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[3429] 東方霖想譚(東方Project)
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2009/10/17 18:26
初めまして。sayamaです。
このSSは東方Projectの登場人物、森近霖之助が主人公です。
つまりカップリングは基本的に霖之助とになります。
それを踏まえた上で読んでいただきたいです。


甘さ控えめだったり砂糖オンリーだったりしますが、読んでもらえたら幸いです。
感想などもお待ちしております。


~注意書き~

・このSSは「東方Project」の二次創作です
・主人公は「森近霖之助」です。よってこのSSでは他の東方Projectのキャラクターが霖之助に好意を抱くことが多々あります
・作者は極力原作を重視するつもりですが、内容によっては設定や性格、口調などを改編することがあります(例:第5話での鍵山雛の口調改編など)
・主人公である森近霖之助が稀にではありますが弾幕ごっこをします
・作者は読者様からの感想コメントに対し、明らかに批判、またマイナスの感想(例:つまらなかった、など)だと分かるもの以外については、ネガティブに考えれば嫌味ともとれる感想コメントまで含めて、全て作者を応援するものだと好意的に解釈させて頂いております
・また批判的な感想、意見などについても、作者の力量を上げるためには必要なものだと思っています。そのようなコメントをされる場合は、面倒かとは思いますが、ただ「つまらない」といったものでなく、「〇〇の場面で~」など、少しでもいいので具体例を挙げていただけると大変助かります


以上の点を踏まえた上で、読者様が自身に少しでも不快感、嫌悪感を抱くような可能性を感じたらこのSSは回避してください。
また話を追加する上でこの注意書きに文章を付け足すこともあるかと思います。
その旨、よろしくお願いいたします。







2008/06/28  第1話 巫女と魔法使い
2008/07/04  第2話 揺れる大図書館
2008/07/11  第3話 不死鳥は赤面症
2008/08/09  第4話 かぐや姫の初恋
2008/09/03  幕間 ~十六夜咲夜 その1~
2008/09/27  第5話 厄神様の検問所
2008/10/25  幕間 ~東風谷早苗 その1~
2008/12/10  第6話 人形遣いの秘密
2009/03/31  幕間 ~パチュリー・ノーレッジ その1~
2009/08/05  第7話 混迷する吸血鬼
2009/10/16  第8話 貴方だけの花畑



[3429] 第1話 巫女と魔法使い
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2008/07/04 06:52





――――――――生きるのに、飽きてきた。





香霖堂の店主、森近霖之助は唐突にそう思った。
いや、唐突ではなかったのかもしれない。前々から漠然とはしていたものの、こういった想いを抱いたことはあったと思う。
生きるのに最低限の金を稼ぎ、ただ平穏に本を読んでいられたらそれで満足だと思っていた。
実際、霖之助は香霖堂のさびれた雰囲気が気に入っていた。おせじにも繁盛しているとはいえないので、自分の店への愛着だといわれてしまえばそれまでの話ではあったが。
贅沢をしなければ自分を養うには十分な収益はあったし、たまに霊夢や魔理沙が勝手に商品を持って行ったりもするけれど、高価な物や珍しい物は裏手の倉庫にしまってあるのでたいした損害にはなっていない。しかし、店に来ては何かしら壊したり奪っていったりするのでそれらをいちいち帳簿に記帳していたのだが、記帳の数がなかなかの量になってしまい、今では店の帳簿とは別にツケ帳を作ったくらいだ。それに毎回ツケとして記帳してはいるが、代金が払われることも何か代わりの品が届けられることもないと思うので、記帳することもやめてしまっていいかと思う。

しかし最近、どうにも原因のわからない焦燥感のようなものが胸にこびりついている。


(うーん。どうしたものかな……)


刺激のない毎日を過ごしてきたと思う。受動的な性格であることもそれに拍車をかけていた。


(……しかし、これはちょっとまずいな)


店のカウンターで一人つぶやく。先ほどから本は開いているが読んではいない。
人間とは比べ物にならない程の長い寿命を持つ生き物は、相応の力を持つ代わりに、ある悩みがついて回る。



『退屈』である。



もちろん人間だって退屈だと感じることはあるだろうが、どれだけ長く生きても人が百の年月を超えることはない。
だが人外の存在は違う。人間と妖怪のハーフである僕もまた長い寿命を持っている。
それだけにこの気持ちを抱えたまま生きていくのは辛い。好奇心は猫をも殺すと言うが、退屈は妖怪を殺すのだ。
そして自覚してしまった以上、もう誤魔化せそうにもなかった。


(困ったな……。なんとかしないと)


そういえばここ一か月ほど霊夢と魔理沙の姿を見ていない。
厄介事しか運んでこない彼女らだが、いざ来なくなってしまうと一抹の寂しさがある。


「はぁ……」


駄目だ。考えれば考える程気分が沈んでいく。
そろそろ日も沈む頃なのでこれから来る客もいないだろうから、今日はもう店を閉めて気分転換に散歩でも行こうかと思った時、扉が開いた。


「こんばんわー。霖之助さんいるー?」
「よーっす。こーりんいるかー?」


突然の二人の訪問に、しばらく言葉を失った。


「何固まってるのよ、早くお茶をちょうだい」

「そうだぜ、こーりん。お茶菓子はいつものせんべいでいいからな」

「あ、ああ。いらっしゃい。今お茶を持ってくるよ」


とりあえずお茶とお茶菓子を用意しようと台所へ向かう。
ついさっきまで『二人が来なくて寂しい』などと思っていたためか、少し気まずい。
そんなことを考えながら作業をしていたので、手元が疎かとなり、来客用の湯呑みを落としてしまった。
ガチャン、という湯呑みの割れる音を聞いて二人がこちらへと向かって来る。


「ちょっと、今なにか割れる音がしたんだけど」

「すまないね、湯呑みを落としてしまって」

「おいおい、こーりんにしては珍しいミスだな。片づけは私がやるから、霊夢はお茶を頼むぜ」

「はいはい、わかったわよ。霖之助さんは居間で休んでて」

「い、いや、僕が割ってしまったんだから片付けは僕が……」

「いいから、こーりんはもう休んでろって」

「でも、お茶っ葉や菓子の場所を知らないだろう?」

「お茶っ葉はそこの棚の一番上の段で、おせんべいはその隣のひきだしでしょう?」

「ああ、うん、その通りだが……いや、それにしてたって店番があるから……」

「それなら大丈夫よ。私たちが来た時に店じまいの看板を出しておいたから」



こ、この子らは遠慮というものを知らないのか?



「ふぅ、わかったよ。お言葉に甘えるとしよう」

「最初から素直に言うことを聞いておけばいいんだぜ」


魔理沙の一言を聞き流し、軽く後ろに手を振って僕は居間に向かった。














しばらくすると、お茶とせんべいを持って二人が来た。


「ふー、一仕事終えると気持ちがいいぜ」

「ふふ、その通りね」

「二人ともありがとう。そいうえば、なんで君らはお茶っ葉やせんべいの場所を知っていたんだい?」

「今さら何言ってんのよ。勝手知ったるなんとかってやつでしょ」

「この家なら引っ越してきても初日からぐっすりだぜ」


暖かい会話に一瞬涙がでそうになったが、何とかこらえて「そ、そうか……」とだけ言った。
その後しばらくお茶を飲みながらまったりしていたが、せんべいがきれたところでふと外を見てると、もう完全に夜になっていたので二人を帰すことにした。





つい先ほどまであった原因のわからない焦燥感は、今はもうなかった。
















「じゃあね、霖之助さん。また一週間後に来るわ」

「私は明後日くらいに来るぜ。早ければ明日になるかもだけど」

「ああ。まぁ、暇な時にでも顔を出してくれると嬉しいよ。ツケを払ってくれればもっと嬉しいが」

「や、やあねぇ霖之助さんったら。次のお正月にはお賽銭たくさん入るんだから、その時に返すわよ」

「私は死ぬまでに返すぜ」

「霊夢、少しづつでも返していかないとお正月のお賽銭は全部僕が回収する、なんてことになってしまうよ?」

「う……、待って。何とかしてツケを払わなくて済むように考えてみるから」

「素直にツケを払う気はないのか……」

「はっはっは、霊夢らしいぜ」

「魔理沙もだ。君は金が手に入り次第僕のところに来なさい」

「おいおい、とんだ悪徳金融がいたもんだぜ」

「僕が悪徳金融なら、君は性質の悪い窃盗の常習犯だよ」

「あははは、うまいこと言うじゃない」

「笑いごとじゃあないんだがね……」


そうこうしているうちに夜は深くなっていく。
二人を見送るために玄関まで来たのだが、ここでまた会話がしばらく続いていた。
若い娘が夜遅くまで男の家にいるのもよくないだろうと思い、二人に帰宅を促した。


「ほら、二人とも。もう夜も遅い。そろそろ帰りなさい」

「ええ、そうね。それじゃ、そろそろ行くわ。お茶っ葉ありがとうね!」

「ああ。じゃあまたなこーりん。ちゃんとせんべい補充しとけよ!」

「はいはい。二人とも気をつけて帰るんだよ」


挨拶をすますと二人は飛んで帰っていった。途端に辺りが静かになる。


(……ふう。しかし、単純なものだね、我ながら)


退屈がどうのと言っておきながら、二人が来てからはもう胸のモヤモヤはなくなっている。


(退屈、ねぇ)


もしかしたら、退屈などではなく、もっと別の感情だったのかもしれない。
しかし、それを認めるには僕は永い時を生き過ぎている。


(あるいは、まだそれを認められない程度にしか生きていないのかもしれないな……)


そんなことを思いながら居間へと戻り、そういえばまだ今日は晩御飯を食べていないことを思い出した。
そのまま台所へと向かったが、今から晩御飯を作りさっきまで会話の絶えなかった居間で一人もそもそと食べるというのもなんだかむなしいので、今日はもう食べないことにした。


(そういえば魔理沙がおせんべいがどうのと言っていたな……)


今日の分を引いても明後日くらいまでの分は残っているはずだが、念のため確認してみた。





何もなかった。





中に紙切れが一つ落ちていた。


『補充頼んだぜ』


慣れているので特に怒ったりはしないが(こういう所が商才に疑問を持たれる原因なのだろう)、明日せんべいだけを買いに人里まで行くのは少しめんどうだった。


(そういえば、霊夢も何か変なことを言っていた気がする……)





案の定、お茶っ葉も約一週間分がなくなっていた。





こちらにも紙切れが一枚落ちていた。


『買いにいくのがおせんべいだけじゃ寂しいだろうと思ったから、お茶っ葉も一緒にどうぞ』


さすがは幻想郷で起こる数々の事件を解決している名コンビ、息がぴったりだった。
こうも思考を読まれるのは、仮にも彼女たちの何十倍も生きている半妖としてどうなんだろう、と考えてしまう。
しかし、今日その彼女たちから生きる活力をもらったのも事実で。


(……まぁ、今日のこれはツケ帳には記載しないでおいてやろう)


とりあえずツケ帳の記載は絶対に続けようと思いつつ、財布の中身を確認しに居間へ戻る霖之助であった。
















一方その頃。


「なあなあ霊夢」

「なによ」

「ほんとにあれでよかったのか?」

「よかったのよ。多少のイレギュラーはあったけど、概ね台本通りだったじゃない」

「そ、そうだったか?」

「そうだったのよ!わざわざ紫が貸してくれた外界の恋愛指南書を学んで作った台本よ? 完璧だったの!」

「いや、確かに台本は完璧だったかもしれないけど……。『女の子は軽々しくデレてはいけません。普段はツンツンしているくらいで良いのです。それがここぞという時に見せるあなたのデレを最大限の威力にします』だろ?」

「その通りよ」

「でもさあ」

「さっきからなんなのよ」

「あれ、いつもの私らがしてることとあんまり変わってないんじゃ……」

「…………」

「…………」

「な、なに言ってるの。私はお茶っ葉を、あなたはおせんべいを強奪するというこれまでにないツンをしたじゃない」

「よく考えたらお前が神社で飲んでるお茶は、もうここ半年くらいこーりんのとこからパクってきたやつじゃないか。かくいう私も自慢じゃないが、もう自分でお茶請けを買った記憶はかなりおぼろげだぜ」

「…………」

「それに、台本ではもっと攻撃的な会話のはずだっただろう? 最初は霊夢の『この豚之助!』から始まる予定だったのに、いつまでたっても霊夢が言わないからなし崩し的に普段通りの雰囲気になっちまった……というか、むしろこーりんを労わってなかったか、私たち……? ま、とりあえずお茶っ葉とせんべいの強奪には成功したけどさ」

「……だって」

「ん?」

「指南書に書いてあったデレっていうのも、この一か月研究したけど結局よくわからなかったし……」

「ああ。あれにはお手上げだったな。ツンとデレの使い分けよりも、まずはデレを習得しないとだぜ」

「それに、霖之助さんの顔を見たら、『この豚之助!』なんてとても言えそうになくて……」

「あー、まぁ、気持ちはわかるぜ。弾幕ごっこで負けてたら言うのは私だったけど、たぶん私でも無理だったと思うし……」


――――――――二人は気づいていない。それこそがデレなのだと。


「…………もう夜も遅いし、早く帰りましょう」

「…………そうだな」


そんなこんなで、夜は更けていく。































「……今日、泊まってく?」

「おう。今夜は徹夜で今日の反省会とこれからの作戦会議だぜ」

「そうね。私たちツンはもう充分しているから、これからはデレを研究しないとね」


否、少女たちの夜はまだ終わらない。



[3429] 第2話 揺れる大図書館
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2008/10/25 04:26


「本が……尽きた」





正確には、店にある本を読み尽くしてしまった。
というのも、僕の趣味は読書なのだが、ここ最近は本を売りにくる人間や貴重な外界の本を調達してきてくれるスキマ妖怪がめっきり姿を見せなかった。
その結果、先日ついに店にある本を読み尽くしてしまい、途方に暮れているというわけだ。
これは大変由々しき事態だが、人里で売られているような物はとうの昔に読んでいるので、誰かが新しい本を店に売りに来てくれるまで待つしかない。
本の虫である僕にとって、それはとても耐えがたい苦行であった。
これまでにも二日三日と本を読まない時はあった。道具の作成に集中している時などは、一か月以上本を手に取らないこともあった。
気分が乗らず二、三日趣味から離れることは別段珍しいことではないし、他の作業に没頭している時はそれに夢中なので特に問題はない。
だが、本がないというのは別だ。
例え読まなくても、そこにあればいいのだ。読みたくなれば読めばいいし、違うのならそうなるまで待つだけだ。
しかし、読む本がないということが、これほど僕の精神に負荷を与えるとは思わなかった。
本が尽きてから一日たった。
そわそわと落ち着かないので掃除を始めてみたのだが、頭は本のことでいっぱいなのでろくに片付きもせず、すぐやめた。客は一人も来なかった。
本が尽きてから二日たった。
既読の本を読み直したが、文字を追うだけで頭には入ってこない。すぐやめた。客は一人も来なかった。
せめてお客でも来てくれれば少しは気持ちも紛れるのだろうが、こういう時に限ってお客はおろか魔理沙や霊夢も来やしない。
三日目以降からは何もしなかった。店は開けるし、店番もする。だが、特に何もせずぼうっとしているだけだった。
例によって、客は一人も来なかった。
本が尽きてから八日目に魔理沙が来た。何もしないことにも飽きてきていたので、彼女を歓迎した。
魔理沙は嬉々としてお茶とせんべいを出す僕を気味悪がっていたが、僕は気にせず事情を話して、どうしたものかと相談に乗ってもらった。すると、


「紅魔館に行けばいいんだぜ」


と言われた。





紅魔館の大図書館。





以前、魔理沙に話を聞いた時からずっと興味があった。
当時はまだ店に未読の本がかなりあったのでいつか行ってみたい程度にしか思っていなかったが、今の僕にはうってつけの場所ではないか。
魔理沙いわく本の貸し出しも行っているということで、これはもう行くしかないと思い、早速紅魔館の主へ大図書館を拝見したいという旨の手紙を書いた。
ちょうど魔理沙が明日紅魔館を襲撃すると言うから(襲撃は遊びに行くという解釈をした)、手紙の配達を頼んだ。
魔理沙は少し渋ったが、僕が行くとなると一日店を空けなければならなくなる。
ツケの一部を帳消しにするからと頼み込むと、


「そういうことじゃないんだけどなぁ。ま、わかったよ。こーりんがそこまで言うなら届けるぜ」


そう言って引き受けてくれた。
僕は礼を言いながら魔理沙の頭をなでた。


「へへっ。報酬は確かにもらったぜ」


魔理沙はそう言うと、店を飛び出して行った。
ツケのどの部分を帳消しにするか決めていないから報酬はまだなのだが、とにかく魔理沙が引き受けてくれて助かった。
朗報を期待してその日は眠った。





返事は早かった。次の日の昼過ぎには紅魔館の妖精メイドが手紙を届けに来てくれた。
どうやら魔理沙はあの後すぐに紅魔館に飛んでくれたようだ。返事がどうであれ、帳消しにするツケの量を増やしてやろうと思った。
返信は十六夜咲夜からだった。レミリアとパチュリーから許可を貰ったので、いつでも来て良いとのことだ。
久々に本が読めるという喜びもあったが、それよりも大図書館への興味が大きかった。
妖精メイドは陳列してある外界の物が珍しかったのだろうか、きょろきょろしながらまだ店内にいた。
紅魔館の妖精メイドは働かないことで有名だが、手紙を届ける程度なら問題ないらしい。
気分の良い僕はその妖精メイドに『ストラップ』という外界の装飾品を一つ持たせてやり、明日の昼ごろに行かせてもらうと咲夜への伝言を頼んだ。
今日は久しぶりに気持ちよく眠れそうだ。





結局、色々と大図書館への想像を膨らませるうちに興奮してきてしまい、あまり眠れなかった。
まるで人間の子供のような自分の新たな一面を知って少し落ち込んだが、こちらから頼んでおいて遅刻するわけにもいかないので、身支度を済ませて紅魔館へと出発することにした。
手ぶらで行くのもどうかと思い、途中で団子でも買っていくことにした。しかし何人分買っていけばいいのかわからなかったので、迷った末に花束を買うことにした。
紅魔館には予定通り、昼を少し過ぎくらいに到着した。
美鈴が門番をしていたので、手を上げて挨拶をする。


「やあ、美鈴。咲夜から話は聞いていると思うけど、門を開けてもらえるかい?」

「…………」

「…………?」


返事がない。美鈴は軽く俯いているため表情も確認できない。
失礼かとも思ったが、埒があかないので美鈴の顔を覗き込んでみる。
美鈴はじっと目を閉じたまま、規則的に呼吸を繰り返していた。
つまり、寝ていた。


「困ったな……。おい、美鈴、起きてくれ」


何とか彼女に起きてもらおうと肩を揺すりながら声をかける。
美鈴はすぐに起きた。


「や! 私寝てませんよ!」

「…………いや、寝てただろう?」

「何を言ってるんですか! 誤解を生むような発言は主に私の命が危ないので控えてください! ……って、森近さん?」

「ああ。こんにちは、美鈴」 

「…………」

「……どうした?」

「え……あ! 美鈴ですね、はい。そうです。私の名前は美鈴です」

「……大丈夫かい? 今から行けば永遠亭の営業時間には間に合うと思うが……」

「ちょ、ひどいですよ森近さん! 私は病気なんかじゃありません!」

「ああ、そうだね。君は病気なんかじゃなかったね」

「生暖かい目で見るのはやめて下さい~!」

「ははは。そろそろ目も覚めただろう?」

「あぅ。今日の森近さんはいじわるです……。名前を呼ばれるのは久しぶりだったので、自分の名前だって気づくのにちょっと考えちゃっただけですよー」

「…………それは……」


美鈴は、いやーお恥ずかしい、と笑いながら頭をかいた。
はっきり言って笑えない。返答に窮した。
慣れてますから、そう言って遠い目をする彼女に対し僕ができることは、名前を呼んであげることだけだった。
美鈴の肩に手を置き、頑張れ、美鈴。と励ます。
ありがとうございます、と美鈴は少し涙目になりながら門を開けた。


「では、館の方へご案内しますね」

「ああ、ありがとう。とは言っても館までは一本道だから案内はいらないんだが……」

「あはは、私もそう思いますけど、これも門番の仕事ですから。……ところで、きれいなお花ですね。森近さんが結えたんですか?」

「まさか。さっきここに来る時に人里で買ってきたんだ。これは咲夜に渡せばいいかな?」

「ふえっ! さ、咲夜さんへの贈り物だったんですか……?」

「いや、咲夜へというより、手ぶらで来るのも忍びなかったんでね。強いて言うならこの館に送るために買ってきたんだよ」

「そ、そうだったんですか……良かった」

「ん?」

「い、いえ、なんでもありません。それで、そのお花ですよね。はい、多分私がお世話をすることになると思いますが、せっかくなので咲夜さんに見てもらいましょう」

「君が世話を? 君の仕事は門番だけじゃないのかい?」

「あ、はい。私は門番だけでなく、庭の花畑の管理も任されているんですよ」

「へぇ、それは、機会があったらぜひ見てみたいね」

「本当ですか? いつでも良いので、ぜひ見に来て下さいね。」

「ほう、その反応は自信ありとみたね」

「えへへ。実は、ここの花畑は密かに私の自慢だったりするんです。でもここにお客さんが来ることはあまりないので、お披露目する機会が少なくて……」

「そうなのかい。なら、今日は用があるから見られないが、次に来た時にはぜひ花畑の案内を頼むよ」

「はい! お任せ下さい!」


そこでちょうど館のドアの前に着いた。
美鈴はドアを開けて僕を中へ入れると、咲夜さんを呼んできますから少し待っていて下さい、と言って奥へと駆けていった。
しかしすぐにこちらに戻り、僕に小声で話しかけてくる。


「あのう、その、私が居眠りしていたことは……」

「ああ、わかっているよ。君は居眠りなんかしていない。咲夜に何か聞かれたら、そう答えておこう」

「あ、ありがとうございます! じゃあ行ってきます!」


そう言うとまた奥へと駆けていった。
表情がころころと変わり、話していて飽きない子だ。
性格も温厚で、だからこそ弄られやすいのだろう。
ぜひ幸せになってもらいたい。
僕にそんなことを思わせる、紅美鈴であった。










その後すぐ、美鈴は咲夜と一緒に帰ってきた。


「ようこそ紅魔館へ。歓迎するわ、香霖堂さん」

「お邪魔しているよ。今回は僕の我が侭を聞いてくれてありがとう」


言いながら花を差し出す。
咲夜はあらまぁ、と少しびっくりしながら受け取った。


「どうせ貴方のことだから、色気もへったくれもないようなお団子でも持ってくるのかと思っていたわ」


僕は少しぎくりとして、眼鏡の位置を直した。


「は、ははは。ま、まぁ、だてに君より長く生きているわけではないよ」

「そう……まぁ、大方団子でも買いに人里へ寄ったものの何個買えばいいのかわからなかったから、結局花束に落ち着いたってとこかしらね」

「…………」


どうやら、幻想郷にいる女性に僕が勝てる日は来ないらしい。
彼女たちが鋭いのか、はたまた僕がただ単純なだけなのか。この疑問は後日解決することとしよう。
今は何より大図書館だ。


「……それより、さっそくだが大図書館へ案内を頼めるかい?」

「ええ。この花は責任を持ってこの館で育てるわ。中国が」

「あ、はい! 了解しました!」

「ええ、お願いね。じゃあ貴女は持ち場へ戻ってちょうだい」

「はーい。それでは森近さん。約束、忘れないでくださいね。失礼します!」

「ああ。楽しみにしているよ」


美鈴は駆け足で門へと戻っていった。


「……約束って何、と聞いてもいいかしら」

「うん。特に隠すような内容ではないからね。今度この館に来た時、彼女の管理する庭の花畑を見せてもらうと約束したのさ」

「へぇ……そう、あの子が……」

「何か問題でもあるのかい?」

「いえ、なんでもないわ。それじゃあ、行きましょうか」

「ああ。本当に助かるよ。読む本がなくて困ってたんだ」

「お礼ならお嬢様に言ってちょうだい。……いえ、どちらかというとパチュリー様かしら?」

「どういうことだい?」

「お嬢様はパチュリー様に判断を委ねた、ということよ」


そういえば。
今になって気付いたが、僕がパチュリーと会うのは今日が初めてだった。










「着いたわ。ここが大図書館よ」

「へぇ……これは……凄いとしか言いようがないな……」

「とりあえず先にパチュリー様に会いに行くわ……って、聞いてないわね」


大図書館。
そう、まさに大図書館としか表現のしようがない。
見渡す限りの本、本、本。
それらは多少乱雑に、しかしある程度の規則性を持って収納されていた。
その光景は、香霖堂の雰囲気に少し似ていて。
一目で気に入った。
同時に、今までここを訪れなかったことを後悔した。


「ちょっと、聞いてるの?」

「え?……ああ、すまなかった。目を奪われていたようだ……」

「もう。まるで、新しい玩具を見つけた子供みたいね」

「はは、悔しいが否定できないよ」

「じゃあ、パチュリー様のところに案内するわ」

「ああ、わかった」


咲夜は奥へ奥へと進んでいく。
その間も僕はせわしなく周りを見渡し、既に何冊かの本に当たりを付けていた。
しばらく歩くと、急に開けた場所にでた。
その中心に、大量の本が重ねられていた。
本が積み重ねられてできた、まるで本の塔であった。
咲夜が、その塔に向かって話しかける。


「パチュリー様。お客様をお連れしました」

「……ええ。今行くわ」


僕は気付かなかったが、塔の向こう側に誰かがいたようだ。
声の主はすぐに出てきた。
紫の長い髪に月の飾りを付けた帽子をかぶった、寝巻きのような服装の小さな女の子だった。


「こんにちは。香霖堂の店主さん」

「こんにちは。パチュリー・ノーレッジさん」

「パチュリーで構わないわ」

「そうかい? じゃあ、パチュリーと呼ばせてもらうよ。僕のことも好きに呼んでくれ。僕の名前は……」

「知っているわ。あなたのことは森近と呼ばせてもらうから」

「ああ、わかった。それで早速此処の本のことなんだが……」


僕は気になっていた点について質問をした。
此処に来るまでに興味を持った本について。貸し出しは一度に何冊まで良いのか。期限は。ここの蔵書数は。どうやってこれだけの量を集めたのか。管理の方法は。
言い始めたら止まらなくなってしまった。
一通り言い終えてすっきりとしたところで、パチュリーの呆気にとられた顔を見た。


(やってしまった……)


咲夜が呆れたように言う。


「ちょっとちょっと。気持はわかるけど、少し落ち着きなさいな」

「すまない……。興奮してしまって……」

「全く……」

「あなたは」

「ん?」

「あなたは、本が好きなのね」


パチュリーは小さな声で言った。
その一言で、僕はあることに気付いた。


「そう、だね。正直、今まで僕にとって読書は暇つぶしでしかないと思っていたんだが……。いざ本が無くなってしまった途端に、僕の生活は淡白で味気ないものになってしまってね。……うん、そうだ。此処に来て、君に言われて、初めて気付いたよ。僕は本が好きだ」

「何をいきなり言い出すのよ。好きだからこそわざわざ此処まで来たんでしょう?」

「う……まぁ、そうなんだがね」

「……面白いわね、あなた」

「パチュリー様?」

「咲夜、彼の面倒は私が見るから、あなたは戻っていいわ」

「……わかりました。お茶などはどうしますか?」

「全てこちらで用意するわ」

「わかりました。それでは、失礼します。香霖堂さんも、楽しんでってちょうだい」

「ああ。それじゃあ、また」


咲夜は足早に大図書館を出て行った。
とりあえず僕は、先ほどの質問を答えられる限りパチュリーに答えてもらうことにした。










「……まぁ、概ねこんなところかしら。あぁ、そういえばあなた、此処で本の貸し出しをしているなんて一体誰に聞いたの」

「魔理沙だよ。彼女はよく此処で本を借りていると言っていてね。もしよければ僕も、と思っているんだが」

「……はぁ。魔理沙は借りているんじゃなくて、盗んでるのよ」

「そ、そうなのかい!? いや、それは申し訳ない。言うことを聞くか自信はないけど、僕から返すように言っておくよ」

「……どうしてあなたが謝るの?」

「僕は昔、彼女の実家でお世話になっていたことがあってね。彼女は僕にとって妹みたいなものなのさ」

「……そう」

「すなまかったね。貸し出しについては諦めるよ」

「……いいわよ」

「え?」

「返してくれるのであれば、別に借りていっても構わないわ」

「本当かい? いやあ、店のこともあるからそうしてもらえると助かるよ」

「……そう。じゃあ私は本を読むから、何か用事があったら小悪魔に言ってちょうだい。小悪魔!」


パチュリーが呼ぶと、遠くの方から「はーい! 今行きますー!」と声が返ってきた。
しばらくすると、大量の本を抱えた少女がふらふらと歩いてきた。


「お呼びですか?」

「ええ。小悪魔、あなた今日一日彼の世話をしてやってちょうだい」

「ええーと、お世話、ですか……?」

「ああいや、お世話というか、良ければ此処の案内をしてもらいたいんだ」

「そういうことよ。今日は仕事より彼を優先させなさい」

「はい、わかりました。森近様ですよね、本日はこの小悪魔にお任せ下さい」

「よろしく頼むよ。それと、『様』はいらないよ」

「そうですか? でも、お客様ですし……」


チラリとパチュリーを見る小悪魔。


「本人がいいと言うのだから、いいのでしょう」

「はい。では、森近さんで」

「ああ。それじゃあ早速案内してもらいたいんだが……」


本を読むには少しばかり忙しないので、まずは借りていく本の確保から始めることにした。
ふと振り向けば、パチュリーは既に奥へと歩き始めていた。










先ほどは気付かなかったが、大量の本が積み重ねられていた場所の一角に、僕の机と椅子が用意されていた。
これはなんなんだい、と大量の本を指して小悪魔に聞くと、彼女がこれから整理する予定の本を纏めておいてあるのだと言う。
凄い量だが、彼女の様子を見る限り特に珍しいことでもないようだ。
館内の簡単な案内が終わって元の場所に戻ると、僕は彼女に借りていく予定の本を伝えた。
小悪魔は此処の構造を熟知しているらしく、いくつか本の題名を挙げるとすぐに持ってきてくれた。
だが如何せん、この図書館には魅力的な本が多く、彼女を待つ少しの時間でさえ僕は我慢できずに本を探し歩いた。
何回か迷子になりそうになったが、しばらくすると小悪魔の僕を探す声が聞こえてくるので問題はなかった。
そんなことを繰り返しているうちにも時間は刻々と過ぎていき、普段なら夕食を食べているような時間となった。


「森近さーん! どこですかー!」

「ここだよ!」

「やっと返事が……そこで待っていて下さいねー!」

「ああ! わかった!」


小悪魔は僕を見つけると少し怒ったように口を膨らませた。


「あぁ、やっと見つけましたー。森近さん! 勝手にいなくならないで下さいって何回言えばわかるんですか!」

「いやあ、申し訳ない。だが考えてもみてくれ。こんなに素晴らしい本がたくさんあるというのに、じっとしているのは無理だろう?」

「それは分かりますけど……って、同じ言い訳が何回も通用すると思わないで下さい!」

「あっはっは」

「笑って誤魔化すのも駄目です! 夕食の支度ができましたから呼びにきたんですよー」

「僕の分も用意してくれたのか。いや、何から何まですまないね」

「いえいえ、お口に合うといいんですけど」

「君が作ったのかい?」

「はい。私はパチュリー様の使い魔ですから、一通りのことはできるようにと教育されてるんです」


えへん、と胸を張って言う小悪魔。
今日話して分かった彼女の性格から、誇らしいのは自分のことではなく、自分がパチュリーの使い魔である点だと分かる。
名前からして、というか名前ではないのだろうが、使い魔だろうとは思っていた。
小悪魔はパチュリーをかなり尊敬しているらしい。今も目がきらきらと輝いている。
僕たちはひとまず大図書館を後にした。










通された別室には、既に料理が用意されていた。
てっきりパチュリーと一緒に食べるのかと思っていたのだが、料理は一人分しか無かった。


「パチュリーはもう食べたのかい?」

「いえ、パチュリー様は夕食はいらないとのことです」

「……それは良くないな。彼女はまだ本を?」

「はい。パチュリー様は食事をされなくても魔力で補うことができるので」

「へぇ……そんなことができるのか」

「本に夢中になられるとたいてい食事はしないんです。ですから、どうぞお気になさらずに食べて下さい」

「ああ。それでは、いただきます」


小悪魔は不安そうにしていたが、実際彼女の料理は大したもので、長年自炊している僕より遥かに美味しかった。
それを小悪魔に伝えると、彼女は嬉しそうに、


「私はパチュリー様の使い魔ですから!」


と満面の笑みを見せてくれた。










食べ終わってから、小悪魔と一緒に大図書館へ戻った。
もう夜も遅くなってきたので、そろそろ帰り仕度を始めないといけない。
候補が多すぎてどの本を借りるか迷い、迷っている間にまた魅力的な本に出会うという良い意味で泥沼だったが、小悪魔が「読み終わったらまた借りにくればいいじゃないですか」と言ってくれたので、何とか十冊に絞ることができた。
十冊といってもどれも分厚い本ばかりなので持ち帰るのは一苦労であろうが、それ以上の価値がある本ばかりなので全く問題ない。
借りていく本を纏めると、小悪魔と二人でパチュリーの部屋へ向かった。
パチュリーの部屋は大図書館から直接通じているらしい。
小悪魔が言うには、館の2階に正式な彼女の部屋があるらしいのだが、使うのは専ら大図書館に直接通じる部屋らしい。


「パチュリー様、森近さんをお連れしました」


中から「入りなさい」と返事があり、僕たちはパチュリーの部屋へ入った。
パチュリーの部屋は大量の本がある以外はとても質素で、なんとなく作業場という印象がした。
彼女の机はドアの正面にあり、その上にも大量の本が積み重なっていた。
パチュリーは本を閉じて机の前まで歩いてきた。


「森近さんがお帰りになるそうです」

「……そう。あなたはもう上がりなさい。本の整理は明日でいいわ」

「はい。それでは失礼いたします」


そう言うと小悪魔は僕にぺこりと頭を下げて、部屋から出て行った。


「それで、読みたい本は見つかった?」

「ああ。此処は本当にすごいな。とてもじゃないが読みたい本全てを借りていくのは無理だったよ」

「……そう。また、読み終わったら来ればいいわ」

「そうさせてもらうよ。本当にありがとう、パチュリー」

「……別に、気にしなくていいわ」

「それで、借りていく本なんだが……」


僕は借りる予定の本を彼女に見せて、問題ないか尋ねた。


「さすがに、目利きはいいみたいね」

「そうは言っても、此処には良い物しか置いてなかったからね。適当に選んでも良作ばかりさ」

「……それもそうね」

「ああそうだ、少し聞きたいんだが……」


結局。
僕は再びパチュリーを質問攻めしてしまい、一時間ほど話しこんだ。










「いや……本当にすまない……」

「……気にしないでいいわ。私もここまで本に精通してる人と話すのは久しぶりだったし」


口元を緩ませるパチュリー。
今日、彼女の笑顔を見るのは初めてだった。


「そう言って貰えると助かるよ」

「……でも、今日はたくさん喋って疲れたわ」

「う……申し訳ない……。それじゃあ、僕はそろそろ行くよ。今日は本当にありがとう」

「ええ、気を付けて帰りなさい。私も今日はもう寝るわ」


そう言ってパチュリーが大きく伸びをした、その時だった。


「え?」

「危ない!」


後ろに大きく伸ばしたパチュリーの手が机の上に積んであった大量の本にぶつかり、本の山が崩れる。


「くっ!」


本の山が崩れることも初めてではないのだろうか。パチュリーは多少の焦りはあったものの、冷静にこちらに向かって落下してくる本に浮遊の魔法をかけようとした。


しかし、魔法は成功しなかった。僕が邪魔をしたから。


パチュリーが危ないと思ったら、僕は既に彼女へ飛びついていた。
飛びついてから、僕にも彼女が魔法を発動させようとしているのがわかった。
いらぬおせっかいだったかな、と思ったがもう遅い。僕は突然の介入者に驚いて魔法の展開を中断してしまったパチュリーに覆いかぶさった。
小柄な彼女は、覆いかぶさった僕の体にすっぽりと収まってしまった。
彼女はいきなり自分を押し倒した僕を、目を丸くして見上げていた。
背中にガツガツと当たる本の衝撃に耐えながら、こんな状況に陥っている僕らがとても滑稽で、初めて見るパチュリーの驚く顔がとても嬉しくて、パチュリーの紫の瞳がとてもきれいで、僕は不謹慎にも笑ってしまいそうだった。
そして、頭に激痛が走った。















「う……」


チクリという頭の痛みで、目が覚めた。


「あら、起きたの?」


僕のそばに十六夜咲夜が立っていた。


「……ここは?」

「パチュリー様の部屋よ。あなた、何があったかは覚えてる?」

「ああ……。僕は、気を失っていたのか」

「ええ、二時間程ね。頭を打った衝撃で気を失ったみたい」


徐々に感覚が戻ってきて、頭に包帯が巻いてあることがわかった。
体のあちこちがじんじんと痛む。


「そうか……。手当は君が?パチュリーは無事だったのかい?」


少し急いで質問をするぼくの様子がおかしかったのか、咲夜は口を綻ばせながら言った。


「ええ。怪我をしたのはあなただけで、手当をしたのは私。少し切れているようだったから止血して包帯を巻かせてもらったわ。パチュリー様はそちらに」


咲夜がベッドを見る。視線を追うと、椅子に座ったパチュリーが僕の(というかパチュリーの)ベッドにうつ伏せになって眠っていることに気が付いた。
体勢が悪いというのに、随分ぐっすりと眠っているものだ。
しばらくパチュリーの寝顔を見ていたら、咲夜が「さて、森近霖之助様」と言い、僕を正面から見つめた。


「パチュリー様を救っていただいたこと、紅魔館のメイド長として大変感謝致します」


そう言って恭しく頭を下げる彼女に、僕は慌てて言った。


「おいおい、やめてくれよ。パチュリーから聞いているんだろう? 僕が全くのいらぬおせっかいだったことを」

「いいえ? パチュリー様は、突然のことで固まってしまった自分を身を挺して庇ってくれた、と仰っていたわ」

「そ、そうなのかい?」

「ええ。話が食い違っているのだったら、パチュリー様がお起きになられてから聞いてみたら?」


確かにパチュリーは、僕が覆いかぶさった時に驚きのあまり固まってしまっていたが。


(はてさて、庇ったのはどっちで、庇われたのはどっちなんだろうね)


思えば、今日一日だけで随分と多くのパチュリーの顔を知った。


「ああ。そうするよ」


帽子からこぼれるパチュリーの長い髪を、優しくなでた。















痛みもだいぶ引いてきたので、そろそろお暇させてもらうことにした。
本当はパチュリーが起きるまで待っていようと思っていたんだが、彼女は本格的に寝入ってしまったようなので起こすのもかわいそうだと思い、彼女を起こさないようにベッドから出て彼女を寝かせてやろうとした。
しかし、ここで問題が起きた。
椅子に座りながら突っ伏して寝ている彼女をベッドで普通に寝かせようとしたのだが、これがなかなかに難しいのだ。
しかたないので、細心の注意を払いながら彼女の上半身をゆっくり持ち上げていき、椅子の角度をずらしてから左手で両足を抱え上げ、右手をパチュリーの背中に回しベッドまで運ぶことにした。
俗にいう、お姫様だっこというやつである。


(しかし、この娘は見た目通り軽いな。ちゃんと食事をしているといいのだけれど)


この館に住んでいる限り食事の心配はないのだろうが、読書に夢中になるあまりついつい食事を忘れてしまうなんてことはありそうだ。
彼女と同じ読書家である自分はよくそうして食事を忘れる。魔理沙も日常生活はずぼらだが魔法を学ぶことに関しての努力は惜しまないタイプで、新しい魔導書などを読みだすと一日中読みふけってしまい、夜中に食糧を求めて店に突撃してくることもしばしばである。


(そういえば小悪魔が、パチュリーは食事をしなくても魔力で補えるとか言っていたな……)


それはまた便利だな、とその時は思ったが、この小さい体を見ていると何やら心配になってくる。


(今度来た時は食事にでも誘ってみようか)


そんなことを思っていたら、殺気と共に僕の首筋にひんやりとした鋭い何かが当てられた。





「香霖堂さん? パチュリー様を抱えたままそのお身体を眺めてニヤニヤしたり真顔になったりと、何を考えていらっしゃるのかしら?」





「ご、誤解だよ咲夜。僕はただ彼女の心配を……」


柄の部分で頭を殴られた。自業自得ではあるが、傷が開かないことを祈った。










「それじゃあ、僕はこれで。今日は本当にお世話になったね」

「本当に帰るの? 怪我をしてることだし、今夜は泊まっていけばいいのに……」

「いやいや、これ以上お世話になるわけにもいかないよ」

「こちらとしては最後まできっちりとおもてなししたいのだけれど」

「夕食もご馳走になったし、充分だよ」

「でも……」

「はいはい。そこまでよ、咲夜」


二階へと繋がる横幅の広い階段から、レミリア・スカーレットが降りてきた。


「お嬢様!」

「館の主が自ら見送りかい?」

「ええ、ロビーでいつまでもお客様を引き止めるわけにもいかないしね」

「申し訳ありません……」

「はは、引き止められるのは悪い気はしないからね。気にしてないよ」

「そう。……では、香霖堂の主、森近霖之助」


雰囲気が一転した。……長いこと生きているといい加減こういうことにも慣れてくる。
僕もレミリアの纏う空気に合わせ、真面目に返答を行う。


「紅魔館の主、レミリア・スカーレット」

「……私の友の窮地を救っていただいたと聞きましたわ。この館の主として、貴方に深く感謝します」


スカートの端を軽くつまんで、ちょこんとお辞儀をするレミリア。


「ああ、やっぱりそのことか」

「……ちょっと。私が真面目に感謝しているんだから、貴方も最後まで合わせなさいよ」

「ああいや、それはすまなかった。だがね、君がそういう雰囲気にしたのは僕の反応を見てからかうためだろう?」

「そこまでわかっているのなら尚更ちゃんと合わせなさいよ!」

「ははは、次からはそうするよ。そうだ、そのパチュリーのことなんだが「香霖堂さん」……ん?なんだい、咲夜」

「先ほど香霖堂さんに伝えた内容は、私がお嬢様にお伝えした内容と同じものなの。つまり、それが間違っていたとなると私はお嬢様に間違った情報をお伝えしたことになり、罰を受けなければならないわ」


咲夜は僕の言葉を遮ってからそう言うと、目をつぶり一歩後ろへと下がった。
彼女が何を言いたいのかはわかったが、当のパチュリーへの確認は結局できなかったので少し答えに詰まる。


(ふむ……、ここはパチュリーの厚意に甘えさせてもらうとしようか)


我がことながら、助けようとして邪魔をしたあげく怪我をしたなんてかなり恥ずかしい。
僕はレミリアに「いや、なんでもないよ」と言った。
レミリアは会話を中断させられたからか少し不満そうな顔をしていたが、何を察したのかすぐにニヤつきだした。


「おい……。レミリア、君、今能力を使っただろう?」

「ええ、使ったわ」

「何をしたんだ……?」

「何もしてないわよ。ただ、視ただけ」

「…………」


レミリアは相変わらずこちらを見ながらニヤニヤと不気味な笑みを浮かべている。
僕は多少の居心地の悪さを感じながら言った。


「……まぁ、どのみち僕にそれを確かめる術はないね」

「そういうことよ。ほら、帰るのならばさっさと帰りなさい。……それとも、これから私の食事に付き合ってくれるのかしら?」

「おいおい、僕なんかの血を吸っても腹を壊すだけだ」

「あら、生憎と今までお腹を壊した経験はないの。何事も経験は大事よねぇ……」


そう言って舌舐めずりするレミリア。本来ならば下品な行為なのだが、彼女のそれはどこか妖艶さを醸し出していた。
吸血鬼の力かレミリア固有の魅力なのかはわからないが、ここは早々に退散したほうが良さそうだ。


「それはまた別の機会にしてくれ。じゃあ、僕はこれで。今日は本当にお世話になった」

「つれないのね」

「つる気もなかっただろうに」

「ふふ、どうかしらね」


ドアを開ける。そのまま行こうとして、自分が伝言を忘れていたのを思い出した。


「咲夜、パチュリーに伝言を頼めるかい?」

「ええ、何て?」

「今日の埋め合わせは近いうちに必ず、と」

「ふふふ、わかったわ」

「頼んだよ」

「ええ。それでは、良い夜を」

「ああ。そっちこそ……いや、レミリアはこれからか」

「そうね。最近はフランも安定していて、今夜は一緒に遊覧飛行をしようって約束をしているの」

「……それは、妖怪たちは怖くて空も飛べないだろうね」

「別にこっちからどうこうするつもりはないわ。向こうから突っかかってきたら、その時は容赦はしないけど」

「ははは、そんな馬鹿な輩はさすがにいないと思うよ」


僕はどこぞの氷精の心配をしつつ、ドアを閉めた。











門まで来たところで、美鈴を見つけた。こんな遅くまで実にご苦労なことだ。


「やあ、遅くまで大変だね」

「…………」

「…………」

「…………」

(はて、返事がないな……)


もしやと思い、少し帽子を目深くかぶっている彼女の顔を覗き込んだ。





予想通りではあったが、寝ていた。





(昼間に来た時も寝ていたが、彼女はちゃんと働いているのだろうか……?)


今夜はレミリアが妹と一緒に出掛けると言っていたので、さすがに拙いだろうと思い肩を揺すって彼女を起こした。


「や! 私寝てませんよ!」

「…………もはや何も言うまい」

「何か言って下さいよ! それじゃまるで私が寝てるのを見て呆れているみたいじゃないですか! ……って、森近さん?」

「ああ。こんばんは、美鈴」


この遣り取りは癖になりそうだった。


「あれ……今からお帰りですか? もう遅いですし、泊まっていけばいいのに」

「咲夜にもそう言われたけどね。今日は色々とお世話になったから」

「そうですか……」

「ああ、それとね。此処の大図書館で本を借りられることになったから、これからちょくちょく来させてもらうことになりそうなんだ。だから、君の自慢の花畑を見るのは案外すぐになるかもしれない」

「そうですか! それは良かったです!」

「じゃあ、僕は行くよ。ああそうだ。もう一つ、今夜はレミリアとその妹が一緒に出掛けるそうだから、ちゃんと起きているんだよ」

「う……それは危ないところでした。ありがとうございます! それでは、お気をつけて!」

「ああ、美鈴もね」


どのみち起きていたところで彼女は弄られるのだろうと思ったが、それは敢えて言わなかった。


(さて、今夜は久しぶりに徹夜で本を読むとしようか)


僕は重たい十冊の本を担ぎ、香霖堂へと先を急いだ。










「それじゃあ私は今日の準備をしてくるから、咲夜はフランを起こしてきてちょうだい」

「はい。……お嬢様、先程はどんな運命を視られたのですか?」

「ああ……ふふふっ」

「お嬢様?」

「ふふ、なんでもないわ。私が視た運命はね……いえ、やめましょう。まだそれはとてもあやふやで、いつ崩れてもおかしくないような運命だったから」

「そう、なのですか?」

「ええ、この件について私は特に干渉しないわ。この運命を確定させるのも面白そうだけど、それをするのは私ではない」

「はあ……」

「大丈夫よ。何が起こっても、紅魔館は揺るがない。今までも、そしてこれからも。ただ……」


そこで二人はレミリアの部屋に着いた。咲夜はフランドールを起こしに行くので、中に入るのはレミリアだけだ。


「しばらく、大図書館は騒がしくなるかもね」


そう言って、レミリアは部屋の中へと入っていった。




















ふと目が覚めた。ベッドから出て時計を見ると、まだ朝日が上るのにしばらくかかるような時間だった。
森近はもういなかった。
椅子に座っていた自分がなぜベッドで寝ているのかはわからないが、多分咲夜が運んでくれたのだろう。


森近―――――森近霖之助。


「森近、霖之助」


意味もなく声に出してみる。案外悪くない響きだ、と思った。そんなことを思った自分に少し驚く。


「森近霖之助」


もう一度言ってみる。悪くはないのだが、何かしっくりこない。


(そういえば……)


魔理沙がたまに、彼の話をしていたのを思い出した。その時、魔理沙は確か……。


(こうりん)


そう言っていたはずだ。その時は特に興味もなかったので聞き流していたが、確かに『こうりん』と呼んでいた。いや、語感からすると『こーりん』だろうか。


「こーりん」


頭を抱えた。これは駄目だ。自分のキャラではない。
この呼び方は魔理沙のような日向に生きる者がするのであって、自分のような日陰に生きる者にはとてつもなく似合わない気がした。


(霊夢は……霖之助さん、だったかしら)


ちょくちょく図書館に襲撃をかける魔理沙と違い、私が霊夢と会うことはあまりない。
別に仲が悪いといったわけではなく、単純に機会がないのだ。
私は外出はほとんどしないし、霊夢も基本的に神社にいて、事件が起こればそれを解決するために幻想郷を飛び回る。
それでも、たまに魔理沙と一緒にこの館に来た時などは必ず私に挨拶をしに来てくれる。
博麗の巫女。人間と妖怪のどちらにも与することのない彼女もまた、その本質は日向に生きる者なのであろう。


「霖之助さん」


…………チッ。思わず舌打ちした。この場に私以外の誰かがいたら、お腹を抱えて笑ったに違いない。
もう考えるのもめんどうになり、「霖之助!」と吐き捨てるように言いながらベッドに飛び込んだ。


「…………ん?」


霖之助。
森近霖之助の、霖之助。香霖堂の店主の森近霖之助の、霖之助。


「…………あら?」


何かがピッタリとはまった気がした。……いいではないか、霖之助。


「霖之助」


うん、自分にはこれが合う。
結局何のひねりもない所に落ち着いた。さっきまでの自分に全力で『ロイヤルフレア』を叩き込みたい。
寝返りをして、天井を見上げる。
そういえば、彼は昨日このベッドで寝かせたはずだ。ということは、自分は彼の寝たベッドで一晩眠っていたということなのか。
顔が赤くなるのがわかる。だって、こんなことは初めてで、どうしたらいいかわからない。
そして、彼のことを考えた。










あの時。
私の不注意で本の山が崩れてしまった時、私は咄嗟に落ちてくる本に対し浮遊の魔法をかけようとした。
しかし、霖之助がいきなり私を押し倒したのでびっくりして魔法を止めてしまった。
あまりに突然のことで何が起こったのかすぐに把握できなかったが、一瞬歪んだ霖之助の顔を見てすぐにわかった。
霖之助は私を庇ったのだ。





言葉が出なかった。





(誰かに庇われたのは、何時以来だろう)


私の体は小さいので、決して大柄ではない霖之助の体に余すところなく収まってしまった。
顔が近い。当然だ。私は今、彼に押し倒されているのだから。


(誰かに守られたのは、何時以来だろう)


そんなことを思いながら、彼を見上げた。
すまなそうな顔をしている。彼は、自分が魔法の邪魔をしてしまったのだと思っているのだろう。
それはその通りである。彼が何もしなければ魔法は発動し、何の問題もなく全てが片付いたのだろう。
だが。


(あぁ、嫌だ)


思い出してしまう。遠い昔。
弱いのが嫌で、必死になって魔法の習得に明け暮れた頃を。
無知が恐くて、必死になって書物を読みあさったあの頃を。


(私は手に入れたこの力で、誰かを庇い、守ったことはあっただろうか?)


手に入れた強さは、ただ自身を守るために。


(私は手に入れたこの知識を、誰かのために使ったことはあっただろうか?)


手に入れた知識は、ただ自身を満たすために。


(私は手に入れた何かで、誰かを救おうと考えたことなどあっただろうか?)


手に入れた全ては、ただ自身のためだけに。


間違ってはいない。魔法使いの本分は魔法の習得、行使、研究である。
どれだけ人間より長かろうと、究極に至るにはまるで足りない寿命。
それを目指すのであれば、己以外の誰かに使う時間など無駄以外の何物でもない。
魔法使いにとって知識とは親であり、子であり、友であり、敵である。無知は何よりも嫌悪すべき対象だ。
だから私は本を愛す。本のそばに或るものこそが自分なのだ。
食事に時間をとられるのが煩わしくて、捨食の法を習得した。
本を探す時間が勿体無くて、使い魔を召喚した。
そう、私は間違ってはいない。なぜなら、私は魔法使いなのだから。
だけど。しかし。でも。


(それらは正しいことだったのかしら……?)


不意に、霖之助が呻き、崩れ落ちた。


「え……ちょっと、きゃ!」


彼に押し潰されてしまった。


(ちょ、え、なに、何がどうなって……!?)


