<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

その他SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[34371] 水色の星A(灼眼のシャナ)【完結】
Name: 水虫◆21adcc7c ID:a7e4b7e3
Date: 2013/06/29 19:29
 
 はじめまして、或いはお久しぶりです。水虫と言います。
 本作はライトノベル『灼眼のシャナ』の二次創作にあたり、同掲示板内に在る『水色の星』シリーズのリメイク作品となります。というのも『水色の星』を完結させた当時、まだ原作の灼眼のシャナが完結しておらず、SSに反映出来なかった部分が多々あり、一から書き直したくなったからであります。
 最初は完結済みの『水色の星』を改訂しようかとも思ったのですが、「旧作の方が良い」と感じる方もいるかもと思い直し、新たにスレを設けさせて頂く事にしました。
 なお、本作は原作の設定などを一部改変する形になります。そういった要素を気に入られない方は予めご了承下さい。
 携帯投稿なので一話ごとの分量は少なく、別作品と二足の草鞋で進むので更新は不定期になると思いますが、よろしくお願い致します。
 
 
 
 
 この世の“歩いてゆけない隣”の世界。“紅世”から渡り来た人ならぬ者達に古き詩人の一人が与えた総称を、“紅世の徒”という。
 彼らは人がこの世に存在するための存在の力を奪い、その力で自身を顕現させ在り得ない不思議を自在に起こす。
 
 ―――思いのままに、力の許す限り滅びの時まで。
 
 そんな徒達のこの世で最大級の集団の一つとして名を知られている組織、名を『仮装舞踏会(バル・マスケ)』という。
 
 何処か世の空を彷徨う宮殿、『星黎殿(せいれいでん)』。『仮装舞踏会』の本拠として永く世界を巡るこの宮殿の一室で………
 
「…………………」
 
 一人の少女が、呆然と座り込んでいた。氷像の如き無表情、一見すれば呆然としているなどと見分けられはしないだろうが、それでも少女は困り果てていた。
 明るすぎる水色の髪と瞳を持つ彼女の名は“頂の座”ヘカテー。『仮装舞踏会』に於いて絶大な尊崇を集める巫女である。その視線の落ちる先には、一枚の陶器……否、“陶器だった物”が在った。
 
「(…………………どうしよう)」
 
 この陶器……外から内に螺旋を描く黒蛇模様の皿は、彼女の物ではない。さらに言えば、いまヘカテーが居る部屋も彼女の私室ではない。
 重ねて言うが、ヘカテーは『仮装舞踏会』で絶大な尊崇を集める巫女である。彼女が少しばかりの粗相をしでかしたとて、文句を言える者など殆どいない。……しかし、物事には大抵の場合“例外”というものが存在する。その数少ない例外こそ、ヘカテーと同じく『三柱臣(トリニティ)』に名を連ねる『参謀』“逆理の裁者”ベルペオル。……この絵皿の持ち主だ。
 
「………どうしよう」
 
 繰り返し、今度は口に出して呟くヘカテー。悪気は無かった。いつもの日課通りの祈祷を終えて、久しぶりにおじ様の近況でも訊こうかとベルペオルの部屋に足を運んで……うっかり台にぶつかってしまったのだ。ぶつかって、台の上に飾ってあった皿を割ってしまったのだ。
 
 ………ヘカテーは、ベルペオルがこれを“完成”させた日の事を憶えている。百年前くらいだろうか、参謀として忙しない日々に追われる彼女が、仕事の合間に興味を持った陶芸に没頭し、まる一ヶ月掛けてその手で一枚の絵皿を完成させたのだ。………うっかり割ってしまいました、などと口が裂けても言えない。
 どうしよう。三度呟いて思考の迷宮に誘われる彼女の脳裏に――――
 
「!」
 
 不意に、神託ではない神の啓示が迸る。人はそれを、閃きと呼ぶ。
 
「(急がないと……)」
 
 思い立ったが吉日。ヘカテーは音も無く星黎殿の内部を駆け抜け、すぐに別室に到着する。扉を“鍵ごと”開いて中に突入すると、目的の物は予想以上に簡単に見つかった。ベッドの横に無造作に放置された煙草の箱である。
 ヘカテーは飛び付く様にこれを入手し、踵を返して再びベルペオルの部屋に戻った。戻って……それを、割れた絵皿の周囲にバラまいた。ここまではスピードの勝負、ここからは……如何に自然に振る舞えるかどうかだ。
 
「んんっ」
 
 小さく一つ咳払いして、ヘカテーは大き過ぎる白い帽子を被り直す。出来るだけ自然な動作で、しかし不自然に速歩きで、ヘカテーは司令室……祠竃閣へと歩を進める。動き自体はごく自然なのだが、一歩一歩の蹴り足で何メートルも進むスピードは凄まじい。
 
(………ゴクリ)
 
 そうして辿り着いた扉の前で、ヘカテーは再び帽子を整えた。扉の向こうに気配は一つ。それが誰かまでは解らない。僅かな緊張を押し殺す様に、ゆっくりと扉を開くと………
 
「おや、如何なされましたか? 大御巫」
 
 ドーム状の拓けた空間の中心、大竃の前に佇むのは……臙脂色の直方体の頭に松明を乗せた大きな蝋燭。『星黎殿』の守護者たる“嵐蹄”フェコルーだ。
 
「………『託宣』に向かいます。『銀沙回廊』を開いて下さい」
 
 ベルペオルではない。その事に安堵しながら、ヘカテーは祠竃閣には足を踏み入れずに右手を伸ばした。それに呼ばれる様にフェコルーの傍の大竃に刺さっていた大杖が宙を舞い、緩やかに回りながら彼女の掌に握られる。
 
「は、はいっ、ただいま……!」
 
 慌てたフェコルーの頭上で松明が揺らめき、ヘカテーの眼前で銀の粒が円を描いた。怖いほど事が上手く進んでいる事に胸を撫で下ろして、
 
「ついでにおじ様の行方についても調べてみますのでしばらく時間がかかるかも知れません」
 
 一息も止めずに言い捨てて、フェコルーが何か口にするより素早く円の中に飛び込んだ。
 
「(うまく、いった……)」
 
 左右に銀雫の烈柱が並ぶ漆黒の道を脱兎よろしく駆けながら、ヘカテーは作戦の成功を喜ぶ。彼女が巫女として大命に携わる時、大杖『トライゴン』は必要不可欠だ。『託宣』と『大杖』、この二つを持ち出せば何の違和感もなく星黎殿から逃げ出せる。
 
「(……帰って来るまでに、ベルペオルの機嫌が治っていますように)」
 
 後ろ暗さから目を背けるべく、彼女の神に祈りを捧げながら―――ヘカテーは外の世界へと舞い降りた。
 
 
 
 
 厚い雲を抜けて、星空の海を泳いで、水色の少女が天より降る。
 『星黎殿』は秘匿の結界を纏って世界を巡る移動要塞。今のルートだと、ここは東方の島国だろうか。
 
「(………まるで、星空)」
 
 見下ろす『この世』……人間の世界は、文明の光を所狭しと散りばめられて、まるで大地に天体を築いたかの様な幻想的な姿だった。“ここ最近の”人間の文化の進歩には目を見張るものがある。紅世の徒の中で『人化』の自在法が一般化しているのも頷ける。
 
「(……どこに降りよう)」
 
 美しさに吸い寄せられる様に着地する……という誘惑を自重する。『星黎殿』を飛び出してすぐの場所では、もしベルペオルに捜索猟兵(イェーガー)を差し向けられでもしたら簡単に見つかってしまう。幸い今は夜、ヘカテーは夜空を奔る一筋の流星となって島国を飛翔する。
 
「(何か……何か……)」
 
 勢いで逃げ出してしまったとは言え、やはりそれなりの体裁は繕わなければならない。……いや、こうして実行に移している内に、だんだん本格的な使命感へと移り変わり始めている。
 
「(おじ様の手掛かり……!)」
 
 “探耽求究”ダンタリオン。彼女らの掲げる大命の協力者であり、替えの利かない貴重な人材……だったのだが、ベルペオルの事を『シイタケよりも嫌い』として、今では協力どころか逃げ回っている。それだけならまだ良かったのだが、彼はあろう事か解析の為に預けた『大命詩篇』を個人的な実験の為に好き放題に扱っているのである。
 逃げに回らせれば並ぶ者のいない厄介者だが、個人的な親交のあるヘカテーならば、見つけさえすれば或いは普通に会ってくれるかも知れない。
 そんな淡い期待を抱くヘカテーの肌に………
 
「(……見つけた)」
 
 予想もしない、間違えようもない、この上なく明確な違和感が突き刺さった。
 徒や“同胞殺し”の持つ存在の力の気配とは違う。在るべきモノが無い、無いにも関わらず過ごしている……そんな“不自然さ”。しかも、離れた空からでも容易く感じ取れるほどの大きな違和感だ。
 
「……この街、ですね」
 
 大鉄橋の道路を跨いで立つ二つのA型首塔、その一方の頂に降り立って、ヘカテーはその街を一望する。
 
 ―――近い未来、彼女にとって運命の地となるこの街……名を、御崎市。
 
 
 
 
 一方その頃、『星黎殿』。
 
「………フェコルー」
 
「は、はい」
 
「シュドナイが帰って来たという話はあるのかい?」
 
「い、いえっ、それは全く……!」
 
「……判っておるよ。訊いてみただけさね」
 
 割れた絵皿と、どう見ても未使用の煙草の散乱した床を見下ろして、三眼の女怪が力無く肩を落としていた。
 
 
 



[34371] 1-1・『外れた世界』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/08/14 18:17
 
 ―――『トーチ』。
 
 紅世の徒が人間を喰らうと、そこに在る筈の存在の欠落によって世界に大きな歪みが生じる。そうして生まれた歪みはいつしか巨大な渦を巻き、紅世もこの世も呑み込む滅亡の時……『大災厄』を招くと言われている。
 その歪みを抑える為の緩衝材としての道具こそがトーチ。人間の全てを喰らわず残し、残した存在で構築される代替品。水面に石を投げ入れれば激しい波が起きてしまうが、ゆっくりと水に浸らせれば波紋は小さく済む。その要領で、トーチは少しずつ存在を薄れさせ、少しずつ人々の認識から外れ………誰に気付かれる事もなく消える。
 
 もっとも、これは大災厄を危惧する討滅の道具……『フレイムヘイズ』の理屈だ。歪みを感知して現れる同胞殺しとの無用な争いを避ける為に、徒はトーチを残して歪みを軽減させる。無粋な殺戮者との介入を避ける為なら扉に鍵を掛ける程度の手間など問題にならない。
 
 “頂の座”ヘカテーが、ここ御崎市に現れたのも、それが理由の一つだった。
 
 
 
 
「えっ、と………」
 
 御崎市の駅前通りに位置する御崎グランドホテルのカウンターで、受付の近衛史菜は困っていた。目の前には小柄な少女。水色の髪と瞳に、大き過ぎる外套と帽子に着られている特徴的過ぎる容姿の少女。そんな少女が……先ほどから恨めしげ(な気がする)視線を近衛から離さないのだ。
 
「あの、ね? お父さんとかお母さんとかは一緒じゃないのかな?」
 
 彼女はただ、未成年の子供にホテルの部屋は貸せませんよと至極当たり前の事を言っただけだ。何も問題は無い筈なのだが、少女は首を縦に振ってはくれない。ただただ無言で、近衛に不服の視線を送って来る。5分か、10分か、それともほんの数秒か、何とも言えない対峙を経て………
 
「あ……っ」
 
 水色の少女は何も言わずに踵を返して引き上げる。途中 一度だけ振り返って、近衛の顔……ではなく胸の辺りを見てから、ゆっくりとした歩調で自動ドアを抜けて行った。
 
「(………何だったんだろ、今の)」
 
 何故か異様に蓄積された疲れを吐き出す様に、息継ぎよろしく溜め息を漏らす近衛。普通なら家出なり迷子なりと判断して警察にでも電話する場面だったのだが……それが出来なかった。そうしようと考えるだけの余裕を、少女のプレッシャーが与えてくれなかった。
 中学生かどうかも怪しい、小柄で可愛らしい少女が、である。
 
「(………まさか、ね)」
 
 そんな筈は無いと、彼女は自分の馬鹿な……実は的中している推測を一蹴した。
 
 
 
 
 その日。
 
 その日も、坂井悠二は当然のように自分の日常の中に暮らしていた。
 
「敢えて殻を脱ぎ捨てて大物に擬態する、その精神に憧れようと思います!」
 
 家庭は中流。成績は中学の時から中の上下を行ったり来たり。高校一年の4月末、中学の頃に比べればややの破天荒を伴いながらも、新しい高校生活を満足して送っていた。
 
「殻って言うか貝だと思うけど。それに、カニは大物に擬態してるつもり無いと思うよ」
 
「カニ違う、タラバガニはヤドカリ!」
 
 その日も、中学以来の友人・池速人が一年の癖に予備校などに行ったので、クラスメイトの平井ゆかりと一緒に駅前のCDショップなどに寄った帰り道……という、最近では珍しくもない日常を過ごしていた。
 
「ゴールデンウィークどうする? 何か予定とか入ってる?」
 
「ん〜、お父さんが旅行連れてってくれるとかくれないとか」
 
「了解。また決まったら教えて」
 
 その日、その時まで……悠二はこんな日常が永遠に続くと思っていた。……いや、そこほでの確信も持たず、当たり前のように無根拠な確信の中にいた。
 しかし、そんな日常は、確信は、あまりに呆気なく燃え落ちた。
 
 ―――あるいは、燃え上がった。
 
 
 
 
 晩御飯の買い出しがあるからと、平井ゆかりと別れて5分。たったそれだけの距離が、彼の日常を置き去りにした。
 
「(………えっ?)」
 
 突如として視界に満ちる炎、同じく火線によって描かれた複雑な紋様が広がり、陽炎の壁が異様な世界を隔離する。
 
「(何だこれ……)」
 
 そんな世界で、それまで何事もなく日常を生きていた全ての人々が、唐突に、不自然に、その動きを完全に止めていた。悠二一人を除いて。
 
「(何だこれ……!)」
 
 間を置かず、雑踏の真ん中に重い音を響かせて何かが着地する。マヨネーズのマスコットキャラクターそっくりの巨大な人形と、有髪無髪のマネキンの頭を出鱈目に集めた玉。そんな姿の、“化け物”。
 
「(何だこれ!?)」
 
 もはや悪夢さえも通り越した、全く馬鹿な光景だった。あまりの有り得なさに声も出ない。なのに、それを笑い飛ばす事も出来ない。“それでも現実は止まらない”。
 
「いただきまぁ〜す!」
 
 人形の口が耳まで裂けて、首玉の口が横一閃にパックリと開かれる。途端―――制止した人々が猛烈な勢いで燃え上がった。その炎は悠二を焼かず、熱も持たず、しかし異常な明るさを持って……糸の様に細まって化け物の口に吸い込まれていく。
 炎の内に在る人々は燃えない。髪を焦がされる事も肌を爛れさせる事も無い。ただ………吸い込まれるに従って炎を小さく、弱く、薄くさせていく。
 
 悠二はそんな光景を、ただ放心の中で眺めていた。こんな状況に在って、それ以外の何が出来ると言うのか。
 
「ん〜? 何だこいつ」
 
 このまま全てが終われば、この出来事を不可解な悪夢として、再び日常に戻れたのかも知れない。だが、そんな事は起こり得ない。耳まで裂けた人形の眼が、遂に立ち尽くす悠二の姿を捉えた。
 
「御徒ではないわね。“ミステス”……それもとびきりの変わり種という事かしら。ご主人様に良いお土産が出来たわ」
 
「わ〜い、ボク達お手柄だぁ〜!!」
 
 この世界に取り込まれた時、すぐに逃げ出せば何とかなったのだろうか。……いや、そんな事は無いだろう。理由は判らないが、皆が止まっている中で一人だけ動いている自分が異質な事くらい判る。逃げ出せば即座に見つかり、あっという間に捕まっていただろう。
 
「……う、うわ……!」
 
 こんな風に。
 だから、何をするにも遅過ぎたのだ。この煉獄の世界に取り込まれた時点で。
 
「(死ぬ――――)」
 
 巨大な掌に胴体を乱暴に掴まれ、振り回され、持ち上げられ、向かう先は彼を一呑みに出来る巨大な口。
 全てを諦め、ただ死を待つだけの彼の視界が……
 
「え……?」
 
 支えを失って下に、流れた。一拍遅れて―――
 
「ぎゃああああああ!!?」
 
 耳をつんざく様な化け物の悲鳴が響き渡る。その音に根源的な恐怖を覚える寸前で、尻、背中、頭の順に路面に打ち付けて激痛に苛まれた。
 
「(た、助かった……?)」
 
 その痛みすらも生への安堵に塗り潰される直後、先ほど悠二を掴み上げた怪物の腕……その肘から先がボトリと、悠二の隣に落ちた。
 
「うわあぁ!?」
 
 蜥蜴の尻尾の様に藻掻き動いて燃え朽ちる腕のおぞましさに、しりもちを着いたまま無様に後退る。
 そうして距離を取る事で、その姿を見た。
 
「―――――――」
 
 血のように赤い夕焼けの中で、日常から外れた逢魔が時で――――彼と彼女は、出会った。
 
 
 
 
 純白の法衣に身を包んだ、明る過ぎる水色の髪と瞳の少女。淡い光を灯す、怖いくらいに澄んだ姿に見惚れること数秒………
 
「いぃ痛いッ……痛い痛い痛い痛い痛いィ! よくもボクの腕をーーー!!」
 
 腕をもがれた怪物の苦悶の声が、悠二を目前の危機へと引き戻した。ここに到ってようやっと、悠二は先ほど何が起こったのか本能的に理解する。あの怪物の腕を、あの少女が落として、結果自分は助かったのだと。
 
「待っ……」
 
 首玉が何か、制止の様な言葉を掛けようとする。それを待たずに、我を忘れて豪腕を振り上げる怪物を……少女が横目に一瞥した。
 それだけ、たったそれだけで………怪物は声を上げる事すら出来ずに水色の炎に呑まれて呆気なく消えた。
 悠二はやはり、黙って見ているだけ。
 
「………部下の非礼をお許し下さい、御徒。しかし……一体どういうおつもりですか?」
 
 仲間がやられたというのに、首玉は反撃するでもなく頭を下げ、やけに丁寧な口調で少女に謝る。………言葉の最後に詰問に似た問い掛けを混ぜて。
 少女は応えない。目すらも向けない。ただ一歩ずつ足を進めて………悠二の前にしゃがみ込んだ。
 
「……ぇ、あ?」
 
 この行動に、悠二は大いに驚いた。自分は巻き込まれた側だと認識していた為に、少女が化け物を無視して自分に向き合うなどと考えもしていなかったのだ。
 狼狽する悠二にも、やはり少女は構わない。傍らの路面に錫杖を突き立て、目を閉じ両手を組んで制止しまった。その姿は……まるで神に祈りを捧げる巫女そのもの。
 
「…………やはり、手が加えられているようですね」
 
 やがて抑揚の無い声で呟いた少女は緩やかな動きで立ち上がり、やっとそれまでずっと待たせていた首玉の方を向いた。
 
「……これは私が貰います。帰って主にそう伝えなさい」
 
 そして、一方的に自分の要求だけを告げた。自分たち……ではなく、自分たちの主をも軽んずる物言いに、流石に首玉の空気が不穏に変わる。
 
「御言葉ですが、ここは我が主の住まう狩場。それを無遠慮に荒らすというなら、主も黙ってはいませんよ」
 
「ならば選んで下さい。その口で私の要求を主に伝えるか、それとも自身の消滅を以て私の存在を主に知らせるか」
 
 脅しと、脅し。しかし、それの持つ意味がまるで違う事は、傍で見ているだけの悠二にもハッキリと判った。両者の間に漂う空気が、力の差を歴然と物語っている。
 
「………………」
 
「………………」
 
 一方にだけ、緊迫と恐怖を与える沈黙が数秒、
 
「……………仕方、ありませんね」
 
 諦めた様な首玉の呟きと………
 
「ッあああああぁぁ!!?」
 
 “首玉でも少女でも無い絶叫”が、悠二の真後ろで木霊した。
 
「な、何で……!?」
 
 堪らず振り返るとそこには、初めて見る女性……“三体目”が、水色の炎に焼かれて崩れ落ちていた。
 
「それがそちらの応えですか」
 
 その少女の呟きが、悠二に“自分が狙われた”という事を気付かせる。奇襲の失敗に覚悟を決めたのか、首玉も先までの物分かりの良い仮面を脱ぎ捨てて鬼の形相で少女に突っ込んで来た。
 数多の首全ての口が限界まで開かれ、そこから薄白い炎の弾丸が少女に放たれる。
 
「消えなさい」
 
 それも、全くの無意味。少女の掌から放たれた水色の炎に容易く蹴散らされ、首玉もまた……叫びすら許されず無に帰った。
 
 怪物の消えた、未だ燃え続ける陽炎の世界で、悠二は少女の背中だけを眺めていた。
 
 
 



[34371] 1-2・『トーチ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2015/05/23 20:18
 
 突然現れた三体の化け物は、突然現れた一人の少女に一方的に屠られ、消えた。
 陽炎の煉獄は続いている。変化は二つ。化け物が消えた事と、空間の中で踊っていた薄白い炎が、いつの間にか少女と同じ明る過ぎる水色に塗り替えられている事だけ。依然として人々は制止したまま、この異様な空間も健在だ。
 
「っ………」
 
 首玉を焼き散らした少女が、ゆっくりと振り返る。眼と眼が合った気がして、悠二の背筋に冷たいものが走り抜けた。
 確かに、この少女の介入が無ければ悠二は間違いなく死んでいた。……だが、だからと言って、どうして安心する事など出来ようか。この、どう見ても得体の知れない少女は……間違いなく、坂井悠二を、造作もなく消し去れる。
 見た目の姿に左右されない、どうしようもない恐怖を抱かされるほどの力を少女は持っている。
 その小さな掌が、地に突き立てた錫杖を握り……
 
「―――――」
 
 投げた、と認識した時にはもう、錫杖は悠二の脇腹を撃ち抜いていた。
 
「は……あ―――!?」
 
 そんな風に、錯覚した。
 錫杖は悠二に刺さってなどおらず、制服の脇腹を掠めて破っただけ。その三角頭の杖先が貫いたのは悠二ではなく……
 
「ちぃっ!」
 
 悠二の背後……ついさっき燃やされ、今も燃えている美女の身体。錫杖の突き立てられたその身体から、舌打ちを一つ残して……小さな人形が飛び出した。
 茶色い毛糸の髪、青いボタンの目、赤い糸で縫われた口という造りの粗末な人形が、脇目も振らずに陽炎の外へとその姿を消す。
 
「…………逃げた?」
 
 呆然とそれを見送る悠二の背後で小さな靴音が聞こえて、弾ける様に振り返る。警戒と困惑に溢れた悠二の心中などお構い無く、少女は軽い足取りで歩み寄り、今度こそ消滅した美女……の倒れていた路面から杖を抜く。その先端には炎が……先ほど人々から吸い上げられた炎が燃えていた。
 
(シャラン………)
 
 燃える錫杖の先端、幾つも束ねられた三角形の遊環が澄んだ音色を響かせる。それに伴って、炎が火の粉となって四散した。
 もう何度目か、悠二は驚愕する。
 
「す、凄い……!」
 
 周囲に散った火の粉は異界の中のあらゆる物を癒していく。砕かれた路面も、少女の炎で爆砕された店頭も、そして……鬼火めいた炎を怪物に吸われた人々も。
 
「(やっぱり良い人、なのかな………)」
 
 漠然と胸の内に広がっていた恐怖が急速に解けていく。得体の知れない絶対的な強者……という認識が、怪物を倒し→街や人を治すという一連の行動を経て、最低限の想像の余地を与えてくれた。即ち、『怪物を倒す正義の味方』である。
 
「(ッ…………違う!)」
 
 直後、反射的に悠二が否定したのは、自分の妄想に対してではない。その前の、何もかもが元に戻ったという錯覚の方だ。
 確かに雑踏は以前の姿を取り戻した。一見すれば欠けているものなど無い。だが代わりに、明確な異物が残っている。
 化け物に炎を吸われた人々の胸の辺りに……小さな灯りが点っていた。酷く儚く、頼りない、消えかけの蝋燭の様な灯火が。その炎に良い知れない不安と絶望を感じる悠二の前で、
 
「あ…………」
 
 少女の杖が、小突く様に路面を打つ。それを合図に、陽炎の空間が消え去った。
 日常が……帰って来た。
 
 今や、あれが夢ではなく現実だと証明できるものは……人々の胸の灯火と、未だ目の前で悠二を見上げる少女だけ。異界の消滅と共に杖は何処かに消え、水色の髪と瞳はホタル染みた光を潜ませている。それでも少女はそこにいた。
 
「え、と、その……ありがとう……でいいのかな?」
 
 最初に言うべき言葉は何か、迷った挙句にそんな事を口にする。彼の常識的には正しい選択の筈なのに、酷く的外れな事を言った気がしてポリポリと頬を掻いた。
 
「…………………」
 
 少女は応えない。微妙に、首を傾げたような気がしなくもない。何だか、このまま会話が成立しないまま立ち去ってしまう予感がして………
 
「あの、ちょっと教えて欲しい事があるんだけど、いいかな?」
 
 慌ててそれを口にした。これから先、来るかどうかも判らない不可解な脅威に怯えて過ごす事になるのではないか? そんな焦燥が、おっかなびっくり少女の目を見つめさせる。
 
「…………ええ」
 
 短く、しかし簡単に、少女は初めて悠二と言葉を交わした。そのまま彼の袖口をつまんで、小さな歩幅で悠二を引っ張り歩きだす。
 悠二はされるがまま、まだ混乱は抜けていないが、抵抗は無駄……或いは危険である事は理解できた。
 
「(……これから、どうなる?)」
 
 ほんの数分前の日常が、どこか遠い過去のものであるかのように思えた。
 
 
 
 
 夕暮れを過ぎ、黄昏を迎えた公園。晩ご飯に胸を弾ませ帰る子供たちと入れ替わる形で、二人はそこの東屋に座り込んでいた。
 
「……………………」
 
 喉が渇く、それは不規則な呼吸によるものだ。
 ベンチに座っているというのに、よろめいた。平衡感覚が怪しい。
 
「(…………酷過ぎる)」
 
 紅世の徒………人間の存在を喰らってこの世を謳歌する隣人。それが喰った痕跡を消す為に残す誤魔化しの代替品……トーチ。
 
 何もかもが荒唐無稽過ぎて、未だ夢の中にいるかのように思える。……いや、思いたい。しかし悠二の眼に焼き付いた光景は、身体に残る痛みは、それを『現実だ』と訴え掛けて来る。
 
「(はは……何やってんだろうな、僕は)」
 
 何よりも最悪なのは今、この状況。他人ではなく自分の胸に宿る灯火。“坂井悠二が既にトーチである”事の証。
 
「…………僕はさっき、あの化け物に喰われなかった。だから僕は……トーチじゃない」
 
 実際に灯火は胸に燃えているのに、今さら過程に何の意味も無いのに……失った大切なものを渇望する未練は、みっともなく“人間”に縋りつく。
 
「喰われたのは それ以前だったのでしょう。この街はトーチが異常に多いですから、二度襲われても不思議ではありません」
 
 もちろん、そんな拘泥は簡単な理屈で軽く一蹴されてしまう。突然目の前が真っ暗になって、悠二は頭を抱えてうなだれた。
 
「(………何やってんだ、ホントに)」
 
 安心したいから……もう巻き込まれる危険は無いと思いたいから、話を聞きたいなどと言い出した。………だと言うのに、これは一体何だろうか。
 蓋を開けてみれば、坂井悠二はとっくに死んでいて、ここに残っているのはその残り滓。消えれば誰の記憶にも残らない影。安寧を求めて少女について来たのに、この先で待っているのは消滅の恐怖に怯えるだけの日々だ。
 
「…………僕、もう帰るよ」
 
 もう、今は何も考えられない。感覚の麻痺した頭で、もう遅い、とぼんやりと思って、無気力な身体を立たせて背を向けた。
 
 と………
 
「…………………」
 
 その袖口を、再び少女が掴んでいた。変わらず無表情の唇が……
 
「……貴方は只のトーチではありません。無作為にこの世を転移する宝具を宿した“旅する宝の蔵”、『ミステス』です。誰もが制止した封絶の中で動けたのも、内に宿るその宝具のおかげでしょう」
 
 平然と、衝撃的な事実を告げた。だがもう、大抵の事では今の悠二は驚かない。
 
「先ほどの燐子はそれを狙っていました。必ずまた現れるでしょう」
 
「…………え?」
 
 と思った矢先に、驚くどころか凍り付いた。
 脳裏から視界に、煉獄の空間が、不気味な姿の化け物が……存在を喰われる人々が蘇る。
 
「私から離れないで下さい。敵が私の存在を知れば、或いは何事もなく手を引くかも知れません」
 
 そんな地獄に、救いの手が差し伸べられた気がした。不覚にも胸を打たれた悠二は、少し強く手を引かれてベンチに座り直される。
 ………そうして、再び公園に静寂が降りた。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 そこから、少女は何のアクションも起こさない。ただ黙ってベンチに座っているだけ。……そこはかとなく、嫌な予感がした。
 
「………もしかして、ずっとこの公園に居るつもりなのか?」
 
「彼らが再び人を喰らう為に封絶……先ほどの空間を張れば、こちらから出向きます。次も譲歩しないようなら、互いに炎を交える事になるでしょう」
 
 悠二が訊きたいのはそういう作戦の話ではなかったのだが、それでも今の言葉で大体わかった。この少女は、本気で公園で夜を明かすつもりでいる。……とはいえ、改めて考えれば無意味な質問だったかも知れない。彼女の寝床が公園だろうと高級旅館だろうと、悠二は母に無断で外泊するつもりなど全く無いのだから。………たとえ、いつか自分を忘れてしまうのだとしても、今の坂井悠二を心配する事は間違いない。
 
「……あのさ、相手のアクションを待つ場所は、別に公園じゃなくても構わないんだよな?」
 
 少女の眉が、ぴくりと動いた。
 ………坂井悠二は気付かない。いや、さらなる危険を避ける本能が、無意識の内に思考の隅に追いやっていたのかも知れない。
 紅世の徒、世界の歪み、自分の死、この世の本当の事。これだけの話を聞かされてもまだ――――悠二は、彼女が何者であるかを聞いていなかった。
 
 
 
 
 依田デパート………御崎大橋の袂から周囲より頭一つ抜けて聳える廃屋の屋上の縁で、亡霊染みた白い影が揺れている。
 
「昨日から気配は感じていたが……なるほど、よりにもよって“王”だったか」
 
 全身に白のスーツを身に付け、その上に同色の長衣を靡かせる美青年。その左腕の上には粗末な人形が抱かれ、その右腕は人形の頭を愛おしそうに何度も繰り返し撫でている。
 
「申し訳ありません、ご主人様。私の判断で勝手な真似を……」
 
「ああ……そんな悲しい声を出さないでおくれ、マリアンヌ。私が君のする事に不満を感じるはずがないじゃないか」
 
 人形の重い自責に泣きそうな顔を作り、その顔を擦り寄せる。青年と評すべき外見の男が粗末な人形に悶える姿は、その身に纏う気配も相まって凄まじい違和感を放っている。
 
「少し、考えていただけだよ。縄張りに踏み込んだ獲物を、いかに追い詰めて狩り獲るかをね」
 
 青年の言葉に偽りは無い。大きな目的を控えた今、出来るなら無粋な客など招き入れたくはなかったが………興味がそれを上回った。
 
「(明るすぎる水色の炎……彼女が自ら動くほどの宝具)」
 
 だが、不安も在る。彼もまた強大な紅世の王、凡百の徒など造作もなく捻り潰す力を持っているが……相手はあの“頂の座”。相手の力はまるで未知数な上、彼が必殺を誇るのはあくまでフレイムヘイズなのだ。
 
 それでも引き下がる理など無い。神を失った巫女など、何を恐れる事があろうか。
 
「狩ってしまおう、マリアンヌ。“狩人”の真名に従ってね」
 
 数多の灯火の散りばめられた街を眼下に収めて、王の嘲笑が響き渡る。
 
 
 



[34371] 1-3・『紅世の徒』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/08/14 18:18
 
 いつもより少し遅い坂井家の夕食。いつもなら母と二人で食べる食卓の席に、本日はとびきり変わった客人が追加されていた。水色の髪と瞳に白の法衣、マナーとして大きな帽子は外している小柄な少女である。
 この、どう見ても一般的な日本人ではない少女を連れて来た際に、悠二が母・坂井千草にしたのは……
 
『………道に迷って困ってたし、泊まる場所も無いって言うから連れて来たんだ』
 
 という、説明にもならない説明だった。それも仕方ない。頭を捻って色々な作り話を考えてはみたが、その全てが信憑性の欠片も無い胡散臭い言い訳にしかならなかったのだから。
 何も訊かずにおいて欲しいという悠二の願いを知ってか知らずか、千草は快く……というより大喜びで少女を遇した。大らかなのか呑気なのか判らない母の性格が、こんな時は物凄く有り難い。
 
「………………」
 
 依然として、少女の表情に変化は無い。しかし右手にフォークを、左手にナイフを、取り皿を挟んで垂直に握っている様子からして、少なくとも不機嫌であるようには見えない。むしろ夕食を待ち侘びているようにすら見える。
 
「ちょっと悠ちゃん、運ぶの手伝ってくれる?」
 
 お呼びが掛かったので、何だか気怠い身体を立たせてキッチンに迎う悠二。そこに、嬉しそうな笑顔でオムライスを完成させた母の姿。
 胸に灯火は、無い。帰ってすぐに確認した事実を再び認めて、悠二はバレないように安堵した。と同時に、“自分の事”を思い出して落胆した。
 
「この上オムライスまで、作り過ぎだろ!?」
 
「悠ちゃんがガールフレンドを連れて来るなんて初めてだもの。お母さん頑張っちゃった」
 
 知らぬ間に、とんでもない誤解が生まれていた。さらに三割増しの笑顔になった母に何か文句を言おうとして……止めた。ここで慌てても、照れ隠しとか言われるのは目に見えている。
 
「はいはい。食べきれなくて残っても知らないからね」
 
「も〜照れちゃって、貫太郎さんとの事を思い出すわ〜」
 
 どちらでも同じだった。いつもの惚気話に突入する前に足早に食卓へと避難すると、先に並べられていたエンドウの湯葉巻き揚げが一つ減っていた。少女は先ほどと同じポーズのまま、素知らぬ顔で座っている。
 
「………食べた?」
「何をですか」
 
 無表情の上にも無表情に、少女の即答が反射した。別にいいけど、と呟いて、悠二はオムライスを置いて席に着く。それは千草も同様で、人の良さそうな笑顔で「まあまあ」などと言っている。
 
「待たせちゃってごめんなさいね。それじゃ、えっと………」
 
 椅子に座った千草の言葉が、止まる。それが、呼び方に困ったのだと気付いた時――――
 
「(………あっ)」
 
 慌てるよりも先に、悠二は自分自身に呆れた。名前に関するフォローを入れるどころではない。あれだけ衝撃的な『真実』をいくつも教えられたというのに、悠二はまだ彼女の名前すら訊いていなかったのだ。
 
「……近衛史菜です」
 
 そんな悠二の内心の動揺など意に介さず、少女はあっさりと……悠二の懸念など必要なかったような無難な名前を口にした。
 
「うん。なら、近衛さん。たんと召し上がれ」
 
 千草の一言を合図に、「いただきます」もなく少女のフォークがブリ大根の煮付けに伸びる。無表情に……いや、何かに衝き動かされるような真剣な顔で次々と料理を攻略していく少女の姿に、今度こそ千草は満面の笑顔を咲かせた。
 
「(……こんなのも、悪くないな)」
 
 悠二もまた、その一生懸命な食べっぷりに僅か胸を解きほぐされる。
 
「(……………これさえ、無ければ)」
 
 全ての暖かさが反転させる灯火を宿す胸に、悠二は我知らず爪を立てていた。
 
 
 
 
 夕食を終え、食器を引き、少女が何故か千草と一緒に風呂に入った後、
 
「それで、君の本当の名前が知りたいんだけど」
 
 悠二の部屋で、悠二のジャージを着た少女に向けて、悠二は漸くそれを訊いていた。
 
「“頂の座”ヘカテー。それが私の名前です」
 
「ヘカテー、か」
 
 あれだけ色々と話してくれたのに名前だけ言えないという事もないだろうという予想に違わず、少女……ヘカテーはあっさりと教えてくれた。
 
「じゃあ、ヘカテー」
 
 そうして、目の前の少女の名称をはっきりさせてから、問う。―――自分が今まで、目を背けて来た問題から。
 
「君は一体、“何”なんだ」
 
 千草がヘカテーの名前に着目した時、悠二は自分が彼女自身について何も知らない事に気付いた。それから夕食、食器洗い、入浴と、考える時間は十分にあったのだ。
 余計な前置きも、小賢しい探り合いも無意味。それだけの、絶対的な力の差がある。今の悠二に判るのはヘカテーの力と、守ってくれた事実と、そして……紅世の徒の存在だけ。
 
 間違いなく人間ではない。まだ悠二の知らない別の何かなのか、それとも………
 
「…………………」
 
 不安と等量の、期待。
 化け物を倒して、助けてくれた。不要な手間を裂いて、この世の真実を教えてくれた。判りにくいけれど……人間味のある一面を見せてくれた。
 
「紅世の徒……人を喰らう事でこの世に存在する、“隣”の住人です」
 
 ―――そんな希望は、いとも容易く砕け散った。
 
「…………………」
 
 可能性の一つとして覚悟していたからか、問い掛ける前に恐れていたほどの衝撃は、無かった。
 
「君も……人を喰うのか……?」
 
「必要とすれば、喰らいます」
 
 それも少し、違う。
 一縷の望みが砕かれた落胆と失望は、確かに今も身体全体を冷たくさせている。
 
「……どうして僕を、助けたんだ……?」
 
「貴方の宿す宝具が必要だからです」
 
 だけど、そんな深い絶望を遠くから見つめているような、不思議な冷たさがあった。
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 そこで、言葉は途切れる。訊きたい事が沢山あったはずなのに、彼女の正体を知った今、それが正しい事なのかどうか判らなくなった。
 黙り込んでしまった悠二の態度を会話の終わりと判断してか、ヘカテーはすっと立ち上がってドアへと向かう。
 
「待―――」
「貴方の母を喰らうような真似はしません」
 
 咄嗟に出た制止の声を一方的な言葉が遮り、バタンと閉じた扉が会話の続行を封じた。
 
「喰わない、か………」
 
 その保証に、一体どれほどの意味があろうか。相手は人喰いの化け物、人間……いや、トーチとの約束など平然と破って何の不思議も無い。
 だが、それ以前に……あんな言葉自体が不要なのだ。悠二の意思も抵抗も、全てを無視して実行する力が彼女にはあるのだから。
 仮にヘカテーの気が変わって千草を喰おうとしたところで、悠二にはどうする事も出来ない。むしろ、ヘカテーを警戒する余りに彼女の機嫌を損ねる方が怖かった。
 
「(………紅世の、徒)」
 
 それでも、心配である事に変わりは無い。
 結局悠二は、嫌な想像を何度も繰り返しながら、一人でひたすらに背筋を冷やしながら、しかし先の考えに従って行動に移さず、電気も消さずベッドにも行かずに長い長い夜を明かした。
 
 
 
 
 明くる土曜の朝、10時。真南川を跨いで御崎市を南北に二分する大鉄橋・御崎大橋の上を、大小の影が並んで歩く。
 言わずもがな、恐怖と自責に苛まれて殆ど一睡もしていない坂井悠二と、千草と同じ布団の中で心地好い安眠を堪能したヘカテーである。
 わざわざ出歩いているのは、別の徒を探しての事ではない。無駄な努力と知りつつ千草とヘカテーを引き離す作業の一環だ。
 
「(………これが普通、なのかな)」
 
 一晩悩み続けて気持ちが麻痺しているのか、それとも諦めの境地にでも入ったのか、悠二は殆ど平然とヘカテーと一緒に歩いていた。昨晩、ヘカテー自身の口から彼女は紅世の徒だと聞かされているにも関わらず。
 
「(……僕って、実はかなりドライな奴だったのかも)」
 
 そんな自分にゲンナリする。昨晩の事にしても、普通は理屈で解っていたとしても『居ても立ってもいられない』状態になるものなのではないだろうか。
 ………しかしまあ、そんな事は目先の脅威に比べれば余りにも些細な悩みだ。
 
「つまり昨日の化け物は燐子って奴で、紅世の徒の手下。もっと強くて危険な親玉がいる、と」
 
「……はい。あれだけ精巧な燐子を複数操っていた以上、恐らくかなりの力を持つ『王』でしょう」
 
 ヘカテーは昨日と変わらない。一つ訊けば気になる事を全て答えてくれるし、無口なわりには理路整然とした説明をしてくれる。
 
「(こんな事聞いても、意味無いのかも知れないけど)」
 
 どうせ近い内に消える残滓。聞いたところで何か出来るわけではないし、何を残せるわけでもない。
 
「……ヘカテーって、結構説明上手だな」
 
「この世に渡り来た徒に訓示を授けるのも、私の役目の一つでしたから」
 
 それでも悠二は、ヘカテーに話し掛ける。彼女にとって自分が、『宝物の入った容れ物』でしかないとしても。今もそう、ヘカテーが悠二について来ているのではない。悠二がヘカテーを連れ出した。そして、それはきっと……母を案じての事のみではない。
 
「(………ああ、そうか)」
 
 母の姿を思い浮かべていると、唐突に胸の奥に落ちる納得があった。
 坂井悠二はトーチ。燃え尽きれば、母親からも忘れられる陽炎。後には何も遺らない。しかしそれは、この世のものに限っての事。
 誰の記憶からも消える。そんな事が言えるのは、記憶の消えない者だけだ。でなければ、消えたかどうかすら解らないのだから。
 
「(ヘカテーになら、残せるんだ………)」
 
 誰かに憶えていて貰える。つまり坂井悠二は、それを欲しているようだった。
 
 ―――たとえ、それが紅世の徒だとしても。
 
 
 



[34371] 1-4・『平井ゆかり』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:6082beec
Date: 2012/08/14 18:18
 
 無意味に住宅地を練り歩き、のんびりと御崎大橋を抜け、人ごみ溢れる市街地にまで足を運んだ悠二とヘカテー。時間も頃合いと、適当に目についた無難なファミリーレストランに入り、向かい合って座り込む。
 
「存在の力を使って起こす異能が『自在法』。昨日の『封絶』ってやつとかか」
 
「はい。それについては、この場で説明は出来ません。どんな徒がどんな力を持っていても不思議ではないと思って下さい」
 
 最初は人の多い場所にヘカテーを連れて行く事を躊躇していた悠二だが、そんな警戒に意味など無いと思い直してやって来た。どこにいようと、詰まる所ヘカテーの気分次第なのだ。
 宝を狙う怪物と怪物。悠二はその宝を容れている箱でしかない。全く無力で、なのに一番近くで異能者たちの宝の奪い合いを眺めざるを得ないちっぽけな存在。
 だと言うのに、悠二の心は自分でも不思議なくらいに冷静だった。
 
「そう言えば、どうしてヘカテーは僕の宝具だけ取り出して行かないんだ? 昨日の燐子はそうしようとしたよな」
 
 こんな風に、自分にとって鬼門とも言える疑問を、簡単に口に出来るほどに。
 
「その宝具には“戒禁”……それを奪おうとする者に攻撃を加える自在法が刻み込まれています。不用意に手を出せば、私でも只では済まないほど強力なものです」
 
「ネズミ取りみたいなもんか……って事は、昨日の燐子はそれに気付いてない?」
 
「私が気付けたのは特別です。燐子どころか恐らくその主でも、実際に発動するまで気付く事はないでしょう」
 
 奇妙な感覚だった。
 とっくに死んでいる。生きていた残滓もいずれ消え失せ、誰の記憶にも遺らない。消滅を待つだけの身で、よりによって紅世の徒と街歩きなどしている。それが何だか、怖いというよりも面白かった。
 
「こっちから封絶を張って、相手を誘きだすわけにはいかないのか?」
 
「……無駄だと思います。未だに接触を試みて来ないのは、大人しく宝具を渡す気が無いからでしょう」
 
 今の状況や、紅世の徒であるヘカテーにでは無い。そんな相手にでも自分の事を憶えていて欲しいと思っている自分自身が、本当に可笑しかった。
 
「……結局、後手に回るしかないんだなぁ」
 
 自分の事、自分を狙う徒の事、消えるまでに訪れる災難を予期して悠二は椅子に沈み込む。
 出来れば二度とあんな怖い目に遭いたくはない。それでもせめて、状況くらいは選びたかった。周りに人が大勢いる時、家で千草と一緒にいる時、月曜になれば行く事になる学校、避けたい時は沢山ある。しかし、それすらも叶わないらしい。
 
「……散策を続けましょう。運良く敵に近付ければ、気配で居場所を特定出来るかも知れません」
 
 そんな悠二の前で、真面目な顔のヘカテーは……ミートスパゲッティを懸命に攻略している。別にふざけているわけではない。要するに、それだけ悠二とヘカテーは立場が違うという事だ。
 
「(こうしてると、ホントに普通の女の子なんだけどな……)」
 
 月並みなセリフを心中で吐いた悠二は、その直後に首を横に振った。絶対普通じゃない。
 ファミリーレストランのボックス席で口いっぱいにスパゲッティを含むヘカテー、という空間のおかげか、やや場違いな余裕が湧いて来る。つまりは、「こんな所をクラスメイトに見られたら、変な誤解を受けそうだなー」といった類の心配が出来る余裕である。
 
 そして………
 
「…………………」
 
 このテの災難というものは、それを怖れる者か、それを完全に見落としている者のどちらかの下に訪れるものなのだ。
 ………レストランの窓の外で、わざとらしいほど面白いポーズで驚愕している友人二人など、その最たるものだろう。
 
 悠二が気付いた事に気付いた長身細目の田中栄太が、何を思ってか突撃する勢いで動き出し、その肩に手を置いて止めた美少年……と言えなくもない佐藤啓作が訳知り顔でかぶりを振る。小芝居めいたジェスチャーを披露した二人は、“空気を読んで”その場を去った。背中越しに立てた親指を見せ付けるのも忘れない。
 
「あいつら……よく道端であんな恥ずかしい事するな」
 
「…………?」
 
 負け惜しみ染みた蔑みが、声となって悠二の口から零れ落ちた。
 
 
 
 
 昼食を済ませ、レストランを出た悠二とヘカテー。先ほどの一件があったせいで、人目のある場所は避けようか……などと考えもした悠二だが、その愚考を振り払って駅前通りに向かっている。
 
 ヘカテー曰く、近くに行けば気配で敵を見つけられるかも知れないのだ。大事の前では甚だしく小事である。……どうせあれも、坂井悠二が消えれば忘れ去られる記憶だ。
 
「(そんな事より、二人の胸に灯火が無かった事を喜ぶべきだろ)」
 
 田中栄太も、佐藤啓作も、人間だ。喰われてトーチになってはいない。それに安心すると、次に湧きだすのは不安。二人が無事だったのは偶然に過ぎない。つまり、“そうだとしても不思議は無かった”。
 
「どう? 敵の気配とか、何か気付いた?」
 
「………解りません」
 
 そうだとしても、やはり事態は簡単に好転などしない。元より無力な悠二の自意識程度で何が変わるわけもないのだが。
 
「(どうしようもない、この世の真実か………)」
 
 活発な駅前通り、考え事にばかり没頭していたらヘカテーを見失ってしまいそうな雑踏の中、また一人トーチが見えた。
 母親に手を引かれて歩く小さな男の子。それが擦れ違い様に中学生にぶつかって、繋いだ手が離れた。ぶつかった中学生は気付かない。手が離れた母親も気付かない。そうして気付かれないまま……転んだ少年は地面に倒れる前に消えた。
 
 ……今日だけでトーチは何人も見てきたが、消える瞬間を見るのは初めてだ。
 こんな、さして大きくもない街で、これだけのトーチが……喰われた人間がいる。酷過ぎる、しかし誤魔化せない現実。
 
「そういえば……この街のトーチは多いって言ってたっけ」
 
「………はい、異常と言っても良い数です」
 
 傍らのヘカテーからの、やはり簡潔に告げられる言葉。世界中が“こう”でなくて良かったと思えば良いのか、何でよりによって御崎市がと思えば良いのか。愚にもつかない感想は、続くヘカテーの説明に流される。
 
「紅世の徒は通常、一つ所に留まりません。いくらトーチを残しても、人を喰らえば喰らうほど世界は歪む。そして、その歪みは同胞殺しを呼び寄せるからです」
 
「……同胞殺し?」
 
 それは何なのか、そう訊ねようとした悠二は……言えず、固まった。何となく人ごみの中のトーチを探していた視界に……いま見てはいけないモノが映ったからだ。
 
「(…………まずい)」
 
 向かう先、駅前のアイスクリーム屋の自動ドアから出て来た所、一人の少女が立っている。両手の握り拳を戦慄きに震わせ、ツーサイドアップの触角を犬の尻尾よろしく羽ばたかせる少女……今のところ、悠二の唯一の女友達に当たる、平井ゆかりだった。その爛々と輝く紫の瞳は、雑踏の中の水色の少女を確実に捉えている。
 
「(…………まずい)」
 
 胸に灯火は無い。良かった。それはそれとして、心中で悠二は繰り返し呟く。
 佐藤や田中のように、『月曜になったら何を言われるか解らない』といった問題ではない。彼女は間違いなく、そんな悠長な真似はしない。
 
 平井ゆかりがその場で小気味好いステップを踏み、雑踏の中でもお構い無しにクラウチングスタートの体勢を取った所で………
 
「ヘカテー、こっち!」
 
 一も二もなく、悠二はヘカテーの手を引いて矢のように駆け出した。
 
「このあたしから逃げ切れるとでも!!?」
 
 迫る背後から、嬉々とした叫びが耳に届く。しかしヘカテーの手を引きながら進む悠二が、雑踏を身軽に抜けるのは難しい。
 逆に平井は、フェレットのような柔軟な動きで雑踏を無人の野の如く駆け抜けて来る。
 
「ちょいやぁーーー!!」
 
「ぐはぁ!?」
 
 必然としていとも容易く追い付かれ、人通りの少ない狭い路地に逃れた辺りでフライング・クロスチョップが炸裂した。
 
「……あっ、ごめん。痛かった?」
 
「当たり前だろ! いきなり何するんだよ!」
 
「いやぁ〜、だって坂井君いきなり逃げるもんだから本能的に、ね?」
 
「……何が『ね?』だ」
 
 悠二の後ろ首筋に強打をかました友人は、片手を立てて申し訳なさそうな“雰囲気で”謝る。……そして、その眼をヘカテーに向ける。
 
「で? で? このめんこい子だれ? 坂井君の彼女!?」
 
「……何でそうなるんだよ」
 
 どうして このちびっこにそんな解釈が出来るのか、という悠二の呆れ声は当然の理として届かず……平井は身を屈めてヘカテーと目線を合わせていた。
 
「あたしは平井ゆかり! 坂井君の友達で御崎高校一年生! よろしくね」
 
「……近衛史菜です」
 
 一連のやり取りにも変わらず無表情を貫いてきたヘカテーにも、躊躇なく向日葵のような笑顔を見せる平井。この人懐っこさは彼女の美徳だと悠二も思ってはいるのだが………この今に限っては危険過ぎる爆弾に他ならない。
 
「あぁ……もぅ……可愛い!!」
 
「んげ!?」
 
 案の定、平井は我慢しきれないようにヘカテーに抱きつき、抱き上げた。そのままクルクルと楽しそうに回る。
 いつもなら「仕方ないなぁ」と思う程度だが、今は違う。ヘカテーの正体を知る悠二は気が気では無い。正しく生命の危機である。
 
「ひ、平井さん? お願いだからそれくらいに……」
 
 当然、平井がそんな事情など知る由も無い。いつものノリでひた走る。
 
「坂井君、この子もらって帰っていい?」
 
「いや、ホントもうそれくらいで……ほら、平井さん家だとおじさんとおばさんもいるだろ……?」
 
 何とかかんとか平井を引き下がらせようとして、つい余計な事まで口にする悠二に……平井は不思議そうな顔で言って―――
 
「? うち一人暮らしだよ。坂井君も知ってるでしょ?」
 
「―――――――」
 
 悠二の心に、重く冷たい衝撃を与えた。
 
 
 
 
「………………」
 
 市街地の散策もあの場で終わり、悠二とヘカテーは御崎大橋を渡って坂井家を目指す。
 平井ゆかりは、この場にいない。悠二が衝撃を受けて黙り込んだ事が、結果的に彼女を遠ざける決め手となった。……もちろん、それを喜ぶ事など出来はしない。
 
「(………トーチどころか、もう消えてるんだ)」
 
 悠二の知る事実では……平井ゆかりは一人暮らしなどしていない。両親と一緒にマンションで暮らしていた。その両親が……喰われて消えた。昨日と今日の間、悠二がこの世の真実に触れた後で……存在の残滓すら使い果たして消えた。
 
 それが……娘である平井ゆかりでも気付かない現実。
 
「ははっ……結構、堪えるな……」
 
 自嘲染みた乾いた笑いが零れた。他人に置き換えて漸く自覚出来たとでもいうのか、仮初めの克服など拭けば飛ぶ錯覚でしかなかった。
 
 それでも、やはり、頭のどこかが冷静だった。
 
「……徒は一つ所に留まらない。そう、言ったよな」
 
「はい」
 
 どうしようもない現実を受け止めて、まだ何かを探している。
 
「だったら、今この街にいる徒はともかく、ヘカテーがこの街に長く留まる理由は無いんだよな?」
 
「………はい」
 
 坂井悠二はもう戻らない。だけど、まだ人間である者はそうじゃない。
 
「僕は君に、容れ物としておとなしくついて行く。……だからヘカテー、この街にいる徒を倒して欲しい。僕に出来る事なら、餌でも捨て石でも構わない」
 
 諦めとは違う何かが、彼を衝き動かしていた。
 
「………はい」
 
 そんな悠二の言葉に、ただヘカテーは肯定を繰り返す。それは単に、彼の提案に不都合が無いから。
 
「…………………」
 
 視線と視線が、交わる。それが一つの合図のように―――歪んだ怖気が満ちた。
 
 
 



[34371] 1-5・『頂の座』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/08/14 18:19
 
「(怖い)」
 
 何か、得体の知れないものが降って来る。いや、降って来るという表現が正しいだろうか。ちっぽけな坂井悠二にとって、迫り来る気配は上空からの津波と言ってもいいほどの圧力だった。
 その感覚が正しいのだと示すかのように、違和感は明確な異能として彼らを襲う。
 
 悠二を、ヘカテーを、二人を含めた御崎大橋を陽炎のドームが包み込み、内に在る因果を外界から切り離した。一変した空間を埋めるのは漂い燃える薄白い炎、足下に敷かれるのは奇怪な紋章染みた文字列。
 坂井悠二にとって、“人間”を奪われた悪夢そのものの自在法。
 
「封、絶………!?」
 
「……はい」
 
 半ば自失する悠二とは違い、当然ヘカテーに動揺は無い。封絶に取り込まれる寸前には彼女の髪と瞳は淡い星光を灯し、手には大杖『トライゴン』が握られている。
 
「(また人が、喰われる……!)」
 
 身の程知らずにも周囲の人間の様子を確認しようとする悠二は……
 
「ぐっ? ……痛っ!」
 
 ヘカテーに後ろから襟首を掴まれ、無遠慮に足下に引き倒されて………
 
「――――――」
 
 そうして仰向けに倒れた事で、目にする。―――頭上から降り注ぐ、雲霞の如きカードの怒涛を。
 
「うわぁああああ!!」
 
「…………………」
 
 うるさい悠二の見上げる先で、水平に掲げたヘカテーの『トライゴン』が常識外れなスピードで回され始めた。回転する大杖は更に轟然と燃え上がり、カードの怒涛に接触すら許さずに焼き散らす。
 
「………手緩い」
 
 少女が呟き、水色に燃える大杖を無造作に下げた時には、既に一枚のカードも浮いてはいない。代わりに、それ以上の異様が現れていた。
 
「この程度で私を討てるつもりですか」
 
「とんでもない。ちょっとした挨拶だよ。君の流儀に倣った、ね」
 
 粗末な人形を肩に乗せた、全身白スーツの線の細い美青年。姿形こそ人間のそれと変わらないが、撒き散らす違和感が尋常ではない。……それは、今のヘカテーも同じだった。
 
「………“狩人”、フリアグネ」
 
「はじめまして、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女殿。逢魔が時に相応しい出逢いだ」
 
 ここに在る事そのものがおかしい、そう思わずにはいられない異質な存在が二人。場違いな悠二を違和感に取り込んで睨み合っている。
 悠二が完全に呑まれて身動き出来ずにいる一方で、ヘカテーは燐子の炎から疑って来た敵の正体を確信に変えていた。
 “狩人”フリアグネ。多数の宝具を駆使して数多の討ち手を屠って来た紅世の徒。近代以降で五指に数えられるほど強大な『王』である。
 
「とは言っても、本当ならもっと優雅な出会い方をしたかったものだよ。他人の狩り場に割って入って宝を掠め取ろうとは、巫女と呼ばれるわりには随分と無粋な真似をするじゃないか」
 
 肩の人形……彼の燐子、マリアンヌに頬を寄せながらそんな風に蔑むフリアグネの眼には、しかし怒りなど浮いてはいない。そうまでしてヘカテーの求める宝具に対する、本能にも似た執着だけが燃えていた。それが……微かに一瞥を受けただけの悠二にもはっきりと解った。
 
「…………………」
 
 管楽器の奏でるような甘ったるい声に、ヘカテーは何も応えない。さっきの“挨拶”とやらで、既に話し合いの余地など無い。
 
「君がそうまでして欲しがる宝具。さて、一体どんな――――」
 
 最後まで聞かず、鋭く差し向けた大杖の先から水色の炎弾を撃った。―――それが、その軌道に突然現れた一体のマネキンに阻まれ、爆炎を撒いて弾ける。その向こうのフリアグネは、無傷。
 
「つまらない子だね。戦う前の細やかな会話も愉しめないとは」
 
 フリアグネは余裕の表情でヘカテーを見下し、優雅な仕草で右腕を振るった。途端、宙に浮かぶ彼より少し前の路面が薄白く燃え上がり、そこから十のマネキンが這い出て来る。ナース、チャイナ、セーラー、ゴスロリ、とにかく多種多様な、明らかに趣味の産物である衣装を纏った女型の燐子である。
 
「ならせめて、ダンスパーティーを愉しんで貰おうか!」
 
 マネキン故の歪な動きで、しかしとんでもないスピードで、十の燐子がヘカテーに飛び掛かる。それぞれの両手が薄白く燃え上がり、接近を待たずに一斉掃射の構えを取った。
 が、
 
「『星(アステル)』よ」
 
 炎が弾丸を形成し、放たれる……その刹那の時を、水色に輝く流星が貫いた。
 
「っ!?」
 
 十のマネキン全てが、一瞬にして粉々に砕け散る。炎弾とは比較にならないスピードを伴う流星。その内の一つが、貫いた燐子の後方……フリアグネの顔の真横、マリアンヌが肩に乗っていない右側を通過した。
 擦り切られた頬の傷から、血の代わりに薄白い火の粉が零れ落ちる。
 
「光弾か………」
 
 フリアグネの顔から、余裕の笑みが消えた。だが、相手が油断していようが警戒していようがヘカテーには関係無い。杖の遊環が涼やかな音色を響かせると、数十もの『星』が彼女の周囲に瞬いた。
 
「(あまり手札を見せたくは無かったが……)」
 
 すかさず空へと逃げながら再び燐子を喚び出すフリアグネを、数多の光弾が複雑な曲線軌道を描いて追う。
 
「(決まった……!)」
 
 咄嗟に喚び出した燐子の数は十にも満たない。対して光弾の数は先の何倍もある。燐子ともども粉砕される狩人の姿を幻視する悠二の視線の先で………白い手袋の指先に、いつの間にか簡素で上品なハンドベルが摘まれていた。
 
「(何だ………?)」
 
 流星が奔り、燐子が湧く、その瞬間の攻防の中で、悠二は臓腑の奥に響く得体の知れない感覚を拾い上げ、
 
「伏せろ!!」
 
「っ」
 
 その警鐘の命ずるままに叫んでいた。ハンドベルが、鳴る。
 
「――――――」
 
 途端、一瞬にして燐子が凝縮、破裂して、大爆発を起こした。普通なら考えられない、全存在を弾けさせた衝撃は、燐子を貫くはずだった光弾を撥ね退け、その爆炎が“伏せたヘカテー”の頭上すれすれまで届いた。大きな帽子が余波で吹き飛ぶ。
 
「感知能力の宝具か……!」
 
 予想外の燐子の爆発に動きを止めたヘカテーには目もくれず、フリアグネは悠二を凝視して感嘆の声を上げた。
 どちらにしろ、今の間合いでは決定的なダメージは与えられなかった。ヘカテーの光弾の速度に、本来なら至近で不意打ちに使うべき宝具を使わざるを得なかったのだ。
 ゆえに、悠二の叫びはフリアグネにとって大したデメリットにはならなかった。むしろ、ミステスの中身に見当をつけるヒントとなった。
 
「ははっ……!」
 
 陶然と口の端を引き上げて、右掌を差し向ける。ヘカテーではなく―――悠二に。そして、躊躇なく炎弾を撃ち放った。
 
「……!?」
 
 先ほどの燐子のものとは比べ物にならない特大の炎弾が悠二に飛ぶ。完全に不意を突かれたヘカテーは慌てて悠二の前に飛び出して……
 
「『星』よ!」
 
 同じく特大の光弾で以て迎え撃った。明る過ぎる水色と薄い白が衝突し、膨れ上がり、凄まじい融爆となって御崎大橋を破壊する。
 
「ッあああああーーー!!」
 
「く……っ!?」
 
 ヘカテーにとっては先ほどの迎撃で十分でも、悠二はそうはいかない。爆発の余波から彼を庇うように抱えて、ヘカテーは飛翔する。その背中を、再度トランプの豪雨が狙い撃つ。
 
「ぐ、ぅ……!?」
 
 ブレーキもそこそこに放り出された悠二は、路面を二、三度バウンドして転がり、息も絶え絶えに呻き、悶える。そのすぐ前に立つヘカテーは、迫るカードをやはり一枚残らず焼き払っていた。
 
【このまま続けてミステスが巻き込まれるのは、互いに本意じゃないだろう?】
 
 既に“狩人”の姿は無い。置き去りにした声だけが、朗々と封絶の中に響き渡る。
 
【最高の舞台を用意して待っている。一応言っておくが、一人で来てくれよ。大事な宝具が入っているんだろ?】
 
 最後まで一方的な言葉を残して、フリアグネの力の気配が完全に消えた。
 残されたのは、水色の炎に塗り替えられた陽炎の空間と、戦いの生んだ壮絶な破壊の跡だけ。
 
「……宝具の“狩人”がミステスに炎を向けるとは思いませんでした。私が護りに入るのを読んでいたのでしょうが」
 
 あんな戦いの後でも平静に、ヘカテーは呑気に服の埃を払っている。
 悠二は全く、言葉が出ない。事前に聞いていた事ではあったが、昨日の燐子などとは完全に戦いの規模が違う。考えが甘かった。中に宝具を持ったミステスだろうと、敵に破壊の意志が無かろうと、“ついうっかり”消されても何の不思議も無い。
 
「(……正直、あいつの提案に賛成したいかも)」
 
 決着なら自分のいない所で着けて欲しい。そんな情けない感慨を抱く悠二の内心など露知らず、ヘカテーは近くにいた………何故か車の陰に身を潜めている少女に、指先を伸ばす。
 
「(あ、吉田さん……)」
 
 それがクラスメイトの……平井ゆかりの親友・吉田一美と気付くと同時、
 
「っ……ヘカテー!」
 
 封絶の中の“紅世の徒”、という最悪の組み合わせを今さらに思い出して、叫んだ。それに驚くでもなく、ヘカテーは悠二を見る。
 
「……今、“何”をしようとした」
 
 どうしようもなく湧いて来る憤り、
 
「封絶内の修復です。“狩人”と戦う前に自前の力は使えないので、この人間を使います」
 
 当然のように認める、人喰い。
 
「(何で……こんな……っ!!)」
 
 そんな事は絶対に認められない。理不尽な理に、目の前の少女に、喩えようの無い怒りが燃えて……しかし、怒鳴り散らす事は無い。
 
「(………そんなんじゃ、止められない)」
 
 今までもずっと、ヘカテーは人間を喰らって この世に顕現し続けて来たのだ。今さら感情に任せて「やめてくれ」と喚いたところで聞き入れてくれる筈が無い。
 
「だったら……僕のを使ってくれていい」
 
 だから悠二は、感情を押し殺した理性を以てヘカテーを止める。
 
「………存在の力を消費すれば、それだけ貴方が消えるのは早まりますよ」
 
「………解ってる」
 
 いつもならここで終わっている会話。しかし、今まで常に簡潔明瞭に事を進めて来たヘカテーが、何故かこの時、言葉を重ねた。
 
「……残された時間を、他人の為に捨てるのですか」
 
 堅い表情で破壊の跡を眺めていた少年が、ゆっくりと振り返る。
 
「捨てるんじゃない、生かすんだ」
 
 ―――静かに、強く、微笑を浮かべて。
 
 
 



[34371] 1-6・『白の狩人』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/08/14 18:20
 
「…………………」
 
 水色の炎が、封絶の中に飛散する。舞い飛んだ火の粉は隔離された因果を外界と繋げる事によって、異界の中で起きた“あり得なかった事”を否定していく。
 鉄橋の真ん中に穿たれた大穴が、爆風でひっくり帰った車が、その車の中で壊された人間が、“修復”を受けて“在るべき姿”を取り戻していく。
 存在を奪われた人間は元に戻らない。だが、封絶内の破壊であれば こうして何事も無かったように元に戻せる。
 
「…………はぁ」
 
 自身の選んだ結果としてもたらされた現実を見届けてから、悠二はゆっくり目を閉じ、また開いて、己が胸に在る もう一つの現実に目を向けた。……胸に点る灯りは、随分と小さくなっていた。
 
「貴方が自分で言った事です」
 
 それに何かを思う直前に、ヘカテーの言葉が ピシャリと悠二を打つ。変わらぬ平坦な声に、どこか責めているような響きが混じっているような気がした。
 
「(ははっ、そりゃそうか)」
 
 ヘカテーはミステスの事を“旅する宝の蔵”と言っていた。悠二が消えれば宝具は無作為転移を起こし、この世の何処にいるかも解らないトーチに宿る。ヘカテーにとっては甚だ不都合に違いない。
 
「(………でも、ちょっと意外だな)」
 
 ヘカテーが不都合を押して悠二の言う事を聞いてくれたのも そうだが、もっと奇妙なのは自分自身の心だった。
 
『この街にいる徒を倒して欲しい。僕に出来る事なら、餌でも捨て石でも構わない』
 
 後悔はしていない。自分自身で決めた選択に沿って行動した。
 けれど正直……自分でも背負い込み過ぎではないかとは思っていたのだ。いざとなったら もっと怯えて、悩み抜いて、結局最後は我が身可愛さに保身を選ぶかも知れないと思っていたのだが……存外にそんな事は無かった。消滅を前にした人間というのは、本当にこういうものなのだろうか? などと益体も無い事を考える。
 
「(諦め、かな……でも、何かちょっと違うような……)」
 
 何だか自分が酷く非情な人間であるかのような気がして、悠二は自分自身の気持ちを見つめ直そうとする。しかし、そんな悠長を許さんと言わんばかりにヘカテーが悠二の前に立った。
 
「……どうしますか?」
 
 何が、問おうとする悠二を包む陽炎の異界が唐突に掻き消えた。日常が戻って来る。
 
「私は“狩人”との戦いに向かいます。……やはり、招待すると言っていただけあって、今は気配を一切隠していません」
 
 言って、ヘカテーは人差し指を上向けて ある一点を差す。その先に聳えるのは依田デパート、御崎大橋の袂から頭一つ抜き出た高層の廃屋。悠二にもまた、はっきりと解った。この距離でも感じる、いっそ思い知らせるような尋常ならざる違和感を。
 
「……って、何で解るんだ?」
 
 解ってしまってから、それがどれだけ異常な事か気付いた。世界から零れ落ちたと言っても、坂井悠二は人間なのだ。ついでに言えば、気配云々に通じた武術の達人でもない。
 
「……“狩人”の言っていた通り、そういう宝具なのかも知れません。先ほどの燐子の爆発も、私には察知出来ませんでした」
 
 ヘカテーでも拾えなかった爆発の予兆を感じた。それがヘカテーの言葉に信憑性を持たせるが、今度は別の疑問が湧いた。
 
「……ヘカテー、まさか僕の中の宝具が何なのか知らないのに、あのフリアグネって奴に喧嘩売ったのか?」
 
 ヘカテーの言い種が、まるで宝具の能力を初めて知った風な言い回しだった事だ。
 
「私が回収したいのは宝具に刻まれた自在式です。ミステスの中身を外から確かめる術など、少なくとも私にはありません」
 
「…………………」
 
 そういう大事な事を、と思う反面、どちらでも同じかとも思う。宝具が狙われている事実には変わりないし、“戒禁”とやらのせいで取り出せないなら文字通り宝の持ち腐れだ。フリアグネを倒す役には立たないだろう。
 
「それで、どうしますか」
 
 話は戻る。ヘカテーの眼が悠二の眼……その奥に在る本質を見極めんと光る。
 
「“狩人”も言っていましたが、戦いに同伴すれば貴方も巻き添えになるかも知れません。しかし私から離れれば、彼の燐子が貴方を狙う可能性もある」
 
「っ………」
 
 フリアグネが去った事で知らず緩んでしまっていた緊張の糸が、再び無理矢理に張り詰められた。
 ………ヘカテーの言う通りだった。気配がそこにある以上、フリアグネが依田デパートに逃げたのは間違いない。だからと言って、奴の言葉をそのまま鵜呑みにしていいわけがない。悠二を置いてヘカテーが向かったが最後、隠れた燐子が宝具を奪いに来るかも知れない。
 
「…………………」
 
 ならヘカテーと共に行けばいいと、簡単に決める事など出来ない。徒同士の戦いの前では悠二など虫けらのように死にかねない。それに……悠二がいればヘカテーは満足に戦えない。それでヘカテーがフリアグネに敗けでもしたら、これからも御崎市の人間が喰われ続ける。
 
「…僕、は………」
 
 どう転んでも死の恐怖に晒される不条理な選択を迫られて、いずれ消え往く坂井悠二は………
 
 
 
 
 旧依田デパート。親会社の事業撤廃によって廃れ寂れた廃屋の遊技場に、煌びやかなウェディングドレスに身を包んだマネキンの一軍が整列している。
 
「(『ダンスパーティー』は一度見せてしまった。もう不意打ちは通じまい)」
 
 屋上の端、御崎市全体を一望できるアトラクション用の舞台の上に、それらを支配する王は浮かんでいた。
 
「(あの光弾に『アズュール』は通用しない。遠距離で撃ち合う形になるのは避けるべきだな)」
 
 “狩人”フリアグネ。純白のスーツの上に長衣を靡かせる美青年の姿をした紅世の王は、ここに招いた王の到着を待っていた。
 
「(『トリガーハッピー』も徒相手には意味が無い。……なるほど、相性で言えば最悪に近い相手だ)」
 
 思考の海の中、自身を超える爪と牙を備えた猛獣を狩る為の段取りと、それに臨む気持ちを作るフリアグネに、傍らのマネキンの一人が心配そうな視線を向ける。
 
「ご主人様……」
 
 彼の燐子にして最愛の存在……可愛いマリアンヌだった。粗末な人形を本体に持つ彼女は今、最も美しいマネキンに身体を潜ませている。
 
「……大丈夫だよ、マリアンヌ。確かに彼女は強いが……しかしそれだけだ。それさえ判っていれば後れを取る事など無いよ」
 
 計画の破綻ではなく、もはや主の無事の方を心配する愛しい恋人に、フリアグネは蕩けるような笑顔を向けた。虚勢ではない。“頂の座”の力の一端を垣間見てなお、彼には勝てる算段が……いや、必ず勝てるという確信がある。
 
「……にしても、遅いね。あれだけ強気に振る舞っていたわりには、随分と狭量な事だ」
 
 フリアグネが敵を舞台に招いてから、既に数時間の時が経過している。戦っている間に宝具を奪われるのを警戒しているのだろう。あれから彼女は、あの感知能力のミステスらしいトーチを連れて街中を練り歩いていた。
 フリアグネもそれを狙っていなかったわけではないが、この露骨な警戒にさっさと燐子を下げた。邪魔な王さえ狩れば、後はどうとでもなる。
 
「(………来たか)」
 
 思う間に、敵は無駄な探索を終わりにしたらしい。気配が大きく、接近を知らせて――――
 
「封絶」
 
 どこからか凛とした声音が響いて、陽炎のドームが依田デパートの中ほどから上を丸ごと覆い隠した。
 水色に燃える結界の中、花嫁の一軍が居並ぶ前に、受けて立つという意志も露に星の巫女が舞い降りる。
 
「約束通りに歓迎しよう、“頂の座”ヘカテー!」
 
 眼前の脅威すら愉悦に変える矜持を弾けさせて、フリアグネは大手を振って高らかに開戦を告げる。それと同時、百にも上る燐子が一斉にヘカテーに飛び掛かった。
 
「『星(アステル)』よ」
「弾けろ!」
 
 『トライゴン』の遊環と、ハンドベル・『ダンスパーティー』が全く同時に鳴り響く。数十の光弾が流星となって軍を残らず爆砕せんと翔け、数体の燐子が全存在を爆発に変えてそれを食い止める。
 王の戦いに相応しい開幕の花火に目を細めるフリアグネの胸中には、二つの感情。敵がミステスを連れていない事への安堵と、封絶を張られた不満だ。
 ヘカテーにしてみれば、戦場の外にいるかも知れない燐子に、フリアグネが余計な命令を出せないように因果を切り離しただけなのだが、それは密かにフリアグネの切り札を封じていた。
 わざわざ人目のつかない廃屋に招待したのも、敵が封絶を使わない可能性を僅かでも上げる為だったのだが、こうなってしまっては仕方ない。
 
「さあっ、パーティーの始まりだ!」
 
 “狩人”としての力と技を以て、無粋な獣を屠るのみ。傲慢の中に狡猾な眼光を秘めて、フリアグネは長衣を翻した。
 
 対するは、ヘカテー。
 
「(絶対に、勝つ)」
 
 果たすべき大命が在る。こんな所で敗けられない。ミステスも渡さない。冷厳な瞳の奥で己を鼓舞して、大杖を強く握り締める。
 
『捨てるんじゃない、生かすんだ』
 
 戦う意味を思うヘカテーの脳裏に、強い言葉と静かな微笑が、浮かんで消えた。
 
 
 



[34371] 1-7・『紅世の王』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/08/14 18:20
 
「『星(アステル)』よ」
 
 錫杖の遊環が鈴のような音色を奏で、水色の光弾からなる数十の流星となって奔る。向かう先は光弾に倍する数の燐子、その奥の舞台にはハンドベルを揺らす“狩人”。
 
「(走れ)」
 
 ヘカテーはフリアグネがの指先の動きを注意深く見極めて、ハンドベルを鳴らす刹那に光弾の一つを加速、先制させた。
 それは先頭の燐子の一つを弾ける前に爆砕し、それの生む爆風が周囲の燐子を木の葉の如く散らせる。
 そして、爆発。
 
「む……っ!」
 
 見当違いに起こされる爆煙を裂いて、背後に控えた燐子の群れを流星群が纏めて吹き飛ばした。もはや二十に満たない燐子のすぐ後ろのフリアグネに、ヘカテーは間髪入れず三度の『星』を繰り出す。
 
「流石だね」
 
 全く同時、フリアグネは『ダンスパーティ』を鳴らした。燐子と光弾の爆発が屋上の一角を吹き飛ばす。立ち上る爆煙の頂点から飛び出した二つの白い影……フリアグネとマリアンヌは、そのまま錆付いたレールの上に降り立った。
 
「だけど、もう同じ手は通じないよ」
 
 そうして腕を一振り、先ほどと同数の燐子を薄白い炎の中から喚び出すフリアグネ。
 パフォーマンス染みた戦い振りに、ヘカテーは僅かに眉を潜める。
 
「(……キリが無い)」
 
 この街のトーチは異常に多い。即ち、それだけ多くの存在の力をフリアグネは奪っている。ヘカテーが光弾を放つ度に燐子を爆発させる、一見すれば己が戦力を削るばかりの自爆戦法も、それなりに勝算あっての事だろう。
 となれば、消耗戦に付き合ってやる道理は無い。
 
「『星』よ」
 
 四度放たれる水色の光弾、燐子と共に融爆するこれを牽制とし、ヘカテーは黒煙を目眩ましに燐子の群れへと突っ込んだ。
 
「ふっ!!」
 
 まずは一体、錫杖の先端で顔面を貫かれて燃え果てた。突き出した杖を身体ごと竜巻のように振り回し、周囲の燐子の首を丸ごと刈り取る。そうして拓けた空間を活かして、多勢の中に飛び込んだ獲物目がけて燐子による一斉蜂火が見舞われた。
 ヘカテーはこれを掻い潜るように低い姿勢から跳躍、炎弾から逃れると同数に二体の燐子の足を砕き、這いつくばった頭を踏み潰す。
 
「な………」
 
 可憐な少女の修羅の如き戦い振りに、フリアグネは本気で驚く。自在法頼りの上品な巫女と思っていた少女は、その実 フリアグネとは比較にならない確かな膂力と体術を備えていた。御崎大橋の戦闘では、ミステスを護る為に動きを最小に止めていたに過ぎなかったのだ。
 
「(だが、愚か……!)」
 
 しかし、そもそもフリアグネは燐子の腕で“頂の座”を討てるとは考えていない。ハンドベルを鳴らし、少女の周囲の燐子を一斉に起爆―――
 
「はあっ!」
 
 しようとした矢先、ヘカテーの『星』が無数に光を撒き散らし、全ての燐子を“爆発する前に”破壊した。
 先ほどの光弾でヘカテーが確認した一つの事実、『破壊された燐子は爆弾に出来ない』。
 
「覚悟」
 
 僅かに身を屈めたヘカテーの足裏が、水色に爆発する。爆圧を味方につけた高速飛翔で一直線にフリアグネを目指す。
 
「(燐子の爆発は来ない)」
 
 もはやフリアグネとの距離は数メートル。今から新たに燐子を喚び出してヘカテーに爆撃を仕掛ければフリアグネも巻き込まれてしまう。
 逆に、ヘカテーには何の枷も在りはしない。今度こそと力を込めて必殺の『星』を撃ち放つ……
 
「遅い!」
 
 その機先を、フリアグネは見事に制した。一円を描いて振るわれた長衣から数多の武器が飛び出し、大杖を振りかぶるヘカテーを襲ったのだ。曲刀、直剣、槍斧、大鎌、鉄鎚、鉤爪、とにかく種々雑多な武器の雨……その全てが“宝具”。
 
「っ……『星』よ!!」
 
 防御も回避も間に合わない。ならば攻撃で砕くまで。ヘカテーは驚愕を意志でねじ伏せて、動きを止める事なく水色の流星群を解き放った。
 
 ―――異様な事が、起こる。
 
「!?」
 
 宝具の雨ごとフリアグネを粉砕すべく放った光の流星が、ヘカテーの意志に反して軌道を変え、見当外れの天空に集約されたのだ。
 そこに浮かぶ不気味な呪い人形の宝具が連鎖的な大爆発に呑み込まれる。ヘカテーには、それを視認するだけの余裕が無い。宝具の雨は彼女の鼻先にまで迫っていた。
 
「くっ………!」
 
 不測の事態による動揺、まず致命的である筈の隙を、ヘカテーは超常的な反応でカバーした。飛び来る宝具の悉くを躱し、或いは杖で叩き落とす。人間は勿論、紅世の徒から見ても尋常ではない舞踏の最中―――
 
「『バブルルート』!」
 
 フリアグネの傍らに控えていた最後の燐子……宝具使いのマリアンヌが、一枚のコインを指弾として撃ち出し―――
 
「っ……!?」
 
 そのコインの軌跡が金の鎖となって、瞬く間にヘカテーの『トライゴン』を絡め取った。
 未だ凶刃の中に曝され、僅かな乱れも許されない刹那。思考と言うより直感から来る判断で、ヘカテーは大杖を手放した。
 残る宝具を体捌きだけで躱し切り、アスファルトに刺さった槍の一つを抜くと同時、また足裏に爆発を起こしてフリアグネ目がけて飛ぶ。
 
「(さっきの手は、もう使えないはず)」
 
 手にした槍が再び金の鎖に絡め取られるも、何の躊躇いも無く放り捨てる。
 その先に再び燐子が立ちふさがるが、やはりヘカテーは止まらない。この距離ならどうせ爆発は起こせない。只の楯に過ぎない燐子に、小さな拳が振り抜かれ…………
 
「――――――」
 
 そして、“爆発”。
 
「う……あっ……!?」
 
 予測に反して弾けた燐子。その爆発を至近距離で受けてしまったヘカテーが、ボロ雑巾のような惨めな姿で地に落ちる。
 
「(な、ぜ……)」
 
 何が起きたのか理解出来ない。まさか自分ごと爆破したのか。激痛の中で千々に乱れる思考の断片を否定するかのように、白き狩人が無傷の姿でヘカテーの前に降り立った。
 
「(不味い……!)」
 
 何を考える暇も無い。満身創痍の身体を無理矢理に立たせて、ヘカテーは眼前の敵に身構える。
 
「チェックメイトだ。なかなか愉しい一時だったよ」
 
 フリアグネは遠慮などしない。むしろ獲物を嬲る歪んだ愉悦を口の端に乗せて、手にしたトランプを刃の怒涛に変えて投げ放った。
 
「はああああっ!!」
 
 細かいカードの防御と攻撃を両立させるには『星』は不向き、と判断したヘカテーは、突き出した両掌から炎の奔流を放出した。
 元々戦闘用の宝具ではないのか、トランプはいとも容易く燃え散らされ、炎はフリアグネに襲い掛かる。
 ………そう考えるヘカテーの目の前に、
 
「やあ」
 
「!!?」
 
 フリアグネが、平然と炎を掻き分けて現れた。自らの炎で視界を奪われたヘカテーの、手を伸ばせば届くほどの至近に。
 
「(今だ………!)」
 
 だがヘカテーはここに、驚愕と等量の勝機を見いだした。これまでの戦いで得た確信、接近戦でなら負けはしない。
 痛む身体に鞭を打って、この瞬間に全霊を懸ける。轟然と燃え盛る“狩人”の左手の炎を躱し、逆撃に転ずるべく身構え………
 
(ズンッ)
 
 ようとしたヘカテーの胸を――――“見えない何か”が刺し貫いた。
 
「くくっ…ふふふ……ははははははは!!」
 
 獲物を仕留めた。筋書き通りの結末を迎えて、フリアグネは高らかに嘲笑する。
 
「かは……っ!」
 
 見えない何かが胸から引き抜かれ、ヘカテーは血のように水色の炎を吐き出して倒れる。
 這いつくばった少女を見下ろしたフリアグネは、得意気に左手薬指に嵌められた指輪を見せびらかす。
 
「これは『アズュール』、火除けの指輪さ。君が相手だと使い所が難しかったんだけどね」
 
 余裕か、或いは優越か、それまで慎重かつ優雅な狩りに徹していたフリアグネの表情に、コレクターとしての顔が現れる。しかしこれは、彼にとっては必然に近い勝利だった。
 
「どういう事情があるのか知らないが、お姫様が他人の狩り場になど出て来るものじゃなかったね」
 
 御崎大橋での襲撃は、最初から相手の手の内を探る為のものだった。“頂の座”の真名に、燐子如きではそれすら敵わぬと判断したフリアグネは自ら出向き……そして、ヘカテーは拍子抜けするくらい簡単に手札を見せた。
 ここでの戦いにしても、予想以上の地力に驚きこそしたものの、力に任せて押し切って来る相手ならやり方次第で搦め取れる。事実、そうなった。
 いくら力があろうと、彼女は『巫女』。鬼謀を巡らす『参謀』でもなければ、戦場を統べる『将軍』でも無いのだ。
 
「このままトドメを刺すのは簡単だけど………」
 
 うつ伏せに倒れて動かないヘカテーの前で、フリアグネは右腕を高々と差し上げる。差し上げて………
 
「うおおおおおおお!!」
 
 身の程知らずに飛び掛かって来たミステスの首を、掴んだ。
 
「その前に、これの中身を見させて貰おうか」
 
 ミステス……坂井悠二の首を。
 
 
 
 
 時を僅か、遡る。
 
 実のところ、坂井悠二は最初から依田デパートの中に居た。どこかで燐子に見張られている可能性を考えた彼は、ヘカテーと二人で依田デパートに入る事で、さも自分も戦いに同伴したかのように見せ掛けた。
 さらに封絶の真下に待機する事で、いざとなったら中のヘカテーに助けを求める算段だった。
 
「…………………」
 
 結論から言えば、これらの対策は全く意味が無かった。まずはヘカテーを倒す事を優先したのか、悠二を狙う燐子の姿は現れなかった。
 斯くして悠二は、やる事もなく封絶が解けるのを ひたすら待つ事となる。
 
「(………大丈夫かな)」
 
 その間も胸中を占めるのは、やはり戦いの結末だ。
 フリアグネは、理由までは知らないが御崎市に長く滞在しているらしい。彼が勝てば、まだ無事な人間もいずれ喰われてしまう。
 ヘカテーは逆に、御崎市に留まる理由は無い。彼女が勝てば、悠二はともかく御崎市は多分、助かる。
 
「(絶対、ヘカテーが負けるような事だけはあっちゃいけない)」
 
 望む結末があっても、そうする為に出来る事は無い。結局はヘカテーの勝利を祈るしかないという現実にゲンナリしそうになった悠二は………
 
「(……あ)」
 
 ふと、自分にもやれる事……いや、やれるかも知れない事があると、気付いた。
 
「(いや、でも……)」
 
 うまく行く保障など無いし、待っているだけでもヘカテーは勝ってくれるかも知れない。しかし、悠二は………
 
「(…………やろう)」
 
 封絶の中に、足を踏み入れた。
 これは自暴自棄なのだろうか? いずれ消えるトーチだからと、捨て鉢になって無謀な行いに身を投じているのだろうか? 未だ掴み切れない自身の心を訝しむ彼の耳に――――
 
「ッッ!?」
 
 封絶に入ってすぐに、凄まじい爆発音が届いた。いきなり腰が引ける情けない自分を叱咤しながら階段を上り続けていると………不意に、戦闘音が止んだ。
 
「(………ヤバい)」
 
 虫の知らせ、ではない。身に宿る宝具の力か知らないが、ヘカテーの気配が小さくなっていくのがハッキリ解った。
 屋上に走り、既に吹き飛んでいた扉の向こうに………見えない何かに串刺しにされて放り捨てられるヘカテーが見えた。
 
「―――――――」
 
 何故か、目の前が真っ赤になった。身体中の血が逆流するような激情が、こんな時でも何故か冷静な理性と混ざって、一つの強固な意志を作る。
 
「(許さない)」
 
 思い切り駆け出し、地面に刺さっていた剣を一振り抜いて、担ぐように振り上げる。コソコソする必要は無い。むしろヘカテーから注意を逸らすならバレなければ意味が無い。
 
「うおおおおおおお!!」
 
 ついでに大声まで張り上げて、悠二はフリアグネに飛び掛かり、そして………呆気なく捕まった。
 
「中に何が、在るのかな………?」
 
 “狩人”の瞳が、期待と執着に光った。
 
 
 



[34371] 1-8・『坂井悠二』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/08/14 18:21
 
「っ」
 
 万力の様な力で首を掴まれ、それだけで悠二は剣を取り落としてしまった。やはり、敵にすらなり得ない。判り切っていた事だった。
 
「中に何が、在るのかな………?」
 
 右手で首を掴んだまま、フリアグネの左腕が悠二の胸に潜り込んだ。突き刺さった腕は、しかし背中に抜けず、彼の内に宿る宝具に向けて伸ばされる。
 
「(僕の、中に……腕が……!)」
 
 肉を抉って内臓を掻き回されるわけではない。存在そのもの、己が核たる根源的な何かを揺さ振られて、悠二はかつてないほどの恐怖を感じる。
 ガタガタと震える歯の根は合わず、全身から冷や汗が流れ落ち、目を閉じてもいないのに何を見ているか判らない。
 
「(掛かった………!)」
 
 そんな消滅の恐怖を傍らに、悠二の理性は到来を待つ。“狩人”の左手が、“それ”を掴んだ。
 
(ピシッ)
 
 何かが罅割れる、小さな亀裂音に僅か遅れて……
 
(ボギッ!!)
 
 悠二の身体に潜り込ませていたフリアグネの左腕が、“もぎ取られた”。
 
「ぐあああぁぁああああぁああ!!?」
 
「ご主人様!?」
 
 左腕を……失った左腕の傷口を押さえて、フリアグネは断末魔の如く絶叫する。放り出された悠二は無様に尻餅を着いて、そのままの体勢で後退る。
 
「はあっ……はあっ……はあっ……はあっ……!!」
 
 消滅寸前まで追い詰められた悠二もまた、激しい消耗に半ば自失する。いくら吸っても足りないように呼吸を繰り返し、自分の存在を確かめるように何度も胸を掻き毟る。体内に残ったフリアグネの腕が異様な存在感を持って総身を苛んでいた。
 
「これ、が……“戒禁”……!?」
 
 恐慌状態から緩やかに覚めていく悠二は、自身の策が見事に働いた事を知った。
 
『その宝具には“戒禁”……それを奪おうとする者に攻撃を加える自在法が刻み込まれています。不用意に手を出せば、私でも只では済まないほど強力なものです』
 
 そう、既にミステスを手にしていたヘカテーが、宝具に手を出せなかった根本的な理由。それが自在法・『戒禁』。非力な悠二が唯一フリアグネに加えられる攻撃手段なのだった。
 
「くそっ……くそっ……貴様よくもォ……!!」
 
 左腕の傷口から薄白い炎を噴き出させる“狩人”の顔が、喩えようもない憤怒に歪む。
 
「(戒禁って、こういうものだったのか……!?)」
 
 消滅の危機すら利用した罠も……ここで終わりだった。悠二の戒禁は、宝具に干渉しようとした腕……ただそれだけを斬り落とした。
 フリアグネはそれによって左腕を失ったが、そこまで。手負いの狩人にトドメを刺すヘカテーこそが今、動けない。もう……どうする事も出来なかった。
 
「(どうせなら、触れた相手そのものに攻撃してくれよ……!)」
 
 無意味と知りつつ、己が内に眠る宝具を罵倒する。フリアグネの右手が薄白い炎を燃やして、悠二の前で振り上げられる。
 
「(ここまでか………)」
 
 迫る炎に、悠二が今度こそ自身の消滅を覚悟した時―――
 
(トンッ)
 
 小さな衝撃が、彼の背中に当たった。
 瞬間――――
 
(ドクンッ)
 
 怖気を誘う脈動と共に、未だ体内に漂っていたフリアグネの腕の不快感が消えた。……否、“溶けた”。
 
「なにっ!?」
 
 それとほぼ同時、悠二の左腕が、悠二にはあり得ない反応速度でフリアグネの右手を弾く。自分自身の反射に呆気に取られる悠二は、それでも何とか立ち上がって後退する。
 背中に当たった衝撃は、そのまま懸命な抱擁となって悠二の胴体に回されている。ヘカテーが、悠二の背中に抱きついている。
 
「何だ……これ……?」
 
 ヘカテーの不可解な行動以上に、悠二は自身に何が起きているかが気になって仕方ない。
 別に操られているわけではない。悠二の意志で身体は動くが、だが感覚がまるで違う。自分の身体が、自分の物ではないようだった。
 
「うっ!?」
 
 困惑に耽る暇など無い。薄白く燃えるフリアグネの右手が、炎の弾を撃ち出す力を練り上げている。
 その違和感が炎弾の予兆だと理解できる事自体が異常だと気付く余裕は無い。危機感に任せて横っ跳びに“20メートルくらい”逃げた。
 
「どっ、どうなってるんだ!?」
 
 薄白い爆炎を眺めながら、悠二は堪らず声に出して動転した。こんな事、坂井悠二に出来るわけがない。しかし身体は、この感覚が初めから自分のモノであるように捉えていた。
 
「この……ミステス風情がぁ!」
 
 理解も動揺も、今という瞬間には許されない。怒り狂う狩人の指先が数多の燐子を喚び出し、それらが一斉に悠二に襲い掛かって来る。その手には、先ほどフリアグネがバラ撒いた種々の宝具が握られている。
 
「…………来ます」
 
 消え入りそうな声が、耳のすぐそばで聞こえた。それが、パニック寸前の悠二をギリギリで現実に繋ぎ止める。
 
「(何がなんだか、解らない)」
 
 右上から袈裟斬りに振り下ろされる直剣を掻い潜り、カウンター気味に振り上げたアッパーでマネキンの頭を砕く。
 
「(今、僕に何が起きているのかも)」
 
 風を切って横殴りに飛んで来る斧の背中を軽く叩いて、別の燐子の胴を両断させる。振り切った隙だらけの胸に足裏を叩き込み、後ろの燐子ごとドミノ倒しに転倒させる。
 
「(でも、別に構わない)」
 
 ここに到って、得体の知れない自分の状態を自覚して、やっと気付いた。
 自分がいつか消えるトーチだろうと、ヘカテーが紅世の徒だろうと、そんな事は関係ない。
 
「自分が何物だろうと、ただ、やる」
 
 そう、それだけ。
 それだけの真実を掴み取るのに、随分と思い悩んだ。今はもう、迷いは無い。
 
「消し飛べ!!」
 
 怒鳴り声と同時、いつまでもミステスを仕留められない燐子に業を煮やしたフリアグネの『ダンスパーティ』が鳴り響く。
 しかし、甘い。最初に燐子の爆発を察知したのは、ヘカテーではなく悠二の方だ。
 
「はああああっ!!」
 
 凝縮し、弾ける寸前の燐子を置き去りにして、悠二は全力でフリアグネ目がけて前に跳躍した。一拍遅れの爆圧を背中に受け、道阻む燐子を悉く砕いて、悠二はフリアグネに迫る。
 
「ご主人様、お下がりください!」
 
 得体の知れないミステスに驚き、主の危機を怖れたマリアンヌが前に出た。その肩を……フリアグネが力任せに引き倒す。
 
「大丈夫だよ、マリアンヌ。私の背中に隠れておいで」
 
 “狩人”としての彼の眼は、悠二の力の正体を見抜いていた。あれはつまり、体内に残されたフリアグネの左腕を取り込み、使っているのだ。
 ほんの少し前まで普通の人間だったミステスにそんな力を使いこなせているのは疑問だが、大方 不自然にミステスの背中に貼りついている“頂の座”が関係しているのだろう。
 
「(どちらにせよ、無駄な足掻きだ)」
 
 火除けの結界は使えない。『アズュール』を着けていた左手は、ミステスに奪われてしまったのだから。つまり、この距離で燐子は爆発させられない。
 だが、それが何だと言うのか?
 
「(私の腕で、私に勝てるか……!)」
 
 ミステスが奪ったのは左腕一本。フリアグネにはそれ以外の全身分の力が残っている。マリアンヌでは万が一が在るから下がらせたが、フリアグネが負ける理由など皆無。
 
「これで、終わりだ!」
 
 ハンドベルが長衣の奥に消え、代わりに握られたのは煌びやかな造りの細剣。その切っ先が高速で回転しながら悠二の眉間を狙い――――
 
「っ………!!」
 
 悠二は咄嗟に、首を捻って避けた。刃の掠めた頬が抉り切れ、血飛沫が飛び散るのも構わず、悠二は拳を握り締めた。
 
「無駄だ」
 
 フリアグネは細剣を手放し、右手に盾を構える。直撃しようと倒されはしない、という確信の上に。
 
「(今を、限界まで、燃やせ!!!)」
 
 存在全てを叩きつけるように、悠二が拳を振りかぶる。
 その背中……フリアグネからは死角となる場所で――――彼の背中に、ヘカテーが右腕を潜らせた。
 
「―――――――」
 
 陽炎の世界に、炎が爆ぜる。
 それは燦然と輝く………銀の炎。
 
 
 
 



[34371] 1-☆・『零時迷子』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f794701a
Date: 2012/08/14 18:23
 
 陽炎の世界の中、崩壊した瓦礫の上で二人、少年と少女が背中合わせに座り込んでいる。
 銀炎の弾けた後に残ったのは二人だけ。“狩人”フリアグネの姿は無い。最悪の事態は回避され、御崎市の危機は免れた。
 けれど………
 
「………終わった、ね」
 
「…………はい」
 
 銀の残火が燻る傍らで、二人は燃え尽きつつあった。
 悠二の左腕は炭化して崩れ落ち、ヘカテーの右腕もまた、中途から失われて水色の炎を零している。所々で輪郭を薄れさせる身体は、否応なしに消滅の予兆を感じさせた。
 最早ヘカテーにも、人の存在を喰らいに行く力すら残っていない。このまま二人で、消える。その事が、悠二は自分でも不思議なほど怖くなかった。
 
「紅世の徒は……人を喰らう。……それは、どうしようも無い事なのかな……」
 
 気になる事は沢山あった。訊きたい事も沢山あった。なのに悠二は今……こんな事を口にしていた。
 
「徒が、人を…喰らうのは……」
 
 それに、穏やかな声が返る。
 
「……我々と、同じだから…です。隣を歩む……者で、あっても……変わらないモノを持っている。……だからこそ、その存在を……己が物とする事が……出来る……」
 
「…………………」
 
 力無く、途切れ途切れに囁かれる声に、驚きは少なかった。何となくでしかないが、そんな気がしていた。
 ………この少女を見ていて、そう思った。
 
「………どうにも、ならないのかな」
 
 徒は、人と変わらないモノを持っている。そう知ったからこそ強まった想いが、無念となって口を突いて出る。
 
「……それが、世界の理です……」
 
 ヘカテーはこれまでと変わらず、真実だけを口にする。その、後に………
 
「……受け入れ、られません、か……」
 
 彼女らしくない、意味の無さそうな問い掛けを続けた。悠二は既に答えられない。それだけの力が残っていない。だから、俯くように首を下ろす。
 背中の向こうで、少女が頬笑んだ気がした。
 
「だったら……祈り、ましょう」
 
 何に? と訊くまでもなく、ヘカテーはそれを教えてくれる。
 
「…神に、です……」
 
「(……ははっ…)」
 
 消滅を目の前にしているというのに、初めて聞くヘカテーの冗談が可笑しくて堪らない。
 彼女から散り往く火の粉が、封絶の中を癒していくのが解った。
 
「(悪くは無かった、よな………)」
 
 もう目も見えない。
 悠二は、ヘカテーは、消え往く自らを感じながら、それでも確かな何かを探して……どちらからともなく後ろ手に互いの指先を絡め合い、手を繋いだ。
 
(ゴォォ………ン)
 
 いつしか、封絶は解けていた。
 時計塔が鳴り響く。―――時の終わりと、新たな時を刻む為に。
 
 
 
 
「…………………」
 
 深淵の底というよりは、天上の懐に近い微睡みの中、「地獄じゃなくて天国だったか」などと、見当違いな安堵を噛み締めて……
 
「………ッ…え?」
 
 坂井悠二は、目覚めた。
 
「い、生きて……!?」
 
 喜びより驚きが先に立つ。存在を確かめるように何度も自分の身体に掌を当てて……ついでに、夢ではない事も確かめてしまった。
 彼の胸には未だ確かに、人間の残滓の証たる灯火が燃えている。
 
「………おはようございます、悠二」
 
 その上さらに、聞き覚えのある抑揚の無い声が、はっきりと悠二の耳に届く。
 ゆっくりと顔を上げたそこには、椅子に座ってこちらを見ている、水色の少女の姿があった。
 
「…………ははっ」
 
 驚くのにも、もう慣れた。なぜ自分が生きていて、なぜ彼女が生きていて、どうして悠二の部屋にいるのか。今はまだ、解らない事だらけだ。
 しかし、“それでも、ただやる”べき事として………
 
「おはよう、ヘカテー」
 
 少女……“頂の座”ヘカテーに、目覚めの挨拶を返した。
 
 
 
 
 ヘカテーと目覚めの挨拶を交わした一時間後、どうも肉体的ではなく精神的疲労で丸一日寝過ごしてしまったらしい悠二は、何だか妙に上機嫌な母と、相変わらず無表情のヘカテーに見送られて通学路についた。
 
『“零時迷子”?』
 
 無論、そんな日常を過ごしていられるのには理由がある。
 
『……はい。時の事象全てに干渉する、紅世秘宝中の秘宝です』
 
 それはフリアグネが求め、ヘカテーの守った悠二の中の宝具。ヘカテーが看破したこの宝具の力こそが、『毎夜零時に一日の消耗を回復させる』という、一種の永久機関だったのだ。
 
『だったら……』
 
『……はい、あなたは消えない』
 
 そのおかげで悠二は消えず、ヘカテーも人を喰らう必要が無くなった。何せ悠二からなら いくら存在の力を奪っても、午前零時には全開するのだから。
 
『……あなたの扱いは、暫く見送る事にします』
 
 フリアグネを倒せば大人しくヘカテーに付いて行く、という約束も、当のヘカテーによって見送られた。
 悠二の中身が判明しようと、“戒禁”のせいで手を出せない事に変わりないからか、或いは別の理由があるのか、悠二には判断が着かない。
 
『なので、暫くこの家に住みます』
 
『はあっ!?』
 
 それら数々の、奇跡としか呼べない偶然の積み重ねによって、坂井悠二は今日も非日常の中の日常を生きている。
 
「(何か、たった二日で世界が変わったみたいだ)」
 
 いや三日か、などと小さな事を気にしながら歩く悠二の視線の先……T字路の向こうから、食パンを咥えた少女が走っていた。
 焦げ茶色の長髪をツーサイドアップにした童顔の女子高生……平井ゆかりだ。彼女は悠二の姿を目聡く見つけると、大袈裟に砂埃を立てて制止する。
 
「おはよっ、爽やかな朝だね少年よ!」
 
「何が少年だ。まだ走るような時間じゃないだろ」
 
「いや〜食パン咥えて登校するなら走らなきゃ! みたいな鉄則があるから」
 
 相変わらずのノリで挨拶して、そのまま二人連れ立って住宅地を進む。
 家が近所で学校も同じ、しかも二人ともギリギリ間に合う時間に登校するので、こういう朝も別段珍しくはない。
 
「さぁ吐け坂井悠二! 一昨日のカワイコちゃんは何者だ!?」
 
 もっとも、話題は珍しくならざるを得ない。探偵気取りの平井の人差し指が悠二をビシッと差した。
 
「それは……ほら、うちの父さんって普段どこにいるか判らないだろ? 何か余所で父さんと知り合った身寄りの無い子で……」
「ウソをつけぃ!」
 
 咄嗟に思いついたわりには上出来だ、と内心で自分を褒めていた悠二の背中に、ボスンッと痛くもない正拳突きが当たった。
 然る後に、隣に並んだ平井が下からわざとらしい仕草で悠二の顔を覗き込む。
 
「フムフム……んっ、いつもの坂井君だ」
 
 そして、満足そうに触角を羽ばたかせて笑顔を咲かせた。
 
「何だよ、それ」
 
「ほら、一昨日。坂井君、何か元気なかったじゃん」
 
「…………あー」
 
 言われてやっと、悠二は平井の杞憂の意味を知る。ヘカテーと一緒に散策している最中に平井と出くわし……悠二は彼女の両親の消滅を知って、それを露骨に態度に出してしまったのだ。
 あの後すぐにフリアグネとの戦いがあったせいで、それらの過ちにまで頭が回っていなかった。
 
「まあ、ちょっとね。二日も気にするような事じゃないよ」
 
 だから今はせめて、無用な心配は掛けまいと努める。下手に誤魔化すと逆効果に思えたので、それっぽい言い回しで追及を避ける。
 
「それはそれとして、あのカワイコちゃんは何者なのかね?」
 
 ………そっちの言い訳は、思いつかなかった。
 
 ……………………
 
 やがて御崎高校に到着し、悠二と平井は自分たちのクラスに入る。ここでも試練は待っていた。
 
「さ、ささ、坂井君! 土曜日 橋の所で一緒にいた小さい子、誰なんですか!?」
 
 教室に入るや否や、平井の親友に当たる吉田一美が、彼女らしくない必死な様子で悠二に詰め寄って来たのだ。
 御崎大橋の戦闘で危うく封絶の修復に使われてしまいそうだった彼女だが……よくよく考えれば、あそこに居た以上はヘカテーと一緒に歩く悠二を目撃していても不思議は無かった。
 
「(こ、これは不味いかも………)」
 
 怯む悠二に、災難は容赦なく降り掛かる。ファミレスで悠二らを見掛けていた佐藤啓作と田中栄太が、流れに乗って吉田に便乗して来たのだ。
 
「まさかのロリ属性持ちだったとは、坂井……おまえ意外とマニアックな趣味だったんだな」
 
「おとなしい顔してどんな手管を使った! 教えデッ!?」
 
 執拗に詰め寄って来る田中を殴ったところで、ホームルームの時間を知らせる予鈴が鳴った。
 毎朝ギリギリに登校する生活習慣に助けられた悠二は、安堵の溜息を吐きながら自分の席へと向かう。
 因みに、席が隣の平井からは逃げられないのだが、彼女については諦めている。どうせ近い内に坂井家までやって来るに決まっているからだ。
 その証拠に、彼女からの追及は登校途中で止んでいた。これは「自力で解き明かしてやる」という意思表示である。
 
「(……どうしよう、ホントのこと話すわけにもいかないし)」
 
 無論、これから居候を始めるらしいヘカテーの存在を隠しきれる自信も無ければ、誤魔化しきれる自信も無い。
 平和な悩みを抱える事の許される幸せを、ほとほと困り果てながら悩み耽る悠二は、もちろん退屈なホームルームの内容などロクに聞いていない。
 
「というわけで、転校生を紹介します。入りなさい」
 
「………はい」
 
 だから、教師の呼び掛けに応える澄んだ声に、不意打ちに近い嫌な予感を覚えた。
 やめろ、という警鐘に逆らって、俯いていた顔を上げると………
 
「……ギリシャから来ました、近衛史菜です。よろしくお願いします」
 
 御崎高校の制服に袖を通した水色の少女が、小さな頭を下げていた。
 
「おおおっ!?」
 
「あの子、確か……」
 
「う、嘘っ……高校生!?」
 
「キターーー!!」
 
 若干四名の叫びに続いて、教室中が喧騒の渦に呑み込まれる。教師の制止も及ばない騒ぎの中を素知らぬ顔で通り過ぎたヘカテーは、ちゃっかりと悠二の隣……平井の反対側の席に着いた。
 ………元からその席に居た菅野を押し退けて、だ。
 
『おおおおおーーー!?』
 
 佐藤と田中辺りにある事ない事 吹き込まれていたらしいクラスメートの喝采が揃う。
 
「は、はは………」
 
 何もかも諦めた気分になって、悠二は机の上に突っ伏した。
 
 ―――非日常は続いて行く。日常に紛れて、しかし変わらず、この世の隣を進んで行く。
 
 
 



[34371] 2-1・『二週間前の事』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/08/20 16:28
 
 海に囲まれた殺風景な香港の空港、その一帯を陽炎のドームが包み込んでいる。内側に舞い散る炎、地に描かれる火線、いずれも桜。
 
「く……っ!?」
 
 外界と因果を切り離された舞台の中で濁った紫の炎が爆ぜ、黒煙の中から一人の女が弾き出された。
 狐の仮面の縁から幾多ものリボンを生やしたメイド、という異様な風体の女は、両足で路面をガリガリと削りながら踏み止まる。
 しかし、黒煙を裂いて一人の少年が獣の如く彼女を追っていた。華美な鎧を全身に纏い、兜から豪奢な金髪を覗かせる美少年。その細腕が血色の波紋を揺らす幅広の大剣を振り上げ、仮面の女目がけて容赦無く振り下ろされる。
 
「(甘い)」
 
 余りに疾く、余りに荒々しい斬撃を、しかし仮面の女は苦も無く防ぐ。仮面から伸びるリボンの一条が刃を止め、次の瞬間には大剣を握る少年ごと投げ飛ばしていた。
 錆びたシャッターをぶち抜いて倉庫に叩き込まれた少年に向けて、そのまま桜色の炎弾を放り込む。放たれた弾が爆炎を撒き散らし、倉庫を桜色に炎上させた。
 
「…………………」
 
 そっと、仮面の女は自身の左肩に触れる。その掌をベッタリと血が汚した。
 大剣は止めた。刃に触れてもいないと言うのに、何故か彼女は傷を受けていた。
 
「……あの大剣型宝具の力でありますな」
 
「接触禁物」
 
 言いながら、仮面の女は足裏に爆発を生んで後方に跳んだ。一拍の後、たった今 離脱した路面に多数の蔓が鋭い穂先を立てて突き刺さる。
 積み上げられたコンテナの上に着地した仮面の女が蔓の出所を目線で追えば、美しくも恐ろしい妖花を背にした美少女……先ほどの少年と瓜二つの美少女が立っている。
 その少女が、肩を怒らせ目を吊り上げて怒声を上げた。
 
「っシュドナイ! あなたがついていながら これはどういう事!? 私の大切なお兄様が火傷でも負ったらどうするおつもりですの!!」
 
「やれやれ、随分な言われようだ」
 
 燃えるような視線の先……桜色に炎上する倉庫の中から、涼しげな声が返った。直後に倉庫の屋根が内から突き破られ、飛び出した何かが重々しい衝突音を響かせてコンクリートに落ちた。
 表面を黒く焦がすそれは、亀の甲羅を二つ合わせた不可解な物体。その姿が蠢いて、変質する。プラチナブロンドの髪をオールバックにし、サングラスとダークスーツを身につけた男のものへと。
 ただ、右腕だけが違う。アンバランスに備わった巨竜の手の中に、鎧の少年が無造作に掴まれている。
 
「そう思うなら、ちゃんと君がソラトの手綱を握っておくんだな。今の君らでは、彼女の相手は勤まらん」
 
「……紅世の王である貴方が、討滅の道具ごときを随分と高く評価されるんですわね」
 
「成り立ちがどうであれ、現実に脅威であれば評価もするさ。………しかしまあ、逃がすだけならどうとでもなる」
 
 自分に対する過小評価……ではなく、少年の扱いに眉間を歪めた少女に向けて、男は少年を放り渡した。同時に無数のリボンが彼に突き刺さり、すぐさま紫の炎を受けて燃え散らされる。
 
「そう……ならばこの場は任せましたわ。事前に打ち合せた通り、先に日本でお待ちしています」
 
 少女からすれば、わざわざ無粋な同胞殺しと争う理由など無い。男……シュドナイの言い分をあっさりと聞き入れて、愛しい少年を抱き抱えたまま足下の花を伸ばして封絶の外へと逃げていく。
 その背中を見送る事もなく、仮面の女はシュドナイを睨み続けていた。
 
「やけに簡単に見逃してくれたな、『万条の仕手』」
 
「貴方が彼らの護衛でなければ、むざむざと逃がす事も無かったのでありますが」
 
「未確認情報」
 
 遠く睨み合い、静かに言葉を交わす。両者は今も変わらず戦闘の中に在った。
 
「大戦から数百年も行方知れずだったお前が今になって姿を見せたという事は……二代目でも現れたか」
 
 再び、男の姿が形を変える。虎の首、鷲の手足、蝙蝠の翼に蛇の尻尾……生き物の身体をとにかくデタラメに組み合わせたデーモンへと。
 
「……悪趣味な姿でありますな」
 
 吐き捨てた女の仮面から鬣の如く溢れる万条が、鋭利な刃物のように硬質化する。
 
「くくっ……旧態以前の知己にまで嫌われるか。やはり、“人間”には些か合わんらしいな」
 
 笑う虎の牙の隙間から、紫の炎が溢れ出る。
 
「さあ、存分に喰らい合おう」
 
 陽炎の世界で、炎と炎がぶつかり合う。
 
 ―――坂井悠二と“頂の座”ヘカテーが出会う、二週間前の出来事だった。
 
 
 
 
 四月も末の御崎市御崎高校。零れ落ちたはずの日常に留まる坂井悠二は、しかし切実な窮地に立たされていた。
 
「えっ、と………」
 
 転校(?)してきたヘカテーという、彼にとっては余人の何倍ものサプライズイベントを経たわりには、午前中の授業は比較的平和に進んだ。
 何かとんでもない事をしでかすのではと恐々とする悠二の隣で、ヘカテーは動物園のパンダを見る目でしげしげと授業を観察していたし、授業合間の5分休憩では彼女に迫り来る質問全てを悠二が無難に(面白みなく)捌き切った。
 ………だと言うのに、今現在、四限目を終えた直後の昼休み、それらの努力が呆気なく無に帰した。
 目の前には、小首を傾げて悠二を見上げるヘカテー。そして、彼女の手に在る二人分の弁当箱。
 
『……おば様から、悠二にも渡すよう頼まれました。一人分も二人分も手間は変わらないからと』
 
 今さらになって、今朝の母が妙に上機嫌だった事を思い出す悠二。転校の事を、ヘカテーは千草には話したのだろう。そして……千草ならヘカテーにお弁当を渡すだろう。無論、ヘカテーが周りの目など気にするわけもない。
 
「…………同棲?」
 
 硬直した教室の空気が、平井ゆかりの不穏な呟き一つで罅割れる。
 
『お…………』
 
 放心からの衝撃、それが喝采へと変わる寸前……
 
「ちょっと……」
 
 悠二はヘカテーの首根っこを掴み、
 
「こっち!」
 
 そのまま、脱兎の如く逃げ出した。残されたのは、やり場の無い熱狂を持て余したギャラリーだけ。
 さりとて、そんな静寂も長くは続かない。
 
「おのれ逃がしてなるものか! 転校生を初日に独り占めにするなんて暴挙が罷り通るほど、我が1年2組は甘くないよ!!」
 
「「おうっ!」」
 
「ちょっ!? 平井さん何してんの!!」
 
 誰より早く教室を飛び出す平井。その平井に引っ張られながらもすぐノリノリで付いて行く佐藤と田中。それを見て、何故か慌ててついて行く緒方。忙しない喧騒が二人を追い掛けて行く。
 とはいえ、わざわざ追跡までしようとする熱心な野次馬はそれくらいのものだ。悠二のせいで白けた空気に、多くのクラスメイトはそれぞれの昼食に戻っていく。
 その、『いつもの昼食』に戻れない一人……
 
「………どうしたんだろうね、ホント」
 
 頭脳明晰にして他人への気配りも欠かさないクラスのヒーロー……メガネマン・池速人が、何気ない事をぼやきながら吉田一美の机に自分の机をくっつけた。
 もちろん、普段から男女二人で昼食など採っているわけではない。
 池は中学からの悠二の友人で、吉田は平井の幼馴染みだ。高校に入って親しくなった悠二と平井に引っ張られる形で、最近は四人で昼食を採る事が多かったのだが……今はその悠二と平井が居ない。
 
「朝も何か騒いでたみたいだけど、吉田さんも近衛さんのこと知ってるの?」
 
 つまり、池と吉田は悠二と平井を間に置いた関係でしかないのだが、それでも「間が持たない」といった事態を招かないのがメガネマンのメガネマンたる所以である。
 引っ込み思案でおとなしい吉田にも積極的に話題を振って、居心地悪くならないよう努め………
 
「………吉田さん?」
 
 ようとして、吉田の様子がおかしい事に気付いた。悠二らが逃げ去った教室の出口を見つめたまま、何事かブツブツと呟いている。
 
「……たまたまだよ。大丈夫、きっと違う」
 
「…………………」
 
 自分に言い聞かせるような吉田の呟きに、池は「何が?」と訊く事が出来なかった。
 
 
 
 
「で、何でいきなり転校なんだよ」
 
 屋上へ続く階段の踊り場で、悠二はガックリと肩を落とす。勢いで逃げては来たものの、既に手遅れであるように思えてならない。
 
「……興味がありました」
 
「…………………」
 
 朝からの疑問に対するヘカテーの応えも、これである。わざわざ彼女を引っ張りだしておきながら、むしろ状況を悪化させてしまったのかも知れない。
 
 悩める悠二の溜め息を余所に、ヘカテーは何食わぬ顔で屋上に出るドアを開けた。……因みに、この屋上は立ち入り禁止だ。ヘカテーが開けた拍子に鎖と鍵がバキリと破れているのはご愛嬌である。
 
「………はぁ」
 
 純粋に弁当を楽しみにしているらしい弾む後ろ姿を見ていると、自分の悩みが馬鹿馬鹿しく思えてくる。
 
「(後で、池にでも相談すればいいか)」
 
 悠二もいっそ開き直って、その小さな背中に続く。メガネマンならば、無神経な詮索をせずに協力してくれるだろうと他力本願に納得する。
 青空の下でいそいそと包みを解くヘカテーに倣って、悠二も久しぶりの母の弁当に手を付ける。
 
「そういえば……昨日の僕、あれどうなってたんだ?」
 
 卵焼きを頬張りながら、横目でヘカテーを見ながら朝 訊けなかった事を訊く。見ればヘカテーは、ミートボールを箸で突き刺していた。
 
「あの時は無我夢中で考える余裕なかったけど、あんなの僕に出来るわけないし」
 
 そう、“狩人”フリアグネとの戦いの最中……悠二は明らかに人間の枠を逸脱した力を発揮し、結果フリアグネを倒した。しかし、それが異常だという事は悠二自身が一番よく解っている。ならば、何か理由があるはずだった。
 
「……私には、他者と器を重ねて感覚を共有する特殊能力があります。あの時の悠二の動きは、私の感覚を基にしたものです」
 
「感覚の……共有……?」
 
 イマイチ納得していないらしく、難しそうな顔で考え込む悠二を見ながら、ヘカテーはふと自分の指時計を見た(昨日千草に買って貰った)。
 
「……言葉で解りにくいなら、実際に試して貰います」
 
「試すって?」
 
 何やら不安そうな悠二の目を見るヘカテーの眼が、
 
「次の授業は体育です」
 
 キラリと、物理的に光った。
 
 
 



[34371] 2-2・『新しい日常』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:66f6ad50
Date: 2012/08/20 16:29
 
 昼過ぎの強い日差しの下、影も無いトラックを男女交えた大勢の生徒が回り続ける。
 御崎高校一年二組、本日五限目の授業は体育。内容は無制限マラソンである。
 
「はあっ……何でマラソンなんだよ」
 
「う〜、めし食った後に走るのキッツイなぁ」
 
「一美、揺れてる……!」
 
「え? 何が……?」
 
「………ゴホンっ」
 
 一般的な例に漏れず、ゲーム性に乏しい走るだけ、疲れるだけの授業は、このクラスの生徒にも受けが悪い。
 これを有意義に受け取っているのは、授業内容を決定した体育教師……息を切らせて汗だくになる体操着の女子高生たちに鼻の下を伸ばす中年と………
 
「はあっ……はあっ……はあっ……!!」
 
「もっとペースを上げてください」
 
 白いジャージにサンバイザーまで被り、ピッピッピッとリズミカルに笛を鳴らしながら竹刀を振りつつ……坂井悠二を追い回す近衛史菜ことヘカテーのみである。
 
「ぜーっ……はあっ……ちょっ、ヘカテー! 何でマラソンでこんなペース……!?」
 
「口ではなく、足を動かすのです」
 
 ゴールも無いのに無意味なハイペースを強いられて既に疲労困憊な悠二とは違い、当然だがヘカテーは汗一つかいていない。あまり常人離れした真似はするな、という忠告を必ずする
と誓う悠二。その耳のすぐ傍で、竹刀の先が風を切る。
 
「うわっ……! もう無理だって! これ以上は!」
 
「……確かに人間としての悠二なら、この辺りが限界でしょう。だからこそ、意味があります」
 
 脅かしてもペースの上がらなくなった悠二の横に、ヘカテーが並ぶ。並んで、悠二だけに聞こえる声で語りだす。
 
「今これ以上を引き出すには、悠二の持つ存在の力を僅かでも使いこなす必要があります。“狩人”と戦った時を思い出してやってみて下さい」
 
 とても、無茶苦茶な事を。
 
「だっ……だから、何が何だか解らなかったんだって……!」
 
 抗弁しながらも、悠二はヘカテーの言い回しに小さな違和感を覚えた。喉に小骨が引っ掛かるような感覚は、掴めそうで掴めないもどかしい状態のまま燻る。
 
「まず試しに、あれです」
 
 ヘカテーはやはり気にしない。竹刀の先でちょいっと差した先には、佐藤と一緒にダラダラと走っている田中がいた。
 
「田中がどうした?」
 
「見たところ、彼がこの集団で最も高い身体能力を持っています。彼と競走して打ち勝って下さい」
 
「んな無茶な………」
 
 帰宅部の癖に部活連中を差し置いて一番とヘカテーに評される田中にも驚きつつ、悠二は露骨に渋い顔を作った。
 お喋りのおかげでやっと呼吸が落ち着いて来たような状態で、競走などしたくない。相手がクラス1というなら尚更だった。
 
「っておい!」
 
 しかしヘカテーからすれば、普通のやり方では勝てないからこそ意味があるのだ。水色の少女は悠二を置いて小走りに田中に近づいて行く。
 不本意ながら悠二もこれを追った。一人にしておくと、何を言われるか解ったものじゃない。
 
「ん? うおっ、近衛ちゃん!?」
 
 走っている最中に体操着を引っ張られ、振り返り、その姿に驚く田中。密かに噂していた人物に、向こうから話し掛けられたのだから無理もない。
 驚く田中、焦る悠二、面白そうな佐藤の視線を集めるヘカテーは………
 
「……悠二と競走して下さい。勝者には、これをあげます」
 
 ジャージのポケットから、あめ玉を一つ取り出して見せた。
 
『……………………』
 
 リアクションに困った三人は、思わずトラックの中で立ち止まった。
 
 
 
 
「? 一美?」
 
 まず異変に気付いたのは、彼女の隣を走っていた平井ゆかりだった。
 竹刀を持った可愛らしい転校生に追い回されるマブダチ、という面白い構図を眺め続け、しかし隣を走る幼馴染みの事を考えると条件反射で突撃するわけにもいかない。
 何とも歯痒い気持ちで成り行きを見守っていたら、お目当ての二人が田中と佐藤を捕まえて止まった。この好機に嬉々として喝采を上げた平井は、隣から返事が無い事に気付いて振り返った。
 そこで………吉田一美はバッタリと倒れた。
 
「一美………!?」
 
 と、そんなクラスの大半の注目を集める転倒事件を背にしながら……
 
「うおおおおおおーーー!!」
 
 平井の悲鳴を掻き消す雄叫びを上げて、田中栄太は爆走を開始した。
 当たり前だが、別に飴が欲しいわけではない。面白そうな転校生の面白そうな提案に乗っかっただけだ。悠二の知人であるなら、彼にとっても友人となる可能性が高い相手でもある。
 
「くっ……あいつ、あんなに速かったのか……!」
 
 勝負は単純明快。先にトラックを一周した方の勝ち。だが、既に最初の20メートルで勝負は決したようなものだった。スタートダッシュに生じた僅かな差は見る見る内に広がり、今も広がり続けている。
 
「(存在の力を制御って……一体どうやればいいんだよ……!)」
 
 身体能力で勝てないのは最初から判っていた。ならばヘカテーの言う通り、あの時のような不思議を起こすしかないのだが……はっきり言って見当もつかない。
 
「(良く考えろ……今だってヘカテーの気配は感じるんだ。それが自分の中にもトーチ一人分あって、それは自分の存在の力で……)」
 
 解らないながらも頭を捻って、どうにかしようと気合いを入れる悠二。意気込みのまま踏み出される一歩、その直前に………
 
「こんな感じです」
 
 涼しい顔で追い付いたヘカテーが、悠二の腰の辺りに手を当てる。
 ………それがいけなかった。
 
(ドンッ!!)
 
