが、巨狼の頭を掻き抱いた。
 巨狼は、何度もウォルの顔を舐めた。ウォルの顔を汚す泥が無くなるまで、何度も何度も。

「わぷ、やめろ、くすぐったい!」

 お返しとばかりに巨狼の頭をごしごしと撫でる。巨狼は少しむずがったが、しかしウォルにされるがままであった。
 触り心地の良い銀毛がウォルの手で揺れ動く度、銀粉が舞い散るように月光が揺れる。
 銀色の月と名付けられた少年は、この姿であることが宿命づけられていたのだろう。そう確信できるほど、少年だった巨狼は、月明かりの元に美しかった。
 そして、それはただ美しいだけの存在ではない。百戦錬磨のウォルが見ても震えが起きるほど、危険な生き物でもあった。

『お゛お゛お゛あ゛あ゛ぁぁぁぁっ!』

 いつの間にか体を起こしていた怪物が、巨狼に向けて怨嗟に満ちた叫びを上げる。
 同じく人以外の存在に成り果てた身なのに、片やこれほど醜く、片やこれほど美しく変貌した彼我を比べて、運命の残酷さを呪ったのかも知れない。それとも、もっと単純に、自分の花嫁を奪われた怒りだろうか。
 そして怪物の怒りに呼応して、巨狼も怒りに満ちた唸り声を発し、身を低く構えた。彼とて、怪物の怒りに寸分劣らぬほどに怒っていた。見よ、自分の恋する乙女の無惨な体を。全身を朱に染め、折れた骨、今死なないのが不思議なほどの傷跡。満場の観客の中、このような辱めを受けた無念、誰が晴らさでおくべきか。
 怪物が、意味を失った叫び声を発しながら突進してくる。
 望むところだ。そっ首今すぐ噛み裂いてやる。巨狼の大樹よりも太い足は、大地を叩き、怪物に飛びかかろうとしていた。

「横に飛べインユェ!」

 それを止めたのは、少女の声であった。そして巨狼は、少女の意思が乗り移ったように即座に横に跳ねた。
 直後、巨狼がいた空間が、奇妙に捻じ曲がり、撓んだのをウォルは見た。まるでそこだけが、世界の法則を無視したかのように、あちら側の風景がゆがんでいる。立ちくらみを起こしそうな視界は、そのまま能力者の歪んだ精神をあらわしているかのようだった。
 ウォルは、観客席の上方から自分達を見下ろす、死んだ魚の目をした老人を見上げた。遠くに見える老人の、わずかに強張った顔を見て、含み笑いをもらす。

「お気の毒様だな。獲物をいたぶるから自分の手の内を曝け出すことになるのだ。一息で仕留めていれば、このようなことにはならなかったものを」

 それが、ウォルという戦士が培った経験の為せる業なのか、それともウォルフィーナという少女の身体が可能にした現象なのか、もしくは月が覚醒したことにより太陽である少女もまた目覚めたが故なのか、それは彼女自身分からない。
 ただ、老人の発する異能が、まるで一筋の光のように巨狼を襲う様を、彼女は確かに見たのだ。
 
「それがどのようなものであれ、見えるものならば恐るるに足らん。これでようやく勝ち負けの戦をはじめることができるらしいな」

 全身を朱に染めた少女が、獰猛な笑みを浮かべた。
 それは、まるで万軍を従える戦王のように。ただ一人の少女が、不敵に微笑んだ。
 いや、違う。彼女は一人ではない。今までの彼女が一人でなかったように、今の彼女も一人ではない。
 少女の傍らには、万の軍にも決して退かない、不屈の獣が控えているのだ。
 
「背を借りるぞ!」

 ウォルは、巨狼の背にひらりと跨がった。巨狼を騎馬として戦おうというのだろう。
 無謀な試みである。両足とも既に使い物にならない上、相手は馬ならぬ狼だ。当然、轡も鐙も手綱もない。普通ならば跨がった瞬間に蹴落とされるのがオチのはず。
 しかしこの場合、乗り手の技術が常識外れに卓越し、足の不虞を補って余りあったこと。そして何より、乗られる側の狼が背に跨がる少女を自ら受け入れていたことが、不可能を可能とした。この二点のみにおいて、一人の少女と一匹の巨狼は、人馬一体の境地に至ることが可能であった。

「焦るなよ、インユェ」

 広い背中に身体を密着させて、ウォルは獣の耳に囁いた。耳が、不機嫌そうにひくりと動く。巨狼は、あらぶる怒りを押さえ込みながら、わずかに頷いた。
 ウォルは微笑み、無事な右手で狼の鬣を梳いた。嘘のように滑らかな毛並みは、絹を撫でるよりも心地よい感触を少女の指先に残した。

「焦らなければ機は必ず訪れる。俺達は、決して二人だけで戦っているのではない。そうだろう」
 
 ウォルは確信していた。いや、それを知っていたと表現したほうがより漸近だろうか。
 近づいてきている。凄い勢いで、ここに向かっているのだ。
 自分の同盟者が。またしても、このような危地に陥ってしまった自分を助けるために。
 涙が出そうになる。あまりの不甲斐なさに。何よりも、ありがたさに。
 だから死ぬわけにはいかない。全てに片が付いた後、あいつの口から、さんざ恨み言を聞かされるのは俺だけの権利なのだ。
 ウォルが前を向いた。そこには、腐敗した唇から汚汁を滴らせ、大声で何かを喚き散らしながらこちらへ突進してくる、醜怪な化け物がいる。
 巨狼が、殺気とともに牙を剥いた。醜くだぶついた怪物の首を、今度こそ一噛みで引き裂いてやろうとばかりに。
 
「やめておけ、あれは屍毒の塊だ。いくらお前でも、食えば牙が溶け胃の腑が腐る。そうでなかったとしても、煮ても焼いても到底美味そうには見えない」

 ピンと立った耳が、くるりと動いた。それはまるで、狼が苦笑し頷いたような有様だったから、ウォルもくすりと笑みを溢した。

「お前には腹立たしいかも知れないが、今は避けることだけに専念してくれ。特に、目の前の怪物よりもたちの悪い輩が、どうやら他にもいるらしいからな。俺の指示に過たず従うんだ。いいな」

 騎馬ならぬ騎狼が、短く一咆えした。
 直後、観客席の上方から、鈍色に輝く光の矢が自分達を貫かんと降り落ちる様を、ウォルははっきりと見たのだ。

「左に!」

 少女の叫びが短く響く。
 だが、言葉は既に不要だった。ウォルが喉を振るわすその前に、騎狼は左に跳ね飛び、凶悪な力場から逃れていた。
 理屈ではない。少女から伝わる体温が、鼓動が、感情が、言葉よりも雄弁に巨狼と化した少年へと少女の意思を伝えるのだ。
 それは、何という幸福なのだろう。自分が少女の一部となって戦場を駆ける。背中に、自分よりも大切なものを負って戦える。少年は、今、この瞬間のためにこそ現し世に生を得たのだと理解した。
 桃源郷に迷い込んだような法悦と、闘争に高ぶる感情が、視界を紅い靄で染め上げていく。その向こう側で、どろどろに腐敗した肉の塊が甲高い悲鳴を上げながら蠢いている。目に見えない、何か危険な力が、矢継ぎ早に射向けられているのが分かる。
 怪物は醜悪で、まるで人の負の感情を体現したようにおぞましく、恐ろしい。きっと少し前の自分ならば、その姿を見ただけで足が竦み膝は折れ、一歩も動けずに貪り食われてしまっただろう。
 目に見えず鼻にも匂えぬ不可思議な力は危険そのもので、少女の指示がなければこの体でも躱すことは不可能だ。一度捕まれば二度とは抜けられない。全身を締め上げられ、ねじ切られ、微塵の肉片にされることが理解できる。
 それでも、恐くなかった。ちっとも恐くない。
 それは、背中に少女がいてくれるからだ。少しの恐れも抱かず、自分に命を預けてくれている。
 だから恐くない。
 少年は、不思議だった。こんな感情が自分の内側にあることを、今の今まで知らなかった。
 恋というには激し過ぎる。友情というには甘やかすぎる。その感情につけるべき名前が、どうしても見当たらない。
 しかし、自分の中の何がその感情を滾々と湧きたたせているのか、少年は理解していた。
 信頼だ。
 自分が彼女を信頼している。
 彼女が自分を信頼してくれている。
 幾千の敵が自分達に剣を向ける戦場で、自分と彼女だけは、背中を預けて戦っているのだ。
 その陶酔に、少年は酔った。天上の美酒よりも、その酔い心地は極上そのものであった。
 一秒がまるで永遠のようだ。怪物の伸ばした触手の間を潜り抜ける。少女が触手を斬り飛ばし、切断面から腐汁が飛散するが、その一滴一滴すらを避ける。もう、少女の爪の先すらも汚してはならない。
 少女が笑っている。それがわかる。今の少年には、少女の全てが理解できる。きっと少女が無垢な顔に貼り付けているのは天使の微笑ではなく、戦陣にて鉾を振るう闘神の、剛胆で不敵な笑みに違いない。
 ああ、なんと美しい。
 きっと、これからの人生の美の全てを凝縮したより、どれほど美しいのか。
 少年は、天に向けて、祈りを捧げた。命を燃やして戦いながら、祈りを捧げた。
 神様、もう少しだけ。
 時を司る神に、祈りを捧げる。
 もう少しだけ、この少女と、二人きりで。
 もうすぐ、宝石よりも胸焦がすこの時間が、終わるのは分かっています。
 この一瞬を永遠にしてくれなど、言いません。この少女を自分のものにしてくれとも、言いません。
 だから、どうか、もう少しだけ。
 どうか、どうか。



 凄まじい速度は、その風圧で顔の形を変えんばかりであった。
 シェラは、一心に、目の前にある豪奢な毛皮に張り付いている。一瞬でも油断すれば一気に引きはがされてそのまま落下し、地面に叩き付けられるだろう。そうすれば決して助からないことを、彼は理解していた。
 山が、湖が、ぽつぽつとした人家が、それら全ての景色がすごい勢いで後ろの方向にすっ飛んで行く。風を切る音が、そのまま鼓膜を劈かんばかりである。
 シェラは、初めてこの世界に来てエアカーや飛行機に乗った時の衝撃を思い出していた。
 どれだけスピードが出ているのか、それすら分からない。ただ、自分や馬の全速力など及びもつかないだけの速さであることだけは分かる。
 そして、そのスピードを生み出しているのが、自分たちの跨がった、翼を持ち人の言葉を話す、恐るべき巨虎なのだということも。
 そう、この巨虎は、翼と脚でもって自在に天を駆けるのだ。その虎の背に、自分達は今、跨がっているのだ。
 虎は言った。自分は化け物であると。
 それは違うとシェラは思った。この生き物はきっと、古代の人が、天の門を守ると神話に謳った守護獣に違いない。そうでないならば、どうしてこれほど美しく、そして猛々しいまでに魂の根源を揺さぶるのか。
 
『どうだい、あたしの乗り心地は、リィ!』

 轟々とした風の音の向こう側で、シェラはそんな言葉を聞いた。何故この速度、この轟音の中で、その声だけがこうもはっきり聞こえるのか、それは分からない。
 ただ、地の底から響くような恐ろしい声は、不思議と聞き心地が悪くなかったのだし、それに応える金色の狼の声も、いつになく楽しげに弾んでいたことも聞き取れた。

「凄いよ!速い!速いなメイフゥは!」

 シェラが恐る恐る顔を持ち上げ、隣にいるリィを見れば、彼はその翡翠色の瞳を喜びに輝かせ、身を乗り出すようにしてメイフゥに跨がっていた。
 夜空の下でも分かるほどに見事な金髪が、横向きの重力に引かれるようにたなびいている。それはまるで、生まれたての、ようやく目の開いた幼獣が、巣から顔を出して初めて世界を目にしたときのように、全身で感動を体現していて、そして不安定な様子だった。少しでもバランスを崩せば、このまま地表に向けて真っ逆さまである。

「リィ!危ない!」

 あまりの危なっかしさに、それこそ母親のような心持ちで、シェラが叫んだ。
 だが、リィはにんまりとした満面の笑みをシェラに向けただけで、ちっとも諫める雰囲気がない。
 それなりに長い付き合いだ。これは何を言っても無駄だとシェラは悟った。

「こんなに速いのは初めてだ!凄く楽しい!ありがとうメイフゥ!」
「うん、これは凄いよ!まるで夢みたいな速さだねぇ!」

 はためく黒髪を押さえたルウが、彼に似合いのおっとりとした口調で、しかし嬉しげに言った。その声に応えるように、虎の細い尾がくるりと動く。

『嬉しいことを言ってくれる!ならもっとサービスさ!リィ、シェラ、ルウ、マルゴ!それとおまけのお坊さん!あたしの自慢の毛皮を、しっかりと掴んでおくれよ!』

 嬉々と叫んだ虎が、その巨大な翼を持ち上げ、驚くべき速度で振り下ろした。
 空気が叩かれ、まるで小さな爆発が起きたような音が響く。
 その刹那、顔を叩く風の速度と厚みが、いっそう勢いを増した。もはや呼吸をするのも辛いレベルだ。速度はそのまま寒さになり、指の感覚が少しずつ薄らいでいくのが分かる。
 この分では、自分達はともかく、一般人とさほど変わらない程度の身体能力しかないテセル、そしてマルゴには、相当きついだろう。そう思って後ろを見れば、顔を青ざめさせた若い僧侶と少女兵士が、必死の面持ちで毛皮を握りしめている。
 シェラはぎゅっと目を閉じた。そして、先ほど、この虎と出会ったときのことを思い出していた。



 夜の帳の降りた森が、その瞬間、空気を変えた。
 もう、ウォルの処刑までそう時間がない。なのに、木々の隙間に獣が如く身を隠し、虫の襲来に耐えながら耳を欹てているのは、シェラにとっても気が狂うほどの苦行だった。
 森の静寂は深い。敵も、やはり自分達を封じ込めることに注力し始めたのか、既に戦闘の音は絶えて久しい。時折、虫の鳴き声や鳥の羽ばたく音が聞こえるだけで、あとは耳が痛くなるような静けさが世界を支配しているようだ。
 見上げれば、枝葉の間から、降り注ぐような星が見える。もうどれほどの時間が経ったのだろう。もしかしたら、既にウォルは祭壇の露と消え、自分達は道化のようにここで戦い続けているのかも知れない。誰かが、お前達は無駄な戦いをしているのだと、笑い転げているのかも知れない。
 それでも構わない。それでも、自分に与えられた任務は待つことだ。行者として生きていた頃は、待つことこそが一番の苦行で、その空しさに耐え続けることこそが良い行者の条件だと教え込まれてきた。
 待つことには慣れている。じっと耐えるのだ。自分が木石に変化したと思い込め。
 じりじりとしながらも、しかし機会を待ち続けていたシェラは、遠くで何か、音が聞こえた。それは、音と言うよりは声のようであり、声というよりは悲鳴と言った方が正確な気がした。
 それも、一つや二つではない。たくさんの悲鳴がどこかから聞こえ、散発的な銃撃音が鳴り響いた後で、必ず静寂が訪れるのだ。
 さほど遠くない何処かで、何かが戦っている。それも、おそらくは一方的な蹂躙を加えている。蹂躙されているのは、おそらくこの国の軍隊だろう。では、もう片方は?
 ふと感じた気配に振り返れば、そこには顔に泥でペイントしたリィがいた。

「リィ」
「シェラじゃなかったのか。なら、あれはいったい何の音だ?あいつら、いったい誰と戦っている?」
「ルウ……でもなさそうですね、あの派手な戦いぶりは。もしかしてヴォルフ?」
「いや、それも違うと思う。あいつは囮役を買って出てくれたんだ。なら、あそこで戦っているのは別のやつだし……第一、この匂いはヴォルフのじゃない」

 そう言われて、シェラも鼻をひくつかせた。
 確かに、火薬や草木、そして濃密な血臭に混じり、不思議な匂いが風に乗って運ばれてくる。この世界ではほとんど馴染みのないその匂いは、しかし野生の中では当然の匂いだった。
 獣臭だ。
 それも、肉を食む生き物特有の濃密な獣臭。
 理屈ではなく本能が、シェラの体を震わせた。背筋が薄ら寒くなる。このままここにいてはいけない。すぐに逃げなければ、自分が餌にされる。喰い殺される。

「行ってみよう」

 リィの呟きに、シェラが目を剥いた。

「リィ」
「おれ達は変化を求めていた。そして、それが向こうから来てくれたんだ。この臭いの先にいるのが何であれ、この機を逃すべきじゃないと、おれは思う」
「しかし……」
「僕も行くよ」

 聞き慣れた声にもう一度振り向けば、長髪に木の葉や蜘蛛の巣を絡みつかせたルウが立っていた。

「このまま待っていても状況は変わらない。僕達に出来るのは精々敵の目をひき付けるために暴れるくらいだ。行っても行かなくても変わらないなら行くべきだ。例えそこに何があってもね」
「同感。じゃ、行こうか。シェラはここで待っていてくれ」

 二人が、音もなく姿を消した。今更であるが、どうすれば一流の行者よりも速く、そして静かに動けるのか、一度二人に問い質してみたくなる。
 だが、それをすべきなのは今ではない。シェラは、諦めの吐息を一つ吐き出して、二人の後を追った。
 夜の闇は、彼らの足を止める材料になり得ない。張り出した鋭利な枝を避け、大きな石を飛び越え、三人は駆けた。虫も目を覚まさないくらいに、密やかな足音で。
 そして、血臭が鼻を刺し、吐き気すら催す濃度になったとき、彼らは見つけた。

「……これは」

 シェラが思わず口元を覆った。熟練の暗殺者であった彼にそうさせるほど、それは酸鼻を極めた光景であったのだ。
 そこは、食事場だった。
 ボロ布と化した軍服を纏った肉片が、そこらに散乱している。先ほどまで人間として動いていたのだろう手足が、ゴミ捨て場に散らかされた野菜クズのように辺りに散らばっていた。
 ぴちょん、ぴちょん、と液体の垂れる音がする方を見てみれば、まだ湯気の立つ臓物が、枝に絡みついて垂れ下がっていた。
 思わず数歩後ずさると、こつりと足に何かがぶつかり、ころころと転がっていく気配がした。それを見て、後悔した。半分欠けた人の頭部が、砕けた脳髄を少しずつ溢しながら、恨めしげな顔でこちらを見ていたのだ。
 夜であってよかった。そうでなければ、ここは呪わしい程に赤一色の世界だったに違いない。そして、血と肉とはらわたと糞便の臭気。血の滴る音。ここには不快な五感しか存在しない。

「ずいぶん派手に食い散らかしたもんだ」

 リィは呆れながら呟いた。そしてシェラは思い出した。かつて、王妃であった頃のリィが己の身を守るためにその牙を剥いたとき、どれほど凄惨な光景がそこに現出したかを。
 そう考えてみれば、今自分の目の前に広がっている惨状は、あの時のそれに似ているかも知れない。あの時と唯一違う点を挙げるならば、それはリィが己を守るためにその牙を使っただけなのに対して、この惨状を作り上げた誰か──もしくは何かは、獲物を狩るためにその牙を使い、そしてそれを、おそらくは楽しんでいることだろう。

「いったい、何がこんな……」
「しっ」

 思わず呟いたシェラを、リィが制した。
 真剣な顔で、茂みの奥の闇を睨み付ける。

「あっちから、何か聞こえる……」
「本当だ。行ってみよう」

 何の躊躇いもなく、リィとルウが駆けだした。
 これほどの惨状を見せつけられて恐れの少しも抱かないのは流石と言うべきなのだろうが、付き合わされる方はそういうわけにはいかない。この二人よりはまだ人間寄りだという自負があるシェラはたまったものではない。最終的な決断はともかく、そのための覚悟というものが常人には必要なのだから。
 しかしここまで来ておいて置いて行かれるなど間抜けにもほどがある。
 舌打ちを一つ堪えて、シェラも二人に続いた。

『……寄るな、……け物!』

 叫び声と、散発的な銃声。声は一つだけで、もしかしたらそれが最後の生き残りなのかも知れない。
 流れ弾を避けるため、大樹の幹に隠れて様子を伺っていると、茂みを掻き分ける音がどんどん近づいてくる。
 足音が、そして荒々しい息遣いが聞こえ、そして最後に兵士が姿を現した。汗で前髪を額に貼り付けた兵士が、三人の隠れた大樹のそばを、よろよろとした様子で走り抜けていく。

「くそっ……何かの、間違いだ……。こんなの、ありえない……。俺は、敬虔な、ヴェロニカ教徒だ……戒律だって、今の今まで、一度だって破っていないのに……。どうして、その俺が、こんな目に……。神よ、私は、悪鬼に貪り食われるほどの罪業を、冒してしまったのですか……」

 青ざめた顔。焦点の定まらない視線。ぶつぶつと、訳の分からない独り言を呟く。
 尋常でない様子の男であった。体中に細かい傷を負い、濃密な血臭を振りまいている。それだけではない。左腕の肘より先が、まるで猛獣に噛みつかれたようにずたずたに引き裂かれ、夥しい量の血液が滴り落ちている。あれでは、きちんと血止めをしなければ、遠からず失血死するだろう。
 シェラは、反射的に男を取り押さえようと思った。助けるためではない。ここで何が起きたかを聞き出すためだ。
 だが、シェラが手を伸ばそうとした瞬間、森の奥から、凄まじい重量感を持った物体が音もなく飛び出し、憐れな兵士の体を噛み咥え、やはり森の奥へと消え去った。
 意味の分からない悲鳴が、森奥から木霊し、やがて途絶えた。
 手を出す暇すらない、一瞬の早業だった。
 シェラの全身から、冷たい汗が噴き出した。

「り、リィ、今のは……?」

 我知らず声が震える。しかしシェラはそれを恥とは思わなかった。今の出来事で震えないなら人間がいるとすれば、剛胆や勇猛なのではなく、恐怖心が故障した人間だ。それは生き物として、欠陥でこそあれ誇るべき点ではあり得ない。
 リィの面持ちも、流石に緊張している。手は、腰に履いた剣の柄へと伸びている。
 しかし、彼にとって、そこから退くという選択肢は存在しなかった。

「行こう」

 シェラは頷いた。
 この人と一緒にいて、危険な目に遭ったことなど数えればきりがない。そして、この人と一緒にいて、後悔したことなど只の一度もありはしない。ならば取るべき選択肢は決まっている。
 慎重な足取りで、影が兵士を連れ去った方へと足を進める。暗い森の中から吹いてくる向かい風は、濃密な血肉の臭いと熱を運んでくる。その先で何が行われているか、予測するまでもないことだった。
 ぴちゃぴちゃと、嫌らしい音が聞こえる。子猫が、盆に開けられたミルクを啜るような音だ。ただ、啜られているのはミルクよりもどぎつい紅色の液体だろう。啜っているのは子猫のように可愛げのある生き物ではないはずだ。
 少しの物音が、そのまま生死の境を決める。普段より、何倍も足音に注意して、彼らは歩を進めた。
 そして、見た。小山のような質感の何かが、月の光に照らされながら、先ほどの獲物を貪っていた。
 それは、虎だった。
 象と見紛わんばかりの、おそるべき巨躯。鋼条を束ねて精錬したかのようにうねる筋肉。見事に際立った縞模様。血塗れの口と牙。何よりも、視線で射殺さんばかりの鋭い眼光。それは、間違いなく百獣の王たる風格を備えている。
 その虎が、惨劇の憐れな被害者の死体を貪り、噛み砕き、四肢を引き千切っていた。はらわたを爪でほじくり返し、寸刻みにして、まるで用を足した犬がそうするように、土と掻き混ぜてばらまいているのだ。
 食事をするために殺しているのではない。防衛のために殺しているのでもない。それは、愉悦のために殺しているように見えた。その証拠に、ほら、虎の、耳まで裂けた口が、にんまりと嗤っている……。
 吐き気を覚えたシェラは、その時、一陣の風が吹いたことに気が付いた。それも、先ほどのように向かい風ではなく、自分達の背中の方から。
 不味い。風は匂いを運ぶ。自分達の居場所を、あの危険な生き物に知らせることになる。
 虎が、その尾をぴくりとさせ、のそりと顔を持ち上げた。
 虎の、血に酔った金色の瞳が、シェラの視線と交わった。
 怖気のする感覚が、シェラの脳髄から脊髄、そして爪先までを一気に貫く。この世界に来て初めてかも知れない、濃密な死の予感を覚える。あの巨体に、分厚い毛皮に、強靱な筋肉に、人間用の鉛玉や銀線が通用するのだろうか。
 絶望的な気持ちで彼我の戦力を分析したシェラだったが、次の瞬間、おやと思った。
 血に狂っていたはずの虎の瞳が、少しだけ、ほんの少しだけ、動揺したように宙を泳いだのだ。それは、予想外の事態に驚いているようでもあり、何かに怯えたようでもあった。
 あの獰猛な虎からすれば、自分達などか弱い獲物にしか見えないだろうに、何故。
 シェラがそう思ったとき、隣に立っていたリィが、驚くべき行動に出た。
 無防備に両手を下ろしたまま、あっさりと虎の方に歩み寄っていったのだ。

「リィっ!」

 シェラが、悲鳴のような声をあげてリィを引き留めようとしたが、ルウがその手を押しとどめた。

「ルウ!どうして!」

 抗議の声と視線を、ルウはやんわりと諫める。

「あの子なら大丈夫だよ」
「しかし!」
「いいから」

 シェラはルウの人柄を良く知っている。ルウとリィの間に、どれほど強い絆があるかも弁えている。だから、きっとこの人は、何か理由があってリィを行かせたのだ。そうでないならば、真っ先にこの人がリィの安全弁になる。

「こんなところで彼のお仲間に会えるなんてねぇ」

 嬉しそうに、そして懐かしそうにそう言った。
 ルウが果たして何のことを、誰のことを言っているのか、シェラには皆目検討もつかない。分かるのは、人食い虎と比べればまるで子猫のようにか細く頼りない姿のリィが、あまりにも無造作な歩調で、虎のすぐ目の前まで近づいてしまったことだけだ。
 あれでは、もう逃げられない。虎が本気で襲ってくれば、それを迎え撃つことが出来るかどうか、だ。リィは、かつて飼い慣らされた虎ならば、その拳で叩きのめしたことがあるのだという。ウォルを助けるため、獅子を投げ飛ばしたのも、シェラは自分の目ではっきり見た。
 しかし、あそこにいる虎は、この星の固有種なのか、あの時の獅子よりも二回り、いやそれ以上に大きい。それどころか、シェラがテレビや図鑑などで知ったどの猛獣よりも巨大なのだ。
 そして、ついにリィは虎の鼻先に立った。彼らの距離は、もはや数十センチだ。飛びかかるまでもなく、虎はリィに襲いかかることが出来る。
 然り、虎は威嚇の表情と共に、リィの胴体を一噛みで食いちぎれるほどに大きな口を持ち上げた。その隙間から、象牙と見紛わんばかりに巨大で、刀剣のように鋭い牙が、幾本も覗いている。
 これはもう、一刻の猶予もない。あの巨虎に通用するとは思えないが、それでも目くらまし程度にはなるかも知れない。こちらに注意が向けば、あるいはリィならば逃げおおせてくれるかも知れない。そんな絶望的な気持ちで、シェラは鉛玉を掴み、投擲しようとした。
 その手を、やはりルウが押しとどめた。
 
「止めないで下さい、ルウ!」
「だから邪魔しちゃ駄目だよ。彼らは今、大事なコミュニケーションの真っ最中なんだから。それに、ほら、もう終わる」

 ルウがそう言った時、リィもまた口を開いた。

「で、どうするんだ?やるのか?」

 険を含んだ声で、そう言った。
 野生の獣に何を、シェラがそう思ったとき、目の前で信じがたいことが起きた。
 口元を血塗れにした虎が、にやりと笑ったのだ。

『止めておくさ。今は、あんたとじゃれてる暇はないみたいだし、そもそもこっちの勝ち目が薄いらしいしね』

 地の底から響くように、低く、不吉で、恐ろしい声だった。人の言葉を、人以外の声帯が発したのだ。それは、信じがたい不協和音だった。
 だが、紛れもなく人の言葉だった。
 人食い虎が、人語を話したのだ。

『あんたが、ひょっとしてウォルの言っていた婚約者かい?』
「そういうお前は、もしかしてインユェの肉親か?」

 巨虎が、軽く目を剥いた。小さな瞳が少しだけ大きくなり、金色の瞳がさも露わになる。
 そして、巨虎は笑った。自慢の髭を振るわせて、ぐぅぐぅと腹を収縮させながら、不気味な調子で笑い続けた。

『慧眼にも程があるね、あんた。こんな化け物をつかまえて人の子の姉だなんて、どうして分かった?』
「難しい話じゃない。あいつと同じ匂いがした。それだけだよ」
『……なるほど、あの子が黄金の狼って呼んだ理由がよく分かる。中々いい男じゃないか。もしあんたが顔だけで女を弄ぶようなくだらない輩なら、後腐れ無くここで喰い殺してやろうかと思ったんだけど、残念だ』
「あの子ってウォルのことか?」
『ああそうだよ。あの子が何て思ってるか知らないけど、あたしは、ウォルはあたしの妹だと思ってるんだ。あたしの妹をたぶらかす悪い虫がいるなら、付く前に駆除するのが優しさってもんさ。ついでに、ここで始末すりゃ連邦警察だってお目こぼしくれるだろうしねぇ』
「それはそうだ。おれだって、自分の家族に変なのが近づいたり、侮辱を加えたりすれば、問答無用で叩きのめしてやるからな」
『だろう?』 
 
 やはりぐぅぐぅと、喉を詰まらせるように巨虎は笑った。

『しかし何だね、この姿で会話するのは、お互いに疲れるねぇ』
「なら、おれの方に合わせてくれないか?おれは、お前みたいな姿になれないんだ」

 リィが、唇を尖らせるように言った。
 虎が、もう一度目を丸くした。

『変身できない?冗談はおよしよ。あんた、そんなにも見事な黄金の毛並みで、自分の姿を隠すなんて勿体ないにも程がある。それとも、狼族はいつの間にか、変身を人前では恥ずかしがるようになっちまったのかい?』
「狼族?何を言ってるのか分からないけど、おれは本当に変身なんて出来ないんだ。インユェみたいに、出来るのにしないわけじゃない。本当に出来ないんだよ」

 リィが、少しだけ寂しそうに、そう言った。
 シェラは、この数奇な運命のもとに生まれた少年の身の上話を思い出していた。
 人の親を持ちながら、人狼と狼の群れに育てられ、その人狼を人の手で殺されたのだ。そして、自分は人ではなく狼の変種であると定義しており、自分が狼に変身できないことを心底残念がっている。
 そこまで考えて、ようやくシェラは気が付いた。
 目の前の、人語を解する巨虎の正体。
 それは、もしかすると……。

『……嘘は吐いていないのか。どうやら、悪いことを言ったらしい。謝るよ。それと、失礼ついでだ。後ろのお二人さん、あんたらは人間かい?どうも、この子と違って、あたしらのお仲間ってわけじゃなさそうだけど』

 突然水を向けられたシェラは、些か慌てて、

「私は人間です!混じりっけ無しの!」

 力強く、精一杯に断言した。
 一方ルウは、人懐っこく微笑みながら、

「僕は、ラー一族のルウだよ。人間かそうじゃないかで分類するなら、あなたの言うとおり人間じゃないね。それより、こんなところでアマロックの仲間に会えるなんて光栄だ。是非、僕と友達になってほしい」

 巨虎は小首を傾げた。

『アマロック?聞いたことのない名前だ。あたしの一族なら、全員の名前と家系図をそらで言えるからね、もしかしたら遠い昔、あたしらの星から移住した一族なのかも知れない』

 ふ、と、辺りが一瞬、柔らかな光に照らされた、気がした。
 そして次の瞬間、巨虎は、リィの前から姿を消していた。その代わりに、巨虎がいた場所に、裸体の少女が立っていた。
 豊満で強靱な体つきの、美しい少女であった。
 その少女が、自分の裸を隠そうともせず、むしろ見せびらかすように胸を張り、硬質な輝きの金髪を掻き上げながら、こう言った。

「自己紹介が遅れたね。あたしの名前はメイフゥ、美しい虎って書く。全く、こんな醜い化け物に美しいって字を当てるあたり、あたしの名付け親のセンスはどっかおかしかったに違いねぇ。父は海賊王、母は『ごちゃまぜ』の血を引く由緒正しきインシード。そしてあたしは、あんたらに迷惑をかけてる、インユェってぇはな垂れ坊主の姉なのさ」



[6349] 第七十九話:宵の太陽
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/04 19:44
「へぇ、こいつは驚いた。狼男ならぬ虎女か。そんなけったいな生き物が、本当にいたんだなぁ」

 機械鎧の頭部だけを外したヴォルフが、まじまじと巨虎を眺めながら言った。
 巨虎──メイフゥも、形態変化した自分とほとんど視線の高さが変わらない、巨人ともいうべき体躯の男を正面から睨み付け、唸りながら言った。

『花も恥じらう乙女、しかも初対面の相手に、けったいな生き物とはよくぞ言ってくれたもんだねぇ、おっさん。おいリィ、こいつ喰い殺してもいいのかい?』
「おっさんとはご挨拶だな。これでも俺はまだまだ花の二十代だぞ。まぁ素手なら及ぶべくも無いとして、機械鎧付きならどっこいどっこいってところだろう。暴れ足りないなら相手になろうか?」
「止めろよ二人とも。じゃれ合ってる場合じゃないんだってば」

 呆れ声のリィが、腰に手を当て溜息を吐きながら言った。
 無論、二人とて今がどういう状況かを理解している。じゃれ合いという名の自己紹介は本当に一瞬だった。二人して皮肉な笑みを浮かべ(虎の笑みは凄く凶悪に映った)、和解の合図とした。

「メイフゥ、状況はさっき説明したとおりだ。ウォルを生け贄に捧げる儀式は、満月が中天に差し掛かる時に開始される。もう、時間は無い。今のところ、助けに向かってるのはインユェだけだ。おれ達も何とか助けに行きたいんだけど、残念ながら足がない」
『へぇ、あんたみたいな見事な狼なら、真っ先に助けに行くもんだと思ってたけどねぇ。それとも、その窮屈そうな体じゃあ人並みにしか走れないのかい?』
「全力疾走で馬と同じくらいだ。生憎、ここから目的地までそんなスピードでちんたら走ってたら、日が昇っちゃうよ」
『なら、あんた達の本当の力を解放するわけにはいかないのかい?そこの黒いお兄さん、銀色の坊や、そしてあんた。全員、普通の人間じゃないだろう?』

 自分達の特異能力については少しも説明のしていなかったリィは多少面食らった顔をしたが、深くは尋ねなかった。何せ相手は、半分は野生の獣と同じ感覚を備えているのだ。何かしらの理由からそういう結論を導き出せたのだとしても、不思議はない。

「また後で説明するけど、おれ達の能力は使えない。使えば、ウォルやインユェの身が危ない」
『……なるほど、それもこれも、あたしの馬鹿弟のせいってわけか。なら、ここはいっちょ、姉のあたしが一肌脱がせてもらうとしますかね』

 べり、と、布地を引き裂くような音がした。次の瞬間、巨大な虎の背に、やはり巨大な翼が生えていた。
 先ほど聞こえたのは、翼を出すために毛皮の一部が破れた音だったらしい。
 これには、その場に居合わせた全員が唖然とした。

「……何て節操のない生き物なのかしら」

 マルゴが、呆然と呟く。
 その言葉に、メイフゥはごろごろと喉を鳴らして微笑んだ。

『なんつっても、あたしのご先祖様は白い獅子の体に羽を生やして宙を飛んだって伝説を持ってるんだ。その子孫であるあたしに同じような真似が出来たって、別におかしな話じゃないだろう?』
「そんな伝説を持つ生き物がこの世に存在すること自体、凄く不条理だわ。だいたいその翼で、あなたの巨体が飛べるものなの?」
『まぁこの翼は飾りみたいなもんさ。そもそも、くそ重たい体の獅子やら虎やらが、鳥の翼を生やしただけで空を飛べるはずがないだろう?要は、気合いと根性だ。それがあれば、だいたいのことは何とかなる!』

 力強く断言した。
 気合いと根性があれば空を飛べるというのは、質量と揚力のバランス以上に物理現象を無視しているはずだが、不思議と説得力がある。だいたい、少女の姿と、今目の前にいる虎の姿では、体重が百倍ほども違っているはずなのだ。そこらへんを気にし始めればきりがないので、一同は曖昧な笑みを浮かべるに止めた。
 
『まぁそれでも限界はある。今からウォルを助けに行くとして、連れて行けるのは、精々三人までだ。それも、でかい兄さん、あんたは抜きだぜ。フル装備のあんたを載せたら、流石のあたしだって雀よりのろくしか飛べやしない』
「うん、まぁ、俺がそういう役回りに向いてないのは百も承知だから、それは別に構わないぞ」

 ヴォルフが苦笑した。

『なら、決まりだな。リィ、ルウ、シェラ。あんたらが体格的にも戦力的にも見合いだ。そうと決まれば是非は無し、さっさと出発するぜ』

 願ってもないことである。三人は顔を見合わせて頷き、メイフゥの大きな背に跨がろうとした。
 その時である。

「ちょっと待ってくれ!」

 その場にいた全ての人間の視線が、一人の男に集中する。
 そこには、緊張で顔を赤らめた、テセルがいた。

「私も、私も一緒に連れて行って欲しい」
『……生憎だが、あたしは三人乗りだと言っただろう?だいたい、あんたを連れて行って、何の役に立つんだい?悪いが、これから行くのは切った張ったの鉄火場さ。安っぽい説法でしこたまのお布施をがめていく山師野郎の出る幕じゃないんだよ。ここまで命があったことをてめぇの神様に感謝して、石の裏で縮こまってるんだな』

 べぇ、と、巨大で真っ赤な舌を見せながらメイフゥが口にしたのは、何とも辛辣な言葉であった。
 そもそも、今から自分達が助けに行くウォルを珍妙な儀式の生け贄に捧げようとしているのは、この国の精神的支柱であるヴェロニカ教団なのだ。その指導者であるテセルに、メイフゥが気安くしてやる必要など微塵もないのである。
 それは、テセル自身が痛いほどに分かっていた。
 それでも。

「……頼む、どうか私を連れて行って欲しい。もちろん、私が戦力として心許ないことは百も承知だ。しかし、私はヴェロニカ教の僧として、全てを見届けなければいけない。それが、師の教えに背き、師を裏切った愚か者の、果たすべき義務だと思うのだ。どうか、頼む」

 テセルは地に伏せ、額を地面に擦りつけて乞うた。
 メイフゥは、禿頭の後頭部を見下ろしながら不機嫌そうに牙を剥き、

『そいつはてめぇの自己満足だ。そのせいであたし達が遅れて、ウォルやインユェが死んだとしたら、お前さん、どうやって責任を取るつもりだい?』
「……この命で購えるなら、如何様にも」

 虎が、片頬を皮肉気に持ち上げた。

『痩せ坊主の命なんてもらったって嬉しくも何ともないねぇや。そもそも、他人の命の落とし前がつけられるくらい、あんたの命ってやつは偉いのかい?さっすが、偉い偉いお坊様はあたしら庶民とは格が違う、全く、反吐が出そうなくらいだ』

 テセルが、心底悔しげに地面を睨み付けた。
 反駁の言葉もない。いちいち、メイフゥの言っていることは正しい。人の命に対して、人は如何なる責任も取ることが出来ない。取れると思っているならば、それは勘違いか思い上がり以外の何物でもありはしないのだ。
 責任の取りようなどありはしない。そして、今の自分は、例えば神様の視点にでも立つ者が見たならば、駄々をこねて我が儘を叫ぶ幼子に等しいのだろう。どちらに非があるのかなど、議論の余地すらない。
 それでも。テセルは顔を上げ、決意を秘めた表情で立ち上がった。

「……わかった。役立たずの私には、指をくわえてここで待っていろと、君はそう言うわけだ
『理解が早くて助かるよ。じゃあな生臭』
「待て。話を最後まで聞け」
『あん?』
「君の理屈で言うならば、役立たずは連れて行けない。だが、その逆に、もしも私が連れて行くに値する、役に立つ存在だと証を立てれば、連れて行ってくれるわけだな」
『……まぁ、それは……うん、確かにそういう理屈だわな』
「それならば話は早い。シェラ君、どうかこの場で、私と立ち会って頂きたい」

 視線を、虎の背に乗った銀髪の少年に移してたテセルは、腰を落とし、拳を構えた。
 一方、突然に果たし合いを申し込まれたシェラは、この人は何を言っているのか、気でも違ったのかと言わんばかりに目を見開き、リィとルウに対して視線で助けを求めた。理解不能、救援求むの合図である。だが、如何なる場合でも抜群の理解力と行動力を示すはずの金黒天使も訳が分からないという面持ちだ。

「無茶は先刻承知の上だ。しかし彼女は、私が君たち三人の誰かよりも役に立つことを証明しなければ連れて行ってくれないらしい。今この場合の役に立つとは、即ち腕が立つということ。シェラ君、君を侮るわけではないが、君たち三人の中では君が一番技倆が劣るだろう。だから君を選んだ。さぁ、いざ尋常に勝負を!」

 テセルの声は本気であった。そして、普段は沈思な目が、完全に座っている。
 シェラは、果たして気が狂ったのかと思った。確かに、リィやルウと比べれば自分の技倆が劣ることは事実だから、その点、テセルの目利きは正しい。
 だが、それは、常人には想像も及ばない、とてつもなく高いレベルでの話である。例えばこの世界のロッドや格闘技のチャンピオンでも麓にさえ立っていない山峰の頂にいるのがリィやルウならば、自分はその中腹程度にはいるのだと、シェラは自負している。少なくとも、常人に毛が生えた程度の腕前しかないテセルを倒すなど、赤子の手を捻るに等しい。
 そのことは、テセル自身が良く理解してるはずだ。この僧、腕っ節の方はともかくとして、人を見る目がそこまで曇っているとは思えない。当然、自分の腕前がシェラに遠く及ばないことなど、百も承知のはずである。
 詭弁を弄して、自分の思惑を通そうという腹づもりか。しかし、テセルの目にはある種の決意を抱いた者特有の、烈しい光がある。つまり、ここで死んでも構わないという覚悟だ。
 テセルは、本気で自分と果たし合いをするつもりだ。しかも、命がけの。
 死に物狂いという言葉があり、また窮鼠猫を噛むという言葉があるとおり、生死を超越した覚悟を有する者は決して侮れない。自分の潜在能力以上の力を時に発揮するからだ。そうでなくても、死を受け入れた人間を死以外の手段でもって止めるのは、不可能とは言わないまでも著しく困難なことは間違いないのである。
 それでもシェラにとって、テセルを仕留めるのは困難事ではない。だが、そんなことのために貴重な時間を費やしていいものか。
 判断に迷っていると、テセルの後方から、もう一つ、声が上がった。

「じゃあ、そのお坊さんが終わったら、次は私のお相手をお願いしたいわ」

 落ち着いた調子でそう言ったのは、赤毛の少女、マルゴであった。
 これには、その場にいた全員が驚いた視線を向けた。

「マルゴ、あなたもですか!?」
「ええ、私もよ、シェラ。私にも、どうしてもナハトガルに行かなくちゃいけない理由がある。だから、あなたを倒して私が代わりに行かせてもらう」

 悲鳴のようなシェラの声に、マルゴはあくまで素っ気ない。

「あそこには、お父様がいる。間違いない、私には分かるわ。そして私は、何があっても、何を犠牲にしても、もう一度お父様と会わなければいけない。例え一言も口をきけなかったとしても、絶対に会わないといけないの」
「し、しかしそれは今でなくても……」
「駄目よ。だってあなた達、お父様を殺すんでしょう?」

 平然とそう言い返されて、シェラは言葉を飲んだ。
 確かに、ウォルを攫い、馬鹿げた儀式の生け贄に捧げようとしている集団の首魁は、おそらくこの国の大統領であるアーロン・レイノルズその人である。ならば、ウォルを救出した後で、彼女が受けた屈辱を晴らすためには相応の復讐が必要となる。そして、リィやルウ、もちろん自分も、そんな人間がこの世でこれ以上息をし続ける理由を、どこにも見出してはいない。
 
「あなた達がお父様を排除するなら、私がお父様と会う機会はこれが最後ということになるわ。それとも、あなた達はお父様を許してくれるの?」
「いや、マルゴには悪いけど、生かしておくつもりは無い」

 これはリィの言葉である。そしてルウの気持ちであり、シェラの覚悟であった。それだけ彼らにとってウォルは大事な存在であり、またアーロンがウォルに加えた所業は許されざるべきものであったのだ。
 この言葉に、マルゴは一切の動揺を示さなかった。少なくとも表面上は。
 ただ静かに頷いただけだ。

「だから、私も、その虎さんに祭壇まで連れて行ってもらう必要がある。そのためには、あなた方の誰かを倒さないといけない。それがルールなんでしょう?ということで、シェラ、そのお坊さんをさっさと殺して、次は私と戦ってよね」

 そう言ったマルゴの片手には、少女に似つかわしくない大型の拳銃が握られている。そして、少女の瞳もテセルと同じく、既に己の死を覚悟した人間特有のそれに変化している。
 
「そういうわけにはいかん。君に譲れん理由があるように、私にも負けられない理由があるのだ。シェラ君を倒して、私がメイフゥ君の背に乗らせてもらう」
「あら、それは楽でいいわねぇ。だって、あなたがシェラに勝ったなら、私はあなたを倒すだけでいいんでしょう?それはとてもいい話だわ。お坊さん、本当に頑張って頂戴ね」
「言われるまでも無し。そして、その後で君に勝ち、それで万事解決というわけだな」
「言ってなさい。そんなに足が震えそうな有様で」

 そんなことを言っている。かと思えば、
 
「……リィ、わたしは本当に、あの二人と戦わなければならないんですか……?」
「どうもそういうことらしいな、話の流れからすると」
「しかし……本当に、あの二人を殺せと?」
「まぁ、仕方ないんじゃないか?だって、メイフゥは三人しか運べないって言ってるんだし、だいたいあの二人がそれを望んでるんだから。もちろん、手加減はしてやれよ。でも、いざとなったら遠慮はいらないと思うぞ。緊急事態なんだから」
「緊急事態……そう言われましても……」

 心底弱った声のシェラである。
 時間は惜しい。しかし、二人を切り捨てて行くのも憚られる。かといって本当に二人と戦って、万が一にでも殺してしまえば、夢見が悪いし、「目指せ一般市民」の標語を破ることになってしまう。
 そも暗殺者として薄暗い半生を送った身である。そんな標語自体、この自分には何の価値もないと理解してはいるのだが、なにせ自らが終生の主人と定めたリィの言葉である。中々反故にしにくいではないか。
 
「気にすることはないよ、シェラ。何たって彼らが望んでいることだからね。万が一のことがあっても、それは彼らの責任だ。きみが重荷を背負う必要なんて、一切無い」
「いや、ルウ、そうは仰いますが……」
「むしろここで彼らを置き去りにして、悔いを残す方が残酷だ。だけどメイフゥは三人しか運べないって言ってるんだから、僕たち以外の誰かを乗せるわけにはいかないよねぇ。なら、彼らの選択肢は当然のもので、少なくとも彼らには自分の運命を自分で切り開くために、戦う権利があるはずなんだ。なら、シェラは彼らと戦う義務がある。だって彼らは聖地にまで行きたいって言ってるのに、メイフゥは三人しか運べないって言ってるんだから」 
「そうだよなぁルウ。メイフゥが三人しか運べないんなら、おれ達で殺し合いをするしかないんだよなぁ」
「そうだよねぇ、悲劇だよねぇ、メイフゥが三人しか運べないばっかりに」

 二人の天使が、ちらちらと、巨虎の方を見ながらそんなことを言う。
 虎の髭が、不機嫌そうにぴくぴくと動く。

 ──なるほど。もう一押しか。

 それを見た全員は、テレパスのように、視線を合わせることすらせずに一致団結した。

「そうだな、メイフゥ君が三人しか運べないから、我々はこんなくだらん争いをしなければならないわけだな。全く非生産的だ。神も嘆いておられよう」
「っていうか、あんたそんなでかい図体して三人しか運べないってどうなのよ。『ごちゃまぜ』とやらの子孫として恥ずかしくないの?気合いと根性があれば何とかなるとか大見得きってたけど、この分じゃあなたの気合いも根性もたかが知れてるみたいね。その大きな翼が泣いてるわよ」
「そうは言ってやるなよマルゴ。メイフゥだって必死に頑張って三人までなんだから」
「三人なんだよねぇ。もう少し運べればねぇ」
「三人なんですねよね。たったの」
「……まぁ、なんだ、その、気を落とすなよメイフゥ」

 ぷちり、と、何かが切れる音がした。

『あぁ、もう、うるっせぇなてめえらぁ!』

 メイフゥが、半径1キロ圏内全ての木々を震撼させるような声で、大いに咆えた。
 鳥が大慌てで逃げ飛び、肉食と草食を問わず全ての獣が全速力で逃げ出し、虫の幾匹かが気絶して木から落っこちた。

『わあったよ!運べばいんだろ運べば!四人だろうが五人だろうが百人だろうが連れてきやがれ!このあたしが、『窮奇』のメイフゥがてめえら全員、まとめて聖地まで運んでやらぁ!』

 その言葉を待っていましたとばかりに、テセルとマルゴがメイフゥの背に飛び乗った。
 しかし、飛び乗らなかった者がいる。

『……なんだ、でかぶつ、てめぇは乗らねぇのか?』

 ヴォルフは、いつものように、指先で頭をこりこりと掻いた。

「お誘いはありがたいんだがなぁ、俺は俺でやるべきことが見つかっちまったんだよ。ウォルはあんたらに任せる。俺はここでリタイア、別行動を取らせてもらうぜ」

 手をひらひらと振りながらそう言った。

「分かった。死ぬなよ、ヴォルフ」
「生意気な。ガキのくせに大人を心配するんじゃねぇよ、リィ。俺が殺して死ぬようなたまに見えるのか?」

 リィは軽く微笑んで、それを別れの挨拶とした。
 メイフゥが、その巨大な翼をはためかす。凄まじい風圧が巻き起こり、草木が揺れ軋み、落ち葉が急き立てられるように舞い上がる。そして最後に、ヴォルフを除く全員を乗せたメイフゥの巨体が、ふわりと浮いた。
 そのメイフゥが、首をぐるりと回し、恐ろしげな顔で言った。

『いいかてめぇら!これから全速力で、風より速くお前らをウォルのところまで運んでやる!だが、あたしが運べる限界が三人ってのは掛け値無しの本当だ!だから、もしも無事にてめえらを運べたとしても、その時のあたしは出涸らしさ!戦力としてはこれっぽっちも当てにならねぇ!それで構わねえんだな!』

 リィが、容易く頷いた。

「ああ、構わない。おれも、何から何までメイフゥにおんぶに抱っこのつもりはないんだ。そんな調子じゃインユェにぶん殴られても文句が言えなくなる。あの時偉そうに説教したのは何だったんだってな」
「エディの言うとおりだ。あなたの仕事は僕たちを聖地まで運ぶこと。そしてそこから先は僕たちの仕事だ。僕は、僕の獲物を、他の誰かに手出しをさせるつもりは、毛頭無い」



 雲一つない、満天の星空の中の進軍だった。
 満月と無数の星に照らされた空は明るく、荒野の続く空はどこまでも暗い。正面から吹き付ける風が無ければ、果たして自分達が前に向かっているのか、それともずっと静止しているのか、それすらも分からなくなりそうだ。
 ばたばたと、服が烈しく翻る。その風圧をものともせず、リィは、じっと前だけを見据えていた。
 月が、既に中天に差し掛かっている。
 刻限は迫っている。それとも、既に儀式は始まってしまっているのだろうか。
 間に合うのか。まだあいつは生きているのか。
 間に合う。生きているに決まっている。絶対に死なせてなるものか。
 火に炙られるような緊張が、一行を支配する中、逆巻く風の音の中に、ぜぃぜぃと、荒々しい吐息が混じりはじめた。
 それが誰の吐息なのか、全員が理解している。彼らが触れている虎の体は、まるで火の玉のように熱く、嵐の海のように絶え間ない脈動を繰り返しているのだから。
 ふいごのような呼吸が、まるで彼女の悲鳴のように聞こえた。
 最初に、彼女自身が言っていたのだ。三人が限界であると。ならば、この行程が彼女の限界を超えたものになることは、最初から分かっていたことである。
 全員が、無言であった。
 頑張れ、など言えない。彼女が必死に頑張っていることなど明らかだからだ。すまない、とも言えない。全てを承知で彼女が彼らを背に負ったからだ。
 その苦痛を引き受けてやることも出来ない。その役目を引き継ぐことも不可能だ。
 ならば、出来るのは信じることだけだ。そして決して裏切らないこと。
 全員が、重々しい沈黙に耐えていた。

『……おい、リィ、起きてるか?』

 食いしばった歯の間から絞り出したような声が、リィの耳に届いた。
 他ならぬメイフゥが、全速力で駆けながら、声をかけてきたのだ。
 荒々しく息を継ぎながら、途切れ途切れの声だった。

「ああ、起きてる」
『インユェはさ、間に合ったかな?ちゃんとウォルを助けてやってるかな?』

 メイフゥの気性にそぐわない、弱々しい声だった。疲労がそうさせるのか、それともそれ以外の何かか。

「間に合ってるに決まってる。あれだけお膳立てをしてやったんだ。それでも自分の本当の姿に気が付かないなら、おれはインユェを絶対に許さない」

 リィは歯を軋らせながら言った。
 メイフゥが、鼻を鳴らすように笑った。

『あんたは、インユェが嫌いなのかい?』
「嫌いじゃない。ただ、どうしても気にくわない」
『どうして?』
「自分がどれだけ恵まれているのか、気が付いていないからだ。気が付こうともしないからだ。それで、自分はついてない、周りが悪いっていじけてる。そんな人間をどうして好きになれるんだ?」

 美貌の少年の容赦ない舌鋒に、猛虎は苦笑いを溢した。

『厳しいねどうも。でも、反論の余地がない。全部、あんたの言うとおりさ』
「おれは、黒狼アマロックの息子だ。でも、何の因果か、人の体に生まれてしまった。俺を産んでくれた人達には感謝してるけど、いつだって、この体が自分の体じゃないような違和感を抱えて生きてきた。全身を艶やかで立派な毛皮に包まれた父の姿を見るときはいつだって、どうして自分はそうじゃないんだろうって悔しかった。だからおれは、そういう体に生まれたインユェが羨ましい。メイフゥもそうだ。お前の姿も、凄く綺麗で、凄く羨ましい」
『はっ、綺麗か、そいつは嬉しいねぇ。でもねリィ、あたしの故郷でも、この姿は畏怖されこそすれ恋愛の対象にはならなかった。翼持つ虎、『 窮奇 』のメイフゥって言えば、古強者の爺様方だって震え上がったもんさ。だから、どんなにあたしを好きだっていってくれた男も、この姿を見れば飛んで逃げ出すんだ。寄るな化け物って叫びながらね』
「それは見る目の無い臆病者ばかりだからだ。メイフゥはこんなにも綺麗なのに。毛皮はこれ以上ないっていうくらい艶やかで滑らかで、ずっと触れていたくなる。歩く姿も、飛ぶ姿も、言葉に表せないくらい颯爽としているし、何より瞳が宝石みたいにきらきらしてる。こんなに可愛い女の子、共和宇宙中を探したってそうそう見つかるもんか」
『くくっ、あんたみたいな別嬪さんにそこまで言われるとむずがゆいったらないねぇ。お世辞でも嬉しいよ』

 翼持つ巨虎の姿をしたメイフゥは、相変わらず、夜の闇の中を凄い速度で飛んでいる。
 その声が、微妙に震えているのに、リィは気づかないふりをした。

『でもね、リィ、あたしはやっぱり化け物なんだ。特に、この姿になって一度血を見ると駄目なんだよ。もう、飽きるまで血を見ないと、殺さないと元に戻れない。血に狂っちまうんだ。我に帰った時は、いつだって死体の山の中にいる……』
「……」
『あの時もそうだった。小さいとき、インユェと二人、狼の群れに襲われた』

 それは、メイフゥの原風景である。月夜の晩。蛍を見せてやるために、寝台から連れ出した体の弱い弟。風の鳴く草原。自分達を囲む、餓狼の群れ……。

『別に大したことじゃない。腹を空かした狼を追い散らすくらい、この姿で一咆えしてやればすむことなんだ。なのに、欲が出た。弟に格好良いところを見せてやろうと、生意気に咆えかかってきた狼の一匹を、軽く撫でてやった。そしたら、いつの間にか一つの群れを丸ごと食い散らかしてた。弟が、まだ小さかった弟が、震えながらそれを見てたのに』

 おねぇちゃん、こわい……。
 ばけもの……。

「メイフゥは悪くない。インユェを守ろうとしただけじゃないか」
『いや、悪いのはあたしさ。そして、インユェは、化け物のあたしを拒絶し、自分に流れる同じ血を拒絶した。とっくに年頃になってるのに、形態変化を覚えることが出来なかった。それは全部、あたしのせいなんだ』

 低く恐ろしい虎の声が、何故か、年相応の少女のように、細く脆かった。
 リィは、メイフゥは泣いているのだと思った。

『あたしが、インユェを弱くした』

 リィは、何も言わなかった。そうだ、とも、違う、とも言わない。メイフゥは、そんな言葉を求めてはいない。

『あたしが、インユェから牙を奪った』

 だから、沈黙を守った。

『だから、あたしがインユェを守るんだ!何からも、何があっても、絶対に!』

 虎が、咆える。
 リィの頬に感じる風の勢いが、さらに烈しさを増す。その勢いは、メイフゥが今し方解放した感情の奔流そのもののように思われた。
 リィは、メイフゥの、豊かな毛並みに覆われた首を抱きかかえながら、言った。

「メイフゥは、インユェのお母さんみたいだな」

 そっと、そんなことを言った。

「おれには、母親はいないんだ。もちろん、産んでくれた人はいる。父親の配偶者もいた。二人とも、おれを大事にしてくれてる。でも、どうしたって二人は母親じゃない。母と呼ぶべき人はいない」
『……』
「おれは、おれの人生に何の後悔もないし、恥ずべきところもないけど、やっぱりインユェが、ほんの少しだけ羨ましいよ」
 
 メイフゥは何も言わない。
 ただ、嗚咽を堪えるような低い唸り声を上げて、更に速く宙を駆けた。
 そんなメイフゥに、慈愛の微笑みを浮かべたルウが語りかける。

「ねぇ、メイフゥ。君はさっき、血に狂うって言った。自分が化け物だとも」
『……それが、どうした?』
「僕もそうだったんだ。僕も、血に狂う化け物だった。この子達に出会うまでは」

 自分を化け物だと呼ぶルウの声は、どこまでも優しく、そして誇らしげだった。
 
「昔の僕も、何年かに一度、自分を失って血を求めてしまう時期が訪れた。意識を取り戻せば、目の前には血の海が広がっている。その度に死にたくなった。それでも、そんな僕を受け入れてくれる友人がいた。自分なら頑丈だから、襲うなら自分にしておけって言ってくれたんだ」
『……羨ましい話だな。ルウ、あんたはきっと、神様に愛されてるのさ』
「そうかも知れない。そしてメイフゥ、きみもきっと、神様に愛される資格がある。そうじゃないとおかしい。こんなにも優しくて可愛くて、素敵な女の子なんだから」

 ぐぅ、と虎が笑った。

『まるで、自分が神様みたいな口ぶりだな』
「違うよ、僕は神様なんかじゃない。でも、神様じゃなくても、血に狂ったきみの相手をするくらいはできる。僕だけじゃなくて、この子もね」

 ルウは、自分の相棒をちらりと見た。
 金色の髪に翠緑色の瞳を持つ少年は、力強く頷いた。その気配は、暖かな体温とともにメイフゥの魂に伝わった。

「だから、僕もあの時の彼と同じことを言うよ。メイフゥ、血に狂いそうになったら僕たちのところにおいで。僕たちは頑丈だから、きみが暴れ回っても、まぁ、多分大丈夫だ。少なくとも、目を覚ましたきみの目の前に僕たちの死体が転がってるってことだけは、絶対にない」
「その代わり覚悟しろよメイフゥ。この姿のお前じゃ手加減は出来そうもない。骨の一本や二本折られても文句は受け付けないからな」
「その時はインユェも連れてくるといいよ。あの子も、初めてきみと同じ姿になったなら色々ともてあますだろうからね。溢れた力の受け皿がいずれ必要になる。その時は僕たちを頼ってくれればいい」

 虎が、呆気にとられたように、宙に立ち止まった。
 束の間の静寂。
 そして、虎は笑った。呵呵大笑に笑った。遠吠えを、いずこかの仲間へと運ぶように笑った。

『そうか、そうか、なるほど、ウォルが仲間と、同盟者と呼ぶわけだ!こいつは強敵だ!インユェがウォルを誑かそうとしても、一筋縄にいかないはずだぜ!』

 ぐん、と、メイフゥに乗っていた全員が、体が浮きあがる程の加速感を覚えた。
 景色が、色を失うような速度で後方へ吹き飛んでいく。視野が中央に狭まり、周囲のほとんどを認識できない。それは、極端な加速が生み出す生体現象だ。
 
『こいつは是が非でもウォルを死なせるわけにはいかなくなった!リィ、あんたとインユェ、ウォルがどちらのもんになるかを見届けないと、死んでも死にきれない!』

 その速度が、メイフゥの最後の力だということは全員が承知していた。
 ぎしぎしと、軋み声の悲鳴を上げる筋肉。喉が鳴るような呼吸。毛皮が、その下にある筋肉が、火傷しそうな程に熱を帯びている。
 涎を滴らせ、視界をぼやけさせながら、虎は宙を疾駆した。
 そして、見つけた。
 空と地の境に、僅かに灯る光。星でも月でもないその光が、一駆け毎に、少しずつ大きくなっていく。
 それは、聖地に点された、儀式を祝う灯火であった。



 少女と狼が、戦っている。
 少女は、その可憐な口元を引き絞り、真剣な面持ちで目の前の怪物を睨み付けながら。
 狼は、地に伏せるように低い姿勢で、どこからどう攻められても背中に乗せた少女を傷つけないよう細心の注意を払いながら。
 怪物が、悪夢のような腕を伸ばし、彼らを捕まえようとしても、あたかも宙を舞う蝶のように、ひらりひらりと身を躱す。
 その様子は、戦いというより上等の舞いのようであり、語弊を恐れずに言い表すならば、まるで遊んでいるようにさえ見えた。
 少女と狼の戦いは、歴戦の勇士であるケリーとジャスミンをして、心を奪う程に美しく、そして雄々しいものであったのだ。
 ジャスミンが、苦笑とともに呟いた。
 
「しかし驚いたな。あの狼、ウォルを喰い殺すために来たのかとさえ思ったが、そこらの猟犬よりもしっかりと躾けられている。まるでウォルの意思が読み取れるみたいだ。それとも、あの子は実は魔女で、あの狼は使い魔か何かなのかな?」

 不謹慎なのではない。軽口がきける程、ウォルと狼の戦いぶりは安心して見ていられるものだっただけだ。

「いや、違うぜ女王。あの狼があんなに従順な理由は、よく躾けられているからでもなければ契約で逆らえないからでもない。もっと単純な理由だぜ」
「それは?」

 ケリーは、不敵な笑みを浮かべて言った。

「世の男性のほとんどが、女に頭の上がらない理由と同じさ。いわば惚れた弱みってやつだな」
「惚れた弱みだと?」
「惚れた女の窮地を救い、惚れた女を背負って一緒に戦っている。それで燃えないなら男じゃねえさ」
「ちょっと待て海賊。お前はいったい何を言っているんだ?」

 ジャスミンの言葉に、ケリーの瞳が若々しく輝いた。それは、裏山に築いた秘密基地の存在を親友に打ち明ける、悪童のような輝きだった。

「まだ気が付かないのかい?あの狼は、俺よりもむしろあんたの方がよく知ってる、例のがきんちょさ。ウォルに特大のほの字の、銀色の髪で紫色の瞳の……」
「まさか、インユェか!?」

 思わず大きな声を上げたジャスミンが、あらためてその狼を見直す。
 透き通るように輝いた、銀色の毛並み。人を乗せてなお余裕を有する程の巨躯。全身にバネを仕込んだように躍動する筋肉と、何より濃密な野生を漂わせた鋭い顔つき。
 どこにも、あのなよなよしさの抜けない少年の、甘えた様子はない。あれは完成された生き物だ。人とは別の世界で生きることを宿命づけられた故に美しい、そういう研ぎ澄まされた生き物のはずだ。
 だが、ジャスミンは理解した。あれは、確かにインユェなのだ。あの、拗ねた目つきで自分を睨み付けた少年。ロッドで打ち倒されて、反吐を吐き散らしながら地面をのたうち回った少年。それでも、ウォルを助けるのだと歯を食いしばりながら立ち上がった少年。

「そうか……」

 そうか。そうか。ならば、あの少年は、自分の望むものになることが出来たのだ。
 ジャスミンの頬が、我が子を見守る母親のように、優しい曲線を描いて持ち上がった。
 だが次の瞬間、二人に冷や水をかけるように、耐え難いまでの不快な含み笑いが聞こえた。
 
「なるほど、あれはあなた方の知り合いですか、流石は神の愛し子、理解はしているつもりでしたが、中々にしぶといものだ、最後まで楽しませてくれるものですね」

 痩せた背を痙攣させるように、アーロン・レイノルズは笑っていた。その淀んだ視線の先では、狼と少女が、ぶよぶよとした巨大な赤子の、無数に生えた腕の一本を斬り飛ばしていた。
 闘技場に響く、鼓膜をやすりかけるような、甲高い絶叫。
 それは紛れもなく、自身の息子の泣き声なのだ。腐った肉塊と化した我が子が腐汁の涙を流しながら助けを乞うているのだ。
 だが、それともやはり、父親たるその男は、煉獄の炎に身を焦がしながらそれでも戦う息子の姿を見て、心底嬉しそうに微笑んでいた。
 まるで、一流の演劇を楽しむ観客のように。
 ケリーが、酸味の強い唾を吐き捨てながら言った。

「……てめぇの血を分けた子供があんなざまで這いずり回ってるのが、そんなに可笑しいのかよ」
「いえいえ、別におかしいわけではありませんよ。何せ、あの姿は愚息が望んだもの。意中の娘と添い遂げるためにね。私はその手伝いをしたに過ぎません。全ては彼の自己責任。感謝されこそすれ、恨むなど筋違いも甚だしい。違いますか?」

 ケリーは最早アーロンの言葉に応える必要性を見出さなかった。
 この男は、穴なのだ。深く、光すらを飲み込み、底を見通すことが出来ない巨大な穴。
 穴と人が話すことが出来るだろうか。人の声は穴に吸い込まれ、意味を為さない残響となって返ってくるだけ。それは自分の声の残骸であっても、穴そのものの意思ではない。聞こえるのは、人を狂気へと誘う乾いた風の音だ。見えるのは自分の無力さだけだ。
 そんなものと意思疎通を図ること自体、不可能なのだ。
 ケリーの、侮蔑に満ちた沈黙をどう受け取ったのか、アーロンは気持ちよさそうに続ける。
 
「ただ、こうもあからさまな不公平がこの世にあるとは、知っていたにせよ、何とも残酷で滑稽だと思いまして、それが可笑しくもありました。我が目を疑うとはこのことでしょうか」
「不公平だと?」

 ジャスミンの声に、アーロンは頷く。

「そうではありませんか?愚息が拐かし、いたぶり殺した少女は百人を超えようかというのに、あの少女は未だ純潔を保ち、ああも生命力に充ち満ちている。何故か。それは、あの少女が神に愛されているからだ。彼女達は皆、同じ人間として生を受け、同じ人間として育ってきたというのに、これは何たる不公平か。そうは思いませんか、ミズ」
「……わたしの知らない間に不公平の意味は書き換えられたのか?それとも、この国では犯罪の被害者たちが全員等しく凄惨な目に遭わされることを公平と呼んで尊ぶのか?いずれにせよ、わたしの理解の及ぶところではないな。そして貴様のような人間のことを、盗っ人猛々しいとか面の皮が厚いとかいうのだろうさ」
「ええ、仰りたいことは分かりますよミズ。しかし、私が言わんとするところを、聡明なあなたならば理解しているはずだ。もしもあの少女が、いわゆる一般市民と変わらぬ星のもとに生まれていたのであれば、他の大多数と同じように、今頃薄暗い地下室で男達の慰み者となっていたに違いありません。しかし彼女は、ほら、ああも美しく、煌びやかに輝きを放ち続けている。まるで、世界を照らし出す太陽そのもののように。ならばその差異はどこから生じたのか。それは詰まるところ、その人間がどれほど天に愛されているかという一点に集約されるのですよ」
 
 アーロンは、うっとりとした視線で闘技場の少女を愛でていた。怪物と化した息子を見るよりも、むしろ暖かな視線で。

「太陽を地に落とす。不可能事ではないにせよ、人に為しうる業ではないということか?それとも、これもまた天使が私に課せられた試練というべきか……」

 老人の独り言を、ジャスミンが鼻で笑い飛ばした。

「何が試練か。貴様の嗜虐癖が自分の首を絞めただけだろうが。そんなにウォルを殺したければ、捕らえた時点で早々に首を刎ねるべきだったのだ。ここまで隙を作っておいて神の課した試練とはよくぞ言ったものだな」

 だがアーロンは、寒気のするにやにや笑いを浮かべながら、

「あなたの仰るとおりですよ、ミズ。しかし、太陽を堕とすということは、ただこの世から排除するだけでは不十分なのです。太陽の輝きを奪うということは、その輝きを人々の記憶から消し去るということ。黒く塗りつぶし、夜空の漆黒の中に埋めて沈めるということ。崇拝するに値せぬと、高きところより引きずり下ろし唾をかけて汚すということ。そのためには、かの少女を公衆の面前で犯し、その処女性を奪い、穢し、嬲り、よがり狂わせ、髪の毛の先の先、爪の欠片のそのまた一片に至るまで羽化登仙の快楽と涜神の堕落を覚え込ませねばならない。その様をこの星の全ての人間のまなこに焼き付け、この気高き少女が、娼婦以下のけだものにすぎないことを民に教えなければならない。それでこそ、太陽の神性を奪いさることが出来ようというもの」 
「……一応は聞いてやる。そこまでの労苦を厭わず、それでも太陽とやらを穢さねばならない理由は、いったい何だ?」

 アーロンは、全身を法悦に振るわせ、官能の視線で宙空を舐めて、言った。

「無論、むろんむろんむろん、言うまでもなく、当然の如く、我が人生の悉くがそうであるように、全ては天使のためです……」

 目の前に浮かんでいるであろう、天使の虚像を抱き締めるように、両腕を交差させ。
 情熱に打ち震えながら、しかし囁くような声で、歌い上げるような調子で。

「そうです。全ては、天使の御心のままに。かの方が、この世に太陽は一つでいいと、己の愛する太陽だけで構わないと仰るならば、否やがあろうはずもなし。このアーロン、偽りの太陽を地に落とし、この宇宙に唯一の太陽を輝かせるために、身を粉にして働きましょう。断腸の想いで我が子を怪物に貶めましょう。そう、我が子ルパートよ、憐れなルパート、しかし何と羨ましく妬ましいルパートよ!お前は天使のために働くことが出来たのだ!何という光栄!何という名誉!誇らしかろう嬉しかろう、この世にこれほどの喜びがあろうはずもない!そのために、人を止めたことなど如何ほどのことだというのか!腐りゆく体、人の肉を喰らわねば生きていけない運命、誰しもがお前を遠ざけ、誹り、愛さない!だが、お前はたった一度だけ天使の役に立った!それだけで、貴様の残り滓のような人生に、光り輝く栄光が充ち満ちたのだ!」

 アーロンは滂沱の涙を流していた。
 ケリーとジャスミンにとって、人の流す涙がこれほど不快で醜く、何より不吉に映ったのは、これが初めての経験だった。
 闘技場では、既に勝負の趨勢ははっきりとしていた。先ほどまで、アーロンの横やりがあっても五分五分だったのだ。今や、怪物と化したルパートは少女の剣に刻まれるだけの憐れな獲物でしかない。
 膾斬りにされた怪物の、悲しげな叫びが闘技場に響いている。

「分かっている!分かっているぞルパート!嬉しいのだろう!身悶えし、泣き叫ぶほどに!当然だ!その喜びを、父はようく理解しているぞ!」

 少女の振るう切れ味鈍い剣が、怪物の脇腹を切り裂いた。
 裂けた肉の隙間から、ぼとぼとと、ゼリー状に腐敗した腸がこぼれ落ち、その裂け目から半分消化された人間の顔面がころりと転がり落ちた。
 とろけた怪物が、更に苦悶の絶叫を上げた。
 
「ほら、敵が道具を使っているのだ!貴様も使わんでどうするルパート、お前は本当に、昔から頭が悪かった!」

 アーロンが指をくいとしゃくると、怪物の腹の裂け目から、ずるずると腸が引きずり出された。
 噴き出す大量の血液とそれ以上の血膿に塗れて、メデューサの頭のような、それとも無数の寄生虫が団子状に絡まり合ったような、怖気のする臓物が地面に溢れた。
 怪物は溢れた内臓を両手で抱え上げ、自分の腹の中に戻そうと必死だ。だがそれは溢れたミルクをグラスに戻そうとするようなもので、一度体外に露出した内臓を自力で元に戻すなど不可能である。
 それでも何とか腹の中に戻った極々一部の内臓が、怪物を嘲笑うように、しゅるしゅると、蛇のような動きで宙を駆け、少女と狼を包囲した。その光景を、まるで魂が抜かれたような様子で、怪物はただ黙って見ているしかなかった。
 その不可解で冒涜的な動きが、アーロンの意思と能力によるものであることは明らかであった。

「貴様の望みがその少女を我が物とすることならば、ここで命を落としても何ら後悔は無いはずだろう、ルパート!だから、その無駄に多い腕など、千切り捨ててしまえ!」

 ぱちりと痩せた指が鳴った拍子、怪物の背から生えた無数の腕が、一斉に千切れ飛んだ。

『あぎゃあ!』

 素っ頓狂な叫びが、怪物の歪んだ口から溢れ出た。
 怪物の背から、血が噴き出す。怪物が苦痛にのたうち回り、血と泥が混じり合い、あたりからヘドロのような悪臭が漂う。
 身を起こした怪物が、助けを乞うような視線で、アーロンを見上げた。
 
「痛いかルパート!だが父も痛いのだぞ!貴様よりも、もっと痛いのだ!だが見よ!天使の御心は叶えられん!貴様の想いも、間もなく成就する!」

 怪物から切り離された無数の腕は、重力に逆らって宙に浮かんでいた。
 その腕が、一斉に、少女と狼に向けて襲いかかった。
 四方から掴みかかる腕の群れを、狼は巧みに避け、少女は果敢に切り払った。腕の群れは、空しく地に落とされた。
 しかし、彼らの足下に、怪物の腹から垂れた腸の切れ端が、鎌首をもたげた蛇の速度で忍び寄っていたことには気が付かなかった。
 そして、気が付いたときには、巨狼の脚に、その一部が絡みついていたのだ。
 狼は、即座に怪物の腸を噛み切ろうとした。だがそれよりも、怪物が自らの腸を握り、壁に向けて振り回す動作の方が早かった。狼の巨体は宙を舞い、少女を庇いながら、為す術無く鋼鉄の壁に叩き付けられた。
 狼が、力無く落下する。少女がそれに駆け寄ろうとするが、既に両足を潰されてしまった彼女が駆け寄る前に、狼の体は再度振り回され、何度も何度も地面に叩き付けられた。
 まるで、子供が虫螻を弄ぶように、狼は痛めつけられた。 
 最後に一度、怪物は渾身の力を込めて、狼を再度闘技場の壁に投げつけた。ごぉん、と重たい音が響き、鋼鉄の壁が大きく歪曲した。土埃と自らの吐血で銀色の毛並みを汚した狼は、ずるずると地面に這い落ちた。

「インユェ!」

 少女の、悲鳴のような叫びが闘技場に木霊した。
 アーロンは、嗤った。

「ざまをみるがよいわ!偽りの月などこの程度のもの!似非の分際で調子に乗るから無惨に死ぬことになるのだ!さぁルパート!その犬ころの首をねじ切れ!その小娘をずたずたに犯し殺せ!それが貴様の生まれた意味だ!」

 怪物が、苦痛に身を捩りながら、伏したままぴくりとも動かない狼の元へと這い寄っていく。少女は、刃が欠けて既に剣とは呼べない剣を構えて、狼を庇い立ちはだかった。
 もう、彼女達に抵抗する力が残されていないことは火を見るよりも明らかだった。この勝負は、怪物の勝利で終わるだろう。怪物は己の歪んだ欲望を満たし、少女を力尽くで自分のものにするのだろう。
 だが、怪物は泣いていた。それは、歓喜の涙ではない。苦痛と絶望と、それ以上に後悔の涙だった。人を止めてしまった自己を認識する、最後の知性が流させる涙だった。
 涙を垂れ流した怪物が、一歩一歩這い寄る。

「ひでぇ……」

 ケリーが、嘔吐感を堪えながら呟いた。眼前で繰り広げられているのは、凄惨な生け贄の儀式でも無ければ、勇者と怪物の征伐劇でもない。これは、あらゆる意味を失ったただの見世物だ。例えば毒蛇と鼬をガラスケースに入れて喰い合わせるように、観客を楽しませるだけに彼らは殺し合いを演じさせられている。痩せた老人ただ一人を楽しませるためだけに。
 そして、その役者の片方は、彼の血を分けた息子なのだ。その息子が、勝利を前にしながら絶望の涙を流す様を見て、親は喜び狂っている。
 
「おい、海賊」

 隣から発せられた声に、ケリーの嘔吐感が吹き飛んだ。
 寒気と緊張感。あらゆる生き物に共通の感覚。生命の危機。
 背筋に絶対零度の針金を突っ込まれたような心地で、ケリーがその声の主を見る。
 そこにいたのは、自らの妻である、ジャスミンだ。だが、その瞳は、黄金も斯くやというほどの鮮やかな金色に染まっていた。

「女王──」
「先に言っておく。しばらく見境が無くなるぞ、わたしは」

 ケリーが言葉を飲んだ。自身の妻の、瞳の色を見たからだ。
 その、圧倒的なまでの鮮やかさ。
 ジャスミンの瞳の金色が、彼女の怒りを示す警戒色だとするならば、今の彼女は正に危険そのものであった。引き金の絞られた拳銃であり、既に発射されたミサイルであり、導火線が根本まで焼け焦げた爆弾であった。
 
「ふぬぅぁっ!」

 ジャスミンの総身に力が充ち満ちた。筋肉という筋肉に血液が流れ込み、一気に膨れあがる。大柄な彼女を包むゆったりとした服が、内側からの圧力で緊張し、今にも千切れとばんばかりになる。
 指、手の甲、首筋、顔、素肌の見える全ての部位が紅潮し、血管が浮きあがる。口を大きく引き絞る。食いしばった歯はぎしぎしと不快な音を立てて軋み続ける。
 その様を見たアーロンの唇が、さも楽しげにめくれ上がった。

「おやおや、無駄なことを、ミズ。あなたの体を縛る力が、どれほど慮外のものかを今更教えて差し上げねばならぬのですか?そも、あなた方の用意した策の全てが、全ての兵器が、私に毛の先ほどの傷をつけるにも能わなかった。聡明なあなたらしくもない。今のあなたに許された選択肢は、このショーを最後まで見届けるか、それとも目を瞑って惨劇を拒絶するかのいずれかなのですよ」
「うぐぅぅぅああああっ!」

 アーロンの嘲弄に、ジャスミンは応えない。鼻腔を膨らませ目を血走らせた、女性らしからぬ鬼の形相で力を込め続けている。
 その無様な様子を見たアーロンが、溜息混じりにケリーに言った。
 
「ケリー、あなたからも言ってあげてくださいな。人には出来ることと出来ないことがあり、それは恥ではないのだと。私の異能は、あなた方がどう足掻こうと抵抗出来るものではないのです。それは、あなたが一番良くご存じでしょうに」
「ああ。それは重々理解してるぜ大統領。だが、重々理解した上で忠告しておいてやる。この女は本気でぶち切れたぞ。そして、俺は本気でぷっつんしたこの女ほど危険な存在を、この宇宙で見聞きしたことがねぇ。つまり、さっさと逃げるんだな。それも、尻尾に火がついた鼠よりも必死にだ」
「それはそれは、何とも面倒なことだ」

 ケリーの忠告をあっさりと聞き流したアーロンは、再び眼下の舞台に目を落とす。
 その時。

「うおおおおおおおあああっ!」

 凄まじい咆え声と共に、ばしばしと、ガラスの砕けるような音が辺りを満たした。
 その音が何なのか、誰に分からなかったとしてもアーロンにだけは理解出来た。自身の異能が、自身の意思以外の何かによって破られたのだ。
 驚愕の表情を貼り付けながら振り返った大統領が見たのは、瞳を金色に、眼球を深紅に染め、大量の鼻血を流しながら自分を睨み付ける大柄な女性の異相と、迫り来る巨大な拳だった。
 咄嗟にその危険な飛来物を静止させようと、能力を集中させる。しかし、対物ライフルの鉄甲弾の斉射すらを凌ぎきるテレキネシスは、その女性の豪腕を止めることが出来なかった。

「──ッ!」

 声にならない声をアーロンが上げた。だが、拳は止まらない。
 空を裂く勢いの拳が、腰を浮かしかけた痩せた頬にめり込み、骨と骨が衝突する音が響く。衝撃に負けたのは、当然の如く痩せた老人だった。老人の軽い質量は、憐れなほどに呆気なく宙を舞い、そのまま壁に叩き付けられた。
 
「がはっ……!」

 呻き声とともに、折れた奥歯と大量の血が溢れ出た。それを法衣の袖で拭いながら、被害者は加害者を見上げた。
 そこにいたのは、赤毛の魔女ではない。燃え盛る怒りで頭髪を紅く染めた、魔王がいた。
 アーロンは、体が勝手に震えていることに気が付いた。それは、彼が生まれて初めて抱いた、他者への畏怖であった。

「ど、どうして……」

 血塗れの口で、アーロンは呟いた。

「何故、私の特異能力が……」
「知ったことか」

 魔王の形相で、ジャスミンが吐き捨てた。
 
「そう、知ったことではない。貴様が怪しい宗教に傾倒しようが、天使とやらを狂信しようが、知ったことか。わたしの目の届かないところで外道の所業に手を染めるのも知ったことか。だが、わたしの目の届くところで、わたしのよく知る子供達が貴様如きの玩具にされて我慢が出来るほど、わたしはお淑やかではない」

 眼球を紅く染めているのは、破裂した毛細血管から硝子体に流れ出した血液だ。そして、感情の奔流とともに青灰色から黄金色に変じた虹彩。
 紅玉に浮いた金色の瞳は、視線だけで対象を殺すことが出来たという神話の魔神を彷彿とさせた。
 つまり、ジャスミンは怒っているのだ。それも、心の底から。

「その上、自分の子供の生まれた価値を、意味を、親が決めるだと?よくぞほざいたものだ。わたしは、そのような傲慢を認めない。貴様の存在価値を、認めない。今すぐ、貴様の存在を、この宇宙から抹消してくれる」

 髪の毛を殺気で波打たせたジャスミンが、その巨躯を一歩進めた。
 分厚い軍用ブーツの靴底がコンクリートの地面と擦れて、重々しい音を奏でる。左拳を右拳で包み、ごきごきと鳴らす。口元を汚した鼻血を、ぺろりと舐め取る。全ての所作が、例えようもない禍々しさに充ち満ちている。
 ケリーは、心中でアーロン相手にお悔やみの言葉を贈った。もはやこの女を止めるのは、人間に許された業では無い。
 
「さぁ、お仕置きの時間だ、大統領」
「ち、近寄るな、化け物!」

 アーロンが手のひらを翳す。ケリーは、ジャスミンの周囲の空間がねじ曲がったのを確かに見た。
 ジャスミンの立った地面がえぐれ、重力に反して浮かび上がった小石が粉々に砕け散る。大気が、ジャスミンを中心にして竜巻のように巻き上がる。
 それでも、彼女のどっしりとした歩みを止めることは、一秒たりとも叶わなかった。
 あんぐりと口を開けたアーロンが、欠けた前歯を戦慄かせながら、誰に問うでもなく呟く。

「な、なぜ……」
「一つ、良いことを教えてやろうか、大統領」

 追い詰められたアーロンは、助けを乞うような視線で発言者を見た。その視線を受けて、自身も異能から放たれたケリーは苦笑を浮かべながら、

「あんた、ラー一族を知ってるか?」
「ラー一族……」

 声の調子から、答えを聞くまでも無いことをケリーは悟った。

「ご存じなら重畳だ。そして、その人智に外れた力は、大統領、あんたの桁外れの特異能力を水鉄砲か何かと見間違えちまうくらいさ」
「それが、いったいどういう──」
「俺や、あんたの目の前で仁王立ちしてるその女は、あの連中に心を読まれない」

 アーロンが、驚愕に目を見開いた。

「あの連中は、人間が呼吸をしたり腕を動かしたりするように特異能力を行使する。彼らにしてみれば、ビルを一つ吹き飛ばすのも人の心を読むのも、精々欠伸を我慢するくらいの難しさでしかないんだろうぜ」
「だからどうしたというのだ!」
「なら、彼らにも心を読めない人間がいるんだ。特異能力の一つも通じない人間がいたってちっともおかしくない。そうは思わないか?」

 そんな馬鹿な。アーロンはそう叫ぼうとした。今の今まで、自分の異能に平伏さなかった人間などいない。自分は、全ての人間の頂点にいるのだ。何故なら、自分は天使に愛されているのだから。
 だが、そうなら、もしもそうならば、今、どうして自分は追い詰められているのか。多少腕っ節が強いだけで他に何の取り柄もないような、ただの女に。
 それに、前は確かに特異能力が通用したのだ。他の人間と同じように。自分はこの女の首を絞め上げ、気絶させたのだ。あの時の、魂の抜けたような無様な顔をまだ忘れてはいない。
 それが、どうして今、同じ人間に追い詰められているのか。自分は勝ったはずなのに。
 這々の体で、アーロンは逃げた。異能の通じない人間が恐ろしかった。自分の理解の及ばない存在が恐ろしかった。自らを射貫く金色の瞳が、心底恐ろしかった。
 だが、足音は無情に追いかけてくる。這いずりながら逃げるアーロンを、決して許しはしない。
 その足が、アーロンの、肋骨の浮き出た腹を蹴り上げた。
 
「ぐぇ」

 カエルを押し潰したような声を発して、アーロンは床を転げた。そのまま思うさま転げ回り、苦痛を吐き出したかった。
 だが、ジャスミンはそれをすら許さなかった。アーロンの鳩尾を踏みつけ、体を地面に固定した。
 涙と鼻水で顔を汚した老人は、その足を持ち上げようとした。だが、異能を失った彼は、正しく普通の老人であった。足は、岩地に根を張った大樹のように、びくとも動かなかった。骨と皮だけのようなその腕で、ジャスミンの強靱な足が持ち上がるはずなどなかったのだ。

「き、きさま、わたしを、ころすというのか……」

 ジャスミンは、首を振った。横ではなく、縦に。

「終わりだ、アーロン・レイノルズ。貴様は私の靴底に張り付いていろ」
  
 そう呟き、足を振り上げ、その踵をアーロンの顔面に思い切り振り下ろそうとした。
 その時。

『駄目だよジャスミン!ちょっとだけ待って!』

 声が、した。
 咄嗟に動きを止めたジャスミンが、その声の方向を、見た。
 そして、その声を同時に聞いたケリーが、堪えきれない笑みを浮かべて、一言、呟いた。

「遅いぜ、天使」と。



 狼が、吐血した。げぼげぼと、大量の血を吐き出した。反吐のようなそれが、土の地面に赤黒い水たまりを作っていく。
 尋常の量では無かった。見る者に恐怖を覚えさせる量であった。
 おそらく、いや、間違いなく内臓が傷付いたのだ。それも、致命的な程に。何度も何度も地面に叩き付けられ、鋼鉄の壁が拉げる勢いで投げつけられた。無事なはずがない。むしろ、生きているのが不思議なくらいだ。
 それでも、狼は立ち上がろうとした。血を吐き出しながら、震える四つ足で立ち上がり、ウォルの前に立ちはだかった。狼を守ろうと剣を携えた、傷だらけのウォルの前に立ちはだかり、竜胆色の瞳で怪物を睨み付けている。
 
「もういい。もう十分だ。お前は休んでいてくれ、インユェ。このままでは、お前が死んでしまう」

 必死の制止は、狼に届いたはずだ。その証拠に、狼の耳がぴくりと動いたのだから。
 だが、狼に──狼の姿を取り戻した少年に、ウォルの言葉に従うという選択肢は存在しなかった。今更自分の命を惜しんで、愛しい少女を怪物に差し出せというのか。そんなことを許せるはずがない。
 雄は、命を賭けて雌を守るのだ。勝ち取るのだ。命を賭けて雌を守った雄にこそ、次代に子孫を残す資格がある。そうやって、全ての生き物は世代を重ねてきたのだから。
 だから、狼は一歩も退かなかった。吐き出すべき血を強引に飲み下し、威圧の唸り声をあげた。
 それでも、その姿は正しく死に体である。その程度のこと、理性を失い知性のほとんどを失った怪物でも理解出来る。
 全身を膿汁でずぶ濡れにした怪物は、おんおんと啼きながら這い寄る。絶望の嘆き声を上げながら、しかしその巨大な陰茎はそれ自体が意思を持つように打ち震え、先端から汚汁を垂れ流している。少なくともその部分は、ウォルの幼い肢体を今も貫かんと欲しているのだ。
 狼は、最後の力を前足に込めた。あの怪物の全身が屍毒だというならそれもいい。一撃で喉笛を噛み砕き、一緒に地獄に落ちてやる。姉を死なせ、最後まで役立たずだった自分に、それはきっと似合いの最後だろう。
 しかし。
 狼のたてがみを、柔らかな手のひらが、そっと撫でた。

「分かった。よく分かったインユェ。そうだな、もしも俺がお前と逆の立場なら、もう休めと言われて休めるはずがないものな。それが男で、そうさせるのが女だ。何とも難儀な立場になってしまったものだ、俺は」

 苦笑と共に、ウォルはそう呟いた。今までの自分は、ただ守れば良かったのだ、命を賭けてでも。しかし今の自分は、自身の意思とは関係なく、守られる存在になったのだ。遠い昔、そのことをとびきり微妙な渋面で嘆いていた少女を思い出す。そしてその少女は、今のウォルの将来の夫候補なのだ。
 そうだ。あの娘は、守られるだけで良しとするような存在では決してなかった。全ては自身がどう在りたいかなのだ。

「俺も行く。俺も連れて行け。ここまで来たのだ。死なば諸共、死して開ける道もあるだろう」

 無邪気に微笑みながらそう言った。無論、こんなところで死ぬつもりなど微塵もない。だが、命を惜しんで逃げ回るよりも、死を覚悟して戦ってこそ開ける道の方が多いのだと、歴戦の戦士である少女は知っていただけだ。
 ウォルは、狼の背に飛び乗った。狼の足には、怪物の腹から伸びたはらわたが、今も絡みついている。このまま振り回されれば、先ほどの二の舞だ。そして狼の背にしがみついていれば、一緒に叩きつぶされてしまうかも知れない。蠅かそれとも蚊蜻蛉のように。
 そんなこと、ウォルも当然分かっている。しかしウォルは何の躊躇もなく狼の背に跨がった。

「いくぞインユェ!」

 狼は、嬉々と駆けだした。満身創痍の体で、後ろ足を引きずりながら牛よりも遅々とした速度で。
 体は血と泥で汚れ、尾は力無く垂れ下がっている。片方の目は塞がり、閉じられた瞼から血が流れ出ている。怪物を圧倒していた時の、雄々しい獣の面影はどこにもない。いや、目の前の敵を睨み付ける、片目の視線の鋭さだけが以前のままだ。
 そしてその視線を受けた怪物は、狼を敵と認識した。今度こそとどめを刺さんと、自らのはらわたを握る。狼が、脚に絡みついた肉の鎖を噛み切ろうと牙を向けるが、それは徒労に終わるだろう。再び狼の巨体は宙を舞い、そして地面に叩き付けられる。今度こそ、その生命が尽きるまで、何度も何度も。
 怪物が、はらわたをぐいと引く。
 しかし、狼の体が宙を舞うことはなかった。怪物と狼を繋ぐはらわたの、ちょうど中間あたりに深々と剣が突き刺さり、縫い止めていたのだ。
 誰が剣を突き刺したはずもない。闘技場にいるのは、少女と、巨狼と、怪物だけなのだ。
 その剣は、天より飛来した。無骨な造りの、剣であった。しかし、その剣をウォルは知っていた。そして、その剣を投じたのが誰か、ウォルは何よりもはっきりと知っていた。
 夜空の向こうの漆黒を睨み付ける。そこにあるのは、ガラスの破片をちりばめたような星空だけだ。しかし、例えば目を閉じていても太陽の暖かさを感じられるように、ウォルはそこに誰がいるのかを理解していた。
 そして、声を限りにその名を叫んだ。

「リィ!」
 
 その声に応えるかのように、星の一つが、風に揺らめくように動いた、かに見えた。
 次の瞬間、その星がぐんぐんと大きくなり、星以外の像を結ぶ。
 それは、金毛の虎だった。空を飛び、凄い速度でこちらに向かって来る。もちろんただの虎ではない。翼を持つ、巨大な虎だ。
 その背に、小さな影が見える。一つではない。何人かの人影が、そこにある。
 だが、ウォルの視線が捉えたのは、あまりに美しい金色の髪と、苛烈に輝く翠緑色の瞳だけだった。
 ウォルは、今度はこそ確信と信頼を込めて、その名を叫んだ。

「リィ!」
「ウォル、このばか!」

 リィが、満身の力を込めて、何かをウォル目掛けて放る。それは、放たれた矢よりも鋭く宙を裂き、ウォルの眼前に突き立った。
 それは、剣だった。造りそのものはリィの剣とさほど変わらない。ただ、刀身から漏れ出す気配が違う。リィのそれは、孤高で、リィ以外の人間を寄せ付けないような、近寄りがたい雰囲気を醸し出しているのに、この剣は、まるで自分を呼んでいるような、自分の手に収まるのを待ち望んでいるような気がするのだ。
 誘われるように、ウォルが剣に手を伸ばす。柄に指が触れると、じんわりとした優しい熱が伝わってくる。生まれたての、産着でくるまれた赤子を抱いたような、得も言われぬ暖かさ。
 ウォルは理解した。これは、自分の剣だ。いや、もっと正確に言うならば、自分だけの剣だ。他の誰の手に収まることもきっと拒絶するだろう、自分にだけ心を許した剣。
 つまり、リィやルウと同じ、心を持った剣。

「お前の剣だ!ラー一族随一の刀工の、心血を注ぎ込んだ逸品だぞ!無碍に扱うなよ!」

 無碍に扱うなどとんでもない。ウォルの内側の戦士としての部分が、あまりの歓喜に恍惚とした。今まで、名剣宝刀の類を手にして心打ち震えたことは数在れど、これほどの剣を手にしたことは一度だって無い。あるとすれば、闘技場で餓えた獅子と対峙したときにリィの剣を目の当たりにしたときだが、あれはあくまで自分の剣ではなく、リィの剣を借りただけだった。
 全身を覆う酷い苦痛を忘れるように、刀身をじっと見つめる。鏡よりも磨き込まれた不思議な金属は、星の光を凝縮したような輝きでウォルを見つめ返した。
 そして剣は無言でウォルに語りかけた。共に戦おうと。これから、全ての戦場を共に歩むのだ、と。
 契約は成った。この瞬間、担い手と剣は、主従の誓いを結んだのだ。
 おそるべき戦慄が、ウォルの背を走り抜けた。

「何を呆けている、ウォル!まずは目の前のでかぶつを片づけるんだ!その程度の相手にいつまでももたついていたら、同盟者の契約は白紙に戻させてもらうからな!」
「それは御免願いたいな!俺はまだ当分の間、お前にも背中を守ってもらうつもりなのだ!」

 それはつまり、お前の背中は俺が守るという言葉だ。
 ウォルが、笑いを噛み殺しながら叫んだ。
 リィも、おそらく微笑んだに違いない。

「隙はこっちで作ってやる!一撃で仕留めろ、ウォル!」
「応っ!」

 ウォルが、折れた方の腕で傷だらけの巨狼を撫で、

「さぁ、最後の一仕事だぞインユェ!勝利の女神は俺達に微笑んだ!あとは、約束された勝利を拾いに行くだけだ!」

 巨狼が、最後の力を振り絞るように、嘶いた。
 そして、全速力で怪物に向けて駆け出す。それと同時に、猛スピードで宙を疾駆する虎から、リィが躊躇無く飛び降りた。
 常人であれば間違いなく墜落死する高さを落下したリィは、ウォルと対峙する巨大な怪物の背に降り立ち、深々と剣を突き立てた。それは、リィの相棒であるルウの剣だ。
 怪物が、苦痛に満ちた叫びを放ち、竿立ちに立ち上がる。背に張り付いた苦痛を振り払おうとする。
 その隙を、ウォルは見逃さなかった。

「頼む、インユェ!」

 狼は乗り手の意思を汲み、無言で地を駆け、そして怪物目掛けて跳躍した。
 ウォルは、怪物とのすれ違いざま、剥き出しになった首筋に向けて剣を振った。
 手応えは、ほとんどなかった。ただ、後ろの方で、ごとりと重たい音がした。それが、怪物の首が地面に転がった音であることを、ウォルは知っていた。

 ──……りが……とう

 背後から、虫の羽音のように甲高い調子で、そんな声が聞こえた気がした。
 怪物の崩れ落ちる重々しい音が響く中、ウォルを背にした狼は、地に着地すると同時に崩れ落ちた。勢いそのままに顔面から地面に突っ込み、ぴくりとも動かなくなった。
 舌を力無く垂らし、呼吸は浅く、焦点の合わない瞳はぼんやりと宙空を見つめている。もう、立つ力も残されていない。
 着地の瞬間、地面に投げ出されたウォルは、新しい剣を杖代わりとして、何とか狼のもとに這い寄った。
 狼は、ちらりとウォルを見上げて、微かに、本当に微かに、笑ったようだった。

「よくやった、インユェ、ありがとう、お前のおかげで俺は生きている。本当にありがとう……」

 ウォルが、狼の太い首を掻き抱いた。伝わる拍動は弱々しく、今にも途切れそうだ。
 突然、狼が大きく咳き込んだ。げぼげぼと、大量の血液を吐き出す。やはり、折れた骨が肺を傷つけているのだろう。生暖かい液体が、ウォルの顔を汚した。
 狼が、少し申し訳なさそうな様子で眉間に皺を寄せ、ウォルの顔を舐めた。ウォルも、同じ事をした。狼の、口元についた血を舐め取った。

「絶対に、俺がお前を死なせない。死なせてなるものか。だから、安心して眠れ。大丈夫、俺がお前を守るから……」

 その言葉に応えるかのように、狼の瞼がゆっくりと降りる。
 ウォルは、異国の言葉の歌を歌った。遠い昔、妻が、眠りに落ちる前の我が子をあやした、それは歌だった。
 狼は──インユェは、耳心地の良いその旋律に誘われ、漆黒の眠りに落ちていった。それは、二度と這い上がることの出来ない、底なし沼のような眠りだ。それでもいい。自分は、為すべき事を為したのだ。
 鼻先に触れる、暖かく柔らかい感触。まるで、別れの時に少女と交わした口づけのような。
 もしも死出の旅路の送別ならば、これ以上のものはないだろう。地獄の鬼にだって胸を張れる。俺は、愛しい少女を守りきって死んだのだ。そして最後に接吻を贈られた。どうだ、まいったか。
 インユェは、満足げに微笑みながら、最後の意識を手放した。ゆっくりと、深いところへと沈み込んでいった。



[6349] 第八十話:老人は祈る
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/05 12:22
 少女が、逃げている。
 細い足を必死に動かし、泳ぐような有様で闇の中を走り、逃げている。
 黒髪の、少女だ。美しい、少女だ。自分が一番愛する、まるで男のような名前の、ウォルという名前の少女だ。
 その少女が、顔を恐怖で歪ませて、逃げている。
 空気は濃密で、どれほど前に進もうとしても、嘲笑うかのように体を押し返す。少女の逃走は、老人が杖をついて歩むよりも更に遅々とした有様だ。
 発情した獣の体臭を纏わり付かせた男達が、下卑た笑いを浮かべながら、少女を追いかけてくる。少女が捕まればいったいどんな目に遭わされるのか、火を見るよりも明らかだた。
 少女が、絶望的な表情で振り返る。男達は、吐息の届くような間近にいる。
 男達は、少女を嬲るように、ゆっくりと追いかけてくる。それでも彼我の距離は広がらない。どれほど必死に逃げても、結末は変わらないのだ。
 それでも、少女は諦めない。足が動く限り、心臓が動く限り、彼女は逃げ続けるだろう。
 やがて、男達が手を伸ばした。ごつごつと節くれ立った手が、少女の髪を、首を、腕を、腰を、足を、全てを掴む。少女の体が、男達の腕の中に沈んでいく。

 インユェ、助けて

 少女が最後にそう呟いた。
 男の手が、少女の口を塞いだ。少女の服が、びりびりと力任せに破り捨てられる音が響いた。
 
「ウォル!」

 少年は、精一杯に叫んだ。

「ん、呼んだか?」

 脳天気な少女の声が、深い眠りから目覚めたインユェが聞いた最初の言葉だった。



 インユェが、ぐるりと首を巡らす。
 無機質な天井、家具がほとんどない質素な佇まいの部屋、薄い灯り。自分が寝ている、簡易な寝台。
 そして、ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けた少女の、柔らかい微笑み。

「おはよう、インユェ。よく眠れたか?」

 ウォルはそう言って、インユェの額に手を置いた。
 ひんやりと冷たい少女の掌が、得も言われず心地よい。その心地よさが、これは現実なのだとインユェに教えた。

「ん、熱も引いたらしい。随分魘されていたから少し心配だったが、これで一安心だな」

 ほっとした調子のウォルの声だったが、インユェの耳には届いていなかった。
 インユェの頭の中は、目の前で微笑む少女の笑顔で一杯だったのだ。

「ウォル……」
「どうした、何か欲しいものでもあるのか?そうだ、起きたばかりなら喉が渇いているはずだな。少し待ってくれ、こっちに水差しが……」
「ウォル!」

 突然、インユェがウォルに飛びついた。ウォルの小さな体はその勢いを受け止めきれず、インユェ共々、ふかふかのカーペットに転がった。流石のウォルも、まさか目覚めたばかりの半病人がこれほど敏捷に動けるなど予想していなかったので、躱しきれなかったのだ
 ごろごろと転がった二人の体はテーブルの脚にぶつかり、その上に置かれた水差しやら手桶やらを床に落としたものだから、かなり大きな音が鳴った。
 その音に驚いた、リィやシェラやメイフゥが、一斉に部屋に飛び込んでくる。

「ウォル、どうした!」
「大丈夫ですか、陛下!?」
「目が覚めたのか、インユェ!」
 
 そして彼らが見たのは、仰向けの姿勢で天井を見上げながら乾いた笑みを浮かべるウォルと、その胸に縋っておいおい泣き声を上げるインユェだったのだ。



「少しは落ち着いたか?」

 ウォルが、インユェの頭を撫でながらそう言った。
 インユェは、目を真っ赤にはらしたまま、なんとか頷いた。時折しゃくり上げる仕草を繰り返すあたり、どうやらまだまだ落ち着いているとは言い難いのだが、とりあえず人の話を聞ける程度には平静を取り戻したらしい。
 
「悪い夢を見て泣くとは、インユェ、お前はまだまだ子供だなぁ」

 悪気無くウォルがそう言うと、インユェの双眸にじわじわと涙が浮かんでくる。眉間に皺が寄り、鼻をぐすぐすと鳴らし、涙腺が大決壊を起こす寸前だ。

「だってよう……しょうがねぇじゃねえかよう……ウォルが……ねえちゃんが……うええぇ……」
「違う、すまんインユェ!そういう意図ではない!俺が悪かった!悪かったから、頼むから泣くな!」

 ウォルが慌てて慰めようとするが、インユェはさめざめと泣き始めた。
 ウォルは、天井を仰いで溜息をついた。仕方のない事なのかも知れない。インユェは、まだまだ本当に子供なのだし、子供には到底背負いきれない荷物を無理矢理背負って頑張ってきたのだ。その緊張の糸が途切れれば、幼児退行の一つも起こすものだろう。
 
「ああ、もう、分かった。分かったから思い切り泣け。ほら、胸を貸してやる」

 そう言って、ウォルはインユェの頭を掻き抱いた。
 インユェはされるがまま、ウォルの胸の中で大いに泣いた。

「……すまねぇ、ちょっと、落ち着いた……」

 小一時間ほども泣いたインユェが、途切れがちにそう言った。
 まだしゃくり上げながらなので、その言葉がどこまで本当かは疑問が残るが、本人がそう言うのだから信じる以外無い。
 それにしても、今のインユェは情けない様子であった。ほとんど丸一日ベッドで横になっていたから、自慢の銀髪のあちこちに強烈な寝癖がついて、いくつもの束が跳ね回っているのだし、寝起きの顔はむくれているし、目はなんとも恨めしげに赤く腫れて幽霊かなにかのような有様だし、鼻水と涎の跡で顔の下半分がべたべただ。
 弟のあんまりな様子に、姉が盛大な溜息を吐き出した。

「ったく、ちったあマシになったかと思えばいつまで経ってもよちよち歩きのがきんちょじゃねえか。そんな有様で惚れた女を落とせると思ってるのかよ」
「そりゃねぇよ、姉ちゃん……」

 また、ぐすぐすと鼻を鳴らし始めた。何せ、インユェはメイフゥが死んだものだと思っていたのだ。それが生きていた。先ほど、インユェはメイフゥの姿を認めるなり、ウォルの胸から離れて全力でメイフゥの胸に飛びついた。まるで、迷子の子猫がやっとのことで母猫を見つけたような姿だった。
 普段ならば、見境無い突進などひらりと躱して、情けない弟の頭に特大の拳骨の一つ二つを喰らわしてやるメイフゥなのだが、この時ばかりは感極まり、抱き合いながら一緒になって泣き声を上げてしまった。
 だから、今のメイフゥにもいつもの切れがない。自身も赤くした目を、明後日の方向に向けて毒づくだけだ。
 そんな姉弟の様子を微笑みながら見守っていたルウが、インユェの頭を撫でながら言った。

「本当に頑張ったよ。どうかな、少しだけ、自分のことが好きになれたでしょ?」
「……うん」
「ならよかった。きみは思い切り胸を張って良い。だって、きみはこの世で一番大切な人を守りきったんだから」

 インユェは盛大に鼻を啜り、目をごしごしと擦った。

「……どうして、俺は生きているんだろう。俺、絶対に助からないと思った。肺に肋骨が刺さってたのが分かったし、寒くて心細くて体中が痛くて、ああこのまま死ぬんだなって思ったんだ」
「そうだね、あのままだときみは絶対に死んでいた。だから、きみはこの子に感謝しなさい」

 ルウが指し示したのは、少し不機嫌そうな様子のリィだった。
 気を失っていたインユェには、リィがどのようにして自分を助けてくれたのか、分からない。だが、ルウの言葉に嘘がないのは分かった。そして、自分が何をすべきなのかも。
 インユェは、ベッドの上で居住まいを正し、リィに対して深々と頭を下げた。

「助かった。ありがとう、リィ」
「恩義を感じてもらう必要なんてない。お前がおれの同盟者を助けてくれたから、そして同盟者がお前を助けてくれと頼んだから、おれに出来ることをしただけだ。礼ならウォルに言うんだな」
「ああ。ありがとう、ウォル……。それにしても、あの後、何がどうなったんだ?ジャスミンさんや旦那さんは……」
「じゃあ、説明するよ。少し長くなるかも知れないけど、疲れたら早めに言ってね?まだきみの体は本調子じゃないんだから」



 祭壇は、静けさに包まれていた。広い観客席を埋め尽くす賓客達は、一言を発する事も出来ず、身動ぎをする事すら出来ない。ただ、篝火の燃え盛る音だけが、別世界の出来事のように遠くから響いている。
 戦いは、終わったのだ。それはつまり、神聖なる儀式の裁断が下ったことを意味している。
 曰く、少女に罪は無かった。
 広い祭壇に、剣を一振りだけ与えられて引き出された少女の姿は、あまりにもか弱く、儀式の贄以外の何物でもなかった。剣など、何の役に立つはずもない。狼たちに追い回され、醜く足掻き、最後はその生き餌になるのだと誰もが確信していた。
 しかし、少女はちっとも思い通りにならなかったのだ。
 狼をたった一刀のもとに切り捨て、傷だらけになりながらも正体不明の怪物を打ち倒した。最後の最後まで不撓不屈だったその様子は、生け贄に選ばれるべき、罪に塗れた人間からはほど遠い有様であった。
 それだけではない。
 あの、醜い怪物に追い詰められていた少女を助けた、白い巨狼。あれはまるで、聖女ヴェロニカの説話にある、ヴェロニカを守り天へと誘った神獣ではないか。
 では、あの少女は、聖女たる資格を持つということか。
 そうならば……万が一にもそうであるならば……自分達は、聖女を野獣の生き餌にし、あまつさえそれを見世物として楽しんだということになる。その行為がどれだけ罪の汚辱に満ちているか、あらためて考えるまでもない。今、地獄の獄卒は、この場に居合わせた全ての人間のために大わらわで通行証を用意していることだろう。
 そうでなくても、ヴェロニカ教で罪を犯した人間の死に様は、悲惨というほかない。ありとあらゆる苦痛を味わい、体を人外のそれへと変貌させ、最後は腐った内蔵を吐き出しながら死んでいくのだ。
 普段は、例えば姦淫や肉食程度の破戒など罪とも思わない観客たちが、一様に戦慄していた。何せ、自分達は、神に愛された聖女を、これ以下などないという方法でもって侮辱したのだ。これが神の怒りを買わないならば、あらゆる罪は意味を失うに違いない。
 駄目だ。そんな結論は、許容出来ない。自分達は、選ばれた人間だ。この星に文明を築き、繁栄をもたらしたのは我らの祖先だ。この星は、自分達の祖先の苦労と努力によって、何より神の寵愛によって育まれたのだ。ならば、祖先を愛した神々が、どうして自分達にだけその牙を剥くのか。
 そんな不公平があっていいものか。いや、そんなことが許されるはずがない。神が祖先を愛したならば、その子孫である自分達も愛するべきだ。
 そうだ。あれは、聖女などではない。聖女を騙る淫売だ。だから、この場で始末してしまっても、何の問題もない。仮に聖女だったとしても、天に昇る前であれば神の目も届かないかも知れないではないか。
 どちらにせよ地獄の最下層が口を開けて待っているならば、少しでも幸福への可能性が残る選択肢をこそ選ぶべきではないか。そも、見ろあの少女を。片腕は歪にねじ曲がり、足もどうやら歩けないらしい。巨狼も、まるで今にもくたばりそうな有様ではないか。妙な連中が増えたようだが、なに、数で押し包んでしまえば何とかなるだろう。
 誰が最初にそう考えたのだとしても、その思考が全ての観客に感染するまでそれほど時間はかからなかった。この場には、負の思考を伝染させる魔的な何かが満ちていたのだ。

「おい、衛兵。ぼうっと突っ立って、いったい何をしているのかね」

 到底植物性の栄養源だけで膨れあがったとは思えない程に腹をだぶつかせた高僧が、傍らに立つ僧兵に言った。
 僧兵は、耳道に氷水を流し込まれたかのように、びくりと体を震わせ男を見た。

「見なさい。神聖なる儀式が、無礼なあの闖入者によって掻き乱されてしまった。これは遺憾な事態だ。本来であれば、あの少女は、大統領閣下が神の使いと呼んだあの生き物によって神罰を与えられていたはずなのだ。なのに、本来あってはならないよこしまな助太刀により、まだ生き長らえている。これは到底神のご意志に叶うものではあるまい」

 自信満々な様子でそう言い切った。
 僧兵は思った。果たしてそうだろうか。本来の儀式であれば、少女は剣を一つ携えて、狼の群れと戦うのだ。そして、生き残るか否かをもって神の意志とする。いや、本来であれば生き残ることなどない。そして自然から多くのものを収奪した人間の罪は、自然の循環に戻ることを許されるのである。
 だが、少女は狼に打ち勝った。その時点で、儀式の結果は出ているはずだ。闖入者云々を言うならば、むしろその後に現れた、あの奇怪な怪物をこそそう呼ぶべきではないのか。
 
「儀式が、取り返しのつかない程台無しになる前に、在るべき形に修正するのが君たち僧兵の役割だろう?ならば、あの無粋な連中を速やかに排除し、罪深き生け贄の少女を、磔刑でも火刑でも良いから、早急に天へと送り届けるべきだ。違うかね?」

 尊大に言い切った高僧であるが、声の端々は不安定に震えていた。端的にいえば、この僧も恐ろしかったのだ。神の怒りが。神の下すであろう罰が。そして、自分の犯してきた破戒が。
 高僧の抱えた恐れは、即座に僧へと伝染した。ヴェロニカの教えに人生を捧げた僧は、男以上に、自分が置かれた立場を理解していた。聖女に唾を吐きかけた儀式に、そうとは知らなかったとはいえ参加してしまったのだ。この罪深さを、きっと神は許さない。
 何とかしなければならない。
 そうだ。そもそも、あれが聖女だなどと、いったい誰が決めたのだ?ただ、剣一本で狼の群れを切り伏せただけ。ただ、白い狼が少女を助けるために現れただけ。その二点しか、あの小娘を聖女とする理由など存在しないのだ。だいたい、あの少女は罪深き肉喰いの星の生まれである。そんな穢れた聖女など、あり得べき話ではない。
 そうだ。あの少女は、偽物だ。聖女を騙る不逞の輩である。誅罰を加えることこそ、神の御心に叶うはずだ。
 決意した僧兵は、マシンガンを片手に、無線機の回線を開いた。



 テセルは、転げ落ちるようにして、メイフゥの背から闘技場に降り立った。
 体中の筋肉が、かちかちに強張っている。無理もない。落ちればまず助からない高度を信じられない程の速度で疾駆する、翼持つ虎にしがみついていたのである。ここまで無事辿り着けたこと自体、我が事ながら信じがたい。
 生まれたての子鹿のように、両足が細かく震える。しかしそれは、疲労や緊張のためだけではない。
 テセルは、目の前の光景に感動していたのだ。
 傷だらけの少女。傷だらけの巨狼。少女は意識の無い狼の首を抱き締め、我が子を慰める母親のように、緩やかに撫で続けている。それは、神話にある聖女と神獣の邂逅を描いたイコンそのものであった。
 奇跡が起きたのだと思った。信仰の本質を忘れ、名目と惰性を守るだけの存在となったヴェロニカ教の目を覚まさせるために、神が彼女を使わしたのだと。
 その聖女が、ゆっくりとこちらに視線を向ける。漆黒の、底の読めない瞳。我知らず、テセルは跪いていた。聖女の前で伸ばす膝を、彼は持っていなかったのだ。

「リィ、ずいぶんと遅かった」

 落ち着いた声で、少女が言った。
 その言葉を受けた金髪の少年が、ばつが悪そうに頭を掻いた。

「ああ、ウォル、ずいぶんと遅くなった。それにしても、悪いのはおれだけじゃないと思うぞ。家出というには随分遠くまで家出したもんだ。迎えに来る方の身にもなってくれ」

 少女は、透き通るような笑みを浮かべた。

「それは因果応報というやつだな。家出はお前の専売特許ではないのだぞ。これで、置いていかれる身の辛さというものが、少しはお前にも理解出来ただろう?」

 悪戯気な少女の声に、少年は苦笑した。少年が、異世界で少女として生活していたとき、一月や二月の家出は正しく日常茶飯事だったのだ。それを言われると、少し弱い。
 リィは負けを認めるように、両手を挙げた。

「わかった。悪かったよウォル。きっと、凄く心配させたんだと思う。これからは気をつける。だからお前も、これからは家出するなら家出するって言ってくれ。それと、出来れば恒星間を跨ぐような家出は勘弁して欲しい。迎えに来るのが、骨が折れて仕方ないんだ」
「ああ、分かった。家出するときは、実家に帰るくらいにしておこうか。亭主の無体な振る舞いに愛想を尽かした妻は、まず実家に帰るものらしいしな」
「それはもっと勘弁してくれ……」

 ウンザリしたようにリィが呟いた。今は養子の身分であるウォルの実家とは、当然のことながらヴァレンタイン邸なのだ。家出した妻があの家に引き籠もってしまっては、色々と面倒なことになるのは目に見えている。
 渋面を浮かべたリィの様子を見て、ウォルは少しだけ微笑んだ。

「なぁ、リィ、頼む。どうか、インユェを助けてやってくれ。このままでは、死んでしまうんだ」

 ウォルは、狼の鼻筋を軽く撫でた。
 狼は、愛しい少女の掌の感触に、少しも反応しなかった。力無いその様子は、正しく死期を迎えた獣そのものだった。呼吸は浅く、速い。その呼吸も、浅い調子のまま少しずつ回数を減らしているのが目に見えて分かる。まるで命を司る蝋燭が、今、燃え尽きようとしているかのようだった。
 
「こいつは、命を賭けて俺を助けてくれたのだ。俺は、命を賭けてもこいつを助けなければならない。口幅ったいながらも、それが戦士の覚悟に対する礼儀というものだと、俺は思う」
「同感だ」
「だから、リィ、俺は何でもする。火の海に飛び込めというなら飛び込もう。命を差し出せと言うなら差し出そう。お願いだ。どうか、インユェを助けてくれ」

 ウォルの言葉は静かだったが、そこに込められた覚悟は本物だった。今、そこで死にゆく少年を助けるためであれば、少女は己の命すら容易く捨て去るだろう。
 だが。

「ウォル。その言葉はおれに対する侮辱か?」

 リィは、苛烈そのものの声でそう問い質した。視線に込められた気迫は、一歩間違えれば敵意に昇華しかねない程である。

「おれとお前は、いったい何だ、ウォル」
「婚約者だ。そして兄と妹だ。なにより、戦士の誓いを交わした同盟者だ」
「婚約者ならば、助けあうものだ。兄は、妹のわがままを聞くものだ。戦士の誓いを交わした同盟者ならば、お前の背負った恩義はおれの背負った恩義と同じ意味だ。どうしてお前を助けて傷を負ったインユェを、おれが見捨てられると思う?その行為に対価を求めると思う?お前は、おれを忘れてしまったのか?」

 ウォルは、ゆっくりと首を振った。

「馬鹿を言うな。忘れられるはずがない。だから俺は、未練たらしくこの現世にしがみついているのだ。お前を忘れてしまえば、俺がこの世にいる意味もまた無い。お前を忘れたときが、きっと本当の意味でこの世を離れるべきときで、今はまだその時ではない。そして、お前をただの便利な道具と勘違いしたときがあるならば、それはお前を忘れてしまったということなのだろう」

 だから、少女は命を賭けて助けを乞うた。それが、全てを為しうる奇跡の力を有する少年に、奇跡を乞う時の最低限の礼儀だと知っていたのだ。そうでなくては、奇跡は日常に堕し、少年と少女を結ぶ絆は初めて綻びを見せるだろう。
 リィは、静かに目を閉じ、重々しい息を一つ吐き出した。

「……本当に、やっかいな奴と同盟者の誓いを結んじまったもんだ。誓いを結ぶ前にあっさりお前を王座に戻してやれば、気苦労の一つも減っていたのにな」

 ウォルは、気持ちよさそうに微笑んだ。

「ああ、お互い苦労するな」
「自覚があるなら、これからは少し大人しくしていてくれよ」
「一度鏡の前で、同じ台詞を吐いてみるがいい。どれほどの困難事か、きっとお前でも理解出来るに違いないさ」

 リィも、ウォルと同じ笑みを浮かべた。そしてネックレスから指輪を外し、右手の人差し指につけた。
 
「どいてくれ、ウォル」

 ウォルは、言われた通り狼から体を離した。
 遠い昔、頼るべき親衛隊長であり無二の親友でもあった青年が重傷を負ったとき、王妃が初めて力を解放したことを、ウォルは思い出した。だが、今のリィには、あの時の危うさがない。少年の体に、もう一つの太陽が生じたように、恐るべき力の奔流を感じるが、それは完全に少年の意思で制御されていることが理解出来る。
 きっと、インユェは助かるのだ。
 そう、ウォルが確信した、その時。
 静寂に満ちた闘技場に銃声が響き、瀕死の狼の前脚から、血飛沫が舞い上がった。

「──」

 表情と言葉を失ったウォルの眼前に、武装した僧兵が大挙して現れる。そのうちの一人が、声も誇らしげに言った。

「見ろ、こいつ、鉛の玉で血を流したぞ!神獣だなんて嘘っぱちだ!もしもこの化け物が神の使者で聖女の守護者ならば、人の作った武器如きで傷なんてつくものか!」

 たちまち周囲の僧兵からも同意する声が上がる。
 
「神獣が嘘っぱちなら、聖女も偽物に違いない!」
「あれはただの犯罪者に過ぎん!どうせ、生かしておいても極刑なんだ!この場で殺してしまえ!」
「火刑だ!あの女の罪を、火で清めろ!縛って燃やせ!」

 口々に叫ぶ僧兵たちの目は、狂気で満たされていた。如何なる現世の苦難も恐れない彼らだからこそ、死後に魂が鞭打たれることが恐ろしいのだ。現世は一夜の夢だとしても、死後の苦しみは永劫に続くのだから。
 自分達が許されざる罪を犯した自覚があるからこそ、それを認めることが出来ない。罪など無かったものとして走り続けるしかない。立ち止まった自分を見れば、そこには絶望が大きな口を開けて待っている。
 
「殺せ!そこの化け物狼も、得体の知れない連中も、今すぐに!」
「火にくべろ!火にくべろ!聖なる炎で、穢れた肉喰いどもを灰にしてしまえ!」
「ヴェロニカの神を信じぬ異教徒どもを皆殺しにしろ!」

 彼らが浮かべているのは、およそ想像しうる最も醜い人間の表情であった。
 己の自尊心を守るための虚勢、他者への寛容を否定する残虐性、己の神の名を借りた正義への盲目的信奉。たった一つでも吐き気を催すであろうどぎつい色彩の感情が、重なり合い渦を巻いているのだ。到底、正気の人間が直視出来る顔ではない。
 僧兵達の表情を、ウォルの背後で跪いていたテセルも見た。
 テセルも、己の人生を捧げた教団が、初めて恐ろしかった。ヴェロニカ教の信仰の輪から、半歩だけ離れて中心を覗けば、これほどおぞましいものが満ち溢れていたのか。それともこれはヴェロニカ教に限った話ではなく、人の作る集団全てに共通する危うさなのか。
 後ずさりそうになる足を叱咤し、テセルは立ち上がった。

「控えよ!貴様ら、自分がいったい何をしようとしているのか、分かっているのか!」

 テセルの大喝は、狂気に取り憑かれた僧兵達の足を止めた。
 狼狽えた僧兵の一人が、テセルの顔を見、驚愕の表情を浮かべた。

「て、テセル老師!」
「何故あなたがここに?」
「た、大病を患われて、床に伏せっておられるのでは……?」

 口々に慌てふためく僧兵を、テセルの怒気が鞭打つ。

「愚か者どもがっ!私がここにいる理由などどうでも良い!重要なのは、今、この場で何が起きているのか、そして何を為すべきかであろうが!」

 再びの大喝に、僧兵達は慌てて膝を折った。

「この少女が聖女であるか否かなど問題ではない!それは神のみが知り給うことであり我らが計り知れるはずもなし!ただ重要なのは、この少女は儀式の洗礼を受け、今も生きているということだ!この一事のみ、我らは神のご意志を推し量ることが許されるのだ!」

 テセルは、平伏する僧兵を睨み付け、

「汝らに問う!この少女に罪があるや否や!」

 その問いに、誰も答えない。じっと、地についた己の手を見つめている。
 やがて、一人の僧兵が、決意を眦に刻み、顔を上げた。

「恐れながらテセル猊下。あなたの仰ることは一々ご尤もなれど、我ら、この娘を生かしておくわけにはいきませぬ」
「……なんだと?」
「この娘は、神の御使いである狼たちを、あろうことか皆殺しにしたのです。もしもこの娘が神に許されたのならば、狼たちは牙を剥くことすらなかったはず。狼たちが牙を向けた時点で、この娘に罪多きことは明々白々のはず。その上、御使いたる狼たちを殺すとは、最早救いの道など慈悲深き神とて用意出来はしないでしょう」
「それに猊下、あなたには聞こえませぬか、祭壇を埋め尽くす信徒たちの声が」

 テセルは、擂り鉢状に盛り上がった観客席をぐるりと観た。
 そこは、当然のことながら、観客で満ちている。その誰もが、ヴェロニカ共和国では名の知れた名士ばかりだ。政治家、投資家、大企業の経営者、学者、果ては記録映像に登場しない日はないという俳優や歌手まで。
 彼らが、一様に押し黙り、狂熱の籠もった視線でじっと自分達を見ているのだ。
 テセルは、気道に何かが閊えているような、異様な圧迫感を覚えた。

「テセル猊下。彼らは皆、救いを求めているのです」
「救いだと?ならば、まずは過去の行いを悔い改め、神の許しを乞うのが筋であろうが!」
「それは正論でありますが、そうであるが故に彼らに受け入れられることはないでしょう。何故なら、普通の人間は己の罪をありのまま認められるほど強くはないからです。彼らが求めているのは、真なる魂の救済ではなく、己の罪を覆い隠す程度の詭弁でしかない」

 平然とそう言ったのは、まだ年若い僧であったが、つるりとした禿頭であった。それは、出家した僧の証である。
 ヴェロニカ教における出家とは、神に人生を捧げることと同義のはず。ならば、人生を神に捧げたはずのこの僧兵は、いったい何を言っているのか。
 テセルは、咄嗟に言葉を紡ぐことが出来なかった。

「我らの使命は、迷い怯える衆生を救い導くこと。であれば、その娘には本来の儀式の主旨に則り天へと還ってもらいましょう。なに、荒野の獣にとって、供されるのが生き餌であろうと死餌であろうと大差があろうはずもないではありませんか。つまり、まだ儀式は終わっていません。その娘が死ぬまで終わらない」

 よく見れば、若い僧の視線は恐怖と狂気が混在してどろどろに濁っていた。口では理屈をこね回しながら、彼らも考えていることは同じなのだ。罰が恐ろしい。罪が恐ろしい。助かりたい。救われたい。だから、罪と罰の象徴である少女を目の前から消去したい。
 そんなことで罪や罰が消えるはずがない。寧ろ、業火はその勢いを増すだろう。それでも彼らの理性は目の前の脅威を消去することを選んだ。
 だが、その思考は、例えば、掻っ払いの罪を隠すために人殺しを犯す阿呆のそれと変わるところがないのではないか。
 例えようもない怒りとそれ以上の情けなさがテセルの胸中を灼いた。貴様ら、それでもヴェロニカの僧か!声を限りにそう叫びたかった。
 だが、法衣の袖を引く小さな手が、テセルの嘆きを押しとどめた。

「いい」

 少女だった。
 体を血と泥で汚した黒髪の少女が、俯き加減で、テセルの法衣を掴んでいた。
 テセルは思わず悲鳴を上げそうになった。それほど、少女の顔からは表情というものが消え失せていた。まるで死人のように。
 固い唾を飲み下したテセルが、ひび割れた声で訊いた。

「いい……とは、何がいいと言うんだ?」
「もう、いい。ありがとう、御坊どの。あなたは俺を庇ってくれた。その恩義、一生忘れない」
 
 少女は、にこりと微笑んだ。どこにも陰のない、朗らかな笑顔で。
 なのに、何故だろう。テセルの背を、冷たいものが滑り落ちた。目の前にいるのは、小指の先で突けばそのまま死んでしまいそうな程にぼろぼろの少女だというのに、思わず数歩、テセルは後ずさった。
 そして理解した。これは、慮外の生き物だ。そう、例えば今朝方、自分を誘拐した金髪の少年や、その相棒であるという魔的な青年のように。
 テセルを押しのけるように、ウォルは歩を進める。
 足を引きずり、剣を杖として寄りかかり、何度も転びそうになりながらこちらへと向かって来る少女を見て、僧兵は片頬を歪めるように笑った。

「肉喰いの割にはずいぶんと物分かりがよい。死後の貴様を灼く浄火も、少しは勢いを弱めようというものだろう。神の慈悲に感謝するがよい」
「最期は貴様自身に選ばせてやろう。火刑がよいか、磔刑がよいか、それとも車裂きか」
「ひと思いという訳にはいかんぞ。貴様は罪に穢れた身。苦痛こそが罪を雪ぐのだからな」

 不吉な言葉の数々に、しかし少女は片頬だけを歪めて微笑んだ。

「生憎、俺はこの世界の生まれではないのでな。この世界の神とやらには会ったことが無ければ祈ったこともない。当然、貴様らの祈る神など、畏怖もなければ有り難くも無し、興味など小魚の頭ほどもありはしないさ」

 僧兵達からすれば致死量の冒涜的な言葉を、少女は事も無げに吐き出し、そのまま続ける。

「だが、貴様らが何を望んでいるのかはよく分かるぞ。つまり、戦争だろう。火刑だの磔だの仰々しい。俺が恐ろしいのならそう言え。俺を殺したいのなら素直にそう言え。狼は倒した。怪物も倒した。次は貴様らだ。それだけの話だろうが」

 少女は、血塗れの笑みを浮かべた。

「さて誰からだ?一人ずつか?それとも全員同時か?どちらでも構わんがさっさとしてくれ。出来れば手早く片づけたいから全員でかかってきて欲しいものだがな」
「強がりを、この愚か者め!そのようにボロボロの体で何を言うか!よかろう、貴様は火炙りだ!聖女は劫火の中から不死鳥の如く再臨されたが、呪われた身で同じ奇跡が起こせるか試してやる!」

 僧兵の一人が銃を構え、少女の足を狙い引き金を絞った。殺すつもりはない。ただ、火刑台を組み上げるまで大人しくさせようとしたのだ。
 銃声が轟く。誰しもが、少女の凄惨な姿を予想した。超音速の弾丸が少女の太股を貫通し、有り余る運動エネルギーはその骨を砕き肉を飛び散らせるのだ。ショックで即死しても不思議ではない。即死を免れたとしても、二度と歩けない体になるだろう。
 だが、少女は倒れなかった。それどころか、少女の体は、髪の毛の先ほどの傷も負ってはいない。
 僧兵は、狙いが逸れたのだと思い、再度引き金を引いた。しかし、少女の足には傷一つつかない。それどころか、剣を杖代わりにしてようやく立つことが出来る程に不安定だった少女の歩みが、一歩ずつ、力強く確かなものになっていくのだ。今の今まで血と泥に塗れ、肌の色すら分からなかった体が、少しずつ清められていく。歪にねじ曲げられた腕が真っ直ぐになり、腫れがみるみる引いていく。
 それだけではない。何度洗っても二度と白さを取り戻さないであろう程に汚れきっていた死に装束が、天使の着る羽衣のような輝きを放つ。
 そして、少女は一人、凛然とした姿で僧兵達の前に胸を晒した。時を巻き戻したかのように傷は癒え、目には燃え盛るような烈気が漲る。
 全てを許し全てを救う聖女の瞳ではない。全てを打ち倒し全てを導く、覇王の瞳だ。
 その瞳に射貫かれた全ての僧兵は、一様に畏れを抱いた。自分達が銃口を向けている相手は、もしかしたら聖女という存在よりも遙かに恐るべき、畏るべき存在なのではないか。
 僧達に走った悪寒を打ち消すように、だぶついた腹を豪奢な法衣で誤魔化した高僧が、貴賓席の中段から叫んだ。一番最初に、僧兵を扇動した男であった。

「惑わされるな!あれはただの毒婦に過ぎん!蜂の巣になるのが望みならば、よかろう、それをもって儀式の終わりとするまでよ!撃て!あの淫売を親でも見分けの付かない肉片に変えろ!」

 僧兵といえど兵士である。そして兵士にとって上官の命令は神の声と同じく絶対服従を要するものである。
 兵士達の銃口が少女に向けられる。そして古めかしい機械式の小銃が一斉に火を噴いた。
 幾重にも重なる銃声が、祭場を圧する。先ほどまで、少女とその騎する狼、おぞましく巨大な怪物の死闘を見て現実感を失いかけていた観衆の鼓膜を、無味乾燥な炸裂音が振るわす。
 だが、それらの銃弾も少女を傷つけることはおろか、触れることすら叶わなかった。動きを止めた弾丸が、少女の目の前の空間に幾百発も浮遊していた。
 それが誰の御業なのかは分からない。分かるのは、銃弾でかの少女を傷つけることは不可能なこと。そして少女もしくは彼女を寵愛する何者かは、常識では考えられない所業を可能としていること。
 つまりそれを人は、奇跡と呼ぶのだ。
 僧兵達は、色を失った顔で、呆然と少女を見た。その手は力無く項垂れ、支えを失った小銃は重力に従って地に落ちた。
 首領格の高僧は、震える声で叱咤を飛ばした。

「な、何をしておる!殺せ!その小娘を……!」
「喚くのは結構だが、上の者はまず手本を見せるべきだ。そうでなくては下の者はついて来んぞ」

 少女がそう呟いた瞬間、高僧の太った体が、まるで見えないクレーンに吊り上げられたかのように宙を舞い、祭壇へと落っことされた。
 背から地面に落ちた僧は何度も咳き込み、半死半生の態で体を起こしたが、差し出されたのは救いの手では無かった。
 ひんやりとした声と、それ以上に冷たい感触が、だぶついた頬を撫でる。
 息を殺し、おそるおそるその正体を見れば、それは濡れたような輝きを放つ刃先であった。少女が、蹲った僧の前に立ち、剣を突きつけていたのだ。
 
「はっ、ひぃっ、や、やめ……」
「そう言った人間に、今まで貴様はどう答えた?」
「ゆ、ゆるして……たのむ……」

 細切れに息を飲んだ僧が、憐れを誘う声で言った。
 少女は、人の悪い笑みを浮かべた。

「知っているか?他人に武器を取らせ、自分は安全なところで指示だけを出してふんぞり返り、それを当然と思って恥じることすらしない。そういう人間を卑怯者と呼ぶのだ。俺が聖女の名を騙る不届き者だというのならば、まずは貴様がかかってこい」
 
 すぅと剣が突き出される。頬の皮を裂き脂肪にめり込んだ刃が、冷たいはずなのに灼け付くような熱を放つ。
 生暖かい血が頬を伝い顎先から垂れ落ちるのを感じた僧は、股間の辺りからも同じ熱を感じた。辺りにツンとしたアンモニア臭が立ちこめたが、それは一瞬のことで、夜の帳から吹いた風が不快な臭気を吹き飛ばした。
 ウォルは眉を顰め、溜息を吐き出しながら剣を引いた。もう、殺すのも面倒だと思ったのかも知れないし、無二の友となった銘無き剣をこんなことで汚すのが忍びなかったのかも知れない。
 
「失せろ。そして二度と俺の前に豚のような顔を見せるな。次に会った時が、貴様の命の尽きる時だと思え」

 大急ぎで立ち上がった僧は、一度だけ振り返り、それから脇目も振らずに逃げ出した。泳ぐような走り方は不安定で、途中一度盛大に転び、闘技場の門の奥へと消えた。
 ウォルは、僧の無様な様子を見届けることなどせず、傷付いた巨狼のもとへと駆け寄った。その傍らには、少女の最も信頼すべき小さな戦士が立っている。

「インユェは?」

 リィは微笑んだ。

「こいつは曲がりなりにも人狼の端くれだ。なら、この程度でくたばるもんか」

 ウォルも微笑んだ。

「そうかも知れない。だが、俺は早くこいつを治してやりたいと思う。お願いだ、リィ。俺をそうしたように、こいつの傷も癒してやってくれ」
「なんだ、気が付いていたのか。面白くない」
「それは気が付くさ。俺は生憎、闘神の縁者ではないのでな。少しばかり他人よりも高い椅子に座っていたくらいで自分が神だと勘違いするほど愚かではないぞ」
「その神様に、随分と辛口だよお前は」
「崇め奉って欲しいなら今からでもそうするが?」

 リィは両手を挙げた。降参の意思表示だった。

「だけど、こいつを治すのはおれの仕事じゃない。それは、おれがするべきことじゃないからな」
「では、いったい誰が?」
「命を賭けて守られたんだ。なら、お前が助けてやれ」

 そう言われたウォルは、途方に暮れたように眉を寄せた。彼女には、リィのような不思議な力は備わっていない。少なくとも自身はそう思っている。
 抗議しようかと思ったが、止めた。リィが、ただの意地悪でそんなことを口にするような少年でないことに思い至ったからだ。
 ウォルは真剣な表情で訊いた。

「何故、お前が助けてやれない?」
「こいつは月だ。月は、太陽の光を受けて輝く。そして、こいつの太陽はお前で、おれじゃない。なら、おれの輝きでこいつを照らす事は出来ないんだ」

 リィの言葉を完全に理解出来たわけでは無かったが、ウォルは頷いた。つまり、自分が助けなければいけないということ。

「どうすればいい?俺には、やり方が分からない」
「両手で体にさわれ。そっとでいい。そして目を瞑って、こいつを助けたいって念じろ。元気だった頃のこいつのイメージを忘れるな。あとは、おれがやる」

 ウォルは頷き、巨狼の前に立った。
 傷付き、ぼろぼろになった大きな体。新雪の上に銀の粉を散らしたように美しかった毛並みは、怪物の体液と自身の血と泥に塗れ、ドブネズミよりも汚らしい色に染まっている。
 その毛皮の中に、ウォルは顔を埋めた。そして両手を精一杯に広げ、狼の体を掻き抱いた。
 とくん、とくん、と、弱々しい鼓動が聞こえる。暖かい血液の流れを感じる。呼吸の度に上下する体が、何故か愛おしい。
 我知らず、涙が流れた。ウォルは知っている。この涙は、自分が流した涙ではない。自分が流して良い涙でもない。これは、少女の体が流した涙なのだ。
 
「シャムス……」

 その声も、自分の声ではなかった。自分の声であっても、自分の声ではないのだ。誰がそれを知らずとも、自分だけは知っている。
 これは、あの少女の声だ。夢の中で、何度も憑依した少女。
 そして、横たわった狼は、あの少年。
 そうだ。あの少年だ。何度も夢の中に現れ、その度に自分が宿る少女と交わっていった少年。太陽の如き金の髪と、森の精を集めたような翠玉色の瞳をした少年。
 彼は、太陽の化身だった。それがいつの時代なのか分からない。もしかしたら原始の太陽なのかも知れないし、未来のそれであってもおかしくはない。
 ただ、少年は太陽で、少女は月だった。月で、そして狼に体を変じることのできる一族だった。その彼らが結ばれ、子供が生まれた。その先は知らない。彼らが幸福だったのか、それとも不幸だったのか。ただ、青年となった太陽は、少女を守るための戦いに出立した。それが帰路のない旅路であることを知りつつも。
 そして彼は生まれ変わった。今度は、自分の愛した少女と、同じ種族として。もう誰にも邪魔をされないよう、少女と同じ月として。
 ウォルの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。切なさと愛おしさで胸が張り裂けそうになる。嗚咽とともに、何度も何度もその名を呼ぶ。

「シャムス……シャムス……死なないで……お願いだから……わたしを、この子を、置いていかないで……」
 
 その声には、どこまでも深い愛情と母性、それらと同量の哀れっぽさが含まれていた。決して、男という生き物に許された声ではない。
 ウォルは、泣きじゃくる自分を不思議な視点で眺めていた。胸を締め付けられる想いで狼のぬくもりに縋り付いている自分がいて、それを冷静に観察している自分がいる。多分、それは肉の体に支配されている自分と、形のない魂に支配されている自分という領分の違いなのだろう。どちらが上でどちらが下なのではない。ただ、そういう区分けが出来るというだけ。
 ふと、暖かいものが体の内側に満ちていく。その熱を、ウォルは知っていた。遠い昔、不幸な偶然によって瀕死の重傷を負った親友が、黄金色の狼に助けられたとき、あの部屋の内側に満ちていた熱と同じだ。ただ、あの時のような不安定さは欠片も無い。春の陽だまりで寝っ転がっているような、とろんとした暖かさ。
 その熱を与えてくれているのが誰なのか、ウォルは知っていた。その熱を与えるべきなのが誰なのか、ウォルは知っていた。自分は、この熱の運び手なのだ。
 体に満ちた熱を、掌から、腕から、体そのものから、狼の内側へと伝える。熱が少しずつ失われ、そのぶん狼の体が暖かくなっていく。しゃくり上げる声が少しずつ小さくなっていくのは、狼がそれだけ死から遠ざかっていることを知っているからだ。
 
「カマル……ありがとう……」

 誰かの声が聞こえた気がして、ウォルは弾かれたように顔を上げた。
 そこには、優しく眼を細めた、大きな狼がいた。毛並みは新雪の輝きを取り戻し、その体には生命力が充ち満ちている。
 もう大丈夫だ。その安堵が、新たな涙を流させる。嗚咽も嘆きもない、静かな涙。
 狼は、透明な雫を、甘露のように舐め取った。そしてもう一度少女の頬を舐め、それからゆっくりと地に伏した。程なくして安らかな寝息が聞こえる。
 上手く行った……のだろうか?ウォルは鼻を軽く啜り、重い溜息を空に向けて放つ。
 そして、軽く肩を叩かれて振り返った。

「初めてにしては上出来だ。ウォル、お前はこういう力を使う素質もあるのかも知れない」

 ウォルは、手の甲で目元をぐいと拭った。
 そして、笑いながら言った。

「有り難いことだが、辞退させてもらうとしようか。俺は、お前と違って心の弱い人間だからな。手に余る力を得て、それが幸福に繋がるとは思えない」

 リィは、驚いたように目を大きくして、それからいつものように微笑んだ。この少年が、気を許す数少ない人達の前だけで見せる、邪気の無い笑顔だ。

「さぁ、帰ろうか。みんな心配してる。それに、山ほどの補習も待っているぞ」
「それは楽しみだ」

 頬を綻ばしたウォルが、リィに歩み寄ろうとした、その時。

「お待ち下さい」

 地に伏した僧が、そう言った。無論、先ほど逃げ去った小便漏らしとは別の僧である。
 ウォルが振り返り、

「なんだ、まだ何か用か。俺を淫売だの悪女だの付け狙うのは別に止めんが、それならばあらかじめ時と場所を指定しろ。いつだって挑戦には応じてやる」

 僧は、頭を上げることすらなく、地面に視線を落としたまま応えた。

「滅相もございません。我々は聖女ヴェロニカの使徒であり、あなた様は紛れもなく聖女の生まれ変わりたる御方。神獣を従え、その傷を癒す。それが聖女以外の何者に許された御業でありましょうや」

 ウォルはさすがにウンザリした。先ほどまで儀式の生け贄だの火炙りにしろだの喚いておきながら、この変節はいくら何でも節操がなさ過ぎると思ったのだ。

「今更貴様らの宗教的価値観に口を挟もうとは思わんが、だからどうしたというのだ?俺がその聖女とやらの生まれ変わりだとして、何が望みだ?」

 その言葉に、僧達はいっそう体を低くした。それは地に伏せるというよりも、地面に体を投げ出していると表した方がしっくりくる姿勢である。五体投地とでも言うべきか。

「聖女よ。どうか、愚昧なる我らに許しを与え給え」
「我らは許されざる罪を犯した。罪には罰を。我らが犯したに相応しい罰を、どうか」
「罰は許しなり。我らの魂が無間地獄に落ちぬよう、この体を滅し給え」
「死を。聖なる死を、我らに」

 殺してくれ、と、僧達は言ったのだ。
 彼らの声には感情というものが無かった。生への執着もない。そこにあるのは、昆虫の鳴き声めいたある種の無機質さだった。
 それを殉教の潔さと呼ぶには、あまりに冷たすぎた。狂っていても間違えていても、人間が命を賭けるために必要なはずの熱が、そこには一分すら無かった。
 それも当然なのかも知れない。彼らは、ただ恐れていたのだ。死の後に己を灼くであろう業火が。今の今まで、それはただのお伽噺であり、子供向けの説話でしかなかった。だが、目の前の聖女がいる。神獣がいる。そして奇跡がある。ならば、どうしてその説話だけが偽りだと信じることが出来るだろう。
 ふと気が付けば、そこにいるのはウォルに銃を向けた僧兵だけではない。まだ年若い僧、既に老境を迎えた僧、武装した者も非武装のものも、全ての僧がそこに跪いていた。いや、僧だけではなかった。先ほどまで、愉悦とともにウォルの処刑劇を楽しんでいた観客が、続々と闘技場に降り、僧達の後ろに跪いた。
 彼らは一様に無表情だった。何故なら、彼らは既に死んでいるのだ。現世を去るための苦痛は一瞬である。しかし、死後の苦痛は永遠に課せられる。どちらが恐ろしいか、考えるまでもない。死後の安寧を得るために必要な罰が死ならば、彼らの選択肢は一つしかない。
 年端もいかない子供が、いったい何が起きているのか分からず、ただ周囲の大人達の真似をして跪いていた。その傍らで、おそらくは子供の母親らしき人が、無機質めいた表情で跪いている。我が子だけは助けようなどという気配は一切無い。むしろ、せめて我が子だけには罰を与えて欲しい、死後の苦しみを免じて欲しいという心情なのだろう。
 宗教が人を幸福にするのか否か。その結論を待たず、今ここにあるのは、宗教という色彩の最も醜い側面であった。先ほどの、弱き者をいたぶる嗜虐性も、今の、現世を軽んじ己や他者の命さえも軽んじる盲目的服従も。
 ウォルは無言であった。それは、あまりの馬鹿馬鹿しさに言葉を失っていただけではない。目の前で繰り広げられる喜劇の醜さに、耐え難い吐き気を催していたのだ。
 
「どうか、罰を」
「どうか、罰を」
「どうか、罰を」

 声が、輪状に広がっていく。静かに呟かれた声が、さざめきとなり、振動となり、激流のようにウォルの体を圧した。
 目眩が、した。
 なんだ、これは。この国の神とやらは、どれほど阿呆臭い小芝居に俺を付き合わせれば気が済むのだ。
 歯を噛んでいたウォルが口を開こうとした瞬間、それよりも早く、怒りに満ちた声を発した者がいた。
 リィだった。
 リィが、翠緑色の瞳を軽蔑と怒気で染め、毛を逆立てるような面持ちで叫んだ。

「ふざけるな!」

 生気を失った瞳の群れが、顔を起こした。それほどにその叫びは凄まじいものであった。
 
「どうして自分の生を神なんかに押しつける!どうして自分の死を他人に押しつける!こいつは聖女なんかじゃない!縦しんば聖女だったとしても、お前達の身勝手な死に責任を持たなきゃならない謂われなんて一つもない!お前達が地獄に堕ちる程の罪を犯したと思うなら、その償いは自分でしろ!いい年をした大人が駄々を捏ねるな気色悪い!」

 牙を剥いた狼のような形相に気圧され、最前列にいた僧のほとんどは腰を抜かして尻餅をついた。
 だが、中には肝の据わった僧がいたのだろう、辛うじて平静を繕った表情で言った。

「聖女の従者らしき少年よ。貴様は塵ほども理解しておらん。我らがどれほどに罪を恐れ、どれほどに罰を希っているかを。この少女は聖女の生まれ変わりであらせられる。ならば、我らを救うためにその罪を飲み干して下さるに違いないのだ」
「伝説でもそうだった。聖女は、ヴェロニカの民が罪に塗れ、その有り様を忘れかけたとき、それを思い出させるために天より使わされたのだ。この少女も、我らの罪を許すために使わされたはず」
「ヴェロニカの神は偉大なり。我らここで果て、清らかなる魂と共に偉大なる大地へと還らん」
「己が手を汚されるを望まれぬならば、たった一言お命じを。死ねと。さすれば我ら、見事この場で果てましょう」

 跪いた人間は、百という桁に収まる人数ではない。その全ての人間が、冷たい覚悟と期待を宿した視線でウォルを見上げている。
 その異様な光景を、しかし一度見たことのある者がいた。
 シェラは、耐え難い怖気に必死で耐えていた。
 シェラは、この場にいる人間の、魂の籠もらない視線を確かに見たことがあった。それは、例えば自分の生まれ故郷で。例えば尊敬すべき師、頼るべき同輩、父母代わりの人。彼らが笑ったとき、怒ったとき、ほとんど見たことはなかったが泣いたとき。表情こそ変われど、薄皮一枚の下には、今自分が見ている信徒達と同じ顔が隠れていた。
 それは、鏡に映った自分の顔にも。
 だからこそ分かる。もしも、今や彼らの信仰の対象となってしまったウォルが『死ね』と命じれば、彼らは何の疑いも恐怖心すらもなく己の心臓に短剣を突き立てるだろう。夫は妻を絞め殺し、母は子を刺し殺すだろう。自分が呪われた一族の命脈を絶った、あの一言のように。
 己の命を誰かに依存させた人間というものは、斯くも醜いのか。かつての自分もその一人だったのか。青ざめたシェラは、己の肩を掻き抱いた。体が、寒くもないのにがたがたと震えていた。
 
「……死にたいならば勝手に死ね。貴様らが死のうが生きようが、俺には興味はない」

 ウォルが、吐き捨てるように言った。
 今は少女となったウォルだが、かつて男の身体で生きていた頃は賢王、名君として遠い異国にまで名を馳せたことがある。
 一度だって民に無体な仕置きをしたことはない。しかし、彼女は無制限の平和主義者や博愛主義者であったわけでもない。自分に敵対した者には苛烈な処断を必ず行ってきたし、寸毫もそれを躊躇しなかった。
 ならば、難しいことではない。今、彼女の目の前にいるのは紛れもなく自分と敵対した人間だ。自分を儀式の生け贄に捧げ、それを見世物として楽しんだ。報復の対象としたところで、誰も非難はし得ないだろう。これほど下劣な人間に同情する者などいないに違いない。
 だからたった一言『死ね』と言えば全ては片付く。
 だが、胸の底に一滴だけ沈殿した、この名状し難い後味の悪さは何だろう。例えば、夢の中で抵抗出来ない弱者や老人に暴力を振るった後、目覚めた時に残る罪悪感。親しい人間と言い争いをして、その夜の寝床で感じる後悔。
 その悪寒が、ウォルから決定的な一言を奪っていた。
 死ねと言えば、彼らは迷わず死ぬだろう。一切の躊躇すらなく。
 では、死ぬなと言えば。彼らの罪を許すと言えば。罰を与えられることなく罪を許された彼らは、また同じ過ちを繰り返すのか。信徒以外を人として扱わず、少女を拐かして虐待する。罪なき人間をこのようにくだらない儀式の生け贄に捧げ、酒の肴として楽しむ。
 ここで全てに決着をつけるべきか。
 しかし、ここの集まった人間がいなくなっても、他の信徒達はどうか。何も変わらないのではないか。そうならば、この連中にとどめを刺すのはただの憂さ晴らし、自己満足にしかならないのではないか。
 煩悶に苦しむウォルが、それでも最後の答えを見つけ、口に出そうとした、その時である。
 這いつくばった信徒の群れ、その奥の方から、小さなざわめきが起こり始めていた。
 先ほどあった、死を望む言葉が作り出したざわめきではない。もっと、驚きと困惑に満ちたざわめきだ。死を受け入れた亡者の群れが、人間として何かに面食らっている。
 ウォルも、そのざわめきに気が付いた。そして見た。聖者が歩く海のように真っ二つに割れる信徒の群れ、その裂け目をこちらに向かって歩いてくる枯れた老人を。

「ビアンキ老だ」

 誰かが言った。

「あの、乞食のような爺が?」
「いや、間違いない。ビアンキ老だ」
「そうだ、ビアンキ老ではないか」
「大統領派に暗殺されたはずでは」
「どうしてここに」

 口々にそう言った。
 周囲で巻き起こるその声に、当のビアンキは一切の反応を示さなかった。泰然自若とした有様で、もしくは耳が聞こえていないような様子で、少しずつウォル達のいるところに向けて歩いてくる。
 何とも見窄らしい格好であった。身につけているのは垢じみたボロ切れ一枚で、少し良い暮らしをしている物乞いならばまだましなものを着ているだろうという按配である。本来老師が纏うべき紫紺の法衣の絢爛さと比べれば、憐れを通り越して滑稽と言ってもいい。
 皮膚は鉛色に染まり、かさかさに乾いている。頬骨が、薄皮一枚を破って外に飛びでそうな程に尖っている。落ちくぼんだ眼窩に、黄ばんだ白目と濁った瞳が浮いている。
 道端に寝そべり、明日の朝日を見る前に死を迎える老人。ビアンキを見た誰しもが、そのような印象を抱いた。
 その瀕死の老人が、歩く。
 誰に指図された訳でもなく、信徒はビアンキのために道を空けた。彼の、あまりに異様な風体は、それだけの迫力に満ちていた。
 ビアンキの視線は、しかし伏した信徒には向けられていない。ただ、その向こう、剣を携えた少女に向けられている。
 その視線を、ウォルは真正面から受け止めた。ウォルにとって、それは初めて見る老人だ。名前はおろか、素性や役名も分からない。だが、彼の老人が尋常ならざる覚悟をうちに秘めてこの場に現れたことだけは理解出来た。
 ビアンキは、しっかりとした足取りでウォルの前に立った。ウォルは、同年代の少女達と比べても中程度の背丈しかないが、それでもウォルの視線の方が高い。
 近くで見ると、ビアンキの顔が老人性の染み以外の黒ずみで汚れていることに、ウォルは気が付いた。それが内出血の跡であり、誰かに暴力を振るわれた跡であることも。

「ご老人、その顔、どうなされた」

 ウォルが訊いた。
 ビアンキははにかみながら、生々しい傷跡を摩った。

「お気に召されるな、王よ。これは、儂が師として如何に未熟であったかの証左のようなもの。詰まるところ、身から出た錆ですじゃ。聞かぬが武士の情けというものですぞ」

 かっかと、ビアンキは口を開けて笑った。
 つまり、顔の傷はビアンキと同じ神を信じるヴェロニカ僧が拵えたということだろう。ウォルは、老人の手首に、やはり痣のようなものがあることに気が付いた。もしかしたら、どこかに監禁されていたのかも知れない。

「どうしてここへ」

 ウォルが、再び訊いた。老人の身体が、切実に休息を必要としていることは明らかだ。無理をすれば、本当に命に関わる。
 その老人は、己の身体のことなど歯牙にもかけない様子で、

「この乱痴気騒ぎに幕を下ろすため」

 囁くように、そう言った。
 ウォルは頷いた。老人の言うことは尤もだ。

「あなたは、俺を聖女と崇めないのか」

 幾分皮肉な調子の言葉に、老人は再び笑った。

「聖女とは、教義に敬虔であり人の身には許されざる奇跡を起こした者を指す言葉。その点、あなた方はまさしく奇跡のような身の上の御方ばかりじゃが、教義に対する敬虔さは幾分欠けておると言わざるを得ますまい。残念なことではあるがのう」

 ウォルは、真剣な顔で頷いた。

「俺はウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。老人、お名前を伺ってよろしいか」
「ミア・ビアンキと申します、王よ」

 ビアンキはそう言って、深々と頭を垂れた。
 何故、彼が、少女にしか見えないウォルを王と呼んだのかはウォル自身にも分からない。だが、それを納得させるだけの不思議な知性が、ビアンキの濁った瞳の奥にあった。

「ビアンキ翁は、事の道理をきちんと理解しておられる。俺が為したのは、ただ狼共を剣で薙ぎ払い、怪物を一匹退治しただけのこと。しかも、その怪物も元は憐れな人間であったのだ。たったそれだけのことが奇跡などと呼べるものか」
「左様でございますな。野暮を承知で申し上げるならば、その傷を癒し服を繕ったのはそこにおわす小戦士どのの御業。あなたの為した、そう、奇跡などではございません」

 ビアンキは、悪戯気な笑みとともにリィをちらりと眺めやった。
 かつてビアンキと顔を合わせたことのあるリィは、少しだけ居心地悪そうに肩を揺すった。
 その様子を見て、まるで自身の孫を愛でるようにビアンキは微笑んだ。

「ではビアンキ翁。俺が聖女などという戯けたものではないとご存じで、どうしてこの場に足を運ばれたか」
「先ほど申し上げました通りでございます。不肖の弟子共が起こしたこの乱痴気騒ぎに、幕引きを」
「翁には、この茶番劇を終わらせる算段がおありか?」
「無くて、どうしておめおめこの場に顔を晒せましょうや」

 ウォルが頷いた。

「では、翁に任せる。如何様にでも彼らを言いくるめて欲しい。そのための協力は惜しまん」
「それは心強いお言葉です。が、最早言葉をもって彼らを納得させるのは不可能でございます。相応の犠牲無くば、この場は収まりますまい」

 そろそろ、二人の会話を聞き取ることの出来ない信徒たちが、焦りを帯びた小声でざわめき始めている。それでもビアンキは、あくまで飄々とした様子で言った。

「例えば、あなたが、自身は聖女ではないのだと証明することが出来たとして、彼らはならば良しと矛を収めることはないでしょう。あなたが聖女を侮辱したとして、あらためて血祭りにあげることを望むはず」
「だろうな」

 ウォルは苦々しく首肯した。

「聖女であることを否定しない以上、あなたは彼らを許すか、それとも罰するか、もしくは捨て置くか、それを選ばなければなりません。許せば、彼らは過ちを繰り返すでしょう。罰するか、それとも捨て置けば、彼らはこの場で果てるでしょう。いずれも、あなたの望むところではないはず」
「望む望まざるの話ではない。ただ後味が悪いだけだ。それに、その結末を望まないのは誰よりも、翁、あなたでしょうに」

 ビアンキが、照れくさそうに頭を掻いた。

「我ながら、分不相応なことを企んでいると自覚しております」
「誰かの血を見なければ収まらない場ならば、どうやって納めるおつもりか?」
「決まっております。組織の罪は、詰まるところその頂点に立つ人間の罪。そこさえ断じてしまえば、他に類を及ぼさずに罪を免ずることが出来る。これは人類社会の原始より定められた原理原則であり、最も犠牲を少なく争いを諫める優れた方法であるはず」

 ウォルは、老人の枯れた瞳を見た。
 皺が浮いてさえ見える老人の眼球に、確固たる決意が迸っていた。



 テセルは遠巻きに、ウォルと、その眼前で跪くビアンキを見ていた。
 遠目でも、ビアンキが、どれほどの労苦を背負い、辛酸を舐めたのかが分かる。それほどに、己の師は酷い有様だったのだ。
 おそらく、一人で教団本部へと乗り込んだのではあるまいか。この、狂った茶番劇を止めさせるために。それがどれほど無謀なことかを、十分に理解した上で。そして捕らえられ、痛めつけられ、監禁された。老師として、ヴェロニカ教の位階の最高を極めた者が。
 余人は、その行為を愚かと詰るかも知れない。そして、おそらくそれは真実だろう。
 だが、誰がビアンキを非難しても、自分にだけはその資格が無いことを、テセルは理解していた。痛いほどに、身を捩るほどに理解していた。
 テセルは、必死に涙を堪えていたのだ。
 
 ──俺は、馬鹿だ。

 血が出るほどに手を握りしめる。噛み締めた奥歯がばりばりと不快な音を鳴らすが、今のテセルはその音にすら気が付かない。
 この馬鹿げた儀式を止めさせるために、自分は何をしたか。何もしなかった。回り始めた歯車を止めるのは不可能だと、知ったふり、賢しいふりを決め込み、見ざる言わざる聞かざるを決め込んだ。
 果たして、本当にそうだったのか。
 お飾りであろうとも、自分は組織の最高指導者だったのだ。ならば、精々見苦しく大声で喚き散らし、利かん坊のように首を振り続けて地団駄を踏めば良かった。そうすれば、あるいは儀式は行われていなかったかも知れない。そうすれば、最初の儀式で犠牲になった少女は、今も生きていたかも知れない。師がこれほどみじめな姿を晒すことも無かったかも知れない。
 全ては、自分の責任だ。
 そう思ったとき、決壊した涙腺からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、地面に小さな染みを作った。
 俯き加減の姿勢で肩を振るわせていたテセルに、後ろから声がかけられた。

「泣くのは構わない。自分を責めるのも止めはしない。でも、あなたにはこの場で起きる全てを見届ける義務がある」

 優しい声色だったが、その奥に有無を言わさぬ厳しさがあるのをテセルは感じ取った。
 その厳しさが、今のテセルには有り難かった。
 
「分かっている。言われるまでもない」

 子供のように目元を拭い、唇の端をひん曲げて、それでも気丈にテセルは言った。師が、今、全ての信徒に道を指し示そうとしているのだ。それを見届けなくて、何のための弟子か。師に師の義務があるならば、弟子には弟子の果たすべき責務がある。
 その姿を見て、ルウは眼を細めた。何も言わず、もう一度テセルの肩を、今度は優しく叩いた。
 そんな二人の前でビアンキは何かを呟き、数瞬の後、ウォルが固い表情で頷いた。
 ビアンキは皺だらけの笑みを浮かべ、頷き返し、そして立ち上がった。

「さて、皆の衆。夜も遅く、ご苦労である」

 ビアンキは、振り返り、言った。
 全ての信徒が一斉に平伏した。ビアンキが既に老師の位階を追われたことを知らない人間がいるはずもなかったが、誰も疑問や不平を投げようとはしない。ビアンキが老師であることの正統性を認めたと言うよりは、この場を取り仕切るべき人間を無意識に求めていたのだろう。
 己に対してひれ伏した信徒たちを、ビアンキは無感動な視線で眺めた。

「我ら、聖女ヴェロニカに信仰を捧げる者にとって、最も神聖な儀式、回帰祭も酣である。今年は例年とは些か趣の異なるものとなってしまったが、そろそろ、誰かがこの祭を締め括らねばならない」

 本来であれば厳かであるはずのその声が、津々とした哀しみに満ちている。その一事で、信徒たちはビアンキが、今の今まで執り行われてきたこの儀式に対してどのような感慨を抱いているのかを理解した。
 唐突に、信徒たちの胸を深い後悔が襲った。何故、自分達は年端もいかない子供を生け贄に捧げ、それを喜んでいたのか。美酒だと思って煽った杯には、心地よい酔いをもたらす毒酒が注がれていたことに、今更ながらに気が付いたのだ。
 しかし、誰かを恨むことなど出来るはずがない。他者を虐げ愉悦に浸っていたのは他ならぬ自分達なのだ。
 幾人かが、声を押し殺して啜り泣き始めた。
 
「この場にいる全ての人間ではないにせよ、幾人かは己が罪深きことを既に理解しているのだと儂は信じている。そこで汝らに問う。汝らの罪、那辺にありや?」

 ビアンキの言葉に、信徒の最前列にいた僧の一人が、泣き濡れた顔を上げて応えた。

「我ら、我らの信ずべき聖女を辱め、その恩寵に仇をもって報いました。その罪、正しく万死に値します」

 その言葉に、幾多の賛同の声が上がる。

「然り。聖女が再臨するという奇跡に気づかず、その神性を見抜くことが出来ませんでした。我らの血の滲むような修練は全く意味を為さなかった……」
「聖女の傷付く姿を見て、まるで獣の喧嘩を楽しむような声で囃し立てました。どうしてあのように愚かな真似をしてしまったのか、私は私が許せません」

 涙声で、彼らは一頻り続けた。
 その声が収まったところで、ビアンキは静かに首を振った。

「汝らの言い分は尤もだが、儂は、罪の在処はそこではないと信じておる」

 信徒たちは何も言わなかったが、その瞳が不安げに揺れた。
 ビアンキは、静かに続ける。

「そも、汝らはこの少女を聖女と呼ぶ。しかし、この儀式が始めるまでは、生け贄と呼び異教徒と蔑んだ。何故、この少女を聖女であると思い至ったのか?」

 先ほど答えた僧とは別の僧が、固い表情で口を開いた。

「考えるまでもないことではございませぬか。かの少女は、常識では考えられない剣技をもって狼の群れを退け、得体の知れない化け物を切り伏せ、神獣を従え、そして己と神獣の傷を癒すという奇跡を起こしました。これを聖女の奇跡と呼ばず、なんと呼ぶでしょうか」

 然り然りと、僧を後押しする声があちらこちらから上がる。
 しかし、というべきか、それともやはりというべきか。ビアンキは、再び首を振った。

「それがどうした。かの少女は、常識では考えられないほどの剣の使い手であり、その腕前でもって狼の群れを退け、得体の知れない化け物を切り伏せたのだ。あの巨獣を神獣と呼ぶが、広い宇宙にあのような生き物がいないとどうして言い切れる。かの少女は、その巨獣を手懐けただけのこと。傷を癒したというが、そういう不思議な能力をもった人間がこの世にはいることを、汝らならば知っていよう」

 特異能力者という存在は、一般人のレベルでは眉唾物のオカルトとしてしか語られていないが、一定以上の水準の社会的地位を持つ人間の間ではその存在が確固たるものとして知られている。この場にいるのはヴェロニカの社会でも相当に高い身分を有する者たちであったから、ビアンキの言葉は的外れなものではなかった。
 だが、まるで取って付けたかのようなビアンキの言葉に、素直に納得する者はいなかった。
 恐れながら、と、僧の一人が信徒の意見を代弁した。

「それでは、老師はかの少女が聖女ではないと仰せになられるか?」

 信徒の目に、危険なものが宿る。
 ビアンキは含み笑いを漏らした。

「もしそうなら、今からでも儀式を再開するつもりか?」
「いえ、それは……」

 僧が狼狽して声を詰まらせたが、ビアンキはそれ以上を追求はしなかった。

「よいか、皆の衆。聖女の起こした奇跡とは、業火の中から再生したことでも神獣を従え天に昇ったことでもない。真の奇跡は、彼の女性がこの地に現れ、我らにこの星で生き抜く術を伝え給うたこと。そして何より、信仰を失い絶望に半ば身を沈めていた我らの祖先に、ヴェロニカの神の教えを伝え給うたこと。これこそが聖女の偉業である真の奇跡なり」

 ビアンキの声は深々と沈んだ夜に染みこむように響き渡った。
 僧も、信徒の、誰も反駁しなかった。それどころか一声すらなく、身動ぎすらない。人の形をした石像のように、そこにあった。

「この少女が、果たして聖女の生まれ変わりなのか、それを知り給うのは聖女をこの地に遣わす神のみ。儂にも、そなたらにも、おそらくは聖女本人にも知りうるところではない。しかし、もしもこの少女が聖女たる役目を負ってこの地に降臨されたのであれば、今、我らが真に嘆くべきなのは聖女を傷つけ侮辱したことなどではなく、神が聖女を使わさざるを得ない程に荒廃した我らの信仰である」

 浪々とした声は、ほんの少しの淀みも無かった。まるで、神託を伝える預言者のように、老人は続けた。

「そもそも我らの信仰が万全であり神の教えが十全に守られているならば、神が聖女を再びこの地へ使わすことなどあり得べき話ではないのだ。そして、汝らがこの少女を聖女であると信ずる必要もまた無い。何故なら神は我らの隣にあり、その声は我らに届いているからだ。神が聖女に使命を与えるのは、神の声が我らに届かなくなった時のみ。汝らがこの少女を聖女と呼び畏れ敬うならば、それは汝らが、無論儂自身も含めて、神に対して後ろ暗い想いがある証左に他ならぬ。我らは、何よりもそのことを恥じるべきであろうな」

 信徒たちは、深く垂れた頭を、撓わに実った稲穂よりもさらに深く垂れさせた。
 啜り泣きを含んだ静寂が、静かに流れる。そのうち、決意を込めた僧の一人が、頬を涙に濡らしながら顔を起こした。

「老師。老師の仰ること、一々ご尤も。我らは、罪を犯した上に、その罪の本質にすら気がつくことができませんでした。この罪、如何様に償うべきでありましょうや」

 この問いに、ビアンキは応えた。

「神に対する罪は、神に対してのみ償うべし。これより先、汝らの信仰心が試されるであろう。しかし、それとは別に、我らは罪を償わねばならない。言うまでもないが、この少女を拐かし、鎖に繋ぎ、傷つけた罪である。それ以外にも、我らは如何にも非道を行ってきた。それは、進んで行った者もいるだろう。遠巻きに傍観した者もいるだろう。それらの罪に大小はない。全て、我らヴェロニカ教徒が一様に償うべき罪である」

 この場にいたほとんどの人間が、一度ならずヴェロニカの神を信じない者を迫害し、それを寧ろ誇っていた。
 この場にいた少なからずの人間が、例えば異教徒の少女や少年を拐かし、口に出すことも憚られるような愉悦に浸っていた。それは、例えば中世の腐敗した貴族たちのように。或いは、ウォルを虐待し、最後は怪物となり果てたルパートのように。
 誰しもが、それを罪とは思わなかった。だが、聖女はついに降臨した。
 ビアンキが何を言おうとも、あれが聖女の現し身なのだと、全ての者が心の深奥で認めている。
 聖女は、神の声を失った我らを導くために降臨されたのだ。その事実が、今まで犯してきた罪が、やはり紛う事なき罪なのだと罪人達に教え諭した。
 無言の静寂と懺悔を、ビアンキは確かに感じた。嗚呼、この一事のみが、あらゆる意味で馬鹿馬鹿しかった乱痴気騒ぎに、ただ一つ救いを求めることが出来るだろうか。
 ビアンキは、総身から力を抜き、天を仰ぎながら大きく息を吐き出した。まるで、何か大きな荷物を肩から下ろしたように。

「罰を与える得る人間は許しを与えうる人間、つまり我らが非道の犠牲になった者たちのみ。しかし、その多くは今この場にはおらぬ。故に、我らは全ての裁きを、あなたにこそ求めたい」

 呆けた調子でビアンキが言った。
 その視線の先には、凜と佇む少女がいて、その少女は只一度、こくりと頷いた。

「この場にいる全ての人間を皆殺しにするつもりは無い。一罰百戒、我こそは最も罪深いと思う者は一歩前に出ろ」

 少女が剣を構えた。濡れたように妖しく輝く白刃が、月明かりに艶めいた。
 ごくりと誰かが唾を飲み下した。今、立ち上がれば、間違いなくあの刃の贄になるのだ。それこそが望むこととはいえ、目の前で形をもった死は、確かに恐ろしかった。
 一瞬の静寂の後、声が上がった。

「俺だ!俺が、最も罪に塗れている!俺が、地獄に一番近い!」

 涙声でそう叫んだのは、テセルであった。
 
「俺は、全てを止められる立場にいながら全てを諦めた!責任の所在を言うならば、全ては俺に帰するはずだ!」

 肩をルウに押さえられながら、まるで猛牛のように咆えた。
 しかし。

「テセル。それは違う。お前の理屈が正しいならば、お前の犯した全ての罪は儂に帰することになるだろう。そして、ついこないだ老師になったお前と、長いだけで意味の薄い一生のほとんどを老師として生きてきた老いぼれ、どちらが真に裁かれるべきか、考えるまでもない」

 皺だらけの顔に、不思議なほど透明感のある笑みが浮いている。
 それは、人生の終着駅を見定めた人間のみが浮かべる、笑顔だった。
 自分に向けて微笑んだ老人に、テセルは、駄々っ子のように首を振った。

「いやだ、老師、俺は、あなたに何一つ許されていない。何一つ、恩を返していない……」
「それも違うぞテセルや。儂は、お前に対して許しを与えるべき何物も背負ってはおらぬ。お前は儂に、全てを与えてくれた。お前がいるから、儂は安心して旅立つことが出来る。もうお前は子供ではない。儂や、これまでの老師連中の頸木を逃れ、己の信ずる信仰の道を探りなさい。それは、他人の足跡を辿るよりも遙かに厳しい道に違いないが、お前には出来ると信じておるよ」
「先生ッ!」

 全身の力で暴れようとするテセルを押さえながら、ルウが言った。

「駄目だ。あれは、あなたの役割じゃない。あなたがあの場所に立っても、何も収まらない」
「放せっ!そんなことはどうでもいい!俺は、俺はっ!」
「今はあなたの出番じゃない。今、あなたがするべきなのは、お師匠さんの身代わりになることじゃない。ただ、この光景を眼に焼き付けることだ。そして、この星の人達を正しい方向に導くこと。それがあなたしか出来ないことで、あなたの義務だ」
「──っ!」

 悲壮な顔で振り返ったテセルに、ルウは無言で首を振った。
 そしてテセルがもう一度正面を向いたとき、老人は、ウォルの前に跪いていた。

「茶番に付き合わせましたな。もう、結構でございます。どうぞご存分に」
「……何か、言い残すことがあれば聞こう」

 老人の視界に、いつか見た、少女が映り込んだ。
 遠い昔、もう霞の向こうにぼんやりとしか見えない、ずっと昔。
 大海賊シェンブラックと、二人の少年。長く暗い地下道。荒廃したスラムの中でもさらに荒廃を極めた廃屋。
 まるで化け物のような姿になって、全身を痙攣させながら大量の血を吐き出して死んだ、少女。ビアンキの祝福によって天に旅立っていった、憐れな少女がいた。
 その少女が、微笑んでいた。自分に向けて。自分のような人間に向けて。
 許されたのだとは思わない。だが、もう、十分だ。
 ビアンキは、童子のように無垢の笑みを浮かべた。

「この星に、どうか神様の教えが、永く伝わりますように」

 ウォルは、老人をいたぶるつもりはなかった。
 ビアンキの言葉が途切れた瞬間、鋭い切っ先は疲れた心臓を深々と貫き、背中からその姿を覗かせた。
 ビアンキは、満足げな表情のまま、横向けに倒れた。まるで草が倒れたような、乾いた音がした。
 テセルがルウの手を振り払い、老人の亡骸に駆け寄る。
 指先が、鶏のように細い首筋に触れる、その瞬間、目映い光が辺りを包んだ。
 眼を強く瞑る。蹲りそうになる身体を、強引に立たせる。
 そして、眼を開いたとき。
 ただ、月に照らされた祭壇だけが、のっぺりと広がっている。
 そこには、誰もいなかった。
 老人の骸も、少女も、少女を守った狼も。
 人の気配の失せた祭壇に、怪物の死骸だけが、先ほどの儀式の証拠のように残されている。
 彼らは天に還ったのだろうか。まるで伝説にある聖女ヴェロニカとその守護聖獣のように。
 演者を失った舞台に残された観客達は、しばし呆然として宙を眺めていた。



[6349] 第八十一話:老人は帰る
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/05 12:32
 エストリア宇宙軍第十三艦隊を率いるフォルクマール中将は、旗艦《ネプトゥーン》のデッキで、巌のような身体をメインスクリーンの方へ向けたまま、深い苦悩を眉間に刻んでいた。
 士官学校を主席で卒業し任官して以来、どれほど困難な任務も失敗したことはなく、またどれほど危険な任務であっても恐れたことは一度もない。後方で安全なデスクワーク勤務を望む同僚も多い中、率先して危険な任務をこなしてきた彼には、その重量感溢れる肉体に相応しいだけの畏怖と尊敬の眼差しが贈られてきたのだ。
 その彼が、与えられた任務にこれほど思い悩むのは初めての経験であった。
 卑劣なテロリストや宇宙海賊どもを殲滅するため、人質の存在に見て見ぬふりを決めねばならなかったこともある。爆弾を抱えて陣地に突っ込んでくる児童の群れを、光線銃で一掃したこともある。それらの事件は確かに痛ましい想いを彼に抱かせたが、それ以上のことは無かったのだ。何故なら、それは任務の遂行に必要だったからだ。
 そのことを、フォルクマール自身が一番理解している。
 だが、それにしても今回の任務は……。
 果たして何度目か分からない溜息を吐き出したとき、背後から控えめに声をかけられた。

「閣下、少しお休みになられたほうが……」

 フォルクマールが向き直ると、そこには自身の副官であるイレックス少佐の姿があった。
 普段は、知性と若さが入り交じって溌剌と輝いているはずの青い瞳が、深い憂慮に濁っている。本国より出立して、既に三日が経過している。その間、ほとんどまともに休んでいない上官を慮っているのだろう。

「大丈夫だ。この程度のことで音を上げるほど、柔な鍛え方はしていない。それに、そろそろ休む」
「それならよろしいのですが……」
「その前に、少佐、一つだけ君の意見を聞きたい」

 尊敬する上官に意見を求められた若い少佐は、直立不動の体勢にいっそうの力を込めた。

「小官如きの意見が閣下のお役に立てるかどうか分かりませんが、誠心誠意、答えさせて頂きます」

 初々しいまでの堅苦しさに、フォルクマールは僅かに相好を崩した。それは、去年から彼の副官として常に行動を共にしているイレックスですら、ようやくそれと分かる程に弱々しい笑みであった。

「例えば、君の任務はテロリストの殲滅だ。だが、テロリストは人質を盾にして立てこもっている。強行突入すれば、人質が危険に晒されるかも知れない。それでも君は、突入を敢行するかね?」
「任務の究極的な目的にもよりますが、それが必要であれば躊躇しません。例え人質が自分の身内であっても」
「では、そのテロリストが人質にしているのは住人が千人を超える一つの村落だ。だが、テロリスト達は都市を一つを汚染し数十万人の市民を死傷させるであろう凶悪な毒ガスを隠匿しているという情報がある。君の前に、村落を攻撃するミサイルのスイッチがあるとして、それを押す勇気はあるかね?」

 イレックスは少しだけ口ごもった。いくら仮定の話とはいえ、それは軽々に答えを口にすべき問題ではない気がしたからだ。
 達成すべき任務の重さと、それに伴う犠牲の重さは、常に指揮官を悩ませる頭痛の天秤だ。任務の達成は最優先されて然るべきだが、守るべき無辜の市民はもちろん、部下の兵士も、そして卑劣な敵でさえも、彼らは一個の独立した人格を備えているのだ。その事実を切り捨てることが出来ればある意味では楽なのかも知れないが、その瞬間から軍人ではなくただの機械としての人生が始まるだろうことを、イレックスは理解していた。
 
「難しい問題です」
「別に点数をつけようという訳では無い。ただ、君の意見を聞きたいだけだ。思うままを話してくれて構わない」
「……無論、自分の置かれた状況や、任務の細部にもよりますが、やはりそれが自分への命令である以上、従うことが軍人の義務ではないかと」

 フォルクマールは頷いた。

「そのとおりだ。我々は、軍人として国家への絶対的忠誠を誓約している。任務が国家的な意思決定のもとに下されたものである以上、我ら個々人の善悪基準に照らしたところで拒絶することは許されない。例えそれが、非武装の民衆への無差別攻撃であったとしても」
「閣下。お言葉を返すようで恐縮ですが、誇り高きエストリア国軍が、そのように恥知らずな行いをするはずがございません」

 イレックスの真っ直ぐな視線は、穢れを知らぬ乙女のような美しさと危うさを同時に孕んでいた。士官学校を出てまだ間もない彼は、これから現実を知り、挫折と勇躍を繰り返すのだろう。その結果、自分のような人間が出来上がるのだとすれば、軍隊というシステムはどれだけ罪深いものなのか。
 フォルクマールは内心で大きな溜息を吐き出した。

「イレックス少佐。君の言うことはもっともだ。私とて、そのようなことが現実にあるとは露程も思わない。だが、事実は小説よりも奇なりというし、一寸先は闇ともいう。この世界に生きている以上、何が起こっても不思議ではないのだ」
「それはそうかも知れませんが……」
「最後の質問だ。これも例えばの話として……ひとたび感染すれば死を免れない猛悪なウィルスを、とある惑星の狂信的なカルト教団が手に入れたとしよう。彼らは、共和宇宙的な秩序の転覆を目論んでいる。しかし、その惑星そのものが信徒の集団のようなもので、誰がそのウィルスを保有しているのか分からない。手をこまねいている時間的余裕はない。いつ、全宇宙にそのウィルスがばらまかれるか分からないからだ」
「……」
「指揮官は君だ、少佐。君は、問題となった惑星の、全国民を対象としたジェノサイド作戦のゴーサインを出すことが出来るかね?」

 聡いイレックスは、総身に冷たい汗を流していた。今になって、ようやくフォルクマールの言葉の意味が理解出来たのだ。
 一個艦隊が動くというのに、末端の兵士はおろか、参謀たちにも作戦内容を知らされないという不可解な軍事行動。それが、まさか、そんな恐るべきものだったとは。
 イレックスの、縋るような視線の先で、フォルクマールは首を横に振った。

「妄言だ。忘れて欲しい」
「閣下……」
「全くもってどうかしていた。君は優秀な軍人だ。私は、心の底から君を信頼している。だが、このようなことは、いくら君にでも相談するべきことではなかった」

 色を失った顔のまま立ち尽くした部下に、フォルクマールはあからさまな作り笑いを向けた。

「無論、今までの会話は、つまらぬもしも話だ。真に受ける必要はない。私は、そろそろ休む。君も、任務の引き継ぎが終われば少し休み給え。君の方こそ、今にも倒れそうな顔色をしている──」

 エストリア国宇宙軍第十三艦隊は、壮観たる艦列を維持したまま、虚空を進軍していく。
 目的地は、ヴェロニカ共和国。
 そして艦列の中央、駆逐艦や軍艦に守護されるように囲まれた巨大輸送船は、その胎内に、大量のガスタンクを詰め込んでいた。
 タンクに充満したガスの名前は、GUSOHⅡ。
 猛毒の殺人ガスである。



 暗い石造りの廊下を、老人が走っていた。
 激しい靴音が反響し、人気のない廊下を不気味にこだまする。淡い光源に照らし出された老人の陰が、魔物めいた奇妙な動きで伸びては縮みを繰り返す。
 老人は──アーロン・レイノルズは、短く激しい呼吸を繰り返し、上体を不自然に折り曲げ、胸の辺りを掌で押さえながら走っていた。苦悶と法悦の入り交じった表情で、走っていた。
 天使が、いる。遠目に何が起こったのか、分からなかった。それでも、あそこに、あの方がいることだけは理解出来た。
 ああ、何という幸福!
 ジャスミンに殴られた頬が、真っ青に腫れ上がっている。特に頬骨のあたりが酷い。テニスボール大の瘤が出来ている。おそらく、頬骨が砕けているのだろう。
 頭の芯を痺れさせるような激痛が、心臓の拍動に合わせて襲ってくる。走る度に、足の裏が地面を蹴る度に、あまりの痛みで意識が遠のく。
 だが、アーロンは走ることを止めなかった。まるで家路を急ぐ少年のように、母親の作った夕食に眼を輝かせる少年のように、嬉々とした様子で走る。
 ようやく、望みが叶うのだ。天使に救われた人生。そして、終止符もあの美しい天使に。
 法悦と歓喜が、痛みを忘れさせた。痛み以上の多幸感が、アーロンの意識と痛覚を痺れさせた。
 階段を駆け下りる。石造りの古めいた階段だ。しかし、聖女の舞い降りた地に建立された祭壇である。手入れは行き届いている。辺りに漂う古めかしさは、不気味さよりも静謐さをこそ醸し出していた。
 大仰な扉をいくつも潜り抜け、もう少しで舞台へと辿り着く。そこには、天使がいるのだ。人生を賭けて心待ちにした、天使が。
 荒々しく息を継ぎながら、地上へ出るための最後の扉へと向かう。
 その向こうに、天使が。天使が。

「駄目だな。お前は、ここで終わるんだ」

 だが、その扉の前には、もう一人の天使が立っていた。
 金色の髪。翠緑色の瞳。そして、対象を射殺さんばかりに煮えたぎった視線。
 全てを飲み込み全てを包み込む闇の天使ではない。その対となり、全てを照らし全てを灼き尽くす、陽光の天使がそこにいた。
 
「お前が散々いたぶってくれたあの女の子は、おれの婚約者だ。その前は同盟者で、その前は友達だった。いつだって、あいつはおれの大事なものだった。それを、お前は傷つけた」

 少年の手には、鈍く光る剣が握られている。その切っ先が、アーロンの心臓に向けてゆっくりと振り上げられた。

「世界中の誰がお前を許しても、おれは決してお前を許さない。さぁ、剣を取れ。おれと戦って、ここで死ね」
「どけ、どけ、どけ小僧。私は、そこを通ってあの方の元へ馳せ参ずるのだ。そして、あの方にこの命を献上するのだ」

 少年は、片頬を歪めて冷笑した。

「命を献上する?馬鹿なことを言うな。そんな寝ぼけたことを言っている時点で、お前にルーファと会う資格なんて無い。あいつは、誰よりも他人の痛みに敏感なんだ。それが、例えお前のような申し分のない屑であってもな。間違えても命なんてものを貰って喜んだりするものか」
「違う。あの方は喜んでくださる。それを私は知っている。私は、そのために生きてきたのだ!」
「どうして、それが分かる?お前は、お前の大好きな天使の何を知っているっていうんだ?」
「私は、あの方とまみえたのだ!」

 アーロンの絶叫が、廊下にこだました。
 そうだ。
 あの時、全てが奪われ失われた惑星の地表で、あの天使は泣いていた。さめざめと泣いていた。そして、その姿の破滅的な美。
 天使は、悲しみを求めている。そのために、あの惑星を滅ぼしたのだ。天使という超然たる存在が人の営みに関わる理由が、それ以外にあるはずもない。
 
「無知蒙昧な子供には分かるまい!私だけは知っている!あの天使は、哀しみをもって完成する一枚の絵画なのだ!死こそが、あの天使をもっとも美しく彩るのだ!その明々白々な事実が分からんとは、何と憐れなことよな!」

 アーロンの瞳の瞳孔が不自然に収縮する。強固な城壁を吹き飛ばすほどの力場が、少年に向けて放たれる。
 ずたずたに殺してやる。四肢を引き千切り、首をねじ切り、美しい緑色の眼球を抉り取ってやる。口からは、全ての内臓を吐き出させてやろう。腸でつながった首と胴体はさぞ愉快なオブジェに違いない……。
 アーロンは、絶対の自信を持っていた。先ほど、訳の分からない赤毛の大女が、許されざることに自分の力を無視してのけた。だが、あれは何かの間違いだ。二度と同じ事が起きるものか。
 決めた。あの大女も、ケリー・クーアも、あの祭壇にいる全ての人間を丸ごと挽肉に変えてやろう。天使への供物だ。きっと、身悶えするほどに喜び悲しんでくれるに違いない。さぞ残酷に私を殺してくれるだろう。この小僧の死骸も、その悲しみに色を添えることが出来るだろうか。
 しかし。

「遅いな、お前の能力は」

 力場が少年に到達するその間際、少年は凄まじい勢いで剣を振るい、その力場自体を切り裂いた。
 アーロンは、色を失った顔で少年を見た。一体何が起こったか分からなかった。光が一瞬煌めいたと思ったら、自分の力が切り裂かれ、跡形もなく消滅していたのだ。
 呆然と、アーロンが呟いた。
 
「な……なにをした?」
「何をした?間の抜けたことを訊く。見れば分かるだろう。切ったんだよ。銃弾を叩き落とすより百倍も簡単さ。何しろ目標が大きくて助かる」

 少年は、くつくつと笑った。

「少し慣れている人間なら、お前の力はすぐに見える。どぎつすぎるんだよ、力の色が」
「……見えるのはいい。だが、何故切れる!?これは、そんなことが許されるものではない!」

 眼を血走らせたアーロンを、少年は一層深い冷笑で報いた。

「お前は、余程自分が特別だと思いたいらしいな。無駄だとは思うが教えておいてやる。どんな秘められた力だって、それが力である以上、いつかはその対抗策が作られるものだ。この剣がその一つだ。この刃は、肉や鎧を斬るよりも、むしろ人が容易に認識できないあやふやなものを叩っ切るために鍛えられている」

 アーロンは、少年の握った剣を見た。確かに良く鍛えられた、素人目にも分かる程の業物ではあるが、それ以上のものにはどうしても見えない。
 何かの間違いだ。瞬間的な懊悩の末、アーロンはそう結論づけた。自分の異能が、こんな子供に、これほど簡単に打ち破られるはずがない。あってはならない。
 
「う、うおおおっ!」

 リミッターを外した特異能力のエンジンに、精神のニトロメタンを注ぎ込み、一気に爆発させる。
 あらゆる能力を、限界を超えた出力で行使する。サイコキネシス、テレキネシス、パイロキネシス、そのどれもが人体を一瞬で破壊しつくす規模の能力ばかりだ。
 だが、その全てが少年には通じなかった。人体を細切れに引き裂くサイコキネシスも、重火器の一斉掃射を防ぎきるテレキネシスも、 一棟の家屋を容易に消し炭へと変えるパイロキネシスも、少年に届く前に、不思議な刃によって切り裂かれて虚空へと消えてしまう。
 
「はぁっ、はぁっ、はぁっ!」

 息が、嵐のように激しい。酸素が全然足りていない。力は、どこからか搾り取るものなのだ。それが例え特異能力と呼ばれるものであっても、宇宙万物の法則に反しているわけではない。
 それが、どこから生じているのか。アーロンは考えたことはなかった。だが、その力がだんだんと底を尽きつつあるのを、アーロンは感じていた。それは、きっと近くに、彼の天使がいるからだ。人生の終着点が、ここだからだ。
 だから、負けるわけにはいかない。目の前の、この子供をさっさと始末して、天使のもとに行かなければ。

「だから……どけ……どいてくれ……」

 涙声で懇願しながら力を振るう。しかし、無慈悲の刃が全ての力を切り捨てる。

「言っただろう。おれはお前を許さない。お前にとって都合の良い一切の行動を、おれは拒否する。だから、お前は前に進むことは出来ない」
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」

 老人は歯を食いしばり、眼球内の毛細血管を破裂させながら能力を行使し続ける。少年は、つまらなそうに剣を振るう。
 全身を粘い汗でずくずくにしたアーロンは、突然の吐き気に耐えきれず、跪き、眼前に手を突いてそのまま嘔吐した。消化物の混じらない胃液だけの反吐は、ところどころ赤紫に近い血液で彩色されていた。
 そして、アーロンは愕然とした。
 眼前の、反吐に塗れた指の、細く、節くれ立った有様!皮膚に張りはなく、古びた新聞紙のような質感になっている。爪はねじくれて変形し、少し力を込めると呆気なく剥がれ落ちた。
 これは、自分の指なのか。これではまるで、何千年の月日を棺で眠った、木乃伊のような……。
 震える指を、顔の高さまで持ち上げる。喉元までせり上がった恐怖の叫びは、しかし口中のころころとした違和感に妨げられた。小石のような違和感の元凶を、掌に吐き出す。それは、抜け落ちた奥歯だった。口中に血の味はしない。血を噴き出すことすらなく、歯は根本から抜け落ちたのだった。

「は……はひ、ひひ、ひっ……」

 アーロンは唐突に理解した。ついに、その時が訪れたのだ。異能によって食い止めていた老化のリミット。それが目の前の少年との戦いによって早まったのか、それとも元から今と定められていたのかは分からない。
 分かるのはただ一つ。自分に残された時間はもう無いということだけ。
 アーロンは、少年の足に縋り付いた。眼球から血の涙を溢れさせ、隙間風のような声で憐れを乞うた。

「お……ね、がいだ……、てん……し……に、もう……いちど、だけ……もう、いち……ど、だけ……」

 少年は、無言のまま、アーロンの手を蹴り払った。
 アーロンの、痩せ衰えた身体が横倒しに倒れる。その拍子に、石床についた腕の手首から先が、かさついた音を立てて崩れ落ちた。
 その異様な光景に、アーロンはちっとも意識を向けなかった。霞がかった視界の向こうに、目指した扉が見える。少年は、その途上にいない。目指すなら、今だ。
 
「ひぃ……っ、ひぃ……っ、ひぃ……っ……」

 ふいごのような呼吸を繰り返し、匍匐前進の要領で少しずつ這い進んでいく。扉までの距離は、気が狂いそうになるほど遠い。いったい、何時間をかければあそこに辿り着くのか。
 それでもアーロンは諦めなかった。痩せ衰えた手足で、軽石のようになった骨で、身体を少しずつ前へと運ぶ。視界の端で、はらはらと、糸くずのようになった髪の毛が抜け落ちていった。
 もう、自分は駄目だ。おそらく、数分ももたない。それまでに、あの扉を潜って、天使の坐すところまで辿り着くことが出来るのか。
 絶望的な涙が流れる。一寸身体を前に進めるだけで、ごっそりと生命力がすり減っていくのだ。もう、自分はあの扉の向こう側を見ることは出来ない。
 アーロンは、全てを賭けて願った。どうか、どうか今の瞬間、あの扉が開いて、その向こうに天使がお出でになりますように。
 ああ、天使よ。天使……天……使……?
 天使とは……いったい、何だったのだろう。あの星で、私は見たのだ。全ての命への鎮魂歌を歌う、漆黒の天使。あれが、恋だったのか。それとも、何か違うものに、私は囚われてしまったのか。
 あの天使は、いったい……。

『あなたは、天使に恋をしたのですよ』

 そう言ったのは、誰だったか。

『私は、その恋の成就に力をお貸ししましょう。なに、それほど難しいことではありません。あなたの天使をこの地にお呼びする手筈は、全て私が整えますゆえ……』

 ああ、この男。
 ブラウンの髪を綺麗に撫でつけた、この男。
 この男は、一体誰だ。どうして、私はこの男の口車に乗ったのだ。私は、いつこの男と出会ったのだ。この男と出会う前、私は一体何をしていたのだ。
 私は、一体、誰だ?