突然のことで、気が動転してしまう。
異性とここまで近く接近したことのなかった私は、もう頭が真っ白になっていた。
こんな時こそお得意の魔法だろう。後にそう思うのだが、この時はただ慌てふためくだけで何もできなかった。
しかし私の身体能力はお世辞にも良いとは言えなくて、それどころか単純な力比べなら人間にも劣る程であり。
つまり、腕立て伏せが一回できるかどうかという私が魔法を使わずして彼を押しのけるのは不可能だった。
散々もがいたがどうにもできず、結局咲夜が様子を見に来るまでそのままだった。
咲夜は重なり合う私たちを見て何を勘違いしたのか、部屋に入るや否や霖之助を思いきり蹴り飛ばした。
ちなみに彼の頭の傷はこの時に机にぶつけてできたものだ。
その後、躊躇なく霖之助にナイフを向ける彼女を必死に止め、事情を説明した。
咲夜の誤解も解けたらしく、一息ついてふと霖之助を見ると、彼は頭部から軽く出血していた。
出血が額からだったので、すぐに咲夜の仕業だとわかった。
私たちは目を合わせると、お互い見なかったこととすることにした。
でもこのままだと余りにも彼が哀れなので、名誉の負傷扱いとした。
間違ってはいない。事実彼は私を助けたのだから。
間違っていないということは、きっとそれが正しいということなのだろう。
ふと、私は笑いが込み上げてきてしまった。
咲夜を見ると彼女も同じようで、我慢できずに二人で霖之助を見ながら声を出して笑ってしまった。
なんと間抜けな話であろうか。彼も、彼女も、そして私も。
しばらく笑っていたが、彼の血が床に落ちたのを見て慌てて手当を始めた。










「ふふふ……」


今思い出しても笑ってしまう。
そして同時に不安になる。
結局霖之助にお礼が言えなかった。いや、たとえ今目の前に彼がいたとしても、素直に感謝の言葉を言えるのか自信はないのだが。


「霖之助」


私が看病の途中で寝てしまったから呆れて帰ってしまったのかしら。


「霖之助」


それとも、咲夜からの説明でプライドを傷つけられて怒って帰ってしまったのかしら。


「霖之助」


わからない。わからない。彼の気持ちが。


「霖之助」


わからない。わからない。私の気持ちが。


「りんのすけ」


こんな気持ちは初めてで。もう、わけもわからず泣いてしまいそうで。


「りんのすけー」
「パチェ? 入るわよ」
「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」


このタイミングで部屋に入ってきた友人へ『ロイヤルフレア』を叩き込んだ私を、誰が責めることができようか。










「あ、あなたね……」

「ご、ごめんなさい、レミィ……」


ところどころ焦げてしまった彼女の服を直す私に、レミィの呆れた視線が突き刺さる。


「吸血鬼である私に向かって、よりによって日符を使うだなんて」

「本当に悪かったと思ってるわ。でもレミィ、あなただってノックも無しに人の部屋に入ったりして……」

「したわよ。まだ起きるような時間じゃなかったから寝てるのかと思って、すぐに部屋に入ったけど」

「そ、そうだったの。……ね、ねぇレミィ。私の部屋から、何か聞こえたりしなかった?」

「何かって、たとえばなによ」

「だから、その、ほら! ね、寝言、とか……?」

「聞いてないわよ」

「そう……、ならいいのよ」

「りんのすけー、までしか」

「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」


今日の私は調子がいいらしい。放った『ベリーインレイク』は、まるで吸い込まれるかのようにレミィに命中していった。










「パチェぇ……? あなたと弾幕ごっこなんて、初めて会った時以来ではないかしら……?」

「お、落ち着いてレミィ。私が悪かったわ。謝ります。ごめんなさい」

「……全く。もう寝ようと思っていたのに、これじゃお風呂に入り直さなくちゃならないわ」

「本当にごめんね、レミィ……」

「…………もう、いいわ。からかった私も悪かったし」

「うん……ありがと」

「ええ。それよりも、あなたに聞きたいことがあってきたのよ」

「聞きたいこと?」

「そう。あの男のことよ」

「あの男って、り……香霖堂の店主のこと?」

「あら、私の前だからって遠慮しなくていいのよ? りんのすけーって言えばいいじゃない」

「……この性悪」

「あはは! 冗談よ!」


なんという不覚だろうか。ここまで虚仮にされて、しかも言い返せない状況にまで追い込まれたのは久しぶりだ。
思わず溜息がこぼれてしまう。


「はぁ……。それで、聞きたいことってなんなの?」

「いいえ、もう充分よ。尋ねるまでもなくパチェが全力で主張してくれたから」

「もう……なんなのよ」

「ふふふ。これからどうなるのか楽しみね」

「どうもならないわよ!」

「あらぁ、随分と取り乱してるじゃない」

「レミィ、私をからかうのはやめてちょうだい」

「そうね、次で最後にするわ」


ニヤリ、となんとも嫌な笑い方をするレミィ。


「な、なによ……」

「あなた、椅子で寝ていたのにどうやって自分がベッドまで行ったんだと思う?」

「それは……咲夜が運んでくれたんでしょう?」

「違うわ」

「な、なら自分で行ったのよ。寝ぼけてたから覚えてないけど」

「それも違うわ。親切なあなたの友人が教えてあげましょう」

「え、ええ……お願いするわ」

「あなたをベッドまで運んだのは、森近霖之助よ」

「な!」

「あなたはぐっすり寝ちゃってたらしいけどね。……しかも」

「な、な、な」

「お姫様だっこで」

「っ……!!!」


過去最速で、『賢者の石』が発動した。



[3429] 第3話 不死鳥は赤面症
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2008/10/25 04:28



晩御飯も済ませ、酒を飲みながら本を読んでいた。
その日は良い調子で酒が進み、半時もしない内に酒瓶を一本空けてしまった。
調子良く飲んでいたからか、いつもならそうそう二本目を開けることもないのだが、些かの物足りなさを感じ、二本目を持ってこようとした。
しかし残念なことに今のが最後の一本だったらしく、もう酒瓶は残っていなかった。


(まだ里の飲み屋はやってるよな……)


人間の里には意外と深夜まで営業する店が多い。
人間がいなくなってしまっては妖怪も困るので、妖怪は人間の里で暴れてはいけないという暗黙の了解があるからだ。
特に酒を出すような店は大抵深夜まで営業している。
妖怪達の主な活動時間は夜なので、深夜までやっている飲み屋などでは妖怪と人間が酒を飲み交わす光景も珍しくない。
そういった所でやんややんやと飲むのは僕の性には合わないので、さすがに酒屋はもう閉まっているだろうから飲み屋へ行って直接酒瓶を売ってもらおうと思い、さっそく出発した。
今の時刻はまだ深夜というような時間でもないので、今から行けば確実に店は開いているだろう。










しばらく歩いて人里に到着し飲み屋へ向かおうとすると、ふと遠くの空が紅く燃えているのが見えた。
あれは迷いの竹林の辺りだろうか、誰かが空で弾幕ごっこをしているようだ。
燃えるように紅い鳥が放つ炎の弾幕と、何重にも重ねられた虹色の弾幕が交差する。


(綺麗だ……)


その圧倒的な美しさに、しばし目を奪われた。
空を覆い尽くす鮮烈な紅と虹。
いつまで見ていても飽きることはないだろう、それ程までに洗練された弾幕であった。
しかし、終わりは唐突に訪れた。
虹色の弾幕の一つが紅い鳥へ命中したかと思えば、そこから連鎖的に弾が当たりだした。
しばらく耐えていたものの反撃の機会は与えられず、ついに紅い鳥はその翼を失い地上へと落ちていった。


(良いものを見させてもらったな)


めったに見られないような素晴らしい決闘だった。
落ちていったのはあの翼からして妖怪だろうから、例え地面に叩きつけられてもそうそう死ぬようなこともないだろう。
普段は夜遅くに買い出しなどはしないのだが、こんなレベルの高い決闘を見れるのならわざわざ出てきた甲斐があったというものだ。


だが次の瞬間、僕はそれが高潔な決闘などではなかったことを知る。


「……おいおい」


思わず声が出てしまった。
あろうことか先の決闘の勝者は、地上へと落ちていった敗者に向かって弾幕を放ち始めたではないか。
もう明らかに勝負はついているのにも関わらず、勝者は止めだとでも言わんばかりの勢いで弾を打ち込んでいく。
その弾幕には美しさの欠片も見い出せず、ただ力の塊を打ち込んでいるだけのようだった。
心なしか、風に乗って高らかな笑い声が聞こえてくるような気もする。
そいつはひとしきり打ち続けていたが、やがて満足したのか竹林の奥へと去っていった。


(なんという……後味の悪い……)


あれでは如何に強力な妖怪でも無事では済まないないだろう。いや、それどころか死んでしまっていてもおかしくないような激しい追撃だった。
どうしようか迷っていたところで、自分がとっくに飲み屋を通り越していたことに気付く。
僕の足は、既に竹林へと向かっていた。










迷いの竹林を彷徨い歩く。
この竹林の中には永遠亭がある。
月都万象展が開催された時には、開催中に何度も足を運んだものだ。
月出身の兎がある程度の説明はしてくれたが、向こうも僕一人を相手にし続けるわけにもいかなかったので、結局知ることのできなかった月の道具がまだ多くある。
あの時ほど使い方まではわからないこの中途半端な能力を恨んだことはないだろう。


(そういえばあの時の兎は、別に永遠亭側に落ち度があったわけでもないのに随分と僕に謝ってきたな)


あれは細部に至るまで説明を求めるという単なる僕の我が侭だったのだが、それでもお役に立てずにすみませんと彼女は何度も頭を下げた。
頭を下げる度にぴょこぴょこと上下する彼女の耳を無意識に鷲掴んでしまい、絶叫と共に恐ろしい形の弾幕を飛ばしてきた月の兎。


(結局、すぐにやって来た永琳が一撃で沈めたんだよなあ)


乾いた笑みを張り付けたまま鳩尾へと強烈な一撃を叩き込んだ永琳を真正面から見てしまい、慌てて退散した情けない自分に少し自己嫌悪する。


「……ん?」


今、微かに声が聞こえたような気がした。
声の聞こえた方へ行くと、何かが血だらけで呻いていた。


(あれは……)


その正体は、鳥の妖怪ではなく。


「……妹紅?」

「う……」

「大丈夫か? 今、永遠亭へ連れて行ってやる」

「うう」

「なんだ?」

「うがあああああああああああああああああああああっ!!!!!」

「!!!」


いきなり叫びだした妹紅に驚いて思わず尻もちをついた自分に、本日二度目の自己嫌悪をした。










色々あって、今僕は妹紅をおんぶして彼女の家に向かっている。
あまりに酷い怪我だったので、僕は妹紅を永遠亭へ連れて行こうとしたのだが、彼女は頑なにそれを嫌がった。


「ほら、全身怪我だらけじゃないか。早く医者に見せないと」

「……いいんだよ。ほっとけば治るんだから」

「そんな軽い怪我じゃ……ああ、そうか、君は」

「……ああ。私は、不老不死だから大丈夫なんだ」


何時だったか、霊夢がそんなことを話していた。
不老不死の人間は果たして人間と呼べるのだろうかと、熱い議論を交わしたのを覚えている。気付いたら霊夢は炬燵で丸くなっていたが。


「それにしたって痛みは感じるのだろう? なら……」

「おいおい、ほっときゃ治るって言ってるだろう。それに私がどの面下げて永遠亭に行くって言うのさ」

「それはどういう……?」

「……ああ、あんたは知らないのか。今まで私と殺し合ってたのは、永遠亭の輝夜だよ」

「……なるほど。それは確かに、行けないな」


万象展で輝夜を見た時は、その立ち居振る舞いから正にお姫様だとも思ったのだが、どうやらさっきの姿が本性らしい。
それにしても、先ほどの決闘が単なる殺し合いだったとは。僕の感動を返せと言いたい。


「わかった。医者に行かなくても治ると言うのなら、僕はもう何も言わないよ」

「分かればいいんだよ。ってか、あんたはなんでこんな所に……何やってんだ?」

「ほら、早くおぶさってくれ」

「は……?」

「君の怪我は治るにしたってすぐにとはいかないだろう? だから、今夜は僕が家まで送るよ」

「い、いいよ。こんなの、別に初めてじゃないし」

「そんなにしょっちゅうなのかい……?」

「まぁ、ね。あいつとの殺し合いが日常となってるくらいには」

「……二人とも、仮にも女の子だろうに」

「仮にもってなんだよ。私はれっきとした女だ」

「ああ、これは失礼。じゃあ、早くおぶさってくれ」

「だから……もう、わかったよ。あんた、見かけによらず強情なんだな」

「別にそんなんじゃない。このまま立ち去るのも後味が悪いと思っただけさ」

「ははっ。そういうとこが強情だっていうのさ」


僕におぶさった妹紅は、思った以上に軽かった。










「それで、あんたはなんで竹林なんかにいたのさ」

「酒が切れてしまったから里まで買いに来ていたんだよ。その途中で君らが弾幕ごっこをしているのを見つけてね。あれ……? ということは、あの紅い鳥は君だったのか?」

「紅い鳥……? ああ、あれか。私はスペルカードを発動させる時、炎の翼を纏うんだ」

「なるほど、そういうことだったのか。遠くから見ていたから鳥の妖怪だと思っていたよ」

「私は人間だ」

「ははは、わかっているよ」

「ったく……それにしたって、なんで人里からわざわざこっちまで来たんだよ」

「僕も行くつもりはなかったんだが、永遠亭のお姫様は君が地面に落ちてからも弾を打ち続けていただろう? それを見て、さすがにやりすぎだと思って様子を見に来たんだ」

「……なんというお人よしだ……」

「何を言うんだ。君だから問題なかったが、あれは普通の妖怪なら死んでいてもおかしくない程の攻撃だった」

「まぁね。確かに、最後の弾幕は完全にルール違反だったな」

「そうだろう」

「ま、私も逆の立場の時は同じことしてるけど」

「…………」

「ああもう、なんか思い出してイライラしてきた!」

「……まぁ、お互いが納得してるのならいいか」

「あ、そこ右な」

「はいはい……ん? この道は……もしかして、君は慧音の家の近くに住んでいるのか?」

「ああ? なんでお前が慧音の家を知ってんだよ」

「いや、前に何度か行ったことがあるだけだが……」

「あー、そういや慧音がたまに言ってたっけ。霖之助の昔がどうのこうのって」

「最近は寺子屋が忙しいようで、僕が行くことも彼女が来ることもほとんどないけどね」

「そうだったのか。私は今、慧音と一緒に暮らしてるんだ」

「……へえ。それは、良かった」

「ん? なにが?」

「いや、なんでもない。ほら、もうすぐ着くよ」

「はいよー」


本当のお人よしというのは、上白沢慧音のような者のことを指すのだろう。
彼女は自分が傷つくことも顧みず、人間を助けようとする。
見返り等も一切求めず、逆に親切過ぎてこちらが疑ってしまうくらいだ。
悲しいことや辛いことがあってもそれをおくびにも出さず、一人で抱え込むような、そんな慧音は。


(そうか……慧音は、支えてくれる友を得たのか……)


それは、本当に。


「本当に、良かった……」

「だからなにが?」

「……ほら、到着だ」

「まぁ、いいや。ありがとな」

「もうだいぶ傷も塞がってきているな。これなら後は自分でできるだろう。僕はこれで帰るよ」

「何言ってんだよ。ここまで運んでくれたあんたをこのまま帰せるわけないだろう?」

「いや、ちょっとした収穫もあったんでね。今からでも里に戻って酒を飲みたい気分なんだ」

「ならうちで飲んでけよ。今夜は慧音がまだ帰ってないから酒の相手がいないんだ」

「慧音はまだ帰ってないのか? そういえば、明かりが点いていないな……」

「慧音は里に行ってるよ」

「なんだ……じゃあ、僕はすれ違っていたのかもしれないな」

「酒を飲むために里に行くんだったら、うちで飲んでっても同じだろ。。ほら、何の問題もないじゃないか」

「いや、それでも……」

「あ」

「……なんだい?」

「服」

「服?」


妹紅が鏡を持ってきて、僕の後ろに回った。
背中を見ろということなのか、僕は首だけ動かして鏡越しに自分の背中を見る。


「あ」

「……ごめん」


僕の背中と後ろ髪は、妹紅の血で真っ赤に染まっていた。










そんなことがあったので、妹紅は余計に僕を強く引き留めた。
他人の血が付くというのは確かに気持ちの良いものではないが、僕自身妹紅を背負えば血が付いてしまうということを失念していたので特に気にしなかった。
だが、彼女は不老不死の自分の血を他人に付着させてしまったことにかなり慌てていて、一刻も早く血を洗い流すように言ってきた。


「なら、なおさら早く家に帰って風呂に入りたいんだが……」

「わかった。風呂だな。直ぐに沸かすからあんたは服を脱いで待っててくれ」

「いや……ここの風呂じゃあなくてだな」

「不老不死になったらどうすんだ!」

「いや……いくら君が不老不死だからって、君の血を浴びたくらいで僕まで不老不死になったりはしないよ」

「そうかもしれないけど、そうじゃなかったら私は……私は……!!」


妹紅は混乱しているようで、こっちの話を落ち着いて聞く余裕はなさそうだった。
仕方がないので、彼女の言うとおりにしようとした。
しかし。


「そうか! 私の炎で血を蒸発させればいいのか!」

「待て! 君の言うとおりにする! だからそれはやめろ!」


掌に炎を生み出した妹紅へと、僕は必死で言ったのだった。










いざ脱衣所で服を脱ぐと服の背中から膝裏の辺りまでぐっしょりで、かなり血が染み込んでいたことがわかった。
妹紅は溜めた水の中に手を入れて、生み出した炎の熱を利用して一瞬で風呂を沸かし、落ち着かない様子で僕の着替えを手伝おうとした。


「おいおい、子供じゃないんだから」

「いいから早く脱げ!」

「うおっ! わかったよ、わかったから服を引っ張るな」

「うう……」

「ああ……それとな、君がいると脱ぐに脱げないんだが……」

「私のことは気にするな!」

「いや……気にするよ、普通……」

「頼むよ……頼むから……!!」

「…………」


よく見れば妹紅は、その瞳にうっすらと涙をにじませていた。
尋常ではない妹紅の様子に驚きつつも、これはもう仕方がないかと腹を括った。
僕は彼女の両肩に手を置き、強めに言う。


「わかったよ、妹紅。だからせめて、後ろを向いていてくれ」

「……ああ、その……すまない、取り乱してしまって」

「ああ。それじゃあ僕は風呂に入らせてもらうから」

「うん……」


妹紅も少しは落ち着いたようで、僕は風呂場へ入った。
とりあえず先に髪の毛に付いた血を落とそうとしたところで、後ろの扉が開いた。


「髪の毛は私に任せろ!!」


前言撤回。
妹紅は少しも落ち着いてなどいなかった。










「痒いところはないか?」


妹紅が袖と裾をまくって、僕の頭を洗いながらそんなことを聞いてくる。


「……ああ」

「そうか、それは良かった」

「というか、さっきから明らかに後ろ側だけしか洗ってないんだが……」

「完全に血が落ちるまで洗い続けるからな」

「……さすがに十回も洗えば完全に落ちてると思うよ……」

「うん……でも、まだ見えない所に付いてるかもって」

「……そう言ってからもう五回は洗ったよ……」

「う……でも……」

「なあ、妹紅。君は妖怪退治を生業としてきたのだから、今までにもこういうことは経験しているだろう? その内一匹でも不老不死になった妖怪はいたかい?」

「それは……いない、と思うけど」

「だろう? こんなことで不老不死になるはずがないのさ」

「…………」

「……妹紅?」

「…………昔は」

「…………」

「…………」

「……ああ、話してごらん」

「…………」

「…………」

「…………私が、不老不死になったばかりの頃は、そういうこともたくさんあったよ」

「うん」

「普通の人間とは一緒に生きられないと理解してから、妖怪を倒せるほどの力を得るまでは何回も死にかけた……いや、死んで生き返って、死んで生き返ってを繰り返したって方が正しいかな」

「……うん」

「でも、段々と妖怪にも勝てるようになって。怪我もしないようになって。そして、完全に圧倒するようになった」

「……そうか」

「もう、何百年振りだよ。誰かに、不老不死以外の者に私の血を浴びせたのは……」

「そうだったのか……」

「わかってるんだ。血がかかったくらいで不老不死が移るはずはないって。……でも私は、もう誰にも不老不死なんかになってもらいたくないのさ」

「……ああ」

「だからな、私は、私のせいで誰かを不老不死にするくらいなら……」


頭から、お湯をかけられる。
だからそれは、きっと僕にはよく聞こえなかったのだ。


「刹那も迷わずそいつを殺すよ」


後悔しているのか?
そんなこと、聞けるはずもなかった。










その後、妹紅は「充分あったまってから出て来いよ」と言って、風呂場から出て行った。
僕は普段から長風呂はしない方で、ほとんどを水浴びで済ませてしまう。
風呂が嫌いというわけではなく、単に自分しか入らないのに風呂を沸かすのが面倒なだけだ。
だから風呂にゆっくり浸かるのは久しぶりで、とても気持ちが良い。
しかしそれ以上に、誰かに頭を洗ってもらうという、このなんともむずがゆい気持ちに整理がつくまではとても出る気になれなかった。
しばらく何も考えずに体を温めよう、そう思うのだが、頭には妹紅のことが浮かんでは、消える。
不老不死。
終わりのない時を生きる人間。
不老不死の人間は果たして人間と呼べるのかという疑問。
その答えは既に得ている。
もしも、今日僕が彼女の血を浴びたことで不老不死となってしまっていたのなら。
もしも、彼女がそれに気付いた時、もう僕を殺すことが不可能であったのなら。
妹紅は、終わることのない彼女の時間全てを僕に捧げるのだろう。



そんな弱い生き物は、人間しかいない。










風呂場を出ると、僕の着替えらしき服が置いてあった。
どうやら着物のようだ。
豪勢な物ではなく寝まき用の着物だったが、見たところ、あまり使われた様子はないがかなり古いものだと分かる。
この家には慧音と二人で暮らしていると妹紅は言っていたが、なぜ男物の着替えがあるのだろうか。
着てみると大きさはほぼ僕に合っていて、古い生地特有の匂いがした。
この匂いは嫌いではない。


「妹紅、出たよ」

「おう、どうだった?」

「いいお湯だった。こんなにゆっくり浸かったのは久しぶりでとても気持ちが良かったよ」

「そうか。それじゃあ私もひとっ風呂浴びてくるから、帰らないで待ってるんだぞ」

「わかっているよ。ああそれと、この着物なんだが……」

「それは、私の父上の着物だ」

「え?」

「いや……正確には違うんだけど、それは生前父上が愛用していた寝巻きと似てる気がするんだよ。といっても、父上の寝間着姿なんて一度しか見たことがないからもしかして全然違うかもしれないけど」

「ああ、そういうことか」

「ちょっと前にたまたま里の服屋で見つけてね」

「しかし、これは相当高かったんじゃないか?」

「いやまあ、最初は高くてとても手が出そうになかったんだけどさ。何年か後に竹林で妖怪に襲われていた子供を助けたら、その子はその服屋んとこの子供だったんだよ。何かお礼をって言うから服を一着貰おうと思って見て回ったら、まだその着物が残ってたんだ。だからお礼としてその着物をもらうことにしたってわけ」

「へえ……。でも、ならなおさら僕が着てしまっても良かったのかい?」

「いいんだよ。この家にあってもその着物を着るやつはいないからな。ようやく着てもらえて、その着物も本望ってもんさ」

「そうか……」

「ああ。酒とつまみを用意しておいたから、私が出るまで先にやっていてくれ」


そう言うと、妹紅は風呂場へ歩いていった。
何はともあれ、着物を貸してくれたのは助かった。










「なんだ、飲んでないじゃないか」

「妹紅。もう出たのか」

「あー、いつもはもうちょいゆっくりなんだが、今日はあんたを待たせてるからな」


僕は縁側で月を見ていた。
満月ではないが、良い夜だ。
風呂上りの妹紅の髪はしっとりと濡れ、、風通しの良い恰好をしている。


「気を遣わせてしまったね」

「いんや、まぁとにかく飲もうぜ」

「ああ、貰うとしようか」


妹紅が酒を注いでくれたので、こちらも注ぎ返す。
特に何かを話したりはせず、時々口を開く程度で、僕らは酒を楽しんだ。
慧音はまだ帰ってきていない。もうそろそろ日付が変わるような時間だ。
妹紅が言うには、人里で何か問題が起こると遅くまでそれに付きっきりになることが度々あるのだそうだ。
君は行かなくていいのかと尋ねると、慧音は本当に困った時には私に手伝いを頼むし、そうじゃない時に手伝ってもかえって慧音を困らせるだけと答えた。
慧音がどれだけ妹紅を信頼しているかが分かる。
気付いたらいつの間にか杯が空になっていて、それに気づいた妹紅がまた酒を注いでくれる。


「……ふふっ」

「……なんだい、いきなり笑い出したりして」

「いや! 何でもない! 笑ってない!」

「まぁいいが……ほら、もう一杯」

「あ、ああ。ありがと」

「こちらこそ、こんなに美味い酒を飲ませてもらうんだ。これくらい当然さ」

「そ、そうですね……」

「? なんでいきなり敬語なんだ?」

「な、何言ってる! 私は敬語なんか使ってない!」

「なんだ、もう酔ったのか」

「酔ってない!」

「ははは、妹紅が下戸だったとはなあ」

「だから、私は酔っていない! さっきは! あー、さっきは、その……」

「その?」

「その、なんだ、あんたが、その」

「なんだ、はっきりしないな」

「その、な、なんだか、父上と酒を飲んでいるような気がして……」

「なんと。君はその頃から父親と酒を飲むような娘だったのか」

「飲んでない! それどころか私は父上にお酌すらしたことはないよ……」

「そうなのかい?」

「ああ。昔はそれが普通だったんだ」

「それは、少し寂しいな……」

「でも、あんたがその服を着ているからかもしれないけど、なんとなくそんな気になったんだ」

「そうか……」


妹紅はそれきり黙り込んでしまった。
今までとは違う、少し気まずい雰囲気だ。
仕方がない、少し強引に話題を逸らすことにした。


「そういえば、先ほどの君は随分と可愛かったな」

「へ!? な、何をいきなり言い出すんだ!」

「ほら、脱衣所で涙目になっていたろう? あの時の妹紅は可愛かったなあ」

「な、何言ってんだこの馬鹿!」


本当だ。何をいきなり言い出すんだ僕は。
妹紅を下戸だなどと馬鹿にしておきながら、僕にも少し酔いが回ってきたのだろうか。


「馬鹿とは心外だな。可愛いものを可愛いと言って何が悪いんだ」

「いや、だから私は可愛くなんか……」

「妹紅は可愛いよ」

「か、可愛くない」

「顔が真っ赤になってるところも可愛いよ」

「ま、真っ赤になんてなってない!」

「ところがどっこい、君の顔はまっかっかである。だがそれも可愛い」

「可愛くないってば!!」

「なんで可愛くないと思うんだ?」

「いや、だ、だって私はがさつだし、男っぽいし、化粧とかもしないし……」

「はっはっはっはっは!」

「うわっ! なんだよ、びっくりするだろう!」

「君は何にも分かってないんだなあ。仕方ない。ここは僕が、君の可愛さについて存分に語ってあげようじゃないか」

「なっ! おい、やめろ!」

「任せてくれ。こう見えても客商売をしてるんだぞ? 僕の舌はよく回ると、幻想郷では有名なんだ」

「私は聞いたことないが……」

「まずは、君の長い髪から順に説明していこうか」

「ちょ! 私の話を聞けっ!」

「おいおい、酔い過ぎだろ妹紅。話を聞くのは、僕じゃなくて君じゃないのかい?」

「言葉の意味がわからん……そして酔ってるのは間違いなくお前だ!」

「では始めるとしよう。君の顔は―――――」

「髪の話じゃないのかよ!?」


目利きには少々自信がある。
店では客が来る度に商品の長所を探し、それが最大限に伝わる言葉を厳選する。
そんなことを何年と繰り返しているのだ。物に限らず、何かを褒めるのは嫌というほど慣れている。
僕は妹紅を見る。
彼女は面倒くさそうな顔で僕を見ている。
まるで、僕を酔っ払いと認識しているような、そんな目だ。
失礼な。僕は酔っぱらってなどいない。
これから妹紅の可愛い所を、頭のてっぺんから足の爪先に至るまで、彼女に教えてあげねばならないのだ。
外見だけでなく内面も重視し、彼女にまつわる話を記憶から引きづり出す。
そう。
今から僕は。
不老不死の彼女を。





褒め殺す。

























翌日に慧音から聞いた話なのだが、妹紅は酒には滅法強いらしく、博麗神社で行われる宴会でも最後まで小さな鬼と飲み合える程らしい。
つまり、酔っぱらっていたのは、最初から僕だけだったということだ。
慧音が帰ってきたのは明け方頃だったようで、縁側で寝てしまっている僕らを発見し布団まで運んだのだと言う。
酒に強いというのなら、なぜ妹紅まで縁側で寝てしまったのかはわからないが、数時間前に大怪我をしていたこともあってきっと疲れていたのだろう。
妹紅は血がとれそうもない僕の服は燃やしてしまったらしく、代わりにと言って今僕が借りている着物をくれた。
少し挙動不審だったが、別れ際に「また来いよ」と言ってくれたので、僕の勘違いだろう。
迷惑をかけたと二人に詫びて、僕は香霖堂へと帰ることにした。

























「霖之助は昔から酒に弱かったが、妹紅が酔い潰れるなんて久しぶりだな」

「私は酔い潰れてなんかないよ」

「でも、私が帰ってきた時は縁側で寝てたじゃないか」

「それは……」

「顔も真っ赤だったし」

「それは!」

「な、なんだ。いきなり大きな声を出して……」

「い、いや、すまん。とにかく、顔が赤かったのはあいつのせいで、っていやそうじゃなくて、ああもう、そうだよ酔ったんだよ酔い潰れたんだよそういうことにしてくれよ!!」

「ふふふ、久々の二日酔いで取り乱すなんて、可愛いとこあるじゃないか」

「私は可愛くなんかない!」

「? 妹紅は充分可愛いと思うが……」

「慧音もか、慧音まで私を裏切るのか!?」

「何を言って……」

「くそぅ……ちょっと輝夜殺してくる!!」

「あ、おい! 妹紅!」





その日。
迷いの竹林の上空で行われた弾幕ごっこは、怒れる不死鳥の圧勝だった。



[3429] 第4話 かぐや姫の初恋
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2008/12/10 09:02


ある日、霊夢が怪我をした。
いきなり香霖堂に来た霊夢は肩から出血していたので、僕は急いで手当てをした。
彼女は博麗神社から香霖堂に来るまでに弾幕ごっこをしてきたらしく、その際に敵の弾幕に掠ってしまったようだ。
怪我自体は軽いもので、巫女服から露出した肩を少し擦り剥いただけだった。
彼女の手当をしながら、僕は言った。


「珍しいじゃないか。君がそこらの妖怪に後れを取るだなんて」

「……別にそんなんじゃないわ。掠っただけで被弾したわけじゃないし、その後すぐに夢想封印で倒したし」

「それはそうかもしれないが、掠るほどの相手でもなかったんだろう?」

「まぁ、そうなんだけどね。……でも、せっかく霖之助さんに会うんだから、服を汚されるのが嫌だったのよ。結局、そのせいで掠っちゃったんだけど」

「服を気にしながら無傷で勝てるほど相手も弱くなかったわけか」

「…………」

「どうした?」

「……私、今、すごく勇気を出して言ったんだけど……」

「何をだい?」

「……もう、いいわ……」

「? そうか。……っと、よし。こんなもんでいいだろう」


包帯を巻き終わり、お茶でも入れてこようと台所へ行く。





「……はぁ。霖之助さんの本当の能力は、『他人の好意に気付かない程度の能力』なんだとしか思えないわ……」


お茶を持って帰ってくると、なぜか霊夢は不機嫌そうだった。










霊夢はしばらく店にいたが、夕方には神社へ帰った。
いつもより少しばかり早かったが、怪我をしていることもあり僕が帰宅を促したのだ。
霊夢の巫女服は弾幕ごっこで多少の傷を作っていたので、彼女は店に置いてある替えの巫女服に着替えていった。
というか、僕の部屋にある箪笥の一段が霊夢の巫女服専用となっているのは、修繕を任されるのがほとんど僕であるという点を差しおいてもどうなんだろうか。
巫女という特殊な立場ではあるが、霊夢だって年頃の女の子だ。
半妖とはいえ男である僕に対して、少しは恥じらうような気持ちがあってもいいと思うのだが。


(まあ、信頼されていると思えばそれも悪い気はしないな……)


最近の霊夢はこれといった用事もなく店に来ることが多い。
博麗神社には参拝客がほとんど来ないらしいから、彼女も暇な時間が多いのだろう
とはいっても閑古鳥が鳴いているのは香霖堂も同じなので、客でなくとも話し相手がやってくるのは僕も嬉しい。客として来てくれればもっと嬉しいということは言うまでもないけれど。
僕は静寂を好むが、けしてお喋りが嫌いというわけではないのだ。


(それにしても、怪我、か……)


僕には医学的な知識というものがあまりない。
病気にかかることはめったにないし、あってもすぐに治ってしまう。
外に出ること自体が少ないので、怪我をすることもほとんどない。
それでも長く生きていれば怪我はするものなので、消毒の仕方や包帯の巻き方は自然と身に付いた。
あくまで素人の知識ではあるが、そもそも半妖の僕は傷の再生も人より早いので困ったことはなかった。
だが今日、霊夢の手当てをして少し思うところがあった。
もし、もっと深い傷だったら。
もし、怪我をしたのが頭や胴体だったら。
僕は霊夢に適切な処置を施すことができただろうか。
もちろん、重傷であるならば永遠亭に連れて行くのが一番いい方法だろう。
だがもし、その場から動かすことも危ういような状況だったら。


(応急処置の重要性は理解しているし、人間という種族の体の脆弱さも知っている)


巫女という立場にいる霊夢は、とにかく荒事に巻き込まれることが多い。
霊夢と一緒にいることが多い魔理沙も、能動的か受動的かはさておき、荒事に関わることが多い。
咲夜は、まあ、僕が関与するところではないのだろうけれど、あの吸血鬼の従者がいつも平穏に、とはいかないだろう。
早苗は信仰獲得のために、自ら進んで異変に向かっていく傾向がある。


(……そしてこの娘たちが人間の少女だってことも、僕は知っている)


この娘たちは強い。人間でありながら、妖怪を真っ向から倒せる程の力を持っている。
そして偶然にも、この四人の人間は香霖堂の常連である。皆往々にして何を買いに来るわけでもなく、お茶を飲み少し喋ると満足して帰るような客ともいえない客ではあるが、それでも僕にとって大切な人間であることに変わりはない。


(少し、勉強してみるかな)


医学の知識は、僕にとってもあれば役に立つものである。
さしあたっては永遠亭で医学書でも借りてこようかと、そう思った。




















永遠亭に行くには迷いの竹林を抜けなければならない。
竹林の地理を熟知しているわけではないが、永遠亭にたどり着けないほど道を知らないわけでもない。
一人で竹林に向かって歩いていると、不意に地面が揺れた。
見上げれば、竹林の方で昼間から弾幕ごっこをする元気な奴らがいるようだった。
といってももう決着はついているらしく、空を飛んでいるのは一人だけのようだが。


(あれは……妹紅か?)


大きな炎の翼。
遠目に見ると火の鳥のようなその姿は、間違いなく妹紅だろう。


(ということは、相手は永遠亭のお姫様か)


しかし、空を飛んでいるのは妹紅だけである。
さらに妹紅は、地面に向かってありったけの弾を放ち始めた。
……心なしか、風に乗って高らかな笑い声が聞こえてくるような気もする。


(前にも似たようなことがあったな……)


妹紅は最後に特大の一発を放つと、満足そうに去って行った。家に帰るのだろう。


(これから永遠亭に向かうというのに、見捨てて行くわけにも行かないじゃないか……)


いっそのこと日を改めて見なかったことにしたい気持ちもあったが、同じような状況で妹紅をおぶって家に送ったこともあったので、ここで引き返すのはなんとんなく気が引けた。


「まあ、これで医学書も借りやすくなるかもしれないしな」


わざわざ口に出してから、輝夜のもとへ向かった。










輝夜はすぐに見つかった。
だがここで予想外の事態となってしまった。
当初は、輝夜を見つけたら、意識があればどうするか彼女に相談し、なければ妹紅と同じようにおぶって永遠亭に連れて行くつもりだった。
輝夜は意識がなかった。しかし、僕があることで固まっている間に少し回復したのか、しばらくすると薄目をあけて僕を見た。


「…………」

「…………」

「……えーりん? ……ぼさっとしてないで、はやく屋敷に連れてってちょうだい……」

「あ、ああ……?」


呟くようにそう言うと、輝夜はまた目を閉じた。


(えーりん? 僕を八意永琳と間違えたのか?)


意識が朦朧としていたのだろうが、長年付き添っている自分の従者と、性別すら違う僕を間違えたりするものだろうか。
ともかく、お姫様は自分を屋敷に連れて行けとのことだ。
もともとそのつもりだったので、輝夜をおぶるか抱き上げるかして永遠亭に連れて行きたい。
行きたい、のだが。


(む、胸が……)


はだけている。見事に全部が。
はだけているというよりかは、右袖から胴体にかかるところまで着物が燃えてしまっていて、めくれてしまっているというほうが正しい。
全身ぼろぼろで、特に右肘から手先までが黒こげになっているので、官能的な美しさよりも先に瀕死状態の危うさの方を思わせるのだが、逆にそれが真っ黒の右腕と対照的に雪のような胸の白さを際立たせる結果となっていると言えば、その通りであるとしか言いようがない。


(とにかく、何か被せなくては……)


持っていた手ぬぐいでは色々と覆いきれないと思い、仕方なく僕の上着を輝夜の体に被せる。
僕の上着も着物のように帯で固めるものなので、しっかりと留め、それから輝夜をおぶった。
遠くで誰かが輝夜を呼んでいる声がする。どうやらお迎えが来たようだ。


(危なかった……。もう少し迎えが早かったら嫌な誤解をされていてもおかしくなかったな……)


上着を脱ぐと少し肌寒い気がしたが、背中から輝夜の体温が伝わってきて、すぐに気にならなくなった。










迎えに来たのは鈴仙とてゐだった。


「も、森近さん!? ど、どどど、どうしてここに!!」

「少し永遠亭に用事があってね。ついでに君のとこのお姫様も拾って来た」

「ひ、姫さま!」

「あー。おんぶいーなー。あたしにも後でしてー」

「残念だけど、今日のおんぶは輝夜で売り切れだ」

「えー」

「こら、てゐ! わがまま言わないの!」

「じゃあいつものちょうだい! そしたら我慢してあげるから」

「ああ。そう言うと思って用意して来たよ」


鞄から小さな袋を二つ取り出す。輝夜をおぶっているから取り出しづらく、少し手間取った。


「ほら」


袋の一つをてゐに差し出す。


「えっへへ。ありがと!」

「ほら、鈴仙も」

「へ? は、はい、ありがとうございます」

「おいしー」

「それはよかった」

「これは……金平糖、ですか?」

「ああ。前にてゐにあげたら凄く気に入ったみたいでね。それ以来ここに来る時はそれをてゐにあげているんだよ」

「そ、そうだったんですか……」

「帰りにもちょうだいね」


ぽりぽりと金平糖をかじりながらてゐが笑顔で言う。
もちろん僕は何の見返りも無しに金平糖を供給しているわけではない。
てゐの能力は『人間を幸運にする程度の能力』だ。
僕は半人半妖なので効果も半分なのだろうが(半人半妖は人間ではないので効果は全くない無い、とは思いたくなかった)運とは努力や根性でどうにかなるものではない。
そういった意味で、てゐの能力はそこいらの妖怪よりもずっと価値のあるものだ。
金平糖をあげるくらいでその恩恵をこうむるころができるのならば安いものである。
それに、そういった損得勘定を抜きにしても、てゐの笑顔はそれだけで僕を和ませる。


「てゐ! 森近さんに迷惑かけない!」

「えー。でも、レイセンちゃんだって金平糖好きでしょ?」

「そ、それは……好きだけど」

「だったら一緒にもらおうよ」

「で、でも……」

「まあまあ落ち着け二人とも。そんなに騒ぐと君たちの姫さまが起きてしまう」

「あ……す、すみません……」

「店主ー。姫さまは大丈夫?」

「まあ、輝夜は不死だから体は大丈夫だろう。今は疲れて寝ているだけだと思う」

「そうですか……」

「君たちは輝夜と妹紅の決着がつくのをいつも待っているのかい?」

「はい。昔は姫さまの圧勝でしたからいちいち勝敗の確認なんてしなかったんですけど、最近は妹紅にやられることも少なくないんです」

「そうなのか……」

「でも、姫さまは負けても楽しそうだよ」

「楽しい?」

「そうですね。こうでなくちゃ面白くない、って言ってましたし」

「ふうん……」


不死である二人は、寿命のある僕たちにはわからない何かを共有しているのだろう。
そこに親近感や連帯感といった感情が生まれ、二人を運命共同体のようなものに変化させたのだと思う。


(まあ、いくら考えたところで僕が理解することはないだろうが……)


「そういえば、さっき用事って言ってましたけど、もしかしてどこか具合が悪いんですか……?」

「ん? ……ああ、いや違うよ。医学書を借りにきたんだ」

「医学書ですか?」

「勉強するの? えらいねー、店主は」

「ははは。まあ、そんなところだ」

「でも、一口に医学書と言っても、妖怪用と人間用では内容もかなり違いますよ。それに……」

「半人半妖に効果があるかはわからない、かい?」

「……はい。すみません……」

「君が謝ることじゃないよ。それに今回は、人間用の医学書を借りれればそれでいいんだ」

「そうなんですか?」

「店主は、どっちかっていうと人間寄りなの?」

「……どう、だろうね。自分は半人半妖であると昔から思っていたから、どちらに寄っているかなんて考えたこともなかった」


確かに半人半妖とはいえ、その割合が五分と五分であるとは限らない。
これはなかなかに面白い着眼点だと思った。
だが同時に、これを追究した先にあるのは自分が半端者だという証明だけだとも思った。


「あ、お師匠さまだー」

「ん?」

「ホントだ。いつもなら治療室で待ってるのに……って、アレ? なんか、師匠の機嫌、最悪じゃない……?」


永遠亭の入口が見えてくる。
門の前には、額に青筋を立て、絶対零度の笑みを浮かべる八意永琳が仁王立ちしていた。










「や、やあ。こんにちは、永琳」

「ええ。こんにちは、霖之助」

「突然ですまないね。その、少し用事があって……」

「後で聞くわ」

「そ、そうかい……。そうだよな。いきなり来て、そっちにも都合というものがあるからね……」

「ええそうね。とりあえず一刻も早く姫様を渡してもらいたいのだけれど」

「あ、ああ。わかった」


輝夜は小さな寝息をたてていたので、揺らさないように永琳に引き渡した。
永琳は輝夜を鈴仙に預けて、僕に言った。


「ねぇ霖之助」

「な、なんだい?」

「私、今とても気になることがあるのよ」

「そ、そうか。何が?」

「なんでウチの姫様は、あなたの服を着ているのかしら?」


当然といえば当然の質問だ。
だが取り乱す必要など全くない。
僕はあの状況で最善を尽くしたと胸を張って言える。
そう、胸を張って。
胸を……。
胸……。


「悪気はなかったんだ」

「歯を食いしばりなさい」


女性に思いきりグーで殴られるというのも、ある意味貴重な経験だと思った。
そう思わなければ、やっていられなかった。










その後、永琳は輝夜を連れて奥へ行き、僕は鈴仙に治療をしてもらっている。


「痛くありませんか?」

「ああ……。心以外は痛くないよ……」

「そ、そうですか……」

「処置なし、ってやつだねー」

「て、てゐ!」

「いや、不可抗力とはいえ殴られるだけのことをしたんだ。納得は……してるよ」

「してないんだねー」

「してるさ。というより、こういったことには慣れてるんだ」

「慣れてる……?」


鈴仙がじと目で僕を睨む。


「いや、勘違いしないでくれよ。こういったことというのは、理不尽な目に遭うことだ」

「あぁ、そっちですか……」


ほっとしたように、うつむき気味に笑みをこぼす鈴仙。
そこでほっとするのは僕に対して失礼ではないかと思ったが、特に何も言わなかった。


「ああ。なぜかはわからないが、僕の店には冷やかしのような客が多くてね。来ても何も買わずに僕と喋るだけで帰って行くような客ばかりなのさ」

「それって、もうお客さんじゃないと思うんですけど……色んな意味で」

「全くだ。それでいて人のことを鈍感だの朴念仁だのと罵倒する、嫌がらせに来たとしか思えないようなやつらばかりさ」

「店主は商売の才能がないからねー。あたしの方がよっぽど上手くできるよ」

「て~ゐ~!!」

「ははは。いいんだよ。自分に商才がないのは自覚しているから」

「そ、そんなこと……」

「あるんだな~、これが」

「いい加減にしなさいっ!」

「やあねえ。そんなに怒んないでよ。ちょっとした冗談じゃん」


てゐは怒鳴る鈴仙の脇をするりと抜けて、くるんとこちらに振り向いた。


「じゃあ、あたしはお師匠さまに報告してくるね」

「はぁ……わかったわ。いってらっしゃい」

「はーい」


そう言うと、てゐは軽快に部屋を出て行った。


「……ふぅ。なんか、すみません。り、りり、りんのすけ、さん……」

「君も相変わらずだね。二人きりにならないと僕の名前を呼ばない」

「だって、その、他の人の前だと……恥ずかしくて」

「まあ、いいけどね」


鈴仙は人前だと絶対に僕の名前を呼ばない。
反対に、僕は彼女の『レイセン』という名前の響きを気に入っていて、どちらかといえば好んで彼女の名前を呼ぶ。
鈴仙は寒くないですか?と聞きながら、患者用なのだろう、男物の上着を僕に渡した。


「うぅ~。私ももっと、霖之助さんって呼びたいんですけど……」

「呼びたいのなら呼べばいいだろうに」

「そ、そうはいかないのが女の子なんですよぅ……」

「? よく分からないな。……あ、もしかしてアレかい? 月の兎は家族や恋人のような深い関係でないと、相手の名前を呼んではいけない風習があるとか」

「こっ! 恋人ですか!!」

「とか、家族もね」

「か、家族……そ、それはつまり、夫婦ですね!?」

「まあ、夫婦でもいいが……」

「…………」

「鈴仙?」

「……うふ、ふふふ……」


鈴仙の眼が、爛爛と赤く輝いている。
どこかに旅立ってしまったようだ。


「う……」


頭がズキンと痛む。
鈴仙の瞳を見てしまったせいで、彼女の能力にあてられたみたいだ。


(……能力?)


赤く赤く、真っ赤に光る鈴仙の瞳。


「暴走してるじゃないか……」


なんてやっかいな能力だ。
暴走して自滅するというのならまだ可愛げもあるというのに、自分の瞳を見た者を片っ端から狂わそうとするなんて。


「仕方ないな……」


鈴仙からは禁止されているが、彼女を正気に戻すためだ。非常時ということで許してもらおう。
僕は鈴仙の長い耳をむんずと掴み、軽く引っ張った。
長い両の耳を頭の上で一つにまとめる感じだ。


「うきゃう!!」

「なかなか個性的な悲鳴だ」

「ひゃ、ひゃめれくらはい!!」

「君のその癖もまだ直っていないんだね」

「みょ、みょりひかひゃん~!!」


鈴仙は耳を掴まれると、ろれつが回らなくなってしまう。
体からも力が抜けてしまうようで、今も立っている足がぷるぷると震えている。
涙目になって僕を下から睨みつけるが、なんとも間抜けな構図であるため効果は全くない。


「お、おちちゅいて、ひゃなしあいまひょう!」

「君さえ落ち着けば全ては解決するんだよ」

「ど、どうゆうきょとでしゅか……?」


鈴仙の目からじわっと涙が溢れそうになる。
ついにはへなへなと座り込んでしまい、無言で僕を見つめ出した。
さすがにやりすぎたと思い、耳を離そうとした時、てゐが部屋に飛び込んできた。


「姫さまが起きたよー!」


てゐの登場で機を逸してしまい、僕は鈴仙の耳を掴んだままだ。
てゐは力なくうなだれる鈴仙を見て、ニヤリと笑った。


「なぁにぃ? どういう遊びなのぉ?」

「て、てゐ! たしゅけちぇ!」


てゐは座り込んでいる鈴仙の目線に合わせてかがむと、彼女のほっぺたをつまんだ。


「レイセンちゃんをいじめて楽しむ遊び?」

「ひゃ、ひゃめ……!!」

「おい、てゐ……」

「さっすが店主。兎の扱い方というものをわかっていらっしゃいますねー!」

「……!!」


そこで鈴仙が反撃にでた。目の前にあるてゐの耳を掴み上げたのだ。


「ちょ!みゃ、みゃって!やめれ!!」

「きょれであんらもひゃべれないれしょ!!」

「ひ、ひやー!」

「あらしだっていやらったにょ!!」

「やーめーれー!!」

「あんらがひゃきにひゃなしなしゃいよ!!」

「れいしぇんちゃんのばかー!!」

「ばかにゃのはあんられしょ!!」

「!!」

「!!」

「!?」

「!!」


もう、泥沼だった。
お互い相手の悪口しか言わない、子供の喧嘩だ。
傍から見ていたなら微笑ましくもあるのだろうが、鈴仙の耳を掴んでいる限りは僕も当事者だ。
はっきりいって、このレベルの低い口喧嘩の関係者だとは思われたくない。
だがここで鈴仙の耳を話したらてゐの圧倒的不利となってしまう。
どうでもいいといえばどうでもいいのだが、どちらかに肩入れすると後が怖い。
そんなこんなで迷っていたが、僕の迷いは第三者の登場によって見事に断ち切られることになった。


「あなたたち……大丈夫?」


扉の向こうに、憐みの表情を浮かべた八意永琳が立っていた。


(そういえば、ここは病院だったな……)


治療室の前に、『辛いこと、悲しいこと、心の悩みなど、なんでも相談してください。 八意永琳。』と、そんな張り紙があったのを思い出した。










「あなたはもっと落ち着いた、静寂を好むタイプだと思っていたんだけど……」

「間違ってないよ。僕はそういうタイプだ」

「認識を改めないといめないようね」

「おいおい、間違ってないと言っているだろう?」

「でも、さっきのあれを見ちゃったら、ねぇ?」

「……あれは、不幸な事故だったんだよ……」


僕は今、鈴仙たちとはいったん別れ、永琳の案内で輝夜の部屋に向かっている。
僕としては医学書を借りたらさっさと帰りたかったのだけれど、輝夜を拾って来たことで彼女に面会しなければ帰れない状況になってしまった。
どのみち目的は果たしていないので、まだ帰ることはできないが。


「なあ、永琳」

「なに?」

「あの娘は怒っているのかい?」

「姫様? ……あぁ、見ちゃったことね。別に怒ってはいないんじゃない?」

「と、言うと?」

「私は姫様に、自分をここまで運んでくれたお礼を言いたいから呼んできて、って言われただだから、なんとも言えないわ」

「思いきり殴っておいてよく言うよ……」

「やあねぇ。私が思いきり殴ってたら、今頃あなたの首はもげてるわよ」


背筋がぶるりとして、鳥肌がたった。


「は、ははは。そうかい……。というか、彼女は僕が、その、見てしまったことを知っているのかい?」

「うーん……っていうかね、姫様は自分を運んだのが私だと思っていたらしいのよ」

「ああ……そういえば、僕のことを永琳と呼んでいたよ」

「だからね、はっきりとは言ってないけど、実は姫様を運んだのは霖之助ですって言った時に分かっちゃったんじゃない?」

「じゃない?って……、随分と無責任だな」

「……私も、共犯みたいなものだからね」

「共犯?」

「姫様が妹紅に負けた時は、いつもうどんげとてゐに迎えに行かせてるのよ。私は治療室で治療の準備して」

「治療は必要ないだろう?」

「まぁ、そんなんだけどね。治療しなくても勝手に治るから、問題はないんだけど……」


一瞬、永琳の雰囲気が暗く、重いものになる。


(……たとえ周知の事実でも、指摘されたくないことはある、か)


誰にだって、知られたくないことや話したくないこと、言われたくないことがある。
もしかしたら。
彼女達は昔のように、永遠を手に入れる前のように振る舞うことで、自分を保っているのかもしれない。
もちろんその恩恵を受けることも多々あっただろう。
なにせ死なないし、怪我も勝手に治るのだ。病気などにもかかることはないのだろう。
だが、死とは、全ての生き物が共通に持つものである。
生きるということは死ぬということであり、ならば死なないということは生きていないといえる、のかもしれない。
断定はできないが、もしこれが成立するならば、彼女たちはとても大きな、当り前の枠組みからはじき出されることになる。


(寿命を失った生き物は、万物の中で自分をどこに位置づけるのだろうか?)


知り合った瞬間に、自分より先に相手が死ぬことを確信する。
そういう前提で、出会いがあるのだ。


(間違っているのかもしれないし、こんなことを考えること自体が彼女たちを侮辱しているのかもしれないけれど……)


彼女たち。
それは輝夜であり、永琳であり、妹紅である。
僕だってまだしばらくは生きるだろうが、いつかは死ぬ。これは絶対だ。
万が一、僕が輝夜か永琳を娶ることにでもなったら、僕もまた蓬莱の薬を飲まされ永遠の存在にされるかもしれない。
もちろん、そんなつもりは毛頭ないし、もしそうなっても薬の服用だけは断固として拒否するが。


「……それで、何で君が共犯になるんだ?」


少し強引だったが、話を戻すことにした。


「……えぇ。私は永遠亭の薬師、医者である前に姫様の従者でしょう? だからというわけではないけれど、うどんげたちを迎えに行かせる前に、姫様の状態を確認するのよ」

「確認? 永遠亭から?」

「別に、遠くからでも様子を見る方法はいくらでもあるわ」

「まあ、確かに」

「それで、今日もいつも通り。やられる時はだいたいこんなもの、って感じだっだの。それでいつもと同じようにあの娘たちを迎えにやらせたんだけど……」

「そこで僕が竹林に入って来たということか」

「そう。私もすぐに誰かが竹林に入って来たのを察知して、あなただったから特になんのアクションも起さなかったわけ」

「だが、お姫様は衣服に多少の……いや、多量の乱れがあったというわけか」

「……えぇ。私が確認した時、着物はまだちゃんと機能してたんだけどね。燃えていた右袖から、その熱が段々と胸の方まで侵食していったみたい」

「それで、見抜けなかった君は共犯か。もしかして、君にお咎めがあったりは……?」

「まさか。そこまで暴君じゃないわよ、うちの姫様は。せいぜいお小言をもらう程度でしょ」

「そうか。まあ、なんというか、君にも迷惑をかけたね」

「私はいいのよ。……それより、さっきは思わずカッとなっちゃって、殴ってしまってごめんなさいね」

「ん? ああ、それはしょうがないだろ。僕が男である以上、この手の問題で僕が優位に立てるとは思ってないよ」

「ふふっ。それもそうね」


そこで永琳は立ち止まり、ガーゼで手当てされた僕の右頬に手をかざす。


「……うどんげも、なかなか良い腕になってきたわ」

「そういうのは本人の前で言ってやったらどうだ。……それに、たかがガーゼをあてるくらい、誰にだってできるだろう?」

「それは素人の考えよ。たかがガーゼ一つとっても、一番効率の良い治療をするのが医者ってものだわ」

「ふうん……。そういうものなのか」

「ええ。……それにね、うどんげは医者としては大成しないわ。それよりも遥かに薬師としての才能がある。私のように天才というわけではないけれど、この私が直々に指導をするくらいの光るモノを持ってるのよ」

「ほう……。君がそこまで鈴仙を評価していたとはね。知らなかったよ」

「これはまだ姫様にしか言ってないから、他言無用でお願いね」

「ああ。承知した」

「ええ、ありがとう。……次の角を曲がった奥の部屋が、姫様の部屋よ」


永琳の手が離れる。
先ほど、もし僕が永琳を娶ったら、なんて考えてしまったことによる錯覚だろう。



離れていく永琳の手を、少しばかり名残惜しいと思うなんて。













「姫様、私です」

「入りなさい」


襖の向こうから返事があり、僕と永琳は中に入った。
輝夜の部屋は思っていたより質素だったが、それでも調度品やちょっとした装飾品などはかなり高級な物だと一目で分かった。


「お邪魔しているよ」

「ええ。歓迎するわ、覗き魔さん」

「…………」


とりあえず、絶句した。


「姫様……」


永琳は静かに溜息をつく。それがどういう意味をもつのか、混乱する僕にはわからない。
にこにこと笑顔で毒舌を吐く輝夜に、僕は慌てて言った。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。確かに君の体の一部を見てしまったことは謝るよ。だが、それは不可抗力だ。決してわざとではないし、ましてや覗きなどではない」

「でも、見たのよね」

「う……た、確かに見た、いや、見ましたけど……」


無駄に貫禄のある輝夜に、思わず敬語になってしまった。情けない。
しかし、ここで引き下がるのは覗きだと認めるようなものである。


「ええと、その、つまり僕が何を言いたいのかというと……」

「そうね。堂々と見れば、それは覗きではなく痴漢行為になるのかしら」

「いや、君が体を触られたり、嫌悪感を抱いたりしなければ痴漢ではなく覗きなんだろうが……」

「そう。じゃあ、痴漢かしらね。私を着替えさせたと聞いているし」

「いやいや。ちょっと待ってくれ。僕だって見たくて見たわけじゃないし、触りたくて触ったわけじゃない」

「…………は?」

「霖之助……」


輝夜は呆気にとられたような顔になり、永琳はもう一度溜息をついた。


「僕はね、君自身に興味はない。ただ、これから向かう場所の主が道中で倒れていたら、放っておくわけにもいかないだろう?」

「な、なんですって……!」

「霖之助……あなた、もう少し女心を知るべきよ……」


怒りに震える輝夜を見た。
自らの無実を証明するためとはいえ、とんでもない地雷を踏んでしまったらしい。


「あ、あなた……! この私に、興味がないですって……!?」

「い、いや、そうじゃなくてだな……」


実にまいった。どうやら完全に怒らせてしまったようだ。
僕の返答次第では生きて帰さないと、そんな空気が部屋を支配する。


「君に興味がないというわけではなくてね、僕はそういったこと全般に……」

「ふ、ふふ、ふふふふふふ……。聞いた? 永琳。この男、世の男どもを心酔させ、帝でさえ求めずにはいられなかったこの私に、興味がないんですってよ……?」

「はぁ、そうみたいですね……」

「いったい僕はどうすればいいんだ……」


よくよく考えれば、輝夜の怒りももっともだ。
胸を見られた相手に「お前に興味はない」などと言われれば、それは腹もたてるだろう。


(僕はかなりひどいことを言ってしまったんじゃ……)


だとしたら、とにかく謝ろうと思った。
女性に恥をかかせたのだ。この際僕の評判がどうなろうと、輝夜に許してもらえるまで謝り続けよう。


「……だったのに」

「え?」


口を開こうとした時、輝夜が何か言った。


「初めて、だったのに……」

「…………」


ここで、何が?などと聞くほど、僕は阿呆ではない。


「その、輝夜。本当にすまなかった」

「反省してる?」

「ああ。大いに反省している」

「じゃあ、責任、とってくれる?」

「ああ。セキニンでもなんでも……って、責任?」

「とって頂けるのね。まぁ嬉しい。聞いた? 永琳。この殿方は責任をとって、何でもしてくれるそうよ」

「はぁ……。霖之助、あなた、最初から騙されていたのよ」

「な……」


にやりとほくそ笑む輝夜。
言質は取ったぞと、その表情が語っている。


(僕はまんまと一杯食わされたというわけか……)


「まさか、香霖堂の店主ともあろうお方が、ご自身のお言葉をひるがえしたりはしませんわよねぇ」

「……それはもちろん。たとえ性格の悪いお姫様に騙されて言ったこととはいえ、僕にできることなら何でもしましょう」


もともと何をしてでも許してもらおうと思っていたのだ。
その過程で些か許容できない出来事はあったが、騙された僕にも問題がある。


「うふふ。そうねぇ、何をしてもらおうかしら。永琳、あなた今、部下が欲しかったりする?」

「いえ、私はうどんげで充分間に合っていますよ。それに霖之助は医学的な知識が不十分なので、使えるようになるまである程度教育しなければなりませんし」

「そうなの。……そういえば、貴方ここに用事があって来たんですってね。どんな用事?」

「……医学書をね、借りに来たんだ。できれば人間用の」

「医学書? なんで?」

「はっきりとした理由はないよ。強いて言うなら、知っていて損はないからだ」

「それは、確かにそうね。貴方らしい理由だわ」


貴方らしい、なんて言われるほど輝夜とは親しくなかったような気もしたが、今は立場が弱いので黙っていた。


「でも、まさか対価もなしに借りるつもりだなんてことはないんでしょう?」

「それはもちろん。ただ、医学書を借りる対価として何がふさわしいのか迷ってね。ちゃんとした対価は後日ということで、今日はこれを持って来たんだ」

「献上品ね。懐かしいわぁ、昔は、それはそれは毎日山のように届いたものよ」


届けに来た奴らは輝夜の本性を知らなかっただけだと、そんなことを思いながら、鞄からてゐの大好きな金平糖を取り出す。


「口に合うかはわからないが……」

「なぁに? これ、金平糖?」

「そういえば、てゐが霖之助から金平糖を貰ったって嬉しそうに言ってましたね」

「ほら、永琳にも」

「わ、私の分もあるの?」

「当たり前だろう。なぜそこで驚くんだ」

「あ、ありがとう。……これ、今食べても?」

「ははは。構いやしないよ。もうそれは君たちのものなんだから」

「そうね……あ、ごめんなさい。先にお茶を用意するわ」

「それこそ、構いやしないよ。なにせ、今の僕はお客ではなく犯罪者らしいからね」

「冗談だと分かった途端にそれを武器にするんだから。あなたも姫様に劣らず、いい性格してるわよ」

「ちょっと永琳、それどういう意味よ」

「いえいえ、お気になさらず。ではしばしのお待ちを」


そう言って、永琳は一旦部屋を出て行った。


「ふう。それにしても、君は彼女に愛されてるね」

「なによ、いきなり」

「聞いているかもしれないが、この頬は永琳にやられたんだよ。僕が君の体を見たから、カッとなってやったと言っていた」

「聞いたわ。永琳も反省してるし、許してやってちょうだい」

「ああ。彼女からも直接謝られたし、もう許してるよ」

「……永琳は何年たっても、私に対して過保護なのよ」

「過保護、か。……ありがたいことじゃないか。羨ましいかぎりだよ」

「嘘おっしゃい。貴方は束縛されるのを何よりも嫌うでしょう?」

「それでもだよ。ずっと孤独であるよりは、多少煩わしくても家族がいた方が良いさ。家族でなくても、友人や恋人でもいい」

「貴方も、そうなの?」

「無い物ねだりはしない主義なんでね」

「貴方、今自分で言ったじゃない。家族でなくても、友人や恋人でもいいって。友人や恋人なら、新しく作ることができるでしょう?」

「ああいや、まあ、そうなんだがね……」


半人半妖の自分。どっちつかずの半端者。
僕は自分の存在に自信がない。
自身はないが、生きていくために自分を信じている。
存在の土台がぐらついているため、自分が自分を信じなくなったら、そのまま消えてしまうのではないかという恐怖が僕にはあるからだ。
そんなことあり得ないとは思っているけれど、ならば誰がそれを保障、証明してくれるというのだろうか。
遥か昔、僕の精神がまだ幼かった頃に、僕はそう結論づけてしまった。
中途半端な僕は、考えに考え抜いた結論さえも他人任せで中途半端だったのだ。
自分に価値を見い出せず、その結果得たのは、価値がなくても生きているという自分だった。
価値だのなんだの、考えても考えなくても事実は変わらない。
ならばせめて中途半端なこの生涯を全うして、僕を完成させようと、そう思ったのだ。
能力さえも中途半端だと知った時には、さすがにへこんだが。


「僕にも多くはないが、友人がいるよ」

「……そう。かくいう私も、友人は多くないわ。貴方と同じよ」

「同じ、ね……」


同じなわけがない。
でもそれは輝夜も分かっているはずなので、厚意として受け取った。










「…………」

「…………」


二人きりの部屋に、ぽりぽりと輝夜が金平糖をかじる音が響く。
時計の針は、なかなか進まない。


「……ちょっと。貴方、自分の分はないわけ?」

「ないよ。君たちの分しか持ってきてない」

「お菓子はこの部屋にはないし……仕方ないわね、ちょっと口を開けなさい」

「? なんでだい?」

「私にだけぽりぽりと音をたてさせて、なんだか恥ずかしいじゃない。少し分けてあげるわ。もともと貴方のだけど」

「そ、そうか。それは気がきかなくてすまない。じゃあ、少し貰おうかな」


そう言って、手を差し出す。
しかし、輝夜は急に不機嫌そうな顔になり、金平糖を持つ手を引っ込めてしまった。


「貴方、私の話を聞いてないの? 私は口を開けなさいと言ったのよ」

「あー、できれば普通に分けて貰いたいんだが……」

「さっそく前言をひるがえすのね……。これだから男って嫌だわ。女なんてその場しのぎの嘘でどうにでもなると、本気で思ってる」

「くっ……。そこまで言うのなら、君の言うとおりにしよう。さあ、来い」

「ふふ。そうそう、貴方は私の言うことを聞いていればいいのよ。……はい、あーん」

「う……あ、あーん」


輝夜の手から僕の口に、金平糖が落とされる。
頬が熱を帯びる。こんなことをされるのは生まれて初めてなので、たぶん、今僕の顔は赤くなっているのだろう。
純粋に恥ずかしい。鈴仙とてゐとの痴態を永琳に見られたのとは別の恥ずかしさが、僕を支配していく。
ぽりぽりと金平糖をかじる。
食べ終わると、ただ底なしの甘さだけが残った。


「……ありがとう。もう、充分だよ」

「充分? 私はまだ満足してないわ」


見なければよかった。
そう、はっきり思えるほど間近で、輝夜の笑顔を見てしまった。


「うふふっ。あーん、して?」

「……あーん」


もう、逆らえない。
輝夜の指が、僕の唇に軽く触れてしまった時、正気に戻ったのか、あるいはイカれてしまったのか、思考は混濁となり、意識だけが鮮明になった。


(なんだこの感じ。何も考えられない。永琳は、永琳はなぜ帰ってこない?)


だいぶ時間はたっているはずだ。お茶を入れるだけにしては長すぎる。だが帰ってこない。時間? 本当に時間は進んでいるのか?)


目線だけを動かして時計を見る。


(秒針が……動いていない?)


