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[29302] 【改正版】差異1度の世界で【ペルソナ4女主・ネタバレ注意】(2014年8月連載打切)
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2014/08/14 16:23
この作品は未完結のまま連載を打ち切りました

<初めにお読みください>

本作には、PS2ソフト『PERSONA4』及び、PSVitaソフト『PERSONA4 The GOLDEN』、テレビアニメ『PERSONA4 The ANIMATION』、電撃コミックス『ペルソナ4』等、各メディアで展開された『ペルソナ4』のストーリーギミックに関する重大なネタバレが含まれております。
上記ソフトの『True END』クリア済み、もしくはアニメDVD最終巻特典の『True End Episode』か劇場版『the Factor of Hope』視聴済みの方、あるいは「ネタバレなんて気にしない!」という猛者の方は、どうぞこのままお進み下さい。
上の条件に当て嵌まらない方は下で述べている作品テーマやら注意事項自体がネタバレになるので、画面をスクロールせず、この場でブラウザバックしてお逃げくださいませ。



<前書きのようなもの>

どうも、満夜と申します。
本作は、アトラスゲームの『ペルソナ4』のアニメ化決定にテンションが上がって書いた二次創作です。
主人公性別変更によるIFもの?再構成?そんな感じのものです。

本作は、【チラシの裏】にある『差異1度の世界で』の改正版です。

また、2011.11.28からPixivでも同タイトルで本作を投稿しております。

旧版時点では、未プレイでプレイ動画を見ただけのけしからん手合いでしたが、その後プレイ環境を整えてクリア済。自分でプレイしてみた結果、ネタバレな方々の印象が大分変わったので、以降は大幅改編した改正版をこちらに上げていきます。

2012.11.22時点で、P4Gを二周して追加分を含む全てのENDコンプ済み。コミュも全てMAXにして追加ペルソナ(仲間の分含む)も全部見ました。
P4Gでの追加要素については出来るだけ組み込むつもりですが、既に公開済みの伏線やストーリー展開との兼ね合いがあるので、全部は無理かと……
「○○出ないの?」とか「○○イベントは?」とか思うかもしれませんが、その辺りはご勘弁ください……

色々至らない上に、亀更新ですが、お付き合いいただければ幸いです。


<本作における注意事項>

上でも散々書きましたが、真エンドまでのネタバレあり。
というか、『原作における“真犯人”』が主役ポジ。
どうあがいてもネタバレになるのは、大体こいつのせいです。

原作主人公(番長)ポジションのキャラが女性。
not女体化。生まれた時から女性、意識も女性。本編番長の記憶がinしてるとかそういうのもないです。
本編P4世界の平行世界における番長の異性同位体とか、きっとそんなサムシング。
ワイルドはあらゆる可能性を内包しているんだから、分岐した無限の可能性の中に女の子に生まれる可能性があってもいいですよね?

基本PS2版(P4)準拠。Vita版(P4G)要素は美味しいとこ取りで。

足立×女主、陽介×早紀の要素あり。

また、お話が進むにつれ、上記以外のカップリング(NC)が増える可能性大です。
一応、公式の描写に大きく逸脱するようなものは出さないつもりですが、特定カップリングが苦手、という方は逃げた方がいいかもしれません。

基本ゲームの流れを踏襲しますが、主人公の女性化によるバタフライエフェクト的なオリジナル展開や、オリキャラの登場があり、その関係でこの作品における“犯人サイド”は、原作とかなり違う形となっております。
一応、出来る限りちゃんと伏線を張って、読みながら“犯人”を推理できる形にしているつもりです。……少なくとも、それまで影も形もなかった新キャラが終盤でいきなり犯人として登場する、とかいうオチはないです(当たり前だ)。
まあ、ミステリーを書けるほどの頭はないので、伏線はりすぎてバレバレになったり、『伏線淡すぎだろ』と言うようなことはあるかもしれませんが……その辺はオカン級の寛容さで(ry
とりあえず、原作制作初期時の『犯人は相棒』オチや『犯人は(次期)女将』オチはないと宣言しておきます。というか、特捜隊の仲間の裏切りオチはまずないです。

また、オリジナルのペルソナ能力“ドロー”や、オリジナルのペルソナも登場しますので、苦手な人は逃げてください。
一応、ゲーム本編のペルソナデータを参考にしてますので、バランスブレイカーにはならないと思うのですが……



<女主人公(ヒロイン)設定>
神代暁(かみしろ・あきら)
天然、性善説信者、世話好き、お人よし。
初期ペルソナは“イズモ”というオリジナルペルソナ。詳細は本編にて。


<作品テーマ>
原作ゲームで転げ落ちて行った足立が幸せになる世界があってもいいじゃない!

道を踏み外さずに済んだ足立が色々頑張ってみる――そんな、あったかもしれない『もしも』のお話。


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[29302] 序章『運命の分岐』
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/11/22 21:09
 日本国内のアナログ放送終了の年の四月頭、足立透は片田舎に左遷された。

 ――世の中、クソだな。

 足立は、鏡の中の淀んだ眼をした人物じぶんに向かって、声に出さず吐き捨てる。
 つい先日までは自信と希望に満ち溢れていたはずの顔は見る影もなく荒み、いつもきちんと整えてられていた髪も、やる気なく、好き放題に撥ねていた。
 身に纏ったスーツも、目立った皺こそないが、糊はまるで利いていない。こまめにクリーニングに出し、糊の利いたものしか着なかった本庁時代には考えられない有様だった。ネクタイも、自身のひねた心理状況を具現化するように曲がっているが、それを直す気にもなれない。
 安定した将来のために――呪文のようにそう繰り返す親や教師の言葉の通りに、脇目も振らずに勉強して、国家試験に受かって、約束された道筋に乗れたはずだったのに。
 『安定』なんてどこにもなかった。激しい受験戦争を終えた先に待っていたのは、更に激しい出世争いだけだった。
 警察のキャリア組は、ある程度まではほとんど自動的に昇格できる仕組みだが、同じ階級でもそれまで積み上げてきた評価によって、得られる役職と権限には当然開きが出てくる。
 つまりは――競争。
 どこまで行っても付きまとう、反吐が出るような汚い争い。
 切磋琢磨して互いを高めあうなんていいもんじゃない。他者を押しのけ、蹴り落とし、踏みつけなければ、上へ上がることなどできやしない。
 法と秩序を預かる『正義の味方』のはずの組織内でこれなのだ。だとすれば、この世の『正義』とはどんな醜い代物なのか。

 ――まあ、別に『正義』とやらを信じて警察に入ったわけじゃないけどさ。

 鏡面に映った男の顔が、皮肉な笑みに歪む。
 『安定した生活』を求めて公務員を目指し、その中で一番面白そうだと思った職種に就いただけの話。
 銃刀武器を持つことに制限のあるこの国で、銃を持つ権限を得られるというのは、わかりやすく特別に思えたから。
 脇目も振らず積み重ねてきた勉学。それで得たものを人の役に立つ形で発揮したい――そういう殊勝な心がけもないわけではなかったが、そんなものは、冷たく非情な競争社会の中で、あっという間に擦り切れた。
 愛とか友情とか、そういったものに費やす時間すら惜しんで、ひたすら『安定』を求めて努力を積み重ねた末――競争の中で理想すら失い、あげく追い落とされた自分に残ったものは、世の中に対する呪詛だけというわけだ。
 キィッ、と耳障りな音が鼓膜に刺さる。知らず俯いていた顔を上げて見れば、鏡についた手が、無意識に爪を立てていた。
 爪を立てた鏡面の中には、酷く虚ろな顔でこちらを見つめ返す男の顔。
「……馬鹿みてぇ」
 誰に向けたものか、自身でもわからぬまま、唇からこぼれた呟き。
 その小さな声をかき消すように、つけっ放しだったリビングのテレビから、現在時刻を告げるアナウンサーの声が響いた。

 ――ああ、もうそろそろ出なきゃな。

 今日から勤める新しい職場。さすがに初日から遅刻すれば面倒なことになるだろう。
 どれだけ不本意だろうと、やる気がなかろうと、生きていく以上、糧を得るために働かなくてはいけない。
 社会問題になりつつあるというニートとか呼ばれる連中が心底羨ましい。どれだけ出来損ないだろうと面倒を見てくれる親兄弟がいるのだ。自分の親は、自身の左遷の報せを聞いて『帰ってくるな』と絶縁状を叩きつけてきたというのに。
 そう、自分には頼れる人間などいないのだ。ならば、自分の糧は自分で得なければ。
「……面倒くせぇ」
 吐き捨てる、というには力なく、そんな呟きが零れた。

 ――そう、生きていくことはこの上もなく面倒なのだ。

 さりとて、自ら命を絶つほどの踏ん切りもつかない以上、生きていくしかない。
 ため息を一つ吐いて、洗面所を後にした。

 鏡面に映る、どこか悲しい猫背の後ろ姿に、背を向けて。

 * * *

「あー……疲れた」
 帰宅するなり、足立は電気もつけずにそのままベッドに倒れこんだ。
 狭いワンルームの部屋だ。越してから日が浅い上に視界が利かなくったって、迷う余地もない。
 足が重い。寝返りを打って横向きになると、寝転がったまま身体を丸めるような姿勢になって、靴下を脱いだ。ふくらはぎにくっきりとゴムの跡。
「……どんだけむくんでんだよ……」
 思わずぐったりとした声が零れる。
 ――まさか、初日に町内全域連れ回されるとか……
 予想外だったと、重いため息が漏れた。
 彼を予想外に連れ回してくれた直属の上司兼相棒バディとなった男は、初対面の時の反応から予想外だった。
 この田舎には競い合う相手もいなければ、その意義もない。やる気なく、しかし今後の居心地だけは考慮して、へらへらとした愛想笑いを浮かべて赴任の挨拶を述べた自分に対し、新たな同僚たちの反応はおおむね予想通りのものだった。
 すなわち、取るに足りないものに対する無関心、もしくは、見下せる相手を見つけた嗜虐的な笑み。
 片田舎で出世コースには縁遠い稲羽署左遷先。構成員はノンキャリア中心で、有事の際にだけ出張って手柄をさらっていくキャリアに対する感情は良いものではない。そこに、見るからにちょろそうな若いキャリアが落っこちてきたのだ。溜まった鬱憤を向けるにはもってこいの相手に見えたことだろう。
 そんなくだらないことキャリアいびりに興味のない手合いは、ただただ使えなさそうな相手に対する無関心な眼差しだけを向けてきた。こんなだから左遷されてきたんだろ、と言わんばかりの色をちらつかせて。
 この二種類の反応は、予想内だった。
 だが、一つだけそのどちらにも属さない反応を見せた男がいた。それが、バディとなった堂島遼太郎だった。
 四十過ぎの、無精ひげが似合う苦み走った面立ち。眼光は鋭く、暗い色のスーツを着込んだ体躯は無駄なく引き締まっている。
 絵に描いたような現場叩き上げの刑事。
 その彼は、へらりとした足立の笑みを見て、酷く訝しげな眼差しを向けてきたのだ。
 まるで、張り付けられた笑みの下を、見透かすかのように。
 しかし、口に出しては何も言わず、訝しむ様子もその時だけで、あとはごく普通に接してきた。
 そう、普通過ぎるくらい、普通に。
 愛想よく笑いながら言動に蔑みの棘を含めてくる他の同僚とは違い、彼はただ足立を新任の若手としてだけ扱った。
 それどころか、遠回しに足立をいびる同僚達を呆れたように一瞥すると、彼らから引き離すかのように足立を町内の見回りへ引っ張り出した。
 足立としては嫌味や皮肉など本庁時代から競争相手からさんざん浴びてきているので、笑って流すくらいわけはない。正直散々連れ回される方がきつかったくらいで、ありがた迷惑この上なかったが――堂島に対する心証は、不思議と悪いものにはならなかった。
 『味方など誰もいない』と思っていたところに、不意打ちのように現れた『庇ってくれる人間』に対し、無意識に心を寄せているのだと、足立自身は自覚していない。
 出世に繋がるでもない地味で退屈な見回りにも不平一つもらさず、平穏な街の姿を眺めては、引き締まった口元を微かに緩めるその姿に、親にも抱いたことのない敬意を抱いていることも。
「……しっかし、明日から毎日これかよ……」
 ごろりと寝返りを打って、仰向けになってぼやく。
 歩き回ることが辛いのもあるが、それ以上にきついのが田舎独特の距離感だ。
 堂島と行動を共にすること自体は意外なほどストレスを感じないのだが、町内を見回っていると、ひっきりなしに町の人間が声をかけてくるのだ。
 ああ、堂島さん、今日も精が出ますね。あれ、一緒にいる人、見ない顔だけど新人?ああ、堂島さんの新しい相棒。都会から来たの?まあ、凄い。でも、こんな田舎じゃ不慣れなことも多いでしょう、困ったらことがあったら気軽に言ってねぇ。
 そんな具合に、マシンガンのようにひっきりなしに掛けられる言葉の数々。
 おせっかいな中高年層だけならまだわからないでもないが、足立より若く見える青年までもが「この町にようこそ!」と握手を求めてきたことにカルチャーショックを覚えたものだ。都会では考えられない距離感に、足立は内心ドン引きながらも愛想笑いを浮かべて付き合った。
 行動を共にする堂島が、無駄口を叩かない――というか、不器用で口下手なタイプだったことだけが、救いだった。彼にまでマシンガントークを向けられていたら、足立はおそらくキレていただろう。
「……まあ……思ったよりはマシかもね……」
 容赦なくこき使いながらも、不器用に、ぽつぽつとこちらを気遣う言葉を投げてきた堂島の姿を思い返しながら、呟く。
 初日に、とりあえずは味方にカウントしていいだろう人間と知り合えた。
 ささやかだが、得難い収穫に満足しながら――気が付けば、足立はそのまま寝入っていた。


 ふと、意識が浮上するように目が覚めた。
 奇妙な夢を見ていた気がするが、思い出せない。思わず首を捻ったが、それ以上に無視できない空腹感が襲ってきて、夢に関する思考はそこでぶった切れた。そういえば、食事もとらずに眠ってしまったのだ。
 明かりもつけずに倒れこんでしまったので、部屋の中は真っ暗だった。いつから降り出したのか、窓の外から雨音が響いてくる。
 とりあえず何か腹に入れようとベッドの上で身を起こした時、ざ、という雨音とも違う掠れた音とともに、不意に室内が仄明るくなった。
「――え?」
 思わず光源を求めて見回した足立の目に留まったのは、部屋の片隅に置かれた小さなテレビ。
 確かに消えていたはずのテレビがいつの間にか点灯し、砂嵐を映し出している。
「……タイマーなんてつけてないのに……」
 訝しげに眉を寄せつつ、耳障りな砂嵐の音を切ろうとテレビに近づいて気付く。――電源ランプが点灯していない。
 ――電源が付いていないのに、砂嵐を映し出すテレビ。
「……何それ?」
 事態が理解できず、思わず呆けた声が漏れた――その時。

 ――我は汝、汝は我――

 ずくん、と疼くような頭痛と共に、“声”がした。
 聞き覚えのある、男の声――

 ――汝、扉を開くものなり――

 それが、紛れもなく自分自身の声であると気付くより先に、強烈な眩暈を覚え、足立は思わず傾いだ体を支えようと咄嗟に手を伸ばし――

 テレビの画面に着いたはずの右手は、水の中へと沈み込む様に、そのまま画面の中へと飲み込まれた。

「――どぅわッ!?」
 支えを失い、そのまま前へとつんのめる。
 勢いよく画面へ右腕と頭を突っ込んで――テレビの縁に左肩を強打する形で転倒は止まった。
「――~~~ッ!」
 声にならない痛みに涙目になった目に映ったのは、白くぼやけた景色。
 浮かんだ涙のせいではない。辺り一面が、白い霧のようなものに霞んでいるのだ。
 しかし、利かない視界でも、相当広い空間が広がっているのだと空気でわかる。
「……っ!」
 得体の知れない恐怖を覚え、慌てて身を引いて、白い空間から身体を引き抜いた。
 己の身体を飲み込んでいた画面は、しばし波紋のように表面を波立たせていたが、それもすぐに収まり――あとに残ったのは、電源の切れたテレビと、呆けてへたり込む自分だけ。
「……なんだったんだ?」
 画面には砂嵐も映っていない。もはや寝ぼけて夢でも似たのかと思って呟きつつ、確かめるように画面に触れれば――抵抗なく、指先は中へと沈み込んだ。
 ぎょっとして目を剥くも、指先が自由に出し入れできることがわかると、足立の胸から恐怖は消え、かわりに、ふつふつと形容しがたい感情が湧きあがった。
「……ははっ……」
 にぃ、と吊り上った唇から、声が零れる。
「ははは……あはははははッ!」
 喉から溢れ出る、哄笑。
「スゲェ……なんだこれ!あはは、凄い凄い!」
 子供のようにはしゃぐ声。しかし、その笑みは、無邪気な子供のものと見るにはあまりに歪だった。
「クソつまんねぇ日常の中で頑張ってる俺へのご褒美?ははっ、神様も捨てたもんじゃないね!」
 この奇妙な“力”を使って、どんな“遊び”が出来るのか。
 思考を巡らせる彼の顔は――玩具を貰った子供の笑みではなく、凶器を手に入れた犯罪者のそれだった。
 あともう一押し、何か“きっかけ”さえあれば、彼はその力に溺れ、道を踏み外していただろう。

 けれど、その“きっかけ”は、一人の少女の存在により回避された。


「――足立、明日、家に飯食いに来ないか?」
 四月も十日目を迎えたその日、小さな悩みに頭を悩ませていた堂島が告げた、何気ない一言。

 それが、足立透の運命を大きく変える分岐だったのだと――この世界の神すらも、知る由はなかった。




[29302] 1章.役者は集い、幕は開く
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/12/08 21:36
「あー、足立。ちょっといいか」
「はい?なんですか、堂島さん」
 定時を迎え、早々に上がろうとしたところに声をかけられ、足立は首を傾げつつ声の主を振り返った。
 そこにあったのは、苦々しいしかめ面で佇む堂島の姿。
「――足立、明日、家で飯食わないか」
「……は?」
 堂島の表情にすわ何事かと身構えていた足立は、予想に反してどうということのない提案に肩透かしを食らって間の抜けた声を漏らした。
 元々、飄々とした険のない顔立ちであると自覚している足立は、ぽかんと口を開けた今の自分は非常に間抜けなものだろうと、他人事のように思う。しかし、目の前の上司は、足立のそんな様子にも構う余裕もないのか、どこか必死さを感じる声で言葉を重ねる。
「そのな……前にも少し話したが、姉の娘を家で預かることになったんだが……その姪がな、明日来るんだよ」
 その話は、確かに以前聞いていた。その時の話を思い出して、足立は首を傾げる。
「それで明日休むってのは今朝ききましたよ。堂島さん、前は菜々子ちゃんを見てくれる人間が来てくれて助かるって言ってたのに、どうかしたんですか」
 菜々子、というのは、この春小学校に上がったばかりの、堂島の一人娘だ。
 堂島は、数年前に妻をひき逃げで失くしているらしく――おそらく、彼の仕事熱心さはこの辺りに由来するのだろう――、彼が帰るまで、幼い娘が一人で家を守っている状況だ。
 足立も人のことは言えないが、堂島には家事能力が決定的に欠落しているらしく、掃除・洗濯などはその娘が執り行っている有様だという。随分しっかりした七歳児のようだが、さすがにまだ料理はできないらしく、堂島家の食卓は、もっぱら出来合いのものばかりらしい。
 さすがに幼い娘にこの環境は拙いとは堂島も考えていたらしいのだが、どうすることもできずにいたところ、姉から今回の話が来たのだという。
 堂島の姉は、堂島に負けず劣らず仕事人間で、その夫も同じ人種らしい。結果として、様々な土地を巡る典型的な転勤族と化しているそうなのだが、今回夫婦揃って海外に一年間赴任することとなってしまったのだという。
 本当なら、娘も一緒に連れて行きたいが、そうするには言葉や文化、環境の問題があるし、何より現地の情勢が不安定でとてもじゃないが連れて行けないとのこと。
 この春高校二年生になる年齢からすれば、一人でも何とかやっていけるだろうし、これまで疎遠だった親戚の家に厄介になるより本人は気楽だろう。今回の話は寧ろ、妻を亡くした自分の家の状況を姉が案じた結果だろうな、と堂島は苦笑気味に話していたものだ。
 堂島の方にも断る理由もなく、寧ろありがたく引き受けたらしいのだが、今になって何か問題でも出てきたのだろうか。首をひねる足立に、堂島は歯切れ悪く言葉を紡ぐ。
「いや……赤ん坊のころ以来会ってない姪御なんでな……菜々子もそれなりに人見知りする性質だし、俺も話が巧いとは言えん……高校生の娘との会話なんぞ、どうしたものか見当もつかなくてな……」
 俺はよくても、姪が居心地の悪い思いをするかもしれん、と堂島は気まずげに告げた。
 なるほど、と足立は納得した。つまり、堂島は足立に場の盛り上げ役を頼んでいるのだ。
 ひょうきんなお調子者。口は軽いが親しみやすい。この地での足立の『キャラクター』は、概ねそんなものだ。
 当初は、やる気なく、愛想笑いを浮かべていただけだったのだが、この『キャラ付け』が存外に使い勝手の良いものだと気付いてからは、意識してそう振舞ってきた。
 有能に過ぎれば、警戒され、疎まれるが、無能だが無害な人間だと思わせておけば、馬鹿にもされるが、同時に相手の気も緩む。空気の読めない素振りで相手のペースをコントロールすることもできる。
 何より、人は見下している相手をいびるとき、必要以上に饒舌になるものだ。実際、何人かの同僚は、既に足立の前で無自覚に口を滑らせ、こちらに弱みを晒していた。それらはまだ握っていることを悟らせずに、いつか有効に使わせてもらうつもりだ。
 そんな不穏なことを考えている足立に気づかぬまま、彼と堂島の会話を聞いていた同僚たちが、からかうような口調で口を開いた。
「泣く子も黙る稲羽署の堂島も、女子高生にはかたなしか。足立、この際、堂島さんに恩返しして来いよ」
「おう、そうしろ。せっかくだから休暇取ってゆっくりすりゃいいさ」
 表向きは、堂島と足立に気を使った言葉を装っているが――幾度となく腹の探り合いをしてきた足立には、それが自身へと向けられた遠回しな嘲笑だと察せられた。

『お前なんかいなくたって困りゃしないんだから、せいぜい飼い主に媚び売ってこいよ』

 ――せいぜい、その程度の言葉の裏も読めないような馬鹿だと思っていればいい。

(けど、いつかその油断がお前の命取りになるぞ)

 自身の本性を毛ほども察知できていない緩み切った同僚たちを、足立は腹の底で嗤い――
「――足立、悪いな。……頼む」
 ぼそり、と呻くような堂島の声に、思わず目を瞬いた。
 無理を言って悪い、という意味にしては、妙に形に空いた言葉の間。――自身の発言がきっかけで足立が遠まわしに嘲笑されている状況を察しての謝罪だと悟り、何ともいえないむずがゆさを覚える。
 不器用にこちらを気遣う言動。堂島のこういうところが、足立は苦手だった。何の裏もないとわかっているから、かえってどう対応すべきかわからなくなるのだ。
 しかし、だからといって、堂島との距離を空けようと思うわけでもないので、不快というわけでもないようなのだが――自分で自分の感情を理解できず、持て余し気味になるのが落ち着かない。
 もしかしたら、これが「頭が上がらない」という心境なのかもしれない。
 親にも抱いたことのない感情を胸の奥へと押しやって、緩い笑みを浮かべると、足立は殊更調子の良い口調で告げた。
「しょうがないっスね~、そこまで言われちゃやるしかないでしょ!――不肖、この足立透、全身全霊をもって姪御さんのお迎えを盛り上げてみせますよ!」
 というわけで、明日一日有休貰いますねー、と宣言する。――堂島がいない署内はまさに四面楚歌だから、この口実はありがたかった。
「姪がこっちに着くのは夕方頃のはずだから、何なら半ドンでも十分だぞ」
「じゃあ、午前中は部屋の掃除でもしますよ。こっち来てまだ二週間も経ってないのに、気が付いたらひどい有様で……」
「……俺が言えた義理じゃないが、掃除はこまめにしといた方がいいぞ、足立」
 おどけた調子で足立が告げた言葉に、堂島は呆れた風だ。
 姪を迎えに駅へ行く途中に拾ってもらう旨を約束して、足立は堂島と分かれて帰路につく。
 堂島の姪とはどんな娘だろうか。ムカつく奴じゃないといいけど。美人だったら、なおいいな――そんなことを、考えながら。

 * * *

「どうもはじめまして、菜々子ちゃん。お父さんの部下……っていうか相棒の、足立透です」
 迎えに来た堂島の車を背景に、足立は初めて会う堂島の娘に笑って挨拶した。
 母親に似たのだろう。武骨な印象の堂島とは似ても似つかない、愛らしい容姿の少女だった。陽の光を浴びて栗色の輝きを照り返す柔らかそうな髪を、左右の耳の上で括っている。ピンクを基調としたワンピースに包まれた身体は小さく、触れたら折れてしまいそうなほどほっそりとしているのに、子供特有の溌剌とした生彩に満ちていた。
「ほら、菜々子。挨拶しろ」
「……にちわ」
 堂島に促され、菜々子は小さな声で挨拶を告げるも、すぐに堂島の影に隠れてしまった。
「ありゃ、嫌われちゃったかな?」
「気にすんな、足立。照れてるだけだ――いてっ」
 参ったと頭を掻く足立に、笑って告げた堂島が小さく悲鳴を上げる。菜々子が堂島の背を叩いたのだ。
「あっはは、堂島さんも菜々子ちゃんには敵わないんですねぇ~」
 なるほど、人見知りというのは本当らしいな、と思いながら、足立が殊更面白がって笑ってみせると、堂島に頭を軽く叩かれた。
「あたっ!……なんですか!?この平手の連鎖反応!」
「うるせぇ!笑いすぎなんだよ、お前は!」
 と、決まり悪げに怒鳴る堂島の影から菜々子が顔を出し、ちょっと怒ったような顔で堂島の袖を掴む。
「お父さん、アダチさん、いじめちゃだめだよ」
 足立は頭を抑えたまま、思わず目を瞬いた。
 どうやら、菜々子は自分を庇ってくれようとしているらしい。なるほど、堂島の娘らしく、人見知りでも、正義感と行動力は一人前だ。
「え?いや、これは別にいじめてるんじゃなくてな……」
「……ほんと?」
 慌てた堂島の弁解を聞いて、菜々子は足立に窺うような視線を向けてくる。
 足立は安心させるように笑顔で頷いて見せた。
「ホントホント。さっきの菜々子ちゃんだって、ただ恥ずかしかっただけで、別に堂島さんをいじめるつもりで叩いたんじゃないんだろ?それと同じだよ」
「……菜々子と、おんなじ?」
「そうそう、堂島さんは照れ屋だからねぇ~」
 そっか、と安心したように菜々子の顔が笑みが浮かぶ。初めてみた少女の笑顔は、まさに花が綻ぶ、と称したくなるものだった。
 行動パターンが読めず、ぎゃあぎゃあと喧しく煩くものとして、足立は子供を嫌っていたが、菜々子に関してはそれなりに好感を抱いた。彼女にはませた子供にありがちな生意気さがなく、素直に『しっかりした子だな』と思えたのだ。
 足立と菜々子が笑いあう一方で、堂島は苦虫を噛み潰すような渋面を浮かべていた。足立の『照れ屋』発言に物申してやりたい気持ちでいっぱいなのだろう。しかし、菜々子の手前、また引っ叩く訳にもいかないと思ったのか、二人の笑いを遮る様に声を上げた。
「そろそろ行くぞ!ほら、菜々子、早く車に戻りなさい」
 はぁい、と菜々子は素直に車へ向かい――途中、何かに気づいたように振り返った。
「お父さんのおとなり、菜々子でいいの?」
 どうやら、足立が加わったことで、さっきまでのように助手席に座ったものか判断に迷ったらしい。
 ホントに良く気が付く子だなぁと足立は感心する。普通の七歳児なら、客に気を使って自身の席を譲るような発言は、そうそうできないだろう。これは堂島の躾の賜物か、はたまた父子家庭という環境ゆえの自立心の高さか。
「お兄さんはいつもお仕事の時、お父さんの隣だからね。たまには後ろに乗ってみたいな」
「そうなの?じゃあ、菜々子が前ね」
 休みの時くらいできるだけ堂島の傍に居たいだろう菜々子の気持ちを汲み取って告げれば、案の定、菜々子は嬉しそうにいそいそと助手席に乗り込んだ。
 その背を見送って、苦笑した堂島が小声で足立に告げる。
「悪いな、気を遣わせて」
「いえいえ、僕も休みの時くらいは、堂島さんの平手が届かない場所に居たいですからねー」
 足立がそう軽口で返すも、堂島は、こいつ、と苦笑を深くするだけにとどめ、平手は出さなかった。
「ちゃんとシートベルトしたか?――じゃ、出すぞ」
 菜々子が助手席に、足立が後部座席にそれぞれきちんと着いているのを確認すると、堂島はゆっくりと車を発進させた。
 相変わらず丁寧な運転だ、と足立は思う。ろくに他の車なんか走っちゃいないガラガラの田舎道で、きちんと制限速度を守って走っていくワンボックスカー。――この運転ひとつにも、堂島の亡き妻への想いが現れているのだろう。
 柄にもなく感傷的な感慨を軽く首を振って振り払うと、足立は明るい声で前の座席に声をかけた。
「ところで堂島さん、今日来る姪っ子さんってどんな子なんですか?僕、まだ名前も教えてもらってないんですけど」
「ああ、そういやそうだったか。悪い悪い」
 バックミラー越しに申し訳なさそうな視線をくれて、堂島が応えた。
「名前は神代かみしろあきら。今年で高校二年生だ。姉貴のところとは長く疎遠だったもんでな、俺もこれくらいのことしか知らないんだが――」
 自嘲気味にそう言ってから、「そういえば」とふと思い出したように呟く。
「あいつは、クォーターってやつになるんだな、一応」
「へぇー……って、クォーター!?」
 何気なく放られた情報を、危うくスルーしそうになって、足立は思わず声を荒げた。
「それって、祖父母の誰かが外国人っていう、あのクォーターですか?」
 思わず確認してしまった足立に、「他に何があるんだよ」と苦笑してから、堂島はその血筋について語る。
「義兄さんが日露のハーフでな。今回の海外派遣も、ロシア語が堪能だってのが決め手になったらしい」
「へぇ……」
 与えられた情報から、足立は“神代暁”の人間像を想像する。
 日露のクォーター。両親の都合で幼少から各地を転々とする転勤族。
 どちらも、人間関係を構築する上で、無視できない壁となる要素だろう。
 前者は不躾な好奇の念や謂れのない偏見を呼ぶだろうし、後者は人間関係を毎度リセットしてしまう。
 ここから推察される人間像のパターンは二つ。新しい環境でもすぐに新たな人間関係を構築しようとする人懐っこいタイプか、すぐリセットされるのだからと一線を引いた関係しか築かない冷めたタイプか。
(……冷めてる方が、僕としては楽なんだけどね)
 そういうタイプは、他者を自身の内に踏み込ませない分、他者の内に踏み込むこともない。自身について突っ込まれたくない足立としてはその方がありがたいのだが。
 ただ、堂島や菜々子にとっては、人懐っこいタイプの方が合うのだろうな、とは思う。
 まあ、前者なら、踏み込まれないようこちらから線を引けばいいし、後者なら、堂島達が馴染めるよう自分がフォローすればいい。
(――どちらにせよ、おごってもらう晩飯分ぐらいは、働くさ)
 そんな風に、足立が自身の行動方針を決めた時、
「――着いたぞ」
 堂島の声と共に、車が停車した。
「おお、ちょうどいい時間だな。そろそろ電車が来る頃だ」
 車から降りつと、堂島が腕時計に目をやって告げる。
 駅の改札の方へと揃って歩きながら、堂島と手を繋いだ菜々子が声を上げた。
「あ、電車、来たよ!」
 確かにホームへ入っていく電車の姿が見て取れた。
 電車がホームに停車する音が聞こえ――しばしして、一つの人影が駅の中から現れる。
 白いブラウスと紺のロングスカートをまとい、大きめのボストンバックを抱えた女性。
 ごく自然にその人物へと目をやった足立の視線と、きょろきょろと周囲を見渡した彼女の視線が、交差する。

 その瞬間――足立は、己の背に電流が走ったような感覚に陥った。

 西に傾き始めた陽光の下、青く澄んで見える深い眼差しが、真っ直ぐに自分へと向けられている。
 内に光を灯したように見えるきめ細やかな白皙の上にあるのは、静謐までの端整さ。涼やかさを感じさせるすっきりとした眉目。そこに、僅かに幼さを残した頬のラインが、柔らかな印象を加えていた。
 無造作に首の横で束ねられた長い髪は、さらさらと風に揺れて銀の輝きを放つ。

 ――うつくしい、ひと。

 そんな言葉だけが、ようよう足立の脳裏に浮かんだ。
 と、向けられていた眼差しが瞬き、交差していた視線が途切れる。そのことで、永遠とも思われるほど引き伸ばされていた一瞬が終わった。
「おう、こっちだ」
 すぐ横で堂島が声を上げる。その声に呼ばれて、その人はこちらへ歩み寄り、足立達の前に立った。
「写真で見るより美人だな。ようこそ、稲羽市へ。お前を預かる事になっている、堂島遼太郎だ」
 その横で、堂島は気負いのない様子で彼女へと手を差し伸べる。彼女の方も戸惑った風もなく、その手を握った。
「ええと、お前のお袋さんの、弟だ。一応、挨拶しとかなきゃな」
 握手を放した堂島の不器用な言葉に、彼女は綻んだように笑い、挨拶を返す。
「初めまして、神代暁です」
「はは、赤ん坊の頃に会ったこともあるんだがな。まあ、覚えてなくて当然か」
 暁の言葉に、堂島は苦笑し、そうして菜々子を目で示した。
「こっちは娘の菜々子だ。ほれ、挨拶しろ」
「……にちわ」
 先ほど足立と会った時と同じように、弱々しく告げると、さっと堂島の陰に隠れてしまう。
「はは、お前、また照れてんのか?――いてっ」
 照れた菜々子に堂島が叩かれるところまで同じで、足立は思わず笑ってしまう。見れば、暁もくすりと笑みをこぼしていた。
「こんにちは、菜々子ちゃん。よろしくね」
 すっ、と彼女はごく自然にしゃがみ込み、菜々子に視線を合わせて告げる。
「よ、よろしく……」
 もじもじと身を縮ませる菜々子に、彼女はにっこりと笑いかけた。
「私のことは、お姉ちゃんって呼んでくれると嬉しいな。私ね、ずっと妹が欲しかったの」
「……お姉ちゃん……?」
 暁の言葉を小さく繰り返して、その意味が徐々に染み込んだかのように、菜々子はぱぁっと顔を明るくした。
 お姉ちゃん、お姉ちゃん、と嬉しそうに繰り返す菜々子に、暁はにこにこと相槌を打っている。
 その微笑ましいやり取りを、足立は、どこかぼんやりと眺めていた。
 頭の奥が痺れたように、思考が鈍い。そのくせ、暁の一挙一動から目が離せなかった。
「暁、こっちは俺の同僚の足立だ。お前はこっち初めてだろうし、知り合いは多い方がいいだろうと思って呼んだんだが」
 と、堂島の声に名を呼ばれて、はっと我に返る。
「あ、ども。足立透です。堂島さんの部下……っていうか、相棒ね」
 慌ててへらりとした笑みを取り繕って足立が告げれば、彼女は立ち上がって、足立へと向き直った。
「わざわざありがとうございます。不慣れで色々教えてもらうことになると思いますが、よろしくお願いしますね」
 ふわり、と浮かべられた彼女の笑みを真正面から見た瞬間、足立の時間が再び停止する。
 何の裏も意図もない、純粋な好意と信頼が込められた笑顔。それをなぜだか直視できず、気づけば目を逸らしながらおどけた声を紡いでいた。
「そ、そんな気にしなくていいよ~。僕、晩御飯につられてきたようなもんだし」
 あははは~、と笑えば、暁は一瞬目を見開いて、堂島の方に視線を移すと、おずおずとした口調で訊ねた。
「あの……晩御飯って、もうご用意されているんでしょうか……?」
「いや、出前取るつもりなんだが、何か食べたいものでもあるのか?」
 堂島の答えに、ちょっとほっとしたような表情を見せると、暁は遠慮がちに告げる。
「その……宜しければ、私に作らせていただけませんか?」
「え、手料理!?」
 思わず足立が上げてしまった大声に、暁はびくりと肩をすくませる。
「……ご、ごめんなさい。出前の方がいいなら……」
「え!?いや、違うから!びっくりしちゃっただけで!可愛い女子高生の手料理嫌がる男なんていないし寧ろ大歓迎だし!」
「え……?えっと……」
 思わず本音だだ漏れで力説してしまった足立に、暁は困惑と羞恥がない交ぜになった様子で頬を染めて俯く。
 その仕草が、また足立の脳天を打ち抜いた。
(――ヤバい。マジ可愛い)
 足立はここにきてようやく、何故自分が彼女から目が離せないのか、理解した。
 涼しげな印象の瞳と髪の色も、端整だが華美さのない面立ちも、抜けるような白い肌も、細身だが出るところは出ている均整のとれた肢体も、澄んだ声で紡がれる丁寧な口調も、他者を気遣う控えめで柔らかな物腰も――
 すべて、全部、一から十まで、好みなのだ。ど真ん中ストライク。ロシアの遺伝子と大和撫子精神の融合万歳!
(この上、料理までできるとか、本気で理想的すぎるだろ!)
 などと、暴走しかけた足立の思考を、ぞわりとした悪寒が遮った。
「――あーだーちー……?」
「ど、堂島さっ……!?いだだだだだッ!マジ痛いです!ギブギブーッ!」
 地を這うような声と共に訪れた、両のこめかみを抉る痛み。
「会っていきなり口説きにかかるとは良い度胸してるなぁ、おい?」
「ちがッ……!?そんなつもりじゃなくてーッ!?」
 ははは、とちっとも笑ってない声で笑う堂島に、足立は慌てて弁明する。――気があるのは確かだが、さっきの言葉は本気で無意識だったのでノーカンにしてほしい。
「お父さん、アダチさんいじめちゃダメだってば!」
「あ、あの、私は気にしてませんから……」
 細い眉を逆八の字にした菜々子の声と、おろおろと慌てた様子を見せる暁の言葉に、堂島は漸く足立のこめかみを挟んでいた拳を放した。
「ったく……お前はもうちょっと言動に気をつけろ」
「はい……すみません」
 ため息まじりに落とされた苦言に、足立は素直に頭を下げる。堂島は、それで気が済んだのか、暁へと向き直った。
「しかし、暁、さっきの本気か?無理しなくてもいいんだぞ?」
「いえ、料理好きなので。ご迷惑でなければ、作らせてください」
 にっこり笑って答える暁に、堂島も「そうか」と笑う。
「なら、途中でジュネスに寄るか。買ってかないと食材も何もないんでな」
「――ジュネス!?」
 堂島の言葉に、菜々子が弾んだ声を上げた。
「やったね、お姉ちゃん!ジュネス行けるって!」
 暁の手を取ってぴょんぴょんと跳ねながらはしゃぐ菜々子に、暁はきょとんとした様子だ。
「えっと……ジュネスって、あの、デパートの?」
「ああ、そうだ。この町にも半年前に支店が出来てな」
 堂島は苦笑気味に頷く。
 ジュネスは全国にチェーン展開している大型デパートだ。食料品から日用雑貨、服飾から家電まで幅広く扱っている。
 各地に支店があるので、都会育ちの足立や、様々な土地を巡っている暁からすれば珍しくもなんともないただのデパートだが、娯楽のないこの町から出たことがない菜々子にとって、ジュネスは一大テーマパークであるらしい。
「はやくはやく!行こう!」
 暁の手を引いて車へと向かう菜々子に、足立は思わず堂島と顔を合わせて苦笑してしまった。

 * * *

「僕も今月頭にきたばっかなんだけど、この町のことは堂島さんに大分叩きこまれてるから。わからないことがあったら訊いてよ」
「はい、ありがとうございます」
 堂島の運転する車。助手席からバックミラー越しに笑顔でそう言ってくれた足立へ礼を告げて、暁は改めて安堵していた。

 ――良い人たちでよかった。

 引っ越しや転校にはもはや慣れっこだったが、両親と離れて単身見知らぬ土地に越すことになった今回は、さすがに勝手が違った。
 一年間お世話になるのは、会った記憶もない母方の叔父。現職の刑事で、何よりあの母の弟なのだから、信頼できる人間だろうと自分に言い聞かせてはいたが、実際に会うまでは、やはり不安だったのだ。
 十歳年下の従妹も、すぐ自分に懐いてくれた。妹――というか、兄弟の欲しかった一人っ子の暁は、彼女に『お姉ちゃん』と呼んでもらえて、とても嬉しかった。
 そして、今もこちらを気遣って話を振ってくれている、叔父の同僚の彼。
 叔父の相棒だと言っていたが、叔父とはだいぶ年が離れているように見える。二十代の半ばだろうか。ツンツンと所々撥ねた、癖のある短い黒髪。どこか愛嬌を感じさせる険のない面立ち。猫背気味の痩躯に纏ったスーツとネクタイはよれている。
 だらしないと言える格好だが、暁は不快感を覚えなかった。彼の軽妙な言動のため、だらしないというよりは、やんちゃな印象を覚えるのだ。
(可愛い、って言ったら、失礼だよね……)
 しかし、軽妙に語っては口を滑らせて堂島に叱咤される足立の姿は、人にじゃれかかって飼い主に叱られているワンコを連想させるのだ。
「……お父さん」
 と、不意に隣に座った菜々子が、運転席の叔父を呼んだ。
「ん?どうした、菜々子」
 バックミラー越しに視線を向けた叔父へ、しかし菜々子はもじもじと身を竦めて沈黙する。
 その様子に、暁は、もしかして、と思い至った。
「……菜々子ちゃん、おトイレ?」
 小さな従妹は、恥ずかしそうに小さく頷く。
「トイレだ?……参ったな、ジュネスまではまだかかるし……あ、スタンドがあるな。あそこ寄るか」
 叔父は困ったような声を上げたが、すぐに進路に見えたスタンドの看板に向かってハンドルを切った。
「らっしゃーせー!」
 スタンドに入った一同を迎えたのは、若い店員の威勢のいい声だった。
 車が止まるなりドアを開けて降り立った菜々子に、追って下りた叔父が声をかける。
「トイレ、一人で行けるか?」
「うん」
 そのやり取りが聞こえたのだろう。車を迎えた店員が、笑って菜々子に声を掛ける。
「トイレは奥に行って左だよ。左ってわかる?お箸持たない方ね」
「わかるってば……」
 子ども扱いが不満だったのか、ちょっと拗ねた風に答えて、菜々子は言われた通りにスタンドの中へ入って行った。
「どこか、お出かけで?」
 堂島の方に向き直って、店員が気さくな調子で声をかけてくる。
「いや、都会から越してきた姪を、駅まで迎えに行って来ただけだ」
「へえ、都会からですか……」
 堂島の答えに、店員は、町を見ようと車を降りた暁へ視線を向けてきた。暁が会釈すると、店員もにこりと笑みを返してくれる。
「レギュラー満タンで頼む」
「ありがとうございまーす!」
 注文を告げる叔父に一礼して、動き出す店員。
「ちょっと、一服してくる。足立、暁に変なちょっかいかけるなよ」
「ちょ、僕どんだけ信用ないんですか!」
 喫煙所に向かう叔父と、車を降りた足立のやり取りに、暁は思わず笑みをこぼした。
「……酷いなー、もう、堂島さんってば……」
 そうぼやいてから、足立がこちらに向き直る。
「なんか喉渇いちゃった。自販機行ってくるけど、暁ちゃん、炭酸でも平気?」
「え――あ、はい。ありがとうございます」
 反射で遠慮の言葉を口にしそうになったが、同年代の友人ならともかく、社会人相手に遠慮するのはかえって失礼かと思い直し、素直に好意に甘えることにした。
 じゃ、行ってくる、と笑って、小走りでスタンドを出て行く足立。一人残された暁は、その背を見送り――
「君、高校生?」
 不意にかけられた声に、驚いて振り返った。
「あ、ごめん。脅かすつもりはなかったんだけど」
 そこにいたのは、車のフロントガラスを拭きながら、苦笑を浮かべる先ほどの店員。
 暁は慌てて首を振り、質問に答える。
「いえ、私がぼうっとしていたのが悪いので。――高校生です」
「そっか。都会から来ると、なーんもなくてビックリっしょ?」
「何にもない、ってことはないですよ。都会にはないものが代わりにあります」
 悪戯っぽく笑う店員に、ここに来る途中、車の窓から見た一面の田んぼを思い浮かべ、暁は答える。これまで、所謂『地方都市』ばかり巡ってきた暁には、初めて見る景色だったのだ。
「へぇ、そう言う見方もあるか」
 店員は面白そうに笑うと、右手をズボンで拭ってから、こちらへ差し出してきた。
「『この町にようこそ』――って僕が言うのも変かな」
「いえ、ありがとうございます」
 暁は笑って、その手を握った。
「さーて、仕事仕事。あんまサボってちゃ怒られちゃうからね、はは」
 手を放して、笑いながら仕事に戻る店員の背中――それが、不意にぐにゃりと歪んだ。
「――っ……!」
 突如感じた強烈な眩暈に、思わず目を瞑って額を抑える。
「……お姉ちゃん?」
 と、傍らからかけられた声に瞼を開けば、いつの間にか戻ってきていたらしい菜々子が、心配そうにこちらを見上げていた。
「具合、悪いの?……車酔い?」
「どうだろう……そうかもね」
 正直、そう言う感じではなかったが、心配をかけたくないのでそう答える。少し休めば治るよ、と続けて笑えば、とりあえず菜々子の顔から憂いは薄まった。
「あ、菜々子ちゃんも戻ってきたんだ。――はい、どうぞ」
 そこに、足立が戻ってきて、暁と菜々子にそれぞれジュースを差し出してくれた。
「ありがとうございます」
 礼をつけて口をつけた、良く冷えた炭酸飲料は、僅かに残っていた不快感を消してくれる。
(――貧血気味、なのかなぁ)
 先ほどの眩暈の正体をそう推測し、
「……菜々子ちゃん、ほうれん草、大丈夫?」
「ホーレンソウ?うん、菜々子、食べれるよ。おひたし、おいしいよね!」
「え、バター炒めとかじゃなくて!?しっぶいなぁ、菜々子ちゃん……」
 足立も含めた三人で、貧血防止になる食材の好き嫌いについて、叔父が戻ってくるまで盛り上がった。

 自身の背に向けられた、不穏な視線に、終ぞ気づくことのないままに――

 * * *

 あさりとほうれん草のパスタに、ミニトマトが鮮やかなツナサラダ。デザートに、プルーンを添えたヨーグルト。
「うわぁ……!」
「おぉ~!」
 テーブルに並べられた健康的なメニューの数々に、足立は思わず菜々子と一緒に声を上げていた。
「ホントはもうちょっと凝ったものを、と思ってたんですけど……こちらにどんな調理器具があるかわからなかったので」
 簡単なものばっかりでごめんなさい、と苦笑する暁に、足立はぶんぶんと頭を振る。
「いやいやいや!十分すぎるくらい十分だって!」
「まったくだ。こんなまともな家庭料理、久々にお目にかかったぞ」
 堂島も感心しきりの様子だ。
「お姉ちゃん、すごいね!」
「ありがとう、菜々子ちゃん」
 止めに菜々子の素直な感嘆に、暁がはにかんだ様子を見せる。それから、思い出したように皆へ告げた。
「あ……皆さん、どうぞ冷めないうちに」
「いただきます!」
 菜々子の嬉しそうな声と足立の弾んだ声、堂島のきっちりとした声が唱和する。
 フォークでパスタを巻き取り、ぱくりと一口。
「……いかがですか?」
「――うまい!」
 窺う暁に、口の中のものを飲み込むなり足立は即答した。
「おいしい!」
「うん、うまい。これだけ作れりゃ、大したもんだ」
「……よかった。私の家、みんな薄味が好きなんで、ついいつもの調子で作っちゃって……皆さんには物足りないかなって不安だったんです」
 菜々子と堂島も口々に賞賛し、暁もほっと笑って自身も料理に箸をつけた。
「いや、ほんとにおいしいよ。素材の味が生かされてるっていうか、こういう味は出来合いのものじゃなかなか食べれないよ。ああもう、堂島さんたち、ずるい!こんなおいしい料理、毎日食べれるなんて!」
 忙しく手と口を動かす合間に、足立が本音を漏らせば、堂島が眉をひそめて反論する。
「おいおい、さすがに毎日は頼めないだろ。暁にだって学校があるんだ。部活でも入ったら、帰りも遅くなるだろうし」
「いえ、前の学校でも部活はやってましたけど、家で夕飯作ってましたし。簡単なものになっちゃいますけど、それでいいなら作らせてください」
「――これから毎日、お姉ちゃんがご飯作ってくれるの!?」
 暁の言葉に、菜々子が弾んだ声を上げる。一方、堂島は案じるような顔で、
「いや……そうしてくれりゃ、そりゃあありがたいが……お前、変に気ぃ使って無理言ってないか?」
「気を使ってるのは叔父さんの方ですよ。家族なんですから、できることさせてください」
 暁が笑って告げれば、堂島は、悪いな、と苦笑した。
 すると、菜々子が右手を挙げて宣言する。
「じゃあ、菜々子もお姉ちゃんのお手伝い、する!」
「ほんと?ありがとう!あ、菜々子ちゃん、ご飯、炊ける?」
「うん!お米もとげるし、スイハンキのスイッチもちゃんとできるよ」
「じゃあ、お姉ちゃんより菜々子ちゃんの方が先にお家に帰ってきた日は、菜々子ちゃんがご飯炊いておいてくれる?」
「うん!わかった!」
 まかせてね!と張り切る菜々子を、暁は微笑ましく見つめてから、堂島に向き直った。
「あ、そうだ。叔父さんのお弁当箱ってありますか?」
「あ?……ああ。多分、食器棚のどっかに――」
「え、暁ちゃん、お弁当まで作る気!?」
 暁の言わんとすることを悟り、堂島の答えに半ば被って、足立は思わず声を上げていた。
「自分の分を作るついでです。さっきも言いましたけど、私、薄味好きなんで、出来合いのものってあんまり好きじゃなくて……」
「いや、気持ちはありがたいが……俺は結構早くに出るときもあるし、それに合わせるのはきついだろう」
「ああ、大丈夫です。おかずは寝る前に作って、お弁当箱に詰めて冷蔵庫に入れときますから。早い時は自分でご飯だけ詰めて持って行ってください」
 両親も時間が不規則だったんでこういう形にしてたんです、と、堂島の遠慮を暁は笑って一蹴する。
 思わず足立は、堂島を恨めしそうに見つめ、すねた声を漏らしていた。
「いいなぁ~、堂島さん……僕も暁ちゃんの手作り弁当食べたいですよ!」
「お前なぁ……」
 呆れた声を漏らす堂島の横で、暁はあっけらかんと笑う。
「あ、じゃあ、作りましょうか?」
「――え!?マジで!?」
 まさかそんなリアクションが返ってくるとは思わず、足立は本気でぎょっとした。
「いや、嬉しいけど、すごく嬉しいけど!無理しなくていいんだよ!?」
「いえ、お弁当って、一人分作るのも、三人分作るのも、手間はあんまり変わりませんから。変わるのは材料の量くらいで」
「いや、その材料だってただってわけじゃないしさ!」
 けろりとした暁の言葉に、足立は反射で返し――その言葉に堂島が反応した。
「ああ、そうか。お前が飯用意してくれるなら、食費はお前に預けといた方がいいか」
「え?……任されちゃっていいんですか?」
「ああ、毎度買い物に付き合ってやれるとも思えないしな」
 そう苦笑して、堂島は「これくらいでいいか?」と金額を告げる。その額は、三人分の食費にしてはやや大きいように足立には思えた。
暁も同じように思ったらしく、確認の言葉を紡ぐ。
「その額なら、相当余裕ができますけど……余った分は月末にお返しすればいいですか?」
「いや、余った分はそのままお前の小遣いにしてくれていい。もともと、出来合い惣菜に頼ってたウチじゃあ、俺と菜々子と二人だけでそれだけの食費がかかってたんだ。お前のおかげでそれに余裕ができるなら、お前が報われてしかるべきだろ」
 お前の生活費はちゃんと姉貴から送られてくるしな、遠慮しないでいいぞ、と堂島は笑う。
 いくら惣菜に頼っていたといっても、二人分の食費にしては堂島の告げた額は多い。おそらく、最初から残りは暁の小遣いにするつもりで、大目に告げたのだろう。
 それがわかったのか、暁もそれ以上は反論せず、笑って告げた。
「じゃあ、お小遣いのためにも頑張って倹約しなきゃですね」
「はは、倹約しすぎておかずが貧相にならないだろうな?」
「あ、酷い!そんなことしませんよ?」
「わかってるわかってる、冗談だ。そう怒るな」
 暁は堂島の言葉が冗談だとわかった上で怒って見せたのだろうし、堂島も謝る口元は笑っている。菜々子もそんな二人のやり取りをにこにこと楽しそうに眺めていた。
 そんなすっかり打ち解けた様子に、微笑ましさを覚えながらも――同時に、どこかこごった思いが、足立の胸をよぎる。

 ――ここにいて、いいのか?

 一家団欒に紛れ込んだ、異物。
 自分の存在が、そうとしか思えず――一緒に笑う口元は、知らず、引き攣っていた。


 夕食後、足立は沈み切っていた。
 夕飯中に芽生えたネガティブな思いを打ち消そうと、食後の食器洗いを申し出たのだが、慣れない作業に手を滑らせて皿を一枚ダメにしてしまった。「怪我がなくてよかったです」と笑う暁が割れた皿を手早く片付け、残った洗い物も済ませてくれたが――結局、彼女の手間を増やしただけの自分に、本気で情けなくなる。
 それだけでも精神的ダメージは大きかったのに、とどめの一撃と言わんばかりに、食後に皆で眺めていたテレビから、その不意打ちは来た。
『演歌歌手・柊みすずさんの夫である、議員秘書の生田目太郎氏との不倫疑惑が浮上した山野真由美アナですが――』
「――うえぇぇえええっ!?」
「きゃっ!?」
 足立が思わず上げた悲鳴に、暁と菜々子が驚いて声を上げる。
「あ、ご、ごめん!」
「なんだ、足立。いきなり大声出しやがって」
 慌てて詫びる足立に、堂島が怪訝そうに尋ねてきた。
「いえ、今のニュース……山野アナが不倫って……」
「あ?それがどうかしたか?今朝からさんざんやってたろう」
「今日、寝坊してニュース見る暇なかったんです!」
 うわー、ショックだー、と足立はテーブルに突っ伏す。
 山野アナはこの地方のローカル局アナで、足立はこちらに来てから彼女のファンだった。ややボーイッシュな容姿だが、そこが清潔感を感じさせて好きだったのだが――よりによって不倫とは。
(こっちの勝手なイメージだってわかってても、凹む……)
「……足立さん、山野アナのファンだったんですね」
 と、そこに暁のつぶやきが耳に入り、足立ははっと我に返った。
(うわ馬鹿じゃないの僕――ッ!)
 よりによって気になってる女の子の前で、他の女の話題でガチ凹みとか!
「ああ、いや、うん!良く見てるニュースのメインキャスターだったりしたから、それなりにはファンっていうか――まあ所詮ミーハーレベルだったんだけど!」
「そうですか……?」
 慌てて言い訳をまくし立てる足立に、あんまり落ち込まないでくださいね、と暁は気遣わしげだ。
「いや、うん!もう立ち直った!暁ちゃんみたいな美人に励ましてもらったら、こんな程度の傷心、すぐ治っちゃうって!」
「え……足立さん、そう言うこと軽々しく女の子に言わない方がいいですよ?」
 お調子者の口調で告げた足立の本音に、ちょっと照れた風に暁は窘める。
 と、そこに低い声がかかった。
「おい、足立……?」
「――うわごめんなさい調子のりましたもうしませんから睨まないでください!」
 堂島の射殺すような視線に、足立は慌てて平伏する。
「……ったく、お前はもうちょっとその口の軽さをどうにかしろ」
「いやー、でも、僕からこれ取ったら何にも残らないですしー」
「……それもそうか……」
「ちょっ……そこは否定してくださいよ堂島さん!」
 漫才のような堂島とのやり取りに、暁と菜々子が楽しそうな笑い声を上げる。
 職場ではいつも渋い顔の堂島も、口元を緩めて笑う。
(――ああ、なんだ)
 その様子に、ネガティブな思いは霧散した。
 自分は『異物』などではなかった。ちゃんと、この団欒の輪に受け入れられていたのだ。
 優しい人々が作る、優しい場所に。
 いつか、ただただがむしゃらに追い求めていた『安定』とは違うけれど――こんなところに、『安寧』はあったのだと悟る。
 気づけば、山野アナの不倫報道は終わっていたが、今の足立にはそんなことはどうでもよかった。
 今更、かもしれない。競争の中で、全てを見下し何人も何人も蹴落として――結果、転げ落ちて、落ちた先で見つけたお手軽な幸せに縋りついているだけなのかもしれない。そうも思う。
 ――だが、それがどうした。それのどこが悪い。
 ただ、みんなと笑いあえるこの日常があればいいと――そう思うこの気持ちは、本物なのだから。

 しかし、そんな彼のささやかな望みは、無慈悲にも一晩で叩き壊された。

 翌朝未明、山野アナの失踪が判明し――同日昼ごろ、遺体となって発見されたのだ。

 ――民家の屋根のテレビアンテナに逆さ吊りにされた、異様な姿で。



[29302] 2章.役者は己の役を見出し
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/11/29 11:05
 気がつけば、白い世界に一人だった。
 周囲を見渡すも、見えるのは一面の白色のみ。その色の正体が何であるかを悟り、眉をしかめる。

 ――霧。

 立ち上がれば己の足元すら見通せないほど、白くけぶる一面の霧。

 ――ここは、どこだ。

 浮かんだ疑問に思わず身じろぎし――踏んだ足元は、かつりと硬質の音を響かせる。
 音につられて目線を落とせば、白い霧に滲みながらも、紅の色が見て取れた。
 屈みこんで、更によくよく目を凝らせば、一抱えはありそうな紅の立方体が延々と並び連なって、一筋の道を成しているのだとわかる。
 霧の中に浮かぶ紅の“道”。その外は、ただ霧が立ち込めるのみ。底の見通せない白い深淵は、この“道”から逸れれば、際限なく落ちてゆくのだろうと思わせた。

 ――ここは、どこだ。

 先ほども浮かんだ疑問が胸に渦巻き、その疑問はさらなる疑問を呼び起こす。

 ――どうして、自分はこんなところにいる。

 そう思って――気づいた。気づいて、しまった。

 そもそも、己が何者であるかさえわからない、ということに。

 そのことに、身の内から腐っていくような悪寒を覚えながら、己の身体を見下ろした。
 しかし、霧に溶けるように、己の姿が見て取れない。
 足先の紅の大地はわずかではあるが見えているというのに、己が身に纏うものが何なのか、それすら見て取ることができない。
 ぞっと怖気が背を走り抜け、言いようのない恐怖を覚えた。
 まるで、霧が意志を持って、自身の身体を――自身の正体につながるものを隠しているように思えたのだ。

 ――このまま、自分は、この霧に溶けて消えてしまうのではないか。

 恐怖は、更に不安を駆りたてて、そんな妄想じみた思考さえ誘い――

「――ふざけるな……!」

 聞こえた音――憤ったようなその声に、はっとする。
 若い、男の、声。
 それは、紛れもなく、己の口から発せられた、己の声だった。
 悪意を持った霧の中でも、意思を込めたその言霊は、確かに響いて――彼に、己が確かに存在するのだと知らしめる。
 揺らいだ心に、芯が通る。恐れに俯いたまなこが、前を向く。
 彼は、霧に隠れた道の先を見据えた。
 その瞬間――

“真実が知りたいって……?”

 その声は、唐突に響いた。

“それなら……捕まえてごらんよ”

 漂う霧に反響するかのように、奇妙にこだまして聞こえるその声は、若いのか老いているのか、それどころか男か女かもわからない。
 ただ一つ、わかるのは――声は、この道の先から響いているということだけ。
「――上等だよ」
 知らず己の口から零れた声は、確かに笑みの色を宿していた。
「わざわざ呼んでくれてるんだ。行くのが礼儀ってもんだよね」
 今、己の口角は、にやりと意地悪く吊り上がっている――そう、感じた。

 ――そう、これが、自分だ。

 そこに、確固たるものを見出して――彼は、その足を道の先へと進め始めた。


 道の終着点にあったのは、彼の背丈よりも大きな紅の立方体に、一回り小さな黒い立方体がはめ込まれた、奇妙なオブジェだった。
 一目見ただけでは何なのかわかるはずもない外見なのに、彼には、それの正体が何故だかわかった。

 ――これは、“扉”だ。

 確信を持って、黒い立方体に手を触れる。すると、二つの立方体は、音もなく回転しながら解け、その空間を開いた。
 迷いなく、開いた“扉”の向こうへ足を踏み入れ、彼は、そこで待っていた者を睨みつけた。

“へえ……この霧の中なのに、少しは見えるみたいだね……”

 煙る霧の向こう、辛うじて人の形だと見て取れる影が、告げる。

「……気に入らないな」
 応える代わりに、彼は吐き捨てた。――高みから見下すようなその言葉。まったくもって気に入らない。
 知らず、その手に力がこもり――ふと、己が右手に何かを提げていることに気が付いた。
 眼前にかざせば、それが一振りの刃だと知れる。
 己が武器を携えていたことに、驚きはなかった。寧ろ、必然であるかのようにその事実は胸に落ち着いた。

 ――“アレ”は敵だ。

 目の前の人影を、本能がそう断じていたからだ。――敵を前に武器を持って、何の不自然があるのか。
 そして彼は、左手を柄に沿え、両手で刃を構え――
「――ふッ!」
 鋭く吐いた呼気と共に踏み込んで、人影へと斬りかかった。
 僅かに濡れた音と、微かな手ごたえ。――振るった一撃は、微かに影を掠めたのみ。
 人影は変わらず霧の向こう。確かに詰めたはずの距離が、一瞬で開かれていた。そのことに舌打ちした時、眼前にそれは現れた。

 ――蒼い燐光を放つ、一枚のカード。

 それが一体何であるのか思考する暇も――そもそも疑問が浮かぶ余地すらなく、彼の身体は動いていた。
 刃を左手に預け、空いた右手をカードへ伸ばし――迷うことなく、握り潰した。

 高く澄んだ音と共に、無数の欠片と化して砕けたカードは、蒼い燐光となって宙に溶け――そこに、一つの人影を成す。
 霧に霞んではいるが、男のものと分かるシルエット。纏った黒外套の裾をはためかせ、手にした刃をかざす。
 その仕草に応えるように、言霊が口をついて出た。
「――ジオ!」
 鋭く放った声と共に、黒衣の怪人が振り下ろした刃から雷光が放たれる。
 その雷は、狙い違わず霧の中の人影を撃ち――

“なるほど……確かに、面白い素養だ……”

 しかし、高みから見下ろすようなその声を、幾許いくばくも揺るがすことはできなかった。
 思わず歯噛みする彼の様子など素知らぬ風で、人影は言葉を紡ぎ続ける。

“でも……簡単には捕まえられないよ……”

 その言葉と共に、じわりと滲む様に、辺りの霧が色を濃くした。
 人影の姿が、完全に霧の向こうに消える。

“求めているものが“真実”なら、尚更ね……”

「――くッ……!」
 声が背後から響いてきたことに慌てて振り返るも、見えるのは、ただ一面の白。

“誰だって、見たいものを見たいように見る……そして、霧はどこまでも深くなる……”

 そして、その声さえも、どこから響いて来るのか定かでなくなった。

“いつか……会えるのかな……こことは違う場所で……”

 刃を握りしめ、警戒も露わに周囲を見渡す彼の様子など気に掛けた風もなく、どこか楽しげにさえ聞こえる響き。

“ふふ……楽しみにしているよ……”

 その言葉を、最後に――

 彼の意識は、霧にかき消されるように途切れた。

 * * *

 覚醒した意識がまず認識したのは、けたたましい電子音だった。
「……うるさいなぁ……」
 重い瞼を閉じまま、手探りでベッドサイドの携帯を取ろうとし――覚えのない、ざらりとした感触に、足立は眉をしかめた。
「――うん?」
 呻いて、ようやっと視覚を機能させる。
 見れば掌が触れたものの正体は畳だった。自身が横たわっているのはその上に敷かれた布団。
(……あー……そうだった)
 自身が今いる場所を思い出し、足立は眠い目をこすって身を起こした。
 ここは自分の部屋ではなく、堂島宅の客間だ。昨夜、暁の手料理をご馳走になった後のこと。話が盛り上がり、気がつけばいい時間になってしまっていた。慌てて辞去しようとしたところ、堂島が「もういっそ泊まってけ」と言い出し、結局それに甘えてしまったのだ。
 状況を把握したところで、先程から枕元で鳴り続けている携帯を手に取る。目覚まし代わりのアラーム機能――ではなく、着信だった。
「――はい、足立です」
 通話相手は署の同僚――それも、足立を目の敵にしている人物だった。
 それだけで足立の眉をしかめさせるに十分だったが、告げられた内容は更に足立の顔を歪ませた。

 ――山野真由美が、宿泊先の天城屋旅館から失踪した。捜索のため、天城屋旅館に急行せよ。

 人生で初めて、真摯に平穏を願った翌朝に、これだ。
「……くそったれ」
 最悪なモーニングコールに、足立は口汚く吐き捨て、身支度を始めた。


 寝間着代わりに貸してもらった堂島のジャージから、自身のスーツに着替えて、客間のある二階から下りると、奥の廊下からスーツ姿の堂島が出てきたところだった。
「おう、足立。よく眠れたか――って、こんな朝早くに叩き起こされて訊くことじゃないか」
 堂島は自身の言葉に苦笑を浮かべる。午前五時前、まだ外は薄暗い時間だ。
「モーニングコールまではぐっすりでしたよ。――あ、布団とジャージ、適当に畳んでそのままにしてありますけど」
「ああ、わかった」
 苦笑を返してから、借りたものの片づけを確認した足立に、堂島は頷く。
 と、階段から、軽やかな足音が下りてきた。
「あ、おはようございます」
 足音の主――パジャマ姿のままの暁は、足立たちに目を留めると、笑顔で朝の挨拶を告げる。
「おはよう――っていうか……もしかして、起こしちゃった?」
 足立は反射で挨拶を返してから、思い至って恐る恐る問う。
 足立が泊まって客間は、暁の部屋の隣だった。足立が寝ぼけたために、長時間鳴りっぱなしだった着信音で起こしてしまった可能性は高い。
「いえ、私、元々朝は早いので」
 暁は笑顔でそう言ってくれたが、いくらなんでもこの時間は早すぎる。やはり起こしてしまったのだろう。しかし、こういう言い方をされてしまうと、謝るのもなんだかおかしい。
「悪い、暁。俺達はもう出なきゃいかん。家出るとき、戸締り頼むな」
 どう言葉を紡ぐべきか、足立が頭を悩ませる横で、堂島がさっさと話しをたたみにかかる。
「わかりました。――あ、ちょっとだけ待ってもらえますか?」
 暁は堂島の言葉に頷いてから、慌てたように続ける。冷蔵庫に駆け寄ると、取り出したものを持って炊飯器の方へ移動。手際よくご飯を詰めて蓋をする。キッチンテーブルにあらかじめ用意してあったらしい布でそれらを包むと、足立と堂島に差し出した。
「はい、お弁当です。朝ごはんの代わりに持って行ってください」
「え……でもこれ、暁ちゃんの分じゃない?」
 差し出された弁当箱に、足立は戸惑う。堂島のものと比べて一回り小さいそれは、明らかに女性向けの弁当箱だ。
 しかし、暁はその指摘にちょっと照れたように目を伏せる。
「……今日、学校は午前中だけなんです」
 間違えていつもの癖で作っちゃって、と苦笑した。
「今日のお昼は菜々子ちゃんと食べるつもりなので、このお弁当は足立さんが持って行ってください」
 足立は、そう言って受け取らされた包みをまじまじと見つめ――
「……あっ、ありが――ぁいでででッ!?」
「ほれ、行くぞ足立!」
 我に返って礼を言いかけたところで、堂島に耳を摘ままれて、暁から引き離されるように玄関の方へ引っ張られた。
「弁当、ありがとな。行ってくる」
「ちょ、堂島さん、自分ばっかっぁだだっ!――あ、ありがとねー!」
 その癖自分はきっちり姪に礼を告げる堂島に思わず不平を漏らしつつも、足立は引きずられたまま礼を言う。
 暁はにこにこと笑みを浮かべたまま、「行ってらっしゃい、気を付けてくださいね」と見送ってくれた。


 署には寄らず、堂島の車で天城屋旅館に直接乗りつけた。既に数台警察車両の姿が見て取れ、大事になっているのだと知れる。
「――状況は」
 駐車場に停めた車から降りるなり、目に付いた警官を捕まえ、挨拶もなしに問いを投げる堂島。
「芳しくないですね。まるで手がかりなし」
 帰ってきた返答は、苦々しげなものだった。
 通報があったのは今から小一時間前。
 山野の宿泊する部屋の前を通りかかった仲居が、その扉が閉まりきっていないことに気づき、不審に思って中を窺ったところ、室内は何者かが争ったかのように荒れ、山野の姿はどこにもなかった。報告を受けた支配人が、状況からただ事ではないと判断し、即座に警察へ通報したのだ。
 警察が到着するまでの間も従業員総出で旅館内を捜索したが真由美の姿はなく、到着した警察による近隣の捜索も今のところ何の成果もあげられていないとのことだ。
「拉致の可能性はもちろん、貴重品の類が部屋になかったことから、山野アナ当人が自発的に出て行った可能性も考慮して、駅や主要道路にも人を回してますが……今のところは成果なしです」
「……とりあえず、山野真由美が泊まっていた部屋を見せてくれ」
 堂島は、警官の言葉に苦い顔になりつつもそう告げる。
 わかりました、と頷いた警官に先導され、足立は堂島と共に歩き出した。


 山野真由美が宿泊していた部屋は、天城屋旅館でも特に上等に区分される部屋だった。
 座卓やテレビなどが置かれた部屋と寝間が続きの間になっている和室だ。広く、どちらの間も十六畳はある。
(――ここに一人で泊まるのって、かえって虚しい気が……)
 足立は思わずそう思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
 酷く荒らされているのは座卓周辺で、卓は蹴飛ばされたように斜めにずれており、座布団もあっちこっちに散らばっている。
 しかし、何より目についたのは、座卓脇に置かれた大型のブラウン管テレビの画面が割れていたことだった。
 すぐそばに、部屋の備品らしいポットが転がっていたことから、おそらくはこれを叩きつけたのだろうが――
「これ、結構な音がしたんじゃないか……?」
 思ったことを口にすれば、部屋に控えていた刑事がため息まじりに応えた。
「だと思うんだがな。間が悪いというかなんというか……昨夜このフロアで客が入っていたのは、この部屋だけだったんだそうだ」
 シーズンからずれていることと、他と比べて値の張る上部屋しかないフロアであることが相俟って、昨夜の時点でこのフロアに宿泊していたのは山野真由美だけであったらしい。
 ならば、この部屋の上下に当たる部屋はどうかというと、これも空き部屋。それも、その理由はというと――
「なんでも、山野真由美が時々ヒステリー起こして大声で喚くことがあったそうで。女将が注意しても収まるどころか、逆に噛みつく始末だったらしく。他の客の迷惑にならんよう、余裕があるうちはこの部屋の周囲に客を入れないようにしていたそうです」
(……うわぁ……)
 山野の、もはや追い出されても文句は言えないレベルの悪質っぷりに、足立は思わず遠い目になる。
 おそらくは自身のスキャンダルのことで情緒不安定になっていたのだとは思うが――それにしても酷い。自身が思い描いていた『山野アナ』のイメージが崩れていく。
「……最後に山野真由美の無事が確認されているのはいつだ?」
「昨夜8時。夕食の膳を下げに来た仲居の証言です。ただ、この時もまた山野がヒステリーを起こしたようで、『私に構うな』と怒鳴って茶を引っかけられたと。そのこともあって、それから今朝まで、従業員もこの部屋に近づくのを避けていたようです」
「……最悪だ……」
 堂島の問いに返ってきた答えに、足立は思わず呻く。――色んな意味で最悪だ。
「……時間が絞れないのは痛いな……」
 堂島も苦々しく呻く。
 昨夜の8時から、通報があった今朝4時過ぎまでのおよそ八時間。この時間帯のどの時点から山野がいなかったのかによって、状況は大きく変化する。昨夜のうちに失踪していたのだとすれば、彼女は既に八十稲羽この町を出てしまっている可能性もある。
「……見つけるのに手間取るかもしれないな、これは……」
 そう重々しく落とされた堂島の呟き。

 しかし、その言葉を裏切る形で――その日の昼前に、山野真由美は発見された。

 ――物言わぬ遺体となり、民家のテレビアンテナに逆さ吊りされるという、最悪の形で。

 * * *

 菜々子にとって、美味しそうな匂いに誘われて目が覚め、リビングに出れば朝食が並んでいるという光景は、酷くおぼろな幼い頃の記憶の中にしかないものだった。
 何故なら、一年前に母を亡くしてから、この家で朝食を用意するのは菜々子の役目だったからだ。パンを焼いて、チーズかハムを乗せる。小学校に上がった今年からは、目玉焼きも作れるようになった。
 自分で用意した簡素なその朝食を、時には『うまい』と笑ってくれる父親と一緒に、時には一人で黙々と食べる。父が一緒にいるかいないかで、いつも同じはずの朝食の味は全然違うのだ。
 今日は、朝早くに電話があって、父は慌ただしく出て行ってしまった。菜々子はまだ布団の中で、半分眠っていたけれど、それでも父が出かけて行った気配は感じ取っていた。
 きっと、リビングに行ったら、お父さんの書いたメモがポツンとおいてある。それを読んでから、一人分の、美味しくない朝ご飯を用意するんだ――
 夢うつつに、そんな寂しい思いを巡らせた菜々子の鼻に、ふと、とてもおいしそうな匂いが届いた。
 あれ、と菜々子は訝しく思う。お父さんは仕事に行ったのに。ううん、お父さんがいても、お父さんはご飯の用意なんてできないのに。
 菜々子以外で、ご飯が用意できるのは、この家ではお母さんだけなのに――
 思考がそこに行きついた瞬間、菜々子はぱちりと夢心地から覚めて飛び起き、慌ててリビングに向かった。
「――お母さん!?」
 叫んで駆け込んだリビングには、エプロンをした女の人がいた。
 その人は、菜々子の声に驚いたように振り返る。二つに分けて三つ編みにされた、きらきら輝く銀色の髪。見開かれた、綺麗な青い目。

 ――お母さんじゃ、ない。

「……あ……ご、ごめんなさい!」
 今度こそ本当に目が覚めて、菜々子は慌ててその人に謝った。
 この人は、暁お姉ちゃん。昨日、家に引っ越してきた、お父さんのお姉さんの子供。菜々子の従姉のお姉ちゃんだ。
 お姉ちゃんは料理が得意で、昨日作ってくれた夕ご飯も美味しかった。明日からは毎日作ってくれると聞いて、すごく嬉しかったのに――
 ――何でお姉ちゃんのこと忘れて、お母さんだなんて思っちゃったの。
 恥ずかしさと、改めて感じる、母はもういないのだという事実。二つの気持ちがぐちゃぐちゃになって、菜々子はぎゅっと目を瞑って俯き――
 その頭に、優しく触れる感触があった。
「おはよう、菜々子ちゃん。ご飯、できてるから、顔を洗って着替えておいで」
 優しい声に目を開ければ、にっこり笑って自分の頭を撫でてくれる従姉あねの姿。
 その不思議な青い目に、恥ずかしさも悲しさも全部吸い込まれてしまったように、菜々子の心は一瞬で落ち着いた。
「うん!」
 優しい従姉の言葉に元気良く頷いて、菜々子は急いで洗面台へと向かった。

 * * *

「朝からご飯なの、久しぶり!」
 いつもパンだから、と嬉しそうにはしゃぐ菜々子に、暁はほっと笑みをこぼす。
 今の菜々子に、自分を亡き母と間違えた時の寂しそうな様子は既にない。例えこの一時のことだとしても、自分の行為で従妹の寂しさを和らげられるなら、それは嬉しいことだった。
 いただきます、と菜々子と声を揃えて、暁は朝食に箸をつける。
 朝食のメニューは、ジャガイモと玉ねぎの味噌汁に、鮭の塩焼き。副菜はほうれん草とじゃこの和え物だ。
「自分が和食好きだから、どうしても作るのも和食が多くなっちゃうの」
 昨日の夕飯がパスタだったように、作る分にも食べる分にも洋食が苦手というわけでもないのだが――特にこれといったテーマがないと、つい自身の食べたいものが優先してメニュー候補に挙がってくる。
 これまでは、食材調達の時点で、メニューを相談する相手がいなかったというのもある。しかし、これからは菜々子がいるのだ。
 食べ終わった食事の食器を流しにつけながら、暁は菜々子に尋ねてみた。
「そうだ、菜々子ちゃん。今日のお夕飯、何がいい?」
「え!?……菜々子が、きめていいの?」
 返ってきたのは遠慮がちな声。暁はもう一押ししてみた。
「うん。ただ、お姉ちゃんに作れないのだったらごめんね?」
 好きなメニュー言ってみて?と促せば、菜々子はしばし悩んでから、「ギョーザ!」と声を上げた。
「餃子か。うん、それならお姉ちゃんにも作れるよ。菜々子ちゃん、餃子好きなんだ?」
「うん!菜々子も好きだけどね、お父さんもギョーザ好きなの!」
 なるほど、と暁は納得する。自分よりも父親の好みを優先するあたり、菜々子のいじらしさがよく表れていた。
「じゃあ、今日の帰り、餃子の材料を買いに、一緒にジュネス行こうか?」
「――ジュネス!?いく!」
 暁の提案に、菜々子の声が一オクターブ跳ねあがる。
「じゃあ、学校終わったら待ち合わせしようか。携帯持ってるんだよね?」
「うん!」
 はしゃぐ菜々子と携帯アドレスを交換して、戸締りを確認し、それぞれ荷物を持って家を出る。
「お姉ちゃん、まだ道よくわかんないでしょ?菜々子、とちゅうまでいっしょだから、案内してあげるね!」
 外はあいにくの雨だったが、嬉しそうな菜々子の声で、暁の心は晴れやかだった。