 人間が筋肉を動かすくらい当たり前に、ヘカテーは存在の力を扱う。その感覚を共有した悠二は、力強く一歩を踏み込み、そして………高々と空に舞い上がった。
 
「うわぁあああ!?」
 
 
 
 
「これはいかんな、先生が保健室に連れて行こう」
 
 息を切らせ胸を押さえて蹲る吉田を見て、体育教師がそんな事を聞く。台詞だけ見れば特に可笑しい発言でもないが、鼻の穴が膨らんでいる。
 
「いえ、一美なら あたしが連れて行きますから、先生は授業を続けといて下さい」
 
 そんな教師ににこやかに言って、平井は吉田を担ぎ上げようとする。その肩を、体育教師が掴んだ。
 
「休みたいからって調子のいい事を言うな。吉田が倒れたのを理由に授業をサボるつもりか? 平井」
 
 笑顔のまま振り返る。平井のにこやかな笑顔の額に、ビシリと青筋が浮いた。
 
「いえほら、やっぱり女の子ですし。汗かいた状態で男の人に運ばれるのはちょっと………」
 
「お前は教師を何だと思っとるんだ。いいからランニングを続けなさい。お前らも立ち止まってるんじゃないぞ!」
 
 平井の言葉になどまるで聞く耳持たない。思わず足を止めて見ていた他の生徒にまで注意する体育教師に、しかし平井が引き下がるわけもない。
 
「(お望み通りボイコットしてやろうじゃないの)」
 
 吉田を抱えて問答無用のエスケープを決めてやろう。平井がそう決断した時………
 
「うわぁあああ!?」
 
 何やら情けない悲鳴が聞こえて来て、
 
「痛っ!?」
 
「ぎぴ……!」
 
 上から降って来た何かが、カエルみたいに体育教師を押し潰した。
 体育教師をいい感じにクッションにして事なきを得た少年は、頭を押さえながら目を白黒させる。
 
「………坂井君が降って来た!」
 
 僅かな沈黙を経て、見たまんまの事実を叫ぶ平井。そのテンションに釣られてか、クラスの皆が一斉に喝采を上げる。それは、今朝や昼休みのものとは まるで種類の違う喝采だった。
 
「………何の騒ぎですか?」
 
「………さあ、僕にもよく解らない。って言うか、吉田さん大丈夫!?」
 
「あっ、その…えっと……大丈夫です!」
 
 騒ぎに気付いて放置していたヘカテーが歩み寄って来る。答えられない質問への返事はそこそこに、悠二はやっと呼吸の落ち着いてきた吉田の顔を覗き込む。何故か、吉田は先ほどよりも顔を紅潮させて慌てた。
 当の悠二にはワケの判らぬままに大団円の空気が流れるが、だが……まだ終わりではない。
 
「さ……坂井キサマ…何のつもりだ……」
 
 未だ這いつくばったままの体育教師の口から、呻くような呪咀が漏れ出る。
 
「あ、その……転びました」
 
「嘘を吐けぇ! どこの世界に何も無いグラウンドで転けて上から降って来るヤツがいるかぁ!!」
 
 悠二のあり得ない言い訳に顔を真っ赤にして飛び起きる体育教師。至極もっともなクレームであるようにも聞こえるが、事実なのだから仕方がない。教師の怒りは、すぐ傍のヘカテーにも飛び火する。
 
「転校生! お前もその格好は何だ!? ちゃんと学校指定の体操着を……」
 
 唾を飛ばす勢いで捲し立てる教師の苦情が、最後まで言い切られる事は無かった。
 ヘカテーが微かに目を光らせる……ただそれだけの行為で、体育教師は真下から正体不明の衝撃を受けて、ギャグマンガのように吹っ飛んだ。
 
「口がタバコ臭いです」
 
 可憐な容姿に似合わないハードボイルドな捨て台詞に、今度こその喝采が二人を包み込んだ。
 
 
 
 
 忙しなくも賑やかで、慌ただしくも温かい、何とも奇妙な新しい学校生活を送ったその夜。深夜11時を迎えようとしている坂井家の屋根の上に、影が二つ佇んでいる。言わずもがな、坂井悠二と“頂の座”ヘカテーである。
 本来は紅世の住人であるヘカテーは、この世に顕現しているだけで存在の力を消費する。その消耗を補う為に永久機関『零時迷子』を使う事は、悠二も既に納得済みの決定事項だ。……ただし、この状況には些かの疑問が残る。
 
「……なぁヘカテー。力の受け渡しは構わないけど、何でわざわざ屋根に昇るんだ?」
 
 そう、存在の力を受け渡すだけなら悠二の部屋で十分。それどころか、別に千草の目の前でやっても構わないのだ。傍から見れば手を繋いでいるだけにしか見えないのだから。
 倦怠感の漂う悠二の質問に、ヘカテーは応えない。その代わりとして一言、力の発現を口にした。
 
「封絶」
 
「なぁ……っ!?」
 
 瞬間、陽炎のドームが坂井家を包み込み、水色の火線と炎が内に在る世界を彩った。
 トラウマとも言える自在法の発現に反射的に後退りする悠二に、ヘカテーが変わらぬ無表情で振り返る。
 
「……『零時迷子』の力によって、悠二は時の運命から解放されました。……しかし貴方は、依然として外れた存在。戦いの運命からは逃れられない」
 
 一片の曇りすら無い澄んだ水色の瞳が、それを見る悠二を金縛りにする。
 
「今の貴方が何を望むにしても、弱いままでは生き残れない。だから、強くなりましょう」
 
 体育の授業の時から微かに在った違和感。それがここに来て……確信に変わる。
 
「貴方はもう、人間を越えられる」
 
 坂井悠二は人間ではない。その事実を……誰でもないヘカテーが、当たり前の日常として突き付けていた。
 
 
 



[34371] 2-3・『鍛練開始』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:ef78e215
Date: 2012/08/22 13:16
 
「貴方はもう、人間を越えられる」
 
 託宣にも似た清らかな声が、否が応にも心の奥に染み入って来る。
 その声が綺麗であるからこそ、零れ落ちてしまった日常……人間としての坂井悠二への未練が、無慈悲に踏み躙られているように感じた。
 
「(人間を……捨てる……?)」
 
 否、とっくに失っている。ヘカテーは絶望を与える為にこんな事を言っているわけではない。ただ……彼女が“事実”として当たり前に語る言葉が、今の悠二には重すぎるだけ。
 
「『零時迷子』の戒禁は“狩人”と私の腕を奪い、貴方はその力を取り込んだ。今の悠二は、紅世の王にも匹敵する存在の力の塊になっています」
 
「紅世の、王………?」
 
 立て続けに告げられる容赦の無い事実に、悠二はただ馬鹿みたいに繰り返す事しか出来ない。……だが、冗談にしか聞こえない宣告のおかげか、少しずつ頭が冷えても来た。
 
「(………………まあ、冗談なわけないんだけど)」
 
 やはり、ヘカテーの瞳には一片の曇りすら無い。嘘だの冗談だのと疑う事すら許さない、純真無垢な輝きだった。
 
「(……感傷なんかじゃ、何も変わらない)」
 
 人間を捨てたくなかった。変わらない日常の中に居たかった。燐子に襲われたくなかった。“狩人”に狙われたくなかった。ヘカテーが紅世の徒だと、今でも認めたくない。
 叫びたくなるほどに強く拒絶して……一つとして叶ったものは無い。
 悠二がどれだけ悩んで、どれだけ苦しんでも、『この世の本当の事』はお構い無しに動き続ける。
 
「………うん、解った」
 
 だったら、事実の再確認などに躊躇ってはいられない。せめて自分の身くらい護れるように……その為の力になるのなら、フリアグネの腕だろうと受け入れる。………そう、心ではなく理屈で納得した。
 
「……って、ヘカテーの腕!?」
 
 納得して、聞き流していた重要な部分に今さらながら気付いた。
 
「……“狩人”から奪った片腕の力で、“狩人”を倒せるわけがない。だから私は、最後の一撃の寸前、余力の大半を片腕に込めて悠二の戒禁に喰らわせたのです」
 
 一歩間違えれば玉砕に終わっていたという事実、あの状況で躊躇わず片腕を差し出したヘカテー、その双方に冷や汗を流す悠二に、やはりヘカテーは平然と続ける。
 
「その一撃も、がむしゃらに力を暴発させただけのもの。これが無ければ、私たちも一緒に吹き飛んでました」
 
 少しだけ呆れるように言って、ヘカテーは右腕を……“悠二の胸に潜らせた”。
 
「な……!?」
 
 突然の暴挙に心底から震え上がる悠二。何でいきなり。『戒禁』があるのに。このまま消えるのか。数秒の内に思考の断片が千々に乱れて………
 
「……これです」
 
「……へ?」
 
 そうしている間に、ヘカテーは何事も無かったかのように右手を引き抜いた。その指が開き、掴み出した物を悠二に見せる。それは、
 
「……火除けの指輪『アズュール』、と言っていました。“狩人”の左手に嵌められていた物です」
 
 後退りつつ腕を突っ込まれていた胸の辺りを しきりに触りながら、悠二は言われた事をゆっくりと飲み込む。
 フリアグネの左腕と言えば、悠二が『戒禁』でもぎ取った腕だ。つまりその時、悠二の体内にこの指輪が腕と一緒に残された、と。そして『戒禁』が施されているのは『零時迷子』のみだから、ヘカテーは何の苦も無く取り出せた、と。
 
「火除けの指輪って事は……あの時ヘカテーは、それを使ったのか」
 
 思った以上の理解の早さに、ヘカテーは内心で密かに感心した。感心して、やはり表情には出ない。
 
「はい。全身に使うと爆炎も出ないので、左腕以外を火除けの結界で覆いました」
 
 それで左腕だけ炭になってたのか、と、痛みすら薄れる消滅の前兆を思い出す悠二。だが、ヘカテーの話ならば あれでもマシだった事になる。運良く『アズュール』が悠二の中に残らなかったら、零時を待たずに二人とも焼失していた。
 
 まとめると……悠二の『戒禁』がフリアグネの腕を取り込まなければ、ヘカテーが咄嗟の機転で自身の腕を差し出さなければ、奪った腕に火除けの『アズュール』が無ければ、そして悠二の中身が『零時迷子』でなければ……今ここに二人は存在していない。
 
「………奇跡だ」
 
「………はい」
 
 本当に……奇跡としか呼べない偶然を味方にギリギリの綱渡りを幾つも越えた上に、あの勝利はあったのだ。遅過ぎる実感に背筋が寒くなる。
 
「……しかし、怖れるべきは強大な敵のみではありません。悠二の場合、今のままでは 持て余した自分の力にいつ呑み込まれても不思議ではない。力の使い方を覚えるのはその為でもあります」
 
「……解った。よろしく頼むよ」
 
 今度は理屈ではなく、切実な危機感から首を縦に振る悠二。紅世の王並の力を、把握も出来ずに内に秘めている事への不安がある。自分の炎で焼け死ぬなど冗談じゃない。
 
「今日から毎晩、存在の力が回復する零時前に鍛練する習慣をつけます」
 
「了解」
 
 完全に迷いの消えた悠二の様子に、ヘカテーは満足そうに頷いて、そして………
 
(ひしっ)
 
 悠二の後ろに回り込み、背中に飛び乗った。行動の不可解さ以上に、抱きつかれるという行為自体に悠二は内心で大いに慌てる。
 
「あの……た、鍛練は?」
 
 もちろん、そんな動揺を必死に押し殺し……きれてはいなかった。
 
「もう始まっています。感じませんか?」
 
 そしてもちろん、ヘカテーは遊んでいるわけでも甘えているわけでもない。鈴の音のような声に耳元で囁かれて、悠二は何とか気持ちを平静に………
 
「………………え?」
 
 戻そうとした途端、自身の異変にはっきりと気付いた。さっきまで半ば他人事みたいに聞いていた事実を、今は間違えようのない実感として思い知る。
 『今の自分は途轍もない力の塊だ』と、誰でもない自分自身の感覚で確信出来てしまっていた。
 別に、いきなり力の総量が上がったわけではない。今までもずっと在ったモノに気付いただけ。
 
「昼も言いましたが、私は接触によって他者と感覚を共有する事が出来ます。呼吸に等しく存在の力を繰る私の感覚を、今の悠二は共有しているのです」
 
「こういう……事か」
 
 昼は今一つしっくり来なかったヘカテーの能力が、今は痛いほどに良く解る。
 フリアグネの腕を自分のモノとして取り込めたのも、迫り来る燐子の攻撃を躱せたのも、稚拙にだが炎を出せたのも、全てはヘカテーの感覚を共有していたからこそ。
 存在の力の統御、身体の動かし方、攻撃の仕方、避け方、炎の出し方、それらの体感が、まるで最初から自分のモノであったかのように身に付いている。
 
「僕を構成している存在の力……それを統御する意思総体の支配下に置いて、端から零れる一欠片を……」
 
 教わってもいない事を感覚だけで理解して、口に出して確認しながら、何の躊躇いも無く実行する。“こんな簡単な事”を、間違えるはずがなかった。
 
「炎のイメージで、具現化する」
 
 握り拳を作り、また開いた。
 ボッと破裂にも似た音を立てて、開いた掌の上で炎が燃える。
 
「……これが、僕の炎」
 
 燦然と輝く銀色の炎を見つめて、悠二は感嘆の吐息を漏らす。さっきまで感じていた不安や恐れなど全く無い。自分を真に自分のモノに出来た充実と感動だけがあった。
 
「あの時と、同じだ……」
 
 仮初めの感覚に酔い痴れて忘我に耽る悠二の背中から、ひょいっとヘカテーが飛び降りる。途端、悠二は掌中の炎を“どうすればいいか解らなくなった”。
 
「あっちぃ!!」
 
 炎が弾けて、悠二の頬を焼いた。屋根の上で転げ回る少年の顔を、悪意の無い瞳が覗き込む。
 
「私を常に背負って戦うわけにもいきません。これからは共有と離脱を繰り返して、さっきの感覚を自分の身体に刻み込みましょう」
 
「………了解」
 
 気持ち一つで急に変わるものなど無いと、陽炎の空を仰ぐ悠二は改めて思うのだった。
 
 
 
 
(ヒュンッ)
 
 朝の坂井家。さして広くもない庭で、二つの影が忙しく動き回っている。
 
「うわっ!? 今の当たったら痛いだろ!」
 
「半端な鍛練ならしない方がマシです」
 
 正確には、粗末な棒切れを振り回すヘカテーから、悠二がひたすら逃げ回っている。
 ヘカテーの言い出した悠二の訓練は、夜だけに留まらなかったのだ。
 
「く……うわっ……!」
 
 夜の鍛練でヘカテーの感覚を身に付けても、その感覚で戦うのは悠二自身。共有ではない戦闘訓練も必要だった。ぶっつけ本番で巧く動ける保障は無いし、フリアグネの時のようなマグレ勝ちはそう続かない。……いや、二度と無いと考えた方が良い。
 
「痛っ!?」
 
 因みにこの訓練、別にルールなど一切決められていない。ヘカテーが棒切れを持ち、悠二も棒切れを持ち、後はひたすら叩き合うだけ(一方的にやられているのは、別に攻撃を禁じられているからではない)。
 ヘカテー曰く、「ひたすら慣れなさい」。そうすれば、共有した感覚が少しずつ身に付いて来るはずだと。
 
「ぐほぁ!」
 
 棒切れに胴を打たれて、悠二の身体が宙に舞う。ドサッと大の字にひっくり返った息子の姿を鍛練の終了と見てか、母・坂井千草がカラカラと窓を開けて縁側から顔を覗かせた。
 
「はい二人とも、そろそろ朝ご飯にしないと学校に遅刻しちゃうわよ。まずヘカテーちゃんからお風呂入っちゃいなさい」
 
 例によって、千草はヘカテーの素性に頓着しない。この、ただ息子をぶっ叩くようなトレーニングもむしろ楽しそうに眺めていた。
 詮索されなくて助かるものの、どうにも納得し難い気分になる悠二である。
 そんな悠二とは対称的に、ヘカテーは既にすっかり千草に懐いていた。今も倒れた悠二など放置して、千草に言われた通りテテテと小走りに風呂に向かっている。
 
「(人間と変わらない、か………)」
 
 本当にその通りだと、悠二は皮肉な世の理に嘆息した。
 
 
 



[34371] 2-4・『愛染の兄妹』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/08/28 13:27
 
 小さな島国の、空港から少し離れた市街の中心を、陽炎のドームが包み込む。その内側で、山吹色の木の葉が花のように舞い散っていた。
 
「(まったく、討滅の道具ごときに何をグズグズしているのかしら)」
 
 誰も彼もが制止する世界で一人、リボンをあしらったドレスに身を包んだ金髪の少女……まるでフランス人形のような可憐な少女だけが動いている。
 その唇が僅かに窄められ、途端に燃え上がった周囲の人間の炎を吸い込み、燃え滓を代替物として残す。
 
「(本当に、役に立たない護衛だこと)」
 
 炎を吸い終えた唇に二本指を一当てし、鋭く切った。その指先から山吹色の光の帯が伸びて、残されたトーチの一つに突き刺さった。
 今は護衛が居ない。香港の時のような事があった時の為にも、頻繁に『揺りかごの園(クレイドルガーデン)』を仕掛けておく必要がある。
 
「(空港のある街なんかに、あまり長居はしたくないと言うのに)」
 
 彼女の自在法は気配を遮断する効力を持っている。気配察知の自在法でも使われない限りまず気取られる心配はないが、言い換えれば気配察知を使われれば簡単に見つかる。人も徒も集まる空港の近くなどは、他に比べて危険が大きいのだ。
 どうせ報酬の一つも渡していない護衛。いっそ、このまま捨て置いてしまおうかと考えながら、少女は霧の世界を歩く。
 自在法の仕掛けを広範囲に植え付け、自分たちにとって無敵の陣を施してから、陽炎の異界を解除した。日常を取り戻した人々の中で、一際目立つ彼女はやや軽い足取りで元居た場所へと歩き出す。
 自分が居なければ何も出来ない愛しい少年が、今ごろまた何か新たな欲望を抱いているかも知れない。その欲望に応える事にこそ無上の喜びを覚える彼女は、期待に胸を膨らませながら迎えに行き……そこで―――
 
「汚ねぇな! ゴミ飛ばしてんじゃねぇよクソガキ!」
 
「こいつ何処のボンボンだ? 財布の中身スゲーんだけど」
 
「へへっ、外国で大金持ち歩いてると危ないですよー? ぎゃはは」
 
 下劣な人間に踏みつけられる、愛しい少年の姿を見た。
 
「………―――!」
 
 あまりの光景に、少女は怒声を上げる事すら出来ず目眩を起こしてよろめいた。そうしている間にも、下劣な人間が少女に気付いて何事か喚いている。無論、そんな声は少女には聞こえていない。
 聞こえるのは………
 
「ねぇ、ティリエル、いい?」
 
 ゴミ虫の向こうで、許可を貰わねば“こんな当たり前の事”をする踏ん切りさえつけられない少年の、懇願だけ。
 
「ええ、お兄様。存分に御上がり下さいな」
 
 それを拒むなど、考えられない。少女の許可を得た瞬間………
 
「え――――」
 
 人間たちは、血風を巻いて“上半身だけ”飛ばされた。
 そして、死体という物体に変わる前に燃え上がり、少年に喰われる。残った下半身が薄く燃えて、元の彼らの姿を形成した。
 
「まぁお兄様! ちゃんとトーチの分を残せるようになったのですわね! 偉いですわ!」
 
 鎧姿に大剣を握る少年を抱き締めて、少女は頬を擦り寄せ蕩けるような声を上げる。常ならば騒ぎの元にもなりかねないが、幸いにもここは人気の無い路地裏だ(そうでなくとも、彼女は彼の行動のほぼ全てを容認する)。
 手放しで褒めちぎられ、抱きつかれながら、しかし少年はつまらなそうに握った大剣を眺める。
 
「だって、じゃまされたくないから、こんな なまくらじゃない、すっごいけんほしいもん」
 
「ええ、ええ、判っていますわ」
 
 少年の口から発せられる言葉は、声というよりも“音”。人間の声帯では出せない異質感の塊。
 
「ねぇ、はやくいこう、ティリエル! はやくほしいよ、『にえとののしゃな』!」
 
 せがまれ、ねだられ、少女は簡単に首を縦に降る。
 
「ええ、そろそろ出発に致しましょう。お兄様」
 
 護衛との約束など、最愛の兄の欲望の前では無きに等しい。少女は、少年は、紅世の徒“愛染の兄妹”は、欲望の赴くままにその足を進め出した。
 
 
 
 
 昨夜から鍛練を始め、今朝は散々に叩きのめされ、ヘカテーの入浴を待ってから、悠二は痛む身体に冷たいシャワーを浴びた。
 もはやヘカテーを完全に家族の一員として扱っている千草も交えて朝食を済ませ、高校からは拒否していた筈の弁当を渡されて、悠二はヘカテーと一緒に学校に―――
 
「別々に登校しよう」
 
 行きたくなかった。
 
「…………?」
 
 悠二の意図が読めず不思議そうに首を傾げるヘカテーの頭上に、ヒヨドリが降り立つ。
 
「だからほら、噂とか立ったらお互いに困るだろ?」
 
「噂………?」
 
 頭上のヒヨドリと一緒に目をぱちくりさせるヘカテー。予想通りではあるが、やはり悠二の言いたい事は理解してもらえない。
 かと言って、
 
「……何の噂ですか?」
 
 と返されると、応えに詰まる悠二である。さっきの言い方で察して貰えれば楽だったのだが、その内容を直接……しかもヘカテーに言うのは憚られる。
 
「(でもこのままだと、結局 噂が立ってヘカテーの耳にも入るだろうし……)」
 
 どう言えばいいものかと、悠二が頭を抱えていると、ふと………
 
「…………………」
 
 ヘカテーの目付きが、スッと細くなった。どことなく不愉快そうな視線は、悠二に向けられたものではない。
 向こう側から歩いて来る、肩まで伸ばした髪を金に染めた、いかにもバンドとかしてそうな二十代前半の男に向けられている。その彼が咥えていた煙草が………一瞬にして水色に燃え散った。
 
「うわ熱ぃ!?」
 
 顔面に炎を受けて慌てる青年。彼が口元を押さえて蹲っている間に、悠二はヘカテーの手を引いて猛然と走りだす。ヒヨドリが飛び去った。
 
「いきなり何やってんだよ!?」
 
 ほどほどに距離を離してから、鯉のぼりよろしく引っ張っていたヘカテーを下ろして、悠二は叫ぶ。
 
「煙草が嫌いなのです」
 
 なぜ怒られているか判らないといった顔で即答するヘカテーに、悠二は額を押さえて天を仰ぐ。徒は普通、人と同じ姿で社会に溶け込んでいると言っていたが、当のヘカテーは全くもって溶け込めていない。
 
「それで……噂とは?」
 
「………いや、もういい。一緒に行こう」
 
「? ………はい」
 
 噂以上に、ヘカテーが何かしでかす方が怖い。より厄介な問題を抱える事で、悠二は少年らしい悩みを妥協する事となった。
 
 
 
 
 必要以上の緊張を伴う悠二を余所にして、穏やかに御崎高校の時は流れていく。相変わらず、教師や黒板を大人しく しげしげと眺めるヘカテーは、悠二の心配するような問題を起こしていない。歓迎すべき状況に、何故か そこはかとなく不安を覚える悠二は、そのまま何事もなく昼休みを迎えた。
 迎えて…………
 
「あの、さ、坂井君!」
 
 全く警戒していなかった角度から、完全に予想外の形で、異変は来た。
 悠二は、平井を始めとして田中、佐藤、おまけで池あたりに答えにくい質問を連発される事を覚悟して構えていた。
 しかし今、悠二と周囲を沈黙させているのは、平井でもなければ質問でもない。
 吉田一美……平井の幼馴染みにして、控え目で大人しい少女の差し出して来る、カモノハシ柄の布に包まれた弁当箱だった。
 
「昨日……その、いつもおにぎりだし、先生にボディプレスしたり、あの……お礼……じゃないけど、っ……カッコ良かったです!」
 
 耳まで真っ赤になって、支離滅裂な事を口走る吉田。恥ずかしいのだろう。弁当箱を差し出す腕より深く頭を下げた彼女は、いつまで経っても顔を上げない。
 
「『昨日は助けてくれてありがとうございます。凄くカッコ良かったです。お礼ってわけじゃないけど、いつもおにぎりだし、良かったらお弁当受け取って貰えませんか』」
 
「ッゆかりちゃん!?」
 
 隣から面白そうな顔で通訳する平井に、恥ずかしさが倍増したのか、吉田は真っ赤な顔で叫んだ。無論、平井はニヤケ笑いのままである。
 
「ほぅ………?」
 
「あの吉田ちゃんがねぇ。いやはや、“坂井君”もツミヅクリですなぁ」
 
「チクショウ、何で坂井ばっかり! モテ期か、モテ期なのか!?」
 
 押さえた眼鏡を光らせる池、顎を軽く摘みながら訳知り顔で唸る佐藤、額に青筋を浮かべて喚く田中。無責任に騒ぎ立てながら、男三人が机をくっつけて来た。
 当事者たる悠二には、そんなギャラリーに文句を言う余裕は無い。
 
「(吉田さんが、僕に、弁当………?)」
 
 『女子からお弁当を作って来てもらう』という、非日常関連とは別の次元で現実離れしたイベントに、未だ頭がついて来ていなかった。人間期間も合わせて約十五年間、このテの話と全く無縁だった彼にとって、こういうのは完全に物語の中の出来事なのだった。
 
「あ、でも……弁当って……」
 
 動揺から、思った事を口に出してしまっていた。朝、母に用意された弁当がある事に気付いて、ついカバンに視線を送る。弁当箱は……無かった。
 
「いや〜ありがと坂井君。ついつい今日の昼 忘れちゃって♪」
 
 覚えの無い礼に顔を上げると、悠二の弁当は既に平井の手に落ちていた。無論、悠二があげたわけではない。恐らく吉田の挑戦を知っていて、敢えて自分の弁当を忘れてきたものと思われる。「いい仕事したでしょ?」と言わんばかりのウインクが小憎らしい。
 
「あ、ありがと……」
 
 そうして漸く、悠二は躊躇いがちに吉田の弁当を受け取った。受け取りながら、今さらのように思う。
 昨日の弁当騒動は、吉田も見ていた筈。それでも吉田は今日、弁当を作って持って来てくれた。
 
「(お、お礼だよな。ただの……)」
 
 単に転んで体育教師に落下したお礼。内心で、実は期待の裏返しである割り切りをしながら、悠二は渡された弁当の包みを開く。
 
「…………………」
 
 そんな一連のやり取りを、ヘカテーは悠二の隣で眺めていた。
 吉田は顔を赤くして弁当を渡し、悠二も顔を赤くしてこれを受け取った。何でもないやり取り、自分たちも今朝 千草にして貰ったやり取りで、何をここまで騒いでいるのか解らない。
 今、悠二は、ヘカテーを見ていない。それが何故か、少しだけ淋しかった。
 
「(………ふん)」
 
 内心で小さく鼻を鳴らして、ヘカテーも弁当箱の蓋を開ける。それは、本人も無自覚なパンドラの箱。
 
「………近衛さんの弁当、坂井君のと中身同じなんだけど」
 
 ピシリと、空気が凍り付く。昨日の段階ならまだ、『千草に弁当を渡すのを頼まれた』だけで確定的ではなかった。が、
 
「居候ですから」
 
 さらに、ダメ押し。
 椅子に座っていた吉田が、儚い吐息を吐いて横倒れに卒倒した。
 
「…たまたまだよ、大丈夫…弁当の中身くらい……偶然……い、いい居候なんて……」
 
「たまたまって何が?」
 
 うなされるようにブツブツと呟く吉田に、平井が空気を読まずに返してみる。
 
「………♪」
 
 因みに吉田の弁当は、ヘカテーが美味しく頂いた。
 
 
 
(あとがき)
 誤age失礼。追投稿だとついsageチェックを忘れてしまう………。
 
 
 



[34371] 2-5・『GW』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:4ec2609c
Date: 2012/09/01 16:27
 
『わ、私……』
 
 恐ろしく鋭い大太刀が胸を貫き、粗雑な力が爆発となって弾けた。
 
『それは……たくさん、今日も、昨日も、その前も、ずっとずっと……教えてくれたから』
 
 醒める事の無い想いと、癒える事の無い痛みを胸に抱く四百年の月日は、遂に終わりを迎えた。これ以上ない器と、文句のつけようもない結実によって。
 彼女への愛の証、憎い男が同胞を狩る為の道具―――それだけの、筈だった。
 
『私も、愛してるよ』
 
 一方的な片想い。遣り遂げる事のみに意味がある自己満足。報いも、救いも、得られるとは思って“いなかった”。
 
『……さあ、行け。怖い女が、外で待ってる……』
 
 だからもう、本当に、思い残す事は無い。既に開けておく事も出来ない目蓋の奥で、旅立つ我が子を見送った。
 
『(見ていたか、マティルダ・サントメール………)』
 
 聖堂が崩れる。力を失った浮遊島が大海へと落ちる。流れ込む水流の暴威に曝されながら、口元には笑みが浮かんでいた。
 
『(これが俺の、お前への愛だ)』
 
 鎧が燃え、皮が剥がれ、肉が削げて、襤褸を纏った白骨だけが宮殿を漂う。僅かに残る意識の欠片に、少女との日々が蘇る。
 しかし、やがてそれも終わりを告げる。彼を運ぶ海流が止むと同時に、骨だけの身体は銀の水盤の上に崩れ落ちた。
 
『(…………ちっ)』
 
 文句の無い最期に水を差すような終焉の棺に舌打ちをして、眉を顰める。……そうしたくとも、彼には既に舌も眉も無かった。
 
 ―――少年と少女が邂逅を果たす、数年前の出来事だった。
 
 
 
 
「ダーウト!」
「!?」
 
 少し広めの和室で、平井ゆかりの鋭い指摘が近衛史菜ことヘカテーを打つ。
 背中をビクリと跳ねさせた小さな少女は、渋々という態度を全身から漂わせながらトランプの山を回収する。
 
「フフン♪ ヘカテーって顔には出ないけど、結構わかりやすいよね」
 
 意地悪く鼻を鳴らす平井を、ヘカテーが上目遣いで恨めしげに見る。その様子に佐藤と田中が笑った。
 何だかんだで和気藹々に楽しむ一同に、悠二は窓の外の景色を眺めながら安堵の溜息を吐く。
 
「(まあ、普通に遊ぶくらい問題ない、よな……?)」
 
 ここは御崎市から離れた海沿いの片田舎。高校に入ってから親しくなったグループが集まっているのは、季節外れの海の家である。
 なぜ悠二らがこんな場所に居るのか? 時は、二十四時間ほど遡る。
 
 ……………………
 
『皆で旅行に行こう!』
 
 ゴールデンウィークを目前に控えた学校の昼休み。いつの間にか日常化していた悠二、ヘカテー、平井、吉田、池、佐藤、田中による昼食の席で、平井が唐突にそう言った。
 
『旅行って、そんなホイホイ行けるほど皆 金ないだろ』
 
『だいじょーぶ! うちのじーちゃん家だから、電車代さえあれば行けるって』
 
『『おおっ!』』
 
 平井の提案に、真っ先にイベント大好きの 佐藤と、非常にノリの良い田中が感嘆した。
 親の許可だの男女での旅行だので池や吉田が思い悩み、成り行きが読めずにヘカテーが首を傾げている間、悠二は全く別の事を考えていた。
 
『(………平井さん、ゴールデンウィークは親と旅行かもとか、言ってたのに……)』
 
 平井ゆかりの両親は悠二と同じく、“狩人”フリアグネの燐子に喰われてトーチとなった。存在の残滓すら薄れ、消えた後には何も残らない。
 人々の記憶からも消えて、居る筈の人間が居ないという不自然な現実は、世界の整合性を保つ為に均されてしまう。
 
「(僕が“そうなってない”のは、偶然『零時迷子』が転移してきた……それだけの事なんだよな)」
 
 そんなこんなで、最終的に参加を決めた池や吉田も伴って、悠二達は平井ゆかりの祖父の海の家に厄介になっている。因みにヘカテーは存外に興味津々であり、悠二の母・千草もこういったイベントを厳しく咎める性格ではない為、悠二も漏れなく参加の運びとなった。
 
「んじゃ、次『大富豪』で」
 
「ヘカテー、ルール知ってる?」
 
「……知りません」
 
 紅世の徒である、という以上に世慣れないヘカテーが輪の中に溶け込むのも、ものの三日と掛からなかった。
 持ち前の明るさでクラスのムードメーカーとなりつつあった平井が、『可愛いから』という清々しいほど単純な理由でヘカテーを引っ張り回し、それに佐藤と田中が便乗した為である。
 『ヘカテー』という彼女の本名も、いつの間にか渾名として定着してしまっていた。
 
「……吉田さん、遅いね?」
 
「何か、じーちゃんが魚捌くトコ見たいんだって。昼ご飯は期待してい賜えよ諸君」
 
 いつまでも好奇の目で見られる事がなくて喜ぶべきか、溶け込んだ先でヘカテーがいつ“やらかしてしまう”かを気にすべきか、複雑な心境の悠二である。
 そして、
 
「……お前ってさ」
 
 周囲の空気に敏感な気配り名人メガネマンは、そんな悠二の内心を目聡く見抜いていた。
 
「近衛さんの事、ちょっと気にし過ぎじゃないか?」
 
「うぇ?」
 
 特に悠二が何かしたわけでもないし、何か言ったわけでもないのに、そんな事を言って来る。このタイミングで指摘を受けると思っていなかった悠二は、思わず間の抜けた声を上げていた。
 
「外国出身で心配なのは判るけど、ちょっと過剰だ。日本語だって完璧なんだし、子供じゃないんだから、そこまで神経質になる事ないだろ」
 
 らしくないぞ、と訳知り顔で眼鏡を押さえる池の言葉に………
 
「そーそ、俺もそれ前から言いたかった」
 
 佐藤が調子良く便乗し、
 
「つーか、俺たちにまで気遣う事ないよなぁ」
 
 田中がさりげなく良い事を言い、
 
「ぶっちゃけウザいよね」
 
 平井が身も蓋も無い一言で、悠二を轟沈させた。
 
「(ど、どいつもこいつも………)」
 
 人の気も知らずに好き勝手な事を言う四人に、悠二は内心で毒づいた。只の外国出身の世慣れない少女ではないから苦労している………とは、言えない。
 
「……わかってるよ。気をつければ良いんだろ」
 
 不機嫌な態度を声色に残して、とりあえずそう場を濁すしかなかった。
 ……実際、もう少しという手応えはある。自在法に限らず、無闇に人間離れした力を使わない事。解らない事は外国出身だからと誤魔化す事。その他もろもろの一般常識。この一週間で、悠二はヘカテーに出来る限り言い聞かせて来た。そろそろ、自分があれこれ口煩くフォローする必要は無くなると悠二は見ている。
 この徒の少女、愛想は無いが愛嬌はあるのだ。
 
「…………………」
 
 そのヘカテーはと言えば、話の流れを飲み下すように一同の顔を順番に眺めて、最終的に悠二の顔に視線を止めた。
 これまで悠二が無用な心労を重ねて来たなどと思っていなかったのだろう。その小さな指でズビシ、と悠二を差して……
 
「私は子供ではありません」
 
 と、のたまった。そんな何気ない仕草も可愛くて仕方ないのか、平井が後ろからヘカテーを抱き竦める。ヘカテーの方も、特に抵抗する事もなく されるがままだ。悠二も別に慌てはしない。既に見慣れた光景である。
 
「おーい、ゆかりや。昼飯出来たぞ。運ぶの手伝っとくれ」
 
「はーい!」
 
 台所から声が聞こえて、平井がヘカテーを解放する。戻って来た彼女の手にある新鮮かつ豪華な刺身を見て、一同は一斉に感嘆の声を上げた。
 
 
 
 
「んっ……はあ、あむ…ちゅ……!」
 
 純白のシーツの上で、豪奢な金髪が乱れる。華美なドレスを引き千切られ、細い肢体を痣になるほど強く掴まれ、“愛染他”ティリエルは一方的に組み敷かれていた。
 
「んちゆ……ぷはっ……!」
 
 貪られていた唇が放され、口と口の間に銀色の橋が架かる。僅かに離れた視界を、彼女を襲う少年の顔だけが占める。鏡に映したように瓜二つの、彼女の双子の兄の顔が。
 
「お兄様っ……お兄様……お兄様!!」
 
 済んだ碧眼の中には、優しさの欠片も無い。ただ欲望を満たす……それだけしか無い。
 己が欲望のみを残酷なまでの純粋さで追い求める。それこそが彼……“愛染自”ソラトの存在の在り様だった。
 
「お兄様……私の、愛しい……」
 
 だが、ティリエルはそれで構わなかった。
 荒々しく、浅ましいまでの欲望。最愛の兄のそれを、自分に向けて貰える。貪欲に、執拗に、自分を求めてくれる。それ以上の喜びなど存在しない。
 それこそが彼女の……“愛染他”ティリエルの存在の在り様だった。
 
「ティリエル! もっと、もっ――――」
 
 常の様に、決して変わらず、己の欲望に任せて女を求めるソラトの……その嗅覚が、情欲に混じって、疼いた。
 
「はあっ……はあっ……………お兄様?」
 
 不自然に動きを止めた兄の行動に、ティリエルは胡乱な瞳を向ける。その視線を受けて、何故かソラトは怯えたように跳び退いた。
 
「ティリエル。ぼく はやくほしいよ、にえとののしゃな! もうちかいよ!」
 
 そして一転、常と変わらない無邪気な姿で駄々を捏ね始めた。こういった彼の気紛れは珍しくもない。ティリエルは少しだけ淋しそうに、しかし微笑んでそれを許す。
 
「ええ、でしたら そろそろ、揺り籠を作るとしましょうか。捕えた獲物を逃がさない為に」
 
 兄の欲望を、ただ叶える。その喜びに震えるティリエルは、疑問に思わなかった。
 何故ソラトが一瞬、ティリエルに怯えた瞳を向けたのかと。
 
 
 



[34371] 2-6・『人間の外へ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/09/03 15:01
 
 ―――『天目一個』。
 
 人間の残影でありながら、紅世の徒……或いは王からも、伝説の化け物として恐れられた“ミステス”。
 強大な力を持ちながら一切の気配を持たず、前触れもなく現れては無差別に紅世の者を斬り殺す隻眼鬼面の鎧武者。
 気配を全く持たない為、研ぎ澄まされた感覚を持つ歴戦の猛者でも“斬られた事にも気付かずに”討滅されかねず、『天目一個』自身の剣も桁外れの技と鋭さを誇っていた。そして何より、この化け物トーチには紅世の徒が操る自在法が全く通用しなかった。
 恐るべき鎧武者を恐れて、近年では徒たちが このミステスの出没する東洋を敬遠するほどになった。………だが、それも過去の事。
 
 数年ほど前から、『天目一個』による乱獲が完全に途絶え、史上最悪のミステスが滅んだという噂が流れ始めた。
 噂はしかし、徒の間で確信と呼べるほどのものには成り得ない。真実を知り、生き延びた徒がいないのだから、当然の事だった。
 
 ―――『天目一個』の核を為していた大太刀……『贄殿遮那』の行方を知る紅世の徒は、未だ一人として居ない。
 
 
 
 
 潮風の吹く港町の船着き場、四方を海に囲まれたその場所で、互いにTシャツとジーンズの悠二とヘカテーは朝早くから鍛練に励んでいた。
 
「は……っ!」
 
 いつも使っている棒切れは、この旅行に持って来ていない。今の二人は、互いに素手で打ち合っている。
 
「ごふッ!?」
 
 と言っても、やはり悠二の攻撃は一つも当たらない。ガードさせる事すら叶わない。また一撃、掌底を胸に受けて悠二が吹っ飛んだ。
 
「くっ……まだまだ!」
 
 5メートルほど飛ばされて引っ繰り返った悠二は、すぐさま身を起こしてヘカテーに飛び掛かる。左、右と、拳に振り回されるような不自然なフックに、ヘカテーは僅か目を見開いて……当然、容易く掻い潜って悠二の足を払った。
 
「うわ!? ……とりゃ!」
 
 思い切り背中から落ちそうになった悠二は、間一髪で手を着いて、苦し紛れに足払いをやり返す。それを軽くジャンプして避けたヘカテーは、倒れた悠二に追い打ちを掛けずに少し距離を空けた。
 軽快なステップを刻みつつ、シュッシュッと左拳で風を切って悠二を挑発するヘカテー。何とも言えないシュールな光景ではあるが、もちろん彼女は大真面目である。
 
「(今の不自然な動き、もしかしたら……)」
 
 悠二に言われて力を制限する習慣を付けているヘカテーは、その実体験から一つの推測を立てて、立ち上がった悠二の眼前に踏み込んだ。
 
「シッ!」
 
 払い除けるような悠二の拳撃が虚しく空を切る。そうしながら後退する悠二の足運びに、ヘカテーはピッタリと付いていく。
 
「くうっ!」
 
 焦りと共に振り上げられる脚。その“脚の上をジャンプ”して………
 
「え?」
 
 頭上に跳んだヘカテーは、そのまま高速で前回りに二回転し……回転の勢いそのままに、悠二の脳天に踵を振り下ろした。
 
「(ヤ  バ  )」
 
 そこに込められた力を肌に感じて、『痛い』では済まないと警鐘が鳴る。突然の暴挙に疑問を感じる暇も無い。湧き上がる危機感の命じるままに、悠二は両手を頭上で交叉させた。
 
(ズゴンッ!!)
 
 衝突、轟音。両手に響く重々しい手応え。それらを極限の緊迫の中で感じて……
 
「………?」
 
 そんな物を感じていられる状態を、不思議に思った。見えていたのに見えていなかった視界が意識と繋がり、
 
「………順調ですね」
 
 目の前のヘカテーが、やや得意気に頷く姿が映る。
 そう……怪我では済まないと戦慄いたヘカテーの踵落としを、悠二は確かに防ぎ切っていた。
 
「なん……あれ?」
 
 小柄なヘカテーと目線の高さが同じである、という小さな違和感。見れば、悠二の両足は足首までがコンクリートに埋まっていた。
 それを見て、漸く、滝のような冷や汗が全身から噴き出した。
 
「殺す気か!?」
 
「体捌きはともかく、存在の統御は確実に成長しています。もし直撃しても、悪くて脳震盪でしたよ」
 
 思わず叫び、淡々と返され、その一撃を自分が止めたという事実を悠二は再認識する。目の前に広げた掌を、握り締める。そこに……人間の域を越えた力がある、ようだ。
 
「(鍛練を始めて、まだ一週間も経ってないのに………)」
 
 成長などという生易しいものではなかった。毎夜繰り返している鍛練、ヘカテーと共有する感覚。それが毒のように、血肉のように、坂井悠二という存在に侵食している。
 
「………………」
 
 手にした力に、自分は人間ではないのだと どうしようもなく思い知らされる。他でもない自分自身に抱く怖れを、戸惑いを……
 
『貴方はもう、人間を越えられる』
 
 かつて少女から貰った一言で、抑え、流した。
 
「(……そうさ、とっくに変わってるんだ)」
 
 自分自身も気付かぬ内に、人間・坂井悠二は死んだ。ここにいる自分はトーチであり、ミステス。だからこの変化は……人間ではなくなったという、過去の喪失ではない。
 
 そう、強くなったのだ。
 
「よし、もう一丁!」
 
 同じミステスならば、弱いミステスより強いミステスの方が良いに決まっている。
 気合いも新たに、悠二はコンクリートに埋まった足を、今度は自分の意志で強化した力で引き抜いた。
 今朝はもう終わりにしようという気になっていたヘカテーに、やや不意打ち気味に飛び掛かる。
 
「させるかー!!」
 
 そして、横合いから飛んで来た両足を横っ面に受けて吹っ飛んだ。そのまま海に落下して、水飛沫で虹を作る。
 
「ッ坂井君! 朝っぱらからヘカテー相手に何してんの!? 説明次第じゃもう一発食らわすよ!」
 
 海から這い上がった悠二を、彼にドロップキックをかました平井ゆかりが、頭の両端の触角を怒らせて見下ろしていた。
 滅多に見られない憤怒の背中に、庇うようにヘカテーを下がらせている。……どうやら、暴漢か何かと誤解されているようだ。
 
「……ゆかりの蹴りが躱せないようでは、まだまだですね」
 
 ボソリと、ヘカテーは悠二の評価を容赦なく下げた。
 
 
 
 
「や~ごめんごめん。坂井君がヘカテーに飛び掛かってたのが絵的にアブナかったからつい」
 
 全身ずぶ濡れになった悠二に向けて、平井が両手を合わせて朗らかに謝る。軽い仕草なのに不思議と恨む気にならないのは、彼女の性格ゆえだろうか。
 
「……まあ、普通は女の子と組み手なんかしてると思わないもんな」
 
 濡れたシャツが肌に貼りつく不快な感触に顰めっ面になりつつも、悠二は平井に強く言い返さない。いつもの棒切れでも持っていればまた違ったのだろうが、今朝のあれは誤解されても仕方ない状況だった。
 
「って言うか、何か地面に穴あいてたけど……」
 
「………さぁ、僕らが来た時にはもう空いてたよ」
 
 それよりも、ヘカテーの踵落としの瞬間を見られていなかった事にこそ悠二は安堵する。あれを見られていたら、流石に誤魔化しようが無い。
 
「けど、何で急にトレーニング? 前までそんなのしてなかったよね」
 
 両手の指を後ろで組んで踊るような足取りで平井が振り返る。鍛練を見られる、という事態を想定していなかった悠二は僅か答えに詰まり………
 
「今のままでは、心許ないからです。悠二にはせめて、自分の身くらいは守れるようになって貰わないと」
 
 その間に、ヘカテーがあっさりと応えていた。しかも、よりによって本音で。ただ、今回はそれで意味が通る。
 
「そっかそっか、ヘカテーの要望かぁ。ギリシャとか良く知らないけど、日本より危なそーだもんね」
 
 何やら勝手に納得して、抱き寄せたヘカテーの頭を かいぐりかいぐりと撫で回す平井。外国出身という(あながち嘘でもない)設定が、妙な説得力になっていた。
 それはそれとして、安全上の問題から悠二を“鍛えている”らしい水色の少女の行動が、背伸びする子供みたいで愛らしくて堪らない、と平井は思う。力いっぱい抱き締めたまま、クルクルと回った。
 
 不適切な認識をする平井ゆかりはこの一週間後、襲撃した朝の坂井家の庭にて、それが誤りであると思い知る事になる。
 
 
 
 
「いただきまーす!」
 
 声とも呼べない声を上げて、“愛染自”ソラトが大口を開ける。小学校の体育館に全校朝礼という名目で集められた児童が次々と燃え上がり、彼に存在を喰われていく。
 
「ふふっ、お兄様ったら」
 
 喰われる者も喰われない者も、何が起こっているか解らない。制止したまま人間を失くす。この陽炎の結界は、“封絶ではない”。
 “愛染他”ティリエルが誇る自在法・『揺りかごの園(クレイドルガーデン)』だ。この結界は気配を完全に隠蔽して彼女ら兄妹を護り、また燐子や宝具と組み合わせる事で無敵の包囲網を完成させる。
 現に“すぐそこにいる”獲物も、昨日から罠を巡らせる愛染兄妹に全く気付いていない。
 昨夜、小さな封絶を展開しておきながら何のアクションも起こさずに解いた事から見ても、それは確実だった。
 
「(あの『天目一個』を討つほどの相手、用心に越した事はありませんものね)」
 
 心中の言葉とは裏腹に傲岸な笑みを浮かべたティリエルは、鋭く指先を切る。そこから放たれた光条が、生み出されたトーチに突き刺さり、潜り込んだ。
 油断は大敵。だが逆を言えば、周到な準備さえ怠らなければ無敵。その準備に適した隠れ簑も持っている。
 
「では、そろそろまいりましょうか お兄様。『贄殿遮那』を貰い受けに」
 
「うんっ! はやくほしいな、にえとののしゃな!」
 
 妹の許可に舞い上がる兄の瞳には―――下劣な欲情の色が浮かんでいた。
 
 
 



[34371] 2-7・『天道宮』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/09/10 15:29
 
 まだ猛暑とは程遠い日射しの下、空と海の二つの青に包まれて、坂井悠二とその友人たちは釣り糸を垂らしていた。
 それも、只の釣りではない。平井ゆかりの祖父が駆る漁船の上、大海原での本格的な海釣りである。
 
「ひゃっほー! デケェのきたー!」
 
「何て魚だこれ」
 
 泳げもしない季節に海か、と言葉に出さずとも訝しがっていた佐藤と田中が、掌を返したようにテンションを上げる。
 
「ヘカテー、虫 平気なんだ?」
 
「……もっと大きいのも、知っていますから」
 
 釣りの経験どころか、釣りという言葉すら知らなかったヘカテーに、平井が手取り足取り付きっきりでレクチャーする。
 そして、坂井悠二はと言えば………
 
「はい、出来たよ吉田さん」
 
「あ、ありがとうございます坂井君。こんなに何度も……」
 
 餌である虫を釣り針に着ける事も出来なければ、釣った魚を針から外す事も出来ない吉田一美の世話ばかり焼いていた。
 意外にも頻繁に魚を釣り上げる吉田に構っているせいで、まだ悠二自身は二、三匹しか釣れていない。
 
「(………吉田さんって、あんまり目を合わせてくれないんだよな……)」
 
 カチカチと ぎこちない動きで釣竿を受け取る吉田を見ながら、悠二はそんな事を思う。
 “あれ”から、体育教師から助けたお礼として手渡した弁当を、吉田は毎日作って持って来てくれている。『お礼』はとっくに時効だと思われるので、あれは完全に建前……或いは切っ掛けに過ぎなかったのだろう。
 この素朴な好意を、一人の少年として喜びたいのに……『一人の少年』ではない悠二は、素直に喜ぶ事が出来ずにいた。
 
 ―――坂井悠二は人間ではない。
 
 中途半端な期待を抱く度に、現実との違いを考えて沈んでしまう。理屈や打算で考えるような事ではないと解っていても、どうしても頭を過る。
 
「(まあ、今すぐ何が変わるわけでもないよな)」
 
 と言っても、そんなにしょっちゅう落ち込むほど気に病んでいるわけでもなかった。毎度毎度、吉田の持って来る弁当をチェックしては おかずのトレードを要求するヘカテーによって、この行為も何だか微妙に重みを失っている。
 
「(……いいじゃないか、今くらい)」
 
 開き直りに近い現実逃避の下、控え目ながらも実は可愛い少女との一時に興じる悠二。
 一方、船の反対側では………
 
「……………………」
 
 無表情な上にも無表情なヘカテーが、目の前の釣り針を微動だにせず凝視していた。引き上げた釣り針には何も付いていない。魚はもちろん、さっき付けた餌すらも。
 
「焦っちゃダメとは言ったけど、食い逃げを許しちゃいかんよヘカテー。奴らが口を開いた瞬間、この鋭い釣り針をザクッとだねぇ……」
 
「…………………」
 
 硬直するヘカテーを横から覗き込みつつ、平井が片手で一匹釣り上げる。
 
「っしゃあ! 八匹目ぇ!」
 
「なんの俺もぉ!」
 
「………………」
 
 釣果を競っているらしい田中と佐藤が行儀悪く叫ぶ。
 
「わっ、釣れた……! 坂井君! また釣れました!」
 
「っと、ちょっと待ってて!」
 
「…………………」
 
 竿の手応えに戸惑いながらも、また一匹吉田が釣り上げ、悠二が緩んだ顔で駆け寄った辺りで………
 
(バシャン!!)
 
 悠二の背後で、元気な水音が響いた。
 
『…………………』
 
 誰もが、何が起きたのか理解できずに数秒固まった。真っ先に我に帰ったのは、ヘカテーのすぐ隣にいた平井。
 
「ヘ、ヘヘ、ヘカテーがダイブした!」
 
 その一言で何が起きたのか把握した悠二が、頭を抱えて触角を暴れさせる平井の肩を掴んだ。
 
「ヘカテーが落ちたの!?」
 
「……何か『捕まえれば良いんですね』とか言って飛び込んだ。手掴みでもする気かも知んない」
 
 訊かれるまま質問に応えてから、「言ってる場合じゃないね」と零した平井は、徐に上着を脱ぎ捨てる。
 
「ちょっと待った、何する気だ!? まだ5月だよ!」
 
「はーなーせー! 幼気な仔アザラシがサメに食べられるのを黙って見てろと言うかー!」
 
 そんな平井を羽交い締めにして止めつつ、悠二は全く別の意味で心配していた。
 ヘカテーが溺れたり、鮫に襲われたりする心配は……正直、全くしていない。逆に、ヘカテーが手掴みで何を獲ってくるかが心配で仕方ない。もし鮫だの鮪だのを捕まえて来たりしたら……どんなに皆が大らかでも『普通の人間じゃない』と気付くだろう。
 
「解った! 僕が行くから、平井さんは大人しく待ってて!」
 
「むっ……! 待てサカイ君! 二次遭難にでもなったら……」
 
 平井の祖父が制止するのも聞かず、悠二は準備運動も無しに冷たい海水に飛び込んだ。海中の様子を見せたくないのは平井の祖父相手でも同じ事。何事も起こらない内にヘカテーを回収すべく、悠二は頭から海面を突き破り、刺すような冷たさを抜けて―――
 
「(う、わぁ……)」
 
 今の状況を一瞬忘れて、思わず息を呑んだ。
 どこまでも遠く、深く広がる青の世界。射し込んだ日の光を受けた小魚たちが宝石のように輝いている。
 
「(テレビで見るのとじゃ大違いだ)」
 
 あまりに美しい光景に目を奪われること数秒、悠二は本来の目的を思い出して視線を巡らせる。
 海中と言えどヘカテーの容姿は目立つ。小さな水色の姿を遠方に見つけて、反射的にギョッとなった。遥か下方で泳ぐヘカテーの傍に、人を優に凌ぐ大きさの何かが佇んでいたからだ。
 
「(人間離れした事はするなってあれほどっ………いや、違う……?)」
 
 心配した通りに鮫でも仕留めたのかと一瞬思った悠二だが、よくよく見ればそうではない。鮫でも鮪でもなく、古びて沈んでしまったボートのようだった。
 何をしているのか訝しみつつ、悠二はヘカテーを追って海の深くへと潜っていく。普通の人間には辛い水圧に平然と耐えている、という自覚もなしに。
 
「(? あのボート、何で……)」
 
 そして潜水の最中、可笑しな事実に気付く。ヘカテーは海底まで潜っているわけではないし、ボートを掴んでいるわけでもない。なのにボートは、浮かびもせず沈みもせず半端な所に留まっている。
 
「(ヘカテー)」
 
 疑問が解決するより早く、ヘカテーに追い付いた。肩を指先でつつくと、水色の少女は振り返って悠二を見た。そして、何を思ったか自分の足下を指差す。
 
「(……立ってる?)」
 
 思う間に悠二の身体は沈み、足裏が“何かの上に着地した”。
 
「(何か、ある)」
 
 目には今も、変わらず海が広がっているようにしか見えていない。しかし視界とは裏腹に、悠二は、ヘカテーは、朽ちたボートは、確かに何かの上に乗っている。
 
「(自在法? でも、何の気配も感じない……)」
 
 水中ではまともに話も出来ない。解の出る筈もない自問自答に陥る悠二の足下で、ヘカテーの自在式が刹那輝き、
 
「ごぼっ!?」
 
 直後、二人は問答無用に“落下”を始めた。
 
「なぁああああ~~~~ッ!!?」
 
 一瞬で景色が一変し、そこは海中ではなくなった。否、海中に擬態していた空間に落ちた。今、周りに海水は無い。遮る物無き重力の必然によって、二人は地面に向かって速度を増す。
 
「存在の力を、足に集中して下さい」
 
 その一言で、ヘカテーに助ける気が無い事を知る。知って、絶望して……だからこそ悠二は、恐慌状態に陥りそうな自身を理性で繋ぎ止める。
 
「足に……集中っ!!」
 
 毎夜刻み込んで来た感覚を、今だからこそ懸命に再現する。そして―――
 
「くっっ……はぁ……!!」
 
 両足で、確かに、落下の衝撃を受け止めて見せた。
 
「………ヘカテー、頼むからこういうテストの仕方は勘弁して欲しいんだけど……」
 
 人間のままだったら確実に寿命が縮んでいただろう激しい動悸を胸に感じる悠二の文句……を、残念ながらヘカテーは聞いていない。魅入られるような足取りで、常より僅か見開いた眼で“それ”を見ていた。
 
「あ………」
 
 視線を追って、悠二も漸く目にする。青空から暖かな陽光に照らされた、古めかしくも神秘的な宮殿と、その宮殿を支える緑溢れる大地を。
 
「どうなってるんだ………」
 
 何故、海の中にこんな場所があるのか。そもそも、ここは一体何なのか。無知から来る困惑を呟く悠二の驚きと、
 
「……『天道宮』」
 
 ヘカテーの驚きは、もちろん違うものである。
 
「天道宮?」
 
「私の実家……『星黎殿』と対を為す、気配を隠蔽する『秘匿の聖室(クリュプタ)』に覆われた移動要塞です。……まさか、こんな場所に沈んでいるとは思いませんでした」
 
 穏やかな宮殿から目を離さず、悠二には半分も解らない答えを返すヘカテー。
 悠二に解ったのは、気配の隠蔽された移動要塞だ、という事くらいだ。
 
「(まあ、それだけ解れば充分かも知れないけど)」
 
 と、能天気に思う悠二とは違い、ヘカテーの表情は少し険しい。
 ヘカテーにとってこの『天道宮』は、単なる珍しい宝具ではない。『大命』を阻み得る天敵を内に秘めた忌まわしい卵なのだ。
 この『天道宮』が最後に目撃されたのは、数百年前の“大戦”。姿を消した『天道宮』で、彼の魔神が次なる契約者を探し求めているというのが、ヘカテーの属する『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の立てた推測である。
 
「………無人ですね」
 
 そして、その『天道宮』が今、こんな海底に放り出されている。そこから導き出される結論は一つ。
 
「(二代目は、既に世に放たれている)」
 
 気配の端すら感じ取れない宮殿に、ヘカテーは傍目にも判るほどに眉を険しく寄せた。
 と、その時………
 
「………いる」
 
「え……」
 
 傍らの悠二が、僅かに怯えを含んだ声でヘカテーの言葉を否定した。言われたヘカテーも、もう一度注意深く宮殿に感覚を集中させるが………
 
「……何も感じません」
 
「いや……いる。微かな気配だけど、確かに紅世の徒がいる」
 
 さっきよりもハッキリと、悠二は断言した。
 そういえば、とヘカテーは思い出す。以前の“狩人”との戦いでも、悠二はヘカテーでも察知出来なかった燐子の爆発を看破していた事を。
 
「………少し、探ってみましょう」
 
 気配が小さいわけがない。あの魔神はこの上なく強大で、しかも気配を隠せる器用な自在師でもないのだから。
 それでも何かしらの手掛かりを求めて一歩、足を踏み出したヘカテーを……否、一帯を、
 
「っ!?」
 
 ―――山吹色の結界が、包み込んだ。
 
 
 



[34371] 2-8・『霧中の異界』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/09/12 18:52
 
「………出て来ませんわね」
 
 妖花の織り成す美しい城の頂に立ち、“愛染他”ティリエルは己が生み出した揺り籠に視線を巡らせる。
 山吹色の木葉を舞わすこの霧の結界は、封絶ではない。彼女の誇る自在法『揺りかごの園(クレイドル・ガーデン)』だ。
 気配を隠蔽するこの自在法で自分たちの身体を覆っていた“愛染の兄妹”は、実はとっくに獲物の位置を掴んでいた。その獲物がこちらに気付いていないという確信の下、周到に準備を続けていたのだが……
 
「……取り逃がしたかしら」
 
 その獲物の気配が急に遠ざかり、次いで忽然と消えたのだ。用意した檻から獲物を逃がす事を危惧したティリエルは、即座に『揺りかごの園』で街一つを丸ごと包んだ。これに囚われた者は、ティリエルを討滅でもしない限り中から出る事は不可能なのだが……未だに気配が現れる様子は無い。“仕掛けた目”にも、それらしい姿は見当たらない。
 もし既に範囲外に逃げられているとしたら、これまでの準備が全て無駄になってしまう。と表情を険しくするティリエルの隣から、“愛染自”ソラトが首を出した。
 
「ちがう! いるよティリエル! ゆりかごのなかにいるよ!」
 
「! そう、そうですのね、お兄様」
 
 自身は獲物の気配を全く掴めていないにも関わらず、ティリエルは兄の言葉をあっさりと信じる。
 これがソラトの、本質から滲み出る特殊能力。どんな秘匿も隠蔽も通用しない、己が欲する存在そのものを貪欲に嗅ぎ分け見つけだす『欲望の嗅覚』。
 
「では頂きに参りましょうか、お兄様。もう、我慢なさらなくて結構ですから」
 
 欲望に誘われ、妖花が伸びる。嬲り、奪い、踏み潰す為に。
 
 
 
 
「じ、自在法……!?」
 
 陽光の大地の上、突如として湧き上がった山吹色の結界。今度こそ間違い様のない戦いの予兆に、悠二は引きつった悲鳴を上げる。
 その隣で、ヘカテーが水色に燃え上がった。炎が全身を包み、消えた後に佇むのは、大きな外套と帽子に着られた紅世の巫女。
 
「……悠二、気配は宮殿からですか?」
 
「いや、違うと思う…けど……」
 
 宮殿を数秒睨み付けてから、ヘカテーは視線を偽りの空へと向けた。
 一応悠二に確認は取ったが、いくら何でも目の前の宮殿で自在法を使われて気付かないわけがない。となるとこれは、『天道宮』の外からのもの。……だが、そうだとしても疑問が残る。さっきまでヘカテー達は何の異変も感じずに休暇を過ごしていたのだから。
 
「(……私や悠二に一切の気配を感じさせず、これだけの自在法を瞬時に構築できる自在師)」
 
 状況の理解は、そのまま現実の脅威へと繋がる。『天道宮』の『秘匿の聖室(クリュプタ)』が敵の気配を完全に遮断しているというのも、不安を煽る大きな要素となっていた。
 ……だが、安心出来る事実もある。気配を隠せるにも関わらず、不意打ちも掛けずに こんな形で結界を張って来たという事は、相手も『秘匿の聖室』の隠蔽までは見抜けないという事だ。
 ―――ならば、取るべき道は一つ。
 
「『星(アステル)』よ」
 
 ヘカテーは右手に握った大杖『トライゴン』を『天道宮』へと差し向け、瞬く間に数十の光弾を流星と変えて降らし、神秘的な宮殿を爆撃した。
 
「うおぁ!?」
 
 後顧の憂いを断った上で この『天道宮』に悠二を匿い、その間に自分が敵を排除する(二人とも隠れてやり過ごせる、と思うほど楽観的ではない)。
 
「ここから出ないで下さい」
 
 宮殿の爆破に戦慄く悠二に一方的に言い捨てて、ヘカテーはあっという間に青空の彼方に飛び去った。
 
「…………ヘカテー」
 
 燃え盛る宮殿を中心とする穏やかな庭園に一人残された悠二は、それをただ見送る事しか出来なかった。
 
「…………………」
 
 戦いになれば足手纏いにしかならない。そんな事は判っている。ここに自分を残して行ったのも、ヘカテーなりの優しさだろう。今なら、そう言い切る事も出来る。
 理解は出来て、しかし納得は出来ない。……いや、したくない。
 
『……我々と、同じだから…です。隣を歩む……者で、あっても……変わらないモノを持っている。だからこそ―――』
 
 あの時……消滅の恐怖も自分たちの在り方も越えた所で感じた繋がりが、遠い過去になってしまう気がした。
 
「………戦う前は、ヘカテーの事だって怖がってたのにな」
 
 蔵する宝具が偶々『零時迷子』だったというだけで、随分現金なものだと自分でも思う。それでも、やはり………今の自分でも、何か出来ないかと考えてしまうのは止められない。
 
「(フリアグネの時も、燐子の爆発を見抜けたんだ。今回だって、僕にも何か………)」
 
 今の自分の唯一の武器とも言える、ヘカテーさえ凌ぐ感知能力を活かそうと、『秘匿の聖室』に遮断された空間で無為に意識を集中した悠二は、
 
「っ……」
 
 思惑とは異なる形で、その成果を得る。変わらず、“外”の気配は少しも解らない。掴んだのは、“中”。
 
 先ほど感じた小さな気配が、燃える宮殿の中で今も息づいていた。
 
 
 
 
 『天道宮』を脱し、海中へと飛び出したヘカテーが真っ先に感じたのは、
 
「(……近い)」
 
 彼女の予測に反して急速に接近して来る二つの気配。涎を拭えない獣のような剥き出しの存在感と、不規則に振幅する曖昧な違和感。『秘匿の聖室』は感知出来ないと思っていたのに、明らかにヘカテーが出て来る前から接近を始めていた。
 同時に脳裏を掠める、不自然な矛盾。
 
「(………小さい?)」
 
 近づいて来る敵の気配は、ヘカテーが警戒していたよりもかなり小さい。とても、こんな大掛かりな自在法を扱えるとは思えない。
 どちらにしろ向かって来るなら加減はしないと心に決めて、ヘカテーは高速で海面を突き抜けた。
 そうして、目を見開いた。
 
「(これは……)」
 
 山吹色の結界が、遠くに映る街をと容易く呑み込んで、不気味な霧と木葉を鮮やかに撒き散らす。
 それら、徒の起こす不思議そのものと呼べる光景を背にして、海上に巨大な花が咲き誇っている。
 
「………あら、貴女でしたの」
 
 その花に抱かれるようにして、二人の徒が抱き合ったままヘカテーを見ていた。
 金髪と碧眼を魅せる、フランス人形の様な可憐な容姿の少年と少女。髪の長短や、鎧とドレスという服装の違いこそあれ、二人は鏡に映したように瓜二つの顔を持っていた。
 
「いつかはお世話になりましたわね。貴女でも外に出る事があるとは思いませんでした。箱に詰まって星と遊ぶ、つまらないお姫様?」
 
 少女が口の端に厭味を乗せてわざとらしく笑う。その挑発的な態度は気にも留めず、ヘカテーは言葉そのものに反応した。
 
「………お世話?」
 
 その、心底不思議そうな声に―――
 
「……まさか、憶えてらっしゃらないの?」
 
 少女……“愛染他”ティリエルは、冷たい炎を瞳に宿した。
 
 そう……彼女ら兄妹がこの世に渡り来てから程なく、二人は『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の本拠たる『星黎殿』を訪れた。
 そこで二人に、この世を謳歌する作法を説く訓令を授けたのが、他でもないヘカテー。……欲望と憤怒のままに牙を剥いた兄妹を苦もなく一蹴したのも、ヘカテーだった。ティリエルにとっては、忘れたくとも忘れられない屈辱の記憶……だが、
 
「………………」
 
 ヘカテーにとっては、過ぎては流れる日常の欠片に過ぎなかった。この世に渡る徒は基本的に自儘で傲慢な性格をしているので、訓令の際に攻撃されるのも大して珍しい事件でもなかった。
 そんな徒の兄妹をヘカテーが忘れてしまっているのも、ある意味仕方ない事なのかも知れない。
 もちろん、そんな事情は愛染兄妹には関係が無い。自分たちが忘れられている、忘れられる程度の存在でしかない事に、甚だしく自尊心を傷つけられていた。
 
「そう……でしたら、今度こそ二度と忘れられないよう、その出来の悪い頭に恐怖と共に刻みつけて差し上げます」
 
 煮え滾る怒りを暗い愉悦に混ぜて、ティリエルは凶悪な笑みを浮かべて見せた。最愛の兄の欲望を満たし、同時に忌々しい女も嬲り殺せる。これほど素晴らしい事は無い。
 
「私は“愛染他”ティリエル。そして彼が私のお兄様、“愛染自”ソラト。短い間の事でしょうけれど、しっかり憶えておいでなさいな」
 
 名乗りと共に、まるでダンスにでも誘うように右手を差し向けるティリエル。その指先に導かれて、妖花の蔓が多頭の龍の如くヘカテーに襲い掛かった。
 その先を、
 
「『星』よ」
 
 光の巫女が制する。
 錫杖の遊環が涼やかな音色を奏で、明るすぎる水色の星々が少女の周囲を照らした。
 それら全てが………
 
「あ――――」
 
 一斉に奔り、迫る蔓を粉砕し、巨大な花を咬み千切り、連鎖的な爆発を呼んで凄まじい水柱を起こした。
 
「……この程度ですか」
 
 『トライゴン』を軽く振って、ヘカテーは波打つ水面を宙から見下ろす。
 今の一撃は、迎撃であると同時に一つの保険でもあった。つまり……妖花の付近で静止していた、平井たちの乗るボートを破壊する事こそが目的だったのだ。
 封絶内部の破壊は、外界と因果を繋ぎ合わせる事で後から修復する事が出来る。しかし、徒に喰われた人間の存在は還って来ない。故にヘカテーは、愛染兄妹が平井たちを喰らう前に必要以上に派手な攻撃で破壊したのだ。
 
「(感知と隠蔽が得意なだけの徒か……)」
 
 己の買い被りに嘆息し、トドメを刺すべく錫杖を振りかざし―――
 
「ッ………!?」
 
 瞬間、動きを止めた。
 眼下の海中に向けて、凄まじい力の波が一挙怒涛に押し寄せ、瞬く間に集結した。
 
「っ『星』よ!」
 
 逡巡も数瞬、練り上げた力を煌めく流星群へと変えて解き放つ。それと同時、集約された力が練り上げられ、突き上げられるのを感じて―――――
 
「ッッ!!」
 
 力と力が真っ向からぶつかり合い、水色と山吹色が弾けて大輪の華を咲かせる。
 その、向こうから………
 
「……!?」
 
 ―――無数の蔓が、雪崩を打って押し寄せて来る。
 
 
 



[34371] 2-9・『白骨』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/09/15 14:55
 
 無数の蔓が、鋭い穂先を向けて迫って来る。
 
「むっ……!」
 
 蔓と言っても、巨大な妖花のそれは樹の幹ほどの太さを持つ。身体ごと縦横無尽に飛び回って回避したヘカテーの帽子が、並々ならぬ風圧で危うく飛ばされそうになる。
 その背後、ヘカテーが先ほど躱した蔓が鎌首を擡げて、槍衾となって再び迫って来た。
 
「(逃げる空間が無い)」
 
 身体を檻に、先端を槍にして獲物に牙を剥く妖花から逃げられないと判断するや、ヘカテーは全身から水色の炎を爆発させ、周囲を取り巻く蔓を纏めて焼き払った。
 間髪入れず大杖を翻し、全力の『星(アステル)』を愛染の兄妹目がけて撃ち放つ。先ほどとは比較にならない光弾が、海に津波を起こすほどの大爆発を呼び、
 
「……やりますね」
 
 その中に在って、山吹の光を灯す妖花の蕾は、無傷。その花弁が優雅に咲いて、内に守られた兄妹が姿を現した。
 
「御生憎様、あの時とは違いますのよ。実力の違いが理解出来まして?」
 
 『星』の全力を受け切って、なおも余裕の笑みを作るティリエル。しかし、やはり彼女からもソラトからも、それほど大きな力は感じない。
 本来ならばヘカテーの全力を止める事も、あれだけの存在の力を妖花に込める事も不可能な筈だった。
 
「(さっき感じた、力の脈動………)」
 
 そして、この封絶まがいの結界。やはり、どこか別の場所から力を供給しているのは間違いない。
 ……しかし、タネがあると判っても、肝心の仕掛けを破る術が無い。ヘカテーは巫女として特異な固有能力を持ってはいるが、己が本質に沿わぬ力を幅広く扱える自在師ではないのだ。
 長引くと判断すると同時に、ヘカテーは街に向かって一直線に飛翔を始めた。
 
「あら、かくれんぼの次は鬼ごっこ? 退屈な遊戯ばかりですわね」
 
 それを、嗜虐的な笑みを浮かべたティリエルと、目をキラキラと輝かせたソラトが、妖花に乗って追い掛ける。
 もちろん、ヘカテーは恐れを為して逃げ出したわけではない。
 
「(天道宮から、少しでも遠くに引き離す)」
 
 海中に『天道宮』があるここでは、満足に力を振るえないのだ。
 
 
 
 
 ヘカテーが愛染の兄妹と交戦している頃、一人『天道宮』に取り残された悠二はというと………
 
(ゴクリ)
 
 大人しく待機するでも、『秘匿の聖室(クリュプタ)』から飛び出すでもなく、燃える宮殿の反対側に回り込んでいた。
 目指しているのは、未だに何の動きも見せない、ヘカテーが仕留め損ねた小さな気配だ。
 
「(実は徒じゃない、とか……?)」
 
 ヘカテーが飛び出した直後は、徒と一緒にこんな空間に居るという事実に戦慄き、一も二もなく逃げ出そうとした。ヘカテーの様に飛ぶ事は出来無くとも、地面を歩いて横から出る事は出来る……と、思った。
 結果は失敗。偽りの空を描いた見えない壁に阻まれて、外に出る事は叶わなかったのだ。
 悠二には知る由も無いが、この『秘匿の聖室』はヘカテーにとっては馴れ親しんだものであり、出入りに必要な『鍵』も当たり前に知っている。それを知らない悠二が、入った時と同じように出られないのは全く当然の事だった。
 脱出を諦める傍ら、悠二はふと疑問に思った。この結界に取り込まれた時も、ヘカテーに宮殿ごと攻撃された時も、最初に感じた小さな気配が一切動いていない事に。
 反撃するにしろ逃げるにしろ、攻撃を加えられたら何らかのアクションを起こすのが普通だ。気配を掴めていなかったヘカテーが、禄に確認もせず飛び去ったのも、そういった認識からだろう。
 徒ではない、紅世の気配。即ち、
 
「(宝具、か……?)」
 
 という結論に(素人考えで)達した悠二は、おっかなびっくり気配の正体を確かめに来ているのである。
 
「(……もしかしたら、この結界の鍵かも知れないもんな)」
 
 ヘカテーのように敵の姿や結界の力を目にしたわけでもないが、単なる封絶ではない以上、当然何らかの仕掛けがあると悠二は考える。
 そうして、宮殿の反対側に回り込むと……
 
「あっ」
 
 いともあっさり、それは見つかった。宮殿の中ではなく、宮殿を挟んだ反対側の庭園にあった。
 
「こ、これは………」
 
 驚きと同時に、悠二は安堵する。
 そこに在ったのは大きな銀の水盤。その上に、不吉なものが乗っている。手も足も無い、水盤の上に打ち捨てられたような人間の白骨である。
 
「(……良かった、宝具だ)」
 
 気配が分かると言っても、肉眼で視認出来るわけではない。だから悠二は、“違和感の正体が白骨だと”気付けなかった。
 恐る恐る、水盤から白骨をどけようと手を伸ばして………
 
「ッ!!?」
 
 その手から、悠二というトーチを構成する存在の力が抜ける、独特の感覚があった。毎夜繰り返している、間違えようのない喪失感。
 
「うわあぁぁ!!」
 
 “喰われる”という恐怖に心底から震え上がり、思わず白骨を放り出していた。
 後退る足も縺れて無様に尻餅を着き、後悔ばかりが身体中に広がっていく。
 
「(僕は……馬鹿だ!)」
 
 心のどこかで自惚れていた。この気配は、フリアグネが使役していた燐子よりも遥かに弱い。いざとなったら自力で何とか出来るのでは、という“錯覚”が微かにあった。
 自分の力さえ満足に統御出来ない悠二など、いくら存在の力を持っていても徒から見れば極上の“餌”に過ぎない。―――だからこうして、いとも容易く存在を奪われる。
 
「あ……あ……」
 
 見上げる先で、白骨の姿が変質していく。
 欠けていた骨が復元し、胴から手が生え、足が生え、肉に覆われ、皮を纏う。
 薄青の上衣を胸甲と草摺りが守り、金冠を模した額当てを着けた長い銀髪と紫の外套が翻る。
 そこに顕れたのは、御伽話から飛び出して来たような、精悍な顔立ちの騎士、或いは剣士。その眼が、ゆっくりと悠二に向けられる。
 
「…………………」
 
 数秒とも、数分とも着かない沈黙を経て……
 
「………お前は、誰だ?」
 
 男の口が、開かれた。
 
 
 
 
 “それ”は、彼にとっても意識の外の現象だった。
 極限まで乾いた身体が、触れるだけで水分を吸収してしまうのと同じく、彼の身体は唐突に接触した存在の力の塊を、無意識の内に吸い取っていた。
 
「(今、のは………)」
 
 得た力のまま顕現してから、真っ先に感じたのは焦り。『誓いを違えてしまったか』という危惧からの焦りだった。
 はっきりしない意識のまま近くにいた何物かを見ると、無様に硬直している無様な餓鬼の胸で灯りが燃えている。とりあえず、『人間を喰ってしまった』わけではないようだ。
 
「…………………」
 
 そうして次に、意識を失う前の事を思い出す。
 赤い飛沫と、暴走。徒の襲来と、導かれた『天目一個』。誓いの成就と、永遠の別離。………その、筈だった。
 
「(……こいつのせいか)」
 
 見るでもなく、足元の水盤を見る。この宝具の名は、『カイナ』。『天道宮』の要にして、その上に在るモノに存在を消耗させない水盤だった。
 この上で力尽きたが為に、彼は死のギリギリでこの世に留まった……ようだ。
 命を懸けて旅立ちを見送ったと言うのに、何とも締まらない顛末だった。
 それにしても、解らない。あの時、『天道宮』は確かに崩壊した筈だ。
 
「………お前は、誰だ?」
 
 解らないなら、訊けばいい。何故か腰を抜かして動かない少年を見下ろしたまま、銀髪の剣士は有無を言わさぬ声音で言った。
 
 訊かれた悠二はと言えば、
 
「……坂井、悠二………」
 
 まずは会話が成立したという事に安堵しつつ、隠す意味も無い名前を譫言のように呟いていた。
 
「何故ここにいる。この結界は何だ。俺に触れた理由は?」
 
 男の方も、何となく訊いてはみたが悠二の名前などに興味は無い。矢継ぎ早に訊きたい事だけを並べる。
 が、残念ながら悠二は半分も答えられない。
 
「……ここを見つけたのは偶然だ。この結界は、多分、敵の自在法で……今も外で、僕の仲間が戦ってる」
 
 それでも、混乱する頭で懸命に伝えたい事を形にする。敵意が無さそうな男の様子から、或いは味方に引き込めないかと考えたのだ。悠二はともかく、ヘカテーは紅世の王なのだから。
 が、
 
「………要は、単に巻き込まれただけか」
 
 男は興味無さそうに溜め息を吐いて、それ以上悠二に何を訊くでもなく、宝具に興味を持つでもなく、そのまま上空に浮かび上がった。
 
「なっ……どこ行くんだよ!」
 
 という悠二の呼び掛けも、完全に無視である。あのまま喰われなかっただけマシなのだろうが、それでも何か釈然としないものは残る。
 何より、あの男は紅世の徒。放っておけば、別の場所で人間を喰う。複雑な表情で見上げるしかない悠二の頭上で………偽りの空に穴が開いた。
 
「なっ……なっ……なあぁっ!?」
 
 男が、剣帯に吊られていた凝った意匠のサーベルで『秘匿の聖室』を斬り砕いたのだ。そこから、海水が勢い良く流れ込んで来る。
 
「(いや、これで、いいのか?)」
 
 これで海水が中を満たせば、悠二も男が開けた穴から脱出できる。これでヘカテーの手伝いが出来る……かも知れないが、徒から姿を隠す事も出来なくなった。
 
「(どっちにしろ、もう気配は隠せないんだ。ここに残ってる意味が無い)」
 
 それ以前に、溺れる。
 海水が満ちるのを水に浮かんで待ちながら、悠二は静かに気持ちを練り直す。
 さっきのは確かにミスだった。ヘカテーを手伝おうとした結果、何を考えているか解らない徒を一人、解き放ってしまった。あの男がヘカテーに敵対した場合、手伝いどころか邪魔をした事になってしまう。……だからこそ、このまま全て任せきりには出来ない。
 
「(何か異変に気付いたとして、それをどうやって戦っているヘカテーに伝える……?)」
 
 悠二が徒に遭遇する、というのは論外だ。かと言って、携帯電話なんて便利な物は持ってないし、持っていたとしても封絶の中では使えない。そんな余裕も無いだろう。
 解が見つからないまま海水が満ち、悠二は『秘匿の聖室』から脱出した。海中を一気に泳ぎ、海面から勢いよく顔を出して息を吸い込む。………と、
 
「………あれ」
 
 海中から顔を出したすぐ近く、この結界を構成しているらしい陽炎の壁の前に、さっきの徒がフワフワと浮いていた。
 
「……この結界、自在法を破らんと出られんらしいな」
 
 再び、さっきは用済みと言わんばかりに無視した悠二に、男は目を向けた。
 そして、上着の背中を乱暴に持ち上げ、
 
「うわっ!?」
 
 空中で腰のベルトを掴み、手荷物のように持った。
 
「その徒について聞かせろ。場合によっては、お前の仲間とやらを助ける事にもなるかも知れんぞ」
 
 傲慢に、一方的に、男は要求を突き付ける。一つのミステスと一人の王が、戦場の片隅に舞い降りた。
 
 
 



[34371] 2-10・『虹』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/09/28 17:39
 
 軽業よろしく連続でバック転する路面に、次々と鋭い穂先が突き立つ。
 
「っ……」
 
 三角跳びに蹴ったビルの壁を、鋼鉄の柱じみた蔓が二つに割った。
 
「(何て、出鱈目な力……!)」
 
 『天道宮』から“愛染”を引き離す事に成功したヘカテー……だが、その内心は表情ほどに平静ではない。
 ヘカテーが回避に専念している間も、ティリエルは全く惜しむ様子も無く無尽蔵な力を振るっていた。
 未熟な徒にありがちな、力の使い過ぎによる自滅は……この“愛染他”には期待できない。何せ、自身とは別の場所から存在の力を供給されているのだから。
 
「『星(アステル)』よ」
 
 もう何度目か、水色の流星群が妖花の上から降り注ぐ。膨れ、弾けて、キノコ雲を上げるほどの爆炎の中から……こちらも何度目か、妖花に乗った兄妹が平然と姿を現す。
 
「学習しませんわね。無駄だと言うのが、まだ御解りにならないのかしら?」
 
 滞空するヘカテーを嘲笑い、ティリエルの妖花が蔓を伸ばして襲い掛かる。ティリエルの攻撃も まだヘカテーを捉えてはいないが、明らかに愛染の兄妹が追い詰めている。
 ………ように、見える。
 
「(何て、出鱈目な力……!)」
 
 余裕の笑みの内側で、ティリエルもまた、ヘカテーと全く同じ言葉を吐き捨てていた。そう、顔や言葉に表しているほど、ティリエルに余裕など無いのである。
 自在法『揺りかごの園(クレイドル・ガーデン)』。
 この結界は事前に範囲内のトーチに仕掛けた燐子『ピニオン』が周辺の人間を喰らい、その力を兄妹に流し込むという、概ねヘカテーの推測と違わぬ効力を持っている。
 そうと気付けても対処出来ない偽装や隠蔽の力も合わせて、ティリエルに絶対の自信を誇らせる切り札だった。この複雑極まる自在法を維持し得る宝具もまた、彼女の手の内に在る。
 
「(今までの相手とは桁が違う。こんな化け物が居たなんて……)」
 
 だと言うのに、その自信が今まさに脅かされている。
 自在法も、宝具も、燐子も、何の問題もなく機能している。敵も結界を破る術を全く見出だせずにいる。
 なのに……それが、何の工夫もなく、真っ向から打ち破られようとしている。
 
「(忌々しい女)」
 
 ピニオンを使って結界中から集めた力を、ヘカテーはその身一つの生み出す力で猛然と削り取っていた。
 
「「(………このままだと、いずれやられる)」」
 
 互いの心中を隠した、恐ろしく高次元の根比べに………
 
「(持久戦は、不利)」
 
 敗北したのは、ヘカテー。
 力を使い切ったわけでも、心が折れたわけでもない。総量では敵わないと諦めて、力で対抗するのを止めたのだ。
 これは、両者に見えているものの差。ティリエルはヘカテーの持つ莫大な力を、圧倒されながらも正確に認識できる。逆にヘカテーには、ティリエルの力の正体も総量も全く掴めていない。ゴールの見えないマラソンというものは、体力と精神力を著しく消耗させるのだ。
 
「(……でも、結界を破る方法が見つからない)」
 
 消耗戦を避けると判断した以上、今までのように敵の防御の上から光弾を叩きつける選択は無い。防御も回避も許さぬ接近戦に移るべく、錫杖を斜に構えるヘカテー。
 
「!?」
 
 その感覚に、嘘のように、冗談のように、新たな気配が現れた。戦いの最中でもハッキリと判る存在感が、“海の方に”。
 
「(……悠、二?)」
 
 そう思った瞬間、不可解な温かさが胸に疼いた。疼いて………直後に、寒さへと逆転した。
 
「(悠二……!?)」
 
 今の悠二は、こんなにハッキリと“自分を顕現できない”。存在の有無はともかく、その位置を感覚だけで掴めるなど有り得ない。
 つまりこれは、悠二ではない。“悠二ではない何者かが、海の方に現れた”。
 
「何を止まってらっしゃるの!」
「っ……!?」
 
 一瞬の自失。凍り付くような硬直は、八方から迫る無数の蔓によって無理矢理に解かれた。正面から唸り、横の民家をぶち抜き、背後の路面を砕いて、一斉にヘカテーを襲う。
 
「く……っ」
 
 閉じる顎門のような一斉に攻撃を跳んで躱す。逃れた先を、天を這う豪撃が狙い撃つ。それを、絶妙な飛翔で身を翻して避けたヘカテー。その背中を………
 
「ふっ!」
 
 串刺しにする勢いで突き出された蔓を、ヘカテーは脅威的な反応で躱した。回避する延長で蔓を跳ねて逆さに浮く少女の上空から、さらなる蔓が弧を描いて降って来た。
 
「(しつこい。……ッ)」
 
 直撃の寸前に焼き払おうと視線を向けたヘカテーは、思わず目を剥いた。迫る蔓の先端に、今まで妹の庇護下で傍観していた“愛染自”ソラトが乗っている。
 
「あはははは!」
 
 兜から金髪を溢れさせる少年は、蔓の刺突に先んじて跳躍した。タイミングをずらされ、炎を練る余裕の無いヘカテーに、容赦無く大剣を振り下ろした。
 
「(でも、甘い……!)」
 
 疾くも重い、猛獣じみた荒々しい一撃。それを、ヘカテーは逆さになった不安定な体勢でしっかりと受け止める。
 
 直後、幅広の刀身に、血色の波紋が揺れて………
 
「え――――」
 
 不可解に理不尽に、炎が舞う。
 刻まれた全身の傷から血飛沫のように噴き出す、水色の炎が。
 
 
 
 
 手荷物よろしく運ばれた悠二が、やはり物のように放り出される。港のコンクリートに手を着いて着地した悠二は、文句を言うよりまず困惑しながら自分を“持って来た”男を見上げた。
 
「ど、どういうつもりだ……!?」
 
 なるべく毅然と振る舞おうとした声も、みっともなく震えている。そんな悠二を、銀髪の騎士は怪訝そのものの眼で見下ろしていた。
 
「一つの大きな気配と、二つの小さな気配。どっちがお前の知り合いだ?」
 
 そして、やはり悠二の質問は無視して一方的に問い質す。その偉そうな態度に、十人並の自尊心しか持たない悠二もカチンと来て………
 
「っ」
 
 文句を言う前に、口をつぐんだ。この騎士、一見すると強烈な違和感と存在感を撒き散らしてはいるが、その実、持っている力……つまり悠二から奪った力は、ほんの一雫でしか無い。
 こんな力でこれだけの顕現をしている徒に畏怖を感じて、悠二は警戒しつつも大人しく答えた。
 
「大きい方だ」
 
 そんな悠二には眼も向けず、騎士はその気配の方角だけを眺め続けている。
 
「これなら俺も、呆気なく決着が着くと思っていた。だが、見てみろ」
 
 男が顎で指し示すとほぼ同時、大きな気配が必殺の力を練り上げ、次の瞬間、水色の爆発が天を衝いた。
 
「な……っ」
 
 しかし、悠二は暢気に喝采など上げられない。爆発の寸前、街中に点在する小さな気配から、とんでもない量の存在が流れ込むのを感じ取ったからだ。
 案の定、爆発の後にも二つの気配は健在である。
 
「この結界の効力だろうな。少し面倒な事になっている」
 
「だったら、あの発生源の気配を壊せばいいじゃないか。ヘカテーの自在法なら、簡単に出来る筈なのに………」
 
 殆ど何も考えず、思ったままの疑問を悠二が口に出すと、不意に沈黙が下りた。
 それを訝しんだ悠二が顔を上げると、戦いの気配に向けられていた男の視線が悠二を見ている。
 
「……発生源の気配?」
 
「え? だってさっきの、感じただろ。街中に、えっと……二十六個」
 
 さも当然とばかりに言ってのける悠二に、男は密かに目を見開いた。
 悠二の言う気配は、百戦錬磨を自負する紅世の王にも掴めていない。有する力の割りに間抜けなミステスだと思っていたが、感知能力が取り柄だったらしい。
 
「(さて、どうするか)」
 
 目の前のミステスの特性を知った上で、男は軽く思考を巡らせる。
 さっき弾みで吸収した程度の力では、何をするにも不足に過ぎる。今さら未練も無いが、このまま何もせず消えるというのも味気ない。
 このミステス……人間ではない代替物を喰って去る、というのも悪くはないが、その為にはまず、この結界を何とかしなくてはならない。
 そして、問題はもう一つ。
 
「(さっき、“ヘカテー”と言ったな)」
 
 “頂の座”ヘカテー。
 紅世の徒 最大級の組織『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の最高幹部にして、絶大な尊崇を集める『巫女』。もし本当に“頂の座”だとすれば、彼女のミステスに手を出す事が、結果的に『世を騒がす事』になるかも知れない。
 
「(いずれにしろ、雑魚を片付けるのが先だな)」
 
 男はそう結論づけて、悠二の傍らに降り立ち、促す。
 
「その気配を、もっと深く探れ。そして俺に教えろ」
 
 偉そうながらも何故か協力的な徒に、悠二も言われるまま意識を集中させる。まだ信用したわけではないが、明らかにヘカテーと敵対している徒の弱点をバラすのは、悠二にとっては何のリスクにもならない。
 そう思って意識を集中する間にも、再びの爆発。
 
「(捉えろ………!)」
 
 眼を鎖し、爆音も無視し、存在の流れだけを正確に感じ取る。すると、
 
「(これは………)」
 
 幾多の気配から力が供給される寸前、全体に同調させるような複雑な振幅が、ある一点から奏でられている。
 
「見つけた!」
 
 それが核だと確信して、悠二は思わず叫んだ。男は予想以上の感知能力に感嘆して、しかし顔には出さない。代わりに、一つの要求を突き付ける。
 
「方角を教えて力を寄越せ。そうすれば、俺が終わらせてやる」
 
 存在を喰わせろ。
 その要求に、悠二は本能的な忌避感を抱いて、だが、感情のまま反論はしない。
 
「このまま連中に負ければ、どちらにしろ喰われて消えるだけだぞ」
 
「…………………」
 
 悠二の『零時迷子』は、毎夜零時に力を回復させる。存在の力そのものを渡す事に問題は無い。
 それに、この男はその気になれば悠二の許可など得なくても一方的に力を奪える筈なのだ。
 
「……………解った」
 
 理屈で解って、感情で恐れて、躊躇いがちに手を伸ばしたその時、
 
「うっ!?」
 
 ヘカテーの気配が、急激に小さくなった。その危機感に促されるように、悠二は男の手を素早く握る。
 
「(後から敵に回る事も考えて、ヘカテーよりは少なくしないと………)」
 
 などと往生際悪く計算している内に、一方的にゴッソリ奪われた。文字通りの喪失感に戦慄いて跳び退る悠二だが、今度は尻餅を着かずに済んだ。
 激しく脈打つ心臓に手を当てながら、滅茶苦茶に膨れ上がった徒の……否、王の力に、今さらの後悔が湧き上がる。
 
「(こいつッ、ヘカテーより強いんじゃ……!?)」
 
 悠二の力を根こそぎ奪ったわけでもないのに、あの“狩人”以上の存在感。味方とすれば頼もしいが、敵に回ったら……もう、“終わり”なのではないか。
 
「で、どっちだ」
 
 最初に触れた時点で手遅れな後悔に苛まれる悠二の葛藤など露知らず、男は端的にそれだけを訊く。
 一瞬なにを言われたのか解らなかった悠二は、すぐ我に帰って慌てる。
 
「解った。すぐ案内するから、それで………」
「不要だ」
 
 駆け出そうとした悠二の足を、男の一言が止める。
 
「方角だけ指で示せ。それで十分だ」
 
 振り返った悠二の視界に、炎が燃える。七色の光を絡ませ揺らす、虹色の炎が。
 
 



[34371] 2-11・『溺愛の抱擁』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:e35eb391
Date: 2012/09/18 13:37
 
 手足を締め上げられる痛み、斬撃とは別種の痛みを受けて、ヘカテーは数秒の暗転から覚醒した。
 
「あら、もう御目覚め? 今から“優しく”起こして差し上げようと思ってましたのに」
 
 目の前には、嗜虐的な笑みを浮かべ、ヘカテーを見下し勝ち誇るティリエル。そのティリエルに抱き締められながら瞳を輝かせるソラト。ヘカテー自身はと言えば、両手足を蔓に縛られて、磔にされた罪人のように吊されている。
 
「(………どうして)」
 
 身動ぎするだけで激痛に顔を歪め、理不尽な結果をヘカテーは恨む。
 ソラトの大剣を、ヘカテーは確かに受け止めた。だと言うのに今、彼女は全身に傷を負って捕えられている。
 
「これがお兄様の『吸血鬼(ブルートザオガー)』、刃に触れた相手を存在の力で斬り刻む宝具ですの。もっとも、もう古びた玩具でしかないのですけど」
 
 勝者の余裕からか、己が手の内を自ら語るティリエル。その眼が、鋭くヘカテーを睨んだ。
 
「お兄様は新しい宝具を求めている。判ったら、おとなしく渡して下さるかしら?」
 
「………新しい宝具?」
 
 その言葉に嫌な予感を覚えて、ヘカテーは気を失っても手放さなかった大杖『トライゴン』を強く握り締める。しかし、続くティリエルの唇は予想に反して、
 
「もちろん、『贄殿遮那』ですわ」
 
 全く身に覚えの無い単語を口に出した。
 
「おとなしく渡せば、余計な苦しみを与えずに一思いに葬って差し上げますわよ?」
 
 凄むように一歩、ティリエルが足を進める。見当外れな要求は脇に置いて、ヘカテーは自身の状態を確かめる。
 傷は……深い。先ほどの消耗戦と回復に費やしている力を合わせて、この拘束を砕く余裕が無い。
 
「(いま来られたら、不味い)」
 
 判っていても、こんな状態では時間を稼ぐ術も無い。一か八か、或いは自滅に繋がるかも知れない力の顕現を、それでも今やられるよりはマシと練り上げるヘカテーの、眼前で―――
 
「え…………?」
 
 ティリエルの上半身が、唐突に“落ちた”。残った下半身も、それに遅れて崩れ落ちる。
 胴体から彼女を両断したのは、ヘカテーでもなければ先ほど現れた気配の主でもない。
 
「ははっ! やったやった!」
 
 彼女のすぐ後ろで守られていた兄、“愛染自”ソラトの凶刃だった。
 
「やっとてにはいった! ぼくのだ! ぼくのヘカテー!」
 
 ヘカテーには、何がなんだか解らない。
 何故この徒は、いきなり自分の妹を斬り倒して、無邪気に笑って喜んでいるのだろう。目先の脅威が一先ず去った安堵以上に、目の前の異様な光景に寒気を覚える。
 その、嫌悪感しか持てない無邪気な瞳が、我欲を漲らせてヘカテーを見る。
 
「もうぼくのだからな! かってにどこかにいったり、あばれたりしちゃだめなんだぞ!」
 
 子供が駄々を捏ねるように言いながら、我慢しきれなくなったようにソラトはヘカテーに飛び付いた。
 今度こそと、渾身の力を込めるヘカテーの前で、
 
「ぐぇ……!?」
 
 またしても、脅威は止まる。背後からソラトの首を掴む、小さな掌によって。
 
「ねぇ、お兄様。正直にお答えになって?」
 
 それは、山吹色の光を纏う少女の手。先ほどソラトに斬り倒された筈の、ティリエルの手だった。見れば、胴体を両断されたティリエルは、何事も無かったかのように無傷でそこに立っている。
 
「(……再生が、速過ぎる)」
 
 これでは接近戦も無駄、と現実の脅威を分析するヘカテーの存在など、今のティリエルの眼中には無い。
 見えるのは、振り返る事も出来ずに喉を潰されかけている最愛の兄の姿だけ。
 
「この地には、『贄殿遮那』を求めて来た。そうですわよね?」
 
「ぐぇ……ごっ……!」
 
 指先が深く、抉らんばかりに首にめり込む。
 
「お兄様を守るのは誰? お兄様の望みを叶えるのは誰? お兄様が甘えて良いのは誰? お兄様に愛を囁いて良いのは誰?」
 
 返事も出来ない相手に向けて、壊れた機械のようにティリエルは繰り返す。
 
「そう、私。私、私、私私私私私私私。私以外には有り得ない。そうですわよね?」
 
 言う間にも、ソラトの手に足に胴に蔓が巻き付き、一切の抵抗を封じている。
 ソラトに許された動きは一つだけ。
 
「……っ………!」
 
 さらなる痛みを伴うと判ってなお首を縦に振る、その小さな動作だけ。そうして初めて、ティリエルはソラトを解放した。
 
「あ……あ…ティリエル……」
 
 両目に涙をいっぱいに溜めて、弱々しく震えるソラト。そんな兄を自分という揺りかごに捕らえるように、ティリエルは優しく抱き締める。
 
「可哀想なお兄様。大丈夫ですよ、お兄様が求める物は、私が必ず手に入れて差し上げますから」
 
 抱き締めてから、怯える顔を両掌で柔らかく包み込み、そして――――
 
「っ……!?」
 
 その唇に、自身のそれを重ねていた。
 唇を貪り、舌を絡め合い、唾液を交換し合う。戦いの場で、ついさっき自分を斬り倒した相手と、浅ましい欲求に耽溺する。
 ヘカテーには何一つ理解できない、力とは全く違う衝撃に圧倒されていると………
 
「ぷはぁ……だから、まずは……」
 
 唇を離したティリエルの眼が、刃以上に冷たい光を宿してヘカテーを見た。
 
「邪魔者を、始末いたしましょう」
 
 もはや一切の容赦は無い。流石のソラトももう拘泥は出来ない。
 山吹色の炎を燃やす蔓の怒涛が、兄を誑かした恋敵を呑み込まんと押し寄せる。
 
 
 
 
 鞘を滑って、サーベルの刃が抜き放たれる。
 それに合わせて男の背中から七色七条の光が伸び、光背とも七色の翼とも見える壮麗な輝きで銀髪の騎士を飾った。
 
「虹の、翼……」
 
 徒の本質を顕す自在法の発現に、悠二は知らず男の真名を口にする。絶大な力を滾らせ光るその姿は、恐怖を越えて憧れを抱かせるほどに圧倒的だった。
 何百年ぶりかという力の充溢に笑みを浮かべる男の横眼が、ジロリと悠二を見る。
 立ち竦んでしまっていた悠二は、些か以上に格好悪く、呆けたように気配の核……この街の中心を指で示した。
 
「よく見ておけ」
 
 魅せるように、誇るように、サーベルが高々と振り上げられた。背にした翼が屈折して絡み合い、虹となった光を刀身が纏う。
 
「我が必殺の、『虹天剣』を」
 
 その刃が、振り下ろされた。
 
「――――――――」
 
 爆発的な光輝を放つ虹の濁流が、指した方角へ一直線に突き進む。その閃虹は地を削り、民家を消し、ビルを貫き、触れた物を問答無用に消し飛ばして驀進する。
 その途上……とある小学校の屋上で、澄んだ旋律を奏でていた小箱、ティリエルの自在法を支えていた『オルゴール』を、ついでのように消滅させて。
 
「ま、街が割れたぁー!?」
 
 その馬鹿馬鹿しいほど滅茶苦茶な破壊力に、悠二は堪らず頓狂な叫びを上げる。
 男が方角だけを訊ねた理由が、今なら良く解る。距離も障害も、この自在法の前では全くの無意味だからだ。
 勝手に盛り上がる悠二を、いい加減うんざりしたような男の眼が睨んでいる。
 
「………で、当たったのか?」
 
 もう何度目か、呆れた催促が悠二を叱った。
 
 
 
 
「なっ……!?」
 
 『オルゴール』を破壊されたティリエルはもちろん、
 
「ッ!?」
 
 磔にされたヘカテーも、即座に異変に気付いた。
 それも当然。制止していなければ人間でも一目瞭然の大破壊が、さして離れてもいない場所を貫いたのだから。
 
「(ピニオンから力を集められない……ッ!)」
 
 ティリエルの『オルゴール』は、一旦自在式を込めればどんな複雑な音色でも奏で続けてくれる、彼女の『揺りかごの園(クレイドル・ガーデン)』を無敵の結界たらしめる中核だった。それを失った愛染兄妹は、もう燐子からの供給を受けられない。
 
 案の定――――
 
「はあっ!!」
 
 蔓の拘束、妖花の怒涛、それら全てが、ヘカテーの全身から弾けた炎にいとも容易く焼き散らされた。
 
「(悠二)」
 
 ティリエルだけではなく、ヘカテーも気付いていた。
 
「(悠二が、いる)」
 
 海の方に現れた気配が、ヘカテーには何も感じなかった場所を攻撃した。
 無関係な徒がそんな事をする理由もなければ、都合良く鋭敏な感知能力を持っている事もまず無い。だが、不自然な空白に悠二というピースを埋める事で、状況と狙いが読めて来る。
 
「(一緒に、戦ってる)」
 
 悠二が“あれ”をしたとは思えない。それでも、何らかの方法で……恐らく『天道宮』にいた徒を味方につけて……敵の結界を無力化した。
 さして遠くもない過去、銀に彩られた光景に宿る想いが、炎より熱く胸を焦がす。その熱さが、満身創痍の身体に十分過ぎる力を呼び起こし、
 
「『星(アステル)』よ!!」
 
 水色の流星群に変えて、撃ち放つ。連鎖的な爆発が絨毯爆撃のように溢れ返って、愛染の兄妹を通りごと呑み込んだ。
 
「やっ、た……」
 
 傷む身体を大杖で支えて、ヘカテーは爆煙に目をやる。いくらヘカテーが消耗しているとは言え、元来の格が違う。
 結界を崩された今、彼女らにヘカテーの『星』を凌ぐ術は…………
 
「っ」
 
 あった、らしい。
 山吹色に輝く光のケープを羽織った“愛染自”ソラトが、爆煙を裂いて飛び出して来た。
 
「(もう一人が、居ない………?)」
 
 そう、ヘカテーはまず思って、
 
「―――やって、くれましたわ、ね―――」
 
 次いで、ソラトから聞こえて来た声の正体に気付いて目を見張った。
 ソラトを護る光のケープは、只の防護ではない。己が顕現する力すら自在法に変換した、“愛染他ティリエルそのもの”。
 
「……どうして?」
 
 燐子から力を供給できなくなったティリエルは、事もあろうに自分そのものを削って兄を護った。そこまでする理由が、全く解らない。
 
「そいつは、お前をゴミのように斬り捨てた。そんな相手に、どうして命を懸けられるのですか」
 
 不可解だった片方は、朧気ながらも理解できた。己が我欲だけにしか興味を持たない、自儘な徒の中でも極端な享楽主義者。
 解らないのは彼女、“愛染他”ティリエル。
 
「―――可哀想な、女ね―――」
 
 消滅を待つ者とは思えない強い瞳が、嘲りを宿した、気がした。
 
「ヘカテーーーー!!」
 
 命を懸けて自分を護っている妹を気にも留めず、大剣を手にソラトが駆けて来る。こんな時でも変わらず、ただ欲しい物を求めて。
 
「………『星』よ」
 
 流星が奔り、ソラトを叩く。光弾は直撃した端から弾かれ、その前進を止める事すら出来ない。
 が………
 
「ぐぇあ……!!」
 
 光ではないモノ。流星に紛らせ投擲された大杖『トライゴン』が、ソラトの胸を貫いていた。
 
「ヘカ、テ………」
 
 届かぬモノに手を伸ばす欲望の使途に、星の巫女を右手を翳し、特大の炎弾を放つ。溢れ返った水色の炎が、浅ましい獣を消滅させる。
 
「………私にも、命を懸ける使命は在ります」
 
 負け惜しみのように、届かない言葉を手向けに贈る。
 
 ―――水色に燃える炎の中、血染めの大剣が墓標の如く突き立っていた。
 
 
 



[34371] 2-☆・『花散りし揺り籠で』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/09/20 12:30
 
「………終わった」
 
 水色の炎が敵の存在を焼き尽くす光景を遠目に眺め、悠二は戦いの終わりを悟る。セリフだけ聞けば『戦いの後の戦士』然とした落ち着いたものだが、残念ながら今の悠二は手荷物の如くベルトを掴んで運ばれる情けない少年である。
 しかし、そんな些細な事を考えている暇も無い。木の葉を舞わせる霧の結界が、主を失って揺らぎ始めたのだ。
 
「ま、不味い! 封絶もどきが崩れる!」
 
 この結界は封絶と同様の効果も併せ持っていた。このまま解ければ、破壊の跡が修復されないまま世界が動き出してしまう。
 訴えるつもりで声を張り上げると、
 
「? この結界を崩す為に、俺に力を渡したのだろう。今さら何を言ってる」
 
 銀髪の剣士は、何処か根本的にズレた返事を寄越した。
 それに苛立つ間にも、結界はみるみる安定を失っていく。もはや説得する時間も無い。ヘカテーの所に行くのも間に合わないし、今のヘカテーに封絶を維持する余力があるかも確証は無い。
 
「(出来るか……!?)」
 
 『出来ませんでした』では済まない決断を一瞬で流し、『やるしかない』と己を鼓舞する。
 
「(僕の持つ存在の一部を燃やして、練り上げた力を式に流して、因果を外界から隔離する)」
 
 使った事なら何度もある。が、一人で使った事は一度も無い。まして、こんな大規模なものとなると見た事すら無い。
 それでも、やるしか無い。加減もしない。下手に怖じ気づいて破壊の跡がはみ出しでもしたら取り返しがつかない。
 
「(ヘカテーの感覚を、思い出せ)」
 
 頭で考え、身体に言い聞かせ、練り上げた力を顕現させる。
 
「……封絶」
 
 口にした途端、悠二を中心に火線が広がり、複雑怪奇な紋様が街中の大地を埋めた。待っていた山吹色の木の葉も燃え上がり、至る所に炎を揺らす。
 溢れた炎は、燦然と輝く、銀。
 
「やった……!」
 
 自在法『封絶』。
 この世の存在を隔離し、この世ならざる歪みを閉じ込める異能者の舞台。
 紅世に繋がる者ならば誰でも使える基本的な自在法。しかし、人間だった悠二ならば考える事すら出来なかった自在法。
 その発現は……完璧だった。
 
「僕が自在法を……封絶を……!」
 
 規模も構成も、使った悠二自身が驚くほどに完璧な封絶。人の手に吊られたまま興奮状態になる悠二は………
 
「んがっ!?」
 
 手近なマンションの屋上に捨てられた。人間ならば確実に即死しているところだが、とりあえず鼻血で済む悠二。
 
「いきなり何するんだよ!」
 
「うるさい。人の手先で騒ぐな」
 
 鼻を押さえて喚く悠二を見下ろした後、銀髪の剣士は腕を組みつつ銀の封絶に視線を巡らせている。
 そんな徒に釣られたように、悠二も再び封絶を見る。知らず、右手が強く握られていた。
 
「……悠二は、どうやら自在師の方に適正があるようですね」
 
 そうこうしている内に、ヘカテーの方から飛んで来た。外套の下に傷を隠した、しかし隠しようもなく疲弊した身体で悠二の隣に降り立つ。
 
「……まさか生きているとは思いませんでした。“虹の翼”メリヒム」
 
「俺も、君が一人で出歩くとは思わなかったな。“頂の座”ヘカテー?」
 
 そして、互いの無事を確認する事もなく、銀髪の剣士……否、“虹の翼”メリヒムと睨み合っていた。
 常の無表情の上に緊張の硬さを見せるヘカテーに対して、メリヒムはヘカテー相手でも厭味ったらしい余裕面を崩さない。
 ヘカテーは僅かに後退り、悠二を後ろ手で下がらせた。
 
「………ヘカテー、知り合い?」
 
「……『とむらいの鐘(トーテン・グロッケ)』の両翼が右。数百年前、当代最強を謳われた王の一人です」
 
 おずおずと訊ねた質問の答え。その前半に首を傾げ、後半に畏怖を感じる悠二。『とむらいの鐘』だの両翼だのと言われてもさっぱりだが、数百年だの当代最強だのは素人にも容易に重さが伝わって来る。
 しきりに警戒する二人を見て、メリヒムはわざとらしく肩を竦めて見せた。
 
「そう睨まれても困るな。少なくとも、俺は君に刃を向けるつもりは無い。さっきだって、そいつを使って助けてやっただろう?」
 
 敵意そのものが滑稽と言わんばかりに、メリヒムは視線を外した。平然と隙だらけの横顔を曝して、また封絶の空を見る。
 そう、悠二には知る由も無い事ではあるが、『とむらいの鐘』も『仮装舞踏会(バル・マスケ)』も、かつて紅世の徒最大級の集団として並び称された組織。その幹部たるヘカテーとメリヒムには、お互い胸の内に思うところはあっても、明確な敵対関係はない。
 ただ、それは今までの話である。
 
「……大戦から数百年、『天道宮』で何をしていたのですか」
 
 数百年前の大戦。メリヒムが消息を絶った場所と、『天道宮』が消え失せたのは同じだった。討滅されたと思われた彼が、魔神の器を育てていると目されていた『天道宮』から現れた。
 半ば確信に近い疑惑を、ヘカテーは敵意も露にメリヒムにぶつける。
 メリヒムは………
 
「……誓いを果たしていただけだ」
 
 痛みの中にも穏やかさを乗せた、あまり似合わない笑顔でそう返した。
 
「……誓い?」
 
「俺が愛した女との、戦いの果てに交わした誓いだ」
 
 恥ずかしげもなく、むしろ誇るようにメリヒムは言い放った。
 内容のはっきりしない、はぐらかしとも聞こえる返事にヘカテーは暫し考え込んで、
 
「……………そうですか」
 
 結局、折れた。
 仮に“そう”だとしても、今さらメリヒムを責めたところで何が変わるわけでもない。むしろ、今この場で彼を敵に回す事は絶体絶命の危機に繋がる。
 せめてもの抗議に背中を向けて拒絶の意思を表したヘカテーは、完全に会話から置き去りにされていた悠二へと向き直る。
 
「………ヘカテー、怪我とかしてない?」
 
 そして、そんな事を先に言われてしまう。心配された、というのが何故か無性に格好悪い気がして、ヘカテーは帽子を深く被り直した。
 
「……平気です」
 
 殊更に平静を装った声で、俯いたまま更に続ける。ここからは説教である。
 
「『天道宮』で待っているように、言いましたよね?」
 
「………ピンチだった癖に」
 
 打てば響くように茶化して来たので、足に『トライゴン』の石突きを落とした。足を押さえて飛び上がる。
 
「(まったく………)」
 
 ヘカテーに感じ取れない程度の気配しか持っていなかったメリヒムが今、これだけの力を保持している理由は、想像するに難くない。奪われたのか提供したのか知らないが、無用心にもほどがある。
 
「(“虹の翼”の気紛れ一つで消されていたという事を、本当に解っているのでしょうか)」
 
 考えれば考えるほどムカムカして来たので、見せつけるように背中を向ける。しかしながら、悠二はそんなポーズに気付く様子は無い。
 
「ねぇヘカテー。これ、このまま修復して大丈夫かな?」
 
 人の気も知らずにそんな事をのたまう。
 
「………勝手に直したら良いです」
 
 ので、必要以上に冷めた声音で突き放してみる。然る後、悠二は人差し指を天に向け、そこから飛散させた火の粉で封絶内の修復を開始した。
 
「…………………」
 
「ヘカテー、これで大丈夫? 何か間違ってないかな?」
 
「………知りません」
 
「へ?」
 
 さり気ない抗議は通じないらしかった。これらのフラストレーションは後の鍛練に遺憾なく発揮する事にして、ヘカテーは一先ずは諦めた。
 
「?」
 
 ふと、銀髪の剣士がジロジロと悠二を見ているのに気付く。もしや中の宝具に興味を持たれたかとヘカテーは邪推するも、メリヒムの興味はそっちではなかった。
 
「……妙なミステスだな。感知の宝具を宿しているのかと思えば、こんな複雑な自在法を平然と構築する。一体 何物だ?」
 
「「…………は?」」
 
 他でもない、封絶が気になっているらしい。
 徒ならば誰でも使えるポピュラーな自在法を、この強大な王が珍しがっているという奇妙な事実に、悠二とヘカテーは揃って頭上に疑問符を浮かべる。
 
「あ」
 
 のも数秒、ヘカテーはすぐにその理由に思い至った。
 “虹の翼”が消息を絶ったのは数百年前の大戦。つまり、封絶という自在法が普及されるよりも前である。
 それからずっと『天道宮』から出なかったというなら、彼が封絶など知っているわけが無い。
 
「……貴方には、少し教育が必要なようですね」
 
 今でこそ誰でも使えるポピュラーなものだが、実のところ、封絶はそれほど単純な自在法ではない。
 とある天才が気紛れに編み出した複雑極まる自在式を、別の天才が誰でも使える簡単な自在法に改良したものなのだ。最初から誰もが使えたのではなく、あまりにも便利な為にあっという間に知れ渡ったに過ぎない。
 
「“虹の翼”メリヒム。『仮装舞踏会』の巫女として、貴方に今の世を渡る訓令を授けます」
 
 かねてよりの目論見を思い出して、少女の瞳がキラリと光った。
 
 
 
 
「ちょっと、夢中になっちゃっいましたね」
 
 午後三時。昼食の時間を大幅に過ぎた頃、悠二たちを乗せた釣り船が港へと進み行く。
 
「一位が池、二位が田中、三位が吉田ちゃん、結局俺は四位かぁ~」
 
 『なかなか魚が釣れずに時間が掛かった』という事に“なっている”ので仕方ない。もちろん、坂井悠二と近衛史菜が海に落ちたという認識も無い。
 
「意外に池が一番多いんだな」
 
「って言うか、居たんだ池君」
 
「ふふん。釣りの基本は、どれだけ魚に警戒心を持たせないかだからね」
 
 徒たちの戦場とされた街にも、その痕跡は何一つ残っていない。
 ヘカテーに爆砕された建物も、メリヒムに両断された街も、もちろん今 平井たちが乗っている船も、全てが修復されている。
 
「…………………」
 
 そう、傍目には何もかもが元通り。だが、外れた者の眼には“取り返しのつかないモノ”が、はっきりと見えていた。
 封絶は内部の破壊を完璧に修復する事は出来ても、喰われた者を人間に戻す事は出来ない。在るべき姿を失った存在は、トーチに換えて残すしかない。
 この上なく残酷で、それなのにどうしようもない“この世の本当の事”だった。
 
「あ………」
 
 船から降りて、漁師の一人とすれ違う。その胸に燃える灯りを目にして、悠二は密かに足を止めた。
 それは同情か、自分だけが永らえている事の後ろめたさか。愚にもつかない自問自答が過る間に、中年のトーチはさっさと行ってしまう。
 自分の存在が確かに在ると確認する行為として、悠二は自分の灯りを見つめ………
 
「………あれ?」
 
 その燃える灯りに、決定的な違いがある事に気付いた。
 
「? どしたの坂井君。みんな行っちゃうよ?」
 
「あ……ごめん。いま行く!」
 
 流れ始めた日常に背を押され、少年は小さな疑問をそこに忘れて自分の日々に帰って行く。
 ―――それでも変わらず、紅世の灯火は止む事の無い鼓動を続けていく。
 
 
 



[34371] 3-1・『炎の揺らぎ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/09/28 17:41
 
 ――――地獄。
 もし本当にそれがあるとすれば、こんな光景なのだろうと思った。
 
『はあっ……はあっ……はあっ……!』
 
 何度も襲われた。何時も逃げ延びた。
 いつか必ず、逆転の糸口を見つけて返り討つと念じながら。その逃避の先に待っていたのが、“これ”だった。
 
『流石は音に聞こえた戦技無双。彼奴らだけならこれほど手間取る事も無かったろうが……いや、過ぎ行く日々の廻り合わせもまた、世に生きる者が引き寄せる因果の力か。だがそれも、俺という力の前では一時凌ぎに過ぎなかったというわけだ』
 