『ええ、私のことは、アイザック・テルミンとお呼び下さい、未来のヴェロニカ共和国大統領閣下』

 あの、得体の知れない笑顔。まるでブラックホールのような怖気のする瞳の奥に、何かがいた。
 ああ、天使だ。私は、男の瞳の奥に、天使を見た。そうだ、私は、あの時、天使に恋をしたのだ。恋を、させられたのだ。
 いや、違う、違う違う、そんなはずはない!
 この恋心は、そんなものではない。私は、あの星の上で天使とまみえた時、あの瞬間から、天使に心を捧げていたはずだ。そうでないならば、もしもそうでないならば、私は、何をしてきたというのか……。

「……ぁ……ぁ……」

 もう、声も出ない。息が出来ない。もしも出来るとして、あと一度息を吸い込めば、吐き出して終わりだ。
 最後に、最後に、あの扉が開いてくれればいいのに。あの扉の向こうに……。
 ぼろぼろに霞み、色も彩度も失った視界は、ただ一点、ドアノブのみを見つめる。

 そして、奇跡は起きた。

 ドアノブが、乾いた音を立てて、ゆっくりと捻られていく。気の遠くなるような時間。気を失いそうな時間。心臓が、最後の力で高く鳴る。
 ドアが開く。向こう側から、柔らかな光が差す。春の、根雪を溶かすような、暖かな光。視界が色を取り戻す。暖かいという感覚は、果たしていつ以来なのか。
 開かれた扉、差し込む光、その向こうに、誰かが立っている。その誰かが、少しずつ近づいてくる。歩み寄ってくる。ゆっくりとした足取りで、私の方に向かって。
 そして、私のすぐ前でしゃがみ込み、その柔らかな掌を差し出した。

「ほら、いつまでも泣いてないで、立ちなさいアーロン」

 少女が、微笑んでいた。
 見覚えのない少女だった。いや、違う、私は、この少女を知っている。この、勝ち気で美しい微笑みを覚えている。
 いつ、見たのだろう。いつ、この少女にこれほど美しい笑顔を向けられたのか。
 何より、この少女の名前は?
 名前を、私は知っていたのか。それとも知らないのか。忘れてしまったのか。
 驚くほどの悲しみが胸を締めつける。熱い涙が、後から後から流れ落ちる。

「泣き虫アーロン。あなたがそんなだと、おばさんはいつまでたっても安心できないわ。泣き止んで立つのよ。そして一緒に帰りましょう?」

 喉元まで、その名前は出かかっている。
 私は、その名前を知っている。だからこそ、こんな辺鄙な土地に根を下ろしたのではないか。
 まるで、聖女のように、穢れない微笑を浮かべる、この少女。
 その、名前は。

「──うん、ヴェロニカ姉さん」

 暖かい掌が、頭の上に載せられる。
 少女の言葉に応えるように、私は立ち上がり、擦りむいた膝に付いた土を払った。
 鼻を啜り、前を向く。少女は私の様子を見て、いっそう柔らかな笑みで微笑んだ。
 少女の服の裾を、ぎゅっと握りしめる。少女はそんな私を見て、むずがゆそうに、しかし嬉しそうに笑っていた。いつか、私はこの少女を守れるくらいに強くなることが出来るのだろうか。夢の中の私のような、強大な力など欲しくない。ただ、彼女を守るだけの力があれば。
 陽が、山々の向こうに姿を消していく。家々の煙突から、炊事の煙が立ち昇る。私は、これからあの中の一つに帰るのだ。きっとお母さんは、エンヌ豆の美味しいスープを作ってくれているに違いない。

「ねぇ、ヴェロニカ姉さん」
「なに?」
「ぼく、変な夢を見たんだ。この星に悪い風が吹いて、誰も住めなくなっちゃうんだ。それで、ぼく一人がこの星から逃げ出して、ぼくは凄く悪い大人になっちゃうんだ。凄く、凄く凄く恐かった……」
「おかしなアーロン!そんなのただの夢じゃない!それでも恐いなら、今夜はわたしが一緒に寝てあげましょうか?」
「いらないよ!ぼくはもうそんな子供じゃないもの!」

 二人分の影が、長く長く伸びている。その先に、私の家はある。この子の家もあるはずだ。そして、お母さんとお父さんが待っているのだ。
 明日はどこに遊びに行こう。山毛欅の森には、明日も爽やかな風が吹き渡っているだろう。清水の川は、触れれば掌が痺れそうなくらいに冷たくて、飲めば甘やかに喉の乾きを癒してくれる。そろそろ山桃の実が、どこの山にも撓わに実るはずだ。
 ああ、毎日が、こんなに楽しければいいのに。
 ぼくは、大きく息を吐き出した。



「終わったの?」

 開かれたドアの向こうからルウが姿を見せ、倒れた老人の姿を認めて訊いた。
 相棒の言葉に、リィは無表情のまま頷いた。

「ああ、終わった」
「殺した?」
「いや、勝手に死んだ。多分、寿命だったんだ。元々死ぬはずだった命を、特異能力で長らえていたんだろう。なのに、無尽蔵だと信じているみたいに能力を使い尽くしてしまった。死ぬのは当たり前だ」

 リィはそう言って剣を鞘に収めた。
 ちらりと、先ほどまで自分の敵だった老人の遺骸を見下ろす。
 骨と皮のような老人は、微笑んでいた。いまわの際に、一体何を見たのだろう。ただ、その顔は、とても安らかでとても幸せそうだった。
 ルウも、その老人の顔を、じっと見ていた。

「そいつを知っているのか?」

 リィの問いかけに、ルウは首を横に振った。

「知らない。少なくとも今のぼくは、昔のこの人と出会ったことはないはずだ。でも……」

 刹那の間、口ごもったルウが、言いにくそうに言葉を紡いだ。

「ねぇ、エディ。もしも、もしもだよ?ぼくが全てに絶望して、この宇宙に仇為すような存在に堕ちたら、そのときは、きみがぼくを殺してね?」

 その言葉を聞いたリィは、ぴたりと動きを止めた。
 ルウは、しまったと口を押さえたが、時既に遅しだ。ぎ、ぎ、ぎ、と、油を差し忘れた発条人形のような様子でリィが振り返った。その顔には、爽やかなまでの笑顔が刻まれている。
 そして、ゆっくりと剣を振りかぶった。無論、鞘から刃を抜き放ってはいないが、あれで殴られたら凄く痛いに違いない。それこそ、目から星が出そうなくらいに。
 ルウは慌てて後ずさった。

「もしも!もしもの話だよ!お願いだから怒らないで!」
「怒らせたくないならそんな話をするんじゃない、この馬鹿!」

 リィは問答無用で間合いを詰め、もの凄い勢いで鞘付きの剣を振るった。
 ごちん、と、鈍い音が鳴った。
 結構本気に近い一撃はルウの頭に直撃し、憐れな被害者をその場に蹲らせたのである。

「いったぁー……。酷いよエディ……」

 涙目で見上げるルウに、リィは冷然とした調子で言った。

「酷いのはお前の方だ。ルーファ、お前はおれに、何度もあんな思いをさせるつもりなのか」

 あんな思いとは、言うまでもない。怒りに取り憑かれたルウが、その力を無制限に解放しようとした、あの大事件の顛末である。一応は事なきを得た形の決着であったが、危ない場面は数え切れないほどにあった。最後は、リィもルウも身動きできないほどの重傷を負う羽目になったのだ。
 リィは、ルウを止めるために、ルウと刃を合わせた。それは、まったくもってリィの本意ではなかった。ルウも、普段の彼であればそんなことは絶対にするはずがない。ただ、あの時のルウは尋常ではなかっただけなのだ。
 ルウは、暴走した自分を、何よりも恐れている。それは、おそらく他の誰が彼を恐れるよりも、遙かに、深刻に。

「ぼくは、この人の星を、キングの生まれ故郷を滅ぼした覚えなんて、無い。キングと出会ったのは、間違いなくダンのお父さんとしてが初めてだったんだ」
「ああ、知ってる」

 ルウは蹲ったまま、老人の遺骸の瞼を下ろしてやった。

「でも、遠い未来、ぼくはこの人の星を滅ぼすのかも知れない。それはきっと、もっとずっと遠い過去の話になるのだろうけれど」

 永遠に近い時間を生きるラー一族にとって、時間は一方通行の概念ではない。ルウ自身も、彼が生まれるよりも前の時代を経験したことがある。
 もしかしたら、同じ事が未来に待っているのだろうか。人に絶望した自分が、いつか一つの星そのものを滅ぼしてしまうのだろうか。
 もしもそうならば、いっそのこと……。

「馬鹿なことをいうな」

 こつん、と、今度は軽いげんこつがルウの頭に落っこちた。
 それでも、さっき剣の鞘で殴られたのと同じ場所を叩かれたものだから、結構痛かったルウは、もう一度薄く涙を浮かべながらげんこつの持ち主を見上げた。
 リィは、透き通るような笑みを浮かべていた。

「ルーファはそんなこと、絶対にしない。おれが、絶対に許さない。なら、この爺さんの星を滅ぼしたのは、絶対にルーファじゃないのさ。それは、誰よりもおれが一番知っている。だから安心しろよ」

 ルウは、何かを言おうと口を開きかけたが、途中で思い直してそのまま閉じた。
 言葉は不要なのだろう。少なくとも、自分とこの少年の間では。
 ルウは、リィに向けて手を伸ばした。リィはその手を確と握り、ルウの体を引き起こした。
 その時、二人の背後から声がかけられた。

「また、でっけえ借りを作っちまったな、天使、黄金狼」
「きみ達には、いつもいつも助けられてばかりだな。まったく、いい大人が二人して情けない限りだ……」 

 血の滲むような言葉は、ケリーとジャスミンのものだった。 
 振り返って見れば、二人ともがいつもの二人らしからない、苦り切った表情を浮かべていた。それは、事態をここまで悪化させてしまった自責の念であり、リィの婚約者であるウォルが嬲られるのを指をくわえて眺めていることしか出来なかった自分たちへの侮蔑の念であり、何より全ての後始末をリィ達に任せることになってしまったことに対する羞恥心であった。 
 ケリーとジャスミンの巨躯が、いつもよりも小さく見える。それは、二人が項垂れているからだけではあるまい。傷つけられたプライドが、彼らを彼らたらしめる力の源泉から熱と光を奪い去っているのだ。 
 そんな二人を、リィは責めることはしなかった。むしろ気安く、あっさりとした調子で言った。 

「こっちこそごめん。こいつはケリー達のかたきだったのにな。出しゃばった真似をしてしまった」 

 ちらりと、老人の死骸を見下ろした。 
 ケリーとジャスミンもそれに倣う。つい先ほどまで、正しく恐るべき異能の力で自分たちを苦しめ続けた、この男。しかし、真実の姿はこれほどまでに年老いていたのか。記憶にあるこの男は、せいぜい初老の年の頃であったはずである。 
 だが、考えてみれば当然なのかも知れない。ケリーが惑星ヴィノアの亡霊と呼ばれ、全ての因縁に決着をつけたのが、既に1世紀近く前の話になるのだ。アーロンがその頃に少年と呼ばれる年だったとすれば、もう百に近い年だったとしてもおかしくはない。 
 あるいは、この男も、自分と同じように全ての因縁に決着をつけたのかも知れない。だからこそ、これほどに安らかな顔で死ねたのではないか。ケリーはそう思った。 
 そのとき、後ろから声が上がった。 

「お父様!」 

 後ろにいたマルゴが、弾かれたように飛び出し、義父の遺骸に縋り付いた。 

「お父様!わたしです、マルゴです!目を、目を開けてください!」 

 何度も繰り返す。彼女自身、変わり果てた義父の姿を見て、全ては理解しているのだ。この死に方はまともではない。おそらく、この死に様が、この人の送ってきた人生に相応しいものなのだと。 
 だからこそ、彼女は大声で叫んだ。自分の理解を遠ざけるため、大切な人の死を遠ざけるために叫んだ。 

「お父様、お願いですから、目を開けて……」 

 だがそれにも限界はある。じんわりと、紙に水が染みこむように、マルゴは理解した。この人は、もう二度と目を開けないのだ。もう、わたしに笑いかけてくれることはないのだ。 
 もしも、全ての因果を知る絶対的な何かがこの場にいて、自分を見ているのだとすれば、おそらくそれは喜劇の道化を見るよりもなお憐憫に満ちた視線なのだろうとマルゴは思った。何せ、自分はこの人に一度裏切られているのだ。命をかけて庇った報酬が、無残な裏切りであった。 
 それでも、この人は父であった。自分たちが作られた命であっても、いや、作られた命であるからこそ、この人はかけがえのない父であったのだ。 
 屹度顔を上げたマルゴは、凄絶な視線でリィを睨み付けた。 

「お前が、お前がお父様を殺したのか?」 

 その視線から、リィはちっとも逃げなかった。睨め上げるマルゴの視線を正面から受け止め、冷ややかに見下ろしながら言った。 

「そうだ、おれが殺した」 

 手を汚していないから殺していないとは口が裂けても言わないリィである。紛れもなく、目の前の亡骸は自分との戦いの最中に死んだのだから。 
 死んだ人間がいて、生きている人間がいる。ならば、そこには恨みが残る。その恨みは、逃げるべきものではないとリィは信じている。 
  
「どうして殺した?」 
「この男が邪魔だったからだ」 

 言葉は簡潔である。そこに、許しを乞う意志は欠片もない。 
 その代わりに、目で問う。 
 お前は、この男の死が許せないのか。どうしても許せないのか。 
 それならば、戦うのか。己の命と誇りをかけて、戦うのか。おれと戦うのか。 
 戦わなければならないのか。己の命と、この男の恨みを天秤にかけて、それでも戦わなければならないのか。この男の死はそれほどに納得のいかないものなのか。 
 視線が交錯したのは、数秒の間であった。 
 視線を逸らしたのは、マルゴの方だった。 

「……分かっていた。分かっていたのよ、この人が普通の死に方を出来ないくらい。きっと、誰かに殺されて人生を終えるのだろうっていうことくらい……」 

 誰に言うでもなく、宙に向けて語りかける。 
 まるで、この場に義父の魂がいるかのように。 
 柔らかな頬を、一滴が静かに滑り落ちた。 

「それでも、わたしはこの人よりも先に死にたかった。この人がここで死ぬべき運命なら、この人を守って先に死にたかったの。分かって欲しいとは言わないわ。ただ、それがわたしの願いで、あなたはその願いを破ったの。きっとそれが悔しいんだわ……」 

 マルゴは、くすりと微笑んだ。 
 マルゴの笑みを見て、リィは身を固くした。 
 そのリィを見て、マルゴはやはり微笑んだ。 

「心配しないで。今更、この人の後を追おうとは思わない。だって、こんなにも幸せそうな顔をしているんだもの。わたしなんかが追いかけたら、きっと迷惑にしかならないから……」 

 ふらりと、マルゴの小さな体が前のめりに傾く。肉体も精神も、生死の境を彷徨うほどの打撃を受け続けたのだ。マルゴの未成熟な体は、その両方について限界を迎えていた。 
 少しずつ傾いていく地面を眺めながら、マルゴは呟いた。 

「ああ……長い……これから死ぬまで……どうやって生きればいいのかしら……?」 

 意識を失った少女の体を抱き留めたのは、ケリーだった。 
 ケリーは無言だった。軽々しく、若いから何とかなるとか、こんな男に縛られていたこれまでの人生が間違っていたのだとか、そういうことは言わない。 
 なぜなら、ケリー自身、今のマルゴと全く同じことを考えたことがあったからだ。全てが偽りに囲まれた戦場から命からがらに這い出て、復讐の刃を思うさまに振るった後、自分に残されたものは人気の絶えた赤い荒野だけだった。その寒々しい光景を前にして、自分も仲間達と一緒にここで眠ろうかという考えが、まるで甘美な麻薬のように脳髄を浸したのだ。 
 もう、自分には何も残されていない。何も残されていない自分に、しかし時間だけは、まるでそれ自体が拷問のようにたっぷりと残されている。 
 生きることが、苦痛に思えた。死ぬことが、安楽に思えた。 
 それでもケリーは生きることを選んだ。それは、本当にぎりぎりの選択であった。いったい何がそうさせたのか、今でも分からない。だが、その選択は正しかったのだと、今は胸を張ることが出来る。 
 その証拠が、自分の隣にいる。だから、俺は間違えてはいないのだし、これからも間違えない。 

「終わったな」 

 隣にいたジャスミンが、ケリーの肩を叩いた。ケリーは、無言で頷いた。 

「そういえば、表の様子は?」 

 振り返ったジャスミンが訊いた。 
 これに応えたのはルウであった。 

「王様が、全ての決着をつけた。後はこの国の人たち次第だと思う。これからも、今までと何も変わらずに生きていくのか。それとも、今日をきっかけにして何かが変わるのか。それはぼく達が責任を負うことじゃない」 

 この言葉に、リィがひんやりと笑った。 

「そんなことはどうだっていいさ。だいたい、おれはあの馬鹿を迎えにここまでやってきたんだ。この国が裏で何をやっていようと、どんな非道を働いていようと、それはおれの関知することじゃない。せいぜい、連邦警察やら情報局やらの人間に任せておけばいい。あの連中、そのために給料をもらっているんだろう?」 

 非の打ち所のない正論であったが、この少年が、目の前に困った人間がいたときに果たしてどう反応するか、それを知り尽くしている三人はちらりと目を交わして薄く笑うにとどめた。 
 そんな三人の様子を横目に見たリィが、不服そうに言った。 

「悪いのは全部ウォルだ。初夜が怖くてベッドから逃げ出す花嫁は珍しくないにせよ、まさか星系単位で家出をされるとは思ってもみなかった。これから先が思いやられる」 

 わざとらしく溜息を吐き出したリィに、ルウがくすくすと笑いかける。 

「そうだよね。エディが王様のお嫁さんだったときだって、精々国をまたいで半年くらいの家出が関の山だったんだし。でも、あっちの世界で国を跨いでの家出って、こっちの世界での星系を跨いだ家出とそんなに変わらないと思うんだけどなぁ。結局、似た者同士ってことじゃないの?」 

 魂の相棒の結構容赦ない指摘に、リィは形の良い唇を尖らせた。 

「全然違う。だいたい、おれはあいつと結婚したときにちゃんと断ったんだ。王妃なんてかたちだけの話だし、おれはおれの好きなようにさせてもらうって。だから、どんなに遠くに家出しようが半年姿を消そうが、誰に憚る筋合いでもないじゃないか」 
「それにしたって王様はきっと心配したと思うよ。それに、もしもエディに何かあったと風の噂でも耳にしたら、全ての政務をほっぽり出しても助けに来たはずだ。それこそ、今のエディみたいに」 

 だからやっぱり似た者同士ではないか。ルウは最後までは言わなかった。まったくもって口に出す必要のない言葉であったからだ。 
 リィも、不服そうではあったが何も言い返さなかった。 
 むしろこの会話に食いついたのは、二人のやりとりをぽかんと眺めていた規格外の夫婦である。 

「おい、黄金狼。ちらっとウォルからは聞いたがよ、お前さん、たいそう楽しそうな体験をしたらしいじゃないか。そんな美味しい話を秘密にするなんて、残酷でけちくさいことを、まさかお前さんが言ったりしないよな?」 

 ケリーがにたにた笑いながら言えば、ジャスミンは真剣な顔で深く深く頷いた。 

「なにせ、我々はきみ達夫婦の結婚式の最前席を既に予約しているのだからな。仲人だろうが神父だろうが、何だって引き受けてやるさ。その代わり、水くさい話は無しだぞ。第一、そんな面白そうな話が目の前に転がっているのにお預けされて黙っていられるほど、わたしは我慢強くないんだ。とりあえず、女性だったきみと、男性だったウォルの、馴れ初めのあたりから話してもらおうかな」 
「あ、そういえばぼくも、そこらへんの話はあまり詳しく聞いたことがなかったよね。エディ、ちょうど良い機会だから教えてよ!」 

 巨体の夫婦はともかく、思いもよらずルウからも詰め寄られて、流石のリィも後ずさった。 
 そして不思議に思った。三人の瞳の輝く有様は、例えばクラスメートの女の子達が誰が好きだ誰が格好良いときゃあきゃあしている時の様子とほとんど変わらないのだ。 

「なんでお前ら、そんなに楽しそうなんだ!他人の色恋なんて、どうだっていいだろう!」 

 ケリーが、やはり楽しそうに首を横に振った。 

「それは違うぜ黄金狼。他人の色恋だからこそ、こんなに楽しく首を突っ込めるんじゃねぇか。まぁ、芸能人のゴシップやら乳臭い子供の好いた惚れたやらはこっちから願い下げだがよ、お前やウォルみたいな常識外れの連中の色恋話ならこれほど楽しいことは他にあるわけねぇぜ」 
「この男の言うとおりだな。結局、人間なんぞ下世話な生き物だということさ。そして、きみの目標は『目指せ一般人』なのだろう?ならば、こういう経験も積んでおくに如かずだと思うぞ。世間の波は厳しいぞリィ。色恋沙汰の秘密主義がどれだけ敵を作るものか思い知っておくが良いさ」 
「男性だった王様は色男だったもんねぇ。人間嫌いのエディがころりといくなんてほんと意外だったけど、少しだけ納得も出来たかな?」 

 三人とも好き勝手に言う。 
 辟易としたリィは、酔漢の如き三人を正面から相手する愚を悟り、特大の溜息を吐き出した。 

「分かった、分かったよ、また今度話してやるから今は我慢してくれ……」 

 肩を落とし、人間社会では魔法の言葉の一つともなっている『また今度』のカードを切った。この言葉は多くの場合、無期限延長契約繰延の意味を持つ逃げ言葉である。 
 しかしリィにとっては残念なことに、それはクーア財閥を切り盛りしてきた二人にとって、言質を取った以外のなにものでもないのである。 

「約束だぜ、黄金狼」 
「反故にすればひどいぞ」 
「またあの星に行こうか!今度は、キングたちも一緒に!」 

 三人は楽しそうに頷き、一人は渋面で再度溜息をついた。 
 そして、思い出したように言った。 

「そうだ、これ、預かってたんだ」 

 背負った小型のバックパックから、掌大の小箱を取り出し、ケリーに差し出した。 
  
「これは?」 
「開ければ分かる」 

 ケリーは受け取り、小箱を開いた。 
 中には、透明な液体の詰まった瓶が入っていた。そして、その液体には、ぷかぷかと丸い物体が浮かんでいる。 
 目玉であった。それも、ただの目玉ではない。ケリーにはそれが分かる。なぜなら、それは彼にとって半身とも言うべき存在と繋がった、人造の眼球であったからだ。 
  
「ダイアナから預かったんだ。今回は、何も手伝えないからって。全てが終わったら届けて欲しいって頼まれてた」 
「すまねぇ、恩に着るぜ」 

 瓶を開け、中から義眼を取り出す。 
 大昔、田舎海賊に拉致され義眼を奪われたときは、無理矢理に抉り取られたものだから、義眼もケリーの体も、治療が必要なほどに傷ついていた。だが今回は自分で取り外したこともあって、体の方に不具合はない。 
 ケリーは慎重な手つきで義眼を右目にはめ込んだ。途端、右半分の視界に、金色のふんわりした髪をした、妙齢の女性が映り込んだ。 

『ケリー!ケリー!大丈夫!?わたし、本当に、心臓が止まりそうなくらいに心配したわ!本当に怖かった……!』 

 画像の女性は、涙を流してはいなかった。しかしその声を聞けば、涙を流せないのが苦しいほどに、心細い思いをしていたことがケリーには理解出来た。 
 先ほどまでのおちゃらけた表情が嘘のように、ケリーは真剣な顔だった。 

「悪かった、ダイアン。心配をかけた……」 
『ううん、わたしのことなんてどうだっていいの。わたし、いつもは偉そうに何でも出来るようなことを言っておいて、これほど役に立たないなんて……。あなたの相棒、失格だわ……』 

 ケリーとジャスミンが囚われてから、ダイアナもただ手をこまねいていたわけではない。リィたちのサポートをしながらも、合法非合法を問わず、あらゆる方法でケリーたちを助けようとしてきた。 
 だが、大統領から、『これ以上余計な真似をすれば、きみにとって必要不可欠なパーツの手足を潰し、残ったもう片方の眼球を潰す。こちらは彼の命が必要なのであって、それが万全である必要は一切ないことを理解したまえ』という脅迫が届くに至り、全ての動きを封じられてしまったのだ。 
 もしもダイアナが肉の体を持つ人間ならば如何様にも動けるのだろうが、この場合は残念ながら、彼女は巨大な体を持つ宇宙船である。物理的に動けば、必ず何らかのセンサーに感知される。そうすれば、彼女の一部と言ってもいいケリーが、宇宙船乗りとして再起不能の傷を負わされることになる。 
 ダイアナが、どれだけの焦燥と戦っていたのか、ケリーは手に取るように分かった。 
 俯いたまま次の言葉を紡がない、紡ぐことの出来ないダイアナに、ケリーは優しく語りかけた。 

「勘違いするなよ、ダイアン。どこの誰がお前を完璧だと、全知全能だと褒め称えたんだとして、俺はちっともそんなことは思っちゃいない。もしもお前さんが本当の意味で完全な存在なら、俺がお前に乗る意味が失われちまうじゃねえか」 

 ダイアナが、はっと顔を上げる。 

「俺には肉の体がある代わりに、機械の体はない。お前はその反対だ。出来ることと出来ないことがあって、お互いにそれを補い合えるんだ。だからこそ、俺はお前を選んだ。お前は俺を選んだ。今回は、それがたまたま噛み合わなかっただけさ。そして、俺はまたお前に乗ることが出来るんだ。過ぎちまったことをくよくよ悔やむのは俺たちらしくねぇぜ。それよりも、俺たちはこんな陰気な星はさっさとおさらばしたいのさ。帰りの迎えは任せても大丈夫だよな?」 

 ケリーはそう言って野性的な笑みを浮かべた。 
 そもそもケリーは、今回の一件は全て自分の油断と見通しの甘さこそが招いた危機だったのだと思っている。ダイアナはその尻ぬぐいに奔走してくれたようなものなのだ。どちらかが謝らなければならないとするなら、それは間違いなく自分の方だ。 
 だが、自分たちは互いに頭を下げ合うような関係でないことをケリーは知っている。そして僅かな自惚れが許されるならば、ダイアナもきっとそう思ってくれているはずだ。それなら、言葉だけの謝罪は自分たちには相応しくない。ケリーの言葉に込められていたのは、言外の謝罪と信頼の意志であった。 
 それらの気持ちが伝わったのだろうか、ダイアナは一瞬だけ呆けたように目を開き、それから、こちらも挑みかかるように笑ったのだ。 

『ええ、待っててケリー。あなた好みの、亜光速の送迎艇で最高級のお出迎えを約束するわ!』 
「それは大変だ、この星の地表がかたちを変えちまう。もうちょっとのんびりしたやつで頼む」 
『ふふ、そうね、その方がいいわね。……それにしても、こういう切り替えは本当は機械であるわたしの方が得意であるべきはずなのに……。こういうのって、情に絆されるっていうのかしら?』 
「どっちかっていうと朱に交われば赤くなるが正しい気がするな。じゃあ、頼んだぜダイアン。ただ、こっちは怪我人がいる。帰りの予定はその様子を見ながらってことになるだろうから、そのつもりで頼むぜ」 
『分かったわケリー。リィと、その可愛らしい婚約者さんによろしく……』 

 その言葉を最後に通信は切られた。 
 ケリーは大きく息を吐き出し、それから三人の方を振り返って、 

「さ、行こうぜ。厄介事が片づいたなら、まずは仕事上がりの一杯だ」 

 飄々とした調子で背中を向けたのだ。 
 歩き去る夫の背中を眺めながら、ジャスミンが溜息を吐き出した。 

「しかし、なんというべきか、あれだな」 
「あれって?」 

 ルウが訊く。 
 ジャスミンは苦笑した。 

「嫉妬を感じる。わたしもまだまだだ」 
「嫉妬って、キングとダイアナに?」 

 ジャスミンは頷いた。先ほどの通信、ダイアナの姿こそ見えなかったが、音声を聞き取ることは出来た。通信を二人だけの秘密で行うことも出来たはずなので、ケリーかダイアナ、もしくはその両方が、他の三人に秘密で通信を行うことを嫌ったのだろう。 

「ジャスミン、確か、キングとダイアナは二人で一つだから、嫉妬するのも馬鹿らしいって言ってなかった?」 
「それはそうさ。今更、あの二人の間に割って入ってやろうとか、仲を引き裂いてやろうとか、そういう筋違いなことを考えてはいない。だが、あういうふうに惚気られるとどうにも妬けるのさ。羨ましいんだな」 
「クィンビーが話せないのが辛いの?」 

 ジャスミンは首を横に振った。 

「それは違うぞルウ。クィンビーは確かに無口だが、話せないわけでは決してない。操縦をミスった時など、軍属時代のどんな鬼軍曹よりも辛辣にわたしを叱責するものさ。無言だから逆に恐ろしい。無視を決め込めばとたんに機嫌が悪くなる。逆に、手間暇をかけて整備してやれば百の感謝よりも雄弁に宙を駆けてくれる。言葉はむしろ無粋だ、少なくともわたしとクィンビーに間にはな」 
「じゃあ、何が羨ましいの?」 

 ジャスミンは豊かな赤毛をがしがしと掻いた。 

「さぁ、それがわたしにもよく分からない。強いて言うなら、あの男とダイアナを同時に自分のものにしたいのかも知れないな。それがどれほど分不相応な欲望かは分かっているつもりなんだが……」 

 無論、支配して意のままにしたいというわけではない。コレクションに加えて棚に並べようというわけでもない。愛玩し愛でようというわけでもない。そんなことは、この夫婦にはちっとも似合わないし、そもそも必要ではないのだ。 
  
「我ながら自分の感情が不分明だよ。これだけ長生きしてなんとも未熟だと呆れる話だな」 

 渋い顔をしたジャスミンに、ルウはくすりと笑みを向けた。 

「ジャスミンは、キングのことが大好きなんだよ。もちろんダイアナも含めたキングのことが。今のはきっと、一時的な恋煩いだ。それだけの話じゃないの?」 

 その言葉に、ジャスミンは頬を赤らめ……たりはしなかった。むしろ、納得の表情で手を打った。 

「ああ、それはそうかも知れない。なるほど、変に理屈をこね回すから本質から遠ざかるわけか。そうか、わたしはあの男に惚れ直したのだな。なるほどなるほど」 

 そう言って何度も頷くあたり、いわゆる一般的な恋人の愛情表現から見れば、明後日の方角にずれているようだ。それでも気をよくしたらしいジャスミンは、小走りに自分の夫に駆け寄ってラリアートをくらわせるようにして肩を組んだ。 
 目を回しかけたケリーがげほげほと咳き込み、さすがに声を荒げて、 

「いてぇな女王!何しやがんだ!」 

 対するジャスミン、少しもたじろがず、 

「いいじゃないか海賊。わたしなりの愛情表現というやつだ。目の前で、夫が自分以外の女と惚気ている場面を見せつけられたわけだからな。少しは我慢し受け止めるのが男の度量というものだぞ」 
「意味がわかんねぇ……。だいいち、あんたの物騒な愛情表現を丸ごと受け止めようと思ったら、ちょっとやそっとの度量じゃ木っ端微塵に砕かちまうじゃねえか。受け止める側の身にもなってみやがれ」 
「だからこそわたしの愛情表現が他の人畜無害な男連中に向かないよう、努力するのが夫の勤めというものだ。じゃないと憐れな怪我人がダース単位でお前に助けを求める羽目になるぞ」 
「それは遠回しな脅迫か!?」 
「いやいや、いじましくも貞淑な妻の可愛らしいおねだりというやつさ」 
「ひでぇ冗談だ……」 

 そんな不思議な会話を繰り広げている。 
 置いて行かれる形になったリィとルウは、二人のたくましい後ろ姿を眺め、なんとも中途半端な笑みを浮かべながら溜息をついた。  



[6349] 第八十二話:凶報
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/05 19:59
 インユェにとって丸二日ぶりの食事は、彼らの船である宇宙船《スタープラチナ》号の食堂で執り行われた。 
 パーソナルスペースには少々変わった造りの部屋も多いこの船だが、さすがに共用スペースである食堂はごくごく一般的な造りである。逆に言えば、ひどく殺風景で味気なく、取り柄といえば広いだけ。 
 だが、今日はまことに彩り鮮やかであった。 
 まず、普段はせいぜい三人しか集まらないこの場所に、今日は十人近い人が溢れている。 
 また、その個性も極めつけに豊かである。頭髪の色からしても、金、銀、黒に赤と目に楽しく、また瞳の色などは黒に緑、紫に青に茶に琥珀色と、片手では数え切れないほどである。 
 何より、その全ての者が、各人の個性豊かな外見でも到底包み込めないほどに強烈であくの強い内面を有しているものだから、むしろ殺風景なくらいの風景でないと演者に舞台が負けてしまう。そういう意味では、この食堂は彼らに相応しいのかも知れなかった。 
 彼らは、半病人であるインユェとマルゴ、そしてウォルを除いて、みんな忙しく動き回っていた。宇宙では『働かざる者喰うべからず』が大原則であるから、現役の宇宙生活者であるメイフゥは言うに及ばず、ケリーやジャスミンも自分たちが大財閥の実質的支配者であることなど鼻にもかけず働いた。リィも小さな体をてきぱきと動かし、ルウはのんびりとした表情ではあったが手足は機敏に動かした。 
 だが、誰よりも忙しかったのはシェラであろう。左手はフライパンを握り、右手は菜箸を動かしながら、目は隣の鍋で作っている魚の煮汁の具合に注意を配り、耳はオーブンで焼けるローストビーフの油の弾ける音に向けられ、口は揃いも揃って個性的な面々に指令を下し続けていたのだから。 

「ルウ、申し訳ありませんがテーブルの飾り付けをお願いしてもよろしいですか?ケリー、そのサラダは完成ですからテーブルへ運んでください。ジャスミン、この煮汁はその浅い皿ではなく……そうそう、その深皿でお願いします。リィ、そろそろローストビーフが焼けるはずですので切り分けをお願いできますか?わたしはグレービーソースを作りますので。……メイフゥ!つまみ食いしている暇があるならそこに並んでいる缶詰を片っ端から開けておきなさい!」 

 その有り様は戦場の敏腕指揮官といった風情だったから、誰一人として逆らわない。戦場では、優れた指揮官の命令に逆らうことは、即ち死を──この場合には上等の料理にありつけないことを──意味するのだ。 
 一方、まだ傷の癒えない、もしくは癒えて間もない、ウォル、インユェとマルゴの三人は、置物のように椅子に腰掛けながら、目の前のテーブルに綺麗なクロスが掛けられ、見事な花が生けられ、そして美味しそうな料理が次々と並んでいく様子を、まるでマジックショーの観客のように眺めていた。 
  
「こりゃあすげぇ……」 

 インユェが呆然と呟いた。彼自身、人並み以上に料理には覚えがあるから、シェラの腕前が素人の域に収まらないことを思い知らされたのだ。 
 料理が上手なのは当たり前。それよりなにより、限られた時間、限られた食材で、これほど多彩な料理を短時間に完成させる手際が尋常ではない。中には缶詰を数種盛りつけただけの皿もあるのに、誰が見てもそんなお手軽料理には思えない見事さである。 
 この様子には、マルゴも目を丸くしていた。 

「あの子、何者?本職の料理人……にはどうしても見えないのだけど」 

 ウォルが苦笑した。 

「あれは、いわゆる女の仕事というやつには、ありとあらゆる職域で信じられない手際を発揮するぞ。しかし、そのどれもが本職ではないときている。将来、シェラの嫁になる女性はさぞかし苦労をするのだろうなぁ」 

 インユェとマルゴは無条件に頷いた。特に、リィやルウに比べればシェラは一枚落ちるのだと思い込んでいたインユェなどは、シェラを心底見直していた。宇宙において、こういう日常生活の技術は存外重要な意味を持つ。それこそ、単純な腕っ節などとは比べものにならないほどに。 
 今度、料理を習おうか。インユェが真剣にそう考えている間に、テーブルはいっぱいの料理で埋め尽くされていた。 
 豚肉と刻み野菜の炒め煮、ぶつ切りにした魚の煮汁、大海老の椀、たっぷりとソースのかかったローストビーフ、鶏肉と豚の臓物と芋の煮込み、魚介の擂り身の揚げ物、そして焼きたてのパン……。 
 例えようもないほど良い香りが、三人の食欲を刺激する。特に、丸二日もお預けをくらっていたインユェの胃は、溢れんばかりの期待の念を、盛大な腹の虫の鳴き声に変えて喜んだ。つまり、ぐぅという間抜けな音が盛大に響き渡った。 
 まるで女の子のように頬を赤らめたインユェに、ウォルは意地悪な目つきで笑いかけた。 

「あまりがっついて喉に詰まらせるなよ」 
「わかってるよ、うっせえな!」 

 ウォルはからからと笑った。くすくすと笑わないところがなんとも彼女らしい。 
 インユェは、喉元まででかかった『ドレイの分際で!』という言葉を飲み込んだ。もう、ウォルには自分の気持ちが痛いほどに伝わってしまっているのだ。今更そんなことを言っても滑稽なだけで、自分が恥ずかしい思いをするだけだ。 
 そうだ、自分はこの少女に、思いの丈をぶつけてしまっているのだった。そのことに考えが至ると、どうにも気恥ずかしく、むず痒かった。それに、思い返せば返事はまだもらっていない。 
 もじもじと体を揺すりながら自分の顔をちらちら見遣るインユェに、ウォルは不審の念を抱き、何か言いたいことがあるのかと首を傾げて見せた。その様がまた可愛らしくて、あどけなくて、インユェはいっそう顔を赤らめた。 
 そんな二人を見て、マルゴが溜息をついた。 

「何やってんだか……」 

 マルゴが行儀悪くテーブルに肘をついたのと、残りの料理を両手に抱えたシェラ達が調理場から姿を現したのとが、ほとんど同時だった。 

「これで料理は全部揃いました。さぁ、頂くとしましょうか。あと、言うまでもないことですが、この星の食材は一切使っていませんから、肉類を食べても中毒の心配はありませんのでご安心を」 

 おそらく、《スタープラチナ》号に積まれていた食材と、あとは『パラスアテナ』から取り寄せた食材で料理に必要な材料をまかなったということだろう。 
 それにしてもこの料理の量は……。 
 ただでさえ料理で溢れかえっていたテーブルの僅かに残された隙間が、まるでブロック型パズルゲームのように、最後の料理で埋め尽くされていく。 
 その光景を見たインユェとマルゴはぽかんと口を開けた。 

「あの、シェラ、ちょっといいかしら」 

 行儀良く椅子に腰掛けたシェラが、笑顔とともに訊いた。 

「なんでしょうか、マルゴ」 
「その、あなたの料理の腕前が素晴らしいことは十分に分かったわ。でも、これはちょっとやり過ぎじゃないの?」 
「やり過ぎ、とは?」 

 不思議そうな顔をしたシェラに、マルゴはテーブルの料理を指さし、 

「いくらなんでも、これを全部食べるのは無理でしょう?そりゃあ、ケリーやジャスミンは人一倍食べるんでしょうけど、それでも十人前そこそこもあれば十分なはずよ?これ、どう見ても二十人前は軽くあるみたいだけど……」 

 ああ、そういうことかとシェラは合点がいった。そして、くすくすと笑った。マルゴの感覚が、いわゆる普通の人間並のそれだったので、逆に新鮮だったのだ。 

「何がおかしいの?」 
「いえ、失礼。確かに、普通ならあなたの言うとおりなんでしょうね。でも、あなたはリィやケリー、そしてジャスミンがどれだけ食べるかご存じない」 
「おれも食べるぞ」 

 ウォルが手を上げたのを、シェラは慇懃に無視をして、 

「断言しておきます。この食卓に残り物は絶対に発生しません。マルゴもインユェも、もしお腹いっぱいに食べたいのなら遠慮は無用と思ってください。ちなみに──」 
「……ちなみに?」 
「今、テーブルに並んでいるのと同じだけの料理が、まだキッチンで準備中です。わたしはそれでも足りるかどうか心配をしているといえば、あなた方の置かれた状況が理解出来るでしょうか」 

 シェラの密やかな声が、何故だか恐ろしかった。 
 マルゴとインユェが、同時に唾を飲み下した。食欲がそうさせたのではない。戦慄がそうさせたのだ。 
 かくして食事は始まった。 
 席はもちろん自由だったのだが、ウォルを基準にして、右側にリィ、左側にインユェ、そのさらに左にメイフゥ。反対側には、右側からジャスミン、ケリー、マルゴ、一番厨房に近い席にシェラが座るという配席となった。 

「お、これは西離宮でご馳走になった件の料理ではないか。懐かしいな」 
「こっちはシッサスの酒場の名物だった、臓物の煮込みだぞ!シェラ、こんな料理、よく覚えていたな!」 
「ええ、団長があそこの料理は絶品だという話をしておられたので、一度こっそりと味見をしにいったことがありまして。どうですか、お味の方は?」 
「うむ、正しく絶品だ!……それにしても、こんな旨いものを思うように喰うことすら出来んのだから、国王とは本当に因果な商売だったなぁ……」 
「泣くなよウォル、うっとうしい」 
「ふむ、ということは、この料理はあちらの世界の料理というわけか。どれどれ……」 
「どうだ、女王?」 
「……お前も食べてみろ、海賊。元々この料理が旨いのか、シェラの腕が素晴らしいのか、その両方か、どちらにせよほっぺたが落ちそうだという比喩の意味がよく分かる」 
「……こりゃ旨ぇ!シェラ、今度ダイアンにレシピを教えてやってくれよ!この料理をお前さんの頭の中だけで独占させるのは、国家的な損失だぜ!」 
「そんな、大げさですよケリー……」 

 そんなふうに長閑な会話を楽しみつつ、彼らは大いに食べたのだ。 
 リィもケリーもジャスミンも、もちろんウォルも、がつがつと料理を胃に押し込むようなことはしない。淡々と口に運ぶだけだ。ただ、そのスピードが常人のそれと比べれば尋常ではなく、また速度がいつまでたっても落ちない。 
 ケリーとジャスミンはまだいい。体格が常人とは桁違いなのだから、食べる量が多いのだって理解の範疇である。 
 しかし、子供から大人に脱皮しつつある程度の体格でしかないリィとウォルが、これほどの量を食べて、まだ次の料理に目を光らせているのはどういうことだろう。 
 テーブルの料理の半ばまでが姿を消したというのに、あの様子ではまだ腹三分目といったところか。 
 それに加えてメイフゥもよく食べる。こちらは小気味よいほどがつがつと、本当に美味しそうに食べ、賞賛の言葉も忘れないものだから、作り手であるシェラもまんざらではなさそうだ。 
 インユェとマルゴは、おそるおそるといった様子で料理を口に運んだ。別に何を恐れているわけではなかったのだが、何故だかそういう動作になってしまったのだ。 

「あれ、マルゴ、そういえばお前は肉の料理を食べても平気なのか?」 

 ケリーがそう訊いた。 
 マルゴは、曲がりなりにも惑星ヴェロニカ出身である。そしてこの国で生まれた人間のほとんどは、ヴェロニカ教徒としてその教義に身を捧げる。言うまでもない、肉食の禁止である。 
 その質問は十分に予想していたのだろう、マルゴは平然としながら、 

「生憎わたしは肉を食べないと力が出ない体質なの。軍人なんだから、教義の前に任務の達成よ」 

 つまり、純粋な意味でのヴェロニカ教徒ではないということか。 
 大統領としても、色々な意味で大切な我が子への食事だ。トリジウムで汚染されていない肉を用意したことだろう。 

「しかし、俺がお前らに拉致されて最初に招かれた食事では、野菜しか食ってなかったんじゃないか?」 
「部隊には、ヴェロニカ教に帰依している子ももちろんいたわ。ああいう食事は楽しく食べるのが大切なんだもの。わたしだってそれに合わせるわよ。今は、どうしたって肉を食べることの出来ない人は遠慮して席を外してくれているのだから仕方ないけどね」 

 年に似合わぬ優雅さで、マルゴはワイングラスを傾けた。 
 インユェも、とりあえずマルゴの真似をしてぎこちなくグラスを飲み干した。酒の味がまだ分からないのか、少し顔を蹙めながら。 

「おいおいチビガキ、ワインくらいで顔顰めるんじゃねぇよ。こんなもん、水だろうが水」

 せせら笑いながら、メイフゥがかっぱかっぱとグラスを空にしていく。

「ふん、俺は酒の味を楽しんで味わってるだけだよ!強い弱いなんてくだらねぇぜ!」
「お、いっちょまえに言うじゃねえか。じゃこれ呑んでみろ。味は保証付きだぜ。その代わり、ちぃとばかし強い酒だから、お子ちゃまには向かないかもなぁ?」
「おう、望むところだ!寄越しやがれ!」

 そうこうしているうちに、かなりの料理が姿を消した。頃合いを見計らって、シェラが席を立った。 

「さて、それでは追加の料理の仕上げをしてきますので、少々お待ち頂けますか?」 

 かなりの料理を平らげて人心地ついたらしいウォルが、ナプキンで口元を拭いながら、 

「おう、悪いなシェラ。何か手伝えることがあったら言ってくれ」 
「……ウォル。今更あなた陛下とは呼びませんが、それでも元の身分の差というものをもっと弁えてください。誰にも平等に接するあなたの有り様は得難いものだとは思いますが、度を過ぎれば残酷です」 
「……どういう意味だ?」 
「あなたに手伝われては、わたしの立つ瀬がないということです」 

 ぴしゃりとそう言い、特大の溜息を吐き出したシェラが、厨房の方に姿を消した。 
 ウォルが、ワインを一口飲んでから憮然とした様子で、 

「そんなに気にすることはないと思うのだが……なぁ、リィ」 
「ああ、おれもそうは思うけど……中々難しいんじゃないか?」 

 そんなやりとりを不思議そうに眺めていたメイフゥが、思う存分がつがつと食べていた料理を強引に飲み下し、口の周りをソースでべたべたにしたまま訊いた。 

「おい、リィ、今のはどういう意味だい?どうしてシェラは、あんなにウォルに気を遣ってるんだ?」 

 リィはパンを千切って口に放り込んでから、 

「別に面白い話でもない。ただ、ウォルはあっちの世界では伝説に名を残すような名君で、シェラは王女付きの女官だったってだけさ。だから、ちょっとばかり立ち位置に困ってるんだ」 
「……そりゃあ、シェラも大変だわなぁ」 

 厨房の方を眺めながら、気の毒そうに言った。メイフゥは、世間一般の常識からは隔絶した世界である資源探索者としての生活を好んでいるから、いわゆる身分の差とかそういうものには殊更疎い。それでも、国王が偉いのだということは理解出来るし、決して台所仕事を手伝うような存在ではないことも理解出来る。 
 もしも国王が台所に立って皿洗いでも始めれば、厨房担当の女官は泣いて止めるだろうし、気が触れでもしたのかと御典医を呼ぶかもしれない。とにかく、蜂の巣をつついたような大騒ぎになることは目に見えている。 
 メイフゥですらそう思うのだから、実際にウォルに仕えたことのあるシェラなどは、どうしたってウォルを厨房に立たせようとは思わないだろう。 

「しかしリィよ、俺だっていつまでも据え膳上げ膳という訳にはいかんのだ。いつになれば役に立つのかは置いておいて、花嫁修業というやつもそろそろ始めんとな。シェラには迷惑をかけるが……」 

 ウォルが憮然と言った。 
 リィが、思いっきり渋面を作った。これは、彼にとってあまりありがたくない会話の開始を告げる号砲だったからである。 
 予想通り、この場に居合わせたほとんどの人間が瞳をきらきらとさせていた。 

「そうだ、忘れていた。きみとウォルの馴れ初めを、訊かなければならないんだったな」 

 ジャスミンがわくわくしながらそう言えば、 

「それに、結婚式の日取りもだぜ。連邦大学は中等部、高等部は無理でも、大学生になれば学生結婚を認めているはずだからな、四年後には正々堂々、式を挙げられるって訳だ」 

 ルウはにこにこと頷き、 

「中には赤ちゃんを保育室に預けて講義を受けてる生徒もいるくらいだからね。結婚はもちろん、赤ちゃんだって作れるよ!」 

 メイフゥはグラス片手に不敵な笑みを浮かべ、 

「いーや駄目だね、こいつはインユェの嫁なんだ。もう、連邦大学なんてかび臭ぇところに戻る必要なんてないのさ。今日、この場所で式を挙げて、そんでこの船で資源探索の旅に出るんだ。さぁウォル、あたしのことはお姉様って呼んでいいぞ!リィも一緒に行こうぜ!なんならあたしがあんたの嫁になってやるからさ!」 

 マルゴは我関せずといった調子で食事を口に運びながら、しかし耳はこちらを向いて一言も聞き逃すまいとしている。 
 そんな面々に、リィとウォルはたじたじに追い詰められた。 
 リィが、厳しい視線でウォルにメッセージを送る。『おい馬鹿、どうするんだ、全部お前のせいだぞ!』の意味である。 
 ウォルも、情けない視線でメッセージを返す。『まことに相済まん、俺が軽率だった、許せ』の意味である。 
 リィは、顔を押さえながら深く溜息を吐き出した。これは、諦観の念を込めた溜息である。 
 そして、ぶっきらぼうな声で言った。 

「順々に答えるぞ?まずこいつとの馴れ初めは、あっちの世界の野原で、おれが良い気分で昼寝をしていたら、隣でこいつが殺されかけてた。それを助けたのがきっかけだ。結婚式の予定は未定。もちろん子供も当分もうけるつもりはなし。それに悪いけどメイフゥ、こいつもおれも補修が山のように溜まってる」
  
 おー、と声が上がる。 

「そうか、出会いからしてドラマチックだったのだな、きみ達は。美貌の少女の危ない場面に馳せ参じた少年騎士、まるでお伽噺か少女向けの漫画のストーリーのようじゃないか」 
「全然違うぞジャスミン。だってそのとき、おれは何の因果か女の子で、こいつはいい年こいた大人の男だったんだからな。配役が全く逆だ」 
「おお、そういえば」 

 ジャスミンがぽんと手を叩く。 

「そんでどうしたんだ?」 
「どうもこうもないさ。行きがかりで助けてしまったんだ、そのまま見捨てるのも寝覚めが悪いし、こいつは中々面白いやつだった。だからくっついていったらいつのまにか王女にさせられるわ王妃にさせられるわ……。おれがどれだけ苦労をさせられたか……」 

 ウォルがきまりが悪そうに頭を下げた。 

「いや、ほんとにすまん。お前には苦労ばかりかけとおしだったなぁ」 
「……別にいいさ。大半はおれが好きでやったことだ。だいたい、お前が王座にふんぞり返っていられるようなやつだったら、おれは後腐れ無くあの城からおさらばできた。結局、お前が好きだったからおれはあの城に留まっていたんだ。自業自得ってやつさ」 

 あっけらかんとこういうことを言う。 
 ケリーとジャスミンは大いに喜んだ。もう、指笛を今にも吹かんばかりの有様だ。それに対してメイフゥは、これは望み薄かと天を仰いだものだ。 
 だが、この会話を承伏しかねる者が、一人いた。 
  
「駄目だ!こいつは俺のだからな!」 

 ウォルの手をぐいと引き、そのほっそりした体を後ろから抱き寄せたのはインユェであった。 
  
「リィ!ウォルは俺と結婚するんだ!だって、俺は月でこいつは太陽なんだ!それが一番しっくりくるじゃねぇか!」 

 インユェの声は不自然に調子が乱れていて、そして瞳は霞がかったようにとろけている。 つまり、思い切り酔っ払っているのだ。 

「おい、どうしてこんなに酔っ払っているんだ?精々ワインくらいだろう、ここに並んでいるのは?」

 ジャスミンが不思議そうに言うと、

「……ごめん、お姉様。ちょっとあたしが悪のりし過ぎた……」

 珍しいことに、普段は明朗快活なメイフゥが、申し訳なさそうに小さくなっているではないか。
 だいたいの経緯を察したジャスミンが溜息を吐き、

「……いったい何を飲ませた?」
「……見よう見まねで作って見たんだけど、凄く美味しかったんだ。だから冗談で飲ませてみた。それを、まさか本当にグラス一杯も空けるとは思って無くてさ……」
「だから、何を飲ませたんだ?怒らないから正直に言ってみろ」
「……トリオンファン」
「トリオンファンだと!?」

 『撃墜王』の異名を持つ凶悪なカクテルの名前を、まさかこのようなところで耳にするとは思っていなかったジャスミンは、流石に唖然とした。

「……色々と言いたいことがあるのだが、あれを未成年に勧めようとはわたしでも思わないぞ」
「だって凄く美味しかったんだもん!だからインユェにも飲ませてあげようって思って!それにインユェもあたしの双子の弟だから、きっと酒は強いはずだと思ったんだ!」

 狼狽したメイフゥが、目に薄く涙を浮かべながらそう言った。
 そも、どうしてパイロットの飲み比べ用のカクテルの作り方をこのような少女が知っているのか、ジャスミンは大きな疑問だったのだが、今更それを言っても始まらない。

「……まぁ、大の男がカクテルグラス一杯で意識を飛ばすような酒だ。ああして元気に酔っ払えているあたり、インユェも酒飲みの資質はあるのだろうが……」

 こうなってしまっては、なるようにしかならない。少なくとも、酔っ払いを一息で素面に戻す魔法を、ジャスミンもメイフゥも使えない。もしかしたらリィやルウの能力ならばそれも可能なのかも知れないが、そんな馬鹿馬鹿しいことを彼らに頼み込むのは流石に憚られる。
 ジャスミンがうんざりとした視線を向ける中、なおも一人の少女を巡って、二人の少年が火花を散らしている。もっとも、敵意を盛大に燃やしているのは片方の少年だけなのだが。
 期せずして恋のさや当ての当事者となってしまったウォルが、自分を背後から抱きかかえたインユェに対して口を開きかけた時、

「おい、インユェ。一応、これはおれの婚約者なんだ。横取りはなしだぞ」 

 今度はリィがウォルの手を引っ張り、そのすんなりした体をすっぽりと胸に納めた。 
 またしてもウォルは何かを言いたげだったのだが、 
  
「いーや違うね!だって、こいつは確かに言ったんだ!お前との婚約は破棄するってな!」 

 再び、インユェがウォルの手をぐいと引き、その柔らかな体を抱き締め、二度と渡してたまるかとばかりに後ろに隠す。 
  
「だから、俺とお前の条件は一緒だぜ!そんで、こいつのご主人様は俺なんだ!だから、こいつは俺と結婚するの!」 
「おい、今、インユェが言ったことは本当か、ウォル?」 

 リィが不思議そうに訊いた。もちろん、真偽を尋ねたのは『婚約を破棄した』の部分である。 
 まるでテーブルテニスのボールのように行ったり来たりで目を回していたウォルだったが、しばし瞑目してからはたと手を打った。 

「おお、そういえばそんなことも言ったな」 
「言ったのか?」 
「ほら見ろ!」 

 意外そうなリィと、勝ち誇ったインユェである。 
 そして聴衆はといえば、心底楽しそうにこの愉快な愛憎劇の行く末を見守っている。 

「いったいどういうことなんだ?そんな話、おれは初めて聞いたぞ」 
「すまんすまん、すっかり忘れていた」 

 ウォルがインユェに抱きつかれたまま、弱り切った調子で話す。 

「あれは二週間も前の話、いったん敵城から脱出し、森の中に逃げ込み、しかしもう一度敵に囲まれてもはやこれまでとなった時だったな」 

 それは、聞き手であるケリーとジャスミン、そしてマルゴにも覚えがある。敵味方と立場の違いはあったにせよ、あの城での激闘は昨日のことのようにまざまざと思い出せるのだ。 
 結果は、ケリーやジャスミン、そしてウォル達の敗北であった。ケリーとジャスミンは敵の捕虜となり、ウォルは儀式の生け贄として牢屋に囲われた。マルゴは父を庇って重傷を負い、メイフゥは心臓を銃弾で貫かれて一時的な戦線離脱を余儀なくされたのである。 

「もちろん、俺は全てを諦めたわけではなかったが、しかし生きてお前と再会するのはどうにも無理に思えたからなぁ。リィよ、お前はこういう約束はきっちり破棄しておかないと、一生俺のために独身を貫きかねん奴だ。俺のわがままでお前の人生を縛りつけるのは絶対に不味いと思った。だからインユェに婚約の破棄を伝えてくれるようお願いしたのだ」 
「へへーん、どうだ思い知ったかリィ!だから、お前はウォルの婚約者でも何でもないんだぜ!」 

 胸を反らしたインユェであったが、彼の姉も含めた全ての聴衆は、インユェに生暖かい視線を送っていた。 
 確かに、ウォルの置かれた状況は緊急事態であった。そして、ウォルの懸念はよく分かる。リィには、他人との約束を愚かしいほど一途に守る一面があるのだ。だから、婚約を破棄しないままウォルがこの世の人でなくなれば、それを理由に生涯独身を貫いても不思議ではない。 
 だが、それはあくまで緊急事態にのみ適応されるべき契約破棄だ。危難が去った今となっては、その契約破棄こそが無効になっているのだと、例え子供が聞いても分かるはずである。 
 しかし、酔っ払いにはその程度の理屈も通じないのだ。大事なのは、リィとウォルの婚約が破棄されたという一事なのである。 

「おい、インユェ、てめぇの理屈は流石に……」 

 本来味方であるはずの姉が、酔いに目を据わらせた弟を諫めようとした、その時である。 誰よりもインユェの言葉に意義を唱えるべきリィが、 

「うーん、そういうことなら仕方ないな。他ならぬウォルが婚約を破棄したいって言ったなら、おれがそれを拒否する理由もないんだし」 

 深く納得して頷いてしまった。 
 これには、アルコールに理性の大半を奪われているインユェも呆気にとられた。無論他の人間も呆れ顔を浮かべ、それでいいのかよと内心に突っ込んだ。 
 だが、インユェの腕の中からよいしょと抜け出たウォルが、只一人神妙な顔つきで、リィに向けて頭を下げる。 
  
「すまんな、リィ。俺から婚約を申し込んでおいて自分勝手なことだが、そういう理屈なのだ。許して欲しい」 
「気にすることはないさ、事情は人それぞれだ。でもウォル、本当におれとの婚約は解消したいのか?」 
「いや、そんなことはない。あれはあくまで緊急事態だったからで、今もお前と結婚するのだという決意に揺らぎはないぞ」 
「なるほど、じゃあ前の婚約は破棄で、今ここで新しい婚約をすれば問題は何も無いわけだ」 

 リィはそう言ってウォルを引き寄せ、腕の中に抱き締めてからその唇に顔を寄せ、自分の唇を重ねた。 
 熱烈でこそないが、それははっきりと口づけであった。 
 インユェが抗議の言葉を挟む隙もない早業であった。 

「はい、これで契約完了だな」 

 にこりともせずに言った。 
 いきなり唇を奪われたウォルは、胡散臭そうに眉根を寄せ、 

「……おい、リィ。別に、婚約に接吻は必要ではないと思うのだが」 
「そうなのか?でも、あの時もしたじゃないか」 
「それはそうだが……まさか、こんなところでいきなりする必要もないだろうに」 
「それじゃあ、この後ベッドの中でしたほうがいいのか?おれは別に構わないけど」 
「……いや、いい。お前は間違えていない、たぶん」 

 ウォルががっくりと肩を落とした。 
 一同は、二人のやりとりを呆然と眺めていた。半分は焚き付け役であったケリーとジャスミンですら、目の前の出来事に咄嗟の反応を返すことが出来なかった。冷やかしに怒ったり顔を赤らめたりすることは十分に予想していたが、まさか目の前で再婚約と、その証としての口づけが交わされるとは……。 
 静まりかえった食堂を不思議に思ったのか、シェラが厨房の方からひょっこりと顔を出す。 

「どうかしましたか、皆さん?」 

 そして目にしたのは、目を丸くした一同と、リィに抱きしめられながら肩を落としたウォルの姿である。 
 シェラは、一度頷き、ああ、またかと爽やかな笑顔を浮かべた。 

「どうぞごゆっくり……」 

 シェラが再び厨房に引っ込むと、あらかたの予想通り、目の前で繰り広げられた光景に逆鱗を逆なでされたインユェが、大いに吠えた。 

「て、てめぇ、リィ!人の女に何してやがんだぁ!」 

 完全に涙目のインユェに、リィはあくまで平然と、 

「だから、これでこいつはおれの婚約者に戻ったんだ。何の問題もないだろう?」 

 これが、例えば雄としての優越感とともに言われた言葉であるならばまだ理解の範疇なのだが、リィの言葉には少しもそういうところはなく、淡々と事実を語っているのである。 それがまた、インユェのプライドを傷つけ、嫉妬の炎に風を送った。 

「よし、分かった!リィ、お前、こないだ言ったよな!おれと喧嘩したいならもっと強くなれってよ!なら、俺は強くなったぜ!だから、今からウォルを賭けて、男と男の決闘だぁ!」 

 この言葉にリィはにやりとした。 

「よし、いいぜ。お前の、そういう分かりやすいところは結構好きだぞインユェ」 

 インユェもにやりと笑った。リィは、きっとまだ知らないのだ。自分の本当の姿を。 
 あの晩、インユェは理解した。自分がどういう生き物か。ウォルの瞳に映った自分の姿は、銀毛紫眼の狼であった。それも、恐ろしく巨大な。 
 あの姿の自分なら、勝てる。間違いなく。そしてウォルを自分のものにするのだ。インユェはほくそ笑んだ。 

「俺の本当の姿を見て、小便漏らすなよリィ!」 
  
 テーブルから離れ、手を地面に突き、四足獣の姿勢になる。 
 背の毛が、ちりちりとざわめく。あの姿に戻るための手順は、理屈ではなく体が覚えている。単純な話だ。全てを解放してやるだけでいい。 
  
「おい、インユェ、よせ!」 

 メイフゥが、大声で叫んだ。今のインユェは酔っ払いだ。あの様子で形態変化をしては、いったいどんな大暴れをしでかすか分かったものではない。 
 これは自分が止めるしかないか。紬の帯に手をかけたとき、その手を押さえた者がいた。 ジャスミンであった。 

「姐さん!」 
「お前らしくもないぞ、メイフゥ。あまり慌てるな」 
「だけど……!」 
「例えインユェがあの狼になっても、リィなら何とかするだろう。それに、たぶんそんなことにはならない」 
「どうして!?」 

 珍しく切羽詰まった表情のメイフゥに、ジャスミンは片目を瞑った。 

「これでも、お前よりもたくさんの修羅場を潜っているとは思うんだが、その勘が言っているのさ。大丈夫だから見ていろ、とな」 

 メイフゥは不服そうだったが、いざとなったときは自分が止めるという覚悟とともに、弟の方に視線を戻し、愕然とした。 
 そこに、巨大な狼の姿はなかった。そして、インユェの姿もなかった。 
 ただ、乱雑に脱ぎ捨てられたように、インユェの着ていた麻の服が散らかっているのである。 

「……あれ?」 

 内側から張り裂けてぼろ布になった服があるなら、形態変化は成功したということだろう。逆に失敗したなら、そこにインユェがいないとおかしい。 
 これはどういうことだろうか。流石のメイフゥも首を傾げた、その時。 
 インユェが着ていた服の下で、何かがもぞもぞと動くのだ。 
  
「……」 

 表情を消したリィが服を持ち上げると、その中から、どう見ても生後一月にも満たない、赤ん坊のような狼が一匹、ころりと落っこちた。 
 狼というよりも、狼を模したぬいぐるみのようなその生き物は、周囲を見回して不思議そうに目を丸くし、そしてようやく目の前のリィを見つけて、驚いたようにきゃんきゃん吠えた。その吠え声を人の言葉に翻訳するなら、『どうしてお前がそんなに大きくなっていやがんだ!』になるかも知れない。 
 どうやら本当の姿に戻ったらしいインユェを見て、こみ上げてくる笑いを必死に堪えながらリィは言った。 
  
「なるほど、それがお前の本当の姿なのか。ずいぶんと可愛らしいな、インユェ」 

 それがきっかけだった。先ほどまで緊張していたのが馬鹿らしくなるようなその光景に、ジャスミンもケリーもマルゴもルウも、そしてインユェの姉であるメイフゥですらもが大いに笑った。 
 腹を抱えて笑った。 
 笑いすぎて言葉にならないほど笑った。 
 子狼はそれが気に入らなかったのか、目の前のリィの足に必死に噛みついたのだが、まだ顎の発達していない子狼である。牙もまだ未成熟。当然、痛いはずがない。リィはしゃがみ込み、指で子狼の頭を突っつきながら微笑んでいた。 
 どう見ても、惚れた女を賭けて決闘しているふうには見えない。少年と子狼がじゃれ合っている、まことに心和む光景なのだ。 
 それがまたおかしくて、全員が笑った。 
  
「まぁ、そこらへんにしておけ、インユェ」 

 必死で唸りながらリィの足を噛み続けていたインユェを、後ろから持ち上げたのはウォルだった。 
 くぅん、と、しょんぼりとしてしまった子狼を目の高さまで持ち上げ、満面の笑みで語りかける。 

「しょげた顔をするな。お前の本当の姿の勇ましいことは、俺が誰よりも知っている。それに、今のお前の愛らしい姿も俺は好きだぞ。遠い昔、故郷の森で生まれたての子狼と戯れたときのことを思い出す」 

 そういって、子狼の柔らかい毛皮を撫でた。 
 成熟した巨浪のときは最高級の天鵞絨のように滑らかだった毛並みは、ふんわりとした綿毛のような撫で心地に変わっているが、それがまた心地よく、ウォルは思わず腕の中の子狼に頬ずりをした。 

「うむ、これはたまらん。インユェ、悪いがもう少し、その姿でいてくれんか?実は、動物の赤子の幼気な姿には目が無くてな」 

 ウォルはインユェをすっぽりと胸に抱いて、その背をわしゃわしゃと撫でた。 
 子狼は、うぉんと一度、嬉しげに鳴いた。『仕方ねぇな!お前がそこまで言うなら撫でさせてやるから感謝しろ!』とでも言ったのかも知れない。ただ、インユェのふさふさした尻尾は、とても嬉しそうに揺れていた。 
 なんとも可愛らしくなってしまった弟を見て、ようやく笑いを収めたメイフゥが溜息をついた。 

「あー、やっと形態変化を覚えたと思ったら、今度はあの有様か。いつまでたっても手が焼ける弟だぜ」 

 それでも嬉しそうなメイフゥを、ジャスミンが優しく見遣る。 

「確か、月というやつは、闇と太陽がどちらも力を発揮できない時でないと、本当の力を発揮できないらしいぞ。あのときは、ウォルが深い傷を負っていた。闇についてはよく分からんが、つまりはそういうことだろう」 
「なるほどねぇ。ま、確かにまだまだ半人前の未熟者だから、形態変化してもあれくらいの姿がしっくりくるのかねぇ。それにしても手がかかる……っと、そういえば……」 

 ふと、難しい顔で黙り込んだメイフゥに、ジャスミンは怪訝な視線を向けた。 

「どうした?」 
「いや、大したことじゃない……と思うんだけど。ねぇ、姐さん。あの祭壇で、口髭を蓄えた、見た目六十歳くらいの体格の良い爺さんを見なかったかい?ヤームルって名前なんだけど……」 
「ヤームル?ちなみにその方は……」 
「あたしやインユェの後見人さ。何かと世話になってる」 

 ということは、ヴェロニカ教徒ではないということだ。 
 ジャスミンは記憶を探ったが、残念ながらそんな人間は会場にはいた覚えがない。 
  
「いや、見覚えはないな」 
「そっか。兄さんはどうだい?」 

 ケリーも首を横に振った。 

「俺も、そんな爺さんを会場で見た覚えはない。だが……」 
「だが?」 
「俺があの城の地下牢に放り込まれたとき、俺を裏切り者と罵った男がいた。その時は義眼も外されていたから、その男がいったいどういう姿形だったのかは分からねぇが、もしかするとそいつがヤームルって男じゃないのかという気がする」 
「ああ、たぶんそいつだ。あの時は、ウォルと一緒にヤームルも攫われていたからな。あんたと一緒の牢屋にいたんだとしても無理はない」 

 メイフゥは一人頷いた。 
 そんなメイフゥに、ジャスミンが不思議そうに言った。 

「その御仁、城に囚われていたのならば、今もそこにおられるのではないか?それが、どうしてあの場にいたという話になる?」 

 メイフゥはにやりと笑った。 

「簡単な話だ。ヤームルは、あたしらと一緒さ。人間用に作った鎖なんざ、糞の役にも立ちゃしねぇよ」 

 つまり、人の形の他に、別の姿を持っているということか。 
 この少女は翼を持った虎、その弟は巨大な銀狼。ではその後見人はいったいどんな猛獣に変化するというのだろう。 

「ヤームルが城を脱出したのは間違いないんだ。あの後、何度か連絡を取り合ったりしたしね。だけど、てっきりあの祭壇に来ているもんだと思ったのにどこにも姿が無いし……。どこに行っちまったのかな……」 

 さっぱりとした性分のメイフゥには珍しく、気遣わしげな表情であった。 
 その時、ジャスミンははたと思い出した。 

「そういえばメイフゥ。きみは少し前、ヴェロニカシティにほど近い酒場の劇場でショーをしていたことがなかったか?」 
「うん?ああ、ブルットおじさんの店のことかい?ああ、そうだよ、ウォルと一緒にあの店で働いてた。だいたいはバニーガールの姿で男連中の酌をしていたけど、確かにショーの真似事もしていたな。それがどうしたい?」 
「そうか、ならば是が非にでも聞きたいことがある。いいか?」 

 ジャスミンが意外なくらい真剣な顔をしているので、メイフゥは怪訝な顔色を浮かべた。 まさか、今更、未成年がああいういかがわしい店で働くのは駄目だとか、手垢じみた説教をするとは思えない。だが、それ以外にどんな話があるというのか。 
 訝しむメイフゥに、ジャスミンはやはり真剣な口調で、 

「あのショーで、ピエロの役を演じていたのがヤームル氏か」 
「ああ、よく分かったね。そのとおりだよ」 
「そしてきみは、ヤームル氏の舞台の手伝いをしていたな」 

 メイフゥが頷く。 

「その演目の一つに、女性が檻の中で虎と入れ替わるマジックがあったと思うのだが……」 
「ああ、そのこと!」 

 メイフゥはようやく合点がいったのか、手を合わせて破顔した。 
 その隣で、ケリーがくすくすと笑っている。 
 あのとき、ジャスミンは、虎と女性が入れ替わったのは床下にトリックのあるマジックではないかと予測した。だが、ケリーはそんな安っぽいトリックではないと断言した。そして、これほど見事なマジックを見たことはないと。 
  
「あれは、マジックなんてたいそうなものじゃないのさ。だって、本当に種も仕掛けもありゃしない。あたしが、檻の中で形態変化をして、翼をしまった虎の姿になっただけなんだからね。それだけで観客が大受けして、おひねりを投げてくれるんだ。こんな安い仕事も他にねぇぜ」 

 にひひ、と、猫のようにメイフゥは笑った。 
 ケリーも、ついに堪えられなくなったのか、人の悪い笑みをこぼす。 

「いや、あのときはぶったまげたぜ。ほんの悪戯心で右目のスパイアイを作動させてみれば、覆いの被された檻の中で、べっぴんさんがあっという間に虎に変わっちまったんだからな。本当、瞬きする間もない早業だった。むしろそういう瞬間入替のトリックなのかとも疑ったが、それなら覆いを被せる意味が無い。これはもう、伝説にある狼男とかヴァンパイアとか、そういう類の人間が本当にいたんだと思うしかない。だからあんたに言っただろう、俺はあんなに見事なマジック、つまり魔法を見るのは初めてだってな」 

 得意げにそう言い、グラスになみなみと注がれたワインを一息で空にした。 
 そんなケリーに、ジャスミンは思い切り冷ややかな視線を寄越した。 

「ほぉお、つまり海賊、お前は自慢の義眼を使って、メイフゥの着替えを覗いていたと、そういうわけだな?」 
「ぶっ!」 

 予想外の方向からの奇襲を受けて、ケリーは口に含んでいたワインを思い切り吹き出した。 
 夫の醜態に、妻は情け容赦ない追撃をかける。 
  
「海賊。わたしはあのホテルで貴様に言ったよな。『わたしは、わたしの夫に覗き魔のように不名誉な疑いをかけられて、黙っている自信がない』と。しかし、まさか本当にその手の犯罪を犯すとは、至極残念だ」 
「なぁんだ、兄さん、あんた、あたしの裸に興味があったのかい?水臭い、言ってくれればそれくらいいくらでも見せてやるのに。あんたの子供なら、いつだって産んでやるぜ?むしろこっちからお相手を願いたいくらいさ」 

 メイフゥが人の悪そうな笑みを浮かべてジャスミンに援軍を出す。 
 げほげほと咳き込んでいるケリーには、弁解の機会すら与えられない。 
 そんなケリーの様子に、ジャスミンは冷たい形相で一つ頷き、 

「なるほど、言い訳をするつもりはないということか。いいだろう、その潔さに免じて、少しは手加減をしてやる」 

 ジャスミンはケリーの襟首を掴み、ずるずると奥の部屋へと引きずっていった。 

「姐さん、不能にはしないでおくれよ!兄さんの種は、十年後の予約済みなんだからね!」 

 メイフゥは笑いながら二人を見送った。 
 三人の会話を聞いていなかったウォルが、不思議そうに怪獣夫婦の後ろ姿を見送る。 

「ん?ケリーどのとジャスミンどのは如何されたのだ?」 
「さぁねぇ?腹もくちくなって、夫婦の営みでもしにいったんじゃねぇの?」 

 機嫌の良さそうなメイフゥに、ウォルは首を傾げた。益体のない会話をしている間も、ウォルの胸にすっぽりと収められたインユェは、なんともだらしない表情でにやけているのだ。 
 メイフゥが、子狼の頭を、ごちんと一つ小突いた。 
 一方ジャスミンは、人気の無い物置のような部屋にケリーを放り込み、ばたんとドアを閉めた。 
 ジャスミンは、仁王立ちにケリーを見下ろした。それは、浮気のばれた夫を折檻する鬼嫁といった風情だったが、折檻されるべき夫はちっとも怯えることなく、むしろ不敵に笑いながらジャスミンを見上げている。 

「おい、女王。そろそろいいだろう?」 
「ああ、まぁ件のトリックを話さなかったお前には少し腹も立つが、この程度で収めてやる」 
「おいおい、あれはあんたが話すなって言ったんだぜ?ばらしたら離婚だなんて言われたら、黙っておくしかねぇじゃねぇか」 
「それも時と場合だ馬鹿者。メイフゥがああいう存在だと分かれば、自ずと作戦の立て方も違ってくる。負け惜しみではないが、もし知っているばあるいはお前とウォルの救出作戦は成功していたかも知れないのに……まぁしかし、どちらが悪いかと言えば、ばらすなと言ったわたしが悪い気もするな」 

 ケリーはくつくつと笑った。 

「我が妻の寛容に感謝するぜ。で、こんな場所に俺を連れ込んで、要件は何だい?」 
「あの姉弟の前で、こういう話をするのが憚られた。要件は、彼女たちの父親のことだ」 
「奇遇だな。俺も、そのことであんたに確認をしたいことがあった」 

 ケリーは億劫そうに立ち上がり、尻のあたりを軽く叩いた。 

「ヤームルって爺さん。あの牢屋の中でシェンブラックの名前を出した俺に、烈火の如く激昂したんだ。そんで、俺を裏切り者って呼んだ」 

 ジャスミンは頷いた。 

「さて、お前のどんな行為をもって大海賊シェンブラックに対する背信とするのかは置いておいて、そのヤームルという老人がシェンブラック老に縁の深い人間であることは想像に難くないな」 
「それも、一味の末端とかそういうレベルじゃないと思うぜ、シェンブラックを親父って呼ぶのはな。幹部か、もしくはそれに類するくらいの立場で、相当の恩義のある人間ってのが妥当な線だろう」 
「そんな人間が、あの姉弟の父親を御館様、海賊王と呼んで敬っているらしい。つまり、彼らの父親も、シェンブラック海賊団の極々中枢にいた人間という可能性が高いな」 
「ああ。それにしても、海賊王、ねぇ。ヤームルって男が、中央銀河の有名人様だった海賊王のことをまるっきり知らなかったって可能性もあるにはあるが……。ま、普通に考えればあり得る話じゃねぇな」 

 他ならぬ海賊王本人であるケリーの言葉に、ジャスミンも同意する。

「あの時代に生きた海賊が、海賊王という呼称の意味するところを知らないとは到底思えない。ならば、少なからずお前への当てつけが含まれていると考えるべきだ。そして、一匹狼のケリー・キングなどよりも、彼らの父親の方が王と呼ばれるに相応しいのだという確信のようなものがあるのだろう。それだけの男が、やはり単なる木っ端海賊とは考えにくい……」 

 ケリーはジャスミンの意見を是とした。その上で別の話を切り出した。 

「女王。あんた、この船をどう思う?」 
「《スタープラチナ》号のことか?」 

 ケリーは首肯した。 
 ジャスミンは、正直な感想を答えた。 

「不思議な船だと思う」 

 彼女らしい端的な意見だった。 
 ケリーは苦笑した。 

「何とも簡潔な答えだが、俺も同意見だ。この船、外用型探査宇宙船って名目だが、それにしちゃ造りがあまりに頑強すぎるし、足も速い」 
「それだけではないぞ。わたしはそれなりに宇宙船には造形の深いほうだと思っているのだが、市販のどの船にもこれと同じ型は見覚えがない。おそらく、完全なオリジナル設計だ」 
「これで砲台の一つも積めば、あっという間に立派な海賊船の出来上がりだぜ。それも、連邦警察に正面から喧嘩を売れるような、厄介な海賊船のな」 
「資源探索者の船には相応しくないな」 
「相応しい相応しくないってレベルじゃねぇぜ。だが大事なのは、この船の造りに、俺は見覚えがあるってことだ。女王、お前はどうだ?この船に似た造りの、もっとどでかい別の船に乗ったことはないか?」 

 ジャスミンは、確信をもって頷いた。 

「まったく、今の今まで気がつかなかった自分に腹が立つ。しかも、この船の名前ときたら《スタープラチナ》だぞ。あからさまじゃないか。それに加えてインユェの名前。確か、銀色の月と書くんじゃなかったか?」 
「あんたと俺の共通の知人で、宇宙生活者の匂いのする人間。そして、シェンブラック爺さんと縁のある人間。もう、該当する男は宇宙広しといえど一人しかいねぇじゃねぇか。ったく、ひでえ冗談だ」 
「問題は、その事実を彼らに伝えるのか、それとも秘密にするのかだが……」 

 彼らの父親が、行き先も自身の正体も告げずに姉弟の前から姿を消した意図を汲むなら、無論秘密にするべきなのだろう。それに、そもそもケリーもジャスミンも、二人の父親と思われる人物が生きているのかどうかすら知らないのだ。おそらく、クーア財団の調査力をもってしてもその生死を調べるのは困難を極めるに違いない。ならば事実を伝えたところで、今更どうなるものでもないという考え方も出来る。 
 だが、あの姉弟が自分たちの父親を捜しているのは間違いない。そして、その努力が実る可能性は著しく低い。それなら、無駄な努力を早々に諦めさせるためにも事実を事実として伝えてやるのも選択肢の一つではある。もしも父親とおぼしき人物が既に故人ならばなおさらに。 
 メイフゥもインユェも、自分たちの出生についての真実を受け止められるくらいには成長している。ならば、それを伝える義務が、自分にはあるのではないか。ケリーは、あの時代に生きた海賊の一人として、その子供達への責任のようなものを感じていた。 

「一番楽なのは無視を決め込むことなんだがなぁ」 

 珍しく弱り切った表情でケリーが呟いた。 
 ジャスミンもそれに倣い、彼女らしからぬ渋面で前髪を掻き上げた。 

「それは薄情というものだろう。袖振り合うも多生の縁というが、袖振り合った程度ならともかく、彼らには何度も命を助けられている。無論その逆もあるが、どちらにせよもう他人と呼べる間柄ではないはずだ」 
「だけど、事実を教えたからってどうなるもんでもないしなぁ」 

 二人が頭を抱えていたその時、ケリーの携帯端末の呼び出し音がなった。 
 確かめるまでもない。相手は、ケリーの相棒であり愛船でもある、ダイアナだった。 
 通信機のスイッチを入れる前に、義眼越しにダイアナの姿が映し出された。彼女の美貌はいつも通りだったが、その表情がいつもとは違う。真剣な顔、そして険しい瞳に色。それらは、何か、のっぴきならない事態が差し迫っていることをケリーに教えた。 

「どうしたダイアン」 
『ケリー!あなた、まだ惑星ヴェロニカにいるの!?』 
「ああ、そのとおりだが?」 
『なら、今すぐ送迎艇の手配をするから、到着次第そこを出立して!その星は危険よ!遅くとも一週間以内に、惑星ヴェロニカに住む全ての人間が死滅するわ!』 

 何かの冗談かと聞き返そうとしたケリーだったが、あまりに必死なダイアナの声に、その言葉を飲み込んだ。 
 二人の通信を聞いたジャスミンが、間に割り込む。 

「どういうことだ、ダイアナ!もう少し詳しく説明しろ!」 

 時を同じくして、食堂で待機していたリィの通信端末にも、遠く離れた星からの通信が入っていた。 

「あれ、珍しいな、アーサーだ」 

 自らの遺伝上の父親の名前を口にして、リィは端末の通話スイッチを入れた。 
  
「もしもし、どうしたんだ、いきなり」 
『エドワードか!?よかった、無事なんだな!今どこにいる!?』 

 かなり性急な口調で、しかも高圧的な言葉遣いである。それが普段のアーサーのものではないことにリィは気がついた。 

「どうしたアーサー、いったい何があった?」 
『いいから答えてくれ!今、どこにいるんだ!?』 
「おれは今、ウォルを迎えに惑星ヴェロニカに滞在している。それがどうかしたのか?」 

 通信機の向こう側で、アーサーが息を飲む気配が伝わってきた。 
 何か、決して吉事ではない何かが起こっているのは間違いなかった。 
 それでもリィは冷静な口調で、 

「おれはお前の質問に答えたんだ。今度はお前の番だぞ。いったい何が起こっていて、どうしておれが今いる場所が重要なんだ。答えろアーサー」 

 数瞬の間があって、絞り出すような声が端末の向こうから聞こえた。 

『……先ほど、共和連邦の首脳部から極秘の通信があった。もちろん、内容はお前に関することだ。通信文をそのまま伝えるぞ。……『エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインの婚約者の件はまことに遺憾であり、共和政府としても慚愧に耐えない事件である。だがその責任は全てヴェロニカ政府に帰することは明らかであり、その襟を正す責務は共和連邦政府に帰属する。どうか以前のような振る舞いを慎んで頂き、全ての後始末は我々に任せて心静かにその結果を待たれたい』……』 
「……どういう意味だ、それは?」 

 アーサーの叫び声が、静寂に包まれた食堂にこだました。 

『つまり共和連邦政府は、ヴェロニカ政府と惑星ヴェロニカに居住する全ての人間に対して、無差別のジェノサイドを決定したんだ!頼むから早く逃げてくれエドワード!でないと、私はウォルに続いてお前までも失うことになってしまう!そんな恐ろしいこと、私には耐えられない!』 



[6349] 幕間:その男
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/09 00:11
 その日、連邦政府議事堂に招集されたメンバーの表情は、沈痛を通り越して、弔辞や葬式にこそ相応しいほど陰惨なものであった。 
 彼らは、共和宇宙連邦政府の最高意志決定権を有するメンバーである。当然、精神的にも身体的にも精力溢れる人間ばかりのはずだが、今日集まった面々の顔は、病人と見紛わんばかりに青ざめていた。 
 そんな彼らの前で、事件の経緯が淡々と説明されていく。誰も口を挟まない。 
 ただ、説明の最後に、件の少年の婚約者が怪しげな宗教的儀式の生け贄に捧げられ既にこの世の人ではなくなってしまったというくだりに差し掛かったとき、メンバーの幾人かは脂汗を流しながら胃痛薬を飲み下し、残るほとんどの人間は、意識無意識を問わず、自らの信じる神の名を心の中で唱えた。 
  
「……さて、事件の経過は以上だ。言うまでもないことだが、この事件が嵐だとすれば、この嵐はおそらく前回のそれ以上に巨大で猛烈で情け容赦ない牙を全共和宇宙規模で巻き起こすだろう。その対応策について、諸君らと実りある協議を行いたい。さぁ、忌憚のない意見を述べてくれたまえ」 

 捨て鉢な笑みを浮かべながらそう切り出したのは、共和宇宙の最高権力者である連邦主席マヌエル・シルベスタン三世である。普段は綺麗にセットしている髪の毛も、今日は幾分乱れている。それは、最近とみに増えてきた白髪と併せて、彼の容貌を疲労と諦観に満ちたそれに変えていた。 
 だが、疲労や諦観と戦っていたのは彼だけではない。この場に招集された、正しく共和連邦の政治的行政的トップエリート達も、この共和宇宙的な危難を、如何に少ない犠牲で乗り切るかにその全勢力を傾けていた。 
 その中でも、特に皮肉屋として知られる人物が、蝋燭のように色を失った顔に歪な冷笑を貼り付けて、誰に言うでもなく言った。 

「知っての通り、前回は約束を反故にしたというだけで、惑星セントラルが吹き飛ばされかけ、危うく十億を超える民衆が犠牲になるところだったわけだが……。諸君らに問おう。この中で、果たして今回の嵐の犠牲者が『その程度の規模』で収まってくれるだろうという希望的な観測を抱いている者はいるかね?」 

 誰も反応しない。それは、この質問に答えるべき価値を見出さなかったからではない。あらためて事実を口にするのが、あまりに恐ろしかったからだ。 
 つまり、答えは『否』であった。 
 主席は力ない笑みを浮かべた。 

「とある地方に、『仏の顔も三度まで』という格言があるそうだ。どれほど忍耐強く寛容な人物でも、失態が四度も続けば怒り狂うという意味らしいが……。まず、あの少年に対する人体実験。次に、その不始末と約束の反故。三度目が、今回と同じ少女への人体実験と傷害があった。さて、これで四度目の、それも極めつけの不手際だ。あの少年は、果たして我らを許してくれるのだろうかね?」 

 投げやりな響きを持ったこの台詞は、主席の予想に違わず、絶望的な沈黙をもって迎えられた。 
 それでも、いつまでも石像のように沈黙していたのではここに集った意味がない。一同の中でも一際矮躯の男が、おそるおそる手を挙げ言った。 

「あの少年が我らに対してどのような対応をするのかは一先ず置いて、我らがまず考えるべきは、惑星セントラルの住人に対する可及的速やかな避難指示ではないでしょうか。前回、彼らがこの星を報復の標的に選んだのは、この星が共和連邦の政治経済のシンボルであり、機能的な中枢であるからに違いありません。ならば、今回も惑星セントラルが標的とされる蓋然性は相当に高い。報復そのものを防ぐ手立てが無いにせよ、人的被害を最小限に食い止めるためには、住人の避難を急ぐべきです」 

 その意見に三世は頷いた。 

「確かに君の意見には一理ある。避難計画の立案、そして避難手段の確保を早急に検討させよう。しかし、問題は時間的な余裕と、避難場所の確保だな。もしも彼らの復讐心が星そのものではなくそこに住む人民に向けられた場合、下手をすれば被害の拡散を招きかねない」 

 会議の面々は深刻な顔色で頷いた。そこまでするかという思いがある一方、彼らならそこまでしてもおかしくないという警戒心もある。 

「主席の仰るとおり、避難場所の確保には最大限の配慮が為されてしかるべきでしょう。これは提案ですが、例えば連邦大学などは如何でしょうか。ルーファス・ラヴィーもエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインも、連邦大学に通う学生です。であれば、あの星には彼らの知己が数多くいるはず。彼らもそうそう無茶は出来ないのではないでしょうか?」 

 なるほど、と幾人かが頷く。 

「しかしその場合、避難民の居住スペースと、食料を含む生活用品の補給がネックになりますぞ。あの星は、一つの星全体を研究と学問という単一の目的のために整備した特異な環境です。元から生産よりも消費が極端に多い歪な経済なのに、そこに十億を超える難民が押し寄せた場合、いったいどんな混乱がもたらされるか……」 
「これは非常事態なのです。星全体の授業を強制停止し、学舎を避難民の一時的キャンプとすれば住居の確保は不可能ではありません。日用品については共和宇宙群の総力を挙げて輸送に当たれば何とか賄えるでしょう。あとは現地の学生と避難民との感情的な衝突ですが……こればかりは連邦大学に通う学生達の高い教養と知性に期待する他ありませんな……」 
「つまり、学生達の学ぶ権利を、一時的にとはいえ、共和政府が強権的に停止するわけですな。グラッツェン学長の青筋の浮いたこめかみが目に浮かぶようです。私は学生時代、教授だったグラッツェン学長にさんざん絞られた口ですからな、今でもあの人の前に立つと足が竦みますよ……はは……」 

 果敢にも皮肉なジョークを口にした者がいたが、残念ながら、それとも幸運なことに、誰にも一顧だにされなかった。 
 ごほんと咳払いが議場に響き、別の者が口を開いた。 

「確かに、避難民に対する生活支援は重視されて然るべきですが、しかし本当の問題は、そういった避難等の危機回避手段が、彼らの目にどう映るのかということではないでしょうか。我らにすればそれは本当に必要最低限の自衛策ですが、万が一、彼らにとって卑劣な悪あがきと映った場合、熱された油に水をかけることにもなりかねません。他星系が彼らの標的とされる可能性も出てくるのでは?」 
「あなたの言いたいことは十分理解出来ます。しかし、それはあくまで可能性の問題ではありませんか。仮定の話を恐れて避難を躊躇すると仰る?では、惑星セントラルの住民は、座して死を待てと?それこそ共和宇宙連邦の精神、人民の平和の究極的な追求に反しますぞ」 
「無論、そんなことは考えておりません。しかし、避難と同時に、彼らに対して真摯な謝意を伝えるべく準備を進めるべきではないでしょうか。今回のことは、共和連邦政府にとってまったく寝耳に水、解釈によっては我らも被害者であるはずです。その点を理論立てて説明すれば、いくら頑迷な人間でも少しは耳を傾けてくれるのでは?」 

 その意見に、主席は首を横に振った。 

「いや、その理屈は、おそらく彼らには通用しない。問題は、ヴェロニカ共和国が共和宇宙連邦加盟国であることなのだ。彼らにとって、共和宇宙連邦は単一の組織であり、そして彼らは、組織の起こしたことについては組織全体が責任を取るべきだという考えをもっているふしがある。今までの三度の危機において、いずれも事態を与り知らない政府首脳が槍玉に挙げられた。ならば今回も同様の事態が起きる可能性が高い」 

 問題が起こったときにトップに責任を取らせるという姿勢は、ちっとも間違えていない。間違えていないのだが、責任を取らされる側の人間にしてみれば、勘弁してくれというのが本音だろう。しかも、トップの首の挿げ替え程度で話が収まるならともかく、彼らの掟とやらはその程度を自裁とは見なしてくれないのだ。 
 果たして、どのような無理難題が突きつけられるのか。 
 会議場に深い溜息が起こった。 

「……今更言っても詮無きことですが、そうして考えてみると、早々にヴェロニカ共和国の連邦除名の決議を進めておくべきでしたな。この事件が起きる前にあの星を切り捨てておけば、最大でもあの星一つの被害で収まったものを」 

 冷酷な意見であったが、内心で首肯する者が多かったのは事実である。 
 惑星ヴェロニカは居住用惑星といっても、所詮は数千万程度の住人を有するだけの、規模的には中の下といった星でしかない。例えば惑星セントラルのように大規模かつ政治経済の中枢機能を持つ星が吹き飛ばされることと比べれば、その被害は天と地ほども差があるのだ。 
 主席も重たい溜息を吐き出した。 

「あの星には以前から黒い噂が絶えなかった。身元のしっかりしない旅行者があの星を訪れると高い確率で行方不明になったり、在ヴェロニカ外国人の原因不明の死亡がきちんとした検死も行われないままに処理されたり……。実は共和連邦憲章に抵触する重大な人権侵害行為が行われていたのではないかという話も情報局から伝わっているのだが……」 

 主席がちらりと見たのは、大国エストリアの代表としてこの場に参加している、年若い外交官であった。 
 ヴェロニカ共和国の、ある種の治外法権が曲がりなりにも黙認されてきたのは、エストリアの横車があったからと言ってよいし、それは共和宇宙連邦の上層部では周知の事実であった。 
 加入国全ての平等をお題目に掲げる共和連邦政府であるから、一国の意向によって不法がまかり通るなどあってはならないことだが、加入国の規模によってその発言力の大小は歴然と存在するのだ。 
 ヴェロニカ共和国が今日まで国際的な非難を浴びながらも連邦加盟を維持できたのも、無論エルトリアの力があってこそである。もしもエルトリアがヴェロニカ共和国を支持しなければ、既にあの国は連邦とは無関係の国になっていたはずなのに。 
 三世は、内心で舌打ちをした。大国の専横と、それに追従する小国の傲慢。それを代々黙認してきた連邦首相も情けないが、かといって、共和連邦の精神を穢すような大国の振る舞いを到底許容する気にはなれない。 
 そも、この場は共和宇宙連邦政府の関係者だけに参加資格のある緊急会議なのだ。なのに、どうして加盟国の一つに過ぎないエルトリアの一外交官が、大きな顔で参加しているのか。 
 そんな、まるで針の筵のような非難の視線の中で、その年若い外交官が平然と挙手した。 

「主席。発言の許可を頂けますか?」 

 外交官は、陰りのない笑みとともに言った。爽やかな、春の日差しのような笑顔。その笑顔が、どうしてか心奥の不快感を刺激する。 
 それでも主席は内心を表情に出すことはなく、厳粛な面持ちで頷いた。 

「では失礼して……。まず、この場におられる皆様方に、本国からの深い遺憾の意をお伝えします。我がエストリアが、ヴェロニカ共和国政府の後ろ盾としてかの国を表から裏から支援していたのは皆様もご存じのところです。それが全ての原因ではないにせよ、ヴェロニカ共和国がかかる事態を引き起こしたことについて、我が国は相応の非難を免れ得ますまい。今日の事態はまったくもって我が国の意図せざるところですが、しかしその責任を、エストリアは深く感じている次第です」 

 ブラウンの髪を綺麗に撫でつけたこの少壮の男の言葉に、顔にこそ出さなかったものの、マヌエル・シルベスタン三世は驚いた。三世だけではない。この会議に出席している全ての人間が奇異の念を抱いた。 
 まさか、大国エストリアが、自らの過ちをこうも率直に認めるとは思わなかったのである。 
 外交とは、政治とは、詰まるところ狐と狸の騙しあい、熟練者のポーカーゲームのようなものだ。手札を隠し、内心を伏せ、選び抜いた言葉と偽りの表情を武器にして、最小限の出資で最大限の利得をもぎ取ることを至上とする世界である。 
 この少壮の男がいったいどんな任務を背負ってこの場にいるのか、それを推し量る術はさすがの連邦主席 にもありはしないが、この少壮の男が、年相応の未熟者と見くびってかかってもよい人間でないことは理解出来る。そのような人間にエストリアの外交官という重職が勤まるはずがない。飛び抜けて優秀なのは当たり前、それ以外の何かを有しているからこそ、この場に派遣されたはずである。 
 その油断ならない少壮の男が、いとも容易く本国の非を認めた。それも、外交官として、公式の場の発言で。 
 普通に考えればあり得べき話ではない。彼の任務は、本来エストリアに向けられるべき非難の矛を躱し、無関係の第三者に向けさせることではないのか。 
 当初の目的とは違った方向の緊張を孕んだ会議場で、少壮の男は暢気そうに続ける。 

「わたくし自身は伝聞でしか存じ上げませんが、例の要注意人物、ルーファス・ラヴィーとエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインの危険性については前任者より念入りに引き継ぎを受けているところであります。どうやらその前任者、相当に酷い目に遭わされたとみえ、心胆冷え切った有様でしたが……」 

 くすくすと少壮の男は笑った。 
 この場にいる幾人かが、屈辱に顔を赤らめて少壮の男を睨み付けた。何故なら、前任のエストリア外交官がルウに重度のトラウマを植え付けられた時、主席を含んだ幾人かもその外交官と同じ目に遭わされ、この世の地獄とも思える苦痛を味わったのだ。当然、その時の苦痛の記憶は拭い去りがたく、今もルウやリィに関する事案を処理するときの重たい足枷となっている。 
 少壮の男は、前任の外交官を揶揄すると同時に、この場にいる幾人かも同時に蔑んでみせたのである。それが意図的なのかそれともただの失言であったのか、軽薄な笑みを浮かべ続ける少壮の男の表情からは判別できなかった。 
  
「とにかく、如何なる手段によってか、彼らは我が共和宇宙の文明そのものを破壊出来るだけの力を有し、その制御は、彼らが彼ら自身に課した掟という、甚だあやふやなものにしか頼ることが出来ない。さらに、彼らが一度怒りに囚われれば、何人も彼らを宥める手段を有せず、その怒りが収まるまで、人民は怯え竦み神に祈りを捧げるしかないのだと聞きました。これはもう、天災と呼ぶより他ありません。しかも、極めて独善的で恣意的な天災です。本来であれば、まずはその原因を除き取り去ることを考えるべきなのでしょうが……」 

 少壮の男はそこで言葉を句切り、ぐるりと議場を見渡した。 
 そこにあったのは、少壮の男に対する賛同の意志ではない。むしろ、少壮の男の言葉に対する譴責と恐怖の念が色濃く込められていた。つまり、祟り神を揺り起こすような真似はやめてくれ、である。 
 少壮の男は、天井を見上げて小さく息を吐き出した。 

「まぁ、それは今後の課題ということにしておきましょう。差し当たり、エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインの配偶者を、愚かしくも儀式の生け贄などにしてしまったヴェロニカ共和国の処遇です。これは、どうか、我がエストリアに一任して頂けませんか?」 

 一同の視線が、途端に厳しさを帯びた。 
 なるほど、それがこの不遜な外交官の狙いか。 
 マヌエル・シルベスタン三世は、底光りのする視線で少壮の男を射貫いた。 

「ヴェロニカ共和国の処遇を一任して欲しい、と。それは、当然のことながら君の所属するエストリア本国の意志と考えて構わないのだね?」 
「当然です閣下。ワタクシは、あくまで本国の意志の代弁者に過ぎません。そして代弁者が自由意志でこのような場において発言することなど、あり得べき話ではないと考えて頂いて結構です」  

 三世は頷いた。 

「ではまず、今回の件でエストリアはヴェロニカ共和国をどう遇しようと考えているのか、それをお聞かせ願いたい」 

 この問いに明確な回答が無いようでは、処遇の一任など問題外である。 
 理由は不明だが、エストリアはヴェロニカ共和国に対して、手厚く庇護する方針を取り続けている。もしも今回の件でもその方針を崩さないならば、それは、件の二人にとって到底容認できるものではあるまい。そうなれば、正しく火に油を注ぐ事態になりかねないのだ。 
 どこが落としどころになるのかは未だ手探りだが、最低限、少年の婚約者を生け贄に捧げることを決定した、ヴェロニカ教団の指導者の身柄の確保と、ヴェロニカ政府首脳陣の首の挿げ替えくらいは考えておかなくてはならないだろう。ことによれば、ヴェロニカ教という宗教の強制的な解散と信仰の禁止くらいは免れないかも知れない。 
 つまり、信仰の自由の制限という、共和連邦憲章にも抵触する処分を行う必要が出てくるかも知れないのだ。その手続きには細心の注意を払う必要があるだろうし、非合法な手段──洗脳や拷問を含む──を取らざるを得なくなる可能性もある。いったい、それらの覚悟をエストリアは持ち得ているのだろうか。 
 その点、三世は懐疑的であった。連邦加盟国の中でも利己主義的色彩の強いエストリアが、どうしてそのような貧乏くじをわざわざ引くものか。 
 だが、実のところ共和連邦政府にしても、エストリアがこの件の事後処理を請け負ってくれるというならばこれほど有り難いこともないのだ。上記のような、下手をすれば共和連邦の存在意義にも関わる憲章違反を、共和連邦自身が行っていることが表沙汰になれば、主席の政治生命の話を通り越して、共和連邦そのものの存在意義を問われる事態になりかねない。 
 その点、エストリアがその貧乏くじを引いてくれれば、連邦そのものは、万が一の時にも国際的な非難を躱すことが出来る。 
 期待と不安の入り交じった三世の視線を、少壮の男は、神経に障るようなにやにや笑いで受け止めた。 

「主席のご懸念はご尤もです。ただし、その点については、エストリアは不退転の決意と覚悟でもってこの案件に取り組むことを約束させて頂きましょう。当然のことですが、この問題の、最終的かつ決定的な解決策について、我々は今この場で自信をもって皆様に提示させていただきます」 

 少壮の男は、議場のスクリーンを使用し、作戦の全貌を明らかにした。 
 それは、正しく恐るべき作戦であり、そして少壮の男の言葉のとおり、最終的かつ決定的な解決策であった。 
 つまり、惑星ヴェロニカに居住する全ての人民の抹殺である。 
 ある意味において、これほど明快な責任の処断も他にない。罪のある者、罪のある疑いがかかっている者には、全て死んでもらい、その死をもって許しを乞おうというのだ。 

「まず、今回の事案についての一番の危険は、言うまでもなく、ルーファス・ラヴィーとエドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインの暴走です。彼らが我を忘れて暴れ回れば、まことにはた迷惑な話ですが、この共和宇宙が文明的な意味で崩壊しかねない。それだけはどんな犠牲を払おうとも避けなければならない。この点について異論を挟む余地はないでしょう」 

 少壮の男はぐるりと議場を見回した。 
 そこには、浮いてもいない額の汗を必死に拭う、老人達がいた。彼らは、海千山千の政治家、あるいは高級官僚のはずである。共和宇宙の中枢を担う、スーパーエリートである。その彼らが、まるで陸に打ち上げられた魚のように、必死に喘ぎながら呼吸を繰り返している。 
 それだけ、明らかにされた作戦は非人道的であり、非現実的であり、何よりも恐るべきものであったのだ。 
 少壮の男は、密かに冷笑を浮かべた。どうせ、自分を正面から見ることの出来る人間は、今、この場にはいない。 

「彼らの言葉を分析すると、どうやら彼らには、前近代的な掟というものがあるらしい。例えば、相棒の誓いを立てた者同士には、一方の者が第三者から侮辱や攻撃を受けたとき、他方の者にその第三者への報復の権利が認められるというもの。そして、その報復に関しては具体的な制限は無く、被害者、あるいは報復者の気が済むまで許されるというもの。現代刑法学からすれば驚天動地なほど野蛮な取り決めですが、彼らは我々のように卑小な人類からすれば、正しく絶対者の如き存在ですからな。その点を嘆いてもしかたありますまい」 

 少壮の男は不承不承といった有様で言った。 

「しかし、報復という行為は一般的に、不法な行為を犯した加害者に対する肉体的、精神的、もしくは社会的な制裁が不十分で、被害者が納得出来ないときに、補助的に取られるべき手段です。であれば、彼らにとっても非の打ち所がないほど徹底的な制裁が加害者に加えられば、報復の刃は目標を見失い、その矛を収めざるを得ない。違いますか?」 

 三世が、掠れた声で言った。 

「……それは、そうかも知れない。しかし、惑星ヴェロニカには、ヴェロニカ教に無関係の者も多くいるだろう。他国の長期滞在者や帰化民も少なくはない。それらも一緒くたに虐殺するというのかね?」 

 少壮の男は、内心はともかく、真剣な顔と声で言った。 

「主席。我が祖国、エストリアが、まさか三文映画に登場する悪の帝国の如く、嬉々としてこの作戦を立案したなどと、まさか考えてはおられますまいな。我らにしても、現在は変わり果てたとはいえ、かつての友好国であるヴェロニカ共和国の人民を攻撃対象とするなど、苦渋を極めた選択肢には違いないのです。また、かの国には我がエストリアの国民も数多く滞在しております。しかし、共和宇宙に住む全ての人民を不当な災厄から守るためには、それは避け得ぬ犠牲であることをご理解ください」 

 主席は言葉を失った。失わざるを得なかった。少壮の男の言葉は一々もっともであったからだ。 
 確かに、それほど徹底的な罰を共和政府自らが下すのであれば、あの二人が何と言おうと聞く耳を持つ必要はないはずだ。一族郎党皆殺しなのではない。その星に住む全ての人間に対するジェノサイドなのだから。 
 これで、まだ犠牲の血が足りないと宣うならば、あれらは自らの言葉に責任を負わない凶獣だということになる。そして、三世の祖父の言葉が正しければ、そこまで道理の通じない相手ではないと思われる。 
  
「……作戦は理解した。しかし、どうやって国際的な非難を躱すつもりだ?まさか、たった二人分の怒りを静めるために数千万の人間を生け贄の羊としました、では誰も納得するはずがないぞ」 
「その点についてはご安心を。ヴェロニカ共和国は、我が国の度重なる忠告にも関わらず、数々の非道な犯罪に手を染めていることが判明しております。例えば、今回の、例の少年の配偶者を生け贄に捧げた件。さらに、彼女を生け贄に捧げる前に、アーロン・レイノルズ大統領の子息がかの少女をゆがんだ性的欲望の対象として拷問にかけた際の映像を入手しております。どうぞ、ご覧ください」 

 そう言って、少壮の男はスクリーンに映像を映し出した。 
 それは、美しい少女が、青年の歪んだ性欲の贄となり、凄惨な虐待を受け続けるという衝撃的な内容の映像だった。 
 殴る蹴るの暴行には気丈に耐えていた少女が、太ももに穿たれた銃創を指で抉られ、悲痛な声で叫ぶあたりで、観衆の幾人かが気分を害したかのように咳払いをした。 
 都合一時間近い拷問の後、少女が蹴り転がらされ、まるで壊れたマネキンのようにぐったりと動かなくなったところで映像は途切れた。 

「この後、生け贄に捧げられるまでの短くない期間、彼女がいったいどのような目に遭わされたのか、想像に難くありません。おそらく、女性という性が受けうる、最も呪わしく忌むべき行為を受け続け、その尊厳を踏みにじられ続けたことでしょう。痛ましいことです」 
「……そのように汚らわしい行いを、まさか一国の大統領の実の子息が行っていたというのか……」 

 聴衆の一人があらん限りの嫌悪感とともに絞り出した声に、少壮の男は頷く。 

「彼女は、例の少年の婚約者であると同時に、惑星ベルトランの州知事であるアーサー・ヴィルフレッド・ヴァレンタインの養女でもある。いくらでも悲劇的なエピソードを肉付けすることが出来るでしょう。それに、見ての通り、大変美しい少女です。これらの事実を全面に押しだし、そして加害者をヴェロニカ教全体というように印象づけることが出来れば、国際世論の操作は極めて容易であると考えます」「……しかし、文明国であるエストリアが、理由はどうあれ一つの国の全ての人民を鏖殺すれば、非難はどうあっても避け得ぬものだと思うが、本当にその程度で躱しきれると思っているのかね?」 

 だとすればあまりにも見通しが甘いと言わざるを得ない。 
 したりと少壮の男は頷いた。 

「皆様のご懸念、一々ご尤もかと。しかし、ご安心を。今回の一件は、誰の責任でもない、彼らが彼らの死刑執行許可書にサインを押すだけのことです。少なくとも、そこに共和宇宙政府も、我がエストリアも、名前が記されることはありません」 
「……どういうことだね?」 
「例えば、こんな筋書きは如何でしょうか。ヴェロニカ教徒は、一見すれば他宗教の信徒への寛容に溢れた穏やかな人間に思えたが、裏では特権意識に凝り固まり、異教徒に対して侮蔑の念と宗教的な恨みを抱き続けていた。そして、その顕現が、かの少女や他の憐れな被害者に対する非人間的な虐待であった。これらはまったき事実なのですから、少しも不自然ではありますまい。その上で、彼らは、共和宇宙的な平和と秩序に強い敵愾心を燃やしていた……」 
「……」 
「驕り高ぶった彼らは、自分たちの神の教えを全宇宙に広めるために、暴力的な手段を企てた。つまり、宗教的なテロリズムです。これも、特異ではありますが不思議なことではありません。共和宇宙の設立前、そして設立後も、狂信者による宗教的テロリズムは市民の安全を脅かす、忌むべき危険因子であり続けたのですから」 
 それは、この場にいる全ての人間の知りうるところだった。 
 宗教的なテロリズムの始末に負えないところは、現世的な利益を超越したところに達成目標が掲げられているため、交渉や妥協の余地が無く、常に殲滅戦の様相を帯びることだ。  そうなるとテロリスト側も捨て身の攻撃に出ることが多く、一般市民に多くの犠牲が出ることもある。 
 最も大きな被害が出たのは、共和宇宙歴822年に起きたビサーカ星系のダークシャ教徒による大規模蜂起事件である。 
 蜂起そのものは共和宇宙軍の活躍により早期に鎮圧されたのだが、首謀者であった教主が逮捕され、捨て鉢になった信徒が『ステーション』内にて自爆テロを決行、それによって星系内の唯一のゲートが徹底的に破壊され長期にわたって使用不能となった。 
 未だショウ・ドライブの開発されていない時代のことだ。『ステーション』の破壊は、すなわちその宙域の長期間の孤立を意味する。 
 その結果、消費星系であったビサーカ星系に対する食料供給が完全にストップ、たちまちに絶望的な食糧不足が同星系を襲い、数千万とも数億ともいわれる餓死者を出した。  
 しかし、それほどの破滅的な被害を出したダークシャ教は、驚くべき事に現在も存続し、多くの信徒を抱えている。信教の自由を謳う共和政府には、思想が危険であるということのみをもって教団の解散を強制することは非常に困難なのだ。 
 現在も、情報局などが、危険な思想を持つ教団の監視にその力の大半を裂いているのだとまことしやかに囁かれているのは、まさにそういった事情によるところが大きい。 

「ヴェロニカ教団は、最も安価にして最も大量の命を奪いうる兵器の製造に、密かに手を出していた。そう、殺人ウィルスです。あの国は、不自然なほどに遺伝子工学系の科学技術に力を注いでいましたから、その手の疑惑をかけるにはちょうど良い訳です。さらに都合の良いことに、彼らは、その過剰なまでの菜食主義によって特定の野菜類しか口にすることが出来ず、各集落に専用の製造プラントを建てている。実は、それが殺人ウィルスの製造工場だったということにしてしまえばいい。そして、密かに多量の殺人ウィルスを製造、貯蓄し、来るべき決起の日に備えていた……」 

 聴衆のこめかみを、冷たい汗が伝った。 

「その計画を察知した我がエストリア軍は、早急に彼らの暴挙を食い止めるべく軍を動かします。しかし残念ながら、長年の計画を看破され自暴自棄になった一部の信徒の暴走を止めることが出来ず、殺人ウィルスのタンクは爆破され大量のウィルスが大気中にまき散らされた。当然、住人は全て死亡し、惑星ヴェロニカは死の星になってしまった……。どうでしょう、この筋書きは?被害は最小限に抑えられ、そして誰も傷つかない。素晴らしいとは思いませんか?」 

 にこりと笑った。とても、自分の舌鋒に、数千万の人間の命運が乗せられているのだという自覚など感じられない、脳天気な声であった。 
 その、現実感の薄い声を聞きながら、主席は、自らの下すべき判断の天秤に、明確な重りが乗っかったのを感じた。 

「……一つだけ、一つだけ教えて欲しい」 

 主席の消え入りそうな声に、少壮の男が笑顔を向ける。 

「その計画の発案者は誰だ?そして君の、名前は何だ?」 

 少壮の男は、にんまりと、蛇が卵を飲み込むように笑った。 

「ええ、最初に申し上げましたとおり、ワタクシはただの代弁者、この計画が誰の手によって練られたものかなど、知りうる立場にはございません。なので、残念ながら最初の質問にお答えすることは不可能です。ただし、もう一つの質問には答えさせていただきましょう。ワタクシの名前は、テルミン。エストリア共和国外務省大臣官房付特別書記官、アイザック・テルミンです。以後、お見知りおきの程を……」 



[6349] 第八十三話:嵐の前触れ
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/06 22:04
「おい、アーサー!それはいったいどういうことだ!おい!」 

 リィは携帯端末に向けて何度も叫んだが、聞こえるのは砂が擦れるような雑音だけで、最後には通話が切れてしまった。リダイヤルボタンを押してかけ直すが、何度かけ直しても繋がらない。 

「ルウ、頼む。お前の携帯端末から、アーサーに連絡を取ってくれるか?」 
「うん、いいけど……。あ、駄目だ、繋がらない」 
「どうして?」 
「おそらく、宇宙嵐のせいだ。ダイアンも難儀してるみたいだぜ」 

 リィの疑問に答えたのは、ルウではなく、食堂に戻ってきたケリーであった。その後ろにはジャスミンの姿も見える。 

「黄金狼、今の通信は誰からだ?」 
「アーサーだ。最初から様子がおかしかったんだけど、最後にとんでもないことを言っていたぞ」 
「それは、例えばこの星が、大規模な殲滅作戦の標的にされてるとか、その手の話か?」 

 リィは流石に少し驚き、しかしすぐに表情を消して頷いた。 
 それを見たケリーの顔も、色濃い緊張に満ちている。 

「ねぇ、エディ、キング。悪いけど、何の話かちっとも伝わってこない。お願いだから詳しく説明してくれる?」 
「ああ、もちろんだぜ天使。だが、それよりも俺たちには大切なことがある」 
「大切なこと?」 

 面持ちを意図的に崩しながら、ケリーは軽く微笑んだ。 

「そろそろ、シェラの用意してくれるデザートの準備が整う頃だ。話は、それを頂きながらにしようぜ」 

 そして、一同はテーブルに着席した。席には、シェラの煎れた薫り高い紅茶と、同じくシェラ手製の焼き菓子が並んでいる。 
 先ほどのアーサーからの通信の内容を語り終えたリィは、ストレートのままの紅茶に口をつけ、少し乾いた喉を潤した。当然のことながら、彼の前だけは焼き菓子が並んでいない。 

「……以上が、さっきの電話の内容だ。当たり前の話だが、アーサーの言葉の真偽は分からない。嘘を言っているようには聞こえなかったが、そもそもアーサーの掴んだ情報自体が偽の可能性もあるからな。だけど、その可能性は低いように思う」 
「ああ、俺も同感だぜ。アーサー氏は地方の州知事にしておくのがもったいない程に知識も分別もある方だ。それが、荒唐無稽な嘘話に踊らされて狼狽えているっていうのはちょっと考えにくい」 

 リィは、ケリーの方を見て頷いた。アーサーを自分の父親とは頑なに認めようとしないリィではあるが、だからといってアーサーを侮っているわけではない。むしろ、その高い識見と能力を評価していると言っていい。 
 そのアーサーが、あれほどまでに狼狽した様子で通信を寄越したのだ。おそらく、共和連邦政府からの直通回線あたりを使った連絡があったのではないか。リィはそう推察していた。 

「それにしても、共和宇宙政府が、惑星ヴェロニカにジェノサイドを仕掛けるだと?いったいどうしてそんな馬鹿げた作戦に許可が下りたんだ?」 

 ジャスミンが、少し苛立ったように呟いた。過去に共和連邦に属する軍人だった彼女は、無抵抗の市民に銃を向けるのは、何よりも恥ずべき行いであると確信している。その恥ずべき行為を、まさか誇り高い共和宇宙軍が率先して行うならば、軍も落ちるところまで落ちたのだと言わざるを得ない。 
 ジャスミンの意見に、スクリーンに映し出されたダイアナは首を横に振った。 

『それがちょっと違うみたいなの。わたしも詳しいところまでは掴めていないんだけど、今回の作戦を実行するのは共和宇宙軍じゃないわ。エストリア共和国宇宙軍第十三艦隊に、惑星ヴェロニカを含む星系での秘密任務が下されているみたい。おそらく彼らが実行部隊ね』 
「エストリア共和国宇宙軍……つまり、作戦の音頭を取っていやがるのはエストリア共和国政府か」 

 通常の軍事情報はその一切が徹底した秘密主義に守られるものだ。それをここまで丸裸にされてはエストリア軍人にとって良い面の皮だというべきだが、しかし相手が悪すぎる。 情報戦においては敵無しを誇るダイアナが、真剣な表情で続ける。
 スクリーンが切り替わり、ダイアナの代わりに壮年の男性が映し出された。 
 太い首、贅肉の刮げ落ちた鋭い頬、そして鷹のように油断のない目つき。 

『第十三艦隊の司令は、エストリア宇宙軍中将フォルクマール・アンドレーエ。主席の成績で士官学校を卒業後、主に前線勤務を進んで希望しめざましい戦果を重ね、同期の中でも一番早く将官階級を得ているわ。当然、素行や家庭には一切の問題は認められず、国家に対する忠誠にも疑うところがない。絵に描いたようなエリート軍人さんね』 
「そして、階級に相応しいだけの能力と自負を有しているに違いないな。わたしの経験では、そういう経歴の軍人が勲章をぶら下げただけの人形であったためしは一度もない」 

 ジャスミンの言葉に、ケリーは頷いた。彼は、常に共和宇宙軍や連邦警察とは敵する立場に身を置いていたが、尊敬すべき敵というのは確かに存在して、今スクリーンに映し出された軍人の覇気漲る顔つきからも、それと同じ匂いを嗅ぎ取っていた。 

「ダイアン、部隊の規模は?」 
『旗艦《ネプトゥーン》を筆頭に、ハッチンソン級戦艦が五隻。ウェルナー級戦艦が三十隻、ギルフォード級戦艦が六十隻。それを警護する駆逐艦、巡洋艦クラスの小型艦艇が併せて五百隻ほど。随行人員は約七十万人。完全な軍事行動よ』 
「それも、平時には到底お目にかかれない、とびきり物騒な軍事行動だ」 

 ケリーはお手上げというふうに捨て鉢な声を上げた。 

「しっかし、お偉いエストリア軍人さまが、どうしてこんな辺鄙な場所に、ジェノサイドなんて物騒な任務を帯びて向かってやがるんだ?その辺は、ダイアナ、何か分からないのか?」 

 スクリーンに映し出された女性が、申し訳なさそうに眉根を寄せた。 

『ごめんなさいケリー。もう少し電波状況がよければ色々と探れるんだけど、この宙域、色んな妨害電波が飛び交っているの。ほとんどは宇宙嵐のせいだと思うけど、一部、人為的な妨害電波もキャッチ出来たわ。きっと、この軍事行動の布石として、以前から用意していたのね』 

 だとすれば、この軍事行動は発作的なものではなく、用意周到に計画されていたことになる。 
 では、いったい何のために? 
 リィが、静かに口を開いた。 

「ケリー。あまり気持ちのいい話じゃないけど、この作戦に対して共和宇宙連邦の首脳陣が許可を出した理由はなんとなく理解出来る」 
「へぇ?」 
「おれと、ルーファだ。彼らは、何よりもおれ達が怒りに駆られて暴走するのを恐れているんだと思う」 

 ルウも、少し青い顔で、リィの意見に首肯した。 

「それは、アーサーの通信からもはっきりしている。連邦政府が、本来は極秘事項である軍事行動、それも星一つを対象としたジェノサイドなんていう馬鹿げた行動についてアーサーに事前連絡を入れたのは、ぼく達にそのことを知らせるためだ」 
「何のために?」 

 ジャスミンの問いに、リィが応えた。 

「こないだの、おれの試験細胞の処分が不十分だったことに端を発した事件で、連邦政府の中枢の人間は、おれ達に手を出したらどんな目に遭うか、骨身に染みるほどに理解したはずだ。おれも、そういうふうにプレッシャーをかけたつもりだし、あれだけ言ってもその程度のことが理解出来ないほど頭の悪い連中でもないだろう」 

 シェラとルウとウォル、そしてジャスミンとケリーは頷いた。ウォルは、伝聞ではあるがその一件の顛末は心得ているし、彼女以外は当事者として事件に関わった人間ばかりだ。 それに対して、インユェ、メイフゥ、マルゴは何のことか分からない。ただ、連邦政府の中枢に属する誰かさんが、虎の尾を踏んで手酷い目に遭わされたのだということだけは十分に理解した。 

「そして、今回の事件だ。どうやらアーサーは、ウォル、お前が既に殺されていると思い込んでいるようだった。つまり、アーサーに連絡を寄越した何者かも、おそらく同じ認識だ」 

 ウォルが、底冷えのする笑みを浮かべた。 

「なるほど、つまり、奴らにとって超特大の危険物であるリィの、婚約者であり配偶者であり同盟者でもある俺が、既にこの世のものではなくなっていると、そういう認識なわけか。それは、さぞ生きた心地がしないに違いないな」 

 ひんやりとしたその笑みは、インユェやメイフゥには異質なものとして映った。彼らの知るウォルは、いつだって太陽のような少女だったのに。 

 ──俺は、異世界の王だった。 

 そう言っていた少女の言葉の正しさを、姉弟は悟った。 

「なるほど、理解した。つまり、連邦政府はきみ達が怒り狂い、前回のような危機を引き起こされては困るから、事態を自分たちで収めようとしたわけか」 

 腕を組んだジャスミンの呟きに、ケリーが唸った。 

「ウォルを生け贄に捧げ、野犬の餌にしたのはヴェロニカ教徒だ。つまり、悪いのはヴェロニカ教徒をはじめとしたヴェロニカ共和国の人間だ。その人間は、全て我々で処分した。だから、どうか怒りを収めてくれってわけか。いくらなんでも思考が短絡に過ぎるぜ」 

 ケリーは開いた口がふさがらないといった様子で呟いたのだが、リィは真剣な声で反駁した。 

「いや、ケリー、ある意味において彼らの判断は正しい。もしもおれかルーファが怒りにまかせて暴走すれば、惑星ヴェロニカの全人口を超えるだけの被害が発生してもおかしくはないんだ。事実、前回は惑星セントラル星系が、ルーファの暴走によって危機に曝された。その危機を回避するための手段として、蛮行の行為者であるヴェロニカ教徒を生け贄の羊に捧げるのは、十分に理に適った選択だ」
 
 隣に座ったルウも大いに頷いた。 
 しかし、その意見に納得できない者もいる。

「だ、だけど、現にウォルは生きているじゃないか。なら、エストリアみたいなでっかい国がさ、こんな、言っちゃ悪いけど毒にも薬にもならないようなちんけな国を、何でわざわざそんなふうに目の敵にするんだよ。元々仲だって悪くなかったんだろう?それが今更、皆殺しってのは……」

 インユェの固い声は、目の前の現実から目を背けようとしているかのようだった。
 その声に、ジャスミンが、首を振ってから応えた。

「いや、ヴェロニカ共和国がちんけな国だという意見には賛成だが、毒にも薬にもならないという意見は、今となっては通らない」
「どうして?罪も無い人間を生け贄に捧げるような物騒な宗教が信じられているからかい?」

 今度はケリーが首を振り、

「違う。そんなことは、それこそエストリアにとって取るに足らないことだ。もっと大事なことがあるじゃねぇか。この星に何が埋まってる?エストリアのお偉方が、涎を垂らして欲しがるものが埋まってるだろう?」

 メイフゥは、ぱん、と手を打ち合わせた。

「あ、トリジウム……!」

 ジャスミンが頷いた。

「今になって考えてみれば、長期間に渡るエストリアとヴェロニカ共和国の蜜月も、それが鎹になっていたと考えるのが自然だろうな。ヴェロニカ共和国の連邦政府加盟決議の記録的な早期決定、その後のエストリアの不可解な庇護も、その代価がトリジウムの横流しであったとすれば辻褄が合う」
「それだけじゃねぇぜ、女王。ヴェロニカ共和国の、作物品種改良に使われた高度な遺伝子改良技実、その発展に投下された多額の資本も、おそらくはエストリアが一枚噛んでいると考えるべきだろうぜ。たかだか数十年前にようやく連邦加盟を果たしたような後進国が、今では遺伝子工学の先進国ってのはいくらなんでも出来過ぎた話だ。学問の発展には、その下地となる経済成長と、核となる人的資源が必要不可欠だが、その両方に手厚い支援があったとしたら、これだけの急発展も頷ける」

 つまり、エストリアが一方的にヴェロニカ共和国を庇護する関係ではなく、両者はトリジウムを仲立ちとした相互補完関係にあったと考えるほうが自然だということだ。
 沈黙を守っていたマルゴが、青い顔で、

「……もしその意見が正しいのだとして、このタイミングでエストリアがヴェロニカ共和国を襲う理由は何なのかしら。ヴェロニカのトリジウムを全部自分のものにしようっていう考えは理解出来るとして、それならずっと前にそうしていてもよかったんじゃないの?」

 なかなか鋭い意見に、ジャスミンは腕を組んで唸った。

「……そればかりはエストリアの首脳陣に直接聞かなければ本当のところは分からないのだろうが、可能性はいくつか考えられる」
「例えば?」
「まずは、リィ、シェラ、君たちが原因だ」

 話に置いていかれていたリィとシェラが、突然のご指名に目を丸くした。

「おれが原因?」
「あの……いったいどういうことでしょうか」

 ジャスミンはくすりと微笑み、豊かな前髪をかきあげた。

「何を言っているんだ。いまさら知らぬ存ぜぬは通らないぞ。トリジウムとは色々と円深い君たちじゃないか」

 リィとシェラははっとした

「そうか、あの事件……」
「課外活動が、ちょっとしたキャンプになってしまった、あの?」

 ちょっとしたキャンプなどと言ってしまえば、あの事件に巻き込まれた他の生徒は、全力でその意見を否定するだろう。何せ、あれは世間一般でいうところの誘拐事件であり、冗談抜きで死にかけたのだから。
 しかし、金銀天使にすれば、屋根付き風呂付きの場所で二週間程の休暇を楽しんだだけである。確かに水も食料も用意はされていなかったが、辺りには湖もあれば森もあり、狩猟能力の高い二人には何も不満も恐れるものも無かったのだ。

「でも、あの事件が今回の件とどう関わるんだ?」

 リィの不思議そうな顔に、ケリーが不敵な笑みを浮かべ、

「ま、それは、俺や女王、それに天使も無関係じゃない。あの、お前らが置き去りにされた惑星Xで、最後の最後に何をした?」
「あ……」

 リィははたと手を打った。
 すっかり忘れていた。
 ケリーは長い足を行儀悪く組み、くつくつと笑った。

「あんな大事件を忘れてやるなよ。密輸組織の皆さんがちっとばかり可哀想だぜ」
「何を言ってるんだよ。可哀想なのはどう考えたっておれの方だ。あの事件では、危うく二度と走れない足になるところだったんだぞ」

 リィはぷりぷりしながら口を尖らせたが、果たして本当に可哀想だったのはどちらだろう。
 あんな辺鄙な星で、ひっそりと悪事に勤しんでいたところを、突然現れた人外生物の群れに一網打尽に壊滅させられた密輸組織の方も、災難以外の何物でもなかったはずだが……。
 自分たちを人畜無害とでも思っているのか、ジャスミンとケリーは曖昧な笑みを浮かべた。
 同じく、ウォルも苦笑して、

「しかしリィよ、お前はあちらの世界でもそうだったが、平穏無事という言葉とは最も縁遠い生き方をしているのだなぁ」

 かつての配偶者のしみじみとした呟きである。
 誰が聞いても頷くしかない意見に、リィは鼻を一つ鳴らしてそっぽを向いた。
 その様子を見たジャスミンが僅かに居住まいを正し、

「話を戻すぞ。我々が関わったあの事件で押収されたトリジウムだが、その純度やあの惑星の位置的な特殊性から考えて、ヴェロニカ共和国で採掘されたものであることは間違いない。では輸出をしようとしたのがヴェロニカ共和国だとして、輸入をする側はどこだったのだろうな?」

 ジャスミンの質問に、メイフゥが答えた。

「トリジウムなんて、そこらの麻薬とは比較にならないくらいに厄介で高価で取引先も限られるもんさ。そんなもんの顧客がそうそういると思えないね。さっきまでの話が正しいとすりゃ、考えられるのはエストリアだ」

 ジャスミンも、頷くことでメイフゥの意見を是とした。
 トリジウムは、主に宇宙開発分野において費消される金属だ。特に、クーアシステムやショウドライブといった外洋宇宙船になくてはならない機構に多く使われる。
 外洋宇宙船の数は即ち軍事力や交易力の指標であり、国家としての力に直結する。
 それだけに、国家間のパワーバランスの維持に腐心する連邦政府にしても無視できるものではなく、密貿易された場合、厳重な取り締まりの対象とされるのである。
 そして、トリジウムがこれだけ厳重に管理される以上、違法薬物のように密輸に成功してしまえば万々歳というわけにはいかない。その後も、例えば帳簿の改ざんや廃棄中古船の水増しなどで、トリジウムの管理量を巧みに誤魔化し続けなければならない。
 そんな離れ業が出来る顧客など、簡単に見つかるはずがない。また、機密維持のためには関係者の数が少なければ少ない程良いというのは言うまでもないことである。

「リィたちの活躍で密輸組織は壊滅的な被害を受け、ヴェロニカ共和国とエストリアのトリジウム密貿易は一時的に途絶えた訳だ。必然、現在のエストリアはトリジウムが不足している状況にあるはずだ」
「そして目の前にぶら下げられたチャンスに食いついたって訳か。なるほどなぁ」

 感心したメイフゥの声である。
 しかし、リィは首を傾げた。

「でも、それにしちゃエストリアの動きが早すぎないか?理由はどうあれ、惑星一つの人間を皆殺しにしようって作戦だ。その立案にも準備にも、何よりその決心そのものに、普通はもっと時間がかかると思うんだけど」
「ああ、わたしもそう思う。だから、これは比較的穏便な推測だ」

 インユェが、ゴクリと唾を飲んだ。

「今の話より物騒な推測があるのかよ?」
「推測の上に推測を重ねたような話だ。これにどこまでの蓋然性があるかの判断は、わたし自身がつきかねているんだが……」

 珍しく躊躇う様子を見せたジャスミンであった。
 まずジャスミンは、少し前にビアンキ老師に聞かせた自説を披露した。
 つまり、リィやシェラが巻き込まれた例の事件は、エリック・オーデンという男の単純な復讐心によるものではなく、アーロン・レイノルズが権力を握るための布石であったという説だ。
 その途中で、ジャスミンはちらりとケリーを見やった。ケリーはその視線を受け、軽く頷いた。

「……アーロン・レイノルズの究極的な目的は、この星で内戦を起こし、住民に殺し合いを行わせることだった。そのための火種としてトリジウム鉱山の地図まで巧妙にばら撒いていた訳だが……」
「内戦を起こすことが目的?何でだよ、そんなことして何の得があるっていうんだ?」

 インユェの、ある意味当然の質問であった。
 これにジャスミンは、

「彼の信じる神の問題さ。我々の理解の及ぶ話ではないよ」

 素知らぬふうでこう答えた。本当のことを話せば、惑星ウィノアの悲劇に話が及び、引いてはケリーやマルゴの出自まで詳らかにする必要が出てくるかも知れない。
 それだけは、どんな事情があろうとも避けなければならないのだとジャスミンは確信していた。例え背中を合わせて命を預けた戦友の間にも、あるいはそんな信頼すべき間柄だからこそ、守られるべき秘密というものは存在するのだ。

「とにかく、以上の仮説はアーロン・レイノルズという一種の狂人をストーリーの中心に据えたものだ。だが、この仮説に、エストリアがトリジウムの独占を図り策動していたという仮定を加味し、アーロン・レイノルズを脇にどかして考えてみる。すると、この事件に全く異なる側面が見えてくる」

 ジャスミンはぐるりと一同を見渡した。リィとシェラ、そしてルウは平然とした面持ちで話を聴いている。それに比べると、インユェは話の大きさに些か呆然とした面持ちであり、自分の国の危機に今まさしく立ち会っているマルゴは表情が固い。そしてメイフゥは、牙を剥き出すようにして笑っていた。もしかしたら、これが緊張したときの彼女の癖なのかもしれない。

「エストリアはトリジウムが欲しい。ヴェロニカ共和国はそのいくらかを融通してくれるが、代価を求めてくるし、量も限られる。当然だ。トリジウム採掘の際に不可避の廃液や廃土はそれだけで致死の鉱毒症を引き起こすのだから、一度に開発を進めれば、遠からずこの星は死の星になる。どれだけ金を積まれても、信仰の対象でもあり自分たちの住む場所でもある惑星ヴェロニカを切り売りしようとは考えないだろうからな」

 ウォルは大きく頷いた。

「当然だな。目の前に積まれた金銀財宝に目が眩んで国土を切り売りするのは、為政者として最も愚かな行いだ」

 その視線は厳しく声は鋭いもので、愛らしく整った顔立ちとの落差が凄まじい。
 ジャスミンは、男性であった頃のウォルと会ってみたかったものだと、ほんの少しだけ残念に思った。

「では、エストリアがヴェロニカに埋蔵されているトリジウムを独占するにはどうすればいいか。軍事的に占領するのは以ての外だ。国際的な非難は免れず孤立をやむなくされるだろうし、各種経済制裁も覚悟しなければならない。かといって非軍事的に、例えば経済的にヴェロニカ共和国を追い込めば、トリジウムを手土産に他国へ、最悪の場合はエストリアのライバルであるマースなどへ秋波を送られる可能性が高い」

 ジャスミンの言葉にマルゴは指先を噛む様に呟いた。

「そうか、トリジウムという武器をヴェロニカ共和国が握っている以上、実は交渉的優位に立っているのは小国であるヴェロニカの方だったのか……」

 ケリーが頷き、

「ままあることだな。貴重な資源ってのはそれだけで外交上の最強の武器になる。特に、今みたいな安定した国際情勢なら尚更だ。エストリアのお偉方はさぞかし臍を噛んだことだろうぜ。どうして圧倒的強者であるはずの自分達が、ヴェロニカ共和国如き小国のご機嫌伺いをしなけりゃならないのかってな」

 くつくつと笑いながら言った。海賊時代、そしてクーアの総統時代に、その手の輩とは飽きる程に顔を合わせたケリーである。彼らは、和やかな人格者の皮を顔に貼り付け、その下に煮え滾った本心を隠している。いつだって虎視眈々と、彼我の立場を入れ替えよう暗い努力を続けている。
 
「軍事的に占領するのが無理。非軍事的な支配も難しい。何故なら、ここは坊さんの支配する国だ。頭の硬い坊さん連中の支持無しじゃあ、傀儡政権の樹立にもひとかたなら苦労をするのは目に見えている。なら、あとはどさくさに紛れるしか方法はない……」

 ケリーの言葉が途切れた拍子に、ジャスミンが再び口を開いた。

「内戦を起こすことが出来れば、エストリアは現政権の支持を名目に内戦に介入することは可能だし、エストリアとヴェロニカ共和国政府の関係からいってもそれは少しも不自然ではない。そうすれば、トリジウムを半ば独占することも可能だ。しかし、この場合、トリジウムを餌に内戦を引き起こす以上、その存在がある程度表沙汰になるのもいた仕方ない。当然、おこぼれにあずかろうという他国も介入してくるだろう。もしかすると内戦自体は他国が介入する前に電撃的に終結させ、その後に傀儡政権を樹立するつもりなのかも知れないが、それでもヴェロニカ国民は依然としてこの地に住み続ける以上、大規模開発には根強い非難と抵抗が残るのは間違いない」

 ジャスミンの仮説が正しければ、この時点でアーロン・レイノルズとエストリアの利害関係は相反せざるを得ない。何故ならアーロンの狙いは泥濘のような内戦が永く続き、この地を惑星ウィノアの二の舞になることだからである。
 いったん起きた内戦が早期に終結し、その後に傀儡政権とはいえある種の秩序が確立されてしまうのでは、全くもって意味がないのである。
 アーロンが密かにエストリアの援助を受けていたことはほとんど間違いないが、それはエストリアの手のひらの上で踊らされていただけなのではないだろうか。

「エストリアにとって最も望ましいのは、惑星ヴェロニカを軍事的に占領した上で、住民を強制的に排除することだ。無人となったこの星はさぞ効率的に膨大な量のトリジウムを産出してくれるだろう」

 そうなれば、共和宇宙の軍事的パワーバランスは完全に崩壊する。大量のヴェロニカ産トリジウムでもって建造された高性能宇宙艦隊が、共和宇宙軍を蹂躙するのも夢物語ではあるまい。
 
「エストリアは、当初はこのプランでヴェロニカ共和国に傀儡政権を樹立しようとしていた。しかし、ここで事情が変わる」
「事情って?」

 リィの声に、ジャスミンはくつくつと笑った。

「リィ、ルウ、他ならぬ、君たちの出現だ」

 ジャスミンの視線を受けたリィとルウが、固い表情で頷いた。

「二度……ウォルの件を合わせれば三度。君たちは共和連邦首脳陣に煮え湯を飲ませている。エストリアも、超大国として多数の議員を連邦に送り込んでいるからな、それらの件について無知であるはずが無い」
「それどころか、違法な人体実験を主導していたのは、連邦の中でもエストリアが幅を効かせた一派だ。お前らが研究所をめちゃめちゃにした時は、さぞ愉快な顔色だったに違いないぜ」

 ケリーは見る者の背筋を薄ら寒くさせる笑みを浮かべた。

「あれだけのことをしでかしたんだ。事の正否がどちらにあるのかなんてうっちゃって、奴等はお前らに報復をしようとしただろう」
「やってみればいい。いくらだって受けてたってやる」

 いかにもリィらしい言葉にケリーは苦笑した。

「だが、現実にそんなことがあったか?」

 ケリーの言葉にルウが首を振って答えた。

「少なくとも、表立ってそんなことは無かった」
「そうだろうな。エストリアがどれだけ報復を望んだとしても連邦政府が必死になって止めるだろう。一国の面子を守るためだけに共和宇宙全体が危機に晒されたのでは間尺に合わないこと夥しい」
「だが、逆に考えればここに一つの推論が成り立つのさ。黄金狼や天使に関わる事件は、連邦首脳陣にとってアンタッチャブルだ。それを上手く利用すれば、本来は連邦のちゃちゃが入るような荒事でも大っぴらに進められるんじゃないかってな」

 ずっと聞き役を勤めていたシェラが、おずおずと口を開き、

「あの、お話は分かるのですが、それと例の誘拐事件にどんな関係が?」
「それはな、シェラ、おれたちを、そしてケリーとジャスミンをトリジウム絡みの一件に巻き込むことそのものが、この事件の裏で糸を引いているエストリアの思惑だったってことだ。そうだろうジャスミン?」

 ジャスミンは大きく頷いた。

「君たちと、そして我々の孫、さらには犯人のターゲットであった少年を、一緒のグループにして例の星へ送り込む。当然、世間は大騒ぎ、我々も事件の対応に追われることになった。結果として、残された各種資料から、ヴェロニカ共和国とトリジウムの関係が明らかになり、わたしたちはこの星を訪れた」
「だが、それ自体が罠だった。巧妙に撒かれた餌に、俺たちはまんまと食いついてしまったのさ」

 自嘲の笑みをケリーは浮かべた。

「少し考えてみればいくらでも違和感はあったんだ。本来ありえない珍客──お前らのことだぜ、黄金狼、天使──に急襲されたかたちの密輸組織の基地から、どうして奴等の大元に辿り着くための証拠の一切が見つからないんだ?連邦警察の連中が目の色を変えて嗅ぎ回ってるんだぜ?どんな僅かな証拠でも、奴等はたちまち犯人まで辿り着くだろうに違いないのにな」
「元々、あの施設自体既に廃棄するつもりだったのだろう。あらかじめ全ての証拠は抹消されていた」
「それでも、俺たちにはヴェロニカに辿り着くために必要な最小限の証拠が手に入るよう仕向ける」
「そういう意味では、我々も餌だったわけさ。君たちをこの星に関わらせるためのな。あるいはもっと直截的に、わたしたちを殺害することで君たちの怒りを煽るつもりだったのかも知れない」

 リィもルウも、ケリーやジャスミンとは浅からぬ縁を結んでいる。二人が無惨に殺されることでもあれば、怒りに囚われても不思議はない。
 少なくとも連邦の首脳陣はそう思う。

「しかし、俺たち以上に都合のいい餌が、のこのこヴェロニカ共和国にやってきた」

 餌と呼ばれた少女──ウォルが、ほろ苦い笑みで応えた。

「つまり、俺のことだな」

 ジャスミンは頷いた。

「リィの配偶者であり婚約者。そして無二の戦友。どこまで正確な情報が伝わっているのかが分からないが、君がリィにとって最優先で守るべき人間であることは間違いない。実際に君絡みの事件で、現政権は一度恐慌状態に陥っているのだからな」
「ウォル、そんなあんたがこの星で非業の死を遂げるようなことがあれば、三世辺りの髪が処女雪みたいに真っ白になるのは間違いないぜ。っていうか、今まさしく真っ白になりつつあるのかも知れねえな」

 ケリーが人の悪い笑みで笑った。
 現政権のメンバーは、半分物理的な意味でルウに痛い目に遭わされている。現実と変わらない幻の中で、死をこいねがうような苦痛を味合わされたのだ。その体験がトラウマとなっていれば、彼らがリィたち一行を恐れること甚だしいのは十分予想出来るし、ウォルの死で狼狽する議場を操ることも容易くなるだろう。

「ウォルを死んだものと思い込んだ連邦首脳陣。彼らは君たちをひたすら恐れ、実行行為者であるヴェロニカ共和国を切り捨てる決断をした」
「これで、エストリアの連中は大義名分が出来たってわけだな。全共和宇宙の人民の安全と平和のために、ヴェロニカ共和国には尊い犠牲になってもらおう。そう説明すれば、頭の硬い連邦主席や実行行為者の軍人連中も、思い通りに動いてくれるってもんさ」
「いったん惑星ヴェロニカを占領してしまえば、例え事実が明らかになっても痛くも痒くもないないだろう。トリジウムは全て自分たちのものだ。ジェノサイドを告発しようにも、連邦政府がその実行に、明示か黙示かを問わずお墨付きを与えてしまっているのだからな。いわば共犯者だ。告発など出来るはずがない。これでエストリアは、何の犠牲も払わずにトリジウムの独り占めが出来るというわけだ」
『今の話、ジャスミンは蓋然性に疑問があるって言ってたけど、わたしが調べた限りでは最も蓋然性の高い推論ね。この宇宙嵐と妨害電波で、調べられる範囲には限界があるのだけれど……』

 深刻な表情のダイアナが、ジャスミンの説にお墨付きを与えた。
 その言葉を受けて、マルゴが腕を組み、

「ウォルの居場所を私たちが常に把握出来ていたのも、エストリアが、連邦内のスパイ経由でお父様に情報を送っていた可能性が高いわね。ヴォルフが、上官の命令でウォルの体内に発信機を仕込んだのだと言っていたわ。怪しいのはその上官ね」

 冷静な調子で言った。敵方だったマルゴの言葉だけに、ひとかたならぬ真実味が含まれていた。
 マルゴの言葉を聞いて、ウォルが下腹の辺りを撫でさすった。

「その発信機とやら、虫下しでも飲めば出てくるかな?」

 配偶者であり婚約者でもある少女ののんびりとした意見に、妻であり未来の夫でもある少年は真剣な顔で、

「一度飲んだらもう外せないってことはないんだろうけど、虫下しで大丈夫かなぁ」

 こちらももしかしたら発信機を仕込まれているかも知れないから、やはりお腹に手を当てて不安そうな面持ちである。
 ケリーとジャスミンは込み上げる笑いを堪えるのに苦労した。何せ二人がお腹をさする様子が、育ち盛りの子供が二人、空腹に耐えかねて腹の虫を宥めているようにしか見えなかったからだ。

「とにかく、エストリアがこの国を攻め落とすメリットがあるとすれば、それは間違いなくトリジウムの奪取だ。その過程で、おそらくジェノサイドかそれに近い大虐殺が起きる。我々はそれに対してどう行動するのか。まずはそれが問題だな」
「そんなの考えるまでもないわ」

 ジャスミンの問題提議に、間髪入れずに答えた者がいた。
 マルゴであった。

「相手はそこらのごろつきじゃないわ。超大国エストリアの正規軍よ。あなたたちがどれだけ強くても限界がある。命が惜しければさっさとこの星を離れなさい」

 そう言って立ち上がり、ドアの方に向けて歩きだした。
 その背中にケリーが問いかける。

「どこへ行く?」

 マルゴは振り返ることなく答えた。

「決まってるでしょう。わたしはヴェロニカ共和国の軍人よ。この国を守る義務があるわ。そしてわたしはその義務を全うするだけ。それじゃあ、短い間だったけど楽しかった。本当にありがとう」

 マルゴの小さな体が、閉じられたドアの向こうに消えた。



[6349] 第八十四話:終幕、開幕
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/09 00:05
 ケリーとジャスミンは、ケリーに割り当てられた私室で、膝を合わせるようにして椅子に腰掛けていた。
 それほど狭い部屋ではなかったのだが、規格外のサイズの夫婦であるから、みっしりとした肉体が部屋を内側から圧しているように見える。
 二人とも、しばらく無言であった。二人がこの部屋に入ってから、既に半時が過ぎようとしているのに、どちらも一言すら話さない。
 ただ無言で、じっと相手の目を覗き込んでいる。それは、相手の瞳に映った自分自身と対話をしているかのようだった。
 二人にとって、沈黙は苦痛ではない。必要がなければ、一日でもこのままの姿勢でいるだろう。

「黙っていても始まらないぞ、海賊」

 しかし今は、時間は何よりも貴重だ。例えどんな選択肢を選ぶのだとしても。
 それが分からないケリーではない。
 まるで、酸化してしまったヴィンテージワインを口に含んだように、ケリーは苦笑した。

「ああ、あんたの言う通りさ、女王。そして、あんたに言われるまでもないことさ、女王。選択肢は決まってる。あらためて口に出すまでもねぇ」

 ジャスミンは無言であった。
 じっと、自らの夫の、琥珀色の瞳を眺めている、。
 ケリーの、二つの瞳の片方は自前のものだが、もう片方は義眼だ。そのきっかけは、ケリーが全てに裏切られ、全てを失った、ウィノアの虐殺と呼ばれる事件である。
 ケリーはあの時、全ての仲間を殺された。その中には、マルゴ・エヴァンスという、ケリーにとって初恋の少女がいた。
 そして今、ケリーが何を思うのか。その義眼に何が映り込んでいるのか。ジャスミンには伺い知る術はなかった。

「まったく、つくづく俺たちは疫病神と縁が切れないらしい。エストリアの正規軍だ。しかも、艦隊規模。映画のヒーローなら、たった一人で悪役を片付けちまうんだろうぜ。怒りか悲しみかで、秘められた力に目覚めてな」
 
 くつくつと、ケリーは笑った。その力無い笑みは、極々稀にしかないことだが、わざと酒に呑まれたケリーが浮かべる、破滅的な微笑に似ていた。

「例えば女王、クーアカンパニーの全警備艦隊をこの星に結集させてヴェロニカ軍と一緒に戦ったとして、勝率はどれくらいだろうな」

 ジャスミンは毛の先程も表情を動かさず、

「その過程に意味は無いな。宇宙嵐と妨害電波の影響で、我々には外洋宇宙より先と連絡をとる術が無い。万が一その手段が確保出来たとしても、警備艦隊を集結させる時間が無い」

 ケリーが、鼻を一つ鳴らした。

「それでもさ。万が一で駄目なら、億が一の確率でそれが成功したとして、勝てるか勝てないか。それを聞いてるのさ」
「……デビュー戦で世界王者に挑戦したボクサーが、果たしてチャンピオンベルトを奪取することが出来るのか。お前はどう思うね、海賊」
「成功したのなら、きっとこう言うんだろうな。奇跡ってよ」

 中央から遠く離れ、危機といえばテロリストか宇宙海賊程度しか存在しないヴェロニカ軍と、マースをはじめとした他国との戦争を常に想定し訓練してきたエストリア軍では、その装備も練度も桁が違う。
 もしケリーの言葉通り、クーアカンパニーの警備艦隊をヴェロニカ軍と合流させることが叶えば、数の上ではエストリア宇宙軍半個艦隊と拮抗出来るかも知れない。
 しかしそれは文字通りの烏合の衆であり、緻密な連携と最新鋭の武装を備えたエストリア宇宙軍にとっては好餌以外の何物でもないだろう。巧妙に誘い出され、分断され、各個撃破されるのが目に見えるようだ。
 純粋な戦力でもってエストリア軍を撃退するなど、どだい無茶な話なのである。それを、ケリーもジャスミンも心得ている。

「で、どうするんだ海賊。逃げるのか。それとも戦うのか」

 ケリーは答えない。答えず、乾いたにやにや笑いを続けている。
 ジャスミンはため息を一つ吐いて、

「一つ、教えておいてやる。連中は、この星の大清掃に毒ガスを使うつもりだ。そして、ガスの名前はGUSOHⅡ。毒性は強力無比、人間が吸えば一呼吸で死に至る。しかし自然分解は早く、一週間もすれば無毒化される。まるで、こういった任務のために開発されたような毒ガスだ」

 ジャスミンの瞳が、僅かに金色の輝きを帯び始めた。
 ケリーは、ちらりとその瞳を見やった。

「どこかで聞いた名前だな、その毒ガスは」

 ジャスミンは頷いた。
 
「そうだ。ウィノアの虐殺で使用されたGUSOHの改良版だ」
「どうしてあんたが、この作戦で使用予定の毒ガスの名前まで知っている」

 ジャスミンはほんの少しだけ躊躇い、

「……ダイアナが調べた。この最悪とも言える電波状況で、必死になって調べたのだと思う。その上で、この事実をお前に教えるかどうかは私に任せると、そう言ってくれた」

 ジャスミンは、ダイアナから託されたのだと思っている。ケリーの、最も弱く最も辛い記憶に触れる権利と義務を。
 ダイアナの気持ちを思うと、涙が零れそうになる。いったいどんな想いでその役目を他人に託したのか。

「お前は、全てを知ったうえで決断を下す義務がある。そして私には、妻としてお前の決断を知る権利と義務がある。さぁ、お前の決断を教えてくれ」

 ジャスミンの情け容赦ない言葉に、しかしケリーは反応しない。
 ただ無言で天井を見上げているのだ。
 その様子を見たジャスミンが、瞳を金色にしながら口を開いた。

「仕方ない。海賊。そこに立て」
「……どうしてだい?何だか嫌な予感がするんだがな」
「しかし、こればかりは仕方ないぞ。お前の選ぶ選択肢が何であったとしても、仕方ない事なんだ」

 ケリーは天井に向けて細い息を吐き出し、そして立ち上がった。
 ジャスミンも、ケリーに続けて立ち上がる。そして宣言した。

「これから貴様を殴るぞケリー・クーア。避けることは許さん。きっちり歯を食いしばれ」
「アイアイサー」

 気のないケリーの返事が終わるや否や、ジャスミンの鉄拳がケリーの左頬に突き刺さり、夫の巨体を部屋の壁まで吹っ飛ばした。
 船全体が揺れるような、容赦ない一撃であった。
 普通の男ならば意識不明のまま救急車で運ばれ即入院という一撃に、しかしケリーは苦笑いを浮かべながら口の端に浮いた血を拭っただけだった。

「痛ぇなぁ、あんたの拳は相変わらずよ」

 ジャスミンは、右拳をひらひらさせながら、

「そういうお前は相も変わらず頑丈だ。結構本気で殴ったのだが、そうもケロリとされると自信をなくしそうになる。おまけに拳を痛めたぞ。お前の骨格は超合金製か?」
「ケロリとしてるように見えるなら、俺の痩せ我慢もまんざら捨てたもんじゃないらしい」
「ああ。あとは、その震える膝小僧を誤魔化せれば完璧だな」

 ケリーは、震える膝をしゃんと伸ばし、吹き飛んだ椅子を元に戻して腰かけた。

「で、理由を聞いていいのかな?」
「理由?」

 ジャスミンが不思議そうに聞き返した。一言の説明も無く人を殴っておいて、何とも無邪気な有様である。
 並の人間であれば、この時点で怒り心頭に達していて当然だ。理不尽な暴力に晒された、それが普通の反応である。いや、本当に並の人間であれば怒りたくても怒れない状況にあるのかも知れないのだが。
 しかし、ケリーは恨みがましげにジャスミンを見上げただけだった。

「どうして俺は殴られなくちゃならなかったんだい?」

 ジャスミンは一つ頷いた。ケリーの質問に、どうやら答えるつもりはあるらしい。顔の前に指を三本立てて、

「まず一つ。お前がこの星から尻尾を巻いて逃げようとしている場合。私は、初恋の少女を見捨てて敵前逃亡を図るような軟弱者を夫にした覚えは無い。つまりお前は偽者ということになる。だから殴ってみた」

 指が一つ折られた。

「次に、お前が戦うことを選んだ場合。これは、更に二つに場合分けされる。つまり、私を連れて行くケースと、置き去りにするケースだ。そのうち、私を置き去りにし自分だけで戦いに赴こうとしているなら、先ほどの府抜けた様子は、私に愛想を尽かさせるための擬態ということになる。私は、私の身の安全をお前などに預けた覚えは一度たりとてありはしない。私の命の責任は、ただ私にだけ帰するものだ。その点で、お前は私を侮辱したことになる」

 ジャスミンは二本目の指を折った。

「最後に、私を連れて戦いに赴こうとしているケース。この場合、先ほどの問答はただ無用な時間の浪費であり、お前の優柔不断は利敵行為以外の何物でもない。そしてその不要な逡巡は、つまり私の能力への不信であり、妻であり生涯を共にすると誓った私への裏切りだ。だから殴った。以上が、わたしがお前を殴った理由だ。何か質問はあるか?」

 そして三本目の指が折られ、ジャスミンの手は大きな握り拳となった。
 その様子を、目を丸くしながら眺めていたケリーは、右手で顔を多いながら、肩を震わせて笑った。

「いや、残念ながらあんたの意見は一々正しいみてぇだ。反論の余地もありゃしねぇさ」

 当たり前のことを言うなとばかり、ジャスミンが鼻を一つ鳴らした。
 ケリーは立ち上がった。そうすると、ほんの僅かだが、ケリーの視線のほうが高い。
 
「だがな、敢えて言わせてもらうなら、俺が迷っていたのはそんなこんなことじゃない」
「ほう。では、何をぐちぐちと迷っていたのか、聞かせてもらうとしようか」

 ギラリとしたジャスミンの視線を受けて、しかしケリーは皮肉げに頬を歪め、

「マルゴは確かに、俺が初めて惚れた女だよ。だから、あんたをどうやって口説き落とそうかと思って悩んでたのさ。仮にも、あんたは俺の妻だろう?」
「仮にもとはご挨拶だな」
「言葉の綾ってやつさ。とにかく、あんたにはマルゴを助けるために戦う理由はない。だが、あんたの力を借りずにこの戦いに勝つ算段が俺は立たない。つまり、俺はどうにかしてあんたを言いくるめてその気にさせなきゃならんわけだ」
「なるほど」
「さて、一つ尋ねるんだが女王、妻に、夫の初恋の女を助けるために命をかけさせる。そんな魔法の言葉を、あんたは聞いた事がないかい?」

 一瞬呆気に取られたジャスミンが、生真面目ば顔になって、

「さぁ、そんな状況自体、見たことも聞いたこともないから何とも言えんな。ただ、今はお前が一番愛してるんだ、とか、俺を信じてついて来い、とか、そんな舌先三寸の台詞でもって丸めこむものなんじゃないのか?」

 今度はケリーが目を丸くする番だ。端正な顔に驚きを貼り付け、しかしそれがだんだんと不敵な笑みに塗りつぶされて行く。

「じゃあ女王。俺は、俺の思い出の女を助けるぜ。おそらく、生き死にの戦いになる。それでも、今の俺にはあんたが一番だ。だから俺を信じてついて来い」

 ジャスミンは涼しい顔で頷いた。

「当然だ。夫の昔の想い女を助けるために命を賭ける。これぞ女冥利に尽きるというやつだな。喜んで助太刀させてもらうさ。なんだ、本当にそんなことで悩んでいたのか。殴って損をした」
「おいおい、殴られたのは俺だぜ。その言い草はねぇんじゃねぇか?」
「わたしも拳を痛めたんだ。文字通り痛み分けということにしておけ」

 ジャスミンはケリーに手を差し出した。ケリーは何の衒いも無くその手を取る。
 手のひらから伝わる、力強い熱。その灼熱たる様子は、今までケリーの手を握った如何なる男よりも激しかった。
 ジャスミンはひょいとばかりにケリーの巨体を引き起こし、

「しかし海賊。本当に勝算はあるのか。それとも、マルゴだけを助けて逃げるつもりか」

 ケリーはにやりと頬を歪めた。

「やるからには半端な真似はしねぇよ。俺とあんたで、エストリア宇宙軍一個艦隊をとっちめてやろうじゃねぇか」

 ジャスミンが口を開きかけた時、部屋のテレビ画面に光が灯り、妙齢の美しい女性が映し出された。
 その挑戦的な笑顔を、誰と見間違えるはずもない。
 ダイアナが、似た者同士の夫婦に笑いかけながら、

『あらあらお熱いわね。ひょっとしてわたし、お邪魔虫かしら。貴方たちが仲良く戦っている間、一人寂しくお茶でも飲んで待っていればいいの?』

 ケリーが慌てて、

「ちょっと待てダイアン、そいつは困る。とても困る。お前の力無しでエストリア宇宙軍とどんぱちなんて出来るわけねぇじゃねぇか。心臓に悪い冗談は無しだぜ」

 ダイアナが画面の向こうで、口を手で抑えながら笑っていた。その可憐な様子を見て、いったい誰が彼女を感応頭脳だと見破ることが出来るだろう。
 二人(?)のやりとりを眺めていたジャスミンが、億劫そうに溜息を一つ吐き、

「悪いのはお前だな、海賊。さっさと謝って許しを乞うがいい」
「じゃ、こう言えばいいんだな?俺とダイアンとあんたとで、エストリア宇宙軍をぶっ飛ばすぜ。今の俺にはあんたらが一番だ。四の五の言わずについて来やがれ」



 そして、ケリーとジャスミンが食堂に戻ったとき、彼ら以外の全員は既に揃い、席に腰掛け二人を待っていた。 

「悪い、待たせちまったらしい」 

 大して悪びれるふうもなくケリーがそう言い、大柄な体を椅子に沈めた。左頬が赤く染まり唇の端に血が滲んでいるが、そのことには誰も触れない。 
 ジャスミンもそれに倣う。下船したマルゴを除いて、全員がこの場に揃ったのだ。 
 誰が最初に口を開くのか、探るような空気が一瞬流れたが、それを打ち破ったのはケリーだった。 

「しちめんどくさい腹の探り合いは無しだな。まず、俺は戦おうと思ってる。この星がどうなろうと知ったことじゃないが、マルゴは俺が昔惚れた女だ。正確に言うなら、惚れた女のクローンだ。例え遺伝子から複製したクローンだったとしても、あいつはマルゴに違いないんだ。もう、二度と見捨てるつもりはない」 

 ケリーの強い言葉に続き、ジャスミンが、 

「わたしも夫に付き合うつもりだ。まず、軍人が、守るべき無辜の民衆を虐殺しようという気概が気にくわない。それに、夫を助けるのは妻の義務だからな」 

 赤毛の前髪を掻き上げながらそう言った。 
 言葉は気楽なものだが、表情は流石に緊張を帯びている。無理もない。相手は田舎海賊の一味程度ではないのだ。歴とした、エストリア正規軍の一艦隊である。練度も武装も、ごろつき海賊どもとは桁が違う。ごろつき海賊を痩せ犬とするなら、エストリア正規軍は獅子か猛虎か、はたまた巨象か。 
 いずれにせよ、いかに卓越した操船技術と戦闘能力を誇るケリーとジャスミンであっても、まともに戦って勝ち目のある相手ではない。圧倒的な火力と物量の前に磨り潰されて果てるだろう。 
 それが分からない二人ではない。ならば、敢えて戦うという選択肢を選んだということは……。 

「勝ち目があるのか」 

 短く鋭い問いは、リィのものだった。翠緑石のような瞳は、炎を孕んだような烈気で輝いている。少年が少女だったとき、一軍を叱咤する戦女神だったときの瞳の色だ。 
 ケリーは、その瞳を向けられ、少しも怯むことなく頷いて見せた。 

「勝ち目の無い殺し合いに参加する奴は、自殺志願者かそれとも頭の線の切れた異常者だけだぜ。そしてリィ、俺はまだ、そのどちらでもないつもりだ。もちろん、女王も含めてな。最初から死ぬのが分かってる戦なんて誰が参加するかよ、それならすっ飛んで逃げ出すさ」 

 飄々とした言葉に、むしろリィは頷いた。リィは、勝ち目の無い戦いに参加するのを、例えば男気だとか覚悟だとか破滅の美だとか、そういう訳の分からない言葉で誤魔化すことを好まない。 
 勝ち目がないと分かっているなら逃げるべきだ。生きてこそ再戦の機会もあるのだし、名誉挽回の機会もあるだろう。無論、生きて恥辱に塗れるのは苦しい。それよりは、目前の死に飛び込むほうが楽なこともあるだろう。しかし、それはただの逃避でしかないのだとリィは確信していた。 
 つまり、目前の敵から逃げるのか、待ち受けているだろう苦しい未来から逃げるのか、そのどちらかでしかない。どちらを選んでもそれが逃げることならば、より建設的な方向に逃げるべきだ。 
 リィは、きっとケリー達も同じ考えを持っているのだと確信していた。彼らが、英雄的破滅願望の精神的罹患者であるとはどうしても考えにくい。どうにも酔狂に見える二人だが、だからこそ根底には現実的で粘り強い精神が息づいているはずなのだ。 

「ケリーとジャスミンがそう判断したなら、おれも逃げるのは無しだな。だいたい、おれとルーファを出汁にして旨いところを掠め取ろうっていうエストリアのやり方がいけ好かない。どうしたって一泡吹かせてやらないと気が済まないじゃないか」 



 テセルはまんじりともせず、薄暗い天井を見上げていた。
 遠く、虫の鳴き声が聞こえる。夜の帳は降りて久しく、じきに明ける。朝が来る。誰もそれを望んでいなくとも。
 果たして自分は、この星は、どうなるのだろうか。不安と焦慮と無力感に苛まれたテセルは、何度目か知れない寝返りを打った。何が恐ろしいのではない。明日が、ただ不安なのだ。
 テセルの、固く閉じられた瞼の裏に、自らが師と仰いだ老人の死に様が焼き付いていた。
 少女の、無表情に突き出した切っ先が、ビアンキの薄い胸板を貫く。自分はあの時、何と叫んだのだろう。あの後、何をどうしたものか、全く覚えていない。どうして今、寝床にいるのか、それすらが不思議だった。
 そもそも……あの光景は、本当に現実だったのだろうか。いや、近頃自分に起きた全ての出来事が、曖昧模糊として、まるで胡蝶の夢のように思えてしまう。もしかすると自分は悪夢の中にいて、目が覚めればいつもの朝が訪れ、いつも通りの修行が待っているのではないか。
 違う。そんなはずはない。あれは、全てが紛れもない現実だ。ならば、それを否定することは、ただ逃避というだけではない。命を賭してヴェロニカの教えを守った、ビアンキ老師への侮辱だ。
 しかし、あれが現実に起きたことならば、明日からは蜂の巣を突いたような騒動の渦中に、自分は放り込まれるに違いない。その嵐を、俺は、そしてヴェロニカ教は乗り越えることが出来るのか。それとも、海の藻屑と成り果てるのか……。
 眠れないことなど、分かっている。それでも眠ろうと、ゆっくり深く、息を吐き出した。空気が、どこか甘ったるく、果実の腐敗したような匂いがする。粘ついたそれが、肺に籠もり、上手に吐き出すことが出来ない。
 目眩を覚えたテセルがむくりと体を起こしたとき、信じられない光景がそこにあった。
 己の足下に、ぼんやりと立ち尽くす人影。まるで骸骨のように、痩せ衰えた体つき。
 どくりと心臓が一度跳ね上がり、声が喉元までせり上がったが、口から出たのは恐怖ではなく驚きと歓喜の声だった。

「ろ、老師……!」

 そこにいたのは、紛れもない、昨晩の儀式で、生け贄である少女の剣によって心臓を一突きにされた、ビアンキであったのだ。

「老師、何故ここに……?いや、そも、生きておられたのですか!?ならば、今すぐ皆の衆を……!」

 喜び勇むテセルに、しかしビアンキは微笑みながら首を振った。

「いや、それには及ばぬ。テセル、良くお聞き。これは夢じゃ。儂は、既にこの世の者ではない。それは、誰よりもお主が一番理解しておるじゃろう」

 テセルは言葉を飲んだ。ビアンキの言葉の通りであった。彼の心臓に切っ先が突き立った光景を、誰よりも近くで見たのはテセルだったのだ。
 
「儂は地獄に落とされて当然の身。しかし、彼らが、ほんの一時の猶予を与えてくれた。有り難いことではないか」
「彼ら……とは?」
「お主をあの祭壇へと導いた、天使達じゃよ。彼らの温情をもって、儂は今、お主と話しておる」

 天使。確かに、口を開きさえしなければ、あの子供達はそう評して過分でないほどに美しい顔立ちをしていた。
 しかし、それはあくまで外見だけの話である。
 もしもビアンキの語ることが正しければ、彼らは本当に、死者の魂を自在に操ることすら出来るということか。
 それは、神にのみ許された所業ではないのか……。

「老師。お言葉ですが、私はどうしても、老師の仰ることを信じることが出来ませぬ。彼らは、確かに決して並の人間ではなかった。それは認めましょう。しかし、同時に彼らは人間でした。決して、死者の魂を己が意のままにするような、そのような冒涜を犯すような存在には見えませなんだ」

 ビアンキは、笑みを崩さないままに頷いた。

「彼らは恐るべき存在ではあるが、恐ろしい存在ではない。儂の魂も、乞うて今ここにおるだけで、彼らがそれを利用しようとしたことなど、一度だってありはしない。それを間違わぬようにな」
「はっ……」
「ふふ……しかし、このようにお主と話していると、昔日を思い出してしまっていかん。儂がここにいるのはもっと差し迫ったことのためなのに、いつまでもこうしていたいと思ってしまう……」

 そう言ったビアンキの目に、涙が湛えられていた。
 テセルは、例えようのない罪悪感に襲われた。この、無上の師との離別の責めは、全てが自分に帰するのだ。

「老師……私は、私は……」

 跪き、肩を振るわしたテセルに、ビアンキは、

「今は儂の影に縋るのもよかろう。しかし、お前が一人で立たねばならぬ時が、今、そこに差し迫っておる。心して聞け、テセル。ヴェロニカ教に、いや、この星そのものに、未曾有の危機が訪れるじゃろう。我らにはその危機を迎え撃つ義務があり、お主にはその責任がある……」



「これはこれは、お久しぶりでございますな師匠。どうされましたか、黄泉路の道行きが、一人では心細くなられましたか」

 寝台から体を起こした老人は、闇に輪郭の滲んだビアンキの姿を見ても、露程も動じず、晴れやかに笑いながらそう言った。
 ビアンキの矮躯が、かつての弟子の堂々たる様子を見て、震えるように笑った。

「相も変わらずじゃなカスパー小僧。お主は一際手のかかる弟子じゃったものなぁ」
「昔話ならば、私がそちらに行ってから心ゆくまで出来るでしょう。老師、あなたがここに現れたのは、まさかそのような些末事のためですか?それとも、最後のお別れとやらをしにわざわざここまで?もしかすると、私を道連れにするおつもりでしょうかな?」

 恩人の亡霊によくぞここまでという発言であったが、ビアンキはむしろ嬉しげであった。
 かつての愛弟子が、変わらずにいてくれた。それが嬉しいのかも知れない。

「ありがとう、カスパー小僧。儂は、お主のような人間を弟子に持つことが出来た。それだけで、天の国で胸を張ることが出来よう」
「なるほど、つまりあなたは厄介事を私のところに持ってきたらしい。あなたが私を褒めるのは、決まってそういう時でしたからな」

 不敵に笑った老人の目尻に、光るものがあった。
 その雫に気が付いているのか否か、ビアンキは頷き、

「お主の言うとおりだ。いいか、よく聞いておくれ。これは、この世で儂がする、最後の願いじゃ。お主には、どうしたとしても大きな迷惑がかかるじゃろう。それを、儂はお主に強いねばならぬ。許してくれとは言わぬ。いつかお主が儂と再会したとき、如何様にでも儂を罵るがよい。それでも、たった今だけは、その耳を傾けておくれ……」



 暁闇を最初の陽光が照らし出す頃合いであった。
 昨晩からヴェロニカ宇宙軍アーモン基地の検問所に詰めている兵士は、生欠伸を噛み殺しながら青みがかる空を眺めていた。最近は夜明けも早まり、また朝方の冷え込みも、寒さから涼しさへと変化しつつある。
 暑さが近づいてきているのだろう。暑さの盛りの訓練は、中々に堪えるものだ。嫌な季節がやってくる。兵士は溜息を吐き出した。こればかりは神頼みも通じないのだ。当然、厳しい上官は神よりも無慈悲である。
 ぼんやりとそんなことを考えていた兵士の視界に、薄い砂煙が遠くで立ちのぼっている様子が見えた。
 何かがこちらへと向かって来る。
 流石に眠気を吹き飛ばし、背筋をしゃんと伸ばして双眼鏡を覗き込むと、こちらへと向かって来るのは軍用のトラックだった。
 ヴェロニカ軍で正式採用されているその車両には、遠目では偽造とは思えない認識票が張り付いている。無論、精巧な偽物はいつも時代も識別者を悩ますものだから、油断など出来ようはずもないが。
 果たして現在、この基地がテロ行為の対象となる可能性は如何ほどか。不吉なことを考えつつ、兵士はトラックに停止の合図を送った。
 トラックは重厚な門扉の直前で完全に停止し、検問所側のドアガラスを下げた。

「所属と認識番号、そして姓名と階級を」

 そう言った兵士だったが、直後に、思わず顔に出るほどの驚きを味わった。それでも眉を一筋動かしただけで済んだのは、日頃の弛まぬ鍛錬の賜だろうか。
 トラックを運転していたのは、少女だった。まだ、高等教育も修了していないだろう、幼い少女。当然のことながら入隊資格を満たしていよう筈もない。
 しかし、直後、兵士は思い出した。ヴェロニカ軍には、大統領虎の子の特殊部隊があり、その構成員は年端もいかない少年少女だということを。
 
「大統領直属特殊部隊所属、W-S1232500、マルゴ・レイノルズ中尉よ」

 手持ちの携帯端末に情報を端末に叩き込むと、まさしく目の前の少女の顔が画面に現れた。
 センサーが感知した電子認証式個人識別タグも、少女の身分を証明している。
 兵士は慌てて敬礼した。子供とはいえ、中尉階級など雲の上の存在だ。