 暁にとって、今回の転校デビューは、中々に波乱に満ちたものとなった。
 途中まで案内してくれた菜々子と別れたあと。通学路の途中で男子の乗った自転車がひっくり返る瞬間を目撃し、あまつさえ、男性には致命的らしい箇所を打ち付けた様子に声をかけるか迷ったり(結局何と声を掛ければいいのかわからずそっとしておいた)。
 その後、諸岡という担任教師と共に教室に行ったら、その男子がクラスに居て、思いっきり机に突っ伏していて、それに気を取られてしまい担任の話を聞いていなかったり(担任の『自己紹介しろ』の声に我に返った)。
 とりあえず笑顔で自己紹介したら、諸岡が自分の方を見ていたという男子になぜか説教しだし(自己紹介の時にそっぽを向いている方が失礼だと思うのだが)、一向に終わる気配のないその話は、一人の女生徒が暁の席について訊ねたことで、ようやっと終わった。
 暁が席に着いた後、諸岡が出席を取り、ようやっと通常通り授業が始まる。
 その後、授業中も何事もなかったのだが、本日最大の波は、帰りのHRを終え、担任が解散を告げた瞬間に来た。
『先生方にお知らせします。只今より、緊急職員会議を行いますので、至急、職員室までお戻りください。また、全校生徒は各教室に戻り、指示があるまで下校しないでください』
 そんな突然の校内放送に教室にざわめきが満ちる。
「いいか?指示があるまで教室を出るなよ」
 何事かと呻いた諸岡が、生徒たちに念押ししてから教室を出て行った。
「……あいつ、マジしんどい」
 諸岡が出て行くと同時、近くで女生徒の呟く声が耳に入る。そういえば、自己紹介の直後にも、彼に対する不服と暁に対する同情の声が囁かれていた。
 まあ、確かに話は長いし、中々癖もあるかもしれない。ただ、暁と職員室で対面した時は、口調こそきついが、いろいろと気遣ってくれるいい教師に思えたのだが。
 諸岡の印象の差に暁が首を捻っていると、ふと窓の外から剣呑な音が響いてきた。
 ――パトカーの、サイレン。
 教室の喧噪のなかでも耳に着く独特の音に惹かれたように、数人の男子が窓際へ駆け寄っていく。
 事件かと言い合いつつ、窓の外を熱心に見るが、外に立ち込める霧のせいで何も見えないようだ。
「最近、雨が降った後とか、やたらでるよな」
 そんなつぶやきが聞こえて、暁は首を傾げた。
 霧が出やすい土地、というのは、地形や気候などの環境によって決まるものだろう。それらの環境はそうそう大きく変化するようなものではないだろうに、最近になって霧が増えてきたというのは、どういうことなのだろう。地球温暖化の余波だったりするのだろうか。
 と、暁がそんなことを考えているうち、男子たちの話題は別のものに移っていたらしい。やおらそのうちの一人が声を上げると、暁の右斜め前に座る女生徒の下に歩み寄り、口を開いた。
「あ、あのさ、天城。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」
 声をかけてきた男子に、その女子は長い黒髪を揺らして向き直る。
(綺麗な子だなぁ)
 斜め後ろから垣間見える横顔に、暁は素直に感嘆する。
 大和美人、と称したくなるような少女だった。赤いカチューシャで止められた黒髪は腰ほどまで伸び、その白い肌に映えていた。切れ長の瞳が印象的な、すっきりと整った顔立ち。背筋を伸ばして自身の席に座っている姿にさえ、どことなく品が漂っている。赤が好きなのか、制服の上から羽織ったカーディガンも鮮やかな赤色だ。
 天城と呼びかけられた彼女が軽く首を傾げると、男子はどこか期待のこもったような声で訊ねた。
「天城んちの旅館にさ、山野アナが泊まってるって、マジ?」
「……そういうの、答えられない」
 彼女は小さく眉を寄せ、男子から顔をそむけて言った。寄る辺もないその返答に、男子は乾いた笑いをもらしてすごすごと退散する。
(天城さん、か。お家、旅館なんだ。……山野アナって、昨日のニュースの人かな)
 どうも触れてほしくなさそうなので、口には出さず暁は内心で呟く。
 と、男子と入れ替わりに、一人の女子が『天城さん』に歩み寄って声をかけた。
「はー、もう何コレ。いつまでかかんのかな」
 盛大にため息をつく彼女の姿に、暁は見覚えがあった。
 朝、担任の長話を留めてくれた女子だ。暁の隣の席の生徒でもある。制服の上に着込んだ私物らしい緑のジャージは見間違えようもない。
 栗色のショートカットが良く似合う、溌剌とした印象の子だった。傍にいると、こちらまで元気になるような、そんなカラリとした生彩を放っている。
 しかし、今はその顔も曇り、見るからにうんざりとした様子だった。
「さあね」
 ショートカットの女子の愚痴っぽい呟きに応じる天城の答えは短いが、先ほどの男子との受け答えとは声の柔らかさがまるで違う。仲がいいのだろう。
 ソッコー帰ればよかった、と愚痴るショートカットの女子に、天城は微苦笑を浮かべた。HR終了と放送の間のなさからしてそれは無理だと思ったのだろう。
 しかし、ショートカットの少女は愚痴るだけ愚痴ると、ころりと話題を変えた。思い出したように対話相手に尋ねる。
「ね……そう言えばさ、前に話したやつ、やってみた?」
 相手が首を傾げたのを見て、更に言葉を続ける。
「ほら、雨の夜中に……ってやつ」
「あ、ごめん、やってない」
 ようやっと意味が通じたのか、何やら謝る天城に、ショートカットの少女はカラカラと気にした風もなく笑う。
「いいって、当然だし。けど、隣のクラスの男子『俺の運命の相手は山野アナだーっ!』とか叫んでたって」
 おかしそうに告げたその内容に、暁は恋占いか何かかなと思った。
 と、そこに再びスピーカーからの声が届く。
『全校生徒にお知らせします。学区内で、事件が発生しました。通学路に警察官が動員されています。出来るだけ保護者の方と連絡を取り、落ち着いて、速やかに下校してください。警察官の邪魔をせず、寄り道などしないようにして下さい。繰り返します――』
「事件!?」
 内容を繰り返す放送に重なるように、興奮した男子の声が響く。
 それを皮切りに教室内のざわめきが増すが、暁は口を開かず、ただ眉を寄せる。
(保護者……堂島さんは、たぶん、事件の捜査に出てるよね。菜々子ちゃんはどうするんだろう……)
 暁の通うこの八十神高校と、菜々子の通う小学校はそれほど離れていない。こちらでこのような警戒態勢が取られているなら、あちらも同様だろう。おそらく小学校では集団下校という形になるのだろうが。
 とりあえず菜々子に連絡しようと携帯を取り出すと、そのタイミングで着信が入った。菜々子からだ。
「――もしもし、菜々子ちゃん?」
『あ、お姉ちゃん。もしもし、菜々子です』
 沈んだ声で菜々子が告げたのは、やはり暁の予想通り、小学校は集団下校となったこと、帰宅後はできるだけ自宅で保護者と一緒にいるよう言われたこと、という二点だった。
『今日はジュネス、いけないね……』
「うん……残念だけど。それはまた今度ね。私もすぐお家に帰るから、菜々子ちゃんはお家で待ってて。けど、お昼ご飯は、お家にあるもので一緒に作ろうね」
『――菜々子も一緒に!?』
 残念そうな菜々子を励ますつもりで暁が告げた言葉は効果があったようだ。菜々子の声が明るくなる。
『うん、わかった!お家で待ってる!』
 早く帰ってきてね!とはしゃいだ声の菜々子に、わかったと答えてから通話を終える。
 手早く荷物を鞄にしまうと、暁は席を立ち――そのタイミングで、声がかかった。
「あ、帰り一人?なら、一緒に帰んない?」
 声の主は、先ほどのショートカットの女子だ。にこりと人好きのする笑みを浮かべて、暁へと自己紹介する。
「あたし、里中千枝ね。隣の席なのは知ってるっしょ?」
「うん。今朝はありがとう」
 担任の長話を止めてくれた件に礼を言えば、「いいっていいって」と快活に笑う。それから、一緒にいた黒髪の女子についても紹介してくれた。
「で、こっちは天城雪子」
「あ、初めまして……なんか急でごめんね」
 紹介に合わせ、雪子が挨拶し、申し訳なさそうに付け加える。いきなり一緒の下校を提案したことに気おくれを覚えているようだった。
 そんな雪子の態度に、千枝がばつが悪そうに身じろぎする。
「のぁ、謝んないでよ。あたし失礼な人みたいじゃん。ちょっと話を聞きたいなーって、それだけだってば」
 素直で裏のない物言いに好感を覚えて、暁は思わず笑みを浮かべて改めて挨拶する。
「今朝もみんなに挨拶したけど、改めて。神代暁です」
「ねね、暁って呼んでいい?あたし達のことも名前で呼んでいいからさ」
「うん、よろしくね、千枝、雪子」
 懐っこく提案してくる千枝の言葉に、暁も嬉しくなって笑顔で頷く。
 と、その友好的な雰囲気に水を差すような重い声がかかった。
「あ、えーと、里中……さん」
(――あ、今朝の)
 どこか落ち着きなさそうに声をかけてきたのは、今朝暁が目撃した自転車事故の男子だった。
 まともに顔を見るのは初めてだが、毛先の跳ねた癖のある茶髪と、首に下げた鮮やかな橙のヘッドホンは見間違えようがない。
 改めて正面から彼の見た面立ちはなかなかに整ったもので、『美形』いうよりは『イケメン』という表現がよく似合う。近寄りがたさを感じさせない懐っこそうな魅力の持ち主だが、今現在、その魅力は顔色の悪さによって五割減になっていた。
「これ、スゲー、面白かったです。技の繰り出しが流石の本場つーか……申し訳ない!事故なんだ!バイト代入るまで待って!」
 早口にまくし立てると、手にしていたDVDを千枝に押し付けて、廊下へ続くドアへと駆けて行く。
 一瞬ぽかんとした千枝だったが、すぐに我に返ったようにその背を追って叫んだ。
「待て!貸したDVDに何をした!?」
 同時に、床を蹴って大きく跳躍。
「――のわっ!」
 見事な跳び蹴りを背に受けた男子は、近くの机に激突する。
「うわ!信じらんない!ヒビ入ってるじゃん!あたしの成龍伝説がぁー!」
「お……俺のも割れそう……つ、机の角が、直に……」
 DVDの中身を確認した千枝の悲鳴と、今朝に続いて再び急所を打ったらしい男子の苦悶の声が重なる。
 さすがに見かねた暁が男子に声をかけるより先に、雪子が彼へと声をかけた。
「だ、大丈夫?」
「ああ、天城……心配してくれてるのか」
 顔をゆがませながらも、雪子の案じる声に応える男子。
「いいよ、雪子。花村なんか、放っといて帰ろ」
 しかし、千枝はそんな彼に対してにべもなく断じると、DVDを鞄にしまってドアへと向かう。
 暁と雪子は、苦しむ様子の男子に後ろ髪をひかれつつも、結局は彼女の後を追って教室を後にした。


「あ、一緒に帰るのは嬉しいんだけど……今日はちょっと寄り道できないの」
 下駄箱に向かう途中、「この後ジュネスで何か食べて行かない?」と尋ねてきた千枝に、暁は申し訳なくも告げる。
「へ?何か用事?」
「用事じゃないんだけど、小学生の従妹が一人で家にいるから……何か事件があったっていう直後に、さすがに一人にはしておけなくて」
 暁の返事に、千枝も雪子も納得したように頷く。
 靴を履きかえて昇降口に降りながら、暁は菜々子のはしゃいだ声を思い出しながら笑う。
「それに、一緒にお昼作ろうねって約束したし」
「おお、暁って実は料理上手!?」
 歩きながら、千枝が食いつく。雪子も目を見開いて感心した様子だ。
「上手……かはわからないけど、料理は好きだし、慣れてるかな。中学あがってからは、殆ど私が家のことやってたし」
 苦笑気味に告げれば、二人は何やら虚を突かれたような表情を浮かべて、何やら複雑そうに顔を見合わせる。
「……?どうかした?」
「え……えっと」
「そのう、それって――」
 言いにくそうに口ごもった雪子に代わり、千枝が意を決したように口を開き――
「君さ、雪子だよね」
 そのタイミングで、唐突に別の声が割って入った。
 歩きながら話しているうち、いつの間にか差し掛かっていた校門。その柱の脇に居たブレザー姿の男子が、雪子に声をかけてきたのだ。
 言っては悪いが、少々不気味な印象の少年だった。目の下の泣きぼくろ以外には特に特徴のある容姿ではないのだが、目にどんよりと雲でもかかっているかのように生気がない。
(ここの制服じゃないけど……雪子の知り合い?でも、それにしては『だよね?』って言い方は妙だし)
 首を傾げる暁の前で、男子は更に言葉を続ける。
「こ、これからどっか遊びに行かない?」
「え……だ、誰?」
 困惑したような雪子の声に、やはり知り合いではないようだと暁は確信する。しかし、ならばこの少年の異様な馴れ馴れしさは何なのだろう。
「なにアイツ。どこの学校?」
 と、後ろから聞こえてきた訝しげな声で、暁は周囲の様子に気が付いた。
 下校時の校門で立ち止まっていれば当然邪魔になるし、人目も引く。気が付けばそれなりの野次馬が集まっていた。
 野次馬の一部は「よりによって天城狙いか」「『天城越え』の厳しさ知らないのか」「っていうか普通は一人の時誘うだろう」などと呆れた呟きをもらし、しまいにはその成否ついてジュース賭けあう始末だ。
 そんな野次馬の様子に苛立ったのか、それとも戸惑って一向に答えようとしない雪子の様子に焦れたのか、件の男子が不機嫌な声で再度訊ねた。
「あのさ、行くの?行かないの?どっち?」
「い、行かない……」
 怯えた風に目を逸らして、しかしはっきりと拒絶した雪子の返答に、少年は憤慨も露わに叫んだ。
「……ならいい!」
 そうして踵を返すとその場から走り去っていく。
「あの人……何の用だったんだろう……」
「何の用って……デートのお誘いでしょ、どう見たって」
 呆然と呟く雪子に、千枝が目を瞬いて告げた。
 その言葉に、雪子が驚いた声を上げる。どうやら、まるで相手の意図に気づいていなかったらしい。
 千枝はそんな雪子に対し、「またか」と言わんばかりの反応で、どうやら彼女はもともとこの手のことに鈍いようだ。
 アプローチの意図すら通じていなかったのかと思うとあの男子も不憫だが、彼の誘い方にも多分に難があった。暁は思わず呟く。
「けど、あの誘い方はないかな……初対面で勝手に呼び捨てって……」
「だよねぇ。いきなり『雪子』って怖すぎ」
 しみじみと同意する千枝の声。と、そこに、先ほどの男子の声とは雲泥の差がある、爽やかな声がかかった。
「よう天城、また悩める男子をフッたのか?まったく罪作りだな……俺も去年、バッサリ斬られたもんなあ」
 ギコギコと軋んだような異音を発する自転車を押して現れたのは、先ほど教室においてきてしまった『成龍伝説』の彼だ。
 恨み言のような言葉とは裏腹に、声にも顔にも笑みが浮かんでいる。先ほどの一件に関しても気にした風もなかった。
 しかし、そんな彼の言葉に、雪子は首を傾げる。
「別にそんなことしてないよ?」
「え、マジで?じゃあ今度、どっか一緒に出掛ける?」
「……それは嫌だけど」
 喜色を浮かべた彼のお誘いを、しかしきっぱり斬って捨てた。
「僅かでも期待したオレがバカだったよ……つーか、お前ら、あんま転校生イジメんなよー」
 彼はがっくりと肩を落としつつ自転車にまたがると、最後に悪戯っぽく言い残して、勢いよく校門前の坂を下っていった。
「話聞くだけだってばー!」
 怒鳴る千枝の声に返るのは、フェードアウトしていく笑い声。
 一緒に居て退屈しない子たちだなぁ、と暁はつい笑みをこぼす。明るくて楽しいクラスメイト達だ。
「あ、あの、ごめんね。いきなり……」
 暁に告げられた雪子の謝罪は、先ほどの他校の男子の一件か、騒ぐ千枝のことか。
 しかし、前者は雪子が悪いのではないし、千枝に関しても暁は特に気にしていない。だから、暁は笑って首を振る。
「ほら、もう行こ。なんか注目されちゃってるし」
 姿の見えなくなった自転車少年へ向けてか溜め息をこぼし、千枝が言って歩き始める。
 その注目の何割かは先ほどの千枝の怒鳴り声によって集まったものだとは思ったが、そこには触れずに、暁も雪子と並んで彼女の後を追うことにした。


「へえ、両親揃って海外赴任かぁ。なんだ、もっとしんどい理由かと思っちゃった」
 帰る道すがら、転校の理由について訊ねられ、暁が叔父の家に世話になることになった経緯を話すと、千枝はそんな風に言って安堵したように笑う。
「しんどい理由?」
「いや……家族に不幸があったとか……なんかさっき、家のことは全部暁がやってる、みたいなこと言ってたし」
 暁が目を瞬かせれば、千枝は気まずそうに白状する。
「ああ、それはさっきも言った通り両親が仕事人間だから。家にいる時間が一番長いの、私だし。小学校まではさすがに両親のどっちかが仕事減らして家のことやってたけどね」
 しかし、その当時から『手伝い』と称して家事を仕込まれていたな、と当時を振り返って暁は苦笑する。
「あたしにはとてもマネできないなー。お母さんに頼りっぱなしだよ」
「私も家事はあんまり……」
「まあ、ああいうのって慣れだから。でも、やってみると結構楽しいよ?」
「家事を楽しむって発想がまず無理だわ……」
 そんな他愛ない話をしながら、田んぼ沿いの道を歩く。
 一面に広がる田園風景の向こうに、青く聳える山並み。立ち並ぶ送電塔。
 と、一陣の風が吹き抜けて、ざあ……っ、と青い苗が波打つようにそよぐ様に、暁は思わず感嘆の声をもらす。
「綺麗……」
「へ?え、何が?」
 千枝がきょときょとと辺りを見回す。田んぼの様子は眼中にないらしい。見慣れてしまっているのだろう。
「ごめん、田んぼの苗が一斉にそよぐのが、結構壮観だったから」
「え、田んぼ?……ああ、そっか、暁は都会の方から来たんだもんねぇ」
「田んぼはあんまりなさそうだよね」
 暁の言葉に、千枝と雪子は苦笑した。
「うん。両親の仕事の都合であちこち行ったけど、どこの時もいわゆる『地方都市』ばっかりだったから。見渡す限りの田んぼって、初めてかな」
「うわー、そっちのがあたしには想像つかないわー」
 田んぼなんてあるのが当たり前だからなぁ、と千枝が呆然と呟く。
「でも、三日も過ぎれば見飽きると思うよー。別に何があるわけじゃないし。……っていうか、この辺、ほんっと何にもないから」
「そうなの?」
「まあ、そこがいいところでもあるんだけどね。……んー、しいて言うなら、八十神山から採れる、染め物とか焼き物がちょっとだけ有名かな」
「千枝、その言い方じゃ、染め物や焼き物が直接山から採れるみたいだよ」
 千枝の言葉に、雪子が苦笑して訂正する。要は、染め物や焼き物に使われる染料や土が採れるらしい。
「あはは、ごめんごめん。うーんと、あとはー……ああ、雪子んちの『天城屋旅館』は普通に自慢の名所!」
「え……別に、ただ古いだけだよ」
 雪子は戸惑った風に首を振るが、千枝はそんな様子をただの謙遜と取ったらしく、つらつらと『天城屋旅館』をたたえ始める。
 どうやら、雪子の実家はかなり歴史のある旅館のようで、『隠れ家温泉』として雑誌などでも紹介される名所らしい。過疎化が進む八十稲羽の街は、天城屋旅館を訪れる観光客の収益でもっているも同然だそうだ。
 まるで自分のことのように自慢げに語る千枝とは対照的に、雪子は何故か嬉しくなさそうだ。
 気恥ずかしいのかな、と暁は思うが、それにしては様子が少しおかしい。そう疑問に思ったところで、千枝の天城屋解説は終わり、唐突に次の話題に移った。
「ね、ところでさ、雪子って美人だと思わない?暁も美人だけどさ」
「え?……確かに雪子は大和美人って感じだよね。髪とかまさに緑の黒髪って感じで凄く綺麗だし」
 いきなりシフトした話にちょっと戸惑いつつ、暁は雪子に関しては素直な感想を述べるものの、自身の容姿に関しては良くわからないので首を捻る。まあ、日本人離れしているのは確かなのだが。
「そんな……暁の方が美人だよ。それに、その色……アッシュグレイっていうのかな?凄く綺麗だよね」
 照れつつも、雪子は暁の髪を褒める。それに千枝も力強く頷いて、
「ホントホント!それ染めてるんじゃないよね?だったらモロキン黙ってないし、目もちょっと青みがかってるし」
 モロキンというのは担任の諸岡のあだ名らしい。
「ああ、うん。地毛だよ。父方の祖母がロシア人なの」
「へー!クォーターってやつ?かっこいい~」
 きらきらとした目で見つめてくる千枝の視線にいささか困惑し、暁は話のベクトルを変える言葉を告げた。
「でも、千枝だって可愛いよね。目なんかパッチリ大きいし。声も表情もはきはきしてるから、いるだけで周りが明るくなるもの」
「ぅええッ!?……あ、あたしなんかは全然……!」
「うん、確かに。千枝は可愛いよ?」
「ぎゃー!やめてー!恥ずかしくて死ぬぅー!」
 暁のみならず雪子からも追撃されて、千枝は顔を真っ赤にして悶えだした。
「……結構、こういうの恥ずかしいでしょ?」
「……はい、よくわかりました。今後自重します……」
 悶えすぎてぐったりとなった千枝に暁が苦笑して告げると、千枝は素直に反省の弁を述べた。
 と、何とか立ち直って顔を上げた千枝が、道の先に目をやって首を傾げた。
「――あれ、なんだろ?」
 言われてそちらに目をやれば、田んぼ沿いの民家周辺に何やら人だかりが見える。
 元々進行方向なのでそちらに歩んでいけば、なにやら人の隙間から、パトカーや立ち入り禁止を示す黄色いテープ、辺りを覆うブルーシートが目に付き始めた。
(……もしかして、校内放送で言ってた『事件』の現場……?)
 暁がそう思った時、野次馬らしき二人連れの主婦の会話が、ぽつぽつと耳に届いた。
 ――アンテナに引っかかってた――警察と消防でさっき下ろした――早退した女子高生が――死体――
「――死体!?」
 やはり主婦の声が聞こえたのか、千枝が硬い声を上げる。
「さっきの校内放送って、これのこと……?」
「アンテナに引っかかってたって、どういうことなんだろう……」
 三人で不安げに声を交し合いつつ思わず立ち竦んでいると、ふいに低い男の声がかかった。
「おい、ここで何してる」
「――叔父さん」
 声の主は、黄色いテープの向こう側から出てきた堂島だった。反射で返した暁の声は、自分でも意外なほど強張っていた。
「学校帰りに通りかかったんですけど……これ、一体……?」
「……ったく、あの校長、ここは通すなって言ったろうが……」
 暁の問いには答えず、堂島は苦々しげに呟いて頭を掻き毟る。
「えと……知り合い?」
 突然現れた刑事らしき男がクラスメイトと気安く話しているという状況に混乱したのか、千枝が落ち着かない様子で暁に囁く。
 その声が聞こえたのか、初めて千枝と雪子の存在に気づいたように堂島は目を見開き、
「ああ、こいつの保護者の堂島だ。あー……まあ、その、仲良くしてやってくれ」
 そんな風に不器用に言葉を紡いだかと思うと、次の瞬間、別人かのように厳しい声音でぴしゃりと告げる。
「ともかく、三人ともウロウロしてないでさっさと帰れ」
「あ――は、はい」
 暁が我に返って頷いた、その瞬間。
 黄色いテープの向こうから駆けだしてきた人影が、暁と堂島の間を抜けるようにして駆け抜けて行った。
(――え?……なに?)
 驚いて、反射的に目で追えば、見覚えのあるスーツの後姿。
(……足立、さん?)
 彼は、道端で田んぼに向かって蹲ると、苦しそうな声を上げて嘔吐しだした。
 暁は思わず、そろそろと立ち入り禁止区域に目をやるが、当然のようにシートで目隠しされた向こうは見えない。
(――なにを、みたの)
 大の大人が、しかも、刑事という職種にある男が、人目もはばからず嘔吐するような、『何か』。
 見れば、千枝と雪子も同種の不安を覚えたのか、恐ろしいものでも見るような眼で現場の方を窺っている。
 堂島はといえば、足立の方を呆れたような案じるような、そんなどこか複雑な目で睨んでいた。
 と、その足立がげほげほと噎せるような声をもらし――暁は咄嗟に彼に駆け寄って、その背をさすっていた。
「――大丈夫ですか……?」
 声を掛ければ、そろそろと俯いていた顔がこちらを見やる。その目は、まるで親とはぐれた子供のように頼りなく。
「足立!」
 そんな彼を、鋭く呼ばわる声が、あった。
「いつまで新米気分だ!今すぐ本庁帰るか!?あぁ!?」
 堂島の恫喝するような物言いに、暁は思わず反発するように口を開きかけたが、
「――ありがと……もう大丈夫」
 掠れた声に振り返れば、頼りない声とは裏腹に、のともる強い眼差しで笑った足立の顔。
 彼はゆっくり立ち上がると、堂島へと向き直る。
「す、すみませ……うぷっ……」
 謝りながらも、動いた拍子にまたこみ上げてきたのか、顔をしかめた。
「……ったく。さっさと顔洗って来い!すぐ地取り出るぞ!」
「――はい!」
 呆れたような堂島の言葉に、今度こそしゃんとした声を返し、足立は現場に戻っていく堂島を追う。
 しかし、仕切りのテープを越える直前、くるりと暁たちに振り返って告げた。
「いや~、汚いもの見せちゃってごめんね~。君らはとりあえず、気を付けて、寄り道せずに帰るんだよ?できるだけ外出も控えるように!」
 へらりと人の良さそうな笑み。しかし、その声には有無を言わさぬ妙な迫力がある。
 じゃ、菜々子ちゃんにもよろしく!と暁へ向かって言い残すと、今度こそテープの向こうに去って行った。
「ね、ねぇ、雪子……ジュネスに寄って帰んの、またにしよっか……」
「う、うん……」
 千枝と雪子がぎこちなく言葉を交わし、暁へと向きなおる。
「じゃ、あたしたちはこの辺で。明日からまた頑張ろうね、お隣さん!」
「うん、じゃ、また明日ね」
 何とか最後は笑って挨拶を交わし――暁は菜々子の待つ家へと急いだ。

 * * *

 ――なんだ、これ。

 足立は、目の前に広がる光景を、ただ愕然と見つめる。
 何の変哲もない民家の屋根。そこに、その“異物”はあった。

 屋根に建てられた家庭用のテレビアンテナ。

 そこに、足を引っかけてぶら下がる――“人間”。

 だらん、と力なく重力に従って両腕を地上に向けて投げだした、人の形のシルエット。

 それはもはや、人間ではなく――“人間だったモノ”だ。

 ただ、命がない、という意味ではない。
 その異様な死に様は、もはや人間の死としてあまりに現実味がなく、その人形ヒトガタを、気狂いの芸術家が拵えたオブジェへと変えてしまっていたから。
 そこに、人間だったころの尊厳はない。

 耳鳴りが、する。

 ――なんだ、これ。

 答えはわかっている。山野真由美だ。自分がミーハー心で慕っていたアナウンサーで、今朝がた失踪が発覚して、ついさっき通報が来るまで堂島と一緒に血眼になって探していた相手だ。
 その彼女が、今。
 狂気のオブジェとなって、民家の屋根にぶら下がっている。

 ――なんだ、これ。

 問いの形で鳴り響く耳鳴り。その問いに意味はない。ただ、浮かんでは消えるだけの問い。

 と、警察と共に駆けつけた消防員がこちらに声をかけてくる。――遺体を下ろす。手が足りない、警察の方からも人を――

 ――遺体?どこに遺体があるって?

 遺体なんてどこにもない。あるのは奇妙なオブジェだけ。

 傍にいた同僚が足立に声をかける。――足立、消防の応援頼む――

 ――応援?お前がやれよ。お前、真面目に鑑識と話してる堂島さんと違って暇だろう。

 そう思ったけれど、そう口にするのも億劫で、ただ頷いて消防員の方へと向かう。
 指示されるまま屋根に上り、奇妙なオブジェに、白手袋をした手で躊躇いなく触れる。だって、これはただのオブジェなんだから。
 そのまま消防員と協力して、アンテナから人型のオブジェを、服などを引っかけて破かないよう、丁寧に取り外した。外したオブジェをシートに包み、消火用のクレーンで一緒に地上へ降りる。
 再び消防員と二人がかりでやたら重たいオブジェを抱えてクレーンから降りる。担架に乗せて、指定された場所まで運んだ。
 そこには白衣を着た壮年の男がいて、拝むように両手を合わせてから、先ほど包んだシートに手をかける。
 足立は、ただぼんやりとその様を眺め――

 ――目が、あった。

 捲られたシートの下から現れた、光を亡くしてどんよりと濁った眼球と。

 ――死んだ、魚の目。

 ぼんやりとそんな言葉が脳裏に浮かぶ。けれど、これは、魚じゃない。
 じゃあ、なんだ?オブジェだろう?――いや、違う。オブジェは死なない。だって、最初から生きてないんだから。
 これは――オブジェなんかじゃ、ない。

 人間の――山野真由美の――死体、だ。

 そこに、思考が行き着いた瞬間。

「――っ……!」

 一気に胃から逆流してきた不快感。咄嗟に口元を抑え、黄色いテープの向こうへ飛び出す。
 立ち並ぶ人の間をすり抜けて、道の向かいに見えた田んぼに向かって蹲る。

「――うぇぇぇええっ……」

 自分でも不快だと思う声が、自分の口から溢れる。
 溢れ出るのは声だけじゃなく、さっきまで胃に収まっていたものも一緒で。

(――ああ、せっかく暁ちゃんが作ってくれたのに)

 今日、胃に収めたのは、彼女が作ってくれた弁当だけだ。
 ならば、今吐いているのは、その弁当なのだろう。
 嬉しかったのに、美味しかったのに、もったいないな――そう思っても、次から次へと喉の奥から溢れ出て、止まらない。

(――気持ち、悪い)

 吐いても、吐いても、気持ち悪い。

 ――もはや、人間とは思えないような死に様を晒した山野真由美。

 ――昨日の夜、ニュースを見るまでは確かに憧れていた女子アナ。

 ――テレビ越しに眺めていた頃の生彩などもはや面影もなく、死んだ魚の目を見せた死体。

(――しんだ)

 そう、死んだのだ。もう二度と、あの目に生彩が宿ることはなく、乾いた唇が朝のニュースを読み上げることもない。

 その命は、永遠に失われた。

(――こ わ い)

 そんな言葉だけが、頭の中に渦巻く。

 ――人は、誰でも死ぬ。

 運が良ければ、百を超えて。悪ければ、生まれ落ちた瞬間に――あるいは母の胎にいるうちに。
 誰にも例外はない。ただ、いつ訪れるかは、誰にも――それこそ神でもなければわからない。
 明日かもしれないし、五十年後かもしれない。もしかしたら、この次の瞬間にも。

(――死ぬかも、知れない)

 そんな、当たり前のことを、今更、実感した。

(――いやだ)

 ごぽり、と泡が浮き上がるように思いが湧き出て、弾ける。

(――いやだ、いやだいやだいやだ!)

 生まれて初めて、『死』を実感し――『死』を恐れた。

 本庁に居た頃には死体の資料など山ほど見たし、現場で遺体を見たことも、今回が初めてではない。
 けれど、それでも、これまで自分にとって死は遠い存在だったのだ。
 どれだけ間近で『死』を見ても、実感など欠片もなかった。
 なぜなら――あの時の自分は、『生きて』いなかったから。
 肉体的には生命を維持していたけど、精神的には死んだも同然だった。
 すでに死んでいる人間が、死を恐れる道理がない。
 『生』を実感していない人間が、『死』を実感できるわけもない。
 けれど――今は、違う。

(――やっと……出会えたのに!)

 親にすら突き放された自分を受け入れてくれる、優しい人たちに出会えたのに。
 何を失くしたのかすらも見失った、擦り切れた心を癒すことのできる、安寧の場所を見つけたのに。

 なのに、世界は、人間は、こんなにも脆い。

 あっさりと、壁に掛けられたパズルのピースが剥がれて落ちるように、人が死んでいくのだ。

 次の瞬間にも、あの優しい場所が――優しい人たちが、永久に損なわれるかもしれない、残酷な世界。

 どうして、それを恐れずにいられる。

(こわい……こわいよ……!)

 怯える幼子が泣きわめくように身体を丸めて、嗚咽の代わりに嘔吐を繰り返す。

 どれだけ、一人でそうしていたのか。
 永劫のように思えたけれど、それはきっとほんの数分。
 吐き出すものがなくなって、げほげほと噎せ返る。――その背中を。
 そっと優しく、さする手が、あった。

「――大丈夫ですか……?」

 やさしい、こえ。

 呆然と顔を巡らせば、そこには、先ほど脳裏に思い描いた、愛しい娘の姿があった。

「足立!おめぇはいつまで新米気分だ!今すぐ本庁帰るか!?あぁ!?」

 その向こうに、唯一尊敬する上司の怒鳴る姿が見える。――ああ、それは、嫌だな。あそこに帰るのは、嫌だ。

 触れた手が、怒鳴る声が、教えてくれる。

(――いきてる)

 彼女も、彼も、自分も。

(――生きてる)

 大丈夫。失われてない。欠けてない。損なわれていない。

 一度失われた命は、もう戻らないけれど。

 まだある命は、守れるのだ。

(――絶対に、失わせない)

 かっ、と腹の底に熱が宿り、全身に力が戻る。
「……ありがと……もう大丈夫」
 絞りだした声は掠れていたけれど、笑顔を浮かべることには成功して、足立は暁にそう声をかけて立ち上がる。
「す、すみませ……うぷっ……」
 堂島に向き直って告げれば、立ち上がった拍子に湧いたげっぷが漏れる。
「ったく……さっさと顔洗って来い!すぐ地取り出るぞ」
「――はい!」
 テープの向こうに戻っていく堂島の背を追いかけて、足立もテープへ小走り向かう。
 テープをくぐる直前、暁と、彼女の友人らしい女子たちを振り返った。
 お調子者の顔で、へらりと笑う。
「いや~、汚いもの見せちゃってごめんね~。とりあえず、気を付けて、寄り道せずに帰るんだよ?できるだけ外出も控えるように!」
 じゃ、菜々子ちゃんにもよろしく!と暁に言い残して、足立は堂島の後を追う。

 ――己の世界を脅かす許しがたい不届き者を、一刻も早くとらえるために。

 * * *

 帰宅した暁は、その日の外出は控え、家で菜々子と過ごした。
 昼食の後、手伝いを申し出てくれた菜々子の手も借りて、自身に割り当てられた部屋の荷物を片付けているうち、気づけば日は暮れていた。
 そして、菜々子と一緒に拵えた夕食の席で、暁は今日の帰路に見た現場の詳細をニュースで知った。
 不倫騒動で騒がれていた山野アナが昨夜から今朝未明にかけて失踪し、昼頃に遺体で発見されたということ。
 そして――その遺体が、民家のテレビアンテナから逆さ吊りにされたという異常な状態で発見されたということ。
 発見時、霧が濃かったため現場検証なども捗々しくなく、死因もよくわからないという。
 第一発見者は近隣の高校の生徒という話に、暁は同じ学校かと思う。早退した帰りに発見したそうだが、その生徒の心境を思うと、暁としては同情せずにいられない。
「屋根の上で見つかったの?なんか怖いね……」
 菜々子が食事の手を止めて言う。その表情は不安に翳っていた。
「うん……けど大丈夫だよ。叔父さんや足立さんがすぐに犯人を捕まえてくれるから」
「……うん」
 励ますつもりで言った暁の言葉だが、菜々子の表情は晴れない。
(ああ、そうか……叔父さん、これでしばらくまともに帰れないから……)
 そこに気づいて、失言だったかな、と暁は後悔する。
 ぎゅっと口を引き結んで寂しさに耐えている菜々子の姿に、暁はしばし言葉を探し――
「――菜々子ちゃん、お姉ちゃんも今のニュースでちょっと怖くなっちゃったから、お風呂一緒に入ってくれる?」
「……お風呂?一緒に?」
 暁の言葉を繰り返した菜々子の顔が、ぱあっと明るくなる。
「うん、いいよ!夜も一緒に寝てあげる!」
「ほんと?ありがとう、菜々子ちゃん」
 お姉さんのような口調で言いながら、年相応の甘えをのぞかせる菜々子に、暁はほっと息をついた。

 その日は結局、二人が同じ布団に入った後も、叔父は帰宅しなかった。



[29302] 3章.雨の夜に役者は踊る
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/05/01 19:38
 足立透は、不機嫌だった。
 昨夜は仮眠室が埋まっていたために、仕方なく自身のディスクで突っ伏すように寝たせいで身体の節々が痛い。しかも、そうまでして泊り込んで鑑識と司法解剖の結果を待ったというのに、結局何の手がかりもなし。
 苛立ちを込めて、舌打ちを漏らす。

 ――忌々しい霧が。

 目撃証言も、現場の痕跡も、霧がすべて覆い隠してしまう。
 そもそも第一発見者の通報からして、『屋根に、何か人形のようなものがぶら下がっている』という曖昧なものだった。
 ただ、発見者の女子高生を思えば、それはむしろ幸運だったと言えるかもしれない。女の子が――いや、大の男でも、あんな変死体をまともに見たらトラウマになりかねない。

 ――捜査する側としては、たまったものじゃないが。

 足取りも荒く、とりあえずコーヒーでも飲もうとラウンジに向かう。
 事件のせいで泊まり込んでいる刑事は多いものの、時間が早朝であるせいか、ラウンジに他の人間の姿はない。
 苛立ちをぶつけるように、自販機へと乱暴な仕草で小銭を突っ込んで――
「……被った猫が剥げかけてるぞ」
 突如背後からかかった声に、ボタンを押す手元が狂った。
「ああっ!」
 足立の上げた悲鳴に被って、ガコンと商品が受け取り口に落ちてくる。――取り出してみれば、欲しかった微糖コーヒーの隣にあった、ブラックコーヒーだった。
「……すまん。それは俺が飲む」
 言葉と共に、背後から暗い色のシャツに包まれた手が伸びて、小銭を投入する。
「――堂島さん……」
「どれにするんだ?」
 我ながら愕然とした声音で呼ばわった足立に、堂島は何でもない様子でそう訊ねた。
 とりあえずは促されるまま、ブラックの缶を手渡し、のろのろとした仕草で微糖コーヒーのボタンを押す。
 落ちてきた商品を取り出し――自販機前のソファに腰かけてプルタブを上げる堂島を、恐る恐る振り返った。
「……さっきの、どういう意味ですか?」
「あ?何がだ?」
 怯えすら滲んだ声で訊ねたというのに、堂島は意味が解らないという風に眉を寄せる。
「だからっ……被った猫が、どう、とか……」
 思わず声を荒げかけるも、自然、声はしりすぼみになる。

 ――彼は、気づいているのか。

 自分が浮かべるお調子者の顔が、仮面であるということに。
 その下にある、人として酷く歪な本性に――

 ――怖い。

 そんな感情が、気泡のように湧き上がり、弾ける。

 本性を知られることで、堂島が自分をどう見るかが恐ろしかった。
 幻滅されるだろうか。汚いものでも見るように距離を置かれるだろうか。

 ――嫌われて、しまうだろうか。

 足立自身は気づいていない。
 答えを恐れて俯き、身を硬くするその様は――まるで、親に嫌われまいと涙をこらえる幼子のようであることを。
 その耳に、ふ、と呆れたような吐息が届いた。
「あのなぁ……俺を誰だと思ってる?泣く子も黙る稲羽署の堂島だぞ?」
 どこか笑みすら含んだその声に、恐る恐る顔を上げれば、そこにあったのは苦笑を浮かべた堂島の顔だった。
「他の連中はまるっきり気づいてないみたいだがな、俺はお前を一目見た時から、うまく猫被ってるもんだと思ってたぞ。――いや、お前の場合は、『猫を被る』というよりは、『爪を隠す』の方が正しいか」
 だいたいなぁ、と堂島は呆れた風に言う。
「仮にも本庁出身のキャリア組が、一筋縄でいくもんか。こういう言い方はしたくないが、あそこは一種の伏魔殿だぞ。数年とはいえそこで揉まれたやつが、見た目通りのお調子者だなんて、どうして思える」
「……ふ、伏魔殿って……」
 堂島のずけずけとしたもの言いに、足立は思わず吹き出す。
「……堂島さん、本庁に出向いたことあるんですか」
「若い頃にほんの二、三年だけ、研修でな。正直、えらく殺気立った場所だとビビったもんだ」
 苦笑する堂島に、足立もつられたように苦笑する。――『殺気立った』とは言い得て妙だった。
「巧く猫を被って、見事に爪を隠してるお前を見た時、俺は『こいつは逸材だ』と思った」
 コーヒーを一口啜ってから、堂島は告げる。
「刑事は、事件に対して真摯であることが第一だが、それだけじゃ駄目なこともある。真っ直ぐすぎる人間には、見えない死角ってもんを、犯罪者は得てしてついて来る」
 世間話をするような口調ながら、語るその目はひどく真剣で。
「足を使うことを惜しむのは以ての外だが、それだけじゃ足りん。腹芸、化かし合い――そういうのが必要な局面も、確かにあるんだ」
 だが、俺みたいな人間はそれがあまり巧くない、と堂島は自嘲気味に笑う。
 確かに、と足立は思う。堂島は観察眼も鋭いし、人の腹を見透かすのも巧いが、自身を取り繕うのは致命的に下手だ。
 そんな、大概失礼なことを思っている所に、ついと瞳を覗きこまれて、足立は思わずぎくりとした。
「だが、お前は違うだろう」
 告げられた言葉は、ひどく真摯なものだった。
「お前は、人を化かす人間の心理を知ってる。化かされる人間の急所を知ってる。――それは、追う側であり、防ぐ側である俺たちにとって、大きなアドバンテージなんだ」
 答える言葉を見つけられず、足立はただ、絶句する。
 堂島の言葉は、裏を返せば、『お前には犯罪者の素養がある』と言っているに等しい。
 だが、彼はその上で、足立を信じている。
 “追われる側”ではなく、“追う側”だと。
 信じて――お前は切り札になり得ると、そう言ってくれているのだ。
「……今回の事件は、ひどく一筋縄じゃいかないニオイがしやがる。まともなやり方じゃ、ホシに行きつけないと思えるぐらいにな」
 だから、と堂島は足立を真っ直ぐ見据えて、告げた。
「――俺に見えない死角の部分を、お前が補ってくれ」

 ――カッと、胸が熱くなった。

 暁の笑みを向けられた時とは違う、別の喜びが全身に溢れる。
 人として、刑事として、初めて敬意を抱けた相手に認められた喜び。
 それを噛みしめて、力強く頷いた。

「――はい!」

 いい返事だ、と堂島は笑い、一気に中身をあおった缶をゴミ箱に放る。
 そして、改めて足立に向き直ると、珍しくにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。
「――こき使ってやるからな、覚悟しとけ」
 三秒前の自身の返事を、早くも撤回したくなる足立だった。

 * * *

 翌朝、菜々子と二人で朝食を済ませ、登校した暁は、その途中で事故に出くわした。
 といっても、巻き込まれたわけではない。猛スピードで走ってきた自転車がゴミ捨て場に突っ込むという衝撃シーンが目の前で起きたのだ。
「……だ、誰か……」
 ゴミ袋に埋もれた自転車の横で、青いゴミバケツが転がって呻く。――もとい、ゴミバケツに頭から突っ込んだ自転車の主が呻いている。
 その場には暁以外にも居合わせた生徒が多数いたのだが、誰も助ける様子はなく、寧ろ関わりたくないとばかりに足早に去っていく。
 唖然と立ち竦んでいた暁は、慌てて駆け寄ってバケツの中から声の主を救出した。
「だ、大丈夫?」
「おお、すまねぇ!」
 バケツの下から現れたのは、やはりというかなんというか、昨日も自転車で転んでいたヘッドホンの男子だった。
「マジ助かった、ありがとな!――って、えーっと、あんた、転校生の……」
 立ち上がって暁を正面から見直すと、彼は驚いたように声を上げる。
「うん、転校生の神代暁です。よろしく」
「おお、俺は花村陽介!よろしくな!」
 暁の挨拶に、にぱっと人懐っこそうな顔で笑う陽介。
「怪我はない?」
「ああ、平気平気!やっさしいね~、神代さん」
「良かった。じゃあ、自転車も助けてあげよう。急がないと遅刻しちゃう」
「って、そうだった!俺の自転車ー!」
 暁の言葉に、何やらご機嫌だった陽介は慌てて自転車に駆け寄った。
「ところでさ、昨日の事件、知ってる?」
 無事救出した自転車を押して歩き出した陽介が、流れで一緒に登校することにした暁にそう話題を振ってきた。
「え?……ああ、山野アナの?」
「そうそう!あれ、何かの見せしめか何かかな?アンテナに逆さ吊りとか、絶対まともじゃねぇよ。まあ、殺してる時点でまともじゃねぇけどさ」
 何やら興奮気味にまくしたてる陽介に、暁はちょっと首を傾げる。
「ニュースじゃ、まだ警察は事故か事件か断定してないって言ってたけど……」
「いや、どう考えたって殺人だろー!?何をどうやったら民家の屋根に人間が逆さに引っかかるんだよ」
 真冬の豪雪地帯とかだったら雪下ろしの時とかにありそうだけど、と陽介は言う。
「そうかもしれないけど……あんまりそういうのって興味本位で騒いでいいことじゃないし」
「う。……そうですね……すみません」
 悲しげな顔で暁がそう訴えると、陽介は何やら凹んだように項垂れた。
「あ、ご、ごめんね、えらそうに……ただ、私が今お世話になってる叔父さん、刑事なの。だから、あんまり他人事じゃなくて……昨日も帰ってこなかったし……」
「え、刑事?なんかスゲー!――ってそうじゃなくて」
 暁の言葉に驚いて見せてから、陽介はやおら表情を改めて、生真面目に頭を下げる。
「こっちこそ、悪かったな。知らないで、なんか野次馬根性むき出しで」
「え、ううん、気にしないで」
 慌てて頭を振った暁に、陽介は安堵したように笑う。
「けど、それならなおさら、早く犯人捕まって欲しいよな。そうじゃないと、叔父さんだっけ?まともに帰れないだろ」
 まあ、狭い町だし、案外あっさり逮捕されたりしてな――そんな風に、陽介は暁を励ますように明るく告げた。


「神代さん、この町、もう慣れた?」
 放課後を迎え、帰ろうと荷物をまとめ始めた暁に、陽介がそう声をかけてきた。
 彼の席は暁のすぐ後ろなので座ったままでも声は届くのだが、顔が見やすいようにか、わざわざ暁の席の横に立って声をかけてくるあたり、濃やかな気遣いをする人間性が垣間見えた。
「うーん……まだ来て二日だから、慣れたかは微妙だけど。でも、居心地はいいかな」
「お、意外に田舎への順応早いね~。神代さん、穏やかでゆったりした性格みたいだから、忙しない都会より、ここの空気のが合ってるのかもな」
 考えながらの暁の返答に、陽介は楽しげに笑う。捉えようによっては嫌味や皮肉にも取れる言葉だが、からりとした声にはそういう意図は感じられなかった。
「まあ、ここは何もないけど、逆に何もないがあるってーの?」
「ああ、それわかるかも」
「おお、来て二日でこの境地に至るとは。っていうか、結構馴染んでんじゃん」
 はは、と陽介は楽しげに笑った。それから、そうそう、と思い出したように提案する。
「でさ、ここの名産って何か知ってる?ビフテキよ、ビフテキ。いいっしょ、この野暮ったい響き。今朝のお礼も兼ねてオゴるし、これから一緒に食いに行かねぇ?」
 どうよ、とウィンク一つ。そういう仕草が様になりつつも気障に感じないのは、彼の懐っこい雰囲気ゆえだろう。
「えっと……ごめんね、今日は従妹と約束があるの」
「あ……そうなの……」
 しかし、暁は昨日行けなかったジュネスに、今日こそ行こうと菜々子と約束していた。申し訳なくも断りの言葉を告げると、陽介はがくりと肩を落とす。
「――あたしにはお詫びとかそういうのないわけ?『成龍伝説』」
「う……飯の話になると来るな、お前」
 と、陽介の後ろに現れた千枝が、半眼で彼に詰め寄った。陽介は顔をしかめつつも、負い目があるためか強く出られない様子だ。
 千枝は更に自身の親友にも声をかける。
「あ、雪子もどう?一緒にオゴってもらお」
「いいよ、太っちゃうし。家の手伝いもあるし、先帰るね」
 よもや二人分奢りかと慄いた様子を見せていた陽介が、雪子の返答に安堵した顔を見せつつ首を傾げた。
「天城ってもう女将修行とかやってんの?」
「そんなんじゃないよ。忙しい時、ちょっと手伝ってるだけ」
 どこか苦いものを感じさせる笑みでそう答えると、じゃあね、と雪子は教室から出て行った。
「……天城、なんか今日特別テンション低くね?」
「うーん……忙しいみたいだし、疲れてるのかなぁ……」
「大丈夫かな……?」
 残された三人は、雪子の様子に思わず顔を見合わせるも、案じる相手はもはや出て行ってしまっている。
「――あ、じゃあ、私も今日はこれで」
「あ、ああ、じゃあな。悪かったな、引き留めて」
「また明日ね~」
 千枝と陽介に「また明日ね」と笑いかけてから、暁も教室を後にした。

 しかし、この後すぐ、『明日』を待たずに二人と再会することになる。


「――安い店ってここかよ!ここ、ビフテキなんかないじゃん!」
「しょうがねぇだろ!お前をステーキハウスなんかに連れてった日にゃ、俺は破産しちまうよ!」
 菜々子と共に夕食の買い物のために訪れたジュネス。買い物の前におやつにしようかと立ち寄った屋上のフードコートで、覚えのある声が暁の耳に届いた。
 見れば、フードコートの一席で何やら言い合う、緑のジャージとオレンジのヘッドホンが目に鮮やかな一組の男女。
「千枝!それに花村君も」
「へ?――って、暁!」
「え、神代さんの用事ってジュネスだったん?」
 暁が思わず上げた声に、二人は揃って振り返り、目を瞬かせる。
「……お姉ちゃんのお友だち?」
 と、暁の袖を引き、菜々子が首を傾げた。
「お、その子が例の従妹ちゃん?可愛いね~、いくつ?」
「え、えと……」
 菜々子に気づいて陽介が笑いかけるも、菜々子は困惑した様子で暁の陰に隠れてしまった。
「え、あれ?俺、嫌われた?」
「『かわいいねぇ~、いくつぅ?』なんて、変質者っぽい言い方するからだろが!」
 凹んだ様子を見せる陽介を引っ叩いてから、今度は千枝が菜々子に笑いかけた。
「こんにちは。あたしは暁の友達の里中千枝。で、こっちのアホが花村陽介」
 誰がアホか!と、千枝の紹介に漫才のようなノリで陽介が抗議する。
「こ、こんにちは……堂島、菜々子です」
 おずおずと告げ、ぺこりと頭を下げた菜々子を見て、千枝の目じりがわかりやすく下がった。
「うきゃ~んっ!ほんっと可愛いなぁ!あたしもこんな妹欲しいっ」
 あ、妹じゃなくて従妹か、と自分でツッコんでから、千枝は暁に向き直った。
「二人もこれから何か食べてくんでしょ?なら一緒しようよ!」
 花村に奢らせちゃいな、と悪戯っぽく笑って耳打ちしてくる。
「え、いいの?デートじゃないの?」
 思わず暁がそう返せば、ぴしりと音を立てて千枝と陽介の表情が凍った。
「……え……?」
 思わず戸惑った声を漏らした暁へ、二人は向き直り――
『――それはないッ!』
 これ以上なく、強く、鋭く、きっぱりと、断言した。
「そ、そうなんだ……ごめん……」
「――いや、わかってくれればいいのよ、うん」
「そうそう。いや、デカい声出して悪かったな」
 思わずたじたじになって謝った暁に、二人は若干気まずそうに告げる。
 三人の間を、何とも言えない気まずい空気が流れかけた時――
「――チエお姉ちゃんとヨースケお兄ちゃん、なかよしだね!」
 キレイにハモったのが面白かったのか、委縮していた菜々子が楽しそうにそう告げた。
 その言葉に、三人は顔を見合わせて苦笑するしかなかった。

 * * *

「じゃ、神代さんへの歓迎のしるしってことで」
 言いながら、陽介は手にしたコップを掲げる。一同がそれに倣ったのを見届けて、告げた。
「――乾杯!」
 紙コップ同士がぶつかる、ぼこん、という間の抜けた音に思わず笑みがこぼれる。
「――おいしいね!」
「うん、美味しいね」
 ジュースを一口飲んで、嬉しそうに言う菜々子に、暁が微笑んで頷く。
(おお……眼福、眼福)
 目に麗しい光景にだらしなく表情を緩めたところで、暁がこちらを振り返り、陽介は慌てて表情を引き締めた。
「ごめんね、花村君。結局奢ってもらっちゃって……それも、菜々子ちゃんの分まで」
 微笑みに申し訳なさそうな色を滲ませての暁の言葉に、陽介は思わず感動する。
 その感動をそのまま勢いに変えて、千枝に向き直った。
「聞いたか里中!これが大和撫子の反応だ!お前もちったぁ見習えーッ!」
「はぁ!?人のDVDかち割った人間に何で遠慮しなきゃいけないのさ!」
 うがーッ!と吠える千枝。
 ――年も性別も同じはずなのに、この差はなんだ。肉か、肉分か。血の気が多くなるのか。
「ほんとになかよしさんだね」
「うん、そうだね」
 と、自分たちの言い合いに、のほほんと微笑み合う従姉妹二人に脱力し、陽介は千枝と一緒に肩を落とした。
「でも、神代さんの先約って、菜々子ちゃんとジュネス来ることだったんだな」
「あ、うん。一緒に夕飯のお買い物しようねって約束してたの」
 改めてそう訊ねれば、暁はおっとりと頷く。
 彼女は制服のままだし、菜々子もランドセルと一緒だ。時間的にも、一時帰宅せずに、どこかで待ち合わせしてそのままここに来たのだろう。
「菜々子、ジュネス大好き!だから、お姉ちゃんといっしょに来たかったの」
「な、菜々子ちゃん……!」
 満面の笑みと共に告げられた菜々子の言葉に、陽介は思わず声を震わせた。
「よかったねぇ、花村。あんたの家、菜々子ちゃんに嫌われてなくて」
「いや、別に俺んちってわけじゃないから」
 にやにやと笑う千枝の言葉に、手をパタつかせてツッコむ。暁と菜々子は揃って首を傾げた。
「あ、悪い。知らないよな。俺の親父、ここの雇われ店長なのよ。それで俺の家族、半年くらい前にこっち越してきたんだ」
「――陽介お兄ちゃんのお父さん、ジュネスの店長さんなの!?」
 陽介の説明に菜々子が感動したように目を輝かせる。
 新鮮な反応に、思わずむずがゆくなる。だが、嬉しい。物凄く嬉しい。
(――ぶっちゃけ、嫌われてんもんなぁ、俺)
 思わず浮かぶ自嘲。
 正確には、嫌われているのは『花村陽介』個人ではなく、『ジュネスの息子』という肩書なのだが。
 ジュネスは、一部の地元民――地元商店街の関係者から、強い敵愾心を向けられている。
 『ジュネスのせいで商店街が寂れた』と。
 八十稲羽は、郊外に位置する稲羽市でも特に人口の少ない田舎町だが、県内に数校しかない県立高校のうち一校――陽介たちも通う八十神高校を擁することで、隣接する自治体からの若者の出入りが他より多い。それにより、ある程度の規模の商業地が維持されてきた。
 本来ならマイナスであるはずの山に囲まれて孤立した立地は、寧ろ余所に客を取られるリスクを軽減していた。
 放っておいてもある程度の客足が確保され、商売敵もいない小さな商店街。大して経営努力をしなくても商業が維持できる環境に、商店街の関係者たちは慣れきってしまっていた。
 しかし、半年前――町の端を掠めるように通る国道沿いに、ジュネスが支店展開したことで、その状況は一変した。
 大型店舗が出来たことで、働き口は増えた。ジュネス目当てに、国道沿いの周辺地域からも人が来るようになった。それまで天城屋旅館に頼り切っていた外貨の確保口が増え、八十稲羽全体の経済状況は活性化した。
 だが――地元商店街は、寂れた。
 当然だ。それまで集客努力などしてこなかった弱小商店街。全国展開する大型デパートと、端から勝負になるわけがない。
 だから、ジュネスが憎まれるのは仕方ないとは思う。
 だが――
(……なんで、文句言うばっかで、あの人たちは動かないかな……)
 ジュネスへの怨嗟を声高に叫ぶ店舗ほど、全く集客努力の痕跡が見えない。既に半年も経っているというのに、だ。
 それが、陽介には納得がいかない。
 ジュネスが憎いなら、商店街を潰したくないと願うなら、その思いを糧に行動を起こせばいい。なのに、彼らはそれをしないのだ。
 確かに、今までやったことがないから、やり方がわからないのはあるだろう。
 だが、そもそも大型店舗と町の小さな商店では、経営におけるメリットとデメリットの型が大きく違う。そこをつけば、それなりにやりようはあると思うのだ。
 実際、ごく一部にすぎないが、独自に集客努力をし、客足を確保している店だってちゃんとあるのだ。ならば、他の店だってやればできないことはないだろうと思う。

 ――ジュネスに文句を言うだけで何の行動もしないんじゃ、何も解決しない。

(……まあ、間違っても口には出せないけどさ)
 『ジュネスの息子』がそんなことを言えば、曲解されて余計に睨まれるのは目に見えている。
 商店街に潰れて欲しいわけじゃない。寧ろ、立ち直って欲しいとすら思っているのに。
 自分の立場が、助言することさえ阻む。
 ままならない現実に、はあ、と思わずため息が漏れた。
「……ヨースケお兄ちゃん、どうしたの?」
「ん?――あ、いやいや、何でもないよ」
 菜々子に心配そうな目を向けられて、陽介は慌てて首を振った。
 あからさまな敵意をぶつけられる環境での生活は、正直きつい。
 それでも、彼女たちのように、自分を受け入れてくれる人は確かにいるのだ。
(そう、あの人も――)
 と、今まさに思い浮かべていた人が視界の端を掠めたのを見て取り、陽介は慌ててそちらに視線を向けた。
 ふんわりと波打った肩ほどまでの髪と、どこか憂いを帯びた面立ちが印象的な、陽介と同年代の女性。
 小西早紀。同じ学校の三年生。商店街の酒屋の長女ながら、ジュネスでアルバイトをしている稀有な人だ。
 ジュネスの出店以来、彼女の実家の酒屋はうまくいっていないようなのだが、彼女はジュネスに対しての恨み言を口にすることなく、楽しそうにバイトをしている。かといって遊び半分というわけではなく、実家が商売をやっているからか、仕事に対する姿勢は非常に真摯だ。本当にいい人だと、陽介は思う。
 私服の上からジュネスのロゴが入ったエプロンをつけているあたり、今もバイト中なのだろう。おそらく休憩時間か。
 しかし、フードコートの隅にある席に腰かけて俯くその顔が、ひどく疲れて見えるのが気になった。
「――ごめん、ちょっと」
 千枝たちに一言断って席を立ち、彼女の元へ向かう。
「お疲れっす。何か元気ない?」
 脇に立って声をかければ、彼女は今気づいたという風に顔を上げて、小さく笑った。
「おーっす……今やっと休憩。花ちゃんは友達連れて自分ちの売り上げに貢献してるとこ?」
「うわ、ムカつくなー」
 言葉面だけ見れば険悪なやり取りだが、お互い声も表情も笑っている。いつもの挨拶代りの軽口だ。
 それに早紀は、ふふ、と小さく笑い――しかし、すぐにその笑みも溶けるように消えてしまう。
「……つか、ホントに元気なさそうだけど、何かあった?」
 どうもただ疲れているだけには思えない早紀の様子に、陽介は思わず案じる声を紡いでいた。
 しかし、彼女は取り繕うような笑みを浮かべて首を振る。
「別に……ただ疲れてるだけ」
「……何かあったら、何でも言ってよ。俺……」

 ――あなたのためなら、何でもするから。

 さすがに声にはできなかった言葉を、心の中だけで告げる。
 この町に来た当初、居場所を見つけられずにいられた陽介は、彼女の何気ない一言で救われた。
 彼女が居なかったら、自分はきっと、向けられる敵意に耐えられなかった。
 心が、潰れてしまっていた。
(今、俺がこの町で笑えているのは、あなたのおかげだから)
 その早紀の笑顔が曇っているなら、その原因を取り除きたいと思う。
 けれど、彼女は陽介に荷物を預けてはくれなかった。
「だーいじょうぶだって。ありがとね」
 そう、どこか無理した笑顔を向けるだけ。
 それ以上告げる言葉が見つけられなくて、陽介はひそかに肩を落とす。
(そんなに頼りねぇかな、俺……)
 確か、彼女には二つ下の弟がいるはずだ。もしかしたら、自分はその弟と同列の扱いなのかもしれない。だとしたら、ちょっと――いや、かなり、ショックだが。
 などと一人悶々と思考のドツボにはまった陽介を、早紀は不思議そうに眺めていたが、ふとその背後に視線を向けて、気づいたように声を上げた。
「あの子……もしかして、昨日入ったっていう転校生?」
「え?――あ、ああ。神代さんか。うん、そう、転校生。……でも、学年違うのによく知ってんね」
 彼女の視線を追い、そこにいる暁に気づいて頷いてから、陽介は早紀に向き直って目を瞬いた。
「普段何の娯楽も話題もない田舎の情報伝率なめちゃダメだよ、花ちゃん。あんな目立つ子が入ってきたら速攻で噂になるって」
「あー……まあね~」
 苦笑気味に告げる早紀の言葉に、陽介もつられたように苦い笑みを浮かべる。――実際、その『田舎の情報伝達率』により、『ジュネスの息子』はあっという間に商店街から干されたものだ。
 ただ、陽介の場合とは違い、暁は単純にその容姿から話題になったのだろう。頭髪や服飾に関しての校則がわりと緩い八十神高校だが、それでも彼女のアッシュブロンドの髪は目立つ。――今時珍しいおさげにまとめた髪型も含めて。
「菜々子ちゃん――神代さんの従妹と買い物に来たらしくて、たまたま一緒になったんだ」
「そうだったんだ」
 陽介の言葉に興味深そうに呟いて、早紀は席を立つ。そのまま暁たちの方へ向かうので、陽介も一緒についていった。
「初めまして、転校生さんとその従妹ちゃん。――あ、私のことは聞いてる?」
「あ、はい。今、千枝から。――小西早紀先輩、ですよね。初めまして、神代暁です。こっちは従妹の菜々子ちゃん」
 早紀の挨拶に、暁も笑顔で応じる。その横で、菜々子が若干委縮した様子で、ぺこり、と頭を下げた。
「あなたも都会の方から越してきたのよね?都会っ子同士はやっぱり気が合う?」
 ちらりと陽介の方を見やってから問う早紀に、暁はちょっと困惑したような笑みを浮かべる。
「うーん、どうだろう……すみません、そう言う風に意識したことがないので」
「あはは、ごめんごめん。変なこと聞いたね」
 早紀は笑ってぱたぱたと手を振り、悪戯っぽい笑みを暁に寄せた。
「花ちゃん、お節介でイイヤツだけど、ウザかったらウザいって言いなね?」
「――ちょっ!先輩!?」
 内緒話のような仕草に反して、ごく普通の声量で紡がれた早紀の言葉に、陽介は思わず声を上げる。
「そんな……花村君は良い人ですよ?」
「あはは、わかってるって」
 困惑したようにそう告げる暁の様子にか、早紀は楽しそうに笑うとひらりと身を翻す。
「さーて、もう休憩終わり、っと。――じゃあね」
 そう言い残して、気まぐれな猫のように歩き去って行った。
 呆然とその後ろ姿を見送っていた陽介だったが、はっと我に返って自身の席に着き直し、空笑いを浮かべて告げる。
「――人のこと『ウザいだろ?』なーんて、小西先輩の方がお節介じゃんなぁ?あの人、弟いるから、俺のことも割とそんな扱いって言うか……」
「……へぇ~、弟扱い不満ってこと?」
 にやぁ~、とでも擬音をつけたくなる笑みを浮かべた千枝の言葉に、陽介は思わずぎくりとなった。
「老舗酒屋の娘と、デパート店長の息子。燃え上がる、禁断の恋!みたいな?」
「バッ……!菜々子ちゃんの前で何言ってんだお前!」
 三流ゴシップ記事のコピーのような千枝の発言に、思わず陽介は声を荒げる。――鏡を見なくとも、自分の顔が赤いのがわかった。
「じゃ、そんな悩める花村にイイコト教えてあげる」
「……イイコトぉ?」
 疑いの色を隠さずに返した陽介の声を意にも介さず、千枝はいかにもここだけの話、という風に、声を潜めて告げた。

「――“マヨナカテレビ”って知ってる?」

 告げられたのは、他愛のない『恋占い』のような都市伝説。
 しかし、その“噂”がそんな可愛らしいものではないと――彼らは後に身をもって知ることとなる。

 * * *

「――真由美と最後に会ったのは……もう、一か月以上前になります」
 向かいに座った男の、蚊の鳴くような声。それを、足立は陰鬱な気持ちで聞いていた。
 心労のためか、やや老け込んで見える三十路ほどの男。オールバックにきちんと撫でつけられた髪。広い額に目立つ大きなホクロが特徴的だ。糊の利いたスーツを着込んだ身体を、縮めるように俯いている。
 生田目太郎。――昨日、遺体で発見された山野真由美と不倫関係にあった議員秘書――否、元・議員秘書だ。件のスキャンダルのため、彼は昨日付でその役職をクビになっていた。
 事件当時、彼はまさに都会にある議員事務所でその馘首宣言を受けていて、この町にはいなかった。議員事務所からこの町に戻るにはどう急いでも4時間以上かかる。不在証明アリバイは完璧だった。
 そのため、生田目に対するこの聴取は取り調べではなく、署の会議室を使用しての単なる参考人聴取である。
 アリバイなどの裏付けを終えた後、足立が投げた『山野真由美に最後に会ったのは?』という問いに、彼は泣きそうな声で、そうぼそぼそと語りだしたのだ。
「……それからずっと、会ってなくて……連絡も、なくて……そのまま……それで、最後っ……!」
 語るうちに感情がこみ上げてきたのか、生田目の声が上ずった。
「――真由美……っ!」
「……辛いところを、ありがとうございました。また後日お話を伺うことになるかもしれませんが、今日のところは、これで」
 ついには顔を覆って肩を震わせ始めた生田目に、足立はため息を堪えつつ、精一杯気遣わしげな声でそう告げた。
 部屋を出る生田目を見送り、その姿が見えなくなったところで、今度こそ遠慮なくため息をつく。
(あんなになる程本気だったんなら、さっさと女房と分かれて山野と一緒になってやりゃよかっただろうに)
 話はそう単純なものではなかっただろうが、それでもそう思わずにはいられない。
 ぶっちゃければ、美人の演歌歌手を妻に持ちながら、美人キャスターに手を出した生田目に対する感情が、同じ男として穏やかでないのもあるが。
「けど、その女房もアリバイがっちりだしな……」
 ぶつぶつと情報を整理しながら、捜一捜査一課の方へと向かう。
 生田目の妻の柊みすずは、海外公演のために現在海の向こうである。昨日の時点ですでに国内にいなかったことは確実なので、彼女にもまた犯行は無理だろう。
 そもそも、生田目と山野の関係が公となったのは、柊がマスコミにリークしたためだ。わざわざ自身が不利になる情報を公にしてから殺すというのは考えにくい。――まあ、逆手にとって、というひねた考えもないでもないが。
 と、そんなことを考えているうちに捜一の前までたどり着いていた。
「――おう、足立か。どうだった」
「アリバイ的にも印象的にも白、としか言えませんね」
 自身のディスクで資料を漁っていた堂島の問いに、短く答える。――あの男は本気で山野真由美の喪失を嘆いていた。あれが演技だというならアカデミー賞ものだ。
「そうか……」
「……天城屋旅館の方も収穫なし、ですか?」
 気落ちした風の堂島に問い返せば、苦い顔で頷かれた。
「接客にあたる仲居の中には直接被害者ガイシャからきつく当たられてる人間は少なくない。――ガイシャの失踪に最初に気づいた田原昌代もその一人だな」
 と、そこで堂島は足立に一言断ってから煙草に火をつける。煙を吐き出してからさらに続けた。
「ただ、山野と直接接触した従業員は全員、失踪通報時から遺体発見までの間、警察関係者と一緒に旅館内にいた。遺体が発見現場に吊るされたのは、周辺住民の証言からしておそらく午前8時以降だ。――生田目同様、アリバイ成立ってわけだな」
 堂島はため息とともに、紫煙を吐き出す。
「まあ、ガイシャのヒステリーで女将が倒れてるからな。そういう意味では旅館関係者全員に動機があるともいえるが……アリバイのない旅館関係者の中で、特に怪しい動きをしている奴も見当たらん」
 疲れたような言葉と共に手渡された資料に、足立はざっと目を通した。
 堂島の言う通り、特に怪しい人物は見当たらない。強いて言えば、清掃員と旅館内にある土産物屋のアルバイトが事件翌日に辞めているが、どちらも元々その日までの雇用契約だったようで、別段不自然なものではなかった。
「死因は不明。関係者は全員アリバイあり。不審者の目撃情報も特になし。……正直、どこから切り込んだもんかな……」
 珍しく気弱な言葉を漏らす堂島に、足立は勤めて明るい声を投げた。
「――『こういう時こそ足で情報を稼ぐ』でしょう?僕のことこき使うって宣言した時の勢いはどこ行っちゃったんですか?」
 ぐっと拳を握って力説して見せれば、堂島は一瞬ぽかんとなり、次いで可笑しそうに笑った。
「……そうだな。お前の言うとおりだ」
 口元に不敵な笑みを刻み、煙草の火を灰皿で揉み消すと、堂島は勢いよく立ち上がる。
「――俺は足立と地取り出てくる」
「了解。――今日はそのまま直帰ですか?」
 同僚の言葉に堂島は逡巡を見せた。
 司法解剖の結果待ちをしていた昨夜とは違い、情報がどん詰まりな今、正直泊まりこんでも意味がない。だが、進展がないからこそ、僅かな時間も惜しんで資料を調べるべきではないか。――おそらくはそんな風に考えて迷っているのだろう。
 だから、足立は堂島の背を押す言葉を紡いだ。
「……堂島さん、今日は帰った方がいいですよ。菜々子ちゃんも暁ちゃんも、堂島さんの帰りを待ってるでしょう」
「……そうだな。――今日は直帰する」
 足立の言葉に頷くと、同僚にそう告げて、堂島は歩き出す。その背を追うように、足立も。
 廊下に出て、並んで歩き始めた時、堂島が思い出したように告げた。
「――足立、どうせお前帰ってもろくなもん食わんだろ。ウチで食ってけ」
「え!マジすか!やった!」
 思わぬお言葉に、思わず声の調子が跳ねあがる。
 それを苦笑気味に眺めてから、堂島は携帯を取り出した。
「――ああ、もしもし、俺だ。暁、すまんが、今日足立も連れて帰るから、晩飯の用意頼む。……そうだな、八時くらいには帰れるだろ」
 暁と通話する堂島の横顔を眺めながら、彼女の笑顔を思い浮かべた足立の顔は、自然と緩んだものになった。
(――よし、もう一頑張り!)
 ご褒美には、彼女の手料理が待っている。

 * * *

 窓の外で雨が降っているのを確認して、暁はカーテンを閉めた。
 ぐるり、と菜々子と昨日整えた自室の中を見回す。
 家具の類は、堂島が事前に設置しておいてくれていた。ドア脇の壁には本棚代わりの三段ラック。部屋のほぼ中央に大きめの作業テーブル、その脇に据えられた二人掛けのソファ。ソファから見てちょうど正面になる壁際に背の低いタンスがあり、その上に小さなテレビが置かれている。部屋の隅には学習机もちゃんとあった。
 使い勝手がいいように据えられた家具の間に、布団を敷くスペースもきちんと確保されている。暁が昨日菜々子とやったのは、服や小物をタンスや棚に収める作業だけだ。
 家具はいずれも使用者の性別を問わないシンプルなデザインのものばかりだったが、カーテンだけは、落ち着いた色ながらも小さな花を散らした可愛らしいものだった。これを選ぶのに、頭を悩ませただろう叔父の様子が脳裏に浮かんで、暁は思わず笑みをこぼす。
 その叔父は、今夜帰宅するなり、食事もとらずに居間のソファで寝入ってしまった。
 夕食を食べに来ていた足立が手伝ってくれたので、どうにか布団に運ぶことができたが、そうでなければ、起こすか、そのままソファで寝かせるしかなかっただろう。
 その足立は、食事中ずっと明るく振舞っていたが、それは徹夜明けのハイテンションに近いものだったのだろう。食事を終えるなり舟を漕ぎ出したので、泊まっていくよう提案した。
 最初は遠慮していた足立だったが、睡魔に勝てなかったのだろう。先日同様、隣の客間に泊まっている。
 捜査に関しては何の手助けもできないが、せめて体調管理の手伝いくらいはしたい。そう思って、堂島が帰宅したことで戻ってきたお弁当箱と共に、今日ジュネスで買った足立用のお弁当箱も、おかずを詰めた状態で冷蔵庫に入れておいた。
(花村君が言ってた通り、本当にあっさり犯人が捕まってくれればいいのに)
 そんなことを思ってため息をこぼし、暁はふと時計に目をやった。
 今日の放課後、陽介と共に千枝から約束させられたことを実行するためだ。

 ――雨の夜の午前0時に、消えてるテレビを一人で見るんだって。

 告げられた、千枝の言葉が脳裏によみがえる。

 ――そこに映った自分の顔を見つめてると、別の人間がそこに映るの。

 もうすぐ、日付が変わる。暁は、千枝の言葉の通りに、映った自身の顔が良く見えるよう、テレビの正面に歩み寄った。

 ――それ、運命の相手なんだってよ。

「――運命の相手、か」
 ぽつりとつぶやいて、画面に映る自身の顔を眺めながら、暁はその意味を考える。
 普通に考えれば、唯一無二の恋人とか、生涯の伴侶といった、『赤い糸』的な意味の運命なのだろうけれど、別にそういう意味じゃなくても運命的な出会いというものはいくらでも存在するはずだ。
 例えば、ある才能で身を立てた者がいたとしたなら、誰にも気づかれていなかったその才能を見つけて引き伸ばしてくれた恩師などは、恋愛関係の有無にかかわらず、『運命の相手』と称していい存在のはずだ。その後の人生――『運命』を変えた相手として。
 そういう風に考えると、世の中の全ての出会いは『運命の出会い』と称していいものなんじゃないか、などと暁は思った。
 良かれ悪しかれ、人との出会いはその後の人生に多少なりとも影響を及ぼすはずだ。となると、世の中に『運命の出会い』じゃない出会いなど存在しないということで――でも、そう考えると、『運命』ってなんだろう?
 何やら思考の迷宮に入り込んでしまった気がして、暁は軽く目を伏せて頭を振った。

 ――その時、

 ざ、と砂嵐の音が聞こえて、暁は伏せていた目を上げて――それを、見た。

 ――電源の落ちたテレビに映る、酷く粗い映像。

 ざあざあと揺れて安定しない映像の中、しかし、確かに人影が見えた。
 霧がかったように霞む景色の中、何かに襲われたかのようにもがく人影。
 デザインが特徴的でわかりやすいそのセーラー服は、暁と同じ八十神高校の女子制服。そして、肩ほどまである緩く波打った髪。
 荒れる砂嵐がモザイクのようにその顔を隠しているが――その様が、かえって暁の記憶を刺激した。
 夕食の席で流れたニュース番組。
 山野アナの第一発見者として、モザイク姿でインタビューされていた女子生徒。
 その時にも感じていた既視感が、暁の中ではっきりと正体を現した。
「――小西先輩!?」
 思わず声を上げて、暁はもがくその姿へと右手を伸ばし――

 ――ずぷん

 そう、擬音で表現するなら、まさに『ずぷん』と。
 水の中に腕を突きこむように、何の抵抗もなく。

 暁の右手は――テレビの画面の中へと潜り込んだ。

「え――きゃぁあッ!?」
 何が起きたのか理解できず呆けた暁を、さらなる混乱が襲う。
 テレビの中に潜ってしまった右手が、中から何かに引っ張られるように引き込まれた。
 呆然としていたせいで、一瞬何の抵抗もできず、あっという間に右腕全てと頭までが中に引き込まれてしまった。

 ――白い、世界。

 そうとしか表現できない空間が目の前に広がったことに混乱しつつも、暁は何とか引き込まれた身体を引き抜こうともがく。
 必死で両足を踏ん張りながら、掴まる場所を探して画面の外の左腕を動かす。左手が何かに触れた瞬間、耳を劈くような派手な音がした。
 暁が冷静な時ならば、それがテレビの傍に並べていたCDケースが倒れた音だと理解できたかもしれないが――どちらにせよ、暁はその音に一瞬驚いて身を竦める。
 その瞬間、辛うじてテレビの枠に引っかかっていた左肩が、身を竦めた拍子にずるりと画面の角部分に潜り込んでしまった。

「―――ッ!」

 引きずり込まれる、感触。
 足先まで水面を通り抜けるような感覚と同時に、それは聞こえた。

「――    ッ!」

 誰かの、悲鳴のような、声。

(――足立、さん……?)