 封絶ではない茜の炎が大地を埋め、煉獄の中で渦巻く無数の剣が獲物の血を求めている。
 その剣が、怖気を誘う圧倒的な怒涛となって押し寄せて来た。防ぐ力も、避ける力も残っていない。
 終わったと、そう覚悟した眼前に………
 
『させないよ』
 
 琥珀の自在式が顕れ、障壁となって自分を守った。圧倒的な力に怯まず立ち塞がる少年が、取り返しのつかないモノを削っている事は、一目見て解った。
 だから叫んだ。今すぐ逃げろと、消えてしまうと。だが彼は、振り向けた横顔で頬笑んだ。
 
『残念だけど、もう保たない。どうせなら友達を助ける為に使うとするさ』
 
 何かを悟ったような声に目を向ければ、彼のコートは元の色が判らないほどの血に汚れていた。もう……今すぐ離脱に成功しても、助からないほどの重傷。
 
『罪滅ぼしってわけじゃないけど、君まで僕らに付き合う事はないよ。こいつに“これ”を渡すのも癪だしね』
 
 自身の胸、何かを撃ち困れた己が核に手を当てて、彼は不自然なほど落ち着いた声で呟き、そして………
 
『僕は幸せだよ。これから何が起こっても、この身がどうなっても、フィレスと一緒なら』
 
 自分そのものを琥珀の暴風と変えて、放った。茜の怒涛が吹き散らされ、砕けた剣が舞わせる細雪を裂いて、また別の琥珀が踊り出た。
 
『……ええ、私もよ。ヨーハン』
 
 涙で顔をクシャクシャに歪めた、彼女が。
 愛する彼に想いを馳せて、しかし彼女は自分を抱き上げた。その瞬間、視界が吹っ飛んだ。
 
『フィレス……!』
 
 茜の煉獄も暴風となった彼も遥か下方に置き去りにして、自分たちは空の彼方を飛んでいた。
 
『………私は、ヨーハン無しでは生きていけない』
 
 風となって解けた彼女の声が耳元をそよぐ。
 
『でも、貴女は違う。だから………』
 
 優しくも寂しい声が、薄れゆく意識に痛いほどに響いていた。
 
『だから、貴女は生きて……ヴィルヘルミナ。ヨーハンが生まれ、私の愛した、この世界で………』
 
 自分を運ぶ彼女もまた、いつしか彩飄となって消え去っていた。
 
「―――――――」
 
 そんな、夢。
 夢という名の癒えない傷から、彼女は目覚めた。
 
「…………眠ってしまったのでありますか」
 
「疲労困憊」
 
 肩までの桜色の髪に、同色の瞳を持つ美女。机に突っ伏す体勢で眠っていた彼女は、奇妙な口調で呟いて額の汗を拭った。額と言わず全身が、身に付けたメイド服をじっとりと湿らせる冷や汗をかいている。
 
「煮沸消毒」
 
 単語だけの言葉が頭上のヘッドドレスから発せられた。直後に桜色の炎が彼女の全身を包み、また一瞬で消える。炎が消えた後には、汗も汚れも綺麗に消え去っていた。汚れや毒を焼き払う洗浄の自在法『清めの炎』である。
 
「…………………」
 
 手早く汗を払ってくれたパートナーに礼を言うでもなく、女は机の上に広げた書類の山に視線を落とす。
 傷心しては逃げるように使命に没頭する。これが彼女の、全く不器用な逃避の仕方なのだった。
 
「………直接的な目撃情報は、やはり完全に途絶えてしまったようでありますな」
 
「目標消失」
 
 今も、香港で取り逃がした紅世の徒“愛染の兄妹”を追い掛けて、日本へと渡り来たばかりのところだった。
 彼らの護衛役だった“千変”シュドナイとの戦いには決着がつかなかったが、もし未だに合流を果たしていないとすれば兄妹を討つ好機でもある(“千変”の目撃と交戦情報はあるので、この可能性は低くなかった)。
 通常、彼女らが特に因縁も無い徒をしつこく追い回す事は珍しい。が、今回は少し事情が違う。
 この兄妹、存在の大きさの割りに異様なほど人間を喰い荒らすのだ。普通なら、いくら徒でも“余計な戦い”を呼び込まない為にある程度は自重するラインを簡単に踏み外す。
 その気配隠蔽の力に自惚れて「見つかりはしない」と高を括っているのだろうが、だからといって無論、放置は出来ない。そこに在るべき人間の欠落は、そのまま世界の歪みへと直結する。
 
「む………トーチの大量発生、でありますか」
 
「大食漢」
 
 とはいえ、手掛かりらしい手掛かりが無い以上は通常の手管で探すしかない。歪みの気配や、あり得ない現象の跡から徒を見つけ出す。
 
「関東外界宿(アウトロー)第八支部。……御崎市でありますな」
 
 トーチが多いという事は、それだけ多く人が喰われた証だ。或いは………
 
「…………………」
 
 無作為転移して来ているかも知れない。そんな思考の断片を声には出さずに思い浮かべて、パートナーも同じく察して、やはり声には出さない。
 
「行くのであります」
 
「出発」
 
 テキパキと書類や小物を登山用の大きなザックに詰め込んで、立ち上がる。
 その一歩を踏み出した時………ハラリと、一枚の写真が落ちた。
 
「あ………」
 
 反射的に拾おうとして、その写真を目に入れて、思わず金縛りに遭った。
 掌ほどの大きさに切り取られた景色。不自然に遠くから撮られた写真に映るのは、誰かに肩を組まれて体勢を崩したような自分一人。
 
 ………一人きりしか、映ってはいなかった。
 
 
 
 
 ―――フレイムヘイズ。
 
 紅世の徒が『歩いて行けない隣』から渡り来て、欲望に任せた気儘な放埒を繰り返すようになってほどなく、それは起こった。
 紅世とこの世の境界たる、両界の狭間。そこを渡ろうとした徒たちが、傷つき、行方不明となり、時には消滅するといった異変が続発したのだ。
 一人の紅世の王はこの異常の原因を見つけるため狭間を探り、辿り着いた。辿り着いて、愕然とした。
 徒がこの世の存在を奪う事によって生じた歪みが、両界を支える柱………世界のバランスそのものに、甚大な影響を及ぼしていたのだ。
 膨れ上がった歪みが柱を揺るがせ、やがて紅世もこの世も崩壊させる―――後に『大災厄』と呼ばれる危機を前にして、王たちは漸く動き出した。
 
 今すぐにでもこの世での徒の放埒を止めねばならない。しかし、言って止まるものでもなければ、単純に力づくというわけにもいかなかった。
 この世の徒を止める為には、自身もこの世に渡らねばならない。しかし、彼らがこの世に顕現するには人間の存在を喰らわねばならない。歪みを止める為に歪みを招く。これでは本末転倒だった。
 
 そんな現状を打ち破る術を、一人の王が見つけだす。
 それは、『召喚』。
 祈りと生贄によって神を降臨させる神威召喚、その応用である。
 この世に生きる人間に、過去、現在、未来、全ての存在を捧げさせ、そうして生まれた『運命という名の器』に自らを召喚させる。
 この世に在るべき存在である人間の身体は、徒のように そこに在るだけで力を消費したりはしない。そして未来を失った身体は成長する事も老いる事もなく、失った力は在るべき存在として通常の体力と同様に回復する。
 
 人間という器に入った紅世の王。言わば世界への誤魔化しによって、彼らは世界を救う使命を為し得る手段を手に入れた。
 
 そうして生まれた使命の剣、或いは討滅の道具。其が名を、『炎の揺らぎ(フレイムヘイズ)』。
 
 
 
 
「って事は、その人たちは元々人間なのか」
 
「はい。人間を失った存在という意味では、悠二の同族と呼べなくもありません」
 
 旅行から御崎市に帰って来た、その日の夜の11時。だんだんと馴染んで来た習慣として、坂井悠二は夜の鍛練に勤しんでいた。
 
「彼らは同時に、復讐者でもあります。紅世から人間を探す際には強烈な感情を目印にしますし、召喚する側である人間にも代償を払う理由が必要ですから」
 
「……ああ。徒に復讐したい人間と契約すれば、互いに利害が一致するわけか」
 
 相も変わらずヘカテーを背中に乗せての素振り。但し、今日は悠二の手に握られている得物が違う。
 
 片手持ちの柄と幅広い刀身を持つ、西洋風の大剣。宝具『吸血鬼(ブルートザオガー)』。
 先日ヘカテーを襲撃した“愛染自”ソラトの所持していた魔剣である。
 日頃から悠二を鍛えているヘカテーが、結果的に残されたこれを持ち帰らない理由は無かった。
 
「たとえ会っても、油断しない事です。彼らはあくまで自身の復讐と世界のバランスの事しか考えていません。人間を助けるというのは、あくまでも結果論。必要とあれば人間の存在を使うのもまた、フレイムヘイズです」
 
 そんな鍛練の最中に、こんな話を聞かされている悠二である。
 殊更にフレイムヘイズとやらを悪く言うヘカテーに、悠二は白い眼を向けざるを得ない。
 
「(そりゃ、ヘカテーから見れば同族殺しとか言いたくなるのも解るけど……)」
 
 自然への危機意識が行き過ぎて人間を殺し回る環境保護団体、みたいな認識なのだろうと勝手に想像する。
 しかし、元人間の悠二からすれば「フレイムヘイズは悪い奴だ」などと思えるわけもない。少なくとも、人間を喰って遊ぶのを目的としている徒よりは百倍マシだとしか思えない。
 
「…………………」
 
 そんな内心を思い切り表情に出している悠二を見て、ヘカテーは悠二の肩口に額を押し当てる。
 ……何となく、こういう反応をするだろうなーという予感はあったから今まで黙っていた。しかし、いざフレイムヘイズに会った時に余計な事を吹き込まれても不味いので渋々教えた結果は、やはりこうである。
 
「いいですか? フレイムヘイズが悠二を見つけたら、まず間違いなく中の宝具を奪おうとします。私が近くにいなかったら、とにかく逃げる事です」
 
「ふぅん」
 
 せっかくの忠告にも生返事されたので、ジャンプというには強い力で背中を蹴って屋根に着地する。
 “虹の翼”の時と言い、全くもってなってない。
 
「け、けどさ……僕には『戒禁』も掛かってるんだし。いざとなったら存在の力も奪えぶぐげぇ!?」
 
 無言の抗議が流石に伝わったのか、言い訳っぽく馬鹿な事をぬかす悠二。鍛練の一環として『トライゴン』で足下を払い、地面に落下させてみる。
 
「己の統御力を越えた存在の力は、所有者の意思総体を呑み込んで消滅させます。『戒禁』には二度と頼らないで下さい」
 
 楽観的な少年を見下ろすでもなく、ヘカテーはこの場にいるもう一人へと振り返る。
 本日の“生徒”は悠二だけではない。ネグリジェの上から黒いマントを羽織り、同色の学者帽子を被るヘカテー。
 
「では、今日の授業を始めます」
 
「…………………」
 
 両手を頭の後ろで組んで寝転ぶ“虹の翼”メリヒムが、興味なさそうに視線を寄越した。
 
 
 



[34371] 3-2・『メリヒム』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:d44a15db
Date: 2012/09/28 17:50
 
「こうです。親指の根元で一本を挟んで、三本指でもう一本を摘んで………」
 
「……何故こんな面倒な物を……」
 
 夜の封絶の中で、無駄に気合いの入った学者スタイルなヘカテー先生の授業が続いている。生徒は“虹の翼”メリヒム。平井ゆかりの祖父の街で出会った、強大極まる紅世の王。
 
「(……この徒、これからどうするつもりだろ)」
 
 そんな彼がこの御崎市に居るのは、この世に渡った徒に訓令を授ける『巫女』としての職務を全うせんとするヘカテーの意向だが、悠二の方も今のところはこれで良いと思っている。何故なら、メリヒムを世に放せば別の場所で人が喰われるからだ。
 
「(やっつけるのが一番良いんだろうけど……ヘカテーにその気は無さそうだし)」
 
 だがそれも、ほんの一時凌ぎに過ぎない。訓令が済んでヘカテーがメリヒムを解放したら、彼が御崎市に留まる理由は無くなってしまう。
 
「(その時が来たら、どうする………?)」
 
 自問自答を繰り返しながら、悠二は一人で大剣型宝具『吸血鬼(ブルートザオガー)』を振り回す。
 因みにこの封絶に踊る炎は、銀ではなく虹。メリヒムの色だ。誰でも使えると言われただけあって、メリヒムほどの王ならば修得は実に容易かった。今はヘカテーによる、『正しい箸の使い方』を実施中である。
 
「(僕の中身が『零時迷子』だって教えても……意味ないよなぁ)」
 
 メリヒムが悠二の生活に付き合う理由が無い。むしろ、『零時迷子』を持ち去ろうとする可能性の方が高い。
 仮にも一度は助けられた相手だが、存在として相容れないならば戦うしかない。……が、頼みのヘカテーはこの様だから結局……などと解の出ない思考の迷路に迷い込む悠二の中で、
 
「っ」
 
 鼓動と呼ぶには大きな衝撃を伴って、今日一日で失った力が戻って来た。毎夜零時に宿主を回復させる宝具『零時迷子』の能力。それを………
 
「……何だ、今のは?」
 
「『零時迷子』。一日毎に力を回復させる、言わば永久機関です」
 
 メリヒムにバッチリ見られた。どころか、ヘカテーがいとも簡単にバラした。
 
「ちょっ、ヘカテー!?」
 
 『零時迷子』は秘宝中の秘宝と言っておきながら平然とその正体を明かすヘカテーに、思わず悠二は非難めいた叫びを上げる。もしメリヒムが中身に興味でも持ったらどうするのか、という不安を余所に……
 
「ふぅん」
 
 メリヒムは、大して興味なさそうに鼻を鳴らした。悠二は密かに胸を撫で下ろす。……のも束の間、先ほどの懸念が唐突に現実のものとなる。
 メリヒムが、ヘカテーの授業を拒否するように立ち上がり、背を向けたのだ。
 
「まだ授業は終わっていません」
 
 まずヘカテーが、その不真面目な態度にむっとしつつ制止を掛ける。しかし無視される。
 
「待ってくれ」
 
 そして悠二の、切迫している割に何処か力強い声が、メリヒムを止めた。
 静観な横顔が、振り返って悠二を睨む。
 
「…………………」
 
 悠二は何も言わない。思っている事を口にすれば、それがそのまま開戦の引き金になりかねない。
 少年の言葉を待っているのか、それとも単に興味が無いだけか、メリヒムも同じく何も言わない。
 視線だけが交錯する、一方にだけ緊張と圧迫を与える沈黙は数秒で終わり……
 
「案ずるな」
 
 メリヒムが、小さな嘆息と共に口を開いた。
 
「今の俺は人間を喰らう事も、世を荒らす事もしない。お前が考えているような心配は不要だ」
 
「ッ……」
 
 思っていた事を正確に言い当てられ、呑まれるような錯覚を受けて悠二は怯む。怯んで……しかし、それを素直に受け入れはしない。
 
「それを……信じろって言うのか?」
 
 紅世の徒は『歩いて行けない隣』の住人。この世に顕現する為には人間の存在を奪うしかない。それをしないという事は、いずれ消耗の果てに燃え尽きるという事だ。そんな事を、はいそうですかと信じられるわけがない。
 
「お前に信じてもらう必要も無い。それとも、信じられないから俺に楯突くか?」
 
「う………」
 
 馬鹿にしていると一目で判る嫌味ったらしい余裕顔で悠二を脅かし、それを置き土産にメリヒムは飛び去った。
 
「あ…………」
 
 何を言う暇もなく陽炎の向こうに消えた背中に、悠二は不安と後悔の混じった声を漏らす。その傍らに、さりげなく封絶を引き継いだヘカテーが並んだ。
 
「………『炎髪灼眼の討ち手』」
 
「………え?」
 
 そうして、戸惑う悠二に向けて語りだす。
 
「天罰神“天穣の劫火”のフレイムヘイズ。かつて数多の徒を蹂躙した、最強最悪の女騎士です」
 
 突然の、まるで繋がりの見えない話をされて、しかし悠二はおとなしく傾聴する。
 
「……その二代目を育てる箱庭と目されていたのが、彼の眠っていた『天道宮』です」
 
「『天道宮』で……フレイムヘイズを育ててた……?」
 
 カチリと不可解なピースが埋まり、また新たな疑念が湧いた。疑問をそのまま口に出す。
 
「それって……メリヒムがフレイムヘイズを育ててたって事? そんなの可笑しいじゃないか。フレイムヘイズは徒を狩る道具なんだろ」
 
「……“虹の翼”と“天穣の劫火”との間に何があったのかまでは解りません。ただ一つだけ言えるのは、フレイムヘイズが徒を見逃す最低条件が、『人を喰わない事』だという事です」
 
 そこまで聞いて、漸く、ヘカテーの言いたい事を悟る。
 メリヒムの過去はともかくとして、今の彼が人を喰らう事は無い。でなければ、彼がここにいる筈が無い、という事だ。
 
「………そっか」
 
 安心させてくれたのだと知って、小さな頭を学者帽子の上から撫でた。それが気持ち良かったのか、思い出したように欠伸を噛み殺すヘカテー。
 
「……今日はもう寝ます」
 
「ん、おやすみ」
 
 短い歩幅で歩く少女の背中を見送り、悠二はもう一度、陽炎の消えた夜空を見上げた。
 
「(フレイムヘイズ……か)」
 
 複雑に絡み合い、無慈悲に噛み合わない世の理に思いを馳せて。
 
 
 
 
 その日、平井ゆかりの朝は早かった。
 前日までの旅行ではしゃぎ過ぎたのか、電車から降りて家に着くなりベッドに轟沈。風呂も夕食も放り投げて眠りに落ちたところ、その翌朝は彼女にしては珍しいほどの早起きとなってしまった。
 とりあえずシャワーを浴びてキッチンを探ってみたらば、旅行の間にパンも卵も駄目になっていた。
 
「仕方ないので、坂井くん家を襲撃しようと思います」
 
 突撃近所の朝ご飯。
 しばらくぶりの坂井家、しかも今は可愛らしい居候がいる筈。トレードマークのツーサイドアップを整えて、弾む気持ちで家を出た。
 どうせならパジャマ姿のヘカテーを拝みたいので、やや早足で路面を進む。
 
「(超絶美少女の居候、ねぇ)」
 
 改めて考えると、いかにも現実離れした話だなぁと、今更ながらに平井は思う。
 父親の外国の知人の子、という怪しさ爆発の言い訳も、何だかんだで罷り通ってしまっている。怪しいのは間違いないのだが、「だったら何なんだ」と訊かれても答えられない。それくらいマンガみたいな話だった。
 
「(シカモ、よりによって坂井君)」
 
 取り立てて特徴の無い平凡な男子高校生が、控え目ながらも可憐な少女に密かに好意を寄せられ、そこに美少女転校生がやって来て居候となる。
 
「どこぞのラブコメかー!」
 
 滾る衝動に辛抱堪らず、拳を天に突き上げて叫ぶ平井ゆかり。電信柱に仲良く並んでいたスズメが三羽、逃げ出した。
 そのままテンションを一切下げず、平井はぴゅうっ! と駆け出す。
 
「(寝顔にヒゲ書いてやろっ)」
 
 この時間なら悠二は寝ており、その母・千草だけが起きている。悪戯を仕掛ける子供そのものの表情で笑いを噛み殺す平井の耳に………
 
(パァン!!)
 
「およ?」
 
 破裂にも似た乾いた衝突音が、届いた。
 
「(あ〜、そう言えば毎朝 朝練してるとか言ってたっけ)」
 
 旅行中も朝に二人で組み手とかしてたのを思い出し、到着も待たずに企みが頓挫した事に凹む。
 気を取り直して、辿り着いた坂井家の入り口……ではなく、塀に手を掛けてニョキッと顔を覗かせたらば―――
 
「だぁああ!!」
 
「!?」
 
 視界の中に、とんでもないものが飛び込んで来た。
 真っ先に見えたのは、逆袈裟に棒切れを振り抜いた姿勢の坂井悠二。そして、視線を首ごと上向けると……3メートルほど上空に水色の少女が舞っていた。
 ヘカテーが殴り飛ばされた……と平井が理解しきるより早く、当のヘカテーは空中で縦にクルリと回る。
 
「お返しです」
 
 そして、落下の勢いを乗せて思い切り振り下ろす。凄まじい迫力の、しかし余りにも直線的な一撃を、悠二は当然しっかりと防御して、
 
「は――――」
 
 いとも容易く、すっぽ抜けた。悠二のではなく、ヘカテーの棒切れが。
 
「シュッ」
 
「ごふぅ!?」
 
 棒切れを手放したヘカテーは、何の抵抗も受けず悠二の眼前に着地。低い姿勢からの正拳突きで鳩尾を撃ち抜いた。
 然る後に、腹を押さえて蹲る悠二の周囲を軽快なステップで回る。
 十秒と待たずに立ち上がった悠二の顔には、苦悶以上の歓喜が表れていた。
 
「や、やった……! 初めてヘカテーに“ガードさせた”ぞ!」
 
「……あの程度で喜ばないで下さい。私に攻撃を当てたわけでもないのに」
 
 それら、些か以上にアンビリーバブルな光景に釘付けになっていた平井は………
 
「なうっ!?」
 
 跳ね上げられ、回転しながら落ちて来る棒切れに脳天を直撃されて、塀から無様にひっくり返った。
 
「あらあら」
 
 縁側に座っていた千草が、困った風に笑った。
 
 
 



[34371] 3-3・『避球』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/09/29 19:14
 
 ゴールデンウィークも明けて五月に入り、そろそろ新しい友人にも慣れようかという頃。吉田一美は今日も常と変わらぬ穏やかな昼休みを過ごしていた。
 
「ふぁ……よく寝た」
 
 四時間目の授業が終わると、集まった皆がガタガタと机をくっつけて いつもの風景を作り出す。
 
「さっきの古文、課題出てたぞ。明日までに提出だって」
 
 大柄な体格の圧力を感じさせない愛嬌のある男、田中栄太。
 軽薄な態度にも不思議と嫌悪感を持たせない……一応“美”を付けてもいい少年、佐藤啓作。
 公正明大にして他人への気配りを欠かさないスーパーヒーロー、メガネマン池速人。
 天真爛漫が服を着て歩いているような幼馴染み、平井ゆかり。
 入学から微妙にズレた時期に転校して来た、世慣れない雰囲気の水色の少女、近衛史菜……愛称はヘカテー。
 そして………入学式を迎える前に一目惚れした、坂井悠二。
 
 みんな気の好い友人であり、ゴールデンウィークには一緒に旅行にも行った。中学時代、机に座って本ばかり読んでいた吉田にとっては、正しく望むべくもない状況であるとも言える。………が、今の彼女はそれで満足する事は出来なかった。
 
「ど、どうぞ………」
 
 自分も池らと同じく、平井の隣に机を合わせて、その正面に座る悠二に、いつものように手作りの弁当を差し出す。
 
「あ、ありがと……」
 
 もう習慣と言っても良い出来事が、それでもやはり慣れないのか、悠二は照れ臭そうな笑顔を浮かべて受け取った。そんな些細な事でも嬉しくて、思わず笑みが零れて……そんな自分を内心で叱り付ける。
 
「(こんなつもりじゃ、ないのに)」
 
 二週間近く前、体育教師から助けてもらった事を口実にして初めて弁当を渡した時は、こんな細やかな日常を求めていたわけではない。
 それこそ、出来る事なら告白してしまいたいくらいの気持ちだったし、クラスの大半は告白同然に受け取った。………しかし今は、見慣れた光景に誰一人、反応すら示さない。
 
「(嫌われてはない、と思うけど……)」
 
 精一杯の勇気を振り絞った結果が、「弁当を貰ってくれているから、嫌われてはいない筈」という、あまりに虚しい進展のみ。その行為にすら、些か不服な結果が付く。
 
「…………………」
 
 悠二が弁当を開くと、隣に座る近衛史菜がニュッと顔を出し、献立をチェックし始めた。然る後に、鶏の唐揚げを箸で掴んで蓋の上に乗せ、吉田に熱い視線を送る。
 
「あ、うん。いい、よ?」
 
 そうして了承を得てから美味しそうに唐揚げを食し、代わりにピーマンの肉詰めを吉田の弁当箱に投下する。ここまでの一連の流れを含めての、“いつもの風景”なのだった。
 
「(近衛さん……)」
 
 転校して来た当初こそ、坂井家に居候しているらしい彼女に激しく動揺したものだが、今ではその無垢な態度に絆されるばかりである。
 恋敵……と呼ぶにはヘカテーの態度が不鮮明だし、一方的に敵対意識を抱くなど元来おとなしい吉田には不可能だ。
 
「(これでいつも、場が和んじゃう)」
 
 何より、こうやって雰囲気が誤魔化されてしまう事に何処か安堵してしまっている自分自身が、一番情けなかった。
 
「(変わりたいって、思ってるのに……)」
 
 悩み多き少女の日々は、変わる事なく過ぎて行く。―――変わってしまったと、気付く事すら出来ぬまま。
 
 
 
 
「(………よし)」
 
 ヘカテー……紅世の徒という異物を内包したまま、坂井悠二の日々は過ぎて行く。
 朝、学校を出る前に鍛練して、日中はごく平凡な男子高校生として過ごして、夜、零時前に再び鍛練する。
 そんな、常に非日常を傍らに置いた日常の中で生きていた。
 
「(これなら、大丈夫)」
 
 メリヒムが去って二週間。そんな生活を続けて来た悠二だが、何の問題も無かったわけではない。特に、ここ一週間ほどが最も大変だった。
 悠二の鍛練とは概ね『ヘカテーの感覚』を修得し、自分のものとする事を意味するのだが……この、他者の感覚というものが厄介だった。
 軽く持ったつもりのスチール缶を握り潰してしまう。小走りをすればコンクリートの壁に激突してしまう。……かと思えば鍛練の最中にうっかり油断して、全く強化していない状態で屋根から落ちて骨にヒビが入った事もある(零時になったら全快したが)。
 
 そんな風に、人間と徒の感覚が入り乱れて混乱していたのだが……やっと落ち着いて来たらしい。
 手を握り、また開いて、悠二は自身の感覚を把握する。
 人間の感覚に戻っている……のではない。ヘカテーの感覚のまま、力を人間レベルにまで加減しているのだ。
 いよいよ人間離れしてきた気がするものの、以前の“愛染兄妹”の時の事を考えると喜びの方が強い。もう、何も出来ずに骨に力を奪われるような無様は御免である。
 
「おーい坂井、そろそろ終わるぞ」
 
「うん、いま行く」
 
 因みにそんな確認をしている現在、悠二は体育の授業に参加中である。
 本日の体育はドッジボール。他クラスより体力測定が早く済んでしまった事による、足並み合わせの自由競技だ。
 チームは出席番号順に五つ。Aが池とヘカテー、Bが佐藤と悠二、Cが田中、Dが平井、Eが吉田と、いつもの面々は見事にバラけている。
 
「あうっ……!」
 
 Dチームの藤田の背中にボールがヒットし、宙を舞った。咄嗟に頭を下げた事でボールが丸くなった背中にバウンドし、上に跳ねたのだ。
 これをDチームがキャッチすれば、藤田の失点は無くなる。それを平井は見事に予期し、「オーライオーライ」とか言いながら待ち構えていた。
 
「と、見せかけてぇ……」
 
 かと思いきや、敵であるEチームに背を見せたまま深く沈み込んでジャンプ。そのまま縦に回転して―――
 
「ドライブスルーだぁーーー!」
 
 盛大なオーバーヘッドキックを炸裂させた。蹴られたボールは猛スピードで敵に突き進み、
 
「んきゃあ!?」
 
 それまで誰もが当てるのを躊躇っていた吉田の胸に容赦なく激突、そして最後の一人たる宮沢にもクッションで命中した上で地面に落ちた。
 
「ふふん、シェイクも追加でお願いします!」
 
 平井の謎の掛け声と共に、Dチームに凱歌が上がる。
 何だか色々と間違っている気がしないでもないが、ともあれチーム交代。Bチーム対Cチームである。
 因みに、引っ繰り返った吉田はヘカテーが肩に担いで運び出していた(肩を貸して、ではない)。
 
「一番やわっこいトコに当てたのに、一美ったらオーバーだねぇ」
 
 ノックアウトした張本人がケラケラと笑っているのを後ろに聞きながら、悠二はBチームとしてコートに入る。
 課題は存在の力による強化、ではない。どちらかと言えば朝の鍛練に即した、体術のテストである。
 
「(人間としての身体能力を維持したままで、田中に勝つ)」
 
 悠二に「人間離れした真似をするな」と口をすっぱくして注意されたヘカテーは、その身体能力の指標として、クラスでも指折りの運動神経を持つバレー少女・緒方真竹を模倣している。
 にも関わらず、今日のドッジの第一試合で、ヘカテーは緒方を優に越える活躍を見せ付けた。
 これはつまり、同等の能力を緒方以上に使いこなす、ヘカテーの技術によるものだ。
 
「(今度は、僕の番だ)」
 
 人間としての悠二の能力は田中に大きく及ばない。元々体格が違う上に、あれだけ鍛練してもトーチの悠二には筋肉など付いたりしないのだから。
 
「プレイボーイ!」
 
 平井の掛け声と共に、試合が始まった。
 最初は様子見。積極的に当てにも取りにも行かず、悠二は極めて地味に立ち回る。
 チーム全体の戦力は大差ないように見えるが、やはり田中の存在が大きい。Cが二人倒される間にBが三人倒されるペースで追い込まれていく。
 外野は最初に決めた三人以外は増えないシステムなので、一度傾いた流れは簡単には取り戻せない。
 
「……あっという間に俺らだけだな」
 
「今さらだけどスゴいんだな、田中って」
 
 などと様子を見ている内に、外野との連携で二連撃墜。Bチームは悠二と佐藤だけになっていた。
 
「ふっふっふっ、さっきヘカテーちゃんにやられた分も纏めてぶつけてやるぜ坂井ぃ」
 
「……八つ当たりだろ、それ」
 
「問答無用!」
 
 面白い悪役面で笑う田中の腕から、ヘカテーお墨付きの豪速球が投げ放たれた。
 鋭くスピンしながら迫る球は悠二と佐藤の間を抜けて、背後の外野の手に渡り、そのまま四方から逃げ惑う獲物を嘲笑うようなパス回しが展開される。
 
「(まず、ボール)」
 
 田中を警戒して下がっていた悠二の真後ろの外野に、ベストタイミングでボールが渡った。
 無防備な背中に至近からボールが迫り……
 
「っと」
 
 悠二は見もせず、後ろ手にそれを掴み取った。ボールは悠二の掌中で緩い摩擦を起こしながら回転している。
 
「よしっ、行くぞ田中ー!」
 
 今のスゴくない? ミラクルだミラクル。などの騒めきに構わず、悠二は内野同士のラインまで一直線に走り………
 
「おりゃ!!」
 
 助走の勢い、身体の捻り、上半身の発条、体重、それら全てを無駄なく乗せた一投をお見舞いする。
 
「おっ!?」
 
 カッコつけて真ん中以上に下がっていなかった田中は、予想を超える速球に細い目を見開いた。
 しかし避けない。やや高い軌道の球を両手で挟み取ろうとして……
 
「ぶがっ!?」
 
 しくじり、ボールが顔面に直撃した。
 
「や、やった……?」
 
 無意識に存在の力を繰りはしなかったか、自分の両手を眺めて確認する暢気な悠二。
 何故にか、外野よりも更に後ろで腰を落とす平井が両手を組み、そこにヘカテーが足を掛けた。
 
「どっせぇい!」
 
 そして、発射。
 空気を読んでスローモーションに仰け反る田中の頭上に、水色の影が舞い踊る。
 
「顔面は……」
「ノーカウント!」
 
 平井の真似をしたヘカテーのオーバーヘッドキックが、ものの見事に悠二の横っ面にクリーンヒットした。
 
 
 



[34371] 3-4・『千々の行路』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/10/12 22:25
 
「「………………」」
 
 御崎大橋の架かった真南川の河川敷、鮮やかな緑が生い茂る原っぱで、棒切れを握る悠二とヘカテーが向かい合う。
 如何にも緊張で固まった正眼に構える悠二を、右手に棒切れをぶら下げただけのヘカテーが無表情に眺めていた。
 
「ふんっ!」
 
 踏み込みと共に突き出されたモーションの小さい一突きが、僅かに首を捻ったヘカテーの襟足を撫でる。
 捻った首で引っ張るように身体ごと振り上げた一閃が、悠二の二の腕を強く打った。
 痛みに顔を顰めつつも横薙ぎに振り回す悠二の斬撃は、素早く膝を落としたヘカテーの頭上を虚しく通過する。
 
「(まだまだ甘い、けど………)」
 
 空振りした自分の視界の下に、しゃがみこんだヘカテーが居る。その事に戦慄して振り上げた悠二の前蹴りを、ヘカテーは棒切れでガッチリと受け止めた。………受け止めて、身体ごと数メートル吹っ飛ばされた。
 
「っ………」
 
 “これ”があるから、二人は坂井家の庭から場所を変えて鍛練に励んでいるのだ。
 体術はまだまだ未熟に過ぎるが、純粋な膂力は相当に強いらしい。強大な王たるヘカテーにそう思わせるのだから、凡百の徒から見ればそれだけで充分な脅威だろう。
 
「うおっ!?」
 
 加えて、『零時迷子』の余禄なのか何なのか悠二に備わっていた鋭敏な感知能力が、経験の無さを充分以上にカバーしている。
 フェイントを織り交ぜたヘカテーの連撃から、不恰好ながらも悠二は逃れた。
 
「(悠二は、確実に成長している)」
 
 恐らく、既に並みの徒なら討ち倒せるほどに。
 教え子の成長に対する初めての感慨に密かに目を細めるヘカテーは、鋭く一突き、悠二の顎を撥ね上げた。
 
「っ〜〜!? ………くちっ、口ん中切った……!」
 
 大の字に引っ繰り返って藻掻く悠二。それを見下ろすでもなく、ヘカテーは肩に掛けたタオルで額の汗を軽く拭く。
 これから家に帰ってシャワーを浴びて、千草の美味しい朝食を食べて学校に行き、友人となった平井たちと遊ぶ。いつの間にか新しい日常となっていた温かい日々にヘカテーは思いを馳せる。
 ふと、
 
「……………ねぇ」
 
 仰向けに倒れた悠二が、青空を見上げて不透明な声を漏らした。
 
「僕はこれから、どうなっていくのかな………」
 
 それは不安とも期待とも着かない、自分自身でも掴みかねているような曖昧な感情の発露だった。
 
「トーチで、ミステスで……もう人間として生きていくなんて無理なのは判ってる。……けど、『零時迷子』のおかげで、消える事も無い」
 
 トーチである悠二は、成長する事も老いる事もない。そして『零時迷子』が在る限り、通常のトーチのように薄れて消える事も無い。
 
「……僕はこれから、どんな道を進んで行くんだろう」
 
 自分が何物であろうと、やるべき事をやる。
 いつか見出だした自身の行動理念が、今は虚しく響く。
 自分が何物かという事に関係なく、今の悠二は肝心のやるべき事そのものが見つからない。
 せめて自分の身を護れるくらいに強くなる、という目先の課題が日常の一部となってきた今になって、漸く悠二はそんな根本的な悩みを抱くに到ったのだった。
 
「…………………」
 
 言葉の裏に隠された悠二の哀惜は、それを受けたヘカテーにも伝染する。
 千草の待つ家も、友人のいる学校も、そこにヘカテーが紛れている事も、全ては今という一時を繋ぐ虚構に過ぎない。決して遠くない未来……過去となって置き去りにされる。
 
「(……全部、失くなる………)」
 
 最初から判り切っていた事実を突き付けられて、何故かヘカテーは胸の奥に氷の杭を打ち込まれたような寒さに襲われた。
 ……悠二が言った言葉は、そのままヘカテーにも当て嵌まる。
 ヘカテーが『零時迷子』に刻まれた『戒禁』を何とかする事に成功するか、『零時迷子』を狙っていると思われる“おじ様”……“耽探求究”ダンタリオンが現れでもすれば、ヘカテーが御崎市に留まる理由も無くなってしまう。
 
「………私は、どんな意味に於いても、貴方を縛るつもりはありません」
 
 悠二の不安、悠二の迷い、その欠片を共感してしまっている自分自身に戸惑いながらも、ヘカテーが悠二に掛ける言葉は変わらない。
 
「貴方の思う儘、望む儘に、進んで行けば良いんです」
 
 それは彼女が、祈りを受け未踏を踏み出す神の巫女であるが故に。
 悠二は、そんなヘカテーの葛藤には気付かない。ただ言葉の意味だけを受け取って、己に向けて苦笑した。
 
「自由、か……。でも……それが却って難しいな……」
 
 思えば、人間だった頃から将来の夢などまともに考えた事も無かった。どうも複雑な境遇以前に自身の無精が問題であるらしいと気付いて、それでも簡単に何か思い付くわけでもない。
 
「「………………」」
 
 どちらともなく、言葉を止めて己が内に目を向ける。そんな沈黙は、ものの二十秒と掛からなかった。
 
「あーーーーっ! もう終わってる!」
 
 微妙にシリアスな空気を一瞬にして霧散させる騒がしい声が、上方……川沿いの歩道から届いたからだ。
 見れば、動き易そうなTシャツとハーフパンツ姿の平井が、頭の触角を怒らせている。
 
「あたしもダイエットがてら混ぜて貰おーと思ったのに、二人とも何で今日に限ってこんなトコでやってんの!」
 
 いかにも非難がましい口振りで土手を降りて来る平井だが、二人とも彼女の参加について聞いた憶えなど無かったりする。
 以前から互いの家に遊びに行くくらい悠二と親しかった平井だが、ヘカテーが居候を始めてからは輪を掛けてアクティブだ。
 
「うちの庭だと、ヘカテーから逃げ回るのに狭いんだよ。……って言うか、平井さんにダイエットなんか必要ないだろ」
 
「そーいう油断が一番危険なのっ。特にあたしみたいな帰宅部には!」
 
 それを、嫌だと思った事は無い。しかし、こんな人間離れした鍛練に平井を参加させるわけにもいかないし、出来れば見せたくもない。
 遠回しに拒絶するような言葉を口にする悠二に向けて、平井はファイティングポーズからのワンツーを繰り出した。最初から当てるつもりの無い拳が、悠二の掌に当たって小気味好い音を出す。
 
「それとも………」
 
 不意に、平井の声が僅かに翳った。その事に悠二が何かを思う、寸前―――
 
「っ……!?」
 
 大きく一歩、平井が悠二に近寄っていた。
 すぐ、目の前。腕を閉じれば抱き締めてしまえるほど近くで、潤んだ紫の瞳が悠二の瞳を覗き込んでいる。
 
「……あたしが居たら、邪魔?」
 
 隠し切れない不安を、否定して欲しい。そんな、懇願にも似た切ない声色に息を呑む。
 ゴクリと、生唾を飲み込む音が聞こえた。すると、
 
「なーんてね!」
 
 満足そうにニンマリと笑って、平井は悠二の胸元から逃げた。何がそんなに楽しいのか、伸ばした両手を背中で組んでクルクルとスキップを踏んで回りだす。
 ついでのようにヘカテーを抱き上げて、悠二の前に掲げて見せた。
 
「こ〜んな超美少女と同棲してるくせに、まだまだウブよのぅ坂井悠二君?」
 
「………同棲って言うな」
 
 こんなのは悠二にとって日常茶飯事、今さら腹を立てるわけもない。しかし若干悔しいのでソッポを向いて言い返す。
 
「そーゆーわけで……家まで競争ね!」
 
 その間に平井と、地面に下ろされたヘカテーは背中を向けて走りだした。
 
「負けた人は今日の放課後にクレープ奢る事!」
 
「ダイエットするんじゃなかったのか!?」
 
「……?」
 
 おまけに何やら勝手なルールを追加する平井にヘカテーが手を引かれ、悠二が慌てて追い上げる。
 
「(………今くらいは、良いよな)」
 
 温かくて、優しい……失いたくなかった日常。これが仮初めに過ぎないと知ってなお、いつか去る今を、坂井悠二は噛み締める。
 
 ―――その崩壊が、すぐ目の前に迫っていると気付かぬままに。
 
 
 
 
 悠二の奢りでクレープを食した学校の帰り道。何気なく平井に持ち帰られたヘカテーは………
 
「…………………」
 
 その日の深夜、唐突に目蓋を見開いた。
 どんなに眠くとも、どんな状況でも見過ごす事など無い、彼女の存在意義たる報せを受けて。
 
「(……行かないと)」
 
 平井の抱き枕にされた状態から、出来るだけ静かに身をよじって抜け出し、ベッドから降りる。
 その温かさ……日常の穏やかさに僅かに後ろ髪を引かれて、しかし迷わず全身を燃やす。炎の後に顕れたのは、白い帽子と法衣を纏う巫女の姿。
 
「(私用で、少し、出掛けます)」
 
 机の上にメモを残して、開いた窓に足を掛ける。………不意に、悠二の顔が浮かんだ。
 
「(………大丈夫)」
 
 『零時迷子』を宿す悠二を残して行く事に微かな躊躇いを覚えたが、ヘカテーはそのまま飛び立った。
 紅世の徒など、そうそう現れはしない。人間の寿命で考えれば一生会わないのが普通だ。
 だから、少しの間 自分が御崎市を離れたところで、悠二が襲われる可能性など限りなく低い。
 
「(………いま参ります、我が盟主)」
 
 使命を帯びて光を纏う少女は、流星となって夜空を奔る。………その小さな胸の奥に、自分でも掴めない不鮮明な靄を抱いて。
 
 
 



[34371] 3-5・『近衛史菜』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f9c9fe2a
Date: 2012/10/17 06:12
 
 ヘカテーが平井のマンションに泊まった翌朝。監督不在をいい事に夜と朝の鍛練をすっぽかして久しぶりの惰眠を貪ってから登校した坂井悠二を待っていたのは………
 
「は? いなくなった?」
 
「うん……坂井くん家にも帰ってないの?」
 
 朝起きたら『出掛けます』という書き置きだけ残してヘカテーが姿を消していた、とのたまう、微妙に悄気かえった平井だった。側頭の触角が力無く垂れている。
 
「書き置きあったからそんなに問題視してなかったんだけど……よく考えたら夜中に出てく時点でおかしいんだよね。うぅ、あたしがもっと強くハグっとけばこんな事には……」
 
 何やら保護者気分で責任感に耽っているらしき平井を眺める悠二は、対称的に落ち着いたものである。
 
「自分で出掛けたんなら、別に心配する事ないよ。ヘカテー星みるの好きだし、天体観測にでも行ったんだろ」
 
「……ホント?」
 
 心配するどころか、平井にフォローを入れる余裕すらあったりした。
 ヘカテーの強さを知る悠二が身の安全を案ずる道理は無く、この一ヶ月で『目を放したら何をしでかすか判らない』という心配もかなり薄れている。それに加えて、
 
「(普通に、いるもんなぁ……)」
 
 悠二は、その鋭敏な感知能力でヘカテーの存在を掴んでいた。正確には、この世ならざる大きな存在が街に在る事を感じていた。位置までは判らなくとも、居るか居ないかくらい判る。
 
「目を離すとひょいひょいどっか行くのはいつもの事だし、いちいち気にしてたらキリが無いって」
 
 ついでに嘘も吐いてみる。「街に気配がある」などと言えるわけもないから、別の方向から平井を安心させようと考えた次第だ。……少し前までと正反対のやり取りだと思うと、何だか可笑しかった。
 
「……何かあやしー」
 
 そして、そんな変化はいとも容易く見破られたりしてしまうわけで。
 
「坂井君、ホントはヘカテーがどこ行ったか知ってるんじゃないの?」
 
「ッ知らないって! 何でそうなるんだよ!」
 
「だって平然とし過ぎてて坂井君らしくないんだもん。何か根拠とかあるんでしょ? 吐けー!」
 
 あらぬ疑いを掛けられつつも、とりあえず無用の心配を払う事には成功する。
 椅子の後ろからヘッドロックを極められつつ、そういえば、と悠二は思う。
 ヘカテーが御崎市に居る事は判っていても、なぜ彼女がそうしているのかは判っていない。普段のヘカテーから鑑みれば、学校をサボって遊んでいるとも考え辛い。
 
「(一体、何してるんだろうな)」
 
 悠二は気付かない。
 いま自分が感じている気配が、ヘカテーのものではないという事を。
 
 悠二は知らない。
 紅世の徒と似て非なる存在―――フレイムヘイズの持つ気配を。
 
 
 
 
 御崎市の市街地を外れた人通りの少ない路地を、これでもかと言うほどに人目を引く女性が歩いている。
 精巧に作られた人形のような端整な美貌もその一因を担っているが、それ以上に彼女の服装が目立ちに目立つ。
 桜色のセミロングの髪に同色の瞳。薄紫のワンピースの上から身に付けているのは純白のエプロンドレス、そして頭上に輝くヘッドドレス。端的に言えば、メイド姿である。
 それだけでも十分に奇特なのだが、彼女は今にも登山でも始めてしまいそうな大きなサイズのザックを背中に背負っていた。アンバランスにもほどがある。
 
「……思っていた以上に、酷い状態でありますな」
 
「歪曲過剰」
 
 彼女の名はヴィルヘルミナ・カルメル。
 紅世の王、“夢幻の冠帯”ティアマトーと契約を交わしたフレイムヘイズ、『万条の仕手』である。
 
「(……まるで、消滅する直前のオストローデを見ているようであります)」
 
 フレイムヘイズとは即ち、世界のバランスを守るという使命を帯びた王の剣だ。
 今の彼女もまた、その使命に則り、トーチが大量に発生したというこの御崎市を訪れていた。目的は原因の究明、及び排除である。
 朝一番の電車で御崎市に到着したヴィルヘルミナは、その足で街の中を練り歩いていた。
 不意に、コンビニのガラスの向こうの時計が目に留まる。
 
「む……」
 
「時間」
 
 フレイムヘイズはトーチと同じく、日常から零れ落ちた存在。しかし、全ての人間が日常の中に生きているわけでもない。
 フレイムヘイズの情報交換支援施設『外界宿(アウトロー)』。人間でありながら、力以外のあらゆる方面でフレイムヘイズをサポートする組織の力を、ヴィルヘルミナも大いに有効活用していた。
 今もそう、異質な存在に辿り着く為に、街に起きた異変をより正確に知る為に、この街で生まれ育ったという外界宿の構成員と待ち合わせをしている。
 
「少し早いでありますが、向かうとするであります」
 
「五分前行動」
 
 実のところヴィルヘルミナと、彼女の頭上のヘッドドレスに意識を表出するティアマトーは、既にこの街に紅世の徒が居ると確信していた。
 喰い荒らされた痕跡たるトーチの数だけではない。フレイムヘイズとしての彼女らの感覚が、人ならざる存在の気配を明確に察していた。……だが、その気配は自在師特有の不安定な振幅を繰り返していて、場所の特定にまでは到らない。
 やはり、情報に精通した協力者は必要だった。
 
「(……“愛染の兄妹”ではないようでありますな)」
 
 踵を返して待ち合わせ場所へと向かう。少し早足に歩を進めながら、判っている範囲で可能性を模索する。
 この国に渡る少し前、ヴィルヘルミナはある徒を追跡していた。
 “愛染自”ソラトと、“愛染他”ティリエル。自儘に生きる徒の中でも、際立って“歪み”に配慮を欠いた若い兄妹。
 この街にも、彼らの足跡の一つかと考えて足を運んだのだが……どうやら違うらしい。あの兄妹は気配を完全に遮断する独自の自在法を絶えず身に纏っていた。その彼らが、こんな風に気配を曝け出しているなど考えられない。
 
「到着」
 
「でありますか」
 
 思案に耽って歩く内に、目的の店に辿り着いた。元々待ち合わせの事も考慮して散策していたので、そこそこに近い場所までは来ていたのだ。
 人気の少ない路地の、いつ潰れてもおかしくないような寂れた喫茶店。確かに、紅世に関わる者が話す場所としては悪くない。余人が盗み聞いてどうこう出来るような話ではないが、やはり人気は少ないに越した事は無い。
 
 耳に心地好い鈴の音を奏でて、喫茶店の扉を潜る。怪しいメイドの入店に、ウェイターらしき人物が密かにギョッとなりつつ「いらっしゃいませ」とぎこちなく言うが、ヴィルヘルミナはやはり気にしない。
 待ち合わせた人物を探そうと店内を見渡して……
 
「む……」
 
「発見」
 
 一目で見つけた。
 そもそも他に客が居ないのだが、それ以上の特徴が彼女には在った。
 日当たりの良い窓際のボックス席で、美味しそうにフルーツサンドを頬張っている少女。………それも、学校の制服らしき衣服身を包んでいる。
 
「(まだ年若い、とは聞いていたのでありますが……)」
 
 まさか学生だとは思わなかった。……場違いであると感じながらも、ヴィルヘルミナは迷う事なく足を運び、少女の前に立った。
 
「“近衛史菜”でありますな?」
 
 
 
 
 ヘカテーが姿を消したその日の放課後、平井ゆかりは一人で街を歩き回っていた。
 当の悠二は適当な言葉で場を濁していたが、平井はそんな曖昧な理由で誤魔化されたりはしない。何せ、結局ヘカテーは今日一日学校に来なかったのだから。
 
「(おかしい)」
 
 と、平井は思った。
 真夜中に姿を消し、そのまま学校にも出て来なかった小っちゃい娘。……平井の知る坂井悠二ならば、ここは心配して然るべき場面である。
 だと言うのに、あの楽天的な意見と行動。何かしら、平井の知らぬ“安心要素”を知っているに違いなかった。
 
「(……最近、ちょっと余所余所しいんだよね)」
 
 と言っても、平井も今朝のような心配を継続しているわけではない。安心要素を悠二が知っている時点で、平井の心配も自動的に自然消滅だ。……ので、これは一から十まで彼女の興味本位による行動だった。
 通常の平井は他人のプライベートに無遠慮に踏み込むほど無神経ではないが、生憎と悠二らは他人ではない。まぶだちである。
 
「(困ってる事あるんだったら、相談してくれたらいいのに………)」
 
 そんなわけで、ヘカテーの不審な行動を目撃すべく歩き回っていたのだが、何の手掛かりも無しに都合良く見つかるわけもなく断念。手近な所で知っている店を求めて、フラフラと行き着けの喫茶店に流れ着いた。
 立地が悪いせいで いつ潰れてもおかしくないこの店は、意外と美味しい料理を出す隠れた名店であった。世の厳しい生存競争に敗れてこの店が潰れてしまう事が、平井の細やかな不安だったりする。
 
「はむっ♪」
 
 自由自適な一人暮らし。誰に気を遣う事もなく、平井は少し早めの夕食を採る。「帰ったら晩ごはんがあるから控え目にしなきゃ」といった気掛かりも無い。
 そうして暫く、趣味の好いクラシックの流れる店の中で優雅な一時を過ごしていた平井。
 
 その、目の前に………
 
「“近衛史菜”でありますな?」
 
 全く唐突に、何の脈絡も無く、その人物は現れた。
 
「(ぅわぉ……!)」
 
 鮮やかな桜色の髪と瞳を持ち、思わず平井が内心で喝采を上げるほどの、絶世の美女……否さ、メイド。
 
「先日、関東外界宿第八支部に連絡を入れた“夢幻の冠帯”ティアマトーのフレイムヘイズ、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルであります」
 
 いきなり現れたかと思えば、平井には何の事だかサッパリ解らない単語を並べ立てるメイド。深々と下げた頭に、背負っていた背嚢がゴツンッと割と痛そうな音を立てて直撃したが、メイドは顔色一つ変えずにまた姿勢を戻す。
 
「(こ、こここ……こりは……!?)」
 
 はっきり言って、ムチャクチャ怪しい。ここに居たのが坂井悠二なら、当たり障りの無い建前を並べつつ一目散に逃げ出すほど怪しい。
 ………が、平井にそんな無難なスキルは備わっていない。いま平井にとって重要なのは、このメイドが日本語を喋れるという事、そして……“近衛史菜”の名を持ち出したという事だ。
 ウォッホン! と、平井はわざとらしく咳払いをしてから、
 
「YES! MY NAME IS HUMINA KONOE!」
 
「………日本語で喋っているつもりでありますが」
 
「冷静要求」
 
 無駄に流暢な発音で、偽りの自己紹介を敢行した。
 
 
 一方その頃、“本物の近衛史菜”はと言えば………
 
「い、犬が! 犬が追い掛けて来るー!」
 
「ウー、ワンワン!!」
 
「こらっ、エカテリーナ! あの人は不審者じゃないの! 追い掛けちゃダメ!」
 
 可愛らしい豆しばに追い掛けられて半泣きになっていた。
 
 ―――平井ゆかりは知らない。近衛史菜という名前が、ヘカテーがホテルの受付嬢の名を騙った偽名であるという事を。
 
 
 



[34371] 3-6・『巫女の託宣』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7c70e43d
Date: 2012/10/18 10:30
 
「何かお前と二人で帰るの、かなり久しぶりな気がするよ」
 
 その日の放課後、坂井悠二は中学からの友人である池速人と二人で道草をしつつ下校していた。
 本屋で立ち読みしたり、CD屋を冷やかしたり、どこにでもある ありふれた日常の光景として。
 
「池は入学してすぐ予備校とか入ったし、僕の周りもドタバタしてたからなぁ……」
 
 自販機でコーヒーを買い、何となく立ち寄った公園のベンチに腰掛けてダラダラと話す。ほんの半年前には当たり前だった過ごし方が、今は遠い過去の事であるように思えた。
 
「平井さんと近衛さん……か。中学の頃の坂井からは想像できない絵面だよな。これが噂の高校デビューか」
 
 中指で眼鏡を押し上げながら、如何にも皮肉っぽい口振りで話し掛けて来る池。その横顔を敢えて見ずに、悠二は小さく鼻を鳴らした。
 
「(よく言うよ)」
 
 池は知らないだろうが、悠二と平井が親しくなったのは、単に席が隣になったからというだけではない。
 悠二の親友である池に、平井が好意を寄せていたからである。最近では何故かサッパリその手の話題が出る事も無いが、当時は頻繁に引っ張り回されていたものだ。
 ……しかしまあ、そんな事を池に直接言えるわけもないので、返事もせずにコーヒーを啜る悠二だった。
 
「あと、吉田さんも」
 
「ブフッ!?」
 
 だと言うのに、池はお構い無しに突っ込んで来る。話題を避けていると察してくれるだろうと思っていた悠二は、口に含んだコーヒーを盛大に吹き出した。
 
「なっ、な……何だよ急に!? さっきから!」
 
「別に急な話じゃないだろ。むしろ遅過ぎるくらいだ」
 
 思わず振り向いた悠二の見た池の表情は……存外に真剣で、悠二は僅かに気圧される。そこに、他人事を面白がっているような色は微塵も無い。
 
「気持ちに応えてやれなんて言うつもりないけどさ。……変だろ? 吉田さんがあれだけ勇気出してるのに、お前は何も言わないで弁当もらってるだけって」
 
 案の定、池は厳しい口調でグウの音も出ない正論をぶつけてくる。………そう。それは、悠二が今まで向き合っていなかっただけの、厳然たる事実だった。
 
「………………」
 
 弁当をくれているだけ、などという欺瞞はとっくに通用しない。告白という明確な形ではないにせよ、悠二は吉田の示してくれる好意に気付いていた。
 
「(でも僕は、人間じゃない……)」
 
 いや……そんな打算に逃げるまでもなく。誰かを好きになるという感情を……悠二は未だに知らなかった。
 
「………ま、僕が口出しする事じゃないか」
 
 黙り込んでしまった悠二の肩を、打って変わった気軽な調子で叩いて、そのまま池は立ち上がる。「親に買い物頼まれてるんだ」と後ろ手に別れを告げて歩き去る背中に、悠二は何か言おうとして……結局押し黙った。
 
「とりあえず、後悔だけはしないようにな」
 
 最後に告げられた一言が、重く深く、悠二の胸に楔を残した。
 
 
 
 
「この街に起きている、異変?」
 
「その通りであります」
 
 悠二が思春期の少年らしいようでそうじゃない……と見せて実は少年らしい悩みに頭を悩ませている頃……平井ゆかりは、とある喫茶店で怪しげなメイドと相対していた。
 
「今日一日、この街を視察していたのでありますが……とにかくトーチの数が多過ぎる。早急に徒を見つけ出さねば、取り返しのつかない事態にもなりかねないのであります」
 
 とーち? ともがら? と首を傾げそうになる平井だったが、今の自分は“近衛史菜”。このメイド……ヴィルヘルミナが当たり前に使う単語を訊き返すわけにはいかない。神妙な顔で頷き返す。
 
「(て言うかコレ、実はかなりヤバい感じなんじゃ……)」
 
 そうしてしまってから、早くも後悔に襲われる平井。解らないながらに、『取り返しのつかない事態』という言葉に危機感を募らせて………
 
「(ヤバいんだったら、なおさら退けない)」
 
 しかし怯まず、逆に己を奮い立たせる。その取り返しのつかない事態に、近衛史菜……ヘカテーが関わっているのだ。半ば以上に面白半分だった行為が、強烈な使命感へと磨り替わっていく。
 
「とーち、そんなに多いんですか?」
 
「異常であります。徒は通常、フレイムヘイズとの戦いを避ける為に無駄な歪みを避け、一つ所で多くの人間を喰らわない。……しかし、この街の徒は明らかに常道を外れている」
 
 軽く繰り出した平井のジャブに、トリッキーなクロスカウンターが被せられた。さっきまでの危機感が途端に霧散する。
 
「(……今、人間が喰われるって言った?)」
 
 真顔で珍妙な事を言われると大変リアクションに困る。笑うべきな否か、たっぷり三秒ほど見つめてみるものの、敵はヘカテーを優に超える鉄面皮の持ち主である。初対面の平井が見分けるにはハードルが高過ぎた。
 
「だからカルメルさんが、そのトモガラがこれ以上人を食べる前にやっつけに来たんですね?」
 
 仕方ないので、どっちにも通用しそうな路線で行く事にした。
 両掌を合わせて朗らかに笑い、「いや頼もしいですホント」というオーラを全身から漲らせて。
 結果は………
 
「? フレイムヘイズは、元よりそういう存在であります」
 
 ………まさかの、肯定。
 今度こそ言葉を失って硬直する平井の様子には気付かず、ヴィルヘルミナは手元の紅茶を一息に飲み干し、立ち上がる。
 
「その為にも、貴女の協力が必要なのであります。街の異変を掴むには、この街を良く知る者の認識が最善でありますから」
 
 そして、“眼前の少女以外”誰にも見られていない事を確認してから……『清めの炎』で自身の口を拭った。
 
「………?」
 
 そんな………フレイムヘイズとしては日常的な動作を見て、“近衛史菜”は目を皿のようにして固まってしまっていた。
 ………おかしい。ヴィルヘルミナの認識通りならば、近衛史菜にとって『清めの炎』など珍しくもない筈。
 
「まさか………」
 
「一般人」
 
 その僅かな違和感が、そもそも無理があった茶番劇に、呆気なく幕を下ろした。
 
 
 
 
「………それで、近衛史菜のフリをしていたわけでありますか」
 
「…………はい」
 
 責める、というよりも呆れた半眼で見下ろされ、平井ゆかりは俯いて小さくなる。しかし、その様子は反省というよりも混乱に近い。
 
「(……まあ、無理もないのでありましょうが)」
 
「(軽率)」
 
「(うるさいのであります)」
 
 もっとも、ヴィルヘルミナに平井を強く責める意思は無い。確かに近衛史菜を騙ったのは彼女だが、それだけではこんな事態には成り得ない。会話に遊びを持たず、端的に要件に入るヴィルヘルミナの性分が招いた失態でもあった。
 
「(しかし、これは……)」
 
「(好都合)」
 
 確かに失態ではある。しかしヴィルヘルミナは、失敗とは考えない。凹んでいる少女の弱気に付け入るように、要求する。
 
「もう良いのであります。それより……“本物の近衛史菜”の居場所を教えて貰いたいのでありますが」
 
 許すような口振りで、気配を漏らさない程度に、身に纏う存在感を強める。それだけで、眼前の少女は得体の知れない貫禄に呑まれる。
 
「………その前に、訊いてもいいですか?」
 
 ―――筈だった。
 有無を言わさぬつもりで威圧したヴィルヘルミナに、平井は顔を上げて質問し返して来たのだ。
 
「カルメルさん……ロクに確認もしないで あたしを“近衛史菜”だって断定しましたよね」
 
 俯かせていた顔を上げ、目を逸らす事もなく、真っ直ぐにヴィルヘルミナの瞳を見据えて来る。その中に在る真意を見極めようという意思を込めて。
 
「いくら店内に居たのが あたしだけだったからって、変じゃないですか?」
 
「(………この子供)」
 
 怯えるどころか冷静に不自然な点を拾い上げて、躊躇なく問い詰めて来る。今も変わらず威圧し続けているヴィルヘルミナに。
 
「何か、あたしを近衛史菜だって確信できる目印があったんじゃないですか」
 
 しかも、思い切り図星を突かれた。ほんの数分前まで、トモガラという単語すら知らなかった一般人に。
 
「……それを訊いて、どうするつもりでありますか」
 
「教えてくれなきゃ、近衛史菜の居場所は教えないって事です」
 
 突き放してみても、やはり動じない。逆にヴィルヘルミナの方が驚かされた。
 
「…………………」
 
 二人で一人の『万条の仕手』は、それらしい言い訳は無いかと僅かに思考を巡らせて……見つからず、諦めた。
 ヴィルヘルミナと平井には、これまで一切の接点が無い。そんな相手を待ち合わせ相手と間違える理由など、それこそ“本当の理由”くらいしか思い付かない。
 
「―――それは、貴女から………」
 
 平井ゆかりの知人である。そこまで判れば、直接教えて貰わなくとも探る手段はいくらでもある。だが敢えて、ヴィルヘルミナは平井に語る事にした。
 この歪みきった状態すらも、より大きな災禍の布石でしか無いとすれば……悠長に構えてはいられない。
 
「異能者が持つ気配の残滓が、色濃く匂ったからであります」
 
 一人の少女が真実を知る不幸と、この街に迫る歪んだ脅威。どちらを憂慮すべきかなど、秤に掛けるまでもない。
 
 
 
 
 御崎市から遠く離れた山嶺の野。人跡未踏の頂に一人、水色の少女が跪いている。
 両の手を組み、瞳を閉ざすその姿は、まさしく神に祈る巫女そのもの。
 
「“頂の座”ヘカテーより、いと暗きに在る御身へ」
 
 ゆっくりと、目蓋が開かれる。常ならば水色に光る少女の瞳が、今は黒き闇に染め上げられていた。
 
「此方が大杖『トライゴン』に、彼方の他神通あれ」
 
 傍らに突き立てられた巫女の錫杖が、見えない何かを受けて震えだす。
 
「他神通あれ」
 
 それに呼応するように天が渦巻き、水色の光が雪となって山野を壮麗に飾った。
 
「他神通あれ」
 
 踊る光華が天の川となり、緩やかな螺旋を描いて舞い続ける。その、あまりに幻想的な光景は………
 
「他神通あ―――」
 
 巫女の祈祷が止むと同時、爆縮にも似た激しい光を生んで、瞬時に“吸い込まれた”。
 糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた少女が、ゆっくりと身を起こす。その瞳は、水色の輝きを取り戻している。
 
「…………あと、一つ」
 
 少女……“頂の座”ヘカテーの掌中で、銀の宝珠が燦然と輝いている。
 
 
 



[34371] 3-7・『嵐の前』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/10/20 20:18
 
「………………」
 
 掌中で光る銀の珠を、ヘカテーは大事に大事に帽子の中にしまい込む。
 宝珠の名は『大命詩篇』。巫女たる彼女だけが彼方より託される事の出来る、秘中の秘たる自在式。因みに、悠二の『零時迷子』に刻まれているのもこれである。
 
「………ふぅ」
 
 この『託宣』は、巫女とその大杖『トライゴン』の持つ力によって為されている。しかし、それだけでは不十分。“彼方”より託宣を受ける為には、それ相応に因果の安定した力場が必要なのだ。
 故にヘカテーは、『星黎殿』に居た頃からそうしていたように、御崎市を離れて遠方に赴いた。
 
「(……今から帰れば、昼休みには間に合う)」
 
 が、それも終わった。
 “あちら”の準備が済むまでは、ヘカテーに出来る事は無い。暁が明ける前にと、水色の少女は高き空へと飛翔する。
 
「(帰ろう………)」
 
 いつか去る、束の間の居場所に想いを馳せて……壮大な緑の海を滑空する。
 
「(………どうして?)」
 
 そんな心の動きを確かに感じて、少女は自分に問い掛ける。
 確かに今は、『戒禁』の施された『零時迷子』に干渉は出来ない。だが……だからと言って御崎市に留まる理由にはならない。『零時迷子』が無理なら、それを宿した悠二ごと連れて行けば良いだけの話なのだから。
 
「(なのに、私は……)」
 
 “狩人”を討ち倒した後、悠二ではなく自分が、彼の都合に合わせると決めていた。深く考える事もなく、そうする事に大した疑念も抱かずに。
 
「(あの時は……ベルペオルを怒らせたままだったから……)」
 
 いい加減 彼女の機嫌も直っている頃だろう。ならば……そう、今すぐにでも、悠二を連れて『星黎殿』に…………そこまで考えて、
 
「っ」
 
 平井ゆかりの笑顔が、坂井千草の微笑みが……そうする事で失う光景が過って……最後に、失望に暮れる悠二の顔が浮かんだ。
 
「…………………」
 
 ………まあ、今のままでも支障は無い。『託宣』する為に外に出なければならないのは『星黎殿』でも変わらないし、むしろ御崎市の方が教授を誘き出しやすい筈。
 
 いま考えた理屈で自分を正当化するヘカテーは、ほどなく人里へと辿り着く。空も段々と白み始めて来た。ここから先は飛んだら目立つと、人目が無い事を確認して狭い路地に着地する。
 その靴底が路面に触れる拍子に水色の炎が一瞬 彼女を包み、巫女の法衣を解いた。
 そこに立つのは、薄水色のワンピースの上から青のカーディガンを着た可愛らしい少女。どこにでも居る……とは言えないものの、とりあえず一般人的な少女である。
 
(シュビッ!)
 
 刹那 瞳の端を煌めかせたヘカテー。居合い抜きのようなキビキビとした動きの延長で指先に挟まれているのは、本と呼ぶには薄く小さい帳。人はそれを、電車の時刻表と呼ぶ。
 
「……あれが、駅です」
 
 丁度良く目に見える位置にある小さな駅を、わざわざ口に出して指差す。
 ここから先は、文明の力を活用する次第だ。ここ最近の人間の進歩は本当に凄まじい。自在法も無しにあんなに大きな鉄の塊をあれだけのスピードで走らせるとは、なかなか侮れないものがある。
 
 上から目線の割に意気揚々と駅に踏み込むヘカテーの旅は………
 
「大人一枚、御崎市までです」
 
「……え? 大人……で良いんですか?」
 
「…………………」
 
 開始早々、不本意な口論から始まる事となった。
 
 
 
 
 ホテルのコードレス電話が、ゆっくりと下ろされる。
 
「……やはり、別人でありましたか」
 
「同姓同名」
 
 昨夜は郊外のホテルで一泊した二人で一人の『万条の仕手』は、一応の確認に案の定という溜め息を漏らす。
 掛けた先は関東外界宿(アウトロー)第八支部。話した内容は、近衛史菜の経歴と素性。
 
「………平井ゆかり嬢には、気の毒な結果になりそうであります」
 
 平井ゆかりから聞いた、近衛史菜の人物像。今年の四月、入学式からズレた時期にギリシャから転校して来た女生徒。
 御崎市出身の構成員という事前情報と異なる話を聞かされて、ヴィルヘルミナは支部に連絡を取り……結果は黒。平井の友人は外界宿の構成員ではないし……恐らく、人間でもない。
 
 実のところヴィルヘルミナには、平井が近衛史菜ではないと判った時点である程度 予想できていた。
 平井から感じた気配の名残は、紅世の徒かフレイムヘイズと長く近しく接していなければ起こり得ないもの。故にこそヴィルヘルミナは、彼女との邂逅を本物の近衛史菜との対面以上に有難がった。
 なぜ外界宿の構成員の名を名乗っているのかは知らないが、“その近衛史菜”こそが気配の正体に違いない。
 
「無問題」
 
「……その通りであります」
 
 場合によっては平井の友人を討滅する事になるが、問題は無い。この世ならざる存在である紅世の徒は、死ねば“そこにいたという痕跡ごと”消滅する。つまり平井の記憶にも残らず、彼女に哀惜を感じさせる事も無い。
 ……だが、今はまだ憶えている。だからヴィルヘルミナは、こう言った。
 
『貴女の友人は、恐らく私と同じフレイムヘイズなのであります』
 
 と。
 紅世の徒だと伝えるよりはショックが少ないだろうし、結果的に人を守る側だと伝えておいた方が協力的になってくれる筈。
 それに……まだ嘘とは限らない。街を喰い荒らした徒を討ったフレイムヘイズが、この歪みきった地を放置できずに留まっている可能性も残っている。
 
「いずれにしろ、明日になればハッキリする事であります」
 
「就寝」
 
 常と変わらず、戦いを傍らに、『万条の仕手』は眠りに落ちる。
 終わる事なき戦いの螺旋を、果てる時まで踊り続ける。
 
 
 
 
 自宅の浴室、湯気が籠もって霞掛かった天井に向けて、平井ゆかりは手を伸ばす。握る。……何も掴めない。
 
「人を喰う紅世の徒……それを狩るフレイムヘイズ……喰われた人間の代替品、トーチ……」
 
 聞かされた真実を、噛み砕くように口にする。現実味が無い……というのが正直な感想だった。『清めの炎』を目の当たりにしていなければ、今も信じていないだろう。
 
「……………喰われた人間は消える、か」
 
 それでも……ほんの僅かでも、真実に触れて振り返る事で……判る事がある。
 
「……なんで今まで、不思議に思わなかったかなぁ」
 
 平井ゆかりは、小さい頃からこの街に住んでいる。ずっと祖父に育てて貰った。―――“あんな離れた街に住んでいる祖父に”。
 
「はは……おかしいじゃんか、どう考えても」
 
 毎年訪れる誕生日、小学校の参観日、大活躍だった運動会、高校に入った時の合格祝い。たくさん、たくさん……思い出はある。だが、“そんな事は有り得ない”。
 
「(あたしの両親は……徒に喰われて……………消えた)」
 
 上に伸ばした手の甲で、何となく目の上を隠す。悲しい……わけではない。顔も思い出せない誰かの死なんて、悲しみようがない。
 ただ、親の消滅に何を思う事も出来ない自分が……堪らなく虚しかった。
 そして、そんな酷い現実に正面からぶつからなければならない場所に、近衛史菜は立っている。
 
「……坂井君も、知ってるよね。ずっと一緒に居るし、明らかに態度ヘンだったし」
 
 今までずっと水臭いとばかり思っていたが、こういう事なら言えるわけがないとも納得する。自分が同じ立場でも、友達を巻き込む事はしなかっただろう。
 
「(でも……あたしは知っちゃったから)」
 
 知らない方が良かったのかも知れない。知らない方が自然なのだろう。
 でも……知ったからには、目を背ける事など出来ない。
 
「(どんな現実でも、受け止める)」
 
 平井ゆかりは気付いていた。『万条の仕手』が隠そうとした―――“近衛史菜”のもう一つの可能性に。
 
 
 
 
 ヴィルヘルミナと遭遇した翌朝、彼女なりの覚悟を胸に秘めて御崎高校の校門で待ち合わせをしていた平井ゆかりは………
 
「えっ、と………カルメルさん、ですよね?」
 
「時間通りでありますな、平井ゆかり嬢」
 
「律儀」
 
 到着早々、引き締めて来た緊張感をこれでもかというほどに粉砕された。
 人喰いの化け物と戦う異能者との待ち合わせ場所に、妙にファンシーな白キツネの着ぐるみが立っていたのだから、それも無理からぬ事と言えよう。
 
「抱き付いても良いですか!」
 
「遠慮させて貰うのであります」
 
「静粛要求」
 
 当たり前だが、別にヴィルヘルミナとてふざけてこんな格好をしているわけではない。
 彼女の着ぐるみは、『万条の仕手』固有の自在法を込めたリボンで編まれており、気配を完全に遮断する効果がある。力の消耗が激しいので常時発動させているわけにもいかないが、これから標的に接触すると判っている今なら話は別である。
 ………もっとも、そんなあからさまな戦闘準備について平井に語ったりはしないが。
 
「……それ、鎧みたいな物ですか」
 
 だと言うのに、平井は急に眼を鋭くして、そんな事を言って来た。どう言ったものかとヴィルヘルミナが逡巡する間に、平井の方から更に続ける。
 
「遠慮とか、無しでお願いします。『知らない方が幸せ』とか、そういうの好きじゃありませんから」
 
 続けて、返事も待たずに歩き出す。昨日も思ったが、恐ろしく肝の据わった少女である。
 
「………………」
 
 そんな平井の姿に、ヴィルヘルミナも認識を改める。もう彼女を、『真実に触れた可哀想な少女』として扱うのはやめにしようと。
 
「あれ、平井さん今日は早いねって……着ぐるみ?」
「おっはよ池君!」
 
 先を歩く平井に、メガネの男子生徒が声を掛ける。怪訝そうな声音を元気の良い挨拶で遮った平井は………自己主張の激しい視線を横顔から放った。
 それが“確認”の要求であると察したヴィルヘルミナは………無言で、着ぐるみの親指と人差し指で○を作った。
 
 
 
 
「(………ふぅ)」
 
 学校の校門から通学路を遡る形で、平井とヴィルヘルミナは歩く。
 途中すれ違った人間の中にも………とりあえず平井の知人には一人もトーチは居なかった。知り合い以外ならどうでもいいというわけではないが、どうしても安堵の吐息は漏れ出てしまう。
 
「(………大丈夫)」
 
 後は、悠二とヘカテーだけ。
 平井が、ヴィルヘルミナの隠した可能性に気付いてなお道案内を申し出たのは、ヘカテーに恐れを抱いてヴィルヘルミナに味方したからではない。
 ヘカテーが街の人間を喰い荒らした筈が無い。だからヴィルヘルミナに会わせても問題ないという確信………否、希望から来る強迫観念にも似た決意だった。
 
 ヘカテーが紅世の徒で、この街にさらなる災厄を齎らすと言うなら……平井はヴィルヘルミナを止める言葉を持たない。
 
「………行きましょう、カルメルさん」
 
 ヘカテーは違う。
 強く念じて一歩を踏み出す平井は………
 
「………?」
 
 掛けた言葉に返事が無い事を訝しんで、振り返る。
 
「カルメルさん……?」
 
 そこには既に、フレイムヘイズ『万条の仕手』の姿は無い。
 登校する生徒の居なくなった通学路を、冷たい風が通り過ぎた。
 
 
 



[34371] 3-8・『万条の仕手』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/10/22 15:07
 
 『宝の蔵(ミステス)』には、大きく分けて二つのタイプが存在する。
 一つは、人間が喰われた後の代替物に宝具が転移して来ただけの、トーチ自体の力は皆無に等しいミステス。
 そしてもう一つは、宝具を核として紅世の徒の手で意図的に制作される“戦闘用のミステス”。
 
 徒が下僕として生み出す燐子は、主に忠実ではあるが作成が難しく、明確な自我を宿した燐子を生み出せる徒は少ない。その点、人間を基に造り出すミステスならば、誰が造ろうと一定以上の自我と知能を持っている。
 故に徒の中には、燐子の代わりにミステスを造って使役しようとする者もいる。そうして、戦闘用のミステスは造られる。
 戦闘用のミステスは通常のミステスと違い、その者が持つ過去、現在、未来、それら全てに広がる『運命という器』の総量ほどの力を持って誕生する。
 中には、制作者たる徒の力さえも上回り、討滅してしまう者さえ存在する。
 
 過去の前例を挙げれば、『天目一個』、『異形の戦輪使い』、そして……『永遠の恋人』等がこれに充たる。
 
 
 
 
 その日、坂井悠二は焦っていた。原因は一つ、絶賛居候中の紅世の徒……ヘカテーの不在。
 昨日までは、彼女が居ない事をそれほど重く考えてはいなかった。……と言うより、居ないと考えてすらいなかった。家に居なくとも、学校に来なくとも、異質な気配が常に御崎市に在ると感じていたから。
 その気配が―――今朝起きたら消えていた。
 
「(……ヘカテー、どこに行ったんだろ)」
 
 そうなって初めて、悠二は慌てた。最近では珍しくもないランニングと称して家を飛び出し、彼女が立ち寄りそうな場所を一通り回ってみたものの、結果は全て空振り。おまけにタイムオーバー。
 時間に気付いてとりあえず家に帰ったものの、既に一時限目の授業には間に合わない。今さら急ぐのも馬鹿らしくなって、人気の無い静かな通学路を気怠げに歩く悠二だった。
 
「(こんな事なら、昨日の内に捕まえとくんだった。これじゃ居ないのか隠れてるのかも判らないし……)」
 
 用が無くなって御崎市を去った……とは思わない。彼女の欲していた『零時迷子』の自在式を剥がれた覚えは無いし、本当に去るのなら適当な置き手紙など残さないだろう。と、この一月で把握した彼女の性格から判断する。
 ………それでもやはり、「もしかして」という気持ちが胸の奥で騒つく。
 
「(本当にヘカテーが居なくなったら………)」
 
 人間として生きてはいけない悠二にとって、ヘカテーだけが“外れた道”で頼る事の出来る拠り所……そんな、依存にも似た情けない感傷を心中で否定して……「ならヘカテーと離別しても構わないのか」という言葉が浮かんで頭を抱える。
 自分の先も、自分の今も、揺れるばかりで心底イヤになる少年は………
 
「…………ん?」
 
 進む先、車も殆ど通らない路地の突き当たりに、不自然なものを発見した。こんな寂れた場所には不似合いな、妙にファンシーな白キツネの着ぐるみである。
 
「(まさかヘカテー……なわけないか。明らかにサイズ違うし)」
 
 それを訝しみつつも深く考えず、何をするでもなく脇を通り過ぎようと思う悠二の眼前で………
 
「……ふむ」
 
 抑揚に乏しい声と同時、唐突に着ぐるみの姿が“解けた”。
 無数のリボンとなって散逸した着ぐるみの中から姿を現したのは、桜色の髪と瞳を持つ美しいメイド。
 
「ッ……!?」
 
 その現象や姿ではなく、一瞬にして膨れ上がった気配を感じて、悠二は慌てて跳び退いた。
 中の湯が沸騰したヤカンの蓋を開けた時のような、隠されていた力の発露。この世のものでは在り得ない、圧倒的なまでの存在感。
 
「まさか、ミステスの気配だとは思わなかったのであります」
 
「予想外」
 
 無感動な声に、更に無感動な声が応える。そんな不思議なやり取りに、悠二は疑念を抱く余裕が無い。
 
「(徒……!? 気配は感じなかったのに……隠してた? それとも……)」
 
 人ならざる存在が目の前にいる。ただ、その事実を整理するだけで いっぱいいっぱいだった。
 
「(……いや、ちょっと、違う)」
 
 ふと、気付く。
 いま感じている気配が、ヘカテーやメリヒムから感じた『違和感』とは少し違うという事に。
 異常な存在感そのものは変わらない。ただ、“ここに在る事そのものがおかしい”という異質な気配が無い。その感覚が……
 
『人間の器に入った紅世の王』
 
 以前ヘカテーに聞かされた話の記憶と、直結する。そうして、確答へと辿り着く。
 
「フレイムヘイズ……なのか?」
 
「……やはり、ただ宝具が転移して来ただけのトーチではないようでありますな」
 
「戦闘用」
 
 悠二の質問に直接は応えず、頭上のヘッドドレスと確認らしき言葉を交わす“フレイムヘイズ”。その、お世辞にも友好的とは言えない態度に悠二は緊張を強める。
 それに気付いていないわけもないだろうに、フレイムヘイズは無表情な顔を無遠慮に近付けて悠二の眼を覗き込んだ。
 
「しかし、自我を奪われているようにも見えない。制作者を討滅したという事でありましょうか、こんな子供が……」
 
「不可解」
 
 さっきから、このフレイムヘイズは一言も“悠二と”会話していない。その事実に、悠二はいつかのヘカテーの言葉を思い出していた。
 
『フレイムヘイズは必ずしも人間やミステスの味方ではない』
 
 徒の理屈だと、話半分にしか受け取っていなかったが、こうして直に目にして理解する。このフレイムヘイズは……自分を本当に“物”だとしか思っていない。
 
「……昨日から街に在った気配は、あんたなのか」
 
 その事実に十人並のプライドしか持たない悠二も自尊心を傷つけられるが、努めて平静に訊くべき事を訊く。
 こうして目の前にして気付いたが、昨日から街に感じていた気配は……いま肌に感じている存在感と同じもの。とすれば……ヘカテーは今朝ではなく、昨日から御崎市に居なかった事になる。
 
「二、三、質問させて貰うのであります」
 
 やっと声を掛けられた……が、やはり会話にはなっていない。この対応を見て、悠二は眼前のフレイムヘイズに対する一切の期待を捨てた。
 
「(……逃げられるか?)」
 
 気圧されるように一歩、足を下げる。日々の鍛練で身に付けた統御力を、ただ脚力のみに発揮しようとして………
 
「貴方を造ったのは、“近衛史菜”でありますか?」
 
「………は?」
 
 続けられた言葉に、思わずその足を止めていた。
 造られた、という言葉に対してではない。街の異常をヘカテーの仕業だと疑っているのなら、トーチである悠二を造ったのがヘカテーだと思うのは不思議ではない。問題は、その後、
 
「(近衛……史菜……?)」
 
 何らかの方法で徒の気配を……百歩譲ってヘカテーの存在を察しているまでなら良い。だが何故、ヘカテーが人間として紛れ込む為に使っている偽名の方を知っている?
 
「その名前を、どこで聞いた………」
 
 嫌な予感が、あった。
 ―――それは、感じたままに現実となる。
 
「平井ゆかり嬢であります」
 
「――――――――」
 
 瞬間、目の前が真っ赤になった。
 
「………彼女に、どこまで話した……」
 
 声が、身体が、震える。
 自分が喰われたと知った時以上の、途方もない憤激によって。
 
「…………………」
 
 沈黙が、聞きたくないと願った応えを肯定する。
 
「………どうして、彼女を巻き込んだ」
 
 どうしようもなく煮え滾る身体とは逆に、頭は急速に冷えていく。
 
「……平井ゆかり嬢は、自身の意思で真実を求めた。我々を責めるのは筋違いである以上に、彼女への侮辱であります」
 
 日常の中で輝いていた、そこに在り続ける筈だった眩しい笑顔が、暗い帳に覆われていくように思えた。
 
「今度はこちらの質問に応えて貰うのであります。近衛史菜は……」
「黙れ」
 
 自分には気配を隠す術が無い。よしんば上手く逃げられたとしても、またすぐに見つかり、捕まる。“こんな奴”が、トーチに同情して宝具を捨て置くなど考えられない。
 
 爆発寸前の怒りが、氷のように冷えた理性によって、一つの意志へと結実される。
 
「許さない………!」
 
 陽炎の壁が日常と非日常を断絶する。燃える炎は、燦然と輝く―――銀。
 
 
 
 
「………“銀”?」
 
 『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルは、鉄面皮の内で密かに驚愕していた。
 ミステスが激昂した事にでも、封絶を展開できた事にでもない。その中に燃える炎の色に、である。
 
「(“銀”の正体がミステス……いや、それともこの少年を喰らった徒が……?)」
 
 悠二には知る由も無い事だが、この銀というのは凡百の炎ではない。数百年を生きるヴィルヘルミナでさえ正体の端すら掴めていない謎の徒の炎だった。
 その色にヴィルヘルミナは僅か警戒を強め、しかし過不足なく敵の戦力を見極める。
 炎の色も、相手の正体も関係ない。向かって来るなら屠るのみ。
 
 実のところ、悠二の認識は正しかった。いずれ徒の手に渡って脅威と成り得るかも知れない宝具をみすみす放置する選択肢など、ヴィルヘルミナは持っていない。
 
「(とは言え、もう少し情報を引き出しておくべきだったでありましょうか)」
 
「(迂闊)」
 
 まだ近衛史菜の行方について訊き出せていない……が、大した問題ではない。“これ”を確保してしまえば、遠からず向こうの方から仕掛けて来てくれる。
 
 それら、数秒ほどの思考を遮るように………少年の右腕から銀炎が轟然と燃え上がる。
 
「はあっ!!」
 
 そうして湧き上がった炎の全てを、人間大の火球に固めて投擲して来た。
 しかしもちろん、馬鹿正直に飛んで来る炎弾などに当たる『万条の仕手』ではない。
 横っ跳びに避けた背後で、直撃を受けた民家が丸ごと吹っ飛んだ。
 その回避を読んでいたように、少年がヴィルヘルミナの目前に迫っている。ギリギリと固められた拳が、容赦なく鉄面皮の真ん中目がけて振り抜かれて―――
 
「うわあっ!?」
 
 拳撃を繰り出した悠二の方が、物凄い勢いですぐ傍のコンクリート塀にぶつかり、それをぶち貫いて民家に叩き込まれた。
 
「(? 今のは……)」
 
 微かな違和感を覚えるヴィルヘルミナの背後で、民家が一瞬にして炎上する。
 
 ―――灼熱の銀を全身に纏って、怒りに燃える少年が挑み掛かって来た。
 
 
 



[34371] 3-9・『桜舞う妖狐』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/10/24 12:40
 
 体ごと右足を引いて、拳撃の軌道から身を外す。顔のすぐ横を過ぎる拳、その風切り音から尋常ならざる破壊力を見て取るヴィルヘルミナの至近……腕の長さ程も無い距離から、続け様に少年のボディーブローが繰り出される。
 
「(芸が無い)」
 
 その豪腕に逆らわず、ヴィルヘルミナは少年の肘を軽く上に押した。たったそれだけの動作で拳撃は行き場を見失い、少年は面白いように一回転する。
 
「く……っ」
 
 路面に頭から叩きつけられる寸前、少年は逆立ちに左手を着いてこれを凌ぐ。そのまま右手で炎弾を投擲、銀の爆発が狭い路地で弾けた。
 
「………ふむ」
 
 当然のように爆発から逃れてアパートのベランダに着地したヴィルヘルミナは、爆煙の中に居るだろうミステスを見下ろして顎を摘んだ。
 
「(………これは、どう判断すべきでありましょうか)」
 
「(奇怪)」
 
 力の統御や自在法の行使は十二分に出来ている。だと言うのに、それに不似合いなほど体術の方はお粗末だ。一体どんな経緯を経れば、こんなミステスが出来上がると言うのか。
 
「油断大敵」
 
「解っているのであります」
 
 はっきり言って敵じゃない、とは思うものの、保有する力の総量だけは並ではないし、まだ身に宿す宝具の能力も判っていない。体術が未熟と言うだけで楽観は出来ない。
 
「………む」
 
 だと言うのに、またミステスは真っ正面から跳び掛かって来た。
 
 
 
 
「はあっ!!」
 
 撃ち放った炎弾がアパートを中途から貫通し、その余波で上部を崩落させる。
 銀炎と砂塵が舞い踊る中、悠二は視覚ではない感覚でフレイムヘイズの気配を捉え、足裏に爆発を起こした跳躍によって殴り掛かった。
 ヘカテーにも評価された怪力による一撃は……虚しく空を切る。代わりに手首に巻き付いた一条のリボンが、悠二を小石のように軽々と投げ飛ばした。
 
「――――――」
 
 視界も定まらぬ回転の果てに、大通りの路面に背中から墜落する。遠くなる意識の中で、飛び散るアスファルトの破片がやけにゆっくり見えた。
 
「(強い………体術だけなら、ヘカテーよりずっと………)」
 
 軋む身体を起き上がらせる。頭のどこかを切ったのか、一筋の血が眉間を流れて顎から落ちた。
 
「(やっぱり、まともに戦っても勝ち目は無い)」
 
 しかし悠二は、圧倒的な窮地であるにも係わらず、自分でも意外なくらいに冷静だった。
 平井を巻き込まれた激昂も、絶望的な敵への恐怖も間違いなく在るのだが……それらを完璧に御するだけの理性が残っている。
 
「(頭に血が上って突撃するだけのガキ、そういう風に思わせるんだ。接近戦に狙いがあるって、悟らせないように……)」
 
 考えを整理しながら立ち上がる間に、悠二を追って来たフレイムヘイズが降って来る。高さも重さもまるで感じさせない着地で、華奢な外見からは考えられない威圧感を放って来る。
 
「思ったより頑丈でありますな。これなら、もう少し力を込めても壊れはしないでありましょう」
 
 ミステスの破壊は、中の宝具の無作為転移を意味する。宝具を回収するという敵の意思を確認しつつ、悠二は両の掌に火球を燃やした。
 それを放つ……よりも速く、
 
「う……!?」
 
 非情なる討ち手の背中から、数多のリボンが一斉に襲い掛かって来た。
 一条は最短に、またある一条は弧を描き、迂回し、地を這い、螺旋を巻いて、刃の如く硬質化したリボンが八方から迫る。
 
「む……っ」
 
 直線に飛んで来た切っ先を、首を捻って躱す。旋回して左右から迫るリボンを、前に跳んで避ける。着地と同時に足裏に爆発を起こして地を這って来た刃を焼き散らし、爆発による後方への離脱で頭上から降って来た連撃から逃れた。その勢いを逆手に取って串刺しにせんと唸る背後からの槍衾を………
 
「っだあ!!」
 
 悠二は振り返りもせず、左手に燃やしていた炎弾を放つ事で薙ぎ払った。
 
「………?」
 
 体術の未熟さと不釣り合いな反応。その動きを訝しむヴィルヘルミナに向かって、またも悠二は一直線に突っ込んで来る。
 
「(やはり、子供か……)」
 
 本来はもう少し戦えるのかも知れないが、平井ゆかりの件で我を失っているのだろう。そう結論づけて、ヴィルヘルミナは再び万条を悠二へと伸ばす。
 
「うおっ! ……?」
 
 今度は逃がさない。脇を過ぎる純白の刃の甘さに悠二が疑問を抱く隙に、十重二十重のリボンが悠二を襲い、躱され―――
 
「っ……しまった」
 
 “外れた攻撃”によって編まれた白条の刃が、蜘蛛の巣のように少年の全周を囲んでいた。その表面に桜色の紋様が浮かび上がり………
 
「うわああぁっ!?」
 
 『爆破』の自在式が弾けて、余波で大通りの両脇の建物の窓ガラスを軒並み叩き割るほどの大爆発を巻き起こした。
 
「(やり過ぎたか―――)」
 
 ミステスを破壊してしまったかも知れない、そんな危惧を抱くヴィルヘルミナの視界を―――間髪入れず、爆炎の中から猛スピードで飛んで来た巨大な何かが埋めた。
 
「(車……!?)」
 
 それが、桜色に燃えたワゴン車であると気付いた瞬間、歴戦の討ち手はそれを“投げ返していた”。
 全く勢いを殺さず、どころかヴィルヘルミナが加えた力分の加速を得た鉄塊は………追撃として放たれていた炎弾に直撃し、融爆する。
 
「(今の『爆破』が、効いていない……!)」
 
 至近からの爆圧に押されて堪らず後退する。敵の姿を気配で探る……という呼吸同然の対処、よりも早く―――
 
「(上っ!)」
 
 存在の感知ではなく、洗練された直感に従って、ヴィルヘルミナは右掌を突き上げ、即座に炎弾を撃ち放つ。
 それは違わず、頭上から降って来ていた銀の炎弾に直撃し、鮮やかな銀と桜の花弁を舞わせた。
 
 ―――その、背後。
 
「(ここだ―――)」
 
 爆炎に紛れ、陽動に隠れて、坂井悠二はそこに居た。
 右手に在るのは、一枚のタロットカード。
 
「(これで、決める)」
 
 低い姿勢から逆袈裟に振り上げる動きの途上で、カードは銀に燃えて姿を変えた。
 新たに握られたのは、幅広の刃を持つ西洋風の大剣。
 
「(『吸血鬼(ブルートザオガー)』!!)」
 
 背後から振り上げられた容赦ない斬撃は、
 
(ガキィ……!)
 
 しかし『戦技無双の舞踏姫』とまで呼ばれる討ち手に通じず、構えたリボンに受け止められた。
 
「(良し……!)」
 
 だが、最初から悠二もこの程度で倒せるとは思っていない。ガードさせる事こそが真の狙い。
 
「(終わりだ……!)」
 
 宝具『吸血鬼』。
 触れた者を、刃から伝わる存在の力で斬り刻む魔剣だった。
 その刃に、血色の波紋が揺れ――――
 
「え………」
 
 たと、思った刹那―――
 
「ぐあっ!?」
 
 悠二の視界が無茶苦茶に回転し、気付けば路面に大の字に倒れていた。
 慌てて立ち上がり、自らの放った必殺の一撃の結果を目にして……絶句した。
 
「……なるほど、これが狙いでありましたか」
 
「小癪」
 
 『吸血鬼』から流し込めた力はほんの一欠片、フレイムヘイズの頬を浅く裂いたのみで終わってしまっていた。
 
「(あれだけやって、防御させる事も出来ないなんて……)」
 
 唯一と言って良い勝機を逃した事に少なからず動揺を覚える悠二に、ヴィルヘルミナはさらなる絶望を与える。
 
「……その剣、“愛染”の片割れが持っていた宝具でありますな」
 
 これ以上ないほど、意表を突かれる形で。
 
「あの兄妹が“お前”ごときに討滅されたと言うのも、俄かには信じ難い話でありますが」
 
 淡々と語る討ち手の言は、正しい。
 この『吸血鬼』は元々、ヘカテーを狙って現れた“愛染自”ソラトの大剣であり、もちろん悠二が倒したわけでもない。
 
「(そんな……! 元から知ってたのか……!?)」
 
 隠しておいた切り札が、最初から敵に知られていた。成功以前に作戦自体が無意味だったという理不尽な結末に、悠二は大剣の柄を軋ませる。
 
「しかし、妙でありますな」
 
 一歩、フレイムヘイズが足を進める。それに気圧されて、悠二も同じく後退る。
 
「その剣は“愛染自”の宝具。ならば当然、お前は自身の宝具を別に持っているはず。何故それを使わないのでありますか」
 
「っ………」
 
 言われるまでもない。
 使える物なら使いたい。しかし悠二に宿る宝具は、こと戦闘に関しては全く役に立たない。
 
「……使いたくとも使えない、という事でありますか。何故それだけの存在の力を得るに到ったかは謎でありますが……どうやら戦闘用のミステスではないようでありますな」
 
 歯軋りして黙り込む悠二の態度を見て、ヴィルヘルミナは自身の推測が正しいと確信する。それと同時に、何かが引っ掛かった。
 
「(………“封絶の中で動く、戦闘用ではないミステス”?)」
 
 ミステスと言えど、その全てが封絶の中で動けるわけではない。むしろ無作為転移して来た殆どのミステスは、他のトーチと同様 何に気付く事もなく消える。
 
「(まさか………)」
 
 しかし一つ、一つだけ……ヴィルヘルミナにはその例外たる宝具に心当たりがあった。
 
「……『零時迷子』」
 
「……だったら何だ」
 
 その呟きに、何を思うでもなく、悠二は応える。今さらハッタリで何とか出来る相手ではなく、元々隠す理由も無い。
 その応えが、しかし………
 
「ッッ!?」
 
 眼前のフレイムヘイズに、火を点けた。
 今までとは比較にならない存在感が膨れ上がり、悠二にも判るほどハッキリと表情が変化する。
 
「……ここからは遠慮容赦一切無用、神器『ペルソナ』を」
 
 頭上のヘッドドレスが変質し、狐を模した仮面となって彼女の顔を隠した。その縁から溢れる万条が、鬣のように風に靡く。
 
「不備無し」
 
「完了」
 
 そこに立っていたのは、戦技無双と謳われた仮面の討ち手。悪夢では決して無い夢の世界の住人だった。
 
「宝具『零時迷子』、回収させて貰うのであります」
 
 ―――万条の暴威が、迫る。
 
 
 



[34371] 3-10・『約束の二人』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/10/29 18:54
 
「はあっ……はあっ……はあっ……!」
 
 呼吸を忙しなく繰り返し、両手を交互に振り上げ、休みなく足を前に出して、平井ゆかりは走る。
 自分でもこんなに速く走れるとは知らなかったと思うほどの、明らかに過去最高のスピードで坂井家目指して驀進する。
 
「(なんで!? 坂井くん家ってこんなに遠かったっけ)」
 
 だと言うのに、いつもより時間が掛かってしまっている。……まるで、気付かぬ内に遠回りさせられているかのように。
 
「(まさか、これがフーゼツ? って事はやっぱり……)」
 
 悪い方にばかり考えてしまう頭を振って、さらに加速。50メートル先に見える坂井家の前まであっという間に到着し、革靴の底を擦り減らしつつ停止する。
 
「お邪魔します!」
 
「あら、ゆかりちゃん? 学校はどうしたの?」
 
「ちょっと野暮用で!」
 
 インターフォンも鳴らさず飛び込み、居間からの坂井千草の声にも足を止めず、一直線に階段を駆け上がって悠二の部屋の戸を開ける。
 ………やはり、悠二は居ない。
 
「(学校に行ったんなら、何ですれ違わなかった………?)」
 
 とっくに判っている事を自問自答して、そんな自分の頭を小突く。
 
「(……ここと学校の間に今、フーゼツが張られてる)」
 
 自分はヴィルヘルミナを連れて通学路を歩いていた。坂井悠二は学校に向かっていただろう。そしてヴィルヘルミナは突然いなくなり、自分は悠二やヘカテーに会う事なく坂井家に着いてしまった。
 その事実から導かれる現実を認め、そうなった原因に辿り着く。フーゼツとは、人ならざる者たちが戦う為の舞台だった筈だ。ならば当然、今そこで、誰かと誰かが戦っている事になる。
 
「(……ヘカテー)」
 
 ヘカテーは人間ではない。もはや否定できない現実に多大な衝撃を受けて……より以上の精神力で押さえ込む。
 フーゼツが張られてしまえば、もう彼女らに介入できない。現に平井は、恐らくここに来る途中に在っただろうフーゼツに気付く事すら出来なかった。
 
「……ゆかりちゃん、何かあった?」
 
「……千草さん」
 
 だが、しかし、
 
「ヘカテーの部屋、入っても良いですか?」
 
 それで諦められるほど、平井ゆかりという少女は物分かりの良い性格ではなかった。
 
 
 
 
 無数のリボンが雪崩を打ち、白刃の槍衾となって迫って来る。
 
「く……っ!」
 
 一つ一つ避け切るのは不可能と悟って、悠二は瞬時に力を練り上げる。後方に逃げる悠二の足を軽く上回る刃の先端が届く寸前で………
 
「だあっ!!」
 
 全身からありったけの銀炎を放出させて、間一髪焼き払った。その直後……炎を放ち炎に包まれた瞬間を狙って、
 
「っ」
 
 桜に燃える特大の炎弾が、投擲されていた。自らの炎で視界を奪われている悠二は、しかし鋭敏な感知能力でそれに気付き……避けられないと悟る。
 先の『爆破』を優に越える威力を誇る炎弾は、銀炎を裂いて容赦なく悠二に迫り、
 
「……!?」
 
 突然、銀炎と一緒に掻き消えた。何かに阻まれて弾かれたのではなく、水泡が大気に届いたように、忽然と。
 
「(……『耐火』の宝具、でありますか)」
 
「(生意気)」
 
 この期に及んで、この未熟なミステスが自在法で凌いだとは考えない。そしてそれは、紛れもない事実だった。
 首に提げる形で悠二の服の下に隠されている指輪、『アズュール』。かつて御崎市を蚕食した“狩人”フリアグネから腕ごと奪った“火除けの指輪”の力。
 
「(……気付かれたよな、今ので)」
 
 悠二もまた、このフレイムヘイズを相手に楽観的な希望は持たない。また一つ、数少ない手札を曝した……そうせざるを得なかった事を歯軋りと共に認める。
 
「(いや、もう……手札なんて残ってないか)」
 
 強いて言えば『零時迷子』の『戒禁』が通用するかも知れないが、あのリボン……“狩人”の時のように腕をもぎ取れるという期待は持てない。
 
「(『零時迷子』を欲しがってるなら、すぐ破壊される事はない。やれるトコまで、やってやる)」
 
 自力で逆転する術はもう無い。今の悠二に残された選択は唯一つ、ひたすら時間を稼ぐ事。
 
「(……結局最後は、頼る事になるわけか)」
 
 それでも、少しは褒めて欲しい。そんな情けない感慨を抱きながら、悠二は両手に炎を燃やす。―――ただ一心に、水色の少女の到来を信じて。
 
 
 
 
 箸先に摘んだタコさんウインナーを口に運び、食す。
 
「………イマイチです」
 
 旅の醍醐味の一つという駅弁を座席で味わう、近衛史菜こと“頂の座”ヘカテー。紅世の徒にとって食事は娯楽以上の意味を持たないが、今のヘカテーはこの行為に並々ならぬ関心を示している。……もっとも、田舎の駅で購入したこの弁当はかなり手抜きだが。
 
「(……学校に行っても、今日はおば様のお弁当が無い)」
 
 これはもしや、学食とやらに赴く日が来たのではなかろうか。期待と不安に瞳の光を揺らめかすヘカテーはふと、窓の外に見慣れた時計塔を見つける。
 一人で電車に乗るのは初めてだったが、どうやら思ったより早く御崎市に到着したらしい。手早く弁当を平らげ、そのゴミをまとめて自動ドアまでテクテク歩いて開門を待つヘカテー。
 しかし、
 
「っ!?」
 
 自動ドアは開く事なく、速度が緩む事もなく、電車は御崎市を素通りした。
 
「あぁ………」
 
 何を間違えたのかも判らないヘカテーを置き去りにして、電車は無情にも御崎市から遠ざかる。
 次の駅で乗り換えて、今度こそ駅員に確認しつつ御崎市に……と、頭を悩ます少女は―――
 
「っ……これは……」
 
 ふと、動転して気付かなかった気配を、後れ馳せながら感じ取る。
 
「…………封絶?」
 
 ―――異能者たちの、戦いの気配を。
 
 
 
 
「いっ……が……ぐぅ!?」
 
 猛スピードで何度も路面を身を跳ねさせて、坂井悠二が転がっていく。
 
「(う―――――)」
 
 転がる最中、上空で旋回する万条の雨が見えた。咄嗟に地を叩いた掌に爆発を起こし、体勢などに気を回す余裕もなく自ら吹っ飛ぶ。
 間一髪の所で白刃の暴威から逃れるも、リボンは路面に突き刺さる事なく矛先を曲げ、逆さまに空中を舞う悠二に向かって加速した。
 
「くっそぉ……!」
 
 回避不可能な攻撃を前に、悠二は全身から銀炎を爆発させてリボンを焼き散らした。
 頭から落ちそうなところを、何とか左手一本で着地する。曲がった肘を伸ばす勢いですぐさま後方に跳び、漸く地面に足を着く。
 
「この程度の存在が、現在『零時迷子』を蔵している……」
 
「ミステス」
 
 その正面、戦いの最中とは思えない涼しい物腰で、ヴィルヘルミナが近付いて来る。明らかな侮蔑を向けられていると判っても、悠二には言い返すだけの気力が無い。
 
 必死に逃げ回り、容易く追い詰められ、避け得ぬ攻撃を炎で払う。……こんな攻防を、もう何度繰り返しただろうか。
 相手が使う必要最低限の力を、がむしゃらに放出するような無駄な力で防ぐ。こんな事を続けていれば、すぐに力尽きてしまうと判っていても、そうする事でしか防げない。消滅はまさに、時間の問題だった。
 
「……現在? まるで、『零時迷子』のミステスを他にも知ってるみたいな言い草だな」
 
 会話によって時間を稼げないか。そんな淡い期待に返されるのは、鬣から伸びるリボンの槍衾。
 
「(一か八か……)」
 
 下手に逃げても捕まるのならと、槍衾に向かって一直線に突っ込む悠二。その全身から灼熱の銀炎が燃え上がり、触れた端から万条を薙ぎ払う。
 
「(これなら、どうだ!)」
 
 その炎を、魔剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』にも纏わせる。如何なる技巧を持っていようと、触れられなければ意味が無い。………という悠二の狙いを、
 
「それで私の技を防いだつもりでありますか」
 
「浅慮」
 
 当然、ヴィルヘルミナは読んでいる。純白のカーテンを払い、拓けた視界の向こうで、両手を掲げた頭上に特大の火球を形成する討ち手の姿が見えた。
 
「(『炎弾』……!?)」
 
 逃れ得ない威力を肌に感じて、しかし悠二はそこに勝機を見出だす。火球が投げ放たれた瞬間……足裏から爆発を起こして一気に加速し、火の中に自分から飛び込んだ。
 
「(構わない)」
 
 それと同時、『アズュール』による火除けの結界で炎弾を掻き消して、そのまま一気に――――
 
「ッッ……!?」
 
 そう意気込む悠二の身体が……いきなり吹っ飛んだ。
 
「あ―――――」
 
 突撃の勢いを逆手に取られたような衝撃に運ばれ、肩から硬いビルに叩き付けられる。
 そうして初めて、自分を壁に“貼りつけて”いる物に気付く。
 
「ぐ……うぁ……ッ」
 
 リボンで編まれた純白の槍。それが交叉法で悠二を捉え、肩を貫通してビルの壁に串刺しにしていた。
 
「(炎弾は、囮……!)」
 
 そんな、磔にされた罪人に等しい状態を、ヴィルヘルミナが見逃すわけもない。即座にリボンの刃が、無謀な少年の四肢を貫いて固定する。
 
「っ―――――!!」
 
 声にならない叫びを上げて暴れる悠二、その眼前に、仮面の討ち手が降り立った。
 
「『約束の二人(エンゲージリンク)』」
 
 痛みを越える恐怖によって動きを止める悠二に向けて、仮面の奥から静かな声が紡がれる。
 
「『零時迷子』を宿したミステスの少年と、彼を愛した紅世の王。彼らは……私の友だった」
 
「…………………」
 
 今という時に告げられる言葉に、悠二は声に出さず驚愕する。そう……今まで考えた事も無かったが、『零時迷子』が悠二に転移して来た以上、元の持ち主は既に………
 
「しかし数ヶ月前、私と彼らは強大な敵の魔手に掛かり………敗北した。生き残ったのは、私一人であります」
 
 予想に違わず、残酷な過去が告げられる。冷徹な声が、微かに震えているように思えた。
 
「消滅の直前、奴は見た事も無い自在式を『零時迷子』に撃ち込んだ。それは『戒禁』をも巻き込んで異様な変貌を遂げ、彼の存在を蝕んだ」
 
「ぁぐ……!?」
 
 悠二の四肢を貫いたまま、リボンがゆっくりと引き上げられる。
 
「誰が何の目的で奴を差し向けたかは判らない。だが『零時迷子』を、彼らの絆を……何者にも汚させはしない」
 
 純白のリボンが幾重にも編まれて、ヴィルヘルミナの腕を覆う。それが『戒禁』への防御と知って、悠二は今度こそ消滅の危機に戦慄く。
 
「“貴方”に恨みは無いのであります。しかし、『零時迷子』をこのままにはしておけない。彼の為にも、彼女の為にも、そして……必ずこれを狙って再び現れる、“壊刃”サブラクを討つ為にも」
 
 リボンと自在式で武装された右腕が振り上げられ、
 
「宝具『零時迷子』、貰い受けるのであります」
 
 一瞬の躊躇もなく、突き出された。
 
 
 



[34371] 3-11・『兆し』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/10/27 19:23
 
 身動きが取れない。
 
「(―――やばい)」
 
 炎を練り上げる間が一拍、足りない。
 
「(『零時迷子』が―――僕――分解―――)」
 
 敵の腕は強固な防壁に包まれている。『戒禁』もアテにならない。
 容れ物が、坂井悠二が―――消滅する。
 抗う事も出来ないのに、やけに視界がゆっくりと動く。―――それが酷く、残酷に見えた。
 
「(死――――)」
 
 “狩人”の時とは違う。保険も打算も無い正真正銘の危機を前に………覚悟とは真逆の、魂の底から捻り出すような拒絶が湧きあがり―――結晶する。
 
「っ………!?」
 
 ヴィルヘルミナにも、
 
「え………?」
 
 悠二自身にも、何が起きたか解らなかった。
 ただ、うるさく脈を打つ心臓……少年の核たる宝具の前で、半透明に光る菱形の切片が、『戒禁』をも貫くつもりで繰り出された右腕を止めていた。
 
「ッ………」
 
 消滅への恐怖が、ヴィルヘルミナより早く悠二を予想外の現象への困惑から立ち戻らせる。
 その一瞬で、ありったけの力を全霊を以て炸裂させた。
 
「ッオオオオオオオオーーーーーー!!!」
 
 獣じみた咆哮と共に、かつてフリアグネを打ち破った時と同じように、己そのものを燃やすような大爆発が巻き起こる。
 
「む………うっ……!?」
 
 いくらヴィルヘルミナと言えど、躱せるわけがない。咄嗟に身を庇った鬣を薙ぎ払われ、全身を炎に焙られ、しかし逆らわずに上空へと飛ばされる。
 
「(まだこれだけの力を残していたとは……)」
 
「(自爆)」
 
「(……そう、これで終わりであります)」
 
 手痛い反撃を受けたものの、未だ『万条の仕手』は健在。逆に悠二は、粗雑で構成の不安定な爆発によって力の殆どを消耗した。
 
「(……やっぱり無理、か……)」
 
 しかし、悠二自身もそんな事は承知の上。これ以上は戦えないと悟っての、玉砕覚悟の一撃だった。
 ただ、轟然と燃え盛る炎の中で………感知に優れた悠二だけが気付く。
 
「(来た――――)」
 
 殆ど感動と言っても良い歓喜を得て、しかし、だからこそ………ただ到来を待つような事はしない。
 
「(今の僕に、出来る事………)」
 
 もう力は残っていない。刺し貫かれた両足では、立っているのもやっと。
 
「(彼女なら、きっと気付く)」
 
 解を見つけて、少年は静かに目を鎖す。
 
 
 
 
 煉獄と化した一帯の上空に浮かび、仮面の討ち手は万条を構える。服はボロボロ、仮面の耳も焦げているが、戦闘不能には程遠い。
 
「このまま消滅させるわけにはいかないのであります」
 
「回収」
 
 もはや悠二に抵抗する力が残っていないのは明白だが、念には念を。先ほどの様に不用意に近づくまいと、白刃の先を全力で硬化する。『戒禁』を越えて、『零時迷子』を取り出す為に。
 
「(今度こそ………)」
 
 あの手足では避けられない。もう何をする余力も残ってはいないだろうとリボンを伸ばそうとしたヴィルヘルミナの周囲で………
 
「む………ッ」
 
 またも、予想外の事態が起きる。ミステスの維持していた銀の封絶が、一気にその範囲を狭めたのだ。
 
「(封絶を維持する力も残っていない……!?)」
 
 ミステスの消滅、『零時迷子』の無作為転移を危惧するヴィルヘルミナは、すぐにその見立てが誤りであると知る。
 
「―――――――」
 
 自らの背後、すぐ傍まで迫っていた陽炎の壁から突如として現れた、恒星の如き大火球の一撃によって。
 
「っああああああぁ!!」
 
 先の爆発に勝るとも劣らない無茶苦茶な大火力に直撃され、ヴィルヘルミナは浮遊すら崩されて落下を始める。
 陽炎の世界に咲く大輪の華。輝く色は―――明る過ぎる水色。
 
「(そんなっ……馬鹿な―――!!)」
 
 その炎、“銀”などよりずっと不可思議な色に仮面の下で目を剥くヴィルヘルミナに向かって、同様の大炎弾が多数降り注ぐ。
 それは見当違いな狙いで奔り………しかし尋常ならざる余波でヴィルヘルミナを呑み込む。
 
「(封絶を目隠しにッ……外部からの奇襲……!)」
 
 因果を切り離す封絶を張れば、その内外の様子は互いに掴めなくなる。その性質を利用された。
 外から中も見えていない筈だが、そんな事は関係ないと言わんばかりの無茶苦茶な破壊力。しかも、あのミステスにだけは炎による攻撃が効かない。
 
「(封絶を狭めたのは、この為か……!)」
 
 自在式を込めた鬣で、周囲の炎を払い散らす。そうして拓けた陽炎の空に、見た。
 氷の如き冷たい炎を撒き散らす、星の巫女の姿を。
 
「……“頂の座”、ヘカテー……」
 
 呆然とその名を呟く討ち手に向けて、ゆっくりと錫杖が下ろされる。
 冷たい、どこまでも冷徹な瞳に導かれて、
 
「『星(アステル)』よ」
 
 ―――水色の流星群が、降り注ぐ。
 
 
 
 
 御崎市に展開された封絶、その意味はすぐに判った。
 昼間から封絶を使った鍛練をするとは思えないし、“それ以外”が人間を喰っているのを見過ごすとも思えない。
 
「(―――悠二が、襲われている)」
 
 胸の奥に氷の杭を打たれたような確信を得て、ヘカテーは一も二もなく電車から飛び降りた。
 着地も待たずに高速で飛翔し、一直線に封絶を目指した。
 
 手遅れかも知れない。とっくに悠二は消滅していて、あの封絶の中には徒しか残っていないかも知れない。
 考えたくもない想像が次々と浮かんでは、身体を冷たく固まらせていく。
 
「(悠二――――)」
 
 寒気に突き動かされるように、封絶の中に飛び込む。真っ先に見えたのは、天を衝く銀の煉獄。悠二の証たる炎を目にして、まず安堵した。
 ―――直後に、それらの景色が一瞬にして掻き消えた。正確には、いきなり縮小した封絶の内に隠されてしまった。
 
「(封絶を縮め………あっ)」
 
 陽炎の中に泳ぐ色から、封絶を制御していたのが悠二なのはすぐに判った。その悠二が、なぜ自分の侵入と同時に封絶を小さくしたのか………ほんの数秒でヘカテーは意図を汲み取る。
 
「(『星』は……ダメ。炎弾を使う)」
 
 それは悠二の意図に違わず、まずは一発。続けて二発三発、さらに四発五発と、特大の火球を封絶の中に放り込む。
 これ以上外からの炎弾に意味は無いと判断して、自身も漸く封絶の中に突っ込んだ。
 
「―――――――」
 
 何故か、真っ先にそれが見えた。
 視界の大半を埋める銀の煉獄も、自身の起こした水色の爆炎も目に入らない。
 炎の海に隠れるように膝を着く、悠二の姿だけが見えた。
 
 肘が、擦り向けている。肩に、風穴が空いている。腕から、足から、血が流れている。
 
「(―――誰がやった)」
 
 心に浮かんだ言葉に応えるかのようなタイミングで、水色の爆炎が払われた。
 現れたのは、狐を模した仮面から白の鬣を溢れさせる『討滅の道具』。
 
「『星』よ」
 
 気付けば、光弾を雨に変えて放っていた。
 数多の星は中空で無数に分裂し、全てを呑み込む水色の天体となって降り注ぐ。
 
「く……ッ!」
 
 仮面の討ち手が、白条を編んで巨大な盾を張る。その表面の自在式に着弾した星が、悉く跳ね返って別の光弾と融爆する。
 
「(―――潰れろ)」
 
 『反射』の自在法。
 そうと気付いて、しかしヘカテーはお構い無しに『星』を放ち続ける。
 跳ね返され、後続を巻き込んで弾ける光弾は、されど止む事なく、どこまでも苛烈さを増していく。
 
(ピシッ)
 
 盾が、限界を越える。
 
「―――――――」
 
 自在式が砕け、天災にも似た轟音が封絶全体を震わせる。連鎖的な爆発が大地を砕き、巻き上がった砂塵が眼下の全てを覆い隠した。
 
「………………」
 
 星光を躍らせるヘカテーが、緩やかに下降する。それを避けるように、砂塵が吹き散らされて隠されていた景色を顕にする。
 そうして、ボロ雑巾のようになってうつ伏せに倒れている討ち手を見つけた。
 
「(まだ、生きてる)」
 
 そうと気付いて、容赦なく、躊躇もなく、大杖『トライゴン』を振り上げる。
 至近からの光弾で、人間として唯一残された器さえも粉々に砕くべく。
 その手が、止まる。
 
「ヘカテー、もういい」
 
 後ろから杖を掴む少年の、酷く落ち着いた声で。
 
「……悠……二……?」
 
 その声で、我に帰る。逆上していた……これが逆上かと、初めての感情に戸惑いながら、頼りない足取りで向き直る。
 
「……僕も、こいつは許せない。許せないけど……殺す事ない。ちゃんと話せば、解ってくれる」
 
 諭すように、そんな事を告げて来る。
 
 良くは……無い。こんなに傷だらけで、痛そうで、なのに……
 
 不透明な言葉を声に出せず、ただフルフルと弱く首を振る。それをどう受け取ったのか―――悠二は目の前のヘカテーを抱きすくめた。
 
「っ……ふぅ……」
 
 今度は、熱い何かが胸の奥から込み上げて来た。何故こんなに無様に心乱すのか、自分で自分が解らない。
 でも、どうしようもなくて、揺れる心の振幅に堪え切れずに………
 
「く……ぅ……ふえぇ………!」
 
 ―――少年の胸に隠れて、少しだけ、泣いた。
 
 
 
 
 少し上に持ち上げた指先を、パチンと鳴らす。そこから弾けた火花が封絶内部に飛散し、外界と因果を繋げる事で修復されていく。
 
「うわぁ、酷いな……あんまり余裕ないんだけど」
 
「………半分は悠二のせいです」
 
 自分の私闘(と認めざるを得ない)によって破壊された街を直す悠二後ろで、さっきから大きな帽子を目深に被ったヘカテーは背中を向け続けていた。
 
「………………」
 
 照れているらしい少女を可愛く思うし、あのタイミングで駆け付けてくれた事には感動すら覚える。
 ……しかし、より切実な戦いの脅威が去った今、胸に去来する感情は、ヘカテーに向けたものではない。
 
「………平井さん」
 
 ここにはいない、フレイムヘイズによって『この世の本当の事』を告げられた少女。
 どうしているか判らないからこその不安と、“今の彼女”に会う事に対する不安。矛盾した感情に胸を痛める悠二………の横から、
 
「呼んだ?」
 
 ニュッと、いま思い浮かべていた顔が出て来た。
 
「な――――」
 
 あまりに予想の外を行かれた悠二。戦いの最中でも安定していた封絶が揺れる。ヘカテーに後頭をはたかれた。
 
「な、なな、ななななななな!?」
 
 かろうじて封絶を維持し直すも、やはり動揺を禁じ得ない。大いに大いに慌てていた。
 
「………ゆかりが、どうして?」
 
 悠二ほどではないにしても、ヘカテーも両目を見開いている。
 得意気に左手を腰に当てた平井は、シュビッと一枚のタロットカードを見せ付けた。
 
「ヘカテーの部屋からパクって来た!」
 
 良く見ると、平井の全身を淡い光が包んでいる。説明を求める意味を込めて、ヘカテーを見る。
 
「……悠二の護身用に作っていた、存在の干渉を阻害する式です。まだ、未完成ですが」
 
「そんなの部屋に置きっ放しにするなよ!」
 
 堪らず叫ぶ。その肩を平井がポンポンと叩いた。
 
「まま、説教も説明も後にしよ。とりあえずカルメルさん、あたしん家に運ぼう。坂井くんも手当て、しなきゃでしょ?」
 
 封絶という、非日常の象徴たる空間の中で、日常の中と変わらぬ笑顔がウインクを寄越した。
 
 たった、それだけで………
 
「………判ったよ、平井さん」
 
 ―――救われたような、気がした。
 
 
 



[34371] 3-☆・『少女の決意』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/10/29 18:47
 
 薄い微睡みが全体に蔓延する教室、英語教師が教科書の内容を黒板に模写するだけの退屈な授業。
 それでも真面目にノートを取っていた吉田一美は、今日何度目か、斜め前方の席に視線を向ける。
 
「(………今日は三人、お休みなんだ)」
 
 昨日は近衛史菜が、今日はそれに加えて平井ゆかりと坂井悠二が欠席。並んだ三つの机が齎らす空白は、教室の活力を三割ほど濾し取ってしまっていた。
 
「(……たまたまだよ。大丈夫、きっと違う。近衛さんの風邪が坂井君に感染って、お見舞いに行ったゆかりちゃんにも感染って、それで三人共……あれ? でもゆかりちゃん、今朝着ぐるみと一緒に……あれ……?」
 
