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[4143] 東方狂想曲(オリ主転生物 東方Project)
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:b7c0092b
Date: 2008/12/07 12:18
この物語は、一人の少年が死なないように頑張って日々を過ごす、心温まるヒューマンな物語(笑)を目指しています。


作者はアホの子なので文章に問題があると思いますが、どうぞ生暖かい目で見守ってください。
これは東方プロジェクトの二次創作ですが、設定の独自解釈がありますので、お気をつけ下さい。
ご意見、ご感想などを募集中です。




[4143] 第一話 俺死ぬの早くないっスか?
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:b7c0092b
Date: 2008/09/28 13:45



 彼にとって、その日は記念すべき日だった。

 保護された学生という身分から社会という戦場に出る、記念すべき出勤初日。

 自分の両親程も年が開いた厳しい上司に戸惑い、友人のように接してくれる先輩に助けられつつも、何とか慌しい一日を終えようとしていた。


『二番線に、列車が通過致します……』


 夕方のラッシュアワー。首都圏の駅であるここでは、異様なほどの会社員達でごった返していた。人の波に揉まれつつも、彼は帰ってからの事を考えていた。

 一人暮らしをし始めたのは大学生になってからだった。住み始めてからもう四年……完璧に自分の根城と化した部屋を思い、同時に疲れを癒している自分をイメージする。


『……黄色い線の内側まで、お下がりください』


 だがそんな甘美な思考は、あっさりと終わりを迎えた。

 不意に傾くスーツ姿の身体。彼と周りの目が、驚きに見開かれる。彼が背後を振り返ろうとしても既に時遅く……。


  ―――ぐしゃり……


 たったそれだけで、彼の一生は終わりを告げた。















東方狂想曲

第一話 俺死ぬの早くないっスか?















 昼寝して、目が覚めたら夜だった。……誰だって一度はそんな体験をした事があるだろう。俺も休日にそんな事して損した気分になる。

 だが起きたらアスファルトの上で寝てたって、どういう状況なんだろうな。俺何時から路上で死体ごっこするようになったんだろう。確か小学校に上がる頃には卒業してたと思うんだが……。


「あー、あー」


 ……うん、一応声は出るみたいだ。縛られてないし、簀巻きにされて路上放置プレイなんて特殊嗜好でもないらしい。いや、想像したら随分嫌な状況だな。

 とりあえずここが車道だとしたらではマジで死にかねないので、歩道に移ろうと上半身を起こして……絶句した。


「……あー、うん。マジ?」


 アイスクリームの屋台を筆頭に路上停車してる何やら知らないメーカー産の車、ショーウィンドウ越しで砂嵐絶賛生中継中のブラウン管テレビ、そしてトドメと言わんばかりに英語で書かれた看板。

 どう見ても海外のメインストリート(仮)です。何故か全く人が居ませんが、かつては物凄く賑わってたに違いありません。映画でしか知らんけど本当にありがとうございました。

 ……自分でもいい感じに脳味噌がとろけてきた気がする。

 そもそも良く考えたら、俺死んだんじゃなかったのか? 死んだよな? 何か最後に聞いちゃいけないような効果音残して、B級ホラー並のスプラッタな死に様を晒して……うわっ! グロ!


「あのー、大丈夫ですか?」


 俺が自分の死体を想像して両手両膝をついた姿勢で落ち込んでいると、何故だか異様に軽い声がかけられた。静かに顔を上げると、褐色の幼女が不思議そうに首を傾げていた。


「えっと……誰っスか?」


 つい口調が素に戻ったが、この際気にしないことにする。それよりも問題は目の前の少女だ。

 俺の記憶が正しければ、さっきまでこの辺りに人は居なかったハズだ。というか、よく見れば本当に寂れた場所だなここ。


「ふふふっ……よくぞ聞いてくれました」


 何やら鷹揚にクルリと半回転する幼女。着ているのは燕尾服なので、スカートが捲くれ上がってパンチラを拝めるなんておいしい状況はない。


「余の名前はバロン・クロア。貴殿を知る存在なり……」


 ごめんなさい。偉そうに言ってるつもりだろうけど、威厳ゼロです。睨んでるつもりなのかもしれないけど、それは細目です。俺からは眠たそうに見えます。


「まぁ、まだ見習いなんですけどね」


 そう言って破顔するクロアさん。カリスマ性はゼロを下回ってマイナスです。後、身長も足りません。もっと牛乳を飲みましょう。

 ……駄目だな。どうやら俺はまだテンパってるらしい。

 まぁ『死んだらゴーストタウンで幼女と一緒でした』なんて状況を誰が予測出来るだろうか。むしろ出来たら精神病院行きだ。黄色い救急車呼べ。


「……もしもーし?」

「うおっ!? 顔近っ!?」

「やっと気付いた」


 何やら呆れたようにため息を吐く。子供にこんな表情を見せられると、大人として少し恥ずかしい。

 軽く自分の頬を叩いて意識をしっかりする。ちゃんと痛みがあったのが不思議だが、この際もう何が起こっても気にしたら負けだろう。


「えーっと……俺は水野」

「ミズノキリハ。両親と兄、妹、弟が一人ずつの六人家族。友人に恵まれた大学生活を終え、割といい会社に就職し、出勤初日に他界」


 今度は淡々と俺のことを話してくれる。さっきと違ってその表情はまるで仮面のように冷く、人形の姿を彷彿とさせた。

 最後の言葉に少しだけ身が震えたのは内緒だ。


「よくご存知で」

「貴方の事なら何でも知ってますよ。笑った数、泣いた数、小学校の頃起こした事件から大学の麻雀で巻き上げた金額まで」


 よく覚えてるな。あ、ちなみに小学校の事件ってのは何も大事件って程のものじゃない。

 ただ暗幕のカーテンを身体に巻きつけて遊んでたら、急に外れて窒息寸前だったってだけだ。勿論その後先生に拳骨貰ったがな。

 しかし懐かしい……ってか麻雀で巻き上げた金額って俺でも忘れてるぞ。どんだけ記憶力いいんだよ。


「じゃあ俺が今まで食べたパンの数は?」

「七千八百二十三枚です」

「うわぁ……」


 マジかよ。かなり多いな。いや、海外だと少ないのか? そこが問題点じゃないだろう、俺。


「クレア、質問」

「クロアです」

「知ってる」


 あ、青筋出来た。もっと我慢しようぜ! 俺が原因だけどな。

 軽く咳払いをする。イカンイカン、ここでからかっても何の利益になりゃしない。もう少し真面目にいくか。


「あー、まずここはどこだ? あと、君は……何だ? 説明してくれ」

「……私は貴方達の世界で言うところの『死神』です。『死神』の中にも管轄下があり、死んだ魂はそれぞれ別の場所へと遣されます。
 その中でも一番人が来ないのが、ここです。三途の川みたいなものだと思っていただければ結構です。
 それと、今後私で遊ばないで下さい。御爺様の言いつけを破りそうになりますから」


 ナイスだ、見知らぬお爺さん。貴方が居なかったら、きっと俺はこの子をからかう事が出来なかっただろう。本当にありがとう。

 からかうのはもう無理そうだがな。

 しかし……。


「三途の川……ねぇ……」


 イマイチ実感が沸かない。いや、死んだ感覚は十分残ってるんだが、どうにも腑に落ちない。

 第一日本人である俺が三途の川に逝かない時点で訳分からん。何でこんな修学旅行でも行った事のない場所に送られた? アレか? 神ってのは外道なのか? どこかの格闘ゲームみたいな神が居たら、俺はチェーンソーでバラバラにするぞ。マジで。


「そう難しく考えないで下さい。貴方がここにいるのは、御爺様がそうお願いしたからなんです」

「は?」


 ますます訳が分からない。

 お爺さんが神様にお願いして俺をここへ送った。即ちお爺さんと神様は限りなく等しい。つまりお爺さんは神。

 そうか、特別な存在のお爺さんか。


「……スマン、もっと説明プリーズ」

「えっとですね、率直に申し上げますと御爺様は貴方で賭けをしたそうなんです」

「へぇー……って俺『で』賭け?」

「そうです。まずはコレを見てく下さい」


 そう言って彼女が取り出したのは割と分厚い本だった。どこから取り出したのか激しくツッコミたかったが、ここは空気を読んで黙ったままページをめくった。

 そこには沢山の名前と死因が書かれていた。


「デスノート?」

「違います。それは今までの貴方の死因を記録したものです」


 ですよねー……ってちょっと待て。今聞き捨てならん言葉があったぞ。


「俺の……死因?」

「はい。『貴方』と言うより『貴方の魂』が転生し、新たな生を受け、その生が死ぬ度に自動で記録されるのです」


 へぇー、便利な世の中だねぇ。死神の世界も随分と楽なんだろうな。

 しっかし随分死にまくって……。


「クロアさん」

「はい」

「俺死ぬの早くないっスか?」

「異常ですよ。今の所転生回数は貴方がトップです」


 のほほんと返してくれましたよ、この幼女。俺の好感度がガクッと下がったぞ。

 視線を本に戻せば、そこにはびっしりと気持ち悪いぐらい敷き詰められて書かれた俺の死因。ハッキリ言ってドン引きだ。

 何せさっきから享年の項目を見ているんだが、二十年生きてる項目が一つもない。というか九割以上が十歳になる前に死んでる。最短記録だと生まれて数秒だ。ちなみに死因は『母親に踏まれる』……ちょっと泣きたくなった。それが相当な数あると分かって、軽く死にたくなった。いや、まぁ、死んでるんだけど。


「そこで御爺様は貴方の人生に賭けたんです。『貴方が就職するまで生きていられるか?』という勝負に」

「ちょ、俺は競馬の馬かよっ!? ってか俺本当は早死なのか!!?」

「間接的な死因工作や、死ぬ原因になるものを取り除くのもアリな何でもルールでしたからね。ちなみにかけ金は双方の権力らしいです」

「かけ金多っ!?」

「上の仕事というのは、結構暇らしいです」


 神様の権力でさえ想像がつかないってのに、彼女のお爺さんは二倍の力を持ったんだ。もう人間の想像の範疇を遥かに超えた存在になったんだろう。

 あー、もう規模がでか過ぎて、怒るべきなのか泣くべきなのかよく分からん。熱血キャラだったら問答無用でチェーンソー持って復讐しに行くんだろうな。ご苦労さん。

 叫び疲れている俺に、クロアは追撃をいれてきた。


「それで勝負に勝ったのは良いのですが、相手が納得しなくてですね……御爺様は渋ったのですが、結局もう一度勝負する事になりました」

「……もうヤダ。神とか死ね。俗世に塗れてんじゃねーよ……」

「まぁまぁ、そう言わずに」

「他人事だな」

「他人事ですから」


 路上で落ち込むサラリーマンと傍らに立つ燕尾服の幼女。想像したら結構間抜けな構図だよな、これ。

 空を見上げても太陽はなく、代わりにあるのは暗闇ばかり。辺りは相変わらず薄暗く、まるで俺の心情をそのまま映しているかのような錯覚を覚える。


「……あー、畜生、クソッ、ざけんなよ……」

「悪態を吐いた所で何もなりませんよ」

「分かってる。ただ言わずにはいられないんだよッ!」


 自分より冷静な彼女が羨ましい。怒鳴り散らした自分が恥ずかしい。二十歳過ぎて子供に八つ当たりするなんて、痛過ぎる。

 深呼吸をする。目を瞑り、なるべく遅く五十秒数えてから地面に座ってため息を吐いた。


「落ち着きましたね」

「……いや、何かもうどーでもいいや」

「そう言えるのなら上出来ですよ。御爺様も喜んでいることでしょう」


 彼女の言うお爺さんが喜んでいる姿を想像してみようとして二秒で止めた。知ってはいけない世界を垣間見た気がした。


「それでは今度はルールについて説明させていただきます」

「もうなるようになれ」


 半ば自棄になってアスファルトの上に寝転んだ。行儀が悪いだろうが、起き上がる気にはならない。彼女もそれを黙認して説明を始めた。


「再戦という事なので、今回は貴方にハンデが付きます。具体的には貴方の身体の一部が使用不可能になります」

「それは誰が決めるんだ?」

「御爺様です。その条件に相手が納得すれば準備完了、後は貴方が次の世界に行くだけです」

「次の世界?」

「それも相手が決めます。ただし、その場所で『何に』なるのかは御爺様が決め、相手は貴方が死ぬまで待つか、直接、又は間接的に殺さなければなりません。勿論、これらの妨害は可能です」

「直接って……狙われたら俺即死じゃね?」


 どっかの破壊神みたいに、見ただけで破壊出来る眼を持ってたとしたら、それこそ死に物狂いで逃げなければならない。

 『みーつけたっ!』『残念!! 私の冒険はこれで終わってしまった!!』……何という理不尽ゲーム。


「大丈夫です。相手が直接手を下す場合、化身として地上に下りなければなりませんので、大した脅威にはなり得ないでしょう」


 うわっ、サラリと上司の悪口か。いや、確かに事実なんだろうけど、そう言って鼻でせせら笑うってどうよ。よっぽど自分のお爺さんが好きなんだな。


「質問は以上ですか?」

「ん、あー、とりあえず生き延びればいいんだな?」

「はい。率直に言ってしまえばその通りです。年数などについては『あちらの世界』で知らされるはずです」

「誰に?」

「御爺様の使いが居るはずですので、詳しい説明はその方にお聞きください。もっとも、覚えていれば……ですけどね」


 そう言って薄く笑う幼女。小ばかにしたような態度が、逆に子供っぽさを強調されているようにしか思えない。そのお陰かあんまり頭にもこなかった。

 それよりも重大な事を教えられた。ふむ……やっぱり『俺』が転生したら『俺』の記憶はなくなるのか。

 それもそうか、前世が云々言ってたら頭の可哀想な子として見られること確実だ。むしろない方が子供らしく振舞えるだろう。


「それでは、そろそろいきましょう」

「ん……」


 いい加減不貞腐れるのを止めて立ち上がり、燕尾服の後姿を追う。

 腹は決まった。どうせ短命な人生を送るのなら、幾らでも抗ってやろう。そして全てが終わったら、絶対賭けた二人を殴り倒す。

 それだけを夢見て、俺達は長い道路を歩いていった。




















 道が長い。マジで長い。何コレふざけてんの? ってぐらい、俺達は長い間歩き続けていた。

 進む度に看板が変わっているため、同じ所をぐるぐると回っている訳ではないようだ。第一、この通りは曲がり道はおろか、交差点さえも存在しなかった。

 実際にここまで長い道を作るとしたら、相当な金と土地が必要だろう。無駄にアスファルトが続く道のりを怨みながらそう思った。

 もう二時間近く歩いているのに、まだ着かないらしい。暗くて先が良く見えない俺と違い、クロアは目的地がちゃんと見えるようだった。無論、俺の足は限界に近かった。

 路上駐車している車を使わないのか? と聞いてみたのだが、どれもこれも壊れて乗れないらしい。まったく、紛らわしいったらありゃしない。


「この道は様々な世界の『忘れ去られた部品』で出来てるんです」

「何だそれ?」


 歩みを止めないまま問う。彼女も振り返らずに、ただ淡々とここの説明を続けた。


「寂れた大通り、使われなくなったテーマパークの通り道、人の通らない商店街……そういったものをバラバラに繋ぎ合わせたのが、この通りなんです」


 言われてみて気付いた。最初は英語で書かれていた看板が、いつの間にか変な文字へと変わっていた。それを例えるなら、ミミズが這った跡のような文字だ。ボーっとしてて全く気が付かなかった。


「へぇー……しかし、路上駐車したままほっとくって、どういう神経してんだか」

「さぁ? 強力な病原菌に感染して、誰も居なくなったのでは?」

「どこの映画だよ」


 もしそんな世界に生まれたとしたら、速攻で死にそうな気がする。そういえば、そんな可能性もありえない話じゃないんだよなぁ。

 そんな事を考えていると、クロアが急に立ち止まってこちらを見た。何か……と問おうとする前に彼女の口が開かれる。


「到着しました、ようこそ『永遠の交差点』へ」

「……は?」


 恭しく一礼をする彼女をよそに、俺は間抜けな声を発していた。

 確かに初めて十字路に出たが、それが一体何だというのだろうか? 彼女の態度からすると、割と重要な場所であることは間違いないだろう。


「本来なら、監視役の私はここを動くことを許されないんですけどね……まぁ、御爺様の頼みなら多少の無理は通りますから」

「それはそうと、ここがゴールなのか?」


 相変わらず寂れた外見をした十字路を見渡す。これといって特徴となるものはない。しいて言えば、アスファルトの隙間から雑草が生えているといった所か……いや、本当に関係ないな、コレ。

 俺が戸惑っているのを感じ取り、彼女は満面の笑みを浮かべて説明を始めた。


「ええ、その通りです。本当は更に先にあるギネーという場所へ行かなければならないんですが、貴方は『特別』なので行く必要はありません。ただここで右か左か、どちらかの道を選んで頂ければ結構です」

「『特別』……ねぇ……」


 あんまし嬉しくはない。好き好んでゲームの駒をやってる訳じゃないので、当然と言えば当然だ。

 しかし、右か左か……これが本当のゲーム画面だったなら、それこそ選択肢の二つが出るんだろう。そしてそれが理不尽ゲームだとしたら、選択肢を間違えた時点ででっどえんど。笑えねぇ。


「まぁ気を楽にして下さいよ。ここでどちらの道を歩んだとしても、行く世界に違いがある訳じゃありませんから」

「意味ねーな……」

「はい、考えるだけ無駄です」


 笑みを崩さず、彼女はそう宣うた。難しく考えてた俺が馬鹿みたいだ。

 ため息を吐いて、近くに落ちていた木の棒を拾う。交差点の真ん中で木の棒を倒し、その方向に足を向けた。


「ちゃんと生きて下さいね? 今回は私も賭けてるんですから」

「ざけんなクソアマ。死神の仕事ってのはそんなに暇なのか?」

「ここは人気ないですからね。それと、私は男です」


 マジかよ……外見と声のトーンからして、どう考えても幼女だと思ってたのに……そういえばバロンって男爵の称号だったな。名乗った時点で気付くべきだった。

 まぁ『ロ』のつく人種でもないし、別に問題ないか。


「……フフフッ、私を女性と間違えた事……絶対に後悔させてあげますよ」


 何やら背後から薄ら寒いものを感じ、急いでダッシュした。他の通りに入った瞬間、足元も見えないほど暗くなったが気にしている暇はなかった。

 割とマジでビビリましたよ、俺。


「それではよい人生を」


 その言葉が聞こえると同時に、浮遊感を感じた。真暗なので何がどうなっているのか全く分からないが、いずれ訪れるであろう衝撃に身を固めた。

 意識が消える直前に思った事は、『何で棒倒しの時にツッコミを入れてくれなかったんだろう』という、非常にどうでもいいことだった。





[4143] 第二話 死ぬ死ぬ!! 空とか飛べなくていいから!!
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:b7c0092b
Date: 2008/10/26 12:42



 生物に『魂』というものが存在するのは一体何時からだろうか?

 着床した時? それともそれから四ヵ月後? もしかして出産した直後?


「辛いだろうけど頑張りなさいっ! 優曇華! 鋏の準備!」

「はい!」


 叱咤が飛び交う病室。寝台に寝かされた白い少女は、自身を襲う激痛に顔を歪めていた。

 赤と青の色を纏った女性は、真剣な表情で少女から『彼』が出て来るのを手伝っている。一歩間違えれば惨事になりかねないが、その手は熟練した者のそれだった。


「もう少し、あとちょっとで……っ!」


 思わず息を呑んだ。『彼』が生まれたのだ。安堵しながらも、彼女の手は隣の少女から手早く鋏を受け取り、へその緒を切っていた。

 そこで違和感に気付いた。本来この場に一番必要なものが欠けていた。ぎょっとして自分の両手に包まれた赤ん坊を見やるが、そこには元気に泣く『彼』が居た。


「……永琳様……生まれたんですか……?」


 息も絶え絶えに少女は問う。ハッとなって、彼女――八意永琳は、穏やかな笑みを浮かべた。


「大丈夫よ。ちゃんと生まれたわ」


 そう言って、白い布で包んだ赤子を少女の目の前に抱いていく。元気に泣いているその姿を見て、少女は安堵のため息を漏らした。


「よかった……」

「貴方の子供は大丈夫だから、今はゆっくり休みなさい」

「はい……本当に……本当にありがとうございます。永琳様」


 少女は涙ながらに感謝の言葉を告げた。永琳はそんな彼女を見て苦笑する。

 確かに難しい出産ではあったが、最終的に頑張ったのは彼女自身なのだ。自分はその手伝いをしたに過ぎない。永琳はそう考えていた。

 それよりも気になるのは、この赤ん坊の事だった。生まれた時に感じた違和感の正体。それを調べなければならないだろう。

 結局、その子供が産声を上げる事はなかった。














東方狂想曲

第二話 死ぬ死ぬ!! 空とか飛べなくていいから!!















 皆さんおはようございます。理不尽ゲームの駒こと霧葉です。驚いたことに名前が同じです。わーい、嬉しくねぇ。


『というかさ……』


 どうして記憶消えてないんだろう……。畳の上を這い這いしながら、俺は猛烈に落ち込んでいた。

 俺がこの世界に生を受けて早二週間。へその緒はこの間取れたが、それでも怠惰な生活を送り続けている。具体的に言うと喰う、寝る、吐く、以上。

 この際正直に言おう。舐めてました。

 『どうせ記憶消えてるんだし、頑張るの俺じゃないよな~』って考えてたのに、これじゃマジで拷問だ。

 排泄に関しては意識を飛ばす事で何とかなっている。それどんな羞恥プレイ? と言われてもおかしくないだろうが、生憎俺にそんな性癖はない。何度もやられている内に俺は失神する事を覚え、両親がおしめを変えようとすれば速攻で気を失う事にしている。

 食べ物は母さんの乳オンリー。最初は羞恥心とか理性とかで必死になって飲むのを拒んだけど、空腹には勝てませんでした。ついでに味もよく分かりませんでした。マル。

 自分の身体だっていうのに、勝手がよく分からず、飲み過ぎて吐く事もしばしば……その度に背中を軽く叩かれて、酷く罪悪感を感じる。スマン、母さん。もう少し自重するよ。

 そして食事よりも困ったのは睡眠だった。何故か知らんがこの身体、長時間の睡眠を欲するのだ。まぁ、赤ん坊の本分は成長する事だから仕方ないっちゃー仕方ないんだがな。

 だが記憶が途切れ途切れになってしまうのは頂けない。しかも起きる度に極度にストレスが溜まる。そういう時は泣いたりしてストレス発散させるんだが……声が出ないのでかなり静かなものに成り下がっている。

 そう……どうやら俺は『声帯』が全く無いらしい。両親と医者が話しているのを盗み聞きしたから、間違いないだろう。

 生まれながらにして声が出ず、しかも中身は成人してる赤ん坊……こんな俺を育てようとしてくれた両親には、本当に頭が下がる。中身が大人だってのは知らなくて当然だろうが、それを抜きにしても感謝している。

 何せ夜中でさえ、嫌な顔一つせず世話してくれる。というか、声が出なくても俺が泣いているのは分かるらしく、夜中は相当世話になった。どこのニュータイプだとツッコミたかったのは秘密だ。

 かつての両親がどうだったか、今となっては比べる事も出来ない。多分、親っていうのは余り大差ないんだろうなぁ……『俺ノート』に書かれてた親を除いて。

 ごろごろと休日の親父のごとく畳の上を転がる俺。近くの縁側から覗く外は竹林が広がっていて、風が吹く度に葉の擦れる音がする。風流だ。

 父さんと母さんは、現在昼食の調理中。普段二人は『永遠亭』という病院――俺が生まれたのもここだと言う――に勤めているらしい。今は育児休暇を貰って家族水入らずというのだから、割といい職場なのだろう。


「おー、大人しくしてたな霧葉」


 急に上から声がして、両脇に手を入れられて持ち上げられる。どうやらいつの間にか出来上がっていたようだ。俺はまだ食べる事が出来ないが、父さんの膝の上で二人を眺めているのが定着しつつある。


「霧葉はいつも大人しいからね~」


 そう言って食卓の用意をする母さん。ほんのりと湯気を立てている白米が非常に美味そうだ。食べれないのが残念でしょうがない。

 父さんは俺を抱いたまま、いそいそと母さんの向かい側に座って両手を合わせた。母さんもそれに倣う。ついでに俺もこっそりと。


「「いただきまーす」」

『(まだ喰えないけど形式だけでも)いただきます』


 行儀のいい食卓風景。父さんと母さんは箸を手に取り、早速食べる作業に取り掛かった。

 傍目から見ればそれは、どう見ても小学生の『おままごと』にしか見えなかった。




















 さて、察しのいい人は気付いているかもしれないが、両親が昼食中なので改めて自己紹介を。

 この世界での俺の名前は霧葉。苗字は知らんが、とりあえずウサ耳妖怪の子供として日々奮闘しております。

 ……とりあえずこの二人がありえねぇ……。

 人間だったら十歳いってるかどうかの外見と白いウサ耳を筆頭に、空を飛ぶわド○ゴンボールみたいに光る弾出すわ……本当に無茶苦茶な二人だ。

 基本的に優しいのは分かってるんだが、俺を抱いたまま飛ぶのだけは止めて欲しい。あん時はマジ泣きした。恥も外見も投げ捨てて泣いた。赤ん坊だから当然だけど。

 だが想像して欲しい。誰かに抱かれたままヘリコプター並の高度まで飛んでいく様を。足元に地面がない、あの感覚を……。

 俺も成長すれば飛ぶようになるらしいが、絶対御免だ。両親は慣れさせようと未だ俺を抱いて飛ぼうとするが、その度に愚図って妨害している。だって怖いし。

 その他にも色々と悩ましい事があるのだが、とりあえず一番の頭痛の種はこの空気だろう。


「うん、やっぱり麻耶のご飯は美味しい」

「ふふっ、そう言ってくれると毎日頑張ってる甲斐があるよ」


 そう言ってほんのり頬を赤らめる母さん。途端に二人を中心にして広がる桃色固有結界。甘過ぎる空気の所為で胸焼けがします。爆心地なので被害が半端ないです。

 いや、分かってるさ。二人とも新婚さんなんだ。イチャイチャしたいという欲求があるのも頷ける。

 ましてや二人は兎の妖怪だ。度が過ぎれば、直ぐにでも俺の弟か妹が出来上がるだろう。だがちょっと……もう少しだけでいいから自重してくれ。

 父さん、母さんの口元についた米を、わざわざ直接食べないで下さい。女顔の所為で百合に見えます。女顔じゃなかったとしても、普通はそんな事しません。

 母さん、目を潤ませて父さんを見つめないで下さい。俺を生んだ時、割と危険だったんじゃないんですか? ただでさえ小さいんですから、身体を大切にして下さい。

 ……駄目だ、二人とも完全にトリップしてる。仕方ないので最後の手段をとらせて貰うか……。


『と言っても、単なる嘘泣きだがな』


 目を閉じて初めて空を飛んだ時の事を思い出す。

 空中の風の冷たさ、父さんの体温、小さくなっていく家……そして緩んだ、俺を抱く腕。

 突如風が俺達を襲い、俺は冷たい風の中に包まれた。浮遊感。慌てた父さんの顔。強くなる風。近付いてくる大地。

 あ、やべ……もう無理。


『死ぬ死ぬ!! 空とか飛べなくていいから!!』

「おっと、霧葉もお腹空いたかい?」


 いいえ違います。貴方達の空気に耐えられなくなっただけです。ついでにトラウマ思い出してました。

 父さんは嫌な顔一つせず、突然泣き出した俺をきちんとあやしてくれる。同時に砕け散る二人の閉鎖空間。ちょっと申し訳ない気分になったが、これも二人の為だ。今は心を鬼にしなければ……。


「はーい霧葉、お乳ですよ~」


 あ、ごめんなさい母さん。空気読まずに泣いた事は謝ります。だからお願いしますから近付かないで下さい。貴方の母乳を飲む度に、誰かが俺を『ロリコン』と罵倒するんです。畜生っ! 何で消えなかったんだよ!? 俺の記憶!!

 着物崩さないでその乳見せないで子供の乳見た所で全然嬉しくないけどそれに口つけないといけない俺の苦悩を一mgだけでもいいから汲み取って欲しいかなってあああああ嗚呼あああああ嗚呼アアアアアぁぁああァァぁぁ……。


「そんなにお腹空いてたのか。父さん気付かなくて御免な……」

「あなたが気付いても、私が居なかったら意味ないでしょ」

「ははっ、それもそうだ」


 ……家族ってあったかいナリー……(現実逃避)。




















 夢を見ている。またこの夢か……と、思わずため息を吐きたい衝動に駆られた。実際には俺の身体はないので、何の行動も取ることが出来ない。ただこの悪趣味な映像を見続けるだけ。

 この世界に来て、毎晩夢を見るようになった。それがまともなものだったなら、俺もここまで文句は言わない。だがここで見る夢は常識を逸している、馬鹿げた夢だ。


「イヤアアアアアアアアァァァ……!!!」


 少女の絶叫が聞こえた。趣味の悪いショーが始まり、視界が開けた。

 籠に入れられた少女。その身を刻む、内部に仕掛けられた無数の針。少女が暴れる度に吊られた籠は揺れ、少女から血が流れ、シャワーのように辺りに撒き散らされる。


「アハハハハハハハ!!」


 哀れな少女。金がないために狂った女王に売られ、今こうして全身を切り刻まれている。

 狂った女王。血を撒き散らす籠の下で、悦楽の表情を浮かべて血を浴びる。

 ああ、知っている。この光景は知っている。だって自分は■■だったのだから……。




















 真夜中に目が覚めた。真暗闇の中、俺は父さんと母さんに挟まれて眠っていたようだった。

 毎度のことながらストレスが溜まる。この夢見の悪さがなければもう少しマシになるかもしれないのだが、生憎止める方法を知らない。ホラー映画は嫌いではないが、連日見るような物でもない。それにアレは生々し過ぎる。死を経験した俺でも、あんな死に方は遠慮したい。


『はぁ……』


 ため息を吐いて二人の間から抜け出す。夢見は悪かったがまだ我慢出来る程度だったので、正直ホッとした。ぐっすりと眠っている二人をいちいち起こすのは忍びない。

 ゆっくりと……なるべく音を立てずに布団から抜け出た。季節的に寒さを感じる事はなく、むしろ夜風が心地いい。

 障子を静かに開けて、縁側に辿り着く。我ながら生後二週間とは思えない行動力だ。滅茶苦茶疲れたけど。


『しかし、やはり月はいいねぇ……』


 暗い空にぽっかりと空いた白い孔を見上げる。雲一つない綺麗な夜空……雨戸を閉め忘れた父さんに、今は深く感謝している。

 これで団子でもあれば最高なんだがなぁ。まだ食べれないけど気分的に欲しい。……まだ前世の感覚が抜けきってないのは確かだった。

 だが、こうやって月を眺めていると何故か異様に癒される。例えるなら温泉に肩まで浸かっているかのような感覚だ。妖怪だとパワーアップするとかそんな効力でもあるんだろうか?

 外と中を遮断する硝子戸に、赤ん坊の顔が映る。勿論俺の顔だ。まだ生まれたてなので美形かどうかなんてものは分からないが……とりあえず赤ん坊にウサ耳ってのは、非常にシュールな光景だった。

 しばらくそうしてボーっとしていると、ふと何かが視界に入ったような気がした。俺は目を凝らして、外を見つめた。

 ……大佐、竹林の中、散歩している女の人を発見しました。綺麗な顔してますけど明らかに怪しいです。もしかしてお爺さんの使いですか? だとしたらもっと目立たない格好にして下さい。

 しかし違和感の正体を見つけたのはいいものの、あちらは何やらキョロキョロと周囲を窺っているご様子。ハッキリ言って挙動不審だ。


『何してるんだ?』


 ムクリと俺の中で野次馬根性が鎌首をもたげた。硝子に顔を押し付ける形でガン見する。女性は竹の根元に顔を埋め……って、そういうことか……。


『竹の子泥棒』


 いや、そもそもここら辺の土地の所有者知らんけど、あそこまでコソコソとしてたら『私今竹の子盗ってます』と言ってるに等しい。

 呆れた。ちょっと侮蔑の視線を女性に向けてやる。もし俺が元の姿だったら、すぐさま止めに行ったかもしれないが、今となってはそんな考えすらも虚しい。


  ―――ヒュ……


 あ、何か硝子がちょっと溶けたって、熱っ!? 危なっ! 咄嗟に顔離したから良かったけど、下手したら顔面丸焦げになる所だった。俺犬神家みたいなの嫌だぞ!?

 視線を戻せば、そこには竹の子片手に辺りを見回す女性が、変わらずに立っていた。幸いな事に俺自身には気が付いていないようだった。しばらくして何も見つからなかったのか、女性は再び竹林の中に消えていった。

 ……ひとまず胸を撫で下ろす。脅威は去った。忘れかけていたが、俺は他の生物より死に易いのだ。近頃命に関わる事といえば空中飛行ぐらいだったから、いい気付けになった。ありがとう、見知らぬ美女よ。盗みはいけないと思うけどな。

 安全と分かると、どっと疲れが押し寄せてくる。布団まで戻るのも億劫なので、俺はそのまま眠る事にした。

 ……ところで、あの人一体何やったんだろうなぁ……。




[4143] 第三話 三毛猫! ゲットだぜ!!
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:b7c0092b
Date: 2009/01/05 09:13



 生物の使命とは、一体何であろうか?

 大抵の者はこう答えるだろう。『生きた証を残す事』……確かに的を得た答えではある。

 しかし、それでは興に欠ける。人生は長いのだ。『生きた証』なぞ、いつでも残せる。ならば生物は、一体何に時間をかけるべきなのだろうか。


  ―――なぁお……


 一匹の猫が居た。とても珍しい、雄の三毛猫だった。

 彼はとある少女に恋慕の念を抱いていた。しかし、二人の間には大きな溝が存在した。

 どうすればいい……? 決して実らぬ己の恋に、雄猫は苦悩した。そうして悩み抜いている内に、彼の熱は次第に冷えていった。

 もうどうやっても叶わない。

 厳しい現実を目の当たりにして、彼は段々少女と距離を置く。そして少女の知らぬ内に、彼は姿を消した。

 一体どれだけ走っただろうか。自分の両足が悲鳴を上げ始めてから一時間……ついに彼は地に伏した。

 薄れる意識の中で雄猫は死を覚悟した。彼にとって、その少女だけが全てだった。叶わぬのならば生きる価値などありはしない。そう思っていた。


『あーあー、テステス。私の声聞こえますかー?』


 この場に相応しくない、軽い声がかけられるまで。















東方狂想曲

第三話 三毛猫! ゲットだぜ!!















 皆様こんにちは。ウサ耳妖怪の息子こと霧葉は、めでたく生後六ヶ月を迎えました。まだ一歳にもなってない若造ですが、これからも日々精進して頑張っていこうと思います。

 とりあえず生まれてから今に至るまでの感想を一言で表すなら『ねーよ……』という言葉がしっくりくるのでしょうね。非常識過ぎて呆れてしまいます。ストレス過多で胃が痛くなりそうです。

 直接口に出してみれば、このストレス量も減るのでしょうか? 声は出ずとも何事も形式というのは大事ですから、ひょっとしたら何かしらの効果はあるかもしれません。

 ではやってみましょう。せーの……。


『ありえねぇ……』


 ようやく夢の世界から帰って来れた。やっぱり『御約束』ってのは大事なんだなぁと、しみじみ思う。

 そもそも俺がそんな状態に陥っていたのには、当然理由があった。この現実離れしたウサ耳妖怪の身体だ。要するに生まれ変わった俺の身体。

 簡潔に言うと、成長が異様に早い。俺の記憶が正しければ、生後一ヶ月目にはあんよが出来た。現在は二足歩行どころか走る事も可能だ。進化の過程を五段飛ばしで駆け上がった気分だった。

 身長も既に五歳児ぐらい……余裕で父さん母さんの腰に抱き付けます。本当に生後半年か? 俺。

 しかし、両親二人の反応を見る限りこれが普通らしい。聞く所によると二ヶ月で喋れるというのだから、もう驚くを通り過ごして呆れてしまった。兎って早熟だったんだな。飼った事ないから知らなかったぞ。

 更に驚く事は他にもあった。

 俺や両親みたいなウサ耳妖怪――要するに人型の兎妖怪は、出産率がかなり低いらしい。まぁ確かに、母さんみたいな幼児体型で俺を生めたのは奇跡みたいなもんだったから、それは頷けた。普通の兎みたいにポコポコ増える様は想像出来そうにない。

 そして人型の妖怪というのは、総じて長寿なのだという。これは短命な俺にとって非常にいい事のようにも思えたのだが、よく考えてみれば俺は、人間の頃一度も寿命で死んだ事がなかった。つまりこれは蛇足的な設定に過ぎない。どう考えてもぬか喜びです。本当にありがとうございました。

 閑話休題。そんな訳で、成長が異様に早くて寿命が無駄に長いというのが、新しい俺の身体の特徴だった。そして俺が一歳になったら、こうして三人で一軒家に住む生活も終わり、一緒に『永遠亭』で勉学を教わったり仕事を手伝わされるとのこと。『賑やかな職場』とは父さん談だ。

 さて、ここで問題。生まれて六ヶ月も経てば、妖怪は誰でも『ある事』が出来るようになります。それは一体何でしょうか?

 答えは……。


「竹にしがみ付いてちゃ、飛べるものも飛べないよ~」

『だから無理だっちゅーねん!!』


 はい、その通り。現在文字通り『飛行訓練』の真っ最中でございます。

 大きな竹の天辺付近で、白旗のように強風で煽られているのが俺です。両親はそんな俺を数メートル離れた場所で優しく見守っていてくれます。飛びながら。

 ドラゴ■ボールではどうやって飛んでたっけ? とりあえず飛ぶ方法が分からないために、力一杯竹にしがみ付く俺でした。


「大丈夫! 手を放して『ぶわっ』ってなったら、『ふわっ』ってすれば飛べるから!」

『日本語でおk!!』


 何その『ぶわっ』とか『ふわっ』って。もっと具体的なアドバイスが欲しかったよ、父さん。教師役のボキャブラリーの少なさにちょっと泣きたくなった。

 中々飛ぼうとしない俺に業を煮やした二人は、くっ付きあってヒソヒソ話を始めた。前よりは若干薄くなった桃色空間が展開するが、今の俺に止める術はなかった。

 己の無力さに嘆きながらも、それでも空を飛ぶ気にはならない。俺が生まれたての頃に落とされかけた回数は、既に二桁を上回っている。両親は偶然だと、互いに口を揃えて言うが、アレは間違いなく死亡フラグというヤツだったんだろう。

 ……何やら話し合いが終わったらしく、二人は大仰に手を振りながら口を開いた。


「霧葉ー! お父さんたち先に帰って、夕飯の準備してるからねー!」

「霧葉の大好物作って待ってるよ~!」

『……あー……』


 いわゆる『飴と鞭』ってヤツですね。分かります。

 それだけ言うと、二人は下に降りていってしまった。取り残されたのは、飛べないウサ耳妖怪。俺はため息を吐いて、雲だらけの空を見上げた。

 両親は飛べない俺を飛ばそうとして、色々と試行錯誤を繰り返しながら訓練をつけてくれる。それが――まぁ、こう改めて口にすると照れ臭い事だが――俺への愛情からくる行為だというのは分かっている。しかし俺は、どうやったって飛べそうになかった。










 あれは何度目の事だったろうか。何時ものように嫌々ながらも父さんに抱かれて、空を飛んだ日。しっかり摑まってたハズなのに落下したあの時……。

 世界が変わった。

 竹林がレンガの壁へと変わり、俺はいつの間にか円柱形の塔の内部を落ちていた。

 ゆっくりと――それこそレンガの数を数えられるぐらい、緩やかなスピードで俺は落ちていった。

 段々遠くなる塔の淵。小さくなっていく空の穴。そして背後に迫る……剣の山。

 どうして落ちているのか、どうしてこんなものが見えるのか、全く分からなかった。

 血の気が引く。心臓を鷲摑みにされる感覚。全身に鳥肌が立ち、汗が流れ始める。

 間一髪の所で父さんに助けられたが、その瞬間俺は意識を完全に断った。










 それからだった。身体が宙に投げ出される度に、その時の事がフラッシュバックする。これでは飛ぶ練習さえ出来そうにない。こうして竹にしがみ付いている分には問題ないのだが、手を放せば間違いなく死ぬ。神様公認で短命な為、それ位の予想は簡単につく。

 かといって、このままだと両親は俺に失望してしまうかもしれない。それはキツい。マジで。

 つまり今俺がしなければならない事は『空を飛ぶ練習をしつつも死亡フラグ回避』……あれ? 無理臭くね?


『どうするかなぁ……』


 竹の上でぶらぶらと風に揺られながら考える……とはいえ、実は既に腹は決まっていた。


『……やっぱり父さん達には悪いけど、サボらせて貰う事にしよう』


 妖怪特有の馬鹿力でするすると竹から降りていく。この規格外の腕力がなければ、強風に飛ばされずに居る事は不可能だっただろう。しかし力を入れ過ぎると竹に亀裂が入るため、その事を頭に入れてある程度の加減はする。

 ……竹が悲鳴上げる程の俺の腕力って……。

 今更ながら度々重なる自分の非常識さにショックを受けつつも、地面に降り立つ。見上げれば、力加減を間違えて所々に罅が入った竹が、天に向かって聳え立っていた。

 ……やべぇ……練習してないのバレバレじゃん……。叱られるのは別に構わないんだが、あの両親だと逆に泣かれそうだ。ぶっちゃけその方がキツイ。何か手はないものか……。


  ―――ガサッ

『ん?』


 音がした方へ視線を向けると、猫がいた。三毛猫だ。猫は俺と視線が合うと、一目散に逃げ出した。何気なく逃げていくその後姿を見つめて……。

 俺に、電流走る。

 竹の上から猫を見つける。気になって下りる。猫逃げ出す。好奇心に駆られて後を追う。練習出来なかった。ならしょうがないね、六ヶ月だもん。

 こ れ だ  ! !


『フフフ……神よ、俺は初めてアンタに感謝した!!』


 空は飛べずとも、足の速さなら自信がある。俺が両親に唯一勝てたものは駆けっこだ。並の猫なんて目じゃないぜ!!

 そして俺は、風になった。




















 普通の成人にとって、その家は狭く感じられたかもしれない。だがそこに住んでいるのは三人の妖怪――子供の外見をしている彼らにとっては、これぐらいの家が丁度いい。

 何時もより広く感じられる座敷。それもその筈、今ここに居るのは二人だけだからだ。二人の子供は今頃、必死になって飛ぼうとしているだろう。二人もそれを望んでいる。

 『兎は獣ではなく鳥だ』……かつて食べられるためだけに言われたその言葉を真実にするために、兎妖怪達は皆、空を飛ぶのだ。


「しかし、何で霧葉はあんなに飛ぶのを嫌がるんだろうね?」

「そりゃあ、悠斗君に何度も落とされてるからでしょ?」

「麻耶も落としたくせに」

「だって~……ねぇ?」

「……はいはい」


 そう言って少年に抱きつく少女。そして小さな胸の中で至福の表情を浮かべた。少年も何でもないように装っているが、堪え切れぬ嬉しさに口元が緩んでいる。

 霧葉が生まれてからというもの、二人は過度なシキンシップは取らないようにしていた。それでも耐え切れない時は、自然と互いに求めてしまうが、何時も寸前の所で自分の子供に邪魔をされてしまう。まるで、自分達がしている事が分かっているかのように……。

 二人は霧葉が頭のいい子供だと薄々気が付いていた。夜泣きする回数は急激に減り、時折自分達に隠れて月光浴をする事もあった。自分から妖怪としての力を、着々と強めているのだと二人は思っていた。……実際は悪夢に耐性がついてきたり、ただ単に月光浴が気持ちいいだけなのだが……知らぬが仏とは言うものだ。

 しかし、だからこそ未だに飛べない彼が、二人は理解できなかった。妖怪は歩くのと同じように空を飛べる。飛べない妖怪もいるにはいるが、それは低級の妖怪ばかりだ。人型として生まれたのならば、もう飛べてもおかしくない。それこそ生後数日で飛べても、驚く事ではないのだ。

 余りに遅すぎる。これでは自分達の子供が、何かと苦労してしまうのは火を見るよりも明らかだ。……そう感じた二人は、心を鬼にして、彼を取り残して行ったのだ。後ろ髪を引かれつつも、『これも息子の未来のためを思えば……』という心情で家に帰ったのだが……。


「ねぇ……」

「ん……どしたの? やっぱり心配?」

「それもあるけど……最近霧葉の目が厳しかったでしょ? だから……」

「……ああ、了解」

「ひゃっ……ぅん……」

「何だ、もう準備出来てるんだ……」

「だって……久しぶりだったからぁ……」

「ん……」

「は……む……」


 ……すっかり自分達の世界に入っていた。




















『三毛猫! ゲットだぜ!!』

「黙れ!!」


 いい感じで胸元からアッパーカットが決まった。だが猫パンチなので痛くはない。むしろちょっと気持ちよかった。

 いやぁ、三毛猫を捕まえたのはいいんだが、捕まえたと同時に落とし穴発動ってどういう事? 死ぬかと思いましたよ。生きてるけど身体中が痛いです。あ、罠カードですか? そうですか。


『いや待て、これは孔明の罠だ』

「それは既に故人だろう」

『罠だけ残してたんだ! きっと!』

「その考えはないな」

『畜生ッ! 猫のクセに一々律儀なツッコミ入れやがって!!』

「愚か者め! 化け猫だと何度言えば分かる!!」


 ……とりあえず色々と説明する事はあるのだが、まずは先ほど知り合ったこの三毛猫について紹介しなければならない。

 実はこの三毛猫、希少な雄であり、それと同時に『誇り高き化け猫』の一族とのこと。なら飛べんじゃない? と聞いてみた所、コイツも俺と同じように飛ぶ事が出来ないらしい。そのため俺から追われた時も、走って逃げたのだという。追いつくのにてこずったのはその所為か……。

 そして何とかコイツに追いつき、ヘッドスライディングで捕獲した瞬間、地面が陥没して現在に至る。誰だよ、こんな竹林の中に落とし穴掘った奴は。

 そんなこんなで途方に暮れていると、急に俺を叱責する声が聞こえた。やけに低くて逞しいその声の持ち主は……この三毛猫だった。

 ……いや、呆気に取られたね。色々と穢れてる俺も『童心の夢』ってのは持ってたから、ショックも割とでかかった。落ち込んでいる俺に、再び三毛猫の声がかけられた時はマジで『殺るか…』って思った。

 しかしそこで俺は気付いた。このやたらとダンディな猫が、俺の言葉を聞き取れている事に。ちゃんと俺が言いたい事を理解している事に……。


『……で、何で俺の言いたい事が分かるんだ……?』

「ふっ、神の力を得た私と会話出来ぬ生物など、この世にいな……おい、その目を止めろ」


 黄色い救急車必須の主張だった。もしこれが声と同じような外見をしたオッサンだったら、間違いなく白い目で見るだろう。喋る猫だからこそ、俺は哀れんだ視線だけを送ってやる。きっと頭の打ち所が悪かったに違いない。だからこんなイカレた事を……って神?

 神、いわゆるゴッド。俺を賭けの対象にしたバラすべき存在。という事はもしや……。


『どうやって「神の力」とかいうのを手に入れたんだ?』

「クククククッ……よくぞ聞いてくれた。それには聞くも涙、語るも涙の物語があるのだ。まずそもそも私は」

『はよ言えや』


 猫を抱く腕に、徐々に力を込めていく。それに気付き、必死になって腕から出ようともがき苦しむ猫だったが、生憎そんな生半可な攻撃でどうにかなるものでもない。人型妖怪なめんな。


「くっ! 分かった! 話すから力を抜け童!」

『あいよー』


 言われたとおり力を抜く。だがまだ放しはしない。こっちは一応真剣に話をしているのだ。与太話を聞いているような余裕はない。


「全く……これだから生まれて間もない妖怪というのは……」

『もっかいいっとく?』

「私がこの力に目覚めた時の話だったな。貴様はその耳をちゃんと立てて拝聴するがいい」


 偉そうなこと言いながら開き直りましたよコイツ。渋い声の所為でかなり様になってるのが逆に憎たらしい。

 俺は身体を強張らせた。別にこの猫がいきなり殺気立った訳でもなければ、トラウマがぶり返した訳でもない。ただ単にそうしないと耳が立たないからだ。誠意には誠意を、父さんが口を酸っぱくして言う言葉だ。例えふざけた条件であっても、情報提示してくれるコイツの主張も聞いてやらねばならない。

 ピンッと耳が立った。その様子を見て猫は満足げに頷き、口を開いた。


「ふむ、冗談のつもりだったのだが、その性根は確かなもののようだな。ならば応えねば私の主義に反する。
 しかし残念ながらそう面白味のある話ではない。私がこの力を手に入れたのは、ただ単に『神の啓示』を受けたに過ぎない」

『……』

「それによると、十年後に酷く短命な生物が生まれるというのだ。本来ならば『神の使い』が遣される筈だったのだが、多忙な為にそれは不可能だったらしい。
 そこで選ばれたのがこの私だ。多大な神の加護を与えられた私の使命は、その者を護る事であり……」


 段々と饒舌になってくる三毛猫。その声色から自分の使命感とやらに陶酔しているのがよく分かる。これ以上は聞かなくても大丈夫だろう。

 だがこれで確信した。やっぱり神の使いってのはコイツだ。余り認めたくはないが、この様子だと本当に俺を護衛する任務も負っていそうだ。そもそもその外見で護衛できるのだろうか? ……まぁ、いざとなったら身代わりぐらいにはなるだろう。


「だが!! もう半年も探し続けているというのにそいつは現れない!! 私は身を粉にして幻想郷中を探し回った。何度も何度も同じ所を回ってはため息を吐き、もしやもう死んでしまったのかと思うと……私は自分の無力さに虫唾が走るのだ!!」

『あ、大丈夫。それ俺だから』

「だから今日も探していたというのに、全く貴様ときたらいきなり追いかけ……なんだと?」

『いやだからその短命な生物っての、間違いなく俺だ。神様公認ってのはムカツクけどな』


 そう言って鼻で笑うと、三毛猫は何やらポカーンと口を開けていた。猫がそんな表情をするのは非常にシュールだ。さっき威張り腐ってただけに、そのギャップが激し過ぎる。思わず吹き出しそうになったが、コイツがなにやらプルプルと震え始めたのに気付き、どうしたのかと思わず首を傾げた。

 その瞬間、空気が揺れた。


「愚か者が!! 貴様私がどれだけ探したと思っている!? 半年、半年だぞ!? 一日が終わる度に憂鬱な気分になる日々を、貴様は体感した事があるか!!? いいや無い!!
 私は前世で説明を受けたと聞いていた! ならば何故生まれて直ぐにでも私を探さない?! 広い幻想郷の中を私一人で、たった一つの生物を探すこちらの身にもなってみろ!!!」

『み……耳がぁ……きーんって……ぐわんぐわんって……』

「そうやって探し続けていた私と違い、貴様はいいな!? 竹登りの後には猫を追いかけて遊ぶのか!? そうやってずっと遊び呆けていたのだな!? この大馬鹿者め!!」


 くっ……耳が痛い。穴の中だけに音が反響して、聴覚に直接攻撃を仕掛けてきやがる……。

 しかし、このまま言わせておくのは頂けない。特に最後。遊び呆けてただと? 勝手な想像しやがって。


『違ぇよ! 遊び呆けてなんているもんか!! お前だって知らないだろうがな、家のバカップルの甘い空間の中長時間居座ってる俺の身にもなってみろ!!? 死ぬぞ!? 悶死するぞ!?
 それにな! あんまり分かんねぇと思うけどな、毎日毎日注意して過ごさねぇとあっという間に御陀仏なんだよ!! 俺の生活は!!』

「ほほぅ、それは大変だな小僧! 生まれたばかりではあんよも上手に出来ぬのか!? それだから未だ尻も青いままなのだ!! 本当に成長しているのだと言うのならば、この穴ぐらい飛んで脱出するぐらいは楽にやってのけろ!!」

『ざけんな!! 自分が飛べない事棚に上げやがって!! お前だって化け猫になってから十年も経ったんだろ!? だったら俺をこっから出してみな!!』

「なんだと!? この駄目兎が!!」

『んだと!? このクソ猫が!!』

「……もしもーし、聞こえますか~?」


 いい感じにヒートアップしてきた俺達の会話に入り込んでくるツワモノが居た。俺達が揃ったように声のした方を向くと、母さんと変わらない外見をしたウサ耳妖怪が、ひょっこりと落とし穴を覗き込んでいた。

 丁度いい。今はとりあえず彼女に助けてもらう事にしよう。


『あの……って、俺喋れねーじゃん……』

「……どこの誰かは存じぬが、私達を助けてくれぬか?」

「了解ー」


 ぎょっとして胸元に目をやる。そこには先ほどと違い、真摯な目をした三毛猫が天を仰いでいた。

 驚く暇もなく、すぐ傍に少女が降り立った。どう見ても子供にしか見えないが、ウサ耳妖怪は長寿だ。こんな外見をしていてもそれなりの年月を生きているに違いない。

 差し伸べられたその手を借りて立ち上がる。そのまま満面の笑みを向けられ、思わず赤面した。……ロリコンじゃないんだよ。ただ単に顔が近いだけなんだよ。

 ふわりと宙に浮く感覚。赤ん坊の頃から何度も体験したそれに、若干冷や汗を流しつつも俺達は外へ出る事に成功した。


『ようやく出られたー!! って外暗っ!?』

「すまぬな、主はまだ飛べないのだ。手間をかけさせて悪かった」

「いいっていいって。そんな畏まらなくても」


 開放感を存分に味わう俺と違い、三毛猫はウサ耳妖怪に感謝していた。ツッコミを期待していた俺が場違いな馬鹿に思えてきたため、慌てて頭を下げる。

 そんな俺に対しても、やはりウサ耳妖怪は同じように苦笑を浮かべて両手をぶんぶんと振った。


「だからいいんだってば。だってあれ仕掛けたの私だし……あっ」


 はい、なんだか爆弾発言しちゃいましたよ、この子。どうりでおかしいと思った。どうして家の近くにはない落とし穴が、こんな所にあるのか。竹の子泥棒のために設置しているんだったら、それこそ家の近くに設置した方がいい。つまりこの落とし穴は悪戯用。だから穴の中に何も仕掛けられてなかったのだろう。……槍とか仕掛けられてたら、それこそ死んでたな。


「……娘よ、私達は何も聞かなかった事にする。だがこれでおあいこだ」

「うん、怖がらせちゃってごめんね」


 そう言って俺の頭に手を置く少女……って!?


『えぇ!? 俺撫でられてる!?』

「良かったな。主」


 うっさい。声色でニヤニヤしてんの丸分かりだぞ、後で覚えとけコノヤロー。

 あまりの恥ずかしさに硬直している俺に構わず、少女は一分ほど撫で続けていた。




















「本当、良かったではないか。主?」

『……うっせー』


 軽く謝罪の言い合いをしてから少女と別れ、俺達二人は帰路についていた。空はもう薄暗く、月が顔を出している。

 多分月明かりに照らされた俺の顔は、さぞかし真赤な事だろう。その理由は主に羞恥心とか羞恥心とか羞恥心とか……。

 だって考えてもみてくれ。中身二十代の大の大人が、外見だけしか分からんけど十歳程度の子供に撫でられたんだぞ? 恥ずかしくね? 最近になってようやく父さん母さんの撫で撫でに慣れたってのに、いきなり赤の他人にだぞ? もう無理、俺恥ずかしくて消えそう。

 ……よし、もう思い出すのやめよう。てか話逸らそう。


『そういうお前は何なんだ? いきなり百八十度態度変えやがって』

「百八十度? ……いやなに、確かにあのまま言い争い続けるのは無駄ではなかったとは思う。しかし、私には『お前を護る』という使命があるのだ。私情に流される訳にはいかんのだよ」

『ふーん』


 律儀な奴。というか、あの状況でよく自分の怒りを抑えられたな。俺だったらまず無理だ。中身が二十代とはいえ、そんな感情のオンオフが楽に出来るほど、俺は人間出来ちゃいない。

 そういえば『神の啓示』とかいうのを受けてから十年も経ってるんだっけな。改めてコイツの凄さを垣間見た気がした。


「だが自惚れるなよ小僧――いや、駄目兎。私が頭を下げるのは貴様の役職であり、貴様自身ではないのだからな」

『ああそうかよ、クソ猫』


 いわゆるツンデレって奴か。でもダンディボイスだと嬉しくねぇ……。


「ぬぅ……本当に分かっているのか? そもそも貴様は私の主としての自覚が足りん。主というのはもっと胸を張ってだな……」


 何やら長ったらしい説教を始める三毛猫。こんな変な奴が『神の使い』だというのだから、思わずため息が出てしまう。通訳が出来るのは確かにいい事だが、ここまで説教臭いと何だか気が重くなってくる。


『……そんなに言うなら、いつか認めさせてやるよ……』

「何か言ったか? 主」

『別に~。そういえばお前の名前聞いてなかったなって思っただけだよ』

「ふむ、そういえばまだ言ってなかったな。ならば心して聞くがいい。私の名前はボルダー・ゴーヴァ・ルガー・フィーグムン……」

『却下。お前の名前「那由他」ね。ハイ決定』

「なっ! なんだと!」


 いや、だってそんな痛々しい名前呼びたくないし。三毛猫相手に。

 という訳で、俺が長生き出来ますようにという意味も含めて『那由他』に命名。例えコイツが気に入らなくても俺はそう呼ぶつもりだ。……直感でつけたとは思えんな。


「……那由他……か」

『ん?』

「那由他……いや、いいだろう。貴様がそれほどまで私をそう呼ぶのを渇望するというのならば認めてやらぬ事もないぞ」

『んじゃオッケー。さっさと帰ろうぜ』

「ま、待たぬか!?」


 制止する声を無視して、一人先に足を進める。思わずスキップの一つでもしそうになるのを、必死に堪えながら……。

 この世界に生を受けて初めて意思疎通が出来た仲間……よくよく考えてみれば、これは物凄く嬉しい事だ。言葉には出さなかったが、俺はこの上もなく浮き浮きしていた。今だったらコイツの小言も
苦にならずに聞き流せる。それぐらい俺は幸せだった。

 出来る事ならば、この幸せが長続きするように……。


『生きなきゃな……いや、生きてやるぜ!』


 欠けた月に向かって、出ないはずの俺の声がこだました気がした。










 帰ってから事情を説明すると、那由他を飼う事には賛成してくれましたが、二人にめっちゃ怒られました。あと、何かイカ臭かったです。子供の居ない間にナニやってたんだ、あんたら。




[4143] 第四話 それじゃ、手始めに核弾頭でも作ってみるか
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:b7c0092b
Date: 2008/10/26 12:43



 その日、一匹の兎妖怪が初めて永遠亭に足を運んだ。

 永遠亭の住人達は皆彼を歓迎した。何せ数年ぶりに生まれた人型妖怪だ。さぞかし期待も大きかった事だろう。

 だが、彼らの期待はあっさりと打ち砕かれた。その兎妖怪は空を飛ぶ事も弾を撃つ事も出来ない――出来損ないだった。


「使えないわね……」


 永遠亭の主――蓬莱山輝夜は、従者の永琳に彼の事を聞かされてそう呟いた。呆れたような主人の言葉に、永琳は思わず苦笑した。

 そう思うのも無理からぬ事だろう。人型妖怪は普通の妖怪と違い、人並みかそれ以上に知恵が働く。空を飛ぶ速度も、弾数も、何一つして普通の妖怪に劣らない……筈だった。

 しかし彼は違う。普通の妖怪が持っているはずの力でさえ、彼は備えていないのだ。

 永琳はふと、暗い顔で報告しに来た二人を思い出した。一年間丹精籠めて育て続けたというのに、それが実らなかった事が相当ショックだったようだ。

 涙ながらに『永遠亭に居させてやって下さい』と頼まれた。力を持たない彼にとって、安らげる場所など限られている。外へ放り出されたら、あっという間にやられてしまうかもしれない。二人の懇願は、最悪の事態を考えての事だった。余りの親馬鹿っぷりに、永琳とその場に居合わせた妖怪兎のリーダーこと因幡てゐが、揃ってため息を吐いた程だ。

 結局親馬鹿二人の心配は杞憂に終わり、彼は妖怪兎でも出来る『耕作班』に回された。幸いな事に体力と力だけはあるようなので、足手まといにはならないだろう。

 ……そんな騒動があった事もつゆ知らず、彼は今日も生きている。















東方狂想曲

第四話 それじゃ、手始めに核弾頭でも作ってみるか















 家を出て、何やら馬鹿みたいにでかい御屋敷で畑仕事を任されました。外見ロリショタな父さん母さん、最近余り顔を合わせていませんが、大丈夫でしょうか。過度なスキンシップ的な意味で。

 まぁあの二人は調理師だから、そんな事したら周りが放っておかないだろう。調理場ってのは、清潔でなきゃ駄目だしな。それにあの甘い空気に耐えられる奴が居るとは到底思えん。


  ―――ミシ……

「おい、もう少し力を抜け。今鍬が軋んだぞ」

『あ、悪ぃ』


 そんな場違いな事を考えていると、いつの間にか力加減を間違えていたようで、那由他から叱責が飛んだ。俺は鍬を握る力を緩め、その重みだけを利用して再び鋤き始めた。

 この屋敷――永遠亭に着いてから早一ヶ月。その間ずっと俺はこうして畑を耕していた。最初は張り切り過ぎて、倉庫の中で眠っていた鍬を片っ端から圧し折る事の連続だったが、今ではある程度の力加減が出来るようになった。

 何せ俺がいるここ――『耕作班』は、人型妖怪が俺一人しかいない。俺以外は全員妖怪兎だ。その為道具はあまり使用せずに今まで作物を作っていたらしい。昔はもっと人型妖怪が居て、皆で畑を耕していた……と言ったのは、そいつらの中で一番の年長者だった。残念な事に名前は付けられてないそうだ。

 そいつの話によれば、一時期人里で兎狩りが流行ったとのこと。それだけならば俺達には何の問題もない――倫理的問題はあるが――かもしれないが、なんと人間は俺達まで取って喰ったらしい。しかも普通の兎の肉よりも上等だというので、当時はかなりの値段で市場に出回っていたという。

 その事実に、俺は思わず身震いした。ぶっちゃけ死亡フラグの匂いがプンプンする。話聞いた後で人里におつかいとか行ったら、間違いなく死ぬ自信があった。……こう言うとアレだな、怪談話の『紫の鏡』みたいだ。

 まぁ新入りにおつかいをさせるような事は流石にしないようで、俺は耕作の日々を過ごしている。

 ……しかし、当然ながらそこには不満もあった……。


『つーかこの広さはありえねぇだろ……』


 そう、畑の面積がでかい。異様にでかい。眼前に横たわる畑は、野球場ぐらいの広さがありそうだ。

 ちなみにここで育てている作物の内、約六割が人参である。秋の収穫祭とか絶対人参だらけになりそうだ。俺達はそれでいいかもしれないが、あの偉い人――八意先生は余り喜ばないかもしれない。


「何を言っている。竹林の中に畑を作るとなれば、当然ながらその場所を確保しなければならない。だが竹というのは根が少々特殊であり……」

『まとめてから話せ。お前の話は無駄に長い』

「……要するに竹の根まで取り除くとなれば、自然とここまで広くなってしまうという訳だ」


 成程。那由他の非常に分かり易い説明に、俺は心の中で感謝した。コイツの説明には蛇足的な部分が多過ぎるが、そこは事前に注意すれば事足りる。

 だがこの広さの所以なんて、ぶっちゃけどうでもいい話でしかない。草の葉に付いた虫を取り除く作業や、水遣りの作業は他の兎達に任せればいいのだが、土を耕すのだけは俺がしっかりやらなければならない。

 『一度耕して種植えれば、後は耕す必要はない』……そう思っていた時期が、俺にもありました。

 畑仕事には『中耕』というものがある。これは作物の育成の途中で、軽く耕す事を指す。そうする事によって、空気の通りを良くし、地温を高め、根の呼吸や吸収を促す事が出来る……以上、那由他からの情報を俺なりに纏めてみました。

 で、この作業出来るのが俺一人だけらしい。俺が来る前は、永遠亭で手が空いた奴がやってたらしいのだが、これ幸いと俺が来たために中耕の毎日……疲れないのは妖怪の馬鹿みたいな体力のお陰だが、精神はそうも言ってられない。正直しんどい。


『オラこんな村嫌だぁ~ オラこんな村嫌だぁ~ 東京へぇ出るだぁ~♪』

「……何だその歌は?」

『何となく歌いたくなった。
 東京へぇ出だぁなら 銭っこあ貯めで 東京でべこぉ飼うだぁ~♪』


 精神的に暇だったので生前テレビでやっていた懐かしの歌を歌ってみた。とは言え、聞いているのは那由他一匹だけ……他の兎達は各々の作業に夢中だ。

 那由他以外にツッコミが来なくて、俺は少しだけ泣きたくなった。




















 日も傾き始め、俺達は永遠亭への道のりを歩いていた。いや、道とは言えないかもしれない。何せ目印になるようなものが一つもない。地面は笹の葉で覆われているし、竹もこれといった特徴を持っていない。ここが『迷いの竹林』と呼ばれる理由が、何となく分かった気がした。

 他の兎達は永遠亭への道のりが分かるらしく、迷う事無く真直ぐ進んで行く。俺はそれに付き従う。本来逆なんじゃないかと思われるが、俺にこいつらを統括するような力はないし、従わせて威張る気にもならない。こういうのは友人感覚の方が何かといいのだ。


「それで、到着はまだか?」

「ハッ! そろそろ永遠亭が見えてくる頃かと思われます!」


 ……だというのに、コイツは一体何なんだろうか。俺は半ば呆れながら目の前で行われたやり取りを見つめていた。

 先頭を歩むのは毛並みの美しい三毛猫。それに次いで隊列を組んで続く白い兎達。そして最後尾を飾るのは鍬を持った俺……傍目から見れば明らかに妙な光景だった。

 那由他は俺が『耕作班』に就いた初日から、兎達を統括し始めた。最初は聞く耳も持たなかった兎達だったが、俺がちょっと目を離している間にすっかりと推服し、そして気付けば、那由他はこの班のリーダーと化していた。

 それ以来、兎達が那由他に命令されているのは多々見ていたのだが、今のような……俗に言う『軍隊口調』だったのは初めてだった。まぁそう答えるように調教したんだという事は間違いないだろうが……何故に軍隊? ただでさえ最近『隊長の主人』として若干敬まわれてるってのに、これじゃあ友人なんて夢のまた夢だ。

 いや、だが兎が友達って……相当寂しい奴のような気が……。


「隊長! 見えました!」

「うむ、御苦労」


 そんな俺の苦悩を無視して、こいつらの会話は進んで行く。ちょっとした疎外感を感じつつも、ここまでの統括力を持つ那由他に、少しだけ嫉妬した。




















『……やっぱり主人公補正とか欲しいよなぁ……』


 薄暗い倉庫の中に鍬を置き、俺は一人呟いた。

 考えてみれば、俺は本当に力がない。いや、確かに物理的な意味でだったら負ける気はしないし、体力も文字通り化物染みてるし、足の速さは那由他にだって負けなくなった。

 しかし、それらはこの世界では基本的な事でしかないのだ。

 互いに殴りあうような喧嘩はなく、過度な体力は不要となり、彼らは地面から離れて空を飛ぶ事を覚えた。

 そうして彼らが競うようになったものは一体何なのか? 答えは簡単に見つかった。

 『弾幕ごっこ』……真剣勝負から日常的な喧嘩にまで幅広く用いられる競技だ。『警備班』の兎達は、一日中これをやっているというのだからご苦労としか言いようがない。

 本人達は楽しんでやっているようだが、弾の一つも出せない俺にとっては拷問に等しい。第一、俺じゃ『弾幕ごっこ』じゃなくて『空爆ごっこ』にしかならん。しかも一方的な。

 ちなみにこの弾一発分の威力は様々らしいが、どれもこれも俺には致命傷になるだろう。一度だけ父さんの流れ弾に被弾したが、あの時は皮膚が焼け爛れて死に掛けた。いや、冗談抜きで一ヶ月程意識が戻らなかったらしい。しかも八意先生が居なかったら間違いなく死んでいたとのこと。その後先生に深く感謝したのは言うまでもない。

 そして俺は決意した。絶対に『弾幕ごっこ』なんてやらない、平和な所で生きていこうと。

 それを考えると俺が配属された『耕作班』はまさに天職としか言いようがない。戦闘も何もなく、のほほんと働いていれば全て事足りる。その筈だったのだが……。


「まだここに居たのか、主。そろそろ夕食の時間だぞ」

『……』


 何時の間にか傍に近付いていた那由他に声をかけられた。俺は小さくため息を吐き、顔を俯かせた。


『なぁ、那由他』

「何だ? 夕飯のおかずなら……」

『退屈』


 心が、満たされない。


『毎日が同じ事の繰り返し。働くのは確かに楽しいが、直に厭きが来る。もっと楽しい事がしたい』

「……」


 那由他は俺の突然の言葉に何も言わない。俺よりも人間が出来ている那由他にとって、それはただの『子供の我侭』程度でしかないんだろう。


『他の兎達が羨ましい。何も考えず、ただ淡々と作業を続けられる。
 他の妖怪達が羨ましい。俺には彼ら程の強さを持っていない』


 本当、何言ってんだろ、俺。前世でちゃんと成人しただろ。もっと理性を働かせろよ。

 不意に俺の後ろに立っていた那由他の気配が消えた。付き合い切れなかったのかもしれない。俺だって、那由他に理不尽な不満を言われたら『何言ってんだコイツ』で終わらせてしまうだろう。

 ……らしくない。この世界が理不尽だって事は、下らないゲームの駒をやり始めた時から分かってた筈なのに、いざとなるとこの有様だ。

 確かに俺が何かしらの行動を取れば、死ぬ可能性は一気に上がる。だが、だからといって何もしないで日々怠惰に生きていいのだろうか。人は目的意識があって初めて生きているというのに……。


「だからお前は駄目兎なのだ、主」

『っ!?』


 唐突に聞こえたダンディボイス。ハッとなって顔を上げれば、そこには箱の上に鎮座した那由他が居た。


「私は絶対に悩まない。私は何も羨望しない。
 何故か? 簡単だ、私は皆とは違う。今まで培ってきたものを持っている。限られた環境の中で精一杯それを行使して、私は毎日を楽しんで生きている。
 お前もそれ位出来るだろう?」

『……』

「最初から力のある者なんて居る訳がない。神木は小さな苗木から育ち、名刀は小さな鉄粉から作られる。
 さて、ではお前は前世で何を培った? 『駄目兎』として生まれて何を手に入れた? それらを転ばぬ先の杖にしないのは何故だ?」

『……お前らしいな……』


 そう言って、俺は苦笑した。プライドの高い那由他らしい、酷く遠回りな励まし……むしろ挑発としか言いようのない言葉だったが、俺にはそれで十分だった。

 罠があると分かっていれば、事前に備えればいい。前世では友人達と、どうしようもない馬鹿をやっていた俺だが、幸いそれを対処する位の頭は持っているつもりだ。電気もガスも動力源もないこの世界で、それがどこまで通用するかは分からないが、やってみる価値はあるだろう。

 概要は既に知っている。構想は働きながらでも出来る。忘れないように毎日書き留め、そして起こりうる全ての危険因子を取り除いていく。

 それはさながら、前世でやった『マインスイーパ』を彷彿させた。ライフは一つ、時間は無制限だが地雷の数も無限、俺が行動する度に地雷原と一緒に増えていくエンドレスゲーム。だが退屈はしない。何も考えずに生きるよりは遥かにマシだ。

 俺は那由他の頭に手を伸ばし……引っ掻かれた。


『……痛いな』

「不用意に私の頭を撫でようとするからだ。懲りん奴だな、お前は」

『そう言われても、一応感謝の証としてやったんだぞ?』

「確信犯か」

『その通り。場の空気に流されて今度こそ撫でれると思ったんだがな』

「ふん、百年早い」


 プイッと顔を逸らし、高飛車な態度をとり続ける那由他。こんな時ぐらい素直に厚意を受け取ればいいものを、ツンデレなのは相変わらずだ。だがそのお陰で、すっかり何時もの調子に戻れた事に変わりはない。本当、コイツのこういう所には頭が下がる。

 引っ掻かれた手の甲をさすりながら、俺は倉庫の出口へと足を向けた。

 もう悩まない。羨まない。俺には前世という強力な武器がある。それを揮って、退屈な日々を少しずつ変えていこう。時間は幾らでもあるのだから。


『さっさとメシ喰いに行こうぜ。馬鹿みたいに悩んでたから腹減った』

「これで貸し一つだ。おかず一品で許すぞ」

『バーカ、俺が食い物で清算すると思うかよ』


 那由他の軽口を笑って受け流す。これからの事を考えると心が浮き立って仕方がない。思わず顔がにやけてしまう。多分今の俺の顔は、間違いなく悪戯を思いついた子供のそれだろう。

 食堂となっている大広間へ向かいながら、俺は上機嫌に呟いた。


『それじゃ、手始めに核弾頭でも作ってみるか』

「……『核弾頭』が何かは知らないが、余り危険な物を作るなよ。幻想郷には怖い管理人が居るからな」

『わーってるよ、冗談だ』


 さて、お前が言う『駄目兎』がどこまでやれるか、ちゃんと見てろよ。那由他。










※補足(単語編)
兎妖怪:人型のウサ耳妖怪
妖怪兎:兎の姿をした妖怪


登場人物ステータス
霧葉   職業:駄目兎
弾を撃てない程度の能力(笑)

那由他  職業:耕作班隊長
あらゆるものと会話出来る程度の能力




[4143] 第五話 ソレ何て風俗?
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2009/01/05 09:13



 彼がそれを持って来た時、永琳はただのプレゼントかと思っていた。

 大量の紙と鉛筆が欲しいと彼の猫――那由他に頼まれた時は、多分絵でも描きたいのだと結論付けた。

 まだ生まれて一年と少し……彼が人間の子供のように遊びたいのも頷ける話だ。事実、感謝の証として絵を贈られた事は何度もあった。

 最初は幼稚だった絵が次第に上手くなっていく様は、さながら成長の早い兎を体現化したかのようで、その過程を見つめる事が永琳は好きだった。

 兎の絵だろうか? それとも両親の絵? そういえば最近顔を合わしてないようだし、そろそろ休みでも与えようかしら――微笑みながらそれを受け取った時、永琳はそんな事を考えていた。だがそんな
甘い考えは、紙に目を落とした瞬間吹き飛んだ。


「……何……これ……」


 思わずそう呟いた。見た事もない構図と、余白にびっしりと書き込まれた読めない言葉。所々にある計算した形跡と答えを強調するかのように引かれた下線。少なくとも子供が書くような物ではない事位は、
混乱している永琳でも分かった。

 彼は悪戯の成功した子供のように笑った。喋れない彼に代わって、那由他がそれの概要を説明した。


「此方は人力で動く耕運機、そして其方は散水装置だそうだ。ごちゃごちゃしてて分かり難いかもしれんが、一応構図は完成しているらしい」


 それから続く那由他の解説を、永琳は呆然として聞き続けていた。

 おかしい。どんなに頭がいい妖怪でも、生後一年ちょっとでこんな物を作れるのか? 例え目の前の妖獣から知恵を借りたとしても、ここまでの物を作れるのか? ――あらゆる疑問が芽生えては消えてゆく。
それ耐え切れず、永琳は思わず言葉を零した。


「貴方は……」


 明確に相手を見つめる。すぐにその視線に気が付いた彼は、口元に人差し指を持っていき、再び微笑んだ。その時だけは、永琳も彼が何を言いたいのか分かった気がした。


『秘密です』


 まるで最初から彼女の疑問を知っていたかのように、彼は軽く片目を閉じた。少女のようなその仕草は、彼の外見の事もあって非常に様になっていた。


「……という訳で、これの材料提供と製造許可が欲しいのだが……永琳殿?」

「あ、え……ええ、それなら別に構わないわ。材料は……倉庫にある物で大丈夫なのね?」


 今まで解説していた那由他から唐突に話を振られ、永琳は少し慌てたが、高速で手元の紙に目を通して答えた。言葉は分からずとも、細かく書かれた構図のお陰で、何を使うのか位は簡単に予想がついた。


「うむ、後竹を大量に使うのだが、切っても構わぬか?」

「それは構わないけど、目印になるような切り方は止めてね。切るなら永遠亭の周りか、畑の周りだけよ」

「話が速くて助かる。では、私達は早速作業に移ろう。何かあれば使いを遣してくれ」


 そう言って、那由他は彼の頭に飛び乗った。近頃はそこが指定席らしく、耳の間にちょこんと座っても、彼は文句を言う素振りすら見せなかった。

 静かに部屋を出て行く二匹。部屋に残されたのは、数十年ぶりに驚く事を知った月の頭脳だった。















東方狂想曲

第五話 ソレ何て風俗?