 その名前が、脳裏に浮かんだ次の瞬間――
 強く叩きつけられるような衝撃が全身を襲い――暁は意識を完全に手放した。

 * * *

 そろそろと客間の戸を開けて、足立は暗い廊下へと出た。
 家人が寝静まった余所の家をうろつくのは気が引ける。だが、生理現象ばっかりはどうしようもないのだ。――要はトイレである。
 以前泊まった時に教わったので、どこだかわからないという事態にはならずに済んだ。無事に用を足して、客間へと廊下を戻り――

「――……ぁあッ!」

 微かに聞こえた悲鳴に、足を止めた。
(――暁ちゃん?)
 思わず足立は暁の部屋のドアを凝視する。
 嫌な予感がして――とりあえずはノックをして、無事を確かめようと思い――
 聞こえた、何かが割れるような剣呑な音に、ドアを叩くはずだった手は、そのままドアノブを握った。
 『女の子の部屋のドアをノックもなしに開けるな』などという常識的な考えはどこかに飛んでいた。
「――暁ちゃんッ!」
 叫びながら、ドアを勢いよく開き――

 その瞬間、見えたのは、

 ――テレビの中に消えていく、人の爪先。

(――え?)

 愕然と、棒立ちになった足立の目の前で。
 タンスの上に置かれたテレビは、ただ黒々とした画面に波紋を浮かべ――間もなく、それさえも消え去った。

 ――まるで、何事もなかったかのように。

 だが、それは錯覚にすぎない。
 現に、部屋の主の姿はなく、テレビ周辺の床には、割れたCDが散乱している。

 足立の脳裏に浮かぶのは、自身がこの町に来てすぐの雨の夜。
 テレビに呑みこまれた――自身の身体。
 あの時の自分は、肩が引っ掛かって全身が落ちることはなかった。
 だが、暁は――自分より小柄な彼女は。

 ――このサイズのテレビでも、容易に通り抜けてしまった。

「――ッ!」
 思考が事態を把握した途端、足立は咄嗟にテレビに駆け寄り、躊躇いなく画面に頭を突っ込んだ。
 足立の頭は、それが当然かのように画面をすり抜け、
「暁ちゃ――だッ!」
 しかし、肩が枠に引っかかった。
「――くそっ……!暁ちゃん!暁ちゃんッ!」
 いつかと同じように、テレビの中の景色は霧が立ち込め、見通しが利かず。
 声を張り上げるも、彼女からの返事はない。
(――くそ……どうすればいい?考えろ――考えろ!)
 自身の体格からして、このテレビから中に入ることは無理だ。
 ならば、より大きなテレビなら――

(――リビングのテレビ!)

 思い立った瞬間、足立は暁の部屋を飛び出し、階段を駆け下りて――

「……どうしたの?」
「――ッ!」
 そこで鉢合わせた菜々子の姿に息を呑んだ。
「……ご……ごめん、起こしちゃった?」
 何とか息を整えて、意識して柔らかい声を紡ぐ。
「なんか、上から音がしたから……」
「そ、そっか、ごめんねー。トイレの場所がわかんなくなっちゃって、歩き回っちゃったんだ」
 常では考えられないような足立の下手な嘘に、菜々子は少し釈然としない様子を見せたものの、一応は信じてくれたようだ。
「二階のおトイレは階段上がって、右だよ。一階のおトイレは、このローカの奥」
「そっか、ありがとう。ホント、起こしちゃってごめんね。……あ、まさかお父さんまで起こしちゃったり……?」
「だいじょうぶ。お父さん、ねてた」
 はたと気づいた可能性に一瞬冷や汗が浮かぶも、菜々子の返答に胸をなで下ろした。
 おやすみなさい、と言い残し、菜々子は寝室のある廊下の奥へと戻って行く。
 その小さな背中を見送って、足立は大きく安堵の息をついた。
(――危なかった……!)
 咄嗟に誤魔化せてよかった。
 『テレビに人が入る』というわけのわからない事象を、どう説明すればいいのかわからない。一分一秒が惜しい今は、信じてもらえるかわからない説明などに時間を取られたくなかった。
 呼吸を整えて、リビングの隅に置かれたテレビの前に立つ。

(――いいのか?)

 と――心の奥から、酷く冷めた声が響いた。

(戻って来れる保証なんかないぞ?行ったところで、彼女はもう手遅れかもしれない)

 先程までテンパっていた心理とは酷く乖離した、自分勝手で冷淡な思考。

(他人なんかどうでもいいじゃないか。自分を大事にしようぜ?)

 それは、紛れもなく自分自身の声で――

(――ああ、そうだよ)

 その言葉に、足立は、笑った。

(僕は自分が一番可愛い。自分が良ければ、人がどうなろうと知ったこっちゃない)

 それは、紛れもない本音。

(でも、だからこそ――)

 ――暁を、喪いたくない。

 彼女を、彼女と共にある優しい空間を、失いたくない。
 あの居心地の良い場所を、手放したくない。

 脳裏によぎるのは、今日聴取した男の姿。愛しい女を失くして、嘆き、苦しむ姿。

(――僕は、あんな風になるのは、ごめんだね)

 だから――

(失いたくないものは、この手で守る)

 ――暁は、必ず助け出す。

 固い決意の共に――足立は、その四角い深淵へと自ら飛び込んだ。



[29302] 4章.そして役者は己と出会う
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/03/16 20:40
 くん、と鼻を鳴らして、“ソレ”は首を傾げた。
 また、自分の知らないニオイが増えている。それも、二つも。
 どちらの気配も、もともと“ここ”に棲まうモノのものではない。
 そこまで察して、“ソレ”はぶるりと身を震わせる。
 少し前にもあった同じような事態。その時に遭った怖い目を思い出したのだ。
 “ここ”は、“外”から来る者にとって、酷く居づらい場所だ。“ソレ”は試行錯誤の末にこの霧を見通す術を得たが、そうでない者にとっては殆ど何も見えないも同然なのだ。
 “ソレ”以外に“ここ”に棲むモノたちは、元々視界など必要としていないが、“外”から来る者はそうではない。なぜか、“ソレ”はそうっていた。
 “ソレ”は、自分以外に“ここ”で棲まうモノたちが、酷く狂暴であることも知っていた。この霧が立ち込めている間はいいが、晴れてしまうともう駄目だ。“ヤツら”は暴虐の限りを尽くすので、“ソレ”は怖くて、その間は逃げ隠れるしかない。
 そして、普通、“外”から“ここ”に来ることができないように、“ここ”から“外”に行く手段も、“ソレ”以外のものには持ちえないはずだった。
 だから、初めて“外”から来たらしい気配に気づいた時、“ソレ”はその気配を“外”に返してあげようと思ったのだ。霧が晴れるニオイが近かったし、その気配が“ヤツら”に見つかったら大変なことになると思ったからだ。
 けれど、見つけたその気配の主は、暴れた時の“ヤツら”と同じくらい怖かった。
 今までなかった変な空間の中に居た“外”のヤツは、こちらを見るなりわけのわからないことをまくし立てて、手当たり次第にその辺りのものをこちらへ投げつけてきたのだ。“ソレ”が口を開く暇もなかった。
 怖くて怖くて、“ソレ”は思わずそこから逃げ出した。それから間もなく、霧が晴れてしまって、その気配は消えた。――きっと“ヤツら”にやられてしまったのだ。
 だから助けようと思ったのに――そうは思ったが、同時に、これでもうあの怖いヤツもいないのだと安堵もした。
 別に、自分に酷いことをしたヤツが“ヤツら”の餌食になったことを喜んだわけではない。誰かが酷い目に合うことを願う気持ちはないから。
 ただ、自分に対する脅威が消えたことには、安堵した。
 “ソレ”は、ただ静かに暮らしたいだけなのだから。
 しかし、今また、新たな“外”からの気配がする。前のヤツの様子からすると、自分から入ってきた感じではなかった。だとすると、“外”の誰かがこっちに人を放り込んでいるのかもしれない。
 ――迷惑だ。
 “ソレ”は心底そう思う。
 あんなに怖くて喧しいヤツをほいほい放り込まれたら、とても静かに暮らせない。
 霧が晴れるまで近寄らないようにすれば、消えてしまうだろうけれど、前回と今回では気配の表れた場所が全然違う。どこから入ってくるか予想できないと、いきなり目の前に出てきて暴れられる可能性もあるのだ。
 どうしよう、と“ソレ”は頭を悩ませる。
 と、しばらくして、それらの気配のすぐそばで、また知らないニオイが増えたことに気づいた。
 その奇妙な気配ニオイに、“ソレ”は首を捻る。
 それは、“ここ”に住まう“ヤツら”とも、“外”のモノとも違う、未知の気配だった。
 ほんの少し、“ヤツら”と似た感じ。けれど、どこか懐かしくて、怖い感じのしない、不思議なニオイ。
 なんだろう――そう思って、“ソレ”の中にちょっとした興味がわいた。
 “ここ”には、自分以外には狂暴な“ヤツら”しかいない。“外”の存在はここには長く居られない。
 でも、そのどちらとも違うこの気配の持ち主なら、もしかしたら仲良くなれるかもしれない。

 ――会いに行ってみようか。

 そう思って、“ソレ”はそのニオイの方へと身体を向けた。
 ついでに、“外”のヤツらの様子も見てみよう。この変わった“気配”と一緒にいるのだから、前とは違って怖いヤツじゃないかもしれない。

 ――遠くからちょっと声をかけて、怖くなさそうだったら近づいて、外に出してあげよう。

 そう、行動方針を決めて、“ソレ”はその気配の方へと向かうことにした。

 * * *

 気が付けば、足立は蒼い空間にいた。
 腰かけているのは、感触からも外見からも上等なものだと知れるソファ。
 向かって正面、少し離れたところに、円卓が置かれている。
「――ほう……これはまた、変わった定めをお持ちの方がいらしたようだ」
 ふふ、としわがれた笑い声が耳に届いた。
 対面に、やはりソファに腰かけた老人の姿。円卓に両肘をつき、指を組んだ両手の上に顎を預けるようにして、こちらへと身を乗り出している。
 その老人は、端的に言って――異様な風貌の持ち主だった。
 身に纏った紳士然としたタキシードは、時代錯誤の感はあっても、異様と称するほどではない。側面だけを白髪に覆われた頭も、老人としてはそれほど珍しいものではない。
 だが――血走り、ぎょろりと見開かれた双眸に、ある童話の主人公人間になった人形を髣髴とさせる異常に長い鼻は、到底人間のものとは思えなかった。

「……あんた、“何”だ?」

(――ッ……!?)

 自身の意図しないうちに言葉を紡いだ己の口。そのことに足立は激しい違和感を覚えるも、その心と乖離したように、身体は息を呑むことすらしなかった。
「……難しいことを問われるお客人だ。――“誰だ”と問われたなら、答えに迷うことはないのですが」
 足立の言葉に、老人は浮かべた意味深な笑みに苦い色を滲ませる。
「そうですな……あえてお答えするならば、私はイゴール。ベルベットルームの管理人でございます」
 以後、お見知りおきを――そう、イゴールと名乗る老人は一礼した。
 足立は、その仕草に――否、これまでのやり取り全てに奇妙な既視感を覚え――思い出した。
(ああ――これは、夢だ)
 いつかの雨の日。自室のテレビから繋がる霧の世界を覗く前。
 疲れで思わず寝入ったその間、見ていた奇妙な蒼い夢。
 今、自身が見ているのは、その夢の記憶。
 忘れていた記憶を、引っ張り出して再生してるだけ。だから、意識と身体の行動に齟齬があるのだ。
「……イゴールさん、ねぇ。じゃあ、次の質問」
 言いながら、記憶の中の自分が、ぐるりと辺りを見回す。
 縦に細長い空間。霧に包まれた景色を覗かせる、側面に並ぶ窓。蒼を基調とした瀟洒な内装。円卓を中心に配置された、いくつものソファ。中に酒瓶を並べたガラスケース。僅かに感じる振動と、耳の奥に低く響くエンジン音。
 端的に表現するなら、車内をバーに改装したリムジン、と言ったところか。進行方向からして、足立から見て正面――イゴールの背後に運転席があるのだろうが、そこは完全に壁に仕切られており、見ることは叶わなかった。

 ――一体何をどうすれば、部屋で寝ていたはずの自分が、気づけばこんな奇妙な高級車に乗っているという事態になるのか。

 夢だと気付かぬ記憶の中の自分はそんな風に思い、睨みつけるような視線を老人に向けた。
「――ここは、“何”?何で僕はこんなとこにいるわけ?」
 しかし、イゴールはいささかも怯んだ様子を見せず、再び組んだ両手に顎を預けて、告げる。
「ここはベルベットルーム。夢と現実、精神と物質の狭間にある場所でございます」
 要領の得ない答えに眉を寄せる足立に構わず、イゴールは言葉を続ける。
「本来は、何らかの形で“契約”を果たされた方のみが訪れる部屋――貴方には、近くそうした未来が待ち受けているのやも知れませんな」
 そう言って、ふふ、と楽しげに小さく笑った。
「……“契約”?」
「それは未だ見ぬ先のこと。――とりあえず、今はあなたのお名前を窺っておきましょうかな」
 意味の通じぬ言葉の中で、特に引っかかった単語を足立は繰り返すが、イゴールは答えず、逆に問いを投げてきた。
 正直、答える義理も何もなかったが――ここまで来て、この不可解な事態が夢であると、記憶の中の自分も察し始めていた。
 夢の中で意固地になってだんまりを決め込むのも馬鹿らしく、足立はため息まじりに自身の名を名乗った。
「――足立だよ。……足立、透」
「ふむ……なるほど」
 イゴールは、何故だか妙に満足げに頷いて見せる。その仕草は楽しげですらあった。
「では、貴方の未来について、少し覗いてみると致しましょう――」
 手の上に預けていた顎を上げて身を起こすと、組んでいた手をほどいて右手をテーブルにかざす。
 すると、何もなかった円卓の上に、淡い輝きを宿すカードの束が現れた。
 魔法のような不可解な出来事。しかし、どうせ夢の中のことかと思えば、いちいち驚く気のも馬鹿馬鹿しい。
 見慣れたトランプなどのカードに比べて縦に細長いシルエットを眺め、足立は我ながら冷めた声を紡ぐ。
「……タロット?」
「その通りでございます。――占いは、信用されますかな?」
 気を悪くした風もなくイゴールはそう返すと、足立の返事を待たずにカードへとその手をかざした。
 すると、カードたちは伏せられたままひとりでに動き出し、伏せられた状態のままいくつかの山に分けられる。
「常に同じカードを手繰っておるはずが、見える結果はその都度変わる……ふふ、まさに人生のようでございますな」
 イゴールは楽しげにそう呟くと、つい、と一つの山の上に手をかざした。
 ふわりと、山の一番上のカードが浮き上がり――
「ほう、これは……」
 イゴールが意外そうな声を漏らし、足立も眉をひそめた。
 浮き上がったカードは、足立の方へとその表を向けて――そのまま、図面の上下を定めることなく、緩やかに回転し始めたのだ。
「……これ、どういう意味?」
 タロットが『正位置』『逆位置』と称される図柄の向きで意味を変えることは、占いに興味もない足立でも知っている。
 上下の定まらぬこの状態では、カードの意味が汲みとれないだろう。
「ほう……これは、興味深い」
 しかし、イゴールの声は、寧ろ弾んでいるように聞こえた。
「――このカードは、“審判”」
 “XX”の番号と、ラッパを手にした天使の図。
「正位置ならば、『解放』、『復活』。逆位置ならば、『再起不能』、『停滞』を意味するカードでございます」
「……で、結局どっちなの、これ」
 くるりくるりと、止まることなく上下を入れ替え続けるカードに目を向けて、足立が思わず半眼で問えば――イゴールは笑みを浮かべたまま、短く答えた。
「――わかりませんな」
「はあっ?」
 思わず、かくりと肩が落ちた。
 イゴールは、呆れたような足立の声に構わず、酷く真摯な視線を向けて、告げる。
「――どちらになるかは、貴方の選択次第、ということです」
 それじゃ占いの意味がない――そう茶化すこともはばかられるような声音だった。
 思わず声を失った足立に、イゴールは再び組んだ手の上に顎を預けるようにして、身を乗り出す。
「私が手繰った時、このカードは確かに逆位置を示しておりました。しかし、カードはそれを覆すように回り出したのです。――この意味が、わかりますかな?」
 『逆位置』と言われて思わず眉を寄せた足立だったが、続けられた言葉に軽く目を見開いた。
「今年、貴方の人生は節目にあり、近い未来、貴方の運命を変えるきっかけが訪れるでしょう」
 “きっかけ”というその言葉に、過去の記憶を眺め続ける足立の意識に、浮かんでくる光景があった。

 不器用に自分を気にかけてくれる上司。花が綻ぶように笑みを向けてくれる幼子。
 そして――柔らかく青い瞳を笑みに細める、銀の髪の少女。
 そんな、優しい人たちと囲う、暖かい食卓。

 ――ずっとずっと欲しかった、安寧の場所――

「――どうぞ、そのきっかけを逃すことがございませんよう――」
 ふと、イゴールの声が遠くなり、視界が、ぐにゃりと歪み始めた。
「貴方が無事“契約”を果たし、再びこの部屋を訪れて下さることを、願っておりますよ――」
 その声を、最後に――足立の意識は、白く塗りつぶされた。


 唐突に意識が覚醒し、足立はがばりと身を起こした。
「――っ……!」
 途端に、ずきりとした痛みを後頭部に覚える。
 酷く、視界が朧だ。何度か瞬きを繰り返し――やがて、それが己の目のせいではないのだと気付く。
「……霧……」
 辺りに立ち込める、白い霧。それに気付いた途端、足立は自身が置かれた状況を思い出した。
 テレビに呑みこまれた暁を追って、テレビに飛び込み――高い場所から放り出されて、おそらくは着地をしくじり、頭を打って気絶していたのだろう。
「そうだ――暁ちゃんは!?」
 叫んで、周囲を見渡し――眉を寄せた。
「……ここ、って……」
 霧のせいで霞んではいるが、それでも、見紛いようのない見知った場所。
「……堂島さんちの、リビング……?」
 どういうことだ、と足立の思考は混乱する。
 自分は堂島家のリビングにあるテレビへと飛び込んだのに、飛び込んだ先に、また堂島家のリビングがあるとは、これいかに。
 しかし、よくよく見れば、本来の堂島家との差異が目についた。
 まず、飛び込んだはずのテレビは、画面の部分が派手に割れている。試しに軽く触れてみたが、返ってきたのは小さな鋭い痛みだった。――割れた画面の角で切れたのか、指先に浮かんだ小さな血の玉を憮然と舐めとる。
 部屋の内装も若干違った。座卓周りに置かれたピンク色の座布団はそのままだが、堂島が良く座っている茶色のソファが、温かみのある淡い橙色になっている。縁側に続く窓を覆う紺色のカーテンも同様だ。――全体的に、暖色系の色彩に変わっている。
 それよりなにより、室内に漂う濃い霧が、ここが堂島家とは別の場所なのだと証明していた。

「……気に入らない」

 ぼそり、と呻く。
 足立にとって安寧の場所である堂島の家が、冷たい霧に侵されているこの光景は、何とも気に障るものだった。
 しかし、全く見知らぬ場所に放り出されなくて良かったという安堵も、確かにある。何より――
(リビングから入った僕が“リビング”に出たんなら、暁ちゃんは彼女の部屋にいるはず!)
 思考がまとまるなりリビングを飛び出し、階段を駆け上がる。
 上がった先が全く見知らぬ場所――というオチもなく、知った通りの堂島家の二階の廊下へと繋がっていたことに安堵し、暁の部屋に当たるドアへと駆け寄った。
「暁ちゃん――ッ!?」
 ドアを開け放つなり、目に飛び込んできた光景に、足立は思わず硬直する。
 そこは、確かに暁の部屋だった。
 もしかしたら、リビングと同じように細かい差異はあるのかもしれないが、霧に覆われているうえに、先程初めて暁の部屋を見ただけの足立に、それを知覚することはできない。
 そして、暁もいた。敷かれた布団の上で、上半身を起こして座っている。こちらを見て目を見開いている様からは、どこか怪我をしている様子も見えない。
 ただ、その彼女のすぐ横に――足立にも、目に見えてそうとわかる異物が、存在していたのだ。

 暁の布団の横で、カーペットの上に座り込み、こちらに顔を向けてくる一人の男。
 ツンツンと好き放題に撥ねた黒髪。猫背気味の体躯に纏う、よれたスーツ。

「――やっと来た。遅かったね、“僕”」

 そう言って笑う――“足立透”の姿が、そこにあった。

 * * *

 ふと、優しく頭を撫でられる感触で、暁の意識は浮上した。
 重い瞼を開くも、寝起きのせいか、視界は白く滲んでいて――
「……気が付いた?」
 瞬きをして、視界を回復するより早く、聞き覚えのある優しい声が耳に届いた。
「……足立さん?」
「うん。――ああ、視界が悪いのは、辺りの霧のせいだよ。暁ちゃんの目のせいじゃない」
 声の主を呼びながら瞬きを繰り返す暁に、足立はそう告げる。
 言われて、暁は周囲に白い霧が立ち込めているのだと、初めて気が付いた。
 しかし、寝起きのせいで視界が悪かったのも確かなようで、繰り返した瞬きによって、多少視界が回復する。
 まず見えたのは、横たわった自身のすぐ横に座り込んだ、ツンツンと跳ねた黒髪と猫背なスーツ姿のシルエット。
「どこか、痛むところはない?」
 投げられた案じる声に、身体のあちこちが打ち付けたように痛むことに気が付いた。
 そして、自分が、布団の上に寝かされていることにも。
「――えっと……?」
 事態がいまいち飲み込めず、困惑した声を漏らす暁に、足立は穏やかな声で語りかける。
「……覚えてない?暁ちゃんは、自分の部屋のテレビに呑みこまれちゃったんだよ」
「――あっ……!」
 その言葉に、自身の身に起きた異常事態を思い出し、暁は思わず声を上げて体を起こそうとし――その拍子に、体のあちこちが鈍く痛んだ。
「――っ……!」
「ああ、駄目だよ!急に動いちゃ!」
 思わず小さく呻いた暁に、足立が慌てた様子で僅かに起こした肩へと手を添える。そのまま横たわらせようとするのを、暁は手で制して、
「大丈夫です……起きます……」
「……そう?」
 案じる声でそう告げつつも、足立は肩に沿えた手を背に回し、起きるのを手伝ってくれた。
「多分、“こっち”に落ちた時に床に叩きつけられたんだ。……痣が残らないといいんだけど」
 でも、頭とかは打ってないみたいで良かった、と足立は言う。
 彼の言う“こっち”というのが、テレビの中を示しているのだと気付き――ふと、疑問が暁の脳裏に浮かんだ。
「どうして、足立さんがここに……?」
「ん?――そりゃ、暁ちゃんを助けに来たんだよ」
 当然のように、足立は告げる。
「でも、びっくりしたよ。暁ちゃんの悲鳴が聞こえて部屋に飛び込んだら、爪先がテレビに呑みこまれてく瞬間だったんだから」
 苦笑気味に告げる足立の言葉に、思い出す。霧の中に落ちていく直前に聞こえた気がした、彼の悲鳴を。
「……じゃあ、足立さんは私を追いかけて……?」
「うん。暁ちゃんの部屋のテレビじゃ小さくて、リビングのテレビから、だけどね」
 気負った風もなく『テレビに飛び込んだ』という事実を語る彼に――暁は言い様のない違和感を覚える。
 『テレビに人が呑み込まれる』、『テレビの中に霧に包まれた空間がある』といった異常事態に対して、彼の態度はあまりにも平静すぎた。
 ――まるで、これが当たり前だと言わんばかりに。
「……足立さんは、ここがどういう場所なのか、知っているんですか……?」
 暁の言葉に、足立は虚空を見上げるように軽く顔を仰向ける。
 ん~、と呑気な声で呻いてから、確認するように問い返してきた。
「――じゃあさ、暁ちゃんには“ここ”がどんな場所に見える?」
 言われて、暁は改めて辺りに目を凝らす。――そうして、気が付いた。
「……私の、部屋?」
 霧越しに見えた室内の様子に、呆然と呟く。
 覚えのない女性らしい小物が増えていたり、カーペットや布団の柄も可愛らしいものになっていたりと、細かい差異はあるものの。
 この場所は、堂島家で割り当てられた暁の自室と、あまりに酷似していた。少なくとも、間取りと家具の配置は全く同じだ。
 暁の呟きに、足立は小さく笑う。
「そう――“僕”にとっては、“これ”が暁ちゃんの部屋」
 見慣れた剽軽ひょうきんな笑みではなく――

「“僕”にとっては――“この家”だけが、現実なんだ」

 そう、慈しむような笑みで暁を見つめ、彼は言った。

「――どういうこと……ですか……?」
 ――わからない。
 わからないが――けれど、その言葉は、酷く寂しいものに思えた。
 しかし、彼は微笑んだまま、ゆるゆると頭を振る。
「……わからなくていいよ。これは、“僕”自身の問題だから」
 そういうと、気を取り直すように、いつもの剽軽な笑みを浮かべ、話題を変えた
「それよりも、あちらに戻る方法を考えなきゃね。入ってくるときはテレビだったけど――ここのテレビはあの様だし」
 言われて初めて、暁は“この部屋”に置かれたブラウン管テレビの画面が割れていることに気づいた。
「リビングのも同じ状態だった。通れるとか通れない以前に、あれじゃ触ったら怪我するよ。……参ったね」
 一方通行なら入り口に標識出しといて欲しいよねぇ、などと、彼は冗談めかして言うが――

「――笑い事じゃありません!」

 暁は、思わず声を荒げていた。
「もしっ……もし、本当にここが一方通行だったらっ――」
 驚いたように目を見開く足立に、震える声を、ぶつける。

「私のせいで、足立さんまで――ッ!」

 そこから先は、声にならない。
 ――自分を助けに来てくれた人が、自分の巻き添えで、奇怪な空間に閉じ込められる。
 そんな罪悪感で、思わず涙ぐんだ暁に――

 足立は、笑った。

 心の底から嬉しくてたまらない――そんな様子で。

「――世界は、まだ……捨てたもんじゃ、ないよ」

 喜色を湛えた、優しい声。

「そうだろう?――“僕”」

 意味の通じない呟きと共に、彼は部屋のドアの方を振り返る。
 その瞬間に、勢いよく開け放たれたドア。

「暁ちゃん――ッ!?」

 同時に響いた“その声”と、声の主の姿に、暁は愕然と眼を見開く。

 寝癖も混じっているのか、いつもよりも余計にあちこち跳ねている黒髪。
 先日同様、寝間着代わりに渡した堂島のジャージを着込んだ猫背の体躯。

「――やっと来た。遅かったね、“僕”」

 すぐ横で、そう言って微笑む足立とは別に――もう一人、“足立透”が、そこにいた。

 * * *

「――は?」
 暁を追ってジャージ姿のままリビングのテレビに飛び込んだ“本物の”足立透――その口から、まず最初に零れ落ちたのは、そんな間の抜けた声だった。
「うわ、我ながら間抜けな反応だなぁ。もうちょっと他に何かないの?」
 不満そうに顔をしかめるスーツ姿の“自分”の言葉。
 それによって硬直が解け、足立は慌てて暁の元に駆け寄ると、自身の方へ引き寄せて背後に庇った。
「――何だお前!何で暁ちゃんと一緒にいる!」
「馬鹿、乱暴にするなよ!暁ちゃん、怪我してるんだから!」
 射殺す勢いで睨み据えて誰何すれば、逆に怒鳴り返される。その内容に、慌てて振り返った。
「え!?――ご、ごめん、大丈夫!?」
「だ、大丈夫です。ちょっとぶつけただけみたいですから」
 かくかくと頷きながらも、暁も混乱しているようだ。忙しなく、自分と“もう一人”を見比べている。
 とりあえず、大した怪我ではないらしい。そのことに安堵の息を吐いてから、改めて“もう一人”に向き直った。
「……お前は、何なんだ?」
 再度紡いだ問いは、先程よりは険のない声になった。少なくとも、先程の言葉からして、暁に対して害意のある存在ではないと察せられたからだ。
 しかし、それが自分の味方であるという証明にはならないし――この不可解な存在への謎が解けるわけでもない。
 鋭く睨み据えたままに紡いだ言葉に返されたのは、どこかからかうような軽い声だった。
「そう睨まないでよ。僕は“足立透”さ。見ればわかるだろ?」
「――ふざけるな!」
 しゃあしゃあと自身の名を騙る目の前の存在に、足立は再び声を荒げ――

「――ふざけてないよ」

 ひどく、悲しげな声音に、思わず絶句した。

「……本当にわからない?“僕”が、“何”なのか――この姿を見て、わからないの?」
 “もう一人の自分”は、ネクタイと上着の裾を摘まみ、見せつけるようにひらひらを揺らす。そして、声とは裏腹に剽軽な笑みを浮かべて見せた。
 よれたスーツもネクタイも、おどけたようなその笑い方も――この町に来てからの自分のトレードマークで。
「……おい、まさか……そんな、馬鹿なこと……」
 脳裏に浮かんだ思考に、顔を引き攣らせる足立と反比例して、“もう一人”は表情に喜色を浮かべた。
「気づいてくれたみたいだね。――そうだよ」
 笑って、あっさりと、告げる。

「僕は――君がこの町で“生み出した”、“足立透”だよ」

 それは――紛れもなく、己が纏っていた仮面、そのものだった。


「――待て。ちょっと待て。いや、おかしいだろ、それ」
 足立は、がしがしと頭を掻き毟りながら、目の前の“自分”へと言葉を投げる。
「お前が僕だっていうなら、なんで分離しちゃってんのさ。おかしいだろ、常識的に考えて」
「何を今更。『テレビをくぐった向こうの世界』なんて場所に、常識求めてどうするのさ」
 ははは、と可笑しそうに笑う“自分”の言葉に、ぐっと言葉が詰まった。
 ――確かに、この状況はきっかけからして異常だ。
 異なる世界で己の常識を語ったところで、それが通じる保証はない。

「――“ここ”は、そういう場所なんだよ」

 そう言われてしまえば、もはや足立に返す言葉はない。
 絶句する足立の顔を面白そうに眺めてから、“自分”は講義する教師のような調子で語り出した。
「“ここ”はね、紛れもなく“現実”なんだよ。“ここ”にいる者にとっての“現実”」
 そういって、周囲を示すように軽く腕を広げる。
「――“この家”が、お前にとっての“世界の全て”。そうだろう?」
 酷く抽象的な“自分”の言葉。それでも、その意味が足立には理解できてしまった。

 親に切り捨てられ、職場でも睨まれている自分にとって、唯一の安寧の地。
 初めて尊敬できた上司と、初めて可愛いと思えた幼子と、――本気で好きになり始めているかもしれない少女。
 他人のことなどどうでもいいと思う自分にとって、例外的な存在が全員集う場所。
 確かに――ここは、足立にとって、“世界の全て”だった。

「“ここ”はね、多分、人の心の掃き溜めなんだ」
 ため息まじりに、“自分”は告げる。
「誰かが『要らない』と自分自身から切り放し、捨て去った――そんな心が行きつく場所」
 僕も“生まれた”ばかりだから詳しくはわからないけど――そう言い添えて、続けた。
「“ここ”は“ここ”に入ってきた人間の心を具現化する。だから、入ってきた人間の心の中に、『切り捨てる』とまではいかなくとも、自分自身として受け入れきれない部分があると――分離して具現化する」
「……僕の場合は、“それ”がお前だったと?」
 低く呻いた足立の言葉に、“自分”は笑って頷いた。
「まあ、“僕”の場合はまだマシな方みたいだけど。君は、“僕”が存在することを自覚し、必要ともしてるから」
 だから僕は結構理性を残してるんだよねー、と他人事のように言うが、その言葉に聞き流せないものを感じて足立は眉を寄せる。
「……ちょっと待て。その言い方だと、『そうじゃなきゃ理性がない存在になってた』っていう風に聞こえるんだけど」
「うん、その通り。っていうか、自我という枷から放たれて独立した心が、暴走しない方がおかしいと思わない?」
 さらりと告げられた空恐ろしい言葉に、足立は背に冷や汗が滲むのを感じた。
 自分が来るまで、“もう一人の自分”はここで暁と二人きりだった。彼の言う“暴走”がどんなものかは知らないが、下手をすれば、暁に害をなしていた可能性もあったのだ。
「君の場合は、『否定してる』とか『目を逸らしてる』とかじゃなくて、『本気で自覚してない』だからね。その割に『表』にもガンガン出してもらえてるから、僕にかかる抑圧は、それほどでもないんだけどさー」
 しかし、呑気な声でそんな言葉を紡ぐ“自分”からは、そんな剣呑な雰囲気は感じられないのだが。
 と、その呟きに引っかかるものを感じて、足立は軽く眉を寄せた。
 目の前の“自分”が『八十稲羽で創り出した足立透』という人格キャラクターの具現であるというなら、足立はその存在をきちんと自覚している。そもそも意図的に作り出したものなのだ。自覚してない方がおかしい。
「……僕が何を自覚してないっていうのさ?」
 呟けば、「これだよ」と“自分”は呻いた。
「あーあ、せっかく面と向かって話せたって言うのに、“僕”ってばホントに冷たい。――まあ、気づいてもらえたところで今更だけどさ」
 愚痴のような言葉から一転、諦めきったような最後の言葉が気になった。
「……どういう意味?」
「そのまんまの意味。君が僕を受け入れてくれても、君自身がここから出られないんじゃ、僕も結局ここから出られないし」

 ――出られない。

 どこまでも軽い調子で放られた言葉の爆弾に、足立は愕然と凍りついた。
「“こっち”と“あっち”を繋ぐ“窓”はテレビだ。でも、リビングのテレビ、割れてるの見たでしょ?この部屋のも割れてる。これじゃあ、“窓”としては機能しない」
「――いや……待て待て待て!この家のがだめでも、他に――!」
 絶望的な言葉を遮る様に叫ぶ足立に、“自分”は容赦なくとどめの言葉を告げた。
「ここの外には、さっきも言ったように切り捨てられて暴走した心達が蠢いてるよ?――ヒトに捨てられたモノだから、当然のようにヒトには好意的じゃない。っていうか、そもそもまともな家なんか他にないし。ここだって君が入ってきて初めてできたのに」
 つまりは、家の外に出れば襲われる、しかも出たところでどうにもならない、ということだ。

「――ふざけるな……ッ!」

 低い呻き声が、足立の喉から漏れた。
 堰切ったように、激情が叫び声となって吐き出される。

「暁ちゃんは……こんなわけのわからない場所に閉じ込められていい人間じゃないッ!」

 ――心の、掃き溜め。
 “自分”がそう称した場所。

 ――彼女は、こんなところにいるべき人間じゃない。

 彼女は、世界に切り捨てられるような人間じゃない。
 人を愛し、人に愛されて生きていける、優しい人だ。

 それなのに――その彼女が、“掃き溜め”に閉じ込められるという。

(――ふざけるな……ふざけるなふざけるなふざけるなッ!)

 そんなことを――赦してなるものか。

 ぎり、と音がする程に歯を食いしばり、目の前の“自分”を――否、この“世界”そのものを睨みつける足立に。

 “自分”は――笑った。

 心底、嬉しくてたまらないという風なその笑みに、足立の感情はあっさりと振り切れる。
「――何が可笑しいッ!」
 思わず胸ぐらを掴んで叫ぶ足立に、“自分”は怯んだ様子もなく――寧ろ、肩を震わせて笑い始めた。
「いや……だって、きみ……そんなになってまで、まだ自覚してないんだもんっ……」
「俺が何を自覚してないって言うんだよ!」
 襟元を締め上げるように吊り上げながら怒鳴れば、さすがに苦しそうにしつつも、しかし笑みをにじませたままで、“自分”は言った。

「――『自分が一番かわいい』なんて言ってるくせに、自分以外の誰かを優先してることに」

 ――思考が、凍った。
 その拍子に力も緩んだのか、足立の腕を振りほどいた“もう一人”は、襟元を正しながら笑う。
「確かに君は腹黒だ。他人なんかどうでもいいし、世間を見下してもいる」
 でもさ――言って、ちらりと向けられた視線の先には、案じるような表情でこちらを見つめる暁の姿。
「ここで『一人だけ脱出できます』って僕が言ったら――君、確実に暁ちゃんを脱出させてたでしょ」
「――それは……」
 言われた言葉を否定できず、足立は閉口し――しかし、すぐに気を取り直して声を荒げた。
「それは、暁ちゃんがいい子だから……例外なだけだッ!他のヤツだったら――」
「その仮定に意味はないよ。話の焦点はそこじゃない。――わかってるだろ?」
 遮られて、再び言葉に詰まった。

「重要なのは――君が、自分よりも優先したい存在を見つけたこと」

 優しく、慈しむような眼で、“自分”は語る。

「誰かに優しくすることを思いだせたこと――それだけだ」

 万人にではない。それどころか、ごく限られた人にだけ向けられる、独善的なものだけど。
 打算じゃなく、本心から。
 大事にしたいと、傷ついてほしくないと、思いやる心を思い出せたこと。

「誰だって、好きな相手と嫌いな相手の扱いには差が出るのが普通でしょ。嫌いな奴より自分を優先するのだって、ある意味当たり前の心理だし。――“僕”の場合は、それが特に偏ってるけどさ」

 “もう一人の自分”は穏やかな笑みのまま、なかなかに毒のある言葉を吐く。
 ――ああ、なるほど、自分らしい。
 そんなところで納得しながら、同時に、足立は彼の言葉が正しいものだと認めていた。

 万人に平等に振舞える人間などいるわけがない。暁や堂島だって、知人と他人が同時に同じくらい困っている場面へ出くわしたら、まずは知人を優先するだろう。その後、他人の方にも手を貸すだろうが――それでも、そこに優先順位は発生する。
 それは、恥じることではないのだろう。『万人すべからく同率一位』というのは――裏を返せば『万人すべからく同率最下位』なのだ。
 下がなければ、上はない。好意というものはある意味で、絶対評価ではなく相対評価なのだ。
 万人に向けられないからと言って――自身の“優しさ”を否定する材料にはならない。
 独善的でも、偏っていても、“優しくしたい”と願う気持ちを、己で否定する必要はない。

「――『お調子者で優しい足立さん』は、もう、ただの仮面じゃないよ」

 そう言って笑う“自分”の顔は、これが自分と同じ顔かと思うほど、優しくて。

「血肉の通った、君の一部だ」

 その言葉を否定する気持ちは、もう生まれなかった。

 だから、足立は、苦笑しながら毒を吐く。
「――発揮される相手は、えらく偏ってるけどね」
 “自分”は、その言葉に一瞬きょとんとし――ついで声を上げて笑った。
「自分で言ってちゃ世話ないよ」
「お前だってさっき言ったじゃないか。――お前も、僕なんだろ?」
 今更だ、と笑えば、“もう一人の自分”は心底嬉しそうに笑った。

「――ありがとう」

 その言葉と共に、淡い燐光が立ち上る。
 淡い光と化して解けていく“自分”に、足立は目を見開き――

『――我は汝、汝は我』

 その光から、いつかも聞いた言葉が、聞こえた。
 それは、紛れもなく自身の声で――

『汝、双眸見開きて、我が名を発せよ――』

「――イザナギ」

 応えて、自然と唇から零れ落ちた言霊と共に――解けた光が再び収束し、新たな形を成す。

 目深にかぶった制帽と、鼻から口元までを覆う白い仮面。その隙間から、眼光だけが鋭く覗く。
 明治時代の警官制服を髣髴とさせる、裾の長い黒詰襟。手にした刃は、鋭いサーベル。
 それは、畏怖さえ覚える、神の名を冠する異形。

 足立透は――自身の歪な優しさを認め、大切なものを守るための“覚悟の仮面ペルソナ”を手に入れた。

 * * *

 二人の“足立透”のやり取りを、暁はただ見ていることしかできなかった。
 ありえない状況に混乱したし、二人の足立が口にする意外な言葉に驚きもした。
 けれど――

 ――これは、“僕”自身の問題だから。

 そう告げた、“足立”の言葉が蘇り――暁は口を挟むことをせず、ただ二人に別れた“足立たち”のやり取りを、沈黙と共に見守ったのだ。

 “掃き溜め”と称されたこの世界のこと。スーツ姿の足立が、本物の足立透から分かたれた心の一部だということ。――ここから出る術はないということ。
 “もう一人の足立”が足立自身を『腹黒で他人などどうでもいい、世間を見下した』人間であると断じたこと。――足立が、自身の“優しさ”を認めていなかったらしいこと。
 けれど――暁の巻き添えで“ここ”に閉じ込められてしまったというのに、真っ先に暁の心配をしてくれた彼の優しさを、誰が否定できるというのか。
 そう“もう一人”に言い諭され、足立はその言葉を受け入れ――“もう一人”は姿を変えた。
 ――畏怖さえ覚える、神の名を冠する異形へと。
「――綺麗……」
 淡い光を纏うその姿に、暁は思わずそう呟き――

 ――ぴこっ

 その神秘的な光景に不似合いな、ひどくコミカルな音を耳に拾って、首を傾げた。

 ――ぴこっ、ぴこっ

 最初は小さかった音が、徐々に近づいてくる。そう気づいて、暁はその音の方――開け放たれたままになっていた、廊下に続くドアの方へと視線を向けた。
「……なんだ?」
 低く呻く足立の声。彼もドアの方へと振り返り、睨むように目を細めた。
 彼の警戒に呼応するように、虚空に浮かぶ黒衣の怪人――イザナギが剣を構える。
 霧に覆われた廊下に、辛うじて何かがいるとだけわかる影が滲んだ時、その音源はそこで止まった。

「――そこにいるのは、誰クマ?」

 影から投げかけられたらしい声に、暁は面食らってぱちぱちと目を瞬いた。
 小さな男の子のような可愛らしい声。
「……子供?」
 足立も意外だったのか、肩透かしを食らったような声で呟くのが聞こえた。イザナギが構えた刃の切っ先も下がる。
 暁は、かけられた幼い声の中に、こちらへの怯えと遠慮のようなものを感じ取っていた。だから、まずは出来るだけ優しい声で名乗ることにした。
「私は暁――神代暁っていうの。あなたは誰?顔を見せてくれない?」
 暁ちゃん、と足立が制するように小さく声を上げるが、暁はそれに首を振って答える。
 ――あの影は、こちらに悪意のある存在ではない。
 何故だか、暁にはそう確信できたのだ。
 暁の言葉に反応してか、影が身じろぎし、ぴこっ、と先ほどから聞こえていた音がした。
「……アキラちゃんは、クマにいじわるしないクマ?」
「……誰かにいじわるされたの?」
 よもや“もう一人の足立”が言っていた、“人に捨てられた心”の具現に襲われたのだろうか。
「大丈夫?怪我してない?」
「……暁ちゃんは優しいクマね!」
 思わず案じる声を投げれば、嬉しそうな声が返ってきた。
 これならダイジョーブ、と呟く声が聞こえ、ぴこぴこと音が近づいてきた。
 音と共に徐々にディティールを明らかにしていく影に、暁は目を見開いた。
 やがてはっきりと見えるようになったその姿に、暁はきょとんと呟いた。
「……着ぐるみ?」
 背丈は暁の胸ほどまで。シルエットとしては、逆さにした卵形の上に丸い獣耳を生やして、小さな手足をくっつけた、という感じだろうか。
 卵形の上部1/3を占める頭。頭全体は鮮やかな青色をしているが、顔に当たる正面部分だけは白い。そこに、愛嬌のある大きな丸い目と逆三角形の小さな鼻、そして、笑みの形に弧を描いた口が乗っかっている。
 首がない代わりに胴との境目に走っているのは、ジッパーのような線。そこを境に色彩が赤へと変わる。ただし、顔と同じく正面部分だけは白く、縦に描かれたその白線の上に、服のボタンのような赤いぽっちが三つ並んでいた。
 短い腕と脚は胴体部分と同じ赤色だが、手と足先に当たる先端部分は頭部と同じ青色。頭頂部だけ長くふさふさとした毛の左右で、小さな耳がぴくぴく揺れていた。
 端的に表現するなら――赤と青と白で構成された、何かの動物の着ぐるみ。
 そうとしか呼べないものが、そこにいた。
「はじめましてクマ!クマはクマクマ!アキラちゃん、よろしくクマ~」
 ぴょこん、と跳ねるように片手を上げて、嬉しそうな声で“ソレ”はそう名乗った。――名前からして、どうやらモチーフの動物は熊であるらしい。
 同時にその足元から、ぴこっ、という音がして、先ほどから聞こえていた音はクマの足音だとわかった。
「――あ、うん。初めまして。よろしくね」
 意外な姿に一瞬面食らった暁だが、すぐに調子を取り戻して笑顔で返す。
「ねねね、アキラちゃん。そっちの黒くてカックイ~のは何?クマ、その気配が気になって、ついつい隠れ家からはるばるここまで来ちゃったクマよ」
 好奇心を隠そうともしない弾んだ声でクマがそう訊ねてくるが、残念なことにその答えは暁も持ち合わせていない。
「……えっと……何なんでしょうか?」
「――仮面?……そう、仮面。ペルソナ、だ」
 思わず足立に訊ねれば――足立は瞼を伏せ、まるで意識の奥から答えを探りだす様にして、そう答えた。
「これは、僕のペルソナ――イザナギだ」
「イザナギ……おぉ~」
 足立の言葉に感嘆の声を漏らしてから、クマは思い出したようにその足立へ向き直った。
「で、そういうキミは誰?」
「……足立、足立透」
 ぶっきらぼうに答える足立。どうやら、暁と違ってクマを信用しきれていないらしい。
「――お前は、“ここ”にいるっていう“捨てられた心”とやらの具現?」
 低く問う足立の言葉に呼応して、イザナギが剣を構える。
 途端、クマはびくりと身を竦めて、ぶんぶんと頭を振った。
「ち、違うクマよー!クマはシャドウじゃないクマ!だから斬らないで~!」
「――シャドウ?」
 ぷるぷると震えるクマの言葉に、足立が軽く片眉を跳ね上げる。
 怯えるクマが不憫になって、思わず暁は口を挟んだ。
「“捨てられた心”のことを、“ここ”ではそう呼ぶの?」
「……人の心から生まれた影のことでしょ?だからシャドウクマ」
 なるほど、そう説明されればその名称もしっくりくる。
「そのシャドウとやらとは違うって言うなら、お前は何なんだ?」
「だから、クマはクマだクマ。さっきも言ったクマよ~!」
 足立の再度の問いに、クマは必死に最初の自己紹介を繰り返す。
 どうやらそれ以上の答えは得られないと察したらしく、足立は呆れたような顔をした。しかし、同時に警戒も溶けたらしく、イザナギの構えた切っ先は完全に下がる。
「……とりあえず、害のあるもんじゃなさそうだな」
 彼がそう呟いて大きく息をついた、次の瞬間。
「――のわ、消えた!?」
「……足立さん!?」
 イザナギの姿が溶けるように掻き消え、足立がその場に崩れ落ちた。
「……だ、だいじょうぶ……ちょっとクラっとしただけ……」
「――ちっとも大丈夫に見えませんっ」
 血の気の引いた真っ青な顔で笑って見せる足立に、思わず悲鳴じみた声が漏れる。その横に屈みこんで、その体を支えた。
「おわ、アダッチー、ヤバい感じクマね。これはさっさと“外”に帰った方がいいクマ」
 クマも案じるように足立へ声をかけるが、その言葉に、足立は不機嫌な声を返す。
「帰れるもんなら、とっくに帰ってるよ……!」
 荒い声音。その声に含まれた絶望に、暁も思わず顔を伏せた。
 イザナギと化した“もう一人の足立”は『“ここ”は向こうからの一方通行だ』というようなことを言っていた。それは即ち、“外”への帰還は絶望的であることを意味している。
 しかし、漂う暗い空気を払拭するように、クマがあっけらかんと告げた。
「じゃ、帰してあげるクマ」
「――え?」
 思わず暁が上げた声に、足立の声も重なった。
「か、帰れるの?」
「モチのロンクマ!」
 暁の問いに、クマは、クマにしかできんけどね!と胸を張る。
「……えぇ~……?」
 一方で、足立が釈然としない顔で呻いていた。
 おそらく、クマの言葉が信じられないのではなく、他ならぬ“自分”に騙された結果に、釈然としないものを感じているのだろう。
「まあ、帰れるならいいか……」
「――はい。そうですね」
 自分に言い聞かせるような呟きに、思わずくすりと笑みをこぼしつつも、暁は頷いた。
 帰れるという安堵で、完全に空気が弛緩したその時――

「あ、そうそう。ついでに訊くけど、キミたちは誰に落とされたんクマか?」

 さらり、と訊ねたクマの言葉に、再び空気が凍りついた。

 そして、暁たちは知ることとなる。
 自分たちの前に“ここ”に来た人間の存在と――その人が迎えた、悲惨な最期を。


――――――――――
<一言後書き>
シャドウやテレビの中の設定を、好き勝手こねくり回してすみません(汗)



[29302] 5章.霧中錯綜の役者達
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/12/01 20:42
「あ、そうそう。ついでに訊くけど、キミたちは誰に落とされたんクマか?」

(――え?)
 一瞬、クマの言葉の意味が汲みとれず、きょとんとなった暁の横で、足立が低い声で問い返した。
「――つまり……僕たちの他にも、“外”から誰か来たのか……?それも、誰かに落とされて」
「そうクマ。ちょっと前に、一人。出してあげようとしたんだけど、『あんたもあいつの仲間なんでしょ』ってわけわかんないこと怒鳴られて、物を投げつけられたクマよ」
 怖かった~、と身を震わせるクマ。
 二人のやり取りに事態を把握して、暁の背に冷たいものが走る。
 自分たちのように、自ら“ここ”へ落ちたのではなく――誰かに無理やり放り込まれた人間がいる。
 クマの言葉が正しければ、“ここ”はクマに出会えなければ出る方法のない牢獄なのに。それを他者に強いるというのは、どうとっても悪意としか感じられない。
 誰かに悪意でもって放り込まれた訳のわからない場所。しかも、クマの姿は遠目で見ると、霧のせいもあって人ではない異形の影としか映らない。
 その状況で、クマを信用せず追い払ってしまう心理はわからないでもなかった。
「その人、どこにいるの?」
 ただ、自分や足立の言葉なら信用してもらえるかもしれない。そう思ってその人に会おうと訊ねた暁の言葉に、クマはふるふると首を振る。
「もういないクマよ」
「え、なんだ。ちゃんと帰せたの」
 足立が拍子抜けしたような声を漏らす。どうやら同じことを考えていたらしい。
 だが、クマは再び頭を振った。
「ん~ん。クマが思わず怖くなってその人のところから逃げたその後、すぐに霧が晴れちゃったクマ。霧が晴れるとシャドウは酷く暴れる。――その時、その人の気配、消えちゃったクマ」
 気負いのない調子で紡がれた言葉。しかし、その言葉の意味するところは、暁たちの顔を強張らせるのに十分だった。
 クマに出してもらうしか脱出手段はないこの場所。人に対して害意を持つシャドウが暴れたという事実。それらが重なれば、『気配が消えた』という言葉の意味は一つしかない。

 暁たちの前に“ここ”へと放り込まれた人物は――“殺されて”しまったのだ。

「……遺体だけでもあちらに帰してやれないのか」
 低く、足立がクマに訊ねる。――咄嗟にその言葉が出るのは、彼が刑事だからか。
 しかし、クマはきょとんと首を傾げる。
「イタイ?」
「……その人の身体のことだよ」
 単語の意味するところが理解できなかったらしいクマに、足立は直接的な表現を避けてか、そう告げた。
「出来ないことはないと思うけど……意味あるクマか、それ?」
 心底不思議そうに首を傾げるクマ。
 そこに感じた微妙な温度差に、暁は気づいた。
 ――他者の“死”に対する意識の相違。
 単に精神が幼く、死の概念が理解できていないのか。根本的に生死に対する価値観が違うのか。
 クマは、“ここ”で亡くなってしまった『遭難者』に対して、特に何の感慨もないのだ。
 冷酷、というのとは違う。――どちらかと言えば、無関心。
 自分にしかできないと知っているからか、一応は『“外”に帰そう』という行動をとってはいるものの、果たせなくても特に無念さを覚えている様子はない。
 『隠れ家からはるばる』という言葉からして、クマの普段の行動半径からこの場所までは距離があるのだろう。イザナギの気配に惹かれなければ、クマは暁たちの元まで来てくれなかった可能性もある。
 寧ろ、クマの最初の態度からして、『“外”の人間』=『恐い』というイメージを抱いていた節があった。露骨に避けられていた可能性の方が高いのではないだろうか。
「ん~、でも、ここからその人がいたとこまでは結構遠いクマよ。それは後でクマがやっとくから、アダッチーは早く外に出た方がいいクマ」
 足立を気遣うクマの言葉に、暁は自身の不吉な想像を慌てて頭から振り払った。
(実際に、クマ君は今ここにいて、私たちを助けてくれようとしているのに)
 こんな『IF』は、クマに対して失礼だった。
「ちゅーか、二人は誰かに無理やり入れられた感じじゃないクマね?」
「あ、うん。……私はうっかり自分で落っこちちゃって、足立さんは私を助けに追いかけて来てくれたの」
 二人の態度に前との差を感じたのか、首を傾げたクマに暁はそう説明する。
「なるほどなるほど。でも、変クマねぇ……普通、“あっち”と“こっち”は行き来できないのに。何でいきなり何人もこっちに来れるようになったクマか……アキラちゃんたち、何か心当たりない?」
 困るんクマよ、と溜め息をつくクマ。しかし、彼の問いへの答えを持たない身としては首を横に振るしかない。――というか、寧ろこちらが教えてほしいくらいだ。
「前もそうだったけど、人が来るとここにみたいに変な場所が出来て、“こっち”がどんどんおかしくなっちゃうんクマよ。クマ、静かに暮らしたいのに、これじゃちっとも落ち着けないクマ」
 『ここみたいな変な場所』というのは、おそらく“もう一人の足立”が言っていた『入って来た人間の心が具現化してできる場所』のことなのだろう。
「しっかし、犯人捜し手がかりなしクマか~……てっとり早く、アダッチー、犯人になってみない?」
「なるか!っていうか、ツッコみたいところ多すぎだよ!変な呼び方とか、もうそれ捜査じゃないってこととか、変な呼び方とか!」
 足立はどうも、犯人呼ばわりされることより、勝手につけられたあだ名の方が気になるらしい。
「だって、“こっち”に来れる人間じゃなきゃ、他の人間も入れられないクマ。アダッチーならその条件にあてはまるし」
「暁ちゃんを候補から除外している件については評価してあげるけど、それでも僕はやってない。あとアダッチーやめろ」
 足立の断固とした拒絶に、クマは「アダッチーのケチー」とぶーたれる。
「だから、それやめろって……っていうか、そもそもケチとかそういう問題じゃないだろ。僕がここで『はいはい、犯人でいいですよ』って言ったところで、本物の犯人捕まえない限り、犯行が繰り返される恐れは消えな――」
 言いかけて。
 初めてその可能性に気づいたように、足立の表情が凍った。
 暁も、その言葉によって指摘された危険性に、背が冷えるのを感じた。

 ――犯人が捕まらない限り、また誰かが“こちら”へと放り込まれる可能性がある。

「――クマ君」
「お、お?……なんぞ、アダッチー。急に怖い顔して」
 じゃれあうように言葉を交わしていた時とは一変して真顔になった足立に、クマは面食らった様子を見せる。
「君、こっちに人が入って来たらわかる?」
「当然クマ!」
 自信満々で胸を張るクマに、足立は一つ頷いて、次の質問を投げた。
「じゃあ――“外”にいる僕に、それを報せることは?」
 その一言で、暁は足立が何をしようとしているのかを察した。
 ――彼は、犯行が繰り返された時のための、予防線を張っているのだ。
「んー?そうクマね~。“こっち”から“外”に、何か合図になるものを出す、とか言うことならできるかもしれんけど」
「……その“合図”がどこに出るかは決められるの?」
「“こっち”と“外”は場所と場所でつながってるクマ。ここがキミらが入ってきてできた場所なら、ここからキミらが入って来たのと同じ場所へと“合図”も出せるクマ」
「……そうなると、堂島さんちのリビング?……それはさすがに……だいたい、堂島さんにどう説明しろと……」
 参ったな、と呻く足立。
 確かに、この不可思議な世界のことを、経験していない第三者に説明し、納得させるのは難しい。堂島のような常識ある大人相手であれば、尚更だ。
 頭を悩ます足立の心境が良くわかり、暁は思わず申し出た。
「それなら、私の部屋のテレビなら、どうですか?」
「――え?」
 足立は、ぽかんと呆けた顔をした。
「“合図”があったら、私から足立さんに報せます。それでいいでしょう?」
「あ、いや、助かるけど……いいの?」
 足立の言葉に、暁は迷いなく頷いた。
 暁は刑事でもなんでもないただの高校生だし、足立の“イザナギ”のように特別な“何か”があるわけでもない。きっと、この世界にいる“シャドウ”という存在に襲われれば、ひとたまりもないだろう。
 それでも――
「人命に関わるかもしれないことなんです。事情を知った以上、見て見ぬふりなんかできません」
 連絡係程度でも出来ることがあるなら――手助けができるなら、したかった。
「――ありがとう」
 そう笑ってから、足立はクマに向き直った。
「じゃあ、クマ君。もしもまた“外”から人が放り込まれたら“合図”を頂戴」
「いいけど……なんでぞ?」
 不思議そうなクマに、足立は不敵に笑って、告げる。
「犯人は“外”の人間なんだろ?“外”の人間が協力しなきゃ、捕まえられないでしょ」
「――犯人捜し、手伝ってくれるクマ!?」
 クマの声が目に見えて喜色を湛えた。
「そういうこと。そのためにも、被害者に直接会って話を聞きたいんだよ。――君の外見だと、前の被害者みたいに、そもそもまともに話せない可能性が高いし」
「しっつれいな!こんなぷりちーなクマを捕まえて!」
 ぶんぶんと腕を振って抗議するクマ。足立は呆れたようにため息をつく。
「……可愛いかはともかく。ちゃんと見れば怖がるようなもんじゃないってわかるのは認めるけど、霧越しだと『明らかに人じゃないシルエット』としか認識できないんだって」
「――あ、そっか。キミらは霧を見通せないんだったクマね」
 今思い出した、という風に呟くと、クマは『ちょっと待って~』とこちらに背を向ける。
 背を向けられたことで、首の後ろ(にあたる位置)にジッパーのつまみが見えた。首のところの線はやはり開閉部分らしい。
 と、暁がそんなことをまじまじと考えていると、クマがくるりと振り返る。
「はい!プレゼントクマ~!」
「……眼鏡?」
 図らずも、足立と声がハモった。
 クマが暁と足立にそれぞれ差し出したものは、眼鏡だった。
 暁に手渡されたのは、ほっそりとした黒のハーフフレーム。やはり黒のテンプル部分には、植物の蔓をモチーフとした金の繊細な装飾が入っている。レンズは女性らしい丸みを帯びたフォルム。
 足立のものは、ややゴツイ黒のフルリムに角の丸いスクウェアレンズ。暁のものに比べるとシンプルだが、テンプルやフレームの組み合わせがいいのか、やはりお洒落な印象である。
 まじまじと手渡されたものを眺め、足立が不審そうな声を漏らした。
「……僕、別に視力に問題はないんだけど?」
「まま、とりあえずはかけてみるクマよ」
 促すクマの言葉に、暁は思わず足立と顔を見合わせてから、恐る恐る手渡された眼鏡をかける。
 その瞬間――文字通り、視界が一変した。
「――わ……」
「……霧が……」
 暁は思わず目を瞬き、その横で、足立も驚愕の声を漏らす。
 クマに手渡された眼鏡のレンズを通した途端、辺りの霧が消えたように視界がクリアになったのだ。
「えっへへ~、凄いっしょ?クマはここに住んで長いから、快適に暮らす工夫は怠らないクマ!」
「……どういう仕組みだよ、コレ……」
 誇らしげなクマの言葉を聞いているのかいないのか、足立は呆れた風に疲れた呟きを漏らす。――『眼鏡で霧を見通す』など、改めて自分の常識が通じない場所だと痛感したのかもしれない。
 暁としては、既に“ここ”は“そういう場所”なのだと受け入れてしまっていたので、それほど驚きはなかったが、他に気になることがあった。
「……クマ君は、眼鏡要らないの?」
「お?い~い質問クマねっ!何を隠そう、クマはこの“眼”自体がレンズになってるから、眼鏡は要らないんクマよ~」
 ふふん、と胸を張るクマ。言われて見れば、そのドングリまなこの表面は、ガラスめいた光沢がある。
「……ってことは……君、やっぱ着ぐるみなの、それ?」
「キグルミ?」
 足立の言葉に、クマは全身を傾けるように首を傾げる。
「つまり……君のそのクマみたいな外見の中に、別の何かが入ってんじゃないかってこと。あからさまに首のとこで開くデザインでしょ、それ」
「しっつれいな!クマはクマクマ!中に何か入ってたりしないクマよ!」
 ほれ、とクマは自ら首のジッパーを開けて頭を外す。

 その中に見えたのは――何もない、真っ暗ながらんどう。

「――!」
 己の頭を抱えた空っぽの着ぐるみの姿に、暁は思わず息を呑んだが、それよりも無視できない懸念が浮かんで思わず声を上げていた。
「……クマ君、首、取っちゃって大丈夫なの……?」
「えぇッ!?そこ!?」
 他に聞くことあるんじゃない!?と足立は声を上げるが、声音からして、言うほど動転しているわけでもなさそうだ。――非常識に耐性ができて来たらしい。
「おお……暁ちゃんはやっぱり優しいクマねぇ……」
 クマは何やら感動したような声を漏らしてから、「大丈夫クマよ、ホレ」と何事もなかったかのように元通り頭を据えて、ジッパーを閉じる。
「……ほんっと何でもアリだねぇ、ここは……」
 空っぽの着ぐるみが動くとか、などとぶつぶつと足立が零した。その声は、完全に諦念に満ちている。
「……まあ、君が何なのかとか、“ここ”が何なのかとかは、この際どうでもいいよ」
 はあ、とため息まじりに呟いて――足立が、俯いていた顔を上げた。

 迷いのない鋭い眼差しと、口元に浮かぶ不敵な笑み。

 おどけていたり、優しかったりする彼の笑顔――今まで見てきたそのどれとも違う、彼の雄々しい笑みに、暁はどきりとした。
(――やっぱり、足立さんも、男の人なんだ)
 おどけていても、優しくても――自身を危険にさらしてまで、自分を助けに来てくれた、頼りになる男の人なのだと。
 そんな今更な暁の実感を助長するように、足立は告げる。

「誰であろうと――この町でふざけたマネをしている奴が居るっていうなら、とっ捕まえて後悔させてやるだけだよ」

 不敵な、宣誓。

「お~……アダッチー、カックイ~!」
「……そう思うなら、その呼び方を改めてくれないかな、クマ君」
 はしゃぐクマの声にツッコむ時には、もうその不敵さは隠れてしまったけれど。
「――カッコいいですよ」
「へ!?――『アダッチー』が?……カッコいい?えぇ~?」
 暁が思わず呟いてしまった言葉を誤解して、眉を寄せる顔は情けなくも見えるけど。

(――カッコいいです、足立さんは)

 そっと、宝物に触れるような気持ちで、暁は声に出さずそう呟いた。

 * * *

(――本当、うんざり)
 はあ、と深く息をついて、早紀は逆さに伏せて置かれたボトルコンテナ――ビール瓶などの運搬に使用するプラスチックケースに、勢いよく腰を下ろした。
 場所は商店街の通りから、一本脇道に入ったところにある空き店舗だ。制服に埃がついて汚れるかもしれないけれど、構いやしなかった。
 かつては、早紀の家――小西酒店のお得意様であったこの店も、ジュネスの開店から間もなく潰れてしまった店舗の一つだ。
 ここの店主夫婦は夜逃げ同然で町を出て行ってしまったらしい。放り出された店舗は施錠もされておらず、早紀は一人になりたい時はここに来ることにしていた。
(始業式、早退なんかしなきゃよかった)
 たまたま山野アナの遺体を最初に発見してしまった、というだけで、散々な目に遭った。
 インタビューと称してマスコミに追いかけわされたり、その映像がテレビに流れたのを見た父親が激怒したり。
(なーにが『事件のせいで余計に客足が遠のいてるのに、その事件を吹聴するようなマネを』よ。私だって好きであんなの出たんじゃないっての)
 けれど、あまりにしつこいから。ちょっと話して解放してくれるならそれでいいと思ったのだ。
 なのに、そんな事情も聴いてくれないで、ただ一方的に怒鳴り散らす父。
 わかっている。あの男は、ようは自分のやることなすこと気に入らないのだ。
 朝からしつこい説教にうんざりして、学校に行くと家を飛び出したが、当然学校に行く気にもなれない。だから、人目につかないこの場所で、ただ何をするでもなく時間を潰していた。
 空き店舗が立ち並ぶこの通りは、朝の慌ただしい時刻であるにもかかわらず、静まり返っている。降りしきる雨音は、切れ間なく続いて、しだいに音として認識できなくなっていった。
 静寂に満ちたがらんとした店内は、廃墟を連想させる。

 ――滅びた世界に一人、取り残されたような奇妙な錯覚。

 その感覚に、早紀は口元を歪めた。笑っているのか、泣くのを堪えているのか、自分でもよくわからない。
 と――その錯覚を破るように、外から車のエンジン音が届いた。
 錯覚から覚めたことに、安堵と落胆を同時に感じ、早紀は再びため息をつき――

 そのため息を押し戻すように、背後から伸びた何者かの手が、強引にその口元を覆った。

 * * *

(足立さん、大丈夫かな……)
 暁のついた溜息は、続々と登校する生徒たちの喧騒にかき消される。
 二年二組の教室。自席に着いて、暁は自身の恩人を案じていた。
 足立がクマと犯人探しの約束を交わし、暁がそれに協力を申し出たその後。暁と足立は、クマによって堂島家のリビングのテレビから外へと出してもらえた。
 時計を見れば、時刻は午前3時半。まだ眠っている堂島父娘を起こさぬよう二階へ上がり、クマからの報せを連絡するために互いの携帯のアドレスを交換してから、それぞれの部屋へ戻って就寝した。
 暁は堂島父娘に異常を悟られぬよう、いつも通り6時に起き出したので、二時間余りしか寝ていない。しかし、それでも、せいぜい寝不足で体がだるい程度だ。
 だが、足立はそうもいかなかった。
 いつまで待っても起き出してこない足立に痺れを切らせ、堂島が起こしに行ったのだが、事情を知らない彼が血相を変えるほど、足立の顔色は目に見えて悪かった。
 ろくに枕から頭を上げられない状態にもかかわらず、足立は出勤する気だったらしい。堂島が休むよう一喝し、出勤ついでに足立を自宅まで車で送って行った。
 足立は一人暮らしだと以前に聞いていた。あの状態で、家に帰して大丈夫なのかと思ったが、堂島家に留めても、家人が出払ってしまう以上、どのみち一人になってしまう。ならば、落ち着ける自宅の方がいいだろう。
(――それに、看病に来てくれる人がいるかもしれないし)
 恋人とか、とそう思って――不意に浮かんだもやもやとした感覚に、暁は首を傾げた。
(……なんだろう?)
 彼の看病をしてくれる存在は、歓迎すべきものなのに、どうしてこんな気分になるのか。
 と、その思考を断ち切るように、ぷつっ、という小さな音が耳に届いた。
「……あれ?」
 はらりと結わいたおさげの片方が解ける。
「どしたの?暁」
「髪ゴムが……」
 暁の呟きが聞こえたのだろう。隣の席から、千枝が声をかけてくるのに、暁は困惑した声を返す。
 二つに分けて編んだ三つ編み。その片方を結わいていたゴムが切れ、髪がほどけてしまっていた。
「ありゃ、これは見事にぷっつりいってるねぇ」
 切れて落ちた髪ゴムを拾い上げて、千枝が感心したような声を漏らす。
「小学校の頃から使ってるから、もう寿命だったのかな……」
「って、長っ!物持ち良いにもほどがあるって」
 何気なく呟いた暁の言葉に、千枝は呆れと驚愕が入り混じった声を上げた。
「っていうか、何で三つ編み?神代さん、ずっとそれだよね?」
 つってもまだ三日目だけど、と背後から声がかかる。
「おわ!?びっくりした!――花村、いきなり割り込んでこないでよ!」
「ひでー……さっきからいたのに……」
 千枝の言葉に、陽介は凹んだ様子で机に突っ伏した。
 かと思えば、即座に復活して、暁へ再び先程の質問を繰り返す。
「……で、何故に三つ編み?」
「あちこち転校してると、中には結構校則が厳しいとこもあって……私の髪の色、地毛とはいっても目立つでしょう?だから、せめて髪型はきちんとしておくのが癖になっちゃったの」
「あー……どこの学校にも、モロキンみたいに難癖つけてくるのがいるわけね……」
 苦笑交じりの暁の説明に、千枝がどこか遠い目で呟く。
 確かに諸岡も、初対面で暁の髪色にツッコんできた。だが、きちんと説明すれば納得してくれたし、逆に『他の生徒に妙なことを言われるようなら相談なさい』とまで言ってくれた。
「……諸岡先生って、そんなに悪い先生じゃないと思うけど……」
「え!?暁、それ本気で言ってる!?」
「……神代さん、寛容さ半端ねぇ……」
 思わず入れたフォローに、千枝はぎょっと目を剥き、陽介は愕然と呟く。
 この温度差は何だろう、と暁は釈然としない思いで首を捻る。
 暁自身は知る由もない。転校時の紹介の際、諸岡は結構な暴言を暁へと発しており、それを暁自身が聞き流していたための温度差とは。
 まあ、その暴言を聞いていたら聞いていたで、諸岡の態度の差に首を傾げることになっていたのだろうが。
「おはよう――って、暁、髪どうしたの?」
 と、三人の間に漂う微妙な空気を打破する絶妙なタイミングで、雪子が登校してきた。彼女の席は暁の斜め前――千枝の前に当たる。
「あ、おはよう、雪子。――ちょっと、髪ゴムが切れちゃって……」
「あ、それで……うーん、体育のある日なら、持ってきてるから貸してあげられたんだけど……」
 残念ながら、今日は体育の授業はない。
「あたしも髪ゴムは持ってないし……」
「まあ、お前は結わくほどの長さがねぇしな……」
「……案外、花村持ってたりしない?」
「ねぇよ!何でよ!?どういう発想、それ!?」
 千枝と陽介が繰り広げる漫才に思わず笑いを零してから、暁はもう片方の三つ編みを自ら解いた。
「今日はもう下ろしちゃうよ。いつもと違う髪型も、たまにはいいしね」
 言いながら、鞄に入れてあった櫛で軽く髪を整える。
「おぉ~……っていうか、暁、こっちの方がいいんじゃん?」
 三つ編みが似合わないとは言わないけどさ、と千枝が笑えば、雪子も頷く。
「三つ編みしてたからかな。緩く波打ってて、なんだかどこかのお姫様みたい」
「あー、わかるかも!」
「え、そ、そう……」
 盛り上がる雪子と千枝に困惑し、やっぱり明日からもまたおさげに戻そうかと思う暁。
 と、妙に静かな陽介が気になって振り返れば、彼は何故だか目を見開いて硬直していた。
「……花村君?」
 思わず声をかければ、彼は我に返った様子で、慌ててまくし立てる。
「――え!?いや、別に何でもなくて髪解いた神代さんの後姿が小西先輩とちょっと似てて見とれたとかそういうのないから!ホントなんでもないから!」
「花村、本音だだ漏れてる」
 千枝のツッコミに、陽介は自分が何を口走ったのか気づいて、机の上に撃沈した。
「けど、言われて見れば、ちょっと似てるかも。暁の方がちょっと長いし、色も違うけど、波打ち方が良く似てる」
「……ん~……んん~……?」
 早紀と面識があるらしい雪子が陽介の感想に頷く横で、千枝が何やら考え込む風に唸る。
 両手の人差し指と親指で四角い枠を作り、その枠越しに暁をしげしげと眺め――
「……やっぱ似てる!」
「……もうやめて~……これ以上追撃しないで~……」
「違う!先輩にも似てるけど、そうじゃなくて!」
 呻く陽介の台詞に、千枝は頭を振り――
「昨日のマヨナカテレビ!あたしが見た子と似てるの!」
 その言葉に、暁ははっと息を呑む。同時に、陽介ががばりと身を起こした。
「――確かに……」
 千枝と同じように指で作ったフレーム越しにまじまじと暁を眺めてから、陽介は呆然とした声を漏らす。
「え……マヨナカテレビ……?」
「ほら、前に話したじゃん!雨の夜中に、ってやつ!昨日、うちら三人、それぞれ家で試す約束してたの!」
 昨日、約束した場に居合わせていなかった雪子へ、千枝が簡潔に事情を説明する。
「あ、あの運命の相手が映るっていう……?――え、じゃあ、千枝と花村君の運命の相手って暁……?」
「――違う」
 雪子の呆然とした呟きに、暁は頭を振る。
「私も見た……多分、二人が見たのと同じ映像」
 今更のように、暁は思い出す。
 『テレビの中に引きずり込まれる』という衝撃的な出来事。それを皮切りに立て続いた非常事態に、そもそものきっかけが頭から飛んでいた。
 思わず画面に手を伸ばした、そのきっかけは――
「あれは、私じゃない。小西先輩。――小西先輩が映ってたの」
 告げた瞬間、ひゅっ、と奇妙な音が耳に届く。――陽介が思い切り息を呑んだのだ。
「……言われて見れば……色はよくわかんなかったけど、髪の長さは肩くらいだったし……」
 呆然とした千枝の声。陽介に至っては、目を見開いて声もなく硬直していた。
「え、でも待って?それじゃあ、三人が三人とも、小西先輩が運命の人ってこと?」
「いや、花村だけならまだしも、あたしと暁もってなると本気で意味がわかんないし!」
 雪子が頭上にクエスチョンマークを浮かべて呟けば、千枝がぶんぶんと両手を振って否定する。
「……そもそも、マヨナカテレビの噂って、どこまでが本当なのかな」
 独りちた暁の言葉に、千枝と雪子が眉を寄せた時。
「ホームルーム始めるぞ!席に着けー!」
 チャイムと同時に教室に入って来た諸岡の声が響き、その話はそこでお開きになった。

 * * *

 足立透は夢を見る。
 いつかも来たことのある、蒼い空間の夢を。
「――また、お目にかかれましたな」
 ふふ、と楽しげに笑うのは、いつか見た異形の老紳士。
 今の足立にならわかる。これは夢で――同時に、ただの夢ではない。まさしく、夢と現実の狭間の出来事なのだと。
「みたいだね。……これで、『再起不能』の未来とやらは避けられたのかな?」
「そうですな……『復活』のきっかけを掴まれた、というところでしょうかな」
 言葉遊びのようなやり取り。常なら苛つくようなそれも、この老人相手であれば不思議と腹は立たなかった。それはきっと、意図的に気取って告げられたものではなく、自然体で紡がれた言葉であるからだろう。
「まだ確定じゃない訳ね……まあ、とりあえずそれはいいや。――それより」
 言いながら、足立は老人に向けていた視線を右手にずらす。その仕草だけで、イゴールは察したようだった。
「おお、これはご紹介が遅れましたな。こちらはマーガレット。私と同じく、ここの住人にございます」
「マーガレットと申します。以後、お見知りおきを」
 優雅に一礼したのは、先日は無人だった円卓の脇のソファに腰かけた人物。
 緩やかに波打つ金髪を頭の後ろでまとめた、二十代の半ばほどに見える女性。凹凸のはっきりした均整のとれた肢体を包むのは、この部屋に溶け込むような蒼い衣装。整いすぎたその白皙の美貌は、イゴールとは別の意味で人形めいて見えた。
 その紅く彩られた唇に微笑を浮かべ、マーガレットは告げる。
「ここは、何らかの形で“契約”を果たされた方のみが訪れる部屋――貴方は、運命の転機となるきっかけを掴みとり、内なる声の導く定めを選び取った」
 そこで一度言葉を切り、どこか楽しそうにその金の瞳を細めて、告げた。
「そして、見事――“力”を覚醒されたのです」
「――これをお持ちなさい」
 マーガレットの言葉を継ぐタイミングで、イゴールが口を開いた。
 その言葉と同時に、足立の眼前に、淡い輝きを放つ蒼い鍵が現れる。
 おそるおそる指先で触れてみれば、浮かんでいたそれは、あっさりと足立の手の中へと落ちて納まった。
「“契約者の鍵”――これで、貴方はこのベルベットルームのお客人だ」
 ふふ、と楽しげにイゴールは笑う。
 肘を突き、両手を組んで、その上に顎を乗せる。こちらへと身を乗り出したその姿勢で、彼は告げた。
「――貴方は”力”を磨くべき運命にあり、必ずや、私共の手助けが必要となるでしょう」
 ん?と足立は思わず顔をしかめる。
 ある意味、職業病なのかもしれないが――これは、無茶な押し売りのフラグにしか聞こえない。
「貴方が支払うべき対価は一つ……」
 ほらきた、と続く言葉に身構える。
 しかし、告げられた“対価”は意外なものだった。
「“契約”に従い、ご自身の選択に相応の責任を持っていただくことです」
「……はい?」
 どんな無理難題を吹っかけられるかと――最悪、おとぎ話にある悪魔との契約のように魂でもとられるのではと思っていた足立は、思わず呆けた声を漏らした。
「……それだけでいいの?」
 思わず確認すれば、イゴールは迷いなく頷く。
 ――“契約”に従い、自身の選択に責任を持つ。
 それは、誰に言われなくとも、守らなければならないことだろう。社会人なら、なおのこと。守らなければ、それ相応のペナルティを受ける。そのペナルティが法律によるものか対人関係によるものかはケースバイケースだが。
 自暴自棄だったころの足立であれば、そんなペナルティなど構いやしなかっただろうが、守りたいものが出来た以上、そうはいかない。今の足立にとって、イゴールに言われるまでもなく遵守すべき事柄だった。
 しかし、そこで問題に気付く。――肝心の“契約”とやらが、何なのかわからない。
 以前ここを訪れた際、まだ資格がなかったということは、それ以降のことだろう。
 しかし、最近の記憶を思い返しても、“契約”と称される行為になど、とんと心当たりが――

 ――犯人捜し、手伝ってくれるクマ!?