 その中でも、『ムードメーカーがいなくてつまらない』で終わらないのが、この吉田である。
 悠二と、その親友である平井。少しずつ距離を縮めていたつもりだった二人が今は、不思議と遠く感じられてならない。……近衛史菜の登場以来。
 悠二と近衛の周りに、見えない壁があるように思えた。その壁を、平井は易々と越えて行った。
 
「(学校休んで、三人で一緒に……でも、そんな……マサカ……)」
 
 無駄に身悶えていた吉田は、隣席の池速人に保健室行きを勧められた。
 
 
 
 
「病院とか、連れてくべきですかね?」
 
「問題危惧」
 
「あっ、やっぱ不味いか。でも包帯だけじゃ……」
 
「自然治癒」
 
「……な〜る、それもフレイムヘイズの体質って奴ですか」
 
 平井のマンション、そのリビングで、平井がヴィルヘルミナの全身に包帯を巻いている。必然的に服を脱がさねばならない為、悠二は廊下で待機である。
 
「ねー、坂井君も病院は不味いー?」
 
 その悠二に、全く常と変わらぬ声が掛けられる。僅かに言い淀む悠二の隣から、ヘカテーが応えた。
 
「零時になったら全快します。それが悠二の宝具の力」
 
 訊かれたから応えた、という平然とした様子で。
 
「(ヘカテーは……何も気にしてないんだろうな)」
 
 自分が徒である事、それを平井に知られた事、平井が……非日常に触れてしまった事。それらに対する怒りも戸惑いも、ヘカテーには見られない。
 
「終わったから入って良いよー。次、坂井君ね」
 
 いや、ヘカテーだけではない。当事者たる平井自身も、“こんな自分たち”に接する事に躊躇いを持っていない。
 開けっ放しのドアを潜り、リビングに入る。包帯やガーゼで小綺麗に治療されたヴィルヘルミナが、ソファーに横たえられていた。
 
「ぼーっとしてないで、ほれ脱げ少年。そこ座りんさいっ!」
 
「うわっ!? 判った! 判ったから! 自分で脱ぐから!」
 
 複雑な気分でその寝顔を眺めていると、平井に学ランを引ん剥かれた。つい普通に応えてしまいつつ、背中を向けて服を脱ぐ。下は流石に恥ずかしいので、裾を引っ張り上げて傷を見せた。
 
「…………………」
 
 テキパキと平井が包帯を巻く間の、短いのに長い沈黙。平井は傷を見ている。悠二は平井を見ている。ヘカテーは、ヴィルヘルミナを睨んでいる。
 
「………落ち着いてるんだね」
 
 気まずさに堪えかねて、結局率直に訊ねていた。そんな気まずさを悠二が感じていると気付いて、平井は少し淋しそうに笑う。
 
「大体の話はカルメルさんから聞いてたし、エンカウントバトルになった坂井君と違って、あたしには考える時間たっぷりあったもん。……まぁ、“二人共”とは思わなかったけど」
 
「っ……」
 
 判り切っていた事実を何気なく言われて、悠二は殆ど物理的な衝撃を受けて息を呑む。
 
「…………ごめん」
 
 思わず、謝っていた。その俯いた顔を無理矢理に起こすように、平井のデコピンが悠二の額を打った。
 
「あたしが首突っ込んだ結果でしょ。坂井君がそんな顔しないっ」
 
 呆気に取られる悠二の眼前で平井が立ち上がる。左手を腰に当て人差し指を鼻先に突き付けた、何とも勇ましいポーズである。
 
「『平井さんを巻き込んだ』とか、『平井さんは“こっち”に居ちゃいけない』とか、そういうの全部要らないからね。自分の居場所は自分で決めるし、坂井君にだって決めつけさせない」
 
「あ…………」
 
 人差し指がそのまま、ボタンよろしく悠二の鼻を押す。文字通りに圧倒されて、悠二は辛うじて両手を後ろに着いて転倒を避けた。
 
「(そうだ、平井さんは………)」
 
 その傍らでずっと、思っていた。明るくて、眩しい……まるで太陽のような女の子だと。
 ―――その輝きは、この世の真実に触れた程度で翳るものではなかった。
 
「ごめん」
 
「んむ♪」
 
 今度はさっきとは違う、彼女を見縊った事を謝る。平井もまた、籠められた意味の違いに気付いて満足そうに頷いた。
 
「「さて、と………」」
 
 その二人の首が、同時に振り返る。さっきから二人の会話の意味が解らずに首を傾げていた、ヘカテーの方へ。
 
「何で徒のヘカテーが、外界宿(アウトロー)の構成員である“近衛史菜”さんの名前を使ってんの?」
 
「……外界宿の、構成員?」
 
 まずは平井から、このややこしい状況についての詰問。しかしこれは、ヘカテーも訳が解らなかったので頭上に疑問符を浮かべる。
 
 御崎市で最初にヘカテーが出会った、御崎グランドホテルの受付嬢。彼女の名前である近衛史菜を、ヘカテーは勝手に使っていた。
 本名を名乗るのも不味かろうという程度の認識でしか無かったし、普通は単なる同姓同名で片付けられる問題だった。
 だがここで、一つの問題が浮上する。ヘカテーが騙った近衛史菜は、よりにもよって、外界宿の構成員だったのである。
 その構成員に会おうとしていたヴィルヘルミナに、偶然居合わせた平井が『近衛史菜=ヘカテー』と誤解したまま、成り済ました。
 名前を勝手に使われまくった『本物の近衛史菜』は、最初にヘカテーに名札を見られて以来この場の誰とも接触していなかったりした。
 
「何たるミラクル……!」
 
 それら、まことにややこしい裏事情を会話の中で整理して、漸く近衛史菜関連の疑問は解消される……が、
 
「で、ヘカテー?」
 
「!?」
 
 まだ悠二の疑念が残っている。訝しげな半眼を向けられて、ヘカテーの小さな肩が判りやすく跳ねた。
 
「ヘカテー、『零時迷子』に刻まれた自在式を欲しがってたよな。『約束の二人(エンゲージ・リンク)』ってのを襲った奴について、何か知ってるんじゃないか」
 
 質問でありながら、その声には確認の色が濃い。
 ヴィルヘルミナに関する経緯に関しては、既に道すがら伝えられていた。
 
「……“壊刃”という徒の名は知っています。依頼を受けて標的を狩る『殺し屋』、強大極まる紅世の王」
 
 あからさまに視線を逸らしつつ、言っても良さそうな事だけ言うヘカテー。当然、悠二の質問は終わらない。
 
「殺し屋……なら、それを依頼した誰かについては?」
 
「…………………」
 
 訊かれ、ヘカテーは暫し躊躇う。『万条の仕手』は気絶しているが、その契約者たる“夢幻の冠帯”はヘッドドレスに意識を表出させてテーブルの上からこちらを見ている。
 
「……おじ様だと思います」
 
「おじ様?」
 
「“探耽求究”ダンタリオン。世に名立たる天才にして、周りの迷惑を考えない“まっどさいえんてぃすと”です」
 
 結局、自業自得だと割り切って暴露した。ついでに、最近覚えた単語で表現してみる。とても良く似合う響きだった。
 
「……で、その自在式についてなんだけど……」
「秘密です」
 
 続く質問。今度は絶対に応えられない問いに、ヘカテーは身体ごと後ろを向いた。
 
「……昨日から何してた?」
 
「内緒です」
 
 次いで、両手で耳を塞いで、「訊くな」と全力でアピールする。背後から平井が手を伸ばして擽ってくるも、やはり言えない。ひたすらに堪える。
 
「(おじ様のバカ)」
 
 声もなく全身を悶えさせながら、ヘカテーは脳裏に浮かぶ顔に全力で光弾を叩き込む。
 
 ……実のところ、と言うより当然、ヘカテーは『零時迷子』に刻まれた自在式が何か知っていた。
 『大命詩篇』。神の巫女たるヘカテーだけが授かり、振るう事の出来る力の結晶。……が、何事にも例外というものがあり、その数少ない例外である天才が、“探耽求究”ダンタリオン。通称“教授”である。
 
「っ……ッ……!?」
 
 『大命詩篇』は門外不出、秘中の秘、何があっても他に知られてはならない極秘事項。
 それを勝手に持ち出して“壊刃”に預け、『零時迷子』などに撃ち込み、挙げ句の果てには『万条の仕手』に狙われているとは、開いた口が塞がらない。
 “銀”とかいう徒の事といい、数百年前の『大戦』の事といい、迷惑どころの騒ぎではなかった。
 
「(おじ様なんて、勝手に狙われていれば良いんです)」
 
 懐いているヘカテーにそう思わせるほど、教授の暴走は果てしなかった。
 
「むぅ、ダメか……」
 
「……自分の中に得体の知れない物があるって、僕としても気が気じゃないんだけど」
 
 黙秘権を主張して譲らないヘカテーに、平井と悠二も一先ずは諦めた。
 挙動不審極まりないが、本当にヘカテーが犯人ならその自在式をさっさと回収して然るべきである。
 
「………………」
 
 悠二に害を及ぼすような物ではない、そう言おうとしたヘカテーは、寸前で口をつぐんだ。
 既に、悠二の『大命詩篇』はヘカテーの手を離れている。『戒禁』に阻まれているのが良い証拠。そして、それらの改変を行ったのは間違いなく“あの”教授、害が無いとはとても言いきれない。
 
「……まっ、坂井君が消えなくて、ヘカテーが人を食べないんなら、とりあえずあたしは文句ないよ」
 
 これ以上の問答が無為と判断してか、平井は唐突に腰を上げた。何をするのかと悠二が見れば、そのままスタスタと玄関に歩いて行く。
 
「どこ行くの?」
 
「内緒です」
 
 意味深な笑顔でヘカテーの物真似などする平井は、そのまま本当に出て行ってしまった。
 
「………………」
 
 家主の居なくなったリビングで―――桜色の瞳が、ただ天井だけを見つめていた。
 
 
 
 
「………ふぅ」
 
 人気の少ない平日の昼間の道を、ややの早足で歩く。今は誰にも見られていないと思うと、自然と溜息の一つも出てしまう。
 
「(怪我……痛そうだったな)」
 
 彼がミステスとなったのが、ほんの一月前。今まで何度こういう事があったかは判らない……でも、これから何度も起きるだろう。たった一月で、少なくとも二回はあった事なのだから。
 
「(おかげで決心ついた)」
 
 二人の真実を明確に突き付けられても、気持ちは変わらない。それどころか、より一層の意欲が心底から沸々と湧いて来る。
 
「(いざ、御崎グランドホテルへ………!)」
 
 少女の日常は回り続ける。
 隣を進む真実を見て、在るべき己を先に見据えて、形を変えて回り続ける。
 
 
 



[34371] 4-1・『名も無き紅蓮』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/11/03 11:29
 
 夜闇を照らす満月の下、二つの影たる四人が高層ビルの屋上に佇んでいる。
 
「……“千変”シュドナイ?」
 
「ああ、どうせいつもの護衛遊びだろうがいい迷惑だぜ。空港で張ってた連中が二人、やられやがった」
 
 一人は、黒のコートと同色のライダースーツで全身を固めた小柄な少女。
 一人は、ラフなジャケットとスラックスを着た短い黒髪の女傑。
 
「久しぶりの“王”ね、アラストール」
 
「うむ。上手く遭遇できると良いのだが」
 
「……いくら君たちでも、舐めて掛かると火傷じゃ済まないよ。相手は仮にも神の眷属だ」
 
 少女が薄く笑い、ペンダントがそれに応え、ブレスレットが水を差す。異様な会合を続ける二人にして四人は無論、人間ではない。人の器に紅世の王を納めた使命の剣・フレイムヘイズである。
 
「相手が誰でも関係ない。世界のバランスを崩すなら討滅する。それがフレイムヘイズの使命だから」
 
 もっとも、全ての討ち手がこんな無粋な情報交換を行っているわけではない。殆どの討ち手は、フレイムヘイズの情報交換支援施設・『外界宿(アウトロー)』を利用する。この少女は、特別だった。
 もう一方の女傑……『輝爍の撒き手』レベッカ・リードが気配を掴んで急行しなければ、この場の再会も無かった事だろう。
 
「それともう一人、歪みを探って渡り歩いてる徒がいる。多分、こっちも王だ」
 
「……歪みを?」
 
 ブレスレットに意識を表出させる“糜砕の裂眥”バラルの言葉に、少女は眉根を怪訝に寄せた。徒は元々世界のバランスに気を払わないからこそ人を喰らってこの世に顕現しているわけだが、わざわざ好き好んで歪みを捜す者など普通は居ない。それは通常、徒を捜すフレイムヘイズの行動である。
 
「良く解らねーけど、歪みに集まっては封絶に飛び込んで、戦うでも人を喰うでもなく逃げちまうんだと。実害無しってのが逆に不気味だぜ」
 
 少女が抱いた当然の疑念に全面的に同意して、レベッカはつまらなそうに肩を竦めた。これだけの目撃情報が集まっている事は当然、それだけ多くの討ち手が遭遇し、その上で取り逃がしているという事を意味していた。
 
「何か最近、徒フレイムヘイズ問わず集まって来てる気がするよ。この小さな島国に、何かがあるって事なのかな」
 
 バラルの不明瞭な一言に、明確な解を示せる者はいない。話の終わりを悟ってか、少女はコートを靡かせて踵を返す。
 
「ありがとう。討滅したら、手紙で知らせる」
 
「もう行くのか? せっかくだから、外界宿にも寄ってけよ」
 
「必要だと思えば、そうする」
 
 レベッカの言葉に振り返る事もなく応えて、少女は夜景の広がる市街地へと飛び降りた。小さな影は、あっという間に闇に紛れる。
 
「……ったく、相変わらず子供だな」
 
 以前と少しも変わらない少女の背中に、レベッカは僅かな失望を乗せて届きもしない別れの言葉を贈る。
 
「またな、“贄殿の”」
 
 “天壌の劫火”アラストールの契約者、『炎髪灼眼の討ち手』。
 そこまでしか己を持たない。それだけが……今の彼女の全てだった。
 
 
 
 
 御崎高校の中間テストを間近に控えた六月の夜。真南川の河川敷の一画を歪んだ陽炎が包んでいた。
 と言っても、別に徒が人を喰ったりフレイムヘイズが暴れているわけではない。悠二とヘカテーが今や日常的に行っている夜の鍛練の一幕である。
 しかし今夜、その異界に在るのは彼ら二人だけではない。
 
「差し入れ持って来たよー!」
 
 先日、この世の本当の事に触れてしまった平井ゆかりと、
 
「…………………」
 
 悠二を襲ったフレイムヘイズ、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルまで居たりする。
 
「……平井さん」
 
 あれからまだ、ものの三日と経っていない。しかし数週間が過ぎたような激動の日々だった。
 ボロボロの姿を見せるわけにもいかず、悠二が平井のマンションに泊まった翌朝の事。行く先も告げずに出掛けていた平井が、何やら遣り遂げた顔で帰って来た。曰く、「関東外界宿第八支部に加えて貰った」との事。どんなズルい手を使ったのか知らないが、その行動力には相変わらず頭が下がる。
 
「(何で平井さんは、あんな事を………)」
 
 当然、悠二は猛反対した。外界宿とやらについて詳しく知っていたわけではないが、紅世と関わる危険性は身を以て知っているからだ。
 しかし平井も当然、おとなしく聞き入れはしない。「自分の生き方は自分で決める」とキッパリ言い切って、それ以上の説得を封じてしまった。
 
「(いや、平井さんはまだいい……)」
 
 あの時……今ここにいる坂井悠二に、変わらぬ笑顔をくれた時から、彼女が“こちら”に踏み入って来る予感はあった。
 良……くは無いが、理解は出来る。問題は、平井と共にやって来たもう一人の方。
 
「あんた……いつまで御崎市に居るんだ」
 
 『零時迷子』を狙って悠二を襲撃し、何より平井を非日常に引き込んだ張本人である。
 
「『零時迷子』がある限りヘカテーは人を喰わないし、この街を荒らした“狩人”はとっくに討滅してる。何でまだ残ってるんだ」
 
 その張本人たるヴィルヘルミナが、平然と返す。
 
「何故も何も無いのであります。この街で新たに生まれた問題も、私個人の問題も、何一つ解決していない。こんな状況で、私が去る理由など皆無でありますな」
 
「至極当然」
 
「ぐぅ………」
 
 返された悠二は、苦虫を噛み潰したような顔で唸る。構わず続けるヴィルヘルミナの眼が、微かに険しく細まった。
 
「貴方が体内に『零時迷子』を所有している事についても、私が納得した憶えはないのであります」
 
「こっちだって、平井さんを巻き込んだのを許した憶えは無い」
 
 睨み合う二人の視線がぶつかり、バチバチと火花が爆ぜる。藪蛇の予感を感じて傍観を貫くヘカテー。
 不毛な睨み合いは数秒ほど続き、
 
「フン………」
 
 呆気なく終わった。
 小さく鼻を鳴らしたヴィルヘルミナは、そのまま数歩足を運んで土手の斜面に腰を下ろす。
 
「…………………」
 
 個人的には納得し難いものの、理屈としては悠二にも解っていた。
 『零時迷子』に刻まれた謎の自在式。その正体を知っているらしいヘカテー。いつか『零時迷子』を狙って現れるだろう仇敵。そしてヘカテーが元凶と呼ぶ“教授”。これだけの要素を残して、ヴィルヘルミナが去れる筈がない。
 さっきまでの問答も、どちらかと言えば単なる口喧嘩という意味合いが強い(無意味とも言う)。
 
「私の事はお構い無く。警戒せずとも、今は『零時迷子』に手出しするつもりはないのであります」
 
「静観」
 
 そしてヴィルヘルミナの方にも、今すぐ再びの凶行に出られない理由があった。
 
「……それを信用しろって言うのか」
 
「………貴方は、彼女の事を何も知らないのでありますな」
 
 当然のように訊き返す悠二に、ヴィルヘルミナはむしろ意外そうに目を見開く(悠二には判別できないレベルで)。
 
「紅世の徒最大級の集団の一つ、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』。“頂の座”は、その中でも絶大な尊崇を受ける巫女であります。下手な手出しは戦争さえも呼び、世界のバランスを大きく崩す」
 
 『戦争』という物騒な単語に、それだけの人物であるというヘカテーに、悠二と平井が振り返った。視線を集めたヘカテーは、何やら得意気に胸を張っている。
 
「だからこそ、見過ごせない。そんな貴女が関与するほどの自在式が『零時迷子』に施され、あの“探耽求究”に狙われているという事実が」
 
 直後に、ギクリと肩を揺らした。藪を突くまでもなく蛇が出たので、そそくさと後退りしてみる。
 
「(おじ様のバカ……)」
 
 そんなヘカテーにも、ヴィルヘルミナに手を出さない理由が………
 
「…………?」
 
 あるような、ないような、だった。
 
 『大命詩篇』は秘中の秘。それを狙う討滅の道具など、今すぐ始末して然るべき。だと言うのに、あの時トドメを刺さず、今も放置している。
 理由らしい理由と言えば、悠二が駄目だと言ったくらいのもの。その程度の理由が………何故か討ち手の始末より優先されているという矛盾に、ヘカテー自身は気付いていない。
 
「どうでもいいけど、トレーニングしないの? 零時回っちゃうよ」
 
 気付く前に、手を叩いて急かして来る平井に思考を止められた。
 因みに今夜の目的は、平井は見学、ヴィルヘルミナは監察である。
 時計を見て、悠二とヘカテーは慌てて準備を始めた。……と言っても、今日は派手に立ち回るような鍛練をする予定はないから、悠二が構えただけだ。
 
「…………ふぅ」
 
 目を閉じて己の存在に意識を向け、悠二は“あの時”の感覚を思い出す。
 迫る脅威、絶対の危機、消滅の恐怖と、それに反発するように求めた……“何か”。それを自身の中から掬い上げて、発現させる。
 
「…………はっ!」
 
 目を開き、胸の前に持ち上げた拳を開く。その上に、半透明に光る菱形の切片が結晶した。
 
「………これが?」
 
「うん、ヘカテーに習った憶えも無い自在法」
 
 ヴィルヘルミナの魔手から、間一髪で悠二を護った未知の現象。それを再現できた事に安堵しつつ、悠二は掌中の切片を眺める。……イマイチ、どんな効果を持っているのか判らない。
 しかし正面から覗き込むヘカテーには少し解ったらしく、コクリと首を頷かせていた。
 
「自在法には、『封絶』や『炎弾』のような、異能者ならば誰にでも使えるものと、私の『星(アステル)』のような、己が本質の象徴である固有のものがあります。これは恐らく、後者です」
 
「これが……僕の本質……」
 
 言われて、切片を指先で触れて見る。ヴィルヘルミナの一撃を止めた事から考えても、盾のような自在法なのだろうが………
 
「何か地味だね」
 
「うん………」
 
 思っていた事を平井にピンポイントで指摘されて、悠二は密かに凹んだ。
 『戒禁』を破るつもりで繰り出したヴィルヘルミナの一撃を止めた以上、それなりに強度はあるのだろうが、小さい。広げた掌よりはマシという程度のサイズである。こんな範囲では、炎弾一つ満足に防げない。
 ヘカテーの『星』やメリヒムの『虹天剣』に比べると、いかにも低レベルな自在法だった。
 
「………まあ、それでも無いよりはマシか」
 
 まだ名前も持たない自身の自在法に、悠二は落胆を隠せなかった。
 
 
 



[34371] 4-2・『デビュー』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/11/09 19:00
 
 非日常を内包した日常を送る御崎市坂井宅、その朝の一幕。
 
「悠ちゃーん、食べ終わった食器下げとくれー」
 
 いつものように真南川の河川敷に足を運び、悠二とヘカテーが派手に打ち合い、平井とヴィルヘルミナをも伴って家に戻り、ヘカテーと悠二が交代でシャワーを浴び、揃って朝食を摂る。

 
「悠ちゃんって言うな!」
 
 朝食が済み、悠二と平井が食器を片付け、
 
「奥様、今日のゴミはこれで全部でありますか」
 
「あらカルメルさん、いつもありがとうございます」
 
「いえ、帰るついでに持って行く程度の手間。礼を頂くほどの事ではないのであります」
 
 千草とヴィルヘルミナが燃えるゴミを纏めている頃、坂井家の居候たるヘカテーはと言えば………
 
「………………」
 
 ソファーに座り、朝の連続テレビ小説を鑑賞していた。やや古めかしい学園ドラマの風景が、画面の中で淡々と流れている。ヘカテーはそれを、食い入るように見つめていた。
 
「ヘカテーそろそろ行くよ。どうせ最後まで見れないんだから」
 
 乾拭きした食器を棚にしまい終えた悠二が小さな後ろ頭に声を掛けるも、ヘカテーは微動だにしない。
 画面の中では間抜け面した生徒が居眠りをしていて、教師の額に青筋が浮かんでいる。
 
「ヘカテーちゃん、遅刻しちゃうわよ?」
 
 困ったような千草の声に、ゆっくり動き出すヘカテー。しかし視線はテレビから離れない。
 教師の怒りが臨界点を突破した。しなる様なフォームから放たれた“それ”は一直線に白き軌跡を描き、吸い込まれる様に居眠り生徒のつむじに直撃。
 
「言う事きかない悪い子は~……こうだ!」
 
 背後の平井に脇から持ち上げられるヘカテーを余所に、教師は生徒達に畏敬の眼差しを向けられている。
 
「………これです」
 
 ヘカテーは、何かを見つけた気がした。
 
 
 
 
 それは、全く唐突な出来事だった。
 入学試験の延長のような内容の中間テストも終わり、次の本番……期末テストの範囲を学ぶ時期。一時限目と二時限目の間の五分休憩の事。
 
「……ちょっと、トイレに行って来ます」
 
 隣席のヘカテーのさり気ない一言に、
 
「うん」
 
 悠二もまた、何気なく応えた。応えてからたっぷり五秒後、
 
「………ん?」
 
 違和感に気付く。
 女子が男子にトイレ報告、という行動自体も間違っているのだが、悠二の違和感はそういった類のものとは違う。
 
「(………ヘカテーが、トイレ?)」
 
 即ち、“紅世の徒はトイレになど行かない”という事実と噛み合わない矛盾である。
 どういう事か訊ねようと顔を向けるも、既にヘカテーは教室に居ない。気になるものの、まさか女子トイレに様子を見に行くなど出来るわけもない。
 
「(平井さんは……ダメか)」
 
 今や悠二らの事情を知る心強い親友も、今は中村公子と雑誌を眺めている。あそこに割って入るのは少々勇気が必要だった。
 
「(………まぁ、いっか)」
 
 それで悠二はあっさりと諦めた。
 所詮は五分休憩。前に過保護だと言われた事も思い出しつつ、ちょっとしたお茶目くらいは見逃して然るべきだと思い直す。
 
 ―――この十分後、悠二は自分の判断が単なる油断に過ぎなかった事を痛感する。
 
 
 
 
 二時限目の授業開始時刻になって五分以上が経過した現在、教師が来る気配は無い。
 とはいえ、この程度の遅刻は大して珍しくもない事もあり、クラスの多くが雑談に興じる中で、吉田一美はせっせと数学の問題集を解いていた。
 
「じゃあ、ホテルで働いてるわけじゃないんだ?」
 
「うん、あそこは史ちゃんが受付やってるだけ。支部があるのは大戸の方だよ」
 
 三問目の例題に取り掛かろうかというところで、気になる声が楽しげな響きと共に耳に届く。顔を上げれば、斜め前方の席で坂井悠二と平井ゆかりが仲良く話している。
 
「(何か……ゆかりちゃん、変わった……?)」
 
 悠二が絡むと過敏にならざるを得ない吉田は、その様子に胸騒ぎの様なものを覚える。
 元々吉田が羨むほどに親しい間柄ではあったが、今の二人にはそれだけではない。今までどうしても埋まる事の無かった溝が埋まり、より距離が近くなっている。
 具体的な接し方の変化があったわけでもないのに、吉田にはそう思えて仕方なかった。
 
「(……あれ? 近衛さん居ない)」
 
 そう思うと自然に追ってしまう目線の先には何故か、たったいま気になった人物が居ない。さっきの授業までは普通に居たと言うのに。
 
「(そういえば、あの日も………)」
 
 少し前に彼女が休み、その次の日に悠二や平井も休んだ事を思い出して表情を暗くする吉田。胸を苛む根拠の無い不安は……
 
(ガラッ)
 
 次の瞬間、地平線の彼方まで吹き飛んだ。教室のドアを開けて入って来た、小さな先生の姿によって。
 
『…………………』
 
 あまりの衝撃に、或いは感動に打たれて、教室中が静まり返る。
 入って来たのは、幸薄そうな顔をした痩せぎすの中年ではなく、どう見ても近衛史菜。ただし、常のセーラー服姿ではない。円柱に四角い板を乗せたような学者帽子を被り、同色のマントに身を包んでいる。
 
「数学教師が体調を崩したので、代理を務める事になりました近衛史菜です。皆、私語は慎んで下さい」
 
 眼鏡を掛けてもいないヘカテーは、眼鏡を直すような仕草をする。静寂が弾けた……というより、平井が弾けた。
 
「うきゃー! さっすがヘカテーあたしが見込んだ………」
(ドキュンッ!)
 
 直後に、額にチョークを直撃されて卒倒する平井。
 
「私語は慎んで下さい」
 
 チョークが当たったにしては可笑しな衝突音が聞こえたが、誰もそこに突っ込まない。怖いから。
 
(ピコンピコン)
 
 続け様に、ヘカテーの帽子に飾られし紅玉が明滅を始める。その警鐘にヘカテーの瞳がわざとらしく煌めき、ある一点を射抜いた。
 机の上に数学の教科書を縦に置いて隠れる、田中栄太を。
 
「おしおきです」
 
「ほげぇえーー!?」
 
 しなる様なフォームから繰り出されたチョークが鮮やかな白の軌跡を描き、弾丸の如き威力を以て田中の額を撃ち抜く。
 パタンと倒れた教科書の後ろから、食べ掛けのコンビニおにぎりが姿を現した。
 
「早弁は見逃しません」
 
 無表情の上にご機嫌なオーラを纏って鼻を鳴らすヘカテーの姿に、誰からともなく視線が一人の少年に集まる。
 視線を受けた少年は、ただ静かに……両手を合わせて謝った。
 
 余談だが、本来この授業を行うはずだった数学教師は、後に保健室のベッドでノびている姿で発見される事となる。
 
 
 
 
 その日の放課後、二人の男女が学校からの帰路に着く。
 一人は、控え目ながらも可憐な少女・吉田一美。もう一人は、頭脳明晰にして公正明大なメガネマン・池速人。
 一緒に下校しているからと言って、別に二人が付き合っているわけではない。さっきは五人で帰っていて、方向が違う『いつもの三人』と別れた結果として二人になっただけに過ぎない。
 
「あ、平井さんと中学は違うんだ?」
 
 しかし別に、それで空気が重たくなるわけでもない。むしろ池は、吉田にとって一番話しやすい男子と言って良い友人だった。
 悠二と平井に引っ張られるように友人となって二ヶ月余り。それ以上に、他者との距離感を掴むのが上手い池の気配りが、引っ込み思案な吉田には有難かったというのが大きい。
 
 
「うん。幼馴染みって言うとよく『小さい頃からずっと一緒』みたいに思われるけど、小学校も中学校も違うの」
 
 それは同学年でも男子には敬語を使う吉田が、池にだけは女子と同じように話す事からも見て取れた。
 ………だからだろうか。
 
「同じなのは幼稚園だけ。………今は、坂井君の方がゆかりちゃんと仲良しだと思う」
 
 “こういう話”も、いつしか当たり前に話してしまうようになっていた。
 池はその寂しげな横顔を見て、いつまでも眺めるべきではないと、すぐ視線を前に戻す。
 
「(………中学までは考えた事もなかったな、こんなの)」
 
 眼鏡を押さえて表情を隠し、不自然にならない間で言葉を探す。
 誰を応援しても角が立つ、強いて言うなら悠二を応援するしかなさそうな状況だとは思う。の、だが……
 
「……坂井もさ、元々女子と積極的に話せるタイプじゃないんだよね」
 
 今、敢えて、池は吉田に味方する。自発的に誰かに肩入れするのはルール違反に思えるが、遠回しにせよ“頼られた以上は応える”。それが池が、スーパーヒーロー・メガネマンたる所以であった。
 
「だから、はっきり言ってあいつには期待しない方がいい。吉田さん自身が頑張るしかない。それは解ってる?」
 
 わざと厳しく、まずは心構えを問う。「今は頑張れていない」と言われたように感じた吉田の頭に、涙滴型の何かが落ちた。
 然る後に、復活する。
 
「わ、わ……解ってる! 自分で頑張らないとって、事くらい……!」
 
 彼女らしからぬ勇ましい(……と呼ぶには迫力に欠ける)声を上げて、胸の前で両の拳を握る吉田。甚だしく不安ではあるものの、やる気は十分と、池は心中で合格通知を出した。
 
「オーケー、なら今度の土曜………」
 
 池の眼鏡が妖しく光り、
 
「坂井とデートだ」
 
「…………………………………………え?」
 
 吉田の意識が、地平線の彼方まで飛び去った。
 
 
 



[34371] 4-3・『玻璃壇』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/11/20 13:25
 
『約束は三つ。もう人を喰わないで』
 
 左手を飛ばされ、下半身も落とされた。もう立ち上がる事すら出来ない。
 ―――完全なる、敗北。
 
『もう世を騒がす事はしないで』
 
 ただ、見上げる。自分を斬った女を。自分が愛した、紅蓮に燃える討ち手の女を。
 
『私の後に現れる“炎髪灼眼の討ち手”を、“私の愛の為に”可能な限り鍛えて。約束破ったら酷いわよ?』
 
 勝った方が負けた方を好きに出来る。
 自分から言い出した約束だった。その……完全に自分の為だけに交わした約束を、逆に彼女に強いられた。
 
『嫌よ、待たない。さよならなの、“虹の翼”メリヒム………』
 
 どんな言葉も届かなかった。いくら叫んでも止められなかった。
 去り往く背中を、散り往く紅蓮を、ただ見送る事しか出来なかった。
 
 遺されたものは、三つの誓い。酷い女と最期に交わした、意地悪な約束だけだった。
 
 
 
 
 湿気の強い六月の黄昏の中を、一人の男が歩いている。
 季節に合わない紺色のロングコートの背中に眩しい銀髪を靡かせる長身の男。その容貌もそうだが、それ以上に彼の持つ壮絶な違和感が日常的な風景を異質なものへと変えていた。
 
「(……また、海か)」
 
 男は人間ではない……どころか、この世のモノですらなかった。
 歩いて行けない隣の住人……紅世の徒。名を、“虹の翼”メリヒム。
 かつて紅世の徒最大級の集団と謳われた『とむらいの鐘』という組織の最高幹部・『九劾天秤』の両翼に数えられた程の強大極まる紅世の王。
 しかし、彼は人を喰らわない。自儘な放埒で世を荒らす事もしない。全ては、かつて交わした約束を護る為。その為だけに数百年生き永らえ、力尽きたのだ。今さらそれを違える事など有り得ない。
 
「(狭い島国だ)」
 
 彼は数百年の艱難の末、数年前に誓いを果たして力尽きた。己が存在を最期の試練としてぶつけ、そして敗れた。一片の悔恨すら残らぬ至上の結末を迎えた筈の彼は……しかし今、生きている。
 水盤型の宝具『カイナ』。沈没した宮殿で海流に攫われた彼は、その上に倒れたのだ。
 この宝具は、水盤の上にある存在の異能を使わせない代わりに、顕現の力を消耗させない。その効力によって絶命を免れた彼は、ほんの一月余り前に予期せぬ復活を遂げたのだ。
 
「(これじゃ、俺の噂が広がる範囲も限られるか。そろそろ海を越える事も考える必要があるな)」
 
 そうして復活した彼が今こうしているのもやはり、約束の為だった。
 『可能な限り鍛える事』が三つ目の誓い。完遂した後に生き永らえたのは今一つ締まらないが、可能となった以上は再び鍛える。その為に彼は、自分が鍛え上げた一人の少女を捜していた。
 
「(船は度々見掛けるが、金も無い。まず金を稼ぐか、それとも忍び込むか。……くそ、俺が『天道宮』に居る間に、こうも下界が様変わりしてるとは)」
 
 捜していると言っても、少女の情報を集めているわけではない。この世の真実を知らない人間は元より、紅世の徒も彼女の情報を持っている筈が無いからだ。
 彼女に遭遇した徒は残らず討滅されているか、紅世に帰っているかしかない。少女を鍛えた親の一人として、メリヒムは当然そうだと確信している。
 フレイムヘイズならば少女の事を知っている者も居るだろうが、当のメリヒムが徒なのだからそっちから情報を得る事は不可能に近い。……ので、メリヒムは見付けるのではなく、見つけて貰う方針を採った。
 具体的には、フレイムヘイズと遭遇する為に、彼らと同じくこの世の歪みを探し歩き、封絶と見れば迷わず飛び込む。そして姿と存在感を見せつけてから逃走する。
 こうしてメリヒムを見つけたフレイムヘイズが、別のフレイムヘイズに情報を流して、いつしか少女の耳にも入る、という算段だった。
 かつては白骨の姿で顕現の規模を抑えていた彼が今、無駄に違和感を撒き散らしているのも、フレイムヘイズに発見され易くする為の措置である。
 
「(どちらにしろ、肝心の俺が動き回っていては意味が無い。もう十分釣り餌は撒いた。一度ミサキに戻るべきか)」
 
 つらつらと考える傍ら、ふと思う。
 
「(………ミサキは、どこだ?)」
 
 数百年『天道宮』から出なかったメリヒムにとって、今の日本は正しく異界。そんな世界を適当に歩き回った現在、元の場所への帰り道など皆目見当も着かない。
 しかしメリヒムも、ただ黙々と歩き回っていたわけではない。金の瞳が鋭く光る。
 
「(“あれ”を使う時が来たか)」
 
 『天道宮』で目覚めた彼は、彼を復活させた二人の強い勧めによって一度、御崎市を訪問していた。そこに向かう手段として使ったのが、“高速で動く鉄の塊”である。
 
「(あれは予め決められた道筋しか進まんらしい。だが裏を返せば、決まった道筋ならば知らぬ場所へも行く事が出来る)」
 
 静観な表情の裏で時代錯誤な確信を得るメリヒムは、ならば金を稼がねばと意気込む事にした。強盗はやはり『世を騒がす事』になるだろうから控える。
 不意に、懐かしいというほどもない甘い香りが、鼻腔を擽った。
 
「(………そう言えば、好きだったな)」
 
 良くご褒美として与えられたそれに噛り付く少女の、満面の笑顔が脳裏を埋める。今でもやはり、大好きなのだろうか。頻繁に買いに行ったりしているのだろうか。
 
「(…………よし)」
 
 僅かでも確率が上がるなら、試さぬ理由は無い。決して、再会した少女に振る舞って喜ばせたいとかそういうアレではない。断じて。
 “勝手に開く扉”を抜けて、メリヒムは匂いの許たる店に入り。芳ばしい香りに満たされた店内で、一人の店員を上から見下ろして………
 
「雇え」
 
 端的に自分の要求を告げた。
 
 
 
 
 平井ゆかりの日々は目まぐるしい。
 帰宅部の女子高生という表の顔とは裏腹に、彼女は紅世に関わる人間の組織・外界宿(アウトロー)の末端構成員として励んでいた。
 より正確には、御崎市に滞在するフレイムヘイズ『万条の仕手』とのパイプ役を買って出ていた。
 何故『この世の真実に触れた』という最低ラインを満たしただけの平井が外界宿と関われているのか。それは、このフレイムヘイズの存在が殆どだった。
 ヴィルヘルミナ・カルメルは現在、御崎市に居る……のみならず、平井のマンションで厄介になっていたりする。もちろん、今の彼女が御崎市を離れる筈がないと確信した平井の提案である。
 根無し草のヴィルヘルミナが断る理由もなく、平井からすれば外界宿と関わる為に不可欠なキーパーソン。所謂ギブアンドテイクだ。
 もちろん悠二は猛反対した……と言うより今もしているが、平井は断固として譲らない。そして、やはりと言うべきか、単なる雑用で満足するほど殊勝でもなかった。
 ……と、いうわけで―――
 
「わぉ……!?」
 
 週末に届きそうで届かない木曜日の放課後、一同は薄暗くも広い一室に集結していた。
 一同と言うからには一人ではない。平井ゆかりは勿論として、坂井悠二、“頂の座”ヘカテー、そしてヴィルヘルミナ・カルメルまでが揃っている。
 
「これ全部、宝具とか言わないよな……?」
 
 ここは旧依田デパート上層部。かつて御崎市の存在を乱獲した、“狩人”フリアグネの拠点だった場所である。
 ヘカテー達に討滅された“狩人”が熱心な宝具のコレクターでもあると知った平井は、彼の根城たるこの場所に遺された宝具があるのではないかと一考し、探索に乗り出す事を決めたのだった。
 そんな危険な場所に一人で行かせられるわけもなく、悠二とヘカテーも自動的に同行決定といった運びだ。因みに、ヴィルヘルミナもヘカテーにこの場を預ける気は全く無い。
 蓋を開けて見れば、広い室内を満たすのは種々雑多なオモチャの山だった。この光景見るのは、悠二だけが二回目である。
 
「何か、ボンヤリと光っているようでありますな」
 
「心霊現象」
 
 そんな薄暗い一室を、下からの青白い光が照らしていた。ここはとっくにデパートとしての機能を失った廃屋部であり、無駄に電気を通わせているとも思えない。
 
「……………!」
 
 瞬間、何を思ったかヘカテーが跳んだ。オモチャの山を飛び越えて、ミニチュアの箱庭らしきビルの上へと着地する。
 
「たわっ!?」
「それいけシルバー!」
 
 すぐさま、悠二の背中に乗った平井とヴィルヘルミナが続く。
 辿り着き、見下ろした先に、光の正体があった。
 
「トイレの標識?」
 
「って言うかコレ、御崎市?」
 
 御崎市を模した箱庭の中で蠢く、人型の光だった。
 何の為の宝具なのやら解らず首を傾げる悠二らを余所に、ヴィルヘルミナは腕を組んで顎先を撫でる。
 
「これは、『玻璃壇』でありますな」
 
「はりだん?」
 
 聞き慣れない言葉に、悠二の背から降りてミニチュアのビルを跳ねて詰め寄る平井。訊き返した言葉にヴィルヘルミナが応える……前に、
 
「回収します」
 
 ピッと、ヘカテーが人差し指を立てた。と同時に、箱庭が淡い光を発しながら形を失いだす。
 
「うわぁああ!?」
 
 足場を失った悠二が、雪崩れ込んで来たオモチャの山に攫われた。平井はと言えば、ヴィルヘルミナに掴まってフワフワと浮いている。
 数秒にも満たない発光を経て、箱庭は簡素な銅鏡となってヘカテーの両手の中にあった。
 
「“頂の座”、それは……」
 
「うちのです」
 
 抗議のような声を出すヴィルヘルミナに一言で返して、虚空から生み出した白帽子の中にいそいそと銅鏡をしまい込むヘカテー。
 その姿は、見る者に有無を言わさぬ大きな喜びを感じ取らせた。
 
「僕……飛べないんだぞ……」
 
 オモチャの山から、震える右手が生えていた。
 
 
 



[34371] 4-4・『リシャッフル』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/11/24 13:34
 
 ―――“祭礼の蛇”。
 
 紅世に於いて世界法則を体現する一柱であり、新しき物を流れを創り出す『創造神』。
 未踏を目指し遼遠を越える事をこそ己が権能に持つ彼は、彼であるからこそ“それ”を見つけた。
 歩いて行けない、しかし確かな『隣』に、異なる法則に因って進み続ける世界が……『この世』が在るという事を。
 そして当然、彼はそこを目指し、辿り着いた。自身だけではない。神たるモノの権能によって新たな理を創造し、全ての同胞に両界の狭間を越える術を与えたのだ。
 狭間を渡った紅世の徒は、辿り着いた新天地にて欲望の赴くままに放埒の限りを尽くし、それによって歪んだ世界を護るべくフレイムヘイズが生まれた。
 両界の危機と同胞同士の殺し合い。………だが、神の蛇行はそれだけに止まらなかった。彼はこの世に、徒たちの都を創ろうと思い到ったのである。
 多くの人間を薪に変え、この世の在るべき姿を歪ませんとする企みを、フレイムヘイズが看過するわけもない。数多の討ち手が命を賭して神に挑み、打ち破った。
 天裂き地呑むとまで謳われた化け物は、神さえ無力な世界の狭間へと永久に放逐されたのだ。
 ―――この世に蔓延る徒の都……『大縛鎖』を創造すること叶わず。
 
 
 
 
「その『大縛鎖』を管理するため創られたと言われるのが、先程の『玻璃壇』。……もっとも、私にとっても御伽話の類の伝承でありますが」
 
 長椅子に座って長々と語り終えたヴィルヘルミナは、舌を潤すべく持参したお茶を一飲みする。
 寂れた廃屋でお茶を飲むメイド、と言うのは何とも言えずシュールである。頭上で光る水色の光球がオバケ屋敷のようで微妙な雰囲気を更に助長させていた。
 
「今の話が、ヘカテーにどう関係して来るんだ?」
 
 話題の『玻璃壇』を「うちの」と言って回収した少女を見ながら、悠二は問う。当のヘカテーはと言えば、一人黙々とオモチャの山を探り回っていた。
 
「“頂の座”は、いま話した創造神の眷属でありますからな」
 
 しれっと、とんでもない言葉が口にされた。
 
「かは……っ」
 
「平井さん!?」
 
 思わず、血を吐いてよろめく平井。その肩を掴んで支える悠二。リアクションを食われている気がした。
 
「つ、つまり……ヘカテーはリアルエンジェルですか!?」
 
「……神の使いを無差別に天使と呼ぶなら、そう言っても間違いではないのであります」
 
 応えが返り切るのも待たず、平井はヘカテーに飛び付いている。戯れつかれている水色の少女を見ながら、悠二は少し前の……なのに遠く思える過去を思い出していた。
 
『祈りましょう………神に、です……』
 
 痛みすら忘れる存在の消滅、背中を合わせて手を紡いだ穏やかな夜を。
 
「(あれ、冗談じゃなかったんだ……)」
 
 異界の住人から始まり、次いで徒最大級の組織の幹部、挙げ句の果てには神の眷属と来た。驚くと言うよりも、ピンと来ないというのが悠二の正直な感想である。
 
「じゃあ、そろそろ始めようか」
 
 そもそも今の話を聞いた限りでは、神と言っても全知全能ではなく、まして人の運命を弄んでいるわけでもないらしい。だったら、そんな肩書きに何を思う必要もない。不思議設定にはもう慣れた。
 悠二にとってのヘカテーとは、強くて、無垢で、可愛らしい、今ここにいる少女なのだから。
 
 
 
 
「って言うか、宝具ってどうやって見分けるの?」
 
 宝探しを再開して程なく、実に今更な疑問を口にする平井。手に取った、どう見ても宝具には見えないマニアックなフィギュアを放り捨て、お手上げと言わんばかりに大の字で引っ繰り返る。
 
「……とりあえず、存在の力を込めてみましょう。ゆかりには無理ですから、それっぽいのを分けておいて下さい」
 
 大して有り難くもないアドバイスを返してくれたヘカテーの周りには、ファンシーなぬいぐるみばかりが集まっていた。宝具を探して無いだろう事は一目で判る。
 
「……力を込めたら爆発、とか無いだろうな」
 
「あり得る話でありますな」
 
「厳重注意」
 
 マヨネーズのマスコットのような人形を過去のトラウマからおっかなびっくり手にする悠二が、ヴィルヘルミナの意地悪な一言を受けてそれを取り落とす。
 
「これ、一日二日で終わる量じゃないね……」
 
 自分で言い出した事ながら、予想を超えて大変そうな作業に、平井は大きく溜め息を吐いた。
 『玻璃壇』が見つかった時点で満足すべきなのかも知れないが、それが逆に『他の宝具もあるかも』という可能性を示し、安易なギブアップを許してくれない。
 
「(宝具は人と徒の願いが重なる時に生まれる。当然、人が徒を知らないと成立しないから、殆どの宝具は封絶普及以前に造られた物。なら、やっぱりデザインが古いやつかな……)」
 
 最近になって学んだ、悠二も知らないような知識から判断し、平井は無造作にオモチャの山から黒い筒のような物を引っ込抜く。
 
「(望遠鏡……いや、万華鏡かな?)」
 
 試しに中を覗いて見ても、映る景色には特に変化が無い。遠くが見えるわけでも、綺麗な華が見えるわけでも無い。オモチャとすら呼べない代物。
 ふと、思う。この部屋を見ただけでも“狩人”が相当な変わり者だとは判るが、いくら何でもこんな無意味な物を取っておくだろうか。
 
「(もしかして、もしかするかも……!)」
 
 とにかく誰かに力を込めて貰おう、そう思った時………
 
「ゆかり」
 
 相変わらず抑揚の無い、しかし何処か弾んだ声が平井を呼んだ。
 筒を覗いた状態のまま首を向けると、ヘビのぬいぐるみを自慢気に見せて来るヘカテーの姿。
 
「おうおう! 良かった―――」
 
 半ば習慣となりつつある癒しに返す、惜しみ無い賛辞。
 
「ねー、ヘカテー……………………え?」
 
 の声が、途中で変わる。どころか、視界までもが一変していた。
 手に持っているのは、さっきまでヘカテーが持っていたヘビのぬいぐるみ。視線の先には、不思議そうに手にした筒を見る“触角頭の女子高生”。
 
「え……あれ……?」
 
 事態が飲み込めず、ペタペタと自分の顔を触る。困惑の声すら、自分のものではない。
 視線を落とす。最近夏服に変わった、御崎高校の制服。だが少し、小さい気がする。サイズが合ってないという意味ではなく、身体そのものが小さい気がする。そして良く良く見れば、スカートの下が違う。
 平井が履いていたのは紺のソックスだった筈なのに、今は黒のストッキングである。……胸に、触る。やっぱり小さい。
 
「坂井くんや」
 
 もはや確信に近い気持ちを抱きつつ、少し離れた少年に声を掛ける。呼ばれた悠二は、“可笑しな呼ばれ方”に眉を上げた。
 
「あたしが誰に見えるかね?」
 
「? 誰って……ヘカテーだろ?」
 
「やっぱしかぁ〜〜!!」
 
 頭を抱えて絶叫する水色の少女。あまりにもヘカテーらしからぬ態度に、悠二は目を白黒させる。
 そう……何が起きたか解らないが、今の平井は、ヘカテーの身体に入ってしまっているらしかった。
 
「紛らわしいから先に言っとくけど、今はあたしが平井ゆかり! ほら、いつもみたく『ゆかりちゃん』って呼んでみそ!」
 
「何がいつもみたくだ! そんな呼び方した……事……」
 
 打てば響くようにツッコミを入れる悠二だが、その言葉は尻窄みに擦れて途切れた。あまりにも“平井とのやり取り”みたいで、言葉を失ったのだ。
 そもそも、ヘカテーにこんな演技が出来るともやるとも思えない。
 
「はあっ!? 本当に平井さん!? 何で、どうして……!?」
 
「わっかんないよ! 何か変な筒でヘカテー覗いたらヘカテーになってたんだもん!」
 
 気付くと同時に、ひたすら取り乱す悠二。それが伝染するように騒ぐ平井。
 そんな二人の頭上から、聞き慣れた声が聞き慣れない響きで降って来る。
 
「見た側と見られた側の意思総体を入れ換える宝具、のようです」
 
 オモチャの山から滑り下りて来るのは、一人の少女。
 焦げ茶色の髪を両端で縛った、紫掛かった瞳の女子高生。姿形こそ平井そのもの……だが、
 
「えっと……ヘカテー?」
 
 悠二の確認に、無表情な平井の顔が首肯する。真逆なタイプの二人だからか、ちょっとした仕草にも凄まじい違和感があった。
 
「………ゆかり、何ともありませんか?」
 
 不意に、無表情の中に隠し得ない危惧が覗く。
 
「え? あっ、うん。大丈夫大丈夫!」
 
「…………なら、いいんです」
 
 その事に逆に驚いた平井は、これ見よがしにガッツポーズなど作って見せた。
 悠二は少し、腑に落ちない。身体が入れ替わったのはお互い様なのだから、異変があればヘカテー自身も気付きそうなものだと思えたのだ。
 が、
 
「いや、良くないだろ」
 
 どう考えても、こっちの方が先に突っ込むべき部分だった。身体が入れ替わったで良いわけがない。
 しかし、そんな心配はあっさりと杞憂に終わる。
 
「……これは『リシャッフル』でありますな」
 
 黒い筒を指先で弄ぶメイドの発言によって。
 
「効果は先ほど“頂の座”が言った通り。心配しなくとも、再び両者が宝具を使えば戻れる筈であります」
 
「交換容易」
 
 歴戦のフレイムヘイズのお墨付きに、三人は溜め息を吐いて胸を撫で下ろす。
 
「………むっ……」
 
 ヘカテーの掌に、常にはない柔らかい感触が当たった。
 
「…………………」
 
 それら何とも愉快な光景を、ヴィルヘルミナは鉄面皮の裏に一つの確信を隠して見ていた。
 
「(………『リシャッフル』が、発動した)」
 
 身体が入れ替わるだけの、何のリスクも無い宝具。平井たちにとっては面白可笑しいイベントの一つに過ぎないだろうが、ヴィルヘルミナにとってこの現象は一つの事実の証明でもあった。
 宝具『リシャッフル』は………“互いの心に壁があると発動しない”。即ち、それが発動されたヘカテーと平井の間には、相手を拒絶する感情が全く無いという事になる。
 
「(単なる偽りの生活、というわけではないようでありますな)」
 
「(事実確認)」
 
 これは、演技や虚構では決して起こり得ない現象。ヘカテーがここにいる理由が、単に『零時迷子』を軸とした企みの一環ではないと示す確たる証拠だった。
 
「(人と徒の、絆………)」
 
 目の前の仲睦まじい姿が、もう戻らない自分と友の姿と重なり、ヴィルヘルミナは密かに顔を俯かせた。
 
 
 



[34371] 4-5・『炎髪灼眼の討ち手』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/11/24 16:52
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 カチコチとぎこちない動きで、右手と右足、左手と左足を同時に出しながら歩く吉田一美。
 その隣を、緊張が伝染したように視線を泳がせる悠二が歩く。
 
 事は、面白いほど順調に進んだ。
 午前中で授業の終わる土曜日の早朝、誰も登校を始めないような時間帯から、メガネマンのミッションはスタートした。
 まず、誰にも見られないように平井ゆかりのマンションの郵便受けに映画のチケットを二枚入れておく。
 坂井家の郵便受けに入れたら坂井悠二と近衛史菜が二人で出掛けてしまう可能性も高かったが、平井と悠二が近衛を除け者にして映画を観に行く事はまずない、という確信があった。
 その狙いは見事に当たり、放課後になるや否や、平井は近衛の手を引いて疾風の様に校外へと駆け出して行った。
 ミッション……と言ったが、メガネマン池がしたのは只それだけ。
 いつもの三人を見事に分断させた手腕は見事だが、悠二を誘ったのも、誘う場所を決めたのも、全て吉田一美自身である。
 『初デートの内容を部外者に決められるなんてつまらないでしょ』とは、眼鏡を光らせた池の言。緊張で死にかけながらも悠二を誘う吉田にフォローを入れなかったのも池だ。
 
「(もっと色々お喋りしないと……! せっかくのデ……二人きりなんだし、いっぱい話し……なに話せば……)」
 
 勇気を振り絞ってデートにこぎつけた吉田だが、全く以てギリギリの精神状態である。今にも倒れそうなほど緊張して、右に左にフラフラと揺れている。
 
「(これって、デート……だよな……)」
 
 隣を歩く悠二も、吉田の状態に気付く余裕が無い。
 女の子……それも、自分に好意を寄せてくれている女の子との、人生初めてのデートである。何を話せばいいのか解らないのは彼も同じだった。
 
「(……って言うか、良いのかな……)」
 
 一つの違い。それは罪悪感。
 吉田の熱意に圧されて誘いに乗ってしまった悠二だが、その胸中には微かな、それでいて確かな翳りがある。
 自分は人間ではない。今は良くても、五年、十年……不老たる身が人間のフリをして生きるのにも限界がある。必ず別れなければならない相手に半端な気持ちで応えるのは、あまりに不誠実なのではないだろうか。………そんな、罪の意識。
 
「(いや、そもそもこんな打算で考えてる事自体、吉田さんに失礼だ)」
 
 そんな気持ちに、悠二は自分で失笑する。『罪の意識』なんて他人を中心にした考え方をしている時点で、既に論点がズレている。
 問題なのは、いつか訪れる吉田との別れを、自分自身の痛みとして感じる事が出来ない事の方だ。
 もちろん、友人としての寂寥は確かにある。だが、それが恋愛感情から来る痛みだとは思えなかった。
 少なくとも、今はまだ、坂井悠二は吉田一美を好きなわけではない………の、だろう。
 
「(……確かめよう、自分の気持ちを)」
 
 恐らく吉田は、そんな事は百も承知で好意を示してくれている。『自分は意中の相手に好かれている』などと確信している者などどれほど居るものか。
 それでも吉田は、勇気を出してくれている。気持ちを伝える為、気持ちを向けて貰う為、頑張ってくれている。
 
「(誰かを好きになるって気持ちが、どんなものか解らないけど………)」
 
 そんな想いを曖昧な不安で拒む事など、今の悠二には出来なかった。
 
 
 
 
 御崎アトリウムアーチ。
 御崎市駅の裏手に聳える美術館である。「デートに誘え」と言われた吉田が選んだ場所がここだった(父親から偶々チケットを譲り受けていた、ともいう)。
 
「こういう所あんまり来た事ないけど……綺麗だな」
 
「は、はいっ!」
 
 到着する頃には吉田も“それなりの”落ち着きを取り戻し、悠二も普通に目を合わせられるようになっていた。一度平静になってみれば、吉田の狼狽ぶりは微笑ましくて、逆にこちらの緊張を解してくれる。
 
「(うわぁ……若い人わたし達しか居ない。やっぱり美術館なんてダメだったかな、坂井くん退屈してないかな)」
 
 まあ、そんな余裕が生まれているのは悠二だけで、吉田は絶えず思考の渦に呑まれているわけだが。
 
「……何これ、絶対僕でも描ける」
 
 何の絵だかも解らない抽象画を見て不思議そうに唸る悠二にも、
 
「きっと、解る人には解る芸術が込められているんだと思います」
 
 みたいな事を言いたいのに、
 
「は、はい!」
 
 実際に口に出来たのは裏返る寸前の合いの手だけ。自己嫌悪のあまり、ハニワの入ったケースの横で体操座りで塞ぎ込む吉田だった。
 
「……えーと、吉田さん?」
 
「はいっ!」
 
 そして、弾けるように背筋を伸ばす。本人には露ほどの自覚も無いのだろうが、中々に面白い。
 
「もう少し回ってから、喫茶店にでも入ろうか。さっき案内にあったし」
 
「はい!」
 
 もはや「はい」しか言えない生物と化している。思わず苦笑してしまった悠二を見て、また俯いて真っ赤になった。
 
「(可愛いなぁ)」
 
 と、悠二は素直に思う。
 思って、しかし、その先に行けない。好きだと思える、決定的なものがない。
 
「(“身体を電気が駆け抜けた”とか、解りやすい合図でもあればいいのに)」
 
 などと、調子の良い願望を抱く脳裏に………
 
「―――――――」
 
 刹那、何かが過った………気がした。形の無い、なのに綺麗で、穏やかな欠片が。
 
「………坂井君?」
 
 どんな表情をしていたのか、自分では良く解らない。ただ気付けば、緊張を忘れるほどに心配そうな吉田の顔が、すぐ目の前にあった。
 
「っ……なん、何でもない!」
 
「!!? そ、そそ、それは良かったです! とても!」
 
 間近に迫った可憐な顔に当惑して跳び退く悠二。その反応を見て、今更ながらに自分の無意識の接近に気付く吉田。二人揃って微妙な距離を空けて赤くなる初々しい様子に、少し離れた場所で人の良さそうな老婆が微笑んでいた。
 
「と、とにかく行こう!」
 
 好奇の視線に居たたまれなくなった悠二は、吉田を促して歩き出す。
 その………一歩を踏み出した時だった。
 
「っ……」
 
 踏み出した足が、止まる。次の足が、出ない。
 動きを止めて意識を集中せざるを得ない感覚が、そうさせていた。
 
「…………………」
 
 それは、違和感。
 外れた存在が撒き散らす、この世ならざるモノの気配。
 それが二つ。物凄いスピードで近付いて来る。
 
「………ヘカテーじゃない」
 
 御崎市に滞在する異能者は、悠二を含めて三人居る。だが、映画を見に行ったヘカテーがヴィルヘルミナと一緒に行動しているとは思えない。
 何より、これは………
 
「(電車に、乗ってるのか………)」
 
 とにかく、悠長に構えている場合ではない。思考の間も気配は近付いて来ている。既に、あちらも悠二の気配を掴んだとみて間違いなかった。
 
「吉田さん、ここから離れ………」
「きゃ!?」 
 
 反射的に吉田の手を掴み、駆け出そうとして……
 
「(って、僕は馬鹿か!)」
 
 自分と一緒に居る方が遥かに危険だと、すぐ気付いて放す。頭から湯気を出して目を回す少女に、どうしようもない罪悪感を覚えながら………
 
「ごめん吉田さん! 埋め合わせは絶対するから!」
 
 頭を下げて謝り、返事も待たずに走り出した。
 
「………………………………………え?」
 
 駆け出した背中はあっという間に見えなくなり、手を引っ張られたままの奇妙なポーズの吉田一人が残される。
 先程の老婆が、とても気の毒そうな目で少女を見ていた。
 
「た、たた、たまたまだよ……次こそ、次こそきっと……」
 
 茫然自失となった吉田は、独り淋しく、再びハニワの隣で丸くなった。
 
 
 
 
「(とにかく、『万条の仕手』に知らせないと……!)」
 
 アトリウムアーチは、駅のすぐ裏手にある。到着した気配から悠二が逃げ切るには、まるで時間が足りなかった。
 それでも悠二は、一目散に平井のマンションを目指して走っている。………いや、建物の屋根から屋根に跳び移っている。
 もしこの気配の主がフレイムヘイズなら、自分やヘカテーが出ても話をややこしくする事にしかならない。頼るのはかなり癪だが、ここは同業者に任せた方が良いという判断だった(無論、人が喰われる可能性もあるので、封絶が張られれば急行するつもりで)。
 ……が、前述の通り、逃げ切るだけの余裕は最初から無い。
 
「(追って来てる……!)」
 
 さらに距離を詰めて来る気配を背後に感じつつ、「徒ならわざわざ気配を追ったりしないよな」などと悠二は思う。
 もちろん、思う間にも移動は続けている。しかし、やはり、逃げ切れない。
 
「う………ッ!」
 
 炎で彩られた陽炎の世界が、逃げる悠二をも内に取り込んで一帯の因果を隔離した。同時に膨れ上がる、圧倒的な存在感。
 
「く……!?」
 
 怖気に呼ばれて、悠二は咄嗟に振り返る。その視線の先……豆粒ほどの黒い影が、足下からの爆発で一瞬にして大きくなった。
 
「!?」
 
 反射だけで、悠二は横っ跳びに逃れる。その髪の先が、鋭い白刃を受けてハラリと落ちる。
 
「(こいつッ……もう戦うつもりでいるのか!?)」
 
 悠二は後ろに跳びながら、ポケットから素早く一枚のタロットカードを取り出した。指先に挟まれたカードは刹那の発光を経て、大剣型宝具『吸血鬼(ブルートザオガー)』へと変ずる。
 そうして警戒を強める間にも、敵を見た。
 
「っ……………」
 
 その身に纏うは夜の如き黒衣。その手に握るは非情なる大太刀。紅蓮に靡くは燃える炎髪。双眸に光るは、鮮やかに過ぎる灼眼。
 あまりにも鮮烈な姿に、悠二はこんな時だと言うのに、一瞬目を奪われた。
 かつての言葉と今見る姿が結び付き、唇から零れ落ちる。
 
「炎髪灼眼の、討ち手………」
 
 小柄な少女が……紅蓮の討ち手が、破壊の意志を以て刃を握る。
 
 
 



[34371] 4-6・『歩みは全て激突へ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/11/29 16:29
 
 西に沈み往く夕陽を眺めながら、平井ゆかりは青息吐息を溢していた。
 場所は自動販売機横のベンチ。両手に持っているのは、二人分のポップコーンである。
 さっきまで一緒に映画の感想を話していた少女は今、居ない。いきなり無表情を強張らせたかと思えば、文字通りに飛んで行ってしまった。
 
「……………ふぅ」
 
 ヘカテーは説明すらせずに行ってしまったが、平井にも大まかな察しは着いていた。
 彼女の胸には今、以前には無かったアクセサリーが提げられている。縦と横の長さが等しい正十字のロザリオ。
 名を、『ヒラルダ』。ヴィルヘルミナの友人たる“彩飄”フィレスの遺品である。
 人間に自在法を使わせるこの宝具を、平井は外界宿(アウトロー)に関わると話した際に、ヴィルヘルミナから譲り受けていた。
 いま彼女が異常事態を察知できているのも、この宝具が持つ能力の余禄だった。
 
「(坂井君、だよね……)」
 
 今ごろ悠二が、人ならざる異能者と戦っているだろう事を解って、しかし平井はヘカテーのように動けない。そうするだけの力が………無い。足手纏いにしかならないと解ってしまう理性が、彼女をここに留まらせていた。
 
「(でもいつか、きっと………)」
 
 己の無力に対する憤りすらも進む先への原動力に変えて、今は二人に心の中でエールを贈る。
 そんな平井に………
 
「………平井さん?」
 
 眼鏡の反射光が、照らされた。
 
 
 
 
「……これ、ミステスね」
 
 炎髪を靡かせる少女が、煌めく灼眼で悠二を睨む。しかし呟かれた言葉は、悠二に向けられたものではない。
 
「囮という事もある。周囲への警戒を怠るな」
 
「解ってる」
 
 胸元のペンダントが遠雷のような声で応え、少女も短く首肯した。大太刀を握る手から、ギリッと力を入れる音がする。
 
「ちょっと待て! あんたフレイム―――」
 
 明確な敵意から無駄と知りつつ、それでも制止の声を上げる悠二。だが、その言葉は神速で繰り出された斬撃によって止められる。
 
「痛……ッ」
 
 横一文字に振り抜かれた切っ先が、身を退いた悠二の二の腕を浅く切る。
 堪らず跳び下がるも、間に合わない。悠二の後退に合わせて踏み込んだ少女は、既に二撃目を振り下ろしている。
 
「くっ……!!」
 
 頭上からの斬撃を、悠二は手にした大剣で危なく弾いた。弾かれた切っ先は頭上で流れるように翻り、斜め下から逆袈裟に跳ね上がる。
 悠二はそれを、間一髪のタイミングで受け止めた。
 
「(駄目だ―――)」
 
 刹那の逡巡。
 ここから繋がる次の斬撃は止められないと悟った悠二は、握る大剣に存在の力を流し込んだ。
 その刀身に、血色の波紋が揺れる。
 
「っ………」
 
 瞬間、既に次の動作に移ろうとしていた少女の首筋から血が噴き出した。
 
「だあっ!!」
 
 不可解な痛みに動きを止めた少女に向かって、悠二は渾身の斬撃を叩き込む。
 尋常ならざる膂力に裏打ちされた凄まじい一撃を、少女は大太刀で受け……飛ばされた。
 車に撥ねられたような勢いでコンビニのガラスを突き破る少女を見てから、漸く滝のような冷や汗が湧いて来る。
 
「(危なかった)」
 
 少女の受けた傷は、悠二の魔剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』の力。刃を流れる存在の力で触れたモノを斬り裂く能力。悠二にとっては、切り札と言って良い宝具だった。
 巧く鍔迫り合いに持ち込めれば一撃で勝負を決する事も出来る宝具を……あんな形で使わされた。使わなければ、斬られていた。
 
「話くらい聞けよ!」
 
 より一層の危機感が悠二に叫びを上げさせる。しかしこれは、反撃の好機を一つ潰すだけの結果に終わった。
 何故なら少女は悠二の言葉に全く反応せず、砕けたガラス窓から疾風のように襲い掛かって来たのだから。
 
「ああもうっ!」
 
 悠二の左手に銀の炎が燃え上がる。それは灼熱の火球となって一直線に放たれ………少女に当たる寸前で両断された。
 
「っ~~~~!」
 
 炎弾を苦にもせず飛び込んで来る影を振り払うように、悠二は大剣を横に薙ぐ。
 その重く疾い斬撃を少女は、今度は受けない。背面に跳び越えて、捻った身体を正面に戻すに合わせて大太刀を振り抜いた。
 
「――――――」
 
 大剣の上を過ぎ、無防備な首を確実に刎ねる刃。冷たい光が容赦無く奔り……
 
「……!?」
 
 止まった。
 白刃の軌道に突如として出現した、銀の自在式を内に燃やす半透明の切片に阻まれて。
 
「話聞けって………」
 
 微かな硬直。その一瞬に、悠二は己が存在を燃やす。
 
「言ってるだろ!!」
 
 陽炎に覆われた世界で、燃え盛る銀が燦然と咲いた。
 
 
 
 
 陽炎に囲まれた異界の片隅に、一人の男が佇んでいる。紅蓮が踊り、銀の舞い散る戦いの一部始終を、男は余さず観察していた。
 
「………ふぅん」
 
 最初は、標的が違った時点で止めようと思っていた。あんな弱輩を壊したところで得るものは無く、不利益は大きいからだ。
 しかし、僅かに制止が遅れた……その結果が、これである。
 
「(もう少し、様子を見てみようか)」
 
 どんな手品を使ったか知らないが、ほんの一月余で完全に別人になっている。現に今も、彼が手塩に掛けて鍛え上げた少女を相手に随分と健闘していた。
 そんな風に戦う一人に感嘆する一方で………もう一人に対する評価は、お世辞にも高いものとは言えない。事前に聞いていた事ではあるが、あまりに芸が無さすぎる。こと自在法に関しては、戦闘経験など皆無に等しいだろうミステスの方がマシという有様だ。
 
「(まったく、フレイムヘイズになって以降も俺が鍛える事が出来ていれば……。そもそもあんな奴一人に任せる事が失敗なんだ。ヴィルヘルミナ・カルメルは一体何のつもりで……)」
 
 自分のチームの腑甲斐なさを見る監督の心境とでも言うべきか。愚痴のような思考を苛立たしげに巡らせる男は………
 
「ん?」
 
 ふと、封絶の中に飛び込んで来る新たな気配を感じた。
 
 
 
 
 昼間で人目につく、という配慮も欠いたまま、ヘカテーは屋上から屋上に渡り跳ぶ。
 
「(『万条の仕手』が、また……?)」
 
 今更の、あまり想像できない仮説を思いながら、ただ急ぐ。その一方で、別の胸騒ぎが疼いている。
 
「(もし、『万条の仕手』ではなかったら……)」
 
 新たな徒、新たな討ち手。この封絶がそれらの襲来を意味しているなら、それはもう異常事態と言っても良い事件だ。
 ヘカテーが御崎市にやって来てまだ三ヶ月も経っていない。こんな異常な頻度で徒やフレイムヘイズが現れるなど、普通ならば考えられない。
 何か……見えない渦が、数多の因果を否応なく引き摺り込んでいるような、不気味な予感が背筋を撫でる。
 
「(でも、今は………)」
 
 気配を感じただけなら、悠二が危険とは限らない。だが封絶が張られた以上、人喰いか戦闘が起きている事は既に確定だ。
 桜の炎が、仮面の妖狐が、そして傷だらけの悠二の姿が脳裏に蘇り、焦る気持ちが足裏に爆発を呼ぶ。水色の流星と化したヘカテーは猛スピードで陽炎の壁を突き抜けて、
 
「これは………」
 
 すぐさま、目にする。
 封絶の内を鮮やかに彩る、紅蓮の炎を。
 
「(『炎髪灼眼』……!)」
 
 見紛う筈もない、それは彼女の盟主と同格に位置する“天罰神”の炎の色。
 数百年を経た今でも、目蓋を閉じれば鮮明に思い出せる。青き天使を砕く灼熱の炎を、神の系譜を握り潰す紅蓮の腕を。
 それがいま、今度は悠二を………。
 
「(破壊する―――!!)」
 
 ヘカテーの全身を水色の炎が包み、深緑の制服を呑み込んだ。炎を抜けたヘカテーが纏うは、白き外套と帽子の映える巫女の装束。
 
「はっ!!」
 
 まずは一撃。大まかに感じる戦いの気配に向けて、特大の炎弾を放り投げる。ヴィルヘルミナの時と同じ、たとえ敵の近くに悠二がいても、彼に炎は届かない。
 水色の火球は隕石の如く眼下を目指し………掻き消された。標的から外れたビルの屋上から突然伸びた、“七色の閃虹”を受けて。
 
「む……っ!」
 
 驚愕する間にも、戦いの気配に紛れていた“もう一つの気配”が膨れ上がる。……というより、物凄い速さで接近していた。
 長い銀髪を靡かせ、サーベルを握る美麗の剣士が。
 
「“虹の翼”……!?」
 
 そう……以前『天道宮』から目覚め、ヘカテーの窮地を救い、また勝手に何処ぞへと旅立った“虹の翼”メリヒムだった。
 無表情なヘカテーの眼が僅かに見開くのを面白そうに眺めたメリヒムは、接近と同時に何の躊躇もなくサーベルを振り切った。
 薄い刃と大杖『トライゴン』が、火花を散らして衝突し合う。
 
「いいところなんだ。邪魔するな」
 
 刃の向こうで水色の瞳が明確な敵意に燃えている。そんな事は百も承知で、メリヒムは厭味ったらしい微笑を浮かべた。
 
「一体、何のつもりですか」
 
 剣と杖が鍔迫り合う所を支点に、ヘカテーは下から押し上げるように『トライゴン』の石突きを振り上げる。
 メリヒムは僅かに頭を下げてこれを躱し、大杖に滑らせるようにサーベルを引く。引いてそのまま、神速の刺突へと切り替えた。
 迫る切っ先を仰け反って避けたヘカテーは、すぐさま浮遊を解いて落下。メリヒムから距離を取る。
 
「もう一度訊きます。“これ”は何の真似ですか」
 
 ヘカテーには、メリヒムが何を考えているのか全く解らなかった。
 メリヒムが『天道宮』で眠っていた時点で、彼が『炎髪灼眼』を育てたのではと疑ってはいた。そんな彼が自身の鍛えた討ち手を捜したところで驚きはしない。しかし……だからと言ってこんな行動を取る理由にはならない筈だ。
 『零時迷子』を欲しているというのなら解るが、それこそ可笑しい。『炎髪灼眼』と“虹の翼”が同時に掛かっていれば、ヘカテーが到着する前に勝負は着いている。
 一対一で悠二と『炎髪灼眼』を戦わせる。そんな事に、一体何の意味があるのだろうか。
 
「歯応えのある敵を用意したくてね。最初は君にぶつけるつもりだったが……気が変わった」
 
「……………?」
 
 やはり、意味が解らない。解らないが………最後まで付き合う気も失せた。
 長くも深くも無い付き合いだが、この傲慢な王が自分の決めた方針を他者の都合で変えはしないという事は判る。
 
「『星(アステル)』よ」
 
 明る過ぎる流星群が、虹の剣士へと襲い掛かる。
 
 
 
 
「(最後の気配が、封絶の中に消えた)」
 
 悠二が、ヘカテーが、炎を撒いて戦っている頃。『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルも当然、封絶の発生に気付いていた。
 気付いてなお、即座に動かず様子を見ていた。
 
「隠密行動」
 
「抜かりは無いであります」
 
 彼女と悠二らの見解の違い。それは、『相手は十中八九 徒だ』と見ている点にあった。
 ヴィルヘルミナは既に外界宿(アウトロー)にヘカテーの事を報告し、この一件を自分が預かるという旨も伝えていたからだ。“頂の座”などという、爆弾以外の何者でもない徒に、進んで関わる討ち手はまずいない。ヘカテーは有名な引きこもりでもある為、彼女を仇と狙う討ち手も皆無であろう。
 これらの見立てから、ヴィルヘルミナは『敵は徒である』という前提で動いていた。
 故に今、確実な奇襲を仕掛けるべく『気配隠蔽』の着ぐるみで全身を覆っている。依田デパートで見つけた宝具のお陰もあって、今の彼女は完全なノーマークとなっている筈だ。
 ヘカテーは勿論、悠二とて簡単にやられはすまいという分析もある。
 
「では、行くのであります」
 
「作戦開始」
 
 幾つもの好奇の視線を集めながら、白キツネの着ぐるみが街を駆ける。
 
 
 



[34371] 4-7・『銀と紅蓮』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/12/04 14:30
 
 大剣が風を切って振り下ろされ、大太刀が往なして斬り返す。その切っ先を受けた瞬間に幅広の刀身に血色の波紋が揺れて、少女は身体ごと大太刀を引いた。
 半端な距離は危険と判断して大きく跳び下がる少女に向けて、悠二は追撃の炎弾を放り投げた。体勢の不利を狙った……しかし直線的な投擲を、少女の灼眼は捉えている。
 満足に膝を曲げる暇すらないが、少女は足裏に爆発を起こす事で横に跳んだ。
 
「弾けろ」
 
 悠二の両眼が見開かれる。瞬間、少女の真横を通り過ぎようとしていた火球が炸裂し、銀炎が海のように溢れ返った。
 
「(少しは、効いたか……?)」
 
 制服の下に隠すように首から提げた火除けの指輪『アズュール』を、悠二は敢えて使わない。通りを挟む建物を三角跳びに蹴ってパチンコ屋の屋上へと逃れる。
 燦然と燃える火炎の中を睨んで見ると、少女の身体を黒衣が幾重にも包んで護っていた。……まともなダメージは期待出来ない。
 
「(……けど、何とかなりそうだな)」
 
 緊張を解かないまま、悠二は確かな手応えに拳を握り締める。
 あの少女の技量は確かに凄まじいが、『戦技無双の舞踏姫』の異名を誇るヴィルヘルミナとは比べるべくもない。今の悠二でも、『吸血鬼(ブルートザオガー)』の能力を威嚇に使えば距離を取る事くらいは出来る。
 悠二の攻撃も殆ど通用していないが、それは大した問題ではない。要は、ヴィルヘルミナが来るまでの時間さえ稼げれば良いのだ。
 ………と、思っていたのだが……
 
「(これ、本当に収拾できるのか……?)」
 
 沈痛な面持ちとなる悠二の頭上では、星と虹が連鎖的な爆発を飽きる事なく続けている。
 一方は言うまでもなく、封絶に気付いて急行してくれたヘカテー。そしてもう一方は、さっきまでコソコソと隠れていた気配の正体……“虹の翼”メリヒム。
 何のつもりでこんな事をしているのかは解らないが、甚だしく迷惑である。最悪、ヴィルヘルミナまで再び敵になってしまうのではという危機感まで湧いて来る。
 ………いずれにしろ、この状況で悠二に出来る事など限られているのだが。
 
「…………っ」
 
 眼下で紅蓮が爆ぜ、そこから飛び出した少女が放物線を描いて悠二と同じ屋上へと着地する。油断無く大太刀を構える少女は……
 
「………お前、なに?」
 
 初めて、悠二に向けた言葉を発した。悠二は思わず、胸を撫で下ろす。
 
「僕は坂井悠二、『零時迷子』のミステスだ。上の彼女は“頂の座”ヘカテー。徒だけど……この宝具がある限り、人を喰って世界を歪めたりはしない」
 
 漸く得た機会を逃さず、一息に安全を確保しようとする悠二。所詮は言葉だけ。保身の為の出任せと取られても無理はないとも思うが、言うしかない。
 しかし、悠二の予想に反して………
 
「そう……シロがどこから存在の力を得たのか不思議だったけど、やっと解った」
 
 少女は、納得したように溜息を吐く。その仕草に悠二が心から安堵したのも束の間……
 
「だったら尚更、『零時迷子』を渡して貰う」
 
「ええぇ!?」
 
 今まで以上の紅蓮に煌めく炎髪と灼眼。大いに慌てる少年に構わず、少女は次なる一撃を己の内で練り上げる。
 
「(“頂の座”と、『零時迷子』………)」
 
 悠二に言われるまでもなく、少女は空の炎の色に気付いていた。『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女を討滅する事が結果的に更なる歪みを生む可能性も、同様に。
 しかし現在ヘカテーを容認しているフレイムヘイズと彼女では、同じ討ち手でも見方が違った。
 
「(何を企んでるか知らないけど、肝を潰してやればいい)」
 
 つまり、ヘカテー本人ではなく、宝具の方を押さえておくべきだという判断。
 無論『仮装舞踏会』の反感は買うだろうが、“頂の座”を放置するよりは遥かに少ないリスク……という考えだ。『仮装舞踏会』の秘蔵っ子がこんな所で『零時迷子』のミステスと一緒に居るという時点で、良からぬ企みがあると決め付けるには十分過ぎる。
 そんな、一見フレイムヘイズらしい思考の中に―――
 
「(………『零時迷子』さえあれば)」
 
 隠しきれない私情が混ざる。
 彼女は『炎髪灼眼の討ち手』。ヘカテーの睨んだ通り、メリヒム(彼女は彼をシロと呼ぶ)に鍛え上げられたフレイムヘイズ。当然のように、彼女は彼に深い親愛の情を持っていた。
 だが……厳しい鍛練の果てに待っていた最後の試練。己が存在を懸けて立ち塞がったメリヒムを……彼女は討った。フレイムヘイズとして、紅世の徒を。
 奇跡としか呼べない再会を果たした今でも、メリヒムが徒であるという事実は変わらない。存在するだけで力を消耗し、人を喰う事なくいずれ消える。
 
「(だけど………)」
 
 そんな運命も―――『零時迷子』があれば覆せる。いつか描いて、いつか潰えた夢の続きを、もう一度見る事ができる。
 
「(今度こそ、シロと一緒に……!)」
 
 少女は自身を純粋な一個のフレイムヘイズと定めているが故に、“それ以外”を持つ事に対する拒否感情も強い。しかしこの場合、“虹の翼”という強大な王を味方につける事はフレイムヘイズとしても大きなメリットである為、その遂行に一部の迷いも無かった。
 
「行く」
 
 決意そのまま、石畳に亀裂を入れるほどの踏み込みで飛び掛かった。……が、真っ正面から行く気は無い。
 
「(あの剣が厄介)」
 
 感知しか取り柄の無い非力なミステス。先に“王”を見つけてしまえば注意する必要も無い雑魚……と聞いていたが、実際に手を合わせて そんな情報は吹き飛んだ。
 
「(“王”だと思って、戦う)」
 
 大太刀を脇に掻い込んで迫る。ミステスが大剣を振りかぶる。もう半秒で互いの間合いに入ろうかという所で………
 
(ガッ)
 
 少女は、切っ先を真下のコンクリートに突き刺した。
 同時に、爆発。
 
「ぷあっ!?」
 
 至近で紅蓮が弾けて、広がる爆炎に変な声を出すミステス。視界を奪われたのは少女も同じだが、少女の方は自分で起こしたが故の心の準備が出来ている。
 
「(要は、防御すらさせなければいい)」
 
 低い姿勢から俊足で地を蹴り、一秒と待たずに回り込む。爆炎に目を灼かれたミステスの背後に。
 
「(もらった!)」
 
 宝具を取り出すまでは壊せない。死角から神速、右腕を落とさんと刃を奔らせ―――
 
「………!?」
 
 防がれた。
 大剣に、ではない。少年は動いていない。刃の軌道に発現した、半透明に光る菱形の切片が、少女の大太刀を止めていた。
 
「いい加減に……しろッッ!!」
 
 間髪を入れず、振り向き様に大剣が横薙ぎに払われる。咄嗟にバックステップして躱したものの、ライダースーツの腹部に横一閃の切れ目が入った。
 
「そういえば、感知能力が高いんだっけ」
 
「油断するな。“頂の座”が使役するほどのミステスだ」
 
 胸のペンダントに意識を表出させる契約者と短く言葉を交わす。
 実際“王”と比べれば隙だらけの敵に思えるが……どうにもやりにくい。
 
「…………はぁ~」
 
 そんな、戦う気満々の少女の様子に……悠二は重く長く息を吐く。
 メリヒムに育てられたらしいという話は聞いていたから、こう来る事も可能性の一つには違いなかったが………まあ、言っても言わなくても同じだったと思えば、仕方ないとも言える。
 
「(やるしかないか)」
 
 もしヴィルヘルミナが方針を変えれば、自分とヘカテーで三人の強者を相手にしなければならなくなる。最悪の場合も想定して、今の内に一人を戦闘不能にするしかないと、悠二は覚悟を決める。
 その口の端が、僅かに緩んだ。
 
「(笑ってる場合じゃ、ないんだけどね)」
 
 恐怖はある、憤怒もある、理不尽も感じている。なのに不思議と、昂揚にも似た熱さが自分の奥に灯っている。
 空に瞬く水色の星を視界の端に捉えて、ああそうか、と納得する。
 
「(僕は今、戦えている)」
 
 ヘカテーに守られているばかりだった自分が今、不恰好ながらも戦えている。彼女の隣に立てる自分に近づきつつある。
 それが、嬉しいのだ。
 
「さっきから思ってたんだけど……あんた、炎が出せないのか?」
 
 そんな感情も存在を燃やす炎に変えて、悠二は眼前の少女に大剣を向ける。
 『吸血鬼』の能力を知りながら執拗に接近戦ばかり仕掛けて来る少女に、構成の粗い爆発しか起こせていなかった少女に、率直な質問を投げ掛ける。
 
「………………」
 
 返答は無い。代わりに、眉根が微かに険しく歪んだ。解り易い……と言うほど顔に出たわけでもないが、ヘカテーと過ごしている悠二には充分過ぎる反応である。
 
「図星か。剣技だけじゃ、僕はともかくヘカテーには勝てないぞ」
 
 言いながら、左足を密かに下げる。
 
「無謀かどうか………」
 
 言葉の中途で膨れ上がる、少女の力。それが足下に集約され、紅蓮の爆発を呼ぶ。
 
「見せてあげる……!」
 
 自身を高速の砲弾と変えた少女が、一直線に飛んで来た。
 さっきより距離が近過ぎる。到底躱す事など出来ない。
 
「――――――」
 
 爆発の勢いと全身の力を一点に集中させた刺突。それを………
 
(ガキィン!!)
 
 悠二は間一髪、幅広い刀身を盾の様にして受け止めていた。すぐさま大剣の力で逆撃を狙う。
 しかし―――
 
「(ここだ)」
 
 少女は敵の防御を予測していた。既に追撃の準備は出来ている。
 刃を通して存在の力を流し込まれるより先に、剣尖に集中させていた力を解放した。
 狙いはミステスそのものではなく、その生命線たる魔剣。この刺突を受けた直後に爆撃を食らえば、如何な怪力の持ち主だろうと剣を握ってはいられない。
 あの大剣さえ手放させれば勝ったも同然、返す刀で斬り伏せる。
 そんな確信を持った、必殺の爆発が―――
 
「(出ない……!?)」
 
 血色の波紋が、脈を打つ。
 
「あ―――――――」
 
 刻まれた傷から、血飛沫が迸る。
 
「寝てろ」
 
 ―――銀に燃える鉄拳が、少女の頬を殴り飛ばした。
 
 
 
 
 
 
(あとがき)
 メリヒムの口調に関して迷ってます。前作では十巻の喋り方を参考に、今作では五巻の喋り方を参考にしてたのですが、やはり違和感が大きいでしょうか。
 と言っても、十巻は基本マティルダとイルヤンカとしか喋ってないから、五巻ベースでも近しい相手には十巻の喋り方で書くつもりだったのですが。
 
 



[34371] 4-8・『仮面の奥の』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/12/06 06:11
 
 流星が空を駆ける。複雑な曲線を描いて連鎖的な爆発を起こし続ける光弾の一つに直撃されて、銀髪の剣士は眼下へと落下を始めた。
 爆煙を引いて落ちる背中を、星の巫女が容赦なく追っている。
 
「『星(アステル)』よ」
 
 距離を詰めながら錫杖を翻すと、先端から数多の光弾が連射された。散弾のような流星の雨がガラ空きの背中に迫り………
 
「ハッ!」
 
 一閃した虹の斬撃によって纏めて払われた。閃いた光輝の剣は、“虹の翼”の真名を体現したような攻撃系自在法『虹天剣』。
 
「……悠二を殺せば、貴方も力の供給源を失うのですよ」
 
「確かにな。……で? それがどうした」
 
 冷たく睨むヘカテーの錫杖と、厭味ったらしく笑うメリヒムのサーベルがぶつかり合う。
 
「君こそ、ミステス一つに随分と拘るな。あの『零時迷子』、一徒を利するだけの宝具じゃないのか?」
 
「っ……貴方には関係ない事です」
 
 剣呑な声を交わす間にも、嵐のような連撃が両者の間で吹き荒れている。
 やがて石畳の大地が迫り、着地と同時に二人は互いに距離を取った。
 
「そら!」
 
 すかさずサーベルが横薙ぎに空を裂く。その軌跡に沿って七色の光が伸び……咄嗟に身を伏せたヘカテーの背後で、幾つものビルが雑草のように斬り落とされた。
 必然的に、雪崩を打って倒壊を始める建物の林。
 
「お返しです」
 
 ヘカテーはそれに構わず、再び光弾を流星群に変えて放った。狙いはメリヒム……ではない。メリヒムの周囲に在る幾つもの建物だ。
 
「む……っ!」
 
 ビルの倒壊が、連鎖的な爆発が、粉塵と轟音で一帯を呑み込んだ。
 視覚と聴覚を阻害されながらも、メリヒムは意識を鋭く集中させる。
 
「(さて、どこから来る)」
 
 目眩ましに紛れて、ヘカテーは顕現の規模を一気に下げた。居るかどうかくらいなら解るが、居場所の特定は難しい。
 不意打ちに備えて、自在法の発現する気配を逃さぬよう構えるメリヒムは―――ふと気付く。
 
「しまった……!」
 
 ヘカテーの狙いは、最初からメリヒムではないという事に。
 
 
 
 
 腕を、伸ばす。
 これだけの傷を負っても手放さなかった愛刀を杖代わりに突き立てて、めり込んでいたコンクリートから身体を引き抜いて立ち上がった。
 
「…………………」
 
 そんな少女の姿を、悠二は目を見開いて見ている。未だ煌めく炎髪と灼眼が、彼女の闘志が衰えていない事を証明していた。
 
「……どう、して」
 
 喋り辛かったのか、少女は口の中に溜まっていた血の塊を吐き出す。混ざっていた奥歯が、軽い音を立てて路面に跳ねた。
 灼眼を燃やす少女に、悠二は制服の下に隠していた宝具を見せる。
 
「これは『アズュール』、火除けの指輪だ。あんたの爆発が起きなかったのは、この宝具の―――」
「違う。そんな事は訊いてない」
 
 見当違いの説明を遮って、少女は続ける。その灼眼が、戦意以上の困惑に揺れていた。
 
「お前はさっきの一撃で私を壊す事も出来た。……どうしてそうしなかったの」
 
「だから、こっちにはアンタを殺さなきゃいけない理由が無いんだって」
 
 その今更な問い掛けに、悠二は平然と……呆れさえ混ぜて返した。
 普通の人間としては不思議というほどでもない応えだが、この少女には………解らない。
 
「……変な奴」
 
 ミステスの真意は掴めぬままに、杖代わりにしていた大太刀を再び構え直す。
 
「まさか、まだ戦うつも――――」
 
 引きつった顔で何事か言おうとした少年は、突然顔色を変えて………
 
「!?」
 
 大剣片手に飛び掛かって来た。跳び下がろうと少女は思って……しかし身体が付いて来ない。思い切り鍔迫り合いの形となってしまった。
 
「(やられる……!)」
 
 全身を斬り刻まれた激痛が再び襲って来ると覚悟して歯を食い縛る少女。………の足下が、
 
「うあっ!?」
 
 眼下からの砲撃を受けて、木っ端微塵に吹き飛んだ。
 煉獄の如く溢れ返る水色の炎は……しかし少女を焼く事は無い。今も鍔迫り合う少年が張った火除けの結界が、二人を包んで護っていた。
 
「痛ぅ……ッ」
 
 崩れる瓦礫を蹴る反動に耐えながら、少女は隣のマンションの屋根に着地する。悠二と鍔迫り合いを続けたまま、水色の炎を払いながら。
 
「……どういうつもり」
 
「だから、殺す理由が無いんだよ。解ったら、そっちも刃物しまってくれ」
 
 悠二は必死に自分の無害をアピールし続けているが、説得力はあまり無い。
 
「……悠二、そいつから離れて下さい」
 
 今もこうして、水色の炎を撒き散らす巫女様が殺る気満々で降臨しているのだから。
 
「……いや、もう決着ついてるから」
 
「私が仕留めます」
 
「だ〜か〜ら〜! そこまでしなくて良いって前も言っただろ!」
 
 悠二が近くにいるせいでヘカテーがフレイムヘイズに攻撃できずにいると、遠方からの閃虹がマンションの三階辺りを貫いた。
 それに遅れて、銀髪の剣士が飛んで来る。
 
「くぅ……!」
 
 激痛を堪えて、何とか道路への着地に成功する少女。
 
「はあっ!!」
 
 その頭上からヘカテーが、悠二が離れたタイミングを見計らって火球を放り投げ………
 
「だからダメだって!」
 
 それを悠二が炎弾で撃ち落とし、
 
「消し飛べ」
 
 飛んで来たメリヒムが『虹天剣』で悠二を狙い、悠二はそれをギリギリで避ける。
 
「まだ決着はついてない……!」
 
「“虹の翼”! コレあんたの差し金か!?」
 
「………酷い有様だな」
 
「『炎髪灼眼』、破壊します」
 
 それぞれの思惑と敵意を絡ませながら、四人の異能者が一同に会する。正に混戦、一触即発の空気が場を支配する。
 ―――まさに、寸前。
 
『……………?』
 
 全員が全く同時に、気付いた。
 因果を隔離された封絶の中で、彼ら以外の何者かが動いているのを。
 即ち、彼らが対する通りの物陰から現れた、白キツネの着ぐるみを。
 
『………………』
 
 封絶の中で人間が動ける筈が無い。なのに、目の前にいる今でも全く気配を感じない………という事実以上に、まず外見がシュールだ。
 思わず首を揃えて視線を向ける先で、着ぐるみがノロノロと近付いて来る。……何やら、出来の悪いラジコンのようなギクシャクとぎこちない歩き方である。
 
「そ、そそそ、双方、剣を引くのであります……ここ、このの場は私が預かるのでありますからして……」
 
「錯乱状態」
 
 着ぐるみの奥から、必死に取り繕うとしているのに欠片も取り繕えていない震え声が漏れ出る。
 
「この声……!?」
 
 その声に、
 
「……って言うか、今まで何してたんだよ」
 
 或いは姿に、
 
「きつね………」
 
 それぞれがそれぞれの感情で、
 
「ッッ……!?」
 
 反応を示す中、白いキツネは歩き続ける。既に会話に充分な距離まで近寄っているのに、挙動不審な足を止めない。
 
「ヴィルヘルミナ!!」
 
 その足が、喜色に満ちた呼び掛けを受けて止まった。声を上げたのは、さっきまで悠二に敵意を剥き出しにしていた少女。
 
「何だ、あんたも知り合いだったのか」
 
 その反応から察して、何気なく確認しようとする悠二に……白キツネは応えない。今度は石のように固まったまま動かない。
 
「…………………」
 
 悠二にも少女にも返事せぬまま、微妙な沈黙が続く。それを見兼ねたのか、少女の胸元の神器『コキュートス』から、遠雷のような声が轟いた。
 
「………『万条の仕手』よ。場を治めるつもりならば、まずは姿を現したらどうだ?」
 
 のだが、こちらも弱冠気まずそうな色が混じっている。この辺りで悠二も、何だか『ワケありっぽい』空気を感じ取る。
 そもそも、明らかにヴィルヘルミナの様子がおかしい。
 
「……………………………………………………………………………了解、であります」
 
 超が付くほどの躊躇を経てから、白の装束を解くキツネ……ではなくヴィルヘルミナ。漸く姿を現した………と言えるのだろうか。装束の下から現れたのは、妖狐の仮面から万条の鬣を伸ばすメイド。未だに顔は出していない。
 
「(顔を見せたくないワケでもあるのか……?)」
 
 鉄面皮のフレイムヘイズのあまりにもらしくない様子に、悠二とヘカテーと少女は互いの立場も忘れて顔を見合わせる。
 一方で、背中を向けて我関せずを貫いているメリヒム。その足がそそくさと前に出ようかというタイミングで、ヘカテーがマントを引っ張った。
 
「…………放せ」
 
「ヤです」
 
「このまま帰すわけないだろ。ちゃんと説明して貰うぞ」
 
 悠二やヘカテーからすれば、味方とは言わずとも敵ではないと思っていたメリヒムが、良く解らない理由で強襲を掛けて来たのだ。納得のいく説明を所望して止まない。
 このタイミングで去ろうとするメリヒムに、少女の方も言葉にせずとも怪訝な顔を作る。
 それら、事情を知らぬが故の混乱に見舞われる子供たちの耳に――――
 
(ポツッ)
 
 水滴の路面に跳ねる音が、届いた。
 雨さえ止まる封絶の中でのそれに、三人は揃って振り返り………凍り付いた。
 
「決壊」
 
 顔を隠した仮面の顎から、水滴が止めどなく零れ落ちている。
 
「うっ……ふぅっ……うぅ〜〜………」

 
 『戦技無双の舞踏姫』が、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルが――――身を震わせて泣いていた。
 
 
 



[34371] 4-☆・『転校生』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/12/07 14:31
 
 時を僅か、溯る。
 
「(くそっ、いつになったらパンを捏ねられる)」
 
 その日も“虹の翼”メリヒムは、開店前の店内に焼きたてのパンを並べていた。
 彼が焼いたパンではなく、店のプロフェッショナルが焼いたパンを運んでいるだけ。パン屋で働き始めて三日、ひたすらにこんな雑用ばかりをこなしている。
 
「(そもそも、ミサキまでのデンシャ賃はどれくらい必要なんだ?)」
 
 そもそもパン屋になる為に働き始めたわけでもないのだから、別に雑用でも問題はない筈だが……どうにもこうにも口惜しい。
 そんな事を思いつつ、盆の上のメロンパンに目をやる。骨してた時には特に感じなかったが、実に芳ばしい香りである。
 一つくらい構わないだろうと、その手を伸ばそうとした時――――
 
「……………む」
 
 人ならざる感覚が、人ならざる気配を捉えた。無駄に垂れ流していた存在感を、何者かが嗅ぎつけて来たらしい。
 
「(この感じ………大物か?)」
 
 職場を荒らされては堪らない。メリヒムは持っていたパンをレジ横に置いて、一も二もなく飛び出した。
 気付かれる為に気配を撒き散らしているのだから、居場所などとうにバレている。迷わず、見晴らしの良い高層ビルへと飛び上がった。飛翔の最中で、着ていた服が剣士の装束へと燃え上がる。
 
「(…………アタリだな)」
 
 大きくなってくる気配がフレイムヘイズのそれであると知る。
 彼の方針的に相手はフレイムヘイズでないと意味が無いので、この結果は幸いと言えた。しかし店は辞めなくてはならないだろう。フレイムヘイズを屠るわけにもいかないし、この街からは離れるしかない。
 
「(適当に目立って逃げるか)」
 
 自分の身の上も考慮して、炎の色までは晒さない。お目当ての少女以外に喰いつかれても面倒だし、そんな相手を返り討ちにする事も出来ないからだ。今のメリヒムにとって一番厄介なのは、“虹の翼”を仇と狙うフレイムヘイズなのだ。
 
「(あまり近づき過ぎると、逃げにくくなる)」
 
 いつものように、“王”だという事だけ知らしめて撤退しようと構えるメリヒムを、やはりいつものように封絶が取り込んだ。
 
「………っ」
 
 別に閉じ込められたわけでもない。そのまま逃げれば済む。……のに、メリヒムは足を止めた。
 封絶を漂う炎の色が、彼の身体を金縛りにした。
 
「あぁ…………」
 
 鮮やかな上にも鮮やかな、紅蓮。かつて惹かれて、かつて痺れて、かつて送り出した、真紅に燃える炎の姿。
 その大元は敢えて意識から追い出しつつ、ビルを駆け上がって来る靴音を聞く。
 
「………!?」
 
 黒衣が翻る、炎髪が靡く、懐かしい少女が………その姿を現した。
 
「……………シ、ロ?」
 
 灼眼を見開いて、驚愕に震えて、それでも決して大太刀を下げない少女に………
 
「久々に手合わせと行こうか、フレイムヘイズ」
 
 ―――銀髪の剣士は、不敵に笑い掛けた。
 
 
 
 
「だが、蓋を開けて見れば酷いもんでな。『炎髪灼眼の討ち手』だと言うのに炎もロクに使えない。訊けば、『今まで本気になれる相手に巡り合わなかったからだ』と言う」
 
 銀髪を風に靡かせて、メリヒムが振り返る。
 
「そこで考えた。俺は強大な王が確実に一人居る場所に、心当たりがあるではないか、と」
 
 直後に投擲される、銀炎の豪速球。僅かに首を捻ったメリヒムの顔の横で、髪の先が微かに焦げた。
 
「何をする」
 
「ふっざけんな! そんな理由でケンカ吹っかけて来たのかアンタは!!」
 
 要するに、『炎髪灼眼の討ち手』の成長を促す“かませ犬”としてあてがわれたという事らしい。
 あまりにもあんまりな理由に、比較的温厚な人格を持つ悠二も声を荒げずにはいられない。
 
「……感心せんな。いたずらに『仮装舞踏会(バル・マスケ)』を刺激して、それが世界のバランスを歪めるとは考えなかったのか」
 
 少女のペンダントから、彼女の契約者たる“天壌の劫火”アラストールも遠雷のような詰問を投げた。
 
「細かい事で喚くな。お前もミステスである以上は常在戦場。こんな事、この先いくらでも起きるぞ」
 
 メリヒムは“当然”これを無視して、悠二の方に身勝手な理屈を押しつける。やはりと言うか、罪の意識など欠片も感じていないらしい。
 
「……世界のバランスより、私を鍛える方が優先だったの?」
 
「………まあ、“頂の座”が易々と討たれるとも思わなかったしな」
 
 少女に訊かれて、メリヒムは“当然”正直に応える。
 彼にとっては、幾分かの保険を備えた上で強敵と戦わせられる二度とは無い状況だった。いざとなったら、自分が割って入って止める事も出来るだろうという楽観もあった。………もっとも、悠二の健闘で予定を大幅に違える事となったが。
 
「話は終わりましたか」
 
 それらの話に全く興味を示さず、ヘカテーは大杖『トライゴン』を構え直す。
 
「……ヘカテー。腹立つのは解るけど、わざわざ今から事を荒立てなくても……」
 
「破壊します」
 
 三角頭の遊環に水色の光を灯すヘカテー。その小さな身体を、悠二が後ろから羽交い締めにした。
 
「……放して下さい。こいつだけは、この場で破壊します」
 
「何で!? 『万条の仕手』の時は聞き分けてくれたじゃないか!」
 
 親の仇でも見るようなヘカテーの様子に、悠二も、ヴィルヘルミナも、他の者らも首を傾げる。
 近年に討ち手となった少女は勿論、契約者たるアラストールも、彼女に個人的な恨みを買った憶えなど無い。
 確かに先代『炎髪灼眼の討ち手』が討滅した中には『仮装舞踏会』の徒も数多く居ただろうが、それはヴィルヘルミナとて同じ筈だった。特別に狙われる謂われなど無い。
 
「先に仕掛けて来たのはこいつです」
 
 それも、当然。
 ヘカテーが『炎髪灼眼』を嫌うのは、私怨や復讐からではない。その契約者たる“天壌の劫火”が持つ能力……『天罰神』たる炎を危険視しているからなのだ。身に憶えが無くて当たり前である。
 
「………彼には私から言って聞かせるのであります。どうかこの場はお引き取りを」
 
 未だ仮面で顔を隠したままのヴィルヘルミナが頭を下げる。ヘカテーではなく、悠二に。
 初対面から考えると信じられない行動を取る辺り、まだ本調子ではないのだろうが………いずれにしても悠二の返事は決まっていた。
 
「くれぐれも、頼んだよ」
 
 即ち、ヘカテーを羽交い締めにしたまま………
 
「悠二………!?」
 
 全速力で、封絶の外まで逃げ出したのである。
 
「っ―――――      」
 
 水色の爆発を幾つもバラ撒きながら、“頂の座”が攫われて行く。
 
「………何あれ」
 
 『仮装舞踏会』の巫女がミステス一人に主導権を握られている、という奇妙な光景を、少女は呆然と見送った。
 
「止まるのであります」
 
「制止要求」
 
 さりげなく逃げようとしたメリヒムの足に、純白のリボンが巻き付いた。
 
 
 
 
 メリヒムのしょうもない思いつきのせいで大迷惑を被った事件から一日跨いだ月曜日。登校の先頭を歩くヘカテーはお冠である。
 
「……………………」
 
 『炎髪灼眼の討ち手』の事について、ではない。そちらの方は、あれから悠二の説得を受けて納得した。
 と言うのも、
 
『あの子を殺したって、中の王が死ぬわけじゃないんだろ!』
 
 悠二が説得の為に並べ立てた言葉の中に、何も知らない癖に核心を突く内容が混じっていたからだ。
 確かに、フレイムヘイズは紅世の王を宿した入れ物。器を壊された王は紅世に帰り、再びの契約に臨む。
 つまりここで『炎髪灼眼』を壊しても、肝心の“天壌の劫火”は討滅できず、新たな器を得てこの世に顕現出来てしまうのだ。
 壊すなら、そう……大命の手順が完了し、それを実行に移す直前が望ましい。それまでは、無害な巫女を装っておく事にした。
 ………ので、ヘカテーはその事はもう気にしていない。怒っているのは、別の事。
 
「はぁ〜……吉田さんに何て言い訳すればいいんだろ」
 
 朝からこればかり口にする悠二に、である。
 どうやら『炎髪灼眼』の襲来によって置いてきぼりにした吉田一美の事を気にしているらしい。
 らしい、が………何故だかヘカテーは、それが無性に気に入らない。そもそも悠二が彼女と出掛けた事など、ヘカテーは聞かされていなかった。そんな事は悠二の勝手と言えばそれまでだが、どうにもこうにも気に入らない。
 朝からずっと不機嫌をアピールしているのに、悠二は構わずヨシダヨシダ。それが尚ヘカテーの機嫌を悪くする。
 
「ふっふっふ………」
 
 いつもなら人一倍騒ぐ平井も、今日に限っては何故にか口数が少ない。わざとらしく怪しげに笑っているのに、悩める悠二がツッコミを入れてくれないから少し淋しそうだ。
 
「(急用を思い出した……で良いとして、問題はどんな急用かだよな)」
 
 いつになく静かなトリオの登校は、それぞれが悩みを解決していないが故に矢の如く過ぎて行く。
 その先に待っていたのは、悠二の謝罪を笑顔で受ける吉田でも、ヘカテーのご機嫌を取る悠二でもなく………
 
「転校生を紹介する」
 
 チャイムより少し遅れた担任の、一般生徒から見れば堪らなく刺激的な宣言と………
 
「大上準子。よろしく」
 
 髪と瞳を黒に冷やした―――『炎髪灼眼』の少女だった。
 
 ―――世界は佇み、流れ往く。誰かと誰かの出逢いを結び、いつか零れるその日まで。
 
 
 



[34371] 5-1・『校舎裏の宣戦布告』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2012/12/17 09:25
 
 坂井悠二はミステスである。
 その身の内に宝具を宿した残り滓……人間の代替品。そんな彼は、秘宝『零時迷子』の力と“頂の座”ヘカテーの庇護を受ける事によって、仮初めの日常の中を薄氷の上を渡るように生きていた。
 
「大上準子。よろしく」
 
 ………その日常にまた一人、非日常からの来訪者が踏み込んで来たらしい。
 
 
 
 
「………で、どうして学校に来てるんだよ?」
 
 時は日曜を跨いだ月曜日の放課後。場所は人気の無い学校の校舎裏。転校生にはお決まりの質問祭りを横目に、一日中訊きたい事を我慢していた悠二は、やっとその一言を口にした。
 
「どうもこうも無いわ。私はお前たちを信用した憶えなんて無いんだから、近くで見張るのは当たり前でしょ」
 
 平然と言ってのける少女……『炎髪灼眼の討ち手』。つい先日、“虹の翼”メリヒムの口車に乗せられて悠二を襲撃したフレイムヘイズである。
 
「何か、メリーさんと一緒に暫く御崎に居るんだって」
 
「はあ!? ……て言うか、何で平井さんが知ってるの?」
 
「カルメルさんと一緒に住んでるからね」
 
 横から口を出してVサインを作る平井ゆかり。今頃になってと突っ込むべきか、メリーさんという愛称に突っ込むべきか。
 
「…………………」
 
 この場には当然、ヘカテーも来ている。今にも唸り出しそうな顔で、悠二の横から少女を睨んでいた。
 その視線には構わず、少女は淡々と続ける。
 
「“狩人”を退けるほどの『戒禁』の話も、『零時迷子』に刻まれた自在式の話も、全部ヴィルヘルミナから聞いた。とりあえず、今すぐ宝具に手を出したりはしない」
 
 『リシャッフル』の発動に起因する“頂の座”の信用性についても聞かされていたが、敢えて告げずに距離を取る。
 そんな少女に、今度は悠二から訊ねる。
 
「いいのか? “虹の翼”に『零時迷子』を持たせたいんだろ?」
 
 言った憶えも無い願いを言い当てられて、少女の肩が僅かに固くなった。努めて平静を保ちながら返す。
 
「お前から存在の力さえ確保出来れば、宝具自体を取り出す必要は無い」
 
「……そんな約束した憶えないんだけど」
 
「うるさいうるさいうるさい。別にいいでしょ、どうせ零時になったら回復するんだから」
 
「いや、それは別にいいんだけどさ……」
 
 ………あの親にしてこの子ありと言ったところか。
 悠二の都合に合わせるつもりなど、最初から更々ないようである。
 
「終わったなら、もう行く」
 
 言って、少女は踵を返す。その一言を聞いて「本当に24時間見張られるわけじゃないんだ」と安堵した悠二は、もう色々と麻痺してしまっているのかも知れない。
 
「…………それと」
 
 不意に、去り往く小さな背中が止まった。振り返る横顔、その瞳が刹那……紅蓮に染まる。
 
「お前には、負けないから」
 
「は…………?」
 
 不可思議なセリフを悠二に言い捨てて、今度こそ少女は去って行く。
 
「「…………?」」
 
 顔を見合わせて首を捻る悠二と平井を脇に置いて………
 
「…………むー」
 
 ヘカテーだけが、終始不機嫌なままだった。
 
 
 
 
 少女はフレイムヘイズである。名前は……まだ無い。
 メリヒムの提案によって御崎市を訪れた彼女は、予期せぬ状況の変化によってこの街に留まる事となった。
 最低限の会話だけ済ませて、不審なミステスらと別れた少女は………意味も無く早足に歩を進めている。
 
「はむっ………」
 
 歩きながら、鞄から取り出したメロンパンを噛み千切っていく。
 常ならば、そのカリカリモフモフとした食感に弛む筈の少女の顔は今、触れれば切れそうな鋭さに固められていた。
 
「…………………」
 
 他人が見ても判らないだろうが、さっきのやり取りの最中もずっとこうだった。そうと気付いていたからこそ、彼女のペンダントに意識を宿す“天壌の劫火”アラストールも静観を貫いていたのだ。………下手に口を挟めば、少女が容易く感情を曝け出してしまいそうな気がして。
 
「(何で、あんな奴に………)」
 
 少女は、憎悪と復讐によって契約する普通のフレイムヘイズではない。
 物心つく前にヴィルヘルミナに拾われ、幼い頃から『天道宮』で修練を積み重ねた末に、己が意志と使命感から契約を果たした変わり種である。
 だからこそ、納得できない。
 
「(私は認めない)」
 
 聞けば、あの少年がミステスになってから三ヶ月も経っていない。凡庸な人間として育ち、気付く事もなく存在を喰われ、幾つもの偶然の結果として存在を保っているだけ。
 ワケも解らず巻き込まれた人間。覚悟も無い。信念も無い。己の存在にどこまで自覚があるのすら怪しい。………そんな奴に“後れを取った”。
 
「(あいつにだけは、絶対負けない……!!)」
 
 使命感ではない何かが、少女の胸の奥で燃えていた。
 
 
 
 
「坂井君って………小さい子が好きなのかな……」
 
 大上準子に暫し遅れて下校を始めるいつもの三人の背中を、教室の窓から見送った吉田一美の第一声が、それだった。
 
「………いや、何で?」
 
 そう訊かれたのは、同じく教室に残っていたメガネマン・池速人。
 
「だって近衛さんは“ああ”だし、ゆかりちゃんも童顔だし、大上さんだって………」
 
「………言いたい事は解るけど、多分違うと思うよ」
 
 二人は“当然”、さり気なく悠二が大上準子を連れ出した事に気付いていた。最初は後を尾けようかとも考えたが、近衛史菜あたりに気付かれるだろうと思い直して止めた。
 近衛史菜が転校して来た時と酷似した状況ではあるので、吉田の危惧も解らなくはない。
 
「………それより、吉田さん自身がどうするかだよ。埋め合わせするって言ってたんだよね」
 
 とは言え悠二の性癖を勝手に決め付けるのも憚られるので、池はなるべく前向きな方向に話題を逸らす。
 昼休みに悠二が吉田に謝る場面に居合わせていた為、池も大体の事情は解っている。
 
「(……まあ、次は近衛さんもついて来るだろうけど)」
 
 そして、悠二の隣で不機嫌そうにしているヘカテーの姿も見ていた。再び二人っきりの状況を作るのは難しいように思える。
 と言うか、そもそも土曜日の時点でバレバレだった。
 
『ん〜……池君が一美の味方するの、何か特別な理由があるのかなって』
 
 バッタリ出会った平井ゆかりに平然とそんな事を訊かれて、コソコソと画策していた自分に赤面したものだ。
 
「(平井さんの方こそ、どうなんだって話だよな)」
 
 そんな文句を、もちろん池は本人に言ったりはしない。あくまでも心の中でぼやくのみである。
 平井ゆかりは池速人が好き……という“設定”も、最近では装う素振りすら見せない。恐らく忘れているのだろう。
 もっとも、池は微妙な空気でもしっかり読めるので、そんな事を直接指摘したりはしないが。
 
「埋め合わせ……あっ、そうだ! どうしよう、今度はどこに誘えば………」
 
「いや、今回はあいつに任せていいんじゃない?」
 
 言われて思い出したのか、忙しく慌てだす吉田。そんな吉田に、池は頬笑みと共に溜息する。
 
「埋め合わせとは言え、今度はあいつから誘った形なんだから。そういうのはあいつにさせるべきだよ」
 
 前は「吉田自身が頑張るしかない」と言った池だが、今回は状況が違う。
 坂井に軽く促してやる程度の事はしておくか、などと池は思う。
 
「吉田さんはアプローチの練習でもやっとくべきかな。さり気ない手の握り方とか」
 
「手ッ………!!?」
 
 池のからかうような軽口を受けて、吉田はリンゴのように赤面した。
 
 
 
 
 少年少女がそれぞれに青い悩みを抱えている頃、相沢町一丁目三の三・花園マンション、平井宅のリビングで、一人のメイドがテーブルに突っ伏していた。
 
「…………………不覚であります」
 
「無様」
 
 ヘッドドレスが無遠慮な悪口をほざいたので、自罰と反撃の両方の意味を込めて自分の頭を殴る。無論、そんな事で醜態を晒した過去が消えるわけではない。
 
「…………………」
 
 『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルは、『大戦』の終結から数百年……『天道宮』に身を潜めてたった一つの器を探し続けていた。
 
『この人は“こんな事”じゃ絶対に挫けないし、諦めない。そんないい男に相応しい、完全無欠のフレイムヘイズを見つけてあげて。男を残して死ぬ女の………これが最期のお願い』
 
 今は亡き、唯一無二の戦友に託された、誓いを果たす為に。
 そうして彷徨い、探し、育て、学ばせ、やっと巡り合った最高の人材……それがあの少女、『贄殿遮那のフレイムヘイズ』。
 
「(だと、言うのに………)」
 
 そんな彼女に自身が見せた姿を思い返すと、心が闇の底へと沈む。
 単純な羞恥心や沽券などという生易しい問題ではない。これは紛れもない“恐怖”だった。
 
「(私は、何という………)」
 
 彼女への誓いの形、彼の愛の証、それを……よりにもよって自分が変容させてしまうのではないか。そんな恐怖が、消える事なく胸を苛み続けている。
 “戒刃”への雪辱も、『零時迷子』への拘泥も、そして………抑える事の出来なかった想いと涙も、全て『完全なるフレイムヘイズ』には不要のものだ。
 
「あの子は、どう思ったでありましょうな………」
 
「心配」
 
 憂いても、嘆いても、知られた事実はもう隠せない。
 『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルは、情に生きるフレイムヘイズであるという真実は。
 
 
 一方その頃………
 
「雇え」
 
 誓いの下に少女を鍛えたもう一人の人物は、新たなバイト先を見つけていた。
 
 
 



[34371] 5-2・『波紋』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7abf13fd
Date: 2012/12/17 09:29
 
 尋常ならざる風切り音を立てて、不自然なほどしならずに、棒切れの一撃が振り抜かれる。
 
「く………ッ」
 
 直線的な一閃を少女の棒切れが容易に捉え、防いだ。乾いた衝突音と共に大気が弾ける。万全な体勢で受け止めたのに、棒を握る手が痺れるほどの豪撃。
 
「っだあ!!」
 
 すかさず二撃目が飛んで来るが、やはり直線的。今度は真っ向から受けず、太刀筋を見切って横から叩いた。
 自重を乗せて打ち込んでいたせいで、打撃と一緒に少年の身体まで微かに流れる。その隙を見逃す事なく、
 
「痛っ!?」
 
 少女の棒切れが、少年の胴を強かに打ち据えた。ついでとばかりに回し蹴りが繰り出され、胸の辺りを思い切り突き飛ばす。
 
「痛ぅ〜〜…今の、一本余計だろぉ……」
 
 痛む脇腹を押さえつつ、坂井悠二はノロノロと立ち上がる。
 いつもの朝、真南川河川敷で行われる鍛錬の習慣。見慣れた光景の中で唯一つ違うのは、悠二が相対する稽古相手である。今は髪と瞳を黒く冷やすフレイムヘイズ、『炎髪灼眼の討ち手』。
 いつものように河川敷にやってきた悠二とヘカテーを、彼女が当たり前の顔をして待っていたのである(ついでにメリヒムも)。
 
「……お前、鍛錬だからって手を抜いてるんじゃないでしょうね」
 
「そんなわけないだろ。打たれたら痛いんだから」
 
 あからさまに不審な目を向けて来る少女に、悠二は痛みから即答する。棒切れで自分の肩をトントン叩く少女の顔には、『期待外れ』という色が濃い。
 が………
 
「とりあえず、剣術は私の勝ち」
 
 どこか勝ち誇っているようにも見えるのは、気のせいだろうか。
 そもそも、なぜ鍛錬に参加しようなどと考えたのか。ヘカテーのように悠二を鍛えてくれようとしているなどとは、あまりにも考えにくい。
 
「っ………」
 
 などと思う悠二の前髪に擦って、不意の一撃が少女を襲った。横に払う棒切れの打撃を、少女は身を屈めて油断なく避ける。
 慌て下がった悠二が目を向ければ、さっきまで観戦を貫いていたメリヒムの姿があった。
 
「格下相手に満足するな。次は俺だ」
 
「うん」
 
 そのまま普通に第2ラウンドに突入する少女と骨。悠二が文句を挟む暇も無い。
 
「(要するに、大上さんも鍛える必要ありってわけね………ん?)」
 
「…………………」
 
 勝手に納得して肩を竦める。そんな悠二の袖を、ヘカテーが引っ張った。……どうも、気楽に観戦とはいかないらしい。
 
「ん〜む………目が追い付かない」
 
 二人一組で打ち合いを始める悠二らを眺めているのは、土手の階段に腰を下ろす平井ゆかり。喩え些細でも紅世に関わる事には積極的に参加しようという気構えの下、彼女は毎日の鍛錬を欠かさず見学している。……ついでに、流れに乗って坂井家の朝食にも参加していた。
 こちらは既に“いつもの事”となっていたので、悠二も特に気にしたりはしなかったのだが……平井は現在、微妙な違和感に包まれていたりする。
 
「………カルメルさん、どうしたんですか」
 
 平井と一緒に、監察という名目で来ているヴィルヘルミナの様子がおかしい。
 いつもなら悠二らに程近い場所に立ち、時折偉そうに悠二の未熟さをコキ下ろすのが常の彼女なのだが……今は何故か平井の隣で小さくなって座っている。
 見ようによっては隠れているように見えなくもない(隠れられていないが)。さらに言えば、鍛錬の様子も殆ど窺っていない。まるで、顔を向けづらいとでも言わんばかりに。
 
「………別に、何でもないであります」
 
「詮索禁止」
 
 平井の質問には応えず、自分の頭ごとティアマトーを殴るヴィルヘルミナ。とても何でもないという感じでもないが、禁止と言われては仕方ない。
 
「(そもそも、大上さんと一緒に住まないのも変なんだよね)」
 
 ヴィルヘルミナは、少女たちが襲撃したその日の内に行動を開始し、今はもう彼女らの家を用意している。……だと言うのに、未だヴィルヘルミナは平井宅の居候を続けていた。
 相手は『天道宮』で一緒に過ごした家族同然の身内であるにも拘らず、である。
 
「(……ま、色々あるって事かな)」
 
 平井は溜め息を一つ零して、不自然なくらいヴィルヘルミナの顔を見ようとしない銀髪の後頭部を眺めた。
 
 
 
 
 非日常からの来訪者による日常の変化は、鍛錬の時間のみに止まらない。彼女が悠二と同じクラスに転入して来た以上、これは既に必然だった。
 
「そんな所を空白にしても、原文を丸暗記してないと出来っこない。お前が持ってるマニュアルをページ単位で写してるだけだから、そんな事になるのよ」
 
 無遠慮にして正確無比な指摘を受けて、英語教師の岡田先生の表情が歪み………
 
「私に教えるつもりなら、もっと勉強してから出直しなさい」
 
 直後、ムンクの如き叫びを上げて教室から走り去った。本日二人目の犠牲者である。
 
「(やっぱ、こうなるんだなぁ………)」
 
 転校初日の昨日の時点で、悠二にはこうなるのではという悲しい予想が出来てしまっていた。
 教師が軒並み論破されて撃退される、という具体的なものではなく、『何かしら非常識な行動を起こして“浮く”のでは』という漠然とした予感ではあったが。
 
「……もうちょっと手加減しても良いんじゃないか?」
 
「何が?」
 
 椅子を斜めにして後ろの席の少女に一言言ってみるも、何の事だか解らないらしい。ヘカテーと違って元は人間の筈なのだが、あまり常識的な感性を期待できない。
 
「(あいつ、やっぱり知り合いだったのか……?)」
 
「(ヘカテーちゃんと言い大上さんと言い、やはりロリ属性持ちか……!)」
 
「(なるほど……侮れんやつめ!)」
 
 教師が去った事で雑談に包まれそうな教室は、何故か今だけ静かだ。要するに、坂井悠二と大上準子の会話に耳を傾けている状態である。
 何せ、転校初日の質問祭りは………
 
『しつこい』
 
 最終的に、突き放すような一言一睨みで皆“黙らされて”しまったのだから。外見に似合わぬ異様な迫力に誰もが声を掛けるのを躊躇う中で、“またも”坂井悠二。注目を集めないわけがない。
 
「だから、もっとこうやんわりと………」
 
「? だから、さっきから何の話よ」
 
 しかし悠二は、そしてクラスの皆は、まだ知らない。本当の波乱は、もうすぐそこまで迫っているという事を。
 
(キラリ)
 
 人知れず、ヘカテーの瞳が水色に瞬いた。
 
 
 
 
「やたーっ! 昼ご飯だー!」
 
 四限目終了のチャイムが鳴り響き、平井が元気良く両手を伸ばす。
 いつものようにガタガタと机を動かす途中に、
 
「ほら、大上さんも一緒に食べよ!」
 
 何という事もなく、話題の大上準子を昼食に誘える辺りは流石というべきか。返事も待たずに周囲の机を次々くっつけて、あっという間に輪の中に取り込んだ。いつも真ん中に位置する悠二の真後ろなのだから、自然少女も皆の中心的な位置取りとなる。
 
「はら減ったー」
 
「おまえ早弁してただろ?」
 
「ごめん、ちょっと机借りていい?」
 
 田中は気の良い男だし、佐藤は軽薄な割りに馴々しさに嫌悪感を抱かせない少年である。メガネマン池は言わずもがな。悠二や平井が居る状況で大上準子を敬遠するような三人ではない。
 
「あの、えっと……隣、座ってもいい? 大上さん」
 
「勝手にすれば」
 
 一人例外的に人見知りする吉田が、おっかなびっくり少女の隣の席に着く。離れて座れば済むように思うかも知れないが、吉田の場合はそうもいかない。
 
「あの、どうぞ……」
 
 手作りの弁当を悠二に渡す為には、少なくとも斜め前の位置は確保しなければならないのだ。先週までは正面が吉田の定位置だったのだが………今は大上が座っている。
 
「あ、うん。ありがとう………」
 
 照れ臭そうに笑って、悠二は弁当箱を受け取る。以前はこれだけで満足してしまっていた吉田だが、今は喜びの中に不安が混じる。
 悠二の笑顔……その奥に、微かな躊躇いがあるように見える。好意を受け取る事に対する躊躇……いや、後ろめたさに似たもの。
 
「(近衛さんに……? それとも……)」
 
 吉田は勿論、
 
「(石頭め。……余計なこと言っちゃったかな)」
 
 そのやり取りを横目に見ていた池でさえ、目聡く気付く。気付いて……かつての自分の忠告を悔いる。
 
「(このままじゃダメだって、解ってるんだけどな………)」
 
 そんな二人の内心にはまるで気付かず、悠二は唯々自身の気持ちを手探りする。
 自分の境遇を言い訳にはしない……つもりだが、安易な結論を憚らせるには充分すぎる理由だった。それこそ、吉田への好意を明確に自覚できてから悩むべき問題なのだろうが、それも未だ形にならない。
 ミステスだの不老だの以前に、一人の少年として駄目な現状に、悠二は心底ゲンナリする。
 複雑そうな顔で弁当の包みを開ける………そんな悠二を、
 
「………………」
 
 隣席のヘカテーが、ジッと見つめていた。あわよくば気に入ったおかずをせしめる為に。
 蓋が開く。エビフライに標的を定める。こちらからは何を出そうかと、自分のおかずを眺めていると………
 
「………?」
 
 不意に、疑問が湧いた。
 思ってそのまま、口に出す。
 
「………どうして悠二に、お弁当を渡すのですか」
 
「ふぇ!?」
 
 今更かつ無神経な質問に、吉田は縮こまって椅子ごと跳ねるという器用なリアクションをした。
 何か言わねばとパクパク口を開閉するが、肝心の言葉は中々出て来ない。正確には、もっともらしい建前が浮かばない。当然、こんな形で“本当の理由”を告げるなど論外だ。既に周知の事実だろうと、断じて。
 
「あの……えっと……」
 
「いや……その……」
 
 結局ヘカテーの質問は応えを得られぬまま、妙にモヤモヤとした雰囲気が場を包む。
 
「…………………」
 
 結果的に質問を流されたヘカテーは、何も言わない悠二と吉田を睨む。
 俯いて赤くなり、チラチラと互いを盗み見て、目が合うと慌てて顔を背ける。
 その様子が………何故だか無性に不愉快に思えて、ヘカテーは常の無表情にあからさまな冷たさを帯びる。理由は解らないが、兎にも角にも、嫌な気分だった。
 ので………やり返してやる事にした。
 
「あげます」
 
「………へ?」
 
 自分の弁当箱から一摘み、玉子焼きを悠二の蓋の上に分け与える。
 それで満足したのか、ヘカテーは微妙に勝ち誇った顔で自分の弁当を食し出した。
 
「はむっ……♪」
 
 静かな戦いの幕開けを余所に、『炎髪灼眼の討ち手』はメロンパンを齧る。
 
 
 



[34371] 5-3・『シャナ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7abf13fd
Date: 2012/12/19 05:56
 
 取り出し、目にした途端に、瞳の奥に光が宿る。それを食す為に口を開ける時には、既に無愛想な表情は見る影もなく破顔していた。
 
「あむっ、はむっ……!」
 
 心底おいしそうに頬張り、これ以上なく幸せそうな顔で味わう。
 それは彼女、フレイムヘイズ『炎髪灼眼』がこよなく愛する食物・メロンパンだった。
 
「むぐ……? 何よ」
 
 モグモグと食べていると、何故か周囲の視線が集まっていた。飲み込むついでのように、代表として坂井悠二を睨む。……と、自覚の薄い異能者は気の抜けた顔で頬を掻いた。
 
「いや、その……まるで別人みたいだなって」
 
「?」
 
 曖昧で判然としない言い回しに、少女は自然に首を傾げる。それほど興味があるわけでもないので、構わず次のメロンパンに口を付けた。
 平井の方は、悠二の百倍解りやすい。
 
「超可愛い! 抱き締めてもいいですか!」
 
 具体的には、机の上の弁当を端に寄せて、悠二の隣席から身を乗り出して抱きついた。
 そして、
 
「ぎゃふん!」
 
 頬擦りする事かなわず、手首を軽く捻るような動作だけで一本背負いを食らわされた。「くっ……後は……頼んだ……」などと聞こえて来る。
 
「……何も投げる事ないだろ。ちょっと抱き付いて来ただけで」
 
「これは私のメロンパン」
 
「誰も取ろうとしてないって」
 
 少女が大真面目に応えて、悠二が苦笑混じりに突っ込む。
 一本背負いで静まり返った教室に、明るい笑い声が湧いた。
 
「(この調子なら、馴染むのもそんなに時間掛かんないかもね)」
 
 大の字に引っ繰り返った平井も、逆様の視界でその喧騒に笑顔を向けていた。
 しかし、その視界の中に、不審な影が。
 
「およ?」
 
 コソコソと教室から出ていく、水色の小さな後ろ頭が見えた。
 
 
 
 
「はぅ………!?」
 
 そのとき何が起きたのか、瞬時に理解できなかった。
 五時限目のチャイムが鳴って、3分ほどの時間が経った教室。最後列の吉田一美は、何となく斜め前方にある大上準子の後ろ頭を眺めていた。
 幸せそうにメロンパンを齧る無邪気な横顔は、同姓から見ても見惚れるほど愛らしかった。何より、転校生なのに前から坂井悠二と知り合いらしい挙動が気になる。
 そんな事をつらつらと思っていた時………
 
(シュパッ!!)
 