 皆さん、俺には夢がありました。ガキみたいな夢でしたが、それでも立派な夢だったと思います。

 もし……動物と話しが出来るのなら、動物はきっと優しい言葉で語りかけてくれるんだと、俺はずっと信じていました。那由他の一件があって凹んだのは事実です。けれどここに来て語りかけてくれた兎は、この上もなく可愛らしい声をしていました。

 俺は感動しました。嗚呼、やっぱり那由他が変わってただけなんだと感じる事が出来たからです。

 ですが……それも長続きはしませんでした。


「散水隊、穴は開いたか?」

「まだです! 後三十分程掛かりそうです!」

「十五分だ、それ以上は待てん。出来なかったら明日、もう一度最初からだ」

「クソッ! 皆気張れ!! 機械隊に負けんなよ!!?」

『応ッ!』

「機械隊、長さが不揃いだ。一本一本計り直せ」

『了解!』


 飛び交う怒号、隣から聞こえる渋い叱咤……そして周りからひっきりなしに聞こえる工具の音が、否応なしにこれが現実なのだと突きつけてくる。畜生、返せよ俺の理想郷。森の中で出会った熊さんでさえ、親切に注意してくれるんだぞ。熊が老紳士のごとく接してくれるってのに、兎が軍隊みたいに行動してるってどういう事だよ。金返せ。

 目を背けたくなるような現実を前にして、俺は猛烈に落ち込んでいた。八意先生が製造を許可してくれた時は本当に天にも昇るような気持ちだったというのに、この落差は何なんだろうか。思わず痛む頭を押さえる。

 そもそも始めは、俺が独断で設計したため、製造も自分一人で何とかする予定だった。馬鹿みたいな体力と筋力のお陰で、ある程度道具が揃わなくてもカバーする事が出来ると予測したからだ。

 しかし、それを素直に喜ばない奴が居た。生きる俺の翻訳機こと、雄の三毛猫の那由他だ。

 あろう事か、こいつは『耕作班』に手伝わせやがった。しかも言葉巧みな話術の所為なのか、兎達の気合の入り方が尋常じゃなかった。早々と何時もの作業を終わらせて那由他の指示に従う兎達には、鬼気迫るものがあった。ヒッチコックの『鳥』よりも恐怖を感じたのは気のせいだろうか……。


「……主、手が止まっているぞ」

『いや、悪い。どっかのクソ猫が俺の幻想を木っ端微塵に破壊した所為でちょっとショック受けてたんだよ』


 悪態をついて、俺はいい加減自分の作業に戻った。就任し立ての頃圧し折った鍬を、一つずつ分解していく。普通に素手で出来る自分に改めて異常性を感じつつも、怪我だけはしないよう細心の注意を払った。何せ俺の場合、小さな怪我で済む気がしない。刃の部分で指切ったと思ったら五本並んで地面に落ちてたという事態だって夢じゃない。カイジも真青だ。

 そんな俺の言葉に、那由他は呆れたかのようにため息を吐いた。


「主……全てのものには意思があるのだ。先入観に囚われて、口調が違うだの声色が違うだの言っていては先が思いやられるぞ」

『うるせぇ。お前と出会った時点である程度は覚悟してたはずなんだよ』

「しかしいざ目の当たりにすると駄目だったと?」

『……』

「ふん、駄目兎が」


 ぐうの音も出ない。那由他の言う事は毎回毎回正論過ぎる。自分の矛盾点を素早く突くその話術があったからこそ、簡単に『耕作班隊長』に上り詰める事が出来たのだろう。寄越せよ、そのカリスマ。


「だが、お前がこういったものを作ろうと言い出したのは覚えていろ。少なくとも、こんなカラクリは私には思いつかん」

『はいはい、お前がツンデレなのはよーく分かった。だから渋声でそういう台詞を吐くな』

「……今まで聞かないようにしてきたのだが、『ツンデレ』とは何だ? 主がよく変な言葉を使う傾向にあるのは知ってるが、その意味までは私の至る所では……」

『あ、そろそろ終わりじゃね?』


 那由他の疑問の言葉をぶった切ってやる。出会ってからある程度の現代語――生前使っていた言葉の数々――を教えてはいたものの、変な言葉の意味はまだ教えていなかった。その声だけでもお腹一杯だというのに、それが『ツンデレ』とか『ヤンデレ』とかいう台詞を吐いたら鳥肌ものだろう。事実、俺は今の那由他の言葉で総毛立った。

 俺の返答に不満そうな顔をしていた那由他だったが、日も落ち始めていたため、兎達の指示に戻った。


「各部隊、作業中止だ。しばらくの間雨は降らぬようだから、簡単な後片付けのみでいい。終わった者から整列せよ」

『了解!』


 兎達から元気な声が聞こえる。これで言動が荒かったら映画の『フルメタル・ジャケット』っぽいのだが、幸運な事に普段は割とフレンドリーだ。その事を知った時はマジ泣きしそうになった。ぶっちゃけ嬉しかった。メルヘンな夢はまだ顕然だったのだ。

 ありがとう永遠亭。その環境がなければ、きっと彼らの心も荒んでいた事だろう。それこそ『ヒャッホー! 食料だぁー!!』で始まり『あべし!』で終わるチョイ役のように……ってのは俺の考え過ぎか。


『……けど那由他の前だと完璧『戦士』だよなぁ』


 こんな兎達に誰がした。




















「そう言えば、主はどうしてあれだけしか見せなかったのだ?」

『は?』


 簡素ながらも非常に美味い夕飯を食べ終え、自室へと向かっている最中、那由他は唐突にそんな事を呟いた。

 某外国人のように『何を言ってるんだお前は』という意味合いも籠めて、呆れた視線を飛ばしてやる。満腹になった後はしばらくボーっとしているのが好きな俺にとって、今思考するのは非常に面倒臭い事だった。要するに那由他KY。


「だから先日永琳殿に設計図を見せたであろう? 何故あの二つしか見せなかったのだ?」

『……あー』


 そんな俺の心情も知らずに抜け抜けとそんな事を宣う那由他。一々説明するのも億劫なのだが、言わなければこいつは納得しないだろう。俺は自慢の白い耳――何故か他の兎より結構硬い。これで歩くのが、俺の第二の夢――を弄りながら簡潔に答えた。





















『不審に思うだろ、普通』

「? 何故だ? むしろその頭の良さを前面に出せば彼女の御眼鏡にかない、もっと上の職に就く事も可能だろう。そうすれば、おのずと身の安全も保障されるのでは?」

『俺の歳考えろ』

「……別に問題はないように思えるが……」


 俺は盛大にため息を吐いた。駄目だコイツ。普段カリスマ発揮している時の那由他はどこへ行ったんだろうか、斜め四十五度の答えが返ってくる。ああそうか、多分気に入った雌猫でも追っかけてるんだな。さながら未来の猫型ロボットのように。となると、俺の隣を歩いてるこいつは……俺の幻影か。妙にリアリティのある幻影だな。

 眉間を指で押さえる。心地よい圧迫感が、歪んだ思考回路を回復させてくれているような気がした。


『最近寝てないからなぁ……』

「質問に答えろ、主」

『だーかーらー、俺一歳! 文字習ってないし、絵も大して描いた事ない! OK?』


 いい加減鬱陶しい俺の幻影に、指を突きつけて答えてやる。

 生後一年で色々な過程をすっ飛ばして耕運機やら散水装置を開発するなんて芸当、天才少女のちよちゃんだって不可能だ。それこそ『つよくてニューゲーム』でもしない限り、逆立ちしたって出来っこない。それぐらい聡明な那由他なら気付くはずだ。しかしこいつは俺の幻影なので、きっと頭の螺子が足りてないのだろう。雷に撃たれて高いところから落ちた所為で……不憫なもんだ。

 そんな俺の幻影は、俺の言葉に納得がいかないのだろう、訝しげな表情を浮かべた。


「ならば何故見せたのだ? 見せなければ疑われる事もないだろう」

『疑われない? 無理だ、絶対にボロが出る。だったら自分の一番身近な部分に疑問を持って、効率化を図った故の行為として認識された方がいい』

「……だったらもう少し幼稚な設計図にして出せば良かったのではないか?」

『うっ……』


 それを言われるとキツイ。やはり、俺の目の前に居るのは紛う方なく那由他だ。その鋭いツッコミに、俺は少しばかり落ち込んだ。


『いや……生前の性分というか……ねぇ?』

「それで不審に思われては元も子もないな」

『うぅ……』


 グサグサと那由他の言葉が俺の胸に突き刺さる。そう言われても仕方ない事に変わりはない。変なところで完璧を求めるこの性格だけは、死んでも治らないだろう――実際治らなかったし。

 この性格の所為で、生前は友人達によくノートを写された。友人曰く『ヘタな参考書より分かりやすい』とのこと。だが試験期間が終わるまで返さないってのはどういう了見だろうか。お陰で順位が下がったのはいい……いや、十分悪い思い出だな。

 そんな性分にプラスされたのが、ハイスペックなこの身体だった。何せ頭の回転速度が生前と比べて雲泥の差だ。昔が電卓だったとしたら、今はスパコンだ。それほどまでの違いが、俺の更なる創作意欲に火をつけた。

 そうなればもう止まらない。ブレーキの壊れたレーシングカーのごとく製図、計算、解説、ついでに暗号化までして設計図を書きまくった。鰻上りにテンションが上がり、最近は寝不足の日々が続いている。

 だがそれも、そろそろ自重した方がいいかもしれない。スピード狂が最後に辿り着くのは、事故という悲しい現実なのだから。


「そもそもお前には危機感というものが欠落しているようにしか……っと、誰か来たようだな」

『ん……』


 長ったらしい説教が始まるかと思いきや、突然の訪問者に軽く警戒する。とは言え、ここで襲うような輩はまず居ないだろうし、どうせ何時も通りすれ違うだけで終わるだろう。

 曲がり角から人の気配、ぶつからないようにその場で足を止めた。美少女とぶつかって始まるラブストーリーならば歓迎するが、生憎現実というのはそんなに甘くない。何かと因縁付けられるのがオチだ。そうして待機していると、ようやく相手がその姿を現し……その格好に、俺は軽く眩暈がした。

 出来れば無視して通り過ぎたかった。だがこれはないだろう。明らかにツッコミ待ちだ。ならばそれに応えなければならないだろう。


『ソレ何て風俗?』


 そう……目の前に現れたのはウサ耳を付けた女子高生だった。顔の造形は整っているものの、その格好の所為で何だか全てぶち壊しになってる気がした。

 いや、まぁ似合ってるよ。この上も無く似合ってるんだけどさぁ……人としてどうよ? あ、もしかして俺と同じウサ耳妖怪か? でも父さん達は『外見はそんなに成長しない』とか言ってた気がするんだが……それに何で制服姿? ここで和服じゃないのって八意先生ぐらいしか見た事ないぞ?

 俺がうんうん唸って苦悩していると、何やら早々と目を付けられたようで、声をかけられた。


「あ、貴方てゐ見なかった?」

『てい?』


 弟――つまり師について教えを受ける人の事を指す。類義語として舎弟、弟子などの言葉がある……という事は、教え子に逃げられたのか。まぁ師匠がこんな格好してたら逃げたくもなるわな。俺は顔も知らぬ彼女の弟子に、心の中で合掌した。


「見てないな。それと、コイツは喋れないから何を聞いても無駄だぞ。一応理解はしているがな」


 俺の足元から、那由他がそう答える。意外な所から声が上がった所為か、少女は目を見開いた。あ、気付かなかったがかなり赤いな。アルビノだろうか。


「そっか……所で貴方達ここら辺で見ない顔ね」

「うむ、何せ私達がここに来て二ヶ月も経っていない。それに日中は畑の方に出払っている。顔を合わせる機会など、そうないだろう」


 いや、だとしたらもっと髪が白くてもいいはずだ。それこそ友人のノートのように真白で……って、何だあの黒い部分は……。


「へー、兎達って、普段そんな事してたんだー」

「それぞれ『班』になって分かれているがな。だが皆、確りと自分の務めを果たしているぞ……どうした? 急に目頭押さえたりして」

「……いや、新しい話し相手が見付かったのが少しだけ嬉しくて」


 あれ? あのウサ耳ってアタッチメント? ウサギ頭巾みたいに、アレをつければ高く跳べるとかそういう機能でも付いてるんだろうか。 


「……何かと苦労しているのだな、娘よ」

「うぅ……人語が分かる兎って本当に少ないのよね……」

「愚痴を言いたくなったらいつでも来い。私もコイツも、何かあれば力になるぞ」


 ちょっと調べてみ……ワッツ? 何か俺抜きで勝手に約束しなかったか? コイツ。


「ありがとう……えっと」

「私の名は那由他だ。一応、コイツの従者という立場に居る」

『なぁ、お前何か俺差し置いて約束しなかったか? 力を貸すとか何とか……』

「そしてコイツが霧葉だ。まだ一歳になったばかりの若造だが、非常に知恵が回る」


 無視ですか? いやいや、確かに空気読まない発言だったけどさ、割と重要な事なんだよ。力を貸すって事は、要するに相手の問題も肩代わりしなきゃならないという事で、当然そこには多くの危険性が潜んでる訳でして……。


「よろしく、私は……」

「鈴仙だろう? 兎達からよく噂を聞く。何でも総隊長――因幡てゐという兎妖怪に毎日からかわれていると……」

「ああっ! そうだった!」

「……その様子だと、事実だったのだな」


 那由他の言葉を遮って、少女――レイセンは悲鳴のような声を上げた。何かすっかり蚊帳の外っぽい俺は少し凹んだ。畜生、やっぱ声が出ないってのは不便だ。


「ここで出会ったのも何かの縁だ。彼女を見付けたら連れて行こう」

「……頼んでいいんですか? 那由他さん」

「うむ、私は一向に構わん」


 おー、何か海王っぽい事言ったなー。つーか何時の間にか敬語になってるよ、レイセンさん。那由他のカリスマはここでも健在なんですか、そうですか。


「それじゃ頼みますね、那由他さん」

「心得た。ではその時にまた会おう、月の兎よ」

「はい、お願いします」


 そう言うと、レイセンさんは頭を下げてさっさと行ってしまった。すっかり廊下と同化してしまった俺は、軽く那由他を睨みつける。いや、理不尽な怒りだって事は分かってるんだが、ここまで空気扱いされたら誰だってカチンと来るだろう。

 那由他はそんな俺の態度を見て、やれやれといった様子でため息を吐いた。


「主、お前の前世がどうあれ、今は唖として生まれてしまったのだ。これからはこういう事もあるのだと自覚を持てば、多少は楽になるぞ」

『……それ凄く消極的な意見じゃね?』

「ならばもっと目立つ事を頭に入れろ。相手の目が自然とお前に向くようになれば、今のように無視されることもなくなるだろう」

『いや、それもそうなんだが……』


 そうなれば、自然と『敵の目』も俺に向くようになる気がしてならない。そして辿り着くデッドエンド。弾幕の的になるか、それとも場の空気になるか……これはかなり難しい選択だ。傍目から見ればこの上も無くくだらない事かもしれないが、俺は真剣だった。

 思考回路を埋めるその割合は、全体の約六割。ちなみに残りの四割は『レイセンさんの耳は何なのか?』で埋まっている。こっちの謎も割と気になる。


『そういえば、結局何者なんだ? レイセンさんって』

「……もう少し周りの話に耳を傾ける事を覚えろ。駄目兎め」


 疑問を口にしたら何故か那由他に貶された。理不尽だ。










登場人物ステータス
霧葉   職業:駄目兎
前世の知識 C+ 大学次席レベル。マガホニーの頭脳を装備したゾンちゃんには負ける。勉強して強化する事も可能。

那由他  職業:耕作班隊長兼散水隊長兼機械隊長
カリスマ A++ 大軍団を指(略)。ここま(略)。ただし外見が猫なので効果が出るのに遅延が生じる。ダンディボイスである事が必須条件。




[4143] 第六話 一番風呂で初体験か……何か卑猥な響きだな
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2009/01/05 09:14



 私達は『その時』を、息を潜めて待っていた。一匹たりとも言葉を発さず、真剣な表情で『それ』が動くのを待っていた。

 始めは皆が笑っていた。自分達よりも幼い子供が、そんな夢みたいな代物を思いつく訳がないと、隊長を目の前にして笑ってしまった。

 隊長はその事を咎めなかった。きっと隊長も同じ気持ちだったに違いないと、その時は一方的に決め付けていた。


「空も飛べない弾幕も出せない、力だけの兎妖怪に何が出来る」


 私達の中の一匹が、そう言った。その時当の本人は未だ畑を耕していて、会話の内容が聞こえているとは思えなかった。いや、そもそも言葉が通じるのかさえ、私達の中では疑問だった。

 無表情、喋らない、何を考えてるのか分からない……それが、当時の『彼』に対する私達の印象だった。隊長の前ではころころと表情が変わるらしいのだが、誰一匹として見た事はなかった。それに『彼』の怒った顔や笑った顔なんて、何時もの様子からは想像も出来なかったために、私達はそれが単なる噂だと思っていた。

 だから隊長が『それ』の設計図を見せた時、私達の驚きようは凄まじかった。明らかに人の手で書かれた筆跡、高度過ぎる内容……理解出来たのは『それ』が私達の利益に繋がる物だという事と、所々に書かれた数字だけだった。

 あの隊長自らが頭を下げるという事もあって、私達は早速『それ』の製造に取り掛かった。『機械隊』に選ばれた私達は、何時もの畑仕事を数倍早く終わらせ、隊長の指示に従って竹を切り、組み立てる。そんな日を一週間程続けた。

 だが、私は疑問に思っていた。こんな単純な作業だけで、あのような物が造れるのかと、ずっと疑問に思っていた。しかしそれも、昨日――組み立てが完成した時になって、ようやく気が付いた。私達が作っていたのは『それ』を覆う為のカバーなのだという事に……。

 原理が分かっている『散水隊』に比べ、私達『機械隊』の『それ』は、原理が全く分からない。当然だ。『彼』は最初から自分一人で造っていたのだから……。

 さっき『彼』があの中に何を入れていたのか、私達には分からない。ただ、私達とは違った考えを持っているという事しか理解出来なかった。

 『彼』が『それ』から伸びた一対の棒を手にする。私達にとって重たい『それ』を持ち上げ、ゆっくりと足を進めた。『それ』の前方に取り付けられた一つの車輪が動き出し……『それ』の下で、土が掘り返された。

 思わず、私達は歓声を上げた。動いた、動いたんだ! という喜びが私の中で広がってゆく。その気持ちは、皆同じだった。


「よくやった諸君。本日は一本つけるぞ」


 滅多に褒美を与えない隊長からは予想外の言葉が出てきた。祭りか宴会の時でしか酒を飲めない私達にとって、それは何にも勝る報酬だった。

 ふと何気なく『彼』に視線が向いた。今彼はどんな顔をしているのだろうか、少しだけ疑問に思ったのだ。だが彼の顔を見た瞬間、軽率な自分の行為を後悔した。直に顔を背けたが、一度高鳴った動悸は治まりそうにない。最初からあんな顔をしていれば、きっと私達が抱く印象も変わっていただろう。

 何せ無邪気に笑うその表情は、この上もなく愛らしかったのだから……。















東方狂想曲

第六話 一番風呂で初体験か……何か卑猥な響きだな















 俺と那由他は、父さんの前で深々と土下座していた。別に何か悪戯をやらかしたって訳じゃない。いやまぁ、限りなくそれに近いかもしれないが……とりあえず今は御代官様に懇願する越後屋よろしく、頭を下げる。

 そんな俺達の様子に慣れていない父さんは、両手を振って慌てていた。顔を上げなくてもその様が簡単に想像出来てしまう辺り、やっぱりこの人は俺の父さんなんだなぁとしみじみと感じてしまう。たった一年間の生活で、この人が浮かべる表情のパターンは大体記憶済みだ。


「無理を言ってすまんな、悠斗殿」

「いいっていいって、どうせ元から大して使わないんだから」


 未だ那由他の渋声に慣れていない父さんは、この予想外の事態に本気で慌てていた。その様子が少しだけ可愛いと思ったのは、多分その幼い外見の所為だろう。


『マジでありがとう、父さん』

「ほらほら。いいから頭上げて、ね?」


 喋れない俺も那由他に倣って感謝の念を贈る。息子がそんな状態なので、普段呑気な父さんもいい加減テンパり始めたかもしれない。やっぱ可愛いな。

 さて、何故こんなカオスな状態になっているかといえば、それには勿論理由がある。父さん母さんの愛の営みを『話は聞かせて貰ったぞ』とばかりに邪魔した訳でもなく、夕飯のつまみ食いをした訳でもない……後者に限っては、むしろ賄い料理として夜食を部屋に持ってくる位、両親は俺に甘い。

 しかし、今回に限ってはそうも言ってられない。何せ勝手に『酒を出す』と約束してしまったのだ。流石にこれは勝手が過ぎると、その時ばかりは那由他にマジ切れした。地位の低い俺にそこまで要求するなと散々罵倒した。だが那由他もそうなる事を分かっていたらしく、特に反論らしい反論もなく、逆にこっちの興が削がれてしまった。

 永遠亭に戻ってからの俺の行動は速かった。時間を稼ぐ為に兎達を普段入れない風呂に入れ――許可は直前に八意先生から貰った――父さんの元へ足を運び、こうやって頼み込む事で酒を出してもらうよう手配した。こうして振り返って見ると思いっきり私情でしかないんだが、ここは『若気の至り』という事で目を瞑ろう。


「えーっと、折角だから鶏でも下そうか? お酒飲むとなったら、野菜だけじゃ物足りないだろうし……」

「出来るのか?」

「うん、どうせバレっこないよ」


 父さん、それ隠蔽工作って言わね? まぁどうせ兎なんだから、皆大して胃袋も大きくないけどさぁ……ぶっちゃけ笑顔で言う事じゃないと思うんだ、俺は。

 そんな事を内心思いつつも、実は俺も結構期待していたりする。何せ酒も肉料理も、この身体になって初めてなのだ。総隊長――てゐだっけ? 未だに見たこと無いけど――以上になると、別の部屋で豪勢な料理を食す事が出来るらしいのだが、低い身分の俺には雲の上の話でしかない。当然酒も肉料理も夢のまた夢だ。

 前世では『鋼鉄の胃袋』と謳われた俺だが、それも今となっては見る影もない。身体のサイズがサイズなので仕方ない事ではあるのだが、幸運な事に酒はその定義に当てはまらない。つまりどんなに小さな外見であろうとも、酒豪なら幾らでも飲めるという訳だ。未成年飲酒? そんなの関係ねぇ。


「重ね重ねすまない。この借りはいつかきっと返すぞ」

「だからそんな畏まらなくていいよ。ほら、霧葉もいい加減頭上げて」

『父さんグッジョブ』


 言われた通り頭を上げると同時に親指を立てる。ついでにいい笑顔も浮かべ、俺の喜びを百二十パーセント表現した。耕運機が動いた時も嬉しかったが、今は更に嬉しい。酒の魔力は恐ろしいな。

 すると何やら頬を赤く染める父さん。あれ? 俺もしかしてニコポとかやった? つーか今『アッー!』フラグ立った? 実の親――しかも同性――にフラグ立てるとか流石の俺でもちょっと引くわ。やったの俺だけどさ。

 父さんは自分と大して変わらない俺の頭に手を乗せて、軽く撫でながら口を開いた。


「霧葉のそういう所って、若い頃の母さんにそっくりだよね」

『マジで? いや、そもそも今でも十分若いだろ母さん』

「僕もあの笑顔に被弾したんだよなぁ……」


 そう言って昔に思いを馳せる父さん。被弾とか誰が上手い事言えとツッコミたかったが、割とセンチメンタルな記憶らしいので茶化すのは止めといた。

 しかし同性さえも虜にする魔性の笑みか……母さん、俺は父さん以上に呑気な人だと思ってたけど、何だか印象が変わりそうだわ。ていうか、それだと多分今でも何人か確実に落としてるだろうな。昔のアイドルみたいに根強い人気がありそうだ。


「と、そろそろ準備に取り掛からないと間に合わないな……それじゃ、夕飯楽しみにしててね」

「うむ、期待しているぞ」

『調理長ファイトー』


 俺と那由他の声援に送られて、父さんは厨房の方へと引っ込んでいった。ようやく二人だけになり、俺は盛大にため息を吐いた。何とか那由他の尻拭いをする事に成功したのだ。


『那由他、今度からもう少し自重してくれよ』

「……そう言うがな主、部下を従わせるのにはどうしてもこういう物が必要なのだ」

『ならちゃんと手元にある物を差し出せよ。今回みたいなやり方だと、何時ぞやの日本みたいに反旗を翻されるぞ』

「? ……例えがよく分からんが、事後承諾は良くないという事だな」

『そーゆー事。ま、下っ端の俺に用意できる褒美なんざ高が知れてるがな』


 そう言ってからふと八意先生との約束事を思い出し、俺は風呂場に足を向けた。

 皆が入ってから父さんを探し始めたから、兎達は既に上がっているに違いない。というより、まだ入ってたら時間的に出汁が取れてもおかしくない。風呂の湯が兎鍋の出汁と化していたとなれば、主犯の俺は真先に捕まるだろう。

 まぁ、皆基本的に頭がいいので、そんな事は万に一つもないだろうが……億に一つだったらあるかもしれない。意外と抜けてるんですよ、ウチの兎達。

 ……言っててなんかマジで心配になってきたな。


『急ぐぞ』

「主、せめて主語と動詞だけも頼みたい。流石の私も何を考えているかまでは分からん」

『風呂場で風呂掃除。ついでに皆が出汁になってないか心配。OK?』

「それは……分かった、急ごう」


 一瞬反論しかけたが、何やら苦虫を噛み潰した表情で言う。やはり隊長となると全体の事をよく知っているんだろう。こちらとしては理解が速くて助かる。

 俺と那由他は、慌しく廊下を走りだした。




















 結果から言うと、俺達の心配は杞憂に終わった……多分、いや、半分だけ。

 確かに兎達は既に上がっていて一匹も見当たらなかったが、何と言えばいいのだろう……風呂の湯からは湯気と共に独特の匂いが立ち上っている。その理由は……恐らく想像通りだろう。


『那由他、何か非常にいい匂いが漂ってる気がするんだが……』

「主……それ以上言うな」

『知らぬ間に、皆随分美味しくなって……』

「止めんか!」


 那由他の突進! 急所に当たった! 俺は悶絶している。


『おまっ……こっ、男の勲章に……!』

「馬鹿な事やってないで、さっさと終わらせろ」


 非情な声が飛ぶ。もう少し付き合ってくれてもいいのに……と思いつつも、これ以上からかったら弾幕を出しかねないという理由で諦めることにした。部下思いのいい奴なんだが、飼い主よりも優先されるってのはちょっと悲しい。

 俺は何事もなかったかのように立ち上がり、早速風呂の湯を抜く事にした。え? 急所? 所詮猫の体重ごときじゃビクともしませんよ。


「……私は時折、お前が理解できない」

『何エンディングっぽい事言ってんの、この猫』


 俺は那由他を無視して流れっぱなしの風呂の湯を止め、湯に手を突っ込んで栓を抜いた。やはりというか何と言うか、湯から引き上げた腕には小さな毛が沢山ついていた。八意先生の言うとおり、これは掃除しなければ誰も入れないだろう。

 湯が抜けるまでの間、俺はふと自分の中に沸いた疑問について考える事にした。何気なくやった一連の行為だったが、よく考えればここには大きな矛盾点があった。

 それは『自動で湯が出る』という事……。

 ここで過ごしていると良く分かるのだが、ここの科学技術は明らかに『前世』より低い。何せ耕運機もスプリンクラーも、ましてや蛇口すらなかった。厨房でさえ、毎朝水瓶を溜めなければならない。屋敷も『いかにも』な日本形式を取っているというのだが……どこか違和感を感じる。

 この風呂場に来て、違和感は一層強くなった。贅沢に檜を使って高級感を感じさせるものの、やはりどこか作り物めいた雰囲気は拭えない。例えるなら前世の『旅館』というのが一番しっくり来る。日本形式なのにしっかりと現代科学が練りこまれ、なるべく自然を装っているような造りだ。

 湯を止めたその部分に目をやる。円形のそれは、明らかに『ハンドル』の形状をしていた。湯の吹き出し口は木で覆われて見えないが、恐らくパイプが通っているに違いない。だとしたらこの屋敷のどこかに、ボイラーのような物も設置されているはず……。

 しかし、そこで疑問が生じた。何故こんな物が造られているのかという疑問だ。この屋敷を統治している八意先生なら恐らく知っているのかもしれないが……直接聞く事は出来ないだろう。あの那由他が知らないという事は、つまり『知られたくない事』……そんな事を抜け抜けと聞くのは失礼というものだ。


「……るじ、主?」

『ん……?』

「何をしている。掃除しないのか?」

『ああ、悪ぃ。考え事してた』


 思考回路を切り替える。疑問は当分の間晴れそうにないだろうが、考えなければ全て事足りる。既にある物の歴史なんてのは、結局のところ雑学にしかならないのだから……。

 三つのブラシを手に取って構えた。真面目に考えるのは後でいい。だから今は、すべき事をしよう。


『三刀流の剣豪、ロロノア・ゾロ見参っ!!』

「真面目にやらんか!!」


 那由他に足元掬われました。猫でも学習するのね。




















 白い湯気が立ち上る。人類が発見した初めての桃源郷と言っても過言ではない、その存在。

 身を清め、寒さを防ぎ、いつでも暖かい。元からその存在を知っていた猿達は、人類よりも早くその存在を見つけ、密かに愛用していたとも言われている。

 今ではこうして、人工的な物まで造られている。人々はそれほどまでして、その存在を欲しがったのだ。

 目の前の広い湯船には湯が張られている。そこから立ち上る湯気が、妖花の香りのように俺を誘惑し、一番風呂へと誘う。むくりと俺の中で鎌首をもたげる背徳感――穢れのない存在を俺の色で染め上げるという黒い欲望。事実、俺は既に準備が出来ていた。後は飛び込むなり、ゆっくりと浸かるなりしてその暖かさを堪能すればいい……。

 だが、同時に頭の中で理性が厳しく俺を諭す。入ってはいけない。人――いや、妖怪の新米が一番風呂なんて大層なものを頂いてはいけない。もっと謙虚に生きなければ駄目だ。

 理性と本能の狭間で途方に暮れた俺は、その事を正直に伝える事にした。


『……という訳で、辞退していい?』

「駄目だ」


 那由他の鋭い眼光が俺を射抜いた。今回ばかりはかなり本気らしく、それに籠められてる感情の色がはっきりと分かる。俺はため息を吐いて、那由他の頑固さに呆れた。

 さて、一体全体何がどうしてこうなってしまったんだろうか。さっき掃除が終わるまでは、那由他も俺を風呂に入れようとはしなかったのに。『やっぱブラシも三本じゃねぇとな……』って言わなかったから怒っているのだろうか。随分マイナーな奴だ。


『いや、だって何で俺が風呂入んなきゃならんの? 何時もみたいに濡れた布で拭けば十分じゃん』

「まさか毎日それだけを続けていたとは思わなかったぞ……」

『そんな事言われても風呂に入る時間とか勿体無いし。それに俺あんまり汗かかない体質みたいだから、それで十分なんだよ』

「……」


 お、何か俯いてぷるぷる震え出した。那由他の周囲に何だか黒い靄のようなものが浮き出す。父さん、妖気です! 初めて見たけど妖気って結構黒いんだな。

 しかし那由他が顔を上げた時、そこには満面の笑みが浮かんでいた。そしてその周りに浮いているのは……どこぞの宝具のように待機状態を維持している弾幕だった。


『ちょっ、おまっ!』

「――よいぞ。刃向かう事を許す、主」


 わーお、まんま金ぴかじゃねーか。声明らかに違うけどな。台詞に大きな矛盾が生じてる気がしてならないんだが、揚げ足とるような事言ったら間違いなく被弾して虎の道場に直行するだろう。俺に某英霊みたいな戦闘能力はねーよ。畜生、力で訴えるとかそれでも本当に神の使いかよ。

 だがこうなってしまうともはや俺に成す術はない、大人しく腹を括るしかないだろう。俺は視線を湯船に向け、一度深呼吸する。別にダイビングをやる訳でもないが少しばかり緊張しているのは否めない。何せ風呂に入るのは初めてだ。父さん達と過ごしている間は大抵身体を拭くぐらいで済ませていたし、こっちに来てからも色々と忙しくて入る暇はなかった。

 桶で湯船からお湯を汲み、頭から被る。初めて感じる温かい温度――生前よく浴びていたシャワーに似た感覚――に、俺は思わず目を細めた。俺の身体が、髪が、耳が濡れていく。見下せば否応にも理解させられる昔との身体のギャップに、俺はため息を吐いた。


『一番風呂で初体験か……何か卑猥な響きだな』

「黙って入れ」


 どうやら今の冗談がお気に召さなかったようで、那由他はイラついた様子でそう言った。弾幕も未だ待機状態である。

 俺はそんな那由他に苦笑しながらも湯船に身を沈めた。その途端、身体を包み込むような温かさに、俺は思わず嘆息した。嗚呼、そういえば風呂ってこんな感じなんだよな……と、昔に思いを馳せる。半身浴の方が健康にはいいらしいが、この気持ちよさは肩まで浸からなければ分かるまい。


『あー……いいな、風呂って』

「当たり前だ。これからはもっと頻繁に入るよう心がけろ」

『んー、視野には入れとく』


 確かに気持ちいいが、夜の時間を削ってまで入るとなれば少し考えなければならない。俺にとって生きる為の対策は必要不可欠なものだ。それを考える時間は多いほうがいいに決まっている。だからこそなるべくその時間を多く取っているのだが……これは本気で悩まざるを得ない。

 広くて高級感溢れる檜の湯船を独り占め。こんな機会は生前であっても、そうありはしないだろう。

 数字に表記すれば高々四十程度の水温……そしてそれに浸る程度の行為……だというのに、どうしてこうも心地良いのだろうか。筆舌に尽くし難き、甘美なる桃源郷――風呂。極楽浄土という場所があれば、きっとそれは風呂場に違いない。


『いーい湯ーだーな♪ あははん♪』

「……不快だ」

『うっせ。これを歌わずして何が風呂だ』

「全く、お前の前世は相当変わっているな」


 那由他は呆れたようにため息を吐いた。髪と耳以外体毛が全くない俺と違い、体毛だらけの那由他は風呂には入れずに、湯船の外で俺を見上げていた。その格好が余りにも不憫だったので、俺は桶に湯を張って那由他に差し出した。当の本人は、当然ながら訝しげな視線を返してきた。


「……何の真似だ?」

『いや、風呂場に居ながらも風呂を楽しめないのは悲しいだろーなーと思って……』

「何時になく気が利くな」

『なーに、桃源郷に案内してくれた礼だ』

「風呂が桃源郷とは、随分安っぽい……」

  ―――ガラッ


 俺と那由他は同時に音がした方向へ顔を向けた。本来起こり得るはずのない音源――風呂場の扉が開かれる音。それは即ち、第三者の介入を意味していた。

 そこに居たのは幼い少女だった。入浴用のタオルで前を隠しているが、胸の膨らみは確認出来ない。透き通るような白い肌と、癖のある黒い短髪からピンと伸びた一対のウサ耳が、まるで己という存在を誇示しているかのように見えた。

 俺はその顔に見覚えがあった。俺と那由他が出会った記念すべき日に落とし穴を仕掛けたウサ耳妖怪だ。もっとも、かつて笑顔だったその顔は驚愕に彩られていたが……。


『那由他……俺清掃中の看板出したよな……?』

「……すまん。お前が入る時に私が片付けた」


 ジーザス。お前本当は敵側の神の使いじゃねーよな。そう言おうとした瞬間、少女の時が動き出した。


「いっ……いやあああああああぁぁぁぁぁ!!!」

『うおっ! 弾でかっ!?』


 少女の手から特大の弾が放たれる。俺は咄嗟に湯船から飛び出てそれを避けた。湯船と直撃した弾は反射してボールのような軌道を描く。大きさは俺と同等で家紋のような模様がある、随分特異な弾だと思った。

 再び少女が手をかざす。今度は一発じゃ済まないのは明らかだ。弾幕を撃てない俺が、一番遭遇してはいけないアクシデントに直面してしまった。


『那由他! 何か対策は!?』

「此方が倒れるか、それとも彼方を倒すか。二択に一つだな」


 こちらも冷静に返答してくれる。俺と違って冷静なのは、きっと弾幕が使えるからに違いない。その態度が今はちょっぴりムカついた。よく考えてみれば、これは俺じゃなくて那由他が引き起こした事態だ。なら、この場も那由他自身に治めて貰おう。

 俺は那由他の首根っこを掴み上げ、某野球選手のように素早く少女に向かってブン投げた。


『行っけぇ!! 那由他レーザービーム!!』

「貴様アアアアァァァァ!!!」


 ドップラー効果を残し、那由他は一直線に少女に迫る……と思いきや、空中で体勢を立て直してその手前に降り立った。何だかんだ言って足止めはしてくれるらしい。やっぱ持つものは友達だな(外道)。


「やあああぁぁぁぁ!!!」

「駄目兎イィ!! 貴様後で覚えていろぉ!!」


 テンパっているウサ耳少女と怒り狂っている那由他。対峙し、今まさに弾幕ごっこを始めようとしている二人の横を、俺は一直線に駆け抜けた。この時ばかりは、生まれて初めて全速力で走った気がする。湯煙を潜り抜けて脱衣所へと到達し、逃げ切った! という達成感を感じ取る前に俺は顔面に衝撃を受けた。


『何……だと……!』


 脱衣所には思わぬ伏兵が居たのだ。俺の顔面に拳をめり込ませた本人も、信じられないとでも言いたげに目を見開いていた。

 彼女の名はレイセン――極端に長いウサ耳と髪を持つ、月から来たという電波な女子高生だ。一応八意先生の弟子らしく、地位は総隊長よりも高いという。見開かれた瞳の色は血のように赤く――思わずレッドアイズと呼びたい衝動に駆られる。ドラゴンじゃねーけど。

 彼女も風呂に入ろうとしていたらしく、何時も着ている制服は纏っていなかった。代わりにあったのは控えめな乳房と均整のとれた肢体、そしてさっきの少女にも負けないぐらいの白い肌……不意に振られた裏拳が俺の顔にクリーンヒットしてなければ、きっと完璧だっただろう。

 嗚呼、多分風俗に居たら間違いなくトップ取れるな……などと下らないことを考えつつも、吹っ飛ばされた俺は意識を失った。


『……いいパンチだ』


 最後にその一言だけを残して……。










登場人物ステータス
霧葉   職業:駄目兎
魔性の笑み:言わずと知れた主人公補正。ダイスを振り、抵抗判定を決定する。動物ならば六、人間・妖怪ならば五以上で抵抗に成功する。尚、年齢百年単位で数を一つ減らす事が出来るが、一以下にはならない。抵抗に失敗した場合、魅了・錯乱・欲情の三つの状態異常が起きる。一定時間経てば元に戻るが、出た目が一の場合後遺症が残る事がある。喜色満面の笑みでなければこのスキル自体が発動しないため、作中では非常に使い勝手が悪い。

那由他  職業:耕作班隊長
王の懇願:土下座の超強化版。コインを投げ、抵抗判定を決定する。五回投げ、全て裏もしくは表であれば抵抗に成功する。相手に『カリスマ』のスキルが備わっている場合、投げる回数を一回だけ減らす事が出来る。抵抗に失敗した場合、どんな無茶な要求でも呑まなければならない。その後行動に移るかどうかは、また別の判定が必要。非常に使い勝手がいい。




[4143] 第七話 ……物好きな奴もいたものだな
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2008/10/26 12:44



 一人の少女が苛立たしげに長い廊下を歩いていた。

 因幡てゐ――兎達から『総隊長』と呼ばれている、幸運の兎妖怪――は、この上もない怒りを感じていた。

 それも無理からぬ事だろう、何せ異性の前で素肌を晒したのだ。長生きをしている彼女だが、同種族に見られてしまったという羞恥心ぐらいは持ち合わせている。例えそれが何桁か年下の子供であっても、変わりはない。

 人間と違い、妖怪は精神が身体に引き摺られると言われている。悪戯好きの彼女は、その代表的な例として挙げられるだろう。

 ドシドシと荒い足音を隠そうともせずに、てゐは目的地へと向かっていた。下働きの兎達が住む永遠亭の一角――その足は霧葉達の部屋を目指していた。

 部屋の主が居ない事は既に分かっている。鈴仙に気絶させられた霧葉は、きっと今頃御説教されている最中だろう。彼の三毛猫もそれに付き合ってるに違いない……那由他の姿を想像して、てゐは一層不快になった。

 あの二人はどこかおかしい……彼らが永遠亭に来た時から、てゐは違和感を感じていた。最初に竹林の中で出会った時はそれに気付かなかったが、今では否応にも分かってしまう。何せ兎達の間で彼に関する噂が絶えない。弾幕は出せない、空は飛べない、喋れない、よく分からない物を書く、たまに逆立ちで徘徊する……などなど、挙げ始めたらきりがなかった。

 しかし、一つだけ知らなかった事があった。あの三毛猫――那由他は弾幕を出す事が出来たのである。それも『総隊長』である彼女と互角に撃ち合える程、それは精巧なものだった。

 そして彼女は……負けた。小さな三毛猫に負けたのである。その事実が信じられなくて――この上もなく悔しかった。

 だから……今彼女がやろうとしている事は、単なる憂さ晴らしでしかない。彼女自身、それは分かっている。だが納得する事だけは出来そうになかった。


「……着いた」


 部下の兎から聞いた場所。障子で閉ざされたその部屋に、彼女は足を踏み入れた。















東方狂想曲

第七話 ……物好きな奴もいたものだな















 おはようございます。夢の中で二十センチぐらい宙に浮いた中年デブのオッサンと出会いました。ハルコンネンの精とか言ってたけど、明らかに場違いだったので蹴り飛ばしました。よく弾みましたよ。マル。

 いや、夢の事はどうでもいいんだ。それよりもこの現状を何とかして欲しい。何せかれこれ一時間近くも正座させられている。前世だったら間違いなく体罰扱いされて、県の教育委員会やらPTA辺りから苦情が殺到すること間違いなしだろう。中学の頃割と大きな事件にまで発展したしなぁ……。


「……確かに、貴方がそろそろそういった事に興味を持ち始めるのも頷ける事だけど、そんな大胆な手段を使ってまで……」

『で、この説教は何時になったら終わるんだ……?』

「大人しく話を聞いていろ、駄目兎め」


 我らが命の恩人――八意先生は、未だに説教を止める気配がない。身振り手振りで今回の事件がどれだけ大変な事なのか、必死に教え込もうとしているのがよく分かる。まぁ、野原しんのすけみたいな幼稚園児が増える事を想像すると、説教にここまで熱が入るのも頷ける。

 チラリと、八意先生の後ろで未だ困惑しているレイセンさんに目をやる。咄嗟とはいえ、子供を殴ったという事実がショックで最初はかなりテンパって居たらしい。それでよく気絶した俺を連れてこれたな……と思ったが、何と弾幕ごっこで勝利した那由他が上手く言い包めたと言っていた。だが諭されたところで、ショック自体が緩和された訳でもなさそうだ。


「……という事があってから、番を見つけるのは今じゃなくなったの。だから貴方がした事は……」

『ていうか、お前って強かったんだな』

「何を今更。力を授かって十年間、何もせずに弄ぶなど言語道断だ」


 小さくそう言って、何やら誇らしげな顔になる那由他。本人は威厳のある姿勢を取っているつもりかもしれないが、揺れる尻尾が喜びを隠しきれていない。ちょっと可愛いと思ってしまうのは、やはりその三毛猫という外見ゆえだろう。

 と、少しだけ視線を外していると、八意先生から厳しい叱責――と言うより、鋭い視線が飛ばされた。


「ちゃんと聞いてる?」

『ええ、聞いてます。もう三週目に入りました』

「……心配無用だ。主も反省ぐらいはする」


 そりゃあねぇ……恩人に叱られるってのは、正直かなり堪えるよ。説教の内容云々以前に、こうして八意先生の顔に泥を塗ってしまったという事実の方がキツイ。親に見限られる心境ってのは、多分こんな感じなんだろう。

 説教の内容はちゃんと暗唱出来る。内容がループする前に真面目に聞いていたらいつの間にか覚えていた。流石に一字一句まで間違えずに言う事は無理だろうが……話の大体の道筋、要点ぐらいは纏められた。つくづく便利な――異常な頭だ。

 俺の代わりに答えた那由他の言葉に、八意先生は呆れたような表情を浮かべてため息を吐いた。


「貴方にそう言われてもねぇ……」

『え? マジっスか!? 俺そんなに不真面目君!?』

「仕方なかろう、主は昔から表情に乏しい。『声』が聞こえる私ですら、無表情の口から紡ぎ出される言葉には時折驚かされる」


 ギョッとして那由他を見やる。俺としては喋れないのにキモイぐらいコロコロ表情変えてるつもりだったんだが……実際はそうでもなかったらしい。成程、それなら確かに反省してるかどうか怪しい所だ。某猿のごとく反省のポーズでも取ってみようか。

 馬鹿な事を考えつつも、身体は早々と行動を開始していた。正座の姿勢から腰を地面と平行になるまで折り、床に額を擦りつかせ、ついでに両手もそれに倣う。


「それは……」

「……土下座か……」

『ド・ゲ・ザ……そう、土下座ッ! 敗北のベスト・オブ・ベストッッ!!』


 世の中には土下座の上をゆく土下寝とかジャンピング土下座とかがあるんだが、流石にそこまでふざけるのは頂けない。こんな台詞を吐いといて何だが。

 まぁさっき父さんにもやったんだし、俺の態度一つで事態が変わるんだったら安いものだ。え? プライド? 何それ美味しいの?


「永琳殿、私にも落度はある。この通り、どうか許してくれな……」

  ―――グゥ……


 謝罪中の那由他の言葉を遮ったのは、俺の腹の音だった。途端にビシビシと視線が飛んでくるのが分かる。やべぇ……恥ずかしいってより、怖くて顔上げらんねぇ……。

 だが俺の現状も考えて欲しい。仕事を終えて耕作班のために奔走し、父さんに頭下げて風呂掃除をし、ゆっくりと入浴出来ると思いきや覗き扱いされてブン殴られ、目覚めれば恩師からの説教一時間セット……これだけオアズケ状態が維持されていたら、誰だって腹が鳴るだろう。

 ビクビクしながらも土下座の姿勢を維持する俺。特に隣からの眼光が酷い。それこそウサ美ちゃんレベルだ。猫のクセに。


「フフッ……まぁ今回はこれ位にしとくわ。ウドンゲもそれでいいかしら?」

「え? あ、はい!」

「後は……てゐだったわね。夕食の後でいいから、ちゃんとあの子にも謝っておきなさい」

「……不甲斐無い主ですまぬ、永琳殿」


 あれ? 収拾ついたの? とばかりに隣を見やると、那由他は『やれやれだぜ』と言いたげな表情を此方に向けていた。

 顔を上げれば、さっきとは打って変わって満面の笑みを浮かべた八意先生が居た。まるで出来の悪い子を見守る母親のような笑みだ。レイセンさんも何やら心配そうな視線を向けている。わーい、何か一発で可哀想な子扱いだよパパ。自業自得なんだけどさ。


『なぁ……腹が減るのってそんなに駄目な事か?』

「時と場合を考えろ、駄目兎」


 素気ない那由他の言葉がトドメとなり、俺はこの上もない敗北感を味わった。




















 俺達が食堂に着いた時、既に中では宴会じみたものが始まっていた。まぁ宴会とはいえ、飲んでいるのはウチの兎達だけで、他の班の兎達やウサ耳妖怪は呆然といった感じで俺らのドンチャン騒ぎを見つめている。だが酒だけには穴が開くほどの視線を注いでいたので、流石の俺もちょっと引いた。そんなに好きなんだろうか。


「まだまだいけるッ!!」


 そう言った一匹の兎は、酒の入った御猪口を掲げて一気に飲み干した。途端に周りから起こる拍手喝采……もう完璧に飲み会じゃねーかと、俺は内心ツッコミを入れた。何せサイズの関係で、徳利がビール瓶並の大きさに見える。ああ確かに、これなら総量も大した事ないだろうと、俺は妙に納得してしまった。

 俺は自分の膳に目をやる。ホカホカと白い湯気を立てている白米と御吸物、そして鶏肉の照り焼きが、見事な調和を醸し出している。食欲を誘う香りだ。照り焼きの隣に添えられた御新香と、その皿の隣にひっそりと置かれた御浸しが料理人の気遣いを感じさせられる。そして豪華な事に、膳の隣に置かれている徳利は二本だ。こっちは父さん達がおまけしてくれたんだろう。

 早速御猪口に酒を注ぐ。透明な液体――匂いからして日本酒――が、何とも言えぬ懐かしさを感じさせる。宴会の喧騒をバックにして、『いただきます』の代わりにまずは一杯だ。


  ―――グイッ……

『おうぇッ!!』


 吐いた。いや、むしろ吹いた。一度口に含んだ酒は、飲み込みきれずに俺の座布団の上に垂れて染みを作る。後で洗濯しないと……と、俺は混乱する頭の片隅でそう思った。

 飲めない? 酒が飲めないだと? 俺と言う酒豪が!? ウィスキーを焼酎で割るという荒業まで成し遂げた酒豪の俺が!? ナメるなよ日本酒。俺が貴様のような度の低い酒が飲めないとでも思うか!?

 再度杯を傾ける。今度は一気だ、これなら……。


  ―――グィッ!

『グホォッ!』


 ……なる程、これでは今の身体では飲みきれん。いつか飲めるようになるその日に……また会おう、日本酒。次は飲み尽す。


「……さっきから酒を吐いて、一体何をしてるのだ」

『いや、無理に飲むもんじゃないなーと、改めて実感してた』


 ついでに脳内で某神父みたいな台詞吐きまくってたしね、と頭の中で付け足し、隣の那由他を見やる。人型の俺と違い、猫の那由他は盆に載せられた照り焼きを齧っていた。味が濃過ぎるのでは? とも思ったが、父さん達はそんな初歩的なミスなんてする訳ない事を思い出した。こと料理に限って、あの二人に敵う者は居ないだろう。

 那由他は照り焼きの横にあった水を舐めると、こちらを振り返って口を開いた。


「ふむ……理解出来んな、この味が分からぬとは」

『ってそれ酒かよ!?』


 その自然過ぎる一連の流れに、俺は思わずツッコミを入れた。しかも那由他の盆に載せられているのはその二つだけだ。確かに那由他から見れば相当な量だが……肉と酒オンリーってどうよ? ちゃんと野菜も食え、酒池肉林じゃねーか畜生。

 御吸物を啜りながらそんな事を考えていると、兎の大群がぞろぞろと那由他の前に移動してきた。騒いでいた時とは打って変わって、何やら神妙な雰囲気を纏っている。何だろうか? と疑問に思っていると、先頭に立っていた一匹の兎が立ち上がった。


「隊長! 俺は……俺達は一生貴方に着いて行きます!!」

「嬉しいこと言ってくれるじゃないの」


 あ、もしかして――もしかしなくても酔ってる?


「いいのか? ホイホイそんな事言って。私は兎だろうと構わずに使い潰す猫なのだぞ?」

「いいんです。俺達、隊長みたいな人の事……好きですからッ!!」

『ブッ! ……ケホッゴホッ!』


 むせた。何で汁物飲んでる最中にそんな事言うかな、コイツらは。食事中なのに一瞬薔薇畑が広がっちまったじゃねーか。正直食欲が失せる。

 いやさー、モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で……なんというか救われてなきゃあダメなんだ。独りで、静かで、豊かで……。


「霧葉様、大丈夫ですか?」

『あー、まー何とか……?』


 意識がゴローちゃんと化していた俺を呼び戻したのは、可愛らしい声だった。那由他の定年期を迎えようとしている男性の哀愁漂うダンディボイスとは違う、まるで青春を謳歌している女子高生のようなハリのある声……ってこれだとただの変態だな。

 孤独のボケツッコミを脳内で繰り広げながらも、俺は声のした方――丁度正座をしている膝の上――に目をやれば、そこには一匹の兎が陣取っていた。恐らく那由他の前で狂乱の宴を繰り広げている連中と一緒に来たのだろう。しかし那由他の方でなく、俺の方に来るとは……何とも変わった兎だ。

 俺は苦笑して、返事の代わりにその柔らかな身体を撫でた。


「……ふにゅ~……」

『……何か癒されるな』


 奇声を上げながら気持ち良さそうに目を窄める兎……俺は久々に癒しを感じていた。

 思えば、こうして動物と触れ合うのは初めてだったかもしれない。那由他は変にプライドが高いから撫でることも出来ないし、部下の兎達は俺とどこか一線を引いているのか、自ら接してくる事は少ない。まぁ『喋れない奴と一緒に居るだけで楽しい』何て言う奴は、余程の変人かドSに違いない。こう言っては何だが、この兎は多分前者だろう。後者だったら俺が泣く。

 柔らかい体毛の感触と、少しだけ高い体温が掌全体に広がる。意外と大きくて丸っこい身体は手に良く馴染み、膝は天然の湯たんぽを乗せているように温まって行く。耳を澄ませば、騒がしい中に聞こえる微かな寝息……いい塩梅だ。


「ふむ、見よ皆の衆。主が一匹篭絡させているぞ。早めの発情期を迎えた主にはほとほと困ったものだ」

『ちょっ! おまっ!?』


 何時もの那由他らしからぬ発言に、俺は思わず目を丸くした。視線を向ければ、膳の上に乗った那由他が兎達相手に何やら熱っぽく講義をしている最中だった。それで何となしに理解する。ああ、やっぱ酔っ払いってのは恐ろしい……と。


「皆も気を付けよ。何せ相手は総隊長が相手であろうとも、恐れる事無く覗きをする変態だ」

『了解ー!』


 いやいや、お前ら了解じゃないから。俺発情期迎えてないから。それに那由他、変態って……アレお前が原因みたいなもんじゃねーか。何間違った事抜かしてんだクソ猫。

 内心毒づきながらも、俺はため息を吐いた。怒りを通り過ごしてもはや呆れる。こういう酔っ払い共に何を言った所でどうせ暖簾に腕押しだ。それに下手に動いて今の姿勢を崩せば、膝の兎が起きてしまう。ここは大人の余裕というヤツで乗り切ろう。


「しかし本当に駄目な主だ。総隊長と言えども相手は女子、押し倒す位は楽にやってのけるようでなければな。まぁ、酒も飲めぬヘタレ兎には過ぎた注文かもしれぬが……」

『OK、那由他、そこに直れ。弾幕代わりの御猪口真直ぐアタックだ!!』


 やっぱ無理でした。大人の余裕? ハッハッハッ、僕一歳。

 俺は姿勢を崩さぬ程度に御猪口を力一杯ブン投げた。だが幾ら酔っ払っているからといって、相手は猫で……しかも那由他だ。その場を軽く飛び退く事で難なく御猪口を避ける。畳の上に着地した那由他は飛び散った御猪口の破片を一瞥してから口を開いた。


「ふむ、少々酔いが回ってきたようだ。少し夜風に当たってくるとしよう。皆の者、主に襲わぬよう注意して宴を続けよ」

「たいちょー、でも襲われたらどうするんですかー?」

「弾幕も使えぬ主が襲えるとも思えんが……まぁ、もし襲われたのならば、私が貰ってやろう」

「本当ですかっ!?」

「霧葉様っ! ドンと来てください!!」

「隊長! 結婚して下さい!!」


 ……あー、やっぱ酔っ払いってのはこうなんだよな。話が吹っ飛んだり欲望が駄々漏れになったりして、大抵その場はカオスになる。ぶっちゃけ他の班からの視線が痛いッス。畜生、責任丸投げかよ那由他。恨みがましい視線を那由他に注ぐが、効果は期待できないだろう。


「ではな主。私が居ないからといって、兎達に手を出すなよ?」

『俺が手ぇ出したら獣姦じゃねーかバカ。お前も『我輩』みたいに水瓶に落ちんじゃねーぞクソ猫』


 暴言ついでに中指も突き立ててやる。詳しくは分からないかもしれないが、俺の雰囲気で大体察する事は出来るだろう。

 那由他はそんな俺の言葉に一笑すると、障子を開けて出て行ってしまった。後に取り残されたのは動けずに居る俺と……。


「霧葉様、総隊長相手に覗き見したって本当ですか?」

「私食べ頃ですよ~♪」

「隊長と結婚したいんですけど……どうしたいいんでしょうかね?」

『あー、お前ら少し黙れ』


 今度は俺に群がり始めた酔っ払い兎の大群。目を閉じれば年頃の少女達に囲まれていると錯覚しかねないぐらいうるさい。だが残念ながら相手は兎――しかも那由他に熱を上げているときた。これだと俺が入る隙は全くないだろう。

 ワーワーと騒がしい雑音を意識の外にやり、未だ膝の上で眠る兎を撫でた。この騒音の中眠れるとは、意外と図太い神経をしているんだろう。


「ん……霧葉様…………大好きです……」

『……』


 ……俺は何も聞かなかった。よし、そうしよう。告白染みた寝言なんて聞いてない。前世の時ですら告白された事ないんだ、これは幻聴に違いない。多分那由他と俺を間違えたんだ。うん、そうだ、間違いない……自分でもテンパっているのがよく分かった。

 なるほど、確かにこれは――認めたくはないが――ヘタレかもしれない。だが兎に告白されてドギマギするなんてどうかしてる。そう自分に言い聞かせて二三回程深呼吸をすると、騒がしかった神経がようやく落ち着いた。自己暗示というのも中々侮れないものだ。

 ふと膳に目をやると、夕飯がすっかり冷めている事に気付いた。まぁ割と長い時間放置してたから当然なんだが……正直スマンかったと、作ってくれたであろう二人に感謝の念を送る。出来立てを美味しく頂けなかったのは正直残念で仕方ないが、今からでも遅くはないだろう。箸を手に取り、数時間も心待ちにしていた照り焼きを口に運び……口内で広がったありえない味に、思わず顔をしかめた。


『神……俺にこんな味覚つけた事後悔させてやる』


 食と酒の楽しみを奪った罪は海より深い。もし会う機会があれば、その時は折れるまでアームロック決めてやろう。御吸物で照り焼きの風味を強制的に流し込みながら、俺は改めて神に対する復讐を決意した。

 初めての肉料理は、血の味がした。




















「いい月だ……」


 私は一人、そう呟いた。ほろ酔い機嫌でこうして月を見上げるなど、一体何年ぶりになるだろうか。いや、そもそも最後に祝いの席に座ったのは何時だったか……もはや覚えてはいない。妖怪という尺度で見れば私の人生など微々たる物かもしれないが、猫の一生としては、いささか長く生きたつもりだ。これも神の思召しのお陰なのだろう。

 月光に照らされた縁側を上機嫌に歩む。あの程度の酒などで酔い潰れるほど、私は酒に弱くはない。部下達は思いっきり羽目を外していたようだが、きっと二日酔いは必須だろう。

 しかし面白いものを見た。立ち去り際ではあったが、部下達に迫られて困惑の色を隠しきれない主なんぞ、初めて見た。主は男女均等なのだと思っているようだが、奴らの構成が全て雌だと気付いたら、もっと面白い事になったかもしれない。それこそ血相変えて取り乱すような主が……。

 そこでフッと、私は自嘲の笑みを漏らした。無表情が服着て歩いているような主が、取り乱す姿なんて想像も出来ない。半年以上を一緒に過ごした今ですら、顔色だけで感情を判断する事は難しい。尤も、人一倍『独り言』が多い主故に、『声』が聞こえる私にとっては感情の変化を読み取るなど造作のない事だ。

 例え言葉を持たない相手であろうとも、あらゆるものと会話出来る程度の能力……非常に便利な力と思われるかもしれないが、これにはたった一つだけ欠点が存在する。それは……。


『旦那ー、御猪口痛かったでー』

「……すまぬな」

『謝るんだったら回避せんといてーな。破片まだ刺さっとるんやでー』

「だが避けなければ、間違いなく私の頭蓋が陥没してただろうな」

『まー霧坊の馬鹿力だったら、そん位朝飯前やなー』


 とにかく私の周りが五月蝿いという事だ。虫や草木から始まり、食べ物やら建物までこうして話し掛けてくる。流石に全て相手にするのは面倒な為、大部分は無視しているが……此奴を無視する事は不可能だろう。


『せやけど旦那も十分悪いでー? 酔った勢いとはいえ、霧坊相手に押し倒せは拙いやろ』

「私の主ならば何人もの女性を手篭めにする位勢いがあった方がいい。それに総隊長が相手ならば、地位も上がりやすいだろう」

『旦那って割とあくどいんやなー』


 非難の言葉を吐く割に余り興味はなさそうだった。まぁそれも頷ける。何せ相手は千年以上の月日を過ごした『永遠亭』なのだ。私達が何をしようとも自分に被害が降りかからなければ、それは所詮此奴にとって『どうでもいい事』でしかないのだろう。


『そーいやー、さっきから霧坊ん部屋で家捜ししとる奴がおるで』

「……物好きな奴もいたものだな」

『せやなー。あんな紙だらけの部屋、絶対面白ーない……って行くん?』

「ああ、主は書類を荒らされると怒るからな。片付けていないように見えて、意外と整理されているらしい」


 部屋を掃除する際に数十枚程紙を捨てた時は、思い切り尻尾を掴まれたしな……と自分の中で付け足す。どうせ言わなくとも、此奴は分かっているだろう。

 だがあの時は本気で危なかった。何時もの駄目兎っぷりは鳴りを潜め、微笑みながら長寿妖怪並の妖気と威圧感を纏ったその姿は、まさしく『主』として相応しいものだった……それが私に向けられていなければ……。

 普段との余りの変わりように呆気に取られてしまった私は、あっさりと尻尾を掴まれ……そして痛みとの格闘が始まった。余り思い出したくはないが、あの時は尻尾が千切れるかと思った程だ。

 何せ私のような猫型の妖獣にとって、尻尾というのは一番の弱点である。長年培われる妖力は自然とそこへ集められ、より上位の妖獣へと昇華することが出来るのだ。そんな大切なものが万力のような怪力で掴まれたとなれば……その痛みは筆舌に尽くし難い。『死ぬほど痛い』というのは、きっとあのような事を言うのだろう。

 ……いかんな、あの指圧だけはもう二度と喰らいたくはない。私は足を速めた。


「逃走する素振りを見せたら、足止めを頼む」

『えーで。その代わり、後でちゃんと破片抜いといてーな』

「承知した」


 相変わらずがめつい奴だ……と、私は内心舌打ちした。




















 ばらばらと紙が床に散らばる。私が腕を振るう度に、妙な絵と見たことも無い文字で埋め尽くされた紙が舞った。

 何でこんな事してるんだろう。何時もする悪戯と大して変わらないはずなのに、手を動かす度に私の中で虚しさだけが募っていく。こんな事したって時間の無駄でしかない。そんな事は分かってる。だけど手を止めるのは……それだけは嫌だった。

 どうしてこんなに悔しいんだろう。今までこんな気持ちになった事は一度もなかったのに、たった一回負けただけで、どうしてここまで悔しいんだろう。


「……やれやれ、これはまた随分派手に荒らしたな。後が怖い」

「っ!?」


 声がした。思わず一瞬身を震わせる。大地の底から響くような低い声だ。一度……いや、二度も聞いた事があるその声は、私の後ろから発せられていた。


「……何の用?」

「何用かと? ここは私と主の部屋、用があるのは総隊長殿の方ではないか?」

「それもそうだね……」


 やっぱり騙しきれないか……と、私は内心ため息を吐いた。彼の主人ほどではないが、どうも彼の相手をするのは苦手だ。高々十数年しか生きていない猫なのに、まるで全てを見透かしているような雰囲気を纏っている。少なくとも、長時間対峙したくはない。

 私は微笑みながら振り返り、口を開いた。早々にこの場から立ち去りたかった。


「まぁ、今日はこれ位で……」

「弾幕ごっこに負けた腹癒せに部屋を荒らす……か。総隊長のやる事とは到底思えんな」


 部屋を一望しながら、彼は私の言葉を遮った。侮蔑が含まれたその言葉に改めて怒りが湧いた。しかしそれを顔には出さないよう勤めた。感情を露にしてしまえば、それこそ相手の思う壺だ。

 縦に割れた一対の瞳が私を射抜く。薄暗い部屋の中、それだけがやけに眩しく感じられた。


「何を焦っている? 何を悔やんでいる?
 私に負けたのがそんなに痛手だったか? そんな事ごときでこんな下らない事をするほど弱いのか? 総隊長よ」

「……」


 違うよ。

 微笑みながらそう嘲笑う事が出来れば、どんなに良かった事だろう。多分何時ものような理由のない悪戯だったならば、そう言う事が出来たかもしれない。しかし今回は明確な理由があった。言われている事が事実なだけに、彼の言葉は酷く簡単に私の胸を抉る。

 嫌いだ。ズカズカとそんな事をいう彼が……大嫌いだ。


「答えよ、総隊長――因幡てゐ。下を向いた所で畳に答えは書いておらぬ」

「……るさい……」


 人の気も知らないでよくそんな事が言える。人の自尊心を打ち砕いておきながらよく抜け抜けとそんな事が言える。


「うるさいよ……」


 そうだ。彼は正しい。私は間違ってた。ただ本能が納得しなかっただけで、私は……。


「何で……そんなに強いのよ……」

「……」


 悔しかった。訳の分からない化け猫に……自分よりも遥かに年下の相手に負けたのが、この上もなく悔しかった。

 畳に黒ずんだ染みが出来る。何が原因なのか……今は考えたくはなかった。


「今までずっと一番だったのに、アンタよりもずっと長生きしてるのに……」

「……ふむ、やはり総隊長と言えども主と何ら変わりないな。見事な駄目兎っぷりだ」


 呆れたように呟かれた言葉に目を剥く。だが私が何かを言う前に、彼は口を開いた。


「それで、一番の座を奪われた総隊長はどうするのだ? このまま長い間腐り続けるか?
 違うだろう、因幡の白兎よ。何故奪おうと思わない?」

「っ!?」


 ハッとなって顔を上げる。彼は……未だ嘲りの表情を張り付かせていた。


「力がなければ鍛えればいい。質で敵わなければ量で戦えばいい。そうは思わぬか? 総隊長殿」

「……」


 呆然と彼を見やる。どうしてだろう。蔑んだ表情をしているのに、これじゃまるで……。


「無駄な事に力を浪費するのは止めろ。弾幕ごっこの相手ならば、何時でも受けて立とうぞ」

「ははッ……」


 力なく笑う。そうなんだ。彼はきっと、ずーっとこんな性格だったんだろう。口下手で、不器用で……それでいて、人一倍優しい。あの子も多分、さぞかし苦労してるに違いない。

 目を擦り、感情の名残を隠した。そして……。


「その言葉、絶対忘れないでね」


 私は満面の笑みを浮かべたのだった。










霧葉 ②青緑
クリーチャー 兎妖怪
森渡り
霧葉が場にある限りすべてのプレイヤーはマナ・バーンによりライフを失う時、かわりにその倍のライフを失う。
全てのアーティファクト・クリーチャーは二段攻撃と+2/+1の修正を受ける。
{T}:貴方のマナ・プールに白青黒赤緑のマナを追加する。
1/2

那由他 ⑥青黒緑
クリーチャー 化け猫
先制攻撃、速攻、トランプル、警戒
青:対象のパーマネント一つをタップする。
黒、手札から土地一枚を墓地に捨てる:対象は+2/+2、又は-2/-2の修正を受ける。
①緑:手札から土地を追加で一枚プレイする。それは速攻を持つ2/2の無色のクリーチャーでもある。
4/4




[4143] 霧葉の幻想郷レポート
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2008/10/26 12:44
提出日 七月辺り


Ⅰ.背景
 転生して早一年弱。この世界にも馴染めてきたように思える今日この頃だが、未だにぎこちない所があるのは否めない。早く馴染むためにも、こういった定期的な見直しが必要と判断した。誰に提出する訳でもなくこういった物を書くことになるとは、生前の習慣というのは恐ろしいものである。
 尚、本書は私的な物であり、情報源も少ない為に事実とは多少の相違点がありえる事を覚えていて欲しい。


Ⅱ.場所について
 この世界は『幻想郷』と呼ばれている。数世紀前――明治時代頃――に『結界』という存在によって隔離された場所である。何故そんな事をしたのか理由は不明。『外』はここの住人達にとって未開の地という事らしいが、真相は分かっていない。
 文明レベルは隔離された当初から大して変わってなさそうだ。出来る事ならば生前使っていた品々を作りたいが、何分使えそうな材料は竹ぐらいである。しかも資源に余裕はないため、実現は程遠いだろう。ちなみに耕運機は歯車比で、散水装置は流し素麺の要領で製作した。せめて鉄の部品が欲しい。
 人間と妖怪の数は大体互角程度。しかし人間は例外を除き『人里』という場所にしか住んでおらず、妖怪も種類が多いため各々の縄張りにしか生息していない様子。何にせよ私のような『兎妖怪』は非常に美味な為、双方に狙われていると見ていい。食われるのは御免である。

2-1 永遠亭
 日本形式の古い建物。しかしどこかキナ臭い。所々人の手が入っているようで、前世の『旅館』を彷彿とさせる。非常に広く、私も全体を把握しきれていない。木造建築である為火を付ければ完全燃焼する可能性大。くれぐれも火の取り扱いには注意したい。
2-2 迷いの竹林
 通称『畑』。私達『耕作班』が丹念に育てている畑があることから、この名で呼ばれる事が多い。迷うほど広く、入り込んだ人間はまず生きて出られないという。畑自体が相当広いにも関わらず人間に見付からないという事は、竹林はそれ以上の広さを持っていると予想できる。那由他は『結界』が張られている為だと言っていたが、確証が持てないためにそれは補説として書き留めておく。
2-3 子育ての家
 迷いの竹林のどこかに存在する一軒家。兎妖怪の子供が生まれた場合、一家はここへ移り住み一年を過ごす権利が与えられる。一通りの設備が整っており、非常に住み心地が良い。兎妖怪の子供はそう簡単には生まれない為にこのような制度があるのだという。割と思い入れは深い。


Ⅲ.人物について
 私の周りに居る人物のみを抜粋。ほとんどが兎妖怪か妖怪兎であるため、全ては紹介しきれない。
 まず念頭に置いておきたいのは『兎妖怪』と『妖怪兎』の違いである。昔からこの地に生息した獣型の妖怪が『妖怪兎』、近年――世紀単位を近年と称していいのかは甚だ疑問だが――人型として生まれるようになったのが『兎妖怪』である。後記する人型の総隊長は前者であり、長生きする事によって人型と化する事も出来るようだ。
 何故人型が力を有している証なのか、私自身疑問を抱いている。妖怪は人間に憧れじみた感情を潜在的に有しているのだろうか? ついでに人型の妖怪の大多数が女性というのも腑に落ちない。強者は常に女性であるという事を裏付けているのだろうか? 疑問は絶えない。

3-1 レイセンさん(別名:ウドンゲ?)
 電波な人。直接話した事はない為、これが正式名称かどうかは分からない。自称『月の兎』らしいが確証が持てない。電気もないのにどうやって月から来たのかは謎。現在は八意先生の助手をしているという。周囲から浮いた外見も相まって謎が多い。
 外見はまるで女子高生。膝まである長い髪と作り物じみた長いウサ耳が特徴。『ウサ耳の根元にある黒い物体は何か』という事を考えると、割と暇が潰せる。
3-2 八意先生(本名:八意永琳)
 完璧超人で尊敬できる人。私が生まれる時も助産婦として立ち会ってくれたらしく、足を向けて寝られないぐらい恩がある。私の命を救ってくれた名医でもある。
 永遠亭で唯一ウサ耳をつけていない人でもあり、謎も多い。兎達の話によると永遠亭が建てられた当時から生きているらしいが、やはり確証が持てない。直接聞いてみたいが、女性に年齢を問うのは明らかに鬼門だ。自分から虎の穴に入る気にはならない。
 腰まで届く三つ編みの髪と、赤青二色で構成された変な服が特徴。
3-3 総隊長(本名:因幡てゐ)
 兎の大将。悪戯が好きらしく、一度穴に落とされた。その名前と外見から『因幡の白兎』という単語が頭に浮かんだが、どんな物語だったかは忘れてしまった。かなり長生きしている事から、もしかすれば何かしらの関連性があるのかもしれない。近頃は那由他と弾幕ごっこをしている姿をよく見かける。やはり猫に負けたのは悔しかったのだろう。
 癖のある黒い短髪と、薄桃色の和風ワンピース(?)が特徴。ウサ耳の毛並みはかなり良く、私以上に触り心地がいいだろう。
3-4 那由他(命名:私)
 雄の三毛猫の化け猫であり、神の使い。その割には知っている情報が少なく、この世界の基礎知識と多少の薀蓄をよく聞かされる。何年生きればいいのか『聞き忘れた』という、使いとしては致命的な一面もある。
 『あらゆるものと会話出来る程度の能力』を持っており、その能力のお陰で私は円滑な日常生活を送っている。感謝の念は尽きる事がないだろう。
 更に、不能な私と違い弾幕を出す事が出来、近頃は総隊長と弾幕ごっこをするのが日課になりつつある。直向に私に隠しているようだがもう空も飛べるようだ。畜生。


Ⅳ.私について
 喋れない、弾幕が出せない、飛べない等々……変な所を挙げれば切りがない。妖怪としておかしいと那由他から指摘された程だ。妖怪で言うところの『普通』との相違点を改めて浮き彫りにしてみよう。

4-1 喋れない
 これはもうどうしようもない。声を発する『声帯』が無くては喋れないのも仕方がない事だ。結果としてこれはいわゆる『機能障害』として片付けられる。那由他が居る為、大して困っている訳でもない。
4-2 弾幕が出せない
 今の所、一番の問題点はこれである。妖怪として弾幕が出せないのは致命的な欠点だという。弾幕ごっこというのはその軽そうな名称とは裏腹に、人間と妖怪の長が決めた絶対的な規則なのだ。これを守らない者は危険因子と判断され、厳しく罰せられる。その罰の内容もまた弾幕ごっこなのだが……到底避けきれるものではないらしい。もしも私が規則を破ってしまえば、その後の運命は想像に難くない。
 もう一つ疑問に思う事がある。通常弾幕ごっこで負傷する事はあっても、死に至る事はまずないという。では何故私は一発の弾で死に掛けたのか。もしかすると弾幕が出せないことと何か関係があるのかもしれない。早急に解決すべき問題だろう。
4-3 飛べない
 空を飛べなくとも特に困る事はない。思いっきり跳躍すれば十メートルは優に超え、本気で疾走すれば新幹線と並べる程速い。元々空を飛んでいた訳でもない為、飛ぶことに固執する必要はないだろう。
4-4 味覚障害(?)
 要するに酒が飲めない、肉が食べれないという事である。妖怪というのは総じて酒好きらしく、私達兎妖怪、及び妖怪兎もこの例に漏れない……筈だったのだが、どうやら私は例外だったようだ。肉に関しても同様で、生焼けでもないのにどういう訳か血の味がする。強制的に草食動物にさせられた気分だった。
4-5 耳が硬い
 他の兎妖怪達との一番の違いがこれである。昔は他の兎妖怪と何ら変わらなかったのだが今はどうも勝手が違うようだ。何せ曲がらない。常時真直ぐ立ちっ放しで、他と比べると非常に目立つ。先日試験的に逆立ちしてみた所、耳で立つ事に成功した。今はバランスの問題で壁を使わなければ出来ない芸当だが、その内耳による二足歩行も可能になるだろう。
4-6 悪夢
 寝ると五割の確立で見る。常に死ぬ側の視点なので見ても楽しくはない。むしろ不快。夢を見ないほど深く眠ればいいという解決策を見出し、近頃はぐっすり三時間眠れる。ナポレオン並にしか寝てないのに疲れが残らないとは、妖怪というのは随分便利なつくりをしている。


Ⅴ.今後の方針
 しばらくは現状維持の方針をとっていこうと思う。自分の住んでいる場所すら把握し切れていないのでは後先不安で仕方がない。少なくとも、次の種蒔きの時季までは自分の仕事をすっぽかす訳にもいかないだろう。
 弾幕が出せないのは致命的なので今でも練習を続けているが、実るどころか発芽すらしていない様子。弾幕が出せない練習風景は物凄く間抜け――それこそ漫画の真似をする幼児のよう――なので昼間は決してやりたくない。だが今更止める気にもならないので、引き続き『耳による二足歩行の練習』と並行して続ける事にしよう。




[4143] 第八話 訂正……やっぱ浦島太郎だわ
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2009/01/05 09:15



 赤い。それはもうこれでもかというぐらい、俺の視界は真赤に染まっていた。別にスプラッターな惨状を比喩した訳ではなく、本当に真赤なのだ。

 ハッキリ言おう。ウザイ。

 三日前からこの『赤い霧』が発生し始めたのだが、どうも気に入らない。普通なら燦々とした日光が作物に降り注ぐというのに、これは太陽の光を七割近く遮断してしまうようで、畑はかなり薄暗かった。ついでに肌寒かった。赤い空に向かって中指を突き立ててみたが、効果はいまひとつのようだ。


『那由他、ウザイ』

「そうか、それはよかったな主。所で近頃レーザーというものを知ったのだが、主はご存知か?」

『それでこの忌まわしい霧を撃ち抜けるのなら連射してくれ。さあ今直ぐ、急げ。呼吸を整え、己を見詰め、押し寄せる流れに身を任せてオーバーキルの嵐を巻き起こせ』

「……重症だな。どうした? 憤るとはらしくないぞ」


 そりゃ俺だって完璧超人じゃないんだ。怒って何が悪い。

 俺はため息を吐いて、黙々と作業を続ける兎達を一瞥した。いや、どちらかといえば視線を向けたのは兎達ではなく、その作物の方だ。三日前は雄々しく生を主張していた草木は、今はぐったりとしているのが良く分かる。


『このクソ霧の所為で作物に影響が出たらどうすんだバーロー。ただでさえ冷夏ってのは不作の元凶だってのによ』

「確かに今は元気がないかもしれんが、不作になる事はまずないだろう」


 何を言ってるんだろうか、コイツは。俺は那由他に訝しげな視線を向けた。

 今よりも文明が発達した『現代』でも、冷夏というのは避けようのない天災だ。農村の方々がどれだけ苦労しているのか、対策の立てれない災害相手にどれだけ泣き寝入りする破目になってるのか、コイツは知らんのだろう。


「この異変の首魁も、そんな事まで望んではいないだろう。それに……」

『おい、今首魁っつったな?』


 聞き捨てならない言葉が聞こえたので、瞬間的に那由他に詰め寄る。若干引かれたが逃がすまいとその身体をガッシリ固定する。


『クックックッ……そうかそうか、俺の畑を汚すクソ野朗が居たのか……。知ってたな? 知ってて言わなかったんだな? 那由他』

「こんな異変が例年あったら困……痛ッ! あっ、主! 落ち着け! そして力を抜けッ!!」


 俺の畑を不作にするとは不届き千万。誰だかは知らんが、見つけたら只じゃ済まさん。簀巻きにして水責めにした後、穴に半身埋めて一年間作物の気分を味わって貰おう。


『那由他、お前飛べたよな。隠さなくていいぞ。総隊長と弾幕ごっこやってる最中はビュンビュン飛んでただろう?』

「がっ、だから力を……っ!」

『命令、見敵必殺(サーチアンドデストロイ)。飛べない俺に代わって元凶を生け捕り……いや、この際死体でもいーや。とにかく主犯殺って持って来い』


 ああ楽しみだ。食物の恨みは何にも勝る。それが手塩にかけて育てた作物となれば、もはや俺の子供に等しい。俺と那由他と兎達の努力の結晶を踏み躙った奴を、今度は俺達が蹂躙する……何とも心躍る復讐劇じゃないか。


「いい加減にしろッ! この駄目兎が!!」


 なゆたのレーザー! うさぎたちのだんまく! きりははたおれた!


『ドゥブッハァ!』

『隊長! 大丈夫ですか!?』


 予期せぬ報復に俺は吹き飛ばされていた。空を舞う瞬間見えた、兎達の恨みがましい視線が割と怖かった。


「……ああ、礼を言うぞ。皆の衆」


 俺、本当に兎妖怪なんだろうか……という思いと共に、俺は墜落した。















東方狂想曲

第八話 訂正……やっぱ浦島太郎だわ















 目覚めると、何故か河原に立っていました。


「は?」


 いやいや、ありえねーから。というか何で普通に声出るんだよ。おかしくね? 声帯なかったんじゃねーの? ていうか何でこんな薄暗い河原に居るんだよ。ウチの近くにこんな河原なんてあったか? いや、そもそも何故に河原?