 ――そういうこと。

 不意に脳裏によみがえったクマとのやり取りに、思わず目を瞬いた。
「……まさか、あの口約束?」
「――“言霊”は、魂を縛る最も古い呪術の一つ。“契約”と称するに相応しいやり取りです」
 思わず呟いた足立の言葉に、マーガレットが律儀に答える。
「……『“契約”に従い、自分の選択に責任を持て』、ね――なるほど」
 イゴール達に提示された『対価』――その正しい重さを悟らされた気がして、足立は苦く笑った。
 クマに告げたあの言葉は、決して軽い気持ちで告げたものではなかった。――暁や堂島、菜々子たちが生きるこの町で、ふざけたマネをする輩を見逃すつもりはない。正真正銘、本気の言葉だ。
 しかし、己の言葉が“言霊”として、“契約”の一種と見なされるのなら――自分の言葉は、どんな些細なものでも軽いものにはなり得ない。
 選択も同様だろう。日常におけるほんの小さな決断が、巡り巡って大きな波を呼ぶかもしれない。
 イゴールらが何をどう手助けしてくれるかはわからないが――なるほど、これは十分、『対価』と称するに相応しい重さだった。
「よく、わかった。――肝に銘じとく」
「結構」
 ため息まじりに告げた足立の言葉に、イゴールが満足げに頷いた。
 そして、一度指を組み替えてから、語り出す。
「貴方が手に入れられた“ペルソナ”……それは、貴方が貴方の外側の事物に向き合った時に現れる人格」
 告げられた言葉は、言われるまでもなく足立自身が良くわかっていたこと。
 あの“もう一人の自分”はそもそも、自分の“外”に対応するために、自ら生み出したもの。それは、まやかしでも、偽りでもなく、確かに自身の一部だ。
 いや、最初は偽りだった。――だが、他者から与えられた安らぎと温かさによって血肉を持ち、真となって、今や自身の一部になったのだ。
 そして――その事実を受け入れたことで、足立はあの“力”を手に入れた。
「様々な困難と相対するため自らを鎧う、“覚悟の仮面”――とでも申しましょうか」
 イゴールの言葉に、足立は納得する。
 “アレ”が真となったのは、『大切なものを守りたい』と願う心が――決意があったから。
 故にこそ、その呼び方はしっくりと足立の胸に収まった。
 イゴールの言葉は、さらに続く。
「しかも、貴方の持つ“ペルソナ能力”は、他者とは異なる特別なもの――私も、初めて見るものです」
「……そうなの?」
 そこで初めて、足立は言葉を挟んだ。思わず首を傾げる。
「例外はありますが、基本的に一人の心から生まれ出るペルソナは一つ。――ペルソナが鎧ならば、これはそうおかしなことではないでしょう。一人で鎧を複数纏うというのは、難儀なことです」
「まあ、鎧を重ねて着こんでも動きにくいだけだろうけどねぇ。……でも、一度に纏うんじゃなくて使い分けるんならありじゃない?」
「ええ、まったくもってその通り。それを出来るのが、『例外』に当たる方々です」
 何気なく入れた合いの手に頷きを返されて、足立は思わず目を瞬いた。
「稀にいる“ワイルド”と称されるペルソナ能力者が、まさにそれなのです。『何者でもないが故に、何者にもなれる』稀有な存在。彼らは、己の中に存在するその無数の可能性をペルソナと成す。そして、それを場合によって使い分けることができるのです」
「……想像つかないな……どんな奴なのか、いっそお目にかかりたいね」
 まあ、そんな超人に会うことはないだろうが――そう思って呟いた足立だったが、イゴールはその言葉に意味深に笑った。
「ふふ――そうですな。間もなく、そうなるやも知れません」
「……へ?」
 呆けた声を出す足立を無視する形で、イゴールは「話が逸れましたな」と言葉を続ける。
「貴方は、“ワイルド”でこそないものの、複数のペルソナを有する素質を秘めておられる。――そうですな、“ワイルド万能札”にちなんで、“ドロー札引き”とでも称しましょうか」
 ドロー、と告げられた呼称を、足立は口の中で転がす。――ワイルドに比べると、響き的に間が抜けているように感じられて、思わず眉が寄った。
 しかし、今重要なのはネーミングよりも、その能力の内容の方だ。文句を呑み込んで、イゴールの言葉に耳を傾ける。
「貴方は己が何者かを知り、その己を受け入れている。その上で、外の事物――他者と向き合うことで、新たな自分を生み出すことができる。出会いによって、己の内から新たな可能性を“引き出す”ことができるのです」
 その言葉に、足立は目を見開いた。
 邂逅した“もう一人の自分”――あれもまさに、『出会いによって引き出された可能性』だ。堂島や菜々子、暁との出会いによって確立された、『新しい自分』。
「そして、貴方はそれを自分の意志で使い分けることができる。――ワイルドとは型が違いますが、『己の内に複数のペルソナを有し、使い分ける』という点では同じです」
 数的にワイルドには叶わないでしょうが、と告げるイゴールに、足立は思わず顔をしかめた。――無数の可能性を秘めた手合いと比べるな。
 足立の不機嫌な顔など気にした風もなく、イゴールは更に説明を続けた。
「ペルソナ能力とは“心”を御するもの。“心”とは、“絆”によって満ちるもの。――他者と関わり、絆を育み、貴方だけの“コミュニティ”を築かれるが宜しい」
 それによって、貴方は新たな可能性を己が内に見出すでしょう――そう言われて、足立は軽く片眉を跳ね上げる。
「“自治体コミュニティ”?――ああ、この場合は“交流コミュニティ”か」
 一瞬、単語の意味を汲み損ねた。――“絆”がどうのというなら、おそらくこっちだろう。
 足立が言葉の意味を咀嚼するのを待ってから、イゴールは説明を続けた。
「“コミュニティ”によって得られた新たな『可能性』は、そのまま貴方の“力”――ペルソナとなるでしょう」
「……つまり、新しいペルソナが欲しいなら、社交的になれ、人と積極的に関われ――と、そういうこと?」
「そういうことですな」
 足立が言葉の意味を正しく汲んだのを見て、イゴールは満足げに頷き、それから苦言のように言葉を添える。
「もちろん、上っ面だけの付き合いではなりませんが。“心”を通わすことで、貴方の『可能性』は引き出されるのです」
「……案外、ハードル高いなぁ」
 今でこそ暁達のような例外がいるが、足立は基本的に他者に対して無関心だ。『“心”を通わす』というのはなかなかに難しい。
「……ああ、そうか。つまり僕にとって、暁ちゃんや堂島さんみたいな例外を新たに作ることが、“コミュニティ”を築くことに当たるのか」
「そういうことです」
 思わず独り言ちれば、マーガレットが頷き、更に言葉を続けた。
「“コミュニティ”は単にペルソナを得るためだけのものではございません。ひいてはそれは、お客様を真実の光で灯す、輝かしい道標ともなってゆくでしょう」
「――貴方の持つ“ドロー”の力……一体何処いずこへ向かうことになるのか……ご一緒に旅をしてまいりましょう」
 ふふ、とイゴールは楽しげに笑う。
 と、その異形の笑みが、不意にぐにゃりと歪んだ。――覚えのある酩酊感。
「では、再び見えます時まで、ごきげんよう――」
 しゃがれたその声ごと――五感が、白く塗りつぶされた。


 覚醒した足立の意識がまず知覚したのは、ぐぅぅ~、という己の腹の虫が鳴く声だった。
 何とも締まらない覚醒に、がしがしと頭を掻きながら身を起こす。
 時計を見れば、時刻は午後の三時半。自宅に着いたのが午前八時。そのままベッドに倒れ込んだので、五時間は眠れた計算になる。
「そりゃ、腹も減るか……」
 堂島家で朝食は出されたが、ろくに喉を通らなかった。つまり、昨日の夕食以降、まともに食事をとっていないことになる。
 しかし、空腹感を別にすれば、心身ともに不調は感じられなかった。痛むところはないし、倦怠感もない。
「とりあえず、明日からは出勤できそうだねぇ……っとぉ」
 言いながら一つ伸びをして、ベッドから降りる。とりあえず、腹ごしらえをしようとキッチンに向かう。とはいっても、あるのはインスタント食品だけだが。
 とりあえず適当に選んだカップ麺にお湯を注ぎ、待ち時間の間に暁と堂島にメールを打つことにする。
 まずは堂島に。『title:ご心配おかけしました』『本文:薬飲んで寝たらすっかり良くなりました。忙しい時に休んですみません。明日からまた頑張ります!』――殆ど迷うことなく文面を組み立てて打ち込み、送信。
 続いて暁に。『心配かけてごめんね』と題を打ち込んでから、本文を考え考え打ち込んでいく。
 自身の不調に責任を感じているだろう暁の心的負担を出来るだけ取り除けるよう、それでいて、万一他人に見られても不審がられない文面。それを両立できるよう、頭を悩ませる。
 暁個人の携帯に送るメールに、そこまで人目を気にする必要があるのか、と我ながら思うが――暁の同世代は一番遠慮のない年頃だ。友人の携帯のメールを、脇から覗き込むくらいのことをする輩がいてもおかしくない。
 “テレビの中”がどうのとか、“寝不足だろうけど大丈夫?”などという、言い訳が難しかったり、誤解されかねない文面は避けておくのが無難だろう。
『そっちはもう学校終わったころかな?僕は、寝たらすっかり良くなったよ。寧ろ、胸のつかえが取れて、前よりすっきりした感じ。“自分”と向き合ういい機会だったよ』
 とりあえず自分で納得できる文面を構成した時には、既に麺の待ち時間はとっくに過ぎていた。
「っと、やべっ」
 メールを送信し終えた携帯を放り出し、慌てて箸を手に取る。
 若干、伸び気味な麺を啜っていると、暁から返信が来た。
 『良かったです』という題で始まり、『はい、学校はもう終わりました。体調が戻られたようで、安心しました。くれぐれも、無理はなさらないでくださいね』と、暁らしい律儀で丁寧な本文。
 彼女の声が聞こえた気がして、足立が相好を崩していると、更にもう一通メールが来た。
 堂島からの返信。『Re:』とだけある題の下に、不器用な本文が綴られている。
 『そうか 良かった 明日から またこき使うから 覚悟しろ』――句読点の打ち方がわからないほどメールに縁遠いのに、わざわざきちんと返信してくれる堂島の誠実さに、笑みがこぼれた。
「……今度、メールの打ち方教えてあげるかなぁ」
 堂島から何かを教わることはあっても、こちらから教える機会というのはそうそうないだろう。なかなかに楽しい考えに思えた。
 短くも暖かいメールのやり取りに顔をにやけさせながら、すっかり伸びてしまった麺を腹に収める。
 そうして、人心地ついて、再びベッドに横になる。ごろりと寝返りを打った拍子に、部屋の隅に置かれたテレビが視界に入った。
「……ペルソナ、か」
 最初、この部屋で自身が得た特異な“力”に気づいた時、自身に芽生えた黒い衝動。
 どうやって“遊ぼう”かと、己の愉悦のために“力”を使うことしか考えていなかった。
 それが、どうだ。動機は独善的なものだが――結果的に、人助けのためにその“力”を使おうとしている。
「――ああ、そうか……これが、『再起不能』から『復活』への転換だったのか……」
 気づいて、苦笑する。――きっと、あの衝動のまま振舞っていれば、自分は堕ちるとこまで堕ちていたのだろう。まさしく、『再起不能』なまでに。
 その転換のきっかけは――紛れもなく、彼女だ。
「……暁ちゃんは、僕の恩人だな」
 きっと、彼女の方は、こちらを恩人と呼ぶのだろうけれど。

 ――互いに互いを『恩人』だと思い合う関係。それはそれで、対等でいいじゃないか。

 そんな惚気たことを考えつつ、足立は瞼を閉じ、うとうとと微睡に落ち――

 その優しい微睡は、けたたましい着信音に蹴破られた。
「――ッ!?」
 びくりと身体を竦ませて、足立は瞼を開く。反射的に時計を見ると、一時間近くうとうとしていたのだとわかった。
 それから鳴り続けている携帯を手に取れば、液晶に表示されているのは『神代 暁』の文字。
 微睡を破られた不快感などどこかへ吹っ飛んだ。即座に着信を繋ぐ。
「――もしもし、暁ちゃん?どうしたの?」
 意識せずとも柔らかくなった声音で紡いだ言葉に、返ってきたのは知らない声だった。
『あ、あの、足立さんですか!?』
「――誰?」
 我ながら、酷い温度差だと思う勢いで声が冷え込む。受話器の向こうで、息を呑む音がした。
『――ああああ、あ、あの、あたし、暁の友達でっ!里中千枝と申しますっ!け、けして怪しい者じゃ……っ!』
「……暁ちゃんの友達?」
 告げられた自己紹介に、声のトーンが常のものまで戻る。――確かに、通話相手の声は、暁と同世代の少女のものだ。
 足立は、若干気を緩め――その隙を突くように、通話相手は爆弾を放ってきた。

『す、すぐに来てほしいんですっ!じゃないと、暁、殺されちゃう……ッ!』

 ――世界が凍る、音がした。

 * * *

「――え……?」
 ふ、と夢から覚めるように意識を取り戻して、早紀は呆然と声をもらした。
 一面の、白。
 それが霧だと気付いたのは、数度瞬きした後だった。
「え……どこ……?」
 倒れていた身体を起こしながら、呆然と呟く。
 自分の居場所も、どうしてこんなところにいるのかもわからず、混乱する。
(たしか……学校サボって、空き店舗で暇つぶしてて……?)
 そこで記憶が途切れている。
 利かない視界と、不自然に途切れた記憶に不安が膨れ上がり、早紀は思わず悲鳴じみた声を上げた。

「……だれか……誰かいないの!?」

 その声に応えるように――しかし、彼女の望まぬ形で、声は響いた。

 ――『何度言ったらわかるんだ、早紀!』

「――え?」

 見知らぬ場所で、唐突に響いた、あまりにも耳慣れた声に早紀は面食らう。

 ――『お前が近所からどういわれているか知らない訳じゃないだろう!金か!?それとも男か!?』

 どこからともなく響いてくる、それは――

 ――『よりにもよって、あんな店でバイトなんかしやがって!』

 紛れもなく、早紀の父親の――罵声だった。

「なに……何なの、これ……」
 混乱し、不安げに辺りを見渡す早紀に、またも、耳慣れた声が届いた。

『ほんと、やんなっちゃうよね。毎日毎日同じこと怒鳴られてさ』

 先ほどまでとは違い、はっきりと正面から響いてくるとわかる声。
 その声に――霧の向こうから現れたその姿に――早紀は愕然と眼を見開く。

「――わ、たし……?」

 そう、そこに現れたその人影は、まるで、鏡から抜け出してきたかのように――早紀と寸分違わぬ容姿をしていた。

 たった一つ。その、金に輝く、妖しい瞳を覗いて――




[29302] 6章.怨嗟の姫、始まりの女神
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/12/01 20:46
「……アダッチー、来ないクマねー」
 ごろごろと隠れ家の床で寝そべりながら、クマは一人愚痴をこぼす。
 “こちら”へ人を放り込む犯人を一緒に探すと申し出てくれた“外”の人間。
 彼と、彼と一緒にいた優しい女の子を“外”に帰した後、彼に頼まれた用事を済ませようと、クマは“こちら”へ最初に人が落ちて来た場所へと赴いた。
 だが、そこにシャドウにやられてしまったはずの“外”の人間の身体はなかった。
 どういうことだろう、と考える暇もなく、新たに“外”の気配が“こちら”に入って来たのが感じられた。
 一瞬、足立が犯人探しのために来たのかとも思ったが、気配も入って来た場所も全く違う。
 あまりにもほいほいこちらへと放り込まれてくる気配にいささか呆れつつ、クマはその足で足立への合図を出しに行った。
 しかし、合図を出してからしばらく、その場で足立を待っていたのだが、一向に来てくれない。しかも、待ってるうちにシャドウが近づいてくる気配がしたので、クマは慌てて自身の隠れ家まで逃げ戻ってきたのだ。
 霧が晴れない限り、シャドウは暴れない――そうわかっていても、できれば傍にはいたくないものだ。不思議とこの隠れ家にはシャドウは寄り付かない。だから、クマはここを住処にしていた。
「合図をくれっていうから出したのに~。どういうことクマか!」
 ぷんすかとむくれるクマは知りようもない。
 クマが報せを出した時、“外”は午前9時過ぎ。既に暁はおろか堂島家の住人全員が家から出払ってしまっており、合図に気づきようがないのだということに。
 しかし、足立への怒りとは別に、クマの心を占める焦りがあった。

 ――霧が晴れるニオイが近い。

 霧が晴れたら、また“外”の人間は消えてしまう。被害者から話を訊けなければ、犯人は捕まえられないと足立は言っていなかったか。
 むむむ、とクマは呻き、悩む。これはもう、一人で先に向かうべきだろうか――そう思った時。
 クマのいる場所の“真上”に、“外”からの気配が複数現れた。
「――へっ?」
 思わずクマが間の抜けた声を漏らした次の瞬間、

「――っぐぇえええええッ!?」

 上から降ってきた人影の一つが、思い切りクマを押しつぶした。

 * * *

「うわ、デカ!」
 軽く畳一畳分はありそうな巨大な液晶テレビに、千枝が驚きの声を上げた。値札を覗き込んで大きく身をのけぞらせる。
「つか、高っ!誰が買うのよ、こんなの」
「さぁ……金持ちなんじゃん?」
 千枝の呆れたような感想に、横に並んだ陽介がどうでもよさそうな調子で返す。
「っていうか、神代さん。何でそんな距離取ってんの」
「――え?」
 くるりとこちらを振り返って問う陽介に、一人離れて後ろに立つ暁は、内心ぎくりとなった。
 ジュネスの家電売り場、そのテレビコーナー。
 放課後、マヨナカテレビの話から、『テレビと言えば』と千枝が家のテレビを買い替える予定を語り、ジュネス店長令息がすかさずジュネスの家電コーナーの見学を提案。
 その場に居合わせたことで誘われた暁も同行したのだが――彼女ははや、ここに来たことを後悔していた。
 ずらりと並んだテレビはどれも、“暁の体型ならたやすく潜り抜けられてしまう”ような大型のものばかりで。
 何かの拍子にあっさりと“あちら”に転げてしまいそうで、暁は思わず壁際に並ぶ商品から距離を取っていた。
「え、えと……これだけ大きいと、離れてみないと画面が良く見えないなぁ、と思って」
「あー、確かにねー。端が視野からはみ出るわ」
「ってことは、相当広い部屋じゃないとダメってことだよな。やっぱ金持ち専用だな、コレ」
 暁の言い訳に二人は納得したように頷き、再び巨大なテレビ画面をまじまじ見つめる。
 うまく言い逃れできてほっと息をついた暁の耳が、きゅっ、という奇妙な音を背後に拾った。
 それが、リノリウムの床をスニーカーの靴底が蹴った音だと気付く前に。

「――ッ……!?」

 悲鳴すらも出せないほどの強い衝撃が、背中に叩きつけられた。
 背から肺に抜けたダメージに、一瞬呼吸さえままならなくなる。
 自身の身体を支えられず、背後からの衝撃のまま、前へと身体が押し出される。
「――今何か変ぁぁぁああああっ!?」
「どうわっ!?」
 前に立っていた二人を巻き込んで、暁の身体は巨大モニタの中へと転げ落ちた。


 短い浮遊感と墜落感の後――覚悟していた衝撃は、来なかった。
 落ち先に、ちょうどクッションになるものが、文字通り“転がって”いたからなのだが――
「ク、クマ君!?」
 自身が下敷きにしているものが、恩人――いや、恩熊ともいうべき存在であると気付いて、暁は慌ててそこから飛びのいた。
「う、うごごご……」
 苦しげな呻きではあるものの、声が返ってきたことに、暁はひとまず安堵し――
「――ぐ、ぐぉおぉ……」
「……いっつつ……ここ、どこ……?」
 陽介の苦悶の声と、呆然とした千枝の声に、はっとなった。
「――二人とも、大丈夫!?」
 霧越しにぼやけた二人を視界に収め、慌てて安否を確認する。
「若干、ケツが割れた……」
「元々だろが!」
 陽介の返答に、千枝がツッコむ。通常運転な二人の様子にほっと胸をなで下ろして――すぐに落ち込んだ。
「……ごめん、二人とも……巻き込んじゃった……」
「ま、巻き込んだ……?」
「待って待って、全然状況が把握できないんだけど!?」
 暁の謝罪に、寧ろ混乱した様子を見せる二人。
「そ、そうだよね、ごめんなさい。……でも、どう説明すればいいのか……」
 言葉を探す暁に、千枝が首を傾げる。
「つーか、さっき、何が起きたの?何かドスンっていうか、ドカッっていうか、そんな鈍い音がしたと思ったら、暁がこっちに倒れて来て……」
「あ、えっと……私にもよくわからないんだけど……後ろから誰かに突き飛ばされたんだと思う……」
 突き飛ばされた、というより、全力で体当たりされたような衝撃だったが。
「――突き飛ばされたって誰に?」
「……わからない……振り返る余裕もなかったから」
 俄かに硬い顔になって問う陽介に、暁は首を振るしかない。
「里中は?お前、振り返ったろ?誰か見てないか?」
「へ!?……い、いや、あたしに見えたのは、こっちに倒れてきた暁だけで……」
 倒れてきた暁の身体の影になって、その後ろは見えなかったらしい。
「――つまり、そのアキラちゃんを突き飛ばした奴が、“こっち”に人を放り込んでる犯人クマね!」
「うぉおう!?」
「だ、誰!?」
 突如響いたクマの声に、陽介と千枝が身を竦ませる。
「クマ君!ごめんね、大丈夫?」
「アダッチーだったら許さんけどアキラちゃんならオッケークマ!」
 なんともらしいことを言いながら、クマは勢いをつけてぴょこんと器用に身を起こす。
「わ、動いた!」
「な、何だお前!?」
 ぬいぐるみか何かにしか見えないクマが動いたことに、千枝と陽介が腰を引く。暁は慌てて両者の間に割って入った。
「大丈夫、クマ君は私の恩人なの」
「おおう……!嬉しいこと言ってくれるクマねぇ」
 暁の言葉に身をくねらせるクマを見てか、二人の身体から緊張が抜ける。
「……確かに、悪いもんには見えねぇな……」
「つーか、良く見たら結構可愛いじゃん」
 どうやら落ち着いたらしい二人に暁は安堵して、改めて事態を説明することにした。
 信じられないと思うだろうけど、と前置きして、告げる。

「ここは――テレビの中の世界なの」

 暁は二人に、昨夜自分の身に起こった不思議な出来事と、“こちら”で知ったことを洗いざらい語った。ただ、足立と“もう一人の足立”に関しては、彼のプライベートに関わるので、足立という叔父の同僚が助けに来てくれたと話すにとどめたが。
「……テレビの中の異世界とか……マジかよ……」
「っていうか!霧が晴れると殺されるってヤバいじゃん!」
 非常識な事態に頭を抱える陽介に、我が身に迫った危険に悲鳴を上げる千枝。
「うむー、そうクマね。結構霧が晴れる気配近いし、早く出た方がいいかも」
「マジで!?早く言えよ!何呑気に構えてんの、お前!?」
 緊張感のない調子で告げるクマに、陽介が裏返った声を出す。
「それはいいんだけど……アキラちゃん、アダッチーに合図出したんだけど、連絡取ってくれたクマか?」
「――え……今、こっちに私たち以外にも人がいるの!?」
 合図、という言葉に事態を把握して、暁は思わず蒼褪めた。
 昨夜――というか、今朝未明に自分たちが帰還してから一日に満たぬ間に、自分たちを含めて二件も“放り込み事件”が起きるなど、あまりの頻度に怖気が走った。
「あー、やっぱ合図に気づいてなかったんクマね……待っても待っても来ないから、おかしいとは思ったクマよ……」
「ご、ごめんね……」
 しょげるクマに、暁は自己嫌悪に陥る。
 寄り道などせず、まっすぐ帰るべきだった。そうすれば、クマの合図に気づけたし、自分の巻き添えで千枝と陽介がこちらに来ることもなかったのに。
「そ、そんな落ち込むことないクマよ!今出口出すから、アダッチーに知らせてほしいクマ」
「うん……」
 慌ててわたわたと手を振るクマに、暁は頷きつつも――逡巡する。
 朝の足立の顔色は、本当に酷かった。メールには『寝たら良くなった』とはあったが――果たして、病み上がりの彼を呼びつけていいものだろうか?
「……ねぇ、クマ君。私じゃ駄目かな?」
 気が付けば、暁はそう口走っていた。クマがきょとんと首を傾げる。
「へ?」
「クマ君だと誤解されて“こっち”に放り込まれた人と話す人が難しい。だから足立さんが一緒に行くって話でしょう?――足立さんの代わりに、私じゃ駄目かな?」
「え、アキラちゃんが一緒に!?」
 飛び上がる勢いでクマは驚く。
「ちょ、暁!?」
「お、おいおい!ここ、もうすぐヤバいことになるんだろ!?」
 千枝と陽介も慌てた声を上げるが、あえて暁は笑顔を浮かべて見せる。
「大丈夫だよ、『霧が晴れたら危ない』ってことは、逆に言えば『霧が晴れなければ大丈夫』ってことでしょう?それまでには“外”に出してもらうから」
「まあ、確かに……普通、霧が晴れない限り、シャドウは人を襲わないけど……」
 戸惑いつつも暁の意見を肯定するクマの言葉に、千枝と陽介は顔を見合わせ――
「なら、俺も一緒に行く」
「あ、あたしだって!」
 え!?と、今度は暁が目を剥く番だった。
「女の子一人、こんな得体の知れないとこ置いてくなんて、男の沽券にかかわるっつーの!」
「男だ女だとかそういう問題じゃないでしょ!友達一人でこんなとこにおいてけないよ!」
「花村君……千枝……」
 思わず胸が詰まったように、暁の声がかすれる。
「つーわけで……クマだっけ?案内よろしくな!」
「な、なんでキミが仕切るクマか!っていうか、キミは誰ぞ!?」
 ウィンクしながら告げる陽介に、クマはテンパった声を上げる。
「ああ、そうか。自己紹介もまだだったな。俺は花村陽介」
「あ、あたしは里中千枝!」
 陽介に続いて千枝も名乗り――二人は左右からクマを挟むと、がしりとその腕をホールドする。
「……お、およ?」
「さーて、行くぜクマ吉!」
「ゴーゴーゴー!」
 その様は、まるで黒服に連行されるリトルグレイ。
「ア、アキラちゃ~~~ん!助けて~~~~!」
「――ま、待って!」
 呆然としていた暁は、クマの悲鳴に我に返り、慌てて二人と一匹の後を追って駆け出した。

 * * *

 霧に淀む世界に、二人だけ。――ある意味では、一人きり。
「……あんた……だれ……?」
 早紀は呆然と眼の前の相手へと問いかけた。
 妖しく金に輝く瞳以外、自身と寸分変わらぬ姿をした目の前の“何か”へ。
 “ソレ”はその言葉に笑う。嘲るように、見下すように。
『私?私はあんた。あんたは私。見ればわかるでしょ?』
「ふざけないで!」
 からかうように返された言葉に、早紀は叫ぶ。
『ふざけないで?――それはこっちのセリフよ』
 と、“ソレ”の顔から笑みが消えた。
『いつまで見ない気でいるの?自分の本音をさぁ』
「ほん、ね……?」
 告げられた言葉に、早紀は“ソレ”が現れた時にいっていた言葉を思い出す。
『ほんと、うんざり。毎日毎日同じことばっか怒鳴られて』
 そんな早紀の心の内を呼んだように、“ソレ”はその言葉を再び告げ――さらに続ける。
『家が大変だから、自分のお金は自分で稼ごうとしてるんじゃない。それに文句があるならもっと客を呼び込む努力しろってのよ、糞親父。ぐちゃぐちゃ煩い近所の連中も鬱陶しいのよ。私がどこでバイトしようとあんたたちに迷惑かかんないでしょう?』
 苛立たしげに吐き捨てられる、言葉。
『どいつもこいつも何かっていえば二言目には『ジュネスのせいで』『ジュネスなんかに』ってさぁ。馬鹿じゃないの?そんなにジュネスが嫌ならジュネス行くんじゃないわよ。知ってんのよ、近所の連中、皆ジュネスで買い物してるじゃない!』
 それは、確かに早紀が胸の内にずっと溜め込んできた言葉不満で――

『自分たちで商店街から離れてってるくせに、ジュネスのせいにするな!私に煩く構うなぁ!』

 叫ぶ、目の前の“自分”に、早紀は言うべき言葉を見失った。
 絶句して立ち尽くす早紀に、目の前の“自分”は更に言葉を続ける。
『でもね……確かにジュネスが出来なければ、こんな面倒なことにならなかったの。だから、私はジュネスも大っ嫌い』
 金色の瞳には、全てを恨むかのような暗い光。
『店長の息子だからちょっと優しくしてやったら、勘違いして盛り上がって何かと構ってくるあいつも超ウザい』
「――!……それ、花ちゃんのこと……?」
 告げられたその台詞に、早紀は息を吹き返したように声を上げる。
『そうよ、『ジュネスの息子』の花ちゃん。私のあとを犬みたいについてくる花ちゃん。私の挨拶一つで馬鹿みたいに喜ぶ花ちゃん!』
 だんだんと、だんだんと――
 その声に狂気を帯び、怖気が走るような醜い笑みをその顔に張り付けて、“自分”が笑う。
『私を想うなら、私にやたら構わないでよ!あんたが私に声をかける度、笑いかける度、私が周りになんて言われると思ってんの!?『実家を見捨てて、うまいことジュネスの息子に取り入って』――そう、汚いものでも見るように言われるのよ!』
 最後はあらん限りの呪詛を吐き捨てるように叫んだ“自分”に、早紀はゆるゆると首を振る。
「……ちが……わたし……そんな……花ちゃんのこと……違う、花ちゃんは……!」
『――花ちゃんは悪くない?』
 言葉に詰まった早紀の言葉を拾うように、もう一人の“自分”は嗤う。
『そうよね、花ちゃんは悪くない。本当に悪いのは私。ウザいって思ってるくせに突き放すこともできない私なの』
 うっとりと、恋する乙女のような笑みを浮かべながら――その金の瞳に、隠しようのない嘲りを乗せて。
『だって、花ちゃんは私に優しくしてくれる。いじめても冷たくしても、笑って冗談だよって言ったら許してくれるの。私が酷いこと言っても、花ちゃんは私に酷いこと言わないの』
 嬉しそうに嬉しそうに――最愛の恋人を語るような口調でそう告げて――すっとその面から表情を消した。

『バッカみたい。利用されてるとも知らないでさ』

「――違うッ!」

 気が付けば――早紀は、そう叫んでいた。

 家への不満も、商店街への辟易も、ジュネスへの嫌気も、確かに早紀の中にあることだ。
 それは否定しない。否定する気もない。
 けれど――彼への侮辱。それだけは――

「私は花ちゃんのこと、ウザいなんて思ってない!花ちゃんは……花ちゃんは、あんたなんかに馬鹿にされていい子じゃない!」
 髪を振り乱すようにして否定の言葉を繰り返す早紀を、もう一人の“早紀”は酷く冷めた目で睥睨して、嗤う。
『何言ってんの?私はあんた、あんたは私。私の言葉は、全部あんたが腹の中で思ってることよ』
「――ふざけないで!」

 屈託なく笑って、純粋に自分を慕ってくれている優しい彼に。

 自分が、そんな醜い感情を向けていることなど――絶対に認められない!

「――あんたなんか――私じゃないッ!」

 そう、叫んだ瞬間――

『――あはははははッ!』

 狂ったような“自分”の哄笑と共に、ぐにゃり、と視界が歪み――

『そう――これで、私はあんたじゃないのよ』

 意識が落ちる直前、聞こえたのは――

『じゃあね、馬鹿女』

 嘲るような、“自分”の別れの声だった。

 * * *

「んーむ、この辺のはずクマよー」
「おい……ここ……」
「あれ……?」
「……なんか、見たことあるような……?」
 もう一人の遭難者の下へとクマの案内で向かっていた陽介たちは、急に趣きの変わった景色に目を瞬く。
 出発直後、「これを使うクマ」とクマがくれた眼鏡。セルフレームにスクウェアレンズ、というのは共通しているが、陽介のものはフレームがオレンジ、千枝は黄色で、更に彼女のものはレンズの角が丸みを帯びた女性的なデザインだった。
 暁も既に貰っていたようで、鞄から取り出した黒のハーフフレームは彼女によく似合っていた。クマの見立ての良さに感心する。
 まあ、それはともかく。その眼鏡をかけると、何故だか霧が見通せるようになった。クリアになった“こちら”の世界の風景は、これまでまともな建築物の姿など見当たらないものだったのだが、ここは、まるで――
「……うちの町の商店街じゃねぇか」
「ショーテンガイ?なにそれ、おいしいの?」
 陽介の言葉に、クマが聞いたこともない風に首を傾げた。それから辺りを見回して、ぷんすかと言わんばかりに憤慨する。
「もう、またクマか!あっちから人が来る度にわけわかんない場所が増えて……何なんクマねー、コレ」
「あ……私と足立さんの時に出て来た、叔父さんの家と同じような感じかな」
「……ってことは、こっちに来た人に関連する場所ができるってこと?」
 暁の言葉に千枝が何気なく呟き、その内容に陽介は眉をしかめた。
 ちょうど視界に入った商店。良く知る人物の名前を冠した酒屋。
「……コニシ酒店……」
 硬い声で呟いた、その時――

「――あんたなんか――私じゃないッ!」

 耳慣れた声が、血を吐くような響きで叫ぶのが聞こえた。

「――小西先輩ッ!?」
 完全に反射だった。弾かれたように、声のした方――コニシ酒店の店内に駆け出す。
 背後から制止の声が上がったが、そんなものに構っている余裕はなかった。

『――あはははははッ!』

 店内に駆け込むのと同時に、聞こえた甲高い哄笑。途端、吹き抜けた強風に、思わず両腕で顔を庇い――

『そう――これで、私はあんたじゃないのよ』

 その声と同時に、風が止む。顔の前に翳していた腕を下げて、開いた視界にまず見えたのは――異形。

 軽く人一人を飲み込んでしまえそうな大蛇。しかし、何より怖気を誘うのは、その頭部に据えられているのが、美しく波打つ髪を持った人間の女性の頭であることだった。
 どこか見覚えのある面立ちを醜悪に歪めた怪女が、睨み据えるその先を目で追い、陽介は目を見開く。

『じゃあね、馬鹿女』

 言葉と同時に、怪物が視線の先へと向けて、その尾から炎を放ち――

「――ぐぁあッ!」
 背を焼く灼熱感に、潰れたカエルのような悲鳴が陽介の喉を突いて出た。
 今にも途切れそうな意識を歯を食いしばって保つと、自身の身体で庇った相手の安否を確かめる。
 彼女――小西早紀は、意識こそ失っているものの、怪我を負った様子はない。
(――ああ……良かった……)
 安堵と共に――今度こそ、陽介の意識はぷつりと途切れた。

 * * *

「――花村君ッ!?」
 陽介を追って店内に駆け込んだ暁が見たのは、異形の放った炎の先へと自ら飛び込んでいく彼の姿だった。
「ダメ、暁ッ!」
 背後からかかる千枝の制止の声を振り切って、怪物の目の前を横切って陽介の元に駆け寄る。
「……酷い……!」
 悲鳴じみた声が喉から漏れた。
 陽介の容態は、かなり酷かった。意識はなし。制服の背中部分は完全に焼け落ち、その下から赤く爛れた皮膚が覗いている。
 火傷で命を落とすことだってある。これだけの範囲と傷の深さなら、確実に危険領域だ。すぐ適切な応急処置をして病院に連れて行かなければ。暁はそう判断する。
 問題なのは――目の前の異形がそれを許してくれるか、甚だ怪しい、ということだ。
『花ちゃん!花ちゃんじゃないの!』
 意識を失い、倒れ伏す陽介を見て、異形は酷く興奮した声を上げる。
『体を張って庇ってくれるほど、私のことを愛してくれてるなんて!』
「……え……?」
 歓喜と、露骨な嘲りが込められた異形の叫びに、暁は眉を寄せる。
 そうして、初めて気がついた。陽介がその身体の下に、一人の女性を庇っていたことに。
「……小西先輩……」
 呆然と呟いて、暁は改めて異形を――その頭部を、振り仰ぐ。
 そこだけ、人間の女性の姿を持つ頭。その面立ちは――確かに早紀の面影を宿していた。
「アキラちゃん、逃げるクマ!そのシャドウは本体から拒絶されて暴走してる!こうなったら霧があっても関係ないクマ!」
 悲鳴のような、クマの声。――その言葉で、理解した。
 この異形は、早紀から切り捨てられて生まれたシャドウなのだと。
 己を受け入れてくれない早紀にんげんを憎む――悲しい異形なのだと。
『でもね、花ちゃん……私は、あんたのそういうところがウザいのよ』
 早紀のシャドウは、歓喜に満ちた声から一変して、吐き捨てるように憎々しげな呟きを漏らす。
 陽介の前に屈みこむ暁のことなど眼中にない様子で――いや、実際に眼中に無いのだろう。“彼女”はただ、意識のない陽介に向けて言葉を紡ぐ。

 怨嗟と慕情が複雑に入り混じった、哀しい声音で。

『――そんなに“私”が好きなら、一緒に死んで!』

 告げられる、最後通牒。
 炎を掲げた蛇の尾が振り上げられる。

 ――このままでは、“早紀”が陽介を殺してしまう。

(――そんなの、ダメ!)
 そんな、救われない結末は受け入れられない。強く、そう思った時。

『――我は汝、汝は我』

 その“声”が、聞こえた。

『汝、救いを求める者よ――今こそ、我が名を発せよ!』

 その“声”が呼び水になったように、脳裏に浮かび上がる“言霊”。

「――お願い、“イズモ”!」

 叫びと共に――己の身体から溢れた蒼い炎が、辺りを照らし出した。

 青く照らされる店内に、異形の蛇と向き合って現れたのは、一人の女性の影。
 身を包む白い衣は、昔語りの天女を思わせるもの。背に広がる緑の黒髪。両耳の上の髪留めは、額を横切る細い鎖で繋がっており、その鎖から面を覆う薄布が垂れ下がっている。
 その両の腕で身体の前に作られた輪の中で、白と黒の勾玉が互いの尾を追ってくるくると円を描いていた。

『――なんなのよ、あんた……!』
 自身と対峙する形で現れた天女に、異形がたじろいだ声を上げる。
『妾はイズモ――始まりの母、終わりを定めし者』
 声ならぬ声で天女は答え、その隠された面で天を仰いだ。
 その仕草に応えるように、腕の中から、白い勾玉が浮かび上がり、眩い光を放つ。
 同時に――
「――ぇいっ!」
 異形の横手に回った暁は、全身の力を込めて、壁際の棚を異形へと押し倒した。
『――な!?』
 すっかり目の前の天女に気を取られていた異形は、棚と、崩れてきたその中身に押し潰される。
『……こ、このぉ……!』
 棚の下で足掻く異形。この調子ではわずかな時間稼ぎにしかならないだろう。
 だが――今は、そのわずかな時間が万金に値する。
「――千枝!クマ君!」
 店の出口付近に佇む千枝とクマの元に慌ただしく駆け寄り、千枝へと自身の携帯を押し付けた。
「千枝、クマ君に外に出してもらって、足立さんを呼んで!番号は携帯に入ってるから!」
 結局足立に頼るしかない自分に歯噛みしつつ、暁は早口に告げる。
「あ、暁も一緒に逃げようよ!二人がかりなら花村も……!」
 陽介の影にいる早紀の存在に気づいていないのだろう。そう告げる千枝に、暁は首を振るしかなかった。
「花村君だけじゃなくて、もう一人、意識のない人がいる。私たちだけじゃ運べない」
「で、でも……あの、女神っぽいのに時間稼いでもらえば――」
「――無理なの。イズモは戦えない。癒すか、守るだけ」
 俯いて暁は唇を噛む。――これこそが、足立を頼るしかない理由。
 自身のペルソナ――イズモ。呼び出した瞬間に悟ったその能力は、癒しか守護に関わるものだけ。
「イズモと私が出来るだけ時間を稼ぐ。――だから、その間に足立さんを呼んできて」
 絶句する千枝たちに、暁はそう頼むしかない。
「――わかったクマ!チエちゃん、急ぐクマよ!」
 先に決心を固めたのは、意外にもクマの方だった。
「このままじゃ皆やられちゃう。急いでアダッチーを呼んでくるしかないクマよ!」
「……わかった……暁、絶対死んじゃだめだからね!」
 泣きそうな声でそう告げると、千枝はクマと一緒に駆け出した。
 それを見送って、暁は陽介の元に駆け寄る。
 イズモは白い勾玉から癒しの光を繰り返し発していた。それによって、彼の火傷は完治し、その衣服まで復元する。
「良かった……」
 ほっと息を吐いたのも束の間、鈍い音と共に、異形を抑えていた棚が吹き飛んだ。
『よくも……舐めたマネをぉ……!』
 煮えたぎった声を漏らして、怪女は身を起こす。
「――ラクカジャ」
 静かに、暁はイズモに守護の術を命じる。再び白い勾玉が輝き、その光が暁を包み込んだ。
 棚に入っていたのだろうか。吹き飛び、足元に転げてきたバールを手にとり、身を守る様に構えた。
「あなたの狙いは後ろの二人なんでしょうけど――しばらくは私に付き合ってもらいます」
 背に陽介たちを庇い、暁は覚悟を口にする。
 ――ひたすら、一方的な攻撃に耐え続ける、覚悟を。

 * * *

『暁が一人、意識のない人間を二人庇いながら、シャドウと戦っている』
 千枝と名乗った暁の友人の話は、混乱していてわかりにくかったが――要約すればそういうものだった。
 その意味を悟った途端、足立は家を飛び出す。
 身支度、なんて概念は頭から消えていた。携帯だけを握りしめ、着の身着のまま、素足にスニーカーを履いて駆け出す。寝間着代わりに来ていたのがシンプルな黒ジャージで幸いだった、というところか。
 マイカーなんて贅沢なものは持っていない。駐輪場から自分の自転車を引っ張り出して跨った。
 向かうのは、千枝がいるというジュネスのテレビ売り場。そこから繋がる“向こう側”に、クマもいるという。
 ジュネスの入口真ん前に直接乗り付け、スタンドを立てる時間も惜しんでその場に放り出す。ホールに駆け込み、エレベーターを待たずに階段を駆け上がる。
 駆け込んだ家電売り場は、客どころか店員の姿すら見当たらない。その中で、ぽつんと目立つ、泣きそうな顔で大型テレビの前に立ったショートカットの少女。
「――君がっ……里中千枝っ……!?」
「は、はい!」
 ぜぇはぁと荒げた息の合間に呼びかければ、彼女はかくかくと頷く。
「あ、足立さん、ですよね?」
 問い返されて、無言で頷く。声に出したのは別のこと。
「――この、テレビ?」
「え……?――あ、は、はい!そうです!」
 端的すぎて一瞬意味を汲み損ねたらしいが、すぐに千枝は頷く。
 それがわかれば十分だ。あとは向こうにいるクマに案内してもらえばいい。
 半ば千枝を押しのけるように脇に追いやると、足立はそのテレビの中へと飛び込んだ。


「――アダッチー!」
 二度目だったことで、何とか無事に着地した足立を出迎えたのは、泣きそうなクマの声。
 クマの姿が霧に霞んでいることに気づき、足立は一つ舌打ちする。
「しまった……眼鏡……」
「忘れて来たクマか!?……しょうがないクマねぇ……」
 言いつつも、すかさずクマはこの間と同じデザインの眼鏡を差し出してきた。
「……用意がいいな」
「今用意したんだクマ」
 思わず呟いた足立に、クマは何でもないことのように答える。――そう言えば、前にくれた眼鏡の時も、殆ど待つ間もなく差し出されていた気がする。
「……どうやってんの?」
「気にしたら負けクマ!」
 思わず訊ねたが、クマに答える気はないらしい。
 まあ、助かることには変わりない。そんな場合でもないし、この件に関する思考は中断して、とりあえず新たにもらった眼鏡をかけた。
 クマとの何気ないやり取りも、全くの無駄ではなかったようだ。その間に、荒れていた呼吸が整った。
「――急ごう、案内して」
 言いながら、イザナギを呼び出す。
 自身の二倍はあるその怪人に、刃を収めさせると、開いた両手で自分とクマを抱えさせた。
 いきなり抱えられて驚いたのか、クマが素っ頓狂な声を出す。
「お、おわぁ!?」
「この方が早い。――どっち?」
「あ、あっち――ぃいいいいいッ!?」
 返事を訊くが早いか、途端に猛スピードで駆け出したイザナギに、クマの声は悲鳴に変わった。
 足立の意志に応えるイザナギは、その悲鳴を完全に黙殺して、ただただ駆ける。
 かけがえのない、愛しい女性の元へと。

 ――喪って、たまるものか。

 あるのは、その想いだけ。

 * * *

(――そろそろ、限界……?)
 眼鏡越しでも霞み始めてきた視界に、暁の脳裏にそんな思いが浮かぶ。
 はっきり言えば、イズモと目の前のシャドウの相性は最悪だった。
 イズモは火炎を苦手としていた。尾で殴られる分には殆どダメージもないのだが、シャドウが繰り出す火炎攻撃はガード越しでも酷く堪える。そして、イズモが受けたダメージはそのまま暁のダメージとなる。
 しかし攻撃手段がない上、背後に陽介たちを庇っている以上、防護の術ラクカジャで自身の耐久力を上げ、ひたすら防御に専念するしか術がない。蓄積するダメージが無視できない域に達したら、癒しの術ディアで回復する。その繰り返し。
 だが、そのスキルも無限に使えるわけではない。使えば使うほど、精神的に消耗していく。
 しかも――
『うふふふ……あなたは殴るより火炎の方が効くみたいね。そうとわかれば火あぶりにしてあげるわ!』
 パターンを繰り返すうちに、シャドウにイズモの弱点を悟られてしまった。
 これまでは、火炎攻撃と尾の一撃物理攻撃が交互だったので回復が間に合っていたが、立て続けに火炎を食らっては、おそらく回復する余裕もできないだろう。
 いや、そもそもそれ以前に――
「――く……」
 ぐらり、と視界が揺れる。――もはや、スキルを使う精神力さえつきかけていた。
『――じゃあね。さようなら、邪魔者さん!』
 嗜虐の喜びを湛えた声と共に、シャドウの尾から火炎が放たれ――

 イズモに迫るその火炎を、割って入った黒い剣士が受け止めた。

「――暁ちゃんッ!」

 悲鳴のような呼びかけと共に、崩れ落ちた身体を支えられる。
「……足立さん……」
 霞む視界に辛うじて見えた彼の顔は、酷く蒼褪めて見えた。
(ああ、やっぱり、具合、良くないんだ)
 切れ切れの思考に、申し訳なさがこみ上げる。
「……ごめ、なさ……病み上がり、なのに……」
「どうでもいいよ、そんなこと!」
 謝れば、彼は強く頭を振る。
(――ああ、やっぱり、優しいな……)
 そんな場合じゃないのに嬉しくなって、自然と笑みが浮かんだ。
「――遅くなってごめん。あとは休んでて」
 優しいその声に、暁は意識を手放した。

 * * *

『――次から次へと……!』
 ままならない展開に、小西早紀から生まれたシャドウは歯噛みする。
 本体を殺そうとすれば陽介が、陽介を殺そうとすれば銀髪の女が邪魔をしてきた。しかも、彼女は奇妙な天女を呼び出し、自分の攻撃に耐え続けた。
 しかし、それももう限界だろうというところまで追いつめたところで――また、新たな邪魔者。
 ぼさぼさの黒髪に、洒落っ気も何もない黒ジャージ。そんな見るからに冴えない男が、黒衣の剣士を携えて現れたのだ。
『誰も彼も、私の邪魔ばっかり……!ふざけないでよッ!』
 ヒステリックな声を叩きつけるも、目の前の剣士はおろか、取るに足らなさそうな男さえ、怯えさせることができない。
 それどころか――

「――黙れ」

 たった、一言。
 男が発したその一言に、凄まじいまでの恐れを覚えた。
「……ふざけるなと言いたいのは、こっちの方だ」
 地の底から響くような、低い低い声音。
 その男の腕に抱かれているのは、自分がなぶったことでぼろぼろになった少女の身体。
 男はそっと少女を横たわらせると、彼女を庇うように一歩前に出る。
 男は緩やかに顔を上げ――その視線が、こちらへと向けられた。

 ――殺意を煮詰めたような、昏く鋭い眼差し。

 じり、と我知らずシャドウは後退る。
 ぼさぼさ頭の冴えない男に、異形の怪女は、完全に気圧されていた。
『――なんなんだ……何なんだ、お前はぁッ!』
 殆ど悲鳴に等しい叫びと共に、シャドウは火炎を放つ。
 男は、自身へと真っ直ぐに飛んでくるその火炎を、剣士に庇わせることも、避けることもせず。
 あろうことか――自らの左手で薙ぎ払った。
『――な……』
 予想外の行動に、怪女は目を見開く。
 男は痛みを感じていないかのように眉一つ動かさず、ただ、こちらを見据えて言うのだ。

「――黙れって、言っただろ」

 ――衝撃。

『――がはッ……!』

 横手から突き出された剣士の刃。それが、異形の喉を刺し貫いていた。

 黒衣の剣士はそのまま刃を横手に振りぬく。刃先に振りまわされる形で、巨大な蛇の体躯が引きずられ――遠心力で、刃から抜けて吹き飛ばされた。
『……が、ぁああ……』
 壁に叩きつけられ、苦痛に呻く異形に、声がかかる。
「……ホントなら、お前が彼女に与えた苦痛を十倍返しにしてやりたいとこなんだけどな」
 今は彼女の手当が優先だから、と優しい声で呟かれる。

「――楽に死なせてやるよ、化物」

 その声と同時に――
 黒衣の男が振り下ろした刃から放たれた雷光が、シャドウの脳天を貫いた。

 * * *

「……終わったか」
 イザナギの雷に、蛇女が黒い煙となって消えたのを見届け、足立は一つ息を吐いた。
「やったクマね、アダッチー!」
 店の入り口付近に隠れていたクマが歓声を上げながら駆け寄ってくる。
 と、こちらをみるなり、ぎょっと身をのけぞらせた。
「アダッチー!腕!」
 言われて自身の腕を見下ろせば、袖が焼け落ち、手首から肘近くまでが、派手に火ぶくれを起こしている。手の甲に至っては、皮膚の表面が軽く爛れていた。
「……ああ、さっきの……」
「……痛くないクマか……?」
 恐る恐る訊ねてくるクマに、足立は苦笑するしかない。
「あー……うん。見た目ほど酷くないのかな?」
 正直に言えば、言われるまで火傷自体に気づいていなかった。痛覚が麻痺する程、完全にブチギレていたらしい。
 と、緩んできた気を再び引き締めるように、がらりとがれきが崩れるような物音を耳が拾った。
「――!」
 音源を振り返る。先ほどまで大蛇がいたその場所に、がれきを踏みしめて、一人の少女が立っていた。
 見覚えのあるその顔。確か、山野真由美の第一発見者の――
「……小西早紀?」
「知ってる子クマか?――でも、あれはシャドウの方クマ。本物はこっち」
 思わず呟けば、クマがそう告げて、後ろを指し示す。
 暁の更に後ろ。知らない男子高校生に抱えられた形で、小西早紀が倒れ伏していた。
「さっきまで、あのシャドウは本物に否定されて暴走してた。でも、アダッチーにコテンパンにされて弱ったことで、暴走が治まったクマよ」
「……イザナギになる前の“もう一人の僕”と、同じようなものか……」
 完全に切り捨てられたわけじゃない。でも、受け入れられてない。――その結果、分離して具現化した、“もう一人の自分”。
「また暴れ出したりしないの?」
「改めて否定されない限りは平気だと思うクマ。……それよりも、意志あるシャドウの強い気配につられて、他のシャドウが寄ってきてる方がヤバい感じ」
 霧が晴れる気配も近いし、と怯え気味に呟くクマの言葉に、足立はこの場に長居は無用と判断した。
「わかった。とりあえずさっさと退散しよう」
 言いながら、小西早紀と、彼女を抱えていた男子に怪我がないかざっと確かめ、無事を確認してからイザナギに担がせる。
 そうして、暁を自ら抱えようとして――改めて、その痛ましい姿に唇を噛んだ。
 制服はあちこちが焼け焦げ、破れ、年頃の少女には耐えがたいだろうあられもない様になっている。だが、破れ目から覗く皮膚は例外なく赤く腫れ上がり、下心が顔を出す余地など欠片も存在しなかった。
 致命傷になるような傷こそ見当たらないが、傷ついていない箇所を探す方が困難な状態だ。
 気休めにしかならないが、ジャージの上着を脱ぎ、彼女に羽織らせた。出来るだけ、彼女の負担にならないよう、そっと抱き上げる。――イザナギに治癒能力があればと、思わずないものねだりな思考がよぎった。
「じゃあ、アダッチー、とりあえずクマの隠れ家まで戻るクマよ」
 行きのように『イザナギジェットコースター』に乗らずに済んだ安堵でか、クマが意気揚々と先導し始める。
 その後追って歩き出しながら、足立がちらりと振り返れば、“もう一人の早紀”は悲しそうな眼差しで、こちらをただ見送っていた――



――――――――――――――
≪ペルソナ解説≫
以下は、この話に登場したオリジナルペルソナの紹介です。
殆どゲーム的なデータで、読まなくてもストーリー的に支障はないので、興味ない人は読み飛ばしちゃってくれていいです。

名前:イザナギ   持ち主:足立※
初期レベル:1   アルカナ:愚者
耐性:雷 弱点:風 無効:闇

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
ジオ(-) スラッシュ(-) ラクカジャ(-)
ラクンダ(3) タルカジャ(5)
(ここまでは原作イザナギと同じ)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 デカジャ(8)
Rank2 両腕落とし(14)
Rank3 マハジオ(17)
Rank4 電光石火(21)
Rank5 素早さの心得(26) 
Rank6 チャージ(30)
Rank7 パワースラッシュ(34)
Rank8 マハジオンガ(38)
Rank9 利剣乱舞(41)
Rank10 他アルカナと違い、進化がない代わりに以下の8スキルが習得スキルに追加される
真・疾風見切り(44) 電撃無効(48)
五月雨斬り(52) マハジオダイン(56)
マハスクカオート(60) 刹那五月雨斬り(64)
電撃ハイブースタ(70) ブレイブザッパー(74)

【設定】
原作主人公の初期ペルソナと同じ名と由来を持つ、足立のペルソナ。
初期能力は同じだが、足立(ドロー能力者)版イザナギの方が、長く付き合える仕様になっている。(ワイルドと比べてペルソナの数が少ない分、伸び代が大きい)
外見的モチーフは明治時代の警官の詰襟制服。『大切なものを守る』という足立の心理が、失くしていた『警察への理想』という形で具現化した。


名前:イズモ   持ち主:暁
初期レベル:1   アルカナ:愚者
耐性:物理 弱点:火 無効:光、闇

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
ディア(-) ラクカジャ(-) パトラ(-)
タルンダ(3) 赤の壁(5) トラフーリ(7)

【設定】
暁の初期ペルソナ。
髪飾りから下がる薄布で面を隠し、天女を思わせる衣を纏う女神。白と黒の勾玉を持つ。
能力的に早々に合体素材化するかと思われる。ワイルド初期ペルソナの哀しき定め。
しかし、魔力と耐久力のステータスが高く、初期状態で即死系が無効なので、うまくペルソナ合体で良いスキルを継承できれば、それなりに使い勝手のいいペルソナになるかもしれない。
由来に関しては後々本編で出すつもりなので、ここでは割愛。


<おまけ>
ちなみに、小西先輩のシャドウのモチーフは清姫。
日本の怨霊の中ではわりとメジャーなお嬢さんです。多分、ググれば出る。
小西先輩とは大分キャラが違うんですが、何となくビジュアルイメージがしっくりきたので。
早紀シャドウの攻撃パターンは、怨嗟の炎(火炎攻撃・小)→薙ぎ払い(物理攻撃・小)→アタックの繰り返し。
暁は怨嗟の炎をガードでやり過ごし、薙ぎ払いかアタックのターンでディアやラクカジャを使用して持ちこたえていました。



[29302] 7章.役者達は絆を結ぶ
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/12/02 21:16
 クマの『隠れ家』とやらは、テレビ局のスタジオを思わせる空間だった。
 高く伸びる柱。その間を結ぶ鉄橋。そこから下がる幾つものスポットライト。鎮座するテレビカメラ。
 それらが囲う中心――その床には、円に沿って放射線状に描かれた、何人ものの人間が様々な姿勢で倒れ伏すシルエット。
「……悪趣味だな」
「ほい?何が?」
 つい事件現場の白線を連想し、吐き捨てた足立に、クマが首を傾げた。――実際、彼にはこの絵が何を意味するかも解っていないのだろう。
 説明する気力もなく、「何でもない」とだけ答えて、足立は暁を床に下ろす。その際、件のシルエットの上を避けたのは、何となく縁起が悪く感じられたからか。
 イザナギもそれに倣うように担いでいた二人を下ろし、そのまま宙に溶けるように姿を消した。
「――ん……」
 と、そのタイミングで、床に横たわらせた暁が小さく呻く。
「――暁ちゃん!?」
「アキラちゃん!」
「……くま、くん……あ、だち、さん?」
 傍らに膝を突き、クマと共にその顔を覗きこんで呼びかけた足立に、うっすらと瞼を開いた暁が掠れた声を返す。
 暁はしばし、状況を把握できない様子で視線を彷徨わせていたが、ややあって思い出したように呟く。
「――あ……そっか……私……」
 言いながら、身を起こそうとする暁の肩を、足立は抱くようにして支える。
「もう大丈夫。君が守ってた二人も無事だから、安心して」
 そう告げれば、暁の表情が安堵したように緩んだ。しかし、すぐにその表情が曇る。
「どうしたの?傷が痛む?」
 致命傷こそないが、暁は傷だらけだ。思わずそう訊ねた足立に、暁は力なく首を振る。
「ごめんなさい……足立さん、病み上がりなのに、呼びつけて……」
 告げられた謝罪に、絶句する。――そういえば、意識を失う直前にも、彼女はそんなことを言っていた。
 ――ここに来るまでの道中、クマから事のあらましは聞いていた。
 発端が、何者かによって友人たちと共に“こちら”へ落とされてきた暁が、もう一人の被害者である早紀の“説得”を自ら名乗り出たことであるとも。
 だが、慎重な性格の暁が、霧が晴れない間は安全だと思っていたにしろ、ペルソナ使いである足立を抜きに“こちら”に留まるような無茶を何故したのか、ずっと疑問だった。
 その疑問の答えを見つけた気がして、足立は震える声を紡ぐ。
「……まさか、僕に連絡せずに“被害者”のところに行ったのって……それで……?」
 暁は答えず、僅かに目を伏せる。――その仕草が、答えになっていた。
 ――彼女は、病み上がりである自分に気を遣って、無茶な行動に出たのだ。
「――何考えてんの!下手したら死んでたんだぞ!」
 かっと頭に血が上り、気づけばそんな怒声が足立の口をついて出ていた。
 暁が目を見開いてびくりと震える。その様を見て、足立の頭に上っていた血が、上った時と同じ勢いで引いた。
 暁を怒鳴る、などという行動をとった自分に狼狽えながら、慌てて謝罪する。
「ご、ごめん!……元はと言えば、僕が不甲斐ないから、こんなことになったのに……」
「……いえ、足立さんの言う通りです。ごめんなさい」
 肩を縮め、泣きそうな顔で暁が謝った。
 その肩が悲しくて、足立は思わずその肩を抱く手に力を込める。
 震える声が、漏れた。
「もういいよ。――でも、二度とこんなことしないで。僕に気を遣って、一人で突っ走るようなことはしないで」
 ――結果として、暁の無茶のおかげで早紀は助かったと言えるのだろう。
 暁たちが駆けつけた時点でギリギリだったのだから、足立に連絡を取り、来るのを待っていたらタイムオーバーだった。
 だが、それでも。
 早紀が犠牲になっていたとしても、彼女がこれほどぼろぼろに傷ついた姿を、見たくなかった。
 どうしようもなく自分勝手な思想。――そうなれば、きっと彼女の心は深く傷ついただろうと想像するのは容易いのに、そう願わずにはいられないのだ。
 そうまでして、彼女を喪いたくないと願う、醜い自分。
 なのに――

「――はい」

 そう頷いて、彼女は――

「次からは、勝手に動く前に、ちゃんと足立さんに連絡します」

 醜い自分に、微笑んでくれるのだ。

≪我は汝……汝は我≫

 その微笑みを見た足立の脳裏に、声ならぬ声が響く。

≪汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者との絆に、“女帝”のペルソナを見出さん≫

 脳裏に浮かびあがる、一枚のカードのイメージ。
 描かれているのは、王冠を頂き、翼を広げる女性のシルエット。
 そのカードは光の粒子となって解けると、再び集って新たな姿を成す。

『――私は娘娘(ニャンニャン)。頑張るから、そばにおいてね?』

 そう告げる、薄紅色の漢装に身を包んだ、おだんご頭の少女。

 ――ペルソナ、“ニャンニャン”。

 その能力を悟った足立は、早速“彼女”を呼び出した。
「頼む――ニャンニャン!」
無問題(モーマンタイ)。治療は任せて』
 掌に現れたカードを握り潰すのと同時に、現れるおだんご娘。
 ニャンニャンが長い袖を翻して腕を掲げると、淡い輝きが暁を包む。
 ディア――対象を癒す術だ。一回の効果はそれほどでもないが、繰り返すうちに、彼女の身体から傷が消えていき――最終的には衣服まで修復された。
 それを見届けてから、残った精神力で、自分の腕も癒してもらう。完全には治癒できず、やや引き攣ったような痕が残ってしまったが、痛みは消えたので問題なしとする。――これ以上は精神力がきつい。
「……今のは……?」
 治療の間、終始きょとんとしていた暁が、ニャンニャンが消えたのを契機に口を開く。
「僕の二つ目のペルソナ――ニャンニャンって言うらしい。イザナギと違って治癒に長けてるみたい」
 君との絆で生まれたものだ、とはさすがに口にはしない。――ドン引かれそうなので。
「……足立さんもワイルドなんですか?」
「――えっ?」
 驚いたように告げられた暁の言葉に、足立の方が驚いた。
「暁ちゃん、なんでワイルドなんて知ってるの!?」
「え、えっと……気を失ってる間に、ベルベットルームっていうところに行ってて――って、この言い方だと意味がわからないですよね。えーっと……」
「……いや、大丈夫、わかる。僕も夢で行ったことあるから」
 そう返しつつも、暁の先程の言葉を反芻して、頭を抱えた。
(『足立さん“も”』ってことは――暁ちゃん、ワイルドなのか……)
 イゴールのあの意味深な笑い方はこういうことか。――案外悪趣味な爺だ、と足立の中で若干イゴールの人物像に修正が加わった。
「……僕はワイルドじゃないよ。イゴールは、ドローって呼んでた」
「あ、それ、聞きました。まだ前例が一人しかいない、ある意味ワイルドより希少な能力って……足立さんだったんですね」
 すごい、と暁の目が輝く。足立からすれば、『無限の可能性』とやらを秘めた暁の方がよっぽどすごいと思うのだが。
 と――
「……二人とも、クマそっちのけで良くわからん話ばっかり……ひどいクマ~……」
 よよよよ、と泣く声に、足立はすっかり忘れていたクマの存在を思い出した。
「あ、ごめん。忘れてた」
「剛速球ストレートッ!アダッチーヒドすぎるぅっ!」
 ぎゃーぎゃーと騒ぐクマ。その声にか、その横に寝かされていた男子が呻き声を上げる。
「――う……あれ、俺……?」
「気づいた?……えーと、陽介君?」
 クマから聞いた名前を記憶から引っ張り出して訊ねる。
「神代さん……と、誰……?」
「うわ、命の恩人に対して酷い言いぐさ――って、無理もないか。僕は足立透。刑事だよ。暁ちゃんの叔父さんの相棒やらせてもらってます」
 寝ぼけたような陽介の言葉に、冗談めかして答えれば、彼はやっと目を覚ましたように目を見開く。
「――そうだ、先輩……先輩は!?」
「無事だよ。ほら、そっち」
 がばりと身を起こす陽介に、早紀が寝ている方を顎でしゃくって指し示す。
「良かった……」
 陽介は未だ気を失ったままの彼女の顔を覗きこみ、安堵の息を吐いた。
「君は大分動けるみたいだね。悪いけど、事の顛末は後でね。そろそろ戻らないと、“外”で待ってる千枝ちゃんが可哀そうだし」
「――あ、そっか、千枝……」
 足立の言葉に、暁もはっとしたように呟く。
 正直にいえば足立も彼女の存在を今まで忘れていたのだが、“こちら”の状況も知りようもない“外”で延々待たせておくのは、さすがに本気で可哀そうだった。
「クマ君、頼むね」
「ほいさ!任せてクマ!」
 勢い良く頷いてから、クマはぽんぽんと片足で床を蹴った。
 と、その場に現れる背の高いシルエット。
「て、テレビ……?」
 三段重ねになったブラウン管テレビの塔に、陽介が面食らったような声を漏らす。
 既に経験済みの足立と暁は、覚えのあるそのリアクションに苦笑するしかない。
「これをくぐれば帰れるんだよ。――悪いけど、陽介君、先に行ってくれる?」
「え!?俺!?」
 足立の言葉に、陽介が身をのけぞらせる。
「小西さん、まだ意識ないからさ。こっちから抱えて出すから、“外”で受け止めてほしいんだよ」
「あ、そ、そっか……わかりました!」
 早紀の名前を出せば、先程のビビった様子はどこへやら、陽介は迷いなくテレビに身体を突っこんだ。
(……わかりやすいなぁ……)
 その一途さとわかりやすさは、いっそ見ていてすがすがしい。
 ちゃらちゃらした外見から気に食わないガキかと思ったが、話してみればなかなか好感が持てる相手だった。
 何より、ポイントが高いのは――
(……そんだけ入れ込んだ相手が他にいるなら、暁ちゃんに変な気は起こさないだろうしね)
 そんな風に考える自分も、十分にわかりやすい――そう思って、足立は思わず苦笑した。

 * * *

 ――小西早紀が、意識不明の状態で病院に搬送された。

 その報せが堂島の元に届いたのは、署を出る直前の午後五時過ぎのことだった。
 その報せ自体にも驚いたが、それ以上に堂島を驚かせたのはその件の通報者だった。
 自分の姪御と、今朝体調不良で自宅に送り届けたはずの部下。
 何でも、暁が友人たちとジュネスに遊びに行ったところ、人気のない展示コーナーの隅で倒れる小西早紀を発見し、混乱した暁がとりあえず足立に連絡したらしい。
 堂島としては、混乱して110番の発想が吹っ飛んでいたにしろ、何故叔父である自分ではなく足立に連絡したんだ、と思わずにはいられない。どうも、携帯のアドレス帳を開いて最初に出てきた大人へととりあえず連絡したらしいが。
 まあ、暁は優しい子だし、知り合いが倒れていれば混乱もするだろう。混乱した状態での行動に理屈を求めるのも酷だ。だから、それはいい。――だが、足立。お前はいつの間にウチの姪とアドレスを交換する仲になったのだ。
 刑事としては信頼しているが、一人の男としては油断ならない若い相棒に、堂島は物申してやりたい気分になった。状況が状況なので、さすがに自重したが。
 これが、年頃の娘を持った父親の心境か――自分に姪を預けた義兄の心境が良くわかった気がする。菜々子が年頃になったら、更にこんな心痛の種が増えるのか。
 ――まあ、そんな私情はともかく。
 現状は刑事としても頭の痛いものだった。
 小西早紀に外傷はなく、近くに不審者の姿も見当たらなかったとの報告から、体調不良か何かで、事件性はないかと思われたのだが――

 ――学校をサボって商店街の空き店舗で暇をつぶしていたはずなのに、気づいたらこの病院だった。その間の記憶はない。

 夜半に意識を取り戻した小西早紀の証言から、俄かに何者かによる拉致である可能性が浮上した。
 とすれば、当然浮かび上がる疑問。

 ――犯人は何の目的で小西早紀を拉致し、何故その後、その身柄をジュネスに放置したのか。

 小西早紀の証言自体が虚偽である可能性もないではないが、証言した際のあの蒼褪めた怯え顔が演技であるとは、堂島には思えなかった。
 小西早紀が女性であることから、考えたくはないが、暴行目的という線も否定できない。だが、発見された際、彼女の衣服に乱れはなかったそうで、医師の視診でもそういった形跡は見当たらないとのことだった。
 詳しい検査は後日とのことだが、この可能性は低いと見ていい。
 しかし、となればなおさら犯人の目的が見えなくなってくる。
 山野真由美の遺体の第一発見者である彼女がこのタイミングで狙われた。ならば、当然、山野殺害に関連した動機か。しかし、既に事件は世間知るところになっている上、早紀は無傷で放置されていた。そもそも口封じにならないし、その意志も見えない。
 犯人像はおろか、その動機も手口も見えてこないとなると、もはやどう手を付けていいのかもわからない――

「――ふえっくしっ!」

 思考の袋小路に入りかけた堂島の意識を、間の抜けたくしゃみが現実に引き戻した。
「す、すみません……」
 気まずそうに、くしゃみした当人――足立が、テーブルの向かいで首を竦める。
 場所は、病院の談話室。早紀の聴取を終えた後、二人はここに移動したのだ。
「四月も半ばだっていうのに、雨のせいですかね?どうにも冷えて……」
 鼻を啜りつつ言う若い相棒。――確かに、昨日今日と雨が降り続き、春の陽気はどこかに追いやられてしまっている。
 病み上がりである彼に、この気候は堪えるだろう。そう思って、堂島は彼の帰宅を促す。
「まだ本調子じゃないんだろ、お前。帰って休め」
「……堂島さんが帰るなら、僕も帰ります」
 返ってきた意外な答えに思わず堂島の眉根が寄った。
「正直、小西早紀からこれ以上の証言が出るとも思えないし、ここで粘ってたって意味ないでしょう?護衛ならちゃんと警官がついてるし、情報の整理なら家でもできるでしょう」
 堂島さんもちゃんと帰って休むべきです、とちょっと怒った声音で告げられる。
 なるほど、自分が彼の体調を案じるように、彼もこちらの体調を案じていたらしい。そう悟って、堂島は苦笑した。
「……そうだな、今日は帰る」
 確かに彼の言う通りだ。ここで延々悩んでいても仕方がない。
 ジュネスや商店街の方には他の同僚が聞き込みに行っている。明日の朝一で彼らと情報を交換し、状況を整理し直す方がいいだろう。
「――ありがとうな。お前がいてくれて、助かる」
 鼻先にぶら下がった事件に引き摺りまわされる自分へ嘆息しつつ、そのあたりの切り替えが巧い相棒の存在に感謝する堂島だった。

 * * *

「――コミュニティ、か……」
 帰りついた自宅で、足立はそう独り言ちた。
 暁との間に結ばれた“女帝”のコミュニティと、それによって生まれたペルソナ“ニャンニャン”の存在を、自分の中に確かめる。
 自身の半身ともいえるペルソナが女性の姿をしていたことに若干の疑問がないでもないが、その姿が暁との交流で得た『優しさ』の象徴であると考えれば、そうおかしなことではないのかもしれない。
「まあ、誰の中にも異性的な部分ってのは存在するらしいしねぇ……」
 陰陽道やら何やらでよく出てくる、陰陽を表す白と黒の勾玉の図――確か、太極図といったか。あの勾玉の穴は確か、男性の中の女性的部分、女性の中の男性的部分を表していたはずだ。
 そんなことを考えながら、ベッドに勢いよく腰を下ろし――その際、腿に感じた感触に、ポケットに入れっぱなしだった携帯の存在を思い出す。
「……っと、忘れてた」
 病院内で切ったままになっていた携帯の電源を入れる。病院へ駆け付けた堂島に事情を話した後、先に帰宅していた暁からメールが来ていた。
 着信時間は四時間前。『ありがとうございました』という件名で始まり、丁寧に綴られた本文。
『今日は病み上がりなのに駆けつけて下さって、本当に助かりました。何度お礼を言っても足りません。本当にありがとうございました。
 私は、今家に着きました。すっかり菜々子ちゃんに心配をかけてしまいましたが……。
 小西先輩の容態はいかがでしょうか?捜査にさしつかえない範囲でいいので、教えていただけると嬉しいです』
 礼を告げながら深々と頭を下げる暁の姿が目に浮かぶ文面に、足立は思わず苦笑し、返信をしたためる。
『一応警察官だから、人助けは職務の内です。そんなにかしこまられちゃう方が困っちゃうよ~(笑)
 小西さんは意識を取り戻したよ。怪我もないし、大事はないみたい。
 一応、しばらく検査入院するみたいだけど。明日から普通に面会できると思うよ』
 『気にしないで』というタイトルでメールを返す。
 ベッドに寝そべり、しばらく返信を待ったが――来ない。おそらく、既に寝てしまったのだろう。時刻は0時を回り、既に日付が変わっている。
 そのことに、ちょっと落胆して――そんな自分に気づいて苦笑した。
 相手を気遣ったり、相手の言動に一喜一憂したり。振り回されて疲れるけど、この“交流”には心地よい充足感がある。
 この町に来るまでの、互いに本音を隠し合う人間関係は楽だったけど、後に残ったのはどうしようもない虚無感だけだった。
 あの頃の自分がいかに卑しく、貧しいものだったか、今ならわかる。
 他者との交流を面倒だと忌避する怠惰な人間。裏切りを恐れて友好を拒絶する臆病な男。
 その癖、自分だけ幸せになれないと不平を漏らす、どうしようもない愚か者。
 己の殻に閉じこもって、どうして幸せになれるというのか。――人は、一人では生きていけないのに。
 生命活動を維持することはできても、本当の意味で“生きていく”ことはできない。そんな人生は、ただ死んでいないというだけだ。

 ――今の自分は、“生きている”。

 傷ついた暁を目にした瞬間の激昂も。
 人ばかり気にして自分は無理をする堂島に苛ついたのも。
 相手を想う心の、裏返し。
 喜びも、怒りも、安らぎも、悲しみも――全てひっくるめて、自分の心だから。

 ――きっと、これが“心”を育むということ。

 そんなことを思いながら――足立はゆるゆると降りてきた睡魔に身をゆだね、瞼を閉じた。

 * * *

「――神代さん。悪いけど、ちょっと付き合ってくれねぇ?話があるんだ」
 昼休み、真剣な表情の顔の陽介にそう誘い出され、暁は彼と二人で空き教室に来ていた。
 正確には、実習棟にある特別教室の一つだが、全く使われている形跡のない部屋だった。施錠すらされていない。
「……話って、“テレビの中”に関係すること?」
 陽介が扉を閉めるのを待ってから、暁はそう訊ねた。
 わざわざ人目を避けてこんな場所まで移動してきたということは、人に聞かれたくない話だろう――昨日の今日で、陽介が暁に持ちかける内密な案件と言えば、それくらいしか思い浮かばない。
「察しが早くて助かるぜ」
「……えっと、小西先輩の容態とか?」
 頷く陽介に、暁は彼の問いを予想して告げてみる。
 昨日、共にテレビに落ちてしまった時点で、“あちら”のことは大体話してあった。その上で、彼が暁に訊ねてくることと言えば、それくらいしか思いつかなかった。
 しかし、陽介は驚いたように目を剥く。
「え、先輩の容態知ってんの?――あ、叔父さんとかから聞いたのか?」
「あ、うん。叔父さんからも今朝聞いたけど、昨日の夜のうちに、足立さんからもメールが来てたから。――無事、目を覚ましたって。今日から普通に面会できるみたい」
 この話ではなかったのか、と意外に思いつつ、暁は早紀に関しての情報を陽介に伝える。
「……そっか……よかった……」
 胸を抑え、心底安堵した様子で息を吐く陽介。――本気で早紀を大事に思っているのだと、傍目にもよくわかるような仕草だった。
 しかし、彼は安堵に緩んだ表情をすぐに引き締めると、こちらへと向き直った。
「――これで、安心して本題に入れる」
 硬質なまでに真剣な彼の声音に、暁は思わず息を呑む。
「頼みが、あるんだ」
「た、頼み?」
 ずい、とこちらに迫る様に告げてくる陽介に、暁は若干気圧される。
 内心狼狽えている暁の心情を知ってか知らずか――彼は、暁の目を覗き込むようにして、きっぱりと言い放った。

「――もう一度、俺を“あっち”に連れて行ってくれ」

 暁の脳がその言葉の意味を咀嚼するまで、数秒の時間を要した。
「……な、何言ってるの?“あっち”は危険だって、昨日で十分わかったでしょう!?」
 あまりにも予想外な言葉に、暁の声が珍しく上ずった。
 イズモの治癒能力によって痕も残らず治癒したものの、昨日、彼が負った傷は生命に関わる重傷だったのだ。
 陽介は、その言葉に深く頷きつつも、前言を撤回することはしなかった。
「ああ、冗談抜きで死ぬほど危険な場所だって、よーくわかった。――でも、だからこそ、知りたいんだよ」
 一言一言、噛みしめるように、陽介は告げる。
「なんで俺たちが――先輩が、あんな場所に放り込まれなきゃいけなかったのか」
 告げる彼の拳は、白くなるほど強く握りしめられ、細かく震えていた。

「自分の目で、耳で、ちゃんと確かめたいんだよ。――人任せなんかにしたくないんだ」

 その言葉に、暁は彼の気持ちがわかったような気がした。
 彼は――怖かったのだ。そして、今も怖いのだ。
 理由もわからないまま、理不尽な暴力の前に放り出され、自身が――そして、大切な人までもが、それによって命を落としかけた。
 この場合、何より恐ろしいのは――死にかけたことよりも、『誰が、何の目的でそんなことをしたのかわからない』ことだ。
 狙われた理由がわかれば、己の行動を正して自衛できる。犯人が捕まれば、再犯を恐れる必要はない。
 だが――まるで実態のわからぬ犯人は、“お化け”同然なのだ。
 いつ、どこに現れるかもわからず、唐突にこちらへ襲い掛かってくる“お化け”だ。――それに対して抱く恐怖は、理屈でどうにかできるものではない。
 ホラー映画の怪物も、正体がわかるまでが最も恐ろしい。人間は、未知なるものにこそ恐怖を抱くものだから。
 だからこそ、彼は“お化け”の正体を明かしたいのだ。
 自身の中の恐怖を打ち消すために。――何より、同じ恐怖を抱いているだろう、大切な人のために。
 そこまで考えて、暁は嘆息まじりに告げた。
「――わかった」
 ぱっと俯いていた陽介の顔が上がる。
「花村君の気持ちは、よくわかったよ。……でも、私一人の判断じゃ、決められない」
「……足立さんか?」
 陽介の確認に、暁は頷く。
 昨日、足立と約束した。――一人で突っ走ることはしないと。
 だから、自分の独断で、彼の言葉に頷くことはできない。――そもそも、今暁が持っているペルソナは戦闘能力のないイズモだけ。シャドウとの戦闘は、否応なしに足立に頼ることになる。勝手に彼の荷物を増やすようなことはできない。
「花村君に会ってもらえるよう、私から足立さんに頼んでみる。それで、花村君の言葉に足立さんが頷いてくれるなら――一緒に、調べよう」
 “あちら”のことを――そして、犯人のことを。
「――わかった。それで十分だよ。ありがとうな、神代!」
 力強く頷いた陽介から、感謝の念が伝わってくる。
 それが呼び水になったように、暁の脳裏に響く声があった。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、“魔術師”のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん≫

 ――コミュニティ。

「――神代?どうかした?」
「あ、ううん。何でもないよ」
 声ならぬ声に呆けた暁の様子を訝しんでか、声をかけてくる陽介に、慌てて頭を振る。
 陽介は不思議そうに首を傾げたものの、何かを思い出したように時計を見ると、慌てた声を上げた。
「やっば!もうこんな時間じゃん!売店、何も残ってねぇかも……!」
 そうして、暁にポケットから取り出したメモを押し付ける。
「それ、俺の携帯アドレス!足立さんと会う段取ついたら、いつでもいいから連絡くれな!」
 それじゃ!と言い残して、陽介は慌ただしく走り去っていった。
(……“審判”に、“魔術師”……やっぱり、タロットなんだ)
 一人残された暁は、自身の中に築かれたコミュニティを確かめ、そんなことを思う。
 昨日、自身の身を案じた足立が本気で叱ってくれた時、彼との間に結ばれたコミュニティは“審判”だった。
 以前の学校で、タロット占いの得意な友人から訊いた、それぞれのアルカナの意味を思い出す。
(“魔術師”は『物事の始まり』を意味したり、『話し上手』や『気の合う人』を示すアルカナだったよね)
 なるほど、何となく陽介にしっくりくるアルカナだ。
(“審判”は――『復活』、『解放』、『奇跡』)

 ――『奇跡』のようなタイミングで駆けつけて、命の危機から『解放』してくれた人。

 そう考えて――自身を庇って立つ猫背の後姿や、倒れた自分を支えてくれた腕の感触まで思い返してしまい、暁はほんのりと熱を持った頬を両手で押さえる。
(あ、あれは、足立さんにとっては特別なことじゃなくて……『人助けは警察官としての職務』なんだから!勘違いしちゃダメ!)
 いつだって助けてくれる彼に惹かれかけている自分をほのかに自覚しつつも、暁は慌てて頭を振る。
 自身へと向けられる好意の類に鈍い乙女は、一向に想い人の想いに気づいていなかった。

 * * *

 白くぼやける世界の中、酷く目立つ黒い人影。
 こちらを射抜く、殺意を具現化したような昏く鋭い眼差し。

『――楽に死なせてやるよ、■■』

 語尾が奇妙なノイズに掻き消されているもの――それは、明らかな死刑宣告で。

 閃く雷光に、己の意識は白く塗りつぶされる――


 はっ、と弾けるように意識が覚醒した。
「……さ、早紀?大丈夫?うなされてたわよ?」
 脇からかかる声に、早紀はゆるゆると首を巡らす。見えたのは、枕元に佇む母の姿。
「……だいじょうぶ……」
 はあ、と溜息まじりに答える。
 何とも、寝覚めの悪い夢――しかも、この悪夢は初めて見るものではない、ということが尚更堪えた。
 昨日――意識のないままに担ぎ込まれたこの病院。ここで目覚める寸前にも、同じ夢を見ていたのだ。
 この夢のせいで、聴取に来た刑事の片方――黒ジャージ姿の若い方――が、どうにも夢の中の黒づくめと被ってしまい、終始怯えた態度になってしまった。変に思われていないといいが。
「……顔色が悪いわ。先生を呼んだ方が……」
「――寝起きで気分が悪いだけだから。大げさにしないで」
 おろおろと声をかけてくる母を、冷たく制止する。
「っていうか、お店戻りなよ。私なら平気だから。父さんは店に出て、尚紀は学校行ったんでしょ?母さんもいつも通りにしていいよ」
「でも……」
 ともすればきつくなりがちな口調を、意識して和らげて告げたのに、ぐずぐずと躊躇う母の姿に忍耐力が切れた。
「――いつもは父さんの罵声からも助けてくれないのに、こんな時だけ母親面されても嬉しくないって言ってるの」
 口をついて出た本音に、母親が刺さったような顔を見せる。
「そ、それとこれとは……」
「――じゃあ、この場に父さんがいても、私にこれだけ構ってくれた?父さんの顔色窺って、私のこと避けなかったって言える?」
 何やら言いかける母の声を遮って問い詰めれば、案の定、彼女は言葉を詰まらせる。
「父さんの前では父さんに同調して、父さんのいないとこでだけ母親面されても、その場その場でいい顔しようとしている風にしか思えない。――結局、母さんはどう思ってるの?父さんと同じように、私にバイトを辞めろって思ってる?それとも、好きにしろって思ってるの?」
 母は当惑した様子で、視線を彷徨わせるだけで、一向に答えようとしない。
 そのことに、酷く落胆を覚えながら――告げる。
「……母さんは結局、自分の意見なんてないんじゃない?」
 ぎくりと、母の肩が強張った――気がした。
「――もういいよ。一人にして」
「早紀――」
「……いいから!」
 半ば怒鳴る様に促せば、母はちらちらとこちらを振り返りつつも、病室から出て行った。
 白い個室に一人取り残され、早紀は目を伏せる。
「……父さんの方がまだマシかも」
 気に食わないし、腹も立つけど、自身の主張があるだけまだマシだった。
 主義主張がある人間相手なら、己の主義主張をぶつける意義もあろう。だが、何の意志も意見もない相手と言い合うこの徒労感は何だ。
(……でも、ちょっとだけ前進、かな……?)
 昨日、病院で目覚める前に見た悪夢――その前に、別にもう一つ見た夢があった。
 自分に対し、金の目をした“もう一人の自分”が不平不満をぶちまける、妙な生々しさと非現実感を伴う夢。
 “彼女”の言葉には素直に頷けない部分も多く、その夢の中の自分はその言葉を拒絶してしまったが――今になって夢の内容を思い返せば、あの言葉は、確かに自分の本音だったのかもしれない、と思うのだ。
 だから――もう溜め込むのはやめよう、と思った。
 手始めに、母に対して思っていたことをぶつけてみたが――良かったのか悪かったのか。何も事態は変わっていない気がする。寧ろ、母と気まずくなった分、マイナスだろうか。
(いや、気まずいのは前からか……)
 上っ面だけの母の言葉を信用できず、声をかけられるたびに微妙な空気になっていたのは前からのことだ。――ならばきっと、早紀の本音を告げられた分、良かったと思うことにする。
 次は父親か――いや、その前に弟だろうか?
 二つ下の弟とは、決して不仲ではないと思う。良く喧嘩はするが、性別の違う姉弟がお互い高校生になっても喧嘩できるほど交流がある、というのは、むしろ仲がいいと言える気がする。
 父と本格的にやり合う前に、まずは弟が敵なのか味方なのかはっきりさせるべきだろう。
(……本気で父さんとやり合うって言ったら、多分こっちに着いてくれるとは思うけど……)
 弟も、家庭が微妙な状態になる原因を作ったジュネスは嫌っているが、さりとて父親の意見が正しいと思っているわけではなさそうだ。早紀がバイトを始めた理由をぽろりと語った時には、言葉にこそ出さなかったが感心したような顔をしていた。
 今現在、早紀の味方をしていないのは、父と早紀の問題だと思っているからだろう。問題を家全体のものに繰り上げれば、彼も参戦してくれるはずだ。
 とりあえずの行動指針を決めて、一つ頷き――もう一方の案件に溜息をついた。
(――何なんだろう……あの夢……)
 己に責められる夢。己が殺される夢。まあ、これだけなら悪夢の中では割とよく聞く部類かもしれない。だが、早紀の見る悪夢は、それだけではないのだ。
 悪夢の中の早紀は、黒づくめの男に殺される前、“人を殺そうとしていた”。
 それも――ごく、親しい人物を。
 己が殺されることよりも、そのことの方がずっと耐え難く――早紀は、その夢の意味するところを考えずにいられない。

 ――自分は、“彼”のことを殺したいほど憎んでいるのか。

 確かに、“もう一人の自分”も、“彼”に対する屈折した想いを吐露していた。
 だが、あの言葉は――あの部分だけは、どうしても、己の本音とは思えないのだ。
 無理やり押さえつけ、歪に捻じ曲げられた――そんな印象が拭い切れない。

(――私は……“彼”をどうしたいの……?)