疑問をもったことがきっかけか、思考が段々と鮮明に、というか、元に戻っていく。
代わりに意識が濁っていく。ありていに言えば、気持ち悪い。


(時が止まっている? そんな馬鹿な。ここに紅魔館のメイドはいない。そもそも時が止まったらこの思考はありえない)


時が止まれば、思考も止まる。だから、時は止まっていない。だが時計の針は動かない。
ならば答えは一つだ。
知覚を超えた時間を、生かされている。
これは異変だ。異変には必ず原因がある。僕にこんな芸当はできない。
だったら、誰だ。


「かぐ、や」

「なぁに? 霖之助」


僕の目の前には絶世の美女。
顔を少し傾ければ、互いの距離は零になるだろう。


「なぁに? 霖之助」


徐々に距離が近くなる。
輝夜が目をつぶる。
僕もそれにならおうとして、ふと、視界に入った時計を見上げた。



カチリと、針が進んだ気がした。





その瞬間、此処が僕の居場所ではないとこを悟った。















「霖之助、お茶がはいったわよ」

「え?」

「なにを呆けているの。大丈夫? まだ私が殴ったダメージが残っているのかしら」

「ここ、は……」


先ほどと同じ、輝夜の部屋だ。
永琳が持ってくると言ったお茶が、今僕の前に置かれている。


(夢、か……?)


輝夜は今までと変わらず、同じ位置でお茶を飲んでいる。


「あらあら、重症のようね。これは彼の目を覚ましてあげる必要があると思わない? 永琳」

「そうですね。……姫様? 能力を使っていたずらとか、してないですよね?」

「まさか。この私が、お客様相手にいたずらなんて」

「あ、いや。二人とも、僕は大丈夫だから」

「そう? 顔色が優れないような気がするけど……」

「アレじゃない? さっきまで永琳が私をどれほど愛しているか、なんて話をしていたから、嫉妬してしまったんじゃないかしら?」

「おいおい。勘弁してくれ」

「そうですよ、変なこと言わないでください」

「……ねぇ、永琳」

「なんですか?」

「私たちは、一心同体よね?」

「なんですかいきなり。……まぁ、それは、そうだと思っていますけど……」

「貴女には、まだ彼に私の胸を許した罰を与えていなかったわね」

「はい、確かにまだですけど……」

「輝夜。悪いのは僕なんだから、永琳を罰するのは許してやってくれないか」

「罰なんて与えないわ。言ったでしょ? 私と永琳は、一心同体だって」


すっと、輝夜は永琳の後ろに回り込む。


「え、姫様?」

「私が見られたんだから、貴方も見られなきゃ、ね!」


ぶちっ!と音をたてて、永琳の服の前を留める紐を輝夜が千切った。
永琳の大きな胸が、ぷるんと揺れながらでてくる。
呆然とする僕と永琳。一人楽しげに笑う輝夜の笑顔が、なぜかとても印象的だった。
輝夜はさらに永琳のブラジャーに手をかけ、いつの間に留め金を外していたのか、一気に上へと投げ捨てた。
たぷん、という音が聞こえた気がした。
それほどまでに見事な女性の象徴を、永琳は持っていた。


「きゃあっ!!」


さすがに焦った永琳は手を交差させて胸を隠そうとするが、輝夜はすかさず永琳の脇の下へ手を通し、羽交締めにした。


「ひっ、姫様!!やめ!やめてくださいっ!!」

「駄目よ、永琳。私はもっと長い間、じろじろとこの男に観察されちゃったのよ? だから、もう少し、ね?」


拘束を解こうとして永琳が体を左右に振るたびに、彼女の胸はぶるんぶるんと左右に揺れる。
僕は輝夜に、じろじろなんて見ていなければ観察もしていないと抗議したかったが、開いた口がふさがらず、言葉を紡ぐことができない。
輝夜を止めるか目を逸らすかしなければと思うのだが、僕も男だ。目が釘付けになってしまい、目を逸らすどころか逆に熱心に見てしまう。


「見ないでええええ!!!!!」

「ちゃんと見なさい!!!!!」

「ど、どうすれば……」

「いやああああああ!!!!!」

「ほら!!あと5分よ!!!!」

「な、長いな……」


僕の頬を汗が伝い、永琳の頬を涙が流れる。
泣き叫んでいやいやをする永琳が、普段の落ち着いた物腰の彼女からは想像もできなくて、思わずごくりと唾を飲んだ。


「り、りんのすけ……みないでぇ」

「ぅあ……」


美しすぎた。
そういった経験が全くないというわけではないが、永琳は女性として理想的な体型であり、その胸を見るなといわれて顔を背けることができるほど、僕はまだ枯れてはいなかった。
輝夜がいなければ、このまま勢いに身を任せて何をしてしまってもおかしくはなかったと思う。
そう、輝夜さえいなければ。


「あっはははははは!!! はしたない娘ね、永琳!!!!!」

「…………」


なにか、色々と台無しだった。
いや、もともと永琳とどうにかなりたいというわけでもなかったので、かえっておかしなことにならず、助かったというべきか。
ともかく、輝夜を止めなければ。


「離して!!お願いです姫様!!!」

「あと3分! 口答えすると時間増やすわよ!!!」

「おい、輝夜。そこまでに……え?」


止めに入ろうと一歩前に出た時、永琳の頭が前に傾いだ。


「やめてって……言ってるでしょ!!!!!」

「ごふっ!!」


そのまま勢いよく後ろに頭突きを食らわした。
永琳の頭突きは見事に輝夜の顔面を捉えたらしく、盛大にこぼれる輝夜の鼻血で畳が染まっていく。
永琳は一度鼻をすすると、輝夜の前に立ち彼女を見下ろした。


「ちょ、いたいぃ……」

「反省しなさい!!」

「ご、ごめ、ごめんなさ……」

「謝ればいいってもんじゃないでしょ!!」

「ひぃっ!! ごめんなさい、ごめんなさい!!!」

「全く……成長しない子ね、輝夜は」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

「何千年私に同じことを言わせれば気がすむの? あなたももう子供じゃないんだから、物事の分別くらいつけなさい。そもそも……」


正座で鼻血を出しながら自らの従者に説教される姫と、ほぼ上裸で主君を諭す従者。


(どういう主従関係なんだ……?)


兎にも角にも、僕は永琳に言わなければならないことがある。


「永琳」

「ですからあなたはもっと姫としての自覚を……なに、今忙しいのだけど」

「まずは、服を着ろ」

「…………」

「…………」

「……ぷっ」

「ふんっ!!」


永琳の後ろ回し蹴りによって、ドゴォ!!という轟音と共に壁にめり込む輝夜。永琳の言う通り、確かに成長しない子であった。
永琳は首をがくりとたらして意識を失った輝夜から着物を剥ぎ取ると、それを肌の上に羽織る。


「……忘れなさい」

「……あ、ああ。善処する」

「……別に私は、あなたの脳味噌を直接いじって忘れさせてもいいのよ……?」

「わ、わかった。絶対に忘れる」

「それでいいわ」


ふぅ、と一息ついてから、永琳は続けた。


「人間用の医学書、だったわね。ついてきて」

「ああ。でも、あれはいいのかい?」


僕は輝夜を指さす。


「いいのよ。そのうち起きるでしょ」


とてもじゃないが、この屋敷の主に対する扱いとは思えなかった。これが彼女たちの日常なのだろうか。


「ほら、行くわよ」

「わかったよ」


僕は振り返り、もう一度壁にめり込んだままの輝夜を見て、それから部屋を後にする。
てゐではないが、処置なしだと思った。










途中、永琳の部屋に寄って彼女は服を着替えた。
月の服なのだろう、先ほどと似たような雰囲気のものだった。


「行きましょうか」

「ああ」


少し歩くと、治療室の前で鈴仙が所在なさげに壁に寄り掛かっていた。


「あ、師匠」

「うどんげ? 今日はもういいと言ったはずだけど」

「はい、聞きました。でも、あの、差し出がましいかとも思ったんですけど、これを……」


そう言って、鈴仙は永琳に三冊の本を渡した。
横目に表紙を見ると、それが医学書の類であることが分かる。


「あなたが選んだの?」

「えと、はい。私が師匠に薬学を教えてもらう前に、まずこれを読みなさいと言われたのを思い出して」

「あぁ、こんなのを読ませたこともあったわねぇ……」


ぱらぱらとページをめくりながら、永琳はじみじみと言った。
鈴仙はそわそわとどこか落ち着かない様子で、そんな永琳を見ていた。自分の選んだ本でいいのか心配なのだろう。


「……いいわ。内容も初級だし、これにしましょう」

「あ……え、えへへ。ありがとうございます」

「はい、霖之助。これを全部覚えれば、とりあえず日常で起こり得る怪我や病気のほとんどには対処できるはずよ。こっちの分厚いのは辞書。月の言語で書いてあるから、わからない言葉はこれで調べてちょうだい」

「月の言語か……。これは、覚えるのに一苦労しそうだな」

「私としては、あなたがここに来て私が教えるというのが一番わかりやすいかとも思ったんだけど……」

「ありがたい話だが、店を空けるわけにもいかないからね。月の言語にも興味があるし、翻訳してみるのも楽しいかもしれない。まあ、やってみてわからないところがあったら聞きにくるよ」

「そう。なら、頑張ってちょうだい」

「ああ。鈴仙も、わざわざ選んでくれてありがとう」

「い、いえ。私でよければ、何でも聞いて下さいね」

「……そういえばあなた昔、勉強中にこれを枕にして寝ちゃってたことあったわね。よだれとかついてなければいいんだけど……」

「なっ! し、失礼ですね師匠は!! よだれなんてこぼしてま……せん、よ?」

「いや、僕に聞かれても……」

「まぁいいじゃない。月の兎の唾液は健康にいいのよ?」

「そ、そうなのかい?」


本気で驚いた。
思わず鈴仙の口元を見てしまう。


「う、嘘言わないでくださいっ!!」

「ちょっとしたお茶目よ」

「…………」


この永琳が、輝夜の教育係だというのだ。そう考えると、輝夜はなるべくしてあの性格になったのかもしれない。


「医学書も借りたし、今日はこれで帰らせてもらうよ。……ああ、そうだ。肝心なことを聞いていなかった。このお礼はどう返すべきかな?」

「そうね……。姫様に聞いてみないとなんとも言えないから、近いうちにこちらから連絡するわ」

「僕としては、今この場で言ってもらった方が気が楽なんだが……」

「じゃあ、とりあえずうどんげの頭でもなでましょうか」

「ふぇ! な、なんでそうなるんですか!?」

「そんなことでいいのかい? ほら鈴仙、こっちを向いてくれ」

「ちょ、森近さんまで! やっ! 耳は、耳はだめです!!」

「うふふ。可愛いでしょ? うちの兎は」


鈴仙の長い耳ををこちょこちょと弄りながら、永琳は楽しそうに微笑んでいる。


「兎といえば、もう一匹の兎はどうしたんだい?」

「て、てゐは今お風呂に行っちゃってて。それで、金平糖をよろしくと私に……」


ようやく永琳から解放された鈴仙が、力なく答えた。


「そうなのか。もう金平糖はないし……まあ、ちょうどいいか」

「あ、あはは。てゐには私から上手く言っておきます」

「助かるよ」

「あら……?」


ふと、永琳が後ろを振り向いた。
すると、しばらくしてとてとてと誰かの足音が聞こえてきた。


「てーんしゅっ!!」


てゐの声がしたので振り向こうとした僕の背中に、彼女が飛びついて来た。


「うわっ!!」

「もう帰るのー?」

「て、てゐ!」

てゐは僕の首に手を回し、半ばぶらさがるような形となる。
しっとりと濡れた髪の毛から、鼻をくすぐるような良い匂いがした。
鈴仙がてゐを叱るが、当のてゐはどこ吹く風といった様子でぶらぶらと足を振っている。
どうしたものかと思ったが、永琳が僕の持つ本を取り、「金平糖、もうないんでしょ?」と言ったので、仕方なくてゐの足を掴んでおんぶの形をとる。


「おんぶは輝夜で売り切れだと言っただろう?」

「金平糖、もうないの?」

「ああ、おんぶの代わりにそっちが品切れになってしまったよ」

「えー。じゃあ、また今度来る時にも絶対持ってきてね」

「了解したよ」

「えっへへー。店主に幸運が訪れますようにっ!」


てゐをおんぶしたまま玄関に着く。ぴょんと、てゐは僕の背中から飛び降りた。
靴を履き、永琳から医学書と辞書を受け取る。


「なあ、永琳。すっかり忘れていたんだが、僕の上着はどうなったんだ?」

「あ……私も忘れてたわ。……そうね。泥とかでかなり汚れていたから、洗って店に持って行かせるわ。今日のところはそれを着て行ってちょうだい。患者用だけど、外に着ていってもおかしくないデザインだからいいでしょ?」


やれやれ。
近頃は上着を失くしてばかりだ。


「ああ。というか、やっぱり患者用なんだな……。これ、需要というか、患者が着る機会はあるのかい?」

「そういえば私、それを患者さんに渡した記憶がありません」

「あたしもー」

「血や吐瀉物なんかで、来た時と同じ服で帰れないような患者のために用意したんだけど……。ま、それだけ幻想郷が平和ってことよ」


用意した服が全くの無駄であったにも拘らずそう言い切る永琳に、医者としての彼女を見た気がした。
月の技術は幻想郷とは比べ物にもならないくらいに発達している。
それを知っている僕は、心のどこかで永遠亭の病院としての機能は片手間な、それこそ永琳にとっては暇つぶしのようなものだと思っていた。
だが実際はガーゼの当て方一つをとっても弟子にしっかり指導をしていた。
これでは、僕の接客態度の方がよっぽどいい加減というものだ。


「うどんげ、てゐ。彼を入口まで送っていきなさい」

「はい」

「はーい」

「輝夜によろしく言っておいてくれ。それじゃあ、また」

「ええ。おやすみなさい」

「おやすみ」


永琳が小さく手を振る。
その手が描く軌跡を、玄関が閉まるまで目で追った。










(ふう……。今日はとんだ一日だったな)


色々と大変な一日だったが、医学書を借りることができたし、なにより月の辞書も同時に借りるという予想外の嬉しい出来事があった。


(そうなると、対価が恐いな。一体何を求められるのやら……)


まあ、それはそれだ。
終わり良ければすべて良しともいうし、今日に限っては収穫の方が遥かに上回っているので良しとしよう。


「じゃあ、行こうか」

「はい、森近さん」

「しゅっぱーつ! といっても、竹林出るとこまでだからすぐだけどねー」


てゐの掛け声で僕たちは歩き出す。
両脇で揺れる四つの耳に、少し落ち着かない。


「…………」

「森近さん? どうかしました?」

「……いや、なんでもないよ」

「? そうですか」

「なになに? 隠し事?」

「ははは。違うよ、そんなんじゃない」


いつかは彼女たちのこの愛らしく揺れる耳が二つとなり、やがて零になる。
ついそんなことを考えてしまっては、何もできない自分を知る。
命が続く限り、僕はこうやって生きていくのだろう。


(この竹林から兎が消えてしまった時、輝夜は、永琳は、何を思うのだろうか……)


竹林の終わりが見えてきた。
笹の葉が風に遊ばれ、よりいっそう強く歌う。


「いい風。きもちいいねー」

「てゐ、頭ちゃんとふいたの? まだちょっと髪の毛が濡れてるけど……風邪ひいちゃうわよ?」

「あとでレイセンちゃんにやってもらうから大丈夫ー」

「もう、しょうがないわね……」

「ここまでででいいよ。てゐが風邪をひくといけないからね」

「え、でも……」

「早く帰って、てゐの髪をふいてやってくれ。幻想郷の病院に住むてゐが風邪を引いたなんてことになったら、永遠亭の評判も下がってしまうだろう?」

「そ、そうですか……? じゃあ、そうさせてもらいます」

「医者の不用心だっけ?」

「惜しい。不用心でなく不養生だ」


二人が立ち止まる。ここでお別れだ。


「森近さん。また、永遠亭に来てくださいね」

「店主ー。今度もあまーいのをお願いね!」

「ああ。君たちも機会があれば香霖堂に来るといい。お茶くらいしか出せないが、歓迎するよ」


手を振る二人に僕は手を上げて返し、歩き始めた。


(……さて。まずは、月の言語だ)


辞書だけで理解できるとは思わないが、それでも片言の月語なら話せるようになるかもしれない。
話せるようになったら、まず永遠亭に行って輝夜たちに月語で挨拶をしてやろうと思う。
そうなったら、面白い。
この幻想郷で騒がしいことが嫌いな奴は多い。
だが、面白いことが嫌いな奴はいない。



一生は長い。それが人間であれ妖怪であれ、一生は長いのだ。



(僕もまだ当分死にそうにないし、月語を学ぶのはこれ以上なく良い暇つぶしになるだろう)


月語を習得したら、また次を探すだけだ。
その探す作業を楽しめるようになれば、それはもう無敵である。
僕は永琳から渡された辞書を出し、少し中を見てみる。


「…………」


これは、しばらく……いや、当分は新たな暇つぶしを探すことはなさそうだが……。


(まあ、いいさ。なにせ時間は有り余っているのだからな……)


文字も道具だ。
はたして僕の能力が未知の言語に通用するのかどうかは、家に帰ってからのお楽しみとしよう。
これもまた、一つの暇つぶしだ。


(それにしても、治療室には随分たくさんの医学書があったな……)


月の言語は分からないので表紙などから判断したのだが、治療室に置いてある本なのだ。
まず医学書とみて間違いないだろう。


(月の医学、か……)


遠い昔。
もしあの時、あの医学書があったのならと。
そう思ってしまうのは……。


(……未練、だな)


永琳たちが悪いなんてことには決して繋がらないのに。


「……ん?」


鞄の奥の方に見覚えのない包みがあった。


何かと思って取り出すと『お店に帰ってから開けてね。姫さまからのお土産だよ。』という紙が張り付けてあった。


「ふむ……てゐかな?」


まあ、店に帰ってから開けろと書いてあるのだから、その通りにしよう。
暇つぶしの種が一つ増え、僕は上機嫌で家路を行くのであった。




















「うどんげ、てゐ。彼を入口まで送っていきなさい」

「はい」

「はーい」

「輝夜によろしく言っておいてくれ。それじゃあ、また」

「ええ。おやすみなさい」

「おやすみ」


玄関が閉まるまで手を小さく振った。
ドアが完全に閉まり、外でうどんげ達の話す声が聞こえる。


「ふぅ……ようやく帰ったわ」


心臓の鼓動はまだ大きい。
彼の前で平静を保つのはなかなかに苦労した。


「さて、輝夜を起こしにいきますか……」


輝夜に対して少しやりすぎたかと思うが、彼の前であんな醜態を晒されたのだ。それを考えると、むしろ殺さない程度では軽かったくらいねとすんなり結論が出た。


「あんなことするなんて……。輝夜ったら、なに考えてるのかしら?」


あんなこと。
先ほどのソレを思い出し、また少し鼓動が速くなる。


「別に、体に自信がないってわけじゃないけど……って、そういう問題じゃなくて」


輝夜も部屋に着くまでぶつぶつと文句を言って、鼓動の速さを誤魔化す。
本気で怒っているわけではない。
輝夜の言うとおり輝夜と私は一心同体。姫と従者なんて形だけのものだ。
とはいっても、気まぐれな輝夜にほとほと困っているのももう何千年と変わらない。
いくら永遠の存在だからといって、頭の成長まで止まってしまっているのではないかと少し心配である。


「輝夜、起きてる?」

「……あら、私の美しい鼻を頭突きでへし折った永琳じゃない」

「ちょっと、あれはあなたの自業自得でしょう?」

「そうね。……彼はもう帰ったの?」

「ええ。ついさっきにね。あなたによろしくって言ってたわ」

「そう……」

「輝夜?」

「ねぇ永琳、まだ怒ってる?」

「そりゃあ怒ってるわよ。いきなりあんなことされれば誰だって怒るわ」

「そうね。ごめんなさい」

「まぁ、もういいわ。……で、一体なんであんなことしたの」

「彼……少し、貴女と似てたわ」


こちらの話なんて聞きやしない。
仕方なく輝夜に合わせる。


「似ているって、雰囲気とか?」

「ええ。凪いでいるような雰囲気が、貴女とそっくりよ」

「そう? 確かに私も彼も、自分からは動かないようなタイプだとは思うけど……」

「二人とも、自分に大して価値はないと思い込んでいるところなんて、瓜二つじゃない」

「そう、かしら?」

「そうよ。……ねぇ、永琳。女って、嫌ね。特に私のような古い型の女は、もう全然駄目」


輝夜はいつだって唐突に話題を変える。


「なに、いきなりどうしたの?」

「裸……といっても全てではないけれど、それを見られたというだけで、もう彼を相当意識しちゃうのよ」

「別に、おかしくないと思うけど。たとえ半裸でも見られたら多少は意識するわよ」

「じゃあ、永琳も?」

「う……私も、ちょっとはね」

「そうなの。ねぇ、永琳。これって、もしかして恋かしら?」

「まさか、霖之助相手に?」

「これが恋だというのなら、そうなるわ」

「……あなたは昔から、恋というものに憧れてたものね」

「もうとっくに諦めてたけどね。地上に下りてきてから色んな男がいたれけど、私に釣り合う男なんてまずいなかったもの」

「姫ですものね」

「それもそうだけど……。でもそういうのとは別に、私の精神に釣り合うというか……なんか、上手く言えないのだけれど」

「言いたいことはわかるわ。地上の人間は『かぐや姫』の美貌に興味があって、そしてソレを独り占めしたいというだけだった」

「あぁ、そんな感じ」

「つまり、誰もあなたを真に愛してはいなかった」

「そうそう。だから私の心も動かせなかったのよ、あのへたれ共は」

「あらあら、酷いわね。中には帝もいたのでしょう?」

「確かに帝はいい男だったわ。顔は好みじゃなかったけど、私に媚びない崇高な精神を持っていた。だから迷惑をかけたお詫びに蓬莱の薬をあげたのよ」

「帝でさえ駄目なんじゃあ、もういないわね」

「そうなのよ。……でも、今日彼に出会ったから、今までのことはもういいの」

「え? あなた、それ本気で?」

「ええ。……永琳、私、三人目を見つけたわ」

「三人目って……」


三人目というのは、輝夜が生涯を共に過ごすと決めた相手の人数のことである。
一人目は私。二人目は藤原妹紅。そして、今決まったらしい三人目が森近霖之助、とのことだ。


「薬はいつでも作れるのでしょう?」

「それは……作ろうと思えば作れるけど……」

「できるだけ近いうちに完成させなさい。妹紅は放っておいてもここへ来ることになるけれど、彼はそう簡単にはいかないわ」

「とりあえず妹紅に関して言うけど、あなたは楽観しすぎだと思うわ」

「そう? あの半獣が死ねば、間違いなく妹紅は私のところへ来るわよ」

「確かにあの白沢は妹紅にとって必要な存在だから、彼女が死んだら一つのきっかけにはなるでしょうけど。……そう簡単にいくかしら?」

「いくわよ。不老不死は伊達や酔狂ではやってられないもの。妹紅は時間が導いてくれる。でも、彼は違う」

「……輝夜、あなたやっぱり何かしたわね?」

「ちょっとね。貴女がお茶を入れに行ってる間に、彼を私の永遠に閉じ込めてみたの」

「……ま、そんなことだろうと思っていたわ」

「でもね、すぐに破られちゃったわ。破られたこと自体は別にいいのよ。彼が私を拒んだだけで壊れる程度の永遠だったから」

「……つまり、あなたに手をださなかったってこと?」

「…………ぅ、ん」

「自分から誘ったくせになに恥ずかしがってるのよ」

「誘っただなんて、そんな、恥ずかしいわ……」

「はぁ……。からかうつもりが、あなたが本気にさせられちゃって……馬鹿なの?」

「永琳にはわからないわ。口づけの一歩手前までいって、相手に拒否された私の気持ちは」

「く、口づけって……。あなた、自分の安売りはやめなさい」

「安売りなんかじゃないわ。永遠の中で彼と恋人ごっこをして楽しかったし、彼に私の永遠を拒否された時は殺してやろうと思ったもの。それに……」

「それに?」

「どんな手段を用いても彼を手に入れたい。拒まれたまま終わるなんて許せないわ。尽くすことで彼が手に入るのならば、それでもいいと思ったの」

「あなたから『尽くす』なんて言葉が出てくるとはねぇ……」

「全ての男が、私を求めた。たとえ妻子があったとしても、一目私を見るだけで夢中にさせた。でも彼は違った。二人きりで、しかも私が許したのにも拘らず、私を拒んだ。私の前で平静を保てる男なんて、それこそ帝くらいよ。その帝ですら、私を手に入れるために月の民と……貴女と戦おうとまでしたわ。……あぁ、森近霖之助。彼を私と同じところまで……ふふふ。しばらくは、退屈しなくて済みそうね……」

「はぁ……。それで、持て余した気持ちを誤魔化すために、私をダシにしたのね……」

「それは……悪かったわ。でも、どうせなら貴女も一緒がいいなって思ったから」

「それはつまり、私も霖之助に惚れろってこと?」

「というか、私が見られてそういう気持ちになったのだから、貴女も見られれば同じ気持ちになるのかなって」

「……そうね。あなたのおかげで、我ながら無様なほど彼を意識しちゃってるのは認めるわ」

「…………長く」


輝夜は、霖之助に出した湯飲みを何度もつつきながら言った。


「長く、とても長く生きてきたわ。でも、私にも貴女にも、まだ知らないことがあるし、知りたいこともたくさんある。……時間はいくらでもあるわ。でもそれは私たちだけ。普通の生きモノの時間は無限じゃない。欲しいと思った物は朽ち、愛おしいと想った人は死ぬ。イナバも、てゐも、いつか死ぬ。あの巫女でさえ、あと五十年生きるかどうか。残るのは私と貴女と妹紅だけ。たったこれだけよ、いつまでも私と共に在るのは」


勢いを誤ったのか、湯呑みは机の上から畳へと落ちた。


「ねぇ輝夜。恋愛感情ほど不確かなものはないわ。想いは強力だけど、何より移ろいやすく、飽きやすい。それが理由では、蓬莱の薬は作れない」

「……そう」

「でも、まさかあなたがここにきて恋なんて乙女なことを言いだすなんてね……」

「……これが、恋だったらいいな。まだ私にはわからないけれど、これが恋だというのなら…………悪くない気分」

「とりあえず、百年ほど彼を愛し続けてみなさい。話はそれからよ」

「百年かぁ。……長くもないけど、短くもないわね」

「不死は伊達や酔狂じゃやってられないんでしょう? 彼を不死にするのなら、百年じゃ全然短いわ。百年たって、彼の方から不死にしてくれと頼んできたのなら、そこで初めて考えましょう」

「そう。……はぁ」

「なに、もう恋煩い?」

「いえ……。やっぱり、幻想郷に来て良かったわ。この私に興味がない男に会えるなんて……もう、私の方が興味津津よ」

「ま、あなたが楽しいのならそれでいいわ」


輝夜が落とした湯飲みを拾う。
底に残った茶葉が、少し畳にこぼれていた。


「彼が私のお土産を気に入ってくれるといいのだけど……」

「お土産? 何を渡したの?」

「あなたのブラジャー」

「…………は?」

「だから、さっき私が取ったあなたのブラジャーを、彼の鞄に入れておいたの」

「…………冗談でしょ?」

「やあねぇ、永琳ったら。いくら私でも、殿方が女性の下着を好むものだってことくらいは知ってるわよ」

「…………」


誰だ、そんな偏った知識を与えたやつは。


「でも、私のを渡すのは少し恥ずかしかったから、そこに落ちていたあなたのをあげたってわけ」

「え……え? い、いつ?」

「お風呂に入ってたてゐに頼んで、彼の鞄に忍ばせてって頼んだの。だって、手渡すなんて、それこそ恥ずかしくて無理だわ」

「…………」


パリン、という音がした。
持っていた湯飲みを無意識に握りつぶしてしまったようだ。

「どうしたの永琳?」

「いえ……不死殺しの薬でも作ろうかなと思っただけよ」


本気で怒っているわけではない。
輝夜の言うとおり輝夜と私は一心同体。姫と従者なんて形だけのものなのだ。


「不死殺し? ……あ、わかった。あなた、妹紅に嫉妬してるんでしょう? 最近私があの娘にばっかり構うから」

「……えぇ。あなたがそう言うなら、そうなんでしょうね」


駄目な子には、何を言っても駄目なのだ。ならば、体で分からせてやるほかあるまい。


「もぅ、永琳ったら。構ってほしいならそう言えばいいのに」

「……そうね。それじゃあ、構ってもらおうかしら? 天呪『アポロ13』」

「え? ちょ、ま」


輝夜は最後まで言い切ることはできず、凄まじい破壊音と共に部屋ごと竹林の彼方へ消えていった。


(ふぅ。少しは気も晴れたわ……)





『私にも貴女にも、まだ知らないことがあるし、知りたいこともたくさんある。』

そう言った輝夜に対して、私が今一番知りたいのは、あなたの脳味噌に一本でも皺があるのかどうかよと、そう思った。



[3429] 幕間 ~十六夜咲夜 その1~
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2008/09/03 17:09



いつもと変わらず、本を読みながら店番をしていたある日の朝。
ガラガラと扉が開かれる音に顔を上げた。


「こんにちは。香霖堂さん」

「いらっしゃい。咲夜」


来店してきたのは紅魔館のメイド長、十六夜咲夜だった。















「店に来るのは久しぶりだね。二か月ぶりくらいか?」

「そうね、ちょうどそのくらいかしら。……それで、香霖堂さん」


彼女が僕の店に来ると、必ずこう尋ねる。


「何か珍しい物は入ったかしら?」


……と。
咲夜は常連客ではあるが、頻繁に来店するのかと言えば決してそうではない。
珍しい物の蒐集が趣味である彼女は、だいたい二、三か月に一回程度で店に来て、珍品を買って行ったりする。
不定期ではあるが、今まで少なくとも三か月に一回は必ず来ているので、僕は彼女を常連扱いしている。
だが如何せん、珍しい物などそう簡単に手に入るものではない。第一、簡単に手に入るような物では珍しい物と言えないだろう。
つまり、咲夜という顧客のために、僕は手に入れた珍品(と思われる品)をすぐには店に出さず、ストックしているのだ。
実用性よりも希少性や珍妙さの高い物を選ぶ彼女に対しては、言うまでもなく僕が用意できる商品は少なくなる。
そういった意味で、咲夜向けかと思われる商品は、まず彼女に見せて、彼女が気に入らないようだったら店に出すという流れなのである。。
とは言っても、これでは他の客に対して不公平なので、他の客が「何か珍しい物はないか」と尋ねてきたら、たとえ取って置いた品でも出そうと決めている。
かくいう僕も、自分が気に入った物は商品にはせず、自身のコレクションとしてしまうのだから、商売あがったりである。


「ああ。外の世界から流れてきた、良い品が入っているよ」


今回は彼女も気に入ると思われる、とっておきの一品を用意できた。
実際手に入れたのは一か月程前だったのだが、咲夜が気に入りそうな珍しい品だったので奥に取っておいた一品が。


「じゃあ、それを見せてもらおうかしら」

「わかった。ちょっと待っていてくれ」


いったん奥へと引っ込み、咲夜が来たら見せようと思っていた品を持ってくる。


「これだよ」

「これは、苗木?」

「ああ。『ニュートンの林檎の木』の苗木さ」

「ニュートンの林檎っていうと、それが落ちるのを見て万有引力を思いついたっていう話の?」

「ああ。林檎が落ちたのを見て思いついたという逸話が本当かどうかは、僕には保証のしようがないけどね」


あるいは、幻想郷の賢者として名高いスキマ妖怪ならそれすらも知っているのかもしれない。


「でも、有名な話ではあるわね」

「まあね。今から売ろうという物に対して僕が言うのもなんだけど、これははっきり言ってただの林檎の苗木だ。幻想郷じゃニュートンは知識の一つというだけで、縁もゆかりもない人間だからね」

「なら、この苗木が縁とゆかりの第一歩になるのかしら?」

「林檎の話が実話だったとしたら、あまり歓迎はしたくないな」

「あら、どうして?」

「人類にとっては大発見だったらしいが、無粋じゃあないか」

「無粋?」

「林檎とは、詰まるところ自然だ」

「ああ、そういうこと……。相変わらず、変なところで潔癖ね」

「そうかな。まあそれは別にして、商品としてはなかなか珍しい物だよ。さっきも言ったが、これ自体は普通の林檎だから、特別甘いだとか、そういった変化は全くない」

「そう。……でも、珍しい物ではあるのでしょう?」

「ああ。僕が知る限り、この幻想郷に『ニュートンの林檎の木』は今ここにある一本だけだ」

「買いましょう。お代はいくら?」


僕の予想通り、咲夜はこれが気に入ったようだ。
代金も普通の苗木に比べてかなり高く見積もったつもりだったが、咲夜は何の躊躇もなく財布を開いた。


「あら……?」

「どうした?」

「ごめんなさい、香霖堂さん。お財布を忘れてきてしまったみたい」

「ああ、そんなことか。ツケで構わないよ。今度来た時に払ってくれればそれでいいから」

「私は紅魔館のメイド長よ。ツケだなんて、お嬢様の顔に泥を塗るようなことはできないわ」


どこぞの巫女と魔法使いに聞かせてやりたい台詞だった。


「うーん、そう言うなら……そうだね。わかったよ。この商品は君のためにとっておくから、また暇ができた時に財布を持って来ればいい。それなら心配いらないだろう?」


咲夜には言っていないが、彼女のために今までもずっと保管してあったので、買い手が決まった今、また苗木の世話をする程度はなんの苦行ではない。


「それは……確かにありがたい話よ。でも、それにしたってタダでそこまでしてもらうのはちょっと気が引けるのだけど……」


繰り返すが、どこぞの働かないぐうたら巫女と窃盗の常習犯である泥棒魔法使いに聞かせてやりたい台詞だった。本当に。


「そうだなぁ……」


名前が名前なだけに、商品として店に陳列してしまうとすぐに売れてしまう心配がある。
僕としては最終的に誰かに売ることができればそれでいいのだが、咲夜のためにわざわざ取って置き、彼女もそれを気に入ったということもあって、今さら他の誰かに売ってしまうというのも心から喜べない。
それなら商品の予約代として料金を少し多めに払ってもらうというのはどうかと言おうとして、その前に咲夜が言った。


「良いことを思いついたわ。代金を払うまで取って置いてもらう分は、ここで働いて払うっていうのはどう?」

「……え?」

「だから、代金はまた別にちゃんと払うけど、この苗木を取って置いてもらう分は代金には含まれていないわけでしょ? それじゃあ悪いから、その分は私がここで働いて払うってこと」

「いや、別にそんなことしなくてもいいよ。そりゃあ早いに越したことはないが、払ってさえくれるのならいつでも構わない。君は常連さんだし、この程度は当然のサービスさ」

「借りを作ったままだと気持ち悪いじゃない。次にいつ休みを貰えるかはお嬢様次第なんだから、私としては今のうちにできることはしておきたいのよ」

「……ふむ。わかった。そういうことなら、ここで少し働いていくといい。お客は滅多に来ないから暇でしょうがないとは思うけど」

「わかりました。お客が来ないのなら、とりあえず掃除をしますわ」

「そうか。とりあえずここはもう掃除してあるから、居間か台所辺りを頼むよ」

「ふふふ。冗談がお得意なのですね」

「……?」


特に冗談を言ったつもりはなかったのだが。
咲夜は僕に掃除用具の場所を聞くと、てきぱきと目の前で掃除を始めた。


(この程度では掃除をしたことに入らないということか? ……まあ、確かにほこりを落とす程度の掃除しかしていないが)


咲夜の掃除の腕前は、本職ということもあってかなりのものだった。
たかが掃除と一蹴するような輩もいるかもしれないが、完璧を求める掃除は一般的な意味でのそれとは遥かにかけ離れたものだ。
ほこりは、人が動けば舞うものである。
それを避けるためには必要最低限の動きで、最高の効率を追及しなければならない。


「…………」


黙々と掃除をする咲夜。
商品が陳列してある部屋の掃除は、ものの十分ほどで終わった。
しかも、僕が毎朝三十分ほどの時間をかけてするより遥かに綺麗だ。
ほこりを落とすだけだが、商品を誤って落としたり傷つけないようにと丁寧にやっているので、場所が狭い割には時間をかけて掃除していると自賛していたのにも関わらずである。
ここまで違うものなのかと、少しばかりショックを受けた。


「ふぅ。狭い割にはごちゃごちゃしていて、なかなか掃除しがいのある部屋でしたわ」

「咲夜……君、能力を使ったかい?」

「能力? いいえ、使っていませんけど」

「……そうか」

「? なにか?」

「いや……気にしないでくれ……」

「そうですか。では御主人様。次は居間の掃除でよろしいでしょうか?」

「ご、御主人様?」

「ええ。今の私は御主人様のメイドです。ですから御主人様とお呼びしているのですが、何か問題がございますでしょうか?」


そういえば、先ほどから咲夜の口調がおかしい。
いつの間にか僕に対して敬語で話すようになっている。


「問題があるわけじゃないが……」

「では、私は居間に行かせていただきます」

「あ、ああ。よろしく頼むよ」

「かしこまりました」


最後に室内用の掃除用具の場所を聞くと、咲夜は居間へと行ってしまった。


「……はぁ」


いきなりの咲夜の豹変に、思わず溜息が漏れる。
自分がレミリアの代わりを務めることなど到底できそうにないが、それは咲夜も重々承知していると思うし、第一そんなことは求められていないとだろうから気にしなくていいのだろう。
それでも、今までメイドはもちろん、部下や従者を持ったことのなかった僕は、仮初の主従関係とはいえ現状に違和感を感じざるを得ない。
―――詰まる所、とても疲れるのだ。
これならまだ魔理沙が店で暴れる方が対処しやすいというものだ。


「居間のお掃除、終わりました」

「え? あ、ああ。お疲れ様。次は……」

「台所でよろしいですか?」

「ああ、頼むよ」


咲夜は台所に行こうとしたが、ふと足を止め窓から外を見た。
日は高く、太陽は今がお昼時であることを主張していた。


「その前に、もうお昼ですから先に昼食にしましょうか」

「あー、うん。そうだね」

「かしこまりました」


結局その後。
昼食の用意からその片付け。残る部屋の掃除、庭の手入れから畑の世話まで。
僕が特に何を言うわけでもなく、彼女は的確に仕事をこなしていった。















「あの」

「なんだい?」

「もう一通り終わってしまったのですが……」

「そうか。じゃあ、休んでてもいいし、帰ってくれても構わないよ」

「………何かないのですか?」

「と、言われてもね。もう一通りやることは終わってしまったのだろう?」

「はい。裏の倉庫以外の全ては」

「あ……」


そうだった。
裏の倉庫には価値の高い物や僕が個人的に気に入っている者を大量に保管してある。
それには触れないでくれと伝え忘れていたのを、今になって思い出した。


(どうやら、僕が伝えるまでもなく理解していたようだが……)


御主人のプライベートに自分からは干渉はしない、良くできた娘、もといメイドだった。
もっとも、咲夜なら倉庫の物を盗んだり壊したりはしないだろうから、倉庫の掃除や整理を手伝ってもらう人材にはうってつけなのかもしれない。


「倉庫の方もやっておいた方が良かったでしょうか?」

「いや、そこまでやってもらうつもりはなかったから、そのままでいいよ」


どのみち今からやり始めたら咲夜を今夜中に帰せるか分からないので、今日はいいとしよう。
それにしても、咲夜がここまで優秀だとは思わなかった。
いや、優秀なメイドであることはなんとなく理解していたが、実際に働く彼女を見て想像以上であったとその認識を改めた。
今日はいいにしようと決めたばかりなのに、こんなことなら店を臨時休業にして、他よりも先に倉庫を一緒にやった方が良かったかもしれないと、早くも後悔し始めている。
彼女が一緒にいれば、それはそれは円滑に倉庫の整理整頓ができただろうに。


(まあ、今となっては仕方のないことか)


また今度、機会があれば手伝ってもらうとしよう。


「あの、御主人様」

「ん? なんだい」

「それで、何か、ありませんか?」

「何か、かい?」

「はい。何でも構いませんので、何か命令はございませんか?」

「うーん。特にないよ」

「はあ」

「不満かい?」

「御主人様は私の御主人様ですのに、何も命令して下さらないんですもの」

「そうは言ってもね。君は優秀だから、僕が何か言うより前に大抵のことは終わってしまっているんだよ」


現に今、咲夜はやることがなくて困っている。


「……そうですか」


僕としては褒めたつもりだったのだが、咲夜は少し寂しそうに目を伏せてしまった。


「……すまないね。僕では、君の御主人様になるには力不足のようだ」

「……何でもいいんですよ? 来いと言われれば来ます。行けと言われれば行きます。遊べと言われれば遊びます。探せと言われれば探します。奪えと言われれば奪います。使えと言われれば使います。止めろと言われれば止めます。殺せと言われれば殺します。死ねと言われれば死にます」

「おいおい、仮の主でしかない僕が『死ね』と言っても、君は死ぬのかい?」

「それが本気で、真摯な命令であるのならば」

「…………き」


君こそ本気か。


「見くびらないでいただきたいですわ。私は、軽々しく貴方を主としたわけではありません」

「…………」

「仮初とはいえ、今の貴方は私の主です。ここまで言えば、分かっていただけますでしょうか?」

「……それは……」

「私は、何を命令されても構いませんよ……?」



御主人様。メイド。命令。主従関係。主従。主と従者。


(……御主人様と……犬?)


なぜそのような思考に繋がったのかと聞かれれば、それは僕にも分からない。
普通に暮らしていれば、「貴方の言うことを何でも聞きます」なんて言われることはまずないだろう。
強いて理由を挙げるとすれば、そういう事態が何の前触れもなく訪れてしまったためとしか言いようがない。


(……だが、もうそんなことは言ってられない)


僕は今、試されている。
ここで男らしく命令の一つでもできないようでは、明日中にも「香霖堂の店主はメイドに命令もできない幻想郷一のへたれ」という噂が広まっていることだろう。
咲夜は、多少潤んだ瞳で上目遣いに僕を見つめている。
今の僕には、それがまるで品定めされているように感じられた。
仕える側から駄目出しされるなど、そんな情けないことはあってはいけない。
僕は、香霖堂の主なのだ。
今この場所で、僕を見下せる存在などありはしない。
なればこそ、僕はただ堂々と僕のメイドに命令すればいいだけの話である。


「咲夜」

「はい、御主人様」

「お前は犬だ」

「……はい?」

「わんと鳴け」

「…………」

「ま、待ってくれ。なぜナイフを構えるんだ?」


なぜだろう。
本気で真摯な命令だったのだが、咲夜はお気に召さなかったらしい。


「……はぁ。何を言うのかと思ったら……」

「駄目だったか……」

「ああいえ、別に、駄目というわけではないのですけれど」

「いや、よく考えたら駄目だよな、今の命令は。すまない、混乱してたんだ。忘れてくれ。むしろ忘れろと命令したい」

「いえいえ。混乱したからこそ御主人様の本音が出たと、そう解釈させていただきますわ」

「……僕を脅す気かい?」

「まさか。業務上で知りえた機密は、墓まで持って行く所存です。主に言えと言われない限りですが」

「主って、今は僕だがすぐにレミリアに戻るじゃないか」

「まぁ、そうですね」

「……はぁ」


これから口止め料として何を要求されるかを考えると気が滅入る。


「ふふ。冗談です」

「え?」

「言いませんよ、お嬢様には。私たち、二人だけの秘密です」

「それは願ったり叶ったりだが……何が望みだい?」

「嫌ですわ。メイドの私が、御主人様に求めるものなどありません」


強いて言えば、メイドは主人からの命令を欲するものですと、最後にそう加えて、咲夜は笑った。


「よく言うよ」


手を振って咲夜を居間へと促す。


「もう夕方だ。仕事がないなら、お茶を入れてきてくれ」

「わん」


咲夜は台所へと歩いて行った。
…………ん?















「お茶ですわん」

「え……あ、ありがとう……」

「わん」

「…………」

「わん?」

「…………」

「…………」

「…………」

「きゅ~ん」

「僕が悪かった」

「御主人様の命令ですわん」

「分かったから。僕が悪かったからもうやめてくれ」

「そうですかわん……」


しゅんとする咲夜。


「君はもう充分働いてくれた。だからお茶を飲んだらもう帰ってくれて構わないよ」

「そろそろお暇させていただくつもりではありましたが、何か納得のいかない最後ですわん」

「とにかく、その嫌がらせのような犬語をやめてくれ」


すると咲夜は、はぁ、と溜息を吐いて懐からナイフを一本取り出した。
くるくるとそれを回しながら、咲夜は言った。


「……全く。命令は全然しないし、したらしたでやれと言ったりやるなと言ったり。あなたは主人になる才能が皆無ね」

「そんな才能を欲しいと思ったことは一度もないよ」

「まぁ……そうなんでしょうね、あなたは」


咲夜は回していたナイフをついと僕の方へ差し出す。
銀製の、美しいナイフだった。


「これは?」

「お詫びよ」

「……このナイフが?」

「最後の最後で“主人である貴方”に対して不愉快な思いをさせてしまったから、そのお詫び」

「僕は気にしてないが……」

「私が気にするのよ。少し困らせてやろうと思ってやったんだから」

「ははは。そういうことなら、貰っておこうかな」

「……それと、挨拶も含めて」

「挨拶?」


聞き返す時に、咲夜を正面から見る。
目が合ってから、咲夜は一瞬目を下に逸らし、またすぐ目線を戻した。
咲夜が答えないのでしばらく見つめ合う形になってしまったが、しばらくすると咲夜は頬を赤く染め、そっぽを向きながらこう言った。





「……これからも、よろしくってことだわん」




















咲夜がくれた銀のナイフ。
外見は見事な、それでいて過度ではない装飾。そして曇り一つない刀身。
売ろうと思えば、かなりの高額で売れるだろう。
しかし僕は、このナイフを売り物にする気は全く起きなかった。


(なにか……咲夜に重大な勘違いをされた気がしないでもないが……)


その日。
僕の秘蔵コレクションに、新たな一品が加わった。



[3429] 第5話 厄神様の検問所
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2008/12/10 09:04



「ふぅ……。案外妖怪にも出くわさないもんだな……」


まだ日も高いある日、僕は妖怪の山を登っていた。
早苗に会いに、というか守矢神社を見学するためだ。





『きっと来て下さいね!!』





東風谷早苗が僕にそう言ったのは、もう一か月も前のことだった。




















「…………」


紅魔館の大図書館を利用できるようになってから、書物に関して困るといったことはほぼ無くなった。
その蔵書数はただただ凄いの一言に尽き、おかげでここ最近は用事がない限りほとんど外出しない毎日を送っていた。
そんなある日に来店した早苗は、僕を指差し開口一番、





「わ、私を崇めなさい!!」





……だった。
無音が店内を支配する中、僕はまるで我が子がぐれてしまったかのような寂しさを覚えていた。
とりあえず立ち上がって早苗の肩に手を置き、一言。





「幻想郷は、全てを受け入れるよ」





早苗は泣き崩れた。















「まあ、大方そんなことだろうと思っていたよ」

「う、ううぅ……」

「ほら、鼻をかみなさい」

「は、はいぃ」


ことの顛末はこうだ。
僕からの信仰を得たいと早苗が八坂の神様に相談したところ、





『素っ気ない態度? ハハァ、分かったよ早苗。そいつは隠れMだ』





という『森近霖之助、隠れM説』なるものが浮上したらしい。
これには僕も多少の憤りを感じたものの、神様なんてのは気まぐれの代名詞みたいなものだと思い直し、未だにすすり泣く早苗の頭を撫でてやった。


「やりたくないって言ったんです。でも……」

「やってこいと言われたのか。……まあ、君の神様だしね。断ることもできないか」

「うぅ……忘れて下さい……」

「ああ、分かっているよ」


信仰する気は完全に失せたけれど。















「あの……お世話になりました……」

「いや、楽しかったよ。色んな意味で」

「も、もう! 忘れて下さいって言ったじゃないですか!」

「はは、そんなすぐには忘れられないよ」

「あぁ……だから嫌だったのに……」


涙目になりながらがっくりとする早苗に、僕は真剣な顔で言う。


「早苗……聞いてくれ」

「は、はい。ななな、なんでしょう……?」

「僕は……」

「ぼ、僕は……?」

「僕はいたって、ノーマルだから」

「は、はぁ……? あ、いや、それはそれで嬉しいんですけど、でも、えぇ……?」


なにか納得できませんと、複雑そうな顔で早苗は店を出ようとしたが、一度振り返って言った。


「そうだ、霖之助さん。まだうちの神社に来たことはなかったですよね?」

「うん? ああ、そうだね。行ったことないよ」

「その、都合が良い時でいいですから……うちの神社に来てみてくれませんか?」

「守矢神社に? そうだな……確かに興味はあるけど」


如何せん、僕が妖怪の山に行くには準備が必要なわけであり。


「僕に急ぎの用でもあるのかい?」

「い、いえ、そういうわけでは……」

「そうかい。……まあ、気が向いたらお邪魔させてもらうよ」

「そうですか! 私、待ってますから!」


はっきり『行く』と言ったわけでもないのに、早苗は嬉しそうに言ったのだった。


「きっと来て下さいね!!」




















そして今、僕は山を登っている。
さらに言うなら、いきなりピンチを迎えている。


「ここから先は強力な妖怪がうじゃうじゃいるんですの。ですから、貴方を通すわけにはいきませんわ」

「そんなこと言われても……困ったな。じゃあ僕はどうすればいいんだい」

「貴方が自衛の手段を持っているというのならその限りではありませんが……」

「自衛の手段、ね」


どうやら早速、用意した“準備”を使うことになりそうだった。
目を付けられたのが天狗だったら、守矢神社に問い合わせてもらうことでいざこざは回避できただろうに。


「幻想郷らしく、スペルカードでの勝負といきましょうか?」


目の前には緑色の髪を前で結んだ、ゴスロリ風の服を着た女性が立ちはだかっていた。


「すまないが、自作のスペルカードはまだ一枚しか所持していないんだ。だからやるなら一本勝負ということになるが……」

「あら、そうなんですの。私は構いませんわ」

「……お手柔らかに頼むよ」

「と言いつつも、私との決闘を受諾したあたりになかなかの自信を感じますわよ?」

「まさか。このスペルカードを実践で使うのは君が初めてでね。自信なんてないよ」

「ワタクシを、馬鹿にしてますの?」

「いやいや。馬鹿になどしていないさ。自分で言うのもなんだが、なかなか良い出来だと思ってる」

「へぇ……期待させてもらいます」

「君の期待に添えるように、精々頑張るさ」

「どっちでもいいですわ。では、始めましょうか。……ああ、そういえば、まだ名乗っていませんでしたわね」

「ああ、そうだな」

「私の名前は鍵山雛。人々の払った厄を受け持つ厄神ですわ」

「僕の名前は森近霖之助。魔法の森にある香霖堂という店の店主だ」


僕の初陣の開始だ。




















「悲運『大鐘婆の火』」

「うお……!!」


チカチカと眩しい、紫のオーラを纏った赤い弾幕が僕に向かってくる。


「くっ……」


左右へ動き、それを避ける。
意図しないグレイズがこんなにも恐怖だとは、実際に戦わなければ気付かなかった。
何しろスペルカードルールに基づく実践は、今回が初めてなのだから。
スペルカードルールという画期的なルールは、既にこの幻想郷に定着しつつある。
決闘に美しさを求めるというこの新しいルールに、実のところ僕はかなり興味があった。
だが僕の力では、自分のスペルを作ったところでたかが知れている。根本的に力が足りないのだ。
もちろん、それを補う術がないわけではないが、そうまでして作り上げようとは思っていなかった。


「ほらほら! 早くあなたのスペルを見せて下さいまし!!」

「そうだね……。草薙の剣」 『そうだね……。天叢雲剣』


手を前に伸ばし、虚空から草薙の剣を取り出す。
自分で取り出しておきながら、どうやって取り出したのか、その方法がわからない。
魔理沙と取り引きをして手に入れたこの草薙の剣。
この剣が僕に話しかけてきたのは、はたしてどのくらい前のことだっただろうか。


「雨符『叢雲の霹靂』」


草薙の剣は、自身の召喚方法ともう一つの名前を僕に教えてくれた。
召喚方法はいたって簡単で、僕が自らの意思を以て求め、その真名を呼び、念じるだけだ。
剣の担い手としてはまだ認められていないが、所持することの許しは得たと僕は解釈している。


「雲が急速に集まってくる……。貴方、天候を操作できるんですの?」

「いや、これは僕が持つ力の副産物のようなものだ」

「わけがわかりませんわ」

「だろうね。……僕が言うのもなんだが、気をつけろよ。降ってくるのはただの雨じゃない」


一粒、また一粒と。
雨粒が降ってくる。金色の雨粒が。


「弾幕のスコール。これが僕のスペルカードだ」

「な……!?」



ザアアアアアアア!!!!



黄金の弾幕。
雲の中から幾重にも降り注ぐ金色で、空が染まる。


(……綺麗だ、草薙の剣)


正直、もう飛んでいることすら辛い。
今さらではあるが、飛び慣れていないというのに弾幕ごっこをするなんて、さすがに無謀だったかもしれない。


(あと、七秒)

「なんて美しい、黄金の弾幕。これでは私の弾幕がくすんでしまいますわね。さて、どうやって避けましょう……」

(あと、五秒))

「これは……無い。無いですわ。雨。避けた先にも、弾幕の雨粒が」

(……あと、三秒)

「ああ……それにしても綺麗ね……このままだと被弾してしまうのに……」

(二秒)

「どこでしょうね……。この辺りで一番“厄の薄い”場所は……」

(一)


そこで。
彼女は僕を見て、口を歪める。


「あなたの周りは、随分と厄が少ないのね」

(零だ……!!)


鍵山雛は一直線に僕めがけて飛んでくる。
そう。
この弾幕の唯一の安全地帯は、僕を中心に半径五メートルの範囲。
空から僕の弾幕が落ちてくるまで約十秒。彼女が全速で僕に向かって飛んだとして、半径五メートルの範囲に至るまで約三秒はかかるだろう。


タイミングとしてはどうなってもおかしくない。紙一重で僕が勝つか、紙一重で彼女が勝つかだ。


「っ……!!」


鍵山雛は加速するが、間に合わない。やはり紙一重。


(勝った)


僕の目の前で彼女は被弾する、はずだった。


「『大鐘婆の火』!!!」


間に合わない、そう判断したのだろう。
彼女は今まで僕に向かって放ち続けていた弾幕の照準を、前方斜め上へと変える。
僕と彼女の弾幕が衝突する。
接触は一瞬。だがその一瞬で勝敗は決した。
金色の弾幕は赤の弾幕をものともせずに打ち破った。ただ少し、その落ちる速度を犠牲にして。


「チェックメイト、ですわよ」

「ああ……そうみたいだな」


ぎりぎりで回避した鍵山雛は、僕の喉元を指さしながらそう言った。


「それにしても、この弾幕の密度は異常ですわ……。貴方、力を隠していたのね」

「いや……ただ単に、力を制御できていないだけさ」

「まぁ、なかなか楽しかったですわ。一瞬とはいえ、この私を焦らせたんですもの」

「……そうか」


正直、この勝負を受けたことを後悔していた。
自分で作った結界の中でかなり修行はしたのだが、やはり実践は違うようだ。
具体的に言うなら、草薙の剣が暴走しかけている。


「私の能力は危機回避にも使えますの。厄を集めるためには、厄を感知できなければならないでしょう? だからあの瞬間、貴方の周りだけ異常に厄が少ないことが分かっただけです。それがなければ……多分、自力では気付きませんでしたわ。勝負を忘れて見惚れてしまうほどに、貴方の弾幕は美しかったですもの」

「そう、かい。」


限界だった。
草薙の剣は、勝敗が決したのにも関わらずまだ僕から力を吸いだそうと弾幕を放ち続ける。
力を制御できていない。それは紛れもなく、ただの真実だった。


「いつまで弾幕を張り続けているんですの。もう勝負はついたでしょう?」


半径5メートル?
そこまで細かい弾幕の軌道指定を、僕にできるはずがない。
このスペルカードで僕が決めたのはただ二つ。
展開範囲の指定と、その中に穴を開ける範囲の指定だけだ。
だが、実際に僕ができているのは前者だけ。
このスペルカードの展開中に一瞬でも気を抜けば、その瞬間に僕まで巻き込まれてしまう。


「……そうだね……」


ぐらりと、自分の体が傾いたのが分かった。
急激に奪われていく自分の妖力に、僕の意識は暗くなっていく。


「貴方、すごい汗ですわ。……どうかしまして?」


鍵山雛が何か言ったが、それに返事をする余力など僕には残っていなかった。


「え? ちょ、ちょっと! 貴方!!」


このままでは彼女を巻き込んでしまう。それだけは避けなければならなかった。


(戦いは終わったんだ、天叢雲剣。もう弾幕は張らなくていい。頼むから、もう眠ってくれ)


そこまでだった。
柔らかい何かにぶつかり、どうなったかわからないまま僕の意識は完全に落ちた。




















「まったく。弾幕は止みませんし……閉じ込められてしまいましたわ」


本当に変な男。


「……それにしても、所有者が気を失ってなお展開し続けるスペルカードなんて……」


ようやく薄れてきた金の弾幕に、また目を奪われる。
きらきらと、空を彩る金の粒。
それは本当に、本当に綺麗だった。


「金の粒子。……やだ、もう。こんなの、綺麗すぎですわ……」


私の腕の中で気を失っている男がこんなにも美しいスペルカードを作ったなんて、とてもじゃないが、信じられない。
同時に、もったいないとも感じる。
確かに綺麗だ。でも、その輝きは弾幕単体のもつもの過ぎない。
弾幕の軌道は単調そのもの。そこには美しさのかけらもないのだ。
だというのに、この弾幕は、ただ其処にあるだけで。


(なぜこうまでも、私の心を震わせるの……?)


俄然、この男に興味が湧いてきた。
男をよく見てみれば、発汗量が異常に多い。
体も熱くて、私に触れる部分からその熱が伝わってくる。
ようやく弾幕も引いたようだし、とりあえず私の家へ連れて行こう。


(イロイロと、教えてもらいますわよ?)


半日もすれば起きるだろうと、私は軽い気持ちで彼を家まで運んだのだった。




















「う……ぐ、ああ……!!」


全身を襲う筋肉痛で目を覚ます。
辺りを見回そうとして、首を上手く回せない、正確には回すための力が入らないことに気付いた。
それでも無理やり動かして現状を把握しようと試みる。
右手側が壁だったので、左へと首を回す。
もはや、首を回すと言うより押し出すと言った方が正しいと思わせるほど、今の僕は疲弊していた。


(ここは……寝室……?)


白と黒、それと少しの赤で彩られた、全体的に落ち着いた雰囲気の全く見知らぬ部屋だった。
普通に考えれば鍵山雛の家か、彼女に負けた後、気を失った僕を発見した誰かの家ということになるだろう。
そう思いつつも、僕はここが鍵山雛の住処だと確信していた。
理由は単純。それほどまでに、この部屋は彼女自身が纏う雰囲気と似通っているというだけのことだ。
全体的に少女趣味で、外の世界ではゴシック・アンド・ロリータと呼ばれる様式を基調とした室内装飾である。
僕の店にも同じ様式だと思われる服が何着かあり、余談だが、魔法の森に住む人形遣いは新作が入る度に足を運ぶほどこれが好きだ。


(……ん?)