 思わず頭を抱えて蹲る。気分は浦島太郎というより名探偵コナンだった。内心不甲斐無いおっちゃんに悪態吐きつつも『あれー? これ何だろー?(棒読み)』という定番のうざったい台詞を言い続け、時々殺人犯に狙われたり誘拐されたりする高校生探偵(笑)……多分今の状況は、間違いなく最後のヤツに該当するだろう。

 その内漫画の死亡者リストでも思い出しそうになる頭を振り、改めて辺りを見回した。とはいえ、特に筆答すべきことはない。前方にナイル川並にでかい川が横たわり、左右に河原、後方に暗闇が広がっている。しいて言うならば、河原で子供が何人か石を積んで遊んでいることぐらいだろう。

 だが、この子供たちが割と怖い。何せ青白いオーラを纏いながら無表情で作業的に石を積んでいる。これだと遊んでいるというより、働いていると表現した方が良さそうだ。石を積むだけの仕事って……どこの墓ですか。二日酔いで休めるんですね。分かります。

 とりあえず作業中のところ悪いが、ここがどこなのか聞いてみることにした。話しかけ辛い雰囲気――青白いオーラとか――何かで、人を判断しちゃいけないだろう。


「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため……」

「おう、暗っ!?」


 近くの女の子に話しかけようと思ったが、聞こえてきた歌に対し、つい癖でツッコミを入れてしまった。まぁ俺がテンション高いだけかもしれないが、それにしたってこの声色は酷い。今にも死にそうな雰囲気だ。


「おーい、嬢ちゃん暗いぞー?」

「……一つ積んでは父のため、二つ積んでは……」


 駄目だ、何か俺眼中に入ってないっぽい。石を見つめるその瞳も虚ろで……不謹慎だが、昔のドラクエを彷彿とさせる。この場合、何かしらのイベントをこなさなければ先に進めなかった気がする。あくまでゲームの話だが……。

 と、その時、遠くに居た男の子がゆらりと立ち上がり、空虚な暗闇を指差した。俺が首を傾げるのと、一斉に声がしたのは同時だった。


「鬼だ……」

「鬼が来る……」

「怖い……」

「やだ……」


 何事かと周りを見回してみれば、子供たちは皆手を止め、顔を俯かせていた。更によく見れば微かに肩が震えている。なるほど……これは間違いなく『鬼退治イベント』だろう。ここで鬼を倒せば、何らかの情報が手に入るかもしれない。悲しむ子供たちを尻目に、俺はほくそ笑んだ。

 立ち上がり、軽く身体を伸ばす。丁度いい。妖怪の怪力と鬼の怪力、どっちが強いか力比べといこう……と思ったが、よく考えてみれば弾幕を出されたら御終いだ。やはりここは先手必勝だろう。俺は近くにあった、手頃な岩――直径約一メートル程――を持ち上げた。


「ガハハハハハッ! 貴様らまたやっどぁっ!?」

  ―――バゴンッ!


 命中。岩は見事に顔面にクリーンヒットし、粉々に砕けた。

 一瞬だけ全体の姿が見えたが、いかにも『私鬼やってます』って鬼だった。二本の角と鋭い牙、筋骨隆々とした赤い裸体と股間を飾る虎パン。強そうな外見をしている割に、背丈はそんなに大きくなかった。むしろ小さい。しかし子供たちにとっては、その『鬼という存在』自体が恐ろしいものなんだろう。

 ……何か無性に腹立ってきたな。折るか。


「なっ!? 何故兎がここにっ!?」

「うっせ。子供虐めて楽しんでるペド鬼を退治しに来たんだよ、コンコンニャローのバーロー岬!」


 先制攻撃がかなり効いたのか、顔面を押さえたまま起き上がろうとしていた鬼に飛び掛る。狙うは……膝! 筋肉だらけの太ももに両足を絡め、踵を腋で固定し、背筋を伸ばして上半身を捻る。俗に言う『ヒールホールド』という関節技だ。普通ならば仕掛けにくい技だが、鬼が油断してくれたお陰か手早く出来た。隙を見せてくれてありがとう、ペド鬼。


「ぎあああああああぁあぁぁあ!!!」

「あぁん!? 最近だらしねぇな?!」


 ゲシゲシと軽く蹴られるが、姿勢の問題で余り痛くはない。むしろ辛いのは相手の方だろう。何せ膝関節を破壊する危険な技だ。普通なら全力で締めた途端に膝が壊れる筈なのだが……流石腐っても鬼と言うべきか、中々壊れてくれない。

 噛み付いたスッポンのごとく張り付いていたが、不意に身体が浮いた。次いで背中に激痛が走る。横たわったまま馬鹿力で踵落としを決められたと理解するのと、それが聞こえたのは同時だった。


  ―――バキャッ!

「のあああぁぁああ!! 足がぁああああぁああぁ!!」

「あぁん……ひどぅい。結構すぐ脱げ(脱臼)るんだね……」


 何と言う自爆だろう。『箪笥の角に小指をぶつけ、八つ当たりして再び小指を強打する』ってぐらい、アホな自滅っぷりだった。

 とりあえず膝破壊は完了したようなので、腰を抑えながら鬼の元から離れる。未だ暴れている鬼に視線を向ければ、余程痛いのか目尻に涙が溜まっていた。わーお、鬼の目に涙とか初めて見た。しかしながら悲鳴と地団太がうるさかったので、痛む身体に鞭打ち、再び付近にあった岩――直径二メートル程――を持ち上げる。

 すぐさま『ヒィッ!』と情けない声が聞こえた気がしたが、笑顔で無視。子供を虐めるような奴に手加減は必要ない。あ、でもこんなシーン見せると周りの子供達に悪影響が出るかも……うーむ……よしっ!


「ライチー・エッチー・イヤバカン♪ 子供を弄るペド鬼よ! 潰れてペーパーオーガになーれ♪」

「ぎゃああああああああああぁぁぁぁぁ!!!」


 左手は添えるだけで、なるべく地面と垂直方向に落ちるよう投げた。羞恥心? 別に知り合いが見てる訳じゃないんだから、これ位の演技は朝飯前だぜ。

 ドスンッという重たい音が響き、それと同時に鬼の泣き言が聞こえなくなった。背丈百五十センチ程度の、ゴリラっぽい猫背の鬼だったから、多分孫悟空みたいな状況になってるんだろうな。法師様が来るかは知らんけど。

 手に付いた砂埃を掃いつつ、周りを見回す……が、子供たちは皆、興味を失ったかのように再び石積みをしていた。余りにあっさりとした俺の扱いに、思わず凹んだ。

 まぁ、別に拍手喝采とか泣き付かれるとか期待していた訳じゃないんだが、それにしたってこの扱いはどうよ? 用が済んだら鼻ティッシュのごとくポイッですか。そうですか。


「うわあぁあぁああん! 皆チョコレートにでもなっちゃえーーー!!」


 居た堪れなくなって、俺は泣き真似をしながら駆け出していた。走り際に子供たちを盗み見たが、それでも反応らしきものは返ってこなかった。

 ……マジで泣いていいかな……。




















「……んがぁ……」

「……」


 傷心逃避行中に出会ったのは、寝顔が可愛いねーちゃんでした。大口を開けてほんの少しだけ涎が垂れてますが、その豪快な寝方が逆に好印象を与えてくれます。しかし傍らに置かれた鎌――何か異様にぐにゃぐにゃしてるけど、一応鎌――の所為で、余り近付きたくはありません。接触しただけで戦闘にも入らずゲームオーバーとか嫌だよ? 俺。そんなピンクで頭でっかちな生物じゃないけどさ。

 しかしこの辺りで俺の疑問に答えてくれそうな人物もこの人だけであり……寝ている所非常に申し訳ないと思いつつも、そっと鎌を遠ざけるのは必然なのだと受け取って頂きたい。誰だってチェーンソーを所持したホッケーマスクな殺人鬼とは話したくないだろう。ファンだったら『殺されてこそ本望!』とか言う奴居そうだけどな。

 ……よし、霧葉は死神の鎌を手に入れた。パパララッパッパッパー……何やってんだろう、俺。

 さて、今度はこのねーちゃんを起こさなければいけないが……。


「……んむぅ~……後でやりますって~……」

「……」


 ここで問題。目の前で美女が大口開けて無防備に寝ています。どんな起こし方をしますか?


 ①ベタにキスで。

 ②むしろベロチューで。

 ③キス? ふざけんな、おっぱいだろ常考。

 ④ここはあえて普通に……起こすとでも思ったか!?

 ⑤秘技・岩落とし!

 ④←ピッ


 俺は迷わなかった。セクハラよりも大胆に、かつ男女の仲として後腐れのない最良の選択だと思った。

 左手で口を覆い、右手で鼻を摘む。空気を一切漏らさないようにするのがポイントだ。身体が小刻みに震え、段々と顔色が悪くなってくるが、起きるまでは放すつもりはない。近くにあったはずの鎌に手を伸ばそうとする仕草が何とも可愛らしい。うむ、よきかなよきか……。


  ―――ガスンッ!

「殺す気ですかッ!?」


 あふん、やっぱ殴られますよねー。だが、こんなツッコミを待っていたッッ!! 例え地面に叩き付けられるほど強力な鉄拳制裁だったとしても、さっきの子供たちみたいにガン無視されるより遥かにマシだ。

 拳を振り下ろした姿勢のまま、ねーちゃんは肩を上下させる。俺は物理的要因によって痛む頭を押さえながら、よろよろと立ち上がった。ツッコミ期待し過ぎて河原って事忘れてた……。


「痛ぇ……」

「当たり前ですよ、手加減なしで殴ったんですから……って兎?」


 まじまじといった感じで俺を見つめるねーちゃん。何だろうか、そんなに兎が珍しいのだろうかと思っていると、ひょいと鎌を取り上げられた。だが別に襲い掛かる雰囲気もなかったので大人しくしてみる。そういや何でか知らんけど喋れるんだよな。ちょっとからかうか。


「よく聞きなさい死神美女よ、今はまだ夢の中です。だから鎌を振り回したり働いたりする時間じゃないんですよ」

「あー、なるほど。てっきり四季様が新しい起こし方を考えたのかと思ったよ。ところでアンタ何者だい?」

「私は貴方が作り出した幻影です。貴方はこれから右手で鼻を穿り、左手でボクシングをし、尻にパンを挟んだまま『いのちだいじに!』と三回言わなければならないのです。今なら美味しいトンカツの原材料になれるという素敵なオマケつきですよ」

「そりゃ素敵な話だ。トンカツが何かは分からないが、きっと兎が美味しいと言うんだから間違いないんだろうね」

「ええ、それはもう美味し過ぎて七日間で旧世界を火の海にした一族の末裔にもなれます」

「焼き払えってヤツだね?」

「よくご存知で。ちなみにアレの名前知ってますか?」

「そりゃあ勿論。アレの名前は……」

「「生体陽子粒子加速砲(オーガニックプロトンアクセラレイションキャノン)」」


 俺達はそこで固い握手を交わした。からかうつもりが、何時の間にか気の置けない友人レベルにまで関係が発展してしまった。つーかよく知ってたな、嬉しくてアメリカンホームドラマみたいに『OH! MY FRIEND!!』とか言いながら抱きつきそうだ。やったら間違いなく友情が四散するがな。


「俺は霧葉。息の根を止めようとしたりからかったりして正直スマンかった。ねーちゃんとは話が合いそうだ」

「アタシは小野塚小町。聞き捨てならない事は水に流すとして、こちらこそよろしく」


 互いに顔を見合わせると、俺達は声を上げて笑った。




















「……でね、ウチの四季様ときたら『一日十人がノルマです!』って言うんだよ? 酷い労働環境だよ、全く」

「そりゃこまっちが悪い。単純計算で一時間一人渡せばこの上もなく楽っしょ」

「確かにそうかもしれないけど……何て言うのかな、ホラ、最近暖かくなってきて絶好の昼寝日和というか、昼寝しなきゃ太陽に悪いというか……」

「ダウトッ! ここ太陽なんざ出てねーYO!」

「バレたか……。まぁ仕事なんて、気が向いたときにパパッとやればいいんだよ」

「で、気が向くのは何時?」

「さぁ? 何分着の身着のままで、たゆたう小舟のような性格だからねぇ~」

「要するに『予定は未定』ってヤツだな」

「……率直に言われると、流石の私でも凹みかねない……」


 そう言って私が項垂れると、霧坊は薄く微笑んだ。とことん変な奴だと思いつつも、まぁ出会い方自体が相当変だったからそれも仕方のない事だろうと、妙に納得してしまう自分が居た。

 ここが『三途の川』だと教えた時はかなり驚いていた癖に、すぐさま『まぁいっか』の一言で済ませるし、幽霊にも関わらずこうして天敵の死神と世間話する。本当に幽霊なのだろうか? と常々疑問に思うが、やはり長生きした妖怪となると勝手が違うんだろう。少なくとも、こうして談笑出来るのだから悪い奴ではない……と思う。窒息させられかけた身として、断言出来ないのが辛いところだ。

 しかし……本当に何者だろうか、私はチラリと岩に腰掛けて足をブラブラさせている彼を盗み見た。

 まず華奢だ。子供の外見をしているから仕方のない事だとは思うが、それにしても線が細く感じられる。同時に、着物の間から覗く素肌は酷く白い。病的な……まではいかないが、それでも雪肌と称しても何ら問題ないだろう。そして何よりも一番目を引くのは、その耳だ。一尺以上はある大きな兎の耳……ぴんと伸びている事もあり、小柄な身体が一層小さく見える。これで弱々しい態度の一つでもすれば兎らしいと言えるのだが、彼にそれを期待するのは土台無理な話だろう。

 何せ口から飛び出てくるのは軽口ばかり。その癖顔は無表情であることが多く、笑ったかと思えば瞬きする間に元通り……なんて事はざらだ。まぁ、綺麗な顔してるから別にいいんだけどねぇ……。

 そんな事を思っていると、霧坊は両手で自分を抱くような仕草をして身を震わせた。心なしか、非難の視線も送られているようにも感じられる。


「……何かこまっちの視線に、非常に不吉なものを感じたぞ」

「んー何、将来が楽しみだなぁと思ってな」


 仕返しとばかりに、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。途端に霧坊の眉間に皺が寄った。


「え? 俺もしかして喰われそう?(鍋的な意味で)」

「もっと成長したら、私もほっとかないだろうねぇ……(性的な意味で)」

「黙りなさい、これが私の完全体です」

「完全体って何さ!?」

「ナイスツッコミ。まぁ、これ以上成長はしないってこった。ウチの両親も口を揃えてそう言ってたし」


 手を振りながら苦笑する霧坊。しかし一瞬後には元の無表情へ……んー、見てて飽きが来ない。本当に変な奴だ。


「そういや、霧坊はどうしてこんな所に来たんだい? 死者以外はお断りのはずなんだけど……」

「あらら? 俺死んでない?」

「確かに寿命は相当短いけど、まだ何とか生きてるね。あ、もしかして臨死体験ってヤツかな?」

「そーなのかー。てかこまっち、今サラリと凄い事言わなかったか? 寿命が何とかかんとか~って」

「ああ、言っ……」

「詳細プリーズ」


 霧坊はぐでんと岩の上に寝転びながら、私の言葉を遮った。人に物を頼むような態度には到底思えないのだが、彼の歯に衣着せぬ言動は不思議と不快ではない。


「死神ってのはね、生物全ての寿命が視えるんだよ」

「わぉ、何と言うデスノート。ちなみに俺の寿命は後何年?」

「言っていいのかい?」

「……ごめん、やっぱ止めて」


 私がからかうと、すぐさま弱気になった。やはり誰でも自分の寿命なんて知りたくないんだろう。特に霧坊の場合は……いや、あんまり暗い所ばかり視るもんじゃないね。頭を振り、視えてしまった事実から目を背けた。少なくとも今話す事じゃないだろう。


「所でこまっち。やっぱ死神って沢山居るもんなの?」

「勿論。私は三途の川の船頭やってるけど、他にも寿命の管理、地獄の受付譲、閻魔様の裁判の書記なんかが一般的かな。宗教ごとに管轄システムが違うみたいだけど、全体で相当な数になりそうだね」

「……大手企業……いや、むしろ政治活動っぽいな。となると、こまっちは公務員みたいなもんかねぇ?」

「こーむいん?」

「んにゃ、独り言独り言」


 何でもないと言いたげに手を振り、彼は不意に私の前へと降り立った。色白な肌が羨ましいと思いつつ、私はその身体が消えかかっているのに気付く。そっか……と、妙に寂しい気分に浸りながらも、私は満面の笑みを浮かべた。


「そろそろ起きる時間だな。出来れば次は、ちゃんと死んでから会いたいもんだ」

「その時は無料で渡してくれない?」

「だが断る」

「ナイス、分かってるねこまっち」


 軽くハイタッチして、再び握手を交わした。細く小さく……けれどもちょっと硬い掌。それの持ち主は冗談の分かる兎の妖怪。手が離れたのと彼が消えるのは、ほぼ同時だった。

 再び静かな河原が戻ってくる。生命の声が響かない何時もの河原だ。人気がないことを確認すると、私は独りため息を吐いた。


「惜しいね……本当に……」


 息と共に零れ落ちたその言葉。意味を理解するのは、きっと私だけだろう。


「さて、今日ぐらいは真面目にやりますか」


 そう呟き、私は自分の舟へと足を向けた。




















 目を覚ますと見慣れた天井が目に入った。だがそれでも、テンプレ通りの台詞を吐かぬ理由にはならないだろう。むしろここでこの台詞を吐かなければ何時吐くというのだ? さぁ、耳をかっぽじって聞きやがれってんだ!


『……知らない天井だ』

「ついに自室を忘れたか? 痴呆症駄目兎」


 テンション急上昇中の俺を冷ましたのは、那由他の冷静なツッコミだった。……何でだろう、こまっちと話していた頃が懐かしく思えてきた。こまっちがノリツッコミから時間差ツッコミという高等技術まで兼ね備えた熱い相方なら、那由他のツッコミは熱いボケを急激に下げる冷えた相方だ。同じツッコミ体質だとしても、根本的なものが違っていて……まぁそんな事どうでもいいか。結局死ななかったんだし。

 身体の上に被さっている掛け布団を押しのけて、身体を起こした。軽く背伸びするとバキバキ間接が鳴る。こりゃ相当寝てたな。


『腎臓はちゃんと二つ付いてるよな』

「冗談も性質が悪いと不快にしかならんぞ、主」

『サーセン。で、この布団誰の?』


 寝ていた布団を指差す。俺の記憶が正しければ、この屋敷に来て以来布団で寝た事はない。新しい布団を運ぶのが面倒だったし、何よりも布団を敷く事で紙束のテリトリーを減らしたくなかった。それこそ『布団で寝たくなければ風呂敷を使えばいいじゃない』と、某十六世の妃並の屁理屈を捏ねるほどである。

 そこで改めて室内を見回し、紙束がそんなに移動されてない事に安堵した。そこら辺は那由他が上手く指示してくれたんだろう。しなかったら間違いなく髭切りの刑だがな。


「さぁな。永琳殿が兎達に運び込ませたから、誰のかは知らん」

『あっそう』


 起き上がり、着物を脱いで身体検査をする。……うむ、傷一つない。何時も通り、細くてひ弱なチェリーボーイみたいな身体つきだ。やっぱ妖怪って凄ぇ。けどもーちょい外見的に筋肉が欲しいぜ。どっかに宇宙筋肉とかねーかなー……。


「永琳殿が呆れていたぞ。被弾による重症はまだしも、平熱以上で働くとは何事か……とな。只でさえ危なかったというのに……」

『は?』


 え? つまりアレか? 俺夏風邪ひいたまま作業してたのか? いや、まぁ心当たりが無きにしも非ずって奴なんだが……全裸で寝たのは流石に不味かったか?

 冷や汗をかいている俺を、ジト目で睨みつける那由他。何時ぞやのドス黒いオーラが駄々漏れだ。その様子が余りにも怖かったので、俺はすぐさまその場に平伏した。


『えーっと……正直スマンかった』

「まぁ、収穫前に目覚めてくれたのは嬉しい誤算だがな」

『? 何言ってんだ那由他。まるで俺が何日も寝てたかのような……』


 ハッとなって障子の方を向く。まさか……まさかそんな事はないよな? という意味合いを籠めて那由他に視線を向けるが、奴は黙って首を横に振った。恐る恐る障子に手を掛け……一度だけ深呼吸し、一気に開け放った。

 途端に殴り込んで来る乾いた風。日差しもひっそりとしており、どう考えても夏のものとは思えない。変わらずにそこにあり続けるのは、竹林だけだった。


  ―――ピュー……

『くしっ。あー……秋だな』

「そうだな。少なくとも、褌一丁で部屋の外に出るような季節じゃない事は確かだ」


 那由他に言われ、改めて自分の格好に気付く。倦怠な動きで着物を羽織ったが、それは精神的ショック故なので目を瞑って頂きたいところだ。


『那由他、俺どんぐらい寝てた?』

「一ヶ月と少しだ。ちなみにあの赤い霧は、一週間で消えたぞ」


 何だろうか。周りに取り残されたというか、置いてかれたというか……駆けっこで亀に罠仕掛けられた気分だった。ぶっちぎりで走ってたら穴に落ちて足首複雑骨折したような感じだ。


『訂正……やっぱ浦島太郎だわ』

「……?」


 那由他が首を傾げるのを横目に収めつつ、俺は独りのたもうのだった。畜生。










きりは うさみみポケモン
たかさ 1.4m(耳含め:1.7m) おもさ 29kg
ひょうじょうにとぼしく ときおりいみふめいなこうどうをするが ちゃんといみはあるらしい
まっすぐなみみが ひそかににんき

なゆた ばけねこポケモン
たかさ 0.3m おもさ 3.2kg
かみのちからをもつ ひじょうにめずらしいおすのみけねこ
そのかちは こっかよさんすらうわまわるという




[4143] 第九話 ふむ……良い湯だな
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:5e25c8c1
Date: 2008/11/23 12:08



 油断していた。まさかこの幼い妖怪に、こんな力があるなんて思っても居なかった。いや、今更後悔したところで何の解決にもならない。今はただ、この場から逃れる手段だけを考えなければ……。

 しかし……本当にどうしてこんな事になってしまったのだろう……。私は一人、頭を抱えた。

 最初、相手は一人だった。いや、二人だったか? どちらにせよ大した脅威にはならないと思っていた。間違っていた。過去に戻れるのならば、楽観視していた自分を蹴り飛ばしてでも、この脅威を止めるべきだった。

 着々と仲間の数を増やし続ける彼――霧葉。その手は家臣達にまで届いていた。だが、気付かなかった。一人、また一人と家臣が消えていくのを眺めながら、私はまだ大丈夫だと思っていた。

 自分で溜め込んだツケは、必ず自分へと返ってくる……昔どこかで誰かがそう言っていた。では溜めていたという事に気付かなかった者には返ってこないのか? そんな事はない。気付かなかったのは、結局のところ本人の過失に過ぎない。気付かなくとも自然とツケは溜まっていたのだ。


  ―――パチンッ


 音が聞こえる。私を追い詰める音が。

 一歩一歩、ゆっくりと。けれど確実に近付いて――追い詰められていくのが良く分かる。獲物が逃げているのにも関わらず、顔色一つ変えないその精神。懐柔しておけばどれだけ良かった事だろうか……今となってはそんな考えすらも後の祭りだ。

 嗚呼、何をやっているのだろう、私は。数百年も生きたというのに、パッと生まれたばかりのこんな兎妖怪に倒されて終わってしまうのか。やはり陰口を叩いたのは不味かったのだろうか。間の抜けた事を考えながら、私は追い詰められた事を理解した。

 後悔後先に立たず。もう……逃げられない。


  ―――パチッ

「王手だ、姫君」

「……」


 三毛猫が私を睨む。声色は底冷えするほど低く、その鋭い眼光は敵意を内包していた。

 そうだった。発端はこいつだ。私がこんな珍しいものを欲しがったばっかりに……私は今、こうして苦しんでいる。悩んで、逃げて、追い詰められて……無様な醜態を晒してしまった。

 けれど……そう、最後くらいは……淑やかな姫で居よう。


「参りました……」















東方狂想曲

第九話 ふむ……良い湯だな















 そんな事よりどっかの誰かさんよ、ちょいと聞いてくれよ。将棋とはあんま関係ないけどさ。

 この前収穫が終わったんですよ、収穫。そしたらなんか暇で暇で仕方ないんですよ。

 で、那由他に聞いたら呆れた顔して、春までは休みだ、とか言うんです。

 もうね、アホかと、馬鹿かと。お前な、冬到来如きで休耕すんじゃねーよ、ボケが。

 食料なんだよ、食料。

 なんか兎達も休日モードに入ったし。皆全員でニート化か。おめでてーな。よーし今日は沢山食べちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。

 お前らな、ビニールハウス建てるから働こうぜと。農耕班ってのはな、もっと忙殺されてるべきなんだよ。

 毎日蟻みたいに働いた後の、一杯の麦飯。疲れた身体に染み渡る飯の美味さ。そんなのがいいんじゃねーか。それが分からねぇ女子供はすっこんでろ。

 で、やっと憤りが収まったかと思ったら、那由他の奴が、将棋でもどうだ、とか言ったんです。そこでようやくぶち切れですよ。

 あのな、将棋なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。得意げな顔して何が、将棋でもどうだ、だ。お前は本当に将棋をしたいのかと問いたい。問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。お前、将棋でもどうだって言いたいだけちゃうんかと。

 那由他に仕事中毒者(ワーカーホリック)と言われた俺から言わせて貰えば今やるべき事はやっぱり、ビニールハウス建設、これだね。温室設置で冬場も農耕。これが通の選択。

 ビニールハウスってのは設置する手間隙が多め。そん代わり作れば春先まで壊さないでOK。これ。で、それに季節に囚われずに農作物を育てる事が出来る。これ最強。

 しかし建設云々以前にビニール繊維も樹脂も開発されていないという問題を抱えている、諸刃の剣。素人にはお薦め出来ない。

 まあ絵に描いた餅しか作れない俺は、大人しく将棋でもやってなさいってこった。

 ……とまぁ、どこぞの文章に擬えて現実逃避がてら語ってみた。結局やる事もなかったので那由他と対局していたのだが、ぶっちゃけ弱くて相手にならなかった。いや、だって飛車角落ちで対戦しても負けるってどうよ? 五十連勝した時には、もう弱い者虐めしてる気分だった。だからつい某格闘家よろしく『俺より強い奴に会いにいく!』とか言ってしまった俺に、罪はないはずだ。

 背後から投げかけられる負け犬の遠吠えを無視しつつも、俺は将棋盤を持って徘徊。迷子になりかけたところで大和撫子っぽい黒髪美人と衝突し、暇そうだったので一局申し込んだのだ。その際、ただの勝負では面白くないという理由から、那由他を賭けたりしたのは余談だろう。負けた所で、どっちみち蹴るつもりだったし。

 しかしどうもそれが気に入らなかったのが、当の本人――那由他だった。まぁ賭けの対象になってる身としてはその気持ちもよく分かる。勝負中も殺気染みたオーラで盤上眺めていたしな。だが勝利してもう五分以上になるってのに、未だ土下座させ続けるってのはどうかと思うぞ、俺は。てか俺の膝乗んな。お前普通の猫と比べて、大分重いんだよ。


『那由他、そろそろ許したら? てかお前も重いからそこどけ』

「いいではないか。私を景品にした罪を直に感じ取れるぞ」

『はいはい、その不快さはよーく分かるからさっさとどいてくれ。負けた所で、お前を手放す気は毛頭ない』

「むぅ……」


 俺の言葉に不承不承といった感じで膝から下りる那由他。そのまま隣の肘掛に登り、腰を据えた。


「姫君、面を上げよ。主の仁恵に感謝しろ」

『……お前どんだけ態度でけぇんだよ』

「……」


 高飛車な姿勢を崩そうとしない那由他に呆れつつも、俺は目の前の人物に視線を飛ばした。一糸乱れぬその動きは、頭を上げるという単純な動作にも関わらず気品を感じさせた……が、顔を見た瞬間、何か色々と幻滅してしまった。

 いや、十分美人ですよ。和服と洋服を合わせたような奇妙な服装もよく似合ってます。だからそんなビシバシと殺気染みた目で見んといて。那由他睨んでるつもりなんだろうけど、余波が半端ないッス。傍に居るだけでヤドリギの種と同じくらいのダメージ受けるって、どんな攻撃だよソレ。


「なら、もう一度手合わせして貰ってもよろしいかしら?」

「ふん、どうせ結果は同じだろう」

「あら? それはどうかしら?」


 そう言ってほくそ笑む姫君(那由他命名)。何か俺置いてけぼりじゃね? てか那由他、お前弱ぇ癖に何言ってやがりますか。最近お前妙に腹黒くねーか? それに虎の威を借る狐とかお前らしくねーんですけど。

 まぁどうせ暇だし、もう一戦やるんだったらと思い駒を並べようとすると、姫君(?)から待ったと言わんばかりに手を取られた。微笑んだ顔はこの上もなく綺麗だったが、手に篭められた力は割と強かった。そのまま成す術もなく引き摺られる俺。何かもー……どーにでもして、気分はすっかり昔の某エアコンCMの登場キャラだった。畜生。


「次の勝負は将棋じゃないわ。これよ!」

  ――バンッ!


 はいはい、力一杯襖を開けない開けない。今の音凄く響いたぞ。本当に姫かよ、アンタ。

 そう言おうとして、それが目に入った。思わず息を呑み、目を見開く。落ちかけていたテンションは急上昇。俺は内心ガッツポーズをとった。


「さぁ、私に勝てるかしら?」


 古びた雀卓を背に、姫(仮)は不適に微笑んだ。




















「麻耶ー、姫様が麻雀の数合わせにどう? だってー」


 不意にてゐ様から声を掛けられた。場所は調理場……今の時間帯は猫の手も借りたいほど忙しいというのに、全くあの人の考える事は未だに分からない。その類を見ないワガママっぷりは、仕えて七百年以上経っても、未だに衰えというものを知らないようだ。

 私は一度意識を目の前の大鍋から外し、盛大にため息を吐いた。悠斗君が遠くで漬物を刻んでいるのを確認してから、私は口を開く。


「……なんでまた私? 夕食の事ちゃんと考えてるのかなぁ、あの阿婆擦れ」

「相変わらず旦那が居ない所だと容赦ないね……」


 てゐ様はそう言うと、引き攣った笑みを浮かべた。昔から私のそういった所に慣れなかったらしく、今でも若干避けられてる。きっと姫様の命令でもなければ、ここに来る事もなかっただろう。

 私は再び自分の能力を使いながら、大鍋に視線を向けた。姫様の遊戯よりも今は料理だ。実はほとんど完成してて、後は盛り付けるだけなんだけど、それは言わない。言えばてゐ様が『じゃあ……』と言うのは、火を見るより明らかだ。なるべく『これだけは調理長自らの手でやらなければ』という雰囲気を醸し出さなければならない。自然と私の目は真剣みを帯びていた。てゐ様はそんな私の様子に気付き、ため息を吐く。

 後一押し。それだけで諦めてくれるだろう。


「……麻耶の子が相手だから誘ったんだけどなー」

「てゐ様、場所何処?」


 ごめんなさい、やっぱり無理。

 大鍋から目を離し、てゐ様に視線を向ける。自分でも驚くほど冷淡な声だった。けどそれも、仕方ない事なのだと察して欲しい。

 だって霧葉が『あの姫様』の相手をしてるのだ。あのワガママ悪女の相手を、私の可愛い霧葉がしているのだ! 怒りを抱かない方がどうかしてる。いや、むしろ今はそれよりも危機感の方が強いだろうか。何せ霧葉はあの可愛さだ。ただそこにあるだけで心が満たされるというのに、無表情な顔が笑みの形を作った時の、あの幸福感といえばッ!

 あれは危険だ。私も片手で数えるぐらいしか見た事はないが、その時は本当に危なかった。悠斗君という永久の伴侶が傍に居なければ、間違いなく襲ってたに違いない。あの時ばかりは、自分自身の抑制力を褒めて上げたい。悠斗君ですら、霧葉を見つめる目には熱いものを籠めていた。きっと私と同じような心の葛藤があったんだろう。

 そんな可愛らしさの化身とも言える霧葉が、あの求婚する男性をことごとく振った姫と麻雀? もし姫が勝ったら……いや、霧葉が微笑んだ時点で、勝負は終わる。それだけは絶対に阻止しなければならない。これは親として……そう、霧葉の親として当然の責務だ。


「えっと、姫様の部屋で……ってちょっと!」

「急ぐよてゐ様。あなたー! お鍋お願ーい! 大体八十から九十度、沸騰させない程度によろしくー!」

「了解ー、行ってらっしゃーい」


 てゐ様の手を引き、私達は調理場を後にした。




















「……」

「……」

「……」

『……』

  ―――タンッ


 で、何だろうこの空気。無言で牌を切りつつ、俺はこの面子に若干の恐怖を感じていた。

 まず母さん。何か姫さんの事むっちゃ睨んでます。俺の視線に気付くと優しげに満面の笑みを浮かべてくれるけど、ぶっちゃけそのギャップが怖いです。妖気も駄々漏れで、水色のオーラが肉眼でもハッキリと分かります。

 次に姫さん。こっちも母さんの事すんごく睨んでます。口元に張り付かせた薄ら笑いが妙にマッチしてて、かなり怖いです。牌を叩きつける音も断トツで、毎回毎回某死神漫画のように『ドンッ!』という効果音と共に牌が捨てられます。

 そして最後に総隊長。隣の二人を完璧に無視して鼻歌交じりで牌切ってます。こんな所で余裕綽々といった顔が出来るなんて、ある意味一番の強者です。


『……下りてぇ』


 いや、何でこんなギスギスした空気の中麻雀打たねーといけねぇんだよ。もっと和気藹々とした雰囲気で打ってからこそ、麻雀ってのは楽しいんじゃないのか? まぁ『ざわ……ざわ……』な漫画があるくらいだから、そんな風に考えるのは少数派なんだろう。


『あ、その白とマッスルドッキング』

「……ポンだ」

「チッ」


 うわっ、一瞬姫さんに形容し難い位嫌な顔された。何かアイドルの素顔を垣間見たファンの心情だわ。もうちょっと外見を気にしようぜ。内心そう思いつつも牌を適当に捨てる。鳴いたはいいが、今はまだ俺の流れじゃないのを薄々感じていた。

 ちなみに今は東一局の一本場。親は総隊長で、反時計回りに姫さん、俺、母さんの順だ。前の局は全員テンパイだった為、点数に差もない。まぁ、そんなのは気休めにしかならないのが麻雀なのだが……。


「ツモ、タンヤオドラ1。千四百点オール」

「「チッ!」」

『……怖ええぇぇ!!』


 総隊長がアガった途端に響く舌打ち。発生源は言わずもがな俺の両サイド二人。空気は一気にエターナルフォースブリザード、ガリガリと物凄い勢いで俺の体力が減ってきます。平気な顔で打てる総隊長が羨ましいです。あの那由他でさえ場の空気に呑まれて口数が減ってるというのに……やっぱ総隊長という肩書きは伊達じゃない。

 忌々しげに点棒を卓に投げ捨てる両名。手渡さない所を見ればその苛立ち加減がよく分かる。……小中学校みたいに体調不良で出て行けねぇかなぁ……。この際トイレでも可だ。

 牌を配り終えて二本場。一つも揃わない字牌が五つ、初っ端から重たい荷物だ。どうせなら九種九牌で流れてくれればありがたいのだが、残念ながらこの手では足りない。畜生。ツモった六萬を入れて西を切る。とにかく今は、いかに直撃されないよう動くかが大事だ。例えノーテンで点棒を持ってかれても、麻雀というゲームは幾らでも巻き返す事が可能だ。

 回って数巡。姫さんがおもむろに千点棒を場に投げた。


「リーチ」

『んー……捨て牌から察すると萬子の清一色狙いか?』

「……そう簡単に当てられるものでもないぞ、主」


 膝の上からボソリと呟かれた那由他の言葉。俺は怪訝な顔で那由他を見やった。こう言っちゃ何だが、俺は学生時代に敵なしと言われたほどの雀士だ。連続不放銃回数五百以上という記録は、多分今でも破られていないだろう。

 どうせ俺の声は周りには聞こえないので、安牌を切りつつ話しかけた。


『どうしてそう思う? あ、音量は小さめで』

「確かに普通ならばそう考えるのが得策だ。しかし今は総隊長が居る。普通に打っては痛い目に合うぞ」

『だから何……』

  ――タンッ!

「ロン! リーチ一発三暗刻白ドラ3! 一万六千点よ!」


 思わずドキッとしたが、振り込んだのが俺じゃない事にとりあえず安堵した。放銃した母さんは……いや、目を背けたくなる程怖い顔で唇噛んでました。見るんじゃなかった……。

 そんな母さんと打って変わって、姫さんは上機嫌だ。まぁ序盤から倍満出せば、誰だってそーなる。俺もそーなる。しかし浮かれていながらにして、乱暴に投げつけられた点棒をちゃんとキャッチ出来るのは凄いと思った。つーか母さん、人に向かって点棒投げんといて。子として恥ずかしいですたい。


「んー? 調子悪いのかしら? よりにもよって倍満に振り込むなんて、貴女も堕ちたものね」

「……前回ボロ負けして、一週間水だけで生活したのはどこの姫だっけ? あ、ゴメン。姫って自称だったね」


 あ、姫さんの顔が引き攣った。ていうか自称だったのか、姫って肩書き。母さんに嘲笑された姫さんは、額に手を当てて薄ら笑いを浮かべた。だがその鋭い目だけはマジだった。


「……言うじゃない。てゐ、何時ものルールに変更するわ。巻き込まれないよう頑張りなさい」

「了解~」

「霧葉、お母さんちょっと頑張るから邪魔しないでね」

『待て待て待て待て。何コレ? 何なの? マジで状況説明して』

「承知した。母君」


 勝手に承知すんなクソ猫。断る気は更々なかったけど。だって火花見えるもん、この二人の間で。絶対錯覚じゃねーよこれ。

 確かに傍目から見たら『何このハーレム麻雀? お前ちょっと俺と代われ』って感じかもしれない。だが……マジ勘弁して下さい、てか助けて。僕死んじゃう。主に胃潰瘍とかそんな感じの理由で。現実の修羅場というものがここまで息苦しいものだとは知らなかった。今の俺はさぞかし青い顔している事だろう。

 ジャラジャラと牌をかき回す音に紛れて、那由他の声が聞こえた。


「見ての通り二人の仲は最悪だ。巻き込まれたくなければ絶対に振り込むな」

『……何時ものルールってのは?』

「大体は一荘戦と変わらんが、勝敗はハコった回数で決める。ハコる度に二万点から始め、能力、イカサマ等々ばれなければ何でもアリの青天井。最下位には一位の命令を一度だけ聞く罰ゲームが待っている」

『聞くだけ~ってのは無理?』

「殺されても知らんぞ」


 もう、ゴールしてもいいよね。俺は疲れたようにため息を吐いた。




















 で、マジな話何なのこの人達。流局が最初の一回だけってどういう事なの? 姫さんが特別ルール宣言した途端に皆本気出しやがって……役が満貫以上しか出ないとかふざけ過ぎだろ。何このプロ雀士達。確かに未だ一回も放銃してないけどさ、ツモだけでハコるとかどんだけー。

 ……というか、それ以前にイカサマ多すぎ。那由他曰く『イカサマしてる最中に咎められなければOK』らしい。お陰で現在ドラ牌が六個も捨ててあったりする……もう麻雀ってレベルじゃねーぞ。血液賭けて麻雀してるアカギに土下座しろ。


「ツモ、中のみ。百万点」

「チッ、姫は相変わらず手だけは早いね」

「あら嫉妬? 男の前でだけ猫被りする兎にしては可愛らしいことね」

「五月蝿いよ、万年貫通知らず」

「……六百歳以上歳の離れた子供を婿にしたショタコンの癖に……」

「え? 何か言った? やらず賞味期限切れ」

「ホホホホホホホホホホホホホホホ、何でもないわ発情兎」

「フフフフフフフフフフフフフフフ、それは良かった阿婆擦れ姫」


 ごめんなさい。俺が謝りますからもう終わって。マジで胃がキリキリするんスよ。麻雀打ってる気がしねぇ……アレ? 本当に麻雀やってんの? 何かもう別のゲームになってない? 誰か同意してくれ、頼むから。俺のハートは既に粉砕! 玉砕! 大喝采! もうサイコクラッシャー(三ゲージ消費技)が使えるレベルに達してマス。


「主、ツモれ」

『……うーい』


 なんて言うか、もうゾンビ状態だ。徹マンでもここまで精神的に『来る』のはそうない。あー雀卓に倒れる事が出来たダメギが羨ましい。今の状況で空気読まずにそんな事したら殺されるのは目に見えてるけど。だって皆目血走ってるもん。

 んー……ど~れを捨てればい~いのかな~? はい、どこでも白~♪(某猫型ロボットの歌に合わせて)


「ロン、人和国士無双十三面待ちドラ2、ハコったね」

「ロン、人和四暗刻大四喜字一色ドラ2、ぶっとび」

「ロン、白のみ全ドラ、一兆点」

『ハッハッハ、三家和とかお前ら死ねばいいのに。てか姫さんはマジ自重しろ』
















 主が沈んでいた。精神的な意味でも、物理的な意味でも沈んでいた。湯船の中でまるで水死体のように浮いているその様は、見てて非常に不快だった。しかしまぁ、主がこうなった原因は私にあるので咎める事は出来ない。

 結局あの三人に主が勝てる筈もなく、結果は惨敗。絶対命令権についてはしばらくの間保留ということで全員(主除く)納得した。


『あー畜生、俺は純粋に麻雀がしたかっただけだってのに、何なんだよアイツら』

「まぁそう言うな。方や前世を合わせても二十年程度しか生きていない赤子、方や数百年以上の時を生きた大人。勝敗など最初から決まっていたようなものだ」


 主は湯に浸かったまま半眼で私を睨んだ。黒い瞳に籠められた殺気が何とも心地よい。まだまだ未熟だが。


『テメェ……知ってて言わなかったな』

「私を愚弄した罰だ」

『OK、那由他。歯ぁ食いしばれ。髭一対引っこ抜いてやんよ』

「その前に上がった方がいいかも知れんぞ?」


 私がそう言うと、ピンと伸びた耳が少しだけ揺れた。恐らく衣擦れの音を拾っているのだろう。私が聞こえたぐらいだ、兎妖怪の主ならばすぐに気づくハズだ。

 主の顔が困惑に彩られていく。その様がまた何とも面白い。私は主に気付かれぬよう、独りほくそ笑んだ。


「霧葉ー、入るよ~」


 しかし、まさか母君がこんな下らない事に『絶対命令権』を使うとは思わなかった。段々と蒼白になっていく主の顔……そして、聞こえないと分かっていつつも、主は『声』を発した。


『いやあの風呂ん時ぐらいはゆっくりさせて下さい。てか母さん恥らいとか持ってるっしょ? そういうのって簡単に投げ捨てていいものじゃないし俺も男の子だし中身大人だし人妻に興味な……サーセン、昔は背徳的な響きとかが好きでした。まぁ母さんも違うベクトルで好きです。だから後生なんで一緒に御風呂とかマジ勘弁して下さい。おかあさんといっしょの企画でもこんなシーンないし放送コード的に流石に不味いってのをちゃんと理解した上でせめてタオルを身体に巻くとかそういった工夫らしきものをってマッパかよ!?』

「洗いっこしよ~♪」

『ぎにゃああああああぁぁぁぁぁぁああぁ!!!!』


 全裸で湯船に飛び込む母君。思いっきり湯が掛かったが、それぐらいは黙認すべきだろう。意味不明な叫び声を頭の片隅へ移動し、私はゆったりと桶に浸かりながらため息を吐いた。


「ふむ……良い湯だな」


 永遠亭は今日も平和だ。










霧葉
安牌を切りつつ七対子を狙う絶対防御型。ドラも乗り易く、理想的な『守り』の麻雀を展開するが、気が抜けた時に喰らった猛攻には耐え切れなかった。
戦法『いのち(点棒)だいじに』

麻耶
子の時は徹底した防御型だが、親になると異様に運が上昇し、満貫以上の手でしかアガらない。例え放銃した相手が我が子であっても容赦ない。
戦法『ガンガンいこうぜ(完全勝利)』

てゐ
高確率でドラをツモり、裏ドラも乗りやすい。能力を使用する事により、他の手にドラを乗せて満貫以上にする事も出来る。イカサマは九割九分九里見の確立で成功する。
戦法『ガンガンいこうぜ(能力解禁)』

輝夜
持ち前の激運により他を圧倒する攻撃的麻雀。イカサマをする事で倍満以上の手となる。見破る事は不可能。
戦法『ガンガンいこうぜ(完全勝利)』




[4143] 霧葉とテレビゲーム
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:5e25c8c1
Date: 2008/11/23 12:08



 戦争ってのは、何時の時代になっても嫌なもんだ。ふとした拍子にそう思った。画面の中では敵兵がボロ屑のように死んでいく。俺が操作するプレイヤーの動きはまるで熟練兵士だった。隣で姫さんが唖然としながら画面を見つめていた。
 事の始まりは何でもない事だった。ただ何時も通り姫さんの所に遊びに行くと、何故か苛立ちながらテレビゲームと格闘していた。
 最初は戸惑った。どうして電気が通ってるのかとか、何で『現代』のハード機がここにあるのかとか、頭の中が無駄な思考で満たされる。姫さんはそんな俺の内心に気付かず、マイペースにゲームを薦めてきた。FPS系統の戦争ゲーム。何度やっても先に進めないと、姫さんは愚痴を零した。難易度設定は最高に設定されていた。
 昔の懐かしさに囚われながらコントローラーを手に取った。余程白熱していたらしく、握るとそれは若干の温かみを与えてくれた。簡易な操作説明、他の兎妖怪だったらなら理解したところで、クリアする事は到底不可能だろう。ヘビープレイヤーの姫さんが匙を投げた程だ。きっと気晴らしに、俺が早々と散り逝く様を見たかったのだろう。
 爆弾マーク。付近に手榴弾。認識すると同時に近付き、投げ返す。爆音、空を舞う敵兵の姿を確認せずに視界を移す。止まれば死ぬ、それを教えてくれたのは、誰だったか……。

「やるわね……」
『……』

 突撃銃を握っていた。物心と一緒に付いてきた黒くてクソ重たい塊。渡された時からこびり付いたグリースの汚れ、強過ぎる弾の反動、撃てば熱くて仕方のないフォアグリップ。コレを平気な顔で撃てる大人が、昔は凄いと思っていた。
 射撃の練習は一日三十発――マガジン一本分。いかに速く、正確に弾を撃ち込むかを練習した。一発外すごとに頭を殴られた。弾は何よりも貴重だった。
 迷路のような建物の中を疾走する。部屋に敵兵が潜んでいるのが分かれば閃光弾を投げ入れた。乾いた音と共に突入。顔を覆う敵兵達に近付き、順々にナイフを突き立てて殺した。

『……』
「主……?」

 皆で一緒に罠を仕掛けた。愚鈍な敵を殺す罠――教えられたものに多少のアレンジを加えた時は褒められた。敵が罠に掛かった瞬間、どんな表情をするのかを想像して大人達は笑っていた。若干の時間を置いて、俺もそれに倣った。趣味の悪い冗談。生き残る為には自分を殺すしかないと思った。
 そう考えれば、後は楽だった。徹底的に物心付くまでの自分を殺し、大人に従い、一緒に歩いて一緒に戦う。猟犬と同じ生き方。人生に目的なんてなかったのに、それでも生きたいと一心に願っていた。
 照準の先に味方が入り込んだ。誤射。味方は呻き声を上げてよろめく。射撃を止めて味方の更に前へと移動した。使えない奴。リロード。かつて貴重だったマガジンは、画面の中であっさりと投げ捨てられた。

『発砲注意! 発砲注意! 味方が二階に上がる! 繰り返す、味方が二階に上がる!』
『……』

 実戦を経験したのはたったの四回。だが訓練と同じように動ける訳がない。味方同士の誤射は普通だった。時には味方の動きを見てわざと当てた時もあった。逃げる仲間は要らない。後退は必要ない。そう教えられた。
 タイミングを見計らって殺した仲間の元へと移動し、弾を奪って敵を撃った。フルオートで撃てば数秒間で無くなるのだが、弾が込められたマガジンは重く、突撃銃と一緒に携帯するのには限度があった。大人は仲間が死んだのを見ても何も言わなかった。ただ敵兵を殺した時に上げる鬨の声だけが、耳にこびり付いて離れない。そのお陰で、悲鳴の声は忘れていた。
 仲間の部隊と合流し、誰よりも早く鉛弾の飛び交う前線へと駆け出した。遮蔽物に隠れて建物から狙撃する敵兵に照準を合わせる。ボタンを押す。適度なバースト射撃。軽過ぎるトリガープル。ジャミングする事もない素直な銃は、異様に集弾性のいい弾を撃ち出し、敵を射貫いた。

『行け! 行け!』
『……』

 敵の弾は当たらない。俺達の弾は当たる。恐れる事はない、当たらない弾に価値など存在しない。脳裏に響く怒号。戦意を失った敵を殺しながら言われた言葉。それはまるで神託のように、俺の中で絶対の言葉となった。
 死体の処理は俺の仕事じゃなかったが、荷物を漁るのは別だった。使えそうな物は何でも剥ぎ取って次の実戦に備えた。銃弾は幾らあっても足りないという事はない。金と同じだ。弾数だけが物を言う。それ以外は取るに足らないものだった。
 前線突破。敵兵はもう居ない。ヘリが迎えに来て、仲間共々乗り込んだ。地面を離れる。戦場を離れる。生き残れたという事実に若干の安堵を覚えようとした瞬間、仲間のヘリが撃たれた。テールローターに直撃。くるくると回りながら堕ちてゆく。

『メーデーメーデー! こちらDeadly! 制御不能! 墜落する…!』
『コブラが墜落した! 繰り返す! コブラが墜落した! Deadly、こちらOutraw Two-Five。応答せよ!
 司令部、墜落現場を確認。操縦席から応戦しているようだ。救助許可を願う』
『Two-Fiveへ応答、核爆発が起きたら巻き込まれるぞ。分かっているのか?』
『了解。危険は承知だ』
『分かったTwo-Five。任せる。可能なら救助せよ』
『Deadly、応答出来るか? 状況はどうだ、どうぞ?』
『ここよ! ……KeatingはK.I.A.! 敵が近付いてくる! 早く助けて!』
『そこにいろ。すぐに向かう』
『……』

 仲間を助けた事は一度もなかった。仲間に助けられたことも同様だ。同年代の少年兵はあっと言う間に死ぬ。大多数が一回目の死線を乗り越えようとして、気張り過ぎて死ぬのだと聞かされた。お前の将来が楽しみだ……と言われ、頭を軽く撫でられたのを覚えている。その口元に浮かべられた笑みが、嘲りの笑みだったことも知っている。俺は従順な馬鹿であるフリをして、笑った。
 銃にこびり付いた汚れはグリースだけではない。木製のストックに滲みた黒い模様は、前の使用者の名残だろう。硬い寝床で銃を抱き、死にたくないという気持ちが一層強くなった。
 ヘリから降りて、敵兵を蹴散らしながら墜ちたヘリの操縦席に近付く。動けなくなった隊員は短機関銃で応戦していた。ボタンを押す。担ぐ。時間が押していた。自分のヘリへと足を進めた。視界が赤く染まる。被弾判定。それでも足を止めない。痛みを物ともしないキャラクターが羨ましかった。

『シーナイトへ急げ! 敵は俺達が食い止める。急げ!』
『Vasques中尉、こちらOutraw Two-Five、発つなら今のうちだ』
『了解、向かってる!』
『乗客の皆様、機長です。我々は血路を開かなければなりません! 掴まってろ! Jake、出力最大!』
『……』

 仲間を乗せて、ヘリが飛び立つ。パイロットの気の利いた冗談。緊迫した状態だというのに、自然を笑みを浮かべてしまう。こんな人が居たら、俺はもっとマシな生き方が出来たかもしれない。しかし残念ながら、周りに居たのは悪趣味な大人達。口から出たのは、作戦内容と笑えない冗談だけだ。

『こちら司令部。首都で核爆発の危険性がある。NESTの警報解除まで安全圏まで退避せよ』
『合衆国全軍に告ぐ、我々は市街地において核爆発の危険に晒されている。NESTが現場で処理にあたっている。繰り返す、我々は――』

 爆発音。画面の中にあったのは、コンクリートジャングルに突如芽吹いたきのこ雲だった。次いで来る衝撃波。それに煽られて次々と墜落してく仲間のヘリ。鳥が台風に巻き込まれるとしたら、きっとこんな感じなのだろう。回転する画面を見ながら、俺はそう思った。視界に映っていた仲間は、遠心力に耐え切れずヘリから投げ出されていた。
 まわる、回る、廻る。地面が近い。轟音、ブラックアウト。テレビはロード画面へと移った。英語のニュースキャスターの音声が入る。憶測だけの推論、部分編集、鵜呑みにする民間人……想像すればする程、苛立ちが募っていく。ロード完了。画面は戦死扱いされたキャラクターのものへと切り替わった。

『……』

 画面に映ったのは壊れたヘリの内部。苦しげなキャラクターの呻き声。真赤な視界。プレイヤーでも分かる程の重傷を負っていた。意識を取り戻さない方が幸運だったかもしれない。ふら付く足取りでヘリから抜け出す。被弾判定。着地出来ずにダメージを負った。ぶれる視界。焦点は中々合わさらない。
 外では死の灰が舞っていた。人の気配はない。強い風の音と時折聞こえる無線機のノイズだけがスピーカーから流れ出てくる。
 視点移動して、禍々しく聳えるきのこ雲を見やった。立つ、歩く、揺れる。たどたどしい足取り。もう長くないのは明らかだった。それでも近付く。ただひたすら、全てを無駄にしたその存在へと足を進めた。苛立ちは何時しか、言いようのない虚しさへと変わっていた。
 倒れた。操作不可能。視界はゆっくりと色を持ち始め、上へ上へと向かっていった。ああ、死ぬんだ。ただ漠然とそう思った。

「はぁ……意外と凝ってるわねぇ……」
「しかし、人間同士で殺し合いか。随分不毛な事をする」
「ま、これは外のヤツだからね。何考えて作ったのかまでは、私達の思うことじゃないわ」

 ……プレイヤーは呑気だ。フィルターを通した世界に居る。キャラクターがいくら死んでも、結局のところそれは本人と全く関係がない。だから二人がそう言った所で、怒る事は出来ない。落ち着けと自分に言い聞かせる――。
 死んだのは四度目の実戦での事だった。死因はいたって簡単、ただ俺の上で手榴弾が爆破しただけ。『死にたくなければ地面と同じ高さで撃て』……常に言われて続けたその言葉が、逆に仇となった。身体に突き刺さった熱と破片。痛みを感じる前に死んだのは幸運だった。
 ゲームとリアル。境界が危うくなると、前世ではよくニュースで取り上げられていた。かつて一笑していたその事実が、今は重々しく圧し掛かってくる。『今』と『昔』。記憶が混濁する。俺が一体何者なのか分からなくなる。吐き気がする。動悸が激しい。混乱する頭で、たった一つだけ結論が導かれた。限界、もう無理。

「あっ……ちょっと!!」

 姫さんの制止する声も無視してゲームの電源を切った。息を吐く。まだちょっと気持ち悪い。漉し餡をキロ単位で食ったような胸焼け具合だ。出来れば顔に出てないことを祈った。たかがゲームで気分が優れなくなるなんて格好悪過ぎる。俺は努めて明るい声で言った。

『飽きた。どうせなら格ゲーしない?』










「ちょっ! 少しは手加減なさい!」
『ほくと、うじょーだんじんけーん♪』
  ――ウィン、トゥキ

 バスケは基本です。姫さん。




[4143] 第十話 よっす、竹の子泥棒
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2008/11/23 12:11



『一つ搗いてはダイコクさま~ 二つ搗いてはダイコクさま~』


 八意永琳は後悔の念に囚われていた。あの二人の行動を、どうして許可してしまったんだろうか……外から聞こえてくる兎達の歌を聞きながら頭を抱える。

 発端は自分にある。二週ほど前の事だ。姫の命令で外出しようとした時、うっかり二人と出会ってしまった。あまり屋敷から離れない永琳に疑問を抱いた彼らは、当然ながら彼女に問うた。『これから何かの用事ですか?』と。

 勿論『姫様の敵に喧嘩売って来ます』などと本当の事を言う訳にもいかず、結局その時は『近所の人に夕飯をご馳走になる』と言ってお茶を濁したのだ。だがそれが、今になって裏目となってしまった。


「はぁ……」


 ため息を吐いて、机の上に置かれた団子を手に取って口に運んだ。甘味にしては甘さが少なくて淡白な味……そのまま食べるのは少しだけ勿体無い気がした。

 例月祭に二人が一度も参加してないのは知っていた。総隊長のてゐ曰く『あの子に餅をつかせたら臼が割れる』との事だ。今まで長時間仕事に出ていることもあってか、二人は今日までその存在を知らなかった。そしてつかれた大量の餅を見て、二人――というか片割れの猫は、霧葉の言葉を代弁した。


『お隣に裾分けしてもよろしいか?』


 ……永琳は断れなかった。邪気を一切含まない満面の笑みでそう問われては、断れる訳がない。許可を取った後の彼の行動は速かった。自分の両親に頼んで大量の団子を作ってもらい、それを風呂敷に包むとあっと言う間に永遠亭を出て行ってしまった。

 一応竹林の構図を模した紙を渡しているため、迷う事はないだろうが……それよりも気懸かりなのは、その『近所』の対応だった。

 何度も顔を合わせているため、ある程度の良識は持っているのは知っている。しかし、万が一にでも霧葉に危害が及ぶ事を考えると……永琳は自分の頭が微かに痛むのを感じた。

 前に一度、耕作班で霧葉が重傷を負った事があったのだが、その時は本当に酷い事になった。彼の両親――ある意味永遠亭を掌握していると言っても過言ではない調理長二人――がストライキを起こしたのである。普段から雑用しか任されていなかった調理班に、二人はもはや必要不可欠な存在であった。それが働かなくなったらどうなるか? ……効果はすぐに表れた。

 出される食事は質、量共に格が下がり、あちこちの班から苦情が殺到したのである。これは拙いと、永琳は霧葉の元から離れぬ二人と半日に亘る交渉を交わし、二人が不承不承納得してくれたことで何とか事態は収拾した。

 再びそのような事態に陥ってしまうかもしれないと考えると、否応にも気が沈んだ。しかも今度は半日で説得出来る自信はない。流石に『お使いに出したら死に掛けました』では、月の頭脳とはいえ弁明のしようがない。


「……はぁ」


 深いため息。何にせよ、もう二人は行ってしまったのだ。今の彼女に出来る事は、『お隣』の機嫌が良いことを祈るだけだろう。

 何気なく格子窓から覗く満月を見上げ、永琳は二つ目の団子を口へと運んだ。















東方狂想曲

第十話 よっす、竹の子泥棒















 夜分遅くにこんばんは。今夜はこんなにも月が綺麗なんで、ご近所さんにお裾分けするためにお出掛け中です。霧葉です。最近ニート化が進んでるような気がしてなりません。姫さんのゲームの相手したり、母さん達の手伝いしたり、永遠亭の部屋を片っ端から掃除したり、那由他ヴァーサス総隊長の弾幕ごっこを勉強しながら観戦したり、弾幕を出す練習をしたり、耳で歩いたりと非生産的な日常を送っております。

 ……いや、流石にやばいと思ったよ。だって今まで以上に時が進むのが遅く感じるんだもん。冬が近いってのにね。

 そんなこんなで今日も一日中働き口を探し回り、無駄な時間を過ごして終わるのかと思いきや……何気なく外をみてビックリ仰天、月明かりの下で餅つき大会っぽいのが開かれていた。面白そうだったので早速参加しようとしたのだが、総隊長からストップをかけられ、大量につかれた餅を見て『なら近所に配ろうぜ』という結論に至った。

 竹林の中に近所なんてないだろうと御思いの諸君、それは大きな間違いだ。ここの竹林は謎が多いと母さんが言ってたし、八意先生に至っては現に夕飯をご馳走になったそうだ。例え明治時代だとしても、ご近所付き合いというのは大切である。ならば俺がこうして団子を運んでいるとしても、何ら不思議ではないのだ。

 うん、ごめん。長々と語ったけど実は全体的に嘘なんだ、ただ単に俺が暇潰したかっただけなんだよ。ようこそバーボン。この調理長特性団子はおごりだから怒らないでくれたまえ、フヒヒ。


「主、止まれ!」

『うぇ?』

  ―――ガシャン!


 那由他の鋭い声によって、沈思していた俺の思考は現実へと戻ってきた。ついでに何か我に戻ったと同時に嫌な音を聞いた気がする。

 恐る恐る音源である足元に視線を落とすと……なんか黒光りする物が俺の左足に喰らい付いてました。マル。


『痛ッてえええぇぇぇ!!!』

「……何時も素足で出歩くからだ」

『素足関係ねぇ!! ……あ痛たたたたた』


 盛大なツッコミを入れてしまったが、続く激痛に思わずしゃがみこんでしまう。俺が少し動くだけでも、まるで意思があるかのように脛に喰らい付く虎挟み。こんな物をぶら下げて歩くほどマゾではないため、力業で罠を外す……うへぇ、コレ結構深ぇな……。


『那由他、何か布とか持ってない?』

「猫が服を着るとでも思うか?」

『ですよねー』


 『現代』では割と多いんだがなぁと思いつつ、傷口を見やる。ギザギザの跡が色濃く残るそこからは、相変わらず真赤な血がどくどくと流れ出ていた。残念な事に包帯は持ち合わせていなかったが、この際贅沢を言わずに帯で代用しよう。

 俺は周りに人が居ないのを確認してから帯を解き、左の太ももに巻きつけ、自慢の怪力を発揮して強く縛った――俗に言う『止血帯法』というヤツだ。八意先生直伝なので、間違っちゃいないだろう。だがこの格好は頂けない。『夜の竹林を半裸で徘徊!? これが若さか!?』……やべぇな、これは朝刊飾れるぞ。

 血の出が悪くなった傷口も、帯の余った部分で軽く拭いて立ち上がる。ジンジン――てかむしろズキィンズキィンって感じの痛みが左足に走ってるので、仕方なく片足でけんけんする事にした。幸い体力には自信がある。例え俺に『耳で歩く』という超高度なスキルが備わっていても、団子とか服とか羞恥心とか、大事なものが重力に従って落ちていくのは止められないのだ。畜生。


「大丈夫か?」

『ああ、弾幕喰らった時よかマシだ』

「……悪態を吐くぐらいの余裕はあるのだな」


 心配した俺が馬鹿だったと言わんばかりに、プイと前を向く那由他。ちょっと可愛いと思ってしまう俺はMなんだろうか……いや、断じて違う。那由他が猫の外見してるのが悪いんだ。俺を可愛い物好きと知っての行為か!?

 ……しかし強がったはいいものの、傷口は割と深い。永遠亭から発ってしばらく経つ為、今更戻るのも面倒だ。こうなったら目的地に着いたら救急箱でも貸してもらう事にしよう。渋るような意地悪な人だった嘘泣きして困らせよう。


『って、おまっ! 先に行き過ぎだアホ!』


 いつの間にかかなり先まで行っていた那由他を呼び止めた。那由他は鬱陶しそうに振り向く。


「大事ないのだろう? ならばペースを緩める必要はないと思ったのだがな」

『サーセン! 謝るんでもうちょい俺に合わせて!』

「全く、初めからそう言えばいいものを……」


 どうやら俺の強がりは最初からお見通しだったご様子。俺が近くに行くまで足を止めてくれる。うん、やっぱこいつツンデレだわ。何だかんだ言いつつもちゃんと俺の足に合わせて横を歩いてくれる那由他を横目で眺めながら、俺はそう思った。




















「まだだっ!」

「ケッ、いい度胸じゃねぇか雌チビ」


 一人の娘と一匹の狼が対峙していた。少女はその小さな身体に見合った短刀を振るうが、俊敏な狼に当たる訳がない。焦燥の念が娘を駆り立てているのが良く分かる。口を開かずとも聞こえる少女の『独り言』は、段々と絶望に彩られていく……。

 戦闘中の彼らから少し離れ、私と主は事の行く末を見守っていた。地図によればこの少し開けた場所を通り過ぎれば到着するのだが、この二人の所為で素通りする事は出来ない。それにもし迂回して通り過ぎようものなら迷いかねない。この場所で一度道筋から逸れて、同じところに出れるとは限らないのだ。


『狼ってまだ絶滅してなかったんだなー……てか喋るのか』

「……」


 呑気な事を呟く主。呆れて隣を見やるが、主の視線はあの二人――むしろ狼の方に注がれていた。然して珍しくもないというのに、主は本当に変わっている。前世の記憶を持っている所為だとは分かっているが、それでも時と場を考えるべきだろう。折角人間と妖獣が戦っている場面に出くわしたのだ。少しは水を差さずにじっと観戦したいという私の気持ちも汲み取って欲しい。

 人間というのは弱いくせに強者に挑みたがる、非常に面白い生物だ。個々の力に優劣の差が激しいのも特徴だろう。ほとんどの人間は妖怪から逃れる為に人里に住んでいるが、時折こうした変り種も居る。自ら平穏な場所から危険に身を晒して、一体何になるというのか私には今一つ理解できない。まぁ理解するつもりもないのだが……。

 狼が娘の短刀を歯で銜えた。妖怪化した狼ならではの方法だ。もしこれが普通の狼だったとすれば、顎の力が足りずに口が裂けてしまうだろう。そのまま畳み掛けるように圧し掛かる狼。人間の――しかも少女に、妖怪と化した狼を支えるような力はなく、押し倒された。それで勝敗は決したようなものだった。

 私はため息を吐いた。正直な話、娘にはもう少し頑張って欲しかった。久々に弾幕ごっこ以外の戦いが見れるかと思ったのだが、これでは肩透かしもいい所だ。

 娘の『絶叫』が聞こえる。引き攣って出せない、感情の叫びが私の耳を満たす。全く、五月蝿い声だ……己の最期ぐらい静かに受け入れぬのか。このような場所に足を運んだのならば、それぐらい覚悟していた筈だ。死を目前にして臆病風に吹かれたか……何にせよ、この不協和音が聞こえなくなるのは時間の問題だろう。私は目を閉じて、その時を待った。


「全く、人間とは愚かな……」

『魔王メイド流超奥義! サンダーキック!』

「ぬおっ!」


 存在だ、と続けようとした私の声を遮ったのは、主の意味不明な雄叫びだった。思わず目を見開くと、狼の身体に跳び蹴りを叩き込んだ主の姿が目に入る。思わぬ横槍を入れられた狼に対処する暇などがある筈もなく、その巨体は少女の上から吹き飛ばされた。無傷の右足で蹴りを入れたのはいいものの、地面を蹴ったのは他でもない左足だ。無理に力を入れた所為で血が飛び散り、当然ながら悲鳴が続いた。


『なぁああぁ! 超痛ッてぇ!』

「何をしている主!」


 主の悲鳴で我を取り戻す。普段から何を考えてるか全く分からぬが、まさかここまで愚かだったとは思わなかった。何の恩もない人間を助けるなぞ、普通の妖怪が取る行動とは到底思えない。しかも今蹴り倒したのは狼の妖獣だ。捕食される側の兎妖怪の主が敵う様な相手ではない。今のは不意をつけたからこそ当たった攻撃だ。正攻法で挑んでは……勝機は薄い。

 主は私の声を無視して転がっていた短刀を持ち、未だ呆けている娘をまるで米俵か何かのように担ぎ上げた。


『那由他、戦略的撤退だ!』

「敵前逃亡だろうが!」

『そうとも言う!』


 暴れ始めた娘を確り持ったまま、主は跳躍した。片足だけで跳んだというのに、その姿はあっと言う間に竹の葉をつき抜いて見えなくなってしまった。私も主に倣い空へと発つ。突如背後から湧き上がる殺気……主の愚行に、私は舌打ちした。




















『アイキャンフラーイ!』

「……」


 叫びながら空へと跳び上がる。暴れてた幼女も、生まれて初めての生体ジェットコースターを体験した所為か失神した。持ってる方としては大人しい方が何かと助かるので、渡りに船だ。

 ぐんぐん高度を上げていき、やがて竹林の葉の上へと到達する。雲一つ無い真暗な空には、秋の星座と丸い月が俺達を見下ろしていた。余裕があれば『まるでダイヤモンドを散りばめた中にある、一つの真珠のようだ』とキザったらしく口にしてボケをかましたい所だが、生憎今は色々と一杯一杯だ。


「人間を助けるなぞ正気か!? 妖怪としての誇りはどうした主!?」


 俺に追いついた那由他が開口すると同時に罵倒した。声色から相当怒ってるのが分かる。こんな状況で『いやん☆ なゆなゆ怖ーい♪』とか言ったら、間違いなく見捨てられるだろう。言いたかったのに……。


『いやー、何と言うか……前向きに善処致シマス』


 とりあえず悪徳政治家と同じような答えを返す。勿論内心はこれっぽっちも反省してない。妖怪としての誇り? 人間なめんなよクソ猫。悪魔だろうが吸血鬼だろうが神だろうが、何にでも勝っちまうのが人間なんだぞ。『ゲームの話だろソレ』とかいう無粋なツッコミはなしの方針で。


「待ちやがれ! この@$%#野郎!!」


 おー、やっぱり追って来るかあの狼。てかお前も飛べんのかよ。姿消せば追って来れないと思ってたのに……健気な兎の期待を物の見事に裏切ってくれたな、畜生風情が。俺もだけど。

 狼は血走った目で大口を開いた。直線方向に居るのは勿論俺、なぜなら俺は特別な得物だからです。


「来たぞ主!」

『那由他、そんなに熱くならなくていいから』


 焦燥感を露にする那由他と違い、俺は至って冷静だった。兎の天敵とも言える狼に牙を向けられているというのは、確かに薄ら寒いものを感じる。しかしどっかの赤くて三倍な人が言うように、当たらなければ意味はないのだ。


『グッバイ、畜類』


 俺はいい笑顔を浮かべながら狼に敬礼する。途端に落下し始める俺と幼女。重力加速度に重さは関係しないんだが、元居た位置からずれるのには成功した。これで初撃の噛み付きから逃れられるだろう。問題はその後だ。ハッキリ言って、今は勝てる気がしない。幼女で片手は塞がってるし、左足は重傷だし……何よりこれ以上の激しい運動で、団子がぐちゃぐちゃになるのは頂けない。自分からお使いを買って出たのに、果たせなかったとなれば格好がつかない。まぁだからと言って喰われるのも嫌だけど……。

 マジどうすっかなぁ……と落ちながら考えていると、不意に熱いものが入れ違い気味に俺の横を通り過ぎた。何事かと思い、下を見やると……そこには地獄の釜が広がっていた。


『那由他、ちょっとこっち来い! 軌道修正すっから急げ!!』

「承知!」


 那由他の足を掴み、下から放たれる弾幕の数々を前後左右に避ける。当たればどうなるか身をもって知っている所為で、自然と回避行動にも熱が入った。初めて見た火の鳥を模した弾には軽く感動を覚えたが、それが群れとなって襲ってくるとそんな余裕も無くなった。


『誰だイーグルガン連射した奴ぁぁあああぁぁぁああぁ!!』

「ぬふぅ!!」


 背後で双子の侍が達したような声がしたが無視する。てかマジヤバイ、正直イーグルガン舐めてた。至近距離で撃つドリルガンやマグナムガンこそが最強だと思ってたのに、これはその考えを改めさせられるを得ない。まぁ、そもそもアレはここまで連射出来るように設定されてないんだが……。


『那由他右! あっ、いや左斜め前方左下四十五度に行きつつ……ってストップストップ!! 一時停止!! そうそうそう……今! 六十度右下に加速!! ってちょちょちょちょちょちょちょ!! 待て待て待て待て間抜け! トンマ! 下だっつってんだろ!! 誰が後ろ下がれっつったこの⑨猫がっ!?』

「落ち着け駄目兎!! 明鏡止水の心境で明日を見詰め満月の夜に不死鳥の舞を!!」


 二人揃ってテンパる。あの冷静沈着がモットーの那由他でさえこの慌てようだ。俺の現実逃避も、誰一人咎める事は出来ないだろう。

 時間にして数十秒――俺達二人にとって数時間に及ぶ落下に、ようやく終わりの兆しが見えた。地面だ。俺は着地の姿勢を取り、右足に掛かるであろう衝撃に備える。相変わらず発生源の分からない弾幕が飛んでくるが、着地に失敗しては元も子もないので回避行動は那由他に全権委任だ。


『ピンポーン、これより着陸しまーす。皆様腰元のシートベルトをお付け下さい。ただし那由他、テメーは駄目だ』

「ふざけてる暇はないぞ!!」


 那由他の叱責に肩を竦めながらも、幼女を担ぐ腕に適度な力を込める。地面は近い。着地の衝撃を緩和させるべく、軽く膝を曲げた途端……ぬっと差し出された手に足を掴まれた。


『うおっ!?』

「何ッ!?」


 視界が反転する。折角の着地姿勢は完璧に崩れてしまう。頭から落下する以外の選択肢を奪われ、背筋が凍った。咄嗟に出来た事と言えば、目を瞑る事と幼女を抱き締める事ぐらいだった。

 一秒……二秒……五秒過ぎても痛みは訪れない。恐る恐る目を開けると、真赤なもんぺと靴が目に入った。しかも足が地面から浮いている。ああ幽霊か。何てこったい、即死かよ。助けた幼女と無理心中とかマジ笑えねぇ。


「全く……今のは私も肝が冷えたよ。まさか人質共々身投げするとは思わなかった」

「貴様! 何者だ!?」

「五月蝿い化け猫。私は今、この兎と話してるんだ。丸焼きになりたくなかったら口を挟まないことね」


 ……どうやらまだ死んでないらしい。俺はホッとしつつも足元――というか、足を掴む人物に視線を向けた。異様に長い銀髪と整った顔立ち――目が合うと軽く睨まれたが、気にせず挙手した。初対面の相手ではないのだから、挨拶はこれ位で十分だろう。


『よっす、竹の子泥棒』


 多分本人が聞けば激昂するであろう言葉を吐き、俺は人の悪い笑みを浮かべた。










霧葉 職業:駄目兎
魔王メイド流超奥義「サンダーキック」
要するにただの跳び蹴り。被弾判定あり。今回はふざけ半分で使っているが、本気でやれば当然殺傷能力がある。元ネタは多分本人と姫様ぐらいしか分からない。

那由他 職業:Not in Employment, Education or Training
気合避け
EXボスの弾幕を気合で避ける事が出来る。誇っていい。




[4143] 第十一話 団子うめぇ
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2008/12/07 12:15



 同じような風景が続く竹林――迷いの竹林。普通の人間ならば入ることも躊躇われる場所だ。そんな場所に、こんな子供がどうして足を踏み入れたのかふと疑問に思った。

 背に掛かる重みは成長期に差し掛かる子供のものだ。これ位の年齢なら、この竹林がいかに危険な場所なのか慧音に叩き込まれてるはずである。危険を承知で欲しい物があったのか、それともただ単に肝試しとして来たのか……後者だったら後で慧音にうんと御灸を据えてもらおう。ここは、肝試しに来るには行過ぎている。

 ……いや、いい加減現実逃避するのは止めるとしよう。私は深いため息を吐き、足を止めた。同時に後ろで止まる気配が二匹分――不快な表情を隠さずに振り向き、問うた。


「で、何時までついて来る気?」


 背負ったこの子供を狼から助けたという、変わった二匹組み――無口無表情な兎妖怪とやけに上から目線の化け猫――は、互いにキョトンとした表情を浮かべた。しかしそれも一瞬の事、兎は更に後ろを向き、猫は自分の主人の馬鹿さ加減に呆れた。


「主、紛れもなく私達の事だ。背後霊なぞ居るわけないだろう」


 わざとらしく身振り手振り付けて戯ける兎。けれどもその表情は変わる事はなくて――。


  ―――ボウッ

「そんなに焼き鳥になりたい?」


 何時の間にか、私は指先に炎を纏わせていた。何故だろうか、この兎の何気ない挙動一つ一つを見る度に、私は自分の中で苛立ちが募っていくのがよく分かる。やっぱりさっき捕まえた時にでも丸焼きにしてしまった方が良かったかもしれない。

 狼から守ったと言う割に、負ってる傷はどう見ても私が仕掛けた『虎挟み』による物だし、その狼の姿も確認出来てない。第一、妖怪が人間を助けるなんてのはただでさえ眉唾物の話だ。燃やされたくないが為に口から出た妄言だったという可能性は十分にありうるだろう。

 だが、疑いの目を向けても、獣が忌み嫌う炎を見せ付けても、兎の表情が揺らぐ事はなかった。猫の方は瞬時に構えたというのに呑気なもんだ。


「……何が琴線に触れたのかは知らぬが、一先ず矛を収めて貰えぬか? 私達は争いに来たのではない」

「へぇ……じゃあ何しに来たの? どうせお前達は輝夜の使いだろう?」


 いけしゃあしゃあと嘘を吐く化け猫。殺気を込めた目で睨む所為か、その言葉には説得力の欠片もない。まぁその方が、こちらとしても後腐れなく『駆除』する事が出来る。まさに渡りに船だ。全く、こんな低級の妖怪を寄越すなんて、輝夜も何を考えてるんだか……。

 掌の中で炎が渦巻いていく。この程度の妖怪なら片手で十分過ぎる。高飛車な態度をとり続ける化け猫に標準を合わせ……その身体が地面に押し付けられた。


「ぐっ、何すッ!」


 喋ろうとして更に踏まれる。血だらけの足に押し潰された化け猫は、意味不明な呻き声を発するだけのぬいぐるみと化した。予想外の展開に、私も思わず呆気に取られてしまう。

 自分の猫を踏んだ兎と、視線が合った。相変わらずの無表情の中、黒い一対の瞳だけが濡れた黒曜石のような冷たい輝きを放つ。そこには何の感情の色も浮かんでおらず……怒りによって昂った心が、急激に冷めていくのが分かった。これがこの兎の能力なのだろうか? だとしたら何時かの狂気の兎とは大違いだ。

 兎は一片の紙切れを取り出して差し出した。一言も言葉を発しなかったが、ただ『取れ』とその瞳が語っているような気がした。ぞんざいに紙切れを受け取り、広げて内容に目を通した。書いてあったのは、この竹林の全体図だった。しかもそこに記された目的地は……。


「……私の家か……」


 紙から兎へと視線を戻す。真直ぐ伸びた一対の耳、整った顔立ち、肌蹴られた着物……帯で止血を試みた血塗れの足。先ほどまで抱いていた敵意は、もう私の中には無かった。ただそれと取って代わって、見苦しいという気持ちが沸々と湧き上がってくる。

 近付き、腰を掴んで腋に抱える形で持ち上げた。全く抵抗しなかったのはちょっと驚いたが、思えば怪我した足で立っていた方が辛かったのかもしれない。自分の主人に踏まれた所為か、あれだけぎゃあぎゃあ喚いていた化け猫も今は大人しかった。

 改めて歩みを進めた。さっきより子供一人分だけ増えた重み……だが足取りに変わりはない。家へと足を向けながら、昔と比べて随分甘くなった自分自身に、私は思わず苦笑した。















東方狂想曲

第十一話 団子うめぇ















 いやー一時はどうなるかと思ったけど、やっぱ人間話し合いが一番だなと痛感した。『目で語る』とか初めて試したけど、意外と伝わるもんなんだな。次は『目で殺す』とかやってみっか。多分無理だけど。


『で、話し合いの大切さはよー分かったかい? 見ず知らずの他人にいきなり喧嘩売った那由他くん?』

「……」


 運ばれながら、足元――厳密に言えば泥棒姉ちゃんの足元――に居る那由他に笑顔で問い掛けてみる。さっきはコイツの所為でマジ死ぬかと思った。泥棒姉ちゃんの殺気マジパネェッス。てか那由他踏まなかったら、間違いなく俺もとばっちり受けて焼かれてた。通訳してくれるのは助かるんだが、色々ともーちょい自重して欲しい。

 しかしそんな俺の想いとは裏腹に、非常に不機嫌そうな表情を向けるなゆなゆ。将棋で五十連敗した時ですら、も少しマシな顔してたかもしれない。どうやら彼の辞書に『反省』という単語は載ってないようだった。むしろ『闘争本能』とか『喧嘩上等』、『力こそ正義』みたいな単語が山のように載ってそうだ。多分今の那由他の中で、俺はヒエラルキーの底辺に位置づけられているかもしれない。うむ、下克上の日は近そうだ。とりあえず背中には気をつけるとしよう。


「遅かったじゃないか妹紅……何かあったのか?」


 泥棒姉ちゃんとは違う声が響き、何事かと顔を上げると……真赤な目をした美女と目が合った。腰まで届く白髪と、頭から突き出たロングホーン。しかもよく見るとスカートからは尻尾らしき物まで……つくづくこの世界は人外――そして美形――が多い。

 ……ところでどうして俺をそんなに睨むんデスカ? 泥棒姉ちゃんの時もそうだったけど、兎妖怪って実は嫌われ者? まぁ確かに腹黒い人――母さんとか総隊長とか――は多いけどさ。


「んーちょっとした人助け? 後、これは夜食」

『ちょっ!? マジかYO!?』


 あ、もしかして俺選択ミスった? 死亡フラグを華麗に回避したつもりが、実は直撃してましたー的なアレですか? 畜生、美人な姉ちゃんを信じた俺が馬鹿だったぜ!!