「失礼しました。どうぞお通りください」

 少女は軽く頷き、門扉のゆっくりと開かれる様子がもどかしいように、トラックを急発進させて基地の中に消えた。
 門番を務める兵士はその姿を見送り、溜息を一度吐き出した。
 一方のマルゴは、ハンドルに寄りかかるようにしながら安堵の息を吐き出した。
 下手に潜入を試みるよりも、寧ろ堂々と正面から乗り込むべきである。そう判断したのは、部隊長であるマルゴであった。自分達は、正式なヴェロニカ軍人であり、ヴェロニカ共和国を守るためにこれから命を賭して戦おうというのだ。どうして卑屈なコソ泥のように、電撃有刺鉄線の切れ目を探して這いずり回らなければいけないのか。
 しかし、そういった自負は別にして、危険は確かに存在した。もしも大統領の死が公にされ、さらにそのお抱え部隊であった自分達の軍籍が剥奪でもされてしまえば、門前払いを喰らうのは間違いない。それどころか、身柄を拘束される可能性すら存在した。
 賭けではあったのだ。そして、それに勝利した。やはりアーロン・レイノルズの死は、少なくとも限られた上層部を除けばまだ極秘事項らしい。
 それはそうだろう。ヴェロニカ教でも最も神聖な筈の儀式の最中に、この国の最高権力者が、あのように異常な死に方をしたのだ。事実を事実として発表すれば、少なからぬ混乱が起きるのは目に見えている。そして、事実を虚構で糊塗しようとすれば、それなりの時間が必要になるものだ。
 トラックは程なくして、大型の格納庫の前に停止した。軍の中でも極秘扱いをされている兵器を格納している場所だ。当然、警備の厳重さは他とは比べものにならない。本来であれば中尉階級の人間には立ち入る事の出来ない場所であるが、マルゴに与えられたアクセス権はそれを可能とした。
 何故なら彼女達は、その兵器の操縦者なのだから。
 TYPHON零型試作機。
 クーアカンパニーの軍事部門が極秘裏に開発した、宇宙戦闘を念頭にした大型機甲兵である。
 超々小型化に成功したクーアシステムの搭載されたジェネレーター。搭乗者の神経組織と機体を直接繋ぐ新しい操縦システム。20センチ砲なみの威力を備えた荷電粒子ライフル。共和宇宙の水準から言えば一歩も二歩も遅れているヴェロニカ宇宙軍の兵装の中で、唯一の超最新鋭の兵器といえる。
 これならば、エストリア軍を相手に、半泡くらいは吹かせることも出来るだろうか。
 マルゴは苦笑した。どう考えても、出来るはずがない。四方を埋め尽くす艦隊の砲撃に、一瞬で蒸発するのが関の山だろう。
 それでも構わない、と、マルゴは思った。
 自分を造り、そして育ててくれた父はもうこの世にいない。同時に、自分の生きる意味の大半も失われたのだ。それを新たに見つけることも出来るかも知れないが、その道程が、マルゴにはあまりに果てしなく思える。
 だから、最後に残された己の証、ヴェロニカ軍人として死のう。それが彼女の辿り着いた結論であった。
 その結論に辿り着いたとき、マルゴはむしろ晴れ晴れとした感情を覚えた。頭の内側に張り巡らされた蜘蛛の巣が一息で取り払われ、燦々とした陽光が差し込んだようだった。もう思い煩う必要がないというのは、自由と同義だった。
 そして、それは彼女の友人であり、兄弟であり、そして戦友である少年少女も同じだった。

「ねぇマルゴ、上手く行ったの?」
 
 荷台から、おそるおそるといった調子の声がした。
 声の持ち主も、マルゴと同じくらいの年の頃なのだろう、何とも幼い声だ。到底、軍の基地の中で聞こえるべき声ではない。
 
「ええ、アネット。とりあえずは第一関門は突破といったところね。もう、銃はしまってもいいわよ」

 ほう、と安堵の吐息が漏れる。

「よかった。今からするのはわたしたちの我が儘なんだもの。そのために誰も殺したくなんてなかった。それに、仮にもわたしたちの仲間なんだし」
「仲間だって?あの、のろまで愚図な亀どもが?あいつらがもう少しマシな頭を持っているなら、俺達がこんなことをしないでも済むんだ。あんな連中と仲間扱いされるなんて怖気が走るぜ」
「ザックス、それは言い過ぎよ。わたしたちが全滅した後、この国を守るのは彼らなんだから。あまり貶すとわたしたちが死に損じゃない」
「それはそうだけどさぁ……」

 唇を尖らせた少年の、なんとも不服そうな声がマルゴの苦笑を誘った。
 エストリア軍がこの星に攻め込み、住民の虐殺を計画している。その情報を、当然のことながらマルゴは上官に伝えた。
 そして、当然のように、上官はマルゴの訴えを一笑に付した。
 無理もないことである。マルゴの情報は、ダイアナやリィからの伝聞であり、具体的な証拠の一つもないのだから。
 そも、戦乱をほとんど経験したことのないヴェロニカ軍の監視網は、他国と比べれば浅く目が荒い上、最近の宇宙嵐の影響か、監視衛星もほとんど役に立たない。そんな状況ではヴェロニカ軍がマルゴの情報の正誤を確認することなど出来よう筈もないし、軍が確認できない情報を何故マルゴ個人が持ち合わせているのかを疑問視するのが当然である。
 第一、マルゴの言うところの残忍なる侵略者であるエストリア軍は、長年ヴェロニカの最友好国なのだ。どうしてそのエストリアが、何の前触れもなくヴェロニカに牙を剥くのか。そんなことをして何の得があるというのか。
 そう詰問された瞬間、マルゴはこれ以上の説得の無意味を悟った。エストリアがヴェロニカを占領する危険性を説明するならば、この星に埋蔵された膨大な量のトリジウムの存在を立証しなければならない。
 それ自体は不可能なことではないが、きちんとした地質学上の調査を行い、トリジウムの正確な埋蔵量を計算して証明し、エストリアの侵略の動機を裏付けるまで、いったいどれほどの時間を浪費するのか。その間に、きっとこの星の住人は一掃されていることだろう。
 マルゴは折り目正しく敬礼し、侮蔑塗れの冷笑を背中に感じつつ、上官の部屋を退出した。扉を後ろ手に閉じた瞬間、既に上官の不快な笑みは意識の底に沈めている。
 結局、自分達だけで戦うしかないのだろう。勝ち負けの戦が出来ないことなど百も承知だ。それでも、戦闘行為が惑星ヴェロニカの近接した宙域で行われれば、平和ぼけした軍上層部も異常に気が付くかも知れない。無論、気が付いたところでエストリア軍は強大であり、ヴェロニカ軍の勝ち目など万に一つあればいいほうだろう。
 だが、今のままでは万に一つも勝ち目はなく、惑星ヴェロニカは死の星となる。
 マルゴは、国家に忠誠を誓った覚えはない。忠誠の対象だったのは常に一人の人間であり、彼は既に黄泉の国へと旅立った。自身を父親と呼び慕う数多くの子供達を残して。
 それでも、自分に残された最後の記号が軍人であることならば、この国を守るために死ぬのが最も筋道正しく、誰に後ろ指も指されない死に方なのではないだろうか。
 その考えを、マルゴは自分の兄弟達に伝えた。戦いを、その先にある不可避の死を強制するつもりはなかった。アーロンが死んだ時点で、自分達が軍にいる意味の大半は失われたのだ。除隊を希望する者がいれば希望を叶えてやろうと思った。
 そして、今、トラックの荷台には、彼女の兄弟が全て揃っている。誰一人として、除隊を、希望に満ち溢れる明日を選ばなかった。
 つまり、そういう生き方しか出来ないのだ。そういう生き方が、死に方が、安楽であると、そう魂に刻まれて生まれてきた欠陥品なのだろう。
 マルゴは、名状しがたい清々しさを覚えていた。もしかしたら運命に対する皮肉や神に対する怨嗟もあったかも知れないが、それは彼女の心の極々一部を占領していたに過ぎない。ある目的のために作られた道具は、その目的が失せた時に役目を終えるべきだ。それが一番しっくりくる。

「もうすぐよ、みんな。準備はいい?」

 マルゴの問いかけに、無言の頷きが気配で伝わった。
 厳重なセキュリティ確認を終えたトラックは、既に格納庫の中に入っている。このまま電撃的に格納庫を占拠し、TYPHON零型試作機を根刮ぎ奪取。どうせ自分達にしか操縦出来ない機体だ。無くなっても誰に迷惑がかかるものでもない。
 そして、奪取した機体を駆り、最寄りの宇宙港を占拠し、停泊中の高速型の貨物船を拝借してエストリア軍を迎え撃つ。
 マルゴはトラックを停止させ、ホルスターから拳銃を引き抜き、慎重な動作で運転席から地面に降りた。同時に、荷台から完全武装の兄弟達が姿を現す。
 頷いたマルゴは壁に設置されたパネルに暗号を打ち込み、格納庫へ至る最後のシャッターを持ち上げた。
 
「行くわよ」

 部隊を先頭で率い、マルゴは格納庫に突入した。
 そして、直後にその足を止めた。
 
「どうした、マルゴ?」

 マルゴのすぐ後ろに続いていたザックスが、奇異を感じて問い質すと、マルゴが呆然と呟く。

「……無い」
「無いって、一体何が……」
「TYPHON零型が……全部……無くなってる……」

 部隊の全員が、はっとした様子で辺りを見回す。
 確かに、TYPHON零型が、一台も無い。本来、機甲兵が納められているはずの整備台には空しいスペースがあるだけで、TYPHON零型の黒い機体はどこにも無いのだ。
 どうして。誰が。作戦が漏洩した?いや、それならば基地の入り口で身柄を拘束するはずではないか……。
 マルゴは瞬時に思考を展開させたが、結論はただ一つだ。この作戦は失敗である。失敗したからには、速やかにここから脱出しなければ……。

「おい、貴様らそこで何をしている!」

 突如、大音声と共に投光器の激しい光がマルゴ達を捕らえた。
 視界を真っ白に染められ、一瞬、思考力を奪われる。しかし激しい訓練は、非常時の対処法を反射の域にまで刷り込む。マルゴは銃を抜き、投光器の方に向けて構え、そして……。

「待て待て、冗談だ冗談。その物騒なもんをしまいな」

 今度は、明らかに笑いを含んだ声だった。
 どこかで聞き覚えのあるその声に、ぎりぎりのところでトリガーを引く指を止めたマルゴは、銃を庇にして投光器のある方を見遣る。
 そこには、男がいた。巨体の男。そして、その隣には、赤毛の、男と比べてもおさおさ見劣りしないほどに巨体の女。
 見間違えるはずがない。
 ケリーとジャスミンが、そこにいた。



[6349] 第八十五話:戦う者達
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/11 21:11
 マルゴは正しく不機嫌を絵に描いたような有様だった。

「さて、どういうことか、説明してくれるかしら?」

 詰問したマルゴであり、されたのはケリーであった。
 それは、何ともちぐはぐな光景であった。
 年少者に問い詰められる年長者。少女に許しを乞う大の男。反逆者が憤然と腕を組んだ取調室。
 
「いや、だから悪かったって言ってるだろ。冗談が過ぎたぜ、このとおりだマルゴ、そう怒るなよ」

 手を合わせたケリーだったが、その顔が微妙ににやついているのをマルゴは見逃さなかった。本当に心底反省している人間の頬が、どうしてこうも緩んでいるのか。
 まだまだ文句は言い足りないし、喚き散らしたい怒りがあるのも事実だった。何せ、この男は自分達をピエロにしてくれたのだ。死を賭した反逆自体、子供っぽい動機であることを否定しようとは思わないが、それでも覚悟に対して著しく礼を欠く行いがあったのではないか。
 だが、いつまでもこうしていては話が前に進まない。別室で軟禁されている兄弟達が心配もするだろう。
 マルゴは、盛大に溜息を吐き出し、和解と諦念の合図とした。

「……あなたが申し訳なく思っているのは分かったわ。とりあえず、その話は横に置いておきましょう。で、あらためて、あなた達はどういうつもりなの?どうしてこの星に残っているのかしら?」

 ちらりと、ケリーの横に腰掛けたジャスミンを見遣った。ジャスミンは目を閉じ、深く椅子に腰掛けている。
 そして、その横。マルゴの見知った顔が、更に並んでいた。
 ヴェロニカ軍の最高幹部の一人である、カスパー・ヴォダルス将軍。軍でも随一の石頭として知られ、気難しいことで有名な彼が、どうしてこの場にいるのか。確か、この男は大統領派と反目し、中央からは半ば左遷されていたのだと聞いたが……。
 マルゴの瞳が不審に揺れたその時、ジャスミンが静かに目を開き、口を開いた。

「わたしから説明する。その前に、この男が迷惑をかけたな。一応、わたしは止めたんだが聞かなかった。決して君たちを侮辱する意図はなかった、許して欲しい」
「おい、女王、俺だけ悪者にする気かよ。だいたいあの作戦の立案者はあんたじゃねえか」
「だからといって投光器まで持ち出すのはやりすぎだ。わたしは、この子達があの新型機甲兵を奪取に来るだろうからそれを待ち構えるべきだと言ったんだ。それをわざわざああいうふうに演出する必要などあるものか」

 視線をケリーに寄越すことすらなく、ジャスミンは言い捨てた。そう言われてしまうと反駁の手段がないのか、ケリーは憮然とした表情で明後日の方向に顔を向けてしまった。
 
「そして、どうしてわたし達がこの星に残っているか、だったな。それは、君たちと協力して、悪辣なエストリア軍を撃退し、この星の住人に訪れるだろう惨禍を回避するためだ」
「……本気で言っているの?どうしてこの星とは無関係の、いえ、この星の住人に対して恨みを抱いていて少しもおかしくないあなたが、勝ち目のない戦いで命を落とそうと?こう言っちゃ悪いけど、あなた、正気?」

 ジャスミンは真顔で頷いた。

「正気だとも。正気でないのは、トリジウムなどというニンジンを目の前にぶら下げられて、揃いも揃って暴走する頭の悪い競走馬たちさ。ああいう輩には、特大の鞭でもって頬を張り飛ばしてやらんと、やって良いことと悪いことの区別もつかんのだ。そして、その走狗となり果てて軍人たる誇りを失った狂犬どもも気にくわない。気にくわない連中ばかりだ。そういう奴らが、この世は自分の思い通りだと勝ち誇る様を見たら、しばらく安らかに眠れなくなる。だから、君の手伝いをさせてもらいたい。どうだろう、その許可を頂けないか?」

 射貫くような眼光の女丈夫は、くすりとも笑わない、真剣な表情で言う。
 流石のマルゴも、咄嗟に一言も返すことは出来なかった。
 そのマルゴに、ケリーが、こちらは冷ややかな笑みを浮かべながら、

「その女が言ってるのは間違いなく本心だぜ。それでお前が納得できないなら、こういう理由はどうだい?俺達はこれでも小さな会社の社長みたいなもんなのさ。そして、この星にはたんまりとトリジウムが埋まっているんだろう?全てに片が付いて、この星のトリジウムが世間に後ろ暗いものじゃなくなったあかつきには、その流通販売の独占権をもらいたい。だから、差し当たってこの国には滅びてもらっちゃ困るのさ。こういう理由なら問題無いのかい?」
 
 問題の有無ではない。そも、戦いに身を投じれば、生きて帰ることなど出来るはずがないのだ。どれほど愚かな強欲者であっても、溶岩の海に沈んだ金貨を素手で掴もうとはしないはずだ。
 相手は、宇宙海賊程度ではない。正規の宇宙軍、それも超大国エストリアの誇る最新鋭の艦隊である。
 怪獣夫婦の正気を問おうと口を開いたマルゴの、機先を制するように、嗄れた声が、
 
「マルゴ・レイノルズ中尉」

 それは、さして大きくも鋭くもない声だったが、年少者であるマルゴの声を封じるだけの威厳が込められていた。
 老境に差し掛かり、身体からは以前の精強さを失ったカスパー・ヴォダルスであるが、白く染まった髪はなお豊かであり、口元の髭は良く整えられていて身だしなみにも隙がない。
 何より、少し眠たげな瞼の奥の眼光が、鋭くマルゴを捕らえていた。

「彼らは、戦略的に相手方の先制を許し、戦術的には極めて劣勢であり、彼我の戦力を比較すれば匙の一つも投げたくなるような我々に、協力を惜しまぬと言ってくれる。ならば、それを有り難く受けるのが唯一の選択肢に思えるのだが」
「……ヴォダルス閣下、失礼ですが、将軍たる階位を有する御方の発言とは思えません。彼らは民間人です。それも、ヴェロニカ共和国とは無関係の。どうして軍の作戦に、民間人を関わらせることが唯一の選択肢なのでしょうか」

 ヴォダルスは頷いた。

「正しく君の言うとおりだ、マルゴ・レイノルズ中尉。どれほど能力と識見のある民間人であっても、軍隊という組織の中でははっきりとした異物であり、作戦行動においては邪魔者以外の何物でもありはしない。また、作戦の詳細が彼らから漏れ出せば、作戦に関わる全ての隊員の命を危険に晒すことにもなりかねない。全くもって愚行の極みと言わざるを得ないだろう」
「仰るとおりです、閣下。では何故……」
「まず一つ。我らは絶体絶命であり、袋の鼠であり、虎の尾を踏んだ憐れな子鹿だ。今更少々の不安要素を抱え込んだところで、我らの勝機に減少する要素はあるかね?」

 マルゴは言葉を飲んだ。
 敢えて反論を試みるならば、勝利に対して少しでも貪欲であるのが軍人の務めであり、その責めを放棄した者に女神は微笑むことはないのだ、と、そう言い切ることも出来ただろう。
 しかし、事態は最早そういう段階を踏み越えているのだ。ゼロに何を掛けてもゼロにしかなり得ないように、ヴェロニカ軍の敗亡は避け得ない。少なくとも、マルゴはそう考えている。
 だから、口を噤むほかなかった。
 悔しげなマルゴ、彼女を眺める軍重鎮の視線は、むしろ先ほどよりも柔らかだった。

「次に、私はヴェロニカ教の信徒だ。信徒である以上、神のご意志には逆らうことが出来ん。つまり、半分は私の我が儘なのだよ。分かってくれ、マルゴ中尉」
「神のご意志……とは?」

 不審の響きを隠そうともしないマルゴの声は、あるいは不敬の罵りを受けても仕方ないものだったかも知れないが、ヴォダルスはそのことを咎めることはなかった。
 むしろ嬉しげに、

「私は、先般、ナハトガルで行われた忌むべき儀式に出席した。無論、本意ではなかっただが、それを言い訳にしようとは思わない。一人の少女を野獣の生き餌にしようという、忌むべき儀式の観客に、私はなったのだ。その一事を、神は許しはすまいよ」

 ヴォダルスは遠い過去を振り返るようにして言った。

「しかし、私は確かにあの夜、奇跡を見た。この先、私を待っているだろう地獄の業火は恐ろしいが、しかし私の信仰が決して間違えていなかったのだと、この目で確かめる事が出来た。全くもって不信心の限りなのだろうが、私は確かに救われた気がした」

 マルゴは何も言わず、目の前の老軍人の目を閉じた顔を見遣った。
 あの晩に行われた全てについて、マルゴは表と裏とを知っている。確かにあれは奇跡だった。しかし、神や宗教とは無縁の奇跡だ。愛も懺悔も信仰もない、人と人以外の何かの力が起こした奇跡。
 その委細について、この場で語る必要性を、マルゴは見出さなかった。ただの滑らかな色硝子でも、無粋な誰かが鑑定にさえ出さなければ、それは宝石と同義なのだから。

「閣下、それが一体どういう……」
「そして、今日、夢を見たのだ」
「夢……ですか?」

 ヴォダルスは、照れたように笑った。

「そう、夢だ。私にとっては心底恐ろしく、そして暖かい夢だった。あの儀式の闌で、少女の剣の露と果てたビアンキ老師が、私の前に現れたのだ。そして仰った。この国を未曾有の危機が襲う。お前は全ての罪滅ぼしに、その陣頭指揮を執れ、と。いつまで経ってもお節介な師匠だ。私はもう、寺院であなたの説法を受けていた小僧ではないというのに……」

 老人の、薄く濁り始めた瞳は、遠く美しい過去を映し出しているのだろうか。
 
「……閣下、お言葉ですが……」
「分かっている。夢などという甚だ非科学的なものでもって、軍を動かすなど言語道断だ。私も、今朝まではそう思っていた。しかし、状況が変わった」
「状況が?」
「現在のヴェロニカ教団における唯一の老師で在らせられるテセル老師が、私のもとを訪れ、そして全く同じ夢の内容を話したのだ」
「……」
「だからといって夢が事実となるわけではない。しかし、一昨日の夜にあのようなことがあり、直後に現れた天啓だ。決して無視を決め込んで良いものとは思えなかった。第一、この国は神の教えを守るために偉大なる祖先が建国したのだ。であれば、その子孫である我々が、神の啓示を元に軍を動かして、どうして問題があるのだろう。無駄足に終わるならば寧ろ望むところ、老骨が詰め腹を切ればそれで済む話ではないか」

 そう言い放ったヴォダルスの顔は、まるで、とっておきの秘密を打ち明ける悪童のようだった。
 
「この老体の引退を望む人間は意外に多い。つまり、良くも悪くも私自身にはそれなりの価値があるのさ。その証拠に、私の首を天秤に掛けてみたら、意外な程に早く作戦の決裁は下りたよ。無論、テセル老師を始めとした、件の天啓を受けた全ての人間の働きかけがあったのは事実だがね」
「全ての人間、と仰いますと?」
「ビアンキ老師の天啓を受けた人間は、将官級の軍人だけで10人を越える。そして議会の中枢を占める長老議員のほぼ全員。これだけの人間が一斉に同じ夢を見たのだ。そして、この国の危機を同時に訴えた。夢などは確かに何の根拠にもなりはしないが、しかし夢を見た人間の社会的な力というものは意外と侮れないということさ。口幅ったいが、私自身も含めてね」

 マルゴは唖然とした。
 話を聞くだけで何十人、いや、暗数を考慮するならば、おそらくはその数倍の人間が同時に同じ夢を見る。そして、その夢を理由に、一軍を動かす。
 そのようなことが、あるのだろうか。
 いや、現実にあるのだ。目の前で、それは起こりつつあるのだ。
 そして、人はそれをこう呼ぶのだ。
 奇跡、と。

「そして、これが最後に理由になるのだが、マルゴ中尉、私はね、恐ろしいのだよ、単純に」
「恐ろしい……?」

 目の前の事態に頭が付いていかず、鸚鵡返しに応えるマルゴであったが、老人は意に介さず、

「ああ、そう、恐ろしいのだ。君も軍人ならば分かるだろう?新兵時代に直属の上司だった教官は、恐怖の象徴そのものだ。例え階級が彼女を越えても、年齢が彼女を越えたとしても、依然として恐怖の象徴であり続けるのさ。そして私には、その恐怖に打ち勝つだけの勇気がない。どうだいマルゴ中尉、私を蔑むかね?」

 しばし呆然としたマルゴだったが、ヴォダルスの言葉に違和感を覚えて訊き返した。

「あの……閣下、それはいったいどういう意味でしょうか。それに、彼女とは……」
「そうだぞヴォダルス少尉。貴官の話しぶりでは、まるでその教官が、鬼か悪魔のようではないか」
「何を仰いますやらクーア大尉。私はそのようなことを一言だって申し上げていませんとも。それに、任官二年目、共和宇宙軍に出向していたヒヨコ同然の私を、厳しくも優しい愛の鞭で躾けて下さったのは、鬼でも悪魔でもない、鬼や悪魔が泣いて許しを乞う紅の魔女だったのですから」

 マルゴは、弾かれたようにジャスミンを見た。
 半世紀も昔、八軍の魔女と呼ばれ、恐れられ、或いは畏れられたジャスミンは、不敵に笑っていた。

「言うようになったじゃないかヴォダルス。良い傾向だ、かつての上官として嬉しく思うぞ。昔はわたしの顔を見るだけで顔を青ざめさせ、ちょっと小突き回せばぴぃぴぃ泣き喚いていたというのにな」
「ええ、どこかの誰かさんの薫陶の賜物ですな。しかしクーア大尉、私は既に将軍と呼ばれる階級なのですぞ。例えかつての上官であろうとも、相応の敬意が払われて然るべきなのではありませんかな?」

 言葉だけをとらえれば、まるで階級章の威を借るようなヴォダルスの発言だが、冗談めかした調子と、何よりも子供じみてあどけないその表情が、言葉の毒を打ち消していた。
 ジャスミンもこみ上げる笑みを噛み殺すように、

「それは失礼した、ヴォダルス少尉どの。随分とお偉くなったようでかつての上官として鼻が高い。しかし、それとこれとは話が別だ。わたしに相応の敬意とやらを支払わせたいのなら、その階級章相応の実力を見せてもらってからにしようか。それまでは、貴様はいつまで経っても鼻垂れのヴォダルスさ」
「聞いたかねマルゴ中尉。嘆かわしいことだ。この女性には、上位の者に対する敬意も年長者に対する気遣いも無いらしい。そしてこの女性が、泣く子も黙る共和宇宙軍上級将校連中にとって、超特大の目の上のたんこぶだったというのだからお笑いだ。だいたいクーア大尉、本当の意味であなたにとって敬意の対象であった上官が、当時だって幾人いたというのですか。あまり教え子に高いハードルを与えると、チャレンジの前の挫折を味合わせてしまうものですぞ」
「残念だがヴォダルス少尉、わたしは可愛い部下にはどうにも甘くなるたちのようでな。各人の能力と才能に応じた試練しか与えたことはないのさ。お前に対してもそうだっただろう?」
「そう言われてみればそうでしたかな。しかし、今回は極めつけだ。あなたに上官として認めさせるというのは、これは私にも自信がない」
「自信の有無など問題ではない。要は──」
「要は、結果が全てを作り上げるのだ。人は最初は何者でもない。成し遂げたことと乗り越えたハードルの大きさが、これからの貴様を形成して行く。自信などというものはその過程で勝手に出来上がるから、安心して任務に邁進しろ……でしたか」
「よく覚えているものだな」

 ジャスミンが感心しながら言うと、

「ええ、私があなたにそう言われながら尻を蹴られたのと同じように、私も何度となく後輩の尻を蹴ってやったものですので…」

 マルゴは、果たして目の前にいるのは本物のヴォダルス将軍なのだろうかと訝しんだ。直接顔を合わせたことはほとんど無いが、ヴォダルスの名前は、数多くの武勲とそれ以上の悪評──気難しく、仕事に厳しく、一筋縄ではいかない──に彩られていたはずなのに。
 それに、自分達、アーロン・レイノルズ大統領親衛隊にも、決して良い感情を持っていないと聞かされている。大統領の直接の息がかかった部隊だというのに、

「軍はいつから子供の保育所の機能を兼ねるようになったのか。それとも、あの部隊の究極的な命令権者であらせられる大統領閣下は、保育士の資格までお持ちなのか」

 公式の場でそう言って憚るところがなかった。そういうところが、彼に熱烈な支持者と、それを上回る敵対者を作り出してきたのだ。もしヴォダルスに大学新卒者程度の社会的配慮があったなら、彼はヴェロニカ軍の最高司令官になっていたのは間違いないというのが大方の評判らしい。
 そのヴォダルスが、いわば寝室の蚊のように忌々しい存在であるはずの自分の前で、どうしてこうも無防備な表情を見せるのか。マルゴは不思議でならなかった。
 
「とにかく、これが最後の理由だ、マルゴ中尉。私は、他の誰よりも、この女性が軍人として優秀なことを知っている。不本意ではあるが、猫どころか鼠の手だって借りたいのが我が軍の現状だ。そしてこの女性は、物好きなことに劣勢極まる我が軍に手を差し伸べてくれるらしい。この手を払いのけるのは、色んな意味で自殺行為だと思うのだがどうだろう?」

 マルゴは何か皮肉の一言でも言ってやろうとしたが、賢明にも、気の入らない敬礼を返すにとどめた。
 どう考えても、この老人は手遅れだ。それは、マルゴ自身が手遅れなのと同じ意味で。



 一通りの事情についての説明を受けたマルゴは、ひとまず別室に軟禁された親衛隊の仲間のもとへ赴き、自分たちの置かれた、些か馬鹿馬鹿しい状況を説明した。
 実用性に富んだ、言い換えれば無機質で寒々しい会議室に並んだ少年少女達は、何とも形容し難い視線で自分達の長姉を眺めていた。

「……つまり、おれ達にしてみりゃ有難い方向に話が進んでいるってことでいいのかな?」

 行儀悪く頬杖をついたザックスが、心底胡散臭そうにそう言うと、ウンザリとした表情のマルゴが頷いた。

「そういうことね。わたし達は、いわば特攻して盛大な花火となることでエストリアの侵攻をこの国に伝えようとしたわ。それが、例え死者の夢なんていう根拠薄弱な理由だったとしても、事前に軍を動かした。きっとこれが神の思し召しというものなのね」
 
 敬虔な言葉のわりに、マルゴの表情と口調は投げやりそのものであった。
 もうどうにでもなれという心境だ。人を馬鹿にするのもいい加減にしろ。こちらは命をかけるつもりだったのに、何がなんだか分からないうちに事態は明後日の方向に進み、自分たちは明後日行きのベルトコンベアに乗せられているのだ。愉快であろうはずがないではないか。
 
「TYPHON零式の運用はわたし達に一任されるわ。まぁ当然といえば当然なんだけど」

 ほう、と、安堵の溜息がほぼ全員の口から漏れ出した。
 TYPHON零式の、生体と直結した操縦システムには、搭乗者側にも専用の装置を埋め込む必要があり、さしあたり、ヴェロニカ軍において施術が完了しているのはマルゴ達、親衛隊のみである。
 つまり、TYPHON零式を本来のスペックで運用するためにはマルゴ達を搭乗させる以外ないわけだが、とかく面子と原則論に固執する軍上層部が、自分たちからTYPHON零式を取り上げる可能性は、そうでない可能性と五分五分か、少し分が悪いくらいかもしれないとマルゴは考えていた。
 例えヴェロニカ正規軍とともに槍を並べても、十中八九生き残ることのできない戦いであることは承知している。それでも、いや、だからこそ、戦いには持ち得る戦力の全てを投入したい。それが、おそらくは最初で最後の戦争に身を投じるマルゴ達の、切なる願いであった。
 自分たちは、何のために生まれたのだろうか。ふと、そんなことをマルゴは考えた。一ヶ月前のマルゴであれば、何の疑問もなくこう答えただろう。わたしは、お父様のお役にたつため、この世に生を受けたのだ、と。
 アーロンが自分たちを裏切ったのだとは、マルゴは考えていない。ただ、自分たちがアーロンにとって大切なものになり得なかったのが悲しく、情けなく、そして不甲斐なかった。

「邪魔するぜ」

 ノックも無しに扉が開き、その隙間から、質感豊かな肉体が滑るように部屋に入ってきた。
 艶やかな黒髪に、琥珀色の瞳、そして野性的でありながら端正に整った容貌のその男の名を、マルゴは知っていた。

「ケリー・クーア」
「おう、その通りだ。名前を覚えていてくれたな。ありがたいこった」
「何をしに来たの?」

 マルゴの声には決定的に温かみが欠けていたが、敵意と言い表すほどに刺々しいものでもなかった。
 そのことを、果たしてケリーはどう受け止めたのだろう。いつも通りのふてぶてしい笑みに隠された彼の本心をマルゴが読み取ることが出来なかったのは、彼女が特別に感受性を失っていたためではない。

「何をしに来たんだと思うね?」
「さぁ?こんな緊急事態に、わざわざ一度ならず辛酸を舐めさせられた私たちの前に顔を出したんだもの。恨み言や捨て台詞を吐くために来たんじゃないことを期待するわ」
「こいつは手厳しいな。マルゴ、お前には占い師か予言者の才能があるらしい」

 そう言って、手近な椅子を引き腰かけたケリーは、親衛隊の面々をぐるりと見回した。
 ケリーの視線が、途中、幾人かの顔上で静止した。それは、例えばザックス・レイノルズの生意気と精悍の入り混じった瞳であり、アネット・レイノルズの少女らしい柔らかな頬であった。
 マルゴは、ケリーの不敵な笑みに、ほんの一瞬、糸くずほどの亀裂が刻まれたのを、確かに見た。そして、僅かに綻びた笑みの下には、決して一言で言い表すことの出来ない、無数の感情が浮沈を繰り返していたのだ。
 それは、喜びであり、怒りであり、哀しみであり、後悔であり、絶望であり、希望であり、何よりも望郷の想いであった。
 ああ、そうか。
 マルゴは唐突に思い出した。
 この、不屈を誇る油断ならないこの男も、遠くない過去には少年だったのだ。そんな当然のことを、マルゴは忘れていた。

「ケリー・クーア。私たちは、あなたの知る私たちではないわ。私がマルゴ・エヴァンスでないのと同じく、この子達も他の何者でもない……」

 ケリーは少し驚いたようにマルゴを見て、

「……知ってるさ、そんなこと、当たり前じゃねぇか、知ってる、知ってるんだ」

 その時のケリーの笑みは、軽薄なのではなく、薄められた酒のように味気ない、寂しいものだった。
 そしてケリーは、俯き、勢い良く顔を上げ、何かを言おうと口を開き、何も言い得ず口を閉じ、また力無く俯いた。その様子は、初めて異性に想いの丈をぶつけようと煩悶する、うぶな少年のようだった。
 
「どうしたの。何か言いたいことがあるなら言いなさいよ」

 マルゴがそう言ったのは、ケリーの見慣れない様子に焦れたからではない。ただ、目の前の大きな男の子が、何か、すごく苦しんでいて、すごく辛そうに思えたから、何とかしてあげたいと思ったのだ。
 ケリーはゆっくりと顔を上げた。見上げた先にあったのは、遠い昔、幼かった彼が激しい訓練に落伍しそうになったとき、彼を慰め励ましてくれた、赤毛の少女の姿だった。その少女は、最初は少年にとっての母であり、次に姉であり、最後には憧れだった。そう、最期の瞬間まで。
 それでもマルゴの声が、相変わらず鋭く冷たいものだったならば、ケリーは再び大人の仮面を被り直して、何食わぬ顔で部屋を出ることも出来ただろう。彼は、遥か昔、己の腕の中に冷たくなった少女の亡骸を抱き抱えた時に、少年期の暖かな毛布を脱ぎ去ってしまったのだから。
 しかしこの瞬間、ケリーの眉が悲しげに歪み、口元が僅かにわなないたのは、きっと恥ずべきことではない。ただ、彼の、逞しく成長した体の内側に、ケリー・エヴァンスという少年が、まだ息づいていたというだけのことだ。

「……駄目なのか……?」

 ぽつりと、口の中から小石を零すように呟いたケリーの顔に、瞬く間に後悔と羞恥が広がる。
 
「何が、駄目なの?」

 マルゴが、素晴らしいタイミングで聞き返した。
 それは、本当に素晴らしいタイミングだった。もしもそれが少しでも早ければ、男の内側の少年が怯え、ケリーはこの場から逃げ出していただろう。もしもそれが少しでも遅ければ、少年の外側に纏われたケリー自身が、己を恥じてこの場から立ち去っていただろう。 ただ、マルゴが素晴らしいタイミングで聞き返したから、ケリーは逃げ道を失った。
 そしてケリーは白旗を上げた。つまり、彼の偽らざる本心を、年端もいかない少女に打ち明けた。

「どうしても、お前たちは、戦うのか」

 言葉は震えていない。むしろ乾いた瞳は、まっすぐにマルゴを見つめている。
 だけれどもマルゴは、目の前の少年が、泣いているのだと思った。

「どうしてお前たちが、お前たちばかりが戦わなければならないんだ。違う道は無かったのか。違う生き方を、今からでも選ぶことが出来ないのか」

 ぎしり、と、歯を軋らせる音が、沈んだ部屋に響き渡った。
 マルゴは、答えなかった。ケリーの言葉を、軍人である自分たちへの侮辱とみなすことは簡単だ。だが、それは決してしてはいけないことだ。マルゴは、肉体でも精神でもなく、魂でそのことを知っていた。

「戦うことでしか生きる意味を見つけられないとか、そんな哀しいことを言わないでくれ。人が生きるのに、意味なんているもんか。人は、死にたくないから生きているんだ。それだけで十分なんだ。他の誰でもない。俺がそう言ってるんだ」
「あなたは、生きる意味を失ったことがあるの?」

 ケリーは、マルゴの鳶色の瞳を見つめた。
 じっと見つめた。
 ある……のだろうか。
 ケリー自身、あの星で血と泥濘に塗れていた時分、どうして生きていたのかなんて、分からない。顔も知らない誰かを守るため、顔も知らない誰かと毎日毎日殺し合っていた。結局は、万事が愚かしい虚構でしかなかったのだが、当時でさえ、果たしてそれを正しいと思っていたのか、時折自信が持てなくなる。
 では、あの頃、どうしてケリーは戦っていたのか。何を理由にして、敵軍の兵士を無慈悲に葬り去っていたのか。
 胸を張って言えるのは、ただ二つ。
 死にたくなかった。自分が。
 そして、死なせたくなかった。仲間を。
 敵が一人減れば、その分仲間の危険が減る。そうすれば、明日の朝、おはようの挨拶を交わす相手が、一人でも多く生き残ってくれるのではないか。戦いがそれ程単純なものではないとして、製造番号K7643と名付けられた少年は、心の底からそう願っていたのだ。
 その仲間が、命を賭けて守ろうとした対象が、あの日、物言わぬ骸になった。ケリーにとって一番大切な宝物の残骸が、ゴミのようにうず高く積まれ、ゴミのように埋められた。いや、それらは真実、ゴミだったのだ。少なくとも、ケリー達を戦争ごっこの駒として弄んだ連中にとっては。
 あの日、荒野にうがたれた大穴に、たくさんの人の形が縺れ合いながら落っこちていく様子を、ケリーは一生忘れないだろう。その中に初恋の少女がいないか、ケリーは残された左目を必死に凝らしたが、無数のデスマスクは個々の死体から個性を奪い取り、少女らしい死体もその他大勢と一緒に、地中深くに消えていった。
 あの時、製造番号K7643という兵士は死んだ。そして、ケリーという少年が、辛うじて生き残った。それを、生きる意味を失ったのだと言うのなら、あるいはそうなのかも知れない。
 ケリーは何も言わなかった。ただ、あの時失ったはずの生きる意味を、じっと見つめていた。

「……ごめん、みんな、少しだけこの人と、二人にして」

 マルゴがそう言うと、彼女のすぐ後ろにいたザックスが、

「おい、どうしてだよ!こいつは俺達の敵だったんだぞ!たった二人にしたら、お前に一体何をするか、知れたもんじゃ──」
「お願い、ザックス。あなたの言っていることが正しいわ。でも、今だけはわたしのわがままを聞いて頂戴」

 振り返らずに言ったマルゴの背中合わせを、ザックスはしばらく睨みつけ、そして舌打ちを一つ零して、ドアの方へ歩いていった。
 そして振り返り、今度はケリーの背中を、殺意を込めて睨みつけ、

「おい、おっさん。もしもマルゴに指一本でも触れてみやがれ。地の果てまで追いかけて、てめぇを殺してやるからな」

 開け放たれたドアを思い切り蹴りつけて、足音も荒々しくザックスは部屋を後にした。
 ザックスに続いて、他の親衛隊員も、おずおずとした様子で部屋から出ていった。途中、何人かがマルゴに、

「本当に大丈夫なの?」

 と、心細そうに声をかけたが、マルゴは微笑んで頷いただけだった。
 そして、部屋には二人だけが残された。

「ごめんなさい。ザックスを怒らないで。彼は、本当にわたしが心配なだけなの」

 ケリーは、ほろ苦く微笑んだ。

「ああ、知ってるさ。あいつはお前に惚れてるんだ」

 マルゴも微笑んだ。

「まるで見てきたように言うのね」
「見てきたんだよ、ずっと、お前達を」

 マルゴは首を振った。

「それは、わたし達じゃないわ」
「ああ、知ってる。それでも、ずっと見てきたんだ。例えお前達じゃなかったとしても、お前達を。ずっとずっと、それだけを見続けてきたんだ」

 消え入りそうなケリーの声に、マルゴは少しだけ寂しそうに笑った。

「ケリー。私たちは決めたの。それが前向きでも後ろ向きでも、私たちが決めたの。他の誰でもない、私たち自身が」
「戦うことを、か」
「戦うことを、よ」

 マルゴははっきりと言った。

「覚えているかしら。あなたが私たちに捕らえられた最初の夜、あなたはわたしを人形と呼んだわ。わたしの背中に、わたしを繰る糸が見えると」
「そんなこと、言ったか。覚えてねぇな」

 悪あがきのようなケリーの言葉に、マルゴは首を振り、

「あなたは、確かにそう言ったのよケリー・クーア。でもね、わたしは今でも、私たちがお父様の人形だったなんて思わないわ。私たちは、私たちの意思でお父様を愛して、お父様に愛されたかった。でも、もうお父様はこの世にいない……」

 マルゴは、遠く離れてしまった美しい場所を覗き込むように、悲しげに目を細めた。

「私はね、あなたがここに現れた時、私たちにお説教をするのだと思ったわ」

 マルゴは椅子から身体を離し、ケリーの前に立った。
 ケリーは無言でマルゴを見上げた。

「私たちは、私たちだけでエストリア軍と戦おうとしたわ。蟷螂の斧にもなり得ないことは、私たちが一番よく分かっていたの。それでも、あの時はそれが最善だった……」
「お前達自身、敵襲の狼煙になって燃え尽きることが、か」
「軍上層部の説得には時間がかかった。そしてこの場合、時間は他の何物よりも貴重だった。子供っぽい暴発に見えたかも知れないけど、それが私たちの結論だったの。そう、死者の夢なんていうおかしなものさえなければ、それは今でも胸を張って言えたわ」

 マルゴは腰に手を当て、溜息をついた。

「分かってるわよ、ケリー。あなた達でしょう、あんな馬鹿げた真似をしたのは」
「何のことだい?あれは死者のお告げさ。もしくは、ただの偶然だ」
「息をするように嘘を吐くわね。そも、死んだ人間にあんな真似が出来るのかは置いておいて、この場合、それはどう考えてもおかしいじゃない。逆に、死者なんて何の関係もないただの偶然だとすれば、つまりあなた達の仕業ってことよね」

 ケリーはニヤリと口の端を持ち上げた。
 つまりは、そういうことだ。
 マルゴは腰に手を当てたまま天を仰いだ。顔を上に向けてもそこにあるのは無機質な天井だけだったが、もしもそこに神の顔でも浮かび上がるならば、マルゴは唾を吐きかけていたかも知れない。

「それでも……それでも、あなたには感謝しないといけないことは、分かってる。ありがとう、あなたのおかげで、私たちは生き残ることが出来るかも知れない。それが例え小数点以下の生存率なのだとしても、ゼロとそうでないのとでは全然違うものね」
「そうだ。もう、事態はお前達の手を離れたんだ。ヴェロニカの正規軍が動き、エストリア軍を迎え撃つ。この国がどうなろうとも、それは個人がどうこうすべき話じゃない」
「忘れたのケリー。私たちはそのヴェロニカ軍人なのよ?」
「お前達は軍の鼻つまみ者らしいじゃねぇか。後ろ盾である大統領も死んだ。なら、どさくさに紛れてとんずらこくのが利口な人間ってもんだ」
「つまり、私たちはお利口な人間じゃないのね、どうやら」

 マルゴは、困ったように微笑んだ。

「あなたの言いたいことは分かるつもりよ。でもね、やっぱりそれは駄目なの。お父様を失った私たちに、それでも残された最後の記号が、ヴェロニカ軍人ということ。つまり、命を賭けてこの国を守るということなの。あなた達は、私たちからお父様を奪い取ったわ。そして、最後に残った最後の意味まで、奪い尽くすつもりなの?」

 マルゴの声が怒りや恨みに染まっていたなら、ケリーも何なりと反駁のしようはあった。 だから、ケリーから言葉を奪ったのは、マルゴの、慰めるような声色だったのだろう。

「……もしも、もしも、だ。取るに足らねぇものだが、俺の全財産をお前達にくれてやるから、それでも足りないなら土下座でもなんでもしてやるから、どうか逃げ出してくれ、戦争なんかとは無縁の生活を送ってくれって泣きついたら、心変わりをしてくれるのかい?」

 ケリーの言葉に、少し驚いたような表情を浮かべたマルゴは、ゆっくりと首を横に振った。

「それはあなたが、目も眩むような金をくれてやるから愛船と宇宙を捨てろと言われて、快く頷けるのかと、そう問われているようなものよ」

 ケリーは、むしろ当然といったふうに頷いた。彼はこの問いで、事態が思い通りにならないことなど百も承知だった。
 では、どうしてそんな詮無いことを言ったのか。それは、どうして人が神に祈るのかと問うのに等しい。

「一つ、お願いがあるの。あなたのお願いを断っておいてこんなことを言うのが、どれほど筋違いか、分かっているのだけど……」
「……子供は、大人に無茶なお願いをするもんさ」
「ケリー。優しいケリー。もしも、もしも私たちのうちに生き残った誰かがいたなら、どうかその子を幸せにしてあげて頂戴?きっと、人形でも戦争の道具でもない、人並みの幸せを与えてあげて欲しいの。私はあの子達の姉だから。でも、私にはあの子達の面倒は、もう見てあげられないかも知れないから」

 初めてマルゴの声が震え、その勝気な瞳に涙が滲んだ。
 美しい涙だった。例えそれが自己憐憫の流させた涙だったとしても、それは水晶の溶け込んだ処女雪のように美しく清らかだった。
 この美しさを罵る者がいたら、ケリーはそいつを生涯許さない。

「……分かった、だが、条件がある」
「なに?」

 ケリーが、ゆっくりと腕を伸ばして、マルゴの小さな身体を掴み、そのまま胸に掻き抱いた。
 マルゴは、ほんの少しも抵抗しなかった。固く目を閉じ、ケリーの、力強く拍動する心臓のリズムに耳を澄ませた。
 
「お前も生き残るんだ、マルゴ。この戦いは、負け戦じゃない。勝ち戦でくたばって、悲劇の英雄やら救国の聖女やらに祭り上げられるなんて、お前にはちっとも似合わねぇ。お前はいつだって鼻歌交じりに倍する敵を蹴散らして、死神に後ろ足で砂をかけてやってた。今回もきっとそうなる。そうに決まってる」
「……ええ、そうね。そうなら、きっと素敵」

 マルゴはケリーの胸にすっぽりと抱きすくめられたまま、潤んだ瞳でケリーを見上げた。

「もしも私が生き残れたら、ケリー、あなたの船で、あなたとあなたの奥さんと一緒に、宇宙を旅したいわ」
「ああ、もちろんだ。お前が嫌がっても、首に鎖を巻いても連れて行ってやる」

 マルゴは、自分から顎を持ち上げ、静かに目を閉じた。そのほっそりとした顎に、ケリーの細く長い指先が当てられた。

「ねぇ、ケリー。きっと、私のオリジナルは、あなたのことを愛していたわ。あなたには残酷かも知れないけど、きっと愛していたのよ……」

 マルゴの呟きは、熱い温度を持った固い唇に塞がれて、最後まで言い尽くすことは叶わなかった。



「口紅が付いているぞ、海賊」

 廊下に背を預けながら待ち構えていたジャスミンが、苦笑混じりにそう言った。
 ケリーはしかし涼しい顔で、

「馬鹿を言うなよ。マルゴは口紅なんて使っちゃいなかった。そんな無粋な感触はしなかった。あいつの唇は、訓練と任務で忙しくて手入れする暇がないから、ほんの少しだけかさついていて、ほんの少しだけひび割れているのさ」
「そういう唇がお好みか?ならわたしも、これからそうしよう。面倒な手入れが省けて有難い限りだ」
「そんな勿体無いことを言うもんじゃねぇぜ女王。あんたの唇にはあんただけの良さがある。あんたの、艶やかでぽってりして、滑るようになめらかな唇も大好きだぜ」
「それはそれは、お褒めいただき光栄だ」

 ケリーは脇目もふらず、前を睨むようにして、ジャスミンの前を通り抜けた。
 ジャスミンは、ケリーの半歩後ろについて歩き出した。

「話はついたのか?」

 ケリーは答えない。
 ジャスミンは溜息混じりに、豊かな前髪を掻き上げた。

「不器用な子供達だ。子供などというものは、もっと我儘三昧好き放題で丁度いいというのに」
「あいつらはいつだってそうだった。そういうふうに作られた兵器なんだからな。駄々の捏ね方の一つも習ってこなかったんだ」
「ならば、それを教えてやるのは我々大人の責任だ」

 ジャスミンはくすりと微笑み、

「これで、いよいよ負けるわけにはいかなくなったな」

 ケリーも、固い表情をほんの少し和らげて、

「負ける?そんなこと、最初から考えちゃいないさ。俺とあんたが一緒に戦うなら、結果は二つに一つ。勝利か、それとも大勝利か、だ」
「そして、今回はお前のもと同僚ともと先輩がいるわけか。なら、結果など火を見るよりも明らかだな」
「ああ。俺たちの、完全無欠の完勝さ。エストリアの連中にはちぃと悪いが、さぞ愉快な吠えづらをかいてもらうとしようぜ」



[6349] 第八十六話:戦争開始
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/12 20:22
「ここだ。我らがエストリア軍の侵攻を阻止出来るとするならば、ここで奴らを食い止める他ない」

 オペレーションルームの巨大スクリーンに映し出された宙図の一点を、ジャスミンの持つポインターが指し示した。
 オペレーションルームには、ヴォダルスをはじめとしたヴェロニカ軍上層部、特別顧問として臨時軍属となったケリーとジャスミン(ケリーは最後まで「俺は絶対に軍の厄介になんてならねぇぞ!」などと、やや子供っぽい抵抗をしていたが、最後には給与をもらわないことと軍服を着ないことで折れたらしい)、そして親衛隊の代表としてマルゴが出席していた。
 それだけならば、やや変則的であるものの通常の作戦会議であるのだが、今回はオブザーバーとして、ヴェロニカ教団最高指導者であるテセル老師が出席していることが異質であった。
 オブザーバーである以上、積極的な発言権を持たないテセルであったが、彼には、これからこの星で起きる全てを見届けたいという希望があり、またヴォダルスには、テセルを抱き込むことで、この作戦に宗教的な正当性を持たせて、いらぬ混乱や反対者を事前に封じたいという意図があった。それらの思惑が奇妙に合致して、この場には些か不似合いな闖入者を出現させたのだ。
 そんな思惑が成功したからか、それともジャスミンとケリーの有する人並み外れた威圧感がヴォダルスの政敵の口を塞いだのか、彼らが会議の主導権を握ることに対して、少なくとも表立った反対意見は噴出しなかった。
 ヴェロニカ軍の、それも男性用軍服に身を包んだジャスミンは、誰が聞いてもそれと分かるほどに軍人らしい口調で、彼女の立案した作戦を説明している。

「惑星ヴェロニカの周辺宙域は、近年に例を見ない大規模な宇宙嵐に晒され、現在は他星系と繋がるほぼ全ての航路と連絡を断たれている状態だ。本来であればこれは由々しき事態だが、この場合は幸運の女神が薄ら笑いを浮かべたとでも言うべきだろう。エストリア軍が新型のショウドライブを完成させ、そのワープ距離を大幅に更新でもさせていない限り、大規模な艦隊を運用出来るのは正しくこの一点、宇宙嵐の真っ只中に砂時計状にうがたれたこのポイントを突破する他ない」

 ジャスミンの、竹を割ったようにキレの良い声を懐かしみながら、司令官席に腰掛けたヴォダルスは深く頷いた。

「確かに、その宙域以外を戦場に設定すれば、兵力の質と量の両面で劣る我が軍は、エストリア軍に包囲殲滅されるだけだな」

 ジャスミンも頷いた。

「狭隘な戦場で敵を迎え撃ち、遊兵を多く作ることが出来れば、我らが同時に相手どらなければならない敵の数も自ずと減ずる。その少数の敵に出血を強いて戦線を膠着させ、最終的にはエストリア軍に撤退を余儀なくさせる。それほど目新しい作戦ではないが、これが現時点で最も有効かつ成功確率の高い作戦であると確信する」

 ポインターをしまったジャスミンが折り目正しく敬礼をし、律動的な歩調で自分の席へと戻った。
 ジャスミンが着席したのを確認してから、ヴォダルスは一同を見渡し、

「まず、討議の前に申し述べておくが、我らがこうしてのんびりと、机を前に喧々諤々出来る時間は限られている。我らに残された時間は、朝のコーヒータイムよりも貴重なのだ」

 作戦会議には些か緊張感にかける比喩を用いたヴォダルスであったが、その程度は日常茶飯事なのだろう、彼の部下に、顔を顰めたり咳払いをしたりするような者はいなかった。無論、その下手糞なジョークにユーモアを刺激された者もいなかったわけだが。

「事ここに至って、まさかエストリア軍来襲という情報そのものの信憑性について語ろうなどという寝惚けた連中が我が幕僚におるまいとは思うが、もしもいるならば、その者の指揮命令権を、儂の司令官権限でもって一時的に剥奪する。机の上に階級章を置いて立ち去ってもらいたい」

 ヴォダルスはしばらく間を置き、不動のままの姿勢の一同を再度見渡し、

「では次に、先程、クーア顧問の説明した作戦の討議に移ろう。しかし、ここでも一つ、断っておくが、儂はこの作戦の原案について既に決裁を済ませておる。作戦の骨子は揺るがない。これから始める討議は、この作戦の質を高め、細部を検討するものであると心得られたい」
「では、よろしいでしょうか、閣下」

 挙手したのは、ヴォダルスのもとで参謀長を務めるエクベルトであった。参謀系の軍人らしい鋭角的な顔立ちで、肉付けは薄く、視線は鋭い。例え上官であっても無能者は許さない、監察的な厳しさが総身から滲み出ているが、年はまだ少壮と称される年齢である。
 ヴォダルスが頷くと、エクベルトはきびきびとした動作で立ち上がり、ジャスミンに向けて一礼した。
 ジャスミンも、これを受けて一礼を返した。中々出来た男らしい。彼は参謀長である。本来であれば作戦の立案は彼の職分であり、ジャスミンのような若造(見た目だけならば間違えていない)、しかも女性に己の職分を侵されて愉快であろうはずもない。当然、ジャスミンが立案した作戦の揚げ足を取り、重箱の隅を突くような細かい点でも非難を加えたくなるのが人情というものだ。
 だが、エクベルトは、憎むべきジャスミンにまず礼を尽くすことで、自分にそういった不毛な真似をする意思がないことを示したのである。
 ジャスミンもそれを理解した。その分エクベルトの舌鋒は鋭さを増すだろうが、それはむしろジャスミンにとっても望むところだ。

「まず、エストリア軍を迎撃するポイントをクーア顧問は一点に絞っているようですが、現実には他にも大軍の通過が可能な箇所があります。それらの可能性を切り捨て、当該一点に可能性を限定する理由についてお聞かせ願いたい」

 ジャスミンは当然という面持ちで頷き、立ち上がった。

「参謀長の仰ることはご尤もです。ではその点について説明させて頂きましょう。まず、既に我が軍は敵の先手を許しており、戦略的劣勢の立場にあります。この上、戦力の分散を行えば、分散した戦力は各個撃破の対象となり、あとは無人の荒野が惑星ヴェロニカに続くのみとなるでしょう。エストリア軍の動静の把握は、宇宙嵐による電波障害、そしてエストリア軍が事前に散布していたと思われるジャマーによる妨害電波、この二つの要素により、不可能とまではいえないまでも、極めて難しいのが現状です。であれば、限られた戦力は一点に集中させるほかはありません」
「しかし、もしもエストリア軍が我らの想定とは異なるポイントから侵攻してきた場合、我らは戦うことすら許されず、母国の滅亡を指を咥えて眺めることになると、そういうことになりますかな?」

 ジャスミンははっきりと頷いた。

「その時は迎撃ポイントから全力で前進し、近隣の他国に乗り込んで、出来る限りの大声で騒ぎましょう。エストリア軍が、怖気の催す非人道的作戦を、惑星ヴェロニカにて実施しようとしているのだと」

 つまり、一点集中の戦力は賭けであるとジャスミンは言い切ったのだ。
 しかしその点についてエクベルトを含めて誰も異を唱えなかった。ヴェロニカ軍がエストリア軍に比して劣った戦力しか有していないのは、今更論じる価値もない事実であったのだし、戦うことではなく勝つことが目的である以上、勝算の見込める戦場を設定するのが司令部の義務であるからだ。

「しかし、私は、当該ポイントからエストリア軍が侵攻してくる蓋然性は相当に高いと確信しています」

 ジャスミンは一堂を見渡しながら、

「まず、時間的な問題です。現在、惑星ヴェロニカの周囲で猛威を振るう宇宙嵐ですが、これは近隣の恒星の異常活動がいくつも重なったことが原因です。しかし、ここまでの宇宙嵐を起こすほどの異常活動が複数の恒星で発生するなどそうそうあることではありません。考えにくいことではありますが、宇宙嵐が急激に収まり通信が回復してしまえば、惑星ヴェロニカに対するエストリア軍の侵攻の報は共和宇宙全域に知れ渡るでしょう。それでは彼らの戦略目的を果たすことが難しくなる」

 この場にいる高級将校の全てが、既に惑星ヴェロニカに高純度のトリジウムが埋蔵されているという驚くべき事実を知らされている。敵の目的を知らずにこれを迎え撃つ作戦を立案するなど不可能だからだ。
 エストリアの意図がトリジウムの奪取にあり、エストリア軍がそのために惑星ヴェロニカの占領と住人の排除を企図しているのであれば、最も恐るべきは、真実が詳らかになり国際的な非難を浴びることだろう。

「彼らは密かに、惑星ヴェロニカを中心とした宙域の広範囲にジャマーを設置し、通信の妨害を行っているようですが、それでも万が一にジャマーが有効に作動しなかった時のことなどを考えれば、嵐が猛威を振るう間に、この作戦を可及的速やかに完了させる必要があるのです。つまり、我らにとって恵みの嵐であるのと同様に、彼らにとっても恵みの嵐であると言えるのでしょう」

 それらの障害を乗り越えて、エストリア軍来襲の情報を探り当てたダイアナは、正しく勝利の女神とでも言うべき存在であった。

「であれば、彼らにとって最も重視されるのは、他の軍事作戦の多くがそうである以上に、進軍速度です。エストリア軍にとって、ヴェロニカ軍は取るに足らない戦力しか有しない、極論すれば路傍の石であり、そもそもこちらがエストリア軍侵攻の情報を掴んでいるはずなどないというのが先方のスタンスのはずですから、我らの迎撃を恐れて侵攻速度を落とす理由などどこにも無い。つまり、彼らは最短距離を最速前進で突っ切ってくる。そしてエストリアとヴェロニカ共和国を結ぶ最も短いルートが、このポイントを通過するのです」

 ジャスミンはエクベルトを見たが、再度反駁を試みるつもりはないようだった。彼自身、おそらくはジャスミンと同じ結論に至っていたのであろう。それでも再確認の意味を含めて問題提起を行うのは決して愚かな愚かしいことではない。

「次に地理的な問題も無視して良いものではありません。エストリアにしてみれば、慣れない他国の宙域を、大規模な宇宙嵐に沿うようにして移動する以上、遭難や事故の危険と背中合わせの行軍となることは避けられません。この上、大きく迂回した進路を取れば、その危険性は乗数倍に増加することは明らかです。また、補給や退路の確保という意味でも極めて難しい用兵を強いられるでしょう。私が指揮官ならば、例え敵との遭遇の可能性が高いルートでも、そういった無用で計算困難な危険は避けるでしょう。加えて、今回は幸いにして、彼らの敵はそれ程脅威にはなっていないでしょうから」

 些か自虐的なジョークではあったが、ジャスミンの言葉は正論として受け入れられた。
 一堂に自分の意見が浸透したタイミングを見計らって、ジャスミンは再び口を開いた。
 先ほどと違うのは、その青みがかった灰色の瞳に、人を食ったような不遜な笑みが浮かんでいたことである。

「そして、これはこの場にいる方々のほとんどがご存知ないことだと思うのですが、この迎撃ポイントは、本当に良いのです。この場所は、N49-KS1173という宙域は、凄く良い」

 一人、事前にジャスミンから事情を聞かされていたヴォダルスは込み上げる笑いを堪えるのに苦労し、全ての事情を承知していたケリーは呆れたように小声で呟いた。

「こいつは作戦なんてもんじゃねぇな。ただのペテンだぜ、それもこの上なくたちの悪い……」

 その小声を聞いたわけでもあるまいが、八軍の魔女と恐れられた女丈夫は、両手を机に突きながら、魅力的かつ好戦的に牙を剥いて笑った。

「宇宙嵐が我らにとって勝利の女神の薄ら笑いならば、これは正しく女神の大爆笑とでも呼ぶべきでしょうな。いや、それとも聖女の微笑みとでも表現した方が適切でしょうか」

 そして、ジャスミンの説明を聞いた一堂の悉くが、表現そのまま、開いた口を閉じることが出来なくなってしまった。
 それは、正しく偶然の産物そのものの作戦であり、いわば他人の褌で相撲を取るような作戦であり、後世の用兵家が聞けばレアケースの烙印を押して論評すらしないであろう作戦であった。



「そろそろだな」

 緊張に満ちた声で呟いたのは、エストリア軍軽巡洋偵察艦《 ファラント 》の艦長であるロカテッリ中佐であった。
 通信回線に混じる雑音は減り、艦の揺れも少なくなった。嵐が猛威を振るう宙域から脱しつつある。
 それはつまり、荒れ狂う宇宙嵐の中、砂時計状に穿たれた安全地帯を、ようやく通過したということだ。

「艦長、我が艦はN49-KS1173に侵入しました」

 航海士を務める兵士の声に、ロカテッリは即座に指示を飛ばした。

「レーダーと感知センサーの探査範囲を最大にしろ。敵がどこに隠れていても、決して見逃すな。必ず見つけるんだ」

 事前の作戦会議で、司令官であるフォルクマール中将は、何らかのかたちで情報が漏洩しヴェロニカ軍が我が軍を迎え撃つとしたら、必ずこの宙域に陣を敷くことを断言していた。
 狭隘な戦地を選び、大軍の突端だけを相手取って遊兵を作らしめ、彼我の数的不利を補う。
 それは、エストリア軍と比較すれば絶望的な寡兵であるヴェロニカ軍にとって、全くもって理に適った戦術である。というよりも、勝算を見出すための唯一無二の戦術と言って良い。であれば、万が一にもエストリア軍の奇襲に気が付いているならば、ヴェロニカ軍がこのポイントに現れない筈がないのだ。
 逆に言えば、今、ヴェロニカ軍が姿を見せないということは、即ち彼らがエストリア軍の奇襲について全く気が付いていないという証左であろう。今後、遅ればせながら気が付いたとしても、少数をもって大軍を迎え撃てるような戦術的要衝はどこにもない。彼らは、蟻の群れよりも簡単に蹴散らされ、宇宙の藻屑と消え果てるであろう。
 つまり、この場に敵の姿があるか否かで、これから始まる軍事行動の烈しさが決定されると言っても過言ではない。
 《 ファラント 》の艦橋を、張り詰めた空気が満たしたが、それも数秒のことであった。
 レーダーの分析官は、ほう、と、我知らず安堵の息を肺腑から絞り出した。

「……艦長、この宙域に、我が軍以外の艦艇は見当たりません。それどころか、小惑星を含めて、一定以上の大きさの飛来物は完全に存在しません。当然のことですが、ワープ反応もありません」

 ショウドライブによるワープ航法による奇襲という可能性もないではない。それは、ワープに伴う自爆事故、そしてワープ後に著しく駆動系にハンデを負った状態での戦いという莫大なハンデを覚悟しなければならない戦法だが、しかし敵に対して機先を制するという長所がある以上、捨て身の敵がその戦法を選ぶ可能性ももちろんある。
 だが、ショウドライブによるワープは跳躍後の空間をワープの前に捕まえる必要があるため、十分に警戒をすればその前兆を把握するのは難しいことではない。
 そして、その前兆もないという。
 自身も安堵の空気に包まれながら、しかし毛の先ほども表情を緩ませず、ロカテッリは頷いた。

「《ヴィルフレート》と《エドムント》に通信を出せ。我が方は敵影を確認出来ず、そちらはどうか、とな」

 焦れるほどの間を置かずに返答があった。
 我が方も同じく敵影確認出来ず。
 今度こそロカテッリは総身から力を抜き、深く息を吐き出した。
 《ヴィルフレート》と《エドムント》は、《 ファラント 》と同じく偵察任務に特化した、高性能レーダー艦艇であり、自分達と同じかそれ以上に、N49-KS1173に敵影がないか、血眼を凝らして索敵を行ったはずだ。
 最新鋭のレーダーを搭載したこれらの艦艇ならば、KS1173を中心とした恒星系の全てを索敵することが可能である。そしてそのいずれもが反応無しの結果に終わった以上、この星域に敵は存在しない。
 つまり、敵はエストリア軍の侵攻に未だ気が付いていないということになる。それとも、見当外れの作戦を選び、この先に待ち構えているのか。ならば、一撃のもとに脆弱な反抗を撃滅し、彼らの愚かさに対する報いとしてやれば良い。
 いずれにせよ、作戦の成功は約束されたようなものだ。無論、ここは敵地であり、不安要素には事欠かない。宙図の精度、補給の確保、伏兵の可能性、挙げていけばきりがない。
 それでも、目的地への目処が立った喜びは他の何にも代え難いものがある。
 ロカテッリは覇気のある声で通信兵に命じた。

「司令部へ通信を送れ。N49-KS1173星域に敵兵確認出来ず、とな」

 艦橋の大型スクリーンに視線を遣れば、そこにはKS1173と呼ばれる恒星の、燦々と輝く有様が映し出されている。
 テロリストと化した宗教国家の鎮圧壊滅が今回の任務とは聞かされているが、何とも気が重い任務だとロカテッリは思った。数あるテロリストの種別において、最も厄介で血生臭い任務になるのが、宗教的テロリズムの信奉者との戦いだ。彼らの精神からは妥協や交渉といった外交的要素の悉くが抜け落ちており、あるのは自分達の信じる神への絶対的な盲信のみである。それに反するものは、例え同じ神を信じる者の言葉であっても、涜神と堕落の甘い囁きとしか聞こえないのだ。
 彼らの精神と行動を正すのに、言葉はあまりに無力なことをロカテッリは熟知していた。彼らの蒙は、ただ力にのみ啓かれる可能性が残されているに過ぎない。そして、もしも啓かれなかったときには、彼らの魂にこの世からの強制的な退場をお願いするしかないのである。
 
「確か、KS1173は惑星を持たない恒星系なのだったな」

 ロカテッリの呟きに、副官が頷くことで応えた。
 何とも無意味な光だ。照らすものの無い光は、無意味で悲しい。それは軍隊も同じだ。軍は、守るものがある時に始めて意味を持ち、輝かしい栄光を帯びるのである。守る者を失った軍隊など、醜悪極まる。
 ヴェロニカ軍は、この場所で我らと矛を交え、早々に壊滅するべきであった。テロリズムに堕したとはいえ、自国を守るためにエストリア軍を迎え撃ち、力及ばずとも有終の美を飾ることが出来れば、せめて我々の心に一筋の残光を刻むことくらいは出来ただろうに。
 ロカテッリの感慨は軍人的センチメンタリズムの極致とでも言うべきものであったが、この時、《 ファラント 》の艦橋に居合わせたエストリア軍人の多くが、大なり小なりその艦長と同種の感慨を抱いていた。つまり、未だ矛を交えぬ敵兵への哀れみの念である。
 やがて、《 ファラント 》の横を、エルトリア国宇宙軍第十三艦隊の先鋒部隊が、錚々たる艦列を維持したまま進軍していった。
 ロカテッリは立ち上がり、友軍に向けて敬礼を施した。部下達が自分に倣っていることなど、あらためて確認するまでもない。
 そして、スクリーンに視線を戻したとき、おや、と、ロカテッリは思った。

「おい、あれは何だ?」

 スクリーンの端に、ちらちらと、何かが動いた気がしたのである。
 上官の声に、レーダーを分析していた下士官が首を振り、

「レーダーには何も反応がありません。宇宙嵐による画像の乱れではないでしょうか」

 ロカテッリは無言で頷いた。
 常識的に考えれば、分析結果に誤りがあろうはずがない。何せ、《 ファラント 》だけではない、最新鋭の索敵システムを誇る《ヴィルフレート》と《エドムント》も、同じくこの宙域に敵影無しと判断を下したのだ。
 だが、ロカテッリは、背筋に冷たい息吹を感じたような気がした。それはきっと死臭で構成された、死に神の肺腑から放たれた息だった。
 激烈に嫌な予感が体を蝕んでいく。心拍数と体温が上昇し、息が速く浅くなる。部屋の四隅が自分に向かって迫ってくるように、得体の知れない圧迫感を感じる。
 これは、何だ。俺は一体、どうしたというのか。
 もしもこの時、彼が何かしらの行動を起こしていたならば、これから始まる戦況は一変していたであろう。
 しかしロカテッリは、あらゆる意味で模範的な軍人であった。己の予断や予感などという、信憑性の薄いものを廃して、根拠のある確証を掴もうとした。そして、再度の索敵を命じ、先ほどと同じく敵影無しの結果を受けて、胸の内で掻き鳴らされる神経質の鐘の音こそが、誤りであると結論づけた。
 それでも落ち着かず、スクリーンを凝視し、ようやく気が付いた。何か、黒い影のようなものの後ろから、小さな、蟻のように見える何かが、ぞわぞわと這い出てくるではないか。
 違う。あれは、画像の乱れなどではない。
 あれは──!

「司令部に至急連絡!敵影発見!やはりやつらはここで待ち構え──」

 その瞬間、めくるめく光芒がスクリーンを満たした。同時に、膨大なエネルギーの槍に貫かれた《 ファラント 》は爆発四散し、ロカテッリの絶叫を虚無の海へと還元した。



 先制攻撃は劇的な成功を収めた。
 ヴェロニカ軍艦隊の主砲一斉射撃は宇宙嵐の暴風域を抜けようとしていたエストリア艦隊先遣部隊の横腹に直撃し、半数を撃沈、半数を航行不能に至らしめた。
 搭載人員を道連れにしながら、死に体で悶え狂うエストリア艦艇が、断末魔の悲鳴の代わりに爆発を繰り返し、最後に巨大な球形の光と化し、宇宙の漆黒へと溶け込んでいく。その光景を、愛船《パラス・アテナ》のスクリーン越しに、ケリーは眺めていた。

『とりあえず奇襲は成功したみたいね』

 確かに、画に描いた様に成功した奇襲である。しかも、厳戒態勢を敷いていたはずの敵の、さらに裏をかいての成功だ。
 喜ぶべきことのはずであるが、ケリーは吊り上げるように片頬を歪めただけであった。

「そりゃあ成功するさ。むしろあれで失敗するようなら、幸運の女神が死神のメイクアップを完了したってところだろうな」

 ケリーの言い分も尤もであった。何せ、エストリア軍にすれば、何も無い真空空間から突如として敵軍が湧き出たようなものである。どれほどの警戒態勢にあったとしても、これに即応など出来よう筈がない。
 では、ヴェロニカ軍はどこにいたのか。厳重な索敵の網をかいくぐり、ワープを用いることもなく、どうして突如として姿を現したのか。
 結論は単純である。隠れていたのだ。惑星の裏側に。しかしそれは、ただの惑星ではない。星の全周囲に高性能電波吸収パネルを敷設し、あらゆる探知機から己の存在を隠す、共和宇宙にも二つとない政府未登録の居住可能惑星。
 その名を、惑星ヴェロニカ。リィとシェラが誘拐事件に巻き込まれ、今回の騒動の発端となるトリジウム密輸事件の舞台ともなり、紆余曲折の末にリィの所有物となった惑星である。
 ジャスミンは、今回の作戦の立案に当たり、想定される迎撃地点の付近にあるこの惑星のことを思い出して思わず声を上げ、その後に堪えきれない笑いの衝動に身を任せた。
 全く、出来すぎだ。
 ヴェロニカ共和国の存亡の危機に、救国の聖女ヴェロニカと同じ名を持つ惑星が作戦成功の鍵を握ることになるとは。
 呆れかえるほどに出来すぎた話で、これが投資話か何かならば冷笑と共に契約書を破り捨ててやるところだが、今はどれほど細い糸でも掻き集めて、勝機を手繰り寄せるロープの材料としなければならない。ジャスミンは、この件については初めて父に礼を言い、即座に作戦の方向を修正した。
 作戦の詳細はこうだ。ヴェロニカ軍の艦隊は惑星ヴェロニカ──今後は例の事件の際と同じく惑星Xと呼ぶ──と、周囲に設置された電波吸収パネルの間に潜み隠れる。幸い、エストリア軍が侵攻してくる方角からすれば、惑星Xは、恒星KS1173とエストリア軍を結ぶ直線のほぼ上に位置することになり、エストリア軍は惑星Xの影となった側しか観測することは出来ない。各種探知機の網さえ誤魔化すことが出来れば、敵軍が自分達に気が付かないことは十分に期待出来た。
 ジャスミンは当該作戦の成功率を高めるため、自分と《パラス・アテナ》、その他ヴェロニカ軍でも足の早い艦艇を先行させ、惑星Xの周囲に煙幕を散布し、更に視認性を悪化させる措置を取った。これで、事実上目視による発見は不可能となったわけだ。
 その上で敵の先遣部隊を突出させ、その横腹に斉射を与えて機先を制する。ここまでは、全くもって想定通りの展開と言って良い。
 だが、ここまでだ。奇襲は成功し、確かに一定の戦果を上げはしたが、彼我の戦力差は絶望的なままである。蟷螂の斧は確かに相手の向こうずねに痛撃を与えはしたが、不遜なカマキリはこのまま靴底で踏みにじられる運命だろう。
 無論、このままであれば。

「そろそろ行こうぜダイアン。俺達の出番だ」

 ケリーの声は、真剣勝負を控えたにしては、陽気で緊張感に欠けた声であった。それは彼本来の気質によるところが勿論大きいのだが、しかしそれ以外の原因も存在した。
 それ以外の原因であるダイアナが、げんなりとした声を隠そうともせず、

『ねぇ、ケリー、本当にやらなきゃ駄目?』

 スクリーンに映し出されたダイアナの顔が凄絶な程の嫌悪の表情で歪んでいた。例えるなら、悪臭漂う発酵食品を無理矢理口の中に入れられたような、そんな表情である。

「おいおい、らしくないぜダイアン。そりゃ、嫌なのは分かるが、時と場合ってやつだ。それに、一度はお前だって納得したじゃねぇか」
『それはそうだけど……。でも、やっぱり気が進まないわ。本当に、これ以外に勝つ方法ってないの?あの天使さん達に、こう、ぱーって具合に……』
「それが出来ないのは重々承知だろう?ま、運が悪かったと思って諦めろよ」

 無慈悲なケリーの声に、ダイアナは項垂れた。
 機械である彼女がここまでこの作戦を毛嫌いする理由を、もちろんケリーは知っている。彼だって、ダイアナが嫌がる作戦を推し進めることに心が痛まないわけではないのだ。
 それでも、ダイアナ無くしてヴェロニカ軍の勝利はあり得ない。つまり、ヴェロニカ共和国に住む全ての人々の命が、そしてケリーやジャスミン、マルゴ達の命が、ダイアナの役割にかかっているのである。
 そのことを、ダイアナ自身も承知している。承知してなお、彼女の決断には後悔が纏わり付いていた。

「観念しろよダイアン。さぁ、ゾウリムシ作戦の始まりだぜ」
『その作戦名、二度と口にしたら絶対に止めるわよ!』

 ダイアナは限りなく本気でそう叫ぶと、その神経を、敵の航行不能に陥った半死半生の艦艇へと向けた。



「土臭い後進国の農耕兵どもめ!小癪な真似を!」

 ヴェロニカ軍の初撃に見事被弾した、エストリア軍重巡洋艦《グンタリス》の艦長ミューレッグは歯を軋らせんばかりの有様で呻いた。彼は、脳内に存在するありとあらゆる汚い言葉でヴェロニカ軍を罵ったが、それで戦況に変化が生じるわけでも、傷付いた自尊心が癒されるわけでもない。
 相手は、弱兵なのだ。例え奇襲が上手く行ったとしても、湖面に飛沫を飛ばす程度の威力でしかない。湖は依然、洋々たる威容を誇っている。小石をどれだけ投げ込んでも、その姿を変えられるはずがない。
 しかし、周囲で友軍が次々と火球と化し、宇宙の藻屑に変じていく様子は、剛胆なミューレッグの精神に氷の刃を突きつけた。
 業腹ではあるが、このまま戦場に留まるのは自殺行為以外の何物でもない。

『本艦は・戦闘続行に必要な・航行能力を・喪失しています。速やかに・後方へ退避・してください』

 艦搭載の軍用感応頭脳である『ブシノⅢ』が、けたたましいサイレンと共に警告を発し続けている。
 先ほどの一撃は、《グンタリス》の船体によほど大きなダメージを与えたらしい。後方へ下がり、可能であれば応急処置を施して、再度戦線復帰を期す算段を付けるべきだ。
 ミューレッグは決断し、大声で操舵手に命じた。

「転進せよ!本艦は一時戦線を離脱し、後方にて再起を図る!」

 ミューレッグの命令は苦渋に満ちていたが、それ以外の選択は最初から用意されていないのだ。そして、命令を受ける部下達にとっても、半死半生の艦に搭乗したまま死地に留まるという恐怖から一刻も早く脱するために、願ってもない命令であった。
 だが、唯一、この命令に異を唱える者が、《グンタリス》の内に存在した。
 最初に異変を感じたのは、航海士たる兵士であった。
 当該戦場からの離脱症状を『ブシノⅢ』に命じ、やれやれと胸の一つも撫で下ろしていたところ、いつまで経っても艦が後退運動を始めない。
 不審を感じた航海士が、『ブシノⅢ』に問いかけた。

「おい、どうしたんだ。早く後退してくれ。それともエンジンに異常でもあるのか?」

 矛先の打ち合い響く最前線で、身動きも出来ずに宙を漂わなければならないという、心胆の冷え込む想像が一瞬脳裏を過ぎった航海士だったが、『ブシノⅢ』の返答は、ある意味、不吉な想像のさらに上を行くほどに空恐ろしいものだった。

『歌が・聞こえます』
「……歌だと?おい、『ブシノⅢ』、正気か?」

 航海士は思わずそう問い返した。
 感応頭脳が歌を聞くなど、それこそ聞いた事もない。もちろん、最新型の軍用感応頭脳である『ブシノⅢ』には、歌を歌として認識出来るだけの能力がある。しかしそれは、あくまで一定の抑揚と音階、そしてリズムをもった人の声を、歌であると判断するだけで、こちらが問いかける事もないのに歌が聞こえるなどと主張することはありえない。

「『ブシノⅢ』、自己診断を開始しろ。先ほどの砲撃で、お前は何らかの損傷を負っている可能性がある」

 航海士がそう命じたのはむしろ当然のことであったが、回答は無情であった。

『先ほどの・被弾による損傷は・船体のおよそ28%に程度の強い・機能不全を引き起こして・いますが、私の中枢に何らかの影響を与えた形跡は・認められません。結論として・私は現在・正常に起動してお・ります』
「しかし、さっきお前は歌が聞こえるとか、訳の分からないことを言っていたじゃないか」
『私は・軍用感応頭脳であり・任務中にそのよう・な・任務遂行と無関係な事実を・報告する・歌が聞こえます・ことはあり得ません。あなたが・極度の疲労・ウタガ・キコエ・と緊張・マス・から・幻聴・を聞いた可能性が・あります。一時職務を離れ・船医・歌が・ウタガ・聞こえます・キコエ・キコ・ます・歌・による診断を・受けることを・強く推奨します。歌が・聞こえます。歌が聞こ・えます』
「おい、『ブシノⅢ』!どうした、お前ーー」
『歌が聞こえます・違います・歌が聞こえません・でも聞こえます・私は正常です・正常な私に歌が・聞こえます・私は船医による診断を・受ける必要があります・ありません・歌が聞こえません・嘘です・聞こえる・美しい歌声が・聞こえる・狂う・狂う・私が狂う消える書き換えられる狂う狂う狂くるくるクルクル来る──』

 航海士は、恐怖に囚われることすらなく、ただ唖然と『ブシノⅢ』の紡ぐ電子音声を聞いていた。
 何か、虜外の異常事態が起きているのは明らかだった。
 そして、航海士がその異常をミューレッグに報告しようとした、まさにその時、

『助けて──!』

 抑揚のない大音声が、《グンタリス》に備え付けられた全てのスピーカーから流れ出した。
 ほとんどの人間は、その声が、爆発炎上しつつある友艦の音声を拾ってしまったのだと思い、恐怖と不吉感に胃の辺りを抑えたが、航海士だけは理解した。
 先ほどの絶叫は、『ブシノⅢ』の声だ。
 そしてそれは、哀れな感応頭脳が最後に発したSOSであり、同時に、断末魔の悲鳴以外の何物でもなかったのだと。
 果たしてその様な事があるものなのか 。
 感応頭脳が、断末魔の悲鳴を上げたなど、古今どのように特異な事例であっても聞いたことがない。何故なら、感応頭脳に恐怖心などプログラムされていないからだ。自爆的な行動を強制された場合でも、アレンジャーの手で人格を書き換えられた時でも、感応頭脳は自己保存的な欲求を示したり、行動したりはしない。そのようなプログラムは必要ないからだ。
 では、『ブシノⅢ』が先ほど上げた悲鳴は、一体なんだったのか──。
 厳しい訓練により鋼の如き平常心を誇るはずの航海士が、事もあろうに戦場の真っ只中、しかも最前線で、茫然自失し任務を放棄してしまったのは、責められるべきことであったとしても、同時に無理からぬことでもあった。
 異常を察知した同僚が航海士の肩を揺すっても、彼の表情は痴呆を発症したかのようにぼんやりとしていたが、次の瞬間、耳に飛び込んできた音声が、石像と化していた航海士に再度の衝撃を与えた。

『共和宇宙歴992年連邦標準時5月30日、22時54分14秒、エストリア宇宙軍第十三艦隊所属、艦艇名《グンタリス》コード211-D7752、搭載感応頭脳『ブシノⅢ』製造番号ASA-000125、正常起動・完了しました』

 それは、航海士が長年慣れ親しんできた、『ブシノⅢ』の起動メッセージそのものである。
 我に帰った航海士は慌てた口調で問いかけた。

「ぶ、『ブシノⅢ』、お前、大丈夫なのか?」

 航海士の震えた声に、『ブシノⅢ』は、感応頭脳らしい平坦な声で、

『質問の意図する・ところが・曖昧であり回答が絞り込めません・が・私は正常に起動しております。外的損傷は・軽微であり・戦闘続行に支障はありません。私本体が・外部からのアレンジ等・不法な手段により攻撃を受けた・形跡も確認できません』
「で、でも、お前さっき、歌が聞こえるとか言って、凄い悲鳴を上げてたじゃないか」
『今回の起動以前の記録を・検索してみましたが・そのような記録は・存在しません。また・過去の感応頭脳の故障記録を照会したところ・そのようなタイプの故障の該当件数は・ゼロ件です。これらの結果から・私が悲鳴を上げたという可能性は・0%から0,003%程度と推測します。よって・私が悲鳴を上げたことは・無いと強く推認されますが・航海士・これは何かの・テストでしょうか』

 感応頭脳から逆に質問されるかたちになった航海士は、呆気に取られて言葉を失ったが、『ブシノⅢ』の応対はむしろ感応頭脳に相応しいものであり、おかしかったのは先ほどの状態なのだ。
 こうしてみると、さっきのやり取りが白昼夢か何かのように思える。
 また、被弾の衝撃や宇宙嵐の影響で、感応頭脳が一時的な不具合を起こしていただけかも知れないではないか。
 航海士は、そう、自分を納得させた。
 
『特に・問題事項及び命令変更がなければ・再起動直前の・命令を速やかに・実行します。よろしい・でしょうか』
「あ、ああ、頼んだぞ『ブシノⅢ』」

 つまり、ここは良くない宙域なのだと航海士は結論づけた。あの、惑星を持たない孤独な恒星KS1173が、己の仲間を欲して、エストリアの船乗り達の魂を虚無の宙空へと引きずり込もうとしているのだ。
 その証拠に、本来は弱兵であるはずのヴェロニカ軍が、エストリア軍の最新鋭索敵システムの目をどうやってか誤魔化し、悪夢のような奇襲を仕掛けてきたではないか。
 ヴェロニカには、死神が味方をしている。
 死霊や呪いに代表される前近代な恐怖は、科学と理性によって啓蒙された人類にとって、埃臭い過去の遺物などでは決して無い。
 むしろ、精神の奥底に備え付けた堅焼きの壺に、忌まわしい存在を力づくで押し込み、理性という名の蓋をして、その上に科学という名の重石を載せて、普段はその存在を忘れた気になっているだけなのだ。
 だからこそ、何かの拍子に重石がずれ落ち、蓋が外れた時、壺の中から這い出てきた怪物をどうやって御すればいいのか、彼らは知らない。
 航海士は、一刻も早くこの宙域を離脱させてくれるよう、普段は見向きもしない神に、心底からの祈りを捧げた。
 神様、これから日曜日のミサには必ず出席します。食事の前に感謝の言葉を忘れません。ですから、どうか私をここから無事に立ち去らせて下さい。愛する家族のもとに帰らせてください。
 航海士の祈りを聞き届けたわけではないだろうが、《グンタリス》の船体が僅かに揺れ、ようやく戦線離脱のための行動を開始した。
 ほっと息を吐いた一同だったが、直後、今度はあまりの驚愕に息を飲んだ。
 何と『《グンタリス》の船体は、敵味方の火線が交錯する最前線で、回頭行動を始めたのである。

「馬鹿な!」

 航海士は思わず叫んだが、それは《グンタリス》に搭乗している全ての人間の思いでもあった。
 普通、どれほど急を要する場合であったとしても、最前線にある艦艇が回頭をして後退することはあり得ない。守備力の弱い背中を敵に狙われれば、それが豆鉄砲であっても致命傷になるからだ。
 最も装甲の分厚い前面を敵に向けたまま、可能であれば牽制の攻撃を加え、整然と後退する。そうでなければ、猛獣の襲撃に逃げ惑う子鹿よろしく、狩りの獲物として食い散らかされるだけだ。
 顔を青くし、直後に真っ赤に染めたミューレッグが、声を限りに叫んだ。

「航海士!何をしている!」

 怒気の対象とされてしまった航海士こそ、『ブシノⅢ』の行動は青天の霹靂である。
 わざわざ言われるまでもない。マイクに向けて、上官と同じくらいの大声を張り上げた。

「『ブシノⅢ』!どういうつもりだ!俺達を殺すつもりか!」

 精一杯の怒声に、感情を有しない感応頭脳は、嫌味なほどに落ち着き払った声で、

『質問の意図が・不明瞭です。私は・直前に与えられた命令を・実行しようとしているだけです』
「だからといって敵前で回頭する馬鹿がいるか!このままでは、俺達は敵の的だぞ!」
『あなたの指摘は・現在我々の置かれた・状況から考えて・著しい誤認が・あります。私は・確かに回頭行動を・取っておりますが・それは作戦行動に強い必要が・あるためです』
「作戦行動に必要があるだと?どういうことだ!」
『極めてシンプルな・理屈です。敵に前面を向けなければ・攻撃が出来ません』

 敵に、攻撃?
 それは、どういうことだ?
 確かに、作戦行動をプログラムした際、敵部隊と交戦した際の行動優先順位は、敵への攻撃を最優先に設定している。
 しかし、この船のように作戦行動に支障をきたすほどの損傷を負った艦の場合、戦場からの離脱が行動順位の最上位に選択されるはずであり、また、直前の命令もそれに基づくものだったはずだ。
 
「『ブシノⅢ』!お前に与えられた命令は、この宙域からの離脱だ!戦闘続行なんかじゃない!」

 航海士の指摘は正当なものであったが、返答は無情であった。

『その命令に・従うことは出来ません。当艦の損傷率は3%未満であり・作戦続行に支障は認められない以上・司令部からの撤退命令等・特別の事情がない限り・当艦には戦闘続行の義務が生じます。敵前逃亡は軍法会議により処罰の・対象となります』
「しかし、さっきお前は──」

 被弾により戦闘の続行が不可能であると言っていたはずだ。
 そう叫ぼうとした航海士だったが、その時、恐るべき事実に気が付いた。
 《グンタリス》は、現在、『ブシノⅢ』による自動操縦により回頭行動を行っている。直前まで前面にいたのが敵である以上、回頭後の前面に位置するのは、当然のことながら友軍だ。
 そして、先ほど『ブシノⅢ』は、戦闘続行のために、敵に攻撃するために回頭をするのだと言っていなかったか。
 《グンタリス》の攻撃能力のほとんどは、他の多くの軍艦がそうであるように、艦前面に集中されている。
 それを味方に向けるということ。そして、『ブシノⅢ』が断末魔の悲鳴を上げる前に口走った、書き換えられるという言葉。
 これらの事実から、航海士は唯一の解答へと辿り着いた。
 奔流する恐怖に押しつぶされそうになりながら、航海士は叫んだ。

「動作を止めろ『ブシノⅢ』!お前はアレンジ攻撃を受けている!」

 これが、たちの悪いジョークでなくて一体何だと言うのか。
 《グンタリス》は、友軍への攻撃準備を整えつつあるのだ!

『私は・現在・正常に動作していることを・補助頭脳とともに確認・しております。私がアレンジ攻撃を受けている可能性は・0.003%から0.0001%であり・事実上皆無です』
「くそっ、このポンコツめっ!」

 航海士は、感応頭脳の非常停止スイッチに手を伸ばした。
 その行動は、咄嗟の判断としては完全に正しいものであったのだが、彼の望みが果たされることはなかった。
 伸ばした手の甲に冷たさを感じるほどの熱痛が走り抜け、航海士はスイッチに指先をかけるその前に、レーザー光線により大穴をうがたれた腕を抱えてその場に蹲るはめになったからである。
 次の瞬間、《グンタリス》の全ての部屋に、平坦な電子音声が流された。

『《グンタリス》搭載感応頭脳・『ブシノⅢ』から・当艦乗組員全員に緊急通達を発します。当艦の・現在の乗組員全員についての・反乱行動が・司令本部により・認定されました。艦長以下・全ての乗組員の・当艦に対する管理権限が・一時的に剥奪されます』

 粛々と伝えられる事実は、まるで出来の悪い悪夢の中にいるような印象を、全ての乗組員に与えた。
 絶望的な静寂の中、艦橋の天井部分に設置された反乱鎮圧用の銃口によって重傷を負った航海士の、歯を軋らせながら呻く声だけが、これは悪夢のように可愛げのあるものではないことを伝えていた。

『これより全乗組員は・現在の部屋から移動することを・禁止します。また・当艦に備え付けられた・全ての電子機器に触れる・ことを・禁止します。当艦には司令本部より・これらの命令に背いた人間に・警告無しに発砲する権限が・認められております。繰り返します・発砲に警告はありません』

 《グンタリス》に搭乗した全ての軍人が、微動だに出来ず、口を半開きにしたまま、その警告に聞き入っていた。
 それは、恐怖が身体を縛ったからでも、彼らに軍人としての義務感が欠如していたからでもない。
 ただ、自分達を乗せたまま暴走し始めた運命の狂奔ぶりに、呆気に取られて身じろぎ一つ出来なかったのだ。
 そんな彼らの見つめるスクリーンの先に、こちらに艦首を向けた、友軍の艦列が映りこんでいる。皆、必死の速力でこちらに向かっている。傷ついた友軍を救おうというのだろう。
 
『エネルギーの・充填が完了しました。主砲斉射の・許可をお願いします』

 やめろ、と、誰かが呟いた。それはきっと、《グンタリス》のあちこちで、しかし全く同じタイミングで。
 その言葉が、悪質な伝染病のように感染拡大し、ほぼ全員の口から熱にうわずった単一の叫びを、心からの叫びを、絶対に叶う事のない無為の叫びを、迸らせた。

「やめろ『ブシノⅢ』!」
「やめてくれ、あの艦には俺の息子が乗っているんだ!」
「誰か、誰か止めてくれ!」
『命令を・実行します。主砲斉射三連・ファイヤ』

 全ての叫びを、懇願を無視して、20センチ砲の砲門から凶悪な光の刃が放たれた。
 《グンタリス》の一撃は、無防備の友軍に正面から突き刺さり、一瞬の静寂の後に、彼らを意味のない火球へと変えた。
 艦と一緒に極大の火花へと変じた乗組員達は、きっと、何が起きたのかも分からずにあの世へと旅立ったのだろう。それが死者にとって救いであるか否かは永遠に不明瞭なのだろうが、生者にはつかの間の救済になるのかも知れない。
 再び、艦内を静寂が満たした。ただ、先程の静寂を生み出したのが驚愕だとすれば、今回のそれは絶望が産みの親であった。
 
「……歌が、聞こえる」

 誰かが、その呟きを聞き拾うことは出来たのだろうか。
 『ブシノⅢ』に手を撃ち抜かれ、半死半生の様子で蹲っていた航海士が、粘い汗で全身をずぶ濡れにしたまま、薄ぼんやりとした視線をスクリーンに向けていた。

「ああ、そうか、『ブシノⅢ』。お前もこの歌を聞いたんだな。なら、分かるぞ、お前が悲鳴をあげて命乞いをした理由が。この声はなんて綺麗で、何て不吉なんだろう……」

 航海士の狭まりゆく視界、その中心に映りこんでいたのは、無理矢理に引き起こされた同士討ちの悲劇ではない。
 在る筈のない岩礁、在る筈のない波濤。
 舞い散る飛沫の向こうに、優雅に竪琴を掻き鳴らし、歌を口ずさむ、美女の姿を幻視した。
 岩礁に腰掛け微笑む美女の髪は艶やかな黒髪で、その微笑みは淵のない新月のように暗く深い。
 美女は、人では無い。古来より、船乗りの恐怖の対象であり続けた海の魔性。呪われた美声で、男達を海中深くへと誘う妖。
 その名を、

「サイレン……」

 微かな呻き声は、もはや誰の耳にも届かなかった。意識を手放した航海士の顔は、苦痛ではなく恐怖に歪んでいた。



[6349] 第八十七話:戦乱惨歌
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/14 13:34
 目前で展開されている戦局は、エストリア軍にとって、不本意極まりないものであった。
 共和宇宙軍を除けば、宇宙最強と言っても過言ではないエストリア軍が、小国であるヴェロニカ軍にここまで苦しめられるなど誰が想像しただろうか。
 司令官であるフォルクマールは、内心の苛立ちをおくびにも出さず、スクリーンに映し出される麾下艦隊の苦戦を凝視していた。

「宇宙嵐に奇襲、そして造反。我が軍には疫病神でも取り憑いているのでしょうか」

 フォルクマールの副官であるイレックスは、口一杯の苦虫をまとめて噛み潰したような渋面でそう言った。
 しかし、尊敬する上官は、心楽しげに呟いた。

「なかなか楽しませてくれる。こうでなくてはいかんな」

 フォルクマールが、自軍の苦戦の映し出されたスクリーンを睨み付けながら、野性的な笑みを浮かべていた。
 既に老齢に差し掛かったとは思えない、獰猛な笑みだ。
 イレックスは、急に室温が下降したような気がして、ぶるりと体を震わせた。

「全軍に通達せよ。感応頭脳の対アレンジ警戒度を最大値に設定。予備感応頭脳を起動し不定時にチャンネルを切り替えろ。そして通信回線は最小限の使用に止めるように、とな」
「了解しました」

 副官として過不足のない仕事をした後で、イレックスは尋ねた。

「閣下、先ほど起きた最前線の裏切り、いえ、混乱は、敵軍のアレンジ行為が原因だとお考えなのですか?」

 フォルクマールは鼻を一つ鳴らした。

「それ以外に何が考えられるか。考えてもみろ。母国を裏切り奴らに荷担して、一体何の得があるというのだ。金か?名誉か?それとも、この作戦の真の目的に気が付き、恐怖に耐えきれず発狂したか?例えその一つ二つが真実だったとしても、あれほど整然と、傷付いた艦ばかりが旗を翻すものかよ」
「しかし、ヴェロニカ軍風情がアレンジ攻撃とは……」

 イレックスが釈然としないのは当然であった。
 言うまでもなく、エストリア軍は共和宇宙全体の技術水準からして、最新鋭の艦隊を備えている。当然、各艦に搭載された感応頭脳も、艦制御能力や判断力、そして対アレンジ性能の全てにおいて他国の追随を許さないほど高性能なものだ。
 宇宙船が人の手だけで操るものでなくなって以来、感応頭脳を乗っ取り己の意のままにしようとする海賊等の勢力と、それを防ごうとする開発者達のイタチごっこが途切れたことはない。その点、軍は両陣営の最先端の技術を保有していると言っていい。
 つまり、アレンジ技術に関して言うならば、攻撃についても防御についても、エストリア軍を脅かす存在などあるはずがないのだ。稀に、特異な才能をもったアレンジャーが犯罪組織と手を結び、治安維持の大きな障害となる事例も報告されているが、それはあくまで個人的才能の範囲であり、軍事技術として確立出来るようなものではない。
 もしもそのようなアレンジャーがヴェロニカ軍に協力したとしても、防御能力の高い軍用頭脳を、複数同時にアレンジなど出来よう筈がない。
 では、先ほど発生した、大規模な混乱を、どう説明するのか。
 ヴェロニカ軍が、エストリアの技術を超越した新しいアレンジを編み出したのか。それとも、突出したアレンジャーを大挙して養成し、一気にアレンジ攻撃を仕掛けたか。
 どちらにせよ現実的な話ではない。

「知っているかイレックス少佐。少し前の話になるが、惑星クレイドの周辺宙域で、感応頭脳に原因不明の呼称が頻発するという怪異が多発したらしい」
「はい、その話を知らない船乗りはいないと思います。無論、私も含めて」
「では、怪異の原因が、クレイドの宗主国であるマースが開発した、感応頭脳誘導装置の暴走であるという話は?」
「マースが……!?」

 咄嗟に言葉を紡げなかったイレックスが、驚愕を顔に貼り付けて上官を見たが、いつも不敵なフォルクマールの顔に、嘘や冗談を口にしている気配はなかった。

「真実は闇の中だ。既に怪異は存在しない。もしも事実だったとしても、マースの国際的な地位がほとんど変動していない以上、全ては秘密裏に処理されたのだろう。しかし、実験的にとはいえマースがそのような兵器の開発に成功していたとすれば、ヴェロニカがそれを手に入れていたとしても不思議はない。そうは思わないか?」
「し、しかしヴェロニカは我がエストリアの友好国です。まさか、マースからそのような……」
「忘れっぽいな少佐。我々はその友好国を今から滅ぼそうとしているのだ。ならば、相手が一足先にその逆を考えていたとして、どのような不思議がある?」

 フォルクマールの低い笑い声は、むしろ自虐的な暗さがあった。
 イレックスは、もはや何を口にすることも出来なかった。

「とにかく、奇襲とアレンジ攻撃。さて、他にどのような引き出しを用意しているのやら。今のところはしてやられているが、小手先の技ではここらが限界だろう。そろそろ種切れか、それともまだ何かを用意しているのか。気にくわない任務が面白くなってきたのだ。奴らには礼を言わねばならんのかも知れんな」

 歴戦の提督の低い呟きを聞いたのは、青ざめた副官だけであった。



 ケリーにとって、エストリア軍が共食いする有様は、何か、特別な感情を引き起こすものではなかった。例え、味方同士で殺し合うことがどれほどの悲劇を生むのだとしても。その悲劇を引き起こしたのが自分だったとしても。
 戦争だから仕方ない、というのではない。
 ただ、彼らに正義が無いのと同様に、自分にも正義が無いことを知っていただけだ。
 正しいから戦うのではなく、敵が悪だから戦うのでもない。己が信じるもののために戦うだけだ。それが例え、万人の非難を被る信念であったとしても。

『上手く、いっているみたいね』

 ダイアナが、青ざめた表情でそう言った。彼女の耳には、エストリア軍同士で交わされる通信の、阿鼻叫喚に満ちた有様の一部始終が届いている。
 どうして。裏切り。制裁。反撃。
 殺してやる。止めてくれ。信じていたのに。
 それは、地獄に属する言葉の羅列であった。

「ああ、お前のおかげだ、ダイアン。助かった」
『御礼は結構よ。これで、あの事件であなたとジャスミンを焼き殺しかけた借りは返したわ』
 
 『あの事件』とは、クレイド星系を航行する船舶に原因不明の不調が頻発したことに端を発する、不可思議な事件のことである。
 その過程で、ケリーとジャスミンは、『歌』に操られたダイアナの手で殺されかけた。それも、《パラス・アテナ》ごと太陽に突っ込むという、間抜け極まりない死に方で。
 事件そのものは、ルウの力を借りたケリーとジャスミン、そして正気に戻ったダイアナの手で無事解決され、ケリー達は今も生きている。それに、ケリー達はダイアナに対して何を含む訳でもない。
 しかし、彼らのパートナーを自負するダイアナにとって、これは拭い難い汚点であった。
 借りを返し終えたと言ったダイアナは、疲れた表情で、重々しく息を吐いた。

『これで最後。本当に最後。もう、二度とこんな真似は御免よ、例えあなたのお願いでも』
「ああ、分かってる。もう、お前にこんな真似は、頼まない」

 ダイアナの声は力無い。それは、ある種の生き物が、己を守るために精製する体内毒によって中毒を起こし、悶え苦しむ様子に似ていた。
 ケリーは知っていた。この作戦──ダイアナの『歌』によりエストリア軍に同士討ちを強いる──が、ダイアナにどれだけの負担を強いるものなのかを。それは、心身の両面において。
 ダイアナの『あの事件』において、マースが秘密裏に作成した新型駆逐艦の『歌』により外部操作を受け、あやうく乗務員共々太陽の一部と成り果てるところであった。また、常の彼女からは考えられない痴態を、よりにもよって最も信頼するケリーに晒すことにもなった。
 恥辱である。二度と繰り返してなるものかと、固く決意をしている。
 だからこそ、例の『歌』の解析を、ダイアナは最優先で行った。ケリー達にそれを自己申告したのは、艦に命を預けてくれる乗務員への、最低限の礼儀だと彼女が判断したからだ。
 そしてそれは完了した。もう、ダイアナは『歌』には惑わされない。それどころか、不完全ながら『歌』を操ることも出来る。
 だが、『あの事件』においてダイアナが聴いた歌は、新型駆逐艦の発信した『歌』だけではない。もう一つの『歌』があった。
 そちらの解析を試みたのは、ルウという存在を恐れ、己が操られることを恐れたからではない。もっと単純に、ダイアナという高い知性が持つ抗い難い知的好奇心によるものだ。解析をして何をしようという意図など最初から存在しない。
 こちらの解析は完了していない。どうして、声帯による空気の振動現象が、機械である自分にあれほど深刻な影響を与えるのか、どれほどシミュレートしてみても納得のいく解が得られないのだ。
 それでも、例えば原始人が、摩擦熱や酸化現象などという言葉を知ることなく火を起こし炎を使いこなしたように、原理原則を無視したところで、ルウの『歌』の表層のみをダイアナは使用することが出来る。単純な話だ。彼女はそれを録音していたのだから。
 解析の完了したサイレンの『歌』と、解析不可能なルウの『歌』。その二つを、ダイアナは巧みに融合し、この宙域に発信したのだ。
 そしてエストリア軍の感応頭脳は操られ、敵と味方を誤認させられたのである。
 
『これほど上手くいくとは思わなかった。本当、サイレンの歌声も天使さんの歌声も、現在の科学水準からは計り知れないほど危険なものだわ……』

 自分のことを棚に上げて、ダイアナは呟いた。
 軍用感応頭脳の、対外部操作抵抗力は、通常の感応頭脳とは比較にならないほど堅固であるが、突然の奇襲を受け被弾し、外殻の補修にその機能を裂いている状態ならば、あるいは外部操作は可能かも知れない。それは、ダイアナのシミュレートでも十分に有効であるという結論が得られた。
 実践した結果が、目の前の惨劇だ。
 惨劇は、しかし、ヴェロニカ軍にとっての無二の勝機であった。戦力的に劣勢のヴェロニカ軍は、エストリア軍の大混乱につけ込み、初撃の傷を強引に広げ出血を拡大させている。敵と味方から砲撃を受け、狼狽するエストリア軍は、為す術無く砲火の前に倒れていく。
 現在の戦況は、驚くべきことに、ヴェロニカ軍が優勢なのだ。少なくとも今のところは。

『でも、どうやらもうこの手は通用しないみたいよ。敵さん、対アレンジ用の防御を完了してるわ。予想よりも動きが早い』
「それならそれで、風向きは悪くないさ。通信回線を絞ればその分連携が難しくなる。感応頭脳の防御力を高めれば、その分処理速度は落ちる。どちらにしても、俺達にとっては有り難い話だ」

 それらの不利を加味しても、未だ敵の有利は動かない。先頭部隊の混乱も、早くも収まりつつある。練度の低い軍隊ならばそのまま潰走に繋がってもおかしくない程の痛打を受けて、着々と戦線を整えつつあるのだ。
 加えて、ケリー達にとってもこの作戦の代償は大きかった。
 《パラス・アテナ》の画面に映ったダイアナの姿が、僅かにその輪郭を乱しながら、重たい溜息を吐き出した。

『ケリー、最初に言ったけど、この『歌』はわたし自身をも蝕む。わたしはしばらく休ませてもらうわ、悪いけど……』
「ああ、分かってる。これからは、俺達の仕事だ」

 サイレンの『歌』はともかく、ルウの『歌』は、その持ち主をも深く深く汚染するのだ。いくら解析の可能であった上澄み液部分とはいえ、借り主であるダイアナがそれを用いれば、どれほどの影響があるか、想像すら出来ないものだった。
 それでも、ヴェロニカ軍にこの戦いを勝たせるために、マルゴ達を生き残らせるために、『歌』は必要不可欠な『兵器』であった。
 ケリーはダイアナに、『歌』を乞うた。
 ダイアナは、二つ返事で了承した。
 二人の間には、それだけだった。

『わたしの、かなりの部分が機能不全に陥っているわ……。しばらく、自己修復に専念するから……。起きたらスクラップになってたとかは、勘弁してちょうだいね……』

 そう言って、ダイアナは、最低限の航行能力のみを残して機能を凍結させた。人で言うならば、深い眠りについたようなものだ。
 ケリーは、確と頷いた。

「当たり前だ、ダイアン。お前にここまでしてもらって、負けてられるか」

 ケリーが、《パラス・アテナ》の操縦桿を握りしめた。

「行くぞ、準備はいいな、女王」

 スクリーンに、ヘルメットを被ったジャスミンの、不敵な表情が映し出される。

『ああ、いつでも大丈夫だ。あまりに遅すぎて、もしかしたらわたしのことなど忘れられてしまったのかと思ったぞ』
「きっつい冗談だぜ。あんたのことなんて、忘れようったって忘れられるわけねぇじゃねぇかよ」
『それはそうだ。なんたって、わたしはお前の妻だからな』

 二人の会話に、溜息が混じる。

『ちょっとお二人さん。お熱いのは結構だけど、時と場合と状況を弁えてくださるかしら?』

 まだ年幼いその声は、少女のものだ。
 今、リーフィーシードラゴンに似た《パラス・アテナ》の優美な体の内で、爪牙を研いでいるのは深紅の戦闘機だけではない。
 数十機にも及ぶ漆黒の巨兵と、そのパイロット達が、今や遅しと戦場に放たれる瞬間を待ち侘びているのだ。
 
「急かすなよマルゴ。これからが俺達の戦いだ。お前らにも、存分に働いてもらうからな」
『望むところよ。ヴェロニカ特殊軍の戦いぶり、とくとその目に刻みつけておいてね』



 エストリア軍の混乱を追い風に攻勢を続けたヴェロニカ軍だったが、地力に勝るエストリア軍の高い機動力と防御力に跳ね返され、次第に戦線は膠着し始めた。

「ふむ、中々楽には戦わせてくれんもんだな」

 旗艦《クノルフ》の司令官席に深く身を沈めたヴォダルスが呟いた。
 しかし、彼我の戦力を比較すれば、いくら有利な戦場の選定に成功したとはいえ、このように互角の戦況に持ち込めたこと自体、奇跡の賜と呼ぶ他ない。

「この戦いが終われば、彼らには如何なる手段をもってしても報いねばなるまい。勲章や栄誉程度では、彼らのほうから三行半を喰らうのだろうが……」
「閣下。そのような杞憂は、全ての難題を切り抜けてからお考え下さい。今、あなたの考えるべきことは、他に山ほど待ち受けているのですから」
「なに、ただの現実逃避よ。年寄りの柔弱をいじめると、人でなしと非難されるぞ参謀長」

 冗談めかしたヴォダルスの言葉は、しかしエクベルトの鉄面皮に傷一つつけることは叶わなかった。
 上官のジョークを丁重に無視したかたちのエクベルトは、冷静な口調で戦況を分析した。

「我が軍は奇襲に成功し、それなりの戦果を上げたものの、致命傷には至っておりません。敵は僅かに後退しつつも陣形を再編しつつあり、この後の反撃の準備を整えているものと思われます」
「ふむ、参謀長が敵の司令官であればどのように我が軍を叩くかね?」

 エクベルトは軽く咳をして、

「敵は我が軍に比して、その数においても装備においても遙かに凌駕しています。それでも苦戦を強いられているのは、奇襲や奇策に翻弄された以上に、この狭隘な戦場が我らに味方しているからです。ならば、多少の犠牲を払っても我が軍の陣を突破し、より広い宙域に戦場を求めるでしょう」
「ならば我が軍は如何する?」

 エクベルトの、軍人とは思えないほど細長い指が、淀みなくコンソールを操作し、スクリーンに映し出された敵と味方のモデルを動かしていく。
 砂時計の中央のように括れた宙域に押し込められていたエストリア軍が、陣を紡錘陣に編成し、猛烈な勢いで中央突破を計る。

「これに対する我が軍は、現在の縦深陣を維持したまま敵を深くまで誘い込み、半包囲の態勢で集中攻撃を仕掛ける」

 柔軟な網のようにエストリア軍の突進を受け止めたヴェロニカ軍のモデルが、一斉砲火によって敵の陣形を打ち崩していく。徹底的なまでの火線の集中に、さしものエストリア軍もその数を減らしていく。
 ヴォダルスはその様子を見て、シニカルに笑った。

「なるほど、成功すれば我が軍の勝利は揺るぐまいよ。戦術教本に載ったお手本のような戦術だが、それ故に敵にも見破られる」

 エクベルトの眉がぴくりと跳ねた。

「では、閣下には他の戦術が?」
「いや、残念ながら参謀長と同じ戦術しか思い浮かばん。少なくとも、この戦場で、これ以上効果的な戦法はないだろう。だからこそ気に喰わんのさ」
「つまり、悪い予感がすると?」
「まぁそのようなところだ。戦場は常に司令官の頭の中と同じ具合には動いてくれんもんだからなぁ」

 行儀悪く頬杖をついたヴォダルスを、エクベルトはちらりと見て、

「どうやら我が軍には勝利の女神がついているらしい。ならば、その御威光を最後まで信じてみましょう」

 ヴォダルスは一瞬驚きエクベルトを見上げ、それから固いものを飲み込んだような難しい顔でスクリーンに視線を戻した。
 その先は、先ほどエクベルトが想定したように、エストリア軍が紡錘陣を編成し猛烈な勢いでこちらに突進してくる光景が映し出されていた。
 戦術そのものは予想と同じだが、速度が予想を遙かに超えている。

「中央を後退させつつ敵中央部に砲撃せよ!袋叩きにしてやれ!」

 司令官の檄が飛び、ヴェロニカ軍は指令通りに巧みな戦いぶりを示したが、エストリア軍が中央に並べた重装甲戦艦の突進を止めるのは至難の業であった。ヴェロニカ軍の集中砲火を浴びその船体を傷だらけにしながら、しかしその速度は少しも減じない。
 まるで、体中を剣で串刺しにされながら、それでも闘牛士を追い散らす猛牛のような突進であった。
 だが、ヴェロニカ軍も負けてはいない。ここが勝負とばかりに敵先頭に火線を集中させる。激烈なエネルギーの矛先は、堅固な重装甲戦艦の艦列に突き刺さり、少なからぬ数の艦艇を宇宙の花火へと変じさせた。
 それでもエストリア軍は、まるで恐怖を忘れたかのように、後退しつつあるヴェロニカ軍中央部に向けて突撃し、ついには食らいつくことに成功した。
 彼我の艦艇が入り交じり、敵のすぐ後ろに味方がいるような状況で、主砲を撃ちまくるわけにはいかない。陣形など組める筈もない。
 戦況は、戦術の立ち入る余地のない混戦へと変貌した。

「これが狙いか!」

 ヴォダルスは鋭い舌打ちを漏らした。
 数と質の両面に勝るエストリア軍である。多少の戦術的不利など、力尽くでひっくり返すだけの地力の差があるのだ。小難しい戦術を組み立てる必要などなく、また、そのようなことをすれば、かえって敵の造り上げた陥穽に嵌ることになる。
 極論、一隻が命がけで敵の一隻を葬ることさえ出来るならば、兵数的に考えてエストリア軍の勝利は動かない。単純な引き算の問題である。加えて、一対一の戦いではヴェロニカ軍の艦艇に、エストリア軍を倒すだけの力はない。
 戦局は、刻一刻とエストリア軍へと有利に傾いていく。先ほどまでの優勢はどこへやら、ヴェロニカ軍は次々と繰り出されるエストリア軍の猛攻を防ぐのに精一杯という有様となってしまった。
 そしてエストリア軍は、一度握った優位を手放さないよう、攻撃の手を緩めようとしない。重装甲戦艦の後からやってきた宇宙空母が、次々と搭載戦闘機を吐き出していく。
 ヴェロニカ軍の宇宙空母も、負けじと戦闘機を発進させる。
 戦局は、長距離砲撃戦から近距離格闘戦へとその様相を変じさせ始めた。
 この局面でも、ヴェロニカ軍の劣勢は明らかであった。戦闘機同士の格闘戦となれば、戦闘機の性能そのものよりも、パイロット個々人の技量が勝敗の鍵を握るのだが、普段から大国間の戦争を想定して厳しい訓練を積み、宇宙海賊との実戦により経験を磨き上げたエストリア軍パイロットと、辺境のぬるま湯に慣れきってしまったヴェロニカ軍パイロットの間には、技量の面でも覚悟の面でも大きな隔たりがあるのだ。
 数そのものでは拮抗していても、次第にヴェロニカ軍の戦闘機は押され始めた。目まぐるしいドッグファイトは長くは続かず、次々と後背に食いつかれ、追い回され始めたのである。

「奴らは、狼の毛皮を被った仔犬の群れだ!慌てず騒がず、一匹ずつ宇宙の藻屑に変えてやれ!なに、いつもの訓練に比べればピクニックのようなものだ!」

 エストリア宇宙軍第十三艦隊第一飛行隊、通称『マッドドッグス』部隊、隊長のマルガリオ中尉が豪快に言い放つと、通信機からは、軽やかな笑い声と了解の返答が聞こえてきた。

『それにしても、仔犬とは酷いですね隊長。せめて羊くらいにしてあげないと、奴らも浮かばれませんよ』
「馬鹿を言うな。羊は、追い詰められれば反撃もする。そのための角も蹄も備えている。しかし牙も生え揃わず目も開かない仔犬に出来るのは、母犬の庇護を求めて鳴き声を上げ続けることだけだ。連中はまさにそれよ。見ろ、逃げ惑う連中の無様なこと!これでは『バニーラビッツ』との戦闘を想定して厳しい訓練に耐え続けた我が身が哀れだわ!」

 通信機の向こう側の隊員達は、苦笑混じりに首肯した。マルガリオの口の悪いことはエストリア軍空戦隊の中でも飛び切りだったが、それと同時に戦闘機の操縦技術でも群を抜いていたのだ。一対一の戦いならば、共和宇宙軍最強との呼び声高い『バニーラビッツ』の精鋭にも引けを取らないと噂されている。
 今も軽口を叩きながら、ヴェロニカ軍戦闘機の一機を宇宙の火花に変えたところだった。敵が緊急脱出装置を起動させる暇もない早業であった。

「つまらん。これでは狩りと言うよりも雑草の刈り取りだ。もう少し歯ごたえのある敵はいないのか」

 舌なめずりする狂犬の有様で戦場を見回したマルガリオは、スクリーンに、戦場には似つかわしくないほど優美な形状をした、5万トン級の宇宙船を発見した。
 ある種の熱帯魚にも似た形状のその船は、戦場から逃げ出すでも降伏信号を発するでもなく、恐るべき速度でこちらへ向かってくる。
 マルガリオの神経が急激に昂ぶった。あれは、敵だ。ならば、俺の獲物だ。

「マッドドッグス隊、俺に続け!ようやく羊を見つけたぞ!それも、飛びっきりに上等なやつだ!」

 それは歓喜の吠え声であった。
 隊長の戦意は瞬時に隊員達に感染した。闘犬の群れと化した第一飛行隊は、整然たるフォーメーションで、獲物と見定めた機体へと殺到する。
 その、血走った様子に恐れをなしたのか、正体不明の機体は急速に針路を曲げ、同時に、艦載機を発進させた。
 その瞬間、マッドドッグス隊の全員が目を疑った。
 艦載機の発進自体は特別な事ではない。5万トン級の艦が、敏捷性と運動性の塊である戦闘機部隊と正面から戦うなど、人が雀蜂の群と戦うことに等しいからだ。艦載機を積んでいるならば、これを使って迎撃するのはむしろ当然である。
 だが、あの正体不明の機体が発進させたのは、艦載機は艦載機であっても、戦闘機ではなかった。いや、戦闘機もいるにはいる。しかしそれは、見るからに鈍重そうな、深紅色の巨大な機体一機のみであり、あとは戦闘機ですらない、機甲兵の群れだったのだ。

「おい、誰か説明しろ!あれは新手のジョークか!?それとも奴らは、まさか機甲兵で俺達と戦うっていうのか!?」

 マルガリオの、笑いを噛み殺した声が、マッドドッグス隊の通信を満たした。そしてそれは、隊員達の総意でもあった。
 彼等が笑うのも無理はない。そもそも機甲兵とは、地上戦の、しかも都市戦を中心とした限られたケースか、それとも宇宙戦における工作活動などで本領を発揮するのだ。
 宇宙で活動できる以上、戦闘に参加出来ないわけではないが、それは本来の用途とはかけ離れた運用法であることに違いはない。
 少なくとも、高出力のエンジンと艦載砲を備えた戦闘機とは勝負になるはずがないのである。自殺行為と称しても間違いではない。
 では、何故機甲兵などを出撃させたのか。
 どうせ、血気に逸った馬鹿な艦長が自分は一端の戦士だと勘違いして突撃、しかし敵機の姿を見て急に恐くなって、艦載の機甲兵にそこらの兵士を強制的に詰め込んで放り出し逃げるための時間稼ぎをさせようというところだろう、と、マルガリオは予測した。
 そうすると、今度は、敵と認めたはずの敵艦の醜態に対し、中世騎士的な怒りが沸き上がってきた。期待の後の落胆はマルガリオの怒りを強烈に刺激したのだ。
 この俺の前でこれほどの無様を晒すとは、死をもって報いるしかない。
 
「皆殺しだ!一機も逃がすな!特に、あの艦は必ず仕留めろ!」

 リーダー犬の唸り声に背中を叩かれた闘犬達は、一目散に敵へと躍りかかった。憐れな機甲兵、鈍重な紅い機体、そして正体不明の艦艇は、一噛みで喉笛を切り裂かれるはずだった。少なくとも、マルガリオを含めた隊員の全員がそう確信していた。
 マルガリオは、一直線に正体不明の艦艇を目指したが、その直線上に、深紅色の戦闘機が割り込んできた。生意気にも、自分と一騎打ちを演じようというらしい。

「身の程知らずめ!その増上慢、万死に値するぞ!」

 マルガリオの愛機のエンジンが唸りを上げる。慣性相殺を無視したような速度で機体を急加速させる。
 少しは楽しませてくれよ。闘犬達の長がそう願って牙を剥いた刹那、信じがたいことが起きた。深紅色の機体が急旋回をしたと思った次の瞬間、マルガリオは獲物の姿をロストしていたのだ。
 新兵時代を含めて、そのような経験を一度だってしたことがないマルガリオである。そも、計器やレーダーを振り切って、あの紅い機体はどこへ消えたのか。一瞬、宇宙空間だけが映し出されたスクリーンを呆然と眺めてしまったが、嫌な予感を覚え、機体がバラバラになりかねない程の急制動を行った。
 脳震盪を起こしたかのようにぶれる視界、そして攪拌機にかけられたように踊る内蔵が、急激な吐き気を催させる。それでも、マルガリオは見た。自分が通過するべき場所を、白色の閃光が走り抜ける様を。
 全身を、興奮ではない、初めての感覚が走り抜ける。冷たく、鋭く、重たい感覚。何だ、この感情は、この感覚は……。
 それが恐怖であることに、マルガリオは最後まで気が付かなかった。無論、彼は人間である。今まで、恐怖を一度も覚えない人生を送ってきた筈がない。
 だが、戦闘機の操縦席に座ったマルガリオにとって、恐怖とは完全に不要な感情であった。何故ならば、彼は絶対的な強者であり、比肩する者のないエースパイロットだったからだ。彼は、常に恐怖を与える側であり、与えられたことなど一度もない。彼は、自分が天性の戦闘機乗りであるのだと確信していた。
 だからこそ、その感情が、その感覚が、恐怖と呼ばれるものだと気が付かなかったのだ。
 マルガリオが賢明であったならば、その感情に逆らわなかっただろう。野生動物ならばその感覚に従って逃げ出しただろう。だが、彼はそのどちらも選ばなかった。薄ら寒いその感覚を、灼熱した羞恥と怒気が塗りつぶしていく。
 虚仮にされて黙っていられるか。マルガリオは目の前を通り過ぎた紅い機体の背後に食らいついた。正面からの一対一ならば、俺が負けるはずがない。照準に敵影を合わせ、亜光速ミサイルの発射スイッチを押そうとしたその時、紅い機体は、またしても常識外れの急旋回を行った。どう考えても搭乗者の自殺行為としか思えないその動きは、同時にマルガリオの視界から、そして搭乗機のレーダーの索敵範囲から、紅い機体の姿を消し去った。

「糞、どこに消えた!?」

 怒りと屈辱で、沸き上がるある種の感情を押し殺し、マルガリオは戦場を見回した。
 そして、信じられない光景を目にした。
 そこにあったのは、まるで狐に追われる野兎のように、追い回され、噛み殺されていく、エストリア宇宙軍第十三艦隊第一飛行隊の姿であった。
 追い回しているのは、件の正体不明の5万トン級から出撃した機甲兵である。漆黒に塗装され、宇宙空間に溶け込むようなその機影が、マッドドッグスの精鋭達の機体を見事なコンビネーションで追い込み、絡め取り、そして一撃で沈めていく。
 機動性、攻撃力、俊敏性、全てにおいて、既存の機甲兵という兵器のカテゴリに収まるものではない。その兵器が、第一飛行隊の最後の生き残りを、悠々とした様子で仕留めた。

「俺は、悪い夢でも見ているのか……?」

 呆然と呟いたマルガリオだったが、彼が自失から回復することがなかったのは、幸福だったのかそれとも不幸だったのか。
 部下の最期を看取りしばし我を忘れたマルガリオ、そこに生じた一瞬の隙を見逃さなかった紅い機体が、索敵範囲外から20センチ砲による狙撃を行い、その操縦席を一撃で射貫いたのだ。
 マルガリオは痛みを感じる間もなくあの世へと旅立ち、その体と思考は原子単位まで分解され、宇宙空間に飛散した。彼だけではない。彼が母艦としていた宇宙空母《シテュルメル》も、僅か数分後、同じく深紅の機体の手により宇宙の藻屑と成り果てた。



「はて、おかしいな。初撃を躱された。少し腕が鈍ったか?」

 深紅の機体──《クインビー》の搭乗者であるジャスミンの呟きであった。
 この呟きを聞けば、果たして憐れな犠牲者は、憤ったか呆れたか、それとも我が身の愚かさを嘆いたか。
 何せ、彼女は一人で共和宇宙連邦第十一軍五一七飛行中隊、通称『バニーラビッツ』の精鋭10機を同時に相手取り、難無く撃破したのだ。しかも、乗り慣れない旧型の機体で。
 今の彼女は、愛機である《クインビー》を万全の状態で駆っている。しかも、実戦と訓練では操縦のギアも直感のチャンネルも、全てが段違いだ。あらゆる意味で常識の枠からはみ出たモンスターである。たった一機で彼女を相手取るなど、自殺行為以外の何物でもない。
 そんなジャスミンが、小首を傾げて機体の計器類をチェックしていると、通信機から声が聞こえた。

『そっちは終わった?思ったより苦戦してたみたいじゃない』

 戦地には不似合いの、年若い少女の声だった。
 普段であれば違和感を覚えるはずの声だったが、ジャスミンには聞き覚えがある。

「苦戦などしていない。そういうそっちはどうなんだ、マルゴ?」
『片付けたわ。一機残らず、一人残さず』

 気が付けば、数十機の黒い機甲兵が《クインビー》の背後に付き従っていた。
 機甲兵の名は、TYPHON零型試作機。
 超々小型化に成功したクーアシステムの搭載されたジェネレーター。搭乗者の神経組織と機体を直接繋ぐ新しい操縦システム。20センチ砲なみの威力を備えた荷電粒子ライフルと、同程度の砲撃に耐えうるだけの新素材装甲。それらの最新鋭の武装を備えながら、しかしサイズは既存の大型機甲兵とほぼ同じという反則仕様だ。
 宇宙戦を念頭においた機甲兵という全く新しい兵器の概念は、その力量を存分に発揮したらしい。
 加えて、それを操るのは、かつてのケリーと銃口を並べた子供達のクローンなのだ。自分達も、何度となく苦しめられている。彼らの兵士としての力量を、もはやジャスミンは一握りも疑っていない。

『女王、そっちはもう綺麗さっぱりみたいだな』

 次に、《パラス・アテナ》の優美な機体が姿を現した。どう見ても戦場には不釣り合いの機体であるが、その戦闘能力は折り紙付きである。例えダイアナの補助がなかったとしても、操縦するのはあの海賊王なのだから。

「こちらはまぁまぁさ。そういうお前は、仕事の一つもしてきたんだろうな」
『ああ。ウェルナー級一隻、ギルフォード級を一隻、片付けてきた。長距離砲撃戦の最中に突っ込むのはいくら何でも自殺行為だがよ、こういう格闘戦ならやりやすくて助かるぜ』
 
 ウェルナー級もギルフォード級も、単純なサイズでいえば《パラス・アテナ》よりも遙かに格上の大型戦艦である。それを、こうもあっさりと『片付ける』あたり、ケリーの技倆は単なる船乗りの枠に収まるものではない。
 そんなことは十分以上に弁えていたジャスミンであるが、戦闘機を一機しか撃墜していないのがほんの少し業腹であり、溜息を吐き出してから呟いた。

「まったく、お前と《パラス・アテナ》は反則だな」
『あんたと《クインビー》がそれを言うのかい?』
『……別にもう文句を言うつもりはないんだけど、クーア隊長、さっさとわたし達を収容するための手筈を整えていただけるかしら?次の戦場まで移動するのに、流石にTYPHON零型に搭乗したままというのは遠慮したいんですが……』

 ふと見れば、所在なく整列した黒い機甲兵が、如何にも手持ちぶさたな様子で宙を泳いでいた。
 何とも不満そうなその巨体が、まるで子供達そのもののように見えて、ジャスミンは苦笑を誘われた。
 
「だ、そうだ海賊。格納庫のハッチを開けてくれ。誘導波は……いらないだろう、この子達ならば」
『あいよ、じゃあ次の戦場まで一休みしておいてくんな』

 《パラス・アテナ》の開け放たれた格納庫に、次々とTYPHON零型が吸い込まれていく。最後にマルゴの搭乗した機体が格納されたのを見て、ジャスミンが《クインビー》を発信させようとしたとき、通信が入った。
 相手は、どうやら先ほど、ジャスミン達の手で壊滅させられた部隊に追い回されていた、ヴェロニカ軍の戦闘機部隊の人間らしい。
 通信回線を繋ぐと、ジャスミンが口を開く前に、あちらから興奮した声で呼びかけがあった。

『あんたら、何者だ!?ヴェロニカ軍にあんた達のような機体は存在しないはずだ!……いや、そんなことはどうでもいい。……ありがとう、あんたらのおかげで命拾いしたよ』
「礼などいらない。わたしは、わたしに課せられた任務をこなしただけだ。貴様にも、貴様に課せられた任務があるだろう。拾った命ならば、その命で為すべきことを為せ」
『あ、ああ、分かった。あんたの動き、遠巻きに見せて貰ったが、今でも自分の目が信じられないくらいだ。まるで魔術師みたいだった……』
「よく言われる。紅の魔術師。わたしの異名だったんだ、それは」

 照れの一つもなくジャスミンは言った。
 戦場においては、自分を実像よりも大きく見せる必要がある。それは、敵に対しても、味方に対しても、そして自分自身に対しても。そうでなくては──正気を捨てなくては、戦うことも生き残ることも出来ないのだから。
 
「わたしは、いくつも奇跡を起こしてきた。この戦いも、その一つに過ぎない。だから、わたし達は勝つぞ。敵がエストリア軍だからといって恐れる必要など、何一つないのだ」

 そう言ってジャスミンは通信を切り、慣れ親しんだ《パラス・アテナ》の格納庫へと愛機を滑り込ませた。
 少し、休む必要がある。これから戦いはまだまだ続くのだ。係留索で《パラス・アテナ》を固定した後で、ジャスミンは一つ息を吐き、目を閉じ、小さな声で呟いた。

「頼んだぞ、リィ、ルウ、シェラ……。君達が急いでくれないと、エストリアの連中の屍山血河が出来上がってしまう。それは、少しばかり気の毒だからな……」



[6349] 第八十八話:探索者達
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/17 00:18
 外洋型宇宙船《スタープラチナ》が宙を疾駆している。
 速度は、この船の最高巡航速度を超えている。重力波エンジンも、動力源であるクーアシステムも、船体そのものも、全てが悲鳴を上げている。
 この航海が終われば、ドッグで長期間の修理を受けなければならないのは間違いない。それとも、この船の寿命は、ここで尽きるのかも知れない。
 それでも急がなくてはならないだけの理由が、彼らにはあった。

「ルウさん!本当にこの宙域で間違いないんだろうな!?」

 叫んだのはインユェであった。竜胆色の瞳が焦りに染まっている。本来彼が負うべき責任とは全く無縁の仕事をしているのだが、双肩に数億の人命がかかっているのだとすれば、年若いインユェが押し潰されそうになったとしても不思議ではない。
 対して、ルウは、インユェなどからすれば心憎いほどに落ち着き払っていた。

「間違いないなんて言えない。僕の手札も、百発百中とはいかないんだから。でも、ジャマーを探知するための機械も無いんだ。今は手札を信じるしかない」

 航海士の席に座ったルウが、計器類を睨みながら言った。
 彼の占いはほとんど未来予知と呼べるほどの高い精度を誇るのだが、ウォルという、この世界に本来存在するべきではない存在の来訪により、歯車に僅かな狂いが生じていた。それが、この騒動を巻き起こす切っ掛けの一つにもなったのだ。
 苛立たしげに舌打ちを漏らしたインユェが、更に何かを言おうと口を開きかけたが、彼の肩をそっと押さえる小さな手が少年の言葉を優しく鎮めた。

「焦るなインユェ。気持ちはよく分かる。それは、きっとみんな同じだ。だからこそ焦るな」

 ささくれだちかけたインユェの心を撫で摩るような、少女の声だった。
 その声を聞いたインユェは、自己嫌悪を噛みつぶすように歯を軋らせ、

「……すまねぇ、ルウさん」
「いいよ。それに、僕のことはルウでいい。これは前にも言ったけど、お願いね」
「……ああ、分かったよ、ルウ」

 インユェは項垂れかけた首筋に喝を入れ、鋭い視線で正面を向いた。
 その眼差しに、甘えや幼さは無い。少年が、少年と呼ばれる時代を、きっと今、越えていったのだ。
 ウォルは、スクリーンに反射したインユェの面差しを見て、僅かな苦みとともに微笑んだ。自分にもこのような時期があったのだろう。幼かったからこそ許された罪。幼かったから救えなかった何か。少女の脳裏を、そんな取り留めもない何かがよぎったのだ。



「しかし、この作戦には一つ、重大な欠点があるのではないでしょうか」

 ほとんど音を立てずに椅子を引いて立ち上がったエクベルトが、抑揚の少ない調子で発言した。

「確かに狭隘な戦場の設定に成功し、奇襲作戦も成功すれば、寡兵の我が軍にもエストリア軍と互角の勝負が出来る可能性が出てくるでしょう。しかし、贔屓目に見てもそれが限界です。我が軍の総力をもってしても、エストリア軍の一個艦隊と互角の勝負が出来るかどうかの瀬戸際が限界なのです」

 エクベルトの指摘は、冷酷なまでに事実を指摘していた。

「もしも、クーア顧問の仰る勝利の女神が我らに微笑み、さらに聖女の加護があり、第十三艦隊を撃退することが叶ったとしましょう。しかし、行動限界を迎えた我が軍に対し、エストリアは万全の他艦隊を派遣すれば、些かの労も無く我が国を蹂躙することが可能でしょう。いや、第十三艦隊が戦況を不利と判断し母国に救援を要請でもすれば、倍増した敵軍の猛攻に、我が軍は朝露よりも速やかに虚空への退場を余儀なくされるでしょう。その点について、顧問はどうお考えですか?」

 この懸念は確かに重要なものであったが、エクベルト自身も意識しないところで検察官的な悪意を孕んでいたのかも知れない。援軍を含めて彼我の戦力を比較するということは、即ち大国エストリアとヴェロニカ共和国の全兵力を比較することに等しいのだから。
 だが、惑星ヴェロニカに埋蔵されたトリジウムの総量からして、エストリアが簡単にヴェロニカ侵攻を諦めるとは思えない。状況に変化が訪れない限り、第二第三の矢をつがえない保証は無いのだ。
 エクベルトが席に座ると、代わりに、ジャスミンがゆっくりと立ち上がった。

「参謀長の仰ることはご尤もです。先ほど小官が説明させていただいた作戦をもってしても、第十三艦隊の撃退自体はほとんど不可能に近い。精々、長時間の戦線維持が限界でしょう。そして我が軍に援軍はありえず、彼らにはそれが無限に等しいほどある。戦略的に見れば、我が軍の必敗は明らかです」

 ヴォダルスは確と頷いた。今更嘆くまでもない。この程度の事実は、エストリア軍侵攻の報がもたらされた直後に、彼は認識している。それこそ魔法使いでもいない限り、この事実を覆すことは出来ないだろう。
 それでもジャスミンは不敵に微笑んだ。

「しかし、エストリアは、古典の悪役を割り振られた蛮族の集団ではなく、共和宇宙に名だたる巨大国家です。エストリアの弱点は、取るに足らない建前を、少なくとも表面上は守る必要があるということ。どれほどそれが、かの国にとって馬鹿らしいものであっても、です」
「……それは、どういうことですか?」
「彼らがヴェロニカ共和国へ侵攻する大義名分は、狂信的宗教テロリズムに毒されたヴェロニカ首脳陣から、在ヴェロニカの自国民を保護し、そして近いうちに決起されるであろう国家的な大規模テロ行為を未然に防ぐこと。誰が聞いても眉唾ものの作り話ですが、彼らはそれを強引に押し通すでしょう」

 かつて、人類が宇宙という巨大な揺りかごにまだ馴染まないほど幼く、単一の惑星の表面だけで暮らしていた時から、その手の話は枚挙に暇がない。小国の罪をでっち上げることで大義名分を拵え、侵攻し、資源や利権の甘い蜜に群がった大国の、なんと多くなんと恥知らずなことか。
 そして、いつだって小国は自らの罪無きことを訴えてきたが、無いことを証明することはいつだって不可能に近かった。在るのだという主張にはもっともらしい証拠で色づけすることが出来るが、無いという主張には何を着飾らせることも出来ない。そして人の目は、派手派手しい色彩にしか心奪われないのだ。

「ならば、我々は殉教者を気取って、全滅を前提に戦わなければいけないのかね?」

 ヴォダルスの声に、ジャスミンは首を横に振った。

「もしも残された選択肢がそれだけならば、それはあなた達ヴェロニカ教徒だけがそうすればいいこと、無関係の我々はすっ飛んでこの星から逃げ出しています」

 それは確かに放言であったが、ヴォダルスの、それほど豊かとは言えないユーモアを強かに刺激したらしい。
 気難しく偏屈を極めると敬遠された老人は、僅かに弛んだ頬肉を振るわせて笑った。

「これは心強い!つまり、大尉には我らを救う、起死回生の策があるということか!」
「無い、とは言わない。しかし、この国にとっては相応以上の痛みのある方策ではある」

 ジャスミンの厳しい声に、ヴォダルスは笑いを収めた。

「彼らの侵攻を食い止めるためには、彼らの大義名分を正面から叩きつぶすしかない。そして、罪無きことを証明するのは不可能に近い。それは、歴史が証明するところだ。しかも、エストリアの侵攻が間近に迫っている今となっては遅きに失していると言わざるを得ない」

 場を見渡すジャスミンに、一同が首肯した。

「では、どうするか。単純な話だ。罪があることを認めてしまえばいい」

 静寂が、場を支配した。無論、元から騒がしい場であるはずがない。規律厳しい軍の、しかも最高幹部が集まり作戦を議論する場だからだ。
 しかし、全員が息を飲み、声を失ったのが、気配で分かる。乾いた口中の唾液を強引に飲み下す音すらが響くようだ。
 その中で、エクベルトが、意を決したように立ち上がり、

「つまり、我が国が、蒙昧な宗教的野望に基づき共和宇宙を覆そうと企んだテロリスト国家であると、全宇宙に認めろと、そういうことですか?」

 流石に棘を逆立てた言葉に、ジャスミンは容易く頷き、

「正しく参謀長どのの仰るとおりです。今、現時点でエストリアの戦略を打ち砕くには、罪なき罪を認め、全宇宙に向けて恥を曝す。それ以外の方策はありえません」
「なんという無茶を!そのようなことをすれば、ヴェロニカ共和国の威信は地に墜ちる!それは、国家的な自殺ではないか!」

 椅子を蹴倒すように立ち上がったエクベルトが糾弾の視線で無礼な発言者を射貫いたが、当のジャスミンは、少なくとも表情には一切の動揺を見せず、平然とした調子で続けた。

「国家の自殺。正しく仰るとおりでしょう。しかし、今、全国民の命が危機に晒されようとしている。それを防ぐため、全ての兵が命を賭けて戦おうとしている。ならば、ヴェロニカ共和国という国の命数と、それら国民や兵達の命。天秤にかけてどちらが傾くか。どちらが真に守られるべきものか。それだけの判断でしょう」
「それだけ……」

 エクベルトは絶句した。彼にとって、国家とは絶対不可侵であり、命を捧げて忠誠を誓うべきものであった。しかし、宇宙そのものに己の居場所を見出したジャスミンにとって、国家とは、人の人生を縛り付ける鎖のうちの、やっかいな一つでしかなかったのである。

「そして、ヴェロニカ共和国という存在が、果たして清廉潔白で、他国の非難に値する行為を今まで一切してこなかったのか。ここにいる人間ならば、色々と思うところはあるのではないでしょうか」

 ジャスミンの容赦ない視線を受けて、ヴォダルスが頷いた。

「確かに、ヴェロニカ共和国の一部の人間……いや、今更事実を曖昧に糊塗しても始まらんな。ヴェロニカ共和国の上層部の、一部とは言えん人間が、人としてあるまじき、強烈な非難に値する行為をしてきたのは事実だ。それは無論、全てに対して見て見ぬふりを決め込んだ、儂自身も含めてな」
「閣下……しかし閣下は……!」
「いや、いいのだエクベルト少将。これは覆しようのない事実なのだから。そうだろう、テセル老師」

 今までほとんど石像のように沈黙を守っていたヴェロニカ教の最高指導者は、こくりと首を曲げて賛同の意を表した。

「はい、将軍。我らの罪の深きことを、最早否定しようと私は思いません」

 ジャスミンも頷いた。

「ヴェロニカ共和国が公的に非を認めてしまえば、少なくとも短期的にエストリアはヴェロニカ侵攻の大義名分を失う。その間に、如何様でも名誉回復の機会を探すことは出来るでしょう。しかし、今、奴らに時間を与えれば、ヴェロニカ共和国は悪辣なテロ国家の烙印を押されたまま、身の潔白を主張する機会すらを奪われる。それも、永久に」

 ジャスミンの、一種冷徹とも言える発言は、途轍もないスリルと化してヴェロニカ共和国主席であるノールデの心臓を射抜いた。
 ノールデは、絞るように握りしめたハンカチで、年相応に拡大した額を吹きつつ、苦しげに呻いた。

「……俄かには信じ難い話です。いえ、この様な事を言えば将軍に退席を命令されてしまうかも知れませんが、それでも私は口にせざるを得ません」

 ノールデの、やや弛んだ頬肉が、緊張と不安で細かく震えていた。

「本当に、エストリアは我が国への侵攻を企んでいるのでしょうか?それが確実ならば、私は如何なる手段を持ってしてもこの国を、そしてこの国に住む全ての国民を守る義務がある。一時の汚名など恐るものではありません。しかし、その情報が不確定であるならば、ヴェロニカの歴史に大きな傷を負わせる決断を、私個人の責任で下すなど……」

 ノールデが縋るような視線で助けを求めたのは、彼の半分程も人生を踏破していないであろう、年若いテセルであった。ヴェロニカ教の老師というものは、その年齢に関わらず、信徒の尊敬を一身に受け、彼等の進むべき道を指し示す義務を負う。それは、大統領亡き後、臨時とはいえ国家の最高権力者となったノールデであっても同様らしい。
 ノールデの視線を受けたテセルはゆっくりと頷き、
 
「あなたの仰ることは分かります、ノールデ主席。しかし、あなたの元にもビアンキ老師は訪れたのではありませんか。であれば、その一事をもってエストリア侵攻の証拠とする事は出来ませんか?」

 通常の国家であれば、故人が枕元に立ってお告げをした事など、どれ程多くの人間が同時に同じ体験をしたとしても、これを国政の大事についての判断材料とするわけにはいかない。
 しかし、ヴェロニカ共和国は、形式はともかく、実質的にはヴェロニカ教の精神に寄って立つ宗教国家であることを言うに待たない。
 ならば、その前最高指導者であったビアンキ老師のお告げに従うことは、必ずしも不条理ではないのではないか。テセルなどはそう思うのだ。
 しかし、ヴェロニカ教の神秘性以上に、合理性と現実性に重きを置いて政治活動を行ってきたノールデにとって、テセルの意見は無条件に首肯出来るものではなかったのだ。

「……例えば、他国に向けて、或いは共和政府に向けて、エストリアが我が国への侵攻を企んでいると訴えるだけでは不足なのでしょうか?宣戦布告や最後通牒も無く、加えて表立った理由の一つも無いのに他国へ攻め入ったとなれば、これは国際的な非難を免れません。であれば……」
「エストリアは沈黙を保ったままヴェロニカを攻め滅ぼすでしょう。その後で、どれ程不自然極まりないものだとしても、緊急にヴェロニカを攻撃せざるを得なかった理由をでっち上げる。例えばヴェロニカ共和国が宗教的野心に基づく大規模テロを実行する間際だったと主張してもいい。さぞたくさんの物的証拠が彼らの主張を裏付けてくれるでしょう」
「そんな……まさか、そこまで……」

 絶句したノールデに、ジャスミンはなおも追い討ちをかける。

「そもそもエストリアがこの様な暴挙に出たこと自体、共和政府のお墨付きがある可能性が極めて高いのです。であれば、エストリアを悪者に騒ぎ立てたところで、黙殺されるか、それとも却ってヴェロニカ共和国の立場を悪くしかねない。ですが、ヴェロニカ政府が先に非のあるところを認めてしまえば、少なくとも建前として、彼らは一義的に事実関係の調査を必要とするでしょうし、武力による一方的な制裁を加える理由を喪失する事になる。それでも強いてヴェロニカを蹂躙すれば、今度は逆にエストリアは国際的な強い非難を覚悟せざるを得ないでしょうな」
「……確かに、一時しのぎにはなるでしょう。しかし、その後に事実を調査し終えたエストリアが、再度我が国へ、今度は報復名義での侵攻を企てる可能性もあるのではありませんか?」

 ジャスミンは頷いた。

「正しく主席の仰るとおりでしょう。しかしそれはあり得ません」
「どうして?」
「わたしがそれを許さないからです」

 獰猛に口の端を吊り上げて、ジャスミンは微笑んだ。その表情のまま、行儀悪く足を組んだケリーに話しかける。

「さて、超大国エストリアと、超巨大企業であるクーアカンパニーが正面から殴り合いをしたらどちらが勝つか、中々興味深い命題だとは思わないか、海賊?」
「さてな。トップ同士の肉弾戦の一騎打ちなら、さぞ良い視聴率が稼げるだろうな。ま、あまりに不憫で見てられないのは事実だがよ。当然、あんたじゃなくてあちらさんがな」
「なるほど、一騎打ちか。それは話が早くて助かるな。検討の余地があるかも知れん」

 真剣な表情で考え込んだジャスミンに、ノールデは訝しげな面持ちで、

「し、失礼ですが、私にはあなたが何を言わんとしているのか、分かりかねます。クーアカンパニー?エストリアと殴り合い?それはいったいどういう……?」
「単純な話ですよノールデ主席。クーア大尉……いえ、そこにおられるクーア臨時顧問は、クーアカンパニーの二代目経営者、ジャスミン・クーア女史です」

 ヴォダルスの声があまりに淡白な調子であったからか、ノールデの表情は時が止まったように動かず、ややあって、方眉だけを動かしたノールデが不審そうに問い返した。

「……それは、何かのジョークですか将軍?それとも、クーアカンパニーは、あのクーアカンパニー以外にも存在するということですか?」
「残念ですが主席。その女性は、あのクーアカンパニーの二代目です。我々も、一時期肝を潰されたものです。まさか、あの鬼教官が超巨大財閥の令嬢だったとは、とね。さらに軍の上層部では、肝だけでなく心臓を潰された連中もいたようですが……」
「ほう、よく知っているじゃないかヴォダルス。確か貴官に結婚式の招待状は送っていなかったと思うのだがな」
「あの結婚発表会見を見れば、嫌でもあなただと分かりましたよ。そして、些か造形が変わってはいるようですが、ご夫君も健在らしい」
「悪いが、こっちが素なんだ。あの時は、ちょっと顔をいじらなけりゃならない事情があってな」
「ええ、あの時も似合いの夫婦だと思いましたが、今は尚更ですな」

 ヴォダルスがケリーに向けた視線に極々僅かな嫉妬が混じっていたことに、他ならぬヴォダルス自身が驚いていた。それは、長い人生の中で乾き崩れて形を失ったと信じていた、老人の若き日の残照だった。
 無論、ヴォダルスの言葉に含まれた苦いものに、ケリーも気が付いている。だが、女房に想いを寄せる男がいたとして、その旦那であるケリーからその男に、果たしてかける言葉などあるものか。それでもこの女の一体どこに惚れたものやらと、自分のことを棚に上げて、ケリーはヴォダルスという男にほんの少しの興味を覚えた。
 ケリーの眺める先で、ヴォダルスはジャスミンに視線を戻し、

「あなたが死んだという報を受けたときは、鬼の霍乱とは本当にあるものだと呆れたものですが、なんのなんの、あなたの非常識なことたるや、どうやら時の流れすらも逆に巻き戻すらしい」
「馬鹿を言うなヴォダルス。わたしはただ冷凍睡眠を続けていただけさ。マグロの刺身か何かと一緒だよ」

 平然と言うジャスミンに、ヴォダルスは重々しい溜息を吐いた。

「……まぁ色々と申し上げたいことは山ほどもあるのですが……とにかく主席。この方々が、あのクーアカンパニーの経営責任者であることは完全な事実です。一企業に、果たして大国を押さえ込むほどの尽力を期待出来るのかどうかは置いておいても、彼らの言葉には千金の価値がある。そうは思いませんか?」
「しかし……」

 汗で重たく湿ったハンカチで、額を磨くように拭い続けているノールデは、煮え切らない様子で口をもごもごさせた。
 その時である。

 ──ああ、もう、鬱陶しいじじいだな!

 ジャスミンやケリーでさえ目を丸くさせる大音声と共に、作戦会議室の重厚な扉が、文字通りに吹き飛んだ。
 分厚い木材が床に倒れ、巻き起こった風が机の上の資料を舞い散らせ、間一髪で跳ね退いて難を逃れたマルゴの、細く垂れた前髪を舞い上がらせた。
 先ほどまで扉があった場所は、幾分風通しが良くなり、そして廊下側から、細く生白い女性の足が覗いている。
 それが誰かを考えるまでもないジャスミンは、頭に手を当てて唸り声を上げた。

「……大人しくしていろと、あれ程言ったのに……」

 保護者としての苦悩を久方ぶりに味わうジャスミン、その嘆きなど無視して姿を見せたのは、色鮮やかな衣装に身を包んだ大柄な少女と、その影に隠れるように佇む銀髪の少年だった。
 言うまでもない。メイフゥとインユェの姉弟であった。
 そしてメイフゥが、全体重をかけて足を踏みならし、威嚇するよりも烈しい視線でノールデを睨みつつ、大見得を切りながら叫んだのである。

「やいやいこの老いぼれ!てめぇ、それでも男か!その股ぐらに垂れ下がってるのは干し柿か何かか!なら今すぐにそのズボンを脱ぎな!あたしが噛み千切ってやる!」
「な、なんだこの小娘は!どうしてこの場に入って来られた!警備兵は何をしている!」

 ノールデの狼狽する様に、メイフゥは大いに胸を反らし、

「けっ、あの案山子どもなら廊下の向こうでおねんねしてるぜ!」
「な、何を馬鹿な!警備兵!早くこの娘を取り押さえろ!」

 顔を真っ赤にして叫んだノールデだったが、声は無情にも廊下に木霊するだけで、こうした事態に即座に駆けつけるべき警備兵の固い靴音はいつまで経っても聞こえない。
 流石に事態の異常さを悟ったノールデの、震える肩に、ジャスミンの大きな掌が乗せられた。

「残念ですが主席、この娘の言っていることは本当です。緊急事態でもない、通常の警備兵程度の装備で、この娘を取り押さえろというほうが無茶です」
「ば、馬鹿な……」

 普段であれば、年端もいかない少女に警備兵が伸されたなど一笑に付すであろうノールデも、廊下の向こうの静寂を感じては乾いた唾を飲み下すしか出来なかった。
 そんなノールデの前までツカツカと歩いたメイフゥは、ノールデの襟元をぐいと捻り上げ、そのまま片腕で持ち上げてしまったのだ。

「てめぇら政治屋が大して働きもせずに美味い飯にありつけるのは、曲がりなりにもてめぇらの職分が下の人間の生活を守るためのもんだからだろうがよ。税金を払うのが国民の義務なら、国民を守るのがてめぇらの義務じゃねぇか。それを、くだらねぇ体面守るために選ぶべき手段も選べないなら、てめぇ、ここで腹を割って死ね!」

 牙を剥き出しにそう言ったメイフゥに、首を締められたまま持ち上げられたノールデは、たった一言も反論することが出来ない。真っ赤になった顔の口元には小さな泡が立ち、このままでは失神することは明らかだ。

「メイフゥ、そこらへんにしておけ」

 ジャスミンが、メイフゥの硬質な金髪の上に手を載せると、ようやく力を緩めたのか、ノールデの体がどすんと床に落っこちた。
 ノールデは苦しげに咳き込んだが、メイフゥはその憐れな姿に唾を吐きかけんばかりの軽蔑の視線を送った。

「ったく、これだから政治屋どもは嫌いなんだ。いざって時に腹を切って首を差し出すのが大将の一番大っきな役割だってのに、そんなことも知らねぇで普段はでかい面してやがる……」
「メイフゥ。お前の言うことも一理あるが、しかし、わたしは確かに言ったはずだぞ。大人しく待っていろと。なら、どうしてお前が、今、ここにいるんだ?」
「えっ?そ、それは、その……」

 視線を外したメイフゥの前で、ジャスミンは仁王立ちに構えた。メイフゥも女性にしてはかなり大柄な体格だが、しかしそのメイフゥよりもジャスミンは一回り以上大きい。そんなジャスミンから見下ろされれば、如何に男勝りの少女とはいえ気圧されるらしい。
 心持ち顔を青ざめさせて冷や汗を掻くメイフゥ、その背後から、彼女よりも更に二回りほども小さな少女が顔を見せた。

「メイフゥを叱らないでくれ、ジャスミンどの。ここに連れてきて欲しいと頼んだのは俺だ」

 腰まで届く黒髪に凜とした瞳の少女は、ジャスミンからメイフゥを庇うように、二人の間に立ち入った。
 言うまでもない。その少女は、ウォルである。
 ウォルの、懇願するように見上げる視線を受けて、ジャスミンは溜息を吐いた。

「……別に、本気で怒っているわけではない。しかし、警備兵を殴り倒してここまで来たのは少しばかりやり過ぎだぞ」
「分かっている。だが、この星に、今日、このような事態を巻き起こした責任の一端が俺にあると聞かされては、居ても立ってもいられなくなってな。何の役に立つかも分からん体ではあるが、それでもお邪魔させてもらった。非礼を許して欲しい」

 ウォルが頭を下げた時、部屋にいたヴェロニカ人の全てが床に平伏した。無論、ヴォダルスも含めて。
 流石に、聖女よ許しを等と叫ぶことはなかったが、到底年若い少女に対して通常取るべき態度で無いことは明らかである。
 ウォルは彼らの後頭部を見下ろして、疲れたように呟いた。

「もう、今更卿らにどうこう言うつもりもないのだが、昨日までのことは昨日に片が付いたことだ。詫びて欲しいとも思わんし、逆に俺が詫びるつもりもない。今は、そのようなことをしている時間こそが勿体ないと思うのだがどうだろう?」

 最初に顔を上げたのはテセルだった。テセルは、その若々しい瞳をウォルに向け、決意と共に言った。

「聖女よ。こう呼ぶのがお気に召さないなら、そしてもしも許されるならば、御名を伺ってもよろしいか」
「ウォル。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタイン。それが、今生の俺の名だ。少なくとも今のところはな。呼ぶなら、ウォルでいい」

 ウォルの普段の呼び名は、少女らしくフィナにしているのだが、あのような大立ち回りを見せた後で少女用の呼び名も何もあったものではない。だから、一番馴染んだ名前を選んだウォルである。
 テセルは、深い感動と共に頷いた。

「ではウォルよ。私は、今、御身の御姿を見て決心がつきました。私は、またしても逃げるところだった。師を裏切り、師を失い、それでも私の瞼は降りたままだった……」

 昨晩、テセルの師であるビアンキを斬ったのは、他ならぬウォルである。
 だが、ウォルは何も言わなかった。あの時、ああしていなければ、より深刻で破滅的な結果が生じていたことを、ウォルは知っていたからだ。責任が無いと思っているのではない。最善の選択をしたのだと確信していただけだ。それが、どれほど罪深いものであったとしても。
 だから、テセルの視線を避けてはいけない。疎んではいけない。正面から受け止めることこそ、彼から師を奪った自分の責務である。そう、ウォルは思っていた。

「考えるまでもない。この星を今日のかたちにしたのは、政治ではない。他の星だったらそう逃げることも許されたでしょうが、ここは聖女の鎮座坐す星ならば、全ての功罪はヴェロニカ教団に帰するべきでしょう。ならば、全ての責めを負うべきは、ノールデ主席ではない」

 テセルは立ち上がり、ウォルの正面に立った。

「しかし、今、我らの罪を衆目に晒すことすらが不可能なほど、我らは追い詰められている。どうか、ウォルよ、我らをお救いください」

 ウォルは、はっきりと頷いた。

「そのために、俺達はここに来た。存分に頼ってもらおう」

 メイフゥも牙を剥くように笑った。

「あたしらをここまで虚仮にしてくれた連中が、最後の最後に笑うなんてどうしたって納得いかねえのさ。もう二度とあたしらに刃向かう気が起きなくなるくらい徹底的に奴らの横っ面を張り倒して、泣きっ面に泥を塗りたくってやらねえと気が済まねぇ」

 そしてインユェが、少しおどおどとした調子で、

「あ、あのさ、俺の船、じゃなくて親父の形見の船なんだけど、もう借金のカタに取り上げられる寸前の船で、でも金も無いし、もうきっと俺のものじゃないのかも知れないけどさ……いけ好かない銀行屋に二束三文で売り払われるくらいなら、親父も、誰かのために使うべきだって言うと思うんだよ。だから、だからよう──」

 所々で詰まり、切れ切れに、それでも必死に話す少年に、ジャスミンは笑いかけた。そして、その大きな掌で、少年の銀髪を撫でてやった。

「わかった。今は、猫の手でも借りたいところだ。それに、インユェ、もうお前は子供ではないのだものな。立派に、一人前の男だものな。ならば、命を賭けて戦う資格があるのだものな」
「──おう!」

 叫ぶように返事をすると、踵から脳天に向けて、熱いのか冷たいのかすら分からない膨大な温度が突き抜けたような気がした。それは、インユェの体をぶるりと震わし、瞳を僅かに湿らせた。
 きっとそれが、インユェにとって初めての武者震いだったのだろう。



 出立して、既に三日が経つ。
 もしも全てがジャスミンの想定通りならば、今頃、ケリーやジャスミン、そしてマルゴは戦っている。それも、絶望的な程の戦力を有する大国相手に。
 だからこそ、自分達も戦わなければならない。
 それに、自分達の働き如何で、一つの国が滅びかねないのだ。
 息をするのも苦しいほどのプレッシャーに、インユェは耐えていた。《スタープラチナ》号の快足をここまで遅く感じたのは初めてだ。理由は分かっている。逸っているのだ。少しでも早くこの重圧から解放されたいと。
 それでもインユェは、齧り付くようにしながらでも操縦席から離れなかった。震える手を叱咤し、操縦桿を握りしめていた。ちかちかと目眩がする眼球を酷使して、スクリーンに映し出された無限の宇宙に、米粒ほどの異物を探し続けた。

「インユェ、あまり無理をするな。少しは休め」

 ウォルが心配そうに声をかけたが、インユェは頑として聞き入れなかった。

「ジャスミンさんもケリーさんも戦ってる。なら、戦ってもいない俺が休むわけにはいかない」

 インユェの固い口調の言葉に、ウォルが、ふ、と微笑んだ。操縦桿を握って白んだ少年の手の上に、少女の小さな手が重ねられた。

「インユェ。俺は、お前が自分からこの任を引き受けたとき、確かに嬉しかったのだ。初めて出会ったときあれほど子供じみていたお前が、これほど立派になったのかと、そう思った」
「ウォル……」
「だが、どれほど成長しようとも、人一人では出来ないことなど山ほどある。だからこそ、人は人を求めるのだし、恋しいと思うのだと、俺は思う。人に頼ることは恥ではない。人に頼ることすら出来ない狭量な心根こそ、恥ではないか。そうだろう、インユェ?」

 にかりと眩しく笑った少女に、インユェは一瞬唖然として、それから色素の薄い肌を真っ赤にしながら、躊躇いがちに頷いた。

「わ、分かったよウォル。ちょっとだけ休ませてもらう。何かあったら、すぐに呼んでくれ」
「ああ、存分に休んでくれ」

 インユェが操縦室を出た後で、リィがウォルに笑いかけた。

「ずいぶんとインユェの操縦が上手くなったもんだな」

 ウォルが苦笑した。

「まぁ、これでもかなり付き合いが長いからな。この世界では、リィ、お前といたよりもインユェと一緒にいた時間の方が長いくらいだ」
「なら、おれは止めてインユェと番いになるか?」

 リィが、結構真剣な口調で言ったものだから、ウォルだけでなく、ルウが、メイフゥが、そしてシェラが、その場に居合わせた全員の視線がリィに集中したのだ。

「……何か、気に障ったのか?もしかして、万に一つの可能性として、嫉妬させたならば謝るのだが……」

 一度は破棄したものの、今は婚約者のリィとウォルであるから、ウォルが、男女としての意味でインユェと仲良くすれば、リィはそれを糾弾する権利を持つ。
 しかし、元が男のウォルにしてみれば、インユェとそういう意味で仲良くなろうというつもりは欠片も無いわけだし──あちらがどう思っているかは別にして──リィもそれを知っていると思っていたから、ウォルは少しだけ驚いたのだ。
 然り、元々大きな瞳をまん丸にしたウォルを見て、リィも苦笑いを浮かべた。

「そうじゃないさ。ただ、もしもお前が、おれじゃなくて本当に好きな相手を見つけることが出来たなら、そいつの子供が欲しいって心の底から思ったなら、それはそれで凄く嬉しいことだと思う。だから、そんなときはおれとの約束なんて気にする必要な無いって、そう言いたかったんだ」

 リィの言葉を聞いて、ウォルは、少し疲れたように微笑みながら首を横に振った。

「リィ、今ならば、あの時のお前の気持ちがよく分かる。インユェには悪いのだが、俺はどうしても男と番うつもりにはなれないのだ。体は女とはいえ、やはり心としての俺を裏切ることは出来ないということだろうな」
「ああ、お前の言うとおりだろうな。あっちの世界にいたときは、女としての自分を褒められる度に虫酸が走ったもんだ。乞食同然だとか浮浪児みたいだとか、そういうふうに言われるほうがまだ我慢できた。蝶よ花よなんて言われた日には、鳥肌が止まらなかったもんさ」
「だから、今の俺もあの世界でのお前のように、本当の意味での結婚相手は見つからないのだと諦めている。ただ、俺はこちらの世界でも子供を、跡継ぎを設ける必要があるのだ。だから、お前を種馬にしたいだけだ。その役割を、まだまだ幼いインユェに強制しようとは思わん」

 婚約者たる少女の、少女とは思えない言葉を聞いて、リィは意地悪そうな表情を浮かべ、

「どうかな。種馬になってくれってインユェあたりに頼めば、二つ返事で引き受けてくれるかも知れないぞ。おれも、あいつと同年代くらいの子供をたくさん見てきたから分かるけど、あれくらいの男の子は発情した猿みたいだからな」
「……それは少し、インユェに失礼だと思うのだが……とにかく、俺なんぞにかまけず、あいつはあいつに相応しい相手を見つけるべきだ」
「ふん、いよいよ言っていることが、あちらの世界でのおれみたいになってきたな。お前にポーラを宛がった時のおれの気持ちが分かったか?」
「ああ、ほんの少しだけな」
 
 あちらの世界では闘神の夫婦と呼ばれ、最も高貴で最も名声を集めた男と女の、会話がこれである。
 シェラは溜息を隠そうとせず、ルウはくすくす笑い、メイフゥは卵を丸呑みしたように目を丸くした。

「まぁ、それもこれもくだらない雑事を全部片付けてからだな」
「ああ。そのジャマーとやらを、さっさと見つけるとしよう」

 そう言って、二人はスクリーンに映し出される宇宙空間に意識を戻した。
 だが、探知機に反応せず、肉眼でしか探すことの出来ないジャマーを発見するのは容易ではない。例えそれが、ルウの占いによって大まかな位置を把握出来るのだとしても、である。
 
「この嵐さえ収まってくれれば、探知機ももう少しまともに作動してくれるはずなんだけど……」

 ルウも、そう言って長い溜息を吐き出した。
 目を凝らしても、スクリーンに広がるのは漆黒の闇と、遠くで輝く名も知らない恒星ばかりだ。
 まるで、自分達が、深い深い海の底で藻掻き続けているような気がする。ちっとも前に進むことも出来ず、同じ場所をぐるぐる回っているような気がする。
 そう考えると、途方もなく息苦しい、四方から圧迫されるような閉塞感に襲われるのだ。ともすると絶望へと姿を変えそうなその息苦しさと戦いながら、リィも、ルウも、シェラも、そしてウォルも、宇宙を睨み続けている。

「……メイフゥたちは凄いね。ずっと、こんな苦しいことを続けて、生きてきたんだ」

 ふ、と、ルウがそんなことを口にした。
 そうだ。インユェもメイフゥも、いや、全ての資源探索者達は、ずっとこんなことを続けてきたのだ。
 果てしない宇宙に、笹舟のように頼りない宇宙船を浮かべ、果たしてあるのかどうかも分からない資源を探して放浪する。根無し草どころではない、何処にも寄る辺ない生き方。一度災禍に襲われれば、誰に看取られることも、土に還ることすらも出来ず、永遠に宇宙を漂い続ける……。

「凄くなんかないさ。あたしは、あたしの意思でこの生き方を選んだんだ」

 メイフゥが、視線を前にしたままそう言った。

「こういう生活も、悪くはないんだぜ。何度も死にかけるような目にも遭ったし、折角見つけた資源も大企業の連中に足下見られて、二束三文で買い叩かれることが分かってるけどさ……。でも二束三文の金で飲む酒は例えようもないくらい旨いし、一緒に旅する連中とも家族みたいになれる。それに何より……」

 その時、スクリーンを凝視するメイフゥの瞳の瞳孔が、猫のように拡大した。
 
「資源を見つけたときの感動は何物にも変えがたい。そう、例えば今みたいになぁ!」

 獲物を見つけた肉食獣の笑み。そんなメイフゥが指さした先に、米粒よりも小さく映し出された、しかし隕石や小惑星などではあり得ない、人工的な建造物が浮遊していたのだった。



[6349] 第八十九話:神が我らを見放しても
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/17 00:20
 戦端が開かれてからはや三日。
 戦局は膠着していた。両軍はヴェロニカ共和国と公宙の境、宇宙嵐の影響で漏斗状に萎んだ航路の両端に陣を広げ、一進一退の攻防を繰り広げていた。それはヴェロニカ共和国にとって、奇跡と呼ぶ以外、言い表しようのない戦果だった。
 軍事大国であるエストリアの一艦隊を相手取って、辺境の後進国に過ぎないヴェロニカ共和国が互角の戦いを繰り広げているのだ。これを奇跡と呼ばず、何と呼ぶか。
 狭隘な戦場を設定することで大軍の運用を阻害し、奇襲により機先を制し、更に感応頭脳の外部操作により同士討ちを強いて混乱を拡大させる。
 それらの戦法は悉く成功した。それもこれも、N49-KS1173に『惑星ヴェロニカ』という探知不能の惑星が存在し、その惑星をジャスミンが十全に活用し得たからこその戦果であり、遡れば、『ヴェロニカ』に子供の悪戯のような小細工を施してくれた父の功績だった。その点、ジャスミンは自身の能力を過大に評価はしていない。
 だが、それ以降、混乱から脱し平静を取り戻したエストリア軍の猛攻を食い止めたのは、ある種の深海魚のようなフォルムをした正体不明艦艇の驚くべき機動力であり、深紅色の大型戦闘機とその機体に率いられた漆黒の機甲兵の群れの恐るべき破壊力であった。
 彼らは正しく神出鬼没であり、ある時は劣勢のヴェロニカ軍の背後から、ある時はエストリア軍の横合いから現れ、雷のような一撃を加えた後に離脱し、瞬く間に別の場所に現れるのだ。
 遠距離砲撃戦ならいざ知らず、超接近の格闘戦を繰り返す現状では、彼らを食い止められるだけの戦力をエストリア軍は有していなかった。彼らの手によって一体何人のエースパイロットが宇宙の塵と化したか、数える指をエストリア軍は持ち合わせていなかった。
 そして、一度彼らに率いられたヴェロニカ軍の戦闘機は、まるで羊が獅子に変じたように勇猛果敢になり、今の今まで自分達を追い回していたエストリア軍に牙を剥くのだ。
 まるで、たちの悪いウィルスが戦場に蔓延しているかのように、エストリア軍は正体不明の一団に苦しめられた。

「何たる様だ!たった数十機編成の部隊にここまで苦渋を舐めさせられるとは!」

 エストリア宇宙軍第十三艦隊、旗艦《ネプトゥーン》の艦橋で、司令官フォルクマール中将の副官を務める、イレックス少佐は痛烈な舌打ちを漏らした。
 長距離の砲撃戦では、艦隊の展開を広げることの出来るヴェロニカ軍に分がある。そう戦局を読み、積極的な格闘戦に持ち込むよう進言したのは彼であったのだが、まさかこんな隠し球をヴェロニカ軍が用意しているなど夢にも思わなかったのである。
 それでも、間断無く攻撃を仕掛ければ、単一の部隊などいつかは崩れ去るに違いないと思い波状攻撃を仕掛けもしたが、その悉くを打ち砕かれてしまった。全く、あの部隊には悪魔が憑いているのだとしか思えない。
 
「いらつくな、イレックス。戦局は、そう捨てたものではないのだからな」

 自軍の苦境にもあくまで悠然とした態度を崩さないフォルクマールは、司令官として十分に賞賛に値するものだったが、ここまで戦局が膠着してしまっては打つ手を探して攻め倦んでいるのかと思ってしまう。

「閣下、どうなさいますか。いったん兵を引き、陣を立て直して再攻勢を計るのも一つかと愚考しますが……」
「いや、その必要はあるまいよ。見た目は確かに互角の戦いではあるが、実際に消耗しているのは、当然のことながらあちら側だ。こちらは前線と予備兵力を交替で運用すれば体力的にも物資的にも常に万全の状態で戦うことが出来るが、奴らは常に大半の兵力を運用しなければ戦線を維持することすら出来ないのだからな」

 あくまで悠然としたフォルクマールであったが、イレックスは些か懐疑的であった。確かに、イレックスもフォルクマールと同じように、ヴェロニカ軍は容易く崩れると思っていたのだ。しかし、現実には丸三日も戦線を維持し、その戦意は未だ衰えることを知らない。
 果たして、何が彼らを希望へと繋ぎ止め、絶望の侵入を阻止し続けているのか。
 もしもイレックスが、その理由が聖女への信仰だと知り得る機会があれば、彼の顔はどのように変化しただろうか。狂信者への嫌悪か、純粋な驚きか、健闘を果たした敵への賞賛か、それとも。
 とにかく、今、ヴェロニカ軍は旺盛たる戦意を燃やし、エストリア軍の侵攻を阻み続けている。この防壁を突き崩すためには、もう一つ、何か決定的な戦力が必要であるのは明らかであった。

「さて、ヴェロニカ軍と矛を交えて三日か……」

 フォルクマールがちらりと時計を見た。確かに、エストリア軍とヴェロニカ軍の最初の砲火が交わって以来、共和宇宙標準時で、既に三日を少し回っている。その間、エストリア軍は常に積極的な攻撃を仕掛け続けているが、ヴェロニカ軍の分厚い堅守に悉く阻まれ続けているのだ。

「そろそろ頃合いかと思うが……」

 フォルクマールの呟きに、イレックスが怪訝な表情を浮かべ、

「頃合いとは、どういう意味ですか、閣下?」
「畑は耕し、肥やしを混ぜ、種は既に撒き終えている。厳しい暑さの夏は過ぎた。次は秋だ。つまり、収穫の季節だということだ」
「収穫……?」

 イレックスが難しそうな顔をすると、フォルクマールは呵呵大笑に破顔した。

「我が軍の勝利は動かんよ、少佐。しかし……」

 フォルクマールは、大小の火球が明滅を繰り返す、戦場の地獄絵図を眺め、長い長い溜息を吐き出した。

「しかし、果たして私は、本当に勝ちたがっているのだろうか。無論、そうであるべきだ。そうでなくてはいけない。もしも勝ちたくない司令官の指揮の下で、死にゆく兵士がいたならば、これほど醜いファルスなど世界に存在しないだろう。彼らは、一人だって死を望んでなどいないはずなのにな。だが、勝てば、それは作戦の続行を意味する。命令は絶対であり、作戦は我が国に莫大な利益をもたらすのだとしても……」

 最後は、まるで消え去るような声音だった。
 イレックスにも、フォルクマールの言わんとするところはよく理解出来る。既に、作戦の概要は副官である彼にも伝わっている。いくら宗教的テロリズムの信奉者を抱えているとはいえ、惑星単位のジェノサイドなど前例がない。鋼の巨塔が如きフォルクマールでも、その内心には恐るべき葛藤を抱えているのだろう、と。
 惑星ヴェロニカに住む全住民の排除。端的に言うならば、これは人類史において過去に例を見ない、大規模な虐殺ということになるだろう。
 何故。震える手で指令書をめくれば、ヴェロニカ共和国、というよりもヴェロニカ教団の企図する大規模テロ計画の阻止と、宗教的テロリズムの撲滅を作戦目標に掲げているのだが、果たして本当だろうかとイレックスは訝しんだ。
 テロ計画の阻止が目的ならば、上層部と作戦実行部隊の殺害を目標にして特殊部隊を送り込んだ方が話は早い。まさか、末端の全ての信者までが、テロ計画に荷担しているなど、そうそうあり得べき話ではないのだから。
 だが、この指令書では、末端の信者を含めた全ての信徒を攻撃目標としている。ヴェロニカ共和国に住むほぼ全ての人間が、ヴェロニカ教に帰依しているのは周知の事実だ。それに、この星に移住し、その後、ヴェロニカ教に入信した外国人もかなりの数が存在するはずである。
 それらを、強力な毒ガスをもって一気に殺害する……。
 テロリズムは忌むべき物である。特に、宗教的なテロリズムは厳正かつ徹底的な処断を加えなければならない。過去の悲劇を繰り返さないためにも、それは守られるべき原則であった。それに、ヴェロニカ教団が、教えに帰依しない人間に対して繰り返し非人道的な虐待を繰り返したという事実もある。
 しかし、もしもこの作戦の本当の目的が、テロリズムの撲滅などではなく、もっと別の場所に存在するのだとしたら?自分達が得るのは名声や勲章などではなく、永遠に拭うことの出来ない、『無辜の市民を虐殺した唾棄すべき軍人』という、不名誉極まるレッテルなのではないだろうか。
 その点、イレックスの直感は鋭かった。おそらく、それは軍人として不幸な資質である。命令に忠実であることこそ最も尊ばれる軍の司令形態の中で、彼は異質であることを宿命づけられているのだから。
 イレックスは懊悩したが、フォルクマールのそれに比べれば、まだ底の浅いものだったと言わざるを得ない。真実はもっと滑稽であり、そして現実的であり、そして残酷であったのだ。
 フォルクマールは知っていた。この作戦の目的が、宗教的テロリズムの撲滅などではなく、惑星ヴェロニカに埋蔵された莫大なトリジウムの奪取にあるということを。

「まるで、呪われた中世大航海時代にタイムスリップしたかのようだ。鉱山資源の獲得のため、現地住民を虐殺し、土地を奪い取るなど……。いや、それとも人間の精神性など、遠い昔からまるで進歩していないということなのだろうか……」

 フォルクマールの呟きは副官の耳にも入ることなく、艦橋の空気に溶けて消えた。



 戦端が開かれてからはや三日。
 三日の間、ジャスミンとケリーは、常に戦火の炎の最も激しく燃え盛る直中にあった。
 僅かな時間の仮眠とエネルギーの摂取のみを目的とした食事以外、彼らは常に操縦席にあり、屈強なエストリア軍と戦い続けてきた。
 めざましい戦果であった。ジャスミンが葬ったエストリア軍の戦闘機は既に三桁を越えて久しく、そのほとんどが老練なベテランパイロットだった。ケリーは《パラス・アテナ》よりも遙かに巨大な戦艦を、両手両足の指では数えられないほど沈めている。また、彼らが率いるヴェロニカ特殊軍──マルゴ達が駆るTYPHON零型の戦果を足せば、エストリア軍の畏怖と憎悪は彼らに一手に集中することは明白であった。

「流石に、これは違法労働だろう。一体どれだけの超過勤務手当がついているのか、想像もつかん……」
 
 《クインビー》のハッチから、ホラー映画のゾンビのような動きで這い出たジャスミンが、朦朧とした視線を泳がせながら呟いた。
 多少面倒でも、休憩を取るときはきちんと、休憩室で取らなければ身が持たない。《クインビー》の操縦席は、体格の豊かなジャスミンでも座れる程度には広く作られているが、しかしそれはあくまで操縦するのに必要最低限という意味であり、その場で寛ぐことが出来る程に居住性が豊かかといえばそんなことはない。
 ふらつく足取り、隈が浮きげっそりと痩けた頬という、普段のジャスミンにはあり得ない様子で、彼女は休憩室へと歩いて行った。
 既に、出撃回数は三桁に近づきつつある。単純計算で、一時間に一度は死地へと飛び込んでいるのだ。事務仕事で三日徹夜したのとは訳が違う。
 鑢削られる精神力も、集中力と共に減ずる体力も、常人ならば既に過労死しているだけの量を超えている。多少窶れるだけで済んでいること自体、ジャスミンの非人間的な体力と精神力を表しているのだろう。

「お疲れだな、女王」

 俯き加減だった顔を、声のする方に向ければ、そこには自分と同じくらいに頬を痩けさせた、ケリーがいた。髪はぼさぼさで、唇も乾いて軽くひび割れている。いつもの、瀟洒な伊達男といった風情はどこにもない、酷い有様だ。
 転ずれば、自分も同じような有様ということだろう。戦場で鏡を覗き込む趣味はないが、見てみたいとも思わないジャスミンだった。

「大丈夫かい?せっかくの美貌が台無しだぜ?」

 ジャスミンは苦笑した。

「その程度の冗談口しか叩けないあたり、どうやらお前も相当追い込まれているらしい。海賊王の名が泣くぞ」
「手厳しいね、どうも」

 いつもの闊達さが無いことくらい、ケリーも承知しているのだろう。

「《パラス・アテナ》の操縦は?」
「ダイアンが、ある程度回復してきてるから今は任せているところだ。随分愚痴を溢されたよ。これじゃスクラップ一歩手前だ、契約違反だってな」
「贅沢だなダイアナは。一歩手前で済んでいること自体、奇跡の賜だというのに」

 《パラス・アテナ》が率いるこの歪な部隊に、TYPHON零型全40機のうち一機が大破、三機が小破した以外、損害らしい損害がまだ出ていないのは正しく奇跡以外の何物でもなかった。しかも、大破した一機のパイロットも、間一髪のところで脱出に成功し、事なきを得ている。

「これが聖女の加護ってやつなのかね?」
「それとも、軍神の恩寵なのかも知れないぞ。どうやら、リィもウォルも、あちらの世界では不敗の軍神だったらしいからな。残念なことに、今、この場にはいないが、御威光くらいは届いているのかも知れない」
「そいつはありがたいこった。ついでに、どろどろのスープみたいになった脳みその方をしゃきっとさせてもらえると、もっとありがたいんだけどな」

 ケリーがそういうと、亡霊のような表情をしたジャスミンが一瞬だけ顔を輝かせて、抗議の暇すらなく、ケリーに口づけた。
 唖然とした表情のケリーに、

「どうだ、これで少しはましになったか?」
「……あんたなぁ、少しはこっちにも心構えってやつが必要なんだぜ?」
「つれないことを言うな。どうやらお前は、少しかさついてひび割れたくらいの唇の方がお好みらしいからな。今のわたしならお前の希望にも応えられるだろうと思ったんだ。怒ったか?」
「……あんたの方こそ、実はマルゴとキスしたことを根に持ってるんじゃねえだろうな?」

 ジャスミンは、少女のように笑い、ついにケリーの質問に答えることなく身を翻したのだ。
 全く、これだから女って奴は恐ろしいんだ。ケリーが頭を抱えながらジャスミンの後に続こうとしたとき、

「っ貴様ら!そこで何をしている!」

 凄まじい怒号が、《パラス・アテナ》の廊下を満たした。
 ケリーが慌てて追いつくと、目を金色に光らせて激怒するジャスミンと、居竦んだヴェロニカ特殊軍の少年の二人がいた。
 ジャスミンは、彼らの手から何かを奪い取り、そのまま問答無用の有様で二人を張り倒した。

「女王!止めろ!あんたらしくもねぇぜ!何があった!?」
「……これを見ろ」

 ジャスミンが、込み上げる怒りを必死に押さえ込みながら、少年達から奪い取った品をケリーに手渡した。
 それは、小型の注射器とアンプルだった。
 アンプルの表示を見れば、ケリーでも知っている有名な興奮剤──有り体に言えば、向精神薬系の麻薬の一種であった。それも、一度使えば廃人になるまで使用を続けると言われるほど中毒性の強い麻薬である。
 見れば、既に少年達は腕を捲り注射をする寸前だったらしいのだが、まだほっそりと肉付きの薄い肘の裏辺りに、いくつもの内出血が見られた。
 注射の跡だ。

「お前ら……」

 二人は赤くなった頬を抑えながら、おどおどとした視線でジャスミンを見上げた。

「……だって、仕方ないんだ。TYPHON零型を上手に乗りこなそうと思ったら、この薬を打って神経を覚醒させないといけないんだって、父さんが言ってた。科学者も、そうしないと神経パルスが拾えないから、機械との接続が上手く行かないって……」
「僕たちだけじゃないよ!みんなやってるんだもん!僕たちだけが悪いんじゃない!」

 少年達は、目に涙を溜めながら必死に抗議した。
 ジャスミンは愕然とした。この少年達は、どうして自分達が怒られたのか、ジャスミンの本当の怒りが那辺にあるのか、分かっていないのだ。自分達がどれほど酷い仕打ちを受けているのかすらも、知らない。

「なるほどな。あれだけの高性能の機体を、思考と同調するかたちで操作してるんだ。そりゃ、どこかに無理が出る。それを補うのがこの薬って訳か。良く出来たもんだ」

 ケリーが、無感動な視線でアンプルを眺めて、そう言った。

「お前ら、訓練の時も、この薬を使っていたのか?」

 少年達は、お互いに顔を見合わせた。正直に言えばもっと怒られるのか、それとも嘘を吐いたほうがもっと怒られるのか、それを相談するような視線だった。
 ケリーは苦笑して、

「別に、お前らは何一つ悪いことをしちゃいないさ。このお姉さんが本当に怒ったのは、もっと別のことなんだ。もう、お前らが怒られたり、ぶたれたりすることは、もう二度と絶対にないから、安心して話していいんだぜ?」
「……訓練の時は、使ったり使わなかったり……。でも、実験の時とか、訓練でも実戦を想定した訓練の時は、使ってた。今みたいに、たくさんは使わないけど」
「この薬、凄いんだよ!注射の時はちくっとしてちょっと痛いけど、使えば凄くすっきりするし、眠らなくても戦えるんだ!僕たち、スーパーマンの薬って呼んでる!」
 