 何かが鋭く風を切る音が聞こえて、
 
(パンッ!!)
 
 間髪入れず、何かが割れるような破砕音が聞こえて………吉田の左隣に座っていた菅野が昏倒した。
 
「す、菅野さん!?」
 
「う、う〜………」
 
 慌てて助け起こしたらば、額に貼りついていた何かがポトリと机上に落ちる。………真ん中から綺麗に両断されし純白のチョークだった。
 何やら見覚えのある現象に顔を上げれば、そこは龍虎の向き合う戦場。
 
「……何のつもり?」
 
「授業中にお菓子を食べるのは厳禁です」
 
 いつかの学者ヘカテーが、五指にチョークを挟んで教壇に立つ。その敵意を一身に受ける大上準子の右手には、30定規が刃の如く光っている。
 
「『星(アステル)』よ」
 
 純白の軌跡が流星となって奔り、黒髪の少女を狙い撃つ。まるで忍者の放つ手裏剣、とても女子高生に避けられる物ではない。
 クラスの殆どがチョークまみれになって昏倒する大上準子を幻視………
 
「はっ!!」
 
 するも、少女はそんな不名誉な予測を飛び来るチョークごと残らず断ち切った。石灰の粉が、まるで硝煙のように踊る。
 
「そっちがその気なら、相手になる」
 
「教育的指導です」
 
 短く言葉を交わして、二人はそれぞれ床を蹴った。大上は前席の悠二の肩を踏んで跳び掛かり、ヘカテーは左に跳んで横撃を狙う。
 
「ふッ!」
 
 大太刀ならばともかく、定規では些か以上に間合いが足りない。少女の斬撃は擦りもせず、その空振りの隙を狙ってヘカテーのチョークが飛んだ。
 すかさず、少女の定規はチョークを残らず切り飛ばす。返す刀で、さらに一歩踏み込んだ。
 
「っ……」
 
 逆袈裟の一振りがヘカテーの前髪を撫でる。仰け反ったヘカテーは、身体を戻す勢いそのまま両手のチョークを再び投げた。
 今度は少女も叩き落とすほどの余裕が無い。ウィービングのように上体を柔らかく動かして躱す。その上体の動きに合わせて振り上げたハイキックと、少女の頭を狙ったヘカテーのハイキックが、
 
「「やッ!!」」
 
 頭上で綺麗に交叉した。
 衝突から間を置かず、両者は互いに跳び退って距離を取る。
 
「「………………」」
 
 相手の出方を窺う、張り詰めた沈黙。次のアクションに移るべく左足を僅かに下げるヘカテー……
 
「はい、終了ー!」
 
 の後ろから、平井が小さな身体を羽交い締めにした。小柄なヘカテーの足が、床から離れてプラプラと揺れている。
 
「……放して下さい。これは教師の矜持と尊厳を守る為の戦いなんです」
 
「ダ〜メ! あんまり聞き分けない事言ってると、千草さんに言い付けるからね」
 
 不服そうなヘカテーは、しかし坂井家の頂点の名前を出されて渋々く黙り込む。
 
「大上さんも定規しまって。………こんな所で力見せるなよ」
 
「私は挑まれたから受けただけ」
 
 一方で、大上準子の前には悠二が割って入って説得を始めていた。
 
『……………………』
 
 立ち込める白煙と倒れた同胞の姿を目の当たりにして、一年二組の生徒たちは思い知った。
 大上準子、転入から二日目。彼女は近衛史菜の終世のライバルとして目される事となる。
 
 
 
 
 そんな、騒がしくも新鮮な学校生活を過ごした日の夜。時刻は11時45分。坂井家は封絶に包まれていた。
 さして広くもない屋根の上に、五人にして七人が静かに佇んでいる。
 悠二にヘカテー、見学の平井、目的が不明瞭なヴィルヘルミナ、それに『炎髪灼眼の討ち手』。おまけで契約者たるティアマトーにアラストール。メリヒムがいないとは言え、随分と賑やかになったものである。
 
「メリーさんは?」
 
「勉強があるからって言ってた」
 
 少し離れた所で、平井と少女、ヴィルヘルミナが眺める先で、悠二が眼を閉じて右手を強く握り締めている。
 
「フンッ!」
 
 そして、開く。
 轟然と燃え上がった銀の炎が膨らみ、踊り、火球の形に固まる。ただしこれまでと違い、数は十。
 その炎弾は悠二の腕の一振りで撃ち出され、低い空をフワフワと漂う星へと飛んで行く。
 炎弾は星にぶつかり、互いに弾けて連鎖的な爆発を呼んだ。
 
「………三つ、外しましたね」
 
 爆炎の後に残った星を見上げて、ヘカテーは自分の顎先を摘む。
 頭上に浮かぶ星は、遥か夜空の彼方に在る本物の星ではない。ヘカテー自慢の攻撃系自在法『星』である。
 
「坂井く〜ん、段々命中率落ちて来てるよ。集中力が足りん集中力が」
 
 マネージャーのように言いつつ、手にあるノートのスコア表に7と追加する平井。その小言を耳に入れつつ、
 
「(………集中できないって)」
 
 と、悠二は心中で愚痴っぽく呟く。
 何せ、その平井の横から、さっきから物凄い眼光で睨み付けて来る少女が居るのだ。落ち着いて練習など出来はしない……と悠二は主張したい。
 どうせ口にしても「それこそ集中力が足りていない証拠です」とか言われるのは目に見えているので、あくまで心の中でだけだ。
 その一方で、
 
「……体術に比べて、自在法の上達は早いですね。そろそろ『器の共有』は無意味になるかも知れません」
 
 専属教師たるヘカテーの機嫌は悪くない。この無垢な少女はお世辞も言わないが、無闇に厳しく接したりもしない。思った事をそのまま口にするので、この一言は悠二を密かに喜ばせた。
 その喜びには、すぐさま水を差される。
 
「………『器の共有』って何?」
 
「うわ、大上さん!?」
 
 いつの間にか悠二のすぐ後ろに、フレイムヘイズの少女が接近していた。その瞳は既に、何かに燃える灼眼。
 
「ヘカテーの能力だよ。感覚共有……だっけ? 平たく言うと、超高精度の『手取り足取り』」
 
 詰問に近い問い掛けに、何故か少女の後ろから平井が応えた。
 少女の不機嫌の理由を何となく察する悠二は、促すように傍らのヘカテーを見て、
 
「しませんよ」
 
「……………」
 
 何事か口にする前に、取り付く島もなく断られてしまった。前から薄々思っていたが、とことん相性の悪い二人である。
 
「……事情は解った。“頂の座”に頼むつもりもない」
 
 少女は素っ気なく言って、自分の鍛練に入ろうと一歩を………踏み出そうとして、止めた。横顔だけ振り返らせて一言、告げる。
 
「それと、大上準子って言うのは偽名。前に私が割り込んだトーチの名前よ」
 
 平然と言って、何事もなかったように鍛練に入ろうとする。その背中に、
 
「………ちょっと待て」
 
 今度は悠二が声を掛けた。
 
「何よ」
 
「トーチに割り込んだって……どういう意味だ」
 
 訊ねる声に、只の疑問にはないトゲが混ざる。その剣呑さに気付いて、しかし変わらず平然と、少女は返す。
 
「隠れてる徒を捜す時に、手近な代替物に残った因果を自分にすげ替えて成り代わるのよ。別に珍しい事じゃない」
 
 無知な子供に当たり前の事を説くような目で。
 その……完全にトーチを道具としか見なしていない言い草に、同じくトーチである悠二の頭に血が上る。
 
「………アンタだってトーチみたいなもんだろ。因果を自分にすげ替える? その人の居場所を奪ったって事じゃないか」
 
 静かに、怒る。
 
「人じゃない、本人はとっくに死んでた。あれは歪みを緩和させる為だけの代替物よ」
 
 その怒りを向けられても、少女の態度は変わらない。それどころか、瞳の中に微かな侮蔑の色が混じる。
 
「私も同じ。私という人間はとっくに死んでる……ううん、“最初から存在しない”。お前は自分がトーチだから、トーチの存在理由を認めたくないだけ」
 
 これまで出会った異能者の誰よりも冷厳な言葉を突き付けて来る少女に……悠二は怒りに任せて何か言い返そうとして……
 
「………………」
 
 言えなかった。
 何も、言い返せない。
 少女の言葉は、“ただの事実”なのだから。
 
「お前、もっと自分の存在を自覚した方が良いわよ」
 
 俯いて黙る少年に容赦なく、少女は追い打ちを掛けた。
 一分か、二分か、重苦しい沈黙を経て………
 
「名前」
 
 零れるように、悠二は言った。
 
「あんたの本当の名前、教えてくれよ」
 
 この少女は大上準子ではない。たとえ人間を失っても、確かに彼女としてここに存在している。
 この、正しくて残酷な少女を、確かな存在として認める。理屈では敵わないと悟った悠二の、それがせめてもの反撃。
 
「………名前は無い。只の、フレイムヘイズ」
 
 それすら少女は撥ね退ける。いい加減のしつこさに眉を顰めて。
 
「他のフレイムヘイズと分ける時は、『贄殿遮那のフレイムヘイズ』で通る。呼び方なんてそれで十分よ」
 
「にえ……何だって?」
 
「『贄殿遮那のフレイムヘイズ』」
 
 名前が無い。
 予想外の事態に戸惑いつつも、悠二の心には怒り以外の何かが湧いた。
 彼女の“正しさ”は、単なる冷酷さから来ているのではないのではないか。そんな疑念が一瞬頭を過って、流れる。
 それでも、だからこそ、退かない。
 
「シャナ」
 
 力強く、一言、言い切る。
 
「“君”はシャナ。僕は今からそう呼ぶ」
 
 たとえ残影に過ぎないとしても、宝具が無ければ消えて無くなる存在だとしても。
 
「僕も只の残り滓なんかじゃない、坂井悠二だ」
 
 ―――ここに、確かにある存在として。
 
 
 



[34371] 5-4・『心の距離』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7abf13fd
Date: 2012/12/21 14:36
 
「………勝手に名前をつけないで」
 
 そう言い捨てて陽炎の向こうに消えて行く少女の背中を、平井ゆかりは無言で見送っていた。
 
「(………人間を失った存在、か)」
 
 その瞬間だけではない。悠二と少女が言い合っている最中も、平井は何も言わずに傍観していた。
 異界の住人に存在を奪われた少年と、自ら選んで人間を捨てた少女。どちらの主張に対しても、自分が何かを言う事は憚られた。
 真実を知っただけの“ただの人間”が何を言ったところで、彼らに対する侮辱にしかならない。……そう思えて、仕方なかった。
 何故なら平井は、人間だから。辛さも覚悟も知らない者の言葉は、どれだけ薄っぺらく響くのだろうか。
 
「(あたしは、やっぱり………)」
 
 遠い。
 力どころか、言葉すら届かないと思い知らされるほど、ひたすらに遠い。
 猛烈な寂寥を伴う距離を感じて、平井ゆかりは立ち尽くしていた。
 
「……どういうつもりでありますか、勝手に名前をつけるなどと」
 
「軽挙自重」
 
 そんな少女の心など置き去りにして、非日常は進んで行く。
 成り行きを静観していたヴィルヘルミナが、他人にも判るほどの不満を鉄面皮に表して悠二を睨む。
 
「それはこっちのセリフだ。名前が無いってどういう事だよ。あの子、あんたとメリヒムが育てたんだろ」
 
 悠二も怯まず、睨み返す。あの少女の、正しくも残酷な言い分には確かに腹が立ったが、『名前が無い』と聞かされた途端に『あの考え方は彼女本来の性格から来ているものではないのではないか』という疑念が浮かんだのだ。
 矛先は自然と、彼女の育ての親に向かう。
 
「彼女は物心つくより前から『フレイムヘイズとなる』……唯それのみを志して己を磨いて生き、そして完成した“完全なるフレイムヘイズ”。故にそれ以外の名など不要。強いて呼ぶとすれば、フレイムヘイズの称号たる『炎髪灼眼の討ち手』こそが彼女の名であります」
 
 冷たく、堅く、されど誇るように、ヴィルヘルミナは言い切った。聞いた悠二の方はと言えば………開いた口が塞がらない。怒りを通り越して呆れる。
 
「何だよそれ、結局みんなアンタが悪いんじゃないか………」
 
「これは他でもない彼女も納得している事。部外者の貴方に口を挟まれるのは心外でありますな」
 
「自分が育てて仕向けといて何が“納得”だ。他の生き方を教えなかっただけだろ」
 
「………………」
 
 他でもない、あの少女を思っていつになく怒っているらしい悠二に対して、ヴィルヘルミナの口撃にはキレが無い。
 理由は……二つ。
 
「(むむむ………)」
 
 完全なフレイムヘイズらしからぬ行動を、他でもない、少女の育ての親たる自分自身が彼らに見せてしまっている事。痛い所を突かれそうで、迂闊な主張が出て来ない。
 そして、もう一つは………
 
「(劣勢)」
 
「(うるさいであります)」
 
 目の前の坂井悠二が、メリヒムに力を分けて復活させたという、これまで知らなかった事実。
 このせいで、今までのように『“零時迷子”を蔵した気に入らないミステス』という単純な目で見れなくなってしまっていた。
 ヴィルヘルミナにとって、メリヒムは単なる子育て仲間ではない。些か以上に特別な存在なのだ。
 
「うっ………」
 
 と、埒もない口論を続けている内に、零時になってしまったらしい。悠二の中の『零時迷子』が、一日に失った存在の力を回復させた。
 
「………今日はあんまり集中できなかったな。平井さんもお疲れ様」
 
「あ……うん。また明日ね」
 
 それをきっかけに、悠二は気まずい空気から抜け出そうとする。今さらヴィルヘルミナを責めたところで問題が解決するわけでもないし、悠二も「シャナ」という呼び方を改めるつもりは無い。
 何より、
 
『お前、もっと自分の存在を自覚した方が良いわよ』
 
 悠二自身、自分の事で手一杯の状態だった。
 
「………解ってるよ、そんな事」
 
 負け惜しみにも似た呟きは、とても小さく、誰の耳にも届かぬ内に消えた。
 
 
 
 
 相沢町の外れに位置するとある豪邸。無駄に広い館の一室のベッドの上で、一人の少女が行儀悪く胡坐を掻いている。
 
「なによ、なによ、何なのよあのミステスは!?」
 
 今は髪と瞳を黒く冷やしたフレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』。一方的につけられた名前はシャナ。
 そのシャナが、先程までの冷厳とした態度が嘘のように荒れていた。
 
「燃え残りのくせに生意気よ!」
 
 原因は言うまでもなく、ミステス坂井悠二との口論にあった。実際に言い争っている時は、こんな風に怒鳴ったりはしなかった。あくまでも冷徹に事実だけを突き付けて黙らせてやるつもりだった。
 なのに、結果はこの通り。家に帰り、自室に着いた途端、押さえ込んでいた感情が、堰を切ったように、怒声となって発散されている。
 
「本当に何て変な……じゃない、妙な……違う、嫌な……そう、嫌なやつ!」
 
 常に無い取り乱しっぷりが一先ず途切れたのを見てか、漸く彼女の胸元のペンダント・神器『コキュートス』から、可笑しそうな声が漏れた。
 
「つまりアレは、お前が久しぶりに、まともに接した人間という事だ」
 
 響く声は彼女の契約者、“天壌の劫火”アラストール。
 父にして兄、師にして戦友たる彼の言葉にも、今のシャナは僅かに反発のようなものを覚えた。
 
「あれはトーチ、本人の残り滓よ」
 
 覚えて、だからこそ、明確な事実をはっきりと告げる。そんな少女に、アラストールは問い掛けのように返した。
 
「自分ではそう思っていない……いや、人間にとって、自己の存在にとって、さして重要ではないという事かも知れぬ」
 
 なぜ問うのか、それは、アラストールには解らないから。
 紅世に於ける世界法則の一柱、『天罰神』である彼は、自らの存在理由に矛盾する生き方を選べない。理解する事も出来ない。
 
「お前には、解るのではないか」
 
 しかし、この少女は違うはずだった。かつて一度、似たような事があって、やはり彼女だけは理解できていた。
 その事を指摘されていると気付き、己が半身たる大太刀を思い浮かべて、やはり少女は断言する。
 
「あいつは……『天目一個』とは違う。知らない内に喰われて、運良く『零時迷子』が転移して来ただけの……只のトーチよ」
 
 本当にそう思っているなら、こんな風に心乱したりはしないだろう。いつものように耳を傾けず、うるさいラジオでも見るように扱えば済む。
 常の彼女と違う姿にアラストールは気付いていながら、敢えて告げる事は無い。
 
「だから絶対、あいつには負けない……!!」
 
 本当に必要ならば、彼女自身が自ずと気付く。そう結論づけて、小さく小さく嘆息した。
 
 
 
 
「………………」
 
 坂井家の二階、悠二の部屋と向かい合う一室が、居候たるヘカテーに割り振られた自室である。
 その自室で布団に包まるヘカテーは……何故か今、寝つけない。時刻は深夜1時、常の彼女ならば早々に眠りに落ちている。なのに……今夜だけ眠れずにいた。
 
「…………わからない」
 
 原因は、解っている。
 先程の、鍛練の最中に起こった口論の事。解らないのは………口論が起こった、という事実そのもの。
 
「(悠二は、怒っていた)」
 
 心の機微に疎いヘカテーにも、悠二が怒っていたという事くらいは流石に解った。だが、なぜ怒っていたのかが解らない。
 ヘカテーが平井と同じく静観を保っていたのも、話の流れに全くついていけなかったからだ。
 
「(私がもう、話した事なのに……)」
 
 トーチは人間の残滓。フレイムヘイズは存在を失った器。喰われて消えれば、最初からいなかった事になる。
 全て、とっくに自分が悠二に話した内容。“そんな当たり前の事実”を聞かされた悠二が、なぜ今になって怒ったのかが解らない。
 
「(何か……おかしな所があったでしょうか)」
 
 悠二は、基本的に穏やかな性格だ。日常レベルで怒るところなど滅多に見ない。………その悠二があんなに怒るほどの何かが、あの会話の中にあった。
 それを理解できない事が……何故だか猛烈に淋しかった。
 
「(…………悠二)」
 
 室温は決して低くないのに、とても寒い。布団を被り、自分の身体を抱き締めても、一向に温まらない。
 
「悠二………」
 
 呼べば呼ぶほど、寒くなる。
 彼との距離を自覚して、その距離が何故悲しいのかも掴めぬまま、ただ心だけが冷えていく。
 
 
 
 
「…………………」
 
 その翌日、一般人の振りをしたフレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』は、ごく普通に御崎高校に登校する。
 その少し前の鍛練で何度も「シャナ」と呼ばれたが、一度として返事はせず、代わりに目にも止まらぬ連撃をお見舞いしてやった。無論、会話らしい会話などしていない。
 
「(勝手に名付けて勝手に呼び捨て。絶対馬鹿にしてる)」
 
 少女は当然、平井のように朝の坂井家にお邪魔したり、一緒に登校したりはしていない。鍛練が終われば家に戻り、別々に登校する。
 
「あ、シャナ」
 
「………………」
 
 そうして教室に入れば、また坂井悠二である。あっちは喧嘩腰で突っ掛かって来るわけではないが、逆にそれが腹立たしい。
 
「二度目のおっはよーー!!」
 
 などと思っていると、やたら元気な挨拶が聞こえて、後ろから両脇を持ち上げられてしまった。
 
「みんな、ちゅうもーーく!!」
 
 かと思えば、クラス中の視線を集める背後の誰か……と言うか、平井ゆかり。
 
「転校して間もない大上さんに、親しみを籠めてニックネームをつける事にしました!」
 
 嫌な予感しかしない。
 その予感に違わず、平井は高らかに宣言する。
 
「今日からこの子はシャナ! シャナちゃんをヨロシク! 呼ばないヤツにはヘカテーのチョークが飛ぶよ!」
 
 元より平井はクラスのムードメーカー的な存在である。その明るくエネルギッシュな言動に皆が引っ張られる事も珍しくない。
 現に今も、
 「何でしゃな?」「でも語呂はいいかも」「近衛さんはへかてー……だよな?」
 などと、それなりに手応えのある反応をしてくれる1年2組。
 その、盛り上がる寸前の空気の中で………
 
「…………………」
 
 平井が呼ぶところのシャナは、無造作に自分の脇を抱える両手首を掴み―――
 
「んきゃあーーー!?」
 
 一本……否、二本背負いで平井を床に叩きつけた。
 途端、静まり返る教室。
 
「ネ……ネバー、ギブアップ……」
 
 平井の呻き声だけが切なく響く。
 この時、1年2組の仲間達の心が確かに一つになった。
 
『(チョークを投げられるか自分が投げられるか、それが問題だ)』
 
 と。
 
 
 



[34371] 5-5・『弔詞の詠み手』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7abf13fd
Date: 2012/12/25 06:31
 
「(この馬鹿)」
 
 と言うのが、池速人が真っ先に抱いた感想だった。
 御崎アトリウムアーチに於ける、吉田一美とのデートのエスケープ。その埋め合わせ。
 何事もなくスムーズに行くのは難しいだろうと見ていたこの案件を、池思うところの馬鹿である坂井悠二は………
 
「吉田さん、今度の日曜、大丈夫かな?」
 
 よりにもよって、放課後の教室で持ち掛けやがったのである。しかも、まだ号令が済んで間もなく、殆どのクラスメイトが残っているタイミングで。
 
「は、はい! 大丈夫、全然です!」
 
 この瞬間を、はち切れんばかりの期待と不安で待っていた吉田はと言えば、今という状況に気を回す余裕もなく変な返事をしている。………下から見上げて来る好奇の視線に気付きもせずに。
 
「これ、大戸ファンシーパークのチケットなんだけど……この前の埋め合わせに」
「行きます」
 
 案の定、吉田ではない誰かがせっかちに了解する。二人が視線を下に向けたらば、そこには水色の瞳を輝かすヘカテーの姿。呼ばれてもいないのに同行する気十分である。
 
「ありゃま」
 
 傍で見ていた平井がニヤニヤと笑い、池が額を押さえて嘆息する。ああなったらもう、ヘカテーは梃子でも動かない。そうでなくとも、吉田の性格では「ついて来るな」とは言えないだろう。
 
「(まぁ、予想できた事ではあるけど………)」
 
 悠二が吉田と二人の時に誘えば良かった話だが、それをあの朴念仁に期待するのは不毛だった。吉田に対してはそれなりに意識して接しているのだろうが、他への注意が全く足りていない。
 ともあれ、悠二と吉田とヘカテーで遊園地………“お守り”という言葉が目に見える構図だ。
 ならば、いっそ。
 
「お、ファンパーか。そう言えば僕も行った事ないな」
 
 まるで偶然見掛けたように……いや、偶然見掛けたとしか思えない自然な声色で、池は悠二の手元を後ろから覗き込んだ。
 
「……ふぁんぱー?」
 
「遊園地だよ。近衛さん、行った事ある?」
 
「……ありません」
 
 そしてすかさず、眼をパチクリさせるヘカテーの好奇心を刺激する。この辺りで、悠二は漸く自身の失態に気付いた。
 
「(い、池君………?)」
 
 その、まるで近衛史菜の参加を促すような池の行動に、吉田は見知らぬ土地に取り残されたチワワのような眼を向けた。
 そして当然、池はその視線にも、吉田の不審にも気付いている。
 
「(任せて)」
 
 眼鏡を押さえて正面から見える表情を隠し、横目で吉田にだけアイコンタクトを送る。
 
「(あ………)」
 
 それだけで、内心で焦りに焦っていた吉田は開きかけていた口をつぐんだ。
 目が合っただけで「何とかしてくれる」と思わせる事が出来る、それがヒーローたる池の人徳なのだ。
 
「いや、池、これは……」
 
「どっちにしたって、近衛さんはついて来てただろ」
 
 埋め合わせが台無しになりそうな流れに口を挟む悠二にも、耳元で小さく言い含める。
 
「あ……そうだよ、な……痛っ!?」
 
 大方、緊張を伴うデートが流れる事に内心で日和ったのだろう。悠二はどこかホッとしたように呟く。その足をキッチリ踏みつけてから、池の眼鏡はターゲットを移した。
 
「平井さんも行きたいよね? 遊園地」
 
「へ? あたし?」
 
 或いは悠二よりもヘカテーと仲が良い、平井へと。
 要は、現地で悠二と吉田を二人きりにさせれば良いのだ。そして悠二からヘカテーを引き離せるとしたら、それは平井ゆかりを措いて有り得ない。性格から考えても、まず断る事は無いだろう。
 そう確信して訊ねると、
 
「…ぁ…………」
 
 何か、ハッとした風な吐息が聞こえて、
 
「良いんじゃないかな。平井さんも一緒に行こうよ」
 
 何故か、平井が応えるより先に悠二が促した。その、やや不自然な流れに、平井は触角を目聡く揺らす。
 
「う~む。いいよ、その代わり………」
 
 わざとらしく腕を組んで平井は唸る。勿体つけた言い回しで言葉を止めて、
 
(はっし!)
 
 ちょうど後ろを通って帰ろうとしていた少女の手を取り、
 
「行くならシャナも一緒だからね!」
 
「え……なに?」
 
 自分の手と一緒に、高々と振り上げた。シャナと呼ばれた少女、大上準子は、話が見えずに困惑する。
 そして池は、シャナ以上に困惑する。
 
「(お、大上さん……?)」
 
 この少女がヘカテー相手に一歩も引かず、隔意無く接する平井を投げ飛ばす様を池も見ている。
 悠二と他人ではないらしい事も含めて、ある意味ヘカテーより強力な難敵である。
 
「何の事か知らないけど、勝手に決めないで。あと、その名前……」
「良いじゃん、どうせヒマでしょ! そだ、メロンパン奢ったげるから」
 
 池が内心で冷や汗を流す間にも、相変わらずの平井ハリケーンが炸裂している。物理的に撃退された事もあるというのに、へこたれない少女だった。
 
「良いん、じゃないかな。大上さん、転校して来たばかりだしひん!?」
 
「シャナって呼ぶの!」
 
 おまけに、吉田までも控え目に賛成した。これで実質、大上準子の参加は決まったようなものだ。
 こうなると、空気を読んで様子を見ていた残る二人も黙っていない。
 
「待てぃメガネマン! そういう事なら俺たちも混ぜて貰おうか」
 
「サ~カ~イ~、女子にばっか声かけやがって。お前はそういう奴だったのか!?」
 
「どういう意味だ!?」
 
 一応“美”を付けてもいい容姿を持つ佐藤啓作と、大柄ながらも愛嬌があるので他者を威圧しない田中栄太だ。最近は個性的な面々とばかり知り合っていたから遊ぶ機会も少なかったのだが、悠二にとって池に次いで親しい二人である。
 デートと言うならお邪魔するほど野暮ではないが、これだけ人数が増えたなら黙って見送る理由は無い。
 
「言っとくけど、チケットは二枚しか無いからな」
 
 そして勿論、悠二たちが断る理由も無かった。むしろ男女比から見ても、名乗り出なければこちらから誘っていただろう状況である。
 
「只の遊具と侮るなかれ! 遊園地とは老若男女問わず胸躍らせる興奮のサンクチュアリなのだよ!」
 
 既に、平井による遊園地説明講座がヘカテーとシャナに施されている。デートの埋め合わせという当初の目的からは外れた気がするが、この雰囲気は今の悠二には堪らなく心地好い。
 いい感じに話がまとま………
 
「あーっ、それファンパーのチケット!?」
 
 ろうとした所で、後ろから微妙にぎこちない声が上がった。
 何事かと振り返ると、そこにはショートカットの、可愛いと言うよりは格好いいと言うべき容姿の女子が立っている。
 
「緒方さん?」
 
 緒方真竹。
 その名の通り竹を割ったようにカラッとした性格の、バレーボール部員。………だが、別に『いつもの仲間』と呼べるような間柄ではない。
 平井が分け隔てなく接するクラスメイトの一人、佐藤や田中と話している姿を見た事がある、といった程度。ハッキリ言って、友達と呼べるかどうかも微妙な相手だった。
 そんな緒方が何故こんなタイミングで話に食い付いて来るのか、悠二には皆目見当もつかない。
 
「大戸に新しく出来たヤツだよね。前から行ってみたかったんだぁ。お願いっ、私も一緒に連れてって!」
 
 パンッと両手を合わせて一同に懇願する緒方。その目がチラチラとシャナや平井、時々田中を見ている。
 
「いいんじゃね。オガちゃんと遊ぶのとか中学以来だし」
 
「オガちゃん、遊園地好きだったんだな」
 
 まず、同じ中学出身らしい佐藤と田中が賛成し、
 
「わ、私も全然構いません。大歓迎です」
 
「ふぅん。オガちゃん意外と頑張るじゃん」
 
 仲間内に女子が増えそうな空気に吉田は興奮して、平井は何やらニヤリと口の端を引き上げる。悠二にヘカテー、シャナや池もまた、反対する理由は無い。
 
「よし、じゃあナビゲートはこのメガネマンが引き受けよう」
 
 斯くして、吉田とのデートの埋め合わせは予想外の展開を経て、十人近い仲間らのイベントと化した。
 ―――今はただ、日常の続きとして、先に在るモノに気付く事なく。
 
 
 
 
「“私のベッドの四つの角に 巡って覗けや四人の天使”」
 
 近隣で最も高いビルの屋上で、朗々たる歌声が響き渡る。
 
「“一人は見張り 残りも見張り”!」
 
 その結句を受けて、天を差した指先から街中へと群青の波紋が広がる。広がった波紋は“この世ならざるモノ”に触れると跳ね返り、術者にその居場所を知らせてくれる。
 身を隠す標的を見つけ出す為に使われる、気配察知の自在法だ。
 その効果は違わず今も発揮され、標的の居場所を伝えているのだが、術者たる女性は苛立たしげに頭を掻くのみ。とても成功したという顔ではない。
 
「また違う場所ぉ? 一体なにがどうなってんのよ」
 
 栗色の長髪をポニーテールにした、モデル顔負けのスタイルを持つ美女。装いは群青色のスーツドレスに、伊達眼鏡を掛けている。
 その容姿に異様な貫禄も相まって、若くして大会社を立ち上げたやり手の女社長か何かのようにも見えるが、実際はそうではない。
 人間を捨て、その器に紅世の王を宿し、世界のバランスを守る“物”……フレイムヘイズである。
 
「マージョリーよぉ、いつまであ~んなザコ追い回すんだぁ? 捕まえんのが面倒なわりに歯応えはゼロ、ち~っと面白味に欠けるぜ」
 
 そのフレイムヘイズが広げる、画板を幾つも重ねたようなどデカイ本が火を吹いて嘆息する。女はその本をビシリと叩いた。
 
「お黙りバカマルコ。見つけた獲物はキッチリしっかりブチ殺さないと、シャツのタグが引っ掛かってるみたいで気持ち悪くて堪んないのよ」
 
「ヒーヒッヒッ、そりゃ律儀なこったなぁ我が勤勉な殺戮者マージョリー・ドー」
 
「そーよ、絶対に逃がさない」
 
 本型の神器『グリモア』に乗って、女は飛ぶ。世界のバランスを守る……否、紅世の徒を殺す為に。
 
「必ずブチ殺してあげるわ、“屍拾い”ラミー」
 
 女の名は“蹂躙の爪牙”マルコシアスのフレイムヘイズ―――『弔詞の詠み手』マージョリー・ドー。
 
 
 



[34371] 5-6・『メロンパン』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7c70e43d
Date: 2012/12/27 17:19
 
「ふ、ん………」
 
 相沢町の外れにある豪邸の一室で、ヴィルヘルミナ・カルメルは無表情に一枚の書類を眺めている。
 
「坂井悠二。十五年前に坂井貫太郎、千草両名の間に産まれ、この国に於ける通例に漏れず小、中と学校を卒業、現在の御崎高校に入学。武道はおろか、スポーツの経験すら希薄。当然、特別な訓練を受けていたわけでもない、であります」
 
「至極平凡」
 
 その対面で彼女の報告を聞いているのは、常ならば契約者の首にペンダントとして提げられている“天壌の劫火”アラストールである。契約者たる少女はと言えば、今朝は庭で行われている鍛練の真っ最中だ。
 
「……解せぬな。如何に“頂の座”の助力を得たとて、そんな凡人がほんの数ヶ月で斯様な変貌を遂げるものなのか」
 
「確かに……仮に力を得る事が出来たとしても、それを実戦で発揮する事は不可能でありましょうな」
 
 遠雷のような唸り声に、ヴィルヘルミナは全面的に同意する。『炎髪灼眼の討ち手』に相応しい器を求めて数多の子供を育てて来た経験が、実際に戦った手応えと合わせて確答を見出だす。
 
「聞けば……彼はまともな戦いは“あれ”が初めてという話であります。これは、勇敢や聡明という言葉で片付けられる問題ではない」
 
 自身の怒りすら敵を欺く道具に使い、手に在る宝具を最大限に活かし、死地の中でも一筋の活路を見つけ、拾う。
 度胸があるというだけでは、あんな判断は下せない。頭が切れるというだけでは、解っていても身体が動かない。そんな“当たり前の事”を、坂井悠二は実際に覆して見せた。
 これらの事実を、ヴィルヘルミナは冷静に分析する。
 
「恐らく彼は……その本質が感情の側に無い、特殊な人格の持ち主なのであります」
 
「本質が、感情の側に無い……?」
 
「ええ」
 
 怒りはある。恐怖もある。だが本質はその外側に在って、理性によって完全に制御されている。
 だから恐怖に呑まれる事も、怒りに我を忘れる事も無い。理性が『そうすべきだ』と判断すれば、感情を脇に置いて実行に移す事が出来る。
 
「………なるほど」
 
 その見解を、アラストールは戦友に対する信頼から肯定した。自分はあの少年を良く知らない。だが、ヴィルヘルミナがそう言うならば、と。
 
「“向いている”のかも、知れんな」
 
「…………………」
 
 アラストールの発言には応えず、ヴィルヘルミナは目の前のお茶を啜った。コップをテーブルの上に置いて、また口を開く。
 
「彼はまだミステスとなって日が浅く、人間としての自意識が強く残っている。これからの経緯次第で、白にも黒にもなる状態であります」
 
 あくまでもフレイムヘイズとして、不確定要素を伴うミステスへの対応を。
 
「これからの経緯、か………」
 
「……その通り、であります」
 
 フレイムヘイズとして……その前提に『ミステスの破壊』という選択肢が入っていない事にアラストールは気付いていて、しかし敢えて指摘しない。
 現在『零時迷子』に関わる案件は、非常に微妙な状況下にあるのだ。
 
「あの、ところで……彼は……」
 
 無表情を“装って”さりげなく訊ねるヴィルヘルミナ。彼女の言うところの“彼”が誰なのかを察したアラストールは、
 
「仕込みがある、だそうだ」
 
「………………」
 
 自分ではなく少女に告げられた言葉を、ヴィルヘルミナに伝えた。
 意味が解らないヴィルヘルミナは、それでも避けられているような気がして、無表情の奥で沈んだ。
 
 
 
 
 悠二がシャナに叩きのめされ、ヘカテーと平井が一緒にお風呂に入っている頃……一人の少女が、ボンヤリと目を覚ました。
 
「…………………」
 
 目を覚ましてすぐ、翌日に控えたカレンダーの赤丸に視線を向ける。
 少女の名は緒方真竹、悠二やヘカテーのクラスメイトである。
 
「(明日、田中と………)」
 
 と言っても、彼女は悠二やヘカテーと特別に親しいわけではない。仲が良いのは、同じ中学出身の田中や佐藤。
 ……その二人とも、高校に入ってからは少し疎遠になっていた。部活のバレーボールに励むようになり、交友関係も女子に傾くようになったからだ。
 
「(頑張らないと)」
 
 その一方で佐藤や田中は高校に入って明るくなり、中学時代のように孤立する事はなくなったが……別の意味で緒方の不安は増した。
 そう……彼らの仲良くなった、坂井悠二を中心とするグループには……何故か美少女が多いのだ。
 
「(一美は大丈夫だと思うけど……ゆかりとか大上さんは良く解らないし……)」
 
 それが、緒方からすれば気が気でない。
 態度の差こそあれ、誰もが坂井悠二に興味を持っているようにも見えるが……吉田一美を除けば確証は無い。いや、吉田とて、“田中が”という意味では要注意人物には違いない。何より、身長や素行に多少の問題はあれど、彼女らは皆 緒方が羨むほどの美少女揃いなのだ。
 
「(とにかく、誰が誰を好きなのか、明日きっちり見極めないと……!)」
 
 そう―――緒方真竹は、田中栄太が、好きなのだった。
 
 
 
 
 ファンシーパークへ遊びに行く約束の日、その前日に当たる土曜の午後。悠二とヘカテー、平井……そして、シャナが街中を歩いている。
 
「……お金ならある。別に買って貰わなくていい」
 
「だーめ! 先に奢って逃げ場失くしちゃえって企んでるんだから」
 
 用事はズバリ、平井がシャナをファンパーに連れて行く際に約束したメロンパンを買う事。勿論シャナがせがんだのではなく、平井が押し掛けて連れ出したのだ。シャナだけでなく、悠二とヘカテーまで。
 
「(平井さんなりに、気を遣ってくれてるんだろうなぁ)」
 
 シャナに言えば「余計なお世話」と一蹴されること請け合いだが、全く平井らしいサポートだった。このままではクラスで孤立する事も判り切っているし、悠二やヘカテーとも今のままでは良くない。これからも見張られるというなら、尚更に。
 
「(僕だって、無意味に喧嘩なんてしたくないけどさ)」
 
 仲良くするのは難しそうだ。と、頑張ってもみない内から弱気を出す悠二。
 敵意を剥き出しにしているヘカテーは勿論、悠二もシャナとは衝突してばかりだ。
 
「シャナ」
 
 それでもと、悠二は自分がつけた名前で少女の背中に呼んでみる。反応はやはり、無し。どころか、歩くスピードが急に上がった。
 
「(前途多難だな、こりゃ)」
 
 頭を掻いて誤魔化す悠二を、平井の肘が茶化すように突つく。
 先行して歩くシャナは信号を渡り……ものすごい普通にスーパーに入った。
 
「「へ?」」
 
「?」
 
 悠二と平井が思わず変な声を上げ、そんな二人にヘカテーが首を傾げる。
 平井はもう少し先のパン屋に向かうつもりだったのだが、主賓を置いて行くわけにもいかない。信号が変わりそうな事もあり、小走りにシャナを追い掛ける。
 
「…………………」
 
 そこにシャナは、いた。
 何か別の買い物をしに来たという様子はなく、一直線にレジ近くのパンコーナーを見ている。目線はやはり、種々多様なメロンパン。
 
「おーいシャーナちゃん。遠慮しなくても、パン屋でちゃんとしたメロンパン買ったげるよ?」
 
「? ……ちゃんとしたメロンパン?」
 
 まさかスーパーのメロンパンで済ませるつもりのなかった平井の言葉に、シャナは怪訝に眉根を寄せた。
 さっきと違って「シャナ」と呼ばれて反応するほどの重要案件なのだろうが、何を訝しんでいるのやら。
 
「そういえば学校でも、いつもスーパーの袋から出してるよな。……まさか、食べた事ないのか?」
 
「ありません」
 
 何故かヘカテーが応えた。その横で、どこか納得いかなそうにシャナが頷く。
 
「メロンパンって、これの事じゃないの?」
 
 そして、続け様に訊ねる相手は悠二ではなく平井である。何だかんだ言いつつも、平井には少しずつ心を開いている節があるシャナだった。
 
「ん~、それもメロンパンには違いないけど……ま、百聞は一見に敷かずだね」
 
 斯くして一行は再び移動を開始する。目指すはパン屋、求むるは焼きたてのメロンパン。
 
 …………
 ………
 ……
 
「到着ぅー!」
 
「「「……………」」」
 
 意気揚々と入店する平井に、口数の少なくなった三人が続く。何やら激しくお馴染みの違和感の残滓が漂って来るのだが、きっと気のせいだろう。些末な事に構ってはいられない。本日の主役は飽く迄もシャナ、引いてはメロンパンだ。
 
「………!!」
 
 その主役はと言えば、鼻腔を擽る芳ばしさに灼眼を見開い―――
 
「っシャナ、眼、眼……!」
 
「ッッ!? ………ごめん」
 
 悠二に注意されて、我に帰った。よろめいた両足を弱々しく踏ん張り、息も絶え絶え、悠二に対する言葉使いも何処か可笑しい。
 棚に向かい合うシャナの眼は、黒く冷えてなお恐ろしく真剣だった。
 
「………………」
 
 一方のヘカテーも、芳ばしい香りに瞳を輝かせている。他にも色んなパンがあるのだが、シャナの執着ぶりに興味を刺激されたのか、ヘカテーもまたメロンパンに向かう。
 今だけは並んでパンを見る二人が仲の良い友達みたいに見えて、悠二は小さく頬笑んだ。ついでに口も挟んでみる。
 
「これは? 本物のメロンの果汁入りとか書いてるぞ」
「ダメ」
 
 一瞬と待たずに却下されてしまった。ギラリと、どこまでも本気の視線で悠二を睨むシャナは、身体ごと振り向いて両手を腰に当てた。
 そして、告げる。
 
「メロンパンっていうのは、網状の焼型が付いてるからこそのメロンなの! 本物のメロン味なんて、ナンセンスである以上に邪道だわ!!」
 
「「………………」」
 
 雄々しく、勇ましく、力強く、シャナの主張が響き渡った。
 
 この後、20分の厳選を経て一同はパン店を発つ。
 炎髪灼眼のフレイムヘイズの世界が変わるのは、その3分後の事だった。
 
 一方、
 
「まずは……駅で乗り換えて、同じほーむの向かいに乗って……」
 
 銀髪長身の美青年は、触角頭の女子高生に貰ったメモを凝視していた。
 
 
 



[34371] 5-7・『サッキーの魔手』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7abf13fd
Date: 2013/01/04 07:42
 
 遂に訪れし日曜の午前10時。駅前から出るシャトルバスに揺られて、坂井悠二一行は辿り着いた。
 
「キターーー!!」
 
 今回はいつものメンバーにシャナと緒方を加えた大所帯。流石に男子は席に座れなかったものの、スムーズにここまで来れたのは実に運が良い。
 
「喜ぶのはまだ早いよ。遊園地って年中混むものだし、並ぶのはバスだけじゃないからね」
 
 押し上げた眼鏡のレンズを光らせるメガネマン。プロデュースを任されただけあって、リサーチは完璧なようだ。
 因みに、準備万端なのは池だけではない。
 
「(さ、坂井君と遊園地……!)」
 
 人数分の昼食を詰めた巨大なバスケットを必死に運んで来た吉田一美(今は悠二が持っている)、
 
「こんな大勢で遊園地なんて、中学時代のアンタ達じゃ考えられないわよね~」
 
「それを言うなって……」
 
「勘弁してくれ……」
 
 些か以上に空回り気味の覚悟を抱いてこの場に臨んだ緒方真竹も、今日という日を心待ちにしていた。
 ……もっとも、緒方の方は既に当初の目的が外れつつある。久しぶりの遊園地と、田中栄太。他者への警戒以上に、自分自身の目先のイベントに主旨が移っているのだった。
 
「……ゆーえんち」
 
「…………………」
 
 一方で、小さな二人は初めての遊園地に目を奪われている。瞳を輝かせているヘカテーは勿論、シャナの方も隠しきれない好奇心が滲み出ていた。
 何だかんだ言ってこの二人、似た者同士なのではないかと思う悠二である。
 
「いざ往かん! 娯楽と興奮のパラダイスへ!」
 
 誰よりテンションを上げている平井の雄叫びを受けて、一行は楽園へと乗り込む。
 
 ―――その姿を、一人の中年に見られている事に気付かぬまま。
 
 
 
 
 敵は、思わぬ所に潜んでいた。
 
「…………………」
 
 表情には出さずとも期待に胸を膨らませて、ヘカテーは並んでいた。
 並ぶ列は、ファンシーパーク最大のアトラクション『スクリーム』。関東有数の高さと回転を誇るジェットコースターである。
 
「いきなりメインディッシュかよ」
 
 という佐藤のぼやきに対する池の答えは、
 
「いきなりって言うか、今を逃したら多分乗れないんだよ」
 
 というもの。
 メガネマンの事前調査によれば、昼のメンテナンスに滑り込むようなこのタイミングこそが、人気の『スクリーム』に乗る絶好のチャンスらしい。そして実際に、一行は割りと楽に列に並ぶ事が出来た。
 しかし、敵は思わぬ所に潜んでいたのだ。
 
「(……迂闊だった)」
 
 それは……ヘカテーやシャナの暴走でもなければ、悠二の隣に座らせようと考えていた吉田が絶叫マシーンに乗れなかった事でもない。
 
「では、計りますよ」
 
 遊園地の警備員、である。
 サングラスを掛けたライオンのぬいぐるみ・サッキーに促されて列から連れ出されたかと思えば、そこはスタッフ用の準備室。
 用件は即ち、ヘカテーとシャナの身長。身長140㎝未満の子供は、絶叫マシーンに乗らせてもらえない決まりがあったのだ。
 まずはシャナが、測定する。至近の皆が息を呑む中で………
 
「……141㎝、はい結構です。お手数をお掛けしました」
 
 ギリギリ、合格して通過する。小さく安堵の吐息を漏らしたシャナを平井が抱き締めた。
 ……されど、まだ危難は去っていない。
 
「あの……帽子を取って貰えますか」
 
「ヤです」
 
「これはヘカテーの身体の一部なんです!」
 
「二人共やめなさい」
 
 不安の裏返したる、
 
「背伸びしないで下さい」
 
「してません」
 
「……踵が浮いてますよ?」
 
 懸命な悪あがきを経て、身長計の可動部がヘカテーの頭に当たった。
 
『…………………』
 
 誰もが、口を閉ざす。
 
「…………………」
 
 スタッフの女性も、何も言わない。
 身長計の測定値は…………“137㎝”という値を、無情にも弾き出していた。
 
 
 
 
「………………」
 
 誰も、何も言えない。
 ベンチに座って力なく虚空を見つめる少女の姿には、無粋な声援も半端な慰めも憚られてしまう。
 
「(小さいとは思ってたけど、まさか140ないなんて……)」
 
 事前に知っていたとしてもどうしようも無かっただろうが、それでも池は自身の迂闊さに頭を抱える。
 
「(一緒に怖いの以外を回ろうって、誘おうかな……)」
 
 それは、ヘカテーに仄かな対抗意識を持つ吉田でさえ同じだった。それほどまでに、今のヘカテーは痛々しい。他者の心情に疎いシャナでさえ余計な口を挟まない事が、悲嘆の程を物語っている。
 
「ぃよし! 来ねンゴァ!?」
 
 来年また来よう、と言おうとした佐藤の脇腹に悠二の、割りと痛い肘鉄が刺さった。佐藤は来年になればヘカテーの背が伸びているだろうと思って言ったのだろうが、それは酷な励ましというものだ。
 
「(来年だろうと、同じだって)」
 
 悠二も細かくは知らないが、今までの経緯からヘカテーは数百年単位で生きている。恐らく、外見も身長もずっと同じだったろう。当然、一年程度待ったところで何が変わるとも思えない。
 
「(けど、どうしようもないよな……)」
 
 もちろん悠二もヘカテーを可哀想に思っているし、何とかしてあげたい。今日という日をヘカテーがどれだけ楽しみにしていたか、誰より近くで見てきたのだ。……だが、無理なものは無理なのである。
 
 順番確保の為に列に残った緒方と田中を除いた皆にお通夜のような空気が下りる………直前、
 
「いつまでもオガちゃん達待たしとくわけに行かないでしょ。ほれ、みんな戻って戻って」
 
 平井が、平然とそんな事を口にした。
 誰よりヘカテーを可愛がっている筈の平井のこの発言に、誰もが耳を疑う。怪訝な視線を一身に受ける触角娘は、涼しい……どころか微妙に得意気な顔で胸を叩いた。
 
「ヘカテーの事ならアタシに任せてよ。今日一日、フルパワーで楽しめるように元気づけて見せるから♪」
 
 悪戯っぽくウインクを一つ残して、風となって走り去る平井。呆気に取られる一同を置き去りに、ヘカテーだけが攫われて行く。
 
「ゆかりちゃん………?」
 
 吉田の呟きが訝しげに漏れても、それに明確な答えを返せる者はこの場にいない。
 言われた通りに『スクリーム』に戻るわけにもいかず、呆然とその場に立ち尽くす……も、2分と経たずに二人は戻って来た。
 
「……皆、『スクリーム』に戻っていると聞きましたが」
 
 そして、いつもと変わらない調子で口を開くヘカテー。ついさっきまでの、目を覆いたくなる程の悲痛なオーラが、綺麗サッパリ消えている。
 どんな手品を使ったのかと目で訊ねても、平井は何も言わない。表情一つ変えずに触角を揺らすのみだ。
 
「……あたしはもう大丈夫です。一美と一緒に絶叫マシーン以外を回りますから、皆は気にせずジェットコースターに行って下さい」
 
「え? えぇ!?」
 
 そういうワケにも行かないだろう、と言う間すら待たず、ヘカテーは吉田の手を引いて駆け出した。
 一度、ピタリと足を止めて……
 
「12時半に中央広場の時計の下です」
 
 ビシッと、昼食の際に集まる時間と場所を言い残し、今度こそ姿を眩ました。
 物理的にも心情的にも置いてきぼりを食らった池と佐藤、シャナの前で、さらに勝手に事態は進む。
 
「行きましょう」
 
 ヘカテーを元気づけると言って飛び出した筈の平井が、何食わぬ顔で『スクリーム』に向けて歩き出したのだ。……心なしか、楽しげなオーラが滲み出ているような気がする。
 
「(別に“頂の座”が落ち込んでても、私には関係ないか)」
 
 無神経なりに空気を読んでいただけのシャナが、何を思うでもなく続く。
 
「……まぁ、しょうがないか。ヘカテーちゃんも元気になってたみたいだし」
 
 追い掛けたところでジェットコースターに乗れてあげられるわけではないと悟って、佐藤が続く。
 
「(吉田さんまで、連れてかれちゃったな……)」
 
 二人の少女への申し訳なさに胸を痛めつつ、池が続く。
 
「……やれやれ」
 
 種類の判らない溜息を零した悠二が……続かない。
 
「………悠二?」
 
「僕はヘカテー追い掛けるよ。これ持ってちゃジェットコースターなんて乗れないし、やっぱり放っておけないしね」
 
 振り返って怪訝な目を向けて来る平井に、悠二は手にしたバスケットを軽く持ち上げて見せた。
 何を思ってか、平井はその眼をじ~っと数秒見つめてから、コクリと頷いた。然る後にテテテと走り去る。
 
「お前、今から二人を捜し回るの?」
 
「大丈夫、すぐ見つかるから」
 
「……いや、何を根拠に言ってんだよ」
 
 悠二もまた、バスケット片手にヘカテーの後を追う。その行動に最後の心残りを預けて、池と佐藤も今度こそ平井の背中を追った。
 
「(……これで坂井と吉田さんも一緒か。ヘカテーちゃんも居るけど、こればっかりは仕方ない)」
 
 歩きながら、池はそんな事を思う。
 最初はアトラクションに夢中になるヘカテーを悠二から引き離す計画だったが、こうなってしまっては絶叫マシーンに乗れないヘカテーと吉田を別々に組ませる事は難しい。
 などと考えてしまう自分に自己嫌悪を抱きながら、不意に気付いた。
 
「(……何で僕、ここまで吉田さんに肩入れしてるんだ)」
 
 公正明大を身上とする筈の自身の、矛盾した行動に。
 
 
 
 
 悠二やヘカテーがファンシーパークで遊んでいる最中、御崎市に唯一人残された異能者たるヴィルヘルミナ・カルメルは、シャナの暮らす館の中を掃除していた。
 
「…………………」
 
 その手にした箒が、先程からずっと同じ所ばかりを掃いている事にティアマトーは気付いているが、敢えて指摘しない。
 迷えるメイドの頭の中では、昨日の夕方のとある場面が延々と回り続けていた。
 
『もうホテルは予約取っときましたから、ちゃんと時間通りに行って下さいね』
 
『解ってる。何度も言うな』
 
『も~、メリーさんがミスしないように言ってるんですよ? あたしも明日は忙しいんですから』
 
 昨日から何処かに出掛けている“虹の翼”メリヒム。それを駅前で見送っていた平井ゆかり。偶然目にしたそれらの光景が、頭にこびり付いて離れない。
 当の平井に訊ねても「ん~、内緒にしとけって言われてるんですよね」という答えしか得られなかった。
 
「(何故、平井ゆかり嬢に………)」
 
 まさか“そんな事”はあり得ないとは思うが、そうでなくとも納得できない。
 現代に不慣れなのは判っている。誰かの力を借りねばならない場面もあるだろう。しかし、ならば何故、その“誰か”が自分ではないのか。……そう思わずに居られない。
 
「………嫌な奴」
 
 消え入るような呟きが、唇の先から漏れ出た。ティアマトーに聞かれている事は判っていても、それでも。
 
「(嫌な奴……!!)」
 
 今度は心の中だけで、罵倒する。
 報われる事もなく、捨てる事も出来ない気持ちを、ずっと、ずっと抱かされる。そんな、心の底から忌々しい想い人を。
 
「姫」
 
「……何でありますか、ティアマトー」
 
 余計な事を口にすれば殴り付けてやる、という気を隠しもせずに拳を固めるヴィルヘルミナは……
 
「気配」
 
 その一言と、我に帰った己が感覚によって、掴む。―――この世ならざる存在感の持ち主が、この御崎市に来ていると。
 
 
 



[34371] 5-8・『鼓動の先』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:240ee466
Date: 2013/01/08 20:08
 
 いるかどうかも不確かな恋敵を見極め、自身の恋路を一歩踏み出さんと決意を持って今日を迎えた緒方真竹。
 ……だが、その成果は今のところ全く挙げられていなかったりする。
 
「はぁ……はぁ……はぁ……」
 
 『スクリーム』の名に恥じぬ超速回転を味わった緒方は、半ば放心状態でか細い呼吸を繰り返す。
 因みに、ジェットコースターで叫びを上げる彼女の女の子らしい一面を隣席で見ていたのは……田中栄太ではない。
 
「…………♪」
 
 スリルと昂揚に紫の瞳を輝かす平井ゆかり、である。近衛史菜と吉田一美は別行動を取っており、そもそも彼女が大上準子を誘ったという経緯もあって、当然平井が大上の隣に座るとばかり思っていたのだが。
 
「オメガ」
 
「……え? それ、私の事?」
 
 そんな緒方に、平井がファンシーパークのパンフレットを見せて来る。見れば平井は、バンジージャンプの紹介欄を指で差していた。
 
「えっと……次はこれに行きたいの?」
 
 表情は変えず、瞳だけを光らせて、何度も首を縦に振る平井。
 確かに平井は、如何にもこういう場所を全力で楽しみそうな性格ではあるが………凄まじい違和感があるのは何故だろうか。
 
「それなら、午後の1時半がベストだね。今だと一周回って来た客が引っ掛かるだろうから」
 
 その横から、幹事を自認する池が解りやすく説明を入れる。
 
「これは?」
 
「ああ、それなら多分大丈夫」
 
「では、行きましょう」
 
 脇目も振らず、早歩きに次の標的を目指す平井。何だかんだで積極的に続くシャナ。その弾む背中を見ながら………
 
「……平井ちゃんって、あんな感じだったっけ?」
 
 一連の流れを見ていた佐藤が、零れるように呟いた。
 
 
 
 
「きゃあああああーーー!!」
 
「吉田さん!?」
 
 井戸の中からろくろ首が飛び出し、それを見た吉田一美が悲鳴を上げて脱兎の如く逃げ出した。
 
「……吉田さん、お化け屋敷もダメだったのか」
 
「……まあ、予想は着いていましたけど」
 
 同伴していた悠二とヘカテーは、必然的に置いてきぼりを食う形となった。
 性格と身長、それぞれの理由で絶叫マシーンに乗れない吉田とヘカテー。悠二はその付き添いである。
 しかし、そうして巡る絶叫マシーン以外のアトラクションは、初っ端から失敗したと言わざるを得ない。
 
「……これで良かったの?」
 
 あっという間に闇の彼方へ逃走した吉田を見送り、悠二は丁度いいからと傍らの少女に訊いてみる。
 
「一美本人が行きたいと言ったのですから、今回は仕方ありません」
 
「そうじゃなくて……」
 
 別にお化け屋敷をチョイスした事を言ったわけではなかったので、もう一度訊き直す。
 
「これなら確かにヘカテーは楽しめるけど、平井さんが乗れないだろ? 絶叫マシーン」
 
「ええ、だって今回のメインはヘカ………」
 
 それにごくごく自然に答えようとしたヘカテーは、そこで言葉を切った。
 
「…………………」
 
 長いようで短い沈黙を経て、
 
「あ、あはは……もしかしなくても、バレてる?」
 
 ヘカテーは、悪戯が見つかった子供のように笑って後ろ頭をポリポリと掻いた。
 そのヘカテーらしからぬ仕草に「やっぱり」と納得して、悠二は軽い溜息を吐く。
 
「まぁ、『リシャッフル』の事を知らなかったら、すぐには気付かなかっただろうけど」
 
「あちゃ、やっぱり無理だったか。さっすが坂井君だね」
 
 むしろ嬉しそうに、腕を組んで何度も首肯するヘカテー………否、“ヘカテーの身体に意思総体を宿した平井ゆかり”。
 
「いつから気付いてたの?」
 
 宝具・『リシャッフル』。
 
「殆ど最初から。ヘカテーは自分を“あたし”なんて言わないし、平井さんがあの時のヘカテーを放っとくわけないだろ」
 
 いつぞや依田デパート……“狩人”フリアグネが根城にしていた廃ビルで見つけた、『覗き込んだ者と覗き込まれた者の意思総体を入れ換える』黒い筒である。
 
「あり? “あたし”って言ってた?」
 
「思いっきりね」
 
 平井はこの宝具を使って、自分とヘカテーの身体を一時的に交換したのだった。140㎝未満なのは“ヘカテーの身体”、だったら、別の身体を使えば身長制限は難なくクリアである。
 
「うっわー、気付かなかった。クセって怖いね~」
 
 今頃ヘカテーは、平井の身体で絶叫マシーンを思う存分堪能している事だろう。「ヘカテーが全力で楽しめるようにする」とはつまり、こういう事だったのだ。
 
「で、話を戻すけど……良かったの? 平井さんは」
 
 ただ、この方法には一つ問題がある。即ち、ヘカテーの身体に入った平井の方が、身長制限に引っ掛かるという問題が。
 
「フフン、あたしがヘカテーボディで楽しんでないとでも思うのかね、少年?」
 
 何故か勝ち誇った平井の声に目を向ければ、優越感たっぷりの瞳と眼が合った。……“同じ目線の高さ”で。
 ヘカテーの小柄な身体と目線の高さが同じ、という違和感に、視線を下に向けてみたらば……平井はフワフワと宙に浮いていた。
 
「浮かぶな! って言うか何で浮けるんだよ!?」
 
「これでもあたし、小学生の時は舞天術の練習してたの。内緒ね?」
 
「……そんな理由で飛べるのか」
 
 誰かに見られたらマズいので、肩を掴んで着地させる。
 慌てる悠二を、ヘカテーの顔でひとしきり笑った平井は、スキップするような軽い足取りで少し前に進んだ。
 そうして、ワンピースの裾を花のように広げて振り返る。
 
「でも、それ坂井君だって同じでしょ。あたしに気を遣ってこっちに来なくても良かったのに」
 
「え……あっ」
 
 言われて、悠二は初めて気がついた。ヘカテーを優先して身体を交換した平井と、それを気に掛けて追い掛けて来た自分は、ファンシーパークの全てを満喫出来ないという点では同じなのだと。
 要領が良いようで何処か抜けている少年をクスリと笑って、平井は大きく一歩近寄った。
 
「ねっ、また今度二人で来よっか」
 
「は!? えっ、と……」
 
 その近さに、本来ならまず見られない太陽の様な“ヘカテーの笑顔”に悠二は当惑する。それに気付いているのかいないのか、平井は構わず続ける。
 
「だって今回、あたし達だけフルに楽しめないもん。埋め合わせしても罰当たんないと思うわけよ。坂井君の奢りで」
 
 跳ねる心臓に焦燥を煽られ、微妙にぎこちない動きで後退る悠二。そんな少年に首を傾げる平井に、悠二は何となく顔を背けた。
 
「……池とじゃなくて、いいの?」
 
「? 何で池君が出て来るの?」
 
「はあっ?」
 
 悠二からすれば至極当然な提案に、平井は心底不思議そうに頭上に疑問符を浮かべる。
 その態度に、曲がりなりにも協力者を自認していた自分が何だか馬鹿らしくなって、悠二は大袈裟に天を仰いだ。
 
「はぁ……解ったよ。また今度、一緒に来よう」
 
「やたー! 坂井君の奢りだー!」
 
「ちょ、待った! 解ったってのはそっちじゃなくて……!」
 
 飛び跳ねながらお化け屋敷の奥に逃げる平井を、悠二が慌てて追い掛ける。
 
「(………可愛かったな)」
 
 どうにも落ち着かない自分の胸を、服の上から押さえつけるようにして。
 
 
 
 
「んめー! 坂井はいつもこんなの作って貰ってんのかよ!」
 
 良く油を切ったカツサンドを齧った田中が、割りと恥ずかしい大声で喝采を上げた。
 
「いや、マジで美味いわ。坂井に軽く殺意が湧くくらいに」
 
 佐藤は田中ほどオーバーではないが、だからこそ深みを感じさせる呟きを漏らし、
 
「うぅ……美味しいんだけど、何だろ……この複雑な感情」
 
 同じく一般的な女子高生たる緒方は、女の子としての劣等感から やや凹みつつ卵焼きを頬張り、
 
「良い仕事してますね」
 
 平井は吉田に向けてビッと親指を立て、
 
((モグモグ))
 
 ヘカテーとシャナは、ひたすら一心不乱に食べる。
 因みに、まだヘカテーと平井は入れ替わったままなので、ヘカテーな平井にグッジョブを出された吉田は、チョークに怯えて密かに身構えていたりした。
 
「うん、やっぱり美味しい」
 
 一番心尽くしを届けたかった少年も、本当に美味しそうに食べてくれている。それが、吉田にとっては何より嬉しかった。
 その笑顔を横目に見て、池速人は静かに唐揚げを食す。心中は……やや気負い過ぎた自己嫌悪に沈んでいる。
 
「(何やってんだ、僕は………)」
 
 吉田のサポートをするつもりで付いて来たというのに、蓋を開けて見れば悠二、吉田、ヘカテーの三人を一緒に行動させているだけ。
 身長制限のあるヘカテーを、無難に吉田と別行動させる方法も思い付かない。これなら、あのまま成り行きに任せた方がマシだったのではと思えるほどだ。
 救いと言えば、吉田とヘカテーの間の空気が比較的穏やかな事くらいである。
 
「午後はどうする?」
 
「午前と同じでいいだろ……って言いたいトコだけど、坂井、代わるか?」
 
「いや、いいよ。実は僕も絶叫とか苦手なんだ」
 
 悩めるメガネを脇に置いて、暢気に午後の予定を話す男子共。もちろん、池も反対しない。吉田とヘカテーがセットならば、せめて悠二を付けないと意味が無いからだ。
 
「吉田さん、何処か行きたいトコある?」
 
「えっと、その……メリーゴーランドに……」
 
「では、“わたし達”は東周りで行きましょう」
 
 そして、その悠二組も十分に今の状況に対応している。
 それは間違いなく良い事である筈なのに、そこに自分の手助けが入っていない事にやるせなさを感じる池だった。
 
「まずは、ばんじーじゃんぷをするんです」
 
「あの、ゆかり? それ……私たちもしなくちゃダメ?」
 
「足を縛って飛ぶんだから、怖がる必要なんて無い」
 
「理屈じゃないんだってば!」
 
 ふと見れば、池と同チームの三人娘も かしましく会話に華を咲かせている。その後ろからパンフレットを覗き込んだ佐藤と田中も混じる。
 
「(……余計なこと考え過ぎだな)」
 
 一人だけ今日という日を楽しめていないような気がして、池は密かに自分を戒めた。
 
 
 
 
 悠二らが思い思いに遊園地を楽しんでいる頃、
 
「何よこの街、トーチだらけじゃない」
 
「ヒヒッ、こーりゃまた派手な喰いっぷりじゃねーか。久々に大物が狩れそうだぜぇ?」
 
 彼らの街・御崎市に、人ならざる存在が足を踏み入れていた。
 そしてそれは、悠二の良く知るメリヒムでも、ヴィルヘルミナでもない。
 栗色の長髪をポニーテールに束ねた、モデルも裸足で逃げ出すプロポーションを誇る美女だった。
 
「まだ生きてればの話でしょ。とりあえず今感じてる気配が、徒なのかフレイムヘイズなのか、確かめるわよ」
 
 その美女が、画板を幾重にも重ねたような巨大な本を開く。
 
「“マタイマルコルハヨハネ 四方配して 寝床の夢を破るオバケを小突かれよ”」
 
 その内に秘された式をブースターとし、詠み上げる詞を自在法に変えて広げる。
 群青色の波紋が彼女を中心にして街全体に広がり、外れた存在を洗い出す。
 
 ―――その内の一つが、一人のフレイムヘイズに触れた。
 
 
 



[34371] 5-9・『今日という日は戦い』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2013/01/09 21:36
 
「………ラミーのクソ野郎じゃないわね」
 
 栗色の髪を軽く振って、美女はつまらなそうに鼻を鳴らす。
 水面に石を投げ入れると、そこを中心に波紋が広がる。それは水面に在る異物に跳ね返り、新たな波紋となって異物の存在を中心に知らせてくれる。それが、彼女の使った気配察知の自在法の性質だった。
 そうして掴んだ街に在る気配は……大きい。逃げるしか能の無い彼女らの標的とは明らかに違う。
 
「こりゃフレイムヘイズみてーだなぁ。ケーッ、面白くもねぇ」
 
 おまけに、彼女が使った自在法の気配を察してここに急行しているらしい。
 徒は普通、危険な上に何のメリットも無いフレイムヘイズとの戦いを避けるので、これは明らかに同業者の取る行動だった。
 やがて気配は近づき、体感でもハッキリとフレイムヘイズだと解る。次いで、遠目に視認出来た。……見知った顔である。
 
「あいつ、か。こりゃもう狩り終えた後ね」
 
「ま、当初の予定通りにラミーの野郎を噛み千切るとしようや。我が執拗なる追跡者、マージョリー・ドー」
 
 今後の方針を“決定した”一人にして二人の前に、あっという間に気配の主が降り立つ。
 桜色の髪と瞳を持ち、浮世離れしたメイド姿のフレイムヘイズ。『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメル。
 
「……貴女でありましたか」
 
 気配を逆探知して急行し、ここ……御崎アトリウム・アーチの屋上に降り立ったヴィルヘルミナが真っ先に浮かべた感想は、
 
「(……最悪であります)」
 
 というものだった。
 只でさえフレイムヘイズは、復讐者という成り立ちである為に一人一党、同じ討ち手の言葉にさえ耳を傾けない者が多い。
 中でも彼女は、ヴィルヘルミナが最も忌避していた人物である。
 
「久しぶり……って程でもないか。香港で会ったばっかりだもんね」
 
 “蹂躙の爪牙”マルコシアスのフレイムヘイズ、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドー。
 その気性と実力から、紅世の徒の間で『殺し屋』と呼ばれる程の戦闘狂。……だが、ヴィルヘルミナが彼女を危険視するのは、その気性ゆえではない。
 
「(絶対に彼女を、坂井悠二に会わせるわけにはいかない)」
 
「(断固阻止)」
 
 彼女こそが、恐らくこの世の誰よりも“あの炎”を壊したいと願っているだろう事を知っているからだ。
 
「一応訊くけど、この街で暴れてた大食らいは もうブチ殺しちゃったわけ?」
 
「……この地を蚕食していた徒は“狩人”フリアグネ。既に、討滅済みであります」
 
「“狩人”!? かーっ、ここがあのフェチ野郎の巣だったのかよ! 美味しい獲物を取られちまったなぁ、我が鈍足なるブッ!?」
 
「おだまり、バカマルコ」
 
 マージョリーが訊き、ヴィルヘルミナが答え、本型の神器『グリモア』に意識を表出させるマルコシアスが騒いで、その宿をぶっ叩かれた。
 無論ヴィルヘルミナは、誰がフリアグネを討滅したかについては語らない。
 
「まぁいいわ。で、私たちは“屍拾い”ってザコを追っ掛けてここまで来たんだけど……あいつまで狩ったとか言わないでしょうね」
 
 このまま空振りを嘆いて去ってくれれば……と淡い期待を持っていたのだが、続く言葉であっさりと砕かれた。
 それも……聞き逃す事の出来ない標的の名によって。
 
「“屍拾い”……? 彼女は世界のバランスに配慮する例外的な徒であります。何故それを討滅する必要が……」
 
 “屍拾い”ラミー。
 その名の通り、屍……つまりトーチの存在しか摘み取らない徒。ヴィルヘルミナにとっては、古い友とも呼べる人物である。
 しかし、マージョリーにとっては違う。伊達眼鏡の奥の瞳が、まるで猛獣の様に獰猛な光を放つ。
 
「例外? 例外なんてあるわけないでしょ。徒は全て殺す………殺して、殺して、殺して殺して殺して殺し尽くすしかないのよ!!」
 
 叫ぶ口の端から、群青色の炎が荒い吐息となって吐き出される。
 
「(………やはり)」
 
 香港で出会った時、既に予兆が顕れていた。こうなるだろうという危惧が見事に当たって、それでもヴィルヘルミナは言葉を重ねる。
 
「トーチとはいえ、彼女が永い年月を懸けて集めた存在の力は膨大なものになっている筈。その彼女を討滅すれば、制御を失った力が溢れて、周囲の存在は………」
「それが甘いって言ってんのよ。危ないからって放っておいたら、集めた力でいつ何をしでかすか解ったもんじゃないわ!」
 
 その言葉さえ、最後まで言い切る事も出来ず遮られた。
 
「…………………」
 
 実際、こういう事は珍しくない。
 人間なのに人間じゃない、多少の悩みや苦しみなど無視して突き進める力と、それを忘れてしまったわけではない心が混在するのがフレイムヘイズだ。
 知らず知らず奥底に蓄積した負の感情が行き着く先が、今の彼女……切迫感と殺戮衝動の塊。
 
「……説得は、不可能なようでありますな」
 
「装着」
 
 だからと言って、ヴィルヘルミナも看過できるわけがない。頭上のヘッドドレスが解け、広がり、純白の鬣を溢れさせる妖狐の仮面へと変貌する。
 
「へぇ、やる気?」
 
「ヒャッハー! いいねいいねー、いつになくノリがいいじゃねーの!」
 
 マージョリーもまた、その全身を群青の炎で包み、己が戦闘形態を取る。
 立てたクッションのように不細工な、ずん胴の獣。『弔詞の詠み手』が纏う炎の衣・『トーガ』である。
 
「今の貴女を放置する事は出来ないのであります。フレイムヘイズとして」
 
 桜色の炎が舞い踊り、陽炎の結界が周囲一帯を包み込む。
 
「あらそ、別にいいわよ? こっちも手加減しないから」
 
 着ぐるみ染みた獣の、牙だらけの口を三日月型に歪めてマージョリーが笑う。
 『万条の仕手』と『弔詞の詠み手』。
 思想の噛み合わぬ二人のフレイムヘイズが今、ぶつかり合う。
 
 
 
 
 緑地の斜面に並んで座り、悠二、平井、吉田の三人はファンパー名物の抹茶アイスを食す。
 頻りに遠慮する吉田の分を、『お昼をご馳走になったから』と奢るのも一苦労であった。
 
「(今の僕らって、どういう風に見られてるんだろ)」
 
 先ほどのメリーゴーランドのせいか、周囲の視線が厭に気になる悠二である。
 元々今日は吉田のデートをエスケープした埋め合わせという事もあり、基本的に吉田の要望を優先する形となっている。
 ここに同行しているのが本当にヘカテーならこうは行かないのかも知れないが、実際はヘカテーボディの平井である。ある意味、池の作戦は彼の預かり知らぬ所で滞りなく進められているとも言えた。
 
「(近衛さんって……本当は坂井君の事、どう思ってるんだろ)」
 
 その事実が、密かに吉田を混乱させてもいる。
 吉田は勝手にライバル視してはいるが、ヘカテーが“それらしい”行動を起こしたのは昼食の際の一度きり。今回のデートに同伴しようとしたのも、単に自分が行きたかっただけなのかも知れない。
 その上、三人という……或いは直接対決と言えなくもない今の状況で、まるで張り合って来る気配が無い。
 根拠の無い確信に疑問を抱き始める吉田である。……もっとも今のヘカテーは平井なので、その葛藤は意味の無い空回りでしかないのだが。
 
「(ううん、近衛さんは関係ない。大事なのは、坂井君が誰を好きかどうか)」
 
 空回りと言えば、お化け屋敷は酷かった。
 吉田としては、『怖くて男性の腕に抱きつくシーン』に仄かな憧れを抱いてのチョイスだったのだが、結果はあの有様。やはり、恐慌状態の自分などに期待するものじゃない。
 
「さ、坂井君!!」
 
 頑張るべきは、事前に心の準備を終えた自分。本当ならば夕陽の沈みそうなタイミングが望ましいが、いつどんなハプニングがあるか判らない。やるなら、目標に程よく近づいた今。
 
「わ、わわ、私と一緒に! 観覧車に乗ってくれませんか!」
 
 倒れるのではないか、と心配するくらい顔を真っ赤にして、吉田は精一杯の大声で言い切った。
 
「あっ……うん」
 
 その勢いに、悠二は半ば呆気に取られつつ頷かされていた。無粋な少年は、何故に今に限って吉田がこんなに興奮しているのか解っていない。
 一方、
 
「(一美、意外と頑張るじゃん)」
 
 平井は当然、解っている。吉田は、良くも悪くも恋に恋する恋愛至上主義である。わざわざ察するまでもなく、好きな男の子との観覧車など憧れのシチュエーションだろう。
 
「(軽い気持ちで応援ってわけにもいかないけど、コレくらいなら良いかな)」
 
 残ったコーンをバリバリと噛んで、平井はヨイショと腰を上げる。
 
「では、行きましょうか」
 
 乗る直前で離脱して、さりげなく二人きりにしてやろう。そんな事を思いながら先に立って進む平井。
 ―――その肩を、後ろから悠二が掴んだ。
 
「悠二………?」
 
 何事かと振り返ると、肩を掴む少年は、見ているこちらが怖くなるほど強張った表情で前を睨んでいた。
 その視線を追って、平井は再び視線を前方に戻す。
 
「(………トーチ?)」
 
 そこには、四十代半ば程に見える、落ち着いた物腰の中年が立っていた。胸の中心には、人魂とも見える揺らめく灯火……存在を失ったモノの証があった。
 
「(え……なに……)」
 
 平井は、トーチを見るのは初めてではない。ヘカテーの身体に意識を宿す今は勿論、普段も宝具『ヒラルダ』の加護によって在りのままの世界を認識できている。
 だから、目の前に居るトーチも……特別に珍しい存在ではない。
 ……なのに、目が離せない。そこにおかしなモノがあるように思える。まるで……ヘカテーやメリヒムを見ている時のような感覚。
 
「封絶」
 
 平井の感じた悪寒を肯定するかのように、悠二の唇が一つの自在法を唱えた。
 
 
 
 
 バンジージャンプを終え、飽きる事なく次なる楽しみを模索するヘカテー。その忙しい背中を見失わないように、池ら四人が懸命に続く。
 
「も、もうムリ……もう怖いのヤダ……」
 
「なははは! 情けないこと言ってますなぁオガタクン?」
 
「……いや、俺もそろそろキツいぞ。田中、お前よく平気だな」
 
「……平井さん、あっちのミラー・ラビリンスなんてどうかな?」
 
 よろめく緒方の背中を田中が笑いながらバシバシと叩き、やや顔色の悪い佐藤の呟きに同調した池がさりげない回復を目論む。
 それら、自分には共感出来ない皆の様子に首を傾げるヘカテーは、鏡の迷宮も気になるのか、大して悩みもせず首を縦に振った。
 
「ふぅ…………」
 
 実は誰よりもグロッキー寸前だった池は、大きく安堵の溜め息を吐いて……ふと、気付く。
 
「………大上さん、どこ行った?」
 
 最後尾を歩いていた筈の大上準子の姿が、どこにも無いという事に。
 
 
 



[34371] 5-10・『屍拾い』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:d756801c
Date: 2013/01/15 14:55
 
 銀の炎が揺蕩う陽炎の世界、人の残影と見える異界の住人を前にして、坂井悠二は身構える。
 
「……平井さん、下がってて」
 
 右手に大剣を握り、左手に半透明の切片を浮かべ、吉田と、ヘカテーの身に意識を宿す平井を庇うように前に出た。
 
「(何で、こんな近くに来るまで気付けなかったんだ……!?)」
 
 外見だけなら、街で見掛けるトーチと変わらない。胸に灯火も見えるし、ヘカテーのような存在感は………
 
「(! ……そうか)」
 
 無い、という事実を再確認して、接近に気付かなかった理由を悟る。超常を操る紅世の徒にしては、あまりに力が小さ過ぎるのだ。それこそ、普通の人間と変わらない……悠二でも直接眼で見ないと判らないほどに。
 
「(何かされる前に仕掛けるか……いや、迂闊に手を出すのはマズいか……!?)」
 
 完全に想定外の事態に大いに慌てながらも、悠二は必死に思考を巡らせる。現れた徒、後ろの平井、破壊なら修復できる封絶、喰われたら二度と戻らない、吉田や他の人たち。
 それらの判断要素を数瞬で流し、攻撃、という短絡的な結論を選ぼうとした時………
 
「……やれやれ、これはまた随分な挨拶だ」
 
 目の前の中年が、困った風に嘆息した。
 敵意の無い穏やかな声、只それだけで悠二が足を止めたのは、経験の浅さからくる自信の無さ故だ。その躊躇を掬い上げるように中年は続ける。
 
「彼を止めてくれないか“頂の座”。とにかく封絶だけでも解いて貰いたい、今すぐに」
 
 言って、立てた指先に深緑色の火を点した。それが何かの証明になる、なって当たり前だと言うように。
 
「(ヘカテーの……)」
 
「(知り合い?)」
 
 その言葉と仕草の意味する事に悠二……とついでに平井は気付いて、短絡的な攻撃を思い直した。
 しかし、ヘカテーの知り合いだから敵ではないとは言えない。紅世の徒は、この世に存るだけで人間を喰っていると断言できる存在なのだから。
 
「(………まずい)」
 
 そもそも、ヘカテーとどの程度の知り合いなのかも判っていない。……となれば、迂闊に会話を続ける事も難しい。今のヘカテーは平井………すなわち、外れた世界での戦いなど全く出来ない無力な少女。この状態を知られれば、相手が一体どう出るか判らない。
 が、しかし………
 
「? ……どうした、何を隠れている」
 
 沈黙を保てばバレないというわけもない。中身が人間だなどと普通は考えもつかないだろうが、あまり怪しまれるのは不味い。
 
「……戦う気は無いって事か?」
 
「それも含めて、巫女殿から説明して貰った方が早いと思ったのだ。どうも、君には随分と警戒されてしまっているようだからな」
 
 仕方なく悠二が会話するも、やはり知り合いのヘカテーが話さないというのは不自然だ。矛先はすぐ平井に向く。………そろそろ、限界だった。
 
「………何かする気なら、わざわざ馬鹿正直に出て来ないか」
 
 本当に弱いのか、それとも気配を隠すのが巧いのかは判らないが、気付かれていないのに正面に姿を現したという事実を飲み込んで、悠二は一先ず警戒を解く。
 
「僕は坂井悠二。トーチで……気付いてるだろうけど、ミステスだ」
 
 と言っても、封絶を解くわけでも、大剣を納めるわけでも、ヘカテーの状態を話すわけでもない。そのままの状態で話を聞こうと決めただけだ。
 
「私は“屍拾い”ラミー。真名の示す通り屍……つまりトーチしか喰わない徒だ」
 
 そんな悠二の疑心を感じてか、中年……否、“屍拾い”ラミーは、いきなり核心を突いて来た。
 
「……トーチしか、喰わない?」
 
「そう。それも、代替物としての機能を殆ど失った消えかけのモノだけをだ。灯りの強いトーチを摘めば、世界に歪みが生まれてしまう」
 
 まるでフレイムヘイズみたいな事を言う徒だ、と思いつつ、悠二は傾聴する。
 
「フレイムヘイズは“討滅の道具”などとも呼ばれるが、その目的はあくまで世界のバランスを守る事。故に無害でさえあれば、無為に同胞を殺そうなどとは考えない。この身体も、顕現の規模を抑える為にトーチの姿を借りている」
 
「………なるほど」
 
 人間を喰いたくないから、などという話よりは余程説得力があるし、筋も通っている。……だが、口で言うだけならと思えてしまうのも確かだった。ヘカテーに説明を預けたがるのも頷ける。
 ラミーの方はと言えば、この期に及んで肯定の一つもしてくれないヘカテー(平井)をジッと見ていた。数秒見つめてから、諦めたように悠二に視線を戻す。
 
「無為に同胞を殺さないとは言ったが、それは契約した王の話でな。器である人間の方は、その限りではない」
 
「フレイムヘイズは普通、復讐者だもんな」
 
「実は今も、厄介な連中に追われている。封絶を解いて欲しいのはその為だ」
 
 理屈は確かに、通っている。ヘカテー(平井)の前に堂々と姿を現したのも、助力を願っての事なのだろう。そろそろ信用してもいいだろうか、と悠二が思い始めた時………
 
「!?」
 
「来たようだな」
 
 封絶の中に、圧倒的な存在感の塊が飛び込んで来た。一瞬“厄介な連中”とやらを連想して身を震わせた悠二だが、これは……違う。
 
(ドンッ!)
 
 石畳を砕くほどの高さから降って来たのは、黒衣を纏う炎髪灼眼のフレイムヘイズ。悠二が呼ぶところのシャナだった。封絶の気配を感じて急行して来たのだろう。
 
「……何やってるの」
 
 わざわざ封絶を張っておきながら棒立ちの悠二を横目に睨んだシャナは、その灼眼をそのままラミーへと移した。そんな少女を見て、ラミーは漸くの安堵を口にする。
 
「久方ぶりだ、“天壌の劫火”。早速で済まんが、彼に封絶を解くよう言ってくれないか」
 
 シャナではなく、その胸の『コキュートス』に意識を表すアラストールに。
 
「“屍拾い”ラミーか……。坂井悠二、封絶を解け」
 
 言われたアラストールも、いともあっさりそんな事を口にする。あまりの急展開に、悠二だけでなくシャナも呆気に取られた。
 
「あんた……“天壌の劫火”とも知り合いなのか?」
 
「古い友だ。これで少しは信用して貰えたかな」
 
 ヘカテーの知り合いと言うならともかく、アラストールの知り合いと言うなら話は別だ。徒がフレイムヘイズに見逃されるのは、人を喰っていない場合のみに限られる。
 
「………解ったよ」
 
 漸く悠二は警戒を解いた。シャナの踏み砕いた路面を修復し、大剣と自在法を納めて、隔絶された世界を解放する。
 
「……あれ、大上さん?」
 
 それは、変わらず日常の中に居る吉田一美も同じだった。“少し目を離した隙にやって来た”大上準子の姿に目を丸くしている。
 
「……吉田さん、ちょっとここで待ってくれる?」
 
「え……あっ、はい! 待ってます!」
 
 そんな吉田に短く言い残して、悠二は人ならざる者らを促して場所を変える。
 大上準子が、近衛史菜が、そして見知らぬ中年が続く背中を……吉田は呆然と見送った。
 
「観覧車………」
 
 少しずつ離れていく距離が、どうしようもなく切ないモノであるように思えて仕方なかった。
 
 
 
 
「驚いたのは私も同じでね。まさか、“頂の座”と『炎髪灼眼の討ち手』が行動を共にしているとは思わなかった」
 
 手近な喫茶店に足を運び、五人にして四人の異能者は向かい合っていた。ブラックのコーヒーを傾けるラミーの仕草は、いちいち上品で紳士的である。
 
「まぁ、説明すると長くなりますから、今はザックリ省きましょう。それより……“厄介な連中”について詳しく訊きたいんですけど」
 
 さっきまで置物かと思うほど無言だった平井も、敵ではないと判るや否や堰を切ったように喋り出した。
 その豹変ぶりに、悠二を除く三者が一斉に注目する。
 
「様子がおかしいとは思っていたが……君は“頂の座”ではないな?」
 
「身体はヘカテーなんですけどね。『リシャッフル』って言えば解りますか?」
 
「……なるほど、意志総体を入れ換えているわけか」
 
 しかし、シャナやメリヒムの時といい、相変わらず凄まじい順応力である。いくら相手がトーチしか喰わないと言っても、人外の存在である事に変わりないというのに。
 勝手に話が進められる傍らで、
 
「(……本当に、平井ゆかりだ)」
 
 シャナは密かに、宝具『リシャッフル』の発現を観察していた。ヴィルヘルミナから聞いていた話ではあるが、こうして実際に目にするのとでは やはり違う。
 
「(心の壁があると発動しない宝具………)」
 
 それは、御崎市での生活が打算や演技ではあり得ない事の証明でもある。平井ゆかりは、御崎市で普通に生活していた一般人なのだから。
 思う間にも、会話は進む。
 
「私を追っているフレイムヘイズは『弔詞の詠み手』、討ち手の中でもとりわけ徒の討滅に拘る戦闘狂だ」
 
「うぁちゃ~………」
 
 ラミーから追跡者の聞いて、平井は間髪入れずテーブルに頭を打ち付ける。そのリアクションを訝しみつつ、シャナは胸元のアラストールに視線で訊ねた。
 すぐに応えが返って来る。
 
「いま聞いた通りの戦闘狂だ。恐らく、同じフレイムヘイズたる我らの言葉にも耳は貸すまい」
 
「だけじゃないですよ。このままいくと、坂井君が超ピンチです」
 
 それに、平井が沈鬱な面持ちで続ける。
 
「え゛…僕……?」
 
「『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーが契約する切っ掛けになった仇敵が、“銀の炎を持った正体不明の徒”なの。バレたらきっと、ラミーさんなんて そっちのけで狙われるよ」
 
 悠二の顔から一気に血の気が引いた。無駄と知りつつ、抗弁してみる。
 
「僕……そんな人知らないんだけど……」
 
「そりゃそでしょ。そもそもあたし達が生まれる何百年も前の話なんだから」
 
 ミステスの炎の色は通常、それを喰った徒の炎に準ずる。或いは内に宿した宝具によって変化する。
 しかし、悠二を喰らった“狩人”の炎は薄い白。また、『零時迷子』の持ち主だった『約束の二人(エンゲージ・リンク)』の炎は琥珀。どちらも悠二の“銀”には一致しない。
 となれば、後は“壊刃”サブラクとやらが撃ち込んだという謎の自在式しか原因が思い付かない。
 ……といった話を、平井から早口で告げられた。
 
「……つまり僕は、完全なとばっちりで狙われるかも知れないのか……」
 
「ガンバレっ、巻き込まれ系主人公!」
 
「うるさいよ……」
 
 情けなく肩を落とす少年は、来るべき戦いがすぐ傍にまで迫っている事を、まだ知らない。
 
  
「はあっ!!」
 
 仮面から溢れる鬣が万条の刃となって、『トーガ』の獣を刺し貫く。貫いたリボンの表面に桜色の自在式が光り、内から粉々に爆砕した。
 だが、飛散した獣の中身は……空。
 
「“サリー お日様の周りを回れ あっはっは”!」
 
「“サリー お月様の周りを回れ ヒャッハッハ”!」
 
 無闇に高らかな歌声が反響し、飛散した『トーガ』が群青に揺らめく炎となって円を描く。
 燃え盛る炎は輝きを増し、瞬く間に十を越える獣の群れとなってヴィルヘルミナを包囲した。
 
「(『屠殺の即興詩』……!)」
 
 『弔詞の詠み手』が得意とする、自在法発現の予備動作。本来なら構築の難しい自在法も、歌という形式で発動させる事によって通常ではあり得ない速さで行使する事の出来る弔詞である。
 
「防御!」
 
 全周に白刃を伸ばす事による迎撃は、間に合わない。
 リボンで編んだ純白の壁で、自身を半円に覆い隠す。一拍遅れて、その壁をトーガの吐き出す炎の怒涛が呑み込んだ。一溜まりもなく焼き散らされたリボンの中は……空。
 まるで先程のお返しと言わんばかりの回避に眉を潜めるマージョリーを、
 
「っと!?」
 
 床から伸びる槍衾が襲った。咄嗟に跳び上がって避けようとしたトーガの半数が逃げ遅れ、貫かれる。
 
「下だぁ!」
 
 ヴィルヘルミナはリボンの壁を隠れ蓑に、床を砕いて階下へと逃れ、再び床を目隠しにして攻撃して来た。
 それを一瞬で看破したマージョリーは、熊よりも太い両手の先から特大の炎弾を放り投げた。
 群青の火球は上層階を軽々とブチ抜き、その下に浮遊していたヴィルヘルミナに迫り………
 
「なっ―――」
 
 リボンで編んだ盾に当たる寸前で、弾けた。轟然と吹き付ける火炎を、それでも懸命に凌ぐヴィルヘルミナを……いつの間にか炎から変じたトーガが再び包囲している。
 
「“パイ作ったのはぁ、だれ!?”」
 
 背後から迫る巨腕にリボンを一条絡めて、右のトーガにぶつけさせる。
 
「“パイ取ったのはぁ、だれ!?”」
 
 正面から伸びる爪の側面を軽く押して、岩をも砕く打撃を容易く流す。
 
「“かれ!!”」「“あのこ!!”」「“パイめっけたのはぁ、だれ!?”」「“おれ!!”」「“かれ!!”」
 
 牙が、爪が、炎が、自在式が、
 
「“パイ食ったのはぁ、だれ!?”」「“あのこ!!”」「“おまえ!!”」「“おれ!!”」「“かれ!!”」「“あのこ!!”」
 
 至近距離から暴風の如く襲い掛かり、“その全てを捌かれる”。正に『戦技無双の舞踏姫』の異名を取るに相応しい絶技。
 
「ふっ……!」
 
 小さな呼気と共に放たれたリボンが鋭く伸びて、全ての獣を貫いた。しかし今度も手応えは無い……どころか―――
 
「!?」
 
 弾けたトーガの群青の光が自在式と結晶し、全てのリボンを取り巻いて這い登っ来た。咄嗟にリボンを切り離そうとするが―――間に合わない。
 
「(捕縛の自在式……!?)」
 
 リボンを伝って獲物を捕えた自在式は、群青色の鎖のようにヴィルヘルミナを空中に縫い止めた。
 
「“パイ食べたいって言ったのはぁ”…………」
 
 身動きの取れなくなったヴィルヘルミナの耳に、上から怖気を誘う吸気音が届き、次の瞬間………
 
「“みんなぁーーー!!!”」
 
 容赦なく吐き出された群青の奔流が―――仮面の討ち手を攫った。
 
 
 
 
「あぁ~疲れた。ったく、余計な横槍入れてくれちゃって」
 
 封絶の解けたアトリウムアーチの屋上で、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーは長く背に伸びたポニーテールを靡かせる。
 あれからもしつこく挑み掛かって来る『万条の仕手』を撃退し、広がった破壊の跡を手近なトーチで修復し、足りない分は仕方ないので自前の力で補った。
 たかが“ケンカ”でこれだけの力を浪費するのは、如何に戦闘狂と呼ばれる彼女らにとっても本意ではない。
 
「今日は疲れたからおしまい! ……って行きたいトコなんだけどねぇ」
 
「そうも行かねーわなぁ」
 
 『戦技無双』との戦いを前にしても、二人は“それ”を逃さず捉えていた。
 ヴィルヘルミナを感知した気配察知の自在法……その反響が、戦闘が始まる寸前にも返って来ていたのだ。
 
「せっかく獲物を見つけたってのに、むざむざ逃がす選択肢はねーわなぁ」
 
 あれだけ遅れて反応があったという事は、それだけ遠くに気配があるという事だ。にも係わらず、ここまで跳ね返って来るほどの反響があった。
 如何に紅世の徒と言えど、只そこに在るというだけでは こうはならない。何らかの自在法でも使っていなければ。
 
「確か、あっちの方角よね」
 
 街に巣食っている徒ならともかく、そんな距離にいる徒を放置すれば明日にはもう居なくなっているかも知れない。そう判断して、迷わず指先を伸ばす。
 
「“娶ってみなけりゃわかんない!”」
 
「“いってぇ女房の膝と肘!”」
 
「“ノリでくっつけたもんなのか!”」
 
 先のものとは違う、方角を一つに絞ったより精巧な走査の式を放つ。
 今度は、自在法を使っていなくとも反応があった。徒かフレイムヘイズかまでは判らないが、間違いなく“王”の気配。
 
「見つけた……!」
 
 美貌を凶悪そのものに歪め、『グリモア』に乗ったマージョリーは飛び立つ。
 ―――その去り往く炎を、ボロ雑巾のようにされたヴィルヘルミナが力無く見上げていた。
 
「(このまま、では………)」
 
 本来のマージョリーなら、連戦という不利を押して実力の知れない敵を追ったりはしない。そんなフレイムヘイズなら、この世界で数百年の時を生き抜いて行けない。
 そんな当たり前の判断も出来ないほど、今のマージョリーは己が殺意に取り憑かれている。フレイムヘイズとしては迂闊過ぎる選択だが、今のヴィルヘルミナにとっては最悪のケースだ。
 
 彼女が向かった先は大戸………坂井悠二らが居る場所だった。
 
 
 
 
「………来る」
 
 「『万条の仕手』が敗北した」というラミーの報告を聞いてほどなく、新たな気配察知の自在法を悠二らはその身に受けていた。
 既にラミーは、大きな気配を持つ悠二達と別れて姿を眩ませている。
 
「…………………」
 
 ヴィルヘルミナの敗北は、彼女を育ての親に持つシャナに少なからず衝撃を与えはしたが、こういったフレイムヘイズ同士の争いは片方が痛い目を見て終わり、というのが常だ。殺されている事はないだろう。
 
「『弔詞の詠み手』は自在法を縦横無尽に操る自在師だ。無双の戦技を得手とするヴィルヘルミナ・カルメルとは、些か以上に相性が悪い」
 
 そんな少女を元気づける為か、或いは単純に敵の戦力を再確認する為か、シャナの胸元でアラストールが難しく唸った。
 
「他人事みたいに言ってるけど、それってつまり“僕らとも相性が悪い”って事だろ」
 
 その隣には、悠二の姿も当たり前の如くあった。
 
「……何でそうなるのよ」
 
「シャナは剣しか使えないし、僕も今回は炎を使えない。体術主体って意味では、僕らも同じじゃないか」
 
「その名前で呼ばないで」
 
 ややわざとらしいくらい威圧的に、シャナは悠二を突っ張ねる。そんな少女の悪態に、悠二はあくまでも心中だけで溜め息を吐いた。
 しかし、本当の問題はそんな事ではない。
 
「………あれ、一番ピンチなのあたし?」
 
 状況把握から間を置かず敵の探索網に引っ掛かってしまったせいで、未だにヘカテーな平井である。
 直前の話からして、狙われるのはラミーや悠二だけだと思いがちだが、ヘカテーとてフレイムヘイズに狙われて当然の立派な徒なのだ。おまけに、今は無力な平井が入っている。
 
「シャナ、ヘカテーどこ?」
 
「うるさいうるさいうるさい! その名前で呼ばないでって言ってるでしょ! 大体、平井ゆかりだと思ってたのに連れて来るわけない」
 
 手掛かりが一つ、潰えた。
 
「平井さん、ヘカテーは『ヒラルダ』を……」
 
 『ヒラルダ』さえ持っていれば、ヘカテーも後れ馳せながら封絶を目指したかも知れない………という一縷の望みを向けた悠二の目の前で、平井がフリフリと『ヒラルダ』を揺らす。
 
「何で持って来た!?」
 
「だってヘカテーに持たせたら失くしそうだったんだもん!」
 
 もう一つの希望も、潰えた。つまりヘカテーは、ここにフレイムヘイズが来る事どころか、さっきの封絶の発生にすら気付いていない。
 
「マッハで見つけて来る!!」
 
 悠二に言われるのも待たず、平井は猛然と走り出した。その忙しない背中を見送って、悠二はより一層、己を強く顕現させる。
 まるで挑発しているような存在感を至近で感じて、シャナは小さく鼻を鳴らした。
 
「怖かったら隠れてていいわよ。銀の炎、見せたくないんでしょ」
 
「ホントはそうしたいんだけどね。君が負けたら僕も、身体の入れ替わったヘカテーと平井さんもおしまいだ。足並み、嫌でも揃えてくれよ」
 
 馬鹿にした風に言ってみても、悠二に怯む様子は無い。自分一人では勝てないと当たり前に受け入れているのも、彼に対抗意識を燃やすシャナとしては複雑だった。
 そんな少女の胸元から、アラストールが諭すような声を出す。
 
「この戦いは、ただ己や知己を守る為の戦いではない。世界のバランスと、この地に溢れる多くの存在を守る戦いだ」
 
 そういえば、シャナとの関係が良好ではないせいか、アラストールとはロクに話した事がないなぁ……などと思いつつ、悠二は首を傾げた。
 
「“屍拾い”は、ただ漫然とこの世を流浪う為にトーチを摘んでいるわけではない。ある一つの自在式を起動させる為、討ち手を刺激せぬよう細心の注意を払いながら、気の遠くなるような作業を繰り返している」
 
 ある自在式、というのが何なのかも気になったが、今は訊かずに傾聴する。
 
「奴はそうして集めた膨大な力を、独自の自在法で制御している。もし奴が討滅され、制御を失った力が解放されればどうなるか………」
 
「とんでもない爆弾みたいな物か。………なおさら負けられなくなったな」
 
 相槌を打ちながら、悠二は心中で密かに思う。
 
「(ラミーって、何者なんだ?)」
 
 膨大な力を持っているという割に、そんな気配は微塵も感じられなかった。感知に優れた悠二でも全く気付けなかったヴィルヘルミナの敗戦を、彼だけが気付いていた。
 とても、フレイムヘイズに怯えながらトーチを地道に摘んでいるような徒には思えない。
 
「(何にしても、生き残ってからの話だよな……!)」
 
 神経を研ぎ澄ませる悠二の感覚に―――殺意の塊が侵入して来た。
 
 
 



[34371] 5-11・『蹂躙の爪牙』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:d756801c
Date: 2013/01/19 06:41
 
「封絶」
 
 少女の唇がその一言を唱え、紅蓮の結界が遊園地の一画を呑み込んだ。既に至近に迫りつつあったフレイムヘイズをも内に取り込んで。
 これは必然、誰より大きく気配を撒き散らしていた悠二による、明確な必然だった。
 
「………よし」
 
 余人を巻き込まない戦闘の舞台、という本来の用途はもちろんだが、この封絶にはもう一つの意図がある。即ち、封絶の外でヘカテーを捜す平井を敵の眼から隠すという狙いが。
 
「“友達想い”は良いけど、そろそろ自分の心配でもしたら?」
 
「……ああ、そうするさ」
 
 傍ら、皮肉にしか聞こえないシャナの言葉を耳に、悠二も感じる。
 
「来るぞ」
 
 群青色に燃える殺意の塊が、猛スピードで接近して来るのを。感じて、構えて、そして来た。
 
「「ッ……!!」」
 
 空中で弾けて散る、群青の花火という形で。
 
「またハズレぇ? 何でこの辺はフレイムヘイズばっかゴロゴロしてんのよ」
 
 炎の中から現れたのは、栗色の髪を後頭で高く束ねたスタイル抜群の美女。
 
「………つーか、この封絶の色……」
 
 その足下で声を発するのは、画板を幾つも重ねたような巨大な本。
 だが、何よりも目立つのは全身に漲る存在感。悠二どころかシャナでさえ感じた事が無いほどの、恐ろしく凶暴かつ獰猛な闘争心。
 ヴィルヘルミナが説得を諦め、戦闘を選び、敗れた時点で解っていた事だが………いざ目の前にして改めて思う、「話の通じる相手ではない」と。
 
「お前と議論するつもりは無いわ。“教育してやる”つもりも無い」
 
 シャナが断じて、一歩前に出る。
 
「さっさと選んで。“屍拾い”ラミーの討滅を諦めるか、それとも痛い目を見るか」
 
 その髪が、瞳が、全てを焼き尽くす紅蓮へと染まる。マージョリーの眼が、驚嘆に見開かれた。
 
「へぇ、『炎髪灼眼』か。そういや、あの無愛想が珍しく自慢気に話してたっけ」
 
「同じ場所に二人居んのも偶然じゃあなかったってぇこったな。ヒヒッ」
 
 マージョリーが面白そうに呟き、マルコシアスが耳障りなキンキン声で相槌を打つ。しかし勿論、そこに好意的な響きは無い。伊達眼鏡の奥の瞳は、完全に獲物を見る獣のそれである。
 
「……で、この私にそこまで言ったって事は、死ぬ覚悟は出来てんでしょうね」
 
「やれるものならね」
 
 マージョリーの全身を炎が包み、ぬいぐるみ染みたずん胴の獣の姿になる。
 対するシャナも、魔神の翼たる黒衣『夜笠』の内から大太刀『贄殿遮那』を抜いた。
 
「まったく、無意味に挑発するなよな」
 
 僅かに遅れて、悠二も指先に挟んだタロットカードを大剣『吸血鬼(ブルートザオガー)』へと変えて進み出た。
 
「は……?」
 
 そこで漸く、二人で一人の『弔詞の詠み手』は驚愕した。
 
「“ミステス”だとぉ?」
 
 シャナの真横に居て、かつ静観を保っていた為に『封絶で止まったトーチ』としか見ていなかった、坂井悠二の存在に。
 
「ずいぶん変わった手駒を使ってんのね」
 
「手駒じゃない。むしろ敵よ」
 
「……シャナ、“敵”はないだろ」
 
「『贄殿遮那のフレイムヘイズ』!」
 
 しつこい悠二に、わざわざ面倒臭い呼び名で訂正を要求するシャナ。奇妙なやり取りに意地になる二人組を訝しみつつ、わざわざ付き合うマージョリーではない。
 
「いつまでもベラベラ喋ってんじゃないわよ!」
 
「ブチッ殺すぜぇーーー!!」
 
 ―――巨大な口から、群青の炎が吐き出された。
 
 
 
 
「うおっ!?」
 
 炎の濁流が路面を砕き、至近にあった緑野を一瞬で火の海に変える。高い跳躍で逃れた悠二は、そのままレストランの屋根へと着地した。
 『夜笠』を幾重にも巻いて余波から身を守ったシャナは、
 
「はっ!!」
 
 足裏に爆発を呼び、群青の炎を円形に吹き飛ばして跳躍した。空中で牙を剥き出しにする、不細工な着ぐるみ目がけて。
 
「こっっの!」
「ふっ!!」
 
 刹那、巨腕と大太刀が交叉する。紅蓮と群青が擦れ違い………
 
「おぉっ!」
 
 獣の腕が宙を舞った。思わず感嘆する悠二の視線の先で……“刎ねられた腕が獣になる”。
 
「うぁ!?」
 
 背後のそれに気付けないシャナの背中を、組んだ両手が思い切り殴り飛ばした。軽々と飛ばされた先は、幸か不幸か悠二の立つレストラン。
 
「っと……!」
 
 悠二は咄嗟に抱き止め、衝突によるダメージを殺す。しかし、それはマージョリーに誘発された行動だった。
 
「“ペニィ!”」
 
 揃って体勢の崩れた二人を、
 
「“ペニィ! ペニィ!”」
 
 獣の炎弾が次々に狙い撃ち、
 
「“ペニィ積もればお金持ち”っと!」
「ヒャーハーッ! ターマヤー!!」
 
 トドメの巨大な火球が、レストランを跡形も無く爆砕した。
 『弔詞の詠み手』が誇る脅威の自在法・『屠殺の即興詩』。
 
「あっけな」
 
「ちーっと大人気なかったかもなぁ、ヒャーハッハッ!」
 
 黒煙を上げて轟然と燃え盛る炎を見下ろして、マージョリーはつまらなそうに鼻を鳴らし、マルコシアスは笑う。
 その、肌を灼く炎の中から………
 
「な――――」
 
 大剣を振るう少年が、何事もなかったかのように飛び出して来た。
 油断から僅かに反応の遅れたマージョリーを、振り下ろされた刃が『トーガ』の腕を叩く。
 その刀身に血色の波紋が揺らめき、
 
「(ヤバい……!?)」
 
 マージョリーの持つ数百年の戦闘経験が警鐘を鳴らし、
 
「はぁあああああ!!」
 
 刃から流れた存在の力が、炎の衣をズタズタに引き裂いた。盾も鎧も通り抜けて敵を斬り刻む魔剣には……しかし空虚な手応えしかない。
 
「くぅ……!」
 
 悠二が斬ったのは物質化した炎だけ。マージョリーは着ぐるみを脱ぐようにトーガの背中から零れ落ちていた。
 
「(あっぶなぁ~~……ってうわ!!)」
 
 内心で大いに冷や汗をかくマージョリーの眼前に、大太刀を振りかぶる紅蓮の少女。
 至近に迫る斬撃に、マージョリーは並み外れた反射と練度で炎弾をぶつけ、紙一重で弾く。すかさず繰り出される二撃目を、後方に飛翔して躱した。
 
(タンッ!)
 