 早々と抜け出そう奮闘するが……どこにその怪力があるのだろうか、腰に回された腕からは一向に逃れられない。てか、何かちょっとづつ絞まってきて感が……ちょっ! 苦しい! 苦しって! ギブギブギブギブ!!


「……大丈夫か? ソレ。何か必死にもがいているようだが……」

「ああ、死にはしないさ」

  ―――パンパンパン!


 ぐぇ……更に絞まっ、何かミシミシ言ってるYO! ギブギブ! ギブっつって、サーセン調子こきました! あぅっ! 死ぬ死ぬ死ぬ! 絞まる絞まる絞まる! 折れるって! どうせならベアバックでお願いします!! 胸ん中でだったらまだ耐えられる気が……おぅんっ!


『なっ、那由他! 見てないで助けろや!!』

「……」


 いやん、そんな汚物でも見るような目で見んといてアッーーーーー!!


「……事切れたな」

「呆気ない」




















 不甲斐無いと思う。今まではまだ目を瞑ってこれたが、今回の事を見過ごすのは……無理だ。それは私の自尊心が許さない。縁側にて、もう既に見慣れた竹林を眺めながら、私は一人ため息を吐いた。


「どうしたんだ? ため息を吐くと幸せが逃げるよ」

「フン、だとしたら私の幸せは、もう何年も前に逃げているさ」


 隣に紅白の人間が腰を下した。確か連れの獣人が『妹紅』と呼んでいたような気がする。ふむ、妹紅か……強大な力を持つ割に随分可愛らしい名だ。

 チラリと彼女の顔を盗み見る。憂いを帯びた表情で月を眺めるその姿は、少なくともあれだけの弾幕を飛ばした張本人には到底見えないだろう。これで妖怪だというのなら納得もいくのだが、生憎この匂いは人間以外ありえない。獣の匂いも妖の匂いもしない、人間特有の個々の体臭がそれを裏付ける。

 だがただの人間がそこまで強くなれるとは聞いたことがない。噂で聞いた博麗の巫女ならば話は別かもしれないが、この人間は博麗の巫女ではないし、本の匂いもしない為に魔法使いという線も消える。……だとすると、彼女は一体何なんだろうか?

 己の中で疑問が水泡のように湧いては消えていく。私がそんな事を考えているとは露知らず、彼女は団子の乗せられた皿を置いた。ふと目が合った瞬間、次に彼女が何を言いたいのかは直に分かった。


「と」

「毒なぞ盛っておらぬ。今宵の訪問は姫君の命ではなく、主の独断だ」

「……そっか」


 そう言うと、彼女は竹林の葉の隙間から微かに見える月を見上げ、少しだけ形の崩れた団子を口へと運んだ。

 ……私の能力は便利だと思う反面、中途半端だとも感じる。相手が何であろうとも、言いたい事があれば聞こえてしまう為、事実と嘘を見分けるのは簡単だ。交渉次第では地の利さえも此方の味方につける事が出来る。しかしその為には、巧みな話術が必要となる。力を授かった時はそれこそ有頂天だったが、十年もの月日が経った今では、自然と会話する事が億劫になってしまった。お喋りが過ぎて痛い目を見たのも、一度や二度の事ではない。そして私は学んだのだ。『沈黙は金、雄弁は銀』という事を……。

 一言も言葉を発さない彼女に目を向け、頭から足、手先に至るまでじっくりと観察する。肌の張り、髪の質、胸の膨らみ……どこを見ても若々しい人間のそれだというのに、大樹のようなこの寡黙さは何だ? 何故人間が妖獣の私よりも高みに居る? いや、そもそも私の目の前に居るのは、本当に人間なのか(・・・・・・・)


「慧音が」

「っ!」

「感謝してた……ってどうしたんだ? いきなり飛び退いて」

「……いや……すまぬ。少し考え事をしていた」


 咄嗟に声を掛けられた所為だろう、私は反射的に彼女から距離を取っていた。謝りつつも、やはりこの人間には敵いそうもない事を理解した。何の前兆もなく話し掛けられたのはこれで二度目だ。一度目は『あの』大妖怪が相手だったが、その時は本気で死を覚悟した。出来ることならばこういった輩には、もう二度と会いたくはない。

 静かに元の位置へと戻った私に、彼女は何か考えるような仕草を見せた。『声』は聞こえない。相当な精神力が無ければ成し得ぬ業だ。


「んー……あの兎の事?」

「……それもある」


 ずいっと顔を近付けられた為か、思わず視線を逸らしてしまった。頭の中では先程の場面が繰り返される。自業自得な人間、捕食者の妖怪、人間を助けた主……そうだ、私には目の前の人物の事よりも重大な問題があったのだ。考えるだけで頭が痛くなる問題ではあるが……。


「全く、何を考えているのやら……」

「ん?」


 ハッとなって自分の犯した失態に気付き、その軽率さを恥じた。だが意識せず考えを口に出すとは、実は相当参っているのかもしれない。原因は言わずもがな私の主。そもそも最初に主が『お使いに行く』などと言い出さなければ、私がこうして心労する事にもならなかっただろう。

 ……過ぎてしまった事を嘆いても仕方ない。私は意を決して、人間と目を合わせた。


「お前は主をどう思う?」

「あの兎?」

「そうだ」


 チラリと後ろの居間を盗み見る彼女――それに倣い、私も静々と視線を向ける。そこでは一人の獣人が手際よく主の手当てをしていた。出会った時は射殺さんばかりに主を睨んでいたというのに、事情を話した途端この扱いだ。余程人間を贔屓にしていると見える。

 妖怪である獣人が人間側に付く事は、然程珍しい事ではない。誰だって身近に住んでいる生物には愛着が湧く。妖怪と言えども日中は人間と何ら変わりない獣人にとって、人間こそがその『身近に住んでいる生物』なのだ。

 しかし、主は違う。主はれっきとした『妖獣』だ。妖獣は人間に危害を加える事はあっても――その人間に恩があれば別だが――助ける事はまずないと言っていいだろう。そもそも妖獣には『異種を助ける』という概念がない。その反面同種の繫がりが深く、仲間意識が非常に強い。

 更に主は、妖獣の中でも下位に位置する兎妖怪だ。いくら普通の人間より強いとはいえ、妖怪退治を生業とする人間には勝てないだろうし、捕まえられればそのまま食肉とされてしまうだろう。

 幻想郷で兎の肉ほど高級な食材はない。それが妖獣の物となれば当然その価値も跳ね上がる。兎がこの竹林以外に生息していないのは、捕食者達の所為だ。

 だから主が何も考えずに人間を助けた時は、思わず我が目を疑った。

 何故愚かな人間を助けるのか。

 何故自らの天敵を助けるのか。

 何故自ら敵を作るのか……私には理解出来なかった。


「変わり者」

「……そうか」


 私はため息を吐いた。分かってはいたものの、改めてこう答えを突きつけられるとやはり堪える。そんな様子の私を見かねたのか、彼女は新たな団子を頬張りつつもフォローを入れた。


「いいや、悪い意味じゃないよ。確かに妖怪としての常識には欠けるかもしれないけど、私はそんな変り種が居てもいい気がするんだ」

「……私はそうは思わぬ。使うだけ使い、何にも出来なくなればあっさりと切り捨てる。そんな人間に手を貸して一体何になるというのだ?」

「変な所に焦点を絞る猫だね……そんな人間は少数派だと思うんだけど……」

「本当にそう言い切れるか?」

「……」


 その問いに彼女は押し黙った。そして私から視線を外し、月を見上げる。やはり彼女も同じか……と、私は内心呆れた。どんなに力を持ったとしても人間である事に変わりはない。人間本位の考え方しか出来ない彼女に、私は失望の色が隠せなかった。


「……性善説って知ってる?」


 不意に声が投げかけられた。当の本人は未だ空を仰いでいる。答えを求めている問いではなかった為、私は静かに耳を傾けた。


「私の友人にそれを信じて止まないのが居てね。人間だった頃からずっと信じ続けて……妖怪となった今でもそれを信じてる」


 私はそっと後ろを振り返る。獣人の後姿が目に入った。マイペースに揺れる尻尾を見る限り、こちらの話は聞こえてなさそうだ。


「話をする時は何時も人里の話ばかりで、やれ新しい生徒が来ただの、やれ収穫祭は大成功だっただの……そんな日常的な事を、本当に嬉しそうに話すんだ」

「……ふむ、変わり者だな」

「だろ? お人好しだしお節介焼きだし……善意の塊みたいな奴さ」


 そう言って、彼女は満面の笑みを浮かべた。歳相応の純粋な笑みだ。私が人間であったならば、その表情にときめいたかもしれない。だが私は猫だ。そんなもので絆されるほど甘くはない。


「それで、結局何が言いたいのだ?」

「……空気読めない猫ね……まぁいいか。要するに人間は基本的に善人だって事だよ。慧音自身は元より、妖怪と化した彼女を受け入れる人間もまた然り。全ての生物の根本には善があるのさ」

「本気で言ってるのか?」

「勿論」


 私は不快感で顔を歪ませた。正彼女の言葉はただの理想論にしか聞こえない。やはり聞くだけ無駄だったな……と、私は深くため息を吐いた。

 人間全てが善人……それが事実ならばどれだけ良かった事だろうか。人間の本質を知ってしまった私には、彼女の全てが虚言に思える。所詮私達は人間と妖怪……相容れる事はないのだ。


「慧音が何度もそう言うから、私も信じてみたいのさ……」

「……そうか」


 そこで会話を打ち切り、思想の違う私達は揃って月を見上げた。




















 もぐもぐと最後の一個となった団子の味を噛み締める。歩きながら食べるのはマナー違反かもしれないが、分かってやっていれば問題ない。間違っている事をあえて行うこの背徳感に勝るものはないだろう。無論嘘だが。

 実のところ、泥棒姉ちゃん――もといもこたん――の家でのんびりしてる時間がなかった。何故か知らんが那由他に叩き起こされ、寝ぼけ半分でバイバイって流れになったのだ。お陰で俺の寿命がストレスでマッハだ。美人な姉ちゃん達と一緒に団子を食うという素敵なシチェーション返せ。


『団子うめぇ』

「黙れ。さっさと帰って寝るぞ」


 ……本当にどーしたんだろうか、那由他は現在進行形で不機嫌だった。あの二人と別れる時も苛々してたし、何時も通りのボケに対するツッコミも鋭過ぎて一言で切り捨てられる始末。俺が寝てる間に何かあったんかね? それこそ常時黒いオーラ出し続けるような不快な出来事が……。

 しかし、俺にはそんな場面がちっとも想像出来ない。もこたんは正義感の強い人で、けーちゃん――ロングホーンの人――はそれなりに面倒見がいい人。それにウチの理知的ななゆなゆを加えた三人でトラブル? 俺の豊かな妄想力でもイメージ出来ねぇや。

 思わずため息が出る。考えても答えは出そうにない。こういう時は本人の口から聞くのが一番手っ取り早いのだが、那由他の場合は答えてくれなさそうだ。これは自分から言い出すのを待つしかないだろう。

 かさこそと笹の葉を踏み締め、帰路を歩む。けーちゃんのお陰で左足は治療済みだ。応急処置だと言っていたが、妖怪の回復力は馬鹿みたいに高い。何せ死に体から一ヶ月弱で回復したのだ、無理をしなければ一週間ぐらいで完治するに違いない。今度来る時はけーちゃんにお礼の品でも持って行くとしよう。


『なー那由他ー』

「何だ」

『角っつったら、やっぱ赤だよな』

「お前がそれでいいと思うのなら、それでいいのではないか」


 うわっ、何この素気ない態度。しかも振り向きもしないで返答しやがった。アレですね、下克上の為の精神攻撃ですね分かります。

 ……あーやっぱ駄目だ。どーもこういったギスギスした空気は好きになれない。百パー悪態吐かれるだろうけど、とりあえず聞いてみっか。


『那由他、やっぱお前何か変だぞ? 何かあったのか?』

「……」


 ピタリと、俺の前を歩いていた那由他はその歩みを止めた。あれ? もしかして地雷踏んだ? 予想ではここで「五月蝿い」とか「黙れ」って感じの返事が返ってくるかと思ったんだけど……。


「主は……」


 一陣の風が吹き、頭上高くにある竹の葉がざわめき出す。まるで映画か何かのワンシーンみたいに、那由他はゆっくりと振り返った。そして……。


「一体何者なのだ?」


 ただ一言、俺に問うた。




[4143] 第十二話 伏せだ、クソオオカミ
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:b7c0092b
Date: 2009/01/05 09:16



 一人の幼女が竹林を歩いていた。その場所を良く知る人物なら、何故こんな所に……とでも思うかもしれない。

 だがそれも一瞬の事。次に目にするその特徴的な『耳』を見れば、誰もが納得するだろう。

 灰褐色の髪から飛び出た一対の耳。小さなその身には似つかわしくない僧衣――丈を合わせる為に破いた所為か、損傷が激しい――と臀部から垂れた尻尾。暗闇の中で爛々と輝く金色の瞳だけが彼女の本性を表していた。

 唐突にその足が止まった。目を閉じ、耳を澄ませ、二つの感性を高めて『獲物』の場所を確かめる。


「ふむ……」


 ピクリと、鼻先が動くと同時に笑みが浮かんだ。あどけない子供の笑みだ。無理もない。御馳走が目の前にあれば、誰だって自然と顔を綻ばせる。しかもまだ手付かず――『狩り』も楽しむ事が出来る。自分の手で『獲物』を殺す様を想像して、彼女は思わず身を震わせた。

 しかしそこで気付く。今『狩り』に参加しているのは自分だけではないのだ。のんびりとしていては他の誰かに取られてしまうかもしれない……そんな考えが、一瞬脳裏をよぎった。

 頭を振る。『獲物』は仲間の一匹を倒したのだ。他の者達もいくら妖怪化したとはいえ、まだまだ尻の青い若者――獣型妖怪――ばかり。人型妖怪を狩るのも初めてだ。自分達の力を過信する余り、相手の力量を見誤る可能性は十分にありうる。いや、出来ればそうであって欲しい。そうでなければ私が楽しめない(・・・・・・・・・・・・・・)

 まるで恋する乙女の様に彼女は胸をときめかせた。殴り、蹴り、締め上げ、最後は喰らい付いて殺す。好き好んで殺される者は一人としておらず、今までの『獲物』は皆抵抗して死んでいった。『獲物』が最後の最後で見せる、火事場の馬鹿力――それを全力で潰すのが、彼女は堪らなく好きだった。

 目を開き、歩みを再開した。走るなどといった野暮な事はしない。普段は優雅に、狩る時は嬉々として……もう何十年も前に教えられた事は、未だに彼女の中に残っている。

 そして、それを教えた人間もまた……。















東方狂想曲

第十二話 伏せだ、クソオオカミ















 苛々する。堪え切れない怒気が、私の中で渦巻いているのが分かった。それもこれもこの駄目兎の所為だ。私より遥かに体格の大きい狼の攻撃をかわしつつもそう思った。

 襲われたのは数分前、駄目兎が私の問いに答えた直後だった。唸り声、怒号、肉を殴る音。それらが一連のものとして響き、私達は襲われた事を理解した。半ば反射的な行動だった駄目兎は殴った狼の事を心配していたが、そんな余裕もすぐになくなった。低い唸り声。囲まれたと気付いた瞬間には、狼達の猛攻が始まっていた。

 狼は全部で四匹――その中には妹紅の炎で焼かれた筈の者も居た。しかし焼かれたとは言え、あれは所詮弾幕の炎。体毛の一部分が焦げている程度で、動く事に支障をきたすものではなかった。駄目兎ならば一撃で丸焦げになるかもしれないが、普通の妖怪は弾一発如きでは死なない。恐らく撃墜された後自分達の縄張りに戻り、仲間を呼んで来たのだろう。標的は間違いなく……駄目兎だ。

 敵の攻撃を避けつつも駄目兎を見やる。こちらは例の焦げた一匹を相手にするので精一杯だ。それに比べあちらは三匹……しかも団結力まで高いらしく、絶え間ない攻撃で駄目兎を翻弄していた。


「くたばれこの野郎!」

『だが断る!』


 ……翻弄? いいや、よく見れば駄目兎は全ての攻撃を紙一重で回避していた。持ち前の反射神経が成せる業だろう。しかしそれも、精々飛び掛ってくる狼をいなす程度のもの。負ける事はないだろうが、同時に勝つ事も出来ない。ジリ貧になるのは目に見えていた。

 真一文字に結ばれた口と、道端の石でも見詰めているかのような瞳。こんな時であろうとも、駄目兎の表情は変わっていなかった。だが『声』は……その声色はどこまでも楽しげだった。まるで狼達と遊んでいるかのように『声』は響き続け、その身体は絶え間なく襲い掛かる牙をいなし続けた。


『ほーれほーれ、折角三人居るんだから、ジェットストリームアタックでもかけてみな。俺アレ好きだから当たってやっぞ~』

「戦いの最中に余所見かよ、チビスケ」


 その声を聞いた瞬間、私は反射的に飛んでいた。元居た場所を通り過ぎる灰褐色の塊。その際聞こえた牙の合わさる音は、まるで虎挟みが襲い掛かってくるかのような錯覚を覚えさせる。攻撃方法も噛付きか飛び掛るの二者択一。比喩表現としては間違っていないだろう。

 何時までも空を飛んでいる訳にもいかず、地面に足を着く。弾幕を一切使わない奴が相手では、宙に浮いたところで体の良い的にしかならないのは分かっていた。

 ……そう、此奴らは弾幕を使わないのだ(・・・・・・・・・・・・・)

 考えてみればそれも頷ける話だ。弾幕ごっことは死なない事を前提とした勝負方法、獲物を捕らえる為には向いていない。そもそも『狩り』というのは、獲物の生死など問わないのだ。捕らえた時に生きていようが、腹の中に入ってしまえば死ぬしかない。結果、弾幕ごっこなどといった面倒な勝負は不要となり、純粋な己の力だけで獲物を狩る事となる。

 私にとってこの状況は非常に不利だった。相手が三匹とは言え、まだ駄目兎の方が分があるだろう。


「余裕……って訳でもなさそうだな」

「狼に気遣われる程、私は堕ちていないぞ」

「……上等じゃねぇか。それでこそ喰らい甲斐があるってもんだ」


 空気が張り詰める。現状は人間で言うところの『果し合い』に似ているかもしれない。しかし私が短刀なのに対し、相手は薙刀――圧倒的に此方側が不利だ。相手もそれが分かっているらしく、口元に歪んだ笑みを浮かべていた。

 悪態を吐きたい衝動に駆られる。駄目兎が人間なぞ助けなければ、こんな無駄な争いに巻き込まれる事もなかったというのに……。


「死に曝せ!」

「まだ死ねるかッ!」


 飛び掛って来る狼の攻撃を避けつつ、私は此奴を殺せる『武器』を探していた。




















 駄目兎――霧葉は楽しんでいた。今を……絶え間なく襲われ続けているこの一分一秒を楽しんでいた。霧葉にとって、今の状況はただの『遊び』でしかなかった。

 前後左右、三百六十度から飛んで来る狼の牙は確かに脅威だ。その威力は先程掛かった虎挟みと同等かそれ以上。当たれば身体の自由は奪われ、他の二匹と共に物言わぬ骸と化すまで喰らい尽くされる事だろう。

 命懸け。そんな単語がしっくりくる現状にも関わらず、霧葉は有頂天だった。理由は分からない。だが狼達の攻撃を避ける度に、獣臭い匂いが鼻先を掠める度に、不思議と心が躍った。

 狼達は低い唸り声を発する……苛立っているのは確かだ。彼らは何時も三匹で『獲物』を狩っていた。獲物に休む暇を与えず、着々と体力を奪うこの方法は、彼らが最も得意とした狩猟法だった。今までこのやり方で狩れなかった獲物は居ない。だからこの兎も楽に狩る事が出来る……最初はそう思っていた彼らだが、一向に疲れの色が見えない霧葉に対し、次第に苛立ちを募らせていった。

 彼らの追撃は続く。一つの牙が時折二つになり、一瞬の間を置き三つとなって襲い来る。霧葉は避け続けた。常に必要最低限の動きで横へと下へと上へと回避……生前だったならば、数分で息が上がってしまっただろう。しかし『今』彼は妖怪――その小さな身体に内包する力は、人間の比ではなかった。

 霧葉の足取りは軽い。左足の傷が開き始め、包帯では許容しきれなかった血が白い足を穢しても気にしない。ただひたすら、狼達と終わらぬ乱舞を舞い続けた。




















 私がまず欲したのは『変化』だった。このまま避け続けるのは得策とは言えない。かと言って、反撃出来るような『武器』はない。恐らく弾幕も、此奴相手では目眩し程度にしかならないだろう。

 戦況は絶望的だ。だからこそ、対策を考える為の時間が欲しかった。身体を動かし続けていては浮かぶはずだった名案も浮かばない。着々と体力が奪われ、思考回路が上手く回らなくなってきているのが良く分かる。此奴の狙い目はそこだ。

 一瞬でも隙を見せれば、次の瞬間挽肉と化す私が脳裏に浮かぶ。焦燥感が私を攻め立てる。明確な死の未来図が私の心臓を鷲掴みにする。

 歯を食いしばり、嫌な想像を頭から抹消した。死んで堪るか。力を手に入れ、十年という時を待ち、あろう事か『餌』である兎妖怪の下にまで就いたのだ。『目的』を果たさぬまま死んでは、今までの事は全て水泡と化してしまう。そんな事は……それだけは……ッ!


「絶対に認めぬぞ!!」

「んだとっ!?」


 擦れ違いざまに爪を振るった。赤い体液は流れず、穢れた剛毛が舞った程度の攻撃であったが、今の私にはそれで十分だった。窮鼠猫を噛む……鼠扱いは甚だ不本意だったが、その認識を此奴に植えつける事が出来れば安いものだ。


「どうした? 同じ妖怪なら反撃しても不思議ではないだろう? もしや一方的に狩れるとでも思っていたのか?」

「……殺す……惨たらしく、殺す!」


 早口で捲し立てると、攻撃は一層激しいものとなった。先程より段違いに速い。怒りで我を忘れているのかもしれない。だがそのお陰で本来の正確さは消えた。これなら片手間で避ける事が出来る。

 目で捕らえることも難しくなった強攻の最中、ここへと近付く気配を察知し、私は笑みを浮かべた。逆転の兆し――私の求めている『変化』が訪れようとしていた。

 そう、それでいい。真直ぐ此方に来い。お前が来た瞬間、否応なしに時間は止まるのだから……。


「うむ……まだ宴は始まっておらぬな」


 声が響いた。幼子の声――この場に不釣合いな声だった。

 だが私が気に留める必要はない。舞台から一足早く退場した者に、続く舞踏を眺める暇などないのだ。




















 五つの顔が、十つの瞳が彼女を射抜いた。見詰められた本人も、この場に不釣合いだという事を自覚しているのか、口元に微かな笑みを浮かべた。

 霧葉はそれを綺麗な笑みだと思った。しかし一瞬後には、そんな考えも消えていた。

 自分とそう変わらない背丈。流れるような灰褐色の髪。狼の化身である事を主張する耳と尾。子供特有の柔らかく整った顔立ち。破れた僧衣は、まるで子供が坊さんの真似をしているかのような錯覚さえ覚える。しかし口元に浮かべている妖艶な笑みがそれらを全て否定していた。

 彼女と目が合った。その目は一片も笑っていない。外見は一人の子供でありながら、彼女は一匹の獣であった。


「良き月夜だの……兎もそう思わぬか?」

『……』


 彼女は葉で覆われた空を見上げた。当然月など見えるはずが無い。彼女自身それは分かっていた。いわばこれは『挨拶』……これから死に赴く者へと贈る、唯一の手向け花。彼女の中で、もはや勝利は確定している。どれほどまで抗ってくれるのか……彼女の興味はそこにしか無かった。

 霧葉は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。彼の中で状況は一変していた。先程までの『遊び』は終焉を迎え、それに取って代わるかのように一方的な『狩り』が始まろうとしているのを、彼は本能で嗅ぎ取っていた。

 何気なく彼女は霧葉から視線を外した。獲物から外れた瞳は当ても無く暗い竹林を彷徨い……口を開いた。


「逃げたか……やれ、薄情な化け猫よのお」

『……』


 その言葉に、霧葉は何の反応も示さない。相変わらず感情の読み取れない顔のままだ。そんな様子の彼を一瞥し、彼女はつまらなそうに顔を歪めた。


「そこ、後始末は自分でするが良い」

「……わーったよ、ババア」

「疾くと死ぬか?」

「チッ……」


 悪態を吐き、一匹の狼がその場を後にする。残されたのは三匹の狼と二人のヒトガタ……その狼達も、彼女の挙動一つ一つを気にしている。

 何とも滑稽な光景だと、霧葉は思った。子供一人に狼達が脅えている。生まれたばかりの頃――『この世界』に来たばかりの時、この光景を見たならば思わず首を傾げていただろう。だが、『ここ』ではこれが普通の光景なのだ。

 何となく分かった気がした。何故獣が人と化すのか、何故妖怪が人の形を取るのか。力を有する者が、何故皆ひ弱と称する人間の真似事をするのか。

 それは……。


「さて、では始めぬか? 物言わぬ兎よ。時は待ってはくれぬ」

『……っ!』


 素早く思考を切り替えようとして……霧葉は押し倒された。




















 走る、駆ける、飛ぶ。逃げ切れるとは思っていない。そんな事が出来たなら、私はとうの昔にあそこから消え去っていた。直にでも追手は来るだろう。

 笹の葉の中へと紛れ込む。狼でも見つけるのは困難だが、鼻が利く奴等の事だ。ここも安全とは言い難かった。

 畜生……糞ッ! 何を考えているのだあの駄目兎は!? 身の程を知らぬにも程がある! あれが無駄な善意を振りまいたりしなければ、こんな事にはならなかった! 自らを死地に追い遣るほど愚かとは思わなかった!

 頭の中を埋め尽くすのは駄目兎への罵詈雑言。こんな事を考えている暇があるならば、良策の一つでも思いついて欲しい。……そんな願いとは裏腹に、考えれば考えるほど私の思考回路は絶望で彩られていく。

 あの狼にどうやって挑めというのだ?

 猫の身体であの狼と?

 弾幕を撃ったところで勝てるとでも?

 自殺行為だ。無理だ。勝てぬ。

 この辺りの竹を切って、雪崩でも起こすか? ――駄目だ。あの素早さでは避けられてしまうのが目に見えている。

 虎挟みを使って足を止めるか? ――無理だ。設置されてる場所は元より、猫である私が扱うには危険過ぎる。

 妹紅に助けを求めるか? ――ふざけるな。人間に頼る位なら、死んだ方がマシだ。

 思案、思索、再考。何度繰り返しても良案は出てこない。

 落ち着け。

 落ち着くんだ、那由他。

 もう一度考え直せ。

 追手の数は一匹から四匹。この広い空間を探すのだから、一匹ずつ出会う事を想定する。

 奴等は無傷。此方も無傷ではあるが、一撃で沈む確率がある分その精神的重圧は比べ物にならない。同じ四肢で歩く者である事を考えると、立地条件は互角――狭い竹の間を潜り抜けられる事を考えれば此方に分があるかもしれない。

 彼方の武器は一撃必殺の牙と、それを生み出す瞬発力。対して此方の武器は目眩し程度の弾幕と、傷を負わす事も出来ない爪。

 相手は妖獣だ。頭を潰せば、首を掻き切れば、心臓を抉り出せば死ぬ。妖怪ならばもっと面倒な手順を踏まえなければ殺せぬが、妖獣となればただの狼と何ら変わりない。

 そう、殺せる。ただの獣を殺すのと同じだ。

 だが……どうやって?


「力がねぇってのは不便だよなぁ? クソ猫野郎」


 一匹、焦げた奴。その声は私憤に満ちていた。




















 それはもはや勝負ではなかった。霧葉が彼女の下に敷かれた時、勝敗は既に決していたのだ。隙を見せた霧葉自身、自分に落ち度があったのは理解している。だが……その授業料がこれでは割に合わない。


「弱い……反撃せぬのか?」


 小さな口から零れたのは、ゆったりとした声であった。その反面彼女の拳は手加減というものを知らなかった。無造作に振るった右の拳は、まるで吸い込まれるかのように霧葉の左頬へと迫り……辺りに鈍い音を響かせた。

 馬乗り――霧葉の『前世』ではマウントポジションと呼ばれた態勢を、彼女は用いていた。当然ながら審判も居ないこの場で彼女を咎める者など居ない。

 彼女は霧葉の上。霧葉は彼女の下。今ここにある事実はそれだけである。

 当然ながら殴られ続けて黙っているような物好きはいない。反撃する事は確かに難しかったが、それでもしないよりはマシだった。霧葉は攻撃の為に右腕を突き出す。それが彼女当たる事はなく……空いた右頬に拳が叩き込まれた。

 彼女自身こうも上手くいくとは思っていなかった。最初の飛び掛りは避けられて当然、その次に繰り出される攻撃からが本当の戦いだと思っていた。

 だが実際はどうだ? ――一発で上を取り、後は逃げないように足を絞めて殴るだけ。何とも興に欠ける。残念な事に今回の獲物は『ハズレ』だったようだ。


「弱い、弱い、弱い、弱い、弱い……」


 血だらけの両手、荒い吐息、時折繰り出される反撃……何時しか彼女は笑みを浮かべていた。弱い弱いと蔑み、顔を守る腕の隙間に拳を打ち込み、綺麗な顔が拉げていく様を眺める。それは、強者にだけ与えられた特権だと、彼女は考えていた。

 拳を振るいながらふと彼女は思った。これで何匹目だろうか。あの日――『家族』を殺し、呪われた存在になってから一体何匹の獲物を弄っただろうか。苛立てば近くの生物を殺し、気に入らない同族が居れば手にかけた。自分より強い者には喧嘩を売らず身を隠し、弱い者を『狩って』は死ぬまで弄った。

 その生き方は――さながら荒んだ鬼のようであった。

 不意に、彼女は左肩に違和感を感じた。何かが袈裟を引っ張っている。誰かは直に分かった。この場において、そんな足掻きをするのは一人しか居ない。彼女は内心ほくそ笑みながら、袈裟を引く手を掴もうとした。

 瞬間、視界が揺れた。服を引っ張る力が強くなり、左右交互に引かれていく。まるで何かが自分の首へと這い上がってくるかのような、嫌な感覚。それを拭い払おうと思った時……今度は、世界が光った。

 彼女は理解できなかった。何が起こった? 光った? 弾幕? ……何度も思考が空回りする中、更なる痛みが彼女を襲った。


「っあぁあああぁぁぁあ!!」


 追撃。混乱する彼女の中で痛みが上塗りされた。砕けんばかりに痛む『顔』を両手で押さえ、彼女は霧葉の上から転げ落ちた。

 痛みの正体――それは霧葉の頭突きだった。這い上がった彼の手は彼女の胸倉を掴み、頭を自分に引き寄せる形で頭突きを見舞ったのだ。一度目は鼻、二度目は額……急所ではなかったが、それでも彼女を怯ませるのには十分過ぎた。

 涙で滲む視界の中、彼女はまるで幽鬼のように立ち上がる兎を見た。




















「分かってんだろ? どう足掻いても俺には勝てねぇって事。筋力、速度、体格……テメェは何一つとして勝ってねぇ」


 声が聞こえる。まだ此方を見付けた訳ではない。奴の戯言を聞く義理はない。聴覚を遮断。風に揺られる笹の葉。擦れ合う音がやけに大きく聞こえた。

 狙うとすれば頭部か首筋――肋骨で遮られた心臓を狙う気にはならない。問題なのはどう攻めるかだ。

 現実的に考えれば爪を使うのが一番いい。必然的に狙う部分は首一箇所となる。否、私が有する武器ではそこしか狙えない。

 武器を調達してから場を改めて挑む……奴が通り過ぎるというのならばそうしたい。だがそんな事は万に一つも起きなさそうだ。

 ふと思った。こんな時、『彼女』だったならどうやってこの場を切り抜けるだろうか? 私より強く、美しい聖母のような『彼女』だったなら……。


「いい加減出て来な。んで、大人しく腹ん中に納まるんだな」


 黙れ阿呆が。ぶち殺すぞ。

 いいや、私も強い。もう十年以上も経ったのだ。そう……『彼女』と同等になるまで私は成長した。昔とは違う。今は力があるのだ。

 そう、強い。

 私は強い。

 私はただの猫ではない。化け猫だ。妖怪化した狼如きに負けるようではただの猫だ。

 目を閉じて深呼吸。心臓は痛いほど脈打っている。四肢が痙攣する。


「フンッ、化け猫ってのは何時もそうだな。自分が不利な立場になったら即逃走、誇りも何もあったもんじゃねぇ」


 黙れ。いいから黙れ。数分でいいから黙ってくれ。

 これ以上私を怒らせるな。血を滾らせるな。そこまでして死にたいのか?

 早く見つけろ。早く止めを刺せ。本当に私を喰らいたいのならば私の中でナニカが切れる前に始末を付けろ。

 これがお前の精神攻撃か? 温いぞ。総隊長の口の方がまだ痛手だ。

 まどろっこしい。ふざけるなよ? お前は私に勝てるのだろう? 悠長な事するなクソオオカミ。

 さあ、来い。早く来い。

 まだ減らず口を叩くようだったら頭ごと潰してやる。




















 結局皆人間に憧れているのだと、霧葉は思った。

 獣は人間の知力に憧れて人と化し、妖怪は人間の複雑な精神を知りたくて人の形を取る。力を有する者は、人間の間で結ばれている信じられないほどの団結力に恋焦がれ、人間の真似事をする。

 本当はただ単に擬態しているだけかもしれないが、今だけは自惚れる事を許して欲しい……誰に対してでもなく、霧葉は許しを乞うた。

 先に仕掛けたのは彼女だった。血だらけの顔に憤怒の表情を浮かべ、獣だった頃の瞬発力を活かした正拳突きを繰り出す――常人ならば反応することもなく意識を飛ばすであろう一撃。それはあっさりと霧葉の肘で受け流される。


「ぬっ……?」


 情けない声が上がった。先程までの動きとはまるで別人だった。止められたという事実を理解しようとして、彼女の頭は混乱した。隙は一秒もあれば十分だった。

 霧葉の肘は受け流すと同時に彼女の胸元へ吸い込まれる。とん、と触れたかと思うと、一瞬の間を置いてその一点でエネルギーが炸裂した。小さな身体は吹き飛ばされ、数メートル宙を舞った。痛烈な音を伴って数本の竹を薙ぎ倒し、更なる痛みを彼女に与えた。


『中国拳法の発勁は全身の筋肉と骨格、重心を上手いこと動かして打撃点にえげつないエネルギーを炸裂させるもんや。幾ら速うても重うてもあかん。形に嵌って、始めてその威力が発揮されるんや』


 誰だろうか、霧葉の頭の中で若い男の声が響いた。前世の記憶、何時かの記憶、誰かの記憶……幾つもの記憶が混濁とする中、霧葉の身体は自然と動いていた。

 血が出る程の勢いで地面を蹴る。その勢いを殺さずに、未だに膝を折っている彼女の脇腹を蹴り上げた。まるでボールか何かのように、彼女の身体は再び宙を舞った。




















「腰抜けの人生は楽しいか? え?」


 私の中でナニカが音を立ててキレた。

 心が熱い。反面、思考力は恐ろしい速度で冷えていく。

 いいだろう、もう逃げも隠れもしない。姿を現してやろう。

 だが対価は貴様の命――その首だ。死体に駄弁を語る口は不要だろう。

 わざと音を立てて、奴の後ろに降り立つ。奴は思ったよりも小さかった。何時の間に縮んだのだろうか? 視線の高さは同等だった。


「なっ……!? おっ、お前……」


 いや、違うな。私が大きくなっただけか。確かに心なしか視線も高い気がする。

 だがそんなのは関係ない。

 上体を屈め、身体全体のばねを限界まで約める。私は矢だ。貴様を殺す為に番えられた一矢だ。そう、毒矢よりも性質が悪い死の矢だ。

 どうした? 何を驚いている。猫が飛び掛っても痛くも痒くもないのだろう? ならばそう顔を引き攣らせるな。見てるだけで不快だ。


「何で……どうっ!」

「伏せだ、クソオオカミ」


 矢は、放たれた。




















『人間は強い。そう思わないか、――?』


 矢継ぎ早に向かって来る拳をいなしながら、霧葉は再び『声』を聞いた。今度は張りがある女の声だ。誰かは分からない。正体不明のその言葉は霧葉の中に深く沁みこんでゆく。

 そう……人間は強い。鍛え抜かれた肉体は時として猛獣をも殺し、過ぎたる文明は重力さえも手中に収め、もはや人間より強い者なぞ存在しない。それが霧葉の常識だった。そしてそれは、この幻想郷に生を享け、妖怪として二度目の人生を歩んでいても覆される事はなかった。


「何故だ……何故当たらぬっ!?」


 血塗れの拳で乱打を続けながら彼女は叫んだ。霧葉は答えない。元より答える口なぞ最初から持っていない。彼女の拳は全て防がれ、見切られ、いなされた。

 彼女は知らない。目の前の兎が人間の格闘術を用いている事を……粗の目立つ我流では洗礼された古流に勝てないという事実を、彼女は知らない。

 霧葉は知らない。それが一度も日の目を見なかった流派である事を……師に一番筋がいいと褒められた形を自然と構えていた事を、霧葉は知らない。

 人間は猛獣に素手では勝てない――それが世間の常識である。しかし武道の達人となれば話は違う。素手で熊や虎を殺す者は幾らでも居る。中には猛獣の真似事をして、それを打ち倒す者すら居る。

 ではそれらの能力は生まれもって付いてきたものなのか? 答えは、否。絶え間ない修行、鍛錬によって修得した技術が必ず付いて回る。或いは、持って生まれた能力が獣を超えている者であろうと、修行と鍛錬を裏付けとした強さがなければ、いずれ自壊する。

 そう、さながら今の彼女の様に……。


「くっ……何故狩れぬっ……妾は、妾は……っ!」


 一呼吸。霧葉と彼女の間に半歩ほどの隙間が生まれた。全力で打ち込むつもりなのであろう、引かれた右拳。それを視界に収めると、霧葉は一瞬だけ全身の筋肉を弛緩させた。それは、膂力の爆発を前にした準備段階に他ならない。

 ゆっくりと、彼女の拳が動き始めた。霧葉の顔を射抜こうとする一撃は、驚くほど緩やかだった。

 そうではない。そう見えたのは、神経を研ぎ澄ませた霧葉だけだった。実際には彼女の拳は弾丸にも匹敵する速度を纏っていた。

 霧葉の身体は勝手に動いていた。気付けば彼女の拳は彼の頭の上にあり、二人の身体は密着していた。自らの細い腰に固定されていた右の掌に全身の体重を乗せ、左足で踏み込むと同時に彼女の腹を鋭く突き刺す。鋭く、重く、硬い一撃が肋骨の下に潜り込み、小さな身体を揺らす。一撃の振動は一直線に突き進み、肝臓に強烈な衝撃を伝えた。

 彼女は白目を剥いて粘ついた唾液を垂れ流し、力なく倒れこんだ。

 必殺の一撃――踏み込みの轟音を最後に、舞台からは音が消えた。




















  ―――ぐびるっ


 耳障りな音を最後に、奴はようやく大人しくなってくれた。一息吐き、後ろを振り返る。そこには奇怪なオブジェが出来上がっていた。

 広がり始めた血溜まりの上に直立する狼の四肢。五月蝿い声を発していた頭は地面に転がり、切り取られた断面からはまるで湧水のように止め処なく血が流れ続けている。

 ふと落ちた首と目が合った。恐怖に見開かれた目、何かを喋ろうとしていたのであろう半開きとなった口……実に哀れだった。

 減らず口を叩かなければ、こんな末路を迎える事は無かったのかもしれぬ。もっと落ち着いた奴であったならば、こうなっていたのは私かもしれぬ……そう考えると、私はやはり思うのだ。

 私は強い。

 一度は舞台から立ち去った身ではあるが、最後に立っていたのは私だ。ならばそれは、誇るべき事なのだろう。

 頭を垂れる。これは死者への憫諒と感謝の証だ。窮鼠猫を噛む……人間の諺、身を持って学ばせて貰った。精々私はそうならないよう気をつけるとしよう。

 踵を返し、駄目兎の方へと向かった。生死確認の為だ。もし奴が死んでいたならば、そのまま『彼女』の所へでも帰るつもりだ。死に掛けていても助けるつもりは毛頭なかった。だが、もし私のように生き残っていたとしたら……。


  ―――べちゃっ


 水溜りに何かが落ちたかのような音がしたが、私の足は止まらなかった。




















 狼達は動けなかった。自分達よりも遥かに強い彼女を倒した霧葉に、恐れを抱いていた。彼らには二人の攻防は見えておらず、彼女が仕掛けたと同時に倒れたという事しか認識出来なかった。

 勝てない……。元より自分達の攻撃を容易く避けるような相手だ。今襲い掛かったところで彼女の二の舞になるのは目に見えていた。

 だからといって逃げる事も出来なかった。地に伏している彼女には返しきれない恩がある。複数による同時攻撃は元々彼女が考えた戦術だ。そのお陰で今まで飢えを凌いで来れたと言っても過言ではない。命と恩義――彼らにとって、天秤にかけるにしてはどちらも重過ぎる代物だった。

 その時、更なる脅威が彼らの前に現れた。

 ゆったりと動く黄褐色と黒い横縞。三メートルを超える巨体である筈なのに鳴らない足音。そして……仲間の血が付いた前足。それは、虎に化けた那由他の姿だった。


「終わったか。奴等はどうする? 見せしめに殺すか?」


 射殺さんばかりに眼光を光らせる那由他。この時ばかりは、彼は自分達が『狼』である事を呪った。

 意地汚い生物であったならば、一目散にでもここから逃げ出していただろう。

 知能の少ない生物であったならば、躊躇い無くこの二匹に飛び掛っていただろう。

 だが、義に厚いからこそ逃げ出す事は許されず。相手の力量が分かるからこそ迂闊に攻撃する事も出来ない。

 悔しさが込み上げてくる。何も出来ないまま死ぬのは御免だった。恐怖で震える四肢に無理矢理力を入れる。どうせ死ぬのならば……戦って死のう。最後の時まで、三匹の思いは同じだった。

 不意に霧葉が動いた。過剰に反応する狼達に構わず、彼は彼女を担ぎ上げる。次いで、那由他の怒号が響き渡った。


「いい加減にしろ駄目兎!! 身の程を知れ!!」


 空気が震え、葉が震え、心臓が震えるかのような――咆哮だった。那由他の怒りの形相に、狼達はビクリと身体を震わせた。

 こわい。

 この二匹が(・・・・・)、こわい。

 何もかも投げ出して逃げてしまいたくなる気持ちを必死に堪えた。もし彼らに人間の表情があったとすれば、間違いなく目に涙を溜めていただろう。

 霧葉は那由他を見詰めた。虎と化した彼の怒気を一身に受けながらも、彼が返した反応は……この上もなく冷淡なものだった。


『だまれ』


 たった一言。

 たったそれだけで、那由他は何も言えなくなってしまった。

 怒りで加熱された頭が急激に冷やされていく。口に腕を突っ込まれ、心臓を鷲摑みにされる感覚。身体に刀の切先を当てられているかのような緊張感。その瞬間になって初めて気付く『後悔』の二文字。

 しかしそれも、霧葉が彼に背を向けた瞬間四散した。何時しか那由他は、元の三毛猫に戻っていた。

 幽霊のようにふらふらと歩く兎を、彼は信じられないものを見る目で見詰めた。何か思う事があったのか、二、三頭を振ると黙って彼の後ろ姿を追う。そしてひっそりと、その後に狼達が続いた。

 珍しい事に、霧葉は無口だった。何時もの『独り言』もない。だが那由他にとって、それは幸運だった。

 ……那由他は知っていた。あの『声』を……最も忌み嫌うその『声』を知っていた。

 それは間違いなく、死人の『声』だった。




[4143] 第十三話 おはよう、那由他
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2009/02/01 11:50



 異臭を鼻先に感じ取り、目が覚めた。ツンとする刺激臭、次いで感じる柔らかいもので包まれている感触。自分が布団に寝かされているのだと気付くのに、更に数分の時を要した。

 ゆっくりと上体を起こそうとし――腹部から走る激痛に思わず顔をしかめた。着慣れた服の感覚もない。代わりに着せられていたのは、やけに肌触りのよい着物。見慣れぬ畳敷が否応にも視界に入り――そこまで確認して、ようやく理解した。

 ああ、私は負けたのだ……と。

 獲物に負けて、獲物の情けで生き長らえているのだ……と。

 自然と自嘲の笑みが浮かんだ。

 『油断した』――だがそれは自分の失態。その所為で負けたのならどう取り繕う事も出来ない。

 『~だとは思わなかった』――予測出来なかった自分が悪い。弱肉強食の世界に、例外というものは一切合切存在しない。あるのは勝つか負けるか、喰うか喰われるか、生きるか死ぬかの二者択一。判断を誤ったのは他ならぬ自分だ。今更言い訳などといった見苦しい真似はしない。獲物が何を望んだのかは分からないが、私はこうして生きている。

 ふと、私の耳がかすかな衣擦れの音を拾った。そちらへと視線を向ければ、掛け布団を跳ね除けて寒そうに自身を抱いて寝る兎が居た。安らかな寝顔には真新しい包帯が巻かれ、左足には添え木までされている。外見の幼さと相まって、傍目から見れば痛々しいと思うかもしれない。

 だが、私にはそうは見えなかった。気付けば目よりも先に『鼻』が働き、その小さな身体に内包されているものの正体を感じ取っていた。

 肉を食わず、酒を飲まず、色を知らず……妖獣とは思えないほどの徳と妖気を備えた兎――その味は、きっと想像を絶するものだろう。異臭の中微かに漂う血の香を嗅ぎ取ると、私の腹は痛みと共に飢えを訴えた。

 のっそりと布団から這い出す。腹痛で思うように力が入らず、獣だった頃のように四肢で歩みを進めた。一歩……また一歩と近付く度に、血の香が濃くなっていく。食欲が動力源となって、痛む私の身体は突き動かされた。

 『昔』のように兎に覆い被さる。灰褐色の長髪が垂れて兎の肌へと落ちるが、一向に起きる気配はなかった。普段ならばそのまま噛み付いていたかもしれないが、今はそんな勿体無い事はしない。その白い首筋に触れるか触れないか位まで鼻を近付け、そっと『獲物』の匂いを嗅いだ。

 ゆっくりと口で息を吐き、肺一杯に空気が溜まるまで鼻孔でその香りを吸い込むと、思わず身が震えた。

 甘美な香りだ。様々な獲物を喰らってきたつもりだが、これほどまで上等なものは嗅いだ事すらなかった。

 自然と舌が伸びていた。寝汗の所為だろうか、少しだけしょっぱい雪肌。くすぐったそうに身をよじる兎だったが、未だ起きる気配はない。

 喰らい付けば、流石に起きるだろうか? ――邪な考えが頭を過ぎる。そうだ、悪いのは私ではない。こうして無防備に横たわる『獲物』が悪いのだ。私を生かし、空腹になった所で、まるで『食べて下さい』と言わんばかりにその身を晒すこの兎が悪い。私は本能に従ったまでだ。何も躊躇う事はない。

 開口し、静かに柔肌の上へ犬歯を乗せる。後少しだけ顎に力を込めれば、咽喉元に牙を突き立てれば、此奴は死ぬ。私は生きて、この『獲物』を喰らう。恐らく幻想郷随一の『獲物』であろう、この兎妖怪を、私は――。


「……」


 そろりと首筋から口を離した。首筋と口の間に銀色の線が引く……喰らいたいという欲求は未だ私の中で燻っている。しかし、それは私の自尊心が許さなかった。

 私は負けたのだ。

 敗者が勝者に手を掛ける事は、絶対に許されない。

 そう、絶対に。


「……喰らわぬ……か」

「っ!?」


 不意に低い声が響いた。顔を上げて『鼻』を利かせる。血の香と異臭の中に混じった獣臭――あの時逃げ出した化け猫だと気付くのに、そう時間はかからなかった。




















東方狂想曲

第十三話 おはよう、那由他




















 静々と雪が降る雪原の中、俺こと霧葉はボーっと突っ立っていた。周りを見れば一面の銀世界――交通の便が悪くなるな……などと呑気な事を考えてみる。

 一人で見る雪はそんなに好きではない。寒いしウザいし辛気臭い。友人の一人でも居れば『雪合戦やろうぜ! 石アリな!』などと言って、喧嘩染みた下らない争いを嬉々としてやるんだが……いや、いい加減現実逃避はやめよう。俺は視線を上空から目の前の氷像に戻した。

 まず言っておこう。これは何時もの夢だ。あの趣味の悪ーい悪夢だ。普通こんな雪原の中、着物一つで過ごせる訳がない。多分テンションハイになって幼女ぶっ倒した後、過労か何かでぶっ倒れたんだろう。毎日三時間睡眠とか、人間の限界に挑み続けてる生活も裏目に出たのかもしれない。今妖怪だけどな。


「おーい、大丈夫かー?」


 しゃがんで氷像の前で軽く手を振る。何時も『殺される側の視点』で見ていたというのに、今回だけは勝手が違った。『死』に対する耐性はある程度ついてると思ったが、これはちょいキツイかもしれん。


「大丈夫な訳ねーよなぁ……」


 軽くため息を吐く。氷像は相変わらず『物』としてあり続ける。

 まだまだ若い……いや、若過ぎる少女の氷像だった。一糸纏わぬ裸体、膨らみかけた乳房、秘所を覆う程度に生えた陰毛……それだけだったならば、俺も両手を振って喜んだかもしれない。或いは、美術家の物真似をして『これはいい物ですね』とか、ニヤニヤしながらふざけた事を宣うたかもしれない。

 これが、死体じゃなければ。


「はぁ……マジで趣味悪ぃ……」


 四つん這いの姿勢、虚空に伸ばされた片手、恐怖一色で彩られた表情。そして傍らに投げ捨てられた衣服が、彼女が『生きていた』という証だった。

 運がなかった。一言で済ませるのならば、それで事足りる。ただ生まれが悪くて、家庭が貧しくて、売られた先が趣味の悪い糞婆だった。ハイ、残念。人生終了、ゲームオーバー。タイガー道場へ一名様御案内……勝手な事言ってて何だが、正直凹む。ここまで来ると怒りを通り越して、ただ虚しい。

 文字通り氷りついた少女の上に、白い雪が積もってゆく。冬の風物詩としては申し分ないかもしれないが、人道的にアウトだ。心臓の弱いお方なら、一目見ただけで嘔吐するかもしれない。子供が見るなんて持っての他、教育上よろしくない。……やべぇな、間違いなくテンパってら、俺。

 氷像の前で両手を合わせた。気休め程度だが、それでも何もしないよりはマシだろう。寒さを感じない雪原で、俺は見知らぬ少女の冥福を祈ろうと目を瞑り……。


「勿体無い事するのね、人間って」


 皮肉交じりの言葉を聞いた。




















「覗き見とは趣味が悪いのお……化け猫よ」


 気配を察知し、部屋の隅――光の届かないそこへと殺気を飛ばす。相手は倦怠な動きで闇からその姿を現した。闇と同色の黒い体毛。しかしそれも、明かりのある場所へと移るに従って色を変えていった。

 変化の法。本来人間に化ける為に使われるそれを、身を隠す為だけに使うとは珍しいことだった。私は口元を歪ませた。


「つくづく隠れるのが上手い。それでいて、何事もなかったかのように裏切った主人の隣におる。全く、ぬしら猫どもは皆こうなのか?」

「黙れ、本能に忠実な獣め。貴様とて命の恩人を喰らおうとしていただろうが」

「まだ喰らっておらぬ。妾とて、後先考えずに喰らうほど愚かではないぞ?」


 フンッと鼻でせせら笑う。確かに本能が勝りそうになったのは否めないが、それを話す必要はないだろう。隙あらば逃げ出し、何時の間にか元の立ち位置に戻るような狡猾な相手だ。自ら弱みを曝け出すほど、此奴との仲は深くない。

 痛みを訴える身体に鞭打ち、そっと兎の上から離れる。餓えた本能は理性で何とか押し潰そうとしたが、それでも完璧とは言えず、どうしても芯が疼いた。伽のごとく兎の隣へ腰を降ろす事で、それも少しだけ鳴りを潜めてくれたようだ。あくまで表面上のことではあったが。


「……貴様が喰らえば、全ては丸く収まるというのに……」


 忌々しげな顔で……さりとて小さな声でそう呟いたのを、私の耳は聞き逃さなかった。己の欲望に塗れた言葉なぞ、聞いて楽しむようなものではない。当然ながら呆れた。呆れたと同時に――何故か若干の怒りを覚えた。


「自らの主だというのに裏切る。救いようのない愚か者じゃな、ぬしは」

「私が望んだことではない。自ら進んで下の者に就くほど、私は物好きではない」


 思わず吹き出しそうになった。猫の顔が一層不快に歪むが、そんなもの気にはならなかった。口元を隠し、どうにか笑いを堪える。気を抜けば哄笑を上げそうになる中、口を開く。


「これはこれは異な事を言う。ならば何故、ぬしは其処にいる?」


 猫という生物は、総じて自分勝手なものだ。時折人間相手に忠義を尽くす者もいるそうだが、少なくとも目の前にいる猫はそれに当てはまらない。自分から義を立てておいて、これはないだろう。

 しかしだからといって、何者かに命令されたとも考え難い。猫――否、猫に限らず生物というものは、己の自由を奪われることを極端に嫌う傾向にある。それが何かしらの利に繋がるものであれば話は別だが、利なくして枷を付けるとは思えない。

 此奴はこの兎を狙っているのか? とも思ったが、そう考えると先程の言葉はおかしい。わざわざ喰らって欲しいと言うからには、やはり何かしらの理由があるのだろう。

 猫は口を開きかけ、躊躇った。苦虫を噛み潰したような渋面。面白いとは思うが、今は娯楽を楽しむ時ではない。さっさと答えを口にして欲しいものだ。


「……神託だ。これ以上は言えぬ」


 神のお告げ――此奴は確かにそう言った。清々しいまでに言い切ってくれた。

 無理だった。限界だった。最初から到底堪え切れるものではなかったのだ。


「かっ……くっ……くははははははははははははははははははははははっ!!!」


 私は呆然と此方を見る猫を前に、腹を抱えて笑い転げた。




















 振り返ると、とんでもない美人がそこに居た。

 派手な服装に包まれた熟れた肢体。みょうちくりんな形をした傘を片手に持ち、金糸のような髪と聖母が浮かべるような笑みを携えた、絶世の美女が静かに佇んでいた……宙に浮いて。


「ああ、やっぱ夢だなコレ」


 何と言うか、色々とぶち壊された気分だった。折角センチメンタルな気分に浸ってたっていうのに、これじゃ全部台無しだ。クリスマスに公園でキスしようとしたら『おい、あれ見ろよ!』『うわっ、あれ撮影していいんですか!?』『大丈夫大丈夫! これで視聴率バンバン上がるぜ!』って感じに空気の読めない芸人(絶賛生放送中)並に分かってない。いや、分かってないのは俺か。これ俺の夢だし。

 自分が何処までも三枚目だという事に気付かされ、若干凹んだ。まぁ、同時にホッとしたってのも事実だが……。


「もっとマシなの思いつけよ、俺」

「……失礼な兎ね」

「いやいや、死体と美女の夢を見るとか……俺悩みでもあんのかな」


 腕を組んで考える。肉喰いたい、酒飲みたい、那由他の猫耳触りたい等々……挙げ始めるとキリがない。

 もしや俺の隠された性癖か? 確かに年上でナイスバディなお姉さんは好きだが、死体と一緒だと正直萎える。てか立つ訳ねぇ。あれ? そもそも兎妖怪に第二次性徴とかあんのか? いや、なかったら俺が生まれてこない。つー事はあんのか。まだ来てないだけか。来る前に死にたくねーなぁ……。


「大丈夫よ。私が貴方の夢を少し弄っただけ。本当なら貴方が『氷像』になってたのよ?」


 半ばぶっ壊れた事を考え続ける俺に、クスクスと笑いながら懇切丁寧に現状を説明してくれる美女。非常に様になってはいるものの、言ってる事が怖い。魔性の女ってのは、多分こんなのを指すのだろう。


「夢を弄るって……アンタ獏か何か?」

「半分正解って所かしら?」

「と言う事は、赤点?」

「及第点ぐらいはあげるわ」


 やったー、と無意味に喜んでみる俺。何に合格したかはよく分からん。


「けど、本当に勿体無いわねえ……貴方もそう思わない?」

「何が?」

「その娘よ。一時の戯れでこんな事するなんて、人間の気が知れないわ」


 そう言うと、彼女はふわりと俺の隣へ移動した。重力を真っ向から無視した移動法ではあったが、どうせ夢の中の出来事だからという事で自分を納得させる。まぁ動物が空を飛ぶような世界だし、人間が飛べるのもおかしな話じゃないか……でも俺は飛べないんだよな、畜生。

 腕まですっぽりと白い手袋で覆われた手が氷像へと伸ばされる。まるで慈しむかのような表情を浮かべ、恐怖に引き攣った少女の頭に触れようとして――止まった。本人の意思でない事は確かだ。何せ、その手を止めたのは他でもない俺だったからだ。

 ……いや、本当何言ってるか分かんねぇと思うけど、考えるよりも先に手が動いてた。何故か触れさせてはいけない(・・・・・・・・・・)と思った。

 美女が怪訝そうに眉を顰めた。当然だ。俺は力一杯――それこそ掌に嫌な感覚があるぐらい――彼女の腕を握っているのだ。隣で呆けていた奴が突然腕を掴めば、誰だってそんな顔をするだろう。


「痛いんだけど」

「お触り厳禁」

「あらそうだったの? ごめんなさいね、人間の氷像って珍しくて」


 不意に手の中で腕の感覚が消える。何が起こったのか理解しようと努めたが、情報が少な過ぎた。俺が今分かる事と言えば『一瞬の内に彼女が霞のように消え、離れた場所に居た』という事だけだろう。そう、それこそ先程の状態と寸分変わらずに……。

 正直に言おう。てかいい加減自分に素直になろう。

 無理。

 何て言うか一緒に居るだけで疲れる。SAN値がガリガリ削られる。外見が良いだけに、その破壊力もマジパネェ。よし、目の前の美女は『tanasinn』だ。そう思い込もう。Don't think. Feel and you'll be tanasinn. ……ってそれじゃ駄目じゃねーか。


「それとも冷凍保存かしら? 時間が経てば質も味も落ちるのに……」

「あー……なんと言うか、俺の夢に来たんなら用件をどうぞ。なかったら帰って。いやマジで」


 彼女と出会うくらいなら死んだ方がマシな気がする。苦痛には慣れてる筈なんだが、コレは耐えられるようなもんじゃない。多分『生理的に受け付けない』とはこんな事を言うんだろう。つい遠慮のない物言いになってしまった。同時に不快感で顔を顰めるものの、当の本人は何処吹く風。相変わらず作り物めいた笑みを浮かべながら口を開いた。


「本当、失礼な兎だこと」

「それほどでもない」

「褒めてないわ」


 笑顔で切り捨てられる俺のブロント魂(ブロンティアスピリット)……やっぱこういう輩は苦手だ。


「ねえ……その娘どう思う?」


 ふと視線を外し、俺の背後を指差して言う。振り返る必要も無くそこに何があるかなんてのは愚問であり、この死体がどういった経路でこうなったのかまで確りと頭の片隅に置かれている。直接『見た』わけではないが、知っている。

 そう何故か、知っていた。

 上手い話に誘われてのほほんと緩い環境で働いて地獄を知ってビクビクしながら仕えて少しでも庇護を受けようと胡麻を擂って仕事仲間を蹴落として必死になって生きて生きて生きて生きて生きて生きて……結局四十路の糞婆の掌で踊らされていた事に気付いて絶望した哀れな少女を、俺は知っていた。


「質問が抽象的過ぎて、何言ったらいいのか分からん」


 両手を広げ、訳が分からんと大げさに肩を竦める……心臓は痛いほどのビートを刻んでいた。目の前の美女に隠し事は不可能――そう思わせるほど、彼女の佇まいは落ち着いたものだった。それでも隠し通したいと思うのは、人間としてのサガか……。


「死んだ人間を目の当たりにした感想、聞かせてくれないかしら? ねえ――」

  ―――人間を助けた、親切な兎さん?


 ……趣味悪ぃ……。この時、俺は本気でそう思った。




















「何が可笑しい!!?」

「くくくっ……いや待て、暫し待て。それと仮にも夜中なのだから、声は荒らげぬ方が良い。隣人の眠りの妨げになる。だが……神託……くくくくくくくっ……」

「っ! 貴様……!?」


 私の忠告が気に触ったのか、それとも小馬鹿にした態度が気に入らなかったのか……何にせよ、猫は姿勢を低くして私に威嚇し始めた。途端身体が目に見えて膨張し、瞬く間に猫は虎へと進化を遂げる。いや、進化ではなく、この場合は変化か……まぁどちらも姿形が変わったという事実に変わりはない。先程の擬態といい、随分器用な奴だ。

 落ち着くために深呼吸を試みる。息を吸う度に発せられる殺気は何とも心地よく――高揚した気分が削がれてゆく感覚は不快感極まりない。

 しかし――と、そこで寝具に包まっている兎にちらりと一瞬目を向ける。見る者を魅する安らかな寝顔――此奴が『あの時』纏っていた妖気に比べれば、この程度の殺気は羽虫も同じ。全力で対処する必要もないだろう。


「ふぅ……いや、すまぬのお。ぬしが余りにも可笑しな事を抜かす故、どうしても笑いが堪えられなんだ」

「……何が可笑しいと言うのだ、貴様は」


 姿勢を低く保ち、今にも飛び掛りそうな雰囲気を纏いつつも律儀に聞き返してくる。ただの下衆かと思いきや、未だそこまで堕ちている訳でもなさそうだ。下衆か下郎程度の、些細な違いではあるが。


「本音を建前で隠す――大いに結構。醜態を曝すというのは誰もが躊躇う自然の行為故、ぬしがそうしたのも頷ける。しかしな、猫よ。妾が問うたのは建前ではない、本音だ」


 本質を感知する程度の能力――獲物を狩る時に限らず日常でも重宝する、私の能力。相手の言葉、顔色、空気……後はそれを上手く纏め、推察出来る頭があれば、読心の一歩手前の芸当ぐらいは可能だ。

 虎――否、猫の瞳を確りと見詰めた。戸惑いの色、若干薄まった殺気、正鵠を射たのは確かだった。


「ぬしは何の為にそれを受けた? 誇り高いと自負している猫共が神の狂言に耳を傾けるなぞ、正気とは思えん。ましてやその内容が『兎と寝食を共にせよ』? 生殺しもいいところじゃな」


 神の狂言――その言葉に、猫は小さく身を震わせた。どうやら神という存在を神聖視し過ぎていたようだ。愚かしいと思う反面、それも仕方ないと少しだけ同情の念が浮かんだ。声だけで相手の本質は図れぬもの……まして、私のような能力を持っている訳でもあるまい。神という肩書きを持ち、弱みに付け込めば、あっと言う間に生物は傀儡と化す……話し掛けた神も、随分と態の良い駒を拾ったものだ。

 笑った。自分の失態は自分で慰めるべきである。だから私は……嘲笑ってやった。


「さあ、何がぬしを掻き立てた? 誇りを捨ててまで欲したものは何じゃ? 心配せずとも、他言などといった無粋な真似はせん。その醜態、隠さず曝け出してみよ」


 口を開き、躊躇う動作。戸惑いの表情。自分を馬鹿にし、蹴落とた人物に縋るべきかどうか悩んでいる。視線が外された。薄く月光が差し込む障子に向けられる――逃避したいという意思表示。睨みつける視線に妖力を加えた。力の差を見せ付け、逃げる気力を削いでゆく。手負いの身とはいえ、子猫如きに後れを取るはずがなかった。

 回復しかけた妖力の無駄使い――苦ではなかった。勿体無いと思いつつも、此奴の答えが聞きたくて仕方なかった。ふと頭に浮かんだ単語――愚行。だがそれを行うだけの価値はあると思った。

 草食動物と肉食動物。本来ならば相容れぬ存在――神託ごときでどうにかなる関係ではない。何が此奴の本能を押さえつけているのか、非常に興味があった。

 狐疑、遅疑、逡巡。目を伏せて身体を縮こまらせた。輪郭がぼやけ、元の姿へと戻る。小さな猫、垂れた頭と尾――最初の威勢は砂のように消え去っていた。『狂言』という言葉が、堅固な楼閣を砂上のものへと変えた。残るは砂山。吹き飛ばす為には――。


「吐け。妾は乞うているのではない」


 強制の言葉――強迫――唯一の逃げ道。今の此奴には、それで十分だった。

 ややあって、私は、『音』を聞いた。




















 綺麗な月夜だったので、何となく月見をしていた。酒のつまみが欲しくなり、境界を弄って獲物を探した。人間を助ける妖獣を見つけた。

 偶然、偶々、まぐれ。二人が夢の中で出会うまでの経路を聞けば、誰もがそう答えるだろう。長寿で夜行性の彼女が、満月に興味を持つ確率は低い。自分でつまみを探す確率は更に低い。そして――彼女が開いた空間の裂け目の先に霧葉がいる確率はもっと低かった。

 しかし彼女は――八雲紫は見つけた。自分の天敵とも言える狼から身を呈して人間を守り、あまつさえ撃退するという奇妙な妖獣を――霧葉を見つけた。珍しいと思いつつ酒の肴感覚で観察を続け……――彼女が接触を試みるのに、そう時間は掛からなかった。

 そんな経路があったのも露知らず、霧葉は彼女との間に氷像を挟む形で仁王立ちし、彼女と対峙していた。腕を組み、若干顔を俯かせ……そして何時もの彼らしからぬ真面目腐った目で、ゆっくりと口を開く。


「仕方ナイネ」


 小さな口から漏れた言葉は、何故かエセ外人風だった。同時に霧葉の口元がニヤリと歪む。人を食ったかのような態度――本人が知らないとは言え、高位の妖怪相手にするようなものではなかった。

 少しだけ紫の表情が変わった。ごく僅かな変化――それこそ目尻が微かに動く程度のもの――だったが、霧葉は彼女の空気が変わったのを確かに感じ取った。


「素気ないわね……それとも、ふざけてるのかしら?」

「いやいや、割と真面目に答えたつもりなんだが……」


 やれやれといった様子で肩を竦め、首を横に振る霧葉。内心では自分のボケにツッコミを入れてくれる事を強く期待していたのだが、こういう空気になってしまってはボケも何もかもが徒労に終わるだけだろう。

 いかにも面倒臭そうなオーラを纏いつつ、霧葉は自分の耳に触れながら目を閉じた。


「なら質問を変えるわ。その娘が貴方の助けた人間だったら……」

「答えは一緒。『仕方ない』」


 そう答え、霧葉は目を開く。何ら変わらない黒い瞳が紫を見詰め――表情が消えた。


「こっちから質問。誰かを助けることがそんなに気に入らない?」

「……当の本人がこんな夢を見てたら、何考えてるのか確かめたくもなるわ」


 そっと霧葉との間にある氷像を指差す。苦悶の表情で息絶えた少女の氷像――生きた人間で作り上げた氷像。見方によっては歪な前衛芸術ともとれなくもないが、少なくとも人助けをした者が見るような夢ではない事は確かだった。


「仕方ないって。何か知らんけど、俺が見る夢は百パーこんな夢なんだから」

「夢は『抑圧された願望を開放するための手段』って呼ばれてるけど、そこのところどうなの?」

「『過去の記憶の整理』とも呼ばれてるぞ。多分、俺の夢の場合こっちの方が正しい」

「でも死んでるじゃない、彼女。それともこれが前世の記憶とでも言うのかしら?」

「いや俺の前世は男だったし……第一、電車に撥ねられて挽肉になった筈だから、こんなに綺麗な死に方じゃない」


 霧葉は氷像の隣に腰を下ろし、肢体全体に目をやった。苦しげな表情を除けば、それは確かに――死に至るまで苦痛を伴うかどうかは別として――綺麗な『死体』だろう。


「けど、見た感じまだ十代……多分『俺の前の誰か』じゃねーかな」

「どういうこと?」


 前世の記憶があるのかないのか、実にあやふやな答え方をする霧葉に対し、怪訝な表情を浮かべる紫。その問いに対し、霧葉は盛大なため息を吐いた。疲労感やら憂鬱やらストレス諸々が混じったそれは、外見十歳の子供が出すようなものでは到底なく、上司に無理な注文を叩きつけられた会社員のものに酷似していた。

 言うべきか、言わざるべきか……額に掌を当てて考える。新たな話し相手と説明する手間。メリットデメリットの天秤は、割とあっさりと傾いた。


「あー……まーアンタに説明しても良いよな。うん、別に説明しちゃ駄目とか言ってなかったし……」

「だから何のことよ」

「こっちの話。とりあえず、俺の現状説明すっから、テキトーに聞き捨ててちょ」


 霧葉――生後一年と六ヶ月。彼が目の前の人物の偉大さを知るのは、もうしばらく先になりそうだ。




















 薄暗い部屋、一対の男女、傍らに捨て置かれた布団……しかしそこに漂っているのは、鉛よりも重苦しい空気だった。

 兎妖怪の傍らに座する幼子は、目を閉じ、静かに消毒薬の匂いを感じていた。自然の中では一度も嗅いだ事のない匂い――彼女の気を紛らわせるのには十分過ぎた。間違っても、目の前で腐っているものを進んで見たいとは思わなかった。

 幼子の前に鎮座する三毛猫――那由他は、目に見えて落胆していた。原因は目の前の幼子……しかし根本的な原因は自分にある事を、この短時間の間に厭と言うほど理解させられた。

 力が欲しかったと言った――笑われた。時間が力を与えてくれるというのに、何を急いでいるのだと問われた。

 見せ付けたかったと嘯いた――見抜かれた。本当の事を言えと睨みつけられた。

 愛の為だと口にした――馬鹿にされた。他者の力を借りて何が愛だと罵られた。

 心の膿を吐き出す度に罵倒された。理不尽だと思いながらも言い返せない。霧葉が人間を助けた時、彼に対する思いに揺らぎがあったのは否めなかった。

 『神に力を与えられた。神に使命を与えられた。全てが終われば自由の身となれる』――それだけが、心の支えだった。その思いがあったからこそ、どんな恥辱も甘んじて受けることが出来た。


 ――駄目兎と出会った時は、喰い殺そうかと思った。二人して落とし穴に嵌らなければ、きっとあんなにも饒舌にはならなかっただろう。

 ――駄目兎が落ち込んでいる時は、このまま見捨てようかと思った。しかし見捨てれば、あの両親二人が黙っていないだろうと、仕方なく慰めの言葉を掛けた。

 ――兎達を統括するのは爽快だったが、同時に苦痛も感じた。群れから少し離れた兎を見ては、喰らい付きたい衝動に駆られた。

 ――駄目兎の馬鹿さ加減に付き合うのは億劫だった。口を開く度に飛び出す、得体の知れない単語に辟易したのは一度ではない。

 ――総隊長を罵倒した時は痛快だった。どこをどう取り違えたのか、喜色満面で再戦を申し込まれたときは思わず吹き出しそうになった。

 ――駄目兎が死に掛けた時は、溜飲が下がった。これで全て終わるのだという喜びも、駄目兎が起きる事でぬか喜びに変わった。

 ――駄目兎が身を呈して人間を助けた時……自分がやっている事が馬鹿馬鹿しく思えた。無知無自覚故の行為……それが何よりも腹立たしかった。


 全て『神託の為』という建前があったから、ここまでやって来れた。力を得て、何時か『彼女』を迎えに行くという夢があったからこそ、那由他は霧葉に付き従っていたのだ。

 しかしその決意も、たった一言で崩れてしまった。『狂言』という、今まで意識しないようにしていた言葉を真っ向から放たれ、崩れてしまった。散り散りばらばら。全部が全部、塵芥と化して、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わされて、罵倒と言う名の刺激を加えられた。もはや本心が何処にあるのか、那由他には分からなかった。

 那由他は泣きたかった。だが目の前の幼子はそれを許さない。立場はとうの昔に逆転し、ただ重苦しい沈黙だけが不安定な那由他を攻め立てていた。

 不意に幼子が薄らと目を開けた。視線には何の感情も籠められていない、『声』も聞こえない。揺らがない金色の瞳には、生きた年月の重みが秘められていた。


「して猫よ、これからどうするんじゃ?」

「どう……とは……?」

「戯けが。妾に毒突かれて頭までやられたか? ぬしは、これから、どうする? と聞いたのじゃ」


 一句一句、区切るようにして問う幼子。その声色は、ゾッとするほど冷たいものだった。間違っても幼子が吐くようなものではない。数々の修羅場を潜り抜けた老練の狩人――それが今の彼女の正体だった。突然の質問に呆ける那由他を捨て置き、言葉を続ける。


「建前は壊滅、理由は死に絶え、本音は行方不明。妾という名の嵐が過ぎ去った後に残るのはぬしと此奴のみ……事情を知らぬ此奴相手に、どう接するというんじゃ?」

「……」

「己の中に渦巻く全てを捻じ伏せて、何時か自壊すると分かっているのに今まで通りの関係を続けるか? 此奴を見捨てて、辿り着けぬと分かっているのに愛しき者の元へと行くか?」


 那由他は何も言わなかった。ただ幼子から紡ぎ出される言葉を、沈黙の海から一つ一つ拾い上げては頭の中に広げていた。だからだろう、幼子が立ち上がっても何の反応も返さなかった。

 障子を開け、月光の照らす縁へと足を踏み出した。制止の声はない。本能、理性、感情……全てを整理するには、那由他はあまりに経験不足だった。なまじ力を持つ者故の、当然の結果だとも言えた。彼女はそんな那由他を一瞥し……静かに呟いた。


「選択肢は数多。選ぶのはぬし。しかし取れる行動は、たった一つ――」

  ―――さて、どうする?


 欠け始めた満月を背にし、彼女はそっとほくそ笑んだ。思考の海に溺れた那由他には、それを見る事は叶わなかった。




















「ふーん……中々どうして、厄介なものね」

「全くだよ。俺ぜってー呪われてるぞ」

「御祓でも受けたら?」

「金ない」

「ご愁傷様」


 口元を扇子で隠しながら、紫は苦笑した。

 雪原に降る牡丹雪は――明晰夢の所為か――二人を通り過ごして足元に降り積もっていた。少女の服は既に雪の中へ。もうしばらくすれば氷像も雪で覆われ、少女がそこにいたという痕跡は、春先まで見付かることはないだろう。

 霧葉の中で、同情の念は湧いてこなかった。ただ静かに、正体不明の美女――紫を見詰めていた。

 目の前の彼女は何を思っているのだろうか? 同情? 憐愛? 不憫? 否、この顔は――。


「で、そんなに面白い? 俺の話」

「ええ、それはそれは――」

  ―――滑稽な話。


 声には出なかったが、霧葉にはそう聞こえた。同時に吐かれる吐息……新しい話し相手はどうにも、意地が悪い。実際はその外見、種族としての特性、生意気な態度――全てが彼女の嗜虐欲をそそらせているのだが、彼がそれに気付くことはないだろう。


「そうね……面白い話を聞かせてくれたお礼に、少しだけ長生き出来るコツを教えてあげるわ」

「おっ、亀の甲より年の劫ってヤツか……うおっ!」


 急に悪寒が走り、身を抱いて震わせる霧葉。辺りを見回したが原因になりそうなものはない。目前では紫がニコニコと、先程より三割増しの笑顔を浮かべて浮遊しているだけである。それだけで、霧葉は今何が起こったのか理解した。

 沈黙。

 沈黙。

 撃沈。霧葉は笑顔に屈した。


「ゴメンナサイ……」

「分かればよろしい」


 どんな時でも、女性相手に年齢の話はタブーである。例えそれが意図したものでなくても、男性は謝らなければならない。男女関係に不慣れな霧葉は、少しだけ『女心』というものを理解した。

 紫は満足げに頷くと、コホンと一つ咳払い――それが話を戻す合図だった。


「さて、話を戻すわ。一番長生き出来るのは、私の式になる事だけど……面倒だし却下」

「なら言うなよ……」

「二番目に長生き出来るのは式の式になる事だけど……んーこっちもお願いするのが面倒だし却下」

「なら言うなって……つーか頼むのも面倒なのかよ」

「三番目に長生き出来るのは式の式の式に……」

「却下。何乗だよソレ……ってか真面目にアドバイスする気ないっしょ? ねぇ?」


 霧葉は訝しげな表情を浮かべつつ、紫を睨んだ。彼女の口から出るのは助言ではなく漫言ばかり……彼が非難の視線を向けるのも頷けた。

 ……だが、それがいけなかった。彼が少しでも彼女の冗談に乗っていれば、こうも急激な変化を見せ付けられることもなかったかもしれない。

 気付けば彼女の顔からは一切の表情が消されていた。喜怒哀楽――生物としての表情全てを失った能面のような顔。見るものを魅了し、圧倒し、見下す顔。それはまさしく――八雲紫の、妖怪としての顔だった。あまりの変わりように呆然とする霧葉を前に、その形の良い唇は裂け――鋭い言葉が彼を射抜いた。


「なら、貴方が一番やり易い長生きの方法――貴方の猫と縁を切りなさい」


 その言葉は、その時確かに、霧葉の心に痛みを与えた。




















 頭の中がぐちゃぐちゃになって、何もかもが信じられなくなった。泣きたかった。泣けなかった。猫の身で泣ける訳がなかった。涙を流せる人の身が、初めて羨ましいと思った。


  ―――どうする?