 ため息とともに、己へとそう問いかけ――

 こんこん、と控えめに響いたノックの音が、早紀の思考を中断させた。
「――誰?」
『……えーと……俺です』
 聞こえた声に目を見開いて、硬直した。

 ――何というタイミングだろうか。

 相変わらず、彼は凄まじく間が悪い。――いや、これはある意味、絶妙なタイミングともいえるのか?
 逡巡の後――早紀は、己の中の答えを出すために、彼との対面を決意した。
「――どうぞ」
「……しつれいしまーす」
 そろそろと開かれたドアの隙間から、彼の声が入ってくる。
 開いたドアをくぐって、後ろ手にドアを閉め――そうして、身を起こす早紀に目を留め、彼は破顔した。

「良かった――元気そうっすね、先輩」

 心の底から、嬉しそうに――花村陽介は、笑うのだ。

(――ああ、もう、逃げられない)
 その笑顔に――早紀は白旗を上げた。

 認めよう――自分は、どうしようもなく、

 ――彼が、憎かった。

 『ジュネスの息子』という彼の立場が、憎かった。
 そんな立場を意識せず、あけすけにこちらに好意を向けてくる彼が、どうしようもなく憎たらしかった。
 自分を惹きつけてやまないその笑顔が――憎んでも憎み足りないくらい、憎かったのだ。

 憎まずにいられないぐらい――愛しい存在になってしまったから。

 結ばれない想いなんか最初から抱きたくないのに、彼はどうしようもなく早紀を惹きつけるから。
 惹かれていることを認めたくなくて、でも離れたくなくて――彼の想いを利用しているだけだと、自分に嘘をついた。

 そして――そんな苦しい嘘を強いる元凶である彼を、憎んだ。

 なんて勝手な女だろうと、我ながら思う。
 彼は周りからの中傷を受けながらも、早紀への想いを偽ることはしなかったのに。

(――これまで、ごめんね)

 狂ったように彼への歪んだ思いを叫んでいた、もう一人の自分を思い浮かべる。

(でも、もう、ちゃんと認めるから)

 もう、逃げない。――逃げたくないから。

「――私、花ちゃんのこと、好きだよ」

 そう告げた、その時、確かに――

 胸の奥で、金色の瞳が安らかに微笑んだ――そんな、気がした。



――――――――――――――
≪ペルソナ解説≫
以下は、この話に登場したオリジナルペルソナの紹介です。
殆どゲーム的なデータで、読まなくてもストーリー的に支障はないので、興味ない人は読み飛ばしちゃってくれていいです。

名前:ニャンニャン   持ち主:足立※
初期レベル:2   アルカナ:女帝
耐性:風 弱点:火

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
ディア(-) パトラ(-)
タルンダ(3) メパトラ(4)
ラクカジャ(5)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 小治癒促進(9)
Rank2 メディア(15)
Rank3 中気功(19)
Rank4 中治癒促進(22)
Rank5 ディアラマ(26) 
Rank6 魔封耐性(30)
Rank7 ポズムディ(34)
Rank8 魔封防止(38)
Rank9 マハラクカジャ(41)
Rank10 ペルソナ“シーワンムゥ”に進化する

【設定】
“神代 暁”との間に結んだ“女帝”のコミュニティによって生まれたペルソナ。
外見は、薄紅色の漢装に身を包んだ、おだんご娘。
娘娘ニャンニャンとは、中国語で『皇后』『王妃』『女神』などを意味する。
また、中国道教における、子を産む際に母子の健康を守る女神たちの名でもあり、司る役割によって“乳母娘娘”(母体の健康を司る)や“送子娘娘”(胎児の無事を司る)などと呼ばれる。
進化後の“シーワンムゥ”については、“シーワンムゥ”の欄で後日別途解説。

<おまけ>
当初、足立から暁に結ぶコミュも“審判”にしようかと思っていたのですが、足立のペルソナ能力の関係上、マーガレットさんとのコミュが難しく、他に“女帝”のキャラが浮かばず、こういう形に変更となりました。
アルカナの意味を調べた際、『母性』『女性的な魅力』『温かい人柄』とあって、「これ、足立から見た暁のイメージそのままじゃないか?」と思ったのが一番大きいのですが。



[29302] 8章.ヒーローの条件
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2013/11/20 18:03
「あ、菜々子ちゃん……今、学校の帰り?」
「あ、いなえさん、こんにちは」
 しとしとと雨が降り注ぐ中、見知った女性に声をかけられて、学校帰りの菜々子は笑顔でぺこりと挨拶を返した。
 彼女は、菜々子の家の近所に住んでいるお姉さんだ。――初めて会った時に『おばさん』と呼んで父に窘められ、菜々子はこの年頃の人を『おじさん』『おばさん』と呼ぶのは失礼だと学んだ。実は、父の相棒の男性を『アダチさん』と名前で呼んでいるのはこのためだったりする。
 『いなえさん』というのは、自分の名前があまり好きではないという彼女に、菜々子がつけたあだ名だ。幸いに彼女は菜々子のつけたこのあだ名を気に入ってくれたので、それ以来、菜々子はずっと彼女のことをこう呼んでいる。
 それを聞いた父は「まるで屋号だな」と笑っていたが、菜々子には『屋号』が何なのかわからず、きょとんとするしかなかった。
「いなえさんは?これからお仕事?」
「ええ。まだまだ慣れなくて、失敗してばかりなんだけど……あとから入った新人さんにすら怒られる始末で……」
 そう答えて、控えめに笑う彼女。そんな笑い方をする彼女を見る度、菜々子はいつもそのまま消えちゃうんじゃないかと理由もなく心配になる。――幼い菜々子に、まだ『儚い』という語彙はなかった。
「えっと……お父さん、今忙しいでしょ?お家のこと、大丈夫……?」
 彼女は、父にひったくりから助けてもらったことがあるそうで、何かと父と菜々子のこと気にかけてくれる。
「だいじょうぶだよ。お父さんはあんまり帰って来れないけど、今はお姉ちゃんがいるから。昨日はね、ドレッシングの作り方教えてもらったの」
 昨夜は従姉(あね)の帰りがやむを得ない事情で遅くなってしまったため、メインはレトルトのカレーとなってしまったが、料理上手な従姉はありあわせの材料で手早く付け合せのサラダとドレッシングを拵えてくれたのだ。
 それを聞いた彼女は驚いたように目を瞬いて、感心したように言った。
「そうなの……?ホントに従姉さんはお料理が上手なのね。……ごめんなさいね、いつもいつも同じこと聞いて」
「ううん!心配してくれてうれしいです。ありがとう、いなえさん」
 なんだか申し訳なさそうに謝られてしまい、菜々子は慌てて首を振る。
「そう?なら、よかった。……あ、もう行かないと……」
 腕時計を見て、軽く目を見開く彼女。
「雨で足元が滑るから、転ばないよう気を付けてね。……それじゃあ」
「うん、いなえさんもお仕事がんばってね」
 笑顔で別れの挨拶を済ませ、菜々子は急ぎ足でその場を去っていく後姿を見送り――ほっと息を吐いた。
 ――よかった、ちゃんと笑えてた。
 心配をかけずに済んでよかった。昨日はうまく笑えなくて、優しい従姉に気を遣わせてしまった。
 従姉は『自分の帰りが遅くなって心配をかけてしまった』と思っていたようだけど、本当の理由は、昨日、ポストに入っていたあるモノのせいだ。
 菜々子は毎日、学校が終わって帰宅すると、家に入る前に必ずポストの中身を確認する。昨日もいつものようにそうして――すると、手紙ではないものが一枚、ぽつんと入っていたのだ。
 トランプよりも少し縦に長いカード。そこに描かれていたのは――

 ――黒く空っぽな目でこちらをみつめる、ガイコツ。

 “XIII”と下に小さく書かれたそのカードが、“死神”と呼ばれるタロットカードであることなど、幼い菜々子は知らなかった。

 理解できたのは――その絵の不気味さと、そこから感じる悪意だけ。

 まず、父に言うべきかと考えた。だが、ただの悪戯かもしれないと思うと、忙しい父に電話してまで報せるのは躊躇われた。口頭でこのカードのことをうまく説明する自信がなかったのもある。
 結局、昨夜父は菜々子が起きている間に帰って来ることなく、今朝も菜々子が起きるより早く出て行ってしまったため、カードのことを話す機会がなかった。従姉に話そうかとも思ったけれど、あんな不気味なものを見せることに躊躇いを覚えてしまい、結局言い出せなかったのだ。
 その不気味なカードは今、菜々子の机の引き出しの奥にしまってある。
 どうしようかと考えながら、とぼとぼと家路につく。
 そうして、たどり着いた我が家。いつものようにポストを開くことを、菜々子は躊躇った。
(……また、入ってたらどうしよう……)
 不気味にこちらを見つめるガイコツが脳裏に浮かんで、菜々子は立ち尽くし――
「……菜々子ちゃん?」
「――ひゃあっ!?」
 そんなところに後ろから突然名を呼ばれて、菜々子は思わず飛び上がってしまった。
 慌てて振り返れば、そこにはびっくりしたように目を見開いた従姉の姿。
「お、お姉ちゃん――お、おかえりなさい」
「あ、うん。ただいま。……ごめんね、びっくりさせちゃって」
「う、ううん!お姉ちゃんは悪くないよ」
 申し訳なさそうな従姉に、菜々子は慌てて頭を振った。――自分が勝手に驚いたのだから、彼女は悪くない。
「そう?……だったらいいんだけど――あ、郵便、何か来てるかな?」
 彼女は安堵したように笑ってから、菜々子が開けなかったポストに手を伸ばして、あっさりと開いた。
 菜々子は思わず息を呑んだが、そこに入っていたのは、一枚のチラシだけ。
「あ、明日、ジュネスで家電セールだって」
 でも、さすがに家電は高くて手が出ないなぁ、と笑う従姉の言葉に、菜々子もほっと息を吐く。
「今日のおやつはホットケーキにしようか。ちょっと寒いし、温かい物の方がいいでしょ?」
「ホットケーキ!?菜々子、ホットケーキ、好き!」
 そう笑って、菜々子は従姉と家の中に入る。
 けれど、その顔はうまく笑えていなかったらしい。
「……何か、あった?」
 気遣わしげな声に、ぎくりと肩が強張った。
「ポストを開けるの、躊躇ってるように見えたけど……ポストがどうかしたの?」
 ――見られていた。
 これ以上は、誤魔化せない。そう思った。
 何より、これ以上一人で抱えているのがつらくて――菜々子は口を開いた。
「……あのね――」
 そうして、菜々子は従姉に伝える。あの、悪意の滲む、不気味なカードのことを――

 * * *

 いきなりわけのわからない所に放り込まれて、ありえない着ぐるみ(イキモノ)と知り合って、あげく人頭蛇身の怪物に殺されかけて。
 そんな非常識のオンパレードを経験し、もはや何事に出会っても動じないと思っていたのに。

「――私、花ちゃんのこと、好きだよ」

 憧れの彼の人は、そんなたった一言で、自分をいとも容易く混乱と動揺の渦中に放り込んでくれた。
「――は?……ちょ、えぇ?」
 ――何言ってんの、俺。
 もはや言葉にもなっていない声が、勝手に己の口から零れるのを、陽介はどこか他人事のように思う。
(――だって、ありえないだろ?)
 ――この状況は、あの“テレビの中”での出来事以上に、ありえない。
 いや、“有得る”か“有得ない”かでいえば、こちらの方が常識的な範疇なのだが――陽介の心理としては、今直面している状況の方が、信じ難いものだったのだ。
 “テレビの中”の出来事は、常識からぶっ飛び過ぎていて、逆に『ああ、そういうものなのか』と受け入れるしかない――というか、現実味がなさ過ぎて、ゲームか何かの設定を受け入れる心地で、己の心に受け止められてしまった。
 おそらくは、いっそ『扉を開けたら中に怪物がいた』という状況の方が、冷静に対応できただろうと思う。一瞬驚きはしても、ここまで動揺しなかった。
 だが、今のこの状況は。
 『告白イベント』というこの事象自体は、青春を謳歌する高校生的には十分“有得る”範疇の出来事でも――シチュエーションとか流れの意味で不自然すぎる。
 ――入院している憧れの先輩を見舞いに来たら、家族もいなくて二人きりというシチュエーションで、ムード作りも何もすっ飛ばしていきなり告白されました。
 ない。これはない。――あまりに、自分にとって都合のよすぎる展開、という意味で。
「……ドッキリ?」
 思わず、そんな言葉が零れ落ちるほどに。
 途端、微笑んでいた早紀の顔から表情が消えた。
「……花ちゃんて、そういうとこマジでウザいよね」
 この上なく据わった眼で、ずけりと言い放たれる言葉のナイフ。
 ――花村陽介は100のダメージを受けた!
 わりと本気で、そんな文章と、ザクリッというSEが脳内に浮かぶ。
 もうそれだけでかなりの致命傷だったのに、彼女の言葉は途切れることなく続いていく。
「周りの空気呼んで茶化したり流したりするのは得意なくせに、肝心なとこで変に鈍いし」
 ――更に100のダメージ!
「地雷踏みだし、カッコつけだし、イケメンなのに喋るとがっかりだし」
 ――更に100のダメージ!花村陽介のライフは既に0だ!
「私がいじめてもやり返さないで黙って耐えちゃうし」
 ――すみません、現在進行形でいじめられてますもう勘弁してください。
「なんか友達はレベル高い女の子ばっかだし!」
 ――はい?
 俄かに方向性が変わった追撃に、陽介は思わず目を瞬く。
「私のこと好きな気配だだ漏れなくせに、平気で女友達と二人で遊びに行ったりするし!」
 ――え?
「……え?」
 心の声が、そのまま声になって零れた。
(――え、待って?ちょっと待って?それって……?)
 混乱する陽介に、そのタイミングで、とどめの一撃は来た。

「本気で告白したのに、冗談だと思って流すとか、ホントにあり得ない!」

 一瞬、本気で頭の中が真っ白になった。
「……マジで?」
 そんな呟きが、知らぬうちに零れた。
 その声が自分の耳に届いた瞬間、一気に放心状態が解け、怒涛のように彼女から告げられた言葉が蘇ってくる。
「――女友達多いの、嫉妬してくれてたってこと?……え、っていうか、だだ漏れ?俺、バレバレだったの!?」
「え!?あれで隠してる気だったの!?」
 気づいて思わず漏れた羞恥の叫びに、驚愕の声が返ってくる。
「いや、隠してるつもりはさらさらなかったけど!先輩、いっつもスルーだったから、それこそ冗談として流されてるかと思ってたって言うか!」
 テンパって勝手に口をついて出た言葉に、早紀の表情が沈んだ。
「……そういや、そうだね。――お互い様……ううん、私の方がずっと酷いことしてきた」
 俯いて紡がれる、震える声。
 沸騰寸前だった陽介の頭も、つられたようにすっと冷える。
「……先輩?」
「私、ずっと、花ちゃんへの気持ちに、嘘ついてきた」
 呼びかけに返されたのは、初めて聞く彼女の本音で――
「『店長の息子だから優しくしてるだけ』なんて。……最初はホントにそうだったのかもしれない。でも、花ちゃん、私に向かって、ホントに嬉しそうに笑ってくれるんだもの。……ズルいわよ、あれで落ちない女がいるなら見てみたい」
 怒ったような言葉とは裏腹に泣き出しそうな声。――病室に入ってから立ち尽くしていた陽介の足が、自然と前に出ていた。
「でも、花ちゃんは『ジュネスの息子』で、私は『地元商店街の酒屋の娘』。『花ちゃんの気持ちに応えたりしたら、周りになんて言われるか』って、思わずにはいられなかったの」
 彼女の元へと歩み寄りかけた足が、思わず、止まる。
「私、卑怯だった。臆病だった。自分のことばっかり考えて、花ちゃんの気持ち踏みにじってた。――花ちゃんは、ジュネスで私のこと贔屓してるって、酷い陰口叩かれても、私への気持ちを誤魔化さないでいてくれたのに」
 ――『早紀を贔屓している』と陰口を叩かれていることは、確かに知っていた。
 もちろんそれは言いがかりで。確かに自分は彼女に好意を持って接していたし、頼って欲しくて何かと構ったりはしたけれど、それはあくまでプライベートでのことで、ジュネスのバイトとしての彼女に対し、自身の立場を利用して何か特別なことをしたことは一度だってない。
 でも、自分が『ジュネスの息子』である以上、どうしたって、何かしらの形で中傷されていたはずだ。だから、気にするものかと開き直っていただけ。
 障害を気にせず、自分の気持ちを貫いていたなんて、いいものじゃない。
 寧ろ、自分の巻き添えで早紀が『贔屓されている』と誹謗されている現状をどうにかしようともせず、自分の気持ちを押し付けていた自分の方が勝手で、お子様だ。
 けれど、早紀は己を責めるように、言うのだ。

「今更だよね。ごめん。――でも、それでも、花ちゃんが好きだっていうのは、本当だから」

 その言葉に、陽介の中で何かの枷がはじけ飛んだ。
 手にしていた林檎の籠を放り出すようにして、ベッドに駆け寄る。驚いたように目を見開く彼女の身体を、思い切り抱きしめた。
「――俺こそごめん。ガキでごめん。気づけなくてごめん」
 ――勝手だったのは、自分の方。
 自分ばかりが悪いかのように、彼女が自分を傷つける必要なんて、ない。
「最初は同情とか打算だったとしても、そんなの関係ない。先輩が優しくしてくれたから、俺はこの町でやってこれたんだ」
 ――あなたがいなければ、この心はとうに折れていた。
「お願いだから――そんな風に、自分を責めたりしないでくれ」
 ぎゅぅ、と抱きしめる腕に力を込める。――彼女自身の自責の言葉から、彼女を守る様に。
「……ありがとう」
 か細い声と共に、そろそろと、背に腕を回される感触。
「――一緒に、頑張ってくれる?」
 躊躇いがちに紡がれる、問い。
「一緒に街を歩いてて、誰かに嫌味言われたりしないように。周りの悪意に疲れて、一緒に居られなくなることがないように」
 縋るように抱きしめ返してくる細い腕。
「この町を――ジュネスと商店街の関係を変えるために、一緒に頑張ってくれる?」
 告げられた言葉に、思わず目を見開いた。
 ――彼女は、自分と一緒にいるために、この町を変えようというのだ。
 何を言われても仕方ないと、諦めていた自分とは違う。
 諦めるのではなく、途方もない望みに向けて、歩み出そうとしている。――一緒に、行こうと言ってくれている。

「――やっぱ、先輩ってスゲェや」

 自然と、そんな言葉が零れた。
「……俺も、頑張るよ。俺なんかに何ができるかわかんないけど、絶対、全力で頑張る。――せっかく想いが届いたのに、一緒に居られないなんて、ぜってぇごめんだ」
 叶わぬ悲恋、なんて悲劇ぶるのは簡単だ。――でも、そんなのまっぴらだ。
 喜劇だろうが、駄作だろうが、構わない。誰に失笑されようが、呆れられようが、自分と彼女の物語の結末に、ハッピーエンド以外を認めてやるものか。
 そのためなら、どこまでだって足掻いてやる。
「うん。一緒に、頑張ろう」
 ――そう言ってくれる彼女が、隣にいてくれるなら。

 * * *

「……どういうことなの……」
 雨の中、堂島と分かれて外回りに出た足立は、訊ね先の住所が書かれたメモを手に口元をわななかせていた。
 次の訊ね先は佐藤光喜――山野が失踪するその日まで、天城屋旅館の清掃員を務めていた人物だ。
 手がかりらしい手がかりもない今、どんな些細なとっかかりでもいいから何か得られればと、堂島と手分けして山野事件の関係者――というか、天城屋旅館の関係者を、片端から巡っているのだが。
「何で同じ苗字がこんな密集してんのさ……」
 思わず手に力がこもり、ぐしゃりとメモに皺が寄った。
 目的地の住所付近には、『佐藤』の表札をかけた家が三件もあった。どの家も家人の下の名前が表札に出ていないので、どれが目的の家なのかわからないのだ。
 しかも、生憎の雨天のせいで辺りに人の姿はない。いつもなら、暇な主婦たちが道端で長話しているというのに。
「どうした、若いの。えらくしょぼくれて」
 と、背後から老いた声がかかった。振り返れば、白髪の男性が、曲がった腰を伸ばすようにしてこちらを見上げていた。傘を手にした反対の手にビニール袋を提げているあたり、買い物帰りなのだろう。
 助かった――そう思って、愛想笑いでない笑みを浮かべながら、足立はその老人に向き直った。
「あの、すみません。佐藤光喜さんのお宅はどちらでしょう?」
「――ああ、『バイカ』のみっちゃんか?それなら、あそこだよ。あの梅の木があるとこ」
 笑顔が効いたのか、老人は不振ぶる素振りもなく、あっさり答えてくれた。
「ありがとうございます!――でも、『バイカ』?」
 礼を言いつつ、耳慣れない言葉に足立が思わず首を傾げれば、老人は呵々と笑った。
「あんた都会から来たっつー刑事さんだろう。若いし、わからんのも無理はないねぇ」
 どうやら、怪しまれなかったのは、端から身バレしていたかららしい。
「『バイカ』っちゅーのは、『屋号』よ」
「ああ、お店の名前ですか」
 勤めていた店舗がそういう名だったのか、と思う足立に、老人は首を振る。
「違う違う。店の名前がつく場合も確かにあるがね、それとは別よ。――まあ、簡単にいやぁ、家ごとの『あだ名』さ」
 家の『あだ名』という言葉の意味がいまいち解らず、足立は思わず眉を寄せる。その顔を見てか、老人はまた呵々と笑う。
「あんたも今、同じ名字の家が並んどって困っとったろう。こういう田舎じゃあ、あっちもこっちも親戚、同じ名字ばっかりってことがある。今じゃあ、大分マシになったが、昔は一つの通りが全部同じ名字の家っつーこともあった。だが、それじゃややこしくてかなわん。だから、それぞれの家に区別できる呼び名つけたのさ。『見事な花を咲かす梅の木のある佐藤家』だったら、『梅花』の 佐藤、ってな具合にの。まあ、今じゃあ由来がようわからんくなってしもうた『屋号』も多くてな、若い奴はあんま使わんが」
「ああ、なるほど……そういうのがあるのか……」
 思わず素で感心して頷いた足立に、老人は気分を良くしたようにまた笑い――ふと思い出したように付け足した。
「しかし、今行っても祖母のトメさんしか居らんと思うぞ。仕事行ってるだろうからな」
「え、そうなんですか!?」
 思わず声を上げるも、言われて見れば、普通、平日の午後四時前という時間に真っ当な勤め人が家にいるというのは考えにくい。――つい最近天城屋旅館の清掃員を辞めていたため、現在は無職ではないかと無意識に考えていた。
「どこにお勤めかご存知ですか?」
 咄嗟にそう問えば、老人は俄かに不機嫌な顔になった。
「……ジュネスよ。……いくら職がないっちゅーても、自分ちの店を潰したとこに勤めることないだろうによ……」
 それは光喜を責めるというより、そうせざるを得ない現状に憤っているような声音だった。
「……そうですか。ありがとうございました」
 なんと言っていいかわからず、足立は結局礼だけを告げて、その場を去る老人を見送った。

 ――全く、世の中はままならない。

 だから、弱い人、脆い人――かつての自分のように“支え”を持たない人から順に、折れていってしまうのだ。
「……嫌だなぁ……」
 はあ、と思わず零れた溜息に、苦笑する。
 随分と、堂島や暁たちに影響されてきている――こんな、同情のような思考は、自分らしくない。
 『心配して、優しく支えて、立ち直らせる』なんてのは、自分の柄じゃない。
 自分に向いているのは、馬鹿やった手合いに、自分の行為がいかに愚かだったか教え込んでやる役目だろう。トラウマに残る勢いでやれば、二度と同じ過ちは犯すまい。
 我ながら酷いとは思うが――それでも、止めてくれる人がいないことの方が、ずっと不幸だと思うから。
「――さて。じゃあ、お仕事しますかね」
 現在進行形で愚行を犯している『放り込み犯』を捕まえるために。
「……えーと、次は元売店バイトの――って、また佐藤姓!?今度はどっち!?……おじいさーん!」
 既に立ち去ってしまった老人に向けて、思わず届かぬ声を上げた時、懐に入れた携帯が震えた。
 取り出した携帯のディスプレイに、メールの着信を知らせるアイコン。
「って、スパムかよ……ん?」
 今しがた届いた迷惑メールの他にもう一件、別のメールが届いていたことに気づく。
 送信者の名前を見て、足立は即座にそのメールを開いた。


「――で、話って何かな?花村陽介君?」
 二時間後、足立は陽介と共にジュネスのフードコードにいた。
 対面に座った陽介は、何やら引き攣った笑顔でだらだらと冷や汗を垂らしている。
「えっと……わざわざ、直接連絡くれてありがとうございます……神代から、連絡先訊いたんですか……?」
「うん、いつ都合つくかわからないから、直接連絡取れるようにしたかったんだよ。そのおかげで、今こうして会えてるわけだし?」
 ――実際には、終業後に電話で半ば強引に呼びつけたのだが。
 あくまでにこやかにそう言ってのければ、陽介の冷や汗がさらに増量した。
「な……なんか、昨日の印象と全然違ぇ……」
「ん?何か言ったかな?」
「いえッ!何でもないです!」
 陽介がぼそりと呟いた言葉にツッコんでやれば、彼は背筋を伸ばしてぶんぶんと首を振った。
 今の足立は、意図的に笑顔の裏からプレッシャーを放射している。
 昨日の、暁と一緒にいる状態での『優しい足立さん』しか知らないと、こちらを舐めてかかって、ふざけたことを言ってくる可能性があるからだ。
 巻き込まれてしまったこと自体には同情するので、それなりに融通は利かせてやるつもりだが、刑事(こっち)の領分を犯してきたり、『“テレビの中”を調べたい』とか言い出したら、容赦しないつもりだった。
「で?君の用件って言うのは?」
 改めて訊ねれば、陽介は覚悟を決めるように唾を飲んで、口を開く。
「――俺を、テレビの中に連れてってくだ」
「却下」
 皆まで言わせずぶった切った。
(――よりによって、想像できるうちで最悪の地雷とはね)
 どうやら、笑ってプレッシャーをかける程度では、彼には足りないらしい。

 笑顔を消す。――『優しい足立さん』を奥に引っ込める。

「――出来るわけねぇだろ。今度こそ死にたいのかよ、クソガキ」

 “素”を晒した足立に、陽介は呑まれたように一瞬身を引くが、すぐに噛みつくような眼で睨み返してきた。
「――危ないなんてことは、わかってるよ……足手まといだってことも」
 震える声で紡がれる、無力な自分を呪う言葉。

「――それでもッ!好きな女が殺されかけたってのに、何もしないでいるなんてできねぇだろッ!」

 血を吐くような、叫び。
 足立は片眉を跳ね上げ――それから、一つ息を吐く。
「……なるほどね」
 ――彼にとって小西早紀は、自分にとっての暁なのだ。
 自分の素を見た上で食いついてくるほどの決意――あるいは覚悟か。いずれにせよ、生半なことでは彼はあきらめないだろう。
 しかし――とりあえず。
「――場所変えよう。変に注目されちゃってるしね」
「……あ……」
 ため息まじりに言ってやれば、自分の大声で人目を集めたことに気づいた陽介が、引き攣った顔で気まずげな声を漏らした。

 * * *

 足立透に対し、昨日の時点で陽介が抱いた印象は、『優しいが頼りになる刑事さん』だった。
 しかし、実際には、その印象通りの人ではなかったらしい。
 にこにこ笑う顔からもプレッシャーを滲ませてくる。表情を消し、冷たい眼で睨み据えられれば、そんなわけないのに『殺されるんじゃないか』とまで思わせた。
 スイッチを切り替えるように表情や態度、雰囲気を変える彼の姿に、『刑事というより詐欺師じゃないか』と大概失礼な感想を抱いた。
 だが、逆にこういう人の方が刑事に向いてるのかも、とも思う。被害者の前では柔らかな笑顔を浮かべて安心させ、やむを得なく罪を犯した者には同情を示して更生させ、赦しがたい犯罪者に対してはどこまでも冷酷に振舞う。――彼はおそらく、一人でその三役をこなして見せる。
 それは奇しくも彼の上司が彼に抱いたものと同じような考えだったが、生憎とそれを知る術は陽介にはない。
 ――まあ、それはともかく。
 「場所を移そう」と足立の先導でやってきた場所に、陽介は目を見開いた。
 ジュネス家電売り場、その隅のテレビコーナー。
「――ここ……」
「人気のない場所をチョイスしただけだよ」
 抱いた淡い期待を、即座に打ち砕いてくる足立の言葉。
「……容赦ないっすね」
「生憎と僕は基本的に優しい人間じゃない。そもそも甘やかして怪我させるのは、優しさとは言えないしね」
 思わず恨みがましく言えば、きっぱりとした調子でそう返される。
 その言葉は、確かに正しい。この上もなく。反論の余地がないほどに。
 実際、早紀も、陽介を想ってくれるが故に反対したのだから。
 ――お互いの想いを伝い合い、一緒に頑張ろうと誓ったあの後。
 陽介は早紀に、昨日“テレビの中”であった出来事と、暁から聞いた事実を伝え、その上で“あちら”を調べてみようと思っていることを告げた。
 早紀は、嘘のような陽介の話を疑わなかった。早紀自身、夢のようなおぼろな形であれど、“あちら”での出来事を覚えていたらしい。
 だから――事実だと理解し、その危険性を把握して、陽介を止めた。
 だが、それでも。

 ――この手を二度と握れなくなるようなことが起きたのに、放っておくなんてできない。

 そう言った陽介に、早紀は諦めたように笑って――

 ――絶対生還がヒーローの条件だからね。五体満足で帰ってきてくれなかったら、捨ててやる。

 そう、泣きそうな声で言って、送り出してくれたのだ。
 だから、陽介は絶対に引く気はなかった。現役の刑事相手だろうと、粘って粘って、絶対に説得して見せるつもりだった。
 だが――そんな考えは甘かったのだと、思い知らされた。
 自分では、彼に敵わない。自分が何を喚こうと、彼は揺るがないだろう。そう思わせるだけのものが、足立にはある。
 だが――だからこそ、解せない。
「……じゃあ、なんで俺とまだ話そうとするんですか」
 場所を移すまでもなく、あのままフードコードに自分を置いて立ち去ればよかったのに。
 その言葉に、足立は軽く目を見開き――それから言葉を探すように、虚空を見上げた。
「……似てるから、かな?」
 そうして呟かれた言葉に、陽介は眉を寄せる。――誰と、誰が?
 そう思った陽介の考えを読む様に、足立はうっすらと笑う。
「君は、ある意味僕と似てるから。――行動原理、とでもいえばいいのかな?……そういう点で」
 行動原理、という言葉に、陽介は目を見開く。
 この件に関しての陽介の行動原理――それは、早紀だ。
 大切な女性が危険な場所に放り出されたというのに、狙われた理由も狙った相手もわからないままではいられない。――そういう理由だ。
 ――ならば、それと『似ている』という、足立の行動原理は?
 考えるまでもなかった。
 昨日、陽介が足立を優しいと思ったのは、言動の一つ一つに気遣いと慈しみが見えるような彼の態度があったから。
 そして、それが向けられていた先は――
「――神代……?」
「……ロリコンとか言ったらぶっ殺すよ」
 呟いた名前に、足立が殺気を込めてそう告げてくる。――それは、肯定。
 はあ、と溜息を吐いて、足立は告げる。
「――だから、君の気持ちもよくわかるんだよ」
 口元に笑みを刻みつつ、眼光だけは剃刀のように鋭くして、足立は言う。
「暁ちゃんが小西さんのポジション、そして僕が君のポジションにいたなら、僕は君を脅してでも“あちら”に行くと思う。何が何でも犯人を見つけてやるためにね」
 陽介は、思わずその声音に息を呑んだ。――聞く者を凍らせる、絶対零度の声。
「――あ、別にこれは、そこまでできないからって、君の小西さんへの気持ちが、僕の暁ちゃんへの気持ちに劣るってことじゃないよ。ただ、君が僕より善良で、優しいってだけ」
 そうフォローする声音は、既に通常のものに戻っていた。
「……足立さんって、実は結構ヤバい人?」
 思わず漏れた呟きに、足立は呆れたような顔をした。
「今更?――僕の本質は、利己的で、卑劣で、どうしようもない下種だよ」
 自嘲するでもなく、ただ事実を述べるだけの淡々とした口調。
「けど――そんな自分の汚さを自覚してたからこそ、僕は暁ちゃんを助けられるだけの“力”を得た」
 一瞬、ひどく優しい笑みを浮かべてから――彼は鋭く厳しい眼差しで、陽介の目を見つめた。
「僕の最初の“力”は、イザナギは、“僕”自身と向き合ったことで生まれた。――君に、その覚悟はある?」
 斬り込むような、声音。
「――自分の見たくない部分を、認めたくない部分を、きちんと受け入れる覚悟はある?」
「……それって……」
 その言葉の裏を拾って、陽介は思わず目を見開く。
「更に言うなら、これは同情でも優しさでもない。僕自身に思うところがあるから、自分の都合で君を利用しようという打算込みでの提案だ。――それでも、飲む覚悟はある?」
 こちらの覚悟を見極める、言葉。
「――そこまでの覚悟があるなら、一度だけ、チャンスをあげる」
 どうする?――そう問われ、陽介は――

「――あります」

 迷いなく、頷いた。


「お、来てくれたクマか、アダッチー!……って、ヨースケ?」
 入った先の広場にいたクマは、意外そうな声を上げた。
「助手だよ。――今回限りになるか、これからも続けられるかは、彼次第だけどね」
 足立はそう言って笑う。

 ――今日、自分の“シャドウ”を受け入れて“ペルソナ”にできたら、次からも同行を許可する。

 それが、足立が陽介にくれた一度きりのチャンス。
 シャドウを受け入れられなければ当然次はなく、今回の探索中にシャドウが出てこなかった場合も次はない。――正真正銘、出たとこ一発勝負。
(――頼む……出て来てくれよ、俺の“シャドウ”……!)
 本来なら絶対会いたくない、“受け入れられない自分”との遭遇を願う状況に、何ともいえないものを感じつつ、陽介は拳を握りしめる。
「ところでクマ君。訊こう訊こうと思ってたんだけど。霧が晴れるとシャドウが暴れるって言うけどさ、霧ってどんな時に晴れるとか条件あるの?」
 陽介の様子などお構いなしに、足立は淡々と自分の用件をこなしている。
「うん?こっちで霧が晴れるのは、そっちで霧が出てるときクマよ」
「……なんだって?」
 さらっと告げられたクマの言葉に、足立が眉を寄せた。陽介も思わずクマに向き直る。
「クマ君、君、“外”を見たことあるの?」
「え?ないクマよ?」
 足立の問いに、クマはどうしてそんなことを訊くのかわからないといった様子で首を傾げる。
「じゃあ、何で、“こっち”の霧が晴れるのは、“外”で霧が出てる時だなんてわかるの」
「………………あれ?」
 長い間を置いて、クマはきょとんとした声を漏らした。
「そう言われて見れば……なんでクマはそんなことがわかるクマか?」
 問われて、陽介は思わずずっこけた。
「知るかよ!……っていうか、なに!?お前自分のこともわかんないのかよ!?」
「う、うるさいクマね!わかんないものはわかんないんだから、しょーがないでしょうが!」
「うわ、逆ギレやがったコイツ!」
 ムキーッ!と両腕を振り回して陽介に突っかかってくるクマ。
 と、そこにかかる、絶対零度の声。
「……そこまでにしとこうか?クソガキと着ぐるみ」
「――はい。」
 陽介にできるのは、クマと共に頭を下げることだけだった。
「ともかく。……そう言うサイクルなら、僕と暁ちゃんが最初に入る前に霧が出た時に、最初の犠牲者が出たってことで――って、そうだクマ君。最初に頼んだ件、どうなったの?」
「あ、あれクマか!すっかり言うの忘れてたクマ」
「え、ちょっと待って。何の話?」
 話についていけず、思わず声を上げるも、「ちょっと待って」とすげなく足立にスルーされる。
「最初にアダッチー達を返した後、すぐにやろうと思ってその人がいた場所に行ったけど、その人の身体、なかったクマよ」
「……なかった……?」
 クマの返答に足立はしばし沈黙し――やおら、懐から一枚の写真を取り出した。
「……もしかして、僕らの前に“こっち”に来た人って……この人?」
「おお!そうそう!この人クマ!」
 写真を見せられたクマが大きく頷く。陽介も脇からその写真を覗き込み――ぎょっと目を剥いた。
「――山野真由美!?」
「“こっち”で死んだ後、身体だけ“外”に放り出されてたんだな……」
 どういう理屈かは知らないけどさ、と疲れてように呻く足立。
「……ここで呻いてても仕方ないか――クマ、その人がいた場所に案内して」
「おいさ!こっちクマよ~」
 ため息まじりの足立の言葉に、クマは張り切った声を上げて歩み出した。


「……これは……」
 山野真由美がいた場所――言い換えれば、彼女の心理から生まれたその部屋は、正直うすら寒い怖気を覚える場所だった。
 入ってすぐ一見した分には、ごく普通の寝室に見えた。しかし、本棚が置かれて隠れている奥の壁以外、壁のあちこちに顔の部分が破かれた和服女性のポスターが幾枚も貼られ、その上に血を思わせる赤い塗料がぶちまけられている。
「……柊みすず、か。……この赤いのは、血ではないようだけど」
 ポスターを検分した足立が低く呟く。――顔がなくとも、和服に馴染みのある山野の関係者ということと、添えられた『演歌』の文字から、それを推察するのは難しくない。
「……これは、どう解釈すべきですかね……?」
 どう解釈してもよい心理状況ではないだろう代物に、思わず陽介は引き攣った声を上げた。
 部屋の隅に置かれた椅子と、その上に垂れ下がったロープ。――ロープの先に括られた、輪を作ったスカーフ。
「追いつめられてたってとこかな。不倫騒動で仕事も片っ端から降ろされてたしね」
 答える足立の声はどこまでも淡々としている。――あえて感情を殺しているのか、それとも本気で何とも思っていないのか、陽介には判断がつかなかった。
「……しかし、被害者の心理が反映するなら、犯人につながるものがあるかなと思ったけど……これは、収穫なしかな」
 続いて呟かれたその声には、僅かに落胆の響きが感じられた。
「……柊みすずは?バリバリ恨んでる感が出てますけど」
「ない。山野の失踪時、柊はすでに国内にいなかったから――ん?」
 陽介の言葉に答えながらも、視線を巡らせていた足立は、小さく首を傾げる。
 ベッドの枕元にたたんで置かれた、二十代後半の女性の部屋には不似合いな衣服。
「……セーラー服って……そういう趣味でもあったのか?」
「いやいやいや。学生時代に戻りたい、とかそういう心理じゃないですか?」
 何とも複雑そうな表情で眉を寄せる足立に、陽介は別の解釈を投げる。
「あー、まあそれはあるかも……さっきも言ったけど、彼女、追い詰められてたみたいだし」
「――アダッチー!」
 頷きかけた足立を、それまで黙ってきょろきょろしていたクマが突然呼んだ。
 その緊迫した声音に、そちらを振り返れば、クマは部屋の入口を見つめて叫ぶ。
「シャドウがこっち来る!二体!」
「――下がって!」
 即座に足立は陽介たちを背に庇い――それとほぼ同時に、二つの影が部屋へと踊りこんできた。
 赤を基調としたマーブル模様の球体。背には仮面、正面には不気味に裂けた赤い唇。
 笑みの形に開いた口から異様に長い舌を伸ばしたその異形は、真っ直ぐに足立へと襲い掛かり――
「――イザナギ!」
 足立がいつの間にか手にしていたカードを握り潰すと同時、現れた黒衣の剣士がその前に立ちふさがる。
 向かってくる一体に向けて、刺突一撃。敵を串刺しにした刃を、勢いよく一閃する。
 遠心力で刃から抜けたシャドウは、後に控えたもう一体へと派手にぶつかり、消滅。その勢いで、残ったもう一体も壁へと突っ込んだ。
「――ジオ!」
 足立の言霊と共に、剣士は手にした刃から雷光を放ち――狙い過たず直撃したその一撃に、残ったシャドウも黒い霧と化して消滅した。
「……すげぇ……」
 ただ見ているしかできなかった陽介は、呆然と感嘆の言葉を紡ぎ――

『――ホントにな。庇われてばっかのお前とは大違いだ』

 嘲笑うような声が、それに応えた。

 三対の視線がその声の主を振り返る。先ほどまでは確かに無人だったベッドの上に、その声の主は腰かけていた。
「――お前は……」
 その姿に、陽介は目を見開く。――覚悟していたはずなのに、目の当たりしたソレは、あまりにも衝撃的だった。
『――よう、“俺”』
 そう言って、金の目の“自分”は、嗤った。
「……良かったぜ、出て来てくれてさ」
 歪んだその嗤いに呑まれまいと、陽介は笑う。
 しかし、そんな強がりなどお見通しという風に、“影”は嗤いながら立ち上がる。
『声、震えてるぜ?臆病者の癖に強がんなよ、“俺”』
「……臆病者……?」
 思わず眉を寄せた陽介に、“もう一人”の自分は滔々と語る。
『一人が怖いから、うざがられてるって知っててもお節介焼いて。田舎暮らしにうんざりしてるくせに、黙っていい子のふりして親の仕事を手伝って――しょうがないよなぁ、家族にまで嫌われたくないもんなぁ?』
 じわり、と汗が額に滲む。違う、と叫びそうになる唇を噛む。
『一人は怖い、嫌われたくない――だから、必死で良い人のふりをしてる、臆病な偽善者』
 自覚していなかった――否、見ないふりをしてきた自分の暗部。それを暴かれることは、想像以上に深く胸を抉った。
『けど、そんな臆病な自分なんか絶対人に見せたくない、カッコつけの見栄っ張り。特別な何かに憧れる、ヒーロー願望丸出しのお子様!』
 “影”の言葉は、さらに勢いを増し、高らかに嗤う。
 だが――
『“大好きな先輩が被害にあった”って大義名分掲げてこっちに来れてわくわくしたよなぁ!?ペルソナなんてわかりやすく特別な力が手に入るかもって、期待したよなぁ!?――ヒーローになれるんじゃないかって、心の底では喜んでたよなぁ!』
「――くっ……」
 “自分”の言葉に耐えかねて、陽介の唇から声が漏れ、肩が震えた。身を抱えて縮こまる様に、身体が“く”の字に折り曲がる。
「ヨ、ヨースケ――」
 クマの案じるような声が、最後の堰をぶち破った。

「――くっ……ぶふッ……あっはははははははははッ!」

 完全に体を折り曲げて、ダンダンと床を蹴って笑い転げる。
「ヨ、ヨースケ!?壊れたクマか!?」
 焦ったようなクマの声。見れば、もう一人の“自分”すら、唖然とした表情でこちらを見つめていた。
「いや、違うでしょ」
 どこか呆れた調子の足立の声。――ああ、多分自分と同じ感想なんだろうな、と思って、それがおかしくて陽介は更に笑う。
『――何が可笑しいんだよ』
 不機嫌な“自分”の声。それが余計に可笑しくて、笑いが治まらない。
「――だ、だって……おま……ダサすぎるっつーか……小っちゃすぎるだろ、俺」
 笑いの発作の合間合間に、ようやっと言葉を返す。
「こ、心の闇とか、見たくない汚い部分とかって言うから、どんなヤバいのが来るかと思えばっ……『ビビりでカッコつけなヒーロー気取りのお子様』って――拍子抜けすぎるだろ、おい!」
 ――全く堪えなかった、と言えば嘘になる。
 ダサいし、痛いし、格好悪すぎて正直認めたくないが――同時に、これ以上なく安堵したのだ。

 ――田舎暮らしへの不満から、知らず知らずのうちに親を憎んでるんじゃないか、とか。

 ――迫害される痛みから、この町の破滅を本心では望んでしまってないか、とか。

 自覚してないだけで、実は心の奥底に怨嗟を溜め込んでいるんじゃないかと、戦々恐々としていたのに。
 ――結局、自分はそういう憎悪すら抱けないほど、『ビビり』だったわけだ。
 嫌われたくないから、嫌えない。そんな臆病者。

(……そういう、お人好しなビビりなら、そんなに悪くねぇじゃん)

 そう、素直に思えた。

「……ヒーロー気取り?お子様?結構じゃねぇか。先輩は、俺のそんな部分、とっくにお見通しだろ。――それでも、そんな俺のことを、好きだって言ってくれたんじゃねぇか」

 不敵な笑みを浮かべて、陽介は宣言する。

「お前は、俺だ。――先輩が好きだって言ってくれた俺の一部だ」

 手を、差し出す。

「一緒に行こうぜ、“俺”。――あの人のところにさ」

 その言葉に、“自分”は金の瞳を見開いて――嬉しそうに、陽介の手を取った。

『……この、カッコつけが』
「――それが、俺だろ?」
 笑みを含んだようなその言葉に、笑ってそう返せば――“自分”は蒼い粒子と化して、宙に舞う。
 解けた粒子は再び集い、新たに別の形を成した。

 ――蛙を模した仮面をかぶり、その両手に十字手裏剣を思わせる刃を張り付けた、赤いマフラーを靡かせる、ヒーロー。

「――ジライヤ」

 その名を告げると同時に、その姿は一枚のカードとなり、舞い落ちた陽介の手の上で解けるように消えた。

 途端に凄まじい脱力感が全身を襲い、陽介は思わずその場にへたり込む。
「ヨースケ!」
 慌ててクマが駆け寄ってくる。短い手で懸命にこちらの身体を支えてくれた。
「……悪ぃな、クマ」
「直後はきついんだよねぇ。ま、寝れば治ると思うよ」
 他人事のような口調とは裏腹に、実感のこもった足立の言葉。
「――テストは合格っすか?」
「そうだね。文句なし、及第点だ」
 にやりと笑って問えば、やはりにやりと笑って返され――手が差し伸べられる。
 一瞬きょとんとその手を見つめ――陽介は破顔してその手を取った。力強く手を引かれ、立ち上がる。
「で、クマ君。ちょっと聞きたいんだけど」
 陽介から手を放した足立は、そう言ってクマに向き直った。
「ん?何クマか?アダッチー」
「さっきのシャドウ、何で僕らを襲ってきたの。霧も出てるし、否定されて暴走したって訳でもないのに」
「――あ」
 言われて見れば当然の疑問に、陽介も思わず声を上げた。
「多分、こっちを調べ回ってるボク達を敵と見なしたか、ペルソナの気配を本能的に恐れて排除しようとしたかのどっちかだと思うクマ」
「……どちらの理由にせよ、僕らがこちらを調べる限り、シャドウに襲われるってわけだ」
 思案気に足立は呟く。
「でも、そういう理由なら、誰かにこっちに放り込まれただけの人の場合、『霧がある間は基本襲われない』っていうのは変わらないって思っていいですよね」
「そうだね」
 陽介の言葉に、足立は微かに笑って頷いた。
「じゃあ、行こうか。陽介君、消耗してるし、ペルソナの気配につられてシャドウが集まってきても面倒だ」
 足立は言うなり、一人でさっさと歩き出す。
「……ちょっ……普通ここは肩とか貸してくれるところじゃ!?」
「そうクマ!陽介ふらふらクマよ~!」
「クマ君がんばって~」
 ははは、と楽しそうな声で笑う猫背の後姿が、ドアをくぐって廊下へと出て行った。
 残された一人と一匹はしばしその場に呆然と立ちつくす。
「……ひ、ひでぇ……」
「ヨ、ヨースケ、頑張るクマよ!」
 呻きつつ、思わずクマにもたれかかる。励ますようなクマの声。
「――何やってんの、早く来ないと置いてくよ」
 と、そこに、ドアの向こうから呆れた声が届く。――何だかんだ言って、ドアを出てすぐのところで待っていたらしい。
 ――ヘロヘロになっても肩は貸してくれないけど、へたり込んだら引き起こしてくれて、さっさとこちらに背を向けてしまうかと思えば、すぐ近くでちゃんと待っていてくれる。
 こちらを気遣ってはくれる。けれど、決して甘やかしてはくれない。
 どこか突き放したような態度を見せながら、決して置き去りにするようなことはしない。
 それはきっと、相手がきちんと自力で進めるようにという、とてもわかりにくい大人の優しさ。――もしかしたら、やってる本人も自覚してないかもしれない。

(……マネできねぇなぁ……)

 そう思う自分は、やはり子供なのだろう。けれど、それでいいのだとも思う。

(――俺は、俺。それでいいんだ)

 金の目をした自分も、赤マフラーのヒーローも、今、ふらふらになっている自分だって ――あの人が好きだと言ってくれた自分なのだから。

(いつか、俺なりの形で、あの背を越えてみせるさ)

 そう、思った。

 * * *

 陽介と共にテレビから出た足立を出迎えたのは、閉店間際のアナウンスだった。
 ジュネスは二十四時間営業を売りの一つにしているが、それは食品売り場に限っての話。他のエリアは21時に閉まってしまう。
「ああ、もうこんな時間か」
「結構長く居たんだ……」
 足立の呟きに、やや呆然とした陽介の声が重なる。
「じゃ、まあ、時間がないから手短に。――さっきも言った通りテストは合格。君も“あちら”での捜査に参加してよし、ということで」
「あ、はい!ありがとうございます」
 勢い良く頭を下げた陽介に、足立は苦笑する。
「礼を言われることじゃないよ。僕にとっても好都合だしね」
「……人手は多い方がいい、ってことですか?」
 軽く首を傾げながらの陽介の言葉は、間違ってはいないが、それで全部でもない。
「もし、またあちらに人が放り込まれたなら、僕ももちろん助けに行くつもりだよ。けど、社会人である以上、携帯に出られないこともあるし、身体が空かないことも多いわけ。『理由は言えませんが捜査会議欠席します』とかやったら、怒られるってレベルじゃないでしょ?」
「まあ、学校サボるのとはわけが違うもんな……」
「そういうこと。でも、霧は待ってくれない。――いざとなったら、暁ちゃんは一人ででも助けに行っちゃうと思う」
 ――約束はしてくれた。『次からは待つ』と。でも、そこに人命がかかっているなら、彼女はきっと、一人ででも動かずにはいられない。
 もちろん、そんな事態になれば、足立も馘覚悟で仕事を放りだし、暁と一緒に行くつもりだが――『会議中で電話に出られず、そもそも連絡を受け取れない』などという状況もありえる以上、保険をかけておくに越したことはないのだ。
 足立が告げた言葉に、陽介は察したように目を見開いた。
「……つまり、俺は神代の護衛役?」
「ま、そういうこと。――君は他にちゃんと本命がいて、その人一筋みたいだし。そういう意味では安全パイ。その彼女を庇った件からして、土壇場での行動力もある。話した感じ、性格も悪くないし、それなりに正義感もあるようだし。まあ、君なら合格かな、ってね」
 笑いながらそう告げて――それから、真顔で告げた。
「僕にとって暁ちゃんは、君にとっての小西さんだよ。――その護衛を頼むって言ってるんだ。……この意味は分かるよね」
 陽介は一瞬息を呑み――すぐに表情を改めて、頷いた。
「――はい、任せてください」
 信頼に応えようとする、固い決意のこもった言葉。
 その言葉が呼び水となったように、脳裏に響く声。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者との絆に、“魔術師”のペルソナを見出さん≫

 知性の光を宿す緑の瞳に、胸元の白ぶちが映える漆黒の毛並。長靴をはいた後脚だけで立ち上がり、マントを羽織った猫の妖精。

『――オイラはケット・シー!今後ともよろしくニャー!』

 ――ペルソナ、“ケット・シー”。

「……足立さん?」
「ああ、いや――なんでもないよ」
 脳裏に浮かんだ『新たな可能性』に一瞬呆けたのを訝しんだらしい陽介の声に、苦笑して首を振る。
 そうして、改めて告げた。
「――改めてよろしく、助手君」
「はい!よろしくお願いします、足立刑事!」
 ノリのいい少年は、下手くそな敬礼付きで、そう答えてくれた。



――――――――――――――
≪ペルソナ解説≫
以下は、この話に登場したオリジナルペルソナの紹介です。
殆どゲーム的なデータで、読まなくてもストーリー的に支障はないので、興味ない人は読み飛ばしちゃってくれていいです。

名前:ケット・シー   持ち主:足立※
初期レベル:3   アルカナ:魔術師
耐性:風 弱点:闇

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
ガル(-) スクンダ(-)
プリンパ(4) 混乱成功率アップ(5)
ハマ(6)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 デクンダ(8)
Rank2 マハガル(14)
Rank3 ハマ成功率UP(19)
Rank4 ガルーラ(22)
Rank5 コンセントレイト(25) 
Rank6 テンタラフー(30)
Rank7 ハマオン(34)
Rank8 マハガルーラ(38)
Rank9 疾風ブースタ(41)
Rank10 ペルソナ“アールヴ”に進化する

【設定】
“花村陽介”との間に発生した“魔術師”コミュによって生まれたペルソナ。
外見は、緑色の目をした、胸元に白ぶちがある黒猫。赤いマントを羽織り、長靴をはいた後脚だけで立っている。
スコットランド伝承に登場する猫の妖精。二本足で立ち、人語を介する。自分たちの王国を持ち、王や王妃、一派民衆といった階級があるらしい。人間の前では普通の猫のふりをしているが、ついうっかり、人前で人語を話したり、後脚だけで歩いてしまうことも。
基本的に人間へ危害を加えることはないが、猫を虐待した者に関しては例外。自分たちの王国に連れ込み、報復するという。猫をいじめてはいけません。
進化後の“アールヴ”については、“アールヴ”の欄で後日別途解説。



[29302] 9章.霧の舞台は誰を招く
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/12/03 16:30
「お、今日は肉じゃがか。……暁はいい嫁さんになれるな」
「そんな……でも、ありがとうございます。――菜々子ちゃんも手伝ってくれたんですよ」
「おう、そうか。えらいぞ、菜々子」
「えへへ……」
 昨夜は日付が変わってから帰宅した堂島だったが、今日は夕食時に遅れず帰宅でき、娘たちと共に食卓を囲んだ。
 和気あいあいとした団欒は、しかし、テレビから響いてきた音声によって邪魔される。
『先日遺体で発見された山野真由美アナ。その第一発見者の高校生が、昨日の午後五時頃、衰弱した状態で発見されました。彼女はその朝から発見時までの記憶がなく、その間の足取りが不自然に途切れていることから、警察では山野アナ殺害の一件との関連性も視野に、拉致事件として捜査を――』
「ちっ……もう、情報が漏れたのか……」
 小西早紀に負担がかからぬよう、マスコミに情報が漏れないよう気を遣っていたのだが、一日しか持たなかったらしい。
「……暁、お前もマスコミには気をつけろよ。倒れてた小西早紀の第一発見者ってだけで追っかけまわされるかもしれん」
「あ、はい。――あれ?」
 堂島の言葉に頷いてから画面に目を戻した暁が、軽く首を傾げる。
 小西早紀の一件の報道は終わり、続いて映ったのは、見覚えのある旅館。
 それを背景に佇む、和服姿の少女。
「――雪子?」
 天城屋旅館の一人娘を見て、暁が驚いたような顔をする。――そう言えば、彼女と姪は同じ高校だった。いつだったか、一緒に歩いているのを見たような気もする。
「友達なのか」
「はい……」
 堂島の問いに頷きながら、暁は表情を曇らせる。
 無理もないと、堂島も眉間にしわを寄せる。画面の中の少女は、マスコミに囲まれ、セクハラまがいのインタビューを受けていた。――山野アナの一件で母親が倒れたというのに、この上これでは彼女もたまるまい。
「――この着物のお姉さん、お姉ちゃんの友達?……いじめられてるの?」
 堂島と暁の表情を見てか、菜々子も心配げな表情になった。
 と、そこでやっとインタビュー映像が終わり、困惑しきった天城雪子の顔が画面から消えた。
(……本当に、こういうマスコミは性質が悪い)
 せっかくの旨い飯を台無しにされて、堂島は不機嫌にため息を吐いた。


 やや後味の悪い夕食の後、暁が改まって堂島に声をかけてきた。
「あの……ちょっと、見てもらいたいものがあって……」
「――なんだ?」
 わざわざ菜々子が風呂で席を外しているタイミングでの、この言葉。よほどのことだと堂島は身構える。
「――これ、なんですが……」
 おずおずと姪が差し出してきた一枚のカードに、堂島の表情は自然と険しくなった。
 トランプよりやや縦長のカードに描かれているのは、『XIII』の文字と、ガランドウの眼でこちらを見据える髑髏ドクロ、斜めに交差した二本の鎌。
 どう見ても、縁起のいいものには見えない絵面。
「私も今日、菜々子ちゃんから聞かされたんですが……昨日、菜々子ちゃんが帰宅した時に、それがポストに入っていたらしいんです。昨日は私も叔父さんも帰りが遅かったから、言い出せなかったみたいで」
「……そうか」
 こんな気味の悪いものを見た上、家族にも言えないなど、幼いあの子には相当なストレスだったろうに――そう思って、堂島の眉間の皺がさらに深くなった。
 まじまじとその元凶を睨みつつ、なじみのないその代物に軽く首を傾ける。
「……しかし、こりゃ、何のカードだ?トランプじゃないだろうし……」
「あ、タロットのカードですよ。えっと、占いとかに使う……」
「――ああ、あれか。……しかし、良く知ってるな、暁」
 すかさず答えた姪に、感嘆の声が漏れた。――少女らしく占いに興味があるのだろうか、などとそんなことも思う。
「占いに使うものなら、このカード自体にも意味があるんだろうな……絵面的に、あまりいい意味じゃなさそうだが」
 思わずぼやくような形になった堂島の呟きに、暁がおずおずと答える。
「えっと、それは13番のカードですから、『The Death』……『死神』の、カードです」
 告げられた不吉な単語に、堂島は思わず片眉を跳ね上げた。
「――死神?」
「……占いによっては必ずしも悪い意味とは限らないカードですけど……単体だと、やっぱり、名前の通りの意味になると思います……」
 歯切れ悪く告げられる姪の言葉。
 ――『死』を意味するカード。
 そんなものを他人の家のポストに放り込むなど、悪意しか感じられない。
「……そりゃあ、悪戯にしても随分性質が悪いな」
 ため息まじりに呟いて、堂島はカードを持ったままソファから立ち上がった。
「……正直、気分のいいものじゃないし、ここの所、物騒な事件が多いから気を付けるに越したことはないが……あまり気にするな。ようは『不幸の手紙』みたいなもんだろ」
 笑みを浮かべて見せながら、座布団の上に正座した姪の頭をぽんと叩く。
 正直、うまく笑えた自信はなかったが、それでも姪は安堵したように微笑んでくれた。
 寧ろ、堂島の方がその笑みに安堵させられ、今度こそ自然に笑いながら告げる。
「菜々子にも、寝る前にただの悪戯だと話しておくさ」
「はい、お願いしますね。叔父さんからそう言ってもらえれば、菜々子ちゃんも安心するでしょうから」
 暁の言葉に頷きを返してから、堂島はリビングを出る。
 廊下を歩みながら思うのは、このカードが『ただの悪戯ではなかった場合』の可能性。
 『死』を意味するカード。その意味を、単純に捉えるなら。

(――『殺してやるぞ』という、犯行予告……)

 二十年近く刑事という職に就いてきた自分。それこそ、犯罪者やその関係者からの逆恨みの種なら腐るほど持っている。
 ましてや、今は町で起きた殺人事件の捜査を担当している。その犯人に狙われる可能性だってゼロではない。
 ――『怨嗟』も『殺意』も、向けられる覚悟はできている。
 だが、その覚悟は――その『怨嗟』や『殺意』が、堂島本人に向けられることに限っての話。
(……もし、菜々子や暁が……俺の巻き添えで狙われたら)
 ぞっとしない想像を、堂島は強く頭を振って振り払う。
(――そんなことは、させない)
 家族を喪うような事態は、起こさせない。――絶対に。
(……もう、二度と、あんな思いはごめんだ)
 開いた襖の向こう。――和室の隅に置かれた仏壇。

「――千里……」

 思わず零れた呼びかけに、亡き妻の写真は、ただ黙って微笑みを返すだけだった。

 * * *

(……多分、あのカードって、私宛だよね……)
 菜々子に続いて入浴を終え、自室に戻った暁は、ソファに腰かけて一つため息を零す。
 『死』を意味するカード。それは普通に考えれば、犯行予告に類するものだろう。
 そして、そのカードが届けられたその日に、暁は何者かによって“テレビの中”へと突き落とされたのだ。
 タイミング的に犯行予告か犯行後のアピールかは判断しづらいところがあるが――どちらにせよ、あのカードに込められた『殺意』の矛先は暁のはずだ。
 しかし、わからないのは、『何故、自分が狙われたか』ということである。
 自分が誰にも全く恨まれないほど高尚な人間だとは思わないが、この町に来てまだ五日目。狙われた昨日の時点ではまだ四日。知り合いも多くないし、殺されるほど恨まれるような覚えはさすがになかった。
「……どういうことなんだろう……」
 考えても、全くわからない。本来なら、狙われたことも含めて叔父に相談すべきだったのだろうが、その手口が“テレビの中”がらみとなると、そうもいかなかったのだ。
(……足立さんに相談するべき、かな……)
 頼ってばかりで気が引けるが、足立はクマと共に“放り込み犯”を追っている。この情報を伝えることで、何か進展につながるかもしれない。
 そう思って、暁は携帯に手を伸ばし――そのタイミングで、携帯が着信音を響かせた。
「――っ!」
 思わずびくりと肩を震わせてから、恐る恐る携帯を手に取り――ディスプレイに表示された名前に目を瞬く。
「……足立、さん?」
 このタイミングの良さは何なのだろう――などと思いつつ、通話を繋げた。
「もしもし」
『あ、暁ちゃん?足立です。遅くにごめんね』
 受話器越しに届くのは、申し訳なさそうな足立の声。
 気づけば時刻は既に十一時過ぎで、確かに電話するには遅い時刻といえる。
「あ、気にしないでください。……実は今、私も足立さんに電話しようかと思ってて……」
『え、そうなの?――あ、まさかクマ君の合図?』
 優しく柔らかな声音が、やや硬質のものに変わる。
「あ、いえ、違います。そうじゃなくて……えっと、その、先に足立さんの用件からどうぞ」
『え、でもこっち、かなり長い話になるし――いや……うん、わかった。じゃ、まず僕から話すよ』
 暁の言葉に一度躊躇を見せつつも、足立はそう切り出した。譲り合いの無限ループに入るより、結果的にその方が早いと判断したのかもしれない。
 そうして、足立から語られた内容は、要約してこういうものだった。
 今日、終業後に“あちら”を調べに行ったこと。その際、『この探索時にペルソナに覚醒できれば次からも探索に加わっていい。ただし、今回でそれが果たせなければ次はない』という条件で、陽介も連れて行ったこと。
 クマの話から、“あちら”で霧が晴れるのはこちらで霧が出る時であることと、“あちら”で亡くなった人の遺体は、何故か“あちら”に残らないことが分かったこと。
 その話の流れで、最初の被害者が山野真由美であることが発覚したこと。
 山野真由美が遺した『心象風景の具現』を調べている最中、“あちら”をうろつくシャドウに襲われたこと。そのことにより、探索者、もしくはペルソナ使いは、霧が出ていてもシャドウに狙われるらしいということが分かったこと。
 そのシャドウを倒したのち、続いて陽介のシャドウが現れたが、陽介はきちんとその影を受け入れ、自身のペルソナとしたこと。それにより条件を満たしたので、次からも陽介の同行を認めること――
『と、まあ、こっちはこんな感じ。――それで?暁ちゃんの方の用件は?』
「……実は――」
 自身の用件を語り終えた足立に促され、暁はおずおずとタロットカードの件を語る。
『――そうだね。暁ちゃんの言うとおり、犯行予告、もしくは犯行後のアピールだと僕も思う』
 話を聞き終えた足立の返答は、口調こそ軽いが、いつもより低い声音だった。
『けど、案外それは大きな手掛かりになるかも。――住宅街で見慣れない人間がうろついてたら、それだけで目立つ。目撃情報が出るかもしれない』
「そっか……そうですね」
 手がかりになったことに、暁はきちんと話してよかったと息を吐く。
 しかし、返ってきた足立の声は、対照的に暗いものだった。
『……脅かすつもりはないけど……くれぐれも気を付けてね。そこまで明確に害意を示してきてる以上、犯人にとって暁ちゃんは特別な意味を持つターゲットなのかもしれないから。――その理由はわからないけどさ』
 告げられた言葉から、こちらを案じてくれている色がはっきりと感じられて、そんな場合じゃないのに、暁は思わず嬉しくなった。
「はい。……心配してくれて、ありがとうございます」
『……い、いや、そんな改まってお礼を言われるようなことじゃ……っていうか、なんか、随分長電話になっちゃったね、ごめん。あははは』
 照れたような声音。それを誤魔化すような笑い。
 言われて見れば、既に時刻は零時に近い。窓の外から、ざあざあと砂嵐にも似た雨音が聞こえてくる。
「……マヨナカテレビ」
『――え?何だって?』
 思わず零れた呟きに、足立のきょとんとした声が返る。――そう言えば、彼とはマヨナカテレビのことを話したことがなかった。
「マヨナカテレビって、聞いたことありませんか?雨の夜の零時に、消えているテレビを一人で見つめていると、そこに運命の相手が映るって」
『……あー、なんかそんな噂、どっかで聞いたかも。ちょうど雨だし、時間も近いし、やってみようか?』
 笑みを含んだ足立の声。しかし、暁は一緒に笑えない。
「……一昨日、テレビに落ちちゃった時、私、マヨナカテレビの噂を試してたんです。――映像はずいぶん荒かったけど、映ったのは確かに小西先輩でした。私だけじゃなく、同じ日に試した千枝や花村君も、同じ映像を見たそうです」
『……どういうこと?』
 足立の声から、笑みが消える。
「それと……転校初日、マヨナカテレビを試して『山野アナが運命の相手だ』って言ってた男子の話も聞きました」
『……暁ちゃんの転校初日って……山野アナの遺体が発見された日?』
 はい、と頷くと、しばし思案気な沈黙がスピーカーの向こうに落ちる。
『……つまり、『テレビに放り込まれた被害者は、それ以前にマヨナカテレビに映ってる』ってこと?』
「ただの偶然かもしれませんけど……」
 足立の確認に、確信はないまま頷く。
『……偶然と考えるには出来過ぎてる気もする。けど、その法則が正しいなら、暁ちゃんは正真正銘例外ってことになる。――マヨナカテレビとやらに映ってないにもかかわらず、死神のカードを送りつけられた上に、テレビに突き落とされたんだから』
 思案気に紡がれる足立の声は硬い。
『……グダグダ考えてても仕方がない。今日もそのマヨナカテレビとやらの条件は満たしてる。とりあえず、試してみよう』
「――そうですね」
 頷いて、暁は時計を見る。――零時まで、あと三分。
『……『一人で見る』って条件があるみたいだけど、電話はどうなんだろうねぇ?一緒に居なきゃOKなのかな?』
「……言われて見れば、確かに……どうなんでしょうか?」
 ふいにおどけた調子に戻った足立につられ、暁も笑みをこぼす。――あと、一分半。
「……この際だから、このままで映るか試しませんか?」
『あはは、いいね』
 暁の提案に、足立の笑い声が返る。――あと三十秒。
 自然と会話が途切れ、電源の落ちたテレビに向けた視線に意識が集中し――
 かちん、という時計の針の音と共に、画面に砂嵐が走る。
『――映った!……そっちは?』
「あ、はい!映りました」
 足立の確認に応えながら、暁は画面を凝視する。
「……人影……ですか?これ……」
『……髪の長い……女性?……このシルエット、着物か……?』
 足立の言うとおり、荒い映像の中に映る人影は、髪の長い、着物姿の女性に見えた。
 しかし、色ははっきりせず、モザイクのような砂嵐のせいで詳細はまるで見てとれない。
 画面はしばらくざあざあと揺れる荒い画像を映しつづけていたが、映った時と同じように唐突に消えた。
『……少なくとも、暁ちゃんではなかったね。狙われたのに前後して映るなら、暁ちゃんが映るかとも思ったんだけど』
 思案気な足立の呟き。
『今浮かびあがってる事件関係者で着物の女性って言ったら、柊みすずだけど……どうも、彼女には見えなかったし』
「そうですね」
 足立の言葉に暁も頷く。テレビで見たことのある柊みすずはいつも髪を結いあげていたが、映像に映った女性は、長い髪をストレートに下ろしていた。
 と、ストレートの髪を下ろした着物の女性、というのが、暁の中で何やら引っかかった。
「……最近、どこかで見たような……?」
『え、ホント?誰?』
 思わず漏れた呟きに、足立が期待するような声をかけてくるが――あと一歩のところで出てこない。
「……ごめんなさい、思い出せません……」
『ああ、そんなに気にしないで!――僕の方でも調べてみるから!ね?』
 フォローしてくれる足立の慌てっぷりに、思わずくすりと笑みがこぼれてしまった。
「はい。ありがとうございます」
『いやいや、これもお仕事のうちですから。……っと、今日はもう話すこともなさそうだし、この辺でお開きにしようか』
 気づけば一時間近くの長電話である。かけてきた足立の電話代の負担に思い当たり、暁は慌てて頷いた。
「は、はい。――おやすみなさい」
『はい、おやすみ』
 就寝の挨拶を交わして、通話を終える。

 ――また、誰か“あちら”に放り込まれるのだろうか。

 そんな不安を胸に燻らせつつも、暁は明日に備えて就寝することにした。

 * * *

 千枝は、気が気でなかった。
 理由は、昨夜の『マヨナカテレビ』だ。
 何となく寝つけず、することもないので見ただけだったのだが――そこに映ったのは、良く見知った人物の姿だった。

(――あれは、雪子だった)

 粗い映像だったけれど、あの和服姿は、確かに親友のものだった。
 そうと悟った瞬間、脳裏に浮かんだのは、先日の暁の言葉だ。

 ――小西先輩が映ってたの。

 確かに、先日のマヨナカテレビに映っていたのは、早紀だった。
 そして、その話をしたその日に、彼女は“テレビの中”で見つかった。
 果たして、これは偶然だったのか?
 偶然などではなく、関連性のある事だったら?