 三人同時、未だ炎の燻る地面に着地する。悠二にも、シャナにも、先程の炎弾のダメージは全く見られない。
 
「(動きは悪くないわね。甘く見てたのは確かだけど……)」
 
「(……長期戦は、不利か)」
 
「(あの着ぐるみなら綺麗に決まると思ったんだけど……いきなり外しちゃったな)」
 
 三者三様に、敵の力量を実感して気を引き締める。
 特に、悠二に掛かるプレッシャーは大きい。短期決着を狙って初手から使った切り札が、ものの見事に躱されたのだから。
 ………だが、それを嘆いても始まらない。
 
「シャナ、同時に行くよ」
 
「その名前で呼ばないで!」
 
 敵から視線を外さぬままに呼び掛けた悠二と、呼ばれ方を目聡く突っ張ねた悠二が同時に地を蹴った。
 
「ちいっ」
 
 流石のマージョリーも、二人まとめて正面から迎撃しようなどとは考えない。
 後ろに大きく跳び退き、そのまま“着地せず”滑るように地面スレスレを浮遊し、後退する。滑る中で炎を燃やし、再びトーガを纏った。
 二人も当然、逃がさない。
 
「「はあっ!!」」
 
 足に存在の力を集中し、一足跳びに間合いを詰める。シャナの振り下ろした刃と、悠二の薙ぎ払った刃が十文字の軌跡を描いて獣を四つに断った………が、
 斬られ、燃え上がった獣は群青の炎となって膨らみ、踊り、十を越えるトーガの群れとなって二人を包囲する。
 
「“薔薇の花輪を作ろうよ はっ!”」
 
「“ポッケにゃ花がいっぱいさ っと!”」
 
 響き渡る即興詩。
 標的を見失ったシャナの足が止まる。その一瞬をこそ狙っていたマージョリーの笑みに同調して、トーガの円陣が一匹残らずU字に笑った。
 と同時―――
 
「左だ!!」
 
 悠二が叫ぶ。すぐさまシャナの大太刀が逆袈裟に振り上げられ、炎の衣を真っ二つに両断した。その中から、伊達眼鏡を斬りおとされたマージョリーが現れる。
 
「(何で―――)」
 
 解った、という言葉を浮かべるのも待たず、マージョリーは狙っていた自在法を起動する。
 残った獣の全てを爆炎へと変じ、内に在る二人へと収束させたのだ。溢れた炎は逃げ場の無い煉獄の顎門となって………獲物に牙を突き立てる寸前で、“消えた”。
 
「(炎が効かない……!?)」
 
 想定外の現象に動揺するマージョリーは、それで棒立ちになるほど未熟ではない。お構い無しに繰り出されるシャナの白刃を二、三撃と空振りさせて、迷わず空へと逃げる。
 
「(ったく、めんどくさいわね……!)」
 
 『こいつらは飛べない』と、ここまでの攻防で見抜いていたからだ。
 案の定、間髪入れず追撃して来る紅蓮の少女は、足裏に爆発を起こして“跳んで”来た。
 神速の斬撃がトーガの耳を斬り飛ばし、しかしそのまま擦れ違う。爆発の勢いで身体を飛ばしているから、一撃は疾くとも連撃に繋がらない……どころか、身動きの利かない空中は絶好の的。
 そう確信して振り返るマージョリーの眼前……“至近距離にシャナは居た”。
 
「――――――」
 
 マージョリーには見えていない。
 黒衣を広げるシャナが“逆様に着地”した、半透明に光る菱形の切片が。
 
「ぇやあ!!」
 
 振り下ろす大太刀の切っ先が、遂にマージョリーを捉えた。
 白刃が閃き、鮮血が飛び散る……だが、
 
「(浅い!)」
 
 大太刀を握るシャナの手には、決定的な手応えが無い。肩を斬られて派手に血が噴き出してはいるが、骨には届いていない。
 
「こんのッッ……クソガキがぁぁーーー!!」
 
 ―――刃は獲物を仕留める事叶わず、狼は気炎を巻いて怒りの咆哮を上げる。
 
 
 
 
【グォオオオーー!!】
 
 両手を振り上げて襲い掛かって来る怪獣が、一筋の光を受けて砕け散る。消えた身体の霊魂のように“25P”という文字が浮いた。
 
「おーっ! スゴイスゴイスゴーイ!」
 
 波の如く押し寄せる怪獣を次々と薙ぎ払う少女は平井ゆかり……の身体に入ったヘカテー。手に持つ剣はオモチャのビームサーベル、迫るモンスターは暗がりに映る立体映像。中継される大きな画像を見て興奮しているのは緒方真竹である。
 
「シュッ!」
 
 光の糸が無数に駆け抜け、無駄に巨大なラスボスが何も出来ずに撃破された。
 片手の指先で光の剣をクルクルと回すヘカテーの頭上で、スコアボードに10000Pと映る。文句なしのパーフェクトクリアだった。
 
【御崎市よりお越しの平井ゆかり様、御崎市よりお越しの平井ゆかり様、中央インフォメーションセンターでお姉様がお待ちです】
 
 雑音の飛び交うゲームセンターに居るヘカテーは、アナウンスの呼び出しに気付かない。
 
 
 
 
「“キツネの嫁入り天気雨 はっ!”」
 
 トーガの群れが一斉に跳躍、爆発して、
 
「“この三秒でお陀仏よ っと!”」
 
 炎の豪雨となって降り注ぐ。その範囲からシャナは高速で逃れ、悠二は『アズュール』による火除けの結界で防いだ。
 その背後で一塊の炎が再びトーガを形作り……
 
「ぐあっ!?」
 
 悠二の背中を容赦なく殴り飛ばした。軽々と撥ね飛ばされ路面を転がる悠二の上を、トーガによる超重の両足蹴りが圧し潰す。
 一方で、
 
「バハァアアアアーーー!!」
 
 豪雨から逃れたシャナを、獣の吐き出す群青の奔流が呑み込まんとしていた。
 避け切れないと瞬時に判断したシャナは、自らを黒衣で幾重にも包んで炎の波へと突進する。
 
「くぅ……!」
 
 『夜笠』の鎧が一溜まりもなく剥がれ落ちていく。だが、シャナは最初からこの程度で防ぎ切れるとは考えていない。
 
「っだあ!!」
 
 皮膚を焼かれるダメージ覚悟で、マージョリーの眼前に躍り出た。
 神速で放たれる斬撃が、強力な防御力を誇る筈のトーガを易々と斬り裂いて……しかしマージョリーには届かない。
 
「そぉら!!」
 
「っ……!!」
 
 逆に、後退の牽制に放たれた炎弾を食らって、人混みを無茶苦茶に倒しながら路面を転がった。
 
「(二対一でも、こんなに差があるのか)」
 
 一太刀入れるまでの攻防は負けていなかった。いや、押していたと言って良い。だが、今はまるで歯が立たない。
 これはある意味、当然の結果。悠二は短期決着を狙って初手から全力で挑んだが、多彩な自在法を操るマージョリーとはそもそも引き出しの数が違う。速攻に失敗して手札を晒せば、こうなる事は目に見えていた。
 
「(戦り難い)」
 
 そして、シャナ。
 一方的に自在法を使われる、という状況に慣れている彼女もまた、練達の自在師を前に攻めあぐねていた。
 自在法の技巧は勿論だが、体捌きも並ではない。敵の攻撃を掻い潜って接近戦に持ち込んでも、斬撃が当たる前に距離を取られてしまう。それを出来るだけの技量がマージョリーにはあった。
 
「あんたホントに『炎髪灼眼の討ち手』? 刀振り回すしか能が無いわけ?」
 
「せっかくの炎が宝の持ち腐れだなぁカタブツ大魔神?」
 
 マージョリーにも余裕という程のものは無い。ヴィルヘルミナ程ではないがシャナの剣技は凄まじく、悠二の宝具も厄介だ。
 しかし、相手の手の内を知れば封じ方も見えて来る。要はどちらに対しても接近を避け、遠距離から嬲り殺しにしてやればいい。蓋を開けてみれば、実に簡単な相手だった。
 
「“バンベリーの街角に 馬に乗って見に行こう”」
 
 獲物を蹂躙する愉悦を隠しもしない即興詩が、高らかに滑らかに歌われる。
 
「“白馬に跨る奥方を”」
 
「“指には指輪 足に鈴”」
 
 それに喚ばれて人魂のような群青の火玉が無数に浮かび上がり、鋭利な炎の矢へと変じる。
 
「「“どこに行くにも伴奏付きよ!!”」」
 
 それら全てが、『弔詞の詠み手』の結句を受けて、一斉に悠二へと放たれた。
 
「(何で――――)」
 
 炎は効かない。そう解り切っている筈の自分に対する攻撃に悠二は不審を描いて、それでも反射的に『アズュール』の結界を張る。
 
「馬鹿!!」
 
 その眼前に、怒声と共にシャナが舞い降りた。
 神速の刃が絶え間なく閃き、飛び来る炎の矢を悉く弾く。
 
「痛っ……!?」
 
 その内の一つがシャナの刃を抜けて、悠二の顔面に迫った。咄嗟に首を捻った悠二の唇を矢が擦る。――火除けの結界は、解かれていない。
 
「今のは存在の力を物質化した炎。その指輪じゃ防げない」
 
 不甲斐ない宿敵な迂闊さを咎めるように、シャナは振り向かず静かに告げる。
 
 徒やフレイムヘイズの戦う姿から、『炎を操る異能者』という印象を抱きがちだが、実際はそうではない。
 異能者が存在の力を具現化する時、炎という姿で顕現されるだけなのである。もっとも、炎弾のように本来のものと同じ性質の炎もある。『アズュール』で防げるのは、そういった『本当の意味での炎』だけだ。
 
「う、うん。ありがとう」
 
「うるさいうるさいうるさい。いいからもう油断しないで」
 
 『物質化した炎』という単語から、何となくというレベルで納得する悠二。シャナの肩越しに、空中から降りて来るマージョリーを睨みながら………
 
「…………えっ」
 
 全く唐突に、自身の中の異変に気付いた。
 それを思い知らせるようなタイミングで、死角からトーガの獣が迫り………
 
「ッ…か……!?」
 
 熊よりも太い巨獣の腕で、悠二の背中に強烈な打撃を見舞った。
 
「ん? 急に反応が鈍ったわね」
 
「もうっ、言ったそばから……!」
 
 攻撃を仕掛けたマージョリーが訝しみ、シャナが眉を吊り上げて怒鳴る。
 無防備すぎる、そんな事は悠二本人が誰より良く解っていた。
 
「(気配が読めない!?)」
 
 他でもない、自分自身の感覚として。今まで当たり前に感じていた存在感や違和感が、酷く曖昧にしか感じ取れなくなっている。
 
「(一体、何で―――)」
 
 内心で大いに慌てながらも、必死に動揺を押し殺す。弱味を見せたら、付け込まれる。
 
「(いま分身とか撹乱とか使われたら、見破れない)」
 
 感覚が鈍った原因は気になるが、今はそれを究明している場合ではない。悠二がどんな状態だろうと、敵はお構い無しに襲って来るのだから。
 
「っと!?」
 
 案の定、先ほどのトーガが悠二に追撃を仕掛けて来た。その豪撃を悠二は左腕一体で受け止め、右の大剣で両断する。
 その間にも、シャナはマージョリー本人に迫っている。
 
「まずは一匹!」
 
「これで終わりよ!」
 
 だが、マージョリーは動じない。それどころか、何かを確信したように笑って両手を広げた。
 同時、先に倍する炎の矢がが周囲に燃えて……一瞬と待たずに奔り出す。シャナと、悠二に向かって。
 
「(さっきと同じ自在法……!)」
 
 加速していたシャナは、軸足を強く踏み、路面を抉って急停止する。そして、先ほどと同じように鋭い剣技と体捌きで完璧に往なす。
 それと同様の攻撃が、悠二にも迫っている。
 
「(良し)」
 
 まず最初に、自分の不調を悟られる類の攻撃ではない事に見当違いの安堵を抱いて、
 
「(『アズュール』の結界は効かない)」
 
 先ほどの経験から自身を戒めて、
 
「(………あれ?)」
 
 そこで、漸く気付いた。
 悠二には、シャナの様な技巧は無い。飛び来る矢雨を剣で弾くなんて真似は出来ない。つまり……炎でないのなら防げない。
 
「(疾―――)」
 
 避けられる数と速さでもない。知識不足など無くとも、無難に防ぐ術など無かったのだ。
 思い返されるのは、ヴィルヘルミナとの戦い。容赦なく迫る万条の槍衾。
 
「(あの時は―――)」
 
 思う間にも、群青の鏃が鼻先にまで迫っている。―――最早、何を考える余裕も無く―――
 
( ―――ドオッッッ!!!――― )
 
 灼熱の炎が、爆火となって弾けた。燃える色は―――燦然と輝く、“銀”。
 
 
 
 
「………………」
 
 両の碧眼が、取り憑かれたような虚ろな光を湛えて“それ”を見る。
 
「…………はっ」
 
 見開かれた眼の瞳孔が開く。口の両端が吊り上がり、何かの先触れのように吐息が漏れた。
 
「は、ははっ、ははははははははははははは!!!」
 
 次に起こったのは、笑声。憤怒、殺意、怨嗟、妄執、狂気、それら全てが凝縮したような歓喜の叫び。
 
「やっと、見つけた……」
 
 夢を見ているような呟きが、零れる。
 
「私の……私の全て……!!」
 
 限界まで歪んだ唇の奥で、食い縛った歯がギリギリと軋みを上げる。
 
「ブチ、殺す」
 
 誓うように開いた口から、吐息が群青の炎となって吐き出される。
 
「殺す、殺す……殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
 
 その言葉を繰り返す度に、マージョリーの炎は力の充溢を増して行く。纏った衣は、これまでとは比較にならない存在感を湛えていた。
 
「グァオオオオォォーーーー!!!!」
 
 ―――殺戮の愉悦に満ちた狂狼の叫びが、陽炎の世界を震わせる。
 
 
 



[34371] 5-12・『文法』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:d756801c
Date: 2013/01/22 11:53
 
 人間ならば鼓膜を破られる程の凄まじい咆哮に曝されて、悠二の心中を後悔が満たす。
 
「(これが……“フレイムヘイズ”!)」
 
 紅世の徒への憎悪から人間を捨てた復讐者。その本当の意味を、背筋を伝う怖気として今こそ思い知る。
 こんなミステスが仇なワケが無いと少し考えれば解りそうなものだが、炎の色だけでこれである。
 
「良かったじゃない。これで“屍拾い”は完全にあいつの眼中から消えたわよ」
 
「……全っ然よくない」
 
 まあ、あそこで串刺しになるわけにもいかなかったので、後悔しても仕方ない。
 そもそも、炎を隠して戦えるような相手ではなかったのだ。同様に、シャナ一人で勝てる相手でも無い。
 
「けど、肚は括れたかな」
 
 つまり最初から、勝って倒す以外に道は無い。変わらず湧き上がる恐怖を、そう割り切る事で無理矢理に押さえ込み、悠二は左掌に銀炎を燃やす。その炎を人間大の火球に変えて撃ち放った。
 
「ガァアアアアーーー!!」
 
 それを躱して、群青の獣が猛然と襲い掛かって来る。殺戮衝動に塗れた瞳には、悠二……いや、『銀炎を纏う何か』しか見えてはいない。
 迎え撃つべく大剣を振りかぶる悠二との距離を、マージョリーは急激な加速で瞬く間に詰めた。
 
「くっ!」
 
 自分の方が一拍遅いと判断して、悠二は咄嗟に後ろに跳ぶ。鋭い爪は紙一重、悠二のシャツを引き裂くに終わった。
 
「あ……!?」
 
 が、その下、首から提げていた『アズュール』までもが、紐を切られて零れ落ちた。
 路面を跳ねる切り札に気を取られた悠二の胴に、返しの裏拳が見事にめり込み、
 
「かは……っ」
 
 全速のトラックに撥ねられたかのように、悠二の身体が宙を舞った。すかさず、トーガの腹が限界まで膨れ上がり……
 
「バハァアアアーーー!!」
 
 群青の奔流が、中空の仇敵を焼き尽くさんと吐き出された。先程までとは比較にならない熱量と圧力。悠二は腹部の痛みに悶える中でもこれを感じて、足裏に菱形の切片を展開し、そこを足場に爆発を生んで横っ飛びに逃れる。
 それを見届ける事もなく、
 
「はあっ!!」
 
 上空に火を噴く獣の背中に、シャナが全力で大太刀を突き立てていた。
 しかし、またしても手応えは無い。それどころか、貫いたトーガが複雑怪奇な自在式となってシャナの身体を捕縛した。
 その間にも、上空に撒き散らした炎が数多の獣の姿に変じている。
 
「邪魔すんな!!!」
 
「っあああああ!?」
 
 それらが一斉に炎弾を投擲し、灼熱の豪雨がシャナを呑み込む。
 
「シャナ!!」
 
 あれだけの狂気を撒き散らしていながら、マージョリーは直線的な猛攻に走ってはくれない。呼吸同然に染み付いた戦闘術者としての思考が、冷徹に、効率よく、獲物を咬み千切る戦法を探し続けている。
 
「おいマージョリー落ち着け! やっと見つけた手掛かりだぞ!!」
 
 それでも、止まる事は無い。契約者たるマルコシアスの声さえ無視して、獣の群れは一斉に悠二めがけて飛んで来る。
 
「(やれるか……!?)」
 
 飛来するトーガのどれがマージョリーなのか、それとも全てが分身なのか、今の悠二には判別できない。
 右腕を鋭く横に一閃させて、輝く銀を撒き散らす。溢れた炎を十に及ぶ火球に変え、飛ばした。
 空を駆ける炎弾は獣を捉え、或いは避けられ、弾かれ、その数を半分ほどにも減らせない。
 
「うおっ!」
 
 砲弾のように突進して来る獣を、上に跳んで避ける。避けた場所に突き刺さったトーガが爆発し、余波に怯む悠二を別のトーガが殴り飛ばした。
 
「くっそ……!」
 
 展開した切片に着地した悠二の肩に、また別のトーガが喰らいつく。その胴を大剣で串刺しにしても、その向こうから四匹の獣が飛んで来た。飛んで来て………身構える悠二の眼前で爆ぜた。
 
「――――――」
 
 群青に燃えて落下する悠二の見る先で、新たなトーガが、腹を一杯に膨れさせる。
 
「ッガアアアアァーー!!!」
 
 滾る憎悪を全て乗せたような叫びが、灼熱の怒涛となって追い撃つ。叫ぶ事も出来ず焼かれた悠二は、燃える流星となって眼下の寂れたパビリオンに落ちた。
 
「痛ぅ~……やっぱり、付け焼き刃じゃ通じないか……」
 
 屋根をブチ抜いて墜落し、冷たい床に大の字に引っ繰り返った悠二は、揺れる視界で天井の大穴を見つめる。実力の差は如何ともし難い。窮地でも変わらず働く強靭な理性が、考えたくない未来を予想しようとした時……
 
「君は随分と頑丈だな。あれだけ手酷くやられて まだ動けるとは」
 
「っ!!?」
 
 殆ど耳元で囁くような至近距離から声が聞こえた。
 心臓が止まるかと思いつつ、悠二は首を横に倒して声の主を見る。そこに居たのは……見た目には何の変哲もない白い鳩。
 
「今“頂の座”を探しているが、この人混みで“人間一人”を見つけるのは中々難しい」
 
 聞き覚えの無い声が、聞き覚えのある落ち着いた響きで喋っている。言葉の内容と合わせて、ピンと来た。
 
「……ラミー、逃げたんじゃなかったのか」
 
 悠二らに危機を伝え、自らの庇護を頼んで来た徒……“屍拾い”ラミーだ。この鳩が本体とも思えないが、徒の割りには律儀である。
 
「そっか……ヘカテーは見つからないのか」
 
 だが、その律儀な報告によって知らされたのは凶報以外の何物でもない。最後の希望が奪われた気分だった。
 
「このまま君たちが敗れ、“頂の座”の身体が破壊されるのは私としても困る。だからあくまで私の安全の為に、この小さき身で出来得るだけの助言はしよう」
 
 助力ではなく助言なのか、という落胆を抱きつつ、悠二は痛む身体をゆっくりと起こす。
 
「君が扱い切れていない君自身の自在法に、名前を付けてやろう」
 
「………名前?」
 
 その肩に乗った白い鳩が、戦術的なアドバイスとも思えない奇妙な提案を持ち掛ける。
 
「そう、己の本質を確固として顕現させる自在法に於いて、名前の有無は重要だ。君の場合は特にな」
 
 真剣に聞き入れ悠二の顔を見て、『まだ名前を付けていない』という自身の見立てが正しかったとラミーは悟る。
 そして、告げた。
 
「――『グランマティカ』――」
 
 たった今 名付けた、坂井悠二というミステスの本質を顕す自在法の名を。
 
 
 
 
 悠二がパビリオンで倒れている間、マージョリーは何もせず待っていたわけではない。
 
「邪魔すんなって言ってんでしょうが!!」
 
 炎の豪雨をまともに受け、それでも退かずに向かって来るシャナと交戦していた。
 
「(あいつ、やられたの……?)」
 
 そんな筈は無い。おそらく気絶もしていない。今でも、戦闘体勢と呼べる程度の気配は感じる。しかし、落ちたパビリオンから出て来ない。
 
「(足並み揃えろとか言ってたくせに……!)」
 
 劣勢の為か、まるで頼るようならしくない愚痴が、心中のみで吐き捨てられる。
 シャナとマージョリーの相性は、ヴィルヘルミナ以上に最悪だ。それでもここまで戦えているのは……と、そこまで考えて、何だか癪なので打ち切る。
 
「チビジャリがぁ!!」
 
 マージョリーが前方に伸ばした両手の十指から、群青の炎弾が機関銃のように放たれる。
 スピードならシャナも負けていない。“とっくに人混みの吹き飛んだ広場”を、高速で左右に、時折フェイントを混ぜながら駆け回る。
 的を絞らせない動きで炎弾を外す回避の延長で、足裏に爆発を生んで後ろに跳んだ。
 そうして張った煙幕を“迂回して”、煙の中からの攻撃を警戒するマージョリーを強襲する。
 
「ぇやあ!」
 
 狙いは見事に当たり、マージョリーの反応は僅かに遅れた。だが、それは自在法による撹乱をする余裕を与えなかったというだけ。
 マージョリーの殺意に同調するように強度を増したトーガの左腕が、半ばまで斬られながらも大太刀を止めた。
 
「グルァア!!」
 
 間を置かず獣の右腕がギュルンと伸びて、シャナの胸部に重々しい拳撃を叩き込む。
 
「あっ、ぐ……!」
 
 肺の空気を全て吐き出すように息を詰まらせながら、炎髪の少女は無惨に路面を転がった。
 まだ、息が出来ない。それほどの苦痛さえも精神力でねじ伏せて、何よりまず立ち上がろうとするシャナ。
 
「“月火水木金土日 誕婚病葬生き急ぎ”」
 
 その周囲に群青の剣が七本、檻の如く突き刺さった。
 
「“ソロモン・グランディ”」
 
 斜め前方の空で、マージョリーを護るトーガが腹を膨らませ、
 
「“はい、それまでよ!!”」
 
 火炎の津波を、躊躇も加減もなく吐き出した。
 
「(避け―――)」
 
 られない。
 七本の剣に阻まれ、そうでなくとも身体が言う事を聞かない。『夜笠』を重ねる事すら、叶わない。
 避ける事も防ぐ事も出来ないのなら……受けるしかない。
 
「(“あいつは耐えた”!)」
 
 歯を食い縛って高熱と激痛に備える、瞬発的に統御できる精一杯の力を全身に巡らせる、右腕で眼を庇う。
 ゴオオオオッ! と獄炎が吹き荒れる音が鼓膜を震わせ………
 
「………?」
 
 それと裏腹に、覚悟していた熱と痛みが来ない。恐る恐る……ではなく即座に灼眼を見開いて見れば、群青の炎が見覚えのある自在法に……初めて見る形態で塞き止められている。
 
「(これは………)」
 
 坂井悠二の、自在法。
 但し、これまでのように一つではなく、数多が四方に連結された壁として。
 奇妙な菱形の切片としか見えなかった自在法は、こうなる事で真の姿を顕していた。
 ―――それは、鱗。
 内に燃やす銀の自在式を星座のように鮮やかに紡ぐ、半透明の蛇鱗だった。
 
「遅れてごめん。“これ”の使い方 試すのに手間取っちゃって」
 
 マージョリーの『屠殺の即興詩』を軽々と止めた少年が、片膝を着いたシャナの背中に声を掛ける。
 
「………………」
 
 複雑そのものという顔で振り返るシャナの前で……
 
「さあ、反撃開始だ」
 
 ―――坂井悠二は、燃え立つ喜悦を浮かべて笑った。
 
 
 
 
 左手を、翻す。その動きに誘われるように銀の片鱗が離れ、踊り、また繋がる。
 そうして新たな星座を描く鱗壁から、先程とは比較にならない圧倒的な数と威力の炎弾が飛び出した。
 
「舐めんじゃないわよ!!」
 
 マージョリーも負けていない。同数、同威力の炎弾を瞬時に構築し、放出する。
 複雑な曲線を無数に描く銀と群青が真っ向から衝突、連鎖的な爆発を巻き起こし、燃え盛る炎による雲海を広げた。
 
「流石」
 
 悠二は再び半透明な鱗……『グランマティカ』を指先で繰り、勇躍するように高々と“飛び上がる”。
 
「(今度は“飛翔”……!?)」
 
「(“何でも出来る”という事か)」
 
 今までは不可能だった炎の防御、強力な炎弾、飛翔、それら数々の力を間近で目にして、二人で一人の『炎髪灼眼』はその正体を看破する。
 半透明な鱗片に自在式を込め、それをパズルのように組み合わせる事で様々な効能を発揮する多岐万能な自在法。正に、その本質が理性の側にある悠二らしい理詰めの力。
 それこそが『文法(グランマティカ)』の本当の性質だったのである。
 
「っ…………」
 
 シャナの奥歯が軋みを上げる。
 飛び去る背中に“二重の意味で置いて行かれたと感じて”、それでも絶対に認めない。
 
「………けない」
 
 怒り……だろうか。己そのものたる使命ではない何かが、身体の底から沸々と湧いて来る。
 とても熱くて、無茶苦茶に暴れ回るそれが………
 
「絶対、負けない!!」
 
 ―――紅蓮に煌めき、燃え上がる。
 
 
 
 
 爆発的な殺戮衝動を燃え盛る炎と纏い、砲弾のようにマージョリーが突進する。
 
「ふ……っ!」
 
 恐ろしく暴力的なトーガの拳撃を、悠二は左手一本で受け止めた。受け止め、押され、その先にあったジェットコースターのレール上で踏み止まる。
 
「バハァアアアアーーー!!」
 
 その至近距離から、マージョリーが炎を吐き出す。
 群青の業火は悠二を攫ってレールを走り、コースターのように綺麗な円を描いてから爆発した。
 
「まだまだぁ!!」
 
 爆発に飛ばされる悠二の全身からは、銀の炎が凄まじい勢いで放射されている。落としてしまった『アズュール』の代わりに、相手と同様に炎をぶつける事で威力を殺したのだ。消耗も激しいが、直撃されるよりマシである。
 
「(組み合わせた効果しか発揮しないから、自在法を幾つも同時には使えないか。どっちにしても空中戦は避けた方がいいな)」
 
 ミラー・ラビリンスの屋根に着地しながら、冷静に『グランマティカ』の検証を続ける。そんな理性とは裏腹に、何とも形容し難い気持ちが悠二の中にあった。
 
「来い」
 
 あの……自分の命を狙う戦闘狂を、否定する気になれない。それどころか、憎悪の全てを吐き出させてやりたい。……そんな、自分でも可笑しく思う珍妙な衝動。
 その衝動が、苛烈に過ぎる喜悦となって笑みを浮かべさせる。
 
「うおおおっ!!」
 
 猛スピードで追撃を掛けて来るマージョリー。その獣の拳に、悠二も同じく左の拳を衝突させた。至近で解放された互いの炎が爆発を呼び、迷宮の天井を粉砕する。
 着地も待たず落下しながら、悠二は再び蛇鱗を構築する。それによる飛翔で素早く迷宮から脱し………
 
「はあっ!!」
 
 『グランマティカ』に頼らない単発の構成で、崩れるミラー・ラビリンスに渾身の炎弾を撃ち下ろし、丸ごと吹き飛ばした。
 
「(当たった、のか……?)」
 
 轟然と燃え盛る銀炎の海を見下ろす悠二には、確信が持てない。鋭敏な感知能力の欠如が、敵の気配を掴ませない。
 いつ炎幕から飛び出して来るか解らない敵に身構える悠二。
 ―――その頭上で、群青の獣が両手を組み、
 
「!?」
 
 組んだ両手が、纏めて斬り飛ばされた。
 斬られたマージョリーも、
 
「っ……上か!」
 
 その斬裂音に気付いて顔を上げた悠二も……刹那、目を奪われた。
 
「お前だけにやらせない」
 
 そこに居たのは、髪と瞳を鮮やかに燃やす『炎髪灼眼の討ち手』。可憐な少女の背中に広がるのは、空を駆ける紅蓮の双翼。
 
「(こいつも飛んだ……!?)」
 
 狂熱に駆られ、憎悪に蝕まれ、それでも辛うじて己を保つマージョリーは、次々に変化する状況に焦燥を重ねる。
 ほんの数分前まで自分が一方的に蹂躙していた敵。呆気なく咬み千切れたはずの炎。それが、戦いの中で急激に………!
 
「ッガァアアアア!!」
 
 慟哭と共に、トーガが数十に分裂する。それより一拍早く、悠二が『グランマティカ』を“足下で”組み換える。
 光る蛇鱗から縦横無尽に広がったのは、銀に揺らめく無数の波紋。
 
「(探査の―――)」
 
 気付いた時には、もう遅い。跳ね返った波紋は“どの獣が最も強い存在か”を報せ、
 
「っりゃあ!!」
 
 紅蓮の輝きを映す大太刀の刺突が、トーガの上からマージョリーを斬り裂いた。
 
「ぐ……うっ……!」
 
 痛みと動揺で、獣の群れが炎に還り、散る。
 凶悪なまでの切れ味で脇腹を裂かれた傷は、決して深くはない。
 
「“綺麗な曲を もう一つ”」
 
 それでもマージョリーは歌う。怖気を誘う炎に向けて、憎悪を込めた即興詩を。
 
「“お願い貴方 聞いてよね”」
 
 弔詞に呼ばれて巻き起こる群青は、不慣れな飛翔で追撃の遅れたシャナに、後退を選ばせる程の凄絶さを備えていた。
 しかし標的は当然、炎翼を広げる少女ではない。
 
「“綺麗な曲を もう一つ!”」
 
 放たれたのは大気をも焼き尽くすような特大の……否、極大の炎弾。
 
「くたっばれぇえーーー!!」
 
 太陽の落下を錯覚させる復讐の業火をその身に向けられて……悠二は退かない。
 両の掌を頭上に翳して、真っ向から受け止める。
 
「(これが、フレイムヘイズ……)」
 
 掌から溢れた炎が蛇の鱗壁を形成し、その内で新たな自在式が燃える。
 
「(こんなにも熱い、憎しみの炎………)」
 
 火輪が衝突し、蛇鱗が硬く耳障りな軋みを上げる。
 防御壁の上からでも肌が灼ける。
 
「(それでも、僕は……)」
 
 決して、退かない。
 眼前の敵ではない。自分を、自分たちを弄ぶこの世の不条理そのものに挑むように、天を衝くほどの叫びを上げる。
 
「っっだああああああぁぁーーー!!」
 
 火球が歪み、“跳ね返った”。『グランマティカ』の内で燃える、『反射』の自在式を受けて。
 
「っ………!?」
 
 己をも焼き尽くす憎しみの炎が―――大輪の華となって陽炎の空に咲いた。
 
 
 
 
「(―――初めから、大切なものなど何も無かった)」
 
 群青の炎が全てを呑み込み、己が憎悪に我が身を焼かれる。
 
「(―――全てを奪われて生きていた)」
 
 自分の全て……何も無い自分の空白を焼き尽くされる、酷く懐かしい感覚。
 
「(―――だから、私から全てを奪った、そこにある全てを……壊して、殺して、奪って、嘲笑ってやろうとした)」
 
 人間を捨てて、終わる事なき戦いの輪廻に身を投じた時の記憶。
 
「(―――それも……それさえも“奴”が奪った)」
 
 そうさせた狂気の姿が、炎の中で克明に蘇る。
 銀の炎を巻き上げる、歪んだ西洋鎧。その隙間からザワザワと蠢く虫の脚、兜から吹き出す炎の鬣、そして、まびさしの奥で嘲笑う無数の眼。何もかもが、はっきりと。
 
「(―――私から全てを奪って、壊して、嘲笑った)」
 
 もう壊すモノさえ残っていない。―――たった一つ、目の前にある存在だけを除いて。
 
「(―――せめて、こいつだけでも壊させて)」
 
 求めるように、掴むように、握り潰すように、眼前のそれに手を伸ばす。必死に、がむしゃらに、無茶苦茶に、ブチ殺しの雄叫びを上げようとする。
 その時―――世界を埋める色が変わった。
 
「…………え?」
 
 記憶に燃える銀の炎が、現実に燃える群青の炎に染め上げられる。
 その中で根強く残影を残す怪物の鎧が、炎に焼かれて崩れるように剥がれ落ちていく。
 
「……あ……ぁ……」
 
 鎧が砕け、鬣が散り、兜が溶けたその向こうで………“彼女”は笑っていた。
 群青に燃える炎の中で、歪んだ愉悦に身を震わせて嘲笑っていた。
 
「ッッ―――――――」
 
 何かが壊れてしまう。
 その予感にかつてないほどの拒絶を抱いて、マージョリー・ドーは絶叫した。
 
 ―――陽炎の世界に屹立する、巨大な群青の狼と化して。
 
 
 



[34371] 5-☆・『群青の狂狼』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:d756801c
Date: 2013/01/23 21:42
 
 建物の屋上、道行く人々からは見えない高い死角を、一人の人ならざる女が跳躍している。
 
「封絶の気配……やはり、既に始まっているようでありますな」
 
「戦闘中」
 
 彼女の名はヴィルヘルミナ・カルメル。『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーの凶行を止めるべく力を振るい、奮戦虚しく敗北したフレイムヘイズ。いつも着ている給仕服は戦闘でボロボロになり、今の彼女はリボンで編んだ純白のワンピース姿である。
 坂井悠二や“頂の座”ヘカテーの監察を請け負う彼女は、未だ万全とは言えない身体を酷使して戦場へと急行していた。
 
「(急がなければ)」
 
 彼女の懸案は、三つある。
 一つは、“屍拾い”ラミーの討滅による存在の力の暴発。……しかしマージョリーが向かった先から考えて、これは当面は大丈夫だろう。
 二つ目は、銀炎を見たマージョリーが、ミステス坂井悠二を破壊する事。彼女個人の複雑な事情から、現状では彼を守らなければならない。
 そして三つ目………これが、最も可能性の高い危機だった。
 
「(『弔詞の詠み手』が、殺される)」
 
 悠二を狙ったマージョリーが、ヘカテーの手で返り討ちにされてしまう事。
 向かう先には異能者が三人、いくらマージョリーでも勝てるとは思えない。そして……敗北で済むとも限らない。
 『炎髪灼眼の討ち手』は、フレイムヘイズの使命からマージョリーを阻みはしても、同じく使命から、殺す事は考えられない。
 同じく、未だ日常に固執する坂井悠二にとっても“人殺し”は大いなる禁忌である筈だ。
 しかし……ヘカテーは違う。元より“同胞殺し”たるフレイムヘイズを快く思っていない彼女が、その破壊を躊躇う理由は殆ど無い。加えて……マージョリーは“銀”を仇と狙っている。
 
「(もし、それを知られてしまえば………)」
 
 日常の様子から、そして……かつて自分が引き起こした戦いで見た、巫女らしからぬ逆上と涙から、ヴィルヘルミナは“ヘカテーの事情”の表層……或いは根幹を、概ね理解していた。
 悠二に対して異常な殺意を示すマージョリーを見た時、彼女が何を思うかなど想像に難くない。
 自分の時は坂井悠二が諫めたものの、今回も上手くいく保障など無い。
 
「見えた」
 
「確認」
 
 複雑に絡み合うそれぞれの想いに無表情を固めて、ヴィルヘルミナ・カルメルは跳ぶ。
 
 ………そんな危惧を抱かれている“頂の座”ヘカテーはと言うと、
 
「むっ」
 
 ファンシーパークに木霊するアナウンスの呼び出しを、後れ馳せながら耳にしていた。
 
 
 
 
 雲霞の如く膨らんだ爆炎が、大気を灼き空を震わせ暴れ続ける。
 
「あれは………!」
 
 先に気付いたのは、シャナだった。
 膨張する炎の塊の中で、炎弾の爆発ではない何かが顕現されている。
 それを口に出すより早く、燃える一端が炎を裂いて直下に伸びた。
 
「うわぁ!」
 
 油断していた悠二の至近を風を巻き込んで通過して、メリーゴーランドを踏み潰す。
 その上から更に巨大な群青が降って来るのを認めた悠二は、慌てて『飛翔』を構築してその場を離れた。
 大き過ぎて近くでは正体の掴めなかったモノも、距離を取る事で全容を掴む事が出来る。
 
「狼……!」
 
 それは、揺れる群青を体毛と揺らす、巨大な上にも巨大な炎狼。金の瞳は狂乱に染まり、牙だらけの口からは唸りと共に炎が溢れている。
 
「あれも自在法……? まだあんなに力が残ってるのか……」
 
「そうではない。深手のフレイムヘイズが力の制御を忘れて暴走しているだけだ」
 
 戦慄する悠二の隣に、紅蓮の双翼で宙を舞うシャナが並んだ。その胸元から、紅世の魔神がマージョリーの状態を端的に告げた。
 
「暴そ―――」
 
 それを、悠長に訊ねている暇は無い。
 金の瞳が悠二を見つけるや否や、巨大な狼は長い四肢で一瞬にして跳び掛かって来た。
 狂ったように迫る顎、小さな人の身など容易く咬み千切ってしまう牙から、シャナは翼による飛翔で上へ、悠二は飛翔を解く事による落下で下へと逃れる。
 下に逃げた獲物を、着地も待たずに踏み潰さんと繰り出される前足。悠二はそれを、咄嗟に展開した蛇鱗の障壁で止めた。
 着地と同時、足裏に爆発を生んで一気に離脱。再び『グランマティカ』を繰って飛翔する。
 空中戦は避けるべきだと判断していた悠二だが、あんな巨体相手に地面など走っていたら あっという間にぺしゃんこだ。
 
「表層的な姿に惑わされるな。頑強な意志総体に統御されてこそ、存在は本来の力を発揮する」
 
 一方でシャナは、悠二のように危機感に圧されて浅慮に距離を取ったりはしていない。
 こういう巨体相手には、距離を取ってもあまり意味が無い。あの長い四肢で容易く飛び込まれるだけだ。だからこそ、巨体ゆえに死角の多い至近を、シャナは翻弄するように飛んでいる。
 
「うん」
 
 アラストールの、今だからこそ反復される基礎の基礎を、シャナは今のマージョリーの姿に納得する。
 具現化した身体はあちこちで脆く綻び、群青の炎が酷く無秩序に噴き出していた。撒き散らす力そのものは膨大だが、安定などとは程遠い。
 
「はあっ!」
 
 見つけた綻びに大太刀を突き立ててみれば、案の定さっきまでのトーガより容易く刃が埋まった。間髪入れず突き刺した剣尖に爆発を起こして、狼の背中に大穴を空ける。
 
「ッオオオオオオオーーーー!!!」
 
 痛みにか、怒りにか、群青の狂狼が咆哮する。爆発染みた音の怒涛を至近で受けるシャナの周囲に、凄まじい数の炎弾が燃え上がった。
 
「っ……!」
 
 炎翼を燃やしてシャナは飛ぶ。それを追って無秩序な曲線を描く群青の流星群を、紅蓮の少女は縫うような絶妙な飛翔で避ける。
 唯それだけでは全てを躱し切る事は出来なかっただろうが、今のシャナには炎弾を阻む壁があった。
 即ち、炎弾を繰り出した狼自身の巨体である。
 
「(いける……!)」
 
 新たな力・紅蓮の双翼を使いこなす感覚に灼眼を細めつつ、シャナは狼の四肢に絡み付くような軌跡を引いて胴の下を飛ぶ。少女を狙う炎弾が狼の背に腹に足に命中してはいるものの、殆ど効いている様子は無い。
 飛翔の最中、左後脚の一点に綻びを見つけたシャナは、身体ごと斬撃を叩きつけ、爆砕した。
 バランスを崩した獣を後ろに見ながら、後方へと離脱する。
 ―――その時だった。
 
「くあっ……!」
 
 倒れる炎狼の背後へ抜けようとするシャナの視界を群青の塊……狼の尻尾が捉えて、羽虫の如く叩き落とした。
 
「か――――っ」
 
 翼が砕け散り、一溜まりもなく小柄な身体が背中から地面に叩きつけられ、石畳を砕いて深々とめり込む。
 
「(動か、ないと……)」
 
 気が遠くなる程の痛みと衝撃の中でも、己そのものたる討ち手の本能がシャナの意識を戦場に繋ぎ止める。
 明滅する視界に灼眼を凝らす………その先で、巨大な狼が前脚を振り上げた。
 ―――途端、特大の炎弾が銀に輝き、狼を横合いから打った。
 
「シャナ!!」
 
 呼ばれた意味を、何故か声だけでハッキリと理解したシャナは、大太刀を持っていない左手を懸命に伸ばす。
 その手を、銀炎を撒いて飛翔する少年が掴み、そのまま空へと連れ去った。
 
「……………」
 
 握った手を、引かれる背中を、振り返る横顔を、灼眼が見る。
 
「(………変なの)」
 
 その胸に、奇妙に弾む気持ちがあった。
 今だけの事ではない。この戦いの中で何度も、これまでの戦いで感じた事の無い不思議な風韻に見舞われていた。
 いつもとの違いなど、考えるまでもなく明白。今日は……独りで戦っているわけではない。ただ、それだけの事なのに。
 
「大丈夫か?」
 
「っ」
 
 悪くない、そう思ってしまった不覚から、少年の気遣わしげな声が目覚めさせる。
 引かれる手はそのままに、シャナは灼眼を鋭く細めて言い放つ。
 
「当たり前でしょ。お前に心配されるほど落ちぶれた憶えは無いわ」
 
「良し」
 
 少女の強気な返事を聞いて、悠二も満足気に笑い返す。
 その笑顔が何だか落ち着かなくて、シャナは視線を、新たな炎で欠損を埋めつつある巨大な狼に移した。ついでのように、アラストールに訊ねる。
 
「アラストール。あれ、どう思う?」
 
 己が器も弁えず、力を派手に振り回して自滅する徒には何度か会った。
 そういう相手は適当に攻撃を受け流しつつ、消耗を待ってから討滅するのがセオリーなのだが……流石は世に謳われた『弔詞の詠み手』。あんな無茶苦茶な顕現を続けていながら、未だ力尽きる気配は無い。
 それどころか、下手に守勢に回ればこちらが一呑みにされかねない。
 
「早急に決着をつけるべきだ。あまり考えたくはないが……消耗した彼奴らが封絶内の人間を喰らわんとも限らん」
 
 アラストールもまた、シャナと同様の意見からそう告げた。付け加えられた物騒な言葉に、シャナの手を引く悠二も表情を強張らせる。確かに……あの狂気から考えれば、あり得ないとは言いきれない。
 生唾を飲み込む悠二の内心を知ってか知らずか、シャナは繋いだ手を払って炎翼を広げる。
 
「……お前、『吸血鬼(ブルートザオガー)』で中の『弔詞の詠み手』に攻撃できる?」
 
「……難しいと思う。あれだけデカいと、存在の力を流しても届かないだろうし」
 
 早口で作戦を考える悠二とシャナは、
 
「その大太刀じゃ、狼の奥には届かないよな」
 
「……だったら、私がもう一度炎の衣に穴を空ける。お前はそこに、全力の炎弾を放り込んで」
 
 敵の力を警戒するあまり、慎重になり過ぎていた。四肢の一つを崩した時点で、なりふり構わず畳み掛けるべきだったのだ。
 
「……行くわよ」
 
「ああ」
 
 二人、銀と紅蓮を螺旋に引いて飛行する先で、狼は牙だらけの口から息を思い切り吸い込む。
 
「………?」
 
 その口に吸い込まれるのは大気だけではない。無秩序に暴れる炎の全てが、一点に収束して飲み込まれていく。
 
「「(炎を吐いて来る)」」
 
 当然のようにそう予期して、二人は弧を描いて左右に岐れた。的を増やし、炎を躱して、敵の死角に飛び込む為に。
 果たして、狂狼はシャナに向けて炎を吐き出した。
 
「な……!?」
 
 シャナらが見誤ったのは、その威力と範囲。今までの炎とは桁違いの灼熱の大瀑布が、一部の隙も与えない群青の津波となって押し寄せて来たのだ。
 
「(逃げられない……!)」
 
 死角に飛び込むどころではない。どこに飛んでも間に合わない。肌に感じる熱気が、『夜笠』での突破は不可能だと告げている。受ければ……死ぬ。
 
「(出来るか……いや、)」
 
 シャナはすぐさま翼を解き、路面に亀裂を入れて着地する。―――全ての力を、攻撃だけに注ぎ込む為に。
 
「(絶対、やる!!)」
 
 成功した事は、無い。
 それでもシャナは、形容し難い確信を以て大太刀を振り上げる。
 あの……紅蓮の双翼を広げた時と同じ。自分の中に湧き上がる熱い何かを、感じたそのまま解き放つ。
 ――――炎が、迸る。
 
「はぁああああーーーー!!!」
 
 振り下ろす刃の先から、全てを焼き尽くす紅蓮の炎が解き放たれた。
 それが眼前に広がる群青の咆哮に、真っ向からぶつかり合う。
 
「(やった……!)」
 
 シャナにとっては、長らく求めて、しかし叶わなかった願いの発現。天罰神たるアラストールの炎を顕す、『炎髪灼眼の討ち手』の力。
 だが――――
 
「ぐ……うっ……!」
 
 紅蓮の炎は群青の津波とぶつかり、鬩ぎ合い……押し戻されていく。
 初めて顕現されたシャナの炎は、決して弱くない。並の徒なら、叫ぶ暇すら無く一瞬で燃え尽きてしまうだろう。それでも………狂乱に叫ぶマージョリーの炎には通じない。
 
「(止めっ、られ―――)」
 
 紅蓮の炎が、押し流される。群青の波がシャナを攫って……すぐさま途切れる。
 再び展開された半透明の鱗壁が、灼熱の怒涛を塞き止めていた。
 
「まだだ」
 
 後ろに倒れそうになる少女の肩を、後ろから誰かの腕が支えた。……誰なのかは、見なくても判った。
 
「長くは保たない。耐火の式を組み上げる余裕が無かったから、これは単純な障壁の自在法だ」
 
 耳元で、やけに落ち着いた声が聞こえる。その言葉に違わず、障壁は早くも硬い音を立てて罅割れ始めていた。
 
「このままじゃ保たないし、鱗を組み替えようとすれば一瞬で突き崩される。だから、ここはシャナに任せるしかない」
 
 一度だけ、横目を向けて少年の顔を見る。
 
「出来るよな?」
 
 挑発するような声と、場違いに穏やかな頬笑み。その奥にあるモノを確かに認めて、シャナは微かに口の端を引き上げた。
 
「当たり前、でしょ」
 
 向けられたのは、期待。
 そうさせたのは、信頼。
 
「(顕現は、一瞬でいい)」
 
 湧き上がるのは、炎。
 不可解な衝動に熱くなる心をそのまま顕したかのような、真っ赤に燃える紅蓮の炎。
 
「(ただ、一撃必殺の………)」
 
 群青に焙られた『文法(グランマティカ)』が、乾いた音を立てて割れ砕ける。
 
「(力を!!)」
 
 障害を失った二人に、群青の奔流が押し寄せる。
 天を衝く刃が一閃、振り下ろされた。
 
「燃えろォオオオオーーーー!!!」
 
 絶叫が爆ぜ、煌めく炎が紅蓮の大太刀となって唸る。
 
「うおっ……!」
 
 灼熱の斬撃が大気を貫き、群青の津波を両断し、道阻む全てを斬り裂き、焼き尽くす。
 それは……狂気に駆られた炎狼をも、一太刀に薙ぎ払っていた。
 
「…っ………」
 
 膨らみ、広がり、霧散していく群青を確かに認めて、シャナは弱々しく脱力した。後ろの悠二に肩を抱かれて、身を預ける。
 鮮やかに煌めく炎髪と灼眼は、放った炎に全てを吸い尽くされたように黒く冷えていた。
 
「やったな……」
 
 悠二が、言う。
 
「……うん」
 
 シャナが、応える。
 生死を懸けた戦いを共にした為か、勝利の余韻と安堵の為か、いつになく柔らかな空気が満ちる。
 その空気に誘われるように、悠二は言った。
 
「名前さ、刀の名前から適当に付けちゃったけど……気に入らないなら、変えようか?」
 
「……シャナでいい」
 
 近過ぎるくらいの距離で、少年と少女は顔を見合わせて―――どちらからともなく、吹き出すように笑った。
 
 
 
 
「………………」
 
 長く……途方もなく長く思える短い眠りから、マージョリー・ドーは目覚めた。
 
「よぉ」
 
 真っ先に聞こえたのは、何百年と共に戦って来たパートナーの声。返事の代わりに身を起こそうとして……走った激痛に顔を歪めて断念する。
 
「お目覚めでありますか、『弔詞の詠み手』」
 
 呼ばれた声に、横たわったまま視線を向ければ……ついさっき叩きのめした『万条の仕手』。万全なわけもないだろうに、相変わらず仕事熱心な女だ。
 次いで、自分の身体に目を向ける。どういうわけか着ていたスーツは跡形も無く、見覚えの無い純白のドレスを着させられていた。恐らくは、『万条の仕手』がリボンで編んだ物。
 戦いの途中から記憶が無いが、まるで身体に力が入らない。それなりの時間が経った筈なのに、脇腹や肩に受けた傷も異様なほど回復が遅い。そして何より………包帯の巻かれた左腕が“無い”。
 これだけの惨状を見て、勝ったなどと勘違い出来るワケもなかった。
 
「……生きてんのね」
 
 感慨とも呼べない虚ろな呟き。
 
「不服なら、トドメを刺してあげましょうか」
 
 それに、冷淡極まる提案が返った。怒るでもなく視線を流して……流石に目を剥いた。
 
「……これ、何の冗談よ」
 
「俺もついさっき、散々驚いたところだぜ」
 
 少年に羽交い締めにされながら手足をバタつかせる水色の少女……見紛う筈もない、“頂の座”ヘカテー。
 『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女ともあろう者がフレイムヘイズと一緒に居るなど夢にも思わない。
 あまりに馬鹿げた状況に敵愾心さえ失せる。それに正直……今は部外者の存在などどうでも良かった。
 
「よく殺さなかったもんね。……こっちは殺す気満々だったってのに」
 
 “銀”の炎を持つミステス。唯それのみにしか興味が湧かない。
 少年を押さえていた少女を後ろに居た触角頭の……人間の少女に預けて、マージョリーの前に立つ。
 
「悪いけど、“視た”」
 
「っ………!?」
 
 その指先に、群青色の火が灯っている。言葉の意味するところに気付いたマージョリーは………
 
「(…………え?)」
 
 何故か、動かなかった。自分の全てである筈の光景、唯一残された“自分だけのモノ”に余人が触れているというのに。
 そんな自分に困惑するマージョリーに構わず、ミステス・坂井悠二は言葉を続ける。
 
「あんたの復讐を否定する気は無い。人間を捨てたフレイムヘイズにとって、それは当然の権利なんだろ」
 
 シャナが、ヴィルヘルミナが、眉を跳ね上げた。
 マージョリーもまた、燻る炎を隠そうともせずに言い放つ。
 
「……解ってんの? “銀”の唯一の手掛かりである以上、私はまたアンタを狙う。あんたが違うってんなら、中の宝具をもぎ取るって事も考える」
 
「ああ、それで良い」
 
 あまりに容易く言った一言に、マージョリーを含めた全員の絶句があった。
 
「あんたの気が済むまで、何度でも掛かって来い。僕も全力で受けて立とう」
 
 自分の胸を拳で叩く悠二の表情に、ふざけている様な色は欠片も無い。迷いなく悠然と立つ姿は、日常に生きる少年としては異様ですらあった。
 
「(こいつ………)」
 
 自分が命を狙われる。戦いの中に放り込まれる。普通は、それだけでも取り乱すには十分過ぎる。
 
「(以前と……雰囲気が違う?)」
 
 たとえ力が在ろうとも、理不尽な暴力に怯え、戸惑い、逃げ回る。運良く生き延びたとしても、課せられた残酷な現実を受け入れられずに目を背ける。
 
「(坂井君って……“こっち”だと結構強気なんだ)」
 
 理性の側に本質が在る、という特異な人格を考慮に入れても、今回の言動は皆の理解を越えていた。
 歴戦の貫禄を備えたフレイムヘイズでさえ、こんな馬鹿な事はまず言わない。
 シャナが、ヴィルヘルミナが、平井が、奇妙な態度に相反する安心感にも似た風韻に呑まれる中で……
 
「………………」
 
 ヘカテーだけが、より以上の衝撃を受けて悠二の背中を見ていた。
 
「(………悠、二?)」
 
 抱いたものは、既視感。
 他者の欲望を聞き入れ、認め、受け止める。欠片も似ていない二つの姿が、目蓋の裏で歪み、重なる。
 
「(っ……何を、馬鹿な!)」
 
 不意に抱いた感覚を、ヘカテーは頭を振って振り払う。
 それら周囲の心中とは別に………
 
「…………………」
 
 『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーは、残った右手で目元を隠した。
 殺意のままに怒り狂い、考える事すら放棄して暴れ回り、そして、負けた。負けて……情けを懸けられた。
 
「(……いっそ………)」
 
 いっそ、真っ向から全てを否定された方が、よっぽど楽だったかも知れない。
 これ以上ないほどの、考えた事もないくらいの、完全敗北だった。
 
「……後の事は、私にお任せを」
 
 惨めに過ぎる静寂を、ヴィルヘルミナの一言が破る。それを受けて、足音が一つ、また一つと遠ざかっていく。
 
「御崎市に起きたこれまでの事件を、一から説明させて頂きたいのであります」
 
「傾聴」
 
 ―――手負いの狼はただ、陽炎の空に舞い踊る銀の炎を見上げ続けていた。
 
 
 
 
「何だったんだろうなー……」
 
 中央インフォメーションセンター脇の自販機に凭れて、田中がぼやく。
 
「つーか平井ちゃん、途中から何か変じゃなかったか?」
 
 同じく、コーラをチビチビと飲みながら佐藤が呟く。
 
「でも、ゆかりを呼び出したのは近衛さんなんだよね?」
 
 頭上に?を浮かべた緒方が首を捻る。その隣で、池が盛大に溜め息を吐いた。
 彼ら『絶叫マシーン組』は、どういうわけかアナウンスで呼び出された平井ゆかりに付いてここまで来たのだが……当の平井が、インフォメーションセンターに到着する直前で再び何処ぞへと姿を消してしまったのである。
 仕方なしに彼らだけでインフォメーションセンターに行ってみれば、そこに居たのは吉田一美一人だけ。平井を呼び出したというヘカテーもエスケープ済みだった。
 はっきり言って、まるっきり意味が解らない。
 
「(近衛さんも、ゆかりちゃんも、大上さんも、やっぱり……坂井君と一緒なのかな)」
 
 それはヘカテーに付き合わされていた吉田も同じだった。
 いきなり悠二とシャナが何処かへ行ったかと思えば、急に戻って来たヘカテーにここまで連れて来られて、『平井ゆかりの姉』という肩書きで呼び出しをする彼女を隣で見ていた。やはりと言うか、まともな説明は受けていない。
 
『緊急事態です。とにかく一緒に来て下さい』
 
 と、早口に告げられて、後は一方的に引っ張っていかれただけ。無論、絶叫マシーン組に説明する事など出来るワケもない。
 
「(また、これだ)」
 
 近衛史菜の転校を契期に度々感じるようになった壁……寂寥と疎外感を与える“何か”を今も覚えて、吉田は顔を俯かせる。
 
「おーい! おっ待たせー!」
 
 それも程なくして、終わりを迎える。常と変わらない、陽気極まりない平井の呼び声によって。
 
「ゆかりちゃんっ」
 
 顔を上げる。
 そこに悠二も居るのだろうか、という期待と不安の入り混じった感情と共に。
 果たして、悠二は平井の後ろにいた。
 
「――――――」
 
 瞬間、吉田の時が止まる。
 
「やーごめんごめん、坂井君が腕利きの殺し屋に狙われちゃって痛っ!?」
 
 いつもの調子で冗談を飛ばす平井の後頭部を悠二がはたき、そのやり取りを不思議そうにヘカテーが見ていて、シャナが興味なさそうに歩いている。
 大方の予想通り、四人は一緒に戻って来た。だが、その見える光景の中に、予想だにしないものがあった。
 
「ペ、ペペ、ペペペペ………」
 
 悠二と、シャナが、ファンシーパーク土産のジャージの上下を着ていたのだ。………二人、お揃いで。
 
「ペアルックーーーーーー!!?」
 
 吉田の切実な断末魔が、まだ日の高い遊園地に木霊した。
 
 
 
 
「さ、ささ、坂井君って、やっぱり小さい子が好きなんですか?」
 
「どういう意味!?」
 
 回る観覧車の中で、吉田が悠二に質問する。
 
「ゆかり、あの……次来る時は、もうパンダだけは勘弁して? ね?」
 
「パンダ?」
 
 平井が、緒方の不思議な懇願に首を傾げる。
 
「むぅ」
 
「ふっ!」
 
 子供に人気のカートレーシングで、ヘカテーとシャナがデッドヒートを繰り広げる。
 
「で、実際どうなんだよメガネマン」
 
「吉田ちゃんか? 平井ちゃんか? それともやっぱロリか?」
 
「……僕に訊くな、僕に」
 
 佐藤が、田中が、池が、約一名に対して失礼なトークに花を咲かせる。
 
 予期せぬ戦いを挟む事になったとはいえ、日常の中の非日常はその後も賑やかに続いた。
 ―――それぞれの胸に、それぞれの想いを密かに刻みながら。
 
 
 
 
「やれやれ、やっと落ち着いたか」
 
 異能者の消えた御崎市で、一人の老紳士が帽子の鍔を押さえて微笑む。その傍を過ぎた一人のトーチが、消えた。
 
 ―――日々はいつしか、胎動を秘めて動き出す。孵るべき時をただ静かに、歩いて往けない隣に隠して。
 
 
 



[34371] 6-1・『螺旋の風琴』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:9b74a337
Date: 2013/02/17 14:39
 
 トーチだけを摘む徒、“屍拾い”ラミーに端を発する『弔詞の詠み手』との激戦にも一先ずの落着を迎え、坂井悠二ら異能者は日常へと帰って行く。
 
「んじゃなー」
 
「おつかれー」
 
「また一緒に遊ぼうねー!」
 
 暖かな夕陽が差し込む中、大戸ファンシーパークからのシャトルバスで御崎に機関した少年少女は、今日という日の真実を知らぬまま、ただ楽しさの余韻を噛み締めながら帰途に着く。
 
「っと、僕はここまでだな」
 
「あ、その……私もです」
 
 家の方向の関係で、田中、佐藤、緒方とはすぐに別れ、暫く歩くと池や吉田とも分岐点に差し掛かった。
 
「吉田さん、送って行こうか?」
 
「大丈夫です、池君も居ますから。今日はありがとうございました」
 
 気を遣う悠二に行儀良く頭を下げて、吉田も池と共に去って行く。
 そうして非日常に関わる者だけになった段になった所で、それまで出来なかった会話が始まる。
 
「お前、少し様子が変じゃなかった?」
 
 真っ先に口を開いたのは、シャナ。しかも、悠二に対して。
 
「ああ、やっぱり解るもんなんだ。実は……戦ってる最中、急に敵の気配が掴めなくなってさ」
 
 シャナが訊いたのは“戦闘後”の事だったのだが、悠二は戦闘中の異変の事と受け取った。
 話題がズレたと知りつつ、返された内容の方が重要とシャナは判断する。
 
「今はもう治ったけど、原因が解ってないのが不気味なんだよな。戦ってる最中にまたあんな事になったら、今度こそ致命的な隙になるかも知れないし」
 
「原因って言うなら、そもそも感覚が鋭い理由の方だって解ってないんでしょ。ワケも解らず与えられてるモノなんかに縋ってるから、いざって時に動けないのよ」
 
 その、二人が話す様子に……
 
「(……ん?)」
 
 口を挟まず耳を傾けていた平井は、気付くものがあった。
 
「『弔詞の詠み手』に何かされたとかじゃないの?」
 
「……多分違うと思う。僕があっさり殴り倒された時、意外そうな反応してただろ」
 
 話題自体は戦闘に関する味気ないものだが、普通に会話が成立している。少し前……と言うか半日前なら考えられない情景である。
 軽いジャブとして、平井は口を挟む。
 
「シャナは今晩どうするの? さっきのバトルで全力出し切ったって聞いたけど」
 
「行く。存在の力は坂井悠二のを使うから問題ない」
 
 打てば響くように、スムーズに応えが返って来る。その事に、内心で平井は大いに驚いた。内容そのものにではなく、『シャナ』という呼び名を彼女が否定しなかったという事に。……いや、そもそも悠二に『お前』以外の呼び方をした事自体初めてなのではないだろうか。
 
「……坂井君、何かフラグ立てた?」
 
「は? ふらぐ?」
 
 そんな他愛ない会話に入らず、ジッと沈黙を守る少女が一人。
 
「………………」
 
 平井の身体でゲットした景品・大きなネコのぬいぐるみを、周りの厚意も聞かず、自分が持つと主張して譲らないヘカテーである。
 その脳裏には、一つの光景が延々と回り続けていた。
 
「(あれが………)」
 
 それは、暴走する『弔詞の詠み手』の炎から悠二が掬い上げた記憶の残滓。
 
「(あれが……“銀”)」
 
 瓦礫と黒煙に煤けた何処か、這いつくばって見上げる視界の先に立つ、狂気の姿。
 隙間から無数に虫の脚を蠢かせる、歪んだ西洋鎧。銀に燃えるまびさしの下から覗くのは……全てを嘲笑うような目、目、目、目。
 
「(あれは……一体なに?)」
 
 徒もフレイムヘイズも正体を知らない謎に包まれた化け物。だが……その見える一つにだけ、ヘカテーは心当たりがある。
 
「(『大命詩篇』で、一体何を……)」
 
 それは銀の炎。そして、その源泉たる『大命詩篇』の存在である。
 あれの正体までは解らないが、“悠二と同じく”『大命詩篇』を刻まれている事だけは間違いない。……本来なら、ヘカテー以外に扱う事の出来ない結晶を。
 
「(……おじ様の馬鹿)」
 
 単純な消去法で、その犯人も特定出来る。……いや、犯人自体はとっくに判っていたのだが、あの怖気を誘う光景を目の当たりにして……その目的が気になって仕方なくなっている。
 
「………はぁ」
 
 とは言え、あの『教授』の思考を読む事など何人にも出来はしない。
 今のヘカテーに出来る事と言えば、これまで通り『零時迷子』を餌に教授の到来を待ち、フレイムヘイズより素早く『大命詩篇』を回収、或いは破壊する事くらいだ。
 
「(『大命詩篇』……『零時迷子』……そして、“銀”……)」
 
 解の出ないと判っている思考の迷路に、それでも少女は迷い込む。
 銀に燃える狂気の姿が、そうせずにはいられなくさせていた。
 
 
 
 
「ごめんね、吉田さん」
 
 悠二らと別れて程なくして、吉田と二人で歩く池速人はまず、謝った。
 
「え?」
 
「ちゃんとフォローするつもりだったのに、全然うまくいかなかったからさ」
 
 今日という日は本来、悠二と吉田のデートのやり直し、である筈だった。
 ヘカテーによる妨害を阻止しようと池が参加を表明した事を切っ掛けに、次々と他の皆も参加を決めたというのが今回の経緯だ。
 だと言うのに、結果的に池が出来たのは、吉田と悠二を少しの間 観覧車に押し込んだ事だけ。不甲斐ない事この上ない。……と、スーパーヒーロー・メガネマンは自責の念に密かに沈んでいた。
 
「そんなっ、池君が謝る事じゃないよ。今回は、その……たまたま運が悪かっただけで……」
 
 しかし当然、吉田はそんな事で池を責めたりはしない。
 そして、「私がしっかりしてなかったから」という風にも考えない。今回ばかりは、吉田も自分なりに勇気を振り絞った結果だった。何だかんだで二人で観覧車にも乗れたし、それなりに満足もしている。
 そんな控え目な吉田を見て、池は誰が悪いのか、考える。
 
「(坂井が悪い)」
 
 そして、一秒と待たず確信へと辿り着く。
 どんな理由があるにせよ、毎日お弁当を作って来てくれる可愛い女の子を遊園地に一人放っぽり出していいわけが無い。……と、何も知らない池は独り善がりな義憤に駆られる。
 そう……独り善がりだと解っていた。
 
「(池君は……)」
 
 それと同様の感想を、別の言葉で、吉田も思っていた。
 
「(池君は何でも……私の事まで、し過ぎるよ)」
 
 自分の事は何もかも完璧にこなせて、その上で他人の助力にも手を抜かず、その不足すら自責を感じてしまう。
 そんな池の姿は、自分の事も満足に出来ない吉田にとって、感謝の念を越えて……微かな嫉妬すら抱くものだった。
 
「(頑張らなくちゃ)」
 
 吉田はそんな風に、池速人という少年を過大評価していた。
 
 
 
 
 家の方角の都合でいち早く皆と別れた佐藤、田中、緒方の三人は……
 
「参ったなぁ……。卒業してから結構経つし、もう大丈夫だと思ってたのに」
 
 市街地を抜け切るのを待つでもなく、久方ぶりの緊張感に包まれていた。
 
「よりによってオガちゃん居る時に目ぇ付けられるとか、ツイてねーよなぁ」
 
 歩く三人の後方20メートル辺りを、いかにも自己主張の激しい外見の五人組が歩いている。そのあからさまな視線は、確実に佐藤ら三人……いや、二人に向けられていた。
 
「あんた達、まさかまだ中学の頃みたいな事してるんじゃないでしょうね」
 
 この状況にあっても、緒方に動揺する様子は無い。傍らの男共に呆れた半眼を向けるのみである。平たく言えば、慣れていた。
 
「いや違うってホント。たぶん中学の時にやっちゃった奴らだと思うんだけど……」
「解ってるわよ、冗談だって」
 
 慌てる田中の言い訳を遮るも、それを笑い飛ばす程の余裕は無い。このまま進むと、そろそろ人通りの少ない住宅地に入ってしまう。
 
「オガちゃん、一人で逃げられるか?」
 
「大丈夫。中学の時よりずっと体力ついてるから」
 
「じゃ、また学校でな」
 
 短い確認の言葉を交わして、三人は一直線に走りだした。但し、緒方は自宅のある住宅地に、佐藤と田中はより人気の無い路地裏に。
 
「!?」
 
「おい、逃がすなよ!」
 
 案の定、焦った声が後ろから追い掛けて来た。やはり狙いは、佐藤と田中の二人らしい。
 
「どうする?」
 
「とーぜん逃げる。あいつらはともかく、オガちゃんの雷が怖い」
 
「へへっ、言えてる」
 
 狭く、足場の悪い路地裏を、かつての杵柄で苦もなく走り抜け、少し開けた場所を右折して金網を……
 
「げ……」
 
 越えようとして、二人は止まった。金網の向こうに、金属バットを担いだ男が二人、待ち構えていたからだ。
 他に二つある道にも同様に、ガラの悪そうな不良がニヤケ面で立っている。
 
「へへっ、芸がねぇなあ、佐藤、田中」
 
 そして……二人を追い掛けていた五人も、すぐにその場に追い付く。まさに、文字通りの四面楚歌だった。
 
「テメェら、前もこの道使って逃げたろ? ワンパターンなんだよ」
 
 お前の顔なんて憶えてねーよ、と佐藤は思ったが、それをわざわざ口にして相手を刺激したりはしない。
 八人……流石に少し、キツい数だった。
 
(ごめんなさいで許して貰える雰囲気じゃねーな)
 
(しゃーないな。適当にやられてこれっきりにして貰おう)
 
 小声で“負ける前提”の会話を交わした二人は、それでも一矢報いんと拳を固める。
 不良共もまた、中学時代に暴れ回った“狂犬”を今こそ仕留めんと意気込む。
 その、表の喧騒から隔離された殺伐とした空間に………
 
「………邪魔よ」
 
 綺麗な、しかし鬱陶しそうな声が、響いた。
 思わず目を向けると、道の一つを塞いでいた不良を押し退けて、一人の女が歩いて来ていた。
 
「………あ?」
 
「外人……?」
 
 それは、純白のドレスに身を包んだ、栗色の髪の美女。右の肩には画板ほどもある本を提げ、包帯に巻かれた左腕は……二の腕の半ばから無い。そこに滲む血が、腕を失って間もない事を告げていた。
 だが、不良連中にそんな事は関係が無い。
 
「おいコラ、状況見てわかんねーか? 邪魔なのはどっちだと………」
 
 男の一人が、美女の細腕を乱暴に掴もうとして………
 
「おーい、やめとけー」
 
 逆に、その手首を掴まれた。特段力を込めたようにも、合気道のような技を使ったようにも見えない、本当に“ただ掴んだだけ”という風に。
 途端―――
 
(ボギッ!!)
 
 “折れた”と、聞いてすぐ理解出来てしまう鈍い音が鳴り、
 
「……い、痛ッッ痛ぇええーーー!!」
 
 手首を掴まれた男が、耳障りな悲鳴を上げて地面を転がった。
 
「……あ〜、やっぱダメね。加減が利かない」
 
 その男をうるさそうに見下ろす美女は、不機嫌そのものといった仕草で髪をいい加減に掻き毟った。
 そうしてから、この場にいる全員を面倒臭そうに睨み付ける。
 
「あんた達、悪いこと言わないから消えなさい。死にたくなかったらね」
 
「脅しじゃねーぞ」
 
 美女の言葉を、出所の解らない声が捕捉する。
 
「う………」
 
 女は別に、凄んでいるわけでも、怒気を放っているわけでも無い。それどころか、何処か虚ろで、気だるい風情ですらある。
 だと言うのに、
 
『うわぁあああーーー!!』
 
 得も言われぬ予感。近付けば虫を払うように消されてしまうという、理屈抜きの危機感に呑まれて、不良共はまるで蜘蛛の子を散らすように逃げ去って行った。
 ただ、二人………
 
「………ん?」
 
 佐藤と田中のみを残して。
 女に怪訝な目を向けられて漸く、自失していた二人は再起動を果たす。
 
「あの、スゲーかっこよかったです……!」
 
「馬鹿、んな事言ってる場合か! 腕から血……えっと、救急車とか呼んだ方がいいのか!?」
 
 女にとっては、非常に鬱陶しい方向に。
 
「散れって言ってんでしょうが。病院も救急車も要らないから」
 
「でも血が……」
 
「もう塞がってる。面倒な事になるから余計な真似しなくていいわよ」
 
 女は、粋がるガキを震え上がらせるには十分な程度には威嚇したつもりだったが、それが逆にいけなかったらしい。
 この少年二人の眼に輝いているのは、ヒーローに助けられた子供にも似た憧憬の光である。
 
「どうしてもって言うなら、ここらで一番高いホテルの場所でも教えなさい。……出来れば、良い酒もあるトコ」
 
 鬱陶しく思いつつも、使えるものならば使う。知らないなら知らないで良い、そんなつもりで女は訊ねる。
 果たして、二人の少年は顔を見合わせて動きを止めた。待つこと数秒、
 
「人目につかなくて酒のある寝床が必要、って事ですよね?」
 
 何やら意味深に、佐藤はまず確認する。「病院は面倒だ」としか言っていないのだが、とりあえず女は頷く。
 
「丁度良いトコがあるんですけど」
 
「余計な前置きは要らないわ。どこよ?」
 
「俺ん家です」
 
 その、やや意表を突く提案に半眼になりつつ―――
 
「……酒、あるんでしょうね」
 
 女……マージョリー・ドーは、そう言った。
 
 
 
 
 苛烈な戦いを終えた夜も……否、終えた直後だからこそ尚更に、日々の鍛練は変わらず行われていた。
 
「はあっ!」
 
 左手でリボンの端を掴むシャナの右掌から、紅蓮の炎が湧き上がる。
 そのリボンのもう一方の端は、悠二の左手と繋がっていた。ヴィルヘルミナの伸ばしたこの白条を通じて、シャナは悠二の存在の力を使っている。
 
「う~ん……結構面倒くさいな、これ」
 
 一方で悠二は、やっと使い方が解ったばかりの『文法(グランマティカ)』の鱗片を延々と弄っている。
 その傍らで、ヘカテーと平井もそれを眺めていた。
 
「…………うん」
 
 シャナも、戦闘中では浮かべる余裕の無かった喜色を、今ばかりは隠さずに表す。
 そんな少女の成長を、ヴィルヘルミナは少女にしか解らない微笑みで見守っていた。
 
「変な形だな~って思ってたけど、これ鱗だったんだね」
 
 いつになく、
 
「自在式を掛け合わせる自在法……習熟すれば、限りなく戦術の幅が広がります」
 
 和やかで、
 
「お見事。しかし、慢心は禁物であります。炎を出す事が出来たなら、次はそれを己が自在法にまで昇華する。フレイムヘイズの自在法とは、内なる王の力と討ち手自身の強さのイメージの融合なのでありますから」
 
 楽しい空気で、
 
「解ってる。大丈夫、すぐ追い付いて見せるから」
 
 続く鍛練は、唐突に、一度の中断を余儀なくされる。
 
「精が出るな。まさか、これを毎日やっているのか?」
 
 まるで予期せぬ来訪者の、そよ風の如く静かな到来によって。
 
『………………』
 
 誰もが、即座に反応出来なかった。
 悠二の傍ら、ヘカテーらに混じるように手元を見下ろす、清げな老紳士の姿に。
 
「……えっと、ラミー……だよな」
 
 最初に見た中年の姿でも、封絶で見た鳩の姿でもない。また新しい姿ではあるものの、纏う雰囲気で解る。
 悠二らに庇護を求め、また陰ながら悠二に助言を与えた徒、“屍拾い”ラミーだ。
 
「昼間は世話になった。おかげで私は、あの戦闘狂の目を気にせずトーチを摘む事が出来ている」
 
 礼のつもりか挨拶のつもりか、ラミーは帽子の鍔を押さえて小さく頭を下げる。
 徒とはいえ この礼儀正しい人格者を、悠二は好きになれそうだった。同じ人を喰わない徒でも、どこぞの骸骨剣士とは大違いである。
 
「まだこの近くにいるとは思わなかった」
 
「聞いていないか? 私は、とある望みを叶える為に力を集めている。トーチしか摘まぬ私にとって、この街はどんな宝具にも勝る宝の山だ。『弔詞の詠み手』が倒れた今という時に、慌てて逃げ出すのは余りに惜しい」
 
 聞いてみれば、納得のいく理由ではあった。わざわざ気配の大きいヘカテーやシャナに会いに来たのも、トーチを摘まずに逃げの一手を選びたくないからだったのかも知れない。
 ただ……気になった。
 
「その望みって……何なんだ?」
 
 無害である為にトーチだけを喰らい、それでも時にフレイムヘイズに追われ、そうまでして叶えようとしている願いが。
 
「未練だ」
 
 ラミーとしては隠す理由もない。この期に及んで無用な警戒を抱かせない為にも、あっさりと答える。
 
「かつて一人の人間が、私の為に一つの物を造ってくれた。しかしそれは私が見る前に、永久に失われてしまった」
 
 毅然と保たれた表情に、切なさと悔恨に満ちた瞳を浮かべて。
 
「私は彼が贈ろうとしてくれた物を、この目で見たい、この手で触れたい、確かめたいのだ」
 
 “事情を知っている”アラストールやヴィルヘルミナは、敢えて口を挟まずラミーの語るに任せる。
 ヘカテー、平井、シャナの三人娘もまた、合いの手を悠二に任せて傾聴に徹する。
 
「……それで、大量の力を集めてるのか。フレイムヘイズを刺激しないようにトーチだけを、長い年月を懸けて」
 
 既に消滅してしまった物を復元させる。
 如何に“自在”法とは言え、それがどれだけ無茶な事か、曲がりなりにも自在法を扱う悠二には解った。ちょっとやそっとの力では到底不可能だ、という程度には。
 
「うむ。ここまで話せば、私が今ここにいる理由にも察しがつくだろう。坂井悠二……『零時迷子』のミステスよ」
 
 含むような笑みを浮かべて、ラミーは何気なく、そう言った。
 悠二は……“自分の宝具を教えた憶えなど無い”のに。
 
「もちろん、『零時迷子』を欲しがっているわけではない。零時になれば回復する君の力を、ほんの僅かでも分けて欲しいのだ」
 
 ヘカテーの気配が微かに膨らむのを感じてか、ラミーは即座に警戒を解きに掛かる。
 言われて見れば確かに、悠二の力は並のトーチなどとは比較にならない。常ならば消えかけのトーチしか摘まないラミーにとって、『零時迷子』を宿した悠二は御崎市を遥かに超える稼ぎ口だ。
 
「……最初から、街ではなく悠二が狙いでしたか」
 
 一歩踏み出して、ヘカテーが半眼でラミーを見る。
 
「それは違う。彼が『零時迷子』のミステスだと気付いたのは、この街に目を付けた後だったからな」
 
 ラミーも即座に、否定する。
 知己という割りに、あまり親しげな風には見えない二人を、悠二が交互に見ていたらば……
 
「一つ、条件があります」
 
 何故か悠二ではなくヘカテーが、ラミーに条件を突き付けた。そして……
 
「力を渡す零時の前に、悠二に自在法の指南をする事、です」
 
 予想の斜め上を行く提案をした。
 
「良いだろう。これで交渉成立だ」
 
 しかも悠二が何事か口にするより早く、ラミーがあっさりと了承する。
 
「先程の話を聞けば、少しは見当もつくでありましょう」
 
「残念男」
 
 ワケが解らず困惑する悠二に、二人で一人の『万条の仕手』が醒めた声を放る。
 二人の、特にティアマトーの一言にむっと来た悠二は、思わず振り返り……その隣に立つ、シャナの顔に気付く。
 あまり彼女らしくない、僅かに怖れさえ含んだような表情をしていたのだ。
 怪訝な視線をどう受け取ったのか、今度はアラストールが口を開く。
 
「『トーチを拾う者』という語義で解ろう。真名とは我らが紅世に於ける呼び名、しかしトーチはこの世にしか存在せぬ。つまり、“屍拾い”という真名も、ラミーという通称も、この世を彷徨う為の仮の冠に過ぎぬのだ」
 
 脈絡の無い、しかし興味深い話題に、完全に置いてきぼりを食らっている悠二と平井が顔を見合わせた。
 シャナも同じく、続く言葉を心して聞くべく身構える。
 そして、言い出しっぺのヘカテーが締めた。
 
「“彼女”は“螺旋の風琴”リャナンシー、紅世の徒 最高の自在師です」
 
 数瞬の静寂の後、
 
「「ええええぇぇーーー!?」」
 
 二人の絶叫が、陽炎の空に響き渡った。
 
 
 



[34371] 6-2・『いつか去る場所』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:9b74a337
Date: 2013/04/13 14:56
 
 目の前に映る光景を、“頂の座”ヘカテーはボンヤリと眺めていた。
 彼女から見ても繊細緻密な自在式を宙に描くのは、“螺旋の風琴”リャナンシー。紅世の徒、最高の自在師。
 その正面で正座しているのは、坂井悠二。大命詩篇を内包する『零時迷子』のミステス。徒が戦闘用に造ったわけでもない、宝具が転移して来ただけの非力な少年。
 ―――それも、今となっては過去の事。
 
「(悠二は強くなった)」
 
 『万条の仕手』の襲撃を皮切りに、『炎髪灼眼の討ち手』、『弔詞の詠み手』、世に名立たる強者と戦った。………そう、彼女らと戦って生き延びる程の実力を、いつしか彼は身に付けていた。
 ヴィルヘルミナも、シャナも、マージョリーも、並のフレイムヘイズでは決して無い。彼女らと渡り合えたという意味を悠二が本当に理解していのか定かではないが、それが事実。
 凡百の徒やフレイムヘイズでは、今の悠二に傷一つ付ける事も出来ないだろう。
 加えて、その真価を発揮した悠二の自在法『グランマティカ』。複数の自在式を掛け合わせる蛇鱗は、彼の手札を増やす事で樹系図を描くように可能性を広げていく。このタイミングで最高の自在師“螺旋の風琴”の師事を受けられるのは想定外の幸運だった。
 
「(これで……良い)」
 
 『自分の身を守れるくらいに悠二を鍛える』という当初の目標を果たす日は遠くない。『零時迷子』に起因する複雑な因果を考慮に入れても、だ。
 
「(私が―――いつまでも彼の傍に居る事は無いのだから)」
 
 空を、見上げる。
 陽炎の異界に鎖された夜空に、星は見えなかった。
 
 
 
 
 朝から小雨の続く六月、悠二らがマージョリーとの激戦を経た翌日・月曜日。御崎高校一年二組の教室は微妙な緊張に包まれていた。
 と言っても、いつ起きるか判らない凶事に怯えるだけのものではない。期待と不安の入り混じる、好奇心のままに手を突っ込んでみたくなる、そんな緊張感である。
 その注目は、先日転校して来たばかりの一人の少女に集められていた。
 
「で、今日の放課後にデパート行く事になったんだけど、シャナも行かない?」
 
 大上準子。彼女に対して平井ゆかりと坂井悠二が『シャナ』という渾名を使うのは、いつも通り。だが、この後が違う。
 
「今日はヴィルヘルミナと書類整理する事になってるから」
 
 そう呼ばれた大上が、何を気にしたわけでもなく平然と会話を続けている。今までならばきっちりと否定し、場合によっては手痛い反撃で黙らせていたというのに。
 
「(わ、私も呼んでいいのかな……シャナちゃん、って……)」
 
 つまり、クラスに漂う緊張はそういう事だった。
 『大上準子を渾名で呼んでもいいものかどうか』。
 平井が実践してくれている、というのもあるし、この渾名で呼ばないと何故かチョークによる制裁を受けるケースもあったりするので、彼女に多少なりと興味を持つ者は密かに様子を窺っているのだ。
 
「……相変わらず、見てるだけで胸焼けしそうなお昼だな」
 
「うるさいうるさいうるさい。だったら見なければいい」
 
 心無しか、休み前より険の取れた悠二とシャナの会話を脇に………
 
「“シャナちゃん”って、一人暮らしだっけ?」
 
 真っ先に口火を切ったのは、やはりメガネマン・池速人。まるでぎこちなさを感じさせない、元々そう呼んでいたかのような自然な口振りで。
 
「違う」
 
 それにシャナも、素っ気なくだが返事をする。渾名に対する拒絶は、無い。それに引っ張られるように吉田も続く。
 
「シャ、シャナちゃんの家、確かゆかりちゃんのマンションの近くだったよね?」
 
「……? そう」
 
 こちらは少し落ち着きが無い。やや裏返り気味の声を訝しみつつ、シャナも深く追及したりはしない。
 おしゃべりに乗るでもなく、最低限の返事だけするシャナは、手にしたメロンパンに噛り付いて満面の笑みを浮かべる。その愛らしい笑顔に、彼女に注目していた何人かの生徒が感嘆の溜め息を溢した。
 
「(ん〜む、マブい!)」
 
 吉田に貰った悠二の弁当を失敬しようとするヘカテーの手をはたきつつ、平井も万感の気持ちで何度も頷いていた。ふと、その視線がシャナの隣で止まる。
 
「オガちゃん、どしたの?」
 
 今日はいつも一緒に昼食を採るメンバーが学食だからと こちらに混じっている緒方真竹である。
 或いは池より先にシャナを渾名で呼んでくれるかと密かに期待されていた彼女は、何だかボンヤリと宙を見つめていた。箸も殆ど動いていない。
 
「え? あぁ、いや別に、何でもないよ?」
 
 呼ばれて、初めて自分が友達と昼食を食べている事を思い出したように緒方は慌てて手を振って苦笑する。
 名前の通り、竹を割ったようにサッパリとした普段の彼女から考えると、どうにも不自然な感じである。
 
「田中君が居ないから?」
 
 佐藤啓作と田中栄太の二人は本日欠席。二人揃って、という辺りにサボタージュの匂いがプンプンするものの、まさかそんな理由で緒方が沈むとも思えない。この質問は八割方からかい目的だった。
 のだが……
 
「あはは、そういうワケじゃないんだけど、ね……」
 
 予想に反して、緒方は照れるでもなく居心地悪そうに視線を逸らした。何だか深刻な空気に、平井以外の面々も緒方の様子に気付く。
 
「昨日、僕達と別れた後に何かあった?」
 
「いや、ホント何でもないから! 何でもない……って信じたい……」
 
 尻すぼみに小さくなる声で、誰にも聞こえない呟きを漏らした少女は……そのまま力無く机に突っ伏した。
 
 
 
 
「う゛〜〜………」
 
 ぐるぐると頭を揺らす不快な感覚に叩き起こされるように、マージョリーは眉根を寄せて目を覚ました。
 ソファーに俯せに倒れた体勢のまま、首を動かすのも億劫と言わんばかりに視線だけで周囲……と呼ぶには狭い範囲を見回す。
 テーブル、バーカウンター、毛布、ビーフジャーキー、酒瓶、酒瓶、酒瓶。
 
「(えっと……何だっけ……)」
 
 完全無欠に二日酔い。とりあえずと、ノロノロと左手を着いて起き上がろうとして………
 
「ふぎゃっ!?」
 
 無様に失敗、ソファーの上から見事に転げ落ちた。ソファーの正面にあったテーブルの脚に後頭部を打ったのが地味に痛い。
 落下の原因となったもの、浴衣の下に隠された自身の左腕に目を向けて……それが無い事を思い出した。
 忌々しい……という言葉だけでは到底片付けられない、敗北の爪痕。
 
「ヒーッヒッヒッ! 漸くお目覚めかい、我が永遠の泥酔者マージョリー・ドー」
 
「……起き抜けに大声出してんじゃないわよ、バカマルコ。頭に響くでしょうが」
 
「そいつぁ俺のせいじゃねーだろ。そうなるって判って何で飲むかねぇ?」
 
 向かいのソファーの上に置かれた、画板ほどもある巨大な本『グリモア』から、パートナーのキンキン声が変わらず響く。こういう時いつもと変わらない態度で居てくれるというのは、正直ありがたい。
 
「で、ここどこよ?」
 
 言って、マージョリーは改めてこの『室内バー』とでも呼ぶべき一室を眺めた。酒が入る前の事は思い出したが、その後の記憶がハッキリしない。
 
「ったく、情けなくて涙が出るねぇ。ご両人がお使いに出されてて万々歳ってトコか」
 
「ご両人? あ〜……そう言えば何か居た気がするわ」
 
 少し直視出来ないレベルで無邪気な少年二人。その招待に預かったんだったか。そういえば今朝も、誰かに何か頼んだような気がしなくもない。
 
「名前、何だっけ?」
 
 常に輪を掛けてズボラな……余裕の無さが透けて見える契約者に、
 
「ケーサクとエータだよ」
 
 グリモアの端から、群青の炎が溜め息となって漏れた。
 
 
 
 
 平日でもそれなりに賑わうデパートの三階、階段横の自販機コーナーで、二人の少年がうなだれている。
 
「……やっぱ俺には無理だ。田中、おまえ行ってくれ」
 
 一人は軽薄そうな雰囲気の、美を付けてもいい容姿の少年、佐藤啓作。
 
「俺も無理だっての! そもそも頼まれたのお前だろ!?」
 
 もう一人は、細目で愛嬌のある顔立ちの大柄な少年、田中栄太。
 
「偶々トイレに行ってただけで何 責任おしつけてんだよ。マージョリーさんは『あんた達』って言ったんだぞ」
 
「それにオーケー出したのはお前だろ」
 
「お前ここまで付き合っといて今更そりゃないだろ!」
 
「……あ、俺さすがに二日連続外泊はマズいから、後よろしぐおっ!?」
 
「ふざけんな! ぜってー逃がさねー」
 
 沈んだ顔でベンチに腰掛けた状態から一転、鬱憤を晴らすように怒鳴り合った二人は、またすぐ萎んだように座り込む。こんな事をしていても、何一つ事態は好転しないのだ。
 
「やめようぜ……どうせこのまま帰るって選択肢はねーんだし」
 
 佐藤が、英語で書かれたメモ用紙を悔しそうに握り締める。
 彼らは現在、ある女性の(半分寝呆けた)命を受けてお使いに出されていた。
 その女性とは、マージョリー・ドー。不良に囲まれていた彼らを、『格』としか言い表わせない威嚇のみで助けた女傑である。
 宿を探していた彼女を、ワケあって自宅に招いた佐藤と、それに同伴した田中は、助けてもらった恩義を返そうと思ってそんな事をしたわけではない。いや、恩は恩として感じてはいるのだが、それ以上の感情を以て彼女と接している。
 “青臭い自分たち”が無様に求めた強さとは全く違う、あまりにもカッコいいその姿に強烈に惹き付けられた。憧れという言葉が、最も相応しいだろう。
 その感情の命ずるまま、今日もこうして学校を無断欠席して使い走りなどしているのだが………
 
「じゃあ何だ? 遅かれ早かれ“あそこ”に入るっきゃないのか?」
 
 戦慄くように田中が細い目で睨む先に、それはあった。即ち―――女性の下着売り場が。
 佐藤や田中は聞き知ってはいない事だが、フレイムヘイズたるマージョリーは普段生活に必要な物は神器『グリモア』に収納している……のだが、昨日の“暴走”の影響でその大半を焼失してしまったのだ。
 マージョリーからすれば「必要だから買って来い」程度の事しかないだろうが、二人には些か以上にハードルが高い。
 
「あ゛〜……こんな事なら、ハウスキーパーの婆さん達に頼むんだった」
 
「なあ、今からでも電話した方がいいんじゃ……」
 
「今の時間じゃ家に居ねーし、ダメ元で掛けてマージョリーさんが出たらどうすんだよ」
 
 英和辞典で一つ一つメモを解読しながら、そもそも日本には無いような化粧品を探し回ったりして奮闘していた二人だが、ここに来て為す術もなく足を止めている。ちなみに現在は午後5時15分。そろそろ現実逃避も許されない時間帯に差し掛かろうとしていた。
 
「……よし、こうなったらジャンケンで決めようぜ」
 
「勝っても負けても恨みっこ無し、後から『やっぱ無理』とかも無しな」
 
 立ち上がり、向き合い、ポキポキと拳を鳴らす二人の少年。たかがジャンケン、しかし男の尊厳が賭かっている。
 
「最初はグー!」
 
「ジャンケン……」
 
 そんな二人の衝突を前に、
 
「学校サボって何やってんの?」
 
 一人の少女が、声を掛けた。佐藤と田中が、ピタリと止まる。
 
「って、あたし達も人のこと言えないけどね。何かオガちゃんが心配してたよ?」
 
 声に引かれて目を向ければ、クラスメイトの中でも取り分け仲の良いグループの二人……平井ゆかりと近衛史菜、愛称ヘカテーが階段を上って姿を現していた。
 学校帰りにそのまま来たのだろう。二人とも制服のままである。
 
「そ、そっちこそ何やってんの? 珍しく坂井いないみたいだけど」
 
 佐藤はまず、「マズいトコ見られた!」と思った。マージョリーの事は余人に話すべきではないと、直感が告げている。
 
「ふっふっふっ、よくぞ訊いてくれました」
 
 意味深に笑った平井は、意味深に笑ったワリにはあっさりと、手にしたそれをと見せ付けた。
 左手を腰に当てて右手のそれを突き出すポーズを、まるで示し合わせたようにヘカテーも取っている。
 
「……携帯?」
 
「そ。さっきまで一階のcomodoショップでコレ選んでたの。で、これから服でも見ようかなと」
 
 平井とヘカテーの手に握られているのは、同型で色違いの携帯電話。平井が赤で、ヘカテーが青である。
 これまでならば家の電話で十分かな、などと考えていた平井だが、“昨日のような事”もある。その教訓を活かして、良い機会だからと文明の利器に手を伸ばす事にしたのだった。
 
「「……………」」
 
 仲の良い友達が携帯電話を所持。普通なら真っ先に番号やアドレスに注目する場面だろうが、佐藤と田中は後半のオマケ染みた一言にこそ反応する。
 
「「何も訊かずに協力して下さい!」」
 
「……はぇ?」
 
 気付けば、二人揃って両手を合わせ、頭を下げていた。
 呆気に取られる平井の隣で、ヘカテーは携帯の画面を黙々と凝視している。
 
 
 
 
「何で僕が書類整理なんて手伝わなきゃいけないんだ………」
 
 佐藤らと平井らがデパートで遭遇している頃、坂井悠二は真南川沿いの道路を歩いていた。
 
「文句なら平井ゆかりかヴィルヘルミナに言えばいい。私に言われても知らない」
 
 その隣を歩くのは、大上準子ことシャナ。本来ならば平井ゆかりの仕事である外界宿(アウトロー)からの書類の整理を、今日はこの二人がやる事になっていた。
 
「お前は買わないの? 携帯電話。自在法の気配無しで連絡が取れるのは便利だと思うわよ。まあ、封絶で隔絶されたら使えないけど」
 
 その目的は、シャナと悠二に外界宿の概要と必要性を知らしめる事にあった。
 一人一党な者が多いフレイムヘイズの中でも、外界宿を全く使わないのはシャナくらいのものだ。一匹狼の代表の様なマージョリーでさえ外界宿を飲み屋代わりに使っていた事から見ても、シャナの存在は異質に過ぎた。意図せず彼女と再会を果たしたヴィルヘルミナとしては、この非効率な習慣は是非とも改めさせるべきだと考えている。
 
「どうせなら僕だって持ちたいけど、とりあえず母さんに話を通さない事にはね」
 
 そして、坂井悠二。
 “頂の座”に助けられ、しかし人間としての自我を抱く少年は、未だ不安定な存在である。外界宿と関わりを持つ平井を楔に、彼をフレイムヘイズの側に引き込めないか、とヴィルヘルミナは画策していた。
 『零時迷子』と謎の自在式を宿すミステス、破壊できない事情もある以上、せめて味方に付けて置いた方が良いに決まっている。
 
「シャナは? どうせお金なんて大した問題じゃないんだろ」
 
 傍ら、視線を返すでもなく前を見る少女に、悠二は何の気なしに訊いてみる。
 その眼が少し、遠くを見つめた。
 
「私は……誰かと関わろうと思った事が無い。アラストールと二人で戦ってきたし、実際それで困らなかった」
 
 それが当たり前の事であるように、シャナは語る。
 それは寂しい事だと、悠二は思った。思って、しかし、口に出す事は無い。
 
「………そっか」
 
 自分の中の何かを掴みかねているような少女の横顔を見て、口にすべきではないと判断する。シャナ自身が、今の暮らしの中で思えるようになればそれで良い。
 ……誰かと一緒に居る事が、大切だと。
 
「(根は良い子なんだよな、やっぱり)」
 
 出会い頭に殺されかけた事も、今では水に流せる気がする。この偏った考え方の責任は、やはり彼女の育ての親にこそ負わせるべきなのだろう。
 そんな事を考えていると………
 
「悠ちゃーん」
 
 自転車のベルを鳴らす軽快な音と共に、後方から母・千草がやって来た。自転車の籠いっぱいに、ビニール袋に詰まった食材が溢れている。
 
「……母さん、頼むから外でその呼び方は……」
 
「あらあら、女の子の前だと恥ずかしい?」
 
「男子でも女子でも関係ないって、高校生にもなってカッコ悪いだろ!」
 
 わりと本気で嫌がっている悠二と、楽しそうに頬笑む千草。そんな二人を、シャナは交互に眺めてみる。
 と、その視線に気付いてか、千草が人の良さそうな笑顔で会釈した。
 
「悠二の母の千草です。学校のお友達?」
 
「違う」
 
 シャナ、即答。
 悠二は乾いた苦笑を浮かべざるを得ない。確かに悠二も友達と呼べるほど親しくなったつもりなど無いが、それにしたってもうちょっと迷ってくれても良いのではないか。
 ごほんっ、とわざとらしく咳をし、悠二はシャナに掌を上向けて千草に紹介する。
 
「転校生なんだ。カルメルさんの娘みたいな子だよ」
 
「まあっ、カルメルさんの?」
 
 途端に綻ぶ千草の表情。悠二と仲の悪いヴィルヘルミナだが、どういうわけか千草とは仲が良い。当然のように、飽きもせず繰り返される娘自慢も聞かされていた。
 
「何て呼べば良いかしら」
 
「……シャナで良い」
 
 今まで経験した事がない、無条件に注がれる優しい眼差しに、常なら誰に対しても素っ気なく返す少女がたじろぐ。
 
「じゃあシャナちゃん、いつでも家に遊びに来てね。悠ちゃんはともかく、私は貴女とお友達になりたいから」
 
 平井ゆかりともまた違う、包み込むような柔らかな笑顔を残して、坂井千草は去って行く。
 
「……あれは、本当に貴様の母親か?」
 
 『コキュートス』から一部始終を見ていたアラストールが、小さく訊ねた。
 
 
 



[34371] 6-3・『ピット』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:9b74a337
Date: 2013/04/13 14:55
 
「っりゃあ!!」
 
 今日も今日とて、悠二らの朝の鍛練が繰り広げられている。しかし、六月の雨に邪魔されて休みが続いたので二日ぶりの、ではある。
 本日の組み合わせは悠二とメリヒム、シャナとヘカテー、監督はヴィルヘルミナ。見学に平井が居るのはいつもの事として……今日はそれに加えてラミーまで居る。
 
「ふん」
 
 横合いから振り抜かれる打撃を手にした竹刀で受け、衝撃を流すメリヒム。返しの一閃よりも速く小さい刺突が、悠二の額を浅く切る。
 メリヒムは本来、直撃させるつもりだった。
 
「(二人掛かりとはいえ、あの『弔詞の詠み手』を倒した、か……)」
 
 その鋭敏な感知能力を相対する中で確かに認め、その要を見抜いた老紳士に一瞬だけ視線を向ける。
 
「(確か唇、だったな)」
 
 よそ見……そのあからさま過ぎる隙に悠二は食い付いた。力み過ぎた大振りの手首を打ち据え、間髪入れず前蹴りを顔面にお見舞いする。
 
「へぶっ!?」
 
 間抜けな呻き声を上げてカエルの様に倒れる坂井悠二。あまり格好の良い姿とは言えないが、メリヒムは特に失望は覚えない。
 
「ペッ、ペッ! うわ、唾に血まざってる」
 
 その評価を裏付けるかのように、悠二はあっさりと立ち上がった。隙に見合うだけの力で蹴り倒してやったのに、大したダメージは見られない。
 怪力に裏打ちされる存在の統御力は、その打たれ強さにも遺憾なく発揮されていた。人間と違って『腕に筋肉が付いている』という物ではないのだから、これは当然の結果と言える。
 まあ、これは以前から解っていた事。メリヒムが見たいのはこの後だ。
 
「時間はまだある。続けるぞ」
 
 片手で突き出すように竹刀を構えて銀髪の剣士は少年を促す。悔しそうに睨み返す悠二の唇は、赤く、或いは青く腫れ上がっていた。
 
「行くぞ」
 
 言葉少なに、メリヒムは踏み込む。
 数日前の夜の鍛練で、彼はラミーのとある推察を耳にしていた。
 
『唇?』
 
『ああ、唇だ』
 
 それは坂井悠二の持つ、徒やフレイムヘイズをも凌ぐ鋭敏な感知能力に関する事。
 
『君はそこを基点に周囲の力の流れを感覚として掴んでいる』
 
 他の誰でもない、世界最高の自在師の言葉であるからこそ、その信憑性は高い。
 
『だが、それはとても脆く繊細なものだ。些細な傷で機能を失ってしまうほどにな。あの時もそうだったろう』
 
 あくまで悠二に向けられた忠告を、メリヒムは同じ場で聞いていたに過ぎない。だが、興味は引かれた。
 あの言葉が事実だと仮定すれば、今の悠二に異常なまでの感知能力は無い。
 
「手加減なしだ」
 
「んがぁあああーーー!!!」
 
 爽やかな朝に不似合いな少年の断末魔が、天才自在師の言葉が真実だと告げた。
 
 その、一方―――
 
「「………………」」
 
 シャナとヘカテーは、無言で、無表情で、淡々と打ち合いを続けていた。
 両者の技量が拮抗しているからこその竹刀の応酬は、悠二らと比較にならないほど激しい。それに反比例するように、二人の表情は異様に冷たい。
 
(パパパパパパパパパ!!!)
 
 機関銃染みた竹刀の衝突音が止まらない。『パン!』という普通の音が響かない。剣圧が渦を巻き、足下の地面が掘り返すように抉り出した所で………
 
「そこまで」
 
 二条のリボンが鋭く伸びた。次の瞬間、シャナとヘカテーは投げ飛ばされて地面に叩きつけられる。
 
「お見事ー!」
 
 その圧倒的な絶技を間近で拝んだ平井の軽快な拍手が響く。彼女には二人の動きが見えてすらいなかった。
 
「これ以上は鍛練の域を越えてしまう。互いの微妙な立場も踏まえ、不用意に刺激を作るのは避けるべきでありましょう」
 
「軽挙自重」
 
 今回ヴィルヘルミナが『監督』についている理由はこれが全てと言って良い。他の組み合わせなら大した問題は無いのだが、この二人だと少々熱が入り過ぎる。
 
「解った」
 
 正確には、二人と言うのは誤りかも知れない。ヴィルヘルミナの苦言に特に文句も言わず砂埃を払うシャナの方には、大きな拘りを感じない。彼女が対抗意識を燃やす相手は飽く迄も坂井悠二であり、ヘカテーにはそれほど興味が無いのだ。
 
「本気でやらなければ、鍛練する意味などありません。中途半端な気構えなら、最初からしない方がマシです」
 
 熱が入るのはヘカテーの方だ。彼女は『炎髪灼眼の討ち手』と面識など無い筈なのだが、どういうわけか初対面からずっとシャナを敵視している。
 『炎髪灼眼』は徒にとって死神に等しい存在だから解らなくもないのだが、それにしてもヴィルヘルミナとの態度が違い過ぎた。『戦技無双の舞踏姫』も、決して『炎髪灼眼』に引けを取らない“悪名”だと思うのだが。
 
「って言うか、そもそもヘカテーは鍛える必要ないんじゃ。天使なんでしょ?」
 
「……私は巫女、戦闘は本来の領分ではありません。同じ『三柱臣(トリニティ)』でも、『将軍』には遠く及ばない」
 
 根本的な平井のツッコミにも、ヘカテーは淀みなく返す。理論武装はバッチリ、鍛練を口実にシャナを襲撃する気十分である。
 悠二とシャナは最低限の信頼関係は築けた気がしなくもないが、ヘカテーはサッパリ。むしろ悪化した気さえする。
 
「(やれやれ)」
 
 声には出さず、これ見よがしに肩を竦める平井。どうせなら仲良くして貰いたいと常々思っているのだが、とことん相性が悪い。
 おまけに、悠二の存在がある。
 
「(そういうトコも可愛いんだけどね)」
 
 二人とも、それぞれの理由で悠二に関心があり、ヘカテーに到っては、どこまで自覚があるのか解らないが、独占欲にも似た態度を見せる事がままある。それもまた、二人に小さな諍いを招く火種になっていた。
 
「さってと、そろそろお開きにしよっか。千草さんが朝ご飯作って待ってるし」
 
 おしりの砂を払いながら平井が立ち上がる。それに倣うようにヘカテーが寄って来て、悠二が首を鳴らし、そして……シャナも続く。
 
「……今日も来るつもりですか」
 
「千草は来て良いって言った。居候のお前にとやかく言われる事じゃない」
 
 そう、以前は鍛練が済めば自宅に直行していたシャナだが、最近はそのまま坂井家の朝食に参加する事も多い。悠二の影響でもヘカテーの影響でもなく、悠二の母・千草の影響によって。
 流石に人数が増えすぎる為か、入れ替わるようにヴィルヘルミナの来訪が無くなったが、悠二らが学校に行っている間に頻繁にやって来ているようだ。
 
「そう言えば、師匠は何で今日きてたんだ?」
 
「誰が師匠だ」
 
「いや、何となく」
 
 そこでふと、メリヒムにやられた傷に絆創膏を貼っていた悠二が、特に何をするでもなく佇んでいたラミーに訊ねた。
 彼……いや、彼女が悠二を指南するのは夜の鍛練の方であり、朝の鍛練は約束の範疇にない。現に今朝も、ラミーは手出しも口出しもしなかった。
 
「なに、今日は単に別れの挨拶に来ただけだ。この席ならば、顔見知りには残らず会えるからな」
 
 そのラミーの、あまりに軽く言った一言に、僅かな沈黙が下りて………
 
「……別れ?」
 
 やがて、否定して欲しいような未練がましい声が、悠二の口から零れ出た。
 
「『弔詞の詠み手』の傷も完全に癒えてしまったようだからな。君から貰う力惜しさについ長居してしまったが、そろそろ潮時だ」
 
「………………」
 
 ラミーは元々、フレイムヘイズに目を付けられない為に“屍拾い”と名乗ってトーチのみを摘んで来た徒だ。
 いくら悠二から受け取る存在の力が魅力的であっても、無害であるというポーズが通用しないマージョリーが居る御崎市にいつまでも留まるわけがない。
 彼女が数百年も続けて来たスタイルを考えれば、至極当然の選択だった。
 解っていても、名残惜しい。
 
「……そっか。淋しくなるけど、仕方ないね」
 
 或いは この場に居る旧知ら以上の惜別を持って、悠二はラミーに右手を差し出す。
 自在法の師という以上に、このラミーという徒自身に尊敬の念を抱くようになっていた彼にとって、この別れは響く。
 ラミーもまた、それらむず痒くなる感情を感じ取った上で、少年の手を握る。
 
「来るべき時が来れば、また会える。君という存在が進む道と、私という存在の進む道が交われば、必ずな」
 
 握られた手が離れ、穏やかな瞳が一同に流れる。
 
 “頂の座”ヘカテー。
 人間の少女・平井ゆかり。
 『炎髪灼眼の討ち手』シャナ。
 『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメル。
 “虹の翼”メリヒム。
 そして正面……未だ己に刻まれた運命を知らぬ少年・坂井悠二。
 
「因果の交叉路で、また逢おう」
 
 背を向けて、一歩を踏み出す。それと同時に純白の羽根が舞ったかと思えば、老紳士の姿は既に無い。
 
「因果の、交叉路で……」
 
 外れた者が好んで使う別れの言葉。そうと知らずに、悠二は反芻する。
 
「また、逢おう」
 
 握り合った手で拳を作り、澄み切った青空を見上げた。
 未来に続く因果が、どこかでまた交わされる事を願って。
 
 
 
 
「(失われたモノの復元、か……)」
 
 坂井家に寄って行くというシャナと別れたメリヒムは、一人自宅に足を運ぶ。
 ヴィルヘルミナは一緒ではない。かつて『天道宮』で共に過ごしていたにも関わらず、ヴィルヘルミナは未だ平井のマンションに住んでいる。お互い、色々と思う所があるのだ(シャナは大いに不満そうである)。
 
「(かつて主を拒んだ娘が似たような願いを抱くとは、何とも皮肉なものだ)」
 
 歩きながら、メリヒムは先ほど去った自在師に思いを巡らせる。
 実のところ、メリヒムはアラストールやヴィルヘルミナ同様ラミー……いや、“螺旋の風琴”リャナンシーと面識があった。
 もっとも、アラストールらの様に友と呼べるような間柄ではない。数百年前の大戦、彼ら『とむらいの鐘(トーテン・グロッケ)』の果たそうとしていた『壮挙』の為に宝具『小夜啼鳥(ナハティガル)』として利用しようとした……という、どちらかと言えば陰性の関係だった。
 ……まあ、今さら“敗北”を誰かのせいにするつもりも無い。『小夜啼鳥』は元々味方だったわけではないし、裏切られたとも思わない。誰が悪いかと問われれば、“彼女”に敗けた自分が悪いのだ。
 
「(しかし、この短い間にこれだけの名前が揃うとは。まるでかつてのオストローデだ)」
 
 得体の知れない因果の流れ、迫り来る戦いの予感に背筋が粟立つ。永らく眠っていた炎が身を焦がしていくのが解る。
 
「(世を騒がすのはダメだが、元から騒ぎになっていた場合はどうなる?)」
 
 この場合『約束』はどうなるのかと考えている内に、メリヒムは自宅に到着する。
 ポケットから鍵を取り出しつつ、郵便受けを何気なく漁ると………
 
「!!!」
 
 一通の、封筒の感触。
 目にも止まらぬスピードで封を解き、中身に目を通して………
 
「…………………………………………………くっ」
 
 両翼の右は、力なく崩れ落ちた。白い紙がヒラヒラと宙を舞う。
 内容はパン製造技能士資格試験の結果通知、その一番目立つ上の方に、『不合格』という文字が無情に佇んでいる。
 夢に到る道は、誰にとっても険しく遠い。
 
 
 
 
「…………………」
 
「…………………」
 
 あれから一週間、七月に突入した日曜日。豪邸と呼んでも差し支えない佐藤家、佐藤啓作の自室で、二人の少年が沈黙していた。
 
「……見たよな?」
 
 “あれ”とは即ち先週の日曜日、ファンシーパークで遊んだ帰り、不良に囲まれた彼らが、あまりにもカッコいい一人の女性に助けられた事だ。
 その女傑、マージョリー・ドーは今でも佐藤家の室内バーに居座っている。佐藤はもっとまともな部屋があると言ったのだが、彼女は動かない。食う、飲む、寝る、全てあの部屋で済ませていた。
 そして気のせいでなければ、“一度もトイレに行っていない”。極め付けが、あれだ。
 
「……ああ、“生えてた”な」
 
 マージョリーの左腕だ。初めて会った時には確かに中途から切断されていた。
 佐藤の家に転がり込んでからはずっとゆったりとした浴衣を着ていたから、ハウスキーパーの人達は気付かなかったかも知れないが、今日、二人は、確かに見た。
 無い筈のマージョリーの腕が、何事も無かったように在るべき場所に在る姿を。
 
「やっぱ……マジなんだよな」
 
「……もう信じるしかねーだろ」
 
 既にマージョリーの持つ大きな本、“蹂躙の爪牙”マルコシアスから色々と説明は受けていた。本が喋る時点でもう可笑しかったのだが、ここに来て漸く実感として伝わってきた。
 
「フレイムヘイズに、紅世の徒に、トーチだっけ」
 
「姐さんは、そんな世界で戦ってる人……なんだよな」
 
 人喰いの化け物と、それを倒す正義の味方。とても危険で、とても残酷な世界だという事は、何も知らない二人でも簡単に想像できる。
 だがそれは同時に……マージョリー・ドーという女性が、そんな世界を力強く生き抜いているという事実をも証明していた。
 
「「………………」」
 
 実感の湧かない脅威は、より以上の実感に塗り潰される。
 まだ形を持たない、曖昧なままで、膨らんでいく。
 ―――漠然とした願いが、二人の中で生まれつつあった。
 
 一方で、彼らに無謀な熱意を向けられているマージョリーの方はと言えば………
 
「う゛~~………ぎぼちわるい~……」
 
 正反対に冷め切っていた。より正確には、ひたすら無気力に、酒に溺れてばかりいた。
 
「ヒャーハッハッ! 良い薬……いや毒か。せっかくだから暫くそうしてろ、我が酔いどれの天使マージョリー・ドー」
 
「バ~カ~マ~ル~コ~……!!」
 
 この体たらくに、契約者たるマルコシアスは何も言わない。……もちろん、何も思っていないわけではない。
 
「(……実際、どうしちまったんだかな)」
 
 何百年も戦い続けるフレイムヘイズだ。こんな事は今まで何度もあった。ましてあれほどの……自分を全否定されたような完全敗北。少しばかりクサったとしても不思議には思わない。
 が、そんなものを遥かに上回る原動力もある筈だった。
 彼女の仇敵・“銀”に繋がる、やっと見つけた初めての手掛かり。
 むしろ敗北直後は、回復も待たずに動き出す事を心配していたくらいだ。
 
「……………ちっ」
 
 マルコシアスの抱く疑念は、実のところ、マージョリー自身がより強く抱いていた。何をこんなに無気力になっているのか、自分でも良く解らない。ただ……何故だか動く事を躊躇っている。
 
「……ねぇ、マルコシアス。私、どんな風に敗けたの?」
 
「ミステスの坊主の反撃でキレて、暴走したトコで灼眼の嬢ちゃんにトドメ刺されたんだよ。まぁあんな戦り方じゃ勝てる勝負も取りこぼぶべ!?」
 
 返答に余計な一言を付け加えるマルコシアスを、面倒くさそうにバシンと叩いて黙らせる。
 戦闘の最中、記憶が飛んでからの事に原因があるのかと思ったが、返って来たのは消し去りたい汚点だけ。全くもって面白くない。
 
「…………………」
 
 ワイシャツの胸に、そっと触れる。まるで、自分自身に問い掛けるように。
 まさか……という思いは、ある。だが、それをマージョリーは即座に切り捨てる。
 それは、今までの自分の全てを否定しかねない感情だったから。
 
「ったく、何なのよ本当………」
 
 遠く、近く、銀の炎が目蓋の裏で燃え続けている。
 
 
 
 
「勉強会?」
 
 梅雨を越えて七月、昼食を終えた『いつもの面子』が七夕に飾る短冊を書いている時に、そのイベントは降って湧いた。
 
「そう! 今日から部活休みなんだけど、実は私 結構ヤバいんだ~。池君たちに教わったら、少しは何とかなるかなって」
 
 池を目前に、且つ皆を前方に納める位置で両手を合わせ頭を下げるのは、緒方真竹。バレー部期待の新人と聞くが、どうも学業には自信が無いらしい。
 まぁしかし……横目でチラチラと田中の方を見ている辺りに、勉強以外の思惑が垣間見える。
 そんな思惑に全く気付かず………
 
「えぇ~、いくら何でも早いだろ。テスト期間中は午前中なんだし、初日の前くらいに気合い入れれば痛っ!?」
 
 露骨に嫌そうな唸り声を上げる朴念仁が一人。緒方の顔が暗く沈む寸前、机の下で池の爪先が田中の脛を蹴る。
 
「そうやって先伸ばしにするような奴は、結局テスト前になってもしないんだよ。心当たり、あるだろ?」
 
「そ、そうよ! あんた達だってせっかくの夏休みを追試とか補習で潰されたくないでしょ!?」
 
「達って何だ!? 俺まだ何も言ってないのに!」
 
 メガネマンの淀みない正論に自信を得てか、勢い込んで机に乗り出す緒方。隣に居た同類(佐藤)が理不尽に巻き込まれる。
 そんな、微妙に空回りつつも頑張る『女の子』の姿を自分と重ねて、吉田は一人真っ赤になった。
 
「(で、でもこれって………)」
 
 緒方もまた、田中個人を誘う勇気は無かったらしい。この勉強会に誘われたのは、ここにいるメンバー全員。つまり……吉田にも同様のチャンスがある。
 
「さ、坂井君はどうですか? 勉強の方は……」
 
 他人の企画に便乗する形になってしまうが、それでも吉田は坂井悠二との関わりを欲していた。
 
「うん、僕達もちょっと前から始めてるよ」
 
「(………“達”?)」
 
 軽く返された一言に、吉田の時が停止する。
 
「ヘカテーが“ああ”だし、平井さんもあれでやる事はちゃんとやるタイプだからね。僕一人だとつい怠けちゃうけど……って、吉田さん?」
 
「いえ……ホント、大丈夫です。……薄々わかってましたから、ホント……」
 
 次いで、机に額を打ち付けて影を背負う。哀愁漂う姿に、池ですら掛ける言葉が見つからない。
 とりあえず、今は目先のイベントを調整すべく眼鏡を光らせる。
 
「じゃあ、坂井は賛成って事で良いんだな? 平井さんとヘカテーちゃんは?」
 
「訊くまでも無いでしょ」
 
 問われて、ピッと人差し指で隣を指す平井。その先には、既に学者スタイルで胸を張るヘカテーが居た。
 その可愛らしい姿に満足しつつ、平井は立ち上がって得意気に指を立てる。
 
「で、場所なんだけど、あたしに良いアイディアがあるのだよ」
 
「……あれ、もう決定で良いの?」
 
 発案した緒方の方が戸惑う。いつの間にやら勉強会は決定事項になっていた。
 皆の視線が自分に集まるのを待ってから、平井は高々と差し上げた人差し指を彼女に向ける。
 
「ズバリ、シャナん家!」
 
 空気が凍り付いた……気がした。
 
「……私の、家?」
 
 参加する、とさえ言っていない筈の少女は、目を丸くして呟いた。
 
 
 



[34371] 6-4・『勉強会』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:9b74a337
Date: 2013/04/27 20:24
 
 銀の炎が舞い踊る陽炎の世界……空に包まれた瓦礫の戦場で、何かに背中を預けている。
 
「(温かい……)」
 
 右腕は喰い千切られて、存在が火の粉となって零れ、身体は輪郭を失って薄れ始めている。
 逃れられない死の確信。課せられた使命に殉ずるわけでもない、無為なる消滅。
 
 ―――それが、何故だか少しも怖くなかった。
 
 僅かな力で、左手を動かす。そうする事が当然であるかのように、背中を預ける誰かを求めた。
 向こうも同じ気持ちだったのか、二つの掌は容易く互いを見つけだし、その指を絡ませた。
 
「(温かい……)」
 
 眼を閉じる。
 もう何が見えなくても構わない。この手に繋がれたものを感じられれば、それで良い。
 
「(………あ)」
 
 そう思えた温かさが不意に広がり、包まれた。十分だった筈の安らぎが濁流のように溢れて、突き抜けた。
 温かい……を通り越して、熱い。熱くて、何だかフワフワと落ち着かない。落ち着かないのに、嫌だとは思わない。
 
「(ここは……)」
 
 目を開けると、変わらず銀炎の世界。でも場所が違う。今度は空に囲まれた廃墟ではなく、蹂躙された市街地に居た。
 温かさに包まれているのに周囲の景色が解る……という矛盾に、少女は気付かない。
 
 ―――顔を、上げる。
 
「……悠二」
 
 息が掛かるほどに近く、少年の顔があった。
 憧れるように、見守るように、慈しむように、穏やかな微笑を浮かべて。
 
「っ……」
 
 無意識に喉を鳴らす。
 脳裏に過るのは、自分を毛嫌いしていた一人の少女。不可解なまでの想いの強さで、死の瞬間までたった一人に己を捧げた小さな徒。
 ―――その彼女の、行為。
 
「(唇と、唇を……)」
 
 流されるように目を閉じて、身を伸ばす………と、
 
「ぴ……!?」
 
 “ベッドの上から転がり落ちた”。
 
「…………………」
 
 気付けば見慣れた天井、愛用のタオルケット、自分と一緒にベッドから落ちたらしい種々のぬいぐるみ。
 夢だった、と即座に気付く。
 その事実に、安心とも不満ともつかぬ複雑な想いが胸を満たす。
 
「っ~~~……」
 
 良く解らない。
 だけど何だか恥ずかしい。
 
 自分しかいない部屋の中、“頂の座”ヘカテーは一人うつむいて赤くなった。
 
 
 
 
『………………』
 
 期末試験に向けて勉強会を開こう、という事になった翌日の放課後。いつものメンバーは学校からそのままシャナの家へと足を運び……揃って言葉を失っていた(ヘカテーと平井、シャナを除く)。
 デカい。佐藤の家が“スゴい”という話は時折きいていたが、それとはまた雰囲気が違う。佐藤の家を機能重視の高級住宅とするなら、シャナの家は時代に取り残された洋館とでも呼ぶべき壮観さだった。
 
「……ここ、小学生の頃オバケ屋敷とか言われてなかった?」
 
「言われてた言われてた。オレ昔、忍び込んで探検とかしたし」
 
「っバカ! いま住んでるシャナちゃんの前でそんなコト言うなって」
 
 長らく買い手のつかなかった古びた豪邸だが、いま目に映る屋敷はそんな風情を微塵も感じさせない光沢を放っていた。
 これは、極めて有能なメイドたるヴィルヘルミナの手腕である。フレイムヘイズとしての力を隠したまま広大な『天道宮』を清潔に保っていた彼女にとって、こんな屋敷を掃除する事など造作も無い。
 
「ほらほら、いつまでも眺めてないで入ろう。今日は勉強しに来てるんだから」
 
 「シャナちゃんって何者?」という池、吉田、田中、佐藤、緒方の無言の疑問を遮るように、悠二がシャナの背中を押して促す。そして、さりげなく小声で訊ねる。
 
「メリヒムは?」
 
「バイトは6時に終わるって言ってた。……シロが居たら何かマズいの?」
 
「いや、何となく……」
 
 紅世に関わる事を一般人に話してはいけない、というのは、初対面の時ヘカテーがしつこく言い聞かせている。メリヒムが復活してそれなりに経つ今さらになって心配するというのもお門違いな気もするのだが、そこはかとなく嫌な予感がする悠二である。
 そんな悠二とは対称的に、ポーカーフェイスの下で安堵の吐息を漏らす少年が二人。
 
「(けど実際、助かったよな)」
 
「(うまい言い訳も無かったし、危ないトコだった)」
 
 佐藤啓作と田中栄太だ。
 緒方が勉強会を提案した時はまだ頭が回っていなかったが、もしあそこで平井が「シャナん家」と言いださなければ、間違いなく緒方は「佐藤の家」と言い出した事だろう。
 広い上に御家族に気を遣わせる心配が無く、普通に考えればこれ以上条件が良い場所も無い。……が、二人にとっては大いに不都合だった。
 今も佐藤家に滞在しているマージョリー・ドーを、何も知らないクラスメイトと鉢合わせさせるワケにはいかない。事実は絶対に教えられないし、それっぽい嘘も全く思いつかないからだ。
 そんな、似通った悩みを抱える少年らを余所に、他の者もそれぞれ平和に気合いを入れる。
 
「(夏休み入ったら、理由なしで誘わないといけなくなるもんね。よ~し、この一週間が勝負よ)」
 
 発案者たる緒方は、この期に及んで尻込みする事もなく密かに拳を握り締め、
 
「(坂井君の隣、坂井君の隣、ゼッタイ坂井君の隣に座る……!)」
 
 吉田一美は控え目な目標に決死の覚悟を固め、
 
「シャナー、今日泊まってって良いー?」
 
 平井は意味もなくスキップでヘカテーの手を引き、
 
「………………」
 
 ヘカテーは悠二から微妙に距離を取って歩き、
 
「……あれ?」
 
 最後尾を歩く池速人は、何となしに鉄格子の門の横に目を向けて……それを見つけた。
 
 シャナこと大上準子の住む家の表札。そこにははっきりと、『虹野』という珍妙な名字が刻まれていた。
 
 
 
 
 館の中を進み、一同は広々とした一室に辿り着いた。ドラマや映画の貴族が使っているような長いテーブルに、純白のテーブルクロスが皺一つなく被せられている。部屋の隅にまとめられた燃えないゴミ袋が異様なまでに浮いて見える。
 
「適当に座って」
 
 シャナは皆の騒がしいリアクションに特に反応を示さない。素っ気なく言って歩き出し、自分はテーブルの辺が短い場所……誰も隣に座れない席に着いた。
 直後、両脇から抱え上げるように立たされる。
 
「……なに?」
 
「何の為の勉強『会』と思ってるのかね。先生は生徒の隣に座んないと意味ないの!」
 
 困惑するシャナは然る後に持ち運ばれ、長い辺に座らされる。シャナ相手にこんな真似をしているのは、言うまでもなく平井である。
 平井はそのままシャナの隣に着席し、自分専用の教師を確保した。
 
「どうせシャナは今さら勉強する必要ないんだろ。なら、教える側に回っても良いじゃないか」
 
 何も考えずその隣に座る悠二。
 この瞬間、吉田の中で熾烈極まる椅子取りゲームの火蓋が切って落とされた。
 
「(あと一つ!)」
 
 悠二の左は既に平井が座っている。残る『隣』は右席のみ。迅速に、かつさりげなく座らんと意気込む吉田は………
 
「ひゃうん!?」
 
 自らの足を縺れさせて、前のめりに転倒した。
 
「吉田さんっ、大丈夫!?」
 
 すぐ傍で池の慌てた声が聞こえる。皆の心配げな視線を感じる。それほど痛くもなかったが、あまりの情けなさに顔を上げられない。
 
「(私って、いつも肝心な所で……)」
 
 臆病風に吹かれてグズグズと悩み、勇気を出せば空回り。これはもう、ダメなパターンだ。顔を上げれば、水色の少女が無邪気な無表情で少年の隣に座っているパターンだ。
 
「だ、大丈夫……そんなに痛くありませんでしたから……」
 
 恥ずかしさや虚しさを必死に押し隠し、それでも赤くなる顔を俯けて立ち上がる。内心はともかく、皆に心配を掛けるワケにはいかない。
 もう何処でもいいから座ってしまおうと顔を上げて……
 
「………え?」
 
 一瞬、目を疑った。
 自分が転ぶほど焦って座ろうとしていた席が、当たり前のように空いている。
 
「(何で……いや、それよりも)」
 
 未だ困惑から立ち直れないまま、吉田は取り敢えず急いだ。こけた恥ずかしさのせいにして、そそくさと小走りで悠二の隣に着席する。
 
「吉田さん、本当に大丈夫?」
 
「は、はい! ホントに、大丈夫です、はい!」
 
 心配までして貰ってしまった。
 ………おかしい。
 こういう時、わざとかどうか知らないが、必ずと言って良いほど割って入って来る少女が静かだ。
 一体どういう事なのかと視線を巡らせて……自分の右席、悠二から隠れるように座るヘカテーを見つけた。
 
「…………………」
 
 最初から椅子取りゲームなど始まってすらいなかった、という事実を正確に把握して、吉田は自分の空回りっぷりに再び悶えた。
 
 
 
 
 平井にはシャナが、佐藤には池が、悠二には吉田が専属教師に就き、田中と、ちゃっかりその隣席を押さえた緒方は、互いに世界史などの暗記科目で問題を出し合うという構図で、予想以上に順調に勉強会は進んでいく。
 いつもならついつい怠けてしまう者でも、一対一で付き合ってくれている相手が居る状況では弱音などそうそう吐けないものだ。
 
「うぇ! そんなのあったか?」
 
「あったわよ。授業中に赤線引いとけって言ってたじゃない」
 
 緒方に至っては、やたらと嬉しそうだ。当初の目論見が予想以上の形で達成されて完全に舞い上がっている。
 もっとも、先生役は緒方の事情を概ね解っている池と吉田、田中に積極的に教える理由の無いシャナとヘカテーなので、この二人の組み合わせはむしろ必然と言える。
 
 そして、吉田。
 
「吉田さんごめん、ここにさっきの解を代入して、その後どうするんだっけ」
 
「(ち、ちちち、近い近い近い近いーーー!!)」
 
 見ていて面白いほどにテンパっていた。
 学校で隣の席に座るのとはワケが違う。好きな男の子に頼られている実感、同じ時を共有できる喜び、二人の間でノートを眺める歳の、肩が触れ合うどころではない近さ。
 それら、自分の予想を大きく越えたシチュエーションに目を回している。
 