つかつかと、部屋の外から足音がする。
どうやらこの部屋の主人がここへ向かってきているようだ。
コンコンとノックをし、間髪いれずに部屋へ入ってくる。
ノックという行為が全くその意味を成していない。


「あら、起きましたの?」


入って来たのは、案の定鍵山雛だった。
いったん起きようと思ったが、腕にも全く力が入らないことに気づいてやめた。気だるさに満ちた今の僕の体は、身を起こすだけでも重労働のようだ。
鍵山雛は僕の額に手を添えると「だいぶ下がったわね」と呟き、そのまま手を伸ばして僕の右頬の辺りからタオルを取った。
机を見ると、中に水が入っているかまでは確認できないが洋風の桶が置いてあったので、多分濡らしたタオルを僕の額に乗せていてくれたのだろう。
ベッドの傍の椅子に座った彼女は、静かに僕を見下ろした。


「ああ。……ここは君の家かい?」

「ええ。普通の人間には厄っぽくて息をするのも辛いのでしょうけど、貴方は大丈夫そうでしたので」

「ん……ああ、大丈夫だよ。僕は半人半妖だから、このくらいなら何の問題もない」


体は碌に動かないが、ただ話すだけなら問題ないようだ。


「あらまぁ、半妖の殿方さんでしたの。それにしては強力な力をお持ちのようですが……?」

「あれは……」


弾幕ごっこで使った力は草薙の剣の持つものだが、それを言ってしまってもいいのかと少し迷った。
結局、まだ僕自身その力を完全に把握しているわけではないし、わざわざ言うようなことでもないかと結論づけて適当に話を合わせることにする。


「あれは、僕の持つマジックアイテムの効果だよ」

「マジックアイテム? いくらなんでも、ただのマジックアイテムであそこまで強力な弾幕が作れるとは思えないのですけど」

「ただのマジックアイテムなら、そりゃあ無理だろうね」

「貴方の持つ物は、そうではないと?」

「ああ。勝負の前にも言ったけど、僕は香霖堂という古道具屋をやっていてね。自分で作ったりもする」

「そう言われましてもねぇ……」


目を細めて苦笑いをする鍵山雛。完全に僕を疑っているようだ。
信じてもらえなくても別に構いやしないが、彼女は僕の弾幕を強力だと言った。
それが本当に僕の作ったマジックアイテムの力だと説得できれば、彼女は店に興味を持ってくれるかもしれない。
ツケの支払いにも目をつぶってやっていることだし、ここは店の常連である彼女たちに協力してもらうことにしよう。


「ちなみに。前にこの山へ来た博麗霊夢という紅白の巫女が使う神具、それに霧雨魔理沙という白黒の魔法使いが使う魔道具なんかも僕が作った物だ」

「あぁ……なるほど。貴方の作るマジックアイテムがどれだけ凄いのか理解しましたわ」


説得力は抜群のようだった。


「とは言っても、これは極端な例だけどね。使い手の能力が元々高いことも事実だ」

「……正直ですのね。彼女たちの強さの秘訣は僕が作ったマジックアイテムだ、とでも言いだすのかと思いましたわ」

「まさか。僕はそこまで身の程知らずではないよ。道具とはあくまで使い手を助け、支えるものだ。使いこなされてこそ、一流の道具。持ち主が扱いきれない道具なんて、道端の石ころと大差ないよ……いや、持ち主に迷惑をかけないという点では石ころの方がまだマシか」


これは、今のところとてもじゃないが僕には扱いきれない草薙の剣への皮肉も込めて言った。


「ふぅん……。機会があれば、一度お邪魔してみたいものですわ」

「いつでもどうぞ。僕がいる時ならいつでも店は開いているから」


どうやら彼女は僕の店に興味を持ってくれたようだ。
虚栄や驕りは、商売において全くと言っていいほどに無意味なものである。
もちろん商売のためにわざとそういった類の言葉を使うこともあるが、自分の店が扱う商品に自信があればその必要もない。
いくら言葉で飾ったところで事実は変わらないし、実際商品を使えばそれが嘘か本当かなどすぐに分かってしまう。
特に幻想郷ではただの人間が生きていける場所は限られているので、詐欺などで大量に金銭を手に入れたとしても、そのせいで里のコミュニティから排除されてしまったらその大金も使いようがない。


「お店は貴方一人でやっているんですの。……なら、お店は丸二日もお休みになってしまいましたわね」

「……丸二日?」


目だけ動かして、窓を見る。
カーテンから漏れる光は明るく、今が朝か昼か、少なくとも午前中であることを示していた。


「ええ。丸二日」


「……すまないが、今日が何日か教えてもらえるかい?」

「お安い御用ですわ」


鍵山雛が告げた日付は、僕が彼女と弾幕ごっこをしてから丸二日が経過していることを示していた。















「ふぅ~、ふぅ~。あ~ん、してくださいな」

「…………」


丸二日も店を空けるなんて。最近は用事で店を休むことが多かったのに。


「ふぅ~、ふぅ~。はい。あ~ん、してくださいな」

「…………」


こうしている間にも誰かが店を訪れているかもしれないと思うと、とてもじっとしてなどいられない。
だが現実は無情で、僕の体は首を動かすのも億劫なほど疲労の極致にある。


「あ~んしろですわ」

「熱っっ!! なにするんだ! 熱いじゃないか!!」

「助けてもらった分際で私を無視するなんて、いい御身分ですこと」

「う……いや、すまない。少し考え事をしていて……」

「お店のことでしょう? なんなら、今から私がひとっ飛びして『破産しました』という看板を出してきてもよろしくてよ?」

「おいおい……笑えない冗談だ」

「そうされたくなければ、今は体力回復に努めることですわね」


そう言って、鍵山雛は再び僕の口にスプーンを寄せてきた。


「これは、コーンスープか」

「ええ。栄養と厄がたっぷり入った、雛特製のコーンスープですわ」

「や、厄がたっぷり……?」

「冗談です。さっさと飲んで下さいな」


体がほとんど動かせないので、今の僕は鍵山雛に手伝ってもらい、やっとこさ上半身を起こした状況にある。
さらに背もたれがないと後ろに倒れてしまうので、毛布を重ねて僕の背中に当ててもらっていた。
その状態で、ちびちびと鍵山雛にコーンスープを飲ませてもらう。特製と言うだけあって、とても美味しかった。


「お味の方はいかがです?」

「とても美味しいよ」

「それは良かったですわ。最近は誰かと食事をすることもあまりなかったもので、少し心配でしたの」

「そうか……ん?」


気のせいか、体が軽くなった気がする。
試しに腕を上げてみた。


「あら? もう動けるんですの?」


腕は簡単に上がった。先ほどまでの疲労感や筋肉痛などがまるで嘘のように。


「永遠亭のお薬はすごいんですのね」

「永遠亭? もしかして、わざわざ行ってきてくれたのかい?」

「ええ。あの薬師、八意永琳、でしたわね。噂通りの天才のようですわ。貰ったお薬をスープに混ぜただけですのに、こんなに早く効果がでますのね」

「それは……すまないな。何から何まで」

「お気になさらず。とは言っても貴方は気にするのでしょうから、元気になってからお返しして頂ければそれでいいですわ」

「あ、ははは。分かったよ」


永琳が天才だということには全面的に賛同だ。
いくらか四肢に痺れのような疲労感は残るものの、僕はもう自力で立つことができたのだから。
それにしても、鍵山雛は僕のことを人間と妖怪のどちらだと言って薬をもらったのだろうか。半人半妖である僕には、どちらの薬も副作用がない代わりに大した効果もないはずなのだが。


「貴方、薬師さんとお知り合いでしたのね。簡単に貴方の外見の特徴を伝えたら、すぐに貴方の名前を当てましたわ」

「ああ。最近、ちょっとね」


大方、永琳は半人半妖に効く薬をわざわざ調合してくれたのだろう。手間をかけさせたのだから、時間を見つけて永琳にお礼をしなくてはいけない。
まだ医学書を借りたことの代価を払っていないというのに、やっかいなことだ。
鍵山雛にも大きな借りができてしまった。
慣れないことはするものではないと、心から思った。


「とりあえず、体の方は大分戻ったみたいだ」

「それは何よりです。でも、まだ病み上がりには違いないしょう? スープはまだまだありますから、たくさん食べて下さいな」


もう自分で食べられるのだが、鍵山雛は僕にスプーンを渡そうとはしなかった。


「なんだか楽しくなってきたので、私が食べさせますね」

「は?」

「あ~ん」

「いや……もう腕は動くんだが……」

「あ~ん」

「…………」

「あ~ん」


…………鍵山雛には、多大な借りがある。


「……わかった、わかったよ。君には大きな恩があるからね。君の好きにするといい」

「そうですか? では私、いくつか聞きたいことがあるんですけれど……」

「僕に答えられることなら」

「うふふっ。二日も待たされましたからね。それはもう貴方に聞きたいことがたくさんあるんですのよ?」

「そうなのかい? まあ、お手柔らかに頼むよ」

「それは無理ですわ」


鍵山雛はいったんスプーンを置き、机の上に置いてある大量の紙の束を指差した。


「それは?」

「貴方が寝ている間に貴方への質問を考えていたのですけど、数が多くなってきてこんがらがってしまったので紙に書き留めておくことにしたんですの」


厚い紙束から一枚を取り、それをひらひらと僕の前で揺らしながら、鍵山雛はそう答えた。
その裏表にびっしりと、僕への質問だろう、文字が書き込まれている紙を見て、僕はうんざりして言った。


「随分と、量があるみたいだが」

「そうですわね」

「……ちなみに、質問は全部で何個あるんだい?」

「数えないと正確な数は分からないのですけど。……まぁ、ざっと千は下らないと思います」

「…………そう、かい」


香霖堂、三日連続の無断休業が決定した瞬間だった。
彼女には貸しがあるから、断ることもできない。
それになんとなくだが、彼女には嘘が通用しない気もする。つまり、適当にだまくらかしてその場を凌ぐこともできそうにないということだ。
しかし。


(……まあ、いいか)


そう思った。
それは単に僕が彼女に恩を感じているというだけでなく、彼女が持つ独特の柔らかさのような、そんな雰囲気がそう思わせるのだろう。
多分だが、彼女は僕という存在の核心を衝くような質問はほとんどしないのだと思う。
例えしたとしても、僕が「答えたくない」と言えばそれで許してくれるような気がする。
まだ僕も本調子ではないし、ここで一気に治してしまおうと開き直る。


「ではまず一問目。貴方は何者ですか?」

「…………」


一問目から、なかなかに深い内容だった。


「僕が何者か、ね。……そうだな。長い夜になりそうだし、まずはお互いに自己紹介をやり直そうか」

「……そうですわね。確かに、長い夜になりそうですわね」





「僕の名前は森近霖之助。魔法の森にある香霖堂という店の店主だ。森近でも霖之助でも、君の好きに呼んでくれ」

「私の名前は鍵山雛。人々の払った厄を受け持つ厄神ですわ。私のことは雛と、そう呼んで下さいな」





結局。
この後始まった僕らの問答はその日の夜はもちろんのこと、翌朝になっても終わることはなく、それどころか翌晩になっても一向に終わる気配を見せなかった。
それは予想以上に話がはずんでしまい、途中から質問と質問の間の単なるお喋りの時間が段々と長くなっていったのが一番の原因だろう。
体の調子も大分戻っており、さすがに四日連続で店を空けるわけにもいかず、続きは雛が香霖堂に来た時にということで、僕は雛の家を後にすることにした。
雛は途中まで送ると言ったが、それは丁重に断った。
スペルカードでの戦闘でなければ、僕はそこいらの妖怪に遅れをとるつもりはなかった。
何でもありの戦闘なら、多少の経験はあるのだ。















「それじゃあ、また今度」

「ええ。貴方のお店へ行くまでに、また新しい質問を考えておきますわ」

「おいおい、それじゃあ永遠に終わらないよ」

「ふふっ。でも、貴方とのお喋りは楽しくて」

「まあ、暇な時にでも店においで。僕も暇なら、その時はお互いの暇を潰し合おうじゃないか」

「そうですわね。……お喋りもいいですけど、もう一戦、いかがかしら?」

「……悪いが、もう弾幕ごっこはこりごりだ。必要が無ければ、二度とやらないよ」

「あははっ。貴方が倒れたら、また私が看病して差し上げますわよ?」

「その度に店を空けるのかい? そんなことになったら、そのうち店が潰れてしまうよ」

「それは、物理的に?」

「そこまで凶暴なお客はいない……こともないが、まあ、心配の種は無いに越したことはない」

「本当に楽しい人ね、貴方は」

「ここでその言われ方は、何か納得できないんだが……?」

「ふふふっ。……お時間は大丈夫? 明日の準備があるのでしょう?」

「ああ。もう行くよ。……そうだ、薬の代金を聞いていなかったね。いくらだったんだい? まだ払っていないのなら、僕が直接永遠亭に行って払ってくるから」

「……私も言っておくのを忘れていましたわ。代金は払っていません。後で直接回収に行くと、そう言っていましたわ。イイ笑顔で」

「そ、そうか……。うん、分かった。あと、服も貸してくれてありがとう。わざわざ里まで行って買ってきてくれたんだろう?」


目が覚めてからしばらくして、僕は自分が里で売られている寝巻きを着させられていたことに気づいた。
触り心地やその匂いから新品のものであることが分かったため、お礼を言わなければと思ったまま今の今まで忘れていたのだ。
僕が着ていた服は綺麗に洗濯され、先ほどこの家を出る前にそれに着替えさせてもらった。
その時に思い出してもいいものだが、なんだかんだ言って僕はまだ本調子ではないということなのだろう。


「いえいえ。こちらこそ、素敵な時間をありがとうですわ。服は確かに里まで行って買った物ですけど、そんなに高い物でもありませんし」

「それでも、だよ。今はあまり持ち合わせが無いから無理だけど、それも含めて今度君が店に来た時は歓迎しよう」

「そうですか。そうね……そういうことなら、御代は今、頂きますわ」


言い終わる前に、雛は動いていた。





「チュッ」





「へ?」


その瞬間、ズドオオオオン!!!!! という轟音と共に、雛の家の周りにある木々が根元から吹き飛ばされていった。
頬にキスをされ、ほとんど同時にそんな現象が起こったというその奇怪な事態に、僕はただ呆然とすることしかできない。


「……あら、ごめんなさい。慣れないことをしたものだから、能力が暴発してしまったみたいですわ」


若干顔を赤くしながらそんなことを言う厄神様。


「今のキスと安い寝巻きの御代が釣り合うとは思ってはいませんけれど、ついでに今ので貴方の厄を払っておきましたわ。厄得……もとい、役得ですわ♪」

「……厄を払ってもらったのでは、御代どころか僕の借金が増えたようなものじゃないのか?」

「まぁ、それは各々の受け取り方次第ですわね。貴方がそう感じたのなら、お返しして頂ければ嬉しいのですけれど」

「お返し?」

「ワタクシが今、貴方へしたことは、なんですか?」

「キス……だが」

「そう。ちゅーですわ」

「それを僕から君にしろ、と?」

「そんなに深く考えることはありません。頬へのキスは、むしろ親愛の証だと思って頂ければ」

「そういうことか。……そうだね、君が嫌でなければ」

「されて嫌な相手に自分からする馬鹿はいませんわ」

「ははっ。それもそうか」


僕は少し屈んで、雛の右頬に口を寄せようとした。
その瞬間、ズドオオオオン!!!!! という轟音が再び鳴り響き、雛の家の周りにかろうじて残っていた木々が今度こそ根こそぎ吹き飛ばされていった。
思わず身を引いてしまった僕に、雛は「……残念ですわ。今日はもう無理そうですわね……」と呟き、一歩後ろへ下がった。


「今日は日が悪いようですわ。続きはまた今度、貴方のお店で」

「それは構わないが……。それよりも、雛。その、これは、いいのかい……?」


雛の家の周りから緑が消えている。
元々家の庭にあった花壇は無事のようだが、家の周囲の木々はほとんど消えてなくなっている。


「ええ、お気になさらず。二、三十年もすればまた元通りになりますわ」

「君がそう言うならいいが……。じゃあ、僕は行くよ」

「はい。また会える日を楽しみにしていますわ、霖之助」


軽く手を振り、雛の家を後にする。
しばらく歩いて、本来の目的を思い出した。


「あ……そういえば、守矢神社に行くためにわざわざ妖怪の山まで来たんだった」


……早苗には悪いが、行く時間まで決めたような細かい約束ではなかったので、またの機会にするとしよう。




















「さて、もう出てきてもいいですわよ」


言い終わる前にお札が飛んできた。後ろに飛んでそれを避ける。
背後で爆発音がしたが、今さらなので気にしない。


「……死にたいの? お前」

「あら怖い。私はただ、自分の交友関係を広げただけでしてよ?」


巫女服に身を包み、クマで目元をどす黒くした博麗霊夢が家の裏手から歩いてきた。


「やりすぎでしょ? どう考えても。何よ、あのキス。唐突にも程があるじゃない。やっぱりアンタに任せるんじゃなかった」

「嫉妬ですの? そんなに心配しなくても大丈夫ですわよ。私より貴女の方が彼との親交は断然深いのでしょうからね。実際、彼が目を覚ましてから一日中お喋りしていましたけど、貴女の名前がでてくることの多いこと多いこと。女の前で他の女性を褒めるだなんて、あの人も分かってないですわね。ま、そういうのが逆にイイと言えばそうなんですけど」

「ほ、褒める? わ、私のことを!? ねぇ、霖之助さんはなんて言ってた? どんな風に褒めてた?」

「あ、ごめんなさい。褒めてたのは貴女じゃなくて、紅魔館のメイド長のことでしたわ」

「メイド長って、咲夜ぁ!? なんで咲夜がでてくんのよ。あいつはレミリアにぞっこんのはずじゃあ……」

「私に聞かれてもわかりませんわ。その方とは交流がないので」

「くっ……全くの想定外だわ」

「それより、私に何か言うことがあるのではないですか?」

「……あ、あなたが能力を暴発させた件についてかしら……?」

「暴発させたのは貴女でしょう! しれっと事実を歪曲させないで下さいな!」

「……そうね、それについては、悪かったわ。上手くフォローしてくれてありがとう……って、元はと言えばあなたがき、キスなんて、変なことをしたのが原因でしょうに!」

「特に禁止された覚えはありませんわ。全く……修行が足りないんじゃありませんこと?」

「少なくともアンタよりは強いわよ」

「そうですわね。少なくとも、“弾幕ごっこ”で貴女に勝てるとは思っていませんわ」

「……何が、言いたいのかしら?」

「恋という名の勝負では、どっちが勝つのでしょうね?」

「なっ」

「なんて、ね」

「……冗談、よね。そうよね、いくらなんでも、あんな短時間で好きになったりは―――」

「でも、とても興味深いですわ」

「なったりは……」

「面白いですわ、彼。ずっと一緒にいても、例えそこに一切の会話がなくても、彼となら生きることに飽きたりはしない。そんな風に思いますの」

「なったり……するのよね……霖之助さんだし」

「それに、あの弾幕」


その瞬間。
巫女の体が強張るのを、私は見逃さなかった。


「あれは、一体何なんですの?」

「……貴方には、関係ないわ」

「誰が彼を、二度と弾幕ごっこなんてしない、という思考に誘導したかお分かりで?」


彼は既に弾幕ごっこなんて二度とするものかと考えていたようなので私が特に何をしたわけではないのだが、それはわざわざ巫女に言うことでもないだろう。


「それには感謝している。でも、これは私が、“博麗の巫女”が解決すべき異変だから」

「つまりそれは、幻想郷の存続に関わる事態、ということですの?」

「…………」


巫女は答えない。……ここまでですわね。


「…………」

「……わかりましたわ。もうこれ以上は聞きませんし、このことを誰かに言ったりもしません」

「……ありがとう。迷惑をかけたわ。私はもう行くから」

「待って」


泣きそうな……いや、泣いている。
無表情な仮面の下。その心で涙を流すこの少女に、それでも私は聞かなければならない。


「もし、彼の持つ力が、幻想郷に破壊をもたらすものだった時。……その時、貴女は、」

「殺すわ」

「……できるんですの? 好きなのでしょう? 彼を、森近霖之助のことを」

「ええ、好きよ。大好き。でも、幻想郷に仇為す存在は、私が、滅ぼさないといけないから」


その“私”とは、どちらの“私”なのだろうか。博麗の巫女? それとも―――


「大丈夫よ。私は大丈夫。物心ついた頃には、不思議だけど、もう既にそういった覚悟があったのよ。……大切な誰かを、殺す覚悟が」


予感していたのかもしれないわね。そう言って、笑顔で泣く小さな巫女。
この巫女が私の家に来たのは、彼が起きる半日ほど前の話だった。
曰く、『理由は詳しく話せないが、そこで寝ている男がこれから先、二度と弾幕ごっこをしたくなくなるように誘導してほしい。自分が身柄を預かってもいいが、極力不審に思われるようなことは避けたいから私に任せる』と。
理由が話せない、というのは、存外その言葉自身が理由を説明しているようなものだ。
あの黄金の弾幕を見て、一向に起きない彼の世話をして、実際に彼と話して。
……別れ際のキスには心が躍った。自分からしたくせに頬を染めるなんてと恥じ、冷静になろうと努めたが、それがまるで背伸びしたい子供のようで、また更に頬を赤くしただけだったが。
そんな自分が恥ずかしくて彼も同じ目に合わせてやろうと思ったけど、今となっては未遂で終わって良かったと思う。
彼からの初めてのキスはそんな不純な理由ではなく、もっと純粋で、単純な理由を以てされたい。

……話が脱線した。
今は、この巫女だ。


「……なによ」

「いいえ。私にできるのは、厄を預かることだけ。そこからの幸せは、貴女が自分で掴まなければならない」


目元のクマを見る限り、結界で自分を隠しながらずっとこの近くに潜んでいたのだろう。
私はすっかり巫女は神社に帰ったものだと思っていたので霖之助と話し込んでしまったが、もしそうなら巫女には悪いことをした。


「そんなこと、わかってるわよ」

「……そうですか。少々おせっかいだったようですわね」


言いながら、私は巫女を抱きしめる。


「ちょっ、なに!?」

「暴れないで下さいな。貴女の厄を払って差し上げていますのよ?」

「わ、私、ソッチの気はないんだけど!?」

「安心して下さい。私にもありません」


私がはっきりと否定したことで少しは安心したのか、巫女は抵抗を諦めて私に体を預けてきた。


「貴女は、少し頑張り過ぎです。確かに貴女に課せられた使命はとても大きく、重要なものでしょう。けれど……月並みな台詞で申し訳ないのですが、もう少し周りを頼ってもいいと思いますよ? あの失礼極まりない魔法使いでもいいですし、同じ“人間”が嫌だというのなら妖怪でも神様でも構いません。貴女の力になりたいと思っている存在は決して少なくないはずです。ならば頼りなさいな。貴女を慕う友人も、貴女の財産です」

「……うん。ありがと」

「私でよければ、いつでも相談に乗りますわ。貴女の厄は、この雛がまとめて受けましょう」


体を離す。本来ならば、体に触れなくても厄は回収できるのだ。


「あの人のことですから、どうせ貴女の気持ちにも気付いていないのでしょう?」

「う……あ、アピールは、してるつもりなんだけどな……?」

「……まぁ、それも含めて相談に乗りますわ。それと」


がくりと頭を垂らす可愛い巫女に、つい私だけが知る情報を教えてあげたくなってしまった。
あまりに偉大な、その剣の名を。


「『くさなぎのつるぎ』」

「っ……!!」

「読唇術には自信がないので確信はできませんが、彼がスペルカードを展開する前に呟いた言葉だと思います」

「草薙の、剣……」

「楽観はできませんが、悲観することもありませんわ。まだ何も起こってはいないのですし」

「……そうね。霖之助さんなら、きっと大丈夫よね。野心とは縁遠い人だから」

「そうですか」


私もそう感じた。
一緒にいたのは三日だが、実際に話したのは一日だけなので、私が彼の本質に気付いていない可能性はもちろんある。
しかし、この巫女がどれほど彼と親しいのかは知らないが、恋にうつつを抜かして“幻想郷にとっての悪”を見逃すような真似はしないだろう。


「そういえば彼、結局こちらの巫女さんには会わないで帰っちゃったのかしらね」

「え……なにそれ。こっちの巫女って、早苗のことよね。……え? なんで早苗? ちょっと説明しなさい!」

「そんなこと言われましても」


ああ、私よ。なんて迂闊な一言を放ったのだ。


「今日も一日、随分と話し込んでたみたいじゃない。そのことも聞きたいし、まずは腰を下ろしたいわね。お茶でも飲みながら」

「帰るのではなかったんですの? ……うちには紅茶しかありませんけど」

「この際我慢するわよ」

「偉そうですわね」

「“幻想郷の異変の解決”のためよ。博麗の巫女である私には聞く権利があるわ」

「職権濫用ですわ~」





結局ただのお喋りとなり、霊夢は「たまには紅茶も悪くないわね」と言って帰って行った。
帰り際に「また来るわ」と言われたが、私は確信していた。
とりあえず、次に会う時はきっと香霖堂なのだろうと。



[3429] 幕間 ~東風谷早苗 その1~
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2008/10/25 04:25





いつもと変わらず、本を読みながら店番をしていたある日の朝。
ガラガラと扉が開かれる音に顔を上げた。


「わ、私を崇めなさい!!」

「…………」


来店してきたのは守矢神社の巫女……もとい、風祝の東風谷早苗だった。
……もっとも、早苗だと思われる人物の口から放たれた言葉は僕の彼女に対する人物像を根底から覆さんとするものであったので、目の前にいる早苗が僕の知る早苗であると言える根拠はもはやその外見だけである。


「…………」

「…………」


本来ならば店主である僕が「いらっしゃい。何かお探しでしょうか?」などと声をかけ、お客側が話しやすい雰囲気を作るべきなのだろうが、如何せん、向こうから「私を崇めなさい」ときたものだ。とりあえず彼女が客として来たのではないことだけは確定だろう。
無音が店内を支配する中、僕はまるで我が子がぐれてしまったかのような寂しさを覚えていた。


(こんな娘じゃなかったのに……)


とりあえず立ち上がって早苗の肩に手を置き、一言。


「幻想郷は、全てを受け入れるよ」


早苗は泣き崩れた。




















「で、結局君は何をしに来たんだい?」

「えっと、ですね……ひっく」

「僕に用があって来たんだろう?」

「は、はい。そう、なんです、けど……ひっく」

「……話しにくいことなのかい?」


自分で言って、そりゃあそうだろうと思った。今日の早苗の第一声を考えれば話しにくい内容に決まっている。
だが、今の僕は早いとこ原因を解明して早苗に泣きやんでもらいたいのである。
こんなところを誰かに見られたら、もう僕が泣かせているようにしか見えない。


「ひっく。ま、まぁ、話しにくいといえば、確かに話しにくいかもです……くすん」

「話したくなかったらそれでもいいと言いたいが、あえて聞くよ。なぜあんなことを?」

「そ、それは……八坂様に、相談して……」

「……はぁ。あの神様か」

「私が八坂様に、その、り、霖之助さんの気を引……こ、コホン。霖之助さんからの、信仰を得るためにはどうしたらいいかと、相談したんです。そしたら『素っ気ない態度? ハハァ、分かったよ早苗。そいつは隠れMだ』という天啓を示してくれたんです。……ひぅ」


そんなありがたくない天啓を授ける神様は滅びればいいと、割と本気で思った。


「まあ、大方そんなことだろうと思っていたけどね」

「う、ううぅ……」

「ほら、鼻をかみなさい」

「は、はいぃ」


八坂の神様のあまりに勝手な意見に僕も多少の憤りを感じたものの、神様なんてのは気まぐれの代名詞みたいなものだと思い直し、未だにすすり泣く早苗の頭を撫でてやった。


「やりたくないって言ったんです。でも……」

「やってこいと言われたのか。……まあ、君の神様だしね。断ることもできないか」

「うぅ……忘れて下さい……」

「ああ、分かっているよ」


信仰する気は完全に失せたけれど。
そんな神様の下で暮らす早苗の将来が心配になった。


「一息つこうか。お茶でも飲んで、心を温めるといい」


鼻をかんでいる早苗を残し、僕は台所へと向かった。




















「本当にご迷惑をおかけしました……」

「もう気にするなよ。そうだね、よく考えれば……いや、よく考えなくても、あのはた迷惑な神様のしわざに決まってるよな」

「は、はた迷惑って……」

「間違ってはいないだろう?」

「ぅ……そういう認識をされているという自覚はありますけど……」


守矢神社の面々が幻想郷に越してきて、挨拶もそこそこに博麗神社を謙譲しろという勧告をしたことは、もはや周知の事実である。
結局、霊夢と魔理沙が山まで出張って直接八坂の神様と話をつけたらしいが、異変とも言えないこの騒動が終わってみれば、残ったのは守矢神社に対する『幻想郷に引っ越してきていきなり騒ぎを起こしたはた迷惑な新人たち』という評価に他ならなかった。
実際僕もそう思ったし、今となっては本人たちも半ばそれを認めている。
これは悪い意味だけではないが、里の人間はこういった人外の者が起こす騒動を基本的に忌避するものである。
人外の者たちは皆往往にして、人間を超える力を持っている。
そういう連中が「暇だから」「面白そうだから」などという不謹慎な理由で異変を起こし、そのとばっちりを受けるのを避けたいからだ。
能力や力を持たない人間からしたら、当事者たちにとっては挨拶代わりのような軽い異変でも、自身の死に繋がりかねない。
例え絶対に自分には当たらないと分かっていても、弾幕ごっこの真ん中で平静でいられるような奇特な人間は少ない。
恐怖とはすなわち想像であり、恐怖を連想させる存在や出来事は少ないに越したことはないのだ。
今回は騒ぎの張本人が神様であることと、早苗の献身的かつ健全な布教活動がそれを和らげたにすぎない。
大なり小なりそういった評価を受けてなお守矢神社が存在しているのはなぜかと言われれば、単に幻想郷の最大とも言える特徴である『幻想郷は全てを受け入れる』という暗黙のルールがそれを許したからであろう。
そして何より、守矢神社の勢力がスペルカードルールに則った戦い方をしたのが大きかった。
これが力任せに事を為そうものであったなら、霊夢や魔理沙は全身全霊でこれを討伐しただろう。
だが、早苗も八坂の神様も、越してきて日が浅いのにも関わらずスペルカードでの決闘方法を遵守した。
もちろん幻想郷に浸透した方法で勝負に勝たなければ意味はないという考えもあったのだろうが、こう考えることが出来るということは、すなわち話が出来るということだ。
話ができれば折中案を提案することも論破(という名のスペルブレイク)することも可能である。
霊夢が博麗神社に不利になることを許すはずがないので、最終的には博麗神社に守矢神社の分社を置くということで話がついたという。
その後、早苗は地道に広報を兼ねた慈善活動で里の人間たちの信仰を集めようと画策しているが、これがなかなかに上手くいかないらしい。


「なかなか上手くいってないそうじゃないか」

「そうなんですよ……。やっぱり、場所が悪いんですよね」

「まあ、それが一つの大きな要因ではあるだろうね。わざわざ危険を顧みず守矢の神社まで行かなくても、博麗神社がそこにある。というのが里の人間の考えだろう。霊夢は愛想こそないが、仕事はきちんとこなすし」

「はぁ……。でも、博麗神社だってけっこう妖怪がいると思うんですけど」

「それでも参道には強力な結界が敷かれているからね。妖怪云々に関しては、博麗神社にお賽銭が集まらない最大の理由かな?」

「どうして霊夢は、もっと信仰……もうこの際お賽銭が目的でもいいですけど、それを集めるために努力をしないんでしょうか?」

「単に興味がないからだと思うよ、僕は」

「興味がない? あの霊夢がお金にですか?」

「そうだな……。お金は生きるためにある程度は必要だ。でも、必要以上のお金というのは、そのままの意味だが決して必要というわけではないだろう? だが、蓄えは持てるだけ欲しいと思うのが人間だ。にも関わらず霊夢は必要最低限で良しとする。つまり、物に執着がないんだ。これで分かるかな?」


自分で言って、逆にややこしいかと思った。
案の定、早苗は余計に混乱してしまったようだ。
霊夢の場合は物に限らず人や妖怪にまで執着や容赦が無いように見えるから、なかなか里の人間には理解されずらい。
少なくとも霊夢の“上辺だけ”を見たならば、そう見えるだろう。
しかもその在り方は博麗の巫女として全くの正解であるから尚更である。
この幻想郷において、『博麗』は人間でも妖怪でもなく、博麗という種族、という見方でさえあるのだ。

「え、えーっと……つまり、霊夢は質素な人間ということですか?」

「無理して理解する必要はないよ。それに今の話は単なる僕の推測だしね」

「はぁ。それが、私と霊夢の“差”なんでしょうか?」

「差、か。まあ、育ちが違えば考え方だって自ずと異なるものさ。気にすることはないよ」


つい先ほどまで恥ずかしさのあまり零れてしまっていた早苗の涙は大分乾いており、他愛もない雑談をできる程に彼女は持ち直していた。
『差』という言葉を使うあたり、早苗は自分が霊夢に巫女として(正確には早苗は巫女ではなく風祝だが)劣っていると思っているのだろう。
スペルカードルールに基づく決闘、俗に言う弾幕ごっこにおいて、霊夢はこの幻想郷で頂点に位置するといっても過言ではない。
それは数々の異変を解決してきたというその結果が何よりも物語っている。
そして早苗もその異変を起こした内の一人であり、霊夢に敗れた一人である。


(複雑だな、早苗も。これで霊夢が早苗の尊敬に足る性格や生活をしていたら、また違った結果だったんだろうが……。霊夢は他人から理解される努力を極端に怠るからなあ……)


本人が理解されようと思っていないのだから、仕方のないことではあるのだが。
それでもこの幻想郷には永い時を生きる妖怪が多いので、そういった機微に敏い妖怪もまた多い。
代表的なのはやはり賢者と呼ばれる八雲紫であろう。
紫は今代の博麗、つまり霊夢をいたく気に入っているようで、実践の稽古をつけることすらあるという。
霊夢はいかにも迷惑そうに愚痴っていたが、紫の教導を受けることができる、それがどれだけ恵まれたことなのか分かっていない。
もっとも、霊夢は紫の教導の価値を分かっていてなお嫌なのかもしれないが。
かく言う僕もその価値を分かってはいるが、紫の性格を考えるとやはり嫌である。
そして何より霊夢を支えているのは、戦友とも言える魔理沙の存在だろう。
人間でありながら霊夢と戦場を共にする彼女の存在に、霊夢がどれだけ助けられているのかはもはや言うまでもない。
当の魔理沙は自身の存在の大きさに気付いていないのだろうが、気付かない魔理沙だからこそ種族に関係なく多くの友人を持つのだろう。


「……はぁ……」

「……ふむ。お茶を入れ直してこよう」

「あ、お構いなく……」

「僕が飲みたいから、どのみち台所には行くのさ」

「あはは。じゃあ、お願いします」


早苗は良くやっているよ。そう言うのは簡単なのだろうが、これは彼女が解決すべき問題である。
実際、向こうの世界から異世界とも言えるこの幻想郷に二十歳にも満たない少女が引っ越してきたのだ。
家族はもちろん、友人知人との別れは幼い少女にどれだけ酷なことか、想像に難くない。
向こうに比べたこちらの文化レベルの低さに戸惑うこともあるだろう。
だが、それらは結局自身の受けとめ方次第でどうとでもできる問題なのだ。
これに気付くのもまた、本人でなくては意味がない。
僕はお茶を淹れなおし、ついでに先日里で買った饅頭も一緒に運ぶことにした。


「どうぞ」

「あ、お饅頭まで。ありがとうございます」

「うん」

「……あのー、この張り紙っていつから出してるんですか?」


早苗は店の壁に貼り付けられた一枚の紙を指さしてそう言った。


「『特注品、承ります』か。つい最近の話だよ。ちょうど先週辺りかな。アリスは知ってるかい? アリス・マーガトロイド」

「あ、はい。何度か顔を合わせた程度ですけど」

「アリスはよく人形関係でこの店に来てくれてね。ちょくちょく僕に裁縫のやり方を教えてくれていたんだが、この前彼女からオーダーメードを始めたらどうかっていう提案をされたんだよ。」

「……アリスさんは、そんなに頻繁にここに来るんですか?」

「改めてそう聞かれると、アリスは一番この店に来る客かもしれないな」

「そ、そんなにですか。……全然ノーマークでした」

「なにがだい?」

「い、いえ! なんでも! その、オーダーメードってことは、す、スリーサイズなんかも聞かれるのかなって思いまして!」


早苗は顔を真っ赤にさせてそう捲し立てた。


「まあ、より良い商品を提供しようとするなら普通は聞くだろうね」

「で、ですよね。は、ははは」

「興味があるのかい? ……そういえば、君の私服姿というのは見たことがないな。四六時中その巫女服を着てるわけでもないだろうし」

「私の私服はほとんど向こうの物なんですけど……あまり数は持ってきてないんです」


着る機会もそんなにありませんし、そう言いながら早苗の形の良い眉が一瞬、少し悲しげに下がった。


(……未練にならないように、か)


服に限らず、向こうの物は最低限しか持ってきていないのだろう。
物の数だけ思い出があり、それは未練の種となる。


(いつか笑って話せるようになればいいが……いや、これはこれで正解かもしれない)


生まれ故郷なのだ。
そこから出てこなければならなかった彼女は、それを未練に思って当然のことだろう。
こればっかりは今すぐどうこうできる類の問題ではないので、どうしようもない。


「そうなのか。良ければ、今度参考までに見せてもらえると助かるんだが」

「え? だ、ダメですよ! 見せられません!!」

「そ、そうかい? 残念だな。じゃあ折角だし、このオーダーメードをやっていったらどうだい。安くしとくよ」

「同じことじゃないですか!」


何が同じなのか全く分からなかった。
自分の着る服を僕に触られるのが嫌だということだろうか? だとしたら少し悲しい。
先ほどと同じく、まるで我が子がぐれてしまったかのような悲しさであった。


「気が向いたらでいいよ。これも今は試験的にやっているが、不評ならやめるつもりだしね」

「う……ちょ、ちょっと待っていて下さい。しばらくしたら頼みにきますから」

「しばらくって……ああ、お金に余裕がないのか。はは、わかったよ。しばらく待っていよう」

「そ、そうなんですよ。今はちょっと駄目で、でも霖之助さんに作ってもらいたいとは思っているので、少し待っていてくれると助かります」

「了解した。なら構想だけでも進めておこうか。服のイメージはあるかい?」

「そうですね……うーん、どうしようかな……霖之助さんはなにかありますか?」

「そうだな。まあ今すぐ決めなきゃいけないことでもないし、君が決められないと言うなら僕が一から考えてもいい。それだと君が気に入るかは保証できないけどね」

「頼めば、霖之助さんが全部考えてくれるんですか?」

「ああ。もっとも、それだとオーダーメードではなくなってしまうけれど」

「あははっ。それもそうですね。……じゃあ、一つ条件を出します」

「ほう。何か考えが浮かんだのか?」

「はい。条件は、霖之助さんの中の私のイメージを基盤とすること、です」

「僕の中の君のイメージ、かい?」

「ええ。霖之助さんの中にある私のイメージに似合う服を、作ってもらいたいです」

「それじゃあ完全に僕のオリジナル作品じゃないか。元々君から何も言われなければ僕はそうしようと思っていたんだし」

「いいえ、これは注文です。私から、霖之助さんへの」

「君がそう言うのなら僕は構わないが……」

「私は、それがいいんです」

「……ふう、わかったよ。確かに承った。無駄骨になるのは嫌だから、とりあえず一回絵にしてみてそれを君に見せるよ」

「わかりました。返事はもう決まってますけど」

「おいおい、随分と僕の腕を信じているんだな」


僕の中にある早苗のイメージ、か。
これは結構大変な仕事になるかもしれない。
だが。


「あはは。朗報を待ってますね」


幻想郷は全てを受け入れる。
こんなことで少しでも早苗が今の自分に幸せを感じてくれるのであれば、服なんて何着でも作ってやろうという気分だった。
もちろん、作った分の代金はちゃんと払ってもらうけれど。




















「あの……お世話になりました……」

「いや、楽しかったよ。色んな意味で」

「も、もう! 忘れて下さいって言ったじゃないですか!」

「はは、そんなすぐには忘れられないよ」

「あぁ……だから嫌だったのに……」


お店に来た時のことを思い出して、またじわりと涙が溢れそうになる。
なにが隠れMだ。八坂様を恨むというより、八坂様に押し切られて結局やってしまった自分の性格に腹が立つ。
そんなことを思っていると、いきなり霖之助さんの顔が真剣なものへと変わり、距離を詰めてきた。


「早苗……聞いてくれ」

「は、はい。ななな、なんでしょう……?」


な、ななななんで、いきなり、そんな、か、顔ち、近い!!!
心の準備がー!!!!


「僕は……」

「ぼ、僕は……?」


僕は……僕は……なに!!


「僕はいたって、ノーマルだから」

「は、はぁ……? あ、いや、それはそれで嬉しいんですけど、でも、えぇ……?」


……いや、分かっていた。
突然のことで起きもしない出来事を勝手に妄想してしまったのは私だ。
霖之助さんは悪くない。悪くないのだけれど。


(なんか……納得できなーい!!)


実際はそう叫ぶこともできず、もやもやした気持ちを持て余している。


(今の私、不機嫌そうな顔してるんだろうな……)


一刻も早くお店を出たいと思いつつ、このまま別れるのは嫌でこの場に留まりたいと思う自分もいて。
盗み見る様に霖之助さんの顔を見た。
この短時間で私がどれほど混乱したかをまるで理解していない、いつも通りのその顔を。


(……こういう時は、霖之助さんが鈍感で助かるわ)


嬉しいような、悲しいような。
乙女心は複雑だから、きっとその両方なのだろうけど。
結局はいつもと同じ。
私の独り相撲だったわけだ。
でも、気付いてほしいとは思うのだが、今の関係の心地よさもまた理解している。
ボロが出てそれを壊してしまわないうちに今日は帰ろうと思い、扉の前で一度振り返った。
お店に来た理由、八坂様からのお使いを思い出したのだ。


「そうだ、霖之助さん。まだうちの神社に来たことはなかったですよね?」

「うん? ああ、そうだね。行ったことないよ」

「その、都合が良い時でいいですから……うちの神社に来てみてくれませんか?」

「守矢神社に? そうだな……確かに興味はあるけど」


少し考える霖之助さん。
今回に限っては、正直霖之助さんにウチの神社に来て欲しくなかった。
理由は単純。八坂様に彼を会わせたくないのだ。
八坂様のことだ、彼をダシに私をからかい倒すに決まっている。
今日のことだって、私が家で霖之助さんの話ばかりするから、八坂様と洩矢様が霖之助さんに興味を持ってしまったのが事の発端である。
洩矢様は純粋に興味からだろうけど、あの方は純粋だからこそ危険である。
早苗はこいつのこと好きなのー? とか、普通に聞かれそうだ。それも本人の前で。
それらは、何としても避けたい事態だった。
だった、はずなんだけどな。


「僕に急ぎの用でもあるのかい?」

「い、いえ、そういうわけでは……」

「そうかい。……まあ、気が向いたらお邪魔させてもらうよ」

「そうですか! 私、待ってますから!」


……霖之助さんがウチの神社に来てくれる、そう思ったら嬉しくて、つい普通に喜んでしまった。


(もしかして私って、単純なのかな……)


悪い人に騙されるタイプの人間なのかも、と自分で思って少しへこむ。
実際、自分は他人を疑うことを躊躇う嫌いがある。
自分が相手に合わせてその場を収めることにも、正直あまり抵抗がない。


(で、でも大丈夫。霖之助さんは悪い人じゃないから!!)


不意に、私の奇跡で霖之助さんの気持ちをこちらに向けることはできるのだろうかと考えた。
そしてその考えが浮かんだのと同じくらいの速さで、それを却下した。


(……我ながら失礼ね。奇跡でも起きなきゃ、霖之助さんに好いてもらえないっていうの?)


きっかけなんてなかった。
幻想郷に来て、この男の人を好きになった。生まれて初めての感情だった。
ただ気付いたら、この人のことを考えてた。
私の周りには“好き”よりも“尊ぶ”や“敬う”といった感情の方が多かったから、正直言うと、本当に霖之助さんを男の人として好きなのか、霖之助さんに恋をしているのかはわからない。
向こうでは封印していた、恋がしたいと願う私の心が生み出した幻想なのかもしれない。
だって、この幻想郷では、私は特別でもなんでもない、ただの一人の女の子なのだ。
奇跡の起こし方は知っているけど、恋も、他人の愛し方も知らないただの一人の女の子。
それでも、私は思うのだ。


(この気持ちが恋じゃないなら、私は一生、恋をすることはないんだろうな……)


恋愛経験が皆無の私が言っても、説得力はゼロかもしれないけれど。
私は私のまま、霖之助さんを振り向かせたい。
この気持ちにだけは、きっと一欠片の偽りもないから。
だから私は、とびっきりの笑顔で霖之助さんに言ったのだった。


「きっと来て下さいね!!」


さて、帰ったらまず腹筋から始めよう。
恋する乙女は、毎日が戦争である。
それはもう、弾幕ごっこなんて目じゃないのである。




[3429] 第6話 人形遣いの秘密
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2008/12/10 09:03




/001



「こんにちは」

「いらっしゃい」


妖怪の山での一件から数日後、アリスが店に来た。
今日来ることはほぼ分かっていたので、僕の方も歓迎の準備ができている。
と言うのも昨晩、雛の家から帰って来たら、香霖堂の玄関横に設置してあるポストにアリスからの手紙が入っていたのだ。
留守のようなのでまた来ます、といった内容の物で、日付はさらに前日のものだった。
今日のお昼あたりにもまた来たのかもしれないと思い、またそうなると二日連続でアリスを空振りさせたことになる。
きっと変に意地の強い彼女は明日も来るだろうと半ば確信を持ってそう思った僕は、眠い目を擦りながらある物を用意するための下準備に入った。
そして今、僕の予想通りに彼女は来店してきたというわけである。
“いつもの”手提げ籠を持っていることから、今日は客としてではなく先生としてここに来たようだ。


「今日は大丈夫?」

「ああ。いつも通り、お客はいないよ」

「……お店、大丈夫?」

「……ああ。贅沢さえしなきゃ、生きていける」


アリス先生による人形作り講座、とでも言おうか。
僕は十年ほど前から、彼女に人形作りを教えてもらっているのだ。
もっとも、十年間毎日というわけではないがそれなりの数はこなしており、既にただの人形を作るだけなら里に納品できるレベルの物を作れるくらいの腕にはなっている。


「二日くらい連続で店が開いてなかったけど、どこか行ってたの?」

「あー、それはすまなかったね。少し山の方に行ってて、予定より帰るのが遅れてしまったんだ」


本当は三日なんだが、わざわざ言うこともないだろう。


「山に? 一人で?」

「ああ。守矢神社、知ってるだろう? あそこに見学に行こうとしてね」

「へぇ。物好きね」


……早苗よ。
どうやら君のとこの神社に行く奴は、物好きな奴だと言われるらしい。
早苗の頑張りとは裏腹に、評判はむしろ落ちていないかと心配になった。


「いや、結局行けなかったんだ。行くまでに怪我をして、しばらく知り合いの家に泊めてもらってた」


細かく説明するのがめんどうだったのと、弾幕ごっこのことを知られたくなくて、適当に誤魔化す。
雛は今では立派な知り合いなので、嘘は吐いていない。


「怪我!? 大丈夫なの!?」

「ああ。怪我というよりも疲労なんだが。まあ、永遠亭の薬ですぐに治ったよ」


薬で思い出したが、僕はまだ永琳に薬の代金を払っていない。
この前の医学書の件も未解決であり、前途多難であった。


「そ、そうなの。よかった」

「心配かけたね」

「べ、別にそんなんじゃないわよ」

「あはは。ありがとう」

「ちょ、なにそれ!」

「じゃあ僕はお茶を持ってくるから」

「私の話を聞いて!!」


そう叫ぶアリスを背に、僕はお茶を淹れるため台所へ行く。
どうせ後でアリスの好きな紅茶を淹れることになるのだが、最初はいつもお茶である。
店内へ戻ると、アリスは既に定位置となりつつある勘定台の向かいに腰かけていた。
僕と彼女は、勘定台を挟んで向かい合う形となる。


「はい」

「ありがと」


アリスにお茶を差し出し、僕も腰かけようと椅子に手を伸ばす。
指導を受ける立場とはいえ、その度に店を休むのでは商売あがったりである。
店は開けたまま、客が来たら一旦は作業を中断して接客へ移る、という形で、アリスには納得してもらっている。
だが不思議なことに、もともと来店する客数は微々たるものであるが、アリスが客としてではなく人形師としてこの店に来る時はほぼ誰かとかち合うことは無い。
これに関しては偶然としか言い様がなく、またアリスは邪魔が入らなくて嬉しい限りだと喜んでいるようなので問題視しているわけではない。
だから、僕が彼女から人形作りを学んでいることを知る存在はほとんどいない。
というか僕としても作業に集中したいため、商売人としてはあるまじき考えではあるが、どちらかと言えばこの時間は素直に客を歓迎できない。
自分のことながら、つくづく商売に向いていない性格だと思う。
僕は椅子に腰かけて台の下から作りかけの人形を取り出し、彼女にそれを見せた。


「どうだ?」

「……まぁ、この辺までならもう私の確認はいらないわね」

「もう十年だしな。さすがに基礎は心得てるよ」

「そうね」

「そろそろアリスの手を煩わせることもなくなるかな」

「そ、それはまだまだ、すっと先の話よ。まだ全然なってないんだから」

「そうか……」


自分なりになかなか自信もついてきていたので、アリスの言葉に内心ショックを受ける。
それがアリスに伝わったのか、彼女は慌てて弁明した。


「でも霖之助さんはかなり上手くなってるわよ。里にもいくつか納品してるんでしょう?」

「そりゃあ十年も針を弄ってれば“普通の人形”くらい誰だって納品できるよ」

「それでも、人気がなければ追加で注文なんてこないわよ」


そうなのである。
僕が里に納品した何体の人形はなかなかに評判が良いらしく、またぜひ作ってほしいという手紙が何回か届いた。
ちなみに、手紙を届けるのは決まって慧音で、やはり里の人間が入口とはいえ森に近づくのは嫌らしい。


「君には及ばないけどね」


さすがにアリスは格が違い、彼女の人形は家宝になるレベルである。
それはアリス自身が里への納品に関してきまぐれであるため滅多に里に出回らず希少価値が高いという点と、後はやはりその手腕に依るものであろう。
アリスに人形作りを習うならせめて足下に及ぶくらいにはなりたいと意気込んだものだが、未だ至らず、その兆しさえ見えない状態だ。


「わ、私は、だってそれが専門なんだし」

「まあ、確かに。年季が違うか」

「そうよ。私を超えようだなんて、百年早いわ」

「はなから超そうとまでは思ってないんだがね」


その中途半端な諦念がいけないのだろうか。
それでも人形作りに生涯を費やす気は毛頭ないため、結局のところ身近な巨匠に甘える形となる今の状況は、僕にとって好ましい以外の何物でもなかった。


「まあ、末永く頼むよ」

「そ、そんな……末永くなんて……」

「ああ、もちろん、迷惑になるようだったらいつやめてもらっても構わないから」

「そんな! 一生付き合ってあげるわよ!!」


さすがにそこまでは遠慮したい。
だがそう力強く宣言するアリスを疎ましく思うはずもなく、僕はただ苦笑いでありがとうと答えた。




















/002



ちくちくと針を進めていると、ふと視界を揺れる何かがちらついた。
顔を上げてそれを確認する。
アリスの髪だった。


(ふわふわだなあ)


触ったらさぞ気持ち良いのだろう。


「…………」


僕の視線に気付かないほど真剣に人形を作るアリス。
その横顔にかかる金の髪を、しばらくぼんやり眺めていた。
アリスはいざ人形を作り始めてしまえば、一切口を開かず、黙々と、それに没頭する。
こういった彼女の在り方に僕は大いに共感しており、だから基本的に作業は無言で進んでいく。
その沈黙を打ち破るのは大抵彼女に教えを請う側の僕であるが、今回は完全に人形とは関係ないことで彼女の手を止めさせた。
ほぼ無意識に、僕は声を出していたのだ。


「アリス」

「なに?」

「君の髪」

「うん?」

「ふわふわしてて、触ったら気持ち良さそうだな」

「なんなの……って!! ばっ……馬鹿じゃないの!? いきなり、ここ、この変態!!」


顔を真っ赤にしてアリスは怒鳴る。
怒鳴った拍子に髪がふわりと揺れ、やはり触ったら気持ち良さそうだと僕は再び思った。


「変態とは心外だな。僕はただ褒めただけじゃないか」

「褒めたって、どこをよ!」

「いや、だから君の髪を」

「そ、そんな褒められるような大層なもんじゃないわ……」

「まあ、僕が個人的に気に入ったというだけの話ではあるけどさ」

「個人的に、気に入った?」


アリスはきょとんとした顔になった後、なぜか先ほど怒鳴った時より顔を赤くして俯いてしまった。


「気に障ったなら謝るよ。深い意味はなかったんだ。ただ、なんとなく見てたらそう思っただけで」

「そ、そうなの……」

「…………」

「…………」

「あの、アリス?」

「は、はいっ。なにかしら……?」


さっきとは打って変っておとなしくなるアリスに拍子抜けてしまい、僕は何も言えなくなった。


「あー、いや……なんでもない」

「そ、そう……」

「…………」

「…………」


この空気。もの凄く気まずい。
まさかあんな一言が引き金でこんなことになるとは、正直予想できなかった。


「「あ、あの……」」


なぜ悪いこととは、こうも続くものなのだろうか?