 狗の言葉が頭の中で響き渡る。怒りに身を任せる事は簡単だったが、力の差を見せ付けられた。どうやっても勝てない。襲い掛かって喚いて足掻いて……そして藁のように殺される自分が一瞬で頭に浮かんだ。種族の壁――糞狼を殺した時に乗り越えられたと思ったのは、儚い幻想だった。

 狗――ヒトガタの妖獣。金色の瞳に籠められていたものは、私よりも遥かに大きく、遥かに深い闇だった。誇示せずとも私より高みに居ることを理解させられた。錬成された精神――羨ましいと感じた。

 頭を振った。無い物ねだりをした所で、事態は進展しない。だがこの先の事を考えるのは躊躇われた。普段は無駄な時間を過ごすのが何よりも嫌いだというのに、今は先に進みたいとは思わなかった。愚かしい事だ。

 あの日絶対に止まらぬと誓い、自分の主義に反する全ての事柄に目を瞑って来た。これからもそうやって生きていくと思っていた。そうして何時か駄目兎が死んで、ようやく自分の夢が叶うのだと思っていた。愚かしいと思いつつもそれが絶対だと思っていた。

 それが崩された。誓いは粉砕された。跡形もなくなった。誓いがなければ生きていけない。目標があったはずなのに、それは目標ではありえなくなって、終点が見えなくて、自分が何処にいるのか、分からなく、なって、それが、どうしようもなく、惨めに、思えて……。

 ……怖いのだ。

 ……とても。


「なぁお……」


 鳴いた。かつて自分がそうであったように――死を覚悟したあの時のように、ただ鳴いた。

 思えば、あの時は私もただの猫であった。『彼女』に餌を乞い、『彼女』に撫でられ、『彼女』と共に幸せな日々を過ごしていた。人間がどんなに残虐なのか、妖怪がいかに危険か、教わった。懇切丁寧に教える『彼女』に、私はただ『にゃあ』とだけ鳴いていた気がする。こんな日常が、ずっと続けばいい……それが私の、小さな願いだった。

 しかし、ある日私は衰えを感じた。『彼女』の遊びについていけなくなった。『彼女』の食事が食べられなくなった。『彼女』は私を心配してくれたが、私は弱っていく自分が恥ずかしくてたまらなかった。

 だから……逃げ出した。色々な場所に身を隠し、徐々に会う時間を削ってゆき……逃げたのだ。『彼女』と過ごせなくなるというのならば、死んだ方がましだった。

 そうして私は生きている。神の『狂言』のお陰で、『彼女』の居ない日常を送っている。ありとあらゆる恩寵を受けながらも、どこか満たされない日々を……。


『んー……まぁ……――』


 不意に『声』が響いた。間の抜けた……しかし聞き覚えのある『声』。駄目兎のものだということは簡単に予想がついた。

 視線を向ければ、安らかに眠る寝顔があった。幼い顔、華奢な手足、『兎』の耳……しかしあの狗を倒したのは、この駄目兎だった。私よりも先に種族の壁を越えたのは、此奴の方だった。

 腹が立った。理不尽な怒りだというのは分かっていた。それが逃避によるものだというのも分かっていた。分かっていながらも、燃え始めた怒りの炎は、一向に鎮火する気配を見せなかった。

 溢れ出るほどの知識が羨ましかった。挫けない精神が羨ましかった。愛してくれる家族が……羨ましかった。

 羨望を、歯を噛み締めて耐える事は出来た。『神託』という建前があったからこそ……耐える事が出来たのだが……。


「……」


 もう、何もない。

 『神託』は信用出来ない。けれども『神託』は神約と同意……破ることは許されない。一度得た力、手放すのは惜しかった。これを手放せば、本当に全て消えてしまう。それだけは避けたかった。

 舌打ち、貪欲な自分に気付かされたという苛立ち、全ては火力を強める為の可燃物にしかならなかった。

 身体を変える。強靭な肉体へと、己を変える。身体はしなやかな筋肉で覆われ、三毛は黄褐色と黒の縦縞へと変わり、足と口には鋭い爪牙が生え揃った。虚栄心――そんな単語が頭に浮かんだ。ぐちゃぐちゃになった思考全てを押し退けて本能を優先させた。

 布団の上から身体を押さえつけた。息苦しいのか、少しだけ呼吸が荒い――構いやしなかった。現実逃避だと誰かが叫んだ。噛み殺す思考、誰かは死んだ。

 口を開いた。牙を首筋に添えた。数十分前に、狗がそうしたように、私もそれに倣った。奴は喰らわなかった。私は喰らう。それが私達の違いだと思った。そして私は、顎に力を込めようとして――。


『――……信じる……那由他……』


 その時、私は初めて自分を殺したいと思った。




















「貴方も薄々感付いてるはずよ。貴方は――いえ『草食動物は肉食動物を従えられない』」

「んー……まぁ…………そりゃ……ね」


 何時になく歯切れの悪い霧葉。紫から視線を外し、虚空を見詰め、片手はばつが悪そうに耳を擦っていた。彼の無自覚な癖――余り詮索しないで欲しいという意思表示。普段然程使われていなかったにも関わらず、彼女にはそれが意味する事を確りと理解していた。

 理解して尚、彼女は言葉は止めない――止める理由にしてそれは、軽過ぎる。


「妖獣とは、言わば動物の上位に位置する妖怪。貴方みたいに生まれた時から妖獣だったものもいれば、貴方の猫みたいに動物から妖獣へと昇華したものもいる。前者と後者の違いは『経験』に過ぎないけど、主従関係を結ぶに当たって、これほど厄介な壁はないわ」


 そう、それはいわば『常識』の壁。生まれた時から力を持つ幼子と、弱肉強食の世界に身を置いて力を手に入れた老輩。前者に後者が従う事は――万に一つもありえない事だった。力の差だけではない、どうしても厄介なものが二つを仲違いさせてしまう。それは――。


「ましてや相手は猫。不遜で、居丈高で、傲慢。目的の為なら手段を選ばず、知恵も回り、化け猫となれば力もあるわ。そんなものを、温室育ちの貴方が従える? ――無理よ、断言してあげる」


 自尊心(プライド)

 喰った年数と比例して増えてゆく、どうしようもないステータス。少なければ人の上に立つ事は出来ず、多過ぎればただの頑固者でしかない、本当に複雑な感情。こんなものの所為で人類が戦争を起こした回数も、決して少ないとは言えないのだ。


「今まで付き従ってたのは……彼なりのポーズかしら? 何はともあれ、何時か裏切る前に手を切」

「嫌」


 瞬間、彼女の目が細まった。鋭さを増した眼光は、確りと霧葉を見据え――彼は真っ向からそれを受け止めていた。両手を握り締め、負けじと睨み返すその姿は、外見相応の子供にしか見えない。否、子供だからこそ持ち得る『強さ』が、そこにあった。

 紫は、笑った。霧葉の愚かさに、自然と笑みが浮かんだ。こわいえがおだった。


「『嫌』じゃないでしょう? 折角の私の忠告、無にする気?」

「強制されたら命令じゃねーか。とにかく、俺はアイツを信じる。アイツは――那由他は裏切らない」


 信じてる。だから大丈夫、相手も自分を信じてくれる。……まるで子供の論議だった。それを聞けば誰もが馬鹿馬鹿しいと呆れ返る。世の中はそんなに甘ったるいものではないと知っているから、馬鹿にする。理想で飯は食えないと一笑する。

 霧葉自身、そんな事は百も承知だった。自分の言葉がどれだけ莫迦らしいことか理解していた。だから何だ(・・・・・)と思っていた。目の前の美女が言う事は的を得ている。そういえば何度か裏切ったりしそうな素振りは見せたなーと思いを馳せる。霧葉は人一倍――臆病だった。

 裏切られるのが怖い。目の前の女性が怖い。死ぬのが怖い。強がって見せても、飄々とした態度をとっても、ふざけても……怖いものはどうしようもなく怖いのだ。恐怖心はやがて全てを凍らせ、鈍らせ、ゆっくりと命を貪り始める。その過程さえも恐怖心を煽る。悪循環――最悪の永久機関。想像するだけで泣きそうになった。

 しかし……霧葉は泣き出す一歩手前で踏み止まる。ふざけんなと、己を追い詰める全ての逆境を頭ごなしに怒鳴りつける。恐怖には屈しないと言わんばかりに、全力で抵抗する。それは彼の――彼の魂の誇れであった。

 何度痛みに嘆いただろうか、何度恐怖で頬を濡らしただろうか、何度殺されただろうか。血が出れば痛いと泣き叫び、殺されそうになれば哀願し、それも叶わず死に絶えた。裏切られて死んだ。裏切って死んだ。どれもこれも、その最期は確りと魂に刻まれていた。

 ならば――どうせ死ぬと言うのならば――彼は信じる事を選んだ。ただひたすら、仲間を信じる。例え裏切られても構わない。後ろから刺されても構わない。誠心誠意、馬鹿の一つ覚えみたいに信じきる。信じて信じて信じて……それでも死んだら、信心が足りなかったのだと、納得することが出来た。

 それは、いわば最後の逃げ道。幾多の死を体験した彼が自然と考え付いた逃避行動。今回は仕方なかった、だから次も頑張ろう。そうやって、彼は転生する度に早く頭を切り替ていたのかもしれない。

 そんな彼を――八雲紫は確りと熟視した。並の妖怪ならば失神するほどの気迫を籠めて対峙した。彼の額には既に玉のような汗が張り付き、顔色は血の気が感じられないほど青白く染まり、真一文字に閉ざされた唇と小さな手足は微かに震え、目には今にも零れ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。

 だが、まだ倒れていない。後少しだけ押せば倒れるだろうか? 否。どうやっても倒すことは出来ないだろう。その『後一歩』が、限りなく遠い。


「もし、裏切られたら?」

「知るか。そん時はそん時だ」


 裏切られても信じてやる――涙で輝くその目は、そう語っているかのようだった。

 ……。

 …………。

 ………………。

 紫の口からため息が漏れると同時に、剣呑な空気があっと言う間に四散された。安堵すると同時にその場にへたり込む霧葉。格好悪いと思いつつも、手足は小刻みに震え、一度砕けた腰は中々上がってくれなかった。

 それも無理もないこと……何だかんだ言っても、その身体は生まれたばかりの子供のものなのだ。感受性は大人のそれを遥かに上回り、相反して恐怖に対する耐性が非常に薄い。泣き出さなかっただけでも、十分花丸を上げられるだろう。

 他者に指図されるのを嫌い、その癖過度に他者を信じ、馬鹿らしいまでに愚直な――子供。それが彼女の、彼に対する印象だった。

 面白いと思う。人間の――子供の心を持った妖怪。そんな中途半端な生物が、どこまで我を通せるのか、どこまで傷付くのか、どこまで生きられるのか……見物だった。『暇潰しの玩具』として、これほどまで良いものはそうないだろう。

 自然と彼女は笑みを浮かべていた。先程とは違う、見るもの全てを魅了する、それは品の良い笑みを……。


「キショ……」

「ん?」

「ちょっ! 待っ! OK、時に落ち着け! うん、今のは確かに空気読まなかった! 俺が悪かったッス!! だからマジその顔止めぇ!!」


 やっぱり私の思い違いかしら――頭の片隅でそんな事を考えつつも、泣きそうな顔で狼狽する霧葉の姿が思ったよりも面白かった為、彼女はしばらく弱いもの虐めを続けた。




















「何故だ……何故だ駄目兎。私は……お前を……」


 上手く言葉が出なかった。どうしようもなく悲しかった。どうしようもなく嬉しかった。私は惨めな奴なのだと思い知らされた。私は愛されているのだと思い知らされた。

 泣きたかった。泣けなかった。猫に『泣く』という選択肢は存在しなかった。悲しかった。嬉しかった。相反する感情がごちゃ混ぜになって、私の心を揺さぶった。

 馬鹿な言動に付き合うのは億劫だったが、楽しかった。

 無表情な口から出された戯言が、面白いと感じていた。

 知らない知識を学ぶのは、密かな喜びだった。

 たまに浮かべる笑みに見惚れていた。

 羨ましかった。羨望した。憧れた。

 『彼女』の優しさには劣るかもしれない。『彼女』の美しさには劣るかもしれない。『彼女』の強さには劣るかもしれない。

 構いやしなかった。どうでも良かった。裏切ろうとした私を、未だ必要としてくれている――それだけが私の心を満たしてくれた。


「……駄目だな、お前は。だからお前は……駄目兎なのだ」


 いいや違う。私は心の中で訂正した。


  ―――私も駄目猫だ。




















「あー、マジ死ぬかと思った。加減ってモンを知れよ、このドS美女」

「照れるわ」

「褒めてねーよ」


 そう言うや否や、霧葉はボスンッと雪の中に倒れこんだ。冷たくも固くも柔らかくもない雪だったが、疲労がピークに達している彼にとって、寝心地なんてものは些細な問題でしかなかった。

 とにかく疲れた、やっぱり真面目な話は性に合わない……そんな事を思っていると、視界が桃色に染まった。それが傘の色だと認識するのに、少しだけ時間が掛かった。


「ピンクの傘ね……これで影までピンクだったら、どっかの勇者さんなんだがな」

「残念だけど影は普通よ。それにどちらかと言えば、私は討伐される方ね」

「されろされろ。その歪んだ性格をとことん修正して貰……」

「無理よ」

「無理だな」


 両者共に否定する。片方は己の力を自負して微笑み、もう片方は倒される姿がどうしても想像出来なくて、自分の想像力のなさに軽く嘆いた。

 先程と打って変わって二人の間に漂う穏やかな空気――そんな中、霧葉は疲労感たっぷりの吐息を一つ吐き、目を閉じた。


「疲れた、寝る。邪魔したらキン肉バスターな」

「……」


 返答も待たずに両手を投げ出し、大の字に寝る霧葉。それを上から眺め、紫はクスリと小さく微笑んだ。それはあたかも子供を見守る母親のようでもあり――同時に何かよからぬ事を思いついた、少女の笑みでもあった。

 霧葉の傍らに腰をおろし、頭を軽く持ち上げて膝の上に乗せた。俗に言う『膝枕』という奴だ。多くの男性がそれに憧れ――霧葉もその例に漏れる事はないらしく、少しだけ頬に赤みが差したのを、彼女は見逃さなかった。


「嬉しい?」

「……正直喜ぶべきなのか、恐れるべきなのか思い悩んでる。目ぇ開けてアンタの顔があったら、一発で気絶出来る自信がある」

「素直じゃないわね」

「十分本音なんだが……」


 まぁいいか……と、霧葉はそこで会話を打ち切った。変に意識しなければ、気持ちいいのは確かである。何を思って彼女がこのような行動に出たのかは分からないが、厚意は――自分の不利益にならないというのなら――素直に受け取るべきであろう。そう結論付け、彼は意識を飛ばそうと試みた。

 周囲の光景にノイズが走る。雪に埋もれかけた氷像は消え、遠くにあった地平線はピンボケしたかのように、次第にその形を失っていった。夢という名の箱庭の主人が目覚めようとしている合図……長く居続けるのは危険だった。夢に呑み込まれてしまえば、例え幻想郷屈指の実力を持つ彼女でも無事では済まないだろう。

 しかし、紫は動かなかった。ただ自分の膝の上で目を瞑る子供の顔を眺め、一つだけ、静かに問うた。


「ねぇ……貴方は何?」

「『何』かよ……那由他でさえ『何者』だったってのによー……全く」


 吐かれた悪態とは裏腹に、楽しげな声色――口元には薄らと笑みすら浮かんでいた。

 やはり自分は変わっているのかもしれない。構いやしなかった。自分は自分なのだ。種族だとか、年齢だとか、性別だとか……自分にとってそれほどまで意味の無いものは存在しない。だから霧葉は、那由他に返したものと全く同じ答えを、口にした。


「俺は霧葉――『駄目兎』の霧葉だよ。それ以上でもそれ以下でもない」


 そう答えた彼の顔は、とても穏やかなものだった。




















 燦々として降り注ぐ陽光が、霧葉の瞼を刺激した。開かれた障子の隙間から、まるで起きろと言わんばかりに、日の光が差し込んでいた。ややあって、むくりと小さな影が起き上がる。この季節としては遅い起床――霧葉本人にとっては遅過ぎる起床だった。

 小さく欠伸を漏らす。彼にしては珍しく、未だ眠気が残っていた。半眼の瞳はとろんと蕩け、真直ぐだった耳も少しだけ曲がっている。着崩れた寝巻きと布団……そして、包帯の巻かれた左足。ご丁寧な事に添え木まで付けられていた。

 不意に、霧葉は自分の傍らで小さく丸まっている物体に気付いた。未だ頭は上手く働かない。だが少し触れると、それはビクリと震えた。寝起きでいい感じに知能が低下していた彼は、それを『面白いもの』として認識した。

 触る。さらりとした素晴らしい毛並みを感じた。

 撫でる。振動が少しだけ激しくなった。温かかったので構わず撫で続けた。

 揉む。むにゅっとした柔らかい感触。同時にその丸い物体は、その正体を現した。

 面白いもの――那由他は不機嫌そうな顔をしていたが、それも霧葉の顔を見た途端、消し飛んだ。代わりに浮かんだのは不安げな表情……普段だったらまず見られない顔付きだった。

 しかし霧葉は気にも留めなかった。思考回路が上手く回らないこともあったが、那由他の頭を撫でる感覚が何よりも心地良かったからである。しばらくしてから、彼は口を開いた。


『おはよう、那由他』


 ハッとして顔を上げる那由他。戸惑い、驚愕、そして喜び。瞬く間に変わった表情だったが、生憎今の霧葉に、それらを感知出来るほどの頭などなかった。だからだろう――。


「おはよう、主」


 ――那由他の態度が少しだけ柔らかくなったのに、彼は最後まで気付かなかった。




















   おまけ





「ふむ、随分とまあ早い起床よのお、兎よ」


 然して広くもない部屋に、幼子の声が響いた。鈴を転がすような、幼子の美しい……聞き覚えのあるその声に、撫でられていた那由他は反射的にその場から飛び退いた。

 気配は近くから……殺気はない。しかしそれでも油断ならない相手。勝てる見込みがなくても、那由他は構えを解かなかった。部屋一面に視線を飛ばす。未だ寝惚けている霧葉の手だけが、虚しく空を撫でていた。


「どこを見ておる。こっちじゃこっち」


 不意に白い腕が、布団からぬっと生え出した。よっこいせと年寄り染みた言葉を吐きつつ、彼女も上体を起こした。その姿を目にした瞬間、那由他はあんぐりと口を開けた。

 寝癖で乱れた灰褐色の髪――まだ良かった。幼い外見と相まって、似合わないものではなかった。

 軽く欠伸を噛み殺している幼い美貌――それもまだ良い。誰だって寝起きの時は欠伸の一つでもするだろう。

 しかし、彼女が一糸纏わぬ姿であったなら? ――……誰だって戸惑いを隠せないだろう。


「なっ……何をしている!? 貴様!?」

「見れば分かろう。添い寝じゃ」

「そうではない! 何故貴様がここにいると聞いているのだ!?」

「簡単なことじゃて。惚れた雄に寄り添うのは雌の特権じゃ」

「ほっ、ほれっ……掘れっ…………惚れぇ!?」


 彼らしからぬ素っ頓狂な声が部屋中に響き渡った。その余りの声量に、彼女は思わず顔をしかめる。


「余り騒ぐな。昨夜は同族と別れる為に色々と大変だったんじゃ。夜が明ける頃になって、ようやく彼奴等も納得してくれたわ」

 それを聞いて、それこそ那由他は絶句してしまった。あの時途中で部屋を出て行ったと思えば、どうやら仲間を一晩中説得し続けていたらしい。いくら惚れたが故の行為とはいえ、その行動力は目を見張るものがあった。

 しかしそれはそれ、これはこれ。折角素直に受け入れようとしていた立ち位置を、気付けば横から掻っ攫おうとする狗がいる。これには流石の那由他も我慢ならなかった。


「なっ、駄目だ! 主の下に就くのは私一匹で十分だ! 獣臭い狗など、御免被る!」

「下か……いや、それも倒錯的で良いかもしれぬが……妾が就きたいのは隣じゃ。別にぬしの場所なぞ奪いやせぬ」

「もっと駄目だ! 寝言は寝て言え狗畜生が!」

「……いい加減黙らぬか! 此方が下手に出れば付け上がりおって! 子猫風情が妾に勝てるとでも思うたか!?」


 暫し睨み合う二匹。心なしか視線の間に火花が散っている気がする。しかし今この場にて、それを見るものは皆無だった。


『…………ふぁ……』


 唯一の観客――霧葉は小さく欠伸を漏らす。何故か何時もより格段と眠かった。既にその視界からは二人の闘争風景はなく、欠伸の涙で輪郭がおぼろげとなった光景だけが、優しく彼を包み込んでいた。

 『昔』の至高の贅沢――二度寝。幸福感に包まれている彼に、更なる喧騒が襲い掛かるまで、後一時間……。





[4143] 第十四話 いいこと思いついた。お前以下略
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:b7c0092b
Date: 2009/05/10 12:49



  ―――ズズッ……。


 白い湯気が頬に当たる感覚を楽しみつつ、霧葉は湯呑みを傾けた。緑茶の渋みを確りと味わうつもりなのか、軽く目を閉じて意識を集中させる。しかしそれも数秒の事、やがてこくこくと小さく咽喉を鳴らして口の中にあった茶を飲み干した。

 湯呑みの縁から唇を離すと同時にホッと一息、白い吐息が空へと昇る。愁いを帯びた瞳でその行き先を見守る霧葉。縁側のそこから見えるのは、寒さに負けず、青々とした葉を茂らせる竹林だった。

 秋は既に過ぎ去った。気温は次第に低下していき、やがて雨の代わりに白い雪を降らせる事だろう。

 しかし、雪が降らずとも冬に入った事は確かだった。ここ永遠亭でも何かと慌しい雰囲気が漂っているのを、霧葉は敏感に感じ取っていた。

 顔に『必死』という表情を貼り付けて走り回る清掃班。

 食料の割り当てで、何かと衝突する管理班と調理班。

 何時もより三割り増しで弾幕ごっこに励む警備班。

 そして『喰う』『寝る』『遊ぶ』と、いかにもニートらしい生活を送る霧葉。

 幻想郷は本日も平和である。




















東方狂想曲

第十四話 いいこと思いついた。お前以下略




















 怠惰っ……至福でありながら……怠惰っ……! 偸安っ……それは怠け者の証っ……!

 人間の子供ですらっ……身体を動かすっ……冬っ。しかしっ……俺は動かないっ! 惰眠を貪りっ……那由他を撫でっ……手伝いもせずっ……親の脛に噛り付いてっ……茶を啜るっ!

 何と言うっ……餓鬼っ! 子供という立場に甘えたっ……糞餓鬼っ! それに加えっ……先生の足までも引っ張ったっ……何と言うっ……恩知らずな俺っ! まさにっ……外道っ!

 しかしっ……この茶はっ……美味いっ! 実にっ……美味いっ!


『那由他っ……波動拳コマンドっ……教えてくれっ!』

「……主、もう少し落ち着いて茶を飲むことは出来んのか?」

『出来んっ……だからっ……波動拳コマンドをっ……弾幕の撃ち方の口授をっ……頼むっ!』

「……まぁ色々と言いたい事があるが、とりあえずよく聞け主。この際はっきりと言わせて貰うがな、主が弾幕を撃つのは無理だ」

『使えぬっ……猫っ……! ちょちょちょちょちょちょっ! 待った待った待った! 調子ぶっこきました! サーセン! 謝るんでゲートオブバビロン状態な弾幕は止めて! マジで!』

「ふん……」


 取り合えず体制とか気にせず謝罪してみた。絶賛ニート生活中の霧葉です。あまりに暇だったんで福本口調で飲茶実況してみたんだが、やはりというか那由他には不興だったようだ。特にラストの部分でぶち切れた辺りが実に那由他らしい。

 いきなり低姿勢な俺に呆れて、那由他は弾幕を消してくれた。消してる最中「何で私はこんな主を……」とか「いや、だがこんな主だからこそ……」等といった声が聞こえた気がしたが、あえて触れない事にした。異種族間でしかも同性フラグとか、流石の俺もちょっと引くわ。

 剣呑な空気を一掃する為にも取り合えず茶を啜り、ぷはぁと一服。縁側で飲んでる所為か、やけに茶の冷めが早い。これ飲んだらもっかい淹れなおすか。


『でさーマジな話、そろそろ波動拳が撃ててもおかしくないはずなんよ』

「一服してるだけで、どうやったらそんな結論に達する? 相変わらず何を考えてるか分からぬ奴だ……」

『茶だけにおちゃらけてみました』

「……座布団全て没収」

『仕方ナイネ……』


 兄貴口調で残念がってみるテスト。那由他は汚物を見る眼でこちらを見ている。消毒されないだけマシだろう。

 不快感に包まれた那由他を誤魔化すために、そっと掌を小さな頭に乗せた。触れた瞬間、猫特有の柔らかな体毛が掌全体に行き渡る。なるべく優しく……高級な陶器を扱うかのごとく、ゆったりと頭を撫でれば、くすぐったそうに――しかし幸福そうに――那由他は目を細めた。

 前世の頃から動物好きだっただけに、こんな表情をしてくれると非常に嬉しい。特に那由他はこの間の一件から撫でても文句を言わなくなったので、その幸せも一味である。デレ期突入ですね、分かります。

 くぁ……っと、小さく欠伸が漏れた。思わず那由他を撫でる手を止め、そのままだらしなく開く口元を隠した。それと『彼女』の声が掛けられるのは、ほぼ同時だった。


「キリ、エイリンが呼んでおったぞ。そろそろ診察の時間ではないのか?」

『ぁ~……そ~いやそだったね。あんがと』


 湯呑みを盆に置き、目を擦りながら『彼女』に礼を言う。ついでにポンッと、大きな頭に手を乗せた。

 那由他と比べると、こちらはやや荒さが目立つ。しかしその毛並みと強靭な肉体は、手加減せずに撫でられるという事の立証である。つまるところ、俺が撫でるだけに留まらずに抱きついてその荒々しい毛並みに顔を埋め、獣臭に包まれて恍惚としたとしても、何ら問題はないのである。


「なっ!? あっ! ……きっぃ……やぁ……っ!」

『いやー相変わらずいい身体してんねー。もののけ姫のモロといい勝負だ』

「……主、ほどほどにしておけ。呼ばれているのだろう?」


 さいでした。

 渋々ながらも『彼女』――弥生から離れ、そのまま盆を持って立ち上がった。俺自身から見ても倦怠な動きだったが、まあしゃーないかと内心ため息を吐いた。

 同時に未だ包帯の取れない左足に視線を向ける。傷を負って既に二週間……痛みなんてこれっぽっちもないんだが、どういう訳か上手く動かない。着々と良くはなっているみたいなのだが、死に体から一ヶ月で全快した速度に比べたら亀みたいなもんだった。


「大丈夫か?」


 少しだけ消沈していたのを見かねたのか、心配そうに俺を見上げる那由他。そういやー負傷した日から、随分丸くなったなーと思いつつ口を開く。


『ん、心配無用。まだ完治しねーのかなーって思ってただけだ』

「……主、そんな短期間で治ったら誰も苦労せぬだろうが。化物でもあるまいし……」

『ちょいちょい、俺妖怪妖怪』

「主は『妖獣』だ。確かに妖怪に部類するが、若干の差異があるのだ。良いか? そもそも妖獣というのは……」


 何か長ったらしい演説が始まりそうだったので、スタコラサッサと逃げ出しますた。




















 昔ながらの制法で作られた区分棚というのは、見ていて飽きさせない何かを感じる。しかもそれが作られて相当な年数を経た物であるとすれば、その年数分だけ味が深まるというものである。

 この診察室に置かれているチェストなんて、それに筆頭すべき一品だろう。ニスを使わず、部分部分を黒金で補強され、乾いた木目は枯れ木のような印象を抱かせるというのに、この棚全体にどことなく根強い『力』を感じる。

 職人の思い入れがそうするのか……はたまた使用者自身がそう扱っているのか……。そこには俺の思いもよらない人情的なドラマが展開されていたのだろう……。いや、過去だけでなく、恐らく、これからも……。


『……ツッコミはなしか』


 軽くため息を吐く。下らない事を考えると幾らでも時間は潰せるが、やはりこういうボケにはツッコミ役がいた方が何かと楽しいのだ。具体的に言えば那由他とか那由他とか那由他とか。

 視線を少し横にずらせば、何枚目になるのか紙一面を文字で埋め尽くそうと試みる八意先生がいる。しかもその表情が……何と言うか、鬼気迫る感じなので少し怖い。診察してる最中は笑みを絶やさないんだが、こうしてカルテ(仮)に記入し始めるともう別人だ。何なんだろうね、このギャップは。

 ちなみに那由他がここにいない理由は、診察室に体毛が舞うと面倒な事になる云々……と八意先生に言われたからである。確かに無菌室程ではないにしろ、診察室も清潔感を保たなければならないのも頷ける話である。

 しかし、やはりというか何と言うか……那由他がいないと面白味に欠ける。診察だって、さっき八意先生に口腔内粘膜採取されてから、かれこれ十五分は経過してる。暇潰しと称して、外見相応の子供のように椅子の上で両足をパタパタと動かしていたが、せいぜい五分が限界だった。いや、マジで。

 暇潰し暇潰し……と、苦肉の策として考え付いたのが冒頭の『鑑定家ごっこ』である。既に椅子、机、チェストと、芸術品として見れる物は大体鑑定――という名の暇潰し思考――し終えてしまった。次は八意先生が持ってる鉛筆でも鑑定しようか、と思った瞬間の事である。

 俺に、電流走る。


『いいこと思いついた。お前以下略』


 まあ要するに――いささか人道的に反してはいるものの――八意先生を鑑定してみましょうって事だ。思い立ったが吉日、早速やってみよう――つーかマジ暇なんです、ごめんなさい(本音)。

 まず頭から始まり、髪、顔、首と、ゆっくり、しかし確実に視線を下げていく。カリカリと高速で紙の上を走り回る鉛筆の音をBGMに、ただひたすらじぃっと観察を続ける。

 帽子――今思ったけどあの帽子って自前だろうか。今の時代、こんな派手な服装といい帽子といい、市場に出回っているようなものだとは到底思えない。となるとやはり自前か。赤と青なんていう、ある意味対極に位置する色をあえて使うというその発想はよく分からない。

 髪――白髪……か? いや、女性の名誉のためにもここは空気を読んで銀髪としておこう。そうすれば評価ポイント(?)も下がらなくて済む。あ、微妙にはねた寝癖っぽいの発見。完璧超人に見えて、抜けてるところもあるのか。

 ……朝起きて寝癖を直してる八意先生想像したら、かなり親近感湧いたな。てか可愛い。そんな光景見たらスタンド使いになれる自信がある。良ぉお~~~~~しッ! よしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしよしって感じで。その後どうなるかは知ったこっちゃねーけど。

 顔――容姿端麗眉目秀麗、後は特に筆頭すべきことはない。強いてあげるなら、現在進行形で切れ長の目をしているところだろうか。M属性の人ならば、こういう目が出来る人を相方に選ぶと楽しめるかもしれない。主に性的な意味で。

 首――取り合えず白い。ついでに細そうだ。位置的に全体を見ることが出来ないので、何とも言えないもどかしさがある。あ、チラリと一瞬だけ見えたうなじは最高でした。

 胸――……ついに来たメインディッシュ。これが一番難しいところであり、鑑定家の腕の見せ所でもある。腕が邪魔で邪魔で仕方ないが、それはそれでいいものがある。見ようと思えば俺の男としての特殊能力(マインドスキャン)――別名『妄想』――が発動する事だろう。この特殊効果の前ではどんなに厚着をした美女も一糸纏わぬ赤子同然っ! メイドインジャパンの本気を見せてやろう!

 ふむ……まず……。


「楽しい?」

『ふぇ?』


 不意打ちに投げかけられた声に、思わず顔を上げた。

 視線が絡み合う。黒い双眸、感情の読み取れない顔、疲れたようなため息……以上の要素を超スピードで解析し、後にとる行動を決せよ。

 フェイズ1――思考回路の高速回転開始。視界全体から入る情報収集能力を最大限まで拡大。瞬きから大気の流れに至るまで、全ての情報源を見逃さず、聞き逃さず、嗅ぎ逃さず。今現在の『全て』を『掌握』する。

 フェイズ2――思考回路最大速度到達。回転速度維持。取り込んだ『全て』の情報処理開始。医療器具、薬品、炭素繊維、肉体組織、全て異常なし。対象の体温、心拍数、血圧に異常なし。思考回路履歴ソート開始。

 フェイズ3――思考回路最大回転速度維持。思考回路履歴ソート完了。世界的情報概念『世論』との照査開始。体外情報異常なし。対象の体温、心拍数、血圧上昇開始。長時間の回転維持は危険と判断。警告準備開始。

 フェイズ4――思考回路最大回転速度維持。照査完了。体外情報異常なし。対象の体温、心拍数、血圧上昇中。思考回転速度低下開始。警告準備解除。高速解析状態終了。推進行動決定完了。所要時間二十三莫。高速解析速度第四位記録更新完了。

 結論――あやまれ! せんせいにあやまれ!


『マジでごめんなさいでしたっ!』

  ―――ガゴンッ!!


 床に額を擦り付ける――というか、床に額を叩き付ける勢いで平伏した。椅子から転げ落ちた所為かかなり痛かったが、そんな事はこの際どうでもいい。てーかアレだ、うん、今めっちゃ恥ずい。出来る事なら数分前の俺をぶん殴ってやりたいね、マジで。

 例えるなら隠していた近親相姦系のエロ本を異性の家族に発見されて、けど何も言わずにそっと自室の机の上に置かれていたっていう心境がしっくりくる。無言で空気を読まれると、頭ごなしに怒鳴りつけられるより呆れられて愚痴を零されるよりも堪えるんだよなぁ……。


「いや、あの……ねぇ、取り合えず顔を上げてくれないかしら?」

『ははぁ! ありがたきお言葉であります!』


 しかし八意先生の若干戸惑ったような声色が新鮮で、かつ何か可愛らしかったので、口先だけでも悪ノリしてみた。まあどうせ喋れないんだし、言うだけ問題はないだろう。

 顔を上げればテキパキと消毒の準備をしている八意先生。足の診察は終わったはず……と思いきや、グイッと襟を掴まれ、そのまま猫のように椅子の上に座らせられた。俺から見ても華奢なのに、どこにそんな力があるんだろうか。また考察してみるのも面白いかもしれない。

 下らない事を考えていると、頭に鋭い痛みが走った。少し身を捩ると、八意先生に顔をガッシリと掴まれる。そこでようやく疑問が解氷した。

 あ、額割れてんじゃん。俺。


「はぁ……全く、また生傷増やして……」

『サーセン。医療費は何時か払いますんで、内臓だけは人並みに残しといて下さい』


 ジャンピング土下座なんて、慣れない事するもんじゃないね。いやしかし、あのまま顔をつき合わせてた方が恥ずかしい。羞恥か痛みか……うは、何と言うエロゲ的選択肢。結果的に何かそれっぽいシチェーションにはなったけど……ゴメン、直視とか無理。相手が気付いてないだけに、本気で恥ずい。五月蝿い、そこ、ヘタレとか言うな。


『うーあー……っ!? ぶるあああぁぁぁぁぁ!!』

「あっ、こら! 急に動くから……」

『目がああああぁぁぁ!! 目があああぁぁぁ!!』


 本日一番の無駄知識――消毒液が目に入るとマジで痛い――を、身をもって知った瞬間だった。




















 妖獣の特徴として、獣だった頃の名残が残る事が挙げられる。人間の『理性』を持ちながらにして、野生動物の『五感』を更に上回る存在――それが妖獣なのだ。

 ここ永遠亭において、その存在は珍しいものではない。人型と成せる者は少ないとしても、人間並みの『理性』を持つ兎である。

 では兎の特徴と言えば何が挙げられるか。それは捕食者から逃げる為の驚異的なまでの跳躍力と、その存在を知るための異常な聴力……その二つの内の後者が、今は堪らなく憎かった。まぁそれが、八つ当たりである事は重々承知してはいるのだが……。


「また暴れてるようじゃの。はてさて、完治するのは何時になる事やら……」

「……それは嫌味のつもりか?」


 苛立ちを隠さず問いかける。目下一番のストレス要因となってるこの生物(ナマモノ)は、素知らぬ振りをして薄らと微笑んだ。


「嫌味を言うた所で何にもならぬ。伴侶を卑下するのはどうにも苦手での……まあそういった趣向も嫌いではないが」

「黙れ変態狼」


 全くもって、頭が痛む。破天荒な主にはある程度耐性がついたその矢先に、この変態だ。主は傍に置く事を許可したが、私は未だ此奴の言動に慣れないでいた。

 幸いその外見はかつての幼子のものではない。何の考えがあったのかは分からぬが、主は『狼』としての此奴をいたく気に入っていた。触れ合う時も、時折『わっしゃわっしゃ最高!』だとか『うは、獣臭ぇ! だがそれがいい!』等といった『声』が聞こえる。その度に、思わず吐息が漏れた。

 折角私の頭を撫でる事を許可したというのに……この敗北感は何なのだろうか。しかもこんな『得体の知れない変態狼』に負けたとなると、軽く死にたくなった……勿論戯言だが。

 しかし……と、我が物顔で主の部屋に寝そべる此奴を横目で見やった。全長は子牛程――私のような猫ならば一飲みするくらい訳無いだろう。油断のない目付きも、静寂を律する足音も、その身に纏った気魄も……私が殺した狼とは明らかに一線を画していた。

 単純な力だけで物を言うのならば、間違いなく私より上だろう。悔しい事ではあるが、この差はそう簡単に縮められるようなものではなかった。何せ此奴は……。


「妾が怖いか? ナユタ」

「……それほど血生臭いと、誰だって辟易する」


 不意打ちに掛けられた言葉だったが、自分でも驚くほど冷静に対処する事が出来た。これも此奴がここに居付いた影響だろう。そしてこの部屋全体に微かに漂う血の香の原因も……恐らく……。


「半世紀以上もの間、肉で飢えを凌ぎ、血で渇きを潤してきた。今更取れるとは思っておらぬわ」

「人間は誤魔化せても、私達『妖獣』の鼻は誤魔化せんぞ」

「構わぬ。妾の臭いで、少しでもキリの居場所が誤魔化せればそれでよい」


 キリの――主の……居場所? 意味深長な言い回しに、私は思わず首ごと視線を投げかける。


「……どういう事だ? 何を誤魔化すと言うのだ?」


 私の問いに、彼女は驚いたかのように鎌首をもたげた。一対の金色が私を射抜く。二週間前の事があっただけに、未だ不快に感じるその瞳――しかしそんなものに圧される訳にはいかない。

 これは『私の事』ではないのだ。他でもない『私の主の事』なのだ。私の感情一つで、引くことは絶対に許されない――否、私が許さない。

 しばらくして、狼は静かに目を伏せた。答えを返さない上にその態度……私の苛立ちを増長させるのには十分過ぎた。


「……答えろ『弥生』」


 弥生――主が此奴に与えた名前――それを口にしたのは、もしかすると初めてだったかもしれない。口に出すのも惜しい……というか、その名を口にすれば否応なしに此奴を認めてしまうかのようで、今まで躊躇っていたが……そんな体勢はこの際無しだ。

 私が彼女の名前を呼ぶと、キョトンとした表情で顔を上げた。そのまま、まるで珍しいものでも見るかのような視線を送ってくる。ふざけるな、と口を開こうとして……奴は静かに苦笑した。


「やれやれ、思ったより情熱家なのじゃな、ナユタは……」

「っ!」

「まあそう恥じるでない。主人思いなのは関心じゃ」


 場の空気を和ませるかのように、少しだけ茶化す弥生。しかしそれも長くは続かなかった。彼女が再び笑みを消したのだ。そうして紡ぎ出されたのは、一つの問いだった。


「時にナユタ。キリを『食料(エサ)』として見たことはないかの?」


 食料。そう言われた瞬間、少しだけ胸が痛んだ。少なからず思うところはあったからだ。そんな様子の私を、彼女は目ざとく見抜いたらしい。答えも待たずに言葉を続ける。


「……それも無理からぬことよ。相手は極上の獲物じゃ。長年狩りをし続けていた妾が保障する。アレは仙人に並ぶ珍味じゃろうなあ」

「仙人と並ぶ? だが主は仙術を使う以前に空を飛ぶことすら――」

「そうじゃな。じゃが『何故使えぬか?』という事は、今は関係ない。妾が言いたいのは『そんな馳走が手付かずのまま残されていたらどうする?』という事じゃ」


 そう言われ、反射的に脳裏に浮かんだのは、熟れ過ぎた果実に蟲が群がる光景だった。


「幸い妾がいた山で、キリの匂いに気付く者はおらんかった。いや、そもそも味というものは喰らってみなければ分からんのじゃが……」


 そこで言葉を切る弥生。次の言葉を言うべきか、言わざるべきか、心の葛藤が見て取れた。だがそれも結局は――逡巡に過ぎなった。


「妾のような者がいないとも限らなんだ」

「……成程」


 小さく、まるで誰にも聞かれぬよう紡がれた言葉だった。いや、もしかすれば本当は口から出てすらいないのかもしれない。ただ私の『耳』が、勝手に『声』を拾ったに過ぎないのかもしれない。だがそれは……彼女の本心で間違いないだろう。

 思えば、此奴はここに住み着いてから一口たりとも『肉』を口にしていない。幾ら妖獣が人間並みの理性を持つとはいえ、その飢餓に打ち勝つのは難しい。しかもすぐ隣に馳走()が転がっているとなれば、それはもう――拷問に等しい。

 しかし飢餓を我慢し、本能を押し込め、あまつさえ食料()の身を案じる。

 そうまでして、此奴は――。


「弥生」

「む?」

「あの言葉、本気か?」


 再び眠る姿勢に入った弥生に問いかける。あの言葉――それをみなまで語るほど、私は野暮ではない。

 私の予想を裏切らな弥生は、鼻で一笑すると自信に満ち溢れた声でこう言った。


「無論じゃ。一匹狼に二言はないぞ」


 ……少し間違ってないか? とは、流石に言えなかった。




















 彼女――鈴仙・優曇華院・イナバは悩んでいた。自分の目の前にいるのは、かつて『月の頭脳』とまで謳われた天才――八意永琳。同時に彼女の師匠でもあるのだが……どうも近頃教鞭を揮う回数が減っていた。その事実に対し、彼女が疑問を抱かなかった訳ではないが、どうせまた新しい研究でも始めたのだろうと勝手に自己完結してしまっていた。

 弟子の彼女とて仕事が無い訳ではないのだ。ちゃんとした講義を受ける回数は確かに減ったものの、薬品の調達やら整理やら調合やらの指示は以前と変わらず。若干暇が出来たと思えば、地上の兎――因幡てゐの悪戯の餌食にされる始末。

 可もなく不可もない日常が続いていた。永琳に呼び出された時も、久々の講義だと諸手を挙げて喜んだのだ。だというのに……。


「あのー……師匠。このカルテの束をどうしろと言うんでしょうか?」


 部屋に入るなり無言無表情かつ無造作に渡された紙の束、それ自体は割と見慣れたものだった。幸いにして書かれている人物にも見覚えがある。というか、彼の事を知らない人物は永遠亭に一人としていないだろう。

 否、そんな事はどうでもいいとでも言いたげに、彼女は軽く頭を振った。それよりも、今、何故、彼のカルテを渡されたのかを考えなければならない。……考えれば考える程、嫌な予感しかしないが……出来れば外れてくれと、彼女はいるかどうかも分からない神様に願った。


「あ、もしかして焼却処分ですか? それなら期限切れの薬品と一緒に――」

「違うわ」


 弟子の慣れないボケを躊躇い無く切り捨てる永琳。鈴仙は今直ぐここから逃げ出したい衝動に駆られた。というか、少しだけ涙目だった。


「まぁ私も少し疲れてるから手短に言うわ。ウドンゲ、しばらくその子『監視』してくれないかしら?」

「え? あ、はい…………はいィ?」


 思わず肯定の返事を返してしまったが、別に乗り気だった訳ではない。いわゆる条件反射のようなものだった。その証拠に、一秒も経たない内に素っ頓狂な声を上げてしまった。同時に鈴仙の頭の中で『監視』という単語がぐるぐると渦をまく。


「監視……と言うと……えっと、四六時中相手の行動を眺め続けて、素肌を晒す瞬間にニヘラって笑うアレですか?」

「別にそこまでする必要はないんだけど……まぁこの子の行動を、しばらくの間記録してくれればそれでいいわ」

「いえいえいえいえいえ!! 『それでいいわ』じゃないですよ、師匠!」


 呆気らかんと言ってのける永琳とは対照的に、鈴仙の顔色は若干青褪めている。それも無理からぬ事だろう。鈴仙が持つカルテには、達筆な字で『霧葉』と書かれていた。

 霧葉――捕食者である『狼』を連れ込んだ危険人物。永遠亭で一番幼く、喋れないという障害を抱えている所為か支配欲が強く、密かに永遠亭の乗っ取りを企てている兎妖怪。配下の三毛猫の統括力を使い、着々と忠実な部下を育成中。永琳から承った極秘任務の帰りに、暇潰しに『狼』の群れをを素手で壊滅状態にまで追い込み、その群れの中でも一番の強者を拉致して帰還。左足の怪我はカモフラージュであり、実際は無傷。無邪気なようで腹黒く、その血は漆器のようにどす黒い。

 ……ここまで来ると既に別人だ。本人が聞けば笑い転げる事間違いないような与太話ではあるものの、当の兎達にとっては一笑に出来るような事ではなかった。霧葉自身がどういう人物かは横に置いとくとして、彼が『狼』を傍に置いているというのは本当の事なのだから。

 確かに、彼女――鈴仙は強い。その気になれば高々半世紀しか生きていない妖獣なんて、あっと言う間に伸す事だって可能だろう。だが、問題はそう簡単なものではないのだ。

 幾ら月から来た兎とはいえども、その『兎』という種の血に刻まれたものに変わりはない。かつては地上にいたとされる『月の兎』……当然ながら種として刻まれた『恐怖』も、数多の年月で変わることはなかった。それは勿論、鈴仙とて例外ではなくて……。


「大丈夫よ」


 がっくりと項垂れる彼女の肩を軽く叩き、永琳は微笑みながら労わりの言葉を掛けた。


「あの子には『兎達に何かあったら永遠亭から追放する』って伝えてあるわ」

「師匠……」

「だから狼の方は無視して、あの子の監視お願いね?」


 菩薩のように優しく輝くその笑みを見て、鈴仙は……。


「それって私の安全が全然確保されてませんよね?」

「……」


 沈黙。

 吐息。

 達観、そしてウィンク。


「ウドンゲ、頑張りなさい」

「師匠ーーー!!」


 やはり神様はいないのだと思い知った、立冬の頃であった。




















 斯くして、気付かぬところで物語は進んで行く。しかしそれでも――。


『っくし! あー……誰かが俺の肉体美について語っている希ガス……。あ、母さん、お茶ぷりーず』

「あ、霧葉……って! どうしたの!? 目が真赤だよ!?」

『レイセンさんの真似~♪ って、ちょちょちょちょちょ! 包丁持って何処行く気なの!? てか今のジェスチャーで何が伝わったの!? ねぇ?! ちょっ! ちょーい!!』


 ――知らぬは亭主ばかりなり。










霧葉 :兎
主人公。最近生傷が絶えない。おっぱいとか好き。でも一番好きなのは臀部だったりする。

那由他 :猫
準主人公。何か色々と苦労人のツンデレ体質のツッコミ役。ダンディボイスが売り。

弥生 :狼
準主人公。元山暮らしの元幼女。甘噛みはマーキングのつもりらしい。




[4143] 第十五話 そんなこと言う人、嫌いですっ!
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2009/05/10 12:51



 あまりの寒さに目が覚めた。毛並みを整えるよりも早く、隙間風が私の体温を奪う。不意に目に付いた紙の束――例え部屋の隅に置こうとも邪魔にしかならない物体――が、寒さで苛ついた私の神経を、一層逆撫でた。切り刻んでやっても良かったが、そんな事で貴重な体温を奪われるわけにもいかない。今の私に出来ることは、ただひたすら部屋が温かくなるのを待つだけである。

 そう……冬は、寒い。それが早朝のものとなれば、もはや寒いというより痛い。何と言うか……無数の針で身体中を突かれているような気分だ。

 のっそりと、無意識の内に私の欲望が身体を突き動かした。直に荒々しい毛並みに行き当たる。弥生だ。此奴の言動はどうも好きになれないが、今はそんな事を言っている場合ではない。寒いのだ。暖を取れるのならば、今少しだけの屈辱も甘んじて受け入れよう。

 眠り続けている弥生の上に陣取り、再び丸くなる。体毛ごしに伝わる温かな体温……チクチクと刺さる毛が無ければ、最高の寝台と言えるだろう。そう、あの『布団』と並ぶほどの……。

 というより、そもそもおかしいのは主だ。何故布団を使わない? 『押し入れを開けて布団を敷く』……たったそれだけの動作を何故しない? いや、もしかすると私が寝た後にこっそりと布団を使っているのか? だとしたら何と器量の狭い主なのだろうか。私にも少しぐらいその温かさを分けたところで、罰は当たるまい。

 いいか主? 仮にお前が昔言った様に『三時間』しか寝ないとしても、だ。忠義を立てた部下には少しぐらい恩典があってもいいのではないか? 少なくとも、昨日今日部下になった狼ごときと同じ扱いというのは納得いかん。

 私が仕えて一年と少し……布団を使った回数は片足の爪で事足りるが、あの温かさはそう簡単に表現出来るものではない。だからその耳を立ててよーく聞くがいいこの駄目兎。

 お前は私を馬鹿にしているのか?いい加減布団を使う事を覚えろお前がここに来てから風呂敷に包まって寝ているのも知っているだが布団という素晴らしい道具があるのに何故それを使わない私への当て付けか?そうか?そうなんだな?ふざけるなよ主こっちは寒い中必死に寝ようと毎晩頑張っているのだぞ?考えてもみろ眠るだけでも一苦労な私と布団を使えばすぐに眠れる主どちらが幸せだと思う?お前に決まっているだろうだというのに何故使わんいらんのならば私に寄越せ人型に化ける術なら私の自尊心を傷つけてでも弥生に教えを乞う私だけで布団も敷こうだからその所有権を私に渡せどうせ主は何も考えていないのだろう?弥生をここに置くと決めた時だってそうだ永琳殿にあれだけ叱られて笑うなど能天気にも程があるわ私でさえ意気消沈したんだぞ?おかしいのではないか?普通そうと決めた主の方が気が重くなる筈ではないのか?何故私が凹まなければならない文句はそれだけではないぞこの間なんて――。


  ―――バンッ!

『ハイハーイ、皆注目注ー目! こっち見ろ見ろ見ろ見ろ~』

「主……布団は仕舞うな……私が、使う……」

「むう……後二時間……」

『あ、那由――』


 その瞬間、目から火が出た。目覚めとしては最悪の部類に入るかもしれないが……まぁ、とりあえず目の前の『毛玉』をぶちのめす事にしよう。


『ちょっ!? えっ!? マジで!!? 何で那由他おっきくなッ、アァッーー!?』




















東方狂想曲

第十五話 そんなこと言う人、嫌いですっ!




















 鈴仙は逃げていた。狭い廊下を低空飛行で全力疾走し、静々と近付く『アレ』から逃げていた。

 『アレ』は強かった。どうせ負けるわけがないと、根拠のない自信に縋って一度だけ弾幕ごっこを挑んでみたが、あっと言う間に王手をかけられてしまった。

 『アレ』に彼女の能力は効かなかった。狂気を操る程度の能力――普通の相手ならば目を見るだけでその力が発揮されるというのだが……いや、分かってはいたのだ。何故『アレ』に力が効かないか、本当は最初から分かっていたのだ。ただ藁をも掴む思いで『アレ』の瞳を見詰めたというのに……。


「くっ……!」


 思い出すだけでも背筋が震える。三日月のように見事な曲線で描かれた唇、星のように鏤められた顔のパーツ、激しい感情の色を内包した真黒な瞳……きっと『アレ』は、夜が擬人化した者なのだ。そう考えれば、あの常識外れな強さも納得出来る。

 不意に、鈴仙の耳が足音を拾った。普通ならば聞き逃してしまうような小さな音……しかし、極度の緊張状態を保った今の彼女に死角は存在しない。音源の方向から発せられる独特の『波』――発生源は『アレ』で間違いないだろう。

 近くの障子を開けて、素早く部屋に飛び込む。音もなく障子を閉めると同時に、息を潜める。『アレ』がこの部屋の前を通るのはもうすぐだ。絶対に気配を覚られてはいけない。

 ひたひたと静寂の中に響く、小さな足音。子供のものとしか思えないそれが近付くにつれ、彼女は自分の心臓が早鐘を打っているのに気が付いた。反射的に胸を押さえるも、そんな行動で瞬時に落ち着くなど出来やしない。

 『アレ』が近付いて来る。鼓動は収まらない。相手は聴覚に優れた妖獣だ。この程度の心音は楽に聞き取れてしまうだろう。もし見付かってしまったら……そう思うと、彼女の顔は青く染まった。

 そもそも私は何で逃げてるのだろう? 何も悪いことしてないのに……ただ師匠に頼まれた事を、一生懸命こなしてただけなのに……。そうだ、私は悪くない。ただ『アレ』が理不尽な怒りの矛先を私に向けているだけで、私は全然悪くないんだ。だから……。


「ん?」

「っ!?」


 ……だから『アレ』の一言だけで、こんなにも恐怖する必要なんてないんだ……。

 心の中で自分にそう言い聞かせるものの、それは何の効果も成さなかった。むしろその事実を再確認した所為で、一層『アレ』が恐ろしくなってしまった。考えるんじゃなかったと後悔するよりも先に、鈴仙の優秀な耳は、その音を拾ってしまった。

 『アレ』が、障子に触れた。

 自分と『アレ』を隔てるものは、もはや薄っぺらい障子一枚のみ。今すぐ逃げ出してしまいたいのに、何故か鈴仙は動かない……否、動けなかった。彼女自身、まさかこうもアッサリと見破られるとは思っていなかったのだ。予想と違う急激な距離の短縮――それが、彼女の中に大きな空白を与えた。

 そして今、障子が開かれようとしたその時……。


「何をしているのじゃ? マヤよ」


 彼女は天敵とも言える種族に救われた。




















 雪が降っていた。昨晩から降り続けた初雪――縁側から見える庭は、既に一面の銀世界と化していた。

 この場において唯一の観客である永琳は、歩みを止めてその光景を眺めた。もうそんな季節か……と感慨深く白い吐息を漏らす。しかしそれも一時の事、すぐに歩みを再開する。今は見慣れた光景に心を奪われてる暇などないのだ。

 歩きながら手中の物を確認する。自分で書いたその内容に、再び吐息が漏れそうになった。頭を振る。その思考回路には何が描かれているのか、知る者は一人としていない。

 目的の場所へと辿り着く。軽く身なりを整え、障子に手を掛けた。


「失礼しま――」

  ―――ビョウニンノブンザイデウィン、サゥザァ

「違うわ……アイツのトキはこんな生易しいもんじゃないわ。やっぱりコンピュータ相手だと限界があるわね……」


 部屋に居たのは、一人の聖帝使いだった。黒いコントローラーを握り締め、目にも留まらぬ連打でコンボを繋ぎ、初撃からフィニッシュまで持っていく。その瞳は猛禽類のように鋭く細められ……目元には狸のような隈が薄らと浮かんでいた。思わず白眼視してしまった永琳に、罪はないだろう。


「……コホン」

「あら? 永琳じゃない。こんな朝早くから何か用?」

  ―――テーレッテー♪


 輝夜が永琳に気付いて振り向くと同時に軽快な音楽が流れ、野郎共のむさい声が部屋に響き渡った。現在時刻辰の刻――午前八時頃。彼女の様子からして、一晩中練習していたのは間違いないだろう。全身から湧き上がる、疲労と負の感情を煮詰めたかのようなどす黒いオーラがそれを裏付けていた。

 永琳は自分の頭が痛くなるのを感じ、思わず頭を押さえた。再び記すが、彼女に罪はない。


「まぁ色々と言いたい事はあるんですが……一晩中やってたんですか?」

「そうよ。昨日飛べないイナバと戦ったけど、一勝もせずに終わったわ。まったく、手加減というものを知らないのかしら……」


 今でもその情景が頭に浮かぶのか、呟きながら眉間に皺を寄せる輝夜。そんな彼女の様子を見て、永琳もまた眉をひそめた。彼女がこうして輝夜の部屋に来たのは外でもない、その飛べないイナバ――霧葉の事で話があったのだ。

 永琳は静かに目を伏せ、何となしに手元の資料に目をやる。それは彼について、今まで彼女が書き溜めた書類を簡潔に纏めたものだった。

 最初はただの奇形児だと思っていた。今まで何度も兎達の出産を手助けしている永琳にとっては、それも珍しいことではなかった。だからだろう、その認識自体が間違っていたと気付くのに一年の歳月を要してしまった。

 違和感を覚えたのは、霧葉が永遠亭に戻ってきた日――働かせるために行った身体検査。彼の両親から空が飛べない等の不能な面を聞いてはいたものの、身体のつくりは他の兎達と何ら変わりないと思っていた。何気なく見つけてしまった相違点。発見した時は、思わず数秒ほど固まってしまった。見た目が見た目だけに、それに気付いたのは本当に偶然としか言いようがなかった。

 犬歯――兎にあってはならないものが、そこにあった。

 草食動物の兎には犬歯というものが存在しない。それもそうだろう。草を食む者が、どうして肉食獣のそれを持つ必要があるというのだろうか。その認識は例え己が妖怪と化しても、決して変わることはなかった……。

 新しい道具の発案――天敵を手元に置く愚行――先の読めない思考回路。弾幕ごっこに対する過度な虚弱体質。空を飛べない不能な唖。異様に高い身体能力。……ここまでくると、もはや兎妖怪とは一線を画している。『兎妖怪から生まれた、兎妖怪のような何か』――永琳は霧葉をそう認識していた。

 しかし、表立って調べることは難しかった。彼の両親は永遠亭の中枢を担っていると言っても過言ではない調理長……長年に亘り築き上げた関係を壊すような真似はしたくなかった。二兎を追う者は一兎も得ず――先人の言う事は何時も正しい。

 彼女にとって、その熱が冷めきる前に霧葉が重傷を負ったのは好機だった。治療ついでに行った診察と……害悪にならない程度の簡単な実験。その結果が、今彼女の手中にあった。


「その飛べないイナバのことですが……」

「何? また怪我でもしたの? だったら治さなくていいわよ。リアルアミバごっこするから」


 リアルアミバごっこ――その内容は永琳には分からなかったが、不機嫌そうに言い放った輝夜の様子からして、あまり良い印象は抱けなかった。

 軽く頭を振る。表情を引き締めて真面目な空気を作り出す。そんな様子の永琳を一瞥した輝夜は、吐息を一つ漏らしてコントローラーから手を離した。


「たかがイナバ一匹にそんな顔するなんて、永琳らしくないわねぇ……どうしたの? 新しく入った狼でも使って、謀反でも起こした? それとも私達を裏切って妹紅の手先にでもなった? 後は……そうね、実は月からの追っ手だったっていうのも面白いかも」

「残念ですが、そこまで興味を掻き立てられるものでもないかと……」

「なーんだ、つまんなーい」


 子供のように不貞腐れる輝夜を無視し、永琳は何も言わずに資料を差し出す。輝夜は気だるげそうにそれを受け取り、軽く目を通し始めた。




















 ナユタに部屋を追い出され、ぶらりと散歩していて出会ったのは、キリの母君だった。何時になく殺気立った様子で何かを探しているように見えたので、軽く声を掛けてみたのだが……。


「なーんだ、雌犬の気配だったのかぁ……」


 返ってきた第一声がこれとは、一体どういう事だろうか。生の大半を自然の中で過ごした私ですら、この返答には問題があると分かる。会話とは即ち意思疎通を図るための手段。私が『何をしている?』と問えば、普通『~をしている』等といった返答が返ってくるのが普通だ。そしてそれに対し、私が更なる問い、又は話を投げかける。互い違いの言葉の往来――それが会話と化すのだ。

 何となしに母君を眺める。キリの前に現れる時と何ら変わりない格好……しかしその顔に浮かべる表情は、まるで別人の様に不快さを醸し出しており、その右手には肉厚の包丁を……包丁?


「ぬしも物騒な物を持ちよって……活きの良い食材でも逃げ出したか?」


 冗談交じりに問い掛けてみた。母君の顔が笑顔に彩られる。成程、異種の私から見ても麗しいと感じられる。キリの笑顔は見たことがないが、『此の親にしてこの子あり』と言うぐらいだ。期待しておいて損はないだろう。まあ尤も、キリはここまで分かりやすい殺気を放ちはしないのだが……。

 そこでふと、ナユタの……いや、キリの言葉を思い出す。『笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙をむく行為が原点である』――ふむ。この場合、あながち間違いでもあるまい……と、一人納得する。


「そだね、捌きたい食材だったら目の前にあるけど」

「余り怒らぬ方が良い。不老長寿の妖獣と言えども、雌である事に変わりはないのじゃからな。見目麗しい顔が、たった一つの皺で壊れ……っと」


 文字通り風を切る音と共に飛んできた包丁を片手で止める。どうやら逆鱗に触れてしまったらしい。ある種の魔性を帯びていた笑みは一瞬で消され、母君は忌々しげに舌打ちした。

 この表情は見た事があった。私が初めて母君と会った時――私がキリと同じ布団で寝ているのを見られた時――にも、確かこのような表情をしていた気がする。うむ、やはりキリといいその母君といい、兎の妖獣には腹黒い者が多い。


「余計なお世話だよ。第一、何でまたそんな格好してるの?」


 そう言われ、改めて自分の姿を見下ろしてみる。見事なまでに紅く染め上げられた着物と、白磁のような肌に、無骨な包丁を掴む華奢な指。軽く頭に手をやれば艶やかな自分の『黒髪』に触れる事が出来る。身体はまだ発展途中ではあるものの、後一、二ヶ月したら立派なものへと『変化』を遂げてくれる事だろう。

 私はその場でくるりと回り、キリの『理想』を見せ付けた。


「似合うじゃろ?」

「姫様っぽくて何か嫌」

「むっ、そう言われてみれば確かに……」


 脳裏に思い浮かぶのは、キリがよく遊びに行く人間もどき。櫛の要らぬような黒髪と、異性だけでなく同性さえもを魅了するような美貌……まるで日本人形が人と化したかのようなその姿には、同じ雌として嫉妬を覚えさせられた。しかし、キリと彼奴を結ぶのは『遊び仲間』程度の縁。例え盗られるとしても、それはもうしばらく先になるに違いない。その前に『変化』を終わらせ、キリの目の前に現れれば、間違いなく私を認めてくれるだろう。

 軽くため息を吐き、僅かに膨らみかけた胸に手を当てた。『変化の法』は確かに便利なのだが、見たこともない姿を定着させるのにはどうしても時間がかかる。まったく、人間というのはどうしてこうも個々の違いが激しいのだろうか。どうせなら前の姿のまま認めてくれればいいものを……キリは少しばかりわがままだ。

 そこでふと思った。本当に小さな疑問が、今胸の中に湧き出た。根本的なものでありながら、今日の今まで決して触れないようにしていた疑問。本当に小さくて、下らないこと……しかし考えようとすると眼球の奥底が酷く痛んだ。今直ぐ考えるのを止めろと本能が告げる。もっと考えろと好奇心が急かす。一瞬の躊躇い、勝ったのは後者だった。


  ―――私は、キリの……。

「ごめん。あのずべ公と似てるってのは、ちょっと言い過ぎだったね……大丈夫?」

「……ぅ……む……」


 母君の声で意識が引き上げられた。一、二回程度の狩りでも息を切らしたことはないというのに、どういう訳か息が上がっていた。視界の端に小さな手が差し出される。半ば反射的にその手を掴むと、物凄い勢いで引き上げられた。


「ほーら、立てる? いきなりうずくまるからビックリしちゃったよ」

「……どうりで……床が近いと思うたわ」


 立ち上がり、母君の手を掴んだまま近くの柱に背を預け一息。心臓は早鐘を打っている。久しく息を乱していない所為か、元の状態に戻るにはもう少しばかりかかりそうだ。


「感謝……するぞ。母君」

「礼なら霧葉に言って。貴女が霧葉のじゃなかったら、間違いなく見捨ててたんだから」

「ふむ、一理あるのお」


 小さく笑う。確かに目の前の少女は、私とキリが何の関係も持っていなかったのならば、問答無用で追い出していたことだろう。そう、少なくともこうして手を差し伸べてくれることもなかった。全てはキリのお陰――■■。

 頭を振った。疲れているのか思考が上手く纏まらない。やはり睡眠時間が足りないのが原因か……。


「もう大丈夫でしょ? 私はそろそろ行くけど――あ、そうそう、鈴仙様見なかった? 髪が長くて目が赤い娘なんだけど……」

「見ておらぬ。少なくとも、この近くにいない事は確かじゃ」

「ふーん……」


 床に落ちた包丁を手に取り、鋭い眼差しで私を見詰める母君。疑惑の心――しかし軽く疲弊している私の真偽を確かめるのは並大抵の事ではなく……母君は、ため息と共に手を引いた。


「はぁ……おっかしーなぁ。本当、どこ行ったのかなー」

「さてな。案外、またキリの周りを嗅ぎ回っておるのかもしれんぞ?」

「情報提供ありがと!!」


 その瞬間、一陣の風が私の前を通り過ぎた。突風に煽られ、私の『黒髪』が靡く。母君が立ち去ったのだと気付くのに、数秒の時を有した。

 ふうと一つ、息を吐く。母君が探していた人物は、障子の奥で相変わらず『緊張状態』を続けていた。そこまで脅えずともいいものを……しかし私は彼女の種を『感じ取る』と、息が乱れている事も忘れ、思わず咽喉が鳴ってしまった。


  ―――玉兎……か。


 私は障子に手を掛けた。




















「で、何があった? 事と次第によっては、いくら主と言えど許さんぞ?」

『普通にフルボッコした後に言う台詞じゃな――サーセン』


 台詞の途中で弾幕待機させるとか卑怯だろ……汚いさすが那由他きたない。ジャギ様に『俺の名を言ってみろ!』と聞かれて正解回答をする奴並に分かってない。そういや兄貴には良く沈められたんだよなぁ――あの野郎ラオウなんて強キャラ使いやがって……トキじゃねーと勝てる気がしねーっての。兄ちゃんを超えたいから!!

 そんな糞兄貴と比べると、姫さんは割とまともなんだよなー。聖帝様を愛用してるとことか、元ジャギ使いとして応援したくなる。まぁ、それと手加減するのとではまた別の話だがな。今は悪魔が微笑む時代なんだ!!


「……だんまりか?」

『ん、あ? え? 何の話だったっけ?』

「主……」


 那由他の周りに浮かび上がった弾幕が、ゆっくりと近付いて来る――視覚的威嚇行為。それが当たれば即死と言えるが、那由他が俺を傷つけることはない……と思いたい。弥生が強制退場されたのを見た後だと、弱気になる自分が悔しい…! でも…感じちゃう!

 ……アウト。自分でやっといて何だがキショイな。普通に嘔吐出来るわ。某R指定切り絵アニメの主人公的な意味で。

 あーはいはい、くだらねー事考えるなって言いたいんだろ? そんな目細めなくても分かるって。だけどお前がそれって、頭撫でた時の表情と何ら変わりないから別にいいか……OK分かった、真面目に答える。だから弾幕の速度を徐々に上げるのは止めてくれ。死ぬから、当たると死ぬから。ちょっ、近い近い!! 近ぇよ馬鹿! 正座中の奴の眼前に弾幕追加するとかどんだけ鬼畜なんだよテメェ!!?


『あっ、足が治ったんだよクソ猫!』

「……そうか」


 あれ? 何か素気なくね? 弾幕も残ったままだし……あ、死亡フラグですか、そうですか。

 眼前に迫る弾幕に対し、背中を逸らすことで回避を試みる。気分はマトリックス。両膝を折っている所為で可動範囲はかなり狭められるが、その分無茶が利く。あんな非現実的な動き出来るか、変態じゃあるまいし。


「待て、『治った』……だと?」

『出来ればもっと早く気付いて欲しかったと思うのが俺のささやかな願いだった……』


 座椅子の背もたれを倒した状態になりながら皮肉を吐く。柔軟な身体のお陰でそんなに痛くはないはずなんだが……治りたての足はそうも言ってられなかった。正直痛いです、局部的に。軽ーくプッツンしちゃいそうでコワス。

 弾幕が消されると同時に背を戻す。まだちょっと痛い。八意先生は『後は自然治癒で治る』って言ってたし、やっぱ全快とは言いがたいんだろうか? ……まぁいいや、ほっときゃ何時かは治るだろ。


「見せろ」

『ん?』

「足を見せてみろ」

『ちょっとだけヨ』

「黙って見せろ」


 そんな辛辣な言葉じゃなくて、ツッコミが欲しかった。泣き真似でもしてみようかと思ったが、それも死亡フラグっぽいんで自重する。てか俺にとって一番身近な危険因子は那由他な気がしてならねぇ。これ絶対人選ミスっただろ。

 そうは思いつつも口に出せないのが俺の辛いところ。つーかこればっかしは口に出したところで何の解決にもならん。むしろ那由他の不快感を買って俺の寿命がマッハ。本当にありがとうございました、マイ人生。あ……よ、妖生?

 ……那由他の視線が鋭くなった。そろそろ思考を自重すべきと判断した俺は、ため息と共に裾を軽く上げて艶めかしく左足を見せつける。あ、染み発見。やっぱ年中着通しはいかんかもしれん。愛用の単だったんだがなぁ……今度父さん辺りに、余った服ないか聞いてみよう。


「っ!?」


 おー驚いてる驚いてる。まぁ俺みたいな子供(外見のみ)が、こんなヤーサン的な傷持ってたら普通ビビるわな。二歳未満で脛に傷持ち……何かそれっぽい事やったっけなぁ……駄目だ、大学の共有PCにエロゲインストールした事ぐらいしか思いつかねぇや。

 エロゲを持ってくる、インストール、ショートカットアイコンの外見を変える、簡単だろ?


「……痛くは、ないのか?」

『いや(心が痛むとかマジで)ねーよ。俺がしたくてやった事だからな』


 そうそう、あの頃大学内でカップルが大量発生してたんだよなぁ……テメェらはイナゴの大群かっての。独り身で悪いかこのド畜生が、どうせ初恋相手は室長でしたよ。いーじゃねーか黒髪ストレートでナイスバディ、そして膨よかな尻付き――非の打ち所がない! フラれたけど。

 あー畜生、ファッキン。何でフラれたんだよ俺。やっぱ放課後の研究室でいきなり『やらないか?』は危険だったか? いや、室長も結構ノリ良かったからそれが俺流照れ隠しだと気付くはず……ってそんなエロゲみたいな超展開あるわけありませんよね。妄想乙。あばよ甘酸っぱい青春。俺に用意されてたのは関節技が飛び交う、殺伐としたものだったぜ。

 思い出すだけ悲しくなってくるな……忘れっか。よーしパパ今日から『過去は振り返らない主義者』になっちゃうぞー!!

 ――本日未明、××大学の共用コンピュータにいかがわしいゲームをインストールしたとして、水野霧葉容疑者が逮捕されました。本人は容疑を否定しており、「ちょっ、ちげぇって! 流石の俺も乙女ゲーは持ってねーよ! あ、エロゲの方? そっちはむしゃくしゃして……いや、過去は振り返らない主義なんだ。サーセン」と、支離滅裂な言葉を述べていました。

 ……『過去は振り返らない』って便利な言葉だなぁ。


「本当に、治ったのか?」

『んー、治ったと言えば治ったし、治ってないと言えばそうとも言えるかなー』

「……どちらだ?」


 那由他が感情を籠めない瞳で俺を見る。その声色は少しだけ震えていた……気がする。断言出来ないのは話を真面目に聞いてなかった所為だ。パパすごーい! ダディクールと呼んでくれ、マイサン。黙れ短小親父。俺の身体の謎を……!

 ここで一瞬だけ真面目に考えてみるテスト。身なりは小さいのに自尊心はかなりでかい三毛猫――那由他。俺を主人として見てるかどうかは微妙だが、もしかすればこの傷に対して何らかの負い目を抱えているかもしれない。この場合『俺の不注意が原因なんだし……』等といった理由を述べると、逆に凹む可能性が大。こういう奴は、一度凹むと立ち直らせるのに時間がかかるから困りもんだ。

 結論――辛気臭いのとか面倒だからふざける。


『……えーっと、まぁアレだ。この間引っかかった虎挟みはメダロットで言うところの脚部破壊に相当するダメージを俺に与えた訳で他の部位に貫通もせず脚部のみにダメージ集中してくれたのはある意味ありがたい事でもあって俺は弥生を撃退する事に成功し尚且つ仲魔にまでしてしまってわーいうほほーいって気分になったのも束の間で予備の脚部パーツがなく仕舞いにゃもう俺このままで行ける所まで突っ走ってみるわとかイカレた事を抜かして脚部パーツを付けないまま放置プレイしてたんだけど僅か三週間で脚部が自動回復した俺の回復力には世界が絶賛しやがて俺型ティンペットが開発されて世界は核の炎に包まれ……』

「あるじ?」

『……無理矢理縫合したんで、激しい運動は御法度だそうです』


 ゴメン、那由他マジ怖ぇッス。何て言うかもう目が語ってたね――あぁん? テメェ誰のお陰で五体満足な生活が送れてると思ってんだ?――って感じの内容を。多分瞬間的にシンクロ率100%超えたと思う。つうかあの仲になるのも時間の問題か……いや、俺が那由他の言いたいこと汲み取れればそれで万事解決なんだけどな。そんな器用な真似できねぇってのが本音だ。自分……不器用ですから!