(雪子も――“あっち”に放り込まれる?)

 そんな考えが浮かんで、ざあっ、と全身から血の気が引いた。
 先日ジュネスで見た、ぐったりと力なく倒れ伏した早紀の姿に、雪子の姿が被り、ぶんぶんと頭を振った。
 不安を払拭するためにメールを送るが、返事はなく――遅いから寝ているだけ、と自分をごまかすも、ろくに眠れなかった。
 登校しても、いつもなら自分より早く来ている雪子がいつまで経っても教室にやって来ない。
 下駄箱を見に行ったけれど、彼女の下駄箱には上履きが入ったままで、登校した様子がない。
(――まさか……)
 加速度的に膨らんでいく不安を抑えつけながら、教室に戻り――登校していた暁と陽介に詰め寄った。
「――暁、花村!」
「ぅうおッ!?」
「ひゃっ!――び、びっくりした……おはよう、千枝」
 驚いたように首を竦める二人に構わず、自身の用件を口早にまくし立てる
「ねぇ、雪子、見てない!?」
「え?……そういや、今日はまだ来てねぇな」
 教室を見渡しながら答える陽介。その横で、暁が首を傾げる。
「……雪子がどうかしたの?」
「……昨日、マヨナカテレビに映ってたの、雪子だと思う」
「――え!?」
 告げた言葉に、二人の顔色が変わる。
「あの着物、旅館でよく着てるのと似てるし、昨日やってたインタビューの中でも着てた」
「――あ……!そっか、それで見覚えがあったんだ……」
 千枝の言葉に、暁が声を上げる。
「心配だったから夜中にメールしたんだけど、返事来ないし……昨日、夕方会った時には、今日学校来るって言ってたのに……!」
 言うにつれ、嫌な予感が増してきて、だんだんと声が震えてくる。
「――もしかして、俺らの推理、どんぴしゃ……?」
「……推理?――推理って何!?」
「――ぐおっ!?」
「千枝、落ち着いて!」
 強張った陽介の呟きを聞き留め、思わず問い質す様にその襟元を引っ掴めば、暁が焦ったように止めに入った。
 暁の声で我に返り慌てて手を放せば、陽介は二、三回咳込んでから、千枝に向き直って説明しだす。
「……実は、マヨナカテレビに映った人間が、“あっち”に放り込まれてるんじゃないかって話をしてたんだよ。――まず、小西先輩がそうだったろ?……昨日調べて分かったんだけど、その前に映ったらしい山野アナも、実は“あっち”に放り込まれてたんだ。……偶然にしちゃ出来すぎだろ?」
 押し殺したような陽介の言葉に、ざあっ、と血の気が引いた。
「それって――雪子が“あそこ”に入れられるってこと!?」
「バカ!声がデケェよ!」
 陽介の一喝に、慌てて口を押える。
 集まったクラスメイト達の視線に何でもないと仕草で返すと、とりあえず視線の集中は霧散した。
「とりあえず、雪子に連絡が取れないか試すのが先だと思う。まだ決まったわけじゃないし」
「う、うん」
 暁の具体的な指示に、千枝は携帯を取り出して、まず雪子の携帯にかけるが、
「――留守電になってる……」
「じゃあ、お家の電話は?」
「雪子んち、今の時間じゃ誰もいないよ。旅館に出払ってるもん」
「なら、旅館の方にかけてみろよ」
 陽介の言葉に頷いて、天城屋旅館の番号を呼び出す。
「雪子……お願い……」
 祈るように呟きながら、1回、2回とコール音を聞いて――
『はい、こちら天城屋旅館でございます』
 通話がつながると同時に聞こえてきたのは、耳慣れた親友の声だった。
「あ、雪子!?よかった~、いたよ~!」
 思わず零れた安堵の声に、暁と陽介もほっとしたような表情を見せた。
『え、千枝?あ、ごめん、昨日学校行くって言ったのに急に休んだから心配させちゃったよね?』
「うん……」
『ごめんね、急に団体さんが来られて……手が足りなくなっちゃったの。明日も一日手伝いだけど、月曜には行けるから』
「うん、そっか……」
 緊張から解放されて、声が変に震える。それに気付いたのか、雪子が不思議そうな声をした。
『……千枝?何かあった?』
「あ、ううん、何でもないっす。またあとでメールするから……」
『そう?――じゃ、またね』
 通話を終えたのを見計らって、陽介が安堵した様子で声をかけてきた。
「天城、無事だったか」
「うん、急に団体さんが入っちゃって手伝わなきゃいけなくなったんだって」
「そっか、良かった……」
 暁も安堵した様子で呟く。
「要らない心配しちゃったよ~。――あんたのせいだからね!」
「悪かったって」
 思わず陽介に文句をつければ、苦笑を返され――しかし、その彼の表情がやおら真顔になった。
「――でも、まだ完全には安心できない。先輩も『マヨナカテレビ』に映った翌日の朝までは無事だった。天城も、これから拉致されるかもしれない」
「え……」
 “拉致”という穏やかならぬ単語に、千枝は目を剥く。
「“あっち”に放り込まれた被害者と『マヨナカテレビ』が本当に関連してるのかは、まだ確実じゃないが――それは俺たちで調べてみるから、里中は天城のこと気にかけといてくれ」
「わ、わかった!」
 親友に危機が迫っているかもしれないと聞いて、自分に否やはない。千枝は力強く頷いた。

(――雪子は、あたしが守るんだから!)

 千枝は両拳を握って気合を入れる。

 真実、親友を思う心の裏で――どろり、と暗い悦びが蠢いたことに、気づくことなく。

 * * *

 適当な理由をつけて堂島と別行動をとり、堂島宅周辺に不審者の目撃情報がなかったか聞き込みに出た足立は、途中、暁からの電話でその目的地を変えた。
「ごめん、お待たせ」
「あ、足立さん。お疲れ様です」
「お疲れっす~」
 ジュネスのフードコート、そこで待っていた暁と陽介の二人と挨拶を交わす。
「昨日映ってたの、天城屋の娘さんかもしれないって?」
 席に着きながらそう問えば、頷きが返される。
「気づいたのは私たちじゃなくて、千枝なんですけど」
「千枝……?――ああ、小西さんを見つけた時に、一緒に居た子か」
 記憶を探って、告げられた名前の主を思い出す。
「里中は天城とすげー仲良い親友同士なんです。その里中が天城を見間違えるとは思えない」
「なるほど、証言の信憑性は高いってことね」
「はい。――あ、その里中には天城の様子を見に行ってもらってます」
 陽介が告げたその証言者不在の理由に納得して頷き、足立は着いたばかりの席から立つ。
「とりあえず、天城屋の娘さんは千枝ちゃんに任せて、僕らは“あっち”の方を調べてみよう。そもそもマヨナカテレビと“被害者”の関連性もまだ確実じゃないからね」
 足立の言葉に二人も頷き、とりあえず家電売り場へ移動――したのだが。
「……何で今日に限って、こんな人が多いの」
 混みあうというほどではないが、人目を避けるのが難しい程度に客の姿が目につく売り場の姿に、足立は思わず眉を寄せた。
 家電量販店に比べてどうしても割高になりがちなために、普段は閑古鳥が鳴き、店員すら配置されてない売り場がどうしたことか。
「あー……しまった、今日家電セールだった……」
「……そういえばそんなチラシ、昨日来てたかも……」
 陽介が頭を抱え、暁が思い出したように呟く。――なるほど、この人の多さはセール効果らしい。
 しかし、だとすると、今日は一日この調子ということになる。
「参ったね……これじゃ“あっち”に行けそうもない」
「――あ、手だけ突っ込んでクマに声かけてみるのはどうですか?どうせ入り口でウロウロしてるだろうし」
「……そうだね、やるだけやってみるか」
 陽介の提案に頷いて、とりあえずいつもの大型テレビの前へと向かう。
「神代、そっち立って。足立さんはこっちで壁やってください」
「……壁って、万引きじゃないんだから……っていうか、君じゃ手入れられないでしょ」
 仕切る陽介に思わずツッコめば、待ってましたと言わんばかりの笑顔が返ってきた。
「実は、昨日の夜試したんですけど、俺、テレビ入れるようになったんですよ」
 え、と足立は思わず目を剥いた。
「多分、ペルソナに目覚めたからだと思いますけど――まあ、そういう訳だから、ここは俺に任してください」
 そう言って、陽介は画面へとその手を差し入れる。手招きでもするようにひらひらと手首を仰ぎ――
「――ぃでッ!?」
 突如、悲鳴を上げてその手を引っ込めた。
「ちょ、何事っ?」
「ど、どうしたの?」
「……あ、あのクマ、噛みやがったっ……!」
 周囲を気にして、暁と共にひそめた声で訊ねれば、半泣きの声でそう返される。――見れば、陽介の手にはくっきりと歯形らしきものがついていた。
「何やってんの、あのクマは……」
 思わず額を抑えつつ、足立はテレビに顔を寄せて声をかける。
「こら、クマ君。陽介君の手、噛んじゃだめでしょ」
『なになに?コレ、なんの遊び?』
 画面越しに返って来たのは、呑気な響きのクマの声。
「遊びじゃないの。――クマ君、今、そっちに誰かの気配があったりしない?」
『誰かって誰?クマは今日も一人で寂しん坊だけど?――むしろ、寂しんボーイだけど?』
「寂しんボーイって何!?つか、お前ボーイじゃなくてベアーだろ!」
 クマの良くわからない造語に、陽介が手をさすりながらツッコミを入れ――それから首を傾げた。
「てか、誰もいない……?マジで?」
『ウ、ウソなんてついてないクマ!クマの鼻は今日もビンビン物語クマ』
「……物語……?」
 クマの言葉に、暁が不思議そうに首を傾げる。――足立も後で知ったのだが、どうも足立の親の世代で流行ったドラマのタイトルをもじった台詞だったようだ。何でこのクマはそんなことを知っているのやら。
「――まあ、それならいいや。ありがとうね、クマ君。また近いうち、そっち顔出すから」
『およ?今日は来ないの?……わかった、バイバイ、また来てクマー』
 足立の言葉に、やや寂し気な声を返し――画面は沈黙した。
「――とりあえず、今のところ被害者は出てないってことみたいだね」
「そうですね。……でも、これから狙われるって可能性もある」
 足立の確認に、陽介が思案深げな言葉を吐く。――マヨナカテレビが映ってから犯人が動くなら、これから犯行が行われる可能性は十分ある。
 暁も同じ考えだったようで、「千枝に電話して、しばらく雪子のこと気にかけてくれるよう頼みます」と告げた。
「お願いね。――とりあえず、僕はそろそろ仕事に戻らないと」
「あ、はい。……お仕事、頑張ってください」
「――ありがとう。それじゃあね」
 暖かな暁の言葉を胸の中で噛みしめつつ、足立は仕事に戻るべく、その場を後にした。

 * * *

「――今夜も、雨」
 自室に戻り、窓越しに天気を確認して、暁は呟いた。
 テレビの中の様子を確かめた後、千枝に電話で確認した際には、雪子も無事だった。――やはり、マヨナカテレビと“被害者”に関係はないのか。それとも、映ったのは雪子ではなかったのか。
「……今日も映るのかな」
 ぽつりと呟いて、時計を見る。二本の針が頂点で重なるまで、あと僅か。
 ――今日もまた、映るのであれば、それで何かわかるかもしれない。
 カーテンを閉めてテレビの前に立ち、時が来るのを待つ。
 かちっ、と針が動く音がした。

 ざ、と電源の入っていない画面が、揺れ――

「――!」
 先日の砂嵐のような映像ではなく、鮮明に映った映像。
 そこに映っているのは――間違いなく、雪子だった。
 ピンクを基調としたドレスを纏った雪子が、マイクを手に、満面の笑みで告げる。
『こんばんは~!えっと、今日は私、天城雪子がナンパ!――逆ナンに挑戦したいと思いまーす!』
「……え?」
 暁は思わずきょとんと眼を瞬く。
 見れば、画面に左端には、『女子高生女将 突撃逆ナン大作戦!』とのテロップらしき文字まである。――完全に、バラエティ番組のノリだ。
(――え~っと……?)
 事態についていけず、呆然となる暁をよそに、画面の中の雪子は続ける。
『題して“ヤラセなし!突撃逆ナン!雪子姫の白馬の王子様探し”~!――も、超本気ぃ~!』
 ハートマークの飛びそうな声音で告げると同時、カメラアングルがバストショットからドレスの下の方を映すものに変わる。
 両足の付け根の間を抑えるような際どい仕草に、両腕で寄せられた胸の谷間を主張する映像が続き、その画に重なって雪子の声が響く。
『見えないとこまで勝負仕様、はあと、みたいな』
 そうして、再び満面の笑みのアップに戻ると、彼女はノリノリの様子で、
『もう、私用のホストクラブをぶっ建てるぐらいの意気込みで~!じゃあ、行ってきまーす!』
 ドレスの裾を翻して背を向けると、背後に建っていた西洋の城を思わせる建築物の中へと走り去っていった。
 ざ、と再び画面が揺れ――そこで、映像は終わる。
(……今の……?)
 暁は愕然と立ち竦む。
 普段の雪子からは想像もできないような言動に驚いたのもあるが、問題なのはそこではない。
(あの、お城――)
 と、暁が思考をまとめるより早く、足立からの着信があり、暁は咄嗟に通話を繋げた。
「――もしもし」
『もしもし、暁ちゃん?今の、見てたよね?』
 はい、と肯定を返せば、歯切れの悪い言葉が紡がれる。
『――天城雪子さん、だったよね……?なんか、前に旅館で話した時と、随分印象が違うんだけど……でも、名乗ってたし……』
 確認しながらも、『信じられない』といった調子の声音。――無理もない。暁自身、普段の雪子とかけ離れた様子に戸惑っているのだから。
「えっと……確かに、普段の雪子とはかけ離れた言動でしたけど……間違いなく、雪子でした」
『……そうなんだよねぇ……どういうことなんだか、これ……』
 暁の言葉に、足立は困惑したような声を漏らす。
 足立の言葉が途切れたのに、今度は暁の方から確認の言葉を紡ぐ。
「あの、足立さん――気がつきました?」
『え――何を?』
「あのお城の入り口――“あちら”の空や、建物の出入り口で見るのと、同じような色だったんです」
 赤と黒がぐるぐると渦を巻く、気味の悪い色彩。空間が歪んだような景色。
『――気づかなかった……だとすると、あの子はもう“あっち”にいるってことか……?』
 足立の声が緊張の色を帯びる。
「まず、それを確かめないと。とりあえず、千枝に電話して連絡取ってもらおうと思います」
『うん、わかった。――今日はもう遅いし、その確認を終えたら休んでね。明日は午後から捜査会議があるんで、僕は動けないんだけど……メールでいいからこまめに連絡くれると嬉しい。あと、“あっち”に行くなら、陽介君と一緒に行くんだよ。くれぐれも、一人で行かないように!』
 細々と釘を刺すような足立の言葉。けれど、無茶をした前科がある以上無理もないし、それでなくとも、真剣にこちらを案じてくれる彼の心遣いに、暁は感謝こそすれ、その言葉を疎むことなどできはしなかった。
「はい、わかりました。――おやすみなさい」
『うん、おやすみ』
 挨拶を交わして、足立との通話を切ると、暁は千枝の携帯番号を呼び出した。

 * * *

 千枝は唖然としていた。
 親友が関わるかもしれないと、今日も視聴した『マヨナカテレビ』。
 そのあまりの内容に、目玉が零れ落ちそうなほど瞼を見開いて、喉の奥から絞り出すように呻く。
「……あんじゃこりゃぁ……」
 『マヨナカテレビ』に映った、ありえない親友の姿。
 意味が解らない。理解ができない。映像が消えた後も、呆然と自室のテレビの前で座り込み――突如響いた携帯の着信音で我に返った。
「……も、もしもし?」
『あ、千枝?暁です』
 耳慣れたクラスメイトの声に、ようやっと意識がしっかりしてきて、千枝は短く息を吐く。
「暁……暁も、今の、見たの?」
『うん。――落ち着いて聞いてね』
 やおら真剣な声音を紡ぐ暁に、千枝は固唾を呑んで頷いた。
「う、うん」
『足立さんとも話したんだけど、――雪子は、もう“あっち”にいる可能性があるの』
 ――その言葉が何を意味するのか、一瞬理解し損ねた。
「――それって……テレビの中、ってこと!?」
『落ち着いて!まだ確実じゃない。――私はまだ雪子の連絡先知らないし、千枝に雪子の安否を確認してほしいの』
 思わず声を荒げた千枝に、暁はそう諭すように千枝の役割を話す。
「う、うん!わかった!」
『今日はもう遅くて身動き取れないし、明日の朝にジュネスで集まろう。花村君には私の方から連絡するから』
 雪子の安否を確認したらちゃんと寝てね、と言い残して、通話は切れた。
 即座に千枝は雪子の携帯を呼び出すが、今朝と同じように留守電につながるだけ。
 携帯がだめだとわかるなり、家の方に電話をする。――夜中に迷惑だろう、なんて考えはどこかに飛んでいた。
『もしもし?』
「あ、おばさん!?千枝です!雪子いますか!?」
 どこか疲れたような声で電話に出た雪子の母親に、千枝は単刀直入に用件を告げる。
 途端、ひゅっ、と息を呑むような音がスピーカー越しに届いた。
『――千枝ちゃんのところに行ってるんじゃないの……?』
「え……?」
 愕然と凍りつく千枝に、雪子の母は語る。
 今日の夕方、一番慌ただしい時間帯に、気が付いたら雪子の姿がなかったこと。
 夜になっても帰って来ず――ここの所疲れた様子だったし、手伝いが嫌になって千枝のところにでも行っているのではないかと思っていたのだという。
『千枝ちゃんのところにもいないなんて……』
 一体どこに、と震える声をもらす雪子の母に、千枝は返す言葉がない。

 ――雪子が、“失踪”した。

 先ほど暁から聞いた可能性が、より確実なものとなって千枝に圧しかかる。
『とりあえず、警察に連絡しないと……千枝ちゃん、ごめんなさい』
「え、あ、はい……」
 雪子の母の言葉に、震える声で何とか返答し、通話を切った。
「……雪子……」
 呆然と、呟く。

 小学生の頃からの幼馴染。無二の親友。――出会ったあの日、泣いている彼女を見て、自分が守ると誓ったのに。

 得体の知れない事件に、その親友が、巻き込まれた。

 彼女が危ないかもしれない――その可能性を聞いていたのに、仕事の邪魔になるからと、ちょっと彼女の顔を見ただけですぐに旅館を離れてしまった。
 『旅館にいる間は大丈夫だろう』なんて、根拠のない思い込みで油断して。

(――雪子に何かあったら、あたしのせいだ……!)

 深い自責の念が襲う。
 目から熱いものが零れそうになって、慌てて堪える。――ここで泣いたら、雪子は本当に帰ってこない気がした。
「――明日……」
 全ては、明日だ。そう自分に言い聞かせて、ベッドに入る。
 眠れなくても、目をつぶって、体を横たえて、体力を温存しなくては。

 ――親友を、必ず救い出すために。



――――――――――――――
<設定解説という名の言い訳>
以下はこのSSにおける満夜的設定解説……という名の言い訳です。
殆どゲームデータ的設定で、ストーリーにそれほど関連はしませんが、『コミュイベントの描写』に関しては、データに興味のない方も目を通していただけるとありがたいです

*コミュイベントの描写について
 足立のドローは1レベルごとにスキルが解放されたりレベルが上がったりするため、当初は1ランクアップ毎にきちんと描写する予定だったのですが、くどくなるうえに話のテンポが崩れるので、『舞台裏でランクアップしてたんだぜ』的な処理が発生することがあると思います。これは、足立が築いたコミュだけでなく、暁が築いたコミュに関しても同様です。
 7章での『暁の“審判”コミュ取得回想』のような例外(足立or暁視点で描写されたため、もう片方から視点描写が端折られる場合)はありますが、コミュ取得時とMAX時のイベントを舞台裏で済ませることはさすがにありません。ただ、全て1から10までコミュイベントを描写するのはまず無理だということを、先にお断りしておきます。
 ちなみに、足立の“女帝(暁)”コミュと暁の“審判(足立)”コミュは、連動して上がります。足立から見ればMAXなのに暁から見たらまだ6です、とか悲しすぎるので……

*足立のドローとコミュニティボーナスについて
 本編でも述べているように、コミュニティを築くことによってペルソナを得、コミュを育むことでペルソナも成長するというペルソナ能力。
 ドローのペルソナは、対応コミュランクがアップする度に、3レベルアップ分の経験値ボーナスを得ます。『絆と共に成長する』という演出でもありますが、ぶっちゃけ、救出活動でしかテレビに入らない(入る暇がない)足立と、クエスト物品回収などでもテレビに入る学生組との間に生まれてしまうだろう、経験値の差を埋めるための救済措置です。
 足立自身のシャドウから生まれたイザナギは、本来なら対応するコミュニティを持ちませんが、『事件の真相を追う過程で足立自身が成長する』という演出で、『自称特別捜査隊』の“愚者”コミュからボーナスが入る形になります。……友人に『なんでコミュで生まれたペルソナじゃないのに、イザナギまでコミュでパワーアップするの』とツッコまれて考えた後付け設定ですが(汗)ツッコまれるまで素で失念してましたorz

*イザナギの仕様と足立自身のレベルについて
 このSSでは『イザナギのレベル=足立自身のレベル』という設定です。『イザナギ=足立の半身』という演出ですが、これも学生組との経験値差分を埋めるための救済措置。ボーナスの入りようがない足立自身のレベルを、コミュニティボーナスの入るペルソナのレベルと連動させた結果です。
 ドローのペルソナは取得や所持にレベル制限はありませんが、ペルソナ所持可能数やHP・SPは足立自身のレベルに左右されるので、イザナギは嫌でもレギュラーにして育てないとまずい。そもそも所持ペルソナから外せない(消去できない)、という仕様になっています。

*ペルソナ所持可能数
 足立も暁も、ペルソナ所持数は原作の主人公と同じく、初期~Lv.19:6、Lv.20~24:8、Lv.25~29:10、Lv.30~:12(最大所持数)となっています。
 ただ、足立の場合は、常にイザナギで枠が一つ埋まっているので、自由にできる枠は5~11となります。



[29302] 10章.騎士のパラドックス
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/12/03 16:33
 足立透は、憂鬱なため息をつく。
 進展など期待もできない捜査会議に出席するため、暁との同行を諦めなければいけない自身の立場に。
 そして何より、先程耳にした、新たに県警から派遣されてくるという捜査指揮官の名前に。
「――橘“警視”、ねぇ……」
 口に出してみて、苦笑が零れた。
 かつては自分が一番の出世頭だったというのに、あっさりと追い抜かれてしまったものだ。
 橘総一郎――足立の同期であり、かつて本庁で出世を競っていた相手の一人だ。
 といっても、本庁時代、足立は橘と接触する機会は殆どなかった。
 というのも、橘はかなりクリーンな性格で、他者の足を引っ張ることよりも自身を伸ばすことに重きを置いており、駆け引きめいたものには一切関わって来ない人種だったからだ。
 ――他者を蹴落とす武器を持たない代わりに、他者に蹴落とされる弱味も持たず、脇で繰り広げられる策謀を横目に、ただ地道に経験と実績を蓄積していた男。
「――常に泥仕合の渦中にいた僕とは対照的だよなぁ……」
 そんな風に思って、苦く笑って――
「……何ぶつぶつ言ってんだ?」
「――ぅおあッ!?」
 背後から堂島に声をかけられて、足立は思わず飛び上がった。
「――びびびびっくりさせないで下さいよ!心臓に悪いなぁ!」
「いつまで経っても便所から戻ってこないから見に来たんだろうが。……洗面台の前に立ち尽くして、鏡相手にぶつぶつ言ってるお前の方が、絵面的によっぽど心臓に悪かったぞ」
 振り返って抗議すれば、半眼でそう返されて思わず詰まる。
 ――言われて見れば、鏡相手に会話していた先程までの自分は、不審者以外の何者でもない。
 引き攣った顔で乾いた笑いを漏らすしかない足立を、堂島はしばし呆れたような眼差しで見つめていたが――ふいに真顔になって訊いてきた。
「……県警から来る警視の件か?」
 同期なんだろ、と確認する調子で告げられる。
「ああ、まあ、はい。別に、僕の方からは特に思うところはないんですけど……」
「……そのわりにゃ、不審な言動だったが?」
 本音を返せば、疑うような眼差しを返される。
 それに苦笑して、足立は言葉を付け足した。
「……ただ、多分、あっちは僕を嫌ってると思うんで、面倒なことにならないといいなぁ~、と思ってただけですよ」
 クリーンな男。策謀を嫌う男。そんな彼から見て、本庁時代の足立の印象は最悪だったはずだ。
 その性格上、立場を利用して他者を不正に貶めるようなことはしないだろうから、ちゃんと仕事をしていれば変に絡まれないとは思うのだが――
(……“以前”の僕を知ってるやつに、“今”の僕を見られたら、変な風に勘違いされそうなんだよなぁ……)
 ――自尊心に満ち溢れ、そっくり返っていたような“以前”の自分。
 “それ”しか知らない相手が、今のへらへらした自分を見たら、確実に不審に思う。――かなりの確率で、『何かを企んでいるのではないか』と疑うだろう。
「……こういうのも因果応報って言うのかなぁ……」
 思わずため息まじりに呟けば、堂島が露骨に不安そうな顔になった。
「……お前、橘警視に何やったんだ……?」
「いや、何もしてないし、何もされてないんですけど。――そもそも“そういうの”に、彼は関わってこなかったんで」
 足立の端的な言葉に、何となく察したのか、堂島は納得したような表情を見せる。
「潔癖、ってやつか。……なるほど、お前とは反りが合わなそうだな」
「……間違ってませんけど、なんか釈然としないなぁ……」
 遠回しに腹黒と言われた気がして、足立は思わず眉を垂らした。
 ぼさぼさ頭をさらに掻き回して、苦笑交じりに告げる。
「――ま、揉めないように、適当に距離取って接しますよ。ちゃんと役割さえ果たしていれば、指揮官が一捜査官に絡んでくることもないでしょうしね」
 それは、楽観も多少は入っていたものの、十分常識的な判断だったはずなのだが――その判断は、あっけなく裏切られることとなる。


 きっちりとオールバックにした黒髪に、怜悧な印象のシルバーフレームの眼鏡。糊の利いたグレイのスーツを隙なく着込んだ、長身痩躯の男。
「今日からこの件の捜査を執ることになった橘総一郎です。どうぞよろしく。各捜査員の尽力に期待しています」
 会議冒頭、愛想こそないが、至極真っ当な挨拶を告げたその男は、次に一転して爆弾発言を口にする。

「――特に、足立警部。本庁時代のあなたの“優秀さ”は、よく覚えています。よろしくお願いしますよ」

 捜査関係者が一堂に会する会議の場で、いきなり名指しされた足立は――

「――は?」

 予想外のビーンボールに、間の抜けた声を漏らすことしかできなかった。

 * * *

 堂島は今日も仕事で、菜々子を一人で家に残すことに後ろ髪を引かれつつも、暁はジュネスのフードコートで陽介たちを待っていた。
「わり、お待たせ!」
 暁がドリンクを半分ぐらい飲み干した頃に現れた陽介は、何かを隠すように両手を背に回している。
「……どうしたの?」
 軽く首を傾げた暁に、陽介はにんまりと笑って告げた。
「バックヤードからいーもの見っけてきたんだ」
 見てみ!と声をあげながら、陽介が掲げた『いいもの』を見て、暁は思い切り目を見開いた。
「どーすかコレ!」
 ――どうも何も、拙いと思う。
 そう思うのに、戸惑いにふさがれたように言葉が出ない。
 陽介が両手に持っていたのは、抜き身の日本刀と鉈だった。
「いくらペルソナあるからって丸腰じゃ心もとないから、武器になりそうなもの見繕ってきたんだ。刃はついてないけど作りがしっかりしてるし、握りとかある分、ただの棒切れとかよりゃいいかなーって」
 『刃はついてない』という陽介の言葉に胸をなで下ろしかけた暁だったが、次の瞬間、陽介の背後に見つけた制服姿に顔を引き攣らせた。
「――あ……」
「……ん?どした――」
「――そこの少年、何をしている!」
 首を傾げかけた陽介の言葉を遮るように鋭い声がかかり――それに振り返った彼も顔を引き攣らせた。
「げっ……お、おまわりさん……!」
「その物騒なものを床に置きなさい!――キミ、早く彼から離れて」
 制服警官は陽介にそう一喝してから、暁の方に視線を向けて避難を指示する。――なるほど、傍から見れば、刃物を持った少年が少女に迫っている図だ。
「いやっ!あのこれは違くて!――な、なあッ、そうだよな神代!」
「えっ?――あ、うんっ」
 混乱した陽介が、慌てて弁明しながら暁を振り返る。暁も慌てて頷くが――
「刃物突き付けた状態で何が『違うよな』だ!――キミ、今助けるからな!」
 振り返った拍子に彼の手にした日本刀の刃先が、座った暁の眼前に突きつけられる格好になってしまい、その証言には説得力の欠片もなかったようだ。
「ああああああああ、マジで違うのにーッ!」
「ふ、振り回すなぁ!――こちら、ジュネス屋上フードコート!応援を頼む!刃物を所持した不審な少年が、少女を人質にとり――」
「は、花村君、落ち着いて!まず、それ、床に置いて!」

 ――結局、混乱に陥ったその場が完全に収拾するまで、一時間近くの時間を要した。

 最終的には、刃物が模造品だったことと、被害者と思われていた暁の証言によって、陽介がしょっ引かれることは免れたが、こっぴどく叱られた上に、武器は没収されてしまった。
「……つ、疲れた……いきなり疲れた……武器も持ってかれちまうし……」
「自業自得だろが!こんな目立つとこで武器振り回すとか、何考えてんの!?」
 丸テーブルに顔を押し付けるように突っ伏しての陽介の呻き声に、千枝が容赦ない叱責を叩きつける。
 彼女からして見れば、待ち合わせ場所に来てみれば、何故だか待ち合わせ相手が警官に囲まれているという謎の状況だったのだから、怒るのも無理はないだろう。
 ――しかも。
「――ホントに雪子がいなくなっちゃってるって言うのに、こんなくだらないことで時間浪費して!」
 そこに親友の安否が関わってくるとなれば、千枝がカリカリするのも無理はないことだった。
「……ご、ごめんね、千枝……私がちゃんと最初にお巡りさんに説明できればよかったんだけど……」
 申し訳なさで暁が思わず項垂れれば、千枝は慌てて頭を振る。
「あ、暁が謝ることじゃないよ!このバカが勝手にやったんだから」
「バ、バカって……でも今回ばかりは否定できねぇ……」
 千枝の言葉が刺さったように、ますます落ち込む陽介。
「とりあえず、ここで座り込んでても仕方ないよ。――状況的に、雪子が“あっち”に居るのは間違いない。助けに行かないと」
「――あたしも行くからね!」
 陽介を促すつもりで告げた言葉に千枝が食いつき、暁は思わず目を見開いた。
 突っ伏していた陽介も勢いよく身を起こし、声を荒げる。
「――おまっ……何言っちゃってんの!?ダメに決まってんだろが!」
「そ、そうだよ!危ないよ、千枝」
 暁も一緒に止めるが、千枝は決して頷こうとしない。
「雪子が危ないってのに、一人で安全なところで待ってなんかいられないよ!」
「……あのなぁ、気持ちはわかるけど、こればっかりは無理だって。俺らはもちろんだけど、何より足立さんが絶対許さないと思う」
 真顔になって陽介は言い諭すが、千枝はその言葉に眉を吊り上げた。
「何でよ!花村は『小西先輩のために』って理由であっち連れてってもらえたんでしょ!?あたしだって、雪子のためだよ!」
「そういう問題じゃねぇよ!」
「じゃあどういう問題なのさ!あたしが女だから!?絶対あたしの方が花村より強いよ!」
「それは否定しねぇけど、そうじゃねぇんだっての!……ああ、くそっ!うまく言葉できねぇなっ」
 息巻く千枝に怒鳴り返しながら、陽介は苛立たしげに吐き捨てる。
「意味わかんないし!……花村じゃ話になんない!暁、足立さんに連絡取ってよ」
「えっ?――わ、わかった」
 二人の口論に呑まれて口を挟めずおろおろしていた暁は、突如千枝に声をかけられ、反射で頷いてしまった。――心のどこかで、足立ならうまく千枝を言い諭してくれると思ったのもあったかもしれない。
 携帯を取り出し、足立の番号を呼び出す。ややあって、通話が繋がった。
「もしもし、暁です」
『……もしもし、どうしたの?』
 返って来たのは、不自然にひそめられた足立の声。後ろで複数の声が飛び交っているのがスピーカー越しに察せられた。
「え、えと、もしかして、今、電話拙いですか……?」
『あー……うん、ごめん。捜査会議中。……なので、小さめの声で、手短にお願い』
 合わせるように声量を絞って問えば、返って来たのはほぼ予想通りの言葉だった。
「あ、は、はい。――実は、千枝が」
『――絶対ダメ』
 皆まで聞かず、足立はそう断言した。
『今は詳しく説明できないけど、陽介君を連れてった時と今回じゃ、まるで状況が違うから。余計な人間連れてっちゃダメだよ。わかった「――足立警部、会議中は携帯を切っておいて下さい」――うわごめん、切るね!』
 有無を言わさぬ口調にかぶさるように、知らない男の声が入ってくる。慌てたような足立の声を最後に、電話は切られてしまった。
 暁は通話の切れた携帯を、思わず呆然と眺め――千枝に声をかけられて我に返る。
「――どうだった?」
「……捜査会議中だったみたいで詳しい理由は聞けなかったけど……ダメだって」
 暁が伝えた足立の答えに、千枝はショックを受けたように顔を歪めた。
「――なんで……?なんで花村はいいのに、あたしはダメなの!?」
「え、えっと……『花村君を連れてった時と今回とじゃ、全然状況が違うからダメ』って」
「意味わかんない!何が違うの!?」
 千枝は納得できない様子で頭を振る。その問いに、暁は答えられなかった。
 暁にも漠然と足立たちの言う『状況の差』のようなものは感じられるのだが、うまく言葉で説明できない。――曖昧な説明では、千枝はきっと納得してくれないだろう。
 と、そこで陽介が苛立ったようにテーブルを叩き、声を荒げた。
「――ああ、もう!いい加減わかれよ!お前がここでごねればごねた分だけ、俺らも助けに行けなくて、天城はあの中に閉じ込められっぱなしになるんだぞ!それでいいのかよ!」
「……そ、それは……」
 キレ気味な陽介の一喝に、千枝が初めて怯んだ。
「いいからお前はこっちで大人しく待ってろ!――行くぞ、神代!」
 苛立ちを隠しもしない荒い仕草で陽介は立ち上がる。――それは、千枝に、というより、巧く理由を説明できない自分自身に向けたものに見えた。
「――ごめんね、千枝」
 項垂れる千枝へそう詫びてから、暁も陽介を追ってフードコートを後にした。

 * * *

 立ち去っていく友人たちの背を呆然と千枝は見送った。
 得体の知れない感情が胸の中でぐるぐると渦巻いて、吐き気がする。

 ――親友が危ないというのに、どうして自分はここでじっとしていなければならない?

 危ないから?“ペルソナ”がないから?――ならば何故、陽介は連れて行ってもらえたのか。
 一度、酷い無茶をして重傷を負った彼が良くて、どうして自分はダメなのか。

 ――わからない。

 嫌がらせとか贔屓とかでないことはわかる。彼らはそういう人間じゃない。純粋に、自分を案じて止めてくれているのだとわかってはいるのだ。
 それでも――

 ――感情が、納得しない。

 掌に爪が食い込むほど強く拳を握りしめ、立ち上がる。

(――ただ待ってるなんて、出来るわけないッ!)

 血を吐くような思いと共に――千枝は駆けだした。
 階段を駆け下り、降りてすぐの家電売り場を突っ切って壁際のテレビコーナーへと向かう。
 ――見えたのは、大型テレビの画面へと潜っていく友人の身体。
「――待ってッ!」
 体当たりのような勢いで駆け寄って、まだ画面の外に出ていた暁の片手を強引に掴む。――友人の手を掴んだ自分の手は、当然のように一緒に画面へと沈み込んで。
 駆け寄った勢いそのままに、千枝は画面の中へと飛び込む形になった。

 * * *

「――きゃあっ!?」
「わっ――」
 暁より先にテレビに入っていた陽介は、後ろから聞こえた暁の悲鳴――そして何より、ここで聞こえるはずのない千枝の悲鳴を耳にして、慌ててそちらを振り返った。
 どさどさと一塊になって落ちて来た二つの人影。
「――おま……里中ッ!」
 暁の左腕にしがみつくような姿勢で床に転がる千枝を見て、陽介は思わず本気で怒鳴り声をあげていた。
「無理やりついて来るとか……お前何考えてんだよ!ふざけるなよッ!?」
「――ふざけてなんかないッ!」
 がばりと身を起こした千枝が、同じくらい殺気立った声で怒鳴り返す。

「雪子が……雪子が死んじゃうかもしれないのに、ふざけてなんかいられるもんかッ!」

 血を吐くような、叫び。

 ――“これ”だ。

 唐突に、陽介ははっきりと悟った。――今回、彼女を同行させてはいけない、その理由を。

 ――“大事な人が危機に陥っている”という危機感そのものが、理由だったのだ。

 その思いは、人を強くもするが――容易く視野狭窄にも陥れる。

 相手を助けられるだけの力があれば――少なくとも、自分の身を守れる程度の力があれば、その思いを強さと化すことができるかもしれない。
 だが、自分の身すら面倒を見きれない状態での強すぎる思い入れは、ただ無謀な行動を誘発する起爆剤でしかない。
 ――かつて、自分が早紀を庇った時のように。
 ――今、千枝が強引に“こちら”へついて来たように。
 周りが見えなくなって、自身を無茶な暴走に駆り立てる――諸刃の剣。
 その剣は、持ち主本人だけでなく、周りにいる人間も危険にさらす。
 ――今ならわかる。誰も救助対象がいないあのタイミング、あの状況であったからこそ、足立は自分に『一度きりのチャンス』をくれたのだ。
 もしもあの時、陽介がシャドウを否定して暴走させてしまい、そのシャドウが足立では太刀打ちできないほどの強さを持っていたとしても――最悪、気絶した陽介を抱えて逃げることは可能だっただろう。
 だが、“要救助者”がこちらにいる今のような状況で、シャドウを暴走させた状態で放置して逃げた場合、その暴走したシャドウと“要救助者”がかち合ってしまう危険性がある。――つまり、暴走を治めるまで、逃げることすらできない。
 だから、“要救助者”がこちらにいるタイミングで、未だ己のシャドウを受け入れていない人間――ペルソナ使いでない人間を“こちら”に連れてくることは、下策中の下策なのだ。
「――何度も言わせんな!ダメったらダメだ!すぐあっちに戻れ!」
 その危険性をはっきりと悟ったことで、陽介はきついほどきっぱりと断言する。そうして、千枝を出口のテレビの方に押しやろうとするが、千枝はその場から動くまいと抵抗した。
「やだよ!絶対帰らない!雪子が危ないのに、ただ待ってるなんてできないよ!」
『――だって、そんなことしたら、あたしにはホントに意味がなくなっちゃう』
 ――正面と背後、両方から響いてきた同じ声。
「――あ……!」
 おろおろと自分と千枝のやり取りを見ていた暁が、こちらの背後を凝視して目を見開いた。
「――あ、あわわわ……出た~!」
 自分の背後にいたはずのクマが、ワタワタと焦った様子で暁の後ろに逃げ込む。

 ――出てきてしまった。

 苦い思いで、背後を振り返る。

「――な……?」
 陽介が動いたことで、千枝にも見えたのだろう。驚愕に震える声が聞こえた。

『――だから、邪魔しないでよ、花村』

 振り返った先にいた“もう一人の千枝”が――その金の眼差しで、こちらを射殺さんばかりに睨み据えていた。

 * * *

 自分をテレビの方に押しやろうとしていた陽介が、その手を放して身体ごと背後へ向き直る。
 その拍子に、立ち位置が微妙にずれ、彼の背後に立っていた“それ”が、千枝の視界に入った。
「――な……?」
 その姿を認め――思わず愕然とした声が漏れる。
 そこにいたのは、あまりにも見知った姿で。

『――だから、邪魔しないでよ、花村』

 金の目を鋭く細めて陽介を睨み据えた“自分”が、自分と同じ声でそう告げた。
「――あ、あんた……」
 思わず漏れた震える声に反応してか、“自分”が陽介からこちらへ視線を移す。
『あんた誰、とか聞かないでよ?――あたしはあんた、あんたはあたし』
 わかってるでしょ?と小馬鹿にしたような笑みで告げられる。
 ――確かに、その姿を目にした瞬間から、想像はついていた。
 目の前の“自分”は、自分から生まれ出たシャドウなのだろうと。
 己の一言で千枝が言葉を失ったのを確認すると、“もう一人の千枝”は再び陽介へと視線を転じた。
『雪子はあたしが助けるの。――邪魔をするなら、誰であろうと許さない』
「……“あたしが助ける”……?」
 その言葉に、陽介が不審そうに眉を寄せる。
 ――『友人の安否を気遣う』というには、些か不自然な言い回し。
『そう、あたしが。他の誰でもない、このあたしが!――それはあたしの役目なのよ!』
 徐々に、徐々に――狂気を帯びていく“自分”の言葉に、千枝は眉をひそめる。
『雪子を助けるのは、あたし!――雪子が他の誰かに救われるなんて、絶対許さない!』
「――っ!あんた、何言ってんの!?」
 信じがたい“自分”の言葉に、千枝は思わず声を上げ――

『――雪子に頼ってもらえなきゃ、あたしには何の意味もなくなるのよ!』

 続けられたその叫びに、絶句した。
『――賢い雪子。美人な雪子。勉強もできて、家の手伝いだってちゃんとしてる。男子たちから『天城越え』とか言われる高嶺の花』
 誇らしげに親友を讃える言葉。――しかし、その金の眼には、隠しようのない狂気がちらついて。
『その雪子を、あたしは助けてるの。――しつこく言い寄る男子は追っ払ってあげて。他の女子からのやっかみからだって守ってあげて。家の手伝いで約束ドタキャンされたって、笑って許してあげるの』
 うふふ、と恍惚の色を宿した笑いが、その唇から零れ落ちた。
『そんな時、人としても女としてもあたしなんかよりずっと上のはずの雪子が、酷く卑屈な目であたしを見てくる――それが、たまんなく嬉しかった』
「――なっ……!?」
 歪んだ優越感を誇る、あまりにも醜い“自分”の言葉に、思わず千枝の喉から悲鳴じみた声が漏れる。
 しかし、そんな声など耳に入っていない様子で、“自分”はなおも言葉を続けた。
『勉強もできない。美人でもない。家のことをやるでもないし、自慢できる何かがあるわけでもない。――そんな何もないあたしを、雪子は頼ってくれる。こんなあたしに意味をくれるの』
 胸に手を当て、うっとりとその金の目を伏せる。

『“雪子を助ける”、“雪子を守る”――それが、あたしの自慢、誇り、存在理由!』

 守ると言いながらも、その庇護対象に己の意味を依存している、矛盾した言葉。
 そうして、伏せていた眼差しを上げると、その金の瞳に狂気を宿し、“自分”は低く言い放つのだ。
『だから、雪子に頼られていいのはあたしだけ――その役目を、あたしから奪うヤツは許さない!』
「……な……」
 射殺すような剣幕で睨み据えられた陽介が、じり、と後退った。
 そんな、親友の安否すら二の次にして、自分勝手な理屈を振りかざす“自分”の姿を前にして――千枝は、悟った。

(――ああ、そうか……)

 屋上に一人取り残された時、胸に渦巻いたもやもやとした思い――その正体を。

(――あたしは、雪子が花村達にとられちゃうんじゃないかって、怖かっただけなんだ)

 自分より頼れる存在を見つけて、雪子が自分を見限ってしまうのではないかと、不安だっただけなのだ。

「……バカじゃないの?」
 気づけば、そんな言葉が零れ落ちていた。
『……なんですって?』
 その呟きを聞き咎めてか、眉をひそめた“自分”がこちらへ向き直る。
 剣呑に細められた金の眼差し。しかし、そんなもの、もう恐ろしくも何ともなかった。

 ――目の前のこの“自分”は、己の中にあった“臆病な心”の塊にすぎないのだから。

「聞こえなかった?じゃあ、もう一回言ってやる。――あんたはバカだ!大馬鹿よ!」
『なっ……!?』
 大きく一歩、そちらに踏み出しながら言い放てば、“自分”がたじろいだように後退る。
「雪子に頼って欲しいから、自分以外の誰かに雪子が助けられるのが許せない?――バカじゃないの?」
『――う……』
 さらに一歩。――自分が踏み出したその分だけ、“自分”は逃げるように下がった。
「確かにあんたの言う通り、あたしは雪子に頼って欲しいし、雪子のことを守りたいよ!――でも、そもそもそう思ったきっかけは、何だったのよッ!」
 それは、自分のアイデンティティを得るためだったか。――そうじゃない。

 ――始まりは、泣いている彼女を見つけた時に芽生えたあの想い。

「雪子に笑ってて欲しい!一人で泣かないで欲しい!――そう思ったからだ!」

 幼い心に芽生えた、純粋で懸命な想い。
 ――笑っていて欲しいから、彼女を傷つけるものから守ろうと思った。
 ――辛いことを一人で抱え込まないで欲しい。だから、頼ってもらえれば嬉しかった。
 けれど、いつしかその想いは、彼女に対する劣等感から奇妙にねじ曲がり、『自分が雪子を守っている』という歪んだ優越感へと変わっていった。
 自分に対する自信のなさから目を逸らすように、『親友に頼られている自分』に酔うようになった。
 無事に笑っていて欲しいから『守りたい』と思ったはずなのに、いつしか、彼女に困難が迫れば『役目を果たせる』と悦ぶようになってしまった。

 ――『守る』ということに固執し過ぎて、いつの間にか手段が目的になってしまっていた。

「あんたは、あたし――そうだね。その通りだよ。あんたは、長いこと間違え続けてきた、あたし自身」
 真っ直ぐに金の瞳を覗き込んで、断言する。
「でも、もう間違えない。……あんたが、教えてくれたから。――一番初めの大事な想いを、思い出させてくれたから!」
 強張っていた“自分”の表情が、緩む。

「――行こう。今度こそ、ちゃんと雪子を守るために」

 そう言って、手を差し出せば――“もう一人の自分”は嬉しそうに微笑んで、その手を取った。

 握ったその指先から、“自分”の姿が蒼い粒子となって解けてゆく。
 虚空に集った蒼い輝きは、新たな姿へ生まれ変わる。

 ――面を隠すは、角のようなシルエットを描く頭巾。鍛えられた身体の線にぴったりと沿う黄色い衣、その上から草摺くさずりを身につけ、薙刀を構える女武士。

「――一緒に行こう、トモエ」

 その声に応えるように、その姿は千枝の中に溶けるように消える。

 この上ない充足感が心を満たし、その代わりと言わんばかりに、凄まじい脱力感が身体を襲った。
「うわっ、あぶね!」
「――千枝!」
「チエちゃん!」
 倒れ込みそうになった身体を、傍にいた陽介が咄嗟に支えてくれた。暁とクマも、慌てて傍へと駆け寄ってきてくれる。
 心配げにこちらを覗き込んでくる三対の眼を見返してから――千枝は勢いよく頭を下げた。
「――ごめん!」
 下げた頭の先で、ぎょっとしたような気配を感じつつ、構わず言葉を続ける。

「無茶なことやってごめん!――本当にごめんなさい!」

 ――“もう一人の自分”との邂逅で、自分の行動がどれほど愚かだったかを思い知った。

 もし、あのシャドウが現れてくれなかったら――自分はきっと、また自分勝手に暴走して、親友を救おうとする友人たちの足を引っ張っていた。

「……ごめんっ……本当にごめんっ……!」
 馬鹿の一つ覚えのように繰り返す言葉が、不自然に揺れる。喉がしゃくり上がって、自分が泣いているのだと初めて自覚した。
「ちょ、おま……な、何も泣くこと……!」
 狼狽えたような陽介の言葉と同時、そっと暖かな手が肩に添えられる。
 その手に起こされるように顔をあげれば、暁に優しく抱きしめられた。
「……私たちこそ、ごめんね。千枝の気持ちを無視して、一方的に置いてこうとした」
 耳元で告げられる申し訳なさそうな声に、千枝は頭を振る。
「ううん、暁達は間違ってなかった……だって、あたし、自覚なしに、あんな歪んだ考えで……あのまま連れてってもらえたとしても、絶対どこかで暴走してたっ……」
「……でも、もうこんな無茶しないでしょ?」
 抱擁を解き、真正面からこちらの顔を覗きこんで、ふわりと暁は笑う。
「……なら、もういいって。――泣くなよ」
 言葉と共に、陽介の手がぽすぽすとこちらの頭を叩いた。
「シャドウにビシィッ!と言ってやったチエちゃんはカッコよかったクマよ!クマ、メロメロキュ~ンっ」
 おどけたクマの言葉に、思わず笑みがこぼれる。
 けれど、涙は止まらず――それどころか、勢いを増して。
「――ちょ、何で余計に泣くの!?」
「……知らないよっ……あたしにもわかんないもんっ……」
 焦った陽介の言葉に八つ当たりのように叫びながら、千枝はただ、ぼろぼろと零れる涙を拭い続ける。
 暁が黙って、再び肩を貸すように抱きしめてくれた。
「……ありがとう……ごめんねっ……」
 訳もわからず、母に抱かれて泣く子供のように、千枝はしばらく涙を流し続けた。

 * * *

「――落ち着いた?」
 抱きしめていた千枝の肩の震えが治まり、暁はそっと身体を離して笑いかけた。
「……ん……ごめん、ありがと」
 赤くなった目元に照れたような笑みを浮かべながら、千枝が頷く。
「しかし、里中がこの調子だと、今日はもう帰るしかねぇか……」
「――ダ、ダメだよ!それはダメ!」
 千枝の体調を案じた陽介の言葉に、千枝が弾かれたように振り返って叫ぶ。
「おまっ……もう無茶しねぇって今言ったばっかだろ!」
 陽介が眉を吊り上げれば、千枝はそれを遮るように声を上げる。
「一緒に連れてってなんて言ってないでしょ!……今のあたしが一緒についてっても、足でまといになるだけだってわかってる。すごく悔しいし、情けないけど……今日はもう、ちゃんと“外”に戻る」
 でも、と千枝は言葉を続ける。
「二人まで、あたしに付き合うことない。――雪子を、助けに行ってあげて。お願い」
「――千枝……」
 告げられた言葉に、暁は千枝が本当に自分の心を見つめ直したのだと感じた。
 ――『自分の手で雪子を救う』ことに固執していた自分を自覚し、過ちを認めたことで、本当の意味で『雪子を救う』ために、今の自分にできる最善の方法を取ろうとしている。
「……千枝は、本当に一人で大丈夫?」
「うん。だるいけど……大丈夫だよ」
 暁の確認に、千枝ははっきりと頷く。
「……わかった。じゃあ、行くよ。――行こう、花村君」
「――ああ」
 陽介も千枝の想いを感じ取ったのだろう。暁の言葉に力強く頷いた。
「クマ君、お願い」
「――わ、わかったクマ。こっちクマよ」
 クマの先導で、暁達は歩き出し――
「――暁、花村!」
 その背にかかる、強い千枝の声。

「雪子を――お願いね!」

 大切なものを託す、信頼のこもった言葉。

 その“言霊”が、新たな“絆”を紡ぎだす。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、“戦車”のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん≫

 ――脳裏に輝く、“戦車”のタロット。

「うん。――千枝の分も、頑張るよ」
「任せとけって!」
 陽介と共に、決意を込めた言葉を返し――今度こそ、クマの後を追って、雪子の元へと歩き出した。

 * * *

「――足立警部、会議中は携帯を切っておいて下さい」
「――うわごめん、切るね!」
 身を丸め、前の席に座った人間の背に隠れて暁の電話を受けていた足立は、橘の冷ややかな声に泡を食って通話を切った。
 それから急いで背筋を伸ばし、へらりと気まずげな笑みを浮かべて見せながら頭を下げる。
「す、すみません……」
「……声をかけたついでです。足立警部、貴方は山野真由美殺害の犯人と小西早紀の誘拐の関連性をどう見ますか?」
 授業中に携帯を弄っていた生徒を当てる教師のような橘の言葉。
 “貴方は”と、稲羽署としての見解ではなく、足立個人の意見を問う橘の発言に、足立は露骨に顔を引き攣らせた。
(――ちょ、学校じゃねぇんだぞ、おい!?)
 階級こそ警部だが、稲羽署での足立はつい二週間ほど前に赴任してきた新人であり、何の役職にも就いてないぺいぺい――単なる一捜査員だ。
 その単なる一捜査官に指揮官の方から意見を求めるなど、はっきり言って無茶苦茶だ。
 足立だけでなく、その場にいる者の殆どが同じような感想を抱いたのだろう。場が俄かに騒然となる。
「――あー……その、よろしいですか、橘警視」
 と、足立の横にいた堂島が挙手をして発言の許可を求める。
「何でしょう、堂島警部」
 何気なく返された返答に、堂島は微かに眉を揺らし、足立も眉間にしわを寄せた。
 このような県警・所轄の刑事が入り混じる捜査会議の場合、発言時は所属と名を名乗ってから内容に入るのが通例になっている。――それは当然、意見を交わす際にお互いの名前がわからない、という事態を避けるためだ。
 しかし、橘は今、堂島が名乗る前にその名を呼んだ。――それは即ち、橘は元々堂島を知っていたということに他ならない。
 元々同じ本庁勤めで、同期だった足立の名を知っているのはまだわかるが――
(――どうして堂島さんの名前まで知ってるんだ?)
 橘に対する不審の念が強くなる。
 勤勉なことで一目置かれる堂島ではあるが、それはあくまで稲羽署内に限っての話。県警に名が届くほどの派手な活躍はしていないはずだ。
 地道な努力で登り詰めてきた橘のこと、担当する事件の捜査員の中で有能そうな人間を先に見繕っていたのかもしれないが――やたら足立に構うことと併せて考えると、『足立の相棒』だから知っていたのではないかと思わずにいられない。
(――けど、そこまで僕を気にする理由は何だ?)
 そこがわからない。――そうまでするほど、嫌われているということだろうか?
 足立が不審げに眉を寄せる横で、発言を許可された堂島が口を開く。
「稲羽署の堂島です。――えー、橘警視は今、足立刑事に意見を求められましたが、彼は現在私の部下です。ですので、代わって私がお答えしてもよろしいでしょうか」
「……良いでしょう。お願いします」
 淡々と、相も変わらず感情の読めない調子で橘は頷く。
 堂島は自身の手帳を開きながら、橘同様に感情を込めない声音で語り始める。
「現場の見解としては、山野真由美殺害と小西早紀の拉致は同一犯の犯行である可能性が高いと見ています」
「その理由は?」
「状況の類似性です。――山野真由美はまず宿泊していた旅館から失踪し、それから半日近く経って遺体で発見されましたが、その間の足取りが全くと言っていいほど掴めていません。――これは、一時失踪していた小西早紀と同様に、犯人によって拉致され、どこかに監禁されていたための空白ではないかと」
「……なるほど。小西早紀も同様に拉致されたが、何らかの理由で殺害されることを免れた、ということですか」
 納得したように橘は頷く。それから、また淡々と問う。
「――しかし、一方は殺害され、一方は助かった。その差は何だと考えますか?」
「……現時点では不明です」
 やや苦い色の混じった堂島の答えにも何の感情も返さず、橘はただ頷いた。
「そうですか。――ではまず、山野真由美と小西早紀の関連性を洗う方針で。単に遺体の発見者だからという理由では、動機としては薄い。他に何か共通項があるかもしれません」
 どこまでも淡々とそう捜査方針を定めると、てきぱきと各員に指示を飛ばし、解散を告げる。――その間の言動に、無駄というものは一切存在しなかった。
 ――何を考えているかはわからないが、とりあえず有能であることには違いないらしい。
 橘に関する印象をとりあえずそうまとめると、足立も自身に割り振られた仕事をこなすべく席を立った。


 とりあえず、事件関係者への聞き込みを割り振られた足立は、先日無駄足を踏まされた佐藤光喜の元へ向かうことにした。
 前回と違い、今回は事前にきちんと調べておいたため、今の時間帯に光喜がジュネスのフードコートにいることははっきりしている。――その調査の際、光喜が早紀の拉致事件とも、僅かながら接点を持っていることも発覚していた。
 早紀が失踪直前までいた空き店舗――そこは元々光喜の両親が経営していた店だった。
 まあ、狭い町なので偶然と断じてしまってもいい薄い接点ではあるが――それでも接点は接点。山野と早紀の関連性が見えない現在、どんな薄い接点でも当たってみる他ないのだ。
 そうして、ジュネスのフードコートに向かった足立であったが――そこで聞き込み相手を探し当てるより先に見覚えのある姿を見つけ、思わず声をかけていた。
「……千枝ちゃん?」
「――あ、足立さん……?」
 フードコートの隅の席で一人俯いていた千枝は、足立の姿を認めると驚いたように目を見開いた。
「ちょっとここで勤める人に話を聞きに来てね。――暁ちゃんたちは“あっち”?」
「……はい」
 足立の確認に返る千枝の声は酷く弱々しい。よく見れば、顔色も良くなかった。
「……大丈夫?顔色悪いけど……」
 親友の安否がそれほど心配なのだろうか――一瞬そう思ったが、どうもその症状に見覚えがあって、思わず眉をひそめる。
 ――まるで、ペルソナを得た直後の消耗のような。
「――君、まさか“あっち”に行ったの?」
 無意識のうちに零れ落ちたその問いに、千枝の肩がびくりと震える。
「――ごめんなさいっ……!」
 次の瞬間、千枝は顔をくしゃりと歪め――その瞳からぼろぼろと涙を零し始めた。
 そうして、泣きじゃくりながら、事の経緯を話し始める。
 嗚咽まじりに語られる言葉は、お世辞にもわかりやすいものではなかったが――それでも、大体の流れは理解できた。
「……なるほどね」
 はあ、と足立はため息をつく。――この年頃の、無謀なまでの行動力を甘く見ていた自分に。
 千枝は深く俯いたまま、こちらを見ようとしない。――何を言うまでもなく、十分反省しているらしい。シャドウという自分の暗部を目の当たりにしたことで、その『無茶』の根幹にある感情を自覚できたのが大きいのだろう。
 足立は苦笑し、穏やかな声をかける。
「――自分でも何がいけなかったか、ちゃんとわかってて、反省してるんでしょう?なら、もういいよ」
 その言葉に、俯いていた千枝の顔が弾かれたように起き上がり――

「――とか言うと思ったかこのクソガキッ!」

 その瞬間、足立はその額めがけて思い切り指を弾いた。

「――ッたぁッ!?」
「……自分の性別に感謝しなよ。男だったら拳骨食らわせてるところだ」
 デコピンを食らった箇所を抑えてのけぞる千枝に、足立は冷たく言い放つ。
「君の暴走は、君自身だけじゃなく、暁ちゃんや陽介君、果ては君が助けたがってる親友まで危険に晒すものだった。――本当だったらこんなもんで許されることじゃない」
「……は、はい……」
 答える千枝の声は震えている。――額の痛みのせいか、はたまた初めて目にする足立の“素”に怯えているのか。
(――まあ、こんなもんで十分か)
 薬は十分効いただろう。そう判断して、足立は笑う。
「――だから、残りは今後の活躍で返してもらうよ」
「…………それって……!?」
 一瞬呆けた千枝は、やがてその言葉の意味を理解してか大きく目を見開いた。
 そうして、破顔する。

「――ありがとうございます!頑張ります!」

 力強い、決意のこもった言葉。

 その言葉に呼応して、脳裏に響く声。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者との絆に、“戦車”のペルソナを見出さん≫

 緋色の衣を纏う、精悍な面立ちの戦士。背に広がるその翼は、炎そのもの。

『――我が名はアータル。我がほむらでもって、汝が道行きを照らして見せようぞ』

 ――ペルソナ、“アータル”。

 己の中に新たに生まれ出た、頼もしげな『可能性』に思わず不敵な笑みを浮かべてから――足立は千枝に柔らかく笑いかける。
「じゃあ、頑張ってもらうために、早く元気になってもらわないとね。――とりあえず、何か食べて体力つけなよ」
 奢るよ、と告げれば、ぱっと千枝の顔が輝いた。
「――ホントですか!?やった!足立さん太っ腹~!」
 うきうきという擬音を具現化したような足取りでカウンターへと向かう千枝。
 いきなり元気になったその様に苦笑しながらカウンターまでついて行ったが、メニューを覗き込んで注文する千枝の言葉に顔が引きつった。
「えっと~、まずフランクフルトでしょ。チキンナゲットにフライドチキン――」
「ちょ、どんだけ食べる気!?」
 しかも肉ばっかだし!とツッコめば、千枝はぐっと拳を握って、
「精をつけるなら、肉しかないでしょ!」
「……相変わらずだねぇ、ちーちゃん」
 その言葉に、カウンターで注文を受けていた青年が呆れたように呟く。
「へ……ちーちゃん……?――って、ノブ先輩!?」
「うお、素で気づかれてなかったとか……凹むぜ」
 ノブと呼ばれた、長い茶髪を首の後ろで括った二十歳前後の青年は、がくりと肩を落とす。
 そのやり取りに、足立は軽く首を傾げる。
「……知り合い?」
「あ、はい。中学時代の先輩で――って、あれ?……ノブ先輩、都会の大学に進学してたんじゃ……」
 足立の言葉に答えかけて、千枝は思い出したように眉を寄せる。
 その言葉に、カウンターの青年は苦い笑みを浮かべる。
「親の金をアテにして私立に進学したら、家業が潰れて学費が払えなくなったという笑えないオチ」
 中退していまやフリーター生活だよ、と言われて、千枝は項垂れる。
「――ご、ごめんなさい……」
「いや、知らなかったんだからしゃーないべ。――ま、悪いと思うなら、売り上げに貢献してちょ」
 にっと笑う青年に千枝は心得たとばかりに大きく頷き、
「じゃあ、ビビンバ丼も頼んじゃいます!」
「はい、毎度!――ミキさーん、更にビビンバ追加ねー!」
 青年はイイ笑顔で奥にいる女性へと声を張り上げる。
「ちょ、人の金だと思ってどこまで突っ込む気!?っていうか食べきれないでしょ!?」
「いやいや、お兄さん。ちーちゃんの胃袋は、こと肉料理に関してはブラックホールです。マジで。――付き合うなら、その辺、覚悟しないと」
「――は?」
 聞き捨てならない青年の言葉に、足立と千枝の言葉がハモった。
「……あ、何だ違うのか。やっとちーちゃんにも春が来たのかと思ったのに。――まあ、さすがに年離れすぎかぁ」
「どうやったらそんな勘違いを――って、足立さん……何か変なオーラ出てるんですけど」
「……十代から見たら僕はもうおっさんか……そうか、そうだよね……ふふふふ……」
 暁と同い年の千枝と『年離れすぎ』と称されて、足立は思わず肩を落として乾いた笑いを零す。――こちとらまだ二十代だ、コンチクショウ。
「うわ、なんか地雷踏んだ……?」
「せ、先輩、どうしてくれるんですか、コレ!?」
 思いっきり引いた様子の青年に千枝が詰め寄ったその時、奥にいた女性が注文の品をカウンターまで運んできた。
「――お待たせしました……」
 どうにも覇気のない声。ぱっと見、彼女は足立と同年代で――今の会話を聞いて、彼女も凹んだのかと、足立は勝手に妙な仲間意識を抱く。
「じゃ、じゃあ、お仕事がんばってくださいね!――それじゃ!」
 千枝は注文の品が揃ったトレイを手にすると、気まずい空気の漂うその場所から逃げるように立ち去った。
「――え、えと……2,305円になります……」
 凄まじく引き攣った顔で青年が告げた会計に、千円札三枚で支払って釣りを受け取ると、足立は一つ深呼吸する。
 そうして、千枝が言い捨てていった通り、自分はそもそもここに仕事に来たのだと、意識を無理やり切り替えた。
「――失礼。稲羽署の者です。佐藤光喜さんがこちらにお勤めだと伺ったのですが」
 口調を改めつつ、懐から取り出した桜の代紋をカウンターに見せれば、二人は面食らったように目を見開いて顔を見合わせた。

 * * *

 ぴこぴこと足音を鳴らして、クマは暁達と共に『城』の中を行く。
 昨日、足立達と会話を終えてからしばらく後、突然出現したこの奇妙な建物。陽介は「まんま西洋のお城だな」と言っていたが、クマには『セイヨウ』も『オシロ』も何のことだかわからない。
 わかるのは、ここに“外”から放り込まれた人――暁たちの友達である『ユキちゃん』がいるということだけ。
 でも、それだけわかれば、十分だった。
「――行け!ジライヤ!」
 赤い絨毯の上を真っ先に駆けていく陽介の声に応えて、ジライヤが疾風ガルを放ち、宙を泳ぐ奇形魚――『冷静のペーシェ』を吹き飛ばした。シャドウはそのまま風の中で黒い霧と化して溶け消える。
 と、陽介の死角を突くように、脇からマーブル模様の口だけオバケ――『虚言のアブルリー』が突っ込んでくるのが見えた。
「ヨースケ、危ない!」
「――ペルソナ!」
 クマが声を上げるのと同時、暁が手のひらサイズの女性を呼び出す。
 “彼女”はその背に透明な翅を広げて舞い上がると、『虚言のアブルリー』目がけて雷光を落とす。苦手とする雷撃ジオを食らって、シャドウは黒い霧となって霧散した。
 ――“彼女”はピクシー。暁がこの城の中でシャドウと戦ううちに得た、二つ目のペルソナだ。
 先程さらにもう一体、“スライム”というペルソナも得たようだが、クマはあんまり暁がそのペルソナを使うのを見たくない。――ドロリ、デロリ、といった感じの見た目をしたスライムが、暁の前にデデンと出現した時の視覚的ダメージは、計り知れない。
 陽介は暁がペルソナを複数使えることに驚いていたが、クマは陽介がペルソナを一つしか使えないことの方が意外に思えてしまった。――だって、足立だってイザナギ以外のペルソナを使っていた。
 結果、暁や足立の方が特殊だということをまだよくわかっていないクマは、「ヨースケは修行が足りない」などと大概失礼な感想を抱くこととなっていた。
「よっし、片付いた!――しっかし、切りねぇな。行く先行く先シャドウだらけかよ」
 見える範囲にシャドウがいないことを確認して、その陽介が疲れたように肩を回した。
「クマ君、次どっちだと思う?」
 廊下の分かれ道を示して問う暁に、クマはクンクンと鼻を凝らす。
「むむむむむ……ん?――んん?来た?コレは来たクマか!?」
 分かれ道の片方――その先に“外”のニオイを感じて、クマは思わず声を上げた。
「――こっちクマ!」
「おお、ナイスだぜ、クマ!」
 ズビシッ!とそちらを指させば、陽介がウィンクをこちらへ飛ばしてから、駆け出していく。クマも暁と共にその後を追った。
 進んだ先の突き当りにあった扉を開ければ、上へと延びる階段が。
「――“外”のニオイは上からクマ!」
 クマの言葉に、陽介を先頭に階段を上る。
 上った先にあったのは、巨大な両開き戸。
「この先か――行くぜ!」
「うん!」
 暁が頷いたのを認めてから、陽介は扉に手をかけ――
「……あれ?」
 ノブを握って、がちゃがちゃと押したり引いたり。
「――このッ!――ふんぬッ!」
 肩で体当たりするように押したり、全身の体重をかけて引っ張ったり。
「――ジライヤーッ!」
 しまいにはペルソナを呼び出して切りかかったり、ガルをぶつけてみたりもしたが――
「――開かねぇしーッ!つーか、傷一つつかねぇぞコンニャロウ!」
「……鍵穴や、何かの仕掛けらしいものも見当たらないんだけど……」
 陽介は叫びながら床に倒れ込み、暁が困惑した様子で扉を調べ出す。
「むむむ……参ったクマね……」
 クマも思わず呻き――ふと、何かが聞こえた気がして、ピクリと丸い耳を震わせた。
「――今、何か聞こえなかったクマか?」
 え?と二人がクマの方を振り返った時――また、聞こえた。

 ――『…… ぇ……』

「――天城の声だ!」
「……やっぱり、この向こう……」
 陽介ががばりと身を起こし、暁が扉に両手を当てる。

 そして、もう一度、今度ははっきりと、声が聞こえた。

 ――『……ちえ……』

 暁と陽介が顔を見合わせる。
「……ここの扉が開かないのって……」
「――俺らじゃだめ、ってことか」
 呟いて、納得したように頷き合う。
「……今日はもう戻るしかねぇってことだな」
「え?諦めるクマか!?この先にいるのよ!?」
 ため息をついて踵を返した陽介に、クマが思わずそう声をあげれば、暁が答えを教えてくれた。

「この扉は、私達には開けられない。――きっと、千枝にしか開けられないの」

 その言葉を肯定するように――

 ――『……千枝……』

 扉の向こうから、哀しげな響きでその名を呼ぶ声が聞こえた――


――――――――――――――
≪ペルソナ解説≫
以下は、この話に登場したオリジナルペルソナの紹介です。
殆どゲーム的なデータで、読まなくてもストーリー的に支障はないので、興味ない人は読み飛ばしちゃってくれていいです。

名前:アータル   持ち主:足立※
初期レベル:2   アルカナ:戦車
無効:火 弱点:氷・闇

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
アギ(-) 突撃(-)
ジオ(3) 赤の壁(4)
タルカジャ(5)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 物理耐性(8)
Rank2 マハラギ(14)
Rank3 暴れまくり(19)
Rank4 攻撃の心得(23)
Rank5 ジオンガ(26) 
Rank6 マハラギオン(28)
Rank7 氷結耐性(34)
Rank8 マハタルカジャ(37)
Rank9 ミリオンシュート(41)
Rank10 ペルソナ“ヘイムダル”に進化する

【設定】
“里中 千枝”との間に結んだ“戦車”のコミュニティによって生まれたペルソナ。
外見は、緋色の服を着た精悍な青年戦士。背に炎でできた翼を持つ。
「アタール」とも呼ばれる、ゾロアスター教における火の神霊。人間に英知と安楽を与え、世界を邪悪から守ると言われている。また、稲妻の姿で悪魔を倒したという伝承もある。
進化後の“ヘイムダル”については、“ヘイムダル”の欄で後日別途解説。