「…………………」
 
 一人教科書を読み耽るヘカテーは、そんな二人を盗み見るように眺めていた。
 
 
 
 
 放課後になれば皆でシャナの家に足を運び、勉強。終わってから適当にダベって帰る。その際、先生役に宿題を渡され、翌日までに仕上げなければならない。そんな調子で勉強会は繰り返された。
 緒方が田中の隣に座るのも いつも通り、吉田が悠二の隣に座るのも いつも通り、そして……ヘカテーが誰かに隠れて悠二を見るのも いつも通り。
 
「何か最近、ヘカテーに避けられてる気がする」
 
 そして悠二も、流石にヘカテーの異変に気付いていた。勉強会に限らず、家でも学校でも朝夜の鍛練でも距離を取られているのだから当然ではある。
 
「怒らせるような事はしてないつもりなんだけど……平井さん、何か聞いてない?」
 
 因みに今は土曜日の朝、鍛練も朝食も済んだ坂井悠二の自室。相談を受けているのは、悠二のベッドでゴロゴロと寛ぐ平井ゆかりである。
 
「聞いてないけど……ん〜、確かに怒ってるような感じはしないね」
 
 仮にも異性の部屋だと言うのに、平井はハーフパンツにTシャツという部屋着全開な格好だ。殆ど半日居候みたいな生活を送っているのだから、今更ではあるのだが。
 
「どっちかって言うと、戸惑ってる感じかな。距離感つかみかねてる、みたいな」
 
「距離感………」
 
 うつぶせでパタパタと足を振る平井の言葉を、悠二は小さく反芻する。
 事実だとすれば、それは本来ヘカテーだけが悩むべき問題ではない。
 
「(僕にとって……ヘカテーって何だ?)」
 
 今や、単なる人喰いの怪物では決してない。
 街を救ってくれた恩人であり、学校のクラスメイトであり、容赦ない指導者であり、挙動不審で放っておけない妹の様な存在でもある。
 ………そのどれもが間違ってはいない筈なのに、どれも正解には程遠いものであるように思えた。
 今の関係が、成り行きに流された不安定なものである事は解っている。解っているからこそ頭を悩ませる悠二に……
 
「まっ、坂井君がアレコレ悩む事でもないよ。ヘカテーが自分の気持ちに向き合う事だから」
 
 平井は、あっけらかんとそう言った。意図が読めずに顔を向けるも、平井はベッドからピョンと降りて悠二に背中を見せている。
 
「坂井君に対してどう接するべきなのか、どう接したいのか、どうなりたいのか。他人の気持ちなんて解らなくて当たり前だけど、こんなのそれ以前の問題だよ」
 
 背中越しに放られるのは実に彼女らしい……眩しいほど力強い言葉。悠二が思い悩む形の無いモノを“そんなもの”と言い切る、羨望さえ覚える姿。
 
「ヘカテーが坂井君を避けてるのは悩んでる証拠。ちゃんと向き合ってるんだから、遠くない内に解を出すよ。坂井君が心配する事じゃない」
 
 ヘカテーの悩みは悠二にも当て嵌まるという事に気付いているのかいないのか、平井はそう言って部屋を出て行った。
 
「……向き合う、か」
 
 誰もいなくなった部屋の中で、悠二は自分の掌を見つめ、握る。
 人間、徒、フレイムヘイズ、そしてミステス。普通ではありえない背景がある事を、言い訳にはしたくない。
 そして、それを前提に自分の心を顧みれば………
 ―――やはり、ちっぽけなままの少年がそこに居た。
 
 
 
 
「(ふー……)」
 
 悠二の部屋から出た平井は階段を降りるでもなく、閉めたばかりのドアにそのまま背中を預ける。
 ヘカテーは、子供だ。
 巫女としての本質のせいか、引きこもりとしての年月のせいか、他者に深く関わる事にあまりに不慣れ。純粋にして無垢、それゆえに時として―――残酷。
 
「……あんまり急がせないでよ」
 
 少年と自分を隔てるのは僅かな距離と一枚のドアだけ。小声とは言え聞こえてしまっているかも知れないが……まあ、どちらでも構わない。
 
「……追いつけなくなっちゃうじゃない」
 
 少女の道を阻む壁は、少年の枷より遥かに高く、遠い。
 
 
 
 
 土曜日と言えど勉強会は開かれる。期末試験直前の土日だ。むしろ今までより本腰を入れ、正午には集合し、夜は宿泊。そのまま日曜も勉強会に持ち込む運びである。
 勉強に集中する、という事自体に変わりは無いのに、道を歩く池速人はこの新鮮な状況を楽しんでいた。
 『ファミレスに集まって皆で勉強する』などという話をクラスメイトがしているのを耳にして、「どうせ勉強にならないだろう」と内心で決め付けていたが、何事もやってみるものだ。……いや、あの面子だからなのか(無論、佐藤や田中の事ではない)。
 
「(難を言えばヘカテーちゃんの様子が変な事くらいだけど……いや、吉田さんの事を考えたら、あれくらいで丁度良いのかな)」
 
 順調、な筈だ。とっくに手遅れでもない限り、あれだけ判りやすく好意を示してくれる可愛い少女だ。如何な朴念仁とて意識していないワケが無い。
 ………のだが、それを素直に喜ぶ気になれないのは何故だろうか。
 
「(吉田さんの成功が、僕の助力によるものじゃないから? それじゃ本末転倒だろ)」
 
 もしそうなら、笑ってしまうほど滑稽だ。吉田の恋が実るのが肝心なのであり、池の助力はその過程で“必要かも知れないもの”に過ぎないのだから。
 自嘲めいた苦笑を漏らして、池は指先でメガネを直す。……当たり前のように吉田の味方をしている事については、もう考えるまでもない。はっきりと認めて、池速人は吉田一美を“贔屓”していた。
 
「(今から別の娘に肩入れするのも、裏切りみたいで気分良くないしね)」
 
 結果的に悠二が幸せになれば、誰も文句は言わないだろう。そして、吉田ならそれが出来ると池は思う。
 ………そこまで考えて、何だか酷く言い訳くさいなと自分で思った。
 
「ん?」
 
 あと二つ角を曲がれば……と思う間に一つ曲がってみると、奇妙なものが視界に入る。
 背負った大きなバッグに圧し潰されそうな、両膝に両手を突いて荒い呼吸を繰り返す……少女。
 
「吉田さん?」
 
 前傾姿勢の後ろ姿、しかもバッグで頭が見えないのに、何故か一目で吉田一美だと判った。
 
「はあっ……はあっ……あれ? 池君?」
 
 横に並んで覗き込むと、汗だくの顔から疲れ切った瞳が見つめ返して来た。
 今は七月。さほど長い距離ではないとは言っても、体育の授業で倒れてしまう少女が大荷物を持ち運ぶのは無謀だったのだろう。
 
「女の子の荷物が多くなるのは何となく解るけど、いくら何でも大き過ぎない?」
 
 言って、吉田の背中から荷物を持ち上げる。普段の彼女なら遠慮して然るべき場面だが、よほど余裕が無かったのか、大人しくバッグから腕を抜いた。
 
「あり、がとう……ちょっと、無理だったみたい……」
 
「まったく、それこそ坂井に頼めば良かったのに。あいつならそれくらい喜んで痛っ!」
 
 体力不足ではなく、無理をしてしまう性格の方に呆れてバッグを背負う池……の腰の辺りに、勉強道具やお泊まりセットではあり得ない硬く尖った何かが当たる。
 流石に気になった池のメガネに見つめられて、吉田は恥ずかしそうに顔を背けた。
 
「えっと……、ここ何日か勉強会してて気付いたんだけど、シャナちゃんの家ってヤカンくらいしか料理器具が置いてなくて……で、でもっ、こんな機会なんて二度と無いと思うし、やっぱり私………!」
 
 ボソボソと、消え入りそうな声で言い訳する吉田。
 要約すると、せっかくだから皆(悠二)に料理を作りたい。でもシャナの家には料理器具が無いから、已むなく自分の家の物を持って来た、という事らしい。
 因みに、先ほど池の腰に刺さったのはフライパンの柄である。
 バッグのインパクトのせいで気付かなかったが、彼女の両脇にはパンパンに膨れたスーパーのビニール袋が二つ置かれていた。……これは、吉田でなくとも少しばかり辛い。何せ十人分以上の食材である。
 
「とにかく行こう。こんな所で立ってても、疲れなんて抜けやしない」
 
 両方と言えれば格好良かったのだろうが、池にも自分のカバンがある。片方のビニール袋だけ持って、返事も待たず歩き出した。
 それが『断らせない為の』少年の気遣いであると察して、吉田も食い下がらずに続く。もちろん、追い付いてからもう一度「ありがとう」と言うのは忘れない。
 
「………………」
 
 呆れられている。そう思い込んで、吉田は一方的に居心地の悪さを感じる。
 しかし、今さら取り繕っても恥の上塗りだ。
 
「……焦ってるんだと、思うの」
 
 悩んだ末に吉田は……胸の内をそのまま明かす事にした。
 
「ヘカテーちゃんも、シャナちゃんも、凄く可愛くて、格好良くて……私には無いものばかり持ってる。あんな女の子が坂井君を好きならって思うと、ホントは凄く怖い」
 
 自分の弱さを晒す事に躊躇いが無いわけではないが、自分を心配してくれている(と解っている)少年に対して、それが礼儀であるように思えたのだ。
 
「でも、これで良いの」
 
 本人に、はまだ無理だけど、友達になら打ち明けられる。それが、とても嬉しい。
 
「もう、坂井君に話し掛ける事も出来ない私じゃない。ヘカテーちゃんが転校して来なかったら、ここまで頑張れなかったと思う」
 
 出会ったのは入学式の前……一目惚れだった。ずっと好きだったのに、まともに話す事も出来なかった。
 仲立ちをしてくれた平井が居なければ、友達にすらなれたかどうか判らない。
 
「…………………」
 
 今の自分を誇るように、本当に嬉しそうな笑顔を浮かべる吉田を見て、池は自分でも気付かぬ内に足を止めていた。
 
「でもヘカテーちゃん達の気持ちなんて、ホントは私も知らないんだけどね」
 
 流石に恥ずかしくなったのか、誤魔化すように空気を変えようとする吉田を、一瞬だけ止まった池が、気付かれる前に追い抜いた。
 
「もし好きだとしても、驚かないよ」
 
 何故そんな事をするのか、池自身も良く解っていない。何となく、どうしても、今だけは顔を見せたくなかった。
 
「吉田さんが好きになったんだ。誰が好きになっても、不思議だとは思わない」
 
 ―――気付けば、そんな事を口走っていた。
 
 
 



[34371] 6-5・『お化け屋敷』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:9b74a337
Date: 2013/06/13 19:00
 
 いつもと時間帯が違うとは言え、勉強会でやる事など一つしか無い。集まるメンバーもいつも通り、皆で勉強するのもいつも通り、そして……悠二と吉田が隣り合って座るのもいつも通り。
 その、ここ暫く続いている光景の中にあって……
 
「………………」
 
 ヘカテー一人が、眼前に掲げた教科書の影に、氷像のような無表情を隠していた。顔を隠していても、その意識は隣席の二人を絶え間なく捉えている。
 
「(どうして……)」
 
 避けていた自覚は、ある。
 気まずいような、恥ずかしいような、むず痒いような、怖いような……とにかく不可思議な気持ちに振り回されたくなくて、悠二から距離を置いていた。
 そして……そうして開いた場所に、今、吉田一美が座っている。
 
「(嫌だ)」
 
 それが、物凄く気に喰わない。
 少し前まで……いや、今も変わらず胸に在る感情と同じ、それは理由の解らない衝動だった。
 理由が解らないから悠二に当たり散らす事も出来ず、解消の仕方も解らないまま、それは今日まで蓄積されてきた。……そして、これからも続くのだろう。
 
「(嫌だ)」
 
 不愉快な気持ちは、既に不明瞭な躊躇いを越えている。だが、同時に湧き上がる薄ら寒い予感が、ヘカテーの身を竦ませていた。
 
「あっ、そろそろ私、準備して来ますね」
 
 慌てた……と言うより焦った口調で、吉田一美が席を立つ。見れば時計は午後6時、そういえば、今日は彼女が夕食を作るという話だった。
 
「吉田さん一人じゃ大変じゃない? 平井さんも手伝ってあげたら?」
 
「冗談。せっかくの見せ場なのに“共同作業”なんて事にしたら一美に噛み付かれるもん」
 
「噛み付かないよ!」
 
 悠二がさりげなく平井を促し、平井が両掌を上向けて肩を竦め、吉田が真っ赤になって逃げていく。
 
「(……見せ場?)」
 
 一連の会話の流れが、ヘカテーにはサッパリ理解できない。夕食を作るという行為がどうして見せ場になり、平井が手伝いを自粛する理由になると言うのか。
 
「(そういえば………)」
 
 不意に、学校の昼食時の出来事が脳裏に蘇る。吉田はいつも、家族でもないのに悠二に弁当を持って来ている。夕食を作るのが『見せ場』になるなら、あれも『見せ場』の一環なのではないだろうか。
 今一つピンと来ないものの、『吉田が悠二に対して見せ場』という曖昧なキーワードが、どうにも不穏な予感を掻き立てる。
 
「あれ、ヘカテー?」
 
「………………」
 
 とりあえず、料理に向かった吉田の椅子に、ヘカテーは無言で着席した。
 
 
 
 
「……良しっ」
 
 なかなか満足のいく出来映えに、吉田は両手で小さくガッツポーズを作る。緊張して失敗してしまわないか不安だったが、まさしく集中力の勝利である。
 
「後は、ゆかりちゃんと緒方さんに手伝って貰って……」
 
 流石にこれだけの料理を一人では運べない。一度部屋に戻って応援を呼ぼうと吉田は厨房の扉から廊下に……
 
「―――――――」
 
 出ようとした所で、開いたドアの目の前に、一人の女性が立っていた。
 
「む、何者でありますか」
 
 桜色の髪と瞳を持つ、ヘカテー以上と一目で判る無表情の……メイド、としか表現できない誰か。
 
「(シャナちゃんの家族……!? でも、外国人だし……)」
 
 何の感情も読み取れない双眸が、吉田の瞳を覗き込む。その美貌が、姿が、表情が、存在感が、異様なまでに現実味なく思えてしまう。
 
「(古びた洋館の、メイドさん……?)」
 
 唐突に、勉強会初日に緒方が言っていた一つの言葉を思い出す。
 
 ―――お化け屋敷。
 
「あ……えと、私、は……」
 
 言葉が上手く出て来ない。オバケなんて居ない……という理性の囁きにも意味は無い。吉田一美は、作り物だと判り切っているアトラクションでさえ泣き叫ぶ少女なのだ。
 
「ご、ごめんなさい!」
 
 後ろに下がれば逃げ場が無くなる。最後の勇気を振り絞って、吉田はメイドの横……扉のギリギリ端を猛然と走り抜けた。
 
「ああ、あの子のクラスメイトでありますか。そういえば玄関に靴が……」
 
 そんな呟きも聞こえない。振り返る事などあり得ない。勘違いなら後で謝れば良い。今はただ、一刻も早く皆の所に戻りたかった。
 
「はあっ…はあっ………あれ?」
 
 しかし、その焦燥が悪かった。一心不乱に広大な館を走り回った吉田は……
 
「ここ、どこ……?」
 
 戻るべき部屋の場所を、完全に見失ってしまっていた。
 右を見ても、左を見ても、見覚えのある廊下が見えない。……いや、どこも似たような造りにしか見えない。おまけに暗い。明らかに住人の数に見合わない屋敷、常に全ての電気が点けっぱなしになっているワケもない。
 電気を点けようか、それとも移動しようか迷う吉田は………暗がりの中に、一筋の明かりを見つけた。
 
「(誰か……居るの?)」
 
 開きっ放しの扉の中から、黄昏からなる赤い光が射し込んでいる。その奥から微かに鳴り響くのは、ヒュンヒュンと鋭く風を切る何かの音。
 
「………………」
 
 見るな、止めろ。理性はそう告げているのに、吉田の足は引き寄せられるように扉に向かう。
 そっと、そ~っと近寄って、開いた扉から顔を覗かせた。
 
「!!!?」
 
 直後、やっぱり止めておけば良かったと後悔する。
 血のような夕焼けに照らされた一室、その真ん中で鮮やかに剣を振るう銀髪の男。男の他には誰も居ない、それは己が心を鏡に写す剣舞のように見えた。
 あまりの鮮やかさに、一瞬、“誰かが刃物を振り回している”という異常事態への認識が遅れる。
 ―――その一瞬が、さらなる後悔を招く。
 
「誰だ?」
 
 最初から気付いていたかのように、男は振り返った。流れる銀髪の向こうから、まるで吸血鬼のような金の眼が光り―――
 
「っ―――――!!?」
 
 別に殺意も怒気も込められていないその眼光を受けた吉田一美は、絵に描いたような綺麗な姿勢で卒倒した。
 
 
 
 
「吉田さんに何した!?」
 
「知るか、俺はただ声を掛けただけだ」
 
「そりゃ、いきなりこんなのに声かけられたら気絶するよね、一美なら」
 
「……どういう意味だ」
 
 数分後、気絶した吉田は皆の居る部屋に運ばれていた。彼女が遭遇したのは言うまでもなく、ヴィルヘルミナとメリヒムだ。
 メリヒムの身長は2メートルを越える。そんな大男が古びた屋敷でサーベルを振り回していれば、吉田でなくとも驚くだろう。
 事実………
 
『…………………』
 
 初対面の池、佐藤、田中、緒方は硬直して言葉を失っている。因みに吉田は現在、部屋の隅に備えられたソファーの上、平井の膝枕に頭を乗せて眠っている。
 
「彼への処罰は後ほど考えるとして、一先ず吉田一美嬢を起こすのが先決。せっかくの料理が冷めてしまうのは、彼女とて不本意でありましょう」
 
「……何かサラッと居るけど、まさか一緒に食べる気か?」
 
「人数分用意してあるように見えるのであります」
 
「シャナの食欲を考慮してるだけだろ!」
 
 ヴィルヘルミナはと言えば、吉田が応援を頼もうとしていた料理を一人で危なげなく運び込み、そのまま居座っていた。
 もちろん、池ら一般人は内心パニックである。吉田ほどではないが。
 
「お邪魔してます、僕たち準子さんのクラスメイトです。えっと……準子さんの御家族の方、でしょうか」
 
 普段からは考えられないほど年上に対して態度が雑な悠二に戸惑いながら、それでも事態の収拾に務めんとする池。どう見ても家族には見えないが、とぼける方向性としては間違っていない。
 
「……ジュンコ?」
 
 のだが、銀髪の青年は怪訝そうに眉を潜めた。さっきまでペラペラ日本語を話していたのに、どういうわけか伝わっていない。
 
「そうそう! こいつもカルメルさんもシャナの家族で、訳あってカルメルさんは平井さん家に居候してるけどシャナもメリヒムも生活能力0だから頻繁に掃除しに来てたりするけどカルメルさんも料理は全然できないからデカいキッチンが全く活用されてないという………!!」
 
 しかも、悠二が慌てて間に入って来た挙げ句に訊いてもいない事を早口で捲くし立てる始末。なぜ今の話で坂井悠二が焦っているのか理解に苦しむが、
 
「(要は、触れられたくないって事か)」
 
 それだけ解れば、とりあえずは充分だ。そもそも転校して来る前からシャナと知り合いな時点でおかしかった。内容は想像すら着かないものの、何か色々とあるのだろう。
 などと勝手に察している内に、無表情なメイドに投げ飛ばされる坂井悠二。さっきの「料理できない」発言が原因と思われる。
 
「なぜ貴方がそんな事を知っているのでありますか」
 
「あ、それあたしがバラしました」
 
 平井家の居候、という言葉が真実であるのも、そんなやり取りから察しつつ、日常に生きる少年少女は引きつった愛想笑いを浮かべるしかなかった。
 ただ……
 
「…………………」
 
 佐藤啓作だけが、複雑そうに坂井悠二を見つめていた。
 
 
 
 
「うん。いつものお弁当も美味しいけど、やっぱり作りたては違うね」
 
「はいっ、お弁当には入れられない物も作れますし、こ……ここ、今度また機会があったら……!」
 
 とんだイレギュラー……に見えて、実は場所を考えれば今まで遭遇しなかった事が不思議だった二人とのアクシデントを跨いだものの、何とか当初の計画通りに持ち直した吉田である。
 ヴィルヘルミナとメリヒムもちゃっかり同席しているが、席が離れているのでそれほどプレッシャーにならない(ヴィルヘルミナはメリヒムの隣席をちゃっかり確保している)。
 唯一の不満はと言えば………
 
(モグモグ)
 
 吉田が料理をしている間に、その席を我が物顔で占領していたヘカテーの存在である。
 今まで大人しくしていたのが不思議なくらいだったのだから、この行動自体には驚かない。どうせ食後はお風呂に入るのだから、今は隣席に固執する必要も無い。池が気を利かせて悠二の向かいの席を譲ってくれた事もあり、むしろこっちの方が会話はし易い。
 しかし、問題はそこではない。
 
「(ヘカテーちゃん、やっぱり……)」
 
 明らかに不自然な形で、ヘカテーが悠二の隣席を奪った、という事実そのものにある。
 吉田はヘカテーに「そこは私の席だからどいて」と言ったわけではない。それでも、不満めいた感情はどうしても瞳に浮いてしまった。
 ヘカテーは、その視線に“気付いた上で”、断固として椅子から離れなかったのだ。何を考えているか解らなかった今までとは明らかに違う。あの眼は確かに『吉田一美』を見据えていた。
 
「(いや、ヘカテーちゃんがどうこうじゃない)」
 
 本当の問題はその後。
 知らぬ間に席を奪われた吉田は、助けを求めて悠二を見た。求められるまでもなく、悠二は吉田の不満に気付いていた。
 その上で……困った風に視線を逸らした。
 
「(やっぱり、一緒に住んでるってズルい)」
 
 坂井悠二は、吉田一美を理由に、ヘカテーを拒めない。あれはつまり、そういう事だ。
 愛情なのか、友情なのか、それとも妹に向けるような感情なのかは解らないが、未だに優先順位で負けている。
 
「(ズルい)」
 
 今まで胸の奥に燻っていた感情が、明確な形となって胸中で言葉になる。
 いきなり現れて、良く解らない理由で一緒に住んでいて……当たり前のように、いつも隣に居る。
 
 ―――“何もしていないくせに”。
 
「(………それとも、何か、あるのかな)」
 
 突発的に疼いた炎は、相反する臆病さに叩かれて脆く揺らぐ。
 少女達の戦いは……まだ始まってすらいなかった。
 
 
 
 
 勉強会の夜は耽る。
 今夜ばかりは夜の鍛練も休止、明朝の鍛練も無しである。
 
「むにゃ……んふふぅ~♪」
 
 いつもの部屋、いつものベッドで横たわるシャナに、同じベッドに潜り込んだ平井ゆかりが頬擦りする。
 「今夜はオールでガールズトークだー!」とか騒いでいたクセに、自分がいの一番に熟睡していた。
 
「(……暑苦しい)」
 
 フレイムヘイズだろうが暑いものは暑い。七月も半ばに差し掛かろうという時期に抱き枕になどされたくない。
 ……のだが、何となく叩き起こすのも憚られたので、されるがままになっている。
 因みに部屋割りはシャナと平井、吉田と緒方、ヘカテーとヴィルヘルミナ、悠二と池、佐藤と田中だ。当たり前だが、メリヒムはいつもの自室に一人で寝ている。
 もっとも、ついさっきまで皆で平井持参の人生ゲームに没頭していたので、これは本当に寝る為だけの部屋割りだった。修学旅行気分で二人一部屋にしたものの、一人部屋でも大差なかったかも知れない。
 
「(こいつは、何を考えてるのかな)」
 
 今まで深く考えた事も無かったが……この平井ゆかりという少女はどう考えても異質だ。
 御崎市に在る徒やフレイムヘイズは、それぞれに思惑や目的があって『零時迷子』の傍に居る。その渦中の坂井悠二にしろ、自身の境遇や未練が綱引きをして惰性のまま今の状況に流されているに過ぎない。
 ならば、平井ゆかりは?
 人間の身で積極的に関わり、ヘカテーの親友を名乗りながらフレイムヘイズの支援施設たる外界宿(アウトロー)に出入りし、“こんな風に”フレイムヘイズとも馴れ合おうとする。
 何がしたいのかサッパリ解らない。だが……おちゃらけた態度の奥に形の見えない意志のようなものは感じていた。
 
「(私とは、違うな……)」
 
 “元人間”として、ボンヤリと思う。
 同じ人間でも、フレイムヘイズとなるべく育てられ、他の生き方を知らずに選んだ自分と……紅世の事などまるで知らずに育ち、数多の生き方を知った上で“外れようとしている”平井は、似ているようであまりに違う。
 ……後悔しているわけでもないし、それで結果が変わるとも思わないが、
 
「(こいつみたいに選べてたら……)」
 
 ―――こんな風に、モヤモヤした気持ちにはならなかったかも知れない。
 
 沈みゆく微睡みの中で、ヒトならざる少女は不透明な呟きを胸の内に落とした。
 
 
 
 
 期末試験対策、という本来の目的以外に、それぞれの胸にそれぞれの火種を残した勉強会も、いざ試験が始まれば瞬く間に過ぎていった。
 
「「ううおっしゃぁああーー!!」」
 
 そうして数日後、全ての試験が返された。細かい点数を脇に置いて大まかに出来を分けると……
 ヘカテー、シャナ、池が上の上。吉田が上の中。平井が上の下。悠二が中の上。緒方が中の下。佐藤と田中が下の上である。
 因みに、この結果に歓喜の雄叫びを上げているのは一番不出来だった二人だったりする。
 
「マジか、赤点が一つも無ぇ!」
 
「こんな清々しい気分で休みを迎えるの初めてじゃね?」
 
 とまあ、そういう事情らしい。池や吉田は勿論だが、悠二も何だかんだで微妙に要領が良いので、追試だの補習だのとはこれまで無縁。あまり現実的な脅威として考えた事が無い。
 緒方も元々成績が良い方ではないが、佐藤や田中ほどだらしなくもない。勉強会が無くても、恐らく自力で赤点だけは回避した事だろう。
 
「あんた達、池君に感謝しなさいよ。メガネマンが居なかったら、今ごろ絶対この世の終わりみたいな顔して机に突っ伏してただろうし」
 
 彼女としては、高校に入ってから関係が薄くなりつつあった田中との距離を以前と同じ所まで戻せた事の方が大きな収穫だ。
 以前よりも……とまで思い上がったりはしない。むしろここからが勝負。部活があるから中学時代ほど暇ではないが、取っ掛かりは出来た筈だ。
 
「(ライバルも居なさそうだしね)」
 
 色恋沙汰に関心の薄い田中の性質が、今ばかりは有り難い。ここ最近の観察で解ったが、田中に好意を寄せる異性は勿論、田中が誰かに好意を表している様子も無かった。
 そこに自分も含まれるのだから自惚れられる状況でもないが、焦って関係を壊す必要も無い。
 
「(そう考えると……一美ってスゴいよね。手作り料理とかお弁当とか、殆ど告白みたいなもんだし)」
 
 不安が無い筈もないだろうに、それでも懸命に好意を表し続ける。今の緒方には、正直ハードルが高い試みである。
 
「それより皆! 明後日のミサゴ祭りは行くよね? 私、夕方からなら空いてるんだけど」
 
 今はこれが精一杯。二人きりで出掛けるのは無理でも、皆で出掛けて二人の時間を作る事は出来る。
 それに、建前などなくとも、ここにいる皆と一緒に遊ぶのは純粋に楽しい。
 
「もっちろん! 既にヘカテーとシャナに着せる浴衣とか隠し持ってるくらいだもん」
 
 打てば響くように平井の親指が天を衝く。眩しいくらい満面の笑顔である。
 
「い、行きます。私も浴衣で……!」
 
 横目にヘカテーを見ながら、吉田もいつもより強い口調で賛同する。
 
「僕は予備校があるから、後で合流って形になるかな。携帯で連絡するよ」
 
 そんな吉田を一瞥した池も、条件付きで賛同する。
 ヘカテーやシャナも……問題なさそうだ。平井が手を握ってノリノリで挙手させている。
 このまま順調に事が運びそうだ……と思った直後、
 
「あー……すまん。俺達その日、ちょっと無理だ」
 
 肝心要の田中栄太が、控え目にそう言った。
 緒方の表情が、微妙な笑顔のまま固まる。その硬直の意味を悟られたくなくて、無理矢理に不満そうな顔を作る。
 
「何でよ。“達”って事は佐藤も一緒なんでしょ? 私達が居たら何か困るわけ?」
 
「えっと、まぁ色々あるんだよ。こっちも」
 
 が、矛先を向けられた佐藤は何とも歯切れ悪く視線を逸らすのみ。
 その時、光り輝く太陽。
 
「オガちゃんの言う通り! 一度しかない高1の夏を男二人で過ごそうなんて言語道断! 納得のいく理由を提示するか、おとなしく女子の浴衣に見惚れるか選ぶが良い!」
 
 腰に左手を当て、右手人差し指をズビシッ! と伸ばす平井。鼻先に指を向けられた佐藤はジワジワと後退る。
 
「いや、ホント用事があるんだって。他の日なら大丈夫だから、ミサゴ祭りは勘弁してくれ!」
 
「む~……坂井君からも何とか言ってやっとくれ。このままだと男女比がエライ事になっちゃうよ?」
 
 そして一筋縄ではいかぬと見るや、平井は触角を立てて悠二に水を向ける。
 そう……誰もが密かに認めている事だが、この集団の中心はスーパーヒーロー・メガネマンでもなければ、最強少女たるヘカテーやシャナでもなく……この坂井悠二なのだ。何とも不思議な事に。
 
「……平井さん」
 
 その悠二はと言えば、平井の質問に答えもせずに………いきなり一歩、近付いた。
 
「ひゃい!?」
 
 紫の瞳を、近い距離からじーっと覗き込む。
 突然の行動に、平井だけでなく他の面々も目を見開いていると……悠二は、その右手を平井の額にそっと当てた。
 
「………………」
 
「…えっ、と……」
 
 そのまま目を閉じるせいで、見ようによってはキスする直前のようにも見えてしまう。
 ―――空気が、凍り付いた。
 あまりにもあんまりな状況に、吉田も、ヘカテーも、金縛りにあったかのように動けない。
 永遠とも思える数秒を越えて……
 
「……やっぱり」
 
 悠二は、小さな納得と共に手を離した。
 
「平井さん、ホントは朝から解ってたんじゃない?」
 
「あ、あはは……」
 
 平井の顔は、仄かに赤い。
 これを見て「風邪でも引いてるのか?」などと言うのが少女マンガか何かの定番なのかも知れないが、流石の悠二もそこまで唐変木ではない。
 
「風邪、引いてるだろ」
 
 紛れもない事実として―――平井ゆかりは体調を崩していた。
 
 
 



[34371] 6-6・『恋する資格』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:9b74a337
Date: 2013/05/11 19:44
 
「うぅ……元気だけが取り柄だったのに……」
 
 悠二は悔しそうに唸る平井をベッドに寝かせ、その額に濡れたタオルを乗せる。
 今日はヴィルヘルミナが御崎市に居ない。風邪を引いた平井をマンションに一人帰す気にもならず、悠二は彼女を背負って坂井家へと連れ帰った。
 平井は普段から何も無くても頻繁に泊まりに来る為、年頃の男女云々という問題も今更だ。
 
「無理し過ぎだよ。テスト期間中くらい休んでると思ってたのに」
 
 平井は現在、外界宿第八支部の末端構成員として様々な雑事をこなしている。
 朝は早く起きて悠二らの鍛練に付き添い、夜になればこれまた鍛練に付き添う。もちろん学校にも普通に通い続けているし、遊ぶ事にも余念が無い。
 そんな生活を送っている最中に始まった期末試験が、トドメになってしまったらしい。
 
「大体、体調が悪いなら何で隠すんだ。朝の段階でどれくらいだったか判らないし学校に来るなとは言わないけど、わざわざ強がる事ないだろ」
 
 無論、平井にもそうするだけの理由があった。だが、それを“本人”に直接告げるのは憚られる。
 
「……何も知らずに元の生活に帰れ、なんて言わないけど……やっぱり外界宿に関わるのは……」
 
「(ほら来た)」
 
 悠二は平井が自分たちの存在を受け入れてくれる事を喜ぶ反面、彼女が紅世に関わる事自体には否定的なのだ。
 外界宿の活動が平井の生活の妨げになっていると考えれば、こういう事を言い出すのは目に見えていた。
 だから、風邪を引いた事もバレないように振る舞っていたと言うのに……。
 
「……よく気付いたね。いつも通りにしてるつもりだったのに」
 
「ん……何か、本当は辛いのを隠す為に空元気だしてるように見えたんだ」
 
 あからさまに話題を逸らす平井に対して、悠二も深くは追及しない。もう何度となく繰り返して、その度に撥ね除けられている事だからだ。
 
「……あーもぅ」
 
 何故か消え入りそうな声を出して、平井は布団を目元まで引き上げた。熱で赤らんだ顔で、覗き込むように上目遣いで悠二を睨む。
 
「えっ、と……何?」
 
「何でもない。それより、ミサゴ祭りはゼッタイ行くからね」
 
 懲りない少女。そんな単語が悠二の脳裏に浮かぶ。
 
「……そこまで遊びたいのか」
 
「遊びたい」
 
 まさかの即答に、悠二は今度こそ露骨に呆れた。
 紅世に関わったり外界宿に出入りするのは平井なりの理念に沿った行動なのだろうが……今までも休む時間は作れた筈なのだ。それこそ、遊ぶ頻度を少しばかり減らせば。
 
「まったく……」
 
 そんな少女を嗜めるように、悠二は濡れタオルの上からそっと右手を置いた。
 
「そんなに慌てなくても、皆で遊ぶくらい いつでも出来るだろ?」
 
「………解んないよ。そんなの」
 
 何にか拗ねて、平井は目だけでそっぽを向く。額に乗せた手は、拒まれない。
 
「今の生活がいつまで続くかなんて、きっと誰にも解らない。だからあたしは、今の時間を、ちゃんと大切にしたい」
 
「………………」
 
 平井の言葉、その裏に隠された真意に気付いた悠二は……不思議と、衝撃と呼べるほどの動揺を覚えなかった。
 自分は人間ではない。
 いつまでこうして、人間のフリをした生活を続けられるか解らない。
 そんな残酷な現実を改めて突き付けられて……それを静かに受け止めた。
 平井が言葉を削った、その心理自体が、削られた言葉の意味より深く悠二の胸に響いた。
 
「……そっか」
 
 “自分一人の痛みではない”。
 ただそれだけの事実が、笑って痛みに耐えられるだけの強さになった。
 
「なら、ちゃんと風邪は治さないとね」
 
「んっ」
 
 何が嬉しいのか、平井は柔らかく目を細め、そのまま閉じた。
 穏やかな静寂の中で、小さな吐息の音だけが、静かに時を刻み続ける。
 
 
 
 
 平日の午前十時、夏休みだからこその時間帯、スーパーの一画で一人の少女が落ち着きなくうろついている。
 
「(ゆかりちゃん、苦手な物とかあるのかな)」
 
 半袖のブラウスに赤のプリーツスカートという出で立ちの吉田一美である。
 学生ながらに家事の一端を担い、普段から二人分の弁当を作っている家庭的な彼女だが、今回はそういった目的で買い物に来ているわけではない。
 
「(果物と、ゼリーと……あ、ニラとか? 私が料理しなくても、材料を渡すだけでも……)」
 
 風邪で寝込んでいる平井ゆかりの御見舞いだ。しかしながら、その胸の内は単純な友情一色とは言い難い。
 
「(……いいなぁ、ゆかりちゃん)」
 
 平井が悠二に気遣われた場面も、平井が悠二に背負われて帰った場面も吉田は見ているし、そのまま坂井家で看病されている事も知っている。
 寝込んでいる自分を心配してくれる想い人……はっきり言って、密かに憧れていたシチュエーションである。
 
「(でも、坂井君の家、なんだよね……)」
 
 と同時に、些か不純な緊張感も湧いて来る。
 吉田は今まで悠二の家に行った事がなく、自分からそれを言い出す勇気も無かった。……が、今回は平井の御見舞いという正当な理由がある。「迷惑かも」「押し付けがましいかな」「図々しいと思われたら」等の不安も感じず、堂々と訪れる事が出来る。
 
「(あぁぁ……私また……)」
 
 という思考の後に、自己嫌悪で悶える。
 平井は熱で寝込んでいるというのに、羨ましがったり好都合に思ってしまったり、これではまるで悪女ではないか。
 ……と、羨望、緊張、自己嫌悪が、昨日から吉田の頭の中をグルグルと回り続けている。
 
「(御見舞い、御見舞い。変なこと考えるのは不謹慎)」
 
 自分に言い聞かせながら買い物を済ませ、スーパーを出る。その瞬間に襲って来る、不快な湿気と夏の日射し。
 
「(……日傘でも差して来るんだったかな)」
 
 好きな人の前で汗だくの姿など見せたくない。……ブラウスならば尚更。
 考えても仕方ない事を考えながら、速いとは言えない足取りで道を歩く。歩きながらも、視線は一枚のメモ用紙に注がれている。
 それは昨日の帰り道……池速人が何も言わず、微笑を浮かべて手渡して来た物。平たく言えば、坂井家への手書きの地図だった。
 簡単に描いてはいるものの、目印になりそうな要点はきっちり押さえた解りやすい代物である。
 
「(……どうして池君は、ここまでしてくれるんだろう)」
 
 自分も少しは変われたつもりでいるが、それでも池の助力は大きい。
 勇気を出すべき『肝心の場面』。そこに至る過程に於いて、幾度となく池に助けられている。
 ―――いっそ、不自然なほどに。
 不自然と言えば、もう一つ………
 
『吉田さんが好きになったんだ。誰が好きになっても、不思議とは思わない』
 
 あの時の、あの言葉。
 結局あの後も池に変わった様子は見られなかったが、いくら何でもあれは過大評価に過ぎる。
 あれでは、『吉田一美に好かれる事』が物凄い事であるように聞こえてしまう。
 
「(自惚れる、わけじゃないけど……)」
 
 それだけ見込まれているからこそ、こんなに協力してくれるのかも知れない。
 坂井悠二の、親友として。
 
「(頑張ろう)」
 
 もはや口癖になりつつある決意をまた一つ重ねて、奮起するように顔を上げる。
 
「っ」
 
 そこに、こちらに歩いて来る一人の少女を見つけた。
 袖の無い薄緑色のワンピースに、麦わら帽子から覗く水色の髪。平井でなくとも、思わず抱き締めたくなるほど可愛らしい少女。
 
「ヘカテーちゃん」
 
 だからこそ、怖い。
 怖くても、逃げたくない、恋敵。
 
「おはよう」
 
 他でもない恋敵の大きさが、吉田の何かを衝き動かす。
 
 
 
 
「(風邪、熱、病……)」
 
 坂井家のもう一人の住人たるヘカテー。もちろん彼女も、平井の窮地に傍観などしていない。
 悠二の母・千草に頼まれ、病人に適した食料を調達するべくお使いに出ていた。
 
「(そんなに辛いものなのでしょうか)」
 
 徒であるヘカテーは、病気というものを知らない。いや、知識としては知っているが、それがどんな苦痛を伴うものなのか実感できない。
 しかし人間の歴史に於いて、幾度となく病魔が多くの死を齎らして来た事実を思うと………
 
「(………ゆかり)」
 
 かなり大袈裟な心配をしてしまうヘカテーだった。
 水分を良く摂って、温かくして、汗をかき、食欲が無くても頑張って食べる。千草に言われた対処法を頭の中で復唱しつつ、少しばかり歩幅を広げる。
 
「(……でも)」
 
 不意に、自分でも思いもよらない夢想が頭をもたげた。
 
「(もし私が、人間だったら)」
 
 そして、平井と同じく病に伏せったら。
 ―――あんな風に、悠二が傍らで見守ってくれるのだろうか。
 何となく……そう、何となく……悪くない夢想だった。
 もっとも、ヘカテーは風邪を引いたりしない。怪我にしたって、一日跨ぐような怪我はあり得ない。悠二と『器』を合わせさえすれば、どんな傷でも零時には全快するのだ。
 『巫女』として、守護される事には慣れている筈のヘカテーが、そこはかとなく今の平井の状態に憧れを抱いてみたりしていた。
 
「(早く、治れば良いのですが)」
 
 気を、取り直す。
 明日は平井が楽しみにしていたミサゴ祭り。内容はまだピンと来ないが、きっと楽しいものに違いない。
 
「(楽しい)」
 
 仮初めの生活を素直に認めて、軽くなった足取りで前に進む……と、その先から、見慣れた少女が歩いて来ていた。
 吉田一美。
 何故だか最近、ヘカテーの胸に不鮮明な影を落とす人間の少女。そういえば、悠二も平井も居ない状況で彼女と話した事はない。
 
「ヘカテーちゃん、おはよう」
 
「……おはようございます」
 
 以前なら話す相手が誰だろうと気にもしなかっただろうが、今はどうにも居心地が悪い。そんな感情を当たり前に感じているという変化には気付かず、代わりに吉田の提げているビニール袋に気付いた。
 袋の中身を余さず確認したわけではないが、今まさにヘカテーが買いに行こうとしているラインナップそのまんまに見える。
 
「それは、ゆかりにですか?」
 
「あ、うん。これから御見舞いに行こうと思って。ゆかりちゃん、大丈夫?」
 
「………ずっと寝ています」
 
 やはりそういう事らしい。勢い込んで買い物に出て来たのに、どうやら無駄になってしまったようだ。
 仕方ないので、踵を返す。
 
「あっ、もしかしてヘカテーちゃんも……」
 
「買い過ぎても、冷蔵庫に入りません」
 
 その背中を吉田も小走りで追い掛け、並び、連れ立って歩く。
 
「……………」
 
「……………」
 
 まだ二言三言しか話してないのに、会話が途切れた。これは二人が二人とも口数が多い方ではないから、というだけではない。
 ヘカテーは困惑から、吉田は畏縮から来る緊張を、歩く肌身に感じていた。
 ただ………
 
「(頑張ろうって、決めたじゃない)」
 
 不可解な気持ちに振り回されているヘカテーと違って、吉田には自覚がある。自覚があるから、心構えを持てる。
 
「………ねぇ、ヘカテーちゃん」
 
「?」
 
 これは様子見。これを聞いた時の反応次第で、ヘカテーの気持ちの度合いが判る。
 
「明日のミサゴ祭り、なんだけど……」
 
 今さら隠そうなどという気は、全く無い。
 
「私、坂井君と二人で回りたいの」
 
 小さな一石が波紋を呼ぶ。
 数千年の時を守り続けて来た巫女の心に、大きく激しい揺らぎを起こす。
 
 
 
 
「って言ったら、どう思う?」
 
 吉田はもちろん、本気ではなかった。
 悠二と二人で祭りを回りたい気持ちはあったが、それで他の友達らとの約束を台無しにするような自分本位な事は出来ない。
 ヘカテーの本心を確かめたい。
 その衝動に任せた、彼女らしくもない牽制行為。
 だから、こんなつもりではなかった。
 
「――――――――」
 
 ヘカテーは信じられないモノを見ているかのように凍り付き、目を見開いていた。普段の無表情からは考えられない、吉田でもハッキリと判る動揺の姿。
 続けた言葉が聞こえているかどうかも怪しい。
 
「…どうして、ですか……?」
 
 吉田がそう思った通り、ヘカテーには続けた言葉が聞こえていなかった。ほとんど物理的な衝撃を受けて、立ち直るのも待たず本能だけで口を開いていた。
 だからだろうか……零れ落ちた声は、まるで縋りつくように弱々しい。その弱さが、何故か猛烈に吉田の心を掻き乱す。
 
「(何で………)」
 
 ヘカテーの想いが決して軽いものではない事は一目で解った。ほんの数秒前にはその事実に戦慄さえ覚えた。だが……それを上回るほどの反発も、同時に湧き上がる。
 こんな時だけ弱者になるのは、卑怯だ。
 
「(私だって、坂井君が好き)」
 
 何もしてない癖に、当たり前の顔をして隣に居座っているだけの癖に、どうしてそんな顔をされなければならないのか。
 “自分の方がずっと”、その気持ちが、吉田の口を開かせる。
 
「私は………」
 
 思った事など一度もない。こんな気持ちを抱くなんて想像した事すら無かった。
 “こんな子になんて”負けたくないと。
 
「坂井君の事が、好きだから」
 
 一陣の風が、夏の大気を裂くほどに冷たく、二人の間を吹き抜けた。
 
 
 
 
「…好、き……?」
 
 沈黙すれば圧し潰される。強迫観念にも似た確信が、何とも情けないオウム返しへと繋がる。
 
「そう、私は坂井君が好き」
 
 『好き』という言葉に複数の意味がある事は知っている。だが今、吉田の言い放つ『好き』が、自分の根幹を脅かすものだとヘカテーは当然のように解った。
 いや……“思い知らされた”。
 
「ヘカテーちゃんは、どうなの?」
 
「わた、し……?」
 
 目の前の吉田を、見る。
 ヘカテーの知る吉田は、気弱で、控え目で、どちらかと言えば臆病と呼べる性格の少女だ。
 なのに、今の吉田はどうだろうか?
 決して下を向かず、相手の瞳を真っ直ぐに見据え、自分の気持ちを全く隠さず相手にぶつける。
 まるで別人。
 それも……今まで出会ったどんな“王”よりも恐ろしい『敵』だった。
 
「坂井君の事、好きなんでしょ」
 
「ッッ……!?」
 
 放たれた言葉が、重たい鎚となってヘカテーの防壁を叩く。
 この世の真実は何一つ変わっていない。吉田は何の力も無い人間で、ヘカテーは神の眷属にして強大な力を誇る紅世の王。
 にも関わらず……確かにヘカテーは吉田に圧倒されていた。
 
「(私が、悠二を…好き……?)」
 
 半ば以上に確信を持って告げられた言葉が、毒のようにヘカテーの思考を誘導する。
 ―――坂井悠二。
 陽炎の中で出会って、二人で死線を乗り越えて、怒って、泣いて、微笑んで………いつの間にか、一緒に居る事が当たり前になった少年。
 ―――このまま、いつまでも一緒に―――
 
「ッ―――ダメ!!!」
 
 想いが形となって流れ込む寸前、ヘカテーは拒絶の叫びを上げていた。“何かが壊れる”と、理性の片隅で自分の欠片が必死に心を守ろうとする。
 そんな痛々しいまでの叫びが、逆に吉田を憤らせる。
 
「何がダメなの」
 
「それ、は……」
 
 ヘカテーは言い返せない。さっきの叫びは自分自身に向けたモノだったが、吉田一美を止めたい気持ちは確かにあった。
 だが……それを明確な形には出来ない。正当な理由が見つからない。
 吉田が悠二を好きになろうと、悠二が吉田を好きになろうと、それをヘカテーに止める事は出来ない。
 “ヘカテーがいつまでも彼の隣に居る事など、絶対にあり得ないのだから”。
 
「(意気地なし)」
 
 言葉を失くしたヘカテーを見て、吉田は踵を返して歩き出す。
 想い人どころか、自分自身の気持ちにすら向き合えない臆病者。もう、張り合う意味すら無い。
 ヘカテーの前から去る。去って坂井悠二の許へ向かう。その吉田の、手を―――
 
「あ………」
 
 ヘカテーの小さな手が、掴んでいた。
 それに驚いたのは吉田だけではない。掴んだヘカテーの方こそが、勝手に動いた自分の手を凝視している。
 
「(どうして……)」
 
 自分は悠二の事が好きなわけではない。
 いつまでも一緒に居られはしない。他の誰が悠二を好きになっても止める権利は無い。
 “だから”自分は悠二の事など好きではない。
 ――――“でも”
 
「…………………」
 
 ヘカテーは喋らない。顔を上げない。目を合わさない。………そして、掴んだ手を離さない。
 
「(……ズルい)」
 
 とんでもない力で手首を掴まれても、吉田は決して悲鳴を上げない。くっきりと手形の痣が残るだろうが、そんな事はどうでもいい。
 何もしない癖に、自分の気持ちすら認められない癖に、顔も上げられないほど圧倒されている癖に……こうやって、邪魔をする。
 そんな彼女が許せない。
 
「……そんなに好きなのに、どうして認められないの」
 
 他でもない彼女にとって、そんな在り方は間違っている。
 
「そんなズルいヘカテーちゃんには、私、絶対に負けないから……!」
 
「あ……っ」
 
 叫ぶと同時、掴まれた手を払い、スーパーの袋をヘカテーに押し付け、吉田は来た道を引き返して去って行く。
 こんな顔で病人の御見舞いなど出来るワケがない。ヘカテーと一緒になど、絶対に考えられない。
 
「(私も、もうちょっとズルくなれたらな……)」
 
 結局、吉田は吉田だった。
 途中から、或いは最初から……吉田は、“ヘカテーの為に”怒っていた。
 あんなに彼を想っているのに、それを押し殺している彼女の為に怒っていた。
 
「(だって、そんなの間違ってる)」
 
 言いたい事は言った。あれでまだ押し殺せる程度の気持ちなら、最初から恋敵などではなかったという事だろう。
 
「(頑張れ、ヘカテーちゃん………)」
 
 対等な立場で戦いたい。
 恋敵である前に友達である少女に対して、吉田はそんな気持ちを抱いていた。
 
 
 
 
 ヘカテーと吉田が人知れず言い争っている頃、池速人は予備校に行くついでに坂井家に足を運んでいた。
 半分は平井の御見舞い、もう半分は吉田が気掛かりで。どうせ状況的に二人きりにはならないし、行っても邪魔になる事も無いだろうという判断だ。
 そうして向かい、ドアを開いた坂井悠二の部屋で………
 
「はふっ、いらっしゃい池君」
 
「あ、そっちの椅子に座ってくれ」
 
 『坂井悠二にお粥を食べさせて貰っている平井ゆかり』という光景を目の当たりにした。……とりあえず、何も言わずにドアを閉める。
 
「(………あーん、ってヤツか?)」
 
 とりあえず、とても吉田にはお見せ出来ない場面だ、などと思いながら再びドアを開ける。
 一回目もノックしたのだから当然ではあるが、二人の状態は何も変わっていなかった。
 
「池、さっきから何やってるんだよ」
 
「こっちのセリフだ。平井さん、お粥も食べられないほどキツいの?」
 
「うんにゃ。こんな機会めったに無いから、思いっきり甘やかして貰う事にしてるのだよ」
 
 楽しそうに言って、悠二のレンゲに食い付く平井。そんな平井……というより悠二を見て、池は片手を額に当てて溜め息を吐いた。
 
「坂井、お前もちょっとは躊躇えよ」
 
 悠二はと言えば、逆に呆れて返す。
 
「騙されるなよ。平井さん、こんなだけどまだ8度以上あるんだから」
 
 堂々と言い切る坂井悠二。当の平井を前に「これ以上甘やかすな」というのも違う気がして、池はそれ以上の追及を止めた。
 だが、どうしても不満は湧いて出る。
 
「(僕だから良かったけど、吉田さんだったらどうする気だったんだ)」
 
 そんな気持ちを眼鏡に込めて、次のお粥を平井の口元に運ぶ悠二を睨み付けてみる………と、意外にも悠二はその視線に気付いて、振り返った。
 池、平井、手元のお粥に順番に視線を巡らせてから、おもむろに立ち上がる。
 
「ちょっと冷蔵庫から果物とって来るから、池あと頼むな」
 
 返事も待たずお粥を池に押し付け、やや早足で部屋から出て階段を降りて行った。あまり彼に似合わない、せっかちな動きである。
 
「急にどうしたんだろね?」
 
 それを見送ってタップリ五秒後、首を傾げつつテッと池に上向けた掌を伸ばす平井。その意味を履き違えず、池はお粥をお椀ごと手渡した。
 
「……平井さん、もしかしてまだ話してないの?」
 
「何の話?」
 
 自分でお粥をパクつく平井に、池はわざとらしい仕草でうなだれる。これは、100%話していない。
 
「平井さんが坂井と仲良くなりだした切っ掛け、って言えば解る?」
 
「ん~……あっ、あたし池君が好きって話になってたっけ? それで坂井君に協力して~ってなったんだよね」
 
「あいつなりに気を利かせたつもりなんだと思うよ。今とか、ファンパーの時とか」
 
 どうでもいいが、「池君が好き」なんて単語を何の照れもなく言われてしまう自分はどうなんだろうか、と思い悩む池だった。
 
「(まぁ、今さら“吉田さんとくっつけるつもりで近付きました”ってのは、言いにくいか)」
 
 逆に言えば、『悠二に誤解されたままで構わない』と平井が思っているという事であり、それは池にとっても都合が良い。これ以上ライバルが増えるのは吉田が可哀想だ。
 と、そこまで考えてから、吉田の事を思い出す。
 
「そういえば今日、吉田さんも来ると思うよ。昨日この家の地図、渡しといたから」
 
「ほっほう? あたしが熱でダウンしてるのに託けて援護射撃ですか。池君も随分マメだよね」
 
 そして、一瞬でバレた。
 後ろめたさから慌てふためく池は、結局言い訳を並べる方が失礼だと思い直し、素直に頭を下げて「ごめん」と謝る。
 謝ってから……先ほどの言葉の一部を聞き逃したくなくて、言った。
 
「平井さんこそ、本当に吉田さんの応援してる?」
 
 元々平井は、吉田の恋を実らせる為に悠二と友達になった。事実その結果として吉田は悠二の友達になれたし、そこは池も否定しない。
 ただ、それ以降の平井は池のような吉田の援護を殆どしていない。その事が、池は前から引っ掛かっていた。
 
「ん~………」
 
 平井は自慢の触角を指先で遊ばせつつ、言葉を選ぶ。“真実は話せない”。
 
「何て言うか、無責任に応援できなくなっちゃった、のかなぁ……」
 
「それは……吉田さんが振られるって事?」
 
「そういう単純な話じゃないけど………ううん、」
 
 聞き捨てならない、と言わんばかりの池の方は見ずに、平井は空になったお椀をベッド脇の椅子に置いて、そのままシーツの海に沈んだ。
 
「……そういう事に、なるのかな」
 
 不透明な呟きは、だからこそ重く分厚い壁となって池の前に広がった。
 天井を見つめる少女が見据える先に何があるのか、池には想像すら出来なかった。
 
 
 
 
「………………」
 
 結局、それほど長居する事もなく池は坂井家を後にした。悠二には「予備校の夏期講習があるから」と言ったが、実際はまだ少し時間がある。
 
「(……あいつ、転校とかするのか?)」
 
 あの時の平井の口振りが気になって、まともに二人の顔を見られる自信が無くて、文字通り逃げて来た。
 そんな自分の行動に、池は微かな違和感を覚える。普段の池速人なら、内心の動揺くらい押さえ込んでいつも通りに振る舞えていたのではないだろうか。
 
「(もしそうなら、流石にどうしようもないけど……)」
 
 『悠二の気持ちを知っている』という事なら、あんな言い方はしないだろう。だとすれば、それは別の、彼自身の意思に関わらず恋愛を許されない事情という事になる。
 あの家の大黒柱が昔から海外とかを日常的に飛び回っているという事実も、悪い予感に拍車を掛けていた。
 
「(大体、何でそれを平井さんには言うのに、僕には言わないんだ)」
 
 水臭い、と思わずにはいられない。吉田の事を除いても、言葉にした事はなくても、池は悠二を親友だと思っている。
 だからこそ、こういう気の遣われ方は正直ショックだった。
 
「(いや、まだ引っ越しとか決まったわけじゃないんだけど)」
 
 自分に言い聞かせるように、嫌な推測を振り払う。
 ……だが、仮にそうだとしても、絶望的とまでは思わない。
 
「(平井さんは、ちょっと吉田さんを見縊り過ぎだよ)」
 
 住む場所が離れたところで、それで繋がりが消えるわけではない。吉田ならきっと、それくらいの事で諦めたりはしないだろう。
 “転校以上”を想像できない幸せな高校生は、そんな風に内心で平井に勝ち誇る。
 
「(……この話、吉田さんに言うべきかな)」
 
 いつしか繁華街に近付き、人通りも増えて来ていた。予備校の前に本屋にでも寄って行こうかと考える池……の、眺める先に、
 
「………?」
 
 布に包まれた、太くて長い何かが見えた。それを辿って視線を落とし、さらに驚く。
 その何かを担いでいたのは、ヘカテーより更に小柄な、小学生にしか見えない子供だった。
 真夏だと言うのに長袖のパーカーに太いスラックス。しかもパーカーのフードをすっぽり被っているという格好が異様な雰囲気を助長している。
 
「(あれ、発泡スチロールでも入ってるのか?)」
 
 巻き布越しに一見すれば鉄の柱みたいな形だが、あんな子供に持てるとは思えない。
 
「(ミサゴ祭りの準備とかだろうな)」
 
 異様な光景に目を奪われはしたが……まあそれだけ。他の通行人がそうしているように、池もすぐに視線を外して通り過ぎようとした。
 ………のに、その子供は、池速人の目の前で足を止めた。
 
「あなたは、知っているのですか?」
 
 フードの奥から褐色の瞳が覗いた。
 
 何かが変わる。
 変わっていた何かに気付く。
 それは善ではない。
 それは悪ではない。
 それはただ、少年の世界を壊す真実だった。
 
 
 



[34371] 6-7・『調律師』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:9b74a337
Date: 2013/05/23 19:05
 
「(やっぱり、違う)」
 
 池が坂井家を後にして程なく、悠二は屋根から屋根へと忍者のように跳躍していた。
 風邪の平井をほったらかしてこんな非常識な事をしている理由は一つ、非常識な事態の前兆を感じ取っているからである。
 
「(これは……フレイムヘイズか)」
 
 この世ならざるモノの気配。それ自体なら最近では珍しくもないが、こんな気配は知らない。
 強さや大きさなら今までの討ち手に比して規格外というわけではないが、受ける印象が全く違う。
 いっそ不自然までに穏やかな……例えるなら、波の無い大海を彷彿とさせる存在感だった。
 だからと言うわけではないが、彼は今、その気配に向かって直行しているわけではない。……と、丁度その目当ての姿が前方に見えた。
 
「シャナ」
 
 名を呼ばれて、悠二と同じく屋根を跳ねて向かって来ていた少女は小さく頷き、悠二と同じ屋根に足を着くと同時に進行方向を変えて彼に並んだ。
 
「位置は掴めてる?」
 
「うん。そっちこそ、上手く説明できる?」
 
「やるだけの事はやる」
 
「……ま、期待はしないでおく」
 
 互いに、口に出さずとも状況と要求を理解していた。
 ミステスの悠二がフレイムヘイズと接触したところで、まともに話を聞いて貰えるか判らない。状況を説明する役として、同じフレイムヘイズの存在は不可欠だった。
 そしてシャナも、フレイムヘイズとして存在を感知する能力は備えているが、相手の正確な場所までは掴めていない。
 もし相手が問答無用で牙を剥いて来たとしても、彼(彼女)となら大抵の敵は撃退できる。……と、その程度には互いを認め合っていた。
 こんな仮定を立てねばならない事自体が嘆かわしいが、悠二は今のところ出会ったフレイムヘイズと諍いを起こす確率100%である。
 
「(ったく、次から次に………)」
 
 こんな頻度で徒やフレイムヘイズが現れるなら、とっくに人類は絶滅しているのではないか?
 悠二は以前、鍛練の場でその疑問を口にした事がある。
 それを受けた歴戦の猛者たちの解は、肯定。普通ならこんな事態は有り得ない。徒など、一生会わないくらいが普通。……つまり、今の御崎市は普通ではない。
 “狩人”の残した歪み、秘宝『零時迷子』に“頂の座”ヘカテー。外れた存在を引き付けるに十分な理由を備えていながら、必然の影に“世界の意志”とでも呼ぶべき因果を手繰り寄せる何かを潜ませた場。
 彼らはそれを―――『闘争の渦』と呼んだ。
 
「(冗談じゃない)」
 
 もちろん、根拠は無い。考えられる原因を残らず除けば、二度と御崎市に異変など起こらないかも知れない。……だが同時に、そうではないと言い切る事も出来ないのが、『闘争の渦』の最も恐ろしいところなのだ。
 
「(今度の奴にも、ちゃんとした理由があるのかな)」
 
 幸か不幸か、それは悠二が御崎市に留まり続けている理由の一つにもなっていた。
 ヴィルヘルミナは『零時迷子』に謎の自在式を刻んだ“壊刃”や、その自在式を渡したという“探耽求究”を誘き出す餌として悠二を使おうと考えているし、それは“銀”を仇と狙うマージョリーも同じだろう。
 いずれ来る、苛烈を極めると容易に想像できる戦いを予期していながら悠二を街に繋ぎ止めている“建前”こそが、『闘争の渦』なのだった。
 悠二はあまり、この事を口にしない。御崎市に未練を残す自分がこれを言っても、言い訳にしか聞こえないからだ。
 
「……気配が動かない。僕らを待ってるみたいだ」
 
 何はともあれ、今は目先の問題に対処するしかない。どんなフレイムヘイズか知らないが、勝手にヘカテーやメリヒムを狙われても困る。常なら必要以上に他のフレイムヘイズに接触しようとしないシャナが即座に動いたのもそれが理由だ。
 
「居た!」
 
 見れば人気の無い公園に一人、小さな子供が立っている。その子供が見た目通りの存在ではないと確信しながら、悠二とシャナは少年の前に着地した。
 すると、
 
「“不抜の尖嶺”に『儀装の駆り手』。なるほど、これだけの歪みを感じれば、自然と足が向くか」
 
 真っ先に、シャナの胸元からアラストールが声を掛けた。
 
「ああ、お久しぶりです“天壌の劫火”」
 
「ふむ、その少女が新たな契約者か。なるほど、彼女が誇らしげに語るのも頷ける」
 
 そして、少年もまた知己であると一言で判る言葉で返す。同じく応えた老人の声は、どうやら少年の手首に巻かれた飾り紐から出ているようだった。
 フードの奥から覗く茶色の瞳が、スッと悠二に視線を移す。
 
「そして彼が、『零時迷子』のミステスですか」
 
「ふむ、サカイユウジ君と言ったかのぅ」
 
「……随分くわしいんだな」
 
 敵意などまるで無い態度だが、悠二は逆に警戒心を微かに強めた。事情に詳し過ぎるという理屈の面からではなく、凡そ人間味を感じさせないほどの枯れた声音が、何故か胸の奥にわだかまるような不安を落とす。
 
「この街に来る前、外界宿(アウトロー)で『万条の仕手』に会いました。大まかな事情は、既に彼女から聞いています」
 
「心配せずとも、君達の問題に干渉するつもりは無いんじゃよ。思うところが無いでもないが、ここは『万条の仕手』に任せようと思っての」
 
 厭に話が早いと思ったら、既に説得が済んだ後だったらしい。
 落ち着いた物腰、穏便な態度、何一つ不安要素は無い筈なのに……何故か、浮き出た不安が拭えない。
 
「ああ、自己紹介が遅れました。私は『儀装の駆り手』カムシン。彼は“不抜の尖嶺”ベヘモット」
 
「ふむ、『調律師』と言って、解るかの?」
 
 その、淡々と使命を語るフレイムヘイズの姿が……躊躇いもなく、ちっぽけな自分の日常を踏み砕くような、そんな予感があった。
 
 
 
 
 紅世の徒が人を喰らえば、本来在る筈の存在の欠落によって世界が歪む。
 その急激な消失による違和感を緩和させる為に代替物たるトーチがあるが……それは所詮緩衝材。欠落という根本的な問題を解決できるわけではない。
 その欠落を埋める……正確には、在るべき姿と今ある姿の整合性を合わせて均す自在法を、調律と呼ぶ。
 
「世界のバランスを守るっていうフレイムヘイズの使命に最も忠実な自在法だけど、使い手はそう多くない。まぁ、徒への復讐心を切っ掛けにする契約のシステムを考えれば仕方ない事だけど」
 
「故に、調律師となる討ち手の多くは永い戦いを経て復讐心を擦り減らした者。当然、それだけの年月を戦い抜く実力も備えている」
 
 カムシンと別れた帰り道、悠二は隣を歩く二人で一人の『炎髪灼眼の討ち手』から少しばかりの講釈を受けていた。
 彼らの目的は調律、御崎市の歪みを修復する事。それを止める理由は無いし、元々ヘカテーやメリヒム、『零時迷子』に手を出すなと釘を刺しに来ただけなのだ。それだけ済めば、いつまでも彼らと一緒に居る意味も無い。
 
「何か拍子抜けだったな。何事もなく終わったのって、そういえば初めてだ」
 
「お前は感覚が麻痺してるのよ。私に言わせれば、この状況の御崎市に『儀装の駆り手』が来た時点で普通じゃない」
 
 “頂の座”、『万条の仕手』、“虹の翼”、『炎髪灼眼の討ち手』、『弔詞の詠み手』、そして『零時迷子』。これだけの勇名が一つ所に集まっているだけで十分に異常事態だ。そこに新たな討ち手……それも、“最古のフレイムヘイズ”『儀装の駆り手』。
 『闘争の渦』という雲を掴むような話に、また一つ信憑性を見るシャナだった。
 
「ふぅん、そんなもんか」
 
 逆に、悠二にはピンと来ない。『儀装の駆り手』などと言われても初耳だし、それは今までの面々にしてもそうだった。字面的に「何かスゴそう」と思えたのも、『神の眷属』と『魔神の契約者』くらいだったりする。
 つまりシャナが言う通り、外れた世界に於いても悠二の感覚はおかしいのだ。何せ、“普通の異能者”をただの一人も知らないのだから。
 ……まあ、異能者を指して普通と呼ぶのも妙な話ではあるのだが。
 
「そうだ。せっかくだし、このまま平井さんの御見舞いにでも来る?」
 
「……そうね、別に構わない」
 
 自覚があろうと無かろうと、実体の見えない曖昧なモノである事に変わりはない。
 新たな討ち手の到来を、当面の問題は無いと割り切って、坂井悠二は己の日常へと帰って行く。
 ―――調律という自在法が何を意味するのか、この時はまだ知る由もなく。
 
 
 
 
「………………」
 
 予備校の夏期講習を終えた夜、風呂上がりの爽快感と一日の疲労感が合わさって心地好い睡魔に誘われるべきベッドの上で、しかし池速人は全く眠れずにいた。
 
「(結局あの子供、何だったんだ)」
 
 予備校に行く前に出会った、外国人らしい一人の少年の存在が、頭から離れない。
 
『あなたは、知っているのですか?』
 
 言葉の意味は解らない事が殆どだった。日本語は異様なほど流暢なのに、その言い回しは要領を得ない曖昧なものだった。
 
『気配の端が濃く匂ったのですが、協力者ではないのですか』
 
『ふむ、潜伏する者の近くで生活しておる影響、といったところか』
 
 その場には子供が一人しか居ないのに、何故か老人の声まで会話に混ざっていた。
 カムシンと名乗った子供は、池の困惑をはっきりと理解した上で、告げた。
 
『協力して欲しいのですよ。この作業には結局、その地で暮らす人間の手が必要になるものですから』
 
 異様なまでの、目を離す事さえ許されないような存在感を見せつけられて、池は思わず首を縦に振っていた。
 決して冗談などでもなければ、子供の戯れ言でもない。その“必要な事”をしなければ必ずとんでもない事態になると、無条件に思わされてしまった。
 だが、協力を頼んだカムシンは幾つかの質問をしただけで「後は明日に」と姿を消してしまった。結局今日のところは、自分の住所と自分がこの街に生まれた頃から住んでいる事を答えただけに終わったのである。
 
「(大体、待ち合わせすら決めてないってのに)」
 
 本人を前にせず、冷静になった今 思い返せば、何故あんな話に首を縦に振ってしまったのかとすら思う。
 彼がふざけていたとは今でも思えないが、それにしたって自分である必然性は薄い気がした。
 クラスではメガネマンなどと持ち上げられているが、池速人は一介の高校生に過ぎないのだ。『自分に出来て他の誰にも出来ない事』など、池には一つも思いつかない。
 
「まあ……それでも僕は断らないんだろうけど」
 
 一つの予感。
 既視感に似たモノ。
 心の片隅に引っ掛かるそれに気付かぬまま、少年は明日という日を待つ。
 
 その先で呆気なく、本当に呆気なく―――彼の世界は壊れた。
 
 
 
 
「やっぱり、ダメだったか……」
 
 ミサゴ祭りを明日に控えた佐藤家、佐藤啓作の部屋で、田中栄太がうなだれる。最近では珍しくもない光景だが、それなりの勝算を持って臨んだだけに今日は一段と酷い。
 
「……姐さん、いつになったら元気出してくれるんだろうな」
 
 現在、佐藤家には彼らの憧れるフレイムヘイズ、マージョリー・ドーが滞在している。……のだが、そのマージョリーが何をしているかと言えば、ひたすら怠惰な日々を送っていた。
 酒を飲んでいるか、寝ているか、食べているか、といった具合だ。
 二人は何度も「そんな生活ばかりでは身体に悪い」とマージョリーを連れ出そうとしたが、全て撃沈。
 日本の祭りになら興味を持ってくれるのではと持ちかけたミサゴ祭りの話も、敢えなく玉砕。彼女の子分以前に、一御崎市民として軽く凹む。
 
「………って言うかさ、何でマージョリーさんは御崎市に来たんだと思う?」
 
 だが、それは田中に限った話。佐藤は少し前から、そんなマージョリーの姿に落胆以外の感情を抱いていた。
 
「何でってそりゃ、フレイムヘイズなんだから紅世の徒をやっつけに……」
「じゃあ、何でまだ御崎市に残ってんだよ」
 
 田中の言葉を遮って、佐藤は少し声を荒げた。まるでマージョリーが御崎市に居てはいけないとでも言うような言葉に田中はむっとするが、佐藤が言いたいのはそういう事ではない。
 
「怪我だって治ったんだし、いつまでもここに居る理由ないだろ。“徒を倒したんなら”」
 
「っ……」
 
 語気を強めた最後の一言に、田中は思わず息を呑む。
 確かに、そうだ。
 マージョリーは自分がフレイムヘイズで、紅世の徒を倒す者だとは話してくれたが、この街での目的については何一つ語ってくれていない。
 ふと、初めて会った時のマージョリーの様子を思い出す。左腕を失ったボロボロの姿。今までは何の根拠もなく『死に物狂いで徒を倒した後』だと思い込んでいたが、その想像が違っていたら? あれが“敗走したフレイムヘイズの姿”なのだとしたら………
 
「まさか、まだ徒が御崎市に居る……?」
 
「……考えたくないけどな」
 
 マージョリーが全く戦う気を見せない事で、既に“終わった後”だと思い込んでいたし、今でもそう信じたい。
 自分達の街に人喰いの化け物が居ると想像したくないのも勿論あるが、あのマージョリーがすぐ近くに居る徒から目を背けて酒に逃げているなんて考えたくもなかった。
 
「勉強会の時の外国人、覚えてるか?」
 
「勉強会って、シャナちゃん家のメイドさんと銀髪……って、お前まさか」
 
「だってお前、明らかに怪しいだろ」
 
 凡そ一般人とは思えない、特徴的な二人。その二人に関して「詮索するな」と言わんばかりに慌てふためいていた……坂井悠二。
 
「……待て待て待てって! その理屈だと、坂井もシャナちゃんも事情知ってる事になるだろ!?」
 
「平井ちゃんもな……つーか言っちゃ悪いけど、どいつもこいつも怪しく見えてきた」
 
 あの二人の家族だというシャナ、ヴィルヘルミナを居候させている平井、良く考えたらあの二人と同じく一般人に見えないヘカテー。よりにもよって、高校に入って仲良くなった面子の多くが、怪しい。
 友達を疑いたくはないが、一度疑惑が湧いたらどうしても考えてしまう。
 
「……よし、姐さんに訊こうぜ。姐さんが『徒はもうぶっ倒した』って言ってくれたら一発だろ」
 
「……だな。勝ったってんなら、言い難いって事ないだろうし」
 
 二人は急いで部屋を飛び出し、廊下を走る。
 無邪気で暢気な憧れは今、日常を脅かす明確な恐怖に取って代わられていた。
 
 
 
 
 明くる朝、本日はシャナの屋敷の庭で行われる鍛練の場で、
 
「完・全・復活ーー!!」
 
 トレーニングウェアに身を包んだ平井ゆかりが、高々と右の拳を突き上げていた。
 鍛練に直接参加するわけでもないのに、この場にいる誰よりも元気である。
 
「昨日まで散々チヤホヤさせてた癖に、祭りになった途端完治させるんだもんなぁ」
 
 そんな平井の姿に苦笑して肩を竦める悠二。だが、その表情に不満は一切ない。これでこそ平井だ、という不思議な満足感のみがある。
 因みに今朝の鍛練がいつもの河川敷ではないのは、今あそこはミサゴ祭りの飾り付けでかなりゴミゴミしているからだ。
 
「ところでさ、その調律師の人ってまだ御崎に居るの?」
 
「居るよ。良くは知らないけど、調律って結構めんどくさい自在法なんじゃない?」
 
 調律とやらの下準備か何かの影響か、今朝は起きた時からモヤモヤとした変な違和感が立ち込めている。
 もっとも、ヘカテー達の気配は普通に掴めるし、有事の際に支障があるという程でもないが。
 
「いつまでも喋ってないで始めるわよ。試験勉強で勘が鈍ってないか確かめてあげる」
 
 そんな悠二と平井の前で、シャナが竹刀でバシッと地面を叩いた。
 今朝はヘカテーが何故か付いて来ず、メリヒムは寝ている。ヴィルヘルミナは帰って来ているのだが、シャナの中では既に悠二との一対一が決定しているのだろう。今にも舌なめずりしそうな獰猛な笑みを浮かべている。
 以前より多少なりとも険は取れ、命名も受け入れてくれはしたものの、宿敵染みた対抗心は依然として健在だった。
 
「うわ!? 急に襲って来るな!」
 
「攻撃はいつも急なもの!」
 
 ところで、悠二は朝の鍛練があまり好きではない。理由は単純明快、痛いし、勝てないし、なかなか上達しないからだ。夜の鍛練と違って、自らの手で不思議を発現させた時の充実感も無い。
 ………いや、苦労の末に初勝利でも味わえれば別なのかも知れないが、今のところ悠二は漏れなく全敗である。
 
「闇雲に振り回さない! 感覚は鋭敏なんだから、“殺し”の瞬間は私より掴みやすいでしょ!」
 
 一方、シャナもこの結果に納得していない。
 鍛練で手傷を負って実戦で不覚を取る、なんてアホな事態を招かぬよう、彼女らは当然力をセーブしている(悠二は最近まで加減がなってなかったが)。
 戦いの感覚を養う鍛練なのだから、込める力の大小はさほど問題にならないのだが……近接戦闘に於ける悠二の長所である怪力がスポイルされてしまうのだ。加えて、実戦ならまず使う『吸血鬼(ブルートザオガー)』も使わない。
 こんな条件で勝ち続けても、シャナが満足するわけがなかった。
 悠二としても、いつ「決闘よ」とか言い出すか判らないから気が気でない。
 
「体術の伸びはイマイチでありますな」
 
「愚鈍」
 
 今日もまた、乾いた音と共に少年の悲鳴が木霊する。
 変わる事を怖れて、変わらない事を願い……変わる日の為に力を磨く。それが少年の、矛盾した日常の姿だった。
 
 
 
 
 目の前に映る光景への拒絶か、認めたくない現実からの逃避か……池速人は、手に持っていた“それ”を弾かれるように取り落としていた。
 
「今ッ…のは……!?」
 
 軽い音を立てて路面を跳ねたそれは、優雅な模様を施された銀の縁取りを持つ片眼鏡(モノクル)。
 だが、見たままの視力を補う為の道具ではない。その意味を、池はたった今、その身を以て体感した。
 
「(人が、消えた……!?)」
 
 文字通り、消えた。
 蝋燭の火が燃え尽きるように、呆気なく。
 誰もその事実に気付かない。すぐ傍で人一人が消滅したのに、何の異変も感じていない。
 それは池の左目も同じだった。片眼鏡を当てていた右目だけが、この世の真実を捉えていた。
 
「(これ、が……トーチ?)」
 
 人を喰らう紅世の徒。それを狩るフレイムヘイズ。外れた者だけの戦場・封絶。そして……喰われた人間の代替物・トーチ。
 話を聞かされても信じられなかった。理解など出来るワケがなかった。だが……今はその逆、もう誤魔化せない。もう逃げられない。
 “これは本当の事なのだから”。
 
「貴方の平穏を乱した事については謝ります。ですが、これから貴方にしてもらう作業には、どうしても違和感を決定的に感じてもらう必要があるのです」
 
「ふむ、儂からも謝らせてもらおう。すまなかった。」
 
 池速人の世界を壊した一人にして二人が、目を伏せて謝る。だがそれは、この先に続く“協力”を前提とした謝罪だった。
 
「……………その調律をすれば、もう徒は来ないんですよね」
 
 いつしか、彼らへの言葉遣いは敬語になっていた。
 
「ああ、巨大な歪みは、それを感じ取れる者を区別なく惹き付けてしまう……暗闇に光る灯火に似た物です。逆に言えば、それさえ除けば徒などそう現れはしないでしょう」
 
 縋るような池の問い掛けを受けたカムシンは、決して嘘ではない理屈を付けて池に答える。
 実際のところ、カムシンはそこまで楽観はしていない。“頂の座”、“虹の翼”、『零時迷子』に『闘争の渦』、この街には歪みの他にも大きな火種が幾つも残っているが、カムシンはそれを池に伝える必要性を感じなかった。
 
「……やりますよ」
 
 池速人は賢明だ。
 だからこそ、真実を思い知らされる前から、解っていた。
 もし真実ならば、それが何を意味するのかを。
 
「他人事じゃ、ないんだから」
 
 少年はさらに一歩、自ら外れる。―――他でもない、自分の日常を守る為に。
 
 
 



[34371] 6-8・『ミサゴ祭り』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:9b74a337
Date: 2013/05/23 19:02
 
 見てもいないテレビの音だけが響く坂井家のリビング、小柄な身体を更に小さくしたヘカテーがソファーに座っている。
 今朝から……否、正確には昨日の買い出しから戻ってから、ずっとこの調子だった。今朝の鍛練にも参加していない。
 
『そんなズルいヘカテーちゃんには、私、絶対に負けないから……!』
 
 原因は言うまでもなく、吉田一美の宣戦布告。常なら他者と対立するなど考えられない温厚な少女からの、強烈に過ぎる決意表明だった。
 
「(私には……関係ない)」
 
 吉田一美は、坂井悠二の事が好き。……だが、それが何だと言うのか。いずれ去る身、別離を迎えると解っている少年に誰が好意を寄せようと自分達の大命に何の影響も在りはしない。
 そんな理屈とは裏腹に………
 
「(怖い)」
 
 吉田一美の見せた意志の強さが、どうしようもなく怖かった。「なぜ怖いのか」という疑問の解を探す事が怖かった。そして……怖いと思いながらも、絶対に負けたくないと思っている自分の心こそが、何にも増して恐ろしかった。
 
「(どうして……?)」
 
 “狩人”との戦いで消滅を予感した時でさえ、こんな恐怖は感じなかった。
 大命も果たさず無為に燃え尽きる、ヘカテーにとって何よりも危惧すべき事態だった筈なのに……何の恐怖も感じなかった。それどころか―――かつてない穏やかな安らぎに微睡んでさえいた。
 
「(悠二………)」
 
 解っている。
 心の奥の奥で、本当は解っている。
 あの時の安らぎも、今の恐怖も、一人の少年に起因する表裏一体のものである事を。
 
「………………」
 
 ヘカテーは迷ってすらいない。進む事も退く事も悩む事もせず、ただ立ち止まって怯えている。
 どこに向かっても自分の支柱が壊れてしまう気がして、そうする事しか出来なかった。
 そんな少女の異変に………
 
「ヘカテーちゃん」
 
 母たる千草は、当然のように気付いていた。いくら無表情で感情を隠したところで、彼女の目を欺けるものではない。
 千草は力無く視線を返して来る少女に微笑み掛けて、目の前のテーブルにカルピスを置いた。ついでのようにテレビを消す。
 
「悠ちゃんに、何かされた?」
 
 そしてヘカテーもまた、千草が何か察していると気付けてしまうのだ。進む事も退く事も怖れているヘカテーにとって、彼女に標を示される事さえ抵抗がある。返事はなく、ただフルフルと首を左右に振った。
 
「……友達と喧嘩でもした?」
 
 ヘカテーの正体も事情も知らないのにピンポイントに図星を突いて来る千草に、ヘカテーは微かに目を見開いた。
 自分の抱える悩みや態度に、“そんな事情”は関係ないという事に、未熟な少女は気付けない。千草はもちろん少女の未熟を笑わず、その態度から肯定を汲み取る。汲み取って、細かい詮索はしない。
 
「(友達と喧嘩、か……)」
 
 ヘカテーの様子から見て、『相手に何かされた』というわけではないと思う。もしそうなら、この少女は不機嫌そうにしているか即座に報復するかしているだろう。
 ならば、ヘカテーが何かしてしまった、というケースかも知れない。
 
「悠ちゃんに、何かしちゃった?」
 
 と考えた途端に息子を疑って掛かる辺り、悠二の評価の低さが窺える。案の定、ヘカテーはハッとした顔で千草を見てから……直ぐ様しょんぼりと俯いてしまった。
 
「……………………出来ません」
 
 消え入りそうな声で、そんな台詞が聞こえた。それだけで、千草は概ねの事情を察する。
 無論、この世の真実を理解したわけでも彼女らの交友関係を把握したわけでもない。それでも、今の彼女に掛けるべき言葉は見つかった。
 
「大丈夫」
 
 小さな頭を右手でそっと撫でて、左手で抱き締める。脆い心が壊れてしまわないように、柔らかく包み込む。
 
「いま好きかどうか、それだけなの。他には本当に、何も無いんだから」
 
「…………………」
 
 好きではない。
 ヘカテーはその一言を―――返す事が出来なかった。
 
 
 
 
 遅い足取りで繁華街を歩きながら、池速人は夕方を越えてなお青い空を見上げる。
 こんな当たり前に見える世界も、その裏で呆気なく壊れているかも知れない。そして……自分はそれに気付く事も出来ないのだ。
 
「(これで、良かったんだよな)」
 
 カムシンに頼まれた『協力』は、彼の言う通り危険を伴うものではなかった。この世のものとは思えない体験をする事にはなったが、それが彼を決定的に信用する切っ掛けにもなったのだ。
 
「(あれがこの街の、真実………)」
 
 フレイムヘイズは外れた存在ゆえに、この世の『在るがまま』を見る事しか出来ない。歪んでしまった現実を調律するには、『在るべき姿』をイメージ出来る人間の助力が必要になる。
 今回の場合、その人間こそが池速人だった。そして、その作業の中で池は確信した。この街に無数の欠落が在る事と、カムシンがそれを埋めようとしている事を。他でもない、自分自身の体感で。
 
「(良かったん、だよな……)」
 
 だから、協力した事に後悔は無い。「なぜ自分なのか」という気持ちも0ではなかったが、かと言って「他の誰かが苦しめばいい」と思うほど手前勝手にもなれない。
 つまり後悔すべきかどうか悩んでいるのは、協力そのものではなく………
 
「(確認して貰えば……いや、でも)」
 
 その後、簡単な挨拶だけ済ませて別れた事についてだ。
 カムシンは言った、「貴方の家族は無事でした」と。………逆に言えば、家族以外が無事かどうかは確認していないという事になる。
 池はその可能性に気付いた上で、カムシンに確認を頼まなかったのだ。
 
「(どうしようも、ないじゃないか)」
 
 無事なら、勿論それに越した事は無い。だが、もしそうでなければ? もし知人の誰かが既に喰われてトーチになっていたとしたら?
 そう……それを知ったところで、池に出来る事は何一つ無い。どうする事も出来ず、いつ訪れるかも判らない知人の消滅に怯え……そして、消えた事にも気付かず忘れてしまう。
 カムシンの調律で喰われた人間が戻るのでは、と淡い期待を抱きもしたが……もしそうなら、カムシンは池の家族の生存をわざわざ確認したりしなかっただろう。
 つまり、喰われた人間は決して元には戻らない。どうせ忘れてしまうなら……そんな辛い現実を確かめる事などない。今を信じて、何事もなかったように日常に帰って……今まで通り、何も気付かずに生きていけば良い。
 ……そう、理性で結論づけたというのに、手遅れな葛藤が池の頭の中をグルグル回っていた。当たり前だが、納得など出来るわけがない。
 
「(あぁもう考えるな! 悩んだって何にもならないんだ!)」
 
 解っているのに、考えてしまう。
 坂井悠二が、佐藤啓作が、田中栄太が、平井ゆかりが、近衛史菜が、緒方真竹が、大上準子が、クラスの皆が………吉田一美が、“既に死んでいるかも知れない”。そんな悪夢のような想像が、頭から離れない。
 絶対にどうしようもないと解っていて、それでも。
 内心の葛藤を面には出さずに歩いていると、不意にポケットが弱く振動した。たったそれだけの事に小さく肩を跳ねさせた池は、携帯を取り出してサブディスプレイを見る。
 表示されている名前は………坂井悠二。
 
「(ったく、何も知らない幸せ者め)」
 
 どうしても浮かんでしまう不安を紛らわす為に心の中で呟いてから、通話ボタンを押した。
 
【あれ、繋がった。池、おまえ予備校は?】
 
「ダメ元で電話したのか。色々あって、今日の予備校無しになったんだよ。で、何?」
 
【何じゃないって。ミサゴ祭りだよミサゴ祭り】
 
 ………実に、実に平和な会話。こんな有り難いやり取りを、今まで自分は平然としていたのか。ミサゴ祭りの事にしたって、今の今まで忘れていた。
 
【おまえ途中から合流って事になってただろ。祭りの人混みだと携帯鳴っても気付かないかも知れないから、事前に時間と待ち合わせ場所決めとこうと思ったんだけど……予備校無くなったなら問題ないな。六時半に御崎大橋の駅側で良いか?】
 
「……ああ、解った。吉田さんには、お前が連絡しろよ」
 
 電話の向こうで慌てる気配がしたが、返事を待たずに通話を切る。まったく、偶には自発的に動けと思う。
 
「(我ながら、単純だな)」
 
 この日常が代替品で作られた仮初めの物なんて信じられない。素直にそう、思えるようになっていた。
 
 
 
 
 最近買ったばかりの携帯を、悠二は手慣れた仕草でパタンと閉じる。
 
「池君、予備校なくなったって?」
 
「うん。後はシャナがちゃんと来てくれるかだけど」
 
 坂井悠二と平井ゆかりは、肩を並べて川沿いの土手を歩いていた。平井、ヘカテー、シャナ、三人分の浴衣を平井のマンションまで取りに行った帰り道である。「マンションに行って着替えれば良い」と思うかも知れないが、生憎と着物の着付けには千草の手を借りねばならないし、彼女にご足労願うわけにもいかない。
 
「ヘカテー、何で来なかったんだろ。昨日から様子が変だったけど」
 
「……さ~てね」
 
 ヘカテーは坂井家に残っている。悠二はやはりと言うか気付いていないが、平井には何となく察しが着いていた。
 
「(どっちかって言うと、一美の方が心配かも)」
 
 昨日は見舞いに来てくれる筈だった吉田が現れず、買い出しに行ったヘカテーが帰ってからあの調子。これが偶然とは思えない。
 どっちの心境についても口を挟む気はないのだが、真実を知らずに深入りしてしまいそうな吉田には思うところが無いでもない。
 
「前にも言ったでしょ、坂井君が気にする事じゃないって」
 
 まぁ……だからと言って何か出来るわけでもない。結局は、それぞれが自分の心と向き合って出した解をぶつけていくしかないのだから。
 
「ち・よ・こ・れ・い・と!」
 
 不意に平井が道から外れて、土手の石階段を軽快に跳ねながら下りだした。そのままペタンと腰を下ろした平井に、悠二はワケが解らぬまま続く。
 
「疲れたの?」
 
「そーゆーんじゃないけど……ん~む、夏場だと日没が遅いなぁ」
 
 片目を閉じて両手で長方形を作り、まるでカメラを構えるように真南川を見る平井ゆかり。その横顔が、少しだけ残念そうに見える。
 
「ここに、何かあるの?」
 
「今は内緒。もっとベストタイミングの時に、また一緒に来よっ!」
 
 立ち上がると同時に伸びをして、触角を揺らす平井は階段を「パ・イ・ナ・ツ・プ・ル」と駆け上がる。
 内緒、と言いながら、もう殆ど正解を漏らしたようなものだ。要するに、夕暮れ時のこの場所からの景色を見せたいのだろう。
 
「待ってよ、平井さん!」
 
 逃げる背中を、追い掛ける。
 届く事の無い彼方から、それでも自分を照らしてくれる太陽を、決して見失わぬように。
 
 
 

「「何か、顔合わせ辛い」」
  
 同じ台詞を綺麗に揃えて、佐藤と田中は沈み込む。俯けた顔が上げられない。
 
『居るわよ、普通に』
 
 この街にまだ徒がいるかも知れない。そう危惧した二人が搾りだすように訊ねた結果……マージョリーはそれを肯定した。肯定して、こう続けた。
 
『心配しなくても、この街を喰い散らかしたのとは別口よ。クソ真面目な見張りも居るし、あんた達が怯えてるような事にはならないんじゃない?』
 
 安心すればいいのか心配すれば微妙な保障をしてから、さらに一言。
 
『私が生かしておくからには、それなりの理由があるって事よ』
 
 ある意味、彼らが最も欲していた言葉をくれた。一先ずは胸を撫で下ろした二人だったが、根本的な問題はそのまま残ってしまっている。
 即ち、この街に今も滞在している徒の正体、である。
 
『えっと……紅世の徒って、どんな見た目してるんですか?』
 
『最近じゃ“人化”してない奴の方が珍しいけど、それがどうしたってのよ』
 
 彼らは日常のふとしたやり取りから、もっと直球に言えば外見から、自分たちの友人らに対して一つの疑念を持っていた。
 即ち………紅世に関わる者なのではないか、と。事の真偽はどうあれ、こんな疑念を持った状態では友人の顔をまともに見られない。マージョリーを祭りに連れ出す事に失敗した今も悠二らに参加表明をしない理由が、これだった。
 
「やっぱり、姐さんに訊くか? 徒の名前」
 
 躊躇いがちに、田中が提案する。無理もない、最初からすれば良かった筈なのに切り出せなかった質問を、今また蒸し返そうというのだから。
 
「………………」
 
 佐藤は暫し、逡巡する。
 思い到ってしまった可能性か、これまで疑いもせず享受していた日常……そこに生きる友達の姿か。
 
「………ああ、訊こう」
 
 迷う時間は、それほど必要なかった。
 
「ただし、坂井にな」
 
 
 
 
「佐藤と田中も後から合流、ね」
 
 今日はみんな挙動不審だな、などと思いつつ、悠二は携帯を枕元に置いてベッドに大の字に寝そべる。
 普段ならばヘカテーや平井が好き勝手に遊びに来る坂井悠二の自室だが、今は彼一人。その理由は、遠方から薄らと聞こえて来る祭り囃子を聞けば自ずと察しが着くだろう。
 
「悠ちゃーん! もういいよー!」
 
 階下からお呼びの声が掛かった。その恥ずかしい呼ばれ方に、内心で元凶たる母を恨みつつ、悠二は出来るだけ何でもない風を装って階段を降りていく。
 色々と複雑な背景を持つ悠二だが、精神的には年頃の男子高校生。可愛い女の子の晴れ姿に緊張しないワケがないのだが……それを悟られるのは大いに問題があるのだ。
 
「じゃーん!!」
 
 この上なく楽しそうな掛け声と共に、狙い澄ましたようなタイミングでリビングのドアが開く。
 そして悠二は……息を呑んだ。
 
「どう? どう? 悶える?」
 
 白地に水色の星雲を描く浴衣を着たヘカテーと、艶やかな黒髪を団子にして赤い浴衣を着たシャナを、白の浴衣を桃色の帯で絞った平井が、自分の手柄を誇るように見せ付けていた。
 悠二は、思わず漏れそうになった「可愛い」という台詞を寸でのところで止めてから、
 
「う、うん。三人とも似合ってるよ」
 
 本音とも建前とも取れる無難な賛辞を贈った。ただし、顔を背けて微かにどもっているのだから、解る人には解るものだ。
 具体的には、二割り増しでニンマリする平井、頬に手を当てて嘆息する千草、鉄面皮ながらビームでも出しそうに睨み付けてくるヴィルヘルミナ、などである。しかし言い換えれば、解らない人には解らない。解らないままに、建前をそのまま受け取る。
 
「ふぅ、ん……こういうの、動きにくいと思うんだけど」
 
「っ……!」
 
 言いながら、万更でもなさそうにクルリと回るシャナと、どこか動揺した様子で平井の背中に隠れるヘカテーである。
 この二人に到っては、「似合ってる」が無難な対応である事すら知らない。額面通りに受け取って、まぁ……悪い気はしていない。
 
「そ、そういえば、シャナは母さん達と行くんだっけ?」
 
 悠二からすれば、もう最高に居心地が悪い。からかわれるのも照れられるのも真っ平なので、やや無理矢理に、かつ流されにくい話題に逸らす。
 
「うん、千草とヴィルヘルミナと一緒に行く」
 
 そう、シャナは悠二らと同行しない。元々勝手に話を進めていたが、彼女は一言も「わかった」とは言っていなかったのだ。
 その行動の裏に、祭りに誘ったメリヒムに袖にされて自棄酒に沈むヴィルヘルミナ……という、リアクションに困る背景がある事を悠二は知らない。
 
「それじゃ、そろそろ行こっか。浴衣と草履で歩きにくいし、ちょっと余裕持つくらいでないとね」
 
「ああ、それに池とか吉田さんは絶対時間前に着いてそうだ」
 
「……何故ついて来るのですか」
 
「方向が同じなんだから仕方ないでしょ。文句があるなら、お前が出発を遅らせればいい」
 
「ほらほら、ヘカテーちゃんもシャナちゃんも喧嘩しちゃダメ。せっかくの浴衣も、肝心の貴女達が怒ってちゃ台無しよ?」
 
「日本の祭りは初めてでありますな」
 
「気分転換」
 
 日常に在る者も、仮初めの日常に紛れる者も、今この時ばかりは関係ない。ただ目の前のイベントに胸を膨らませて、坂井家を後にする。
 
 
 
 
「そっか、やっぱりヘカテーちゃんも……」
 
「……うん。本人は認めてなかったけど」
 
 過ぎ行く人々の喧騒を耳にしながら、池と吉田は待ち合わせ場所で友人達の到着を待つ。因みに池が一番、吉田が二番である。
 
「(……うん、やっぱり大丈夫だ)」
 
 もちろん元々の性格も要因の一つだが、池の場合は『安心したかった』という気持ちが大きい。
 トーチは少しずつ存在感を失って目立たなくなり、いつしか誰にも気付かれずに消える。それを否定したいが為に、一刻も早く元気な皆の姿を見たかった。………確認してもどうしようもないと解っていても、どうしても気にはなってしまうのだ。
 結果として、もちろん確信は無いが、吉田一美は無事だろう。目立たなくなるどころか、これまで見られなかった『芯』のようなものさえ感じられる。
 
「(あの吉田さんが、あのヘカテーちゃんを言い負かすなんてね)」
 
 それだけ、悠二に対する想いが強いという事だろう。……そろそろ、自分の助けも不要になるかも知れない。
 
「…………あっ」
 
 小さな、しかし紛れもない喜色を混ぜた声が聞こえた。花が咲くような吉田の笑顔に見惚れた池が、視線を追うのを遅らせた……
 
「はうっ!?」
 
「吉田さんーーー!!」
 
 その一瞬に、吉田の額を撃ち抜く純白のチョーク。咄嗟に支えようとした池の手を、吉田は断固たる決意を持って制した。
 
「へ、ヘカテー!? いきなり何て事するんだ!」
 
「おしおき星(アステル)です」
 
「……いや、坂井君はそういうの訊いたんじゃないよ?」
 
 目を向ければ案の定、坂井悠二、平井ゆかり、そして両手の指の間いっぱいにチョークを構えるヘカテーの姿。その後ろにシャナ、千草、ヴィルヘルミナも見える。
 
「(負けません)」
 
 吉田の挑戦から一日と少し、千草からの教えもあって、ヘカテーは半ば開き直って覚悟を決めていた。
 『理想と現実の違い』は今でも怖い……が、それを理由に吉田から逃げる必要は無い。何故なら吉田は、“自分と同じ”だから。いつまでも一緒に居られる……『隣に立てる存在』ではないのだから。
 
「吉田さん、大丈夫!?」
 
「へ、平気です……!」
 
 慌てて駆け寄る悠二の手をも、吉田はやんわりと断った。今までのように、恥ずかしさからついつい否定しているのではない。ここは誰かの手を借りる場面ではないと解っているからだ。
 痛む額を押さえながら、吉田はヘカテーの前に立つ。
 
「私、負けないから」
 
 悠二もいる。池も、平井も、シャナも、悠二の母たる千草まで居る状況で、吉田は堂々と宣言する。
 
(シュビッ!!)
 
「はうっ!?」
 
「吉田さんーーー!?」
 
 その顎先に二撃目のチョークを受けて、今度こそ吉田は引っ繰り返った。
 
 
 



[34371] 6-9・『歪んだ花火』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7abf13fd
Date: 2013/05/30 20:47
 
「だからね、一美に勝ちたいからってチョークはいかんと思うよ、チョークは」
 
「………………」
 
 祭りの喧騒とは少しばかり趣の異なる緊張に包まれた出店に並び、ヘカテーと平井、ヴィルヘルミナがラムネの型抜きに没頭している。周りからこれでもかというほど浮いているが、当人達は気にしていない。
 
「要するに坂井君の気を引きたいんでしょ? 今さら戦闘力1の一美やっつけても、坂井君の評価は上がんないよ」
 
 困った風な平井の忠言に、ヘカテーの肩が判りやすくピクリと震えた。その手元で、完成を間近に控えていたクマさんが割れ砕ける。
 恨みがましい(と彼女なら解る)視線を受けて、平井はこれ見よがしに肩を竦めた。
 
「(解りやすい子……)」
 
 そんな彼女らから僅か離れた別の出店では、悠二とシャナが火花を散らしている。
 
「十匹目!」
 
 左手に茶碗、右手にポイ、視線の先には水槽を泳ぎ回る赤と黒。平たく言えば金魚すくいだった。
 
「…膜が破れないように強化してるんじゃないだろうな」
 
「決められたルールは守る。言い掛かり付けてないで続けるわよ、破れるまでやっていいんでしょ?」
 
 この状況になった経緯は、呆れるほどにいつもの流れ。初めて回る屋台の内容を知ったシャナが、悠二に勝負を吹っかけて~と、そういう形である。
 いつもならうんざりして然るべき展開に、今ばかりは感謝する悠二。先ほどの事もあり、今は吉田やヘカテーとは一緒に居づらい。
 
「は、初めまして、坂井君のお母さん! 先ほどはみっともない所をお見せしてしまって……!」
 
「こっちこそごめんなさいね。ヘカテーちゃんには、後で私からも言い聞かせておくから」
 
 そんな悠二の気持ちを察している吉田は、自身の気恥ずかしさも手伝って距離を置いている。代わりに……というのも妙な話だが、悠二の母・千草と話していた。
 ……実のところ、悠二の居心地の悪さの80%はこの母の存在のせいだったりするのだが。
 
「(坂井君のお母さん、優しそうな人で良いなぁ……)」
 
 そんな吉田の隣で、緒方真竹は和やかに話す二人の姿にある種の羨望を抱く。
 別に緒方が母親を嫌っているというわけではないのだが……彼女の親は中学時代の事もあって、田中と佐藤が大嫌いなのである。殆ど第一印象に基づく直感に過ぎないが、この千草にはそういうしがらみも包み込んでしまいそうな大器の片鱗が見えた。
 はっきり言って羨ましい。自分の親にも少しはこんな部分があればと思わずにいられない。
 
「何で後から合流にしたんだ?」
 
 その悩みの元凶たる田中栄太はと言えば、例年と変わらず佐藤と二人で祭りに来ていた。高校に入って友人が増えたにも係わらず、だ。
 
「馬鹿、こんなテンションで混ざっても雰囲気ぶち壊しだろ。終わり寸前くらいに合流して、坂井とだけ話せる状況つくるんだよ」
 
 祭りどころではない、というのが正直なところだった。もっとも、マージョリーから安全だとお墨付きを貰っているので、決定的な恐怖は薄れている。
 
「(まったく、悩んでたのが馬鹿みたいだな)」
 
 それと似た境遇にあって、誰に何の保障を受けたわけでもない池速人は、ただ見たままに思う。
 吉田が頑張って、ヘカテーが怒って、悠二が慌てて、平井が笑う。この日常が……あんな世界と同じ場所にある筈が無い。ここにいる誰が、存在を失って忘れ去られる代替品だと言うのか。
 
「(もう忘れよう。それで、何の問題も無いんだから)」
 
 カムシンの調律によって歪みは消え去り、二度と紅世の徒は現れない。過去の喪失は消えずとも、未来への憂いは既に無い。
 その確信を持って、人間の少年は空を見上げる。―――そろそろ、花火が上がる頃だ。
 
 
 
 
 祭りの喧騒から離れた堤防の土手に、一人の少年が佇んでいる。
 『儀装の駆り手』カムシン。最古のフレイムヘイズにして、この世の歪みを均す調律師。彼が今ここにいる理由もまた、その使命を果たす為だった。
 
「いつも一番苦労する協力者探しが、これほど円滑に済んだのは僥倖でしたね」
 
「ふむ、賢明なだけでなく、芯も強い少年じゃった。その覚悟には、我らも相応の結果で以て応えるとしよう」
 
 肩に担いでいた長物の布を解く、中から現れた、身の丈を優に越える鉄の棒を、まるで指揮棒でも扱うように右手で軽々と振る。
 
「ええ、それでこそ守る甲斐があるというものです」
 
 「起動」、という呼び掛けと同時に、左の掌上に野球ボール大の褐色の火球を生み出した。それは見たままの、破壊を齎らす通常の炎ではない。今日の昼間、池速人によって構築されたイメージ……この街の在るべき姿の写し身だった。
 その調和の炎が鉄棍に絡み付き、高度な紋様へと結晶する。
 
「自在式、カデシュの血脈を形成」
 
 それに連動して、彼が昨夜の間に街中に仕掛けたマーキング……カデシュの血印が同色の光を放つ。
 
「自在式、カデシュの血流に同調」
 
 その光全てが、鉄棍・『メケスト』に浮かぶ調和と共鳴し、同じ紋様へと変質した。
 全体に散りばめた血印を基点に、歪んだ流れを在るべき姿へと矯正する。喪失を、空虚を、安寧と懐しさが埋めていく。
 これが、調律。
 
「調律、完了」
 
 これで歪んだ街に調和の姿が訪れる。
 
 ―――はずだった。
 
 
 
 
 誰も彼もが歩き回るのが常の祭りも、今だけは皆が足を止めて空を見上げている。
 悠二らも例に漏れず、仲良く並んでシャクシャクとカキ氷をつついていた(平井曰く様式美)。
 シャナ、ヴィルヘルミナ、千草の三人とはついさっき別れた、というのが、悠二にとっては救いだったりする。一少年として、家族を友人の前に晒し続けるなどちょっとした拷問に等しい。
 
「ほらヘカテー、メロン味もお食べ」
 
(あむあむ)
 
「シャナちゃんも坂井君のお母さんと知り合いだったんだね」
 
「た、たまたまだよ。きっと…偶然……」
 
 それでもまだ、男2女4というアンバランスな構成は変わらない。必然的に、悠二は池の隣に並ぶ。
 
「……お前が今更そんな事言うわけ?」
 
 その池に、佐藤と田中の遅刻について何の気なしに愚痴ったところ、そんな返事を承った。思い当たる節が無いわけでもないので、悠二は咳払いで返すしかない。
 
「(ホントに解ってるのかねぇ、こいつは)」
 
 そんな悠二を横目に睨んで、池は視線をヘカテー、そして吉田に移動させる。
 吉田は元よりヘカテーも、好意を持たない相手にあんな態度を取るわけがないと、普通なら解りそうなものだが……悠二の場合は今一つ怪しい所がある。
 
「(しっかりしろよ、冗談抜きで)」
 
 少女の為にそう願って、池は視線を空へと戻す。
 と、いよいよアナウンスが花火の打ち上げを宣告した。
 
「おっ、ヘカテー始まるよ。ちゃんと上、見てなさいな」
 
「はなび……多色の炎なら、珍しくもありませんが」
 
 少年は、少女は、この瞬間、間違いなく日常の中に在った。
 
「一美、坂井君の隣に行かなくていいの?」
 
「い、いいの。池君に退いてもらうわけにいかないし」
 
 それはこの世の真実を垣間見た池速人にしても同然で、心地好い日常の空気に触れた彼の意識は、既に馴れ親しんだ日々に傾きつつあった。
 
「携帯のカメラなんて構えるなよ。こういうのは生で見るから良いんじゃないか」
 
 そんな彼らの見上げる空に、大輪の華が咲いた。
 
 咲いて―――歪んだ。
 
 
 
 
 どことも知れない部屋の中、騒がしく稼働を続ける種々雑多な機械が、馬鹿みたいに白けた緑の炎を噴き上げていた。
 よくよく見れば、稼働しているのは機械だけではない。噴き出す炎と同色の自在式が、まるで歯車のように複数噛み合い、回転している。
 
「ドォーーミノォォーーー!!」
 
 その騒音にも負けない声量で、一人の男が裏返る寸前の叫びを上げた。
 だらんと長い白衣を纏ったヒョロ長い男。年齢の判別がつかない顔に愉快としか呼べない笑みを張り付け、白けた緑色の長髪を首の後ろでいい加減に縛っている。
 前を留めていない白衣のあちこちから虫眼鏡なら何やらの器具をジャラジャラとぶら下げ、ズレた眼鏡を直す手は……何故かマジックハンドである。
 
「はぁーーーーい!!」
 
 そんな男の声に、同じく元気の良い声が返った。
 声の主は、2メートルを越すガスタンクのようにまん丸な物体。両目は大小の歯車、頭頂部からちょんまげのようにネジが飛び出しており、手足も“それらしく、いい加減に”形作られている。
 無論、こんな二人が人間である筈が無い。人を喰らいて世を荒らす紅世の徒と、その燐子………の中でも、最悪に類する二人だった。より正確には、最悪の『王』+オマケ一人だが。
 
「見ぃーなさいこのエクセレントな稼働の様をーー!! デカい歪みにヤマを張って……、……」
 
「三百三十五回目でふひはひひはひ」
 
 言い淀んだ主をフォローしたガスタンクの頬っぺたを、“教授”のマジックハンドがつねり上げる。見た目金属な癖に、つねると美味しそうに緩む頬っぺただった。
 
「そぉーんな事は私にだってわーかっています! そぉーれよりお前は……」
「はぁーい! 直ちに『夜会の櫃』の受け入れ準備に入りますでぇーっす!」
 
「だぁーれが私の台詞を横横取りにしろといいましたかぁー? しくじったらもーっと痛いですからねぇー」
 
 上半身をあり得ない角度に曲げながら涙ぐむ燐子の顔を両手で横に伸ばす教授に命じられて、健気な燐子は渦巻く炎の中に消えた。
 
「さぁーって、では私もそろそろ発進しましょーうかねぇー?」
 
 自分一人しかいなくなった空間で、堪えきれない笑みを漏らして教授は眼鏡を光らせる。
 
 
 
 
 咲いた花火が渦巻き、捻くれ、揺らいで跳ねる。その異様な乱舞に誰もが混乱して―――直ぐ様、何事もなかったように感嘆する。
 
「(何、だ―――)」
 
 その異様な光景に、それ以上に響く気持ち悪い感覚に、坂井悠二は反射的にヘカテーを見た。
 「これも調律とやらの影響なのか」と、そう直ぐにでも訊ねたかった。
 ……が、出来なかった。
 
「………は?」
 
「どういう状況でぇコリャ?」
 
 緒方の隣に居た筈のヘカテーの姿はそこには無く、代わりに居たのは………ワイシャツとスラックスをラフに着崩した栗色の髪の美女。
 
「弔詞の、詠み手……」
 
「何か、めんどくさい事になってるみたいね」
 
 茫然と呟く悠二の顔を、美女……マージョリー・ドーは、不機嫌を装った顔で睨み付けた。
 死闘を経た相手との思わぬ再会に悠二は面食らい掛けるが、それどころではないと踏み止まる。頭を振って視線を巡らせると……ヘカテーだけでなく、平井も池も居ない。平井が居た場所には見知らぬ老婆が、池が居た場所には……
 
「……あれ、姐さん」
 
 今日はまだ合流していなかった、田中栄太。即座に感覚を研ぎ澄ませてみると、ヘカテーの気配は消えたわけではない。少し離れた場所に移動しただけだ。
 
「……人の場所が、入れ替わってる」
 
「みたいね。今もそれっぽい気配は感じないってのに、どういうカラクリなんだか」
 
 思わず呟いてしまった悠二の独り言に、マージョリーが平然と言葉を返す。返されてから、悠二は自分の失言に気付いた。
 この場には池がいなくとも、吉田と緒方、それに池と入れ替わったのだろう田中が居るのだ。
 
「……場所を変えたい。ついて来てくれるか?」
 
 多少 変に思われるのは承知の上で、悠二はマージョリーを促して去ろうとする。
 どうせロクな説明は出来ないが、それでも一言断ろうと吉田らに向けて口を開こうと……
 
「あ、姐さん!」
 
 したところで、慌てた大声が上がった。花火の最中に周りの目を集めてしまう程の、大声が。
 妙な呼び方で誰かを呼んだのは……田中。細い目を信じられないように見開いて彼が見ているのは、悠二ではなく……マージョリーだった。
 
「坂井と、知り合いなんですか……?」
 
 疑問の形でありながら、既に答を知っている。知っていて、否定して欲しいのかどうかも良く解らない……そんな表情。
 それを見た悠二は、田中の視線を追って、マージョリーの顔で止めた。
 
「あんた、まさか……」
 
「……知り合いだったわけ?」
 
「世の中ってのは狭ぇなぁオイ」
 
 悠二が、田中が、マージョリーが、それぞれが驚愕を持って互いの顔を代わる代わる眺める。
 のも、束の間……
 
「あの、坂井君」
 
 考えを整理するには短過ぎる混乱は、しかし、何も知らない第三者には長過ぎるものだったらしい。
 悠二の半袖を、吉田が控え目に引っ張っていた。
 
「また、坂井君のお知り合いですか?」
 
 その視線は、“いつの間にかやって来ていた”モデル顔負けの美女へと向けられていた。
 吉田の質問に引っ張られたのか、緒方までもが叫ぶ。
 
「あ、あ、姐さん!? 姐さんって何! ちょっと田中、説明しなさいよ! 今までその人と一緒だったわけ!?」
 
 但し、吉田の何倍も激しく狼狽して。幸か不幸か、吉田も緒方も“入れ替わり”に気付いていない。
 それ自体はある意味 好都合なのだが、ヘカテーと入れ替わった相手が悪かった。吉田と緒方の警戒心が凄まじい。
 
「悪ぃな嬢ちゃん達、痴話喧嘩ならもっと時間に余裕ある時に頼むぜぇ」
 
 と、そこで予想外の助け船が入る。マージョリーの手にぶら下がって……そのまま地面に着いていた画板ほどもある本、それに意識を表出させるマルコシアスが早口で告げるや否や、群青の閃光が二人の視界を奪ったのだ。
 
「って、えぇ!?」
 
「場所変えろって言ったのはアンタでしょうが。注文の多い男は嫌われるわよ」
 
 同様に目の眩んだ悠二と田中の手を引いて、マージョリーはあっという間に人混みの中へと消える。
 日常と非日常が不安定に混在したハプニングを前にして、悠二はすっかり怒るタイミングを逸してしまった。
 友人を“こちら側”に引き込まれた、という怒りの矛先を。
 
 
 
 
 真南川に架かる御崎大橋のA字主塔の頂、これ以上なく見つけやすい場所に群青の灯火を光らせて……悠二らは他の異能者を待っていた。
 敵の居場所は掴めないのに妙な自在法が発動している状況、常ならば敵が“釣れる”のを薄く期待すべき場面だが……今回ばかりは違う。ただ、味方を呼び寄せて作戦会議をしたいだけである。
 というのも……
 
「……封絶が使えないなんて、こんな事して何が狙いなんだ」
 
 人を、物を、外れた戦いから守る因果隔離空間……徒、フレイムヘイズ、どちらにとっても必要不可欠とさえ言える自在法・封絶が使えない。
 悠二どころか、近年ではマージョリーでさえ想定した事の無い、これは外れた世界に於いての異常事態だった。
 
「“螺旋の風琴”が残ってれば何か解ったかも知れないけど、無いもの強請りしてもしょうがないわね」
 
「ヒャーハッハッ! この間までブチ殺そうとしてたヤツが言うと、余計に都合良く聞こえんなぁ我が身勝手なるブッ!?」
 
「おだまり、バカマルコ」
 
 担いだ本『グリモア』をマージョリーがブン殴る。戦闘時の彼女しか知らない悠二は、何だかお約束っぽいそのやり取りに思わず吹き出しそうになる。
 四六時中“あんな狂態”を見せているわけはないのだが、何だか少し安心した。
 
「ひぃ、ふぅ……やっぱり、敵らしい気配は無いな。って言うか一人足りない、メリヒムか」
 
「いつもの長椅子で寝ているのでありましょう。今から行って呼んで来るのであります」
 
「……いや、いいや。余計面倒な事になりそうだし」
 
 今にも飛び出しそうなヴィルヘルミナの肩を掴んで止める。封絶の使えない今、下手に『虹天剣』など撃たれたら取り返しのつかない事になる。むしろ寝ててくれた方が心安らかだ。
 因みにここにいるのは悠二とマージョリー、元から付近にいたヴィルヘルミナ、そして……
 
「やっぱり、その人もなんだな……」
 
 あのまま引っ張って来られた、田中栄太。ここに来るまでにあちらの事情を聞きはしたが、マージョリーの説明は「成り行きで宿借りてるだけよ」というあまりにも簡潔なもの。「なぜ巻き込んだ」と訊けば「アンタだって封絶の中に人間の女ツレ込んでたじゃない、偉そうにとやかく言われる覚えないわよ」と、ぐうの音も出ない正論で黙らされてしまった。
 
「……この人は『弔詞の詠み手』と同じフレイムヘイズだよ。シャナもね」
 
 悠二からすれば、自分が人間ではないと知られてしまったショック……後ろめたさにも似た感傷が先に立って、マージョリーに怒りを向ける余裕が無い。事態に専念する事で目を背けていた、というのが正直な所だが……それもそろそろ潮時だろう。
 悠二は頭を掻いて暫く俯き、深く思い溜息を吐いた。吐いて、観念したように話し出す。
 
「僕はミステス、身体の中に宝具が入ってる……トーチだ。……ヘカテーとメリヒムは、紅世の徒」
 
 今までの反応から見て、この世の真実の基本的な事はマージョリーから聞いているだろう。語るべき事は、自分たちの正体くらいだ。
 
「けど、御崎市を喰い荒らした徒を倒してくれたのも、ヘカテーなんだ。僕の中にある回復の宝具のおかげで、二人が人を喰う心配も無い。……どう思われても仕方ないけど、実質的な脅威にはならないよ」
 
 田中の方は見ず、遠くに咲く歪んだ花火の乱舞を眺めながら、出来るだけ不安を削るように語る。
 悠二にとって、一生する事は無い……一生したくはないと思っていた告白。
 に対して、
 
「って事は、平井ちゃんは人間なんだな。俺や佐藤と似たようなもんか」
 
 拍子抜けするほど軽い言葉が、返った。
 
「……あんまり驚かないんだな」
 
「姐さんの話聞いた後だけど、実はある程度予想ついてたんだよ」
 
 今までの間に気持ちの整理も着いていたのだろう。田中はポリポリと頬を掻いて、
 
「知られたくなかったってのは解るけど……まあ、その、なんだ……そんなに気にする事ないだろ。俺らの関係に係わるような事じゃないんだし」
 
 あまつさえ、そんな言葉さえも言ってくれた。不覚にも感動して言葉を失う悠二の耳に……
 
「ふ、ん」
 
 感情に乏しい、その割りに自己主張の強い相鎚が届いた。ジロリと横目を向けてみると、ヴィルヘルミナの半眼がジーッと悠二を見ている。
 
「……何?」
 
「いえ、別に。ただ、『私の時とは随分反応が違うな』、と思っていただけであります」
 
「男女差別」
 
「男女……、んなっ!?」
 
 わざとらしく顔を逸らす仕草を見て、悠二はこの鉄面皮の意図に遅れて気付いた。つまり、これは、“からかわれている”のだ。
 平井ゆかりを巻き込んだヴィルヘルミナに対して、逆上して殴り掛かった時の事を。
 無駄に済ました横顔に何か言ってやりたい衝動に駆られた悠二だが、それを理性で強引に押さえ込む。
 この話題を続けてはいけないと、頭のどこかが激しく警鐘を鳴らしている。
 逃げるように、平井の名前すら知らないだろうマージョリーに目を向けた。
 
「今さらだけど、今回アンタは味方と思っていいんだよな」
 
「『敵の敵』って方が正しいわね。ま、舐めた真似してくれた徒をブチ殺すまでは手出さないから安心しなさい」
 
「十分だ」
 
 “銀”に纏わる因縁のあるマージョリーだが、それでも彼女はフレイムヘイズ。最低限の協力を得て、悠二は安堵の吐息を漏らす。
 だが、同時に微かな違和感も持った。
 
「(いくらなんでも、おとなしすぎるような……)」
 
 以前の彼女は“銀”こそ全て、他の何を措いても仇敵に執着する復讐者そのものだったが、今は誰とも知れない見えざる敵を優先している。
 無論、あの時とは状況が違うし、悠二はマージョリーの人格など殆ど把握していないのだが。
 
「(まあ、そっちの方が都合は良いんだけど)」
 
 深くは考えず、悠二は再び空を見る。
 方角の違う遠方から、褐色と水色が飛んで来ていた。
 
 
 



[34371] 6-10・『お助けドミノ』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2013/06/19 18:26
 
「放して下さい」
 
「放したらまた暴れるだろ!」
 
 到着から五分後、御崎大橋のA字首塔の頂で後ろから悠二に羽交い締めにされるヘカテーの姿があった。
 
「ああ、出来れば彼女と接触する事なく街を去りたかったのですが……」
 
「ふむ、これも因果を引き寄せる渦の業かの」
 
 悠二らの目印に向けて集合しようとしていたヘカテーとカムシン。……だったのだが、遠方から接近する褐色の炎を認めるや否や、ヘカテーはカムシン目がけて躊躇なく『星(アステル)』を放ち出したのだ。
 いきなり暴れたヘカテーを悠二とヴィルヘルミナが取り押さえて今に至る。放たれた光弾が空でしか弾けなかったのは運が良かったと言うしかない。
 
「ヘカテー……いきなりどうしたって言うんだよ」
 
 悠二は戸惑うしかない。ヘカテーがフレイムヘイズを好きではないのは知っているが、いつもならここまで強行に始末しようとはしない。戦闘不能のマージョリーを見た時も悠二の意を汲んで大人しくしてくれていたのに、今度はまだカムシンが何もしてないのに問答無用だった。
 
「あんた、『神殺し』の話は知ってる?」
 
 そんな悠二に、横合いからマージョリーが話し掛けた。
 『神殺し』という言葉で悠二が思い当たる話は、一つしかない。
 
「神殺しって、ヘカテーの……」
 
「そ。で、爺ぃはその大昔の御伽話の生き証人ってわけ」
 
 フレイムヘイズの生き証人、それはつまり……そういう事だろう。ヘカテーにとっては、親の仇の一人というわけだ。
 こうなると安易に「止めろ」と言いにくくなってくるが……それでも、言うしかない。
 
「……ヘカテー、今は封絶が使えないんだ。下手に暴れて壊せば、街も人間も戻せない。お願いだから、大人しくして」
 
 大昔の怨恨より、今の御崎市を選んで欲しいと、切実な願いを込めて。
 すると、
 
「………………」
 
 渋々と、不満も露に、しかしヘカテーは大杖を下ろしてくれた。腕を放しても、もう暴れる気配は無い。
 
「ありがと、ヘカテー」
 
「……………」
 
 安堵と共に礼を告げると、ヘカテーは拗ねたように首塔の縁へと移動してしまった。その背中が、カムシンと協力する気はないと物語っている。
 悠二も元より、そこまで強いるつもりはなかった。
 
「『儀装の駆り手』、この状況と貴方の調律、何か関係があるのでありますか」
 
「説明要求」
 
 ヘカテーを宥めるのは自分の役目ではないと言わんばかりに、ヴィルヘルミナがカムシンに訊ねる。
 タイミングから考えて、真っ先に調律と結び付けるのは自然な流れだ。問われたカムシンも頷き、「確定ではありませんが」と前置きして語る。
 
「おそらく、私が調律の為に仕掛けた血印を利用されたものと思われます。先刻まで繋がっていた同調が、今は完全に断たれているので」
 
「もっとも、それをどんな目的に使われるかまでは判っておらんのじゃが」
 
 それをさらに、ベヘモットが継いだ。事前の推測の域を出ない、さして有力でもない情報である。
 
「(こいつの手落ち……いや、利用されたってのは嘘で、全部こいつの仕業って可能性もあるか)」
 
 フレイムヘイズだからと言って信用する理由にはならない。調律なんて都合の良い口車を安易に信じた結果がこれだ。
 が、続く言葉に悠二は言葉を失う。
 
「こういう真似をする輩にも見当が着いています。“探耽求究”ダンタリオン」
 
『――――――』
 
 悠二のみならず、ヴィルヘルミナも、マージョリーも絶句し、外方を向いていたヘカテーも勢いよく振り返る。
 
「(こんなに、早く)」
 
 ヴィルヘルミナの友『約束の二人(エンゲージリンク)』を殺し、『零時迷子』に謎の自在式を打ち込んだ“壊刃”サブラクの雇い主。
 
「(……“銀”の手掛かり)」
 
 それは即ち、悠二の炎を銀色に染めたと目される自在式……マージョリーの仇敵、謎の徒“銀”の手掛かりを知る者であるという事でもある。
 
「(……おじ様が、来た)」
 
 その謎の自在式……『大命詩篇』と教授自身は、ヘカテーが『零時迷子』を餌にして待っていたものでもある。
 
 様々な因果の発端とも呼べる紅世の王が、遂に御崎市へと到来したと言うのだ。
 いつか来る必然たる徒の名を聞いて、悠二もカムシンへの疑念を遥か彼方へと飛ばしてしまった。
 
「(っ、マズい……!)」
 
 悠二がまず危惧したのは、マージョリーの暴走。
 悠二の炎を目にしただけであれだけの狂態を見せた彼女だ。より具体的な手掛かりが眼前にぶら下がった今、封絶の有無など関係なく容赦の無い破壊をばら撒きかねない。
 ……と、思って振り返ったのだが、
 
「……何よ、血相変えて」
 
 慌てふためく悠二を迎えたのは、どこか無気力にすら見えるマージョリーの怪訝顔だった。
 
「あ、いや、別に……」
 
 あまりの違和感に悠二は頬を引きつらせるが、藪をつついて本当に暴れられては堪らない。曖昧に笑って誤魔化す。
 無論、誤魔化せてなどいない。
 
「(……これ、本気でヤバいわね)」
 
 自身の異変にも、悠二の疑念にも、当然マージョリーは気付いている。気付いていて、しかし、それを何とかしようと思う気力が湧いて来ない。
 
「(……おいおい)」
 
 永らく共に戦って来た契約者たるマルコシアスでさえ、この事態は予想出来なかった。
 今までにも、こういう事は何度かあった。終わる事なき戦いの日々に膿み疲れ、燃え尽きたように気力を萎え果てさせる事は。
 だが、今回はそれらの前例……心を折られて燃えなくなる類とは明らかに違う。
 
「(あの戦いで、一体なにがあったってのよ……)」
 
 そんな事は無いと否定し続けて来た。半ば本能的にも似た感覚に抗い続けて来た。……だが、もう認めるしかない。
 『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーが、己が仇敵たる“銀”を、避けていると。
 そして、いくら目を背けても逃れられない場所まで、真実の引き金は迫って来ているのだと。
 
「(おじ様が、“もう”来た)」
 
 それと同種の心の乱れを、ヘカテーも自身に感じていた。
 教授を捕まえ、『大命詩篇』を回収するのが今のヘカテーの目的。だからこそ御崎市に留まり、ヴィルヘルミナが外界宿(アウトロー)に情報を流すのも黙認していた。
 『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の徒は基本的に人間の情報媒体を扱えないが、教授は違う。あのおじ様ならば人間の情報も難なく掴んで『零時迷子』の所在を掴み、逆にベルペオルに自分の居所は悟られない。
 そういう狙いで行動し、事実、幾つかのイレギュラーを内包しつつも目論見通りに事は運んだ。
 だと言うのに今、ヘカテーの心は晴れない。むしろ、暗雲にも似た重苦しい不安が立ち込めている。
 
「(私は………)」
 
 もう、解っている。
 この街で暮らす口実が失くなってしまう事が、怖いのだ。それが口実だと、解ってしまっていた。
 
「その血印を、貴方の意志で自壊させる事は出来ないのでありますか。そうすれば、少なくとも今よりマシな状況になると思うのでありますが」
 
「推奨」
 
 それら二人の異変に気付きつつも敢えて触れず、ヴィルヘルミナは話を進める。
 彼女は二人と違い、元凶たる教授よりも雇われた“壊刃”にこそ関心があるので、そこまで過剰な反応はしない。
 
「ああ、それは真っ先に試してみたのですが、やはり駄目でした。血印に直接接触しない限り、制御も破壊も不可能でしょう」
 
「……あんたもかなりの実力者なんだろ? その自在式の制御を気付かれもせず完全に奪い取ったってのが、ちょっと信じられないんだけど」
 
「そういう相手という事であります。人格にかなり問題はあるものの、“螺旋の風琴”にも比肩する天才でありますから」
 
 ヘカテーとマージョリーを置き去りにしたまま、状況整理は続く。
 とりあえず、カムシンが自分の仕掛けた血印への接触を、ヴィルヘルミナとヘカテーがこの異常な自在法からの脱出を、悠二とマージョリーがこの異常の中心……御崎駅とその前方に伸びる大通りの調査をそれぞれ試みる事に決めた。
 その段になって漸く、悠二は呼び掛ける。
 
「田中」
 
 この場に居ながら完全に蚊帳の外へと追いやられていた、田中栄太に。
 
「どこが安全なのかも良く解らない状況だけど、とりあえず適当な所に降ろすから」
 
「っ」
 
 成り行きでこんな所(橋の首塔の頂)に連れて来てしまったが、もちろん置き去りになどしない。後ろから脇の下に腕を入れて持ち運ぶべく背中に回る。
 至極当然のようにそうしようとする悠二を見て、田中は微かに表情を歪めた。
 
「(やっぱり、俺は……)」
 
 ついさっきまで、彼は今の自分に満足してしまっていた。
 何かの役に立ったわけではない。会話に加わる事も出来なかった。それでも、こんな非日常の光景に混ざっているというだけで、憧れのマージョリー・ドーに大きく近付けた気がしていた。
 そんなものは、全くの錯覚でしかなかった。だってそうだろう。一人ではこの場に来る事も、降りる事さえ出来ないではないか。
 
「……田中?」
 
 憧れと現実を隔てる、絶対的な壁。その絶望が態度に出ていたのか、悠二が気遣わしげな声を出す。
 これ以上無様な所は見せたくなくて、田中は無理に元気な声を出そうとした。
 
「待って下さい」
 
 それを遮るようなタイミングで、ヘカテーが口を挟む。無論、意図してそうしたわけではない。悠二でさえ気付いていない田中の苦悩など、露ほどにも気に掛けてはいない。
 
「どうせ安全な場所が解らないなら、やってもらいたい事があります」
 
 それでも、善意でも悪意でもない無垢な提案が、少年の矜持を辛うじて守る事になった。
 
 
 
 
「………………」
 
 既に暗く染まった御崎市の空を飛びながら、悠二は頻繁に携帯を開く。
 池から幾つか着信が入っているが、それは気にせず名前を探すが、目当ての履歴は無い。
 
「(……まさか、何かあったのか……?)」
 
 ヴィルヘルミナと祭りに来ていた筈のシャナが居ないのは……気にはなるが、心配はしていない。
 田中と同じ立場にあるらしい佐藤にしても、携帯を持っていないので無事を確認する手段が無い。
 ……だが、手段があるのに連絡が無いという方が、よほど不安を掻き立てられる。もう一度電話を掛けてみるが、やはり繋がらない。
 
「(平井さん……)」
 
 そう、平井は携帯を持っていて、しかも今の異変に確実に気付いている筈なのに、連絡が着かない。危険を察して脇目も振らずに逃げているならまだ良いが……彼女の性格から考えて望み薄だろう。
 
「(早く連絡返してよ)」
 
 切に願って、それでも悠二は真っ直ぐに飛ぶ。この頼もしい討ち手らと共に戦う事こそが、最良の未来に繋がると信じて。
 
 
 
 
 ミサゴ祭りは県外でも有名な御崎市自慢の催しだ。当日の御崎駅は必然的に人混みに溢れ、歩くのも不自由する様相を呈す。
 自在法によって居場所を入れ替えられた佐藤啓作が現れたのも、その御崎駅の内部だった。
 そこで彼は――――見た。
 
【あー、てすてすてす。はーい皆さんこんばんわー、私は偉大なる超天才にして真理の肉迫者にして不世出の発明王にして実行する哲学者にして常精進の努力家にしてイカス眼鏡に揺るぎない眼差しを秘めた空前絶後のインテリゲンチャー、“探耽求究”ダンタリオン教授の“燐子”、我学の結晶エクセレント28―カンターテ・ドミノでーす】
 
 見慣れた駅の光景……日常の中に、明確過ぎる異物が紛れ込んでいる様を。
 いや、紛れ込んでいる、という表現は相応しくない。己一つで光景の印象を壊してしまうほど、異物の存在感は圧倒的だった。
 
「(ぐ、紅世の、徒……?)」
 
 ガスタンクみたいな身体、歯車で出来た両目、発条にも似た四肢。まるで出来の悪いオモチャのような物体が、拡声器で人の言葉を喋っている。
 
【たーだ今より、この駅は我々の実験場となります。構築作業の邪魔なので、人間はとっとと退去しちゃって下さーい】
 
 なぜ自分がこんな所にいるのか、なぜ徒がこんな所にいるのか、自分はこれからどうすればいいのか。
 間の抜けた脅し文句が響く中で、佐藤は己が思考に呑まれて茫然と立ち尽くした。恐慌に駆られた人波が彼の肩にぶつかりながら逃げていく。
 誰もあれが作り物だとは思っていない。その気持ちは佐藤にも良く解る。見た瞬間に「危険だ」と確信できてしまう、そんな得体の知れない違和感が あれにはあった。
 
「(逃げ……て、いいのか……?)」
 
 全身を震わせるほどの恐怖を感じているのに、何故か佐藤の足は動かない。多少の知識を持っているだけで、“自分が何とかしなければならない”という見当外れの責任を感じて、それ以上に……憧れの人の戦場から逃げ出すという行為を、少年のちっぽけなプライドが支えていた。
 だが、それも数秒……
 
【ガオー! さっさとどっか行け人間共ー! 私はこれからメチャメチャ忙しんだから、邪魔するとホントに食べちゃうぞー!】
 
「っ!!?」
 
 あまりに平然と発せられた『食べる』という言葉、目の前に聳える絶対的な圧力を前にして、馬鹿な夢想から一瞬で覚めた。
 周囲の人間と同じく一も二もなく逃げようと背中を向けた……その時、不可思議な“波”が彼を襲う。
 
「(………あれ)」
 
 直後に、佐藤啓作は足を止めた。それは佐藤のみに限らない。さっきまで狂騒に駆られていた全ての人間が、嘘のように平静を取り戻していた。
 
「(何で俺、駅になんて居るんだっけ。ったく、田中の奴どこ行ったんだよ)」
 
 自分が恐怖に震えていた、という数秒前の出来事すら気にも留めず、佐藤はそれまでと逆方向の出口を目指して歩き出す。
 その途中でガスタンクのようなロボットの前を横切るが、特に反応は示さない。視界に入っても「ああ、紅世の徒か」と思うだけだった。
 
【……おんやぁー?】
 
 この現象はロボット……教授の燐子、カンターテ・ドミノにとっても、完全に予想外の出来事だった。
 別の目的で制御を奪った調律の自在式が妙な具合に作用して、人間に無用な平静を与えてしまっている。
 
【もーめんどくさいなー、これから起動の度に人間が群がって来ちゃうなんてー】
 
 今回の目的はあくまでも実験であり、食事ではない。だからドミノは、人間が怖がって逃亡してくれるならわざわざ危害を加えるつもりなど無かった。
 しかしこうなってくると、無力な人間だろうと流石に邪魔に思えて来る。
 
【どうせ実験が成功したらみーんな消えちゃうんだし、別にいーか】
 
 その大きな右手を眼下の人間に翳す。燐子のドミノは本当の意味で人間を“喰らう”事は出来ないが、分解するだけなら出来る。
 その掌中に宿る朧気な力が、佐藤啓作を含めた一帯の人間へと伸びて―――
 
「どっひゃあぁぁぁーーー!!?」
 
 突然、ドミノの眼前に構えられていた拡声器が爆撃された。
 爆発という“上書き”された異常事態に人々が戦慄き、再び恐慌と逃走が満ち溢れる。
 
「この駅は我々が占拠した! 爆破されたくなかったら前の人を押さず、お子様の手を握って最寄りの出口から速やかに避難して下さい!!」
 
 その人波の影響を受けない自販機の上に、一人の少女が立っていた。
 白い着物を靡かせ、両手にタロットカードを構え、両の触角を逆立たせて。
 
「平井ちゃん……?」
 
 佐藤啓作はその名前を、呆然と呟く事しか出来なかった。
 
 
 
 
 あの光景を目にした時、理解したつもりだった。
 これは遠い世界の他人事ではなく、自分たちの日常を冒す現実の脅威なのだと。
 だから調律師に協力した。この世の歪みを正し、二度と御崎市に紅世の徒が現れないようにする為に。
 それを終えて、日常に戻って……それだけでもう、現実の脅威は他人事に戻ってしまっていた。
 今でも世界中に徒は居て、人が喰われていて、なのに気付かないでいる。でもそれは、自分から遠い場所の出来事で、自分は早く真実を忘れる事ばかりを考えていた。
 ……だと言うのに、“これ”は一体何だというのか。
 
「(……何かが、起きてる)」
 
 歪んだ花火、唐突に“飛ばされた”自分、似たような立場にあると思われるのに、何の異変も感じていないらしい人々。立ち尽くす池速人には、目に映る全ての光景が、まるでタチの悪い冗談のように見えた。
 
「(これは……僕のせいなのか?)」
 
 真っ先に感じたのは、恐怖。得体の知れない世界に一人迷い込んだような不安と、それと等量の疑念。
 もしこれがカムシンの仕業だとすれば、自分に責任が無いなどとは口が裂けても言えない。
 相手に呑まれ、体感などという曖昧な根拠で信じて協力し、その結果 街がおかしくなったのだとすれば、元凶の一人は、間違いなく池速人だ。
 池がそう思うのも無理はない、あまりにタイミングが良過ぎている。
 
「(でも、あの人が、そんな……)」
 
 頭を抱えて別の可能性を探してはみても、結局は無駄な事。どんな推測を並べたところで、池にはそれを確かめる術が無いのだから。
 夜空に“綺麗な花火”が上がっているのに頭痛にでも苛まれたように蹲る少年を周囲の人々が怪訝な目で見下ろしている。彼らの目には、異変を感じている少年の方こそが異物なのだ。
 
「お前、気付いてるわね」
 
 その頭上から、高い、それでいて幼さや頼りなさを微塵も感じさせない声が、向けられた。
 池はその声を、知っている。言葉の意味を正確に飲み込めないまま、顔を上げる。
 
「シャナ、ちゃん?」
 
 そこに、思い浮べたままの少女が立っていた。
 赤い着物を着飾り、美しい黒髪を団子にした艶姿。つい先刻まで一緒にいた姿のままで、シャナはそこに居た。
 友達が、変わらぬ姿で、自分の前に居る。それだけで自分がまだ日常に繋がっている気がして安堵しかけた池は………
 
『お前、気付いてるわね』
 
 今更になって、シャナの言葉を反芻する。
 何故? 誰も彼もが異変を異変と感じていない今、“どうして彼女はそんな事を訊けるのか”?
 