 主人のクセに低姿勢な俺に対し、呆れたかのように――いや、間違いなく呆れてため息を吐く那由他。うん、前言撤回。コイツ負い目とかこれっぽっちも感じてねぇや。それもそれでなんか悲しい気がするが……まぁしゃーねーか、ヘタレなのは事実なんだし。


「全く、前に死にかけた時は僅か一月で全快したというのに……今回はまた随分と長引きそうだな」

『まーなー。けど激しい運動っつったって、今までとそんな変わんねーよ』

「どれくらいだ?」

『外見相応――つまり人間の子供と同じくらいだと』


 俺は小さく苦笑した。




















 耳を劈くような音を立てて、障子が開かれる。鈴仙は思わず首を竦めた。壊れる一歩手前で戸を開いたのは彼女の恐怖心を増長させる為か、ただ単に加減が出来なかっただけなのか……今の弥生の顔色から窺い知る事は出来ない。

 妙な沈黙がその場を支配した。例えるならば蛇に睨まれた蛙、もしくはジョン・コナーとターミネーターのファーストコンタクト。実際に過ぎ去った時間は僅かでも、その瞬間だけは何故か長く感じられる。

 実力で物を言わせることが出来れば、こんな事にはならなかっただろう。しかしそうもいかないのが種の性であり、世の常である。

 先に動いたのは弥生だった。無駄のない動きで鈴仙に近寄る。その動作と共に鈴仙の思考回路はパニックを起こした。能力を行使することも忘れ、防衛本能から息を吸い込み、悲鳴を上げるべく口を開く。

 一秒にも満たない間、弥生が『疾ぶ』のには十分過ぎた。

 始めに弥生の右手が鈴仙の唇へと接触し、次いで左手が首へ添えられる。鈴仙は驚愕で眼を見開き、背を引こうとしたが……。


「止め、黙れ、折るぞ」


 その言葉と共に、弥生の左手に力が込められていく。たった三つの単語と天敵に絞首されるという恐怖、その二つが絶対的な枷となって鈴仙を縛める。身体が震える。涙腺が緩む。現実に思考が追いつかず、四肢は石像のように硬直し続ける。

 鈴仙の真赤な眼に入るのは、金色に輝く弥生の双眸。見惚れてしまうほど綺麗なはずのそれは、ただただ無機質な光を放ち、彼女を――否、彼女の『中』を見詰め続けた。


「ふむ……成程、これは中々……いや上々……」


 唐突に手を離し、鈴仙から離れる弥生。したり顔で仰々しく頷くと、未だ呆然としている鈴仙に向かってようやく口を開いた。


「すまぬ、驚かせるつもりはなかったんじゃが……少しばかり気分が優れなくてのお。ついやってしもうた」


 口では謝っているものの、その顔には負い目0%の眩しい笑み。恐らく自分が悪いとはこれっぽっちも思っていないだろう。しかし、鈴仙はそれに気付かない。ただ危機が去ったという現状を感じ取り、ホッと安堵のため息を吐き……。


「しかし本当に良いものじゃなあ、その『狂気の瞳』は」


 あっけらかんと言われたその言葉に、今度こそ呼吸を忘れた。




















「……変わってるわね」


 資料を読み終えた輝夜の第一声はそれだった。そのまま一息吐くと、資料を畳の上に投げ出して再びゲームを再開するためにコントローラーへと手を伸ばす。真面目モードは五分と持たなかったようだ。

 あまりに軽過ぎる返事に、呆気にとられる永琳。漢達の熱い声と鈍い打撃音で我に返る。


「あの……それだけですか?」

「それだけよ?」


 むしろ他に何があるのかとでも言いたげに怪訝そうな顔を向ける輝夜。それでもコマンドだけは確りと入力してるあたり、徹夜の成果が窺える。


「あのじゃじゃ馬から生まれたイナバなんだから、他と多少変わってても不思議じゃないわ」

「……私の薬が効かなくても……ですか?」

「副作用が出なかっただけじゃない。気にするだけ無駄よ……っの! CPUの癖にっ!」


 気付けば輝夜操る聖帝は、壁ハメから抜け出ていたコンピュータに猛烈な反撃を食らっていた。『うるさい、気が散る。一瞬の油断が命取り』――某ナイトの有名過ぎる言葉が彼女の脳裏を過ぎった。死兆星が煌めく、妖星のナルシストが微笑む、フェイタルケーオー……そして脱衣。見たくもないものを見せられ、二人はげんなりとした表情を浮かべた。

 永琳は頭を振る。何時もの事とはいえ、何故こうも楽観的になれるのだろうか。一応永遠亭を統率する立場ではあるのだから、それなりに緊張感を持って欲しいというのが、彼女の本音だった。


「いいですか? まだ小さいとはいえ、彼は――」

「変わり種。一匹だけなら問題なくとも、多数の中では他に悪影響を与えるかもしれない……ってところ? 問題ないでしょ、所詮イナバだし」

「……はぁ」


 呆れて物も言えなくなる。確かに言い切ってしまえればそれまでなのだが……たかがイナバ、されどイナバ。それこそ暴動でも起こされては厄介――。

 その瞬間、月の頭脳はとある結論を導き出した。すぐさま打ち消そうとするものの、一度思いついてしまったものはそう簡単に忘れることは出来ない。それが嫌なものであるなら尚更である。


「……姫」

「ん?」

「楽しんでます?」


 出来れば外れて欲しい……そんな永琳の願いとは裏腹に、輝夜は意地の悪い笑みを浮かべて答えた。


「せーかい。この頃退屈だったから、暇潰しにはもってこいよ。永琳もそんなに深く考えずに遊べばいいのに――」

「その帳尻合わせが私に回ってくると思うと、遊んでる暇がありません。というか暇だったら働いて下さい」

「フッ……永琳、私は聖帝ッ! イナバ達とは全てが違うッ!!」


 駄目だこりゃ。永琳は彼女と共に幻想郷へ逃げてきたのを軽く後悔した。どこで選択肢を間違ったのだろうかと軽く数百年ほど思いを馳せてみたが、時間の無駄である事に気付き、すぐ止めた。

 床に投げ出された資料を手にし、立ち上がる。従者として一応の報告はした。今はそれで十分だと自分に言い聞かせる。しかし障子を開け、部屋を出ようとしたところで、その主人に声を掛けられた。どうせまた戯言だろうと思った永琳だったが……。


「永琳」

「……何ですか?」

「深追いは止めときなさい。気付けば不思議の国だったなんて、本の中だけで十分よ」


 今までとは明らかに違うその声色に、思わず振り返る永琳。そこには相変わらず、自分勝手なお姫様がいて――。


「了解しました」


 その少しの心遣いに感謝している自分がいた。




















 良い瞳だと思った。赤くて綺麗で――そして、少しずつ私の中を掻き乱してくれる。本人の精神状態から見ても意図して使っている訳ではなさそうだが……その方が、今の私には丁度良かった。

 乱される、見出される。心を抉り取られそうになる。今の私はどんな顔をしているだろうか? ……きっと妖しく微笑んでいるに違いない。枷を嵌められて、囚われて、ぐちゃぐちゃにされるのは……嫌いじゃない。

 困った性分だと自嘲する。随分変えられたと自嘲する。仕方ないなと自嘲する。笑ってしまう。私は兎に魅せられた。本能より彼奴を選んでしまった。仕方あるまい、他に選択肢なんて無かったのだから。


「――の……」

「ん?」

「何で、分かったんですか?」


 固い声を吐き出す、眼前の玉兎――月の兎といえども私に対する印象は他の兎達と何ら変わりないらしく、未だ『恐れ』を抱いている。まあそれも仕方ないことだろう。正直私自身でも危いと感じた。此奴が私の中を掻き乱してくれなければ、きっとそのまま喰らい付いたかもしれない。そう……それこそキリの約束を破ってまで――。

 自嘲。気付いた。気付いてしまった。気付いていながら手が出せない。滑稽な話だ。口元を押さえ、こみ上げてくる笑いを抑え付けた。


「妾の能力を持ってすれば、それくらい造作の無い事」


 傍目から自分を眺めて見るのが、こうも可笑しなことだとは思いもしなかった。改めて自分の格好を見下ろす。赤い着物がまるで道化の衣装に見えてきて、更なる笑いを誘った。

 止めよう。どうせ『変化』し終わったところで意味がない。そう考えると、『変化』し終えるのに時間は掛からなかった。慣れた着心地、縮んだ身体、粗めの頭髪。これで全て元通り――違う、否定。私は微笑みながら、玉兎に手を差し出した。


「のお、取引せぬか?」

「……はい?」


 訝しげな視線を向けられる。その真紅の瞳が……この胸を侵す狂気が、心地よい。


「妾はキリの情報を差し出す、ぬしはその力を妾に使う。悪い条件ではないじゃろ?」

「私の力……って、正気ですか?」

「気など、もう何度も違えておるわ」


 玉兎の目が信じられないものでも見るように見開かれた。その顔がまた滑稽で、再び笑みが零れ落ちる。

 弱肉強食の世界は、想像を絶する事実で埋もれてその全貌を見せてはくれない。強き者の目から逃れ、弱き者を喰らう。時に同族と手を組み、裏切られ、傷付き、苦悩し、そして成長する。もう何十年と続けてきた『生き残る』という行為――今となっては全てが不要だ。ぬるま湯のようなこの生活は、確実に私の牙を削り取ろうとしている。

 それは駄目だ。それだけは、絶対に渡さない。それを奪われてしまえば私は『私』ではなくなり、私は完全に『弥生』となってしまう。例えキリであろうとも、『私』を否定することは許さない。

 自嘲。本心が揺れ動く。客観的に見れば、私は変わるのが怖いのかもしれない。愚かなことだとほくそ笑む。生きることは即ち成長する事であり、成長とは即ち変化である。それを否定するのは、子供が駄々を捏ねるのと大差ない。

 しかしそれでも……それでも私は、変わることを拒絶する。その為にはまず――。


「なあに、軽くでよい。妾も適度な刺激が欲しいんじゃよ」

「……」


 逡巡するかのような表情、疑問を抱いている瞳。恐らくその内容は『目の前の狼が本当に正しい情報をくれるのか』『主人に対する裏切りにならないのか』『そもそも狼なんて信じていいのだろうか』などといった類だろう。何にせよ変に勘繰るだけ無駄だ。

 私が差し出す情報は、第三者視点から見たキリの側面に過ぎない。要するにこれは単なる内緒話なのだ。その内容が詳細であっても、信憑性が限りなく高くても、所詮は内緒話――そこにキリが口を挿む道理は存在しない。

 ややあって玉兎は口を切り、私の手を取った。


「お願い……出来ますか?」

「承った」


 私よりも大きな手を確りと握り返し、私は薄く微笑んだ。




















 そっと、主に気付かれぬよう目を伏せる。出来ることならば耳も塞ぎたかったが、それでも否応なく『声』は聞こえてしまうため、諦める他なかった。

 別に責められている訳ではない。そのお気楽な性格は承知の上、強がりな言葉もその苦々しい笑みも……何一つとして私を傷つけることはない。当たり前だ、私に非はない。だというのに――。


「……」


 何故だろうな……吐き気がして、心臓の脈打つ音が耳の奥から響いてくる。私は主ではないというのに、後ろ足が麻痺したかのような錯覚を覚える。本当に動かないかもしれないと思うと、立ち上がることすら恐ろしい。

 錯覚だ。勘違いだ。幻覚だ。私は傷など負っていない。ただ主の傷を見て、まるで自分がそれを負ったかのように思い込んでいるだけだ。

 ……なぁ、主。怖くはないのか? 今まで通り身体が動かないというのは、苦痛ではないのか? 私は無傷だ。主が感じた痛みも辛さも分からない。唯一お前の意思を知ることが出来るこの能力も、所詮『声』しか聞くことは出来ない。お前が心に蓋をしてしまえば、私はお前の心を聞き取る事は出来ない。責めているのだとしたら、それを外に出して欲しい。ちゃんと『声』に出して言って欲しい。行動で示してくれても構わない、私に悔やむ機会を――。

 頭を振る。そうじゃないだろう、馬鹿猫。悔やむ機会を乞うてどうするというのだ。私が自ら悔やまなければ意味が無いだろうに。そう、相手からではなく、私から。


「主……」

『ん? どったの?』

「その……だな、んんっ」


 意味の無い咳払い。こんな時にまで自尊心が邪魔をする。素直になりたいと思う反面……どうしても気後れしてしまう。

 慙愧する為の初めの一歩――たった一言、謝罪の言葉を伝えればいい。所詮私の自己満足にしかならないかもしれないが、何も言わないよりは遥かにマシだ。……そう自分に言い聞かせるも、効果の程は薄い。

 視線を上げる。何時もの無表情は何処へやら、興味津々と言わんばかりの瞳と目が合った。怒りを内包しているようには見えなかったが、それはそれで精神的重圧が重くのしかかる。わざとやってるんじゃないかと疑心暗鬼に駆られる。落ち着くために深呼吸。頭の中で何度か言葉を反復する。すまなかったすまなかったすまなかった……口に出すのは一言だけだ、何の問題もない。

 腹は……決まった。


「……主、すま――」

  ―――パァン!

「霧葉っ! 大丈夫っ!?」

『あ、母さん……っておいこら待てや、包丁は駄目だっつったろ常考』


 突然の大音量に驚く私を放置し、主は特に驚いた様子もなく乱入者の対処にあたる。呆れたかのように軽くため息を吐いて、母君から包丁を奪い取り、私に視線を……ん、ああ、すまない。言葉の代わりに少しだけ頭を下げる。こうも簡単に謝れればいいのだがと思いつつ、主の代弁に回る。


「母君、包丁は危険だ」

「霧葉を守るためだもん! 仕方ないもん!」

『そんなこと言う人、嫌いですっ!』


 ……ここは気持ち悪いとでも言うべきなのだろうか……? 呆れてものも言えなくなる。だがこの現状を見ると、謝ろうと身構えていた自分が馬鹿馬鹿しく思えてくるから不思議だ。


「だから霧葉、それ返して!」

「本来の用途以外で使うのなら、母君が嫌いになるそうだ」

『ナイス訳。エキサイト翻訳より分かってるじゃねぇか』


 母君が固まる。彼女にとって主に嫌われるのは一種の鬼門だ。この一言が出ると、大体の場合折れてくれる……はずなのだが……。


「で、でも霧葉の鍋がストーキングで具材や耳の根元に黒い影が……!!」

『日本語でおk。那由他、朝飯食いに行こうぜ』

「う……うむ」


 軽く涙目で語る母君を無視し、部屋を出る主。私もそれに続く。去り際に部屋を振り返ると、一人取り残された母君がさめざめと涙を流していた。

 前を歩く主に問う。


「母君は良いのか?」

『包丁持って廊下を徘徊するようなKY、ウチの家族にいません』

「……だがそれも主の事を思って――」

『なら反抗期ってことでここは一つ』


 楽しげな声色で、随分残酷な事を吐く息子だ。不憫な……と思いつつも母君に同情できないのは、謝るタイミングを奪われたからだろう。

 主と並び、チラリと顔を見上げる。何時もと何ら変わらぬ飄々とした顔付き――自然体。降雪が見られる縁側には不釣合いなほど薄い、黄土色の単。その中に仕舞われた左足は、きっともう、かつてのように動いてはくれなくて……。


「すまなかった……主」

『……』


 謝罪の言葉は、自分でも驚くほど素直に私の口から出て行ってくれた。主の足が、ほんの少しだけ止まる。一瞬の間。主が返した反応は、本当にそれだけだった。歩みを再開しても、その『声』は返さず、視線の一つも寄越さない。

 ため息を吐く。どうして今謝ったのだろう。せめて朝食が終わった後でも良かったのではないか? 軽率な自分の行動に軽く呆れてしまう。その時だった。


  ―――■■■■■■、■■■


 『声』が、聞こえた。

 たった一言。私の言葉に返された、私の為の一言。それを聞き取り、噛み砕き、脳に到達するまでに数秒、反復し、理解するまでに更に数秒の時を要した。


『許容範囲内だ、アホめ』


 笑ってしまう。誰が阿呆だ。私がどんな思いで謝ったのかも知らないくせに……いや、知らないからこそ、そんな言葉が吐けるのだろう。おかしなものだ。その言葉を聞いただけだというのに、どうして私は……こんなにも嬉しいのだろうか。

 駆け出す。随分と離れてしまったその距離を一気に埋める。そのまま勢いを殺さずに床を蹴り……主の頭へと飛び乗った。いきなりの事で軽くよろめく主だったが、何も言わずに私の頭を撫でてくれる。冷たくはあったが、決して不快ではないその手を享受する。驚くほど柔らかなその黒髪に、この身を埋める。

 良いかもしれない。この場所の為なら……主の為なら、私は――。


『ふっ、こーの甘えん坊さんめが』

「五月蝿い、主が悪い」

『んな無茶苦茶な』


 いや、今はひとまずこの幸せを噛み締めることにしよう。私は主の愛撫に、身を任せた。




















   おまけ ~食後の遊び~





『うぃーす、姫……さん? 隈酷いよ、昨日ちゃんと寝た?』

「よくもここまで来たものだ 貴様らは私の全てを奪ってしまった これは許されざる反逆行為と言えよう この最終鬼畜兵器をもって貴様らの罪に私自らが処罰を与える 死ぬがよい」

  ―――ジョインジョイン、トキィ

  ―――イノチワナゲステルモノデウィン、トキィ

  ―――ハンニンマエノワザデワオレワタオセウィン、トキィ

「……まだよ……そう、帝王に逃走はないんだから……」

『姫さんがんばれー(棒読み)』

  ―――セメテイタミヲウィン、トキィ

  ―――モウイウィン、トキィ

  ―――トキィ

  ―――トキィ

  ―――トキィ

  ―――トkぷちっ

「さーて、次は桃鉄でもしましょうか」

『運ゲーに逃げたっ!! 汚い! 流石姫さん汚い!!』










弥生 本質を感知する程度の能力
相手のステータス(体力、能力、精神状態から過去の戦歴まで)を五感で感知出来る。時間をかければ幾らでも感知が可能。

那由他 あらゆるものと会話出来る程度の能力
生物、無生物関わらず会話出来る。相手が喋ろうとしている事は分かるが、何を考えているかまでは分からない。

霧葉 ????程度の能力
作者のぬラックひすといr0から取りd影狩られたヒキョウなジョブ(リアル話)ダークパワーが宿ってそうで強いがそれほどでもない(謙虚)



[4143] 霧葉と似非火浣布
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2009/05/10 12:51



 僕は幸せ者だと思う。
 この世に生を享けて百年と少し。妖怪としても妖獣としてもまだまだなお年頃だけど、もう家族を持つようにまで成長した。麻耶の年齢がお母さんと同じくらいあるのを知った時は驚きだったけど、それでも愛しいことに変わりはない。綺麗だし、強いし……その、相性だって良かったし……うん、これは関係ないね。忘れて。
 生まれた子供も――霧葉も、頭が良くて手の掛からない良い子だ。ちょっとだけ他の兎と違うところがあるって永淋様は言っていたけど、そんなのは気にならなかった。僕と麻耶の子供だ。間違いなんて一つもないに決まってる。まぁ『お父さん』って呼んでくれないのはちょっぴり残念だけど……仕方ないよね。無い物ねだりは駄目だって、麻耶も言ってたし。

「うん、似合う似合う♪」
「……」

 僕がそう言うと、霧葉は何とも言えない微妙な表情を浮かべた。中々表情を変えてくれない霧葉にしては珍しいことだ。たぶん、心の中では結構嫌がってるのかもしれない。
 改めて霧葉の全身を見直す。墨色のワンピース――昔麻耶が着てた一張羅だ。襞も刺繍もされていない素朴な服は、まるで本人の意思など関係ないと言わんばかりに霧葉の細い線を良く栄えらせている。一目見ただけじゃ、霧葉が男だなんて誰も分からないだろう。しかし、霧葉はそれが気に入らないらしく、一度だけ首を横に振るといそいそと服を脱ぎ始めた。よく似合ってるんだけどなぁ……。
 霧葉がこうして僕らのお古を着直ししてるのには、勿論理由がある。この一年間ずっと着続けていた黄土色の単がついにその天命を全うしたらしく、その代わりになる服が欲しいと頼まれたからだ。
 その時は本気で驚いた。思わず洗っていた皿を落としそうに……いや、実際落とした。ただ床に落ちる前に麻耶が受け止めたから大丈夫だっただけで……とにかく、その時だけは本当に驚いた。何せ霧葉は自分から何かを求めることが極端に少ないのだ。それが私事となれば、その回数は片手の指で事足りる。内容に関して言えば、もう僕ら自身が覚えちゃいない。たぶん、それぐらいどうでもいいことしか頼んだことがないんだろう。
 ようやく僕らを頼ってくれたと思うと、ちょっぴり嬉しかった。流石に二人して調理場を離れる訳にはいかないから、僕だけ抜け出して、霧葉にお古を選ばせてるんだけど……どうやら好みのものが見付からないらしい、さっきから箪笥の中身を広げては仕舞うの繰り返しだ。今のワンピースなんて、一番似合ってると思ったんだけどなぁ……。

「ねぇ霧葉、これなんかどう? 冥土服って言うらしいんだけど……」
  ―――ブンブンブンブン!!

 風を切るほどの勢いで首を振られた。そこまで拒絶しなくても……と、ちょっぴり凹む僕。可愛いと思うんだけどなぁ、霧葉の冥土服姿。女の子用の洋服だって聞くけど、似合ってるなら誰が着ても一緒な気がするのは僕だけだろうか。赤い褌一丁で箪笥を引っ掻き回す霧葉を見て、何となくそう思う。
 そういえば、こっちに来てからは黄土色の単姿しか見たことがなかったけど、こうして見ると霧葉は本当に線が細い。ガリガリ……ってわけじゃないんだけど、それでももう少し太った方が健康的に見えるかもしれない。おっかしいなぁ……ちゃんと健康面も考えて作ってるはずなんだけど――。
 そこまで考えて、霧葉が肉料理の一切に手を付けず、残してた事を思い出す。だからこんなに痩せてるのかもしれない。今まではそんなこと気にしなかったけど、僕は自分の子供が段々と痩せ衰えていくのを黙って見てるような、薄情な親じゃない。今度夕食時に会う事があったら、そこのところをきちんと説明してあげなくちゃ。好き嫌いは絶対にいけないことだ……ってね。あ、でもそれで嫌われちゃったりするのはちょっと嫌だな……いや、でもここは父親としてガツンと言ってやらなくちゃ! ……でも嫌われたくはないなぁ……。
 と、改めて大人になってしまった事を実感しつつも苦悩していると、少しだけ服の裾を引っ張られた。何かなと視線を向けると、ちょんちょんと箪笥の上を指差す霧葉。ああそっか、飛べないもんね。霧葉の意図する事を察し、僕は箪笥の上にあった木箱を下ろしてあげることにした。
 ふわふわと宙に浮かんで箪笥の上まで行くと、その箱が良く見えた。いつかは忘れたけど、どっかで見たことのある木箱……埃が積もってるってことは、相当長い間そこに置かれてたってことなんだけど……正直、こんな高級そうな箱に服を入れた覚えはなかった。麻耶のかな? と首を傾げつつも、ほんの少し大きめのそれを持って霧葉の元へ戻り、畳の上に置いた。

『……』
「霧葉、何し……っ! けっほっ!! げほっ!!」
『っ!! っ~!! っ!!』

 霧葉が無遠慮に息を吹きかけた所為で埃が舞い、二人して軽く呼吸困難に陥る。急いで部屋の障子を開ければ、否応なしに外の冷気が入り込んでくる。しかし今はそんな事気にしちゃいられない。そのまま霧葉の手を引いて、廊下に飛び出す。霧葉は寒そうに身を震わせたけど、今だけは我慢してもらおう。ワンピース着てれば良かったのに……。
 ほんの少しだけ、霧葉の手を握ってると気付いた。霧葉の手には、意外と肉刺が多かった。まぁそりゃ畑仕事を担当してるんだから、あっても不思議じゃないんだけど……何だろう、僕が知らない霧葉を垣間見た気がして、あんまりいい気分じゃなかった。
 埃が収まるのを見計らって、部屋に戻る。少しだけ埃の減った木箱。今度はそれを舞わせないように、ゆっくりと蓋を持ち上げる。そして僕はそのまま外へ――本当は中を見てみたかったけど、その前にこの埃を捨てなきゃ話になんない。真白な雪化粧で彩られた庭に向かって、僕は木製の蓋を大きく振った。もちろん、目と口は確りと閉じて。
 しばらく振って埃が消えたのを確認してから、部屋に戻ると……そこには、変わった服装をした霧葉が立っていた。その格好を見て、僕は思わず目を疑った。
 それは真赤な洋服だった。今の霧葉にはほんの少しだけ丈の長い洋袴と上着。ゆったりとした外見でありながら、飾り気というものを全て削り取り、ただただ実用性だけを追求したその変わった作り。そして――。
 ……そしてその胸に小さく刺繍された『火鼠の皮衣』の五文字と、霧葉の心なしか嬉しそうな顔が、どうしようもなく、目に付いてしまって……ああやっぱり霧葉はそういうのを選んじゃうんだって何だか納得してしまうんだけどそんなじぶんがゆるせなくなってけどそれいじょうにそんなのをえらぶきりはがゆるせなくてそれで――。

「……駄目」
『?』
「絶対駄目っ!」

 気が付いたら、怒鳴ってた。吃驚したような、霧葉の顔。ちょっと悪かったかなと思ったけど、仕方ないよね。だって、霧葉が悪いんだもん。僕は一度だけ深呼吸して、言葉を続けた。

「……ごめん、怒鳴って。でも、霧葉だって悪いんだよ? そんな……そんな危ない服なんて選ぶから」
『?』

 霧葉は訳が分からないとでも言いたげに首を傾げた。もしかしたら、本当に知らなかったのかもしれない。なら、ちゃんと懇切丁寧に説明してあげないと駄目だろう。

「それはね、『火鼠の皮衣』って言って、火に燃えない特殊な服なんだ。昔麻耶が姫様と勝負して奪ったって言ってたから、間違いないよ」
『……』
「僕は……霧葉が本当にそれを着たいって言うんなら、別にあげてもいいと思ってた。大切な僕の子だもん。我が子を守ってくれるそれを着てくれるんなら、きっと麻耶だって納得する……」

 そこで言葉を切る。霧葉は相変わらず無表情で、何を考えてるのか僕には分からない……ずっとずっと……分からなかった。たぶん、麻耶でも分かんないんじゃないかな。それぐらい、僕らは霧葉が分からない。
 化け猫を飼いたいって言った時も、農耕班で何か大きなことをしたって聞いた時も、大怪我した時も……ずっと分からないまま。いっつもいっつも、僕らの心に正体不明の波を立ててくれる。それも、とてつもなく大きな津波を……。

「けど、今の霧葉にはあげない。だって、それあげたら、きっとまた無理するんでしょ?」
『……』

 永淋様に聞いたけど、今回の一件だけは流石に見過ごせなかった。自分より力のある者に挑みたいっていうのは、同じ男として分からなくもないことだ。麻耶の子供でもあるんだし、闘争心がちょっぴり激しいのは仕方のないことかもしれない。けど、勝ち目の無い戦いは……麻耶だってしない。もう姫様と弾幕ごっこしないって、麻耶は言ってた。
 霧葉がこうして生きていられるのは、ただ単に運が限りなく良かっただけだ。たぶんもう一回同じようなことがあったら、今度こそ、霧葉は……。
 視界がぼやけてきた。霧葉が今、どんな表情をしてるのかまで分からなくなってしまった。どうしようもなく悲しくなる。僕は霧葉の『お父さん』なのに、僕は霧葉の『親』なのに……。こんな姿を見せちゃいけない。そう思っても、一度流れ出した涙は、そう簡単に止められなかった。そして僕自身の口も……。

「ねぇ、何で? 霧葉は頭の良い子だから、僕が言いたいことぐらい、分かってくれるよね? ねぇ、何で僕らを心配させるようなことばっかりするの? ねぇ、何で危ないことに顔を突っ込もうとするの? ねぇ、何で僕らにもっと頼ってくれないの? ねぇ、何で? 何で? 何でっ!?」
『……』
「僕、分かんないよ……霧葉のこと、っ、親なのに……っ分かんないよぉ……!!」

 ついに泣き出してしまった。頭のどっかではそんなことが分かるぐらい冷静な部分があるのに、泣くことを止めるのは無理そうだった。何やってるんだろうか、僕は。念願の『お父さん』になったっていうのに、まるで成長してないじゃないか。これじゃまるで――まるで、子供みたい……。
 気付くともっと泣きたくなった。嗚咽が漏れて、涙が畳の上に零れて、鼻水が呼吸を妨げて……台無しだ。全部が全部、台無しだ。もう父親面なんて出来ない。こんなにみっともない醜態を霧葉の前で晒しておいて、『お父さん』なんて出来るわけがない。
 おしまいだ。そんなのやだよ、まだ一回も頼られてないのに『お父さん』やめるなんて、そんなの……。

『……』
「っ! ……っりはぁ?」

 不意に、抱き締められた。僕と同じぐらいの身長、細い手足、ざらついた……変わった服の感触。霧葉だった。嗚咽の所為で酷い言葉になってしまったが、僕を抱き締めたのは間違いなく、霧葉だった。
 背中を擦られる……かつて、『お父さん』にされたように、霧葉は僕の背中を擦ってくれた。それがどうしようもなく、嬉しく、感じてしまって……僕は霧葉を、抱き締めた。強く……そして、決して壊さぬよう、ただひたすら抱き締めた。

「……っめん、……こっ、な、ふぅっ……けほっ!」
『……』

 ごめん。こんな駄目な『お父さん』で、ほんとうにごめん。ちゃんとそう言いたいのに、口から漏れるのは意味不明の単語ばかり。しゃっくりが止まらなくて、どうしてもこんな言葉になってしまう。咽喉が苦しくて、肺が苦しくて、心が苦しくて……それでいて、ほんの少し、温かい。
 ポンと、頭に掌が乗せられるのを感じた。ここまでくると、もう笑ってしまう。我が子にまるで子供のようにあやされる父親なんて、幻想郷広しといえども家だけに違いない。この先ずっと、このことで笑われても文句は言えないだろう。そっと優しく撫でてくれる、その小さな手の感触を楽しみつつも、僕はそんなことを思った。

「……ねぇ、いっこだけ約束してくれるんなら……それあげる」

 僕は幸せ者だと思う。

『……』

 綺麗で強いお嫁さんと、賢くて優しい子供がいて……まだ大人になりきれていない僕がいる。

「ん……ゆーびきりげんまん――」

 だから……僕がちゃんとした『お父さん』になるまでの間だけでいいから、霧葉。

  ―――無茶したら勘当だからね?

 約束破っちゃ駄目だよ?

「ゆーびきった!」










「ん? 主、裁縫とは珍しいな」
『ただの裾上げだ。微妙に長くてな』
「半裸で縫い物というところには突っ込まんのか? ナユタ」
「主の奇行は今に始まったことではない……それにしても、変わった服だな。それは」
『だろうなー。俺もまさかこんな所でジャージを見つけるとは思わなかったぜ』




[4143] 第十六話 ゴメン、漏らした
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:a9e9c909
Date: 2009/06/21 12:35


 暦の上では既に卯月のはずだった。例年通り行けば、もう春一番が吹いてもおかしくはないはずだった。

 しかし土の上に積もった雪は未だ解けておらず、空気も一陣の風が吹くだけで心まで凍て付きそうになる。空模様に至っては『最悪』の一言、まるでこれから雪でも降らさんばかりに灰色の雲が広がっていた。

 そんな中、一粒の白い塊が見て取れた。また雪が降り始めたのかと思いきや、なにやら様子がおかしい。真直ぐに落ちようとせずに、あっちへふらふら、こっちへふらふら……風に煽られる雪を彷彿とさせるが、これでもれっきとした妖精の一人である。

 リリーホワイト――春が来た事を伝える程度の能力を持った妖精。幻想郷では彼女が通った後は、春の陽気に包まれると言われている。その為、春の季語になるほど有名な妖精でもある。

 だがおかしな事に、その姿が見れても周りが暖かくなることはなかった。むしろ彼女がこの寒さに中てられてるように見える。心なしか、顔色も悪そうだ。

 それは当然の事だったのかもしれない。冬から春にかけての些細な変化を見つける彼女にとって、この異変――後に『春雪異変』と呼ばれる――は、己が身を蝕む毒でしかない。氷の妖精が夏の暑さを嫌うように、春を告げる彼女もまた身を刺す寒さに辟易していた。春を告げに来たはずが、未だに冬の寒さが抜けきっていないとはどういうことなのだろうか。ただの妖精に過ぎない彼女に『異変』というものを知る術はなかった。

 ゆっくりと……しかし確実に地面へと近付く。未だ雪に覆われている幻想郷。除雪されて地肌を晒している場所なんて、それこそ片手で数える程度しかなかった。春の気配が感じ取れるものとなれば――。

 彼女はふらふらとそこへと向かう。白く染まった竹林の中にぽっかりと開いた土色の肌。それが『畑』となりつつあるのを、彼女は確信していた。耕され、種を蒔かれ……春の息吹を感じ取れるその場へと近付き……。


  ―――ガコンッ!


 彼女は捕まった。




















東方狂想曲

第十六話 ゴメン、漏らした




















 寒い。口を開けばすぐにでもそんな言葉が飛び出してしまいそうになる。前から後ろへと流れていく竹を横目に、私は小さくため息を吐く。白い吐息が視界を覆い、すぐに消え去った

 寒い。そもそも何故こんな雪でも降りそうな天気に外出しなければならないのだと、文句の一つでも垂れたくなった。しかし私自身、自分の足で歩みを進めている訳ではないため、実際に口にするのは流石に躊躇われた。

 寒い。ちらりと隣に目を向ければ、弥生が黙って付き従っているのが見える。狼というその外見は伊達ではないらしく、寒がっている様子はない。畜生め。

 寒い。そっとその黒髪に顔を埋める。仄かな体温と石鹸の良い匂いが私を包み込む……やはりこの場所は格別だ。


『特に心も身体も寒いと思ってるそこの貴方!! すぐ暑くできる方法があるんだよ! 寒いって言えば寒いでしょ? 暑いって言うんだよ。暑くなってきたね、あれ?! あっつあっつあっつあつ! あれ、なんか気持ちも身体も暑くなってきた!! あっついあっついあっついあっついあっつい!! 身体が暖かくなってきてるよ! そうだ! 人間ホッカイロ! もう気持ちも身体も暖かい! 俺は何やっても大丈夫だ! この熱さで頑張ろう!』


 ……至福のひと時に浸ろうとする私を掬い上げたのは、空気を読まない主の叫び声だった。あまりの不快感に顔を歪めるものの、数秒後には何時もの事だと割り切る。主が意味不明の言葉を何の前触れもなく突発的に吐くという『持病』には、もうある程度慣れてしまっていた。というか、慣れざるを得なかった。習慣というのはつくづく恐ろしい。

 『大声』で叫んだからといって、主の歩調に変化はない。恐らく無意識の内に『声』を出していたのだろう。まったく、寒いのならば厚着をすれば良いものを……そんな薄っぺらい『じゃーじ』一枚でよく我慢出来るものだ。


「寒いのか?」

『あ、声に出てた?』

「大音量でな」

『そりゃスマンかった。でもネタで言ってみただけなんだ。ようこそバーボン、この愛撫はサービスだから一先ず落ち着いてくれ』


 軽口を叩きつつも、私の頭へと手を持ってくる主。特に拒む理由もなく、私は甘んじてそれを受け入れた。無遠慮な撫で方ではあるが、不思議と不快感は湧いてこなかった。

 惜しいものだ……これで主が女子であれば――一瞬だけそんな下らない事を思ってしまい、思わず頭を振った。いかん、異種族で――しかも同性なんぞに――そんな気持ちを抱いてはならない。第一、私には『彼女』が居るではないか。確かにここ十年ほど顔を合わせてはいないが、私の中にあるその想いだけは、一片たりとも揺らいだりはしなかっただろう? 那由他。そうだ、これは一時の気の迷いか何かに違いない。間違っても主の掌が気持ち良いなどとは――。


「くくくっ……キリ、不用意に撫でるのは止めた方が良さそうじゃな」

『え? なして?』

「何せ其奴はキリの手に欲じょぉうふぁ!!」

「黙れ駄犬が!」


 無駄口を叩く弥生に大きめの弾を当てる。威嚇射撃は必要ない、相手はただの畜生だ。大げさに宙を舞っているが、それも恐らく演技だろう。そんな私の推論を裏付けるかのように、弥生は苦も無く着地し……ニヤリと嫌らしい笑みを浮かべた。


「何故怒る? どうせ本当のことじゃろうて……」

「っ……! 万歩譲って本当のことだとしても、言っていいことと悪いことの区別ぐらいつけんか!!」

「それぐらいの分別はついておる。妾はただ、不必要に長いナユタの鼻をへし折ろうとしただけじゃ」

「余計悪いわ!」


 主の頭上から降り立ち、対峙する。急激に体温が奪われるのをひしひしと実感すると同時に、未だニヤニヤとした笑みを崩そうとしない弥生に対し、軽く殺意が湧いた。迷わず臨戦態勢を取る。大量の弾を周囲に配置すると、弥生は後転して距離を取った。着地と同時に人型へと変化――その灰褐色の長髪と黒い僧衣が、銀世界の中で妙に映えていた。

 ふと違和感を覚える。何時もならば、わざわざ人型にならなくとも弾幕ごっこを始めたはずだ。私は眉をひそめながらも、静かに問い掛けた。


「……何の真似だ?」

「なに、白星を挙げる方法を妾なりに考えた結果じゃ」

「ふんっ、七十三連敗中の畜生が何を抜かす」

「……その威勢もこれまでじゃ」


 ごそごそと袖口に手を突っ込み、弥生が取り出したのは……たった一枚の符であった。ああ、なるほど……と、思わず呟く。誰でも『それ』を目に収めれば、後は自然と納得がいくだろう。

 スペルカード――幻想郷において、弾幕ごっこが『女の子の遊び』と呼ばれる謂れの一つである。通常の弾幕とは比べ物にならない程の火力を持ち合わせたそれは、弾幕ごっこの戦況を覆す程度の能力を持っている。それと同時に、幻想郷の『男』には決して持ち得ないものでもあった。

 そんなものを持った奴が相手ならば、普通勝ち目はないに等しい。人間で例えるならば自分が素手であるのに対し、相手は武器を装備しているといったところか……何時の間に作り上げたのかは知らぬが、いやはや、つくづく女とは恐ろしいものだ。そう思いつつも、口元は自然と緩んでしまう。愚かしい。スペルカードと言えどもたかが紙切れ……そんなものに、その程度のものに縋るなどとは笑止。


「貴様程度の弾幕なぞ、子供騙しに過ぎん!」

「その威勢、どこまで続くか見物じゃな!」

   ―――狼符『鍛冶屋の婆』


 スペルカード宣言。紫色の眩い光が弥生の周囲に集ってゆく。何時もと違って、今回は長く楽しめそうだ。


『あー、終わったらさっさと来いよ? 五分経っても来なかったらお前らの尻尾結ぶから』


 前言撤回、早々と終わらせる事にしよう。




















『う~~寒ぃ寒ぃ』


 今、鍬を持って寒さに震えている俺は、永遠亭に住まうごく一般的な男の子。強いて違うところをあげるとすれば、ウサ耳で怪力、無口無表情転生属性持ちってとこかナ――名前は霧葉。

 そんなわけで、仕事場でもある竹林の畑にやって来たのだ。

 ふと見ると、この間仕掛けた罠に一人の幼女が掛かっていた。


『ウホッ、いい幼女……』


 そう思っていると、突然その幼女は俺の見ている目の前で顔をほころばせて満面の笑みを浮かべた。


「春ですよー」


 ……何だろうこの罪悪感。何か自分がいかに汚れてるのか分かって、軽く鬱になった。いやまぁどうせ聞こえないからいいよね、内心でヤマジュンごっこしても。でも俺にロリコン属性はないんだ、サーセン。

 改めて幼女の格好に目をやる。数時間前までは白かったであろうワンピースとケープは所々に土が付着し、その無邪気な笑みも相まって泥遊びに精を出した子供のようにも見える。しかしその小さな身体に背負った薄い羽根は、彼女が人間の子供ではないことを明確に物語っていた……てかこんなクソ寒い日に竹林に来る物好きなガキなんているかってんだこん畜生。

 リリーホワイト、別名『春告精(はるつげせい)』……四月に入っても一向に暖かくならない理由は、コイツが来ないからだと那由他が言っていた。じゃあ北の将軍様よろしく捕まえて拉致ったらよくね? という考えに到った俺を、いったい誰が責められるだろうか。いや、誰だって自分の利益のためならば道を外す事も辞さないに違いない。つーかそう思いたい。そう思わないと俺の寿命がストレスでマッハだ。外道でも罪悪感ってあるんだな。


「春ですよー!!」


 もちろん彼女の話を聞かされた当初は眉唾物だと思った。春なんて寝てりゃ来るよと笑って過ごしていたのも束の間、未だ気温が上がらないとなると、流石に笑っていられない。しかも兎達は暦ではなく気温で春を感じ取るらしく、未だにグダグダと怠惰な生活を続けている。お陰で雪掻きから畑打に到るまで、全て俺らがやる羽目になった。

 しかし冬場を体験した土は非常に硬く、何度も耕さなければ到底使い物にならない状況……耕運機を使っても、以前の柔らかさを取り戻すのには二週間近く掛かってしまった。この後更に種蒔きするとなると……もうムリポ、オワタ。てか今日とかもう雪降りそうじゃん、雪。また明日は三人で雪掻きですね、分かりますよふぁっきんすのー。AHAHAHAHAHA~。


「はーるーでーすーよーーーっ!!」

『喧しいわ!! どうみても冬です! 本当にありがとうございました!』


 ヤケクソ気味に叫ぶ。どうせ聞こえやしない。生まれてから口が利けない事が分かっていた所為か、喋るために俺が口を開くことはないらしい。那由他曰く、飲食のときぐらいしか口を開かないとのこと。ふざけやがって糞神が、便所紙にでもなってしまえ。

 頭を振り、痛み始めた頭を押さえる。まったく、何だってこんな胸糞悪い気分になるんだろうか。目の前のコイツを捕まえれば春が来るし、そうすれば兎達もしっかりと働いてくれる……つーか働いてくれないと困るのだ、マジで。

 ただでさえ耕作班ってのは、周りからの風当たりが強い。力と体力があれば誰だって出来る程度の仕事内容に加え、収穫の時期が終われば長期の休みが確保される。その分、働いている期間中は体調不良以外の休みがないというのが現状なのだが……周りから見ると、どうしても長期休暇の方が目立ってしまうらしい。その上俺が来たことによる調理班の贔屓――飯のおかずがちょっと豪華になる程度――が原因で、ついに陰口が発生するまでに到った。

 いやまぁ長々と語ったけど、実際当の本人達は全く気にしてないっぽいんだよねぇ。けどなんて言うか……やっぱりちょっとばかし責任ってのは感じるんよ。らしくないとは思ってんだけど、一応班唯一の『人型』なんだから何とかしてやりたいとも思うわけですよ。そのためにまずリリーホワイトを拉致ります。春ゲットです、異議は認めません。他の場所に春が来なくても知ったこっちゃねーってモンです。

 ちょっとした葛藤を経て、とりあえず近くの納屋から荒縄を持ってくる。竹で出来た檻の中でキョトンという効果音が似合うように首を傾げるリリーホワイト……その筋の人なら垂涎物だろう。俺は満面の笑みを浮かべながら縄を張った。


『さっ、ちょっと縛ろうか』

「止めんか駄目兎!!」

『うわらばっ!?』


 タックルで 突っ込む辺りは 優しさか だが遅かった 尾出せテメェら(字余り)。




















 白いトンガリ帽子とあどけない童顔。その顔は恐怖に染まり、目に涙まで溜めている。お気楽な妖精といえども本能が警告を発するのかもしれない。対峙している相手が私なだけに、その警告音もまた一味だろう。鼻から息を吸い込めば、微かに花の香が感じ取れる。何の花かまでは分からない。いや、そもそも花の匂いなぞじっくりと嗅いだことなど、今まであっただろうか……? まあ、どうでもいいことか。

 しかしその香りと反して、味はイマイチ良くなさそうだ。昔一度だけ空腹に負けて喰らったことはあったが、人間の子供と同じ食感がした割にその味は『微妙』の一言に尽きる。何せ若葉のような味がしたのだ。人間は妖精のことを自然の具現化と称しているらしいが、その理由の一因にはこの『味』が絡んでいるのかもしれない。


「……どうだ?」

「美味ではなさそうじゃのお……」

「誰が味のことを聞いた?」

「くくっ、ただの戯れじゃて。許せ」

「まったく……」


 呆れたようなため息が背後から聞こえる。気分が優れないのは、恐らく私の戯言の所為だけではないだろう。その証拠に尻尾が振られている。連動して私の尻尾も振られる。そして互いの尻尾の間にある結び目から、鋭い痛みが走った。


「止めておけ。ぬしも痛かろうて」

「……ふんっ」


 私がたしなめても尻尾を振るのを止めようとしないナユタ……被虐性愛の気でもあるのだろうか。私ならばいざ知らず、たった十数年しか生きていないナユタに、この痛みは堪えるだろう。ましてや結ばれたのは妖獣の弱点とも言える尻尾……慣れない痛みを我慢しての、無言の抗議か……まったく、無駄なところで意地を張る奴だ。

 軽い嘆息。目を閉じて、感知した情報の整理を開始する――面倒な――無駄な思考を停止。■■を押し殺す。感知推測考察結論……一連の思考を瞬時に行った。長年続けてきた行為だけに、数秒もあれば十分過ぎる効果を発揮してくれる。開眼。泥だらけの春告精は目に見えて『弱って』いた。


「ふむ、なるほど……」

「『使える』か?」

「無理じゃろうなあ。元が自然の力を肥大化させる程度の力しかない故、春の気配が零に等しいこの場では到底使い物にならぬよ」

「むぅ……」


 少し間を置いて、ナユタは大声を上げた。聞き手の主が半里ほど離れている所為だろう。


「主ー、あーるーじー! 春捕獲作戦は――いや待て! 妖精相手にそれは無謀――分かった分かった! 好きにしたらいい!!」

「傍から見ると滑稽この上ないのお……くくくっ」

「……五月蝿い」


 含み笑いを零すと再び尾が振られた。痛い。しかしキリが『能力』を使ってまで結んでくれたお陰か、骨には罅の一つも入らないだろう。無意識的に使われる能力ほど恐ろしいものはないが、これくらいならばむしろありがたい……ありがたい? いや違うな、中途半端だ。この程度の痛みで反省させると言うのなら、能力を駆使して従わせてしまった方がずっと速い。

 才能の無駄遣い――幻想郷において、それ自体は珍しいことではない。ただしその力を自覚している時点で、その者達はキリと一線を画している。自覚しているからこそ無駄な事に力を遣う。自覚していないから無駄な事にしか力を遣えない。キリは間違いなく後者だろう。

 だがキリの年齢からして言えば、それも無理からぬこと。私自身、自らに備わった能力を使いこなすのに十年以上掛かったのだ。ただでさえ、キリの能力は目に見えて効果が発揮出来るものではない。使い方によるのかもしれないが、妙なところで抜けているキリのことだ。気付く事無く■■かもしれない。私がその旨を知らせれば、少しは自制するのだろうか? ……否、その前提がまずありえない(・・・・・)

 問われれば答える、問われなければ答えぬ……それが私なりの流儀であり、礼儀である。キリがあの玉兎の様に問わない限り、私がキリに助言することもないだろう。

 しかし、私は同時に期待もしているのだ。誰の手も借りずに自らの能力に気付き、あまつさえそれを己が手足の様に操る事を、私は期待している。まあそこまで高望みしなくとも、私の助言を聞いた上で能力を使いこなせるぐらいにはなって欲しい。私は■■な■を■■た■■■い。

 ……頭が痛んだ。もはや持病の域にまで達している偏頭痛は心地よい痛みを私に送り、思考の停止を促す。是非もなく私は『日常』へと戻ることにした。


「して、キリは何と?」

「『うっせ、労働力として使うからいいんだよ! バーカバーカバーカ!!』……と言っていた。どうも私達の会話も筒抜けだったようだな」

「ふむ……しかし『バーカ』とはまた古い」

「ヤケクソだろうな。微妙に涙声だったぞ」

「そうか、ヤケクソか……くくくっ」


 ナユタの言葉に、思わず含み笑いを零す。あのキリが自棄気味になっているというのも珍しいことだ。まあここ最近の様子を見ていると、それも頷ける。春告精に関する文献を調べつつも畑打を続け、テヰとかいう兎に罠の設置方法を学び、竹から檻を作り上げ、無駄にならぬ事を祈りながら撒き餌として日々少量の種を蒔く……その努力の結果が、無力な妖精一匹となれば捨て鉢にもなるだろう。

 問題の主に視線を向ければ、ビクリと肩を震わせて少しずつ距離を離される。無論、その程度で目くじらを立てる私ではない。妖精とは永久に成長しない人間の子供のようなものだ。私のような狼に目を向けられれば、子供でなくとも恐れを抱く……長年生きていれば、同じような状況には何度でも立ち会うものなのだ。

 さて、そんな妖精のことよりも、私がこれから数刻の間どうやって時間を潰すのかという問題の方が重要だ。反省中だというのに何時も通りキリの手伝いをすることは叶わない。かといって一眠りするにしても、尾が結ばれている所為で上手く身体を丸められない。身体を動かすにしてもナユタが邪魔で満足に動けまい。

 ただの三毛猫の癖にさながら枷のようだ……そう思うと自然と笑みが零れた。恐らく、彼方もそう感じていることだろう。だが今は同一の主を持つ従者であり、暇人でもある。となれば、やはり――交流を深める意味も持たせ――雑談にでも花を咲かせた方が良いのかもしれない。


「あ……あのっ!」


 軽く呆けながらそんな事を考えていると、眼前の妖精から声が掛けられた。声が出せても未だ恐怖心は拭えないらしく、微かに緊張しているのが良く分かる。


「何用じゃ? 妾はナユタと話したいんじゃが……」

「……その心は?」

「単なる暇潰し」

「ならそこの春告精とでも喋っていろ。同性で話した方が何かと気が楽だろう」

「ぬしは……寝るのか」

「ああ、寝る。少しだけ借りるぞ」


 そう言うと、勝手に私の尻尾に包まるナユタ。無理に動かされた所為で痛みもまた一味だが、此奴の場合温まれれば何処でも眠れるのだろう。そういえば最近寝不足だと言っていたな……。


「あの……もういいですか?」

「んむ、すまぬな気を遣わして。口煩い奴の許可も下りたことじゃ、何でも聞いとくれ」


 無言の抗議、無視して話を進めた。早々に眠れ。


「あの、私は……その、どうなるんですか?」

「どうして欲しいんじゃ?」

「えっと……とりあえず出して欲しいです」


 思わず吹き出してしまった。いや、確かに妥当な答えかもしれない。檻に入れられて気分が良くなる生物なぞ存在しないだろう。

 精神状態が不安定に揺れ動くのは――恐怖という感情――感じ取ることは出来るのだが、その原因まで探るとなると少々私の手に余る。これは推測でしかないのだが、もしかすると此奴に『捕まった』という自覚はないのだろうか? ふむ、となればこの恐怖の要因は……私か。成程、種としては誇るべき由であろう。雌としてはちと悲しいが……。


「くくくっ……まあそれは出来ぬ相談じゃな。何せそれを仕掛けたのは彼処に居るキリ、そして妾達はその僕……主に逆らう僕はおらぬよ」

「……ウサギさんが飼い主?」


 再び吹き出しそうになったが、今度は寸前で堪える。ウサギさん。よりにもよってキリのような兎が『ウサギさん』……表情を変えずにやる事はほとんどが奇行と呼んでも差し支えないもので、その細い外見とは裏腹に鬼に匹敵する怪力を持つ化物が『ウサギさん』? 耳と肉ぐらいしか合っている部分が無さそうだ。

 と、そこで面白い事を思いついた。楽しみながら暇を潰す絶好の遊びだ。子供が話し相手だからこそ成り立つとはいえ、私自身やるのは初めてだ。しかし本来の目的は暇が潰せることであり、楽しむ楽しめないは二の次である故、気付けば私の口はするりと言葉を紡ぎ出していた。


「あの外見に惑わされてはいかんぞ? 彼奴の頭にあるアレじゃがな……実は耳ではなく角なんじゃよ」

「えっ? ツノって……えぇ!? 鬼さんですか!?」

「ふむ、知らんかったようじゃな。厳密に言えば鬼と言うより、鬼の亜種とでも言うべきか……じゃが困った事に、ぬしのような可愛らしい娘を取って喰うのは変わらぬようじゃ」

「どっ、どうしよう!? どうしよ!? どうしよぉ!?」

「妾も助けたいのは山々なんじゃが、ぬしを助けると妾が喰われてしまうんじゃ……不甲斐無い妾を許しておくれ……」

「っ! 諦めちゃダメです! 私も一人だったら何も出来ないかもしれないけど、二人だったら何とかなるかもしれません!」

「春告精……」

「リリーホワイトです」

「リリー……妾の名はヤヨイじゃ」

「ヤヨイさん、二人で悪い鬼さんを退治しましょう!」


 ……ふむ、意外と楽しいな此れは。




















 昼飯に持ってきたおにぎり(小)を飲み下すと、ちらほらと雪が降り始めてきた。地面は既に柔らかく耕してある。後は気候が安定してくれれば心置きなく種蒔きが出来るんだが、未だにその気配はなさそうだ。

 そろそろ帰るか、と仕事を早めに切り上げて鍬を納屋に放り込む。薄明かりの中耕運機が寂しそうな(なかまになりたそうな)目でこちらを見ていたが、迷わず『いいえ』を選択。今の季節オメェじゃ馬力足んねぇんだよ。てか俺は今から帰るの。帰って『使えない春告精』を『森の妖精』に強制クラスチェンジさせないといけないの。むしろ俺がなりたいくらいだが。

 で、そんな俺の『春告精改造大作戦~最強☆トンガリコーン編~』を感じ取ってたらしく、何か現在進行形で威嚇されてます。今ならセットで弥生付き……お前らどこのファーストフードだよ。喰うぞ、性的な意……駄目だ、食指が動かん。


  ―――グルルルルルルル……

「ううううううーーーー……」


 弥生さん、本腰入り過ぎじゃないッスか? アレか、尻尾結んだのは流石に不味かったッスか? え? 謝れ? だが断る。そしてリリーさん、その『涙目上目遣い』コンボは既に威嚇じゃねぇ。いや、確かに本人は威嚇の意味合いを持たせようとしてんのかもしれないが、全くと言っていいほど怖くねぇ。だが俺の寿命が罪悪感でマッハ。なるほど、それが狙いか。リリーホワイト……恐ろしい子……っ!

 オーケー分かった、これは『試練』だ。過去に打ち勝てという『試練』と俺は受け取った。クラスチェンジとは未熟な過去に打ち勝つ事なんだろ、J・P・ポルナレフさんよ。でもたかが十秒先が見えるぐらいで粋がるのは止めた方が良かったね、ボス。


「主、一先ず落ち着け。途切れ途切れで『声』に出ている所為で、不気味なことこの上ないぞ」

『那由他、今北産業』

「……聞こえてたんじゃないのか?」

『耳には入ってた、頭には入ってなかった、涙声で悪かったな馬鹿野郎』


 那由他の方に視線を向けず、三行で答える。力がなんたらかんたらって所までは聞こえたが、後はずっと作業に集中していたから全く頭に入ってこなかった。陰口だろうが悪口だろうが、私は一向に構わんと言わんばかりの地獄耳(デビルイヤー)が恨めしい。どうせならウィングかビームの方が欲しかったです、安西先生。


「弥生が騙す、春告精が信じる、悪乗り相乗効果」

『おk、把握。ところで那由他、狼と妖精の相場って幾らだ?』

「さてな、買い手がつくかどうか、怪しいものだ」


 ちぇーと口を尖らせてガキっぽく振舞ってみるテスト。ちゃんと出来ているか手で直接触れると、何時もと何ら変わりありません、本当にありがとうございました。マジで何とかならねぇかなぁ……この無属性フェイスは。軽く鬱るんですフジカラー。


「え……だま……ヤヨイさん?」

「ん、お疲れ。意外と楽しかったぞい」

「だっ、騙したんですか!? 騙したんですね!?」

「いかに幻想郷といえども、現実は非情なんじゃ。一つ賢くなったのお、くくくっ」

「うわぁーん!」


 いや、泣くなよ。しかも『うわーん』とか自分で言うな。初めて見たぞ、そんなヤツ。しかも何気にマジ泣きだよコレ。弥生はニヤニヤしながら眺めてるし……意外と黒かったんだなぁ、お前。

 泣き喚き続ける百合子(勝手に命名)に軽く辟易しながらも二人の尻尾の結びを解いてやる。すぐさま頭上に飛び乗る那由他と、前足を平伏させて背筋を伸ばす弥生……絶賛号泣中の百合子(旧名リリーホワイト)を完璧に無視してやがるぞコイツら。凄ぇな。『昔』嫌と言うほどガキの世話してたけど、ここまでスルーすんのは流石に無理だ。獄中の百合子(年齢不明)には同情を禁じ得ない。

 さて、どうやって泣き止ませるか……背中に巻いた風呂敷包みからニンジンを取り出してポリポリ齧りつつも考えをめぐらせる。

 放っておく――却下。確かに『昔』一番良く使った手だが、今は流石に無理だろう。寒いし野外だし雪は降るし……多分妖精でも風邪引く。てかこのまま見捨てたら俺に『まさに外道』のレッテルが貼られそうだ。主に部下約二名の目撃証言によって。

 慰めてみる――無理す。俺喋れねーっつの。那由他に通訳させたとしても、あのダンディボイスで泣き止む子供は居まい。むしろ悪化しそうな予感がする。じゃあ俺が直で慰めるとしても、撫でるかハグるぐらいしか選択肢がない訳だが……いかに相手が子供だとしても、初対面の異性にそれをやったらセクハラだろう。今ならもれなく青少年保護育成条例違反も付いてくる。

 餌で釣ってみる――微妙。飴玉の一つでも持ってれば一番有効な手とはいえ、現在の所持品はおにぎり(小)三個とニンジン四本。すきっ腹で泣いてる子供ならいざ知らず、弄られて泣いてる子供には効きそうにない。

 となると、やっぱり解決方法は一つ――。


『弥生、謝れ』

「弥生、謝れ」

「じゃがことわ……あい分かった、流石に悪ふざけが過ぎた。だから無言で掌を近づけるのは止めとくれキリ」


 分かってくれて何よりだ。前に一度やったアイアンクローがここまで尾を引いてくれるとは思わなかった。俺の握力? 竹を繊維質に変換させる程度だから問題ないよ。

 大人しく檻の方を向いて『お座り』の姿勢になる弥生。しかし一向に泣き止む気配のない百合子(春告精)を前にし、困惑気味にこちらを振り向く。恐らく、切り出し方が分からないんだろう。内心ちょっとだけプギャーと笑いつつも、弥生に助力すべく檻に手を掛けて一つ深呼吸。

 御手製の檻――『森の妖精三人が寝転んでもまだ余る』をコンセプトに造った所為か、竹製でありながら馬鹿みたいな重量を誇る手抜きの一品だ。持ち上げられないことはないだろうが……余り長引くと俺の中二属性持ちの左膝が間違いなく大笑いする。ヤバイ、虎挟みヤバイ。まじでヤバ(略)そんなヤバイ虎挟みに掛かっても後遺症なく前線復帰出来るシレンとか超偉い。死んでも頑張れ、超頑張れ。

 よし、精神統一完了。


『そおぉい!!』

「なっ!?」

「むっ!?」

「っ!?」


 三者三様で空高く放り上げられた檻を見上げる。曇り空の中、紅一点というか緑一点となって消えて行く俺の粗品。さらば製作期間三日、設置期間五日のマイケージ。本当はこの後バラして再利用するハズだったんだが……再利用?

 ハッとなって両手を確認。何時も通り肉刺だらけの小さい手……うっは生命線短ぇってんなこたぁどうでもいい。再び上を見上げる。既にその身を雲の中に隠し、一向に落ちてくる気配がない檻。ついに万有引力の法則を打ち破ったらしい。流石幻想郷、無機物すら空を飛ぶのか。物理学者達に喧嘩売ってるとしか思えないが、とりあえず今言える事はたった一つ――。


『やっべ、手放した』

「手放したぁ!?」


 那由他が大声で喚く。しかしその位置が悪かった。俺の頭上に居るという事は、即ち俺の両耳元に居るという事と同義である。頭の上に耳が付いてるとか不便としか言い様がないんだが、俺個人のようなちっぽけな存在が生態系というゲッターエンペラー並に大きな存在に文句を言ってはいけない。喧嘩は売ってるかもしれないが……って閑話休題閑話休題。要約すると『五月蝿い』って言うより『痛かった』デス、マル。

 耳鳴りが収まると同時に那由他に手を伸ばし、有無を言わせず首根っこを掴んで空中で半回転。そしてちょっと力を入れて……完成。


『……那由他、しばらく頭上禁止な』

「……分かっ……た……だか、……手を……」


 ワンハンドネックハンギングツリー――片方の腕で相手の首を掴んで持ち上げ、締め上げるプロレス技だ。ベガ様やドラゴンボールの三下達が良く使うので有名……だったらいいなぁ。

 とりあえずそんなに力を入れてる訳でもないので、しばらく那由他にはこのまま反省してもらうとして……チラリと百合子(森の妖精予定)達の方に目をやると――。


「んむ、程よい薄塩じゃな……」

「あはははははははっ! はっ、ダメですっ! くすぐったいでひゅははははははははははははははははは!!」


 何か楽しげにイチャついてた。傍から見たら弥生の御食事の真っ最中って感じがするんだが、どうやら百合子の顔を舐めてるだけのようだ。決して味見をしてる訳ではない……と思いたい。今までの食生活を振り返ってみるとほとんどが精進料理だっただけに、弥生が肉に飢えてないとは断言出来ない。狼としてそこら辺はどうよ? とか思うこともあるんだが、面と向かって問うのは明らかに死亡フラグ臭がする。まぁ、弥生にだったら喰われても悔いは残んなさそ……あ、でも後数年は生かして下さい(命乞い)。

 微笑ましい光景のハズなのにどうしても邪推してしまうのは、多分俺の心が汚いからなんだろう。うん、きっとそうだ。生前AVを三桁程度見たという経験が、俺の視界をジャックして全てを不純なものに見せているに違いない。だから俺はそっと視線を外し、『俺は何も見ていない』と自己暗示を始める。弥生が百合子(舌被弾中)の服の裾をピンポイントで押さえつけてる光景なんて見てない。金色の瞳がやけにギラギラしてる弥生も見てない。ワタシ何モ見テナイアルヨー。


「はははははははははははははは……ひゅっ……ふぅ?」

「して、涙は止まったかの?」

「え……あっ、はい」

「ふむ。まず最初に言っておくが、妾はぬしを騙した。退屈しのぎに騙した。結果、ぬしは泣いた。妾に裏切られたという事実に嘆き、恥も外聞も無くして涙を流した……そうじゃろう?」

「……はい……」


 背後で一息吐く音が聞こえた。えー何この空気と思いつつも、背景に徹する俺。ちょ、那由他暴れんなよ。てか空気嫁。まぁ後ろでシリアスシーンやってる最中にポケモンのこと――したでなめる。麻痺の効果が嬉しいが威力の低さが否めないゴースト系の物理技。幽霊なのに物理とはこれいかに――考えてる俺が言えた義理じゃないんだがな。


「虫の良い話である事は重々承知しておる。裏切り者を許せと高言するつもりもない。ただ一言だけ、聞いてくれればそれで良い」

「……」

「騙して悪かった。リリー」

「あ、はい……?」


 上ずった感がひしひしと伝わってくる返事。多分オツムの固い弥生の謝罪が分かり難かったんだろう。助け舟を出してやってもいいんだが、それだと弥生のプライドを傷付ける事になる。慣れない『謝罪』という沙汰を一人でやってのけた弥生の生殺与奪権は、今や百合子(困惑中)が握っているのだ。弥生の主人とはいえ、現在絶賛空気中の俺が横槍を入れる訳にはいかない。

 束の間の静寂。先に口を切ったのは……百合子(被害者)だった。


「えっと……とりあえず顔を上げてください」

「……」

「あの、ヤヨイさんの言うことは半分ぐらいしか分からなかったんですけど……その、べつに怒ってるわけじゃないんですよ? ただちょっと悲しかったかもしれないっていうのはあるんですけど、えっと、なんて言うか……ヤヨイさんがそこまでかしこまる必要はあんまりない気がして……つまりその……」

  ―――きゅるるるるるる……


 ほほぅ、ここで『場の空気を読まないことで定評のある腹の音』が登場ですか。考えてみれば俺以外に昼飯食ったヤツいなかったな。俺はため息を一つ吐いて振り返り、ほんのりと顔を赤らめていた二人に近付く。え? 弥生は狼だから表情なんて分かんねぇだろって? いやいや、頭垂れてたから勝手に自己解釈したまでよ。

 半ば生ける屍になりかけてた那由他を放し、風呂敷包みから正体不明の葉っぱで包まれたおにぎり(小)を取り出し、そっと二人に差し出した。


『食うか?』

「ふむ、昼食か。リリーもどうじゃ?」

「……いいんですか?」

「謝罪の意味も込めての言葉じゃ。それにぬしのような娘は、遠慮などせん方が良い」

「……じゃあ、いただきます」


 内心ニヤニヤしながら、二人のぎこちない食事風景を眺めてたのは秘密だ。




















 幻想郷には白玉楼という御屋敷がある。冥界の尤も高い場所に位置する日本屋敷……西行寺家の持ち家であり、その広い庭には数え切れないほどの桜の木が植わっているという。

 冥界であることも相まって、当然のことながら普通の人間や妖怪は入り込むことすら叶わない。冥界は罪のない死者が成仏するか転生するまでの間を幽霊として過ごす世界。万が一にも生物は入り込むことはない……ハズであった。


「……」

 白と緑で構成された洋服を着た銀髪の少女――魂魄妖夢は目の前の惨状を呆けた表情で見詰めていた。白玉楼に仕えて幾年、大抵の厄介事は経験してきたつもりだ。それは勝手気ままな主の我侭であったり、広大な庭の手入れに関することであったりと少し偏りがあるものの、厄介事に違いはない。しかし目の前の『ソレ』は、彼女の経験など役に立つまいとせせ笑うかのように、静かに鎮座していた。

 目前に居るのは、ゆったりとした水色の着物を着た、桃色の髪を持つ美女――妖夢が仕える白玉楼の主、西行寺幽々子。何食わぬ顔で静かに湯呑みを傾けてはいるものの、その動作一つ一つに違和感を感じ取れる。

 妖夢はゆっくりと上を見上げた。室内であるはずなのに、そこから見れるのは見事な青と白のコントラストで彩られた空。春度を集め始めてようやく好天になり始めた……と、少しだけ思考が横道に逸れる。現実離れした現状に思考が追いついていないのかもしれないが、屋根の残骸が散らばる部屋は、その事実だけを物語っていた。

 彼女の中で此処に来るまでの出来事が再生される。何時も通り庭の手入れをしている最中に、屋敷の方から轟音が響いてきて――。


「妖夢」

「っ!?」


 唐突に声を掛けられ、ビクリと肩を震わせる妖夢。視線を声の主に向ければ、何時ものように微笑んでいる幽々子が居た。何時も見ているはずのその笑顔……しかし、妖夢にはその裏に隠された感情に気付いた。長年仕えた者だからこそ分かる、彼女の内心――それは紛れもない『怒り』だった。

 普段温厚な者ほど、怒らせると恐ろしい――彼女も幽々子から叱りを受けた事は一度や二度ではなかったが、ここまで怒らせた事は流石にない。八つ当たりをされる事はまずないだろうが、それでもこれ以上幽々子の不快感を買うのは不味いだろう。妖夢は慌てて姿勢を正した。


「何でしょうか、幽々子様」

 木屑の落ちていない場所に座し、今までの醜態を取り繕うか様に確りと主を見詰める。二人の主従関係は変わらない。その立ち位置も変わらない。今はただその間に、緑色の障害物が――竹で出来た格子があるだけ。その程度の物体で、彼女達の本質は何も変わらない。

 白玉楼の屋根を突き破って落ちてきた檻……その中で、幽々子は傾けていた湯呑みを置いて――。


「きりなさい」


 ――たった一言、言葉を紡ぐ。それが指しているのは檻か、部屋をこうした元凶か……しかしその一言で、妖夢は十二分に理解した。両の目を伏せてその言葉を噛み砕き飲み下し消化し吸収し……理解した。


「分かりました」


 返事は主君と同じで一言だけ。その言葉と同時に目を開き、彼女は背負っていた長刀――楼観剣に手を掛けた。





















  ―――ゾクッ……


 何故か悪寒がした。両腕で身体を抱き締めるが、効果は今一つのようだ。辺りを見回しても、俺達四人以外に人気は感じられない……幽霊? んな馬鹿なと、妖怪の自分を棚に上げて言ってみる。


「キリ、どうしたんじゃ? 少し震えたようじゃが……」


 百合子(上機嫌)を乗せた弥生に問われた。心配して言ってくれたんだろうが、満面の笑みで弥生に縋り付いてる百合子(泥だらけ)の所為か、ありがたさゼロパーセントだ。とりあえず変化球で返してみる。


『ゴメン、漏らした』

「っ!!? 主!?」

  ―――きゅっ♪

『嘘だから、冗談だから、な? な?』


 学習せずに大声を上げる那由他だったが、四回程尻尾をニギニギすると理解不能の言葉を吐きながら沈黙してくれた。せめて肩の上にって事で譲渡してやったけどやっぱ駄目だな、後数ヶ月は俺の上に乗るの禁止しとこ。俺の上は安くないんだ。

 那由他が素直に通訳してくれなかったので、弥生の頭を撫でてやる事で返事とする。これで十分伝わるだろう。ペディグリーミキサーのCMでもよくやってたしな。こう……両手でわっしゃわっしゃって感じで。


「っ! ……むう、これは確かに……」

「あー! 私もっ! 私もやります!」

「いや、妾はキリにじゃな……」

「……駄目ですか?」

「…………別に構わぬよ」

「わーい!!」


 無遠慮に弥生を撫で繰り回す百合子(超御機嫌)。まさに『雨降って地固まる』状態だ。まさかおにぎり(小)一個で釣れるとは思わなかったが……と、そこで思い出す。


『……父さん達にどう説明すっかなぁ』


 素直に『春告精を利用する為だッ!』とか言うのは、何か大胆カミングアウトしてるようにしか思えない……まぁなるようにしかならないだろうが、一先ず風呂だな。泥塗れの百合子(愛撫中)を横目で眺めつつも、俺はそんな事を思った。










霧葉:1歳11ヶ月
実年齢を忘れてる主人公。輝夜に「ニートって知ってる?」と笑顔で問われた所為か何かと不機嫌だった。超兄貴になりたい。

那由他:16歳
そんなに年喰ってる訳でもない準主人公。今回何か空気だった。被弾判定が小さ過ぎてほぼチート。弾幕は針霊夢程度。

弥生:79歳
一番お婆ちゃんな準主人公。ようやくスペルカードを持てるようになったが、まだ那由他には勝てない。全方向レーザーを多用する。

リリーホワイト:(妖精だから歳取らないよ!)
台詞が一切ない原作キャラ。まぁ妖精ってこんな感じかなと勝手に性格構成。とりあえず餌付けしてみた。




[4143] 第十七話 ボスケテ
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:110a5032
Date: 2009/11/18 11:10



 昔から『嘘吐きは泥棒の始まりだ』とか言うけど、当時はその泥棒に対する刑罰も馬鹿にならなかったらしい。前世の頃、何度か室長の薀蓄話に相槌を打った経験があったが、実際に目にしてみると何とも言えない気持ちになる。

 いや、だって幾らなんでも釜茹ではないっしょ、常考。

 油で満たした釜に泥棒一家入れてぐつぐつ煮込むなんて……流石秀吉、俺達に出来ないことを簡単にやってのける! そこに痺れたり憧れたりするのは別として、素直に驚きだ。『鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス』じゃなかったのかよ、アンタ。あ、一般ピーポーのみッスか? サーセン。


「……それでどうなったの?」

「ん、母さん達は『何時か逃がす事』を条件にしてOK出してくれた。その後は汚れた服引ん剥いて、風呂にぶち込んで……」

「ぶち込むって……」

「そうだな、羽根を洗うのは骨だった」

「変態」

「ありがとう」

「女の敵」

「おっぱいは好きですが、トップとアンダーの差がちょっとしかない奴に興味はありません」

「……今の発言、幻想郷の半分を敵に回す事になるわよ」

「何だ、いろんな意味でちっせーな幻想郷って……安心しろ、安産型だったらまだ望みはある」

「いっぺん死んでみる?」


 そんな地獄絵図の横で平然と不毛な会話を繰り広げる俺達二人。今直ぐ拳が飛び交いそうな内容と反して、その空気は何とも緩い……それこそ沈んだ空気を漂わせる横とは雲泥の差だ。何時もなら不快極まりない悪夢もこういう風に会話が成り立つんだったら、毎日見てもいいかもしれない。最近始めた『筆談』は、紙と鉛筆を持参しないと出来ないってのが欠点だし……何より面倒臭くて仕方ない。声って大事だね! マジで!(涙目)

 嗚呼、声が……声が欲しい!――うへぇ……意味深で哲学的な発言は禁物だな。吐き気がする。

 俺が見事に自爆していると、何かクスクスと笑われた。半眼で目を向ければ、金髪でナイスバディで微妙に童顔で……絶賛冬眠中にも関わらず暇だから会いに来たと抜かす、人外美女が一人。そう、第十三話辺りで俺をネチネチと粘着質にいびってくれたあの美女さんだ……何だ第十三話って? いかんなぁ、どうも怪電波が……この硬化した耳の所為か。


「冗談よ」

「そらどーも」

「直接手を下すのは面倒だし、何より殺す価値が無いわ」

「……あれ?」


 台詞おかしくね? しかも後半、声のトーンがかなり下がったぞ。あ、もしかして俺嫌われてた? 無駄話しかしない男は嫌いですか、そうですか。

 いきなり眼光が鋭くなった美女を尻目に、腕を組んで思考開始。OK、時に落ち着け俺。面と向かって遠まわしに『嫌い』と言われたからといって、取り乱してはいけない。昔『キリ兄ちゃんなんて大っ嫌い!』って言われた事あるだろ? アレに比べりゃ軽い軽……ゴメン嘘、ちょっと傷付いた。

 さて、この場合なんてコメントを返せばいいんだろうか……『さいですか』? 冴えねぇ返答だな。でも売り言葉に買い言葉で『俺も嫌いだよバーカ!』とか言うのは何かアレだし、死亡フラグだ。あ、でもどこぞのエロゲの主人公みたく口説いたら、案外上手くいくんじゃね? ニコポとか出来るぐらいだし……よし! その組み合わせ試してみるかな。

 一つ深呼吸。心まで見透かされそうな双眸に視線を合わせ、準備完了。その澄ました顔を吹っ飛ばしてやるぜ。


「俺は好きだ」


 吹っ飛ばされた。具体的に言うと傘でブン殴られた。凄ぇ硬かった。それで目が覚めたらどれだけ良かった事か……地面に大の字で寝転んだまま雲一つ無い夜空を見つめ、俺は呟いた。


「……現実って非情だな」

「ここは夢よ?」

「じゃあせめて夢見させてくれよ。ただでさえ現実では冬が長引いて困ってんだから……」

「へぇ……大変ね」


 その割にちっとも声色変わらないね、この加虐症患者(サディスト)が。悪態を吐きたくなったが、結果は目に見えているので口を噤む。どう足掻いても、彼女の様な高位妖怪の視点から見て弱者に生まれた俺に『勝ち目』なんてものは存在しないのだ、畜生。

 さっさと起きねーかなー……と思いつつ、地面の上を休日を得た某ホームコメディ漫画の大黒柱(タクシーの運ちゃん)みたくごろごろ転がる。……頭が可哀想とか言うな、ちょっと不貞腐れてるだけだ。腐ったミカンになりてぇ……いや、人間大のトマトも捨て難い。その昔『キラートマト』という馬鹿映画があってだな――。


「貴方、春度って知ってるかしら?」


 ――訂正、俺はトマトだ。




















東方狂想曲

第十七話 ボスケテ





















 春度……というものがある。それは天候気温湿度といったものの一種だと考えていいだろう。この世の全てを知っている訳ではない為にどうしても断言することは出来ないが、その存在があることは事実である。

 しかし目に見えて分かるものでもなく、体感するにしても分かり難いというのが現状だ。私自身、自分の『能力』がなければ気付くことなく一生を終えることだっただろう。要らぬものまで感知していた頃が懐かしい……いや、それは今はどうでも良いことだ。それよりも――何故キリがそれを知っているのだろうか? ……私は口を動かしながらもチラリとキリの顔色を窺った。

 何時もより早い時間に私だけ叩き起こされたと思えば、いきなり『春度って何?』と書かれた紙を突きつけられたのが一刻前。寝起きが悪かったという事もあり、キリの腕に思いっきり噛み付いて床に叩きつけられ、軽く手当てしたのが半刻前。今は現在進行形で『春度』についての説明を行っている。……手当てと称しておきながらも、一心不乱に傷口を舐めていたのは余り思い出したくない記憶だ。


「例えるなら……そうじゃな。鶯や雀等の生物。桜湯や田楽、蓬餅等といった食物。花見、春眠等人間がとる行動。それら一つ一つにでさえ春度は存在しうるのじゃ。人間が俳句を詠む際に使う季語は――」


 キリは私の話を聞きながらも、腕を組んで口元に指を運ぶ。そういった何気ない仕草一つ一つが、どことなく女性的に見えるのは何故だろうか。ここに来て数ヶ月、何度もそう思うことはあったが、未だにその要因と言えるものが見付からない――キリに『雌』を感じられる理由が分からない。

 子供だから? いいや、味や食感といったものはともかくとして己が雌雄のどちらかであるという区分ぐらいはついているはずだ。一度認識してしまえばそれを違える事はまずないだろう。それとも自身を『雌』と……いや、それはないか。性癖がアレなだけに、此奴が素直に『受け身』という立場を享受するとは到底思えない。例えキリが雌として生まれて出でていたとしても、この性癖ではきっと非生産的な行為しかしなかった事だろう。


「当然ながら他の季節にも度数というものはあるが、幻想郷ではとんと聞かぬ。じゃがそれが存在するのは事実であり、先に言った季語というものは――」


 私が自信を持って『知っている』と言えるものといえば、身体能力と味、性格に『能力』……後は全く感知出来なかった。例の玉兎にもその程度の情報しか与えていない。その所為でキリに対する警戒態勢が一層強化されたが、当の本人は気にも留めていないようだ。露骨にまで兎達に避けられて、聞こえているであろう陰口も知らん振り……それでも全く感情が変化しないとなると、もはや賞賛に値する。

 気楽で、普段は物事を深くまで考え込まず、だからといって馬鹿という訳でもない。私やナユタから見るとどうしても言動が幼く感じてしまうが、純粋な知能面では到底敵わないだろう。何せ部屋の片隅に積まれた紙の内容――蚯蚓が張った様な文字と子供の落書にしては細々とした絵が具に書かれていた――が未だに理解出来ない。過去数回程処分したらしく、そこまで必要なものでもないらしい。キリ曰く『所詮は絵に描いた餅』とのことだ。

 身体に焦点を当てても、謎は多い。私がキリと出会った時は、間違いなく妖獣だった。怪力で味が良く、種としての長所を更に伸ばし……しかし致命傷を負えば死は免れない、あくまで肉体に依存した妖。それが今はどうだ、その肝心の『種族』ですら上手く感知出来ない。段々とその輪郭がおぼろげになって、分からない項目が増えてきて――。


「――というものなんじゃよ。分かったかの?」

【春度=幻想郷における春という形而上概念を数値化したもの。正解?】

「概ねそんなところじゃな」


 わからない、謎が多過ぎる、しかしそこにいる。まるで幻影だ。姿形だけが目の前にあるというのに、それに手を伸ばそうとすると自然と空を掴んでいる。知ろうとすればするほどその姿は遠くなり、何時の間にか何も見えなくなる。

 なるほど、確かに妖だ。人間が私達をどうして恐れるのか、その気持ちが少しだけ分かった気がする。誰だって得体の知れない生物に近寄ろうとは思わないだろう。好奇心は猫をも殺すのだ。たった一時の心情で己が生を左右させるなど、愚行としか言いようがない。だが私の場合、そんなちんけなものが原因なのではない。いや、確かにキリに対してだけ上手く能力が働かないという苛立ちもなかった訳ではないのだが――。

 と、不意に頭に違和感を感じた。他の事を考え過ぎていた所為か、現状を理解するのにもうしばらく時間がかかってしまった。


「……何の断りもなく乙女の頭を触るのは関心せぬなあ……」

「……」


 照れ隠しの意味合いも込めた軽口。ピタリと手を止め、名残惜しそうに私の頭から離れて行くキリの掌……いや、名残惜しいのは私の方だ。少しばかり後悔するものの、まあ過ぎたことは仕方ないと思うことで未練を断とうとし……次いで付き付けられた紙に目を奪われた。


【撫でる】

「……よろしい」


 キリのどこか抜けた返事に少しだけ呆れつつも、その小さな手に身を委ねる。両の手で首元を刺激され、撫で上げられ、耳元を擽られ、つうと頭蓋に合わせて指が這う。大きさの問題で自然と首に抱きつかれる形になってしまったが、こうして身体を密着させるとキリの香りが良く分かる。赤い衣越しに伝わる体温と寝汗の香り――思わず齧り付きたい衝動に駆られた。実行するのは不可能だった。

 目を閉じれば、愛撫を続けるキリが体感出来た。私の能力を使わずとしても、キリがすぐ傍に居る事を感じ取るのは容易だった。下らない事を考えたものだと心の中で自嘲した。

 私は此処に居る。キリは傍に居る。これは私の牙を削り取る為の演技なのかもしれない。本当は私の事など何とも思っていないのかもしれない。何時かこの関係が崩れるかもしれない。構わなかった。キリが幻影だろうが妖だろうが……今こうして在ればそれでいい。

 朝日も昇らぬ残夜にて、私はそっと身を擦り付けた。




















「それで、惚けていればこの仕打ちか」

「……五月蝿い」


 私の皮肉に対し、不貞腐れたように答える弥生。雪掻きという本来人間がする作業の為に人型となっている今、その表情を読む事は容易だ。


「まったく……大体じゃな、彼奴は乙女心というものを理解しとらん! その上常識というものが欠落しておる!! ああやって甘い言葉で女子を惑わせた後というのは、少なくとも余韻というものをじゃなあ!!」

『いてぇよ~!!』

「分かった分かった。分かったから余り乱暴に扱ってやるな。さっきから其奴の悲鳴が聞くに堪えん」


 ゲシゲシと八つ当たり気味に雪を掻く度、主の作った道具――シャベルと言うらしい――から叫び声が上がる。まぁ日常生活において悲鳴の聞こえない日など一度もないのだが、とりあえずこうでも言わなければ今の弥生は止まりそうにない。


「五月蝿い!! この怒り! 乙女に恥をかかせたこの怒り!! 心の奥底に仕舞うなど無理な芸当じゃ!!」

『ちょう……超いてぇよ~!!』


 訂正、悪化した。広大な畑に鈴を転がすような美しい声と、豚のような悲鳴が混和して広がった。聞いているだけで不快極まりないが、そもそもの原因が主にあるために然して強くも言えなかった。尤も、後者の声色だけは前から辟易してたが……この際だ、壊れてしまっても仕方のないことだろう。むしろ壊れてしまえ豚シャベルが。

 何時になく荒っぽい弥生の雪掻きを横目で眺めつつ、私も耕運機を引くため、四肢に力を入れる。作業の為に虎へと変化するのには慣れたものだが、未だ楽には引けない。要するに非常に重たいのだ、この耕運機という物は。昨日主が投げ飛ばした檻ほどの重さはないにしろ、三十貫はあるに違いない。妖獣の身であっても、これを引いてこの広大な畑を何往復もするのは流石に辛い。私は身を以って主との違いを体感していた。


「第一じゃな!! 何故妾が肉体労働をして! リリーがキリと共に居るんじゃ!! おかしいじゃろ!! 色々と!」

『ぐふっ! ぶっ! ぶっひぃ!!』

「永遠亭内で春度っぽいものを集めるそうだ。春告精は『春度探査機』の代わりだ」


 何時も通り周りと比べて早めの朝食を取った後、確かキリはそんな事を言っていた気がする。そして昨日真面目に働かなかった私達は、罰として雪掻きをさせられる破目になってしまい、今に至る。弥生の機嫌が悪いのは、あの主になんらかの期待を抱いてしまったからだろう。まったく、数ヶ月もの間彼奴の傍で奇行を眺めていただろうに……。

 そこまで考えてふと笑みが浮かんだ。今の弥生は、昔の私に良く似ている。その者の前では借りてきた猫のように畏まり、視線が外された途端に周りに対してくどくどと愚痴を零す。しかしだからといって本当に不平不満がある訳でもなく、その者が傍に居ればそれだけで満ち足りる。要するに結局は――。


「惚れたが因果……か」


 ――惚れた方の負けなのだ。


「糞ッ! やはり子供か!? 子供なのか!? 母性本能を擽る位が丁度良いのか!? 妾のような老いた狼幼女はお払い箱か!? 熱く燃え上がったあの一夜は何だったというんじゃ!!」

『ぬぅぅぅぅぅぅぅん!!』

「拳が飛び交う殺し合いの何処に艶場があるのか、是非とも聞きたい所だな」

「何を言うか。雄が雌を傷付け、雌が雄に永遠の服従を誓う……ほれ見ろ、何処もおかしくないじゃろ?」

『ぅおおおおおおおっ!! に……肉が!!』


 ……頭が痛くなってきた。どうやら此奴は、色事に対して歪んだ知識しか持っていないようだ。ついでにシャベルの悲鳴も限界が近い。多分そろそろ折れる(死ぬ)。私は宙を舞う雪の塊――弥生がシャベルを動かす度に舞い上がる――を目で追いつつ、軽く助け舟を出してやる事にした。

 色事に疎いのは私も同じだが、弥生をこのまま野放しにしておくのは流石に良心が痛む。火遊びが過ぎて火傷されては、同じ従者として示しがつかん……別に弥生を心配しているという訳ではないぞ?