[29302] 11章.王子を探すシンデレラ
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/12/03 16:43
「お、昨日は来なかったけど、今日は一番乗りクマね、アダッチー!」
 ジュネスのテレビをくぐれば、もはや馴染みとなった、喋って動ける着ぐるみが出迎えてくれた。
「まあね……情けない話だけど、こっちの捜査もどん詰まりなんだよ。こうなると雪子ちゃん本人の証言が頼りって言うか……」
 思わず、足立の口から重いため息が漏れる。
 昨日、ジュネスフードコートで行なった佐藤光喜への聞き込みで知れたのは、光喜の家庭環境の悲惨さくらいのものだった。
 光喜の両親は、ジュネス出店の影響で経営していた店が潰れて借金を抱えるなり、都会に出ていた光喜に何の連絡のないまま夜逃げしたらしい。しかも、寝たきりの祖母を置き去りにして。
 その祖母本人は、自身の面倒を見るために帰郷した孫の顔を見て、無邪気に喜んでいるらしいが。――若干、痴呆も入っているらしく、息子夫婦に見捨てられたことは理解してないらしい。
 件の店は、帰郷した半年前の時点で土地も店舗も他者に売却したとのことで、早紀誘拐時の管理状況は知らないし、知りようもない、とのこと。とりあえず、現在の所有者の連絡先は教えてもらったが、その現所有者はそもそもこの町の人間ではないので、この事件に関わっているとも思えなかった。
 他の聞き込みに当たっていた刑事たちからもろくな情報は上がって来ず、全くと言っていいほど捜査は進展していない。
 人一人を拉致している以上、車を使っている可能性が高いのだが、まるで不審車両の目撃情報がない。ならば、大型鞄なり何なりに拉致した早紀を詰め込んで逃げたか、放り込むためのテレビを持ち歩いていたか。どちらにせよ、それはそれで凄まじく目立つ格好になるはずであるのに、まるで目撃情報が出ない。
(――どうなってんだよ……全く……)
 異様なほどに隣人との距離が近いこの田舎町で、まったく不審者の目撃情報が出ないというのはどういうことか。地元の人間が犯人だとしても、妙な行動を取っていたらそれだけで見咎められそうなものなのに。
「アダッチー、暗いクマよー……これあげるから、元気出すクマ!」
 どんよりと重い空気を醸し出す足立に耐えかねたのか、クマが何やら差し出しながら声をかけてきた。
 そのミトンのような両手が差し出してきた物を見て、足立は目を瞬く。
「……桃と、カエルの置物?」
「『白桃の実』と、『カエレール』クマ!」
 受け取りつつ、思わず見たままを呟いた足立に、クマが自慢げに胸を張って答えた。
 『白桃の実』と称されたものは、その名の通り、白い桃のような外観をしていた。ただ、大きさは見知った桃に比べて小さく、ゴルフボールくらいの大きさしかない。
 『カエレール』も同じくゴルフボールサイズ。見た目は、アニメチックにデフォルメされたカエルの置物、とでもいえばいいのか。その質感は陶器か何かを思わせる。
「『白桃の実』は疲れた時に食べると元気が出るし、潰して塗ると怪我によく効くクマ!」
「へぇ……傷薬がわりってわけだ」
 それは確かに助かるかもしれない。回復スキルがあるとはいえ、精神力が尽きればそれも使えなくなる。いざという時に重宝するだろう。
 微笑した足立に気をよくしたのか、クマは「あと何個かあるクマよ!」とさらに三つほど白桃の実を取り出してきた。
「……いいの?君の食糧なんじゃないの?」
「探せば結構落ちてるし、疲れた時に食べるくらいだから、クマはそんなにいらないクマよ。それより、シャドウと戦って怪我するアダッチー達が持ってた方がいいクマ」
 どうやら、クマは食事を必要する身体ではないらしい。――まあ、考えてみれば中が空っぽなのだから当然と言えば当然か。寧ろ、食べた時はどうやって消化するのかと問いたいくらいだ。
「じゃあ、ありがたく貰っとく。――こっちは何なの?」
 カエルの置物の方を指して問えば、クマは自慢げに胸を張る。
「『カエレール』は、クマのお手製クマ!あそこに置いてあるカエルとセットになってて、片方のカエルからもう片方のところまで、直通通路を繋げられるクマよ!」
 足立は言われて初めて、テレビタワーの横にちょこんと置かれたカエルの置物に気が付いた。
「へぇ……じゃあ、これを持ってれば、すぐここまで帰って来られるってワケか」
 なるほど、これは助かる。これがあれば、帰りの労力を考えずに探索を進められる。
「っていうか、クマ君、眼鏡といいこれといい、よくこんなの作れるね」
「んふふ~、もっと褒めてくれていいクマよ~」
 素直に感心した足立に、クマはご機嫌な様子で体を左右に揺らした。
「でも、カエレールを作れたのは昨日の探索のおかげもあるクマよ。アキラちゃんたちが倒したシャドウがいろいろ落っことしてくれたから、材料が手に入ったクマ。今日の探索で更に材料が集まれば、量産も夢じゃないクマよ!」
「…………それって――いや、いいや。訊かないでおく」
 クマの台詞から、何となくカエレールの材料に不安を覚えたが、深く突っ込むのはやめた。知らない方が精神衛生上良い気がする。
 なので、別のことを訊ねることとする。
「ところで、あの蒼いドアは何?こないだ来たときはあんなのなかったと思ったけど」
 広場の隅にひっそりとある蒼いドアを指して問えば、クマは目を見開いた。
「おお、アダッチーには見えるクマね。クマには見えないけど、昨日、アキラちゃんも同じこと言ってたクマよ」
「――え?」
 クマの奇妙な台詞に、足立は思わず眉を寄せる。
「えーっと、ベルバット、だったクマか……?そんな感じのとこへ通じるドアだって、アキラちゃんは言ってたクマ」
「べ、ベルバット……?……鈴のついたバットってこと?え、なにそれ……?」
 思い切り眉を寄せた足立に、クマはうんうんと唸りながら、
「えーっと……ペルソナを管理するための部屋って言ってたよーな……」
「……まさか、それ、ベルベットルームのこと?」
「おお、それクマ!」
 足立の確認に、ポンと手を打つクマ。
「名前うろ覚えにもほどがあるでしょ、クマ君……でもまあ、それなら僕も、暁ちゃんたちが来る前に、ちょっと顔出してくるかな」
「そうクマか?じゃ、行ってらっしゃいクマー」
 ドアの方に歩み寄る足立に、クマはひらひらと手を振る。
 蒼いドアの前に立った時、脳裏に覚えのある声が響いた。

 ――『では、しばしお時間を拝借すると致しましょうか……』

 ポケットに入れていた“契約者の鍵”が光を放ち――足立の視界は白く染まった。


 気づけば、足立は蒼い空間にいた。
「ようこそ、ベルベットルームへ」
 そう告げて、部屋の主であるイゴールは笑う。
「どうやら本格的にことを始められるご様子。我らの手助けについて具体的にお話する時が来たようですな」
 イゴールの言葉に合わせ、マーガレットが手にした分厚い本を掲げて見せた。
「こちらに見えますは、ペルソナ全書。貴方様の有するペルソナを記録し、保存しておく辞典にございます。――要はペルソナの保管庫のようなものです」
「……ペルソナの保管庫?」
 良くわからない言葉に首を傾げれば、イゴールが説明を継いだ。
「貴方が有する可能性の種は、芽吹いていないものを含めれば四十を超えるでしょう。しかし、貴方の意識領域に留め置けるペルソナは、現時点では六つが限界かと」
「……つまり、ペルソナの数はこれからも増え続けるだろうけど、それを全部持つには僕自身の器が足りないってこと?」
 告げられた言葉を噛み砕いて自分なりの解釈を述べれば、イゴールは頷く。
「概ね、その解釈で問題はないかと。貴方自身の精神が成長すれば、ペルソナを留め置く意識領域も広がりますが、それでも貴方が有するすべての可能性を留め置くには足りないでしょう」
「そこで、このペルソナ全書の出番という訳です。貴方様の意識領域に収め切れないペルソナは、こちらで保管しておけます」
 イゴールの言葉を継ぐようにして、マーガレットがそう告げた。
「新たに得たペルソナは自動でこちらに記録されますが、ペルソナの成長を記録するには、お客様にこちらへと足を運んでいただく必要があります。意識領域を空けるためにペルソナを消去する際などは、記録の上書きをお忘れになりませんよう」
「……なんかゲームのセーブデータみたいだね」
 思わず苦笑する。――とすると、あの辞典はペルソナ専用のセーブポイントか。
「――ただし、一点だけご注意を。貴方様が最初に手に入れられた“イザナギ”。あのペルソナだけは、貴方の意識から消去できません」
 添えられたイゴールの注釈に思わず目を瞬くが、その理由はおぼろげに察せられた。
「……それは、あれが僕のシャドウから生まれたペルソナだから?」
「然様でございます。あれは“可能性の一つ”という枠では括れない、もう一人の貴方自身。まさしく半身にございます。それゆえ、貴方から切り放すことはできないのですよ」
「……なるほどね」
 納得して頷いて――ふと思いついた疑問を口にする。
「なら、暁ちゃんのイズモは?やっぱ消せないの?」
「いえ、神代様のペルソナはいずれも等しく、神代様の“可能性の一つ”です。ワイルドは、そもそもシャドウを生むこと自体がありませんので」
 意外な答えに、足立は思わず目を瞬く。
「ワイルドは、己の中にある無数の可能性に優劣を定めません。それは即ち、どれほど弱い己でも、醜い己でも、否定することなく受け入れるということです。――シャドウなど、生まれる余地もございません」
「……なるほど」
 イゴールの説明に足立は心底納得した。
 「話が逸れましたな。説明に戻りましょう」とイゴールは話を戻す。
「コミュニティの絆を深められる際は、それに呼応して生まれたペルソナを所持しておかれることをお勧めいたします。辞典に収められた状態では、コミュニティの恩恵を存分に受けることがかないませんので」
「――それってコミュを築いた相手に会いに行くのに、いちいち所持ペルソナ調整しろってこと?」
 さらっと告げられた言葉に、足立は思い切り顔をしかめた。
「いちいちテレビの中に入って、このドアまで来なきゃいけないの?……めんどくせー……」
「――ふむ、確かにそれは不便かもしれませんな。近いうちに、“外”にも一つ、扉をご用意しましょう」
 足立の愚痴に、イゴールはごもっともという風に頷いて、そう請け負ってくれた。
 そんな簡単に用意できるものなのか、と思わないでもないが、助かるのは確かなので黙っておく。
「私どもからの説明は以上ですが、何かご質問は?」
「――いや、とりあえずはないよ」
 そうでございますか、とイゴールは一つ頷き、
「では、再び見えます時まで――ごきげんよう」
 その言葉を合図に、足立の意識は白く塗りつぶされた。

 * * *

 陽介と千枝の二人と共にテレビをくぐった暁は、ベルベットルームへの扉の周りをウロウロするクマの姿に、思わず目を瞬いた。
「……どうしたの、クマ君?」
「お、アキラちゃん、いらっしゃいクマ~。――今、アダッチーがベルベルルームに行ってるクマよ」
「や、ベルベットな」
 クマの言い間違いを陽介が正す。そんな二人のやり取りに、千枝が首を傾げた。
「ベルベ……?何それ?」
「えっと……ペルソナを管理するための場所――って言えばいいかな」
 行ったことのない人間には説明するのが難しいあの蒼い空間のことを、とりあえず端的にそう表現する。
「神代と足立さんは複数のペルソナを使い分けられるらしい。それで、その複数のペルソナを管理するためのベルベットルームっつー部屋へのドアがここにあるらしいんだ。けど、俺にもクマにも見えねぇんだよなー」
 里中には見える?と陽介に問われ、千枝はふるふると首を振った。
「ううん、何にも見えない」
「つーことは、里中は俺と同じで凡人組か。安心したぜー」
 千枝の返答に、陽介は安堵した風に笑って見せる。
「神代は『複数を使い分ける方が特殊みたい』って言ってくれたんだけどさー、クマは足立さんもそうだって言うし。そうなると比率的に2対1じゃん?なんか、ペルソナ一つしか使えない俺の修行が足りないんじゃないかって気分になるわけで」
「あー、それは不安になるかも……」
 しみじみと述懐する陽介の言葉に、千枝が苦笑した。――言われて見れば、これまでは『例外』の方が人数比的に多数を占めていたのだと気付き、暁も苦笑する。
「それにしたって、昨日の帰りに、神代がいきなり『ドアがある』って言いだした時はビビったけどな。しかも、そのドアがあるっていう場所に近づいた瞬間、消えるし」
「え、消えるの!?」
「えっと、私からすると、ベルベットルームに移動してるだけなんだけど……」
 陽介の回想に千枝が目を剥いた。暁としてはそれに苦笑いするしかない。――他の皆にはドアが見えないので、出入りした瞬間に自分の姿が消失・出現したようにしか見えないらしい。
 しかし、所有するペルソナを合体させて新たなペルソナを生み出す暁の能力上、戦力の安定を図るなら、ベルベットルームへの出入りは必須になる。これはもう、皆に慣れてもらうしかない。
(……でも、夢でベルベットルームに行ってる時はどうなってるんだろう……)
 実際には、夢で訪れる際は精神だけ移動しているのだが、それを知らない暁の脳裏には空になった布団の絵面が思い浮かんでいた。
 そんなことを考えていると、蒼い扉が開いて足立が戻ってきた。
「うわ!――ホントにいきなりだね……」
「だろ?」
 それを見た千枝と陽介の会話に苦笑しつつ、暁は足立に声をかけた。
「お帰りなさい、足立さん」
「あ、暁ちゃん。――お待たせしちゃったみたいだね」
 そう、苦笑気味に笑う足立。
「いえ。ちょうど千枝に色々説明する時間が出来ましたから」
「そっか。無駄な時間ってわけじゃなかったならよかった」
 暁の言葉に安堵したように、足立の笑みから苦いものが消える。
 そのことに暁も安堵して、今日会ったら伝えようと思っていた言葉を告げようと、身を寄せた。――千枝が、陽介たちと何やら盛り上がっている今のうちに告げておきたかったのだ。
「あの……ありがとうございました。千枝のこと」
「ん?――ああ、気にしないでよ。戦力が増えるのは助かるしね」
「あ、いえ、同行を認めてくれたことじゃなくて……」
 微妙に礼の意味を伝えそこなったことを察し、暁は言葉を改める。
「千枝のこと、怒ってあげてくれて、ありがとうございました」
 意外なことを言われた、という風に足立の眼が見開かれた。
「――千枝から聞きました。私たちがあっちに行ってる間、足立さんがフードコートに来て、“こちら”に来たことを見抜かれて怒られたって」
 そのことを語る千枝の清々しい表情を思い出し、暁は微笑む。

 ――足立さんに怒られて、あたし、逆に楽になったんだよね。

 暁たちに優しく許してもらったことはもちろん嬉しかったし安心したが、吹っ切れたのは足立のおかげだと、千枝は笑ったのだ。

 ――『この分の借りはこれからの活躍で返してもらう』って言われて、やれることがあるんだ、返せることがあるんだって思えたの。

「足立さんの言葉で、『申し訳なさで俯いてた気持ちが、前を向けるようになった』って、千枝は笑ってました」
 暁の言葉に、足立は軽く目を見開く。
「怒られた方が楽になることもあるんですよね。――だから、そういう厳しい優しさをさらっと示せる足立さんは、やっぱりすごいなって」
「――いや……買い被りだよ」
 足立はそっけなく告げてそっぽを向くが、見ればその耳が朱に染まっている。
 わかりやすく照れた足立の姿を見て、思わず微笑んだ暁の脳裏に響く『声』。

≪我は汝……汝は我――

 汝、彼の者との絆を深めたり――

 汝、“審判”のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん≫

 脳裏で輝く、“審判”のタロット。

 そのカードの輝きに後押しされるように、暁は笑って告げた。

「――私も、足立さんの横に並んで恥ずかしくないような人になれるよう、頑張りますね!」

「――へっ!?」
 一緒に事件の真相を追う者として、少しでも彼の助けになれるように――そう思ってのその言葉に、何故か足立が妙な声を上げて硬直する。
「……わ、私、変なこと言いました……?」
「………………い、いや、ごめん、僕が勝手に勘違いしただけ。気にしないで」
 何故だか真っ赤になった顔を冷やすようにぱたぱたと手で扇ぎつつ、足立は遠くを見るような眼をした。
 自分の台詞が『愛の告白』のように聞こえるものだとはまるで自覚せず、暁はただただ不思議そうに赤くなった『憧れの人』を見つめるしかなかった。

 * * *

 クマの案内で連れてこられた建造物。それは、まさしく西洋の城だった。それも、遊園地などに出てきそうなイメージ化された『お城』。
 扉を開いて入った先の内装も、赤絨毯に白い壁、樫の木の扉とコテコテで、千枝は思わず目を瞬いた。
「……これが、雪子の心理から生まれた場所なの?」
「む、クマの鼻を疑うクマか!?」
 思わず漏れた呟きに、クマが聞き捨てならんとばかりに声を上げる。
「い、いや、そういう訳じゃないんだけど。……ただ、雪子のイメージからかけ離れてる感じだから……」
 長い黒髪の似合う大和美人で、旅館の娘として着物を着ることも多い雪子。そんな彼女には正直『和』のイメージが強い。――そう思っての言葉だったのだが。
「案外、『だからこそ』かも。――そういう自分のイメージへの反発が、雪子ちゃんの心の奥に蓄積してたのかもしれない」
 柔らかな声音ながらも淡々と告げられた足立の言葉に、千枝は思わず目を見開いた。
「自分を勝手な枠で捉えられることほどシンドイことはないからね。それは、在り方を強制されてることと変わらないから」
 誰に告げるでもなく、ただ思ったことを口にしたというような足立の言葉。――それが、酷く胸を抉った。
 その言葉で、今更ながらに気が付いたのだ。
 ――今までの自分が、雪子に『自分に守られるお姫様』という役を、無意識に押し付けてきたことに。
「……あたし、全然、雪子のこと見てなかったんだ……」
 思わず、そんな自嘲の言葉が零れ――途端、その背を思い切り叩かれた。
「――ぃったっ!?」
「落ち込むのはあとで!今は天城を助けることだけ考えろよ」
 な?とウィンクと共に投げかけられる、陽介の言葉。
 その言葉で、俯きかけていた気持ちが持ち直した。
「うん……そうだね――行こう」
 強い決意を込めて、千枝は赤い廊下の先を睨み据えた。


「……なんか、間取り変わってね?昨日、こんなT字路あったか?」
「うむむむ……道順が変わっちゃってるみたいクマ」
 『城内』を進み始めてしばらく――陽介が眉を寄せ、クマも困惑したような声を漏らした。
 どうやら、城内の間取りが再構成されており、昨日の探索での記憶はまるでアテにならなくなってしまったらしい。
「最短ルートで階段を目指してたつもりだったけど……こうなると、また全部の扉を見て回らないといけなくなるね……」
「……面倒だな」
 暁の言葉に、足立が顔をしかめて吐き捨てた。
 ――しかし、そんなことでくじけてはいられない。
「――とりあえず、手近なとこから虱潰しにするよ!」
 一同の沈んだムードを蹴散らすように勢いよく宣言し、千枝は傍にあった扉を開け放つ。
 扉の先にあったのは、小さな部屋。中には扉も階段もなく、ただ、隅で蠢く数体のシャドウの姿だけがあった。
「――『虚言のアブルリー』クマ!弱点は電撃!」
「電撃か――やれ!イザナギ!」
 こちらに気づいて飛びかかってくる影達を見て、一同の後ろに避難したクマが叫ぶ。即座に応え、足立がペルソナを呼び出した。
 飛びかかってきた三体のうち一体に、イザナギの放ったジオが直撃し、びくりと動きを止める。
「ピクシー!」
 さらに、暁が呼び出した小さなペルソナが、別のシャドウにジオを落とした。
 その間に、残ったもう一体にもイザナギがジオを食らわせ、三体のシャドウは全て動きを止められ地に落ちる。
「よっしゃ、後は俺らで蹴散らすぜ!」
「おっけー!――トモエ!」
 ジライヤの手裏剣が飛び、トモエの薙刀が振るわれ――シャドウは全て黒い霧と化して溶け消えた。
「この部屋は外れか……次、行こう!」
 気を取り直すように千枝は声を上げる。それに頷いて、一同は再び廊下を進み始めた。
「――っていうか、さっき弱点とか言ってたけど、それってどういう意味?」
 足立を先頭、陽介をしんがりにして進みながら、千枝は横に並んだ暁と、後ろを歩むクマに問う。
「えっと、どうも、シャドウの中には、特定の属性攻撃に弱いものがいるみたいなの」
「ペルソナやシャドウが扱う属性は、八つに分けられるクマよ」
 暁の言葉を継いで、クマが詳しく説明し出した。
 まず、八つに分けられるという属性は以下の通り。
 刺したり殴ったり斬りかかったり、という“物理”。
 それから、精神力を消耗して使用する“火炎”、“氷結”、“電撃”、“疾風”といった魔法。
 同じく魔法だが、一撃必殺になるか、全くのスカに終わるかという博打的な“光”と“闇”。
 そして、上記のいずれにも当てはまらない“万能”属性。
 シャドウの中には、物理と万能を除いた六属性のうちのいずれかを弱点とする者がおり、それを食らうと先ほどの『虚言のアブルリー』のように、一時的に動きが麻痺するのだ。
 もちろん、そういった弱点を持たないシャドウもいるし、特定の属性に対して耐性があって効きにくかったり、無効化されて全く通用しなかったりする場合もあるらしい。
 これらの属性に対する弱点や耐性の特徴はペルソナにも当てはまるらしい。例えば、暁のイズモは物理攻撃に対して耐性があるが、火炎攻撃を弱点としている、といった風に。
「シャドウの弱点を突ければ楽に勝てるけど、逆にこっちのペルソナの弱点を突かれるとかなりのダメージを受けるし、しばらく動けなくなっちゃう。自分のペルソナが何に弱いかきちんと把握して、気を付けてね」
「――うん、わかった」
 暁の言葉に頷いて、自身のペルソナへと意識を凝らせば、得意不得意の傾向が伝わってきた。
「……トモエは、氷結に強いけど、火炎に弱いみたい」
「そっか、イズモやピクシーと同じ弱点だね。……火炎を使ってくるシャドウに出会ったら、気を付けないと」
 今のところ、体当たりなど物理攻撃のみのシャドウとしか遭遇していないらしいが、これからもそうとは限らない。
 気を付けるに越したことはないだろうと意識を新たにし、千枝は先を行く足立の背に視線を戻した。


 一階のドアを片端から開けて回り、何度もシャドウと鉢合わせする羽目になりつつも、千枝たちはついに二階に上がる階段を発見した。

 ――『……千枝……』

 階段を上った先にあった両開き戸。――聞こえる親友の声は、確かにその向こうから。
「――行くよ」
 仲間たちが頷いたのを確認してから、千枝はその扉に手をかけ――あっけないほどあっさりと、その扉は開かれる。
「――開いた!」
「よくやった、里中!行くぜ!」
 一度開いた扉は、千枝以外の人間を拒絶するようなこともなく、すんなりと一同は扉の向こうへと入ることができた。
「――広間……?」
 室内の様相を見て、暁が呟く。――廊下と小部屋が延々並んでいた一階と違い、ここはがらんと開けた広間の様相だった。
 部屋の隅に立つ柱以外、視界を遮るようなものはなく、遠くに見える向かいの壁に扉があるのが見て取れた。
 しかし――雪子の姿はない。
「――雪子!?どこなの雪子!」
 思わず声を上げた千枝の言葉に答えるように――『声』が聞こえた。

 ――『“赤が似合うね”って……』

「――雪子!?」
 千枝は思わず声を上げて辺りを見回すが、相変わらず広間に彼女の姿はない。ただ、声だけが響き続ける。

 ――『私、雪子って名前が嫌いだった……』

 どこか沈んだ、親友の声。

 ――『雪なんて、冷たくてすぐ溶けちゃう……儚くて、意味のないもの……』

 どこか自嘲気味に、声は響く。

 ――『でも、私にはぴったりよね……旅館の跡継ぎって以外に価値のない私には……』

「――違う……そんなことない!」
 思わず声を上げた千枝の言葉に応えるようなタイミングで、その声は自分の名を呼んだ。

 ――『でも、千枝だけが言ってくれた。“赤が似合うね”って』

「これ、天城の、心の声か……?」
 陽介の呟き。
 だとするなら――雪子は、どれだけその心に重いものを抱えていたのか。

 ――こんなにも辛く、思いつめた声音で、己を否定する言葉を綴るなんて。

 本当に、少しも親友の気持ちをわかっていなかった自分に、愕然となる。
「――雪子……」
 呆然と親友の名を呟くしかない千枝に、『声』は語り続ける。

 ――『千枝だけが……私に意味をくれた……』

 感謝と羨望が入り混じるような、切ない声音。

 ――『千枝は明るくて強くて、何でもできて……私に無いものを全部持ってる……』

(――違う)
 千枝は、ゆるゆると首を振る。――それは違う、違うよ、雪子。

 ――『私なんて……私なんて、千枝に比べたら……』

(――あたしなんて、雪子に比べたら)
 それは、その言葉は、自分がずっと彼女に対して抱いていた想いと同じもので。

 ――『千枝は、私を守ってくれる……何の価値もない私を……』

(――雪子は、あたしを頼ってくれる。こんな、何もできないあたしを)
 親友の自嘲の言葉は、そのまま自分に跳ね返る。

 ――『私、そんな資格なんてないのに……』

(――あたしに、そんな資格なんてないのに)

 ――『優しい千枝……』

 最後にそう呟いて――『声』は途切れた。

 打ち明けられた雪子の内面。自身の心理を鏡写しにしたようなその内容に、千枝は呆然と立ち尽くす。
 暁は目を見開き、陽介は痛ましげに眼を眇め――いずれも、語る言葉を持たない様子で沈黙している。
 その落ちかけた沈黙に、淡々とした声が響く。
「……親友への依存と劣等感ってところか。――君らはお互い、親友に劣等感を抱きながらも、その相手に自己の拠り所を求めていたんだね」
 告げられた言葉の解釈を述べる足立の呟き。――そこに同情や憐憫の色はない。
 その解釈は、おそらく正しい――少なくとも、千枝の側は間違いなくそうだった。
 ――しかし、だとしても、当事者を前に躊躇いなくそれを口にするか。
「……足立さんって、結構ドライですよね」
「まあね。――でも、ここで『君らはお互い辛かったんだね』なんて同情の言葉が欲しい?」
 思わず恨みがましく声を上げれば、しれっとした調子で返される。
 そう問われれば、答えは『ノー』だ。――その同情は、自分と親友の『友情』を根底から否定する気がする。
 確かにどこか間違っていたけど、お互い辛い部分もあったかもしれないけど、それだけじゃなかった。――一緒に居て楽しいことも、嬉しいこともたくさんあったから。
 同情は、されたくない。
「お互いに切り捨てられないくらい大事だったからこそ、間違えちゃったんでしょ?間違いに気づければ、いくらでもやり直せるよ。――まだ若いんだしさ」
 おどけたように笑って告げられた言葉に、千枝は目を見開く。
(大事だから、間違えた――)
 ずっと一緒に居たから、彼女と自分を比べてしまって、辛くなって――そうして、歪んでしまった想い。
 それでも、自分には彼女から離れるという発想はなかった。――どこか間違った関係であっても、一緒に居たかった。
 ――それほど、大切だったから。
 そしてそれは、自分の方だけでなく、雪子の方も同じだったのだと――足立の言葉は告げていた。
 それに気づいた途端、何だか泣きそうになって――千枝は誤魔化すように憎まれ口を叩いていた。
「……そんなこと言うから、『おじさん』扱いされるんですよ、足立さん」
「――なっ……!?」
 千枝の一言に、泰然とした足立の態度が崩れた。刺さったように胸を抑える。
「……酷い……僕、まだ27なのに……」
「――え!?27!?」
 傷ついた風の足立の呟きに、陽介がぎょっとしたように声を上げる。
「お、俺らの十コ上!?……てっきり、まだ二十代前半かと思ってた……」
「……私も……」
 暁も驚いたように陽介に同意する。
「――ほら、暁ちゃんたちもこう言ってる!僕、まだ『おじさん』じゃないよ!」
「……あー、うん、ソウデスネ。――今の足立さんはすごく若く見えます」
 というか寧ろ子供っぽい――ムキになった足立の姿に、千枝はそんなことを思う。
 先程までの感情を抑えた淡々とした言動とか、年長者としての意見を述べる時の態度は、どうにも酷く老成して見えるのだが――こういう表情を見ると、確かに年齢より若く見える風貌だと知れた。童顔と言ってもいい。
 表情一つでこうも印象が変わるものなのかと、千枝は苦笑し――しかし、そのことで涙腺の決壊は免れた。
「――もう!アダッチーの年なんぞどうでもいいクマよ!それより今はユキちゃんを助けることが先でしょーが!」
 と、それまで黙っていたクマが声を上げ、脱線していた一同ははっと我に返る。
「ど、どうでもいいって……」
「よ、よりによってクマにツッコまれるとは……」
「あ、足立さん……花村君……」
「――でも、確かにその通りだよ!行こう!」
 何やら落ち込む男性陣と、それを慰めようとする暁を促して、千枝は奥に見える扉へと向き直り――

 いつの間にか、その扉の前に、長い黒髪の少女が立っていたことに気が付いた。

「――雪子!?」

 千枝は思わずそう声を上げたが――その少女は、親友とはかけ離れた姿をしていた。
 いや、容貌は瓜二つ。しかし、身に纏うピンクのドレスと、どこか歪んだ印象を感じさせる笑みは、見慣れた親友の姿ではありえない。
『――あらぁ?』
 と、千枝たちに目を留めた“彼女”が、楽しげな声を上げながら、大仰な仕草で両手の指を組み、こちらへと身を乗り出す。
『サプライズゲスト?どんなふうに絡んでくれるの?――んふふ、盛り上がってまいりました!』
 問いかけの形を取りながら、一切こちらの言葉を聞く気のない一方的な態度も、本来の雪子らしからぬもので。
『さてさて、私は引き続き、王子様探し!一体どこにいるのでしょう?こう広いと、期待も高まる反面、なっかなか見つかりませんね~!――あ、それともこの霧で隠れんぼ?よ~し、捕まえちゃうぞ!』
 その異様なハイテンションも、良く知る親友のものとは思えない。
 そして、何よりその瞳は――人のモノとは思えぬ、妖しい金の色をしていた。
『では、更に少し奥まで、突撃~!』
 その金の瞳に歪な嗤いを浮かべながら、楽しそうに“彼女”はそう宣言し――

 ――『ヤラセなし!雪子姫、白馬の王子様さがし!』

 それに呼応するように、“彼女”の真上にそんなテロップが突如浮かび上がる。
「な、何か文字出たぞ、おい!?」
「う、うん……」
 陽介の呆気にとられたような声に、暁が反射のように頷く。
 どこか間の抜けたそのやり取りに笑う余裕もなく、千枝は目の前の“彼女”を睨み据えて叫んだ。
「あんた、まさか――本物の雪子はどこッ!?」
『うふふ……何言ってるの?私は雪子……雪子は私』
 “彼女”はそう笑って返し――その言葉に呼応するように、どこからともなくざわめきの声が響いてくる。
「――何だ……?」
「シャドウたちが騒ぎ出したクマ!」
 眉をひそめた足立に、クマが緊張した声音で答える。
『では、再突撃行ってきます!――王子様、首を洗って待ってろヨ!』
 一同がシャドウたちの声に気を取られた隙を突くように、“彼女”は踵を返してすぐ後ろの扉から去っていく。
「――待ちなさい!本物の雪子はどこなの!?」
「千枝ちゃん!?」
 千枝は咄嗟に“彼女”を追って駆け出した。背後で足立の声が上がったが、ここで止まったらせっかくの手がかりを逃してしまう。
 真っ直ぐに“彼女”が出て行った扉へと駆け寄り――目の前まで走り寄ったタイミングで、開け放たれたままのその扉から、鳥型のシャドウがこちらへと飛び込んできた。
「――っわぁッ!?」
 ペルソナを呼ぶ暇さえなく、こちらの顔面目がけて突っ込んできたシャドウに――千枝は咄嗟に、身を捻る様にして片足を跳ね上げていた。
 ――靴底越しに感じる、バキンッという硬い感触。
 跳ね上げた千枝の足は、鳥型シャドウの腹部についていた仮面に命中し――突進してきたシャドウは、見事にカウンターを食らった形で、黒い霧を化して溶け消えた。
「……千枝、すごい……」
 後ろから聞こえた呆然とした暁の声。
 我に返って振り返れば、感動した様子で目を見開いた暁とクマ、唖然とした顔でこちらを見つめる男二人の姿があった。
「おま……シャドウ蹴り倒すとか……どんだけよ!?」
「……いやぁ、あんな素晴らしいカウンターはなかなかお目にかかれないねぇ……」
「チエちゃん、お見事!」
 慄いたような陽介の声に、半ばあきれたような足立の声。クマはストレートに称賛の声を上げる。
「い、いや……咄嗟に足が出ただけなんだけど……」
「――反射かよ!お前どんだけ足癖悪いの!?」
 事実を告げたら、余計にドン引いた様子を見せる陽介。
「う、うるさいな!足癖悪いって言うな!いいじゃん、結果的に助かったんだから!」
「うん、そうだね」
 思わず怒鳴れば、足立が凄くイイ笑顔で頷く。
「――でも、そもそも不意打ち食らわないように、慎重に行動しようか?」
「……はい……」
 彼の正論と笑顔のプレッシャーに返す言葉もなく、千枝は思わず項垂れた。
 それ以上千枝を責めることもなく、足立は軽く首を傾けながら、考え深げに口を開く。
「――しかし、さっきのアレ、雪子ちゃんのシャドウだよね。……言動はアレだったけど、暴走してるのとはまた違う感じだったねぇ」
「そうクマね。……多分、本物のユキちゃんの中に、何か伝えたいことがあるクマよ。だから、シャドウもこちらの前に現れて語りかけてきたんだと思うクマ」
 足立の言葉をクマが肯定する。
「つまり、さっきのシャドウの言葉の中に、『雪子の伝えたいこと』が含まれてるってこと?……でも、『白馬の王子様を探してる』って、どういう意味なんだろう……」
「……う、うーん……?」
 首を捻る暁の言葉に、千枝も思わず唸る。
「普通に考えたら……素敵な彼氏が欲しいとかか……?」
「――いやいやいや!それはないでしょ!これまで雪子がどんだけフラグ折ってきたと思ってんの!?」
 陽介の呟きに、千枝は全力で否定の声を上げた。――そういう意味だとしたら、雪子の理想はどれだけ高いのかという話になる。
 頭を悩ませる三人に、場の最年長者は酷くドライな意見を述べた。
「一番親しい千枝ちゃんに察しがつかないなら、僕らがここでああだこうだ言っても何もわからないと思うよ。どっちにしろ、こっちに伝えたいことがあるって言うなら、そのうちあっちから打ち明けてくるでしょ」
「――それで、いいのかな……?」
 ばっさり切った足立の言葉に、千枝は思わず疑問の声を上げる。――少なくとも自分は、親友の悩みを少しでも理解しようと思考すべきじゃないのか。
 そこに、暁の静かな声がかかった。
「……そうですね、足立さんの言う通りかも。――千枝、今私たちがするべきことは、雪子の悩みが何なのか推測することじゃなくて、聞かされたその内容がどんなものであれ、それをきちんと受け止める覚悟を持つことなんだと思う」
「――受け止める、覚悟……」
 告げられた言葉を繰り返し、千枝は目を見開く。
 ――そうだ。今必要なのは、中途半端な憶測などではない。
 今まで気づかなかった、見ようともしてこなかった親友の心の暗部。それを晒された時、逃げないでいるだけの覚悟こそ、今の自分に必要なこと。
 彼女がその胸の内に溜め込んできたものを、受け止める。――今度こそ、本当の意味で『守る』ために。

 ――これからの彼女が、笑顔でいられるように。

「――ありがとう、暁」
 迷いを吹っ切る言葉をくれた友人に、笑顔を向ける。そうすれば、彼女も安堵したように微笑んでくれた。
「――探そう。雪子と、“もう一人の雪子”を」
 迷いの消えた声で告げた言葉に、頼もしい仲間たちは一斉に頷いてくれた。

 * * *

 広間の奥にあった扉の向こうにあった階段を上がると、どこからともなく、笑みを含んだ声が響いてきた。

 ――『もうすぐ王子様が私を迎えに来てくれます……』

「これ……また、雪子の心の声?」
 広間で聞こえたものと同質の声に、千枝が目を見開いて呟く。

 ――『私はいつまでもお待ちしてます……いつまでも、いつまでも……』

 ふふ……、という笑みを最後に、『声』は途切れた。

「……むむむ、声は聞こえど、近くにそれらしき気配はないクマね……」
 鼻をひくつかせながら、クマは呻く。
 辺りに感じるニオイはどれもシャドウのモノばかり。先程見た“もう一人のあの子”のニオイも感じられなかった。
「また『王子様』か……ホント、どういう意味なんだろうな、これ……」
「――無駄な推測は後回し。今は雪子ちゃんと彼女のシャドウを探すことに集中して」
 首を傾げた陽介の言葉を、足立がばっさり切り捨てる。そうして、再び先陣を切って進み始めた。
「――あ、そうだクマ君」
 足立に続いて移動しながら、暁が思い出したようにこちらへと声をかけてきた。
「これ、両方ともクマ君がくれた合図だよね?返そうと思って持ってきたんだけど」
 そう言って暁が取り出したのは、早紀の時に合図として“外”に送った白く小さな果実と、やはり一昨日合図として出した小さな白い玉。
「あ、それならあげるクマ。『白桃の実』は怪我に効くし、『地返しの玉』は、もう動けない~、って時に力をくれるお守りクマよ」
 多分アキラちゃんたちが持ってた方が役に立つクマ、と告げれば、暁は「ありがとう」と笑って『白桃の実』と『地返しの玉』を再びしまった。
「それで、その……合図に関してちょっとお願いがあるんだけど……丸いものはできればやめてくれないかな?」
「……どうしてクマか?」
 困ったように告げてくる暁に、思わず首を傾げる。
「さっきの白い球――『地返しの玉』だっけ?あれね、テレビから落とされた後、床で跳ねて転がったのか、家具の隙間に入り込んでて……昨日の朝、お布団をたたむ時になって、初めて見つけたの……」
 クマが合図を送ったのは、一昨日の夕方。つまり、丸々一晩、その合図に気づけなかったということだ。――確かに、それでは合図としては不適格だ。
「むむむ……わかったクマ。今度からは、コロコロ転がらないものを合図にするクマよ」
「うん、ごめんね。ありがとう」
 ふわりと笑う暁。――その笑顔を見て、クマの気持ちはふわふわと浮上した。
 暁たちは不思議だ。一緒に居ると、それだけでクマの気持ちは温かくなって、楽しげに弾むのだ。
 でも、暁たちが悲しそうにしていたり、怪我をしたりする場面に出くわすと、クマの気持ちはしおしおとしぼんで、寒くて暗い所に沈んでしまう。
 だから、クマは暁たちに笑っていてほしいと思う。

 ――そのためにも、『ユキちゃん』を助けなくてはいけない。

 そう、強く思う。――きっと、彼女が“消えて”しまったら、暁たちはとても悲しむから。
 そう考えるクマは、気づいていない。
 『静かな暮らしを脅かす要因』を排除するための『犯人捜し』。その手がかりを得るために必要だからと始めた『“被害者”救助』。――それが今や、『“被害者”を助けること』そのものが、自分の中で目的となりつつあることに。
 クマはまだ、自覚していない。
 誰かが“消える”ことが――人の“死”が、悲しいことだと理解し始めている自分の変化に――
 徐々に、『人間らしく』なっている、自身の精神に――


 『城内』の探索自体は、問題らしい問題もなく進んでいった。
 『トランスツインズ』という、一本の棒を二体で一緒に持つ人型シャドウに初めて遭遇した際は、少々苦戦したが――物理に耐性を持ち、氷結・電撃・疾風を無効化してしまうこのシャドウも、火炎にはめっぽう弱いのだとわかってしまえば、暁が新たに得たペルソナ“ウコバク”と、足立のアータルが放つ火炎魔法アギで簡単にカタがついた。
 寧ろ、この『トランスツインズ』が落とした棒によって、戦力は格段に安定した。
「ねぇ、クマ君。その棒、私に貸してくれない?」
 そう言って、クマが拾ったその棒を借り受けた暁は、次に単体で現れた鳥型シャドウ――『ブラックレイブン』を一人で瞬殺してしまったのだ。
 その時点で『ブラックレイブン』とは何度かやり合っていたので、その弱点が電撃であることはわかっていた。――暁は出会い頭にピクシーのジオをお見舞いすると、びくりと地に落ちたそのシャドウに一瞬で詰め寄り、手にした棒を鋭く突き込んでその仮面を叩き割ったのだ。
 これには、誰もが唖然とした。
 何に驚いたかと言えば、暁の身のこなしである。まるで手にした棒が自身の身体の延長であるかのような、無駄のない動きだった。
「――暁、すっごーい!何、今の!?杖術ってやつ!?」
「私が得意なのは短杖術ってものなんだけど……子供の頃から、護身術代わりにってお父さんに教え込まれたんだ」
 目をキラキラさせての千枝の問いに、暁は少し照れた風に答え――そのやりとりを見る男二人の表情は引き攣っていた。
「――あ、暁ちゃんのお父さんって、意外に武闘派……?」
「……さ、里中だけでなく神代まで……お、男としての立場が……」
 それぞれ、呟く内容はまるで違っていたが。
 何はともあれ――この一件で『ペルソナと自身の体術の連携』の有効性に気づいた千枝も、トモエで斬り込んで敵の姿勢を崩してから、自身の足技でとどめを刺すという戦法を取るようになった。
 ペルソナは呼び出すだけで精神力を消耗するし、スキルを使えば尚更消耗率は上がる。――体術を組み合わせることで、女性陣は見事に精神力の消耗を抑えることに成功したのだ。
 気づけば、女性二人が先陣を切り、男性二人が後ろからサポートするという陣形になっていて――クマは思わずぼそりと呟いてしまった。
「アダッチーもヨースケも、なっさけないクマねぇ……」
「――煩いよ!」
 キレイにハモって怒鳴り返される。――二人の目じりに光るものが浮かんでいたのは、見なかったことにした。
「僕だって警察官の端くれだよ!?剣道だって習得してる!ちゃんとした剣があったら……!」
 ムキになったようにクマに詰め寄ってくる足立の叫びに反応したのは、意外にも千枝だった。
「そうなんですか?……それなら、もしかしたら戦力アップできるかも」
 へ、と足立が目を見開く。
「あたしも男子が話してるの聞いたってだけで、行ったことはないんですけど……商店街に、手製の鎧や模造刀を扱う工房があるんです。――店先にデッカイ鎧が置かれた『だいだら.』って店なんですけど」
「……あれ、そういう店だったんだ……どうりであの前通る度、堂島さんが妙な顔するわけだ……」
 足立がどこか遠い眼で呟く。
「出来れば今日中に雪子を見つけたいけど、この城がどれくらい広いかわからないし……明日も引き続き探索するようなことになったら、こっち来る前に寄ってみましょうよ。足立さんの武器になるようなものがあるかも。――ついでに花村も何か買えば?」
「俺はついでかよ!――どうせ、俺は何の武道も習得してませんよ……」
 千枝の一言に、陽介ががくりと肩を落とした。
「……そうだね。厳密には模造刀の携帯も銃刀法に引っかかるんだけど、この際そんなこと言っていられないし――って、どうしたの?……何、この空気」
「……い、いや……何でもないです」
 足立の言葉に、陽介がなぜかだらだらと汗を垂らしはじめ、暁と千枝が何とも言えない表情をしていた。
「と、とりあえず、今は先に進みましょう?――開けますね」
 暁が何かを誤魔化すように告げてから、手近にあった扉を開く。――その中には、上に続く階段があった。
「お!ビンゴ!――行っくよー!」
 声を上げた千枝を先頭に、一同は階段を駆け上がり――

 ――『いらっしゃいませ』

 突如投げかけられた歓迎の言葉に、面食らって足を止めた。

 ――『本日は天城屋旅館にお越し頂き、誠にありがとうございます』

 どこからともなく響く、淡々とした雪子の声。

 ――『こちらがお部屋でございます。何か御用がございましたら、いつでもお申し付け下さい――』

 そう告げると、唐突に響いた声は、やはり唐突に沈黙した。

「……今の声は何を言っていたクマか?ここは『お城』じゃないクマか?」
「うん……そうなんだけど……」
 クマは思わず首を捻ねる。それに対し、暁が困ったような声を漏らした。
「――なるほどね……」
 と、足立が低く呟く。何が『なるほど』なのかわからず首を傾げてそちらを見れば、何でもない、という風に手を振られた。
「ここで立ち止まっててもしょうがない――行こう」
「あ……は、はい」
 足立に促され、一同は再び歩み出す。
 一同の足音に紛れるような低い足立の呟きが聞こえたのは、おそらくクマだけだったろう。
「――王子様を探す“シンデレラ”、か……」
 それはどういう意味かと問うより先に、シャドウの襲撃を受けて――クマはそのまま、その呟きについて訊ねることを忘れてしまった。

 * * *

 出迎えのシャドウを撃破して、廊下を進みながら、足立はちらりと先を行く千枝を見る。
 ――親友が抑圧していた内心の『告白』を聞いて、呆然と立ち尽くしていた少女。
 その様がさすがに気の毒になって、気を逸らそうと客観的分析を述べたら、恨みがましく噛みつかれた。――その声音には、親友の胸の内に気づけなかった悔悟と自責の色がありありと見えて。
 そこまで己を責めるようなことじゃないと、責めても何にもならないと――気づけば、柄にもなく慰めの言葉を投げていた。
 その言葉に、彼女は一瞬泣きそうなほど顔を歪めて――それは傷ついたのではなく、ちゃんと励ませたからなのだと、彼女との間に結ばれた“コミュニティ”が成長したことで知れた。
 あの言葉は、適当に投げたものではなかった。少なくとも、あの『告白』を聞いた限りでは、雪子も千枝への劣等感はあっても、それを凌ぐ友愛を抱いているのだろうと足立には感じられたから。
 ――だが今は、その印象が正しかったのか、正直自信がない。
 度々聞こえてくる雪子の内心の『声』の内容。それによって浮かんだ推測によって、雪子の千枝に対する思いがいまいちよくわからなくなってしまった。
(――『自分には何もない』という自己否定、親友への依存、劣等感。義務のように告げられた接客挨拶から推察される、家業の重圧。『王子様の迎えを待つ』という言葉)
 そこから連想される、一つの可能性。
(……これは、“シンデレラ・コンプレックス”ってやつじゃないか?)
 別称、“シンデレラ・シンドローム”。和訳すれば“シンデレラ症候群”。
 その名の通り、彼の有名な童話からつけられた、ある特定の心理状態を示す名称。
 継母と義姉のいじめにも健気に耐え続けるシンデレラ。彼女は心優しい魔法使いの助けによって素敵な王子様と巡り合い、見初められ、紆余曲折を経た後、彼に嫁いで幸せになる。――ご都合主義なほどにわかりやすいハッピーエンド。
 この物語になぞらえ、『辛い現状に耐え続けていれば、いつか素敵な王子様が現れて、自分を救い出してくれる』という、無意識の『依存型逃避願望』をこう呼ぶのだ。
 ただ『素敵な王子様』に憧れるだけなら何の害もないように思えるが――この心理は、“王子様他者”の助けをアテにするが故に、受け身になって自主性や向上心を失ってしまうという側面を持つ。つまり、『自分から動こう』という能動的な努力を放棄してしまうのだ。
 この心理は、自己に自信のない人間、特に他者への依存心が強い女性に多くみられる傾向があるという。――ここに来るまでに聞かされた『心の声』から推察する“天城雪子”の人間像は、かなりこの心理に陥りやすいタイプに思えた。
 しかし、だとすると腑に落ちない点が一つ。
(――“彼女”の“王子様”は千枝ちゃんじゃないのか?)
 広間で暴露された雪子の『告白』の中には、『千枝への依存』も含まれていた。“シンデレラ・コンプレックス”に陥った人間にとって、“王子様”=“依存対象”だ。だとするならば、雪子の言う“王子様”は千枝であるのが自然だと思うのだが――
(彼女のシャドウは、千枝ちゃんを目の前にして、『王子様が見つからない』と言った)
 これは即ち、千枝は“彼女”の言う“王子様”ではない、という意味にとれる。
 千枝が同性の親友であるためか、それとも別の要因か――何にせよ、雪子のシャドウが何らかの理由で千枝というこれまでの依存対象を“見限り”、別の依存対象を求めているのだとしたら。
(その時――千枝ちゃんは、どうするんだろうね)
 自身の依存心と向き直り、親友との関係をやり直したいと願っている彼女は――どうするのだろう。
 誰かに依存しようとする親友を諌めるのか。それとも、己を見限った親友を見捨てるのか。はたまた、全く別の結論を見出すのか。
 これまでまともに人間関係を築いてこなかった足立には、まるで想像のつかない領域だ。――だが、だからこそ、ある意味で彼女たちが羨ましいとも思った。
(そんなにじたばた足掻いてでも、傍に居たいと思える人に出会えることは――何事にも代えがたい幸運だから)
 自分は“そういう相手”に出会うまで、随分かかってしまった。
 だから、青春真っ盛りの時期に“そういう相手”に出会えた彼女たちが羨ましく――また叶うなら、その結末が幸福なものであって欲しいとも思う。
(……以前だったら、妬んで『お前らも不幸になれ』くらいのことを考えてたんだろうけどね……)
 自分の“大事な存在”を見つけたというだけで、現金なまでに変化した自身の心境に、足立は思わず苦笑した。
 だが、かつてのそんな思考は不毛なだけだと、今ならわかるから。
 他人が不幸になったって、自分が幸せになれるわけじゃない。――寧ろ、他人の不幸を願えば願うだけ、幸福というものは遠のいていくのだろう。

(――君らは、そんな人間になっちゃだめだよ)

 暁たちの背を見ながらそんな風に思って――こういう思考が“おじん”扱いされる原因かと思い至り、露骨に顔をしかめるのだった。


 四階の探索はスムーズに進んだ。前衛後衛の役割分担によって戦術が明確になったのもあったし、出現するシャドウが弱点の割れている既出種ばかりだったのもある。
 それでも消耗が全くなくなったわけではない。特に武器のない足立と陽介は、ペルソナに頼り切りになってしまうので精神力の消耗が激しかった。
 そんなわけで――五階への階段を発見した時点で、足立はかなりバテていた。
「足立さん……大丈夫ですか?」
「――ああ、ごめん。大丈夫」
 疲れが顔に出ていたらしい。案じる声をかけてくる暁に、足立は慌てて笑みを取り繕う。
 陽介の方もやや疲れているようではあるが、自分ほど酷くはないらしい。
 相手によってペルソナを使い分けられる分、逆にスキルを使う機会が多い自分の方が、陽介よりも消耗が激しいためだろう。――だから、これは若さの差ではない。断じて。
 誰に対してか、内心でそんな言い訳を述べながら階段を上りきり――

 ――『うふふ……』

 どこからともなく聞こえてきた笑い声に、クマがぴくりと顔を上げた。
「――さっきの子の気配クマ!きっとこの階にいるに違いないクマ!」
 その言葉を肯定するかのように、『声』が語りかけてくる。

 ――『まあ、そこにいらっしゃるのはもしかして、王子様でしょうか?』

「――こっちの様子が見えてるのか?」
 その言葉に辺りを見回すも、あのピンクのドレス姿は見当たらない。

 ――『私は囚われの身です。どうか私を助けて下さい』

 ――『王子様ならきっと、どんな困難な道のりも乗り越え、私を解き放ってくれるはず……』

 “シンデレラ・コンプレックス”という推察を補強するその台詞に、足立は思わず片眉を跳ね上げた。

 ――『私、お待ちしています……』

 うふふ、ともう一度含み笑いを響かせて――『声』は止んだ。

「なんだか変な雰囲気クマ……気を付けるクマ!」
 クマが緊張した声音で告げる。
「さっきの子の気配と一緒に、凄く強いシャドウの気配があるクマよ。他にも何か仕掛けられてる空気がして、バリバリヤバい感じ」
 告げられた情報に、足立は思わず眉を寄せた。
 今の自分はかなり消耗している。この状態で強力なシャドウとやり合えるかと問われたら、正直自信がない。
「――今日はもう戻りませんか?」
 足立の逡巡を読み取ったようにそう告げたのは、暁だった。
「強いシャドウがいるなら、出来るだけ戦力を整えてから挑むべきだと思います。足立さんや花村君の武器も準備してからの方がいいんじゃないでしょうか?」
 その言葉に最初に頷いたのは、意外にも千枝だった。
「――そうだね。暁の言う通りだと思う。雪子のシャドウがあたしたちを待ってるってことは、少なくともすぐに雪子本人をどうにかすることはないってことだし」
 一番気が焦っているはずの千枝が冷静な判断を下したことに、足立は目を見開き――微笑する。
「……成長したね、千枝ちゃん」
「まあ、足立さんのお説教が強烈だったんでー」
 生意気な口調でそう言って、ニカリと笑う千枝。
 その横で、陽介が疲れたようにため息をついた。
「俺も今日はここで帰るのに賛成。――正直、かなりゲンカイです」
 わりと平気そうに見えたのはやせ我慢だったのか。げっそりとしたその顔に足立は苦笑する。
 ――男というのは、どうにも意地を張りたがる生き物だ。
 暁の手前、自ら撤退を提案できなかったことへの自嘲も含め、そう思った。
「……とりあえず、今日は引き上げよう。この階の探索は、明日、準備を整えてからってことで。幸いクマ君の道具のおかげで、下の階から上り直す手間は省けるしね」
「――はい」
 足立の言葉に、暁が静かな決意をにじませる表情で頷き、その横で千枝が気合を込めるように拳を握る。
「明日こそ、絶対雪子を助けるんだから!」
「おう!――この面子なら、絶対天城も助けられるし、犯人だって捕まえられる。そうだろ?」
 陽介の不敵な言葉に、足立は思わず暁と顔を見合わせ――どちらともなく微笑んだ。
「そうですね。――絶対、大丈夫です」
「――うん、君らとなら、絶対」
 こんな自分とも絆を結んでくれた、君たちとなら――そう思って。

≪我は汝……汝は我≫

 その思いが呼び水となったように、脳裏に響く声ならぬ『声』。

≪汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者らとの絆に、“愚者”のペルソナを見出さん≫

『我は汝、汝は我――汝が真実への一歩を踏み出せし時、我が力もまた、新たな境地へと至るだろう』

 脳裏に浮かんだ己が半身たるイザナギの姿。――絆が、“彼”に新たな力をもたらしたことを悟る。

「よし!じゃあみんな、明日に備えて引き上げるクマよ!」
 クマがそう告げて、カエレールを発動させた。
 そうして足立達は、影が蠢く城から引き上げる。

 ――明日こそ、囚われの少女を救わんと、強い決意を胸にして。




[29302] 12章.舞踏会の終わり
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2011/12/03 16:45
 雪子姫の城・5階から帰還したその翌日。足立は暁たちの授業が終わるのに合わせて堂島と別行動を取り、その店へとやってきた。
 力強い筆文字で『だいだら.』と書かれただけのシンプルな看板。入り口の脇に置かれた武者鎧。
 はっきり言って何の店だかこれまでまったくわからず、店の前を通る度に首を捻っていたのだが――入ってみたら、今度は頭を抱えたい気分になった。
 狭い店内を圧迫するように陳列している様々な鎧。壁のフックにかけられた数多の刀剣類。
「――ゲームの武器屋かよ……」
 思わず、そんな呻き声が漏れた。
 自主製作の作品を扱う工房らしいが、取り扱う品がこれで、生計が成り立つのだろうか。
 余計なお世話ながらそんなことを思ってカウンターの方を窺い――固まった。
 店主と思しき壮年の男。頭頂部は禿げ上がっているが、その口髭はもみあげと繋がる程に立派なものだ。――しかし、それらの特徴が霞むほどに凄まじく目立つのは、その顔面にX字を描く派手な刀傷。
「――何その刀傷!?まさかここに並んでる商品の中に、真剣紛れ込んでたりしないだろうね!?」
「……ぁあ?」
 思わず裏返った声で叫んだ足立へ、店主は低い声を上げながら視線をくれる。
 眼光で人を殺せそうなその剣呑な眼差しに、思わず後退りかけて――背後に暁たちがいることを思いだして辛うじて踏みとどまった。
(――暁ちゃんの前で情けない恰好できるか!)
 その一念で、精神を立て直す。
 一つ息を吐いて呼吸を整え、背筋を伸ばして姿勢を正した。そうして、懐から桜の代紋を取り出して、相手に示す。
「――失礼。稲羽署の者です。……こちらにある商品は全て模造刀の類で間違いないでしょうか?」
 示された身分証にか、足立の豹変ぶりにか、店主は目を見開いてしばし沈黙し――
「………………お、おうよ。ここにあるのは、全部ワシの作ったアートだ」
「……今の聞き捨てならない間は何ですか」
 つい、とこちらから目を逸らして答える店主に、足立は思わず半眼を向ける。
「なよっちい兄ちゃんかと思ったら、案外覇気のある野郎だったから驚いただけだ。他意はねぇ」
 こちらに向き直ってそう言い放つ店主は、既に泰然とした態度を取り戻していた。――そこに動揺は見られない。
「……そうですか。では、店内の商品を拝見させていただいても?」
「おう、好きにしな。ただし、汚したり壊したりしたらただじゃおかんぞ」
 足立の確認にそう許可しつつも凄む店主に、暁たちがやや怯えた風に腰を引いた。
 陽介が足立の横に寄り、ひそめた声で問う。
「……大丈夫なんすか?この店?」
「……こんだけ堂々と店開いてて、これまで取り締まられてないんだから、店主の言う通り扱ってるのは模造刀の類だけでしょ」
 多分、と最後にぼそりと付け足す。――店主の刀傷を見ると、どうしても『白』とは言い切れなかった。
「と、とにかく!今のあたし達にはこの店が“アウト”かどうかは二の次でしょ!――とりあえず、防具の類見てくる」
「そ、そうだね」
 気を取り直すように叫んだ千枝の言葉に、やや引き攣った笑いを浮かべて暁が頷き、二人揃って防具の並んだ方へと向かう。
 足立は、とりあえず一番手近にかけられていた刀をフックから外し、鞘から引き抜く。――真剣さながらにずしりと重く、作りも丁寧だが、刃の部分はきちんと潰されていた。
「――確かに模造刀ですね」
「模造刀って言うな、アートって言え」
 足立の呟きに、店主が不機嫌な声で訂正を入れる。――彼にとって、ここに並んだ商品はあくまでアートである、ということらしい。
 ――まあ、観賞用であるわけだから、アートというのもあながち間違いではないのかもしれない。
 武器の所有・携帯に厳しい日本の法律ではあるが、刃のない模造刀の“売買”や“所有”に関しては特に規定はない。ただし、“携帯”となると話は別で、銃刀法の一項目で規制されている。
 家で飾っておくのは構わないが、見せびらかすように持ち歩くのは周囲に対する威嚇に当たるため禁止、というわけだ。
(……そういう意味では、一昨日の陽介君は完全にアウトだったわけだけど)
 今朝聞いた『ジュネスの息子銃刀法違反事件』の顛末を思い出し、思わず陽介に半眼を向ける。
 彼が連行されずに済んだのは、未成年であることと、周囲に対する害意はなかったということで、『考えの足りない子供の悪戯』として見逃してもらえただけである。殺人事件で忙しい最中、『馬鹿な子供の悪戯に余計な時間を取られたくない』と警官が思ったのもあるだろう。
「……な、なんすか……?」
「んー?べっつにー?」
 自分を見ながら露骨にため息をついた足立に、陽介が顔をしかめる。しかし、足立がにっこり笑ったのを見て、心当たりに思い至ったのか、今度は顔を引き攣らせて、逃げるように目を逸らした。
「ねぇねぇ、足立さーん!」
 と、そこに防具を見ていた千枝に声をかけられたので、陽介いじりはそれくらいにし、足立はそちらへと歩み寄った。
「これなんかいいと思いません?これなら服の下に着こめるし」
 そう言って千枝が示したのは、時代劇などで出てきそうな鎖帷子だ。
「ああ、そうだね。これは人数分買っておこうか」
 値段を見れば、それほど値が張るものでもない――というか、作り込み具合に対して、この値段で売って採算が採れるのか疑わしいレベルの安価だ。
 ところで千枝と一緒に居たはずの暁はどうしているのかと視線を移せば――暁は店の片隅で、長物を立て掛けた筒の中から一本の棒を引き抜いたところだった。
 長さはおそらくは90センチほどか。直径3センチほどの断面は綺麗な真円を描いている。しかし、綺麗に磨かれた表面には特に握りなどがあるでもなく、何の装飾もない。形を整えられただけの、ただの木の棒だった。
「……暁ちゃん、それは?」
「――お、三尺棒か。嬢ちゃん、短杖術の経験でもあるのか?」
 足立が首を傾げたのに答えるタイミングで、店主が声を上げる。振り返れば、彼もカウンターからこちらの方を窺っていた。
「はい。小さい頃から、護身術代わりに」
「綺麗な顔して存外たくましいな、嬢ちゃん。気に入った!」
 小さく笑って頷く暁に、店主は呵々と笑う。
 店主が告げた『短杖術』という単語は、昨日暁も口にしていた単語だ。
 その単語自体は耳慣れぬものだが、『杖術』ならば足立も知っている。文字通り、ステッキの類を使った武術だ。短杖術というのは、その中でも短い杖を扱うものなのだろう。
「暁ちゃんはそれでいいの?」
「はい。――足立さんはそれにするんですか?」
 そう確認すれば、頷きと共に問い返された。検分のために手に取った模造刀を持ったままだったのだ。
「……そうだね。見比べても、刀の良し悪しはよくわからないし。手に取ったのも何かの縁でしょ」
 苦笑しつつ、鞘に納めたその模造刀を眺める。
 昨日は暁たちの手前、大きなことを言ったが、足立の剣の腕前は辛うじて初段を取得できたレベル。大して得意というほどでもない。
 しかし、柔術と逮捕術といった素手での武術はもっと酷い。何より、柔術も逮捕術も人間相手を想定した型だ。必ずしも人型とは限らないシャドウたちを相手にするなら、剣道の方がいくらかマシといえた。
 ちなみに、射撃は剣より自信があるが、警察の銃の場合、銃本体だけでなく、銃弾一発ごとに厳しく管理されている。一発撃つごとに報告義務が発生するような代物を、あの不可解な世界などで使用したら、後で凄まじく面倒なことになるのが目に見えていた。
「あたしは別に武器は要らないし……あとは花村だけ?」
「――あ、俺、武器要らねぇ」
 足立達のやり取りを聞いていたらしい千枝の言葉に、陽介が意外な答えを返す。
「昨日、早紀先輩に電話した時に、“あっち”で使う武器のこともちょっと話したんだ。そしたら、今日になってコレくれたんだよ」
 言って陽介が鞄から取り出したのは、二本のスパナだ。
「『私は一緒に行けないけど、せめて身を守るものくらいは』ってさ~。――というわけで、俺コレ愛用するから!」
 でれっとした表情で、くるくると器用にスパナを回しつつ宣言する陽介。
「うわ、堂々と惚気てるよ……」
「……まあ、模造刀と違ってしょっ引かれる心配もないし、いいんじゃない?」
「ですよねー!先輩、ホント俺のこと考えてくれてるっていうか!」
 眉を寄せた千枝に答えるふりをしながら、陽介に嫌味を投げてやったのだが、本人はにこにことご機嫌で少しも通じた様子がない。――むやみやたらに腹立たしい。
 と、そこに、現在の足立の内心以上に不機嫌な色を宿した声がかかった。
「――てめぇら、ワシのアートを何に使う気だ?」
 その声の主は、眼光を剃刀のように鋭くした店主。
「もし、くだらねぇ喧嘩なんぞにワシのアートを使うってんなら、売らねぇぞ?」
 こちらを押し潰すようなプレッシャーを宿すその声音に、暁たちは怯えた風に声を失うが――
「――まさか」
 不敵な笑みの仮面を被り、足立はそのプレッシャーを受け流す。
「喧嘩なんてくだらないことに使う気はないですよ。――ただ、ちょっと人助けに必要でね」
 にっこりと――ただし、眼差しだけは真剣なままに告げてやれば、ふっと店主が放っていたプレッシャーが消えた。
「――人助けねぇ……まあ、嘘じゃあなさそうだ。……それじゃあ、売ってやらない訳にもいかんな」
「それはよかった」
 ため息まじりに告げられた返答に、今度こそにっこりと笑う。
 そうして、欲しい商品をカウンターに並べて会計を済ませた。
 鎖帷子四着と模造刀一振り、そして三尺棒一本が、まとめて足立の財布の中にいた諭吉さん二人と引き換えられる。――本当に、この価格で元が取れるのか疑問である。
 「これはおまけだ」と竹刀袋を付けてくれた店主は、何故だかこちらのことを気に入った様子だった。
「もし、もっとイカしたもんが欲しいなら、素材持ってきな。お前さんらに合ったもんを特注してやるよ」
「……素材?」
 告げられた言葉を鸚鵡返しにして首を傾げれば、店主はにやりと笑う。
「ありきたりなもんよりも、出所がわからねぇような代物の方が燃える。――あんたらなら、そういうのを持ってきてくれそうな気がするんでな」
 こちらのことを見透かしたような店主の言葉に、一同は思わず顔を見合わせる。
 確かに、クマが道具作りにも使っている、シャドウが落とすような“素材”なら、彼のお眼鏡に適うかもしれない――だが、彼は“あちら”のことを知るはずもないというのに。
 ――これも、職人の勘というものなのだろうか。
「……覚えておきますよ」
 苦笑気味にそう答えた足立を先頭に、一同は店を後にした。

 * * *

 常人には来ることもかなわぬテレビの中の世界。そこにある、更に限られた者にしか見えないドアの先。――異形の老人と美女が待つ蒼い空間。
 先の戦いの中で手に入れたペルソナから新たな力を生み出すために、ベルベットルームを訪れた暁は、卓の脇に置かれた竹刀袋と『だいだら.』の文字が入った紙袋に目を留めて、思わず苦笑した。
「……足立様は、何ともこちらの予想を超えることをなさる」
 暁の視線に気づいたらしいイゴールも、どこか苦笑気味な声でそう呟いた。
 この事態のきっかけは、イゴールが“外”に用意したベルベットルームへの入り口。その位置が、たまたま『だいだら.』のすぐ隣だったことだ。
 『だいだら.』を出てそのドアに気付いた足立が、「ちょっと試したいことがある」と言って、『だいだら.』で買った品々を手にベルベットルームへと入り――手ぶらで戻ってきたのだ。
 驚く一同に「ベルベットルームに預けてきた。“あっち”のドアから受け取れば、こっちで武器持ち歩くリスクはなくなるでしょ」と、足立は悪戯が成功した子供のような顔で笑っていたものだ。
「よもや、ペルソナ以外のものを預けられるとは思いもよりませんでした。――これからの試練に立ち向かうための武器という意味でなら、これらもペルソナも同様だろうということで、お引き受けいたしましたが」
「ありがとうございます。助かりました」
 イゴールの言葉に、暁はぺこりと頭を下げつつ礼を告げる。
 模造刀をそのまま担ぐよりはマシとはいえ、スーツ姿の足立が竹刀袋を持ち歩けば、かなり悪目立ちしただろう。制服姿の暁たちにしたって、学校指定の竹刀袋とはデザインがかなり違うため、持っていたらそれなりに目立ってしまっていたはずだ。
 最悪、町内を見回る警官に見咎められて、先日の陽介と同じような事態になっていた可能性もあったのだ。
「いえ、お客人の手助けが我らの役目ですからな。予想外の形とはいえ、お役に立てて光栄ですとも。――しかし、本来の形で手助けする方が、やはりしっくりきますな」
 そう言って、ペルソナ合体のための手札を用意するイゴール。
「そうですね、それじゃあ――」
 その言葉に苦笑しつつ、暁はペルソナの組み合わせを告げる。
 新たに生み出したり全書から引き出したりして、今回はオロバス、オモイカネ、フォルネウス、ナタタイシ、イズモ、エンジェルの六つを持って行くことにした。
 これまで、回復スキルを使えるペルソナは総じて火炎攻撃に弱いものばかりだったが、火炎耐性持ちのオロバスがディアを継承してくれたので、火炎攻撃をしてくる敵の前でも、弱点を突かれる心配をせずに回復できるようになった。
 足立の持っている回復系のペルソナであるニャンニャンも火炎に弱いそうなので、これは大きな収穫といえるだろう。
(足立さんはペルソナ合体できないそうだし、耐性とスキルの組み合わせは私の方で気を付けないと)
 これまで何度も助けてくれた足立を、今度は自分が手助けしたい――そんな風に思い、暁は一人決意を固くする。
「では、再び見えます時まで、ごきげんよう――」
 預けていた武器を手渡してくれたイゴールの言葉に送られて、暁はベルベットルームを後にした。

 * * *

 ベルベットルームから戻った暁から武器等を受け取り、武装を整えてから、再び乗り込んだ『城』の五階。――しかし、このフロアは予想以上に手強かった。
 これまで見たことのない新手のシャドウ。
 前に見えたドアを目指して普通に進むと、強制的に別の場所に移動させられるワープトラップ。
 新手のシャドウの弱点を看破し、ワープトラップの法則性を看破して、何とか雪子のシャドウがいると思しきドアの前まで辿りつくまでに、かなり手古摺らされてしまった。
 それでも、各々用意した武器のおかげで、精神力の消耗はそれほどでもない。
 特に陽介などは絶好調で、それなりにスキルを使ったにもかかわらず、余裕綽々の様子である。――愛しい彼女からのプレゼントで、精神力が漲りまくりなのかもしれない。
 それと、足立は武器を持つまで自覚できていなかったのだが、ペルソナはその持ち主の身体能力にも影響を与えるらしい。
 その影響度は、武道の心得が全くないという陽介が、素早い身のこなしでシャドウを翻弄していたほどのものだ。
 足立の場合、各ペルソナごとに差異があるので一概には言えないが、少なくとも、基本装備のイザナギはそれなりに身体能力を向上させてくれる。おかげで、何とか暁の前で無様な姿をさらさずにすんでいた。
「――さて、いよいよご対面なわけだけど……準備はいい?」
 ドアノブに手をかけつつ、足立がそう問えば、一同は頼もしく頷いてくれる。
 それを見届けて、足立は大きく扉を開け放った。
 駆け込んだドアの先は、これまでの部屋よりやや広めの空間。
 部屋の奥に立つのはドレス姿の“雪子”――雪子のシャドウ。そして、その“彼女”を守るように立ち塞がる、馬に跨り槍を構えた黒き騎士。
「見つけた――本物の雪子は、どこにいるの!?」
 千枝が雪子のシャドウへと声を上げるが、“彼女”はその問いを無視して、ただ妖しく笑ってこう告げた。
『――王子様なら、こんな衛兵に負けるはずなんてありませんよね?』
 その言葉を合図に、騎士のシャドウが強烈なプレッシャーを放ち始める。
「――ヤバい!来るクマよ!」
 クマの悲鳴じみた声に応えて、一同は身構え――戦いの火ぶたは切って落とされた。


「――行け、イザナギッ!」
 足立の声に応えて、黒衣の剣士が黒き騎士へと斬りかかる。
 慌てて槍で受けそうとする騎士の動きを読んで、その胴へと鋭い斬撃を突き入れるも、剣は硬い音を立てて鎧に阻まれた。
「硬い……物理はあまり効きそうにないな」
「なら――ガル!」
 足立の言葉に、陽介のジライヤが疾風魔法を叩き込む。
「よし、効いてる!」
「お次は氷をお見舞いするぞよっと!」
 大気の奔流によろめいた騎士の姿へ陽介が声を上げる横で、千枝のトモエが氷結魔法ブフを放った。
 鎧のあちこちが凍りつき、騎士の動きが僅かに鈍くなる。――氷結もそれなりに有効のようだ。
「オロバス!」
 更に、暁のペルソナがアギを叩き込む。紅蓮の炎を叩きつけられ、騎士が大きく後ろに仰け反り――
 ――否。仰け反る様にして槍を引いた騎士の一撃が、勢いよく暁へと突き出された。
「――アキラちゃんッ!?」
 躱すことが出来ず、暁は声もないままに、一同の後ろに避難していたクマの横まで吹き飛ばされる。
「暁ちゃんッ!――くっ!?」
 騎士が暁に気を取られた足立を狙って、槍を振るってくる。辛うじてそれを躱した足立は、射殺すような眼差しを騎士へと向けた。
「――邪魔するなッ!」
 足立の激情に呼応するように、イザナギが敵へと雷を叩きつける。
 怯んで距離を取る騎士に背を向けて、吹き飛ばされた暁へと駆け寄った。その動きをフォローするように、ジライヤとトモエが騎士へと牽制の一撃を放つ。
「暁ちゃん!」
「――だ……だいじょうぶ、です……」
 足立の声に応えながら、暁はよろよろと身を起こし、イズモを呼び出して自分へディアをかけさせる。
 鎖帷子のおかげで身体を刺されることは免れたようだが、ここまで吹き飛ばされるほどの衝撃である。相当なダメージだっただろう。
 しかし、暁は騎士の方を見据えながら立ち上がり、冷静に戦術的判断を告げた。
「……一撃でこのダメージだと、攻撃される度に回復しないとまずいです。イズモなら物理耐性がありますから、私が回復役に回ります」
「――そっか……わかった」
 その言葉のおかげで頭に上っていた血が引いて、足立も冷静になれた。

 ――感情に振り回されるな。今は、あのシャドウを倒すために、より合理的な行動を取れ。

 自分にそう言い聞かせ、騎士の方へと向き直り――その直後、再び騎士が槍を振るった。
「――ッと!……遅いぜ!」
「ヨースケ、カッコイー!」
 しかし、狙われた陽介は華麗にその一撃を躱し、その様にクマが歓声を上げる。
「イザナギ、ラクンダ!」
 たたらを踏んだ騎士へと、足立はすかさずスキルを放つ。そうして、仲間たちに叫んだ。
「あいつの防御力を下げた!今のうちにキツイのお見舞いしてやれ!」
「りょーかい!――ジライヤッ!」
「やっちゃって、トモエ!」
 ここぞとばかりに、ガルとブフが叩きこまれる。
「――タルンダ!」
 攻撃手段のないイズモだが、サポートには長けている。暁の言霊に応え、騎士の攻撃力を引き下げた。
 あとの戦闘は一方的なものだった。
 攻撃力を下げられた騎士の攻撃は、時に毒を与えるようなものもあったが、暁のこまめな回復のおかげで致命的な脅威にはならず。
 一方、こちらの攻撃は、相手の防御力が下がっていることもあり、順調に相手の力を削っていき。
「これで――どうだっ!」
 見るからによれよれになったところに、イザナギが最後の一撃を加え――騎士は、黒い霧と化して溶け消えた。
 と、その黒い霧が消えたその場に、からん、と乾いた音を立てて、何かが転がり落ちる。
「……なんだ?」
 足立がそれを拾い上げた瞬間、どこからともなく響く『声』。

 ――『うふふ……あなたが本当の王子様なら、きっとまたお会いできるでしょう』

 ――『私は所詮、囚われの身……ここからは出ることなど叶わないのだから……』

 うふふふふ……、と妖しい笑いの余韻を残し、“雪子”の声は止んだ。――気づけば、いつの間に部屋から去ったのか、“彼女”の姿はどこにもなかった。
「逃げられたか……まあ、全くの無駄足じゃなかっただけ、マシか」
「……なんですか?」
 拾い上げた“ソレ”を見つめて呟けば、暁が首を傾げてこちらの手元を覗き込んでくる。
 顎に彼女の前髪が触れかねない至近距離に狼狽し、慌てて見やすいように彼女へ手を差し出した。
 広げた掌に乗せて見せたのは、霧と化して消えた騎士が落とした、ガラス製の小さな鍵。
「鍵……?――あ、さっきのドアの?」
 それを見て、暁が思い出したように声を上げる。――この部屋に辿りつく前、一か所鍵がかかって入れないドアがあったのだ。
「……“ガラスの靴”ならぬ、“ガラスの鍵”ってとこかな。――来いってことなんだろうね」
 どこまでも“シンデレラ”を連想させる招待の仕方にため息をつきつつも、足立は移動中にその鍵を落とさぬよう、しっかりと懐にしまい込んだ。

 * * *

 自分の家が、“普通”ではないと気付いたのは、いつだったろう。
 本当に幼い頃は、まるで気づいていなかった。――当然だ。比較対象がなかったのだから。
 それまでは、家の仕事の手伝いをするのは、自分にとって当たり前のことで、嫌だなんて思ったことなどなかった。
 それは、四六時中仕事に追われている親と一緒に居るための手段だったし、親はもちろん、『さすが次期女将ね』と周りの大人にも褒めてもらえて、当時の自分にとっては純粋に“いいこと”でしかなかったのだ。
 ――けれど、成長し、見える世界が広がるにつれ、そんな自分の家の環境が“普通”ではないとわかってしまった。
 “当たり前”だと思っていた環境は、当たり前などではなかった。
 “普通”の家庭では、家業の手伝いを通さなくては親と一緒に居られないなんてことはない。
 “普通”の子供は、自由に己の夢を思い描いていて、周りにその未来を縛られていることなどない。
 周りの友人たちが楽しげに遊んでいる間、自分は家の手伝い。
 周りの友人たちが自由に自身の未来を思い描いている横で、自分は『次期女将』というレッテルを張られ続ける。
 気づいてしまってからは――自身の置かれている環境が、酷く不自由なものにしか思えなくなってしまい、家業が嫌で仕方なくなった。
 けれど――家業の手伝いを辞めるわけにはいかない。
 面倒ならばサボればいい――そんな風にバイトについて話す同級生たちを羨ましく思ったものだ。
 親と居るには仕事を手伝うしかない環境で育った自分にとって、“家業の手伝い”はそのまま『家族の絆』だった。――自分にとって、それを辞めることは、同時に家族との縁を切ってしまう行為としか思えなかったのだ。
 周囲の期待を裏切るのも怖かった。『期待の次期女将ね』と笑ってくれている人たちに、失望の眼差しを向けられることが恐ろしくてたまらなかったのだ。

 ――自分には、『次期女将』という価値しかないのだから。

 幼い頃、子犬を拾ったものの「旅館では飼えないから捨ててきなさい」と言われて、泣いて家を飛び出したことがある。
 言われた当時に抱いたその悲しみは、単に子犬に対する同情からのものだったけれど――成長するにつれ、その記憶は、『旅館の役に立たなくなったら、自分もあの犬のように放り出されるのでは』という恐怖を伴うものになった。
 だが、その犬を通じて出会った親友の存在が、自分の唯一の支えとなってくれた。
 ――彼女は、『赤が似合うね』と言ってくれた。
 家業に全く関わらない形で褒めてもらえたのはそれが初めてで、はじめて『次期女将』というレッテルの他に、自分の価値を見つけられた気がした。
 ――彼女は、旅館から放り出されたその犬を引き取ってくれた。
 いつからか、その犬と自分をどこか重ねるようになった自分にとって、彼女は“家業”の外にある唯一の居場所だった。
 何より――自分が役立たずでも、ずっとずっと、傍にいてくれた。
 ――ろくに自分の面倒も見られない自分を、いつも守ってくれて。
 ――家の手伝いで遊べなくても、笑って許してくれて、友達で居続けてくれて。
 そのことに劣等感と申し訳なさを募らせながらも、そのことに、深い安堵と期待を覚えていたのだ。

 ――優しく強い彼女ならば、いつか自分を救ってくれるのではないか。

 そう、信じられて。

 ずっと、そう、信じていて――

 ――しんじて、いたのに。

 それは、去年のこと。
 その頃、家業の旅館が酷く忙しく、自分も手伝いに追われていた。――その様を見て、親友は、こちらの身体を純粋に心配して、その言葉を告げたのだろう。

『雪子は旅館の跡継ぎだし……だから、忙しいのはしょうがないかもしれないけど、無理だけはしちゃダメだよ?』

 だが、自分にとってその言葉は、長年の期待を裏切るものでしかなかったのだ。

 ――『しょうがない』
 その一言で、悟ってしまった。
 彼女さえも、今の自分の立場を絶対のものと考えているのだと。

 ――彼女にとっても、所詮、自分は『老舗旅館の次期女将』なのだと。

 目の前が、真っ暗になった気がした。

 誰も――この親友さえも、自分をこの見えざる檻から救ってくれない。
 ならば、もはや自分には、この周囲に敷かれたレールを辿る未来しかないのか。
 自由もなく、ただただ、周囲の希望に沿うように生き続けるしかないのか。