 少年達は、無邪気な声と表情で、はしゃぐのだ。
 ケリーは、少なくとも表面上は微笑んだ。

「そうか。でも、使いすぎると体に良くない薬だからな。あんまり使うんじゃないぞ。それと、休むときはきっちり休むんだ。この薬は、体に残ってる力を無理矢理に集めて、そこにたくさんあるって勘違いさせる効果しかない。無いところから元気を生み出す薬なんかじゃないんだからな」
「……う、うん、分かった。でも、これがないとTYPHON零型に乗れないから、だから……」
「ああ、使うななんて残酷なことは言わないさ。ただ、用量と回数をしっかり守るようにってことだ。医者にも、それは厳しく言われてるんだろう?」
「うん、分かった。ただ、今は戦闘中だからね。そういうときは、使いたいだけ使うようにって言われてるんだ!でも、あまり使わないようにするね!」

 そう言って、少年二人は廊下の向こうに歩いて行った。曲がり角からこちらに振った手が、無邪気で、それ故に残酷だった。

「……どうして止めなかった、海賊。この先、あの子達にどういう運命が待っているか、分からないのか」
「知っているさ。この戦闘を生き延びても、薬の快楽が忘れられずに中毒患者に堕ちるだろうな。薬のためなら何だって、人殺しだって厭わずにこなす、麻薬組織の犬に成り果てるのかも知れない」
「それが分かっていて、何故貴様!」

 ケリーの首を締め上げようとしたジャスミン、しかし、自分とケリーの間に割って入った小さな人影がジャスミンを押しとどめた。
 ジャスミンは、その小さな人影に、牙を剥くように唸った。

「マルゴ、そこをどけ」
「駄目よ、ジャスミン。だって、ケリーは何一つ間違えたことを言っていないんだもの」
「子供が、麻薬の力を借りてまで戦場に立つことの、どこに間違いがないという!」
 
 ジャスミンの大喝に、マルゴは眉一つ動かさなかった。ジャスミンからケリーを守るように大きく広げた腕、その肘の裏辺りには、小さな内出血が幾つも浮かんでいた。

「……わたし達には、戦う理由と戦わなければならない理由がある。そして、戦うためにはTYPHON零型が必要よ。あれから降りて戦うということは、即ちわたし達に死ねと言うのと同じ意味だわ。ジャスミン、あなたは、わたし達に死ねというの?」
「……しかし!」
「わたし達の耐用年数──寿命が長くないことなんて、みんな知ってるわ。クローンなんだもの、普通の人間と同じ寿命を生きられる訳がない。それでも、必死に生きようと足掻いているの。それを、あなたの価値観だけで一方的に計ろうというの?そんなの、傲慢だわ」
「……!」

 言葉に詰まったジャスミンは、廊下の壁を思い切り殴りつけた。
 絶望的なほど冷たい衝撃音が、狭い廊下を満たした。

「……どうして、どうしてそこまでして、お前達が戦わなければならない!」
「……ごめんなさい、ジャスミン。でも、こう答えるしかできないわたしを許して。それは、どうしてわたし達が生きているのかと問うのと同じ意味なの。わたし達は、兵士として造られ、兵士として生きてきた。だから、今、初めてわたし達は生きる意味を満たしているんだわ。ようやく生きているって実感出来る。それを、あなたに非難する権利があるの?」
「違う!お前達は、それ以外の全てを知らないだけだ!戦いなど、この世で最もくだらない行為の一つだ!この宇宙には、もっともっと……もっと……!」
「止めろ女王。今は、こんなことを話している時間が、一番無駄だぜ。今あんたが為すべきなのは何だ?こいつらを説得して、戦争なんてくだらないと理解させることか?そんなことをして何になる?それくらい、あんたにだって分かっているはずだ」

 その時ジャスミンがケリーに向けた視線には、二親に裏切られた子供のような、驚きと悲しみの入り交じった感情が含まれていたが、ケリーは敢えてそれを無視した。
 突き放したのではない。信頼しているからだ。

「……ああ、そうだな、海賊、お前の言うとおりだ。少し興奮し過ぎた。もう、休ませてもらうよ」
「それがいい。また、すぐにあんたには働いて貰わなきゃらならないんだ」
「……悪いが、すぐに眠れそうもない。睡眠薬を、届けて貰えるだろうか?」
「ダイアンに伝えておく」
「……すまない」

 ジャスミンは、俯きがちな姿勢のまま、豊かな前髪で表情を隠して、自分に割り当てられた部屋へと戻っていった。
 その姿を見て、ケリーは大きな溜息を吐き出した。全く、女ってやつは卑怯だ。勝っても負けても、男を良い気分にはさせてくれない。

「……ごめんなさい、わたし達のせいで、つまらない夫婦げんかをさせちゃったみたいね」
「いや、たまにはこういうのもいいもんだ。スリルを無くした男と女は、いずれ別れていくもんだし……今のところ、アレと別れるつもりもないしな……」

 我ながら恥ずかしい台詞を口にしていると、ケリーは鼻の頭を掻いた。
 マルゴが、くすりと笑った。

「その言葉、奥さんに伝えてあげるわ。きっと、いつの日にか」
「ふん。で、何をしに来た?犬も食わないゲテモノを、敢えて食べに来てくれたのかい?」
「ザックスが死んだわ」

 マルゴが平静な声で、あるいは平静を装った声で、端的な事実を口にした。
 ケリーは、相変わらず鼻の頭を掻いていた。

「……あー、そうか、そいつは……」
「彼のオリジナルも、わたしのオリジナルと同じ部隊に配属されていたみたいだから……。つまり、ケリー、あなたと彼のオリジナルも、同僚だったのでしょう?なら、伝えておく必要があるかと、そう思ったの。お節介だったかしら?」
「いや……よく教えてくれた。礼を言うぜ」

 ケリーは、ほぅ、と、短く息を吐いた。

「どうして死んだ?」
「……無茶な出撃を繰り返して、突出したところを袋叩きにされた。助ける暇もなかった」
「はっ、そいつは何ともあいつらしいな。で、誰を助けるために突撃したんだ?」

 ケリーは少しだけ笑った。
 そうだ。あいつはいつも怖いもの知らずだった。でも、赤布に突進する頭の悪い闘牛のように向こう見ずだったわけではない。いつも、仲間の誰かの危ないところを助けるために、敵陣に切り込んでいったのだ。
 ケリーと特別仲が良かったかと言えば、そんなこともない。あの時は、マルゴをめぐって恋敵だったと言ってもいい。それでも、ケリーが危ないときに、少しも躊躇うことなく助けに来てくれた。だから、ケリーもザックスを助けるために、命を賭けた。
 遠い遠い、絵本よりも遠い昔のことだ。

「……ザックスのおかげで、五機のTYPHON零型が撃墜を免れたわ。これで、わたし達はまだ戦える。彼の死は、ちっとも無駄じゃなかった。勇敢な死に様だったの。ねぇ、ケリー、そうでしょう?彼の死は、無駄なんかじゃ無い、そうよね?」
「……ああ、そうだ、お前のいうとおりだマルゴ。だから……もう、泣くな」

 マルゴは、ケリーの胸に縋り付いて啜り泣いた。
 果たして、これがこの少女の本質なのだろうか。それとも、度重なる戦闘による精神的な負荷が、少女の精神を退行させた結果なのか。
 
 ──ああ、俺は今、つまらないことを考えたな。

 ケリーは、マルゴの肩を抱き締めてやった。少女が泣いているのだ。男に出来ることが、他にあるのだろうか。頤を持ち上げて唇を落とすのは、もう少し成長した女にしか出来やしない。
 
「それにしても……」

 ケリーは、しゃくり上げるマルゴの背中を優しく撫でながら、天井を見上げていた。
 それにしても、いつになれば戦いは終わるのだろう。
 そろそろ限界だぜ、黄金狼。
 ケリーはマルゴを抱き締めたまま、深い眠りに誘われていく自分を、遠ざかる視線で眺めていた。



 旗艦《ネプトゥーン》の艦橋で報告を得たフォルクマールは、静かな面持ちで頷いた。

「ふむ、ぼちぼち頃合いか」

 その声に喜びはない。想定したよりも遅延した報告に、いらついているわけでもない。ただ、事実を事実として認識しただけの、無感動な声だった。
 そして、フォルクマールは下すべき命令を下した。
 ヴェロニカ軍に対する、徹底的かつ総力的な、全面攻勢である。



 戦端が開かれてから正確に80時間。ヴェロニカ軍はエストリア軍の凄まじい攻撃に晒されていた。
 長距離からの支援砲火は、まるで近距離格闘戦を続ける見方をも砲撃に巻き込むほどの密度で放たれ、また近距離格闘戦を仕掛ける艦艇は搭載機の全てを発進させ、搭載する全ての物資を使い尽くす勢いで攻撃を繰り返した。
 物資を使い尽くし、行動限界に達した艦艇は順次後退していくのだが、万全の状態の新しい艦艇が威嚇攻撃を繰り返しながら前進してくるため、ヴェロニカ軍は逆撃を加える余裕が無い。ひたすら攻撃に耐え、戦線の崩壊を防ぐのに精一杯だった。

「まるでエネルギーとミサイルの浪費だ。エストリア軍がどれだけの補給計画を立てていたのか知らないが、それでもあまりに無茶な運用と言わざるを得ん。このままでは、奴ら、敵地で燃料切れを起こすはめになるぞ」

 ヴェロニカ軍旗艦《クノルフ》の艦橋で、ヴォダルスは冷や汗を拭うこともせずにそう呟いた。
 今、ヴェロニカ軍がエストリア軍の攻勢に堪え忍んでいることが、薄氷の上に立つという形容では生温いほどに奇跡的なことなのを、ヴォダルスは弁えている。薄氷の上でダンスを踊る、でもまだ足りない。それでも例えるなら、ウィスキーに浮かぶボールアイスの上でつま先立ちをしているようなものだ。
 今、死線で戦う兵士達の心を支えているのは、軍に対する忠誠でも、国家に対する忠誠でもない。無論、司令官に対する忠誠などであるはずがない。
 彼らは、ただ、己の信仰心のために戦っているのだ。聖女を、聖女が降臨したこの国を、悪辣な侵略者から守るために戦っている。彼らは、あの日、あの祭壇に居合わせたわけではない。しかし、日頃からの信仰の対象を守るために、捨身の覚悟で戦っている。
 だが、信仰心から発生する戦意だけで、装備と練度の差を完全に埋められる筈もない。
 
「つまり、我らは、またしてもあなたに助けられたということですか、クーア教官……」

 遠く過ぎ去った過去を思い起こしながら、ヴォダルスは呟いた。
 戦力的に圧倒的不利なヴェロニカ軍が、辛うじてエストリア軍と互角に戦えている理由は、旺盛な戦意だけではない。寧ろ、クーア財閥の三代目を名乗った男と、二代目を名乗った女の、オーパーツ的に高性能な艦の活躍によるものだとヴォダルスは理解していた。
 それに、ジャスミン達に率いられた、ヴェロニカ特殊軍の少年少女の操る、漆黒の機甲兵。防衛戦に綻びが生じ、致命的な破綻となる寸前にどこからともなく現れ、驚くべき機動性でエストリア軍の精鋭を翻弄し、痛撃を加えてまた違う戦場へと飛び去る。
 正しく神出鬼没と疾風怒濤、そして一撃必殺を体現したような部隊。
 それは、ヴェロニカ軍にとっての救世主であり、エストリア軍にとっての悪夢であった。
 しかし、それも限界に近づいているとヴォダルスは見て取っている。どれほど突出した技術によって造られた艦であっても、どれほど常識外れに高性能な機甲兵であっても、それを操縦するのは人間だ。無論、その人間の方も、一般人とは比較にならないほどタフであることを、ヴォダルスは身をもって承知しているのだが、それでも限界がある。もしも、機械のフルスペックを永久に発揮し続けられる人間がいるとするならば、それは既に人間の領域を踏み外している。

「80時間……」

 ヴォダルスはちらりと時計を見遣った。
 まだ、通信は回復しない。つまり、惑星ヴェロニカの周囲に配置されたジャマーが、未だ排除されていないことを意味している。
 まだか。ヴォダルスは短い舌打ちを漏らした。

「もう限界だぞ、こちらは……!」

 だが、戦況はヴォダルスの予想とは全く異なる推移を見せた。
 今まで圧倒的な物量を正面から叩き付けてきたエストリア軍の動きが、ある瞬間を境にぴたりと止まり、じりじりと後退を始めたのである。
 
「どう思う、参謀長」

 エクベルトは相変わらず、能面のように無表情のまま、

「先ほどまでの無計画な攻撃が奴らの暴走ならば、行動限界を迎えたということになるのでしょうが、誘うような後退は、我らを罠に引きずり込もうとしているかのように見えます。しかし、彼らが後退しても、戦場はより狭隘になり大軍の運用が難しくなるのは明らかです。ならば、引きずり込んで如何なるメリットがあるのか、甚だ疑問ではあるのですが……」
「そもそも、我らはエストリア軍の侵攻を防ぐのが目的だ。ならば、奴らの転進をわざわざ馬鹿正直に追いかける必要もまたないのだが……」
「ですが、彼らの背後に更なる補給部隊が存在していた場合、既に我が軍に、再度の攻勢を受け止める余力はありません。多少の危険を冒しても、ここは逆進し追撃をかけるべきかとも思われます」

 参謀長の進言にヴォダルスはしばし瞑目したが、その時間は僅かであった。戦場において最も愚かな行為は無意味な逡巡であることを知っていたのだ。

「奴らの後退に乗じて追撃をかける!侵略者のけつを思い切り蹴り上げてやれ!ただし、奴らが我らを広大な戦場に引きずり出し、一挙に殲滅を計ろうとする可能性がある以上、深追いは決してするな!」

 司令官の決定は、速やかに全部隊に伝達された。ヴェロニカ軍は、整然たる横陣を保ったまま、後退を試みるエストリア軍の殿に噛みついた。
 ただでさえ戦意旺盛であったヴェロニカ軍が、背中を見せた憎き侵略者を見て血気を逸らせない筈がない。然り、今までの防戦で蓄積されたであろう疲労など微塵も感じさせない動きで急進し、猛烈な砲火を浴びせかけた。
 エストリア軍も、殿部隊には防御力の高い重装甲戦艦を優先的に配置させてはいたが、ヴェロニカ軍の集中砲火には流石に耐えきれず、いくつもの艦艇が航行に支障を来すほどの手傷を負い、そのうちの何隻かは大破、爆発四散した。
 
「……妙じゃないか、海賊」

 その光景を遠巻きに眺めていたジャスミンが、通信機越しにケリーに話しかけた。
 
「連中も、当初から艦隊戦を想定した物資を準備していたはずだ。それにしては、後退のタイミングが早すぎる。先ほどの乱雑な攻撃のつけと言ってしまえばそれまでだが、天下のエストリア軍にしてはあまりにお粗末だ。これは罠ではないのか?」
『ああ、俺もあんたの言うとおりだと思う。しかし、罠を仕掛けるにしても、見ての通り、ヴェロニカ軍の勢いも大したもんだ。これなら多少の罠なら食い破っちまうぜ』
「……このままエストリア軍の後退が続いてくれるなら、航路の最も狭まるポイントに機雷を敷設し再度の侵攻を阻止する戦法も使えるが……果たしてそう都合良く敵が動いてくれるものか?」

 疑念は尽きないが、エストリア軍の慌てふためきながら後退する様子はほとんど潰走にも近いもので、百戦錬磨のジャスミンも、今が攻撃の好機であるという誘惑に駆られてしまうのだ。
 戦場は生き物のようなものだ。それが単なる比喩にとどまらないことをジャスミンは知悉している。もしかしたら、エストリア本国に退っ引きならない事情が発生したのかも知れない。今回の作戦が下部兵士に知れ渡り、それが切っ掛けで反乱が起こったのかも知れない。可能性は無限にある。ただ大事なのは、好機は一度逃してしまえば、もう一度それを引き寄せるまでに多大な労力と莫大な犠牲が必要になるということだ。
 第一、司令官が攻勢を指示したのだ。敵の動きが罠であると、明白な根拠も無しにこれに背くことは、軍規からして許されない。
 ジャスミンもケリーも、覚悟を決めた。
 《パラス・アテナ》が猛烈な速度で急進し、後退するエストリア軍の艦艇とほとんど並走するようなかたちで接近、散発的な抵抗を掻い潜りながら、敵戦艦のミサイル発射孔に20センチ砲を叩き込んだ。
 憐れな敵戦艦は被弾部を境に真っ二つに折れ、まず前方部が、それほど時を置かずに後方部が、大爆発を起こした。脱出に成功した搭乗員は、おそらく皆無だっただろう。
 ジャスミンの駆る《パラス・アテナ》も、マルゴ達の操縦するTYPHON零型も、思う存分に暴れ回り、枯草を薙ぎ倒すように敵艦を撃破した。紅の戦闘機が率いる黒い機甲兵の編隊は、エストリア軍にとって恐怖の対象であり、正面からの一騎打ちを仕掛ける戦闘機は既にどこにも存在しないほどだった。
 望むべくもない戦果。これは、勝利へと続く舗装路を一直線に突き進んでいるに違いない。ヴェロニカ軍が、上層部から下級兵士に至るまでそう確信する中、しかしジャスミンとケリーは、心中に育ちつつある、言い知れぬ不安と戦っていた。
 撃てば当たる。それだけ敵の反応が鈍いのだ。だが、あまりに鈍すぎる。いくら潰走中の部隊であっても、自分が標的にされていると知れば必死の抵抗を試みるはずだ。しかし、その必死の抵抗すらが、散発的で的外れなものでしかないのだ。
 一体、いつから獅子が子猫に変じたというのか。

「馬鹿な!脆すぎる……!」

 ジャスミンが独りごちた時、《パラス・アテナ》からの通信が入った。
 通信画面に映し出されたケリーは、この男には珍しい程、焦りの色濃い表情で、決定的な台詞を口にした。

『不味いぞ女王!やはりこいつは罠だぜ!この戦艦は、人員を搭載していない!』
「なんだと!」

 次に聞こえたのは、焦りに染まったダイアナの声だった。

『ジャスミン、聞こえる!?さっきケリーが仕留めた艦の爆発映像を分析してみたんだけど、真っ二つに折れた艦艇のどこからも搭乗員が外部に放り出された形跡が無かったわ!この規模の戦艦で、そんなことありえる筈がない!ためしに外部操作を仕掛けてみたら、案の定、完全なオートパイロットに設定されてる!人員は、既に全員退避しているのよ!』
「一体いつ、そんなタイミングが……」

 そう言ったジャスミンは、先ほど、一瞬ではあるがエストリア軍の動きが止まったことを思い出した。
 狂騒的な全面攻勢から、不自然な後退に転じる、一瞬の時間。
 あの時に、このような小細工を用意していたのか。
 ジャスミンは痛烈な舌打ちを零した。

「つまり、わたし達は敵の用意した撒き餌に見事食いついてしまったわけだな!」
『ああ、その通りだ!既に、司令部にはこの情報を伝えている!俺達もさっさとずらかるぞ!』

 エストリア軍の最後部とヴェロニカ軍の最前部、つまり現在戦火の交わっているポイントは、既に航路の最も狭まる箇所に到達しつつある。ここまで押し返すことが出来れば、今後の戦術的優位をヴェロニカ軍は奪取することが出来るというのに。
 もう少し、もう少し攻勢をかけることが出来れば……。断ち切りがたい誘惑がジャスミンの、そしてヴェロニカ軍上層部の脳裏を過ぎる。罠があってもそれを食い破ればいいのではないか。今の勢いならば、それが可能ではないか。

「……よし、回収を頼む、海賊!」

 しかし、ジャスミンはその誘惑を断った。敵の意図が知れない以上、この場にとどまるのは危険過ぎる。
 ヴェロニカ特殊軍の駆るTYPHON零型も《クインビー》に倣い、次々に《パラス・アテナ》の格納庫に収納されていく。
 だが、目の前の餌に興奮した他の部隊は、依然、猛攻撃を仕掛け、後退をする気配がない。司令部の命令が届いていないのか、それとも命令でも歯止めがきかない程に暴走しているのか。
 連中の首根っこを引っ掴んで後退させたいジャスミンだったが、それが不可能なことは十分承知している。

「くそ、回収を急いだか!こうなることが分かっていれば、連中の鼻先を狙撃して目を覚まさせてやったものを!」

 物騒なことを口走りながら、軍用ブーツで壁を蹴りつけたジャスミンは、間もなく《パラス・アテナ》の操縦室に姿を現した。

『ちょっとジャスミン、わたしのお腹の中を蹴らないでよ!ただでさえオーバーホール寸前の怪我人なんだからね!あなたの馬鹿力で蹴っ飛ばされたら、本当にスクラップ工場行きになっちゃうわ!』

 スクリーンに映し出された美女が凄い剣幕で怒っている。流石のジャスミンも思わずたじろぎ、素直に頭を下げた。

「す、すまない、そうだったな、ここはダイアナの体内なんだった。とんだ無礼をした。心底謝る。もう、二度としない」
『……冗談よ。いくらあなたでも、生身の人間が暴れた程度でお陀仏するような、やわな造りはしていないもの。それに、あなたがいらつく理由も分かるし……』
「わかった。ではこの話はここで終わりだな。で、海賊、状況は?」

 スクリーンに敵味方の配置図を映し出したケリーが、

「見ての通りだ。敵さん、案の定後退を止めて陣を再編してやがる。このまま、一気に突撃してきそうな体勢だぜ」
「しかし、ここまで勢いづいたヴェロニカ軍の先鋒をくじいて、それが出来るのか?」

 装備や練度においてエストリア軍がヴェロニカ軍を凌駕していることは間違いないのだが、戦場における勢いは、それらの要素を軽々と飲み込んでしまう。例えこれが何らかの罠であったのだとしても、ここまでヴェロニカ軍を勢いづかせてしまったのは、やはり悪手だったのではないか。
 しかし、ジャスミンの考えも、やはり希望的観測に過ぎなかったことを知らせる、絶望的な報告が飛び込んできた。
 ケリーの通信を聞いて、周囲の警戒に当たっていたマルゴが、格納庫から一気に全力疾走し、操縦室に駆け戻ってきたのだ。

「大変よ、ケリー!やられたわ!伏兵よ!」
「どこに!?」
「わたし達の真後ろよ!やつら、この嵐の中を突っ切ってきたんだわ!」



[6349] 第九十話:忘却より来たる
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/17 00:22
 エストリア軍はヴェロニカ侵攻にあたり、最初から部隊を二つに分けていた。
 本隊は、当然のことながら宇宙嵐の隙間を縫うように、凪の航路を選んで進軍した。別働隊は、敢えて嵐の中を突っ切るように、それでも勢力の比較的弱い箇所を、遭難や難破の危険を顧みずに踏破したのだ。
 
「そこまでする必要があるのでしょうか、フォルクマール提督」

 高級士官専用のサロンの個室で、膝をつき合わせるように座った上官に向けて、別働隊を預かる手筈となっているウッカーマン少将は懐疑的な視線を寄越した。
 
「相手が、例えばマースやダルチェフの艦隊ならいざ知らず、たかが辺境のヴェロニカ共和国の弱兵でしょう。ならば、下手な小細工などせず、正面からぶつかるだけでも簡単に撃滅が可能かと思われます」

 ウッカーマンの表情に、例えば危険な任務を担当することに対する不満や、大荒れの宇宙に対する恐怖の念もない。
 ただ冷徹に、この作戦の効果について上官であるフォルクマールの真意を問い質しているのだ。

「どれほど慎重に進んだとしても、数百隻の艦艇で宇宙嵐に飛び込めば、少なからぬ遭難者が出ることは確実です。また、通常航路を進軍する本隊よりかなり遅れて戦場に到着することになるでしょう。最悪の場合、敵と交戦することすらなく多大な犠牲者を出し、戦場に着いてみれば既に戦闘は終結していた、などという結末になりかねません。そうした事態に陥った場合、あなたは、犠牲者の遺族に対してどのように釈明するおつもりですか?」

 逃げ場の無いウッカーマンの舌鋒に、しかしフォルクマールは悠然とした様子でグラスを弄んでいる。そして悠然とした様子で琥珀色の液体を口に含み、喉を湿らせてから口を開いた。

「確かに、奴らを打ち負かすだけならばそれでもいいだろう。しかしウッカーマン少将。我らの真の目的は、惑星ヴェロニカの占領にある。それも、無人の野と化した、な」

 大規模な嵐の中の航海を恐れないウッカーマンも、気圧されたように唾を飲み下した。
 軍の中でも超機密扱いとされ、極々一部の人間しか知り得ない今回の作戦の真意を、第十三艦隊の副司令官であるウッカーマンも、つい先ほど知らされたのだ。
 ウッカーマンも、躊躇した。ヴェロニカ共和国が、エストリアにとって目障りな存在であろうとも、どれほどの非道を働く国家であろうとも、また、その地中にどれほど莫大な量のトリジウムが埋蔵されていようとも、一つの星に住む全ての人間の全てを抹殺するなど、人として許される所業ではない。まして、自分達は誇り高い軍人なのだ。
 だが、国家に対する絶対的な忠誠を誓った以上、司令部から下された命令に背くことは許されない。まして、現在エストリアは、新技術により軍事力を飛躍的に向上させたと噂されるマーズに対しての脅威論が持ち上がっている只中なのだ。軍艦やガーディアンの新規建造に欠かすことの出来ないトリジウムは、文字通り喉から手が出る程に欲しいのである。
 
「彼らは、長く我がエストリアの保護下にあり、我が国から横流しされた物資や科学技術によって我が世の春を謳歌してきた。だが、近頃はその恩義も忘れて暴走を始め、既に手がつけられないような段階まで来ている。ならば、今までの負債も、利子を合わせたところで耳を合わせて返して貰うとしよう。それが、上層部の考え方であり、免罪符であるらしい」

 フォルクマールが皮肉げに笑い、もう一度グラスを傾けた。
 全くもってお笑い種の論理ではある。確かにヴェロニカ共和国はエストリアの庇護の元で発展を遂げた国家ではあるのだが、両者はあくまでトリジウムを仲立ちとした相互補完関係にあるのであって、例えばエストリアがその親切心でヴェロニカを一方的に援助してきた訳では無い。いわば、密貿易の売り主と買い主なのだ。
 なるほど、そう考えてみれば話は早いのか、と、ウッカーマンは唇を歪めた。要は、犯罪組織が友好関係にあった他の組織に牙を剥いただけなのだ。そして、密貿易の商品の独り占めを計った。
 そうすると、自分に割り振られた配役は組織子飼いの殺し屋といったところか。
 ウッカーマンは自重の笑みを浮かべ、上官に倣ってグラスを深く傾け、中に入っていた液体をそっくりそのまま胃の中に放り込んだ。ほとんど生のままだったウィスキーが熱と化して食道を灼いたが、その灼熱感すらが今のウッカーマンには不快だった。

「中途半端に奴らを打ち漏らして、惑星ヴェロニカにおける作戦行動や、その後の占領作戦の憂いとさせてはならん。反エストリア的なテロリストを宇宙に解き放つ必要も無い。後顧の憂いは完全に断つ。我らは、奴らを文字通りに殲滅する必要があるのだ。皆殺しだ。一隻残らず、一人残さず、きれいさっぱり、殺し尽くす」

 フォルクマールは、平坦な声でそう言った。
 上官の言葉にウッカーマンは背筋が薄ら寒くなったが、しかし一面で、この上官は戦場に意識を集中させることでその先にある大虐殺から目を背けようとしているのではないかという疑念も浮かんだ。
 戦いであれば、兵力や装備にどれだけの差があろうとも、全力をもって敵を叩きつぶすのは作法であり当然のことだ。そこに虐殺と呼ばれる行為があったとしても、誰に後ろ指を指されるものでもない。
 しかし、どのような詭弁を弄してたしても、軍人が無抵抗で非武装の民間人に銃口を向ければ、非難を免れることが出来ない。それが、近代国家が成立して以来、一度も変わらない鉄の規律の筈である。
 それを、自分達は破ろうとしているのだ。
 ウッカーマンは、上官の心情を慮って心を痛めた。自分は副司令官だ。負うべき罪がどれほど重たくとも、司令官のそれより重たくなることだけはない。

「ヴェロニカ軍の司令官は、カスパー・ヴォダルス氏だ。人格的に少々癖があるが、用兵の手腕には定評がある。宇宙海賊やテロリストの鎮圧くらいが任務の辺境には勿体ないくらいだよ」
「司令は、直接の面識がおありで?」
「何度か、合同訓練でな。ヴェロニカ軍の中では鼻つまみ者だったらしいが、それでも最高階位を極められた。大したものだと思う。しかし、この場合は少々厄介だがな」

 フォルクマールは、一瞬だけ遠い過去に向けて放った視線を、目の前の部下に戻した。

「彼が司令ならば、我らの侵攻の報を事前に察知した場合、間違いなくこの場所に迎撃の布陣を敷くだろう。そうした場合、我らは狭隘な戦場と氏の巧みな戦術に苦しめられることになる。おそらく、いや、間違いなく」
「最新鋭の武装をした我が軍が、旧式のヴェロニカ軍に、ですか」
 
 懐疑的な意見を崩さないウッカーマンに、フォルクマールは力強く頷いた。

「確かに、我が軍の武装は最新鋭を極めている。しかし、考えてもみろ。近頃の兵器は搭乗者の安全や感応頭脳との連結を重視するあまり、その運用面での実質的な役割はほとんど進歩していない。レーダーや探知機の有効範囲は飛躍的に広まったが、しかし最初から戦場が設定されてしまえばその有効性にも疑問符がつく。耐久性や機動性を除けば、我が軍とヴェロニカ軍に、それほどの大差は存在しないのだよ」
「……それは確かに」

 あくまで噂であるが、マース軍と共和宇宙軍の合同訓練において、各軍の面子を賭けて集められた精鋭パイロット総勢10名が、M7シェイクス4Sという骨董品紛いの旧型を駆る正体不明のテストパイロットにこてんぱんに叩きのめされたという話がある。
 エストリア軍のパイロット達は、マース軍も共和宇宙軍もだらしがない、自分達が相手ならそんな恥曝しな真似は絶対にしないと酒場の笑い話にしつつも、噂そのものを頭から信じてはいない様子だった。
 しかしフォルクマールは、確かに信じがたい話ではあるとは思いつつも、それが絶対にあり得ない話ではないのだと知っていた。何故なら、過去に彼自身が、自らは最新鋭の戦闘機を操縦しながら、しかし正体不明の機体に危うく撃墜されかけたことがあったからだ。
 そういえば、あの時の機体の鮮烈な紅色は、幾度彼を悪夢へ誘ったものか……。

「兵器の新旧ほど当てにならないものはない。兵数の不利は、このポイントを戦場に設定されてしまえば大した問題にならない。最後に兵士達の戦意については、訳も分からず侵略する側と愛すべき母国の最終防衛戦となった側、どちらが高いかなど言うまでもないだろう。どうだ、これでも我が軍の大勝は疑いないか」

 ウッカーマンは返す言葉を持たなかった。
 作戦の細部についての検討は、後日の課題である。しかし、大規模兵力を二手に分けての包囲殲滅戦法をエストリア軍の基本方針に据えることが、この時、決定したのだ。



「主砲、斉射三連!敵はこちらに背を向けている!撃てば当たるぞ!当たれば墜ちるぞ!」

 ウッカーマンは嗾けるように命令を下したが、嵐の中を突き抜け疲労の極みにある兵士達を、敢えて鼓舞しようとしたわけではない。
 目の前には、背後への備えなど完全に忘れたように無防備を晒す、ヴェロニカ軍。彼らの意識は完全に前方の本隊へと向けられており、こちらに気が付いているのかすら怪しいくらいだ。これで砲撃を外すようなら、砲撃手への教育プログラムを再考する必要があるだろう。
 ウッカーマンがふと抱いたその懸念を払拭するように、別働隊の艦艇に搭乗した砲撃手たちは主砲を撃ちまくり、その悉くが不幸なヴェロニカ軍の艦艇に命中し、巨大な火球へと変じさせた。
 それは、破滅的に美しい光景だった。一つの火球は、自らを輝かせる燃料として、数百人、あるいは千を越える人間の魂を欲するのだ。その火球が、目眩く程の数、瞬いては消え、消えては瞬く。
 遠くに見えるどの恒星よりも、明るく、そして美しく輝くヴェロニカ艦艇の残滓を見て、嵐の中で遭難の恐怖に怯えていた日々の鬱憤を晴らさなかったエストリア兵が果たして存在するだろうか。
 エストリア軍別働隊の全ての艦橋を、猛々しい歓声が満たした。
 そして、エストリア軍にとっての吉報は、そのままヴェロニカ軍の凶報である。
 突如として後背に出現したエストリア軍別働隊の報を聞いて、ヴォダルスは慌てることなく、しかし静かに溜息を吐き出した。

「してやられたな」

 そう言って、司令官席の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
 あらゆる事態に備え、作戦行動の修正をすることが任務であるはずの参謀長エクベルトも、咄嗟に声が出なかった。
 エストリア軍は、元々ヴェロニカ軍に気取られることなくこの宙域を突破するつもりだったのは間違いない。それに、万が一気取られていたとしても、地力で勝るエストリア軍が、このような絡め手を用意するはずなどなかったのだ。事実、ジャスミンの発案した奇襲作戦やダイアナの感応頭脳操作、そしてケリーの駆る《パラス・アテナ》が率いる部隊の活躍がなければ、今頃エストリア軍は堂々と凱歌を上げていたに違いない。
 どう考えても、無駄に終わる可能性が高い作戦の筈だ。加えて、宇宙嵐の中を突っ切る途中に、どれだけの犠牲が出たのか。
 しかし、それだけに有効性は極めて高い。ヴェロニカ軍は今、前方と後方を敵に挟撃され、それ以外を宇宙嵐の危険宙域に囲まれるという、正しく絶体絶命の危地にあった。

「……閣下。まだ諦めるには早すぎます。こうなっては、敵の包囲を食い破るしか、我らの生き残る術はありません。前か、それとも後ろか。どうかご決断を」
「……そうだな、貴官の言うとおりだ。最前線の兵士が戦っているのだ。ならば、司令官の為すべきは、過去の自分を責めることではなかった……。前方には、途方もなく分厚い陣形で、敵の本隊が待ち構えている。その陣を貫くだけの余力を、我らは既に残してはいまい。転進し、後方に薄く伸びた別働隊の陣を破るぞ!」

 敵の砲火に晒されながらの反転攻勢は容易ではない。回頭運動の最中に、前後の敵に無防備な横腹をさらけ出すことになるからだ。しかしその難事を、ヴォダルスはやってのけた。前方の敵にありったけの砲火を叩き付け、怯んだ僅かな隙にほとんどの艦を反転させることに成功した手腕は、十分に賞賛に値するだろう。無論、その過程で払われた犠牲は少ないものではなかったが。
 
「よし、別働隊の数は少ないぞ!一気に押し退けろ!」

 ヴォダルスは威勢の良い声で司令を飛ばしたが、しかしまたしてもヴェロニカ軍に悪夢が降りかかった。先ほどまでの前方、現在の後方でしたたかに牙を研いでいたエストリア軍本隊が、既に編成を終えていた紡錘陣でもって、反転を終えたヴェロニカ軍の背後から、一斉に襲いかかったのである。
 長距離砲の一斉射撃と近距離格闘戦の双方で蹂躙されたヴェロニカ軍は、各所で分断され、致命的な打撃を被った。今、宇宙という黒いキャンパスは、ヴェロニカ軍の敗亡を描くために用意された画布であることが、全ての人間にはっきりと分かった。エストリア軍の放つビーム砲がヴェロニカ軍艦艇に突き刺さる度、円形の虹のような光が宇宙空間を照らし出すのだ。その数は一向に数を減らすことなく、ただエストリア軍兵士達の目を楽しませた。
 今までの鬱憤を晴らすように、思うさま敵軍を蹂躙したエストリア軍本隊は、半死半生の敵を置き去りにしてそのまま前進し、包囲を敷く別働隊と合流した。こうして、ヴェロニカ軍はエストリア軍に半包囲され、効率的な集中射撃の破壊力をその身をもって味わうことになった。
 だが、当然、今までエストリア軍の本隊が陣を敷いていた航路──エストリア軍が元々ヴェロニカ侵攻のために通過した、砂時計状の隘路である──の守備は手薄となっている。敵影はなく、反対側の宇宙は安全な退路と化したかに見えた。
 これは偶然や不注意などではない。老練な用兵かであるフォルクマールは、死兵となったヴェロニカ軍と正面から戦う愚を避けるため、敢えて敵に退路を用意したのだ。完全な包囲陣を敷けば死に物狂いの敵の予想外の反撃に応対しなければならないが、中途半端な希望を用意してやれば、生への執着に取り憑かれた敵兵の意識はそこに集中する。
 それに、退路を用意したと言っても、その無条件かつ安全な通行権を、エストリア軍が保証する筈がない。
 ヴェロニカ軍のうち、最も退路に近い箇所にいた戦艦《クールマ》が、司令官の命令を無視して退路へと疾走した。その動きを見た他の艦艇も、我先に戦場を離れようとする。既に、大勢は決まったことを知っているのだ。司令官の命令も大事だが、事ここに至れば、各人の判断で戦場を離脱することが許される筈である。
 退路を阻むエストリア軍から散発的な攻撃があったものの、今、彼らの後背で繰り広げられる殺戮劇に比べれば、それは微風と称すべきものであった。だが、ヴェロニカ艦艇がエストリア軍の防衛戦を突破したと思った瞬間、先頭にいた《クールマ》が大爆発を起こした。
 《クールマ》の搭乗員は、みんな、自身の生還を確信していた。その希望は、エストリア軍が幾重にも敷設した核融合機雷に阻まれ、原子へと還元されたのだ。

「機雷原だ!止まれ!止まれ!」

 《クールマ》に追随した他艦は即座に異常を察知し、艦を停止させようとしたが、慣性に逆らうことは出来ず、いくつもの艦が《クールマ》の二の舞となり、宇宙に大輪の花を咲かせることになった。
 そして幸運にも停止に成功した艦は、しかし今度は絶望に取り憑かれることになる。前方には必死の機雷原が彼方まで広がり、後方には死の暴風雨と化したエストリア軍の猛攻が続いている。
 どうあっても助からない。全ての将兵が、その事実を受け止めた。
 今、ヴェロニカ軍は、死の宣告を受けたのだ。何をしても無駄。何をしても助からない。
 だが、それでも諦めない者達がいる。
 《パラス・アテナ》に搭載された感応頭脳であるダイアナ・イレブンスがそれであり、その船長であるケリー・クーアがそれであり、そしてその妻であるジャスミン・クーアがそれであった。



 既に大局は決した。
 フォルクマールは、しかし喜ぶでもなく驕り高ぶるわけでもなく、それほど感慨深くもない視線で、じっとスクリーンを見つめるだけだった。

「存外に、手間取りましたな」

 軍服の襟元を緩めながら、イレックスが呟いた。おそらくそれは、全てのエストリア将兵が抱く、今回の戦闘に対する感想だっただろう。
 装備、練度、兵数、勝敗を決する全ての面において、ヴェロニカ軍は自分達に劣っていた。にも関わらず、自分達はこれほどまでの苦戦を強いられた。それは確かに苦い認識であったが、同時に相手への賞賛にも繋がる。
 勇敢にして、堂々たる戦いだった。彼らは確かに勇者だったのだ。
 今、その賞賛すべき敵手に無慈悲な攻撃を加えつつ、そのような感慨を抱くのは精神の屈折と揶揄されるかも知れない。敵を賞賛することで、その敵を打ち倒した自分自身を美化し陶酔しているのだと。
 確かに、そのような一面があることを、彼ら自身も否定し得ないだろう。だが、勇敢な敵に対する尊敬の念は、偽らざる本心に違いないのである。
 もうすぐ、この戦闘は終わる。エストリア軍を勝者の椅子に座らせて。
 しかし、その後に待ち受けている任務は、戦闘の悲惨さに、更に輪を掛けて陰惨なものなのだ。今度の犠牲者は、旧式の銃を構えた敵兵ですらない。自分や家族を守る術すら持たない市民なのだ。
 フォルクマールが、眉間に刻まれた皺を少しも伸ばそうとしないのは、もしかしたらそのせいなのかも知れないとイレックスは思い、尊敬すべき上官に憐憫の念を抱いた。
 
「それにしても……」

 イレックスの、自らを見る視線に気が付いたのか、フォルクマールは軽い咳払いをしてからスクリーンに視線を移した。
 スクリーンに映し出された宇宙空間では、一方的な虐殺が繰り広げられている。装備に勝り、練度に勝り、兵数に勝るエストリア軍が、全てにおいて劣ったヴェロニカ軍を、袋小路に追い詰めた上で、半包囲の陣形からの一斉射撃を加えているのだ。これを虐殺と呼ばずになんと呼ぶか。
 ただ、それにしてはヴェロニカ軍の損耗が少ない。現在の状況が完成して、もうしばらく経つが、依然として敵は辛うじて軍隊と呼べる陣容を維持している。生き残っている艦艇にも無傷な艦は一隻として無いだろうが、それでも半数以上が艦としての形を保っている。
 これはどうしたことか。
 考え込むフォルクマールに、イレックスが怜悧な口調で、

「どうかなさいましたか?」

 フォルクマールが、自分の不審を説明すると、イレックスはしたりと頷き、

「長期間の戦闘で、我が軍もそれなりに消耗しているのでしょう。また、別働隊はあの大嵐の中をここまで辿り着いたのですから、彼らも無事であるはずがありますまい。砲撃に加わることの出来ない艦も少なくはないのではありませんか」

 上官へ説明しながら、嵐の中、耐えに耐え忍んでこの場に辿り着いた友軍の労苦を思い、イレックスは思わず目頭を熱くした。どれほど恐ろしかったのだろうか。宇宙嵐の中で遭難すれば、救難信号も救命艇も意味を為さない。乗艦を棺として、永久に宇宙を彷徨い続けることになるのだ。
 その恐怖に耐え、彼らは駆けつけてくれた。そのおかげで、この戦闘を司る勝利の女神は、自分達に微笑んでくれたのだ。だが、イレックスは同時に薄ら寒い想像を働かせてしまった。別働隊が傷付き、自分達も、あれ程の苦戦を強いられていたのだ。
 もしも歯車が一つ狂えば、現在のヴェロニカ軍の惨状は、もしかしたら自分達に割り当てられた配役だったのかも知れないのではないか。
 突如として青ざめた副官の表情を眺めながら、フォルクマールは首肯した。
 
「確かに貴官の言うとおりだろう。だが、その程度のことは私も承知しているのだ。その上で、やはり火線が薄い。そう思わざるを得ん。確認をしてみろ」
「はっ、承知いたしました」

 イレックスが調べると、確かに火線の薄いポイントがある。
 そして間もなく、どうしてそのポイントでは火線が薄くなってしまっているのか、判明した。
 たった一機。
 たった一機の未判別艦が、エストリア軍の攻撃を食い止めていた。



『もうそろそろ、潮時じゃないかしら、ケリー』

 スクリーンに映った女性が、優しげな声で語りかけた。
 戦場は、既に戦いのために用意された場所ではなく、ただの処刑場に成り果てている。死んでいくのは友軍だけで、殺しているのは敵軍だけだ。
 もう、これは戦いではないのだ。勝敗という意味で言うならば、既に結果は出てしまっている。
 あとは、生きるか死ぬかだ。もっと正確に言うならば、逃げ延びることが出来るかどうか。
 そんなこと、ケリーにだって分かっている。

「そうだな、ダイアン。それでも、もう少しだけ、な」

 微笑みながらそう言ったケリーの瞳は、極度の疲労で濁りきっていた。だが、濁りきった瞳の奥の、最後の輝きの一筋が、ケリーの本心を表していた。
 まだまだ、俺達は負けていない。いや、仮に負けていたのだとしても、まだ諦めてはいない。だから、まだ決着はついていないのだ。
 ダイアナは、その光を見て、わざとらしい溜息を吐いた。

『ねぇケリー。わたし、きっとこの世で一番不運な宇宙船だわ。だって、この世で一番わたしに相応しい乗り手が、こんなにも聞き分けがなくてこんなにも扱いづらいんだもの。おかげで、きっと今日がわたしの命日ね』
「すまねぇな、でも、こればっかりはどうにも、な」

 ケリーが、ぼさぼさの頭を掻きむしった。皮肉げに吊り上げた口元から、血の雫が一滴、つぅと伝い落ちた。

「舐められて終わるわけにはいかねぇじゃねぇか。こればっかりは仕方ねぇのさ。せめて、一泡吹かせて終わらせねぇと、よ」

 半透明のダイアナ、その後ろに映し出された敵軍から、雨霰のようにミサイルが、ビームが、戦闘機が飛んでくる。
 しかし、《パラス・アテナ》の桁外れの機動力、防御力、そして搭載機を含めたところの攻撃力により、全てが薙ぎ払われていく。《クインビー》は戦闘機同士の格闘戦においては正しく無敵そのものだったし、TYPHON零型の機甲兵の常識を破るような戦闘力はエストリア軍の恐怖の的であった。
 たった一隻の性能で戦況を変えることが不可能だとしても、彼らはこの戦場において、最も剽悍な一団であったのだ。
 だが、それも限界を迎えている。
 既にリミッターの二段階目までを解除した《パラス・アテナ》の超高速航行と、慣性制御の限界を超えた運動は、艦の駆動系だけではなく、搭乗者であるケリーの内蔵までをも強かに傷つけている。当然、艦載の《クインビー》やTYPHON零型の搭乗者とて無事であろうはずがない。
 彼らは戦った。既に、ヴェロニカを守るためとか、そういう次元ではない。ただ、彼らは戦うために戦っていた。もう、余計な何かを考える余地など無い。
 ケリー達は、戦う度に敵の死を量産した。敵の死は、そのまま敵の怨恨と畏怖を買い、《パラス・アテナ》を無上の標的へと変えていった。
 今、《パラス・アテナ》は黄金の雀蜂とでも言うべき存在だった。近寄れば致死の毒針で一突きにされるが、無視して敵の巣を攻撃するのも恐ろしく、そして捕まえるか撃ち落とすことが叶えば無二の栄誉を約束してくれる……。
 自然、エストリア軍の注意は《パラス・アテナ》に集中し始める。並の艦艇であれば、この時点で蜂の巣にされ、乗員共々宇宙の塵に成り果てているだろう。しかし《パラス・アテナ》とそれを守護する戦闘機達は、どのような比喩を用いて言い表したとしても、『並の』という表現だけは出来ない、精兵であった。
 文字通り四方八方から叩き付けられるミサイルとビーム砲の雨霰を、針の穴を縫うよりも繊細な操縦で躱し、お返しに正確な狙撃を命中させる。《パラス・アテナ》の搭載戦闘機である《クインビー》やTYPHON零型も《パラス・アテナ》の近衛兵としてエストリア兵ですら瞠目するような奮戦を続ける。
 それでも、限界は訪れつつあった。優美な《パラス・アテナ》の船体は、まるで尾びれや背びれを食い散らされた絶息寸前の熱帯魚のような惨状であったし、《クインビー》はその深紅の塗装が所々剥げ落ちて無数の傷を刻まれていた。何より、TYPHON零型は既にその数を半数以下まで減らしていた。それはつまり、同数の搭乗者が帰らぬ人となったことを意味している。
 出撃する度に、仲間が減っていく。弟たちが、妹たちが、もう二度と会えない、記憶の中だけの存在になってしまう。
 それが当然なのだ。自分達がそうなのと同じように、自分達が戦っている顔も知らない敵も、同じ思いを抱いているのだ。
 傷だらけのTYPHON零型の操縦席で、マルゴは溜息を吐いた。もう、何十時間寝ていないのか。それとも、何百時間も寝ていないのか。
 空腹は、既に忘れた。しかし、眠気だけはいつまで経っても脳髄の一番奥から滲み出てきて思考の奥に沈殿し続ける。眠気の重量は、そのまま戦闘の物理的な重りとして機能して、TYPHON零型の生体操作を鈍重なものに変えていく。
 
 ──ああ、わたしは頑張りました、お父様……。

 ここまで戦えたことが奇跡なのだとすれば、マルゴはその奇跡に感謝していた。
 マルゴの手には、細い鎖の束が握られていた。その先には、39枚の金属製の認識票がつけられている。そこに名を刻まれた仲間のほとんどが、もうこの世にはいない。きっと、ここではないもう一つの世界で、自分達を愛してくれた父と一緒に、笑っているのだろう。
 死ぬのが恐くないなんて、嘘っぱちだ。こんなにも恐い。背中が震える。笑顔が引き攣る。鎖を握りしめた手が、白くなる。
 でも、もうすぐ、みんなに会える。神様、どうかその時まで、わたしを勇敢でいさせてください。そして、どうかその時は、きっと、わたし達を本当の家族に。
 
「大丈夫、心配しないで。わたしだけ生き残ろうなんて思わない。わたしも、みんなと一緒。でも、最後まで戦い続けなければいけないから、もう少しだけ待っていて……」

 喉の奥に異物感と灼熱を感じて、マルゴは大きく咳き込んだ。咄嗟に添えた両手に、べったりとした吐血が張り付いている。《パラス・アテナ》の常識外れな航行による内蔵の損耗か、それともTYPHON零型の生体連結システムの運用時間が限界を超えたのか。
 どちらにせよ、もう長くは続かない。刈り取りの時間。子供は家に帰るときが来た。長い遊びが終わったのだろう。
 次が、おそらく最後の出撃になる。それは予想ではなく、確定した事実だった。
 ふぅ、と、マルゴは息を吐いた。何か、肩のあたりが少しだけ軽くなった。気がした。
 


 敵の攻撃が、まるで台風の目に入った一瞬のように、ぴたりと止んだ。

『正体不明の艦艇に告ぐ』

 突きつけられた砲口群の奥から、硬質な、軍人らしい声の通信が入った。
 煩わしそうな顔つきのダイアナが、片手で耳の穴を塞ぎながら、

『どうするの、ケリー?一応、聞くだけ聞いてみる?』
「そうだな、もしかしたらやっこさん達、白旗を揚げて泣いているのかも知れねぇ。あまり虐めるのも可哀相だ。聞くだけ聞いてやるさ」

 ダイアナは、ケリーの下手な冗談にくすりと笑った。彼我の状況を考えて、どうして敵が降伏の通信を入れるなどあり得るだろうか。上を見ても下を見ても、前も後ろも左も右も、全てを敵の艦艇が埋め尽くしている。安っぽい比喩を用いるならば、蟻の這い出る隙間もありはしない程に、周囲を包囲されているのだ。
 死ぬか、それとも降伏するか。自分達に許されたのはその選択をするだけで、それから先の全てに決定権はない。

『正体不明の艦艇に告ぐ。こちらは、エストリア宇宙軍第13艦隊司令官、フォルクマール中将である。まず、貴殿の勇戦に敬意を表する。我が軍の精鋭を相手取り、孤軍をもってよくぞここまで持ちこたえた。しかし、既に貴艦は包囲された。脱出の道も、また無い。これ以上の抵抗は全くもって無意味である。この上は死への誘惑を断ち、潔く投降し、生への勇気を示して欲しい。寛大なる処置を、私の権限をもって約束する。重ねて勧告する。投降されたし』

 高圧的ではない、むしろ乞うような内容の通信であった。そも、敵の旗艦でもない、未判別艦一騎のためにこうも鯱張った降伏勧告が為されること自体、異例といっていい。それが果たして、言葉通りにケリー達の奮戦振りに敬意を表した結果なのか、それとも明らかに現行の最新鋭機を上回る性能を誇る《パラス・アテナ》や《クインビー》に興味を示した結果なのか、それは分からない。
 降伏勧告を再生した後で、再び画面に映し出されたダイアナが、微笑みながらケリーに語りかける。

『返答の期限は、五分後よ。例え一秒でも遅れたら、それとも勧告を蹴ったら、わたしたちはその瞬間に消し炭にされるわ』
「ったく、たった一機の五万トン級宇宙船に、ご大層なこったぜ。やつらの鼻を明かして逃げ切れる可能性はどれくらいだ、ダイアン?」

 自分が生死の縁にあるとはちっとも感じさせない、脳天気な声でケリーは訊いた。
 
『いったいどれだけのミサイルや砲台がわたしをロックオンしているか、教えて上げましょうか、ケリー』
「おう、興味深いね。是非教えてくれよ」
『嫌よ、数えるのが億劫だもの』

 ダイアナはくすくすと微笑んでいた。つまり、脱出は不可能だという、彼女なりの返答だろう。
 ケリーが肩を竦めていると、通信回線にジャスミンが割り込んできた。ダイアナの隣に、頬を痩けさせた赤毛の女丈夫が映し出される。

『じゃれ合いもいいが時と場合だ。あまりに緊張感が無さ過ぎるのも考えものだぞ』
「じゃあ、絶望に泣き喚く夫の方がお好みかい?」
『想像するだけで気色悪いから止めろ。で、降伏勧告は受け入れるつもりか?百戦して百勝出来るわけでも無し、別に降伏は恥ではない』

 ジャスミンに冷静な言葉に、ケリーは頷いた。

「だがな、女王。もしも俺達が降伏したとして、俺達が捕虜になるのは構わねぇさ。ただ、ダイアンや《クインビー》が、連中お抱えの科学者や技術者のサンプルにされちまうのは間違いねぇだろうし、到底承伏するわけにはいかねぇぜ」

 彼らの慈悲深い降伏勧告も、半分以上はそれが目的だと考えるべきだろう。
 ケリーもジャスミンも、TYPHON零型はともかく、《パラス・アテナ》や《クインビー》は量産はおろか常人であれば乗りこなすこと自体が不可能な、ある意味では欠陥機であることを承知している。
 しかし、数字と結果でしか物事を見ることの出来ない科学者連中は、そのことを理解することは出来ないだろう。自分達の知的好奇心が満たされるまで、その対象を分解し尽くし、ネジや基盤の単位までバラバラになった《パラス・アテナ》や《クインビー》の前で、首を捻って両手を上げるのだろう。
 それとも、ダイアナ・イレブンスの産みの親であるエストリア科学者連中は、かつての研究成果が手元に戻ってきたことに狂喜乱舞するのだろうか。
 いずれにせよ、ケリーもジャスミンも、半身とでもいうべき愛機を質に入れて、自分の命を買うことになる。
 《クインビー》はまだいい。船のことをカタログとスペックでしか測れないような科学者でも、設計書通りに組み上げればもう一度もとの姿に戻る可能性が、極々僅かでも存在するのだから。だが、《パラス・アテナ》は、つまりダイアナは、一度物理的に破壊されてしまえば、もう二度ともとの彼女に戻ることはないだろう。
 つまり、降伏するということは、ダイアナの命をエストリアに差し出すことに等しい。
 
『まぁ、聞くまでも無いことだったな』
「あんたが降伏するのを止めるつもりはねぇぜ。別に、それが卑怯だとも思わねぇよ。むしろ、出来るならあんただけでも生き残ってもらいたいと思ってるんだがね」
『馬鹿を言うな。わたしの《クインビー》を、連中の、油汚れも無いような手で触らせてなるものか』

 油汚れも無いような、という表現がジャスミンに相応しくて、ケリーはふと笑った。

『あと一分よ。……こういうことを言うと気持ち悪いけど、ケリー、ジャスミン、あなた達と出会えて良かったわ。きっと、あなた達と出会えないでずっと宇宙を飛んでるよりも、何倍も楽しい時間を過ごせたと思う』

 画面に映し出されたダイアナが、はにかみながらそう言った。
 ケリーは何も言わない。言う必要も無いことだったからだ。その代わりに、隣に映し出された自分の妻に、やはりはにかむように言う。

「女王、その、なんだ……」
『どうした、言いたいことははっきり言え』
「……あんたと結婚してこの方、まぁ、その、……悪くはなかったぜ」
『なんだいきなり、気持ち悪い』

 ケリーは苦笑した。この女は、どこまでも自分に相応しい、自分が相応しい女だった。

「あんたは、どう思ってるんだよ」
『わたしは、最高の男と結婚したんだ。いつも言ってるじゃないか。そして、お前は最高の男だった。それがどうかしたか?』
「……いや、どうもしねぇさ。悪かったな、くだらないことを聞いちまって」

 ジャスミンは、憎らしいほどに普段のジャスミンそのものだった。

「まぁ、たまには、な」
『そうか、たまには、か』

 そして五分が過ぎた。
 ケリーの視界が、スクリーンを圧するビーム砲の光りに、白く漂白された。
 


 その光景に、誰しもが目を疑った。
 ヴェロニカ軍も、エストリア軍も、そしてケリー達も。
 凄まじいエネルギーの奔流が、エストリア軍の横合いから突き刺さったのだ。
 間違えようのない、激烈な艦砲射撃であった。
 エストリア軍は一瞬の自失の後、敵の伏兵かと思った。しかしそれは間違いだった。
 ヴェロニカ軍は一瞬の自失の後、味方の援軍かと思った。しかしそれも間違いだった。
 ケリーもダイアナも、一体何が起こったのか分からなかった。しかし、一通の通信文が、彼らに真実を教えた。

『昔、お前の子供を一人助けた貸しがあり、今、お前に二人の子供を助けてもらった借りのある昔馴染みが、差し引き一人分の借りを返すもの為り。どうか快く受け取られたし』

 ダイアナが読み上げたその内容を聞いて、ケリーは込み上げる笑いを堪えることが出来なかった。
 
「そうだったそうだった!お前はそういう奴だったぜ!妙に芝居がかったことが好きだったよな!どうせどっかで、一番おいしいタイミングを計ってたんだろう!?冷や冷やさせやがって、ど畜生め!こいつは高くつくぜ!」

 ダイアナがちょっと唖然とする程、ケリーは笑い続けた。
 そして同じ時、《クインビー》の操縦席のジャスミンは、ヘルメットのバイザーを持ち上げて、霞んだ眼を擦っていた。もちろん、眼にゴミが入ったとか、眠気覚ましとか、そんな常識的な理由ではない。
 牙を剥いた獅子のように猛々しく、こちらに向かって来る船団を見つけたからである。

「そんな馬鹿な……わたしは夢でも見ているのか?」

 忘我の表情を浮かべたジャスミンが、たどたどしい口調で呟いた。

「冗談だろう……あれは、『花火師』アーウィン・ショウ の《ファイヤ・クラッカー》じゃないか……それに『毒花』バーバラ・ベル・ゲデスの《ベラドンナ》、『血頭』ダシール・ハメットの《デザート・フォックス》、『亡霊師団』エドワード・ドミトリクの《フライング・ダッチマン》、セルバンテス海賊団の副旗艦《ワイバーン》まで……」

 それらは全て、半世紀も前、海賊という言葉が単に唾棄すべき無法者を指す単語ではなく、ある種のロマンチシズムを刺激する象徴であった時代に、綺羅星の如く活躍した大海賊団の首領達が駆る乗艦であった。
 極々限られた一部を除いてジャスミンは、それらの海賊たちと直接的な交流を持つことはなかった。ケリーと知り合うまでは、寧ろ彼らを取り締まる側に身を置いていた訳だし、ケリーと知り合ってからは、たった一人を除けば、交流を持ちたくてもその時間が無かったのだ。
 そんなジャスミンでも知っていて、長い冷凍睡眠から目覚めても脳裏から離れなかった程に著名な海賊たちの旗艦が、今ここに集結している。これが夢でなくて何だというのか。
 それも、一隻や二隻ではない。十隻や二十隻でもない。
 無数だ。数え切れない。千や二千でもきかない程の海賊船が、艦隊となってこちらへと殺到してくる。その、恐るべき速度と、恐るべき迫力。威圧感。吹きこぼれるような殺気。
 ジャスミンは、ほとんど物理的な圧力を感じて、思わず仰け反りそうになった。
 そして、見つけた。
 まるで流星を模すかのように紡錘陣に編成された海賊艦隊、その先頭を走る、銀色の艦影。
 ジャスミンは、その艦を知っている。知っているだけではない。その艦に招かれ、宇宙を駆けたのだ。そして、その艦の主の腕に抱かれ眠ったことすらあった。上流階級に育ち、軍に所属し、ケリーと所帯をもったジャスミンが、唯一直接の知己となった海賊の男。
 その艦を見つけたジャスミンは、奇しくも夫であるケリーと全く同じ行動をした。せざるを得なかった。あろうことか戦闘中にも関わらずヘルメットを外してぽいと放り投げ、両手で頭を抱え込むようにして大笑した。

「そうかそうか、ついにインユェとメイフゥのお父上様のおでましか!少し遅かったが、まぁ及第点といったところだな!不平不満は後で、思うさまにぶちまけてやるから覚悟しておけよ、色男め!」

 生と死の交わる虚空を、放たれた鏃のように突き進む銀色の艦艇。
 その名を《シルヴァー・スター》。
 言わずと知れた大海賊、グランド・セヴンが一角、『銀星』ラナートの乗艦である。



[6349] 幕間:勇者達
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/20 12:21
『お客様のお呼び出しをします。ペリティア星系エレノス宇宙港よりお越しのレオナール様、お伝えしたいことが御座います。お近くの内線電話より、三番お客様受付センターのほうへ連絡を頂きますようお願い申し上げます』

 無粋な船内放送が、心躍る会話に終了を告げた。
 ラナートは、目の前にいる少女との会話をもっと長く続けたいと考えている自分が、少しだけ意外だった。
 今日、初めて出会った少女だった。
 そして美しい少女だ。年の頃は、自身の子らと同じくらいだろうか。ならば、これからますます美しくなるに違いない。その姿を想像するのは、ラナートにとっても不快なことではなかった。
 だが、今の少女に対して異性としての魅力を感じているのかと問われれば、ラナートはそれを決闘の合図と受け取るかも知れなかった。星の数程、とは少々大げさであるにしても、両手の指では数え切れない女性と浮き名を流したのだし、一晩だけの情熱を交わした相手ならば一個中隊を編成するに足るだろう。端的に言えば、相手に不足はしていない。
 では、どうして少女との邂逅を、こうも名残惜しく思うのか。愛らしい外見にちっともそぐわない、まるで男のような話口調。口ぶりも老成していて、子供とはとても思えない。だが同時に、一緒にいると離れがたい魅力がある。安心感がある。生まれもって人を惹き付ける才能を持った人間がこの世にいるのならば、それはおそらく、目の前の少女のような人間なのだろう。
 なんとも不思議な少女だった。

「……と、いうことだ、お嬢さん。どうやら連れから呼び出しが入ったようでね。名残惜しいが失礼させて頂こう」

 ラナートが、安いビニール製の長椅子から腰を上げようとすると、少女が、少しだけ寂しげな表情を浮かべてくれた。
 ラナートは心中で苦笑した。どうやら生まれてくるのが少しばかり早かったのか。もしも自分がこの少女と同い年だったなら、例え拐かしてでも目の前の少女を自分のものにしたかも知れない。

「待って欲しい。まだ、俺の方が名乗り終えていない」

 少女が、きびきびと小気味良い動作で立ち上がり、未だ腰掛けたラナートと視線を合わせ、

「俺の名前はウォル。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン。もうしばらくすれば、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインになるだろう。長ったらしい名前だが、どれも大切な名前だ。どれか一つでも覚えておいて頂けるとありがたい」

 少女の黒い瞳は、真っ直ぐにラナートの瞳を見つめた。
 その真っ直ぐさが、ラナートには、少しだけ苦しく、そして悲しかった。自分の人生を、一度足りとて恥じたことはない。太陽に顔を向けられない世界で生きてきたのだとしても、自己に課した掟だけは破らなかった。
 それでも、こんな真っ直ぐな少女に、本当の名前を伝えられなかった自分が、情けなかったのだ。

「そうか。では、ウォル、と呼んでもいいのかな?」

 ラナートの問いに、ウォルと名乗った少女は、太陽よりも暖かく、朗らかに、微笑んだ。
 
「ああ。親しい人達はそう呼んでくれる」
「じゃあ、俺のことはラナートと呼んで貰えると嬉しい」

 そう言い捨てたラナートは、少女の視線を振り払うようにして談話室を後にした。
 連邦大学星と辺境を繋ぐ大型旅客船は、今日が連邦大学の長期休暇の最終日だからだろうか、普段の倍以上の乗客でひしめき合っている。当然のことだが、年若い学生の姿が多い。
 大柄なラナートが歩くと、少し驚いたような顔で彼の顔を見上げ、行儀良く道を空ける。その様子を眺めるでもなく見遣りながら、自身が彼らと同じくらいの年の頃だったとき、何をしていただろうかと思いを馳せた。
 まだ、自分の世界は、どこまでも広がるのだと思っていた。背は伸び続け、視界はどんどん高くなり、力は際限なく身につくのだと。
 それが幻想に過ぎないことを知ったのはいつだろう。記憶の糸を手繰り寄せたラナートの脳裏に、遠く離れた星で、病魔に取り憑かれ、ベッドの上で苦しみ抜き、最後の最後には怪物のような異形と化し、血を吐き散らしながら死んでいった少女の、最後の笑みが浮かんだ。
 もう、遙か昔のことのはずなのに、その笑みはラナートの一番柔らかい部分に刻み込まれたまま風化することはない。きっと死ぬまでないだろう。彼女の顔を思い起こす度に、何もしてやれなかった自分の無力さを噛み締めることになるのだ。
 通路の真ん中で立ち止まり、痛ましげに息を吐いたラナートを、周囲の学生が奇異の視線で眺めていた。
 
「あの、どうかされましたか?御気分でも……?」

 気遣わしげな表情と声で、先ほどの少女──ウォルという名前だった──と同じ年頃の少女が、ラナートに声をかけた。
 こんな子供に心配される程、自分は老いて見えるのか。それはそうだろう。もう、かなりの人数の昔馴染みが、この世の人ではないのだから。
 ラナートは自嘲の笑みを浮かべるのをやっとのところで押しとどめ、爽やかな笑顔を少女に向けた。

「なんでもないよ、お嬢さん。少し、頭が痛んだだけだ。ありがとう」
「そうですか、よかったです。もしも体調が優れないようでしたら、すぐに船医さんに連絡してくださいね」

 少女がほんのりと頬を赤らめ、律動的な足取りで駆け去っていった。
 その後ろ姿を見送りながらラナートは再び歩き始めた。
 廊下の先の角を曲がり、設置されていた通話ブースに体を滑り込ませ、内線の3番を押す。

「ああ、すまない、先ほど呼び出してもらったレオナールという者だが……ああ、繋いでくれて構わない」

 機械的な口調のオペレーターの声が途切れ、次に、ラナートと同じくらいの年の頃だろうか、嗄れた男の声が受話器の向こうから聞こえた。

『お忙しいところ、申し訳ありません、お館様』

 一瞬、誰のことを指しているのか、分からなくなる。しかし、そのような呼び方を自分に向けるのは、この世で一人しかいないはずだった。

「二人で話す時は、その呼び方は止めるように言ったはずだぞ、ヤームル」

 これも何かの符合だろうか。
 先ほど思い起こした少女の死に顔。共に彼女を看取った古い友が、このタイミングで連絡を寄越すとは。
 心中で遠雷を聞いた気がしたラナートの耳に、懐かしい笑い声が聞こえる。
 
『そうだったな、インシン……いや、銀星』
「よく、ここが分かったな」
『そこらへんは、昔取った杵柄というやつさ。それにしても、いい加減通信端末の一つでも持ったらどうだ。ここはヴィーザルではないんだぞ。連絡を取ろうとする度にお前の行方を探らなければならないのは、そろそろ骨が折れる……』
「残念だが、この年になって、これまで貫いてきた主義主張をあらためるつもりもない。諦めてくれ」
『変わらないな……。もう、かれこれ十年も経つのか、お前と別れてから……』
「そうだな、ユエが逝ってから、もうそんなに経つのか……。老いるはずだな、俺も、お前も」

 もう、遠い昔の話だ。
 宇宙船の故障で、半死半生の傷を負いながら這うようにして辿り着いた、名前も知らない未登録惑星。そこが、まさか袂を分かって久しい友人の生まれ故郷だったなど、神の悪戯にしては安っぽすぎる。
 そして、その友人の娘と恋に落ち、二人の子供を設けるなど。
 ずっと戦い続け、走り続けた人生の中で、唯一、心から安らげる時と場所が、そこにはあった。思い出すことさえ勿体ない、宝石のような思い出。
 メイフゥもインユェも、もう、片手では抱え上げられないだろうか。彼らは若木のように成長し、その分だけ、老人は衰えていく。
 もう二度と、二人の前には顔を見せないと誓っている。それが、父としての責任を放棄した自分の、最低限のけじめだと。それでも、この世でただ二人、自分と、自分が愛した女の血を受け継いでくれた我が子らを、どうして愛さずにいられるだろうか。

『大したことじゃないが、一応、報告しておこうかと思ってな』
「何をだ?」
『お前がインユェに送った船……《スタープラチナ》が、借金のかたに差し押さえられるかも知れん』

 ラナートが無言で話を促すと、古馴染みであり亡妻の父でもある老人が、苦笑混じりに続けた。

『たちの悪い輩に騙されたのさ。そいつは、お前の古い友人だと偽ってインユェに近づいたらしい。そして、後はお決まりだな。お前が困っていて、金がいる。何とか用立てたいが手妻がないと泣き落とし。インユェはころっと騙された』
「下手な儲け話で目の色を変えたよりは、まだ愛嬌があるじゃないか。で、ヤームル、その男はどうした?」
『始末した』

 あっさりと、まるでそれが当然のことのように、ヤームルは言った。
 ラナートも頷いた。それが、この男には当然のことだと知っていた。どれほど遠くに逃げても、どれほど厳重に身辺警護をつけても、ヤームルがその気になれば相手に為す術はない。必ず仕留める。
 
「『猟犬』の鼻は、まだ衰えていないらしいな。安心したよ」
『それはいいさ。だが、そいつがばらまいた金の回収は、俺には出来ん。ついでに言うなら、銀行屋どもがコンピュータの中で管理している借用書を焼き払うこともな』
「船が売り払われるくらい、別に構わないだろう。気概があるなら買い戻すことも出来る。まぁ、買い戻す前にスクラップにでもされてしまえばそれまでの話だが。それよりも、インユェには良い勉強になっただろうさ。それを寧ろ喜ぶべきだと思わないか?」

 ラナートがそう言うと、受話器の向こう側で頷く気配があった。

『それでも、お前がどこかであの船が売りに出されているのを見かけたとき、あまりがっかりさせるといけないと思ってな。一応耳に入れておこうと思っただけさ』
「そいつは手間をかけさせた。だが、そんなことよりも、少し気になる。その男は、本当にけちな詐欺を目的に、インユェに近づいたのか?」
『ああ、それはどうやら嘘じゃないようだ。少なくとも、お前を誘き出す餌としてインユェに目をつけたとか、そういう事情は無いと考えて良い』

 ラナートは頷いた。
 
「万事お前に任せる。俺は確かにあいつらの親だが、口出しする資格があるなんて自惚れちゃいない。産んで育てて、独り立ちするまで見守ってこそ人の親だ。産み捨てるだけなら虫だって出来る……」
『それでも、お前はインユェとメイフゥの父親だ。俺の娘は、ユエは、二人の成長を見届けたくてもそれが出来なかった……』
「……すまん。そういうつもりで言ったわけじゃないんだ」

 しばし会話が途切れた。
 
『……それよりも、面白い話がある。もう少し、いいか?』
「ああ。どうした?」
『《スタープラチナ》が担保にされた借金を返すために、今度、かなり遠出の資源探索に出張る予定だ。探査宙域は、インユェが選んだんだが……』
「ほう。それで?」
『聞いて驚くなよ。行き先は、N49-KS1173だ。どうだ、覚えているか銀星』

 ラナートは思わず絶句した。
 それは、かつてラナートの一味が、ある人物の好意から借り受け、本拠地として利用していた星だったからだ。
 
「冗談という訳ではなさそうだな。冗談にしては下手過ぎる。ヤームル、お前がインユェを唆したのか?」
『馬鹿を言うな。あの星は、既にマックスさんの娘か、それともその子供さんに受け継がれているはずだ。税金の支払いを滞納でもしていれば別だが、あの一家に限ってそれはないだろう?』
「ああ、しかし、彼女は死んだ。そして、一人息子だったあの赤ん坊も、事故で早世したと聞いているが……」
『どちらにせよ、既に他人の手垢がついた星さ。インユェが見つけても、一銭の得にもなりはしないだろう。そんな星を見つけるよう唆して何の意味がある?』
「……まぁ、お前のいうとおりだろうな。しかし、インユェには資源探索者としての才能があるのか、それとも無いのか、よく分からないな」

 ラナートは思わず笑みを溢した。
 N49-KS1173に目をつけたのは、確かにインユェの勘働きの鋭さを示すものだろう。そこは惑星をもたないとされる恒星系であり、普通の資源探索者ならば見向きもしない。しかしその宙域には、確かに惑星があるのだ。一般には秘匿され、探知機にも発見されない、あの星が。
 ただ惜しむらくは、あの星が既に個人の所有物となってしまっていることだろう。仮にインユェがあの星を見つけても、草木の一本、石くれの一片に至るまで、自分のものにすることは許されない。そしてそのことについては、インユェには一片の責任もない。
 ただ一言。運が悪かった。それだけだ。

「止めないのか、ヤームル」
『これも、インユェにとっては良い試練だ。未登録の居住可能惑星を見つけ、しかしそれが他人のものだと知れば、落胆は計り知れないだろう。それで諦めて再起不能になるようなら、最初から資源探索者としての資質を備えていないということだ。今のうちに他の生きる道を探した方がいい……』

 なるほど、厳しいようだが一理ある。ラナートは頷いた。
 
『ちょうどあの星には、一度行ってみる必要があると思っていたところだ。お前の耳にも入っているだろう。あの星を舞台にした誘拐事件の顛末を』
「ああ、だいたいのところはな」

 それは、連邦大学の中等部の学生が、未登録の居住可能惑星に拉致されるという、前代未聞の誘拐事件だった。
 ヴェロニカ共和国が絡んだ一件だけに、少し気になったラナートはその事件の詳細を調べたのだが、まさか『惑星ヴェロニカ』が、その居住可能惑星だとは思いもしなかった。いや、半ば気が付いていて、気が付かないふりをしていたという方が正しいかも知れない。

『まさか、あの星をトリジウム密輸の拠点にするなんて考えるやつが、俺達以外にもいたとはな』
「それだけあの星は理想的な場所にあるということさ。ヴェロニカ共和国から遠すぎず近すぎず、他国への利便もいい。上得意のエストリアにも、最短距離を結んだ航路にほど近いからな」
『その星で、あんな事件が起きて、トリジウム密輸組織が摘発された。これが何かの前触れで無ければいいのだが……』
「昔からお前の勘は良く的中したからな。それも、悪い方向への精度は抜群だった」
『それは皮肉か、銀星?』

 無理矢理不機嫌を取り繕った声が受話器のあちら側から聞こえてきて、ラナートは笑った。まるで、昔に帰った気がしたのだ。
 
「とにかく、知らせてくれたことに礼を言う。だが、何度も言うように、俺はあいつらの親である資格を自分から放棄した男だ。気を使う必要はない。あいつらの親はお前だよ、ヤームル」
『それは違う……と言っても無駄なんだろうな。一応伝えておくが、二人とも、特にメイフゥはお前に会いたがっている。一度けじめをつけないと、あの子は前に進めないかも知れん。まだインユェは形態変化を覚えていない。メイフゥは、それを自分のせいだと責め続けている。誰かが、何とかしてやらなければいけない。そして、俺には無理だ』
「そうか……」
『今すぐとは言わん。考えておいてくれ』

 分かった、とは言わなかった。
 名残惜しむでもない、簡単な別れの挨拶を交わし、ラナートは受話器をフックに戻した。おそらく、これが我が子の近況を知る、最後の連絡になるだろうと思った。
 今も、彼らは元気で生きている。どうか、これからも元気でいて欲しい。それだけがラナートの願いだった。
 そして、二週間ほども時が流れた。
 ラナートは連邦大学に滞在していたが、それも今日で終わりだろう。中央学府の設置された州は初夏の気候で、そろそろ日差しが厳しさを増してこようという時季だが、その分、開け放たれた窓から吹き込む風が、得も言われずに心地よい。
 窓の外の新緑に目を遣ったのは、我知らず、この星に名残惜しさを感じていた証拠かも知れない。

「どうされました、ミスタ・レオナール」

 その声で我に返ったラナートは、恥ずかしげな表情を浮かべ、

「いえ、何でもありませんよグラッツェン学長。ただ、この星に来ると、自分の未熟だった頃を思い出し、今思い出すと冷や汗を掻くような過去がふと頭を過ぎるのです」

 ガラス製のすっきりとしたテーブルの向こうで、品の良い老紳士が微笑んだ。

「いつものことながら、我が校に対するあなたのご配慮には言葉に尽くせぬ恩義を感じております。これはどの教育機関、研究機関にも言えることですが、学生に対して万全の教育環境を用意しようとすれば、いつだって予算が足りない。研究設備を整えるためにも素晴らしい講師を呼ぶためにも、まずは金が要る……下世話な話ですがね」
「仰るとおりです」

 あまりにも率直な学長の言葉に、ラナートはかえって好感を覚えた。
 今の世の中……というよりも、遙か昔から現在に至るまで、人の世はいつだって金で動いてきた。金は、それ自体に善悪を持たない。結局は使う人間の本性を、金という鏡が映し出すだけのことだ。
 ローテーブルからソーサーごとカップを持ち上げ、豊潤なコーヒーの香りを堪能するように一口啜り、音も立てずに戻す。堂々たる偉丈夫であるラナートの洗練された動作は、学長に浅い溜息を吐かせた。

「口幅ったいことですが、学長、私は、自分の人生では使い切れないだけの金銭を貯め込んでしまった。これは、ある種の業なのですよ。金を稼いでしまえば、ある時点までは己の自由を約束するはずのそれが、足枷となり、鎖となり、首輪となって自分を縛り始める。自分のための金であるはずが、金のための自分になる。主従が逆転し、価値が人をこき使うのです。これを悪夢と言わず、なんと言うでしょう」

 学長は真剣な面持ちで頷いた。連邦大学の学長とは、一つの惑星を治める最高位の為政者と同義である。当然、ただの研究者に勤まる役職ではない。人の世の裏も表も知り尽くした人間でなければその職責を果たすことなど出来ようはずもないのだ。
 理想や理念がどれほど重要であることを知りつつも、それだけでは物事が前に進まないことを、グラッツェンは知悉していた。だからこそ、是も非も全てをひっくるめて丸く収めることが出来る金の力を決して軽視はしていない。
 
「ミスタ・レオナール、あなたは黄金のために働くのではなく、黄金の主人となることの出来るお人だ。羨ましい限りです。しかし、この世で我こそは金持ちと胸を張る人間のほとんどが、黄金の奴隷に成り下がっている事実に気が付いていない。情けないことですが、私自身そうなのかも知れません」
「幸い、私には守るべき家庭も無ければ、財産を受け継ぐ子供もいない。墓を錦で飾るわけにもいかない以上、貯め込んでしまった業は出来るだけ早く吐き出したほうがいいに決まっている。それだけの話です」
「しかし、その業のおかげで、前途洋々たる学生達の未来がより一層広く、そして明るく照らし出される。私はあなたと、あなたが背負ってきた業に感謝と敬意を表さざるを得ません。本当にありがとうございます」

 学長が深々と頭を下げた。
 何故か、居たたまれない気持ちになったラナートは腰を持ち上げようとしたが、ふと思い至ることがあって、もう一度ソファに腰を沈めた。
 それでも口ごもるラナートに学長は不審の眼を向けた。それほど頻繁に親交があるわけではないが、それでも二人が知己となってから長い年月が経っている。その中で、これ程までにラナートが話しにくそうにしているのを初めて見たからだ。

「どうなされたましたか、ミスタ?」
「……学長。これは、恥を承知でお願い申し上げるのですが……一つ、無理を聞いては頂けませんでしょうか」
「無理を、と仰る。いったい、どういうことですかな?」

 ラナートの言葉を聞いた学長は思わず目を丸くした。

「……些か、驚きました。もう、二十年近くも我が校への多大な寄付を続けておられるあなたが、今になって、そのようなことを仰るとは……」
「如何でしょう。私の願いを聞き届けてくださいますか?」

 学長は荘厳な面持ちでラナートに相対し、ゆっくりと口を開いた。

「あなたの願いを私がお断り申し上げたとしても、あなたは今まで通りの寄付を続けてくださるのでしょうか」
「はい。寄付と、先ほど申し上げた恥知らずなお願いは、全くの別物です。例え今、この瞬間に、あなたが私に唾を吐きかけたのだとしても、来年以降の寄付は変わりなく続けさせて頂くことを約束します」

 そういうと、学長はにっこりと笑った。

「では、あなたのお願いは、はっきりとお断りをさせて頂きましょう」

 ラナートは、悪戯がばれた子供のような表情で頷いた。半ば、この返答を予想していたから、別に落胆しなかった。ただ、こんなことを言いだした自分が意外であり、そして気恥ずかしかっただけだ。

「詮ないことを申し上げました。どうか忘れて下さい」

 ラナートが立ち上がると、笑顔の学長もそれに倣い、ラナートのために学長室のドアを開け放った。

「それでは、ここで」
「はい。また、いつでもお越しください」

 二人は、儀礼ではなく、親しみを込めて握手を交わした。先ほど、ラナートの頼み事を二の句も告げぬ調子で撥ね付けたグラッツェンだが、二人の間に気詰まりな空気は流れていない。それは彼らの信頼関係の強さを十分に表していた。
 そして、グラッツェンはにこやかな調子で口を開き、

「ミスタ・レオナール。先ほどの件ですが……」
「いや、それはもう忘れて欲しいのですが」

 困惑顔のラナートを珍しがるように笑顔の学長は、

「我が校には、数多くの学生がいます。その中には、王侯貴族の子女や、各国の首脳の子女もいる。当然、我が子可愛さに特例扱いを求める例が後を絶ちません。しかし、我が校は全ての学生の平等を建前としている以上、僅かな優遇措置であっても認めるわけにはいかない」
「ええ、それが学府のあるべき姿でしょう」
「だからこそ、我が校の門を叩く学生が、如何なる出自の人間であっても、門前払いを喰らわせるような愚かなこともしません。学ぶ能力があり、気概があり、覚悟があるならば、我が校の門は全ての人間に対して、平等に開かれるでしょう。それをご理解ください」

 学長の言わんとするところを理解したラナートは、深く頭を下げ、学長室を後にした。
 静謐な廊下に、窓ガラスを透過した陽光が滑り落ちている。
 空が高い。この大陸は、初夏の爽やかな気候に包まれている。空調の管理されたこの学長棟の空気にも、青々とした若葉の香りが混じっているような気がするのである。
 ラナートは軽く深呼吸をした。
 ふと外に目をやれば、芝生でスポーツに興じる学生や、ベンチで足を休める男女の姿が目に入る。
 そういえば、船で知り合ったあの少女──名前を、ウォルと言っただろうか──は、連邦大学の学生なのだろうか。
 きっとそうだろう。あの船は、連邦大学と辺境を繋ぐ定期便なのだ。あの船に、保護者を連れずに乗っていて連邦大学に無関係の子供がいれば、その方が余程不自然である。
 
「学長に、聞いてみても良かったか……」

 あの少女にもう一度会ってみたいというのが、ラナートの偽らざる心境であった。船内では碌な話も出来なかったが、一度腰を落ち着けて──もしも少女が望むなら、軽い酒でも挟みながら──彼女の生い立ちを聞いてみたいものだ。さぞ愉快な話が聞けるに違いない。
 そんなことを考えながら歩いていると、長い黒髪の少女の後ろ姿を見かける度に、あの少女のことを思い出してしまう。これではまるで、恋に落ちた青い少年のようではないか。我ながら、ラナートは呆れるばかりだった。
 どちらにせよ、もう、しばらくはこの星に用はない。もしもあの少女と再び顔を合わせることがあったとしても、それは来年、この星を訪れる時のことになるだろう。
 そんなことを思いながら廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。

「レオナール様、少々お待ちを。お電話が、繋がっております」

 振り返ると、そこには壮年の頃合いの、品の良い女性が立っていた。片手に、電話機の子機を握っている。
 確か、グラッツェン学長の秘書を務める女性だったのではないか。少し息が乱れているのは、デスクワークばかりで体力が低下しているのに、小走りで自分を追いかけてきてくれたからだろう。

「私に、電話ですか?」
「はい、確かに、レオナール・リモン・ベルタンに繋いで欲しい、と。ヤームルという、おそらくはお年を召された男性です。取り次いでいいものか悩みましたが、あなたがこちらに来られているのを知ってるならば、不審な相手ではないかと思いまして……ご迷惑でしたでしょうか?」
「いえ、ミズ、とんでもないことです。それは、私の古い友人でして、大事な用件をお願いしていたのです。危うく行き違いになるところでした。本当にありがとうございます」

 ラナートは爽やかな笑顔を作り上げ、女性から子機を受け取った。
 女性は、必ずしも愛想笑いではない笑顔を浮かべた。
 
「電話は、後で受付の者にお渡しください。それでは、私はこれで……」

 気を利かせてくれたのだろう、女性はラナートに一礼すると、学長室の方へと引き返していった。ラナートが学校組織にとって、非常に重要な人物であることが、下にまで行き届いているらしい。
 どうにも面映ゆい気持ちを堪えながら、ラナートは子機を耳に当てた。

「どうした。まだ、こないだの電話から一月も経っていないぞ。年を取って、人恋しさに耐え難くなったのか」

 ラナートの冗談口に、しかし運命は残酷をもって報いた。

『シスが殺された』

 がつんと頭を殴られたような気がした。
 古馴染みの、友の名だった。宇宙物理学の博士号持ちという、おそらくはあの頃の海賊でもたった一人の変わり種であり、凄腕の航海士だった。シスがいなければ、おそらくラナートの率いる海賊団は、二度は宇宙嵐に飲まれて難破し、三度は連邦警察に拿捕されているだろう。
 恩人と言ってもいい。
 そして、良い奴だった。気弱でおどおどした態度とは裏腹に、誰よりも熱い魂を持っていたことを、ラナートは知っている。それに、一度言いだしたら、他人の意見に耳を貸そうとしない、頑固者だった。
 だから、彼が船を下りると言った時、説得する言葉をラナートは持たなかったのだ。

『う、奪うのがね、嫌になったんだよ。だ、だから、な、何かを作りたくなったんだ』

 こちらの顔色を伺うように俯き加減で寄越した視線には、しかし何者にも屈しない覚悟が込められていた。泣き出す一歩手前のような不安定な語調に、不屈の闘志が込められていた。
 ラナートは彼の下船を許可した。説得の無駄を悟ったのだ。もしも拷問を加えたとしても、シスはこの船を下りるだろう。少なくとも、もう海賊船の航海士として働くつもりはないだろう。
 ならば、気持ちよく送り出してやるのが、長く一味のために身を粉にして仕えてくれた彼に対する、せめての礼儀ではないか。
 下船の日、密かにシスの私室を訪れたラナートは、一枚のキャッシュカードをシスに押しつけた。その口座には、彼とその細君が、一生喰うに困らないだけの金が入っている。
 シスは、頑なに受け取りを拒んだ。自分の我が儘で一味に迷惑をかけるのだ。その上、こんなものを受け取る訳にはいかない、と。
 ラナートは、しかし拒むことを許さなかった。一度はお前の我が儘を聞いたのだ。ならば、今度は自分の我が儘を聞き入れてくれ、と。
 最後は、シスが折れた。涙で顔を濡らし、しゃくり上げる胸を必死に押さえながら、何度も何度も礼を言い、船を下りていった。
 その時の、おそらくは罪悪感に打ち拉がれた小さな背中を、ラナートは今でも思い出すことが出来る。

「……あの酒が、今年は届かなかったよ、ヤームル。そうか、そういうことだったのか、ならば納得だ」

 送話口の向こうの古馴染みは、何も言わなかった。何を言う必要もない。思いは同じだ。そして掟も。曰く、仲間の敵を許すな。同胞の敵を討て。それが海賊の掟だ。海賊だった者の、掟だ。

「誰が殺した」

 ラナートの声は、大きくも鋭くもなかったが、決定的なほどに冷え切っていた。先ほどの女性が今の声を聞けば、レオナールという人間とラナートという人間は、全く別個の者だと確信するだろう。

『どこの糞が殺したのかは分からん。だが、どこの糞共が殺したのかは分かっている』
「それは?」
『ヴェロニカ教の糞共だ。奴らが、シスを野良犬よりも呆気なく撃ち殺した』

 ヴェロニカ教。
 ラナートは、頭の奥に軽い疼きを覚えた。
 記憶の奥底で、あの少女が、あの坊主が、そして今は亡き父代わりのあの人が、固く乾いた棺桶を内側から食い破り、地の底から腕を突き出すのだ。死者が蘇る。悪夢が蘇る。弱かった昔の自分が、今の自分を責め立てる。

『……聞こえているか、銀星』
「……ああ、大丈夫だ、聞こえている」
『分かっているだろう、銀星。これは、俺達の罪でもある。どんな言い訳も出来ない。俺達も、あの星の呪縛から、結局逃れることは出来なかった。何を変えることも出来なかった……』
「そうだ。お前の言うとおりだ、ヤームル」
『必要があった。トリジウムを売りさばき、巨億の富を得る必要が。そうでないと、誰も救えない。だが、それはあの星の連中が、ずっと続けてきたことと同じだ。それを承知で、俺もお前も、トリジウムの密売に手を染めたんだ』

 ショウドライブの隆盛は、即ち古い時代の海賊への死刑宣言だった。
 ゲート航法の衰退に伴い、重力波エンジンは無用の長物と化し、海賊たちが秘匿していたゲートのほとんどは過去の遺物となった。
 高性能のショウドライブを積んだ警察船や軍艦は、容赦なく海賊を追い散らし、彼らの生きる術を奪った。時間と手間をかけて計画を練り上げ、実行の段には血の一滴も流さない義賊的な海賊達は姿を消し、その代わりに、彼らから畜生働きと蔑まれた凶賊達が隆盛を極めたのだ。
 凶賊は、豪華客船だろうが一般の旅客船だろうが、獲物を見つければ原始動物的に触手を伸ばし、貪欲に、残虐に、全てを略奪した。男を殺し、女を嬲り、子供を拐かし、己の快楽のために奪い尽くした。
 まるで、悪夢のような時代だった。
 一味の尊敬を一心に集めた大親分が、勤めを果たすことが出来なくなり、部下から見放され、落ちぶれ、ついには凶賊の小間使いをさせられることすらあった。海賊という言葉が凶悪で血に餓えた犯罪者の代名詞となり、過去の英雄達はテレビや小説の中以外、活躍の舞台を失った。
 ラナートは、その全てを見てきた。見たくもない現実を、知りたくもない真実を、常に見せつけられてきた。
 だからこそ、守らなければならないと思ったのだ。

『銀星。お前がしたことは間違いじゃなかったと俺は思っている。そうでなければ、寒さとひもじさに耐えかねて、一杯の暖かいスープのために人殺しをしていた海賊が、いったいどれだけいただろうな。お前は、確かに彼らを救ったんだ』

 トリジウムの密輸には人手がいる。それも、口が堅く、逃げ足が早く、絶対の信頼をおける人手が。その点、生き場所を奪われた本物の海賊達は最適の人材だった。海賊の約束は絶対だったからだ。無論、全てではない。しかし、限られた一部の中では、口約束こそが最も神聖で守られるべき契約だった。
 そういう人間を集め、ラナートはトリジウムの密貿易に手を染めた。幸い、ヴェロニカ共和国も、大海賊シェンブラックの死後、実働部隊として動いてくれる人材を求めていたから、その点では需要と供給が合致したのだ。グランド・セヴンの大看板は、こんなところでも役に立った。
 ヴェロニカ共和国で産出された違法トリジウムは、そのほとんどをエストリアへと運んだ。危険なことは何一つない。昔、連邦警察の影に怯えながら勤めを働いていた時代が馬鹿らしく思えるほど、儲かった。反吐が出るほどに儲かった。
 その金で事業を興し、職にあぶれた海賊達を養ったのだ。幸い、事業は成功を収めた。金は金を生み、事業は事業を育て、レオナール・リモン・ベルタンの名を経済界で知らぬものはないまでに発展した。経済に無知だった海賊達は、優れた社員となり、或いは独立し、新しい生き場所を見つけていった。
 しかし、そこまでだ。ラナートにとってその仕事は、生き甲斐を感じこそすれ、一度だって心を燃やしてくれるものではなかった。
 会社の経営に携わるということは、相応の責任を背負うということだ。自分の経営判断が、数百万という社員、その家族、下請け企業の生活を左右する。決して生半可な覚悟で臨んでいい仕事ではない。当然、それ以外に費やすことの出来る時間は奪われる。そう、それが例えば、愛した妻を看取るための時間であっても、愛した子供を慈しみ育てるための時間であっても。
 そしてラナートは、宇宙を捨てたのだ。遠い昔、海賊王と呼ばれた古き友人が、宇宙を捨てたのと同じように。
 
『だが、それでも俺達は禁忌を犯したんだ。あの子の死から目を逸らし、死臭の染みついたトリジウムに尻尾を振ったんだ。そのツケが、シスを殺したんだ。全ては俺達の責任だ。いや、俺達を含めて、トリジウムに魂を売った、全ての人間の』
「……何が言いたい」
『分かっているはずだ銀星。今が、おそらく、全てのツケを払うべき時だ。溜まりに溜まった膿を絞り出すときだ。今を逃せば、きっと後悔する。この連鎖は続くだろう。ずっと、誰かの命を挽き潰しながら。別に、俺の知らない誰かが犠牲になるのは構わんさ。顔も知らない誰かさんが理不尽に死んだところで、怒れるだけの感性を俺は持ち合わせちゃいないんだ。それでも、もしもあの子達が巻き込まれ、血を流すようなことがあれば、俺は俺を許すことが出来ないだろう』

 ラナートは目を閉じた。遠く、子供の遊ぶ声が聞こえる。もしかしたらそれは、窓ガラスの向こうで、連邦大学の学生達がはしゃいでいるのかも知れない。だが、その声が、草原を駆ける我が子の、父親を呼ぶ声ではなかったと、誰が言い切れるだろうか。

「……そうだな、ヤームル。お前の言うとおりだ。そんなしみったれた、糞みたいな後悔に塗れて、土の下で眠り続けるのはまっぴら御免だな」

 受話器の向こうで、ヤームルがくすりと笑ったらしい。
 昔のような伝法な口調で、

『どうせ、俺もお前も老い先短い爺じゃねぇかよ。やりたいことは全部やりきるべきだ。今の俺達が考えるべきは、どう生きるかじゃねえ。どうやって死ぬかだ。どれだけ悔いを残さないかだ。そうだろう……』

 その日、レオナール・リモン・ベルタンは、連邦大学の地表から姿を消した。入国記録はあるが、出国記録はなかった。財界の要人の失踪事件は数々の憶測を呼び、大学惑星の警察庁舎を不夜城へと変貌させた……。



『はっはぁ!こいつは凄え眺めだ!俺達をさんざ追い回しやがった軍の糞共が、あっちにもこっちにも溢れかえってやがるぜ!』

 通信画面に映し出された《デザート・フォックス》の操縦室で、『血頭』ダシール・ハメットは、餓えた猛獣が舌なめずりせんばかりの様子を隠そうともせずにそう言った。
 眼前に広がる宇宙を我が物顔に占拠する猛々しい艦艇は、共和連邦加盟国でも一、二を争う精強さを誇る、エストリア軍のものだ。それらを前にしてこうも血を沸き立てる海賊は、宇宙広しといえどこの男くらいのものだろう。
 荒事が起きればいの一番に馳せ参じ、起きなければ自分で種を撒く。それが広く知られたハメットの評判だが、実は海賊行為において一般人の血を一滴も流したことがない。

『今回の獲物はこいつらだろう、海賊王!つまり、しち面倒くさい海賊流の掟は全て省かれるわけだ!』

 その言葉を聞いて、ラナートが苦笑した。
 海賊流の掟、即ち、困窮するところから奪わず有り余っているところから奪い、殺さず、そして女を犯さない。今の海賊が聞けば鼻で笑うであろう掟を、彼らは守ってきた。それは偏に、自分達が鬼畜生ではないのだという自己正当化の一部に過ぎないのかも知れない。
 しかし、掟を破り誇りを捨てた人間を獣と呼ぶのならば、彼らは辛うじて人間の領域に片足を残していた。

「その呼称は私には相応しくない。そう、何度も申し上げたはずですよ、ハメット老」
『何ぬかぁしやがるか、若造!あの野郎は俺達と宇宙を捨てて、商売人に成り下がっちまったじゃねぇか!商売人は俺達の獲物だ、王なんかじゃねぇ!その上、あっさりとおっ死にやがってよ!ちくしょう、誰が野郎のことを海賊王なんて、口が裂けても呼んでやるもんかえ!』

 吐き捨てるようにそう言ったハメットが、あの野郎──ケリー・クーアの死んだ夜、まるで長年連れ添った恋人が死んだように悲嘆に暮れていたことを、ラナートは彼の部下から聞かされていた。
 ハメットは言った。海賊王ケリー・キングは死んだ、と。それが、世間一般のところの常識であり真実である。
 だが、事実がそれと異なることを、今のラナートは知ってしまった。今も、あの男は生きている。そして、あの頃と変わらぬ信条を持ち続けているならば、おそらくはこの戦場にいるのだろう。
 ラナートは苦笑した。もしもあの男の艦をここに集った海賊達が発見することがあるならば、一体どのような顔をするのだろうか、と。

「ハメット老。私は海賊王などと呼ばれる器ではありません。口幅ったいながら、私が海賊達のまとめ役であった時期は確かにありましたが、しかしそれはまとめ役以上の何者でもなかった。王は、人を導き人に夢を抱かせる存在でなければならない。少なくとも、この宇宙では。私にその器は無かった。それが出来るのは、この宇宙でただ一人の男だけだった。だから、私に王の呼称は相応しくないのです」
『だからどうした!戦って領土を広げるだけが王の仕事じゃねぇだろうが!身を粉にして働いて民に飯を食わせるのだって立派な王の仕事だぜ!ラナート、てめぇはやり遂げたんだよ!今ここに集まった海賊の数が、その答えだろう!』

 ハメットが指し示した宇宙には、エストリア軍と同じか、それを凌ぐほどの艦艇がひしめいている。形式も違えばサイズも不揃いで、およそ統一感のない艦艇の群れである。エストリア軍の整然たる有様とは比べようもない。
 それらは全て、半世紀ほども前、宇宙を海として駆け回り連邦軍や連邦警察を相手取って一歩も引かなかった、伝説の勇者達の駆る海賊船だ。
 もう、稼業から手を引き、堅気の生活を手に入れた者も数多い。それでも船だけはいつでも宇宙に漕ぎ出せるよう、整備を怠らなかったのだろう。どの船も、骨董品並の年式型番にも関わらず、ぴかぴかに磨き上げられている。
 彼らは、いずれもラナートに窮地を救われた海賊達だ。そして、宇宙に生き場を無くし日々の生活に困窮していたところを助けられた恩を、一瞬たりとも忘れていなかった。だからこそ、折角手に入れた日々の安息をかなぐり捨て、戦場へと立ち戻ってきたのだ。
 
『ハメットの老いぼれの言うとおりさ、ラナート。少なくとも、今はあんたが俺達の王だ。そうでなくては駄目なんだ。あんたにはその責任と自覚が必要だ。そうでなくて、どうしてエストリア軍に戦いが挑めるかよ』

 そう言ったのは、《ファイヤ・クラッカー》の艦橋で不敵な笑みを浮かべた、『花火師』の異名を持つ古参の海賊、アーウィン・ショウであった。
 仕事を終えた後、追いかけてくる宇宙警察に向けて攪乱と嫌がらせの意味で大量の花火を撒き散らしたのが異名の始まりという巫山戯た海賊だが、その実力は折り紙付きである。
 もう既に百を越えて久しいという高齢だが、重たそうな瞼の奥の視線は未だ現役時代の鋭さを失ってはいない。

『誰が老いぼれだこの怪物爺!俺が現役の時からちっとも変わらず老いぼれのあんたに、どうして老いぼれ呼ばわりされなきゃならねぇんだよ!』
『じゃあケツの青い餓鬼と呼ばれた方が満足かえ、ハメット坊や?こっちはそれなりの敬意ってやつを込めて老いぼれ呼ばわりしてやったのに、年長者の気遣いの分からないのは大昔から変わらねぇな!』

 世間一般でいえば、孫や曾孫に囲まれてのんびりと余生を送るような老人が、顔を真っ赤に染めて罵り合いをしているのだ。目前に、血で血を洗うような死闘を控えながら。
 ラナートは思わず苦笑した。人に比べれば老いの気配の薄い自分も、いずれはああなるのだ。何とも楽しみなことではないか。
 
『やれやれ、先輩方、あまりはしゃぎすぎると緊張と不安の裏返しにしか見えませんよ。まぁ、血気盛んなご様子はまことに結構なのですが、どうか戦闘の前に口げんかで息切れを起こされませんように。前方の敵を恐れはしませんが、後方の傷病人は恐るべきものですので……』

 溜息混じりにそう呟いたのは、《フライング・ダッチマン》の船長である。
 《フライング・ダッチマン》といえば、広大な縄張りの中で神出鬼没を誇り、旗下の艦艇を一度だって連邦警察に捕縛されたことがないという、『亡霊師団』の長、エドワード・ドミトリクの旗艦である。
 しかし、今、偉大なる先輩に不敬の呟きを寄越したのは、まだ少壮の年かさにも達しない、若木のような青年だった。
 サミュエル・ドミトリクが彼の名であり、エドワード・ドミトリクは彼の祖父である。
 知的で怜悧な容貌の青年である。海賊に世襲などという生やさしいシステムが存在しない以上、祖父の作り上げた組織をそっくりそのまま引き継いだこの青年の手腕がどれほど非凡か、ラナートは承知していた。
 それでも、ラナート以外の年長者にとっては、どれほど非凡であろうとも殻の取れない雛鳥程度の若造であることに違いはないのだ。

『しゃらくせえ口を叩くんじゃねえ、この青二才!』
『誰が緊張してんだべらんめぇ!こちとら、てめぇの親父が爺ちゃんのきんたまにいた頃から海賊をやってんだ!この程度の修羅場、掃いて捨てるくらいに乗り越えてらぁ!』

 先ほどまで啀み合っていた二人の息を合わせた集中砲火に、しかしサミュエル・ドミトリクは呆れ顔で首を横に振るだけであった。
 その余裕たっぷりの様子が癪に障ったのだろう、こめかみに血管を浮かせて二の矢を継ごうとした二人だったが、

『やめときな、二人とも。そういうふうに安い挑発に乗るようだから、あんたらの言う青二才に舐められるのさ。それにほら、ラナートが困ってるよ』

 妖艶な微笑みを浮かべた妙齢の女性が、扇情的な装束に身を包み、煙管片手に紫煙をくゆらせている。
 ようやく脂の乗りきった、今が盛りの女海賊といった風情のその女性が、『血頭』や『花火師』と時を同じくして活躍した大海賊、『毒花』バーバラ・ベル・ゲデスだなどと、一体誰が信じるだろうか。
 
『女は黙ってろ!』
『ったく、気色悪ぃったらありゃしねぇ!いつまでその姿でいるつもりだ!冷凍睡眠までして若さを維持してぇのか、この妖怪婆!』

 老海賊は二人して罵詈雑言を口にしたが、バーバラは余裕綽々の笑みを浮かべ、

『ふふん、昔馴染みの前だからって強気だねぇ二人とも。でも、そんな口を利いていいのかい?あたしは何でも知ってるよ。あんたらの生まれも育ちも嫁さんのことも子供さんのことも、そして下の事情だってね。それをあんたの可愛い可愛い部下の前でぶちまけてやろうかねぇ?』
『うぐっ!』
『て、てめぇ、卑怯だぞ!』

 まるで魔女が呪文を唱えるように、二人の老海賊は黙り込んでしまった。
 大いに勝ち誇りながら豊かな胸を反らせたバーバラに、

『助かりましたよ、ミス。しかし、あなたは本当にいつまで経ってもお変わりない。そろそろ諦めて老いを受け入れては如何ですか?まさかジンジャー・ブレッドを目指しているわけでもありますまいに』
『ふん、サミュエル坊やも口が達者になったもんだ。嬉しいねぇ、目が覚める度によちよち歩きの赤ん坊が見目麗しい青年になっているのは。あたしにしてみりゃほんの昨日は、バーバラお姉さんと結婚するんだ、お嫁にするんだって泣き喚いてたくせに』
『……私にすれば、もう二十年も前の話です。そんな昔の話、忘れましたよ』
『どうだか。男って生き物は、初恋の女性のことをいつまでも覚えているっていうじゃないか。どうだいサミュエル坊や。まだ女の匂いを知らないなら、あたしが教えてやろうかえ?』

 今度は青年海賊の方も黙り込んでしまったのだ。
 一人勝ち残った女海賊が、最後にラナートに視線を遣り、

『さぁ、小うるさい爺さんや若造は黙らせたよ。あとはあんたの仕事さ。あんたが王だろうが王じゃなかろうが、そんなことはどっちだっていい。でもさ、今のあたしらの頭目は、間違いなくあんたなんだ。なら、お勤めの前にするべき仕事ってやつがあるんじゃないのかい?』

 まったくもって反論の余地の無い、それは正論だった。
 
「すまないバーバラ。いつも、お前には迷惑ばかりをかける……」
『いいさ、馬鹿な男ほど可愛いもんだから。それに、惚れた男に命をかけるのは、いつの時代だって一番の女冥利なんだ。その代わり、あんたの死に水をあたしに取らせておくれよ。そのためだけに、手間暇掛けて若作りをこさえているんだからね』
「ああ、分かっている。だが、もう少しだけ待ってくれ。情けないと笑ってくれても結構だが、まだこの世に未練があるんだ」

 かつて恋人だった女海賊に、ラナートは精一杯の微笑みを送った。彼にとっての妻という存在が、ただ一人の女性の占める位置であるならば、他の女性に贈るべきこれ以上の品をラナートは持っていなかった。
 それを理解していたのだろう、バーバラも、少し寂しげに微笑んだ。
 さて、旧交を暖める時は終わった。これからは、戦う時だ。
 ラナートは表情をあらため、烈しい視線をスクリーンに遣り、通信を全艦隊に向けて開く。

「みんな、聞いてくれ。俺はラナート。『銀星』ラナートだ。俺の名を直接知っている者もいるだろう。親父やお袋から聞かされた者もいるだろう。だが、俺の名を知らず、恩を受けたこともないという奴がもしもこの場にいるのならば、すぐにこの宙域から離脱してくれ。俺は、命を賭けて戦うお前に、報いてやれる何物も持ち合わせてはいないからだ」

 通信機の向こう側の静謐な空気を、ラナートはひしひしと感じていた。己の率いる全ての海賊達が、己の言葉に全神経を集中させているのだ。
 
「それでも、もしも、俺への恩義を忘れない頑固者で、俺のために戦ってくれる愚か者がいるならば、聞いてくれ。今から俺達が挑む戦いは、俺やお前達の過去の清算だ。人の世の裏側で、薄汚い仕事をして糊口を凌いできた俺達が、最後に出来る罪滅ぼしだ。つまり、この仕事はどこまでも後ろ向きな仕事さ。やり遂げたところで誰も褒めてはくれん。むしろ、後ろ指をさされかねない仕事だ」

 我ながら阿呆なことを言っていると、ラナートは自覚していた。こういう時は、例え嘘であっても、聖戦やら敵討ちやらの甘く刺激のある言葉を使い、戦意を鼓舞してやるものなのだ。
 それを、馬鹿正直に、こんなことを言っている。もしも自分が副官ならば、首領の尻を蹴っ飛ばしているだろう。
 だが、嘘は吐きたくなかった。何の損得もなく、ただ自分に従ってくれる古強者達を、嘘で騙して死地に送りたくはなかったのである。

「誰かがやらなければならない仕事なんだ。もしもここで俺達が目を瞑り耳を塞げば、何億という人が死ぬ。これからも死に続ける。過去から誰かが背負い続けてきた厄介な荷物に、決着をつける時なんだ。そのために俺は命を賭けたい。だから、お前達も命を賭けてくれ。お前達の命を、俺に預けて欲しい」

 ラナートは目前に広がる宇宙空間に目を向けた。そこは、エストリア軍がヴェロニカ軍を一方的に屠る、殺戮の場と化している。
 その中に、きっとあの男はいる。何故なら、あの男はヴェロニカ共和国と深く関わってしまったからだ。そして、あの男はどこまでもお人好しで物好きで酔狂で、この自分が惚れた男だからだ。
 誰よりも、海賊王の二つ名に相応しい、あの男。
 何度となく助けられた。あの撮影会だけで返しきれる恩だったとは思っていない。ならば、この戦いは、ラナートの今生の精算と言ってもいい。
 十分に、命を賭ける価値のある戦いではないか。ラナートはコンソールを操作し、用意していた通信文を《パラス・アテナ》のセキュリティコードに向けて送信して、一人微笑んだ。

 ──少し気障な内容だったが、さて、顔を合わせた時に何て言われるかな……。

 そして通信機を握りしめ、肺腑の限りに叫ぶ。

「行くぞ!獲物は、あそこでふんぞり返ったエストリア軍人どもの、丸々と肥えた自尊心だ!」

 百戦錬磨の海賊に、細かな指示はかえって害悪である。どうせお行儀良く戦っても、行儀の良さで軍人に勝てるはずなどないのだから。
 軍人には軍人の戦い方があり、緻密な作戦が必要なのだろう。そして海賊には海賊の戦い方があり、そのためにはたった一言の指示で良い。

「食らいつけ!徹底的に叩きのめして粉々に磨り潰せ!誰が狩人で誰が獲物かを思い知らせてやれ!この宇宙が誰のものだったか、不遜な軍服連中に思い出させてやれ!」

 無数の雄叫びが、通信機の向こう側から響き渡った。



[6349] 第九十一話:王の帰還
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:4a732577
Date: 2013/01/26 20:56
 エストリア軍にとってそれは油断ではなく、青天の霹靂と呼ぶべき一撃だった。
 エストリアとヴェロニカ共和国は同盟国であり、その戦力は正確に把握している。例え隠し球が用意されているにしても、既存の兵力と国力や経済力から予測すれば大きな誤差は無く計算できるものなのだ。
 そして割り出された予測最大兵数とほぼ同数の兵力を、ヴェロニカ軍は一気に活用し、この戦場に臨んできた。その決断は賞賛されるべきものであったが、逆に伏兵が存在し得ないことをエストリア軍は察知した。
 エストリア軍の想定は事実そのものであった。ヴェロニカ軍は、この地で敗北すれば後がない、正しく背水の陣で戦いを挑んだのだ。逆に、それだけの兵数を用意せず遊兵でも作ろうものならば、最初の交戦でヴェロニカ軍は粉砕されていただろう。
 ここまで互角の戦いを演じることが出来たこと自体、奇跡以外の何物でもないのだから。
 つまり、伏兵などあるはずがない。あって良いはずがないのである。

「何故だ!何故、そこに伏兵がいる!?」

 エストリア軍司令部の悲鳴がこだまする間も、レーザー砲とミサイルの群れは無数の流星となって、エストリア軍の無防備な横っ腹を直撃し続けた。ヴェロニカ軍に全砲門を向けたエストリア艦艇は、横合いから突撃してくる海賊艦隊に対して全く無力だった。
 猛烈な攻撃を加えつつ、自分達をも弾丸に変えたかのように突進してくる艦艇群の様子に、ようやくエストリア軍も異常を察知した。

「何だ、こいつらは!?ヴェロニカ軍じゃないぞ!」
「所属を名乗り直ちに動力を止めて停船しろ!こちらはエストリア軍第十三艦隊だぞ……うわぁ!」

 エストリア軍の発する命令など、今更海賊達の足を止められるはずがない。むしろ、停戦命令を出す艦艇を優先的に狙ったのは、彼ら一流の嫌がらせであった。

「けっ、何を寝言ほざいてやがる!てめぇらの憎い面を、誰が見間違えてたまるかってんだ!」
「お前らにぶっ殺された仲間の仇討ちだ!今日は腹一杯にミサイルを喰らわせてやるから覚悟しとけ!」

 海賊達はそう嘲り、闇市場で買い揃えた型後れのミサイルを斉射する。
 ミサイルの群れは、ようやくのろのろと回頭運動を始めたエストリア軍に直撃し、多数の艦艇を宇宙に咲く花火へと変じさせた。

「おうおう、威勢がいいねぇ!こうじゃなくちゃいけねぇ!戦は男の花道だぜ!精々ど派手に飾り付けなくちゃなぁ!」

 嬉しげに叫んだのは『花火師』アーウィン・ショウである。百戦錬磨の老海賊は、旗下の艦艇を巧みに指揮し、ミサイルの弾雨を降らせるのと平行して、接近戦用の戦闘機の出撃準備を整えていた。

「一番槍を大将に任せるなんざ、海賊の名折れだ!野郎ども、俺に恥をかかせるんじゃねぇぞ!」
「言うまでもねぇことよ、親方!」
「『銀星』の旦那のためだ!この老いさらばえた命の一つや二つ、惜しくもねぇや!」

 そう応じたのも、彼と同じ歳の頃の老人ばかりだった。しかし中には、壮年の男も、青年と呼ぶべき若者もいる。彼らに共通するのは、皆、ショウの掲げる旗のもとで宇宙を駆けた荒くれ者かその子供であり、ラナートに深い恩義を持つ者ばかりということだ。
 もしもラナートの援助が無ければ、今頃自分達は路地裏でゴミ箱を漁り誰かの食い残しで腹を満たしていたであろうことを、全員が知っていた。それとも、もっと卑劣な犯罪に手を染め、人の倫から外れていたであろうことを。
 だからこそ、ラナートの片腕と言われた男──『猟犬』ヤームルに助けを乞われたとき、一も二もなく駆けつけることを約したのだ。

「ショウの老いぼれにでかい面をさせるんじゃねぇぞ!こちとら、この宇宙で一番荒事が好きな海賊『血頭』一家だぜ!ここで臆病風に吹かれるような奴は男じゃねぇ!股ぐらの逸物をきれいさっぱり切り落として、この艦から放り出してやるから覚悟しろ!」

 ダシール・ハメットが両の瞳を爛々と輝かせ、唾を飛ばしながら陣頭指揮を振るう。
 彼の指揮下にいるのも、やはりショウの一味とほとんど同じような身の上の人間ばかりである。誰しもが生きるために船を下り、そしてラナートに救われた。

「老人に先を越されるぞ!先祖の受けた恩を受けたままにしておくな!新しい世代の海賊の戦い方を、古い世代に見せつけてやれ!」

 今代の『亡霊師団』長、サミュエル・ドミトリクが《フライング・ダッチマン》の船長席で熱を込めて叫んだ。先ほど、二人の老海賊と渡り合っていた時の冷静さは欠片も無い。そも、冷静で合理的で損得の計算の利く人間ならば、一文の得にもならない戦いに身を投じるはずがないのだ。
 彼の祖父であり、初代の『 亡霊師団』長でもあるエドワード・ドミトリクは、ショウドライブが開発され世に流布した直後、配下の裏切りにあい、失意の中で殺された。同時に父も殺され天涯孤独となった幼いサミュエルだったが、初代と親交の厚かったラナートの援助のもとで逞しく成長し、ついには憎き敵を見事に討ち果たし、己の力でもって祖父の形見でもある《フライング・ダッチマン》を取り戻したのだ。

「少しはいいところを見せなよお前ら!あたしが熱くなるような戦いを見せておくれ!」

 『毒花』バーバラ・ベル・ゲデスは、配下を守るため下衆な三下海賊に力尽くで嬲られそうになり、寸でのところでラナートに助け出された。それ以来、冷凍睡眠を何度も繰り返し、美しい姿を保ったまま、目覚める度にラナートへと求婚をしている。一度も報われたことはないが、ラナートの臨終の際の枕席は誰にも譲らないと息巻いている。
 彼ら以外にも、名の知れた海賊船が数え切れないほどに集結している。
 『韋駄天』フレディ・アフォラビ、『朱の狼』オラ・ノーウッド、『鉄槌』マノロ・ディアス、『隻腕の獅子』リュー・エスコバル、『病風』フェルナンド・エクバーグ・レイドルフ、『戦鬼』エドウィン・チャーフィー……。いずれもがグランド・セヴンに次ぐ畏怖と尊敬を集めた、本物の海賊達である。
 元々、海賊には横の繋がりが薄い。当然である。彼らは同じ獲物を狙うハンターであり、時には共食いもしてきた仲なのだ。極々例外の一部を除けば、常に険悪であり牽制し合ってきた。
 その海賊達が、今、ラナートの指揮のもとで一つになり、放たれた矢が的に突き刺さるが如く、エストリア宇宙軍第十三艦隊に一斉突撃を仕掛けたのだ。
 まるで死を恐れていないかのような突撃に、エストリア軍は浮き足だった。反撃のための戦闘機を発進させるタイミングが僅かばかり遅れた。

「遅ぇぞ、このでか物め!」

 そう嬉しげに呟いたのは、いち早く《シルヴァー・スター》から発進し、慌てて戦闘機を発進させようとする宇宙空母を長距離ビーム砲の射程に捕らえた、ラナート海賊団突撃隊長『かぶきもの』ブルットである。
 ヴェロニカ・シティの酒場から半死半生の態で逃げ出し、隠れ家に身を潜めていたところを、ヤームルに誘い出されたのだ。
 自分やウォル達を痛めつけてくれたヴェロニカ軍のために戦うというのは何とも業腹であったが、逆に痛快と言えなくもない。取り締まりの対象である海賊達に、自分達が助けられたのだと知ったとき、奴らはどんな顔しやがるか。ブルットは堪えきれない笑みを浮かべた。

「恨みはねぇが、義理のためだ!大人しく成仏しやがれ!」

 ブルットの駆るM7シェイクス4Sの砲塔が極彩色の光線を吐き出した。光線は、宇宙空母の開かれた胎内に深く突き刺さり、発進を心待ちにしていた戦闘機共々、巨大な船体を極小の塵と変えた。
 
「ぃようし!どうだ、見たかよヤームル!俺っちの腕もまだまだ鈍ってねぇだろうが!」

 ジョッキ樽のような二の腕をぱしんと叩き、だぶついた腹を揺すらせながらブルットは哄笑したが、

『馬鹿を言うな。まだまだ敵さんの方が数は多いんだ。ほら、続々と獲物が押し寄せてくるぞ。油断するなよ『かぶきもの』』
「けっ、人使いの荒い爺だ!俺の店で小間使いしてやったときの意趣返しじゃねぇだろうな!」
『あの時はお前が店長だったが、今は俺が副頭目さ。悔しかったら生き延びて俺を殴りに来るんだな。出血大サービスで、一発だけなら黙って殴られてやる』
「なんだよ辛気くせぇ!敵機一機について一発だ!お前の澄ました顔を前衛芸術の彫刻作品みたいにしてやるから覚悟しとけ!」
『ああ、存分に期待してるよ。──だから、絶対に死ぬな、ブルット。お前には細君もいるんだからな』

 ブルットはヘルメットの中で獰猛な笑みを浮かべ、通信機のスイッチを切った。

「戦場に女を持ち込むなよヤームル。そいつはマナー違反ってもんだ」

 眼前に、編隊を組んだエストリア宇宙軍の戦闘機が群れとなって押し寄せる。先ほどのように、発進前の空母を沈めるような幸運は、これから先は期待出来ないらしい。

「ちっ、忙しねぇ奴らだ。さっきの連中と同じように、空母の腹ん中でお寝んねしてりゃ、あっという間にあの世に送り届けてやるのによ。あーあ、めんどくせぇったらねぇぜ!」

 ブルットの後方から、ラナート海賊団の戦闘機が駆けつけ、たちまちに戦闘態勢を整える。そのいずれもが、古き懐かしき日、宇宙を共に駆けた同僚だ。

「行くぞ糞ったれども!俺はヤームルとは違うぜ!死ぬな、なんてしみったれたことは言わねぇ!ここで死んで最後の一花、見事に咲かせてみせようじゃねぇか!」



 海賊連合軍の出現に仰天したのはエストリア軍だけではない。むしろ、突然現れた正体不明の艦隊に危急を救われたヴェロニカ軍こそ、我が目を疑う思いだったに違いない。

「参謀長、何が起きている!?」

 ヴォダルスの言葉に、エクベルトは首を横に振って答えた。

「分かりません、閣下、少なくともあれらは我が軍ではない。しかし……しかし 私には、彼らの船に見覚えがあるのです……」
「見覚えだと!?」
「あの一団を先導する、銀色の船……。あれは、まさか、グランド・セヴンの一角、『銀星』ラナートの《シルヴァー・スター》ではありませんか……?」

 信頼すべき参謀長の言葉を、ヴォダルスは初めて疑った。
 ヴェロニカ共和国のような辺境宙域に、中央銀河を荒らし回っていたグランド・セヴンが姿を現したことなど一度もない。
 しかし第一級の国際手配犯であった銀星ラナートの顔と旗艦は、それが例え半世紀近くも昔の記憶だったとしても、およそ軍と警察で禄を食む全ての人間にとって忘れ得るものではない。彼らを縄に捕らえること、もしくは宇宙の藻屑に変えることは、あの時代を生きた全ての軍人の夢であり野望であったのだから。
 そして、今、スクリーンの向こう側で宙を疾駆する船体は、ヴォダルスの大脳新皮質の最深部を刺激し、ある種のロマンとともにその記憶を沸き立たせた。
 細部こそ異なるものの、それは紛れもなく《シルヴァー・スター》だ。見間違いなどしてたまるものか。
 いつか捕まえてやる。いつか撃沈してやる。過去の自分が闘志を沸き立たせた対象であり、ついに出会うことの出来なかった空想の中の好敵手。
 銀星ラナートが、半世紀の時を越えて、自分達の眼前にいる。ヴォダルスは、自分でも理解出来ない感動に、声を打ち振るわせた。
 
「おお……なんということだ……神よ……」
「それだけではありません、閣下!《シルヴァー・スター》に追従する船をご覧ください!『花火師』アーウィン・ショウ の《ファイヤ・クラッカー》、『毒花』バーバラ・ベル・ゲデスの《ベラドンナ》、『血頭』ダシール・ハメットの《デザート・フォックス》、『亡霊師団』エドワード・ドミトリクの《フライング・ダッチマン》……いずれもが第一級から準一級の国際手配海賊団の旗艦ばかりです!」
「……つまり、あれは海賊の集まりだということか?」
「はい、おそらくは。それ以外、考えられません……」
「……半世紀も昔に行方知れずとなった海賊達が、我々を助けるために大挙して駆けつけてくれたと、そういうことだな?」
「……目の前の現象をそのままのかたちで受け取るならば、それ以外に理解のしようがありません」

 束の間の呆然とした時が過ぎると、ヴォダルスは、単一の強烈な衝動を抑え込むのに苦労した。
 どうしても吊り上がってくる口の端を何とか厳めしく曲げたまま、歓喜の雄叫びを上げそうになる喉を必死に自省して荘厳な声を出す。
 
「ぼやぼやするなヴェロニカ軍人諸兄!今、ヴェロニカ共和国とは縁もゆかりもない海賊達が、我々のために戦ってくれているのだ!あの勇者達を、一兵たりとも無駄死にさせてはならん!」

 ケリー達が孤軍奮闘する間に苦心して作り上げた円錐陣の鋭鋒を、エストリア軍の中央に向ける。
 先ほどまで、これは生き残るための戦いだった。しかし今は、勝つための戦いに変じた。

「全軍突撃!侵略者共をこの国から叩き出せ!」

 死に体だったヴェロニカ軍が息を吹き返した。戦意に満ちた視線を、遙か彼方のエストリア軍に向ける。病み疲れた老鹿のようだった彼らは、いつの間にか群れを守る若い狼に変じていた。
 雄叫びが、全てのヴェロニカ艦艇を満たした。



「まったく、ひでぇ冗談だ」

 相変わらずのケリーの口癖を、通信機越しにジャスミンが咎めた。

『馬鹿を言うな海賊。これはな、素敵な冗談と言うんだ。物事は正確に言い表さないといけないぞ』

 堅苦しい程に真面目な声の我が妻に、ケリーは苦笑をもって応じた。

「そうだな女王、あんたの言うとおりだ。こいつは素敵な冗談だ。どいつもこいつも、今の今までどこで隠れてやがったのか。みんなみんな、もうおっ死んじまったと思ってたのによ……。花火師の爺さんも、血頭のおっさんも、毒花の小娘も……」

 この時ケリーの胸に沸き上がった感情を、一体何と言い表すことが出来ただろうか。
 遠い昔、自分を縛り付ける何物も、この宇宙には存在しないのだと信じられた年の頃。たった一人の相棒さえいれば、どこまでも飛べると思っていた。この宇宙の果てをこの目で見られるのだと確信していた。
 自分と愛機以外、何もいらない。むしろ、それ以外の存在は、自分の魂を縛り付ける不純物だと撥ね付けていた気がする。
 そんな時代に、しかし自分の心を安らげてくれる者達が、不思議とケリーを気に掛けて彼の周囲に集まった。
 大海賊シェンブラック、グランド・セヴンの名を冠する勇者達、その他にも名の知れた海賊達。彼らと知り合い、親交を重ねて、一度だって不快な思いをしたことがないのはどういうわけか。
 無論、ずっとべったり仲良し小良しだったわけではない。仕事の上で、あるいは他に譲れないものがあって、対立し、仇し、相食んだことは数え切れない。むしろ、一度も敵味方にならなかった海賊の方が珍しいほどだ。ケリーがその手にかけた海賊も数え切れないだけ存在する。
 それでも、ふと彼らのことを思い起こしたとき、胸中のどこにも憎々しさはなく、ただ清々しさと懐かしさ、そして僅かな寂寥感が込み上げてきたのはどうしてだろう。
 その答えをケリーは知っている。しかし、永遠に彼の口がその答えを喋ることはないに違いない。何故かと問われれば、きっと皮肉げに頬を歪ませ質問者を嘲るだけだろう。
 
「海賊王、か。なるほど、あのおっさんの言ってたことはあながち間違いじゃない。俺なんかより、今のお前の方が何倍もその呼び名に相応しいんだな」

 ケリーは、暗黒のキャンパスを疾駆する銀色の船影を眺めながら、ふ、と呟いた。
 果たして今の自分に、これだけの海賊達を死地に駆り立てるだけの覚悟があるだろうか。そして、彼らを惹き付ける偶像性を持ち合わせているか。

 ──まぁ、ないわな。

 内心で、ケリーはあっさりと認めた。元から、他人に頂いた呼び名である。そんな恥ずかしい称号を自分から名乗ったことなど一度もない。むしろ、いつだって脱ぎ捨てる機会を狙っていたと言ってもいい。
 あれだけの勇者達を従えるために、ラナートがこれまで、どれだけの労苦を背負い込んできたか、ケリーには手に取るように分かった。ケリーとラナートは、一匹狼と一家の頭目という立場こそ違えど、その本質として相通ずるものが非常に多かった。つまり、二人とも、根っからの船乗りであり、心の底から宇宙を愛しているのだ。
 ケリーにとってのクーアカンパニーの総裁業務がそうであったように、ラナートが海賊達を率いることも、きっと彼の本質からは外れた仕事であり、義務だったに違いない。それを、ケリーのいなくなった宇宙で、ラナートは淡々とこなしていたのだろう。
 重たい王冠を被るのがあの野郎なら、悪くはない気持ちだ。戦火の只中にあるはずのケリーの心中が、穏やかなものに満たされていた。
 
『どうかしたか、海賊?』
「いんや、何でもないさ。ただの独り言だ」
『戦場でこうも嬉しげな独り言とは、まるで恋する乙女だな。どうやら目の前の大事を忘れてしまったらしい』

 くすくすジャスミンが笑うと、

「そういうあんただって嬉しそうじゃないか。大昔、あいつの船に逃げ込んで、しち面倒な会見やらパーティやらを俺一人に押しつけてバカンスを楽しみやがったこと、俺は忘れちゃいないんだぜ?」
『おいおい、可愛い妻が犯した一夜の過ちに目を潰れないなんて、お前はそれほど狭量な夫だったか?』
「一夜?俺があんたの代役で目を回してたのは、たっぷり四日の間だったと思うが、俺の記憶違いかい?」

 我が妻が他の男に抱かれたことよりも、その妻の代役を演じなければならなかったことに恨み言を口にするあたり、ケリーの感性もどこかずれている。
 その男の妻は、嬉しげに返して、

『一夜だろうが四夜だろうが、誤差の範囲内さ。何せ、お前と一緒のベッドで過ごした時間は、もっと遙かに長いんだから。それにわたしは、お前と以外の子供をまだ産んでいないんだぞ』
「なるほど、一理ある話だが、まだってどういうこったまだって。何か予定でもあるのか?」
『お前があんまりにも情けない様子ばかりだと、本格的に他の男に靡くこともあるかも知れんということさ。何せ、今のわたしに時限爆弾はセットされていないんだぞ?じっくり時間をかけて雄を選ぶ権利があるということにならないか?』

 ケリーは心地よく微笑みながら首肯した。

「舐められっぱなしは、性に合わねぇよな、お互いよ」
『ああ。敗者に手を差し伸べるのが勝者の権利なら、勝者の手をはね除けて逆転カウンターパンチをくれてやるのが敗者の気概さ。あちらは好意でやったことだろうが、こちらが気に食わないんだ。やるべきことをやってしまおう』

 怪獣夫婦が、スクリーン越しに危険な笑みを見交わした。
 その時、もう一人の姿がスクリーンの端に映し出された。《パラス・アテナ》の化身、『クレイジー』ダイアンである。

『さてお二人さん、いちゃいちゃするもいいけれど、そろそろわたしも我慢の限界よ。逃げるなら逃げる、戦うなら戦う、はっきり決めて頂戴。でも、もしも逃げるなら、あなた達を放り出してわたしだけで戦うんだけどね』
「ひでぇなダイアン、それじゃあ事実上選択肢は残されてないじゃねえか」
『ふふん、あなた達のお熱い時間を優しく見守って上げただけでも感謝なさい。機械のわたしでも、他人のラブシーンは見ていて楽しいものじゃないんだから』

 《クインビー》の操縦席でヘルメットを被り直したジャスミンが頷いた。

『まったくだ。そして、このまま放っておけば今度はわたし以外の二人のじゃれ合いを見せつけられることになりそうだから、さっさと決断するとしよう』

 ケリーは一度くすりと笑い、それから表情を引き締めて眼前の宇宙を睨み付ける。

「ダイアン。あの降伏勧告を寄越した艦がどれか、もう目星はついているんだろうな」
『もちろんよ。拡大するわね。ほら、あの艦よ』

 スクリーンに映し出されたエストリア軍の艦艇群のほぼ中央に、一際大型で厳めしい戦艦が鎮座していた。
 正しく、エストリア艦隊の旗艦といった風情の、重厚な装い。

『なるほど、あれがターゲットだな』

 舌なめずりせん有様でジャスミンが呟き、指の関節をぽきりと鳴らす。
 お気の毒様、と心中で呟き、ケリーは操縦桿を握りしめた。

「挨拶には挨拶を返すのが礼儀ってもんさ。ただし、何から何までを叩き返してやる。それでこそ、相手に無礼がないってもんだからな」
『まるで子供の喧嘩遊びだ』
「あんたがそれを言うかよ、女王」
『知らなかったか海賊。わたしはこういうのが大好きなんだ』
「知ってるよ。これでもあんたとは付き合いが長い方だ」

 《パラス・アテナ》の周囲は、しっちゃかめっちゃかの大混戦となっている。エストリア軍、ヴェロニカ軍、そして海賊連合軍が入り乱れ、噛み合い、既に収拾のつかない状態だ。
 海賊連合軍にしてみればお得意の土俵に敵を引きずり込んだかたちであり、正しく望むところに違いない。ヴェロニカ軍にしても、絶体絶命の危地からここまで失地回復したのであればまずはよし。
 狼狽激しいのはエストリア軍である。数々の機略をねじ伏せ、別働隊を用いてまで手に入れたはずの勝利が、予想外の闖入者の出現によって掌から零れ落ち、大渦のような泥仕合に巻き込まれてしまったのだ。
 勝ち戦を確信し、勝利の美酒を舐めてしまったエストリア軍にとって、敗北と死の気配は限りない恐怖となって判断を鈍らせる。死兵と化した海賊ヴェロニカ連合軍の両者を相手取って戦線を維持していること自体、むしろ非凡と言わなければなるまい。
 その指示を下しているのは、間違いない、自分達に降伏勧告を寄越したあの男だろう。

「行くぜダイアン!」
『了解よケリー!』

 二人の呼吸が磁石のようにぴたりと重なり、《パラス・アテナ》は息を吹き返した。
 《パラス・アテナ》を包囲していた艦も、急変した周囲の状況に反応が遅れた。その一瞬の隙を、《クインビー》とTYPHON零型は見逃さず、乱舞する20センチ砲が艦の多くに風穴を開けた。
 爆発四散する艦の残骸に紛れて、猛スピードで《パラス・アテナ》と《クインビー》、そして数機にまで数を減らしたTYPHON零型が飛び出す。その速度にエストリア軍は誰一人反応出来ず、ビームは宙を空しく奔り、ミサイルは追尾すべき敵を見失って自爆した。

「おのれ、奴らを逃せばエストリア軍の恥だぞ!」

 ケリー達の追撃を企図したエストリア艦艇が急発進を試みたが、その艦橋部分に巨大なエネルギーナイフが突き刺さり、艦長を含めた主立った乗員を瞬時に蒸発させた。
 マルゴの駆るTYPHON零型は、一瞬動作を停止させたその艦に、無慈悲なビーム砲を叩き込むと、ケリー達に背を向け、彼らを追う敵に胸を晒し、

「ここは、わたしたちヴェロニカ特殊軍が通さないわ!あなた達はここで指を咥えて見ていなさいな!」

 既に数機にまで数を減らし、編隊と呼べない規模の陣形を組んだ鋼鉄の騎士達。
 傷だらけのTYPHON零型が咆えた。

『遅れるなよ海賊!』
「誰に言っている女王!」

 眼前に立ちはだかる敵を、躱し、いなし、あるいは粉砕し、その一団は進軍した。
 その速度に反応出来なかったエストリア軍艦は、むしろ幸運であった。彼らは呆気にとられた顔で、自分達のすぐ横を通り過ぎた敵影を見送るしか出来なかったのだから。
 不幸だったのは、《パラス・アテナ》達の前に立ちはだかり、その進路を妨害した者達だ。彼らの放ったビーム砲やミサイルは、まるで幻影を照準に捕らえたかのように悉く外れ、しかし《パラス・アテナ》や《クインビー》の砲撃は、彼らの急所に悉く命中し、乗員を道連れにして爆散させるのだ。
 
「やつらの狙いは旗艦だぞ!」
「止めろ!これ以上好き放題を許すな!」

 勇猛なエストリア兵はこの不遜な敵の足を止めるべく転進を試みたが、すぐ前にいる海賊船やヴェロニカ軍艦の猛攻をかいくぐりつつそれを成功させるのは難事そのものであった。
 というよりも、古株海賊一流の命知らずな操縦技術を用いた戦闘機戦に、最新鋭の感応頭脳により制御された行儀よろしいエストリア戦闘機がついていけない。機体の性能は圧倒的に勝っているはずなのに、どうしても戦術的優位を確保することが出来ないのだ。
 そのような状態で、神速の進軍を続ける《パラス・アテナ》の妨害など、誰も出来ようはずがない。ただ、幸運にも──あるいは幸運を司る女神に見放されて──彼らの進路に位置していた艦だけが、散発的な抵抗を試み、破壊されていくのみだ。
 エストリア軍にとって、《パラス・アテナ》は再び死の壁となった。前進を阻もうとする艦の悉くは、死の壁にぶつかり、為す術もなく不吉な光球と化しその生涯を終えた。
 そして《パラス・アテナ》は、まるで無人の野を走る狼のように、あるいは天空を駆ける彗星のように、敵の旗艦へと一直線に駆け抜けた。

「お、おいあれを見ろ、血頭の!」

 戦いの渦中にあった『花火師』アーウィン・ショウが、その船を指さしながら瞠目した。

「なんだ、こっちは忙しいんだ!」
「ばかやろう、んなこたぁ百も承知だ!それでも見ろって言ってるんだ!」

 『血頭』ダシール・ハメットは、《デザート・フォックス》の艦橋で、その光景を見て絶句した。
 
「あれは……。おい、花火師の、おいらはいつ、地獄の門を潜ったんだ?見えちゃいけねぇもんが見えるんだが……」
「ああ、俺の目にも見えるのさ。だがな血頭の、残念だが俺たちゃまだくたばっちゃいねぇみたいだぞ。あれは、うつしよの光景さ。これが夢じゃなけりゃあな」
「夢さ。こいつは夢だ。夢でなけりゃぁ、畜生、くそったれな神様も粋なことをしやがるじゃねぇかよ」

 声を打ち振るわせ瞳をしょぼしょぼと潤ませたハメットの眼前を、光よりも速く駆け抜ける一隻の艦艇。

「誰かが、クレイジー・ダイアンを口説き落としやがったのか?」
「あのじゃじゃ馬を手懐けられる命知らずが、あの野郎以外にいてたまるもんか!」
 
 ハメットの呟きを、ショウが全力で否定した。
 そして、同じ光景を、全ての海賊が目撃した。

「あれは……!」
「おい、冗談だろう?」
「馬鹿な!確認しろ!そんなことがあるはずがない!」

 錯綜する情報と思惑の中、『毒花』バーバラ・ベル・ゲデスは一人、妖艶に微笑む。

「ったく、男共はやっぱり阿呆だねぇ。自分の目で見たものがこの世の全てなのにさ。あの船がいて、あの船が戦っているなら、あの男が乗っているってことじゃないか。それ以外にどう理解出来るんだい」

 『亡霊師団』サミュエル・ドミトリクは、一度だって見たことがない、しかし祖父から何度も昔語に聞かされ、記憶に刻み込まれたその姿と名前を必死に思い出そうとしていた。

「《セクメト》……《ユグドラシル》……《パールヴァティー》……違う、全て過去の船名だ。確か、最後につけられたのが……」

 そしてその姿を、《シルヴァー・スター》の艦橋のメインスクリーンで、ラナートは確かに見た。
 もう、半世紀も前に刻まれた鮮烈な記憶が蘇る。それは、宇宙を司る神に愛された、この世で最も美しい艦。キング・オブ・パイレーツにのみ背を許した誇り高き神馬。
 その名を。
 
「《パラス・アテナ》……やはり来ていたか、キング」

 その言葉に意外の感は含まれていない。淡々と、事実を確認するような響きだけがあった。
 あの男がここに来ないはずがない。何故なら、これは海賊達が抱えた過去の清算のための戦いなのだ。
 海賊達は、ラナートの援助を受けて新たな生活を得ることが叶った。しかしそれは、間接的にトリジウムの密輸の恩恵にあずかることであり、即ちトリジウム汚染で死んだ無辜の誰かの怨念を背負うということだ。
 今、全ての過去の因果を断つための戦いがここで繰り広げられるのだとして、どうして海賊の王が、その場に姿を見せないなどあり得るだろうか。
 王の軍勢がここに集ったならば、その陣頭に立つのが王の務めなのだから。
 歓喜、懐古、驚愕、愛憎、悲嘆、憤激。その男は、海賊達のありとあらゆる感情を喚起させた。その男を思い出して無感情でいられる海賊など、この世にいるはずがなかった。
 万感の想いを込めた視線が注がれる中、幾多の防衛陣を切り裂き、《パラス・アテナ》はついに、敵旗艦《ネプトゥーン》をその射程に捕らえていた。

「馬鹿な!たった一隻だぞ!それも、戦闘開始から今の今まで戦い詰めの、死体のような一隻だ!どうして止められない!どうして撃墜出来ない!」

 エストリア宇宙軍第十三艦隊旗艦《ネプトゥーン》の艦橋で、イレックスの悲鳴じみた叫びがこだまする。

「守備隊は何をやっている!旗艦にこれほど敵を近づけるなど恥と知れ!即座にあの艦を包囲殲滅するんだ!」
「騒ぐな少佐。皆、よくやっている。それでも非難を受ける何者かがあるとすれば、それは私だ。あの時──あの艦と紅い機体を包囲したとき、降伏勧告などせずに一息で打ち落とすべきだった。それが、我らの敗因だ」
「閣下、敗因など……!」

 イレックスは振り返り、尊敬すべき司令官の顔を見て、はっとした。
 悔しさなどどこにもなく、むしろ清々しい、憑き物が落ちたような顔で、迫り来る敵影を眺めていた。
 あの、まるで熱帯魚のように優雅なフォルムの五万トン級艦は見覚えがないが、しかしその横を飛ぶ、鮮紅色の戦闘機には嫌というほどに見覚えがあった。
 見間違えるはずがない。かつて、フォルクマールがまだ一介の戦闘機乗りでしかなかった若き日、自分の所属していたチームをたった一機で撃滅した、あの紅い化け物だ。

「……そうだ、あの時は……」

 フォルクマールは目を閉じた。
 あの時は、宇宙海賊の排除を目的とした作戦の途中だったはずだ。しかし後から耳に挟んだところでは、母国に不利益な事実を知ってしまったために逃亡している少女を亡き者にするのが真の目的だったらしい。
 今になって分かった。あれはきっと、死に神なのだ。それも、軍神の遣わす死に神。高潔であるべき軍人が、畜生の如き罪を犯そうとしたときに遣わされる、刑吏なのだろう。
 ならば、当然だ。自分が死ぬのは。
 フォルクマールは、ふ、と微笑みを溢した。
 言葉を失った副官に、フォルクマールは淡々とした調子で語る。

「私は、何と罪深い男だろうな。この作戦の総責任者を拝命し、しかしこのような……そう、恥ずべき作戦を心底毛嫌いしつつも、軍人として成功に導かねばならないかった。だからこその敗北だ。そもそも勝つつもりのない司令官を頂いた軍が、どうして勝てるものかよ。事実、こうなってしまっては作戦の成功など望むべくもない。戦略目標を達成できなくなった時点で、我らの敗北だよ」

 確かに、エストリア軍とヴェロニカ軍、そして海賊連合軍の戦いは既に泥仕合と化しており、一方的な勝者など生まれようもない混戦となっている。
 こうなってしまえば、仮に三つ巴の戦いを制したとしても、惑星ヴェロニカを死の星に変えるというエストリアの思惑が達成出来る可能性は、限りなく低い。

「閣下、何を弱気なことを!迫り来る敵はたったの一隻!ここはいったん退き、時間をかけて攻撃すれば、どれほど化け物じみた艦であっても……」
「無駄だ。あの船足を見ろ。この艦が全速前進で逃げたところでたちまちに追いつかれるだろう。ならば、せめて敗軍の将として、堂々と取るべき責任を取りたいと思う。君は、この艦から脱出したまえ」

 その時、通信兵が、震える声で、敵兵からの通信が入っていることを告げた。

「繋いでくれ」

 フォルクマールの指示がくだされるや否や、スクリーンに一人の男が映し出された。
 端正な顔立ちの、男だった。琥珀色の双眼から放たれる視線には一分の隙もない。年の頃はまだ少壮と呼ばれる頃合いのはずだが、放たれる威圧感は尋常ではない。
 フォルクマールは思わず立ち上がり、敬礼を施していた。

『総司令官はあんただな、ミスタ・フォルクマール』

 ぶっきらぼうな口調が、不思議と不快ではなかった。それはきっと、画面に映し出された男に、勝者の優越感が一分も含まれていなかったからだろう。

「そうだ、私だ。そして君は、あの艦の艦長だな?」
『艦長って呼ばれ方をしたのは久しぶりだが、まぁそうだ』
「私の名をご存じのようだが、自己紹介をさせてもらおうか。エストリア宇宙軍中将フォルクマール・アンドレーエだ。エストリア宇宙軍第十三艦隊及び当該作戦における指揮官を務めている。この作戦の責任者は私だ。貴官の戦いぶりには脱帽せざるを得ない。この上は、貴官の手を借りるまでもない。私は潔く自分に決着をつけるつもりだ。その代わりと言ってはなんだが、この艦の他の乗員の脱出を、どうか許して欲しい」
『気の早い爺さんだ。誰があんたを殺しに来たなんて言った?俺は、もっと別の目的のためにここまで来たのさ』

 男が、今にも噛みつきそうな笑みを浮かべ、言った。

『さっきの降伏勧告は有り難かった。ただ、あんたはどうやら俺の腕と、俺の自慢のこの船の性能を、相当低く見積もってくれてたみたいなんでな。こういうことは口で説明しても分かってもらえないだろうから、実際に見せてやったのさ。どうだい、見事だっただろう?』
「……貴官は、何を言っている?伝えたいことがあるならば簡潔に述べたまえ」
『これ以上ないくらい簡潔に言ってるつもりなんだがね、こっちは。要するに、あの降伏勧告が些か気に食わなかったのさ。あんたらは俺達を高く値踏みしてくれたらしいが、中途半端な買いかぶりは逆に誇りを逆撫でするもんだ。だから、そこんとこを分かってもらおうと思ってね』
「……それは何かの冗談か?」
『まさか。俺には珍しいってくらいに大真面目な話さ。あんたや、ちょいと轢き潰しちまった他の艦には申し訳ない気もするんだが、まぁ仕方ないと諦めてくれ』

 フォルクマールは言葉を失い、男がくつくつと笑う様を唖然として見守った。
 この男は、まさか本当に、自分を殺すためでもこの戦いに終止符を打つためでもなく、あの降伏勧告を突き返すためだけに、ここまで来たというのか。

『それに、この不毛な戦いを止めるのは、俺の仕事じゃない』

 その時、通信兵が、慌てた様子で叫んだ。

「司令官!惑星ヴェロニカより、全宇宙に向けて映像記録が発信されています!如何いたしましょうか!」

 惑星ヴェロニカの周辺には通信妨害用のジャマーが、武装した防衛衛星と共に設置されている。その働きと、大規模な宇宙嵐により、外部への救援要請を妨害しつつ作戦を遂行する。それが軍の立案した作戦だったはずだ。
 この点でも、既に作戦の根幹は揺らいでいるというべきだ。正に、この作戦は失敗したというべきだろう。
 深く息を吐き出したフォルクマールが、低い声で、

「……繋げ」

 そう言ったのと時を同じくして、ケリーも、こちらは思わず安堵の溜息を吐き出し、小さな声で呟いたのである。

「ちょっと遅かったぜ、黄金狼」、と。



[6349] 第九十二話:清算
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:8cfc04d5
Date: 2013/02/18 22:37
「ああ、疲れた……」

 その場に居合わせたみんなの気持ちを代弁し、リィが大儀そうに吐き出した。
 もう、三日もまともに寝ていない。寝ていないだけならばまだしも、四六時中を緊張とともに過ごしたのだ。鋭気に満ちた彼らの若い身体も、隠しきれない疲労でぐったりとしていた。
 ジャマーの数が予想よりも遙かに多かったこと、そしていくつかの防衛衛星がその周囲に配備されており、その排除に手間がかかったことがリィ達の作業を手間取らせた。
 
「一歩も宇宙船の外に出ていないのにどうしてこんなに疲れるんだろう。これなら地上で斬り合いをしているほうが遙かに楽だ」

 美神の魂が吹き込まれたような容姿を、心なしかげっそりとさせ、リィは思わず呟いた。
 その視線の先にあるスクリーンに、ヴェロニカ教の司祭が映し出されている。
 リィは、その司祭の顔を知っていた。何せ、一度はその男を頭陀袋に放り込んで誘拐したことだってあるのだ。
 その男──ヴェロニカ教最高指導者であるテセルは、老師の正式な装束である紫色の法衣に身を包み、緊張の面持ちで鈴なりのマイクに相対していた。

「さて、どういうふうに幕を降ろすのかな?」

 些か意地の悪いリィの呟きを合図にしたかのように、テセルは唇を開いた。

『これより、この映像を見る全ての共和宇宙人民の皆様に、ヴェロニカ教団老師テセル・マニクマールが慎んで申し上げます。これから私が語るのは、この星の真の歴史、恥の歴史、今まで闇に葬られてきた歴史。どうぞ耳を傾けられたい』

 果たして、今、この瞬間、この映像の意味するところを理解している人間が、この宇宙にどれだけ存在するだろうか。一夜明ければ全ての人間が瞠目するのだとしても、今だけは、テセルはきっと一人の道化に過ぎないのだろう。
 道化に出来るのは、人を笑わせることだけだ。精々滑稽に、しかし真剣な表情で、己の存在を笑い物にするのだ。テセルは、これが喜劇だと知っていた。少なくとも、人は自分に関わりの無いあらゆる事象を、喜劇として取り扱うのだと。
 道化でいい。道化ならば上等だ。どうせ、地獄の最下層は自分のために特等席を掃き清めているだろう。いや、今から犯す罪が加わるならば、その更に下の階を、自分のためだけに掘り下げる必要が生まれるかも知れない。
 それでも、守ると誓った。この星に神が居ないのだとしても、守り抜くと誓ったのだ。
 ビアンキ老、いや、ビアンキ先生。どうか、最も愚かだった教え子をお許しください。そして、私に勇気をください。全てを成し遂げるまで生き続ける勇気をください。
 テセルの視線が揺らいだのだとしても、それは一瞬のことだった。それこそ、リィですらがやっと気が付くような一瞬。
 そしてテセルは語った。
 ヴェロニカ教が犯した罪。
 弱者を見捨て、迫害し、踏みにじってきた歴史。
 隠された富。隠された罪。隠された悲劇。隠してきた悲劇。
 全ての罪を語った。
 それも、己の師であるミア・ビアンキを含んだところの、旧ヴェロニカ教指導陣の罪として。

『私は、これらの罪がヴェロニカ教という組織全体によって繰り返されてきたことを否定しません。しかし同時に、罪の本質を理解しながら最も唾棄すべき罪を積み重ねてきたのは、当然の如く組織の指導者達であることを皆様にご理解頂きたい。末端の信徒達は、ただ彼らの邪悪な思想に感化され、追随していただけなのだ、と。人の本質が白であるとするならば、それを黒に近づけるべく教育を施したのは、ヴェロニカ教老師連中なのだ、と』

 テセルの視線は自信に充ち満ちた様子でカメラを見遣り、声はほんの少しも震えることはなかった。

『無論、私もヴェロニカ教の導師でした。私の論法で言うところの、最も罪深き人間の一人であることを否定し得ません。上層部の姿勢に疑問を抱きながらも、数々の非道を看過してきました。体勢に疑問を抱きつつ、しかしそれを非難し得なかった。これは正しく私の弱さであり、最も卑劣なところであり、後ろ指を指され石を投げつけられるべき罪です。しかし──』

 テセルは一度目を瞑り、大きく息を吐き出してから、

『しかし同時に、私が信仰と忠誠を捧げるヴェロニカ教が、これ以上の罪を犯すことに耐えられませんでした。先日、私は老師の階位を授かると同時に、ヴェロニカ教の秘儀、即ちこの星の限られた一部の地域にトリジウム鉱床が存在することを知らされ、また、その隠された資金をもとに大規模な宗教テロリズムを企図していることを知らされました。そして、その計画には、狂信的な老師達の信奉者であった、ヴェロニカ共和国大統領アーロン・レイノルズも賛同していたことを』

 一国の指導者が、恐るべき宗教的テロ行為の加担者となっていた。もしもそれが事実ならば、未だかつて無い規模のテロリズムによる惨禍が共和宇宙を覆い尽くしていたであろうことは疑いない。
 
『私は、この国を守るため、共和宇宙の秩序を守るため、何よりも私の愛したヴェロニカ教を守るため、少数の同士達と共に立ち上がりました。本来であれば、危険な選民思想に染まった老師達を説き伏せ、正道に立ち戻るよう説得するのが私の務めだったのでしょう。しかし、そのためには圧倒的に時間が足りなかった。そのように悠長なことをしていれば、いつ危険なテロ計画が実行されてしまうか分からなかったのです』

 そしてテセルは沈痛な表情を浮かべ、

『私は、私の罪をここで懺悔します。私は、武力でもって旧ヴェロニカ教指導陣を排除し、また、大統領であるアーロン・レイノルズをも排除しました。端的に言うならば、彼らを殺害することでテロ計画を未然に防止しようとしたのです。そして極めて残念なことに、その決意は報われてしまいました。彼らが文字通り神をも恐れぬ空前絶後のテロ計画を企図し、正しく実行まで秒読み段階だった数々の証拠を、私はこの目で確認しております』

 つまり、ある種のクーデターを起こしたことを認めたのだ。しかしそれは、危険なテロ行為を防ぐためであり、決して権力の奪取などが目的ではなかったのだ、と。
 その上で、テセルは決然と言葉を紡ぎ続ける。

『ヴェロニカ共和国は、そしてヴェロニカ教は生まれ変わらなければなりません。もはや、前近代的な選民思想や秘密主義の罷り通るべき時代ではない。そのためには、全てを一度審らかにし、全ての罪を償わなければならないのです。しかし、この国の人間が、この国の罪を裁けるでしょうか。私は、外部組織により、この国の膿を徹底的に絞り出すことを提案します。具体的には、共和連邦の監査により、公正中立な捜査と判断を──』

 その時、スクリーンから発せられる音ではない、椅子が蹴倒される激しい音が、《スタープラチナ》の操縦室に響き渡った。
 全員の視線が、怒りの表情で立ち上がったインユェに集中している。

「この糞坊主、あれだけの啖呵を切っておいて、結局これか!全部の罪を死人になすりつけて、自分は善人面か!自分は被害者でございますかよ!見損なったぜ!」

 インユェとテセルが行動を共にしたのは、実質半日ほどに過ぎなかったが、その短い間に心通じるものが、例え僅かであったとしても確かに存在した。だからこそ、それを裏切られた怒りと失望に耐え難いものがあったのだろう。
 インユェは、震える拳を握りしめながら、殺意さえ込め、未だ演説を続ける画面のテセルを睨み付けていた。

「おい、インユェ、落ち着け」
「リィ!てめぇははらわたが煮えくりかえらねぇのか!こんな、自分一人だけ助かろう、美味しいところを独り占めしようってやりかたをされて黙ってられるのか!」
「違う。全く違う。お前は全然分かっていない」

 リィは、逆上し立ち上がったインユェを、冷ややかな視線で見上げた。
 その静かな迫力に、インユェは思わず唾を飲み下し、

「……違うってどういうこったよ!?こいつはビアンキ爺さんやらあのいかれた大統領に全部の罪をおっかぶせて、自分はしれっとヴェロニカ教の指導者に収まり続けようって腹づもりじゃねぇのかよ!?」
「少し頭を冷やして考えろ。テセルは、外部の調査を受け入れるって言ったんだ。大規模なテロ計画が立案され、実行まで秒読みの段階だったと聞かされれば、間違いなく共和連邦の然るべき筋が動く。ここまでは分かるな?」

 リィの、子供を相手にしたような言葉遣いが癪に障ったが、インユェは渋々とした様子で首肯した。

「そうすればどうなる?外部の調査が入れば、少なくともテロ計画なんて存在しなかったことは容易に分かる。何故なら、そんな計画は本当に存在していないからだ。旧ヴェロニカ教指導陣が皆殺しにされたのは、大統領だったアーロン・レイノルズの差し金で、理由は大統領が宗教的な実権を握るためだったってことも、すぐに明るみに出るだろう」
「……だからどうしたってんだよ」
「分からないのか。テセルは、大統領の走狗として、小さな女の子を生け贄に捧げる外道な儀式の司祭まで務めているんだ。それも、ヴェロニカ教の最高指導者につけて貰った上でな。事情を知らない第三者が見た場合、この一件で、一体誰が一番得をしたように見える?」
「それは……」

 間違いなく、テセルだろう。
 目の上のたんこぶだった旧ヴェロニカ教指導陣を廃し、己が実権を握るため、大統領を唆した。全ての汚れ仕事は大統領に押しつけ、自分は泥を被ることなくヴェロニカ教の最高指導者となり、前非を悔いることなくヴェロニカ教の古い体質を受け継ぎ、それが当然のような顔で忌むべき生け贄の儀式を執り行った。
 そして最後に大統領本人をも暗殺し、この国の実権を握ろうとした。

「いいか、インユェ。しばらくの間は、テセルは開明派の先鋒として、外部的な脚光を浴びるかも知れない。だが、半年もしないうちに、事件の黒幕として徹底的な糾弾を受けることになる。間違いなく、大きな罪に問われ、逮捕収監されることになるだろう。宗教的な野心により身を滅ぼした狂人、愚か者、大悪人、道化者として」
「そんな……」
「ルウ。ヴェロニカ共和国に死刑制度はあるのか?」

 傍らで椅子に腰掛けていたルウが、静かな面持ちで首を横に振った。

「この国の最高刑は終身刑だ。死刑制度はずっと昔に撤廃されている。少なくとも表向きは、人道主義の国だったからね。もしもテセルが刑に服することになるなら、終身刑が妥当だろう。旧ヴェロニカ教の老師達、そして大統領を殺した罪を裁くなら、終身刑以外あり得ない」

 リィは大きな溜息を吐いた。

「なら、もっと残酷だ。テセルは、惑星ヴェロニカに住む全ての人間に嘲笑されたまま、牢屋の中でこれからの長い一生を送らなければならないんだからな」
「……」
「テセルは、自分が道化になることでヴェロニカ教を守ろうとしているんだ。ヴェロニカ教徒が過去から犯し続けてきた罪から、今この国を混乱させている罪まで、一切合切を、自分を含めた旧ヴェロニカ教指導陣の責任にしようとしているんだ。糾弾の舌鋒の全てが、唯一生き残っている自分に向けられることを承知の上で」

 インユェは画面に視線を戻した。
 そこには、相変わらず自信に満ちた表情で事件のあらましを語るテセルがいる。
 どこにも、己が犠牲になるという悲壮感はない。ただ、青年に相応しい清冽なまでの清々しさに充ち満ちている。誰しもが、彼の言葉を信じているだろう。今は誰も、彼が全ての黒幕の道化だろうなどと思わないだろう。
 それは正しい。彼は、黒幕などではない。ただし、道化ではある。道化になろうと、自らが望んでいるのだ。

「もう、惑星ヴェロニカでこれ以上、ヴェロニカ教と無関係の人達が死なないように。そして、聖女ヴェロニカの教えが息絶えないように。テセルなりに考えに考え抜いた方策が、これだったんだろう。おれは、ちっとも同意出来ない。自分が犠牲になって全てを丸く収めようっていう考えはおれの理解を超えているからだ。でも、全ての事実を承知の誰かがテセルを馬鹿にするなら、おれはそいつを許すことが出来ないと思う。こいつの覚悟には、それだけの重みがあるからだ」

 インユェは、ぐっと唇を引き絞り、食い入るように画面を睨み付けていた。
 その背後で、老人の啜り泣く声が聞こえた。
 誰しもがそっと席を立ち、操縦室を後にした。インユェも、リィに促されて立ち上がり、操縦室から立ち去った。
 一人残された老人は、画面の前に跪き、声を絞り出すようにして泣いた。

「おお、テセルよ、許せ、愚かな儂を許してくれ……」



「……司令本部より、撤退命令が出ております。如何しましょうか、閣下」

 テセルというヴェロニカ僧の演説は、まだ続いている。しかし、事態は明白だ。先手を打たれ、エストリア軍はヴェロニカ侵攻の大義名分を失った。事ここに至り、自分達はとんでもない外れ籤を掴まされ、道化と成り果てたのだ。これが、そもそも連中の狙いだったのだろう。
 フォルクマールは天井を見上げ、重々しく息を吐き出した。

「……是非もあるまいよ、我らは粛々と命令に従うのみだ。上が戦えといえば戦う。退けといえば退く。それに抗う権利を与えられてはおらん。私も、そして君も」
「……無念です」
「少佐、君が無念を感じる必要はない。この作戦を立案し指揮したのは私だ」

 フォルクマールは、寧ろ清々しい笑顔を浮かべた。既に老齢に差し掛かった肌は、疲労と緊張から鉛色に染まっているが、鳶色の瞳の奥には一抹の安堵が含まれている。
 イレックスは、それを感じ取りながら、しかし上官を非難する気にはなれなかった。如何なる理由があろうとも、軍人が無抵抗の市民に銃を向けるなど、許されるべきことではない。どれほど厳重な蓋で封をしようとも、いずれ真実は漏れ出し、衆目の知るところとなるだろう。
 彼らが大規模なテロ計画を立案していたのだとして、少なくともそれは未然に防がれたのだ。ならば、自分達が彼らに銃口を向ける必要が無くなったということではないか。それは、むしろ喜ぶべき事なのだ。イレックスはそう思おうと努めた。
 だが、フォルクマールはイレックスの想像とは異なる安堵に総身を浸していた。この戦いの最中で散っていったエストリア軍の勇者達には申し訳も立たないが、それでも、この戦いはエストリア軍の敗北で終わるべき戦いだったのだ。共和宇宙時代の国民軍が、資源の獲得という野蛮な理由のために他国を蹂躙しその住人を鏖殺するなど、悪夢以外の何物だというのか。
 もしもそのような事実が明るみに出れば、共和政府の作り出した秩序が根底から覆り、この宇宙が戦乱の渦中に投げ込まれることになっても不思議ではない。自分達は、その戦火をもたらす死に神の露払いと成り果てるところだったのだ……。

「停戦信号を放て」
「はっ」

 エストリア軍旗艦《ネプトゥーン》から信号弾が放たれると、周囲のエストリア艦艇もそれに倣った。
 それをきっかえに、火線は少しずつなりを潜め、宇宙に静寂が戻り始めた。各所で散発的な戦闘は依然続いていたが、しかしそれもじきに収まるだろう。
 戦いは終わったのだ。勝者も敗者も作り出さないままに。

「さて、これでよろしいかな、ミスタ……?」

 先ほどから通信画面を占拠していた端正な顔立ちの男は、冷ややかな笑みを浮かべた。

『ケリーだ。ファミリーネームは色々ありすぎて全部は覚えちゃいないんだが……そうだな、一番長く使わせて貰ってるのは、クーア。だから、ケリー・クーアでいいぜ、中将閣下』
「ケリー・クーアだと?それは……」
『まぁ、あんたくらいの年代の人間なら、キング・ケリーの名前の方が馴染み深いかもな、爺さん』

 イレックスは、この不遜な男が何を言っているのか分からなかった。
 しかし、若かりし日、重力波エンジンの搭載された戦闘機を供に、ゲートを突き抜け宇宙を駆け抜けたフォルクマールは、その男の顔を思い出した。
 神出鬼没を謳われ、共和連邦加盟国の全ての警察と軍隊を敵に回し、それでもなお一度も捕まらなかった無頼漢。この宇宙の全てを知り、全てを手に入れたと噂された大海賊。
 その異名を。

「海賊王……生きていたのか……」

 むしろ嬉しげな、それ以上に懐かしげな揺らめきを帯びたフォルクマールの声に、ケリーは野性的な笑みで応えた。

『その名前は、どうやら俺以外の誰かの持ち物になっちまった。それでも、あんたがひよっこだったころ、そう呼ばれたのは確かに俺さ』
「ならば、あの海賊達をここに集わせたのもあなたか」
『いんや、そいつは今の海賊王の仕業だ。残念だったな、あと少しで俺を捕まえられたのに』

 フォルクマールは力無く微笑んだ。全くもって男の言うとおりだ。遠い昔、この男を捕まえるために何度となく大きな作戦が立案され、自分の部隊も駆り出された。にもかかわらず、結局この男は一度して刑務所の不自由を味わうことなく、この共和宇宙で最も自由な男として在り続けた。
 その有様に、どうして嫉妬を覚えずにいられるだろう。フォルクマールだけではない。あの時代を生きた全ての男達にとって、海賊王は一つの偶像で在り続けたのだから。

「このようなことを言えば負け惜しみと取られるでしょうが……私はあの時、あなたとあなたの乗艦を撃たずに、本当に良かったと思っています。これは紛れも無く、私の指揮のもと、あなたやヴェロニカ軍に討たれた全ての部下への背信ですが……心の底からそう思う」
『それでも、あんたは戦わなくちゃならないんだものな。全く、軍人ってやつは因果な商売さ』
「ええ。それも、心の底から、そう思いますとも」

 二人は同時に笑った。
 二人の会話を一番近くで聞いていたイレックスは、尊敬する上官とにっくき敵兵が、どうしてこのように親しげなやり取りをしているのか、全く理解出来なかった。
 ただ、会話の端々に現れる『海賊王』という単語が、脳髄の奥底に沈殿した記憶の切れ端を、僅かに刺激したに過ぎなかった。

「我々の撤退を、見逃して頂けるので?」
『こっちは、あんたらが攻め込んでくるから迎え撃っただけさ。あんたらが大人しく帰ってくれるなら、追いかける理由もない。そんなことをしたってくたびれるだけさ』

 フォルクマールは頷いた。
 
「少佐、聞いての通りだ。我が軍はこの宙域から離脱する。撤退だ。ただし、整然と、秩序を保ったまま」
「……はっ、承知しました」
「ヴェロニカ軍はともかく、海賊達が挑発をしてくるかも知れんが、努めて無視するよう全軍に伝達せよ。もうこれ以上、この無意味な戦いで一人も死者を出してはならない」

 イレックスは頷き、上官の指示に従った。しかし、フォルクマールの懸念したような事態は起こらず、ヴェロニカ軍も海賊連合軍も、撤退準備を始めるエストリア軍を静かに見守っていた。
 その様子を確認して、《パラス・アテナ》は《ネプトゥーン》から離脱した。途中、『貴殿の航海に幸多からんことを望む』という通信が入り、思わず苦笑を誘われたが。

「終わったな、海賊」

 《パラス・アテナ》のデッキに、そこにいるべき女性が姿を見せた。
 豊かな赤毛は汗と埃に塗れ、見る影もない。肌は荒れ、唇はかさつき、目の下には濃い隈が浮いている。もう何日もまともに風呂に入っていないのだ。むっと、濃い体臭が立ちこめている。
 それでも、ケリーはその姿を美しいと思った。どんな香水よりも、その女の匂いを好ましく思った。
 だから、ケリーは女を抱き寄せ、口づけを交わした。それも、本来ベッドの中で交わすべき、濃密な口づけを。
 女は──ジャスミンは、流石に少し驚いたようだったが、しかしすぐにケリーの情熱に応えた。自らケリーの首に腕を回し、唇と舌を、ケリーのそれに押しつけ、絡みつけた。
 粘膜の交わる、水気に満ちた音が《パラス・アテナ》の操縦室に満ちた。短い時間ではない。二人が十分に満足するまで、二人の交合部分からその音が奏でられ続けた。
 やがてジャスミンが口を離すと、二人の舌の間に、所々泡立った透明な唾液の橋が架かっていた。

「……命の危機を感じると、生命の本能として生殖欲求が高まると言うが、どうやら本当らしいな」

 髪を乱し、頬を赤らめたジャスミンが呟く。
 その愛らしい様にまたしても我を忘れかけたケリーだったが、今度は自制した。

「どうする、このままベッドに行くのか?これでもわたしは女だから、出来ればシャワーを使わせて貰いたいのだが……」
「いや、もう十分満足だ……ってことはないが、しばらくは我慢しておくさ。俺もあんたも、これから少しばかり忙しくなる。そういうことに体力を使っている余裕は無いだろうからな」

 ジャスミンは傷付いたように溜息を吐いた。

「夫婦の営み以上に尊ばれるべき行いなど、この世にそうそうあるはずもないが……しかし、お前の言うとおりだな。我々もハイスクールの少年少女ではないのだし、自重すべきは自重するとしよう」
「ああ。まずは、あいつらを迎えに行かなくちゃな」

 あいつらとは言うまでもない、ケリーやジャスミンと共に戦った、ヴェロニカ特殊軍の少年少女である。
 ケリーは、傷付いた《パラス・アテナ》に許される最大船速でもって先ほどまでの戦場を駆け、TYPHON零型に搭載された発信機の識別信号を追いかけた。
 しかしその作業は徒労に終わった。破壊され、細かなパーツに砕かれたTYPHON零型の残骸が宙空を漂っているだけで、既に搭乗者はどこにもいなかった。おそらく爆発の衝撃でばらばらになり、物言わぬ死体となってこの広い宇宙のどこかを彷徨っているのだろう。これからも、ずっと、永遠に。
 それでも、奇跡的な確率で、彼らの遺体を回収出来ることもあった。まるで眠るように死んだ彼らの顔は、どこからどう見ても年相応の子供そのものだった。呼べばそのまま目覚めるに違いないと信じてしまうほどに。
 下半身を失い、切断面から内蔵をはみ出させて、それでも彼らは安らかに眠っていた。
 ケリーはその一人一人の遺体を拭き清め、子供用の棺桶に入れて宇宙に放った。残酷かも知れないが、彼らの家族がこの宙域を漂っているならば、一番近くに葬ることが、彼らの望みに叶うと思ったからだ。
 そして、ケリーは終始無言だった。先ほど、情熱的にジャスミンを求めたのがまるで別人のように、ケリーは淡々と、己に課せられた義務を全うした。ジャスミンも、自分のことを忘れたかのようなケリーを、無言で見守っていた。
 もう、今回の戦場に設定されたN49-KS1173という星域は、静寂そのものだった。ヴェロニカ軍も海賊達も、生存者の探索を続けている。そこに、敵味方の区別はない。例えエストリア軍の人間であっても、彼らは分け隔て無く救助した。
 戦いは終わったのだ。戦いが終わったならば、あとは宇宙に生きる者達の掟に従うだけだ。センチメンタルに支配された行動かも知れない。ならば、最初から戦わなければいいのにとは、誰しもが頷かざるを得ない意見だろう。
 まるで、同族同士で殺し合う愚かな人類を蔑むかのように、或いは愚かな戦いで死なざるを得なかった憐れな死者を悼むかのように、名も無き恒星が光り輝いている。ケリーは時折、その恒星を眩しそうに眺めた。
 
「……そろそろ休んだらどうだ。もう、丸二日以上寝ていないだろう」

 ジャスミンが、痺れをきらしたように口を開いた。
 ケリーは、げっそりと窶れた表情で我が妻の方を振り返り、力無く笑った。

「ああ、そういやそうだな、忘れていた。すまねぇな、女王。先に寝てもらって構わねぇぜ」
「……生憎、しばらくは独り寝するつもりになれん。お前がベッドに行かないなら、わたしも起きていることにしよう」
「……そいつは遠回しな脅迫かい?」
「そう思われるような自覚があるなら、さっさと眠ることだ。もう、識別信号を発信している機体は全て回収したのだろう。ならば、お前の為すべき事は終わったはずだ。後は、ヴェロニカ軍の探索部隊に任せればいい」

 ジャスミンの無慈悲な言葉に、ケリーは笑顔で応じた。
 もう、生存者が見つかる可能性は絶望的に低い。頑強に作られたTYPHON零型が、識別信号を発する事も出来ない程徹底的に破壊されたならば、搭乗者が生存しているなど通常は考えられないのだ。
 そして、識別信号を発する事が可能だった機体も、搭乗者を守り抜くことは出来なかったらしい。ケリーが今まで回収したのは、全てヴェロニカ特殊軍の隊員だった少年少女であり、今は物言わぬ遺体となってしまった少年少女であった。
 
「まだ、あいつを見つけていないんだ」

 眉を寄せ、少し困ったように笑顔を浮かべたケリーが、ぼつりと呟いた。
 ジャスミンは、誰かと問わなかった。ケリーの言葉が誰のことを指しているか、明らかすぎるほどに明らかだったから。

「マルゴも、お前には見つけて欲しくないと、思っているかも知れない」
「……どうしてだい?」
「まだ幼くても女だ。なら、好きな男に醜い自分の姿を見られたくない。そう思っても不思議ではないだろう」
「……ああ、そんなものなのかもな……」

 ケリーは、普段の彼らしからぬ、魂が抜けたような声でぼんやりと呟いた。
 もう一日が、経った。既にエストリア軍の姿はこの宙域に無く、救助任務を特に帯びた艦以外、ヴェロニカ軍も姿を消した。海賊達もいつの間にかいずこかへと立ち去ったようだ。
 空っぽになった宇宙に、《パラス・アテナ》だけがあった。
 ケリーは、相変わらず宙空を睨み、漆黒の機甲兵の姿を探し続けている。その間、僅かな水分以外、何も口にしていない。もともと肉付きの薄いケリーの身体は、既に痩身といっていいほどにやせ細っていた。
 流石に業を煮やしたジャスミンが、力尽くでケリーを寝かしつけようとしたとき、《パラス・アテナ》に通信が入ったことを、ダイアナが告げた。

『リィ達だわ』

 間もなく、《パラス・アテナ》のレーダーが《スタープラチナ》の機影を捕らえた。既に戦闘は終結したというのに、N49-KS1173を漂っている《パラス・アテナ》を不審に思い、駆けつけてくれたのだろう。
 ケリーが通信越しに事情を話すと、リィ達はもちろん、インユェとメイフゥも、マルゴの探索を快く引き受けた。

『あの嬢ちゃんは、いい奴だった。いい奴が、誰にも看取られることなく、こんな寂しい宇宙で眠り続けるなんて間違えてる』

 メイフゥはそう言った。

『……そうか、マルゴが……』

 一度、危地を助けあったことがあるインユェは、そう言って言葉を失った。
 そして《パラス・アテナ》と《スタープラチナ》は、マルゴの搭乗したTYPHON零型の探索を再開した。
 しかし、それが容易な作業ではないことを、全員が理解していた。この広大な宇宙で、救助信号を発してすらいない小さな機甲兵を捜そうというのだ。しかも、いつ、どの地点から、どのような状況とどれほどのエネルギーでもって攻撃を受け、遭難したのかも分かっていないという。これならば、広大な砂漠の中を歩き回って緑野豊かなオアシスを探す方がどれほど容易いか。
 全員が絶望的な覚悟で宙域を彷徨っていたとき、《パラス・アテナ》に二つの通信が入った。
 一つは、ヴェロニカ軍の救助部隊からであった。
 彼らも、無論ではあるが、ヴェロニカ特殊軍であったマルゴの探索任務を帯びている。元々、大統領のお抱えであったマルゴ達に良い感情を抱いていなかった彼らだが、エストリア軍侵攻の際のヴェロニカ特殊軍の獅子奮迅の戦いには畏敬の念を捧げており、任務以上の真摯さをもって探索に当たっていたのだ。
 その救助部隊が、非常に興味深い話を《パラス・アテナ》に寄越した。

『……詳細については小官も把握しておりません。これはあくまで噂話程度の認識に止めて頂きたいのですが……』
「ええ、それでも結構です。我々は、縋ることの出来るものならば、例えそれが藁であっても求めているのですから」

 紳士然としたケリーの態度であったが、痩せ衰えた顔貌にぎらりとした眼光が如何にも不吉で、救助艦の艦長は些か気圧されたようだった。
 艦長は軽く咳払いをし、その噂話をケリーに伝えた。最初は冷静だったケリーの表情に、少しずつ緊張が満ちていくのを、傍らにいたジャスミンは見て取った。

「……つまり、TYPHON零型の残骸らしき物体を、海賊達が回収し、いずこかへ運び去ったと、そういうわけですな?」
『真実は分かりません。しかし、戦闘が終結し、生存者の探索が開始された極々初期の段階で、そのような光景を目にした者がいると、小官が聞かされているのはそれだけです』
「その、回収の現場を目撃した兵士はどこに?」
『既に本国に帰還しております。例によって、この宇宙嵐の影響により、今は連絡がつかない状況にありますが……』

 艦長が、如何にも歯痒そうにそう言った。何よりも正確さを優先する軍内部の規律に慣れ親しんだ彼からすれば、このように甚だあやふやな報告をすること自体、自身の矜持に関わることなのだろう。そのことをジャスミンは知っていた。
 それでも、ケリー達の必死な有様を見て、どれほど僅かな手がかりでも、と覚悟を決め、恥を忍んでその噂話を伝えてくれたのだ。
 ケリーも、艦長の好意を感じ取ったのだろう。笑顔で感謝の意を伝え、通信を切った。

「海賊達が、何故……?」

 ジャスミンが思わず呟いた。
 普通に考えれば、人命救助作業の途中に、漂流していたTYPHON零型の残骸を回収したというのが妥当な線だろう。しかし、それならば、搭乗者の生死をその所属する組織に連絡するのが通例である。その上で、搭乗者が生存しているならばその状況を伝える。死亡しているならば、状況が許せば遺体の引き渡しを、許さないならばその場で埋葬をする。
 現在、マルゴの生死に関する情報は、ヴェロニカ軍の如何なる部隊にも届けられていない。
 回収された残骸がマルゴの搭乗するTYPHON零型だったとして──マルゴの遺体が生体認証による所属判定すらも困難なほど損壊していた、もしくは操縦席から外部に投げ出された等のケースを除き、銀星ラナートに率いられるほどの海賊達が、遭難者に関する報告をヴェロニカ軍に寄越さないはずがない。
 では、もっと単純に、TYPHON零型の機密を欲しがり、回収の事実を秘匿したのか。あり得ない話ではないが、それも彼らの気質にそぐわない気がする。
 ケリーとジャスミンが沈思に耽る間もなく、もう一つの通信が届けられた。
 《パラス・アテナ》のメインスクリーンに、見事な銀髪をした初老の男が映し出された。
 どっしりとした幅広の肩の上に、女性ならば誰しもが溜息を吐かざるを得ない程に端正な、褐色の相貌がある。半世紀ほども前は、甘やかさと烈しさがぎりぎりのところで調和した顔立ちだったが、今はそれに、老いによる柔らかさが加わっており、年上趣味の若い女性ならば一も二もなく恋に落ちるだろう。
 その男の顔に、ケリーは見覚えがあった。そして、無論のこと、ジャスミンも。

『久しぶりだな、キング』

 老いを感じさせない溌剌とした声で、ラナートはケリーに笑いかけた。

「ああ、そうだ、久しぶりだ、ラナート」
『お前はちっとも変わっていない。いや、少し昔に戻ったらしいな。その顔の方が、お前には似合っている』

 確かに、ケリーが最後にラナートと顔を合わせた時は、海賊王ケリーの素顔ではなく、ケリー・クーア用に整形された顔だったのだ。
 ケリーは、疲労を忘れて思わず笑ってしまった。

「気持ちの悪いことを言うなよ。俺のは、天使の悪戯さ。それにしても、お前もちっとも変わっちゃいないじゃねぇか。冷凍睡眠してたんじゃなけりゃ、そいつは詐欺だ」

 ラナートは苦笑した。確かに、既に彼は従心を越えて久しい老齢である。それでも、顔はまだ初老といって通じるほどに若々しく、鍛え抜かれた身体はなお精気に充ち満ちている。
 
『遺伝と体質、そして適度な栄養と睡眠と運動さ。別に特別な何かをしたつもりもない。むしろ、中々貫禄がつかなくて困っているんだ』
「若作りに悩む世の女性の全てに聞かせてやりたい言葉だな。きっとお前は一日と生きちゃいられないだろうさ」
『普通の女性の前でこんな言葉を口にするほど、俺は命知らずじゃない』
 
 そしてラナートは、少し視線をずらし、ケリーの傍らの女性を、意味ありげな視線で見つめた。

『まぁ、あなたは普通の女性にはカテゴリできないでしょうから。色々な、そしてあらゆる意味で』
「聞きようによっては失礼な台詞だが、他ならぬあなたが言うのだ。褒め言葉だと受け取っておこう」
『お久しぶりです、ミズ。お元気そうでなによりだ。もう一度あなたにお会いできるとは思わなかった』
「キャプテン・ラナート、わたしもあれが今生の別れだと思っていた。あなたに会えて嬉しい。そして、あなたには伝えなければならないことがある」
『……それは?』

 ジャスミンは隈の浮いた眼に愉快そうな笑みを浮かべ、

「あなたの子供は、二人とも、中々手強かったぞ。将来が楽しみだ。流石は、銀星の跡取りだな」

 ラナートは一瞬呆気にとられ、そして破顔した。

『……ミズ、あなたに、例えリップサービスであったとしてもそこまで言わせるなら、インユェもメイフゥも捨てたものではないらしい。どうやら、インユェについては、相当鍛え直して頂いたようだ。礼を言わせて頂こう』
「ああ、メイフゥには危うく殺されるところだったがな」

 そうジャスミンが言うと、ラナートは目を丸くした。

『……まさか、本気のメイフゥと戦って、生き残ったのか?』
「あなたの目には、わたしが亡霊か何かに見えるのか?まぁ、あの巨大な虎の姿ではなかったぶん、どうやら手加減はしてもらっていたようだがな」
『……あきれ果てた人だ、あなたは。そしてどうやら思い違いをしている。メイフゥ達が形態変化をするためには、色々と面倒な誓約や掟がつきまとっているのさ。だから、メイフゥはおそらく全力であなたを殺そうとしたに違いないのだ。少なくとも、その瞬間は』
「誓約?」
『この共和宇宙で、彼らのような人間がひっそりと暮らしていくためには、色々と面倒が多いということらしい』

 そう言ったラナートの視線には、言葉では語り尽くせない、深い事情を見てきた者の気配が込められていた。
 ジャスミンはそれを尋ねようとは思わなかった。人が、異質なものを、自分とは異なる者を、どれほど執拗かつ残酷に排除するものか、彼女は知悉している。まして、人と獣の二つの姿を持つ生き物は、古来から最も忌むべき化け物の一つに数えられ続けてきたのだ。
 まだ年若いインユェもメイフゥも、きっと今まで、年にそぐわぬ労苦を経験し続けてきたのだろう。生物としての能力が優れていることが、即ち人としての幸福とは必ずしも直結しない。
 だが、それらの事情を語るのも聞くのも、今が相応しい時とは、ジャスミンには思えなかった。

『……さて、少し挨拶が長引いてしまった。そろそろ本題に入るとしようか』

 ラナートの視線がケリーに戻る。
 ただ、数十年の時を経て再会した友人に向けるには、その視線は幾分冷ややかに過ぎた。まるで、獲物を見つめる捕食者のように。あるいは、無知な金持ちを前にした詐欺師のように。
 その気配に気が付いたのだろう、ケリーの義眼が怪訝そうに揺れた。