「主は破天荒な奴だからな。此方から動かねば思った通りに事が運ぶとは到底思えん」

「キリと床を共にしたぞ?」

「それは私もだ。昨夜の事を言えば、春告精も一緒の部屋に泊まっただろう?」

「じゃが、キリと密着して眠ったのは妾だけ――」

「抱き枕に丁度いいらしい。それに、寝惚けた主に絞め殺されかけた事を忘れたか?」

「軽く噛んで歯型を――」

「つけようとした途端に投げ飛ばされただろう? 見事な巴投げだったぞ。受身を取る暇もなく落ちたろう?」

「……それとなくキリの唇を――」

「舐めたか? 人型だったらまだしも、それは獣型の時だったろう? それではじゃれ付いた時と何ら変わらんよ」

「…………うぅ……」


 不味いな、助言してやるつもりが逆に落ち込ませてしまった。普段よりも少し真面目に言葉を返していたらこの有様だ。しかし先程と一転してこの落ち込み様……主に向ける情は、意外と本物なのかもしれない。ただそれをどうやって主に向ければいいのか、向けたらどうすればいいのか、知らないだけなのだろう。

 それにしても弥生は積極的な方だ。言葉にすることは決して多いとは言えないが、気付けば何時だってさりげなく主の傍にいる。そこから何も発展しないのが玉に瑕だが、今は――弥生が色恋に疎い間は――それぐらいが丁度良いのかもしれない。そう考えると、素直な弥生が少しだけ羨ましく――。


「そうじゃ! 今朝は妾の匂いを擦り付けたぞ!!」

「お前……頭いいふりして実は(馬鹿)だったんだな……」

『ひでぶっ!!』


 私の一言が気に入らなかったのだろう、頭に血が上った弥生の手により、ついにシャベルがその天命を全うし……弾幕ごっこが始まった。




















 永遠亭の一角で、一人の妖怪が蹲っていた。長く萎びた様な兎の耳と腰まで届く紫色の長髪――時に鈴仙、時にウドンゲと呼ばれる玉兎は、両手で鼻を押さえてその場に蹲っていた。ブレザーの服は彼女の自慢の髪に覆われ、ふさふさとした毛玉の様な尻尾がひょっこりと顔を出し、プルプルと震えているのが良く分かる。

 空腹で倒れたのか――否。朝食ならば先程食べたばかりである。確かに、調理長のノロケ話を聞きながらの朝食は何時になく苦痛ではあったが、腹自体は膨れた。砂糖で出来た地雷を踏んだのは他でもない鈴仙本人……師匠である永琳と部下であるてゐには恨みがましい目で見られ、少々胃が痛いのは事実であったが、流石に歩を止めるまでは至らなかった。

 仕事で疲れたのか――否。霧葉を監視するという仕事は未だ継続中であったが、最初に比べればそこまで疲れるものではない。監視当初はそれこそ不眠不休――対象の睡眠時間が短過ぎた為――で見張っていたのだが、数ヶ月も続けていればある程度妥協する点が分かってくるものだ。

 では何故、彼女はこうして蹲っているのだろうか? それは――。


「……臭い……」


 そう、匂いだった。

 兎と聞いてまず真先に思いつくのはその長い耳かもしれないが、実は聴覚だけでなく嗅覚や味覚も鋭い。兎に限らず動物という生物は人間と比べると五感が異常に発達しているのが良く分かるだろう。当然ながら、その延長線上に居る妖獣もまた、五感が異常に優れているのだ。

 だからといって、少し大きな音を立てて気絶する事もなければ、香水などの刺激が強い匂いに倒れる事もない。人間がそういった物に『慣れる』様に、妖獣もまた『慣れる』動物なのである。

 しかし人間が糞尿の臭いに嫌悪感を抱く様に、妖獣にも苦手な臭いというものは当然ある。例えば苦手な捕食者の臭い――そう、今まさに監視対象の部屋から流れ出ている濃厚な獣臭の様な臭いだ。


「ううぅ……」


 鈴仙は後悔していた。何度か弥生と密会して、その獣臭にも慣れていたと思っていた。その認識が甘かった。チョコパンより甘かった。煮込み雑炊を注文して出鼻をくじかれた個人輸入業者になった気分だった。もしくは大山町のハンバーグランチの店を営む店主。

 事実、彼女は他の兎達と比べれば慣れた方だと言える。しかしそれはあくまでも弥生の『体臭』であり、『マーキング』の臭いとは一線を画したものなのだ。人間にとっては大差なく感じるかもしれないが、彼女の様な兎には鼻面にテンプシーロールを食らわせられたのと同じ位強力な刺激だった。

 鼻を摘んだまま鈴仙は顔を上げた。その顔色は悪く、もはや病人の域と言っても過言ではない。しかし彼女には使命があるのだ。霧葉を監視するという使命が……。

 だが、それにしても一体何をしているのだろうか? 臭いに辟易して考える暇もなかったが、若干鼻が慣れ始めた――麻痺し始めたとも言う――鈴仙はそんな事を思った。朝食後から監視を続けて約一時間、未だに部屋から出て来る気配はない。耕作班の朝は早く、他の班が起き出す頃には畑へ向かう――そう聞いていた彼女にとって、霧葉だけが部屋に残っているのは不自然に感じられた。

 情報提供をしてくれた狼――弥生からは何の連絡もなかった上に、その部下二匹と離れているこの現状……ついに尻尾を出すのかと、鈴仙は残り少ない気を張り詰めて――。


  ―――パァン!

「……ゴメンナサイ師匠、私はもう駄目みたいです……」


 ――霧葉が思いっきり部屋の障子を開けた途端に、鈴仙の中で何かがぷつんと切れるのを感じた。




















 部屋を出ると何か死体が転がってますた。被害者はレイセンさん。顔色が死人みたいで、陸に上げられた魚みたいにピクピク痙攣して白目剥いて、ついでに口元からだらしなく涎が垂れてます。見た目が女子高生なだけに、何かリアルでマジ怖ぇ。

 とりあえずジャージの袖で涎を拭ってやって、死体にやるような感じで瞼を閉じてやる。これだけでかなり見れる外見になるんだから、外面ってのは割と大事なんだなぁと、俺は密かに感心した。でも青白い顔&痙攣の所為で、薬物中毒者っぽいのは否めなかったりする。まぁ見た目女子高生だし……いや、そんなスイーツ(笑)いらねぇや。『ダメ、ゼッタイ』は万国共通。

 チラリと百合子に視線を向けると……やっぱ微妙に涙ぐんでた。ですよねーと思いつつ、軽くため息を吐いく。そりゃこんな精神衛生上よろしくない物体を見たら誰だって泣きたくなる。しかもこれから一仕事始めようとしている矢先に、だ。黒猫が横切るのとどっちが不吉だろうか……どっこいどっこい?

 下らない事を考えつつも自然と身体が動いているのは、性悪な俺にとって唯一の長所かもしれない。いや、欠点か。失神してるのをいい事にレイセンさんの耳の根元を調べてる辺り、自分の低俗さがよく分かる。ごめんな、レイセンさん、知的好奇心には勝てな――お、やっぱ固いな。耳はちゃんと繋がってるみたいだし、耳飾りの一種なんだろうか? そういや月の兎って自称してたし……あ、アレか。自分だけこういう変わった物をつける事によって『俺は周りと違うんだぞー』とかいう意思表示を――。


「……霧葉さん?」

『あ……』


 さいでした。百合子には色々と早かったよね。うん、俺が悪いのは紛れもない事実だ。分かった、罪を認めよう。だからそんなキラキラとした目で俺を見んとって下さい。首傾げないで、『何やってるんですか?』とか純粋な疑問を投げかけるような顔をしないで、全く責めようとしないその目が痛い! 止めて! 俺のSAN値はもうゼロよ!

 ブラクラ画像さえも弾く硝子のハートに多大な欠損を受けながらも、最近筆談用にと使い始めたメモ帳(手作り)を取り出し、俺は少しだけ言い訳してみた。


【大丈夫死んでないし生きてるのは確かだしとりあえず息とかあるし確認とか必要だしそうこれはあれだ脳の活性化を促すためのマッサージ的なものであって決して好奇心であの耳付け替えできんのかとか思ったわけじゃ決してなくていやほらだってまだあれだってやったことないしそれにそこまで成長してるかってとその答えには当然ながらNOと答えるしかないわけでして別に他意があったりしたわけでもなくただ単にいや本当かんべんして下さい親だけはマジいや本当にあの二人に知られたらどうなるか分かったもんじゃないっての主にモンスターペアレンツ的な意味でだけどなだけと考えてみれば文字通り妖怪だから別にいいのかとか考えたりするのも事実なんだがてかあれは犯罪だろマジで主に外見とかそんな感じのヤツでてか親は関係ねーなサーセン】


 少しだけ、言い訳してみた(二度目)。


【いやまーたしかに昔はかなりエロかったのは自覚してるんだけど流石にロリ物はやばいってことでというか一番好きだったのはやっぱり尻で次に巨乳物って決めてたんでこういった女子高生物はなんていうかリアルに下の弟妹がいる家庭ではマジでねーよ五秒前って感じだったてか本当に大学入るまでそういうのを見なかったところとか評価しておれが真人間だってことを分かってくれればそれにこしてくれたことはないんだがいや本当だってマジふくざつな家庭事情だったんだってその反動でかなり染まったってのは否定できない事実なのはしかたねーんだって子供が無意味にハンバーグが好きなのと同じだそういやちょっと修行中の坊さんにAV見せてみたいよなとか思ったこともあったんだが流石に実行してみるのはかなり怖かった具体的に言うと夢の中でエンドレス念仏が始まりそうな感じなわけでてか話ずれてるよなそうそうそんな感じで女子高生よりどちらかというと】

「ちょっ、ちょっと待って下さい! 速過ぎ……というか、途中から何書いてるか分かりません!!」


 超スピードで赤裸々告白していた手を止めると、あわあわと効果音が付きそうな感じにテンパってる百合子が目に入った。余白が無くなると同時に破り捨ててた所為だろう、その手には解読不能の文字が書かれた紙が数枚――出来れば燃やしてくれるとかしてくれると、物凄く嬉しかったりする。

 むぅ……『ランナーズハイ』ならぬ『ライターズハイ』ってヤツだろうか、マジ黒歴史書いちまった気がする。だが『歴史は夜作られる』という格言があるぐらいだ。逆転の発想で『黒歴史は昼作られる』という真理があってもおかしくはない。つまり俺はおかしくない。尻好きは健全。これにて閉廷。異議は認めない。一筆。


【勝訴】

「意味が分かりません!!」


 百合子が涙目で突っ込んでくる。いいね。ちょっと天然入ってる所為かたまにボケ持っていかれそうになるけど、ツッコミ役としては最適な素質を持ってる。しかも律儀に叫んで突っ込んでくれる辺り、ポイントが高い。那由他だと静かに突っ込むからなぁ……。

 と、永久ループに陥りそうなんで、ここいらで一旦ボケるのを止めた。いい加減仕事を始めよう。那由他達に畑仕事任せて、俺がサボるのは万死……半死に値する罪だ。小脇に抱えていたびら束の半分を百合子に渡し、最後の打ち合わせを始めた。


【これからやる事は?】

「? ……あっ! えっと……『春度集め』……?」

 もう一回】

「……春度集め」

【大きな声で】

「春度集め!」

【もっと大きく】

「春度集め!!」

【俺の名を言ってみろ】

「霧葉さん!!」

【GJ Σd(・ω・`)】

「はい!」


 満足げに微笑む、花も恥らう春告精こと百合子。一見打ち合わせをしていない様に見えるが、実はこの会話の裏に暗号のやり取りが……ってそれはねーよな。けどまぁ実際『春度を集める』なんていう漠然とした目的の為に動いてるのは違いないんだ。勝手が分からないんだったら、いっそ真面目にやらずに適当にやった方が効率的かもしれない。

 それに『春度』って存在自体が、俺にとっては眉唾物でしかない。何せ第一情報提供者は悪夢の無名美女@冬眠中さんだ。あの人が何を考えてるのかは知らんけど、弥生の証言で情報の正否はハッキリしたし、とりあえず使えそうな情報は使ってみるに越したことはない。例え集まった春度が微々たる物だったとしても、百合子の能力と併用すれば素晴らしい効果を上げてくれることだろう。

 早朝から作り続けたびらの一枚を手に取って眺める。でかでかと書かれた『春度の回収にご協力下さい』の文字と連絡先(俺の部屋)、大見出しには春を彷彿とさせる桜と百合子(SD)のイラスト……我ながら本当によく出来たと思う。徒手空拳で大量生産してる時はマジで涙出そうだった。弥生の毛並みで充電してなければ、多分作れたのは五十枚程度だったに違いない。朝っぱらから荒々しい毛並みを提供してくれた弥生にはマジ感謝。


【百合子のやる事三つは?】

「えっと……春告精とは言わない、春っぽい感じがしたらとりあえず何でも回収、びらは手渡し……ですよね?」

【よく出来ました。ご褒美あげる】


 そう書いて、俺は懐からある物を取り出す。見事な弧の形を描いた黄色の髪飾り……力なく垂れた兎の耳は本物と見紛う程の柔毛で覆われており、一目見ただけでその真贋を見破ることは難しい――要するにウサ耳カチューシャだ。昔永遠亭の倉庫を引っ掻き回した時に偶然見つけてそのまま私物にしてたんだが、まさかこうして使う日が来るとは思わなかった。

 実は百合子がこうして永遠亭に居るのは、色々と不味かったりする。ただでさえ俺の周りは人外――いや兎外か――が多く、周りからの目は決していいものではない。直接的な嫌がらせはないにしろ、陰口はもう耳タコだ。父さん母さんや八意先生が居なかったら、問答無用で追い出されてたかもしれない。誰だってそーする、俺もそーする……論理的にも生物学的にも、異端排除は奨励された行為なのだ。

 そんな訳で、百合子には兎妖怪のフリをして貰わないと困る。幸いにもこの事を知ってるのは母さん達だけだし、俺の部屋には誰も近付こうとしないし、友人と呼べる存在も数える程度しかいないし……べ、別に悲しくなんてないんだからねっ!!


「ウサギさ~んウサギさ~ん♪」


 ウサ耳カチューシャを頭につけてやった途端に小躍りし始めやがりましたよ、この妖精幼女さん。やっべ、祝意やっべ。何この超癒し系幼女。そういや生まれてからこんなほのぼの属性ついた奴と出会わなかったからなぁ……拉致って正解だった(犯罪者の言葉)。


【最後に一つ。お前の名前は?】

「リ……百合子です!」

【OK、じゃ作戦開始】

「おー!」


 百合子は片手を上げて満面の笑みでやる気をアピールしてくれる。士気は高い……いや、一人だけなんだけどね。それでも無いよりはマシだ。少人数で仕事をこなす場合、全てはやる気が物を言うのだ。意気揚々といった感じで廊下を走って行く百合子の後ろ姿を眺めながら、俺はそんな事を思った。

 しかしその前に……と、チラリと足元に目をやる。そこにはたれパンダのごとくぐったりとしたレイセンさん……こんな精神衛生上よろしくない物を放置しておくほど、俺は非情じゃない。急いては事を仕損じると言うし、とりあえずコレをどこかに預けてから春度集めを始めよう。

 レイセンさんに近付いて担ぎ上げると、心なしさっきより顔色が悪くなっていたように思えたが、無視した。




















 霧葉がその部屋を選んだのは、ただ単に近くて行き着けの部屋だったからである。いや、もしかすれば少しだけ駄弁ろうという思惑もあったのかもしれない。しかし部屋の障子を開け、部屋に鎮座している物体を見て、彼はピクリと眉を動かした。

 一対の瞳が向ける視線の先には布団が一つ――こんもりと盛り上がった山が一つ。現在の時刻は巳の刻――午前十時頃。この部屋の主の姿はどこにも見えない。これらの事から推測されることはただ一つ……勿論それに気が付かない霧葉ではない。彼でなくても、布団が目に付いた時点で全てを察するだろう。

 さて、ではどうするか……霧葉は少女を担ぎながら考える。何故か一月ほど前の事――ドカポンで数回に亘り殺された事――が思い出された。目を閉じる事数秒……一人何度か頷くと、鈴仙を横抱きに抱え――。


  ―――どすん!

「ぐえっ!」


 尻から布団に落とした。中で丸まっていた輝夜によって、程好く衝撃緩和されたお陰か、鈴仙が目を覚ます様子は無い。霧葉は踵を返し、何事も無かったかのように部屋を出ようとしたが……丁度廊下に出ようとした時、後ろから声を掛けられた。


「……貴方私に何か怨みでもあるの?」


 霧葉が振り返ると、痛みで顔を歪めた輝夜が布団から這い出てきた。寝起きという事もあって着崩れた身体――所々から覗く白い肌は、流れるような黒の長髪と相まって何とも扇情的な光景だった――を一瞥し、静かに一筆。


【微妙】

「……」


 その二文字を見て、思わず輝夜の頬がひくついた。それが先程の問いの答えなのか、それとも彼女の身体に対する感想なのか……どちらにせよ失礼なのに変わりはない。もし後者だった暁には、待宵弾幕にご招待されていた事だったろう。

 輝夜はじっと霧葉の顔を見詰めるも、その内心は読めないでいた。ただでさえFPS系統のゲームをクリアしかけて消したり、聖帝に即死コンボを喰らわせたり、ゴールマス寸前でぱろぷんてを使うような兎である。今何を考えているのかなんて分かるはずもなかった。

 しかしやられたのは事実。永遠亭の真の主でもある輝夜――霧葉は知らない――に狼藉を働き、暴言を吐き、澄ました顔で佇んでいるのもまた事実。四つん這いの状態で近付いた輝夜は、青筋を浮かべたまま霧葉の頬を引っ張った。


「こんな絶世の美女を捕まえておいて微妙はないでしょ、微妙は」

【微妙】

「……ひらつかせるのは止めなさい」


 思ったよりも良く伸びる霧葉の頬……それは誰しもが羨む様な柔らかさを保っていた。その年齢からすれば当然のことかもしれないが、下手すれば自分よりも滑々の肌に軽く嫉妬し、輝夜の指先に更なる力が入る。


【痛ぇ】

「自業自得よ……ていうか何か獣臭いわね、貴方」

【姫さんは汗臭い】

「……人の体臭を嗅ぐな」


 両サイドからぐにーっという効果音が付きそうなぐらい引っ張る輝夜。彼女の顔が少し赤いのは、羞恥心と怒気による体温上昇の結果である。誰だって体臭を嗅がれるのは嫌だ。そういったフェティシズムを持つ一部の人間でもない限り、身体の臭いを嗅がれて嬉しがることはまずないだろう。

 もういっそ殺そうかと本気で考え始めた輝夜だったが、それよりも良い考えが頭に浮かんだ。形の良い口元がニヤリと邪な笑みに変化する。霧葉がビクリと反応するが、逃げる術はない。心の中で目の前の友人を罵倒するものの、一向に訪れない変化に少しだけ首を傾げる。その分の痛みが頬にきた。自分の迂闊さを呪う霧葉だった。


「……あら?」


 霧葉に次いで輝夜も首を傾げる。先程とは打って変わって真面目な表情だ。更に二、三度頬を引っ張るが、その度に双方の眉間の皺が増えて行く。片方は痛みで、もう片方は何故奇異の目で見ないのかという疑問で……引っ張る回数が二桁に入った時、輝夜はようやくその手を離した。

 真赤になった両頬を押さえる霧葉。仕草だけを取り上げれば可愛らしいの一言に尽きるが、残念ながらその身に纏う空気は不相応なものだった。抽象的に言うと黒い。具体的に言えば目に怒りが篭っている。しかしそんな些細なことも気にせず、輝夜は一つ問うた。


「痛かった?」

【痛かった】

「どれくらい?」

【姫さんが絶世の美女って言うぐらい】

「……」


 輝夜は無言のまま青筋を浮かべて再び霧葉の頬を抓ったが、今度はアッサリと手を離した。先程と比べると随分手緩い折檻に、霧葉は訝しげな視線を向ける。しかしそれも数秒のこと、小脇に抱えていた紙束からびらを一枚手渡した。輝夜は黙ってそれを受け取り、目を通し始める……読む内容は意外と少なく、半眼で霧葉を見詰めて口を開いた。


「残念だけど、この部屋に春度なんてないわよ」

『……』


 それを聞くと、霧葉は軽く会釈をして輝夜に背を向けた。赤く腫れた両頬も気にした様子も無く、その足取りもまた軽いものだった。

 霧葉の後姿を眺めながらも、輝夜はため息を吐く……少し熱くなり過ぎた。更なる疑問も湧いてしまった。それが好奇心からくるものだとはいえ、一度抱いてしまった疑問というのはそう簡単に無視することも出来ない。彼女は悪戯に能力を使ったことを後悔した。

 ふと自分の膝元に一枚の紙が落ちているのに気付いた。びらとはまた違ったその紙には、彼女も見覚えがあった。障子の方に目をやれば霧葉が此方を向いて立っている。輝夜は渋々、その一文を黙読した。


【痛かった(精神的な意味で)】

「……いちいち書き足さなくていいわよ!」


 弾幕ではなく、枕を投げた彼女を褒めてあげたい。




















 兎妖怪に扮した百合子こと、リリーホワイトはご機嫌だった。両手で抱えたびら束が零れないのが不思議なほど、彼女の小さな両足は軽やかなステップを刻む……常日頃から空を飛んで移動する妖精にしては珍しいことだった。

 それもそのはず、何せこれは『お仕事』なのだ。生まれて初めて、他の人からお願いされた『お仕事』……成功を収める為にも自然とやる気が出てくるのは、やはり『初めて』という事が大きな起因となっている所為だろう。誰しも『最初』は大成を収めようと孤軍奮闘するはずだ。

 彼女の場合、その『やる気』に加え、霧葉に対し若干の恩義も感じていた。弱った自分を介抱してくれて(自作自演)、汚れた服の代わりを貸してくれて(恩の押し売り)、食事だけでなくお風呂まで入れてくれた(恩着せがましいバーゲンセール)……少しばかり事実が捻じ曲がっているが、そこは妖精独自の超前向きな思考回路(ポジティブシンキング)。世の中知らない方が良い事もあるのだ。

 客観的に見れば、霧葉のやったことは『恩の押し付けによる労働力の確保』……悪徳商売もいいとこだ。しかし、不思議な事に双方の目的は見事に一致していた。霧葉は春が来なくて困っている。リリーホワイトも――春の息吹を感じたはずなのに――春が見付からなくて困っている。結果、このびら配りも最終的には彼女の利益に繋がる……霧葉がそこまで考えていたのかは不明だが、彼女も不満を抱いていない。むしろ率先して引き受けてくれた程である。

 何時もとは違った形で春を告げる春告精。それが余程新鮮なのか、周りに振りまく笑顔もまた一段と眩しいものと化していた。


「春度のかいしゅーにー、ご協力下さーい♪」


 少しだけ舌足らずなその声もまた、聞く者の心を鷲摑みにする。外見とは裏腹に腹黒い者が多い兎妖怪達――又は妖怪兎達――でさえも、思わず庇護してしまいそうな振る舞いを続けるリリーホワイト。擦れ違う永遠亭の住人達は皆その眩しさに目を細め、何時の間にか握らされているびらに気付く……ある意味彼女にとって、この仕事は天職とも言えただろう。

 だから皆気付かなかった――否、気付こうとしなかった。普段の物とは少しだけ違う格好とはいえ、彼女の背に付いた羽根と、兎とは異なる耳が一対……誰がどう見ても、その正体は分かりきったものであった。

 勿論気付いた者も居た。総隊長こと因幡てゐと、実質永遠亭を取り仕切っている八意永琳の二人だ。彼女の正体に気付いていながらびらの隅に書かれた連絡先を一瞥すると、両者はため息と共に異口同音でこう答えた。


「「霧葉なら仕方ない」」


 侮蔑か呆れの意味合いを含んだそれは、もはや一種の呪文と言っても過言ではない。彼が奇妙奇天烈な行動に出るのは何時ものこと。見たところ実害も大して無さそうだというのが、二人の結論だった。

 しかしその考えは甘いと言わざるを得ない。彼女達が目にしたのはあくまでリリーホワイトの方だけであり、霧葉が今現在どんな状況でいるかなどと、予測することは不可能だった。誰だって、彼が死屍累々たる場所で死体――彼の臭気で気絶した兎――の顔の上に、びらをそっと置いているなんて想像することは出来なかっただろう。

 片や幸せを振りまき、片や災いを振りまく――対照的な二人の春度集めは、昼を挟んで午後まで続いた。




















 現在俺の目の前にあるのは、枕、日傘、肩掛け、灯火、盆栽、火鉢、笛、黄ばんだ竹の葉……とにかく統一感の掴めない日用品が多数置かれていた。この内のほとんどが百合子の功績によるものだと思うと、軽く凹んだ。てか何で死体しかなかったのか不思議で仕方ない。だって行く先行く先に死体が転がってるんだぞ? 最初は近くの部屋に寝かしてやってたけど、その人数が二桁を上回ったところで放置プレイする事にしますた。俺は悪くない。多分。

 ため息を吐いて、盆栽を目の高さまで持ち上げて眺め……た先には、やけに目を輝かせた幼女が一人。何だ? 褒めろってか? 凄いでしょー褒めて褒めてとでも言いたいのか? 上等だ、いい度胸じゃねぇか。俺は盆栽を畳の上に置き、一筆書いて手を伸ばした。


【マジありがとう】

「♪ えへへ~♪」


 トーストに乗っけたバターみたいに緩んだ表情を浮かべる百合子。そんな嬉しそうな顔をされるとこっちまで嬉しくなる。そういや『昔』も、よくこうやって下二人の頭を撫でたよなぁ……そう考えると、何か感慨深いものを感じる。前世と現世の袂は当の昔に断っているものの、やっぱり懐かしむ程度には『昔』に思いを馳せてもいいかもしれない。

 と、俺が柔らかな髪の手触りを楽しみながらセンチメンタルな気分に浸ろうとしていると、何か明らかに場違いな物が目に入った。歪な形をした半透明の容器に、絶対着色料入れてるだろうって感じの有毒色な液体。そして片手程度の大きさがあるトリガー状の噴出口――ぶっちゃけ霧吹きだ。

 思わず百合子を撫でる手も止まる。ちょっと不服そうな顔で此方を見上げるものの、俺が霧吹きを手に取った途端に再び表情を輝かせた。


「あ、それは確か……えーっと『しょーしゅーざい』って言ってました!」

【消臭剤?】

「はい。何でも弥生さんの臭いが周りには不快なんだそうです。それで、それを使って部屋の周りだけでいいから臭いを消してちょうだい……って言われました」

【八意先生に?】

「? えっと……銀髪の綺麗なお姉さんにです」


 OK、その口調と外見は間違いなく八意先生だな。知らず知らずの内に、また迷惑をかけてしまっていたようである。ツケの合計金額を見るのが非常に恐ろしい。

 下らない事を考えつつ、手首――というか裾を鼻先に持ってくる。口を閉じて肺一杯まで息を吸い込むと……ふむ、確かに獣臭い。狼独自の獣臭だ。個人的には大好きな臭いなんだが……やっぱここでは異臭として認知されるんだろう。多数決の世の非情さに、ちょっとばかし泣きたくなった。

 後ろ髪を引かれる思いで霧吹きを服に掛ける。ついでに身体全体にも掛ける。腋に掛ける際、『シュウゥゥゥゥゥゥ……ゾウッ!!』とかやるのも忘れてはならない。森と炎の妖精には何時でも敬意を――これは俺の信念である。

 そんなこんなで一通りふり掛けて、再び鼻に意識を集中すると……あら不思議。服どころか部屋全体が消臭されていた。何この超強力ファブリーズ。流石八意先生、まるでジャムおじさんですね。俺未だにあの人が料理人なのか科学者なのか分かんねぇよ。

 今後末永く御世話になるであろうファブリーズ(仮)を戸棚に仕舞い、改めて集めた物品に向き合う。百合子は俺が何をしていたのかイマイチ分かってなさそうな様子だったが、俺が物品の一つ――笛――を手にして問うと、居住まいを直して答えてくれた。


【ほんじゃ、まずこれの説明からよろしく】

「あ、はい! この笛は――」

「霧葉あああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」

  ―――ッパァン!!


 ……あっはっはっ、何用ざんしょ? KY母さん。そんな急がなくても鬼のような形相しなくても、貴方の息子は逃げませんよ。追い返すけど。あーあ、てかまたそんな力一杯障子開くなんて……壊れたら母さん持ちだからね? 給料からしょっ引かれても……そういや無かったね、給料。

 そんな俺の内心を察しもせず、百合子の泣きそうな表情にも気付こうとせず、ぐわばっとご年配のお爺ちゃんお婆ちゃんなら軽く呼吸困難にさせそうな勢いで俺に抱き付くマイマザー。そのまま顔を擦り付ける辺り、相変わらずちょっと変態入ってる。セクハラで訴えたら勝てるだろうか? いや、でもそんな某巨乳姉妹みたいなことするのは流石に良心が――。


「霧葉ぁ、無事で良かったよぉ……スー……ハァハァ……ハァハァ」


 前言撤回。永遠亭に地下牢とかあったっけ? あー、でも微妙に立場が高い母さんを拘束するのは不味いな。また『大嫌い』とか書いたメモでも見せるか。アレやった時は見てて面白いんだけど、その後回復するまで料理の質がかなり落ちるんだよなぁ……まぁ必要経費って事で我慢しよう。他? 少しぐらい我慢してよ。

 助けて欲しいという意味合いも込めて百合子に視線を向けるが……顔を赤らめてあらぬ方向を見つめていた。チラチラと気付かれないように此方を窺い見る辺りが実に初々しい。分かった、百合子が乙女なのよーく分かった。だからマジ助けて。コアラの赤ん坊みたいにくっ付く母さんを引き剥がしたいのは山々なんだけど、上手く力を加減出来る気がしない。主に怒りとかそういった理由で。


「麻耶ー、そんなに速いとまた霧葉が怒るよー……って遅かったか」


 殺伐としたスレ(部屋)救世主(父さん)がっ! おっとりとしたその性格とは裏腹に、溺愛加減は母さんにも負けないモンスターペアレンツ弐号機がっ! 真人間かと思いきや普通に子供の前で泣き出すマイファーザーがっ! ……言ってて助けてくれんのか不安になってきたな。とりあえず恥とか外聞とかかなぐり捨てて助けを求めてみるテスト。


【ボスケテ】

「まぁまぁ、麻耶も心配だったんだよ。しばらく好きにさせてあげなよ」

【嫌】


 俺に死ねと申したか。てか心配って何が? 永遠亭に居れば安全が保障されるんじゃないの? 人外連れ込んで規則破ろうとしてる俺が言えた義理じゃないけどさ。

 割と洒落にならん怪力ベアバックを喰らいながらも、首を傾げていかにも『何ソレ?』って感じのジェスチャー。ウチの両親には割と好評です。変態的な意味で。


【心配って?】

「今日永遠亭内で、何人かが意識不明になる事件が起きてね……幸い怪我人とかは出なかったみたいなんだけど、麻耶は気が気じゃなくて……」


 その結果がこの変態壱号ですね、分かります。前々から思ってたけど、そろそろ子離れした方がいいんじゃない? 母さん。子離れとまではいかなくとも、せめてもう少し節度ってものを持って欲し……いや、やりたい放題やってる俺が言えたもんじゃねぇッスね。何だかんだ言って、俺も母さん達の息子か。

 感慨深いことを思いつつ視線を少し上げると、父さんの手にある小さめな鍋に視線が止まった。当然ながら疑問が湧く。


【何ソレ?】

「あ、これ誕生日祝いの甘酒。霧葉って確か下戸だったよね?」

「ご免ねー……本当はお団子とか作りたかったんだけど、時間が無くて……」


 ……あー……。

 目を瞑る。ため息を吐く。目頭を押さえて――異常速度で情報処理を開始しようとする思考回路を急停止。頭部に鈍痛――無視。吐き気――抑圧。胸焼け――我慢。思考停止思考停止。深く考えるな、土壺に嵌る。目頭が熱くなる。停止停止停止停止。何時も通りの戯言を返せ。本気にするな。俺は■■■■……■■――だらしねぇな。


「霧葉?」

「霧葉さん?」

「……大丈夫? 顔色が悪いよ?」

『……』


 ちょっと落ち着きかけたところでまたこれだ。あー畜生、何だコレ。マジで洒落にならん。何て言うかアレだ、うん、小っ恥ずかしくて仕方ないんだが間違いない。普段だったら絶対に口にしたくねぇけど……かなり、嬉しい……うっせ、二十数年も生きてきた大の大人が誕生日祝ってもらって嬉し泣きしそうになって何が悪いってんだ畜生。

 正直言って、俺は今まで誕生日を祝ってもらったことなんて一、二回程度しかない。詳しいことは言わんが、バツイチ、再婚、共働き、四人兄弟、年の離れた弟妹……この辺のワードを並べれば大体想像がつくだろう。ちなみに俺個人としては誕生日を祝って貰えなかった事より、友人にその話をしてドン引きされた事の方がショックだった。

 そんな感じで、荒れくれ少年が突然の優しさに弱い様に、専業主婦がタイムセールという言葉に弱い様に、俺もまたこんなサプライズには弱い訳でして――。


【甘酒頂戴】

「あ、うん♪ 麻耶達も飲む?」

「ちょーだーい」

「下さーい」


 俺は自分の涙腺が崩壊する前に、話題を変える事にした。少しずるいかもしれないが、男の泣き顔なんて見せられても余り気持ちの良いものじゃないだろう。それにこの両親二人が相手だと、色々と面倒な事になるのは容易に想像が出来る。それが好意から来るものだっていうのも分かってる。けど――それは■■■■■……。


「はい、霧葉」

【あんがと】


 ……アホらし……。そう結論付けた俺は、感謝の言葉を書いた紙を渡して父さんから甘酒を貰った。酒も飲めないガキがこんな事考えたって時間の無駄でしかないだろう。そんな時はさっさと思考を切り替えた方が利口だ。俺は改めて手元に目をやった。

 愛用の湯呑みに八分目まで注がれた白濁液――サーセン、甘酒。ほのかに湯気が立っているところを見ると、まだ出来立てなんだろう。仕事の合間に作ってくれた事を考えると、胸にぐっと来るものがあった。

 それを手にして特に意味も無く身構える俺。酒に関して言えば、以前かなり痛い目を見ているだけに、この甘酒も油断できない。その時は口に含んだだけで吐き出した為、どこまで強いのかは分からないんだが……安全だと断言するには、あまりに安直というもの。

 ずるずるとのんびり啜るか、一気に呷るか……チラリと嬉しそうに甘酒の入った鍋を囲っている三人に目を向ける。明るい笑顔が妙に眩しく感じられた。改めてドロリとした甘酒に視線を戻した。飲めなかった時の事を考えると、ちょっと口にしただけで返すのは失礼というもの……ならば選択肢はただ一つ。

 俺は一気に、湯呑みを傾けた。




















 妖夢の心境は、複雑なものだった。団子と茶を乗せた盆を手に縁を歩む。これから自分の主へと凶報を伝えなければならないと考えると、更に気が滅入った。

 白玉楼に巨大な檻が降ってきたのが昨日――その後檻を切ろうと何度も刀を振るったが、信じられない事に傷一つ入らなかったのだ。妖夢はチラリと己が手を見る。鉄でも鋼でもない、ただの竹で出来た檻……不思議な事に、手応えはあった。確かに切ったはずであった。長年の経験からしても、あの檻は疾うに原型を失っているはずだった。

 数時間に亘り刀を振り続け、我を忘れかけた所で主の幽々子に咎められた。その時の気分は……筆舌に尽くし難いものがあった。一晩置いて、改めて昨日の自分を恥じる。

 せめて……と、昨晩は幽々子の部屋に散らばっていた屋根の残骸を片付けたり、寝具の準備を行ったりと、出来る限りの配慮はしたつもりだ。今日とて、幽々子の友人に何とかしてもらうよう、頼みに行って来たのだ。しかしその返答は――。


「……まさか冬眠中だとは……」


 会う、会わない以前の問題だった。思わず彼女の口からため息が漏れる。ついでにこんな事を自分の主人に言っていいものかと逡巡した。結論――押し付けよう、私は知らない。


「失礼します」

「……」


 悪徳政治家と同じような事を考えつつも、礼儀は弁えている妖夢。廊下で一度座して襖を開け、静々と部屋に鎮座した檻へと近付く。丁度檻の中央で瞑目していた幽々子は、彼女が近付くとその目を開いた。


「どうだった?」

「あの方の――何でしたっけ? 使い魔?――手下みたいなのに『しばらくは起きそうにないので、そっちで対処してくれ』と言われました」

「やっぱりねぇ……」


 妖夢の凶報に然して驚いた様子を見せず、幽々子は檻の外に置かれた団子に手を伸ばす。昨日までの怒りようはは何処へやら、その顔に浮かべる表情は何とも呑気なものだった。


「……『やっぱり』じゃなくてですね……どうしましょうか? 本当に」

「そうよねぇ……妖夢なら、これ持てるかしら?」

「無理ですよ。こんな重いもの持てる訳ないじゃないですか」

「じゃあ切って♪」

「うっ……」

「冗談よ」


 気まずそうな妖夢を横目にズズ……っと湯呑みを傾ける幽々子。彼女の手にあった団子は、何時の間にか()と化して皿の上に打ち棄てられていた。吐息を一つ。幽々子は静かに考えていた。

 幻想郷において、人外が異変を起こすことはもはや義務と言っていい。異変を起こせば巫女が出る――人間の少女に、こんな大層なものは作れないだろう。檻だけが空から落ちてくるというのも、討伐にしては妙な話だ。捕まえておいて、一日以上放置しているというのもおかしい。

 檻に関しても不思議な点が多い。しかし妖夢の刀ですら切れない――手応えはあるらしいが――となれば、何らかの力が作用しているのだと容易に想像がつく。そんな力を持っている者は幻想郷に掃いて捨てるほどいるが……『竹が取れる場所』という条件で絞れば、犯人など見つけたも同然だろう。

 幽々子は茶を啜る。感情が面に出ないよう、茶を啜る。緑茶特有の渋味をしっかり堪能し、幽々子は満面の笑みを妖夢へ向けた。


「ねぇ妖夢。明日も『お使い』頼めるかしら?」




















 輝夜は自分の手を眺めながらぐるぐると回っていた。正確に言えば、診察用の椅子に座ってぐるぐるとその場で回っていた。勿論、彼女にとってそんな行動に意味はない。ただ何となく、回りたくなっただけだった。

 回る度に艶やかな黒髪が靡き、着物が煽られて白い素肌が覗く……しかしそんな光景も、一時間近くやられてしまっては色気も何も感じなくなってしまうだろう。唯一の観客――永琳に至っては既に眼中に入れず、一人黙々と書類整理に勤しんでいた。


「永琳、あの子変よ、絶対変よ」

「はいはい、そうですね」


 通算五十七回目となるその言葉に、永琳は気付かれないようにため息を吐いた。どたどたと可憐さとは無縁の音を立てながら部屋に入ってきてから、ずっとのこの調子だ。見方によっては恋煩いをしているかのように見えるが、実際はそんな粋なものではない。

 能力が効かなかった――ただその事実にショックを受けているだけである。


「ねー永琳、本当にあの子の能力って前に聞いたのであってる? イナバが調べただけで、本人から聞いた訳じゃないんでしょ?」

「直接聞いても、要領を得ない答えしか返ってきませんよ」

「……そうよねぇ……」


 ぐるぐるぐるぐる……回りながら輝夜は考える。

 あの時――自分が霧葉の頬を抓った時――確かに能力を使って、体感時間にして一時間程(・・・・)痛みを味あわせた。その後何度か試したが、一度も効いた様子はなかった。最期の方など、やけくそに年単位で体感時間を増やしたが、やはり無駄だった。

 永遠と須臾を操る程度の能力――それは一瞬を永久に、永久を一瞬へと変える程度の能力。その力を揮えば生花は枯れず、幼芽は枯れ木へと成長する。人間という種族には過ぎた力……体感時間を増やすだけに止めたのは、人間としての優しさだろうか。


「姫」

「んー?」

「友人である分には構いませんが、追いかけるのは止めて下さいよ?」

「……分かってるわよ」


 何時か自分が言った言葉を、そっくりそのまま返される。一瞬でも『そうなった後』が頭に浮かんでしまい、輝夜は不快感で顔を歪めた。報告で聞いている霧葉の能力を考えると、それもありえなくはない未来なのだ。

 輝夜は一つため息を吐く。その報告が耳に入った時は、ヤンデレの妹に死ぬほど愛されて夜も眠れなくなった兄になった心境だった。何時DeadEndを迎えてもおかしくない状況だと聞かされ、流石の輝夜も始めは警戒していたのだが……報告から早数ヶ月。変化は未だ、訪れない。


「はぁ……本当、何なのかしらねあの子……」

「よく分からないというのが現状ですね。というか、ただでさえ不安定で危ないんですから、こっちからちょっかいかけないで下さい」

「大丈夫よ。弾幕に異常に弱いんでしょ? いざとなったら私の弾幕で……」

「その後はしばらく水だけになりそうですね。姫だけ」

「……」


 それがあったか……などと呟いて、輝夜は軽く頭を抱えた。ある意味永遠亭の実権を握っていると言っても過言ではない二人組みの内、約一名の憎いあんちくしょうが頭に思い浮かんだ――やけにいい笑顔で親指を地球へと突き下ろしていたので、妹紅並に殺意が湧いた。

 永琳は陰湿なオーラを出す輝夜を一瞥し、卓上の隅に置かれていた紙を手に取った。数ヶ月前に鈴仙から受け取った報告書……能力の項目に書かれている言葉の最後に(仮)と付け足すと、永琳は何事も無かったかのように次の書類に取り掛かった。

 妙な沈黙がその場を支配する。ぐるぐるきいきいと輝夜の乗っている椅子が音を立て、かつかつかりかりと黒鉛が紙の上を走る。既に五十回以上続いた『間』……永久ループとは、げにも恐ろしい。

 輝夜が五十八回目になる言葉を吐こうと口を開いた瞬間、遠くでガゴンッ……と、何やら硬い物をぶつけたような音が鳴った。半ば反射的に、音のしたと思われる方向へ顔を向ける両名。一呼吸分の間が開き、断続的に鐘声に似たその音が続く。それに乗って聞こえてくる『一家の声』……。


  ―――霧葉のえっち!! 変態!! 色情狂!!

  ―――ちょっ、麻耶待って!! それ以上は駄目だって!! 霧葉痙攣してるよ!!

  ―――ひっ! おっ、落ち着いて下さい!! 大丈夫ですから! 私は大丈夫ですから!!


 ……余りにも下らない会話の内容に、二人は思わずため息を吐きたくなる衝動に駆られた。今鐘声を響かせているのが変だ危険だ言っていた少年なのは、容易に想像がついた。だからこそ逆に呆れてしまう。危険視すべきなのか、それとも放っておくべきなのか……また疑問点が増えてしまった。

 早々と難しく考える事を破棄した輝夜は、麻耶の一言を反芻した。


「えっち……あの子がねぇ……」

「……本当に気をつけて下さいよ?」

「……分かってるわ」


 すかさず忠告を入れるも、生返事で返される。再び忠言を吐こうとする永琳だったが、廊下から響いてくる騒がしい足音に気付き、素直に薬品の準備を始めた。










 卓上の隅に置かれた報告書――霧葉の能力の項には、ただ一文だけこう書かれていた。

 縁を結ぶ程度の能力……と。










霧葉:♂
獣臭いのが割と好きな変態二歳児。最近筆談を使うようになった。甘酒を飲むとえっち(死語)になるらしい。

リリーホワイト:幼女
何時もの服は洗濯中なので微妙に衣装が違う春告精。ウサ耳装備。霧葉に何かされかけたらしい。

弥生:雌
空気。霧葉を食べたくて仕方ない御年頃。最近発情期なのか珍しく感情を露にしていた。

那由他:漢
エアーマン。その能力からさとり並に苦労してるらしい。悲鳴とか聞き慣れてる。

雪掻きシャベル:豚
本作の真の主人公。元々は寡黙な竹であったが、霧葉に妬まれてシャベルに改造される。何時か本作を乗っ取ろうとしていたが、夢半ばにして他界した。最期の言葉は期せずして、かの偉人――ハート様と同じものだった。拳法殺しと呼ばれた豚紳士の事を、私達は決して忘れてはならない。




[4143] 第十八話 ジャンプしても金なんか出ないッス
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:55ccebaf
Date: 2009/11/18 11:11



 彼女は突然現れた。何もない泥だらけの平地に、巨大な太刀を携えて現れた。

 白髪で幽霊を伴い、切れ目の双眸をこちらへと向ける少女。その身に纏う空気は、世辞にも友好的なものとは言えない。下手に刺激すればどうなるか、少女が携えた抜き身の太刀が雄弁に語っていた。

 当然というか何というか、事前に気配を察知できた私以外の三人――いや、三匹か?――は、突然現れた少女を目の前に呆然としていた。誰しも何の前触れもなく人間が現れたらこのような反応を返すだろう。

 キリは鍬を振り上げたまま硬直し、ナユタは毛繕いをしている最中だったのか、招き猫のような格好で固まっていた。リリーに至っては現状が良く分かっていないのか、軽く首を傾げている。

 昨日と打って変わっての晴天の下、凍り付いた現状を打ち破ったのは、他ならぬ白髪の少女だった。


「この春度の多さ……春告精が居るだけじゃないようね」


 呟き、リリーを一瞥すると唯一人型となっているキリに視線を移した。少女はおもむろに太刀の切っ先を突きつけ、挑むように口を切る。


「丁度良い、貴方の持っているなけなしの春を全て頂くわ!」


 啖呵を切ったのはいいが、私たちを無視して唖であるキリに言葉を投げかけるとは少しばかり抜けているとしか思えない。いきなり切っ先を突きつけるのもどうかしている。博麗の巫女の真似だろうか? あの巫女は妖怪が視界に入れば、それがどんなに強大な妖怪であろうとぶちのめすと聞いた。比喩ではなく、本当に再起不能にまで陥った妖怪もいるらしい。私自身、実際に巫女をこの目で見た事はないのだが、例え巫女が般若の能面を付けて帯刀していたとしても私は驚かないだろう。

 閑話休題。白髪の少女の啖呵に対して言葉を返したのは、意外にもキリより早く我に返ったナユタだった。


「あー……すまない。意味が分からぬ」

「斬れば分かっ!!」


 がんっと、何とも痛々しい音が響いた。少女の身体が宙を舞う。次いで投げつけられた鍬も宙を舞う……刃の部分が当たらなかったのは僥倖と言わざるを得ないだろう。

 鍬を投擲した張本人に視線を向ければ、何時も通りの能面を貼り付けて威風堂々と佇んでいた。しかしその面の下に若干の怒りを感じ取る事が出来れば、例えナユタでなくともキリの言いたい事は理解出来るだろう。


『土壌を踏み荒らすな』


 運の悪いことに、白髪の少女が降り立ったのは畑の中心部だった。




















東方狂想曲

第十八話 ジャンプしても金なんか出ないッス




















 主は加減というものを知らないのだろうか。いや、後先考えずに鍬を投げたあたり、最近の鬱憤が堪っていたのかもしれない。それとも白髪少女の強奪発言がそこまで頭に来たのか……もしくは全てか。私はちらりと、気絶した少女を弥生の上に乗せている主を盗み見た。前後の行動に脈絡が全くないのは、何時ものことだ。

 確か昨夜、母君から異常なまでの叱咤を受けたと聞いた。頭に巻かれた真新しい包帯が、その激しさを雄弁に物語っている。まぁ――こう言っては失礼だが――親馬鹿なあの母君をそこまで怒らせる主も主だ。しかし自業自得ではあるものの、精神疲労が溜まるのも事実である。それが白髪少女の発言で爆発したというのならば、全ての事に合点が行く。ふむ、筋が通った道理ほど気持ちの良いものはないな。

 あと主、うつ伏せがいいか仰向けがいいかで悩むな。ぐるぐる回される少女の身にもなってみろ。顔色が凄い事になってるぞ。


「のう、キリ」

『ん?』

「妾は枕ではないのじゃが……」

『抱き枕じゃん。何か問題でも?』


 いや、あるだろう。思わずそう口走ってしまいそうになったが、寸前の所で耐えた。どうせ弥生に主の声は聞こえていまい。それに冗談とも本気ともつかぬ主の言葉だ。伝えたら伝えたで、弥生はまたいらぬ考えを巡らせては空回りするに違いない。何とも面倒な奴だ。

 ため息と共に、弥生の近くにある二刀の太刀に視線を移した。白髪少女が所持していた物だが、寝かせるのに邪魔になると、主の鍬と一緒に立てかけられている。

 漆塗りの大小二刀の太刀――双方の長さに違いはあるものの、鞘に施された趣向はそういった物に疎い私から見ても一目で良質なものだと理解できる。しかし、どうにも腑に落ちない。小さい方はどうあれ、大きい方は軽く一丈はある。何故あの少女はこのような長物を使っていたのだろうか。いや、そもそも何故あのような少女が帯刀しているのだろうか。


「待てー♪」


 身形からして物取りなどといった俗物的な身分でもあるまい。私は主の所為で一層顔色が悪くなった白髪少女を盗み見た。着ている服が傷んでいる様子もなく、その白髪もよく手入れされたものだ。それに頭に結ばれた黒いリボン……飾り気がない訳でもなさそうだ。少なくとも未だ女は捨てていまい。


『おっ、百合子何だそれ!?』

「待て待てー♪」


 ここが迷いの竹林だという事を念頭に置けば、筍狩りか兎狩りに来たという選択肢も視野に入れなければならない。季節的に見て前者は少し早すぎる気がする。後者の場合にしても、果たしてこうも無防備に晒しておいて本当にいいのだろうかという疑問が芽生える。せめて縄の一本でもくれてやるべきではないのだろうか。


『とりゃっ!』

「あっ! 惜しい!」

『……ふっ、お前が泥だらけにして無事だったのは、俺が初めてだぜ』

「大丈夫ですかー?」


 そういえば『なけなしの春を頂く』などと言っていたな。そう考えると、先程の考えは撤回すべきなのかもしれない。筍は夏、兎は冬……春か。春の気配が感じられる物といえば、昨日主達が集めたというガラクタの品々の事を指しているのかもしれない。一応全て持って来てはいるものの、本当に効果があるのかは甚だ疑問だ。


『ぅおらっ、サイコクラッシャー!!』

「おぉー……!!」

「んっ」

「っ!?」


 少女の突然の身動ぎに対し、思わず臨戦態勢を取る……が、それ以上の動きはない。反射的に動いてしまった私が馬鹿みたいだ。ほうとため息を吐き居住まいを直すと、何やら嫌な視線を感じ取れた。白い鞠――何処で手に入れたのかは知らないが――を手に遊ぶ主と春告精を無視すれば、視線の持ち主は簡単に絞られる。

 弥生だ。

 弥生はさも可笑しいとでも言わんばかりに両目を細め、その顔に何とも嫌らしい笑みを張り付かせていた。狼という外見も相まって非常に恐ろしい。恐らく、人間の子供が見たら心に一生物の傷を負うことになるだろう……春告精がこちらを向いていなくて本当に良かった。


「……何が可笑しい」

「いや何、随分と過敏に反応するんじゃなあ。猫というものは」

「咄嗟に動けずして主を守れるか?」

「妾なら守れる」

「ほぅ……」


 ピキリと、眉間に皺が刻まれるのが分かった。犬畜生風情が、中々にして面白い事を抜かす事もあったものだ。よくもまぁそんな妄言を豪語出来るな。相手の動きを見てから動く? 馬鹿も休み休み言え。そんな悠長な真似していられるか。

 あえて言葉にはせず、視線でそう語る。似たような皮肉が無言の――私には雄弁に語りかけてくるが――圧力となって返ってくる。言葉として聞こえる分、こちらの方が不利かと思えるかもしれないが、感受性が異常に高い弥生の事だ。私の視線を受けて何も感じないという事はないだろう。


『なんつーか……雪見大福みたいだな、これ』

「わっ、冷や冷やしてますねー」

『……食えんのかな?』


 どうやら重苦しい空気に感化されたのは、弥生だけではなかったようだ。弥生の上に寝かされた白髪少女もまた、少しずつ顔色が悪くなっている。しかしだからといって、この勝負を止める理由にはならない。

 そう、これは勝負なのだ。直接的な勝負ではないにしろ、意地の張り合いという意味合いから見れば、れっきとした勝負なのだ。

 弥生に白髪少女が乗っている所為で弾幕ごっこは出来そうにない。直接手を出すのは言語道断、主が黙って見ているわけがない。だからこその睨み合いだ。どちらが先に手を出すか、どちらが先に視線を逸らすか……勝敗の決し方として、これほどまで簡潔なものもそうないだろう。


『いただきまーす』

「あっ」


 瞬間、世界が弾けた。




















 そりゃびっくりしたさ。何てったって本当に大きな音だったからね。ありゃ人間の出す声じゃないよ、マジで……等とどこぞの番組の締めみたく第三者視点で語れればどれだけ良かった事か。現在進行形で耳鳴りと戦う俺は、きっとこの絶叫を作った原因なんだろう。多分。恐らく。

 ちらりと発生源に目を向ければ、親の敵でも見るような目で睨み付ける少女が一人。付近にいた那由他と弥生に至っては、白目剥いて痙攣している。まぁあれだけの大音量を至近距離で喰らえば、そりゃ失神もするわな。正直な話、結構な距離に居た俺もキツイ。耳が良過ぎるってのも考え物だ。


「あっ、歯形ついちゃいましたよ?」

『……百合子は復活早ぇなぁ……』


 まぁ妖精だし、きっと聴力とかも人間並なんだろうなぁ。今だけはその平々凡々な五感が羨ましい。じたばたともがく手中の巨大雪見大福(仮)をがっしりと掴みつつそう思う。あ、確かに歯形ついてら。普通に食う勢いで噛んだからなぁ。

 無名少女の方も少女の方で、何かと忙しそうだ。ばたばたとしながら服装の乱れのチェック、次いで周囲を見回して状況確認。自分の太刀を発見し、一足飛びで入手&装備。締めと言わんばかりに金属特有の甲高い音を響かせながらの抜刀……切っ先は勿論、俺らに向けられている。


「きっ、貴様っ!! 今すぐ『私』を放せ!」

「私?」

『Me?』


 私? 私って何だ? 振り向かない事さ。宇宙刑事のテーマは無駄に熱いから困る。無名少女もその熱に当てられたのだろうか、鋭い視線を飛ばしてくる割にやけに顔が赤い。ツンデレ少女ってこういう表情良くするよなと、何とも間の抜けた考えが浮かんだ。閑話休題。

 首を傾げる百合子を横目に眺め、無名少女に視線を戻す。表情に変わりなし――ハズレ。

 手元の巨大雪見(略)に一度目を向けてから再び無名少女に視線を戻す。視線に込められる怒気が二割増しになった気がする――暫定。

 少しばかり冷えるが、巨大(略)を胸に掻き抱いてみる。無名少女の顔色RGBの内、Rの値がグンと跳ね上がった――確定。

 なるほどと、したり顔――上手く出来てるか知らんが――で一度だけ頷き、大人しく巨(略)を解放してやった。ジャージ一枚で雪と等温の物を、そう長時間抱いてもいられんしね。

 妖怪の腕という名の束縛を脱したk(略)の行動は速かった。無名少女までまっしぐら……まるでドライブシュートだ。無名少女に当たらなかったのは、きっと(略)なりの優しさだろう。アレを素手で受け止めたら、手がどうなるか分かったもんじゃない。てか俺としては絶対死人が出てると思うんだ、あの漫画。

 私(?)が戻って来て少しだけ機嫌が良くなったのか、無名少女の頬にも緩みが出た。あ、今気付いたけど、もしかしてアレ幽霊か。


『幽霊が目視出来るってのも、不思議なもんだなぁ』


 自分の事を棚に上げて呟く。それを言うのなら、畑仕事に精を出す妖怪はどうなんだろうか。人間味が溢れているというか、実に俗物的と言うか、変人と言うか……とにかく変わってる。まぁ俺は元人間だから仕方ないんだけど……俺が来る前から耕作をしていたとなると、やっぱり変だ。

 無名少女の後ろで意識を回復しつつある那由他と弥生に目をやる。片方は糞野郎との約束で、片方は真剣勝負で負けたから、こうして兎の下で働いている――妖怪。変だ。

 隣で無名少女を眺めていた百合子を横目で眺める。本来ならこんな畑に留まったりせずに、春を告げる為に幻想郷中を飛び回るはずの妖精。やっぱり変だ。

 纏う空気にほんの少しだけ喜色を滲み出している無名少女を見据える。身の丈に合わない長刀と、その周りを漂う怖さの欠片もない幽霊。どう考えても変だ。

 変な事、不思議な事が幻想郷での常識だとすれば、前世に学んできた物事は全て非常識だというのだろうか。いや、そうとも言い切れまい。ただ単に俺自身目にしていない、知らない物事が多過ぎる故にそう感じるだけなのかもしれない。


「どうかしましたか?」

『んにゃ、俺って割と無知だったんだなぁと……』


 百合子に問われて咄嗟に返事を返す。口に出してから声の事に気付くのは何時もの事だ。言葉代わりにと、百合子の頭を軽く撫でてやる。しかし『軽く』とはいえ、自分と大差ない身長の相手を撫でるのだ。自然と上を見上げる形となってしまうのは致し方ない事だろう。どうやら俺は自分が思ってた以上にチビだったらしい。


『ふむ……意外な発見』

「っ、くすぐったいですよ~」


 ついでだ。百合子の髪は、弥生の体毛より柔らかかった事をここに明記しよう。




















 何なんだろうか、この兎は。それが妖夢の率直な感想だった。

 いきなり鍬を投げつけて人を昏倒させ、半霊の身体に噛み付き、それを盾にして脅すかと思いきやあっさりと解放し、何気なく傍らに佇んでいたリリーホワイトを撫でる……行動に一貫性がまるでない。敵意丸出しの妖夢も何処吹く風で、逆に肩透かしを食らってしまった。

 何か魂胆があるのだろうかと訝しげな表情を浮かべるものの、一番付き合いの長い那由他でさえ理解できない思考回路だ。初対面の彼女が霧葉の思惑を理解できるはずもない。ただ一つだけ分かることと言えば――。


「……闘争の空気ではないな」

「そうだな」

「っ!?」


 背後という思わぬ場所から返された返事に対し、妖夢は反射的に刀を振るった。虚空を斬る長刀――楼観剣。咄嗟の行動故の踏み込みの甘さ、猫という対象の大きさを考えれば、空振りという結果が出る理由としては十分過ぎる。咄嗟に姿勢を低くして正解だったと、那由他は思わず安堵のため息を吐いた。

 一方霧葉とリリーホワイトの姿を目の当たりにした弥生は、泣いていた。


「まぁそういきり立つな。私を尻尾なしにする気か?」

「お望みとあらば」

「構えるな構えるな、闘争の空気ではないと言っただろう」

「……」


 妖夢は音を立てずに太刀を仕舞うものの、その目に込められた敵意だけは隠そうともしなかった。思わずげんなりとした表情を浮かべる那由他。目は口ほどに物を言うのだ。

 しかし一方的且つ理不尽な『言葉』の制裁をただ黙って聞いているほど、那由他は甘くない。彼女の『声』を止める為にも、那由他は口を切った。

 一方弥生は鍬を持って霧葉達に特攻していた。


「こんな辺鄙な場所に何の用だ? 先に断っておくが、兎狩りなんてふざけた答えは却下だ」

「それは"ついで"の用事だ。要件はまた別にある」

「何だ?」

「……檻が降ってきた」

「……は?」


 思わず間の抜けた言葉が那由他の口から零れ落ちた。一瞬の後、那由他の脳裏に浮かんだのは、霧葉が作製した巨大な檻だった。リリーホワイトを捕獲する為だけに作ったそれを、作成者本人が空高く投げ飛ばしたのはまだ記憶に新しい。

 那由他は想像した。あの巨大な檻が自身に降ってくる瞬間を――一歩間違えば万鈞の重みで呆気なく押し潰されてしまう瞬間を想像してしまい、背筋が寒くなるのがよく分かった。あの時は落ちた時の事など気にも留めなかったが、成程、想像すればする程霧葉の仕出かした事の大きさが実感できた。さあっと音を立てて血の気が引く気がした。

 突拍子もない事を言われて呆然としているのだろうと勘違いしたのか、妖夢は一つため息を吐くと、付け足すように言葉を吐き出した。

 一方霧葉はリリーホワイトと一緒に追い回されていた。


「檻だ。人間ならば大人数人は楽に入るような巨大な檻が、屋敷の屋根を突き破って落ちてきたのだ。幸いな事に幽々子様――私の主人だが――は怪我こそ負わなかったものの、その檻の所為で出歩く事が出来ずにいる」

「それは僥倖だな。一歩間違えたら死んでもおかしくなかった。お前の主は、まさに九死に一生を得た訳だ」


 平静を装うための軽口……那由他は薄く笑ったが、妖夢は笑わなかった。ただ少しだけ眼光が鋭くなったのを、那由他は敏感に感じ取っていた。笑い飛ばせる話ではない――目がそう語っていた。

 煙に巻く自体は可能、しかし逃げ切る事は出来ない。その素振りを見せれば、再び妖夢の白刃が青空の下に晒される事だろう。同じ従者だからこそ、那由他には妖夢の気持ちがよく分かった。鼈よろしく、一度噛み付いたら放しそうにないのも分かっていた。それでも煙幕は大きいに越した事はないのだ。

 一方霧葉は鍬の白刃取りに成功していた。


「それで、ここには何をしに来た? 種蒔きすらしていない畑など、見てもつまらないだけだろうに」

「……檻は竹を編んで作られていた。幻想郷で竹の取れる場所はここしかない。となれば、犯人はここにいると考えるのが定石――」


 後は言わなくても分かるだろう? ――目が語る。頑で生真面目なその性格……まるで彼女が持っている得物のようだと、那由他は思った。だからといって、自分の主人を傷付けていい訳ではない。

 那由他はそっと目を伏せた。思い描くのは主の事――普段から本気なのか冗談なのか区別のつかない言動を繰り返しては自爆して、那由他達を心配させる兎妖怪の事だ。不思議を通り越して摩訶不思議ではあるものの、主である事に変わりはない。どうしてこんな奴が……確かに、そう思う時は今でもある。しかし。

 吐息、渋面のまま顔を上げた。思い出したのは最悪の一夜、軽口しか叩かない口が吐き出した言葉。信じるならば応えてやらなければならない。それが従者としての義務であり誇りである。面倒臭い反面、嬉しいと思っている辺り、そろそろ毒され始めてきたなと那由他は自嘲した。

 怪訝そうな表情を浮かべる妖夢。愚直な太刀筋を防げる程、那由他は自身を過信していない。だが防げないなら往なせばいい。霧葉に当たらぬ程度に往なせばいい。那由他の腹は決まった。


「檻を作るよう指示したのは、私だ」

「……何?」


 一方霧葉は人生で初めての修羅場を体験していた。




















『僧になりてぇ……』


 何と無しに無茶な事を言ってみる。しかしながら悟りという境地なら既に達している気がしないでもない。禁欲、恪勤、菜食……生活態度だけを見るなら、俺も立派な修行僧だろう。少なくとも、生まれてこの方恋色沙汰とは無縁の道を歩んできたはずだ。俺自身はそう思っていた。

 半ば呆れた目で眼前の幼女二人を見遣る。片や僧衣を身に纏い、努めて無表情でこちらを見詰める狼幼女。片や母さんの白ワンピを身に纏い、頬をほんのりと赤めながらこちらを見詰める春告精。双方共に、浮かべる表情に違いこそあるが、きっとその内心はイコールで結ばれる事だろう。

 即ち、俺が一番好きなのは誰なのか。

 ……何で俺はこんなラブコメディータッチな空間に居るんだろうと、俺は痛み始めた頭を抱えた。ついでに腹も痛くなってきた。救いを求めて幼女二人の後方に待機していた那由他に視線を向けるものの、那由他は那由他で白髪少女とよろしくやっていて使い物になりそうになかった。

 しかし時折『下僕』とか『使える』とか『何……だと?』とか言う言葉が聞こえるんだが……大丈夫だよな? こっちみたいに剣呑な空気作ったりしてないよな? 俺は那由他を信じているぞ。


「して、誰なんじゃ?」

「誰なんですか?」

『……いや、ホント勘弁して下さい。ジャンプしても金なんか出ないッス』


 ズイっといきなり迫られた所為か、反射的にそっぽを向いてしまった。悪手だと分かってたが、それでも彼女達の顔は直視出来なかった。何て言うか怖かった。普段はあんなにも大人しい二人が、どうしてこんな威圧感を醸し出せるのか甚だ疑問だった。

 弥生が俺の傍にいるのは真剣勝負に負けたからだろうし、百合子も檻から出してくれたという恩義故だ。どちらも俺がマッチポンプしただけあって、恨みこそすれ好かれるとは思えなかった。

 第一、百合子とはまだ出会って三日しか経っていない。確かに"昔"には、出会って開始十分でベッドインする腐れたシステムもあったが、生憎とそういうのはこちらにない。あっても困るが……閑話休題。ついでに、たった三日間でスピード攻略出来るほどの技量は俺にない。


「霧葉さん……昨日のアレは、冗談だったんですか……?」

「なっ!? キリ、一体何をしたんじゃ!?」


 俺が知りてぇよ……口に出すのも億劫だった。何せ思い出そうとすると、頭の傷口が広がるような錯覚を覚えるのだ。純愛少女を具現化したかのような百合子を見て、昨夜何かがあったのは間違いないかもしれないが、その時の記憶がないだけに責任を取りたいとは思わない。てかどうせ責任を取るなら、オイシイ思いをしてから取りたいというのが本音だった。

 これ以上の混乱の拡大を防ぐ為にも、俺が決定打となる一言を言わなきゃならないんだろう。しかし下手に答えを出すとそのままルート確定して、俺のこの先の人生が薔薇色の鎖で雁字搦めにされそうな気がしてならない。

 ぎゃーぎゃー騒ぐ弥生ともじもじと答えを待っている百合子を無視し、俺は空を見上げた。昨日と打って変わって、雲一つない青空が広がっていた。俺の心はこの澄み渡る空のようにブルーだった。

 ポケットに手を突っ込み、メモ帳を取り出し、鉛筆を握る。騒がしかった弥生の喧騒がピタリと止まった。

 静寂――答えはどこかにある……自分自身に聞いてみた。一筆、見慣れた筆跡が白紙に刻まれる。現状を打破するに当たっては十分過ぎる答えであり、そして俺の本心でもあった。


【俺は那由他が好きだ】


 二人は満面の笑みを浮かべた。仏様の笑みと言うより、仏像の笑みに近かった。鉛筆とメモ帳を放り投げ、回れ右をすると同時に逃げ出す……無理だった。地面を蹴る前に襟首を掴まれていた。ぐるりと反転する視界。あ、これはと、思わず背中に嫌な汗が流れた。


「リリー、キリの両足を持て」

「あ、はい。こうですか?」

「そうじゃ。いっせーので落とすぞ」


 悪魔二人の会話が聞こえた。これからどうなるのか、想像するのも恐ろしかった。だが、それでも俺は正直に生きたかった……生きたかったんだよ!(遺言)




















 那由他の突然の告白に、妖夢は困惑した。よりにもよってこんな小さな猫が主犯だとは思わなかった。一番最初に彼らを目にした時は、唯一の人型の妖獣であった霧葉を問い詰めて犯人を見つけるつもりだった。

 しかし当然の事ながら、那由他の言葉を鵜呑みに出来るほど妖夢は彼を信じてはいない。妖夢は表情を硬くし、那由他の挙動一つ一つまで見て取れるよう目を光らせた。


「何故そうも簡単に口を割る? 何を考えている」

「なに、まさか赤の他人に被害が出るとは思わなかったからな。こちらに非があれば謝るのが当然だろう?」

「それはそうだが……それなら何の為にあの檻を作った? あの大きさは、そう簡単に作れる物じゃなかったぞ」

「そうか? 霧葉――お前に鍬を投げた私の下僕だが――に言えば、たったの三日で作ってくれる」

「使える下僕なのはよく分かったが、質問の答えにはなってないな」

「何の為だと?」


 那由他――薄く笑った。その内心は出任せだけで何処まで行けるだろうかという不安で一杯だった。それでも上辺を取り繕い、騙し切らなければならない――霧葉に害が及ばぬよう、妄言を吐き続けなければならない。


「知れたこと。春を得る為に決まっているだろう」

「――っ!」


 妖夢の顔に動揺の色が走る。曖昧に濁された答えだったが、彼女の精神に波紋を投ずるのには十分過ぎる答えだった。

 何処まで知っている? 何故知っている? 知っていながらの行為なのか? 問い詰めたい衝動に駆られた。後に『春雪異変』と呼ばれる今回の異変……未だ巫女が動き始めていない今、誰一人として犯人像を特定するのは不可能なはずだった。では何故知っている? 堂々巡りの思考回路に、那由他は追い討ちをかけた。


「私が何も知らないと、本当に思っていたのか?」

「なっ!?」


 思わせ振りな笑みを浮かべての言葉は、いとも簡単に妖夢から平常心を奪い去った。動揺が表面化し、思わず刀の柄に手を掛ける。那由他もこれ以上の挑発は不味いと思ったのか、そこで口を噤んだ。

 那由他としては、どうしてそこまで露骨に動揺するのかが分からなかった。ただ妖夢の負い目らしきものに付け込み、霧葉から意識を逸らす事だけに専念した。正しい答えは一つ――それも"春を得る為"と曖昧に濁したが――しか口にしていない。それ以外は全てはったりだ。

 静寂――果し合いにも似た空気を漂わせる二人。断ち切ったのは那由他だった。


「して、どうする? 謝罪を要求するなら平伏しよう。痛めつけたいと言うのなら享受しよう。しかし命を奪うのだけは止めて欲しい」

「……何?」

「こう見えて妻子持ちだからな。一家の大黒柱として、あいつ等に苦労はさせたくない」


 よくもまあそんな大嘘を吐けるものだ。少しだけ空を仰いでいる辺り、青空に自分の妄想でも画いているのかもしれない。もしくは、自分が言っている事の痛さに耐えられなくなったか……若干の憂いを帯びた那由他の表情は、そのどちらとも取れるから厄介である。

 真実を知っている者にとっては大根芝居。しかしこの場において、その真実を知る者は一人としていない。生真面目な性格の妖夢にとって、那由他の言葉は重かった。


「それじゃあ、春を得る為というのは……」

「無論、作物の為だ。このままでは不作になるのは火を見るより明らかだからな」

「うっ……」


 妖夢劣勢。那由他の"妻子持ち"という妄言は、予想以上の効果があった。思わず那由他から視線を逸らす。先程と一変して、何とも微妙な空気が場を支配した。

 妖夢とて、趣味で春度を集めている訳ではなかった。主人である幽々子からの命令に従い、ただ無心で春度を集めていたに過ぎない。春が遅れる事によって引き起こされる二次災害なんて、考えた事もなかった。恐らく檻が飛んでこなければ、こうして現地の声を聞く事もなかっただろう。

 確かに今回の異変の元凶は幽々子だが、異変の一端を担う妖夢にも負い目はある。しかしだからといって、那由他の強攻を許す訳にもいかなかった。現に、最後に妖夢が見た幽々子は、怒り心頭のように思えた。『犯人は見つけました。でもあちらにもこれこれこういう事情があったので連れて来れませんでした』では、部下として示しがつかない。

 吐息。結局の所、那由他を連れて行って直接謝らせるしかないだろう。何せ今の妖夢に裁判権はない。その上、彼女の『お使い』の内容は、あくまで"犯人を連れて来る事"なのだ。その後の事は……今は考えたくなかった。

 那由他を見遣る。妻子持ちの化け猫――妖夢に出来ることと言えば、幽々子がその命を奪わない事を祈るぐらいだろう。


「……御同行、願えるか?」

「承知した」


 先に妖夢が飛び、それに那由他が続く。別れ際に声でも掛けようかと、上空からちらりと畑の方を見た那由他は、そこに建っていた奇怪なオブジェに思わずげんなりとした表情を浮かべた。


「どうかしたか?」

「いや……何でもない」


 ハイジャックパイルドライバーはどうかと思うぞ、二人共――那由他は誰にも聞こえない程小さな声で、そう呟いた。




















 空を見上げる。雲一つない真青な空と、その中で異色を放つ二つの影……構図的に寒々しいと思うのは、私の気のせいではないだろう。


「行っちゃいましたねぇ……」

「そうじゃな……」


 リリーの言葉に生返事を返しつつ、私は背後の物体に目を向けた。私とリリーの初共同作品は、何とも奇抜な物体となってそこに突き刺さっている。傍目から見れば、皆口を揃えてこう言うだろう。

 畑から身体が生えている。

 ……正直これはやりすぎたかと思ったが、キリが私達の乙女心を踏み躙ったのも事実……これ位の罰は許容して欲しいものだ。私自身、使用注意と言われた残虐技を、教えて貰った本人に使う事になるとは思ってもみなかったがな。

 手持ち無沙汰に霧葉の足をくすぐる。意識があるのかないのかは微妙な所だが、時折ぴくぴくと動いてるところを見ると死んではなさそうだ。そう簡単にくたばるとも思っていない。弾幕ごっこという弱点を除けば、キリは異常なほどタフだ。タフで奇抜で真面目で……馬鹿だ。

 私はくすりと、小さく微笑んだ。くすぐる手も止めずに、そのままキリの裸足に語りかける。


「どうするんじゃ? キリ。ぬしの姫君は連れ去られてしまったぞい」

「どっちかと言うと、自分からついて行った感じがしましたよ?」

「ほほう、率先してか。キリも終に愛想を尽かされたのではないか?」


 本人が気絶してるのを良い事に、二人揃って好き勝手抜かす。リリーの口から棘のある言葉が出てきたのは意外だったが、キリの行動を顧みればそれも致し方ない事だろう。嘘でないだけに、余計に性質が悪いというものだ。

 そう、本心だ。

 あの時キリは、一片の迷いもなくナユタの名を挙げた。私達二人の内どちらかでもなく、永遠亭に住まう誰でもない。キリが選んだのは、一番付き合いが長くて気が置けない化け猫……あの二匹の間に恋愛感情があるとは思いたくないが、それを抜きにしたって少しだけ嫉妬してしまう。しかし。

 所詮は"現状"だ。これからなら幾らでも追い越すことが出来る。抱き枕程度には認知されているのならば、少なくとも嫌われている訳ではないだろう。ならば十分追いつける。ならば十分追い越せる。根拠のない自信、それでも最初から諦めているよりかは数段ましだ。

 空を見上げる――二つの影はもう見えない。後に残ったのはキリと私とリリー、そして身を刺すような冷風だけ。一陣の風が通り過ぎ、リリーは此方を振り返るとぽつりと言葉を零した。


「これからどうしますか?」

「さてな、とりあえずキリの判断に任せるとしよう。まあ、どうせ答えなど決まり切っているがの」


 再びキリの足をくすぐると、今度はびくんと大きく跳ねた。それがキリなりの答え方のようにも感じてしまい、私は堰を切ったように笑い出した。










霧葉 状態:犬神家
どんな物事にも真面目に取り組むが、真面目に考える事はしない主人公。非常にタフ。

那由他 状態:身代わり
減少しつつあったカリスマ分を少しだけ取り戻した準主人公。弾幕ごっこと話術に長ける。

弥生 状態:魅惑
段々と恋する乙女に変わりつつある準主人公。無駄の無いステータスを誇る。

百合子 状態:天然
癒し系キャラクターのはずだったが、補助にも回れる事が発覚。上手くやれば連携技に持ち込める。



[4143] 第十九話 すっ、すまねぇな、ベジータ……
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:58cad237
Date: 2010/01/28 16:40



 殺される――その人物を目に納めた瞬間、私は冗談抜きで死を覚悟した。

 妖夢殿――白髪で帯刀していた少女――の後を追っていた時も、妙だと首を傾げる場所は多々あった。ある場所を通り過ぎた辺りから、虫や鳥や獣をよく見かけるようになったというのに、その鳴き声が一切しなかった。もしや、いやまさかと、降って湧いた疑問を打ち消してはいたものの、その思いは桜が群生した広大な庭に着いて確信へと変わった……変わってしまった。

 白玉楼。冥界に位置するその屋敷は、本来ならば死後でなければ見る事も叶わぬもの。私自身この場所の事について詳しい訳ではないが、少なくとも生き身のまま訪れる場所ではないだろう。

 そしてこの目の前の人物だ。優雅な物腰、その身に纏う高貴な着物、そして……死臭。死体の腐敗臭とはまた違う、死の臭い。いや、臭いと言うより空気と表現したほうが適切か……何にせよ、嫌な空気である事に変わりはない。私と彼女の間にある竹の隔壁が、今の私にとって唯一の救いだった。

 ……もっとも、それが無ければ私がここまで来る事も無かったのだが……。


「貴方、名前は?」

「っ!」


 びくりと身体が震える。のほほんと湯のみを傾けながらの問いかけ。その声には殺気も怒気も含まれていないが、それが逆に恐怖心を煽った。それは純粋な問いなのか、それとも何かしらの他意があるのか、今の彼女からは汲み取れなかった。

 一呼吸置いて気を静める。敬語を使うべきかどうか一瞬だけ悩んだが、下手に口調を変えては襤褸が出る可能性があったため、結局は何時も通りの口調で口を切った。


「那由他だ。姓はまだない」

「ナユタ……漢字は命数のそれでいいのかしら?」

「ああ、恐らくそれで相違ない」

「那由他、那由他ねぇ……良い名前じゃない。仏様の寿命を測る物差しに使われた命数なんてね」

「そう……なのか?」


 思わず聞き返した。普段から主や弥生に呼ばれているその名前が、まさかそこまで深い意味を持っているなんて知りもしなかった。主と出会って、まだ間もない頃にその事を聞いても、主は『馬鹿みたいにデカい数の単位だ』としか返してはくれなかった。もしかすると、主は願掛けとして私にその名前を授けたのだろうか。短命だと分かり切っている自身が、少しでも長生き出来るように、少しでも私が主の助けになるように――。

 と、唐突に主の顔――私から見た主のイメージ――が脳裏に浮かんだ。机の上に訳の分からない構図を広げたまま弥生に凭れ掛かった主は、無表情の顔を私に向けて『馬鹿じゃねぇの?』と、声だけで私の意見を一笑した。まったく違和感を感じなかったのが少しだけ癪に障った。

 失笑。弥生の名前も直感で付けた主の事だ、本当に数の単位としてしか見ていなかったんだろう。主らしいと言えば主らしい。


「少なくとも、私の名付け親にそういった思惑があったとは思えないがな」

「名付け親って誰かしら?」

「私の主でな、霧葉とい……」


 私の失言を嘲笑うかのように、虹色の蝶が私の周りを揺蕩った。










東方狂想曲

第十九話 すっ、すまねぇな、ベジータ……










 空を飛ぶという行為――私はあまり好きではなかった。大空という場所の中で独りぽつんと滞空する……真青な空が圧し掛かってきそうで、清浄な空気に押し潰されそうで、孤独感に苛まれそうで……胸糞が悪くなる。キリに頼まれでもしなければ、自ら空を飛ぼうとはしなかっただろう。

 しかしそれも過去の事。一度飛んでみるとこれが中々に面白い。長い間地面の上を歩む生活をしていた所為か、重力という束縛から逃れた私はまるで水を得た魚のように空を飛び回った。宙返り飛行、錐揉み上昇、そして旋回下降。久しく忘れていたこの感覚――初めて空を飛んだ時の新鮮味――を思い出させてくれたキリには、本当に感謝しきれない。

 私はにんまりと笑うと、腕の中で意識を飛ばしているキリに視線を向けた。数十分前まではナユタを助けに行こうと意気込んでいたというのに、空を飛んで行くと聞くと急に尻込みしだし、私がキリの手を取って空を飛べばこの有様だ。完璧超人と言っても過言ではないキリに、こんな弱点があったとは知らなかったが、これはこれで好意が持てる。

 何せ起きない。持ち方を変えても飛び方を変えても、抱えられたキリは一向に起きる気配がなかった。キリの睡眠時間が極度に短いのは周知の事実。それ故私達がキリの寝顔を見た事は殆どないと言っていい。私の機嫌がいいのは、むしろこの寝顔のお陰なのかもしれない。

 ずいっとキリの顔を近付ける。顔と顔が合わさる距離まで近付けるが、瞼は一向に動く気配がなかった。

 しかしこうして見ると本当に雌雄の区別がつき難い。黒曜石を閉じ込めた瞼。特別高くも低くもない、形の良い鼻。細い輪郭でありながら柔らかな頬。卵のようにつるんとした額と、そこにかぶさる烏の濡れ羽……それなりに端正なその顔立ちは、力なく垂れ下がった四肢と相まって、本物の人形のようにも感じられる。

 だが……。


「やっ、弥生さん! 速いです! まだ速いです!!」

「おお。遅かったのお、リリー」


 思考を打ち切り、不意に掛けられた声に軽口を返す。何と無しに振り向けば、顔を真っ赤にしたリリーがいた。吐く息も荒く、私の速度に合わせようとしてかなり無理したのがよく分かる。


「そっ、そういう事は……はぁはぁ……っちゃんと本人の、許可……っはぁ」

「……分かった、リリー。分かったからひとまず息を整えよ。そのまま喋るのも辛かろう」


 息を切らしながら真っ赤な顔で喋るリリーは、少しだけ鬼気迫るものがあった。普段笑顔な者ほど怒ると怖いとは良く聞くが、まさかリリーにも当てはまるとは思わなかった。

 しかし『そういう事』と言われても今一ピンとこないのだが……と、今の体勢を客観的に見て考えてみると、直ぐに答えに行き当たった。思わず顔に笑みが浮かぶ。純情なリリーの事だ。大方意識のないキリに、私が『そういう事』をしようとしていたとでも思っているのだろう……まあ吝かではないがな。


「そう堅いことを言うでない。こういった機会はそうそうあるものではないぞ?」

「なっ!?」


 リリーの息が整うのを見計らい、冗談交じりにそう言い放つ。腕の中のキリを近付けて熱く抱擁するのも忘れない。正直な話、意識のないキリを抱き締めた所で食欲がそそられるだけで楽しくも何ともないのだが、リリーの大げさな反応は大いに楽しめる。からかう対象として、リリーほどの逸材はそう居ないだろう。

 予想通りと言うか何と言うか、リリーは目に見えて狼狽してくれた。先程までの勢いは何処へやら、その顔に焦りの表情を貼り付けて口を開く。リリーの文句が飛ぶ前に、私は先制を期した。


「でっ、でもっ」

「それにこうして私に身を任せてくれているんじゃ、キリ自身に"そういった思惑"が無いとも言えぬのではないか?」

「っ!?」


 途端に顔を真赤に染めるリリー……実に初々しい。少し叩くだけでよく響いてくれる。私やナユタではこんな反応は返せないだろう。叩いても響くどころか、煙幕のごとく埃が舞い出るに違いない。純心無垢なリリーが少しだけ羨ましかった。

 もういいだろうと思い、私は頬を緩めた。これ以上からかって変にへそを曲げられても困るのだ。何せ彼女はキリが捕獲した獲物。私の一時の楽しみで逃がしてしまったと知れれば、流石のキリも激怒するだろう。


「ふふっ、冗談じゃよ」

「っ~!! もうっ、弥生さん!?」


 リリーは真赤に染まった両頬を膨らましながら、ポカポカと私の背中を叩く。全力でやっているのであろうが、全然痛くない。むしろ肩叩きされているようでもあり、非常に心地良いとさえ感じられた。そんな自分の感覚に、少しだけ驚く。半世紀以上の時を生きていたというのに、こんな感覚に陥ったのは初めてだった。

 キリを落とさぬよう注意を払いながらリリーの手から逃れる。ハッとなって急いで追いかけてくる気配を背中で感じつつ、私は空を仰いだ。

 牙を使わない生活も、案外悪くはない。










「霧葉、霧葉ねぇ……?」


 幽々子はさも可笑しそうに扇子で口元を隠し、くすくすと笑みを零した。那由他との間は竹の壁で阻まれているが、その迫力は一片たりとも損なわれることは無かった。彼女にしてみれば自然体そのもののそれであるが、初めて彼女を前にした那由他には妙な迫力があるように感じられるのだ。そしてそれ以上に、那由他は自分の言葉をどう誤魔化すかで頭が一杯だった。

 霧葉という明確な名前が、主という肩書きと共に露見してしまった今、自分の次の一言で全てが決まってしまう。眼前に佇むのは名も知らぬ女性ではあるが、その身に纏う衣からして、白玉楼の主である事は間違えようがない。そんな彼女に霧葉の事が伝わってしまったとなれば……彼がどうなってしまうか、想像には難くなかった。

 那由他は考える。話術には長けているつもりだった。少なくとも彼自身はそう思っていた。名を褒められてつい霧葉の名前を出してしまったのは、近頃急上昇している忠誠心故なのか……いや、原因はどうでもいい。今はどう誤魔化せるか考えるんだ。……そんな彼の甘い思考も、幽々子の表情を見れば断念せざるをえなかった。

 したり顔――その顔は確信したと語っていた。那由他は舌打ちが漏れそうになるのを必死に堪える。従者は騙せても主人は騙せない、稚拙な自分の話術が忌々しく感じられた。


「妖夢」

「はい」


 スッと、横の襖が開く。二人の為に持ってきたであろう二つの茶碗が乗った盆を傍らに置き、妖夢は軽く頭を下げた。幽々子が何を思って彼女を呼んだのか、あらゆるものと会話出来る程度の能力しか持ち得ない那由他には分からなかった。しかし大方の想像はつく。それも、最悪とも言い換えれる想像ではあるが……。

 静寂の間――襖が開いてからほんの数十秒程度ではあったが、那由他にはそれが何時間にも感じられた――は、幽々子の扇子が閉じられる音と共に終わりを迎える。彼女の口から出たのは、那由他も予想し得なかったものだった。


「お腹空いたわ」

「……は?」


 思わず間の抜けた声が那由他の口から零れ落ちた。答えとしては予想の斜め四十五度上を行く答えだった。呆ける那由他を他所に、二人の会話は続く。


「そういえばそろそろお昼でしたね」

「駄目よ、妖夢。不規則な食生活は身体を壊すわよ?」

「朝から出払っていたので準備には少し時間が掛かると思いますが……」

「なるべく早く頼むわ」

「分かりました。要望か何かはありませんか?」

「そうねぇ……」


 言いよどむと、そこでようやく那由他に視線が向いた。幽々子の瞳に込められたものは那由他には分からなかったが、何故か悪寒が彼の背中を駆け抜けた。それは、かつて狼と対峙した時のものと酷く似ている気がした。


「鍋物がいいわ。そこの猫を使っての……ね」

「分かりました」

「っ!!?」


 那由他は意味を理解した途端、瞬時に立ち上がって脱兎のごとく障子を破り、縁側へと足を運んだ。彼とて伊達に十年以上生きてはいない。逃げ足にはそれなりに自信があった。野生の獣に襲われそうになった事もあったし、飢饉の時は人間に執拗に追われた事もあった。彼が一人立ちして『逃走』というものの大切さを知ったのは、必然的なものだったのだろう。

 このまま跳躍して撒けば、追跡は不可能。幸いな事に白玉楼の敷地は広大で、化猫の那由他が隠れる事が出来る場所は幾らでもあった。隙を見て逃げる事など簡単だろう。那由他の臭いを辿る事が出来る鼻でもあれば話は別だが、勿論妖夢にそんなものは備わっていない。

 行けるっ――意気込んだ那由他が後ろ足に力を入れた瞬間、想像を絶する痛みが彼の身体を襲った。


「ぎにゃっ!?」


 那由他らしからぬ悲鳴が彼の口から漏れた。猫としての地が出てしまっている辺り、その悲痛さが窺える。しかし彼の錆声にそんな言葉が似合うはずもなく、その場に居た二人は総毛立つのを感じた。特に彼の尻尾を逃がすまいと握った妖夢に至っては、顔色が傍らの半霊のごとく蒼白に染まってしまってる。相当なショックを受けているようだった。

 『尻尾を掴む』という慣用句があるように、動物にとって尻尾は弱点の一つである。人間もそうだが、目、鼻、口等、何かと利点になる部位というのは、同時に急所にもなりえるのだ。尻尾を持つことによる利点はその動物によりけりだが、その大半が人間の急所と同じように尻尾を弱点としている。勿論那由他もその例に漏れず、不意の一撃は――普段から事あるごとに霧葉に弄られているとはいえ――流石の那由他も堪えきれるものではなかった。

 部屋の中に何とも言えない微妙な空気が流れた。那由他は未だ妖夢の手の中でひくつき、意識の方も軽く飛んでいるのが見て取れる。


「ほんの冗談だったんだけどねぇ……」


 暗に猫鍋が見たかっただけとは言えず、幽々子は一つため息を零した。










 最悪な目覚めだった。夢の内容も最悪だった上に、弥生の起こし方も最悪だった。相乗効果の結果、精神面物理面の両面からの痛みにより、今現在の俺――ハイブリッド型兎妖怪が完成する事となった。ハイブリッドカーよりも低燃費で働く辺りが特徴だ。接近攻撃にだって応戦出来る。だけど射撃攻撃だけは勘弁な?