「「そ、そっちから……」」


どうぞ、と二人とも言おうとして、二人とも言えなかった。


「…………」

「…………」


このままでは埒が明かない。
僕は作りかけの人形を机に置き、席を立つ。


「!」


びくっと、アリスは肩を震わせた。


「り、霖之助さん……?」

「ここらで一旦休憩にしよう。紅茶を持ってくるよ」

「そっ、それなら私が……」

「でもほら、今の君は僕の先生なわけだし」


アリス先生は休んでいて下さい、と大仰に振る舞ってみる。
そんな僕を見てアリスも肩の力が抜けたらしく、少し呆れたように言った。


「霖之助さん、あなた私より紅茶を上手く淹れる自信あるの?」


僕は霊夢のような根っからのお茶派ではないが、飲み物で何が好きかと聞かれれば、それはやはりお茶である。
自分で淹れることもなくはないのだが、紅茶至上主義者であるアリスに敵うほどの腕はまだ僕にはない。


「……適材適所といこうか。僕は菓子を、君は紅茶を」

「紅茶におせんべいとかはやめてよね」

「安心してくれ。君のためにマドレーヌを用意してあるよ」

「わ、私のためって……」

「好きだろう? マドレーヌ」

「そりゃあ、好き、だけど」


そこまで言って、アリスも作りかけの人形を置いて立ち上がった。


「その……あ、あ、あ」

「? なんだい?」

「あ……ぅ、なんでも、ない」

「変な娘だな」

「……うるさい、ばか」


アリスは僕の腹に軽くパンチを入れ、さっさと台所に行ってしまった。
過去の経験から彼女が何を言おうとしているのかは分かっていたが、先ほどの気まずい空気の名残か「分かってるよ」と言いだすことができなくて、変な娘だなどと柄にもなく悪態とも言えない悪態を吐いてしまった。
その後すぐに、自分も先ほど今のアリスと同じように口ごもって何も言えなくなったことがあったのを思い出した。


「…………」

「りんのすけさーん? なにしてるのー?」


台所の方から僕を呼ぶ声が聞こえる。
すぐに行くと答え、とりあえずアリスには一つ多くマドレーヌを用意しようと、そう思った。




















/003



「遅いじゃないの」

「いや、ごめんごめん」

「もうっ」

「でももうこの台所は何回も使ってるんだから、物の配置とかは分かってるだろう?」


実際アリスは既にティーポットを出していて、一人で紅茶を淹れる準備を進めていた。
何を隠そう、このティーポットはアリスからの贈り物である。
かなり前の話だが、僕がアリスに出した初めての紅茶があまりにもお粗末な出来だったらしく、人形作りより先に紅茶の入れ方を教わるはめになったのだ。
何回目かのテストでなんとか及第点に至ったらしく、このティーポットはその記念にアリスから贈られた物である。


「それはそうだけど」

「ほら、お手本を頼むよ“先生”」

「……まあ、いいわ」


アリスはポットを温めるためにお湯を沸かし、その間に茶葉を用意する。
僕はというと、もうマドレーヌはとっくに用意し終わっていて、なんとなくアリスの姿を見ていた。
一連の作業を行うアリスは本当に様になっていて、何でもない指先の動き一つに熟練度の差を感じる。


「……なに?」

「ん? ああいや、様になっているな、と思って」

「そう? 普通よ」

「君が普通なら、僕はどうなるんだ」

「まあ、下の中ってとこかしら?」

「ひどいな」


僕はアリスが上の中で、自分は中の下くらいにはなっただろうと思っている。


「ふふっ。でもいいじゃない。下手なら、後はもう上達するだけなんだし」

「及第点はもらったはずだが……」

「あれでようやく下の下になったのよ」

「君は鬼だな」

「あら、こんないたいけな少女を鬼だなんて、あなたの方がよっぽどひどいじゃない」

「いたいけ、ねえ……」

「……なにか納得のいかない視線を感じるのだけど」

「まあ、僕と比べたら君の友人たちもみんな鬼さ」

「それもそうね」


そう即答するアリスは、やっぱりひどい娘だと思う。


「なによ」

「いや、なんでも。……ほら、用意ができたなら行こう」

「……思いっきり渋いのを淹れてやれば良かったわ」

「その時は、ありのままをブン屋に話すだけさ。幻想郷中が君の紅茶はお粗末なものだと認識するようになる仕掛けだ」

「さ、最悪ね……」


僕らは店内ではなく居間へと移動し、ちゃぶ台に紅茶とマドレーヌを乗せる。
腰を下ろす時、無意識のうちに「よっこらせ」なんて声が出てしまい、アリスにくすくすと笑われた。


「ふふっ。もう、おじいさんみたいね」

「似たようなもんさ」


今だって無意識だったのだ。
もしかしたら、普段も自分で気付いていないだけでこういった声が漏れているのかもしれない。
ちょっとした恐怖であった。


「美味しい~」


焦る僕とは裏腹に、アリスはマドレーヌが相当気に入ったようで、目を輝かせて夢中になっていた。
気に入ってくれたようで良かったと思う。
なんせ、このマドレーヌはアリスのために作ったような物なのだから。


「ねぇちょっと。これすごく美味しいんだけど」

「なんで美味しいか分かるかい?」

「なんで美味しいか? んー、ちょっと待って……」

「ああ」


しばらくアリスは考えていたが、やがて降参とばかりに手を上げた。


「分かんないわ。何か特別な理由があるの?」


そう言いながら、紅茶に口を付けるアリス。
これで分かったかもしれない。


「……ん? あ、もしかしてこのマドレーヌ作ったの霖之助さん?」

「御名答。その通りだ」

「里で売ってるのもたまに食べるけど、ここまで私の紅茶に合うのはなかったはずよ」

「これはね、君の紅茶の味に合わせて作ったんだよ」

「え? わ、私の味に……?」

「ああ。里の菓子屋を馬鹿にする訳ではないんだが、君が淹れた紅茶に釣り合う物がどうにも里では見つからなくてさ。無いなら作ればいいかと思って作ったんだ」


昨晩の下準備とはこれのことであった。
何回かの試行錯誤を経て既にレシピは作ってあり、下準備といっても材料を用意したくらいだが。
というか、今考えればアリスの紅茶に合わせて作ったのに、自分で紅茶を淹れようとするなんて全くの無駄足になるところだった。


「また器用な……でもすごい、本当にすごいわ霖之助さん。これ、すごく美味しい!」

「そこまで喜んでもらえたなら、僕としても頑張ったかい甲斐があったというものだよ」

「もう洋菓子専門店にしちゃえばいいじゃない。収入も絶対上がると思うわよ?」

「そこまではしないけど……注文があれば作る程度ならいいかもな」

「私、絶対注文するわ。……あ、でも私の味に合わせた分だけ他の紅茶には合わなくなってるかも」

「まあ、そうだろうね。このマドレーヌは君の紅茶にしか合わないだろうさ。ほら、この前オーダーメードをやったらどうかと言っていただろう?」


僕は『特注品、承ります』と書いた貼り紙を指差しながらアリスに言った。


「あら、いつの間に」

「やるだけやってみようかと思ってね。これを目玉の商売にするって訳でもないし、不評ならやめるだけだ」

「随分と弱気じゃない。私は結構良い線いくと思うけど」

「そうなってくれれば儲けものだね」

「可愛くないわね」

「僕が可愛いかったら、それはそれで気持ち悪いだろう」

「……そ、そうかしら?」

「おいおい……そこはすぐさま肯定してもらいたいところなんだが」

「か、可愛いってことは、気持ち悪くないってことだから、可愛いことは良いことなんじゃない……?」

「……そう言われると、確かにそうだな。じゃあ僕は可愛くてもいいのか?」


そう自問し、可愛い自分というものを軽く想像してみる。
鳥肌がたった。


「だ、駄目だ。それは認められない」

「なんでよー!?」

「なんでもだ。この話はここで終わりにしよう」

「ちっちゃくて可愛い霖之助さんも、全然アリだと思うけどなぁ……」


ちっちゃくて可愛い僕など死んでしまえばいいと思う。


「さ、話を戻そう」

「うー。……このオーダーメードは、絶対成功すると思うわ」

「まあ、しばらくはやってみるつもりだよ」

「そう……ねぇ霖之助さん。これ、また作ってもらってもいい?」


僕のマドレーヌが相当気に入ったようである。
実を言えば、このマドレーヌは味的には自信作ではあったものの、アリスが気に入るかどうかという点では多少の不安が残っていた。
それと言うのも、味の良し悪しなんてものは、詰まるところ個人の感覚に大きく依存するからだ。
同じ材料を同じ分量で同じ調理方法を用いて作るのなら、出来る料理も同じになって然るべきだ。
にも関わらず料理人や菓子職人が存在するのは、彼らがこと調理において他者よりも優れた感覚を持っているからである。
これは、味の良し悪しは個人の感覚に大きく依存するという先の言葉に矛盾するように聞こえるが、そもそも一般的に“美味しい”と感じる基準は同じ種族であるのなら似通っていて当然である。
例えば人間。
人間が持つ身体の造り、構造というのは同じと言っても過言でないほど似通っている。
だがそこにも細かな差異は存在していて、生まれつき目が良かったり、背が高かったり、足が速かったりなどなど、例を挙げるときりがない。
その差異はプラスに働くものもあればマイナスに働くものもあり、この差異こそがやがて個性へと繋がる重要な役割を担うのである。
今回僕が言いたいのは、味覚において感覚的に優れた差異を持つ者が存在する、ということである。
同じ種族は姿形に限らずその中身、感覚だって似通っていて然るべきだし、似通っているからこそ同じ種族だとも言える。
もちろんこの理論はイコールでは成り立たない。
実際僕の姿形は人間とほぼ同じであり、魔法使いという種族のアリスだってそうである。
だからこそ、人間は僕らを怖がるのだ。
『人の皮を被った化け物』とは上手いこと言ったもので、同じ姿形で人間を遥かに凌駕する力を持つ僕らは、彼らにとって恐怖でしかない。
とはいえ、人間の中にも霊夢や魔理沙のように“こっち側”に来れる者がいるのだから、詰まるところ人間は“一般的に考える人間という枠組み”を超えた者全てに恐怖を抱くのかもしれない。
もっとも“一般的”というのはどこまでがそれに当てはまるのか、などという不毛な議論をするつもりもないけれど。


「構わないよ。事前に連絡をくれて、その時暇だったら考えよう」

「良かった。じゃあ、連絡すればいつでも作ってもらえるのね」

「失礼にも程があるだろう」

「これ、もう一ついいの?」

「人の話を……ああ、いいよ。それは君の分だ」


自分が作ったものをここまで絶賛されれば悪い気もしない。
またアリスの言葉は失礼ではあるものの、半ば的を得ているため強く反論できない僕だった。


「……コレ、やっぱり単体でも普通に美味しいわ」

「そうかい。でも、今のところマドレーヌだけで売り出す気は全くないからなあ」

「そう……なら、これを知ってるのは私だけなのね」


なぜか嬉しそうにはにかむアリス。
こんな姿は、アリスが初めてこの店に来た時の僕には想像もつかなかった。


「さ、そろそろ始めようか」

「そうね。あー、また食べたいなー」

「……わかったよ。作る作る。作ったらまず真っ先に君に知らせよう」

「あは。さすが霖之助さん」


僕は人形を手に取りながら、アリスが初めて香霖堂に来店した時のことを思い出す。
あの不機嫌そうな顔は、今でも鮮明に思い出せた。
それはまだ魔理沙が霧雨の家にいた頃で、多分、歳は四つか五つの頃の話であった。




















/000ー1



店を始めて早二年。
残念ながら、客はいないことの方が圧倒的に多い。
そんな繁盛などという言葉とは程遠い有り様であったが、外の世界の道具を扱う幻想郷唯一の店ということもあり、人妖に関係なく幾人かの好事家を常連にすることができていた。
元々趣味が高じてできたような店なので、三食にありつけるだけありがたいというものだろう。
趣味が高じてといっても、人里だと絶対にできないことであったので、後悔は全くない。
あくまで“店を開いたこと”に関してのみではあったが。


(……………………)


ふいに顔を出した郷愁に似た想いを持て余していると、ガラス張りの扉の向こうに人影が浮かぶのが見えた。
がらがらと扉の開く音を聞きながら、僕は気持ちを入れ替えて声をかける。


「いらっしゃい」


とりあえず挨拶をして、入って来たお客の顔を見た。
肩口にかかる柔らかそうな金髪。整ったその少女の顔は、不機嫌そうに眉根を寄せられていた。……多分、見たことのない顔だ。初めてのお客だろう。


「あの」

「はい。何かお探しですか?」

「ええ。このお店で扱っている人形を見たいのだけれど」

「人形ですか? ええ、構いませんよ」


僕はお客の右奥の方を手で示した。
決して広くはない店内だ。隅の棚の一角にこの店で扱っている人形が置いてあるのがここからでも見える。
少量だが、それゆえ価値の高い物しか置いていない。


「随分と統一感のないお店ね」


悪気はなかったのかもしれない。
だが、初来店のはずの美少女にそんなことをいかにも不機嫌そうな顔で言われたので、少々面食らってしまった。
この店を初めて訪れる客の反応は大まかに分けて二つ。
あからさまに胡散臭そうな目で僕を見るか、目を輝かせて僕に質問を繰り返しするかのどちらかであった。
前者が再度ここを訪れることはめったになく、後者はほぼ十割の確率で常連となる。
目の前にいる少女をどちらかに分けるとしたら前者であり、それはつまり、そういうことであった。
常連さんにはなってくれそうにないかと内心残念に思いながら、彼女の言葉に答える。
そんなことは聞き飽きるほどに言われているので、今更気に病んだりはしない。


「はは、すみませんね。ここは古道具屋でして、価値があるという理由だけで店に並べるんですよ」

「…………」


少女は既に店の人形に見入っていて、自分から振ったにも関わらず僕と会話する気はないようだった。
僕としても商品に夢中になってくれるのは嬉しいことなので、無視されたことは気にしない。
こんなことでめげていたら、客商売なんてやっていられないのだ。


「…………」

「…………」


小さな少女であった。
襟や袖口には申し訳程度にフリルが付けられ、本当はもっとたくさん付けたいんじゃないかと、そんなことを勝手に思った。
何より僕が気になったのが、彼女の髪の毛だった。
ふわふわしていて、綺麗というより可愛い髪だな、と思う。
思ってからお客をじろじろと観察するのもどうかと思い、僕は読みかけの本を手に取ったのが、やはりそれが気になってちらちらと盗み見てしまうのだった。
しばらくして、お客は僕に声をかけてきた。


「あの」

「はい、なんでしょうか」

「これ、手に取ってもいいかしら?」

「ええ、構いませんよ」


やはりそこで会話終了。お客は一体の人形を手に取ると、大事そうにその頬を撫でた。


(悪い客ではなさそうだが、なにかひっかかるな……)


正直、僕はこの客を知っている気がしてならなかった。
来店してきた時から、僕はこの顔をどこかで見たような気がしていたのだ。
だがそれが思い出せない。


「あの」

「あ、はい、なんでしょうか」

「これ、動かしてみてもいいかしら?」

「ええ、構いませ……え?」





―――それは、なんと幻想的な光景だったのだろう。





店内の清掃は一応欠かさずやっているが、この娘が言うとおり統一感無く物が乱雑に置かれているため、香霖堂の中は小汚いというイメージを払拭し切れていない。
そんな小汚い僕の店の中で、異色の存在が二つ。
はしゃぐように少女の周りを飛ぶ人形。
そして。
人の形弄びし少女。


「……そうか、君は、人形劇の……アリス」


その光景を見て、少女の名前を思い出した。
里で極稀に行われる、魔法使いによる人形劇。
操る糸の見えない人形劇は、普段能力や魔法に縁のない里の人間にとても好評である。
そしてその魔法使いの名前は、確か……。


「アリス・マーガトロイゾ」


瞬間、人形が突撃してきた。




















/000-2



「あと十回復唱しなさい」


もともと不機嫌そうだった顔をさらにしかめて、マーガトロイ“ド”さんは僕にそう言った。
僕は彼女をを“見上げて”それに答える。


「もう何十回も繰り返しただろう? さすがに覚えたよ」

「いい? マーガトロイド。マーガトロイドよ? マ・ア・ガ・ト・ロ・イ・ド。分かった?」

「だから、もう分かったと言っている。……それと、いい加減足が痛いんだが」


屈辱の正座である。


「ったく。人の名前をなんだと思ってるのよ」

「……あのな、マーガトロイドさん。僕は君に一つ、悲しいお知らせをしなければならないんだ」


マーガトロイドさんが顔を怒らせながら怪訝そうな瞳で僕を見る。
これだけ怒るということは、単に名前を間違えられたからということでなく、マーガトロイドという名前そのものを誇りに思っているのかもしれない。
だとしたら、これは本当に悲しいお知らせである。


「……なによ」

「いや、まずは君に謝ろう。勘違いとはいえ、すまなかった」


素直に頭を下げ、彼女に謝った。
名前とは特別な呼称であり、それを間違えるなんてその人への侮辱に他ならない。
霧雨の親父さんに何回も言われた言葉である。


「わ、分かってくれたんならそれでいいわ……」

「……話は変わるが、君の人形劇は里でとても好評なんだ」

「そ、そうなの。……まぁ、別に嬉しくもないけど」

「……里で人気の人形劇の名前は『アリスの人形劇』。そして……その主催者の名前は『アリス・マーガトロイゾ』」

「…………は?」

「僕も何回か君の人形劇を見に行ったんだが、君は公演の告知はすれど、劇が始まる少し前にやってきて黙々と準備をする。みんな邪魔をしちゃあいけないと思って君に声はかけない。かけても一言二言、頑張れだの期待してるだのといった応援だ。劇をやっている最中は歓声こそあがるが、役者である君自身に話しかける輩はいない。そして君は劇が終わったら挨拶もそこそこにさっさと帰ってしまう。だから君は知らなかったんだろうが……」

「…………じ、冗談でしょ?」

「いや、間違いない。里の人間は皆、君の名前をアリス・マーガトロイゾだと思っている」


実際、僕はつい最近まで里にいたから。
そう付け足すと、マーガトロイドさんの顔は絶望に染まった。


「……で、でも、里の子供達は私のことを……」

「アリスさん、とか人形のお姉ちゃん、だね。確か」

「こ、告知の紙には……」

「主催『アリスの人形劇場』とだけあったね、確か」

「…………」


マーガトロイゾは単純に言いにくい(マーガトロイゾでもマーガトロイドでも言いにくいのは変わらないが)ので、里で彼女の事は『アリスさん』か『人形劇の魔法使い』で通っている。
どこでマーガトロイドがマーガトロイゾに変わってしまったのかは謎だが、人から人へと伝わって行くうちに何か悲しい行き違いが起こったのだろう。
当の本人は真実を知って相当ショックだったようで、立ち尽くしたまま固まっている。


「……何とかして」


不意に、マーガトロイドさんが口を開いた。


「何とかしてちょうだい」

「……え? なんで僕が」

「わ、私、駄目なのよ」

「? なにが?」

「人形劇はいいの。あれは演技だから。決められたことをなぞるだけだから」

「僕にも分かるように言ってくれないか?」

「だから、駄目なの! 私、里の人たちと上手く喋れないのよ!」

「……まあ確かに、実質初対面の僕をいきなり正座させるような君のコミュニケーション能力が高いとは決して思っていないけど」

「だって何を喋ればいいの? て、天気とか!? 私は晴れの日しか人形劇をやらないのに!!」

「お、落ち着こう。マーガトロードさん」


慌てて喋ったため、舌が回らなかった。恥ずかしい。


「なに、今度は嫌がらせ!?」

「ああいや、今のは舌が回らなかったんだ」

「……私のことは、アリスでいいわ。それで、協力してほしいんだけど」

「協力って、何をするんだ?」

「里でちゃんと話すのよ。私の名前はマーガトロイドですって」

「話せばいいじゃないか」

「あなた馬鹿なの? 私の話を聞いてた?」

「聞いてたよ……というか、僕相手には充分過ぎるほど普通に喋れていると思うのだが」

「そう言われるとそうね。……なんでかしら?」

「……僕が知るか」

「じゃあ、具体的なプランを考えていきましょうか」


どうやら、僕がマーガトロイドさんを手伝うのは決定事項なようだった。




















/000-3



「ちゃんと考えてくれた?」

「考えるまでもなく、やることは一つじゃないか」

「だからそのやり方を考えてって言ったじゃないの!」


次の日、マーガトロイドさんはまた僕の店に来た。
彼女の本名を里の人たちに伝えるためにどうしたらいいのかという、一足す一の答えを協議するような、まるで意味のないこの会議をするためにである。
昨日も同じことをやったのだが、なにぶん突然のことであったので互いに良い案を出せなくてすぐにお開きとなったのだ。
マーガトロイドさんは「また来るから、それまでに考えておいてね」と言って帰って行ったのだが……。


(まさか次の日に来るとはなあ……)


繰り返すが、議題は『どうやってマーガトロイドさんの本名を里の人たちに伝えるか』である。


「昨日も言ったけど、普通に伝えればいいじゃないか」

「昨日も言ったけど、里の人たちと上手く喋れないのよ」

「いや……だから、普通に喋ればいいじゃないか」

「普通って、どうやって?」

「……今みたいにじゃないか?」

「む、無理よ」

「なんで」

「なんでもよ!」

「……さて、そろそろ倉庫の整理を始めるかな」

「ま、待って。頑張るから、私頑張るから」

「…………」


もう訳がわからない。


「……つまり」

「……はい」

「里の人たち相手だと緊張して喋れないのか?」

「ぅ……だ、だって、共通の話題とか、ないし……」

「話題なんてものは何だっていいのさ。少し周りを見まわすだけで、話の種はそこらじゅうに転がっているじゃないか」

「わ、私を全否定するつもり……?」

「……多分君の場合は、緊張で周りが見えなくなってるんじゃないのかな。まあ、自分から話すのが苦手なら、相手の話を聞けばいい」

「どうやって?」

「一番簡単なのは質問することだな。答えを求めるものであれば話題がはっきりしていてお互いに話しやすいだろうし」

「質問ね。分かったわ」


得心がいったとばかりにマーガトロイドさんはメモをとった。


「……先に言っておくが、相手を質問責めにするのは論外だからな」

「う……わ、分かってるわよ」


この反応を見る限り、釘をさした僕は正解だったと思う。


「じゃあ、やってみようか」

「え? なにを?」

「君から僕に話し掛けてくれ。出来るだけ自然にね」

「いっ、いきなりは無理よ! 家で練習してくるから!」

「意味がないとは言わないが、会話という行為自体に慣れた方が楽だぞ? その場その場で会話の相手や内容も変わるんだし」

「それはっ……そう、なんだろう、けど」


よほど自分の話術に自信がないのだろう。
唇を噛んで下を向く少女の姿は、まるで一人ぼっちの迷子だった。


「……なあ、マーガトロイドさん。もしかして、人と喋るときは何か面白いことを言わなければいけない、とか思っていないかい?」

「え……それは、そうじゃないの?」

「やっぱりか。そりゃまあ面白い方が楽しいことは楽しいんだろうが、会話とはそれが全てではないよ」

「……でも、面白くないと、喋っててもつまらないでしょう」


つまりこの娘は、面白いことを言えない私なんかと話してもつまらないだろうと、そう言っているのか。


「じゃあ、今はどうだい?」

「え?」

「今、僕と君は普通に喋っているだろう? 僕は別段、面白いことは言っていない。それを君は、つまらないと思うかい?」

「それは……べ、別に普通よ」

「そうだろう? こんな感じでいいのさ。無理して面白いことを言わなければいけないなんてことは絶対ないんだ」

「で、でも……」

「でも、不安だよな。だから、まずは僕と練習しよう。タイミングの良いことに、君の目の前には閑古鳥の鳴く店があって、暇を持て余す店主がいる」

「う、うー……」


上目に僕を見て唸るマーガトロイドさん。
あと一押しだ。


「失敗したって別にいいじゃないか。会話の内容なんて日々の生活に埋もれていくだけなんだから」

「……そ、そうよね。大したことじゃあないのよね」

「ああ。というか、僕は最初からあくまで暇つぶし程度にしか考えていないしね」

「そう……なら、少し付き合ってもらおうかしら……?」

「お安い御用だ」


それが、香霖堂日常会話教室の始まりだった。




















/000-4



「こ、こんにちは。いいお天気ですね」

「ええ。こうも良い天気だと、どこかに出掛けたりしたいですね」

「そ、そうですか……」

「…………」

「…………」

「……終わっちゃったな」

「……終わっちゃったわね」


なんとかやる気になったマーガトロイドさんだったが、先ほどまでとは打って変って全く会話が弾まない。
さあやるぞと意気込んだのが、逆にいけなかったらしい。


「そうですか、じゃあ次に繋ぎにくいだろう? 会話ってのは連想ゲームと一緒で、会話の流れや出てきた単語から使える話題を連想していくんだ」

「は、はい」

「良い天気。良い天気だから、どこかに出掛けたい。ここで『出掛ける』という言葉が出てきたから、ここから『例えばどこへ行くか』『最近どこかへ行ったか』『出掛ける予定はあるのか』などが連想できる。じゃあ、この後を繋げるつもりでもう一回だ」

「はい……。こ、こほん。えー、こ、こんにちは。いいお天気ですね」

「ええ。こうも良い天気だと、どこかに出掛けたりしたいですね」

「そ、そうね。……た、例えばどこへかしら?」


僕の例えをそのまま使うマーガトロイドさんに苦笑しながら、会話を続ける。


「そうだな。無縁塚辺りに何か目ぼしい物がないか見てきたいな」

「む、無縁塚へ? そんなところへ行きたいの?」


失敗した。
つい普通に僕が行きたい所を言ってしまったが、里の人間が無縁塚へ行きたいなんて答えるはずもなかった。
大した問題ではないものの、自分の迂闊さに反省する。
そんなところとは酷い言い方だと思うが、マーガトロイドさんはなんとか食いついてこようとしていたので、そのまま会話を続けた。


「あそこは外の世界から物が流れてくることが多くてね。この店でもあそこで拾ってきた物が多く置いてあるんだ」

「へぇ……あ、もしかしてあの人形も?」

「ああ。一年ほど前かな。状態は随分悪かったが、修理して今はあの通りだ」

「修理って、自分で直したの? あなた器用なのね。重心が微妙に違ってたけど、もしかして素体をいじったんじゃない?」


さすがは人形遣い。
人形に関連する話になった途端に饒舌になった。


「よく分かったな。右腕がほぼ全壊してたから、そこだけ僕が付け替えたんだ。とは言っても同じ素材が無かったから別の物で似せて作っただけで、君のような本職にはすぐにばれてしまう程度だよ」

「私は魔力を通して初めて気付いたのよ。そこまでしなきゃ気付かなかったわ」


この賛辞は腕の代替品を用意するのにさらに半年かかったこともあり、素直に嬉しい。
先ほどの人形は既に元の位置に戻っていて、ちらりと目をやり、直して良かったと心から思った。


「魔力を……ああ、人形を浮かした時か」

「えっと、やっぱりまずかったかしら。触っただけの時点ではっきりと気付いてはいなかったんだけど、違和感みたいなのは感じていてね。自分で動かせば分かると思って」

「いや、構わないよ。むしろ歪みを教えてくれたマーガトロイドさんには感謝してるくらいだ」


使用する側の意見は、いつだって貴重なものである。
物を作るという点においては多少の自信を持つ僕ではあるが、そもそも物は使われてこそその意味を為すのだ。
そういう考え方を含めた商売のやり方、所謂“こつ”を霧雨邸で学ぶことができて本当に良かったと思う。
残念でならないのが、あそこで僕の能力を活かすことはできないことである。
だから出て行くと、そう告げた時の親父さんの顔は今でも忘れられない。


「……あ、アリス」

「うん?」

「アリス!」

「どうした?」

「っていうか! その……アリスでいいって言ったと思うんだけど」

「ああ、うん。確かに聞いたね」

「なんでそう呼んでくれないの?」

「怒らないなら言うよ」

「怒らないわ」

「……僕の中で君はまだ『アリス・マーガトロイゾ』の印象が強くてね。だからそれを修正するために口に出して言ってるんだよ」

「それなら仕方ない、けど……」

「アリスって呼んだ方がいいかい?」

「……またマーガトロイゾさんになるのは御免だわ」


マーガトロイドさんは拗ねたように唇をとがらせる。
僕は何となく微笑ましい心地になり、本人も望んでいることだし、これからはアリスと呼ばせてもらおうと思った。


「あはは、わかったわかった。もう憶えたよ、アリス」

「!!」

「アリス?」

「や、な、なんでも……ないわ」


アリス急に俯くと、ぶんぶんと顔を横に振って気にするなと言った。


「僕も君をアリスと呼ぶんだから、君も僕の事は霖之助と呼んでくれな」

「ええ!? そんな、いきなり」

「……そこまで驚くことか?」

「わ、分かった。分かりました。呼ぶわ……名前で」


お互いの名前を呼び合う。
簡単なことだが、親交を深めるには一番良い方法だと思う。


「ほ、ほら。練習の続きをしましょう」

「ああ。了解だ」


結局、予想外に話が弾んでしまい、日が沈む頃になるまで僕らは楽しくお喋りをしたのであった。
悲しいことに来客は全く無かったため、一日中アリスと話し込んでいたことになる。
帰り際にアリスは振り返って、でも僕と目は合わさずに言った。


「あの……明日も、お願いしていいかしら」

「なにを?」

「……会話の、練習」

「え? ああ。構わないよ。でも、今日一日で随分喋れるようになったんじゃないか?」


今日話して分かったことだが、マーガトロイドさんは決して口下手ではない。
もちろん、今まで里の人間と上手くコミュニケーションがとれていない点においては口下手だという評価もやむなしである。
あるのだが、もともと魔法使いということもあって知識は豊富であり、なおかつ頭の回転も速い。
根底にある人間への苦手意識と自己評価の過小さが、悪く作用してしまっていただけなのだ。
慣れてさえしまえば、意識しなくてもすぐに言葉が湧き出てくるようになるだろう。


「で、でも、練習し過ぎて悪いなんてことはないでしょ?」

「……まあ、それもそうだね。僕も、どうせ明日も暇だろうし、時間があったらおいで」

「ええ! それじゃあまた明日ね。り、り、りんのすけ、さん」


最後の最後でようやくこちらを向き、その顔に花を咲かせて帰って行った。
どうやら明日も来るらしい。
マーガトロイドさんも大概暇なんだなと、そんなことを思った。




















/000-5



「いらっしゃい」

「こんにちはー」


三日連続もの来客。とは言っても、商売におけるお客ではないけれど。


「アリス。明日、里へ行くぞ」


香霖堂日常会話教室、二日目にして終了宣言である。
別に飽きたとかそういう訳ではなく、単に良い方法を思いついただけだ。
アリスからすれば、それはさぞ突然の言葉だったのだろう。
きょとんとした顔で「どこに?」と聞き返された時、アリスは当初の目的を忘れているんじゃないかと思った。


「どこにって、もちろん里にさ」

「里? ……え、ああ! そうね、里ね!!」

「まさかとは思うけど……」

「やーね、忘れてるわけないでしょう? もともとそのためにここへ来てたんだから」

「……まあ、そりゃそうか」

「で、でも、早すぎじゃない? まだ二日目よ?」


確かに二日、目的の確認から実質三日目で決行というのは早いのだろうが、元々そんなに難度の高いことをやろうというのではないのだ。
里の人間一人一人に「私の名前は~」等と言い回る訳ではない。
ただ名前を伝えるだけならば、里にいる二人の人間のうちどちらかに伝えれば、すぐに里全体に伝わる。
そのうちの一人である稗田のご隠居は病床の身なので、今回はもう一人にお願いしようと思う。
多分ではあるが、稗田のご隠居は真実を知っているものと思われる。
何か考えがあるというのならばまだいいが、もしかすると表舞台に出られないほどに具合が悪いのかもしれない。
自分の代で御阿礼の子の誕生を目に出来たなら、もういつ死んでも悔いはない。そう言っていたのを思い出す。
近いうちにお見舞いに行った方がいいのかもしれない。


「なに、大丈夫さ。今回君が話すことになる相手は一人だけだから」

「……どういうこと?」

「霧雨店、知ってるだろ? そこの、霧雨の親父さんに頼むんだ。それとなく話を広めてくれって」

「霧雨さんて、あの道具屋の?」

「そうそう。僕はそこに少しばかり縁があってね。大きな商談なんかと被らない限りは普通に会えるはずだ」

「なんか、意外だわ。霖之助さんがそんな強いコネを持ってるなんて」

「コネとかそういうんじゃないんだけどね」


彼に言われせると、僕はもう身内らしい。
そんなことを言われても苦笑しか返せなかった僕は、今でもその時のままだ。


「じゃあそう言う訳で、明日行くから」

「ちょ、ちょっと待ってよ。……無理!!」

「君ならできるよ」

「そ、そうかな……って、やっぱり無理!! というか、随分急な話じゃない。……もしかして、迷惑、だった……?」

「いや、そういうんじゃないよ。ただ単に良い方法を思い付いたってだけで」

「……それが、霧雨さん?」

「ああ。まあ、本当に一番良いのは君が人形劇を里でやって、その時にはっきり言うことなんだけど」

「でも、それだと少し時間がかかるわね……」

「そんなに大した差じゃあないけどね。ただ、こういった認識の齟齬というのは時間が経つのに比例して強まっていくものだからね。早いに越したことはない」

「だから霧雨さん、か」

「今回はそれで広めてもらって、またいつか里で人形劇をやる時にでもそうすればいい。下地があるのとないのだと、浸透するには雲泥の差だから」


アリスは少し考え込んでいるようで、そこからしばらく返事はなかった。
彼女は会話の最中でもこうやって考え込むことが多く、この癖も人と会話する上では悪癖と言える。
まあ、今回話すのは霧雨の親父さんだけの予定なので、特に問題は無いと思う。
まだ三日目ということもありアリスが悩むのも無理はないが、話すだけならそれこそ五分十分で終わるだろう。
よくよく考えれば、かなりの電撃作戦ではあるけれど。


(……いや、そうじゃない。本当は、そうじゃないだろ)


何が電撃作戦だ。自分のくだらなさに反吐が出そうだった。
彼女のために霧雨邸へ、なんて。


(ただ自分が、行く理由を欲しがっているだけじゃないか)


霧雨の親父さん、なんて呼んでいるけど、本当は僕の方がずっと年上だ。
それでも彼は、どこまでも自分と対等だった。


(……魔理沙)


親父さんの宝物。
それは僕にとっても同じで、娘のように、妹のように可愛がった。
だから、離れた。


「……そうよね。霧雨さんなら面識が全くないってわけじゃないし、きっと上手くいくわ。……霖之助さん、聞いてる?」

「え? ああ、うん。明日、頑張ろうな」

「まあ、一人ならなんとかなる……かな?」

「なるさ、うん。じゃあ、また明日」

「ええ、じゃあまた……って、今日まだ何もしてないじゃない!!」

「ああ、そう言えばそうだった」


結局その日も、会話の練習と称したお茶会をする僕らだった。
帰り際に明日の予定を確認する。


「明日は、そうだな……昼前くらいにでも来てくれ。いつ行ってもあそこが忙しいのは変わらないからね」


朝は仕入れに商品の陳列、昼は接客、夜は会計記帳などの事務がある。
アリスは多少緊張気味に「りょ、了解したわ」と言って帰って行った。
そんな彼女を見て、ああ、本当に人間が苦手なんだなと思った。
人間を単なる食料、嗜好品と軽んじるる妖怪が多い中で、彼女のような存在は珍しい。
あの様子だと、今夜はきっと眠れないんじゃなかろうか。
もっとも、どうやら今夜眠れなさそうなのが、ここにも一人いるわけだが。


(……はぁ)


本当なら魔理沙に会わなくて済む時間にしたいのだが、いかんせん霧雨邸へはしばらく行っていないので彼女の予定なんてものは分からない。
本気で魔理沙に会いたくないと思っているわけではない。
もし本気でそう思っているのなら、絶対に会わない時間を選べばいいのだから。
とどのつまり、僕は魔理沙に会いたいのだ。


(……はは、どっちだよ、ほんとに)


我が事ながら、実に混乱していた。


(これだよ、結局。状態は悪化しただけだ……)


離れるなら早い方が傷は浅いと思ったのに、結果は無様なものであった。
霧雨邸で得たものは、商学の知識だけではなかった。
しかしそれは今、僕にとってとてつもない重荷となっている。


(もし明日会えたら……会ってしまったら……)


もう親父さん達に聞いて、知っているかもしれないけれど。


(いっその事、言ってしまおうか……)


僕は人間じゃないんだと。
君とは違う存在なんだと。


(……今夜はあまり眠れそうにないな)


とりあえずお茶でも飲んで落ち着こうと思い、台所へと、とぼとぼ歩く僕だった。




















/000-6



翌日アリスは約束通り、昼前に店に来た。
見たところそんなに緊張の色もないようだったので、僕たちはそのまま里へと出掛けることにした。
たわいもない話をしているうちに霧雨店に着き、しかも好運なことに店の前には打ち水をしている親父さんがいるではないか。
これ幸いと声をかける。


「親父さん、久しぶり」

「いらっしゃいませ……って、お前、霖之助か……? いきなりどうし……!?」


久しぶりに会った親父さんは少し老けたように感じられた。
一年会わないだけで、人間の外見は驚くほど変わったりするのだ。


「いきなりで悪いとは思ったんだが、ちょっと頼みたいことが……」

「……そうか。霖之助、おめでとう!」

「え? なにが?」

「いやぁ、めでたいな。わざわざ報告に来てくれてありがとな。まあ立ち話もなんだからウチへ入れよ」

「……いや、ちょっと待ってくれ。何か勘違いしてないか?」


僕はもちろん、アリスも何がなんだかわからないという顔をしていた。


「何ってお前、その娘と祝言をあげるんだろう? ……ん? アンタ、確か……」


祝言とは婚礼の儀、いわゆる結婚のことである。
この場合の『その娘』とは、状況からいってアリスで間違いないだろう。


「いや、違うから」


僕は努めて冷静に否定したが、親父さんは聞いていなかった。


「アリスさんじゃないか? 去年……いや、一昨年の祭り以来だな。そうかぁ、アンタがこいつと一緒になるとはなぁ」

「だから違うと言っているだろう。ほら、アリスからも言ってやってくれ」


アリスは肩をわなわなと震わせながら、口元を引きつらせて言った。


「り、り、霖之助さんとは、まま、まだ、そういうんじゃないから」


どう考えても緊張しずぎだろう。
先ほどまでとは打って変わって、ガチガチである。
里で買い物をすることだってあるだろうに、里の人間が相手だとここまで話せないのかこの娘は。


「ほほぅ、するとあれか。“まだ”ってことは、婚約ってことかい?」

「ちがっ! そうじゃなくて!!」

「……親父さん、分かっててやってるだろう? アリスはそういうのに慣れてないんだ。この辺で勘弁してやってくれ」

「なんだよ霖之助。久しぶりに会ったんだから、こんぐらいはいいだろ?」

「じゃあアリスじゃなくて僕にやれよ」

「ねぇ、どういうこと……?」


アリスは自分がからかわれていることに気付かず、僕に説明を求めてきた。


「まあ、里にも僕たちのような人外に好意的な人がいるってことさ」


だからと言って勘違いしてはいけない。
奥さん、つまり魔理沙の母親に言われたその言葉は、今でも僕の戒めだ。


「そ、そうなの……」

「ハッハッハ! まあ気にしなさんな」

「あんたが言うなよ」


親父さんは特別だった。
保守的な里の人間の中では異端とも言えるだろう。
なにせ半妖の僕を弟子にとるくらいだ。


「それで、なんだよ用事って」

「ああ、それは彼女から話すよ」

「あ、あのですね……霧雨さん、私の名前、知ってますよね」


そこまで分かっていてやったとは思わないが、親父さんの冗談のおかげでアリスの緊張を幾分か和らげることができたようだ。


「ああ。アリス・マーガトロイゾさんだろ?」


さも当然、そんな様子で言われて、アリスの顔が悲しみに歪む。
事が事なだけに、“ゾ”が強調されてるようにすら聞こえる。
落ち込んだ様子を隠せないままアリスは「実はですね……」と今回の来訪の主旨を伝えた。
大方、家で台本でも作ったのだろう。それは実に簡潔で分かりやすい説明だった。
とは言っても、あなた達は私の名前を間違えている、と言えばそれで済む内容なのだが。


「……そうだったのか。いや、それはすまなかった」


話を聞いた後、親父さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
これにはアリスもびっくりしたようで、「た、大したことじゃないから別にいいんだけど!」と慌てていた。
それからは里におけるアリスの名前の認識を修正するといった方へ自然と話が進み、親父さんは率先して引き受けてくれた。


「そういうことなら任せてくれ。まあ、噂としてだけなら一、二週間くらいだな」

「いつやるかは決まってないけど、次の人形劇の時にでも私からちゃんと言うわ」

「それなら問題ないな。霖之助の頼みでもあるし、確かに引き受けた」

「ありがとう」

「いんや、これは俺たちが悪いんだから当然のことだ」

「それでも私のためにやってくれるのだから、お礼を言うのは当然だわ」

「そう言ってもらえると助かるぜ」


結局、親父さんに会ってから実に十分ほどでアリスの用事は終わってしまった。
親父さんは久しぶりに会った僕と話をしたそうだったが、アリスをほったらかしにするのも気が引けるので、早々に退散することにしようと思う。


(……また、言い訳か)


アリスと親父さんの会話を聞きながら、僕の視線は店の入り口に釘付けだった。
正確には、その扉がいつ開いて魔理沙が顔を出すのかと、気が気でなかったのだ。
アリス僕の袖を引き、どうする? と視線で問いかけてきたので、帰ることを伝える。
奥さんや他の顔馴染みに挨拶せずに帰るのは正直失礼だとは思ったが、今の僕は相当不安定だった。
親父さんには「もう帰るのか? 会っていけばいいだろう?」と言われたが、それをやんわりと断る。
また丁度良いことにアリスと僕が並んで歩いてきたことで、周囲は少し騒然としてきていた。
言ってから親父さんもそれを察したのだろう、僕が「また今度の機会に」と返したら、それ以上強く引き留めはしなかった。


「またそのうちに店に来いよ。お前なら、多少の値引きは考えてやる」

「そうかい。親父さんも困ったことがあったら言ってくれ。それと、もう若くないんだ。健康には気をつけて」

「聞き飽きてるよ、その台詞は。……ウチのカミさんに口うるさく言われてんだ」

「はは、皆にもよろしく言っておいてくれよ」

「ああ。任せろ」


アリスも親父さんに別れの挨拶と今回のお礼をもう一度言い、最後は親父さんと握手までしていた。
この短時間で、随分仲良くなったものだ。


「アリス、行こうか」

「ええ」


歩き出してすぐ、反射的に振り返った。
店の入り口が開く音がしたのだ。
親父さんの奥さんが出てきたらしく、親父さんに何かを言っていた。
アリスも僕に釣られて店を振り返っていたらしく、「いいの?」と聞いてきた。
僕は「いいんだ」とだけ返し、アリスの手を握って歩を早める。
アリスは小さく悲鳴をあげたが、抵抗はせずについてきてくれた。
僕は心の中でアリスに謝りながら、それでも歩を緩めることはしない。
後ろからアリスとは別のもう一つの視線を感じていたため、もう振り返ることは出来なかった。




















/000-7



通りの角を曲がって、ようやく感じていたもう一つの視線は無くなった。
僕は一息つくと共にアリスを引っ張るようにして歩いていたのを思い出し、すぐに手を離した。


「あっ……」

「その……すまない」

「き、気にしてないから……」

「…………」

「…………」


気まずい雰囲気のまま、僕たちは無言で歩いた。
周りの喧騒がやたらと響き、普段はそういったものはあまり好まないのだけれど、今だけはそれに助けられていた。
魔法の森へと続く里の端が見え始めた頃に、アリスが口を開いた。


「ねえ、霖之助さん」

「……なんだ?」

「今回の件、どうして私に付き合ってくれたの?」

「どうしてって言われても……」

「だって、今回のことで霖之助さんにプラスになることなんてないでしょう?」

「……いや、そうでもないよ。僕には僕の目的があってやったことだから」

「そうなの?」

「ああ、そうさ。僕は昔ね……」


別に隠すつもりではなかったが、今まで何となく話せないでいた、少し前まで霧雨の家でやっかいになっていたことをアリスに伝えようとしたのだが、それは誰かの大きな声に遮られた。
誰かの、とは言っても、それは一声聞けばすぐに分かる、懐かしい響きだった。





「こーりん!」





何度言っても直らない僕の呼び方。
可愛い可愛い、霧雨家の一人娘。


「魔理沙……」

「こー、りん、なん、で、なんで、いっちゃうの? かえって、きたんじゃ、ないの?」


きっと家からここまで走って来たのだろう。
顔は真っ赤で、息も絶え絶えになりながら、魔理沙は僕を見ていた。


「……霖之助さん、この子、知り合い?」

「……あ、ああ。霧雨さんとこの……」

「こーりん!」


魔理沙が目に涙を溜めて、僕を見ている。
多分、僕が今里に来ていることを親父さんか奥さんに聞いたのだろう。


「え、と……私、先に帰った方がいいかしら」

「そうしてくれると助かる」

「分かったわ。じゃあ、お先に」


そう言うと、アリスは早足で先を行った。
悪いとも思ったが、今は少し余裕がない。


「こーりん……」

「ああ、なんだい?」

「また、いっちゃうの?」

「ああ。それとな、魔理沙。僕は行くんじゃない。僕の家に、帰るんだ」

「こーりんのうちは、まりさのうちじゃないの?」


五歳の子供にとって、いわゆる別離とは理解できない概念である。
日が暮れて友達にばいばい、またねと言うのとは訳が違う。
生まれてからずっと一緒だったのだ。
魔理沙のおしめを変えたこともあるし、お風呂だって一緒に入った。
怖い夢を見たと眠れない夜は僕の布団に潜り込んでくることもあったし、僕も実の妹のように彼女を愛した。
毎日一緒だった。
朝のおはようから、夜のおやすみまで。
例え彼女が子供でも、物心がついていなくても、言葉さえ満足に喋れなくても。
魔理沙は僕という存在を、ずっと見てきた。
それがある日突然いなくなった。


「こーりんのうちは、まりさのうちじゃないの?」


繰り返されるこの質問が、今は何よりも辛い。


「……ごめんな、魔理沙。僕の家は、もうあそこじゃないんだ」

「なんでぜんぜんかえってこないの? まりさが、まりさのことがきらいになったの?」



もう二年になるだろうか。
彼女が四歳になる頃には、僕はもう独立して香霖堂を立ち上げていた。
もともと自分の店を持ちたいという願望はあった。
自分のやりたいことと霧雨家での商売が合わないと明確に気付いた、というのも香霖堂設立に踏み切った理由の一つである。
だがもう一つ、あえて理由を挙げるなら―――


「違うよ。僕が魔理沙を嫌いになるはずないだろう?」

「じゃあ、なんで?」

「何回も言ったじゃないか。僕は自分の店を作って、そこが僕の家になるんだって」


本当に、本当に何回も言った。
でもこの子は、頑なにそれを聞こうとはしないのだ。


「じゃあ、まりさもそこがいい」

「そんなことをしたら、君のママが泣いてしまうよ?」

「こーりんといっしょがいい」

「……それはできないんだ。もう僕は、ここにはいられない」

「どうして?」

「僕には、やりたいことがあるんだ。それはここだとできない。だからここにはいられない」

「……また、わたしをおいていっちゃうの?」


こういう存在を、家族、とでもいうのだろうか。
僕には分からない。
僕は実の妹の“ように”魔理沙を愛しただけなのだから。
それがどれだけ無責任なことなのかにも気付かずに。


「ずっと会えない訳じゃないよ。今日だって会えたじゃないか」

「でもこーりん、まりさにあわないでいこうとしてた」


魔理沙は人間。僕は半妖。
この差は絶対である。
それは寿命であり、価値観であり、生物としての根幹であった。


「そんなことないよ

「でも、ママが」


やっぱり奥さんか。
彼女も困った人である。
結局はあの人の思う通りに事は運んでいく。事を運ばされる。
僕に“コレ”気付かせたのは、他ならぬあなたなのに。


「あっ」


僕は魔理沙を抱きあげようとして、結局やめて、彼女の肩に手を置いた。
腰を下ろし、目線を合わせる。


「なあ、魔理沙」

「うん」

「僕は元々、君の家の人間じゃないんだ」

「……ううん」


魔理沙はその言葉を否定するように、固く目をつむって首を横に振る。
その姿がとても愛おしくて、思わず笑みがこぼれた。


「そうなんだよ、魔理沙。……そして、もう一つ」

「…………」

「僕は、人間じゃない」


会うつもりもなければ、言うつもりもなかった。
だがもし会ったなら、その時は言ってしまおうとも思っていた。
今日を最後に、霧雨店には近づかないようにするつもりだったのだ。
アリスからここに繋がるとは最初は思っていなかったが、これも良い機会だと思った。
多分僕は、何かのついでで、軽く済ませたかったのだ。
結果的に出しにしてしまったアリスには申し訳ないとは思うが、彼女も彼女の目的を果たせたのでお相子である。


「人間と同じに見えるかもしれないが、僕は人間と妖怪のハーフ、半妖なんだ。君とは、違う生き物なんだよ」


四つか五つの子供に、この差がどれほど大きなものか分かるとも思っていない。


「こーりん」

「なんだい?」

「にんげんってなに?」

「それは……」

「ようかいってなに?」

「……魔理沙?」


それはきっと、里に住む人間なら生まれて最初に教わることだ。
我が子に冒険気分で森や山に行かれては、親としては堪ったものじゃない。


「にんげんはようかいとなかよくしちゃいけないの? それはだれがきめたの?」

「誰って……」


誰が決めたわけでもなく、そういうものなのだ。
例えば、人間と妖怪とで戦争が起こったとしよう。
その時、僕はどうなるのか。
人間は人間側に、妖怪は妖怪側に。
一人しかいない半妖は、一体どこに行けばいいのか。


「もしこーりんが」


いつの間にか瞳に涙を溜めていた魔理沙が、僕に言った。
それはまるで、僕の心を読んだかのような的確で鋭い言葉だった。


「ひとりぼっちでさみしいなら、まりさがそばにいくよ」


子供の戯言だなんてとても言えない、真剣で、だけどさも当然みたいな、そんな声音で魔理沙は言った。
具体的にどうするかなど、そこまで考えが及んでいるわけではないだろう。
だってそれは、魔理沙にとっては考えるまでもなく当り前なことなのだから。


「……魔理沙、それは、駄目なんだ」

「なんでぇ……!!」


ぽろぽろと、魔理沙は涙をこぼしながら僕に問うた。
頼むよ魔理沙。泣かないで。
僕は君の悲しむ顔なんて見たくないんだ。


「わからないか?」

「……わ、わか、わかん、ない」

「なら、宿題だ」

「しゅく、だい……?」

「そう、宿題。自分で考えて、答えが分かったら僕のところにおいで」

「こたえがわかったら、こーりんといっしょなの?」

「……ああ」


なんという茶番劇であろうか。
その答えが魔理沙にもたらすものは、僕との完全な決別となるのかもしれないのに。
嫌悪や畏怖とまではいかなくても、種族の差は僕らにとって大きな壁となる。
そして魔理沙は、そういった差別意識が最も強い“人間”という種族なのだ。


「……ぅ、ん。わ、わかった。まりさ、がんばる」

「……そうか」


魔理沙は何が嬉しいのか、ついさっきまで泣いていたというのに、今は笑顔を僕に向けている。
くしゃくしゃと魔理沙の髪を撫で、その瞬間、直視した彼女の目線に言葉を失う。
僕は、僕という存在を信じきったその目に恐怖し、すぐにこの場を離れようと思った。
何が一番良い選択かだなんて、僕には分からない。


(……わからない。僕にだってわからないんだよ、魔理沙)


一瞬見えた、魔理沙の瞳。
その目がいつか、負の色に染まって僕を見るのかと思うと、悲しくて恐ろしくて死にたくなる。
だから僕はひたすら目を伏せながら、またな、と言って立ち上がり、後ろを向いた。
背中に魔理沙の視線を感じながら、決して振り返ってはいけないと心で繰り返し、歩き出す。
あるいはこの時、彼女の目を逃げずに正面から見ていれば、何かが分かり、未来は変わったのかもしれない。
だが、僕は振り返らず、彼女の目を見ることはなかった。


(嫌われたくないから先に離れる、か。……全く。どうしようもないな、僕は)


子供ながらに何かを決意したような、その強い瞳を見ることはなかったのだ。




















/000-8



香霖堂に着くと、扉の前にアリスが立っていた。


「アリス」

「思ったより早かったわね」

「てっきり帰ったのかと思ったよ」

「か、帰ろうと思ったんだけど……」

「ん?」

「まだ、ちゃんとお礼を言ってなかったなって思って」

「お礼?」

「霖之助さんに、その、あ、あ、あ……」

「『あ』?」


しばらく口をぱくぱくさせた後、アリスは言った。


「……あ、ありが、とう、って……」

「僕は何もして……なくもないか。ということで、その気持ちはありがたく受け取っておこう」

「よ、良かった……言えて」


最後の方は何と言ったか聞こえなかったが、良かったというのは十中八九、名前の件だろう。
僕はアリスを店内に招きながら言った。


「あの人はやり手だからね。きっと上手く広めてくれるよ。こういうことに長けていなければ、商売上手なんて決して言われない」

「え? あ、うん。そうね、霧雨さんにも感謝してるわ」

「なにはともあれ、一件落着だな。……なあ、アリス。まだ里の人間とは話せそうにないかい?」

「……まだ自信はないけど、前よりは何倍もいけそうよ」


それは間違いなく強がりだと思うのだが、本人がいけると言っているのにわざわざ水を差すこともないだろう。


「そりゃ重畳だ」

「……ねぇ、霖之助さん」

「なんだい?」

「さっきのあの子、霧雨さん家の子供?」


魔理沙のことを言われ、反射的にアリスから目を逸らした。


「……霖之助さん?」

「あ、ああ。そうだよ。霧雨魔理沙。霧雨さん家の一人娘だ」

「……なんか怒ってたっていうか、ただならぬ雰囲気だったけど」

「子供の考えることなんて僕には分からないよ」

「まあ、そうかもね」

「……そうだ。アリス、君に頼みたいことがあるんだ」

「なに? 今回のこともあるし、大抵のことは聞いてあげるわよ」

「それはありがたい。君に人形作りを教えてもらいたいんだ」

「人形作り? それは、どういうレベルで?」

「そうだな……。君のレベル、とまではいかなくても、君の足もとに及ぶ程度まではいってみたい。とりあえずは基礎を教えてもらって、どうするかはまたその時に決めたいと思ってる」

「うーん……まぁ、いいわ」

「助かるよ。時間もやり方も君に任せる」


アリスから人形師としての修業をつけてもらえたら、というのは、本当に今思いついた考えだった。
ついでに言うと、僕は別に人形師になりたいわけではない。
マジックアイテムなどは特にそうだが、道具を作る過程において、作る物とは全く関係ない道具の知識が意外な面で役に立つことが多々あるのだ。
アリスから人形作りのなんたるかを、その一端でも吸収することができれば、僕の作る道具の可能性が広がるかもしれない。
とりあえず、プラスになることはあってもマイナスになることはない。
もちろん、これをアリスが知ることは、本人が気付かない限り無いだろうが。


「じゃあまずは、紅茶でも淹れてもらおうかしら」

「はいはい。分かりましたよ、アリス先生」


紅茶を淹れるのは随分と久しぶりだ。


(……でもまあ、なんとかなるだろ)


これが原因で人形作りよりも先に紅茶の正しい淹れ方を教わる羽目になるのだが、そんなことは露知らず、僕は軽い足取りで台所へ向かった。
彼女が今ここにいてくれて良かったと、心から思った。
もし一人だったら、きっと今ごろ自己嫌悪で地面をのたうち回っていたかもしれない。
アリス・マーガトロイド。
聞けば魔法の森に住んでいると言うし、どうやら長い付き合いになりそうな魔法使いだった。




















/004



「霖之助さん?」

「え……あ、なんだい?」

「なんだい、じゃないわよ。ぼーっとしちゃって、どうしたの?」

「いや、ちょっと君と初めて会った時のことを思い出しててね」



日もそろそろ暮れるかという頃、僕は人形を縫いながら、ついアリスとの初めての出会いのことを思いふけってしまっていたらしい。
紅茶は完全に温くなっていて、もう飲めたもんじゃない。
どのみち僕が自分で淹れ直した紅茶だから、なんの価値もないのだが。


「初めて……って! ま、まさか、あの忌まわしい名前のことじゃ……?」

「そうそう。アリス・マーガトロ……」

「いいから! 言わなくていいから!!」

「僕たちの縁を繋いだ記念すべき間違いじゃないか」

「う……そ、そうかもしれないけど……」

「いいじゃないか。あの後すぐに里での君の名前も直ったし、魔理沙だって覚えてないような昔の話なんだから」

「……そう言われると、私ってちっちゃい頃の魔理沙と会ってたのよね。あの時は可愛かったのに……なんであんなんになっちゃったのかしら?」

「時の流れには逆らえないものだよ」

「魔理沙に聞かれたらマスタースパークね」

「君が言わなければ大丈夫だ」

「弱味、握っちゃったかしら?」

「言い始めたのは君だ」

「……相変わらずね。あの時だってそう。人形作りを教えてほしいって言ってたくせに、本当の目的は人形じゃなかったじゃない」

「いや、人形作りの腕だって立派な目的だったさ。そっちの道を専門にする気がさらさらなかっただけで」

「私にとっては同じことよ」


じと目で僕を睨むアリスの視線を、紅茶のカップを手に取りながら受け流す。
上目遣いにそれをやられても、ただ可愛いだけだった。
温くなった紅茶はやはりと言うか、美味しくなかったけれど。


(ん? 紅茶といえば……)


今ふと気付いたのだが、アリスは店に来た時、最後に必ず僕に紅茶を淹れさせる。
後味というものを考えれば僕が淹れたものよりアリス自身が淹れた紅茶の方が断然良いに決まっているのに、アリスは必ず僕の紅茶を飲んでから帰るのである。
気になったので聞いてみることにした。


「なあアリス。今気付いたんだけどさ」

「なに?」

「なんで君は、いつも最後の紅茶を僕に淹れさせるんだい?」

「へ!? や、やーね。なんのことかしら」

「いや……誤魔化さなきゃいけないような理由があるのかい?」

「ご、誤魔化してなんかないわよ」

「……まあ、いいけど」

「そ、そうね、いいわよね」


最後に僕に淹れさせることで僕の紅茶を批評してくれているのかもしれないし、これ以上の追及はしない。
少し気になっただけで、瑣末なことである。


「……にしても、僕らが出会ってもう十年か」


この十年で幻想郷は大きな変化を迎えている。
少なくとも十年前は、妖怪が里で人間と酒を酌み交わすことなど考えられなかった。


「そうね。……でも、なんで霖之助さんとは初めて会った時から普通に喋れたのかしら?」

「そうだな……相性が良かったじゃないか?」

「相性?」

「ああ。相性が良くなけりゃ、十年も付き合いは続かないよ」

「そ、そうね。相性抜群なのよ、きっと」

「まあもっとも、僕にしても君にしても、十年はそんなに長くないがね」

「……そんなことないわ。特に、最近は」


一昔では考えられないくらい、幻想郷が輝いている。
そう付け足したアリスが想うのは、魔理沙か、霊夢か。


「……失言だったね」

「ふふ。霖之助さんでも、そういうことあるのね」

「そりゃあね。……ただ、この日常はあまりにも普通すぎて、時々忘れてしまうのさ」

「……駄目よ。私たちは、絶対に忘れてはいけないわ」


これは僕とアリスという意味ではなく、きっと、寿命の短い人間を看取る側の存在が、という意味だろう。


「そうだな。でも、だからこそ僕は心配なんだ」

「なにが?」

「彼女たちは死ぬ。僕たちにしたら、そう遠くない未来に」

「……そうね」

「そうなった時の幻想郷は、どれほど痛ましいものなんだろうな」


幻想郷での暮らしが長ければ長い連中ほど、今代がどれだけ特別なのかを理解している。
そしてそれが有限であることもまた、分かりすぎるほどに理解している。


「……そう、ね。本当に」

「今が楽しいほど、後になって辛くなる。……まあ、魔理沙はまだどうなるか分からないが」

「“魔法使い”になるかもしれないってこと?」

「魔理沙ならどっちに転んでもおかしくないだろ? 絶対人間をやめないような気もすれば、『昨日人間やめたぜ』とか言いながら簡単にやめるような気もする」

「…………」

「なに、どうした?」

「いえ……なんか、霖之助さんは、魔理沙のことだったらなんでも知ってるってイメージがあったから……」

「僕が? そんなわけない。知ってはいるかもしれないが、魔理沙のことは全然分からないよ」


あの別れから十年。
魔理沙は家を出て、魔法使いの道を歩み始めた。
もし今霧雨の親父さんに責任を感じていないのかと問われれば、痛烈に感じていると答えよう。
魔理沙に魔法を見せたのも僕であれば、彼女の才能の片鱗を見出したのも僕である。
霧雨魔理沙の人生を、僕が変えてしまったのだ。
例え魔理沙が「変えてくれて感謝している」と言っても、僕の負い目は決して消えない。
少なくとも魔理沙の家は裕福だったし、両親から溢れんばかりの愛情も注がれていた。
魔理沙自身も文句なしの器量良しであり、あのまま里に残っていたなら男たちの憧れの存在になっただろう。
多少のじゃじゃ馬ではあるが、それも魔法さえ覚えなければ一般に可愛いで収められるレベルだと思う。
魔法にさえ、出会わなければ。
僕のこういった考えは魔理沙にとっては侮辱に当たるのだろうけど、それでも僕は、勝手ながら負い目を感じずにはいれないのだ。


「ふふ。それ、魔理沙もおんなじこと言ってたわ」

「魔理沙が?」

「ええ。あいつは一番私のことを知ってるくせに、一番分かってない。って言ってた」

「……そうか。それは、その通りかもしれないな」

「もっとも、分かられたら困る人はたくさんいそうだけど」

「? どういう意味だ?」

「霖之助さんだけは分からなくていいことよ」

「僕は仲間はずれか」

「……ブッ!!」


何を思ったか、アリスは突然紅茶を吐き出した。
僕の紅茶はそこまでまずい代物ではないと思うのだが、これは認識を改めたほうがいいのだろうか。
まあ、それは違うと分かっているが、あえて言う。


「……口に合わないのなら、無理して飲まなくてもいいんだが」

「ぅ、ちが、ご、ごめ、ごめんなさ……ふ、ふふ、ふふふふっ」

「手遅れか……」


今の会話で一体どこがアリスのツボに入ったのだろうと、置いてある布巾でこぼれた紅茶を拭きながら思った。


「ふふっ、ご、ごめんね、ホントに。ちょっと、想像しちゃって」

「想像って、何を?」

「そ、それは言えない」

「……まあ、いいけど」


どうせろくでもないことなのだろう。
笑いの波もだいぶ引いたらしく、アリスは深呼吸をしていた。


「……ふーっ。あー、笑ったわ」

「そうかい」

「もう、怒らないでよ」

「怒ってないよ。釈然とはしないけど」

「あはは……って、霖之助さん、その人形」

「ああ、気付いたかい? 誰がモデルか」

「わ、わたし……?」

「大量生産して、里にばらまこうかな。このアリス人形」

「ちょっと、それは絶対やめて」


別に隠す気もなかったが、どうやら今縫っていた人形の服でばれてしまったらしい。
アリスがよく着る服をそのまま縮小したような物だから、これを見ればさすがに気付くか。


「でも、なんで私?」

「今の僕の腕で誰かに似せて作ったら、どの程度の出来映えになるのかと思ってさ」

「それで、私?」

「こと人形に関しては君が僕の先生だからね。それに、君の姿なら思い出すのに苦労しなさそうだし」

「な……!?」

「十年もしょっちゅう顔を見てたら、そりゃあ覚えもするさ」

「わ、私だって霖之助さんの顔ぐらい、全然覚えてるんだから!!」


アリスは今、何に張り合ったのだろう。
全然という言葉の使い方がおかしいと思ったが、最近はそういう言い方が主流だと魔理沙が言っていたのを思い出す。
時の流れには逆らえない、である。
アリスは顔を上気させ、さらにまくし立てた。


「か、顔だけじゃなくて、服も、口癖も、仕草も、全部覚えてるわ!!」

「……ええ、と。ありがとう、でいいのかな?」

「あ……ち、違うの!!」

「どっちだ」


苦笑しながら慌てふためくアリスを見ていたが、次の彼女の言葉で、僕は不覚にも顔を赤くさせられてしまった。。


「その、ホントは全部憶えるわけじゃないけど、でも憶えていたいって言うか、大切にしたいというか……」

「……そ、そうかい」

「う、うん……」


全く、異性を相手にその台詞は、遠まわしな告白だととられてもおかしくないだろうに。
頬に軽い熱を感じながら、僕はこう返した。


「……なあ、アリス」

「な、なに?」

「僕は君の髪が好きだよ」

「へ?」

「前に何回か梳いてあげたこともあったな」

「……そうね。確か、一昨年の春が最後だったわ」

「憶えてるよ」

「え?」

「君との思い出は忘れたくないし、大切にしたい。さすがに、全てを事細かに憶えるというのは難しいけどね」

「え、あ、その」


遠まわしな告白には、遠まわしな返事で。
アリスはこれ以上ないくらいに頬を赤く染め、口をぱくぱくとさせていた。
次の彼女の言葉はもう分かっていて、それを言うのにかなりの時間を要するということも知っているので、少しいじわるをしてやろうと思う。
僕の心臓の鼓動を速めた、ささやかな仕返しである。


「あ、あ、あ……」

「どういたしまして」

「あ……って、私まだ、何も言ってないんだけど……」

「『ありがとう』って言おうとしてたんだろう? 昔っから君はそうだったからね。さすがに分かるよ」

「え……!?」


アリスは湯気でも立ちそうなその顔を、ついには両の手で覆い隠してしまう。
その姿がとても可愛くて、つい僕は、アリスの頭を撫でてしまうのであった。
小さく体をよじるアリスを見て、ふいに僕は、今作っているアリス人形に二つほど追加したい機能を思いついた。


「ああ、やっぱり、君の髪は気持ちがいいな」


赤面する機能と、恥ずかしさから顔を手で覆う機能。


「…………ばか」

「そうだな。ごめん」


ついでに「ばか」という言葉も覚えさせようと、そんなことを思った。




















~005~


「はぁ……」


頬に刺さる、肌寒い風。
熱くなった私の頬に、それはとても気持ちが良かった。
でも私の顔からは、なかなか熱が引いてくれない。
いわゆる“恥ずかしくて頬を染める”という状態が、現在進行しているからである。


「はぁ……」


もっと余韻に浸りたいから、本当は歩いて帰りたい。
でも霖之助さんが夜は危ないからって、それを許してくれなかった。
心配されてることに嬉しくなって、それを表情に出さないように「それも一理あるわね」なんて、可愛くない私。
でもきっと、霖之助さんは分かっているのだ。
肝心で決定的な気持ちには気付かないくせに、そういうとこはやけに鋭いのである。


(一日が、もっと長ければいいのにな……)


最近は特に強く思う。
それは多分、少し前に魔理沙が私の家で漏らした一言が原因だ。


『寿命、か……』


そんな言葉を、二人だけのお茶会で零した魔理沙。
私に言った言葉ではなく、本当に漏れたという感じの言葉であった。
霖之助さんとのことを言っているのだと気付いたのは、ひとえに彼女が香霖堂の方向をぼんやりと見ていたからだ。
友人である私は? と思わなくもなかったが、想い人を同じくする魔理沙のその気持ちを茶化す気には、とてもじゃないがなれなかった。
魔理沙が霖之助さんに好意を抱いていることは前々から知っていたが、そこまで思いつめているとまでは考えが及んでいなかったのだ。
よくよく考えれば、随分と甘い考えだと思う。
恋は盲目、とはよく言ったもので、少しでも外の歴史を学べば、過去に恋が原因で戦争が起きたことなどいくらでもあるほどなのに。
治世の者が恋に溺れて国を滅ぼすなど愚かにも程があると昔は思ったが、今は少し違う。
戦いの理由足るのである。恋というものは。
そういう意味で、霊夢には少し同情する。
基本的に自由な幻想郷で、彼女だけが“博麗”に縛られている。
誰でもいいが、仮に魔理沙と霖之助さんが晴れて恋人になったとしよう(ここで自分を例にできないのが私の欠点なのだ)
何か問題があるかと言われれば、然したる問題は見当たらない。
もちろん、魔理沙の両親に挨拶を、ということなら話は変わってくるが、彼女はすでに勘当された身である。
後ろ盾もないが、魔理沙は限りなく自由だ。
これは私が知るだろう、ほぼ全ての霖之助さんに想いを寄せる者に適応する。
各人で説得を必要とする誰かがいる場合もあるだろうが、幻想郷全体を通して認められないなんてことはまずないだろう。
博麗霊夢を除いて、ではあるが。


(もっとも、内縁を許容できればそんなこと関係ないんだけど)


実際、最近の霊夢はそこに目をつけている感がある。
何処であれ、誰であれ、問題がないなんてことはない。
みんな何かしら悩みを抱えていて、全てが順風満帆なんてことはありえない。
特に人間は、悩みを見つけ解決するのが趣味のような生き物だ。


(それ以上に、私が把握してるので全員だといいんだけど……妖怪の山で霖之助さんの知り合いっていうと……誰かしら?)