「何、で……?」
 
 疑問は、そんな半端な声にしかならなかったが、それでも伝わったのだろう。
 シャナは纏めていた髪に指を掛け、一気に引き抜いた。
 
「私はフレイムヘイズ」
 
 流れた黒髪が、強く光る瞳が、紅蓮に燃える。
 
「『炎髪灼眼の討ち手』、シャナ」
 
 鮮やかに煌めく少女の姿を前に……少年の日常が、また一つ砕け散った。
 
 
 
 
「せいっ!!」
 
 両の手から放たれた十のカードが、至近で最も大きな存在の力……つまり、ドミノに向かって飛来する。
 
「のわーーーー!!?」
 
 それは命中と同時に弾け、ドミノの巨体に連鎖的な銀炎の爆発をお見舞いした。
 その効果の程を確かめもせず、平井は自販機から跳躍、人々が逃げた事によって拓けた空間に着地し、同時に地を蹴ってドミノから距離を保ちつつ全力疾走。その間にも、袖から何枚もカードを投げ付けている。
 
「ぎぎ、銀の炎!? 何で人間がこの炎を!?」
 
 案の定ダメージは無いようだが、動揺を誘う事には成功したらしい。後はこのまま、人が居なくなるまで何とか時間を……と思う平井の目に、一人逃げ出さず立ち尽くす少年の姿が映る。
 
「平井ちゃん、フレイムヘイズだったのか!?」
 
 何か色々と訊きたい事も出来てしまったが、全部まとめて後回しにする。
 今はただ、この場を生き残る事こそが最優先。
 
「人間めー、よくも教授のエェークセレントな実験の邪魔をー!!」
 
 再びドミノが人間の……今度は平井個人の存在を分解すべく力を伸ばす。平井はそれを……躱せない。全力疾走など全くの無意味であったかのように捕まり……
 
「効かーーん!!」
 
「なぬっ!?」
 
 そして、ドミノの力の方が霧散した。
 もちろん、人間である平井に自在法への抵抗力など無い。この現象も、さっきの爆発も、過保護な悠二が平井に持たせたタロットカードの効果なのだ。
 しかし、普通の人間が傍目に見ている分には解る筈もなく、
 
「す、すげぇ……!」
 
 佐藤の目には、平井が異能を使うフレイムヘイズにしか見えていなかった。
 その、まるでもう危機は去ったかのような暢気な態度が、逆に平井の危機感を煽る。
 
「佐藤君はさっさと逃げて! 絶対振り返らない事!!」
 
「わ、わかった!」
 
 切羽詰まった声に平井の焦燥を感じたのか、今度こそ佐藤は背中を向けて走りだした。
 それを気配だけで確認した平井は、さらにもう一枚のカードを放ち、腕で目を覆って俯いた。
 次の瞬間――――
 
「ンギャーーー!!?」
 
 銀の閃光が駅の構内に溢れ返り、ドミノの視界を奪った。あんな外見の敵に目眩ましが効くのか甚だ不安だったが、どうやら上手くいったらしい。
 
「…………よし」
 
 改めて周囲を見渡す。主観的には恐ろしく長い時間稼ぎだったが、漸く誰も居なくなった。背後で佐藤がエスカレーターの向こうに走り去るのを見送ってから、平井は改めてドミノに向き直る。
 
「これでやっと、あたしも全力が出せる」
 
「な、何を〜、生意気な人間めぇ〜」
 
 どう見ても只の人間にしか見えない。しかし、その人間が間接的にとはいえ銀の炎を使ったという事実に不安を煽られたのか、ドミノに僅かな警戒が浮いた。
 どうせハッタリに決まっている。そんなドミノの内心を鼻で笑うように、平井は首から提げて着物の下に隠していた宝具を出す。
 
「運が悪かったね。あたしがこんな所に転移して来たのは、単なる偶然だったんだろうし」
 
 それは正十字型のロザリオ、『ヒラルダ』。『約束の二人』がヴィルヘルミナに託し、ヴィルヘルミナから平井に預けられた、“人間に自在法を使わせる宝具”。
 それを今、平井は高々と天へ翳す。
 
「風よ、我が命に従いて愚かなる敵を打ち砕け!」
 
 途端、琥珀の暴風が平井を包み込んだ。景色さえも一変させる自在法の発現にドミノは戦慄し、その両手で頭上に炎弾を形成する。
 
「そうは……させるかぁーー!!」
 
 そして、自身を中心に竜巻を生んだ少女目がけて容赦なく投げ付けた。
 馬鹿みたいに白けた緑色の爆炎が一撃で竜巻を貫通し、その余波で周囲の琥珀までも吹き散らした。
 ………が、
 
「…………あれ?」
 
 そこには既に、誰もいない。あれだけの大口を叩いた少女を含めて、ドミノを除いた完全な無人となっていた。
 
「やっぱりハッタリだったんだーーー!!」
 
 悲哀よりも苦笑を招きそうなドミノの泣き声が、無人の構内に響いた。
 
 
 
 



[34371] 6-11・『池速人』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2013/06/19 17:28
 
 異変の中心には、すぐ気付いた。大通りの先に聳える御崎駅は、材質も不確かなパイプやコードで繭の如く覆われ、一目で魔窟と解る様相を呈していたからである。
 
「“あんたは何方!?”」
「“兵隊だぁ!”」
「“何をお望み!?”」
「“酒一杯!”」
「“お金は何処に”」
「“置いて来たぁー!!”」
 
 マージョリーの『屠殺の即興詩』が高らかに響き渡り、群青の自在式が無数に伸びる。
 
「いっけぇ!!」
 
 悠二の眼前で『グランマティカ』が蛇鱗に並び、そこから同じく自在式を放つ。
 群青と銀の文字列が複雑な曲線軌道を描いて駅へと奔り………そして、一つ残らず捻じ曲げられた。
 
「これだけやって一つも届かないなんて」
 
「……こりゃ、タネ暴かないとどうしようもないわね」
 
 封絶が使えない事情もあり、最初は炎弾も使わず突撃を試みた……のだが、その飛翔の軌道を唐突に曲げられ、電信柱に激突してしまった。その後もこの不可解な撹乱を突破すべく色々と試してみたのだが、結果は御覧の通りである。
 
「タネ?」
 
「私たちの自在法にこんだけ対応してる癖に、力の動きを殆ど感じないでしょ。単に『相手が上手』ってだけじゃ、こんな風にはならないわよ」
 
「つーか、イカレ教授のやり口は殆どが『我学の結晶』ってぇ発明品だ。一口に天才っつっても、我が妙なる歌姫やオメェみてーな自在師とは限らねぇのさ」
 
 すぐ手の届く所に騒ぎの元凶が居るのに、触れる事も出来ない。もどかしい悔しさが奥歯の軋みとなって表れるが、それで状況が進展するわけではない。
 今は一先ず、『駅の変貌』と『撹乱の自在法』という情報を持ち帰り、現状打破の手掛かりにする。連絡を取って済むなら手間が省けて良いのだが、おそらく田中に自在式の細かい判別は出来ないだろう。ヘカテーやカムシンらの情報と照らし合わせる為にも、ここは一度戻るべきだ。
 そう結論づける悠二のポケットで、携帯が鳴る。慌てて開いて見ると、『安心したら腰ぬけた、ヘルプミー(TT)』というメールが届いていた。差出人は、平井ゆかり。
 
「……何をしてんだ、何を!」
 
 悠二は大きく息を吐き出して、バリバリと頭を掻く。
 あの平井が、今さら歪んだ花火や人々の異変を目にしたくらいで腰を抜かすほど驚くとは思えない。きっとまた何か、要らぬ危険に首を突っ込んだだろう事は容易に想像できた。
 無茶な行動に対する憤慨も確かにあるが……今は何より、安心が先に立つ。経緯はどうあれ、無事な事が解ったのだから。
 
「どうしたのよ、あんた」
 
「……戻る前に、一人拾っていく」
 
 とりあえず、ここから先は田中と一緒に大人しくしていて貰おうと、悠二は密かに誓うのだった。
 
 
 
 
 銀の火玉が滞空する一室、オモチャの山を押し退けるように広がる、御崎市を模した箱庭『玻璃壇』。
 かつて“狩人”フリアグネが根城としていた依田デパートの上層部に、幾つかの人影が立っていた。
 御崎駅から戻って来た悠二とマージョリー、悠二に連絡して運ばれて来た平井、路地裏で腰を抜かしていた平井を悠二到着の少し前に発見していた佐藤、御崎市外への脱出を試みて戻って来たヘカテーとヴィルヘルミナ、そのヴィルヘルミナの気配を捉えて合流したシャナ、自分が仕掛けた血印への接触を試して来たカムシン、そして―――
 
「……………」
 
 シャナに連れられて来た、池速人。
 
「(次から次に、何で……!)」
 
 池の事情を聞き終えた悠二は、この皮肉な成り行きに片手で額を押さえてうなだれる。
 調律に必要な人間のイメージ、異能者と近しく暮らしたが故に残ってしまった外れた気配、理屈は解る……解るが、自分の友人ばかりを狙って巻き込んでいるかのようなフレイムヘイズらに、悠二はいい加減うんざりしていた。
 
「(いや……)」
 
 元はと言えば自分のせいかと、思い直して沈み込む。
 確かにフレイムヘイズが集まって来るのは“狩人”の蚕食に端を発しているかも知れないが、そのフレイムヘイズと平井や池を巡り合わせたのは紛れもなく坂井悠二という“異物”が原因になっている。
 その異物に日常を壊された池速人が今、真っ正面から悠二と相対していた。
 
「お前が……」
 
 佐藤や田中は受け入れてくれた、ならば池も……という淡い期待を抱いていた悠二は、そのたった一言で凍り付く。
 池の声には、耳にした瞬間に気付けてしまうほどの明確な拒絶が滲んでいたからだ。
 
「お前が、トーチ……?」
 
「……ああ」
 
 諦めにも似た覚悟が、自分でも不思議なほど容易く胸の内に降りる。
 信じられないモノを見るように目を見開いた池が、よろけた足取りで一歩ずつ近寄って来る。
 
「お前が……もう死んでる?」
 
「ああ」
 
 否定も言い訳もしない。処刑を待つ罪人のような神妙な気持ちで、悠二はただ肯定を繰り返す。
 
「………………何でだよ」
 
 池は、自分が何を口にしているか解っていなかった。胸中に怒りが渦巻いているという自覚はあっても、それは酷く曖昧で朧気なもの。だが今、その形の無い怒りこそが、半ば無意識の彼を衝き動かしていた。
 
「お前がそんなんじゃ……」
 
 気付けば、爪が食い込むほど強く拳を握り締め……
 
「お前を好きな吉田さんはどうなるんだよ!!?」
 
 目の前で固まる左頬を、力任せに殴り飛ばしていた。
 悠二は……避けなかった。横に半回転した身体を右足で支え、視線だけを返す。
 その目は、微かに見開かれていた。拳ではなく、言葉に。
 
「あ………」
 
 その視線を受けて、池は漸く正気に帰った。赤く腫れた頬が、一筋血を流す唇が、事実以上に痛々しく映る。
 
「そろそろ話、進めていい?」
 
 そんな重苦しくなった空気を、やり取りの意味を全く理解していないシャナが、あまりにも平然と破った。
 
「……って言うか、何で池を連れて来たんだよ?」
 
 シャナの空気を読まない……いや、ある意味で空気を読んだ発言に悠二も乗っかる。
 気にならないと言えば嘘になるが、池と話すのはいつでも出来る。
 
「そいつ、この妙な自在法の中でも異変に気付いてたのよ。って事は、未だに調律の鍵の一つかも知れないでしょ」
 
「……ああ、もういいや。大体わかった」
 
 自分から訊いた悠二は、早々にその話題を切り上げた。このまま続ければ、池には聞かせたくもない話をされる確信があった。
 シャナは誰と合流するまでもなく、この異変と調律の関連を察していたのだろう。だから池の挙動に目を着け、調律の協力者と知ってここに連れて来たのだ。
 この異変は調律に深く関与している。ならば、今も異変の影響を受けていない……つまり調律に影響を与えているピースを消せば、この自在法を崩せるかも知れない。
 シャナの場合、必要と判断すれば本当に池を手に掛けそうで恐ろしい。
 
「とにかく、一度状況を整理しよう」
 
 シャナの物騒な目論見は敢えて流し、悠二はそれぞれの情報を聞いて回る。
 もっとも、それは整理するほど複雑なものではなかった。御崎駅、市外、血印、その全てに於いて同様に、撹乱の妨害があって近寄れなかった、という事だ。
 
「……さっぱり狙いが見えて来ない」
 
 かなり周到に準備していたらしい事は解ったが、肝心の目的が掴めない。人々の反応は異様だが、逆に言えばそれだけ。撹乱の自在法にしても、悠二らに邪魔されない為の自衛にしか使って来ない。
 おそらく人々の異変は、まだ悠二らが掴めていない“何かの前兆”に過ぎないのだろう。……が、どうもこれは……
 
「……もしかしなくても、『零時迷子』の事 気付いてないんじゃないか?」
 
「……………」
 
 悠二の中の『零時迷子』を狙っているにしては、やり方が回りくど過ぎる。フレイムヘイズを嵌める為の仕掛けにしても、こんな無闇に警戒心を煽る利点が見つからない。
 至極もっともな意見に、ヘカテーはただ黙り込む。
 それが沈黙に繋がるよりも早く、カムシンが口を挟んだ。
 
「ああ、実際 気付いていないのかも知れません。私の聞いた話では、“探耽求究”は最近、大きな歪みのある所ばかりで目撃されていましたから」
 
「……また『闘争の渦』か」
 
 教授の狙いは『零時迷子』ではなかった。こうなって来ると、必然的にヘカテーに疑念の視線が集まる。
 『全ての元凶は教授である』というのは、そもそもヘカテー一人の証言でしかない。それが証明されなければ、自然と容疑は“謎の自在式”を知るヘカテーの方へと向けられる。
 対するヘカテーの態度は涼しいものだ。教授の狙いが何だろうと、彼の持つ『大命詩篇』さえ取り戻せれば良い。そもそも『大命詩篇』を余人に晒すつもりも無かったのだから、フレイムヘイズからの嫌疑など最初から予定の範疇……の、筈なのだが……
 
「………おじ様の素行なんて知りません」
 
 自分でも予想だにせぬ居心地の悪さに押されて、そんな風に言い訳していた。
 もっとも、皆の疑念もそれほど深くは無い。もしヘカテーが元凶なら、とっくの昔に悠二から『零時迷子』を取り出している筈だろうから。
 
「……とにかく今は、おじ様の狙いを知るのが先決です」
 
 汚名を返上すべく箱庭のビルに飛び乗ったヘカテーが、ピッと人差し指で小さな御崎市を指す。
 途端、箱庭が輝き始め、その中に複雑な紋様を映し出した。
 
「これって……」
 
「この街に張り巡らされた自在式を視覚化したものです。これで式の特性が解れば、自ずと目的も見えて来ます」
 
 宝具『玻璃壇』。太古の昔、一人の蛇神が創造し、移り往く歴史の中で流れ、“狩人”フリアグネに渡り、今はヘカテーの手にある箱庭。親の逸品を自慢するように、巫女は得意気に胸を張った。
 
「……へぇ」
 
 自在式だけでなく存在の力の流れをも映す箱庭を見て、悠二は小さく感嘆の声を漏らす。異能者であっても、存在の力は感じるものであり、見えるものではない。
 物珍しい光景をひとしきり眺めて……しかし、悠二は首を力なく左右に振った。
 
「ダメだ。自在式を直接見てみても、細部の構造は掴めない」
 
 それはマージョリーも同様らしく、両掌を上向けて肩を竦めていたりする。
 自信満々で披露した宝具が見事に空振りし、ヘカテーは密かに落ち込んだ。
 
「……………」
 
 そんな少女の内心には気付かず、悠二は一人思案に耽る。確かに『玻璃壇』一つでは決定的な打開策にはならないが、今、この特殊な状況に於いてのみ、自分以上に異変を細かく感知できそうな“人間”を、悠二は一人だけ知っている。
 だが……躊躇いがあった。
 理不尽に巻き込まれた彼を、これ以上こちらに踏み込ませる事に対する。
 
「(それでも……今は)」
 
 しかし結局、その感情を、理性で押さえ込む。
 彼は馬鹿ではない。ただ言われるがまま従ったのではなく、自分なりに考えて決めた筈だ。
 付き合いの長さからそう信じて、振り返る。
 
「池」
 
 未だ、茫然と自分の右手を見つめている、親友を。
 
「やってもらいたい事があるんだ」
 
 遠い彼方で、けたたましい汽笛が夜気を震わせていた。
 
 
 
 
「御崎市のイメージを、もう一度感じ取る?」
 
「ああ」
 
 表面上は努めて冷静に、悠二は自分の考えを池に説明した。池の方も、悠二が事態の解決を最優先にしていると気付き、雑念を払うように集中して話を聞いている。
 
「調律ってのは、在るべき姿を知ってる人間に、今の違和感を正確に捉えて埋めて貰うものなんだろ。だったら、おかしくなってる今の街の違和感だって掴めるんじゃないか?」
 
「……ああ、なるほど。試してみる価値はありますね」
 
 訊かれたカムシンも、密かに感嘆しつつ肯定した。こういう場合に於いて人間を軽視する傾向にあるフレイムヘイズでは気付けない、悠二ならではの着眼点だった。
 シャナも、ヴィルヘルミナも、マージョリーも、ヘカテーも、この成り行きに文句を付けず見守っている。
 
「……解った」
 
 締め付けられるような罪悪感を脇に置いて、池はカムシンの前へと進み出た。
 これで二度目、慣れたとまでは言わないが、慌てふためく事もない。
 
「では、『カデシュの心室』を展開します」
 
 カムシンが目深に被っていたフードを払い、その下の傷だらけの素顔を晒し、巻き布を剥いで鉄の棒を振るう。その先端が床を叩くと同時に、褐色の炎が池に向かって殺到した。
 
「うわ……!」
「池!?」
 
 炎に呑まれる友人の姿を見て、佐藤と田中が悲鳴を上げる。他の面々は見たままの炎ではないと解っているので驚かない。
 驚くのは、これからだ。
 
「む……っ?」
 
 渦巻く炎が球形となり、炎という曖昧な姿が輪郭を得て変質していく。
 そうして形作られたのは……淡く褐色の光を放つ、心臓。
 その中に、池速人は立っていた。
 
『ッッ!!?』
 
 服も眼鏡も装備していない、完全無欠に裸体な姿で。
 
「―――――」
 
 瞬間、ヴィルヘルミナの白条が奔る。敵意が皆無とは言え、シャナやヘカテーに回避も防御も許さぬ神速で、三人娘に目隠しを施した。
 
「……?」
 
「ヴィルヘルミナ、何?」
 
「カルメルさーん?」
 
 『男の裸』というものに対する知識が無いシャナとヘカテー、何が起きたかも視認できなかった平井は、ひたすらに困惑するだけ。
 しかして、保護者一同はそうもいかない。
 
「池お前……うちのヘカテーに何てモノ見せてくれてんだ?」
 
「やはり消滅させて調律を崩すべきでありましょうか」
 
「は……? いきなり何なんだよ!?」
 
 こんな時だけ息の合う悠二とヴィルヘルミナから、殺気が炎となって迸る。
 因みに、『カデシュの心室』内にいる池は、自分の姿に対する自覚は無い。理不尽な怒りを向けられてワケも解らず身動ぐ。
 
「ああ、すいません。そろそろ始めて貰えませんか」
 
「ふむ、こうしとる間に事態が悪化せんとも限らんしの」
 
 そんな池の窮地を、まるで他人事のように見ていたカムシンが救った。心室が脈動を始め、池の意識が御崎市そのものへと沈んでいく。
 
「(良く解らないけど、集中しないと……!)」
 
 一度目の感覚を必死に思い出しながら、池は両目を閉じて不可思議な渦に身を委ねる。
 昼間との違いは、あまりにも明確だった。
 
「……僕が意識をそこに向けると、それを強引に別のものに変えられてるような感じです」
 
「……別のものに変える、ですか」
 
 以前のようにいかない、その事に池は無力感を覚えた。だが、実際には“それで良い”のだ。今まで誰も、そんな感じ方は出来なかったのだから。
 
「……そういう事か」
 
 真っ先に気付いたのは、悠二。間髪入れず食い付くのは、シャナ。
 
「今ので何か解ったの?」
 
「弾かれてるわけでも曲げられてるわけでもなく『別のものに変えられてる』って事は、こっちの力を利用して自在式を起動させてるって事だ。これじゃ、いくら火力を上げても破れっこない」
 
「……………」
 
 他人のイメージを口頭で聞いただけで、即座に式の内容に当りをつける。解ってはいたが、自分と悠二の自在法の適性には雲泥の差がある。短期間とは言え“螺旋の風琴”の教えを受けた事で、その差はさらに広がっているように思えた。
 
「これなら自在式さえあれば徒本人が居なくても起動できる。駅の燐子にばかり気を取られるのもマズいかも知れないな」
 
「けど、その肝心の“探耽求究”が何処にいるかが解らないんでしょうが。ドミノが居たって事は、あのイカレ教授が絡んでるのは間違いないってのに」
 
 因みに、マージョリーが気付けなかったのは彼女が悠二に劣るからではない。彼女は複雑な式を歌に変えて一瞬で構築できてしまう、言わば鼻歌の天才である。だから逆に、丁寧に譜面を描く作曲は苦手なのだ。
 
「ああ、何をするにもこの撹乱を崩さなければ不可能でしょう。自在式が何処に仕掛けられているか、解りますか?」
 
 池に訊ねる傍ら、カムシンは鉄の棒『メケスト』を『玻璃壇』に差し向けた。連動して『カデシュの心室』から一筋、褐色の炎が血管のように箱庭へと繋がる。
 これで、池が慣れない現象を口で説明する必要は無い。掴んだイメージは、全てそのまま箱庭の中に反映される。
 そうして映し出されたのは……
 
「鳥?」
 
「……いや、鳥の飾りだ」
 
 ミサゴ祭りの象徴とも言える、ミサゴという鳥のハリボテだった。確かに、これなら祭り中の街の何処にいくつあっても不思議ではないし、偽装には持って来いだ。しかし、こうなって来ると……
 
「鳥の飾りに自在式を仕掛けて、それを人間の業者に配置とか取り付けとか発注した……って事なのか? 紅世の徒が?」
 
「興味が湧けば人間だろうとフレイムヘイズだろうと無節操に交流する、それがおじ様です」
 
 これまで抱いて来た徒のイメージを粉砕するような真実に驚く悠二に、相変わらず目隠しされたままのヘカテーが、良く解っていないままに説明する。
 何はともあれ、これで撹乱の肝は解った……が、
 
「しかし駅前の飾りは多過ぎるな。こちらの狙いに敵が気付けば、自在式の破壊も妨害して来るであろう。奇襲が通じるのは、最初の数撃。それで最低でも燐子の動きを封じねばならぬ」
 
「“頂の座”なら、それも可能でありましょうが……」
 
「今は封絶が無いんだ。『星(アステル)』なんて使えるわけないだろ」
 
 アラストールが唸り、ヴィルヘルミナが呟き、悠二が睨む。仕掛けを看破したところで、それが逆転の決め手に繋がらない。つくづく厄介な相手だった。
 
「(あの時、平井さんや佐藤じゃなくて、誰か戦える奴が駅に入れてたら……!)」
 
 必死に考え、しかし思い付かず、益体も無い事を心中で呟く悠二。その耳に……
 
「坂井くーん」
 
 シャナやヘカテー同様、目隠しされたままの平井の声が聞こえた。
 
「要するに、駅の燐子を何とかすれば良いんだよね」
 
「……うん」
 
 平井はこういう時、興味のみで発言するような性格ではない。何だか嫌な予感を覚えつつも、とりあえず訊いてみる。
 と……
 
「このカード、駅の自販機に仕込んどいたんだけども、何か役に立たないかな?」
 
 目隠しされたままの少女は、帯に隠していたタロットカードをフリフリと振って見せた。
 
 
 
 
「大丈夫か?」
 
 一時的に『カデシュの心室』を解かれて座り込む池に、悠二が声を掛ける。
 カムシンを除いた異能者は、既にこの場に居ない。撹乱を破る逆転に備えて、それぞれ動き出している。
 全ての準備が整ってから動くべき悠二は、意図せずして少しばかり時の猶予を得る事になった。
 当たり前だが動く必要の無い佐藤と田中も、何故か平井が追い立てるように階下へと連れて行った。カムシンもまた、一度街の様子を確認すると言って屋上に移動したので、今ここには悠二と池の二人しかいない。
 街の錯乱や池の全裸によって先伸ばしにされていた会話をする機会が、予定より随分早く訪れたというわけだ。
 座る池を見下ろすのも、正面から向き合うのも居心地悪く感じた悠二は、視線を交わさずに済む隣に腰を下ろした。
 
「慣れない事するもんじゃないな、手首ひねったみたいだ」
 
 傍目にはいつも通りの態度を取り戻した池が、ぷらぷらと右手を振る。心室の事ではなく、悠二を殴った事を言っているらしい。
 
「……悪かったな、殴っちゃって。やり返していいぞ」
 
「いや、一発くらい殴られた方が気が楽だ」
 
 どちらが、どちらに、何を言っても、白々しさにも似た不自然な違和感が拭えない。
 それきり暫くの沈黙を挟んでから、悠二は言った。
 
「お前さ……」
 
 おそらく今、唯一ごまかしにならないだろう、言葉を。
 
「吉田さんの事、好きなのか?」
 
 その一言が、躊躇という名の妙な空気を断ち切った。
 
「そういうわけじゃ……」
 
 池はそこで一度言葉を切ってから、
 
「……いや、そうなんだろうな」
 
 自分自身に観念するように、認めた。
 
「お前を殴ってから気付くなんて、何て言うか……間抜けな話だよ。あんな偉そうに説教してた癖にな」
 
 今の自分を、今までの自分を振り返って、池は自嘲そのものといった笑みを浮かべる。悠二はそれを気配だけで察して、しかし視界には入れない。
 
「僕も似たようなもんだ。“自分の気持ち”が解らないのに……“こっちの事情”は言い訳にならないし」
 
 悠二から見れば、そう言える池が羨ましい。
 吉田が好きで、しかし自分の事情が為に受け入れられないというなら同情の余地もあろうが、悠二は違う。
 吉田の事を好きなのかどうか、という、根本的な自分の気持ちが解っていないのだ。
 
「そっか………」
 
 悠二の漏らした弱音をどう取ったのか、池は一つ相槌を打ってから、
 
「そうだな」
 
「……え?」
 
 その弱音を、肯定した。
 悠二の目が点になる。確かに自分が言った事だが、フォローの一つも貰えるものと思っていた。
 
「お前、自虐してた直後にその態度はどうなんだよ!」
 
 池速人は、思う。
 
「だって事実じゃないか、自分で認めてただろ?」
 
 さっきまで、坂井悠二が、遠い世界の住人になってしまったように感じていた。
 しかし今、吉田一美に……それに対する自分に悩む彼の情けない姿を見て、思う。
 
「……やっぱり一発、殴っていいか?」
 
 たとえ死のうと、亡霊となろうと、坂井悠二はここにいる。
 
「殴られた方が楽なんだろ? 慎んで受け取っとけよ」
 
 そう思えるように、なっていた。
 
 
 



[34371] 6-12・『夜会の櫃』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2013/06/27 06:47
 
 種々の機械が無茶苦茶に絡み合い、既に原型を留めていない御崎駅の構内にて、燐子ドミノが白緑の自在式へと声を放る。
 
「教授ー、先ほど駅を占拠する時、人間の女の子に邪魔されたんでございまひたたた……!?」
 
 その自在式からマジックハンドがニュッと生えて、ドミノの頬っぺたをつねり上げた。
 
【主であるこーの私がせっせと働いている時に、お前はなーにを遊んでいるんですかぁ~? つまらないミスで実験を台無しにしたりしたら、どーなるかわーかってるでしょうねぇ?】
 
「そ、それがその人間が銀の……」
「まーだ言いますかぁー!」
 
 自在式の向こうの主に報告しようとするも、マジックハンドで“口答え”を封じられる。「とにかく私が到着するまで、なーんとしても持ち堪えるんですよぉ~?」と一方的に告げられ、通信を切られた。
 
「んもぉ~、せっかく『零時迷子』の手掛かりかも知れないのに」
 
 愚痴を零すドミノだが、これは予想できた反応でもあった。実験に集中している時の教授に、何を言っても無駄なのだ。
 その脇目も振らず真理を求める姿こそが、“探耽求究”たる本質の所以。ドミノも見習って、今は今の実験に集中する。
 何せ、今まで推測ばかりで誰も実証して来なかった世界初の試み。確かに失敗は許されない。
 
「銀の炎については、それが終わった後でいいかぁ~」
 
 終わった後、があるかどうかは考えず決めて、ドミノは気持ちを切り替えた。
 丁度それに応えるように、揺れ幅の大きい朧な気配が近付いて来る。
 
「懲りないフレイムヘイズ共めぇー、ここまで来たらおとなしく破滅を待ってりゃ良いのに」
 
 手元の自在式を操作する。これでフレイムヘイズは方向を見失って、見当違いの場所に激突……
 
(ドガァアアアン!!)
 
 “しなかった”。
 
「……はい?」
 
 激しい轟音と共にブチ抜かれたのは、近隣のビルでも人間ひしめく路上でもなく、ドミノの立て籠もる駅の屋根。
 宙に浮かぶ少年の周囲には、燦然と輝く自在式が踊っている。
 
「もう平井さんが見せちゃったみたいだし、遠慮は要らないよな?」
 
「ンギャァアーーーー!!?」
 
 燃え盛る銀炎の花火が、魔窟と化した御崎駅を震わせた。
 
 
 
 
 撹乱の自在式は、ミサゴ祭りに際して飾り付けられる鳥のハリボテに仕掛けられている。当然、その配置は祭りを彩る大通りに集中していた。
 その大通りの頭上を、
 
「ふっ!!」
 
 万条を振るうヴィルヘルミナが、
 
「ったく、何で私がこんな雑用みたいな事しなくちゃなんないのよ」
 
 自在法を放つマージョリーが、矢のように飛んでいた。飛翔の最中、自在式を刻まれた鳥の飾りを次々と破壊しながら。
 
「駅に仕掛けたのが坂井悠二の自在式である以上、突入は彼に任せる他は無い。その不満は、撹乱を破る事で気配を現す“探耽求究”に向ければ宜しいのであります」
 
「適材適所」
 
「解ってるわよ、そんな事」
 
 二人は、さっきまで翻弄されていた撹乱の影響をまるで受けていない。
 これは勿論、自在式を起動させていたドミノを悠二が襲撃しているからだ。その主たる教授が何処かに潜んでいる以上、今の内に鳥の飾りを一つでも多く破壊しなければならない。
 その猛進の様子を、『玻璃壇』を通じて居残り組が見ていた。
 
「おーっ! 自在式がガンガン崩れてる!」
 
 飾りを破壊すると共に、通りに並ぶ文様が解れていく様を見て平井が機嫌良く踊る。
 もはや手出しも口出しも許されなくなった現状、彼女を含めた人間三人は応援しか出来ない。それを解っているのかいないのか、完全に置いてきぼりを食っていた佐藤が平井に声を掛ける。
 
「……平井ちゃんは人間、なんだよな?」
 
「? うん、がっつり人間ですけど?」
 
 その声は、出した佐藤自身が驚くほど弱々しかった。
 親しい友人らの真実もそうだが、何より初めて対峙した異形の化け物の存在感が、未だに彼の心に焼き付いて離れない。
 『何も出来ない』……そう、見ただけで理解してしまった。認めたくない確信に苛まれた佐藤の唯一の拠り所が、平井ゆかり。人の身でありながら化け物に向かって行った少女の存在だった。
 
「いや、人間でも紅世の徒と戦えるんだなって……」
 
「あたしが戦力になるんなら、こんなトコで留守番なんてしてないよ」
 
 その拠り所が、あっさりと淡い希望を打ち砕く。近しい境遇にあるからか、平井には佐藤の悩みを声だけで察する事が出来た。
 
「紅世の戦いって、殆ど怪獣映画みたいなもんだから。いくら宝具や小道具を揃えたって、生身の人間が“戦力”になろうって言うのは自殺行為なんだよ」
 
 佐藤の顔から、一切の表情が抜け落ちる。まだ形を成す前の夢を踏み躙られた絶望がそこにあった。
 
「……………」
 
 田中は燐子を見ていない。それでも、平井の言葉と佐藤の様子から、見えざる壁のあまりの高さを痛感する。
 二人の辛さも、悔しさも、痛いほどに理解して、それでも平井は容赦なく事実を突き付ける。
 
「半端な覚悟なら、これ以上踏み込まない方がいいよ。深入りした分だけ、痛い目見る事になるから」
 
 まるで自分自身に言い聞かせて―――その言葉に挑むように。
 
「……………」
 
 心室内にいる池も佐藤らと同じく、そんな平井を見ていた。
 自分たちよりも長く、近く、悠二やヘカテーの真実を知りながら過ごして来た少女の心中に思いを馳せる……
 
「ああ、これだけ撹乱の式を崩せたら、何か見えて来ませんか?」
 
「は、はいっ、すぐにやります!」
 
 ような暇など、今の池にはない。
 本来ならばマージョリーやヴィルヘルミナ同様、この機に乗じて血印の破壊を試みるべきカムシンがここに残っているのも、池を活かして敵の目論見を探る為なのだから。
 ならば当然、池はカムシンを残らせただけの成果を見せねばならない。
 
「(さっきと違って、意識が無理矢理まげられない。一度目の時に大分ちかい)」
 
 目を閉じ、意識を集中し、出来得る限り鮮明に思い描く。そうして把握した力の流れが、『玻璃壇』の中に映し出された。
 
「これは……」
 
 それは遂に、カムシンにその正体を見せる。
 
「調律の、『逆転印章(アンチシール)』……!?」
 
 寂びた声が、滅多にない驚愕に揺れた。
 
 
 
 
 悠二がドミノを襲撃し、ヴィルヘルミナとマージョリーが街の撹乱を崩している頃、ヘカテーとシャナは東西に別れて街からの脱出を試みていた。
 敵の術中に囚われたままでは解らない異変でも、外から全体を捉えれば見えるものもあるかも知れない、という考えあっての行動だったのだが……収穫は全く予想外の所から得られた。
 
「(おじ様の、気配……!?)」
 
 感知能力に優れた悠二でさえ全く感じ取れなかった教授の気配を今、ヘカテーはハッキリと感じていた。
 但しそれは御崎市の中ではなく、遠方から接近して来る気配として。何の事はない、見つからなかったのではなく、初めから居なかったのだ。撹乱の自在法は、街の外から接近して来る気配を誤魔化すのにも一役買っていたらしい。
 街から脱出したのは大正解だった。何を企んでいるのか知らないが、到着する前に撃退する。……しかし、問題が一つ、
 
「(あっちの方角は……)」
 
 教授の気配、ヘカテーと街を挟んで反対側……つまり今、シャナが一番近くにいるという事になる。
 人知れず『大命詩篇』を回収するミッションを秘めたヘカテーにとって、この流れは非常に宜しくない。即座に流星となって空を翔る。
 その飛翔の最中に、携帯電話が鳴り響いた。慣れない手付きで通話ボタンを押す。
 
【ヘカテー、そっちはどう?】
 
 平井の声だ。
 
「……おじ様の気配を街の外に捉えました。これから撃破に向かいます」
 
 ヘカテーが敢えて『討滅』という言葉を使わなかった事には構わず、平井は深刻な声で話を進める。
 
【ヘカテー、教授の狙いが解ったの。調律の逆転印章、だって】
 
 一瞬、ヘカテーは言葉の意味を理解できなかった。
 ―――『逆転印章』。
 自在法を正反対に作動させる、本来ならば防御陣などに使われる自在式。それを、歪みを正す『調律』に使うという事は即ち……
 
「……歪みの、極限までの拡大」
 
【そう、完成したら、御崎市は丸ごと“完全消滅”する】
 
 ヘカテーの背筋を、冷たい感覚が撫でる。仮初めの筈だった日常が消え去る想像……それは紛れもなく、恐怖だった。
 
【カムシンさんの話だと、今の式は肝心の部分がポッカリ空いてるみたい。多分、その足りないピースを運んで来てるのが……】
 
「おじ様、ですか」
 
 必要な事は聞いたとばかりに、ヘカテーはそこで通話を切った。より以上の加速を以て、騒がしい気配へと猛進する。
 胸に去来する想いは、いつしか別のものへと変わっていた。
 
 
 
 
 駅の内部があり得ない構造に変形し、飛び出た数多の砲門が一斉にミステスの少年へと向けられる。
 そこから放たれる白緑の集中砲火が、一瞬にして標的を爆炎で呑み込んだ。
 
「やったー! どーだミステスめぇー、私だってやる時はやるんだぞー!」
 
 その光景を見て、自在式を操作していたドミノが両手を叩いてはしゃぐ。
 
「良かった」
 
 直後、煙の向こうから発せられた涼しい声を聞いて、硬直する。
 
「一人で勝った事ないから不安だったけど、これなら何とかなりそうだ」
 
 燃え盛る白緑の炎の向こうから、無傷の少年が平然と歩いて来ていた。
 その掌上に、半透明の蛇鱗が浮かぶ。
 
「ひーーーっ! 教授ー! 駅にミステスが突入して来ましたー! 私はどうすれば良いんでございますですかーー!!」
 
 変形させた駅の防壁に隠れて、ドミノは情けない悲鳴を上げる。立て続けに響く轟音の中に、主の返事は混ざらない。
 
 御崎市に向かう“探耽求究”ダンタリオンもまた、フレイムヘイズと交戦の真っ只中にあったのだ。
 
 
  
「はああああぁーー!!」
 
 烈迫の気合いと共に、大太刀の切っ先から紅蓮の炎が迸る。灼熱の奔流はヒョロ長い白衣の男に一直線に伸びて……巨大なフライパンに阻まれた。
 自在の黒衣『夜笠』を翻す『炎髪灼眼の討ち手』は、敵の間合いから逃れるように三、四回のバック転を繰り返した後……前触れもなく出現したバナナの皮に滑って落ちた。慌てて紅蓮の双翼を広げて飛翔する。
 
「外見や言動に惑わされるな。いや、実際中身も外見そのままだが……意表を突くという一点に於いては指折りの王なのだ」
 
「わ、わかってる!」
 
 彼女は現在、御崎市駅へと続く線路……それを走る列車の上で戦っていた。
 ギャオー! とおかしな汽笛を鳴らす列車は、無論普通の電車ではない。逆転印章の最後のピースたる我学の結晶エクセレント―29182『夜会の櫃』である。
 最も敵に近い位置で気配に気付いたシャナは、偶然とは言え王手を掛ける大役を担う事となった。ヘカテーが猛スピードで近付いて来る気配も感じてはいるが、待つ気など毛頭ない。この期に及んで“不確定要素”の介入は望むところではなかった。
 
「無ー駄無駄ぁ! こーの『我学―――」
「ぇやあ!!」
 
 何故か危険を伴う列車の外に運転パネルごと出て来ている教授めがけて、再び紅蓮の大太刀を振りかざす。
 それはやはりフライパンに弾き散らされるが、振り回す軌道の下から、シャナが列車の屋根を蹴って飛び込んでいる。
 炎が駄目なら斬撃、その狙いを看破するように教授の眼鏡が光った。
 
「っ……!?」
 
 真っ直ぐは不味いと、シャナの直感が告げる。その背中に再び炎翼が燃え上がり、神速で旋回して教授の背後を取った。
 その……“さらに後ろ”。
 
「うあっ!?」
 
 屋根から飛び出た巨大なトンカチが、攻撃に意識を集中させていたシャナを叩き落とした。
 小柄な身体が鉄の屋根に叩きつけ……られない。屋根は唐突にパカリと開き、シャナを叩き込んでから閉まった。
 暫く、というほども待たずに列車全体を震わせるほどの爆発が響くも、『夜会の櫃』はビクともしない。それどころか、煙の代わりに紅蓮の炎をギャオーッと噴き出しながら猛然と加速する。
 
「んーっふっふっふっ。実験を邪魔する道具をも実験に利用する! こぉーれこそが実験というもののあるべき姿でーすよぉー!!」
 
 高らかに勝ち誇る教授と、炎を誘発する為の仕掛けを受けて半狂乱になるシャナを乗せて、『夜会の櫃』は御崎市へと突き進む。
 
 
 
 
 役立たず。
 紅蓮に燃える化け物列車を見たヘカテーが真っ先に抱いた感想が、それだった。
 迎撃に向かった『炎髪灼眼』は、撃破するどころか列車の推進力として有効利用されているらしい。
 『大命詩篇』を押さえられる、などという事態に比べればマシと言えるが、もう少し何とかならなかったのか。
 
「『大命詩篇』を返して貰えるか交渉したいところですが……」
 
 ともあれ、今はあの列車を止める事が最優先。交渉はそれからでも遅……いかも知れないが、とにかく止める。
 因みに「止まって下さい」が無意味なのは痛いほど良く解っている。実験遂行中の教授に何を言っても無駄なのだ。
 というわけで、
 
「『星(アステル)』よ」
 
 容赦なく光弾をぶっ放した。明る過ぎる水色の流星が外から内へと弧を描き、やけに尖った列車の先端に直撃し……いきなり顕れた白緑の自在陣に弾かれる。
 列車の存在を悟られない前提で動いていただろうに、こちらの防御も抜け目が無い。
 
「(……どうする)」
 
 遠距離が駄目なら接近戦、という作戦は却下する。どこぞの赤毛の二の舞になるわけにはいかない。遠距離から何とかしなくてはならないが、教授の我学を自在法で上回れる気がしない。
 
「(っ……これです!)」
 
 と、見える中に閃きを呼び起こす物があった。
 間髪入れず振り抜かれた大杖の先から、再び数多の光弾が撃ち出され、連鎖的な大爆発を巻き起こした。
 
「のぉおーーう!!」
 
 そうして粉々に砕かれたのは、教授を乗せた化け物列車“ではない”。その列車が向かう先……線路を走らせる高架だった。
 掴むべきレールも走るべき足場も失った列車は、為す術もなく転落……
 
「しっかぁぁーーし! こぉーんな事もあろうかとぉおーー!!」
 
 “しない”。
 
「お、おぉ……!!」
 
 思わず、かつてのように、ヘカテーは感嘆の声を漏らしてしまう。
 『夜会の櫃』はその左右から鋼鉄の翼を広げ、夜空へと雄々しく飛び立っていた。この奇想天外な発想と、未知なる道へと突き進む執念こそ、ヘカテーが彼をおじ様と慕う所以。
 ……などと、感心している場合ではない。
 
「さーぁ飛べ! 『我学の結晶ェエークセレント―29182夜会のぉー櫃』!!」
 
 眼鏡を爛々と輝かせる教授が、空から御崎市に突入してしまう。
 次の手を思い付かないまま、とりあえず追い掛けるヘカテー。その視線の先で、
 
(ガギンッッ!!)
 
 硬い金属音と共に、『夜会の櫃』の車体から何かが生えた。
 それは波紋も見えないほど銀色に溶け合う、細くも太い刃。シャナの名前の由来ともなった、『贄殿遮那』の刀身だった。
 
「(中から、力付くで……)」
 
 炎を動力にされている事に気付いているのか、刃で強引に脱出を試みているらしい。
 そのまま抉じ開けるのか、と見守っていると……
 
「っ!?」
 
 脱出を待たずして、シャナを収めた車両だけが抜き出すように切り離された。その車両が、ヘカテーの上に降って来る。
 
「く……っ」
 
 それを光弾一閃、間一髪で爆砕する。と……中から、黒くてモゾモゾした何かが、雨のように降って来た。
 特に大きな力を感じなかったが故に警戒せず、何の気なしに掴み取る。その正体は、毛虫だった。
 
「………?」
 
 何故こんなものが、と首を傾げていると、一緒に吹き飛ばされていたシャナがゆらりと浮上して来た。
 さっきの仕返しでもされるかと身構えてみるも、そんな様子は無い。シャナの灼眼は、彼方に飛び去る化け物列車のみを睨み付けている。
 
「あっっの……ドバカァーーー!!」
 
 今の危機的状況を理解しているのか、見た事も無い形相で飛んで行くシャナ。ヘカテーも当然続くが、
 
「「っ……!?」」
 
 その飛翔が突然、見当違いな方向にねじ曲げられた。見れば、鳥の飾りが複数、二人の周囲を飛んでいる。
 
「(……もう、撹乱の威力圏に入っている)」
 
 すかさず鳥を破壊してから、教授を追う。だが既に、御崎駅はすぐそこにまで迫っていた。
 
「ェエークセレント! エエーキサイティング! 世界はこんなにも美しい!!」
 
 飛んでいた列車が滑空を始め、再びレールを掴む。もはや勝利を確信した教授の雄叫びが響き渡る。
 変形した駅に、列車が誂えたように突き刺さった。
 
「ドォーミノォーー!! 今こそ生まれる世紀の瞬・間! 見ぃ逃すんじゃあぁーりませんよぉーー!?」
 
 足りなかったピースを嵌め込まれ――――遂に、巨大な『逆転印章』は完成された。
 歪みを正す調律の逆転、存在の完全消滅、誰も見た事が無い未曾有の崩壊。自らの死すらも度外視して、教授はそれを見届けんと眼鏡を光らせる。
 
「……………」
 
 が、
 
「……………おやぁ?」
 
 何も、起こらない。
 確かに『逆転印章』は完成した筈なのに、いつまで待っても世紀の瞬間は訪れない。
 首を90度ほど傾げる教授の前で、
 
「ンノォオオーーー!!?」
 
 駅の鉄壁が内側から爆発、ドミノが砲弾よろしく飛んで来た。ガスタンクのような丸い身体は制止も利かず教授にぶつかり、そのまま二人仲良く『夜会の櫃』から転げ落ちる。
 
「ドォーミノォーー! 私の助手ともあろうものがなぁーんてザマですかぁーー!?」
 
「うわぁーん! すいませんでございますです教授ーー!!」
 
 とりあえず叱る教授、とりあえず叱られるドミノ、その頭上に……
 
「今回ばかりは、相手が悪かったようでありますな」
 
「敗北必至」
 
 仮面で表情を隠す『万条の仕手』が、
 
「ヒャッハッハッ! さぁーて、知ってること洗い浚い吐いてもらうとしようじゃねーか」
 
「……そーね」
 
 今一つ意気込みが噛み合っていない『弔詞の詠み手』が、
 
「ああ、調律の血印は既に破壊させて貰いました」
 
「ふむ、これだけ人手がある状況もそうはないからの」
 
 そして、変わらず冷淡とした態度を崩さない『儀装の駆り手』が、囲むように滞空していた。
 
「なぁーんですってぇーー!!?」
 
 言われた教授は、食らい付くように運転パネルに乗り込み、その眼前に式の全容を映し出した。
 ……無い。
 確かに『逆転印章』は完成している。だが、逆転させるべき肝心の調律の自在式が、無い。何も起きないのも道理だった。
 
「ああ、正直、手腕だけ見ればそちらの方が何枚も上手でしたよ。今回は運が良かった、と言う他ありません」
 
 そう、『玻璃壇』と池の協力によって調律の『逆転印章』を見抜いたカムシンは、即座に自らが施した『カデシュの血印』の破壊に移っていたのだ。ただ鳥の飾りを減らす事のみを目的としていたヴィルヘルミナやマージョリーの手も借りて。
 悠二やヘカテーらの襲撃を受け続けていた教授やドミノは、その動きを把握する余裕が無かったのだ。
 
「鳥の数も減ったし、調律も壊した、か……」
 
 衝撃に固まる教授ら、を含めた御崎市全域が、銀の陽炎に包まれた。それを起こした少年……坂井悠二が、ドミノの叩き出された穴から空へと舞い上がる。
 
「よし、封絶も使える」
 
 もう手加減は必要ない。
 暗にそう告げる悠二に応えるように、ヘカテーとシャナも追い付いて来た。
 悠二、ヘカテー、シャナ、ヴィルヘルミナ、マージョリー、カムシンによる四面楚歌。さしもの教授と言えど、明らか過ぎるほどの窮地だった。
 
「燃え尽きろぉおおおーーー!!!」
 
 周りとの連携も忘れたシャナが、怒りの咆哮を上げる。振り上げられた大太刀が、先とは比較にならない紅蓮の炎を纏う。
 
「ちょっ、シャナ!?」
 
 誰もが、
 
「待ちなさい!」
 
 次に起こる事態を予測した。
 
「そいつにゃまだ訊きてぇ事が……」
 
 灼熱の奔流が教授を列車ごと焼却する、その光景を幻視した。
 
「おじ様、逃げ……」
 
 その予感は、正反対の形で裏切られる事になる。
 
 何の前触れもなく湧き上がった、
 ―――茜色の怒涛によって。
 
 
 



[34371] 6-13・『壊刃』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:7c70e43d
Date: 2013/06/29 19:28
 
 それは数秒か、数十秒か、
 
「う……」
 
 意識を失っていた坂井悠二は、全身を蝕む激痛に目を覚ました。
 そして顔を上げるよりも早く、戦慄する。彼の鋭敏な感覚が、そうさせていた。
 
「―――――」
 
 何が起きたのか解らない。顔を上げても、即座に状況の変化に付いていけなかった。
 
「今までなぁーにをしていたんですかぁー!! 今さらノコノコノコノコ出て来たとぉーころで、既に実験は失敗しているのでぇーすよぉー!!」
 
 視界を染める茜色の煉獄、砕け散った駅と列車、その瓦礫の上に這いつくばっている自分。
 
「それは正しくこっちの台詞だ。あのまま先んじて討ち手どもを始末していれば、貴様のイカレた絡繰りはこの俺までも巻き込んだだろう。雇われの身とは言え、下らん自殺行為にまで付き合ってやる謂われは無い」
 
 ヒステリックに喚く教授と……その正面に立つ、硬い髪を逆立てた外套の男。
 
「だぁーれのなぁーにがイカレた絡繰りですかぁー!? 危険が怖くて真理の追究など出来るワケがなぁーいでしょう!?」
 
 その男が全身から発する、デタラメなまでの……総身を震わせるほどの力の気配。だからこそ、信じられない。
 
「(何で、こんな化け物の気配に気付けなかったんだ……!?)」
 
 状況から考えて、この男に不意打ちを受けた事は解る。だが、こんな気配の持ち主に今まで気付けなかった事が信じられない。
 教授の撹乱の中にあっても、ヘカテーやフレイムヘイズらの気配は感じられていたと言うのに。
 そこでふと、悠二は目に映る炎の色……それが持つ意味に気付いた。
 
「(茜色の、炎……?)」
 
 実際に見た事は無い、だが知識として知っている。
 いずれ戦う敵として、ヴィルヘルミナに幾度となく聞かされていた。
 
『察知不能の不意打ちと異常なまでの耐久力を誇り、鋭い剣撃の全てに自在法“スティグマ”を付加させてくる、真に厄介な相手なのであります』
 
 『戦技無双の舞踏姫』を追い詰め、『約束の二人(エンゲージリンク)』を屠り、『零時迷子』に謎の自在式を打ち込んだ殺し屋。 そして……ヘカテーの言葉に依れば、“教授に雇われた”紅世の王。
 
「“壊刃”、サブラク……」
 
 その名が、唇から零れ出た。痛みもプレッシャーも理性でねじ伏せて、大剣片手に立ち上がる。
 直後―――
 
「何やる気になってんのよ、あんたは……!?」
 
 その視界が横に吹っ飛ぶ。『グリモア』に乗ったマージョリーが、悠二の首根っこを掴んで攫ったのだ。
 
「一旦退くわよ、『スティグマ』食らってちゃ勝負になんないわ」
 
 返事も待たず、マージョリーは悠二を掴んだまま猛然と飛び去る。その横に、シャナを担いだカムシンが並走した。
 
「ああ、同感です。この数で畳み掛ければと思わなくもありませんが、いずれにしろ一度『スティグマ』の威力圏から離れるべきでしょう」
 
 流石に歴戦のフレイムヘイズと言うべきか、勝利を確信した直後の不意打ちにもしっかりと生き残り、動揺の色も見えない。ただ、その身体には少なくはない傷も見えた。
 
「……シャナの傷は、深いのか?」
 
「ああ、直前に攻撃体勢に入っていたせいで、少し集中的に狙われたようです」
 
 自在法『スティグマ』。
 “壊刃”サブラク独自の、与えた傷を時と共に広げていく力。これがある限り、どんな小さな傷も時の経過で致命傷に届く。
 徐々に弱っていくと解っている身体で“壊刃”と戦うのは確かに無謀だ。
 しかし……
 
「あれを受けて全員が死を免れるとは、流石は世に聞こえた手練れと言ったところか。だが、果たせなかった依頼を前にみすみす指を咥えて見ているほど俺も甘くは無い。その身体で何処まで逃げ切れるか試してみるか」
 
 逃げる背中を何もせず見送るサブラクではない。翼のように外套を広げる、その動作に合わせて―――燃え盛る剣が津波の如く押し寄せて来た。
 
「な……!!?」
 
 軽々と放たれた絶大な力に驚愕する悠二を、そして手負いの討ち手らを呑み込まんと茜色の怒涛が迫る。
 迫って、そして―――弾け飛んだ。
 
「これは……」
 
 天空から剣の波を貫いた、眩し過ぎる水色の連爆によって。
 
「神なる業に触れた禁忌を、その身を以て知るがいい」
 
 砕けた剣が細雪のように風に舞う空から、光の粒を無数に降らせる巫女が降りて来る。
 白い外套をはためかせ、大杖『トライゴン』を翻し、髪を瞳を水色に煌めかせて。
 
「我が名は“頂の座”ヘカテー、創造を司る蛇神が巫女です」
 
 水色の天使が、紅世の王へと戦いを挑む。
 
 
 
 
「ヘカテー!!」
 
 マージョリーに首を掴まれた悠二の視界に、離れてどんどん小さくなっていく少女が見える。
 徒は血が出ないせいで、ヘカテーが『スティグマ』を受けたかどうか咄嗟に解らなかった、その危機感が悠二の声を荒げさせる。
 
「“頂の座”は『スティグマ』食らってないわよ」
 
「へ?」
 
 平然と、マージョリーが答えた。
 
「『万条の仕手』が咄嗟に護ったからね。いま“壊刃”の足止めが出来るとしたら、あの子しか居ないでしょ」
 
「っ……」
 
 ヘカテーの無傷を保障する言葉なのに、悠二はまるで安心できない。マージョリーは……当然のように「足止め」と言ったからだ。
 そのマージョリーが、青ざめた顔を怪訝に歪めて悠二を見る。
 
「って言うかアンタ、ずいぶん平気そうね」
 
「? いや、十分痛いけど……」
 
 奇妙な問い掛けに自分の身体を見た悠二は、言葉を途中で切った。
 確かに傷は負っている。未熟な上に攻撃を感知できなかった為、受けたダメージはマージョリーやカムシンより大きい。……しかし、その傷が話通りに拡大している様子は、今のところ見えない。
 まだ大して時間が経過してないからかとも思ったが、マージョリーらの様子を見る限りその線は薄そうだ。
 つまり、これは……
 
「僕にだけ、『スティグマ』が掛かってない?」
 
「ああ、おそらく貴方の破壊による『零時迷子』の無作為転移を怖れたのでしょう」
 
「ふむ、『スティグマ』を刻んでしまえば、フレイムヘイズと戦っている間に君が死んでしまう可能性も出て来るからの」
 
 半信半疑な悠二の声を、二人の『儀装の駆り手』が肯定する。
 言われて見ればもっともな話だ。ヨーハンの死による無作為転移で見失った『零時迷子』を運良く見つけたというのに、再び無作為転移させるような愚を冒すわけがない。
 ……理屈は解るが、サブラクの行動の全てから余裕のようなものが感じられてならない。これだけの手練れが揃っている状況で、自分の危機や敗北がまるで考慮の内に無いとしか思えない。
 
「……あんた達は、シャナを連れて一旦逃げてくれ」
 
 そんな規格外の化け物を、何とかしなければならない。サブラクが封絶の中を修復するとは思えないから、逃げる事は出来ない。何が何でも、倒すのだ。
 
「『万条の仕手』の話で、気になる事が幾つかあるんだ。今『スティグマ』の威力圏でそれを探れるのは僕しかいない」
 
 付け入る隙が、きっとある。
 ……否、必ず見つける。
 
「戦力を分散するのが得策かどうか、判断が難しいところですが」
 
「これまで、正攻法で誰一人やつを倒せておらんのも事実。ここは、賭けてみるのも良いかも知れんな」
 
 特に強く言ったわけでもない口調の中に悠二の本気を汲み取ったのか、カムシンとベヘモットは反対しない。
 役に立つかは解りませんが、と続ける。
 
「私は戦闘の際、周囲の瓦礫を身に纏う『儀装』という形態を取るのですが……」
 
 なぜ今カムシンの手の内を聞かされるのかと訝しみつつ、悠二は黙って傾聴する。
 
「現在、その『儀装』が組めないようです。それが“探耽求究”の仕掛けなのか、“壊刃”の仕掛けなのかは解りませんが」
 
「……瓦礫が操れない、つまりそういう事か」
 
 確かに、それだけでは何が何だか解らない。だが、その現象にも何らかの原因や思惑があるのだとすれば……糸口の一つにはなるかも知れない。
 
「……ありがとう」
 
 池を“こちら”に引き込んだ、複雑な感情を抱かずにはいられないフレイムヘイズに、それでも一つ礼を告げて……坂井悠二は戦場に舞い戻る。
 
 
 
 
 茜に燃える剣が、全てを焼き斬る雨となって飛んで来る。
 
「『星(アステル)』よ」
 
 大杖一閃、ヘカテーもそれに輝く流星群を叩きつけた。着弾と同時に生まれた余波は、撃ち漏らした剣をも一本残らず吹き散らす。
 茜色と水色の入り乱れる爆炎の海を、“壊刃”サブラクが平然と突き破って飛び出して来た。
 その両手には、『スティグマ』を宿した双剣が光っている。ヘカテーはもちろん、受け止めない。
 
「ふっ……!」
 
 剣を振りかぶるサブラクの間合いに入る寸前、左掌から光弾を連射、悉く命中させて眼下へと撃ち落とす。
 
「はあああああぁ!!」
 
 ヘカテーは止まらない。錫杖を差し向け、絶え間なく『星』を放ち続ける。
 
「なるほど、大言を吐くだけの力はある……が、神の眷属と名乗るには些か以上に不足と見える。いや、神使たる事実を持つ者を前にそう感じるのは、俺の側に偏見があるか。理解は出来ても、感じる事は難しいものだな」
 
 サブラクも負けてはいない。間合いから押し返された数発以降の連弾を、ブツブツと独り言を零しながら、双剣の乱舞で次々と薙ぎ払っていく。
 弾けた光弾の爆炎を思い切り浴びているが、それを気にする素振りすら無い。
 だが―――
 
「廻れ」
 
 それすらも、足止めに過ぎない。サブラクが光弾を払う間にも、それに倍する流星が彼の周囲を踊り、一つの天体を形成している。
 その天体が……
 
「滅せよ」
 
 巫女の言霊を受けて、一斉に内へと雪崩れ込んだ。光を束ねているかのような幻想的な姿も一瞬、
 
「っおお―――!?」
 
 封絶全体を揺るがせるほどの連鎖的な大爆発が、サブラクを呑み込んだ。
 確かな手応えと、十分過ぎる破壊力。それでも、ヘカテーは油断しない。
 
「これで……」
 
 錫杖を頭上に掲げ、その先に……もはや『弾』と呼ぶのも憚られる、直径10メートルを越えようかという巨大な光星を作り出し……
 
「終わりです!」
 
 間髪入れず、叩き込んだ。それは連爆の中にいたサブラクを確かに捉え、眼下の繁華街に落ちて炸裂する。
 
「――――――」
 
 爆音が空に轟き、爆炎が天を焦がし、爆光が大地を刳る。あまりの威力に、危うくヘカテー自身が巻き込まれそうになるほどの、正に全身全霊の一撃。
 
「(ここまでする必要は無かったかも知れませんが……)」
 
 強いとは聞いていたし、自分も肌で感じていた。だからこそ、ヘカテーは初手から全力で迎え撃った。
 戦いが長引けば、それだけ『スティグマ』を受ける可能性が高まってしまう。
 しかし、これではまだ逃げていないヴィルヘルミナまで巻き添えにしてしまったかも知れない。
 
「っ……!?」
 
 そんな“見当違いな”心配をするヘカテーの視線の先で、
 
「まさか……」
 
 ―――無傷の“壊刃”サブラクが、炎を裂いて姿を現した。
 
 
 
 
「……………」
 
 抑えきれない驚愕を、ヘカテーは必死に無表情の内へと隠す。
 あれだけの攻撃を受けて、全くの無傷。いくら耐久力が高いと言っても、こんな事はあり得ない。
 だが、
 
「(ただ頑丈なわけではない)」
 
 そのあり得ない結果こそが、ヘカテーに気付かせた。単純な耐久力ではないのなら、他の何かが必ずあるのだ。
 だが、出来たのは“気付くところまで”。
 
「(手応えは確かにあった、幻術の類じゃない。でも、ならどうやって……)」
 
 これだけの敵と戦っている最中に、今まで誰も見抜けなかった仕掛けを看破し、更にその仕掛けを破る方法を編み出し、実行し、成功させる。
 そんな事は、どう頑張っても不可能だ。つまり……ヘカテーは、サブラクには、勝てない。
 
「……………」
 
 渦巻く炎の頂に立って昇って来るサブラクを見ながら、ヘカテーは自らに問い掛ける。
 勝ち目が無い、ならば逃げるのか?
 ここで逃げても、『零時迷子』が奪われるとは限らない。悠二は既に逃がしている。
 ……しかし、逃げれば御崎市はどうなる?
 無茶苦茶になった街をサブラクが修復する保障など無い。むしろ、直さない可能性の方がずっと高い。
 
「私は……」
 
 この窮地にあるからこそ、ヘカテーの迷いは容易く氷解した。
 
「この街を、守りたい」
 
 戦う。
 それは、『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の巫女ではなく、この街に暮らす一人の少女としての決意だった。
 
「見縊っていた事は認めよう。だが、俺も依頼を果たす為に戦っている。いつまでも貴様の相手をしているわけにもいかん」
 
 その少女の眼前で、サブラクは足下の炎を大海の如く広げた。外から内へと圧縮されていく力は、これから壮絶な攻撃が来る事を容易に悟らせる。
 
「(不味い……!)」
 
 察してすぐに、ヘカテーは眼下の駅前通りへと全速力で降下する。その直後に、サブラクは自身を穂先とした長大な槍となってヘカテーの背中へと撃ち出された。
 
「っ…『星』よ!」
 
 砲弾のように飛んで来るサブラクは、あっという間に距離を詰める。その追撃を振り切るように払われたヘカテーの大杖から、またも光弾が放たれた。
 『星』は複雑な軌道を描きながらも一点に収束し、迫り来るサブラクへと激突する。
 その束ねられた力は―――
 
「ぬぅん!!」
 
 数瞬と保たず、弾き散らされた。その凶悪なまでの斬撃が、瞬きの間にヘカテーに届いていた。
 
「(疾―――)」
 
 その一撃、サブラク自身の放つ双剣の交叉を、ヘカテーは辛うじて大杖で受け止める。
 しかし、完璧に防いだわけではない。受けた大杖ごと、まるで車に轢かれたように弾き飛ばされた。刀傷を受けなかったのは奇跡に近い。
 
「(は、離れ―――)」
 
 受けた大杖に打たれた胸の痛みに耐えながら必死に『飛翔』を制御するヘカテー目がけて、サブラクは振り向きざまに握っていた一振りを投擲していた。
 サブラク自身と同じく炎で加速されたそれを、ヘカテーは咄嗟に上体を斜めに反らして躱す。
 その躱したばかりの剣が、背後で即座に爆発した。だけでなく、無数の短剣を八方へとばら撒いた。
 今度は、とても躱せない。
 
「はあっ!!」
 
 ヘカテーは全身から爆火を生んで、迫る全てを水色の爆発で吹き飛ばした。
 その一瞬だけ視界の曇ったヘカテーの眼前に、
 ―――“壊刃”サブラクが踊り出ていた。
 
「くっ……!」
 
 振り下ろされた刃を、大杖が頭上で受ける。それを皮切りにして、嵐のような連撃が襲って来た。
 
「これほどの手応えは初めてだ。逃げに徹した『約束の二人』はもちろん、『輝爍の撒き手』もここまでの奮闘は見せなかった」
 
 大杖と双剣は数多の軌跡を描いて衝突を繰り返して火花を散らすも、一方的にヘカテーが押されている。
 
「只それもいつもの事、依頼を受けて標的を狩る、常と変わらぬ営みに下りた、細やかな余興の一つに過ぎん」
 
 両者の間に、技巧の差は殆ど無い。
 だが、『スティグマ』の斬撃を一つとして受けるわけにはいかないヘカテーに対して、異常なまでの耐久力を誇るサブラクは杖で殴られたところでどうという事も無い。
 つまり相手の攻撃を完全に無視して、力の全てを攻撃に注げる。
 その優位性が、接近戦に於ける勝敗を分けた。
 
「か…っ……!?」
 
 右の肩から左の脇腹まで、剣の一閃がヘカテーを薙いだ。水色の炎が、鮮血の如く噴き出す。
 
「(私は、勝てない……)」
 
 解っていた結果、敗北という瞬間を迎えて、ヘカテーはただ、想いを馳せる。
 
「(でも……)」
 
 いつの間にか、一緒にいる事が当たり前になった、少年を。
 その想いを、前のめりに崩れ落ちる身体に込めて……
 
「(“私たち”は、負けない)」
 
 サブラクの足を、掴んだ。
 瞬間―――
 
「ぐっ!?」
 
 “身を袈裟に斬られたような激痛”が、サブラクを襲った。この現象が何なのかを考える余裕もなく、不死身とも見える殺し屋は少女の手を蹴り落とす。
 
「(……全部、解った)」
 
 もはや浮かぶ力も無く落下しながら、ヘカテーは小さく微笑む。
 察知不能の不意討ち、異常なまでの耐久力、それを成立させる『サブラクという徒の肉体』の秘密、それら全てを、他でもない“サブラクの感覚から”悟った。
 打開策は思い付いていないが、これは悠二に任せれば良い。あれで意外に、頭が切れる。
 
「(後は、これを何とか悠二に……)」
 
 既に力の入らない身体で、それでも懸命に戦おうとする少女……その視線の向こうから、茜色の怒涛が無慈悲に迫る。
 
「ゆ、じ……」
 
 求めるように、何も無い中空へと、届かない手を伸ばす。
 その指先が、
 ―――何かに触れた。
 
「ヘカテー」
 
 幻覚かと思った存在を証明するように、迫る怒涛が阻まれた。
 そこに在るのは、その内に銀の自在式を燃やす……半透明の鱗壁。
 
「遅くなって、ごめん」
 
 僅かに遅れて、小さな身体を後ろから抱き止められる。
 
「(……悠二)」
 
 温かな安らぎに身を委ねて、ヘカテーはそれが誰なのか、確認するまでもなく理解した。
 もう、首を動かす余力も無い。言いたい事は沢山あったが、それも叶わない。
 
「ま、ちを……」
 
 言うべき全てをその一言に乗せて、ヘカテーは意識を手放した。
 
 
 
 
「……街?」
 
 自分の腕の中のヘカテーに、駆け付けた坂井悠二は問い返す。だが、気を失った少女が答える事は無い。
 また、悠長な会話を許してくれる相手でもない。
 
「標的の方からわざわざ戻って来てくれるとは、『永遠の恋人』と違って愚かなミステスよ。いや、そう言ってやるのは酷というものか。俺が奴を破壊した日を考えれば、貴様がミステスとなって半年と経っていない事になるのだからな」
 
 ヘカテーと戦った後とは思えない悠然とした態度で、“壊刃”サブラクが下りて来る。
 奪うべき『零時迷子』を前にしたからか、その態度には性急さを感じさせない余裕が見えた。
 その圧倒的な存在感に、悠二が改めて身震いしていると……
 
「いつまでそうしているつもりでありますか」
 
 背後から、無感情な……しかし明確な非難の声が掛けられた。
 ヘカテーと戦っている間に悠二と合流したヴィルヘルミナだ。
 
「時は一刻を争うのであります。“頂の座”を連れて早く離脱を」
 
 悠二はサブラクに対する逆転の策を見つけたから、この場に現れたわけではない。
 『夜会の櫃』の残骸を調べる為に御崎駅に戻り、そこで教授を取り逃がしたヴィルヘルミナを発見し、収穫が無かったからと『玻璃壇』に向かおうとしていた所でヘカテーの窮地に気付き、咄嗟に助けに入っただけなのだ。
 
「……いや、足止めなら僕がする」
 
 そしてヴィルヘルミナも、咄嗟にヘカテーを庇った為に最低限とは言えない『スティグマ』を受けている。
 間違ってもサブラクに勝てる状態ではない。
 
「奴の狙いは『零時迷子』。それに認めたくはないでありますが、恐らく私に“壊刃”は倒せない」
 
 しかし、ヴィルヘルミナは負傷した身で敵を食い止めると主張する。
 全ては……“壊刃”サブラクを討滅する為。
 
「……………」
 
 託されたものの重さを感じて、悠二は二の句が告げずに口を閉じた。確かに、ここで悠二が足止めをしてもサブラクは倒せない。最後には全滅か敗走かしかない。
 
「……解った、任せる」
 
 逆に―――打開策なら、既に見つけつつある。
 この街を守る為に、命を懸けて戦ってくれた少女のおかげで。
 
「死ぬなよ!」
 
 それだけ言い残して、悠二はヘカテーを抱えて飛び去った。
 サブラクも、それを無理に追おうとはしない。ただ、ヴィルヘルミナだけを見ている。
 
「何もせず見送るとは、意外でありますな」
 
「静観疑問」
 
「あれが俺を倒すつもりだと言うなら、わざわざ事を急ぐ理由は無い。拘泥して二人を相手取るよりも、手負いの狐を確実に仕留める方を優先したまでだ」
 
 ふっ……と、小さく、本当に小さく、仮面の奥でヴィルヘルミナは笑った。
 
「無難な判断でありますな」
 
 確かに、先に悠二を捕えたところで利は少ない。『戒禁』がある限り、この場で宝具だけを取り出すのは不可能だろう。悠二が逃げないと言うなら、確かに後回しにするのが無難だ。
 
「だが、だからこそお前は敗北する」
 
 そんな常識的な判断をこそ、ヴィルヘルミナは嘲笑う。
 
「これまで御崎市を訪れた者と同様に、お前は敗北する」
 
 かつて、自分がそうだった。『零時迷子』に気を取られ、一つの存在を軽視したが為に、敗北した。
 『零時迷子』が転移して来ただけの……ちっぽけなトーチ。
 
 ―――坂井悠二の存在を。
 
 
 
 
「(急がなきゃ)」
 
 ヴィルヘルミナが長くは戦えない事も、ヘカテーが長くは保たない事も理解して、坂井悠二は空を翔る。
 今まではサブラクに見つからないよう建物の頭を越えない低空飛行を続けていたが、もうそんな悠長な事はしていられない。
 
「(撹乱が消えたのに残ってるモヤモヤした違和感、察知不能の不意討ち、操れない瓦礫、異常な耐久力、ヘカテーの言葉)」
 
 幾つかのピースを重ねる事で、悠二は敵の正体を自分なりに看破していた。具体的な対策も一応思い付いてはいるが……人手が足りない。タイミング良くマージョリーが戻ってでも来てくれない限り、使えそうにない。
 それに、『スティグマ』対策の方は今のところ完全に暗礁に乗り上げてしまっている。
 
「(くそっ、時間が無いってのに……!)」
 
 苛立ちのまま舌打ちしつつ、忙しく視界を巡らせる。早く『玻璃壇』に戻らなければいけないのに、こんな時に限って依田デパートが見つからな……
 
「え……?」
 
 凍り付くように、悠二は全ての動きを止める。
 今まで低く飛んでいたせいで気付かなかった。今、ようやく見つけた。見つけて……目に映る光景を、認めたくなかった。
 御崎大橋の付近に位置する廃ビル、彼の友人を残して来た依田デパートは、
 ―――見る影もなく倒壊していた。
 
 
 



[34371] 6-☆・『赤い涙』
Name: 水虫◆21adcc7c ID:f62a324b
Date: 2013/06/29 19:59
 
 二色の炎が入り乱れる……という事もなく、茜刃の怒涛が封絶の空を暴れ狂う。
 
「どうした、俺を敗北させるのではなかったのか。いくら時間を稼いだところで、『スティグマ』がある限り追い詰められるだけと解らぬ貴様ではあるまい」
 
 その渦中に、剣の雪崩を以てヴィルヘルミナを追い詰めるサブラクの姿があった。
 
「だが、その傷付いた身体で俺の攻撃を捌く技巧には畏敬の念を抱かずにはおれんな。『戦技無双の舞踏姫』とはよく言ったものだ」
 
 ブツブツと語りながら、恐ろしく鋭い斬撃が絶え間なく続いている。その暴威に曝されながらも……ヴィルヘルミナは一太刀たりとも食らってはいない。
 異常な耐久力を誇るサブラクは全ての力を攻撃に回せる。その優位性は何ら損なわれていないのに、ヘカテーのようにいかない。
 サブラクの剣技さえも優に上回る桁外れの絶技が、それを可能にしていた。
 
「っ……!」
 
 しかし、それは“開戦後”に受けた傷に限った話。初撃の不意討ち、ヘカテーを庇った際の傷は残っている……どころか、自在法『スティグマ』で広がり続けている。
 サブラクがこのまま何もしなかったとしても“勝手に死ぬ”。はっきり言って勝負にすらならない。
 実際、『約束の二人(エンゲージリンク)』と共に旅していた頃に度重なる襲撃を受けていた際は迷わず逃げていた。
 だが、
 
「(それでも、戦う)」
 
 今この時、ヴィルヘルミナは自滅に繋がる戦いに身を投じていた。
 得体の知れない企みに『零時迷子』を利用させてはならないという討ち手としての使命、友の仇を討つという執念、そして……新たな絆を護りたいという想いが為に。
 
「く……っ」
 
 身体が動かなくなって来た証明のように、一つの斬撃が『ペルソナ』を両断する。
 ヘカテーが戦っていた間もずっと、『スティグマ』は彼女の身体を蝕み続けていたのだ。こうして防戦ながらも時間を稼げていたのは、強靭極まる精神力で耐えぬいていたに過ぎない。
 しかし、それも限界……
 
「疲労を舞に表すほど力も失せたか。ならばそろそろ決別の頃合いだ、『万条の仕手』!」
 
 羽ばたくように外套を広げたサブラクが、ヴィルヘルミナから距離を取る。
 瞬間、剣の泳ぐ灼熱の津波を、手負いの討ち手に容赦なく殺到させた。
 
「(この期に及んで、まだこれほどの……!?)」
 
 万全のヴィルヘルミナなら、その炎を払い、全ての刃を投げ返す事さえ出来ただろう。
 だが、もう身体が動かない。投げ返すどころか、避ける事も、防ぐ事も叶わない。
 
「(―――ここまで、でありますか)」
 
 奥歯を軋ませるヴィルヘルミナの眼前で……
 ―――迫る怒涛が二つに割れた。
 直下から天に向かって放たれた、一条の虹によって。
 
「(これ、は……)」
 
 消耗か、安堵か、飛ぶ力すら失ったヴィルヘルミナが弱々しく落下する。その襟首を、浮かび上がって来た男の手が ついでのように掴んだ。
 
「……祭りには来ないのではなかったでありますか?」
 
 不満か、照れ隠しか、いじけたような声を掛けられても、男に気にする様子は無い。
 
「なに、思ったより面白そうな事になって来たようだからな」
 
 ただ、眼前の強敵を見て、不敵に笑う。
 
「俺も混ぜて貰おうか、“壊刃”サブラク」
 
 銀の長髪を靡かせて、七色の炎を迸らせて―――“虹の翼”メリヒムが、戦場に踊り出た。
 
 
 
 
 どうして考えもしなかったのだろうか。
 “壊刃”はずっと御崎市に潜んでいた。討ち手らはこの場所を、教授の企みを阻む拠点として使っていた。
 依田デパートが敵の標的になる可能性を、どうして考えもしなかったのだろうか。
 
「……………」
 
 斬り刻まれて中途から倒壊したビル、砕かれた瓦礫で無茶苦茶になった室内、至る所で黒煙を上げる炎、どれもこれも、封絶の中では珍しくもない光景。
 
「……………や」
 
 一つだけ違うのは、一人の少女の存在。
 
「平井、さん……」
 
 現れた悠二を弱々しい笑顔で迎える、平井ゆかりの姿。
 冷たい床に横たわり、浅い呼吸を繰り返す少女の着物は―――真っ赤な鮮血に染まっていた。
 
「何、で……」
 
 瓦礫に潰された池も、剣に貫かれた佐藤も、地上に落下した田中も、封絶によって因果を切り離されている。サブラクにさえ勝てれば、後から修復する事も出来る。
 平井ゆかり唯一人が、宝具『ヒラルダ』の加護によって封絶の影響を受けていない。……だからこそ、修復する事も叶わない。
 
「どう、して……」
 
 視界が揺れる、頭が痛い。身体全体が目の前の光景を拒絶する。
 そんな少年に対して……
 
「……ヘカテー、『スティグマ』受けてるの?」
 
 立ち上がる事も出来ない少女は、やはり弱々しい声で訊ねた。
 悠二はただ、訊かれたまま首を縦に振る。
 
「……だったら、早く敵から、引き離さないとね」
 
 平井は、その右手を着物の胸に当てた。そこに隠された『ヒラルダ』が意志を受け取り、琥珀の風を呼ぶ。
 
「『ミストラル』、発動」
 
 宝具『ヒラルダ』に刻まれた唯一の自在法が、絶命に近付く巫女を柔らかく包み込む。
 琥珀の竜巻はヘカテーを乗せて、あっという間に空の彼方へと消えて行った。
 
「……よし」
 
 それを見送って、平井は満足そうに頬笑む。自らが命の危機に瀕している状態でそうした少女の姿を見て、悠二は無意味な自失から立ち戻った。
 
「(っ、何をやってんだ僕は!?)」
 
 “諦めかけていた自分”にこそ恐怖して、悠二は膝を着いて平井に顔を寄せた。『玻璃壇』も箱庭が砕かれて銅鏡に戻ってしまっている。
 頼みの綱は、他でもない平井ゆかりしか残されていない。
 
「平井さん、攻撃される直前まで『玻璃壇』に何が映ってたか、憶えてる?」
 
「ん……」
 
 それを待っていたかのように、平井はずっと手にしていた携帯電話を悠二に手渡した。
 開きっ放しにされた画面には、撮影された『玻璃壇』の画像が映っている。悠二が求めていた自在式の全容も、また。
 
「(よしっ、これなら……!)」
 
 一縷の希望に爆発しそうになる歓喜、それすらも理性で押さえ込んで、悠二は画面の中の自在式を一心不乱に仰視する。
 丁寧に、慎重に、出来るだけ素早く、見たままの自在式を火線で描き……それを『グランマティカ』に宿した。
 
「平井さん、いくよ」
 
 これで平井を助けられる。時と共に傷を広げる『スティグマ』があるからこそ、それが出来る。
 そう強く確信して、悠二は自在式を起動させた。
 
 ―――だが、
 
「え……?」
 
 何も、起きない。
 
「くそっ、何で……何処が違うんだ!」
 
 式の再現に誤りがあるのかと画面と見比べるが、何度確認しても問題は無い。自在法は間違いなく発動している。
 それなのに、思惑通りにいかない。……つまり、平井の傷は『スティグマ』ではない。
 
「何で…どうしてだよ!」
 
 そこに、大きな理由など無いのだろう。フレイムヘイズ達の居なくなった依田デパートを攻撃するのに『スティグマ』を使う必要性をサブラクが感じなかった、ただそれだけの事。
 そもそも『スティグマ』であんな深手を受けたなら、平井はとっくに息絶えている。少し考えれば解る事実に気付かないほど、悠二は僅かな希望に縋りついていたのだ。
 
「誰か! 誰かいないのか!?」
 
 その希望すら潰えて、悠二は大声で喚き散らす。
 
「平井さんが死にそうなんだ!! 『弔詞の詠み手』は!? 『儀装の駆り手』は!? 誰かいないのか!!?」
 
 居るわけが無い。居たとしても、どうしようもない。そんな事は百も承知で、それでも絶対に認めたくなくて、坂井悠二は叫び続ける。
 
「お願い、だから……!」
 
 しかし、当然、その声は届かない。
 
「何でもするからっ……!」
 
 絶対にどうしようもない、変える事の出来ない現実だけが、そこにあった。
 
「僕は…何で、こんな事なら―――」
 
 いつまでも叫び続ける少年の手に、
 
「坂井君……」
 
 穏やかな笑顔を浮かべた少女の手が、触れる。
 
「……身体、起こして、くれないかな……」
 
 ―――それは、残された時間を笑って過ごしたいという、最期を受け入れた者の笑顔だった。
 
 
 
 
「ハアッ!!」
 
 爆ぜるような笑いと共に、サーベルが虚空を一閃する。その軌跡に沿って虹の爆光が空を奔り、不死身の殺し屋に突き刺さった。
 
「ぬぅ……!?」
 
 それはサブラクのみならず、遥か後方に立つ高層ビルまでも泥のように斬り裂いた。
 
「やはり、単に硬いというわけじゃないか。確かに厄介な相手だな」
 
 もはや当然のように無傷のサブラクではなく、“貫通した”という事実を認めてメリヒムは肩を竦める。
 圧倒的な破壊力を誇るメリヒムの『虹天剣』も、当たらないのでは意味が無い。いや、手応えはあるから当たってはいるのだが、それは空蝉を裂いたような虚ろなものでしかない気がする。
 
「数百年前に死んだと聞いていたが、よもや貴様と会えるとは思っていなかった。まったく、この地はどこまで俺を楽しませてくれるのか」
 
 その空蝉が、もう何度目かという茜色の怒涛を放って来る。こんな莫大な力を無尽蔵に繰り返すのが傀儡に過ぎないとすれば、どんな仕掛けであろうと紛う事なき化け物だ。
 
「勝負を楽しみたいんなら、お前本人が姿を現したらどうだ? 気の済むまで付き合ってやるぞ」
 
 だが当然、“虹の翼”はそんな事で怯まない。
 高々と掲げたサーベルを、縦一文字に振り下ろす。その切っ先から伸びる閃虹を受けて、剣の津波はモーゼの十戒のように割れた。
 
「馬鹿な……!?」
 
 デタラメな威力にサブラクが目を見開く。その頭上に、いつの間にかメリヒムが飛び上がっていた。
 そして再びの、『虹天剣』。
 
「墜ちろ!!」
 
「な――――」
 
 爆発的な光輝の塊がサブラクを押し潰し、街の真ん中に風穴を穿った。
 
 
 
 
 天井という物を失った部屋、淀んだ陽炎を空に頂く瓦礫の中に、少年と少女は在った。
 
「……綺麗だね」
 
 陽炎に踊る銀の炎を見つめて、少女は眩しそうに眼を細めた。少年の腕に背中を預けて、か細い溜め息を吐く。
 
「あたし、さ……」
 
 泣きそうな少年を見つめ返す少女の瞳は、信じられないほど穏やかで……言葉を失うほど寂しかった。
 
「全部、わかってたよ……。どれだけ危ないのかも、いつか“こうなる”かも知れないって事も……」
 
 それでも少女は、微笑んでいる。今ここに在る少年に、喜びだけを残そうとするかのように。
 
「……全部、わかった上で、あたしが選んだの……」
 
 自分の生き方は自分が決める。いつかの言葉が、少年の頭の中で残酷に響く。
 あの言葉を、強いと思った。
 あの姿を、眩しいと思った。
 だが……こんな結末が待っていると知っていたら、同じ気持ちを持てただろうか。
 
「だから……」
 
 ゆっくりと伸びた少女の掌が、少年の頬に触れる。
 
「泣かないで」
 
 声も無く涙を流す少年の頬を、少女は優しく撫でる。
 生気の薄れた掌は、涙に濡れた頬よりも冷たかった。
 
「……泣いちゃ、ダメ。これからはもっと、強くならなきゃ……」
 
 少女……平井ゆかりは、少年に強さを求め、
 
「嫌、だ……」
 
 少年……坂井悠二は、弱さでそれに応える。
 
「……ヘカテー、泣かせちゃ、ダメだからね」
 
「嫌だ」
 
「……最期、くらい……カッコいいトコ、見せてよ……」
 
「嫌だ!!」
 
 悠二は、子供のように泣き喚く。少年の知らなかった一面を見て、少女は困った風に笑う。
 悲しさと等量の喜びを精一杯の力に変えて、一秒でも長く坂井悠二という少年に手を這わせる。
 もう、彼の顔も見えない。それでも、ここにいる事を確かめていたくて。
 
「坂井君……」
 
 名前を呼ぶ。
 その行為が、悠二に終わりを予感させた。
 
「……あたし、後悔してないよ」
 
 言葉の一つ一つが、
 
「……貴方に会えて、この道を選んで」
 
 心に落ちて、沈んでいく。
 
「……でも」
 
 否応もなく悟らされる、永遠の別離。
 
「……あの、景色を……二人で一緒に、見た、かった…な……」
 
 どうしても押さえきれなかった、たった一粒の涙が……少女の瞳から零れ落ちた。
 
「(あ、ぁ……)」
 
 頬に触れた掌が―――
 
「(ぁ、ぁあ、あ……)」
 
 涙に濡れた指先が―――
 
『お隣さんだね、よろしく!』
 
『誰の頭が触角かーーっ!!』
 
『いや〜食パン咥えて登校するなら走らなきゃ! みたいな鉄則があるから』
 
『あたしが首突っ込んだ結果でしょ。坂井君がそんな顔しない!』
 
『あ、あはは……もしかしなくても、バレてる?』
 
『今は内緒。もっとベストタイミングな時に、また二人で来よっ!』
 
 ゆっくりと、落ち……
 
「っあああぁああああぁあぁああああああぁ――――!!!」
 
 ―――血を吐くような慟哭が、封絶の空に響き渡る。
 
 
 
 
 膨大な炎を凝縮した力の塊と化した“壊刃”サブラクが、自身を穂先とした巨大な槍となって飛んで来る。
 
「そぉらぁ!!」
 
 それを、昂揚に吼えるメリヒムが迎え撃つ。七色の閃虹が茜の大槍と正面から衝突し合い、数秒の均衡の後―――突き破る。
 
「ちいっ……!」
 
 その身を削られながら、サブラクが光の濁流から横っ飛びに逃れる。
 大通りから路地裏に飛んだサブラクを、メリヒムがサーベルの切っ先で追った。『虹天剣』を放ち続けながら。
 
「―――――」
 
 圧倒的な破壊の渦が、逃げる敵を追って“街を削っていく”。ヘカテーをも越える凶悪極まる攻撃力に、サブラクは漸くの危機感を覚えていた。
 
「(不味い、このままでは)」
 
 これだけの暴威に曝されながらも、サブラクは変わらず傷一つ無い。いや、“傍目にはそう見えるだけ”だ。
 実のところ、メリヒムの推測は良い線はいっていても、外れていた。
 今ここにいるサブラクは傀儡ではない。サブラク本人の意志総体を宿す、紛れもない本体だ。……ただし、本体ではあっても“全体”ではない。
 “壊刃”サブラクの正体とは即ち、『薄く巨大な身体を広域に浸透させる徒』なのだった。不死身に見える耐久力は、全体のごく一部を攻撃させられているが為に起きる錯覚に過ぎない。
 もちろん、その全体が広域に広がる巨体なのだから、仕組みが解ったところで容易に倒せるような相手ではないのだが……メリヒムの『虹天剣』は、そんな仕組みなど知らぬまま街を削り続けていた。
 常にメリヒムの上方で戦えば良いとも言えるが、不自然な動きで正体に気付かれるのは更に不味い。
 
「(いや、焦る必要は無い。奴がこれほどの力を躊躇いなく振るうのは、俺に接近されるのを避ける為だ)」
 
 かつてない威力に動揺しかける心を、サブラクはほんの数秒で鎮める。いくら『虹天剣』が強力だろうと、余波で壊れる範囲など高が知れている。結局はいつもと同じ、一撃入れて『スティグマ』を与えてやれば、それで勝敗は決する。
 
「……キリが無い、『ラビリントス』に囚われた獲物はこんな気分だったのかもな。いっそ街ごと消してやろうか」
 
 同様にメリヒムも、敵のしぶとさに眉根を寄せていた。これだけ確かな手応えを感じて平然と反撃される、というのは、戦歴の永いメリヒムにも経験が無い。
 暖簾に腕押しなのは解っているつもりだったが、実際に目の当たりにすると精神的に堪える。
 
「「……………」」
 
 浮かび上がったサブラクと、滞空していたメリヒムが、一定の距離を置いて向かい合う。
 緊張感が火花となって互いの間で爆ぜる。いつ再びの激突が始まるかという空気を………
 
「っあああぁああああぁあぁああああああぁ――――!!!」
 
 唐突に、獣じみた咆哮が木霊した。
 怒号とも悲鳴ともつかない叫びに目を向ける先で、尖塔ほどもある巨大な火柱が天を衝いた。
 燃える炎は、燦然と輝く……銀。
 
「あの色は……」
 
 メリヒムが呟く間に、火柱から炎の塊が流星のように飛来し、あっという間にメリヒムの隣で弾ける。
 銀炎を払って現れた姿を見て……メリヒムは一瞬、それが誰だか解らなかった。
 
「坂井悠二……か?」
 
 身に纏う凱甲と衣、その全てが緋色。髪のように後頭から伸びるのは漆黒の竜尾。
 異形異装に姿を変えた坂井悠二が、これまでに無い不気味な存在感を持ってそこにいた。
 その悠二は、メリヒムの問いには応えず、代わりに静かな声で求める。
 
「メリヒム……こいつは、僕に戦らせてくれないか」
 
 視線はずっとサブラクから外さないまま、
 
「頼む」
 
 重ねて、求めた。
 どう見ても常の坂井悠二ではない。姿以上に、その態度に何かを感じ取ったメリヒムは、
 
「好きにしろ」
 
 考えるというほどの間も置かず、そう答えた。
 ありがとう、と不気味なくらい素直に礼を告げた悠二は、自分が相手だと示すように僅か進み出る。
 
「(何だ、こいつは……?)」
 
 それに対するサブラクもまた、予想外の事態に思考を巡らせていた。
 『万条の仕手』が「自分に“壊刃”は倒せない」と言ってこのミステスを逃がしたのは憶えているが、それを特に脅威とは考えなかった。
 邪魔者を全て排除した後、見つかりもしない打開策を捜し回るミステスを捕えて終わりだと考えていた。
 故に、この段階で割って入られる事は想定していなかった。
 
「(まさか、本当に策を見つけて来たとでも―――)」
 
 訝しむサブラクに向けて、少年が右掌を広げる。そこから、身の丈ほどもある銀の炎弾が放たれた。
 
「ぬ……っ」
 
 弾ける爆炎、それが戦闘再開の合図となる。
 炎弾の直撃などまるで意に介さず、サブラクは広げた外套から無数の短剣を嵐のように飛ばした。
 逃げ場など無い斬撃の雨は一直線に悠二へと向かい……半透明に輝く鱗壁に一本残らず弾かれる。
 
「本気で来いよ」
 
 その鱗壁に映る自在式が一瞬にして形を変えて、そこから数多の炎の槍が飛び出して来た。炎槍は弧を描いて飛来し、サブラクの身体に突き刺さって大爆発を巻き起こす。
 
「これから死ぬお前が、依頼の心配なんてしても仕方ないだろ」
 
 その爆炎が晴れるのも待たず、悠二は右手に炎を生み出す。燃える銀は気体から液体へ、液体から固体へ流れるように変質し、蠢きながら一つの形を取る。
 それは柄と峰に蛇の鱗を這わせる、美しい銀の直刀。
 その宝剣を片手に、悠二は炎の中へと飛び込んだ。
 振り抜く刃の先には、当然のように無傷の“壊刃”サブラク。
 
(ギィン!!)
 
 剣と剣の衝突が、銀の爆炎を一撃で吹き飛ばす。鍔迫り合う刃越しに、両者は互いの眼を見据える。
 
「何を言い出すかと思えば、ミステスごときがこの俺を倒すだと? 思い上がりもそこまで行くと哀れに映るな。“頂の座”や“虹の翼”でさえ、俺を倒し切れなかった事実を見ていただろうに」
 
 口は達者だが、やっている事は今までの者らと変わらない。結局、託された役目も果たせず戻って来ただけか、とサブラクは悠二を見縊る。
 その悠二の顔には、一切の表情が無い。吸い込まれるような黒い瞳からは、どんな色も掬い上げる事が出来ない。
 
「ああ、お前は強い」
 
 交叉する双剣と直刀の均衡。それが……
 
「っ!?」
 
「だから、解らないんだろうな」
 
 悠二の剛力、振り下ろされた一閃によって破られる。
 双剣と身体を両断されるサブラク、という結果を以て。
 
「無自覚な力に呆気なく潰される、ちっぽけな存在の気持ちなんて」
 
 それでも変わらず、サブラクに傷は無い。幻でも斬ったかのように、一瞬すら待たずに再生する。
 
「っ…………」
 
 同様に、その両手にも新たな双剣が握られていた。逆に、直刀を振り下ろした悠二には隙がある。
 力任せの一撃で隙を生んだ“ヘタクソ”に、サブラクの斬撃が迫り……
 
「ぐ……っ!?」
 
 届く寸前で、硬い何かが頭上からサブラクを打った。
 叩き落とされるサブラクが振り返り見上げれば、それは少年の後方から伸びた、生物のように動く漆黒の竜尾。
 
「ぬお……っ」
 
 それを当てにでもしているのか、少年はまたも距離を詰めて来る。
 確かに変幻自在に動く竜尾は厄介だが……両者の間には、その程度では覆せない技量の差があった。
 さして長くもない斬撃の乱舞を経て……剣の切っ先が悠二の頬を派手に刳る。
 
「(やはり、この程度か)」
 
 標的が目の前にいる今、慎重になる必要は無い。『スティグマ』によって裂かれた傷口は、みるみる内に“塞がった”。
 
「な……っ!?」
 
 攻撃を仕掛けたサブラクの方が、逆に目を見開く。かつてない衝撃を受けた心が、一瞬だけ身体の動きを止めた。
 その硬直を、伸長した竜尾の一掃きが殴り飛ばす。
 
「馬鹿なっ……我が秘奥『スティグマ』をミステスごときが破ったと言うのか……!」
 
 高速で飛ばされるサブラク―――その眼前に、坂井悠二が並走していた。
 
「驚く事じゃないだろ。この自在式は、元々おまえ達が使おうとしていた物なんだから」
 
 さらに一撃、特大の炎弾がサブラクを吹き飛ばす。灼熱の業火に焼かれながら、サブラクは悠二の言葉の意味を考える。
 『おまえ達が使おうとしていた自在式』、そして、与えた傷は広がらぬどころか、瞬く間に塞がった。これの意味するのは……
 
「そう、教授の『逆転印章(アンチシール)』だ」
 
 “傷の拡大の逆転”。その正解を先取るように答えて、悠二は吹き飛ばしたサブラクを更に追う。
 
「これもあの変人のせいだと言う事か。次から次へと厄介事ばかり、今後は雇い主も選ばねばならんな」
 
 サブラクもそれを、迎え討つ。今まで一度も破られた事の無い『スティグマ』を封じられたのは許し難いものがあるが、それだけの事。逆転させられるくらいなら、『スティグマ』を使わなければ良いだけの話だ。
 
「『スティグマ』を封じられたとて、俺の絶対的優位は動きはせん。貴様らの攻撃では、俺に傷一つ付ける事は出来んのだからな!」
 
 烈迫の気合いと共に、サブラクの身体から炎が溢れた。それは無数の剣を内包した燃え盛る海となって悠二を囲み、一斉に殺到する。
 今度は『スティグマ』の掛かっていない、『逆転印章』を使っても塞がらない通常の攻撃。
 
「お前は不死身の怪物なんかじゃない」
 
 間髪入れず、後頭の竜尾が悠二を球状に隙間なく包んだ。
 黒鱗に覆われた竜尾は雪崩れ込む剣を悉く撥ね退け、押し寄せる炎は『アズュール』による火除けの結界に阻まれる。
 
「街全体に身体を浸透させる、薄く巨大な徒だ」
 
 その殻を解いた悠二が、サブラクの無自覚な自信を削り取るように語り掛ける。
 
「だけど、その知覚は単一個人程度の狭い範囲しか持っていない。だから、“お前の身体の上にいる”僕達の位置を、殆ど把握できない」
 
 もはや『スティグマ』だけではない。完全に正体を看破されている。その事実に戦慄するサブラクの頭上で―――雷鳴が轟いた。
 
「ぐあぁ……!?」
 
 瞬間、銀の稲妻がサブラクを直撃し、眼下の市街地に叩き落とした。
 削られた力は即座に全体から本体に供給されるが、今までのように反撃に移れない。
 
「身体が、痺れ……っ」
 
 指摘された通りの小さな感覚が、全身を駆け巡る雷撃によって悲鳴を上げていた。
 仰向けに倒れて天を見上げるサブラク。その視線の先に………
 
「どんなに全体が大きくても、お前の意志総体はその人型の中にしか無い」
 
 空に広がる、巨大な時計のような自在式が、見えた。
 その、時を示す十二の数字全てから、銀に輝く光の柱が撃ち下ろされる。
 
「だったら、こうすればいい」
 
 突き立った光柱はそれぞれが大爆発を巻き起こし、銀の炎を溢れさせる。
 その炎はすぐさま半透明の鱗壁へとなって、破壊の爪痕を点から円に、円から球に広げていく。街に浸透したサブラクの身体を、問答無用で咬み千切って。
 それは正に、地中を含めた一帯を包む球状の結界だった。
 
「これでもう、“自分から”力を供給できないだろ」
 
 悠二が、上向けた右手の五指を軽く立てた。その動きに応えるように、鱗壁の結界が空へと浮上し始める。
 
「させる、かぁーー!!」
 
 次に受ける攻撃を予期して、漸く自由を取り戻したサブラクが咆える。
 いま操れる全ての力を両手の双剣に込めて、鎖された空めがけて一直線に飛び上がった。
 本体さえこの結界から抜け出せれば、再び街に浸透させた身体と繋がれる。
 だが―――
 
「オ、オオオオオォォ―――!!」
 
 渾身の刺突をもってしても、『グランマティカ』の結界は突き破れない。
 切り離された力の一部ではこの程度なのかと失望するサブラクの眼前で……剣の炎が蛇鱗に吸収されていた。
 
「終わりだ、“壊刃”サブラク」
 
 鱗壁の遥か向こうで、坂井悠二が右手を顔の高さで握り固める。その拳に小さな鱗が貼りつき、莫大な力を乗せた銀炎が宿る。
 
「惨めに嘆いて、無様に足掻け」
 
 燃える掌を、勢いよく突き出した。
 
「絶望の果てに、消えろ!!」
 
 そこから放たれたのは、蛇。
 燦然と輝く牙と鱗を持った、龍とも見紛う銀炎の大蛇。
 
「―――――」
 
 凍り付くサブラクの姿を、黒い瞳が映した刹那―――
 
「っ!!」
 
 結界を擦り抜けた銀蛇の一撃が、内に在る全てを呑み込んだ。
 高熱高圧の炎が一瞬にして建物を溶かし、人々を砕き、大地を消し飛ばす。
 銀輪の華の咲いた空から、御崎市の一部だった物が灰と火の粉になって降り注ぐ。
 
「………よし」
 
 ―――それを眺める一人の少女の小さな呟きが、戦いの終幕を告げた。
 
 
 
 
 歪んだ花火、日常から零れ落ちた親友と、外れた世界に関わる友人達。
 まるで夢の中のような出来事を、現実の脅威として受け入れなければならない異常な世界。
 そんな中で、池速人は歯を食い縛って耐えていた。既に自分の役割を終えて、後は異能者達に任せるしかないという状況で、ひたすらに無事を祈っていた。
 ……筈なのだが、
 
「え?」
 
 その様子が解る唯一の物、ずっと凝視していた筈の箱庭が、いつの間にか消えていた。
 目を離してもいないのに、いつの間にかも何も無い筈なのだが、そうとしか表現出来ない感覚である。
 オモチャの山を押し退けた空間には、代わりに丸い銅鏡が転がっていた。
 
「……なぁ、箱庭どこ行った?」
 
「箱庭って……『玻璃壇』か?」
 
「さあ、ヘカテーちゃんが持ってるんじゃ……あれ?」
 
 一方で、同じく見守る立場にあった佐藤と田中は、まるで最初から箱庭など無かったような態度を取った後……その矛盾に気付いたのか、困惑顔でしきりに首を捻っている。
 わけがわからない状況だが……池の聡明な頭脳は、知ったばかりの知識と今の状況を結び付ける事が出来た。
 
「……もしかして、封絶が張られてたんじゃないか?」
 
 敵の妨害で張れなかった封絶が張れるようになったとすれば、この状況にも説明が着く。
 自分と二人で影響が違うのは、おそらく調律の核となった影響だろう。
 
「ああ、そっか、なるほど。……ん? で、その封絶が解けたって事は、戦いは終わったんだよな?」
 
「……姐さん達が勝ったん、だよな?」
 
 池の言葉で真実に気付いた二人が、意外な思考の早さで危機を悟る。解る筈もない問い掛けを互いに交わしてから、不意に思い付いた。
 
「そうだメガネマン、おまえ携帯あるだろ!? 坂井に連絡してみてくれよ!」
 
「え……けど、邪魔になるかも知れないじゃないか」
 
「封絶が解けてんだから、大丈夫だってきっと」
 
 詰め寄る二人に急かされて、池は今一つ気後れしながら携帯を取り出して、
 ―――唐突に、思い出した。
 
「………平井さんは?」
 
 ここにいるべきもう一人の少女の姿が、何処にも無いという事に。
 
「平井さん! 平井さん!!」
 
 オモチャの山で死角が多いから、もしかしたら見えないだけかもと思って呼び掛けても、返事が無い。
 
「おい池、落ち着けって」
 
「封絶が張られてたのにここにいないって、どう考えても可笑しいだろ!」
 
 佐藤や田中の悠長な反応が信じられない。まだ状況を良く解っていないのかと苛立つ池の耳に、
 
「そもそも―――ヒライさんって誰だ?」
 
 ―――あり得ない言葉が、届いた。
 
 
 
 
 冷たい、底が見えない闇の中に沈んでいく。
 
 ―――怖い。
 
 そこに堕ちてしまう事が、そこに堕ちて、二度と会えなくなってしまう事が、堪らなく怖い。
 それなのに、もう抗う事も出来ずに沈みゆく少女を、何かが貫いた。
 
 ―――剣だ。
 
 と、何も見えない筈なのに、はっきりと解った。
 胸に突き立てられた刃は、しかし背中を突き抜けず、ただ埋まる。
 痛みは無い。その代わりに、熱さがあった。
 
 ―――熱い。
 
 そう思った瞬間に、今さらになって傷口から鮮血が噴き出した。
 しかし、違和感がある。
 血と共に命が抜けていく感覚とは違う。そう感じた時、気付いた。
 
 ―――炎。
 
 それは血ではなく、炎。脈動する命を表す、血色の炎だった。
 胸から噴き出す炎は、やがて少女の全身を包み込む。
 だが、それによって焼かれているのは身体ではない。
 
 ―――人間。
 
 過去、現在、未来、この世に広がる自分という可能性の全てが、残らず焼き払われていくのを感じる。
 あのまま闇の底に沈んでいれば失わなかったものまで、何もかもが消えていく。
 残されたのは、血色に燃える器のみ。
 
 ―――違う。
 
 この炎は自分を傷つける敵ではなく、形を変えた自分自身なのだと、感じるままに理解した。
 ならば、何も怖れる事は無い。
 
「……………」
 
 目を、開く。
 そこから少女は、もう一度歩き出す。
 
 ―――その胸に一つ、灯火を宿して。
 
 
 
 
 
 
(あとがき)
 いつも本作品を読んで頂き、ありがとうございます。作者・水虫です。
 完結済の作品のリメイクにも拘らず感想なども頂けて、本当に身に染み入る思いです。
 折り返し地点という事もあり、ここで一区切りにして『水色の星A2』に移ろうと思います。まだ本作品に興味を持って頂ける方は、そちらでまたお会いしましょう。
 
 


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.38204908370972