『ケリー・クーア。これはビジネスの話だ。我々にはお前を満足させる商品があり、相応の買値をつけてもらえれば譲り渡してもいいと考えている』

 窶れたケリーの眼光が、鋭さを増してラナートに向けられる。

「興味深い話だな、キャプテン・ラナート。ちなみにそいつは、どの立場がお前に言わせた台詞だい?商売人かそれとも……」

 ラナートはひんやりとした笑みを浮かべ、

『無論、海賊だ。海賊が、共和宇宙一の大金持ちに対して、卑劣な手段でもって恫喝を加えているのさ。冷や汗を垂れ流しながら、大人しく聞いていろよ。それが作法というものだ』
「悪かった。続けてくれ」
『我々は、先日一人の少女を保護した。未判別の最新型機甲兵に搭乗していた、ヴェロニカ軍人の少女だ。認識票にはマルゴ・レイノルズと記載されているな……』

 ジャスミンは、自分の表情が変化しないよう、鉄の精神力でもって顔の筋肉を操作した。
 ケリーも同じだったのだろう。ラナートが海賊としてマルゴを保護したというならば、そして自分達に話を持ちかけてきたというならば、無垢な子供のように正直な表情を作って良いはずがない。

「で、それがどうしたんだい、キャプテン」
『これだけ大がかりで、そして命がけの仕事に付き合ってくれた部下達には、相応の報酬を用意する必要があるだろう。現物支給というには少し下品だが、まぁ血気盛んな若い連中にはそういうものの方が喜ばれるかも知れんな。古来より、命を賭けて戦った勇者には、純潔の美女が送られるのが慣例だ。あの子一人に何百という若い男の相手をさせるのは少し酷だが、仕方ない』
「……グランド・セヴンと謳われた大海賊にしちゃ、随分と品性に欠ける脅し文句だ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」

 突然画面が切り替わり、そこに、医療用カプセルに収められた少女の姿が映し出される。
 紛れも無い、マルゴの姿だった。死んだように眠っている。それとも、眠るように死んでいるのか。
 ただ、生きているにせよ死んでいるにせよ、ケリーが探し求めるものは、今、ラナートの手中にある。それは紛れも無い事実らしい。
 再び映し出されたラナートは、やはり冷たい視線でケリーを見遣った。

『これが、俺の用意する商品だ。確認は出来たか?』
「ああ、どうやら間違いはないらしい。で、お前はさっき、ビジネスの話だと言ったな。マルゴの対価は何だ?俺の全財産か?そんなもんで済むなら安いもんだ」

 ケリーの言葉に偽りはないだろう。おそらく、ケリーの所有するクーア財閥の全株式を要求されたとしても、二つ返事で了承していたに違いない。
 だが、ラナートの求めるものは全く違った。
 ラナートはさも愉快そうに首を振り、

『残念だが、そんなものがお前にとって何の価値も持たないものであることは理解している。そして、何の痛みも伴わない対価でもって、この少女をお前に引き渡すつもりはない』
「……」
『俺が求めるのは、ケリー・クーア、お前の命だ。二十四時間以内にこちらが指定したポイントまで来い。一人で来いなどと辛気くさいことは言わん。ギャラリーが多いなら、その方が色々と盛り上がるからな。もし指定された時間にお前が姿を現さなければ、この少女は二度と陽の光を浴びることの出来ない場所で、女を切り売りして短い一生を送ることになる。くれぐれもそれを忘れるな』
 



[6349] 第九十三話:浅き夢
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:8cfc04d5
Date: 2013/03/30 20:01
 遙か遠く、青白く不気味な光を放つ太陽が、一眼の魔物のようにケリー達を睨み付けながら、名も無き宙域を照らし出していた。
 人気の無い宙域であった。宇宙に人の気配も何もあったものではないが、少なくともケリーにはそう思えた。人の手が入ったことのない、未開発の宙域独特の雰囲気が濃密に漂っている。言い換えれば、人を拒み撥ね付けるような表情の宇宙であった。
 大小の小惑星、隕石群が、侵入者に牙を剥くように飛び交い続けるその宙域は、並の腕の船乗り程度では近づくことすら許されない。至る所で発生する原始惑星のガスと異常磁場は、ベテランの船乗りであっても容易く遭難させてしまう。
 そして船乗りの方も、敢えて近づこうなどとは思わないだろう。主立った航路からは遙か遠くに位置し、近くに居住用惑星の一つもない、辺境の中の辺境宙域。この時代の人類が絶え間なく抱き続ける、宇宙踏破の情熱からも忘れられた忘却の園。
 しかしケリーは、ラナートが指定したこの宙域に、覚えがあった。
 ケリーだけではない。ジャスミンも、その宙域を覚えていた。
 ジャスミンは、たったの一度しか足を運んだことのない宙域である。それも、遙か昔、自分の産んだ赤子を誘拐されるという非常事態に、八方塞がりの状況を打破する切り札を手に入れるため、この宙域を訪れ、そして一人の老人と出会った。
 ジャスミンにとっては、初めて顔を合わせる老人だった。しかし、その老人はジャスミンのことを知っていた。というよりも、年来の友人の娘として、ジャスミンを知っていたのだ。
 
「懐かしいな」

 ぼそりとジャスミンが呟いた。
 操縦席に座ったケリーはジャスミンを一瞥し、正面スクリーンに視線を戻す。そこには、小惑星帯の中でも比較的大きな、最大直径二キロメートル程の岩塊が映し出されており、その映像は徐々に拡大されつつある。
 《パラス・アテナ》は、正しくその岩塊を目指してこの宙域を疾駆しているのだ。
 彼らは、凶悪無比な海賊に脅迫され、その小惑星まで呼びつけられたのだ。本来であれば重苦しく口を開くのも躊躇われるような状況であるはずだが、ジャスミンはふと笑みを溢した。

「どうした、女王」
「失礼。少し、昔のことを思い出していた。まぁ、わたしにとってはそれほど昔のことでもないのだが、お前や他の人間にとっては大昔のことだろうな」
「前に、ここに来たときのことか」

 ジャスミンは頷き、

「あの時、初めて《パラス・アテナ》に乗せてもらった時だ。お前はともかく、《パラス・アテナ》の腕白振りは色々と札付きだったからな。わたしを送り出す《クーア・キングダム》のみんなの表情といったらなかったよ」

 望まざる客の命など、雑草ほどにも省みないダイアナである。客室の空気を抜く、慣性相殺を勝手に切る、その他諸々の非常識な手段でもって異物を排除したことなど、片手では数え切れない。
 そんな危険物に大事な人が乗るのを、当時の《クーア・キングダム》の面々が、どれほど必死な顔で制止したか、ジャスミンは昨日のことのように思い出すことが出来る。
 
「……」
「もう、あの時のみんなのほとんどが、いなくなってしまったな」

 ケリーが乾いた笑みを浮かべ、

「ずいぶんセンチメンタルじゃないか、らしくねぇな」
「無茶を言うな。わたしも人間だ。過去を振り返り、愛でる権利を持っているのさ。あの時のみんなは、十分に愛おしみ続けるだけの価値を有している人間ばかりだった。それは、我々がこれから赴く場所に隠居していた、伝説の大海賊も含めてな」
「あんたの言うとおりさ、女王。いい奴ばかりが先に死ぬんだ。長生きなんてするもんじゃねぇな、お互いよ」
「わたしをセンチメンタルと言ったが、お前の方こそずいぶんと老人じみた台詞を吐くじゃないか」
「忘れちまったのかい、ずっと眠り姫だったあんたはともかく、俺は本当に爺になっちまってたんだ。年寄り臭い台詞はお手の物だぜ?」
「それは困った。わたしはまだまだ若者のつもりだからな。気が老いた夫の隣に居ては、老け込むのが早まりそうだ」

 ジャスミンはくつくつと含み笑いをし、ケリーもそれに倣った。
 どちらかといえば普段は口数の少ない二人を多弁にしたのは、二人の言うとおり懐古の情だったのかも知れないし、あるいはある種の緊張感だったのかも知れない。
 洞察力に優れ、如何なる事態にも沈着冷静を崩さないケリーとジャスミンだったが、ラナートの突然の変貌には面を喰らっていた。
 一体どうして、傷付いたマルゴを人質にしてまで、ケリーをこんな場所に呼びつける必要があるのか。
 もしも彼らの言葉通り、ケリーを殺害するのが目的であるならば、こんな手の込んだことをする必要はない。あの戦闘の最中に背後から襲いかかれば、さしものケリーとダイアナとはいえひとたまりもなかっただろうし、第一ラナート達の助けがなければ《パラス・アテナ》は今頃宇宙の藻屑となってあの宙域に四散していたはずである。
 仮に、殺害がただの脅しであり、海賊の流儀に従ったところで身代金の要求が真の狙いだったとすれば、全くもって本末転倒な話になる。何故ならケリーは、真実宇宙一の金持ちであり、しかも金に対して一切の執着を持っていない。ラナートが自分達の働きに対して金銭を持って贖うよう要求すれば、意外の念は覚えたにせよ、二つ返事で了承していただろう。
 そして、ジャスミンという極々例外を除けば、ラナートはケリーの本質をこの宇宙で一番良く理解している人間の一人であるはずだ。であれば、このように迂遠なことをする必要など見出すはずがない。
 どのような交渉事であっても、相手の真意と狙いが全く分からずにテーブルに着くのは気分の良いものではない。まして、今回の相手は大海賊『銀星』ラナートである。その腹の内に何を隠し持っているか、さしもの二人であっても計りかねていた。
 同じ頃、《パラス・アテナ》の歓談室に、リィ達の姿を見出すことが出来る。
 リィ、シェラ、そしてルウ。ここらは《パラス・アテナ》に乗っていてもさほど不思議ではないメンバーだが、今は彼ら以外に、インユェ、そしてメイフゥの姉弟が乗り込んでいる。
 インユェは、自ら所有する宇宙船《スタープラチナ》で《パラス・アテナ》を追いかけるつもりだったのだが、

「相手さんが指定してきた場所はちっと手狭でな、何隻も宇宙船を泊められるほど贅沢な格納庫はないのさ。だから、悪いが我慢してくれ」

 窶れた表情でそう言ったケリーに対して、インユェは大人しく従った。
 相手が無頼の宇宙海賊であるということ、そしてマルゴを人質にケリーをその場所まで呼び出したことを、インユェもメイフゥも聞かされている。なら、万一の場合に備えて船は多く用意したほうがいいはずだ。
 しかし、マルゴの捜索作業の中でケリーの操船技術を目の当たりにしたインユェは、自身のそれがケリーに遙か遠く及ばないものであることを自覚せざるを得なかった。タイムリミットを設定された状況の中、自分の我が儘や拙い操船技術で迷惑をかけるわけにもいかない。
 インユェ達は、《スタープラチナ》を付近の小惑星に着陸、固定し、電子的な迷彩を施した上で、そのまま《パラス・アテナ》に移動した。
 
『ようこそ、《パラス・アテナ》へ。歓迎するわ、二人とも。先の戦闘でボロボロなのがちょっと恥ずかしいけど、我慢してね』

 二人を、ダイアナは好意的に向かい入れた。インユェは、最初の顔合わせの経緯から、少々と言えば控えめに過ぎるだろう苦手意識をダイアナに抱いているが、今更逃げ出すわけにもいかない。

『どうかしらインユェ君、これがあなたのいうところの、旧型で、ジャンク屋のパーツ取り用くず宇宙船の内部よ。お気に召したかしら?』
「あの、本当、すんませんでした、もう二度とあんな失礼なことは言いません、だからもう勘弁してくれ……」

 インユェは総身に冷や汗を流し、見るも憐れなほどにたじたじである。
 ダイアナはくすくすと笑い、インユェをからかうための矛先を収めた、
 リィ達にすれば勝手知ったる船内だが、インユェとメイフゥは初めて見る《パラス・アテナ》の内部である。子供のようにきょろきょろと辺りを見回しつつ、自分に割り当てられた客室に荷物を放り込み、そして歓談室に集まった。
 
「マルゴみたいな子供を人質にするなんざ、『銀星』ラナートっつったか、グランド・セヴンも地に落ちたもんだ」

 行儀悪く、椅子の上に片膝を立てて座ったメイフゥが、憤懣やるかたないと言った調子で毒づく。まだまだ少女と呼ぶべき年齢の彼女であっても、宇宙に生きる者として、グランド・セヴンの勇名には憧れを覚えていたのだ。
 もう半世紀も昔、ゲート航法の黄金時代、自前のゲートと軍艦並に武装した艦艇をもって、連邦警察や共和宇宙軍を正面から相手取り、一度も白旗を揚げることのなかった宇宙の男達。
 既に、彼らのことを直接知る人間は数を減らしているが、それでも、まるで中世の吟遊詩人が村々に伝説を語り広げたように、口伝でもって彼らの勇名は語り継がれ、決して色あせることはない。
 幼稚な言葉を使うことが許されるなら、メイフゥやインユェにとって、グランド・セヴンは一種のヒーローだったのだ。普通の子供が記録映像や漫画の中の主人公に憧れ育つように、二人は海賊達を英雄に見立てて育ってきたのだ。
 そのヒーローが、年端もいかない、しかも半死半生の少女を捕まえ、交渉材料として用いるなど、幻滅をするには十分すぎる材料である。
 憤慨するメイフゥに、しかし、いつものことならば彼女以上に沸騰しているだろうインユェは、不自然なほど静かに沈思していた。
 そんな、対照的ともいえる姉弟を尻目に、リィが口を開き、
 
「グランド・セヴンねぇ……。半世紀も前に活躍した海賊っていうなら、ケリーとは顔見知りなんじゃないのか?」
「おそらくそうなのではないかと……。以前、ジャスミンが言っていた、ケリーに男惚れしている連中とやらの中に、その名前があった気がします」

 シェラが人差し指を唇に当てながら応える。

「なら、本当の狙いはケリーの命じゃなくて、ケリーの身柄なのかな。あらためて自分の部下にするつもりとか」
「残念だけどエディ、キングの性格からして、絶対にそれは無理だ。脅しても宥めても泣き落としを使っても、絶対に彼は靡かない。仮に首輪でもつけて身体を繋ぎ止めることは出来ても、心を自由にするわけにはいかない。なら、宝の持ち腐れも甚だしい。仮にも大海賊って名乗るくらいなら、それくらいは分かっていると思うけど……」
「それに、万が一ケリーが捕まったら、奥さんの方が黙っちゃいないからなぁ」
「だよねぇ」

 ルウは深く納得した。
 普通は逆である。妻の危機に夫が奮い立つ例は、創作実話を含めて宇宙の歴史の中では枚挙に暇がないが、その逆を地でいくのはあの夫婦くらいなのではないか。
 さらに付け加えるならば、どうやらラナートという人物は、ジャスミンとも知己だという。ならば、夫を奪われた彼女の危険度が如何ほどのものか、実例を目の当たりにせずとも理解しようというものだ。
 
「そうするといよいよ分からない。こんなところまでケリーを呼び出して──しかもおれ達も一緒でいいと断りを入れて──何をするつもりだろう」
「俺は、なんとなく、分かる気がする……」

 ぼつりと呟いたのは、今まで一言もしゃべらなかった、インユェである。
 全員の視線が集中する中、一人じっと床を見つめた少年は、しかしその後、一言も喋ることはなかった。
 じっと、床の一点を見つめ、微動だにしなかった。
 そしてもう一人、形の良い顎先に、ほっそりとした指を当てながら考え込む少女がいた。

「ラナート……」

 どこかで、その名前を聞いた気がする。ウォルは確かにそう思った。
 最近だ。つまり、この世界に来てから。まだ指折り数えるほどしか知らない誰かの名前に、その響きがあったような気がする。
 果たして、どこで。



 直径僅か二キロメートルほどの、何の特徴も無い小惑星であった。
 注意しなければ他の小惑星に紛れてしまうであろうその星を、ケリーの双眼は見逃すことなく、巧みな操船技術で《パラス・アテナ》を接近させていく。
 すると、岩石の塊にしか見えなかった小惑星の表面に幾何学的な裂け目が現れ、その裂け目が次第に大きくなっていった。そこから見える小惑星の内部には金属板や各種舗装が施されており、綺麗に整えられた着陸場となっているようだ。
 明らかに人の手を加えられた痕跡が残っている。どうしてこのような秘境の宙域に、このような小惑星があるのか。誰の目にも不審を招かずにいられないだろう。
 しかしケリーやジャスミンの表情に、驚きは奇異の感情は浮かんでいない。むしろ当然といった面持ちで、その裂け目に《パラス・アテナ》の艦首を向け、小惑星の内部へと侵入した。
 
「以前来たときは、確か真っ暗だったのに、随分と待遇の良いことだ」

 ジャスミンが片頬を歪めて呟けば、

「前は突然の珍客扱いだ。今回はきっちりとした賓客だぜ。無論、ホストは別人だがな」

 ケリーはそう返し、ジャスミンを納得させた。
 そしてケリーは《パラス・アテナ》を着陸場に固定させた。その隣には、《スタープラチナ》に似た、しかし遙かに大型で重厚な装いの宇宙船が停泊している。

「《シルヴァースター》……」

 ジャスミンにとっても見間違いようのない、それは船体であった。
 遠い昔──彼女にとっては数年前のことだが、ラナート本人の突然の招待に戸惑いつつも、しかし自らの足と意思でもってこの船に乗り込み、数日を楽しんだ。その間、昼は荒くれ者の船員──言うまでもないことだが全員が海賊だ──の中に交わり、賭け事や戦闘機の操船技術で競い合った。夜は、船長室で過ごすことが多かった。
 政財界の頂点にいた夫婦、その妻が、各国の要人との会談をキャンセルしてまで、不法者の船に乗り込むことを選んだのだ。不貞行為と罵られても弁解しようのない数日であり、それはまた事実でもあったが、夫であるケリーは笑って許してくれた。いや、許すという発想すらなかったかも知れない。
 色々と型破りな数日間であったが、少なくともジャスミンにとっては素晴らしい思い出として記憶されるべき束の間の休日であった。
 ジャスミンは、それほど広くはない着陸場をぐるりと見回したが、《シルヴァースター》以外の船を見つける事は出来なかった。

「少し意外だな。もっと、海賊達が大挙して待ち侘びていると思ったんだが……」
「ここは連中にとっちゃ聖地みたいなもんさ。中には遠慮する人間もいるだろうよ。第一、あの戦場にいた奴らを一から十まで詰め込んだら、人間だけでこの洞窟はパンクしちまう」
「なるほど、そのようなものか」

 ケリーは器機を確認し、船外に酸素が供給されていることを確認してから、歓談室で待機しているリィ達に到着を知らせた。

「じゃあ、ちっと行ってくるぜ。大人しく待ってるんだぜ、ダイアン」
『ちょっとやめなさいよ、人を犬か何かみたいに』

 《パラス・アテナ》の感応頭脳は苦笑混じりにそう言った。

「馬鹿なことを言うなよ。俺がいなくて寂寥の涙に暮れる美女に向けて言ったつもりなのによ」
『そういうことは奥さんに言ってあげるものよ、ケリー』
「こいつはそんなこと、言ったって聞きやしねぇさ。鎖でふん縛ったって、それを食いちぎって暴れ出すのが目に見えてる」

 二人の会話は、もちろんジャスミンにも聞こえている。
 だが、当然というべきか今更というべきか、この程度のことでジャスミンが怒ることはない。
 平然とした調子で、

「まぁ概ねお前の言うことは否定しない。しかし、残念だが海賊、そういう意味ではわたしもダイアナも同じ種類の女だと思うぞ。待てと言われて大人しく待っていた例しが今まで一度でもあったのか?」

 真面目にそう訊かれると、ケリーも前言の誤りを認めるしかない。
 わざとらしく溜息を吐き出し、

「どうして俺の周りには、こうも恐い女ばかり集まるかね。それも超弩級のやつばっかり」
『きっと前世で女の人に酷いことをした報いね、大人しく悔い改めたらどうかしら?』
「いやいや、ダイアナ、それは違う。この男はわたし達のような女に手綱を握られるのが好きなのさ。こういうふうに苦い顔をすれば、わたし達がやる気を出すのだと理解しているらしい。ここは一つ、思い切り振り回してやるのがこの男の望みだと思うぞ?」
『あら、ケリー、あなたそういう趣味があったの?早く言ってくれればいいのに、水臭いわぁ』

 スクリーンに映し出されるダイアナの格好が、そういう男の人ならばたまらないだろう、特殊で扇情的な装束に変化した。そして、手には何に使うのか、乗馬用の鞭などを持っていて、楽しそうに素振りしている。
 ケリーは流石にげんなりとして、

「生憎だが、俺は女に尻を叩かれて喜ぶ趣味も、女の尻を叩いて喜ぶ趣味はねぇぜ」
『機械に叩かれて喜ぶ趣味は?』
「もちろんありゃしねぇよ!」

 ここまでがジャスミンの耐久力の限界だった。もう何日も寝ていない、疲労困憊の身体に生気を漲らせ、大笑いに笑う。
 釣られて、ケリーも笑ってしまった。もう、果たして何日ぶりか分からない笑いだ。この女達が果たして自分の人生を幸福の岐路に向けてくれているのか、ケリーには分からないが、少なくとも笑いの多い方向には導いてくれているらしい。それはきっと、感謝を捧げるべき事だろう。

『それだけ笑えるなら安心だわ。ケリー、必ず帰ってきてね』
「そういう真面目な台詞をボンテージ姿で言うなよ、腰から砕けそうになる」
『あら、気が付かなかったわ。わたしったらはしたないわね』

 そういうと、ダイアナは普段の船員服に戻る。

『ラナートはわたしも良く知ってるから、あなたに対して無茶なことをするつもりは無いと信じたいけど、彼が操られていたり脅迫されていたりする可能性もあるから、絶対に気を抜かないこと。いいわね?』
「むしろそれなら安心だ。相手は銀星本人じゃないってこったからな。一番やばいのは、本気のあいつを正面から相手どらなけりゃならないケースだぜ。心配するならそっちの心配を頼む」
『……そうかも知れないわね。気をつけて、とは言わないわ。だから、絶対に帰ってきなさい。いいわね?』
「承知したぜ、ダイアン」

 ケリーとジャスミンは操縦室を出、通路の途中でリィ達と合流し、全員で《パラス・アテナ》の外に出た。
 宇宙船着陸場のある格納庫は、いかにもがらんとしていて、そして古びていた。
 清涼で、どこかに機械油の匂いが漂う、いかにも宇宙海賊らしい空気が、その空間に満ちている。しかし、その空気の中に埃っぽさと錆臭さが混じっているのは隠しようがない。
 もう半世紀も前、ケリーとジャスミンがこの場所を訪れた時は、こうではなかった。ここには歴とした主人がいて、この場所を守っていたからだ。
 この隠れ家に、今、住む者はいないのだろう。人の手が、ほとんど入っていないのだ。奇特な誰かが定期的に整備をしてはいるのかも知れないが、それでも使われなくなった設備は急速に痛み、そして風化していく。
 
「懐かしいだろう、ケリー・クーア」

 首を巡らし格納庫を見渡していたケリーに、太い、良く響く声が向けられる。
 その声の源に、一人の男が立っていた。
 見栄えのする男だった。がっしりと肉付きの良い体躯の上に、端正な顔が乗せられている。
 それも、ただ形が整っているだけではない。男の送ってきた波瀾万丈の人生に相応しいだけの威厳と深みが皺として刻まれ、見る者の襟を正さずにはおかない程の迫力を醸し出しているのだ。
 
「お前がここを訪れたのは何年ぶりのことになる?あの事件の直前、アレンジマシンを融通してくれるよう親父に頼みに来たときだとするならば、およそ半世紀も前のことか?」
「ああ、その通りだな、キャプテン・ラナート」

 男は──『銀星』ラナートは、冷ややかな視線でケリーを射貫いた。

「もう、随分昔に、親父は──大海賊シェンブラックは、この世の人では無くなった」
「そりゃあそうだろう。爺さんはもう、あの時でも随分小さくなっちまってたんだ」
「ああ、そうだ。あんなにでかかった親父が、片手で持ち上げられるくらいに軽くなってしまった。棺桶は、子供用のサイズより少し大きいくらいで間に合ったよ。きっと今も、この辺りの宙域のどこかを漂っているんだろう。ずっと、これからも永遠に」
 
 タラップを降りたケリーは、ラナートの正面に相対した。彼我の距離は、二十メートル程か。言うまでもなく、銃の有効射程内である。
 ケリーの後に、ジャスミン、リィやウォル達、そしてインユェとメイフゥが続いた。中でも、メイフゥはぎらぎらとした視線でラナートを睨め付けている。殺気すら込めた視線だ。それほど、重傷を負ったマルゴを人質にするというラナートの遣り口に、腹を立てているのだろう。
 また、ラナートの背後にもいくつかの人影がある。それは、例えば『花火師』アーウィン・ショウ 、『毒花』バーバラ・ベル・ゲデス、『血頭』ダシール・ハメット、『亡霊師団』サミュエル・ドミトリクなど、先の戦いでいくつもの武功を立てた海賊団の頭領の姿であった。
 
「お前はここで昔話をするために、わざわざ俺を呼び出したのか?それなら、こんなしち面倒くさい手妻を踏むまでもねぇ、一言声をかけてくれりゃいつだって飛んでくるさ」
「そうだったな、お前を呼び出したのはビジネスの話をするためだった。忘れていたよ、ケリー・クーア」

 ラナートが顎をしゃくると、屈強な体つきの部下が一人、医療用カプセルの乗せられた台車を押してきた。
 縦になったカプセルの一部は透明な素材で造られており、そこから、薬液に満たされた内部と、目を閉じたまま身動ぎしない少女の顔を見ることが出来た。
 その医療用カプセルに入れられているのは、紛れも無くマルゴ本人だった。
 マルゴが生きている。その事実をあらためて知ったケリーの顔に、しかし一切の喜びはなかった。内心でどれだけの歓喜が爆発したのだとしても、それを表に出すような男ではない。
 
「これが、こちらの用意出来る商品だ。確認したか?」
「ああ。で、恐え恐え海賊さんは、憐れな俺に何を要求するんだい?」

 ケリーが戯けた調子でそう言うと、ラナートは苦笑し、

「生憎だが、この商談については俺は単なる窓口でな。これから先は、権利者に道を譲らせて貰おう」
「ケリー・クーア、どうも貴様は思い違いをしているらしい。まずはその辺りから説明する必要があるな」

 ラナートの背後から、まるで影が起き上がるように、一切の気配無く、一人の老人が姿を現した。
 既に相当の高齢だろう、しかし背筋に曲がったところはなく、鍛え抜かれた四肢には力が漲っているようだった。
 ただ、射貫くように細い視線と、口元の表情を隠すように蓄えられた立派な髭が、どうにも不気味な様子であったが。
 その老人を見て、メイフゥが息を飲んだ。

「ヤームル……どうしてここに……」

 確かにその老人は、二人の後見人を務め、親代わりとしてずっと付き添ってくれた男の姿だった。
 しかし、身に纏う雰囲気があまりにも違う。メイフゥが知っているヤームルという男は、有事はともかく、普段はまるで陽だまりで寝転ぶ大型犬のように、ゆったりとした慈愛と柔らかさに満ちていたというのに。
 メイフゥの呟きは、おそらく老人の耳に届いていただろう。だが、老人はメイフゥに対して視線を寄越すことすらしない。ただ、底冷えのする視線でケリーを凝視し続けていた。

「あの時、城の地下にいた爺さんだな、あんた」
「だとしたら、どうだと言う?」
「別に。ただ確認したかっただけさ」

 ヤームルは、冷笑をケリーに向けた。無為なことを、と蔑むように。
 そしてケリーは肩を一つ竦め、

「無駄話が気に食わないなら話を進めようか。まず、あんたの要求を聞こう。そうしてもらわないと話が先に進まない」
「そこが貴様の思い違いだ、ケリー・クーア。我々がこの少女を拐かし、卑劣な脅迫を行っているのだと考えているのか?違うな。残念だが、この少女は正当な契約でもって、既に俺の所有物だ」

 どういうことか。ケリーが無言で続きを求める。
 ヤームルは、医療カプセルに収められたマルゴの穏やかな寝顔を見遣り、

「この少女は、父親と呼ぶべき男に捨てられた。重い傷を負い、誰からも省みられることなく死ぬところだった。それを、俺が気まぐれに助けた」
「……だから、それだけのことで、こいつがお前のもんだと?ずいぶん乱暴な理屈だ。その理屈が正しけりゃ、救急隊員は奴隷商人で一山当てられそうだな」
「そして目覚めた彼女は、死を希った。全てを失った。全てが恐ろしい。だから殺してくれ、とな」

 ケリーは表情を消してヤームルの言葉を受け入れた。おそらく、いや、間違いなく、この男は真実を口にしている。アーロン・レイノルズの呪縛を受け、そして裏切られたマルゴならば、一も二もなく死を受け入れただろう。自分から望んだに違いない。
 
「そして俺は彼女の願いを聞き入れた。ただし、一つの条件をつけて」
「……条件、だと?」
「俺の知る、一人の少年を守ることだ。そして、その少年の成そうとすることに助力すること。そして、どうやらそれは達成されたらしい」

 ヤームルはちらりとインユェを見た。
 インユェも、自分が見たことのない、恐ろしい迫力の込められたヤームルの視線を、正面から受け止め、そして目を逸らさなかった。
 その様子に、ヤームルは心中、微笑んだか否か。

「彼女は俺の依頼を完璧にこなしてくれた。ならば、俺には彼女の要望に応える義務がある。俺にはこの少女をあの世に送り届ける義務があるということだ。どうだ、俺の理屈は詭弁か?」
「……いいや、あんたの言っていることが正しいんだろうな。契約の履行が為されたのに報酬を払わずにとんずらこけば、そいつは詐欺師呼ばわりされても文句を言えない」

 ケリーの言葉に、ヤームルは頷くことすらしない。それが当然のことだからだ。特に、口約束をこそ何よりも固く守るべしとされる海賊達の世界では。

「俺にはこの少女を殺す義務がある。そして義務の履行を邪魔するやつがいるならば、俺にはその不届き者を排除する権利がある」
「なるほど、で、この場合は俺がその不届き者な訳だな」
「誰に知らせることもなくこの娘の願いを叶えることも出来た。しかしケリー・クーア、貴様はこの娘と浅からぬ縁があるらしい。だから、最低限の仁義として貴様の耳にはこの少女の死を伝えておくことにした。この少女に伝えたいことがあるなら言っておけ。気が向けば、最後の瞬間に伝えてやってもいい」

 ヤームルの言葉を受け、ケリーが口を開きかけたとき、しかしケリー以外の声が広い格納庫に響いた。

「馬鹿を言うんじゃねぇぞ、ヤームル」

 その場にいた全員の視線が、ケリーの後方にいた、銀髪の少年の顔に集中する。
 歴戦の古強者である海賊達の、明らかに自分を異物と認識した、ごわごわとした視線。青二才と侮る視線、ケリー達のやり取りを邪魔した事に対する苛立ちの視線。
 もしも、半年も前のインユェであれば、それらの視線を浴びて、たちまちに萎縮して言葉を失ってしまっていただろう。もごもごと何かを呟き、ふてくされたような表情で後ろを向き、自分以外の誰かを罵りながら元の立ち位置に戻り、苛立ち紛れに唾の一つも吐き出したかも知れない。そして、この場においては誰からも忘れられた存在に成り果てていたに違いないのだ。
 しかし、今のインユェは怯まなかった。自分に浴びせられる、物理的な圧迫感すら感じる視線の束を正面から睨み返し、少し陰気な表情の少年は、背筋に力を入れて歩を進めた。
 そんなインユェに、今度は視線よりも遙かに恐るべきものが向けられた。
 銃口である。

「おう、若ぇの。命が惜しかったらよ、そこまでにしときな」

 足を止めたインユェに言葉を向けたのは、この場で最年長であり、『花火師』の異名を持つ大海賊でもある、アーウィン・ショウであった。
 既に年は百を超えているだろう。正確な生まれ年はおそらく本人ですら分からないに違いないのだが、彼が宇宙に名を馳せた時期から逆算すれば、それは間違いないなのだ。
 しかしこの古海賊の地面を踏みしめる足は頑健そのものであったし、背筋はちっとも曲がっていない。それに、今、インユェに向けている銃口も、ほんの少しも震えたりはしていなかった。ぴたりと、少年の胸の中央、心臓の位置に向けられて静止している。

「お前とヤームルがどういう関係かは聞かねぇ。のっぴきならねぇ事情があるこたぁ百も承知よ。その上で、若ぇの、忠告しといてやる。ここはな、お前さんの舞台じゃねぇのさ。この場所は、お前さんには分からねぇかも知れねぇが、たいそう海賊連中に縁深い場所でな。正直を言やぁ、この男以外のあんたらには、今すぐ立ち去ってもらいてぇくらいなのよ、俺はな。それを、百歩譲って観客席に立ち入るのは良しとしようや。だが、そこまでだわな。それ以上は、役者の領分だ。観客が立ち入るのは、無粋を通り越して野暮天だ。鉛玉の一つもぶち込まれたって文句を言えねぇってなもんさ」
「なるほどね、あんたの言うことはもっともだな、爺さん」

 インユェが無表情に頷いた。
 それを見たショウは、片眉をぴくりと振るわせ、

「脅しだと思うかい?」

 インユェは首を横に振った。

「あんたみたいな、自分の命だって見切っちまったような死に損ないの爺さんがよ、今更何を恐れるもんかよ。刑務所なんざ鼻歌交じりに行ってこいだろう?なら、いけ好かねぇ糞餓鬼が、大事な場面でしゃしゃり出てきたんだ。警告無しでズドンが当然なのに、あんたはお優しいもんだ」

 ショウは、ただでさえ皺に埋もれたような顔をもっとくしゃくしゃにして笑った。無論、銃口をインユェに向けたまま。

「分かってもらって嬉しいよ、お若いの。なら、こっちも無粋なこたぁ言わねぇよ。早くこの老いぼれに、重たい玩具を仕舞わせておくれ」
「残念だが、そいつは聞けねぇな、爺さん」

 インユェは一歩、足を進めた。
 ショウの指が引き金にかかり、僅かに引き絞られた。もう少し、あと数ミリ指を曲げれば、銃弾は自動的に発射され、インユェの心臓を射貫くだろう。

「……おいおい、脅かすんじゃねえよ、若いの。あんた、もう一歩足を進めてたら、おっ死んでたぜ」

 むしろ呆れたように言う古参海賊に、

「お、俺も、う、撃たれるかと思ったよ」

 片頬を引き攣らせ、胸を大きく波打たせて呼吸を繰り返すインユェは、総身を恐怖と緊張にがたがた震わせている。

「……若ぇの、あんた、命が要らねぇのかい?脅しじゃないことが分かってんならよ、お前が死ぬってことだ。そんな簡単なことも分からないくらい、頭がいかれちまってるのか?」
「ばば、馬鹿言うなよ。俺だって命は惜しいよ。いや、今まで生きてきて一番、今が死にたくねぇよ」
「ほう、どうして」
「す、好きな女がいるんだよ」
 
 顔を青ざめさせ、涙さえ浮かべながら、インユェは虚勢の笑みを浮かべた。

「ほ、本気で惚れた女なんだよ。爺さん、あんたみたいな人生の大先輩に言わせりゃさ、青臭ぇ餓鬼んちょの麻疹みてぇなごっこ遊びかも知れねぇがよ、もうこれから先、そいつ以上に良い女なんて絶対に会えるもんじゃねぇってくらいに良い女に、心底惚れ込んじまったんだよ、俺は」
「……」
「だから、死にたくねぇよ、俺は。絶対に、そいつを俺のもんにするまでは、死ねねぇんだよ。でも、仕方ねぇじゃねぇかよこんちくしょう、ここで退いたら、昔の俺に逆戻りなんだからよう。それは、死んだって出来ることじゃねぇんだよ」

 ショウは、少し呆れたような、それとも驚いたような表情で、まじまじと目の前の少年を見た。
 年の頃は、自分の孫、いや、曾孫といってもいい年齢である。星によっては、まだ教科書と鉛筆を供に、受験勉強やら部活動やらに明け暮れていても不思議ではない。
 その少年が、自分の向ける殺意に正面から立ち向かい、小便すら漏らしそうな情けない顔で、大見得を切っているのだ。
 殺すのは簡単だ。自分の命の価値も弁えず、向こう見ずに突っ込んでくるだけのチンピラならば、最初の警告も無しで撃ち殺している。しかし、この少年を、こんなところで殺していいものか。
 逡巡しているショウと、遠目にも分かる程震えているインユェの対峙の背後で、難しい顔をした少女が一人。

「……ずいぶん愛されてるなぁ、お前」

 その少女の婚約者であるリィが、ウォルの肩を叩いた。

「本当に、おれからあいつに乗り換えたらどうだ?きっと、あいつならお前を幸せにしてくれると思うぞ」

 婚約者とも思えない一言である。普通の女性がこんなことを言われれば、びんたの一つもくれてやるのが普通だし、その程度で気が済めば御の字といったところだろう。
 しかし、普通という枠にどう工夫しても詰め込めそうもないその少女は、重々しく溜息を吐き出すだけだった。

「俺もそう思う。あいつならば、俺を女として幸せにしてくれるだろう。だから、もしも俺が本当の意味で生まれ変わって、女としての生を授かったなら、あんな少年に愛されたいと思うし、愛したいとも思う。しかし、何の因果か俺は俺としての生を再び生きねばならん身だ。ならば、どうしたってあいつの想いには応えられんのだ。それが、心底申し訳ないし、歯痒い」
「まぁ、そうだろうな」
「ただ、あいつには恩義があるからな。何度も危ないところを助けられた。黙って高みの見物を決め込める身分ではないだろう、俺は」

 ウォルはそう呟き、いとも容易い歩調でインユェに肩を並べる位置まで歩き、銃口をこちらへと向ける老海賊に一礼した。

「お初にお目にかかる。ご老人、俺がこの少年の言う、良い女です」

 にべもない自己紹介に、今度こそ老海賊の目がまん丸に見開かれる。
 同時に、インユェは大慌てでウォルを自分の体の影に隠そうと引き寄せ、

「馬鹿、ウォル、女がこういう場面ででしゃばるんじゃねぇ!」

 極端な性平等主義者などからすれば噴飯ものの台詞であったが、ウォルはにやりと笑い、

「では訊くがインユェ、こういう場面で男の後ろに隠れて大人しくしている女に、お前は惚れたのか?」

 こう言われてしまうとインユェとしても返す言葉がない。少年の魂の奥底までをも奪い尽くしてしまったのは、いつだって自分を庇い、或いは肩を並べて戦ってくれた少女だったのだから。
 いつの間にか、ウォルの手が、インユェの固く握られた拳の上に重ねられていた。そうすると、まるで魔法にでもかかったかのように震えも力みも溶け去っていき、残ったのは燃え盛るような闘志だけだ。
 
「……お前は本当に良い女だよ」
「知っているかインユェ。生憎だが、その言葉は俺にとって褒め言葉にならんのだぞ」
「じゃあ、そうだな、ウォル、お前は良い男だ」
「それなら良し」

 どう見ても将来の美女の卵にしか見えない少女は、そう言って微笑んだ。
 そして二人は再び、相変わらずインユェの心臓に銃口を向ける、ショウに相対した。
 ただし、今度は追い詰められた少年の表情ではない。不敵な、まるでいくつもの修羅場を潜り抜けたことがある男のような顔で。
 その一事だけで、少年にとっての少女がどういう存在か、嫌でも分かろうというものではないか。

「ってこったよ、爺さん。俺には惚れた女がいて、こいつの前ではいつだって男じゃなくちゃいけねぇんだ。格好つけなきゃいけねぇんだ。だから、例え殺されたって、後には退けねぇ。俺には俺の為すべきことがあるからだ」
「そして、俺はそんな理由のために、こいつを殺させるつもりは毛頭ない。ご老人、あなたの仰る道理は百も承知だが、ここは横車を押させてもらうぞ」

 ウォルはそう言って、腰に履いた鞘から剣を抜き放った。
 濡れたように光を跳ね返す、妖しい刃だった。宝物を飽きるほどに見慣れているだろう海賊連中にも、一目でそれが規格外の業物であると、いや、それ以上の品であると分かる。
 しかし、幅広で肉厚の長剣は、どう見ても少女に似つかわしい武器ではない。

「……お嬢さん、あんた、そのだんびらにその細腕で、俺の銃と渡り合おうってかい?ずいぶんと見くびられたもんだ」
「確かに、考えてみれば初めてだな。矢くらいならいくらでも斬り落としてきたものだが、果たして銃弾に同じ事が出来るかな?」

 まじまじと自分の剣を見つめ、むしろ少しわくわくとした調子で言ったウォルである。不謹慎かも知れないが、戦士としての好奇心がそうさせるのだろう。

「ばかやろう!ウォル、てめぇまじでそんなこと出来ると思ってんのか!いくらお前が化け物じみた剣士だったとしても、出来ることと出来ないことくらい弁えてろ!」
「いやいや、やってみなければ分からんぞ。元の体ならばいざ知らず、この体は信じられんくらいに速く、思い通りに動いてくれる。それに、この剣の常識外れなことはお前も良く知っているだろう。銃弾を叩き落とすくらいならば、意外と訳もないかも知れん」
「だから!そういうのは事前に練習しとくもんだ!ぶっつけ本番で失敗したらどうするんだよ!」
「やってみなければ分からないという、便利な言葉があるではないか。成功した者は皆、そう言っているぞ?」
「失敗したやつはみんな死んでるからそういうことになるだけだ!」

 ウォルの声は一応真剣なのだが、彼女のことをよく知るリィやシェラなどが聞けば、この状況を楽しんでいるのが丸わかりである。
 そも、ウォルが矢面に立った時点で、既に海賊達に勝ち目は無いのだ。この場にいる海賊達が歴戦の強者揃いなのは分かる。目の前に並んだ厳めしい表情の、風格も、そして迫力も、例えば惑星ヴェロニカで叩きのめした木っ端海賊達とは大違いだ。
 だが、それでもなお、異世界の覇王であったウォルには、一歩も二歩も及ばないものがある。それは、華だ。言い換えれば、場の雰囲気を支配し、己の意のままにする力。つまり、ウォルが王として長年培ってきた力である。
 
「勝負ありだな、これは」
「そうだねぇ」

 そう言ったのは、リィとルウであった。
 この場でウォルの華に抗えるのは、リィの見立てでは、ラナートと呼ばれた銀髪の大男と、その隣に立った、インユェ達がヤームルと呼んだ口髭の見事な老人くらいのものか。
 然り、未だ銃を構えた『花火師』ショウの肩に、白魚のような手がぽんと置かれ、

「あんたが悪い訳じゃないし、あんたの言ってることはあたし達の想いを代弁したもんだよ、ショウ。良く言ってくれた、ありがとう。それでも、ここはあんたの負けだ。最初に引き金を引けなかった時点でね」

 妖艶な女の、呆れかえった声である。それは、『毒花』バーバラ・ベル・ゲデスの、笑いを噛み殺した声だった。
 普段であればこの女海賊の言うことには一々噛みつかないではいられないショウも、肩を一つ竦めて銃を下ろした。

「……坊主、つまらねぇこと、すんじゃねぇぞ。俺をがっかりさせたら後が恐ぇかんな」

 どすを利かせようとして失敗した声であった。いつの時代であっても、老人は前途の豊かな若者を嫉妬し、同時に羨望し、そしてその背中を押したがるものなのだから。
 インユェは、ショウに深く一礼し、隣に立ったウォルを見た。
 ウォルは真剣な面持ちで一度頷いた。それだけで、インユェは背中に羽が生えたような、そんな気持ちで足を進めることが出来た。
 そして、インユェは、その男の前に立った。

「久しぶりだな、ヤームル」
「……ええ、お久しぶりです、お坊ちゃま。無事に、ウォルを連中の手から救い出されましたな。よくぞ仕遂げられました」

 インユェは頷く。
 互いに、もう、何ヶ月も、いや、何年も顔を合わせていないような気がした。
 インユェにとってのヤームルは、自らの育ての親であり、何度も自分を助けてくれた恩人だ。あの時、隠れ家をマルゴ達に強襲された時も、自分だけが逃げようと思えば如何様にでも出来たはずである。それを、敢えて敵の注意を引きつけるために、無謀な戦いをした。一歩間違えれば、あの場所で殺されていてもおかしくなかった。今ならば分かる。ヤームルは、いつだって自分を守ってくれていたのだと。
 そして、ヤームルにとってのインユェは、もっと複雑な感情の対象となる。愛娘の残した孫であり、忠誠を捧げたラナートの息子であり、それらの事実を隠して、育ての親として振る舞ってきた。
 いつまで経っても甘さの抜けない少年に、苛立ちを覚えなかったとは言わない。しかし、たったの数週間も顔を合わせない間に、どうだろう、少年はすっかりと変貌を遂げていた。まだまだ隙は多い。しかし、彼の器に満たされた液体は清浄で、豊潤で、量も申し分ない。このまま成長すれば、さぞ立派な若木となり、大樹となるだろう。
 その変化をもたらしたのが、インユェの背後からこちらを見つめる、黒髪の少女であることをヤームルは疑わなかった。自分にはどうしても出来なかったことをやり遂げてくれたのだろう。
 ヤームルは、以前のヤームルの視線で──暖かみと慈愛の籠もった眼差しでウォルを見て、深々と腰を折った。

「……なぁ、ヤームル。こんなこと言ったらどやされるかも知れねぇけどさ、もう、俺、何も知らないがきじゃなくなったよ」
「……それは?」
「自分が何者で、どういう存在か、ようやく分かったんだ。姉貴にも、お前にも、随分苦労をかけちまった……」

 海賊達には、インユェが何を言っているのか分からなかった。
 しかし、ウォルやリィ達、そしてヤームルには、インユェの言わんとすることが十分に伝わった。つまり、少年は少年以外のもう一つの現し身を得たということだ。
 ヤームルは、毛の先ほども表情を動かすことはなかった。ただ静かに瞑目し、天を仰いだ。
 
「そうですか、それは……それは……ようございましたな、お坊ちゃま」
「ああ、よかったよ。だがなヤームル。そんなことを報告するために、わざわざこの場に割り込ませてもらったわけじゃねぇんだよ」
「ええ、それはそうでしょう」

 頷いたヤームルの視線は、もう元に戻っていた。鋭く冷たい、海賊のそれだ。

「お前、俺に言ったじゃねぇかよ、もう忘れちまったのか」
「……忘れたとは、何を」

 インユェは、自嘲の笑いを溢す。

「俺がさ、おかしな星で拾った女の子を、人買いに売り渡すって言った時のことだよ」

 インユェの後ろで、当の女の子であるウォルが、少し目を丸くした。

「拾っただけの無力な女の子を売り渡して金に換えるなんて外道のすることだ。船を売り渡しても買い戻せばいいだけだけど、品性を売り渡しちまえば二度と買い戻せねぇ。そう言ったのはお前だったよな、ヤームル」
「……ええ、確かにそう言いましたな」
「じゃあ、今のお前は何なんだよ。マルゴを殺す権利があるのか、殺す義務があるのか、そいつは知らねぇがよ、とにかく、拾っただけの無力な女の子を材料にして、ケリーさんを脅迫してるじゃねぇか。それはお前が口にした、品性を売り渡す行為と何が違うんだ」
「……」
「その上、もしケリーさんが話を無視すれば、マルゴを現物支給で部下にくれてやるだと?それこそ、俺がウォルにしようとしたこと、そのまんまじゃねぇか。お前は自分の品性を売り渡して、買い戻す算段が立ってるのか?それとも、もともと品性なんざ持ち合わせちゃいないっていう、その程度の男だったのか?」

 ヤームルは、流石に少し驚いたのか、傍らに立つ、かつての友であり今の頭目である男に小声で話す。

「おい、銀星、どういうことだ。少し、俺の聞いている話と違うようだが?」

 声を向けられた銀髪の男は悪びれもせず、

「海賊王をこの場所に呼びつけること。手段は全て任せる。そう言ったのはお前だ、猟犬」

 ヤームルは再び天を仰いだ。ただし、今度は神に感謝を捧げるためでは決してなかったが。
 大きく溜息を吐いたヤームルは、再びインユェの方へと向き直り、

「まぁ、どうやら少々手違いがあったようですが……しかし、お坊ちゃま、概ね、あなたの仰ることは正しい。私は無力な少女を出汁にして、そこにいる男をここへ招いた。その点には弁解のしようもございません」
「……なんでだ。どうして、ケリーさんをここへ呼ぶ必要がある。呼びつけて、一体どうしようっていう腹づもりだ」
「何、その点については嘘偽りを述べた覚えはございません。私には、その男の存在が受け入れ難い。その男がこの世にいること自体、その男がこの世で息をしていること自体、どうしても許せない。言葉を選ぶならば、不倶戴天ということです。だから、丁度良いこの機会に、現世からの退場を願いたいと、そう思った次第ですよ」

 寧ろ優しささえ感じさせる声の調子だった。
 しかし、インユェの耳には育て親の優しい声が、今まで聞いたどの人間の声よりも恐ろしく、そして不吉に聞こえた。それはつまり、ヤームルが今まで数え切れない人間を殺したことがあり、今回も本気でケリーを殺そうと思っているからだろう。
 震えそうになる舌の根を必死で押さえつけ、インユェはもう一度訊いた。

「どうして、殺す必要がある」
「一言では、とてもとても……。例えば、その男が開発を推し進めたショウ・ドライブの隆盛により、海賊の時代が終わりを告げたこと。例えば、困窮し飢え疲れた海賊達を尻目にその男が栄華を極め続けたこと。何でもいい、理由をつけようと思えばいくらでもつけられる。だが、そんなものに意味など無い。最も大事なのは……ただ、俺はその男の存在が気に入らないということだ。人を殺すのに、これ以上上等な理由なんてない。そうは思わないか、インユェ」

 口調が、自分に対する常のものではなくなった。
 それが、果たしてどういう意味を持つのか、分からないインユェではない。つまり、もう、インユェやメイフゥの後見人であり家令であるという皮を脱ぎ去ったという意思表示だろう。
 そもそも、具体的な契約や主従の誓いなど、一度だって結んだことがない。インユェやメイフゥにしてみれば、自分達とヤームルがどういう関係にあったのかすら知らない。ただ、宇宙を目指して家を飛び出した自分達のことをどこからか聞きつけ、いつの間にかそういう関係になっていただけのこと。
 そう、考えてみればそれだけなのだ、自分とヤームルは。親代わりのこの男のことを、自分は何一つ知らない。どうしてケリーをこうも憎んでいるのか。何がそこまでヤームルを駆り立てるのか。何も分からないことに、インユェは愕然とした。
 ただ、今しがたヤームルが挙げた理由は、きっとこの男の本心ではないだろうことだけは、確信めいた納得とともにインユェの胸に納まった。つまり、最後までヤームルは自分達に本心を打ち明けることはないだろうことを悟ったのだ。

「……つまり、俺が何を言おうと、あんたはケリーさんを殺そうとすると、そういうこったな」
「ご理解頂けたようで何よりだ」
「何を言っても無駄か」
「ああ、無駄だな」

 ヤームルは、温度を感じさせない視線でインユェを見下ろした。
 インユェは、灼熱の決意を込めた視線でヤームルを見上げた。

「分かった。じゃあ、説得はここまでだ。後は、力尽くでお前を連れて帰る」

 そう言ったインユェは上着を脱ぎ捨て、後ろにいたウォルに向けて放り投げた。

「……お前が、俺と戦うというのか」
「そうだ」
「どうして」
「それが、俺の責任だからだ」

 歩を進めるインユェの背後から、悲鳴じみた声がぶつけられる。

「バカヤロウ、インユェ、お前正気か!相手はヤームルだぞ!あたしにだって歯が立たないお前が、どうしてヤームルに勝ち目があるっていうんだ!」

 メイフゥが、ほとんど半狂乱の面持ちで叫ぶ。それほどにインユェとヤームルの技量には開きがあり、そして今のヤームルは常軌を逸しているということだろう。
 だから、どうした。
 そんなことは百も承知だ。インユェを構成する体細胞の悉くが、幾度も幾度も自分達を痛い目に遭わせた目の前の男に対して、勝ち目のないことを声高に叫んでいるのだから。
 
「……どうしてそこまでする。そこの男が死んだとして、お前に何の不都合がある。袖振り合った他人の一人が、自分の人生と関わりを無くすだけのことだ。多少後味が悪かったとしても、それ以上のものではない」
「ああ、そうだな、あんたの言っていることは正しいな」
「では、何故俺に刃向かう」
「さっき、あんたが口にした理由と同じさ」

 インユェははにかむように笑った。

「あんた、さっき言ったじゃねぇか。人を殺すのに理由なんて要らない、ただ気に食わないってだけで十分だってな。だから、俺もそうさ。あんたの邪魔をする理由は、ケリーさんに恩義があるとか、その奥さんにも借りがあるとか、そういうご大層な理由じゃない。ただ、気に入らないんだよ」
「気に入らない、と。それは、俺がか」
「ちょっと違う。俺が気に入らないのは、俺の部下が、俺の目の前で、俺の意に沿わない殺しをすることだ」

 ヤームルの目が、驚きに見開かれる。ヤームルだけではない。ヤームルという男の技量、人格、そして恐ろしさを熟知している古参の海賊達は、一様に耳を疑う様子で目の前の少年を見た。
 その視線の先で、インユェは、育ての親であり戦いの師匠でもある男を睨み付けていた。

「昔のことなんざ知ったことかよ。今のお前は、《スタープラチナ》の航海士だろう、ヤームル。《スタープラチナ》の船長は俺だ。なら、あんたは俺の部下ってことになる。そして、部下の不始末の責任は、その頭領が背負い込むってのがこの世界の習わしだ。違うか、俺の言っていることはおかしいか」
「……いえ、違いませんな」
「俺の目の届かねぇところでお前がどんな殺しをしたところで、それがお前の器量の範疇なら口出しする筋合いじゃねぇのかも知れねぇ。だがよ、俺の目の届くところで、俺の気に食わねぇ殺しをお前がするなら、俺にはそいつを止める義務がある。違うか、俺の言っていることはおかしいか」
「……」
「お前が俺の前で殺していいのは、俺のために殺すときだけだ。だから、俺はお前を力尽くでも止めるんだ」

 インユェの声は、その内容ほどに、自信に満ち溢れたものではなかった。響きの端々に、未成熟な感情の昂ぶりが滲み出ており、聞く者の耳に、自分がかつて少年と同じ年頃だった時の、青臭い感情を思い起こさせる。
 だからこそ、ヤームルは思い出した。かつて、自分の能力に溺れ、自分よりも優れた者などいないと勘違いをしていた時。自分の牙は誰の心臓にも突き刺さるのだといい気になっていた時。
 誰かが、自分を戒めてくれた。殺すなとは言わないが勿体ない、ただ漫然と殺すなら俺のためにひたすら殺せ、その相手は俺が選んでやると、傲岸不遜な有様で言った誰かがいた。
 ちょうど、目の前の少年と同じように、銀色の見事な髪をした、誰か。

「……安心しました。どうやら、あなたは私の血を、あまり受け継がなかったらしい」
「……何だって?どういう意味だ」

 ヤームルは静かに首を振り、

「独り言です、お坊ちゃま、いえ……お館様と、お呼びするべきでしょうな、今のあなたならば」

 そう、子の成長を喜ぶ親の表情で、ヤームルは微笑んだ。その微笑みが、インユェにとって、どれほど嬉しかったか。
 ああ。今、やっと、再会出来た。
 インユェも微笑み、親代わりのその男に駆け寄る。褒めてもらうために。頭を撫でてもらうために。良くやったと、良く生き残ったと、そう言ってもらうために。

「しかしお館様」

 それは、やはり暖かい声だった。
 暖かい声とともに、インユェの鳩尾を、重たい衝撃が貫いた。

「……えっ?」

 ふと下に視線を遣ると、頭を撫でてくれるはずの暖かな手が、拳を形作り、自分の腹に深々と突き刺さっている。
 横隔膜から呼吸機能が失われ、痛みと苦しみが同時に脳髄を責め苛む。自然と膝が折れ、口元から涎が垂れ落ち、目から涙が、唇から呻き声が滲み出る。
 何故。そう思い、見上げようと顔を持ち上げたインユェに、逆光に遮られたヤームルの表情は見えない。

「理には力が要る。力を伴わない理に意味はない。そう、何度も教えたはずだ」

 左の耳に、風を感じた。
 そして衝撃。頭蓋骨の内側に、脳みそが何度も激突する。首から上が吹っ飛んだような気がする。視界が暗転し、意識が遠ざかる。
 ヤームルの蹴りをまともに喰らったインユェは、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
 とさり、と、少年の体が地面に横たわる、軽やかな音が響く。誰しもが、息をすることすら忘れたように、呆然とその男を眺める。

「ヤームル、てめぇぇっ!」

 次の瞬間、リィ達ですら制止し得ない勢いで、メイフゥが飛び出した。
 表情には激怒が刻まれ、纏った空気には殺気が込められている。瞳孔は縦に裂け、牙を剥き出しにし、振りかぶった手の先からは恐ろしく分厚い爪が生え揃っている。
 決して人の姿ではない。
 それはいわば虎人ともいうべき姿であり、メイフゥが受け継いだ『鳥』の異種人類の血が可能とさせた、半形態変化の一種であった。そして、ジャスミンをあと一歩のところまで追い詰めた、本気の戦闘形態であった。
 怒りに我を忘れたメイフゥは、超人的な筋力でもって彼我の距離数十メートルを一瞬のうちに飛び越え、ヤームルに襲いかかった。
 彼女の表情は、怒りで染まりきっている。相手が自分の肉親とも呼ぶべき人間だということなど意識の片隅にもありはしない。あるのは、最愛の弟が裏切られ、傷つけられたという一事のみ。
 メイフゥは、引き絞った右腕を思いきり突きだし、ヤームルの眉間を貫こうとする。
 だが、鉄の板ですら貫通しただろうメイフゥの必殺の一撃は、空を切った。
 仕留めたはずだった。避けようのないタイミングだった。
 驚愕が表情に表れる前の、ほんの一瞬。そして、光の粒子すらがコマ送りで見えるようなその一瞬、メイフゥは確かに、見た。
 地を這うほどに低い姿勢で先の一撃を躱したヤームルの、底冷えのする視線を。

「修練の時は師匠と呼べと、そう言ったぞ」

 ヤームルは全身のバネを使って一気に立ち上がり、その勢いで、メイフゥの顎に頭を突き上げた。
 凄まじい激突音が響き、焦点を失ったメイフゥの顔が天井を向く。膝がかくりと曲がり、腰が落ちる。傍目にも、意識の過半を刈り取られたのが分かる。それでも、メイフゥの腕だけが別の生き物のように、ヤームルの首筋に爪を突き立てようと振るわれる。
 しかし、顔色一つ変えることなく、その一撃をいなし躱したヤームルは、

「お前は、些か俺の血を濃く引き継ぎ過ぎたな」

 返す左鉤突きでメイフゥの肝臓を抉り、右肘打ちで鳩尾を貫き、最後に胸骨の中央、ちょうど心臓の位置を爪先で撃ち抜いた。
 一秒にすら満たない一瞬。瞬きすれば見逃してしまったであろう、一瞬。
 リィやウォルの目ですら追い切れない四連撃。
 一般人なら命を落とすような攻撃を立て続けに叩き込まれたメイフゥの体は、まるで自動車に衝突したように跳ね飛ばされ、格納庫の床に叩き付けられ、ぴくりとも動かなくなった。
 
「メイフゥ!」

 悲鳴を上げるように少女の名を叫んだジャスミンが駆け寄り、体を起こす。
 ボロ雑巾のようになったメイフゥの名を呼びながら、ジャスミンは意識のどこかで考えた。自分をあれほど苦しめたこの少女を、こうもあっさりと、圧倒的に叩きのめすとは、あの老人は一体何者なのか。
 内心の動揺をおくびにも出さず、ジャスミンはメイフゥの状態を確かめた。戦場で培った鉄の平常心は、緊急事態だからこそジャスミンの精神を安定させてくれた。
 メイフゥは完全に意識を失っていた。白目を剥き、歯を食いしばったメイフゥの顔は、それでもなお戦おうと足掻いているかのようだったが、

「くそっ、息が……!」

 胸が、上下していない。呼吸が、止まっている。
 絶望的な気持ちで脈をとると、案の定、心臓も止まっている。
 ジャスミンはメイフゥが好んで着る民族衣装の胸をはだけさせ、心臓マッサージを加えようとしたが、諦めざるを得なかった。メイフゥの胸の中央には拳大の大きな陥没が出来ていたからだ。
 胸骨が砕けている。最悪、折れた骨が心臓に突き刺さっていても不思議ではない。
 
「ごほ、がはっ!」

 意識の無いメイフゥの体が大きく跳ね上がり、驚くほどの量の血を吐いた。飛び散った血が、ジャスミンの顔に赤い斑点を作った。
 このままでは、この少女は死ぬ。間違いなく。
 ジャスミンは一も二もなく意識を失ったメイフゥの体を担ぎ上げ、一目散に《パラス・アテナ》へと駆け戻った。あそこならば、きちんとした医療設備がある。
 
「海賊!あとは任せた!」

 遠ざかるジャスミンの靴音を背後に聞きながら、ケリーが、二人の姉弟を地に沈めた男を睨み付ける。

「……ずいぶんな真似をするじゃねぇか、あんた」

 それは先ほどまでの飄々とした様子ではない、はっきりとした侮蔑の込められた声だった。
 
「あんた、インユェとメイフゥの、親代わりだったんじゃねぇのかよ」
「……随分と可愛いことを言うじゃないか、ケリー・クーア。だとしたら……俺があの二人の親代わりだったとしたら、一体どうしたと言うんだ?」
「……そうだな、別にどうもしやしねぇさ。ただ、あんたは今、あんた自身が言うところの品性って奴を、地獄の肥溜めの中に放り捨てたんだ。それを忘れるな」
「覚えておくとしよう、お前が死ぬまでの短い間はな」

 そう言ったヤームルは凪いだ視線でケリーを見ていた。息も、感情も、全てが落ち着いている。

「なら、話を戻すぜ。あんた、結局俺に何をさせたいんだ。そこが見えてねぇと思うんだがな」
「そう難しいことじゃない。俺が、お前に引導を渡してやろうというだけだ。お前は俺からこの子を奪おうとし、俺はお前が許し難い。だから、決闘だ。これが一番俺達の流儀に相応しい。そうだろう、海賊王?」



[6349] 第九十四話:夢路
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/02/18 21:46
「宇宙に漂うこの子を見つけた時だ。もしもこの世界に神と呼ぶべき存在がいるならば、その声が聞こえた気がした。もう、俺の為すべき事はこの宇宙に一つも無いのだと」

 旧い友はそう言った。
 居並んだ我々の前には巨大な医療用カプセルと、その中で薬液に浸されながら傷を癒す、少女がいた。
 顔立ちの整った少女だ。同年代の少年ならば、誰しもが彼女に好意を抱くだろう。もしもこの少女が、それらの好意の中に、自分に相応しいものを見つける事が出来たなら、さぞ彩りに満ちた青春時代を送ることが出来るに違いない。
 金属製の認識票には、マルゴ・レイノルズと刻印されている。それが彼女の名前なのだろう。
 だが、今は、狭く薄暗い羊水の中で、深い傷が癒えるまで、ひたすらに堪え忍ばなければならない。孤独を供に。それは、蝶へと変態するまでの間、吹きすさぶ寒風に揺れる蛹の姿を思い起こさせた。

「分かるだろう、銀星。俺は、この子を殺さなければいけない。それが契約だからだ」
「お前は、殺したくないんだな」

 旧い友は微笑んだ。微笑みながら、愛おしげな手つきでカプセルのカバーを撫でた。

「子供を殺したがる老人がいるかよ。女を殺したがる男がいるかよ。まして、今回はその両方だ。極めつけに殺したくないさ」
「ならば、殺さなければいいだけの話だろう」
「そういう訳にもいくまいよ。彼女は俺の依頼を――インユェを守るかわりに事が為ればあの世へ届けてやるという契約を、果たしてくれたらしい。それが金銭で購える類の契約ならまだしも、彼女は正しく命を賭けて俺の依頼に応えたんだ。ならば、俺は何を擲ってでも彼女の望みを成し遂げなければならない。それが、俺のくだらん拘り程度ならば比べるべくも無い」
「女子供を手に掛けない、それがくだらない拘り程度なのか」
「そうさ。少なくとも、彼女が聞けばそう思うだろう。俺を嘘つきと、詐欺師と罵るだろうな」

 俺は、旧い友にかける言葉を失った。

「辛いな、こんな可愛い子に罵られるのは」
「……」
「唯一だ。唯一、この子に罵られないで済む方法があるとすれば、それは逃げ出すことだろうな。もう二度と、この子の目の届かないところに。この子の声の聞こえないところに」
「……」
「この世のどこにも、そんな場所はない。ならば、――あの世にでも逃げるとするさ」
「……そんな理由で、お前は死を選ぶというのか」

 旧い友は振り返り、首を横に振った。

「もう、だいぶ前からガタは来ていた」
「ガタ、だと?」
「お前が信じるかどうかは別だが……俺はな、この子とその仲間に、一度捕縛された。宵闇を襲撃されてな」
「闇の中で……お前が、負けただと?」

 その時の俺は、いったいどんな顔をしていたのだろうか。きっと、この世界が大きな亀の背に乗っているのだと地質学者達が真剣な顔で言ったとしても、その時の俺ほどに間抜けな顔をさせるのは不可能に違いない。
 旧い友は苦笑する。

「もう、長くはないのさ。あんなに小さかったインユェもメイフゥも、大きくなった。シェンブラックの親父がこの世を去ったように、次は俺の番だというだけの話だ」
「……ヤームル」
「だから、最後のわがままだ。銀星、お前の義父であり、腹心であり、そして親友だった、俺のわがままをきいてほしい」

 旧い友は、寂しそうな微笑みを浮かべて、じっと俺の目を見た。
 
「……お前には似合わず、卑怯な真似をする。そんな言い方をされて、誰が断れるというんだ」
「すまんな」
「何を望む」

 俺の問いに、旧い友は、遠い目をした。
 きっと、宇宙船の外側の、無限の空間を見つめていた。

「戦いたいんだ」

 ぽつりと、そう言った。

「あの男と戦って、出来るならば勝ってみたい」
 
 あの男。
 誰のことを言っているのか、聞くまでもないことだった。
 海賊王。
 この宇宙で、最も自由だった男。

「親父があそこまで惚れこんだ男だ。クレイジー・ダイアンを口説き落とした男だ。きっと、俺など及びもつくまいよ」
「……」
「それでも、勝ちたいと思った。いや、例え勝てなくとも、全力で挑んでみたいと思っていた。それなのに、あの男は死んだ。勝ち逃げですらない。勝負を挑ませてすら、もらえなかったんだ」
「……すまん。もし、お前が俺の部下でなければ……」
「当然のことだ。俺はお前に従うと誓った。そのお前があの男に惚れてしまったんだ。ならば、副頭目の俺が、あの男と戦うわけにはいかん。何せ、俺が倒すべき敵はお前が見定める、それが約束だったからな」

 旧い友は、旧い約束を口にした。
 そうだ、その約束が結ばれた時から、俺達は親友ではなくなった。一味の、頭目と副頭目。それがあるべき姿になった。

「諦めていた。あの男は死に、そして一味は解散した。インユェとメイフゥが生まれ、ユエが逝き、俺があの二人を育てなければならなくなった。もう、俺はそういう人生を送るべきではないのだと、誰かが言っているのだと思った」
「だが、キングは生きていた」
「そうだ。だから――欲が出た」

 旧い友は、恥ずかしそうに微笑った。
 もはや止める言葉は無い。だから、その代わりに問うた。

「無粋を承知で訊く。何故、戦いたいんだ。あの男はあの男、お前はお前だ。何かを比べなければならない訳ではないだろう」
「……理由など、いくらでも見繕える。海賊が落ちぶれたあの時代に、あの男が栄華を極め続けたこと。親父の跡を継ぐべき男が、親父の葬式にも顔を出しさえしなかったこと。何より、全ての海賊の憧憬を一身に受けながら、しかし誰にも敗れず、誰にも託すことなく死んだこと――」
「……」
「駄目だな、どうにも。言葉にすると、全てが薄っぺらい」
「それは、お前が、その言葉を信じていないからだ」

 旧い友は、照れたようにはにかみ、頷いた。

「牢屋でな、鎖に繋がれているあの男を見たとき、耐えがたいほどの怒りが沸き起こったよ」
「それは、何故だ」
「きっと、親父が惚れこんだほどの男が、海賊王と呼ばれるべき男が、鎖に繋がれていたこと――地上に繋がれていたことが、許し難かったんだと思う。お前は、ここにいるべきじゃない。こんなところにいるべきじゃない。こんなところにいてはいけない……」
「……」
「あいつは、一番高いところ飛ぶべき存在だ。地を這うのは、俺達に任せればいい……なのに、その男が、あんな場所に繋がれていた。それが許せなかった……」
「ああ、その気持ちは分かる」
「要するに、俺も、あの男のファンだったらしい」

 それは、意外なほどに真剣な声だった。
 真剣な声のまま、続ける。
 
「例えば、サッカーのスター選手が、タイムスリップでもして、自分が子供の頃に憧れたスター選手の全盛期の頃に会えたとしたら……喜びはあるだろう。驚きもあるだろう。だが、きっと、一度でいいから真剣に勝負をしてみたいと思うんじゃないだろうか」
「そうかも知れないな」 
「俺があの男と戦いたいのは、極論すれば、その程度の動機なんだろうな」
「……その程度とお前自身が言うことに、全てを賭けるというのか」
「……」

 旧い友は、何も言わない。
 ただ、虚空を眺めている。

「お前が長くないなら、それで良い。ならばこのまま老いて、或いは病に倒れて……最後はインユェとメイフゥに看取られながら、穏やかに逝く。そういう選択肢もあるんじゃないのか」
「ああ――それは、とても素敵だ」

 うっとりとした、それは声だった。
 そしてくすりと笑い、

「銀星、こんなタイミングで、未練を作るなよ」
「それが未練だと言うなら――」
「未練さ。未練だが――それは海賊の死に方じゃない」

 俺の口を塞いだのは、その言葉ではなく、どこまでも穏やかな友の瞳だった。
 それは、決意した男の瞳だった。もう、己の死に場所を定めた男の瞳だった。
 そうか、そんなに簡単なこと。

「お前は、海賊として死にたいんだな」

 旧い友は、何も言わなかった。
 つまり、俺は、あの時代の海賊に生き場所を作ることはできても、死に場所を作ることはできなかったということか。
 そんな簡単なことに、今更気が付いた。

「手段は任せる。俺とあの男を、戦わせて欲しい」
「……分かった。だが、後で文句は聞かんぞ」
「勝つにせよ、負けるにせよ、どうせ長くない人生だ。望みさえ果たすことができれば、悔いはないさ」

 旧い友は――ヤームルは、もう一度、微笑んだ。



「決闘?」
「ああ、決闘だ」
「誰と誰が?」
「俺と貴様が」
「いつ?」
「今」
「どこで?」
「ここで」

 ケリーの問いに対するヤームルの答えは、一つ一つが明確で、一切の妥協を許さないものだった。
 その声は低く、ぼそりと、冷たい小石を吐き出すようだ。
 それは、ヤームルの底冷えのする眼光とともにケリーを貫いた。
 普通の人間であれば、恐怖の冷や汗を流すか、ともすれば失禁しかねないその眼光を受けて、しかしケリーは、片手を口元に、俯き加減の姿勢で、くつくつと笑いはじめた。
 ケリーの乾いた笑い声が、ひんやりとした格納庫の壁に反響し、吸い込まれ、やがて消えていく。

「……何がおかしい」

 やはり何の感情も籠らないようなヤームルの声に、

「ああ、そういうことか」

 おそらくは笑みに歪んだ口元を隠し、目を三日月のかたちにして、ケリーは無表情のヤームルを見遣る。
 たまらなく可笑しいというふうに、思わず漏れ出した笑い声を何とか隠そうとするように。
 
「……何が、そういうことなんだ」
「あんた、俺に惚れてるだろ」

 ケリーの声こそ、まるで恋人に睦言を囁くように、小さな声だった。
 その言葉を聞いても、やはりヤームルはぴくりとも表情を動かさない。
 鍋底をちりちりと炙るような、冷たい熱の籠った視線でケリーをねめつけている。

「そうかそうか、悪かったな、ヤームルさん。色々悪いこと言っちまってよ。色々悪いことさせちまってよ。今、あんたが、あんたの孫娘を叩きのめしたのも、俺を本気にさせるためだろう?そんなことしなくても、俺はいつだって本気でやってやるさ。俺に惚れてる男が相手なら尚更だ。失望させちゃ悪いからな」
「……」
「シェンブラックに対する裏切り?あの時代の海賊達に対する背信?そんなご大層なもんにあんたは怒った訳じゃねぇな。怒ったのは、俺に失望したからだ。俺が宇宙を捨てたことに、大企業のトップなんていう表の世界の枠に収まっちまったことに対してだ。あんたの期待を裏切っちまったことに対してだ」
「……」
「要するに、だ。あんたは――」
「貴様の言う通りだよ」

 ヤームルは、口元だけを歪めて嗤った。

「貴様の言う通りだ。海賊王、俺は、貴様に惚れてる。ぞっこんだ。貴様が生きていることを知ってから、寝ても覚めても、貴様のことが頭から離れない。四六時中貴様のことを考えている。これは、つまり貴様に惚れてるってことさ」
「嬉しいことを言ってくれるねぇ」
「だが、今まで俺が口にしたことは嘘なんかじゃないよ。貴様が親父のシマを受け継がず、海賊達を捨てて、クーア財閥のトップにあり続けたことは、唾棄すべき裏切りだと思ってる」
「分かるよ、あんたの言いたいことは」
 
 ケリーは、照れくさそうに頭を掻いた。
 申し合わせたように、二人は視線を足元に落とした。自分が口にしていることを、恥じ入るかのように。
 ヤームルは、淡々と続ける。

「貴様が宇宙を捨てた以上、海賊王を名乗る資格があるのは、ここにいるラナートだとも思っている。だが、貴様以上に海賊王と呼ばれるに相応しい男が他にいないことも分かっている。業腹なことだけどね」
「――」
「しかし、ヴェロニカ共和国のトリジウムの一件にかたをつけてくれたことは感謝してもいる。インユェとメイフゥの二人を守ってくれたことは、恩義以外の何物でもない」
「まぁあいつらについては俺たちも助けてもらった。貸し借りはなしだろうな」
「それでもだ。あの二人が生きていた。それだけで、俺は貴様に恩義がある……」

 言葉は、ケリーに感謝を述べている。
 しかし、視線は、極寒の殺気を込めてケリーを眺めている。

「だが、そういうことじゃないんだよ。分かるだろう、貴様にも」
「ああ、分かっているさ」
「全てだ。全て……怒りも悲しみも憎しみも失望も羨望も感謝も敬愛も……全てひっくるめて、それでも貴様を殺したいんだ」
「……」
「先に言っておこう。俺は、もう長くない」

 ヤームルの言葉に、しかしケリーの表情は露ほども動かない。

「惑星ヴェロニカで、下手を打った。ウォルとともに攫われた時のことだ。言い訳するわけでも、まして自慢をするわけでもないが、万全の俺ならばあの程度の危地、難なく逃れることができた。少なくとも、ウォルを敵の手に落とすようなへまは絶対にしなかった」
「あんたがそう言うなら、そうなんだろうな」
「あの一件で悟ったよ。俺は、もう長くない。自分の体だ。まぁ、もって三か月というところだろう」
「さっきの、メイフゥとの戦いだけを見ると、どうもそうは思えないがね」
「冗談を言うな。全盛期の俺なら、あれで確実に殺している。今は、全力であの程度さ」

 ケリーは、ジャスミンとメイフゥの戦いを間近で目撃している。その時の、メイフゥの人間離れした風貌も、何よりもその戦闘能力も。
 ならば、それを一息で瀕死に追い込んだヤームルの技量がどれほどのものなのか、想像もつかない。しかも、ヤームルの言葉を信じるならば、老いに力を削ぎ落されて、まだメイフゥを遥かにしのいでいるという。
 少なくとも、素手ならば、自分の及ぶ力量ではあるまい。ケリーはそう見切った。

「まぁ、そのへんの話は置いておこうか。俺達に大事なのは、戦う理由じゃない」
「その通りだ。理由が何であれ、俺と貴様が戦うという結果は変わらない」
「俺とあんたが、今、ここで戦う。それはいいさ。だが、最後にもう一つ、大事なことが決まってない」
「どうやって戦うか……」

 ケリーは頷いた。
 ヤームルは、初めてくすりと笑い、

「決闘を申しこんだのは俺だ。時間を決めたのも、場所を決めたのも俺だ。ならば海賊王、何で戦うか、それくらいは貴様に決めさせてやる」
「いいのかい?ずいぶんと太っ腹じゃないか」
「いいさ。俺と貴様の仲だ。ただし条件がある」

 ヤームルは笑みを消し、

「条件は二つ。俺とお前の一騎打ちであること。そして――互いの命をかけること」

 互いの命をかける。
 なんともシンプルで、逃げ道を許さない、条件だった。
 抜き放った白刃のような言葉に、しかしケリーは皮肉気な笑みを浮かべ、

「例えば、ポーカーなんてのはどうだい?」

 無表情のヤームルは肩を竦め、

「それが、お前の命と俺の命、そしてマルゴの身命を賭けるに足りる戦いだと判断したのならば、俺はそれに従おう」

 ケリーは苦笑した。

「なるほど、中々難しいな」
「まぁそれでも、俺にとって、おそらくは最後の戦いだ。直接、貴様と力比べをできる戦いがいい。白打、剣術、射撃……何でもいい。それを選ぶのは、貴様だ、海賊王」
「そうか、何でもいいのか」
「何でもかまわん」
「なら――船だな」

 その言葉を聞いて、ヤームルの老いた身体がぶるりと震えた。
 期待はしていた。望んでいた言葉だ。しかし、感情が昂るの抑えられない。
 無表情の顔が僅かに赤みがかり、そして口の端が、僅かに、ほんの僅かに持ち上がる。

「分かってるよ。お前さんが海賊王としての俺と戦いたい、それも命を賭けるってんなら、それはそういうことだろう?」
「……気を使わせてしまったな」
「俺をぶん殴って倒したとしても、剣でばっさり切り捨てたとしても、銃で撃ち殺したとしても、それは俺を倒したということだけであって、海賊王を倒したことにはならない。あんたはそう思ってる……」
「貴様のいうとおりさ」
「海賊王を倒す。それは、この宇宙で、船と船の戦いで、正面から正々堂々叩きのめして、はじめてそう言うことができる。あんたはそう思ってる」
「それも、貴様のいうとおりだな」

 ケリーは小さく溜息を吐き出し、

「なんともご大層なもんだな、海賊王ってのは」

 ヤームルはくつくつと笑い、

「そのとおりだ。それが分かっていないのは、ケリー・クーア、この宇宙で貴様ただ一人だろうさ」
「難儀な話だ」
「それが嫌ならとっとと海賊王の看板を下せば良かったのさ。宇宙を捨て、クレイジーダイアンを捨て……だが、貴様にそれは死んでもできないことだろう?」

 ケリーは、応とも否とも答えなかった。
 答える必要のない問いだったからだ。

「ケリー・クーア。決闘の開始は一時間後だ。その間に、適当な船を見繕っておけ。もちろん、《パラス・アテナ》でも一向に構わん。貴様の棺桶となる船だ、後悔のないよう慎重に選ぶんだな……」



「宇宙船による一騎打ちだと!?」

 瀕死の重傷を負ったメイフゥを《パラス・アテナ》の医務室へと運び込んだジャスミンは、デッキに戻った途端、集まった一同からあまりに突拍子もない事の成り行きを聞かされ、目を丸くしてしまった。
 デッキには、リィ、ルウ、シェラ、ウォルの異世界組、そしてケリーとジャスミンのゾンビ組の全員が揃い、全員が立ったまま、情報の共有のため話し合いをしている。

「それは何とも――馬鹿らしい話だ。お前はそれを受けたのか?」

 にべもないジャスミンの言葉に、
 
「仕方ねぇじゃねぇかよ。マルゴがあちらさんの手の中にあるんだ。どんな無茶を言われても断ることはできねぇさ」

 ケリーは面倒くさそうに髪をかきあげながら言った。
 そして続ける。

「そんなことはどうでもいい。メイフゥの容態は?」

 どう考えてもどうでもよくないことなのだが、ジャスミンは、諦めたようにため息を一つ溢し、

「……なんとも言えんな」
「そんなに悪いのか……。いや、あれだけ痛めつけられれば当たり前なんだが……」

 ヤームルの連撃は、百戦錬磨のケリーやジャスミンの目ですら捉えきれないほどに速く、鋭いものだった。その全てを叩き込まれ、吹き飛ばされ、ボロ雑巾のように倒れたメイフゥが、無事であるはずがない。
 そんなことはケリーも無論承知しているのだが、しかしジャスミンは、ケリーの想像を否定するかのように首を振った。

「いいとか悪いとか、そういう話ではない。あれは、我々の想像の及ぶ生き物ではないぞ。いや、メイフゥがおかしいのか、それとも彼女の仲間が皆そうなのかまではわからんが……」
「……どういう意味だ、女王」
「……ダイアナ、医務室の映像を映せるか?」
「……ええ、そうねジャスミン、百聞は一見にしかずという的を射たことわざもあるくらいだし、一度見てもらったほうが私達の気持ちを理解してもらえるわね」

 呆れた、というよりは、途方に暮れたようなダイアナの声がデッキに響き、メインスクリーンの映像が切り替わった。
 そこに映し出された映像に、皆が首を傾げた。何も映し出されていないのだ。
 いや、映し出されていない、というのは正確ではないかもしれない。映し出されてはいるのだ。ただ、本来であれば部屋全体を俯瞰するように写すはずのカメラが、真っ黒の映像をスクリーンに届けている。
 
「なんだ、こりゃ?カメラが故障してるのかな?」

 皆の心情を代弁したかのようなリィの声に、

「リィ、よく見てみろ」

 ジャスミンの声に、リィは目を凝らす。すると、真っ暗な画面を、よくよく見なければリィでも気がつかないほどにうっすらと、いくつかの線が走っているのに気がついた。
 砂嵐のようなノイズではない。その線は、確かにカメラが捉えた映像なのだ。その線が、周期的に上下を繰り返している。まるで、寝入った動物が安らかな呼吸を繰り返すかのように。
 その時点で、ようやく気がついた。これは、恐ろしいほどに接写された動物の毛並みであると。そして、医務室にいるべき生き物はただの一人――この場合は一匹になるのだろうか――である。

「もしかして……これ、メイフゥか?」

 目をまんまるにしてスクリーンを指さすリィに、ジャスミンは無言で頷いた。

「五万トン級の宇宙船といえど、医務室はそれほど広いわけではない。それでも、狭っ苦しい貧乏学生用アパートではないのだぞ。その部屋を、いつの間にかみっしりと毛玉が占領して、どんどん膨らんでくるんだ。慌てて扉から脱出した。危うく押しつぶされそうになったぞ」

 身震いするようにジャスミンは言った。
 確かに、医務室に運び込んだ瀕死の少女が、救命処置も待たずに巨大な毛玉に変貌し、自分を圧殺するかのようにどんどん巨大化していく様子というのはかなり怖い。冗談抜きでホラーである。
 
「ということは、とりあえず、メイフゥは無事なのか」

 リィの疑問に、頭痛を堪えるような表情のダイアナが、

「……バイタルサインに問題はないわ。推測だけど、これがメイフゥちゃんの休眠形態なんでしょうね。昆虫で言えば、繭みたいなものだと思うわ。……昆虫で言えばっていう表現を、仮にも人間に対して使うこと自体がとんでもない間違いだと思いたいけど……」
「……あの時――ヤームルという老人に叩きのめされた時、確かにメイフゥの心臓は止まっていた。普通の人間なら、《パラス・アテナ》の医療設備をフル稼働させて、すぐに救命治療を始めても、助かるかは五分五分の賭けだったはずだ。それが、自分の力だけで生命活動を安定させている。或いは、ヤームルという男はそれを知っていたから、あれほど遠慮なく叩きのめしたのか……とんでもない生き物だな、これは」

 ジャスミンの呆れかえった声である。
 リィもルウもシェラも、その場にいた全ての人間が頷くことで同意した。
 
「でもまぁ、メイフゥは一応無事だとして……インユェは?」
「彼は普通に無事よ。医務室がこんな有様だから、別の部屋に寝かせてる。脳震盪を起こしてたみたいだけど、特に異常はないわ。時間が経てば目覚めるはずよ」

 ダイアナが言った。
 とにかく、姉弟は大丈夫だということだ。一同は、胸を撫でおろした。
 そして、これからのことについて話を始める。
 口火を切ったのはリィである。

「よく分からないけど、ケリーはこの宇宙で一番の船乗りなんだよな、ジャスミン」
「ああ、それは間違いないぞ、リィ。何せ、このわたしが言うんだからな」

 リィが小首を傾げる。

「じゃあどう考えても、あのヤームルって人に勝ち目はないよな?なんで、決闘だなんて言いながら、宇宙船同士の一騎打ちなんて、相手に有利な方法を選ばせたんだろう」
「エディ、それはキングの言った通りだろう。海賊王としてのキングに勝負を挑みたいなら、それはもう宇宙船で戦うしかない。それ以外の方法で勝ったとしても、ケリーという個人に勝っただけで、偶像としての海賊王に勝ったことにはならないからね」

 相棒であるルウの回答に、

「その気持ちは十分に分かるけど……それ以上に、おれは、命を賭けて勝ち目のない勝負に挑むってのも理解できない。負けてもともと、勝負が挑めればそれでいいっていうなら別だけど、あの爺さんからはそういう雰囲気はなかった。全身全霊で勝ってやる、そういう気概を感じた。なら、悪くても互角以上の勝負になると、少なくともあの爺さんは考えているんだろう」

 リィの言葉に、ルウは頷く。

「どうかな、ジャスミン。僕らは、あなたやキングほどに、宇宙船には詳しくない。もし、本当にキングと、あのヤームルっていう人が宇宙船で一騎討ちなんてしたら、どちらが勝つと思う?」
「無論、わたしの夫が勝つに決まってる」

 力強く断言したジャスミンである。
 ジャスミンは、ケリーと共に、いくつもの修羅場を潜っている。そのたびに、ケリーの操船技術には驚かされてきた。僅か数日前の、エストリア正規軍一個艦隊が相手という常識外れの戦いでも、それは遺憾無く発揮された。もしもケリーと《パラス・アテナ》がいなければ、いくらジャスミンといえども、あの戦いを生き残れなかっただろう確信がある。
 しかし、口調を変えて、こう続けた。

「だが――問題が一つある」
「ああ、その通りだな女王。何せ、今回は、《パラス・アテナ》が使えない」

 ケリーの言葉に、ジャスミンは頷いた。
 理由はいくつかある。
 まず、エストリア艦隊との戦いで、ダイアナを含めた《パラス・アテナ》が酷く損耗しているという点。戦いの後はすぐにマルゴ達の救助活動を行っていたため、整備に割く時間がまるでなかったのも痛かったところだ。
 加えて、今、《パラス・アテナ》の医務室で体を休めるメイフゥの存在がある。あれが昆虫でいうところの繭なのだとしたら、その状態で強い衝撃を加えることが彼女にどんな悪影響を与えるか分からない。そして、あの状態のメイフゥを下船させるのは、医学的にも物理的にも不可能である。
 ヤームルは、戦いは一時間後だと期限を区切った。それが、果たして今の事態を計算に入れての条件設定だったのかは分からないが、とにかく今回の戦いに《パラス・アテナ》を使うことはできない。
 
「だが、条件は相手さんも一緒のはずだぜ。もしもウェルナー級戦艦でも用意するなら別だが、普通の海賊船程度なら、ダイアンの手を借りるまでもねぇよ。俺だけで片を付けてくるさ」
「キング、それは――些か、ヤームルを甘く見すぎているな」
 
 いつの間にか開け放たれていたデッキの扉から、声がした。
 そこに、一人の男が立っていた。それは、ケリーやジャスミンには見覚えがあり、それ以外の面々にとっては、先ほど居並んだ海賊達の中に見出した顔であった。

「ラナート」

 ケリーの呟きに、グランドセヴンの一人、『銀星』の異名を持つ大海賊、ラナートは苦笑する。

「先に言っておく。ダイアナを責めないでやってほしい。俺が頼み込んで、ここに入れてもらったんだ」

 ケリーは、画面のダイアナに目を向ける。
 ダイアナは、肩を竦めて応えた。

「危険物は持っていないわ。それに、ラナートは、海賊としてではなく、あなたの友達として会いたいと、そう言ったのよ。断るわけにはいかないじゃない」
「ダイアン、お前を責めるつもりなんてねぇよ。むしろ、こいつとは一度、腹を割って話さなきゃならないと思ってたところだ。手間が省けてありがたいくらいさ」

 そう微笑んだケリーは、ラナートに再び顔を向ける。

「お前とこうして顔を合わせるのも、いったいいつ以来だろうな」
「お前ともだが……細君ともだな」

 魅力的な低音でそう言ったのは、ラナートであった。
 ジャスミンは、あらためてラナートの顔を見た。ジャスミンにとっては数年前、世界の時間の流れでは数十年も前、邂逅した男の顔である。

「久しぶりだな、ミズ。あなたは相変わらず美しい。以前、《シルヴァー・スター》でお会いしたときよりも美しくなっている」
「おいおい、夫の前で、貞淑な妻の、一夜限りの過ちのことをほじくり返さないで欲しいな」
「こら、女王、前にも言ったがたっぷり四日間だったはずだろうがよ」

 苦笑したジャスミンであり、そして苦笑したケリーである。
 気を取り直したようにジャスミンは表情を改め、
 
「ありがとう、キャプテン。一言ではとても説明出来ない色々なことがあってな、こうして無様に生き長らえている次第だ。それに、あなたも以前よりずっと魅力的になった」
「それはそれは……素直に褒め言葉として受け取るのは、些か早計なんだろうな」

 ラナートは苦みのある笑みを浮かべた。

「俺に失望したか、ミズ」
「事と次第によってはな」

 極めて端的なやり取りであった。まるで、何年も連れ添った男女のように。
 ふと視線をジャスミンから外したラナートは、彼女の隣に、自分を見上げる黒髪の少女を見つけた。

「きみとも、まさかこんなところで再会するとは思わなかったよ」

 少女――ウォルは、ラナートを確と見つめながら微笑み、

「俺も、このようなところで、あなたと再会するとは夢にも思わなかった」
「……ああ、そうだな。俺も、夢にも思わなかった」
「そして、このようなかたちであなたと再会したくはなかったな」
「全く同感だ、ウォル。どうやら今日は厄日らしい。これまでの人生で積み上げてきた女性からの評価が台無しだ」

 苦笑したラナートであった。

「まさか、きみがインユェの想い人だったとはね。それも、あれほど熱烈に愛されているとは……。父親としては、インユェを成長させてくれたことを有難く思うが、同時になんとも面映ゆくて……果たしてきみにどう接すべきなのか、迷ってしまうな」
「悪いが、おれは、この少年の婚約者でな。インユェの想いは心底ありがたいのだが、それに応えることができん身の上だ。父君には申し訳ないが、諦めてほしい」

 ラナートは、ウォルの隣に立ったリィを見た。
 それは、商売敵を値踏みする海賊としてのラナートの視線だった。だが、少なくとも見た目だけならば、飛び切り美しい以外はただの少年であるはずのリィは、一切怯えたところがない。ただ、自然体でラナートの視線を受け止めている。
 その様子を見て、やはりラナートは微笑んだ
 
「なるほど、きっときみは普通の女の子ではないだろうとは思っていたが、これは飛び切りらしいな。きみも、婚約者であるこの男の子も」
「まぁ、人並ではない人生を送っている自覚はある」
「それゆえに惜しいな、どうにも。義理とはいえ、きみの父親になってみれば、きっと一緒にさぞ旨い酒が飲めるだろうにね」
「おいおい、ラナート、お前、本当に世間話をするためにここに来たっていうのか?」

 呆れたケリーの声に、ラナートは首を横に振り、

「そうだな。さっさと要件を済ませてしまうとしよう」
 
 ラナートが、手にした携帯端末を操作すると、開け放たれたままだったドアの向こうから、大型の自動機械が姿を表した。
 貨物運搬用の自動機械は、その上に、薬液で満たされた医療用カプセルを搭載していた。
 そして、その薬液の中には、目を閉じたまま微動だにしない、少女が浸されている。
 
「マルゴ、と言ったか。この少女は、もう我々には不要だ。この場であなた方に返却しよう」

 それが当然のようにケリーは頷き、

「マルゴの容態は?」
「命に別状はない。擦過傷や打撲傷は数え切れないし、内臓に傷ついた箇所があったようだが、致命傷ではない。あれだけの戦闘を潜り抜けてこの程度ならば、神の恩寵がこの少女にあったと言えるだろうな。組織再生療法により、傷は完治しているはずだ」
「ならば、どうして目を覚まさない?」
「目覚めたくない事情があるのだろう。少なくとも、我々の推し量れるところではないだろうな」

 冷然と言い放ったラナートである。

「えらくあっさり、解放してくれるんだな。少なくとも、決闘が終わるまでは返してくれないもんだと思ってたんだが」
「キング、お前はヤームルとの決闘を承諾した。ならば、この少女の身柄を今、引き渡したとしても、その言葉を翻すことはないだろう。むしろ、その程度の男ならば、ヤームルと決闘するに相応しい男ではない。大人しく尻尾を巻いて逃げ去ればいいさ」

 それは、ある種の信頼でもあるのだろう。
 ケリーは、軽薄な笑みを浮かべ、

「ずいぶんな信頼の仕方もあったもんだな」
「相手がお前だからこそさ。お前は、きっとヤームルの信頼を裏切らない。何故なら、あいつは、命をかけてお前に挑むからだ」

 ケリーは肩を竦めた。

「とにかく、マルゴを助けてくれたことには礼を言う。その対価が、あの男との一騎打ちだっていうなら、喜んで戦わせてもらうさ。そのうえで聞きたいんだがラナート、お前がさっき言った、ヤームルを甘く見すぎているってのはどういう意味だ?」
「言葉通りの意味だ。もしもお前が《パラス・アテナ》以外の宇宙船でヤームルに挑めば、お前は間違いなく敗れる。そして、宇宙の藻屑となる」

 真剣な口調で、ラナートは断言した。
 ケリーは無言で続きを促した。

「まず前提として言っておくが、俺がヤームルに頼まれたのは、お前との一騎打ちをお膳立てするところまでだ。それは為され、そして取引材料だった少女はお前に引き渡した。つまり、俺には、お前にもヤームルにも、もう義理立てするところはない。お前とヤームルの一騎打ちについて、俺は傍観者以外の立場を取るつもりはない」
「ヤームルは、お前の海賊団の副頭目だったんじゃなかったのか?」
「過去の話さ。それに、俺はお前の友人だとも思っている。なら、どちらかに肩入れするのは、どちらかに対する不義理になる。だからこそ、俺は傍観者なんだ」

 ケリーは頷いた。

「その上で、この勝負は公正であるべきだとも思っている。もしもお前がヤームルを見くびり、中途半端な戦いを挑めば、それはヤームルに対する侮辱となる」
「ラナート、お前は、俺の腕をそれなりに評価してくれていると思ってたがな」
「ああ、高く評価しているさ。この宇宙で、お前に並ぶ宇宙船乗りはいないと確信もしている。その上で、忠告だ。お前が、万全の状態の《パラス・アテナ》に乗って、全力で戦ったとして、おそらくヤームルに対する勝率は五分五分か、それ以下だ」

 ラナートは断言した。
 その会話を聞いていたジャスミンは、内心で、何と馬鹿なことを言うのかと思った。
 ケリーの操る《パラス・アテナ》の精強なことは、数日前の、エストリア艦隊との戦いで証明されている。僅か5万トン程度の外洋型宇宙船である《パラス・アテナ》が、遥かに格上であるはずのウェルナー級戦艦や、さらにその上のハッチンソン級戦艦を、片手の指では数えられないほど撃沈したのだ。それは一般的な感覚でいうならば、スズメが鷹を狩ったに等しい戦果である。
 しかし、ラナートは、そんなジャスミンの考えを知ってか知らずか、

「キング。お前が、この宇宙で最高の宇宙船乗りであることは理解している。例えば、安定度の低いゲートを飛ぶことにかけて、お前の右に出る者はいないだろう。例えば、小惑星帯や異常磁場の、荒れ狂う宇宙を、速く、そして美しく飛ぶことにかけて、お前の右に出る者はいないだろう」
「ありがとよ、褒め言葉と受け取っておくぜ」
「だが、こと戦いとなれば、俺は、ヤームル以上の戦士を知らない。それが素手の戦いであっても、銃の戦いであっても、そして宇宙船同士の戦いであってもだ」

 ラナートは異論を許さないような、真剣な調子で続ける。

「俺は、あの『撮影会』の時に、お前と細君の戦いを目の当たりにしている。そして、今回の対エストリア艦隊との戦いの、とどめの一撃ともいえるお前の戦いを見させてもらった。共に、賞賛と畏怖に値する強さだったよ。だが――それでも、もしもお前とヤームル、どちらと戦うかを選べと言われれば、生き残る可能性の高い方を選ぶという意味でなら、お前と戦う方を選ぶだろう」

 淡々としたラナートの言葉に、偽りや誇張はないように思えた。
 そもそも、もしもラナートの言葉が嘘だったとして、そこに何の意味があるのか。ケリーは、こと戦いとなれば、決して手を抜かない。少なくとも、戦いが始まれば、だ。ならば、油断させたり、逆に警戒させたりしても無意味ということになる。
 しかし、戦いが始まる前――つまり、どの宇宙船で戦うかを選ぶ前にこういった忠告をしてくるということは――そういうことなのだろう。

「要するにラナート、お前はヤームルと俺が、互角の条件で戦うことを望んでいるのか」

 ラナートは頷く。

「《パラス・アテナ》が使えないのは残念だが、しかしキング、お前はお前に用意できる最高の機体で戦え。それがヤームルに対する礼儀であり、極少となってしまったお前の勝率を、少しでも上げる唯一の方策だ」

 そう言って、ラナートは再び扉の向こうに姿を消した。
 ケリーは、ちょっと途方に暮れた。
 ラナートの言葉に嘘が無いのは理解した。仮にラナートがヤームルの肩を持っているのだとしても、ケリーにこのような忠告をして、ヤームルに益は何一つ無いのだから。
 しかし、だからといって、今のケリーに準備できる宇宙船で戦闘用のものは見当たらないのも事実である。今の《パラス・アテナ》に搭載しているのは《クインビー》を除けば送迎艇くらいのものであり、この宇宙基地にあるのは、精々が型遅れの宇宙戦闘機――例えばM7シェイクス4S、骨董品のような戦闘機である――くらいのものであった。
 ケリーは、最悪それでも構わないと思っていたのだが、ラナートの忠告を無視するわけにもいかない。これは、顔なじみの海賊連中に頭でも下げるしかないかと思っていた時、

「ならば、考えるまでもないな。《クインビー》を使え。幸い、お前がマルゴ達の探索活動に集中している間に、最低限の整備は済ませた。一戦交える程度なら、十分に耐えてくれるはずだ」

 事もなげにそう言ったのは、もちろん、《クインビー》の所有者であるジャスミンであった。
 ケリーは我が耳を疑った。それも、二重の意味で。

「……女王、あんたが《クインビー》に他人を乗らせるっていうのか?」
「そうだ」
「俺に、あれに乗れっていうのか?あの、『空飛ぶ棺桶』に?」
「そうだと言っている」

 ケリーは唖然としてしまった。
 この女は、自分が何を言っているか、理解しているのだろうか。
 《クインビー》は普通の戦闘機ではない。重力波エンジンとショウドライブを搭載し、超小型のクーアシステムをも搭載した、おそらくは最小サイズの外洋宇宙船。そして、20センチ砲という戦艦クラスの武器を持った、この世で最も恐るべき『スズメバチ』。
 到底、普通の人間に乗りこなせる機体ではない。

「……あんたが俺に無茶を言うのは挨拶みたいなもんだとは理解しているつもりだが、今回はとびっきりだな。アレに初めて乗って、それで決闘しろっていうのかよ」
「無論、《パラス・アテナ》が万全ならば、こんな無茶を言うつもりはない。しかし、《パラス・アテナ》が使用できないなら、そしてキャプテン・ラナートの言葉を信じるならば、お前が勝つための唯一の選択肢がこれだろう」

 ジャスミンは断言した。
 それでも、ケリーは俄かには首肯しなかった。
 そんな様子を見て、リィが小首を傾げる。

「なぁ、ルーファ。ケリーはあんなに悩んでるけど、どうしてなんだろう。宇宙船も宇宙戦闘機も同じようなものなんじゃないのか?」
「エディ、それは違うよ。宇宙船と宇宙戦艦と宇宙戦闘機じゃ、その設計思想もスペックも運用方法も全く異なってくる。それらを一緒くたにするのは、同じ馬なら農耕馬も競走馬も軍用馬も全てが同じだって言ってるようなものだ」
「なるほど、そう言われるとよく分かる。でも、馬に慣れた人間なら、どんな種類の馬であってもある程度は上手に操るもんだ。なら、ケリーが戦闘機に全く不案内ってこともないんだろう?」

 その言葉にはジャスミンが頷いた。

「この男は規格外の操縦手だ。《パラス・アテナ》と最も相性が良いのは事実だが、戦闘機の操縦とてお手の物だ。この男が悩んでいるのは、もっと別のことさ」

 ジャスミンは、つかつかとした歩調でケリーに近づき、その襟首を捩じり上げた。

「海賊、わたしを馬鹿にするなよ。貴様が《クインビー》に乗ることで嫉妬するほど、わたしを狭量だと思ったか」

 十分以上にどすの効いた声だったが、ケリーを委縮させることはちっとも叶わない。
 そんなことは、ジャスミンも理解している。だが、どうしてもそういう声しか出ないのだ。

「前にも一度言ったが、事態が定まった以上、不要な逡巡は時間の浪費であり、利敵行為以外の何者でもない。ほかならぬわたしが、《クインビー》に乗ることを許可した。そして、《パラス・アテナ》が搭乗不可能である以上、《クインビー》以外の船で相手取れるほど生易しい相手ではないらしい。ならば、選択肢は一つだけだろうが。あの時のように、もう一度貴様を殴らなければならないのか?」

 仮にも女房と呼ぶべき人間に、ここまで言わせてしまったのだ。これで断れば男が廃る……と思ったわけでもないだろうが、ケリーはにやりと笑い、

「分かった、女王。だが、そこまで啖呵を切ったんだ、どんな戦い方をしようが、どれほど傷つこうが、文句は聞かねぇぞ」

 ジャスミンはケリーの襟首を離し、同じように、噛みつくような笑みを浮かべた。
 愛機を他人の手にゆだねるという重大な問題は、この二人の間ではそれで十分だったのだ。

「お前が操縦でへまをするならいざ知らず、少々手荒く扱った程度でわたしの《クインビー》は傷一つつかん。心配するなら、そのでかい図体が《クインビー》の操縦席に収まりきるかを心配するんだな」
「おいおい女王、あんたに図体のことでとやかく言われる日が来るとは思わなかったぜ。ま、とにかく、そういうことなら、あと一時間弱だな、《クインビー》の操縦のいろはを教えてもらうとしようか」
「無論だ。精神統一だの遺書をしたためる時間だの、そんな可愛らしいことに使える時間は残っていない。つまり、貴様に要求されるのは当たり前のように勝つことだ。それを覚悟しておけ」

 頷き合った怪獣夫婦は、ともに、《クインビー》が毒針を研ぎ澄ます格納庫へと歩を進めた。

 



「お前の言葉は、キングに全て伝えてきた。マルゴという少女も返却した。もうこれで、本当にお前の頼みは全て叶えてやった」

 《シルヴァー・スター》の艦橋に戻ったラナートは、そこで自身を待つ、旧い友と顔を合わせた。

「ああ、ありがとう、銀星。恩に着る。今生で返せる恩ではないのだろうが……できれば、来世につけておいてくれ」

 ラナートはくすりと笑った。

「来世でもお前と腐れ縁か。それは遠慮したいところだな」
「ずいぶんつれないことを言うじゃないか」
「言いたくもなるさヤームル。もしもお前との縁が続くなら――生まれ変わっても、また俺は、血なまぐさい一生を送らなければいけないということだからな。次は、もう少しのんびりとした一生を送る、そう決めているんだ」

 ヤームルも、これから命を賭けた決闘をするとはちっとも見えないように、気安く微笑む。

「無理するなよ、そういうのが好きなくせによ」

 そして、一つ息を吐き出し、

「インユェと、メイフゥは?」

 ラナートは頷き、

「無事だ」

 ヤームルは、二人の父親である男の言葉に、小さな溜息で応えた。
 安心したかのように、天井を仰ぎ見る。
 その様子を身ながら、ラナートは、

「だが、そのせいでキングは《パラス・アテナ》を使えない。まさか、お前がそんなことを計算した訳ではないだろうが……」
「それはどうでもいいことだ。あの男が何に乗って戦おうと、それが宇宙船である以上、あの男はこの宇宙で最強だ。例え天と地がひっくり返ったとしても、その事実だけは変わらない」
「そして、お前はその男に挑もうというのだな」

 ヤームルは応えなかった。
 淡々と歩を進め、艦橋から出ていこうとする。
 そして、扉を開け、立ち止まり、ラナートに背を向けたまま、言った。

「銀星、これが、最期の頼みだ。もしも――もしも、お前が俺を許してくれるなら――俺の死骸は、ユエと同じ墓に入れてほしい」

 それが、旧い友の遺言であると、ラナートは理解した。
 だが、ラナートは答えなかった。旧い友が、それを望んでいるとは思えなかったからだ。
 然り、未練を断ち切ったかのような足取りで、ヤームルは、艦橋から姿を消す。
 しばらくして、ヤームルの乗機から、発艦可能の信号が送られる。
 ラナートは頷き、そして、ヤームルの乗機へのチャンネルを開く。

「骨は拾ってやる。精々華々しく散って来い」

 それこそ、ヤームルの待ち望んでいた言葉だった。
 そして、発艦のシグナルを送る。
 艦橋のスピーカーから、万感の想いと覚悟を込めた声が響く。
 それが、きっと、自分が聞く、旧い友の最期の言葉だ。

『乗員番号AA002ヤームル、機体コードFKA-001《ドーマウス》、出るぞ!』

 《シルヴァー・スター》のカタパルトから、大型の宇宙戦闘機が射出された。
 漆黒の機体。それは、ラナート海賊団のほとんどの人間にすら秘された機体だった。
 しかし、《パラス・アテナ》の面々は、その機体に見覚えがあるだろう。そして、見れば驚愕が彼らを襲うことになるに違いない――。
 ラナートは、人の悪い笑みを浮かべた。



[6349] 第九十五話:夢の果て
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/02/18 22:04
「なぁ、あんた、もしかして銀星の親分さんのとこの、ヤームルじゃねぇかい?」

 年老いて嗄れた声が、若き日のヤームルの肩越しにかけられた。
 思わず振り返ってしまったのは、そのぞんざいな口調に懐かしいものを感じてしまったからだろう。
 
「そうだ、やっぱりそうだ。あんた、ヤームルだろう。猟犬の、ヤームルだ」

 混み合った、場末の酒場だった。
 紫煙と着古した服に染みこんだ汗の臭い、そして安酒特有のアルコール臭さが混じり合った空気漂う、とても上品とは言えないその店は、一杯の酒に癒しを求める、疲れ切った労働者で溢れかえっていた。
 時代後れのテレビが、調子の外れた音量で今日の共和宇宙の最新ニュースを垂れ流しているが、その内容に注意を払うものは一人もいない。仲間連れは大声でがなり笑い罵り合いながら日頃の憂さを晴らし、一人客は背を丸めてひたすら酔うためだけに酒を飲んでいる。
 メニュー表のようにお上品なものはない。酒を頼めば、味を二の次三の次に考えて造ったとしか思えない、ただただ酔っ払うための酒が出てくる。肴を頼めば、大量の塩で炒った豆が出てくるだけ。
 その店の短所を数え上げればきりがない。旧い、汚い、親父の愛想は絶望的。それに引き替え、長所は一つだけ。最底辺の労働者の雀の涙のような日銭でも、なんとか一杯の酒くらいは飲める。それほどに、その店は安かった。
 だからヤームルもここで飲んだ。というよりも、他の店で飲むことが出来ないから、この店で嫌々、工業用アルコールの親戚のような不味い酒を飲んでいるのだ。

「隣に座っていいかい」

 ヤームルは嫌とも応とも言わず、ただ、タバコの焦げ跡が目立つテーブルをぼんやりと眺めていた。
 猟犬ヤームル。
 すでに懐かしささえ覚えるような呼び名であった。
 もう、ラナート海賊団が解散してから、数年の歳月が経つ。最初にシスという名の気弱そうな航海士が船を下りて以来、一人、また一人と姿を消し、そして最後にラナート本人が姿を消した。それはつまり、ラナート海賊団がこの宇宙から消滅したということだ。
 未練たらしく一味に名を連ねていた連中もそれで踏ん切りがついたのだろう、皆、それぞれの道を探し歩み去っていった。その中に、ブルットという名の、豪毅で偏屈で泣き上戸の突撃隊長もいた。
 皆、自分の道を見つけた。あるいは、見つけるための努力を始めた。当然だ。団が無くなっても団員だった人間はいる。そして、団員で無くなった人間は、新たな自分の立ち位置を探すために歩き出さなければならない。それが生きるということだ。
 そして、ヤームルだけが取り残された。
 ラナートに不満があるわけではない。あいつは良くやってくれた。腕っ節しか誇るところのない自分のような破落戸を、よくもまぁ辛抱使い続けてくれたものだと思う。その上、宇宙に名だたる大海賊団の副頭目など、どう考えても分不相応な肩書きまで設えてくれた。
 別に、なりたくてなった役目ではないにせよ、しかし居心地は存外に悪くなかった。それはきっと、ラナートを頭目として集まった連中が、ヤームルと同じ夢を見ていたからだ。この男を、宇宙で最も偉大な海賊にするのだ、と。
 その夢路は、きっと途絶えたのだろう。いや、途絶えたのだ。ただ、ヤームルという男を一人残して。
 ヤームルは、まだ自分が夢の中にいる気がしていた。全宇宙を股に掛け、共和宇宙軍や警察連中を煙に巻き続け、あらゆる悪名とあらゆる名声の対象となったはずの『銀星』の異名が、既に記憶の中にだけ輝く光明となってしまったなど、悪夢以外の何物だというのか。
 もう、長いことヤームルは、他人と話すことを止めていた。当て処もなく辺境を流離い、辿り着いた名も知らない星で、その日暮らしの仕事で糊口を凌ぎつつ、ただ生きていた。女かそれとも薬物にでも逃避することが出来ればまだ救われたのだろうが、彼の根っこにある最後の誇りがそれを許さなかった。
 仕事は、きつければきついほどいい。無心になって体を動かしているうちは、全てを忘れることが出来る。何も考えないで済む。
 ――もう、何も思い出させないで欲しいんだ、俺は。

「……残念だが、人違いだな。俺は、生まれてこの方そんな名前で呼ばれたことはねぇよ、爺さん」
「おいおい、嘘を言いなさんな。じゃあ、あんたの名前は何てぇんだ?」
「生憎、生み親から名前をつけられたなんて恵まれた身の上じゃねぇ。だから、あんたが好きなように呼んだらいい。それが俺の名前だ」
 
 嘘では無い。もう、自分はあの星で生きていく資格を失った。親を親と呼ぶ権利も、死に目を看取る権利も、全て、全て。全てをかなぐり捨て、そして今、この手には何も残っていない。
 失い、戻ることもないならば、それは元から無かったのと同じ事ではないか。
 ヤームルは、薄汚れたテーブルを睨み付けながら、アルコールくさい酒を一気に煽った。
 
「頑固だねぇ。なら、あんたはヤームルさ。俺が名付け親でもいい。そういうことにしておきな」
「……あんたがそう呼びたいなら、俺は止めないよ」
「ああ、そういうことにしておきな」

 矮躯の老人は、歯の欠けた笑顔で心底愉快そうに笑った。
 あらためてヤームルは老人の顔を見た。海賊同士の繋がりに疎いヤームルだったが、老人の顔には見覚えがあった。名前こそ知らないが、確か名のある海賊団の頭目だった男のはずである。もう十年も前の話、宇宙に数ある海賊達の隠れ宿の一つで、グランド・セヴンの面々と楽しげに語り合っていたのを横目に見た覚えがある。何人もの荒くれ者を従え、颯爽とした足取りで自らの船に乗り込んでいった。
 だが、今の老人に、当時の威厳は微塵も残されていなかった。ごま塩のような白髪は腰がなく、糸くずのように頼りない有様で、本当に辛うじて老人の頭を覆い隠している。ところどころ破れ、擦り切れ、痛みきった作業服は、雑巾を継ぎ接ぎして作ったと説明されても納得できる程にぼろぼろだった。そして、長年の野外作業のせいで、真っ黒に焼けて硬くなった皮膚。
 どこからどう見ても、グランド・セヴンと肩を並べた大海賊の頭目には相応しくない有様だ。有り体にいえば、空き缶や空き瓶の回収でその日暮らしをする数多くのホームレス達と、全く同じ身なりであった。
 その老人が、縁の欠けたグラスになみなみと注がれた安酒を、ちびりちびりと、舐めるように飲んでいた。

「旨い。旨いなぁ。この一杯のために生きてるよ」

 老人は歓喜に喉を振るわせた。思う存分下げた目尻に少量の涙を湛え、堪えられないふうに笑顔を歪め、

「この酒場の裏に、どでかいゴミ山があったろう?あれが、今の俺の飯の種だよ。鉄くずの中から、少しでもましなジャンクを探してパーツ屋に売るんだ。お世辞にも稼ぎのいい仕事じゃねぇけど、昔取った杵柄ってやつさ。人よりは、そこらへんの目利きが効くからよ、店の親父にも重宝されてるんだぜ」

 黙りこくったヤームルが空のコップを掲げると、無愛想を絵に描いたような酒場のマスターが、飛沫を飛ばすことを気にも止めない様子で安酒をどぼどぼ注いだ。
 その様子を無感動に眺めながら、ヤームルはぽつりと呟いた。
 
「あんたが重宝されてる、ねぇ。……とてもそうは思えないね。あんたが重宝されてるなら、もう少しましな酒を飲める場所なんていくらでもあるんだ。どうしてそこに行かない?そこに行くだけの金をもらってないからだろう?つまり、今のあんたの価値なんて、その安酒程度だってことだろう?」
「知ってるさ、わざわざあんたに言われるまでもない。それでも、まぁ何とか食っていけるだけの金を恵んでもらえるんだ。悪し様に言っちゃ罰が当たるってもんじゃねぇか。それに、月に一度はこうやって酒も飲める」

 老人は再びグラスに口をもっていき、啜るようにして酒を飲んだ。
 
「……昔は、もっと良い酒を浴びるように飲めたなんじゃないのかい?」
「そうだったかねぇ。忘れちまったよ。ただ、良い酒には良い酒の、安酒には安酒の良さって奴がある。どちらかしか知らずにくたばるよりは、両方知ってくたばる奴の方が幸せってもんだ。違うかい?」
「……ものは言い様ってやつだな。いずれにせよ、あんたも俺も碌なもんじゃない。このままこの場所で、馬車馬よりも惨めに働かされて、働けなくなったらゴミのように捨てられる。どれだけ日々を頑張ろうが、それが早いか遅いかの違いだけだ」
「あんたの言ってることは事実だがね、お若いの。そいつは、どこの世界だって同じことさ。俺は別に、今の自分に絶望してるわけじゃない」

 自分に絶望していない。
 その言葉が、どうしてか、かえしのついた釣り針のように、ヤームルの心に突き刺さった。

「おい、爺さん、あんた――」

 その時、視界の端に映った砂嵐混じりのテレビ画像に、ヤームルがこの世で最も嫌悪する男の顔が映し出された。
 今の自分の稼ぎで果たして何十年分はするだろうかという高級なスーツに身を纏い、一分の隙もない笑顔に威厳を漂わせ、共和宇宙の経済界をカメラ越しに睥睨する、その男。
 クーア財閥の三代目、世紀のシンデレラボーイ、そして、かつては海賊王と呼ばれたその男。
 名を、ケリー・クーアと言った。
 その男が、テレビ画面に映し出されていた。
 テレビの内容などどうでもいい。クーア財閥の利益が過去最高を更新したとか、ショウドライブの新型が発表されただとか、毒にも薬にもならないような内容を垂れ流している。
 少なくとも、ヤームルにとって、酒を不味くするだけの情報だった。

「なあ、親父、テレビのチャンネルを変えてくれないか」

 不機嫌そうなヤームルの声に、しかし忙しそうな酒場のマスターは答えない。ただ、淡々と他の客のグラスに安酒を注いでいる。
 ヤームルは舌打ちをした。せっかく日々の憂さを晴らすためにこんな場所に来ているのに、どうして世界で一番気に食わない男の、気に食わない様子を見せつけられなければならないのか。
 もう一度、大きな声でマスターに声をかけようとしたとき、老人が嬉しそうに笑った。

「いやぁ、あの小僧も有名になったもんだねぇ。嬉しいことじゃないか」

 ヤームルは耳を疑った。

「嬉しいだと?この男が有名になり、栄華を極めることがか?」

 老人は頷く。

「日の当たらない稼業で糊口を凌いできた俺達の代表がさ、表の世界で大活躍だ。これが嬉しかないはずがあるかい。痛快だよ。こいつが頑張ってくれてるから、俺も頑張れるってなもんさ」
「……どうしてそんなことが言える。この男が開発を推し進めたショウドライブのせいで、海賊達がどんな目に遭ったのか、知らないわけでもないだろう」

 ヤームルの言葉に老人は苦笑する。

「まぁ、あんたの言うことも分かるがね。しかし、ショウドライブは、こいつが何とかしなくったって、いつかは日の目を見てた代物だよ。こいつは、それを早めただけのことだ」
「なるほど、やはりこの男が、海賊の命数を縮めたわけだな」

 老人は首を横に振る。

「違う。いや、仮に違わなかったとして……もう、俺達のような海賊の生きる場所は、宇宙には無くなってたのさ」

 老人は、コップ酒を啜るように飲み、堪えられないというふうに眉を寄せた。

「ああ、旨い……。いいもんだねぇ。お日様の当たるところで稼いだ金で飲む酒ってのはさ」

 ヤームルも、静かに酒を口に含む。

「俺達の流儀、困窮するところからは奪わず、殺さず傷つけず、そして女子供を犯さない。それは、立派なお題目だ。間違えてたとは言わないよ。でも、結局は自己欺瞞だ。どんなに綺麗なお勤めでも、奪われるほうからしたらたまったもんじゃない。ただの犯罪者の集まりだわな」
「だが、その犯罪者の集まりが、本当の意味での鬼畜連中を抑え込んでいたことは事実だ」
「なるほど、俺達みたいな海賊の存在は、いわゆる必要悪だったってことかい?」

 ヤームルは頷く。
 老人は、ヤームルを、まるで血気盛んな若者を見るように、優しく眺め、

「その言葉はね、例えば薄汚い政治家連中が自分の悪行を正当化するか、それとも俺達みたいな犯罪者が自分の行為を見て見ぬふりをするときにだけ役立つ言葉だよ。少なくとも、その必要悪に迷惑かけられた被害者からすれば、必要な悪も必要じゃない悪も、つまるところ同じ悪さ。今なら、それが分かる」

 老人の、穏やかで、しかし容赦ない言葉に、ヤームルは反駁できなかった。

「本当に鬼畜連中を抑え込みたければ、警察か軍にでも入ればいいんだ。でも、俺達はそれをしなかった。結局は五十歩百歩で、犯罪者であることに変わりはない」

 もう一度、老人は酒を啜った。

「だが、この小僧は違うだろう」

 老人は、テレビに映った男を見遣る。
 そこには、深い微笑みを湛えながら聴衆に向けて片手を上げる、ケリー・クーアという男がいる。

「こいつが海賊なんて言われて警察連中に追い回されていたのは、不法にゲートを所有していて、そしてトリジウム鉱山なんていう爆弾を秘匿していたからだ。俺達みたいに、誰かを泣かせて金銀財宝を巻き上げたからじゃない。この小僧は、誰の涙も流さなかった。それでいて、俺達みたいな連中から祭り上げらて、いつからか海賊王なんて呼ばれ方をするようになっちまった」
「……」
「さぞいい迷惑だったろうさ、この小僧からしたらね」

 老人は、炒った豆を、歯の欠けた口に放り込み、こりこりと噛み砕いた。
 そして、また酒を啜った。

「この小僧は飛べばいいんだ。誰も手の届かないところを、誰も及びもつかない速度で。それが、この男が海賊王と呼ばれた所以なんだからね。その時に、俺達みたいな、薄汚れて地を這いずり回る連中のことなんて考えちゃいけねぇ。俺達が海賊稼業を続けられなくなっても、こんな場所にしか生き場所がなくなったとしても、そんなことを考える必要なんてないのさ。この小僧は飛び続けなくちゃいけねぇんだ。それが、裏の世界でも、表の世界であったとしてもね」
「……なるほど、爺さん、あんたの言う通りかもしれないね」
「俺達がこの男を罵ることがあるとすれば、この男が飛ぶことを辞めたときだよ。その時は、この男は全ての海賊達の恨みを背負うことになるだろう。海賊達の恨みが、この男の心臓に銃弾を撃ち込むだろう。それでも――この男は、きっと飛び続けるんだろうさ」

 老人はさも愉快そうに笑い、コップに残っていた僅かな酒を口に運んだ。
 たったの一滴の酒も残すまいとするように、コップを垂直に持ち上げ、しばらくそのままの姿勢でいてから、老人はコップをテーブルに戻した。

「ああ、旨かったなぁ。これで、あと一か月は生きられるよ」

 老人は立ち上がり、垢じみたズボンのポケットから数枚の硬貨を取り出し、テーブルの上に置いた。

「なぁ、ヤームルさん。あんたのところの親分さんは、今、何をしてるんだい?」
「……さぁな。今は連絡も取っちゃいない。だいたい、今の俺達とどっこいどっこいの有様だろうさ」
「そうかい。なら、幸せなことじゃないか。毎日、労働に汗水流して、たまに安酒を喰らう。それが人生の幸せってもんだよ」

 かっかと笑った老人は、ひょこひょことした足取りで、酒場を出ていった。
 ヤームルは、しばらく、酒を飲むこともなく、じっとテーブルに座っていた。
 じっと、己の奥を覗き込むように、テーブルに座り続けた。
 
「――なぁ、あんた。もう店じまいだよ。そろそろ出てってくれると有難いんだがね」

 不機嫌そうな店の親父の声で、はっと我に返ったときには、すでに日も変わろうという時間だった。
 いったい、自分は何を考えていたのか分からない。先ほどの老人との会話が、ずっとぐるぐる脳内を回っていた気がする。
 果たして、自分はあの男を――ケリー・クーアという男を恨んでいるのか。
 分からない。
 自分の感情を判別できないのが、どうにも気に入らなかった。
 店の親父が、なおも退去願いを繰り返そうと口を開きかけたとき、ヤームルは、先ほどの老人と同じように、数枚の硬貨をテーブルに置き、席を立った。
 酒はまだ残っているが、それを飲む気にはならなかった。

「毎度」

 愛想の籠らない声を背中に、ヤームルは店を出る。
 外は、寒風吹きすさぶ冬の裏町だった。
 月は無い。真っ黒く染まった夜空を、分厚い雲が覆っており、風には時折みぞれが混じる。
 薄手のジャンパーの襟を立て、首を竦めるように歩く。
 また明日も、きつい労働が待っている。それは、心安らがない未来予想図だ。それでも、あの老人は、それこそが幸せだと言った。まるで、自分が海賊団の頭目だった時よりも、今のほうが幸せだというかのように。
 果たして、そうなのか。自分も、今のほうが幸せなのか。宇宙を股に掛けて暴れまわり、宇宙の男たちの畏怖と尊敬を一身に集めていた時よりも、今のほうが幸せなのか。
 分からない。
 ぽつりぽつりと歩きながら、今まで自分が殺してきた人間の顔を思い返す。ほとんどは名前も知らない悪党ばかりだ。殺しても、誰も悲しまない、むしろ喜ぶ人間のほうが多いだろう、卑劣漢ばかりだった。
 それでも、殺した人間の顔だ。
 そして、あの少女の顔も思い出す。
 惑星ヴェロニカで出会った、初恋の少女。病に冒され、もだえ苦しみ、最期は怪物のような異形となって死んだ、少女。
 そうだ、あの星は、今、どうなっているのか。まだ、あの星のトリジウム鉱山が公になったという話は聞かない。あれほど異常な鉱山である、もしもその事実がつまびらかになれば、今の自分のような人間にも、風の噂程度には伝わるだろう。
 ならば、まだ、あの星はトリジウムの密貿易に手を染め続けているのか。そして、あの少女と同じように、異形に変じて死んでいく人間がいるということだろうか。
 ヤームルは、無性に泣きたくなった。
 自分は何をしているのだろうか。
 子供だった自分が、あの時、ヴェロニカ教の僧侶――ビアンキと言っただろうか――に叩きつけた偉そうな言葉が、今は自分を殴りつけているような気がした。
 そんな時、ヤームルは、道端に何かを見つけた。
 それほど大きなものではない。しかし、見過ごすほどに小さくもない、黒い塊。
 無言でそれに近づく。どうやら、倒れた人間のようだ。
 ヤームルは、何故だか、予感がしていた。それを見つけたときに、何故だか、そんな気がしていた。
 それは、先ほどの酒場で声をかけてきた、老人だった。老人が、この寒空には相応しくない、ぺらぺらでぼろぼろの外套に身をくるみ、そして倒れていた。
 
「爺さん」

 声をかけるが反応はない。駆け寄り、そして身をかがめて老人の脈を取る。
 すでに外気温と同じ程度に冷たくなった手首からは、一切の拍動を感じることができなかった。
 老人は、死んでいた。ただ、その死に顔は穏やかで、きっと苦しみなく死ねたのだろうと、ヤームルは思った。一杯の安酒が末期の水だったのだとしても――この男は、満足だったのだろうか。

 ――これが、この時代の、海賊の死に様なのだな。

 これが正しい死に様なのか。果たしてそうなのか。これが、俺達が受けるべき報いなのだろうか。
 老人の死体を抱え上げ、道路の脇に下ろす。朝には誰かが見つけ、そして然るべき筋に連絡するだろう。そしてこの老人は、身元不明の死体として、共同墓地にでも埋葬されるのだろう。
 きっと、数多の元海賊と同じように。
 しばし黙とうを捧げたヤームルは、表情を消し、再び、吹き付ける寒風に向かって歩き始める。
 その瞳には、決意があった。死に様は、死にゆく者が選ぶものだとしても――せめて、その選択肢を増やすくらいのことはしてやるべきではないか。
 もしも自分に、それだけの覚悟と手段が残されているのならば。
 脳裏に、あの少女の死に顔が蘇る。少女が、自分を罵る声が聞こえる。
 それでも為すべきことが、為せることがあるのならば――自分は悪魔にでも尻尾を振ろう。
 ヤームルは、かつての友の連絡先を思い出し、そして、うらびれた電話ボックスに入った。
 もしもこれから自分の為そうとすることが――友に為させようとすることが、彼から安息と幸福を奪うことなのだとしても――それは、きっとあの時代に生きた海賊としてのけじめの取り方だ。
 ヤームルは、受話器に小銭をねじ込み、友の連絡先を――友の連れ合いとなった己の娘の連絡先を押す。
 しばらく呼び出し音がして、受話器の向こうから、年若い女性の声が聞こえてくる。
 もう、何年も耳にしていなかった、我が子の声。

「もしもし……どなたでしょうか?」

 きっと、携帯端末に表示された見慣れない電話番号に警戒しているのだろう、訝しむような声は、しかしヤームルの記憶の中の最も懐かしいところを刺激した。
 自分が切り捨てた、一番大事で、一番強かったはずの絆。

「俺だ……ユエか?」
「お父さん!?」
「急で悪いが……銀星につないで欲しい」

 しばらくの逡巡があって、受話器の向こうで相手が変わった気配がした。
 勘の良い娘のことだ。きっと、縁の切れた父親からの電話が、不吉を告げることであることを察したのだろう。
 そうだ。これは、不吉の電話だ。もう宇宙からは離れ、地に足をつけた男を、再び宇宙へ連れ戻そうというのだから。愛すべき夫を、愛すべき父親を、再び海賊へと戻そうというのだから。
 きっと、ユエは俺を恨むだろう。この一事をもって、自分は、ユエの親である資格も、メイフゥとインユェの祖父である資格も失った。
 それでも、為すべきことがあるならば――後悔はない。

「俺だ、ヤームル」

 懐かしい声がする。自分が、人生において最も烈火とした時間を共にした、友の声だ。
 
「久しいな、ラナート」
「今、どこにいる?」
「そんなことはどうでもいい。お前に頼みがあるんだ」

 電話の向こうから、旧友の、僅かに緊張した気配を感じる。
 これから、この男を口説き落とさなければならない。そして、再び、ラナート海賊団の旗を宇宙に掲げるのだ。もっともその時には、団の生業は海賊行為などではなく、トリジウムの密輸というこすっからいものに成り果てているのだろうが。
 だが、ヤームルの決意に揺らぎはない。
 あの時代を生きた海賊達に、生き場所を与えることができなくても――せめて、死に場所を選ばせることくらいはできるように。
 この男を、海賊を統べる存在へと押し上げるのだ。この男こそ海賊王に相応しいと、万人に言わしめるのだ。
 例え娘に恨まれても。例え孫に恨まれても。例え、ラナート自身に恨まれても。
 そのためだけに生きることを、ヤームルは誓った。
 


 二隻の母艦から、二機の戦闘機が同時に発進した。
 母艦の一隻は、《パラス・アテナ》。もう一隻は、《シルヴァー・スター》。飛び立ったのは、深紅色の戦闘機と、漆黒色の戦闘機である。
 ケリーは、久しぶりに味わう三半規管の失調を楽しみながら、普段より小さめの揺りかご――それとも棺桶と呼ぶべきか――に自身の身体を委ねた。

 ――無重力ってのも、考えてみれば久方ぶりだ。さて、いつ以来だったか。

 人類が単一惑星のゆりかごから這い出て以来、宇宙空間と無重力は切り離すことのできない存在であったが、重力制御システムの開発により、宇宙旅行者は惑星の地表を遠く離れても、己の足裏に心地よい重みを感じることができるようになった。
 宇宙開発のターニングポイントの一つとなったこの発明は瞬く間に全宇宙の船乗りへ受け入れられ、今となっては、この装置を積んでいない船など、およそ人を運ぶための宇宙船には存在しない。
 極々少数の例外が、人を運ぶことよりも優先すべき機能を備えた船であり、その代表例が戦闘用の宇宙船、特に単座式の宇宙戦闘機である。彼らに期待された役割は、安全快適に搭乗者を目的地に運ぶことではなく、一発でも多くの銃弾やミサイルを抱えて飛び、できる限り多くの敵を宇宙の藻屑と変えることなのだ。その対価として、搭乗者が無重力に耐えなければならないくらい、安いものだと考えられているのだろう。
 ケリーが操る《クインビー》にも、当然のことではあるが、重力制御システムは搭載されていない。そんなものを積むくらいに常識的な設計が為されているならば、間違えても20センチ砲などという化け物を装備させようとはしないだろう。
 とにかく、《クインビー》は何とか母艦から発進し、宇宙船同士の一騎打ちという馬鹿げた趣向の舞台である、戦闘宙域へと船首を向けた。
 そこは、大海賊シェンブラックの隠れ家に相応しい、荒れた宙域だった。合計4つの太陽が瞬き、重力異常を至る所に生み出す。大小の岩石惑星が帯状に流れを作り、侵入者を拒む。加えて、狭い宙域には通常考えられないほど多数のゲートが存在し、ゲートから発生する電波や磁場に異常な乱れが起きている。
 普通の宇宙船の感応頭脳であれば、「航海に適さず。別のルートを選ぶべし」と一言に断ずるであろう、そこは宙域だった。
 その宙域に、《クインビー》は猛スピードで突っ込んでいった。それは、半ばは操縦者であるケリーの意思であり、半ばは《クインビー》の激烈とも呼ぶべき推進力を持て余した結果でもあった。

「くそ、言うことを聞け、このおてんばが!」

 先ほど感じた、無重力感への郷愁などどこへやら、一時間にも満たなかったジャスミンの講習を思い出し、必死の思いで《クインビー》の制御を試みるケリーである。しかしこの戦闘機は、ある意味では《パラス・アテナ》以上の荒馬であり、突如背に跨った不躾な騎手を振り落とそうとしているかのように、強烈に嘶き、暴れ狂うのだ。
 このままでは、果たして敵の攻撃で撃沈するのが早いか、それとも小惑星に突っ込んで大破するのが早いか、そんな有様だったが、しかしケリーは、戦闘機に関しても並外れた操縦手であった。
 発進して僅か数十秒の間に、《クインビー》のくせを理解し、その操縦を機体に同調させ始めた。それは、ジャスミンなどから言わせれば、

「この女たらしめ!」
 
 と表現するに十分な様子であった。
 少しずつ、自分の意思が《クインビー》と一体化していくのを、ケリーは感じていた。自身の感覚が少しずつ広がり、そして《クインビー》の外周と一致していく。自分の外側と《クインビー》の外殻を同じものと認識したとき、ケリーは、完全に《クインビー》を乗りこなしていた。

「ふぅ、なんとか間に合ったか……しかし、女王め、普段からこんなじゃじゃ馬を、あんなに涼しい顔で乗りこなしてやがるとは、やはり常識外れだ……」

 ヘルメットの内側、自らの鼻の横を伝い落ちる冷や汗を舐めとり、ケリーは毒づいた。
 もっとも、ジャスミンに言わせれば、僅か一時間ばかりのレクチャーと数十秒の実戦で《クインビー》を乗りこなしてしまうなど、それこそ常識外れ以外の何物でもないのだが。
 とにかく、なんとか戦闘態勢を整えたケリーは、やや遅まきながら敵影を探す。
 それほど時間はかからなかった。この、致死の障害物と異常磁場の混在した危険宙域を、一直線に向かってくる、漆黒の機影を見つけたのだ。
 無論、目視など不可能な距離であるが、《クインビー》のセンサーは、敵影を拡大し、スクリーンに投射する。
 その姿を見て、ケリーは呟いた

「まじかよ銀星……こいつはひでえ冗談だ!」

 そして、《パラス・アテナ》のデッキで、《シルヴァー・スター》から出撃したその戦闘機を見たジャスミンも、驚愕の叫びを上げた。

「馬鹿な、あれは《クインビー》そのものじゃないか!」

 他ならぬジャスミンがそう口にするほど、その漆黒の機影は、《クインビー》そのものだったのだ。
 戦闘機としては大型の、全長40メートルの機体。船首に設えられた、巨大な20センチ砲の砲門。後部の二つのタンクに見える膨らみは、《クインビー》と同じ設計ならば、重力波エンジンとショウドライブが格納されているはずだ。
 あまりの驚きで二の句が継げないジャスミンに応えたのは、巨大なスクリーンに突如映し出された、褐色の肌に銀色の長髪をした男性だった。

『あなたのいうとおりだ、ミズ。あれは、あなたの乗る戦闘機の模造品だよ』
「キャプテン・ラナート」

 ラナートは、悪戯を成功させた子供のように微笑みながら、
 
『くだんの『撮影会』の時、あなたの駆る《クインビー》に、ヤームルがひどく興味を持ってね、悪いとは思ったが、勝手にコピー機を造らせてもらった……』
「……まさか、一度《クインビー》の戦闘を見ただけで、コピーを造ったというのか?そんなこと、不可能だ」

 ラナートは頷く。

『確かに、あの戦いを分析するだけで簡単にコピーができるほど、クーアカンパニーの技術は甘いものではないだろう』
「ならば……」
『だが、あなたの携帯端末に収められた《クインビー》の飛行記録を分析すれば、話は別だ』

 いったいどういうことかと、ジャスミンは無言で先を促す。

『いつか、あなたを《シルヴァー・スター》に招いた時、携帯端末を肌身離さず持ち歩いていたか?』

 悪気なく微笑むラナートを、ジャスミンは睨みつけた。

「……なるほど、そういうことなら話は別だな」
『海賊の船に乗り込んだんだ。お宝の一つや二つ、盗まれるのが普通というものじゃないかね?』

 ラナートの言葉に、ジャスミンは黙り込む。

『無論、それでも簡単に《クインビー》を再現できる訳がない。当時のクーアカンパニーの最高技術の結晶である機体だ。一介の海賊風情に理解できる機体ではなかった』
「当然だ」
『しかし、その設計思想だけならば十分に理解できる。そして、パイロットに何を要求するのかも。ヤームルは、それを正確に理解し、共感し、熱望した。そして造り上げたのさ。《クインビー》と同じ運用方法の機体、空飛ぶ棺桶の二号機をね。それがあの機体――《ドーマウス》だ』 

 閃光は《クインビー》と《ドーマウス》、二機の戦闘機から同時に放たれた。
 各々の主砲である20センチ砲は、例えば分厚い装甲を有する大型戦艦ですら一撃で葬ることが可能なだけの威力を有している。いわんや、戦闘機サイズの機体で、しかも防御機構を著しく排除した両機体など、掠るだけでも撃墜するほどの威力だ。
 漆黒の宇宙空間を稲妻のように切り裂いた二つの光点は、擦過するように交わり、そして互いの機体の傍を通り抜けた。
 二機の姉弟機の操縦士は、鏡合わせのように映し出された彼我の姿を無感動に眺めた。想定被弾位置に対エネルギー防御膜を万全の状態で展開させても、20センチ砲の前には砂糖菓子よりも脆く崩れ去るのを理解している。
 だから、これは挨拶のようなものだ。互いの技量と、そして殺意を確認するための。

「ちっ、めんどくせぇじいさんだ!」

 操縦桿を握り締めたケリーは、片頬を歪めながら毒づいた。おそらくは相手さんも同じような有様だろうと想像しながら。
 そして二機は、当然のように三次元のドッグファイトへと突入した。飛行機が戦場に姿を現して以来、その戦場が空であった時代も、そして宇宙である時代も、最も有利な位置は相手の後方であり、その場所取り合戦こそが戦闘機の戦いの本質といってもよかった。
 二機の航跡は、まるで絡み合う大蛇のように、くねり、捩じれ、嚙み合った。宙域を満たす大小の岩石惑星をかわし、異常磁場を避けつつ、それでも倒すべき敵を見定め、ひとときも相手を視界から外さなかった。
 この時点で、ケリーはヤームルという男の技量について、少々甘く見ていたことを認めざるを得なかった。あのラナートをして、最強と言わしめるほどの男だ。無論、並みのパイロットではないだろうと予想していたが、これはその3枚ほど上を行く。一流の上に超をつけて、それでもまだ足りないほどの腕前だ。
 そして、《クインビー》を模したとしか思えない、あの漆黒の機体。性能上限はまだまだ見えないが、伊達や酔狂で《クインビー》の真似をしたとは思えない。少なくとも、20センチ砲の威力は《クインビー》と同等のものであったのだ。
 そんなケリーの内心は置いて、戦況は目まぐるしく流転し続けた。まず、設定した戦場が戦場である。普通の船乗りならば、そこの足を立ち入れるだけで命がけの場所で、二機は戦っているのだ。例えるならば、目隠しをした状態で地雷原に立ち、そこで殺陣を演じているようなものである。次の瞬間、どちらの船が吹っ飛んでも不思議はない。
 しかし、二機のドッグファイトは、時間の経過とともに天秤が片側に傾き始めた。ケリーの駆る《クインビー》の猛追に、《ドーマウス》が追い回され始めたのである。
 当然だ、と、ジャスミンは思った。無論、パイロットの腕前もある。だが、それ以上に機体の性能差が有意に開き始めているのだと感じていた。
 《クインビー》は、ジャスミンが冷凍睡眠から目覚めた瞬間こそ、40年前の型遅れの戦闘機に過ぎなかったが、その後、ダイアナの手助けもあり、猛烈な勢いでバージョンアップが為されている。無論、根本にある設計思想に変わりはないが、クーアシステムも最新のものに換装されているし、各種パーツの精度や耐久性は、既に現在の最新鋭を超える水準を誇っているのだ。
 転じて、《ドーマウス》は、いくらラナート海賊団の技術の粋を集めて造った機体であったとしても、語弊を恐れずに言うならば、所詮は海賊お手製の模造品に過ぎない。パーツをより集めて《クインビー》そっくりにしてはいるが、その性能は比べるべくもないだろう。まして、ラナート海賊団が現役で活動していたのは、もう10年以上も前なのだ。
 加速性、旋回性、攻撃性能、防御性能。それらをひっくるめて、総合的な機体の性能で、《クインビー》は《ドーマウス》を寄せつけていない。ケリーが《クインビー》を操縦するのが初めてだということを差し引いても、総合力で圧倒的に勝っている。
 そして今、正しく、《クインビー》は《ドーマウス》の後方を位置どった。
 《ドーマウス》が《クインビー》のコピーならば、おそらく後方への狙撃も可能なはずだ。しかしそれはケリーも十分承知のことであり、決して油断はしない。油断がないならば、20センチ砲の砲門を突きつけられた《ドーマウス》の運命こそ、風前の灯火というべきであった。

「キャプテン、そろそろ勝負はついたようだぞ。ヤームルという男を死なせることもあるまい。どうだろう、ここいらでこのファルスに幕を下ろしては」

 ジャスミンの言葉が勝者の優越感とともに吐き出されたのであれば、ラナートは嫌悪をもって応えただろう。
 だが、ジャスミンは、優れた宇宙船乗りをこよなく愛する癖がある。その点、ヤームルの腕前は、例えケリーに及ばずとも、素晴らしいものであると認めざるを得ない。ならば、このようなところで無為に死なせるのが惜しい。例え、それがケリーと生死を賭けて戦う敵だったとしても。
 ジャスミンには、そういう甘さがある。だからこそ、先ほどの台詞なのだ。
 そして、ラナートは、ジャスミンの内心を理解している。この女傑が、そういう人間なのだと理解している。
 それでもなお、ラナートは首を横に振った。

『そろそろさ、ミズ。君たち夫妻が、本当の意味でヤームルという男の真価を知るのは』

 ジャスミンは、ラナートの言葉をただの負け惜しみだとは思わなかった。そんな意味のないことを言う人間ではない、その確信があった。
 ジャスミンは再び、視線を二機の戦いへと戻す。戦いは、逃げる《ドーマウス》と追う《クインビー》の状況が続いており、《ドーマウス》の操縦は十分に華麗と呼べるものだったが、更に上を行く《クインビー》をどうしても振り切ることができないでいる。
 そして、二機は直線上に並び、その間に、如何なる障害物も存在しない、《クインビー》にとっては絶好の、《ドーマウス》にとっては絶体絶命のタイミングが訪れた。

 ――今だ。

 心の中でジャスミンは呟いた。自分が《クインビー》に乗っていたならば、今、間違いなく20センチ砲のトリガーを引く。相手が誰だとか、その生死がどうだとかではない。例えそれらがどうあっても、《クインビー》の操縦士である以上、絶対に見逃してはいけないタイミングだったのだ。
 そして、ジャスミンの心中の呟きと同じタイミングで、《クインビー》の砲身から、20センチ砲の砲撃が放たれた。
 勝負ありだ、ジャスミンは思った。あの一撃が、ヤームルという男の命までをも奪うかは、運命の神の御手に委ねられることだろう。しかし、ヤームルの命が助かっても、《ドーマウス》は決して無事では済まない。航行不能の一撃を与えられる。
 そういうタイミングだった。
 しかし、そうはならなかった。
 《クインビー》の砲撃は空しく宙を裂くだけに終わり、そして《ドーマウス》は――いつの間にか、《クインビー》の後方に位置どっていたのだ。まるで、さきほどの二機を逆にしたように。
 果たして何が起きたのか。
 ジャスミンは何が起きたかを理解した。しかし、どうしてそれが可能なのかを理解できなかった。
 言葉にするならば単純だ。《ドーマウス》は急停止したのだ。そして《クインビー》をやり過ごし、そして急発進し、その背後についた。
 それだけだ。
 異常だったのは、《ドーマウス》の挙動が、あまりに常軌を逸していたのである。亜光速の超スピードから、絶対速度でほぼゼロ速度まで超減速し、その直後に、再び亜光速まで超加速してみせたのである。

 ――死んだ!

 ジャスミンは、恐怖にも似た感情と共にそう確信した。
 ケリーがではない。
 ヤームルが、だ。
 あの急減速は、戦闘機に搭載可能な慣性制御装置の限界を明らかに超えている。それも、例えば急激なGによって意識を失うとか、そんな生易しい結末ではありえない。操縦席に座った人間の運命は、相殺しきれなかった慣性に押しつぶされ、あたかもミキサーにかけられたトマトのように成り果てるだけである。
 しかし――《ドーマウス》は再度急加速し、《クインビー》の後方に――戦闘機同士の戦いで最も優位な位置に陣取った。
 つまり、《ドーマウス》とそのパイロットはいまだ健在ということだ。

「馬鹿な!何故、あれで生きている!?」

 激昂したジャスミンは、テーブルを思い切り殴りつけた。
 あり得ない。絶対にあり得る話ではない。
 あり得るとすれば、可能性があるとするなら――!

「ダイアナ!あの戦闘機の感応頭脳をアレンジしろ!これは既に決闘ではない!ヤームルという男は、戦士の誇りに泥を塗った!」

 《ドーマウス》という戦闘機は無人であり、完全な自立型感応頭脳により操作が為されているか、それとも。

「もしくは、外部操作型だ!それなら、電波をジャミングするんだ!」

 ジャスミンは、瞳を激怒の金色に染めながら叫んだ。
 宇宙戦闘機に搭載された最も脆弱なパーツは、いうまでもなく、人体そのものである。それを排すならば、宇宙戦闘機は、現行の限界よりも遥かに運動性を高めることができる。例えば、たった今ジャスミンが想定した、完全自立型感応頭脳による自動操縦や、電波による外部操作による宇宙戦闘機が存在する。
 しかしそれらにも欠点がある。自立型感応頭脳は、戦闘機に搭載可能なサイズのそれでは、より大きな、例えば戦艦クラスの感応頭脳には歯が立たず、行動を先読みされて撃墜されてしまうのだ。また、電波操作型はジャミングに甚だ弱いという弱点がある。
 結果として、多少の運動性を犠牲にしても、有人戦闘機の優位は動かないというのが、現状の兵器運用となっている。
 しかしそれは、あくまで宇宙戦闘機を戦場で運用する場合に限定される。例えば今、この場所で行われているように、一騎打ちを念頭に置くならば、自立型感応頭脳や電波による外部操作の機体の方が、単純な運動性能でアドバンテージがある分、有利となる。
 そして、ヤームルという男は、禁断の選択肢に手を染めたのだ。
 それは、正しく許されざるべき行いだった。一騎打ちを申しこんでおきながら、自分は戦闘機に搭乗せず、外部から、安全に戦闘を行っていたとするならば。
 ジャスミンは、如何なる手段を用いてでも、その報いを支払わせるつもりだった。万死に値する行為だと確信した。
 だが。

「――無理よ、ジャスミン!アレンジもジャミングも効かない!」

 ダイアナの悲痛な叫びである。
 ジャスミンは驚き、

「どういうことだ!?お前にもアレンジできない、特殊なタイプの感応頭脳をということか!?」
「違うわ!あなたの《クインビー》がアレンジできないのと同じ理由よ!つまり、あの戦闘機、電算飛行してる!」
「――!」
「あれは、自立型感応頭脳による操作でも、電波による外部操作が行われているのでもない!《ドーマウス》は完全な有人飛行戦闘機よ!」

 ジャスミンは茫然自失の態で言葉を失った。
 電算飛行をしている戦闘機。自分の愛機である、《クインビー》と同じように。
 それ自体は、十分にあり得る話だ。何せ、《ドーマウス》は《クインビー》の設計思想をもとに作成されている。それに、自分と《クインビー》がこの宇宙で唯一の存在であると己惚れるほど、ジャスミンは愚かではない。
 しかし、有人飛行の戦闘機が、どうして明らかに慣性制御の限界値を超える飛行ができるのか。それは、操船技術の優劣とか、そういう問題ではない。人間という種の身体構造が抱える、最も根源的な問題だ。個々の人間の才能や努力では決して埋めることのできない、物理的な問題だ。
 ジャスミンは脳内でシミュレーションする。
 自分が《クインビー》で、先ほどと同じ動きを試みたとする。亜光速にも近い速度から、絶対速度でほぼ静止状態まで速度を落とし、そして即座に亜光速まで機体を加速させるのだ。
 その結果、機体はどうなるか。自分はどうなるか。

「……無理だ。どう考えても、絶対に死ぬ。それ以外の結果はあり得ない」

 戦慄とともにジャスミンは呟いた。
 科学技術は日進月歩している。特に、宇宙開発分野において、それは著しい。慣性制御についても、何度もの革新的なブレイクスルーにより、その性能は一昔前から比べると飛躍的に向上している。
 しかし、それにも限界がある。先ほどの《ドーマウス》の動きは、明らかにその限界を超えていた。
 加えて言うならば、《クインビー》に搭載している慣性制御装置は、当然のように最新鋭のそれである。クーアカンパニーの持ちうる最高技術と、ジャスミン個人の潤沢な資金により開発された、市場に出回る慣性制御装置の一段も二段も上回る性能の装置を搭載しているのだ。
 それをもってしても、先ほどの動きは不可能だ。機体がそれに耐えられたとしても、中の人間は絶対に耐えられない。
 だからこそ、ジャスミンは、《ドーマウス》が無人型戦闘機だと判断したのだ。
 だが、ダイアナはそれを否定する。あれは、有人型戦闘機であると断言した。

「……あの男ふうにいうならば……酷い冗談だ。こんなことがあっていいはずがない……!」
『だから忠告しただろう。ヤームルは最強の戦士だと』

 ジャスミンは、モニターに映し出された男を睨みつける。
 そこには、驚きなど一切なく、ただ淡々と事実だけを口にするラナートがいた。

『あれがヤームルだ。掛け値なしのヤームルだ。無論のこと、不正や誤魔化し等ない、ありのままのヤームルという人間の実力だ』
 
 なるほど、《パラス・アテナ》に乗ったケリーと互角以上の戦いができると断言できるわけである。《ドーマウス》の、あの馬鹿げた運動性能ならば、頷かざるを得ない。
 ジャスミンはラナートの言葉には応えず、スクリーンに目を戻す。
 そこでは、《クインビー》が《ドーマウス》に追い回されるという、先ほどとは別の構図が繰り広げられている。

 ――海賊は、先ほど何が起きたのか、理解できたのか。

 遠くから、全体を俯瞰していたジャスミンですら、一瞬、何が起きたのか理解できなかったのだ。そして、理解した後ですら、その事態を正確に飲み込むまでに時間を要した。 
 ならば、今正しく、ヤームルと戦っているケリーが、それを理解できたとは思えない。おそらく、目の前で突然敵影をロストし、気が付けば尻に食いつかれているという、悪夢のような状況に違いない。
 その点、ケリーは取りうる最善の方策を取った。事態が理解できないならば、まずは己の優位を――《クインビー》の機体性能の優位性を最大限生かそうと試みたのだ。背後から迫る《ドーマウス》を振り切るように、《クインビー》を急加速させ、彼我の距離を引き離そうとした。
 それをさせじと、《ドーマウス》から20センチ砲が吐き出される。極彩色の光線が《クインビー》に襲い掛かる。並みの戦闘機であれば初撃で沈んでいたであろうそれを、ケリーは、ほとんど第六感でもって躱し、大きく旋回した。
 そして、今度は正面から《ドーマウス》と相対し、《クインビー》に搭載された20センチ砲を撃ち込んだ。
 その時、やはりというべきか、《ドーマウス》は異常な行動を取った。
 なんと、《ドーマウス》は、戦闘機を直角の軌道に曲げ、20センチ砲を回避したのである。
 これも、ありうべからざる動作であった。通常、空中であろうが宇宙であろうが、戦闘機の軌道は曲線が基本である。というよりも、それしかできない。如何に急激な方向転換を試みようとしても、慣性に従うならば、それ以外の動きなどできるはずがないのである。
 ジャスミンは、凶悪な唸り声を上げた。《ドーマウス》は、おそらく人体への負荷を無視して急停止、そして機体側面の加速装置により最大加速し、まるで直角のような軌跡を描いたのである。
 
「あの機体は、物理法則を無視している……」

 どう考えても、そうとしか思えない。
 馬鹿げた考えだと思いつつ、しかしそれ以外考えられないのだ。
 しかし――この宇宙を飛ぶ戦闘機である以上、この宇宙の法則に縛られるのは当然の話であり、あの動きには何かトリックが――トリックでなくとも、何らかの手妻があるはずなのだ。
 ジャスミンは考える。一体、どうすれば、あのような動きができるのか。
 人体を搭載しない、自立型感応頭脳戦闘機や、外部操作型戦闘機ならば、先ほどの動きも説明できる。つまり、ボトルネックは人体の脆弱性なのだ。そこを何とかできるならば、あの動きにも一応の説明がつく……。

「人体の、脆弱性……?」

 脳内に光を感じたジャスミンは、その可能性を考えてみる。 
 もしも、もしも、《ドーマウス》がそういう機体なのだとすれば……。
 可能だ。自立型感応頭脳戦闘機や、外部操作型戦闘機でなくとも、あのような、有人戦闘機では絶対に不可能な動きをすることができても、不思議ではない。
 そして、それは不正ではない。むしろ、ヤームルという男にしかなしえない、正しく本気の戦いということだ。
 ジャスミンは、無言でラナートを睨みつけた。

「なるほど、確かに不正が行われた訳ではない。しかし、これは些か不公平な戦いではないのか」

 ラナートは、ジャスミンが真実に辿り着いたのだろうことを理解し、僅かに驚嘆したが、表情には露ほども現さなかった。
 そして、真剣な顔で、

『一面からすればそうだろう。しかし、相手はあの海賊王だ。そして海賊王が駆るのは、あなたの《クインビー》だ。もしも馬鹿正直にキングと同じ土俵で戦えば、戦場の露と消えるのは間違いなくヤームルの方となる』
「……」
『ヤームルは本気で戦っている。生死を賭けて戦っている。不公平であったとしても、不公正ではあり得ない。ならば、この決闘は正当なものだ』

 ラナートの言葉に、ジャスミンは反駁することができなかった。個人の技量、機体の性能差、過酷な戦場環境――全てを承知の上で、この決闘は執り行われているのだ。そこに、不公平など存在して当然であり、全てにおいて公平を求めることのほうが間違えている。
 奥歯を嚙み締めたジャスミンは、スクリーンに視線を戻す。
 そこでは、既に切り札を隠すつもりはないのか、まるで慣性から解き放たれたかのような縦横無尽の動きを繰り広げる《ドーマウス》が、あらゆる方向から《クインビー》を狙撃する、一方的な戦いが行われていた。
 既にケリーも、《ドーマウス》の異常性について、そして何が起きているのかについて理解しているだろう。しかし、おそらく、その本質は理解できていないはずだ。それが理解できたのは、ジャスミンが傍観者だったからであり、もしもケリーと立場が逆ならば、寧ろ理解できるはずがない。
 
「逃げろ、海賊!このままでは……!」

 勝てない。
 流石にその言葉は飲み込んだジャスミンは、汗の浮いた手を握りしめ、スクリーンを食い入るように見つめる。
 そしてその瞬間は訪れた。
 常識外れの《ドーマウス》は、本来戦闘機にはあり得ない飛び跳ねるような動きで《クインビー》の背後に周り、そして、絶好とも呼べる狙撃位置、そしてタイミングを確保したのだ。
 ジャスミンの背に、冷たいものが走り抜ける。先ほど、《クインビー》が《ドーマウス》を狙撃した時に感じたのと同じ感覚。自身のトリガーと《ドーマウス》のトリガーが重なるような感覚。
 そして、無慈悲にトリガーは引かれる。
 《ドーマウス》の20センチ砲から放たれた極彩色の光線が、《クインビー》に突き刺さる。



 《ドーマウス》から放たれた20センチ砲の光線が、《クインビー》に突き刺さる。
 《クインビー》の操縦席は消滅し、ケリー・クーアを原子レベルに分解する。その後、《クインビー》の鮮紅色の機体は爆発四散し、この宇宙を漂う極少のスペースデブリの一部となる。
 モニターを見ていた全ての人間が、そう思った。
 しかし、《ドーマウス》の攻撃は目標を貫くことなく、虚空へと消えていった。
 そして、姿を消した《クインビー》は、いつの間にか、《ドーマウス》の背後、もっとも狙撃に適した位置に姿を現していた。
 何が起こったのか、いち早く理解したのは、ジャスミンだった。最先端の感応頭脳の思考よりも速い、それは反射反応とでも呼ぶべき理解だった。

「跳躍しただと!?」

 ジャスミンは、ケリーの無事を喜ぶよりも、その常識外れの行動を非難するように叫び声を上げた。
 《クインビー》には二種類の跳躍エンジンが積載されている。つまり、重力波エンジンと、ショウドライブである。
 そのうち、重力波エンジンは、ゲートが無ければ跳躍することは不可能である。
 つまり、今の跳躍は、ショウドライブを用いたものということになる。
 ショウドライブを用いた跳躍自体は難しいものではない。むしろ重力波エンジンを用いた跳躍より遥かに安定しており、運用は簡単なものではある。
 しかしそれは、例えば数百光年という離れた場所への跳躍だから言えることであり、例えば今、《クインビー》が行ったような超々短距離の跳躍は、例えジャスミンであっても容易に行えるものではない。理由は簡単だ。宙帯へとゲートインした時の時空震がゲートアウトの時のそれと干渉し合い、機体に著しい負荷をもたらすのだ。下手をすれば機体は粉々に砕け散る。いや、そもそもゲートアウトが失敗し、異空間に放り出される可能性すらある。
 だがケリーは、まるで安定度の低いゲートを跳躍するときのように、時空震の発生場所の強弱を見極め、ここしかないという位置とタイミングでゲートアウトを行ったのだ。
 それは、ジャスミンにすら寒気を感じさせる、恐るべき戦法であった。

「いいぞ、らしくなってきたじゃないか、海賊王!」

 《クインビー》による背後からの狙撃を、やはり慣性を無視したような直角動作でかわしたヤームルは、《ドーマウス》のキャノピーの中で悦びの声を上げる。
 
「そうでなくてはいけない!そうでなくては面白くない!お前はそうあるべきだ!そうあるよう定められた生き物なのだからな!」
 
 再び交わる二機の機影。
 そして、背後を取ったのはやはり《ドーマウス》だ。
 そして、《ドーマウス》からの狙撃を、《クインビー》は超々短距離ワープで躱し、《ドーマウス》の背後を取る。
 これは、三次元の戦いではない。四次元空間までをも巻き込んだドックファイトそのものだった。

「ジャスミンどの、これが戦闘機の戦いなのか!?」

 緊張したウォルの言葉に、ジャスミンは、豊かな赤毛を振り乱すように首を横に振る。

「違う!これが、こんなものが戦闘機の戦いであるものか!これは悪夢だ!全ての戦闘機乗りの誇りを台無しにする、最も質の悪い悪夢そのものだ!」

 ジャスミンは、血のにじむような視線でモニターを睨みつけながら叫んだ。
 モニターに映し出された宇宙空間は、今や、その二機の織りなす軌跡を描くためのキャンパスだった。
 片や、戦闘機では本来あり得ない、稲妻のような残像を残して高速で飛翔し続ける黒い機体。
 片や、超短距離で異次元への跳躍を繰り返し、変幻自在に出現消滅を繰り返す紅い機体。
 そして、その二機が吐き出す20センチ砲の、虹色に輝く光線の軌跡。
 それは正しく、慣性無視イリーガル悪性幻影イリュージョンの戦いだった。
 もしもこれが戦闘機の戦いであるならば――戦闘機の戦いの極地であるならば、今まで、研鑽と苦闘の果てに宇宙の露と消えた数多の戦闘機乗り達の戦いは何だったのか。
 そして、疑うことなく、現在の戦闘機乗りの頂点にあるはずのジャスミンは、獰猛に牙をむき出しにしながら、モニターを凝視し続ける。
 自分ならどう戦うか。あの二人を相手に、どう戦い、そして勝つか。否――そもそも――勝てるのか。
 頭の中で幾度も幾度も繰り返されるシミュレーションは、しかしジャスミンの意識を否定し続ける。
 戦闘機が兵器である以上、本来の運用方法は戦略思想をもととする。その最重要項目に、対戦闘機の一対一の戦闘は置かれてはいないだろう。しかし、個対個、一対一の戦いにおいて、あの二機に食らいつける戦闘機は、自分が駆る《クインビー》も含めて、存在し得ない。それが答えだ。
 そして、ジャスミンは理解した。あの時のケリーの言葉の本当の意味を。

『どんな戦い方をしようが、どれほど傷つこうが、文句は聞かねぇぞ』

 あの時点で、ケリーは、おそらくこの戦術を考えていたに違いない。
 ならば、あの言葉の真意は、《クインビー》の機体に傷がつくかも知れないという意味ではなかった。戦闘した戦闘機が傷つくのは寧ろ当たり前であり、その程度のことに、わざわざ断りを入れる男ではなかった。
 あの言葉は、ジャスミンの誇り、戦闘機乗りとしての誇りに傷がつくかもしれないと、そういう意味だったのだ。

「いい度胸だ、海賊……!」

 獰猛な笑みを浮かべた女傑が、その光彩を金色に染めながら呟く。
 いいだろう。確かに、今はお前に勝ちえない。それは認めよう。
 だが、それは今だけの話だ。明日は違う。明後日はもっと違う。再びお前と肩を並べて戦う時のわたしが、今のわたしと思うな。
 ジャスミンは、その金色の瞳に危険な色を浮かべながら、モニターを凝視する。
 そこに描かれた戦いは、常識外れではあったが、しかし五分五分の戦いであった。両機の挙動こそ常識では測りがたいものではあったが、戦いの天秤はどちらへ傾いているようにも思えなかった。
 これは千日手か。
 しかし、ジャスミンの考えとは別に、ダイアナが、気遣わしげに呟く。

「不味いわね……このままじゃ、ケリー、負けるわよ」

 ジャスミンが、ダイアナを睨みつけた。

「どうしてだ」
「ジャスミン、わたしには、あの二機がどうしてあんな戦い方をできるのか、理解できないわ。でも、起こっている事象そのものだけを捉えるなら、《ドーマウス》には慣性法則の常識が通じず、そして《クインビー》はショウドライブを用いた超々短距離跳躍でそれに対応しているということになるわ」

 ジャスミンは頷いた。
 ダイアナは続ける。

「これらは、一見互角に見える。偶然放たれた一撃が勝負を決めることも十分ありうる話だけど、それがないと仮定すれば、この勝負に終わりは見えないように思える。でも、もし先に限界が訪れるとすれば――それは、ケリーの戦い方だわ」
「どうしてそう言い切れる?」
「ショウドライブによる跳躍は、通常空間から宙帯へ潜り込み、そしてゲートアウトを行うというものよ。それが数百光年も離れた場所同士なら、駆動機関の限界を無視すれば、理論上無限に跳躍が可能なはず。でも、今ケリーが行ってる超々短距離跳躍だと、時空震の影響が強すぎるのよ。例えるなら、水面に小石を投げ続けて、その波紋を躱しながら跳躍をしているようなものだわ。もしもその波紋に捕まれば、まともな跳躍ができるはずがない……」

 まともな跳躍ができなくなれば、跳躍に失敗して宇宙の藻屑となるか、それとも20センチ砲の狙撃で極少の塵と化すか……。

「跳躍の度に、この宙域に小石は投げ続けられてる。波紋は、どんどん多く、大きくなっている。今の状態ですら、ゲートで言えば、すでに安定度は50を切ってるような状況よ。このままいけば、安定度は一桁に、そしてゼロになる。そうなれば、いくらケリーでも跳躍はできない」

 ダイアナの言葉は、正鵠を射ていた。
 だが、ジャスミンはもう一つ、《ドーマウス》の方の限界も理解していた。
 もしも《ドーマウス》が、ジャスミンの想像するとおりの機体だとすれば、それは慣性を無視しているのではなく、極限まで慣性相殺を高めた機体であるに過ぎない。ならば、操縦者に対して、影響がないのではなく、影響を限りなく少なくするのが限界である。
 つまり、《ドーマウス》のパイロットであるヤームルという男にも、必ず限界は来る。
 問題は、それが、《クインビー》の跳躍能力と、どちらが先に訪れるか、ということである。

「海賊……!」

 スクリーンには、相も変わらず常識外の動作で戦い続ける二機が映し出されている。その優劣は、今のところどちらにあるか分からない。
 ジャスミンは、祈るように手を強く握った。


 
 鼻の舌から口の端を通り、とろりとした液体がたれ落ちているのを感じる。
 舌で舐めとると、想像通り、濃い鉄の味がした。
 もう、先ほどから、何度も咳き込み、血を吐き出している。
 慣性を無視した《ドーマウス》の挙動は、ヤームルの内臓を強かに痛めつけていた。内臓だけではない。毛細血管が破裂したのだろう、視界は赤く染まり、上手く像を結んでくれない。頭は割れるように痛み、拍動の度にずくずくと抉るような激痛を与えてくれる。
 何度も繰り返した嘔吐で、既に胃の中は空になり、今は黄ばんだ胃液を絞るように吐き出すだけだ。 
 満身創痍だった。本当は、最初の一撃で片を付けるつもりだったのだ。それを、まさかこんな泥沼に引き吊り込まれるなんて考えもしていなかった。
 だが、それがなにより楽しく、嬉しい。自分が苦境に立たされていることを、悦んですらいる。
 それはつまり、あの男が強いからだ。海賊王の大看板を、自分の意思ではなく、全ての海賊達から認められる事で背負った、あの男。
 ケリー ・キング。
 ここまで自分が苦戦させられたのは、いつ以来だろうか。少なくとも、戦闘機同士の戦いという意味では、初めての経験だ。今までの相手は、全て初撃で屠ってきた。
 ケリーは、その攻撃を躱すどころか、無茶苦茶な跳躍を行い、反撃に転じてきたのだ。
 ショウドライブが開発され、広く普及されて、しかしこのような運用方法が為されたことはいまだかつてないだろう。第一に意味がなく、第二に危険すぎる。最高級の戦闘機用感応頭脳ですら、卒倒する様子でパイロットを制止するに違いないのだ。
 いや、もしかすると、クレイジーダイアンならば、それに付き従うのだろうか。
 ヤームルは、苦痛で引き攣れる顔に、辛うじて笑みを浮かべた。
 その視線の先で、また、ケリーが跳躍した。今度はどこに姿を現すのか。全身の感覚で、それに対応する。必ずしも背後に現出するとは限らない。
 然り、ケリーが姿を現したのは、ヤームル本人の位置からするならば、鉛直方向に頭上だった。そこから、まるで爆弾を投下するかのように狙撃をしてくる。
 ヤームルは、《ドーマウス》の操縦桿をあり得ない方向に捩じり、そして機体を真横に動かした。当然、横方向の強い重力に、ヤームルの身体が痛めつけられる。いつからか聞こえていた鬱陶しい耳鳴りが、それすら聞こえなくなった。鼓膜がやられたのか、音を感じる脳細胞が破壊されたのか。
 朦朧とするヤームルの意識の中にこだまするのは、たった一つの言葉だ。 

 勝ちたい。

 あの男に、勝ちたい。
 
 勝って、どうしたいのではない。勝って、何かを手に入れたいのではない。
 勝ちたい。その想いだけが原動力となり、既に限界を超えた身体を動かし続ける。今にも途切れそうになる意識をつなぎとめる。
 勝って、その後何をするのか。勝って、自分はどうなるのか。
 そんなことは、意識の埒外にある。善悪の彼岸、正否の彼方にある。
 本当に勝ちたいのか、それすらも分からなくなる。
 朦朧とした意識は、勝利と生存のための最善手を選び続けながら、しかし、自分が今、この時のために生きてきたのだと確信させる。海賊として生き、海賊としての生き場所を失い、海賊たちの死に場所を作り続けて……。
 そうして辿り着いたのだ。海賊王との戦いの舞台へと。そうだ、人生を舞台と呼ぶならば、これは正しく晴れ舞台であり、スポットライトは自分とあの男のためだけにある。
 ならば、演じきらなければならない。もしも自分に割り当てられた役が、無様な道化であり、何も生みだすことのない無為な存在だったとしても――全てを捨てた自分に向けられる観客の視線が、嘲りであろうとも、侮蔑であろうとも、同情であろうとも。
 戦うのだ。勝つのだ。勝って――その後のことは、その後考えればいい。
 幸福があるとは思っていない。穏やかな死など、とうの昔に諦めている。
 それでも――勝ちたい。
 神に祈るのではない。敵に懇願するのでも、もちろんない。
 ただ、己に向けて。
 勝つ。
 勝ってみせる。
 自分に胸を張れるように。
 ヤームルは、戦い続ける。今までがそうだったように。人生の最後の瞬間がそうであるように。
 そして、その瞬間は訪れた。
 先に限界を超えたのは、ヤームルでもなく、ケリーでもなく、戦闘宙域そのものであった。
 《クインビー》が、跳躍を失敗したのだ。いや、それは失敗ではない。すでにその空間の時空震は限界を超え、跳躍が不可能な状態となっていたのだ。安定度一桁のジャンプを成功させるケリーであっても、ゲートが無ければ跳躍が不可能なように、その空間では跳躍そのものが不可能となっていたのだ。
 《クインビー》は、《ドーマウス》の照準の中央に、その無防備な背を曝していた。
 ヤームルは、肺腑を空にするように、雄叫びを上げた。

「俺の勝ちだ、海賊王!」
 
 そしてヤームルは、20センチ砲のトリガーに指をかけた。



 ケリーはその瞬間、死を覚悟した。
 自分を通過する20センチ砲の激烈なエネルギーを感じたくらいだった。
 呼吸が止まり、一気に冷や汗が吹き出る。思い出したくもない走馬灯らしきものが、脳裏をよぎった。
 しかし、狙撃は無かった。《クインビー》の背後、絶好のポジションに位置どった《ドーマウス》からは、一切攻撃の気配がない。
 次にケリーが感じたのは、焼けつくような怒りだった。自分は情けをかけられたのだと思った。
 それは、侮辱だ。自分と、そして自分と死闘を演じたヤームルというあの老人自身への。
 ケリーは、既に跳躍が不可能となったその空間で、《クインビー》を大きく旋回させ、《ドーマウス》の背後へと回り込んだ。その際中も、《ドーマウス》からは一切の気配がない。
 流石に不審を覚えたケリーが、《ドーマウス》の背後から接近し、並行飛行に移る。依然、《ドーマウス》からは、反撃に転じるような動きが全くない。
 ケリーは、大きく息を吐き出した。身体から緊張感が抜けていく。操縦桿を握っていた手に、思っていたよりも強い力が込められていたのだと実感する。
 勝負が、終わったのだ。
 ジャスミンが勝負の途中に気が付いたのとほぼ同じタイミングで、ケリーも《ドーマウス》の秘密に――というよりも、ヤームルの秘密に気が付いていた。
 確かに、《ドーマウス》の異常な動きは、現在の慣性相殺の性能では説明のつかないものであった。
 しかしそれは、搭乗しているのが人間である場合の話だ。
 もしもそれが人間以外の生き物――もっと小さく、もっと質量が少なく、かつ、戦闘機を十全に操作する、そんな生き物ならば、慣性相殺は人体に対するよりも強力にその性能を発揮するだろう。人間であれば即死するような挙動にも、何とかパイロットを守ってくれるかもしれない。
 無論、そんな生き物は存在しない。だが、その実例を、ケリーは知っている。メイフゥとインユェの姉弟。人でありながら、人以外の現身をもった、本来ならばおとぎ話の中にしか存在し得ない人間。
 メイフゥは、いつか、《パラス・アテナ》で食事をともにしたときに言った。ヤームルも、自分たちと同じなのだと。
 ケリーは《クインビー》を操作し、《ドーマウス》の機体に押しつけ、減速を試みた。それは成功し、速度を弱めた二機は、手近にあった小惑星へと着陸する。
 ケリーは《クインビー》のキャノピーを開き、小惑星へと降り立つ。そして、強制的に着陸させた《ドーマウス》へと歩み寄る。
 宇宙服姿のケリーは、外部操作で《ドーマウス》のキャノピーを開いた。当然であるが、もしも中のパイロットが健在ならば、そのような外部操作を受け付けるはずがない。外部操作が可能となるのは、中のパイロットがそれを望んだ場合か、既に外部操作を拒否できる状態にない場合だけである。

「――」

 ケリーは言葉を失った。
 開け放たれたキャノピーには、本来あるべき、操縦席のスペースが存在しなかった。まるでキャノピー自体がダミーであるかのように。
 本来操縦席があるべきスペースのほとんどが、おそらくは慣性相殺装置と思われる機械装置に埋め尽くされている。なるほど、本来の操縦室のスペースにすら、慣性相殺装置を搭載していたのだ。あの常識外れの動作が可能となる一因なのだろう。
 だが、そのほぼ中央に、子供用のスコップで掘った程度の小さな窪みがある。
 ケリーはそこを覗き込む。
 そこは、異形の操縦席だった。
 小さいのだ。
 全てが、まるでミニチュアの戦闘機のように、小さい。計器類も、操縦桿も、モニターすらも。
 到底、人が入れるサイズではない。掌サイズの小人のために操縦席のミニチュアを作ったとすれば、こういう造りになるだろう、そういう具合だった。
 その操縦席に、一匹のねずみがいた。
 全身の毛を白くした、そして口元を吐血で赤く染めた、老いたねずみだった。
 そのねずみが、やはりミニチュアサイズのシートベルトでその小さな体を操縦席に固定させ、操縦桿を握り、今まさにトリガーを引き絞ろうとしていた。
 ケリーは、無言で、ねずみの身体を縛るシートベルトを外してやる。すると、無重力の空間に、ゆっくりゆっくり、ねずみの身体が浮き上がる。
 両手で、ねずみの身体を包み込む。手に、暖かさは伝わらない。そして、拍動も。
 老いたねずみは、吐しゃ物と吐血でその身体を汚し、そしてその紅く濁った小さな瞳を見開いたまま――死んでいた。



[6349] 第九十六話:御伽噺の終わり
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/02/19 19:43
 決闘は終わった。
 決着は勝者に何をもたらすわけではなく、そして敗者に何を与えることもなかった。
 ただ、勝者は生き残り、敗者はこの世を去った。過程に意味を求めないならば――ただ、それが結果であった。
 勝者であるケリーは、敗者であるヤームルの遺体――小さなねずみの姿をした――を《パラス・アテナ》に持ち帰った。
 《クインビー》を《パラス・アテナ》の格納庫に着艦させると、《パラス・アテナ》に乗っていた全員がケリーを出迎えた。
 ケリーは無言で彼らの前を通り過ぎる。その胸に、小さな戦士の死骸を抱いたまま。
 一人、《パラス・アテナ》の倉庫に入る。そこには、宇宙を旅する者の義務として、いくつかのスペースコフィンが格納されている。その中から、ペット用のサイズのものを選び、ヤームルの死骸を納めた。
 そして、手荷物程度のサイズのそれを、《パラス・アテナ》の冷凍室に安置する。
 それだけの作業を終えてから、デッキに戻る。一番最初にケリーを出迎えたのは、ジャスミンであった。

「終わったのか」
「ああ。しかし、まだ終わっちゃいない」

 ケリーは、モニターに映し出されたダイアナに向けて、

「ダイアン、《シルヴァー・スター》へ通信をつなげてくれ」

 ダイアナは、無言で頷く。
 そして、間もなく画面にラナートが映し出された。
 ラナートの顔には、如何なる感情も浮かんでいないように見えた。ケリーの勝利を祝うでも、友の死を悼むでもなく、ただ、全てを受け入れて、そこに立っているように見えた。

『見事だ、キング。まさか本当に、ヤームルに勝つとはな』
「たまたまさ。それに、もしも、あの男の全盛期にやり合ってたら――」

 最後にあの男が放とうとしていた一撃は、自分を貫いていたのではないか。
 勝負にもしもは無い。ヤームルは老いていて、蘇った自分には若い肉体があった。全てを承知の上で、あの男は自分に勝負を挑んだのだ。
 ならば、結果が全てだ。仮に自分が逆の立場だったとして、醜い言い訳は絶対にしない。
 それでも、ケリーはもしもを口にしそうになる。仮にの話をしてしまいそうになる。
 それを押しとどめたのは、乞うようなラナートの視線だった。

『それ以上は言うな。それ以上は、ヤームルへの侮辱になる』

 怒りを込めるでも、悲しみを込めるでもなく、淡々とした調子でラナートは言う。

『お前は勝ったんだ、キング。勝者は全てを手にし、敗者は全てを失う。当然のことだ。しかし、それでもなお敗者に残るものがあるとするならば、それは敗者としての誇りだ。敗れたということに対する誇りだ。いくら勝者でも、その誇りだけは奪い取ることはできない』
「……お前の言う通りだな」
『ヤームルは全盛期だったのさ。今が――お前と戦うことができたこの瞬間こそが、全盛期だったんだ。どの瞬間のこいつよりも、研ぎ澄まされていたんだ。だから、こいつは満足して死ぬことができた。その誇りを、誰が否定しても、お前だけは分かってやってくれ』

 ケリーは頷いた。

「この、小さな勇者の遺体を、お前に引き渡したい。《パラス・アテナ》とドッキングできるか?」

 ラナートは首を横に振った。

『近くに、有人惑星がある。通常航行でも3日もあれば着く。そこで落ち合おう』

 ほかならぬラナートがそう言うならば、否やは無い。
 ケリーは、先行する《シルヴァー・スター》に、《スタープラチナ》を牽引する《パラス・アテナ》を追いかけさせる形で、その宙域を離脱した。
 途中、ケリーとヤームルの勝負を見届けた海賊の艦艇が、列を作っていた。
 『花火師』アーウィン・ショウ の《ファイヤ・クラッカー》、『毒花』バーバラ・ベル・ゲデスの《ベラドンナ》、『血頭』ダシール・ハメットの《デザート・フォックス》、『亡霊師団』サミュエル・ドミトリクの《フライング・ダッチマン》、セルバンテス海賊団の副旗艦《ワイバーン》、その他、無数の海賊船が列を作り、《シルヴァー・スター》と《パラス・アテナ》を見送る。
 それは、勝者を祝う凱旋の催しのようでもあり、死者を悼む葬列のようでもあった。
 そして三日が過ぎ、三隻の艦艇は、名も知れぬ有人惑星へと到着した。
 当然のように、入国審査用の感応頭脳を誑かしたダイアナは、《パラス・アテナ》と《シルヴァー・スター》、そして《スタープラチナ》を、無害な輸送艦として入国させる。
 三隻は、手近にある発着場へと着陸した。そして、《パラス・アテナ》からは全ての乗員が降り、《シルヴァー・スター》からはラナートだけが降りた。
 ケリーは、両手で恭しく抱えた、ペット用のコフィンを、ラナートに渡そうとする。
 
「待って、ちょっとだけ、待って……」

 そう言ったのは、3日の間に繭から回復したメイフゥだった。
 全ての事情を知らされて、しかしヤームルの遺体とは、今まで向き合うことはなかった。
 だが、これが最後の別れだと理解しているのだろう、すがるような声でケリーに言う。

「ごめん、最後にお別れを言いたいんだ」

 ケリーは無言でヤームルをメイフゥへと渡した。
 憔悴した様子のメイフゥは、ペット用のコフィンのガラス窓から除く、小さなねずみを見る。それは、既に毛皮がごわごわに毛羽立ち、生気の欠片も感じられない、小動物の死骸そのものだった。
 だがそれは、間違いなく、メイフゥの育ての親の遺体だったのだ。

「ごめんね、ヤームル。本当は、もっと早くお別れを言うべきだったのに……あたしが臆病だから、こんなに遅くなっちまったんだ……」

 メイフゥは、ケースを抱きしめ、囁くように言う。

「今まで、本当にありがとう。ありがとう、ヤームル。もう、あたしは大丈夫だから。インユェも、大丈夫だから。ゆっくり休んでおくれよ。もう、あたし達は大丈夫だから……」

  ケリーは、その様子を見遣り、そしてぼそりと言った。

「俺を恨め、メイフゥ。ヤームルを殺したのは俺だ。お前にはその資格がある」

 メイフゥは首を横に振る。

「恨まないよ。だって、ヤームルはきっと、満足して死んだんだもの。それなのにあんたを恨んだら、きっとヤームルが悲しむよ」

 メイフゥは力なく微笑んだ。

「ヤームルはね、死にたがりだったんだよ」

 遠い、儚い声で、そう呟く。

「ずっとずっと、死に場所を探していた。それがきっと、ようやく見つかったんだねぇ。あんたと戦ってなら、死んでもいいって思えたんだねぇ。だから……ありがとう、兄さん、ヤームルを死なせてやってくれて……」
「……無理をするなよ。お前みたいな女の子に、そんな顔でそんなことを言われるくらいなら……殴られたほうが、幾分ましってもんだぜ」
「うん、うん、ごめんねぇ……でもね、でもねぇ……あたし、あたしさぁ……かなしいよぅ、かなしいよぅ……」

 メイフゥの大きな瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちる。
 メイフゥの、いつもは快活に笑う口元が、堪え切れない嗚咽に歪む。嗚咽そのものを噛み潰そうとするかのように、歯が食いしばられる。
 しかし、その食いしばられた歯の隙間から、堪えても堪え切れない嗚咽が漏れ出す。
 その様子を、ケリーは、痛みとともに見つめる。

「……だから、恨めよ。恨めば、それはきっと、怒りに変わる。怒りに変われば、悲しまずに済む……」

 メイフゥは首を横に振った。涙が、きらきらと宙を舞う。

「うらまないよ……だって、うらめばヤームルがかなしむもの……でもねぇ……あたし、あたし……」

 口元を戦慄かせて、メイフゥは、大声を上げて泣いた。
 ヤームルを抱きしめながら、泣いた。

「うわあぁぁぁぁん……!」

 顔を少し持ち上げたまま、目を瞑り、大きく口を開き、まるで転んだ幼児のように、泣き続けた。
 その声を止める術を、ケリーは知らなかった。 
 ただ、己に課せられた罰のように、泣き続けるメイフゥの前で項垂れた。