気にはなっていたのだが、結局聞けなかった。
きっと魔理沙なら上手いこと聞きだすのだろうが……魔理沙といえば、先ほどの霖之助さんの仲間はずれ発言には笑ったものだ。


(ナルシストな霖之助さんか……。見てみたい気もしないでもない、かも?)


それで思わず鏡の前で自分の姿を見ながらポーズを決める霖之助さん、というのを思わず想像してしまい、貴重な彼の紅茶を吹き出してしまった。
もっとも、そんな霖之助さんだったら今の気持ちには至っていないだろうから、やっぱりそうはならないでほしいと思い直す。


(紅茶、もったいなかったなぁ、もう。……それにしても、とうとう霖之助さんに気付かれちゃった)


私が香霖堂から帰る時は、いつも彼の淹れた紅茶を飲んでからなのだということに。
理由はある。あるけど言えない。とてもじゃないけど、言えない。


(別れなければいけないのなら、離れなければならないのなら……)





―――せめて、霖之助さんの味を感じながら帰りたいだなんて。




[3429] 幕間 ~パチュリー・ノーレッジ その1~
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2009/08/05 09:09




いつもと変わらず、本を読みながら店番をしていたある日の朝。
ガラガラと扉が開かれる音に顔を上げた。


「……お邪魔するわ」


いつも無表情な顔に多少の緊張が隠れて見えるのは、果たして僕の見間違いだろうか。
七耀の魔女。動かない大図書館。吸血鬼の盟友。
僕にとっては最近できた読書仲間。


パチュリー・ノーレッジのご来店である。




















/001



「ようこそ、香霖堂へ」

「ええ。今日は御招待どうもありがとう」

「君のとこと違って何もないけど、まあゆっくりしていってくれ」

「店主が自分の店に対して『何もない』って……どうなの、それ」


そう言われると、確かにその通りだと思った。


「そうだな。ならば言い直そう。君の図書館には絶対にない物ばかりだから、どうか存分に堪能していってくれ」

「……どうにも、極端ね」


そう言いながら苦笑するパチュリーにお茶を差し出す。


「私からも。初めての御招待に、さすがに手ぶらで来るわけにもいかないし」


そう言ってパチュリーは手提げのバスケットに手を伸ばす。
ネガティブに思考すれば嫌味ともとれるその言葉にパチュリーに顔を見れば、照れ隠しで言った……というわけではなく、本当にそう思っているから言った、という感じだった。
真意は分からないが、嫌いな相手なら土産を持ってくることも、ましてやわざわざ訪問してくることもないだろうと好意的に受け取っておく。
パチュリーとは最近知り合ったばかりなので、どうにも彼女の『人となり』とでも言おうか、そういうのが把握できていない。
それでも彼女が僕にとって今のところ唯一の読書仲間であり、仲良くなりたい相手であるのは間違いないので、しばらく手探り状態となるのは仕方がないといえるだろう。


「ありがたく頂こう」


パチュリーは取り出した何かの包みを台の上に置き、途端に甘い香りが漂ってきた。


「クッキーか」

「ええ。いい鼻してるわね」


その匂いから僕が中身を当てると、少し呆れたようにそう返された。


「それは君が?」

「ええ。私と、それに小悪魔が作ったのも入っているわ」

「小悪魔のもかい?」

「ええ。元々、今日はあの子と一緒に来るつもりだったのだけど……」


聞けば、小悪魔は最初、今回のパチュリーの香霖堂訪問に付いてきたがっていたらしい。
パチュリーも普段から自分に尽くしてくれる使い魔に休みをあげたいということで、自分が香霖堂に行く日には休暇を与えようと思っていた。
しかし、そうすると図書館が丸一日誰もいない状態になってしまう。
そのため、最近よく出没する蔵書泥棒(……名前はあえて聞かなかった)の対策も兼ねて咲夜を一日だけ貸してもらう約束をレミリアと交わしていたのだが、運悪く訪問の日の数日前にフランドールが地下室から脱走、つまりは家出をしてしまったのである。
その際に咲夜が駆り出され、これまた運悪く負傷。
幸い怪我自体は軽傷で済んだのだが、図書館にいるだけならともかく今回は用心棒の役目もあるので、当然咲夜の当ては外れることになる。
美鈴(とは言わなかったが、間違いなく美鈴のことであろうと推測した)は門番の仕事があるので当然却下(門番が侵入を防げばいいのではとも思ったが、これもあえて追及はしないことにした)。
妖精メイドなら余るほどいるが、咲夜でさえ手こずるであろう侵入者の撃退などできるはずもない。
結局、図書館の防衛においては無類の力を発揮する小悪魔が残ることになったのだ。
パチュリーが重度の出不精であるというのは幻想郷では有名な話なので、言うに及ばずその使い魔である小悪魔もあまり外出をすることがないのだろう。
色んな意味で可哀そうな小悪魔だった。
ちなみに、ある意味身内の恥とも言えるこのフランドールの家出騒動をパチュリーが特に隠そうとしなかったのは、紆余曲折を経て僕がそれに巻き込まれてしまっていたからである。


「……そうか。そういうことならしょうがないな」

「結局今回は休みをあげられなかったし、そのうち都合がつけばこちらにお邪魔するかもしれないわ」

「構わないよ。大したもてなしはできないけど、それでよければ」

「そういうのを求めるならこの店にはこないわよ」


実質会うのはこれが二回目。そしてこのバッサリと手厳しい一言。
これが魔理沙や霊夢だったら軽口だと聞き流せるのだが、言われた相手はパチュリーである。


「失礼な。お茶なら無料でだすよ」

「あの子は珈琲派だから、それだけならあまり魅力的ではないわね」

「へぇ……そうなのか。僕はてっきり小悪魔はどっちかというと紅茶が好きなんだと思っていたけど」

「飲めないことはないでしょうけど、ウチで飲む時はほとんど珈琲ね。……というか、なんでそう思ったの?」

「イメージ、かな? なんとなくそう思っていた」


これは本当で、全体的におっとりとした雰囲気を漂わせる小悪魔は紅茶派かな、などと僕は勝手に思っていたのだ。
それに言われてみれば、細身で眼鏡、それにロングのストレートという髪型をした小悪魔に珈琲というものなかなかにしっくりとくる組み合わせだった。


「……まあ、あながちはずれでもないわ。館の主が根っからの紅茶好きだから、館に住んでいるほとんどが紅茶を淹れられるしね。……自分では飲まないくせに、人に紅茶を淹れるのは好きなのよ、あの子」


そう言うパチュリーは表情にこそ出さないが、どこか小悪魔に対する愛情がにじみ出ているような、そんな気がした。


「君はどうなんだい?」

「紅茶派か珈琲派かってこと? ……どちらということもないわね。私の場合はその時読んでいる本に左右されたりもするし」

「純文学なら紅茶、哲学書なら珈琲とか?」

「ふふっ……まあ、そんなところよ」


とりあえず分かったこと。
パチュリーは、いわゆる『建前』といったものを省く。
もちろんいつでもというわけではないだろう。
交渉事やなんらかの取引をする時などは隠すカードもあるだろうが、普段の会話の中ではお世辞やおべっかはほとんど使わない。
魔法というのは、如何にそれを構成する術式を洗練できるかどうかが一つの鍵となる。
如何に無駄を省き、最も効率の良い形で効果を求められるか。
魔女とは言わばその作業のプロであり、無駄を省き、実を追及するスタイルが普段の姿勢にも影響を与えているのであろう。


「変化、か」

「……なに?」

「いや、魔理沙が言ってたんだよ。弾幕ごっこの時のパチュリーは普通に弱点を突いてくるからやりにくい、って」


ちなみに魔理沙はこの後「ほんと、いやらしい女だぜ」と付け足していたが、さすがにそれは言えなかった。


「ごっことは言え決闘だもの。相手の弱点を突くのは当然でしょう?」

「違うよ、そういうことじゃない」

「?」


パチュリーは訳が分からないといった風に怪訝な顔をした。


「相手の弱点を突くスペルカードがある、というのが問題なのさ」

「……ああ、そういうこと」


スペルカードというものは、その難度が高くなるにつれて複雑さを増す極めて知的な代物だ。
そして弾幕ごっこに強い連中のスペルカードは、得てして複雑怪奇な弾幕を描くもの。
各々が趣向を凝らし、練りに練った弾幕の構図。
これを踏まえれば、それに耐性を持ち且つ弱点を突くスペルカードを決闘の時点で既に持っているというパチュリーの異常性が分かる。
実際に目の当たりにすれば弱点が見えてもおかしくはないが、そこを突くスペルカードをその場で作ることなどはほとんど不可能に近い。
スペルカード自体は手軽に作れないこともないが、簡単に作ったスペルカードはやはりそれなりの威力しか発揮しないし、そんな即興のスペルでは弱点を突く前に押し切られてしまうだろう。
あらゆる弾幕のパターンを予想し、汎用性のあるスペルカードを返し技として用意する。
その知識と知恵こそが、パチュリーの一番怖いところだろう。


「作っている時は楽しかったけれど、分かったのは、やはりスペルカードはオリジナリティが物を言うってことね。受け身だと、少しでも予測が外れれば後手に回ったまま取り返せなくなる。その点魔理沙はいい感じにハマってくれて、こっちとしては楽しい限りよ。……まあ、偶に力技で押し切られる時があるって言うのが気に入らないけど」

「そ、そうか……」


僕の記憶が正しければ、魔理沙は逆に、パチュリーは頭を使いすぎて弾幕が追い付いてない、とか言っていたような。
……まあ、パチュリーの機嫌をわざわざ損ねるのもなんだし、うん、黙っておこう。


「そうそう。あなたに聞きたいことがあるのよ」

「聞きたいこと?」

「ええ。ウチの図書館。あなた、どう思った?」

「どうって、そりゃあ、アレだよ。……憶えてるだろう? 思い出すのも恥ずかしい、僕のはしゃぎようをさ」

「あれは初めて図書館に来たからでしょう? 私は今の落ち着いた状態で、あの図書館をどう思うかを聞きたいのよ」

「……僕の思い出し損だったか」


興奮状態であったあの時には見えなかったことが、今なら分かるのではないか。パチュリーはそう言っているらしい。
そういうことなら言いたいことはいくつか浮かんでくるが、まず思うのはコレだろう。


「どう考えても、人員が足りてないな」


思い出すのは、山のように積み重なった未整理の本の山。
小悪魔一匹でどうにかなるような量ではないだろう。
本好きならば分かるだろうが、本棚に本を積めていく作業というのは思いのほか楽しく、そしてままならないものである。
自身が読んだ本が棚に溜まっていく様子を見るのはとても楽しい。
同時に、本というのはなかなか綺麗に埋まってくれない。
また、著者ごとに、シリーズごとに、出版社ごとに、年代ごとに、と色んな並べ方をしたくなる。
紅魔館の大図書館レベルになれば、単に『整理する』というだけで、それこそ何か月、もしくは年単位での一大プロジェクトとなるだろう。
だというのに、あの図書館に司書は小悪魔だけである。


「……まあ、そう思うわよね」

「あれだけ広い図書館なのにに司書が小悪魔だけっていうのは、効率が悪いだろう」

「……確かに、普通に考えたら整理するには人員不足という考えは正しいわね」

「そういう言い方をするっていうことは、つまり?」

「いいえ、整理する気がないわけじゃないわ」

「なら……小悪魔は実は『本を整理する程度の能力』の持ち主だとでも言うのかい?」


僕には分からない紅魔館の内部事情があるのだろう。
分からないものは分からないので、僕の口からはそんな冗談がこぼれた。
僕はてっきりパチュリーに否定されるものと思っていたが、当の彼女はきょとんとした顔で僕を見てから、静かに笑った。


「言い得て妙ね。あなたが考えたの?」

「え? まさかとは思うが……」

「違うのよ、違うんだけど……ふふっ」

「……すまないが、説明してくれないか? 僕にはなにがなんだかさっぱりなんだ」

「ああ、ごめんなさい。でも、だって、あなたがあんまりにも上手いことを言うから……」


パチュリーはコホンと咳払いをした後、僕に説明を始めた。


「残念ながら、小悪魔は能力持ちではないわ」

「なんだ、じゃあ僕の推理はハズレなわけだ」

「それがそうとも言えなくて……そうね、強いて言えば、小悪魔は『本の整理の天才』なのよ」

「『本の整理の天才』?」


単純に言葉のまま、小悪魔に本の整理をさせたら幻想郷一だとか、そうことなのか。
それとも司書としての能力がズバ抜けていると、そういったことなのだろうか。


「よく分からないな」

「そうでしょうね。そもそも、人里やこの店での『本の整理』とは規模がまるで違うのだから」

「規模? ……ああ、なるほど」


つまり全ては規模の問題。
本の整理に天才もなにもあるかと、普通なら思うだろう。
それもそのはず、一般に本を整理すると言ったらせいぜい民家で本棚が一架あるかどうか、人里の本屋にしたって規模は小さく、せいぜいさほど大きくない部屋を見渡すくらいなのだから。


「ええ。本の整理に才能を求められるなんて、幻想郷だとウチくらいなものってこと」

「……まあ、そうだろうなあ」


しかし紅魔館の大図書館は違う。
大広間に余すところなく、見渡す限り書架が溢れている。
いや、というかまず見渡せない。
咲夜が空間をいじっているため、見渡すことすらできない規模になっている。
全ての本棚を見て回るだけでも一日二日じゃ終わらなそうな、それこそ遭難すらも在り得そうな大きな図書館なのだ。
よくよく考えたら、そこの司書をしている小悪魔が本の整理の天才というのも、当然と言えば当然なのかもしれない。


「私もね、最初は十匹くらいを考えていたのよ」

「……だが、最初の一匹が予想外の才能を持っていた、というわけか」

「私は説明したわ。いくらあなたに才能があったとしても、一匹は一匹。本を掴む手が増えることも、棚を回る体が増えることもないと。……でも」

「……でも?」

「小悪魔は言った。『私にお任せ下さい』って。実際あの子はそれだけの働きをしたし、私も使い魔を増やさないから負担が減ったわ」

「だが、実のところはどうなんだ? 小悪魔がそれだけの能力を持っているのなら、なおさら使い魔を増やして彼女に指揮させた方がいいだろう」

「その通りよ。でもね、面白いと思わない?」

「面白い?」

「あの広い図書館を取り仕切るのが、本当にただの一匹で足りるのか。事を急いているわけでもないからできる、まあ、一種の娯楽ね」

「期限は決めてるのかい?」

「いいえ、無期限よ。娯楽であり仕事ではあるけど、賭け事ではないから」

「むしろ賭け事にする方が娯楽だと思うが」

「駄目よ。そんなことしたら、あの子は休みなく働いてしまうもの」

「なるほど。それだと娯楽ではなくなってしまうか」


しかし、この話はなかなかに興味深い。
今度機会があれば、小悪魔の方からも話を聞いてみたいと思った。


「……で、他にはなにかある?」

「他には、ね……」


大図書館について、思うこと。


「一目惚れ、かな」

「一目惚れ……?」

「ああ。正直、あれが最初から僕の物であったなら、この店はやってなかったと思うよ」


そう。あれはまさしく一目惚れだった。
もちろん、だからといって何かしらの方法で大図書館を自分の物にしようだなんて思っていないし、その広さからどのみち僕だけでは管理しきれないことは明白だった。
そして何より、僕には既に香霖堂がある。


「……そう」

「まあ、これもきっと運命さ。僕は長くこの幻想郷に住んでいるから、歯車が一つ違えば今あの図書館に住んでいるのは僕だったかもしれない。でも、現実はそうはならなかった。僕は香霖堂を営んでいるし、君は大図書館の主だ。そしてそれにはなんの不満もない」

「……じゃあ、もしも」

「ん?」

「もしも、あの図書館を手に入れられるとしたら……あなたは、どうする?」

「え?」


予想外の質問だった。
あまりに予想外だったので、少しの間呆けてしまい、ようやく何かを言おうとしたところで、


「……いいえ、何でないわ。忘れてちょうだい」


と先に言われてしまい、結局僕はパチュリーが続けて「そろそろお暇するわ」と別れを切り出したのに黙ってうなずくだけだった。
気が付けば時刻は夕方。
外から入る赤い光が、僕らを照らしていた。




















/002



「しかし、本当にこんなことで良かったのか?」


別れ際、香霖堂の入口まで見送りにでた僕は、パチュリーにそう尋ねた。


「……なにが?」

「埋め合わせの話さ。その、前に初めて図書館に行った時、僕は君に借りを作っているだろう?」

「……咲夜からの伝言は聞いたし、あなたがあの件で私に負い目を感じていることも理解しているわ」

「なら、君へのお返しが『香霖堂に招待すること』で妥当だと、そういうことか?」

「ええ。あなたにとってどうだったかはわからないけど、私にとってはとても有意義な時間だった」

「……まあ、君がそう言うならいいんだが」

「それと、そのうちウチの小悪魔がお邪魔すると思うから、その時はよろしくしてやってちょうだいね」

「任せてくれ。ちなみに小悪魔は給料とかは貰っているのかな?」

「どこの世界に自分の使い魔に給料を払う主人がいるのよ」

「そうか、そうだよな……」

「……心配しなくてもお小遣いくらいはあげてるから、小悪魔が気に入る商品があったら買ってくれるかもね」

「それはよかった」

「全く……それじゃ、また来るわ」

「ああ。多分僕がそっちに行く方が早いと思うけど」

「そうね。その時はあなたを一日司書に任命してあげるわ」

「そ、遭難の危険があるんだが……」


パチュリーは少しだけ口元を綻ばせ、それから宙に浮いて僕に背を向けた。
僕はその背中に向かって言う。


「ああ、それとパチュリー」

「……なに?」


パチュリーは振り返り、僕を見た。


「今日君が来てくれたこの時間は、僕にとってもとても有意義な時間だった」

「なっ……い、いきなり何を言うのよ」

「言ったのは君だが?」

「全く……変なことを言わないでちょうだい」


半ば言い捨てるようにしてパチュリーは飛んで行き、僕はその背中が見えなくなるまでぼんやりと眺めていた。


(あ……そういえば)


途中から話に夢中になってしまい、持ってきてくれたクッキーをほとんど食べなかった。


(いささか失礼だったな……)


次にあの図書館へ行く時はしっかりと感想を言わなければ。
小悪魔と共同で作ったと言っていたので、恐らく彼女からも感想を聞かれるだろう。
しかし困ったことに、どのクッキーがパチュリーのでどれが小悪魔のか、僕は説明を受けていない。


(……さ、さて、倉庫から小悪魔の好きそうなものでも探してこようかな)


軽く現実逃避をしつつ、来る日の小悪魔の来店のために、僕は倉庫へと歩を進めるのであった。




















~003~



香霖堂からの帰り道。
私はいつもとは毛色の違った今日一日を振り返っていた。
初めは少し、ほんの少しだけ緊張していたが、しばらくしたら自然に喋れていた私のこととか。
クッキーの感想を聞き忘れてしまい、小悪魔に聞かれたらなんて言おうだとか。
結局あまり触れることの出来なかった香霖堂設立の所以だとか。
そしてなにより、自分がした不用意な発言のことを、私は考えていた。





『もしも、あの図書館を手に入れられるとしたら……あなたは、どうする?』





我がことながら、考えなしに発言したものだ。
でも、だからこそ、私の心からつい零れてしまった本音なのだろうかと、少し不安になる。
霖之助に投げかけた質問でありながら、自問自答でもあった。


(もしも私が図書館をあげると言ったら、霖之助は紅魔館に来てくれるのだろうか……?)


そう考えて、しかしそれはできないと却下する。
あの図書館はレミィの物であって、私の物ではない。
本の収集も含めた建物全体の管理が私に一任されているわけだが、所有権は間違いなくレミィにある。
もっとも、今は仕事のほとんどを小悪魔が回しているから、私自身はというと掃除はおろか本の整理すらしていない状態であるけれど。
それに、彼は「一目惚れだ」とも言っていたが、こうも言っていた。





『ああ。正直、あれが最初から僕の物であったなら、この店はやってなかったと思うよ』





それはつまり、今は香霖堂という彼の店があるから、それを捨ててまでどうこうするつもりはない、ということだ。


(……なんだ。考えるまでもなく、最初から答えはでてたのか)


それを理解してもそんなに悲しくならないのは、きっと実際に香霖堂を体験したからだと思う。
実に彼らしい店、とでも言おうか。
まるで本人がそのまま店になったような、そんな雰囲気であった。
あの店の中に彼という店主がいるということが、とても自然なことのように感じられるのだ。
つまりは、彼にとって天職ということなのだろう。





不意に。
ここまで考えて、この思考が、まるで物語に出てくる恋する少女のようだと、あくまで客観的に分析した。





「……へ?」


我ながら間抜けな声が出たと思う。
恋だの愛だの、そんなものにうつつを抜かしている暇があったら魔法理論の復習でもしていなさい。
そういう私と。
どうすればもっと彼に近づけるのかしら? 男の人って、どんなことをすれば喜ぶのかな?
そんなことを考える私。


(……あれ? ……なに、これ)


二つの私を、見つけた。
見つけて、しまった。


(……だれ、あなた)


たった一人の相手に対して、今私は、私の中に二つの私を見つけてしまった。
二面性? いや、違う。これは、全く別のーーー


(……これは、私? あなたも、私なの?)


彼を知りたいと願う私。
それは決して知識欲などの学術的なものではなく。
彼に好かれたいと願う私。
それは決して利害関係を目的とした交流ではなく。
彼に嫌われたくないと願う私。
それはいつかの、弱い私が救いを求めた感情などではなかった。



それは、パチュリー・ノーレッジ史上、最大の発見だったのかもしれない。
全く以て新鮮で斬新な『私』を、自身の心の内に見つけてしまった。
そして私は、苦笑と共に確信する。


「……あは、ははは。コレは、さすがに初めてだわ」


それは私、パチュリー・ノーレッジが、自身の初恋を認識した瞬間であった。


(熱い……)


ただ、ひたすらに。
夕日だ、夕日が熱いのだ。
その光が当たるから、私の顔がとても熱くなってしまっているではないか。


(やだ、なに、なんなの……!?)


認識してしまったからだろうか。
件の相手を前にしている時よりもずっと大きく、鼓動が跳ねる。
一度止まって、振り返る。
大分離れてしまったので、もう彼の姿もお店も見えない。
だと、いうのに。


「…………ッ!!」


カァァァァァ!!!
そんな音が聞こえそうなほど、一瞬にして私は沸騰した。


(コレはまずい……コレは、いけない……!!)


私はすぐに振り返って一直線で紅魔館を目指す。
理不尽な敗北感と初めての感情に弄ばれる私が中国に八つ当たりをする、ほんの少し前の出来事であった。



[3429] 第7話 混迷する吸血鬼
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2009/08/05 17:35


<000―1>



 ほの暗い紅魔館の地下室で、二つの声が響いていた。


「ねぇ、魔理沙は姉妹とかいないの?」


 その一つはフランドール・スカーレット。
 この館の主である吸血鬼、レミリア・スカーレットの妹だ。


「いないぜ。今はどうなのか知らないけど」


 もうひとつは霧雨魔理沙。
 この館に不法侵入した泥棒である。


「ふーん」

「なんだ、レミリアとなんかあったのか?」

「……べっつに。いつもと同じだよ」

「同じか」

「うん。ホント、馬鹿の一つ覚えみたいに、外に出るのはダメって。意味もなく暴れたりなんかしないのに」

「……あ、あはは」


 フランドールが言うように、確かに彼女は意味もなく暴れたりはしない。
 しかしそれは『フランドールが自我を保っている状態』であることが大前提であり、その意識の変化はたやすく狂気の方向へと移行してしまう。
 それを知っている魔理沙は軽く口元を引きつらせながら、フランドールの頭をポンと叩いた。


「レミリアが嫌いか?」

「……別に。普通」

「好き?」

「……わかんない」

「そうか……」


 魔理沙は思う。フランはレミリアのことが好きで、大好きなのだけど、愛されていると思えないから不安なのだろう、と。
 しばしの沈黙。
 フランドールは質問の意味が分からなかったためであり、魔理沙はとある計画を実行するかどうかを悩んでいたからである。
 少しして魔理沙は「よしっ!」とフランドールに向き直り、言った。


「じゃあ、出てみるか?」

「……え?」

「外に。レミリアたちには内緒で」

「いいの!? ……あ、でも、咲夜が食事を運びに来るからそれでバレちゃうかも……」

「フハハ。そんなこともあろうかと、ちゃんと用意して来たぜ。その名も『等身大フランドール人形アリススペシャル』!!」

「おおー!!」


 魔理沙が大きな風呂敷から取り出したのは、その名の通り等身大のフランドールそっくり人形であった。
 あまりに自分とそっくりなので、思わず感嘆の声をあげながらパチパチと拍手をするフランドール。


「すごいすごい! これ、わたしにそっくりだよ」

「まあな。アリスの渾身の一作だ」

「アリスって確か……人形のひと?」

「うーん、まあ、そんな感じだぜ」


 魔理沙は知っている。
 フランドールの狂気は何がスイッチとなるかわからない。
 だからレミリアは妹を不用意に外へ出せないのだ。


「やったあ!」

「こらこら。これはお忍びなんだから、騒いじゃ駄目だぜ」

「だね」


 しーっ、と二人は人差し指を口にあて、くすくすと笑い合った。
 霧雨魔理沙は知っている。
 フランドールが自身の在り方について悩んでいることを。そして自身の狂気を抑え込む努力をしていることを。
 この姉妹は本当に互いに対して不器用で、姉の方は理解してなおその姿勢を変えることはなかった。
 結局のところ他人でしかない自分が踏み込んでいい問題なのかと、魔理沙は自問し続けた。
 レミリアがフランを嫌っているとは思えない。
 彼女に何か思惑があり、自分がしゃしゃり出てそれを台無しにしてしまわないか。
 それだけが魔理沙の心配事だった。


(……まあ、そう思っていたのも随分前だけど)


 もうそろそろいいだろう、と。
 友達が友達を誘って悪いことなどあるのか、と。
 依然として早計ではないかという思いはあったが、昔と違い、今の魔理沙は幻想郷を代表すると言っても過言でないほどの力量の持ち主だ。
 異変解決も霊夢抜きでこなすことができる。狂気に呑まれたフランを無力化することも可能だろう。
 力をつけたのは自分のために他ならないが、後から加わった理由の一つはこれだった。
 レミリアがフランに自由に外出させないのは能力の暴走、狂気の解放を危惧しての処置だ。
 ならばその狂気をいつでも抑止できる存在を傍に置けば、レミリアの決断を覆すことは可能である。
 それに加えて、あくまで魔理沙の推測ではあるものの、レミリアはフランドールが自身の狂気を完全に支配することは不可能だと思っているのだろう。
 気が触れているとは、つまりはそういうことなのだからと。
 たとえ本当にフランドールの狂気が無くなったとしても、それを確認する術はない。
 魔理沙は過去に、父親から言われたことがある。


『やらなかった罪というのは、比較的すぐに償える。だが、やってしまった罪を償うには、途方もない時間がかかる』


 言われてみれば当然な話なのだが、魔理沙は子供心ながらにもの凄い説得力を感じたのを覚えている。
 たとえば、すると約束した部屋の掃除をしなかった時。
 これは約束を守らなかったことを反省し、部屋を掃除すれば一件落着である。
 だが、出来心で店先の商品をくすねた場合はどうだろう。
 反省し、然るべき料金を払えば一件落着といくのだろうか。
 そうではない。
 今日はやらなかった。なら次の日はやるかもしれない。
 次の日もやらなかった。ならその次の日は?
 やらなかった。じゃあ来月? 来年?
 いったいいつまで『やらない』を続ければいいというのだろうか。
 前者は『やること』で信頼を回復できるが、後者は『やらない』ことしかできない。
 魔理沙の推測が正しければ、フランドールの今の生活が改善されることはない。
 フランドールが真の意味で自由になることはなく、外出は『許可』されて初めてでき、常に監視者を伴うという現状は変わらない。
 レミリアは血を分けた家族であり監視者でもある上位存在。
 咲夜はレミリアの専属メイドであるため、言わずもがな。
 ならば私は、と魔理沙は思わずフランドールを抱きしめて、胸中にて誓う。


「魔理沙……?」


 ほの暗い地下室で、純粋無垢な子供がひとり。
 そんなのは嫌だ。そんなのは許せない。
 それが友人であるなら、なおさらだった。


「魔理沙……どうしたの……?」

「なんでもない。なんでもないけど、なんかこうしたくなったんだ」

「…………」


 狂気に染まらないフランドールは、相手から発せられる感情にとても敏感だった。
 情操教育は受けていないので、それが自分にとってプラスかマイナスかでしか判断のつかない少ない選択肢ではあったものの、その分だけ本人に自覚はないが正確に愛情と悪意を見極めることに成功していた。
 今の魔理沙から伝わる感情はフランドールにとってとても心地よく、背中に回された腕も自分が痛くならないようにと優しさが込められているのが分かった。
 心の底から、フランドールは思った。
 きっと自分は今、愛されているのだ、と。


「……そっか。じゃあ、わたしもー」


 フランドールは魔理沙の背中に手を回し、ぎゅっと抱き返す。


「えへへ。魔理沙、あったかいね」


 魔理沙の複雑な心境をよそに、フランドールはどこまでも純粋に一直線だった。


「フランも、あったかいぜ」


 目の前をゆらゆらと揺れる七色の羽が、フランドールの喜色を魔理沙に教えてくれる。


「あは。じゃあ、おそろいだね」


「ああ。一緒だ」


 ―――そう。一緒なのだ。
 遠い昔、愛する人に語られた種族の違い。
 魔理沙は顎先にフランドールの髪の柔らかさを感じながら、彼女の価値観を大きく左右したある人の告白を思い出していた。
 そして、その時その人から課せられた宿題の答えを、魔理沙はすでに得ていた。


(いつか、こーりんに言える日が来るのかな……)


 彼は覚えているだろうか。


(私は子供だったけれど、こーりんの泣きそうな顔を見たことなんて初めてだったから)


 だから、その時の光景は言葉と共に魔理沙の心に焼き付いていた。
 そしてそれは否が応にも、胸の中の少女を意識させる。
 知能が高くなるにつれて、生物は理不尽を嫌悪する。
 レミリアは血を分けた家族であり監視者でもある上位存在。
 咲夜はレミリアの専属メイドであるため、言わずもがな。


(……ならば私は、フランの友達で、共犯者となろう)


 フランの髪に手を添えながら、魔理沙は無意識に空を仰ぐ。
 目に映るのは、冷たい壁と人工の明かりだけだった。




















<000―2>



「くははははは!!!」

「あははははは!!!」


 夕日が山の向こうへと落ち、辺りが暗くなり始める頃。
 二つの影が縦横無尽に空を舞っていた。


「いやー、しかし、なんとかなるもんだな」

「うん! すっごいドキドキしたよ!!」


 かねてから二人で計画していたフランドールの地下室脱出作戦は見事成功し、フランドールは初めての無断外泊に胸を躍らせていた。
 ふらふらと空を漂いながら、二人は魔理沙の家を目指す。


「……?」


 吸血鬼であるフランドールは身体能力は勿論のこと、その感覚器官までもが常人を遥かに超えるスペックを有している。
 その卓越した視力が、二人のいる場所に向かって飛んでくる何かを捉えた。


「魔理沙。誰かこっちに飛んでくるよ」

「ん? どこどこ」

「えっと、あっちから誰かくる」

「うーん……見えん」

「たぶん、あれは紅白の巫女……かな?」

「ってことは霊夢か? ……やば。フラン、ちょっとあっちの方に隠れててくれ」

「うん、わかったー」


 そう言うやいなや、フランドールは一瞬で姿を消し、森の中へと姿をくらませた。
 魔理沙は視界の隅でそれを確認して、進行方向はそのままに、低速で前へと進み始める。
 しばらくすると、先ほどフランドールが見つけた人影がくっきりと形を帯び始めた。
 フランドールの言う通り、博麗霊夢であった。


「ああ、良かった。探してたのよ」

「いきなりだな。何があった?」

「ちょっと緊急事態なの。悪いんだけど、頼まれてくれない?」

「とりあえず話してみ」

「ええ。掻い摘んで話すけど、いま里で子供が何人か行方知れずになってて、話を聞くとどうにも山の方に遊びに行っちゃったらしいのよ」

「妖怪の山に? 子供って、ただの人間の子供だろ? なんだってそんな馬鹿なことを……」

「そうなのよ。大人でさえ近づかない、ましてや子供なんかは特にきつく出入りを禁止されてるから、妖怪側から仕掛けたって線で、今既に慧音が捜索に出てるの」

「それで、霊夢にもお鉢が回ってきたってわけか」

「……これだけならまだ良かったのだけど」

「まだなんかあるのか?」

「馬鹿な不死者が二人、竹林で大暴れしてるのよ」

「……それって、けっこういつもの風景じゃないか?」

「それが、なんだか今夜はいつもより激しいらしくて、里の人たちから『あっちもなんとかしてくれ』って言われちゃって」

「なんだそりゃ。子供の方が優先だろ」

「私たちからするとそうなんだけど、やっぱり不安なのよ。絶対に当たらないって分かってても、目の前で派手な殺し合いされたら飛び火するんじゃないかって心配
になるじゃない」

「まあ、気持ちは分かるけど」

「それで、あんたの家に向かってる途中だったってわけ。それで……頼める?」


 魔理沙はほんの少しだけ、フランドールのことを考えた。
 それも一瞬。ここまで話を聞いておいて、親友の頼みを断ることなどできようはずもない。


「わかった。私は竹林に向かえばいいんだな」

「助かるわ。お礼はまた今度するから、じゃあ頼んだわよ」

「ああ。任せとけ」


 魔理沙から了解の返事を聞くと、霊夢はすぐに飛び去った。
 その後ろ姿はすぐに見えなくなり、魔理沙は木の陰に隠れているであろうフランドールを呼んだ。
 フランドールは程なく森から出てきて、その雰囲気からおおよそのことを把握しているようだった。


「お仕事?」

「あー、うん……ちょっと、な。すぐに終わらせてくるからさ」

「お仕事なら、しょうがないよ。でも、私、どうしようか」

「そうだな……うん? おお、ちょうどいい場所があった。竹林に行って、騒ぎを収めて、帰ってくる。……うん、ちょうどいいかな」

「???」

「もうちょっとこの先を行くと、森の入口の辺りにぼろっちい変な店があるんだよ」

「……それって、魔理沙がよく話してくれるお店のこと?」

「そうそう。そこに暇つぶしにいい場所があるんだ」

「へー。でも魔理沙は行っちゃうんでしょ? 私がいきなり行っても大丈夫なのかな?」

「大丈夫だよ。許可をとらないから、断られることは絶対ない」

「あ、あはは……。えっと、それこそ、大丈夫なのかな……?」

「だいじょぶだいじょぶ。私も昔はよくやったし、後でばれたことはあるけど直接見つかったことは一回もないんだ。……お、見えてきたぜフラン」


 二人の視界の先には古ぼけた一軒の家があった。
 その家の裏手には見るからに倉庫と思しき建物があり、辺りには人影もないため隠れるには絶好の場所だと魔理沙は言った。
 そんな魔理沙の言葉に、フランの心は自然と高揚していった。
 フランドールは狭い地下室(一人部屋としては充分過ぎるほど広かったが、いかんせん閉じ込められているというネガティブな思いがフランドールにそう感じさせていた)で、長い間ずっと思っていたことがある。
 この幻想郷全てをフィールドとしてみんなで鬼ごっこをしたら、それはそれは楽しいのだろうと、そんな夢を見ていたのだ。
 今回の人数は魔理沙と自分の二人だけであるが、その夢の一端として、今日という日の出来事を忘れることはないだろうとフランドールは思った。
 普通に考えれば魔理沙が帰ってくるのを待つだけなので鬼ごっこではないのだが、フランドールは今日のような出来事は初めてだったので、鬼ごっこの定義などどうでもよくなっていた。
 魔理沙に導かれ、フランドールは倉庫の前へと下りる。
 慣れた手つきで魔理沙は錠前を外し(あまりに自然な動きだったので、フランドールにはいつ魔理沙がピッキング用の針金を取り出したのかも分からなかった)、音を立てずにそっと扉を開けた。


「さあ、香霖堂の倉庫探検ツアーといこうか」


 フランドールは恐る恐る、倉庫の中へと歩を進める。
 薄暗い空間はどこか紅魔館の地下室を思わせ、そのことに少し安堵してしまう自分に対し、たまらなく嫌気が差すフランドールであった。




















<000―3>



 フランドールに簡単に倉庫の中の説明をした後、魔理沙はすぐに竹林へと向かった。
 持ち主に見つかると面倒なことになるので、フランドールには置いてある物を壊さず静かに待っているようにと言ったが、倉庫と言っても目を見張るほど広いという訳ではないため、数時間も飽きずに留まり続けることは難しいだろう。
 魔理沙は一段階速度を上げ、一直線に竹林を目指す。
 既に魔理沙の瞳は弾幕ごっこ特有の色鮮やかな光を捉えていて、頭の中で沈静化のための戦術を考えていた。


(……とりあえず殺すと生き返るから、意識を刈り取る方向に決定っと)


 妹紅と落ち着いて話すことさえできれば、慧音の名前を出してこちらに引き込むことも可能だろうが、遠目に見る限り、妹紅は若干七色の弾幕に押されているようだ。
 機嫌の悪い所を下手につついて三つ巴となっても始末が悪い。
 乱戦は魔理沙の得意とするところではあるが、時間制限があり、また相手が一度の奇襲でいつまでも混乱してくれるような戦闘初心者でないという現状において、それは最大の悪手であった。
 二人を一挙に仕留めることができればそれがベストなのだが、近距離では片方しか範囲に収まりきらず、遠距離からの精密射撃を二人同時にこなす自信は魔理沙には無かった。


(パチュリーならできるんだろうけど……)


 パチュリーのような固定砲台タイプにとっては必須スキルであるが、魔理沙のように素早い動きで戦場を飛び回るタイプは同じ戦局の中で『静止する』という状況がほとんど無い。
 あるとしても、それは一種のミスディレクションであったり、マスタースパーク等の大技を放つためであったりなど、遠距離からの精密射撃は魔理沙にとって勝敗を左右するスキルではないのだ。



(だとすると、やっぱこれが一番かな)


 射線上に二人を捉えての魔理沙の十八番。
 弾幕ごっこという名の殺し合いに夢中になっている二人を繋いだ線の延長から放つマスタースパーク。
 魔理沙はマスタースパークを初めとする様々な種類の弾幕を扱うことができる。
 その多くはミニ八卦炉の補助で成り立っており、中にはそれがないと制御しきれないものもある。
 そのことについて、魔理沙は特に問題視しているというわけでもない。
 と言うのも、ミニ八卦炉を作り魔理沙にプレゼントしてくれたのが、魔理沙の想い人だからである。
 彼に頼らずとも一人前の魔法使いになってみせる、という気持ちはもちろんあるが、それとは関係無しに、否応なく彼との絆を感じさせてくれるミニ八卦炉を魔理沙は愛していた。
 もちろん、ミニ八卦炉が単純に高性能な補助道具であることもそれに拍車をかけている。


(じゃ、ちょっくら下から潜り込むか)


 迷いの竹林とはまさにその通りで、一度でも中に入ってしまうと、上空に抜けない限りなかなか自力での脱出は難しい。
 なので、魔理沙は竹の上をすれすれに飛んで、輝夜の背後に向かって大きく回り込むように箒を進めた。
 本来ならば決闘に水を差すのだから、無駄だと分かっていても一礼はして然るべきである。
 魔理沙も泥棒稼業ではあるものの、こういった第三者として弾幕ごっこへ介入するようなことはあまり乗り気ではない。
 しかし今は状況が状況であるし、多少強引だが里への迷惑行為と見なして最初から全力でいくことに決める。
 というか、実際のところ、かなり里に近い場所でそれは行われていた。
 霊夢には子供が優先だと言ったが、これは里の人間が恐怖を感じてもおかしくない距離であった。


(なんだ……単に保身を優先したって訳でもないのか)


 多分、産まれたときから『博麗』だった霊夢には分かり辛い感覚なのだろう。
 そう結論付けて、魔理沙は懐からミニ八卦炉を取り出し、風を切らない無音飛行で輝夜の後方へと回り込んだ。
 輝夜は妹紅に夢中であり、その戦いは終局に近づいていた。
 今宵の勝者は輝夜で決まりのようで、既にもうすぐ止めの弾幕の展開が始まるような雰囲気であった。


(妹紅の状態が思ったより良くないな……)


 妹紅は輝夜の弾幕に押し上げられるように、かろうじて宙に留まっているような有様であった。


(作戦変更。相手が相手だし、大事なのは、最初の一撃で必ず輝夜を仕留めること)


 この一撃で妹紅も、という考えを、魔理沙は捨てた。
 妹紅はもう戦える体ではない。確実に輝夜を仕留めて、それで仕事は終わりである。
 魔理沙は妹紅が死んでしまう前、リザレクションが始まる前にカタをつけるため、輝夜の弾幕の展開開始と同時に浮上し、輝夜の死角から無言でマスタースパークを放った。
 普段ならいざ知らず、不意打ちをするのに声を出すことなどありえない。
 マスタースパークも今回に限っては『衝撃』を与えるのに特化させたアレンジバージョンであった。
 平たく言えばただの強力な突風、衝撃波なのだが、ミニ八卦炉を通して放ったそれはマスタースパークの親戚のようなものなので、間違っているというわけでもない。
 輝夜が妹紅に止めを刺す瞬間。
 油断するその好機に合わせて放ったそれは、しかし輝夜に届く直前、霧散した。


「な……!!」


 輝夜は驚く魔理沙へと、気だるげに声をかける。


「なにか用?」


 楽しい時間を奪われたからか、あるいは背後からの奇襲に苛立ちを感じているのか、輝夜はそっけなくそう言った。


「……あーあ。妹紅、落ちちゃった」

「え……?」


 輝夜の言葉通り、妹紅は地面に向かって落下していた。
 落下する体からは淡い光が発せられていて、それは妹紅のリザレクション特有の現象だった。
 その光を見て、全てを理解した。
 魔理沙が輝夜の後方へ回り込むずっと前から妹紅は死んでいて、輝夜はその遺体を弄って遊んでいたに過ぎなかったのだ。
 殺し続けていた、とでも言うべきか。


「狂人が!!」


 嫌悪感が先走り魔理沙は咄嗟に叫んだが、すぐに戦闘が始まることを察知し、箒へ魔力を流して高速機動へと切り替える。


「もちろん、続きはあなたがしてくれるのでしょう?」


 魔理沙の叫びと輝夜の言葉はほぼ同時に発せられ、それが弾幕ごっこの開始の合図となった。
 先手は輝夜だった。
 妹紅に飛ばすはずだったスペルカードは既に展開されており、それをそのまま魔理沙に向けて放つ。


「神宝『蓬莱の玉の枝 ―夢色の郷―』」


 いきなりの大技。
 フランドールのこともあって一撃離脱の方針でいたために、未だ魔理沙は完全な戦闘態勢へは至っておらず、避けるのに精いっぱいだった。
 しかし、あと一秒でも高速機動への切り替えが遅れていたら、立て続けに被弾して既に戦闘は終わっていただろう。
 そのことを考えれば、あの状態では最善だったと言える。
 だが、輝夜はそれでは満足がいかない。


「……はぁ。もう、仕方ないわね。これで体を温めなさいな」


 輝夜は一旦スペルを止めて、袖を振るった。
 大玉と小玉の組み合わせが交差し合う、無名の弾幕。
 スペルを展開するための時間稼ぎ、牽制といった意味合いが強いそれが魔理沙を襲う。


「ああ! もうっ!!」


 上手くいかないぜ! と心で付け足して、魔理沙は回避に集中する。
 急襲が失敗すればこうなることは分かっていたのに、無意識のうちに成功することを前提で考えていた自分が腹立たしかった。
 それら失敗の全ては「フランドールが気がかりだった」という一点に起因するのだが、フランドールを悪く考えることのない魔理沙はそれに気付かない。
 そしてそれは、魔理沙の失敗は続くということに他ならなかった。


「ぐあっ!!」


 いつもならかすらせもしないような単調な弾幕、見え見えのフェイント。
 魔理沙はそれらに面白いように被弾していった。
 この場に霊夢がいたら、きっとこう言うだろう。「お前は誰だ」と。
 魔理沙の姿に化けた妖怪だという方が、よほど説得力がある光景だった。


「…………?」


 また、魔理沙の実力を概ね把握している輝夜にとってもそれは不審であり、妹紅を甚振って高揚していた彼女の精神を落ち着かせる結果となっていた。
 あるいは、今の落ち着いた状態の輝夜に事情を話せば、迅速且つ平和的な解決が成ったのかもしれない。
 しかし、そうはならなかった。
 魔理沙は焦りからパニックになる寸前で、それどころではなかったのだ。
 そんな様子の魔理沙を見て、


(ちょっと様子を見てみましょうか……)


 そう思い、輝夜は止めていたスペルカードを再発動させ、その照準を魔理沙に定めた。


「うえっ!?」


 突如として動き始めた輝夜の上位スペルカードに、魔理沙のパニックは最高潮に達しようとしていた。
 しかし自分が今パニックを起こしていると理解できる程度には正気であり、それが魔理沙に中途半端な前進を許した。

 
(……あそこで交差する弾幕を一気に抜いて、近距離から一発かましてやる!)


 そう決めるや否や、魔理沙はその場で小さく円を描いて加速をつけた。
 きっと普段の彼女であれば、その判断を是とはしなかっただろう。
 何せ魔理沙自身が輝夜に与えたダメージは全くの零である。
 妹紅がいくらかダメージを与えていたとはいえ、それも魔理沙が苦戦している間に回復の兆しを見せている。 
 状況に勢いもなく、魔理沙のそれはただの特攻に過ぎない。
 だから、気付かなかった。





「え?」





 自身にかすらせてかわしたと思っていた全ての弾幕は、ただの目くらまし。
 大きな曲線を描く派手な弾幕を眼前にてやり過ごした先に、それはあった。
 弾幕ごっこにおいて、初歩とまではいかないが、決して高難度の技術ではない弾幕の重ね打ち。
 反撃しようとした矢先のことで、態勢は最悪。
 魔理沙にとっては、これ以上ないほど綺麗にカウンターを決められた形となる。
 そして、次の瞬間。


(やば!!)


 頭部に衝撃を受け、魔理沙の視界は暗転した。




















<000―4>



「うわー。なんか、ごちゃごちゃ」


 魔理沙が竹林で撃墜された頃、フランドールは隠れ家となった香霖堂の倉庫を探検している最中だった。
 魔理沙とはいったんは離れ離れになったが、今日中には戻ると約束してくれたので、フランドールは特に機嫌が悪くなるということはなかった。


「うーん」


 だが所詮は香霖堂。
 これが紅魔館の倉庫や宝物庫ならば話は違ったのだろうが、霖之助が個人で所有している倉庫の広さなど高が知れている。
 入口から軽く首を回すだけで奥まで見通せる程度の面積しかないのだ。
 案の定、フランドールの探検は咲夜が一部屋を掃除する時間よりも早く終わった。


「うたを歌おう」


 フランドールは唐突にそう宣言し、一人で歌い始めた。
 魔理沙を責める気は全くないが、遊ぶものがある分、まだ地下室の方がマシだと思った。


「まいごのまいごのこねこちゃん♪」

「あなたのおうちはどこですかー♪」

「おうちーをきいてもわからないー♪」

「なまえーをきいてもわからないー♪」

「ニャンニャンニャニャン♪ ニャンニャンニャニャン♪」

「なーいてばかりいるこねこちゃん♪」

「いっぬっのー♪ おまわりさん♪ こまってしまって」

「わんわんわわーん♪ わんわんわわーん♪」


 フランドールの歌が順調だったのは、そこまでだった。


「……あれ? この後に続きがあったような……うぅ、思い出せないよお」


 思い出せないものは仕方がない。
 フランドールは倉庫の最奥でドアの正面に向かって腰を下ろし、魔理沙の帰りを待つことにした。
 ひたすらに、その歌の一番だけを歌い続けて、ただただ、彼女は待っていた。


「これじゃあいつもとあんまり変わらないなぁ」


 その日の夜。
 結局魔理沙が帰ることは無く、フランドールは一人、倉庫の中で夜を明かした。
 魔理沙の帰りを待つだけのフランドールは、いつまでもドアを眺めて歌い続けていた。




















<001>



「う……」


 誰かの話し声が聞こえて、魔理沙は目を覚ました。


「あら、噂をすれば」

「噂って、最初から目の前にいたじゃないか。そういうのは噂って言うのか?」


 声の一つは霖之助だとすぐに分かった。
 意識は未だにはっきりとはしないが、想い人の声を聞き間違えるほど魔理沙の気持ちは軽くはなかった。


「ここは……?」

「永遠亭の診療所よ。ごめんね、ちょっと目を開いてくれる?」

「ああ……」


 魔理沙はぼんやりする頭でそう生返事をし、言われるままに目を開いた。
 すると突然ライトを目に当てられ、一気に頭が冴えてくる。


「うわっ!!」

「はい、終わり。そのままでいいから、ちょっと質問に答えてね」


 魔理沙はきょろきょろと周囲を見渡し、自分がベッドに寝かされていることに気付いた。
 目の前には白衣を着た八意永琳。
 そしてその後ろから覗き込むように、森近霖之助が立っていた。


「うわああ!!!」


 先ほどよりも幾分か驚きの度合いを増し、魔理沙は叫んだ。
 どこかのブン屋もびっくりな速度で布団を手繰り寄せ、頭から被って籠城する。


「だから言ったじゃない。レディの寝顔を盗み見るなんて良くないって」

「い、いや、でも、心配じゃないか。頭を打ったって言うし。魔理沙、僕が分かるかい? ほら、昔君の家で……」

「お前はでてけ!!!」

「……だって。あなたの気持ちも分かるけど、患者の希望を優先したいの。ほら、出てった出てった」

「わ、わかったよ……。僕は外で待ってるから」

「はいはい」

「何かあったらすぐに呼んでくれよ」

「わかったから」

「ああ、何か必要な物とか……」

「いいからでてけー!!!!」


 さすがに魔理沙の治療の邪魔となっていることに気付いた霖之助は、すごすごと部屋から出て行った。
 扉の閉まる音を聞いて、魔理沙は布団から少しだけ顔を出し、周りを確認する。


「彼はもう行ったわ。……で、状況は分かってる?」

「じょう、きょう?」


(私は霊夢に頼まれて、輝夜と妹紅の戦いを止めようとして……)


「そ。なんだか、私が留守の間にウチの姫様が迷惑をかけたようで……よく言い聞かせておいたから。痛みと共に」

「……そうだ。子供はどうなった? 里の、行方不明の子供は」

「白沢が見つけたわ。スペルカードも理解できない下位の妖怪の仕業だったみたい」 

「全員無事?」

「ええ。巣に帰る途中でなんとか見つけられたって言っていたから、もう少し発見が遅れていたらアウトだったんじゃない?」

「……まあ、あれだ。とりあえず無事で良かった」

「そうね。……じゃあ、診察を始めるわね」


 そう言って、永琳はちょくちょく質問を混ぜながら検査を進める。
 永琳が診たところ、魔理沙の精神は落ち着いているし記憶が飛んでいるということもなさそうであり、緊急に対処すべき事態は起こっていないようだった。
 もちろん、頭部を強打して意識を失った魔理沙にはしばらく入院してもらおうと考えている。
 それらを魔理沙に伝えると、当の本人はぽかんとした顔になった。


「頭を打った? 私が?」


 何か大事な、とても大事なことが抜け落ちているような気がする。
 しかし魔理沙が思い出そうとすればするほど、まるで両手から砂が零れ落ちていくかのようにその何かを掴みとることはできない。


「ええ。……まあ、場所が場所だし、しばらくは安静にしていることね。こっちにも非はあるし、入院費はいらないわ。本当なら妹紅と姫とで折半にするのが筋なんだけど、あっちはあっちで大変みたいだし」


 永琳が言うには、事情を聞いた上白沢慧音の怒りはそれはもう凄まじく、一発思いきり拳骨を落とした後、問答無用で妹紅の首根っこを掴んで去って行ったそうだ。
 一発と言えど、慧音は半人半獣。
 冗談抜きで一回死んでいてもおかしくない威力だ、と永琳は語った。


『ありゃあ死んだわね。くくく、ざまあみろ馬鹿妹紅』


 そんな残念な発言をしたらしい輝夜に同じ罰を下し、涙目になった主に嘆息しながら永琳は魔理沙の治療に向かった……というのが、魔理沙が気を失ってから今までに起きた大筋の出来事らしい。


「姫様がしたこととはいえ、あなたには迷惑をかけたわ」

「いいんだ。私の実力不足が招いた結果だから」

「それでも、あなたの人生の貴重な三日間を奪ってしまったことに変わりはないわ」

「……ちょっと待て。いま、なんて言った?」

「? あなたの人生の……ああ、そうだ、肝心なことを言ってなかった」


永琳は申し訳なさそうに魔理沙へとその言葉を告げた。


「あなたは気を失ってから約三日の間、ずっと目を覚まさなかったのよ」

「三日?」

「ええ。事情を知っているのはあなたに依頼した霊夢と、どこから嗅ぎつけたのか知らないけど霖之助。……ああ、それと―――」


霖之助。
こーりん。
香霖堂。
倉庫。


「紅魔館からも十六夜咲夜がお見舞いに来ていたわ。ちょっと様子がおかしかったけど……」


咲夜。
紅魔館。
借りっぱなしの本。
大図書館。
地下。
地下室。


「フラン!!」


 思い出した。すぐに時系列を整理して、理解した。
 魔理沙はフランドールをあの倉庫に、三日間もの間置き去りにしたのだ。
 その事実に、魔理沙は愕然とした。


「行かなきゃ、すぐに行かなきゃ」


 半ばうわ言の様にそう繰り返して魔理沙はベッドから降りようとしたのだが、永琳がそれをやんわりと止めた。


「駄目よ。言ったでしょう? 今は体も衰弱しているし、なにより患部が頭なんだから安静にしていなさいって」


 衰弱しているというのは本当のようで、永琳が軽く押さえただけで魔理沙は動けなくなってしまう。
 当の魔理沙も検査で疲れたのか、頭がぼうっとしてきていた。
 このままではいけない。
 誰にも何も伝えられないままでは、またフランドールは一人ぼっちだ。


「こーりん!!」


 恥も外聞もなく、魔理沙は叫んだ。


「こーりん!!!」

「ちょ、ちょっと。どうしたの」


 きっと彼が何とかしてくれると、理由もなくそう信じていた。


「どうした魔理沙!!!」


 霖之助が慌ててドアから入ってきて、魔理沙を支える。
 薄れゆく意識の中、魔理沙は早口でまくしたてた。
 それは衰弱と混乱で、ひどく支離滅裂だった。
 魔理沙本人にも、いったい自分がいま何をどんな言葉を用いて伝えているのかよく分かっていなかった。
 ただ、ひとつだけ覚えていたのは。
 最後に「助けて」と霖之助に告げ。


「わかった。僕に任せろ」


 その言葉を聞いた瞬間、ああ、もう大丈夫だ、と心底安心し、魔理沙の体から一気に力が抜けた。
 無責任なのは分かっていた。
 フランドールと二人で建てた計画を自分が台無しにしたことも分かっていた。
 傷つけたことも分かっていた。
 二度と笑顔が見られないかもしれないということも分かっていた。
 それでも、彼に任せれば、なんとかなる。
 大きな背中が遠ざかって行くのをぼんやりと眺めながら、魔理沙は再び眠りについた。




















/002



 魔理沙から聞いた話によると、どうやら香霖堂の裏手の倉庫の中にレミリアの妹であるフランドールという少女が隠れているらしい。
 一体全体何がどうなってそのような状況になったのかは甚だ疑問だが、今は一刻も早く店に帰ることが先決だ。
 また、魔理沙の話を聞いて、咲夜についての疑問も晴れた。
 魔理沙に渡したミニ八卦炉には、彼女が撃墜した時に自動で僕に連絡がくる装置が仕込んである。
 もちろん魔理沙はこれを知らない。
 どうせ知ったら「はずせ」とごねるに違いないので、最初から言わなかった。
 本当のことを言えば、常時発動型の発信機すら付けたいと思っていたが、さすがにそれはやり過ぎだと思い断腸の思いで諦めた。
 そういうカラクリがあって僕は魔理沙が倒れてから最速で永遠亭に行くことができたのだが、それとほぼ同時にやって来たのが咲夜だった。
 鈴仙がした「魔理沙のお見舞い?」という質問に対し、咲夜は「そんなところよ」とかなんとか曖昧な返事をしていたようだが、あれはどう考えてもおかしい。
 その時の僕は魔理沙のことで気が気じゃなかったので、それに気付かなかった。
 今なら分かる。咲夜は、いなくなったフランドールを探していたのだ。


「……ふぅ。やっと着いた」


 早足で帰ったので、自分の額にうっすら汗をかいているのが分かる。
 いったん店の中に入って懐中電灯を手に取り、また玄関から出て、ぐるりと半周して裏の倉庫の前に立つ。
 かかっていたはずの鍵は外されていた。
 たしかにこの三日は倉庫に入らなかったが、何度か扉の前を通ったことはあった。


「なまっているなぁ」


 勘も、観察眼も、その他いろいろも。
 中にいるのは少女ということなので、一応ノックをしてから扉を開ける。
 僕の正面、倉庫の最奥に、七色の歪な羽を持つ少女が一人。


(ふむ。これは……綺麗だな)