 そんなふざけた事を考えて痛みを紛らわそうとするものの、痛みは中々引いてくれなかった。弾幕ごっこの弾や虎挟みと比べれば微々たるものかもしれないが、どちらかと言うと鈍痛に近いので地味に辛い。


『ケツが……痛ぇ』

「大丈夫かのお?」

『……あぁ』


 腰――と言うかむしろ臀部――に手を当てたまま挫折状態の俺を労わる弥生。コイツが痛みを作った元凶だというのは分かっているのだが、精神の方はちょっとだけ癒された気がした。これが飴と鞭ってヤツなんだろうか……ってか俺の方が偉いんじゃなかったっけ? くそぅ、コレが下克上ってヤツか。俺は若干涙目になりつつも弥生を睨むが、当の本人は何処吹く風だ。

 仕方なしにその後ろへと焦点を合わせると否応なく目に留まるでかい扉。今蹲っている場所が階段というのも相まって、目覚めた時は俗に言う『お迎え』が来たのかと思ってしまったほどだ。まぁ、あんな夢――報道規制物――を見たら死にたくもなるわな。

 ポケットから鉛筆とメモ帳を取り出し、蹲ったまま弥生に問う。


【現在地どこ? 川柳で】

「あー……『冥府前 門は開かず 立ち往生』……という感じかのお?」

【把握。七十三点】


 百点満点計算で点数をつけた。即席にしては意外に良い出来な上、返す早さも加点した結果である。……我ながら川柳はどうかと思ったが、ちゃんと返してくれて若干嬉しかったのは秘密だ。

 ……って冥府?


【死因は? 事故? 他殺?】

「いや、皆まだ生きとるよ。ナユタの臭いも途切れとらん」

【でも冥府って】

「キリは何を言っておるんじゃ? 冥府なぞ空を飛べれば誰でも行けるぞ?」


 やれやれこれだから最近のガキンチョは……とでも言いたげに、何やら大仰にため息を吐く弥生。古風なその喋り方も相まって、年齢とプライドだけがやけに高いツンデレ老人みたいだった。母さんですら三桁いってるのだから、実質弥生は四桁ぐらい余裕でいってるのかもしれない。

 てかちょっと待ってくれ。空を飛べれば冥府に行けるとか、どんだけ緩い世界なんだよここ。日本冥府へはいかなる場所からでも飛行機で一律一時間で到着します……ってか? 航空会社はお盆の季節が書き入れ時だろうな。直接自分のご先祖様に会いに行けるなら、墓参りどころか墓石を立てたり葬式を挙げたりする事もなくなって、それに反比例して死体廃棄所みたいな所が増えていくんだろう。うわぁ……退廃的過ぎて、流石の俺も引くわぁ……。

 痛む尻を押さえつつ立ち上がり、周りを見回した。巨大な扉と、一直線にそこへ伸びる階段以外は雲のようなもので覆われ、視野は御世辞にも良いとは言えない。しかし下が見えないのは正直助かった。何せここが高度何百メートルなのか、想像するだけで身震いがする。……この階段急に崩れたりしねぇよな?


「時にキリ、力に自信はあったかのお?」


 俺が安全確認の為にガシガシと足場を蹴りつけていると、弥生からそんな事を問われた。急に何を言っているんだと思い、弥生の方に目を遣ると、その視線が扉へと注がれているのに気付く。そして扉の紐を百合子が必死に引っ張っているのを見て、弥生の言わんとする事を理解した。


【押し戸?】

「押し戸じゃ」

【百合子は?】

「知らぬよ。しかし春告精としての感覚が叫ぶのか、キリが起きる前からずっとああしておる。妖精ごときに開けられる代物ではないんじゃがなあ……」


 弥生は三日月のごとく曲げた口元を隠し、くくくっと咽喉を鳴らして笑った。何処と無く百合子を小馬鹿にしているように見えたのは錯覚ではないだろう。まぁ弱肉強食が当然の世界で育った弥生からしてみれば、無駄骨を折る百合子の行為は理解できないものなのかもしれない。しかし。


『ていっ』

「っ!? っ~~!!!」


 ちょっとだけ本気になってのでこぴん。弥生は余裕綽々の表情を一変させ、額を押さえてその場に蹲った。声にならない声を上げるが、それぐらいの痛みは耐えて欲しい。


『無駄の何が悪い?』


 聞こえないのをいい事に、ぼそりと呟く。弥生の言葉は事実であり、客観的に見ればその主張こそが正論なのだろうが……何と言うか、気に食わない。全ての物事から無駄を排除するのは当然の行為かもしれないが、無駄のない物事が本当に楽しいとは思えなかった。理解は出来るが、納得は出来ない――まぁ、そんな感じだ。我ながら随分と自分勝手な意見だと思う。

 しかし、曲がりなりにも俺は那由他と弥生の上に立つ存在だ。普段から手綱を締めている訳ではないのだから、これくらいの我侭は許容して欲しい。それに頭ごなしに全否定している訳ではないのだ。少しだけ考えを変えてくれればそれで十分過ぎる。

 吐息――思考回路を切り替える。扉の前でへばっている百合子を目に収め、次いで扉の全体を眺めた。押し戸で、巨大。一瞬だけ某暗殺一族の『試しの門』が頭に浮かんだが、あながち間違いではあるまい。しかもこっちは四の扉まで直結してる状態だ。キルア以上の筋力が無ければ開きそうにない。


『えーっと、確か一の扉が四トンだから……四、八、十六、三十二……三十二トンですよ、奥さん』


 指折りしながら昔の知識を思い出す。今なら更に八トンの鉛もおまけして、ジャスト四十トンでお値段変わらず……ってか? 何処の通販番組だよ。まぁ鉄で出来てない分、幾らなんでも十トン以上って事は無いだろうが……一トンぐらいは覚悟しておこう。

 ポキポキと指を鳴らしながら扉の前に立つ。人間の守衛さんが四トンの扉を開けられたんだ。妖怪の俺が出来なくてどうする? 自身を鼓舞し、扉に手を掛ける。力を入れる瞬間、この先が冥府だという事に気付いたが、次いで頭に浮かんできた那由他の姿を見て、それもどうでもよくなった。


『……まったく、猫一匹助けられなくて何が『主』だってんだよ』


 冥府の門は、俺が思っていた以上に軽かった。










 とっとっとっとっと、軽快なリズムと共に野菜が刻まれる。均等に切り分けられた野菜は包丁に掬い上げられると、全て隣の鍋の中へと消えていった。もわりとむせ返るような湯気が立ち上ると共に、醤油独特の甘い香りが漂う。食欲をそそる香りだったが、野菜を入れた人物はそれに後ろ髪引かれる事無く蓋をする。そしてその場でしゃがみ込み、竈から赤々と燃える薪を三本程度取ると、飯炊き用の隣の竈へと移した。

 無駄の無いその姿を見て、妖夢はほうと感心したように吐息を吐いた。


「手馴れているな」

「……所詮は見様見真似だ」


 煮物を作っていた少年――那由他は、疲れたように言葉を返した。黒い丹前という出で立ちと、白黒茶色の三色で彩られた猫の耳と尾がなければ、彼の主人である霧葉と見紛いかねない程見事な――変化だった。

 一体自分は何をやっているんだろうか……使った包丁を束子で洗いながら那由他は思った。主人の代わりに成り済まそうとして失言し、命の危機が迫ったと思えば気を失い、目覚めてみれば何時の間にか食事の手伝いをさせられている。幸い卯月に入った辺りから人型には化けれるようになってはいたが、まさかこんな所で役に立つとは思わなかった。料理に関しても、休耕の頃毎日のように霧葉に連れて行かれた調理場での光景をなぞっていたに過ぎないのだ。

 軽く振るうことによって、包丁に付いた水滴を飛ばす。主人と瓜二つな顔が磨かれた包丁に映った。それが自身のものだと気付き、舌打ちが漏れそうになるのを堪えて静かに開口した。


「私を食べぬのか?」

「……食べられたいのか?」

「いや、勿論御免被るが……」


 何時になく歯切れが悪いのは、思考が纏まりきっていない所為だろう。那由他は言葉の代わりとでも言いたげに洗い終わった包丁を手渡した。妖夢は無言でそれを受け取ると、水に浸けておいた豆腐を手に乗せ、等間隔に刃を入れる。その間那由他は妖夢が担当していた味噌汁の味加減をみた。若干薄めではあったが、濃い口の煮物と合わせるのならばこのままの方がいいと結論付け、一つ妖夢に目を遣るとしたり顔で頷いた……頷いた後で、滞りなく続けていた作業に気付き、那由他はまた吐息を漏らした。

 現状に当惑しつつも身体が動くのは霧葉の所為。手際がいいのも霧葉の所為。那由他が連れて来られたのも霧葉の所為。身内が全ての元凶であり、同時に大切な人物でもあるのだが……彼を危険に晒してしまったのかもしれないという想いが、那由他の心情を複雑なものへと変えていた。

 あの時確かに那由他は生命の危機にあった。相手は冥界の管理人、機嫌を損ねれば自分がどうなっていたのかは想像に難くない。その上、非が自身にある事は傍目から見ても明らかだった。だから自身が全て被ろうと、肩肘を張って『主人』らしい空気を纏おうとしたのだが……それも全て徒労に終わってしまった。たった一回の揺さぶりに、那由他は躓いてしまったのである。

 しかし……と、那由他は団扇を扇ぐのを止めた。目の前の七輪からは煙が立ち昇り、傍らに置いていた塩を切り身全体にまぶすと、ぱちぱちと火の弾ける音と共に香ばしい香りが那由他の鼻を刺激した。


「……何故、私は昼食の準備を?」


 当然と言えば当然の疑問だった。少なくとも那由他が意識を飛ばす直前の記憶では、鍋の具材として煮込まれていてもおかしくない状況だったはずだ。その結果が眼前の鱒の塩焼きともなれば、那由他でなくとも困惑するだろう。


「幽々子様のご命令だ」


 勝手口から両手を前掛けで拭きながら妖夢が出て来る。一通りの仕込みは終わったらしく、那由他の位置からでも膳とそれに乗せられた食器が目に入った。後は主菜が完成するのを待つのみなのだろう。

 気紛れか、暇潰しか……どちらにせよ今の那由他には『話に付き合う』以外の選択肢はなかった。


「『化猫の手料理が食べてみたい』……との事だ」

「お前の主人が考えてる事が、私にはよく分からぬ」

「同感だ。まったく、本当に何を考えておられるのか……」


 そう言うと、妖夢は憂いを帯びた表情で那由他の方を――群生した満開の桜を見遣った。釣られて那由他もそちらへと視線を移し、一つ頷く。


「見事な桜だな、顕界とは雲泥の差だ。死霊にも花を愛でるような精神があるとは、正直驚きだ」

「……皮肉か?」

「事実だ。もっとも、顕界から『春』を取り上げるのはどうかと思うがな」


 侮辱とも取れる那由他の言葉に対し、妖夢は若干顔色を曇らせた。

 従者とは言えども生物である。自らの主人が下した命とはいえ、それに対して迷いや躊躇いが生じるのは仕方のない事なのである。どれだけ自分を殺せるか、どれだけ主人を信じることが出来るのか……従者の価値とはその二つで決まる。未だ半人前という評価を脱しきれない妖夢にしても、今回の『春雪異変』を起こして本当に良かったのかという疑問があった。

 疑問は迷いである。そして迷いのある心は……弱い。人間だろうが妖怪だろうが、心に迷いがあればその者の真価は消え失せてしまう。自分自身で迷いを断ち切る時、ようやく真価が発揮されるのだ。しかし……。

 頭を振って、妖夢は疑問を打ち捨てた。従者の自分が口を挟めるような事ではないと思うことで、疑問を無理矢理押し込めた。それでも内心少しだけわだかまりが残ったのは否めなかった。


「ところで……だ」

「ん?」


 何か言いたそうな口振りの那由他、妖夢は焦点を手前へと戻した。雑談しながらでも焼き続けていたのか、七輪には真新しい切り身が乗せられていた。


「これ、全部焼くのか?」

「? 当然だろう?」


 正気か?――呟きそうになる口を噤み、那由他は深くため息を吐いた。彼の傍らに置かれた調理済みの切り身と塩と……未だ焼き目の「や」の字も付いていない生の切り身の山。普段より菜食小食の霧葉を横から眺めていただけに、眼前のその量には流石の那由他も呆れを隠せなかった。全て焼くのにはもうしばらく時間がかかりそうだ。


「意外と大食漢なのだな……お前の主は」

「……健啖家と言ってくれ」


 どちらも同じ意味だろうとは言わず、那由他は無言で切り身に塩をまぶした。










 トンネルを潜ればそこは雪国だったように、冥府の門を開けてみればそこは桃源郷だったようである。桃の花ではなく桜の花という違いはあるが、どちらもバラ科の植物なので花の形に然して違いはない。

 時折頬を撫でる風は温かく、風が吹く度に桃色の花びらが舞い落ちる。空に浮かんだ太陽からはぽかぽかとした暖かな光が注がれ、地面に横になっているだけで心地よさを与えてくれる。

 百合子は嬉しさを堪えきれずに空を飛びまわり、あの弥生でさえこの情景に心を奪われている。そして俺は……。


『のおおおぉぉぉぉ……』


 痛みに悶えていた。

 ……いやまぁ、ちょっと聞いて下さいよ奥さん。さっき冥府の門開けたじゃないですか。結構アッサリと開いたんで、閉めるのも楽勝だろうと思ったわけです。ほら、小学校とかでも『開けたら閉める』ってのは常識じゃないですか。弥生は『そんな面倒な事しなくてもいい』とかふざけた事抜かしやがったんですが、勿論そんな意見は無視って閉めた訳ですよ。そしたらですね――。

 ――左足が『ひぎぃ!』ってなった。

 そーいやー後遺症があるかもとか言われたよねー等と、呑気な事を思い出しつつも何とか根性で門を閉めて、現在に至るという訳だ。


『すっ、すまねぇな、ベジータ……』


 せっかくなので満身創痍状態のナッパ様の真似をしてみる。体勢的には栽培マンにやられたヤムチャみたいな感じなのだが、そこは個人の好みというものだ。俺も何時か『クンッ!』と指を上に突き出すだけで都市を壊したり出来るんだろうか。でも流石にカービィやアラレちゃんには負けるだろうな。てかアイツらは別格だ。戦闘能力で例えるなら530,000を優に超えてるだろう。フリーザ様もビックリだ。


「……キリ、大事ないか?」


 桜の感動から帰って来たらしい弥生が、心配そうな顔で俺を見下ろした。普段狼の姿しか見ていないだけに、割とレアな表情ではある。しかし残念ながら俺は動物好きなので、どちらかと言えば狼状態で頬を舐めたりしてくれた方が嬉しかったりする。……変態みたいだな、俺。

 地面に寝転んだままポケットから筆談セットを取り出し、返答内容を考える。実際左足の痛みは引きつつあったが、痺れたかのような感覚だけは未だ残っている。歩くのにはもうしばらく掛かるかもしれない。十数秒程思考し、ちょっとふざける事にした。


【俺の事はいい!! それよりも百合子をっ!!】

「っ!?」


 メモ帳の文字を見て、驚愕に目を見開く弥生。荒々しく書かれた文字だけを見れば、切羽詰った感が漂ってくるかもしれないが、そもそも本当に切羽詰っているなら(感嘆符)なんて書いてる暇がない。よって、この返答内容はふざけ半分、本気半分なのである。


【ここは俺に任せろ!! 早く百合子の元へ!!】

「わっ、分かった!」


 分かったらしい。書いといて何だが、俺でも首を傾げるような内容だったんだがなぁ……。

 何を理解したのか――多分百合子のお守りを頼むって所ぐらいだろう――踵を返し、桜吹雪の中を行く弥生。桃色の花びらの中で飛び立つ瞬間、弥生の黒い僧衣と灰褐色の髪がやけに映えた気がした。普通なら目を奪わそうになるその光景に――一瞬だけ散華師の姿が被って見えた。

 吐息。無視った。小春日和の気候が見せた幻影だろうと解釈する。もしくはニューロンの伝達誤差で、一瞬だけ幻覚症状が起きたかのどちらかだ。俺の脳味噌が原因だとすれば、早急に解決しなければならないだろう。

 止めようぜ、幻覚とはいえ弥生を正体不明のハゲ野郎と見間違えるのは。どうせならナッパ様と見間違えてくれよ。この際クリリンでも我慢するからよ。


『……弥生って気円斬とか使えんのかな?』


 一応弾幕ごっこも似たような感じだったし、使えるのかもしれない。今度出来ないって分かった上で言ってみるか。無理難題押し付けたらどんな顔すっかな? オラワクワクしてきたぞ!!

 居ても立っても居られずに右足で地面を蹴り、四点倒立の姿勢――両手両耳を支持点にして行う倒立――を取る。久々に見る逆さまの世界に若干の感動を覚えながら、俺は両手を離した。










 粛々と舞い落ちる桜の花びらを眺めながら、幽々子は静かに湯呑みを傾けた。視界一杯に映る緑色の縞模様が桜本来の美しさを傷付けてはいたが、幸いな事に幽々子の心を占めているものは桜ではなかった。

 霧葉――那由他から聞き出したその名前には聞き覚えがあった。確か……と思い返してみれば、冬眠前の挨拶に来た幽々子の友人――八雲紫――がその名を口にしていた気がする。見ていて飽きが来ない人物だと称して、くすくすと何時もの笑みを浮かべていたはずだ。あの時、自分はどんな反応を返しただろうか。

 思い出せた会話の内容は、本当に取り止めのない話だった。やれ狼を倒した、やれ猫を従えた……その時は然したる興味も湧く事はなかった。むしろ恋人の惚気話を聞かされている気分だった為、ほとんど聞き流していた気がする。ただ最後に――本当に別れ際になって、一つ忠告を受けたのは覚えていた。


「『駄目兎には気をつけて』……ねぇ?」


 幽々子は誰に言うわけでもなく呟き、ため息を吐いた。駄目兎というのが霧葉を指しているという事は紫の話で何となく分かっていたが、最後の言葉の意味までは分からなかった。そのツケが、今正に檻となって幽々子を閉じ込めている。しかし所詮はその程度だろう――幽々子はそう結論付けた。

 霧葉がどれだけ恐ろしい妖怪かは知らないが、生物としての『生』がある以上『死』からは逃れられない。幽々子の能力――死を操る程度の能力――を行使すれば、どうとでもなるだろう。

 紫の話からして、従者が連れ去られたのを知って見捨てるとは思えない。此処を訪れるのも時間の問題だ。仮にも檻を落とした元凶なのだから、処理することも訳ないだろう。その後の事は……気分で決めよう。

 暗澹とした思考を頭の中で思い描きつつも、幽々子の表情には一片の変化も見られない。それも当然の事だった。屋根を壊され、檻に閉じ込められたという怒りならば、その日の内に冷めてしまっている。異変を起こしたのは彼女なのだ。仕返し如きにそう長々と尾を引かせる訳にもいかない。しかし今回の相手は博麗の巫女ではなく、素性も知れない一端の妖怪だ。責任の一つや二つ、負わせた所で何の問題もないだろう。

 思考を切り替え、幽々子は外の桜へと意識を移した。満開の桜の中、一つだけ花を咲かせていない巨木――西行妖――へと視線を向ける。幽々子が春雪異変を起こす原因となったそれを目に収めようとして――。

 へんなものを見つけた。

 真赤な洋服を着ているのはまだいい、当人の趣味だ。その外見が愛らしい子供の姿をしている事も、擬態の一種だと思えば頷ける。己を誇示せんと一直線に伸びた一対の兎の耳も、それが兎の妖怪なのだとすれば何の問題もない。

 ただ一つ問題があるとすれば――それが上下反転して、耳で直立している事だろう。


「……」

「……」


 未確認生物(UMA)――それが幽々子の霧葉に対する第一印象だった。










霧葉:ジャージ(赤)
幽々子にUMA認定された兎妖怪。料理は出来るが大抵毒物が生成される。第十話で負った怪我は本人が思っている以上に重症。空を飛ぶのは大嫌い。

那由他:丹前(黒)
人型に化ける事に成功した化猫。霧葉に化けた所を見ると、何だかんだ言って実力を認めている様子。料理の腕は普通。

弥生:僧衣(黒)
百合子(リリーホワイト)の世話を命じられた狼。自分の想像していた冥界と実際のものに大きな差があり、戸惑いを隠せなかった。料理? なにそれ?

百合子:ワンピース(白)
水を得た魚状態の春告精。第十七話で霧葉に(ヒャッハー!!)されかけたにも関わらず、今回はやけに空気だった。




[4143] 第二十話 那由他ェ……
Name: お爺さん◆97398ed7 ID:0377b081
Date: 2010/07/30 16:15



 少女は叫ぶ。己が使命を全うせんとばかりに声を張り上げ、そこに居るであろう全ての生物にその言葉を投げかける。


「春ですよーーー!!」


 少女の言葉が春風に乗せられる。柔らかな日の光に包まれながら、白い少女――リリーホワイトは満面の笑みを浮かべて空を飛びまわった。その速さは天狗も目を見張るほど……まるで水を得た魚のようである。

 時折放たれる青赤の弾幕は溢れんばかりの彼女の喜びか……その弾幕のお陰で、彼女のお守り役を任された弥生は迂闊に彼女に近付けずに居た。今のリリーホワイトを止めるのは、回転鋸を素手で止めるのに等しい程難しい行為だ。下手に手を出せば自分が撃墜する姿が目に見えるようで、弥生は被害の及ばない場所から彼女を眺めていた。

 美しいと思う。桜の花びら、柔らかな日光、それらを乗せて吹く春風――全てがリリーホワイトという妖精を際立てている。春告精という名は飾りではなく、まさしく彼女の本質を表したものなのだと弥生は思った。

 弥生はため息を吐く。手の平を額に置き、霧葉にやられた場所を軽く撫でる。痛みはとうの昔に引いていたが、霧葉に傷付けられたその部分に触れるだけで彼の姿を思い出せるような気がした。直後、自分がしている事に気付き、弥生は軽く赤面して頭を振った。まるで恋焦がれる少女のようだと思うと、急に気恥ずかしくなってしまう。


「……まったく、乙女と言える歳でもなかろうに……」


 呟き、自嘲する。確かに操は守っていたが、七十過ぎの自分を果たして"乙女"と称していいのか、弥生自身甚だ疑問だった。ふざけ半分で己を"乙女"と称する事はあったし、実際自分が霧葉に焦がれているのは自覚している。だが、どちらも自意識から外れた事はない……はずだった。それがどうだ。知らず知らずの内に"想っている"。空白の時間を"想う事"で塗りつぶしている。挙句の果てが"自身が未通女かどうか"という何とも馬鹿馬鹿しい事で頭を悩ませている。

 吐息。昔は下らないと一笑していた事柄を、どうしてこうも大真面目に考えなければならないのか……弥生は再びリリーホワイトに視線を戻した。


「はーるーでーすーよーー!!」


 離れていても届く、元気な声。古来より言葉には何らかの力があると言われているが、まさかこんな効果があるとは弥生も思ってはいなかった。春の陽気に中てられたのだ――そう結論付けると、弥生は一つ頷いた。たかが妖精、されど妖精。その力は中々にして侮れない。

 しかし……と、弥生は冥界を――満開の桜が広がる白玉楼を見回した。能力を使わなくても分かる春の気配。どういうカラクリなのかは分からなかったが、この場所に幻想郷中の春度が集められているのは、何となく想像が付いた。その所為で、リリーホワイトがこうも興奮しているのも分かっている。そして、その興奮が空回りしているのも……。

 冥界に生物は居ない。例外を除けば、そこに居るのは全て幽霊だ。見た物、聞いた物、触れた物、味わった物を考え方に変換する、謂わば感性変換器のような存在。肉体を持たず、不定で空気のような幽霊(それ)しか居ないこの場所において、リリーホワイトの声を聞く者は無きに等しい。

 確かに、幽霊とはいえ聞こえはするだろう。何と無しに春が来たのだと理解する事も出来るだろう。だがそれだけ、幽霊が四季の移り変わりに胸躍らせる事は決してない。だからリリーホワイトの言葉に耳を傾けるような事もしない。だから……ここでは彼女の声だけが、明瞭に響くのだ。


「はーーるーーでーーすーーよーーーー!!」


 リリーホワイトの笑みは崩れない。リリーホワイトの歓喜は止まる事を知らない。それが全て空回りしていると知りながら、弥生は彼女を止めようとはしない。いずれ気付く事をわざわざ伝える程、弥生は世話好きではない。それに――と、弥生は鼻をひくつかせた。

 冥界に足を踏み入れてから、ずっときな臭さを感じていた。放っておけば面倒な事になるだろうと、弥生の第六感が語りかける。自分の全ての感覚を信じている弥生にとって、それは一種の警告とも取れた。自分の事を第一に考えるならばここから退避するのが一番なのだろうが、残念な事に彼女の理性がそれを許さなかった。

 リリーホワイトの事よりも、今はこちらを優先すべきだろう。弥生は一つため息を吐くと、視線を臭いの元へ――桜花爛漫の中、唯一花を咲かせていない巨大な枯木へと向けた。


「さて、鬼が出るか蛇が出るか……出来ればどちらもお断りなんじゃがなあ」


 愚痴を零しながら苦笑する。第一に考えたのは自分の事ではなく霧葉の事。平然とそんな考えが浮かぶ辺り、弥生は自分が腑抜けた事を自覚した。

 だが不思議と、後悔の念は湧いてこなかった。










東方狂想曲

第二十話 那由他ェ……










 膳を持ち、静かに足を進める。妖夢殿から言いつけられたように腰から動く事を意識し、膳の平衡感覚も保ったままその心さえも落ち着かせようと勤めた。明鏡止水の心境――"静かな水"が濁りのある味噌汁とは、何とも皮肉なものである。

 四苦八苦しながら妖夢殿の後に続く。未だ人化して日が浅い私に、こうして人間の様に働かせる事は虐待に等しいのではないのだろうかと、少しだけ間抜けた事を考えてみた。主の奇行に振り回されるのと違ってこちらは地味な辛さがあり、実際に心の天秤に掛けてみると何故だか均等に吊り合った。恐らく好感の度合いで大きな依怙贔屓が起こっているのだろう。閑話休題。

 しかし動き辛い……私はちらりと自分の身形を見直した。身に纏う丹前――厚く綿を入れた広袖の着物――は、主が昔着ていた単よりも暖かかったが、その分厚ぼったく非常に動き難い。特に足部などは胴回りと同じ程度しか動かせない為、どうしても歩幅が狭くなる。自然と前を行く妖夢殿と同じように摺り足になってしまうのは致し方ない事なのだが……世辞にも歩きやすいとは言えなかった。


「……むぅ」

「しっ」


 知らず知らずの内に唸っていたのか、妖夢殿から軽い叱責を受け取った。たった一言ではあったが、微かな殺気と視線が乗せられたそれは、唸り声一つの対価にしては聊か度が過ぎるようにも感じられる。生真面目な性格は好感を持てるが、真直ぐ過ぎるのはどうかと思う。主ほどとは言わないが、もう少し柔軟な頭を持った方が良いだろう。

 反省の意を表す為に無言で肩を竦めつつも、内心では相手を小馬鹿にする。腹に一物背に荷物――いや、この場合手に荷物か?――まったく、何時から自分はこうも性悪になってしまったのだろうか。そう思と同時に、脳裏に主の姿が浮かんだ。無表情にも関わらず口を開けば戯言ばかりの駄目兎……少なくとも主が原因の一端を担っているのは間違いないだろう。

 と、不意に妖夢殿が立ち止まった。そこまで速く移動していた訳ではなかった為"ぶつかる"という最悪の事態は逃れられたが、今度からは足を止める前に一声掛けて欲しい。もっとも、その"今度"があるのかは怪しいところだが……。


「お食事をお持ちしました」

「あら、思ったより早かったわね」

『あーそういやそろそろ飯か』


 本来居ないはずの人物の声が聞こえ、私は思わず身を硬くした。聞き間違えるはずのない主の"声"が襖の奥から聞こえてくるという事は……つまる所、そういう事なのだろう。戸惑いを隠せない私を尻目に、妖夢殿は音もなく襖を開けた。

 目を見開く。奇妙な赤い服を着た兎妖怪が、掌で一匹の蝶を弄びながら座している。主だ。どうやって此処に来たのか、どうして此処まで来たのか。二つの疑問が私の中でぐるぐると渦巻き、次いで幽々子殿の周りにあれが――主が作った檻が存在しない事に気が付いた。拙い。私は背中に嫌な汗が流れるのを感じた。

 従者である妖夢殿にとっては喜ばしい事かもしれないが、今の幽々子殿は私達からして見れば"檻から出た猛獣"である。今は未だ落ち着いた空気を纏ってはいるものの、機嫌を損ねる訳にはいかない。例え彼女が私達を始末したとしても、何ら不利益になる事はないのだから……。

 呆然とする私と妖夢殿の二人を眺めて疑問に思ったのか、幽々子殿から一声が飛んだ。


「どうしたの、妖夢?」

「あ、いえ、幽々子様、檻は……?」

『俺がぶっぱしました』

「この子が何とかしてくれたわ」

『見てからぶっぱ余裕でした』


 会話の合間にちょくちょくと主の言葉が入る。本人は相変わらず無表情で蝶を弄んでいるだけに表面上は彼女達の話に関心がない様に見えるが、その合間に入る言葉はどう考えても楽しんでいるようにしか思えない。妖夢殿から発せられる訝しげな視線も何処吹く風である。その鉄面皮が少しだけ羨ましく思えた。

 何と無しに天井を見上げれば、最初に来た時よりも一回りほど大きくなった穴から澄んだ青空が見て取れる。少し目を閉じるだけで、檻を全力で投げ飛ばす主の姿が目に浮かぶような気がした。


「……失礼します」

『失礼されます』


 妖夢殿は一言だけそう断ると、膳を置いて幽々子殿へと近付き、静かに耳打ちした。流れからして恐らく主の事を聞いているのだろう。だが時間にしてみれば、私達二人がこの部屋を離れていたのは僅か一時にも満たないのだ。彼女の疑問が解決するのにそう時間は掛からないだろう。

 すっかり手持ち無沙汰になってしまった私は、一先ず妖夢殿に倣って膳を置こうと膝を折り……主からの視線を感じ取った。疑問とほんの少しの驚きが込められたその視線。何故そんなものを向けるのかと思うと同時に、今の私の姿が主のそれそのものだという事に今更ながら気付いた。

 実を言うと、主は私が"変化"出来る事を知らない。いや、知らないと言うより、私が主に伝えていなかっただけだ。何せ――普段の弥生を見る限りではあるが――主は獣の外見を好む傾向がある。単なる愛護を受けたいのならば、猫の姿のままその旨を伝えれば、大方の事は通るだろう。

 しかし主の仕事を手伝うとなると、どうしても"人間の手足"が必要になる場合が多々ある。昨季などは主自身が奔走している姿を近くで眺めていたが、主だけに負担を掛けさせるのは流石に気が引ける。そう思い、わざわざ弥生に頭まで下げて"変化の術"を覚えたのだが……いざ変化してみれば主の姿に成るわ、膂力は格段に弱まるわ、妖力はごっそり持ってかれるわと、散々な結果となってしまった。利点と言えば精々手先が器用になった事ぐらいだろう。

 慣れが必要だ。少なくとも弥生と同等……出来るならばそれ以上に容易に"変化の術"を行使出来るようにならなければ。それまでは主に黙っておこうと思ってはいたのだが――。


『そもさん』


 ――それが裏目に……待て。思考に水をさされて意識を戻せば、主が人差し指を此方に向けていた。その指先にとまる虹色の蝶が、主の雰囲気を一層間抜けなものへと変化させている。その顔に表情は無かったが、主から発せられたのは確かに楽しげな声色で……思わず口元が緩みそうになった。

 左の掌を見せる形で三指をのばす。弥生と主が意思疎通を行う為に考えて失敗した――手、又は口上による計七十三個の――合言葉。問われる言葉にバラつきはあるものの、返す言葉と動作を全て覚えていれば何の問題も無い。これは主の従者としての嗜みの様なものだ。


「せっぱ」

『しょうりゅう』

「ぶっぱ」

『よけろ』

「ナッパ」

『わらえよ』

「ベジータ」


 パンッと両の掌が打ち合わされる――終了の合図。問いの回数に限度はなく、主の気分によって数回から数十回と押し問答を続けなければならない。しかし……。


『おっけ、間違いなく那由他だな』

「言い返した時点で気付け、主」


 苦笑しつつも、少しだけ非難の視線を送ってやった。主の"声"が聞こえ、なおかつ返す事が出来る生物など、幻想郷広しと言えども私以外に存在しないだろう。

 ふと視線に気付く。今度は幽々子殿と妖夢殿の二人からのものだ。何時の間にひそひそ話を切り上げたのか、二人は奇異なものでも見る様な目で私を眺めていた。確かに知らない人物から見れば私達のやり取りはおかしなものに見えただろうが、それにしても私だけを見るのは――。

 瞬間、答えに行き着いた私は硬直した。主の"声"は私には聞こえるが、他の人物達には聞こえる事がない。逆に言えば、"私にしか聞こえていない"。つまるところ今の押し問答は、傍から見れば私の一人芝居という事になってしまい……。

 主が動く。両手の親指を立てて自分に向け、首を少しだけ傾けて片目を閉じた――むかっ腹の立つ仕草。そして一言。


『うぇっかとぅHENTAIわぁど』

「壊れろ、非常識っ!」


 思わず飛びかかってしまった私を、一体誰が責められるだろうか。










 遠目に見ても巨大だったそれは、近付くにつれてその異質さを増していった。禍々しい妖気と死臭……花見の桜には向かないだろうと、何とも間抜けた事を考えた。

 頭を振って、私は眼前を睨んだ。桜花爛漫の中、唯一蕾すらつけなかった桜の巨木。これほどまで近付けば、目を閉じても鼻を摘んでも肌で感じ取る事が出来る。汚物か吐瀉物にでも触れてしまったかのような嫌悪感が全身を駆け巡り、鼻が曲がりそうな程の臭気が漂い、呼吸をするだけで体内まで穢れる様な錯覚を覚えた。舌打ち。能力が過ぎるのも考え物だ。

 木に触れ、瘢痕のような木目をそっと撫でる。大き過ぎるそれには嫌悪感という感情しか芽生えなかったが、今だけはそれを顕界に捨て置く事にした。帰る際に拾っていけば何の問題もないだろう。

 瞑目し、心を落ち着かせる。感知出来るもの全てから必要なものを引き出す感覚――『大丈夫だ』と小さく呟き、自身に言い聞かせた。妖気に取り込まれて自我を見失う可能性――十二分にありえる可能性。"もしも"の事を考えると、流石の私でも身震いがした。

 大仰な深呼吸――再び『大丈夫だ』と自身を慰める。私にはキリがいる。彼奴がいれば、私は"弥生"のままでいられる。私は自分の身体に飛び込んでくる情報に、静かに身を任せた。

 軽く首を傾げたのは相手の思惑――幻想郷という場所から春を取り上げて、何を成そうとしているのかという疑惑。

 おかしいと思ったのは冥界の春度――冥界全体に春度が等しくばら撒かれているというのに、眼前の巨木周辺には春の気配が一切しないという疑惑。

 きな臭いと感じたのは巨木の空気――人間特有の煩わしい思考を煮詰めたかのような不快感極まりない空気を、何故誰もが放っておくのかという疑惑。

 全てが……私の中で繋がった。

 ゆっくりと巨木から離れ、付近の桜の下に座り込む。脳髄が痛みを訴え、手足が動く事を拒否し、心臓が泣き言を零していた。死線ならば何度も潜り抜けた事はあったが、これほどまで身体を虐めた事は久しくなかった。キリから一撃を見舞って貰ったあの時でさえ、私が"死"を感知する事はなかったというのに……いや、それは当たり前の事か。

 ため息を吐き、巨木を見上げた。膨大な年月を過ごした巨木(ばけもの)からは、深い木目(しわ)黒ずんだ表皮(苦渋の色)が見て取れる。そして何よりも感じ取る事が出来たのは――。


「――反魂の儀……か」


 呟き、私は額を押さえて自分の手の冷たさを楽しんだ。精神的重圧が掛かりすぎないよう注意しながら、思考を続ける。

 古来より桜の木の下には死体が埋まっているというのが人間の俗説らしいが、あながち間違いではないだろう。私はちらりと巨木の根元に目をやった。何匹もの大蛇が絡み合うかの様な歪な木の根――私の能力を信じるとするならば、そこに全ての元凶が"在る"のだろう。

 感知出来た全てを頭の中で整理する。一定量以上の春度を集め、溜まった分を一気呵成に巨木へと注ぎ込み、巨木とその下に眠る魂を同時に活性化させて反魂――儀式の原理としては申し分ない。ついでに冥界という場所で居直り強盗の様に堂々としている所に着眼すると、冥界の管理人の知人、もしくは管理人本人が儀式の根回しをしたと考えるのが妥当だろう。どちらにせよ、私やキリの手には余る相手だ。もし"そう"なってしまったとしたら――。

 頭を振る。何時の間にか敵対した際の事を考えてしまった。平和主義のキリの事だ、万が一にもそんな事は望まない(・・・・)だろう。例え相手が私達を目の敵にしたとしても、キリならば何とかしてくれる。何せキリは……。

 目を瞑ると、暖かな風がそっと私の頬を撫でた。重々しい眠気が私に休息を訴える。春眠暁何とやら。人間の言葉に従うのは聊か癪だったが、身体はそうも言っていられなかった。段々と思考回路が上手く回らなくなってくるのが分かる。眠気で重くなった瞼を少しだけ開き、私は巨木へと視線を向けて口を開いた。


「まったく、香だけでは足らぬと申すか……」


 一つ皮肉を吐き、私は意識を手放した。










 さわさわと風の音が聞こえます。暖かな春風は桜の花びらを散らせ、舞わせ、そして何処かへと運んでいく……桜の方からして見ればそれははた迷惑な行為かもしれませんが、私たちの様な生物から見ればそれはさぞかし綺麗な光景なのでしょう。

 ではここで問題です。何故その光景が私には見えないんでしょうか。

 答え。那由他に殴られて俗に言う"前が見えねぇ"状態だからです……俺コイツ助けに来たんじゃなかったっけ? 何で俺ボッコされたの? 流石の俺もちょっとムカッと来たんで、軽く嫌がらせしてみるテスト。


『日本国民は、正当に選挙された国会における代表を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果とわが国全土に亘って自由のもたらす恵沢を確保し――』

「あー……主?」


 困惑したかのような那由他の声。その姿が見れないというのは実に残念だ。そういや何でか知らねぇけど、ぱっと見は完璧ショタだったな。しかも中々の美形。多分半ズボン装備でニッコリ笑ったら、そっち系のお姉さんとかが沢山釣れ……なるほど、那由他ってそういう趣味だったんですね、分かります。いや、別にいいって事よ。誰にだって人に言えない性癖の一つや八つ、心の奥底に仕舞い込んでる事位分かってるからな。俺だって人参より大根が好きだし。

 かなり失礼な事を考えつつも、それを噯にも出さずに一筆する。勿論"声"も止めるつもりはない。


【何?】

『――ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権利は国民がこれを享受する』


 ……この後何だっけ? 政経の授業はほとんど寝てたからなぁと、今更ながら前世の事を後悔してみる。まぁいっか、適当に繋げとこ。


『これは人類普遍の減速であり、これ憲法くぁ、カカッ原則にてるものる。われわは、このれが反芻一切合財にけん砲、蓬莱及ばれた宿直が配所する』

「……主、頭は無事か?」

『顔よかマシだ』

「すまん」

『ん、許す』


 勘で手を伸ばし、軽く頭を撫でてやる。掌全体に広がる、人間特有の頭髪の感触――時折触れるネコ耳の毛が心地よいが、やはり個人的にはありのままの那由他の方が好きだ。具体的に言えば腹の辺りを一定間隔で撫でると無条件降伏してくれる那由他とか弥生とか……あ、これってもしかして二股? 俺が? 出来ればNice boat.な展開だけは勘弁してください。

 そんなSAN値直葬な事を考えつつも、ちらりとゆゆさんに目をやると、何やら鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情を浮かべていた……と思う。回復しかけの視界な為に断定は出来ないが、そこら辺は俺の豊富な妄想力がカバーしてくれるだろう……してくれたらいいなぁ。

 まぁとりあえずは感謝の意を示す為にと一筆。それを三つ指で差し出す形で、深々と頭を下げた。


【家の者がご迷惑をお掛けしました】

「迷惑……だったかしら? 妖夢」

「えっ!? えぇっと……礼儀も弁えておられましたし、料理の手際も良かったので、そこまで迷惑という訳でも――」


 妖夢(オプーナ少女)のしどろもどろな答え方。咄嗟に話を振られた所為だというのは、容易に想像出来た。きっと根は真面目君なんだろう。いいなぁ。からかっても拳が飛んで来ないとかいいなぁ。$2500ぐらいで買えねぇかなぁ。あ、そもそも所持金がねぇや畜生。


「と、言う訳で、別に迷惑ではなかったわよ? どちらかと言えば貴方の檻の方が迷惑だったわ」

「ゆっ、幽々子様!?」

【その件に関しましては、本当に申し訳ありませんと言う他ありません】


 ゆゆさんの嫌味たっぷりの言葉を咎めようとしてか、少しだけ声を荒らげるオプーナ少女。まぁここまで露骨な言い方だと、発言者が身内であっても非難の言葉の一つぐらい出てしまうだろう。

 しかし、実際ゆゆさんの言葉は正しい。何の前触れもなく『お前、今日から監獄生活な』とか言われたら、誰だって憤りを覚えるだろう。しかもその理由が全くないとなれば、嫌味の一つや二つ言いたくもなる……てか普通は怒鳴り散らされるか拳が飛んでくるもんだ。

 更に今回の場合『ゆゆさんの屋敷の屋根を壊した』という、でっかいおまけまで付いている。時代が時代なら、打ち首にされたって文句は言えない。むしろ非難の言葉で済むだけありがたいと言うものだ。打ち首ってかなりキツかったし……まぁ、夢の知識なんてあんまし当てにならんか。

 そんな訳で、今はとにかく下手下手に出る。ぺこぺこと頭を下げて、表面上だけでも媚び諂う。今ほど自分のポーカーフェイスがありがたく感じた事はないだろう。


【つきましては謝罪の意を込めて、先程の要求を呑ませて頂く所存です】

「あら? いいの?」

【出来るかどうかは兎も角、此方も最大限の努力はしてみるつもりです】


 つくづく筆談ってのは便利だと感じた。何せ声色による感情の起伏が、相手には全く伝わらない。普通に会話するのには向かないかもしれないが、今みたいな交渉時にはもってこいの技術である。心にもない事社交辞令がすらすら書けるよ!


「そう……なら、"お願い"するわ」

【承りました】


 しかしどの口でそれを言うかねぇ。オプーナ少女と那由他が来るまで無機質な目を向けながら"提案"したと言うのに、それを微笑みながら"お願い"と申すか。ゆゆさんはすごいなぁ、ぼくにはとてもできない。

 ちらりと隣の那由他に目をやると、こちらも何やら驚愕の表情を浮かべていた。外見ショタなだけに、ちょっと萌えたのは秘密である。


『……どったの?』

「いや、主が敬語を使っているのが気持ち悪くてな……」

『ていっ☆』


 おれのでこぴん。こうかはばつぐんだ。なゆたはひるんだ(うずくまった)

 ……いや、まぁ那由他の言いたい事も分かるよ、うん。俺って常日頃からぐだぐだと愚痴とか軽口とかしか言わないからね。『今更何常識人ぶってんだこの糞野郎』とか言われても、それは仕方のない事だ。

 しかしこれでも一応社会人の第一歩を踏み外して死んだ身なのだ。そりゃ体育会系の人達と比べれば幾らか上下関係には疎いけど、目上の人に対する敬意の配り方なんかは、ほんの少しだけ身に付いている。新人研修とか何やらが終わった後だったら、更にスキルアップしていた事だろう。


【それでは作業の方に入らせて頂きます】


 そう書かれた紙を最後に、静かに立ち上がる。正直この部屋に長居したいとは思わなかった。オプーナ少女はずっと胡散臭げな視線を投げてくるし、ゆゆさんは夢の中に出て来る美女と同じような空気を纏っている所為か、どうしても苦手意識が芽生えてしまう。多分こういうのが"オーラ"とか"気魄"とか言うんだろうなぁ……。

 そんな呑気な事を考えつつ、額を押さえている那由他の襟首をガッシリ掴む。そのまま早々と部屋から出ようとして……声が掛けられた。


「とっ。その前に、一緒にお昼はどうかしら? 腹が減っては何とやらよ?」


 軽く振り返り、肩越しに那由他達が持って来た膳を見遣る。ご飯茶碗、汁椀、膾に煮物に焼き物、おまけに香の物……一汁三菜のそれは一見質素なものにも見えるが、一汁一菜が基本の俺達の食事と比べれば、単純計算で三倍程良い物である。

 掴んだ那由他が一つ身動ぎするのが分かった。大方、ゆゆさんのお誘いに心惹かれるもの――恐らく焼き魚辺りか――があったのだろう。だが残念ながら、今の俺は生臭を口にする事は出来ない。期待に目を輝かせているであろう那由他の思惑を裏切る形になるのは非常に楽しい心苦しいが、ここは謹んで辞退しておこう。

 那由他を掴んでいない方の手を軽く上げ、少しだけ頭を下げる。これだけで言いたい事は十分伝わるだろう。


『そんな魚を適当に切って炙っただけの蛮族の料理が食えるかよ』

「ちょっ! 主!?」


 まさにニーサンってか?










 リリーホワイトは声を張り上げる。もっと、もっと遠くに居るものへと届くように、声を張り上げる。

 春が来た。寒くて苦しい冬が終わりを迎えた。春だ。暖かい春が来た。もう寒さに凍えなくていい。もう飢えに耐えなくていい。これから全てが目覚めるんだ。春だ。柔らかな日の光をと暖かな風を伴って春が来た。だから目覚めて。私はもう此処にいるのだから。

 彼女のたった一言に込められたその思いは、大きい。妖精は自然の具現化。つまり彼女の言葉は、春告精としての存在意義も同じなのである。だと言うのに……。


「……」


 その違和感に気付いたリリーホワイトは、静かに周囲を見回した。暖かな春風が強く吹き抜け、それに乗せるように桜の木々は花弁を散らす……新春の季節には良く見られる光景だ。

 だが、音がない。生命の脈動する音が聞こえない。普段ならば気にも留めなかったであろうその事実……無視しようにも、一度気が付いてしまった違和感は拭えなかった。それに何時も彼女が行く先々の場所と違い、冥界(此処)は余りにも静か過ぎた。

 後は芋蔓式だった。一度疑ってしまえば、それを元に戻すのはどんな生物であれ至難の業だ。例え妖精と言えども、生物という枠組みの中に存在してしまっている以上、例外では居られない。

 リリーホワイトは頭を抱えた。目を見開き、唇を小さく震わせて、時折頭を振る。先程までの笑顔とは一線を画する顔色。気付きたくないという思惑に反し、彼女はその事実に行き当たってしまう。

 冥界(此処)には、生物が居ない。

 少し考えれば誰だって気付く事だが、春を眼前にしたリリーホワイトがそこまで気を回せるかと言えば、当然の事ながら首を横に振る事しか出来ないだろう。人間とて、極限状態で眼前の真偽を見分ける事は出来ない。ましてや妖精は知能面で人間に劣るとまで言われている。彼女に人間以上の事を求める事自体が、土台間違いなのだ。


「どう、して……」


 思わず零れた呟き。その言葉に続くのは『何故』という答えの見えない問いかけ――今の彼女にとって、何の意味も持たない問いかけだった。不可解な事が起きた時、誰だって最初はその原因を知ろうとする。しかし今必要なのは『何故』ではなく『どうするか』という問いである。原因というものは、所詮は指針要因の一つでしかない。時に分からなくてもいいものは、分からないままで済ませる事も必要なのだ。だというのに――。

 リリーホワイトは両の目に涙を溜めていた。春が来たのに誰も居なくて、分からないという事実が眼前にあって、自分が酷くちっぽけな存在になったみたいで、それで、それで……。


「……っ」


 唐突に聞こえてきた甲高い音で、彼女の意識は冥界へと戻る。意識の外からの呼び声――初めての反応。音源へと視線を向ければ同じ顔をした少年が二人。見知った服装をした片方が、指を咥えながら片手を振っていた。それを認識した瞬間、リリーホワイトは"飛んだ"。

 空気を切り裂き、花弁を蹴散らし……天狗も目を見張る様な速さで飛ぶ。何故そこまで急ぐのか、彼――霧葉――に会ったからといって何になるのか。明確な理由も思考も持ち合わせていない今の彼女に、そんな自問を投げかける暇はなかった。ただ一刻も早くとでも言いたげに霧葉の元へと飛ぶ。彼自身も、そんな彼女に応えるかのように諸手を広げ。

 衝突。


「っ!!?」

「主っ!?」


 勢いを殺しきれずに、そのまま二転三転と転がる二人。傍観していた同じ顔のもう一人――那由他――は一度だけ声を荒らげるも、無事に返ってきた"返事"にほっと胸を撫で下ろした。

 結果的に押し倒す形となってしまったが、リリーホワイトは気にも留めなかった。ただ『霧葉なら何とかしてくれるかもしれない』という意識だけが、今の彼女の中では渦巻いていた。それは春度を集めてくれた……(冥界)に連れて来てくれた霧葉に対する、絶対的な信頼から来るものだった。

 例え霧葉の動機が不純なものであっても、傍目から見ればその行動力は本物だった。だからこそ、彼女は彼を頼った。自分が分からなくても、彼ならば答えを知っているかもしれない。この疑問に答えてくれるかもしれない。そう思い、彼女は口を開いた。

 しかし――。


「あの、私一生懸命呼んでたんです。でもずっと返事が返ってこなくて……それで。それで――」


 口から出てくるのは支離滅裂な言葉だけだった。要領を得ない彼女の言葉に、流石の霧葉も首を傾げる。たったそれだけの行動を返されただけで、リリーホワイトは心臓が苦しくなるのを感じた。それでも言葉は止まらなかった。


「もう春のはずなんです。春のけはいがこんなにもたくさんあるのに、ぜんぜんこえが聞こえなくて。でもがんばればみんなおきてくれるかなって思ったのに、がんばってもはるのけはいしかなくて、それでひとりだってわかって、こんなにひろいのに……ひとりで……ひとりぼっちで」


 言葉が詰まる。抱いた疑問が圧し掛かってくるかの様な重みが胸へと集中し、圧死しそうになる。自分は何を伝えたかったのか、分からなくなる。そんな内心のまま言葉にした所で、他人にそれが伝わる訳もなく――。


「だれも……っう、ひっく……いな、くて……っえぅ」


 ――再び霧葉が首を傾げると同時に、彼女の言葉は嗚咽へと変わった。

 伝えたい事が伝わらない。その所為で、聞きたかった答えは返ってこない。そんな漠然とした事実が、呆気なく彼女を決壊させた。どうしようもなく息が詰まって言葉を口にする事が困難になり、視界に一杯に映っていたはずの霧葉の顔はあっという間にその輪郭を失った。

 今の彼女は、まるで子供の様だった。もどかしさに堪えられなくなる。無力感に苛まれて自壊する――どちらも子供が泣く要因であり、同時にどうやっても克服出来ない要因でもあった。大人になるにつれて自分という個人が出来る事は増えていくが、それでも時にはどうしようもならない事がある。そうして子供の様に泣いたり喚き散らしたりする心理的状況を"錯乱"と呼ぶ。

 彼女のそれは大人しいものであった。下に敷いた霧葉に手を上げる事もなく、大声で喚き散らす訳でもなく、ただ小さく嗚咽を漏らすだけ。錯乱と呼ぶには程遠いが、泣いているという事実に変わりはなかった。

 傍らではどう対処すればいいのか分からずに、右往左往する那由他が居た。泣く子供を目前にするという場面を、彼は一度たりとも経験した事がない。それ故に"あやす"という言葉を知っていていても、それをどうやって行動に移せばいいのか分からなかった。


「……――っ!」


 相手の精神がもう少し大人ならば、諭して泣き止ませる事が出来るのに……と、那由他は悔しそうに歯噛みした。霧葉の"口"として生かされて早十二年、口先だけならば誰にも負けない自信があった。だが子供に言葉だけで言い聞かせるのは不可能だ。言葉の奥に隠された意味を理解出来る子供はいない。そして理解出来ない事を理解し、子供は泣くのだ。

 顔を覆って泣き続けるリリーホワイトを、霧葉は何時も通りの顔で眺め続けた。傍目から見ても、何を考えているか分からない様な平坦な顔。長年一緒に居る那由他ですら、"声"を聞かずに彼の感情を知る事は不可能だった。

 だからだろう。何の前触れもなく霧葉が動いても、那由他は何の反応も返す事が出来なかった。


「っ!? ……」


 リリーホワイトははっとなって面を上げる。自分の頭へと続く腕を見遣り、次いで自分を見上げている霧葉に目を遣った。


「……」


 視線が絡み、霧葉は一度だけ首を縦に振った。たったそれだけの動作だったが、リリーホワイトにとっては十分過ぎた。その肯定が何を意味するのか理解し、伝わったのだという喜びが彼女の中を駆け巡り、そして――。


「――あっ、うあああぁぁぁっ!!」


 爆ぜた。

 声を張り上げての号泣。下に組み敷いた霧葉に抱きついての号泣。子供特有の甲高い泣き声に少しばかり顔を歪めた霧葉だったが、静々とリリーホワイトを抱き締めた。


「……」


 そのまま発した、たった一言だけの彼の"呟き"。それが何を意味するのか問いかけようとした那由他だったが、一つ開口しようとして口を閉じた。不粋だ。彼は地に伏した二人を眺めながら、ただ漠然とそう思った。泣く子を置き去りにした会話は、実際に置き去りにされるのと同じくらい子供の心を傷付ける。

 それからリリーホワイトが泣き止むまで、二人は一言も言葉を発しなかった。










 幽々子が手をかざすと、一匹の蝶がその指先に止まった。那由他が連れて来られた時から飛ばしていた虹色の蝶――死蝶。弾幕としての力すら込めていないそれを指先で弄びながら、彼女は何となしに呟いた。


「……鈍ったかしら」


 眉をひそめ、死蝶を眺める。美しい色彩を放つそれは何も語らず、ただ二度、三度と羽を揺らした。見方によっては励ましているように見えなくも無いが、霧葉の指の上でも同じ動作をしていたのを見た後となっては、ただの媚にしか見えなかった。

 幽々子は目を閉じて先程の事――霧葉の事――を思い出した。玉砂利の庭を我が物顔で歩み、一片たりとも表情を崩さず、彼女の誘いさえも断った。だからといって無礼という訳ではなく、むしろその動作一つ一つには気品すらも感じ取る事が出来た。自分の口が利けない事に対し、何ら気にした様子も見せなかった事もその認識に拍車をかけた。そして……。

 不意に、蝶が飛び立つ。指先を離れた蝶は、まるで何かから逃れるかのように部屋を後にした。幽々子はそんな蝶に目もくれず、自分の"指先"を見詰めていた。


「……四十三回」


 呟かれた回数――幽々子が能力を行使した回数だった。

 勿論、彼女としてはそんな蛮行を行うつもりは毛頭なかった。だが霧葉の行動は頂けない。確かに筆談とはいえ自分の言葉で会話したのは認められるかもしれない。頭を下げるのも彼女の言葉を黙って聞き続ける姿勢も良かった。しかしその表情が全てを無駄にしていた。一切変わる事の無い彼の表情は、会話の内容……いや、眼前に佇む彼女すらも『どうでもいい』と語っている様に思えた。それがどうしようもなく、彼女の神経を逆撫でた。

 だからだろう。彼女は彼が檻を投げ飛ばした瞬間……呼吸をするのと同じように『使った』。その場で膝をつき、変わらぬ表情のまま死ぬと……そう思っていた。

 しかし、彼は変わら(死な)なかった。素知らぬ顔でただ淡々と反省の言葉を述べるだけだった。まるで暖簾に腕押し。彼女の言葉も能力も、ただ黙って受け流している様に見えた。

 何かの間違いではないか。最初こそそう思っていた幽々子だったが、『使う』回数が二桁の代に上る頃には否応にも"事実"である事を実感させられた。立ち去り際に案じた食事の誘いもあっさりと断られてしまい、結局最後まで彼の謎は分からず仕舞いだった。

 ふと友人の言葉が頭を過ぎる。一種の忠告とも取れる言葉だったが、その時の楽しげな声色は一体何を示しているのか……残念な事に、その友人の真意を汲み取る為には情報が少な過ぎる。今彼女に分かる事と言えば、"能力が全く効かない"という事と"何を考えているか分からない"という事ぐらいだろう。

 幽々子は一つ吐息を吐くと、数日ぶりに座を冷ました。天井に開いた大穴からはぱらぱらと木の片々が零れ落ち、藺草の茎を汚す……たった一室とはいえ壊された事に変わりはなく、歩む度に足裏に当たる木片が鎮火しかけた怒りに煽りをかけた。再燃しそうな感情を冷まそうと、軽く頭を振る。既に四十三回も能力を使っているのにも関わらず、胸のむかつきは取れそうになかった。

 木片だらけの畳床を横切り、縁に座って思案する。何時もの自分はこうも怒りっぽい性格だっただろうか。もっと落ち着いた性格ではなかったのか。どうもあの兎が来てから何かが変だ……痛み始めた頭を指先で抑えつつ、幽々子はもう一度霧葉の姿を思い描こうとし――。


「幽々子様、食後のお茶をお持ちしました」


 ――水を差された。声を辿れば、今まさに襖を開けようとしている妖夢が目に入った。

 幽々子は瞬時に今までの苛立ちを無理矢理しまい込み、薄らと笑みを浮かべ、やんわりとした空気を身に纏う……一秒にも満たない時間で、彼女は"何時もの幽々子"へと戻っていた。

 今まで歯牙にもかけぬ態度だったのにも関わらず、いざ相手を前にして取り乱す主人。そんな光景を目の当たりにすれば、百年の恋も一時に冷める。己の醜態を見られたくない――主人としての自尊心が、今の彼女の動力源だった。


「ありがとう、妖夢」

「……」


 盆から湯のみを受け取るが、妖夢が立ち去る様子はない。心なしか、その顔に浮かべる表情も硬いように思えた。

 感付かれただろうか。未だ半人前といえども、先代からその役目を受け継いでからそれなりの時が流れている。主人の些細な変化に気付いても、何ら不思議ではないだろう。

 妖夢は確りと主人の瞳を見据え、口を開いた。


「あの兎に何を"お願い"したんですか?」

「……」


 その言葉を聞いて、幽々子は内心安堵した。少なくとも覚られてはいない。硬質な表情は、見ず知らずの兎に仕事を取られたかもしれないという、僅かな嫉妬から来るものだったのだろう。

 妖夢から視線を外し、彼らが向かったであろうその先を見つめた。幽々子のそれに倣うような形で、妖夢も視線を動かす。そしてその先に鎮座している"それ"を認識すると、目を見開いた。

 まさか――そう口の中で小さく呟く。確かに霧葉がした行為は――例え彼女らに発端要因があろうとも――謝罪だけで済まされるような事ではない。しかし部屋一つ無茶苦茶にしたのに対し、幽々子が提示した"お願い"は、余りに大きかった。


「『西行妖を満開にすること』……出来なかったら鍋にでもしようかしら」


 幽々子は薄く笑みを浮かべたまま、そう呟いた。その声色はまるで、先ほどの苛立ちとは無縁とでも言うかのように、楽しげなものだった。










『あー、恥ずい。マジで恥ずい』

「……」


 泣き疲れて眠ってしまった百合子を背負って歩きつつ呟く。隣を歩く那由他にも聞こえた筈だが、何故か問いだしてくる事はなかった。ちらりと横目で視線を投げかけるも、こちらの歩調に合わせて歩くだけで、何の反応も返してくれない。そんな那由他の態度に凹みつつ、俺はさっきの事を思い出す。

 百合子が泣き付いて来た時、その姿がどうも弟のものとダブって見えた。その所為でつい慣れない事を……というか、俺のキャラじゃない事をしてしまった。

 だって幼女抱きしめるんだよ? 傍目から見れば青いソルジャーに捕まる事間違いないね。てか父さんの時もカウントすると、もう完璧。Welcome to Pedophilia Warld.男女見境なしにセクハラしまくるエロ兎の完成だよ!! 嬉しくねぇ!!

 てか沈黙が重ぇ……もっと突っ込めよ、那由他。俺が恥ずい恥ずい言ってんだぞ? ここぞとばかりにいびれば良いじゃない。こういう時ぐらい鬼の首取っとかないと、何かと損だぞ?

 よーしパパ助け舟出しちゃうぞ!


『聞かないのか?』

「言いたいのか?」


 間髪入れずに答えが返ってくる。質問を質問で返すとは何事かとも思ったが、別にどっかの先生でもスタンド使いでもないので怒りはしなかった。

 しかしまぁ、実際そう返されると何とも言えない。俺は自分語りをしたいのではなく、ただ純粋に那由他に突っ込みを入れて欲しいのだ。

 何と返そうかと悩んでいると、那由他は呆れたかの様に一つ吐息を吐いた。


「主が秘密にしたい事を聞きたがる程、私は無粋ではないぞ?」

『……那由他』

「そんな事よりも"お願い"の対策を考えろ。口先だけの駄目兎が」

『那由他ェ……』


 一瞬、かなり感動したかと思ったが、実はそんな事はなかったぜ。というかこちらに視線を寄越さなかったのは、思案中で頭が回らなかったからか。畜生、俺の感動を返せショタ猫。


「主、『あの桜の木を満開にしてみせる』等と大見得を切ったからには何か策があるのだろう?」

『あー……糊ぶっかけて、そこら辺に落ちてる桜の花弁ぶっかけりゃ、咲いたように見えね?』

「見えるか、阿呆」

『ですよねー』

「……」

『……』

「ちょっと待て、主。もしかして本気で……」

『……』


 ごめん、結構行けると思ってた。

 しかし実際やってみても、一週間も経たない内に花弁が茶色く変色して、何とも言えない気色悪さを演出する事になるな。ある意味冥界にはぴったりな光景かもしれないが、そんな事したらゆゆさんが黙っちゃいないだろう。てかぶっちゃけ最善の策としては、このままとんずらするのが一番なんだがな。

 俺の言葉を聞いて、一気に顔色が悪くなる那由他。コイツの頭には『逃げる』という選択肢は存在しないんだろうか。せっかく俺が言葉を濁しまくったってのに……まぁ、最終的には首根っこでも掴んで、一緒に帰ればいいか。

 そうこうしている内にゆゆさんが指定した巨木に到着した。遠目から見てもかなりの大きさがあったが、こうやって近くで見てみると、"お願い"の内容がいかに難しいものか痛感させられた。まったく、ゆゆさんの無茶振りにも困ったもんだ。


「……主、私の目がおかしいのか? 蕾が一つもないような気がするんだが……」

『那由他、心の目で見るんだ』

「む、そうか、心の目か……」

『何言ってんの? 那由他、頭大丈ブッ!!?』


 無言でビンタですか。結構いい音響きましたね。桜じゃなくて紅葉咲かしてどうすんだよ。アメリカではよくあるジョークだってのに……沸点低いなぁ、那由他って。

 そんな軽いどつき漫才をしていると、上から聞き慣れた声が降ってきた。


「ぬしらは……一体何をしておるんじゃ?」


 思わず視線を上へと向ける。若干の呆れを含んだ声の持ち主は、やはりと言うか弥生だった。蕾一つない巨木の枝に腰掛け、こちらを見下ろしている。あたかも自分がこの木の持ち主だと言わんばかりの態度である。

 とりあえず百合子の事ほっぽいた件もあるので、中指を立てて降りてくるよう促した。


『弥生ー、帰るぞー。ブレーンバスター掛けるから降りてきなさーい』

「いや、主。それはおかしい」

『いいから、ほら翻訳翻訳。とんずらこくからさっさと降りて来いとか、そんな感じのヤツ頼む』

「む……分かった。弥生、もうここには用がないから戻るぞ。さっさと降りて――」

「咲かせないのか?」


 那由他の言葉を遮って、弥生が呟くように吐いた言葉。小さくはあったが、決して無視出来るような大きさでもなかった。

 思いつめたかのような弥生の表情に、思わず面食らう那由他。しかしそれも一瞬の事。少しだけ顔をしかめ、いかいにも不快そうな表情で口を開いた。


「お前の目は節穴か? よく見てみろ。蕾一つないこの巨木に、どうやって花を」

「大丈夫だ」


 再び那由他の言葉を遮る弥生。あー、ほら、弥生。あんまり虐めてやるなよ。今の那由他の顔見ろよ、真赤だぞ? ショタが真赤になってるとか、見る人によっては物凄い貴重なんだぞ? 俺にそんな属性ないけど。


「のう、キリ」

『はい?』


 え? そこで俺に振るの? しかも何その悲壮感漂う表情。顔色とか血の気が引くってレベルじゃねーぞ。やべぇよ、いきなり飛び降りとかしないでくれよ? 某鬱ゲーのエンディングみたいに、真赤な花咲かせるのは止めてくれよ?

 一応何時でも動けるように、片足を踏み出す。しかしそんな俺の行動に反し、弥生は搾り出すかのように、ただ一言声を紡いだ。


「もし、妾がその方法を知っていると言えば……キリは、信じてくれるか?」

「なっ!? そんな方」

『あー那由他、今大事な所だからちょっと黙ってて』


 話がこじれそうだったので、思わず注意してしまった。傍目から見ても分かるほどショボーンと肩(&猫耳+尻尾)を落とす那由他。これを素でやってるんだから恐ろしいものだ。知らぬ間にハーレムが出来上がっていても、俺は驚かないだろう……嫉妬はするがな。

 さてさて、と少し真面目に思案する。何やら含みのあるような言い方がどうも引っかかるものの、提案としては願ってもない事だ。まさに渡りに船状態。しかしだからといって、何の疑念も抱かずに食いついていいのかと言えば、そういう訳にもいかないだろう。

 なにせ"丸裸な巨木を満開にする"という無理難題を解くのだ。まともな方法だとは思えない。それがどんな提案かはまだ分からないが、内容によっては大きな損害を被る可能性だってある。問題はその損害を俺が被るか、コイツらが被るかというものだ。前者は問題ない――いや、微妙にあるかもしれないがとりあえず横に置いとく――が、後者は大問題だ。

 もし弥生が『花咲か爺さんの様に、妾が灰になれば……』とか言い出したら俺は泣く。泣きながら『命を大切にしない奴なんて大嫌いだ!!』とか言いそう。口利けないけど。

 思考が何時も通り下らない所まで行き着き、ため息を吐いて考えるのを止めた。まぁ何にせよ、弥生の"方法"を聞かなければ始まらないのは事実だ。俺は改めて辛気臭い空気を漂わせている弥生を見上げた。


『OK、話してみ。どんな突拍子もない事でも聞いてやんよ』

「主?」

『ほら、翻訳翻訳』

「あっ、あぁ……」


 釈然としないといった様子ではあったが、きちんとその旨を伝えてくれる那由他。それを横目で眺めながら、俺はずり落ちかけていた百合子を背負い直した。

 子供は急に電池切れになるが、その分充電も早い。あと一時間もしない内に、また飛び回るようになるだろう。それまでに今後の動きを決めておこう。

 喜色を滲み出しながら降りてくる弥生を見て、俺はそう思った。










百合子 「春なんてなかった」
霧葉ベッタリな春告精。当の本人から"弟認定"を貰うものの、気付かない。

弥生  「私にいい考えがある」
失敗フラグをものともしない狼。何か乙女思想になりつつある。

那由他 「主が居なかったら死んでいた」
相変わらず影が薄い三毛猫。作品が違えば主人公になれた器。何気に死亡フラグ回避。

霧葉  「なにこのひと、こわい」
那由他の姿が自分のものだと気付かない駄目兎。表情の変化はちよちゃんのお父さん並。


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