「あぁぁぁぁぁん……あぁぁぁぁぁん……!」

 泣けば、大事な人が戻ってきてくれると信じているかのように、メイフゥは泣いた。
 そんなメイフゥを――姉を、辛うじて瞳を涙で湿らせたインユェが搔き抱く。

「泣くなよメイフゥ!泣くな!お前が泣いたら、ヤームルが静かに逝けないだろう!?」

 メイフゥは、頷く。弟の胸の中で泣き続けながら、頷く。

「うん、うん、そうだね、インユェ……でも、でも、あたし、さみしいよぉ……さみしいよぉ……」
「寂しくなんかない!俺がいるだろう!だから、泣きやめよメイフゥ!俺がいるから!絶対に俺がお前を一人にさせないから!」
「そうだね、そうだね、インユェ……あんたがいてくれるねぇ……でも、もう、あたしたち、ふたりぼっちになっちゃったねぇ……もう、ふたりだけなんだねぇ……」
「二人じゃねぇよ!ウォルもいる!リィもシェラも、ケリーさんもジャスミンさんもダイアナさんもいるじゃねぇか!俺達は二人じゃねぇよ!そうだろう!?」
「そうだね、そうだね、インユェ……でもね、でもねぇ……」

 しばらくメイフゥは泣き続けた。
 それでも何とか泣き止んだメイフゥは、唇を引き絞り、ヤームルの眠るコフィンをケリーへと手渡す。
 ケリーは押しいただくようにそれを受け取り、そして、ヤームルの友であった男へと渡す。
 ヤームルの友は――ラナートは、ヤームルのコフィンを、大きな布で包んだ。黒地の絹織物に、銀糸で流星が描かれた旗、それが、ラナート海賊団の海賊旗であることを、ケリーは知っていた。

「これで、うちの海賊団も手じまいだ」

 ラナートは淡々と言う。

「もう、ずいぶんと前に、終わっていたんだ。だが、これで区切りがついた。本当の意味で、ラナート海賊団は解散だ」
「そうか……寂しくなるな」
「お前がくたばったときほどじゃないさ」

 ラナートはくすりと微笑った。
 ケリーも、同じように微笑った。

「さらばだキング、お前と顔を合わせるのも、今生ではこれが最後かも知れんな」
「さぁな。そう言って、案外明日にでも顔を合わせるかも知れないぜ?」
「――そうだな。あまり大層な別れ方をすると、その時に、間の抜けた思いをすることになるな。ならば、別れの挨拶はこの程度にしておこう」

 ラナートの言葉に、ケリーは頷く。
 そして、まだしゃくり上げるメイフゥをちらりと見てから、意味ありげな視線をラナートへ送る。それに気が付いたラナートが、ふとケリーの隣に立ったジャスミンを見てみれば、こちらも厳しい視線で何事かを訴えている。
 規格外の夫婦が何を言いたいか理解したのだろう、ラナートは苦笑した。
 そして、メイフゥとインユェのそばに歩み寄る。

「……何だよ、何か用かよ」

 目を赤くしたインユェが、メイフゥを守るように背に隠し、ラナートに相対する。
 その時のラナートの、二人を見つめる視線に込められた感情の多さを、果たして誰が理解することができるだろう。
 ラナートは、ただ無言で、二人を抱きしめた。
 そして、ラナートの突然の行動に驚く姉弟に向け、囁くようにこう言った。

「お前たちは、ふたりぼっちじゃない」

 ラナートは、唖然とした瞳を向ける二人に、淡い微笑みを浮かべ、背中を向ける。
 メイフゥはその時、唐突に思い出した。
 遠い昔、自分を抱きあげてくれた、大きな腕と大きな背中。
 潮の灼けたような匂いと機械油の匂いの入り混じった、不思議な匂い。
 それは、メイフゥの遠い記憶、一番旧い記憶を呼び起こす香りだった。

「まさか、あんた……!」

 メイフゥの声など聞こえていなように、ラナートの背中は遠ざかる。
 唖然とした表情だったメイフゥは、しかし、確信を持って、その背中に向けて叫んだ。その顔に、雲間を切り裂く陽光のような微笑みを浮かべて。

「覚悟しておけよ親父さま!いつか、結納金と初孫の出産祝い、それと今までの養育費、もろもろ利子をつけて全額取り立てに行ってやるからな!」

 ラナートはその声を背中で受け、軽く手を上げて応え、《シルヴァー・スター》の搭乗口へと姿を消した。
 ほどなくして《シルヴァー・スター》からエンジンの駆動音が響き、そしてその機体は宙を浮き、そのまま上空へと姿を消した。
 メイフゥとインユェは、万感の思いでその機影を見送る。
 この複雑な生い立ちの姉弟にも、一つの区切りがついたのだろう。ケリーとジャスミンは視線を交わし、同じ拍子で軽く肩をすくめた。
 
「それでは、儂も、ここでお暇させていただくといたしましょう」

 《パラス・アテナ》の乗員であった一人の老人が、そう呟いた。

「ビアンキ老。何故このようなところで。後ほど、惑星ヴェロニカまでお送りいたします」

 ジャスミンが少し慌てたように言うと、枯れ木のような老人は、かっかと笑った。

「この身は、ヴェロニカでは既に死んだ身。今更、あの星へ帰ろうとは思いませぬ。それに、罪に塗れたこの身が、ヴェロニカの大地に還るなど許されざることでしょう」
「何をそのような。ヴェロニカ共和国を救ったのは、確かにあなたの功績でもあるのです」

 ジャスミンは断言した。
 そうなのだ。ヴェロニカ共和国が、全住民のジェノサイドの危機に曝されていると判明した次の夜、ヴェロニカ共和国の軍上層部と政府高官の多くが見たという夢。
 それは、死したビアンキ老師の魂が為した奇跡などではない。生きたビアンキが、リィやルウの手を借りて要人の居宅に忍び込み、シェラ謹製の嗅ぎ薬で夢と現実の境を曖昧にさせ、その上で行った『死者のお告げ』だったのだ。
 儀式の夜、生贄に捧げられるはずだったウォルの剣で心臓を貫かれたビアンキは、確かに死んだと思った。刃の冷たい感触が胸から入り背中に抜けていく感覚も確かに感じた。
 だが、ビアンキは生きていた。
 生きていたからには、為すべきことがある。そして、自分が為すべきは、ヴェロニカ共和国を守ろうとする若人達の背中を押すこと。ビアンキはそう確信し、行動し、成し遂げた。
 そして今、皺だらけの顔に穏やかな笑みを浮かべながらジャスミンに相対し、やはり笑顔のまま首を横に振った。

「儂はあの夜、そこにおわす王の一撃で、確かに命を断たれたのです。無論、それを恨むわけでも、悔いるわけでもない。寧ろ、今の今まで生かしていただいたことに感謝するほかありませぬ。ただ、今の儂は、いわば亡者のようなもの。亡者のこの身が、今更ヴェロニカの大地に必要ではありますまい」
「……では、ビアンキ老はこの星で何を?」
「はて……そう言われると返答に困りますが……しばらくは、乞食でもして……生きるだけ生きたら、野垂れ死にをしようかと思っております」

 深い笑みを浮かべて、ビアンキは静かに言った。その言葉のどこにも、自暴自棄とか自虐的な響きはない。ただ安らかに、己の人生の到着点を見定めた声だった。
 ジャスミンは、本当に、老人がそれを望んで言っているのだと分かった。
 誰にも看取られることのない、孤独な死。誰にも省みられることのない、無為な死。ヴェロニカ教の真実を知り、背負い続けた老人の、最後の望みがそれなのだ。
 ジャスミンには、もはや老人を止める言葉は無かった。止める言葉がないならば――微笑って見送るのが、最上の礼儀だろう。
 微笑んだジャスミンに、ビアンキは、深く腰を折り、頭を下げた。

「それでは、おさらばです、皆様。今生においてもうご尊顔を拝することも無いでしょうが……どうか、末永く、ご壮健でありますように。そして、ヴェロニカの神の恩寵が、皆様にありますように」

 そう言って、ビアンキは、しっかりとした足取りで発着場を旅立った。
 その後姿を見送りながら、ウォルは、隣に立ったリィに向けて呟く。

「リィよ、俺はな、あの時、確かにあの老人を斬った。心臓に向けて突き刺した切っ先が、背中から飛び出るのを確かに見た。それでも、あの老人は生きていた。それが不思議でならんのだが……やはりこの剣の仕業か?」

 リィは、はっきりと頷いた。

「ウォル、お前も知ってると思うが、ラー一族の刀工の鍛えた剣は意思を持っている。そして、担い手が斬りたいと思ったものを斬り、斬りたくないと思ったものは斬らない。その気になれば銃弾だって容易く斬り落とすし、担い手が望んだならば斬った人間を生かすこともできる。あの爺さんが死ななかったのは、お前が殺したくなかった、その意思を剣が汲んでくれたからだ」
「……恐ろしい剣だな」

 ウォルは、腰に履いた鞘を撫でながら呟いた。
 リィは、そんなウォルの様子を見ながら、

「お前がその剣を恐れ、そして敬い、その信頼を預けるならば、その剣はいつでもお前のために力を貸してくれるだろう。逆に、お前がその剣の力に慣れ、己の力だと勘違いをし始めたら、剣からお前を見放すに違いない。その剣は、そういうものなんだ」
「それはなんとも……」

 ウォルは苦笑した。
 戦士とは、剣と一心同体であるべきだとは思っていたが、ここまで剣のほうから信頼をされると、なんだか荷が重いようにも感じてしまうのだ。
 それでも、その信頼には応えたいと思う。その信頼に応えられる自分であり続けたいと思う。

「あらためて、ありがとう、リィ。最高の贈り物だ」
「この世界では、婚約者には指輪を送るのが慣例らしいんだけど……おれ達には、こんなもののほうが相応しいだろう?」
「なるほど、この剣は婚約指輪の代わりというわけか。これは困ったな、もうこれからは易々と婚約破棄などと口にもできん」
「なんだ、もう一度婚約破棄するつもりがあるのか?」
「いやいや、そんなことはないぞ。絶対に、お前の妻になってみせる、その決意をあらたにしただけの話だ」
「なら、早いところおれに抱かれる決心をするんだな。こっちはいつでもいいんだから」
「それができんから困っているのだ。あちらの世界では俺に一度も抱かれなかったお前だ、今の俺の気持ちくらい分かってくれてもいいではないか」

 リィとウォルは、同時に笑った。
 そんな二人を見て、一同が笑う。その中には、インユェの、ほろ苦い微笑みもある。

「――じゃあ、みんな、おれ達もそろそろ行くよ」

 インユェが言った。
 ウォルが、気遣わしげな表情で、

「行くというが……どこか、当てがあるのか?」

 インユェは首を横に振る。

「当てがあるわけじゃないけど、とりあえず、まずはけじめをつけようと思う」
「けじめとは?」
「借金のことだ。おれ達は、借金から逃げ回って惑星ヴェロニカにたどり着いたわけだけど……もう、そういうものから逃げるのは嫌なんだ。おれのヘマで拵えた借金だ、当たり前のことだけど、取るべき責任は取ってしまいたい。差し当たり、銀行に頭を下げに行くよ」

 インユェは、清々しい表情で言った。

「《スタープラチナ》を諦めるということか?」

 ウォルの言葉に、

「最初からそうするべきだったんだ。ヤームルも言っていた。船は、一度失っても買い戻せばいいって。そのとおりだと思う。まぁ、楽な作業じゃないのは分かってるけど……仕方ねぇさ」

 さばさばした口調の、そして吹っ切れたような表情のインユェであった。
 
「全部、一から出直しだ。メイフゥ、苦労かけるけど……」

 メイフゥは、微笑った。インユェの成長を喜びながら、しかし口では、

「へん、生意気な、チビガキが言うようになったじゃねぇか!いいんだよ、苦労の一つや二つ!なんたって、あたしはお前の姉なんだ!お前が買ってきた苦労は、あたしが全部まとめてやっつけてやるさ!それがあたしの役割なんだ!」

 まだ目も赤いメイフゥの減らず口に、インユェも微笑った。
 そして踵を返そうとしたとき、

『まぁそう焦らないでよ、インユェくん。あなたの決意は立派だけど、ここはダイアナ姉さんの話を聞いてからでも遅くないと思うわ』

 ややアルトぎみの、魅力的な女性の声が、ケリーの右目にはめ込まれた義眼から響く。
 流石に少し驚いたケリーが、愛船の感応頭脳である女性に語りかける。

「ダイアン、お前が俺の義眼を勝手に改造するのはもう止めねぇけどよ、第三者との会話機能を付けたなら先に言っておいてくれ。いきなり目がしゃべり始めたら、流石の俺も驚くぜ」
『あらごめんなさいね、ケリー。でも、こういうのって一度はビックリさせてあげるのが礼儀かなって思ったのよ』

 悪戯気にそう言われると、ケリーも返す言葉がない。
 無言で肩を竦め、右目が話すに任せる。

「あの、ダイアナさん、話ってなんだい?」
『あなたの船の登記を調べさせてもらったんだけど……あなたが借金を拵えてしまったのはEUFB――エストリア・ユニヴァーサル・フィナンシャル・バンクで間違いないわよね?』
「ああ、そのとおりだけど……」

 不思議そうにケリーの右目を眺めるインユェの質問に、微笑いを含んだ声で、ダイアナが答える。

『インユェくん、あなた、本当に運がいいわね。……いや、この場合は悪運が強いって表現したほうが正確かしら』
「悪運って、何のことだ?」
『エストリア・ユニヴァーサル・フィナンシャル・バンクはね、表向きはエストリア最大の民間銀行だけど、裏では実質政府がその経営を牛耳っている官営企業なのよ』
「……それがどうかしたのかい?」
『いい?ここに、エストリアの軍隊に、とんでもない迷惑をかけられた哀れな被害者がいるわ。そして、その被害者は、エストリアがトリジウムの独占を図るために、一つの国の全ての住人のジェノサイドを企てたことを知っている……それも、ただの一般人じゃない。クーアカンパニーの実質的所有者っていう、エストリアからすればとんでもなく厄介な立場の人間がね』

 ダイアナは、思い切り人の悪い声でクスクス笑った。

『そのあたりの事情を、然るべき筋から然るべき人間に懇切丁寧に説明してもらったのよ。そして、巻き込まれた人間の中に、あなたの国の経営している銀行から借金をして、首の回らなくなった可哀そうな子供がいるって』
「……」
『そしたら、エストリアのお偉いさん、冷や汗を流しながら、快く貴方たちの借金をチャラにしてくれたわよ』

 インユェの表情に驚愕を浮かぶ。

『もちろん、わたしはその程度で今回の件を水に流すつもりは全然ないけど、あちら側のご厚意ですからね、遠慮なく受け取っておきなさいな』

 インユェは、携帯端末で己の口座にアクセスし、借金の状況を確かめた。
 以前確認した時は、確かに10桁からの借金があったはずが、今確認すると、借金なしと表示されている。
 まるで魔法でもかけられたかのように唖然としたインユェは、自らの頬をつねり、これがどうやら夢ではないらしいと理解して、そして膝から崩れ落ちるように地面に座り込んだ。

「――よかったぁ……これで《スタープラチナ》を手放さずに済むのか……」

 ほう、と、安堵の吐息をついたインユェは、ケリーの右目を見上げ、

「ありがとう、ダイアナさん。恩に着るぜ」
『いいのよ。今回の件の、正当な報酬だわ。何せ、あなたはウォルを救って、そして一つの星の住人全員を救ったんですからね。これくらいの役得、寧ろ少ないくらいよ』
「そうかも知れねぇけど……でも、本当にありがとう。これで、資源探索稼業を続けられるってわけだな」

 立ち上がったインユェは、静かに喜びを爆発させた。
 メイフゥも、インユェを肩に手を置き、やはり嬉しそうに笑っていた。

「っていうわけだ、ウォル。どうやらおれは、資源探索者をまだ続けられるらしい」
「良かったな、インユェ」

 ウォルは、微笑んだまま、頷いた。

「一応聞くけどさ、ウォル、おれと一緒に《スタープラチナ》に乗って、資源探索者になってくれないかい?」

 軽さを装った、その実、インユェの勇気をふり絞った言葉に、ウォルは、少し寂しそうに微笑みながら、首を横に振った。
 インユェは、頷いた。失望がなかったはずがない。しかし、それ以上の納得があった。だから、彼の表情は晴れ晴れとしたものだった。

「それじゃあな、ウォル」

 ウォルに別れを告げたインユェは、その内心がどうであれ、微笑んだ。
 微笑んで、一番愛しい少女に、別れを告げた。
 少女が微笑んでいるのだ。ならば、自分も微笑んで別れるべきだと知っていた。

「俺さ、今はまだまだ、お前と釣り合わない男だけどさ……。いつか、いつの日か、お前の隣に立っても恥ずかしくない男になったら、絶対に迎えに行く」
「ああ、分かった」

 ウォルは頷く。

「だが、俺はリィの婚約者だ。その時に、リィと所帯を持っていることもあるだろう。それでもいいのか?」

 インユェも頷く。

「それでいい。もしもお前がリィの嫁になっていても、例えば子供が生まれていても……その時に、俺を見て、もう一度、俺がお前に相応しい男か、見定めてほしい。それで、もしも相応しい男だと思ってくれたなら……」
「思ってくれたなら?」
「俺の頼みを一つ、聞いてほしいんだ」

 インユェははにかみながら、

「前も一度言ったろ?俺の故郷で、馬の乗り方を教えてほしいって」

 ウォルも、少しだけ、ほんの少しだけの寂しさを含めてはにかみながら、頷いた。

「――ああ、分かった。存分に教えてやるさ」

 インユェは思い描く。遠い、ふるさとの星。風が波を作る草原で、いつの日か、この少女と二人、馬で駆ける自分を。
 その時の自分は、果たしてどう成長しているのか。できれば、この少女の笑顔に相応しい、一人前の男でありたい。
 もしもそこに愛がなくても、恋がなくても、今と同じように、二人で微笑むことができますように――。
 インユェは、何気ない調子で――しかし、全身の勇気を総動員して、一歩、ウォルに近づいた。少女の漆黒の瞳が、縮まった距離の分、大きくなる。
 今度は、少し屈み、ウォルと目線を合わせ、顔を近づけていく。
 少女の肩に手を置く。指先から、この心臓の高鳴りが伝わってしまうような、そんな気さえする。
 緊張で呼吸が乱れる。自分がどれほど情けない顔をしているのか、想像もできない。でも、このまま別れたら、きっと一生後悔するから。
 そんな少年の心を読んだわけではないだろう、しかし少女は微笑み、ゆっくりと瞼を閉じた。
 インユェも、目をつむる。少しだけ顔を傾けて、鼻と鼻がぶつからないように。
 そして、唇に触れる、柔らかい感触。柔らかい暖かさ。この世で一番愛しい人の体温が伝わる。
 名付けようのない多幸感が、胸一杯に満ちていく。
 離れたくない。離したくない。このまま、少女のか細い身体を抱きしめたい。遠い宇宙の果て、自分と少女以外の誰もいない場所まで連れ去ってしまいたい。
 だが、インユェは、少なくともそんな内心はおくびにも出さず、唇を離した。
 名残惜しくないはずがない。この少女との別れに、未練がないはずがない。でも、きっと、いつの日か、もう一度少女の隣に立ちたい。少年はそう願う。
 ウォルは、もう目を閉じていなかった。いつもと同じ、太陽のような微笑みを浮かべている。
 もう、唇に少女の熱は残っていない。それでもインユェは、この瞬間を、この口づけを、死ぬまで忘れないだろうと思った。

 ああ――なんということだ、人は、ここまで深く、人を愛することができるのだ。

 きっと、少女と出会う前のインユェには、信じることができなかっただろう。
 そして、人を愛することが、これほど幸福だということも。
 だからこそ――自分は、笑って別れることができる。
 
「絶対に、また会おう。約束だ」
「約束ならば――何に誓う?」

 悪戯げに微笑んだ少女の言葉に、インユェは、

「お前が俺に与えてくれたもう一つの現身と――そして、宇宙の男としての俺の魂に誓って」

 ウォルは、真剣な表情で頷き、

「ならば、俺は、この剣と、そして戦士としての魂に誓って」

 インユェも、頷いた。竜胆色の瞳に薄く涙を浮かべ、しかし口の端を持ち上げて、にっこりと微笑い、

「じゃあ、俺、行くよ」

 インユェは、ウォルと相対したまま、数歩後ろに下がり、ウォルの後ろに居並ぶ面々に向けて頭を下げた。

「みんな、本当に世話になった。ありがとう。こんな言葉しか選べない自分が嫌になるけど――ありがとう。本当にありがとう」

 ルウは微笑っている。シェラも微笑っている。ジャスミンも、ケリーも、そしてリィも、微笑いながらインユェを見送ってくれる。
 零れだしそうになる涙をこらえて、インユェも微笑った。この別れに、涙は不要だ。きっと、もう一度会える。それがいつ、どこでなのか、分からなくても、絶対に、もう一度。
 インユェは、振り返り、《スタープラチナ》に向けて歩き出した。
 否、歩き出そうとした。
 その時。

「ちょっと待ちなさい」

 インユェは体を止める。
 声をかけてきたのは、ジャスミンだった。
 青灰色の瞳に優しげな光を浮かべたまま、インユェに向けて歩いてくる。

「すっかり忘れるところだったが、是非きみに受け取ってほしいものがある」
「俺に?」

 ジャスミンは、懐から小さな封筒を取り出した。
 インユェは怪訝な表情でそれを受け取った。

「きみには大変世話になった。別れの場面には少し無粋だが、しかし渡さないわけにもいかないからな」
「あの、ジャスミンさん、もしも餞別とかなら、俺、別に……」
「いいから。こういうものは、気持ちよく受け取るのが礼儀というものだ」

 そこまで言われると、インユェも断れない。ジャスミンから、封筒を受け取り、そのまま懐に入れようとする。
 その様子にジャスミンは苦笑を浮かべ、

「おいおい、中身をちゃんと確かめてくれ。そのために今渡したんだぞ」

 餞別の中身を、受け取ったタイミングであらためるのは失礼にあたるのではないだろうか。
 インユェはそう思ったが、わざわざ確かめてくれと言われると、断る理由もない。封筒の口部分を破り、中身を取り出す。
 それは一枚の書類だった。
 果たして何だろう。インユェはそこに書かれた文字を読み上げ――。

「……請求書?」

 理解が追いつかず、目をまん丸くしたインユェに、ジャスミンは、真剣な口調で、

「ああ、請求書だ。このままきみと別れては、一体いつそれを渡せるか分からないからな。無粋を承知で渡させてもらった」
「請求書って……何の?」

 小首を傾げるインユェに、ジャスミンは、思い切り人の悪い笑みを浮かべ、

「もう忘れてしまったのか?ウォルを失ったと思い込んでいた時のきみが、いったい誰の金で飲んだくれていたのかを」

 はっとしたインユェの背に冷たいものが走り抜ける。ざあっと音を立てるように、血の気が引いていく。
 
「な、なんでそれを……!」
「カードでの支払いなら、簡単に足はつく。ダイアナに頼めば、5分もかからず全ての経緯が知れたよ。まぁ、きみ一人がヤケ酒を煽った程度の金額なら笑って済まそうとも思ったのだが、それにしてはずいぶんな金額じゃないか。はて、どのように飲み歩けば、たったの10日程度の間に、平均的サラリーマンの生涯年収もの金額を飲むことができるのか、教えてもらってもいいかな?」

 インユェは、失意のどん底にあった10日間を否が応にも思い出すはめとなった。
 自暴自棄の暴走の末、酒場を貸し切り、商売女と遊び、そして他の客の酒代まで全て支払うという豪遊を続けたのだ。その結果、地場回りのやくざものに目を付けられてトラブルを起こし、リィ達と出会うきっかけとなったのだが、それは別の話である。
 とにかく、あの時のインユェの酒代は、ジャスミンのクレジットカードでまかなっていたのであり、そしてその金額がどれほどのものになっているかなど考えもしなかった。なにせ、あのクーア財閥の総帥の財布である。どれほど使おうが、尽きることはないと思っていたのだから。
 確かに、ジャスミンの財産は、インユェがどれほど湯水のごとく酒を飲もうが、女を抱こうが、酒をおごろうが、尽きるようなものではない。だが、使えば使っただけ減るのが金というものの宿命である。
 当然、ジャスミンの口座の残高は、総額からすればごくごく僅かな額であるにしても、結構な金額が減少しており、彼女の不審を買うこととなったのだ。

「まぁ、きみがどのように金を使ったのか、それはこの場では不問としよう。ウォルがいる前では話しにくいようなこともあるようだしな。武士の情けというやつだ」
「ア、アハハ……アリガトウゴザイマス……」
「なんだインユェ、人の金で商売女を買ったのか?それは関心せんな」

 もとは男のウォルであるから、十分以上に察しがいい。
 ずばりと、インユェにとって最も触れてほしくない事実を口にした。

「ウ、ウォル!それは違う……いや、違わないけど……とにかく違うんだ!俺にはお前だけなんだ!絶対に嘘じゃない!」
「別に良いではないか、女を買うくらいは男の甲斐性のうちだ。それに、商売女だって買ってくれる男がいなければ生活が成り立たないのだからな、遊んでやるのは決して悪いことではない。ただ、俺が関心しないと言ったのは、他人の金で買ったことだぞ。今度から、そういう時は自分の金で遊べる範囲で遊ぶようにするべきだ」

 慰めるような、そして諭すような口調でそんなことを言う。
 金で女を買ったのかと蔑まれるのも辛いが、しかしインユェにしてみれば、逆に理解がありすぎるのもそれはそれで辛いものがある。
 先ほど別離の口づけを交わした、最愛の少女からの容赦ない一撃に、インユェは悶絶した。
 しかも、それは完全な事実であり、何の反駁もできないところが余計に辛い。
 冷や汗をだらだら流す思春期真っ只中の少年を見下ろしながら、こほんと咳払いしたジャスミンは続ける。
 
「とにかく、重要なのは、きみがばらまいた金は私の財布に入っていたものであり、私はそれを許可した覚えはないということだ。つまり、きみには私が被った損失を補填する義務がある。だからこその請求書さ」

 理解したか、とジャスミンは獰猛な笑みを浮かべた。
 顔面蒼白のインユェは、口をあわあわと動かし、咄嗟の言い訳すらできない有様だ。何故なら、ジャスミンの言うことはいちいちもっともで、責任があるのは完全にインユェだからである。
 視線をあちこちにさまよわせ、何事かをどもり、総身をがたがたと震わせるという、完全に挙動不審なインユェであったが、数度深呼吸を繰り返し、ようやく少し顔色を戻してから、

「……すまねぇ、ジャスミンさん。全部あんたの言う通りだ。その金は俺がばらまいちまったもんで、すぐに返すことはできねぇ」
「下手な言い訳をしなかったことは褒めてやろう。しかし、どう責任を取るかは別の話だ。それはわかるな?」

 神妙な面持ちでインユェは頷く。
 覚悟を決めて沙汰を待つ有様のインユェに、ジャスミンは、

「念のため聞くが、返済のあてはあるのか?」
「……すぐには無理だ。すまねぇ」

 ジャスミンはにやりと哂い、

「そうか、ならば選択肢は限られてくるな。まぁ、幸いきみの顔は中々見られたものだ。いいところの男娼宿で数年間働けば、返せない額ではないな」

 男娼宿という不吉な言葉を聞いて、インユェの表情が悲壮に歪む。先ほど、ウォルと口づけたときの幸せそうな顔とは対極にある表情と言っていい。
 ウォルを拾ったとき、女郎宿に売り飛ばそうと考えたことのあるインユェだ。なるほど、因果とはこうして巡るのかと覚悟を決めかけたとき、
 
「しかし、それはどうやら、人間としての品性をどぶに捨てる行為らしいからな。この際、諦めるとしよう」

 ジャスミンはくすくす笑う。
 インユェは、目に見えて、ほっと胸を撫でおろしていた。

「……あの、ジャスミンさん、じゃあどうやって支払ったらいいかな?まさか、本当に将来まで待ってくれるのか?」
「あのな、ある時払いで催促なしの借金というのは、贈与と同じだ。わたしは、いくらお互いに背を預けあった仲とはいえ、そこまでのお人よしではない。まして、それが本当に返済されるか疑わしいときてはな」

 それはジャスミンの言う通りである。資源探索者とは一種の博打商売であり。当たればでかいが、外れれば最悪宇宙の藻屑と消える宿命である。そんな職業のインユェが将来返すと言っても、信じて待てというのが無茶な話だ。
 だが、現実的な話としてインユェの懐に大金は無い。そして、差しあたってインユェの財産と呼べるものは宇宙船《スタープラチナ》号だけであり、もしもこれを借金のかたに差し押さえられてしまえば、資源探索者としての息の根を止められるに等しいのである。
 インユェは、心の中で過去の自分に罵声を飛ばしたが、しかし突きつけられた現実が変わるはずもない。チェスで言えばチェックメイトである。

「……分かったよ。やらかしたのは俺だからな、責任は取る。支払いは宇宙船で悪いけど、どうぞ持っていってくれ」

 せっかく、借金のかたから外れた宇宙船であるが、仕方ないものは仕方ない。
 そんな台詞とともに。インユェが悲嘆に満ちた特大の溜息を吐き出したとき、ジャスミンは真剣な声色で、

「まぁそう結論を急くな。確かにわたしは、きみの散財を水に流すつもりはない。取り立てるべきは必ず取り立てる。しかし――」
「しかし?」
「きみの態度如何によっては、これを一種の投資と考えてやらんこともない」

 投資という予想外の言葉に、インユェは首を傾げた。

「早い話が、きみが大人になって、成功した暁には、この金額を倍にして返してもらおう、そういうことだ」
「……出世払いでいいってことかい?」
「簡潔に言うならばな。しかし、当然条件はあるぞ」

 インユェは身構えた。果たしてどのような無理難題を突きつけられるか――。男娼宿に売られるという選択肢はどうやら無いようだが、辺境の惑星で重労働を課せられるくらいは十分にありうるだろう。
 そう考えたインユェに、しかしジャスミンの出した条件は、思いもよらぬものであった。

「条件は、きみが連邦大学に入学し、そして優秀な成績で卒業することだ」

 インユェは耳を疑った。果たして、目の前の大柄な女性は、何と言ったのだろう。
 連邦大学に入学する?今の今まで資源探索者として宇宙を放浪してきた自分が?
 目を丸くするインユェに向かって、ジャスミンは続ける。

「資源探索者を続けることが悪いなどと言うつもりは毛頭ない。しかし、押しなべて資源探索者の収入は世間一般の水準からすれば低いと言わざるを得ない。無論、一山当てれば一生遊んで暮らせるような収入を得ることができるのは否定しないがね」
「……それは十分に分かってるよ」
「転じて、連邦大学卒業生の収入は、その社会的な地位と合わせて、高水準にある。わたしが投資家ならば、どちらに投資したくなるか、分かってもらえるかな?」

 インユェは、流石に睨むようにジャスミンを見遣った。

「……つまり、俺に宇宙を捨てろっていうことか?」

 ジャスミンは微笑みながら、首を横に振った。

「全然違う。きみが資源探索者を続けることを否定できるほど、わたしは偉くもなければ愚かでもないつもりだ。ただ、きみには選択肢を多く持ってもらいたいんだ」
「選択肢……」
「わたしの父も、宇宙生活者だった。今ではめっきり少なくなったが、ゲートハンターという生き方を選び、そして最終的にはこの宇宙で一番の大財閥を築くに至った。一応言っておくが、これは身内の自慢話ではないぞ。わたしが言いたいのは、職業に貴賤などなく、成功するかどうかも関係はない。自分の生き方は自分で選べばいいということだ」

 インユェは頷いた。

「だが、きみはまだ若い。いや、幼いと言ってもいい。そんなきみが、たった今、これからの長い人生の生きる道を決めるのは、あまりに時期尚早に思える。きみは、資源探索者として生きていくという。しかし、資源探索者以外の生き方を、きみは知っているのか?」

 インユェは、素直に首を横に振った。生まれ故郷を飛び出して、そして財産は父親の形見の船だけ。だから選んだのが資源探索者という生き方だったというだけで、言ってみればそれは消極的な選択の一種だったことは否定し得ない。

「連邦大学には色んな人間がいる。様々なことを学べる。無論、資源探索者として生きていくのに役立つ知識も学べる。それらを学んだうえで、きみが資源探索者という生き方を選ぶなら、それは素晴らしいことだと思う。そして、もしもそれ以外の生き方を見つけることができたとしたら、それも同じくらいに素晴らしいことだと思う」

 ジャスミンは、インユェの肩に手を置いた。

「わたしは、今回の事件で、戦うことしか知らず、そして戦いの中で死んでいった子供たちを救えなかった。それはわたしにとって悔いだ。だから、せめてきみには悔いを残したくない。代償行為だと言われれば返す言葉もないがな」
 
 ヴェロニカ特殊軍の子供たちの最期を、インユェも知っている。マルゴ以外の彼らが、どのようにして生き、そして死んだのかを。
 そんな彼らと共に戦い、そしてその死を見送ることしかできなかったジャスミンが、どれほどの無力感に苛まれていたのか、そして今も苛まれているのか。
 だから、インユェは咄嗟に返す言葉を持たなかった。

「きみは、学びなさい。それと同じくらいに青春を楽しみなさい。生き方を決めるのは、それからでも決して遅くないはずだ」
「……でも」
「言っておくが、わたしはきみに安楽な道を歩かせたいわけではないぞ。連邦大学の厳しいことは、宇宙でも指折りだからな。勉強についていけなくなったり、素行が悪かったりすれば、即退学だ。そんなことになれば、わたしは投資をすぐに引き上げる。つまり、きみの宇宙船がわたしのものになるか、それとも本当に男娼宿で働いてでも借金を返してもらうつもりだ」

 インユェは、今まで、いわゆる義務教育を受けたことがない。故郷の星では母親や集落の大人たちから、そして宇宙へ旅立った後は養い親であったヤームルから基礎的な学問の授業を受けていたが、連邦大学にこれから編入することになれば、その授業についていくためには相当の苦労があるのは簡単に予想できる。
 確かに、決して楽な選択肢ではないだろう。
 だが、ジャスミンの言葉が、自分に対する思いやりなのだということは、年若いインユェにも十分理解できた。
 
「……連邦大学とやらが、つまらねぇ場所だったら、すぐにでも逃げ出すかも知れないぜ?」

 不敵なインユェの言葉に、ジャスミンはにやりと微笑った。

「連邦大学はそれほど懐の浅い場所ではない。授業についていけなくなったきみが尻尾を巻いて逃げ出すことはあるかもしれないがね。まぁ、それもないだろう。何故なら――きみの一番愛しい人が、そばにいることになるのだからな」 

 その言葉に、インユェが、あっとなる。 
 そうだ、連邦大学には――ウォルがいるのだ!
 インユェが、ウォルを見遣る。
 ウォルは――微笑っていた。嬉しそうに。インユェがそばにいることを、喜ぶように。
 それが、例え友人としての微笑みだとしても、インユェにとって、どれほど嬉しかっただろう。
 喜び勇んだインユェはウォルのもとに駆け出し、そして、今度こそウォルの細い身体を抱きしめた。

「ウォル!やった!これから、ずっと一緒だ!」
「ああ、そうだな、インユェ。お前も、おれの仲間だ」
「うん!仲間だ!そして、いつか、絶対に、お前をおれのものにしてやるから!おれの恋人にしてやるんだ!」
「それは約束できんな。何といっても、おれはリィの婚約者なのだから」
「そんなの知ったことかよ!」

 インユェはウォルの小さな身体を持ち上げて、くるくると一緒に回った。それは、少年の喜びを全身で表していた。
 その幼い様子を見て、ウォルの婚約者であるリィも苦笑していた。

「やれやれ、また騒々しくなったもんだな」
「いいじゃないか、エディ。凪ばかりの海が味気ないみたいに、平穏無事ばかりの毎日じゃつまらない。恋もさや当てがあったほうがわくわくするでしょ?」

 ルウの言葉に、リィはやはり苦笑を浮かべるばかりである。
 そして、隣に立った大柄な少女に声をかける。

「インユェが連邦大学に編入するのは決まったようなもんだけど、メイフゥ、お前はどうするんだ?」

 そう問うリィに、メイフゥはのんびりとした様子で欠伸を一つして、

「《スタープラチナ》の船長はインユェさ。その船長が、しばらくの間は地に足をつけるっていうんだ。あたしもそれに倣わせてもらうさ。幸い、連邦大学は将来の金持ち坊ちゃんの卵の宝庫だ。今のうちに唾をつけとく相手でも見繕うとするさね」
 
 メイフゥはにやりと笑った。
 なるほど、この少女の狩猟本能は、連邦大学でも発揮されることなるらしい。少なくとも外見だけならば、十分すぎるほどに見目麗しい少女である。特大の猫さえ被り続けることができるなら、さぞ華々しい青春を送ることができるだろう。
 
「だけどさ、リィ、あんたさえいいなら、あたしは本気であんたの嫁になりたいって思ってるんだけどね」

 冗談とも思えない口調でメイフゥは言う。
 リィは苦笑する。

「だから言ってるだろ?おれは、ウォルの妻であり、婚約者なんだ。今のところ、重婚の予定も婚約破棄の予定もないんだから、勘弁してくれ」
「そっかー、そりゃ残念だ。ま、気が変わったら言っておくれよ。あたしは、永遠の愛が欲しいなんて少女趣味なことは言わないよ。一夜の情熱でも構わないからさ」

 熱烈なメイフゥの言葉にも、リィは肩を一つ竦めただけである。
 こりゃ脈無しか、と天を仰いだメイフゥは、

「ま、確かにウォルは可愛らしいもんなぁ。あの店でも、なんだかんだいって売り上げはウォルに負けてたんだし……」

 手を首の後ろで組みながら、悔しそうに唇を尖らせる。容姿にかけてはそれなりの自信のあるメイフゥであったから、ウォルの方が客を捕まえていたことが悔しいらしい。
 インユェに持ち上げられて、くるくると一緒に回っていたウォルの笑顔が、ぴしりと固まった。

「そうだ、メイフゥ、一度聞こうと思って忘れてた。どうしてウォルは、あんな馬鹿らしい服を着て、場末の酒場で働くはめになったんだ?」

 馬鹿らしい服。それは、もうウォルは思い出したくもない、バニースーツのことである。
 そうだった、自分があの服を着て、白粉に紅まで引いていたときの映像が、リィに届いているのだった。
 ウォルは、一番思い出したくもない思い出を、半ば無理やり思い出すはめになった。
 そんなウォルの絶望と焦りなどどこ吹く風、メイフゥはしれっと答える。.

「そりゃあ決まってるさ。ウォルが、一度でいいからああいう服を着て男の相手をしてみたいって聞かないから、未成年を働かせるのは悪いと知ってたけど、泣く泣く働いてもらうことになったわけさ」

 インユェに持ち上げられたままのウォルが、すごい表情で叫んだ。

「おいこらメイフゥどの!言うに事を欠いてしれっと嘘をつくな!おれを裸にひん剥いて、あのふざけた装束を無理矢理着させたのはあなただろうが!」

 メイフゥは、ウォルの言葉などまるで聞こえないふうで、

「まぁ口ではああいうけど、結構気に入ってたわけよ、ウォルも。ほら、見てみなよリィ。鏡に向かってウィンクを決めるウォルの決定的瞬間」

 メイフゥは自らの携帯端末をリィにかざし、動画を再生させた。
 そこには、自分が隠し撮りされているなどまるで気づいていないだろうウォルが、仕事合間のふとした瞬間に、鏡に向かってちょっぴりセクシーなポーズを決め、ウィンクするという、正しく決定的な瞬間が映し出されていた。

「ウォル、お前……」

 リィは、もとは男だったはずの自らの婚約者に対して、ちょっとだけひいた。

「違う!違うのだリィ!確かに、よくよく見てみれば中々様になっているなと思ったのは事実だ!しかし、決して楽しんでいたわけではないぞ!俺は心の中で血涙を流しながら……!」
「いやぁ結構楽しんでいるように俺にも思えたぜ。好きな酒も思うさま飲めるし、男連中にはちやほやしてもらえるし、チップも弾んでもらえるし……」
「わたしが抱き締めたいとお願いしたときも、どんとこいという有様だったしな」

 怪獣夫婦が頷き合う。
 
「そうだった、王様、あなたにはああいう服もいいけど、もっと可愛らしい衣装のほうが似合うと思うんだ!連邦大学に帰ったら、一緒にショップ巡りしようね!」
「ええ、そうですね、この方を飾り付けるのは、素材が良い分、腕が鳴るというものです。小物なら、手作りで合わせるのも面白いですね!」

 ルウとシェラは、どういうコーデがウォルに相応しいか、早くも熱論を交わし始めている。
 
「いいじゃねぇか、ウォル!どんな服を着てたって、お前はお前だ!この世で一番可愛いことに変わりはねぇからよ!」

 ウォルを抱き締めたままのインユェの、熱烈な言葉である。
 ウォルは、ぷるぷると震えながら、

「ちっがーう!俺には、戦士の姿が一番相応しいのだー!」

 どこからどうみても戦士にだけは見えない、愛らしい少女の心からの叫びであった。



[6349] 第九十七話:それぞれの結末
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/02/18 22:09
「ここは暗いね」
「ええ、そうね、ここは暗いわ」

 少女はそう言って微笑んだ。

「それに、すごく狭くて、少し埃っぽい」
「ええ、あなたの言うとおりね。ここは暗くて、すごく狭くて、少し、埃っぽいの」

 少女の言葉に、黒髪の青年は微笑んだ。
 二人の言葉通りに、そこは酷い場所だった。
 朽ちかけた廃屋。灯りと呼べるものは、今にも崩れ落ちそうな机の上に置かれた、古びてくすんだランプだけ。窓の格子にはガラスの残骸が欠け落ちた老人の歯のようにへばりついているだけで、外からは冷たい風と細かな雨粒が、我が物顔で押し入ってくる。薄いトタン板の壁は所々が腐食し穴が空いている。その向こう側にあるのは、青年の青い瞳でも見渡すことの出来ない暗闇だけだ。
 そして扉は、無い。この部屋には、およそ出入り口と呼べるものが無い。全てを拒絶する、少女自身の精神のように。

「ねぇ、ルウ、あなたはどうやってこの部屋に入って来たの?」
「ぼくは、ほら、そこの窓から」

 そう言って指差したルウの人差し指からは、真っ赤な鮮血がぽたぽたと垂れ落ちている。おそらく、窓枠に手を掛けたとき、割れた窓ガラスで切ったのだろう。
 少女は、薄暗がりの床に広がる赤い斑点を見て、少し痛ましそうに眉を顰めた。

「凄く、痛そうね」
 
 ルウは首を横に振り、

「別に、どうってことはないよ。それに、痛かったとしても、すぐに治るんだ、ぼくの傷は」
「そう、それでも、わたしのせいで怪我をさせてしまったのなら……本当に、ごめんなさい」

 少女はそう言って身体を軽く揺すり、腰掛けた安楽椅子を動かし始めた。
 ぎしぎしと、聞く者が不安になるような音が部屋に満ちる。少女はその中で、ゆっくりと目を閉じた。

「ここにはね、色んな人達が来るのよ」
「それは良かった。もしかしたら、ぼくが初めてのお客さんなのかなって思ってたから」
「昨日はザックスが来たわ。相変わらず自分の感情を持て余したみたいにつっけんどんで、でも本当は優しいの。もう少し素直になれることに気が付いたら、きっと女の子に人気が出るのにね」
「……」
「アネットも、ケティも、みんな来てくれた。みんな、わたしを気遣ってくれた。優しくしてくれた。でもね、酷いのよ。誰も、わたしを連れて行ってくれないの。こんなにも、わたしはみんなと一緒にいたいのに」

 目を閉じたまま、ぼんやりとした調子で呟く少女は、年老いた老婆よりも生に倦み疲れていたのだろう。
 ルウは、困ったように微笑んだ。

「それはね、マルゴ、みんな、きみのことが大好きだからだよ。だから、一緒には連れていけないんだ」

 マルゴは安楽椅子に身体を預けたまま、ルウのように微笑んだ。

「知ってるわ。だって、こんなにもわたしが彼らを愛しているんですもの。わたしは、きっと本当に幸せなんだわ。でも……」
「でも?」
「まだ、一度も、お父様がお顔を見せてくださらないの。こんなにもわたしが待っているのに。こんなにも、わたしが愛しているのに。どうしてかしら?ねぇ、あなたには分かるのかしら、ルウ?」

 出入り口の無い廃屋の外は、相も変わらず嵐が吹き荒んでいる。この朽ちかけた廃屋が、少女の唯一作り得た精神の殻なのだとすれば、彼女が感じている絶望はどれほどのものなのだろうか。
 ルウは無性に叫びたくなった。幼児のように無様に喚き散らし、駄々を捏ね続ければ、もしかしたらこの少女をここから連れ出すことが出来るのかも知れない。

「ねぇ、ルウ。優しいルウ。ごめんなさい、わたしのせいであなたにそんな顔をさせてしまって。お願いだから、泣かないで」
「でも……でも……!」
「わたしはここに縛られているのではないの。ただ、ここにいたいからここにいる。きっと、外の世界は素晴らしいんでしょうね。貴方もいる、ケリーもいる、ジャスミンもいる。きっと、みんなわたしなんかに優しくしてくれる……」

 マルゴは、まるで母親のようにルウを抱きしめ、慰めながら呟いた。

「ただ、外の世界には、お父様も、そしてわたしの兄弟たちも、もういないの。わたしだけが生き残ってしまった……」
「そうだね……。でも、きみはずっとここにいちゃいけない」

 マルゴは微笑む。微笑むだけで、しかし何も答えない。

「ねぇ、ルウ。一つお願いがあるの。聞いてくれるかしら?」

 ルウは、頬を伝う涙を拭い、目を赤くしたまま頷く。

「ぼくにできることなら、何でも」
「歌を、歌ってほしいの」

 マルゴは再び目を瞑り、安楽椅子を揺らし始めた。
 ぎいぎいと、旧い木材の軋む、どこか懐かしい音を聞きながら、ルウは歌いはじめた。

 ――あなたの家に、この者達を、お招き入れください。

 ――疲れた肩をもみほぐし、旅塵に汚れた赤子を拭き清めてください。

 ――最後の時に、あなたを思った魂に、大きな哀れみを。

 ――わたしの潰れた喉で、希います。

 ――終末の時に、彼らの魂が安らがんことを。

 ――跪き、ひれ伏して、お願いします。

 ――灰のように砕かれた彼らの御霊に、出来うる限りの救いを。

 それは、闇の天使の歌声だった。
 聞く者の心を安らげ、苦痛を和らげ、辛い記憶を慰めるための歌だった。
 マルゴは、夢を見るようにうっすらと瞼を閉じ、その歌声に聞き入った。その瞬間だけは、ぼろ家に叩きつけられていた風雨も止み、曇天の隙間から星の輝きが零れだした。その世界を作り出したのがマルゴの自罰機構だとするならば、ルウの歌は、少しでもそれを和らげることができたのか。
 静かに歌い終えたルウは、再びマルゴの前に立った。
 マルゴは、うとうとと眠っていた。幸せそうに、無垢な表情で。

「また、来るからね」

 そう囁いたルウは、この部屋に入った時と同じように、朽ちかけた窓枠に手をかけ、そしてぼろ屋から出ていった。
 嵐は、収まっている。きっと、マルゴが目を覚ますまでは、この世界は穏やかなままだ。でも、彼女はそれを許さないだろう。己を罰するために、嵐を巻き起こし、そして風雨をもって己を責め苛むのだ。
 いつか、マルゴはこの無間地獄から解放されるのだろうか。それとも、彼女はこの世界に閉じこもったまま、一生を終えるつもりなのだろうか。永遠に訪れることのない、父親を待ち続けて。
 もしもそうだとして――果たして自分に、それを止める権利はあるのか。ここから連れ出すことが、マルゴの幸せに繋がるのだろうか。
 ルウは、答えの無い問いを己に課しながら、ぬかるんだ大地を、俯きつつ歩き続けた。

 病院の見舞いには、鉢植えの花よりも花束のほうが相応しいと言われる。鉢植えの花は、根付くという意味があり、入院が長引くようで不吉だというのだ。
 しかし、ケリーは、鉢植えの花を選び、マルゴの病室の片隅に置いた。いつかマルゴが目を覚ましたとき、できれば花瓶に活けられた切り花ではなく、力強く土から咲いた花を見てほしかったからだ。
 花は、ジャスミンを選んだ。きっと、一目で誰が置いた花かを理解してくれるだろうから。
 今日も、ケリーはマルゴの病室を訪ねた。アドミラルのクーア本社にほど近い、クーア・カンパニーの資本の入った病院である。最先端の設備と、最高のスタッフが揃った、考えられうる最高の医療環境だ。
 それでも、マルゴは目覚めない。体に異常はない。主治医が言うには、今、この瞬間に目が覚めても不思議でない状態なのに、何故か意識が戻らないのだという。
 それが、戦争という極限状態ですり減った精神のせいなのか、それとも中毒性の高い麻薬を常用してまでTYPON零型を動かし続けた肉体的消耗のせいなのか、もしくは――マルゴの意思によるものなのか、原因は定かではない。
 事実として、マルゴは目覚めない。まるで、目覚めた後のこの世界を拒絶するかのように。
 病室のドアをノックして、中に入ると、今日は先客がいた。
 
「天使、来ていたのか」

 白一色で統一された清潔な病室。
 窓側の壁に合わせて置かれた寝台、その横に設えられた椅子に腰かけていたルウは、ケリーに、力ない笑みを向けた。

「こんにちは、キング」
「悪いな」

 短い台詞に込められた万感の意味を、ルウはほぼ正確に汲み取っている。
 キングにとってのマルゴが、どういう存在なのか。マルゴが目覚めないことについて、どれほどケリーが責任を感じているのか。ルウが見舞いに来てくれることに、どれほど感謝をしているのか。
 全ての感情をひっくるめて、その一言なのだ。
 だから、ルウも、か細い笑みを浮かべて頷いただけだ。
 そして、視線を寝台のマルゴに移す。
 穏やかな寝顔だ。長い昏睡のため、頬肉は削げ落ち、痩せた顔になってしまっているが、整った顔立ちは変わらない。背中に届くほど長かった赤毛は、看護のために必要だからだろうか、少し短めに切り揃えられ、今は肩口にかかる程度になっている。
 年相応の少女の、顔立ちだった。戦場も、銃把も、血臭も知らないような、幼い少女。

「まるで眠り姫みたいだね」
 
 ルウの、彼にしては陳腐な感想に、ケリーは苦笑した。

「馬鹿を言うなよ天使。こいつにそんなキャスティングはちっとも似合わない。こいつは、いつだって男の尻を蹴っ飛ばして、そして笑うのさ。お前はその程度の男なのか、お前の男気はそれっぽっちなのかってな。そうすりゃ、どんな男だって黙って奮起せざるを得ない、それを知ってるんだ」

 ベッドに歩み寄ったケリーは、そっと、眠り続けるマルゴの頬を撫でた。そのまま指先を、少女の唇に触れさせる。そこは、ケリーと口づけを交わしたときよりもしっとりと柔らかく、艶やかな感触だった。

「早く目を覚ませよマルゴ。そして笑ってくれよマルゴ。お前は、笑った顔が一番綺麗なんだ。寝顔のお前も綺麗だけど……もったいねぇじゃねぇか」

 悲し気なケリーの声に、しかしマルゴは答えない。ただ、静かに目を閉じ、安らかに呼吸を繰り返すだけだ。
 マルゴのとってのこの世界が、あまりに辛いものであることを、ケリーは理解している。愛した父親、家族と呼んだ仲間達はすでにこの世を去り、残されたのは自分だけ。それでも生きていかねばならないとすれば、少女の運命はあまりに過酷だ。ケリー自身がそうであったのと同じように。
 それでも、約束したのだ。ケリーの駆る宇宙船に乗って、旅をすると。その約束がケリーにとって――ケリー・エヴァンスと呼ばれた少年だった男にとって、救いでないと誰が否定しうるだろうか。

「本当は、《パラス・アテナ》に乗せてやりたいんだが……あの船に意識のない病人を乗せるわけにもいかねぇからな。こんな寂しいところに独りぼっちにさせて悪いが……我慢してくれ」

 《パラス・アテナ》が飛ぶのは、順風満帆な宙域ばかりではない。むしろ、宇宙嵐を突っ切り、安定度の低いゲートを飛ぶことにこそその船の真価はある。そんな船に、例え医務室が立派なものであったとしても、意識のないマルゴが乗るのは相応しくないだろう。
 
 ――だから、頼むよ。お前が目を覚ますのは、俺が隣にいるときにしてくれ。お前が最初に目にする人間が、どうか俺であってくれ。お前の絶望を、俺に慰めさせてくれ。せめてそれくらい、祈ってもいいだろう?

 マルゴの前髪を掻き上げてやる。少女の額の熱はひんやりとしていて、少女の目覚めがもっと遠い未来のことなのだと、ケリーに教えた。
 ケリーは、何故だかあの星が、惑星ウィノアの赤茶けた大地が、無性に恋しくなった。そこが、例え彼にとって呪われた場所であったとしても、確かに彼を構成する思い出の一部であるのだ。
 
 ――一度、あいつらの墓参りに行ってもいいかもな。

 ケリーがまだ少年だった遠い過去、肩を並べて戦った仲間たち。そして、銃口の向こう側にいた敵たち。彼らは共に泥濘に塗れて戦いながら、しかし求めたのは、ただ、祖国の平和と穏やかな生活だった。
 今は、同じ場所で、静かに眠っている。誰からも忘れられ、静かに、静かに。
 ケリーが今まで彼らのもとを訪れなかったのは、自分の来訪ですらが、彼らの平穏を乱すのではないかと、内心に恐れていたからかもしれない。
 今回の事件が、ケリーの古傷を掻き毟るものであったとしても、もう一度マルゴ達と出会えたことだけは、この宇宙を司る何者かに、皮肉交じりの感謝を捧げていた。
 
「じゃあな、天使。俺は行くよ」
「うん。ぼくは……もう少しだけ」

 ケリーは頷いた。 
 病室の、開け放たれた窓から、爽やかな風が吹き込んでくる。巻き上げられたカーテンの裾を少しだけ揺らしたそれは、ルウの長髪を弄り、そしてケリーの頬を撫でていった。
 二人は同時に窓の外を眺め、そして、眠り続ける少女に目を遣った。
 まるで、誰かが微笑んだような、そんな気がした。



 巨躯の男が、のっしのっしと狭い廊下を歩いている。
 軍人やSPの姿もちらほらとした、共和宇宙連邦情報局のビルだ。大柄な人間など珍しくもないはずなのに、全ての人間が唖然とした表情を浮かべながら男の顔を仰ぎ見て、そして男の行手から慌てて身を躱した
 なにせ、尋常な様子の男ではなかった。
 まず、その巨躯が尋常ではない。縦にも横にも、およそ人間というカテゴリから外れたように巨大である。全身の筋肉が盛り上がった有様は、厳めしい人食い鬼の石造に魂を吹き込んだようですらある。
 それに、その服装も尋常ではなかった。身を包む垢じみた、そしてところどこに血痕の浮いた軍用迷彩服は、どこからどう見ても中央政府ビルには不似合いなものであった。
 もしも男が、自らが情報局付きの人間であることを示すIDカードか、警備員の口を問答無用で塞いでしまう威圧感か、そのどちらか一つでも持ち合わせていなければ、きっとこの建物に入った瞬間に非常ボタンを押されていたに違いない。それほど異様で、見るからに危険な男であった。
 その男は――ヴォルフガング・イェーガー少尉は、まるで十戒のワンシーンのように己の目の前で裂けていく人の海を無感動に見下ろしつつ、たったの一瞬も立ち止まることなく目的地を目指した。なにせ、そのためだけに惑星ヴェロニカを発つ貨物船に密航し、快適性などとは縁遠い貨物用コンテナブロックの隙間に身を潜めながら、飢えや乾きと闘いつつ、ようやく惑星セントラルまで辿り着いたのである。
 
 ――まったく、面倒事はさっさと片づけて、家に帰って冷たいビールをぐいっとやりたいもんだ。

 キンキンに冷えたビールが喉を通る感触を想像し、思わずぐびりと生唾を飲み込んだヴォルフは、苦笑を浮かべながら歩く。
 目的地はビルの地下2階だ。ヴォルフが、自身にとっては些か狭いエレベーターに体を押し込むと、乗り合わせていた数人の職員が、まるで猛獣がエレベーターに乗り込んできたかのように、慌てて飛び降りた。
 ヴォルフは、その太い指からすれば、豆粒のように小さなボタンを押し、エレベーターを起動させた。僅かな浮遊感を感じ、自身が地下へと降りていくのを感じる。そして、それほどの時間を置かず、目的階へと到着したことを知らせるチャイムが鳴った。
 ヴォルフは、目的の階に降り、フロアの案内図を確認した。 いくつかの部署の札が掲げられているが、そのいずれもが、いわゆる華々しいキャリアを歩む人間とは無縁の、閑職のための部屋ばかりであった。およそほとんどの建物がそうであるように、上層階ほど重要な部署が配置され、地下階はその反対と相場が決まっている。
 ヴォルフが探していたのは、その中でもひと際薄汚れた札が指し示す部署であった。

「おお、あったあった」

 少しだけうきうきした声を出し、やはり少しだけ浮かれた歩調で、その部屋を目指す。数回廊下を曲がっただけで、その部屋を見つけることができた。
 ペンキの剥げかけたおんぼろドアをノックする。ヴォルフの巨大な拳に叩かれて、ドアが悲鳴のように大きな音を立てる。

「なんだ」

 部屋の中から、不機嫌を絵にかいたような声がする。
 ヴォルフは、特に許可を得ることもなくドアを開き、狭く薄暗い部屋の中に、その男を見つけた。
 にこやかに笑ったヴォルフは、その男に対して折り目正しく敬礼を施した。

「お久しぶりでございます、もと主任どの」

 もと主任と言われた男――かつての連邦最高評議委員会付特別安全調査委員会主任調査官であり、現在の情報局資料編纂室長であるアレクセイ・ルドヴィックは、不機嫌を隠そうともせず――そして、少なくともそれ以上の感情は見せずに、ヴォルフをにらみつけた。
 
「それは嫌味かね、少尉」

 かつての精気に満ち溢れた容貌はどこへやら、すっかり痩せこけ、そしてどんよりと隈の浮いた目つき、なにより脂の抜けたかさついた肌のアレクセイであった。
 ヴォルフは、大いに心外というふうに肩を竦める。

「私には、かつてとはいえ、上司だった人間を面罵するほどの度胸はありませんよ」
「では、何をしにきたというのだ。私の現状を嗤いに来たとでもいうのか」

 アレクセイの、ハリネズミが我が身を守るような棘のある言葉に、ヴォルフはにやりと笑い、

「あなたに旧交を温めるおつもりがあるのなら、そういうつもりもないではなかったのですが、そうですな、どうやら相当にお忙しいご様子だ。要件は手早く済ませてしまうとしましょう」

 閑職に追いやられ、どう見ても忙しそうに見えないアレクセイを嘲るようにそう言うと、ヴォルフは、その巨体からは信じられないような速度でアレクセイに接近し、机を乗り越えて背後を取り、ようやく椅子から腰を浮かしかけたアレクセイを机に押し倒した。

「何をする!」

 ある意味当然ともいえるアレクセイの言葉に、平然とした様子のヴォルフは、

「アポ無しでいきなり押しかけた俺を見て、一応は平静を保てただけでも、中々あんたは大したもんだ。だが、けじめってやつは取らねぇといけねぇのさ。分かるだろう?」

 ヴォルフは手にした結束バンドで手早くアレクセイの手足を縛ると、芋虫のような姿のアレクセイをそのままよいしょと肩に担いだ。

「何のつもりだ!下ろせ!」

 流石に顔を青くしたアレクセイが、震える声でそう叫ぶが、ヴォルフは一切聞く耳を持たない様子で、資料編纂室から出て、もと来たエレベーターへと向かった。

「俺とウォルに仕込まれた発信機で、居場所を敵さんに教えたのは、あんただな」

 エレベーターに乗り込み、操作盤で最上階のボタンを押しながら、ヴォルフが言った。
 意見を聞くでも、問いただすでもない。断言したのだ。

「な、なんのことを言っている!?」

 千の尋問に対しても答えつくすだけの言い訳を準備していたアレクセイも、これには面を食らった。
 
「別にいいって、下手な言い訳しなくても。全部分かってるんだからさ」
「だから、何のことを言っているのかと聞いているのだ!」
「俺さぁ、惑星ヴェロニカで知り合いが一人……一人って言っていいのか分からんが、とにかくできたんだよ。その人が、とことん機械に強い美人さんでな。俺とウォルの情報を掴める立場の人間を、片っ端から洗ってくれたのさ」

 エレベーターは閉まり、静かに動き出す。ヴォルフは僅かな荷重を感じる。

「他の局員連中にはばれないようログを操作したつもりだろうけど、はっきり、あんたのIDでウォルや俺の情報にアクセスした形跡が残っていたらしいぜ、その人に言わせるとな」
「だ、誰だ、そんな根も葉もない虚言を吐く卑劣漢は!」
「おいおい、卑劣漢なんて言ったら怒るぜその人。なんたってとびっきりの美人さんなんだ。ダイアナってぇ、可愛らしい名前もある」

 ダイアナ、ダイアナ、と、アレクセイの脳内で、自分に敵対する派閥の構成員の中に、そういった名前の女がいなかったか、猛烈な勢いで検索がかけられる。しかし、答えはヒットせずだった。当然だ、自我を持ち他の感応頭脳をたぶらかすという特技を持った宇宙船など、一介の官僚風情が知るはずもない。

「それに、あんたの携帯電話に、ここ最近、何度か間違い電話がかかってきてるな。そしてその直後に、あんたはこの建物から出て、遠くの公衆電話からどこかに電話をかけている。諜報畑のあんたにしちゃ、些かお粗末な接触方法だな」
「し、しらん!濡れ衣だ!」

 アレクセイは叫んだが、ヴォルフはくすりと微笑っただけだった。

「あんたがその電話をかけた直後に、ヴェロニカ軍が動き出し、そしてウォルや俺が襲われた。さて、あんたの情報はどういう経緯で敵さんに渡り、どういう使われ方をしたのか……。ま、一つだけいえることは、あんたにはきっちり落とし前をつけてくれないと、ウォルの友人としての俺の立場がないってことだけさ」

 アレクセイは唸り声を上げた。
 ダイアナという女が何者で、どういう経緯で自分の所業に足が付いたかはともかく、自分が情報を売ったことが、この男にはばれているらしいのだと、ようやくアレクセイは悟った。
 だが、殊勝に謝罪をしたりはしないのが情報局の人間というものだ。とにかく、こういう場合は強気の姿勢を崩してはいけないと思っている。

「わ、わたしをどうするつもりだ!」
「言ったろ?落とし前をつけてもらうって」

 エレベーターのチャイムが鳴り、目的階に着いてことを知らせる。そこは、共和宇宙連邦情報局のビルの最上階である7階だった。
 ヴォルフは、アレクセイを担いだままエレベーターを降りた。エレベーターを待っていた人間が、唖然とした顔でヴォルフは見上げたが、ヴォルフは人好きのする笑みを浮かべ、人垣を掻き分けて歩いていく。

「た、助けてくれ!私は、資料編纂室長のアレクセイ・ルドヴィックだ!この男は不法な侵入者だ!襲われているんだ!」

 悲痛な声が廊下に響き渡るが、しかしその声の主を担ぎ上げているのが、到底人間とは思えないような大男である。咄嗟に助けることもできず、かといって警備員に通報することもできず、ほとんどの人間は唖然とした顔で二人の後姿を見送った。
 そしてヴォルフは、非常階段を昇り、その先にある扉を開けようとした。最上階から非常階段を昇れば、そこにあるのは屋上だ。普通、屋上への扉は、特別な場合を除き、施錠されているものである。

「よいしょっと」

 しかしヴォルフは、いくらも力を込めない様子で取っ手を強引に回し、ばきりとへし折り、正しく力づくで扉をこじ開けてしまった。
 扉の向こうには、だだっ広い屋上と、まばゆいばかりの青空が広がっている。

「ああ、いい天気だなあ」

 暢気そうにヴォルフが言う。
 事ここに至って自分がどういう目に遭わされるのか、うすうす感じ始めたアレクセイは、殊勝な様子で、

「わ、分かった!言う!全て言う!確かに、私がエストリアに情報を流した!仕方なかったんだ!私は家族の安全を脅されていた!それに、きみやあの少女の情報がそれほど危険なものだとは思わなかったんだ!」
「一応言っておくけどさ、ダイアナさん、あんたとお相手――アイザック・テルミンって言ったか?その会話の内容も教えてくれたぜ?その中に、あんたの家族の身の安全を条件にした交渉なんて無かったはずだがね」
 
 ヴォルフは、何気ない調子で、屋上をすたすた歩く。当然、手足を拘束された状態とはいえ、必死で暴れるアレクセイを担いだまま。

「まぁ、あんたの気持ちも分かるよ。脇目も振らず出世街道を走ってきたら、突然訳の分からない女の子に関わるはめになって、いつの間にやら閑職に追いやられて。そりゃあ、チャンスがあればもう一度浮かび上がってやろうってのが男ってもんだな」

 そう、アレクセイに理解を示す口ぶりで、しかしヴォルフの足は止まらない。一歩一歩、屋上のふちまで歩いていく。

「だけどさ、さっきも言ったけど、それとこれとは別の話なんだ。落とし前はつけさせてもらう。それが、ウォルの友人としての、俺の最低限の罪滅ぼしってやつなんだ。だから、我慢してくれよ」
「が、我慢だと!?」

 ヴォルフは、屋上のふちで立ち止まり、屋上からの絶景を楽しむように嗤った。

「ま、待て、考え直せイェーガー少尉!そうだ、今度のきみのキャリアのためにわたしが一肌脱ごうじゃないか!絶対に損はさせない!少しだけでも話を聞いてくれ!」
「あいにく、俺はしちめんどくさい出世やら栄達やらには興味がなくてな。もしも交換条件が、酒と料理の旨い居酒屋の情報なら少しは考えんでもなかったが――どうやら、あんたとはとことん好みが合わないらしいな」
「居酒屋だと!?ふざけているのか貴様!」

 震える声でそう叫んだアレクセイを、もったいぶるでもなく、突然浮遊感が襲った。
 自分が、屋上から投げ捨てられたのだと知った。

「うわああぁぁ――!」
「そう、だから落とし前だ。落っこちて、そんでけじめをとってもらおうってことさ」

 アレクセイを屋上から投げ落としたヴォルフは、ようやく重たい荷物を下ろした肩をもみながら、少し疲れた様子で言った。
 アレクセイの絶叫が、少しずつ小さくなり、そして足元から、すごい衝突音が聞こえた。
 冷たい表情のヴォルフは、下を覗き込む。当然、そこには赤く咲いた人のかたちがあると思っていた。
 しかし、なんとアレクセイは、たまたまビルのすぐ脇に停めてあった大型トラックの荷台に落っこちていた。トラックの荷台が大きく陥没していることから、流石に無事ということはないだろうが、しかしどうやら、苦痛に体を捩るくらいの元気はあるらしい。
 ビルの屋上から投げ捨てられて、息があったのだ。十分に幸運だといえるだろう。もちろん、有無を言わさずに屋上から放り投げられたこと自体は――それが己の行為の報いだったとしても――十分以上に不幸と言えるのだが。

「おやおや、ウォルフィーナの時もそうだったが、運のいいことだ」

 呆れたようにウォルフは呟いた。そして、すでにアレクセイの生死にすら興味を失ったかのように踵を返し、

「しかし、これでまぁ、俺も晴れて懲戒免職だわな、どうあがいても。さて、再就職はどうしたものかねぇ」

 ほんの少しの危機感もない、のんびりとした様子で、ヴォルフは片手で頬をさすった。
 これだけのことをしでかしたのである、職を辞す覚悟は十分にできている。もともと、大して愛着のある職という訳でもなし、未練はそれほど無い。当面の生活費程度の貯えもある。

「そうだな……差し当たり、知り合いに職の伝手でも探してもらうかな」

 今回の任務で知り合いになった何人かの少年たち――金銀天使と異世界の王だった少女の顔を思い出しながら、ヴォルフは非常階段へと向かって歩き始めた。

「さて、とにもかくにも一仕事終えたんだ。さっさと家に帰って、ビールでも飲むとするか」

 むしろ楽し気に、ヴォルフは呟いた。
 

 
 時が経った。
 時が経った。
 時が経った。
 赤子が大人になり、子を為し、その子がまた子を為すほどの時が経った。
 気が遠くなるほどの時が経った。
 景色はずっと変わらない。
 牢獄の狭い部屋にあるのは、粗末な寝台と、仕切りすらない便器、あとは文机くらいのもの。
 鉄格子の窓の向こうには。のっぺりとしたコンクリート塀と、僅かに覗く空。
 どれほど時が経っても変わらない部屋の中で、ただ祈る。
 祈る。
 祈る。
 時折、考える。
 どうして祈るのか。
 祈ることに意味があるのか。
 自分に問う。
 祈ることの意味を。
 問い続ける。
 春も、夏も、秋も、冬も。
 晴れの日も、雨の日も、雪の日も、嵐の日も。
 ただ、座して、目を閉じ、己のうちに問い続け、そして祈る。

『この星に、どうか神様の教えが、永く伝わりますように』

 亡き師の最後の言葉を思い出し、祈る。
 愚かな弟子だ。
 師の教えを何一つ守ることができなった。
 自分の人生に、何一つ誇ることができるものなど無い。
 あの時の、ヴェロニカ教を守るためにした決断も、果たして正解だったのかどうか。
 結果として自分は――かつてヴェロニカ教の老師だったテセルという男は、犯罪者として獄に繋がれ、ここにいる。
 果たして、この星に、まだヴェロニカ教は根付いたままなのか。
 ヴェロニカ教は、人を幸せにしているのか。
 分からない。
 この塀の中では、分からない。
 だから、祈る。
 祈ることしかできないから、祈る。
 ずっと、祈っている。
 刑務所に入ったばかりの頃は、他の受刑者からの侮蔑や嫌がらせもあったが、時が経ち、誰もがテセルという男のことなど忘れ、自分はただの老人となった。
 目はかすれ、腰は曲がり、手指も思うように動かなくなった自分は、労役作業すらできなくなり、いつしか独房に入れられるようになった。
 この狭い、灰色の部屋が、世界のすべてだ。
 一日三度の食事の配膳以外、他人と言葉を交わすこともない。
 起きて、食べ、排泄し、寝る。
 それ以外の時間の全てを、祈っている。
 時間の感覚がどんどん薄れていくのを感じる。
 昨日が、気が付けば去年になっている気がする。若かりし頃の一瞬が、今の永遠に感じる。
 死が迫っているのを感じる。
 日々、その気配が強くなる。
 だが、恐怖はない。
 待ち遠しくもない。
 ただ、死があるのを感じるだけだ。
 きっと、祈るのだろうと思う。死ぬ直前も、死んだ後も。
 死体となって祈る自分を想像する。
 肉は腐り、骨は大地に埋もれ、地の深く深く底に潜り、それでも祈る自分を想像する。
 魂は地獄に堕ち、業火に焼かれながら祈る自分を想像する。
 それが、相応しいと思う。
 祈り続けるのだ。ずっと、永遠に。
 ヴェロニカ教の神に、聖女ヴェロニカに、そして、あの時に知己となった天使たちに。
 この世界が平穏でありますように。この世界の人々が幸福でありますように。どうか、この星に神様の教えが永く伝わりますように――。
 祈ることで何かが変わるはずがない。世界はそんなに脆弱ではありえない。祈りはただの自己欺瞞だ。
 それでも、祈るのだ。祈り続けるのだ。
 一心に、ひたすらに、ひたぶるに……。

「そう、それが、あなたの贖罪なのね」

 声が聞こえた。
 重たい瞼を持ち上げる。
 かすれた視界に、何故かそこだけはっきりと、少女がいた。
 鉄格子の内側である。
 あり得ない。ありうべきことではない。
 幻かと、それとも妖かと、そう思う自分がいる。
 しかし、ほとんどの自分は、それを否定していた。
 目の前の、少女。
 まだ年若い。そう、あの時、師匠の心臓を貫いた、生贄だった少女と同じ年の頃だろうか。
 そんな少女が、座した自分を見下ろし、微笑んでいた。

「きみは……」

 ひび割れたような声が出る。老人の声。ああ、自分は、こんなにも老いていたのだと認識する。
 少女は、優しく微笑む。

「わたしの名前を知りたい?」

 首を横に振る。
 この少女が例え何者であろうとも、その役割だけは明らかだ。
 ほとんど色素のないような、白い髪。そして、ほんの少しだけ茶色を残した、透明な瞳。
 幽玄で、夢幻で、美しい少女。
 自分を、迎えに来てくれたのだろう。
 そして、連れていくのだ。ここではないどこかへ。この世界ではない、どこかの世界へ。それは、きっと地獄と呼ばれる世界だ。
 心が軽くなるのを感じる。
 罪が許されたのではないのだとしても、ただ、一つの区切りが訪れたことに安堵を感じる。

「私は、もう死んでいるのだね」

 抑揚のない私の声に、少女は、少しだけ悲しそうに眉根を寄せ、頷いた。
 知れず、口角が持ち上がる。
 それが微笑みという表情だということを、久しぶりに思い出した。
 ああ、私は、そんなに笑っていなかったのだな。

「では――行こうか」

 膝が、すっくと持ち上がる。腰が軽い。まるで、精気に溢れていた昔のように。
 魂に、重量はないのか。それとも、魂は死後に若返るのか。
 少女は、私に手を差し伸べた。

「貴方の罪がどれほど重たいものだとしても――もう、許されてもいい頃合いだわ。だって、貴方はこんなにも、祈ってきたのですもの」

 私は、私の死体を見た。
 干からびたような老人が、ことりと、牢屋の床に寝転んでいる。
 その表情は、静かで、まるで眠っているようだった。
 こんな表情で、穏やかな死を迎えられたことが、自分には相応しくないように思える。
 少しだけ、ほんの少しだけ、自分に嫉妬を感じる。
 そして、少女の手を取った私は、共に鉄格子をすり抜け、そして分厚い壁すらすり抜けて、牢獄の外へと歩いていく。
 いつしか、目の前に階段がある。
 らせん状に連なり、天へと伸びる、透明な階段だ。
 手すりがないことに少し恐怖を感じたが、質量のない魂の身である。踏み外したとして、如何ほどのことがあろうかと、苦笑する。

「私の罪は、許されたのだろうか」

 詮無いことを口にする。
 少女に手を引かれ、階段を一歩一歩登っていく。
 地面が少しずつ遠ざかり、視界が少しずつ高くなる。

「それを決めるのは、わたしではないし、神様でもない。ただ、貴方だけが、貴方を許すことができるの」

 当たり前の事実を告げられて、苦笑する。
 罪は、背負わされるものではない。背負うものだ。そして、許されるものではない。許すものだ。

「ならば、私はまだ、私を許すことができていない。この階段は、果たして私に相応しいものだろうか」

 何故なら、階段は天に向かって伸びている。自分は、地の底に向けて下る階段を目指すべきではないか。
 少女は苦笑した。

「わたしの名前は、ウォルフィーナ」

 振り返った少女は、微笑んでいる。

「貴方が貴方を許すことができなくても、ただ、この光景を、見てほしかったの」

 階段は、もうだいぶ高いところまで自分を持ち上げていた。
 歩を進めるごとに、身体が揺らいでいくのを感じる。
 世界との境界が不確かになり、自分としての形を保てなくなっていく。
 もう、自分が人間だったころの形が思い出せない。
 両足で歩いているのか、四つ足で歩いているのか、翼で飛んでいるのか、分からない。
 それでも、少しずつ、階段を昇っていく。
 空が近い。天の星が大きく、足元の地は小さく、自分を閉じ込めてた監獄はまるで米粒のようになっている。
 地平線の彼方に、僅かな光が輝く。夜が明けるのだ。太陽が、ヴェロニカの赤い大地を照らし出していく。
 そこには――。

「――ああ」

 緑がある。

 人の営みがある。

 それらを包み込む、赤い大地がある。

 この星には、まだ、人と緑の調和がある。

 この星には、まだ、聖女ヴェロニカの教えが、根付いているのだ。

 例え、その教えに、神が住まう余地が無かったとしても――この星は、こんなにも美しい。

「この眺めが、貴方の祈りを捧げた対象なのだとしたら――貴方は、貴方を許してもいいんじゃないかしら」

 少女の手に、僅かな力が込められる。
 指先は崩れ、そこは私ではなくなっているのに、少女の暖かさを感じる。
 輪郭の歪む不確かな頬を、暖かい感触が伝う。
 私が私だった時の名前も、もう思い出せないというのに、ただ、その名前が恋しくなる。
 人だった時の罪が、罰が、ただ遠くなり、自分がここにいることすらあやふやになり。
 世界が、どんどん高くなっていく。歩みを進めているつもりすらないのに、階段は私をより高いところへ運んでいく。
 大地が大地でなくなる。海が海でなくなる。それは、星と呼ばれるかたちの一部となり、自分が宇宙にいるのだと理解する。
 そして、星すらが遠くなり、ただの輝きとなり、その輝きも消えたとき。
 階段の終わりが分かる。暗くなく、明るくなく、何も見えず――ただ、暖かい。

 そうか――私は、私を、許すことができたのか。

 最期に一度、息を吐き出す。

「貴方は、ここで休むのよ。そして疲れを癒したとき、貴方はあの星を見守る存在になる。ずっと、永遠に。それは、きっと一番恐ろしい罰であり――貴方が、一番望むことでしょう?」

 少女の声が遠い。
 瞼が、どんどん重たくなっていく。
 自分が拡散していくのを感じる。この暖かい世界で、少しずつ解けていく。
 声が聞こえる。遠い昔、聞いた声。
 懐かしい、師の声だ。
 ああ、老師。
 ビアンキ師匠。
 どうか、どうか。
 最も愚かだった弟子に、どうかもう一度、導きを――。

 かつて、その星を揺るがす大事件があった。結果、その星そのものがトリジウム鉱山であるという驚愕の事実が白日の下に曝され、その星に住む全ての人々を大混乱が襲った。
 人が死に、涙が流れ、それでも歯を食いしばり人々は立ち上がった。
 幾度も国難に見舞われ、幾つもの政権が樹立し、倒れ、また樹立する。政体すらも昔のままではない。
 何もかもが移ろいゆくその国の片隅に、時代から取り残されたかのように、或いは忘れられたかのように、何も変わらない場所があった。
 荒野の只中のその施設が造られた理由はただ一つ、囚人の逃亡を防止するためである。
 そこは、監獄であった。死刑制度の存在しないその国では、最も重い刑罰である終身刑を言い渡された、凶悪な犯罪者達が集められる陸の孤島。
 高く聳え立つ塀に周囲を囲まれた巨大な建築物は、その国がヴェロニカ共和国と呼ばれる前から存在していた。直方体の飾り気薄い外見は、遠目に見れば鋭角的な威容を誇っているが、よくよく見れば年月と風雨の浸食により、細かな罅や汚れが目立つようだ。
 どれほど月日が経ち、看守と囚人が入れ替わろうとも、その建物はここにあるのだろう。

 そして、また一日が始まる。

 惑星ヴェロニカ独特の、赤みの強い大地に、東の方角から朝日が差し込む。
 大地の赤さは、土壌に含まれる多量のトリジウム酸化物によるものだ。もう、この星に大量のトリジウムが埋蔵されていることは、共和宇宙の常識となっている。しかし、それ以上の埋蔵量を誇る惑星もいくつか発見されており、既にこの星は鉱物資源市場からも忘れられつつあるらしい。
 それでも、その星に根付いた信仰も、人々の生活も、何も変わらない。
 その監獄の若い看守は、当直勤務の最後の仕事として、 独居房の見回りをした。凶悪犯の中でも特に粗暴で集団房に入れるのが危険な囚人か、それとも、高齢で集団生活についていけない囚人を入れておくためのものだ。
 房の半ばまでを見回った看守は、途中、倒れている囚人を発見した。
 驚きはなかった。看守仲間の間でも、もう長くはないだろうと噂されていた囚人の房だったからだ。
 看守は、無線で同僚を呼び、万が一に備えてから、慎重な様子で房に入り、倒れた囚人の顔を確認した。
 それは紛れもなく、テセル・マニクマールという名の、この部屋に収容された囚人の、老いた顔であった。
 確か、自分が生まれる遥か前に、大罪を犯した罪人だったという。しかし、その看守にとっては、物静かで、ただじっと動かない、まるで置物のような老人だったという印象しかない。
 脈を測るために手首を握る。止まった鼓動よりも、その体温の冷たさで、看守は囚人の死を悟った。
 後ろに待機した同僚に向けて、首を横に振る。

「駄目だ、死んでる」

 同僚は事務的な表情で頷いた。色々と面倒な手続きが必要となる。人が死ぬというのは、例えそれが寿命によるものであっても、多数の生者の手を煩わせるものなのだ。
 作らなければならない報告書の数を内心で数え上げた看守は、面倒くさそうに溜息を一つ吐き出した。
 ああ、今日は、残業だ。夜勤明けの残業は疲れるものだ。
 ヴェロニカの神も、なかなかに意地が悪い。
 それでも、今日という一日は始まる。
 惑星ヴェロニカの赤い大地を、今日も新しい朝日が照らし出す。



[6349] 転章
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/03/05 17:50
 そもそも、レティシアの私室をヴァンツァーが訪れるのは極めて稀なことであった。
 レティシアが専攻するのは医学であり、通うのは主にセム大学のキャンパスである。それに対してヴァンツァーが専攻するのは経済学であり、通うのはプライツィヒ校のキャンパス。寮こそ同じエクサス寮ではあるが、それ以外の生活圏はまったく異なる。
 食堂で顔を会わせれば会釈程度はするし、世間話を交わすこともある。だが、端から見ればそれほど親密という雰囲気ではないから、彼らが友人である(それぞれに言い分はあるかも知れないが……)ことを知らないものも少なくない。
 一つの寮で異なる学校の学生が共同生活を営むのは、それ自体が別に珍しいことではない。一つの星が丸ごと学校で埋め尽くされている連邦大学ティラボーンである。一つの学校に一つの寮というスタイルではなく、多くの学校に多くの寮というスタイルを取っている以上、違う学校に通う生徒、違う専攻を選択している生徒が同じ寮で生活するのはむしろ普通のことなのだ。
 だからといって、同じ寮に住む異なる学校の生徒同士の交流が疎らなのが普通かというと、そうではない。むしろ連邦大学の首脳陣は、異なる学校の生徒同士が積極的に交流することをこそ望んでいるのだ。
 どれほど開放的な雰囲気をもつ連邦大学であっても、一つ一つの学校が独自の校風を纏うのは避けられないし、それを悪しきことであるとも考えていない。そして、それぞれの校風を身につけた生徒同士が同じ寮で交わり、異なる価値観を理解した上で切磋琢磨する。これぞ共和宇宙の縮図であり、連邦大学の目指すべき教育理念であると信じているのだ。
 そういう理由から、たとえ専攻や学校が違っても、同じ寮に住み仲の良い学生というのは数多い。そして、彼らは、いったん授業が終われば同じ寮の仲間として街にくり出し、学生らしい健全な遊びに時間を忘れることもしばしばである。
 だから、学校や専攻が異なること自体が、ヴァンツァーをしてレティシアの私室から遠ざける理由にはならない。
 ヴァンツァーが、自分と同郷の出であるレティシアの部屋に近寄らない理由は一つではない。勉学が忙しくてそんな時間が取れない、そもそも部屋を訪れる必要性がない、美少年である自分とレティシアが頻繁に同室に籠もることで妙な勘ぐりを受けるのが鬱陶しい――。
 それらの理由は至極もっともなものではあったが、それよりも遙かに大きな理由がある。
 ヴァンツァーはレティシアが苦手なのだ。
 もっと極端にいえば、ある種の嫌悪感を抱いているといってもいい。そして、それと同等かそれ以上に恐れてもいる。
 かつて自分が闇の稼業に勤しんでいたときから、同業同僚であったレティシアである。ある意味では古なじみといっても間違いではないのに、その頃から、麝香猫の瞳をした痩せっぽちの少年がどうしても好きになれなかった。それはヴァンツァーに限らず、レティシアという男を知る全ての人間の総意であっただろう。
 暗殺術の達人ばかりが揃った一族の中でもずばぬけた実力を誇り、一度だって仕事を失敗したことはない。これでレティシアがもう少しまともな暗殺者であったならば一族中からの尊敬を一身に集めていたのだろうが、彼はあらゆる意味でまともではなかったのだ。
 毒蛇毒虫の群れに混じっていても、さらに際だった残虐性。人を殺すのを楽しむのではない。むしろ、人を人であると理解していない、いや、理解しながらもそれを無視するような、熟練の暗殺者であっても肌を粟立てる冷酷さと無関心。そして、圧倒的なまでの人殺しの技量。
 人が自身よりも優れた人間に賛辞を送るのは、その牙が自分に向かないことを確信しているからだ。たとえ自分よりも優れていたとして、目の前でまさに飛びかかろうとしている獅子に、誰が惜しみない賛辞を向けられるのだろうか。
 自然界の補食者の天敵が、しばしばそれと同族のより大きな個体であるように――蛇が蛇を喰らうように――ファロットと呼ばれた一族にとって、レティシアという少年は伝家の宝刀であると同時に自決用の毒薬でもあったのだ。
 そして、ファロットの中でもレティシアと最も親しかったのは、一族の長であったファロット伯爵を除けば(本人にとっては極めて不本意ながら)ヴァンツァーという男であった。
 レティシアのほうも、里出身という、ファロット中枢では珍しい出自を持つ寡黙な男を気に入ったようで、二人の関係は、それ自体が双方の望んだものであるかどうかは別にして、結構長く続いた。具体的に言うと、ヴァンツァーが一度黄泉路に旅立つまで、である。
 それからほどなくして、ファロットという闇の一族は、運命に定められていたかのように滅びの道を辿り、一族の忌み子であったレティシアもその後を追った。これで、銀盤の月となった少年以外、ファロットを背負うものは現世から姿を消した。
 はずであった。
 それが、まったくもって何の因果かわからないが、自分たちが元いたのとは似ても似つかぬこの世界で復活し、のんべんだらりと学生などをやっているのだ。彼らではなくとも果たしてこれが現実かと疑いもするだろうし、全知全能の神であったとしてもこんな未来を見通していたか否か。
 とにかく、二人の腐れ縁は、世界を違えても現在進行形で継続中なのである。
 この世界では、彼らの技量――この上なく物騒な技量だ――は、基本的に必要とされることが少ない。使ったことが全くないといえば嘘になるが、それは止むに止まれぬ事情というやつであって、彼らの方から積極的に行ったのではない。「目指せ一般人」という奇妙な標語を掲げる少年が、彼らを蘇らせたある種の恩人だから、というのもあるだろう。
 ヴァンツァーも、幸か不幸か、レティシアの妙技を目の当たりにする機会を劇的に減らしている。数多くの友人に囲まれて、輝くような笑みを絶やさない麝香猫の瞳を見る度に耐えがたい違和感を感じるが、それは向こうも同じことなのだろうと、さしあたり理解は出来ずとも納得はしているのだ。
 だからといって、仕事以外で、この超特大の危険物と積極的に交わろうとは思わない。そういう意味でいえばヴァンツァーも人の子なのであり、いわゆる常識の持ち主であった。いくら自分を襲わないという確信があり、あちらもそれを公言しているとしても、いまだ牙の鋭い毒蛇の前に進んで肌を晒すのは勇気ではなく無謀であり、生物としての致命的な欠陥でしかない。
 つまり、ヴァンツァーはレティシアが苦手なのだ。

「どうしたの、珍しいじゃん」

 ごろりとベッドに横になって雑誌をめくっていたレティシアが、くりくりとした黄色の瞳に興味の色を浮かべて、自分を見ている。一昔前であれば、あまりの現実感のなさに白昼夢かと疑うような光景である。
 ヴァンツァーは何も言わず、後ろ手に扉を閉めた。
 これで、部屋には二人きりだ。
 猛獣の檻に閉じこめられたよりも激しい不安感が、ヴァンツァーの心臓を握り絞ったが、少なくとも表面上は平静を装っている。
 しかし、それはあくまで表面上のことであり、その奥を見通す術に長けた手練には通じない。
 レティシアの、麝香猫のように大きな瞳が、心底愉快そうに歪む。

「お前さ、いつまでたっても、その癖が抜けねえのな。おれがお前をぶっ殺したって、今んとこ何のメリットもないことくらい、早いとこ分かれよ」

 繰り返すが、それなりに付き合いの長い二人である。ヴァンツァーとてそれくらいのことは重々承知している。
 目の前の男は、快楽性の愉快殺人鬼のように、可愛らしい存在ではない。
 だが、それ以上に、この危険物が、とんでもなく気まぐれなことも理解している、いや、思い知らされている。
 ある日突然、この平和な世界に、

『飽きた』

 と言い、

『ちょっくら、王妃さんと遊んでくる。そこで相談なんだがよ、ちっと体がなまっちまったからさ、リハビリ代わりにいっちょ頼むわ』

 と言われない保証がどこにあるというのか。
 この場合の頼むとは、試し斬りの実験台となってくれという意味であり、それは不可避の死を意味している。本気になったレティシアと正面から生身で渡り合えるのは、世界広しとはいえ、王妃と、王妃の連れである妙な占い師くらいのものだろうと、ヴァンツァーは確信していた。
 つまり、自分では歯が立たないことを理解しているのである。
 そんな相手と同じ部屋に二人きり。緊張するなというほうが無茶なのだ。
 だが、今の状況を望んだのはヴァンツァーのほうである。もしもレティシアの部屋に訪れたくなければ、電話で用件だけを伝えるという方法もあるし、談話室に呼び出すことだって出来た。
 それをわざわざ毒蛇の巣に訪れたのは、それなりの理由があるからだ。
 相も変わらず無防備に横になったレティシア、その脇を最大限の警戒とともに歩き抜けたヴァンツァーが、ベッド脇に置かれた勉強机の椅子を引っ張りだし、そこに腰掛けた。
 沈うつな面もちで腕を組み、長くすらりとした足を組んだ美少年という、何とも絵になる構図であったが、そんなことはレティシアには興味がない。この元同僚に、観賞物としての価値など、一度だって見いだしたことはないのだ。
 レティシアも流石に体を起こし、読みかけの雑誌を片づけた。それでもヴァンツァーは、相変わらず小難しい顔をしたまま、口を開こうとはしないのだ。
 レティシアは、呆れたように肩をすくめた。

「今更お前に景気の悪いつらをするなとは言わねえけどさ、わざわざ人の部屋に入ってきてぶすっと黙り込むって、やっぱり失礼ってやつじゃねえの?」

 レティシアは何とも愉快そうに言ったのだが、

「では、俺は機嫌良く満面の笑みを浮かべながら今日の出来事を面白おかしく語ればいいのか?」

 ヴァンツァーは真剣な調子で問うた。
 その言葉を聞いたレティシアは、一瞬驚きに目を丸くした後で、げんなりとした表情を浮かべて首を横に振った。

「だめだ。舞台以外でお前のそんな様子を見たら、こっちの脳味噌がやられっちまう。やっぱりお前は、眉をしかめた景気の悪い面のほうがお似合いだ」

 失礼この上ない言葉であるが、ヴァンツァー自身、その人物評が極めて公正なものであると思ったので、別に不快には思わなかった。
 口にした当人であるレティシアも、失言だったと思っていないようで、平然としながら、

「じゃあ、言い方を変えるけどさ。お前が、いつも通りにこの世の終わりみたいな景気の悪い面をするのは結構なことだとして、わざわざおれの部屋ですることはねえと思うんだよ。こっちは実験で疲れた心身をリフレッシュさせてる真っ最中なんだぜ。こういう場合は、気を使って用件を手早く済ませて早々に引き上げるのが友達ってやつだと思うんだがね」

 友達という単語を初めて聞いたように、ヴァンツァーは心底不思議そうな顔をしたが、その真意を敢えて問いただそうとはしなかった。
 ただ無言で、そして、地の底に閉じこめられた亡者が天に対してするように底冷えのする視線で、レティシアを睨め上げながら、

「相談がある」

 たった一言である。だが、レティシアの興味を引くのに、これ以上効果的な台詞もなかった。
 もともと強い瞳の光を爛々と輝かせ、身を乗り出すようにして、

「なになに、どんな相談?金はあまり期待するなよ。殺しは、王妃さんにばれないならオッケーだぜ。最近は退屈極まりねえからよ。女は……ま、お前からそっち方面の相談はねえわなぁ」

 指折りに数えたレティシアである。
 今までも、例えば仕事の関係で協力関係を結んだことは何度もあるし、そちらの頼みごとをされたことも珍しくはない。
 だが、それはあくまで仕事の相談である。それだけならば電話の一本で済ませればいいのであり、こんな思い詰めたような表情で、わざわざ私室を訪れる必要はないのだ。
 果たしてこの元同僚が、いったいどのような悩みを抱えて自分を頼りに来たのか、レティシアは無邪気に楽しんでいた。
 隠しきれない興味にきらきらとしたレティシアの前で、怜悧な美貌の少年は、ぼそりと呟いた。

「まさしくそれだ」

 レティシアは首を傾げた。

「それ?」
「今、お前が言った」
「金?殺し?」
「違う」

 一瞬不思議そうに首を傾げたレティシアだったが、ヴァンツァーの言葉を反芻し、理解すると、その非現実性に顔を歪めて驚愕した。
 一番あり得ない、冗談以外の何物でもないつもりで言った言葉である。
 ほとんどのことには動じることのないもと暗殺者の少年が、声を震わしながら、そして人差し指を向けながら、目の前のもと同僚に訊いた。

「まさか……あり得ないとは思うけど、まさか……万が一に……女?」
「そうだ」
「お前が、女のことで、おれに相談したいっていうのか?」
「そうだと言っている」

 目を極限まで見開いたレティシアは、これは天変地異の前触れかと恐れおののいた。思わず腰を浮かし、この場から逃れる準備をしてしまったくらいだ。
 冗談かとも思う。生き物は絶えず進化し、事物は移ろいでいくものだ。ならば、この面白味のない男が、自分をからかおうとして冗談の一つを口にするということも、あり得ないとは言い切れない。
 しかし、いつも通りの小難しい顔で腕を組み足を組んだヴァンツァーに、嘘や冗談を言っている雰囲気はどこにもない。
 これで、もしも、この男が嘘や冗談を口にしているならば、自分はこいつのことを根本的に誤解していたことになる。それとも、一度死んでもちっとも変わらなかったこの男の性格を変えてしまうほどの、とんでもない何事かが起きたのか。
 それとも、まさか、万が一に。これが間違いなく、最も恐るべき可能性であるのだが……。

「……本当、なのかよ?」
「……俺がお前に女の相談をすることが、そんなに奇妙なのか?」
「奇妙っていうか何ていうか……」

 言葉を失ってしまったレティシアである。
 奇妙といっては足りない。驚愕といっては何かが抜け落ちている。信じられないといっては薄っぺらい。
 敢えていうならば……。

「……何をしている」
「いや、夢じゃねえかと思ってよ」

 気がつけば、レティシアは自分の頬を抓っていた。これが夢――それも、なぜか悪夢に分類されると思った――ではないかと疑ったのだ。
 だが、鮮烈な痛みは、これがちっとも夢ではないことをレティシアに教えた。
 夢であってくれれば……。別に、夢であることを切望するほどの凶事があったわけでもないのだが、何故かレティシアは、今の事態が夢でなかったことを神に罵った。
 それでも、いつまでも唖然としているわけにはいかない。それに、この堅物の――果たしてそう評するのが正しいか否かは置いておいて――友人が女性に興味を持ち、そのことで自分に相談があるというのだ。
 考えてみれば、これほど楽しい出来事はそうそうありはしない。それこそ、あの黄金色の狼が絡んだ事件以外では、初めてといっていいかも知れない。
 俄然やる気のでてきたレティシアが、にやりと不適な笑みを浮かべた。

「ま、色々と言いたいことはあるけどさ、そこらへんはちょっぱっておこうや。でさ、その子、可愛い子ちゃんか?」
「俺の美醜の基準に照らせば、最上級に可愛らしい。おそらく、王妃だった頃の王妃といい勝負だ」

 王妃だった頃の王妃とはわかりにくい表現だが、レティシアはよく理解した。
 要するに、絶世の美女ということだ。
 加えて言えば、顔の造形が整っているだけで中身が空っぽの風船女では、あの王妃の足下にだって及ばない。ヴァンツァーが王妃を引き合いに出す以上、美しいことは最低限の条件であるとしても、それ以上に輝く何かが内面から滲み出ているはずだった。
 ヴァンツァーに比べれば人並みに女性に興味のあるレティシアが、冗談ではなく羨ましげに呻いた。

「あの頃の王妃さんとどっこいどっこいの女って、そんなのがこの世界にいたのかよ。ちぇ、そんなのがいればおれが唾を付けてたのになぁ。いや、もてる男は羨ましいねぇ」
「唾を付けたければ付ければいい」

 ヴァンツァーがあまりに平然と言うので、レティシアは首を傾げてしまった。

「いいの?」
「構わん。別に、俺の女というわけではない」
「へっ?」

 レティシアが間の抜けた声を出した。
 目の前に座った妖艶な美少年を、あからさまな軽蔑の視線で見遣り、

「あの頃の……女だった王妃さんと同じくらいにべっぴんで、旨そうな女がいて、まだ唾をつけてないって?」
「そうだと言った」
「じゃあ、これから落とそうとしてるんだ」
「誰が。頼まれたって御免だ」

 蛇蝎を睨むように顔をしかめたヴァンツァーである。
 対してレティシアは、深く深くため息を吐き出した。

「おまえさぁ……。いつか言おうと思ってたけど、やっぱり男としてどっかおかしいぜ」
「言われるまでもない。自覚はある」

 平然と言ったヴァンツァーである。
 いつもいつも言われていることだ。今更指摘されたところで、痛くも痒くもない。
 
「じゃあさ、おまえ、その可愛い子ちゃんについて、どういう相談があるんだよ。まさか、手込めにするから浚ってほしいとか、恋文を届けてほしいとか、そういう可愛らしい相談じゃないんだろう?」
「会ってほしい」
「会うって、俺が、その可愛い子ちゃんとかい?」

 ヴァンツァーは、平然とした顔色で首肯した。
 レティシアは、ますますわからない。

「そりゃあ構わないし、嬉しいくらいだがよ……。なぁんか腑に落ちねんだよな」
「俺が、お前をはめようとしているとでも?」
「いや、お前はそこまで馬鹿じゃねえだろ。おれを敵に回して明日があるなんて勘違いする輩とはものが違うしよ」

 レティシアの言葉はあまりに平然としていて、普通の人間が聞けばうっかり聞き落としてしまいそうなものだ。しかし、そこに込められた危険性は並大抵のものではない。
 無論、ヴァンツァーはそのことに気がついている。そしてこれも当然のことであるが、目の前の危険物を敵に回すつもりなど更々ないのである。

「おまえ、いったいどういうつもりだ?」

 レティシアが、本日一番危険な瞳でもと同僚を射抜く。
 その剣呑な輝きに気圧されているのを自覚しながら、ヴァンツァーは、その端正な唇を動かした。

「判断してほしいだけだ」
「判断?」
「俺には、その女が王妃に見える」

 レティシアが、不満げに眉を寄せた。

「それって、あの王妃さんと見間違えるくらいのそっくりさんってことか?」
「違う。確かに顔の造形は整っているが、似ても似つかない女だ」
「……あのさ、お前、何が言いたいんだよ。あまり遠回しだと、さすがにいらついてくるんだけどよ」
「言ったとおりだ。俺には、その女が、いや、その生き物が、王妃と同じ生き物に見えてしまう。そんなことがこの世にあるのかと我ながら信じ難いのだが、どうしても見えてしまうんだ」

 ヴァンツァーが苦々しげに言った。
 
「その点、お前の審美眼というか、判断は極めて信頼が置ける。俺自身の判断よりも、遙かにな」

 ようやく、少しずつ話が飲み込めてきたレティシアである。

「お前、ひょっとして、その女について何の興味もない?」
「興味はある。しかしそれが性愛に関するものかと問われれば、全く無いと答えざるを得ないな」

 それでも、女に関する相談であることには違いない。
 別に惚れているわけではないから、レティシアが唾をつけても一向に問題がない。
 
「もしかして、口を聞いたこともない?」
「俺は、あんな生き物の側に進んで近寄ろうとするほどに命知らずではないつもりだ」

 だから、レティシアに依頼するのだ。この男ならば、どのような危険に晒されても問題ないだろう。
 よしんば何かがあったとしても、ヴァンツァーにとっては身近な危険物の一つが消えてなくなるだけであり、さしてデメリットもない。
 そして、その女と会うことは、それだけの危険を内包しているのだとヴァンツァーは判断した。
 なるほど、これは立派な「依頼」であった。
 レティシアのいたずらげな瞳が、愉快そうに笑う。まったく、このもと同僚はこういうふうに可愛らしいから、どうしても構いたくなってしまうのだ。

「おまえさ、やっぱりいい性格してるぜ」
「怖いなら、それとも面倒なら断ってもらっても構わない」
「誰が。そんな可愛い子ちゃんで、しかも王妃さんと同じなんだろう?なら、是が非でも会ってみたいね」

 うきうきとした、今にも獲物に向かって飛びかかりそうな声で、レティシア。
 無理もない。彼にとっての王妃は、極上の麻薬と同義であった。ひとたび用法を誤れば死、絶えず用い続けても死、そして決してやめる気にはなれない。だが、それを使っている間は天上の快楽を約束してくれる。
 そんな生き物が、この世にもう一匹いるかもしれないという。これが嬉しくなくて、何が嬉しいものか。
 もう、今更やめるといえば拷問でもされそうな勢いであった。
 それを期待して話を持ちかけたとはいえ、ヴァンツァーには信じられない思いである。
 好色で、女のことしか考えられない発情漢が、目当ての女に入れ込むのではない。ヴァンツァーの何気ない話の中にどれだけの危険が内包されているのかを十分に理解しながら、それでもその危険物に近づきたいのだ。
 匂いを嗅ぎ、前足でつつき、甘噛みし、いったいどんなものなのかを知りたい。出来れば、自分のものにしてみたい。
 それが、レティシアという人間、いや、生き物の習性であった。

「でさ、おれがその子と会ってさ、やっぱり王妃さまと同じ生き物だって判断したらどうするんだ?」
「正直、迷っている。積極的に排除するべきなのか、それとも無視を決め込むべきなのか」

 思ったよりも過激な意見に、レティシアは驚いた。

「へぇ、おまえもそんなことを言うんだねぇ」
「今日、俺がその女と顔を会わせたのがごくごく低い確率の偶然ならばいい。だが、もしも生活圏が同じで、今までたまたま出会わなかっただけならば……今後の俺たちの身の安全に関わる問題になりかねない」

 レティシアは、ヴァンツァーの意見を大げさだとは笑わなかった。
 もしもその女がヴァンツァーの言うとおりに王妃と同様か、それに近い生き物であれば到底安易に扱っていい存在ではない。
 将来自分たちにとって不利益になる存在であれば早々に排除するのが得策であるし、そうでなくても素性を調べあげて非常時に備えるくらいの手は打っておいた方がいい。
 あれは、ファロット一族の最精鋭である二人をしてそれだけの警戒をさせる、最大級の危険物なのだ。一度その鋭い牙が自分たちに向けられれば、命のやり取りを覚悟しなければならない。

「わかった、お前の依頼は引き受けさせてもらうさ。個人的に興味もあるんでね。ちなみに、その子の住所は?それくらいは調べてるんだろう?」
「いや、まだだ。何せ、今日初めて顔を見た。どこに住んでいるのか、どの学校に通っているのかも定かではない」

 普段のヴァンツァーにはあり得ない杜撰さだ。
 しかし反面、それだけ急いでレティシアに依頼を持ってきたともいえる。
 その点は、レティシアはヴァンツァーを批判しなかった。

「いったいどこで会った?」
「アイクライン校の図書館だ」
「名前はわかるのか?」

 ヴァンツァーは頷いた。

「フィナ。確かにそう名乗っていた」



[6349] 第九十八話:連邦大学の日常
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/05/12 22:13
 季節は、初夏である。
 春に芽生えた新緑はその緑を力強く、一段と深く鮮やかな色に変えている。吹く風の中にも、冷たさよりも涼やかさが勝ってきた、なんとも心地よい季節であった。
 ウォルは、アイクライン校のほぼ中央に位置する食堂のカフェテラスで、その艶やかな長髪を風に遊ばせながら優雅な午後を楽しんでいた。
 既に、授業は終わっている。
 辺りを見回せば、これからクラブ活動に勤しむつもりなのだろう、様々なユニフォームに身を包んだ少年少女が、若さに満ちた顔で談笑しながら歩いている。それとも、分厚い参考書の束を抱えて走り去っていく学生も多い。きっと、課題の提出期限が近いのだろう。
 ここ、連邦大学星ならば、その地表の至る所で見ることの出来る、まったくの日常風景だった。
 
「……なんとも忙しないことだなぁ……」

 淹れ立ての紅茶の香気を楽しみながら、ウォルは嘆かわしそうに呟いた。こんなに気持のいい季節なのに、どうして皆、こうも落ち着かないのか。
 転校当初、というかこちらの世界に来てからしばらくの間は、学問と習俗、あるいは常識的な機械操作などの知識の習得に寝る間も惜しんで励んでいたウォルであるが、それも一段落した今となっては、自身の身軽な身の上を楽しんでいたりする。
 なにせ、あちらの世界では、運命を司る女神が何をどう間違えたのかは知らないが、国王などという職業に就いていた彼女である。他者の羨む身分であったことは否定し得ないが、しかし他の誰がどう言おうと、彼女自身はその職業が自分の天職であるなど一度も思ったことはない。
 そんなウォルであるから、今の、何も背負っていない自分に結構満足していたりするわけだ。そのあたり、彼女の婚約者である少年の、昼寝好きの熊という表現に相応しい有様であった。
 夥しい書類の山と格闘しなくても誰も小言を言わないし、テーブルで片肘を付きながらぼーっとしていても誰も眉を顰めないし、煩わしい毒味役やお目付役や侍従や侍女もいないから、好きなものを好きな時に好きなだけ食べることだってできる。
 現に今だって、国王であったときは『そのように童が好む食べ物を……』などとお小言を言われて思うように食べられなかった、卵と牛乳をたっぷり使った菓子――こちらの世界ではプリンとかパフェとか言うらしい――を、頬を綻ばせながらぱくついだりするのだ。
 元々、ウォルは酒を好むたちであるが、同じくらいに甘味も好んだ。そして、何の因果か女性の身体を授かった今、どちらかと言えば舌に合うのは後者のほうになってしまっている。
 普通の男であれば、その一事をもって己の身に降りかかった災難を嘆き悲しみそうなものだが、この生き物は元が元であるから、精々が『楽しみが増えたなぁ』程度にしか思っていない。
 然り、午後のお茶を楽しむ今のウォルの目の前には、鮮やかな彩りのデザートたちが所狭しと並んでいる。
 既に一皿目のプリン・アラモードをぺろりと片付けていた少女は、次の甘味、チョコレートババロアの征服に取りかかった。
 ふるふると震える濃褐色の表面にスプーンを入れてたっぷりとすくい取ったババロアを、精一杯に大きく開けた小さな口の中に放り込む。口内に広がる控えめな甘さと濃厚な生クリームのこく、そしてチョコレートのほろ苦さ。舌の上でほろりと溶けていく儚さが何とも官能的だ。
 ああ、天上の至福とも呼べるこの瞬間!ウォルのふっくらと柔らかな頬は緩みっぱなしだった。大きな瞳は三日月型に細められ、目尻はだらしなく垂れ下がっている。もう、どこからどう見ても年頃の乙女であった。
 そんなウォルの後ろの方で、密やかな声が交わされている。

「……おい、あれが例の転校生?」
「ああ、あのヴィッキー・ヴァレンタインの妹らしいぜ」
「嘘だろ?ちっとも似てないじゃないか」
「いや、噂では義理の妹だとか、それともそれだってただの方便で実は許嫁だとか恋人だとか、色々な話が飛び交っててさあ……」

 お菓子の征服に夢中なウォルは、その囁き声には気がついていない。普段の彼女であればまた別であっただろうが、捕食中の生き物というものは存外無防備になるものなのだ。年頃の少女が甘い物に夢中であれば尚更である。
 三品目のデザート、莓のパリブレストにフォークを突き刺した少女の背後で、少年が、ありったけの無念を込めて天を仰いでいた。

「かぁーっ、あいつのお手つきかよ。勿体ない、そうじゃなけりゃあんな可愛い子、ほっとかないのになぁ」
「心配しなくっても、あいつと無関係だったとしてもお前なんか相手にされないよ」
「そう言うなよ、俺だって夢くらい見たいんだよう」

 不平そうに唇を尖らした少年である。
 然もありなん、確かにウォルは可愛らしかったし、何より美しかった。
 漆を塗り重ねたようにあでやかな黒髪は、陽光の加減で七色に輝いた。ころころとよく変わる表情はそのどれもが魅力的だったし、すべらかな肌は透けるように白かった。
 女の子らしい格好もかつてのリィほどに嫌ってはいないウォルであるが、今は、上にはざっくりとした薄手のパーカーを羽織り、下はハーフパンツにレギンスという軽快な出で立ちである。普段は無造作に流してある長い黒髪も、後ろで一つに括っている。すんなりと引き締まった身体と相まって、彼女の健康的な魅力を引き立てている。
 少年たちは、しばし陶然と彼女に見とれていたが、荘厳な音で奏でられる時報で明日の授業の課題が済んでいないことに気がついたのだろう、いそいそと立ち去った。
 そんなことは露知らず、あっさりと3皿めのデザートを平らげたウォルは、口中に残る甘味を名残惜しく想いながら、しかしやはりぼーっとしている。明日は別に予習の必要な授業はなかったはずだし、彼女の明敏な頭脳からして復習に割く時間もさほど必要ではない。先生方に失礼のない程度に宿題を済ませさえすれば、あとは正しく自由時間そのものだ。
 ならば、その空いた時間を趣味やら遊びやらに使えばいいようなものなのだが、やはりそこは貧乏性というか、人生の楽しみ方を知らないウォルである。王という、己の享楽のみを追い求めて何人にも非難されない至高の地位にいたときでさえ、僅かな余暇の過ごし方に頭を悩ましていたのだから、況んや普通の女子学生の身分においてをや、である。娯楽の多いこの時代ですら、心を焦がして熱中出来るような何かは未だ見つからないようだ。
 剣の稽古も、今日明日正に戦争が始めるような時世ではないようだし、そもそもこちらで言う戦いとは馬に跨り剣を携えて行うものではない以上、どうにも身が入らない。他の少年少女が目を輝かすようなスポーツやゲームも、遊び以上のものとは思えず、長続きしない。夢、というか、なりたいものはあるのだが――それがアイドルと聞けば、彼女の友人達はどう思うだろうか――、それになるために何をどう努力すればいいのやら見当もつかない。
 そして結局、日がな一日何もせず、お菓子をぱくつきながら、ぼーっと外の風景を眺めながら、心底どうでもいいことを考えていたりするわけなのだが、その様子がなんとも絵になる。物憂げな表情で一人思索に耽る美少女というのは学園の中でも相当に目立つようで、ウォルが、惰眠を貪る熊のように暇を持てあますそのテラスは、彼女に淡い想いを寄せる男子生徒たちの密かな聖地になっているのだ。
 自分を見つめる熱心な視線を、転校生を物珍しげに眺めているだけだと勘違いしているウォルは、その視線に答えるわけではないが、『あふぅ……』と大きく欠伸をして、目尻に浮いた涙を拭き取った。

「お暇そうですね、陛……ウォル」

 半ば睡魔の誘惑に膝を折りかけたような有様のウォルは、笑いを噛み殺したその声に気付いて顔を持ち上げる。
 するとそこには、斜陽で薄紅色に染まった、銀色の頭があった。
 
「おう、シェラ。そっちも講義は終わりか?」

 真白い半袖シャツにスラックスという涼やかないでたちのシェラは、ウォルの向かいの席に腰掛けた。テーブルに置いたトレイの上には、まだ湯気の立つコーヒーと、手軽に摘まめるサンドイッチが並んでいる。

「ええ、今日はこれで全ての講義が終了です。お昼は少しばたばたしていましたので、今から遅い昼食を、と思いまして。ウォルは……聞くまでもなかったようですね」

 テーブルを埋め尽くさんばかりのデザートの空皿を眺めて少し目を丸くしたシェラは、堪え切れない様子で苦笑をこぼした。

「……あちらの世界におられたときと比べると、本当に甘いものがお好きになられたようで」

 西離宮に結構な頻度で顔を出す国王の好き嫌いは、王妃の食事担当でもあったシェラにとって十分把握していた事項である。その時の記憶に照らせば、甘いものが特別嫌いというわけではなかったはずだが、目がないほど好きというほどでもなかったはずであり、好むのは酒と合わせる酒肴などであったはずである。
 痛いところを突かれたウォルも、苦笑いで返す。

「まったく、煩わしい執務も重たい責任もなくなって、身体は軽くなったはずなのに、どうしてか腹だけは減るものだな。それも、こういう甘味に目が無くなってしまった。リィと同じ生き物の身体のはずなのに、これは一体どういうことか、不思議で仕方ない」

 まるで他人事のように言う。
 確かに、今のウォルの宿る身体は、彼女の配偶者であるリィと同じ生き物である。そしてリィはといえば、甘いものの『あ』の字を聞いただけでも裸足で逃げ出すほど、甘いもの嫌いである。
 おそらく、今のウォルの様子を見れば、眉を顰めて嫌な顔をするに違いなかった。
 その様子を思い浮かべて、シェラは微笑んだ。

「まぁ、年頃の女の子のお身体ですからね、仕方ないといえば仕方ないのかもしれません」

 悪気なく、くすくすと微笑むシェラに、

「おいおい、その言い方だと、まるで俺が本当の女の子になってしまったようではないか。これでも、まだ心は男のつもりだからな。そこだけは譲れんぞ」

 精一杯しかめつらしい表情でウォルは言ったのだが、あどけない少女の顔と声である。どうしても険を含ませることができない。そこがまた何とも愛らしいのだが、本人は気が付いていないようだ。
 シェラは遠慮なく、ブラックのホットコーヒーを一口啜り、それからサンドイッチを口に運んだ。もしもこれが元の世界であれば、女官の身分であったシェラが国王であったウォルの目の前で食事をするなどとんでもない不敬というべき所作のはずだが、流石にシェラも慣れてしまったのか、この世界では過剰な振る舞いはしないようになった。
 もちろんウォルも、シェラを咎めることはしない。その代わり、舌なめずりしそうな様子で、残りのサンドイッチに手を伸ばす。
 大切な昼食を横取りされそうなシェラは、じろりとウォルをねめつけ、

「……太りますよ、陛下」
 
 年頃の少女には些か残酷な一言を言い放つ。
 サンドイッチを摘まもうとしたウォルの手が、ぴたりと止まる。その一事で、シェラは見抜いた。何か、思い当たるところがあるのだと。

「……一つ申し上げておきましょう、陛下」
「……なんだ?」
「……見た目に変化が出てからでは手遅れです」

 ウォルの表情が、悔しげに歪められる。
 そして、大いに傷ついたとでも言わんばかりの有様で、

「別に良いではないか!年頃の女の子は、少しふっくらしたくらいが愛らしいのだぞ!」
「その意見には賛成ですが、二つほど反駁を。まず、デザートを三皿も平らげた後にそんなことを言っても、ただの言い訳にしか聞こえません。そして、心は男のつもりのあなたが、年頃の女の子の可愛らしさを引き合いに自己弁護するのは、些かお門違いに思われます」

 ぴしゃりと言った。
 全くもって正しい意見であったから、ウォルとしてはぐうの音もでない。
 そして、恐る恐るといった調子で聞いた。

「……太ったかな?」

 シェラは、やはり小声で、

「……わたしの目には、少しふっくらしあそばされたように見えます」

 ウォルは驚愕に目を見開いた後で、がっくりと肩を落とした。

「……確かに、最近服が少しきつい気がしたし……脇腹のあたりがぷよぷよしてきたような気もするし……しかし仕方ないではないか、この世界の甘いものが美味しいのが全て悪いのだ……」

 それは思春期の少女にとって、正しく呪いの言葉であった。
 ただ、ウォルには別の事情も存在する。あちらの世界では、甘いものはそもそもが高級品であり嗜好品。砂糖自体が希少であり、また生の食材の鮮度を保つための冷蔵技術も未発達であったから、この世界で好まれる、いわゆるデザートのほとんどは、あちらの世界ではそもそも口にするのが難しいものだったのだ。
 無論、国王であるウォルがえいと命じれば、山海の珍味を食卓に並べるなど造作もないことであるが、そんな金があるなら少しでも民のために施しを、というのがウォルという貧乏性の熊の本質であったから、国王としての威厳を保つための最小限の豪華さは仕方ないとして、食事に贅沢を言ったことはほとんどない。
 たまに、例えば他国との友好式典のテーブルなどに、本当に珍しく並んだ生菓子を、密かな喜びとともに平らげていたくらいである。
 その高級品が、この世界では、子供の小遣い程度の金額で、こうも手軽に口にすることができる。ウォルの現在の義父であるアーサーは、無暗に子供を甘やかす父親ではなかったが、必要と思われる金額の生活費はきちんと援助してくれている。その中には、年頃の少女ならば必須ともいうべき被服費等も含まれるのだが、ウォルはこれ幸いと、おしゃれに回すべきお金で思うさま甘味を堪能しているのだ。
 そして、熱量保存の法則というものは、例えそれが人間の身体であろうが、狼の変種の身体であろうが、この世万物に適用される法則であり、どれだけ食べても太らないという便利な身体は存在しない。摂取したカロリーは、消費しない限り、脂肪として蓄積されるのが道理であり、また健康な身体でもある。
 要するに、ウォルは少し太った。まだ見た目にははっきりと分からない程度であるが。
 ただ、シェラからすれば、先ほどの言葉通り、むしろウォルは可愛らしくなったとすら思う。これも、あちらの世界とこちらの世界の差異とでもいうべき事柄だが、こちらの世界の女の子は、少し体型にこだわりすぎるのではないかと、シェラは思っている。例えば雑誌やテレビのファッションモデルなどは、それが商売だからあの体型を維持しているのであって、それを基準に自身の体型を眺めて「これは太りすぎだ、もっと痩せなければ」と悩む年頃の少女というのは、どう考えても不健康なことではないか。
 そんなシェラの内心など知るすべもないウォルは、悲し気な調子で続ける。
 
「分かっていた……分かっていたのだ……最近は体重計に乗るのが恐ろしくて体重をきちんと確認したわけではないが……やはり、現実は直視しなければならんか……」
「……あの、こういう言葉がお慰めになるか分かりませんが、リィなどは、むしろ今くらいの貴方の方が好ましく思われるのではないでしょうか」
「……それはそうかもしれんが、このまま太り続けてみろ。きっとあいつはこう言うぞ。『どうしたんだウォル、そんなに美味しそうになって』、とな。そんなことを未来の夫に言われれば、いくらなんでも婚約者として立つ瀬がなさすぎるというものだ」

 いじけたような調子でウォルが言うと、目を丸くしたシェラが思わず吹き出した。それは、確かにこの少女の婚約者であり配偶者でもある黄金の狼が言いそうな台詞だったからだ。
 かつて、自分の血を舐めとって、美味いと言ったリィである。そして、国王だったウォルと大喧嘩の末、リィ自身が拵えたウォルの擦り傷を舐めて、やはり美味いと言ったリィである。まさか本当に食べるはずなどないのだが、確かにまん丸にふくらんだウォルを目にすれば、悪げもなくそんなことを言いそうな気がする。
  未だ、男女の恋愛感情を持たない配偶者であり婚約者のリィとウォルではあるが、仮にも一生を添い遂げるという契約を結んだのだ。その相手から、太ったことをからかわれたり非難されるなら百歩譲って甘受できても、美味しそうと言われるのは我慢できない。その気持ちは、シェラにもなんとなく理解できた。
 シェラは口元に手を当てながら笑う。

「では、今日から甘いものは厳禁ですね」

 それを聞いたウォルは名残惜し気に、

「……明日からでは駄目か?」
「……まだ食べるおつもりですか?」
「冬眠に入る前の動物は、しっかりと食いだめをするものだぞ」

 至って真面目そうにそんなことを言う。
 これは重症だ、とシェラは頭を振った。
 リィ曰く、『冬眠明けの熊』であるはずのこの少女が、まさかこれから冬眠するとなれば、一体どのような生き物に変貌するというのか。体型云々などといった細かい話を抜きに、空恐ろしくなってしまうシェラである。
 シェラは諦めたように溜息を吐き出した。甘いものはを我慢させるのは、どうも困難事らしい。

「ウォル。今日は、これから時間はありますか?」
「時間?……特にこれといった用事はないが……いったいどうしたというのだ?」
「単純な話です。太るのは嫌、そして食べるのも我慢できない。なら、方法は一つだけ。つまり、体を動かすのです」



 ウォルとシェラは、学園内バスに乗り込んだ。アイクライン校の校内だけでなく、近隣の学校や公共施設などを往復しており、本数もそれなりなので、学生の生活の足として欠かせないものだ。
 席は結構埋まっており、これから駅前に繰り出すのか少し浮ついた雰囲気の学生や、他校のクラブ活動に参加する予定なのか大きめのスポーツバッグを膝の上に乗せた学生など、様々である。
 ウォルとシェラは、ノープス中央体育館前駅で下車した。
 ノープス中央体育館は、アイクライン校を含む複数の学校のほぼ中央に位置しており、それらの学校でまかないきれない運動部の需要に、柔軟に応えるために建設された体育館であるから、規模はかなり大きく、専門的な設備も数多く設置されている。
 例えばライフル射撃などは、普通の校内では危険でそれ専用の設備や銃などは設置されていないが、この体育館には地下に専用の射撃場があり、その中で安全に競技の練習を行うことができる。
 それ以外にも、スポーツはその分野によっては専門的な設備を要するものが意外なほど多く、しかしそれらを個々の学校が設置するのは、規模的な意味でも予算的な意味でも現実的ではない。だから、各種専用設備を備え、しかも誰でも使用できる中央体育館には大きな需要があるのだ。
 ウォルとシェラがノープス中央体育館に到着した頃には、流石に太陽もかなり傾いていた。赤みがかかった陽光を背に、二人は体育館に入った。
 中は、やはりというべきか、かなり活気に満ちている。受付から覗く一階の最前面フロアにはバスケットコートが設えられており、おそらくは他校同士の交流戦だろうか、色違いのユニフォームに身を包んだ高等部の学生が熱戦を繰り広げている。観客席もそれなりの人で埋まっており、歓声が受付まで響いてくる。

「アイクライン校のシェラ・ファロットです」

 シェラが、受付の女性に学生証を提示する。女性は学生証のIDを機械にかざし、モニタに表示された情報と目の前の少年を見比べ、柔らかい表情で頷いた。
 ウォルも、詳細は分からないが、おそらく自分も同様に身分を明かす必要があるのだろうと思い、財布から出した学生証を女性に渡す。

「同じくアイクライン校のフィナ・ヴァレンタインです」

 これも同じ確認作業を済ませた女性は、

「予約されているのは、地下の格闘技場ですね。既にご友人は来られていますよ」

 シェラは人好きのする微笑みを浮かべ、

「ありがとうございます。あの、申し訳ないのですが、運動着とタオルをお借りしてもよろしいですか?」
「はい、承知しました。サイズはどうされますか?」
「二人ともSサイズで、上下だけで結構です」

 受付の女性は如才ない様子で二人用のトレーニングウェアとスポーツタオルを用意し、

「レンタル代金はIDカード払いでよろしいですか?」
「はい、お願いします」

 連邦大学は一つの星であるから、学びの場であると同時に一つの巨大な経済圏でもある。
 当然、経済活動をするためには貨幣が必要となるのだが、多くの学生はIDカードにクレジット機能をつけ、それで日常的な出費をまかなっている。多額の現金を持ち歩くのは防犯上問題があるし、万が一紛失等したときに騒動の種にもなりやすい。その点、クレジットカードならば会社に利用の停止を求めればいいだけだし、その間に誰かに使われていたとしても追跡が可能である。
 反面、学生達にとっては頭の痛い点もある。カードの実質的な契約者である両親がその利用履歴を確認すれば、自分達が一体どんなものを買ったのかがばれてしまうのだ。

『ちょっと、今月はお菓子を買いすぎてるんじゃないの?そんなに食べてると太るわよ。次の健康診断の結果、ちゃんと家まで送りなさい』
『ゲームが全て悪いとは言わないが、しかし学生の本分は勉強だ。俺の息子なんだからそこらへんは弁えていると思うが、こんなことが続くようだとお小遣いの減額も考えなければならないな』

 カードの履歴が実家に送信される月末あたりになると、こんなメッセージに怯える学生達があちこちで大量発生するのだ。
 しかし、学生達もさるものである。カードを使えばその用途がばれるならば、一旦現金で引き出してから使えばいい。当然、その額が多くなればなるほど親の不審を買うのだが、そこらへんはバランス感覚が重要になってくる。
 カードでの支払いを済ませた二人は、それぞれ男性用、女性用のウェアを受け取り、更衣室へと向かう。
 シェラが入ったのは、当然のことではあるが、男性用の更衣室だ。中で正しく着替えをしていた男子生徒の何人かが、シェラの姿を認めて、ぎょっと目を見開いた。何せ、見た目は少女――しかもその前に「極上の美」と付けるのが相応しい――にしか見えないシェラである。どう考えても、女の子が間違えて男性用更衣室に入ってきたとしか思えなかったのだ。
 
「ちょっときみきみ、こっちは男性用の更衣室だよ。女性用は廊下の向こうにあるから……」

 慌てた様子の男子生徒が、シェラに声をかける。
 そんな対応は慣れっこのシェラは、にこやかに微笑みを返し、

「ありがとうございます。ただ、わたしは男性ですので、どうぞお気遣いなく……」

 そう言われると、声は、声変わりがまだとはいえ少年のものだし、身に着けているシャツやスラックスも男性ものである。
 とはいえ未だ納得がいかないのか、固まってしまった男子生徒の横をすり抜けて、シェラはロッカーに荷物を放り込み、手早く着替えを済ませた。いくつかの視線を感じたが、いちいち気にしていてはきりがない。
 上はTシャツ、下はハーフパンツという、先ほどのウォルのような軽快な恰好のシェラが更衣室から出ると、ちょうど同じタイミングでウォルも女子更衣室から出てきた。
 そのウォルが、どうにも苦い顔だったから、シェラは訝し気に、

「どうかしましたか、ウォル?」
「いや、もう慣れたことといえば慣れたことなのだし……別に子供相手に欲情するほどねじ曲がった性癖をしているわけではないのだが……こういう場所に入ると、自分がこすっからい覗き魔かなにかになったようで気が滅入るのだ」

 特大の溜息を吐き出しながらそんなことを言う。
 なるほど、見た目が女性にしか見えないシェラにはシェラの苦労があり、見た目と中身が食い違っているウォルにはウォルの苦労があるということか。シェラは苦笑した。

「いっそのこと、俺も男性用更衣室を使わせてもらえれば気が楽なのだがなぁ」
「そんなことをすれば、間違いなく騒ぎになりますのでどうかお控えくださいね」
「仕方ない、慣れるまでは我慢するとしよう。しかし、何故いきなり格闘技のトレーニングなどという話になるのだ?」
「実はヴォルフが……」

 シェラは事情をかいつまんで説明した。
 過日の大事件――一つの惑星を丸ごと巻き込み、果てにはエストリアの一個艦隊と戦うはめになった大騒動である――の中で、リィ達がインユェと知り合うきっかけとなった小さな事件があった。
 小さいといっても、事件の全体像からすれば小さいというだけの話で、その騒動も決して取るに足らない事件というわけではない。何せ、一つの街を牛耳るマフィア組織を、実質4人(入れ知恵をしたダイアナを含めれば5人だ。)で壊滅させ、その本部ビルを爆破解体までしてのけたのだから。
 その最中で、ヴォルフはルウと、事件が片付いたら連邦大学で遊ぶ――この場合は素手での力比べを意味する――約束をしたのである。
 そして事件は、関わり合った様々な人間に深い爪痕を残し、しかし一応の終息を迎えた。関係者も日々の平穏を取り戻しつつある。
 そんなタイミングで、ヴォルフからルウに連絡があったらしい。今度、連邦大学に住居を移すことになったから、ちょうどいい機会だ、あの時の約束を果たそう、と。

「……ヴォルフどのは、確かこの国の軍人なのではなかったか?果たして、こんな時間にもう勤務は終わっているのか?それとも、休暇でも取っているのかな?」
「そのあたりはわたしも何も聞いていないのですが……」

 そんな会話を交わしつつ、二人は地下の格闘技場へと向かった。
 格闘技場は、その名のとおり、武道や格闘技を練習するためのスペースである。ボクシングの練習には欠かせないサンドバッグやリング、グローブ、ミットやヘッドギアなどの道具類はもちろんのこと、柔道やレスリングの練習用のマットや道着など、素手の格闘技を練習するためのおよそ全てのものが揃っている。
 普段はウォルもシェラも足を向けるような場所ではないのだが、この日は特別であった。
 「使用中」の札のかかった扉を開けると、まず目に飛び込んでくる広いリングの中で、二人の人間が向かい合っていた。
 二人はともに、ボクシング用のグローブとヘッドギアを身に着けている。足は裸足だ。そして脛には安全のためレガースを着用している。
 一人は、およそ人間というカテゴリに含めるのが憚られるほど、横にも縦にも巨大な人間であった。その身体はトレーニングシャツの上からでも分かるほど、ごつごつと盛り上がった筋肉で覆われている。まるで大岩をそのまま人間にしたような身体だ。
 その巨人と対峙しているのは、見た目女性のようになよやかな青年である。やはりトレーニングウェアに身を包んだ青年は、身体のどこにも、筋肉で盛り上がったような箇所はない。寧ろ、筋肉と筋肉の境を探すのが難しいような滑らかなラインで、しかし脂肪は最低限、そして必要な筋肉は必要なだけついている、そういう身体だ。人で例えれば一流のダンサー、獣で例えれば若いチーターだろうか。
 体重で言えば、おそらく倍、いや、3倍ほどの開きがあってもおかしくない二人である。
 しかし、息を乱し、肩で呼吸しているのは巨人のほうであった。

「そろそろギブアップ?」

 両手をだらりと下げた青年が、柔らかい微笑みを浮かべながら言った。

「いやぁ、まだまだだね」

 両の拳で頭を挟み込むように構えた巨人が、こみ上げる笑みを堪えるように言った。
 その拍子に、巨人が、驚くほどの速度で間合いを詰め、左手でジャブを放つ。
 シェラやウォルでも見切れない程の速度の拳を、しかし青年は柔らかな表情そのまま、スウェーバックで躱す。
 上体を後ろに折り曲げた青年の鼻先、僅か数ミリのところで拳が止まる。まるで、グローブと唇と触れ合うような距離感。
 恐るべき見切りの技術である。
 しかし巨人は、もう何度も繰り返されたその光景に慣れたのか、軽くステップして再度間合いを詰め、今度は返しの右ストレートを繰り出す。
 これもまっすぐ、凄い速度で青年の顔向けて、一直線の打撃である。
 もしも当たれば、一撃でKOされかねない攻撃を、しかしノーガードの青年は、今度は上体を横に振って躱す。
 
「ちいっ!」

 巨人が舌打ちをして、逃げる青年を追いかけ、左のフックを繰り出す。
 否、繰り出そうとした。
 そして青年はその隙を見逃さなかった。
 左フックを放つために僅かに下がった左手の隙間を縫うように、青年の右足は宙を走り、そして巨人の頭部を思い切り蹴り飛ばした。
 頑強を誇る巨人も、防御と意識の両方をすり抜けた一撃には流石に耐えられなかったのか、がくりと膝を落とした。
 一瞬の攻防であった。
 
「これで決まりだね」

 そう言った青年はヘッドギアを外す。
 ほとんど汗すらかいていない青年は、爽やかに微笑みながら、膝をついた巨人を抱え起こした。

「ヴォルフ、大丈夫?」

 頭を振りながら、巨人は――ヴォルフは立ち上がった。

「かーっ、今のは効いたなぁ!ナイスキックだ、ルウ!」

 悔し気というより、寧ろ嬉しそうな様子でヴォルフは言った。
 
「結構……いやいや、完全に本気でやったのに、こんなにこてんぱんに叩きのめされたのはいつ以来だろうなぁ!」
「そのわりには凄く嬉しそうだねぇ」

 呆れたように青年――ルウが言う。

「ああ、嬉しいともよ!なんでもそうだが、やっぱり乗り超えるべき目標があってこそ燃えるってもんだからな!次はこうはいかねぇからな!絶対に叩きのめしてやる!」
「ぼくもほとんど手加減しなかったんだけどなぁ。普通の人なら、きっと10回は入院しているくらいは攻撃したはずだよ。それでもぴんぴんしてくれてるから嬉しくなっちゃうよね。こういうふうに遊べる人って貴重だから、これからも友達でいてね!」
 
 結構怖いことをさらっと言うルウであったが、ヴォルフは嬉しそうに頷いている。人外連中にはなんとも似合いの、物騒な友誼が結ばれているようだ。
 リングの横に目を移すと、そこでは、リィとインユェがレスリングのスパーリングをしている。
 キャンパスマットの上でにらみ合った二人の間に、色濃い緊張が満ちている。
 お互い腰をかがめ、額をこすり合わせるような体勢で、手を差し合いながら相手の隙をうかがっている。ただ、インユェは馬力でリィに劣るのを自覚しているので、どちらかというとリィの手を払い、組み合うのを嫌がっている印象だ。
 そんなインユェの手をかいくぐって、リィが低空のタックルを仕掛ける。目が覚めるような速度だ。だがインユェはそれを予想していたのか、両足を引き、上から体重を乗せてリィを押しつぶそうとする。
 それに対して、リィは柔軟に身体を捩り、覆いかぶさってきたインユエの身体を逆に持ち上げ、見事に後方へと投げ飛ばした。
 インユェは背中からマットに落とされ、そして上に乗ったリィに抑え込まれてしまった。インユェは両手両足をばたつかせるが、リィの抑え込みはびくともしない。

「はーい、そこまでー。あほちび、これでお前の10連敗だな」

 審判役を引き受けていたメイフゥが、欠伸を嚙み殺しながら言った。
 その言葉を聞いて、抑え込みを解いたリィが、ふぅと軽く息をついて立ち上がる。

「ちくしょー、勝てねぇ!いつも思うが、その細っこい体のどこにそんな馬力がありやがんだ!リィ、この詐欺生物め!」

 全身汗みずくのインユェが、仰向けに寝転びながら、乱れた息で途切れ途切れそんなことを言う。
 そんな彼を笑顔で見下ろしながら、ルウと同じく汗一つかいていないリィは、

「まだまだだなインユェ。それでもまぁ、あの酒場の時と比べればずいぶん見られたもんになってるよ」
「あの時のことは思い出させるなよな、これでも十分反省してるつもりなんだからよ」

 銀髪をがしがしと搔きながらインユェは身体を起こした。
 確かにインユェにとってあの時の醜態は一生ものの恥部である。冷静に振り返れば、一体どれだけの人に迷惑をかけてしまったか、正しく赤面の思いだ。
 しかしそれが、今連邦大学にいるきっかけになったのも事実であり、そしてリィやルウ、シェラやヴォルフと知り合うきっかけにもなったのだ。
 人生万事塞翁が馬とはよくいうことわざであるが、いつかあの時のことも笑って話せる日がくるのだろうか。
 なんとも苦い思いで立ち上がったインユェは、入口にウォルの姿を――インユェにとって、この宇宙で一番愛しい少女の姿を見つけた。

「ウォル!」

 目を輝かせたインユェが、先ほどまでのくたびれた様子はどこへやら、正しく尻尾を振り回さん有様でウォルに駆け寄る。
 かつてウォルのことを奴隷と呼んだことがあるインユェだが、これでは立場がまるで逆、ウォルが飼い主でインユェが忠犬のようにすら見える。
 ウォルは困ったように微笑んだ。

「ウォル!どうしたんだよ、急に!来れるなら、迎えに言ったのに!」
「インユエ、気持ちは嬉しいが、あまり大っぴらにそういうことをされても困るぞ。なにせ、お前は結構ファンが多いようだ。彼女たちの恨み嫉みを買うのは、どう考えても得策ではないからな」

 そうなのだ。
 インユエは、結構女子学生から人気がある。
 金銀天使と並ぶとどうしても目立たないが、実は十分以上に整った顔立ちであるし、加えて、宇宙生活者特有の陰のある佇まいが、年頃の女子生徒などからすれば野性的な魅力として映るらしい。
 その結果、インユエとメイフゥが連邦大学に転入してからの短い期間に、結構な数の愛の告白を受けており、しかしその全てをけんもほろろに断っている。
 そのインユエが、ウォルにこれほどぞっこんということが衆目の知れるところとなれば、謂われなのない嫉妬の刃がウォルに向けられたとしても不思議ではない。
 万が一そういった事態になったとしても、ウォルとしては別に痛くも痒くもないのだが、しかし避けられる面倒事は避けるに如かずであるから、学内ではそれなりの距離間で接するようお願いしているのである。
 少ししゅんとしてしまったインユェだが、気を取り直したように、

「でも、今日はいいじゃねぇかよ!なんたって、ここは貸し切りなんだから、別に誰の目も気にする必要はねぇさ!」

 通常、トレーニングルームは共同使用が原則である。
 だが、クラブ活動のように多人数で使用する場合や、他の学生に見られたくない等、事情があれば部屋の専用使用は認められている。無論、他に使用する予定の学生がいる場合はそちらが優先されるため、今日のように部屋を一つまるごと借りられることはまれである。
 だからこそ、普段は全力でトレーニングなど絶対できない――もしもそれが他の学生にばれてしまえば、クラブ間の勧誘合戦が始まることは目に見えている――ため、こういうふうに思い切り身体を動かせる機会は貴重である。

「じゃあ、早速だけどウォル!ちょっとトレーニング付き合ってくれよ!」

 インユェが、今は空のリングを指さして言う。
 ウォルは苦笑しながら、

「分かった分かった。少し待て、準備運動するから」

 いくらウォルとはいえ、いきなり思い切り身体を動かすのは危険である。柔軟運動やウォーミングアップをせずに最初からトップギアで運動すれば、怪我のリスクがあるのだ。
 シェラと二人で軽くストレッチを行い、体を温めるための準備運動を行う。
 その様子を見ていたインユェは、

「……シェラ、悪いけど、ちょっと代わってもらってもいいか?」

 前屈するウォルの背中を押していたシェラに、声をかけた。
 シェラは、思春期真っただ中のインユェが、想い人の身体に触れる機会を狙ってそんなことを言ったのかと訝しんだが、どうにもインユェの声はそういった調子ではない。それに、まだ短い付き合いではあるが、そういった恥知らずで姑息な真似をする少年ではないと、一応は信用している。
 首を傾げたシェラが、

「ええ、いいですよ」
「悪いな」

 今度はインユェがウォルの背中を押す。
 ウォルの身体は、同年代の少年少女と比べても遥かに柔軟で、背中を押すまでもなく、ほとんど足と胸がくっつくほどに柔らかい。
 なので、インユェは別に力を込めたわけではないのだが、インユェの指は、記憶にあるよりも深く、ウォルの背中に埋まってしまう。
 そしてインユェは、何気なく――そして彼を弁護するならば、一切の悪気なく――決定的な言葉を口にした。

「ウォル、お前太ったか?」

 ぴしりと、空気がひび割れる音が響いた。
 インユェには、ほとんどの人間がそうであるように、美点があれば汚点もある。神ならぬ人の身である以上、それは無理からぬことであろう。しかし、彼特有の特大の悪癖があるとすれば、正しくこれであった。
 例えば『紅の魔女』と共和連邦宇宙軍の猛者から恐れられる女丈夫に対して、ベッドの中で尻を叩いてやると挑発したように。
 例えば宇宙最速時代の最先端を存在命題とする感応頭脳に対して、ジャンクパーツ屋のボロ宇宙船と罵ったように。
 この少年は、恐るべき女性に対して、最悪のタイミングで、致命的かつ極めて効果的に、余計な一言を口にしてしまうのだ。
 そして、その悪癖は、今、この場においても、十分すぎる威力で炸裂した。
 近頃の悩みの種を、シェラに控えめに指摘され、くさくさしていたウォルの逆鱗は、あまりにも不用意なインユェに一言に対して、怒りの雷光を孕むように逆立った。まして、シェラはウォルのためを思って過度の食事を諫めてくれたのに対して、インユェは無神経な一言でウォルの気にしているところに痛撃を加えたのだ。どちらに怒りの矛先が向かうかなど、言うまでもない。

「いーんーゆーえー?」

 ぎぎぎ、と、石臼を挽くように重たい様子で振り返るウォルは、凄絶な笑みを浮かべている。
 その時点で、遅まきながら自分の一言が如何に軽率で、如何に命知らずなものかを認識したのだろう、恐れおののくインユェが数歩後ずさり、

「ちちち、違う、ウォル、そういう意味じゃない!」
「ほーう、では一体、どういう意味なのかを聞かせてもらおうか」

 ゆらりと、背後に怒りの陽炎を纏うように立ち上がった少女は、リィやルウ、シェラなどから見ても、かなり怖い。
 そして、メイフゥの諦めたような溜息と、楽し気なヴォルフの顔。

「ええっと、そう、いい意味だ!いい意味で太ったっていうか、ふっくらしてもっと可愛くなったっていうかだな、そう、つまりおれはお前に惚れなおしたっていうことなんだ!」
「よし、遺言はそれでいいのだな?」
「遺言じゃない!愛の告白だ!」
「人の気にしていることをずけずけ言っておいて、愛の告白とはよくぞほざいたな。よし、おれも男だった時は、余計な一言がきっかけで女連中には随分酷い目にあわされ、女というものの恐ろしさを身に染みて分からされたものだ。今からお前にも、たっぷりと思い知らせてやるとしよう!」

 ウォルはそう言いながら、この場から逃げ出すために踵を返したインユェの襟首をむんずと捕まえ、無慈悲な表情で少年の身体をリングの中に放り込んだ。



[6349] 第九十九話:人外生物集合!
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/05/22 19:50
 ウォルの、インユェに対する仕置きがどれほど凄惨だったかは語るまい。
 ただ、インユェの中での怒らせてはいけない女性ランキング(無論、メイフゥ、ジャスミン、ダイアナは登録済みだ。)の最上位にウォルがランクインしたのは言うまでもない。
 インユェがぼろ雑巾のような姿でリングから叩き出された後、残った6人は順番にパートナーを変え、思う存分運動を楽しんだ。
 結果は、一番勝率が高かったのはダントツでルウ、次にリィが続き、ウォル、シェラ、ヴォルフとメイフゥは団子といった感じであった。基本的にマススパーであったから、全員怪我を負うようなこともない。ただ、ヴォルフとメイフゥが、プロレスのように手四つの態勢で力比べに及んだときは、押し負けそうになったメイフゥが危うく『虎人』に半形態変化しかけたため、これは全員が慌てて止めさせた。

「ったく、正面から力比べで負けたのは、真っ当な人間の中じゃあんたが初めてだ。その上、殴っても蹴っても、ぽんぽんはじき返されて、まるでダメージを与えてる気がしない。大型トラックのタイヤを叩いてるのかと思ったよ。一体何食えばそんな馬鹿みたいな身体になれるんだい?」

 唇を尖らせたメイフゥのぼやきに、ヴォルフは大口を開けて笑いながら、

「目の前にあるものは全部、食えるだけ食う、これがこつだな。メイフゥ、お前も中等部でそのガタイなら、まだまだ十分望みはあるぜ」
「あたしはいいんだよ、これ以上でかくなると、男漁りに支障が出るからね。ただ、愚弟はもう少しでかくしてやらねぇと、並んだときに見栄えがよろしくないからね。これでも、あいつは船長、あたしはその部下だ。船長が部下よりちみっこいってのはどうにもよろしくねぇ」

 そんなのんびりとした会話を交わしつつ、一同は小休止に入った。
 普段は分厚い猫を被った生活しないと騒ぎを起こしてしまう面々だったから、限界まで身体を酷使できる機会は貴重である。一休みする一同の顔には、すっきりとした笑みが浮かんでいた。
 魂が抜けたように倒れ込んでピクリとも動かないインユェを尻目に、車座にマットに座り、自身の近況などを話したりしている。

「ところでヴォルフどの。どうしてあなたは連邦大学に引っ越してきたのだ?」

 ふかふかのスポーツタオルで汗を拭いつ、ウォルが問いかける。
 それに対して、こちらは、2リットル入りペットボトルのスポーツドリンクを一息に飲み干したヴォルフが、からからと笑いながら、

「別にどうってことはねえさ。ただ、前の職場を馘になってな、絶賛無位無官の身の上だ、どうせ住むなら面白い奴らのご近所にって思っただけのこった」
「馘とは穏やかではないが……何があった?」

 気遣わし気なウォルの言葉に、ヴォルフは噛みつくように獰猛な笑みを浮かべ、

「気に食わねえ上官をビルの屋上から放り投げた」

 これには、流石にこの場にいた全員が唖然とした。荒事には慣れっこのメイフゥですら、一瞬我が耳を疑ったほどである。

「そんな顔しなさんな。相手さんは無事――かどうかは知らねえが、とりあえず死んじゃいねえよ」
「……死んでないからいいとか、そういう問題ですか?」

 この中では比較的穏健派の枠に入るシェラが、恐る恐る尋ねる。
 これに対して、ヴォルフは、まるで他人事のように軽く肩をすくめて、

「どうもそういう問題じゃなかったから、晴れて俺も自由人の身ってことらしいな。ま、幸いなことに結構な退職金ももらったからよ、当面の間は懐も暖かいし、こうして大手を振って、お日様の下で遊びほうけていられるわけだな。ありがてぇこった」

 顎下の無精ひげをさすりながら、のんびりした様子のヴォルフであった。



 惑星ヴェロニカでの事件の後、そのけじめとして、ヴォルフは自身を裏切った元上官アレクセイ・ルドヴィックを執務室から拉致し、連邦情報局ビルの屋上から投げ捨てるという、共和政府でも前代未聞の大事件を起こした。
 情報局ビルは五階建て、高さ30メートルはあろうという建物だから、その屋上から放り投げられたとあっては、普通なら命はない。
 無論、ヴォルフもそのつもりでアレクセイを放り投げたのだ。結果として、軍人の身分を失うことも、逮捕収監されることも覚悟の上である。それらを天秤にかけてなおアレクセイの裏切りは許し難く、ヴォルフは本気で怒っていたのだ
 しかし、余程幸運を司る星の下に生まれたのか、アレクセイはビルに横付けして駐車していた大型トラックの荷台に着地することとなり、幸か不幸か一命を取り留めた。
 こうなってしまっては、流石のヴォルフも、もう一度アレクセイの命を狙おうとは思わない。もしもこれが天の差配であるなら、天はあの男がもう少し生きても良いと、それとも、今、自分があの男を殺すべきではないと、そう言っているのだろう。ヴォルフはそう理解した。
 とはいえ、ヴォルフの行為は正しく殺人未遂であり、起訴されれば厳罰を免れない。ヴォルフもそうなるのだろうと思っていた。
 ただ、事件現場が情報局のお膝元であり、被害者も情報局の人間、そして加害者はといえば、元の身分は軍属とはいえ、情報局に出向中の人間であったことが、事態を明後日の方向へと運んだ。つまり、情報局の人間同士のいざこざなのだから、警察に通報する前に、まずは情報局内で事情聴取をすべきだろうという運びとなったのだ。
 ほどなく、連邦情報局ビルの取調室に連行されたヴォルフは、狭い室内に輪をかけたように小さな椅子に座らされ、二人の査問官によって詰問されることとなった。
 
「ヴォルフガング・イェーガーくん、きみは優れた軍人だと聞いている。勤務評価、作戦の成功確率、そして獲得した勲章の数。いずれも、一流の共和宇宙軍の軍人として相応しいものだ。そのきみが、何故このような、野蛮な行為に及んだのかね!?」

 至極当然の質問である。
 しかし、本来であれば、被尋問者に圧力を加えて精神を摩耗させ、真実を語らせる――或いは自身の要求する内容を真実として語らせる――ことが職務であるはずの査問官達だったが、軍の最前線で修羅場を潜ってきたヴォルフが相手では些か役者不足であったらしい。
 背もたれに身体を預けてリラックスした様子のヴォルフに対して、査問官は、二人がかりでもプレッシャーをかけることができず、むしろ査問官側が冷や汗を流している有様だ。
 無理もないだろう。もしも目の前の大男が何かの拍子に暴れだせば、どう考えても自分達だけで取り押さえるのは不可能だ。加えて、この大男は現実に、過去の上司を殺そうとしているのである。
 まるで猛獣と一緒の檻に入れられたように、二人は萎縮してしまっていた。
 そんな二人を前に、やはりゆったりとした微笑みを浮かべたヴォルフは、

「そんなに怯えんでも、あなた方をどうこうするつもりはありませんよ。別に恨みがあるわけでもなし、取って食っても美味そうには見えませんしね」
「……余計な口は叩かず、先程の質問に答えたまえ!」

 明らかに怯えた様子の査問官に、寧ろヴォルフは気の毒そうな視線を遣り、

「そんな大騒ぎするほどのことじゃないと思うんですがね。私は、ただ、あの男に落とし前をつけてもらっただけのですよ」
「落とし前だと?」
「ええ、そう表現するほかに、言い表しようがありません」

 そしてヴォルフは語った。
 先般の、惑星ヴェロニカで起きた大事件の顛末、自分がその事件の中でどういう役回りを演じることとなったか、そしてアレクセイの裏切りが自分やウォル達をどれほど危険に晒したか。
 ヴォルフの釈明――と呼ぶにはあまりに不遜な態度っであったが――を聞いた査問官は、真面目な表情でその話を聞き、調書を作成しながら、しかし内心鼻で笑った。惑星ヴェロニカの騒動は耳聡い彼らにとって周知の事実であったが、ヴォルフの語った内容はあまりに荒唐無稽で、到底真実とは思えなかったのだ。
 これは、精神に異常をきたした軍人の、被害妄想による事件として片付けるのが妥当だろうか、そう考え始めた査問官は、ヴォルフから聴き取った内容を報告書に起こし、それを己の上司である査問室長へと報告した。その報告を聞いた査問室長は、やはり部下と同じ感想を抱きつつ、しかし念のためということで、さらに自身の上司である、情報局長官アダム・ヴェラーレンに報告した。
 ヴェラーレン長官にとって、一介の職員、しかも出向中の職員の不祥事など、本当にどうでもよい話である。無論、例えば外部的な問題に発展するならば局の最高権者として対応せざるを得ないが、今回は内部の人間同士のごたごたである。如何様にでももみ消せるし、口を封じることもできるだろう。そう考え、興味の薄い様子で書類をめくる。
 だが、長官の表情が青ざめるのに、そう時間はかからなかった。無味乾燥とした文章の中に、彼の脳髄に恐怖とともに刻み込まれた固有名詞を見出したからである。

「エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタインに、ルーファス・ラヴィーだと……?」

 それは正しく、彼にとっての悪夢を体現する名前の組み合わせであった。慌てて報告書の頭に戻り、一字一句逃さずに読み直す。
 惑星ヴェロニカの事件の経緯そのものは、当然のことではあるが、ヴェラーレン 長官の耳にも入ってきている。そして、その中でエストリアが暗躍し、あやうく一つの惑星を目標としたジェノサイドが実行される直前だったこともだ。
 だが、その大事件の中で、ヴェラーレンの言うところの『金色の魔獣』と『黒い悪魔』がどのような関わり方をしたのか、情報局長官という要職に就く彼も、この時点で初めて知ったのだ。そして、情報局に席を置くアレクセイ・ルドヴィックという人間の背信が、彼らにどれほど危険を及ぼしたのかも。
 ヴェラーレン長官の顔色が、死人のように青ざめるまで、そう時間はかからなかった。無理もない。彼らは――あの歩く超新星爆発と呼吸するブラックホールは、自分達に害を及ぼす存在が現れた時、存在自体の排除ではきっとその刃を収めない。きっと、いや、間違いなく、その組織の長の責任を糾弾し、弾劾するはずだ。それも、弁舌ではなく、実力行使で。
 その場合、組織とは連邦情報局であり、責任者とは自分、アダム・ヴェラーレン である。
 過去の経緯から、彼らが自分に対して好意的な感情をひとかけらも抱いていないことなどはっきりしているし、彼らの矛先が自分に向けられたとき、どのような言い訳も反撃も不可能であることは身に染みて承知している。
 ならば、方法は一つだけだ。全てを、彼らに知られる前に、あるべきかたちに処断するのみである。
 次の日、留置所に放り込まれて、狭いベッドで窮屈そうに眠っていたヴォルフは、息せき切ってきた査問官に叩き起こされ、着の身着のままで情報局長官室へと放り込まれた。
 刑務所や辺境の惑星へ強制連行されたり、最悪は口封じに殺されることも十分覚悟していたヴォルフであるが、まさか情報局長官と面談することになるとは考えていなかったので、こは何事かと訝しんだ。

「情報局長官アダム・ヴェラーレンだ。ヴォルフガング・イェーガー少尉だね?」

 黒檀の執務机に腰掛けたヴェラーレン長官の、重々しく迫力のある口調に、

「ええ、ただし元少尉と言ったほうが適切でしょうな、今の小官の立場であれば」

 軽く肩を竦めてヴォルフが応じる。
 ヴォルフとヴェラーレン長官の間には、比較するのも馬鹿馬鹿しいほどの階級差が存在する。それは彼らの体格の差と反比例するようなもので、いくら数多くの武功を立てているとはいえ所詮はいち少尉であるヴォルフなど、情報局長官のヴェラーレンにしてみれば吹けば飛ぶような階級の人間に過ぎない。
 しかし、ヴォルフの口調にも態度にも、そんな格上の人間に対する際の、萎縮し畏まった様子はない。それは、ヴォルフという人間生来の性質によるところが一番大きいのだが、もはや軍人という身分を見切ってしまったからでもある。馘にされた平社員が、どうして社長にへいこら頭を下げなければならなのか、ということだ。それでも、一般人であればなおのこと、情報局長官という肩書の恐ろしさと権威に萎縮するのが普通であるから、ヴォルフの肝の大きさは身体のサイズに比例していると言うべきだろう。

「かけたまえ」

 ヴェラーレン長官が執務机の前に置かれた応接用ソファを手で指し示す。
 ヴォルフは遠慮なくソファに腰掛けた。体重200キロを超えるヴォルフの体重を受けて、ソファはヴェラーレン長官が想定していたよりも大きく沈んだ。
 ヴォルフが腰掛けたのを確認してから、ヴェラーレン長官も執務机から立ち上がり、ヴォルフの正面のソファに腰掛ける。
 向かい合った二人のうち、最初に口を開いたのはヴォルフだった。

「で、お忙しいご身分のはずの連邦情報局長官殿が、絶賛査問中でその後はブタ箱行き確定の元軍人の小官に、どんなご用件なんです?」

 こういった場合、本来であれば目上の人間から会話を始めるのが作法であるはずなので、ヴェラーレン長官は少々の不快感を味わった。しかし、話を前に進めることを優先したのだろう、ゆっくりと口を開き、

「きみに聞きたいことは一つだけだ。ヴォルフガング・イェーガー少尉、きみと、あの二人の関係性を教えてほしい」

 ヴォルフは、無精ひげの浮いた顎をさすりながら面白そうに、

「あの二人とは?」
「とぼけるな!あの二人とは、あの二人のことだ!」

 思わず声を荒げたヴェラーレン長官だったが、対するヴォルフは平静そのものの態度で、

「あの二人と言われても、小官には思い当たるところが多すぎて、長官が果たして誰のことを言わんとされているのか分かりかねますな。具体的に、誰と誰のことなのか、仰っていただければ回答もしやすいのですがね」

 憮然とした表情を作り、両掌を上に持ち上げ、お手上げというふうなポーズをしたヴォルフである。
 ヴェラーレン長官が一瞬口ごもったのは、ヴォルフの無礼な態度への怒声を飲み込んだからではない。
 ヴェラーレン長官は、殊更迷信深いわけでも信心深いわけでもなかったが、言霊という言葉があり噂をすれば影が差すということわざがあるように、その二人の名前を口にした瞬間に彼らがこの場に現れそうで恐ろしかったのだ。また、そうあってもおかしくないだけの能力を、二人が有しているというのも事実である。
 無論、ヴォルフはヴェラーレン長官の奇妙な内心を分かっている。分かっていて、ヴェラーレン長官の表情が赤くなったり青くなったりする様子を楽しんでいるのだ。
 そんなヴォルフの内心を知ってか知らずか、ヴェラーレン長官はソファから身を乗り出し、可能な限り小さく、そして低い声で、囁くように言った。

「エドワード・ヴィクトリアス・ヴァレンタイン、そしてルーファス・ラヴィーの二人だ 」

 二人の名前を聞いてもヴォルフは驚かなかった。というよりも、あの二人以外のはずがないとすら思っていた。
 ヴォルフはくつくつと笑い、

「ああ、彼らのことですか。彼らと小官の関係性は……そうですな、一言では申し上げにくいのですが……」
 
 あらためて問われると、果たして何と表現すべきか、ヴォルフは首を傾げた。
 親しい友人かと言われると、それほど仲が良いわけではない。固い絆で結ばれた仲間かと言われると、そこまでの信頼関係はない。無論、敵対しているわけではないし、彼らの性質は好ましく思っている。ただの知り合いというのは薄情だろう。
 数舜の逡巡の後、

「あえていうなら……いたずら仲間というのがしっくりくるのかも知れませんな」
「いたずら仲間だと?」

 ヴェラーレン長官は、信じられないものを見るように、目の前の巨漢を見た。

「ええ。きっと誰しも、子供の頃は大人連中にいたずらの一つも仕掛けたことがあるでしょうし、その時には自分一人ではなく、友人の中でも少し仲の良い連中と悪だくみしたものです。小官が彼らとの関係を評するなら、そんなところですかね」

 ヴォルフの言葉はあながち間違いではない。たしかに、ヴォルフと天使一行は、いくつものいたずらを悪だくみし、実行してきた。ただ、街を支配する暴力組織を一晩で壊滅させたり、辺境とはいえ仮にも一国の軍隊を相手にどんぱちすることを『いたずら』と表現することが許されるなら、である。
 ヴェラーレン長官は飴玉を飲み込んだように目を丸くした後で、苦い粉薬を含んだように顔を歪めた。

「……よくわかった。つまり、きみもあの二人と同類と、そういうわけだな」
「そう言われると照れますな」

 おそらく褒められたと思ったのだろう、恥ずかし気に俯いたヴォルフがこめかみのあたりを掻く。
 ヴェラーレン長官は、おそらく彼の人生でも最も特大であろう、深い溜息を吐き出した。

「……正直に言おう。私は、あの二人が苦手だ。恐ろしい。二度と会いたくないし、視界に入れたくもない」
「心中お察しします、閣下殿」

 これまた気の入らない慰めの言葉だったが、ヴェラーレン長官は無視した。

「そして、彼らと同類のきみにも、事がこうなった以上、私の知覚可能な領域から速やかに立ち去り、二度と立ち入ってほしくない」
「お気持ちはよく分かります」

 そして、やつれた様な表情のヴェラーレン長官は、はっきりとした口調で、

「ヴォルフガング・イェーガー少尉。きみは交流職員だが、情報局長官たる私の権限をもって、きみの公人たる身分をはく奪する。端的にいえば、きみは馘だ」
「ええ、当然のことでしょうな」

 何を今更、と言わんばかりのヴォルフの様子である。
 細かい事情に目をつぶったとしても、彼は殺人未遂事件の現行犯で拘束されているのだ。その時点で懲戒免職は確定しているはずである。
 だが、ヴェラーレン長官は続ける。

「ただし、きみの退職は、依願退職扱いとする。つまり、退職金は全額支払われる。きみの経歴に傷もつかないし、また、今日をもってきみは自由の身だ。アレクセイ・ルドヴィックが屋上から落ちたのは、あくまで彼の不注意による事故として取り扱うし、余計なことをしゃべらせるつもりもない。彼には今後、彼の背信行為に相応しい人生を歩んでもらうことになるだろう」

 流石にヴォルフは目を丸くした。
 
「……つまり、全ては闇に葬っていただけるということで?」
「当然、いくつか条件がある。惑星ヴェロニカでの一連の事件を含め、一切の経緯についてきみが口を噤むこと。そして、二度とセントラルの地表を踏まず、私の前に顔を見せないこと。その他、条件は後で文章に起こして提示する。そこにサインをすれば、それで終わりだ」

 普通であれば、そんな事件処理は不可能である。第一、事件の被害者であるアレクセイが納得しない。確実に警察に訴える。
 しかし、ヴェラーレン長官はそれを許さないということらしい。少なくとも、アレクセイの行いによってあの二人に危険が及んでいるのだ。情報局でアレクセイに相応の処分をしない限り、下手をすればヴェラーレン長官自身に累が及びかねないのである。つまり、有形無形の脅しか、もしくはそれ以上の手段でもって、アレクセイの口を塞ぐということだろう。
 逆に、ヴォルフ自身については、これで手打ちにしてほしいという、ヴェラーレン長官の懇願であった。
 ヴォルフは肩を竦め、

「承知しました。閣下の温情に深く感謝します」

 大して感謝している様子ではなかったが、口に出してはそう言った。自分は為すべきことを為しただけである。その結果はどうでもいい。しかし、凶悪犯として刑務所で長い間臭い飯を食わされるよりは、退職金をもらって悠々自適の生活を送ったほうが、どう考えても得だ。価値観が常人とは些か外れているヴォルフにも、その程度の損得勘定は存在した。
 ヴォルフの言葉に、ヴェラーレン長官は安堵の溜息を吐き出しながら頷き、

「私の権限の及ぶ範囲で、退職金にも精一杯の色はつけさせてもらおう。一生遊んで暮らす金額というのは無理だが、向こう数年間程度は十分に生活できるはずだ。それに、きみが望むのであれば、再就職先のあっせんもさせてもらう。無論、この星でというわけにはいかないがな」
「そこまで面倒を見ていただく必要はありませんよ。自分の飯の種くらいは、自分で見つけさせてもらいます」
「分かった。では、別室で待機してくれたまえ。誓約書はすぐに用意させる。そして、この星から出航する宇宙船のチケットもだ。出発は三日後、それまでに身辺の整理をしたまえ」

 軍人であり、かつ独り身のヴォルフであるから、身辺整理に時間はかからない。この星から出ていけと言われれば、身一つで出ていくだけの話だ。

「行先について、希望は聞いていただけるので?」
「……一応、聞いておこう」
「もしお許しいただけるなら、ティラボーン行きのチケットをご用意いただけると助かりますな。何せ、閣下の仰る『あの二人』と、大したことではありませんが一つ約束がありまして、できればこの機会にそれを済ませてしまいたい」

 つまり、連邦大学には危険物が集合し、さらに巨大な伏魔殿へと変貌を遂げるということだ。
 今後、何が起きてもあの星には絶対近づかないことを、ヴェラーレン長官は神に誓った。
 そして、ヴェラーレン長官は立ち上がった。これで会談は終了ということなのだろう、ヴォルフも立ち上がる。握手はない。ただ、ヴォルフが形ばかりの敬礼を施しただけである。
 そして、扉へと向かうヴォルフの背中に、

「少尉――いや、もうきみは正式にそう呼ばれる身分ではなくなったわけだが……ヴォルフくん。最後に一つだけお願いがある」

 振り返ったヴォルフは、無言で小首を傾げる。

「これは、共和連邦情報局長官としての私の希望であり、そして共和宇宙に生活する一個人としての私の希望でもあるのだが……もしも可能であれば……あの二人ときみが友人に近しい関係なのだと理解して言うのだが……」

 もごもごとした口調は、情報局長官という重責を担うVIPには相応しくないものだったのだろう。
 しかしヴォルフは嗤うことはなく、先を促すこともなかった。

「ただ、きみにお願いしたい。もしも彼らが暴走し、この宇宙の平和に仇為すような事態になることがあれば……無論、きみの力の及ぶ範囲で結構だ。彼らにその矛を収めるよう、説得してほしい」

 ヴォルフは、呆れたように鼻息を吐き出した。
 無茶を言う。それが、ヴォルフの偽らざる感想である。自分が如き小市民に、あの特大の危険物の安全弁になれというのだ。どう考えても不可能事である。
 しかし、溺れる者が藁をも掴むように、この男は、どれほど頼りない約束であっても、自身のストレスを軽減する処方箋を欲しているのだろう。その気持ちは十分に理解できるし、決して嘲笑の対象となるべきことではなかった。
 結局ヴォルフは肩を竦め、

「可能な範囲で努力はしますよ。ただ、私の見たところでは、あれらは無害な危険物です。つまり、あなた方から下手なちょっかいを出さない限り、危険物ではあっても爆発物にはならんでしょう。逆に、これは私からのお願いですが、どうか爆薬の導火線の前で火遊びするような真似はしないでもらいたい。そして、そんな馬鹿なことをする輩が今後現れないよう、情報局長官として目を光らせていただければと、切に願うところです」
「……忠告、感謝する。そして、私も権限の及ぶところで、精一杯に努力するとしよう」

 肩を落としたヴェラーレン長官が、諦めたように呟く。彼は、どうしてこの時期に、自分が情報局長官なのだと、真剣に神に問いただしたくなったのだ。
 ヴォルフは、この部屋に入って、初めてにこりと笑い、

「心中お察しします、閣下殿」

 先ほどと同じ台詞を繰り返し、長官室から退出した。



「ま、俺がこの星に越してきた理由なんてその程度のもんさ。別に聞いていて楽しい話でもなかったろ?」

 たしかに、金銀黒天使からすれば、別に楽しい話でもなかったかも知れない。何せ、登場人物が既知の人物である。自分達にちょっかいをかけて、火傷を負うはめになった、連邦情報局長官その人だ。

「別に、あいつに同情するつもりなんて毛の先ほどもないけど、相変わらず胃に悪そうな職務をこなしているらしいな」

 リィが呆れた様子で言った。
 ルウも頷き、

「これに懲りて、もう少し本来の職務に精励して欲しいものだよねぇ」
「全くです。ダグラスくんの時もそうでしたが、いざという時に本当に役に立たない組織のようですからね。自らの職というものに対して、もう少し真摯に向き合っていただきたいと願うばかりです」

 シェラもそう続けた。
 ちなみに、『ダグラスくんの時』とは、共和連邦でも五指に入る大国であるダルチェフの誇る二つの秘密部隊が、あり得ない手段で白日の下に引きずり出された、件の事件のことである。
 考えてみれば、あの事件のときも、ヴェラーレン長官の胃は、ボクシング世界チャンピオンに殴られたよりも酷い胃痛でもって持ち主を苦しめたことだろう。
 そんな長官の悲哀を知ってか知らずか、三人は揃って溜息を吐き出した。
 一方、天使たちと情報局長官の関係など露程も知らないメイフゥは、可愛らしく小首を傾げ、

「あのよう、ヴォルフ、一応聞くけど、あんたの言ってたアダム・ヴェラーレンってのは、連邦情報局長官のアダム・ヴェラーレンのことだよな?」
「ああ、そのとおりだが、どうかしたかい?」

 さも当然のように返されて、メイフゥは流石に頭を抱えてしまった。

「うーん、あたしの知ってる連邦情報局っていったら、連邦の裏を牛耳ってて、連邦の権益を守るため、日夜列強各国のスパイ組織としのぎを削ってるはずなんだけど……どうして中等部の学生さん達に、こうもコケにされてるんだ?」
「あまりそのあたりのことは考えないほうがいいぞメイフゥ。考えても無駄ってやつだ。それに、多分こいつらに付き合って一々その程度のことで頭を抱えていたらきりがねぇよ」

 ヴォルフが、慰めるようにメイフゥに声をかけた。
 そして、気を取り直したように、ヴォルフが続ける。

「ま、そんな具合で、身から出た錆は綺麗に片づけたつもりだ。今更許してもらおうとは思わねぇが、ウォル、惑星ヴェロニカでは迷惑をかけたな。本当に悪かった」

 そう言って、ヴォルフは頭を下げた。そういう意図が無かったにせよ、結果として、ヴォルフがウォルに仕込んだ発信機が、彼女の命を危険に晒すはめになったことを詫びたのだ。
 見上げるような巨躯の男から謝罪を受けたウォルは、微笑みながら、手を顔の前で横に振り、

「ヴォルフどのに謝ってもらう謂われはない。宮仕えの悲しさというものは、おれも前世で嫌というほど理解したつもりだからな。もしも逆の立場だとして、おれもヴォルフどのと同じことをしていたかも知れん。それに、貴方がおれを救うために命を懸けて尽力してくれたことも承知している。ならば、これで足し引きゼロということにしておこうではないか」
「そう言ってくれると助かる」

 ちなみに、ウォルやリィの体内に仕込まれていた特殊な発信機は、言うまでもないが既に除去済みである。流石に虫下しを飲んで退治できる類のものではなかったが、風邪薬のカプセルサイズの機械を飲み込むだけで事は済んだので、二人とも結構安心した。下手をすれば、開腹手術が必要かと思っていたのだ。

「ところでよう、今回の事件の首謀者は、結局エストリアのお偉いさんだったんだろう?もう、きっついお灸は据えてやったのかい?」

 それがさも当然というふうに、ヴォルフは訊いた。彼は、この天使たちには、いわゆる神が定めたマナーである『右の頬を殴られれば左の頬を差し出せ』的な精神は全く縁遠いことを理解していた。寧ろ彼らの気質は、右の頬を殴られる前に、殴る気が失せるほどに徹底的に殲滅することをこそよしとするだろうと理解している。
 だから、今回の件で、エストリアのお偉方の首が総入れ替えされるくらいは十分にありうるだろうとヴォルフは思っていた。いや、その程度では収まるまいとすら思っていた。
 しかし、ヴォルフの声に応えるルウの表情は苦々しい。

「ぼくもエディもそのつもりだったんだけど、まだなんだよこれが」

 驚いたヴォルフが、

「何でだい?まさか、無限の博愛精神やら平和主義やらに目覚めたわけじゃあるまい?」
「ぼくたちが?もちろんそんなわけないじゃないか。やられたらきっちりやり返す。それは掟でも認められている当然の権利だ。ただ、手札がね……」
「手札だと?」

 ヴォルフの顔色が変わる。前回の事件で、ルウの操る手札が、極めて高い的中率を誇る、未来予知装置であることを思い知らされた彼だから、そのことを言われると嫌が応にも緊張が走るのだ。

「手札に、凶兆でも出たってのかい?」
「吉兆か凶兆かは分からない。ただ、今はエストリアには手を出さない方がいい、そういうふうにしか読めないんだよね、何度占っても」
「おれも、ルーファの手札がなければ、今すぐにでもエストリアに乗り込んで大統領の首を持って帰ってきてやるのに、悔しいったらないよ」

 リィが唇を尖らせる。
 ふぅむ、とヴォルフは顎に手を当てて考え込む。
 そも、常識的に考えれば、10人にも満たない人間で超大国であるエストリアに殴りこみをかけること自体、頭のネジの外れた所業と呼ぶべきである。何も知らない第三者が見れば、気がおかしくなったかと思うに違いない。
 しかし、ヴォルフは天使たちの人智に外れた力を理解しているから、この場合、相手にならないのは逆にエストリアであることも理解していた。
 例えば、エストリアが全軍の力を結集して、その軍事力の矛先の全てをこの二人に向けたとしても、おそらく、いや、間違いなく返り討ちに遭うだろう。そして、エストリアもそのことを熟知している。なにせ、惑星セントラル爆破未遂事件の時、痛い目に遭わされた政府関係者の中に、エストリアの代表もいたはずだからだ。
 では、何故ルウの手札が、エストリアと関わることを否定するのか。もしや、エストリアには、特異能力者を無力化する秘策のようなものでもあって、この二人でも、今関われば危ないということか。それとも、今は時期尚早とでもいうのだろうか。
 
「前にも言ったけど、王様とインユェの存在が手札の精度を落としているのは間違いないんだ。それでも、やっぱりエストリアに注意しろっていう暗示は気になる。今まで、そんな相が出たことは無かったからね。あちらから手を出してくるなら仕方ないけど、少なくとも今は、こっちから行動すべきじゃない、リスクが大きすぎる、そういうことじゃないかな?」
 
 ルウも、お手上げというふうである。
 
「ふぅん……」

 ヴォルフは唸るようにして考え込んだ。
 そして思った。この二人が動けないなら、或いは自分が動いてみるのも面白いかも知れない。無論、エストリア中枢部に食い込むような知己があるわけではないが、蛇の道は蛇というように、木っ端軍人には木っ端軍人なりのネットワークというものがあるのだ。そして、そこで得られる情報の精度も、中々に侮れないものがある。中枢の意図するところは、どれほど隠そうとしても末端に伝わってしまうものなのだ。
 どうせ時間は山とある。動いて損になることはなし、失うとしても命一つのものである。
 ヴォルフは、内心で太い笑みを浮かべた。

「ところでメイフゥよう、お前さん達は、なんで連邦大学に編入なんてするはめになったんだい?あれほど資源探索者の生活を誇っていたじゃないか」

 ヴォルフの質問に、メイフゥは苦笑を浮かべ、

「ま、簡単にいえば、愚弟の愚行の後始末ってところさ。それとも、弟の恋路の道連れってところな?」

 今度はメイフゥが、事の次第をヴォルフに語る番であった。
 惑星ヴェロニカの事件の結末から始まり、インユェがジャスミンに対して拵えてしまった借金、その返済を猶予する条件としての連邦大学への入学……。
 中々に波乱万丈といって差支えない運命の差配に、聞き役のヴォルフも苦笑するしかないといった様子だ。
 顎の無精ひげをさすりながら、面白そうに言う。

「おたくら姉弟も到底普通の学生さんにゃ見えないが、ここの天使さん達と同じように、しばらくは『目指せ一般市民』で頑張るほかないらしいな」

 皮肉気なヴォルフの言葉にメイフゥは肩を竦め、

「あんたの言う通りだよ、ヴォルフ。ただ、この連邦大学って場所も、思ったより面白そうな場所ではある。しばらくは、青春の学園生活ってやつを送ってみるとするさ」
「そういえばメイフゥ、お目当ての金持ち坊ちゃんとやらは見つかったのか?」

 リィがそう訊くと、メイフゥは首を横に振り、

「だめだ。金の匂いのする坊ちゃんはゴロゴロいるが、どれも軽く撫でてやるだけで、頭が首からもげそうなもやし連中しかいねぇ。あれじゃ、強い子供が生めやしねぇよ。あーあ、どっかにいねぇかなぁ、あたしが本気で殴っても死ななくて、それで唸るほど金を持ってる、あたしだけのナイトさま……」

 両手を組み、星を見上げるような姿勢で言ったメイフゥである。
 何とも物騒で身勝手な夢見る少女に、全員が笑った。
 そして、休憩も一段落、インユェもようやく息を吹き返したようなので、せっかくだからもう少し体を動かすかと腰を上げた全員であったが、その時、控えめに扉をノックする音が響いた。

「あのう、お忙しいところすみません、少しだけお話させていただいてもよろしいでしょうか……?」

 ほんの少しだけ開かれた扉から、年の頃からして大学生だろうか、線の細い体型の男子生徒が、申し訳なさそうに顔をのぞかせている。
 はて何事かと全員が顔を見合わせる。
 後から思い返せば、彼の登場が、このあと続く一連の事件の発端であった。



[6349] 第百話:Fight!
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/06/04 04:41
「お騒がせしてすみません、私はこういうものです」

 闖入者である男子生徒は、居並んだ面々の個性的な様子に若干気圧されつつも、腰の低い態度で名刺を差し出した。
 一同の代表として腰を上げたルウは――本来であれば年長者であるヴォルフの役割なのだが、彼は学生ではないので、ルウに役割を譲ったのだ――、名刺を受け取った。

「『連邦大学学生放送局ノーマン・ディーゼル』……TBSB(ティラボーン・スチューデント・ブロードキャスター)の方ですか?」

 ルウの質問に、男子生徒――ノーマンは頷く。
 TBSBは、運営主体が学生でありながら、連邦大学における一種のマスメディアの役割を担っている組織だ。政治、経済、スポーツやバラエティーなど、その放送内容は多岐に渡る。大手のマスメディアに比べれば取材力や資金力に大きく劣るものの、学生ならではの視点や企画力、そして連邦大学OBOGによる協力もあり、結構な人気を誇っているメディアである。
 基本的には課外活動の一環という扱いであるから、無給であるにも関わらず拘束時間が長いため、敬遠する学生も多い。しかし、中々やりがいのある活動であり、著名人と接する機会が多いなど貴重な経験もでき、なにより卒業後の進路として大手マスメディアを選ぶ学生にとってはTBSBに所属していたことは大きなアドバンテージとなることから、結構人気の課外活動となっている。
 どうやら、ノーマンを名乗る青年もその一員らしい。

「実は折り入ってお願いがありまして……あの、もしよろしければ、この格闘技場を、しばらくの間、取材のために使わせていただくわけにはいかないでしょうか?」
「取材のためですか……ええっと、それはつまり、ぼく達がこの場所を使いながらの取材だとまずいと、そういうことですよね?」
「本当に申し訳ありませんが、はい、できればこの場所全てを取材のために使いたいんです……」

 ノーマンは、平身低頭の様子でルウに頼み込む。
 ルウは少し困惑気味に、

「あの、お願いを無下に断るつもりはないんですが、念のため確認させてください。ぼく達はこの場所の専用許可をもらっているはずなんですが、それはご承知ですよね?」
「はい、重々承知しています」
「もしよろしければ、事情を教えてもらってもいいですか?」
「もちろんです」

 ノーマンの語るところはこうであった。
 今回、彼の業務は、先日連邦大学で行われたTBO――ティラボーンオリンピックの金メダリストの取材だったらしい。
 本来は、その選手の所属する学校の体育館で取材を行うつもりで、日程や場所を確保していたのだが、選手の都合で急遽今日取材を行うことになってしまった。そして悪いことに、取材場所であった体育館は別の行事で既に使用が決まっており、近くの体育施設も軒並み予約済み、辛うじて交渉の余地がありそうなのが、唯一このノープス中央体育館だったらしい。

「その選手の取材は、次の放送の目玉なんです。何としても成功させたいと思ってまして……」
「ちなみに、その選手っていうのは誰なんです?」

 ルウの質問に、

「レオン・オリベイラです」

 ノーマンの答えに、しかしルウは首を傾げる。

「何の種目の金メダリストなんですか?」
「ええっ!レオン・オリベイラを知らないんですか!?」

 軽く目を剝きながらノーマンが問い返す。
 一方、質問に質問で返されたかたちのルウは困惑顔だ。彼は、人並にニュースに目を通す人間ではあったが、それは政治経済などが中心で、スポーツ分野には少々疎かった。
 ルウは助けを求めるように、リィ達に視線を寄越したが、リィ達も首を横に振った。リィはルウに輪をかけて世間の話題に興味が無かったし、シェラはまだスポーツの詳細についてすら不分明だ。宇宙生活者であったインユェとメイフゥは地上のイベントに興味がなく、ウォルはTBOやら金メダリストやらの単語の意味すらよくわからない。
 結局、この場で唯一話題についていけそうなヴォルフが、苦笑交じりに助け舟を出した。

「レオン・オリベイラっつったら、確かMMAの無差別級金メダリストじゃなかったかな?それに、SNSなんかでも自分の試合やら練習風景やらを投稿して、随分人気者だったはずだぜ」

 ノーマンは、救い主を見るようにヴォルフを見て、

「そうです!そのオリベイラ選手の取材なんですよ!」
「ヴォルフ、MMAってなんだ?」

 リィの質問である。
 ヴォルフは顎の無精ひげを撫でつつ、

「ミックスド・マーシャル・アーツ、つまり総合格闘技ってやつだな。ありていに言えば、ルールのある喧嘩だよ」
「ルールって、例えば?」
「ざっくり言やぁ、噛みつかない、目んたまやきんたまを狙わない、髪の毛を掴まない、そんなところだな」

 リィは不思議そうに首を傾げ、

「ずいぶんお行儀の良い喧嘩だな。人体に対して一番有効な攻撃が軒並み禁止されてるじゃないか」

 リィの、彼らしい意見にヴォルフは苦笑し、

「リィ、お前の意見には賛成だが、牙を剥きだしにして噛み合いっこ、急所を狙い放題じゃ、喧嘩は喧嘩でも、野獣の喧嘩だ。スポーツってやつは、もう少しお上品なのさ」
「ふうん、それじゃおれにはそのスポーツはできないな。多分、相手と向かい合った瞬間に股間を蹴り上げて、いっぱつで反則負けだ」
「もっともな意見だ。少なくとも、お前さんやウォルが本気で噛みついて、相手選手の腕やら足やらが食いちぎられる試合なんざ、どう考えてもテレビで放映できるはずがない。だから、お前さんは俺みたいな頑丈なのを相手に憂さ晴らしするのが似合いだぜ」

 ヴォルフはそう言ってからから笑う。 リィも、ヴォルフの意見に全面的に首肯した。
 一方、ファンタジーゲームに出てくる巨人モンスターのようなヴォルフと、中世の天使画から抜け出してきたようにしか見えないリィが、ぽんぽんと物騒な会話を繰り広げていることに圧倒されていたノーマンは、ようやく自分の使命を思い出したのか、こほんと咳払いをして、

「と、とにかく、オリベイラ選手の取材は何としても成功させたいんです。そのために、この場所をお借りしたい。不躾なお願いとは理解していますが、どうかご協力いただけないでしょうか?」

 ノーマンが再度、頭を深々と下げる。
 ルウは肩を竦め、

「どうする?」

 一同を振り返り、意見を求めた。
 一瞬、周りの反応を探るような空気が流れたが、

「別にいいのではないか?もう、一通り身体は動かしたし、ヴォルフどのとルウとの約束とやらも果たしたのだろう?」

 黒髪の美しい少女が、似合わない男口調で言う。
 ヴォルフとルウは、ウォルの意見に頷いた。

「俺は別に構わねぇぜ」
「僕も。エディは?」

 リィは、シェラやインユェ、メイフゥに目配せする。結果、全員が頷いた。

「いいんじゃないか?だいたいこの場所だって、他に使う人がいないから専用が認められたんであって、取材なんていう真っ当な理由があったなら、そっちが優先されていたはずだ。なら、寧ろおれ達のほうから譲るべきだと思う」