 僕はただただ、見蕩れていた。
 懐中電灯の光を七色に反射させ、薄暗くて小汚いはずの店の倉庫が、想像もできないような幻想の世界へと変化していた。


「……魔理沙?」


 倉庫の奥から、声が聞こえた。


「違うよ。魔理沙は事情があって来られなくなったから、代わりに僕が来たんだ」

「……そっか。もう、遊びは終わっちゃってたんだ」


 すくっと立ち上がり、スカートをぱんぱんと叩きながら、フランドールはそう言った。


「えっと……あなたはだぁれ?」

「お姉さんから教わらなかったか? 人に名前を尋ねる時は、まず自分からするものだ」

「……あなた、アイツの知り合いなの?」

「まあ、そうだな。僕と彼女の関係は知りあいという言い方が一番しっくりくると思う」

「……お友達じゃあないの?」

「僕とレミリアがお友達、か。……どうだろうな。別段長い付き合いでもないし、特に親しいわけでもない。果たしてこういった相手を友と呼べるのか……君はどう思う? フランドール・スカーレット」

「……なによ。私のこと、知ってるんじゃない」


 淡い金髪に真紅の瞳。
 魔理沙から「ちっちゃくて可愛いやつ」と聞いていた通り、僕の腰を少し超えるほどの身長のようだ。
 何よりも特徴的なのが、七色の羽だった。
 その形状を羽と呼ぶのかは甚だ疑問だが、場所的に羽で間違いないだろう。
 一本の筋からぶら下がるようにして揺れている透明な石が七つ、それぞれ固有の色を持っていた。


(これじゃあ飛べないだろうに)


 羽をバタバタさせて飛ぶ訳ではないということは分かっているが、レミリアと違ってその片鱗すら見せない歪な形をしていた。
 

「あなたが、モリチカリンノスケ?」

「魔理沙から聞いたのかい? そうだ。僕は森近霖之助。香霖堂という古道具屋の店長をしている。そしてなぜか魔理沙が君の隠れ家に選んだこの倉庫の所有者でもある」

「えっと、か、勝手におじゃましてます……」

「まあ、それはいい。事情は概ね、魔理沙から聞いたよ」


 大変だったな、などとは決して言わない。
 僕は『紅魔館の地下にはレミリアの妹が住んでいる』という元々あった情報と、先ほど魔理沙から一方的に聞かされた情報しか持っていない。
 また先ほど、魔理沙自身、フランンドールの軟禁に対して「レミリアの真意が掴めない」というニュアンスの言葉を口にしていて、迷っているくらいなら行動するなと言いたかったが、あれだけ必死に懇願されたら兄貴分としては助けざるを得ない。
 普段の魔理沙ならまずフランドールを僕に紹介し、間髪入れずに「じゃあ預けるから頼んだぜ」とか言って飛んで行ってしまったのだろうが。
 もっとも、多分だが、もともと僕の家に寄る予定はなかったのだろう。
 フランドールの家出に手を貸し、なんらかのアクシデントがあってフランドールを倉庫に一時避難させたが、魔理沙はすぐに帰ってくるつもりだった、と。
 しかし、結果はこの通りである。


(……それにしても、とんだ厄介事だな)


 今回の件には関して、僕は完全に巻き込まれた形だ。
 先にフランドールに言ったように、僕とレミリアはとても微妙な関係にある。
 レミリアは吸血鬼なので、基本的に活動時間は夜となる。
 それに比べて僕は朝起きて夜寝るという極めて一般的な生活習慣であり、特別なことがない限りそもそも会う機会がないのだ。


(それも今日までかね)


 今回の一件は明らかにスカーレット家への干渉だ。
 それも、フランドールは長い間、軟禁に近い状態だと聞く。
 プライドが異常に高い吸血鬼という種族であるレミリアが親族相手にそこまでするということは、やはりそれに見合うだけの事情があるのだと思う。
 もう、はっきり言って、嫌な予感しかしない。


「ねぇ、眩しいよ」

「え? ああ、すまない」


 懐中電灯を点けたまま思考に没頭してしまっていたらしい。
 この懐中電灯の動力源である『電池』は外の世界の物であり、ストーブの灯油と同じように八雲紫からしか手に入らない。無駄遣いは禁物であった。
 僕は入ってすぐの所においてあるランプの灯りを点け、懐中電灯のスイッチを切った。
 途端に倉庫内は明るくなり、フランドールは目をぱちぱちさせている。


「これでいいか?」

「うん。……あ、モリチカ、パチュリーと同じだ」

「パチュリーと? 何がだい?」

「眼鏡。それに、背もすごく高いんだね」


 そういえば、さっきまでは暗い中でこちらから懐中電灯を当てていたから、如何に夜目の利く吸血鬼といえどフランドールの方からは僕が全く見えていなかっただろう。


「改めて、初めまして」

「うん。はじめまして」


 フランドールはすっと背筋を伸ばすと、スカートの端を掴んでちょこんとおじぎをして見せた。
 よくできた娘さんだ。


「さっそくだが、本題に入ろう」

「本題?」

「先に言っておくが、僕は君の事情を概ねは把握しているが、正確かどうかは分からない。だから、君の口から聞きたいんだ」

「……なにを?」

「君の話さ。君はどうしたい? 魔理沙は言わなかっただろうけど、ここまでしたってことは、きっと君を受け入れることも考えてる」

「……えっと、つまり?」

「フランドールがもし紅魔館に帰りたくないと言うのなら、魔理沙の家に住んでもいいってことさ」

「……それは、お泊まりとは違うんだよね」

「ああ。紅魔館には二度と帰れないかもしれない」

「それは、ちょっと、ヤ、かも」

「そうか」


 きっぱりと、とはいかないものの、フランドールからは比較的すぐに答えが返ってきた。
 この辺りは魔理沙のミスだなと思いつつ、話を進める。


「なら、フランドール。今から君を紅魔館まで送って行こうと思うが、どうする?」

「……モリチカは、なんでも私に聞くんだね」

「そりゃそうさ。僕にとってはそれが一番動きやすいんだから」


 魔理沙は言っていた。フランドールは私にとって妹のようなやつだと。
 それはもう、本当に楽しそうに言っていたのだ。
 きっと魔理沙はフランドールのことを本当に妹のように思っていて、好きで、大事で、大好きで。
 だからこそ、気付けなかった。
 フランドールを力と狂気を持て余す子供だと決めつけてしまった。


「私に決めさせるなんて、魔理沙みたい。ウチじゃあ、私が何かを決めることなんてほとんどないもの」


 全部決められちゃってるんだ、と片足をぶらぶらさせながらフランドールは言った。
 その様子を見ていたら、唐突に昔のことを思い出した。
 『紅魔館の地下には悪魔の妹がいる』という情報が誰からもたらされたのかを思い出したのだ。


(……そうか。あの話をしてから、もう百年も経っていたのか)


 僕は以前、八雲からこんな聞いたことがある。
 吸血鬼が住む紅魔館。その地下には、悪魔の妹がいる、と。
 館の主人であり実の姉でもある吸血鬼に幽閉されているのだという。
 その年月、実に四百年。
 なぜ実の妹にそんなことをするのか意味が分からなかったが、八雲には分かっているようだった。
 結局幽閉の理由は聞けず、それから百年近い時が過ぎ、現在に至り。
 そして今、僕の目の前には件の少女が立っているというわけだ。


「決められている?」

「うん。その日にすることだとか、食事の内容だとか。希望を言えば叶うこともあるけど、結局それは許可されているだけで、私が自由に判断していいことなんて本当に、本当に瑣末なことだけ」

「なぜ君は逆らわないんだ? 君の能力なら脱出は可能だろう?」

「そんなことしても意味がないもの。私はただ知りたいだけ。なぜあいつが、お姉様が私を地下に閉じ込めようとするのか」

「本人に直接聞いたことはないのか?」

「あるよ。いつ聞いても同じ答えしか返ってこないけど」

「それを……僕が聞いてもいいか?」

「『ああ、フラン。私の可愛い妹。外は危険がいっぱいだから、貴女一人で外に出ては駄目。大事な大事な約束よ』」

「……それで?」

「これだけ。有無を言わさぬ感じの笑顔で言われるの」

「そうか……」


 としか、言いようがない。
 多分フランドールにとって、それは約束でもなんでもなく、ただのレミリアからの通達なのだろう。


「お姉様の言うことが真実で、結局私が子供っていうだけのことなのかな」

「自分で自分が子供だと分かるようなら、充分大人だと思うけどね」

「ふふ。矛盾だね。そういうの好きだよ」


 そう言って渇いた笑みを張りつかせるフランドールを見て、僕は思った。


(魔理沙はきっと、早まったんだな。……彼女は人間だから、仕様が無いことなんだけれど)


 所詮は人の子。それも、二十年も生きていない、僕やレミリアから見れば子供も子供。
 そしてそれは、フランドールから見てさえ例外ではない。
 魔理沙が気を失う前に言った「もうそろそろ、外に出たっていいだろう」という言葉は、あくまで人間としての尺度で計った時間であり、それは僕らのような人外には適応しない。
 年をとるにつれて、同じ一年でも段々と短く感じるようになった、などという経験はないだろうか。
 これは諸説あるが、人生全体の中で一年という時間の占める割合が段々と少なくなることに起因する、という説が有力である。
 同じ一年でも三歳児にとっては人生の三分の一、二十歳なら人生の二十分の一、ということになる。
そして五百歳の吸血鬼にとっての一年は、その人生の僅か五百分の一だ。
 もちろん、『僅か』という言い方が正しいのかは各々の判断に依るのだが。
 しかし五百年も生きれば(僕が現在五百歳ということではない)日常は恒久化してきて当然であり、日々の中で新しい発見だとか、新鮮な気持ちになるだとか、そういうことはほとんどなくなる。
 知恵を持ってしまったが故に、退屈によって自殺してしまうようなケースすらあるのだ。
 フランドールはしばらく紅魔館に対する愚痴をこぼしていたが、唐突に止めたかと思うと黙って下を向いてしまった。


「……紅魔館が恋しくなったのかい?」

「そう……なのかな。こんなにおうちを離れたのは久しぶりだから」

「ああ、そうだ。言ってなかったけど、咲夜は君を探しているようだったぞ」

「え、そうなの? ……なんだ。あの人形、もうばれちゃったんだ」

「人形?」

「あ、ううん。なんでもないなんでもない」

「…………」


 大方、魔理沙がアリスを言いくるめて、脱走の時のカモフラージュ用にフランドールの等身大人形でも作らせたとか、そんな話だろう。


「私、どうしよう。どうすればいいのかな」

「……とりあえず、今すぐ決めるべきことは一つだな。紅魔館に帰るか、帰らないか」

「帰るか、帰らないか……」

「魔理沙は怪我をしちゃってね、だからすぐに君を迎えに来ることはできない。でも、君が紅魔館でなく魔理沙の元にいると決断したのなら、魔理沙が回復するまでは僕が責任を持って君を隠すよ」


 既に永琳には口止めを依頼してある。
 この倉庫は基本的に密室となっているので、このまま隠れていれば少なくともあと一週間ほどは見つからないだろう。
 ただでさえ僕とフランドールには毛ほどの接点もないので、僕が匿っていると疑われる心配もほぼないと言っていいと思う。


「魔理沙、怪我したの?」

「ああ。意識が戻らなかったんだが、ついさっき目を覚ましてね。その時に君のことを聞いたんだ」

「だ、だいじょうぶなの?」

「頭をやったみたいだから何とも言えないけど、永琳……ああ、幻想郷で一番優秀な医者が診ているから、たぶん大丈夫さ」

「お見舞いとかは……ははは、きっと無理、だよね?」

「今回の件で魔理沙は君に罪悪感を持っているみたいだったから、君が彼女を許してくれるというのなら、行ってやってほしい」

「許すなんて、そんなの当たり前だよ」

「そうかい。なら、行ってやってくれると僕も嬉しいよ」

「でも、今家に帰ったら、しばらくお外には出してもらえないよ」

「そこはレミリアに頼んでみるんだな」


 また俯いてしまったフランドールは、小さく、本当に小さな声で、「うまくいかないな」と呟いた。


「紅魔館に帰れなくなることは嫌なんだろう?」

「……咲夜はあいつの犬だから、きっと、あいつの命令で私を探してる」


 僕の質問を華麗にスルーしたフランドール。
 きっとこの子は情緒不安定なんだと自分に言い聞かせて、話を聞く。


「そうだろうな」

「……じゃあ、お姉様はどうして私を探せって咲夜に命令したのかな?」

「そりゃあ、きっと君のことが心配だったからじゃないのか?」

「心配……してるのかな、わたしのこと」

「していなかったら、咲夜を使ってまで探そうとはしないと思うよ」


 今にして思えば、咲夜のあの対応の速さは異常である。
 魔理沙が怪我をしたのはフランドールを脱走させた少し後のことらしく。
 咲夜が永遠亭に訪れたのは、魔理沙が怪我をしてすぐの頃だ。
 フランドールの脱走がすぐに咲夜にばれていたのだとしても、そんなに早く永遠亭に到着できるのか。
 時系列を考えれば、脱走してすぐに事態を把握し、息つく暇もなく能力を使って探しに出たとしか思えない。
 そして、咲夜に命令できるのは彼女の主だけである。


「……分かっているの。でも不安になるの。すごく嫌な感じなの。だってそうでしょう? 一番簡単に答えを出すなら、お姉様は私のこと、きら、きらって、るんじゃないかって、そんな、馬鹿なこと、か、考えちゃって、わ、わたし……」


 話の途中でフランドールの瞳に涙がにじんだかと思ったら、せき止める間もなく、ぽたぽたとそれらは落ちていった。


「……わたし、何がいけなかったのかな?」


 きっとそれは僕への質問ではではなく、自問だったのだと思う。


「どんな悪いことをしたんだろう? どんな嫌われるようなことをしたんだろう? わからないの。覚えてないの。だって、気付いたらわたしは地下にいて、お姉様に生かされるようになってたんだもん」


 その問いの答えを知る者は、レミリアと、恐らくは八雲だけであろう。
 もしかしたら咲夜も知っているかもしれないが、答えを知り且つフランドールを救える者となれば、当事者であるレミリアだけだ。


「レミリアに聞いてみたことは?」

「……ない」

「君を地下に閉じ込める理由は聞いたことあるんだろう?」

「……うん。だけど、私のことをき……どう、思ってるかってことは、聞いたことない。……聞けない、聞けないよ、こわくて」


 一番幸せで分かりやすいシナリオを考えるのなら、レミリアもフランドールのことを愛していて、その想いの行き違いの結果こうなった、というのが最上であろう。
 話し合いの場でも作ってどちらかが一歩でも前へ進めば、その分だけ無条件で解決に近づく。
 しかし、フランドールの気持ちは理解したが、レミリアの真意は分からない。
 無責任なことを言うわけにもいかず、結局は当たり障りのない返答しか浮かばない。
 長い年月を生きればそれに応じた知識は身に付くが、生きた分だけ賢くなるという訳ではないのだ。
 とりあえず紅魔館に帰る、という方向は決定のようなので、その流れで話を進める。


「頑張って、直接聞いてみる気にはならないか? 僕も一緒に行くからさ」

「……え?」


 それは予想外だとばかりに目をきょとんと丸くさせるフランドール。
 あれ、何か間違っただろうか。


「一緒に? 私と?」

「ああ。魔理沙とか、親しい人が一緒だと逆に聞きづらいこともあるだろう?」


 フランドールは相変わらず目をぱちくりさせて、今度はさらに口をぱくぱくさせた。


「……何か僕は、変なことを言っただろうか」

「え? あ、ううん、違くて、そうじゃないの」

「ならいいが。……それで、どうする? 本音を言えば、僕としてはいい歳のお嬢さんを無断外泊させているようなものだから、帰ると決めたのなら、早いとこ家に送り返したいんだ」

「……うー、ちょっと待ってよ」


 ぐしぐしと袖で涙と垂れかかっている鼻水を拭こうとするフランドール。
 そんな彼女にポケットから取り出したハンカチを差し出しながら、僕はレミリアのことを考えていた。
 本音を言えば、レミリアとの友好関係を悪化させるのは何としても避けたい。
 それもこれも、全ては大図書館のため。
 レミリアとの関係悪化は紅魔館の、延いては大図書館への立ち入り禁止を意味するからである。
 せっかくできたパチュリーという読書仲間も重度の出不精で、僕から会いに行かない限りは年に一回会えるかどうかであろう。
 彼女ほどのビブリオマニアを友人に持つということの重要性を、僕は正しく理解しているのだ。
 そこに舞い込んできた、今回の家出騒動。
 上手く立ち回ればフランドールはもちろん、レミリアとの仲も深まることは間違いないのだが、別にそういうのは求めていない。
 僕にとってレミリアはあくまで紅魔館への立ち入りを許可する存在であり、それが許されている今はその現状を保っていたかった。
 他者との距離は、近すぎても遠すぎても問題を呼ぶものだ。
 鼻をかみ、涙を拭いたフランドールはしばらくぼうっとしていたが、やがて唐突に言い放った。


「帰る」

「わかった」


 とりあえず、レミリアとの衝突は免れないだろう。
 面倒くさいことになったと思う反面、それも良しと考える自分がいた。
 しかし。





『たすけて……こーりん』





 魔理沙に頼まれてしまった。助けて、と言われてしまった。
 そして僕は、それを嬉しいと感じるのだ。


「支度はどうする? お腹が空いていたりとか、何かあるかい?」

「ううん。多分、咲夜はまだ探してるだろうし、すぐに帰るよ」

「そうか。じゃあ、行こうか」

「うん」


 フランドールは倉庫を出て、紅魔館に向けて歩きだした。
 飛んだ方が遥かに早く着くだろうに、僕に気を使ったのか、はたまた怒られると分かっている家に帰るのを少しでも送らせたいのか。
 恐らくは多分、後者だろうけれど。


「ねえ、モリチカ」

「なんだい?」

「『犬のおまわりさん』って知ってる?」

「もちろんさ。外の世界から流れて来た童謡のことだろう?」


 流れてきた、と言うとまるで外の世界で幻想となったかのようだが、正確には、八雲が取り入れたという言い方の方が正しい。
 いや……まあ、うん。白状すると、幻想郷にこの童謡を広めたのは僕であると言っても過言ではない。
 二十年ほど前のことだろうか、僕が所用で八雲の家にお邪魔していた時に、橙が口ずさんでいたのがこれだった。
 なかなかに興味を惹かれて橙に教えてくれと頼んだところ、快く了解をもらったのだ。
 もっとも人里には詰め所のようなものはあるが、外の世界で言う「交番」は存在しないから、当然「お巡りさん」の方も存在しないのだが。
 しばらくして僕は霧雨店に住まいを移し、その際、特に他意は無く里の子供たちに広めてしまった。
 もちろん、それを知った八雲からこっぴどく怒られたのは言うまでもない。


「うんとね、あれって、二番まで歌詞があったよね」

「ああ。僕が知る限りでは、二番までで終わりのはずだ」

「歌ってよ。わたし一番は歌えるんだけど、二番の歌詞を忘れちゃって」

「お安い御用だ」


 童謡とは不思議なもので、長い間歌っていなくとも意外と歌詞や音程を覚えているものだ。
 一番は一緒に歌い、二番からは僕が一人で歌った。
 歌い終わってからしばらくの間、フランドールは黙って何かを考えているようだったが、その後突然口を開いてこう言った。


「こねこちゃんは、結局どうなったの?」

「歌詞だと、カラスやらスズメやらにも聞くんだけど、小猫ちゃんの家を突き止めることはできなかったみたいだな」

「……そうなんだ」


 初めて知った時にも思ったが、童謡という子供向けの歌にしては、随分な終わり方だ。
 前方に湖が見えてきた。
 フランドールは羽を揺らして宙に浮くと、小さく呟いた。


「結局、小猫ちゃんはずっと家に帰れないんだね」


 その言葉が、果たして童謡の内容に関してのみの発言だったかは、僕には分からなかった。




















/003



「も、もうすぐだね」


 湖の上を緩いスピードで通過する。
 緊張しているのだろう、紅魔館に近づくにつれてフランドールの口数は少なくなっていき、なんだか随分と久しぶりに彼女の声を聞いた気がする。


「そうだな」


 かく言う僕も、彼女には及ばないまでも多少の緊張を覚えていた。
 恐らくは相当に機嫌の悪い吸血鬼を相手に、僕という迂闊な奴は、防具的な意味でも、理論武装的な意味でも、何の準備もしていないということに今更ながら気付いたのだ。
 とは言え、それは本当に今さらの話であり、どうしようもない。


「…………」

「…………」


 どうでもいいのだが、フランドールはレミリアへの呼称がよくごっちゃになる。
 いや、どうでもよくないのかもしれない。もしかしたら、それが何かの鍵となるのかもしれない……と思うのだが、如何せん情報が少なすぎて僕の推理は何の発展も見せない。
 そうこうしているうちに、紅魔館の正門に到着してしまった。
 門番の美鈴はなぜか姿が見当たらず、僕はこれに少なからずショックを受けた。
 温厚な彼女にクッションとして同席してもらう、という即興ながらなかなかに良い案を思いついていたからだ。
 そんな僕を尻目に、さすがに覚悟も決まったのか、館の内側に下りたフランドールは特に渋るようなこともなく、潔く玄関に向かって歩を進めていた。
 僕も彼女の後に続き、小さく「お邪魔します」と言って扉を超えた。
 ロビーには誰もいなかったが、二階から口論の声が聞こえていたので、二人でそちらに向かう。


「いいから、貴女はもう休んでいなさい」

「ですがお嬢様……」


 廊下の突き当りの先から聞こえた声からすると、どうやらレミリアと咲夜が口論を起こしていたようだった。
 さてどうしたものか、と少しその場に立ち止まって思案しようとする僕だったが、クイクイと袖口をフランドールに引っ張られた。


「着いてきてくれるんだよね……?」

「ああ。それと、もし僕が殺されそうになったら、すまないが助太刀を頼むよ」

「うん、わかった。約束するよ」


 何とも情けないことではあったが、レミリアを相手にするにはやはり不用心過ぎたのだ。
 実際のところ、冷静に見れば今回の件に関して僕は魔理沙とフランドールの起こした騒ぎに巻き込まれたというだけなので、むしろフランドールの居場所を知って説得し、ここまで連れてきたという僕の行動はレミリアからすれば恩を感じて然るべきものだ。
 レミリアが冷静な判断をしてくれればいいが、フランドールと一緒にいる僕を問答無用で屠りにくる、なんて可能性も無きにしも非ずであり、そのための保険のようなものだった。
 繰り返すが、緩衝剤として傍にいてもらうはずだった美鈴は、門にはおろか今のところ館の中にいるのかさえも分からない。


「じゃあ、行こう」


 僕の袖口を握ったまま、フランドールは突きあたりを曲がった。


「……!!」

「あ……」


 まずレミリアが、次いで振り返った咲夜が僕らに気付いた。


「あ、あのね、お姉さ」


 ―――パシンッ!


 レミリアが有無を言わさず、フランドールをぶった。
 半ば予想していた展開ではあったが、あどけない顔の少女が頬を張られるシーンというのは、なんというか言葉に詰まる。


「……何故、黙って外へ出た」

「そ、それは……」

「勝手に外に出たりはしないと、あの約束は?」

「お姉様、聞いて……」

「私との約束を破ったのか」


 倉庫でのフランドールとの会話を思い出す。





『『ああ、フラン。私の可愛い妹。外は危険がいっぱいだから、貴女一人で外に出ては駄目。大事な大事な約束よ』』

『……それで?』

『これだけ。有無を言わさぬ感じの笑顔で言われるの』





 約束とはそのことなのだろう。


「あ……わ、わたしは……」


 結局、押しに押されたフランドールは何も言えずに、その瞳は大粒の涙でいっぱいになっていた。


「もう、いい」


 レミリアはそう言って一度溜息を吐いた後、こう続けた。


「自分の部屋に戻りなさい」

「…………!!」


 それだけ。
 たったそれだけの言葉しか与えず、レミリアはフランドールから視線を外した。
 フランドールは一目散にどこかへと駈け出していってしまった。
 慌てて咲夜がそれを追いかける。
 そのやり取りを、まるで他人事のように見ているレミリア。
 そんなレミリアの態度に、少しだけ、ほんの少しだけ、理不尽な苛立ちを感じた。


「……ちょっといいかい。近いうち、永遠亭に魔理沙の見舞いに行くから、その時フランドールを連れて行きたいんだ」


 どうせ咲夜から聞いているのだろうから、魔理沙の説明は省いて要点だけ伝えた。


「……だから? というか、なぜお前がここにいるんだ」


 まあ、最もな質問だ。
 僕は事の経緯を、魔理沙が脱走の手助けをしたということまで余すところなくレミリアに話した。
 魔理沙のことに関しては調べればどうせ分かってしまうので、下手に隠すよりはかえって言ってしまった方がいいと判断したのだ。
 その流れでフランドールをお見舞いに連れ出したいと申し出たが、やはりと言うべきか、即断で却下された。


「駄目だ。フランは部屋に戻す」

「そりゃまあ、明日明後日が無理だとしても、一週間後くらいなら罰も終わっているだろう? 君の妹を、友達の見舞いに行かせてやってくれよ」

「……あの子を外へは出さない。これは我が家の問題だ。部外者が口出しをするな」

「我が家だと? 君だけの問題じゃないのかい?」

「……もしかしなくとも、今、私は喧嘩を売られているのか?」

「おいおい、長く生きている割には随分と沸点が低いな。まあ、持ち前の身体能力の高さがあれば、知恵などなくとも生き続けることくらいはできるか」

「ほざけ。所詮は持たざる者の僻みに過ぎん。聞く価値もない」

「吠えるじゃないか。持たざる者の血が無ければ生きていけない半端者がよく言えるな」

「ハハ!! 半端者か!! 傑作だな……まさか半妖の貴様にそのようなことを言われるとは」


 ああ、まずい。止まらない。
 肩入れするほどの仲でもないというのに、なぜ僕はこんなにも必死にフランドールを庇っているのだろう。
 そらみたことか、レミリアの視線が、純粋な殺意を乗せて僕を射抜いている。
 しかし不思議と恐怖を感じない。体も声も、萎縮もしなければ震えることもなかった。


「今度は暴力か? さすが、実の妹を五世紀近く監禁するような変態は考えることが単純だ」


 何がトリガーとなったのかと言えば、多分、この一言だったのだろう。


「お前には関係のないことだ」

「関係なくても、知ってしまった。あの子は泣いていたぞ」

「そうか。迷惑をかけた。見逃してやるから、さっさと出て行け」

「出て行くさ。君がフランドールのことを、どう思っているのかを聞いたらな」

「私が、フランを? 愛しているに決まっているだろう」

「それを一度でも、一度だけでも……彼女に伝えたのか?」


 そこで初めて、レミリアの攻勢が止んだ。


「君が彼女を愛していることと、彼女それを理解することは決して同義ではないだろう?」

「私はフランを……愛している」

「君の自己満足を『愛』という言葉に置き換えるなよ」

「何を馬鹿なことを……」

「なら言ってやろうか。君は魔理沙がフランドールに会うのを止めなかったな。紅魔館の立場からすれば魔理沙はただの強盗だ。それも、パチュリーや咲夜を以て
しても守りを抜かれることの多い、厄介な存在。その対策がいつまでも為されなかったのはなぜだ? 答えは簡単、君がそれを許したからだ」

「何を……」

「魔理沙はよくフランドールに会いに来たらしいな。それも、君には在ってフランドールには無かった存在……つまり、友達として」

「……言って……」

「君は自分の愛情がフランドールに伝わっているとは思っていなかった。さらに、改善するにはあまりにも長い時間が経ち過ぎてしまっていた。そんな時に、魔理沙
が現れた」


 レミリアの真意……かどうかは別として、例え表層だけであろうと、とりあえず彼女の気持ちは理解した。
 楽観はできないが、どうやら僕の考えていた一番幸せで分かりやすいシナリオがどんぴしゃりだったようだ。


「なるほど確かに、君はフランドールを愛しているのだろうさ」


 ならば、後はそれを元に話を繋げればいいだけである。
 ここからは僕が一方的に口を開くだけであった。


「魔理沙を疎ましく思う一方で、妹の友となってくれた彼女に感謝していたのだろう?」


 全てが全てその通りである確証なんてあるはずもなく、結局はただの推論だった。
 しかし、状況がその推論を後押しする。


「紅霧異変は、フランドールを自由にするために起こしたんじゃないか?」


 先のフランドールとのやり取り、そして少しの会話から、レミリアを黙らせるための要素は揃っていると判断した。
 そしてそれは、僕の意図通りの効果を発揮した。


「フランドールを外に出さないのは、彼女が問題を起こして幻想郷に居場所がなくなるのを危惧しているからなんだろう?」


 咲夜が息を切らして部屋に戻ってきた。
 しかし止まらない。止めるつもりもなかった。
 なかったのだが、僕が口を閉じざるを得ない命令を、レミリアは咲夜へと発した。


「咲夜」

「はい、お嬢様」

「この男を殺せ」

「……了解、致しました」


 咲夜は一目、その紅過ぎる瞳で僕を見て。
 前へと一歩、踏み出して。


「……え?」


 あれだけの攻勢がたった一瞬で引っくり返されたことに、僕は思わず瞬きを繰り返した。
 考えてみれば当然。吸血鬼を相手に喧嘩を売るなど自殺行為としか言いようがない。
 だというのに、さっきまでの僕は本当にその可能性が頭から抜けていた。
 そして。


「がっ!!」


 二、三度繰り返した瞬きの後の世界では、役者が一人増えていた。
 信じられないかもしれないが、僕の目が狂ってしまっていない限り、咲夜は先ほど部屋から飛び出して行ったはずのフランドールに首を掴まれ、壁に叩きつけられているという状況であった。


「フラン!!!」


 レミリアには見えていたのだろう、そのフランドールの行為に対し咄嗟にレミリアが糾弾するが、それも一度だけで終わった。
 フランドールが涙で赤くなった瞳を、どこまでも暗く、どこまでも冷たくさせて、レミリアを睨みつけているのだ。
 そして、一言。


「お姉様がモリチカを殺すなら、私は咲夜を殺すよ」


 それを聞いた僕は、とてつもない後悔に襲われた。
 フランドールにその言葉を言わせてしまったという事実が、そしてそれによって生き永らえているという自分が、何よりも情けなかった。
 踏み込んではいけない領域だった。僕は引き際を間違えたのだ。それも、これ以上ない程に。


「咲夜は私の、このレミリア・スカーレットの従者だ。それを分かって、言っているのか?」


 その問いの真の意味は、きっと同じ吸血鬼であるフランドールにしか分からない。
 しかし、決して好意的なニュアンスを含んでいないことだけは確実だった。


「ピンチの時には駆けつけるのが、本当の友達なんだって」

「……魔理沙か」

「うん。……これはね、お姉様も咲夜もパチュリーも美鈴も、誰も教えてくれなかったことなんだよ」

「……そうか」


 僕らはいつ本当の友達とやらになったんだ、と質問してみたい衝動に駆られもしたが、さすがに自重する。
 先ほどから、妙に自分の思考に違和感を感じていた。
 さっきもそうだった。
 いくら魔理沙からの頼みとはいえ、別段仲が良い訳でもないフランドールを命がけで擁護する必要などまったくなかったのに、僕はなぜか彼女を庇い立てしていた。
 なんだかなぁ、と緊張の糸を切らした途端に、至って簡単な今回の騒動の解決方法を思い付いた。
 というか、最初からそのつもりでフランドールに着いてきていたのに、まるで思考が狂わされたかのようにすっかり忘れていたのだ。
 膠着状態となった二人に、僕は声をかけた。


「フランドール、何かレミリアに聞きたいことがあったんじゃないのか?」

「え?」

「レミリアも、言っただろう? 伝わっていないのは、君が伝える努力を怠っているからだ」

「あ?」


 何様のつもりだ? と殺意を伴った目でそう訴えるレミリア。今度は恐怖で鳥肌が立ったが、僕は続けて言った。


「フランドールが聞きたいことと、レミリアが言いたいことは同じだってことさ」

「フランが私に、聞きたいこと?」

「え、あ、も、モリチカ!? 一緒にって!!」

「大丈夫だよ、フランドール」


 一緒に聞いてやると言ったのは嘘ではないけれど、レミリアの真意を知った以上、僕にとっては答えの分かりきった問答である。


「お姉さんを、信じろ」


 うるうると瞳を濡らし、非難がましい目で僕を見るフランドール。
 しかし、無責任だと言われようが、後のことを考えればこの場には僕がいない方が良いに決まっている。


「部外者の僕は外で待たせてもらうとするが、言い出しにくいことは年長者から言ってやれよな」


 レミリアに対し一方的にそう言って部屋を出て行こうとしたところで、驚愕の事実に気付いた。


「……フランドール。そのままだと咲夜が死んでしまう。離してやってくれ」

「あ……」


 三日間も自分を探してくれていた相手に対し、あまりにもひどい対応だった。
 フランドールから気を失っている咲夜を受け取ると、今度こそ僕は部屋を出て行った。




















/004



 廊下に出ると、そこには待ち受けていたようにパチュリーが立っていた。


「随分と無茶をしたものね」

「ああ、本当に。本当に僕は今、よく生きているものだ」

「全くよ。冷や冷やさせないでちょうだい」


 別室に案内され、気を失っている咲夜をベッドに寝かせた。
 見た所、少しの生傷はあったが軽傷で済んでいるようだ。


「咲夜が起きない原因の大部分は、疲労と寝不足よ」


 言いながら、パチュリーは僕に紅茶を差し出した。


「ありがとう」


 近くの椅子に深く腰掛けて、それを飲む。飲んでから、それがミルクティーだと気付いた。口の中に広がる甘さ。不意に涙が出そうになった。


「…………?」


 カタカタという音が聞こえると思ったら、僕の手が震えてカップを鳴らしているようだった。
 死んでいてもおかしくない。今ここに僕が生きていることは奇跡のような出来事なのだと、ようやく脳が、体が、理解したらしい。


「すぅ……はぁー……」


 深呼吸をして、全身に隈なく血液を行き届かせる。
 音が止んだ。
 パチュリーが両の手で、僕の手を包み込んでいた。


「あ……」

「大丈夫。もう、大丈夫だから」


 パチュリーの手が触れている部分から、暖かい何かが体中を巡っていく気がした。
 震えは段々と収まっていき、心身ともに大分落ち着いた。


「ありがとう。おかげで落ち着いたよ」

「……どういたしまして」


 僕はどうにも、パチュリーの前では気絶したり恐怖に体を震わせたりと、情けないところばかり見せている気がする。


「……あの、パチュリー? 僕はもう大丈夫だから」

「え? あ、ああっ!?」


 慌てて手を話すパチュリー。
 彼女が慌てる姿を見るのは、これが初めてかもしれない。


「ご、ごめんなさい」


 顔を伏せてなぜか謝ってくるパチュリー。


「なんで君が謝るんだ」


 苦笑しながら僕がそう答えると、それもそうね、とパチュリーが言い、二人して笑った。
 いつしか震えは完全に止まっており、今度は音を立てずにミルクティーを飲むことができた。


「……じゃあ、少し話をしましょうか」


 僕が調子を取り戻したのを感じ取ったのだろう、パチュリーはそう言って今回の騒動について、家出が発覚してからの紅魔館の面々の動向を話し始めた。
 まず気付いたのは咲夜らしい。その鋭い嗅覚(もちろん比喩表現である)を以て不穏な空気を察したらしく、それとなくフランドールの部屋を訪ねれば、中には誰の気配もない。
 返事もないので中の様子を確かめると、精巧ではあるものの明らかに生物の気配を持っていないフランドールの等身大人形を発見。
 すぐにレミリアに報告し、そのまま捜索が始まった。
 その際、たまたま寝ずの番の当番から外れていた美鈴(実際は偶然でなく、魔理沙が調べたのだろう)とパチュリーが加わって、捜索隊が組まれた。
 パチュリーが魔法で敷地内にフランドールがいないことを確かめてから、咲夜と美鈴、そしてレミリアが敷地外を捜索することになった。
 パチュリーはそのまま館に残って各人の連絡係を務めたらしい。


「まず犯人候補に挙がったのは魔理沙だったわ。人形のこともあったしね」


 ああ、そうか。と納得する。
 咲夜にとって、やはりフランドールを探す上で魔理沙は有力候補だった。
 また僕の予測通り等身大人形はアリスの作品で(ご丁寧にサインがしてあったそうだ)、彼女は魔理沙と交友がある。
 しかし実際、その魔理沙は竹林で負傷し、永遠亭で保護されているような状態であった。
 その時間はおおよそフランドールの家出の時間とかち合っていて、とてもフランドールの家出の共犯とは思えなかった、というわけか。


「こういう言い方はアレかもしれないが、監視体制のようなものはなかったのか?」

「ええ。今までは、暴れ回った結果その勢いで脱走、ということは何度かあったけど、今回のようにお忍びで家を出たことは初めてだったの」


 僕の質問に答えながらも、話の腰を折らないでよ、と眉を歪めて僕を見るパチュリー。
 確かに、こういう時は質問があるなら最後まで話を聞いてからする、というのが礼儀である。
 素直に謝罪し、先を促した。


「コホン。……まあ、そうは言っても、後は大体あなたも知っての通りよ。レミィは太陽が昇っている時は外に出ないから、咲夜と中国が三日間休みなしで探し回って、ついさっきレミィがフラフラになった咲夜を館まで連れ戻したってところ」

「それは今知ったな。しかし、なるほど。あの口論はそういうことだったのか」

「私も"目"を散らして探してはいたけど、全く足取りが掴めなかったわ」

「目?」

「ええ。これよ」


 人差し指を上に向けると、そこには文字通り"目"があった。


「うわ、これは……随分とグロテスクな」

「そう? 眼球をイメージして作ったからこうなるのは仕方ないのよ」

「これもある意味、機能美と言えるのかね……?」

「さてね。まあ、機能重視で外見に気を配っていない、という点では、間違っていないわ」


 そして、話の続き。ここからはフランドールがレミリアの叱責を受けた後の話だ。
 僕も見た通り、フランドールは有無を言わさぬ勢いでレミリアに責められて、地下の自室に駆け込んでわんわんと泣いたらしい。
 これはまずいと、"目"を通して一連の出来事を見ていたパチュリーはフランドールの部屋へ向かい、ドアの前でフランドールの後を追ってきた咲夜と鉢合わせた。
 そこで二人は僕とレミリアを二人っきりの状況にしてしまったことに気付き、慌てて咲夜が戻った。
 パチュリーは、首謀者である魔理沙と縁があるとはいえ、曲がりなりにも妹を送り届けた僕に対してレミリアがすぐさま危害を加えることはないだろうと思っていたのだが、フランドールを慰めるために部屋に入りながら"目"を通して部屋の様子を確認すれば、僕がレミリアを糾弾しているような状況だった。
 ついフランドールの目の前で、「このままだと霖之助が死んでしまう」と零してしまい、今度はそれを聞いたフランドールが目にも止まらぬ速さで飛んで行った、という訳だ。


「……つまり、僕の命は、その、アレか。いっぱいいっぱいだったのか」

「ええ。咲夜が少しでも躊躇しなかったら。フランが少しでも戸惑って部屋に入るのが遅れていたら。私の速さでは全力で飛んでも間に合わなかっだろうから、多分、死んでいたわね」

「……でも、それならなぜレミリアは直接僕を殺さなかったんだ?」

「それは……私にもわからないわ。どのみちレミィが殺す気になっていたら、館にいる誰が止めようとしたところで無駄よ。そういう運命にされてしまうから」

「君にも分からないか」

「レミィと私は親友だけど、何もかも知り尽くしているわけじゃないわ」


 ここらで閑話休題、といきたいところだったが、この場合の本題であるレミリアたちの話し合いは未だに終わらないようで、とりあえずは閑話続行である。
 また、こうして一段落して落ち着くと、レミリアたちをことが気になりだす。
 上手くやっているはずだが、変にこんがらがっていやしないかと、不安になるのだ。
 恋愛事ではよくある話だ。周囲から見れば両想いなのは分かりきっているのにも関わらず、当の本人たちがなかなか踏み込めない、なんて話は。


「それにしても」

「……どうしたの?」

「いや、僕が言うのも何なんだが、なぜフランドールは僕を助けてくれたんだろう、と思ってね」


 思い浮かぶ可能性は二つ。倉庫の件で僕に恩を感じているからか、レミリアへの反抗心からかのどちらかだろう。
 何気なくパチュリーにも聞いてみたら、予想外の答えが返ってきた。


「どちらもはずれよ」

「え? ……じゃあ、なんだって言うんだ」

「私はこの三日だけは屋敷の中にも"目"を飛ばしていたから、あなたたちが入って来た時も部屋でモニタリングしていたの」

「そうだったのか」

「ええ。それで、その時あなた、フランに言っていたじゃない。殺されそうになったら助太刀を頼むって」

「あ…………え?」

「そしてフランは了承し、約束した。約束を守って、あなたを助けた。それだけよ」


 あるいは軽口ともとれるような、そんな口約束を。


「フランドールは、姉と……敵対してまで、出会ったばかりの僕なんかとの約束を守ったというのか?」

「吸血鬼は盟約を尊ぶ生き物よ。口約束だからとか、親交の深さとかは問題じゃないの」


 レミリアに対して思う。全く、とんだ自慢の妹じゃないかと。


「でもね、霖之助。これだけは憶えていおて」

「なんだい?」

「狂気は……フランの持つ狂気は、伝染する。そしてそれが狂気である以上、自覚することは絶対にない」

「狂気が、伝染する?」

「今回のあなたは、随分と出しゃばりだったわ。普段の、と言えるほど私たちは親密な仲ではないかもしれないけれど、きっと普段のあなたなら、あそこでレミィを怒らせるような発言はしなかっでしょう」

「それは……」


 その通りだろう。
 事実、僕がなんだかんだ言って特に何の対策も持たずにのこのこと紅魔館までやってきたのは、倉庫の管理を怠っていたという以外は僕に非がないことと、話す機会さえあればそれを正確に伝えることのできる自信があったからである。


「普段のあなたなら絶対に避ける行動。しかし、そうするに至った思考。今思い返せば、何か違和感だとかを感じるんじゃない?」


 そこで、レミリアの部屋で感じた思考の違和感を思い出す。
 確かにおかしい。まるで思考に“狂い”が生じたかのように、おかしかった。
 僕とフランドールは本当に出会ったばかりで、互いのために命を懸けれるような、そんな関係ではない。
 しかし現実、僕は彼女のために命がけでレミリアを論破にかかり、フランドールは僕を守るため咲夜を殺そうとまでした。


「思い当たる節は、あるわよね?」

「あ、ああ。ある。あるけどしかし、一体これはどういうことなんだ?」

「だから、それこそがフランの狂気なのよ。フランは元来、感情の揺れ幅が大きいの。悲しくても、普通ならば泣くのを我慢できるところを、あの子は我慢できない。これは喜怒哀楽、全ての感情に対して言えること」

「でも、僕といた時はそんな素振りは見せなかった」

「そうね。フランは五〇〇年以上を生きる吸血鬼だもの。最近は違うけれど、長い間、ただ無為に時を過ごしてきただけだと聞いているわ」


 それでも、それだけ長く生きていれば自制くらいできるようになるわよ。とパチュリーは言った。


「それは……矛盾じゃないか」

「そうね、これは矛盾だわ。狂気はその間に生まれたのか、生まれてから地下に幽閉されたのかはわからないけれど……」


 子供で大人。矛盾。


「フランの中には狂気があって、いくつもの矛盾した精神がある。人格、とも言い換えることができるわ」


 多重人格。これもまた、ある意味で矛盾。


「矛盾。矛盾。矛盾。これだけが、あの子と苦楽を共にしてきた。そうさせたのが狂気なのか、その結果が狂気なのか。そこまでは私には分からない」


 思い出すのは倉庫でのフランの言葉。





『ふふ。矛盾だね。そういうの好きだよ』





 唯一、自分と共に在ったもの。それが……


「矛盾と矛盾が生み出したもの、というわけか」


 あるいは、矛盾を生み出したものか。


「そして、フランが持つ狂気は他者へと移る。フランが心を許せば許すほど、その狂気はフランから相手へと委ねられていく」

「僕の感じた違和感は、その分だけフランが心を開こうとしてくれた証ということか?」

「そうなるわ」

「なら、君らはどうなんだ?」

「紅魔館に住む者はレミィの能力でフランとの運命を閉じられているのよ。だから、私たちは明確な意思を持って会いに行かなければフランには会えない。けれど私たちは運命が繋がっていないから、狂気が移らない」

「運命ね……。ひどく、曖昧だな」

「この場合の運命は縁(えにし)よ。縁を断たれれば、仲は発展もしないけれど悪化もしない」


 縁を断たれれば仲は悪化しそうなものだが、それも違うらしい。
 レミリアの能力の加減がそうさせるのだろうか。


「……それじゃあ、魔理沙はどうなるんだ。魔理沙とフランドールの仲の良さは君も知っているだろう? 魔理沙もレミリアの能力を受けているのか?」


 二人の仲は、ここ数年でより深いものになっている。とすれば、魔理沙とフランドールとの縁がずっと断たれた状態でいたとは考えにくい。
 そしていくらなんでも、魔理沙がフランドールに会いに来る度にレミリアが能力で運命をいじるということも考えにくい。
 レミリアだって外出することはあるし、そうそう都合よくいくとは思えなかった。


「いいえ、魔理沙は初めからレミィの能力下には置かれていないわ。……そこなのよ。魔理沙がフランの狂気に侵されているようにはとても見えない。だから、レミィは判断しかねているの。もしかしたら、魔理沙がフランを救う鍵になるかもしれないと」

「フランドールは魔理沙に全く心を開いていない、という可能性は?」

「……それも、わからない。フランは狂っているから、計算ができないのよ」


 一に一を足せば二である。
 これは一の次の数字が二である、という絶対条件のもとに成り立つ式であり、例えば一の次の数字が三だったり四だったり、その都度気まぐれで変動していくような場合は計算できない。成り立たない。
 もっとも、心なんてものを計算しようとするのは魔女だけなのだろうけど。


「まあ、それはおいおい考えよう。……というか、この話を僕にしてよかったのか?」

「フランはレミィと敵対してまであなたを守った。あなたはもう関係者よ」

「……まさか僕に、フランの従者になれ、とか言い出さないよな」

「フランがそれを望んだとしたら、あなたは断れないでしょう?」


 命の恩人だものね、と付け加えて、パチュリーは笑った。
 僕としてはとてもじゃないけど笑えない。
 そうなれば自然と香霖堂は閉店せざるを得なくなり、今まで積み上げてきたものは全て水泡に帰す。
 近い将来にそんな未来を想像し、僕は溜息を吐いた。


「きっと大丈夫よ。結果的にレミィたちを仲直りさせるきっかけを作ったのはあなたなんだし、貸し借りは無しになるんじゃない?」

「……だと、いいけどね」


 もう一度溜息を吐こうとしたところで、廊下から二つの話声が聞こえてきた。
 パチュリーが扉を開き、こっちよ、と二人を招き入れる。


「あっ、モリチカ!!」


 仲良く手を繋いで入って来たのは、レミリアとフランドール。
 レミリアは恥ずかしいのか慣れていないのか、心なしか頬を染め、所在なさげな顔をしている。
 しかし嫌々手を繋いでいるという感じは全くしない。


「あのね、モリチ……こ、この裏切り者めっ!」


 笑顔を見せたのも束の間、フランドールはハッと何かを思い出したように、僕を罵倒した。
 きっと、いや間違いなく「レミリアに一緒に聞いてあげる」という言葉を反故にされたことに対して言っているのだろうが、もちろんそれにはそれなりの理由がある。
 聡明なレミリアなら分かっているだろうと期待を込めて彼女を見る。


「…………フッ」


 しかし、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべるレミリアの顔を見れば、彼女が訳を分かっていてフランンドールに伝えなかったことが嫌でも察せられた。
 ぎゃーぎゃー僕に文句を言うフランドールと、その隣で不敵に笑うレミリア。
 そんな二人は誰がどう見ても仲の良い姉妹であり、僕は先ほどよりも深く息を吸い、大きな溜息を吐くのであった。




















/005



「お見舞いには行ってもいいが、必ずその日のうちに帰ってくること」


 僕が紅魔館を後にする直前、結局これを条件に、フランドールは外出許可を手に入れた。


「行ってもいいの?」

「必ず帰ってくるのよ? それを守れるなら行ってもいいわ」


 とは言っても、魔理沙の状態が未だ不安定のため、実際に行くのは少なくとも永琳の許可を得てからのことになるだろう。
 それを伝えると、フランドールも渋々ながら了解してくれた。
 その際に、


「うらぎりものー、うらぎりものー」

「……もう何度も謝っただろう? いい加減に許してくれよ」

「ぜっっっったいに許さないんだから! 私はちゃんとモリチカとの約束を守ったのにっ!!」

「だからそれには理由があってだね……」


 というやり取りが不毛なまでに繰り返された。
 レミリアはもちろんのこと、パチュリーまでも止めようとはしてくれず、僕はなんとか、「後日、フランドールに香霖堂を案内する」という条件で事態の収拾に成功した。
 狂気云々に関してはレミリアが何かしたのか、もう自身の思考に乱れは感じなかった。
 話が一段落したところで、レミリアがフランドールに言う。


「フラン。こいつの見送りの前に、咲夜に謝ってきなさい」

「え……う、うん」

「大丈夫よ。今は寝ているけど、怒っていないから」

「そうかな……そうだといいけど……」

 目に見えてしょぼくれたフランドールをレミリアが激励し、ちょっと行ってくるね、と言ってフランドールは部屋を出て行った。
 パチュリーもそれを見届けた後、中国に連絡してくると言って自室に戻った。


「ここ三日の間、咲夜は眠っていないのか?」


 パチュリーから話は聞いていたので、僕は確信を持ちながらも、レミリアに質問した。
 思い出すのは、レミリアに僕を殺せと命じられた時の、不自然なまでの咲夜の赤い瞳。
 あれは、寝不足で目が充血していたのだ。


「ええ。フランには内緒よ? それに、咲夜もきっと知られたくないと思っているわ」

「分かっているさ。……それにしても」


 僕は横目にレミリアの瞳を見て、苦笑する。


「……なによ」

「いや、別に。君は……怒ると、口調が変わるんだなって」


 僕が苦笑した理由はこれとは違うことだったが、わざわざ言うのも野暮だと思い、咄嗟に話題を変えた。


「言われてみれば、そうね。特に意識しているわけではないけど」

「ということは、やっぱりあっちが地なんだろうなぁ」

「……なにか文句でもある?」

「い、いや、そう言う訳じゃない」


 軽く睨みつけてくるレミリア。僕はつい先ほどの恐怖を思い出して、思わずどもってしまった。
 そんな僕を見て更に追及しようとしたのだろう、レミリアの口が一瞬開いて、しかし何も言わずに息を吐いた。


「……一応、ありがとう、と言っておくわ」

「フランドールのことなら気にしなくていい。元はと言えば魔理沙のしでかしたことだ」

「それもあるけど。……あの時、フランと二人っきりにしてくれたこと」

「ああ、それか。……まあ、どこまでいっても、僕は紅魔館にとっては異物でしかないからね」


 今回、異物である僕の役割はレミリアとフランドールの橋渡しであり、過度な干渉を控えることでもあった。
 前者はともかく、後者に関しては全く控えていなかったが、最後の一線だけは越えずにすんだ。正確には、越えてしまったけれど足を着く前にフランドールが連れ戻してくれた、といった感じか。
 仲直りというものは、可能な限り関係者だけで行うべきなのだ。
 第三者の存在は後々になって影響してくることがあり、それでは仲直りは成功とはいえない。


「……もっとも、僕を殺そうとしたことは一生忘れるつもりはないけど」

「それは一向に構わないわ。あなたじゃどう頑張っても私に復讐なんてできないから」


 残念ながら、その通りだった。


「それより貴方、いつの間にパチェや咲夜をたらし込んだのよ?」

「たらし込んだって……酷い言い草だな。交流があることは否定しないが、そこまで特別な仲という訳ではないよ」

「……ふぅん。まあ、いいわ」


 パチュリーの名前が出たことで、彼女が「レミィは能力で縁を操作できる」と言っていたことを思い出し、それについて聞こうと思ったのだが、それを妨げるかのように部屋のドアが開いた。
 フランドールが帰ってきたのだ。


「ただいま。咲夜やっぱり寝ちゃってたから、お手紙かいてきた」

「そう。咲夜、きっと喜ぶわ」

「うん……。『ごめんなさい』って」

「悪いことをしたと思うのなら、もう二度としちゃだめよ?」

「……うん!」


 話が綺麗にまとまったところで、レミリアが僕を追い出すかのように出発を急かす。


「ほら、あなたはもう帰りなさいよ」

「はいはい。じゃあ、永遠亭でお見舞いの許可をもらったら連絡するから」

「……モリチカ、もう帰っちゃう?」

「もう夜も遅いしね。明後日にでもまた会えるさ」

「うん……じゃあ、またね」


 フランドールの頭を一撫でして、僕は言う。


「ああ。それじゃあ、おやすみ」


 この場にいないパチュリーと咲夜にもよろしく、とレミリアに伝えて、僕は玄関扉に手をかけた。


「妖怪どもはこれからが本領なんだから、さっさと帰りなさい」


 半妖である僕に対する嫌味なのか、はたまた僕の身を案じているのか。
 後者はないな、と思いながら、軽い仕返しを実行する。


「分かっているさ。君の方こそ、良い睡眠を」


 レミリアが呆れたように肩を竦めて後ろを向いた。
 まるで咲夜と同様、不自然に赤くなったその瞳を見られたくないかのような、そんなレミリアの荒い見送りであった。




















/006



 面会の許可は、魔理沙が目を覚ましてから五日後にやっと下りた。
 もっとも僕は暇ということもあり、魔理沙の見舞いには毎日来ていた。 
 まあ、結局は魔理沙に会えないので、輝夜の茶会に招待されたり鈴仙の手伝いをしたりといったことがほとんどだったが。
 迷惑じゃないかと永琳に聞くと、「あなたが来ると姫様が早起きするから助かるわ」と言われた。
 なるほど、客は来れども主人は床の中、というのは些か失礼に当たるもの。
 しかし、それは僕が輝夜の安眠を妨害しているのではないか、と逆に不安になったりもしたけれど。
 また、昨日は霊夢と一緒に見舞いに来た。
 目覚めてからの五日はほとんど検査入院のようなもので、本人は退屈で仕方なかったようだ。
 久しぶりに会った僕と霊夢に対し、随分とはしゃいだ様子を見せていた。
 今日は霊夢は用事で来れないらしく、「暇だったらまた来てあげる」と言っていたが、つまりは明後日にまた来ますという解釈で間違いないだろう。


「それでさー、輝夜に散々馬鹿にされたんだよ。『……貴女、結局何しに来たの?』だって」


 家出騒動が一応の解決を見せてから十日後であり、魔理沙が目覚めてから七日後。
 僕は永琳から許可をもらった次の日にそれを紅魔館に伝え、その次の日、つまり今日なわけだが、僕はまた魔理沙の見舞いに来ていた。


「よし。僕が後で叱ってこよう」

「い、いや、そこまでしなくてもいいんだけど……。もう昔みたいな子供じゃないんだし」


 話題は二転三転し、しかし魔理沙は本題であるフランドールの話に触れようとしなかった。
 とは言え、魔理沙の心境を思えばそれも致し方ないことかもしれない。
 フランド-ルを一人ぼっちにさせないための家出計画だったのに、真っ先に自分がその状況に追いやってしまったようなものだ。
 そんなことを考えていたからだろう、急に黙り込んだ僕を魔理沙が訝しげに見ていた。


「こーりん?」


 魔理沙から聞きづらいならば、やはり僕の方から切りだそう。
 『言い出しにくいことは年長者から言ってやれ』とは、僕がレミリアに言った言葉でもある。


「……あー、魔理沙。その、な。フランドールのことだがな」

「!!」


 実際、僕が見舞いに来た時からこの話題が気になっている様子を隠せていなかった魔理沙だ。
 一瞬顔を強張らせて、力なく瞳を伏せ、それでも魔理沙は先を促した。


「……ああ。どう、なった?」


 僕はパチュリーから聞いた「フランドールの狂気」以外の全てを魔理沙に説明し、ひとまずの解決が見えたことを伝えた。
 魔理沙にはレミリアからもまた別の接触があるだろうが、それは魔理沙が自分で始末をつけることである。


「そうか……良かった、本当に」


 自分のせいでフランドールとレミリアの関係が壊れてしまわなくて、本当に良かった。
 話を聞き終えた魔理沙は、そんな安堵の声を漏らした。


「……なあ魔理沙、君はいつだか言ってたな。パチュリーは弾幕ごっこの時、考えすぎて弾幕が追い付いてないって」

「……言ったかもな」

「きっと、今回の考え過ぎは、君だったのさ」

「……うん」

「フランは純粋で一直線なんだ」

「……うん」

「フランは、君より子供で、だけど君より大人だから」

「う゛ん……!!」


 魔理沙は必死に唇を噛み締めて涙をこぼさぬようにこらえていた。
 たとえ中身が薄かろうと、ただ多くの時を無為に過ごしてきたというだけであろうと、フランドールは五百年という長い年月を生きた吸血鬼なのだ。
 その年月の二十分の一すらも生きていない人間の娘との価値観に多少の相違があっても、なんら不思議なことではない。


「きっと、怒ってるよな……」

「フランドールが? いや……」


 と、そこで。
 窓の外、首に包帯を巻いた十六夜咲夜の姿を見た。


「…………」


 咲夜は窓越しに僕と目が合ったのを確認すると、一礼してすぐにいなくなった。
 しかし、それで充分だった。


「……うん、まあ、本人に聞いてみればいいんじゃないか?」

「今さらどのツラ下げて会えるってん、だ……よ……」

 魔理沙の声は段々と小さくなり、その目は開けっぱなしになっているドアに釘付けとなっていた。





 ぴょこん、と。





 一度見たら忘れないであろう、特徴的な翼の端っこが、ドアの向こうに見えていた。


「入っておいで、フランドール」


 僕がそう声をかけると、翼がびくっと大きく上下し、その持ち主である少女の顔がそろそろと現れ始める。


「……ま、魔理沙が怪我したって聞いて。それで、その、お、お見舞いに来たんだ……」


 ついには零れてしまった涙を見られないように。
 くしゃくしゃになった泣き顔を見られないように。
 とことこと近寄って来たフランドールにしがみついて、その体に顔を押しつけ、くぐもった声で「ごめん……ごめんな……」と魔理沙は謝り続けた。
 フランドールは、きっとどうしたらいいのか分からないのだろう、手と羽をパタパタさせて、胸の中の魔理沙に「どこか痛いの?」「お医者さん呼んでくる?」などと聞いている。
 結局、魔理沙に釣られてフランドールまで泣きだしてしまい、そんな二人の様子に安堵して、僕は静かに部屋を出て行った。


「何事なの?」


 部屋を出ると奥の方から泣き声を聞きつけた永琳がこちらに向かってきており、僕は唇に人差し指を立てながら中を見れば分かると目で伝えた。
 中の様子を覗き見て事情を察した永琳は、無言で僕を診察室に案内した。


「騒がせてしまってすまないな」

「いいえ、構わないわ」

「助かるよ」

「もともと用があったのはあなただけだから」

「どんな用があったんだい?」

「魔理沙のこと。明日にはもう退院しても大丈夫よ」

「ほう。それは良いニュースだ」

「あと、霊夢が少し怪しんでたから適当に誤魔化しておいたわ」

「それは……悪いニュースだな」


 こと異変に関して、霊夢の勘は馬鹿に出来ないものがある。
 行き当たりばったりな捜査をするくせに、結局は核心に辿り着いてしまうのだ。


「霊夢からすれば自分が応援を頼んだせいで魔理沙が怪我をしたってことになるから、多少なりとも罪悪感があるんでしょう」

「……まあ、黙っていればフランドールにまで行き着くことはないだろう」

「そうね。せっかくそっちが丸く収まったんだもの。わざわざ巫女さんに伝えて大事にすることはないわ」

「ああ。すまないが、そうしてくれ」

「口止めの報酬は、またいつか、ね?」

「ハァ……君には借りばかりが増えていくな」

「早く返さないと取り返しのつかない要求をするかもしれないわよ?」

「まさか。そこは君を信じているさ」

「私じゃなくて、ウチの姫様が、よ」

「それは……こわいな」

「でしょう?」


 輝夜のことは未だによく分からない。
 最近はよく手紙のやり取りをしていて、さすがお姫様とでも言おうか、輝夜からの手紙は『上品』や『高貴』といった言葉がよく似合う。
 しかし、たまに……というかここ最近の話だが、永遠亭で会ったりすると、とてもそんな手紙を書く女性とは思えないような奔放さを窺わせたりする。
 これは早急に対策をたてる必要がありそうだ。


「輝夜と言えば、まさか盆栽に興味がある娘だとは思わなかった」

「へぇ……姫様、そのことまで話したの」

「『優曇華』なんて見たのは初めてだったから、感動だったなぁ」

「地上にはない植物だからね」

「つい、欲しいとせがんでしまってね。考えておくって言ってたけど、まあ無理だろうな」

「珍しい……というか、幻想郷ではここにしか存在しない植物だから、さすがに難しいでしょうね」

「対価次第では今すぐあげてもいいって言ってたけど、結局どうすればくれるのかは教えてくれなかったよ」

「そ、そう……あ、アハハ、一体どんな対価でしょうね」


 無理をしてでも手に入れたかったためどうしても教えてほしいと粘ったのだが、





『ま、まだ早い! てゆーか無理、言えない! か、顔が近いっ!!』





 といった調子で、一向に教えてくれなかった。
 聞き方が多少強引だったかと反省したが、最後には「考えとく!」と言ってくれたので、検討の余地はあるらしい。
 そんな話をしばらくしていたら、結構な時間が経っていたことに気付いた。


「さて……じゃあ、そろそろ向こうに戻るか」

「あら、もうこんな時間」

「今日はあの娘を必ず連れて帰らなきゃならないんだ。行きは咲夜で、帰りは僕が送るっていう約束だからね」

「ふぅん……姫様には会って行かないの?」

「今日はこのまま帰るよ。どうも魔理沙をいじめてくれたみたいでね。まあ、怒っているとかじゃないけど」

「分かったわ。……どうせ明日も来るんでしょう? じゃあ明日、また会いましょう」


 また明日、と軽く挨拶をして、僕は診察室を出た。





「……どうやら、輝夜はまだ恋愛対象ですらないみたいねぇ」




















/007



 帰り渋るかと思われたフランドールだったが、どうやら紅魔館で相当絞られたらしく、「そろそろ帰ろう」という僕の言葉にすんなりと頷いた。
 魔理沙もさすがに引き留めはせず、僕は「また明日来るから」と言ってフランドールと共に永遠亭を後にした。


「楽しめたかい?」

「うん! 魔理沙、元気そうで良かった!」

「そうだな」


 夕日が落ちて間もない空は、暗いのに明るいという何とも矛盾した色を作っていた。
 フランドールはよっぽど嬉しいのだろう、先ほどまでの魔理沙との会話を僕に聞かせる。


「それでね、魔理沙がね……」

「ほうほう」


 僕は適当に相槌を入れつつ、頭では別のことを考えていた。
 今回の騒動を思い返していたのだ。


(……しかし、全く以て今回は迂闊だったな)


 結果として、僕がしたのは魔理沙とフランドールの関係を今まで通りに保っただけである。
 レミリアのことにしても、フランドールとの仲直りはあくまで「黙って家を出た」ことに対してであり、二人の長年の溝を埋めることないだろう。
 これからもフランドールは地下室で過ごすだろうし、勝手に外に出ることも許されはしない。
 そしてフランドールが知りたいと言っていた原点となる地下幽閉の理由にも、結局辿り着くことができなかった。
 二人の仲直りの時、僕が席を外したもう一つの理由がこれだ。
 フランドールがレミリアに聞きたいことは「自分のことをどう思っているか」と「幽閉の理由」の二つである。
 前者だけなら僕がいてもそこまで問題はなかっただろうが、後者の場合はそうはいかない。
 もっとも、その後の様子を見る限りでは、あの場で聞いたのは前者のみだと思われ、またフランドールもそれで満足しているため、しばらくの間はこれ以上の発展は望めないだろう。


(やはり可能性が一番高いのは……)


 吸血鬼はプライドが高く、自分より下の種族と交流することはあっても馴れ合うことは滅多にないと言われている。
 その反面、家族や盟友への愛情はとても深い。


(……血族殺し、か?)


 理性ある全ての種族にも該当するであろう禁忌中の禁忌。
 そして家族、血族への愛情が深い吸血鬼にとっては、忌避すべき悪夢である。
 愛する家族が愛する家族を殺すという、許したくても許すことのできない悪夢。


(まあ、ただの予想にすぎないが……)


 彼女らの『事情』とやらを知らないので、フランドールがこれに当てはまるのかは分からない。
 しかし、フランドールの持つという狂気、そして五世紀に渡る地下での軟禁を考えれば、正直な話、一番納得がいくのはこの仮説なのだ。
 今でこそ『フランドールが暴走してその立場を危ぶめないため』、という理由が成立するが、五百年程前の頃はまだスペルカードルールも制定されておらず、幻想郷での立場への配慮などを考える必要はなかった。
 ましてや、吸血鬼は最上位と言っても過言でないほどの力を持った種族である。
 過去にフランドールは狂気で自我を失い、その凶悪な能力でレミリア以外の家族を手にかけてしまった、という仮説。


(……まあ、僕がここでいくら考えたところで答えは分からないし、分かったところで僕に利することはないか)


 無益どころか、変に首を突っ込んでまたレミリアを怒らせでもしたら、今度こそ命はないだろう。
 スペルカードルールでの勝負なら断ることができるし、戦いが避けられない状態になったら霊夢に審判を頼んで即降参すればいい。
 輝夜と妹紅じゃあるまいし、さすがに博麗の巫女の前で白旗を上げる相手に弾幕を向けることはないだろう。
 だが、もしルールなど関係なしに本気で殺しに来た場合。
 吸血鬼にとってこの幻想郷は決して広いとは言えず、逃げ切れる可能性はまず間違いなくゼロ。
 付き合いの長い八雲一家は匿ってくれるかもしれないが、賢者と呼ばれる大妖怪にとって僕にそうまでする価値があるのかというと、やはり期待はしないほうがいいだろう。
 僕に対して借りのある幽香なんかも、ここぞとばかりに味方になってくれそうだ。
 もっとも、それだと死ぬのが少し先延ばしになって相手がレミリアから幽香に代わったというだけで、根本的な解決には至らないけれど。


「……チカ! モリチカってば! 私の話ちゃんと聞いてる?」

「え? ああ、聞いてる聞いてる」


 どうやら思考にのめり込んでいたらしい。
 ぷくっと頬をふくらませたフランドールが上目遣いに僕を睨んでくる。
 しかし、レミリアに本気で殺意を向けられた僕を恐怖させるには、些か迫力が足りていなかった。
 そんなフランドールを微笑ましく思い、僕は彼女の頭を撫でながら言った。

「……なあ、フランドール」

「なあに?」

「前の話……『犬のおまわりさん』の話だけどな」

「えっと、うん」

「僕は思うんだがな。あれはきっと、犬のおまわりさんが無能だったんだよ」

「……へ?」

「だって、そう思わないか? 同じ犬でも、君んとこの咲夜のように有能だったら、名前も家も分からなくたって両方探し出してくれるさ」


 心の中で、今回フランドールを見つけることは出来なかったけど、と付け足した。


「……あは、はははっ! モリチカは面白いこと言うんだね」


 無邪気に笑うフランドールを見ていたら、なんだか僕も釣られて笑ってしまった。
 前方には紅魔館が見えていて、門の前には二つの人影が立っている。


「あれ? お姉さまと咲夜だ」


 僕の何倍も視力の良いフランドールはその人影を識別できたらしく、そんなことを言った。
 きっと心配で外にまで出てきてしまったのだろう。
 フランドールはスピードを上げ、僕を置き去りにして二人の方へと飛んで行ってしまう。


「おかえり、フラン」

「おかえりなさいませ、妹様」


 レミリアと咲夜の出迎えに、フランドールは満面の笑みで答える。


「ただいまっ!!」


 そのやり取りを見て、僕は少しだけ、ほんの少しだけ、家族がいないことを寂しく思うのであった。




















 フランドールを送り届けて紅魔館から帰る途中で、違和感を覚える。


「……ん? そういえば、美鈴に会っていないな」


 廻りが悪かったのだろうと結論を出し、僕は歩を進めた。




















「どこですかー!? フランドール様ぁ!! うぅ……次は川を渡って、彼岸の方まで行ってみよう……」


 後で聞いた話によると、美鈴は彼岸の方まで探しにいっていて音信不通になっていたらしい。
 憐れ、美鈴。





[3429] 第8話 貴方だけの花畑
Name: sayama◆4e28060b ID:21e3a11e
Date: 2009/10/16 02:20
/001



「これは……『めんこ』か。用途は……ふむ、『子供の遊び道具』」

「…………」


 ーーー無縁塚。恐らくは、僕の能力を幻想郷の中で一番活用できる場所。
 僕はそこで、今では恒例となった散策を行っていた。


「ゴミだと思ってずっと放置していた物が、実は歴とした玩具だったとは……僕もまだまだだな」

「…………」

「確か、初めて見たのは『ビー玉』が幻想入りしたのと同じ時期だった気がするが……しかし、この厚紙で何をするというんだ?」

「…………」


 よくよく見てみれば、『めんこ』には野球の打者の絵が描かれていた。
 土にまみれ、風にさらされ続けたことにより相当に薄汚れてはいたが、少なくとも子供の落書きとは思えない。


「……しかし、子供の遊び道具だというのなら、職人に一から描かせては大量生産できないな」

「…………」


 ということはやはり、この絵は印刷されたもので間違いないだろう。
 辺りを見回すと他にも何枚か落ちているのが分かる。拾い上げて絵柄を確かめると、実に多種であった。
 男だったり、女だったり、武者であったり、力士であったり。


「……ふむ。もしや、これは子供用の絵画、というわけか?」

「…………」


 ある程度『文化』という概念が発達してから印刷技術が確立するまでの間、絵画というのはそれはもう高価なものであった。
 何しろ、職人が自らの手で零から線を足していって、一つの形に作り上げるのだ。
 時間はかかる、道具はかさむ、そして何より、似た物は作れても同じものは作れない。
 唯一無二の物を扱うのだ、自然とやり取りされる額は跳ね上がっていき、そこいらの子供が簡単に手を出せるとは到底考えられない。


「……しかし、印刷技術が確立していまえば、同じものを大量生産できる。そこで、子供向けの小さな贋作を作ったというわけか」

「…………」


 となると、この絵は子供に欲しいと思わせる働きがあるということになる。


「つまり、子供たちにとってのヒーロー、というわけか」

「…………」


 『めんこ』の絵を見返してみれば、男は豪奢なタキシードを、女は煌びやかなドレスを身に纏っていた。
 力士や野球の打者も、紙の端に彼らの名前と思しき文字が書いてある。きっとその業界では有名な人物なのだろう。


「しかし、ただ飾るだけの玩具、というものあれだな。子供は風情なんてものは理解できないだろうし、すぐに飽きてしまうんじゃないだろうか?」

「…………」

「やはり、他に何か別の遊び方があるのだろうか」

「…………」

「…………」

「…………」

「……ハァ」


 溜息を一つ。
 話し相手がいるのにも関わらず独り言、という状況にいい加減嫌気が差し、この場にいるもう一人に向かって僕は言った。
 正確には、先ほどからずっと彼女に向かって口を開いていたのだが、一向に返事が来ないためしびれを切らした、と言うべきか。


「なあおい、返事くらいはしてくれたっていいじゃないか。それに、ここへは君が着いてきたいって言ったんだぞ? さっきから僕一人が喋って、何だか馬鹿みたいじゃないか」


 彼女ーーー風見幽香に向かって。


「……私、なにも面白くないんだけれど」

「だから、そう言っただろう? なのに付いていくと言って聞かなかったのは君じゃないか」


 幸か不幸か、店を出てから少しした所で見覚えのある日傘を見つけてしまった。
 僕が気付くくらいだから、当然相手も僕に気付いてしまう。
 それから『どこに行くの?』『無縁塚』『じゃあ、私も付いていこうかしら』『退屈だと思うが』『それは私が決めることよ』といったやり取りを経て、今に至るというわけだ。


「だからって、せっかく私が付いて来たんだから私の方に重きを置くのは当然でしょう?」

「当然じゃないよ。君の常識を僕に押し付けないでくれ」

「ふんっ。こんな物」


 幽香は僕から『めんこ』を奪い取ると、苛立ちを込めて地面に落ちていた一枚の『めんこ』に向かって投げつけた。
 その衝撃で、ペシッ、という小気味良い音と共に、地面に落ちてあった方の『めんこ』が裏返った。


「はい、アンタのお好きな徘徊の時間はおしまい。ほら、もう家に帰るわよ」

「…………ああ、うん」


 僕はしばらく、裏返し、裏返された二枚のめんこを眺めていた。


(これは……いや、しかし……でも遊びだと言うのなら……可能性は無くは無い……が、これに何の意味が……?)


 僕の能力で分かるのは「名前と用途」だけであり、「使い方」までは分からない。
 この場合は「遊び方」が分からない訳だが、今の幽香の行動から僕は何かが閃きそうな気がしていた。
 ……していたのだが。


「私といる時に考え事をするな! 早く立つ!」

「……うるさいなぁ。少し黙っていてくれないか」

「紳士じゃないわね。レディを前に思考に没頭するなんて、どこまで失礼な奴なの」

「君が一端(いっぱし)のレディだと言うのなら、そうぎゃあぎゃあと喚き立てないでくれ」


 思考は見事に中断させられ、僕は結局、彼女の言うとおりに立ち上った。


「分かったよ。……それと、香霖堂は僕の家で会って君の家じゃあないから『帰る』ってのはおかしい」

「なに言ってるのよ。今から行くのは私の家よ」

「……君こそ何を言ってるんだ。まだ昼過ぎだし、僕は帰って店を開けるつもりなんだが」

「あっそ。じゃあ、今日は閉店ね」


 さも当然の様にそう言われ、さすがに頬が引きつった。


「いやいや、そう簡単に店は休みにできないよ。定休日以外に臨時で休めば、信用を失ってしまう」

「未練がましいわね。どのみち、あって無いような信用でしょ? 私が止めを刺してあげるわよ」

「何を堂々と開き直ってるんだよ。それじゃあただの敵対発言だ」

「今朝は孔雀サボテンが咲いたのよ。見たいでしょ? 見たいわよね?」

「孔雀サボテン? それは……聞かない名前だな」


 言ってから後悔した。これでは幽香に体のいい理由を与えたような物だ。
 しかし、孔雀サボテンなんて、植物に関して決して無学という訳ではないこの僕が聞いたことのない名前である。
 興味がない……わけがない。


「ね? 興味あるでしょ? 見てみたいでしょ?」


 不意打ち気味に、ずい、と幽香に顔を寄せられ、もう逃すまいとばかりに腕を組まれる。
 瞬間、恐怖で顔が強張った。


「……その孔雀サボテンとやらを見に行くだけだからな」


 渋面を装うことでそれを誤魔化し、組まれた腕を振り解こうとするが、がっちりと絡められたそれはびくともしなかった。


「ええ、分かっているわ」


 そう言って、歩きだした彼女の腕に引っ張られるようにして僕も前に進む。


「飛ばなくていいのか? 此処から歩くと結構時間がかかりそうだが」


 今の幽香は太陽の畑の近くを住処としており、無縁塚から森を通って行くとなるとかなりの運動量になりそうだ。


「いいのよ。疲れたら飛ぶから」

「僕が良くないんだが……というか、もう逃げないから腕を放してくれ」

「そのまま腕がもげちゃうことになるけど、それでもいい?」

「……好きにしてくれ」


 僕が嫌がることを幽香がやめるはずもなく、そもそも力量差からして自由奔放に生きる彼女を止めることなど僕にはできない。
 聞こえないように溜息を飲み込んで、僕はもう何十年も思い続けている言葉を、心の中で口にする。





 ーーー風見幽香は、僕を殺そうとしている、と。




















/002



 無縁塚から幽香の家に向かう途中、僕は香霖堂に寄って臨時休業の看板を出してきた。
 飛んで行くなら寄り道であるが、歩きならばほとんど道中と変わらない。
 看板を出す際に組んでいた腕は解かれ、たぶん飽きたのだろう、店を出発した時に幽香が再び腕を絡めてくることはなかった。
 それでも徒歩には飽きが来なかったらしく、疲れたら飛んで行く、と言っていた幽香は結局最後まで僕の隣を歩いていた。


「相も変わらず、ここの向日葵は絶景だな」

「でしょう? ……あら、あなたのことを覚えている花もいるみたいね」

「え? ああ、そういや君、花と会話ができたんだっけ」

「まあね。もっとも、感覚でコミュニケーションしているわけであって、文字としての言葉のやり取りではないけれど」

「つまり、花の気持ちが分かるってことだろ?」

「そうね、そんな感じ」


 うふふ、と上品に笑う幽香。
 この花畑にいる時の彼女は、普段より幾らかおとなしく、そして柔らかい雰囲気になる。


「私はてっきり『花に記憶力なんてあるのかい?』とか、そんなことを聞かれるものだと思っていたのに」

「いや、まあそれは確かに疑問ではあるけどね。聞くと君が不機嫌になるだろうと思って」

「お察しの通りよ。まあ、もう言っちゃったから意味ないけど」


 こっちよ、と後に着いてくるよう促す幽香。
 何も言わずにその背中を追えば、予想通り孔雀サボテンのある一角へと案内してくれた。


「これが孔雀サボテンか」


 紅い花。内を固めるかのように前へ突き出る花弁と、その奥から外に向かって延びる花弁。
 実に綺麗だ。恐らく幻想郷の知性ある誰もがそう思うだろう。


「ええ。……あぁ、何度見ても可愛いわ」

「…………」

「あら、なによその顔は。花を愛でるに相応しくない表情よ」

「ああいや、この花はとても綺麗だし、見に来て良かったと思ってるよ」

「……でも、と続くのでしょう?」

「ああ。君なら分かるかな、なんだかこう、前にもどこかで同じものを見た気がするんだ」

「……それは多分、月下美人じゃない?」

「そうだ、月下美人。いやぁ、すっきりしたよ」

「同じ種類の花なのよ。まあ、こっちは夜じゃないと花が開かないってことはないけどね」

「言われてみれば、確か月下美人もサボテンの一種なんだっけか」

「ええ。正確にはちょっと違うんだけど、植物についての細かい分類は幻想郷では一般化していないから……まあ、気にしなくていいことよ」


 僕は以前、一度だけだが、八雲の家で外の世界の植物図鑑を見せてもらったことがある。
 その出来栄えは圧巻の一言に尽き、また幻想入りしていない植物もちらほらと見受けられ、なんとかして手に入れられやしないかと奮闘したものだ。
 まあ、結局手に入れることはできず見れたのはその一度だけであるが、その時に僕が一番興味を持ったのは、製本技術でもなく、充実した出来栄えでもなく、どこまでも緻密に分類されているというその一点に尽きた。
 パッと見れば同じにしか思えないようなものも、植物図鑑に言わせれば違う種類であることもしばしばであった。
 よくもまあこれだけの数の物を、これだけの数に分類しようだなんて思うものである。


「いやしかし、これは見事だな。咲き誇る、という言葉を比喩でなく使えるよ」

「でしょ? ふふ、癒されるわ」


 そうだな、と言おうとした時、思わず目を瞑ってしまうほどの強い風が吹いた。
 もう昼は完全に過ぎたというのに、風がいつもより強い分、暑さはそこまで感じない。


「今日は風が強いわねぇ」

「ああ。でもまあ、気温が高いから、このくらいの方が涼しくていいよ」

「ええ、全く……っと」


 また強い風が吹く。
 幽香は髪が崩れないように頭を押さえていて、そんな様子を見ていると、如何な大妖と言えど女の子なんだなと思ってしまう。
 もちろん、幽香は否定するだろうし、僕も本心から思っている訳ではないけれど。


「此処に来たのもしばらく振りだし、ここいらを一周くらいしてこようかな」

「そう言えばそうねぇ。ここに来るの、一年振りくらいじゃない?」

「……そうか、もう、そんなに経つのか」

「なんだかんだ言って、もうそんなに経っちゃったのねぇ」


 幽香がしみじみとそんなことを言うので、僕はなんとなく、ここ一年を振り返ってみた。


(……幻想郷全体としては、随分と騒がしい一年だったんだろうな)


 それはやはり、幻想郷の色々な場所が繋がったことによる結果だろう。
 紅魔館や永遠亭はもちろん、つい先日など地底世界との交流があったと聞く。
 その全ての始まりは、やはりと言うか、スペルカードルールの制定だろう。
 スペルカードルールによる弾遊び。幻想郷共通の競技とでも呼ぼうか。
 妖怪を代表する賢妖と、人間を代表する博麗が結んだ、神までをも巻き込んだこのルールが、幻想郷を繋いだのだ。
 もっとも、自らのスタンスを変えずにいた僕はにとっては、新しい出会いこそあれど例年通りに落ち着いた一年だった。


 「……よくよく考えてみれば、変わらない日常に嫌気が差す時もあったけど、実際はそうじゃなかったかもしれない」


 僕は日記を付けているから余計にそう感じるのだろう。
 恒久化してこその日常。しかし、変わらない毎日だと思っている割には、読み返す日記の中身は波乱万丈なのである。
 そして、そういったことにせっかく気付いても、それもまた日々の中で薄れ、消えていく。
 そんなことを思っていたら、幽香が急に一歩前を行き、くるりと優雅に振り返った。


「歩きながら考えるから駄目なのよ。一度止まって、ちゃんと後ろを振り返ればいいの。それで、いいのよ」


 幽香はそう言って、にこりと微笑んだ。
 普段の意地の悪いそれと違い、とても綺麗な笑顔だった。


「騒ぐだけが宴会じゃない。変化だけが貴いものじゃない。それが分かれば、日常の中にあるとても小さい……そうね、変化とも言えないような小さな変化で、幸せを感じることができるのよ」


 朝、目が覚めて布団の中で伸びをした。
 昼、窓から入ってきた風が頬を撫でた。
 夜、遠くの方で梟の鳴き声が聞こえた。


 「そうだな。きっと、そうなんだろうな」


 万物は表裏一体。変わることが幸せなら、変わらないこともまた幸せだ。
 僕たちはしばらくの間、互いに口を開くことなく、黙々と、淡々と、ただ目に入る景色をぼんやりと眺めながら、流れのままに足を動かしていた。
 風が吹いた。花が綺麗だ。良い匂いがする。
 まるで幻想郷からここら一帯が切り取られて、僕らだけの世界になったような感覚。
 そんな中、日傘をくるくる回しながら、幽香は口を開く。


「良い風ね」

「ああ、そうだな」

「花が綺麗だわ」

「ああ、そうだな」

「それに、良い匂い」

「ああ、そうだな」

「今、私たち、幸せね」

「ああ、その通りだ」


 ゆっくり歩いていたつもりなのに、気が付けば目の前には幽香の家があった。


「それじゃあ、中に入ってお昼にしましょうか」

「え? いや、僕は……」


 もう帰るからと、そう言い終わる前に、幽香はさっさと家の中へ入ってしまった。


「…………」


 確かに、今までの会話内容を考えると、ここで余韻を感じる間もなく帰るというのは自分でもどうかと思う。
 しかし、しかしだ。
 幽香の話はあまりに唐突である。
 話題を真面目な方向へと持っていき、僕が帰りづらくなるよう思考を誘導したように思えてならない。
 なんとなく後ろを振りかえると、さっきまではあれほど美しいと思っていた多種多様の花たちが、まるで僕の帰り道を塞いでいるようにすら見えてきた。
 まあ、これはさすがに気のせいなのだろうけれど。


「……たまには、いいか」


 変わる幸せがあり、変わらない幸せがある。
 だと言うのなら、これもまた、一つの幸せなのだろう。
 しかし、油断は禁物だ。
 決して忘れてはならないその言葉を、僕はまた、いつも通りに心の中で呟いた。





 ーーー風見幽香は、僕を殺そうとしている、と。




















/003



「ちょっと待ってて。つい最近、良い人肉が手に入ったのよ」


 お茶を寄越しながらそんなことを言う幽香に、僕は多少顔を険しくさせながら返事をした。


「待つのは君だ。いらないからな。僕は絶対に食べないからな」


 僕は絶対に人肉を食べない。
 半人半妖の僕は文字通り半分が人間なので、どうにも共食いの感が否めなくて精神が受け付けないのだ。
 それは対象が妖怪の肉であっても同じであり、むしろ嫌悪の度合いとしてはこちらの方が強いだろう。
 いつだかてゐに、店主はどちらかと言えば人間寄りなのか、という質問をされたことがある。
 聞いた当時は面白い着眼点だとも思ったが、よくよく考ええば、どっち寄りかなんて質問は全くの無意味なのだ。
 僕は『半人半妖』という種族であり、それ以上でもそれ以下でもない。
 後ろに『半人半妖(○○対○○)』なんて比率がつくこともまた、ないのだ。


「……嫌ね、冗談よ。昔のあなたはもっと話の分かる人だったのに……何があなたを変えてしまったのかしら?」


 言葉とは裏腹に、幽香は苦々しい笑みを浮かべている。
 その顔から察するに、完全に冗談という訳でもなさそうだった。
 ばつが悪いのだろう、「冗談、冗談」と必要以上に繰り返しながら台所へと歩いていった。


「君が言うと冗談に聞こえないんだ」


 僕はその背中に嫌味をぶつけ、ふと久方ぶりに訪れたこの家の居間が多少の模様替えを施されていることに気が付いた。
 幽香の家は、お世辞にも大きいとは言えない。
 住人が彼女だけなのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、居間の片隅にベッドが置かれている、つまり寝室がないほどのこぢんまりとした家なのである。
 台所も居間とは薄いレースのカーテンで仕切られているだけで、幽香の顔こそ見えないものの、会話をする分には全く問題がない。


「幽香」


 声をかけると、カーテンの向こうから返事が聞こえた。


「なに?」

「大したことじゃないんだが、内装が少し変わっていたみたいだったから」

「本当に大したことじゃないわね……まあ、別に意味なんてないわ。気分よ、気分」

「気分、ね……」


 予想通りと言えば、予想通りの答えであった。


「……ん? これは……なあ幽香、この時計」

「ああ、アンタがくれたやつよ。有効活用してやってるわ」

「調度良かった。これは持ちかえらせてもらうよ」

「はあ!? 何言ってんの!?」


 僕の言葉を聞き、幽香は濡れた手を拭きながら居間に戻ってきた。
 さも理不尽であるかのような態度だが、全くのお門違いである。


「盗まれた品を見つけたから持ちかえる、というのは自然な行為だと思うよ」

「誰が盗んだってのよ、あんたがくれるっていうから貰ったんでしょうが」

「どうやら、記憶力に難ありのようだね。君が強引に持って行っただけじゃないか」

「一目見て気に入っちゃったんだもの。それに、本当に嫌だったら止めるでしょう?」

「僕が止める間もなく飛んで帰ったのは君だろう」

「その後も何も言わなかったじゃない」

「言おうとする度に殺気を放ってた奴の言い草じゃないな」

「殺気なんて放ってませんー」

「子供みたいなことをするなよ……」


 ぶすっと頬を膨らませる幽香を見て、さすがに無理があるなと思いながら僕はそう言った。
 それでもなお幽香は止めようとしないので、つい魔が差して、ひとさし指で彼女の頬をつついてしまった。


「ぶふっ」

「……可愛げがないなぁ」

「う、うるさい」


 正直、僕も幽香が避けるだろうと思って手を出したので、目の前の顔を赤くした幽香がとても新鮮に思えた。


「全く……どっちが子供よ、どっちが」

「う……」


 さすがに、反論はできなかった。
 バツの悪さから目を逸らした僕に満足したのだろう、幽香はにんまりと笑った後、再び台所に戻った。


「……ハァ」


 無意識に手が出てしまっただけに、自省の念に駆られる。
 もっとも、意識を介して行った行動ではないので、反省した所で改善できるかはわからないけれど。


「そういえばさぁ」


 しばらくして、カーテンの向こうから幽香が話しかけてきた。


「なんでなのかは分からないんだけど、長く生きてると、食べ物の好みってサイクルしない?」

「ああ……それはなんとなく分かる」


 最も簡単な例を挙げるなら、肉と魚と野菜が分かりやすいだろう。
 長いこと生きていると、肉から魚、魚から野菜、野菜からまた肉へ、とそんな風に好みが変化していくのだ。
 もっと細かいと塩と醤油だったり、またお茶の種類だったりもする。


「もっとも、変わりはするが、サイクルかどうかまでは分からないな」

「……まあ、そうかもね。変わるって言っても、元の選択肢が少ないんじゃ確率の問題か」

「いや、しかし言われてみれば、なんだかサイクルしているような気になってきたぞ」

「どっちよ」


 トントンという、まな板を包丁で叩く音がする。
 意外と、と言うと失礼かもしれないが、幽香には家庭的な一面もあり、料理の腕はなかなかに高い。


「サイクル……循環、か。なあ幽香、ちょっと思ったんだが……」

「蘊蓄はいらないわ」

「……そう言うなよ。君から振った話だろう?」

「ならこの話題は終了よ」

「そうかい……」

「もっと他に話すことががあるでしょう? 例えば、ほら、今のこの状況」

「状況? ええと、君が料理をしていて、僕がその完成を待っている」

「そうそう。なら、今の状況に、何かぴったり当てはまる言葉があるんじゃない?」

「…………?」


 いまいち幽香が僕に言わせんとしていることが分からない。
 しばらく考えたが結局分からなかったので、少し単純に考えてみた。
 すると答えはあっさりと出て、働いている幽香と、働かないでくつろいでいる僕。
 つまりは、お前も手伝えと暗に幽香は促していたのだ。


「……ああ、なるほど。それは気が利かなかったな」

「わかった?」

「客の立場としては黙って持て成されるのが礼儀だと思って何もしなかったんだが、何か手伝えと、そういうことか」

「……違う……けど、まあ、いっか」


 及第点だったらしい。
 よっこらせと腰を上げ、僕は台所に顔を出した。


「なんだ、もうほとんどできてるじゃないか」

「まあ、下ごしらえはできてたからね」

「幽香……さては君、最初から僕を連れてくる気だったな」


 見れば、前菜は盛り付けまで完成しており、後はスープが温まるのを待つだけのようだった。
 蓋がしてあるので匂いが遮断されていたのだが、味見をしようとしたのだろう、幽香がスプーン片手に蓋を開けた。
 これ幸いと、くんくんと鼻を利かせてみると、南瓜(かぼちゃ)と思わしき匂いを捉えた。
 実に芳しい匂いである。幽香の料理の腕もあるのだろうが、単純に幽香の菜園で作られた素材の方が一級品ということもあるだろう。
 自分で作る淡白な料理とは比べるまでもなく、このスープに在り付けるというのは素直に喜ばしいことであった。


「うん。良い匂いだ」

「ちょ、ちょっと」

「ん?」

「あ、あんたねぇ……」


 目の前の幽香が気まずそうに狼狽の色を見せている。
 幽香が、あの風見幽香が狼狽するなんて、尋常な出来事ではない。
 なんだと思い、ふと現状を把握しようとして、自分が随分と幽香に接近していることに気がついた。
 幽香の家は小さく、となればキッチンもそれなりに狭い。
 僕がスープの匂いを嗅ごうとすれば、前にいる幽香に、半ば覆いかぶさるような形となってしまうのだ。


「すまんすまん、匂いが気になって」

「べっ……別に、毎日清潔にしているから問題はないけれど」

「え? あ、ああ。そうだね……?」


 確かに、汚れがちな台所にしては綺麗な方であろう。
 僕が気になったのはそういうことではなくスープのことなのだが、まあ一々指摘することもないだろう。
 美味しそうなスープだ、と評して、僕は二人分の前菜を居間に運ぶことにした。


「そうでしょう? ……って、あ、に、匂いって、スープ? スープのこと? ……あ、あはは、そっか、うんうん、美味しそうで、うん、美味しそうな匂いね」

「ど、どうした?」


 幽香が急に慌てだした。
 理由を聞いても「なんでもない、なんでもない。スープ、スープ」と繰り返すだけだ。
 そうこうしているうちに、少し深めの皿に注がれたそれが運ばれてきた。
 出来映えに納得がいかない点でもあったのか、スープを運んできた幽香は少し不機嫌な顔をしていた。




















/004



 幽香の料理はとても美味かった。
 かぼちゃのスープは名前ほどかぼちゃが主張しておらず、もっとドロドロとしたものを想像していただけに、良い意味で予想がはずれた。
 一応作り方を聞いてはみたが、単純に水との比率の問題というわけでもないらしく、自炊に関しては生きるためとある程度割り切って考えているような僕に出せる味ではないだろう。


「しかし、なんだって香霖堂の方まで散歩なんてしてたんだ?」


 昼食を終えた僕たちは、幽香のベッドに腰掛けながら話をしている。
 僕の隣には幽香が座っていて、決して大きなベッドではないため、時たまぶつかる肩がもどかしい。


「目的とか理由があったってわけじゃないわ。ただなんとなく歩いてたらいつの間にかあの辺りまで来てて、そしたらアンタとばったり出会ったってわけ」

「ふうん」

「……なによ」

「いや、随分と長い散歩だったなと思ってさ」


 幽香の気持ちも分からなくはない。
 僕も散歩は好きだし、幻想郷の豊かな自然はしばしば時間を忘れさせる。


「ふん、別にアンタに会いたくて店の方まで行ったとか、そんなんじゃないんだから」

「……………………」

「ちょ、ちょっと待って。今の言い方だと、まるで私が本心ではそう思ってるんだけど素直になれなくてつい憎まれ口を叩いた、みたいな感じにとれなくもないけど、本当に違うから」

「あ、ああ。もちろん分かっているさ」


 理解力が試される難しい会話だった。


「……まあ、いいわ。本当に違うから、気にしないでちょうだい」

「分かってるよ。君に会うのは久しぶりだったから、そんな偶然にも感謝だ」


 美味しい御飯にもありつけたしね、と付け足し、気にしてないというメッセージを込めてにっこりと笑って見せた。
 しかしなぜだろう、幽香は急に顔を背け、げしげしと僕を足蹴にしながら悪態を吐いてくる。


「う……何よ、アンタが中々顔を見せないから私のほうから行ってやったんじゃない」


 幽香は事の真相を自分で語ってしまっていた。
 聞かなかったことにして話を続ける。


「そうは言ってもだな、基本的に僕は毎日店を開けているんだ。何か用事でもないと遠出なんてできないんだよ」

「言い訳ですらないわね」

「正当な理由だから胸を張って言うのさ。真面目に仕事をして怒られる謂れはないだろう?」

「それはどうかしらね。仕事にかまけて家族や知己を蔑ろにする奴だって地獄に落ちるのよ?」

「そうは言っても、両立は難しいさ。それこそ、人里のように知り合いがみんな近所に住んでいたりしない限りはね」


 里では人格者で通っているあの霧雨の親父さんですら、実の娘の魔理沙とは絶縁状態である。
 まあもっとも、これに関しては魔理沙に問題があったとしか言えない。
 少なくとも、里で生まれた人間がいくら魔法を使えるからって、好き好んで森に住みたいだとか妖怪と戦ってみたいだなんて思うことはないだろう。


「それに僕は、家族ならまだしも知己にはそこまで気を使う必要はないんじゃないと思ってる」

「ちょっとぉ、それは問題発言じゃない?」

「いやいや、今君が思っているようなことじゃなくてね。知己だからこそ、そういう気遣いが必要なのはおかしいんじゃないかって話さ」


 言うまでもないが、この場合の知己とは知人や知り合いではなく親友といった類の意味である。


「これは僕の自論だからね。押しつけるつもりはないよ」

「……ま、一里あるかもね。そういうのも“込み”で、親しい間柄だっていうんなら。でもそれ、ちょっと卑怯くさいわ」

「まあ、ね。逃げ腰の意見であることは認めるよ」


 相手が反論するということは、僕の自論に真っ向から対立するということだ。
 その時点で「そうか、僕たちは反りが合わないらしい」と切り返せば、相手は何も言えなくなる。
 こういう事態になることなどほとんどないが、後味が悪くなっても関係を断ち切りたい時には有効な手である。


「逃げ腰どころか、逃げの一手じゃない。商売人としてどうなのよ」

「商売とはまた別の話さ。これはあくまで僕自身の話だから」


 商売に私事を持ちこむ奴は大成しない。
 霧雨の親父さんの言である。


「……そういえば、アンタはそういう奴だったわよね」

「なんだい、いきなり」

「別に。ちょっと昔を思い出したのよ」

「昔……昔といえば、君と初めて会った場所も無縁塚だったな」

「あら、そうだったかしら?」

「僕を殺しかけた場所くらい覚えておいたらどうだい」

「そ、それはもういいじゃない。ちゃんと助かったんだから」

「勘違いで殺されてはたまらないよ」

「対価は払ったでしょ。……いえ、払い続けていると言うべきね」

「それについてはなんとも言えないな。こんなに付き合いが続くとは思ってなかったし」


 ーーー風見幽香は、僕を殺そうとしている。
 僕がこう思うのにはそれなりの理由があってのことであり、決して彼女が気まぐれで他者の命を摘んでしまうような妖怪だと言っている訳ではない。
 むしろ、そういう意味では、幽香はそこらの妖怪より安全だと思えるような部分もあるのほどだ。
 強力であるが故に弱者には一切の興味がなく、もし人里の者が幽香と相対しようとも、その逆鱗に触れない限りは高い確率で生還が望める。
 人間が道端を這っている蟻を見て、気にも留めないのと同じことである。


「私もよ。まさか無名の半妖に『風見幽香』を縛られることになるなんて思ってもなかったわ」

「大袈裟だな、正式な契約をしたわけでもあるまいに」


 これは四十年ほど前の話。
 とある夜、散歩が興に乗った僕は足の赴くままに歩き続け、当時は縁遠かった無縁塚に辿り着いたところで、運の悪いことに幽香と八雲紫が弾幕ごっこをしている場に立ち会ってしまった。
 もっとも、当時は未だスペルカードルールが制定されていない時代だったので、弾幕ごっこというよりはただの喧嘩と言った方が正しい。
 なんとか見つからないようにその場からの離脱を試みたのだが、結局は紫に見つかってしまった。
 そして紫は死闘による酔いのままに、なんと御自慢のスキマで僕を幽香の目の前に放り出した。
 僕はいきなり幽香の前に放り出されたかと思うと、一瞥すらされず、彼女の腕で腹を突かれた。
 それはまあ見事に貫通し、紫は僕の背中から幽香の腕が生えているのをはっきりと見たそうだ。
 この展開にまず紫が正気を取り戻し、次いで幽香が異変に気付いた。
 はっきりいって、僕からすれば完全なとばっちりである。
 長く生きていればそりゃあ怪我をすることだってあるが、腹に穴が開くのはさすがにそれが初めてだった。
 理不尽な仕打ちに憤慨することもできず、痛みから勝手に溢れだす涙を拭うこともできず、ただただ呆然と、目の前にいる幽香を見ることしかできなかった。
 そこで僕の記憶は一旦途切れ、一週間後、マヨヒガにある紫の家で目を覚ますことになる。


「幽々子にまで出張ってもらって……おかげで僕は一生彼女に逆らえそうにない」


 幽香が僕を殺しかけたというのは決して誇張表現などではなく、正しく彼女は僕を殺しかけている。
 なんといっても、あの賢者と呼ばれる八雲紫が焦ってわざわざ冥界から西行寺幽々子を呼び寄せるほどの事態だったのだ。
 当時はまだ永夜異変は起こっていないため、当然永遠亭は竹林に隠れていてその存在は知られていなかった。
 八雲紫と西行寺幽々子。
 この二人の能力を以って、ようやく僕は死の淵から引きずり上げられたというわけだ。
 ちなみに、幽香は単純に強さという意味では幻想郷でも五指に入るかというほどのものだが、僕への治療行為に関しては能力も知識も技術も役に立つものは何一つ持っていなかった。


「幽々子、ねぇ。私はあまり話したことないわ」

「君は交友範囲が狭いからなぁ」

「あの頃は結構荒れてたから余裕がなかったけど、最近はそうでもないわよ」


 再び、当時を思い出す。
 まずは八雲紫。
 この頃の僕たちの関係は、お互い名前は知っているが交流はほとんどない、といったものだった。
 理由としては、僕が不定期に住居を移していたからだろう。
 紫は僕の能力に興味を持ち、僕は『賢者』とコネクションを持ちたかったため、ほとんどは向こうの都合だったが、年に一回程度の割合で会っていた。
 そんな顔見知りである彼女を問い詰めたら「魔が差したとしか言いようがない」とのことで、僕としても賢者と名高い八雲紫に貸しを作ったと思えば許せる……なんてことがある訳もない。
 命を奪われかけたのだ。それ相応の対価は必要だった。
 力量差を考えれば突っぱねられてもおかしくない。しかし、八雲紫の通り名は『賢者』であり、それは決して眉唾ではない。
 後に阿求が東方求聞史紀に『ある程度賢くなると、泥棒行為を恥じるようになるものである』という言葉を載せているが、その典型であった。
 紫は本心から反省しているようで、できることならなんでもする、とまで言ってきた。
 僕はといえば、ここまで平身低頭している紫を見るのは初めてのことであり、この時点である種の達成感を感じていた。
 とはいえ、貸しは貸し。
 ある条件を出し、紫は少し迷ったが、「貴方なら」とそれを飲んだ。
 問題は、もう一匹の方だった。


「そうかい? まあ、最近は幻想郷も変わってきているからね。昔はもっと縄張りというか、各勢力における領域の線引きがしっかりしてたけど、最近はそういうのも無くなってきつつあるみたいだ」

「……私を縛る言の葉も、一緒に無くなってくれればいいのだけれど」

「縛るって言っても、口約束の域を出ないだろう?」

「それにしたって……クク、何度思い出しても笑えるわ……」


 紫と話した後、幽香と話をすることになった。
 初対面の風見幽香は、実に不機嫌であった。
 僕としては自分の腹に穴を空けた張本人な訳であるが、しかし落ち着いて考えてみると、幽香だってある意味では被害者である。
 今回の事故は紫の失敗が引き起こした結果であり、幽香は降りかかる火の粉(という名の僕)を払おうとしただけだ。
 紫に翻弄されている、という共通項を僕と幽香の間に見つけてしまい、あろうことか、自分を直接害したはずの幽香に対し、僕は親近感すら湧いていたのだ。
 幽香本人もそういう見解だったのだと思う。
 だからこそ、自分が不当に悪者のような扱いを受けることに対し、理不尽さを感じての機嫌の悪さだったのだろう。
 よって幽香には「気にしなくていい」と言ったのだが、それでは彼女の気が済まなかった。
 最初は「あんたがそう言うのなら」と言って納得していたが、僕の次の一言でその発言は撤回された。
 僕が放った「まあ、今回は君も被害者みたいなもので、悪いのは全部紫だから」という言葉が気に食わなかったらしい。
 先ほどまでとは一転して「戦いの最中だったとはいえ、あなたに気付けなかったのは私の落ち度」と言い張るのだ。
 多分、僕の「お互い被害者みたいなもんだ」という発言から、自分が紫より下に見られていると思ったのだろう。
 紫には遊ぶ余裕があり、お前にはなかったのだから仕方ない、と。
 もちろん、実際は違う。
 大妖怪である紫に比べれば新参の感はやや否めないが、風見幽香の強さはかなり有名なものであり、当然ながら僕も知っていた。
 むしろ、今回の件で『紫と並ぶほどの強さ』と評価を改めたほどである。
 それを懇切丁寧に説明したのだが「ならば紫と同様に罰するべき」と返されてしまった。
 そこまで言うなら、ということでしばらく思考に没頭していた僕であったが、痺れを切らした幽香が急かすように迫ってきた。
 目の前にクローズアップされた幽香の顔を見て、はて、最近似たようなことがあったな……と、僕がそんなことを思った瞬間。
 訳もわからないままに腹に風穴を空けられた場面がフラッシュバック。僕はとっさに思い浮かんだ言葉を口走っていた。


「『今後二度と僕に暴力を振るわないこと』……って、どんだけ私が怖かったのよ」


 フラッシュバックという現象を馬鹿にしてはいけない。
 対象となる恐怖を一気に思い出すのだ。むしろパニックにならなかった自分を褒めたいくらいである。
 また、幽香は自身を『縛る』と言い、それに対し僕は『それほどの効力はない』と言っているが、これはどちらも正しく、またどちらも間違っている。
 血判状を認(したた)めた訳でもあるまいし、例えば今この場で幽香が僕を本気で殴ろうとしたのなら、それを妨げるものは一切ない。
 しかしながら、この口約束は八雲紫の前で正式に行われたものなのだ。
 僕の出した条件を幽香が承諾した、という経緯を八雲紫が見届けている。
 これはつまり『八雲紫』がその証人となることと同義なのである。
 こういった事情の全てを考慮すれば、事実上、幽香が僕に手を出すことは不可能だと言えるだろう。
 ある一点の落とし穴を除けば、の話ではあるが。


「君な、そりゃ怖いに決まっているだろう? 喧嘩してる時の自分の顔を見たことがあるのか?」


 当然ではあるが、死闘の最中に朗らかな笑みなど浮かべている訳もない。
 泣く子も黙るとはまさにこのことだ、と当時は思ったものである。
 幽香は足を組み直し、艶めかしく“しな”を作って、僕に言う。


「いいじゃない。その変わり、あなたはこの幽香様を好きにできるんだから」


 出た。これだ、これである。
 風見幽香が、僕を殺そうとしている。その謀略の一つ。
 古今東西、歴史を紐解けば必ずと言っていいほどにその存在を発見できるーーー『色仕掛け』である。


「だからね、もう何年……いや、何十年か、そのくらい言い続けているけど、今僕が健康に生きることができている以上、そっちが気にすることはないってば」

「……チッ」


 目の前で舌打ちされた。
 この女は本当に、理不尽が服を着て歩いてるようなもんだ。


「あんたさあ、本当に、ワケわかんないんだけど」

「いや……多分、訳がわからないのは僕の方だと思うんだが……」

「私が好きにしていいって言ってんのよ? 何が不満なの?」

「不満がないから、何もしなくていいと言っているんだ」


 それに、と。
 不機嫌なのを隠そうともしない彼女に、僕はそう続けた。


「要求ならもうしただろう。それさえ守ってくれれば、後は何もいらないよ」


 そう。何もいらない。何もしてくれる必要などないというのに、幽香はなにかと僕に対する従順さを示そうとする。
 当時の僕はこの女のやっかいさを分かっていなかったのだ。


「だーかーらー」


 ぐっと、幽香はいきなり、お互いの吐息が直に感じられる程の距離まで詰めてきた。


「……ねぇ、なんか他にあるでしょ? こんな機会でもなければ、できないようなコトが」


 正直に言って、幽香の態度は僕を誘っているようにしか思えない。
 また、もし本当にこれが誘惑だとしても、あまりにも風情や情緒に欠けているため、はっきり言って稚拙だとしか言いようがない。


「……前から思っていたんだが、君は欲求不満なのかい?」


 普段の彼女を知っているだけにいまいち確信が持てなかったのだが、思い切って聞いてみた。


「……………………」


 唐突に、幽香が能面のような無表情になって僕を威圧する。
 だが、決して短くない付き合いの僕には分かる。
 彼女がこの表情をする時は、本当に怒りが頂点に達した時か、内心の動揺を悟らせまいとする一種の防衛手段として使用する時なのだということを。
 無表情ではあるが頬は赤く染まっている、という状況において、今回は後者であることに間違いはなかった。


「……欲求不満ですって? ……ええ、そうね。私はあんたの欲求に不満だらけよ!」

「君に僕の欲求を不満に思われるようなことはないと思うんだけどなあ」

「ハァ!? おお! あり! よっ!!」


 風見幽香。
 その凶悪な力と性格の中に、意外と可愛いモノを持っている女性だった。


「……じゃあ聞くが、なんで僕の欲求を君が気にするんだい?」

「うっ……そ、それは、あ、アレよ、アレ」

「なんだい、アレって」


 僕には分からないな、と詰まる幽香に更なる追い打ちをかける。


「だ、だから……ね? 分かるでしょ? 雰囲気で察しなさいよ」

「雰囲気、ね……」


 窓越しに夕日が上っていることを確認し、僕は「さて」と呟きながら立ち上がる。


「ひぅっ……」


 幽香は僕の動作になぜか小さい悲鳴をあげ、恐る恐るといった様子で片目を開いてこちらを確認してきた。


「……? じゃあ、雰囲気を察して僕はそろそろおいとまするよ」

「え? え? あ、そ、そうなの……」

「もうそろそろ帰らないと店に帰る前に日が沈んでしまうからね」


 僕に言われて幽香が窓を見る。


「あ……もう、こんな時間……かぁ」

「昔話に花が咲き……ってやつさ」

「お後が宜しいようで、って言わせたいの? 別に上手くもなんともないわよ」

「……うん、僕も言ってからそう思った」

「馬鹿ね、ホント」

「ひどいな」

「馬鹿よ、本当に」

「……幽香?」

「ほら、帰るんでしょ? さっさと行っちゃいなさいよ」


 幽香はぐいぐいと僕の背中を押しながらそう言った。
 無理やり昼食に付き合わせたと思えば、帰り際にはこの仕打ちである。


「わかったよ。そう急かさなくても帰るさ」


 家の外まで押しやられたところで、やっと解放された。


「……今度」

「ん?」

「今度会った時には、アンタが欲しがってた野菜の種を分けてあげるわ」

「本当か? そいつは次に会うのが楽しみだよ」


 幽香の育てる野菜はとても美味しい。
 明らかに僕の家庭菜園の物より美味しいので、前々から興味を持っていたのだ。
 同じ種ということは、丹精込めて育てれば、僕でも同じ物が作れるだろう。


「じゃあ、次は……」

「うん?」

「……い……い、いいえ、なんでもないわ。じゃあ、また、次の機会に」

「ああ。それじゃあ」


 軽く手を上げ、幽香の家を後にする。
 少しして振り向いてみたが、家の中に戻ったのだろう、幽香の姿はもうなかった。




















/005



 その日の夜。
 無縁塚で拾ってきた『めんこ』の一枚を床に置き、それに向かって手に持っているもう一枚を思い切り叩きつける。
 ぺしん、という音がした後、床に置いてあった方がくるりと裏返った。


(これは決まりかな)


 無縁塚で幽香がやって見せた動作を再現したところ、単純ながらなかなかにゲームとしての質が高いことが判明した。
 小一時間ほどやり続けているが、成功率は十回やってせいぜい三回といったところである。


(……まあ、よくよく考えれば子供の“遊び”道具だしな。飾って終わりでは遊びにはならないか)


 こればっかりは幽香に感謝しなければならない。
 あそこで幽香が『めんこ』を地面に叩きつけていなければ気付くことはなかっただろう。


(幽香か……ふふ、君の策は読めている)


 幽香に出した『今後二度と僕に暴力を振るわないこと』という条件には、一つの落とし穴がある。
 そもそも『暴力』とは何なのか、まずここから考える。
 一般に暴力といえば、殴る蹴るなどの物理的なものが浮かぶだろう。
 しかし、本来暴力とは『理不尽な行為』そのものを指すのだ。
 殴って言うことを聞かせるのが暴力なら、権力に物を言わせてするそれもまた、暴力と言えるのである。


(この時点で、幽香からの直接的な暴力、また脅しなどの間接的な暴力も封じたわけだが……)


 ここで、落とし穴が出てくる。
 例えば、ある強力な妖怪が人間を襲ったとしよう。
 人間は我が身を守ろうと必死に抵抗し、その結果として妖怪に手傷を負わせてなんとかこれを撃退した。
 それを見た第三者ははたして「あの人間が妖怪に暴力を振るった」と言うだろうか、とまあ、そういった話である。
 今の例の人間に実質僕に対しては手を出すことができない幽香を、そして妖怪に僕を当てはめて考えてみれば、幽香が僕に対して力を振るうことに何も制限がない状況が出来上がることが分かる。
 しかし、僕とて馬鹿ではない。
 こっちから手を出さなければ無害であることは約束されているのだ。
 確かに幽香は美人だし、スタイルも良い。
 それでも、命を懸けてまでして手に入れたいかと言えば、答えは否。二の足を踏むのは仕方がないことだろう。


(あ、そういえば時計を回収し忘れたな)


 また近いうちにあの家に行く用事ができてしまった。
 別に値打ち物だとか、逸話があるということはない。なんの変哲もないただのゼンマイ時計だ。
 少し前に結構な量を入手しているので、一つくらい無くなったところで困るようなこともない。
 わざわざ取りに行くこともないだろうし、次の機会にでも回収させてもらうとしよう。


(しかし……相変わらず使い辛い能力だなぁ……)


 使い方がわからないからこそ、それを考えることができるという面白さもある。
 しかし、この能力の一番厄介なところは、いわゆる“答え合わせ”ができない、という点にある。
 僕が『この道具はこういう使い方だ』と思い、実際にその道具がそういう働きをしたとしても、それがその道具にとって最高の使い方であるとは言い切れない。
 その実、本来の働きに付随するところであったとしても、それを知る術はない。


(……悩んだところで、何も変わりはしないか)


 眼鏡を外し、目頭を軽くマッサージする。
 窓の外に綺麗な弦月が見え、なんとなくそれにつられて、そのまま外に出た。
 肌寒さを誤魔化すために背伸びをしていたら、チキチキと何かの鳴く声が聞こえた。
 森の奥を見ようとして、自然と目を細めている自分に気付く。
 一抹の喪失感と共に苦笑した。


(…………昔は、ずっとこうだったな)


 目に手をやり、裸眼だった頃を思い出す。
 眼鏡が必要になったのは、幽香に腹を突かれ、生死の境を彷徨った少し後からだった。
 八雲が言うには、死にかけた際に血を失くしすぎたためらしい。
 当時の僕にはまだそこまでの医学知識はなかったので、裏付けが取れたのは永遠亭の存在が明らかになってからだった。
 その時永琳に言われた言葉は、恐らく一生忘れないだろう。


『もし、の話だけどね』

『ん?』

『もしも、あなたが完全な妖怪だったなら、こういう障害は発生しなかったわ』

『完全な?』

『あなたは恐らく、寿命に関しては妖怪並。それもかなりのレベルでね。でもそれ以外の部分に関しては……』

『ただの人間?』

『優秀な人間、よ。ま、今の段階ではただの憶測。全部調べていいって言うなら、もっと詳しく分かるでしょうけど』

『それは……遠慮しておこう』

『残念。知りたくなったらいつでも言ってちょうだいな』

『ああ、ありがとう』


 それは僕が、自分をあやふやにしてきた罰でもあったのだろう。
 ただの妖怪か、あるいはただの人間なら、それで許されたはずだった。
 しかし、半妖には許されない罪だった。それだけの話。


(そろそろ……探さなくてはいけないのだろうか……?)


 自分を確立するために、自分という存在のルーツを、僕は知りたい。
 とても怖くて、恐ろしい。物理的なものでないソレは、底なしの恐怖であった。
 一秒後にも世界が続いているとは限らない。
 世界と自分との関係など、分かりようがない。


(夢か……現か……)


 胡蝶の夢。
 なまじ知識があるというのも困りものである。


(或いは……幻、かな?)


 眼鏡をかけて、空を見上げる。


(半身の欠けた月……はは、僕とお揃いだな)


 天高く浮かんだ半分の月が、幻想郷の一日の終わりを告げていた。




















~006~



「じゃあ、次は……」


 いつ、会える?


「うん?」


 あと一言。
 その一言が。


「……い……い、いいえ、なんでもないわ。じゃあ、また、次の機会に」


 どうしても、出てこないのだ。


「ああ。それじゃあ」


 右手を上げながらそう言って、彼は行ってしまった。
 今回もまた、次の約束をすることなく、彼は行ってしまった。
 いや、違う。
 彼は行ってしまうんじゃない、帰ってしまうのだ。
 自分の家に。自分の居場所に。


「ああ、もう」


 遠くなっていく彼の背中。あまりの切なさに、目を伏せる。
 こんな自分を見たら、優しい彼はきっと戻ってきてしまうから、音を立てずに家に入る。
 せめて見えなくなるまで彼を見送りたいと思っていたが、それも叶わない。


「ねえ、気付いてる?」


 ドアにもたれかかり、そのままへたり込んだ。
 誰もいない部屋で、独り言ちる。
 聞こえないと分かっていて、彼に問いかける。


「いつだって、会いに行くのは私なのよ?」


 いつだって、いつだって、いつだって。
 会いに行くのは自分で、彼から来てくれたことなんて一度もなくて。


「やっぱり、嫌われちゃってるの……?」


 思い切って誘惑してみても、のらりくらりとかわされる。
 そりゃあ、今までそういうことをする相手がいなかったのだから、当然ながら初めてのことばかりだ。
 経験豊富な彼のことだから、きっとそんな私の誘惑など眼中にないのだろう。


「けど……それ以上に……」


 大きな問題がある。
 彼にしてみれば自分を殺しかけた相手だ。
 嫌っていたってなんら不思議なことはない。
 あの件について、紫を恨む気持ちは全くなかった。
 “そういう戦い”だったのだ。
 今のようにスペルカードルールなんてお上品なものはなく、ただ純粋に『殺し合う』ことが戦いだった。
 決着がついてから止(とど)めを差すようなことこそしないけれど、戦いの最中はお互い本気で相手を殺しにいっていた。
 むしろ、紫には感謝すらしていた。
 大妖怪、八雲紫との戦いで気分は最高潮。もしあの場で彼を見つけたのが私だったら、間違いなく殺していただろう。
 だからこそ、厄介なのだ。


「ホント……なんであんなことしちゃったんだろ……私……」


 誰も恨めない。
 ただ自分が不甲斐ない。
 仕方ないと言えば、これは本当に仕方のないことである。
 まさか自分の中でこれほど大きな存在になるなんて、誰が予想できただろうか。
 強くもなく、能力も中途半端。
 容姿は、そりゃあ、整っているって言えば整っている。背も高いし、まあ、格好良い方だろう。
 性格なんて、本人は分かっていないんだろうけど、結構自分勝手だ。
 なんだかんだ言って自分のやりたいことは我慢しないし、搦(から)め手を使ってくることすらある。


「あ……」


 でも、根本的なところで、彼は優しい。
 だって、ほら。私が持ってきた時計。
 商売人である彼が回収し忘れるなんて、そんな訳はない。
 きっと彼自身も気付かないような、そんな小さな思いやり。


「ふ、ふふ……」


 もう、病気だと思う。
 彼のことを考えると、笑いが込み上げてきて、止まらない。
 あいつなんて、全体的にダメな奴であるにも関わらず、この有り様だ。
 これは、うん。きっと病気。病気だから、しょうがないのだ。


「ふふふっ…………ハァ……」


 少し笑っては溜息を吐く。この繰り返し。
 考えれば考えるほど、詰んでいるとしか思えない。
 なんであんな出会いなのだろう。
 もっと他に、そう、例えば、ここの花畑を彼が偶然訪れて、ちょうどその時私は花に水をやっているところで……とか、そういうのでも良かったはずなのに。
 現実はあんな血生臭い出会いなんて、ひどすぎる。


「でも、料理は気に入ってくれた」


 まるで新婚さんみたいだった。
 私が作る料理を待つ夫もいいけど、新妻の料理を手伝う夫、っていうのもアリね。


「ふふ、ふふふ…………ハァ……お風呂入って寝よ……」


 笑いと溜息のサイクルは止まらない。
 いつしか空は暗くなり、窓から半月が上っているのが見えた。


「弦月……まるで、あいつみたいね」


 いつの日か、溜息の回数が少しでも減りますようにと祈りながら。


「……うん。次こそ、ちゃんと会う約束をしよう」


 天高く浮かんだ半分の月が、幻想郷の一日の終わりを告げていた。



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