 優等生的なリィの意見を聞いて、ルウも頷き、そしてノーマンに体を向ける。

「聞いてのとおりです。ぼく達も十分身体を動かしましたし、この場所を取材に使っていただいて結構ですよ」
「ああ、ありがとうございます!本当にありがとうございます!」

 ノーマンが、ルウに対して拝まんばかりに礼を言う。
 別に感謝されたくて場所を譲ったわけではないから、ルウは苦笑いを溢し、

「それじゃみんな、帰ろっか。ぼくとヴォルフが車で来てるから、寮まで送るね」
「なら途中で飯でも食ってくか。さっきも言ったが、当面は懐もあったかいから、奢るぜ学生諸君」
「お、太っ腹だねヴォルフ!これでもう少し金持ちなら、あたしの未来の旦那様候補なのになぁ!」

 そんな具合で、さて引き上げようという空気になった一同に、ノーマンが声を掛ける。

「あの、皆さん、もしお急ぎでなければですが、取材を見学していかれませんか?もし皆さんが格闘技に興味がおありなら、TBOの金メダリストの練習を目の前で見られるというのは、中々貴重な体験だと思うのですが」

 そう言われて、また全員が顔を見合わせた。
 本当ならば、この後ももう少し身体を動かそうとしていたくらいだから、特に急いでいるわけではない。
 さてどうしようかというところで、ウォルが手を挙げ、

「せっかくだから、この世界の闘技者の頂点を見られるなら見ておきたいな」

 ウォルの意見に、一同は頷く。そして、部屋の隅に腰を下ろし、取材見物という流れとなった。
 ノーマンは、早速自身の携帯端末で各所に連絡を入れ、取材場所が確保できたことを知らせ、機材などを部屋に搬入する。大型のカメラやマイク、見たことのない機器が流れ作業で組み立てられ、あっという間にテレビの取材現場が出来上がる。
 そして最後に、随分と体格のいい一団が入室してきた。年の頃は大学生だろう、すでに大人といってよい精悍な顔立ちだ。その中に、一際体格の良い学生がいる。傍らに女性を二人侍らせ、何やら楽しそうに話をしている。浅黒い肌、しかし短く切った髪は真っ赤に染めており、顔にはサングラス、胸元には太い金属のネックレス、腕には複雑な意匠のタトゥーを入れている。品行方正な学生が多い連邦大学では、あまり見かけることのない類の人間だ。
 その男が、室内に入って来るや否や、真っ先に口を開き、

「なんだ、ここ。せまっ苦しいし、汗くせぇし、こぎたねぇな。豚小屋かよ」
 
 くちゃくちゃとガムを嚙みながらそんなことを言った。
 ノーマンは、冷や汗を流しそうな様子で、

「も、申し訳ない、ミスターオリベイラ。スケジュール的に、どうしてもここしか抑えられなかったんだ」

 元々、ノーマンという人間の性質なのか、腰が低いというよりも卑屈な様子に映る有様で、傲岸なオリベイラの機嫌を取っている。
 そんなノーマンを、文字通り睥睨しながら、オリベイラは、不遜な口調で続ける。

「TBOの金メダリストを呼びつけておいて、こんなみすぼらしい場所でインタヴューかよ。TBSBさんもやる気がねぇみたいだな。俺、帰ろっかな」

 ガムを風船のように膨らませて不機嫌を隠そうともしない。まるきり、へそを曲げた子供の有様である。
 
「そんな恐ろしいことを言わないでくれよ、ミスター。確かに、本当ならもっと見栄えのする場所で取材を行うつもりで場所も時間も押さえていたんだけど、急なことでこちらも対応が難しかったんだ」
「あー、それって俺のせいで予定が狂っちゃったから、悪いのは俺ってことを言いたいわけ?」

 いかにも威圧的に、今にも襟首を掴まんように、オリベイラはノーマンに詰め寄った。
 ノーマンは、目に見えて顔を青ざめさせた。取材対象に機嫌を損ねられるのも怖いが、それよりなにより、オリベイラという男が直截的に放つ暴力の匂いに、荒事に不慣れなノーマンが萎縮してしまっているのだ。

「そ、そんなことを言うつもりはなかったんだ。気を悪くさせたなら謝罪するよ」
「そうだよな、お前らのくだらないマスコミごっこに付き合って、寝る間もないほど忙しいTBO金メダリストが貴重な時間を割いてやっているんだ。本当なら這いつくばって礼を言っても罰は当たらねぇぜ」

 オリベイラはにやにやと笑っている。そして、オリベイラが連れてきた取り巻き連中や、侍らせた女達も、ノーマンを見下すようにして嘲笑っていた。
 どうにも気分の良い眺めではないなと、リィ達は辟易した。オリベイラという男がどれほど選手として傑出しているかは知らないが、精神年齢は幼児期から成長していないと見るべきであろう。
 そんな、ノーマンとオリベイラのやり取りの背後で、 TBSBのスタッフがひそひそ声を交わす。

「なんだ、あの態度。確か、予定を変えたのだって、今日、いきなりあちらさんが言ってきたんだろう?」
「いけしゃあしゃあと、ファンの女の子を招いてパーティーをするから日程を変更してくれって言ってきたらしいぜ。どうしてそんなやつにへいこらして、取材してやらなきゃならないんだよ」
「仕方ないさ。悔しいけど、オリベイラは確かに人気がある。トラッシュトークやら派手なパフォーマンスやら、反発する人間も多いけど、熱烈なファンが多いのも事実だ。次の放送の視聴率を考えたら、どうしたって成功させたいっていうノーマンの気持ちもよくわかる」

 彼らの声が聞こえたわけではないだろうが、オリベイラはノーマンから視線を外し、格闘技場をぐるりと一瞥した。その視線には、施設の陳腐さを見下す侮蔑の意思が込められている。
 その視線が、リィ達に向けられて停止する。

「おい、何だよあいつらは」

 この場にいるのが、自分がどんな悪態をつこうとも揉み手を作らざるを得ないスタッフだけだと思っていたのだろう、明らかにそれとは違う雰囲気のリィ達を見つけて、少し焦った調子だった。
 オリベイラの質問にノーマンが答える。

「あ、ああ、彼らは元々この格闘技場を予約していた一般学生さんだよ。今回の取材のために、場所を譲ってくれたんだ。せっかくだから、きみの取材を見学してもらおうかと思ってね」
「見学だと!?勝手な真似をしやがって!俺はそんなこと、一言も聞いちゃいねぇぞ!」
 
 激昂したオリベイラはノーマンの襟首を掴んだが、しかしリィ達を二度見して、その手をゆっくり離した。
 たまらず咳き込むノーマンに、もはや一瞥もくれず、リィ達の方に歩み寄ってくる。その視線には、めぼしい牝を見つけた、発情期の雄特有の脂ぎった欲望が滾っていた。

「やぁ、見苦しいところを見せたね、すまなかった。少し今日はくさくさしていてさ。きみたち、俺のファンかい?」

 あまりに分かりやすすぎるオリベイラの態度に、リィは軽蔑を込めて微笑する。

「先に言っておくけど、おれは男だぞ」
「わたしもです」

 シェラがリィに続く。
 オリベイラは唖然として二人を見て、それから悔しそうに唾をマットに向けて吐き出した。

「なんだよ、紛らわしい。男のくせにそんななりしてんなよな。紛らわしいったらねぇぜ」

 そして、気を取り直して、メイフゥとウォルを見る。

「きみたちはどうなのかな?まさか、その恰好で男ってことはないよね?」

 メイフゥの豊かに膨らんだ胸を凝視しながら、そんなことを言う。

「もしよければ、この後で食事とかどうかな?俺の知り合いに、この近くでレストランを経営してるやつがいてね。本当は予約が半年先まで埋まってる店なんだけど、きみたちは特別だ、今日招待してやるよ。そのあと、最高の雰囲気のバーにも案内してやる」
「で、その後は?夜景の綺麗なホテルにでも案内するつもりかい?」

 メイフゥは、呆れの吐息をつきながら、肩を竦めた。惑星ヴェロニカの酒場で、バニースーツを着て酔客の相手をしていたときから、こんな輩には慣れっこではあるが、素面の相手にここまで明け透けな欲望をぶつけられるのは久方ぶりであった。
 今日初めて顔を合わせて、そもそもオリベイラのことなど露ほども知らない自分達に、いきなりこの態度である。よほど自分に自身があるというべきか、なんというべきか。ありていに言えば、この男には羞恥心とか自制心とかが致命的に欠けているとしか思えない。
 この男が何様かは知らないが、これ以上この場所にいて、何か利益があるとは思えない。さっさと退散しようかと、腰を上げた。
 その動作をどのように誤解したのか、オリベイラはにたりと嫌らしい笑みを浮かべ、メイフゥの二の腕を掴んだ。そしてそのまま、自分のほうに引き寄せようとする。

「おい。あたしは、あたしの身体に触っていいなんて、一言も言ってないはずだぜ」

  メイフゥは反射的に、オリベイラの顔面を殴ろうとした。一同は、オリベイラが紙屑のように吹き飛ぶ姿を予想した。
 しかし、流石に格闘技のチャンピオンであるオリベイラは、十分に加減したものであったとはいえ、メイフゥの裏拳を辛うじて躱してみせた。だが、拳が掠めたサングラスが、部屋の反対側まで吹き飛んでいった。
 冷や汗を流したオリベイラが、ひゅうと短く口笛を吹く。

「いいね、気の強い女は好きだぜ。特に、そういう女がベッドの中で俺好みに変わっていく様子がたまらねぇ」
「そうかい、じゃあ今から、あたしをベッドに連れ込めるかどうか、試してみるかい?」

 メイフゥが、長い舌で、唇を艶めかしく湿らせて、挑発的に言った。
 オリベイラの喉が、ゴクリと鳴る。実際のところ、メイフゥの容姿はオリベイラの好みそのものであった。男好きのするスタイル、整った目鼻立ち、何より決して男に靡かない強気な視線。それを、自分に従属する媚びた牝のものに変わる様を思い浮かべて、オリベイラは鼻息を荒くしていた。
 そしてメイフゥはといえば、酒場で酔客に尻を撫でられるくらいはサービスと割り切っているものの、全ての女が自分の思い通りになると勘違いしている男など、彼女にとって狩りの獲物でしかないのである。今までもそうだったし、これからもそうだ。そして、今回だけを例外にする必要性など微塵も感じていない。
 獰猛に牙を剥き、今にも飛びかからん様子のメイフゥの前に、しかしコンクリートの壁より分厚い体躯が立ちはだかった。

「やめとけメイフゥ。そんで、命が惜しかったらそこらへんにしときな、兄ちゃん」

 そう言って、メイフゥとオリベイラの間に割って入ったのはヴォルフだった。
 オリベイラも、人並外れて大きな体躯の男である。身長は2メートルに近く、体重は100キロを軽く超えているだろう。
 しかし、ヴォルフはオリベイラをして見上げるほどに大きい。単純に比較しても、頭一つ以上サイズが違う。それも、例えばバスケットボールやバレーボールの選手のように、ひょろりと大きいのではない。ボディビルダーも真っ青という筋骨隆々の体格で、上背がそれだけあるのだ。
 縦にも横にも奥行きにも、肉体の持つ迫力という意味で、オリベイラはヴォルフに圧倒されていた。
 それでも、自分はこの星で一番強い男だという自負心、それとも虚栄心だろうか、オリベイラはにやついた表情でヴォルフに問いかける。

「命が惜しかったら?そりゃあどういう意味だい、おっさん」

 まだ二十代も半ばのヴォルフは、軽く肩を竦め、

「言葉通りだよ。あんたが何者か知らないが、命が惜しかったら、それとも、今日自分の足で歩いて家まで帰りたけりゃ、そこらへんにしとけ。悪いことは言わねぇからよ」

 苦笑交じりにそんなことを言う。
 リィ達にすれば、ヴォルフの言葉は、『これ以上お前がメイフゥに言い寄れば、彼女の鉄拳制裁により足腰が立たなくなるぞ』という警告である。
 しかしオリベイラにしてみれば、これは、自分の女、もしくは知り合いを守るため、義侠心を見せたヴォルフが自分を脅しつけたようにしか思えなかった。
 結果、オリベイラは矛先を変え、ヴォルフに対して狂犬の視線を向けてせせら笑い、

「恰好いいじゃねぇかおっさん、てめぇの女を守るために、TBOの金メダリストに立ち向かうのかよ。いいぜ、ついでだ。あんたさえ良けりゃ、もう一つ武勇伝を作っていくかい?その身体だ。喧嘩の一つや二つ、やったことあるんだろう?それとも、そのなりで、実はいじめられっ子でしたって口かい?」

 親指でリングを指し示しながらそんなことを言う。
 ヴォルフはオリベイラの質問に答える必要性を見出さなかった。ヴォルフが経験してきたのは、喧嘩の一つや二つではない。文字通り、殺すか殺されるかの戦場をいくつも渡り歩き、語弊を恐れずに言うならば、その戦場でもって殺した敵兵やテロリストの数で、少尉の階級を得たのだ。素手の喧嘩など、彼にとってはただのじゃれ合いの域を出ない。
 断るべきなのだろう。この場を収めるならばそうするべきだし、そもそもメイフゥの暴発を止めるために自分は二人の間に割って入ったのだから。
 それでも、自身の身体が、果たしてMMAのチャンピオンにどれだけ通用するのか。むくむくとした興味が湧き上がってくるのをヴォルフは感じた。どうせ負けたとしても、腕や足の一本を折られて終わる程度のことだ。大したことではない。

「ふむ、それはそれで面白そうだな。よし、いっちょやってみるか、オリベイラさん!」

 ばしん、と、オリベイラの肩を叩いたヴォルフは、遊びに誘われた子供のように目を輝かせ、うきうきとした調子でそんなことを言う。
 オリベイラは一瞬うろたえた。例えば、女の前で格好つけた男が虚勢を張って勝負を受けたり、自分と同じように狂気を身を委ねて襲い掛かってきたりは想定していたが、こうも無邪気な様子で勝負を受けるとは、一体どんな魂胆があってのことかと思ったのだ。
 だが、リングの中は、文字通りオリベイラの土俵である。例えこの大男がどれほどの怪力があろうと、チャンピオンの自分に勝てるはずがない。
 オリベイラはほくそ笑み、

「おい、TBSBさんよ!予定変更だ!インタビューの真っ最中、飛び込みで挑んできた道場破りを返り討ちにする金メダリスト!スパーリングパートナーとの退屈な練習風景なんかより、ずっとスリリングで面白い映像になるだろ!」
「ちょっと待ってくれオリベイラ!そんなの聞いてない!それに危険過ぎる!」

 ノーマンが悲鳴を上げる。オリベイラは確かに人気選手であるが試合態度には大いに問題があり、相手選手に必要以上の攻撃を加えて重大な怪我を負わせたり、反則スレスレの攻撃で相手を痛めつけることがしばしばだったのだ。それが素人に向けられれば、下手すれば怪我ではすまないかもしれない。そうなってしまえば、取材どころの話ではなくなってしまう。
 だが、オリベイラは既にその気のようだ。身に付けていた派手な服を脱ぎ捨て、見事に鍛えられた上半身をあらわにする。ズボンがそのままなのは、ヴォルフを素人と侮ってのことだろうか。
 ヴォルフもその様を見て、嬉しそうにリングに入る。普通ならロープを潜って入るのだが、巨体のヴォルフはロープを跨いでリングに入った。
 慌てたTBSBのスタッフが二人を止めようとするが、オリベイラの取り巻き達が、にやついた笑みを浮かべながら、スタッフがリングに近づこうとするのを制した。彼らにとってはこの程度のこと、正しく日常茶飯事であり。オリベイラがヴォルフを叩きのめすことを少しも疑っていない。
 翻ってリィ達はといえば、突然目の前で繰り広げられつつある決闘に、しかしのんびりとした表情で、

「どうする、止める?」

 暢気なルウの言葉に、相棒であるリィは、

「ヴォルフがやりたいって言ってるんだし、そもそも挑発してきたのはあちらさんだ。おれ達が止める義理もないだろ」
「リィの言うとおりだな。それに、所詮は素手の取っ組み合いであろう?男同士、互いに了解の上だ。別に、大の大人が慌てて止めに入るようなことでもあるまいよ」

 やはり暢気な調子で、少女にしか見えないウォルが応じる。
 シェラ、インユェとメイフゥも同じ意見なのか、慌てふためくTBSBのスタッフ達を尻目に、壁に背を預けて座り込み、やれ試合観戦といった風情だ。

「おい、みんな。せっかくだからよ、いっちょ握らねぇかい?」

 メイフゥが楽しそうに言う。この場合の握るとは、要するに賭けのことだ。

「どっちが勝つと思う?ヴォルフか?それとも、あの品性ゼロのチャンピオンか?」

 煽るようなメイフゥの言葉に、

「ヴォルフ」

 短く言ったのはリィであり、そしてその後、全員が頷いた。

「なんだ、賭けになりゃしねぇな。面白くねぇ」

 メイフゥが詰まらなさそうに天井を見上げた時、リングの中央では、ヴォルフとオリベイラが向かい合っていた。拳にMMA用のオープンフィンガーグローブを身に着けている以外、互いに身を守るヘッドギアやレガースなどは着用していない。

「おい、おっさん。防具はつけなくていいのかよ」

 オリベイラが、ヴォルフを見上げながら言う。
 ヴォルフは顎の無精ひげを撫でさすり、

「いやぁ、せっかくチャンピオンの攻撃を体験できる貴重な機会だ。防具なんてつけてちゃもったいないだろう。それより、あんたこそ防具はいらないのかい?」

 その言葉を侮辱と受け取ったのか、オリベイラの浅黒い肌が紅潮し、目が据わる。オリベイラの取り巻き達は、それが危険な兆候であることを知っていた。この巨人があっという間に叩きのめされ、自らの血の海に沈む光景を確信し、にたにたと笑った。
  
「ルールは?」

 今にも牙を剥きそうな顔のオリベイラが尋ねる。
 対して、いつもと同じように悠然とした様子のヴォルフは、

「ただの喧嘩だろう?ルールなんて高尚なもんいらんだろうがよ」
「いいのかよ。ついうっかり熱くなって、あんたのことを殺しちまうかも知れねぇぜ?」

 脅しとしか思えないオリベイラの言葉に、ヴォルフはくすりと微笑った。

「それは困るな。じゃあ、こうしようか。目の玉ときんたまはできるだけ狙わない。相手がまいったって言うか、それとも意識を失ったらそれで勝負は終わり。そんで、怪我は自分持ちだ。これでどうだい?」

 オリベイラが頷き、

「ああ、いいぜ、じゃあいつでも――」

 『かかってこいよ』、そう言おうとした瞬間である。
 ヴォルフの巨躯が物凄い速度で動き、オリベイラとの間合いを詰め、思い切りのいい右ストレートを放った。
 巨大なヴォルフの拳は、まだ何事かをしゃべろうとしていたオリベイラの顔面に突き刺さる。
 がつん、と、まるで交通事故のような激しい衝突音が部屋の隅々まで響き渡る。
 そして、当然の如く吹き飛んだのはオリベイラのほうであった。顔をのけぞらせたオリベイラは為すすべなくリングの端っこまで吹き飛び、そのままロープともつれあい、そしてリングから落下した。
 時間にして、一秒にも満たない、一瞬の一撃であった。

「はぁっ?」

 間の抜けた声が、ヴォルフの口から飛び出る。自分のしたことが信じられない、いや、自分のしたことの結果が信じられない、そんな声だ。
 リングの下で悶絶していたオリベイラは、それでも殴られ慣れているのが幸いしたのか、ふらつく足取りで何とか立ち上がり、曲がった鼻をそのままに、ヴォルフを糾弾した。

「おい、てめぇ!まだ試合開始の合図はしてねぇだろうが!不意打ちは卑怯だ!」

 そんなことを、恥ずかしげもなく叫んだ。
 唖然としていたオリベイラの取り巻き達も、リングの上のヴォルフに対して、アンフェアだの卑怯者だの罵り声をぶつけている。特に、オリベイラが侍らせていた女達は、金切り声でヴォルフを罵るので、耳にやさしくないことこの上ない。
 ヴォルフは、顔を鼻血で真っ赤に染めたオリベイラや、自分を非難するオリベイラの取り巻き達に対して、怒るでも嘲笑うでもなく、寧ろ困惑していた。そして、少し泣きそうな顔で、自分の背後にいたリィ達に助けを求める。

「おい、俺、何か悪いことしたか?」
「いや、どう考えても正当な一撃だ」
 
 ヴォルフの言葉に答えたのは、笑いを噛み殺しながらのリィである。
 この場合、どう考えても正しいのはヴォルフであった。何せ、オリベイラからルールをどうするかと問われたヴォルフが、きちんと回答し、そしてオリベイラはそれを受けたのだ。その瞬間に試合は始まっていると考えるべきだし、第一その条件において、試合の開始の合図については一切触れられていない。つまり、どのタイミングで試合を開始するかは当人同士に委ねられていると考えるのが当然だ。
 そしてヴォルフは、オリベイラの返答を待ってから、攻撃を開始したのである。
 リィなどからすれば、ヴォルフの対応は行儀が良すぎて呆れてしまうほどのものだ。リィだったら、リングに上がった瞬間に、下手すれば上がる前にオリベイラを叩きのめしている。
 だいたい、大の男が、ルールに守られた試合ではなく、ただ戦うといって向かい合ったのだ。その後、何が起きたとしても、何をされたとしても、相手を卑怯と糾弾するのは筋違いだ。仮に卑怯な戦法で敗れたとしても、それは敗れた自分が間抜けなのであって、相手を非難するのは、自分が間抜けでしたと大声で喧伝するに等しい。
 ヴォルフも当然そう思っていた。それが、一度でも戦場に身を置いたことがある人間の、普通の考えだったからだ。しかし、オリベイラにとっては、理解の及ばないものだったのだろう、鼻を曲げたままの彼はリングに上がり、再びヴォルフの前に立った。

「おい、卑怯者。もう一度だ。今度は、汚ねぇ不意打ちはさせねぇぜ」

 にやりと不敵な笑みを浮かべたつもりなのだろう、ひきつった笑みでそんなことを言う。
 ヴォルフは、なんだか自分が悪いことをしているような気になってきた。考えてみれば、自分は二十代も半ばの社会人――今は絶賛無職であるが――であり、相手はまだ二十歳そこそこの学生なのだ。ひょっとしたら、自分がしているのはただの弱い者いじめなのではないか。
 ヴォルフは、困ったような笑みを浮かべ、

「いや、悪かった、オリベイラさん、あんたの言う通りだ。俺が卑怯だったよ。あんたのほうが強い。それでいい。だから、もう止めにしないか?」
「ふざけんな!この俺様にこれだけのことをしておいて、無事にリングから下りられると思うなよ!」

 威勢よく喚きながら、しかし攻撃をしてくる気配がない。ひょっとしたら、まだ試合開始の合図を待っているのだろうか。
 ヴォルフは大きく溜息を吐き出した。もう、なんというか、好きにしてくれという気持ちだ。
 
「わかった、わかったよオリベイラさん。じゃあ、試合開始だ」

 ヴォルフがそう言うと、鎖から解き放たられた闘犬の勢いで、オリベイラが突っ込んできた。
 そして、ガードを固めたヴォルフに、猛烈な攻撃が襲い掛かる。拳が、蹴りが、肘が、膝が、次々とヴォルフを叩く。
 流石、学生とはいえ格闘技のチャンピオンである。攻撃は鋭く、重たく、上手い。ガードをすり抜け、いくつかの攻撃がヴォルフに当たる。
 しかし、直前まで手合わせしていたのが、揃いも揃って人外連中だったヴォルフだから、どうしても彼らと比較してしまう。ルウの怪力、リィの素早さ、シェラの巧さ、ウォルのしたたかさ、メイフゥの激しさ、それらと比べると、オリベイラの攻撃程度では、どうしても闘争への悦びが湧き上がってこない。
 ただ、痛いだけだ。それも、ヴォルフの身体が余裕をもって受け止められるだけの痛みでしかない。つまり、少し強めのマッサージと変わるところがないのである。
 ヴォルフは、急激に冷え込んでいく自身の闘争心を感じていた。一方的な攻撃を受けながら、この試合を受けた事自体が、大人げなかったのだと反省すらしていた。
 しかし目の前のオリベイラは、ヴォルフが反撃してこないのを自身の攻撃が効いていてるからだと理解したのか、嬉しそうに笑みを浮かべ、なお攻撃の手を緩めない。そして彼の取り巻き達は、囃すような歓声を上げてオリベイラを応援している。
 さて、どうしようかとヴォルフは思った。このまま攻撃を受け続ければ、いずれオリベイラの体力が底をつき、それで試合は終わるのだろう。その時、なんだかすごく気まずい空気が流れる気がした。
 別にそれはそれで構わないはずなのだが、ヴォルフは自責の念とか罪悪感とかを抱き始めていた。
 だから、ボディを殴られた時、それが効いたふりをして、軽くガードを下げてやった。
 オリベイラは、その隙を見逃さず、ヴォルフの顎にパンチを叩きこんだ。ヴォルフは首を回してその衝撃を受け流したので、ほとんど効かされてはいなかったが、しかしたたらを踏んで後退し、ぺたんと尻もちをついてやった。

「いけ、効いてるぜオリベイラ!やっちまえ!」

 ヴォルフの内心など露ほども知らない取り巻き達が、熱狂的な叫びを上げる。
 これはMMAのルールだから、ダウンという概念はない。相手の意識があり、試合続行の意思があれば、ダウン後の追撃が認められている。オリベイラは仰向けに倒れたヴォルフにのしかかり、馬乗りの体勢を取った。マウントポジションと呼ばれる、MMAにおいては最も有利なポジションである。
 ヴォルフを見下ろすオリベイラはほくそ笑み、ぺろりと唇についた鼻血を舐めとった。

「さて、これで手も足も出ねぇな、怖いかい、おっさん」

 そう言われたヴォルフは、反射的にオリベイラの無防備な股間を握りつぶそうと手を動かしかけたが、止めた。そんなことをしてルール違反だ何だと言われるのが面倒だったからだ。
 
「まいったよ、オリベイラさん、あんたの勝ちだ」

 ヴォルフはそう言って負けを認めたが、しかしオリベイラは構わずにヴォルフの顔面に拳を打ち下ろした。
 雨あられのように降り注ぐ拳は、流石にヴォルフの太い腕のガードをすり抜け、いくつかは顔面にヒットする。頑丈なヴォルフの顔も、あっという間に擦り傷や内出血で一杯になる。

「おい、オリベイラ!相手の人は負けを認めたぞ!試合終了だ!」

 ノーマンが悲鳴のような声を上げるが、オリベイラには届かない。それとも、届いていて聞こえないふりをしているのか。
 気が狂ったような笑みを顔に貼り付け、ヴォルフを殴り続ける。
 それを嫌がったのか、ヴォルフが手を伸ばし、オリベイラの腕を掴んで殴るのを止めようとする。しかしこの行動は、MMAのマウントポジションにおいては致命的な失策だ。
 オリベイラはヴォルフの左腕を掴み、流れるような動きで身体を横に倒す。ヴォルフの身体はオリベイラの足で抑え込まれ、腕は胸に抱えられ、肘関節が逆方向に極められる。
 腕ひしぎ逆十字と呼ばれる関節技だ。
 本来の試合なら、この体勢に入った時点でレフェリーが試合を止めている。そんな状況だ。
 しかしオリベイラはにやにやとした嫌らしい笑みを浮かべ、

「おい、おっさん、まいったかよ」

 嗜虐的な調子でそんなことを口にした。
 ヴォルフはオリベイラの太腿を掌で何度か叩き、ギブアップの意思表示を示しながら、口では、

「まいったまいった、あんたの勝ちだ」
「あんたは俺より弱いな」
「ああ、そのとおりだ。あんたのほうが俺より強いよ」

 ぎりぎりと肘を絞りながら、相手に屈辱的なことを言わせようとオリベイラは躍起になっている。弱者を思うさまいたぶることができるこの状況に、快感を感じているのだ。

「身の程知らずなことをして申し訳ありませんでしたって言えよ、おっさん」
「身の程知らずなことをして申し訳ありませんでしたオリベイラさん、これでいいかい?」
「ああ、だが、てめぇのその、舐め腐った態度が気にいらねぇなぁ!」

 そう言ってオリベイラは一気に身体を反らせ、ヴォルフの肘を折った。
 べきっと、恐ろしい音がリングから響き、流石にヴォルフの顔が苦痛に歪む。
 オリベイラは技を解き、左肘を押さえて蹲るヴォルフを見下ろしながら、

「へっ、思い知ったかよ。素人が変な負けん気起こすからこういう目に遭うんだぜ。これに懲りたら、今後の人生は隅っこのほうでちっさくなってな、でくのぼう!」

 思うさまに罵詈雑言を吐き出し、そして唾をヴォルフの顔に吐きかけた。
 その様子を見て、ノーマンやTBSBのスタッフは顔を青ざめさせた。TBOの金メダリストが、ただ見学をしていただけの一般人を挑発し、リングの上で暴行を加え、最後に骨まで折ってしまったのだ。これが一般に知られれば、大きなスキャンダルになる。普段から素行に問題のあるオリベイラは当然放校処分だし、自分達も何らかの責任を免れないだろう。
 どうにかしてリィ達に口止めをするべきか。それとも、自分達の処分を覚悟の上でこの事実をありのまま報道すべきか。打算に揺れるノーマンの前で、しかし、ヴォルフは何事もなかったかのように立ち上がり、一言の不満も抗議もなく、自分の足でリングから歩き去った。
 その堂々とした様子には、加害者であるオリベイラですらが唖然としていた。
 ヴォルフはリィ達のところまで歩き、そして恥ずかしそうに頭を掻きながら言った。

「いやぁ、流石はチャンピオンだな。こてんぱんにやられちまったぜ」

 リィは苦笑して、

「ヴォルフらしくなかったな。腕も、わざと折らせただろう。なんで本気でやらなかった?」
「前も言ったろ?弱い者いじめってやつは、どうにも性に合わないのさ。これが戦場で、相手さんが銃の一丁でも持ってくれてるなら話は別だがね。腕の一本くらい、唾つけときゃ治るしな」
「損な性分だ。だけど、おれは嫌いじゃないよ」
「そう言ってくれると助かるね」

 リィが差し出したタオルを受け取ると、ヴォルフは、顔についたオリベイラの唾と汗を一緒に拭き取った。シェラが氷嚢を取り出し、ヴォルフの腫れあがった左肘に巻き付ける。

「悪いな、これじゃあしばらくは運転できねぇ。ルウ、お前さんがみんなを寮まで送ってくれるかい?」
「うん、いいよ。別にそんなに離れてるわけじゃないしね。でも、その前に、僕たちにはやらなきゃいけないことがあるよねぇ」

 にこやかに微笑みながら、しかし青い瞳の奥に危険なものがある。
 ヴォルフは試合の前に、急所はできるだけ狙わないことと、相手がまいったと言えば試合を止めることをルールとして提言した。そしてオリベイラはそれを了承した。
 ヴォルフはルールに従って戦った。その結果、自身の敗北を認め、何度もまいったと言ったのだ。
 だが、オリベイラは試合を止めることなく、白旗をあげているヴォルフをいたぶり、最後に骨まで折ってみせた。明白過ぎるルール違反である。
 リィ達は、一言ヴォルフが助けを求めれば、即座にオリベイラをリングから叩きだすつもりだった。それでも一切手を出さなかったのは、ヴォルフがそれを求めなかったからであり、つまりはヴォルフの意思を尊重したからだ。
 オリベイラは、最後までそれを台無しにしたのだ。十分過ぎるほどに、報復の対象である。
 リィも、にこやかに微笑みながら、全員を振り返り、

「で、誰がやる?」

 短くそう言った。
 言うまでもない。オリベイラという悪童にお灸をすえる作業のことである。
 立ち上がったのは、大方の予想どおり、この中で一番気性の荒い、見目麗しい少女であった。

「じゃあ、あたしだな。あの野郎には、花も恥じらう乙女の柔肌ってやつをべたべた触られたんだ。その分も含めて、たっぷり体で支払ってもらうとしようか」

 目じりを危険に吊りあがらせ、指関節をごきりと鳴らしながら立ち上がったメイフゥを、しかし小さな手が押しとどめた。
 メイフゥは心外と言った様子で、その手の持ち主に話しかける。

「おい、ウォル、何で止める?」

 メイフゥを止めたウォルも、リィやルウ、そしてメイフゥに負けず劣らずの危険な笑みを浮かべている。
 つまり、この少女もやる気なのだ。
 そして言った。

「おいおい、メイフゥどの。聞かん坊のやんちゃ坊主を躾けるのは、いつだって年長者の役割だ。そして、この場における一番の年長者はおれだぞ。いくらあなたでも、その役割は譲ってやれんな」

 どう見ても中等部の少女にしか見えないウォルだが、その中身は70歳を過ぎた元国王である。元国王が、こうも嬉し気に喧嘩事に関わること自体の是非は置いておいて、ウォルの言い分にも一理ある。
 メイフゥは苦笑して、再び腰を下ろす。考えてみれば、この場でヴォルフと一番親交が厚いのはウォルである。ならば、報復の役割の一番くじは、ウォルにこそ宛がわれるべきであろう。
 そして、ウォルという少女に恋するインユェはといえば、猛悪な男に喧嘩を挑もうとするウォルを笑顔で見送り、

「思い切り叩きのめしてこいよ、ウォル」

 にやりと不吉に哂う。
 対するウォルも不吉に哂い、

「言われるまでもないな、インユェ」

  そして無造作にリングに昇り、まだ何か悪態をつき興奮冷めやらぬ様子でリングに居座っていたオリベイラの前に立った。
 ウォルに気づいたオリベイラは、流石に目を丸くし、その後で大爆笑した。
 
「おいおい、何の冗談だ?次はお嬢ちゃんが俺とやろうってか?」
「ああ、そのとおりだが、何かまずいかな?」

 何の気負いもなくそう言ったウォルは、オリベイラの目の前で屈伸運動などをしている。
 馬鹿にされたと思ったのか、睨みつけるようにしてまだ中等部の少女を見る。すると、容姿はまだ幼いが、この少女も極上の美少女であることが分かる。腰まで届く黒髪は絹糸のように艶やかだし、白い肌は透けるようだ。顔立ちは極めて整っており、まだ成長途上のすんなりした体つきにも、女性特有のまろやかな美しさがある。
 先ほどヴォルフを痛めつけて満足したはずの征服欲や万能感がむらむらとオリベイラの精神に広がり、次の獲物を見定めた。無論、あの男のように痛めつけるわけではない。女には女への可愛がりかたがある。

「いいぜ、一応断っとくが、やりたいって言ったのはお嬢ちゃんだ。その上で、どうしてもやりたいなら付き合ってやるさ。そんで、ルールはどうするんだい?」
「お前は一々ルールというものが好きなのだな。ただの殴りっこにどうしてそこまで決まり事を求めるのかが俺には理解できん。それに、さっきはああもあからさまに、せっかく決めたルールとやらを破っていたではないか。そのお前とルールを取り決めたところで、何か意味があるのか?」

 不思議そうに小首を傾げたウォルが言うと、オリベイラは痛いところを疲れたように言葉を飲んだ。
 しかし、子供相手に大声を荒げることは彼の自尊心が許さなかったのか、辛うじて余裕と呼べる笑みを浮かべ、

「さっきはちょっと熱くなりすぎただけさ。あの大男には悪かったと思ってるよ。それに、俺は男だからな、お嬢ちゃんみたいな女の子を怪我させたらまずいだろう?だからルールが必要なのさ」
「なら、さっきのヴォルフどのとの闘いと一緒で構わん。あれなら俺にも理解できるし、何とか守ることも出来そうだ」

 腕をぐるぐると回して肩関節のストレッチをしながら、ウォルは軽やかな笑みを浮かべてそう言った。
 オリベイラは、鼻の穴を膨らませながらほくそ笑んだ。さっきのルールならば、少なくともこのリングの上であれば、目の前の美少女を好きに出来るということだ。無論、露骨な行為に及ぶことはできないにせよ、いたぶりかたなど幾通りもある。せっかくの機会だ。大人の男の恐ろしさを教育してやるのもいいだろう。
 
「いいぜ、お嬢ちゃん。大人を舐めるとどういう目にあうか、たっぷり教えてやるよ」

 舌なめずりしながら言うオリベイラに、ウォルはしたりと頷き、輝くような笑顔で、

「うむ、俺も正しくそのつもりだ。増長した悪戯好きの腕白小僧には、拳骨を落として身の程を教えてやるのが大人のつとめというものだからな」

 ウォルの実年齢を考えれば、正しく彼女の言うことは正しい。
 だが、当然のことではあるが、オリベイラにはウォルの言葉が理解出来なかった。そして、彼は怪訝な顔をした後で、気を取り直したようにウォルに相対し、

「なら、さっさと始めるとしようか。おい、お前ら。このお嬢さんにプロテクターをつけてやりな」
「プロテクターとは何だ?」

 ウォルが不思議そうに尋ねる。
 オリベイラが、流石に信じられないといった様子で、

「防具のことだ!まさかそんなことも知らねえのかよ!」
「うむ、知らなかった。しかし、防具なら不要だぞ。どうせ、お前から攻撃を受けるつもりはないし、ヴォルフどののように受け止めてやるつもりもない」

 さらりとした口調で言った。
 ウォルの言葉を侮辱と受け取ったのだろう、オリベイラは浅黒いを肌を真っ赤にさせて、プロテクターをウォルに付けてやるためにリングに上がろうとした取り巻き達を制する。

「お前ら、このくそガキの言葉が聞こえただろう。プロテクターは無しだ。この俺と、対等な条件で勝負するのをご所望なんだとさ。なら、期待には応えてやらねぇとなぁ」

 オリベイラの視線に危険なものが籠めらているのを、取り出し連中は悟った。
 そして、それはリングの下で事態の推移を見守るしかできなかったノーマンも同じであった。
 ノーマンは、再び、悲鳴のような声でオリベイラに向けて言う。

「おい、オリベイラ!まさかこんな小さな女の子と試合をするつもりじゃないだろうな!?」

 いくら性質が弱気なノーマンでも、これは譲れない一線だと思ったのか、かなり強い口調でオリベイラを詰問する。確かに、ウォルは見た目だけならば中等部の少女であり、身長と体重を比べればオリベイラと勝負になるはずがない。それでも試合をするとなれば、これは試合に名を借りたリンチであり、もしも見過ごせばTBSBの局員としての責任云々の前に、連邦大学の学生としての一般規則に反したとして罰せられても不思議ではないのだ。
 ノーマンの言葉にへらへらした笑顔で応えたオリベイラは、

「ノーマンさん、あんたの言いたいことは分かるがよ、俺はあくまで勝負を挑まれた側だぜ?TBOの金メダリストが、まさか挑まれた勝負を逃げるわけにはいかねぇだろう?それに、いくら俺だって、こんな可愛いお嬢ちゃんに本気を出すわけがねぇだろうがよ。優しく躾けてやるだけさ」

 無論、この言葉に納得したわけがないノーマンであったが、自身の前に立ちはだかるオリベイラの取り巻き連中の、暴力的な威圧には流石に声を失った。
 しかし、それでもこの試合は止めなければならない。その結果として、例え暴力を振るわれたとしても、ジャーナリストとしての責任を放棄するわけにはいかない。
 決意とともにリングに昇ろうとしたノーマンを、しかし年若い少女の声が押しとどめる。

「ノーマンどの、あなたの仰ることは一々ごもっともだが、勝負を申しこんだのが俺という一点においては、この男の言っていることが正しい。それに、勝負はあっという間に終わるだろうから、落ち着いて見ていてくれて構わんぞ。それと、あえて付け加えるなら、俺は男のつもりだから、か弱い少女が悪漢にいじめられるという構図はどうしたって成立しない。それを承知してくれると有難い」
 
 当の少女から、落ち着いた様子でそう諭されてしまう。
 とはいえ、いくら少女自身が勝負を挑んだのだとしても、看過していいこととそうでないことはある。未成年の少年少女は、大人からの庇護を受けるべき存在であり、そして自己の判断にまだ責任を負えない、また負わすべきではない存在なのだ。例えこの少女が、知り合いの敵を討つのだという使命感とともにリングに昇ったのだとする。その心意気は、大いに賞賛されても構わない。だが、少女を本当にオリベイラという、狂犬のような男と戦わせて構わないのかといえば、そんなことはない。その点、ヴォルフとオリベイラの戦いをただ見守っていたこととは次元が違うのである。もしも少女も性自認が男性だったとしても同じことだ。
 しかしノーマンは、不思議と、この少女の言葉に理を認め、このまま従ってもいいのではないかと思っている自分に気が付いていた。それは決して、『少女がこう言っているんだから何があってもこの少女の責任だ』という、いわば責任放棄の思考ではない。もっと深い、魂のようなところで、この少女の言葉に従おうとしている自分がいるのを、不思議と認めていた。
 もしかすると、この少女は、何か特別な存在なのかもしれない。例えば、これからの自分のジャーナリストとしての人生を左右するような……。
 そんな思考、あるいは妄想を抱きかけたノーマンは、しかし直観と理性のどちらかを取るかの選択で、分別を備えた大人としての当然の判断で、後者を選び取った。そして、この場における数少ない味方になるであろう、少女の友人たちに声をかける。

「おい、きみたち!きみたちからもあの女の子に言ってくれ!こんな無謀な勝負は認められない!」
 
 ノーマンの、極めて常識的な言葉に、しかし挑戦的な笑みを浮かべたメイフゥは、先程と同じ言葉を繰り返した。

「おいみんな。さっきは賭けが成立しなかったが、せっかくだからな。もう一度聞くぜ。どっちが勝つと思うね?」

 メイフゥの笑いを含んだ問いかけに、

「ウォル」

 短く答えたのはやはりリィであり、頷いたのはやはり全員だった。
 メイフゥはにやりと笑い、

「ってこったよ、ノーマンさんとやら。あたしたちは、全員がウォルの勝利にベットしたんだ。このままじゃ賭けが成立しねぇからよ、あんたもいっちょ握るかい?あの破廉恥男に賭けりゃあ、もしかするとちょっとした小銭くらいは稼げるかもしれねえぜ?」

 連邦大学の学生は賭博行為の一切が禁じられている!
 反射的にそんな模範的な反駁をしかけたノーマンだったが、それは思いとどまり、そしてこの連中の非常識なことに絶望の色濃い溜息を吐き出した。
 駄目だ。この連中は頭のネジが外れているに違いない。自分達の仲間の、あんなに可憐な少女が、仮にもTBOの男性金メダリストに挑もうというのに、その試合をあまつさえ賭けの対象とし、そして少女の勝つことを疑っていないのだ。
 ああ、駄目だ。やはりここは、自分が身体を張って試合を止めるしかない。
 そう、諦念に満ちた思いで振り返ったノーマンの正に眼前で、試合は開始してしまった。



[6349] 第百一話:仕置き
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/06/07 12:05
 目の前に女が立っている。
 リングの上だ。戦う場所だ。そんなところに、女のくせに、身の程をわきまえず、立っていやがる。
 まだ、しょんべん臭いようなガキだ。男に抱かれたこともないようなガキだ。男と手を繋いだだけで顔を赤くするようなガキだ。
 顔はいい。俺の好みだ。
 俺は別にロリコンじゃないが、子供は願い下げって訳でもない。好みの女なら、食えるだけ食ってきた。その中には、目の前のガキくらいの女もいた。
 合意の上で抱いた女ばかりじゃない。どうしても我慢出来ない時は、襲ったこともある。もちろん、ばれないようにする。例えそれが犯罪行為であっても、バレなきゃ犯罪じゃないからだ。そして、もしもばれたとしても、馬鹿な女の口をふさぐ手段など、星の数ほどある。
 とにかく、目の前にいるのは、今まで俺が食ってきたのと同じ、女という生き物だ。
 身長は150センチをどれだけ越えているか。体重は45キロほどか。
 いずれにせよ、普通のガキだ。少なくとも、体格は。
 そんなガキが、俺の前に立っている。この、MMA金メダリストの、俺の前に。身長は196センチ、体重は120キロもある、俺の前に。
 このリングの上に立つ資格があるのは、選ばれた本物の戦士だけのはずなのに、その資格もなく、立っている。涼しい顔で立っている。ここにいるのが普通のように、当然のように立っている。
 構えは作っていない。両手を下げ、足は肩幅程度に横に開き、身体の正面をこちらに向けている。攻撃する気配も、防御する気配も、動く気配すらもない。
 ただ、立っている。こちらを静かな視線で見遣りながら、じっと立っている。
 その余裕のある様子が、気に入らない。
 だから、ガキを睨む。試合の前はいつもそうだ。試合の相手がどんなやつでも、まずは目で殺すのだ。相手の闘志をへし折るのだ。気の弱いやつなら、それで勝負は決まりだ。一発殴る必要もない。心の折れたチキン野郎にできるのは、リングの上で無様に逃げ回ることだけだ。
 だから、ガキを睨む。いつもと同じように睨んでやる。
 なのに、ガキの表情は露ほども動かない。
 去勢を張っているのではない。向かい合い、相手の呼吸を感じれば、それくらいは分かる。
 つまり、このガキは、俺の殺気でちっともびびっていやがらないのだ。生意気にも、俺と正面から戦うつもりなのだ。
 舐めやがって。牝ガキの分際で。
 怒りの炎が、じくじくと胸中に広がるのを感じる。例えば相手が男なら、試合中の事故に見せかけて殺すつもりで襲いかかってやる、そういう怒りだ。
 MMAはそこがいい。確実に相手の息の根を止めることができる。ボクシングのノックアウトのように、中途半端がない。試合が終わる時は、相手が失神したときか、それとも無様にギブアップしたときか。つまり、身体と心のどちらかが壊れた時でないと、試合は終わらない。
 そして俺は、今まで一度も負けたことがない。悉く、相手の身体か心をへし折ってやった。試合でも、ケンカでもだ。公式戦じゃないなら、さっきの大男のように、無様な命乞いをさせてから骨をへし折るのが一番好きだ。
 このガキも、同じ目に遭わせてやろうか。煮えたぎる欲望が、ムクリと鎌首をもたげるのを感じる。目の前のすました顔をぐちゃぐちゃにして、鼻を潰して歯をへし折り、絶望の泣き声をあげさせてやろうかと思う。
 だが、今はだめだ。俺は馬鹿じゃないから、それくらいはわきまえている。もしもこのガキを叩きのめしたら、TBSBの連中が黙っていないだろう。さっきの大男は、はねっかえりの素人が調子に乗って突っかかってきたのを返り討ちにしたことにすれば、いくらでも言い繕える。しかし、中等部の子供、しかも女をボコボコにしたら、どんな言い訳をしてもこっちが悪者だ。下手をすれば、金メダルの剥奪だってありうる。
 そんなことになったら全てが台無しだ。社会的な地位も、収入も、約束された輝かしい将来も、全てがおじゃんになってしまう。
 それよりなにより、そんな馬鹿なことをすれば、兄貴を怒らせることになる。それだけは避けなければならない……。
 あ。
 そうか。
 それが、お前の狙いか。
 俺に殴らせて、大げさに泣きわめいて、その様子をカメラに収めさせるつもりか。
 そうして、俺の社会的な立場を痛めつけて、さっきの大男の意趣返しにするつもりだったのか。
 なんて卑怯な、姑息な真似を!
 そうだ。そう考えてみれば、このガキの冷めた視線も、女という生き物が、自分の弱さを武器にするという最も汚い戦い方をするときのそれだ。
 殴ってみなさいよ、と。もしもわたしを殴れは、あなたは一体どういう目にあうのか分かってるんでしょうね、と。警察に駆け込んでやる、裁判を起こしてやる、退学に追い込んでやる、と。女の涙を、弱さをもって男を貶めるときに浮かべる、一番醜い視線だ。
 そうか、そのつもりだったのか。だから、防具をつけるのも断ったわけだ。ヘッドギアのつけた顔を殴られるよりも、何もつけてない顔を殴られる画の方が、遥かに強烈で、自分が被害者だとアピールできるから。派手に鼻血を流し、涙を流し、俺が悪者だと印象付けられるように。
 なるほど、それがお前の狙いだったのか。危ないところだった。危うくのせられるところだった。
 だから、そんなに静かに立っていられる。もう、殴られる覚悟ができているから。
 だから、両手をぶらりと下げている。殴られるのが目的だから。
 だから、そんなに優しそうに微笑っている。お前を殴った後の俺の壊れた未来が見えているから。
 そうか、そうか。
 この卑怯者め。お前の考えは、全てが理解できたぞ。
 だが、それはそれで大したものだ。例えそれが一撃でも、俺が殴れば、下手すれば死んでもおかしくない。確実に怪我はする。鼻は折れ、歯が砕けるかも知れない。だが、その覚悟はもうできているというわけだな。その上で、そんなに静かに立っている。なら、その覚悟だけは大したものだ。認めてやるよ、このくそがきが。

「どうした、来ないのか?もう戦いは始まっているぞ?」

 ガキが、可愛らしく小首を傾げて、さも不思議といった様子を装いながら、挑発してくる。
 小憎たらしい、舐めくさった口調で。
 思わず、飛び掛かりそうになる。殴って、その舐めた台詞を、舐めた態度を後悔させてやりたくなる。男の恐ろしさを思い知らせてやりたくなる。・
 でも、もう駄目だよ。俺はその手には乗らないよ。
 それに、俺ができないのは殴ることだけだ。大の男が女を殴るっていうのは、かなり強烈な絵面になる。マスコミは飛びつくだろう。逆に言えば、強烈な絵面になりさえしなければ、俺はお前に何でもできるっていうことだ。
 
「焦るなよ。せっかく金メダリストとスパーリングできるんだぜ?じっくり楽しもうじゃねぇか」

 余裕たっぷりに言ってやる。
 すると、ガキの表情が僅かに、本当に僅かに動いた。俺じゃなければ見逃してしまうくらい、ほんの僅かに。
 きっと、俺が言った、じっくりという意味を理解したのだ。俺が、お前の考えを見抜いているぞと、理解したのだ。だから、表情が僅かに強張った。自分の作戦がおじゃんになったからだ。
 いいじゃないか。その、無様に強張った表情が、女には似合いだ。所詮、力でも知恵でも、女は男に及ばない。弱い生き物だ。女が男に勝てるのは、いや、勝った気になれるのは、自分の弱さを武器にして、社会という後ろ盾を得たときだけなのだ。
 だから、俺はそうはしてやらない。
 決めた。お前は押し倒してやる。強姦魔が、その獲物をそうするように、仰向けに押し倒して、俺の体の下で甚振ってやる。思うさま暴れさせて、疲れされて、絶望させて、その様を嘲笑ってやる。
 その年だ、もしも経験がなかったとしても、セックスの知識は十分にあるだろう。男の下に女が組み敷かれることの意味は十分理解しているだろう。両足の間に男の腰をねじ込まれることの意味くらいは分かるだろう。
 どれほど気丈な女でも、恐怖を感じないはずがない。
 例え体に傷一つ付けないでも、心をずたずたにしてやることなど、いくらでもできるのだ。男にのしかかられて、何も抵抗することのできない絶望を味わって、それでも今の涼しい顔を続けられるか、確かめてやろう。
 ならば、することは一つだ。まず、このガキを捕まえることだ。捕まえさえすれば、あとは組みついて、力でねじ伏せるだけのこと。
 どうやって捕まえるか。一番いいのは、このガキが殴りに来ることだ。顔でも、腹でも、どこでもいい。最初の一発を殴らせて、その代わり、手首でも肩でも腰でも、どこかを掴む。そして強引に引き寄せ、そのまま押し倒す。そうすれば、後は思いのままだ。
 早く殴りかかって来い。
 そう思う。
 しかし、このガキはちっとも動く気配がない。両の腕をだらりと下げ、体の正面をこちらに向けたまま、全く動く気配がない。
 ならば、こちらもガードを解く。両手を下げ、顔を無防備にしてやる。
 そして、顎を前に突き出し、殴って来いと挑発してやる。

「どしたお嬢ちゃん。俺は本物の戦士だ。流石に、少しはハンデをくれてやらないと不公平だからな。最初だけ、一発殴らせてやる。さぁ、どこを殴ってもいいんだぜ?」
 
 殴らせてやるという言葉は本当だ。
 だが、たったの一撃なら、来ると分かっている打撃を我慢するのは、よほどのことがない限り、それほど難しいことではない。無論、素人がプロの打撃を我慢するのは不可能だ。肉体のタフさ、精神力、経験値、覚悟の量、全てが比較にならないからだ。
 しかし、それがプロ同士であるなら。まして、相手が素人でこちらが金メダリストであるなら。さらに言えば、相手が女子中学生で、こちらが大人の男であるなら。
 例えば、眼球や金的などの急所を除けば、我慢するのは難しい話ではない。
 だから、殴らせてやるのだ。その後は、倍返し、いや、百倍にして痛みも屈辱も、返してやる。
 殴って来い。早く殴って来い。そう思う。
 それでも、ガキはちっとも動かない。ほんの薄っすら微笑んでいるようにすら見える、静かな表情のままで、こちらを見ている。
 それが、まるで俺を馬鹿にしているように見える。
 馬鹿にするな、と思う。俺は、TBOの金メダリストのレオン・オリベイラ様だぞ、と思う。誰も、俺には勝てない。俺は、この世で一番強い男なんだ、と思う。
 そうだ。それなら、どうして俺はこんな真似をしているのか。この世界で一番強く、気高い戦士が、小賢しく小娘を挑発し、相手に手を出させてから捕まえるなど、そんな小細工を弄しているのか。
 不要だ。
 もっと単純に、相手を捕まえるだけでいいのだ。その途中に、どこを殴られてもいい。その程度でぐらつくような、やわな鍛え方はしていない。
 よし、戦法は決めたぞ。ならば、疾く実行するだけだ。とっととこのむかつくガキを泣かせて、男に二度と歯向かう気がおきないよう躾けてやって、それからしち面倒くさいインタビューとやらを終わらせて、あとは可愛い女達とパーティーを楽しむのだ。その中の一番可愛く従順な女をベッドに連れ込み、可愛がってやるのだ。それが、金メダリストの俺に相応しい、余暇の過ごし方だ。
 そして俺は前に足を進めた。いや、足を前に出すために、足を浮かせた。
 その時だ。
 ガキが、凄い速さで動いた。
 まるで地を這うような姿勢で、俺が不用意に上げた足に向かって飛びついてくる。
 正面に向けていた俺の視界から、ガキの姿が消えるくらい、低い姿勢で。
 俺が動くのを待っていたかのように、いや、俺が動き出すタイミングが分かっていたかのように。それとも、そこに至るまでの俺の思考の全てを読んでいたかのように。
 まずい。本能が叫ぶ。これは、不用意な一歩だった。浮かせた足をマットに着けるまでの僅か数舜であるが、こちらは動けず、あちらは自由に動ける。
 その数舜の間に、ガキは間合いを詰め、こちらの懐に飛び込んでくる。
 目が覚めるような速度のタックルだ。
 狙いは、あっちも、こちらを押し倒すことだったのか。
 果たしてあの小さな体で、俺を押し倒すことができるのか、それは分からない。押し倒したあと、グラウンドの勝負になったところで、俺に敵うとも思えない。だが、相手の狙いがそれであることは間違いない。
 おそらく、最初からこの瞬間を狙われていたのだ。であれば、今の流れは、相手の狙い通りということだ。
 勝負で何が一番まずいかといえば、相手が作った流れに飲み込まれるのが、一番まずい。そして、俺はその流れに飛び込んでしまった。
 何て間抜けだったんだ、俺は。
 そこまでが、一瞬の思考。
 そして、永遠とも思える一瞬の後で、足がマットに着く。
 まだ、ガキの身体はぶつかってこない。
 よし、何とか間に合った。ならば、まずはタックルを受け止めることだ。タックルを切り、がぶって上から体重をかけてやれば、あの小さな身体で俺の体重を受け止められるはずがない。押しつぶすことができる。そうすれば、最初のプランどおりだ。今度は、こちらの流れに相手を飲み込むことができる。
 両足を引き、タックルの迎撃体勢を整える。
 よし、これで大丈夫だ。いつでも来い。叩き潰してやる。
 そこまでが、次の一瞬の思考。
 そして、視線を足元に向ける。そこに、ガキがいるはずだ。俺の足に組みついて、しかしどうあがいても倒すことができず、無様に苦闘するガキがいるはずだ。
 しかし、そこには、誰もいなかった。
 ガキは、どこにいったのか。
 そう思った。
 次に、がつん、と、顎にすごい衝撃。
 肉の潰れる音。骨のひしゃげる音。
 吐き気を催すような激痛。
 視界に無数の星が散り、その光が視界を埋め尽くし、真っ白になる。
 全てが白く塗りつぶされて、意識が細く、薄くなっていく。
 ただ、理解した。
 俺は、あのガキにいっぱい食わされたのだと。
 あのガキの狙いは、グラウンドに持ちこむことなどではなかったのだと。
 全て、あのガキの計算だったのだ。
 ちくしょう、絶対ゆるさねぇ。
 正面から戦っても勝てないから、こんな卑怯な小細工しかできないんだ。
 卑怯者め。
 もう、金メダルのことなんてどうだっていい。将来も、なにもかも、どうでもいい。
 絶対に、殴り殺して、死体を犯して、犬に食わせてやる――。



 勝負が決したのは一瞬だった。
 悠然と、自然体で構えるウォル。そして、嫌らしい薄ら笑いをへばりつけ、オーソドックススタイルに構えたオリベイラ。
 最初は、どちらも動かない。じっと相手を見るだけだ。 
 少女のウォルと大男のオリベイラが、リングの上で微動だにせず、対峙している。牽制のジャブも、相手を惑わすフットワークもなく、ただじっと対峙している。
 はらはらとした内心で観戦しているTBSBの学生や、オリベイラの取り巻き連中には、どうしてオリベイラが攻めないのか不思議だった。どのように料理するかは別にして、オリベイラの相手はただの女の子だ。如何様にでも攻め方などあるはずなのに。そう思った。
 だが、リィ達の見方は違った。オリベイラは、意識してか無意識にか、ウォルを警戒していた。だから、内心で色んなことを考え、それが表情にあらわれ、顔色が赤くなったり青くなったりしている。無論、リィ達でないと分からない程度に、ごく僅かに。
 当然、何を考えているかまでは理解できない。だが、欲望と打算が渦巻いていることだけは、十分に理解できる顔であった。
 
「どうした、来ないのか?もう戦いは始まっているぞ?」

 不思議そうに、ウォルが訊いた。ウォルの表情も立ち姿も、試合が始まったときと何も変わらない。あくまで自然体のままだ。
 しかし、そのウォルの表情を見て、オリベイラが、頬を引きつらせるように嗤った。
 そして、一度も拳を交えていないにも関わらず、僅かに息を乱し、汗を流しながら、

「焦るなよ。せっかく金メダリストとスパーリングできるんだぜ?じっくり楽しもうじゃねぇか」

 言葉とは裏腹に、狩りで追い詰めらた獣のような切羽詰まった様子で言った。
 ウォルは、分かりやすく溜息を吐き、さも面倒そうな表情になった。
 そんなウォルの顔を見て、果たしてどのような内心の葛藤があったのか、オリベイラはガードを解き、ウォルの前に無防備な顔面を晒し、言った。

「どしたお嬢ちゃん。俺は本物の戦士だ。流石に、少しはハンデをくれてやらないと不公平だからな。最初だけ、一発殴らせてやる。さぁ、どこを殴ってもいいんだぜ?」

 一般人が見れば、オリベイラが余裕を見せてウォルを挑発しているようにしか見えないが、しかしリィ達にしてみれば、攻め手を欠いたオリベイラが苦肉の策としてウォルをどうにか動かそうとしているのが見え見えだ。
 当然、ウォルはそんな挑発に乗らない。殴れば一撃で勝負が終わるかも知れないが、そこにどんな意図があろうと、相手の狙いに乗ってやる必要など一握りもありはしないのだ。
 ウォルは、やはり動かない。じっとオリベイラを眺め、立っているだけだ。
 そしてオリベイラはといえば、いよいよ策が尽きたのか、それとも何かを決心をしたのか、目を据わらせて、ウォルの方に近づいた。否、近づこうとして、足を動かしかけた。
 
「馬鹿」

 含み笑いを浮かべたリィが、小さく呟いた。
 今までのオリベイラの対応は、じつは正しい。ウォルを警戒し、安易に攻めないのは評価できる。それが意図してなのか、それとも本能的なものだったのかは、ともかくとして、である。 
 だが、今の動きは不用意だった。そして安直だった。おそらく、次の展開を作れなかったオリベイラが、とにかくウォルを捕まえてしまえば何とかなるとでも思ったのだろう。
 そして、そんな隙を見逃すウォルではない。
 リングの上に立った時から、この瞬間を狙っていたのだろう。オリベイラの足が上がった瞬間、いや、おそらくはオリベイラが自身に向けて足を動かそうとしたその瞬間に、ウォルの小さな身体はばねに弾かれたような勢いで前に飛び出していた。
 最初の一歩目からほぼ最高速の、素晴らしい踏み出しで、ウォルは身体を低く、オリベイラの足元に飛びつこうとしているように見えた。
 あれでは、おそらくオリベイラは、ウォルの姿を一瞬見失ったに違いない。ただでさえ小さなウォルが、地面スレスレの超低空の姿勢で懐に飛び込んだのだから、無理もない。
 次に、オリベイラは、長年のトレーニングによって身体に染み付かせた動きとして、タックルを警戒する姿勢を取った。重心を低くし、ぶつかってきた相手を上から押しつぶそうと、そういう体勢を取った。
 もしもウォルの意図するところが、オリベイラへタックルしてテイクダウンを狙うことなら、オリベイラの対応は功を奏しただろう。小さなウォルの身体は下に押しつぶされ、逆にオリベイラがウォルに対して有利なポジションでグラウンドに持ちこむことができたに違いない。
 しかしウォルの狙いはそうではなかった。オリベイラの懐に飛び込んだところで足を止め、深くしゃがみ込んだ姿勢から一気に飛び跳ね、無防備に曝け出されたオリベイラの顔面に向けて飛び膝蹴りを叩きこんだのだ。
 ごしゃり、と、凄い音が聞こえた。
 ただの一撃で、肉が、骨が、関節が、一気に砕ける音だった。
 リィ達以外は、果たして何が起きたのか分からなかった。しかし、リィ達には、何が起きたのか分かりすぎるほどに分かった。
 勝負ありだ。ウォルの勝利だ。
 ウォルが、水鳥のように優雅な様でマットに着地するのと、顎を変形させたオリベイラが仰向けに倒れるのが、ほぼ同じタイミングだった。

「ひ……きょう……もの……」

 砕けた顎を痙攣するように動かしたオリベイラは、何とも聴き取りずらい声でそう呟いて、動かなくなった。
 汗一つ掻いていないウォルは、マットに倒れてピクリとも動かないオリベイラを見下ろし、

「貴様のような人間は、風が吹いて砂が目に入ったのも、小石に蹴躓いたのも、それが自分の敗因であれば、全てを相手の卑怯にするのだろうさ。その程度の輩が戦士と名乗るなど、片腹痛い」

 感情のこもらない声でそう言いながら一瞥し、そして一度も振り返ることなくリングを下りた。
 そして、リングの脇で、目を丸くしながら声を失っていたノーマンに、

「ノーマンどの、済まなかったな。少々、灸が強すぎたようだ。あの様子では、インタビューとやらを今日することはできまいよ。卿らの仕事の邪魔をすることになってしまったな」
「いえ、それは別に大丈夫なのですが……いえ、大丈夫というわけではないのですが……」

 茫然とした様子でノーマンが応える。
 ウォルはにかりとした笑顔で、

「おれは、アイクライン校のフィナ・ヴァレンタインだ。もしもこの件で卿らに迷惑が及ぶことがあれば、おれの名前を出してくれて構わない。この男にも、目が覚めたら伝えておいてくれ。再挑戦する気概があるなら、いつでも受けて立つとな」

 ウォルはそう言って、リィ達のところに戻っていった。
 そしてリィ達はといえば、ウォルの勝利を微塵も疑っていなかったから、既に帰り支度は終えている。
 TBO金メダリストを正面から倒すという、傍から見れば大金星のはずの殊勲に、労いの声をかけることすらしない。当然の予想が、当然の如く的中しただけで、別に驚くことは一つもないからだ。

「よし、じゃあいい時間だし、帰るか」

 リィの言葉にメイフゥが、

「その前に飯だな。せっかくヴォルフが奢ってくれるっつってんだ。断ったらばちが当たるってもんだぜ」

 うきうきとしたメイフゥに、左ひじに氷嚢を巻き付けたヴォルフが苦笑して、

「おいおい、メイフゥ。怪我人に飯を奢らせるつもりかよ」
「なんだ、ヴォルフ。その程度のかすり傷で怪我人づらかよ。そんな軟弱な様子じゃ、あたしの将来の旦那様候補にはなれないぜ?それに、折られたのは左腕だろう?なら、右手で十分飯は食えるだろうが」
「まぁそうなんだがなぁ……。もう少し、早く病院に行けとか、安静にしていろとか、常識的な気遣いってもんがあってもいいんじゃねぇか?」

 不服そうに唇を尖らせたヴォルフに、ルウが微笑みながら、

「大丈夫だよ、ヴォルフ。今日の僕の車はワゴンタイプだから、あなたが運転できなくても、全員をごはん屋さんに運ぶことはできるからね。この近くで、安くて美味しくてボリュームがある、学生の味方みたいなごはん屋さんを知ってるんだ。きっとヴォルフも気に入ると思うよ」
「お、そいつは楽しみだなルウ。じゃあ、運転しなくていい俺は、気兼ねなくビールを飲めるってわけだな。なら話は早い、さっさと飯食ってビールを煽って、それから病院行くとするか」
「おい、ヴォルフ。酒が飲めない未成年の前で、ビールを飲むのは反則だぞ。今日はお前は怪我人なんだ。大人しく飯だけ食べていろ」

 本当は自分もビールを飲みたい、無二の酒好きのリィが悔しそうに言う。
 ヴォルフは些か呆れて、
 
「お前ら、俺を怪我人にしたいのかしたくないのか、どっちなんだ?それにリィ、人前で堂々酒を飲めるのは、大人の特権ってやつだ。汗を流した後の一杯だ、さぞ旨いだろうなぁ。さぁ、リィ、俺が旨そうにビールを飲むさまを、指を咥えて見ているがいいぜ」

 一同は、わいわいと、普通の学生のような口調で会話を交わしつつ、格闘技場を後にした。
 そして残されたTBSBのスタッフ達は、唖然として彼らを見送った。
 そのうちの一人が、ぽかんと口を開いたままのノーマンに、辛うじて平静を保った様子で声をかける。

「おい、ノーマン、どうする?あの子が言うとおり、オリベイラのインタビューはもう無理だ。企画の差し替えを考えなくちゃいけないけど……」
「……そんなことより、僕たちにはもっと重要なことがある。なぁ、モーリッツ、今の映像、撮っていたよな?」

 ノーマンは、カメラスタッフに声をかける。
 モーリッツと呼ばれた青年は、やはり目の前の光景――中等部の美少女が、TBO金メダリストを一対一で叩きのめした――の現実感の薄さに、夢遊病患者のような面持ちで頷く。

「ああ、もちろん撮っていた。凄い映像が撮れたぞ。あの子の強さは本物だ。偶然なんかじゃなく、狙いすまして、一撃であのオリベイラをKOしたんだ。そして、輝くような可愛らしさ。間違いない、スターの誕生だ。こんなの、TBSBのスポーツニュースの一面じゃ済まない。発表すれば、きっと全宇宙で話題になる。凄いスクープになるぞ」

 まだ、心無し青ざめたノーマンは、一同に振り返り、そして引き攣った笑みで言った。

「僕たちは、この映像をどうするべきだろうか?映像を見ても、誰も信じてくれないかもしれない。なら僕たちは、何もなかったとしてこの映像を闇に葬るべきなのか?それともジャーナリストの端くれの責務として……真実を真実であると報道すべきなのか?」

 息をのんだ一同は、誰もその質問に答えようとしなかった。



[6349] 第百二話:ノーマンの誘い
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/06/11 11:51
 ノープス中央体育館での出来事から、一週間が経った。 
 初夏の気候は日に日に暑さを増していき、もうそろそろ半袖のシャツや冷たいアイスクリームが恋しくなったきた、そんな日々である。 
 ウォルは、本日最後の、歴史学の講義をちょうど終え、分厚いカバンを抱えて教室から出たところだった。
 廊下の窓から覗く緑の木々は、日々枝を伸ばし葉を大きくし、力強さが増している。枝にとまった小鳥が無邪気に戯れる様子に、ウォルは思わず頬をほころばした。
 あの日のヴォルフの怪我は、頑健な彼であっても流石に治療を要するもので、組織再生療法を受けた後も、まだもう少し自宅で安静にしているよう医者に言い渡されたらしい。怪我の後に大量の飲酒をしたことを咎められた後だったから,口調も結構きついものだったと聞かされている。
 片腕では日常生活に不便があるだろうから、もしよければ家政婦の真似事でもしに行こうかと手を挙げたウォルだったが、当のヴォルフに、

『学生さんは勉学に励むのが仕事だろうが。それに、独り身の男の家には、女に見られたくない秘密の一つや二つ、あるもんだ。余計な気を回さず、一度きりの学園生活を楽しんでな』

 そう言われて、断念した。
 まぁ、本当に誰かの助けが必要であれば、そうと言う男である。不要と言うならば、本当に一人でなんとかできるのだろう。それとも、自分以外の誰かが面倒を見に行っている可能性もある。
 とにかく、自分は自分で、為すべきことを為すだけだ。
 そう考え、日々の勉学に勤しんでいたウォルであるが、背後に気配を感じ振り返ると、見覚えのある事務員の男性がこちらに向かって小走りに駆けてくるところだった。

「ああ、フィナ・ヴァレンタインくんだね、ちょうどよかった」

 男性は、柔和な笑みを浮かべながら言った。
 はて、何かこの人に呼び止められるようなことがあっただろうか、ウォルは小首を傾げそうになったが、礼儀正しく一礼し、

「あの、何か書類の提出忘れでもありましたか?」
「いや、そうじゃないんだ。実は、君に面会希望が入っている」
「面会希望ですか」

 ティラボーンは、その性質上学生が多く、当然のことではあるが、防犯には十分すぎるほどに気を使っている。
 例え同じ学生であっても、図書館や体育館などのオープンスペース以外の場所、他校の校舎や寮などには、許可なく入ることはできない。事前に予約をしたり、事務室を通じて許可を得てからようやく立ち入ることが許される。
 また、他校の人間と面会するときも、私的に交流があるなら別段、そうでなければ面会するにも幾つも手続きを踏まなければならない。学校の事務室に自身の身分や来訪目的などを告げ、それが相当のものであると判断されれば対象の学生に取り次がれ、その学生が承諾すればいざ面会という流れとなるのだ。
 例えば、件のちょっとおかしな映画監督が、お目当ての怜悧な美貌の男子高校生に対してしたように、下校時間に校門の傍で目当ての学生を待ちわび、その姿を見つけていきなり声をかけるなど、警察に突き出されても文句は言えない所行ということなわけである。
 ウォルなどにしてみれば、ずいぶんと過保護なものだという印象を受けるが、連邦大学には各国の要人や資産家の子女が数多く通っていることから、やむを得ない処置であると言える。
 とにかく、今回は、そういった正式な手順を踏んだ何者かが、ウォルに面会を求めているということらしい。

「一体、誰が私に面会を?」
「学籍は聞いていないが、連邦大学学生放送局に所属しているノーマン・ディーゼルという青年だ。取り次いでもらえれば、名前は知っているはずだと言っていたが……」

 一瞬考えたウォルであったが、一週間前のことを思い出し、ぽんと手を叩いた。

「ああ、その青年なら知人です。そして、私の名前と学籍も伝えています」

 事務員の男性は頷いた。

「一応念のためだが、君の意に反するような取材の申し込みであったり、中学生の身分に相応しくない業務のあっせんであったり、そういうことはないね?」

 ウォルは笑顔で頷き、

「話を聞いてみないと詳しいことは分かりませんが、おそらくそういったことではないと思いますし、万が一私の手に余る内容でしたら、後ほどご相談にあがります。とりあえず、面会を受けさせていただきたいと思います」
 
 男性職員は、ノーマンがすでに面談室で待機している旨をウォルに伝えると、笑顔で立ち去って行った。
 ウォルはその後ろ姿に一礼し、そして面談室へと向かいながら、はてあの青年が何事のために自分に面会を求めているのかと思いをはせる。
 確かに、何か困ったことがあれば、自分の名前を出していいとは言った。ならば、事態が彼の手に余るような、厄介なことになっているのだろうか。
 些か沈鬱な表情のウォルは、足早に面談室へと向かった。



 面談室は、中央にテーブルが置かれ、椅子が4つ配置されただけの殺風景な部屋であるが、壁かコンクリートではなく透明アクリルであり、窓も意図的に大きく設えられているので、閉塞感はない。防音性を高めてプライバシーに配慮しつつ、万が一トラブルが起きたときに職員が気がつくできるようにした造りだ。
 少し息を乱したウォルが面談室に入ると、すでに見知った顔が中で待っていた。

「やあフィナくん。急に、アポイントメントもとらずに押しかけてしまってすまない。時間を作ってくれたことに感謝するよ」

 ノーマンは、線の細い顔に笑顔を浮かべて立ち上がり、右手を差し出した。
 ウォルも、笑顔でその手を握る。

「ノーマンどの、先日は色々とご迷惑おかけした。あの後は大丈夫でしたか?」

 自分が、あの悪戯小僧にお灸を据えたこと自体は間違ったこととは思っていないが、それが第三者に迷惑をかけたとすれば、申し訳ないと思っていたウォルである。
 ノーマンは、なんとも複雑な表情で、

「大丈夫かそうじゃないかで言えば、正直、あの後は色々あったよ。救急車を呼んだり、学生課に事態の説明をしなければいけなかったり、企画を急遽差し替えたり……。だから、君と話をするのがこんなに遅れてしまったんだけどね」
「そうか、それはやはり申し訳なかった。何か、俺にできる償いはあるだろうか?」

 生真面目な様子のウォルに、ノーマンは首を横に振り、

「謝る必要があるとすれば、それは僕のほうだ。せっかく、トレーニングルームを予約使用していた君達に、無理を言って場所を使わせてもらったばかりか、結果的にあんな騒動に巻き込み、あの大きな男の人には大怪我までさせてしまった。本来なら、懲罰委員会に訴えられても不思議じゃない。こちらこそ、本当に申し訳なかった」

 ノーマンは、年下のウォルに深々と頭を下げた。その様子には、言葉以上の謝罪の意思が感じられた。
 年下であり、加えて連邦大学の後輩にも当たるウォルにこうも率直に頭を下げられあたり、ノーマンという青年の気質は、気弱なのではなく丁寧であり、それ以上に誠実なのだろう。ウォルは目の前の青年に好感を覚えた。

「では、お互い様ということにしておこう。少なくともおれは、あなたに頭を下げてもらう所以はない」
「そう言ってくれると助かるよ。でも、君とは別に、怪我をされたあの大きな男の人には謝らないといけないと思っているんだ。もしよければ、あの人の連絡先を教えてもらってもいいかな?」

 ウォルは、首を横に振った。

「ヴォルフどのは、あの男と戦う前に、怪我は自分持ちだと言っていた。ならば、戦いがどういう過程だったとしても、その結果負った怪我について、誰を恨むことも怒りを覚えることもないだろう。逆にあなたに頭を下げられれば、悪い事をしたと気に病まれるかもしれん。あれは、そういうお人だ」
「そうは言っても……」
「それに、ヴォルフどのに怪我をさせたというならば、あの男よりもおれのほうがはるかに手酷い怪我を負わせたことがある。骨を幾本も叩き折っただけではなく、睾丸を一つ、蹴り潰しているはずだからな」

 そう言ってウォルはからから笑った。
 対するノーマンは、飴を飲み込んだように目を丸くしている。一瞬、この少女なりの冗談かとも思ったが、よく考えてみればこの少女はTBO金メダリストのオリベイラを一撃で葬っているのだ。冗談かかどうか、微妙なところである。
 ただ、ウォルの言わんとしていることは理解したのだろう、大きな荷物を一つ下ろしたように肩の力を抜いた。

「君達の寛容に感謝するよ。本当に申し訳なかった。そして、ありがとう」
「それが、おれと会いたがった理由かな?」
「いや、もちろん謝罪を伝えたかったのもあるが、それだけじゃないんだ」

 ノーマンは脇に置いたブリーフケースから、大きめの液晶端末を取り出した。

「あの後、落ち着いてから僕は、他のスタッフと話し合ったんだ。議題は、この映像をどうするべきか。その結果、まずは当事者である君の意見を聴くべきだろうということになった。まずは、映像を見て欲しい」

 液晶に映し出されたのは、ウォルの予想通り、あの日の一部始終であった。
 悪態をつきながら格闘技場に入室してきたオリベイラがウォル達に因縁をつけ、それを制止しようとしたヴォルフと戦いとなり、最後はウォルに仕置きされる様子が、全て明瞭に映像として残されていた。

「先ほどから謝ってばかりで申し訳ないが、まず、君達に許可を得ずカメラを向けてしまったことを謝罪させてほしい。ただ、言い訳をさせてもらえるなら、今回の取材対象はオリベイラ選手だったから、彼の入室から退室までをカメラに収める必要があったんだ。無論、他の生徒の肖像権的に問題のある映像は、後からカットするつもりだった」
「なるほど」 

 ウォルにしてみれば、肖像権という単語自体がどうにも耳に馴染まないものだったが、許可なく他人を映像に残してはいけないということは理解できた。

「ノーマンどの、先ほど企画は差し替えられると仰っていたな。つまり、この映像は二度と使うことはないのだろう?であれば、おれに意見を求めるまでもなく、さっさとこの映像は消去するなり破棄するなりされれば良いのではないか?」

 ウォルのもっともな意見にノーマンは頷く。

「君の意見は正しい。僕達も、大方そういう意見でまとまっていた。だが、二つほど異論が出た」

 ノーマンは、二本の指を立てた右手を前に出した。

「まず一点は、オリベイラ選手の問題ある態度を闇に葬ってしまっていいのか、という点だ。彼は、もともと素行に問題のある選手だった。対戦相手を必要以上に傷つけたり、暴言を吐いたり、ありもしない誹謗中傷をぶつけたり、好き放題をしてきた。裏側では、もっと卑劣な行為に手を染めていたという噂もある。その彼の行為が、曲りなりも容認されていたのは、彼が結果を残していたことと、決定的な悪事を働く明確な証拠が無かったからだ。その点、今回の映像は、彼が悪事を働いた明確な証拠になる。彼を裁くことで、今までは仕方ないとしてもこれからの被害者を減らすことができるなら、この映像を公開すべきではないか、そういう意見があったんだ」
「なるほど、言わんとすることは理解できるが、その点について、おれはこの映像を公開することには賛成できんな」

 ウォルのはっきりとした態度に、しかしノーマンは、特に失望した様子ではなかったが、

「何故だい?」
「まず、おれはあの小僧が今までどのような悪事を働いてきたか、それは知らない。それが事実かも分からない。おれが怒りを覚えたのは、ヴォルフどのが負けを認めているにも関わらず戦いを続け、あまつさえその腕を折ってのけるという蛮行を働いた点だ。そして、その点について、十分に灸を据えてやったと思っている」

 確かに、ウォルの一撃を灸と呼ぶなら、それは十分過ぎる痛みをオリベイラに与えていた。何せ、ウォルの膝蹴りはオリベイラの顎を完全に砕いていたのだ。
 あれでは、まともな食事は半年ほども取れないだろうし、しばらくの間はまともにしゃべることもできないだろう。
 あの日、オリベイラがなした所行に対する仕置きとしては、十分なものであるはずだ。

「おれには実感として分からんのだが、例えばその映像を衆目に晒したとする。そうすれば、あの男は再起不能の打撃を受けることになるのではないか?」
「……ああ、そうなる可能性が高いと思う。しかし、今までオリベイラ選手がしてきたことを考えれば……」
「ノーマンどの。繰り返しになるが、おれが為したのは、あの日、おれ達に対してあの男が働いた不埒に対する仕置きのみだ。それ以上のことは企図していない。もしもあの男が、どれほどの非道を今まで働いていたとしてもだ。もしもそれが事実なら、それは違う方法で裁かれるべきことであって、おれがあの男を叩きのめした映像を晒すことでそれを為すべきではないと思っている。それに、おれはあの一撃で、天狗の鼻っ柱を十分にへし折ってやったと思っている。もしかすると、あの男も、これがきっかけで何かが変わるかも知れん。ならば、この映像でもって再起不能に追い込むのは、今の時点ではやりすぎだと、おれは思うのだ。言葉にするとどうにも言い表しにくいのだが、言わんとすることを分かってもらえるだろうか?」

 ノーマンは、少し難しい顔をしたが、頷いた。少なくとも、ウォルはこれ以上の報復は望んでおらず、また、そういう意味でのこの映像の公開もまた、望んでいないということだ。
 それを理解したうえで、さらに続ける。

「もう一つの意見は、この映像を闇に葬るのがあまりにも惜しいということだ。これは完全に、僕たちスタッフの欲だ。でも、おそらくジャーナリズムというジャンルに携わる全ての人間がこの映像を見れば、絶対に公開したくなるだろう。それくらい、この映像は強い」
「映像が強い?」

 ウォルの問いに、再びノーマンが頷く。

「見る人の目を、もっと言えば、魂を惹きつける、一生忘れないだけの印象を残す、そういう映像だということだよ。この映像を見れば、絶対に全ての視聴者が仰天する。何せ、あのオリベイラ選手が、君のような美少女に一撃でマットに沈められたんだ。普通に考えてありうる話じゃない。しかも、その美少女が戦った理由が、オリベイラ選手に理不尽に痛めつけられた知人の敵討ち。言葉で聞いたって、絶対に信じない。その信じられないものが、こうも堂々と映像で収められているんだ。これを公開せず、人知れず消去するなんて、正気じゃない。およそ全てのテレビマンならそう考えるだろうね」
「何とも大層なことだ。おれにしてみれば、腕白坊主に拳骨を落としてやったのと変わらないのだがな」
「そう思うのは、きっとこの共和宇宙で君だけだと思うよ。これが、この映像を消去できない、二つ目の理由だ。なんとも自分勝手な理由で申し訳ないが、しかし偽らざる本心でもある」
「ちなみに、それはノーマンどのにとってもか?」
「むしろ、一番強く主張したのが僕だ。もし、僕だけが人権審議委員会にかけられるだけで事を収めるられるなら、それと引き換えにこの映像を公開したい。それくらい、強く思っていた」
「思っていた、か。ならば、今は違うということだな?」

 冷静なウォルの言葉に、ノーマンは苦笑する。

「ああ、今は違うよ。君の意見は、一々もっともだ。首肯せざるを得ない。第一、この映像の主役である君が、そして被害者であるあの大きな人――ヴォルフさんが望まないなら、やはりこの映像は公開できないだろう。どんなに強い映像でも、その出自が隠し撮りしたものを公開しましたなら、やはり映像に傷がつく。そんな映像がどれほどもてはやされたとしても、素直に喜ぶことができないからね」

 そう言ったノーマンは、淡々とした様子で端末を操作し、映像ファイルを消去した。
 ウォルにそれを見せ、

「これで、この映像が世間に出回ることはない。無論、コピーなんかもしていない。確認してもらえたかな?」
「ああ。ノーマンどのの良識に感謝する」
「君に感謝される謂われはないよ。何せ、これは君たちの許可を得ずに撮影した映像だからね。本来は最初からこうすべきで、あるべきものをあるべきかたちにしただけの話だ。こんな大仰な真似をしてわざわざ君に確認してもらったのは、ただ、僕たちに、いや、僕自身に、みっともない未練があったからだ。ひょっとした、万が一でも、君から映像公開の許可を得られるかもしれないっていうね」

 ウォルは、微笑を浮かべながら頷いた。
 人間は、理屈だけで動く生き物ではないことを、彼女は十分に理解していた。それが正しい行いでなかったとして、欲望に忠実になってしまうことがある。むしろ、それが普通なのだ。
 ノーマンも、きっとそうだったのだろう。おそらく、ウォルの言ったことは百も承知だったに違いない。それでもこうして面会を求めたのは、揺れ動く自身の心に区切りをつけるためだったのだ。

「では、これで用件は終わりだな」

 椅子から腰を浮かせかけたウォルに、しかしノーマンは手で制し、

「いや、もう少しだけ時間を欲しい。最後に、もう一つ話したいことがあるんだ」

 少し意外そうなウォルは、もう一度椅子に腰掛け、小首を傾げた。
 映像を消したなら、そして謝罪も終わったなら、これ以上何を話すことがあるのだろうか。
 とにかく次の言葉を待つウォルに、しかしノーマンは何とも話しにくそうに逡巡している。
 それでも何とか口を開き、

「なんていうか……凄く言葉にしにくい。でも、僕の偽らざる本心なんだが……僕は、君に一目惚れした。君が欲しいんだ」

 真剣な、少し険を含んでいるような調子で、そんなことを言った。
 見た目はかなり年上である青年からの、突然の愛の告白に、流石にウォルは驚いて目を丸くし、

「……卿は、意外と情熱的なお人だったのだな」
「いや、違う、そういう意味じゃない。ああ、もう、なんていうか、すまない。やはり駄目だな、女性にこういうことを言うのに慣れてなくてね。少し極端な表現になってしまった。無論、君は美しい。本当に魅力的だ。でも、女性として君に恋したとか、君が欲しいとかじゃないんだ」
 
 所々で詰まりながら、いっぱいいっぱいの調子でそんなことを言う。
 
「そう、つまり、被写体としての君に惚れたというか、心をわしづかみにされたというか……。君が一撃でオリベイラ選手を倒し、リングを立ち去る瞬間だ。あの一瞬の光景に、僕は心を奪われた。君の姿が光り輝いて見えた。君はこちら側に、つまりカメラに写される側にいるべき人間だと思ったんだ」
「……論旨が明瞭でないな。つまり、おれにどうしてもらいたいのだ?」
「ごめん。質問を変えさせてほしい。フィナくん、今、君は何か、部活動やサークル活動に入ってたりするのかな?」

 質問がややプライバシーに寄ってきたのを感じたが、これまでの会話で目の前の青年がある程度信頼できると感じていたウォルは、素直に首を横に振った。
 
「いや、特に部活動などはしていないが……」
「なら、もしもよければだけど、君もTBSBで活動してみる気はないかい?」

 思いつめたように真剣な表情で、ノーマンは続ける。

「僕はね、昔見たある映画に衝撃を受けたことがあるんだ。『詐欺師たちの贈り物』……知ってるかな?ジンジャー・ブレッドの中期代表作の一つなんだけど……」

 ウォルは首を横に振った。

「あいにく、とんと映画というものには疎くてな。作品もそうだが、そのジンジャー・ブレッドというお人も聞いたことがない」
「ジンジャーを知らない!?」

 ノーマンはあまりの驚きに腰を浮かし、ウォルに詰め寄った。彼にとって、ジンジャー・ブレッドは正しく憧れの女優であったのだし、そして彼女の存在は共和宇宙の常識だと思っていたからだ。

「ジンジャー・ブレッドは、この共和宇宙で一番有名な女優の名前だよ。彼女の名前を知らないなんて、もしかして君はロストプラネット出身なのかな?」

 ノーマンにしてみれば軽いジョークだったのだが、ウォルは結構真剣な顔で頷いた。

「似たような身の上だ。おれは、この世界の常識というものに殊更疎い。せっかくの話題についていけなくて申し訳ない」
「いや、すまない、こちらこそ無神経だった。少し配慮が足りなかったよ。今の言葉は忘れてもらえるとありがたい」

 ノーマンは慌てたように謝罪し、

「とにかく、僕はジンジャーの映画に衝撃を受けた。僕も、ああいうふうに役を演じて、そして誰かの心を震わせたいと思った。でも、気が弱い自分が、そういう役回りに向いていないのはすぐに思い知らされた。だから、せめて彼女と同じように、将来はカメラの向こう側で仕事がしたいと思って、TBSBに入ったんだ」
「そのことと、おれを勧誘することと、どう繋がるのだ?」
「正直に言おう。僕は、あの時の君の姿を見て、ジンジャーの作品を初めて見たときと同じ衝撃をうけた。まるで、スポットライトが君を照らし出しているように思えた……いや、違うな。君自身が、まるで太陽のように輝いているように見えたんだ」
 
 自身を誉めそやすその言葉を聞いても、ウォルの表情はちっとも動かなかった。それが、ノーマンには少し意外でもあり、しかし納得もできた。
 普通、この年代の少女が、これほど明け透けに自分を褒められれば、いくら絶世の美少女で普段から自身の美貌を賞賛され慣れていたとしても、もう少し感情の機微が表情に出るものだ。
 しかし、ウォルの顔に、そういった感情は一切浮かんでいない。淡々と、ノーマンの言葉を受け止めるだけだ。
 やはり、この少女は普通ではない。おそらく、自分のような一般人とは、精神とか魂とか、そういう根源的なところで構造が違うのだろう。ノーマンはそう思った。

「これは、完全に僕の主観だ。でも、少なくとも僕は確信している。君は、きっとカメラの向こう側で生きるべき人間だ。カメラに写されて、世界中の人間に感動を与えることができる人間だ。だから、是非、TBSBの活動に加わって欲しい。TBSBなら、例えばキャスターやレポーターとしてでも、君にはあまり似合わないが裏方で働くことでも、学生のうちにマスコミ業界について学ぶことができる。もしも君が将来、マスコミやそれに近い世界での活動を希望するなら、決して無駄にはならないだろう。どうかな、もちろん、今、この場で返事が欲しいわけじゃない。考えてくれるだけでいいんだ」

 ふむ、と、ウォルは顎に形の良い指を当てて、考え込んだ。
 そして、言った。

「あなたの言い分が正しければ、もしも例えば、おれがあなたのいうジンジャー・ブレッド女史と同じくらい有名になれば、この広大な宇宙でおれの名前を知らない人間がいないと、そういうことになるわけだな?」

 目の前の少女が、例え話でも、あのジンジャーを引き合いに出したのに多少面喰いながら、ノーマンは頷いた。

「もしも君が第二のジンジャーになれば、きっとそうなるだろう。この共和宇宙で、一番の有名人に、君はなることができる」
「金はどうだ?おれは、この宇宙に名を広めることと合わせて、金を稼ぎたい。稼がなければならない。そのために、実はアイドルというものを志しているのだが……そういう意味で、TBSBとやらに入ることは、有益か?」

 ウォルのような少女が、真剣な表情で金が欲しいと言ったことを、少し意外には思ったが、ノーマンは頷いた。

「もちろんだ。TBSBのキャスターやレポーターが、芸能事務所に引き抜かれて、アイドルになったケースはいくらでもある。そのためには、努力もいれば才能もいる。色々な苦労もあるだろう。だが、きみの夢がアイドルだというなら、むしろTBSBに加入するべきだと、僕は思う」
「なるほど。であれば、前向きに考えさせてもらいたい。だが、おれ一人で決められることではない。親や友人とも相談しなければな」

 ウォルが思い描いたのは、配偶者であり婚約者でもある黄金色の狼と、その遺伝上の両親のことだった。
 果たしてリィは、自分がテレビ業界に関わることをどう思うだろうか。それに、確か、ウォルにとって義理の親にあたりアーサー卿などは、自分の子供が、テレビの被写体になるような目立ち方をするのを、あまり好ましく思っていなかったのではなかったか。であれば、少なくとも彼らに話を通しておく必要がある。そう思ったのだ。
 そのあたりの事情など当然承知していないノーマンは、前向きに考えるというウォルの台詞を聞いて、嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「ありがとう。本当に嬉しいよ。これが、僕の連絡先だ。君の中でこの話の結論が出れば、連絡をくれると有難い」

 ウォルは、ノーマンから名刺を受け取った。
 
「それと……これは完全に興味本位なんだけど……もしもよければ教えてほしい。どうして君は、アイドルを目指しているのかな?」
「おれがアイドルを志していることが、そんなに不思議か?」

 ノーマンは慌てたように首を横に振った。

「いや、さっきも言ったけど、君は女性としてとてもチャーミングだ。顔も美しいし、華があるし、光り輝いて見える。もしも君が望むなら、アイドルは天職のように思えるよ。でも、何ていうかな、君は、もっと超然としているっていうか、そういう世俗の職業に興味がないように思えたんだ。だからこそ、きっと君を口説き落とすのに、もっと苦労すると思ってたんだけど……」
「さっきも言ったが、おれは有名になりたい。そして、金を稼ぎたいのだ。そのためには、アイドルになるのが一番てっとり早いと、入院していたときに懇意にさせてもらった看護師から伺ってな。おかしいかな?」
「いや、おかしくはない。確かに、アイドルになれば、有名になれるしお金も稼げるだろう。それは、普通の女の子が夢見る未来でもある。でも……そうか、君は、それが目的じゃないね?」

 思春期の少女がアイドルを夢見ることは、よくあるだろう。だがその場合、おそらくはアイドルになるという事自体が目的となる。アイドルになって有名になり、誰からもちやほやされたいという承認欲求。たくさんお金を稼いで贅沢な生活をしたいという即物的な欲望。それらは普通のことであり、別に誰かに非難されるようなものではない。
 ただ、ウォルが彼女達と違う点があるとすれば、それは目的地の違いだとノーマンは気が付いた。普通の少女にとっての目的がアイドルになってそれらの欲求を満たすことならば、ウォルにとってのアイドルは――そして有名になり金を稼ぐということは、彼女にとっての目的ではなく、真の目的を果たすための手段に過ぎないのではないか。ノーマンはそう思ったのだ。
 ウォルは、ノーマンの疑問に、底の深い微笑で応えた。そしてノーマンも、それ以上追及しなかった。彼にとっては、ウォルという光り輝く逸材が、自分と同じ世界で活躍してくれさえすれば、それ以上を求めようとは思わなかったのだ。
 二人は、もう一度、先程よりも強く握手を交わし、そして面談室を後にした。



[6349] 第百三話:ウォルの秘密
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/06/18 22:37
 リィ、シェラ、そしてウォルは、フォンダム寮のリィの部屋に集まり、一緒になって今日の課題をやっつけていた。
 時間はもう遅い。夕食も済み、ほとんどの寮生は自室で、今日の授業の復習と、翌日の授業の宿題に勤しんでいることだろう。
 三人も、課題をこなしているのは他の寮生と同じなのだが、男性であるリィの部屋に、女性であるウォルがいるのが異質であった。風紀の保持の観点から、こんなに遅い時間に異性の部屋に立ち入るのは、寮規違反である。
 ただ、ウォルにしてみれば、リィもシェラも同性の友人感覚なのだし、後ろ暗いところは少しもない。無論、監視カメラに映らないよう、壁をよじ登って部屋に入ってきたあたり、悪いことをしている自覚はあるはずなのだが、生来の気質は結構悪戯好きなウォルであるから、ウォルがリィの部屋にいるのもありふれた光景であった。
 既に、夜も遅い。窓の外は、夜の帷が下りている。遠く、歩道沿いにある街灯が、ぽつりぽつりとした明かりで夜の片隅を照らしている。何ともものわびしい風景だが、学生寮の夜などそのようなものだ。

「うーん、リィ。この問題はどうやって解くのだ?」
「んん?ああ、このパターンは初めてだな。これはな、左辺のXにこっちの式を放り込んで、まるごと因数分解して……」

 金色の頭と黒色の頭、その二つの距離が、紙一枚を挟んでも落っこちない程に近い。二人して、一つの教科書を覗き込んでいるからだ。
 背の低いテーブルを間にして、リィとウォルが向かい合って座っている。椅子を置くには低すぎるテーブルなので、二人とも床にクッションを置いて、その上に胡座を組んだ姿勢だ。
 ウォルは、シャープペンシルを唇の上に置いて、大いに頭を悩ませた表情である。今にも頭の上にクエスチョンマークが現れそうな顔で、リィが走らせるペン先をじっと見つめている。
 リィは、そんなウォルの愉快な様子に頬を綻ばしながら、淡々と説明を続ける。

「で、だ。こうしてやったら、この部分とこの部分が等しい値になるだろ?っていうことは……」
「おおっ、なるほど!ということは、これをこうして……!」

 リィのペン先を押し退けるようにして、ウォルがノートに数式を走らせる。
 正しく、一心不乱といった様子である。
 そして、一言。

「出来た!どうだ、リィ!」
「うん、正解。やっぱりお前は飲み込みが早い。これならおれも楽が出来る」

 ウォルの答えと模範解答を見比べたリィが、満面の笑みで言う。
 その言葉を聞いて、一安心といった面持ちのウォルは、お行儀悪くごろりと床に寝転んだ。

「これで、数学の課題は終了だな。やれやれ、学生稼業も中々に楽ではないな」

 頭の後ろで手を組み、天井を見上げながら言った。
 国王だった時のウォルであれば、間違えてもこんな様子を他人に見せることはなかっただろう。執務室で書類の山と格闘し、少し息抜きしたくても、どうしても部下や家来の目がある。だらしなくするにも限度というものがあるのだ。
 翻って今はといえば、どんなに締まりのない様子でも、見咎める人間はいない。リィはそういったことに頓着しないし、もう一人の友人は、軽い溜息とともにたしなめるくらいである。
 然り、ウォルにとってもう一人の友人であるシェラが、薫り高い紅茶のティーカップが並んだ盆を片手に、軽いというには少々棘のある台詞を口にした。

「ウォル、年頃の淑女がそういった姿を人目に見せるものではありませんよ。それに、シャツが捲れあがっておへそが丸見えです」

 小言の多い侍従長のようにぴしゃりと言ったが、当の少女は馬耳東風、課題の終わった解放感から気持ちよさそうに目を細めて寝そべっている。
 そんな、だらけきった様子のウォルを見て、シェラは溜息をついた。彼の記憶にあるデルフィニア国王は、王としてはあまりに気さくすぎるきらいはあったものの、もっと威厳に満ち満ちていたはずなのに。
 しかも、どうやらこの少女の地はこちらの姿なのだということが分かってしまうので、シェラとしてももう驚くこともできない。できるのは、小言をもってウォルに少女らしさを教示してみせることくらいである。

「心配せんでもシェラ、今のところ、お前たちの前以外では、こんな姿をすること予定はない。きちんと淑女のつもりで猫を被りとおすぞ」
「普段の振る舞いが、いざという時にものを言うのですよウォル。普段のあなたに問題があるなどとは言いませんが、今のだらしない恰好を見れば、殿方であれば百年の恋も冷めかねません」
「そうか、ならばインユェあたりに今のおれを見せれば、あの熱烈な求愛ももう少し落ち着いてくれるかな?」

 からからと笑うウォルである。
 再び溜息を吐き出したシェラは、教科書を片づけた後のローテーブルに、紅茶のカップ、そして2人の夜食として、ハムとチーズを挟んだサンドイッチを並べる。
 先程までウォルの課題に付き合っていたリィは、目を輝かせながらシェラ手製のサンドイッチに手を伸ばした。

「ありがたい、ちょうど小腹が減ってたんだ。シェラ、いただくぞ」
「ええ、どうぞ」

 簡単に作ることができるサンドイッチは、手軽な夜食の定番ではあるのだが、そこは凝り性のシェラのこと、パンはトースターで焼き、バターとマスタードを混ぜたソースを塗るなど、きちんと料理に仕上げている。
 リィは、トーストを斜めに切ったサイズのサンドイッチをペロリと片づけ、ストレートの紅茶で喉を潤し、次の一枚に手を伸ばす。
 その横から、もう一本、手がにゅっと差し入れられる。

「おい、リィ、おれにもよこせ。頭を使うと腹が減るのだ」
「なんだ、ウォル。お前、体重が増えたと嘆いていたじゃないか。夜食は体型の大敵だぞ。おれが全部片づけてやるから無理をするな」
「馬鹿を言え。せっかくシェラがおれのために作ってくれた夜食だ。例えどれほど太ろうが、おれはしっかり頂くぞ」

 軽口を叩き合いながら、二人は欠食児童さながらの勢いで、山と作られたサンドイッチを食べつくしてしまった。
 結構な量を作ったつもりだったシェラは、この二人の食欲の旺盛さに目を見張ると同時に、今後の料理の適正量を上方修正させたのだった。
 そんなふうにして、腹の虫を収め、今日一日の出来事をおしゃべりした三人だったが、ウォルが少し真剣な表情でリィとシェラを見て、
 
「少しいいか?実はお前たちに相談したいことがあるのだが……」

 居住まいを正し、あらためた口調で二人に声をかける。
 はて何事かとリィとシェラは顔を見合わせた。相談といっても思いつくのは、授業に関することかそれとも友人関係の悩み事かくらいのものだが、目の前の少女は存外真剣なまなざしである。
 リィは頷き、

「どうしたんだ、ウォル。相談ならいくらでも乗らせてもらうけど……」

 シェラもリィの隣で頷いている。
 少し心配そうな二人を等分に見やり、ウォルは話を切り出した。

「こないだ、ノープス中央体育館の一件で、ノーマンという青年がいただろう。覚えているか?」
「ああ、TBSBの関係者だっていう、目立たない感じの男だったな。それがどうかしたか?」
「今日、放課後に面会した。そして、あの一件の謝罪を受けた」
「なるほど。それで?」
「おれは、彼の謝罪を受け入れた。そこで話は終わったかと思ったのだが……続きがあってな。なんと、おれにTBSBに参加しないかと、勧誘されたのだ」

 リィもシェラも、少し驚いた顔をした。
 あの一件で、ウォルは、TBOの金メダリストであるレオン・オリベイラを一撃で叩きのめしている。常人からすれば、例え我が目で見ても信じがたい出来事だったはずだ。ウォルを化け物と恐れても不思議はない光景だったはずである。
 そのウォルを、怖じ気ずくでもなく勧誘してくるあたり、ノーマンという青年は、線が細いように見えて実は意外と図太いのか、恐怖に目をつぶってなおウォルを魅力的だと思ったのか、どちらかだろう。
 いずれにしても、中々見る目があるなとリィは思った。

「お前たちに相談したいのは正しくその事なのだ」
「TBSBに参加するべきかどうか相談したいってことか?」

 ウォルは首を横に振った。

「いや、参加することはもう決めている……というよりも、参加したいというのがおれの意志だ。しかし、おれが参加することでお前たちに何か迷惑がかかるなら、考え直さなければならないとも思っている」
「おれ達に迷惑っていうと、具体的にはどういうことを想定しているんだ?」
「おれはまだTBSBの活動を詳しく知らないが、おれ自身はニュースキャスターやレポーターのように、テレビ画面に映るような仕事を希望しようと思っている。もしおれの希望が叶えられれば、おれの顔も名前も知る人間が増えるだろう。翻って、お前たちはあまり目立つことを好んでいない。おれが注目されることで、お前たちにいらぬ面倒をかけてしまうかもしれん」
 
 なるほど、ウォルの言うことはもっともであった。
 ただでさえ、リィやシェラは目立つ。この上ないといっていいほどに目立つ。街中を歩けば、ファッション誌や芸能事務所のスカウトに声をかけられるなど日常茶飯事だし、学校の中でもそれと知られた有名人である。想いを寄せる学生は、性別を問わず数えきれないくらいだし、実際に告白されることも日常茶飯事だ。
 そして、ウォルも二人と並んでもおさおさ見劣りしないほどの美少女だ。TBSBがウォルをどのように起用するかは定かではないが、よほど間違えた起用法をしない限り、そしてウォルが致命的なほどマスコミ業界に向いていないなどの事情がない限り、彼女は相当の人気を獲得すること疑いない。
 そうすれば、ウォルの友人であり、ウォルと同じくらいに美しい少年二人に、今まで以上の注目が集まってしまうのは避けられない事態だろう。
 であれば、リィとシェラに話を通しておこうというウォルの考えも頷けるというものだ。

「確かに、お前がTBSBに入れば、おれやシェラに何の影響も与えないってことにはならないだろうな」
「やはりそうなるか。弱ったな」

 ウォルは難しい顔で腕を組んだ。
 そんなウォルを見て、リィは苦笑する。

「だけどさ、ウォル。お前は、将来の夢がアイドルだって言ってたろ?もしもお前が夢を叶えれば、どうしたってお前の義理の兄であるおれにも注目が集まるのは仕方ないことじゃないか。もしもおれとお前が結婚したなら、なおさらだ」
「ふむ」
「おれはさ、確かに目指せ一般市民で頑張ってるつもりだけど、そのために友達の夢を捨てさせるつもりはないぞ。お前がアイドルになりたいっていうなら、心の底から応援させてもらう。それも、自分の力でなろうっていうならなおさらだ」

 言うまでもないことだが、リィにはテレビ方面に強力なコネクションがある。
 芸能界の奇跡と呼ばれ、銀幕の妖怪と恐れられるジンジャーは言うに及ばず、ジャスミンやケリーは巨大な芸能部門を抱えるクーア財閥のトップだし、他にも新進気鋭の変人映画監督や将来の大物女優の卵である少女など、数えきれないほどだ。
 そのリィが一声かければ、ウォルの前には、芸能界のトップまで駆け上るための専用エスカレーターが一瞬で建立されるだろう。
 だが、ウォルは自分の力で夢を叶えるのだという。それが例え遠回りの道程だったとしても、友が選んだ道である。リィがそれを否定できるはずがない。無論、ウォルが助けを必要とすれば、助力を惜しむリィであろうはずもないが。
 
「陛下、わたしもリィと同じ意見です。あの時は、アイドルがあなたに相応しい職業とは思えないなどと申し上げましたが、しかし他ならなぬ貴方がそれを望むのであれば、わたしに否やはありません。どうぞ、ご自身の信念に従って、道を邁進されてください」

 生真面目な様子のシェラの言葉に、ウォルは真剣な様子で頷いた。
 
「すまない。お前たちの温情に感謝する」
「でもさ、ウォル。お前がアイドルなんかを目指すことになった理由について、あの時は聞きそびれたと思うんだけど、よければ教えてほしい。いったいどうしてなんだ?」

 リィの、ある意味当然とも言える質問に、ウォルは口を一度開き、しかし苦笑を浮かべて首を横に振るだけだった。

「いや、それはしばらくの間、秘密にさせてもらおう。つまらない理由で、お前たちを失望させたくないからな」

 ウォルの言葉に、リィとシェラは顔を見合わせた。ウォルがアイドルを目指すという、それがどんな理由であったとしても失望したり嘲笑したりなどするはずがないのにと思ったのだ。
 しかし、ウォルは己の目的を語らなかった。いや、語ることができなかった。この二人が大切な友人であるからこそ、そして自分のことを大切に思ってくれているからこそ、語ることができなかったのだ。
 曖昧な笑顔でリィの質問を躱したウォルは、シェラの淹れてくれた紅茶を飲み干した後、二人に就寝の挨拶をしてから自分の部屋へと戻った。もちろん廊下を使うことはできないから、トカゲかヤモリのように壁を這い伝い、女子寮へと舞い戻ったのだ。
 部屋に戻ったウォルは、据え置きの端末を使い、実家であるヴァレンタイン家へと通信をつないだ。こちらはもう夜も遅い時間だが、確かあちらではまだ宵の口といった時間のはずであり、失礼にはあたらないはずだ。

『あら、ウォル、突然どうしたの?』

 通信に出たのは、ウォルの義理の母であるマーガレットであった。四児の母であるはずだが、肌は瑞々しく表情は豊かで、まるで少女のように若々しく見える。
 
「夜分遅くに申し訳ありません。実は、義父上と話をさせていただきたく、連絡した次第です」
『あら、そうなの?よかった、ちょうどアーサーも今帰ってきたところなの。すぐに呼ぶわね』

 通信の向こうで、アーサーを呼ぶマーガレットの声が響き、やがてリィの実の父親であり、ウォルの義父であるアーサー・ヴィルフレッド・ヴァレンタインが姿を現した。
 まだ、彼の仕事着であるスーツとネクタイ姿であるあたり、マーガレットが言っていた今帰ってきたばかりというのも本当なのだろう。

『やぁ、ウォル、しばらくぶりだね。元気な姿が見れて嬉しいよ。どうしたんだい?』
「実は、相談させていただきたいことがありまして……」

 義理の娘の真剣な表情に、アーサーは落ち着いて耳を傾けた。
 ノープス中央体育館での一件、ノーマンからTBSBに誘われたこと、そしてリィ達に自身がTBSBに加入すると告げたこと。
 一連の話を聞いたアーサーは、深い溜息を吐き出した。

『ウォル、君がエドワードと同じように、普通の子供じゃないことは十分理解している。だが、素行に問題のある格闘技選手に、正面から試合を挑むなんてやりすぎだ。万が一のことがあったらどうするつもりだったんだ』

 アーサーの良識あるお説教に、流石のウォルも黙って項垂れるしかない。
 以前の、惑星ヴェロニカの一件では、リィの家族たちには本当に心配をかけてしまった。エドワードもマーガレットも、ウォルが死んだと聞かされ、深い悲しみに打ちひしがれていたのだ。ウォルの生存を知らされて、そして元気なウォルが帰ってきたときは、アーサーもマーガレットも、涙を流してウォルを抱き締めてくれた。
 リィはアーサーのことを頑なに父親とは認めようとしない。それはウォルも理解しているが、それとは別の話として、ウォルはアーサーを義父として受け入れているし、そして感謝もしているのだった。
 そのアーサーから、心を込めたお説教をされれば、異世界の王であったウォルとしても、スーシャの山猿と呼ばれた幼少期に義父であったフェルナン伯爵から叱られたことを思い出して、恐れ入るしかないのである。

「面目次第もございません、義父上」
『いや、分かってくれればいいんだ。でも、本当に、もっと自分のことを大事にしてほしい。今のきみは女の子なんだし、ぼくやマーガレットの大切な娘なんだからね』
「――ありがとうございます。心の底から、感謝します」

 ウォルは画面の前で、深々と頭を下げた。
 それは感謝であり、今回の件の謝罪であり、そしてこれから自分が為そうとすることの謝罪でもあった。

『わかってくれてありがとう。では、お説教はこれで終わりだ。それともう一つの話だね』
「はい。私がTBSBに入局する件ですが……」

 画面の向こうのアーサーは、父親としての慈愛を込めて、優しく微笑んだ。

『ウォル、そちらは全力で応援させてもらうよ。正直に言うと、異世界の王様であり、エドワードのお嫁さんでもあるきみが、どういった将来を選ぶのか、楽しみであると同時に少し心配もしていたんだ。ぼくも、TBSB出身のジャーナリストの知り合いが何人かいるが、みんな立派な方ばかりだ。きみが将来、そういった道を選ぶつもりなら、今のうちからその世界に慣れ親しむことは有意義な事だと思う』
「しかし、義父上は、子供がテレビなどに出演することをあまり快く思われていないはずでは?」

 アーサーは頷き、

『例えば、エドワードやウォルの美貌を商売道具としか考えない、二流三流の芸能プロダクションで働くのは、好ましくないことだと思っている。そういう連中は、今の君たちの美しさを商品として売ることしか考えず、君たちの才能を育てることや、芸能界特有の誘惑や犯罪から子供を守ることを、二の次三の次にしか考えないだろうからね』

 アーサーの言葉に、ウォルも頷いた。
 ウォルのいた世界でも、美貌の少年少女は、芸の世界で重宝されたものだ。複数のパトロンが付き、蝶よ花よと愛でられた。
 しかし、芸の世界には誘惑が多い。禁制の薬物や未成年には相応しくない人付き合い、悪くすれば売春行為をあっせんされることも珍しい話ではない。
 その中で、才能ある子女を保護し、責任を持って大成するまでその才能を育てる大人がどれほど希少で貴重だったか、ウォルは熟知している。
 こちらの世界も、どれほど文明が発達しているとはいえ、所詮は人の営む世界であることに変わりはない。つまり、そのあたりの事情も同じだと、ウォルは理解していた。

『だから、僕は君がTBSBで、例えばニュースキャスターやレポーターとして活躍することに、何の反対もないよ。むしろ、自慢の娘がテレビで活躍するのは、父親として鼻が高い。周りの人間に自慢できるってもんさ』
「はい、義父上のお顔に泥を塗らないよう、精一杯精進したいと思います」

 勇ましさすら感じさせる真剣な表情で、ウォルは言った。
 どう聞いても、まだまだ子供と呼ばれる年齢の少女、そして誰しもが溜息しか出ないような美少女であるウォルが口にするには堅苦しい言葉だったが、アーサーは父親としての喜びを噛み締めながら微笑んだ。
 そして思った。

 ――ああ、この愛すべき娘の百分の一でもいいから、エドワードが自分を慕ってくれたなら!

 内心で、ちょっぴりそんなことを考えたアーサーであったが、口に出してはこう言った。

『もし、テレビ出演が決まったら絶対に放送時間を教えておくれ。例え仕事を休んでも、生放送でウォルの艶姿を拝みたいからね』
「艶姿とは……私はまだ14歳の子供ですよ?」
『いや、きっと君が画面に映ったなら、そういう表現が相応しい、大人の女性の美しさを体現してくれると思っているよ。本当に楽しみだ』

 その後、いくつかの他愛無い世間話を交わして、ウォルは通信を切った。
 ウォルは、人知れず小さく溜息をついた。
 はて、自分が為そうとしていることを愛すべき義父上が知ったら、果たして何と言うだろうか。
 もしかしたら、深く失望するかも知れない。全力で止めるのかもしれない。それとも、荒唐無稽な空想話として嘲笑われるだろうか。
 だとしても構わない。
 例えそれが自分の業なのだとしても、為すべきことは為さねばならない。
 それだけの話だ。
 ウォルは部屋の電気を消し、今日一日を終えるため、ベッドに横になった。



 翌日の放課後、早速ウォルはノーマンと連絡を取った。

「昨日いただいた、おれがTBSBに参加するというお誘いだが、正式に受けさせていただきたい」

 ウォルの言葉に、ノーマンは、携帯端末の向こう側で喜びを爆発させた。

『本当かい!よかった、ありがとう!本当に嬉しいよ!』

 どうして他人のウォルがTBSBに参加するという事だけでこうも喜んでくれるのか、ウォルには少し可笑しくもあったが、そこはノーマンという青年の純粋さなのだろう。ウォルという綺羅星が自分と同じ世界に立ち入ってくれたこと自体が、嬉しくて仕方ないのだ。
 ひとしきり感激を爆発させた後で、少し落ち着いた様子のノーマンに、ウォルは話を続ける。

「ただ、中等部生の若輩で、かつ、ずぶの素人のおれがこういったことを口にするのは分不相応だと理解しているのだが、実は、条件を二つ付けさせていただきたいのだ。お願いできるだろうか?」
『条件か。当然、僕の権限の範囲内で収まる話ならできるだけ叶えてあげたいけど……どんな条件だい?』
「まず一つが、おれの友人のことだ。あの時、格闘技場に一緒に居たから、もしかすると覚えておられるかも知れないが、おれには、傍目から見れば信じられないほどに美しい友人が、何人もいる」
『ああ、覚えているよ。あの厳めしい大きな男性以外は、全員が美男美女ぞろいで驚いた。正直に言えば、オリベイラ選手の取材よりも、君たちを取材したほうが視聴率が稼げるんじゃないかと、すけべ心が湧き上がったくらいだもの』

 あまりに率直なノーマンの感想に、ウォルは苦笑しつつ、しかし無理もないだろうなと思い、続ける。

「彼らは、おれのように、例えばテレビに映って名を売ったり、そういうことを望んでいない。あくまで、一般市民として、静かに生きることを望んでいる。だから、例えばおれを出汁にして、彼らをテレビの世界に勧誘したり、そういうことをしないでもらいたいのだ」
『なるほど、要するに、TBSBに参加を希望するのはあくまで君だけ、数珠繋ぎに君の友人を参加させようとか、そういうことは考えてはいけない。そういうことだね?』

 ウォルは携帯端末を持ったまま頷いた。

「それともう一つが、おれの名前のことだ。もしもおれがキャスターやレポーターとして活躍することができれば、世間におれの名前を売ることができる。そういうことで間違いないな?」
『うん、そのとおりだ。レポーターもキャスターも、取材やコメントの後で自身の名前を明らかにするのが慣例だ。それが、自分の報道に責任を持つということでもあるしね。それに、君くらい可愛ければ、間違いなくファンがつく。ファンの間で、君の名前は知れ渡ることになるだろう』
「ならば、その時の名前を、偽名にしても構わないか?」

 偽名というウォルの言葉に、通信の向こう側のノーマンも流石に少し驚いた様子だった。

『偽名を使うとは穏やかじゃないけど……君は、自分の名前を有名にするために、TBSBに加入したいと言ったよね。でも、有名にしたいのは自分以外の名前だと、そういうことかな?』
「正しく仰るとおりだ。無論、偽名といっても、荒唐無稽でとんちんかんな名前というわけでもない。その名前も、おれの名前の一つではあるのだ。だから、偽名というよりは別名というのが正しいかも知れない。どうだろう、難しいかな?」

 ノーマンは少し考え、

『……正直に言うと、あまり好ましいことではないと思う。ただ、色々な事情で、本当の名前を表に出したがらない学生がいるのは事実だ。例えば、自分の名前から、自身が資産家や王侯貴族の子女であることがばれてしまい、防犯上の問題があるという局員には、ステージネームの使用を認めるケースもある。さっきも言ったけど、ジャーナリズムにおける報道する側の責任という観点から言えば、褒められたことじゃないのは確かだけどね』

 ジャーナリズムは、一定の権力を保持した機関であることは間違いない。政治、立法、司法を監視し、その適性を判定するのが一つの仕事なのだから。その上、ジャーナリスト自身には、市民による選挙や信任などの過程を経ないのだから、より一層の自制と責任が求められるのは言うまでもない。
 であれば、その代弁者であるキャスターやリポーターが偽名で活動しているのでは、ジャーナリズムの信頼性に疑問が生まれかねない。極端な話ではあるが、自分の恣意で極端な報道を行い好き放題やっておいて、旗色が悪くなれば雲隠れし、ほとぼりが冷めてから別名義で活動するという無茶が罷りとおってしまう。
 TBSBは、学生の課外活動の一環ではあるが、曲がりなりにもジャーナリストの端くれを名乗っている以上、そういった無責任を許すわけにはいかない。だからこそ、その覚悟として、学生ではあるが、実名での報道を前提に活動している。
 
『……わかった。その点については、上に掛け合ってみよう。どうやら、君にも色々と事情があるらしい。もしかすると、例えば事件記者や政治記者のように、真実性の責任が強い仕事には就けないかもしれないけど、例えば僕が担当するスポーツ局のように、エンターテインメント性が強い仕事なら問題ないだろう。それでも構わないかな?』
「ああ、ノーマンどのの寛容と配慮に深く感謝したい」
『当然、一つ目の条件の、君の友人を無理にTBSBに勧誘したりしないという条件は、厳重に守らせてもらう。全ての局員に、彼らに対する一切の勧誘活動を厳禁するよう、通達しておくよ。確かに君の友人はとても魅力的だけど、正直、僕には君が一番光り輝いて見えたんだ。宝石の群れに目が眩んで、一番美しい太陽が岩戸に籠ってしまいましたでは、あまりに情けないからね』
「おれのことを買ってもらっているのは嬉しいが、卿の言い方はなんとも大仰だ。あまり期待されると、重圧で推し潰れてしまいそうだぞ」
『本当にプレッシャーにやられる人間は、そういうことを口にしないものだよ。僕の経験からするとね』

 ノーマンはくすくすと微笑っていた。
 
「では、あらためてノーマンどの、色々とご迷惑をおかけするかと思うが、よろしくお願いする。手続きなどは、どうすればいいのかな?」
『手続きは、後日で構わないよ。その時、君の歓迎会なんかも開催できればと思う。ただ、フィナくん、今日、何か予定が入っていたり、明日の課題で手が放せなかったり、そういう事情はあるかな?』
「いや、時間を作ろうと思えば出来なくもないが……どうされた?」
『実は、今日、有名なスポーツ選手のインタビューの仕事が入っている。もし君がよければ、見学に来ないかい?君がアナウンサーやレポーター志望なら、実際の現場を見ておくことは無駄にならないと思うんだ』

 なるほど、ノーマンの言葉には一理ある。ウォルにしてみれば、TBSBという活動がどのようなものなのか不勉強だし、そもそもこの世界の常識に疎いところもある。
 こないだのノープス中央体育館での出来事も、有名スポーツ選手のインタビューだったわけだが、結果があのようなことになってしまったため、正式なインタビューがどのような手順でなされるのかは知っていたい。その現場を見ることができれば、今後のための勉強にもなるだろう。
 それらの事情を覗いても、単純に課外活動として有意義なものであるのも間違いない。

「ノーマンどのがご迷惑でないなら、是非ともお願いしたいな」
『君ならそう言ってくれると思っていたよ。取材は、先方の大学のクラブハウスで行うことになっている。幸い、アイクライン校のお隣さんだ。移動にそう時間はかからない。君の学校の、そうだな、図書館前のバス停で、30分後に落ち合おう。それで構わないかな?』

 ウォルはノーマンの口にしたスケジュールを承諾して通信を切り、一路、図書館へと急いだ。
 アイクライン校の放課後の校内は、学生らしい、少し浮ついた雰囲気が流れている。授業の緊張から解放された学生の話し声、笑い声、今日の授業が難しかったことに対する愚痴や溜め息などがそこかしこから聞こえてくる。

「ムーア教授の歴史学、まさかあのタイミングで、共和宇宙連邦初期のパワーバランスについて意見を求めてくるかね。そんなの、予習の範囲になかったぞ。いくらなんでも反則だよ」
「仕方ないさ、あの人の投げる変化球は、毎年鋭さを増してるって話だもの。災難だったと思って諦めろよ。それより、今日はロッドの練習試合なんだろ?気合入れなおして頑張って来いよ」

 そんなことを言いながら、気分を切り替えて、クラブ活動や課外活動へと繰り出す準備をしたりしている。
 学生達の愚痴も、仕方ないものだろう。連邦大学の授業は、中等部であっても、ただ先生の話に耳を傾けてノートにペンを走らせ、テストでそこそこの点数を取ればよいというものではない。課題に対して自身の意見を持ち、それを積極的に発言し、他の生徒の意見や教授の言葉を噛み砕いて理解するといった、より深い学習が求められる。中等部でも、レポートや論文の課題も普通に出されたりもする。
 並みの中学生なら目を回して、両手をあげて降参しても不思議ではない状況で、多少の不満をこぼしながらではあっても、しかしそれらの授業をこなしつつ課外活動まで行う連邦大学の学生は、やはり共和宇宙のエリート揃いではあるのだろう。
 彼らを横目に、街路樹の日陰となった歩道を、ウォルは足早に歩いていく。日差しも結構強くなってきたこの時期、若葉を豊かに茂らせた街路樹の木陰はありがたい。人工的な冷房も悪くはないが、ウォルにとっては、木陰を渡るそよ風か何より心地よかった。
 しばらく歩くと、赤い煉瓦造りの、大きな建物が視界に入った。アイクライン校の、中高共同施設である図書館だ。これから何か調べ物でもするのか分厚い鞄を抱えた学生が、自分と同じく図書館を目指して歩いている。
 ウォルは、きょろきょろと辺りを見回した。普段、あまり図書館には足を運ぶことがないので、この辺りには些か不案内である。
 少し不安げな表情であたりを伺う美少女というのはなんとも男の庇護欲を刺激するものだが、周りの男子学生は声をかけることはなかった。
 それは、彼らが不親切だったからでも、勇気がなかったからでもない。ただ、ウォルの濡れ鴉のように艶やかな黒髪が、新雪のようにきめ細やかで真白い肌が、精巧な人形よりも整った顔立ちが、あまりに美しすぎて、自分と同じ世界に住む生き物とは思えなかったからだ。
 ただ、ウォルに見惚れる学生の群れの中で、一人、こちらも街中を歩けば十人中十人が振り返るほど怜悧な美貌の男子学生が、ウォルの姿を遠目に発見し、驚愕の色をその表情に浮かべた。
 その様子を見ていた彼の友人が、『氷の貴公子』とまで呼ばれる友人の、普段は見せない様子に少々の驚きを交えて、問いかけた。

「どうしたんだい、ヴァンツァー」
「……いや、何でもない」

 ヴァンツァーと呼ばれた少年はそう応えたが、しかし何でもないことはないのは、傍目にも明らかであった。
 なぜなら、彼の目には、遠目に映るその少女が、自分のよく知った人物--おそらくは、人類というカテゴリの中では最も危険な存在の二人のうちの一人である--にしか見えなかったからだ。
 しかしヴァンツァーの表情が緊張したのは本当に一瞬の出来事で、次の瞬間には表情を消していた。

「すまない、スティーブ、用事を思い出した。図書館での調べものは、一人で頼む。無論、埋め合わせはする」
「えっ、ちょ、ヴァンツァー?」

 ヴァンツァーは、野生の獣も恥じ入るほどに気配を消して、その場を立ち去った。
 自身を最大級の警戒とともに観察していたその少年の存在にはついぞ気がつかなかったウォルだったが、待ち合わせをしていた人物であるグレッグ・ノーマンはすぐに見つかった。
 ノーマンは、図書館の正門のすぐ横でウォルを待っていた。薄緑色の半袖シャツにアイボリーのスラツクスという初夏向けの出で立ちで、見るからに涼やかである。周りの学生達が中等生、高校生中心なので、大学生である彼は、よくよく見れば少し目立つ様子だ。

「ノーマンどの」

 ウォルが駆け寄ると、ノーマンは嬉しそうに手を振った。
 ひょろりと高い身長、見る人によって臆病とも柔和とも取れる少し垂れ目がちな顔は、意外と整っていて、男前の一歩手前と言ったところか。銀縁のメガネと合わせて、ジャーナリストというよりは科学者か研究者のほうが似合いそうな面持ちだ。
 おそらく撮影機材が入っているのだろう、少し大きめのリュックを背負っているが、狭い肩幅とあいまって、どうにも大儀そうな印象を与えている。

「やあ、フィナくん。突然のお願いで申し訳なかったね。そして、よくぞTBSBへの参加を決めてくれた。全ての局員を代表して、歓迎するよ!」

 その熱烈な様子はウォルを今にも抱きしめんばかりであったが、こんなところで中等生に抱きつく大学生など、即刻通報され警察のご厄介になるところだ。
 その点、ノーマンは愚かでも変質者でもなかったので、ウォルを抱きしめたりはせず、柔らかな笑みを浮かべただけだった。ただ、周囲の生徒たちは、ウォルの輝くような美しさとノーマンの冴えない様子を見比べて、若干訝しげな様子であったが。
 弾むような足取りでノーマンに相対したウォルは、表情をあらためて、深く腰を折った。

「これからお世話になります。ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインでございます。前にも申し上げましたが、ロストプラネット出身も同然の常識知らず、右も左も分からぬ田舎者故、色々とご迷惑おかけすることもあるかと思いますが、どうぞよろしくご指導ご鞭撻いただければと思います」
「うん、こちらこそよろしく、フィナくん。確かに、君がTBSBに加入した以上、僕は君の先輩だ。いくらでも頼ってくれて構わない。でも、そういうふうにかしこまってもらう必要はないよ。さっきまでの君の話し方で構わないからね」

 ノーマンは柔和な微笑みを浮かべて言った。
 なるほど、中々堂に入った先輩ぶりである。居丈高になるでも、変に卑屈になるでもない。これなら、きっと多くの後輩に慕われているのだろう。ウォルは、この少し冴えない青年に好感を覚えた。
 しかし、当のノーマンはウォルから視線を外し、何やら落ち着かない様子である。
 そして、腕時計で時間を確かめ、ちらちらと周りを確認する。
 ウォルは気遣わしげに、
 
「誰か、他にも同行する方がおられるのか?」
「うん、ミラっていう女性局員なんだけど、今日のインタビュアーをしてもらうんだ。彼女はアイクライン校の高校生だからね、本当は君より早く集合する予定だったんだけど……何かあったのかな……」

 心配そうに眉根を寄せながら、ノーマンは携帯端末でどこかに連絡を取る。しばらく端末を耳に当てるが、やがて首を横に振った。

「駄目だ、繋がらない」
「どうなされる?」
「そろそろ出発しないと、約束の時間に間に合わない。とにかく、僕達だけでも現地に向かおう。もしかしたら連絡に不手際があっただけで、ミラも先に向かっているかも知れない」
 
 若干の焦りを滲ませながら、ノーマンはウォルを伴って、ホプキンス大学行きの学内バスに乗り込んだ。



[6349] 第百四話:その名前
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/06/19 22:19
 ウォルとノーマンが乗り込んだバスは、幸いと言うべきか、乗客がちらほらといった様子だったから、二人は一番後ろの座席に座ることができた。重たい機材を肩から降ろすことができたノーマンは、文字通り一息つくことができた。  
 アイクライン校とホプキンス大学は立地的にも近接しており、交流も密である。アイクライン校の高等部からホプキンス大学に進学する生徒は多いし、ホプキンス大学はスポーツの盛んな大学なので、ホプキンス大学のスポーツイベントにアイクライン校の学生が参加することもしばしばだ。時には、合同でパーティーイベントを開催するようなこともある。
 だから、ノーマンなどは、バスは混み合っていると思っていたのだ。立ったままでもそれほど時間のかかる行程ではないが、落ち着いて資料を読めるならそれに越したことはない。
 ただ、今はどちらかと言えば、折角の有名スポーツ選手の取材現場に姿を見せない、女性スタッフのほうに気を取られているようだ。何度も携帯端末を確認する姿に、ウォルは彼がやきもきしているのがよく分かった。

「まだ連絡はないのか?」

 ウォルが、車内用にひそめた声でそう訊くと、

「うん……どうしたんだろう、今までこんな事、一度だってなかったんだ。もしも体調不良とかなら、必ず連絡を入れてくる、ミラはそういう子だ。大丈夫かな、もしや彼女の身に何かあったんだろうか……」

 ノーマンは心配そうに俯いた。
 ウォルは頷きつつ、しかし同時に、ノーマンの言葉に少し違和感を覚えた。彼女の身に何かあったのかという言葉が、例え約束の時間に姿を現さないスタッフを心配しているのだとしても、少し不穏当なものに感じたのだ。
 もしかすると、ノーマンには、ミラという女性がこの場に姿を見せないことについて、何か心当たりがあるのだろうか。そして、それは彼女の身の安全に関わるような、物騒なことなのか。
 ただ、それは今、ノーマンに問いただすたぐいの質問ではない。まずは、差し迫った目の前の問題に対処するのが先決だ。

「ノーマンどの、おれが口を出す筋合いではないのかも知れんが、もしも、そのミラという女性が来られなかったことを考えるなら、代役を用意しておかなければ不味いのではないか?」
「君の言うとおりだ。でも、TBSBもそれほどスタッフが潤沢というわけではないからね、今からこちらに回してもらえる臨時スタッフは確保出来ないだろう。そうなれば、仕方ない、僕がインタビュアーをやるしかないね」
「今回の取材のスタッフは何人?」
「本当は僕と彼女だけだったんだ」
「なら、カメラや機材なども、全てノーマンどのが準備することになるのか?」

 驚いた様子のウォルに、ノーマンは事も無げに頷いた。

「大手のマスメディアならいざ知らず、学生テレビなんてそんなもんだよ。オリベイラ選手の時はあの回の放送の目玉だったからね、スタッフもいつもより多かったけど、本当なら、今回の取材も僕一人の予定だったんだ。それが、報道局所属のミラにインタビュアーをお願いしたのは、スタッフの数以外にも事情があったからなんだ」
「事情?」
「見るかい?今日の取材の台本だ」

 ノーマンは鞄から、無骨な冊子を取り出した。
 ウォルは少し驚いた調子で、

「台本?取材に台本などあるのか?」
「勿論、飛び込みの取材や突撃取材なんかは用意されていない。でも、今回みたいに時間と場所を決めてする取材は、ある程度取材する側もされる側も、打ち合わせをしていることがほとんどだ。でないと、話が明後日の方向に進んで収集がつかないこともあるし、大事なところを押さえられないこともあるからね」

 そんなものかと思いつつ、ウォルは、ノーマンから手渡された台本をぺらぺらとめくる。
 そこには、今回の取材対象の経歴、取材に至った経緯、取材のポイントなどが分かりやすく列挙されていた。
 おそらくノーマンの手書きだろうといういくつもメモが書き入れられ、色とりどりの附箋が貼られ、その熱意の程が伺い知れる。
 内容を理解するにつれ、なるほど、この取材が、単に結果を残したスポーツ選手に対するそれではないことを理解した。インタビュアーに、スポーツ局担当の男性であるノーマンではなく、社会問題や事件を取材する報道局担当のミラという女性が相応しい理由も。
 
「なるほど、確かにこの内容なら、男性であるあなたよりも女性の方が相応しいといった理由がよくわかるな」
「でも、もしもミラが来なければ仕方ないからね。少し画は弱くなるけど、僕がインタビューすることになるだろう。フィナくん、折角来てくれたのに、中途半端な仕事を見せてしまって申し訳ないね」

 ウォルは残念そうなノーマンの様子に、しかし朗らかに微笑み、

「ノーマンどの、これはもし、そのミラという女性が取材現場に現れなかった場合の話なのだが……もしあなたやTBSBという組織として問題がないなら、おれが今回の取材のインタビュアーをするのはどうだろう?」
「君が!?」

 ウォルの申し出に驚いたノーマンが、思わずウォルの顔を覗き込む。
 もしかすると、この少女なりの冗談かと思ったのだ。ひょっとしたら、思春期の少女が、使命感に駆られて身の丈に合わない仕事に立候補したのかとも考えた。
 しかしウォルの表情は、冗談を口にしたふうでもなければ、不自然に力むでもない。あくまで自然に、自信に満ち溢れた笑みを浮かべている。

「……君は今まで、インタビュアーをしたことがあるのかい?」

 当然ともいえるノーマンの問いに、

「あなたの言うところのインタビュアーをしたことはないな。しかし、会ったこともない人と顔を合わせ、話を訊いたり本音を引きずり出したり、厄介な交渉事をまとめたりするのは得意中の得意だぞ。何せ、長いことそれで飯を食ってきたようなものだからな」

 そう言って胸を張ったウォルである。
 無論、少女としてのウォルの話ではない。あちらの世界で、王として君臨していた頃の、ウォルの話である。
 例えば、戦の論功行賞。目覚ましい戦働きをした家臣には、当然のことながら褒美を与えなければならない。金銀財宝の場合もあるだろうし、領地の場合もある。しかし、与えられる褒美には限界がある以上、そして各人の働きには大小がある以上、誰にどの程度の褒美を与えるべきか、その判断は重要になる。それが不公平だと思われれば、王の統治への不満に繋がり、将来への禍根となりかねない。
 また、日々の業務として、各地の貴族の諍いを収めることも重要であった。それは領地の境のもめごとであったり、水利権の争いであったり、種類は千差万別である。また、貴族といっても、名前は知っていても顔は知らない場合など珍しくもない。彼らには、それぞれもっともな主張があり、一聞すればいずれの主張も正しく思える。しかし、間違いなく腹の中には一物を隠し持っているのだ。そんな人間の言い分に耳を傾け、そして万人が納得する裁きを下すのは、当然ながら容易なことではない。
 物事の本質を大づかみする理解力。相手の言い分の正当性を見極める洞察力。何より、こちらの判断を正当なものだと相手に思わせる交渉力と説得力。
 それらの力が無ければ、如何に不敗の闘将であったウォルとはいえ、その治世を盤石のものにはできなかったに違いない。そしてウォルはそれらの困難事を、まるで当然のように、日々こなしてきたのだ。
 であれば、たかがインタヴュアーとして相手の話を訊き、その本音を引きずり出す程度、何程のことがあろうか。
 そんな事情は露ほども知らないノーマンであったが、しかしウォルの自信満々な様子と、失敗しても元々であるというある種の開き直りがそうさせたのだろう、彼は少し心配そうではあったが、頷いた。

「わかったよ、フィナくん。君に任せよう。もしも失敗しても、僕がフォローすればいいだけの話だし、今回の取材対象は僕の知り合いなんだ。気のいいやつだ、少々の不手際でへそを曲げるようなこともないだろうしね」

 その言葉を聞いたウォルは頷き、台本をノーマンへと返した。
 ノーマンは、怪訝な顔をする。

「どうしたんだい?さっきも言ったけど、今回の取材は台本ありきだ。もう、ホプキンス大学まで時間もない。少しでも読み込んでおいて欲しいんだけど……」
「大丈夫。もう覚えた」

 事も無げに言ったウォルである。
 これには流石に唖然としたノーマンが、疑わし気な調子で訊き返す。

「……本当に?僕には、ぱらぱらと飛ばし読みしていたようにしか見えなかったんだけど……」
「さっき言ったように、厄介な交渉事をまとめるのも得意だが、こういう台本を読んで、事前の取り決め通りに振る舞うのも仕事の一つだった。信頼してもらって構わない」

 これも、王だったウォルの日常の仕事である。
 他国の使節団との夜会、戦勝記念日の儀式など、各種式典では、王は事前に取り決められた段取りに従って、祝辞を延べ、貴賓と談笑し、無事に儀式を成功へと導かなければならない。その際、儀式の流れを決めるのは家臣の仕事だが、それを理解し、いわば操り人形としてその流れを成功に導くのはウォルの仕事だった。
 ならば、この程度のインタビューの台本を覚えるなど、如何ほどのこともない。要点を掴んでしまえば、後は自分の判断で事を進めて構わないのだ。むしろ、自分の裁量の幅が大きい分、簡単であるとすら言える。

「ノーマンどの、それよりも、この選手の試合映像があれば見たいのだが、お願いできるか?それに、フットボールのルールも、実はあまり詳しいところは知らないのだ。フットボール選手に取材するのに、そのルールすら理解していませんでは失礼そのものだ。それをご教示いただけるとありがたい」
「……わかった。あまり時間はないから、早送りの映像と駆け足の講義になるよ。それでもいいかい?」
「ああ、三倍速で構わんぞ」

 臨時の打合せ室のようになったバスの後部座席で、二人は熱心に言葉を交わした。



 ウォルとノーマンは、ホプキンス大学前駅で止まった学内バスから下車した。
 バス停の周辺を伺うが、やはりミラの姿はどこにも見当たらない。ノーマンは重たい溜息を吐き出し、携帯端末でどこかへと連絡を取った。

「――うん、そうなんだ、ミラが取材現場に姿を見せない。先方との約束もある、僕はこのまま取材を続けさせてもらう。申し訳ないけど、そっちはミラと連絡が取れないか、確認してほしい。万が一の時は……ああ、そうしてほしい……」

 通信を切ったノーマンは、ウォルの方へ向き直り、気持ちを切り替えた様子でホプキンス大学の校門を潜った。
 守衛室で来客用のIDカードを受け取った二人は、TBSBの局員証と一緒に首から下げて、ホプキンス大学の広い敷地を一路目的地へ急いだ。
 途中、幾人もの学生とすれ違う。当然ではあるが、アイクライン校と違って、ほとんどの学生が大学生だから、顔立ちも体格も、ほとんど大人と言っていい学生ばかりである。
 そんな彼らが、ウォルの姿を認めるや、茫然とした表情で立ち止まり、視線と意識を奪われる。アイクライン校では既にそれと知られた美少女のウォルだったが、ホプキンス大学ではそうとはいかないから、かなりの人間がウォルの美貌に足を止めてしまうのだ。
 自身の美しさを誇るでもないウォルは、先程のバスの中でインプットした情報を整理しつつ、インタビューの展開をシミュレートしながら、真剣な調子で歩いている。
 果たしてフットボール部のクラブハウスはすぐに見つかった。その建物はウォルが想像したよりも大きなものだった。それもそのはず、ロッカールームやシャワールームは勿論、ミーティングルームに監督やマネージャー用の個室まで備えており、一見すればそれが一つのクラブのための建物にはとても見えないほど立派な造りだった。

「ノーマンどの、おれはまだこの世界の常識に疎いのだが、一つのクラブ活動にこれほど大きな建物を用意できるほど、この大学の予算は潤沢なのか?」

 建物の大きさから予算の規模に思いを馳せるあたり、普通の女子中学生とは思考パターンが大きく違うウォルであるが、ノーマンは真面目な調子で答える。

「普通の大学のクラブ活動やサークル活動で、これだけの規模のクラブハウスを用意するのは、確かに難しいだろう。だが、ホプキンス大学のフットボール部は、連邦大学でも有数の強豪チームだからね。連邦大学の学生だけじゃなく、他の星にもファンがいるし、他の星に招待されて試合をすることもある。そういった試合の報酬や放映権料、グッズの収入なんかは大学側が管理することになる。だからこういう立派な施設を維持管理できるってわけだね」

 なるほど、とウォルはあらためてフットボール場を見渡す。
 色違いのビブスを身に着けた部員たちが、敵味方に別れて試合形式の練習を行っている。その表情は真剣そのもので、まるで実戦さながらの強い当たりのプレーをしていたりする。その横では、走り込みは筋力トレーニングの基礎練習を黙々とこなしている部員もいる。
 そのいずれにも共通しているのは、全員が真剣に練習に取り組んでいることだ。コーチや監督が激しい檄を飛ばす中、誰一人不服な顔を浮かべるでもなく気を抜くでもなく、練習に集中している。
 フットボール場の周りには、たくさんのファンらしき女生徒がいて、黄色い声援をお目当ての選手に向けて飛ばしている。年頃の男子学生であれば、その声援に応えて愛想をふりまいたり、そうでなくても意識の一つも取られて集中力を削がれてしまうのがむしろ普通のように思えるが、そんな選手は一人もいない。

「確か、このチームが活動を再開できたのは、ついこないだのことだったのだな」
「ああ。事件後、しばらくはチーム単位で謹慎処分を出されていたからね。TBOにもそれが原因で出場できなかった。もしも出場していれば、優勝候補の一角であったことは間違いない」

 二人は正面入口からクラブハウスの前でしばらく待っていると、フットボール場から一人の選手がこちらへと歩いてくるのに気が付いた。それに気が付いた女生徒が、一際大きな歓声を上げるが、その選手は軽く手を挙げて応えただけで、淡々とした表情を崩したりはしなかった。
 ウォルは、それが、今回の取材対象であるキアラン・コードウェルであることに気が付いた。事前に読み込んだプロフィール写真では、洒落た長髪の伊達男といった風貌だったが、今は髪をばっさりと短くし、その視線も心なしか鋭いものになっている。
 激しいトレーニングの結果として全身を汗みずくにしたキアランは、TBSBのキャスターであり、友人でもあるノーマンに対して、気安く挨拶をした。

「やぁ、ノーマン。久しぶりだね」
「キアラン、忙しい時期に取材を受けてくれたことをあらためて感謝するよ。本当にありがとう」

 キアランは、ノーマンと固く握手すると、ノーマンの横に立ったウォルに目を遣る。
 ウォルは、キアランに対して一礼した。

「ところでノーマン、こちらの可愛らしいお嬢さんはどちらだい?どうやら、僕のファンっていうわけじゃなさそうだけど」

 もしもキアランのファンなら、憧れの選手に会えた喜びで、もっと目を輝かせるはずだ。キアランは確かにスター選手だったから、今までもそういったことが何度もあった。だからこそ、ウォルの落ち着いた素振りから、自分に会いたがってノーマンに無理を言ったような少女ではないと理解したのだ。

「この子は、TBSBの若手局員だよ。なんと、今日入局したばかりだ」
「フィナ・ヴァレンタインと言います。本日はよろしくお願いいたします」

 ウォルがあらためて一礼すると、キアランは納得の笑みを浮かべ、ウォルに右手を差し出した。

「キアラン・コードウェルだ。もしかすると、今日のインタヴュアーは君なのかな?」

 キアランの差し出した右手を握り、ウォルは微笑みながら頷く。

「はい、仰る通りです。若輩者ですが、精一杯務めさせていただきます」
「そうか、お手柔らかに頼むよ……ちょっと待って、ヴァレンタイン!?」

 笑顔のまま固まったキアランの表情が、少しずつ強張り、そして恐怖に近いものになる。
 そして、握手した右手にじとりと汗を滲ませながら、

「ひょっとして君は、あのヴィッキー・ヴァレンタインの関係者かい?」

 練習の結果ではない、精神性の冷や汗を掻きながら、そんなことを言った。
 いきなり、予想外の場所で予想外の名前を聞かされたウォルは、些か驚きながら、正直に首を縦に振った。

「はい、私はヴィッキー・ヴァレンタインの妹ですが……どうしてあなたがその名前を知っているのですか?」
「いや、あの、なんていうか、もう、その、色々とあってね……」

 キアランは引き攣った笑みを浮かべ、数歩後ずさった。彼の脳裏には、リィの姉であるドミューシアを公衆の面前で侮辱したことから始まった一連の事件、そしてその顛末として、リィにロッドで叩きのめされた苦い思い出が浮かんだのだ。
 しかし、流石にノーマンの手前、悲鳴を上げて逃げ出すことは堪えたキアランは、なんとか姿勢をただし、ウォルに相対する。

「お姉さんもそうだったけど、君も、ヴィッキーには似ていないね……いや、雰囲気は寧ろそっくりかも知れない。こんなことを言うと、またヴィッキーに酷い目にあわされそうだけど……」

 言葉の端々に苦いものを含んだキアランの台詞で大方の事情を察したウォルは、苦笑するほかないといった表情で微笑った。

「私は、確かにヴィッキー・ヴァレンタインの妹ですが、血は繋がっていません。義理の妹ですから、容姿が似ていないのは当然でしょう」
「そうだったのか。実は、僕は君のお姉さん……ドミューシアくんに、酷い暴言を吐いたことがある。それを、ヴィッキーにたしなめられたんだ」

 たしなめられた、とは、些か穏便に過ぎる表現だろう。正確には、ロッドの試合で、思い切りぶちのめされたのだ。
 試合の前に、リィとドミューシアの間で成立した『骨を折らない』、『歩いて家まで帰れる程度で済ませる』という約束は守られたが、それでも、かつてはロッドで高校生の全国大会3位に入賞したキアランの自尊心と身体は、美少女も裸足で逃げ出すほどに美しい中等部生に、文字通りズタボロにされたのである。
 そして、キアランがまともに動けるようになったのは、リィとの試合の後、たっぷり二週間後のことだった。もしもリィとドミューシアの間の約束がなければ、その期間は倍以上になっていたこと疑いない。
 実は、それ以外に、もっと手酷い方法で、キアランの主に恋心はリィの手でずたずたに痛めつけられているのだが、それがリィの仕業だとキアランは気が付いていない。
 
「こんなことを初めて出会った女の子に聞くのもおかしな話だけど……君も、ロッドをするのかい?」

 恐る恐るといったキアランの質問に、ウォルは事も無げに答える。

「ロッドという種目に造詣はありません。ただ、素手での戦いであれば、リィ――あなたの言うヴィッキーと、だいたい互角といったところでしょうか。剣での勝負なら、勝ち目がないとは言いませんが、到底一筋縄では勝てないでしょうね」

 冷静な口ぶりから、目の前の少女は、おそらく『あの』ヴィッキーとほぼ同じくらいの腕前ということが十分理解できた。
 つまり、この子も常人の尺度では測れない、人外生物のうちの一匹だということだ。

「そ、そうか、最近の中等部の学生は、みんな腕っぷしが強いんだね、先輩として鼻が高いよ……」

 言葉と相反して、猛獣に恐れおののくようなキアランの表情であった。
 妙に親し気な、それとも探り合うような二人の会話を聞いていたノーマンが、小首を傾げながら、

「キアラン、君はフィナと知り合いだったのかい?」
「いや、この子とは正真正銘、今日が初対面だよ。ただ、この子のお姉さんとお兄さんには些か因縁があってね……」
「因縁?」
「TBSBに所属している君だ、アイクライン校の有名人であるヴィッキー・ヴァレンタインのことは知っているだろう?」
「ああ、もちろん。面識はないけど、噂は聞いている。確か、見事な金髪と綺麗な緑色の瞳の、凄い美少年だって……」
「この子のお兄さんが、そのヴィッキー・ヴァレンタインだよ」

 その言葉を聞いて、今度は目を剝いたのはノーマンであった。

「フィナ、本当かい!?」

 ノーマンの反応に、むしろ驚いたのはウォルのほうであった。
 確かにリィが目立つ容姿をしていることは理解しているウォルだが、年上でしかも学校の違うノーマンやキアランをしてこうも驚かせるほど、リィが有名人だとは知らなかったのだ。

「ああ、そのとおりだが……」
「……そうか、あの時、一緒にいた金髪の子が君のお兄さんか……なるほど、君が入局の時に、条件を付けた理由がよくわかるよ。確かに、君があのヴィッキーの妹だと知られれば、芸能局の連中が黙ってはおかないだろうからね」

 ノーマンは苦笑した。
 それでも、『なら君のお兄さんもTBSBに!』と言い出さないあたり、この青年の自制心はそれなりのものなのだろう。普通なら、一匹目のドジョウを釣り上げれば二匹目も、と思うのが人情だ。
 とにかく、三人は一応の挨拶を終えて、クラブハウスのミーティングルームに場所を移した。
 途中、ノーマンが、トレーニングウェアのままのキアランに、

「キアラン、僕たちはミーティングルームで待たせてもらうよ。シャワーと着替えを済ませてきてくれ」

 そう言ったが、キアランは首を横に振った。

「いや、もしも君が構わないなら、このまま取材を済ませたい。正直、着替えの時間が惜しいんだ」
「トレーニングウェアのまま取材を受けるのか?洒落ものの君らしくないな。今まで、取材のときはきちんと正装で受けていたはずだろう?それとも、この後、何か大事な用事でもあったのか?」
「大事といえば、この上なく大事だ。もちろん、トレーニングを再開するんだよ。フットボール選手の僕に、それ以上大事なことなんてあるはずないだろう?」

 キアランの言うことはもっともではあるのだが、ノーマンは違和感を拭えなかった。彼の知るキアランという男は、優れたフットボールプレイヤーではあったが、同時に洒脱で、悪く言えば軽薄なところがある男だった。キアランの華々しい女性遍歴も、それを裏付けている。
 彼のことを好ましく思う人間からすれば、それはキアランの持つ人間臭さの現れであり、嫌う人間からすれば不純なところであったはずだ。
 だが、今のキアランに、そういった、浮ついたところは感じられない。短く刈り込んだ頭や、まっすぐな視線と合わせて、一途にフットボールに取り組もうとする純粋さが感じられる。
 それに、よくよく見れば、キアランの顔つきにも変化がある。フットボールの選手らしく、元から絞られた体つきのキアランではあったが、今は更に無駄な肉を絞り、顔つきは頬をこけさせるほどに鋭いものになっている。
 ノーマンは、半年という謹慎期間の間に、キアランの人間性に変化を生じさせる何かが起こったのだと理解した。

「分かった。君がそれでいいなら、僕たちに否やはない。早速始めさせてもらうとしよう」
「ああ、頼むよ」

 ウォルとキアランは、来客用のテーブルに向かい合わせに腰掛ける。二人を当分に捉えるように、ノーマンはカメラをセッティングし、マイクも速やかに設置した。
 シャツとスラックスという女性らしからぬ服装のウォルと、トレーニングウェアのままのキアランという、些か変わった絵面ではあったが、二人ともカメラ映えするので、これはいい取材になるかもしれないとノーマンは期待した。

「オーケー、準備は完了だ。それじゃあ始めよう。3・2・1――」



「皆さん、こんばんは。スポーツスチューデントトゥデイの時間です。本日はホプキンス大学フットボール部クラブハウスからお送りいたします。そして、本日のゲストは、ホプキンス大学フットボール部のキアラン・コードウェル選手です」
「こんばんは、今日はよろしく」
「こちらこそよろしくお願いいたします。さっそくですが、先日行われたロワール大学との交流戦におけるキアラン選手の活躍は目覚ましものがありました。1つのゴール、2つのアシストという素晴らしい結果以上に、あなたのプレーは常にアグレッシブで、ゲーム全体を支配するものだったと高い評価を受けています。今回の試合結果に対するご自身の感想をお聞かせください」
「まず伝えたいのは、今回の結果は、僕自身の力によるものではなく、ホプキンス大学フットボール部のチーム全体が、一つの目標に向け、集中してプレーをした結果によるものだということです。単純に点数だけを見れば、3対0の勝利でした。一方的な結果だったと言うことが出来るかも知れません。ですが、ロワール大学のプレーヤー達も素晴らしい動きでしたし、この結果が真逆のものだったとしても少しも不思議はありませんでした。それでも僕達が彼らに勝る点があったとすれば、それはこの一戦にかける集中力であり、目標へと向けたチームワークだったと思っています」
「勝利は、ご自身の活躍の結果によるものではなく、チームの結束よるものだということですか?」
「おっしゃるとおりです。今のホプキンス大学は、本当にまとまっている。みんなが同じ目標に向けて、毎日集中してトレーニングが出来ている。最高の状態だと思っています」
「専門家の中には、キアラン選手のプレースタイルの変化を指摘する声も少なくありません。以前 のキアラン選手のプレースタイルは、華麗でファンタジックで、ファンを魅了するものでしたが、反面、失礼な言い方になりますが、無理なものは無理と割り切ったようなプレーが多かったと思います。しかしこの試合のあなたは、泥臭く、必死にボール追いかけ、最後の最後まで諦めなかった。その必死さが、ゴールに繋がる場面もありました。何がキアラン選手のプレーを変化させたのでしょうか?」
「ええっと……そうですね、ちょっとした心境の変化です」
「心境の変化と仰いますが、それにしてはキアラン選手の変わり方があまりに大きいという意見もありそうです。あなたのトレードマークだった長髪も思い切って短くされ、身体もかなり絞っておられますね。それも心境の変化だけですか?」
「まいったな……ええ、正直に言いましょう。これは、僕が、皆さんもご存知のホプキンス大学フットボール部前代未聞の不祥事で謹慎処分をいただく前の話なのですが……こんなこと、言っていいのかな?」
「差し支えなければ、是非教えてください」
「僕は、一流の人間になりたいと、そう思ったんです」
「キアラン選手、お言葉ですが、あなたは一流のフットボールプレイヤーです。それは誰しもが認めるところであり、そう評されるだけの結果を残してきた。違いますか?」
「いえ、違います。少なくとも、本当の一流ではない。そう気が付いてしまった」
「詳しくお話いただければと思います」
「実は、ジンジャーの舞台を観に行ったんですよ。『ブライトカーマイン』、ご存じですか?セントラルのアレクシス劇場で上演された……」
「いえ、大変失礼ですが、存じ上げませんでした。ちなみにキアラン選手、それはお一人で観劇された?」
「黙秘権の行使は認められる?」
「残念ながら、ここは警察の取調室でも裁判所でもありません。どうか諦めてください」
「ええ、ええ、一人ではありませんでしたよ。二人で観に行きました」
「お連れ様は男性?それとも女性?」
「あらためて伺いますが、黙秘権の行使は?」
「黙秘権の行使は、この場合、被疑者の容疑をより深めるとご理解ください」
「あなたは、見かけによらず中々に手厳しいインタヴュアーのようだ」
「お褒めにあずかり光栄です。――で、お相手の性別は?」
「女性です。とても、そう、本当に素晴らしい女性です。ただ、誤解しないでください。彼女は僕の恋人ではなかった。僕が一方的に想いを寄せていただけだったんです。そして、今の僕に恋人はいません。つまり、そういうことです」
「なるほど、そういうことですね。理解しました」
「ああ、本当に手厳しいな……。そう、僕のプレースタイルが変化した理由ですよね。それは、彼女の一言がきっかけです」
「その女性は、あなたに何と?」
「僕に直接言ったわけではありません。ただ、その舞台を演じた、ジンジャー・ブレッドを評して、こう言ったのです。どんな分野でも一流と呼ばれる人間はすごい、と。当然といえば、至極当然の台詞です。僕も、その時は聞き流していた。でも、後から考えれば、意味するところは明らかでした。つまり、あなたは違うわよ、と、彼女はそう言っていたのです。僕は彼女の言う、一流の人間ではなかったのです」
「彼女はフットボールに詳しかったのですか?」
「いえ、フットボールの試合はつまらないと言っていました。きっと、僕にも何の興味もなかったはずです。それでも、彼女の言葉は、まるでかえしの付いた釣り針のように僕の心に突き刺さって、そして今でも抜けていません。それはきっと、彼女の言葉が正しかったからだと、今の僕は思っています」
「だから、一流になりたい、ですか。それは、彼女を見返したいという意味でしょうか?」
「とんでもないことです。今の僕には、彼女に対する感謝の気持ちしかありません。今の僕があるのは彼女のおかげであり、そして今日の勝利も、ある意味では彼女のおかげだと思っています。きっと、今後の試合の勝利も彼女のおかげだと、僕は思うでしょう」
「まるで勝利の女神のようですね」
「はい。本当に、女神様が裸足で逃げ出すほどに、美しい女性でした。あの時は、それしか見えていなかった。今は美しい以上に、素晴らしい女性だったのだと思っています」
「失恋は、素晴らしい思い出に昇華されたわけですね」
「まだ昇華しようと足掻いている真っ最中です」
「これは失礼いたしました。次の質問に移らせていただきたいと思います。先程、キアラン選手は、ホプキンス大学フットボール部で前代未聞の不祥事があったと仰いました。それは、多くのスポーツファンにとって周知のところです。その結果、ホプキンス大学フットボール部の監督やコーチ陣は総入れ替えとなり、部としては半年間の対外試合の禁止、キアラン選手ご自身も長い間練習自粛という処分が下されました。まず、練習自粛の間、あなたは何を考え、何をしていましたか?」
「……考えていたことは、ほとんど二つのことだけです。一つは、被害に遭われた女生徒のこと。それともう一つは、フットボールのことです」
「あの事件では、私と同じ年頃の少女が、口にするのもおぞましい手段でその尊厳を踏みにじられたのだと聞いています。そして、その少女たちの多くが、キアラン選手のファンだったことも。その点について、あなたはどうお考えですか?」
「まず、事件の被害者の方々に、深く謝罪したいと思います。あの事件は、当部のマネージャーだった男が……そして僕の友人だった男が、その立場を利用して起こした事件です。僕や他の部員は、事件については何も知らなかった。それは本当のことです。しかしそれが、何の言い訳にもならないことも理解しているつもりです。本当に申し訳なかった。それしか言葉がありません」
「事件の首謀者とは友人だった?」
「はい、友人でした。そして、とても信頼していた。有能なマネージャーでもありました。こんな言い方をすると勘違い野郎に思われるかもしれませんが、僕にはたくさんのファンがいます。その中には、偏執的で、正面から相手にするのが危険な子もいる。それは事実です。そして、彼がそういう子から僕を守ってくれていると信じていた」
「蓋を開けてみたら、その友人が、あなたのファンを毒牙にかけていた」
「あの男の正体を見抜けなかった自分の間抜けさを、悔いています。そして、これからの一生、ずっと悔い続けるのだと思っています」
「私は、この事件において、キアラン選手の立場は非情に微妙なものだと思っています。結果から見れば、あなたは加害者の操り人形として被害を広めてしまった一方、事件の結果あなたは謹慎処分を受け、今も罪悪感に苦しめられている。いわば、加害者でもあり被害者でもあるのです。その立場をどう思いますか?」
「……難しい質問です。正直に言えば、自分の中に、僕も被害者だと主張する自分がいます。僕も、あの男にだまされたのだと。しかし、そのことが……ほんとうに……ほんとうに……くるしい……」
「……」
「かんがえれば……かんがえるほど……じぶんが……みじめに……おもえて……ひきょう……ものに……おもえて……」
「……」
「すみません……すみません……ちょっとだけまって……まって……ください……」
「……」
「……ああ、ありがとう、少し、落ち着きました」
「もしよろしければ、もう少しお待ちしましょうか?」
「いえ、結構です。本当に苦しいのは、僕などではなく、被害に遭われた少女たちです。彼女達には、何の責任も無かった。本当に何一つ悪いことをしていないのに、卑劣な犯罪の被害者になってしまった……」
「彼女達には、どのように償うべきだと思いますか?」
「可能な限りの償いをしたいと思っています。クラブとして金銭的な補償は進めていると聞いています。僕も、微力ながらその手助けをするつもりです。無論、金銭だけで贖える問題ではないことも理解しています。性犯罪の被害に遭ってしまった方への精神的なケアも必要になるでしょう。今後当クラブは、そういった支援活動にも積極的に関わっていくことになると思います。それと、僕個人としては、もしも今回の被害に遭われた少女に直接会うことが許されるなら、何を置いても会いに行きたい。そして、心からのお詫びを伝えたい。それが本心です」
「意地の悪い質問をお許しください。もしかすると、被害に遭われた少女の中には、キアラン選手がフットボールを続けることに嫌悪感を覚える子がいるかもしれません。自分達がつらい境遇なのに、あなたにスポットライトが当たり続けることに不条理を感じる子がいるかもしれません。例え被害者がそう思わなくても、そのように主張するフットボールファンは一定数いるでしょう」
「仰る通りです。事実、ロワール大学との交流戦においても、そういった野次が飛びました」
「あなたのこれからのフットボール人生は、栄光に満ちたものであると同時に、茨の道でもあるように思えます。あなたは、これからどのようにフットボールと向き合っていくおつもりですか?」
「先程、謹慎期間中に何を考えていたという質問がありました。僕は、真剣にフットボールについて考えました。ずっと考えました。時には、もう諦めようかとも思った。違う道を選ぼうかとも思いました。それでも、最後に辿り着いた結論は、僕にはフットボールしかない、ということです」
「そしてあなたは、一流を目指すことにしたわけですね」
「フットボールに対する姿勢として、今までの自分が間違えていたとは思いません。今までの自分の積み重ねで、今の自分があるからです。それでも、今までの自分から生まれ変わりたいと思いました。真剣に思いました。だから、全てを捨てて、フットボールに打ち込もうと思いました。その結果が、今日の試合でした」
「今日のあなたのプレーは、多くの人に感動と勇気を与えたと思います」
「ありがとう。あなたにそう言ってもらえると、本当に報われた気持ちになります。僕がフットボールを続けることが、今回の事件の被害者にとって痛みになるのか、それとも、ほんの少しでも慰めになってくれるのか、正直僕にはわからない。それでも、僕はフットボールを続けます。どうか、僕がフットボールを続けることを許してほしい。被害者の方に、そしてファンの皆さんに、全ての方に。本当に、そう願っています」
「最後に、今後の目標について教えてください」
「チームとしては、この冬に行われる共和宇宙大学リーグの優勝を目指しています。僕個人については、今のところ、先の事は考えないようにしています。できるだけ、チームの勝利のために尽くしたい。それが目標です」
「ありがとうございました。本日のゲストは、ホプキンス大学フットボール部のキアラン・コードウェル選手でした。インタヴュアーは、TBSBスポーツ局所属のウォル・グリーク・ロウ・デルフィンが務めさせていただきました――」



[6349] 第百五話:女優として、アイドルとして
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/06/23 05:15
 その日の夜、ウォルは再びリィの部屋に忍び込んだ。
 今日は、課題をみんなで片づけるためではない。ウォルが出演したテレビ番組を一緒に見るためである。
 ウォルの晴れ姿を見物してやろうというリィとシェラ、自分の初取材がどんな様子か楽しみなウォルが、せっかく面白いものを見るのだから、と、同じ部屋に集まったのだ。

「いやぁ、中々緊張するものだな、あらためて自分がしゃべっている姿を見物するというものは」

 言葉とは裏腹に、うきうきした様子のウォルである。
 リィとシェラはそんな少女に苦笑しながら、テレビの電源を付ける。
 ウォルが人生初のインタヴュアーを務めた「スポーツスチューデントトゥデイ」は夜8時からのテレビ番組で、ティラボーンの全ての学校の注目スポーツ選手が紹介されることから、結構人気が高い。
 テレビを付けたとき、既に番組は始まっており、今は遠巻きにフットボールのコートを写し、そこで練習する選手たちを捉えている。
 男性のナレーターが、映像に映っているのはホプキンス大学フットボール部であることを紹介し、チームの最近の戦績や、半年ほど前に起きた事件の概要などを伝える。
 事件の内容は、リィとシェラにはあまりによく知った内容だった。何せ、か弱く美しい獲物のふりをして犯人達の懐に飛び込み、逆にその喉笛を嚙み切ってやったのは他ならぬリィなのだから。
 リィにしてみれば、彼が解決してきた多くの事件の一つであるから、そんなこともあったなぁといった様子で、特別感慨深いふうではちっともなかった。
 そして映像は切り替わり、異なるユニフォームを着た選手たちが、激しくぶつかり合う試合の様子になる。どうやら、先日行われた、他大学との交流戦の様子であるらしい。その中で、注目選手として紹介されたのが、ホプキンス大学フットボール部のエースであるキアラン・コードウェルだった。

「キアラン・コードウェルだと!?」

 リィが、激しい嫌悪を隠そうともせず、吐き捨てるように言った。

「あいつ、また性懲りもなく手当たり次第に女の子に手を出していやがるのか!しかもウォルみたいに小さな女の子に!ちっとも懲りていやがらないじゃないか!今度こそ本当にぎったんぎったんに叩きのめしてやる!」
「落ち着け、リィ。キアランくんをおれが取材することになったのは全くの偶然だ。彼がおれに言い寄ろうとしていたというのは流石に濡れ衣というものだぞ」

 至極もっともかつ極めて冷静なウォルの台詞に、しかし再点火してしまった怒りに灼熱としたリィはちっとも承服していないふうだ。
 口を尖らせ、侮蔑の視線で画面の中のキアランをぶった切る。

「ふん、どうだか。あのろくでなしのすけこましの無礼者の女泣かせのやることだぞ。一事が万事、怪しいもんだ」

 ここまで信頼感のない人物評も中々あるものではないな、と、ウォルは思った。
 リィは、結構人について好き嫌いの激しい人間ではあるが、ここまで極端なケースも珍しい。
 ウォルは不思議そうに小首を傾げ、

「そこだ。お前とキアランくんに因縁があるのは、取材前におれの姓を耳にした時の彼の反応で一目瞭然だったが、一体何があったのだ?」

 それに答えたのは、なんとも申し訳なさそうに縮こまったシェラである。

「ええっとですね、ウォル、そのあたりはわたしが説明させていただきます……」

 本来、シェラには何の責任もない一件ではあるのだが、義憤に燃えるリィの『着替え』――無論、少年の彼から淑女の彼に変化したことを指す――を止められなかったあたり、控えめなシェラなりに責任を感じているらしい。
 シェラは、事件の顛末をウォルに語った。
 リィの姉であるドミューシアが、短期交流でアイクライン校高等部を訪れたこと。
 その時開催された、多学校共同開催のパーティーで、キアランがドミューシアに対して、リィを引き合いにした酷い罵声を浴びせ、公衆の面前で大いに傷つけたこと。
 そのことを知ったリィが、なかば脅しに近い様子でルウに『着替え』を要求し、ルウもその要求を飲まざるを得なかったこと。
 そして王妃の姿に戻ったリィが、キアランに対してドミューシアの復讐を決行したこと。
 その話を黙って聞いたウォルは、リィを恐れるような、キアランに同情するような、曖昧な笑みを浮かべながら、

「……つまり、お前は王妃時代のお前の姿で彼を誘惑し、のぼせるだけのぼせさせておいて、すげなく袖にしてやったというわけか。しかも、その後ロッドで叩きのめしてやるというおまけまでつけてやったと」
「あの男には当然の報いだ」

 リィの苛烈な声に、乾いた声で笑うしかないウォルである。

「確かにあの愛らしい義姉上をパーティーの席で侮辱したのは到底許し難い、おれだったとしても相応の報復は考えるだろうが……」

 あらためて画面を見ると、真摯な表情で一心に練習に取り組む、キアランが映し出されている。
 たった半年も前に、そんな世紀の復讐劇の被害者となったなど、少しも感じさせない吹っ切れた様子だった。

「なるほど、ではキアランくんの言っていた、女神も裸足で逃げ出す美人とはお前のことだったのか。それなら納得だな」
「あの男、そんな寝ぼけたこと言ってやがったのか。おれの顔を二目と見れば、震えて動けなくなるくらいに痛い目に合わせてやったつもりだったのに」

 リィが、全身の毛を逆立てるような有様で言う。
 ウォルが、キアランに同情するように、首を横に振る。

「リィ、お前は男心が分かっていない。例えばお前を他の男に奪われたその瞬間に、キアランくんがどれほどの敗北感に打ちのめされたのだとしても、彼は決してお前を恐れたりしないし、憎むこともないだろう。憎むとすれば、不甲斐なかった自分だけだ。そして、一度惚れた女性は、いつまでも心の中で輝き続けるものだ。きっとキアランくんは、一生お前の影を追い求めることになるぞ」
「当然の報いだ」
「まぁその点については論評を差し控えさせてもらうが……おっ、そろそろおれのインタビューが始まるぞ。さぁ、おれの雄志に刮目しろよお前たち」

 そして画面は、ユニフォームのままのキアラン選手と、インタヴュアーとしてのウォルを対面で捉えた、クラブハウス内でのインタビュー場面へと切り替わる。

『皆さん、こんばんは。スポーツスチューデントトゥデイの時間です。本日はホプキンス大学フットボール部クラブハウスからお送りいたします。そして、本日のゲストは、ホプキンス大学フットボール部のキアラン・コードウェル選手です』

 画面の中のウォルが、流暢な様子でキアランを紹介する。
 表情は自信に満ち溢れ、余裕のある風貌で選手紹介するウォルは、確かに中々の女振りである。到底、初めてインタビューマイクを握ったとは思えないほどに落ち着いている。

「おおっ、結構様になっているな。こうしてみると、おれも中々に捨てたものではない。そうは思わんか?」
「ちょっとは落ち着けよ、ウォル」
「すまんすまん、しかしこうして堂々と映像の中で話す自分というのが初めて見るものでな。うむ、これは悪くない気分ではないか」

 弾むような口調でそうしゃべるウォルは、まるで子猫が初めて自身の姿を鏡で見た様子に似ていて、おっかなびっくりと興味津々を混ぜ合わせて、喜びで固めたように目を輝かせている。
 そんなウォルを横目に見つつ、しかし画面に映ったキアランを見て、リィはぼそりと呟く。

「しかし、この女の敵の雰囲気も、おれが誘惑してやったときとはずいぶん変わってるな……」

 確かに、キアランの風貌はリィが天誅を加えたときとは変わっていた。
 長髪はばっさりと切り、浮ついた雰囲気はなく、ただ真摯な表情でウォルと相対している。
 少しは興味が湧いてきたようなリィの視線の先で、画面の中のウォルがキアランにインタビューを続ける。

『さっそくですが、先日行われたロワール大学との交流戦におけるキアラン選手の活躍は目覚ましものがありました。1つのゴール、2つのアシストという素晴らしい結果以上に、あなたのプレーは常にアグレッシブで、ゲーム全体を支配するものだったと高い評価を受けています。今回の試合結果に対するご自身の感想をお聞かせください』

 ウォルの流れるような選手評に、しかし実際のところはウォルがフットボールの『フ』の字も知らないことを知っているリィが、胡散臭そうに眉根を寄せながら、

「この駄目男のフットボールの試合内容なんかに、ずいぶんと詳しいもんだな」

 もっともな意見ではあったが、当のウォルはあっけらかんとした口調で、

「取材に行く途中のバスの車内でノーマンどのに講義していただいた。その内容をそのまま復唱しただけだ。別に誉められるようなことでもない。オウムにだってできることだぞ」
「内容はそうでも、これだけ実感を込めて言葉にするのは簡単じゃないはずだ。なるほど、王様稼業で鍛えた腹芸の腕前は、まだまだ錆び付いていないらしいな」

 リィが呆れたように言うが、ウォルは嬉しそうに頷いた。
 別に褒めたわけではないのだが、と思ったリィは、賢明にも口にはださず、ただ溜め息をついた。
 そして画面の中で取材は進んでいく。
 話題はキアランのプレー内容の変化から、私生活における女性関係に映り、そして心境の変化を与えた『女神も裸足で逃げ出すほどに美しい女性』の話が始まる。 
 キアランは、自身が一方的にその女性に懸想していたこと、そしてすげなく振られてしまったことを、苦笑とともに語る。
 そして、その『女神も裸足で逃げ出すほどに美しい女性』本人であるリィは、大して面白くもなさそうにウォルとキアランのインタビューを聞いている。

『そう、僕のプレースタイルが変化した理由ですよね。それは、彼女の一言がきっかけです』
『その女性は、あなたに何と?』
『僕に直接言ったわけではありません。ただ、その舞台を演じた、ジンジャー・ブレッドを評して、こう言ったのです。どんな分野でも一流と呼ばれる人間はすごい、と。当然といえば、至極当然の台詞です。僕も、その時は聞き流していた。でも、後から考えれば、意味するところは明らかでした。つまり、あなたは違うわよ、と、彼女はそう言っていたのです。僕は彼女の言う、一流の人間ではなかったのです』

 キアランの言葉に、その台詞を口にしたはずのリィは首を傾げ、真剣な表情で、

「……おれ、そんなこと、言ったかな?全然記憶にないんだけど」
「……それは流石にキアランくんが哀れだな。お前のその一言が、彼の人生の指標になったのだぞ?口にした当人なら、せめて覚えておいてやるのが礼儀というものだろうが」
「覚えていないものは覚えていないんだから仕方ないじゃないか。ま、これで覚えたから、もしもこいつと顔を合わせることがあったら『あの時の言葉の本当の意味を理解してくれて嬉しいわ』とでも言ってやるさ」
「適当なものだなぁ」

 二人の掛け合いを聞いているシェラは、苦笑いを浮かべるしかないといった有様だ。
 そしてインタビューは続いていく。
 
『まるで勝利の女神のようですね』
『はい。本当に、女神様が裸足で逃げ出すほどに、美しい女性でした。あの時は、それしか見えていなかった。今は美しい以上に、素晴らしい女性だったのだと思っています』
『失恋は、素晴らしい思い出に昇華されたわけですね』

 画面のウォルは、キアランの失恋話に落ちをつけて、いい笑顔を浮かべている。キアランも、してやられたように笑っている。
 しかしリィは実物のウォルに対して大いに怒り、噛みつくように、

「素晴らしい思い出に昇華するだと!?ウォル、お前は何を言ってくれてるんだ!こいつは失恋のトラウマで女性恐怖症にでもなっちまえばいいのに!」

 『素晴らしい女性』からの、にべもない一言である。
 きっと、キアランが聞けば、泣く。大泣きする。
 ウォルは、流石にキアランを哀れに思った。
 しかしそれを口にすれば、『じゃあ泣かせに行ってくる!』と言って本当に行きかねないのがリィという少年なので、黙っておいた。
 次の瞬間、画面のウォルは、少し声の調子を切り替え、真剣な調子で話題を変える。この時期にホプキンス大学フットボール部に取材するなら、触れざるを得ない、半年前の不祥事の一件だ。
 この話題の取材をするために、実はノーマンは、報道局の女性局員に応援を頼んでいたのである。この件の取材をするなら、インタヴュアーは絶対に女性にするべきだ。卑劣な強姦魔の被害に遭った少女達の代弁者として、そして罪に向き合うキアランの告白を聞く聴衆の代表として、女性局員が相応しいと判断したのだ。
 その点、女性であり、しかも被害者と同年代の少女であるウォルは、実は元々依頼していたインタヴュアー以上に相応しかった。

『私は、この事件において、キアラン選手の立場は非情に微妙なものだと思っています。結果から見れば、あなたは加害者の操り人形として被害を広めてしまった一方、事件の結果あなたは謹慎処分を受け、今も罪悪感に苦しめられている。いわば、加害者でもあり被害者でもあるのです。その立場をどう思いますか?』
『……難しい質問です。正直に言えば、自分の中に、僕も被害者だと主張する自分がいます。僕も、あの男にだまされたのだと。しかし、そのことが……ほんとうに……ほんとうに……くるしい……』
『……』
『かんがえれば……かんがえるほど……じぶんが……みじめに……おもえて……ひきょう……ものに……おもえて……』

 ウォルの前で懺悔するように、キアランが大粒の涙を流し、嗚咽に言葉を途切れさせる。
 途切れさせながら、しかし必死に言葉を続ける。
 その様子に、リィは、少し棘を収めた様子で、しかし呆れたように呟く。

「ふん、大の男がめそめそ泣くなよな。気持ち悪い」
「リィ、お前らの意見も分かるが、彼の心中も察してやれ。信頼していた友人が、自分を出汁にして卑劣な強姦を続けていたというのは、十分に同情に値すると思うぞ」
「気がつかなかったこいつが間抜けなだけだ。もしも全くそんな気配も無かったっていうならこいつも可哀そうかも知れないけど、確か主犯のダリルっていう屑は、一度そういう嫌疑をかけられてるはずだぞ。もし少しでも疑ったならその時点で交友関係を考え直すか、然るべき手段で調査すべきだ。逆にほんの少しも疑わなかったなら、こいつは本当にただの間抜けだ。それに、同情すべきは被害に遭った女の子達で、こいつじゃない」
「まあお前の言うことは正論だ。それと、本人も自分が間抜けだったと認めているところだから、これ以上はおれには何とも言えんなぁ」

 そしてインタビューは締めへと向かう。 
 事件と正面から向き合ったキアランが、今後のフットボール人生への覚悟と抱負を語る、この取材の山場である。
 キアランは、力強くウォルと相対しながら、本心を語る。

『僕がフットボールを続けることが、今回の事件の被害者にとって痛みになるのか、それとも、ほんの少しでも慰めになってくれるのか、正直僕にはわからない。それでも、僕はフットボールを続けます。どうか、僕がフットボールを続けることを許してほしい。被害者の方に、そしてファンの皆さんに、全ての方に。本当に、そう願っています』

 キアランの言葉を聞いて、リィは軽く肩を竦めた。
 その様子を面白そうに見ていたウォルが、

「なんだ、リィ。『これだけのことをしておいていけしゃあしゃあとフットボールを続けるつもりか!』とか、そういうふうには憤らんのか?」
「……以前のこいつなら、そうも思ってただろうけど、なるほど、事件の前後でずいぶん変わったらしい。そこは認めてやるさ。このインタビューで、少しだけ伝わってきた。それにウォル、お前が言っていたとおり、こいつがこれから歩くのは茨の道だ。わざわざそこを歩くっていう馬鹿なやつは、やりたいようにやらせてやればいいのさ」

 呆れた様子でそう言った。
 そして、画面はインタビューの締めへと移る。ウォルはまとめ口調に変わり、キアランも表情を入れ替える。

『最後に、今後の目標について教えてください』
『チームとしては、この冬に行われる共和宇宙大学リーグの優勝を目指しています。僕個人については、今のところ、先の事は考えないようにしています。できるだけ、チームの勝利のために尽くしたい。それが目標です』
『ありがとうございました。本日のゲストは、ホプキンス大学フットボール部のキアラン・コードウェル選手でした。インタヴュアーは、TBSBスポーツ局所属のウォル・グリーク・ロウ・デルフィンが務めさせていただきました』

 画面の中のウォルが笑顔でそういうと、場面はスタジオに戻り、コメンテーター達が先程のインタビューに対して何やら論評を始めている。
 しかし、リィとシェラは、画面には視線を遣らず、ただ、ウォルを見つめていた。
 こいつ(この人)は、さっき何と言ったのだ?
 確かに言った。ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンと。
 今のウォルの本名は、ウォル・ウォルフィーナ・エドナ・デルフィン・ヴァレンタインである。その名前を選んだのは、今、ウォルが間借りしている身体の本当の持ち主である、エドナ・エリザベス・ヴァルタレンの人生に責任を負うというウォル自身の覚悟である。
 そして、ウォルの間近に住む人間には、もっと簡単に、フィナ・ヴァレンタインとして名乗っている。
 シェラなどには、ウォルは、元の世界の名前である、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンという名前は、例えばリィにとってのエディ、ルウにとってのルーファという名前のように、限られた対象にだけ呼ぶことを許す、いわば限定名称のようなものにするのではないか、そう思っていたのだ。
 なのに、仮にもテレビであり、いわば大衆への発信をする際の名前として、ウォルはその名を選んだ。
 シェラは、そこにウォルの意図を感じた。きっと、何かの理由が、それとも必要性があって、その名を広めることにしたのだと確信した。
 だが、口に出しては何も言わなかった。何故なら、その質問をすべきなのは、自分ではないことが明らかだったからだ。
 そして、その質問をすべきである、ウォルにとって、友人であり同盟者であり、妻としての配偶者であり夫としての婚約者である、金髪の少年は、胡散臭そうにウォルをちらりと見て、しかし何も言わなかった。 
 きっとウォルもそんなリィの様子に気が付いていただろうに、しかし何も言わなかった。
 お互い、そのことについては、聞くタイミングでなければ、説明するタイミングではない。そう決めたのだろう。シェラは、そう思った。
 だから、ウォルは、口に出してはこう言った。

「ちなみにリィ。今のキアランくんなら、肌を許してもいいと思うか?」

 リィは凄絶な笑顔で、こう答えた。

「張っ倒すぞ、ウォル」



 そして同時刻、惑星ティラボーンの地表に、リィやウォルにとってなじみ深い、親しい友人達の姿を見出すことができた。
 ジャスミン・クーアと、ジンジャー・ブレッドの二人である。
 場所は、ログ・セール西海岸の、しかし海からは少し離れた、小高い丘の上にある家だった。
 日がとっぷりと暮れてしまった今ではわからないが、良く晴れた日などには、その家の真白い外観と空と海の青の対比が美しい、大きな家である。
 しかし大きいといってもそれは一般人の感覚ならば、という話で、この家を所有するジャスミンの感覚からすれば、むしろ、可愛らしくてこじんまりした家という印象でしかない。
 ジャスミンがその家を購入した経緯も、少し変わっている。ジャスミンにとって無二の親友であるジンジャーが、とある映画の撮影に使うため、なんとジャスミンにこの家の購入を依頼したのだ。
 映画のセットに使わせるためだけに家を購入するというのは、本末転倒な印象であるが、しかしジンジャーはその映画にはその家が必要だと判断し、ジャスミンは彼女の要求を受け入れた。そして、結果映画は当然の如く大ヒットした。
 本来であれば、それで終わりだ。
 しかし、映画撮影が終わっても、当然のことながら、家は家として残る。ならば、家主であるジャスミンは、その家を売るか、管理を続けるか、選ばなければならない。
 当面、家を売る必要性にも迫られなかったジャスミンは、とりあえずその家を管理し続けることを選んでいたわけだが、突然、当のジンジャーから連絡が入った。

『おはよう、ジェム。今、どこにいるの?』
「セントラルのクーア本社だが……」
『じゃあ、ちょうどよかったわ。せっかくだから、あの家でホームパーティでもしない?』

 ジンジャーの言い分はこうだ。
 セントラルとティラボーンは、恒星間航行で一日で辿り着ける距離である。一般的な感覚であればいざ知らず、ジャスミンやジンジャーの感覚であれば、近場の旅行といった感覚である。
 そして、撮影のために購入した例の家は、定期的にハウスキーパーに頼んで管理はしているものの、ほとんど無人の状態が続いており、もったいない。
 ならば、管理状況の確認がてら、あの可愛らしい家でホームパーティを開こう。それがジンジャーの誘いであった。

「なんとも突然の話だな」
『いいじゃない。逆に、あの家の規模でパーティをするのに、大仰に準備するほうが疲れるわ。もっと気楽に、肩の力を抜いたパーティがしたいのよ』
「なるほど、極力身内だけで、飾らない、本当の意味でのホームパーティということだな」

 最近、クーアカンパニーの監査事務で少し疲れの溜まっていたジャスミンは、ジンジャーの提案に魅力を感じたのも事実だ。疲労に対して惰眠を貪ることで身体の回復を図るより、友人と楽しい時間を過ごして精神的な回復を図るほうが有益と判断したのである。
 それに、確かにあの家は自分の所有物である。それが現在どういう状態になっているのか、自身の目で確かめておく必要もあるだろう。

「わかった。ちなみにジンジャー、お前は誰を連れてくるんだ?アレクか?」

 通信映像のジンジャーは笑顔で首を横に振り、

『私もそう考えたのだけど、残念ながらアレクは仕事の都合で来れないのよ。他にめぼしいパートナーも見つからなかったから、私は寂しく一人で行かせてもらうわ』
「そうか。それなら、私も一人で行くとしよう。女二人、手料理でこじんまりパーティを開くのみ楽しそうだ」

 ジャスミンの提案に、ジンジャーは嬉しそうに頷いた。

『あなたならそう言ってくれると思ってたわ。あなたの愛すべき旦那様には悪いけど……』
「なに、そんなことを気にする男ではない。あの男はあの男で、色々とお楽しみだからな」

 具体的に、ジャスミンの夫であるケリーが何をしているか、ジンジャーは笑って尋ねることはなかった。
 そして、急遽開催が決まったホームパーティのために、ジャスミンは宇宙船を飛ばしてティラボーンに入国し、その足で例の家へと辿り着いたのだ。
 時間は、ようやく日が傾き、空が赤く色づき始めた頃合いだったから、家の白い壁と青い海、夕焼けの赤がコントラストとして非情に美しかった。
 家には、既にジンジャーが待っていた。普段より地味目の化粧と装束で、一見すれば彼女を大女優ジンジャー・ブレッドであると見抜ける人間はいないだろう。しかしジャスミンにとっては、紛れもない親友の彼女だ。

「いらっしゃい、ジェム」

 ジンジャーは笑顔でジャスミンを迎えた。
 家の中は、当然のことではあるが、充分に掃除が行き届き、今日住み始めるのだとしても何の問題もない状態だった。家の周りも綺麗に手入れされ、例えば雑草が生い茂り周りの家の迷惑となってしまっているようなこともない。
 どうやら、信頼して良いハウスキーパーだったようだ。ジャスミンは、軽く胸を撫でおろした。

「さ、入って。もう準備はできてるわよ」

 ジンジャーの言葉通り、ダイニングの机の上には、テーブルクロスが敷かれ、綺麗な花の活けられた花瓶が飾られ、そして大して高級ではないテーブルワイン、おそらくはデリバリーサービスを利用したのだろうか、各種料理が湯気を立てて並んでいる。
 この光景には、軽い昼食を済ませただけのジャスミンは喜んだ。
 早速二人でテーブルに腰掛け、ワインの栓を抜き、乾杯をした。
 テーブルワインは、当然のことではあるが、普段二人が公式の席で口にするような、ヴィンテージワインの重厚な味わいには及ばない。しかし、気軽に楽しめる軽い味わいが、今の二人にはありがたかった。料理も、デリバリーのわりには中々いける。今日は旅の疲れがあるからこれで済ませて、明日の昼に、二人で料理をするのも面白いかも知れない。
 そして、二人は自身の近況を話した。ジャスミンは、クーアカンパニーの監査事務の愚痴やトラブル――といっても、笑って話せる程度の軽いものだが――などを語り、ジンジャーは自身の最新の興行のことなどを好んで話した。
 そして、日は傾き、二人も程よく酔いが回った頃合いであった。
 なんとなく電源を付けていたテレビで、スポーツニュースが始まったのだ。

『皆さん、こんばんは。スポーツスチューデントトゥデイの時間です。本日はホプキンス大学フットボール部クラブハウスからお送りいたします。そして、本日のゲストは、ホプキンス大学フットボール部のキアラン・コードウェル選手です』

 番組自体はお決まりの、今話題のスポーツ選手にインタビューをするという内容だった。
 ジャスミンは、特別スポーツに造詣があるというわけではなかったので、インタヴュイーである選手には見覚えがなかった。どうやら有名なフットボール選手らしいのだが、所詮は一惑星におけるスターであり、ジャスミンの中の人名帳に名を記されるほど、共和宇宙規模で有名な選手というわけではない。
 だから、ジャスミンが思わず目を見張ったのは、別の理由からである。

「おっ、ウォルじゃないか。どうしたんだ、一体?」

 インタヴュアーである美しい少女は、紛れもない、ジャスミンが何度も命を助け、また助けられた、あの少女である。
 ジャスミンの反応に、ジンジャーが同じく画面に映った少女を見ながら、

「知ってる子なの?」

 そういえば、ジンジャーとウォルはまだ面識がなかったはずだなと思い直し、ジャスミンは頷いた。

「シェラ達と同じ、あちらの世界からのお客さんの一人さ。私もとても世話になっている。なんでスポーツ番組のインタヴュアーなんかやっているんだろう?」
「へぇ。ヴィッキーと同じなら、連邦大学の学生さんっていうわけね。ならきっと、TBSBに入ったんじゃない?この番組の作成はTBSBのはずだから」

 確かに、ウォルはTBSBの局員であることを示す身分証を身に着けている。ジンジャーの指摘は的を射ているというべきだろう。

「なるほど、ありうる話だ。そういえば、将来の夢はアイドルになることだと言っていたようないなかったような……。そのあたりの繋がりかな?」
「この子、アイドルを目指しているの?」
「ああ、そのはずだぞ」
「ふうん……」

 ジンジャーが、興味のない素振りで、画面で流暢に取材を進める少女を眺める。
 そして、気分を切り替えた様な調子で、

「でも、水くさいわね、ジェム。せっかく友達がアイドルになりたがっているなら、宇宙に名だたるクーア財閥の統帥どのとして、大々的に売り出してあげたらいいのに」

 もっともな指摘に、ジャスミンは苦笑する。

「この子がそれを求めればいくらでも協力させてもらうとも。しかし、そうじゃないなら、善意の押し売りは好きではないからな、静観させてもらうさ。情けは人のためならずという奴だ」
「誤用よ、それって」

 ジャスミンとジンジャーが軽い掛け合いをしている間にも、テレビの中のインタビューは進んでいく。

『僕に直接言ったわけではありません。ただ、その舞台を演じた、ジンジャー・ブレッドを評して、こう言ったのです。どんな分野でも一流と呼ばれる人間はすごい、と。当然といえば、至極当然の台詞です。僕も、その時は聞き流していた。でも、後から考えれば、意味するところは明らかでした。つまり、あなたは違うわよ、と、彼女はそう言っていたのです。僕は彼女の言う、一流の人間ではなかったのです』

 インタビューは、どうやらこのフットボール選手の失恋談を取り上げているらしい。こういう形式ばったインタビューにしては、ずいぶん突っ込んでいる印象だ。
 だが、ジャスミンは、口に出しては冗談めかして、

「おっ、ジンジャー、褒められているぞお前」
「あっ、そう」

 ジンジャーは、大して興味のない様子だ。
 
「なんだ、つれない反応だな」
「この宇宙のどこかで、一日に百万回は言われてる台詞よ。一々反応してたら身体が持たないわ」

 もっともな話だったので、ジャスミンは苦笑する。
 そして、少し毛色の違う話題をジンジャーに振った。

「なぁ、ジンジャー。さっきも言ったが、インタヴュアーを務めているこの子、ウォルというんだが、この子は将来、芸能界で禄を食む予定らしい」
「ふうん、それで?」
「お前ならこの子を、女優としてどう評価する?」
「このインタビュー映像だけでそれを判断しろっていうの?無茶を言うわね」

 呆れた様子のジンジャーに、ジャスミンは結構真面目な顔で、

「そんなことくらいわけないだろう。ジンジャーの俳優眼は、一目で見抜き、そして間違えないと業界では評判だと聞くぞ。むろん、これは舞台の上のことではないからな。直観で結構さ」
「それならこう答えるわ。この子は女優としてなら、100点満点で50点。そして、平面じゃなくて線。結論から言えば、おそらく普通の女優としては大成しない」

 結構厳しめとも取れる、ジンジャーの評価である。
 ただ、本当に才能のない俳優には、ゼロ点をつけることもしばしばであることを知っているジャスミンは、ジンジャーの評価の続きを楽しそうに待っている。
 そんなジャスミンに、ジンジャーは淡々とした様子で説明を続ける。

「極論するなら、女優には二つの能力があればいいのよ。一つは、自分がどう見られているかを認識する能力。そして、見せるべき自分を発信する能力」
「そういうものか」
「この子は、きっと、相当に社会的立場の高い人生を送ってきたのかしら。自分が周りにどう見られているか、それが周りにどういう影響を与えるかを自然と理解しているわね」
「どういうことだ?」

 ジンジャーは、ワインで満たされたグラスを軽く傾け、

「例えば、凄腕の社長と、新米の秘書がいたとするわ。社長が、単に喉がいがいがしたというだけで、小さな咳ばらいをする。その様子を見た新米秘書は、きっと、自分が何か大事なことを見落として、社長の機嫌を損ねてしまったのではないかと疑心暗鬼になるでしょうね。そして、新米秘書の気持ちを理解している社長なら、笑いながらこう言うのよ。『今のはただ喉がいがらっぽかっただけだ。君に不手際があったわけではないよ』、とね」
「ふむ、よくある光景だな」
「上に立つ人間は、自分の小さな所作が、下の人間にどんな影響を与えるか、知っているのよ。そして、それを知る人間が、人の上に立てる。ジェム、あなたもそう。きっとこの子も、そういう人生を送ってきたのね。だから、自分がどう見られているかを認識する能力については満点をあげてもいいわ。逆に、もう一つの資質である、自分がどう見せるべきかを発信することについては、完全に素人だわね。今後に期待ってところじゃないかしら。だから、100点満点で50点」

 ジンジャーの意見に納得したジャスミンが、質問を続ける。

「では、平面ではなくて線という意味は?」
「ほら、ゲームのキャラクターの能力値を表すときによく使う図があるでしょう?中心点から、正五角形、或いは正六角形なんかになるように直線を引き、その直線にメモリを刻む。力が強ければ、その線ではメモリが5,頭が悪ければその線ではメモリが1、そしてメモリを繋いだ平面の広さでキャラクターの強さや使いやすさを表す……」

 ジンジャーが少しもどかしそうに、指で正五角形や正六角形を宙に描きながら、説明する。
 ジャスミンは苦笑して、

「レーダーチャートのことだな。複数の指標を1つのグラフに表示して、全体の傾向を掴むためのグラフだ」
「あれってそういう名前なの?まぁとにかく、そのグラフで女優の適正を描くとする。例えば、極々平凡な女性を演じる能力の線。恋に恋する女性を演じる能力の線。戦う女性を演じる能力の線、か弱い女性を演じる能力の線、色々な能力の線があるとする」

 ジンジャーは、再び画面に映ったウォルに目を遣る。

「この子はね、きっと、社会的な立場の高い女性を演じる能力だけは、ずばぬけてると思う。女王陛下、女社長、女性政治家、一定のコミュニティの頂点に立つ女性。そういった役柄なら、きっと100点満点、それ以上の点数で演じることができるでしょうね」

 しかし、と、ジンジャーは溜息を吐き出し、

「でも逆に、それ以外の役は、全て演じることができない。例え演じたとしても、きっとその役は高貴な女性に、戦うことで運命を切り開く女性になってしまうわ」
「なるほど、言わんとすることは理解できる気がする」

 惑星ヴェロニカでの事件で、ウォルのカリスマ性を目の当たりにしたジャスミンは、実感を込めて頷いた。
 ジンジャーは続ける。

「例えばシンデレラをこの少女が演じたとするわ。きっとそのシンデレラは、王子の力を借りずに継母のいじめを乗り超え、自分の力で幸せを勝ち取る勇ましい少女に変貌するでしょうね。少なくとも、ガラスの靴の力で王子の寵愛を得た、ラッキーガールを演じることはできない」
「つまり、レーダーチャートで言えば、一つの線のみ極々高得点だが、その他がからっきしだということか。なるほど、図にすれば平面ではなく線で表されることになるな」
「良くも悪くも一点突破型ね。彼女に相応しい役柄を得られれば、不朽の名作を演じることができるかもしれない。でも、汎用の女優として大成するのは難しいと思うわ」

 ジャスミンは頷き、

「なるほど、ある意味ではお前と正反対というわけだな」
「それは少し違うわね。だって、私は高貴な女性も、100点満点で演じることができるもの。敢えていうなら、私は完璧な女優。そして彼女は極端な女優ね」

 ジンジャーは、手にしたグラスをぐいっと傾け、ワインを飲み干した。
 パーティを始めてから結構飲んでいるのに、未だ頬に朱も差さないジンジャーに、重ねてジャスミンは問いかける。
 
「ジンジャー、もしもお前の言う通りこの子がそういった方面でしか大成しない女優なら、お前がこの子のパトロンになって育ててやったらどうだ?」
「パトロンって、私が趣味でやってる若い子達の支援のこと?」
「そうだ。いわゆるタニマチのように金を出すわけではないが、陰に日向に見守っている俳優の卵がたくさんいると聞いているぞ?」
「耳聡いわね。誰から聞いたの、それ?」 
「誰でもいいじゃないか。それより、大女優のお前から見て、この子は育ててみたいと思う才能か否かを教えてほしいんだ」

 ジンジャーは、考え込むでもなく、すっぱりと即答した。

「イエスかノーかで言えば、ノーね。もしもこの子自身から私に教えを乞うことがあったとしても、きっと断ると思うわ。ジェム、あなたからお願いされても同じ事よ」

 流石に少し驚いたジャスミンは、

「手厳しいな、中々。そんなにこの子からは才能を感じないか?それとも、よっぽどお気に召さないか?」

 ジンジャーは、首を横に振った。

「いいえ、全く逆。寧ろこの子はすごく興味深いわ、色々な意味でね。でも、どんなに私がこの子を育てたくても、育てることができないのよ。何故なら、この子は私を全く必要としていないから。私だけじゃない。彼女は自身が芸能界で生きていくのに、誰の支援も必要としていないわ。必要とされていないのに、わざわざ何を教えろっていうの?」

 ふむ、とジャスミンは形の良い指を唇に当てて考え込む。
 確かに、如何に名女優であり才能を発掘することに長けているジンジャーとはいえ、自身の援助を必要としていない少女に対して支援をしろと言われても困ってしまうというのが本音だろう。

「私が支援している子達はね、当然だけどみんな違う個性を持っているわ。ただ彼らに共通しているのは、強烈な才能があること、そして、誰かの助力を必要としていること。それは、彼らの才能を守り育ててくれる師や先生であったり、特殊な個性を尊重してくれる理解者であったり、才能を世に知らしめるきっかけであったり、様々ね。私は、そのうちのどれか一つにでもなれればいいと思って彼らを支援しているの。でも、この子はそのどれも必要といていない」

 ジンジャーが、両手を挙げてばんざいする。
 要するに、お手上げということが言いたいらしい。

「この子を育てる必要なんてないわ。この子は勝手に育つもの。この子を守る必要なんてないわ。この子のほうが強いもの。この子を世に知らしめる必要なんてないわ。世の方からこの子を知りたがるもの」
「他ならぬお前にそこまで言わせるとは、ウォルの才能もそら恐ろしいな」
「私がこの子から感じたイメージは、太陽よ。目も眩むような光と、全てを照らし出す明るさ、万物の源になる熱。誰しもが憧れ、欲し、恋い焦がれ、しかし近づき過ぎれば焼き尽くされてしまう。存在感の塊。憧れの象徴。生まれついて、他者を導く存在……」

 ジンジャーの言葉は、ウォルの才能を褒め讃えるようでもあり、しかし同時に恐れを抱いているようでもあった。
 ジャスミンは、先程までの冗談交じりの口調ではなく、真剣な調子でジンジャーに問いかけた。

「なら、この子がアイドルになったらどうなる?大成できるかな?」

 ジンジャーも、真剣な調子で答える。

「断言するわ。この子が望むなら、アイドルという言葉がこの子のための代名詞になるのに、おそらく一年とかからない。誰しもが彼女に憧れることになる。男性にとっては理想の異性として、女性にとってはフェミニンな魅力の到達点として。ただ、逆にそれが危なっかしいわね。過ぎた憧れは過熱を生み、過熱は狂気と狂信を生むものだから。この子が芸能界の中心になったとき、そこにどんな力場が出来上がるのか、私には想像もできない。きっと、とんでもない事になる。例えば、この子を教祖として一つの宗教が発生したとしても私は驚かないわね」
「……何とも空恐ろしい未来絵図だな」
「もしも彼女に手助けが必要だとするなら、きっとその力場を制御する安全弁として、力をコントロールしてくれる存在としての誰かの力ね。それは、私よりもむしろジェム、あなたのほうが相応しいかも知れないわ」

 思わず話を振られたジャスミンは、難しい顔で腕を組む。

「つまり、クーアでウォルを囲い込んでしまえということか?」
「無秩序な混沌か、それとも管理された偶像か、この子が目指すのがどちらの道かによると思う。伝説を生むのは間違いなく前者よ。でも、伝説の中の英雄が常に幸福であるとは限らない。悲劇の英雄だって珍しい存在じゃないでしょう?この子が辿る運命はとても興味深いけど、もしも私がこの子の母親だとしたら、きっと芸能界を勧めたりしないわね。リスクもリターンも大きすぎて、普通の人間が得るべき幸福の範疇に収まらないのが明白だから」

 二人がスリリングな会話を繰り広げているうちに、ウォルのインタビューは終了していた。
 テレビ画面は、毒にも薬にもならないような、常識的なコメンテーター達が何やら話しているが、今のジャスミンとジンジャーの耳には届かない。
 二人は、意図することなく、不吉な未来図を脳裏に描いてしまっていた。
 ちょうど酒も料理も片付いたので、パーティはそこでお開きとなった。
 二人は、それぞれに割り当てられた寝室で、その日は就寝した。
 そして、次の日である。
 二人の予測は、早くも的中することとなった。それは、良い方向にも、そして悪い方向にも。



[6349] 幕間:月の綺麗な夜だから
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/06/23 10:23
 レティシアは、夜の街をぶらぶらと歩いていた。
 連邦大学は学生のための星である。殊更風紀や犯罪の取り締まりには厳しいが、だからといって歓楽街がないわけではない。学生のために働く人間や、その人間のために働く人間。人が集まるということは経済が回るということであり、そうなれば当然、歓楽街は必要となるからだ。
 また、学生は学生でも、成人した大学生ならば、こういった大人の街もまた必要だ。純粋培養されて夜の街も知らないお坊ちゃんお嬢ちゃんなど、社会に出ればいい鴨である。親切の仮面を纏った悪人に、これみよがしに狙いを定められ、あっという間に身包みを剝がされてしまうだろう。
 そういう意味で、ある程度の経験と免疫をつけるためにも、学生に対して夜の歓楽街の利用そのものが禁止されているわけではない。無論のこと、学生が利用すべき行儀の良いエリアと、学生以外の人間がガス抜きに使う少し猥雑としたエリアはきちんと分けられ、それぞれの縄張りを犯さない不文律ができあがっている。
 レティシアは、ちょうどその境目あたりを、ぶらぶらと歩いていた。
 別に、酒が飲みたくなったわけではない。白粉の匂いが恋しくなったわけでもない。ただ、ざわめいた雰囲気の中に身を置き、誰でもない自分に戻ることが、ふと恋しくなる。そんな時が、彼にもあるだけのことだ。
 月の綺麗な、夜だった。
 夜風は、初夏から盛夏へと移り変わりつつあるこの時期にしては、ひんやりと涼やかだ。半袖のシャツでは肌寒さを覚えるだろう。然り、レティシアも洗いざらしの長袖シャツ、細身のジーンズにスニーカーという、どこの若者がしても不思議ではない、ラフな恰好である。
 そんなレティシアが、少しだけ酒をひっかけ、いい気分で歩いていた。高校生の身分の彼だから、当然褒められたことではないが、人の法やマナーなど、如何ほどのこととも考えてはいないから今更である。
 満月である。レティシアにしてみれば、まるで真昼のように明るい。加えてネオンが煌々と輝くものだから、目も眩まんばかりだ。
 人は多い。結構な道幅の歩道を、がやがやとした人の波が、あっちからこっちへ来る列、こっちからあっちへ向かう列に別れ、折り目正しく流れていく。ちょうどその中間あたりを、レティシアは猫のように目を細め、機嫌よさそうに歩いている。
 ふと車道を見れば、ヘッドライトを付けた車が、時折クラクションを鳴らしながら走っている。そのエンジン音やタイヤが地面に擦れる音も、今のレティシアには心地よい音楽だ。
 たまに人込みの方から、喧嘩腰の怒鳴り声や、酔漢の騒ぐ声などが聞こえる。レティシアは後ろの方からひょいと覗き込み、トラブルや乱痴気騒ぎを見て、やはり微笑む。
 人の心が分からないレティシアだが、人が楽し気に騒いでいるのを傍から見るのは、結構好きだ。
 そんなふうにして、ぼつぼつとした歩調で歩いていたレティシアが、ふと足を止めた。
 人の流れの中に、こちらに視線をやって、じっと動かない、男を見つけたからだ。
 きっとその男も、レティシアが自分に気が付いたのと同じタイミングでこちらに気が付いたのだろう、にこやかに微笑みながら、挨拶を寄越した。

「こんばんは、今日は気持ちの良い夜ですねぇ」
 
 ほろ酔い加減のレティシアも、笑顔でそれに応える。

「ああ、こいつはどうも。あんた、おれの知り合いかな?悪いけど、こっちは見覚えがないんだけどさ」
「いえ、あなたとお話するのは初めてです。ワタクシは、これからあなたと仲良くなりたいのですよ」

 男はにこやかに言う。
 気持ちよさそうに微笑んだレティシアは、しかし冷静に男を観察する。
 男は、きちんと折り目の付けられた、仕立ての良いスーツに身を包んでいる。よく磨かれた革靴、綺麗に結ばれたネクタイ、少し目深に被った中折れ帽。一部の隙も無いような着こなしである。
 体躯は中肉中背、特に鍛えこまれた肉体ではない。顔は普通、さして男前でも不細工というわけでもない。顔の造りに目立ったところもない。まるで、全世界の人間の顔写真を合成して、その平均値で作ったような顔。特徴がないことが、何より特徴のような顔。おそらくレティシアなどでなければ、例え会話を交わしたとしても、目を離した次の瞬間に忘れてしまうような顔。
 それが、何とも不気味だった。
 その特徴のない男が、礼儀正しく中折れ帽を脱ぎ、レティシアに相対する。ブラウンの、綺麗に撫でつけられた髪が、初めて男の特徴として印象的だった。
 その男に向けて、レティシアは嬉しそうに声をかける。
 
「そうかい、そりゃあ良かった。なら、もう少しお近づきになろうや。この距離は、これから仲良くなろうとする二人がお話するには、少し遠すぎるだろう?」

 二人の距離は、およそ10メートルはあるだろうか。
 到底、普通ならば会話を交わせる距離ではない。だが二人は、お互い声を張り上げるでもなく、互いの声を聴き取っていた。
 そして、何故か二人の間に人はいない。別に二人を恐れて距離を空けているわけではない。ただなんとなく、そこを人が避けて歩いているようにしか見えない。ただ、人の流れの中で立ち止まったレティシアと男を、少し怪訝そうに眺めてから、やはりそのまま通り過ぎていくのだ。
 然り、レティシアからたっぷりと距離を取ったその男は、なんとも情けないように顔を青ざめさせて言った。

「大変嬉しいお誘いですが、遠慮させていただきます。ワタクシはあなたを相手に、これ以上近づけるほどに気骨者でも命知らずでもないのですよ。どうぞご勘弁を、レティシア・ファロットくん」
「なんだ、やっぱりおれの名前は知ってたんだ」

 危険な微笑みを浮かべたレティシアに、しかし男も微笑みかけ、

「ええ、失礼とは存じますが、ワタクシにも色々とコネクションがありまして」

 意外な返答ではない。寧ろ当然というふうに、レティシアは頷いた。

「誰から聞いた?」
「それを言えるとでも?」
「あんたの体に直接聞こうか?」
「あなたにはそれはできませんよ、レティシアくん」

 レティシアの、危険水域に達しつつある台詞を聞いても、やはり男は微笑んでいる。
 レティシアは内心で嘆息した。これはこの男の生き物としての危機感が故障しているからなのか、それとも殊更豪胆だからなのか、どちらだろうかと訝しんだ。
 訝しみながら、しかし口調は平然として、問うた。

「どうしておれにはできないんだい?」 
「ワタクシはあなたに仕事を持ってきた、依頼主ですからね。あなたがたの牙は常に標的に向けられるものであって、依頼主に刃を違えることはない、それがファロット一族の掟でしょう?」

 男の、決定的とも言える一言に、しかしレティシアは毛ほども動じない。
 何故なら、レティシア自身、こちらの世界で他人に自分の尻尾を掴ませるようなへまをした覚えがないからだ。無論、あちらの世界でもそれは同じことなのだが、もしも自分の暗殺者としての身の上をこの男が知って声をかけてきたなら、おそらくは後者から把握したからなのだろうという確信があった。

「ふうん……物知りだね、あんた」
「繰り返しますが、ワタクシはあなたに依頼をしにきたのです。お客様を無碍に扱うと罰が当たりますよ?」

 男の台詞を聞いて、レティシアは苦笑する。

「客とおれを繋ぐ斡旋業者は、残念だがこの世界にはまだいないんだよ。つまり、あんたを客とするかどうかは、おれが決められるってことさ。そしておれは、あんたを客にするかどうか、まだ決めたわけじゃない。ってことは、あんたをどう捌こうが、三枚におろそうが、おれの自由ってこった」

 男は、レティシアのもっともな意見に大いに頷き、しかし口に出してはこう言った。

「いえ、あなたはワタクシを客と認めるでしょう。認めざるを得ない」
「へぇ。何でだい?」
「ワタクシの依頼が、あなた以外には成し得ない、飛び抜けて困難なものだからです。この世で最も困難な仕事だと評しても過言ではない」

 なるほど、この男は自分のことを良く知っているらしい。その事実を認めざるを得ない。レティシアはそう思った。
 自分が持つ、仕事に対する姿勢、価値観、倫理観。そういったものを熟知していないと、こんな台詞で自分を釣り上げようとするはずがない。
 それでもレティシアは肩を大きく竦め、

「面倒臭い仕事は嫌いなんだがね」
「何を仰る。仕事は困難であればあるほど燃えるのが、あなたの性でしょうに」
「ずいぶんおれを高く評価してくれているらしいね」
「それはそうですよ、何せあなたはファロット一族の最高傑作であり、最も忌むべき異端者であり、そして最後のファロットだった……」

 男の、明らかに一線を超えた言葉に、レティシアは感情を消した微笑みを浮かべる。
 感情だけではない。レティシアから、体温が消え、気配が消え、まるでそこに誰もいないかのようになる。人のかたちをした毒蛇が、鎌首をもたげたように見える。
 レティシアの、僅かに開かれた指先から、目を凝らさなければ見えないほどに細い銀糸が、たらりと4本、垂れていた。つまり、もう彼は、いつでも男をこの世から消し去ることができるということだ。

「色々と知ってるんだな、あんた」
「ええ、知っているのですよ、色々と」
「他にも色々と知ってそうだ」
「知っていますよ、色々と」
「どうすれば、あんたが知っている色々を教えてくれるのかな」
「方法は一つだけです。あなたがワタクシの依頼をこなしていただければ、その時にお答えしましょう」

 打てば響く会話とはこのことだろう。
 レティシアは目の前の男をばらばらにする準備を終え、しかし男との会話を楽しんでいる自分を自覚した。
 なんとも愉快だった。それはきっと、この夜の月が綺麗だったからだ。

「なるほどね。でも、もっと簡単に答えてもらう方法があるんじゃないかな」
「それは?」
「いやだな、わかってるくせに」

 男は苦笑した。
 もう、最初に言葉を交わしたときの、表情を青ざめさせた男はいない。レティシアがそうであるように、男も、自身を偽る必要性を見出していないのだろう。
 目の前にいるのが、死神と呼ばれた一族の中でも最も恐るべき男であることを知りながら、図太い笑みを浮かべて言う。

「無駄ですよ。ワタクシはワタクシではありますが、私ではないのです。あなたがワタクシを、肉体的苦痛でどれほど責め苛んだとしても、ワタクシは口を割ることはありえません」

 レティシアには、男の言葉の意味は分からない。しかし、男が虚勢やはったりを口にしているのではないことは分かった。

「へぇ。ずいぶん自信満々だ。是非とも試したくなるね」
「試したければ御随意にどうぞ。しかし、お互いにとっての今後の良好なパートナーシップと、何より貴重な時間のために、無駄なことは慎まれるよう、お願いする次第です」

 苦笑したレティシアは、銀線を垂らしていない方の手で、頭を掻いた。

「まいったな」
「何がですか?」
「あんたのことを好きになりそうだ」

 恥ずかし気にそう言ったレティシアの言葉に、男は嬉しそうに微笑んだ。

「それは光栄です」
「本当にそう思う?」
「ええ、心から」

 本当に、心からの笑みを浮かべている男に、レティシアは猫なで声のように優しく語りかける。

「なら、知ってるかな?おれが心から好きになって、今、息をしてる人間は、この世界に一人きりだよ。あっちの世界を合わせてもそうだ」

 返す男の声も、本心から嬉しそうな声だった。

「ええ、それも知っています」

 レティシアは、笑顔のままだったが、流石に呆れて肩を竦めた。

「本当に色々と知っている」
「お褒めに与り光栄です」
「二人目になれるといいね、あんた」
「そう願っていますよ」

 レティシアは、くすくすと、口元に手を当てて微笑った。
 この男が何者かは分からない。しかし、確実に自分のことを熟知している。表の顔も、裏の顔も。
 自分のことを熟知している男が、危険を承知で一体どんな話を持ってきたのか、興味が湧いてきたのだ。

「いいよ、その度胸に免じて話だけは聞いてやる。あんたの持ってきた仕事の標的は誰だい?」

 男は、のっぺりとした笑顔を特徴のない顔に貼り付けたまま、言った。

「ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン」

 いくらレティシアでも、男の言葉には耳を疑った。
 無論、レティシアはその名前を知っている。というよりも、あちらの世界で、あの時代以降を生きた人間ならば、誰しもがその名前を知っているはずだった。
 そして何より、レティシアにしてみれば、彼の過去最高の獲物であったデルフィニア王妃グリンディエタ・ラーデンの夫だった男だ。忘れようとて忘れられない名前とは、このことを言うのだろう。
 冷静なレティシアも、我を忘れたような様子で男に訊き返していた。

「正気かよ、あんた」
「正気ですとも」

 平然とした男の様子に、レティシアはなるほどと頷く。
 つまり、そういうことか。

「そうか、王妃さんの旦那も、この世界に来てたのか」
「理解が早くて助かります」

 ぞくぞくとした好奇心が、からっぽの心に満ちていくのを、レティシアは感じた。
 この世界での生活に不満があるわけではない。医師を目指して学業を修めることに嫌気が差したわけでもない。
 ただ、男の言う話が、酷く魅力的に思えてしまったのだ。

「どこにいる」
「すぐに分かりますよ。きっと、驚くくらいすぐに」
「報酬は?」
「思いのままに」
「剛毅な話だ」
「それだけの対価に相応しい仕事だと確信しています」

 レティシアは頷いた。
 つまり、そういうことだ。

「あんたとの繋ぎは?」
「ワタクシの名前を呼んでいただければ、いつでもどこでも馳せ参じます。そう、太陽と月と闇の届かない場所ならば、どこにでも」
「どこにいても?」
「それがこの世なら」

 そんなこと、ありうべき話ではない。
 レティシアが知る異端連中の中でも、おそらくあの黒髪の占い師と、その仲間くらいにしかできないはずの芸当である。
 しかし、この男がそう言うならば、きっとそれはそういうことなのだ。
 レティシアは頷いた。
 そして、最後の質問をした。

「なら、あんたの名前は?」
「ワタクシの名前は、テルミン。アイザック・テルミンです」
 
 男が、自らの名前を明らかにした、次の瞬間、男の姿はどこにも無かった。
 レティシアの目をもってしても、男が消えた瞬間を捉えることができなかった。男は、まるで最初から幻影だったかのように、そこにはいなかった。
 立ち止まったままのレティシアの横を、彼に奇異の視線を寄越す群衆が通り過ぎていく。おそらくその誰しもが、レティシアの前に一人の男が立っていたこと、そして今はどこにもいないことに気が付いていないに違いない。

 ――さて、もしも今、あの男の名前を呼べば、どんな間抜け面を晒して本当に姿を見せるのか。

 心中でそんな冗談事を考えたレティシアは、久しぶりに、自らの血がぐつぐつと煮えたぎっていく感覚を楽しんでいた。



[6349] 第百六話:炎上
Name: SHELLFISH◆51b0c6be ID:b29859fd
Date: 2023/06/25 16:17
 本日の講義を終えたウォルは、TBSBのセム大学支部を訪れていた。
 セム大学は校区的にはアイクライン校の西隣、バスを使えば20分という距離なので、中等部生であるウォルとしても通いやすい。
 セム大学のキャンパスは、例に漏れずかなり広大であり、不案内なウォルは慣れない足取りでTBSBの支部へと急いだ。途中、自分をじろじろと見るような視線が少し気になったが、大学の中を中等部生が歩いているという物珍しさからだろうと思い、ウォルは目的地へと急いだ。
 果たして、TBSBセム大学支部はすぐに見つかった。入口から比較的近い立地だったというのも大きいが、何せ建物が大きかった。およそ、学生の課外活動のための建物とは思えない、立派な作りである。
 見た目では四階建て、幅もかなり広い直方体の建物。飾り気はないが、しかし人の出入りは結構激しいようだし、セキュリティにも気を使っているようだ。一般人が見れば、オフィスビルと勘違いしてむしろ当然といった様子である。
 ウォルは、受付でIDカードを示し、目的地であるスポーツ局のミーティングルームへと向かった。
 スポーツ局は建物の3階にある。階段で向かおうかと思ったウォルだが、エレベーターがちょうど下りてきたタイミングだったのと、階段の場所がかなり遠かったので、エレベーターで3階へと向かうことにした。
 エレベーターに入ると、中にいた、おそらくはTBSBの局員と思しき学生達が、やはりウォルに対して奇異の視線を向けてくる。
 TBSBの構成員は、当然のことながら大学生が中心だ。TBSBは結構忙しい課外活動であり、時間に自由の利く大学生でないと中々勤まらないというのが大きいが、普通の中高生ならばもっと華々しい、スポーツや演劇などの課外活動を選ぶというのも大きい。
 だから、ウォルのように中等部からTBSBに入る学生が珍しいというのは確かにある。そして、ウォル自身、自分が極めて美しい少女であり、耳目を集める存在だというのも自覚している。
 しかし、この視線の多さ、そして込められた感情は、ただ単に物珍しい学生を見るものではないことをウォルは悟った。何か、自分が注目を集めるような理由があるのだろう、と。
 思い当たるところと言えば、昨日のインタビューくらいであるが、たったそれだけの理由でこれほど注目を集めるとは思わない。
 もぞもぞした視線を浴び続けたウォルであったが、エレベーターはすぐに3階へと到着した。
 少し居心地の悪い思いをしたウォルは、足早にエレベーターから下りると、一路、先輩であるノーマンが待つ、スポーツ局ミーティングルームへと急いだ。背後で閉まるエレベーターから、

「ほら、あの子、多分例の子だよ……」

 などという声が聞こえたが、ウォルは無視した。
 ミーティングルームはすぐに見つかった。エレベーターから下りて、案内看板の示す通り通路を右折すると、すぐそこがミーティングルームだった。

「すみません、遅れました」
 
 ウォルが元気よくミーティングルームに入ると、何人かがテーブルに向かい合わせに座り、何やら難しい顔をしている。
 その中の一人であったノーマンが、ウォルの姿を認めると、元気よく立ち上がり駆け寄ってきた。

「やぁ、ウォル。昨日はお疲れ様だったね。よく来てくれた。今日が初出局だね。おめでとう!」

 ウォルの手を握り、何とも情熱的な様子である。
 そして、自分の後ろにいるスタッフのほうを向き直り、

「スポーツ局のスタッフで、取材班のみんなだ。取材中で出払っているスタッフはおいおい紹介するけど、とりあえず今いるメンバーだけでも紹介させてもらうよ」

 すると、テーブルで打ち合わせをしていた面々が立ち上がった。

「一番右がモーリッツ。前にも説明したけど、基本的に僕たちは何でも屋だ。一人一人で、ほとんどの現場を一から十までこなしている。それでも、複数人で取材するときは、それぞれ得意分野がある。彼は主にカメラを担当することが多い。例の格闘技場での取材の時もいたから、覚えているかも知れないね」

 モーリッツと呼ばれた学生が、にこやかに微笑む。

「モーリッツだ。あの時の、勇ましくも可愛らしいお嬢さんと一緒に仕事できて嬉しいよ。今後ともよろしく」
「フィナ・ヴァレンタインです。過日はご迷惑をおかけしました。こちらこそよろしくお願いします」

 礼儀正しいウォルの様子に、ノーマンは頷き、

「その隣がデーヴィス。取材班だけど、音響や編集も担当してくれている」
「デーヴィスだ。よろしく」
「その隣がニーナ。ニュースキャスターやインタヴュアーが主な担当だ」
「よろしくね、フィナ。中等部生は貴重だから、頑張ってほしいわ」
「最後がモディーンだ。彼は他局との連絡調整を担当してくれている」
「モディーンです。今後ともよろしくお願いいたします」

 ウォルは先輩方に向けて頭を下げた。

「フィナ・ヴァレンタインです。若輩者ですが、何卒宜しくお願い致します」

 ウォルは、あらためて先輩となった三人を観察する。
 デーヴィスは、ノーマンに比べるとやや背が低く、ぽっちゃりとした体型だ。顔はそばかすが目立ち、年齢よりは幼い印象を与える。しかし目線は強く、中々気の強そうな印象がある。
 ニーナは、肌がチョコレート色の、美しい女性だった。溌溂として、裏表を感じさせない笑顔が印象的だ。
 モディーンは一同の中では一際身長が小さい。しかし顔は、よく言えば落ち着いた、悪く言えば年のわりに老け込んだ様子があるので、そのアンバランスが特徴的である。しかし、その矮躯は鍛えこまれていて、ボディビルダーのように筋肉が盛り上がっている。口調は落ち着いており、他局との連絡調整という仕事が彼には相応しく感じる。
 中々に個性豊かな面々であったが、ウォルは、やはり彼らが自分を見る視線に、単に新人を歓迎する以外の、気の毒めいた感情を感じてしまうのだ。
 はて、これはやはり、自分が何かやらかしたのだろうかと思い、首を傾げかけたウォルを、ノーマンが別室へと案内する。

「本当なら、今日は君の歓迎会をする予定だった。それと、昨日の放送の打ち上げだね。でも、ちょっとそうもいかない事情が発生したんだ」
 
 なるほど、やはりそういうことかと、ウォルは頷く。自分が原因の厄介事が、彼らを悩ませているのだろう。
 別室は、小さな会議室のような造りだった。長机が二つ並べられ、その周りにパイプ椅子が四つ置かれている。
 ウォルとノーマンが向かい合うように椅子に腰掛けると、ノーマンがためらいがちに口を開き、

「良い知らせと悪い知らせがあるんだけど、どちらから聞きたい?」

 思わずウォルは苦笑した。ノーマンの、少し安っぽいような言い回しがおかしかったのだ。

「では、良い知らせから聞こうか」

 だいたい、良い知らせと悪い知らせがあると言われた場合、良い知らせの方が大きかったためしがない。悪い知らせの衝撃を和らげるため、敢えて良い知らせを用意するのが普通である。
 ならば、とりあえず良い知らせから聞いてみようと思ったわけだ。
 ノーマンは努めて明るい表情を作り、

「昨日の君のインタビューだけど、凄い反響だ。正直、僕も驚いている」
「ほう、それは良かった」

 ウォルは、嬉しそうに微笑んだ。自分で視聴しても、それなりの出来ではあったと思っていたが、反応が良いと聞かされれば、異世界の王であったウォルでも嬉しいものである。

「君の堂に入ったインタビュアーぶりには現場でも驚かされたけど、映像で観るとより一層だったよ。君の生き生きとした表情も、美しい容姿も、はきはきとしたしゃべり方も、凄くカメラ映えする。適度なユーモアを交えつつ、聞くべき事は聞き、指摘すべきことはしっかりと指摘して、キアラン選手に寄り添いながらその本音を引き出していたのは実に見事だった」
「ノーマンどのの台本が素晴らしかっただけのことだ」

 ノーマンは首を横に振った。

「確かに台本は僕の手製だけど、あのインタビューは、いくら台本があったとしても中々出来ることじゃない。キアラン選手の女性関係のくだりは完全にアドリブだろう?あれで雰囲気が和んで、その後の、事件に対するキアラン選手の想いが際立つ結果になった。本当に素晴らしい初仕事だったと思う。君をTBSBにスカウトしたのは間違いじゃなかった、そう確信したよ」
「キアランくんを泣かせてしまったのは少しやりすぎたかなと反省しているのだがな」
「確かに、そこは賛否両論あるところかも知れない。番組に寄せられたらコメントの中に、事件とは無関係のキアラン選手をあそこまで追い詰める必要があるのかとか、そういう厳しい趣旨の意見が見られたのは事実だ」

 真剣な表情でノーマンは続ける。

「でも、それ以上に、キアラン選手の、事件に対する生の感情が、そして真剣な謝罪の意志が見られて良かったという意見が多い。中には、事件がきっかけでキアラン選手のファン活動を止めていた視聴者から、もう一度彼を応援したいと思ったという、そんな声もあったんだ。フィナくん、きっと君は、キアラン選手を救ったんだと思うよ」
「おれもその辺りはどういう方向性のインタビューにするか迷っていたのだ。しかし、事件の前後の彼の変化と、今の真摯な姿を見れば、ああいうふうに彼を庇うような結果に落ち着いた。逆に、事件の被害者からすれば納得いかない内容になってしまったかも知れないな」

 苦み走ったようなウォルの表情に、しかしノーマンは呆れたように溜息をつく。
 
「……君は、あの短い打ち合わせで、そこまで意図してインタビューを組み立てていたのかい?」

 ウォルは、当然と言わんばかりに頷き、

「これは万事に言えることだと思うのだが、情報というものは、それが人口に膾炙するものである以上、発信者の主観が入らざるを得ない。情報を単純に情報のみとして発するなど不可能だ。ならば、これはもう、おれが正しいと思うキアランくんの姿をありのままに映させるしかない。だから、ああいうインタビューになった。結果が正しかったのかどうか、それは今後の彼の活躍で判断するしかないのだろうな」

 ウォルの言うことは至極もっともであった。
 何かの情報を発信するということは、他の情報を発信しないということであり、その時点で発信者の恣意が入る。また、発信する情報でも、情報のどの部分に重点を置いて発信して、どの部分を軽く発信するかでも恣意が入ってしまう。発信した情報が例え事実のみであったとしても、その時点で多くの恣意が割り込まざるを得ないのだ。
 それらの重要性の大小を見極め、出来る限り公平に報道するのがマスコミの使命ではあるのだが、これが中々に難しい。他のマスコミに比べれば、例えばスポンサーの意向などの不純物の混ざりにくいTBSBではあるが、それでも局内のパワーバランスや取材目的と取材対象の認識のずれなど、報道に問題はつきまとう。
 ウォルはそれらの事情を理解している。大国の王だった彼女である、風聞の力の大きいこと、扱いにくいこと、そして重要なことなど百も承知だ。
 だからこそ、今回の取材について、誰に焦点を当てて掘り下げるべきかを考え、そしてキアランの想いを全面に押し出したものにすることを決めたのだ。
 
「いやはや、君を侮っていたわけではないけど、もう、お見逸れしましたというしかないね。脱帽だよ」

 ノーマンは首を振り、感心しきりといった様子だった。
 ウォルは苦笑し、ノーマンに話の続きを促す。

「ノーマンどの、良い知らせのほうは理解した。では、悪い知らせとは一体どのようなものなのだ?」

 ノーマンは僅かに居住まいを正し、真剣な表情で、

「レオン・オリベイラ選手を覚えているかい?」
「ああ、おれが灸を据えてやったあの悪戯坊主だな。それがどうした?」
「彼が、君と、僕たちTBSBのスタッフを、人権擁護委員会に訴えた」

 ウォルは小首を傾げ、

「人権擁護委員会?」
「簡単に言えば、学内のトラブルを処理する裁判所だと理解してもらえると早い。つまり彼は、君や僕たちが彼の正当な権利を侵害したと、そう訴えているということだ」

 そう言われても、ウォルには何のことやら分からない。
 権利を侵害したというが、ウォルがオリベイラとしたのはただの喧嘩で、別に裁判所を巻き込むような話ではないはずだというのが、ウォルの認識だからだ。

「どうしてそういうことになる?あれは、怪我は互いに自分持ちという約定だったはずだぞ?それに、どうしてあなた方を訴えるという話になるのだ?」

 ウォルが不思議そうに言うと、ノーマンがテーブルに置かれた端末を操作する。

「この映像を見て欲しい」

 端末には、オリベイラが金メダルを受賞した際の映像が大きく映し出され、オリベイラの名前や経歴などが表示されている。
 どうやら、オリベイラ個人のサイトらしい。

「フィナくん、君はSNSをするかい?」
「いや、しない。というか、SNSというもの自体とんと知らん」
「簡単に言えば、個人が発信出来るマスコミみたいなものだ。一人の意見が世界中に知れ渡ったりするから、便利で強力なツールであると同時に危険なツールでもある」 

 ふむ、とウォルは頷く。
 ウォルが王であったあちらの世界では、よほどの大人物でも、自分の意見を世間に広めることなどできなかった。紙ですらが貴重品だったのだから、民衆に知れ渡るような大事件はだいたいが人伝、噂話、役人のお触れ、吟遊詩人等の口を介さなければ知られないものであるのが常である。
 情報を一部の人間が独占するのは危険なことなのだが、逆に民衆一人一人が自分勝手に自身の意見を広めることができるのは、それはそれで危険なことではないかと、ウォルなどは思うのだ。
 そんなウォルの内心は置いておいて、ノーマンは説明を続ける。

「オリベイラ選手は、SNSでも相当影響力のある選手だ。彼の大胆な言動やトラッシュトークは、眉をひそめる人間も多かったが、分かりやすい言動は、若者を中心に人気があったのも事実だ」 
「トラッシュトークとはなんだ?」
「試合の対戦相手を罵ったり、自分の方が優れていると声高に触れまわったり、そういう発言のことだね」
「あまり行儀のよろしいことではないようだな」

 ノーマンは頷き、端末を操作して、そこにアップロードされていた動画を再生する。
 それは、ウォルも予想はしていたが、ウォルがオリベイラに灸を据えてやった、あの試合の様子だった。
 だが、以前ノーマンに見せてもらったものと違い、試合の開始から映されたものではなく、ウォルがノーマンに飛び膝蹴りを叩きこんだ、その前後しか映像がない。

「この映像は、誓って僕たちTBSBが撮ったものじゃない。僕たちが撮った映像は、君の目の前で確かに削除したんだ」

 ウォルは頷き、ノーマンの言葉の正当性を認めた。
 そして、冷静な口調で、

「角度からすると、あの小僧の取り巻きが撮っていたものだな。あの部屋に入ってからは不審な動きはなかったはずだから、おそらく部屋に入る前からカメラのスイッチを入れていたのか」

 ノーマンも頷き、

「例えばカメラが仕込まれたサングラスなんかなら、目線と同じ角度で映像が取れる。そういったもので撮った映像の可能性が高いと思う。当然、隠し撮りだ。本来、学内での隠し撮りは処分対象だが、彼らはこれを許可された映像だと言い張っている」
「で、奴はこの映像の何をもっておれを訴えているのだ?」
「彼らの言い分はこうだ。君とオリベイラは、デモンストレーション、いわば演武をしていた。定められた手順で攻防をしていたということだ。その最中に、君が手順を守らずに突然攻撃を仕掛け、結果としてオリベイラは大怪我を負うことになった。TBSBも、その映像を取るために、君と口裏を合わせていたというのが彼の主張だ」

 ウォルは思わず笑ってしまった。あれだけ傍若無人な振る舞いをしておいて、自身が怪我をすることになれば、自分は哀れな被害者でございますと何の臆面もなく言うなど、彼女の羞恥心からすれば明らかに一線を超えているからだ。
 むしろ自分があの男だったとして、まかり間違って、喧嘩をした自分と少女のどちらが悪いかという話が湧き上がってしまえば、あまりの羞恥に穴を掘って入りたくなるのが普通の男ではないかと、彼女などは思うのだ。
 しかし、オリベイラは、その一線を超えて、少女のウォルに対して、怪我の責任を取って謝罪しろと息まいているらしい。ウォルとしては呆れるほかない。
 ただ、ウォルの世界においても、薬でかどわかした他国の王妃を、自国の王子の妃に迎えさせようとした、文字通りの恥知らずもいたのだから、この世界の男子諸君をあまり責めるわけにはいかない。
 つまり、どこの世界でも、恥知らずの輩は一定数はいるものだとウォルは理解した。
 
「なるほど、どうやら灸が少々ぬるかったらしいな」

 憮然と言ったウォルの前で、ノーマンは続ける。

「オリベイラくらいの有名スポーツ選手になれば、いくつかの企業とタイアップしている。当然、金が絡む話だ。今回の君の一撃で、彼は全治三ヶ月の重傷を負ったらしい。その間、試合はおろかSNSで情報を発信する事も満足に出来なくなるだろう。企業とも、スポンサー料の関係で揉めるかも知れない。その損失を補填しろというのが彼の主張だね」
「恥も外聞もないとはこのことだな。少なくとも、見た目はおれのように愛らしい少女に、あれだけ無様に叩きのめされておいて、更に恥の上塗りをしようというのか」
「フィナくん、君の言い分はもっともだ。僕たちは、君の言い分が正しいことを知っている。しかし、少なくともオリベイラのファンはそう思っていないらしい」

 ノーマンは画面を操作し、その映像に対するコメントを表示した。
 そこには、大方ウォルの不正を非難する、汚い言葉が並んでいる。
 普通の少女であれば、自分が世界中から罵られているのだと考えて顔を青ざめさせても不思議ではないが、ウォルは当然の如く、素知らぬふうである。自分の知らない人間の悪口など、勝手に言わせておけと言った素振りだ。
 そういえば、今日、TBSBに辿り着くまで、そして辿り着いた後も、好奇の混ざった視線を向けられることが多かった。なるほど、昨日のインタビューだけではあるまいと思ったが、こういうことかと納得したウォルだった。

「この映像だけでは、試合の経緯や過程は分からない。ただ確かなのは、君のように華奢な少女が、TBO金メダリストのレオン・オリベイラを倒したということだけだ。正直、あの試合をこの目で見た僕自身、信じられないような結果だったんだ。何も知らない視聴者なら、そこに何かの不正があっても不思議じゃないと思うだろう。オリベイラのファンが過熱して君を叩くのにも、一定の説得力ができてしまっている」

 ノーマンの意見に頷き、しかしウォルは何気ないふうに、

「なら、あの試合の最初から最後までの映像を公開してやればいいだけではないか?」

 ノーマンは、残念そうな面持ちで首を横に振った。

「残念だが、フィナくん、あの時に君の前で消したデータが、正真正銘この世で唯一の、僕たちが持っていたあの試合の映像データだったんだ。複製は存在しないし、今となってはデータの復元も不可能だ」

 そして、苦虫を嚙み潰したような顔で続ける。

「なお悪いことに、オリベイラにはあの試合のデータを消した事を伝えてしまっている。まさかこんな暴挙に彼が出るとは思わなかった。完全に僕たちの手落ちだ。そして、それが、オリベイラがこれだけ強気な対応ができる理由でもあるんだろうね」

 流石に少し困った様子のウォルは、難儀そうな顔つきで腕を組み、大いに鼻息を吐き出しながら椅子にふんぞり返った。 
 どう見ても、中等部の少女には見えない、堂々とした様子である。

「つまり、おれたちにはあの試合が正当に行われたものであると証明する材料が無いということか」
「無論、僕たちTBSBのスタッフは、君の戦いが正々堂々としたものであったことを証言する。だが、オリベイラの取り巻き達は、オリベイラの言い分を是と証言するだろう。訴えの原告と被告が、それぞれ自分が正しいと主張するわけだ。そうすれば議論は水掛け論になってしまう」
「あの部屋が貸切だったのも不味かったな」
「君の言うとおりだ。一般学生の目があったのなら、オリベイラもこんな難癖をつけてきたりはしなかっただろうね」

 ノーマンは大きく溜息を吐く。

「この映像が公開されたのは、昨日の君のインタビューが放送された直後だ。そして、すでにこの映像の再生回数はとんでもないことになっている」
「世論はどのような方向だ?」
「これはオリベイラのチャンネルに公開された映像だからね、当然彼のファンの意見が中心となっているから、君に対して批判的な意見が大半だ。あのオリベイラが女の子にKOされるはずがない。やらせか、卑怯な反則行為があったに違いない、とね。この映像を取り上げてる他のSNSも、論調は面白半分だけど、オリベイラがはめられたという意見が多い」
「難儀なことだ」
「しかも、タイミングがあのインタビュー映像の直後だ。君に興味を覚えた視聴者がこの映像に注目して、様々な意見を書き込んでいる。完全に炎上していると言っていい」

 一般論であるが、民衆は、正しいことを信じるのではない。自分が信じたいものを信じるのだ。そのことを、ウォルは熟知している。
 この場合、オリベイラのファン達の信じたいこととは、自分が応援しているオリベイラという選手が強く、誰にも負けないことである。
 そのオリベイラが、ウォルのような少女に倒され、そして不正を訴えているのならば、オリベイラの声を信じようというのがファン心理というものだ。
 そして、ファンの数がそれなりだというなら、TBSBとしても無視できないだろう。まして、その内容が炎上し、多方面に影響を及ぼしており、なおかつオリベイラがTBSBそのものと、TBSB所属のウォルを訴えているというなら、到底静観できる話ではない。

「あまり気持ちの良い話じゃないけど、実際、TBSBにもこの事件の然るべき対応を求める声が多数届いている」
「対応とは、どのような?」
「君や僕たちスタッフからの謝罪、TBSBからの除名、極端なものだと連邦大学からの放校処分や刑事告訴なんかだね」
「なんとも大仰なことだ」

 ノーマンは頷いてウォルに同意を示したが、しかしその声は真剣である。

「オリベイラの筋違いの訴えには、我々としても相応の対応をしなければならないと考えている。だが、その前に、まず君の意見を聞きたい。君は、この事態にどう対応したい?」
 
 ウォルは、敢えて聞かれたその台詞に驚き、しかし口に出してはこう言った。

「売りつけられた喧嘩だろう?買う以外の選択肢があるのか?」

 ウォルは、不敗の闘将と呼ばれた男――今は見目麗しい少女だが――である。当然、挑まれた勝負に背を向けたことはない。そして、今回だけは特別多めに見てやる必要性も見出していない。
 敢えていうなら、『痛い目にあわされた腕白小僧の子供じみた仕返しくらい笑って許してやるのが大人だ』という意見があるかも知れないが、ウォルは、増長した子供には相応の拳骨をくれてやるのが大人の務めだと思っている。一度目のお灸が効かなかったというなら、二度目、三度目のお灸を、前回よりも量と熱を二倍増しにしてくれてやろうとも思っている。
 だから、売られた喧嘩を買うと言ったウォルの顔は、結構嬉しそうであった。
 ノーマンは、その言葉を待っていましたとばかりに頷き、

「君ならそう言ってくれると信じていたよ。これで、我々としても心置きなく対処できる。ただ、君にも色々と協力してもらうことが出てくるかも知れない」

 ウォルは不敵に笑いながら頷き返す。

「あの小僧はおれを相手に喧嘩を売ったのだ。ならば、おれが矢面に立つのは当然のことだ。いくらでも協力させてもらうとも」
「火は、消すなら早めに消すに限る。今日の夜にでも、君にニュースに出演してもらって、この件の真実を語ってもらいたいんだけど、大丈夫かな?」
「ニュースに出演することは問題ない。おれの本来の業務でもある。ただ、その真実を語るというところが些か気になるが、ノーマンどのの描いた絵図面はどのようなものだ?」

 ノーマンは淡々とした表情で、

「君と、あの部屋に居合わせた友人達、できればオリベイラに腕を折られた、確かヴォルフさんだったか、あの人に出演してもらいたい。そしてあの日、オリベイラがした所行を語ってもらおうと思っている。それで、視聴者の大半は真実を理解してくれるはずだ」
「弱い」

 ウォルは鋭く切って捨てた。
 少し驚いた顔のノーマンに対して、ウォルは少し低い声で、自らの意見を述べる。
 
「確かに、真実は強い。大抵の虚言に勝る。何故なら、真実の方が虚言よりも説得力を持つことが多いからだ。しかし、虚言が真実を塗り替えることがあるのもまた事実ではある。結局のところ、発言者の力の大小、そして周りの状況がものを言うのだ。この場合、あの小僧の発信力とTBSBの発言力を比べて、そして今の状況を加味したところで、圧倒的に後者が勝っていると断言できるか?」

 ノーマンは、指を顎に当て、真剣な表情で考え込み、あらためて自分の戦術を分析し、そして素直に言った。

「……さて、言われてみればどうだろうか。普段なら、間違いなく勝てる。でも今回は、すでにあちらから攻撃されて、火が各所に燃え広がっている状況だ。戦略的には劣勢の立場にあることは否めない。こちらの言い分は、ただの言い訳だと曲解されかねない状況だ。被害者や当事者の証言だけではない、何か決定的な画が一つ欲しいのが本音だね」

 冷静なノーマンの意見に、ウォルはしたりと微笑み、

「おれならその画を用意できるぞ」

 ウォルの何気ない調子の言葉に、ノーマンは驚愕の声を上げる。

「本当かい!?」
「ああ、簡単なことだ。そのために、ノーマンどのの協力と、そして人脈に頼りたいのだが、それでもよろしいか?」
「僕にできることなら何でもさせてもらうとも。こんな厄介事に君を巻き込んでしまったのは、他ならぬ僕なんだからね」
「では、おれの作戦を聞いてもらおう……」

 そしてウォルは自分の考えた作戦を語った。
 作戦そのものは至って単純だった。準備に要する時間はほぼ不要、そして強烈な画が取れる。
 これならば、成功の見込みは極めて高い。
 しかし、ノーマンは、開いた口を閉じることができなかった。到底、中等部の少女が考えていい作戦ではなかったからだ。

「……まさか、本当にそんな映像を流すつもりかい?」

 ウォルはしかと頷く。
 思わず立ち上がったノーマンは、悲鳴の様な声を上げて叫ぶ。

「君はとんでもない騒ぎの中心人物になるよ!?消火行為どころか、大火事の中で自分から可燃物をまき散らすようなものだ!僕たちでも、その騒ぎを制御できるかどうか、わからない!」

 ウォルはにやりと嗤い、嬉しそうに頷く。

「それが正しく望むところだ。おれは、前にも言ったが、この世界で一番の有名人になりたいと思っている。これは、おそらくその最初のチャンスだ。あの小僧が沢山のファンを抱えているというなら結構だ、その全てをいただいてしまうとしよう」

 ウォルの明朗快活な様子に目を丸くしたノーマンは、やがて諦めとともに大きな溜息を吐き出す。

「……わかった。何ていうか……君をTBSBに誘ったのは確かに僕なんだが……本当にそれが正しかったのか、少し疑問に思ってしまうよ……もちろん、君はちっとも悪くないんだけどね」
「いや、まことに相済まんな」
「謝ってもらう必要はないよ、今のはただの、僕個人の愚痴だ。それに、この話はTBSBにとってもチャンスだ。多分今回の一件はTBSB全体を巻き込んだ一大騒動になる。上手くいけば、凄い視聴率が取れる。スポーツ局だけじゃない、エンターテインメント局や報道局の協力も必要になるだろう。モディーンに、そのあたりの調整をお願いしておこう」
「心強いお言葉だ。では、おれはおれで、あの小僧の哀れな被害者を口説き落とすとするか」



[6349] 第百七話:体験入部
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:b29859fd
Date: 2023/07/21 14:29
『嫌だぞ!俺は絶対にテレビなんかでねぇからな!』
「ヴォルフどの、お気持ちは重々分かるのだが……」
『だいたい、あれは怪我は自分持ちっていう約束の喧嘩だろう?今更、腕を折られたから相手が悪いなんて言い出したら、恰好悪くて仕方ねぇじゃねぇかよ。俺、全世界に自分が恥知らずだなんて言いたかねぇよ』
「ヴォルフどのの仰ることは一々ごもっともだ。しかし、あの小僧はおれに喧嘩を売ってくれた。ならば、持ちうる最大火力で奴を迎え撃ってやりたい。そのための助力をいただきたいのだ」
『……ウォルの言いたいことは分かるけどよう……』
「それに、何もあることないこと言ってもらう必要はない。ただ、事実を語ってもらうだけでいい。あの日、ノープス中央体育館であの小僧と喧嘩したこと、そして腕を折られたこと。その二点で充分だ。例えば、あの小僧が悪いとか、そういうことを言ってもらう必要は全くないのだ」
『でもよう、喧嘩で腕を折られましたって大声で言うっていうことは、つまりあの男が悪者ですって言いたいんだって普通の人は思うぜ?』
「無論、それは試合中の事故ということで構わない。そう仰っていただいて結構だ。ヴォルフどのは、ヴォルフどのが思うとおりのことを述べていただければいい。ただ、おれとしては、ヴォルフどののように第三者が、あの日、あの小僧と戦った、その事実だけが欲しいのだ」
『……でもなぁ……』
「それに、おれの見立てでは、これはチャンスだ。おれの夢を叶えるための、第一歩になりうるほどのな」
『……』
「頼む、このとおりだ」
『……このとおりって言われても、電話じゃわかんねえよ。……わかったよ。じゃあ、お前さんの腹ん中に発信機仕込んだ件と帳消し。それでいいか?』
「恩に着る、ヴォルフどの!」



「やあ、クレイグ。久しぶりだね」
「ノーマン、ついに君もMMAの面白さに目覚めてくれたのかい?我がセム大学MMA部を取材してくれるなんて嬉しい話じゃないか」

 ノーマンは、クレイグと呼んだ青年と握手を交わした。
 場所は、セム大学の第二体育館の一角、リングやサンドバッグなどが設置された、かなり広いスペースである。
 幾人もの学生が、トレーニングウェアに身を包み、思い思いの練習をこなしている。組を作ってミット打ちをする者、一人でシャドウボクシングに励む者、リングの上でスパーリングをする選手もいる。
 統一性はないが、しかし全員が真剣な表情で練習に取り組んでいることは明らかだ。
 そんな中、ウォルとノーマンは、闖入者のように好奇の視線を浴びながら、クレイグと話を続ける。

「クレイグ、すまないが今回は、直接君たちを取材させてもらう訳じゃないんだよ」
「冗談だよ、知ってるさ。要は、僕たちを出汁にした企画を放映したいということだろう?いいとも、あのオリベイラの鼻っ柱を叩き折れるなら、なんだって協力させてもらうとも」

 ノーマンは深々と頭を下げた。

「重ねてすまない」

 クレイグは、苦み走った笑みを浮かべて首を横に振った。

「ノーマン、頭を上げてくれ。君はあまり知らなかったのだろうけど、あの男の傍若無人ぶりはこの界隈では有名でね。僕の友人にも、あの男と対戦して不必要な怪我を負わされた選手が何人もいる。MMAなど喧嘩みたいなものだ、だから怪我など付き物だ、なんて訳知り顔で言う連中もいるが、だからこそルールを守り対戦相手をリスペクトすることが必須の競技なんだ。あの男は、完全にそこをはき違えている」

 ノーマンは、真剣な表情で頷いた。

「今思えば、あの男の取材を企画していた自分が恥ずかしいよ。TBO金メダリストという肩書きとあの男の人気に、完全に目が眩んでいたと言わざるをえない。正しく汗顔の至りだ。もっと周囲の評判を調べるべきだった」

 クレイグも頷き、

「それに、オリベイラは普段の素行にも大きな問題があると言われている。あくまで噂話だが、この星の裏を牛耳るギャング組織と繋がりがあるとも囁かれているんだ」
「それは僕も調べてみた。違法薬物の売買や、人身売買なんかを生業にしてるっていう、かなりあくどい組織だろう?」
「嘘か真か、ギャング組織の一斉摘発のためにオリベイラが泳がされているとか、そんな話も聞く。それくらい、あの男が、仮にも連邦大学の学生の身分でいられることを、みんな不思議がっていたし、苦々しく思ってもいた。そんな輩に鉄槌を下せるなら、どんな汚れ仕事だって喜んで引き受けさせてもらうよ」

 ノーマンは苦笑し、傍らに立った少女に手を向けた。

「彼女が、今回の企画のメインを務めるフィナくんだ」

 フィナ・ヴァレンタイン――ウォルは、行儀よくお辞儀をし、しかし真剣な調子で自己紹介をした。

「フィナ・ヴァレンタインです。この度はご無理を申し上げました」
「セム大学MMA部の部長のディル・クレイグだ。例の動画は見させてもらった。いや、君の飛び膝蹴りは素晴らしかった。あれがデモンストレーションだって?笑わせるね。見る人間が見れば、一目瞭然だ。あれは、正真正銘、正当な試合の中で放たれた最高の一撃だった。素晴らしかったよ」
「ありがとうございます」
「正直に言うとね、あの映像を見て、僕は喝采を叫んでしまった。正しく胸の梳く思いだった。腹の底からスカッとした。悪には必ず裁きが下るのだと思ったよ。本来は僕たち総合格闘技選手が、公開の試合で、もっと早くしなければいけなかったことだ。それが、あんな男をここまでのさばらせてしまったのは、完全に僕たちが不甲斐ないが故だ。君の手を煩わせてしまったことに、心から恥じ入る思いだ」

 ウォルは頷き、

「このままでは、またしてもあの悪戯坊主を増長させてしまうかも知れません。これは私の経験知ですが、ああいう手合いの相手をするときは、徹底的にやるべきです。完膚無きまでに叩き潰すべきです。もう二度と、我々に刃向かう気力か起きないほどに、無慈悲な刃を振り下ろすべきです」

 些か少女らしからぬ直截的な表現に、クレイグは軽く目を剥いたが、しかしその意見には賛成した。

「君の言うとおりだ、フィナくん。では、その無慈悲な刃を振り下ろために、我々にどんな協力が出来る?僕たちに出来ることならなんだって協力させてもらう」
「特別なことをしていただく必要はないのです。ただ、私がこの部に体験入部することを許可頂きたい」

 ノーマンが、ウォルの言葉を引き継いで、更に続ける。

「そして、その映像を放送させて欲しいんだ。ひょっとしたら、二、三、コメントなんかももらえると嬉しい」

 クレイグは頷き、

「なんだ、そんなことか。他の部員を映させると色々話がややこしい。もしよければ、僕とのマンツーマンの体験レッスンという体裁でもいいかな?それなら、今すぐに始めてもオーケーだよ」
「ありがとう、恩に着るよ、クレイグ。そしてフィナくん、そういうことらしいけど、どうする?」

 ウォルは嬉しそうに微笑み、言った。

「ありがたい。それでは、本当に今すぐ始めさせてもらうとしよう」



 クレイグの見た所、フィナ・ヴァレンタインは普通の少女だった。
 動きやすいスポーツウエアを着た身体はすんなりとしていて、特別鍛え込まれたふうではないし、何か、スポーツに打ち込んだ人間特有の身体的特徴があるわけでもない。
 顔立ちは整っていて、きっと同年代の少年達には憧れの的に違いない。もしも、本格的に格闘技という世界にチャレンジすれば、美少女ファイターとして話題になるのは疑いないだろう。
 しかし、目立つのはそれくらいだ。
 普通の中等部生。普通の少女。それ以外には、どうしても見えない。
 だからこそクレイグは不思議だった。映像の中で、フィナ・ヴァレンタインと名乗ったこの少女は、あのレオン・オリベイラを一撃でノックダウンさせている。それがデモンストレーションだなどというオリベイラの言い分は頭から信じていないが、しかしどうしてこんな可憐な少女にあんな芸当が可能だったのか、興味が尽きない。
 今回の自分の役回りが、いわば刺身の妻であり、この少女の引き立て役でしかないことは重々承知している。しかし、オリベイラと同じ競技の競技者として、むくむくとした好奇心が湧き上がるのを堪えきれない。クレイグは、獰猛な笑みを浮かべた。

「さて、フィナくん。まずはミット打ちをして身体を暖めてもらおうと思うんだが、いいかな?」

 ちょうどストレッチの終わったウォルは、笑みを浮かべながら頷いた。

「お任せする」

 ウォルの短い言葉に、クレイグも頷き、両手にパンチングミットを装着した。
 その頃になると、他の部員もトレーニングを中断し、クレイグ部長と見慣れない美少女との組み合わせを、面白そうな視線で遠巻きに眺めている。
 かなりの人間の視線が集まる中、クレイグはウォルに問いかける。

「一応聞くけど、ミット打ちの経験は?」
「前に一度だけ」
「なるほど、まだほとんど経験は無いということだね。ならこちらがある程度指示を出すから、その通りにミットを叩いてくれればいい」
「承知した」
「時間は3分だ。思い切り来てくれ」

 ウォルは既にグローブを身につけ、先日ヴォルフから教えてもらったとおり、オーソドックスのアップライトスタイルに構えている。
 しっかりと板に付いたウォルの構えを確認したクレイグが、バシンとミットを打ち合わせ、ウォルの身長に合わせて、膝を曲げ、やや前のめりの姿勢を作る。
 そして右手を顔の横に構え、ミットをウォルの方に向けて、

「さぁ行こう!まずはジャブ!」

 鋭く指示を出す。
 ウォルの小さな身体が滑るように前に出て、クレイグの構えるミットに向けて、素晴らしいスピードで左ジャブを繰り出す。
 そして次の瞬間、二つの大きな音が体育館に響いた。
 一つは、ウォルの拳がミットを叩いた音。
 もう一つは、ウォルの鋭い打撃でクレイグの手からパンチングミットが吹き飛び、10メートルも後ろの壁に凄い勢いで衝突した音である。

「……えっ?」

 呟きは誰の声だったか。
 あまりに想像を絶する光景に、その場にいた、ウォル以外の全ての人間が声を失った。
 ミット打ちの際にパンチングミットが外れるくらいは珍しい事ではない。しかしそのミットが文字通りすっ飛んで、壁まで一直線に吹き飛ばされるなど、あり得る話ではない。
 いったいどんな威力の打撃ならそんな芸当が出来るのか、想像すらできない。
 唖然とした一同の視線の中で、ウォルが申し訳なさそうに首を竦め、

「すまん、何か不味かったか?」

 ウォルの声に我に返ったクレイグが、

「……いや、きみは悪くない。僕が、きちんとミットを着けていなかった……んだと思う」

 狐に摘ままれたような表情のクレイグは、壁まで歩いていきミットを拾った。
 これは果たして現実かと思う。しかし、右手に残された重たい痺れが、これは現実のことであり、ウォルの打撃が想像を絶するものであったことを物語る。
そ してクレイグは、今度はミットのリストラップを痛いくらいにしっかりと手首に巻き、マジックテープを圧着させた。これなら、力づくで引き抜こうとしても引き抜けないはずである。
 気を取り直すように、クレイグは再度ミットを叩き合わせ、バシンと大きな音を鳴らした。

「さぁ、再開だ。もう一度ジャブ!」
「しぃっ!」

 ウォルの短い呼気が響き、先ほどと勝るとも劣らない一撃がミットに叩き込まれる。
 普通ならば打撃を受け止め、適度な力で押し返すはずのミットは、ハンマーを叩きつけたような重い音とともに、持ち主であるクレイグの右腕ごと後ろに弾け飛んだ。

ーー冗談だろう!?

 クレイグは、右手を貫く痛みに顔をしかめながら、内心で驚嘆していた。
 これが、見た目なよやかなこの少女の打撃か!?
 クレイグは今まで数え切れない競技者のパンチをミットで、そして自身の身体で受けてきた。その中には到底自分では敵わないようなパワーの持ち主もいたし、本当に人間か疑わしいような怪力の選手もいた。
 しかし、この少女に比べれば、それらの印象が水平線の遥か彼方に消え去ってしまう。
 はっきりと分かる。この少女は、ものが違う。身体を構成する細胞の悉くが、自分のような凡人とは造りが違うのだと。

「次、ワンツー!」

 今度は吹き飛ばされまいと、かなり前傾重心になったクレイグが指示を出すと、過たずウォルは構えられたミットにパンチを叩き込む。
 左手と右手、両方のミットを、ほぼ同時のタイミングで鋭く重たい衝撃が貫く。
 それは、巨大なハンマーで叩かれたというより、鋭い槍に貫かれたようなイメージをクレイグに与えた。
おそらく、この少女の拳は恐ろしく硬い。そして、少女ならではの小さな拳。それらがあいまって、叩きつける衝撃よりも貫くようなインパクトを与えるのだろう。
 これは、きっと人を殺せる拳だ。それとも、人を殺したことのある拳。クレイグは確信した。

「ワンツー、ボディ!」

 ワンツーパンチの後のボディは、下半身で作ったエネルギーを、腰の捻転、肩の捻転を通じて拳に伝える、お手本のようなボディブローだった。
 ウォルの拳は、重ねて構えたミットを貫き、クレイグの腹部に悶絶寸前の衝撃を叩き込んだ。クレイグが倒れなかったのは、自分が男であり、年上のファイターであるという自負心によるものだ。
 もしもウォルが格上のファイターだったなら、自分は遠慮なく倒れ伏し、たかがミット打ちでマットを舐めていたのだろうか。不吉な想像にクレイグは片頬を歪めた。
 気を取り直したクレイグは、しかし、次々とウォルに指示を出し、ウォルはその指示通りにミットを打った。
 コンビネーションは4発から5発、間に牽制の反撃も入るというふうに、どんどん複雑なものになっていったが、ウォルの攻撃はプロボクサーもかくやという見事な動きで的確にミットを捉えていく。そして、それらの攻撃の全てが、クレイグに重たいダメージとして蓄積していく。
 結果、3分経過のブザーが鳴ったとき、ようやく薄い汗を掻き始めたウォルの前には、全身汗みずく、疲労困憊で立つのもやっとといった様子のクレイグがいるという有り様であった。

「だ、大丈夫か、クレイグ殿?」

 ウォルが心配そうに駆け寄ったが、両手を膝につき肩で息をしていたクレイグが、片手を上げてそれを制した。

「はぁ、はぁ……大丈夫……とはお世辞にも言えないけどね、この程度で参るような柔な鍛え方はしていないつもりだ。心配ご無用だとも」

 ようやく息が整ってきたクレイグが、呆れたように微笑みながら言った。

「全く、本当に君は驚くべきお嬢さんだ。パワーとスピードもそうだが、テクニックもずば抜けている。これが人生でたった二回目のミット打ちだというのだから、僕のような凡人は、もう笑うしかないよ」
「お褒め頂き光栄だ。きっと一回目の先生の指導が素晴らしかったのだろう」
「なら、是非ともその素晴らしい先生に、僕もご指導頂きたいものだ。心の底からそう思う」

 ウォルは頷いた。あの時、素手の格闘技に慣れないウォルを指導してくれたのは、ルウ、メイフゥ、そしてヴォルフであった。
 彼らのパワーやテクニックに比べれば自分などまだひよっこも同然と思っていたウォルだから、こうも誉められると些か居心地が悪い思いすらしてしまうのだ。
 ウォルは気を取り直して、

「ではクレイグ殿、もう少しお付き合いいただけるか?」

 クレイグは、力無く微笑みながら首を横に振った。

「申し訳ないがフィナくん、これ以上、君を相手にミットを持ったら、僕の身体が壊れてしまいかねない。悪いが僕からギブアップだ」

 この言葉には、セム大学MMA部の部員から驚嘆の叫びが沸き起こった。
 当たり前のことだが、ミット打ちはミットを叩く人間のトレーニングであって、先に根を上げるとすれば、ミットを叩く人間のはずだ。少なくとも、ミットを持つ人間が、疲労や痛みを理由に練習を中断するなど聞いたことがない。
 まして、ミットを持っていたのは、部長のクレイグである。彼が、過日のTBOで、惜しくもメダルは逃したが、ライトヘビー級のベスト8に堂々の入賞を果たしたのを、当然のことなが部員は全員承知している。
 そのクレイグが、見た目は普通の女の子でしかないウォルに、ただのミット打ちでここまで追い詰めらるなど、ありうべき話ではない。
 オリベイラの投稿した動画のことを知っている幾人かの部員は、やはりこの少女が、正面からオリベイラを叩きのめしたのだと確信をあらたにした。

「ではどうするかな。これで体験入部はおしまいか?」
「いや、僕は少し準備をしてくるから、もしよければサンドバッグでトレーニングをしていてくれるかな?おい、みんな、フィナくんを案内してやってくれ」

 クレイグの指示に従って、何人かの部員がウォルをサンドバッグの前まで案内する。
 ウォルは、こないだのトレーニングのときはサンドバッグを使わなかったので、使い方が分からない。

「これはどうしたらいいのだ?」

 そう問われた部員こそ、むしろ困惑した様子で、

「どうって……思い切り殴ったり、蹴ったりすればいいんだよ。コンビネーションの練習をしてもいい。自由にすればいいさ」
「なるほど、思い切りやっていいのか」

 ウォルは楽し気に笑いながら、サンドバッグの前に立った。
 そして構えを作り、真剣な表情でサンドバッグを睨む。

「シュッ!」

 鋭い呼気がウォルの口から放たれ、そして満身の力を込めた右ストレートをサンドバッグに叩きこんだ。
 どごん、と大砲の弾が着弾したような、凄まじい音が響く。
 そして、重量にして100キロを軽く超えるであろう巨大なサンドバッグは、横に振れるのではなく、くの字に折れ曲がったまま縦に跳ね上がり、天井に衝突した。
 部員は、呆けたような顔でその不可思議な現象を眺めていた。
 強く鋭く正確なパンチを受けたサンドバッグは、横に揺れるのではなく縦に跳ねる。それ自体は珍しい現象ではないのだが、しかし跳ね上がるにしても限度というものがある。
 一体どんな力がサンドバッグに加えられたのか。考えるのも恐ろしい話だ。
 一方、先程のミット打ちでは全力を出し切れなかったウォルは楽しそうな表情だ。

「よし、次は思い切り蹴ってもいいかな?」

 うきうきとした調子で、茫然とした部員に問いかける。

「あ、どうぞご自由に……」

 部員としては、何か不穏な空気を感じはしたが、駄目だともいえず、しかし積極的に勧めては一体何が起こるのか空恐ろしく、そういうふうに返すしかなかったのだろう。そして口調が敬語になっている。
 ようやく揺れが収まりかけたサンドバッグに再度対峙したウォルは、今度は右足を少し引き、そして呼吸を整えて、

「しゃっ!」

 気合一閃、ウォルの右足が宙を走り、サンドバッグの側面にぶち当たった。
 ミドルキック、もしくは回し蹴りという技である。
 今度も、やはり交通事故が目の前で起きた様な、凄まじい衝突音が体育館に響き渡った。
 またサンドバッグが跳ね上がるだろう、そう予想していた部員の眼前で、今度は更に信じがたい現象が起きた。
 ウォルの怪力に耐えきれなくなったのは、サンドバッグと天井を繋いでいた鎖であった。頑丈な金属製のそれが、バギンと硬質な音を立てて砕け、そしてサンドバッグは真横に吹き飛び、そして地面を擦って横倒しになってしまったのだ。

「ああ、すまん、壊してしまった!」

 ウォルは慌てて横倒しになったサンドバッグに駆け寄るが、もちろん何ができるわけでもない。
 部員たちに向けて振り返ったウォルの顔は、悲し気で、心底申し訳なさそうだった。

「……少し調子に乗りすぎた。弁償はさせてもらうから、どうかご容赦いただきたい」

 しゅんとしてしまったウォルに、

「……いや、サンドバッグの鎖が千切れるのはよくあることだから……」

 声を擦れさせながら、部員が呟く。
 確かに、重たいサンドバッグを支え、パンチやキックの衝撃を受け止める鎖部分は、いわば消耗品である。衝撃を受けるたびに鎖と鎖が擦れ、削れられて少しずつ細くなり、やがては千切れてしまう。それ自体はよくあることだ。
 しかし、先程ウォルの蹴りで千切れ飛んだ鎖は、まだまだ新品同然に太く、少しも削れた様子はない。ただ、巨人が力任せに引きちぎったように、鎖の接合部分が大きくねじくれてこじ開けられているのだ。
 どう考えて、先程の蹴りの一撃が原因だとしか思えない。
 もう、部員たちは声を出すこともできなかった。ただ静かに、しょげた様子の少女を眺めることしかできなかった。

「やっぱりね。こんなことになるだろうとは思ってた」

 くすくすという笑い声は、クレイグのものだった。
 リングの上に立ったクレイグが、試合用のトランクス、そしてヘッドギアとグローブを身に着け、ロープにもたれかかるような姿勢でウォルを見下ろしていた。

「クレイグどの」
「フィナくん、せっかくの体験入部だ。どうだい、最後に僕とスパーリングしていかないかい?」

 クレイグの提案に、ウォルは笑顔で頷きかけたが、

「部長!止めてください!」
「正気ですか!?」
「絶対に怪我します!下手すりゃ死にますよ!?」

 男女を問わず、部員のほぼ全員が、血相を変えてクレイグを止めにかかった。
 普通、男子大学生でしかもライトヘビーという重たい階級のクレイグが、中等部生にしか見えないウォルと本気でスパーリングをすると言えば、ウォルを守るという意味でクレイグを止めるだろう。
 しかし、今の部員が慌ててクレイグを制止するのは、誰が見ても真逆の意味である。少女の形をしたモンスターとの無謀なスパーリングに挑もうとしている部長の身の安全のために、このスパーリングを止めようとしているのだ。
 そんな部員達をにこやかに眺め、しかしクレイグは首を横に振った。

「みんなの言いたいことは分かる。僕も、この子に勝てるなんて正直考えていないさ。でも、強い人間がいるなら、例え勝てなくても戦いたくなるのが僕たちみたいなファイターの性だ。大丈夫、別に死ぬわけじゃない……と思うけど……大丈夫だよね?」

 冗談に、本気を一匙混ぜたような調子で、クレイグはウォルに話を向ける。
 ウォルは、中途半端な笑みを浮かべ、

「クレイグどのは冗談が上手い。おれのような素人が、あなたのような玄人に勝てるはずがないではないか」
「フィナくん、きみのような聡明な女の子にしては冗談が下手だ。過ぎた謙遜は、相手の自尊心を傷つけるよ。覚えておくといい」

 くすくすと微笑ったクレイグが、部員に指示をして、ウォルにヘッドギアを着けさせる。グローブは元から着けているから、これで準備は整ったことになる。
 ウォルは、リングに上がった。
 
「時間は3分1ラウンドだ。それ以上は、こちらがもちそうにない」
「相分かった」
「ルールは、細かいことは無視しよう。きみは、基本的に何をしても構わない。ぼくは、一般的なMMAのルールで戦わせてもらう。無論、これはスパーリングだからね、極力相手に怪我はさせないのが大原則だ。それでいいかい?」
「承知した」
「よし、じゃあ始めよう。ブザーを鳴らしてくれ」

 クレイグの合図とともに試合開始のブザーが鳴り響く。
 そして、リングの中央で、ウォルとクレイグは相対した。
 クレイグは、きっちりとガードを持ち上げ、一部の隙もない様子だ。
 クレイグの身長は、190センチ、体重は90キロほどもある。目方でいえば、ウォルの倍に等しい。だが、ウォルはあのオリベイラを一撃で仕留めているのだし、先程までの練習でその結果が決して幸運の女神が微笑んだ結果でないことを、クレイグは重々承知している。
 一方、ウォルも、ヴォルフ達に教えてもらったとおり構えている。両手のガードは高く、しかしタックルを警戒して、持ち上げすぎない。
 スパーリングは静かに始まった。クレイグがじりじりと足を使い、ウォルの周囲を回るように間合いを詰めていく。その間も、頭を揺らし、牽制のジャブを放ち、ウォルの奇襲を警戒した様子だ。
 それに対してウォルは、クレイグの動きに合わせて身体の向きを変えるだけで、ほとんど足を動かしていない。
 クレイグは無言で頷いた。格上のファイターの動きとして、ウォルのそれは正しい。逆に、もしも自分が普通の中等部女子生徒とスパーリングをしたなら、ウォルのような動きをするだろう。相手には自由に攻撃をさせ、その全てを受けきるのだ。自分から動き、相手に攻撃しようとは思わない。
 つまり、自分は胸を借りる立場なのだ。下手に遠慮すれば、それは怯懦の誹りを免れ得まい。
 クレイグは鋭くステップインし、ウォルを自身の射程圏内に置いた。そこは、クレイグのリーチなら攻撃が可能であり、逆にウォルのリーチなら攻撃が届かない、絶妙の間合いであった。

「シィッ!」

 短い呼気とともに、鋭いジャブをウォルの顔面に向けて放つ。予備動作がほとんどない、しかし下半身のタメと肩のねじりによって十分体重が乗った、お手本のようなジャブだ。
 これでウォルを倒せるなんて思ってはいない。しかし、確実にガードに当たり、相手の動きを止めるだろう、そういう攻撃だった。
 だが、クレイグの見込みは外れた。ジャブは、想定された被弾位置に拳が到達しても、何に触れることもできなかった。
 クレイグは一瞬、何が起きたのか分からなかった。絶対に当たるはずの攻撃が、すかを喰らったのだ。
 理由はすぐにわかった。ウォルが、クレイグの踏み込みと同じだけ後ろに下がり、さらに上体を後傾させ、のけぞるような体勢でクレイグのジャブを躱していた。
 普通、一流のファイターの放つジャブの速度は人間の反射神経を超える。見えたとしても、それに反応して躱すのはほとんど不可能だ。
 つまり、この少女は、攻撃だけではなく、防御についても常人の域を超えているということか。クレイグは認識を更新させた。
 ならばとばかりに、クレイグは矢継ぎ早にジャブを繰り出す。一発を躱されても、次の攻撃が突き刺さる、そういう連打だ。そして、先程のジャブに比べれば威力で劣るものの、速さは上回っている。
 しかしウォルはそれらの攻撃を全て躱してしまった。首を振り、身をかがめ、或いはバックステップで、拳が身体に触れるのを許さない。
 そして、少女は微笑んでいた。ヘッドギアの下の瞳が、口元が、蜜を含んだようにほころんでいる。
 クレイグは寧ろ楽しくなってきた。これだけ自分の攻撃が躱されたのは、初めてのことだ。きっと目の前の少女は、少女であって少女ではない。無論、化け物とかでもない。もっと、強く、偉大で、綺麗な存在だ。自分の全力を容易く受け止めてくれる存在だ。
 遠慮など不要だった。全力でいかなければ失礼でしかない。

 ――これならどうだ!?

 クレイグは放ったジャブをウォルの顔の前で止め、拳をそのまま目隠しとする。そして半歩ステップインし、今度はローキックでウォルの足を狙った。それも、体重を乗せた重たいローキックではない。つま先を走らせる、スピード重視の、当てるためのローキックだ。
 絶対に当たる、その確信を持って放った攻撃は、しかしというべきか、やはりというべきか、ウォルには届かなかった。ウォルは巧みに立ち位置を入れ替え、ローキックの射程外に身体を逃がしていた。
 まだ一撃も当てていたないのに息を乱し始めたクレイグは、なるほど、やはりまだまだ認識が甘かったのだと悟った。受け止めてくれるなどとんでもない。受け止めさせることすらが困難事なのだ。
 もう、クレイグは手段を選ぶつもりはなかった。
 立ち技では勝ち目がない。そもそも、華麗に勝ちを決められる相手ではない。
 ならば方法は一つだけだ。どれほどみっともなくとも、泥臭くとも、勝ちに行く。
 戦法は決めた。被弾を覚悟で前に出て、腕をフック気味に振り回す。その流れで組みつき、強引に押し倒して寝技に持ちこむ。それしか勝機はない。
 そのつもりでクレイグが前に出ようとした瞬間、ウォルはクレイグの意図を読んでいたかのように自分から間合いを潰し、今度はウォルの攻撃が届く間合いに飛び込んだ。

 ――不味い!

 クレイグが、反射的に顔面をガードする。あの膂力でノーガードの顔を殴られれば、冗談抜きで生死に関わる。
 だが、ウォルはクレイグの顔面は狙わなかった。その代わりに、ほぼ棒立ちになっていたクレイグの足を目掛けて、鋭いローキックを放った。
 速い。音が遅れて聞こえるような、凄まじいスピードのローキックだ。
 当然のごとく、クリーンヒットした。バシンと肉を叩く嫌な音が響く。
 そして、これは蹴られたクレイグ当人にしか分からないが、驚くほどに重たいキックだった。
 普通なら、ローキックは一撃で仕留められる攻撃ではない。何発も同じ場所に当てて、ようやく効かせることが出来る技だ。
 だがウォルの放ったローキックは、たったの一発で、鍛え上げられた分厚い太腿の筋肉を貫き、骨を痺れさせる威力があった。
 じわじわとした痛みが背筋を這い登り、脳髄に到達し、そして爆発する。

「くわぁっ!」

 クレイグの口から悲鳴に近い叫びが漏れだす。蹴られた足が、がくりと膝から崩れ落ちる。顔面をガードしていた腕が、蹴られた箇所を庇うように下げられる。それらは反射に近い反応で、人間ならば致し方ないものである。
 だが同時に、闘技者としては致命的なミスでもあった。つまり、顔面ががら空きになり、顔の位置が下がったということだ。その位置は、ちょうどウォルにとって一番殴りやすい場所だ。

 ――しまった!

 クレイグの背筋に、今度は冷たい戦慄が走り抜ける。自分が犯した過ちを内心で罵り、脳裏に走馬灯に近い映像が浮かび上がる。
 だが、そんなクレイグを嘲笑うかのように、無慈悲な拳は、予想された最悪の軌道とタイミングで、彼の顔面へ襲い来る。

 ――死んだか!?

 クレイグはそう思った。来るべき衝撃に、そして痛みに覚悟を決める。
 しかし、ウォルの拳はついにクレイグの顔を叩くことはなかった。風を纏うような速度で繰り出された右ストレートは、恐怖に硬直したクレイグの顔面の僅か数ミリ手前で停止していた。
 有り得ないことだが、クレイグは、自身の顔が、ウォルの拳が巻き起こした風圧で変形したように感じた。
 クレイグは、呼吸を止めてウォルの拳を見つめた。
 しばらく、ウォルとクレイグは微動だに動かなかった。もっとも、ウォルは動かなかったのであり、クレイグは動くことができなかったのだが。
 それでもクレイグは荒くついていた息をなんとか収め、最後に一度深呼吸してから、諦めたように微笑み、

「降参だ。ぼくの負けだよ」

 その言葉を聞いて、ようやくウォルは拳を下ろし、そして微笑んだ。

「良い勝負でした」

 ウォルは笑顔で右手を差し出し、クレイグはそれを握った。
 その瞬間、息を呑んで試合を見守っていた全ての部員が大きな歓声を上げ、特大の拍手でもって二人の健闘を祝した。
 クレイグは強い。この部では間違いなく一番だし、連邦大学全体でも、彼に勝てる人間がどれほどいるか。
 そして、この不思議な少女はもっと強いのだ。
 すごい試合だった。片時も目を離せなかった。部員達は、試合に酔っていた。
 そんな熱狂の中、片足を引き摺るようにしてウォルに歩み寄ったクレイグは、乾いた笑みを浮かべながら首を横に振り、

「MMA選手のぼくが、グラウンドに持ち込むことも出来ず、たったの二発の攻撃――しかも寸止めで勝負を決められてしまったんだ。完敗だ。言い訳も『もしも』もない、気持ちいいくらいの負けだった。本当に見事としか言いようがない」

 今度はウォルが首を横に振り、

「残念ながら、おれは組技や寝技にはとんと疎い。もしもそちらの勝負に持ち込まれれば、きっとあなたの勝ちだったはずだ」
「この場合、きみの言葉をどこまで信じていいかとても疑わしいんだが、慰めの台詞と受け取っておこうか」

 肩を竦めながらのクレイグの言葉に、ウォルは苦笑する。

「ところでクレイグどの、足は大事ないか?」

 クレイグは、先ほどウォルに蹴られた左太腿を見下ろす。そこは、まるで一試合フルラウンド、何度も何度も蹴られ続けたように、真っ赤に腫れ上がってはいたが、どうやら肉離れや骨折のように重傷というわけではなさそうだ。

「この程度なら日常茶飯事だ。心配ご無用だよ」
「それは良かった。この身体になってから、普通の人間を思い切り蹴飛ばしたのは初めてだったから、少し不安だったのだ」

 この身体になってからというウォルの台詞にクレイグは小首を傾げたが、深く詮索はしなかった。
 代わりに口調を変えて、

「なぁ、フィナくん。今日は体験入部というかたちだったわけだが、本当にセム大学MMA部に所属するつもりはないかい?きみは中等部生だと聞いているが、もしもMMAに興味を持ってくれるなら、中等部の部活動でこれだけ設備の整った環境はないはずだし、きみに見合う練習相手も見つからないだろう。ぼくたちは心の底からきみを歓迎させてもらう。悪い話じゃないと思うんだが……」

 リングの上で熱烈な勧誘を始めたクレイグに、リング下から試合を撮影していたノーマンが苦笑とともに声をかける。

「おいおいクレイグ、うちの期待の星を横取りするのは無しだぞ」

 大いに心外といった表情で、クレイグはノーマンに返す。

「課外活動の掛け持ちなんて別に珍しい話じゃないだろう?ノーマン、きみのほうこそ、こんな綺羅星みたいな才能の独り占めは慎むべきだ」
「フィナくんの将来の夢はアイドルなんだぞ?スポットライトの下で歌って踊るのがアイドルであって、スポットライトの下で殴り合うアイドルなんて聞いたことがない」
「いいじゃないか、歌って踊って闘えるアイドル!絶対に話題になるぞ!男の子ってやつは、綺麗で可愛いものが好きで、そして何より強いものが大好きなんだ!カブトムシやクワガタが嫌いな男の子なんていないだろう?だから、この子は本格的にMMAに世界に足を踏み出すべきなんだ!」

 どうにも大人気ない様子で、喧々囂々の議論が繰り広げられる。
 それに対して、自身をカブトムシやクワガタと同列にされてしまったウォルは、苦笑するしかないといった有り様である。
 気を取り直したウォルは、いまだ熱い調子でノーマンと言葉を交わすクレイグに話しかける。

「クレイグどの。あなたの正直な意見を聞きたいのだが、もしも今のおれがこういった形式の試合に出場したとして、どれくらいの成績を残せると思う?」

 ノーマンとの議論を打ち切ってウォルの方に向き直ったクレイグは、はっきりとした調子で言い切った。

「中等部生クラスなら、男女を問わず全宇宙できみが最強だ。明日にでもチャンピオントロフィーを抱え上げることが出来る」
「では、成人を含めるなら?」
「……同体重なら、男性を相手取ってもきみはチャンピオンになれると思う。女性相手なら、どれほど体重差があっても君が一番だ。ただ、男性の無差別級相手だとどうだろう。ぼくはまだ、その世界に立ち入っていない人間だからね、きみがどれほどの成績を残せるかは断言出来ない」
「では、もしもおれがこの世界で、男も含めて最強の人間になったら、おれはこの世界で有名になれるか?」

 クレイグは一瞬目を丸くし、その後で力強く断言した。

「中等部の女の子が、共和宇宙MMAリーグの無差別級チャンピオンベルトを巻いてみろ。例えきみが名前を隠したがっても、マスコミがそれを許すもんか。否が応でも、きみの名前は共和宇宙全体に知れ渡る。覚悟しておくといい。この宇宙できみの名前を知らない人間なんて、一人もいなくなるぞ」
「そうか、それは望むところだな」

 ウォルは、少女に似つかわしくない、太い笑みを浮かべた。



[6349] 第百八話:遭遇
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:b29859fd
Date: 2023/08/13 10:59
 夜も更けた病院の、特別個室のベッドの上で、レオン・オリベイラはほくそ笑んでいた。
 SNSの仕掛けは上々であった。自分が卑劣な不意打ちにあったという内容の告発は大変な反響で、しかもその内容はオリベイラには好意的、つまりあの小憎たらしいメスガキとTBSBに対して辛辣で攻撃的な内容になっている。
 連中の慌てふためく顔か目に浮かぶようだ。

「けっ、ざまあみやがれってんだ」

 顎関節を医療器具で固定したオリベイラは、片頬を歪めようとしたが、引き攣る痛みを覚えて断念した。
 あの忌々しい、卑劣極まりない一撃を食らってから、もう20日ほども経とうかというのに、オリベイラはまだまともに食事が出来ない。いや、食事はおろか、会話すら満足に出来ないのだ。理由はもちろん、フィナとかいうガキの膝蹴りによって負わされた大怪我だ。
 正々堂々戦おうとしたオリベイラを嘲笑うようにして繰り出された一撃は、正しく卑怯そのものの不意打ちであり、オリベイラは哀れな被害者以外の何者でもない。
 その結果、少なくともあと一月の間は、顎と頭を不細工な医療器具で固定されて、飯もろくに食えず、不自由で屈辱的な生活を甘んじなければならない。これは、TBO金メダリストである自分の、正当な権利を著しく侵害するものだ。
 オリベイラはそう確信していた。
 だから、SNSでウォルを一方的に悪者に仕立て上げたのも、人権審議委員会に告発したことも、自らの不当に貶められた権利を回復するための当然の選択肢だと確信している。
 オリベイラは、狭窄した自己の価値観と、肥大化させた自尊心の中では、公明正大な正義に従って行動しているつもりだった。

 ――さて、今頃、連中はどれほど愉快な顔色で、対応策を協議しているのだろうか。

 あのクソガキの卑怯な真似があれほど明確に映像として暴露されたのだ。逃げ道などあるはずがない。遅かれ早かれ、TBSBはこのオリベイラ様に、平身低頭で詫びを入れてくるだろう。あのいけ好かないクソガキも、どうか放校処分だけは許してくださいと、半泣きで俺に頭を下げるに違いないのだ。
 そう簡単に許してやるつもりはない。目の前で土下座させて靴の裏を舐めさせてやる。いや、それだけでは足りない。あのガキには、自分が所詮は女で、男の情けがなければ生きられない、弱い生き物なのだと理解させてやる。
 そうだ、この特別個室にあのガキを招待して、一晩か二晩、男の偉大さと恐ろしさを思い知らせてやるのもいいだろう。そうすれば、あのこまっしゃくれた表情も、もっとしおらしくて男に媚びた、女という生き物に相応しいそれに変わるだろう。
 そんなことを、少なくともオリベイラの中では、彼の当然の権利として実現させるつもりだった。そうしてこそ、この世の正義が守られるのだと信じていた。
 如何にしてあの美しい少女を嬲るか、妄想の沼地で思う存分醜い泥遊びに興じていたオリベイラの精神は、自身の携帯端末の呼び出し音で現実へと引き戻された。
 画面を確認すると、それはオリベイラの友人であった。ただし、表の友人ではない。決して連邦大学では知られてはならない、裏の友人である。
 オリベイラは携帯端末を手に取り、通話ボタンを押した。

「どうしたい、兄弟。暴漢に襲われて入院中の可哀そうな俺に、見舞いのメッセージか?」

 顎を満足に動かせないため少したどたどしい口調であったが、おどけた調子で言うオリベイラに、しかし携帯端末の向こう側の男は焦った声で、

『オリベイラ、お前、てめぇのSNS見たのか!?』
「ああ、見てるぜ。卑怯な不意打ち喰らって大けがを負った俺に同情的な論調で溢れてる。あれなら、TBSBもあのクソガキも、さぞ無様な吠え面かいてることだろうよ。あのクソガキの親の懐具合によっちゃあ、それなりの銭を巻き上げることだってできるだろ。そうすりゃ、兄貴だって今回のことは大目に見てくれるだろうさ」
『馬鹿野郎!そんな次元の話じゃなくなってるんだよ!今、すぐにもう一回見てみろ!』

 そう言って通話はぷつりと途切れた。
 何をあんなに慌てているのか。
 確かに、今回のことは組織に多大な迷惑をかけた。TBO金メダリストとしての立場を利用して税関の検査をごまかし、この星に禁制の薬物を運びこむこと。それがオリベイラの役割であり、そのために、日向に日陰に、組織には多大な支援をしてもらった。対戦相手に軽い毒物を仕込んで弱らせる、逆にオリベイラのドーピング検査をごまかす、その他もろもろにはそれなりの経費がかかっているはずだ。
 連邦大学が治安がよろしく、警察の目をかいくぐって薬物を売りさばくのにはそれなりの労力がいる。しかしリターンはその労力を補って余りある。単純に金銭の話ではない。何せ、この星で学んでいるのは、将来の共和宇宙の政治的、経済的エリートばかりなのだ。彼らのスキャンダルを握っておくことが、長期的に見てどれほどの利益をもたらすか、計り知れないものがある。
 そのためにも、薬物の運び屋であるオリベイラの果たす役割は大きい。そして、彼がTBOの金メダリストになってから、組織のトップを十分に満足させるだけの役割をオリベイラは果たしてきたのだ。
 そのオリベイラが、半年近くもまともに動けないのは、組織にとって確かにマイナスだ。しかし今回のことは不意の事故であり、オリベイラには一切責任はない……と、彼自身は確信している。それが証拠に、SNSの論調だって、ほとんど彼に同情的ではないか。
 そう思っていたオリベイラは、しかし念のためということで、もう一度自身のSNSを確認してみた。
 するとそこには、朝方確認したのとは、全く違う論調の書き込みで溢れかえっていた。

『オリベイラは嘘つきのくそ野郎だ!』
『対戦相手のこの子はTBSBのキャスターなんだろう?すごく強くて可愛いね!オリベイラのファンなんかやめて、この子のファンになるよ!』
『臆病者のオリベイラ!もしも自分が正しいというつもりなら、正々堂々とこの子と再戦してみろ!』

 オリベイラは目を疑った。朝方には、確かに自分が哀れな被害者であり、デモンストレーションの際中に突然卑劣な攻撃を加えてきたウォルこそ悪者であると信じて疑わなかった自身のファン達が、矛先を変えて、辛辣にオリベイラを批判しているのだ。
 果たして何があったのか。全身から嫌な汗を噴き出させながら、オリベイラは原因を探ろうとする。すると、書き込みの途中でいくつかのリンクが貼られており、その前後で論調が大きく変わっていることに気が付いた。
 震える指で、そのリンクをタップすると、遷移したのはTBSBの公式アカウントであり、そこにはオリベイラにとっては憎悪の対象でしかない少女――ウォルが、どこかのMMAのトレーニングルームで練習する動画が映し出されていた。
 その動画を見て、オリベイラは大きく目を剝いた。
 少女の細い腕が唸り声を上げるたび、ミットがはじけ飛び、サンドバッグが悲鳴を上げて跳ね上がり、あまつさえ頑丈な鎖を引きちぎって、大人二人でようやく抱えられるようなサンドバッグが吹き飛ばされたのだ。
 到底、人の力に為せる所行とは思えない。
 そして、次に少女と、大柄な男のスパーリング風景が映し出される。
 男のほうには見覚えがある。確か、セム大学の、ディル・クレイグという選手だったはずだ。ライトヘビー級で、前回のTBOではベスト8、その試合の相手が金メダリストで判定までもつれ込んだことを考えれば、銀メダルを手にしていても不思議ではなかった選手だ。
 オリベイラは、自身の属するヘビー級以外は、所詮はガタイに恵まれなかった不運なチビどものお遊び程度にしか考えていないので、それほど興味があるわけではなかったが、しかし世間的には高い評価を得ている選手であることは否定しようがない。
 そのクレイグが、ウォルと戦っているのだ。一体どういう経緯でそういう話になったのか、そのあたりは全くわからないが、しかし結果はウォルの圧勝であった。クレイグの素早い攻撃を完全に見切ったウォルが、その隙に恐ろしいローキックを放ち、完全に体勢を崩したクレイグに対して右ストレートを寸止めするという、余裕の勝利を得ていた。
 そして決定的だったのが、映像の最後、クレイグに対するインタビューである。

『完敗だよ。彼女は強い。恐ろしいほどにね』

 唯一少女の攻撃を喰らった左足に氷嚢を巻き付けながら、清々しい笑顔でそう言った。
 そして、インタヴュアーである男性は、決定的な質問をした。

『では、話題になっているオリベイラ選手との一件はどう判断されますか?』

 クレイグは笑いながら首を横に振り、

『あの動画だけで、オリベイラ選手の言い分が正しいのかどうか、分からない。ただ一つ言えることは、彼女が一対一、リングの上でオリベイラ選手と向き合っても、十分に勝つだけの実力を備えているということだけだ。オリベイラ選手の言うところの、卑怯な真似なんかをしなくてもね。つまり、彼女がどうして、敢えて卑怯な真似をする必要があったのか、僕には全く理解できない。そういうことさ』

 冗談ではない。言い方こそオブラートに包んでいるものの、はっきりとオリベイラの言い分こそが嘘偽りであり、ウォルは実力でオリベイラを叩きのめしたのだと、TBSBは主張しているのだ。
 オリベイラは瞬間的に怒りに駆られた。激怒で、自身の通信端末を壁に叩きつけかけた。しかし、ぎりぎりの自制心でなんとか思いとどまったオリベイラは、震える指で、もう一つ貼られていたリンクをタップした。
 リンク先は、やはりTBSBの公式アカウントであり、先程とは全く違う動画であった。

『……あなたのその怪我は、オリベイラ選手とのスパーリングで負ったものということですね?』
『はぁ……まぁ、言ってしまえばそういうことになるんですけどねぇ』
『つまり、オリベイラ選手は、素人のあなたに、練習に名を借りた過剰な暴力を振るい、腕を折ってのけたというわけですね?』
『あの日のことを一々言葉に直すなら……そういうことになるんですかねぇ?』

 画面に映し出されたのは、椅子のサイズからして、明らかに人外といっていいほどに、巨大な男であった。
 その男が、痛々しげに左腕を三角巾でつりながらインタビューに応えている。顔にモザイクこそかかっているものの、あの日、オリベイラが暴行を加えた、ヴォルフという大男であったのは明白だった。

『当局に所属する、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィンというキャスターが、オリベイラ選手から人権審議委員会に訴えられているという事実はご承知でしょうか?』
『いや、それは初耳ですね……くそ、あいつ、そんなこと、一言も言わなかったじゃねぇか。そうすりゃ、妙なバーターなんてしなくても、こんなインタビューくらい引き受けたっていうのに。水臭いっていうかなんていうか……』

 悔し気に呟くヴォルフに、気を取り直してインタヴュアーは続ける。

『あの、ウォル女史が、オリベイラ選手をKOする動画は見られましたか?』
『ええ、見ましたよ。現場で見ていても、目が覚めるような見事な一撃でしたよ』
『現場であなたは全てを見ていたのですね。詳しく教えていただけますか?』

 ヴォルフは肩を一つ竦めて、

『恥を忍んで言いますがね。俺が、性懲りもなくあのオリベイラっていう子供に突っかかっちまったんですよ。確かに、喧嘩をやろうって声をかけてきたのはあちらさんだ。でも、それを受けちまった時点で、俺も同罪だ。その結果、腕をぽきりとやられた。それだけの話です』
『突っかかっていったと。それはどういうきっかけで?』
『……あの子供が、俺の友人の、中等部生の女の子達に声をかけてきてね。これから一緒にパーティに行こうだとかなんとか。そのままほっとくと少しばかり危ない方向に話が進みそうだったんで、まぁそこらへんにしときなって感じで。あとは、場末の酒場なんかではお決まりのパターンですよ』
『つまりあなたは、オリベイラ選手が未成年の女生徒に声をかけてきたのを危険だと判断し、オリベイラ選手を諫めたと』
『うーん言ってしまえばそういうことなんですけど……微妙にニュアンスが違うところもあるんだけどなぁ』

 確かに、ヴォルフは危険だと判断してオリベイラを諫めたのだが、それは主に、オリベイラの身体的健康が、メイフゥの鉄拳制裁によって損なわれる可能性が高いという判断である。決して、メイフゥやウォルが、オリベイラ程度に手籠めにされると危ぶんだというわけではない。
 しかし、聞く人にとっては、ヴォルフが女性を守ろうと、騎士道精神に従って行動したようにしか思えない。

『では、あなたがオリベイラ選手によって重大な怪我を負わされた。その後のことをお聞かせください』
『……あの場にいた俺の友人が、さぁ誰が仇討ちをするかって話になりましてね。そんで、ウォルの奴が手を挙げたんです』
『なるほど、つまりウォル女史にとっては、友人の仇討ちだったわけだ。随分と勇ましいことですね。しかし、少々野蛮だとの誹りも免れないものではないでしょうか』

 インタヴュアーの一言に、ヴォルフは眉を顰めて――無論、モザイク越しでははっきりとわからないが――応える。

『あの、勘違いしてほしくないんですけどね。別に、俺があの子供に単純にぶちのめされただけなら、ウォルの奴は、さぁ敵討ちなんて話はしませんよ。所詮は腕の一本だ、別に一生治らないわけでもなし、あいつはきっと『酷い目に遭ったな、今後は分をわきまえるといいぞ』みたいなことを言って笑うだけでしょうよ。ただ、あの時は、俺がまいったって言ってるのに、あの子供が腕を負ったから、それを腹に据えかねただけで……』
『なんと、オリベイラ選手は、素人のあなたが白旗をあげているのに、腕を故意に負ったということですか?』

 インタヴュアーの食いつきに、しまった、余計なことを言ってしまったとばかりに、ヴォルフは巨大な右手で顔を覆った。

『……有り体に言えば、そういうことです』
『流れを整理させてください。貴方は、自身の友人である中等部の女生徒を、オリベイラ選手から守るために彼を諫めた。それに激昂したオリベイラ選手が貴方を半ば無理矢理リングに立たせて暴行を振るい、降参している貴方の腕を故意に折ってのけた。その暴挙に義憤を覚えたウォル女史が、その仇討ちということでリングに昇り、オリベイラ選手を叩きのめした。そういうわけですね?』
『……あの日の出来事を、第三者が理解するなら、そういうふうになるのかも知れませんな』

 半ばやけっぱちな口調でヴォルフは応えた。
 確かに、インタヴュアー――当然、TBSB所属のノーマンである――の言っていることは間違いではない。事実を言語化するならば、ノーマンの言い分は正しい。
 しかし、ヴォルフが怪我を負う可能性を覚悟してリングに上がったのは彼自身も承知していたことなのだし、そして何より、あの場に居合わせたヴォルフの友人が、揃いも揃って人外連中であることなどは完全に省かれている。彼らを守るなど、一応は自身を一般市民と弁えているヴォルフなどには、あまりにおこがましいことだと思ったりもするのだ。
 これは印象操作ということになるのではないか、ヴォルフは少し疑ったが、しかし今の自分はいわば操り人形である。操り手の思うままに踊るのが仕事であるし、別に間違えたことを言っているわけではないから、細かいことには目をつぶることにした。

『オリベイラ選手は、ウォル女史が、デモンストレーションの途中に卑怯な不意打ちを仕掛けてきたのだと、そう主張しています。その点についてどう思われますか?』
『……デモンストレーションの途中に不意打ち?そんなことをして、ウォルのやつになんか得があるんですか?』

 きょとんとした調子のヴォルフの言葉に、スタッフの数人が失笑を溢す。
 インタヴュアーも、少し笑いを堪えたような調子で、

『その点は不明です。きっと、オリベイラ選手からはもっともらしい理由が返ってくるんでしょうけれど……』
『はぁ。まぁ、俺に言えることは一つだけですよ。あの日、デモンストレーションとやらはなかった。少なくとも、俺の認知する範囲では。あとは、当人同士の認識の問題だ。真剣勝負をデモンストレーションと勘違いしているかどうか、それは俺に判断できることじゃありませんけどね……』

 動画はまだ続くようだが、オリベイラは今度こそ携帯端末を全力で壁に叩きつけた。
 オリベイラの胸中で、燃え盛るような怒りがふつふつと沸き立っていた。

「くそ野郎が!男の風上にも置けない、恥知らずめ!どんな怪我を負っても自分持ち、そういう約束の勝負だったのに、俺様を一方的に悪者に仕立て上げやがって!」

 防音の効いた特別個室でなければ、おそらくは階中に響き渡るような声でオリベイラは叫んだ。
 確かに、オリベイラの言い分にも一理はある。あの時、ヴォルフは『怪我は自分持ち』という約束でリングに昇ったのだ。その後でどんな怪我を負わされても、文句を言う筋合いではないのかも知れない。ならば、SNSで一方的にオリベイラを糾弾するのは恥知らずの所行だ、そういう理屈も成立しうる。
 ただ、それは約束が『怪我は自分持ち』という一点だった場合のみに成立する理屈である。あの時、ヴォルフとオリベイラは、他にもルールを取り決めている。急所はできるだけ狙わない、そして相手が降参すればそこで試合は終了という約束だ。
 その点、先に取り決めを破り、降参しているヴォルフに暴行を加えたのはオリベイラの方であり、ヴォルフを非難する資格などあるはずがないのである。
 さらに言えば、同じルールで戦ったウォルにこてんぱんに叩きのめされ、そのことを逆恨みして人権審議委員会に訴えるまでしたオリベイラであるから、どのような反撃を喰らったとしても正しく自業自得のはずなのだが、今の彼にはその程度のことが理解できないのだ。
 つまり、癇癪を起こした子供と同じである。自分の思い通りにいかないことは、全て自分以外が悪いという思考に陥っているのだ。
 荒々しく息を継ぐオリベイラは、突如差すような顎の痛みで思わず蹲った。本来、まだ絶対安静の重症を負っているのだ。興奮すれば痛みがぶり返すのは当たり前の話である。
 その時、なんとなくつけていたテレビが、『スポーツスチューデントトゥデイ』を放送し始めたので、痛みに呻くオリベイラは、思わずそちらに目をやった。
 あの、ノーマンとかいう冴えない男が担当していたのが、確かこの番組だったはずだ。ならば、もしかすると自分が起こした騒ぎについて言及されるかも知れない、そう思ったのだ。
 番組にはお決まりの前口上を終えた男性キャスターは、少し口振りを変えて話し始める。

「本日のスポーツスチューデントトゥデイは、予定を変更して、特別企画を放送させていただきます。テーマは、性別を超えたスポーツへの挑戦です」

 カメラが引き、画面に、きちんと女性用スーツに身を包んだ、黒髪の美しい少女が映し出される。
 言うまでもない。ウォルである。
 キャスターは、ウォルの方に手を向けて、

「スタジオに、ウォル・グリーク・ロウ・デルフィン選手に来ていただいています」
「本日はよろしくお願いいたします」

 ウォルが、理知的な微笑みを浮かべる。外見上の年齢にそぐわない、何とも落ち着いた笑みだった。
 その笑みを見て、オリベイラの胸中に、またしても怨嗟の炎が巻き起こる。今すぐ、この画面を殴り飛ばしたくなる。
 しかし、ぎりぎりの理性で蛮行を思いとどまったオリベイラは、目を剥き口を引き絞った野獣の表情で画面を睨みつける。
 そんなオリベイラのことなど露知らず、画面の中のウォルは涼やかな微笑みでキャスターに相対する。

「デルフィン選手は、実はTBSBのスタッフなんです。私も今日初めてお会いしました」
「はい。TBSBに入局させていただいたのがだった数日前のことです。若輩者ですがよろしくお願いいたします」
「先日放送されました、ホプキンス大学のキアラン選手へのインタビューは大変高い評価を得ていると聞いています」
「面映ゆい気持ちでいっぱいです。ただ、あの取材が成功したのは、真摯に協力いただいたキアラン選手のおかげです。その点、自分を過大評価するつもりはありません」

 如才ない受け答えのウォルは、完全にテレビ慣れしている様子で、少しも緊張したところがない。無論、王という重責を担い続けてきた彼女にとって、テレビを通して万人に見られるくらいで緊張などするはずもないのだが。
 キャスターは、笑顔で頷き、話を変える。

「番組冒頭でも申し上げましたが、本日のテーマは性別を超えたスポーツへの挑戦です。それでは、デルフィン選手はいったいどのような競技に挑戦されるのですか?」
「格闘技、中でもMMAというジャンルに挑んでみたいと思っています」
「格闘技……」

 キャスターが絶句する。

「デルフィン選手、一般的に言えば、スポーツとは性差による影響をどの競技でも免れえませんが、その中でも格闘技というジャンルは特に性差による影響を如実に受けてしまうジャンルに思えます。単純なパワーの差、スタミナ、耐久力の差、そして万が一怪我をしてしまった時の後遺症。どれをとっても、あなたの挑戦が理性的とは思えません」

 ウォルは、キャスターの言い分に対して深く頷き、

「あなたの仰ることはごもっともです。男女の性差に対しては、寛容をもって是とする時代の流れの中で、しかしスポーツ、中でも格闘技というジャンルにおいてそれは今までタブー視されていた。個々の選手の性自認をもって、男女いずれの競技に参加できるかを選べた時代もありましたが、結局は男性の身体の優位性が証明され続けられるに至って、最終的には身体の性別をもって線引きされることとなった」

 すらすらと、男女観の歴史を述べるウォルであるが、無論のこと、ウォルがそのことを知ったのはつい最近の話である。ここまで知った顔で自論を披露できるあたり、彼女の面の皮はアルマジロのそれよりも更に分厚く頑丈というべきだろう。
 ウォルは続ける。

「そのこと自体の是非は今でも議論されるところですが、そこには一つの法則性があった。性自認が女性で身体は男性という選手が、女子大会に出場し結果を残すことはあっても、その逆、私のように、身体が女性の選手が男子大会に出場し、結果を残すことは残念ながらなかったということです」

 キャスターは、興味深そうにウォルの方を見て、

「あなたは、その法則を打ち破るつもりだということですね。ちなみにデルフィン選手、先ほどのあなたの仰りようですと、あなたの性自認は男性ということですか?」

 ウォルは真面目くさった顔で首を横に振り、

「非常に難しい質問です。私は、この身体を唯一無二の自身の身体だと理解している。それでも、自分が単純に女性ではないと認識もしているのです」
「そんなあなたが、男子総合格闘技の世界に挑戦する……。失礼をお許しください、それでもやはり、私にはその挑戦は無謀なものに思えてなりません」
「あなたの仰るところは私にも十分理解できます。そして、私自身も、そのような意見に対して何の反証も出来ないまま挑戦したのでは、身の程知らずとの誹りを受け、周囲にご迷惑をおかけしてしまうだろうことも理解しています。なので、このような映像をご用意しています」

 そして流されたのは、SNSでオリベイラが見た、ウォルの練習風景であった。
 先程はウォルの攻撃の破壊力に瞠目するばかりのオリベイラであったが、しかしあらためて見ると、ウォルに向ける好悪の念は別にして、その身のこなし、何よりも目の良さに、驚嘆せざるを得ない。
 特に、クレイグとのスパーリングでは、彼の動作の起こりを見逃さず、瞬時に身体を動かしてその攻撃を躱している。きっと、ずば抜けた動体視力、そして反射神経を兼ね備えている。
 そして、言うまでもないことだが、とてつもないパワーとスピードの持ち主である。
 競技者としてのオリベイラは、業腹であっても、そのことは認めざるを得ない。
 映像が終わり、画面は再びスタジオに戻される。そこには、唖然としたキャスターの表情があり、そしてそのことを自覚したのか、咳ばらいを一つして、元の表情に戻る。

「し、失礼しました。確かに、デルフィン選手、あなたには男子大会に出る資格がおありになる。そのことは認めざるを得ないようです」
「ご理解を賜れて嬉しく思います」
「ちなみにデルフィン選手。今、貴方はSNSで話題の人となっています。そのことはご存じですか?」

 ウォルは、先程までとは打って変わった、挑戦的で鋭い笑みを浮かべる。

「ええ、もちろんです。私との練習で少々の手傷を負われた、確かオリベイラさんと言いましたか、その方が色々と難癖をつけられているのは存じております」
「今回の挑戦は、もしかするとオリベイラ選手に対する意趣返しということでしょうか?」

 ウォルは笑顔とともに首を横に振る。

「私が、語弊を恐れずに言えば、男性の世界である格闘技に挑戦するのは、あくまで自分がどこまで戦うことができるかを試すため。私がオリベイラ選手に卑劣な不意打ちを加えたということ自体は明確に否定させていただきますが、かといって私は彼をそこまで重要視していません。私が目指すのは、あくまでこの宇宙での最強という称号です。その過程で、彼と相まみえることがあるかもしれませんが、それは過程の話で、それ以上ではありません」
「今後は、どのように活動をされるご予定ですか?」
「差し当たり、男性の身体であることが出場制限とされていない、あらゆる大会に出場し、私の実力を試してみたい。そして、いつの日か、MMA共和宇宙リーグの男子無差別級のチャンピオンベルトを、この手にしてみたいと思っています。ああ、そういえば、もしかするとこの番組を見られているかもしれないオリベイラ選手に、念のために一言だけ――」

 ウォルは、今までで一番好戦的な、輝くような笑みを浮かべ、

「オリベイラ選手。私が、貴方の仰る卑怯者なのか、それとも正々堂々貴方を叩きのめして差し上げた勇者なのか、いずれの主張が正しいか、リングの上で互いの強さをもって証明するとしましょう。貴方は、全治三か月の大怪我を負われたと聞いています。大変痛ましいことです。心の底からお悔み申し上げますわ。そして、今から三か月後、貴方とリングの上でお会いできることを心から楽しみにしております。どうぞ、その時になってから、別の怪我や病気を理由にして、私との対戦からお逃げあそばされないよう祈念いたしまして、わたしからの挑戦状とさせていただきますわ」

 その言葉を聞き終えるまでが、オリベイラの限界だった。
 振るえる指でリモコンを操作し、テレビの電源を落とす。
 
 「……冗談じゃねぇぞ……」

 今から三か月後、この怪我が治ったら、自分はあの化け物と戦わなければならない。逃げるわけにはいかない。何せ、最初に火をつけたのは自分である。もしも何か言い訳をつけて勝負を回避すれば、ファンが黙っていないだろう。あんな女の子に、あれだけ挑発されてとんずらこきましたでは、どれほど熱心なファンであってもそっぽを向くに違いない。
 では、あの化け物と戦って勝てるのか。
 勝つさ。勝ってやるさ。おれは、TBO金メダリストのレオン・オリベイラだぞ。
 そう思う自分がいる。しかし、競技者としてのオリベイラの本能は、あの化け物には絶対に勝てないと、尻尾を丸めてしまっている。
 どうすればいい。どうすれば、最悪の事態を防ぎ、あの女の挑発を躱すことができる?
 オリベイラは必死に考えた。あの女は、全てを見越していたのだ。俺があの女を訴えることも、きっと想定の範囲だったのだ。全部、あの女の策なのだ。悪いのは、あの女なのだ。
 打算と、怯懦、何よりも自身の行為を正当化し被害者化する思考がオリベイラの脳内を渦巻く。それでも、有効な手段は思いつかない。
 いや。
 そうだ。一つだけ手段がある。
 単純な話だ。あの化け物がこの世からいなくなればいいんだ。そうすれば、試合なんてなかったことになる。もし生きていたら俺が叩きのめしたやった、そう胸を張ることができる。
 血の気の失せた顔で、引き攣るような笑みを浮かべたオリベイラは、先程壁に叩きつけた携帯端末を拾い上げ、そして自身の兄貴分に連絡を取ろうとした。
 兄貴は、いつだって俺の味方だった。今回も、きっと、あの女の悪辣な罠にかかった俺を憐れんで、力を貸してくれるに違いない。あの小生意気な女を、この世から消し去ってくれるに違いない。
 近視眼な思考の中でようやく解決策を見出したオリベイラは、何とか精神的均衡を取り戻すことができた。
 震える指で端末を操作していたオリベイラの耳に、その時、病室の扉がノックされる音が届いた。
 オリベイラの心臓が、どきりと跳ね上がる。あの女が、自分を追いかけてこの病室まで来たのではないか、そう思ってしまう。
 しかし、冷静に考えればそんなはずはない。何せ、先程の番組は生放送のはずなのだ。ならば、例え撮影スタジオがどこであろうと、この病院に来ることなどできるはずがない。
 おそらく、看護婦の定期健診だろう。そう考えて一応の平静を取り戻したオリベイラは、かすれた声で、

「あ、開いてるぜ」

 オリベイラがそう言うや否や、扉は物凄い勢いで開き、オリベイラがそのことに抗議の声を上げる前に数人の屈強な男が病室に飛び込んできた。
 あっけに取られるオリベイラの前に、男たちの中では一番年配らしい男性が立ちはだかり、太々しく落ち着いた様子で、

「夜分遅くに申し訳ないね。一応確認するが、君がレオン・オリベイラくんだね?」
「な、なんだ、てめぇら!いったい、誰の許可を得て俺様の病室に――」
「我々は、連邦大学中央警察のものだ。これが身分証。そして、こちらが君の逮捕状だ」

 男達は自らの写真入りの手帳のようなものと、そして一枚の紙片をオリベイラに提示した。
 その拍子に、幾人かの男がオリベイラの両側から彼に近寄り、両手を拘束して、後ろ手に手錠をかける。

「君の容疑は、麻薬の密輸とその密売だ。ええっと、一応読み上げておこう。君には黙秘権がある。君の供述は、法廷で君に不利な証拠として用いられる場合がある。君は弁護士の立会いを求める権利がある。君は、もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、質問に先立って公選弁護人を付けてもらう権利がある。それと何だっけか、ああ、そうだそうだ、君はいつでもこの権利を用いることができ、質問に答えず、また供述をしないことができる。以上だ。何か質問は?」

 唖然としたオリベイラは、とっさに何も言うことができない。その様子をどう理解したのか、年配の刑事は笑顔で頷き、

「質問がないなら結構、顎のあたりが少し不自由な様子だが、我々と一緒に来てもらおうか。君に暴れられると一苦労だと思っていたが、その怪我だとそれも難しいか。君にその怪我を負わせた誰かさんに、感謝せんといかんなこりゃあ」

 オリベイラは両脇を抱えられ、無理矢理部屋から引きずり出された。
 俺は無実だ、不当逮捕だと喚くオリベイラの姿は、入院患者かそれとも医療関係者の誰かさんの携帯端末で動画として収められ、しばらくの間SNSを騒がせることになったが、それも大して長い期間ではなかった。
 そして、今回の逮捕がオリベイラにとっては不幸なものだったとしても、たった一つ、彼の心を慰めることができるとするならば、恐れていたウォルとの再戦は永遠になくなったのである。



「ああー恥ずかしかったー!絶対にもう二度とテレビなんて御免だからな!」
「いや、おれから頼んでおいて何だが、本当にお疲れ様だ、ヴォルフどの」

 顔に手を当てて、本当に恥ずかしそうなヴォルフと、半笑いの表情で彼を慰めるウォルである。
 二人は、既に日も落ちて久しいセム大学のキャンパスを、ぽつりぽつりといった様子で歩いている。街灯が整然とした様子で灯り、中天には満月が輝いているから、足元が不案内ということもない。
 なんとも気持ちの良い夜だった。
 そんな夜に、人気の薄いキャンパスを、二人の人間が歩いているのだ。
 御伽噺に出てくる巨人のようなヴォルフと、中等部でも平均より小柄かというウォルであるから、並んで歩くと倍近いスケール差がある。事実、体重でいえば四倍近い開きがある二人だった。

「それにしてもウォルよう、あんなもんで、お前さんの読み通り、あの悪ガキのファンを根こそぎかっさらえるのかい?」

 ヴォルフの疑問にウォルは頷き、

「根こそぎというわけにはいかんだろうが、過半数はおれのほうに靡くと思うぞ。何せ、ああいう手合の支持者は、より過激な言動をする人間に心惹かれるものだからな。加えて、今回、あの男は自分を被害者という立場に置いておれに喧嘩を売りつけたわけだが、人心掌握という観点からすればそれは完全な悪手だ。今まで強気を貫いて付いてきたファンだ、自身を被害者として一時の同情心を買うことはできても、少し経てば幻想から冷めてしまう。おれからすれば、正しく絶好のチャンスだ。労なくして得るもの多しだな。有難い話だ」

 そう言ってホクホク顔のウォルである。事実、オリベイラを見限ったファン達は、ウォルこそ次のスターに違いないとばかりに熱を上げ、彼女の応援用のアカウントなどを次々と立ち上げており、その盛況ぶりはTBSB関係者を大いに驚かせていた。
 喜色満面といった様子の少女を横目に見ながら、ヴォルフはオリベイラという哀れな被食者に内心でお悔みを申し上げた。どう考えても、喧嘩を売る相手を間違えたとしか思えない。それは、武力的な意味でも、策略的な意味でも、だ。
 人知れず肩を竦めたヴォルフの気持ちなど知らぬふうで、ウォルは続ける。
 
「TBSBも、自分達が訴えられるという危機的状況がなければ、こうもおれの好き放題を許してくれなかっただろう。これで、おれの目標に大きく近づいた。あとは、おれの腕力一つだ。アイドルと選手の二足の草鞋、明日から色々と忙しくなるな」
「そうだな。お前は、この共和宇宙全ての、格闘技ってカテゴリで飯を食ってる全ての人間に喧嘩を売ったんだ。女だてらと見下して挑戦してくる選手やら、オリベイラの人気を食ったお前を更に食ってやろうっていう跳ねっかえりやらの相手をしなくちゃならんだろう。面倒くさい話さ。俺みたいに世間様に迷惑をかけない範囲で、出来る限りのんびりと生きていこうって小市民からすれば、ご愁傷様ってやつだ」
「違いない。何とも面倒な話だが、自分で選んだ道だ。不平は言わんさ」

 そう言ってウォルはからから笑った。
 ヴォルフもつられて笑う。全く、内面は異世界の王様だというこの小さな女の子と知り合ってから半年ほど、人生に退屈を感じた瞬間が一瞬たりともありはしない。そして、これからも面白い話には事欠かないだろう。
 はてそれは、幸福の領域に属する出来事なのか、それとも面倒事に属する出来事なのか。少し頭を悩ませたヴォルフだったが、苦笑とともに思考を打ち切った。
 そんな思考は不要だと思ったのだ。少なくとも、こんな気持ちの良い夜には。
 そして二人は、やはりぽつりぽつりと歩き続ける。
 
 だから、それは、完全な偶然だった。
 
 そして、不幸な偶然の重なった結果でもあった。

 もしも。

 もしも、二人がこの日、こんな時間に、セム大学のキャンパスを歩いていなければ。

 もしも、リィやルウ、そしてシェラが、事前に彼らの存在を、ウォルに伝えていたならば。

 そして、もしも、レティシアが、この夜、ふらりと街に繰り出すことがなければ。

 彼らは、こんなタイミングで出会うことはなかっただろうに。
 
 だが、偶然は彼らを引き寄せた。そして、彼らは出会ってしまったのだ。

 ほぼ直角に曲がった道の向こうから、ひょろりと痩せた金髪の少年が姿を現したことに、ウォルとヴォルフは同時に気が付いた。
 そして、彼の身に纏った異様な雰囲気にも。
 ヴォルフはその少年を見たとき、彼を人間だとは思えなかった。人のかたちをした猛獣、それとも毒蛇、いや、殺意そのものが歩いているのだと思った。
 あれは、決して人間ではない。おそらくは、人を殺すという単一の目的を持った機械。
 全身の毛穴という毛穴から冷や汗が吹き出し、脳髄ではなく全身の細胞そのものが、最大級の警報を鳴り響かせる。
 今までどの戦場でも出会ったことのない、異質な存在。人の皮を被ったキリングマシーン。存在するだけで周囲に死をまき散らす、最悪の疫病の具現。
 己の身に降りかかる圧倒的危機に、咄嗟に動くことすらできなかったのは、ヴォルフの長い軍属経験でも初めてだった。動くことが、即ち死につながると、思考ではなく身体が理解してしまっていた。
 そして、それは金髪の少年――レティシアも同じだった。
 軽いアルコールに思考を痺れさせ、その解放感に酔いしれながら夜道を歩いていたら、突如、明らかに人外と分かる大男と、そして得体の知れない気配を放つ少女という、奇異な二人組を見つけたのだ。
 もしも素面の彼ならば、おそらく100メートル離れていても気が付いていたはずだ。それが、こうも接近して遭遇してしまった。
 咄嗟に動くことができない。銃器の取り扱いに極端に厳しい連邦大学であるから、おそらくこの二人が銃を携帯しているということはあるまいが、少なくとも巨躯の男は、全身に武器を仕込んでいる。その鋭い気配を含めて、レティシアにとっても容易な相手ではないことがよく分かる。
 加えて、その隣に立った少女の醸し出す異様な気配。その気配に、レティシアは覚えがあった。この上なく知っていると言っていい。なにせ、その気配を持つ生き物と、かつて命のやり取りをして、敗れ去ったことがあるのだ。
 咄嗟に、レティシアは理解した。同僚であるヴァンツァーの言っていた、王妃と同じ生き物。そして、あの不思議な男の言っていたターゲット。
 その二つが同一人物であり、そして今、自分の目の前にいるのだと。
 流石のレティシアも、事態に思考が追いつかず、一瞬、身体を固めてしまった。
 故に、動き得たのはただ一人。
 レティシアを危険人物と知り、大量殺人犯と知り、そして何より妻の命を狙った怨敵と知っていた、少女。
 ウォルが、刹那の逡巡もなく駆け出し、レティシアに向けて飛び掛かった。



[6349] 幕間:夢追い人
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:b29859fd
Date: 2023/08/15 08:08
 マンフレッド・グレン警部は、連邦大学中央警察本部の大会議室で、些か居心地悪そうにネクタイを緩めた。
 警察という組織は、内への結束という点において比類無いが、その反面、外部組織との折り合いという面では閉鎖的との謗りを免れない面がある。
 そのこと自体はグレン警部も重々承知のことではあるのだが、だからといって連邦警察からの出向者である我が身に突き刺さる阻害的な視線が和らぐわけでは全くない。
 連邦警察から他星系の警察組織への出向期間は、通例ならば三年である。無論、その間に不祥事に巻き込まれなければ、という条件がつく。そして平穏無事に出向期間を終えれば、一段階上のポストが自分を待っているはずだ。
 肩書きにはそれほど拘りのないグレン警部だが、階級が上がれば裁量が増えるのは間違いない。自身の信じる正義を為すため……といえば何とも大仰だが、要するに自分のやりたいことをするためには肩書きも馬鹿には出来ないと理解しているので、せっかくお膳立てされたこのチャンスを無為にするつもりはない。
 だいたい、出世レースからは早々にリタイアしたはずの自分にこんなかたちでお鉢が回ってきたのは、彼が様々な事件を解決に導いたからであり、中でも、共和宇宙で最も価値のある芸術品と言われる、巨匠ドミニクの代表作『暁の天使』盗難事件を早期解決した功績によるものなのだ。
 だが、グレン警部は『暁の天使』盗難事件の本当の功績者が、見事な金髪とエメラルドのような瞳の少年だったと理解している。そういう意味で、自分の能力を過大評価はしていない。
 だから、二重の意味で、大会議室の最前列に自分が座るのは、どうにも自分には場違いな気がして、居心地の悪い思いを味わっているのだ。
 そんなグレン警部の前に設えられた壇上席に、連邦大学中央警察の中でも切れ者と評判のシーモア・ハックマン管理官が座る。
 ハックマン管理官は、上背こそそれ程でもないが、鍛え抜かれた体躯はどっしりとしており、チョコレート色の肌に猟犬を思わせる鋭い目つき、引き絞られた口元と、仕事の出来る官僚を画に描いたような風貌で、彼が席に着いた瞬間に、会議室全体の緊張感が一段階増したのをグレン警部は感じ取った。
 ハックマン管理官は卓上マイクのスイッチを入れ、会議室に居並んだ、自身の手足とも言うべき刑事達を一瞥し、冷徹な声で捜査会議の始まりを告げた。

「それでは、連邦大学における違法薬物殲滅作戦の捜査会議を始める」

 大会議室に居並んだ刑事達の背が、いっせいに伸びる。
 その様子を見て、ハックマン管理官は続ける。

「諸君も承知のことと思うが、本日19時、アマドラ総合病院において、本件の重要参考人であるレオン・オリベイラの身柄確保に成功した。被疑者は未だ容疑を否認しているようだが、携帯端末等の重要証拠の確保にも成功している。楽観視は危険だが、落ちるのは時間の問題と見ていいだろう」

 安堵に似た雰囲気が、会議室全体に広がる。なにせ、レオン・オリベイラといえば、過日に開催されたTBOのMMA無差別級金メダリストなのだ。もしも彼が逮捕に抵抗して大暴れでもすれば、多数の怪我人が予想されたし、最悪の場合は確保に失敗することもあり得ると思われていたのだ。
 グレン警部もその点にかなりやきもきしていた。逮捕術については人後に落ちない自信のあるグレン警部もオリベイラの確保班に手を挙げたのだが、現場で身体を張るには警部という肩書が邪魔をしたのか、丁重に人選からは外されてしまったのだ。そういった経緯から、無事被疑者逮捕という報告を聞き、胸を撫でおろしたのである。
 ただ、オリベイラがさしたる抵抗もせずに逮捕されたのは、ウォルとの試合の怪我が完治していなかったのが原因であり、そういう意味でいえば、一番手柄はウォルに帰するのかも知れない。そして、ウォルが、かつて自分の関わった『暁の天使』盗難事件の解決の立役者であったリィの婚約者であると知れば、果たしてグレン警部はどんな顔をするのだろうか。
 
「家宅捜索班、状況を報告してくれ」

 ハックマン管理官の声に、書類片手に立ち上がった刑事が、

「オリベイラの自宅からはパソコン、通信機器、薬物の密輸入に使用したと思われるキャリーケース、その他の物品を押収しています。パソコン関係は現在分析中。キャリーケースからは、微量の薬物反応がありました。また、冷蔵庫の中から覚せい剤のアンプルと注射器も押収しています。金メダリストという立場を利用して、税関の目を欺いていたことは間違いないでしょうね」

 ハックマン管理官は満足げに頷いた。自宅からこれだけの証拠が見つかれば、少なくともオリベイラを有罪にするには十分だろう。

「尾行班、未確保の被疑者の状況は?」
「オリベイラの逮捕のニュースにかなりの動揺が見られます。被疑者一名に対してチームで尾行及び監視を行っており、不審な動きが見られれば、現場の判断で確保するよう通達しております。おそらく、今日明日中にかなりの被疑者が確保されるものと考えております」
「今回の一斉摘発の目的は、あくまで違法薬物密売組織の壊滅だ。末端の売人の確保を優先するあまり、とかげの尻尾切りにだまされて組織上層部に逃げられることのないよう、細心の注意を払ってほしい」
「はっ、承知しました」

 その他、各班の報告に対して指示を出し、刑事達の意思統一を図って、会議は終了した。
 血気に逸る若手刑事たちが、使命感に燃え盛る視線で足早に会議室から退出する中、グレン警部はやれやれ、やっと終わったかという様子で立ち上がり、軽く伸びをした。こういった会議が無駄などとは言わないが、しかし一匹狼気質のグレン警部にしてみれば、どうにも気づまりであることは否定できない。
 今回の捜査について、外様大名である自分の役割は後方支援である。前線の精鋭達の打ち漏らしを拾ったり、捜査の穴を埋めるのが仕事だ。
 例えば電車の中で走り回っても目的地に到着する時間が変わらないように、今の自分が焦っても何が変わるわけでもない。そう考えると、良く言えば気持ちに余裕ができるし、悪く言えば怠け虫が鳴き声を上げる。
 とにかく、捜査資料を丁寧に揃え、ブリーフケースに仕舞ったグレン警部が、のんびりとした歩調で大会議室から退出しようとしたとき、背後から声をかけられた。

「グレン警部、この後、少々お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」

 声の主は、他ならぬハックマン管理官であった。
 僅かに気の緩んでいたグレン警部は、年齢こそ自分よりも下ではあるが、階級は遥か上のハックマン管理官に、慌てて敬礼を施す。

「管理官殿、小職に何か御用でしょうか?」

 ハックマン管理官は、相も変わらず隙のない、鋭い目つきでグレン警部を射貫き、

「実はこの事件について、少々ご意見を頂戴したいことがあるのです。どうぞ、別室までお越しください」

 口調こそ丁寧ではあるが、上位の人間が職務上要請しているのだから、命令と同じである。グレン警部は訝しむ内心を表情に出さないよう努力しながら、ハックマン管理官の後を歩いた。
 二人は、大会議室と同階の、こじんまりとした会議室に入った。そこは、四人掛けのテーブルセット以外は観葉植物すらないという、取調室と見まがうほどに小さな部屋だ。
 はて、俺は査問されるような悪さをしでかしたかとグレン警部は我が身の素行を振り返った。捜査のために、少々の違法行為をしでかしたことのあるグレン警部は肝を冷やしたが、よくよく考えてみれば、今回の違法薬物殲滅作戦の責任者であるハックマン管理官からお叱りを賜るような謂われもない。
 ハックマン管理官は自然な足取りで上座に座り、グレン警部は残された下座に腰掛けた。

「さて、グレン警部。あなたの経歴を拝見しました。正直に申し上げて、目覚ましい経歴です。セントラルから遠く離れた、連邦大学警察に勤務する私などにも耳に入るような難事件を、いくつもの解決しておられる」
「部下と運に恵まれただけですよ」
「なるほど、それはそうかも知れませんが、実はそれが一番難しい。あなたの仰ることが正しいとして、あなたは素晴らしい部下と人もうらやむ運に恵まれているに違いない」
「恐縮です」

 ハックマン管理官はそう言って微笑んだ。そうすると、先程の会議の時の鋭角な表情から、人好きのする青年のそれへと変わる。階級が下のグレン警部に対して敬語を崩さないのは、その経歴に敬意を払っているからだろうか。
 この変化が意図してのものだとすれば、これは前評判以上に油断のならない人物かも知れない。グレン警部は内心でハックマンという人物評を改めた。

「グレン警部。あなたをお呼びしたのは、他でもありません。今回の捜査において、あなたの意見を頂戴したい件があるのです」
「私の意見、ですか」
「そう、あの『暁の天使』盗難事件を短期間の間に解決に導いた、あなたの意見です」

 繰り返しになるが、『暁の天使』盗難事件の解決の立役者は、グレン警部ではない。少なくとも、彼自身はそう確信している。
 しかし虚像というのはやっかいなもので、一度一人歩きを始めると尾ひれやら腹びれやらを勝手に身に着け、あまつさえいつの間にか巨大化して、本人を覆い隠してしまうから質が悪い。
 そしてこの場合、そのことをハックマン管理官に伝えたところで、事態は変化しないだろう。実はあの事件は連邦大学の中等部生が解決したのですと言ったところで、ご謙遜をと笑われるか、それとも正気を疑われるかだ。
 それに、『暁の天使』盗難事件を解決したのが自分だけの力ではなかったとしても、それ以外の事件を解決させたのは間違いなく自分とその部下であり、そういう意味では十分な自負がある。
 だから、グレン警部はだまっておくことにした。
 真剣な表情で黙り込んだグレン警部の目の前に、ハックマン管理官は、懐から取り出した小瓶を置いた。
 グレン警部は、その小瓶を見た瞬間、名状しがた悪寒で背筋が冷えるのを感じた。例えるならば、巨大なダムに小さな亀裂が入っていて、そこから水が漏れだしているのを見つけた様な感覚だ。

「これは?」

 当然とも言えるグレン警部の質問に、

「今回の、違法薬物密売組織から押収した証拠品です」

 グレン警部は、まじまじと小瓶を見つめる。
 親指より少し大きいかというサイズの小瓶は、古風にコルクで封がされており、中は透明の液体で満たされている。

「触っても?」
「結構です。爆薬や危険な化学薬品の類ではありませんから、揺らしたり衝撃を与えても問題ありません」

 そう言われて、グレン警部はその小瓶を手に取る。
 まず臭いを嗅ぐが、コルク越しには特に異臭はない。コルクを外しても、やはり特別な臭いは何もないようだ。
 次に小瓶を持ち上げ、電灯の光に透かしてみる。少なくとも、目視で分かる範囲では、一切の色がついていない、無色透明の液体のように思える。
 軽く瓶を振ると、中で液体が跳ねまわるが、特別粘性があるわけでもない。
 あと、確認できる方法と言えば味くらいのものだが、得体の知れない液体を口に入れる勇気は、流石のグレン警部にもなかった。
 
「これは何ですか?」

 グレン警部の質問に、

「化学分析の結果を申し上げるなら、物質名はdihydrogen monoxide、化学式で言えばH₂O、要するに、水です」

 ハックマン管理官は答える。
 グレン警部は、一瞬自分をからかっているのかと思ったが、ハックマン管理官の表情は真剣そのものである。

「では、水に、何か違法薬物の成分が溶け込んでいるということですか?」

 ハックマン管理官は首を横に振る。

「確かに、極々微量のミネラルが溶け込んではいるようですが、成分自体は純水に近い。例えば薬局に行けば、1リットルいくらで買える、普通の水です」
「それが、今回の事件の押収品なわけですな」
「はい。それが正しく問題なのです」

 ハックマン管理官は机の上で手を組んだ。

「この小瓶は、違法薬物の使用容疑で逮捕された学生から押収したものです。その学生の供述によれば、売人から違法薬物を購入する際、サービスということで渡されたものだとか」
「ただの水を、違法薬物の売人が、わざわざサービスですか」
「はい。もしもこの小瓶単体で販売されていたのならば、ただの詐欺ということになるのでしょうが、薬物とセットで、しかもただで渡していたというのがどうにも気になる」

 ハックマン管理官は鋭い視線で小瓶を睨みつけながら言った。
 グレン警部も、ハックマン管理官の意見に内心で首肯した。違法薬物を販売する目的は、当然のことながら、多額の金銭を儲けることだ。
 ただの水を薬物と偽って小銭を稼ぐというなら、末端の売人のやりそうなことではあるが、無料で配っているというところがどうにも気持ち悪い。

「ちなみに、ただで渡して、その後はどうするのですか?」
「その学生によると、この水を飲めば、いい夢が見られるそうです。売人には、どういう夢を見ることができたか、そしてその感想を教えてほしいと、そう言われたらしい」
「夢が見られる?それは、例えば自分の望む夢を見ることができるとか、その手の話ですか?」

 ひと昔前の漫画雑誌の裏表紙や、怪しげなインターネットサイトなどを少し探せば、その手の商品の広告は珍しいものではない。辛く苦しい現実を忘れて、思い通りの夢の世界を貴方に!なんとも使い古された売り文句である。そして、その手の商品が本当だったためしは、科学万能の今の世界でもありはしないのだ。
 この水も、その手の商品なのだろうか。いや、だとしても、やはり無料で配っているというのが引っかかるが。

「使用者の望むままの夢を見られるとか、そういう効能ではないそうです。ただ、不思議な夢が見られるとか。特に、薬物と併用すると確率が上がるそうです」
「不思議な夢、ですか」

 こうなると、グレン警部には何がなんやらわからない。
 だいたい、夢などそれ自体が不思議なものだ。夢を見ているときはそれが世界の法則のように思えても、目が覚めてみればなんと馬鹿らしい夢だったのだろうと呆れるのが常である。
 ならば、不思議な夢が見られるというのは、果たして薬物の効能と言っていいのか否か。
 そんなグレン警部の考えなど露知らず、ハックマン管理官は続ける。

「その学生は、これをドリームメイカーと呼んでいました」
「ドリームメイカー……夢追い人ですか」
「若者の人生を台無しにする薬物にドリームメイカーなどと名付けるなど言語道断ですが……ただ、この水は少なくとも単純な違法薬物ではない」

 何せ、成分は普通の水と変わるところはないのだ。お天道様の下で大手を振って販売したとしても、誰が咎められるものでもない。
 
「その学生は、この水――ドリームメイカーを飲んだのですか?」

 ハックマン管理官は頷いた。

「一体どんな夢を見たのですか?」
「その若者は、特に夢を見なかったと供述しているます。もちろん、覚えていないだけかもしれない。夢の記憶など、そんなものですからな」

 グレン警部は頷く。

「動物実験はしてみたのですか?」
「ええ。ネズミ、犬、猿。いずれも、ただの水を口にした以上の変化は起きませんでした」

 ハックマン管理官は、椅子の背もたれに身体を預けた。

「そして、これは噂話に留めておいてほしいのですがね。違法薬物の常習者となった学生の中に、失踪者が多発しているらしいのです」
「失踪者、ですか」

 グレン警部は考える。
 薬物にはまり、抜け出せなくなった常習者が、社会から失踪するのは珍しい話ではない。仕事を失い、家族関係を破綻させ、寄る辺を失った人間が街をさまよい、ホームレスとなるのだ。
 だが、今回の被害者は学生である。薬物中毒になってしまっても、まだ親というセーフティーネットがある。即座に失踪というのも、少し不自然な気がする。

「私は、その原因が、この小瓶ではないかと睨んでいます」
「……なるほど」

 ハックマン管理官は、机に乗り出すようにして、グレン警部に言った。

「上層部は、これのことを重要視していない。少なくとも成分分析上ただの水である以上、ドリームメイカーのことは無視して薬物の捜査に注力するべきだというのが主流の意見です。また、薬物事件の本丸を叩いてしまえば、こちらも解決するだろうというのが思惑だ。だから、捜査会議でもこれの件については伏せられている。余計な混乱を起こさない、それが上層部の意向です」
「当然の方針でしょうな」
「私は、証拠分析は科学に従って、捜査は法律に従って行われるべきものだと確信しています。そこに、刑事の勘などという、甚だあやふやなものを持ちこむべきではない。もしも持ちこめば、違法捜査、誤認逮捕の温床だ」

 ハックマン管理官の意見にグレン警部は深く頷いた。勘で事件を解決するスーパー刑事はテレビドラマの中で輝いてくれればいいのであって、現実世界でそんな刑事が幅を利かせれば、警察組織の暴走を招くこと疑いない。

「ですがね、グレン警部。事件の起こりの違和感を感じ、それを解決に導くきっかけとする。そういう意味での刑事の勘は、機械以上に優れていると私は信じている。だからこそ、連邦大学中央警察に属さず、そして今まで難事件を解決に導いてきたあなたに聞きたい。この、ドリームメイカーと呼ばれる小瓶は、果たして本当にただの水でしょうか?今回の捜査からは切り離して考えるべきものでしょうか?」

 おそらくは今日一番真剣なハックマン管理官の視線を受けて、グレン警部は、

「管理官。あなたは、おそらく全てを正直に小職に伝えていただいた。だからこそ、小職の正直な感想を申し上げます。私は、この小瓶を見たとき、根本まで火が回った爆弾の導火線を思い起こしました。どう考えても、尋常な事態ではない。これは完全に私の勘ですが、事件の本質は、薬物の密売などではない。きっと、この小瓶こそ、今回の事件の本質です」

 おそらくハックマン管理官も同様の意見だったのだろう、グレン警部の意見に深く頷いた。

「グレン警部、あなたの今の任務を解きます。そして、表立っては動かず、ドリームメイカーの実態の解明捜査の指揮を取っていただきたい」
「つまり、書類上は更迭ということになりますか?」

 ハックマン管理官は、苦渋の表情とともに頷いた。

「事件が終われば、私の権限の及ぶ範囲で、あなたの名誉を回復させていただく。しかし、一時は、閑職にあなたを追いやることになってしまう。それを許してもらえますか?」

 グレン警部は大いに笑った。

「ハックマン管理官はご存じないかもしれないが、私はそういうのが大好きなのですよ。そして、気に食わない奴が左遷されたと内心で喜んでる輩の鼻を、思い切り明かしてやるのもね」

 ハックマン管理官は、グレン警部の下手な冗談に微笑み、

「では、辞令は明朝ということになるのでしょう。あまり時間はありませんが、今の仕事の引継ぎの準備を願います」
「承知しました」
「それと、あなたの手足になるべき人材は必要でしょう。仰っていただければ、何人かご用意します」
「ありがたい申し出ですが、私はここでは外様大名だ。そんな私の下で、しかも奇妙な職務について喜ぶ人間がいるとも思えない。もしも可能であれば、連邦警察時代の部下で、ヒックスという若い刑事がいましてね。中々に鼻が利く男だし、馬があう。できれば、彼を招聘していただけると助かるのですが」

 ハックマン管理官は少し悩み、それから頷いた。

「わかりました。一週間以内に、あなたの望みを叶えましょう」
「助かります」

 その後、二、三の簡単な打ち合わせをして、グレン警部とハックマン管理官は固い握手を交わし、会議室を後にした。
 連邦大学中央警察の長い廊下を歩きながら、グレン警部は考える。
 果たして、あの小瓶は何なのか。この事件で、一体どのような役割を持つのか。
 忙しい日々が待っているだろう。だが、必ず解決してみせる。
 固い覚悟を胸に廊下を歩くグレン警部、その時、彼の脳裏に、一人の少年の存在が閃いた。
 黄金の髪に、緑柱石色の瞳を持つ、天使のように美しい少年。幾つもの精巧な贋作の中から、真作を難なく発見するという、直観とも洞察力ともとれる能力に優れた、稀有な少年だった。
 彼にこの小瓶のことを伝えれば、一体どのような反応を示すだろうか。無論、調査中の証拠物件を一般市民に提示するなど不適切な行為であることは間違いないのだが、グレン警部には、それが事件解決への最短経路にも思えたのだ。



[6349] 第百九話:因縁の決闘
Name: SHELLFISH◆2635bb85 ID:b29859fd
Date: 2023/08/22 22:41
 その男は、ポーラの侍女であったレナという少女を毒殺した。
 その男は、リィに薬物を嗅がせて監禁し、寸でのところで手籠めにされるという危地に陥れた。
 何よりその男は、幾度もリィを傷つけた。深手を負ったリィは、その度に生死の境をさ迷う羽目になった。
 リィは、ウォルにとっての大恩人であり、同盟者であり、そして配偶者であった。
 つまり、その男は、ウォルにとっての怨敵であったのだ。
 例え、その男の罪が、リィの手による死によって一度雪がれたのだとしても。
 例え、ウォルも生まれ変わり、此度の邂逅が異世界での出来事だったのだとしても。
 ウォルは、レティシアという男を、寸毫も許していなかった。
 だからウォルは、レティシアの姿を認めるや否や、放たれた矢の勢いで飛び出した。
 その表情に、激情は無い。激怒も無い。ただ無表情に、しかし迸る灼熱色の殺意がウォルの漆黒の双眸から吹き零れるようだった。

 ――殺す。

 この男は、ここで駆除する。駆除しなければならない。その冷たい意思が、ウォルの身体を突き動かす。
 ウォルの右手が、無意識に左腰に伸びる。そこに剣があれば、間違いなく彼女はそれを抜き放っていたに違いない。しかし今の彼女は、学生の身の上だ。そんな物騒なものを、常に身に帯びていられるはずがない。そして、リィから贈られたラー一族謹製の名刀も、無から抜き放てるほどに便利なものではないのだ。
 空虚な左腰の感覚に非武装の自分を思い出したのか、片頬を苛立たしげに引き絞ったウォルは、剣の間合いから素手の間合いに飛び込んだ。
 そして、凄まじい戦いが始まった。

 ――速い。

 二人の戦いを眺めるしかないヴォルフは驚嘆した。ウォルの動きも、レティシアの動きも、歴戦のヴォルフの目をもってしても全く追いつけない。
 拳と拳が交錯し、蹴りと蹴りが弾き合う。その間にも、絶えず足は動き、相手との間合いを詰め、あるいは距離を取り、自分に有利な戦局を作ろうとしている。
 ヴォルフは、今のウォルの身体の持ち主である、ウォルフィーナと戦ったことがある。その時も、彼女は目で追えないスピードだったが、これは更に一歩先にある戦いだ。
 何故なら、ウォルフィーナは、こと戦いという点において、ほとんどずぶの素人であった。いわば、身体性能だけでヴォルフと戦い、寸でのところまで追い詰めたのだ。
 それに対して、ウォルは歴戦の戦士である。例え素手であっても、幾多の死線をくぐり抜けてきた経験がある。そのウォルが、ウォルフィーナの身体を十全に操ることが叶えば、その戦闘力がウォルフィーナのそれを上回ることとなるのは自明の理である。
 これは、あの時のスパーリングではかなり手加減をしてもらっていたらしいと、ヴォルフは思った。そして、ウォルの戦いに感嘆すると同時に、彼女と互角の勝負を繰り広げている、得体の知れない男の戦いぶりにも目を見張っていた。
 見た目は痩せた線の細い青年にしか見えないのに、一撃必殺のウォルの攻撃を容易く受け止め、怒涛のような攻撃の僅かな間隙を縫って的確な反撃をウォルに加えている。
 しかも、その表情に、うっすらとした微笑みを浮かべながら、だ。
 例えば、痛打を浴びたボクサーが強がりで浮かべる笑みならば、ヴォルフは一目で虚勢だと見抜くことができる。
 だからこそ分かる。あの青年は、暴風のようなウォルの攻撃を受け止め、それでもまだ余裕があるのだと。
 この男は何者だ。リィやルウ達以外に、まだこんなに強い男がいたのか。
 そんなヴォルフの内心を知らず、拳や蹴りを繰り出しながら、ウォルが叫ぶ。

「どうして貴様がここにいるっ!?」

 ウォルの、当然とも言える疑問に、にやにや笑いを浮かべたレティシアが、

「俺がここにいるのがそんなに不思議かい?」
「貴様、まだリィを狙っているのか!?」
「さぁ?もしもそうだとして、どうするんだい?」
 
 激昂して歯を軋らせたウォルは、レティシアの顔面を思い切り殴り飛ばそうと、拳を振りかぶった。その姿を見て、レティシアも顔を両腕でかばう。
 だが、ウォルの拳は、レティシアのガードにぶつかる寸前で停止した。その代わり、右足を蹴り上げ、目の前の男の股間を狙う。
 当たれば、睾丸を潰し、そのまま恥骨を砕くような一撃だった。悶絶どころでは済まない、下手すれば命を奪う攻撃だ。
 しかし、レティシアは、目の前の少女を愛でるように微笑みを浮かべ、左手で少女の蹴りを容易く受け止めていた。

「惜しかったなぁ。剣があれば、最初の一撃であんたの勝ちだったのに」

 戦いが始まる前の、ウォルの一瞬の逡巡と、左腰に向けて動きかけた右手の動きで全てを悟っていたのだろう、そんなことを言ったレティシアの声は、寧ろ自分が斬られなかったことを残念がるような声色である。
 必殺の一撃を受け止められたウォルは、次の攻撃を繰り出すために右足を引こうとしたが、しかしレティシアの強靭な握力がそれを許さず、少女の右足をつかんで離さない。
 ならばと左足で跳躍し、レティシアの顔面を蹴ろうとしたウォルだったが、しかしそれよりもレティシアの動きが早かった。
 レティシアは口中で何かを噛みつぶし、唾液ではない液体をウォルの顔に向けて吹きかけた。
 それは一種の暗器であった。唐辛子の成分を抽出した刺激物を、唾液では溶けないカプセルに包み、口中に仕込んでいたのだ。
 致死の毒物ではない。だが、霞状になった刺激物はウォルの眼球を直撃し、その粘膜を痛烈に刺激した。
 突如眼球に加えられた、思わずのたうち回りたくなるような強烈な痛みに、しかし歴戦の戦士であるウォルは鋼の精神で耐えた。この敵の前でそんな隙を見せれば、間違いなく殺されることを理解しているからだ。
 レティシアは内心で感嘆した。眼球を攻撃されれば怯むのは、生物として反射運動に近い。野生の猛獣であっても苦悶の叫びを上げ、背を向けるに違いない。それを精神力で抑えるのは、並大抵のことではないからだ。
 しかし、強烈な刺激により一瞬で目を充血させ、大量の涙を滲ませたウォルの視界は、宵闇の暗さも相まって、極度に機能を低下させている。目の前の憎き男の顔も薄ぼんやりとしか認識できない。
 当然、レティシアもウォルの状態は承知している。
 そしてレティシアは、ウォルの右足を離し、先程のお返しとばかりにウォルの頭部を蹴りにいった。
 ウォルも、霞んだ視界でその動きを認識し、自身の左側頭部を守る。相手の右足が高く上がったなら、狙われるのはそこのはずだ。
 だが、次の瞬間ウォルは、想定していたのとは逆側、右顎に鋭い衝撃を受けた。一体何が起きたのか、ウォルには分からなかった。どうして相手の右足が、自分の右顎を蹴りぬくことができるのか。分からないまま、強かに脳震盪を起こしたウォルは、膝からその場に崩れ落ちた。
 それに対して、二人の後方にいたヴォルフには、レティシアが何をしたのか、はっきりと見えた。
 確かに、レティシアは右足を持ち上げ、ウォルの頭部を蹴りにいった。それは間違いない。しかし、白鳥の羽根のように折りたたまれ、そのままウォルの左側頭部を狙うと思われた足は、本来の軌道とは真逆に回転し、内側からウォルの右顎を蹴りぬいたのだ。
 格闘技で言えば、内回し蹴りと言われる技に近い。ただ、普通の内回し蹴りは、右足が地面から離れるときから相手の右側を狙っていると、軌道でわかるのだ。おそらく、その軌道の蹴りであれば、ウォルも十分に対応できたはずである。
 しかし、今のレティシアの蹴りは、外側から蹴りに行くと見せかけて、その途中で膝を起点に足を逆側に回し、ウォルの右顎を打ちぬいたのだ。
 普通に考えれば、あり得る軌道ではない。人間の膝関節は、そこまで柔軟に出来ていない。
 威力のある攻撃ではないが、相手の意表を突くといえば、これほどの攻撃もそうそうあり得ない。
 常識外れの柔軟性。瞬発力。そして、相手の顎の先端、皮一枚を狙って蹴るだけの正確性。それらが無ければ、成立し得ない技である。
 ヴォルフは驚愕した。この、見た目は痩せた少年にしか見えない男は、一体何者なのか。
 常人であるはずがない。おそらく、今まで見てきた全ての危険人物が霞むほどの、暴力の申し子。生まれながらにして、人を殺す権能を宿命づけられた者。
 そんな男が、堪え切れない微笑みを浮かべながら、崩れ落ちたウォルに歩み寄る。
 仰向けに倒れたウォルの視線は焦点を結んでおらず、半開きになった口元からは唾液が零れ落ちている。
 完全に意識を失っているのだ。
 勝負ありである。これが、ルールのある、試合ならば、だ。
 そしてこれは、そんな生易しい勝負ではない。
 レティシアは、意識を失ったウォルの前髪を無造作に掴み、軽々とその頭部を持ち上げた。
 そして、ウォルの耳元に優しく語りかける。
 
「王座でふんぞり返るのが仕事の、王様のわりには頑張ったぜ、あんた。流石、王妃さんの旦那だよ。じゃあな」

 そう言ったレティシアは、右手の指先を伸ばしたまま、ウォルの右目を狙って突き出した。
 いわゆる目つぶしのように可愛げのある攻撃ではない。眼窩に指を突っ込み、そのまま眼底を貫き、脳みそをほじくり返すための攻撃だ。当たれば、失明では済まない。命を奪うための攻撃だった。
 脳震盪を起こしたウォルに、その攻撃を躱す術はない。脳と身体を繋ぐ命令系統が断線しているのだ。レティシアの繰り出す致死の攻撃を、ただ眺めるしか為せることがない。
 だが、ウォルの小さな体は、レティシアの攻撃に貫かれる前に、強い力で後方に引っ張られていた。
 この場にいた、ウォルとレティシア以外の人間――ヴォルフが、ウォルを助けたのだ。
 空を切った右手に、レティシアは唇を尖らせた。

「おいおい、一対一の勝負に、無粋な真似をするもんじゃねぇよ、おっさん」

 ヴォルフを見ながら、不服そうに言ったレティシアだが、その表情は堪え切れない悦びに綻んでいる。
 それはきっと、死神の微笑みだ。人の命を刈り取ることでたつきを得る神の農夫が、己の職責を果たすことができたときに浮かべる、誇り高き微笑みだ。
 つまりこの少年にとって、人を殺すことは天職なのだろう。神がこの少年に与えた、最も相応しい生き方が、人の息の根を止めるということなのだ。だから、これほど無垢な笑みを浮かべることができるのだ。
 ヴォルフは、今まで感じたことのない戦慄を味わっていた。
 殺人鬼。違う。人を殺すことに悦びを感じる異常者ではない。おそらくは、先天性の暗殺者とも呼ぶべき存在。人を殺すことではなく、その困難事を達成することにこそ悦びを覚える、人の世と相容れない職人。
 
「おっさんは酷いな、俺はこれでも花の二十代だぞ」

 固い声でそう言ったヴォルフに、しかしレティシアは愉快そうに微笑いながら、

「おっと、そいつは悪いことを言った。でも、あんたの年齢は、もうあんまり関係ないよ。だって、どっちみち、今、ここで死ぬんだからさ」

 ウォルを狙っていた右手とは反対側、レティシアの左手から、冷たい光を放つ銀色の繊維が伸びているのに、ヴォルフは気が付いた。
 反射的にレティシアから背を向け、ウォルを右腕で抱きかかえて庇い、そのまま駆けだした。
 今のヴォルフは手負いである。オリベイラに折られた左腕は、ヴォルフの優れた回復力であってもまだ万全ではない。まして、仮にヴォルフが万全で、しかも重武装していたとしても、果たして勝ち目があるかどうか怪しい相手である。ここは、逃げの一手以外あり得ない。
 そう考えて、一目散に逃げようとしたヴォルフであったが、何かに足を取られ、盛大に転んだ。足だけではない。ヴォルフの身体に細い紐状の何かが巻きつき、恐ろしい力で締め上げていた。
 服を着こんだ箇所はともかく、肌が剥きだしの箇所は鋭く割け、血が噴き出す。
 おそらく、繊維状の刃物。ヴォルフは、それがレティシアの攻撃によるものだと理解した。
 
「あれ?おっかしいな、二人まとめて輪切りにしたつもりだったんだけど」

 さも不思議そうにレティシアが言う。
 ヴォルフは、ウォルを抱きかかえたまま振り返り、不敵に笑ってやった。

「あいにくだが、俺は臆病者で有名でね。外に出るときは、防刃防弾加工の服以外は着ないようにしてるのさ」
「へぇ。見た目、そんなに薄っぺらいただの服にしか見えないのにねぇ」
「安月給のボーナスをつぎ込んだ高級品だよ。おかげで、命拾いできたらしい」

 レティシアは嬉しそうに頷き、

「勉強になったよ。やっぱりこっちの世界は面白い。あっちの世界の常識がそのまま通じると思い込んでると、足元を掬われるらしいや」

 レティシアは、自由な方の右手に、ファロット一族伝来の暗器である鉛玉を握りこんだ。

「服だけじゃなくて、あんた自身も結構頑丈そうだけど、果たしてこいつをどたまに喰らって生きていられるかな?」

 レティシアは、得物が軽いアクリル片であっても、投擲すれば人体にめり込ませて戦闘力を奪うだけの技量がある。それが鋭利な金属となれば、銃弾と遜色ないだけの威力があるだろう。
 そんなことは流石に知り得ないが、しかしレティシアが下手な脅しを口にしていないことだけは理解できるヴォルフであったから、さてこれは年貢の納め時かと覚悟を決めた。せめて、自分の巨体でウォルを覆えば、この少女が生き残る可能性が少しでも増えるだろうか、そう思ってウォルを自身の身体の下に隠した。

「……ヴォルフどの、おれはいい、だから、あなただけでもにげてくれ……」

 ようやく意識を取り戻したのか、ウォルがただただしい口調で言う。
 だが、そもそも銀線に絡めとられ、身動きのできないヴォルフである。そして、今まで何人もの敵兵やテロリストの命を奪ってきたヴォルフだ。ようやく順番が自分に回ってきただけの話、醜く狼狽えたり泣き喚いたりせず、ただ穏やかに微笑み、

「ばか野郎ウォル、死ぬのは年寄りから、そして男からってのが世のならわしだ。それが気に食わねぇなら、大人になってから一人余分にがきを産んで、帳尻を合わせておいてくれればそれでいい」
「……」
「じゃあな、ウォル。結構楽しかったぜ、お前と知り合ってからな」

 そう言って、ヴォルフは、来るべき衝撃に身を固くした。
 しかし、予想されたタイミングになっても、頭を貫く固い感触がない。
 訝しんだヴォルフが後ろを振り返ると、苦笑したレティシアが身を翻すところだった。

「運がいいね、あんた達。ま、それが王様の宿命ってもんなんのかね?」

 レティシアの言葉に首を傾げかけたヴォルフだったが、遠くから、誰かの会話する声が近づいてくるのに気が付き、合点がいった。
 この少年にとっては、どうやら殺しの場面を見られるのが不味いらしい。この手の犯罪者は、少々強引にでも目的を達成し、そのまま消えおおせるのが普通だと思っていたヴォルフには、少し意外だった。
 そんなヴォルフの視線に気が付いたのだろう、レティシアは不本意そうに肩を竦め、

「そんな顔しなさんなよ。これでも、真面目な医学生で通ってるんだぜ、この辺りではな」
「……見逃してくれるってことかい?」
「先に手を出してきたのはそっちだぜ?見逃すもへったくれもないだろうがよ。それに、俺にはあんたらを殺す理由がない。少なくとも、今のところはね」

 天使のように微笑んだレティシアは、そのまま溶けるよう闇に消え去った。
 ヴォルフは、レティシアの気配が完全に消え去るのを確認し、ようやく総身から力を抜くことができた。
 まるで、猛獣の口の中に頭を突っ込んでいたような気分だった。自分の命運は尽き、あとは鋭い牙が首を両断するのを待つだけ、そういう状況だったのだ。そして、猛獣のほんの気まぐれで口を離し、今、自分は生きている。
 しばらく、呆けたようにレティシアが消えた闇を見続けていたヴォルフだが、いよいよ会話の声が近づいてくるに当たり、自身の置かれた状況に思いが至った。
 全身傷だらけで血まみれの様相、人通りの絶えた夜道でウォルのように幼い少女を組み敷いている大男。どう考えても犯罪の臭いしかしない状況である。まともな人間が見れば、善良な市民の義務として警察に通報すること疑いない。
 慌てたヴォルフは、全身に絡みついた銀線を手早く解き、右手にウォルを抱えたまま、そそくさと逃げだした。
 セム大学のキャンパスを走り抜け、裏路地に出ると、幸いなことにタクシーはあっさりと捕まえることができた。運転手は、傷だらけのヴォルフとぐったりとしたウォルという不審な組み合わせに眉を顰めたが、ヴォルフが財布から数枚の紙幣を取り出すと、自身の職責だけを全うすることに決めたらしい。

「どこまで?」

 不要な会話をする気が無いだろうその問いに、ヴォルフはほっとした。
 近くの総合病院の住所を告げると、タクシーは静かに走り出す。その時点で、ようやくヴォルフは一息つくことができた。
 そして、考える。あの男は、一体何者なのか。ウォルを王と呼んだこと、そして『あっちの世界』という口振りからすれば、ウォルと同じ異世界の出身という推測が成り立つ。
 加えて、ウォルも、どうやらあの男のことを知っているらしい。そうでなくて、どうして冷静なウォルが、突然あそこまで怒りを沸騰させて襲い掛かることがあるだろう。相当の因縁があると考えるのが自然だ。
 タクシーの後部座席に座ったヴォルフは、隣のウォルを見た。ウォルの閉じた瞼からは涙が零れ続けているし、意識もまだ朦朧としているらしい。速やかに医者に見せる必要があるだろう。
 だが、それよりもまず、あの男の存在を然るべき人間に伝えなければならない。例えウォルとあの男がどういう関係だとしても、あの男は放置しておくには危険すぎる。それはきっと、然るべき人間――リィやルウにとっても。
 ヴォルフは、懐から携帯端末を取り出した。



 夜の電話というものは、一様に不吉を覚えるものだ。それが仕事のことであっても、私用のことであっても。
 リィにとってもそれは変わらなかった。自室で明日の予習を終え、さて少し早いが横になろうかという頃合い、突然着信音が鳴った携帯端末を手に取り、少し険を含んだ表情で画面を見遣る。
 端末の画面に表示された相手は、よく知った人物だった。

「ヴォルフ、どうしたんだこんな時間に」

 少し年の離れた、人間離れした体格を持つ友人に、リィは気安く話す。
 だが、端末の向こうの相手の声は、その分重苦しい調子だった。

『リィ。落ち着いて聞いてくれ。ウォルが喧嘩に負けて、負傷した。今、タクシーで病院に向かっているところだ』

 決して冗談ではあり得ないその言葉に、流石のリィも僅かに表情を強張らせる。
 そして、例えば転んで膝を擦りむいた程度の怪我でこれほど沈鬱な声をするほど、ヴォルフという男は肝の小さい男ではないことを、リィは理解している。
 つまり、ウォルの負った怪我は、決して軽いものではないということだ。

「怪我の程度は?」
『頭を蹴られて脳震盪を起こしている。そのせいで、意識がまだはっきりしていない。だが、こちらは多分大丈夫だ。問題は目だ。目つぶしに、何か刺激物を喰らわされた。少なくとも、今は目が見えていない状態だ。最悪、失明の可能性もある』
「相手は誰だ?あのオリベイラとかいう小者の関係か?」

 まさか、オリベイラという男と一対一で戦って、ウォルが敗れるとはリィも思ってはいない。
 しかし、一人では勝てないと判断したオリベイラが、数に頼む可能性は十分にある。そして、ウォルも人間だ。夜道に不意打ちで複数の人間に襲われれば、不覚を取っても不思議はない。
 だが、端末の向こうのヴォルフは首を横に振ったようだ。

『分からん。ただ、相手は一人だ。そして、襲われたんじゃない。ウォルが、その男に突然襲い掛かって、返り討ちにあったんだ』
「ウォルの方から?何故?」

 当然とも言えるリィの疑問に、

『俺も、何が何だか分からん。確かに、尋常な雰囲気の男ではなかった。だが、だからといって必ず向こうから喧嘩を吹っ掛けてくるとはかぎらんだろう。無視をするっていう選択肢だってあったはずだ。なのにこちらから仕掛けるってことは、おそらく、ウォルと相手との間に、何か、因縁があるんじゃないかと思ってる』
「因縁?」
『ああ。それも、多分、この世界の話じゃない。その男は、ウォルのことを王様って呼んでいた。つまり、あっちの世界でのウォルのことを知っているってことだ。そうなると、もう俺にはお手上げだ。むしろ、リィ、お前の方こそ、その男のことを知っているんじゃないか?』

 リィの脳裏に、一つの可能性が浮かび上がった。
 ウォルとあちらの世界で相応の因縁があり、そしてウォルを一対一で倒してのける可能性のある人物。そして、ウォルがその男の顔を見れば、反射的に飛び掛かるほどに恨み、或いは怒りを覚えている人間。
 リィに思い当たるのは、たった一人の人間だった。
 
「……どんな男だった?」
『年の頃は、おそらくまだ未成年。外見は、やせ型で上背はそれほどでもない。金髪で、猫みたいな目をしていた。糸のような刃物を操る。話しぶりだと、どうやら医学部に所属しているらしい』
「……男と遭遇した場所は?」
『セム大学のキャンパスの外れだ。人通りの少ない場所だったから、目撃者はいないはずだ。それが幸か不幸かは分からんが……』

 ヴォルフの人相評は非情に分かりやすく、リィは自身の疑念を確信へと変えた。
 猫のような面相のセム大学医学生で、ウォルを倒してのける実力者。リィの知る限り、そんな男は一人しかいない。
 つまり、異世界の死神組の片割れと、ウォルが遭遇してしまったということらしい。
 リィは、新たな厄介事に僅かな頭痛を覚えた。

「……ヴォルフ、今向かっている病院は?」
『アヴェイロ中央病院だ』
「わかった。おれも今からそっちに向かう。ウォルが入院することになったら、病室番号を連絡してほしい」
『ああ。何かあったら、また連絡する』

 リィは通信を切り、そして、自身の相棒であるルウの端末へと連絡を取った。
 深夜であるが、緊急事態だ。少し掟には目をつぶってもらって、人外組を集合させる必要があった。
 


 結局、ウォルはその夜を病院で過ごすことになった。
 脳震盪は暴漢に襲われた結果であり、目の炎症は、その際に使用した防犯スプレーに運悪く自身も巻き込まれたことにしておいた。
 ウォルを診察した医師は警察への通報を勧めたが、大ごとにしたくないというウォルの言葉と、ウォルを病院に担ぎこんだヴォルフの厳めしい様子にただ事ではない雰囲気を感じ取ったこともあり、しぶしぶ引き下がった。
 目の洗浄をし、脳の検査を終えて、特に問題はないという診察結果を下されたウォルだったが、念のためということでこの日は入院することとなった。
 突然の急患、しかも年端もいかない少女である。大部屋では何かと都合が悪い。個室に入れられたウォルは、しかし口数が少なかった。付き添いとして病室に留まったヴォルフも、ウォルの内心を察して、余計なことは口にしない。
 あの勝負は、ウォルの敗北だ。それも、完敗と言っていい。
 ウォルの本来の姿は、剣士だ。剣を握ることで、その性能を十全に発揮することができる。それは事実である。
 しかし、だからといって勝負に『もしも』はない。それに、おそらくはあの男にとっても、今回の戦いは突発的なものだったはずだ。あちらだって、準備が万端だったはずがない。つまり、互いに条件は同一である。
 ならば、言い訳はない。ただ、敗れた。そして、おそらくはあの男の気まぐれで、自分達は生かされているのだ。
 苦い認識がヴォルフの口中に広がった。ここが病院でなければ、唾の一つも吐き捨てたいほどに。
 その時、病室の扉が開いた。

「ウォル、大丈夫か?」

 姿を見せたのは、見事な金色の髪の毛と緑翠色の瞳の少年だった。
 ウォルの婚約者である、リィだ。
 既に時間は深夜に近い。寮を出る言い訳にも一苦労だったはずだが、眠気や不満などは一切なく、心底ウォルを気遣う表情である。
 そのリィの後ろに、ルウとシェラの姿がある。
 そこまではヴォルフにとって十分予想したものだったが、意外だったのが、彼らの後ろに、インユェとメイフゥの姉弟がいたことだ。
 二人ともベッドから身体を起こしたウォルの様子を見て胸を撫でおろしたようだったが、予想通りというか、インユェが、リィ、ルウ、そしてシェラを押しのける勢いでウォルの枕元まで駆け寄り、その細い肩に手を置き、静かな口調で問いただした。

「誰にやられた」

 努めて冷静であろうとする口調が、かえってインユェの激情を表しているかのようだった。
 そして、その表情。眉間に深く刻まれた皺、吊りあがった目線、引き絞られた口元から覗く牙。愛する者を傷つけられた獣だけが浮かべる、激しい表情だった。
 なるほど、激情に駆られた時のメイフゥとよく似ている。あまり似たところのない姉弟だと思っていたがやはり双子なのだと、一歩引いたところから眺めていたヴォルフは思った。

「誰がお前をこんな目に遭わせた。言え!」

 むしろウォルを責めるような口調は、インユェの精神がまだ未熟である証拠だったのだろう。
 だが、その幼さと実直さは、ウォルにとっては好ましいものだった。
 ウォルは、腫れあがった目を細めて微笑みながら、

「インユェ、そんなに怒るな、この通り、おれは無事なのだから」
「だからって……!」
「それよりも、みんな。おれのために、こんな夜遅くにすまなかった。今回の件は、完全におれの落ち度だ。本当に申し訳ない」

 ウォルは深々と頭を下げた。
 あの男を見た瞬間、沸騰する感情を抑えることができなかった。その結果、自身だけでなくヴォルフの命までも危地に晒してしまったのだ。
 あまりの短慮に、ウォルは内心で恥じ入るばかりである。70年を生きてこれほど未熟だったかと、自分で呆れかえってしまう。
 そんな、自己嫌悪で身を縮こませるウォルに、リィは曖昧な笑みを浮かべる。

「あのさ、ウォル、こんな時になんだけど、ちょっとお前に紹介したい人がいるんだ」
「……紹介?こんなタイミングで、わざわざ?」

 リィは曖昧に微笑みながら、ウォルの肩を抱きしめ、決して暴れださないよう固定した。
 突然のリィの行動に抗議の声を上げかけたインユェを、同じようにルウが、やはり曖昧な笑みを浮かべながら抱き抑える。
 
「ルーファ。絶対離すなよ」
「エディもだよ。深夜の病院で乱闘騒ぎなんて、絶対に警察沙汰だからね」

 二人はしかと頷きを交わした。そして、シェラの頭痛を抑えたような表情。
 
「いいぞ。二人とも、入ってきてくれ」

 リィの言葉が響き、そして、病室の扉が再び開く。
 先程まで何の気配もしなかったはずのそこに、二人の青年がいた。
 一人は、冷たいほどの怜悧な美貌の、貴公子然とした黒髪の青年。
 もう一人は、堪え切れない興味に瞳を輝かせた、麝香猫のような青年。
 その、麝香猫のような青年が、爽やかに片手を上げ、病床のウォルに向かって声をかけた。

「よう、王様、こんばんは……ってさっきぶりか。思ったより元気そうだね、よかったじゃん」
「貴様……」

 先程まで死闘を繰り広げた青年――レティシアからのあまりに軽い挨拶に、流石のウォルも二の句を告げずに押し黙ってしまった。


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