 ――逃げたい。

 そう、心底思った。

 けれど、自ら“絆”を断ち切って、身一つで飛び出して行く勇気などあろうはずもない。
 そもそも、親友なしでは対人関係すらおぼつかない自分が、一人で飛び出してやっていけるわけがない。

 ――誰でもいい。誰でもいいから。

(――助けて)

 ――どこでもいいから。ここではない、どこかへ。

(――お願い)

 ――連れて行って。

(――ひとりに、しないで)


 頬に触れる、冷たい感触で、目が覚めた。
 自身の身体が、片頬を床に押し付けるようにして、うつ伏せになっているのだと気付く。
 身体を伏せた床の感触は――カーペットだろうか。
 緩慢な意識のまま、うっすらと瞼を開いたものの、酷く視界が朧で、無意識のうちに瞼を瞬き――雫が頬を伝う感触に、自分が眠りながら泣いていたのだと気付いた。
 最初に頬に感じた冷たさは、涙でカーペットが湿っているせいだ。
 ゆるゆると身を起こし、手で目もとの雫を拭う。涙で霞んだ視界を回復しようと瞬きを繰り返して気が付いた。
 視界が効かないのは、涙のせいだけではない。辺り一面に、霧のようなものが立ち込めているのだ。
「――何?ここ……」
 霧越しにおぼろに見える周囲の景色は、一向に見覚えのないもので、どうして自分がこんな見知らぬ場所で眠っていたのかわからず、混乱する。
 そこに、更にその混乱を助長する声が降ってきた。
『あっらぁ~?ようやくお目覚め?』
 嘲笑うような響きを伴ったその声は、嫌というほど耳慣れたもので。
 おそるおそる、その声の方――目の前に見える階段の上へと視線を向ける。
 そこに見つけたドレス姿の少女の顔に、思わず目を見開いた。
 ――毎日のように、鏡越しに見ているその面立ち。
「――わ、たし……?」
『そうよ。――初めまして、もう一人の“アタシ”』
 思わず零れたその呟きに、階上の“自分”は口の端を吊り上げて嗤った。

 * * *

 鍵を開けた先に雪子がいるのでは、と意気込んで乗り込んだドアの先に待っていたのは、上へと続く階段だった。
 期待が大きかった分、そのオチにかなり来るものがあったが、落ち込む心を奮い立たせ、千枝は仲間たちと階段を上る。
 そうして、上を目指す度に聞こえてくるのは、知らなかった親友の本音。

 彼女が浚われる直前に放送されたインタビュー。セクハラまがいなマスコミの質問に、苛立たしげな彼女の声が重なって響いた。

 ――『うるさい!』

 ――『私に構わないで!』

 ――『もうウンザリ!ウンザリよ……』

 そして、“王子様”を切実に求める声。

 ――『王子様はまだ来ないの?』

 ――『王子様、早く私を連れ去って!』

 ――『どこか……私のことなんか誰も知らない世界に……』

 追いつめられたその声を聞く度に、千枝は自身の不甲斐なさに歯噛みする。
(――あたしは、本当に雪子のことを何も見てこなかったんだ)
 彼女は、こんなに切ない声で助けを求めるほど、苦しんでいたのに。
 半ば八つ当たりのように、立ち塞がるシャドウを蹴散らして突き進む。

 ――早く、一刻も早く、彼女の元へ。

 今まで間違ってきた分を、見過ごしてきた分を、やり直したい。
 もし、やり直せなくても――赦してもらえなくても、彼女に幸せであって欲しい。――笑顔で居て欲しい。

 ――そのために、彼女の憂いを払いに行く。

 ――彼女の心の影を、受け止めに行く。

 そして――ようやく、そこに辿りついた。
 本日三つ目の階段を上り、辿り着いた八階。そのフロアは、上がってすぐの廊下を塞ぐように、大きな扉が据えられていた。
「――お!このドアの向こうクマ!間違いない!」
 クマの言葉に、仲間たちを振り返る。――返されたのは、力強い頷き。
 両開きの扉を両手で勢いよく押し開けて、飛び込みながら親友の名を叫んだ。
「――雪子!」
 そこは、謁見の間を髣髴とさせる部屋だった。
 奥行の広い縦長の部屋。無駄としか思えないほど高い天井に、きらびやかなシャンデリアがぶら下がっている。
 部屋の奥には玉座を頂いた階段があり、その上と下に、同じ顔をした少女が一人ずつ。
「――千枝!?」
 こちらへと振り返り、目を見開いて叫んだのは階下に居た着物姿の少女――本物の雪子だ。
『あららららら~ぁ?やっだもう、王子様が三人も!』
 一方、階上に立つ“もう一人の雪子”は、駆け込んできた一同を見て、歓声を上げる。
『もしかして、途中で来てたサプライズゲストの皆さん?やっだぁ、ちゃんと見とけば良かったぁ』
 不自然に甘ったるい声音を紡ぎながら、“彼女”が身をくねらせる。
『つーかぁ、雪子どっか行っちゃいたいんだぁ。誰も知らない遠くぅ。王子様なら連れてってくれるでしょぉ?ねぇ、早くぅ』
 本来の親友ならばありえない媚びた言動も気になるが、それ以上に発言の内容が引っ掛かり、千枝は眉を寄せた。
「……『王子様が三人』って、男二人しかいないのに?」
「三人目はクマでしょーが!」
「それはないな……」
 クマの抗議を、陽介が呆れた口調で切り捨てる。
 そんな漫才のようなやり取りを無視するように、“雪子”を見据えた足立が口を開いた。
「――三人目は、千枝ちゃんだよ」
「ちょ、断定!?そりゃ暁よりあたしの方が男っぽいですけど!」
 思わず抗議しつつ振り返り――そこにあった真剣な眼差しに、思わずたじろいだ。
「そういう意味じゃないよ。――そうだろう?」
 彼のその問いは、明らかに“雪子”へのもので。
 問われたシャドウは、金の瞳をうっとりと細めて笑う。
『千枝……そうよ、アタシの王子様。いつだってアタシをリードしてくれる、千枝は強い王子様』
 そこまで告げて――俄かに“彼女”はその表情を一変させる。
『……王子様“だった”』
 刺すような冷たい眼差し。冷え切った声音。
「……“だった”?」
 過去形であることを殊更に強調するその口調に、千枝は思わず眉を寄せ――
『――結局、千枝じゃダメなのよ!』
 叩きつけられたその叫びに、凍りついた。
『千枝じゃアタシをここから連れ出せない!救ってくれない!』
「……雪子……」
 その言葉に、改めて自分の不甲斐なさを思い知らされる。
 ――ずっと、彼女は自分に助けを求めていたのに、自分はそれにまるで気づいていなかった。
『老舗旅館?女将修行!?そんなウザい拘束、まっぴらなのよッ!』
 その一言で、彼女にとって、『老舗旅館の跡取り』という立場が枷でしかなかったのだと悟って――
『たまたまここに生まれただけ!なのに生き方、死ぬまで全部決められてる!――あー、ヤだ、嫌だ、嫌ぁーッ!』
 髪を振り乱して叫ぶ、親友の“影”の姿に、胸が締め付けられる。
 ――彼女の前で、彼女の家業を我がことのように誇っていた自分を、殺してやりたい。
「……そんなこと……ない……」
「……雪子……!」
 階下で耳を塞いで蹲る本物の雪子の姿も痛ましく、千枝は思わずそちらへと歩み寄りかけ――

 ――不意に、視界が翳った。

「――千枝ッ!」
 せっぱつまった暁の声と共に、服の背を強引に掴まれて後ろへ引き戻される。
 刹那、巨大な質量を持ったきらめきが、鼻先を掠めて落ちた。
「……え?」
 咄嗟に事態が理解できず、思考も身体も凍りつく。
 目の前に見えるのは、天井から伸びた鎖にぶら下がり、床すれすれの位置で止まった巨大シャンデリア。
 それが、あわや自分の頭をかち割る勢いで落下してきたものだと悟った瞬間、どっと冷や汗が吹き出した。
「――な、なな……ッ!?」
 言葉にならない声を上げる自分の目の前で、シャンデリアの鎖がジャラジャラと巻き上がり、何事もなかったように天井へと戻っていった。
「――マズいクマ!この部屋全体、あのシャドウの支配下になってるクマ!この部屋自体が“もう一人のあの子”といっても過言じゃない状態クマよ!」
「そういうことはもっと早く言えよッ!?」
 クマの緊迫した声に、陽介が声を荒げ――それを掻き消すほどに強く鋭い声が、場に響き渡る。
『――老舗の伝統!?町の誇り!?ンなもん、クソ食らえだわッ!』
「なんてこと……!」
 “もう一人”の吐き捨てるような叫びに、雪子が咎めるように声を上げ――

『それが本音。――そうでしょう?もう一人の“アタシ”!』

 止めを刺すように嗤った“影”の言葉に、震える声が雪子の喉から零れる。
「――ちが……」
「よせ、言うな!」
 陽介の制止の声も空しく――紡がれる、禁句。

「――違う!あなたなんか、私じゃないッ!」

 刹那――響き渡る哄笑と共に、強い風を伴って、ぶわりと黒い霧が広がった。

『いいわぁ!力が漲ってくるぅ!そんなにしたら、アタシ……』
 黒い霧が渦巻く中心から響く“もう一人”の声を合図に、雪子の身体が崩れ落ちる。
「雪子!――くっ!」
 慌てて親友の元に駆け寄ろうとした千枝の進路を阻むように、再びシャンデリアが降下してきた。
 そのシャンデリアも、広がってきた黒い霧に覆われ――それが消えた時、新たな姿を成した“雪子の影”がそこにいた。

『――我は影、真なる我』

 それは、真紅の翼を広げ、そこだけ人の姿を保った面を歪めて嗤う、巨大な人面鳥。

『さあ、王子様!楽しくダンスを踊りましょう?』

 天井から釣り下がる巨大な鳥籠。開かれたその戸から身を乗り出しつつも、決して飛び立とうとしない悲しい怪鳥。

「――待ってて、雪子。あたしが全部、受け止めてあげる!」
『あらホントぉ?なら、アタシもガッツリ本気でぶつかってあげる!』
 決意を込めた千枝の言葉に、怪鳥は歪んだ愉悦に彩られた声を上げる。
 だが、その程度で怯むわけにはいかない。
 ――彼女の心に、この怪鳥を生んでしまったのは、自分だ。
 巨大な鳥籠の向こう側。――倒れ伏す親友の姿を見つめて、千枝は拳を握りしめる。
 彼女はずっと自分に助けを求めていたのに、まるで気づかず。それどころか、彼女の重荷にすら気づけずに、無意識とはいえ彼女を追いつめるような言動を取って。
 ――だから、彼女の影がはけ口を求めるというのなら、それを受け止めるのは自分の役目。
「行くよ――トモエ!」
 決意と共に、千枝は己の半身を呼び出す。

 ――過去の己の愚行によって生まれてしまった影から、親友を救うために。

 * * *

 喉から、哄笑が溢れて止まらない。
 かつて己の“王子様救済者”だと信じた少女の背後に、人ならざる力を纏う女武者が現れても、何の驚きも脅威も感じない。
 彼女の周りにいるその他大勢が、同じような力を感じる存在を呼び出そうとも、その自信は揺らがない。

 ――“自分”はもう自由なのだから。

 己の思うままに、この“力”を振るえる。ならば、何を恐れる必要があろうか。
『偽物の王子様はもう要らない――来て!アタシの王子様!』
 全身に漲る“力”のままに、その一部を顕現する。

 ――そうして、自身の前に生み出すは、自身の思い描く理想の“王子様”。

 ずんぐりむっくりな二頭身に王冠とマントを身に着け、レイピアを構えるその姿は不格好だが、容姿などどうでもいいのだ。

 ――この“王子様”は、決して自分を裏切らない。

 かつて、王子だと思った彼女とは違う。
 この“王子様”は、何者からも自分を守ってくれて、決して自分を見捨てず、傍にいてくれて、どこにもいかない。――その在り方こそが、重要なのだ。
『さあ、王子様!アタシの邪魔をする偽王子どもを退治して下さいな!』
 その言葉を合図に、“王子様”が、自身の前に立ち塞がる邪魔者どもへと向かっていく。
 まず“王子様”が切りかかったのは、何故ここにいるのかも知れない、見知らぬスーツ姿の男。
 ぼさぼさの頭、糊の利いていないスーツ、冴えない顔。――王子様失格だ。こんな男には、この舞踏会からさっさと退場してもらわねばならない。
「――くっ!?」
 しかし、その男は生意気にも、手にした刀で“王子様”の剣を受け止める。
「足立さん!――フォルネウス!」
 そこに、男の横にいた銀髪の娘が、エイを思わせる奇形魚を呼び出し、“王子様”へと氷結を放った。
「弱点にヒット!アキラちゃんナイス!」
 部屋の片隅に避難した着ぐるみめいた奇妙な存在の叫ぶ通り、弱点である氷結攻撃を受けて“王子様”の身体が凍りつく。
 ――よくも、王子様に!
 芽生えた怒りのまま、生意気な娘へと火炎を放つ。
 男と違って見覚えのある相手だが、そんなことは知らない。――自分が求めているのは“王子様”。お前のような“お姫様”はお呼びじゃない。
「――きゃ!?」
「暁!大丈夫!?」
 火炎を浴びた娘は悲鳴を上げてよろけるも、傍にいた少女――かつて己の王子だった存在に支えられて、倒れることはなかった。
 ――気に入らない。
 例え一時の紛い物であったとしても、かつて自身の王子だった存在が、別の姫と共にいることが、この上もなく腹立たしい。
 湧き上がったその感情に呼応して、自身を包む氷を打ち砕いた“王子様”が、銀髪の娘へと向かう。
「させるかよ!」
 それを妨害するように、見覚えのある少年が、自身の従える異形から疾風を放った。
 ――残念。“王子様”はそんなものじゃあ倒せない。
 “王子様”がレイピアを一閃すれば、“彼”を巻き込みかけた疾風は、切り刻まれて霧散した。
「――疾風耐性!ヨースケ、別の攻撃にするクマよ!」
「うげ、マジかよ!」
 着ぐるみの言葉に、少年が顔をしかめる。
「生憎、取り巻きに興味はないんだよ!――アータルッ!」
 冴えない男の叫びに呼応して、炎の翼を広げた戦士が、こちらへと雷光を放ってきた。
『――くぅッ!』
 全身を駆け抜ける痺れに悲鳴が漏れる。――やはり、あの男は王子に相応しくない!
 だが、今の自分には、理想の“王子様”がちゃんといるのだ。
 こちらに向けて“王子様”がレイピアを振るえば、今の一撃で受けた傷など痕も残さずに消え去った。
「ウッソォ!?回復したクマよ!?」
「――ウッゼェ……結局、取り巻きから潰さないとダメなのかよ……」
 着ぐるみの上げた驚愕の声に、男はその瞳を剣呑に細めて吐き捨てる。
 その言葉が気に入らず、男に向かって罵声を浴びせかけた。
『――アタシの王子様が、お前らなんかに負けるものか!』
 その言葉に――

「――王子様なんかじゃない」

 返される、きっぱりとした否定の言葉。
『……何ですって?』
 その言葉をよこした相手――自分の王子になってくれなかった少女を睨み据える。
 しかし、彼女はこちらの眼差しに怯むことなく、こちらを睨み返して叫ぶのだ。

「――こんな奴、雪子の王子様なんかじゃないッ!」
 
 同時に、彼女につき従う女武者が“王子様”に向けて氷結を放つ。
 一瞬ドキリとしたものの、辛うじて“王子様”はその一撃を躱した。
『――アハハハハッ!大きなことを言って、アタシの王子様に傷一つつけられないじゃないの!』
 一瞬覚えた怯えを振り払うように殊更嘲笑って、彼女へと火炎を放つ。
「おっと、ここは通してあげないよ!」
 しかし、冴えない男が従える戦士の翼が、放った炎を事も無げに受け止めてしまった。
『……邪魔をするなぁッ!』
 どこまでも忌々しい男を排除せんと、“王子様”がレイピアを突き出す。
 男は刀を振るって、その一撃を払い――刹那、澄んだ音が響いた。
 ――男の手元から飛んでゆく、白銀のきらめき。
「――折れたぁッ!?」
 このタイミングで!?と、短くなった刃を愕然と見つめて叫ぶ男。
 その隙を狙って、再び“王子様”がレイピアを繰り出そうとするより早く、氷結が“彼”へと直撃する。――また銀髪の娘の仕業だ。
『王子様ッ――くぁっ!』
「よっし!こっちには疾風効くのね!」
 眼中になかった少年が、こちらへと直接放ってきた攻撃。それを避けきれず、思わず呻く。
 その隙に――彼女が動いた。
「――お前なんかがいるから――」
 何やら叫びながら、凍りついて動けない“王子様”の元へと走り寄り――

「――雪子が、飛び立てないんだぁ――ッ!」

 ――思考が、凍った。

 凍りついたその間を打ち砕いたのは、氷が砕ける澄んだ音。
 彼女が繰り出した足技が、凍りついた“王子様”の身体を蹴り上げて――彼女に従う女戦士が、これが止めと薙刀を振るう。

 ――その身を包む氷ごと、砕け散った“理想の王子”。

『――王子様ッ!?王子様ぁッ!?』
 目の前で起きたことが信じられず、裏返った悲鳴が喉を突いて出る。
 再び“力”を集めて“王子様”を顕現しようとするも、巧くいかない。

 ――『お前王子なんかがいるから、雪子が飛び立てない』

 彼女の放った一言が、脳裏にこびりついて集中を阻害する。
『――そんなはず、そんなはずあるものかぁッ!王子様は……王子様はッ!アタシを、アタシを守ってくれてッ……!』
「――そんなの嘘!」
 脳裏にこびりつくノイズを振り払うように叫べば、突き刺すように鋭い一喝が放たれる。

「守ってなんかいない!アイツは、守るふりして、あなたをそこに閉じ込めてるだけ!」

 こちらを真っ直ぐに見つめて、かつて王子と信じた少女が、“王子様”を否定する。

『――違う……違う、ちがう、チガウッ!』
「じゃあどうして、戸が開いてるのにあなたは飛び立たないの!?」
 咄嗟に反発する言葉を叫べば、叩きつけられる反論。

「アイツが――かつてのあたしが、ずっとあなたを閉じ込めてきたからでしょう!?」

 叫ばれたその言葉に――湧き上がる、疑問。

 ――何者からも守ってくれて。
 ――ずっと、傍にいてくれて。
 ――決して、自分を見捨てないでいてくれた。

(そんな、理想の王子様の原型になったのは――誰だったの?)

 ――『あの一言』を告げるまで、確かに理想の王子様だったのは――

(――千枝、じゃないの?)

 ――“理想の王子”の原型となった存在が、“王子様”の存在理由を真っ向から否定した。

『――嘘ヨォォォォォォッ!』

 湧き上がってきた“答え”を掻き消すように、闇雲に“力”を振るう。

 振るった両翼から、四方を薙ぎ払うように火炎が放たれる。
「――ぅあぁッ!」
 悲鳴と共に、火炎に巻かれていく“裏切り者親友”の姿。

(――やめて!もうやめて!)

『うるさい……ウルサイウルサイウルサイッ!』
 響くノイズを振り払うように叫ぶ。

 ――もう、アタシはお前じゃない!お前の言うことなど聞くものかッ!

 “もう一人の自分”の声を抑えつけるのに必死になっているその隙を突くように、“裏切り者親友”の叫びがこちらへと突き刺さる。
「――雪子に、王子様なんか必要ない!」
 よろよろと身を起こしながら、その声だけは力強く。
「雪子は、一人じゃ何もできないお姫様なんかじゃない!」
 きっぱりと、こちらの憂いを払うように。
「本当は、雪子の方があたしなんかよりずっと強いもの!」
 “天城雪子”の存在を、肯定する。

「――雪子がいないと、何もできないのはあたしの方!」

 己の弱さを、発露する。

「あたしは雪子みたいに美人じゃないし、勉強もできないし、家の手伝いしてるわけでも、何か誇れるものがあるでもなくて……だから、雪子に頼ってもらいたかった!」

(――千枝も……怖かったの……?)

 自分と――同じように?

 初めて聞く、彼女の弱音に――ぱちり、と何かが弾けた。

「だから、あたし、自分でも気づかないうちに、守るふりして、雪子のことをずっと閉じ込めてきた!」
(――千枝……)
 泣きそうに揺れる彼女の声に、己が確かなものとなっていくのがわかる。
「でも、そんなの、雪子を苦しめるだけ。そんなの、親友なんて言えない」
(――それは、私も一緒)
 一度だって助けを求める言葉を発したこともないくせに、勝手に気付いてくれることを期待して。あげく、勝手に裏切られたと失望して。
 そんなの、到底親友なんて呼べるものじゃない。
「今まで、ごめん……でも、もう間違えないから!」
(――私も、もう、間違えない)
 誰よりも強いと信じられるあなたが、『強い』と言ってくれた自分自身を、もう否定しない。――あなたに、寄りかかったりしない。
「置いてかないで、なんて言わない。――一緒に連れてってなんて言わない!」
(――私も、もう、そんなこと、願わない)
 互いの弱さも、醜さも、全てさらけ出して、それでも友でいたいと思えるあなたとなら――どんなに離れていても、心は繋がっていると信じられるから。

「――どこへ行っても、どんなに離れても、雪子に笑顔で居て欲しいから!」

 こんな身勝手な自分の幸せを、願ってくれるあなたがいるのなら――

(どこへ行っても――私は、一人じゃない)

 ならば、もう――こんな鳥籠にしがみつく必要など、ない。

「――シャドウの様子がおかしいクマよ!?」
 着ぐるみから放たれる幼い声の通り、がらがらと鳥籠が瓦解していく。

『――あああぁぁぁああアアッ!』

 己の意志から乖離し、暴走した怪鳥が、絶叫と共に火炎を放つ。

 しかし、闇雲に放たれたその火炎は、全て焔の化身たる戦士の翼に受け止められ、親友に届くことはない。
「――今だ、千枝ちゃん!」
 その戦士を従えた男性が、親友をこちらへと押し出す声を上げた。
「――トモエッ!」
 その声に応えて、親友の従える女武者がこちらに向かって跳躍し――

「――飛んでけぇぇえええええッ!」

 繰り出された一撃に、怪鳥の身体が、己の意識と共に高く舞い上がる。

(――だから、もう、どこへでも飛んで行ける)

 浮かんだその想いを最後に、意識は白く塗りつぶされ――途切れた。

 * * *

 自身の半身が繰り出した一撃で吹き飛んだ怪鳥は、放物線の頂点で内から爆ぜるようにその身を散らした。
 はらはらと、真紅の羽根が、雪のように降り注ぐ。
 怪鳥を倒したのだと悟るなり、どこか幻想的なその光景に見入る暇もなく、千枝は倒れ伏した親友の元へと駆け寄った。
「――雪子!」
「……う……」
 倒れたその身体を抱き起せば、雪子は小さく呻いて、その瞼を揺らす。
「――千枝……?」
「雪子!良かった……!」
 うっすらとその瞼を開き、こちらを認めて声を上げた親友に、千枝は安堵の息を吐いた。
「……あれ……私……?――ああ、そっか……」
 事態が把握できない様子で視線を彷徨わせていた雪子だが、何かに気づいたように視線を定める。
 その視線の先に――人の姿を取り戻した“もう一人の雪子”が、ただ黙って佇んでいた。
「あんた……!」
「――大丈夫」
 思わず警戒を込めてそちらを睨むも、他ならぬ雪子が制止の声を上げる。
 よろよろと身を起こそうとする親友の身体を咄嗟に支え、寄り添うように立つ形になった。そのまま、二人並んで“もう一人の雪子”と対面する。
「……ごめんね。今まで、苦しかったよね」
 そう言って、親友は“もう一人の自分”へと語りかける。
「逃げたい、誰かに救って欲しい……確かにそれは、ずっと心の奥にあった、私の気持ち」
 そう、優しく微笑んで、告げた。
「――あなたは、私だね」
 その言葉に、ドレス姿の“雪子”は小さく頷き――その身が蒼い粒子となって解けてゆく。
 そうして、再び虚空に集った蒼い輝きは、新たな姿を顕現した。

 ――花弁とも翼とも見える桜色の袖を広げた、気品溢れる、艶やかな麗人。

「――コノハナサクヤ」

 親友がその名を呼ばわれば、彼女の半身たる佳人は一枚のカードと化して、彼女の掌へと溶け消える。
 途端、かくりと親友の身から力が抜けて、慌てて全身を使って彼女の身体を受け止めた。
「だ、大丈夫!?」
「――うん……ごめん、ありがとう」
 半ば正面から抱き合うような姿勢のまま、彼女はこちらの顔を覗きこんで微笑んだ。
「……戦ってる間の千枝の声ね、聞こえてた」
 告げられた言葉に、息を呑む。
 ――今まで身勝手に彼女を縛り付けてきたという自身の告白を、彼女は聞いていたのだ。
「――ありがとう。それに、ごめんね。……私、自分が助けて欲しいばっかりで、千枝のこと、全然見えてなかった」
「――雪子……」
 言外に、今までの自身の過ちを赦すと告げてくれた親友の言葉に、涙が堰切って溢れた。
「あたしの方こそ、ごめんね……!自分のことばっかりで、雪子の悩み、全然気づいてなくて……!」
「ううん、千枝はちゃんと、私のこと救ってくれた」
 しゃくりあげる自分を抱きしめて、雪子はそう言って微笑む。
「私、ずっと怖かった。――『旅館の跡継ぎ』っていう立場を捨てたら、故郷も、家族の絆も、何もかも全て失うんじゃないかって」
 だから、逃げることさえできなかったの――そう、彼女は自嘲気味に笑った。
「でも、千枝は、認めてくれた。私はどこへ行ってもいいんだって。私がどこに行っても、私に笑ってて欲しいって、言ってくれた」
「――そんなの、当たり前じゃん!」
 親友なんだから!と涙で奇妙に揺れた声で叫ぶ。
「うん――親友だもんね。どこに行っても、離れても、千枝は私の自慢の親友――」
 そう、彼女は笑って――決壊したように、その瞳から涙が溢れた。
「――ずっと、ずぅっと、千枝は、私の親友だものっ……」
「――うんっ……!」
 互いにしゃくりあげながら、抱きしめ合う。

 ――どこへ行っても、どんなに離れても切れない絆を、確かめ合うように。




――――――――――――――
<後書きという名の言い訳>

銃刀法での模造刀に関する扱いは、付け焼刃の知識なので、間違ってたらごめんなさい(汗)
っていうか、間違ってるってわかるような詳しい人がいたら、その辺どうなってるのか教えてください……orz



[29302] 13章.背中合わせの天使と悪魔
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/05/01 19:39
 涙を流しながら、互いに抱きしめ合う親友同士の少女二人。
 その姿に、足立は小さく笑う。
(――雨降って地固まる、ってとこかな)
「……良かった」
 同じように二人を見守っていた暁の小さな呟き。彼女は慈母を思わせるほどに優しい微笑みを浮かべていた。
「へへ……だな」
 その呟きが聞こえたのだろう。感極まったのか、僅かに赤くなった目じりを誤魔化すように、陽介が殊更に明るい笑みを浮かべて頷く。
 失踪していた少女の無事と、彼女と親友の絆が改めて深まったことに対する安堵に満ちた、優しい空気。
 その雰囲気をあっさりぶち壊したのは、空気を読まない呑気な声だった。
「――んで、キミをココに放り込んだのは誰クマ?」
 ぴこぴこと足音を響かせて自分の傍に歩み寄ってきた珍妙なイキモノに、雪子が涙に潤んだ瞳をきょとんと見開いた。
「え……あなた、誰……?――ていうか……何?」
 わざわざ問い直した彼女の気持ちはよくわかる。――確かに、クマは“誰”と問うより先に“何”なのかと問いたくなる存在だ。
「クマはクマクマ」
 相変わらず答えになっていないクマの自己紹介。しかし、彼の中にもそれ以上の答えが存在していないのだろう。――彼も彼自身のことを把握しきれていないということは、“外”を見たことがないにも関わらず、“外”と“こちら”の霧の相互関係を語った時点で発覚していた。
 雪子が縋るように困惑に満ちた視線を親友に向ける。しかし、助け船を求められた千枝の方も当然答えなど持ち合わせていないのだ。代わりに苦い笑いを親友に向けた。
「で、キミをココに放り込んだのは誰クマか?」
「――わからない……」
 彼女の困惑などお構いなしに問いを繰り返したクマの言葉に、雪子は顔を俯けて弱々しい声音で答える。
「……誰かに、呼ばれた……ような気がする、けど……記憶がぼんやりしてて良くわからないの。――ごめんね、えっと……クマさん」
「わからないクマか……」
 どうにも歯切れの悪いその答えに、クマのみならず足立も当然のように肩を落とした。
 ――犯人に繋がる糸は、また途切れてしまった。
 周囲に知られないよう小さくため息をついた足立の横で、陽介が腕を組んで口を開く。
「けど、やっぱ天城を“ここ”に放り込んだ“誰か”がいるってことだ」
 確かに、それは今の証言ではっきりした。
 事故同然に落ちた暁や自分から飛び込んだ足立とは違い、雪子は他者によって無理やり“こちら”に放り込まれたのだ。――先の被害者である、早紀や山野と同様に。
「ウムゥ……ホントにどこの誰がこんなことしてるクマか……」
 珍しく低く呻くようなクマの呟き。その声に込められた怒りの色に、足立は軽く目を瞬いた。
 出会った当初から、クマは“放り込み犯”に怒りを覚えていたが――どうも、その怒りの種類が変質しているように感じられたのだ。
 以前のクマが抱いていた怒りは、あくまで“自身の生活を脅かす存在”に対するもので、そこに放り込まれた被害者に対する感情はまるで含まれていなかった。
 しかし、今回は“理不尽に他者を危険に晒す存在”への怒りが感じ取れたのだ。――それが単なる錯覚でないことは、クマが雪子へ向けた、気遣うような視線からもはっきりしている。
(……成長した、のかな?)
 自分のことしか考えられない子供が、成長して他人のことも気遣えるようになったかのような。――かつての身勝手な自分が、暁たちとの出会いで変わったように。
「――とりあえず、今は早く“外”に出ようよ。雪子、辛そうだし」
 と、足立のそんな考察を遮るように、親友の身体を支えた千枝が一同を見回して告げる。
「んじゃ、ありがとうね、クマくん」
 そうして、クマに礼を兼ねた別れの挨拶を告げるなり、ドアへと向かって親友と共に歩み出した。
「――じゃあ、僕らも今日は帰るよ。またね、クマ君」
「え、ちょ、クマを置いてくつもり!?」
 千枝に倣って、別れの挨拶を告げて歩み出した足立に、クマが焦ったような声を上げる。
 その奇妙な物言いに足立は片眉を跳ね上げ、陽介が首を傾げて言葉を返した。
「置いてく?何言ってんだ。お前、こっちに住んでんだろ」
「それは……そうクマ……でも……」
 ごにょごにょと意味のない言葉を口の中で呟くクマ。その声は、わかりやすく寂しげな色を湛えていて。
(……なんか、ホントに“人間らしく”なってる?)
 『一人で静かに暮らせればいい』と言わんばかりに、あっさりと自分と暁を“外”へ帰した頃の様子からは考えられないクマの変化に、足立は思わず目を瞬いた。
 その変化は好ましいものなのかもしれないが、だからといってクマのために“こちら”に留まるというわけにもいかない。
 と、しょんぼりと俯いたクマに、雪子が歩み寄って優しく笑いかける。
「ごめんね、クマさん。また今度改めてお礼に来るから……それまでいい子で待っててね」
 子供をあやすような口調と仕草で、そっとクマの頭を撫でる雪子。
「うん、また来るよ。今度来るときは、何かお菓子を作って持って来るね」
「ク、クマ~ン」
 更に暁も一緒になってクマの頭を優しく撫でだし、クマはハートマークでも飛びそうな声を上げ、嬉しそうに身を捩らせた。
 そうして、調子に乗った様子で、媚びた口調を紡ぐ。
「つーかぁ、クマねぇ、どっか行っちゃいたいんだぁ。ねぇ、早くぅ」
 ――人の黒歴史を抉るクマのモノマネで、一瞬にして空気が凍りついた。
「――誰の真似だよ!お前は一生ここに居ろ!」
 陽介が声を荒げ、そのまま踵を返して出口に向かう。
「――こんなクマほっといて、もう行こ、雪子」
「え、あ……うん」
「ほら、暁ちゃんも」
「え――は、はい」
 冷たい声で親友を促す千枝に倣い、足立も暁を促して出口へと向かった。
「――ま、待って~!ごめんなさいクマよ~!」
 焦ったようなクマの謝罪が背後から聞こえたが、もう誰も足を止めて振り返ることはなかった。


  “外”へと帰還した足立がまずしたことは、雪子に自身の身分を明かし、彼女を病院に連れて行くことだった。
 雪子本人はそこまでの必要を感じていなかったようだが、足立からすればそうはいかない。
 雪子自身の体感時間的にはどうあれ、彼女は“テレビの中”に三日も閉じ込められていた。それだけの間、何も口にしていないとなれば、脱水症状などを引き起こしてもおかしくない。
 それでなくとも――何者かによって拉致された上、その前後の記憶が曖昧となれば、拉致時に何らかの薬物を使われた恐れがあるのだから。
 使用されたとすれば、吸引麻酔の類――クロロホルム等の可能性が高い。これを染み込ませた布で口と鼻をふさがれ即気絶、などという描写は小説やドラマなどでもはやおなじみだ。
 だが、実際には相当量吸引させられなければ意識を奪うまでには至らず――それほど多量に吸引させられたとなると副作用が怖い。あれは扱いが難しい劇薬なのだ。
 ただ、必要以上に怯えさせるのは本意ではないので、薬物に関することは伏せ、脱水症状云々の説明だけで説得し、近隣で最も大きな病院である稲羽市立病院まで連れて行った。
 それから、失踪者発見の旨を署に一報。雪子の親にも連絡を入れた。
「――雪子ちゃん、お母さん、すぐこっち来るってさ」
 携帯を使用するために出ていたラウンジから雪子がいる病室に戻り、足立は笑顔でそう報告する。
 しかし、患者衣でベッドに横たわり栄養点滴を受けていた雪子は、その言葉で僅かに表情を曇らせた。
(――まあ、あのシャドウを受け入れた直後じゃ、無理もないか……)
 雪子のシャドウは生家への反発と嫌気の塊だった。直後に親と会うのはさぞ気まずいだろう。
 その気持ちはわからないでもないので、とりあえずフォローを兼ねて事実を伝える。
「しっかし、参っちゃったよ。お母さんに君が病院にいるって伝えた途端、『病院!?どこか怪我したの!?無事なの!?』ってすっごい勢いで問い詰められちゃって。落ち着いてもらうまで大変だったよ~」
 そうして、殊更おどけて笑って見せながら、言い添えた。
「老舗旅館の女将の貫録はどこ行っちゃったのって言いたくなるような狼狽ぶりでさ。――やっぱ、女将だなんだっていう前に、一人の娘の親なんだねぇ」
 足立の言葉に、雪子は虚を突かれたように目を見開く。
 その瞳に、目まぐるしく様々な感情が浮かんでは消える。――期待、懐疑、親愛、嫌気。
「――親として、じゃなくて……ただ、旅館の跡継ぎが心配なだけかも……」
 弱々しくそう呟いた雪子の声からは、親の愛を信じたくとも信じきれない複雑な感情が滲んでいて。
 ――言葉にすれば通じるだろうに、片や端から受け入れられないと諦め、片や通じていないとは欠片も思わず、結局どちらからも口にせずにすれ違い続ける。
(――なんか、すっごいイラつく……)
 そのことに、『もどかしい』を通り越して、苛立たしさを覚えた。
 すれ違おうと通じ合おうと、それは雪子の家族間の問題で、自分には何の関係もない。常ならば、ここまで感情を乱されることもないはずなのに。
 どうしてこうも苛立つのかわからず、その事実が更に苛立ちを募らせ――
「――ただの跡継ぎとしか見てないんなら、外聞気にして警察に失踪届なんか出さねぇよ」
 気がつけば、苛立ちをそのまま吐き出すように、荒れた口調が口をついて出ていた。
「――え……?」
 雪子が目を見開いて硬直したのを見て、自身の失態を自覚する。
(――何言ってんの、僕)
 正直、雪子に対して“素”を隠すことに意味はない。親友である千枝の前で晒しているのだから、遅かれ早かれ彼女も知るところになるだろう。
 だから、問題はそこではなく――自身の『顔』の使い分けをコントロールしきれなかったという事実の方だ。
 この技術は足立にとってもはや呼吸に等しい。無意識にこなせるという意味だけでなく、出来なければ『死ぬ』という意味でも。――実際の呼吸と違うのは、その『死』が生命としての死ではなく、社会的な死であるということだが。
 社会的生命を維持するその『呼吸』が、理由もわからないまま乱れたのだ。――その事実は否応なく足立を動揺させた。
「……なんで……今……そんなつもり、なかったのに……」
 狼狽えて、頭に浮かんだ言葉がそのまま舌の上を滑っていく。
 その滑稽な様に、粗い言葉を突如叩きつけられたことに対する怯えが消えたのか、雪子がおずおずと口を開いた。
「あの……気にしないでください……私の方こそ、あんな卑屈なこと言って、ごめんなさい」
 どうやら雪子は、こちらが荒い言葉を発したことを後悔しているのだと解釈したらしい。
(いや、そうじゃないんだけど……いや、ある意味ではあってるか?)
 ――言うつもりのなかった言葉を投げてしまって焦っている、という意味では。
 やや見当違いのフォローだが、その言葉のおかげで、足立も何とか自分を立て直した。
 雪子の言葉に乗っかる形で、フォローの言葉を付け足す。
「――ごめんね、きつい言い方して。……でも、自分の気持ちを察して欲しいなら、自分からも相手の気持ちを察する努力をしないと。自分で出来もしないことを相手に要求するなんて、虫がよすぎるでしょ?」
「……そう、ですね」
 取り繕った柔らかい口調でもっともらしいことを言ってやれば、雪子は思案深げに目を伏せた。
 このことからもよくわかるが、彼女は真面目で、しかも聡い。だからこそ、周囲の期待を受けて、あそこまで追いつめられてしまったのだ。
 だが、だからこそ、内に向いていた視線を外に向け、周囲をきちんと見られるようになれば、自身に向けられる親愛を受け止められるようになるはずだ。
 しばし、考え込む様に俯いていた雪子だが、ふと思い出したように顔を上げて、こちらへと訊ねてきた。
「――あの、今日私の身に起きたこととか、皆が使ってたあの不思議な力って、一体……?」
 今までは、自身の心境を整理するのでいっぱいいっぱいだったのだろうか。わりと今更なタイミングでの問いに、足立は思わず苦笑を浮かべつつ応える。
「詳しく話すと長くなるし、中途半端な説明だと、かえって混乱するような内容だから、退院してから千枝ちゃんあたりに詳しく聞いた方がいいよ」
 今の雪子に長話は辛そうだし、正直言ってあまり長く彼女と一緒に居たくなかった。
 ――また、いつ仮面が剥がれ落ちるか知れなくて、恐い。
「……はい、わかりました」
 理由はともかく、こちらに今ここで説明する気がないのは察したのだろう。案外雪子はあっさりと引き下がった。――この聞き分けの良さも、おそらくは彼女自身を追いつめてしまった要因の一つなのだろうが。
 しかし、今の足立にとってはありがたい。会話を終わらせるためにさっさと用件を済ませることにする。
「言うまでもないことかもしれないけど、“あちら”での出来事についてはあまり口外しない方がいい。非常識すぎて信じてもらうのは難しいし、最悪、君が変な風に疑われかねないから。事情を知ってる僕個人は別として、警察にも言わない方がいいと思う」
「――そうですね……私自身、未だに夢でも見てたような感じだし。……でも、それならなんて言えばいいんだろう……」
 足立の言葉に、形のいい眉をひそめる雪子。
「変に嘘をつかなくても、ただ『覚えてない』でいいと思うよ。実際、犯人に繋がることは何も覚えてない訳だしさ。――あ、ただ、君の発見場所、ジュネスじゃなくてその近くの裏路地ってことにしてあるから、陽介君のためにもその辺は口裏合わせしてくれると助かるかな」
 雪子の発見場所をジュネスにしなかったのは、早紀と二件連続で失踪者の発見場所になってしまうのを避けるためだ。――『失踪事件とジュネスに何か関連性があるのでは』などという疑惑を呼び込みたくはない。
「あ、はい。わかりました」
「じゃ、そういうことでよろしく。――僕がここに居ても休むのに邪魔だろうから、ご家族が来るまで廊下にいるよ。何かあったら呼んでね」
 素直に頷く雪子にそう告げて、足立はさっさと病室を出る。
 そうして、廊下に置かれた腰かけに、どかりと腰かけた。
「……なんで、あんなこと……」
 脳裏に渦巻くのは、意図せず口をついて出た雪子への悪態のことだ。
(……どうして、あんなに苛立ったんだろう)
 ――雪子が家族とうまくいこうがいくまいが、自分には関係ないはずなのに。
 深いため息をついて、項垂れる。

 ――理解できない自身の心境に、苛立ちを募らせながら。

 * * *

「いやぁ、ホントに暁ちゃんのご飯は絶品だね!特にこのロールキャベツなんか最高!」
 上機嫌で姪の手料理をぱくつく若い相棒の姿に、堂島は小さく安堵の息をついた。
 ――今日の夕刻以降、彼が纏っていたピリピリした気配がすっかり消えたことに。
 失踪していた少女を発見・保護という手柄を立てたにもかかわらず、その少女を病院に連れて行った後、署に戻ってきた彼は妙に不機嫌だった。
 表面上はいつもへらへらとした笑みを浮かべていたが、その瞳の奥に押し殺した苛立ちの色があったのだ。
 何かあったのか訊こうにも、そうして仮面で隠している以上、おそらく他の同僚の前では晒すことはないだろう――そう判断し、自宅での晩飯に誘って、一緒に帰る車の中で何かあったのかと訊ねてみたのだが。

 ――『どうなんでしょうね……僕にも、よくわかんないです』

 返って来たのは、そんな微妙な返答。
 どうやら彼自身にも苛立ちの理由がよくわかっていないらしい、ということだけはわかった。――しかし、本人にもわからない理由では、堂島にはどうしてやることもできない。
 どうしたものか、と頭を悩ませているうちに自宅についてしまったが――それは杞憂だったのかもしれない。
 自分の家族と共に食卓に着いた足立は、目に見えて幸せそうな表情で――瞳の奥にあった苛立ちの色はもはや影もない。
(……俺の気にし過ぎだったか?)
 彼はまだそれなりに血の気も多いだろう若者だ。時には苛立つことだってあるだろう。普段感情のコントロールに長けている分、いつもとの差異が目に付いただけかもしれない。
 とりあえずは相棒が通常運転に戻ったことでよしとして、堂島も姪の料理に舌鼓を打つことにした。
 口に含んだ途端、とろけたキャベツの中から肉汁の旨みが口いっぱいに広がる、よく煮込まれたロールキャベツ。――『最高』と称した足立の言葉も大げさなお世辞ではない。
「――うん、旨いな」
「お口に合ってよかったです」
 不器用で端的な堂島の褒め言葉にも姪は嬉しそうに顔を綻ばせ、娘の方へと向き直る。
「よかったね、菜々子ちゃん。お父さん、美味しいって」
「うん!」
 そのやり取りに、堂島は軽く目を瞠った。
「菜々子も手伝ったのか?」
「うん!キャベツでね、お肉をくるくる包むの、楽しかった!」
 言葉に違わず、楽しげに弾んだ笑顔で応える菜々子。どうやら、具を包むのを手伝ったらしい。
 言われて見れば、やや不格好に巻かれたキャベツがいくつか。しかし、それも改めて言われなければ意識しない程度のレベルで、この年齢でこれだけできれば大したものだ。
「すごいな、綺麗にできてるじゃないか」
 感心をそのまま素直に言葉にすれば、娘ははにかみながらも嬉しそうに笑う。
 その笑顔を微笑ましく眺めた時――ふと、視界の端に奇妙なものが見えた気がした。
(……足立?)
 転じた視線の先にあったのは、嬉しげに笑う菜々子を見つめる若い相棒の顔。
 その顔には、いつも浮かべている笑みはおろか、何の表情も浮かんでおらず――ただ、その瞳だけが哀切とした色を宿していた。
 その瞳に浮かぶその色は、堂島にとって見覚えのあるものだった。
 刑事として幾度も見てきた、その表情。――事件や事故の被害者やその遺族たちが見せる、喪ったものを悼む眼差し。

 ――もはや、手の届かない何かへの哀惜の色。

「――な、なんですか?堂島さん」
 もしかして食べかすとかついてます?と、こちらの視線に気づいた足立が殊更慌てた風に口元を拭う。そこに、一瞬前まであった切ない色はもはやない。
 まるで、今見たものなど目の錯覚だと言わんばかりの、いつも通りの彼の態度。――いつもの、笑顔の仮面。
 しかし、その取り繕った態度が逆に、今見せた表情こそ彼の“素”なのだと物語っていた。
(……なんで、お前はあんな眼で菜々子を見たんだ?)
 菜々子は当然故人ではない。今、生きて、この場で笑っている。
 ならば何故、喪ったものを見る眼差しで娘を見るのか――そう考えれば、浮かぶ答えは一つしかなかった。

 ――彼は、菜々子の中に、自身が喪った“何か”を見ているのだ。

 子供ならではの純真さか、親子の微笑ましいやり取りか――その直前の流れから察するに、おそらくはこの辺りだろう。

 取り繕うことや騙すことに長けた彼の在り方の根底にあるのは、“他者への不信感”に他ならない。
 『騙される前に騙す』、もしくは『相手も嘘つきなのだから、自分がそうであっても責められる筋合いはない』、そういう思考による在り方だ。
 もはや性質とも言うべきレベルでの人間不信――それは、これまで信用できる人間に出会ってこなかったから身に着いたものだろう。
 たった一人でも心から信じられる人間がいたのなら、こうまで他者への不信感を募らせることはなかったはずだ。
 逆を言えば――彼の過去において、そういう人間は存在しなかったということ。

 ――家族ですらも、信じられないような環境で生きてきたということだから。

 子供のような純真さも、家族との微笑ましいやり取りも、彼には決して得られなかった――もしくは、既に喪われてしまったものなのだろう。
(こいつが暁にやたら構うのは、そのせいかもしれないな……)
 初心な少女を軽口でからかっているだけなのかと思っていたが、こうなると意外に本気なのかもしれない。
 暁は年齢に不相応なほどの包容力を――それこそ、母性とも呼ぶべき暖かい雰囲気を纏っている。
 だから、幼くして母を亡くした菜々子や、家族の愛に恵まれなかったらしい足立は、彼女に強く惹きつけられるのだろう。
(――これから、得られるさ)
 ――過去がどうあれ、その寂寥とした過去を癒してくれる存在に出会えたのなら。
 初めて出会った日、目の前の全てが滅びることを望むかのように荒んでいた彼の眼は、今でははっきりとした生彩を宿している。
 彼は、傷つき荒涼とした己の心に、生命の光を取り戻した。
 ならば、喪った純真さや、紡げなかったあたたかい思い出だって、これから得ることができるはずだ。
 何があっても彼を見捨てるつもりはない自分や、純粋に彼に懐く娘や――何より、彼が惹かれつつあるこの姪がいれば。
 ――そんなことを思いつつも、さりとて、これを口に出すつもりはさらさらないが。
「……お前、家でちゃんと飯食ってるのかと思ってな。上背はそれなりにあるのに、細すぎる。いくらなんでもその体つきは貧相すぎだろう」
「ひんっ……!?」
 視線の理由を誤魔化しがてら以前から気になっていた点を指摘してやれば、足立はショックを受けたように顔を引き攣らせた。
「そ、そりゃお世辞にも逞しいとは言えない体格なのは自覚してますけど、その言い方はあんまりですよ!っていうか、堂島さんが年齢の割にガタイ良すぎなんです!」
「あー……悪かった、言い過ぎた」
 半泣きの顔でムキになったように叫ぶ足立に、さすがにばつが悪くなって堂島は前言を撤回する。
 しかし、その詫びも耳に届かない様子で、足立は俯いてぐちぐちと零す。
「……どうせ、僕はもやしですよー……しょうがないじゃないか、食べても肉つかないし、筋トレしても効果出ないんだよ……」
 ――どうやら、足立にとってこの件は地雷だったらしい。
 やってしまった、と頭を抱える堂島の横で、すかさず暁が慰めの言葉をかける。
「あ、足立さん、そんなに気にしなくても……食べても肥らないのは、女性からしたら羨ましいくらいですよ」
 残念ながら、その内容は若干ピントがずれていたが。
 それでも、フォローの気持ちは嬉しかったのか、足立の顔がほんの少し上向いた。
「ありがと……ぶくぶく肥るよりはいいと思うことにする。――でも、暁ちゃんは人を羨む必要なんかないよ。寧ろ、完璧って言っていいスタイルだよ。胸も腰も脚も、全身」
「――えぇっ!?」
 言葉に合わせて下降していく足立の視線の動きに、暁が顔を赤らめて両腕で自分の身体を抱くように隠す。
「どこ見てんだお前ッ!?」
 あまりにあからさまなセクハラに、堂島は半ば反射で制裁を下していた。
「――ぐふっ!」
 後頭部を叩かれた勢いのまま、足立の顔面がテーブルに突っ込む。
 幸いにも突っ込んだ先は並んだ食器と食器の間だったが、振動で近くに置かれていたビール瓶が倒れてしまった。
 やばい、と一瞬焦ったが、想像した惨事は起こらなかった。瓶から零れたビールは卓の隅にほんの小さな水たまり作っただけ。殆ど空同然だったらしい。
 しかし、そのことに堂島は訝しさを覚える。――今日はまだ、自分は殆どビールに手を付けていない。
 思い返せば、今日の足立は食事が卓に並ぶ前から大分杯を重ねていたような気がして――まさかと思って卓に置かれたもう一本のビール瓶を見れば、こちらもほぼ空だった。
 次いで、突っ伏して微動だにしない足立を見る。耳を澄ませば、聞こえてくるのは健やかな寝息。
「……おいおい……」
 足立は別段酒に弱い方ではないはずなのだが――今日はビール二本ですっかり出来上がっていたらしい。顔に出てなかったからわからなかった。
 酔いがいつから回っていたのかは定かではないが、おそらく『もやし』がどうのと愚痴り始めた時点で既に正体を失っていたのではないだろうか。
 少なくとも、暁へのセクハラは確実に酔っぱらったが故の醜態だろう。常ならば、本音はどうあれ、そういうことを本人に悟らせるような男ではない。
「……足立さん、寝ちゃったよ?」
 不思議そうに足立の顔を覗きこんだ菜々子がそんな声を上げる。
 膝立ちでじりじりと足立から逃げるように距離を取っていた暁が、動きを止めて呆然とした呟きを漏らした。
「……よ、酔ってたんですか……?」
「どうも、そうらしい。……まあ、さっきのセクハラは酔った上でのこととして流してやってくれ」
 ため息まじりに、一応フォローを入れておいてやる。
 ――おそらく、この彼らしからぬ醜態は、少なからず夕刻の苛立ちを引きずってのことだろう。
 つまり、その苛立ちを解決しない限り、今回のようなことが繰り返される可能性があるわけだ。
(……どうしたもんかな)
 本人にも理由がわからないのでは手助けのしようがないと知りつつも、思わず堂島は相棒の苛立ちを取り除く手立てに思考を巡らせる。
「……さすがに二階までは運べんし、とりあえず、あとでここに布団敷いて寝かせるしかないか……」
 残念なことに、思いついたのはきわめて至近的な派生問題に対する解決法だけだったが。

 * * *

 車のバックミラーに映る自分の顔は、まるでこの世の終わりかのように絶望的な色を浮かべていた。
 当然だ。心底愛しくて大事にしたい女の子に、酔った上でとはいえ酷く不躾なマネをしてしまった。
 いっそ、全部記憶が飛んでいれば楽だっただろうに、きっちり全部覚えている自分が恨めしい。――じっくり凝視してしまった、暁のボディラインも含めて。
(――なんだよ、『胸も腰も脚も』って!?そりゃ実際見とれるくらい見事なボディラインだけどさ、言い方がアウトだろ!何よりも、なめまわすように見ちゃったこと自体がアウトだろ!)
 部屋着らしい可愛いワンピースを着た暁の姿は、薄手の生地を内から押し出す形のいい胸元や、すらりと伸びた生足が見事で、この上なく眼福ではあったが――暁からしたらセクハラ以外の何でもなかっただろう。
 これまでは『嫌われないように』と、変な下心が顔を出さないよう、意識してその辺りから目を逸らしてきたのに――一度ガン見してしまった今では、自制が利くか自信がない。哀しい男の性である。
 ――自分を含めたあの場の全員の記憶を消し去れるなら、悪魔に魂を売ってもいい。
 実際にそんな機会が来るかとか、実際に来たとしても本当に実行するかは別として、現在の心境としてはこれが紛うことなき足立の本音だ。
 早番だったせいで、暁に謝る暇さえなく堂島宅を出る羽目になってしまったのが余計に痛い。
 一応メールで謝罪の旨は送ったし、暁からも『気にしてませんから、気にしないでください』との返信が来たが――書かれていたのはその一文だけ。その常ならぬそっけなさに、『実はものすごく怒っているのでは』と気が気ではない。
(……これで軽蔑されて、二度とまともに口きいてくれなくなったらどうしよう……)
 「はあぁぁ~……」と、魂ごと出てきそうな深いため息に、助手席に着いた堂島が顔をしかめた。
「……足立、やっぱ運転代われ。今のお前にハンドルまかせるのは怖すぎる」
 堂島の車を使う際などは別として、今のように署の車を使う時は足立がハンドルを握るのが常となっている。一応は上司と部下という立場から来る役割分担だが、その通例を曲げるほど今の足立は危なっかしく見えるらしい。
 ――特に、彼は交通事故にトラウマに近い想いがあるから余計かもしれない。
「……いえ、大丈夫です。すみません、私情を仕事に持ち込んで」
 上司の心情を慮り、表情を改めてからアクセルを踏んで発車した。
(――気持ち、切り換えないと)
 いつまでも、過ぎたことを引き摺っているわけにもいかない。ましや、今は勤務中だ。
 昨日の醜態の直接的な原因も、遠因も、自分の中ではっきりしている。ならば、二度と繰り返さないようにすればいい。
 直接的な原因は、もちろん泥酔したこと――つまり、酒だ。
 しかし、普段ならあの程度の酒量で正体不明になることはない。そこには、精神的な不調が少なからず絡んでいた。
 遠因とも呼ぶべきその精神的不調――正体不明の苛立ちも、今ではその形を明確にしている。――それをはっきりさせたきっかけが、醜態をさらした晩餐の席だったというのはこの上もない皮肉だが。
 しかし、これでこの苛立ちをきちんと自分の中で解決しなければ、それこそただ無駄に痛い思い出が増えただけになる。
(――きちんと、ケリをつけないとね)
 決意を込めて、フロントガラス越しに見えてきた目的地を睨む。

 稲羽市立病院――苛立ちが吹き出した原因の待つ、その場所を。


「つまり、居なくなっていた間のことはまるで覚えていないと?」
「はい……16日の夕方に、旅館の勝手口から誰かに声をかけられた気がして……その後は、気が付いたらそこの刑事さんに助け起こされていました」
 打ち合わせ通り、堂島の質問に対して返される、“テレビの中”での出来事を端折った雪子の回答。
 この調子なら、フォローしなくても自力で堂島の聴取に応対できるだろう。――そう判断して、意識を雪子からその周囲へと移した。
 ベッドの上で上体を起こした姿の雪子を、案じるような視線で見つめる彼女の母親。――その眼差しには、紛うことなく子を想う親の愛があって。
 けれど、母親の方を見ようともせずに俯いた雪子は、その視線に気づかない。
 そのことに――また、足立の胸に苛立ちが湧きあがった。
(ああ――本当、どうしようもないね、僕は)
 その感情の正体を自覚した今、もはや浮かぶのは自嘲の念だけ。

(――こんなの、醜い嫉妬以外の何物でもないってのにさ)

 ――かつての足立も、雪子と同様、親や周囲の期待にがんじがらめにされた子供だった。

 親は口癖のように「安定された将来のために」と繰り返し、厳しいノルマを足立に課した。
 ノルマをこなす度に「お前は自慢の息子だ」と褒めてはくれたけれど――結局のところ、あの人たちは“足立透”個人を愛してなどいなかった。
 昨夜の菜々子と堂島のやり取りを、そして今の雪子の母の眼を見て、そう思い知る。――自分は、親からあんなに優しい眼差しを向けてもらったことなど、ただの一度もない。

 ――あの人たちにあったのは、ただ自分たちの優越感と自尊心を満たしてくれる、“理想の息子”への執着心だけだったのだ。

 だから、自分たちの描く“理想”の道筋から外れた途端、足立を切り捨てた。
 それまでは一挙一動まで煩く束縛していたくせに、掌を返したように放り出したのだ。

(――まあ、ぶっちゃけ、子供の頃は縛られている自覚もなかったんだけど)
 親を含めた周りの大人が皆、口を揃えて同じことを言うから、それが正しいと盲目的に信じていた。

 ――年齢を重ね、どこか間違っているのではないかと感じるようになっても、逆らって見捨てられるのが怖くて、気づかないふりをした。

 ――“間違っている”と感じさせる全てのモノを見下すことで、親と同じ価値観を保ち続けた。

 その結果――“親の期待”から外れた途端、全てを失ったのだ。

(……ついてなかったんだな、俺は)
 親は子供を選べず、子供は親を選べない。――自分の親がそういう人間だったのは、どうもしようのないことだった。強いて悪かった点を上げるなら、“運”が悪かったとしか言いようがない。
 もしかしたら、足立が間違いに気づいた時点で何か行動を起こせば、親子の関係は変わっていたのかもしれないが――今更だ。もはや、今の足立の言葉はあの人たちの心には届くまい。
 過去の不足分を補う形で、今現在の幸福があるのだと思うしかない。
 一度全てを失ったおかげで、今のあたたかい人間関係を得たのだと思うしかない。

 ――それでも、他人を羨んでしまうのは、自分がどうしようもなく卑しい人間だからなのだろう。

 過去の足立と同じように親や周囲に縛られている雪子。
 けれど、過去の足立と違って、親や周囲から確かに愛されている雪子。

 ――彼女はきっと、親の期待を裏切っても、親から捨てられるようなことはない。

 だから、それが羨ましい。

 ――彼女は、そんな親の愛情に気づいていない。

 だから、それが苛立たしい。

 自分には決して得られないものを既に得ているのに、それに気付きもせず、さも不幸そうな顔をしている彼女が赦せない。

 そのくせ――どうせならいっそ気づかないまま本当に不幸になれと、心の片隅で浅ましく呪う自分がいる。

 ――お前だけ幸せになるなんてずるいと、醜く喚き散らす自分がいる。

(……しょうがない、俺はこういう人間だ)
 幼少期から蓄積されてきた歪み――それを、今更消し去ることはできない。
 ただ、それとは別に“真っ直ぐな自分”を新たに作ることはできた。――独善的ではあっても、“誰かを純粋に想う自分”もこの胸の中には確かに居る。

 ――誰かを呪うことしかできない“自分”と、誰かを真っ直ぐに想う“自分”が、己の中に背中合わせで存在している。

(――まるで、漫画とかに出てくる『頭の中の天使と悪魔』だな)
 思わずそう苦笑するけれど、そういう表現が往々にして使われるということは、人は多かれ少なかれ、悪意と善意を同時に抱くことがある、ということだろう。

 ――だから、自分は、その“天使”と“悪魔”を飼い慣らして生きていく。

 “悪魔”が誰かの不幸を願うことを止められないなら、その分、“天使”がその相手の幸福を願う。そうやって、自分の中の天秤が暗い方へと傾くのを防いでいくしかない。

(――まあ、幸福を願うのは、その価値を見出した相手にだけなんだけどね)

 ――何せ、自分の中の“天使”はこの上なく独善的だから。

 そんな風に苦笑しながら、足立は雪子へと向き直る。
 ――彼女はきっと、己の中の“天使”が幸福を願うのに足る人間だろう。
 自身の在り方に疑問を覚え、自ら変わろうと足掻いている彼女に対し、確かに敬意を抱いている自分がいる。
 ――それは、かつての自分にはできなかったことだから。

(――だから、応援してあげるよ)

 どうしようもなく妬ましくても。ズルいと思うことは止められなくても。
 “悪魔”の顔で悪役を気取ってでも、彼女が見過ごしている親の愛情に気付かせてやろう。

 ――彼女と、彼女の親の行く末が、幸福なものになるように。

 少し意地悪く、それでも芯では真摯にそう決意した胸の内に――もう、あの苛立ちが湧くことはなかった。


 雪子への聴取が終わった後、彼女が受けた精密検査の結果を報せに、主治医と担当ナースが病室を訪れた。
 本人と保護者の許可を得て、足立と堂島も同席して結果を聞かせてもらう。
 やはり、昨日の時点で軽い脱水症状が出ていたようだが、現在は点滴のおかげで回復しており、足立が最も危惧していた薬物による影響は特に見られないとのことだった。
「良かったですね、天城さん。この調子ならすぐに退院できますよ」
 そう告げて雪子ににっこりと笑いかけたのは、『上原』と書かれた名札を付けた担当ナース。
 年齢は足立と同じくらいか。後ろでまとめられた清潔感のある黒髪。均整のとれた肢体を包む、皺ひとつ見当たらない純白のナース服。清楚な微笑みの良く似合う、まさに“白衣の天使”と称したくなるような女性――なのだが。
(……これは、天使の皮を被った小悪魔だな……)
 足立は、一目でその外見の下に隠された彼女の本性を看破していた。
 彼女は自身が周囲にどう映るか熟知し、その魅力を利用することに躊躇いがない。――異性おとこに対しては、特に。
 その証拠に、膝丈のスカートから伸びる足の運びから、雪子へ語りかける時の屈み具合まで、その一挙一動に男を釣るための餌がちらついていた。
 実際、彼女と並んだ男性医師は、ちらちらと彼女に視線を向けては密かに鼻の下を伸ばしている。
 その点、堂島はさすがというべきか、まるで動じる色もない。――もしかしたら、そもそもナースの秋波に気づいていないのかもしれないが。堂島は優秀な刑事だが色事そっち方面にはやや疎いところがある。
 足立自身も、彼女の“釣り技能”には感嘆を覚えるが、それ以上の感情はない。男を狩りに来るタイプが好みじゃないというのもあるが、そもそも暁という本命ができて以降、彼女以外の女性に対しては殆ど食指が動かない。――『全く』と言えないのは哀しい男の性だ。
「――では、我々はそろそろ失礼します」
 聴取も検査結果も聞いた以上、これ以上ここに留まる理由もない。間を見計らって、堂島が雪子たちにそう声をかけた。
「あ、はい。……大したお話もできなくて、すみません」
「いえ、覚えてないんじゃあ仕方ないでしょう。お気になさらず」
 申し訳なさそうに頭を下げる雪子に、堂島は愛想こそないが真摯な口調でそう返す。
 その言葉に雪子はますます俯いてしまった。――まあ、隠し事をしている相手にこう言われたら、余計に気まずくなるというものだろう。
 このままだと雪子が不憫だし、堂島が感付いてしまうかもしれない。足立は早々に話をたたみにかかった。
「あとは我々の仕事ですよ。今後、捜査に進展があればご報告します。今はご自身の身体を第一に考えて、ゆっくり休んで下さいね。――行きましょう、堂島さん」
 にっこりとそう告げて、堂島を促して雪子の病室を出る。
「……おい、足立、何だったんだ、さっきのは」
 しばし廊下を歩んでから唐突にそう切り込んできた堂島の言葉に、思わずぎくりとなった。
 ――雪子との会話を無理矢理たたみにかかったことに感づかれたか。
「……な、何がですか?」
 内心ひやひやしながらそう訊ねれば、堂島は不審そうに眉を寄せながら答える。
「妙に冷たい眼でナースを睨んでたろ。彼女がどうかしたのか」
(……何だ、そっちか)
 内心でほっと息を吐く。
 しかし、彼女の秋波にはまるで気づいていなかったのに、自分の視線には気づいていた堂島に苦笑が漏れた。――鋭い部分と鈍い部分に差があり過ぎる。
「彼女、清楚なふりしてかなりの狩人ハンターですよ。……色事の、ですけど」
 最後の部分だけ声を潜めて告げた足立の言葉に、堂島が酸っぱいものでも食べたような顔になった。
「なんか、僕らの方にも秋波送ってましたけど……なんか、そんなのに引っかかる程の相手だと思われたのが、ちょっと癪でして」
「……ああ……あの医者の妙な態度は、そういうことだったのか……」
 さすがに医者の方の態度には気づいていたらしい。堂島はしかめ面のまま、納得したような呟きを漏らし――

「――やっぱり、そっちの刑事さんには気づいてもらえてなかったみたいね」

 背後からかかった笑みを含む声に、二人してぎょっとして振り返った。
 そこに居たのは、今まさに話題に上っていたナース。
「けど、気づいてたのに靡いてもらえなかったことの方がショックね。……何が悪かったか、今後の参考までに訊いてもいいかしら?」
 先程までの天使の笑みではなく、小悪魔全開な笑みを浮かべ、彼女は小首を傾げて足立を見る。
 答えてやる義理はないが、答えない方がしつこく絡まれそうな気がして、足立は至極端的にその理由を告げた。
「……ただ単に好みじゃなかっただけだよ」
「あら、それは残念。私はあなたみたいな人、結構好みなのに」
 彼女は悔しがるでもなく、楽しげに笑ってそんなことさえ言う。
 投げられたカウンターに片眉を跳ね上げつつも、足立はしらっとした表情で問い返す。
「そう?――参考までに、どの辺が?」
「そうね。どこまでもつれないその態度とかかしらね」
 悪戯っぽいその答えに、足立はひょいと肩をすくめた。
「なるほど。君に靡いた途端に、僕は君の好みから外れるわけね。始まる前から破綻が見えてる恋じゃあ、なおさら手を出す気にはなれないな」
「さすがに引っかかってくれないか。靡いてくれた途端に、フリ返してやろうと思ったのに」
 ちぇっ、と可愛らしく舌打ちするナース。しかし、言うほど悔しがっているようには見えなかった。
 もしかしたら、彼女は狩りの成否ではなく、この駆け引きめいた会話そのものを楽しんでいるのかもしれない。
 足立としても、最初は嫌々だった彼女とのやり取りを楽しく感じ始めていた。――女性としての彼女には相変わらず興味はないが、尻尾を取り合う好敵手あいてとしては、彼女はなかなか魅力的だった。
 悪意に満ちた腹の探り合いは本庁時代に嫌と言うほどやったが、敵意もなしにこういう掛け合いを交わしたのは初めてだ。なるほど、毒がなければ、こういうやり取りは案外面白い。
 堂島や暁相手ではこういうやり取りはまずできない。――二人とも良くも悪くも真っ直ぐなので、足立が一方的に相手をからかう形になるか、肩透かしを食うだけになってしまうだろう。
「――刑事さん、フラれた身で厚かましいけど、名前くらいは教えてもらってもいいかしら?」
 そんなことを考えている時にナースから投げかけられた、そんな問い。
 ――たまになら、彼女とこんな風に軽口を叩き合うのもいいかもしれない。
 そんな風に思って、足立は素直に名乗ることにした。
「――足立だよ。こっちは上司の堂島さん」
「……って、俺もか!?」
 完全に蚊帳の外になっていた堂島が、自分も紹介されたことにぎょっとした声を上げる。
 尊敬する上司の珍しく面食らった様子に、足立は思わずこみ上げてきた笑いを噛み殺した。
 ナースも堂島の様子に楽しげな笑みを浮かべつつ、自身の名を名乗り返す。
「上原小夜子よ。――まあ、また会うことがあったら声をかけてくれると嬉しいわ」
 その言葉に続くように、脳裏に声ならぬ『声』が響く。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者との絆に、“悪魔”のペルソナを見出さん≫

『我が名はドラキュラ。脆弱なる人の子よ、我が力を借り受けられることを光栄に思うがいい』

 瀟洒な紳士服の上から漆黒のマントを羽織る美貌の男。不敵な笑みを刻んだその口元からは、長く鋭い牙が覗く。

 ――これは、意外に長い付き合いになりそうだ。

 己の中に生まれた“新たな可能性”に、そんなことを思いながら、口に出してはそっけない言葉を紡ぐ。
「――気が向いたらね」
 ――おそらくは、これが彼女との交流に一番相応しいスタンスだろうから。



――――――――――――――
≪ペルソナ解説≫
以下は、この話に登場したオリジナルペルソナの紹介です。
殆どゲーム的なデータで、読まなくてもストーリー的に支障はないので、興味ない人は読み飛ばしちゃってくれていいです。

名前:ドラキュラ   持ち主:足立※
初期レベル:15   アルカナ:悪魔
耐性:氷 弱点:火・光 無効:闇

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
両腕落とし(-) マハブフ(-)
白の壁(17) デビルスマイル(20)
老化防御(23)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 亡者の嘆き(25)
Rank2 バステ成功率UP(29)
Rank3 吸魔(33)
Rank4 木っ端微斬り(37)
Rank5 老化防御(41) 
Rank6 氷結ブースタ(45)
Rank7 ブフダイン(49)
Rank8 オールド・ワン(52)
Rank9 マハブフダイン(57)
Rank10 ペルソナ“リヴァイアサン”に進化する

【設定】
“上原小夜子”との間に発生した“悪魔”コミュによって生まれたペルソナ。
外見は、長身痩躯を黒いマントに包み、闇色の髪に抜けるような白皙が映える美貌の男。笑んだ口元から牙を覗かせ、マントの下に隠した手には鋭い爪を持つ。
今や“吸血鬼”の代名詞となりつつある、ブラム・ストーカー原作の『吸血鬼ドラキュラ』に登場するヴァンパイア。
原作でのドラキュラは怪物然とした姿であったようだが、映像化される際に美化されていき、現在の『見目麗しい吸血鬼伯爵』のイメージが定着した模様。
“ドラキュラ”とは、ルーマニア語で『“ドラクル”の息子』を意味し、同時に『悪魔の子』という意味もある。
15世紀のルーマニアで“串刺し公”と称されたヴラド・ツェペシュという人物がモデルであるとされているが、実際には出身地と“ドラキュラ”のニックネームくらいしか共通項はないらしい。
進化後の“リヴァイアサン”については、“リヴァイアサン”の欄で後日別途解説。



[29302] 14章.少女たちは各々に思いを巡らす
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/04/22 08:23
「――いってきます」
 玄関先から棒読みな挨拶を投げて、早紀は早くに家を出る。
 五分ほどおいて、弟も家を出てくるはずだ。
 ――これは、今週頭に退院してからの習慣。
 弟――尚紀は、運命共同体の陽介を除けば、早紀の最初の協力者だ。

 ――「ジュネスと商店街の確執を失くそうと思う」

 そう告げた早紀の前で、普段どこか冷めたような弟の表情が、ぽかんと間抜けなものになったことは記憶に新しい。
 そんな風に、直後は呆気にとられたらしい弟だったが、毎日ジュネスへの恨み言を吐くだけで一向に何の改善努力もしない父よりは見込みがあると思ったと、早紀の側についてくれた。
 けれど、彼は表立って父と対立することはせず、別ベクトルからのアプローチを提案してきた。

 ――「どうせ今口で何言ったって、頭に血が上った親父の耳には届かないって。だったら、勝手に行動しちゃった方が早いだろ」

 彼がそう言って提案したのは、『手伝い』と称して父と共に店に出て、早紀たちがジュネスを参考に練った改良プランを少しずつ店に仕掛ける、という策だった。
 ジュネスを毛嫌いして足を運んだこともない父には、施された改善策がジュネス発だとは気付きようがない。
 それで効果が出れば御の字。出なかったらまた別の改善策を取り入れる。
 ――つまり、父に黙って『コニシ酒店』を経営改善の試験場サンプルケースにするというのだ。
 なるほど、『勝手にやる』という手があったのかと、『説得』に固執し、頭を悩ませていた早紀と陽介は目から鱗が落ちた思いだった。
 これなら、失敗したら余計にジュネスへの嫌気が高まるかも、という懸念も解消される。
 元々経営は既にどん底に近い状態だから、これ以上下がりようはない。幸か不幸か、『変に弄ってマイナスに』という心配もないというわけだ。

 ――「同じ説得文句でも、効果が実証される前と後じゃ説得力が全然違うだろうし」

 そうしれっと告げて薄く笑う弟の姿に、末恐ろしい思いを抱いたのは、単なる錯覚だと思いたい。――意外とこの弟は策士タイプなのかもしれない。
 まあ、そんな心強い弟も交え、実際に店に盛り込む改善策を練るために、退院以降は早めに家を出て、登校前に鮫川の河川敷で陽介と合流、会議を開く日々だ。
 現時点で尚紀が早紀の側に着いたことを父や商店街の皆に悟られぬよう、早紀と尚紀はわざわざ別々に家を出ている。
 時間が朝なのは、陽介には放課後にやることが別にあるためだ。
 弟にはジュネスでの仕事と誤魔化してあるが、早紀は本当の理由を陽介から聞いて知っている。彼は早紀が巻き込まれた事件を、事情を知る現職刑事やクラスメイト達と共に追っているのだ。
 正直、心配でしょうがないし、一緒に行きたい気持ちもあるが――聞く限りでは“あちら”は大分物騒な場所らしく、自分が行っても足手まといにしかなれない気がして、代わりに陽介の分も商店街問題に身を入れることにしている。
 ただ、それでも出来る限りのサポートはしようと、『武器が欲しい』と言っていた陽介に家にあったスパナを渡しておいた。――我ながら他に何かなかったのかと思わないでもなかったが、陽介は喜んでくれていたし、実際活躍したとも聞いたので、結果オーライだろう。
 などと、ここ数日の出来事を思い返しながら歩みを進めるうち、目的地が見えてきた。
 鮫川の、ちょうど河川敷の道から死角になっている草むらが、早紀たちの作戦会議場だ。
 この場所に決めた時、陽介は『ちょっと秘密基地みたいだよな』と悪戯っぽく笑っていたものだ。――まったく、相変わらず子供みたいなセンスだ。そこが可愛いのだけれど。
 と、その“秘密基地”に人影を見つけて、早紀は軽く目を瞠る。
 ――いつもなら自分が一番乗りなのに、今日は陽介が先に来ているのだろうか。
 しかし、すぐにそうではないことがはっきりした。
 見えた人影は先と同じ制服――八十稲羽高校の女子制服姿だったからだ。
 そして、その見覚えのある銀髪のおさげ。
「……神代さん?」
 歩み寄って後ろからその名を呼べば、彼女は驚いたのか弾かれたように振り返った。
「――小西先輩……?」
 思わぬ人にあったと言わんばかりに目を見開いた彼女の様子に、『陽介から聞いてこの“会議場”に来た』という考えはあっさり否定された。
「どうしたの、こんなところで。学校行くにしては時間も早いし」
「えっと……今日は菜々子ちゃんが日直で……一緒に出たから、ちょっと早くなったんです」
 自分のことを棚に上げて問えば、彼女は問い返すこともなく、素直に自分の事情を説明する。
 しかし、その言葉は『何故こんな時間に』という疑問への答えにはなっていても、『何故ここに』という疑問の答えにはなっていない。
「……何かあったの?」
 どこか沈み込むような彼女の様子に、思わず早紀はそんな問いを投げていた。
 ぴくり、と彼女の肩が揺れるが、言葉にしては何も返されない。
「私でよければ話してよ。――神代さんには、感謝してもしきれないだけのことをしてもらったんだから、ちょっとは恩返しさせて?」
 ちょっと押しつけがましい言い方になったが、おそらく人に遠慮する性質の彼女には、きっとこれくらいでちょうどいい。
 正直、人の悩みを聞いていられるような余裕のある現状ではないが、何せ彼女は自分の命の恩人の一人である。身を挺して、倒れるまで自分と陽介を庇い続けてくれたという彼女には、それこそいくら感謝してもしきれないものを感じている。
 ――ここは、『多少強引な人』と言う印象も持たれてでも、彼女の中にある鬱屈を吐き出させるべきだ。
 そんな風に思って告げた早紀の言葉に暁が答えるよりも早く、陽介と、後から家を出た尚紀がこの場に到着した。
「はよーっす!……って、神代!?」
「……姉ちゃん、その人、誰?」
 本来この場にいないはずの四人目の存在に、男二人が目を見開く。
「花村君と……小西先輩の弟さん、ですか?」
 暁の方も困惑した様子で、新たに現れた二人を見比べていて。

 ――とりあえずは、暁の悩みを聞く前に、この集まりの目的などを説明した方がよさそうだった。

 * * *

「――と、まあ、そんなわけで、ここを作戦会議場にしてるわけ」
「そうだったんだ……すごいね、花村君。放課後も大変だったのに、朝からそんなこともしてたんだ……」
 早紀の言葉を引き継いでそう締めくくった陽介の言葉に、暁は思わず感嘆の言葉を零していた。――彼は雪子の救出と並行して、ジュネスと商店街の軋轢解決のための活動までしていたのだ。
「いや、そんな感心されるほどのことでもないっつーか……俺、あんまこっちじゃ役立ってねぇし……」
 照れているというより、ややばつの悪そうな様子で頭を掻く陽介。そこに、横から声がかかる。
「そうですね。花村さん、会議中は大概、半分寝てますもんね」
「ぐっ……!……な、尚紀、お前、地味に俺に対してきついよな……」
 さらりと陽介に辛口評価を投げたのは、先程早紀の弟と紹介された尚紀だ。早紀の二つ下で、暁たちと同じ八十神高校の一年生らしい。
 その面立ちは早紀とよく似て儚げな印象だが、その印象を裏切るかのように、紡ぎ出す言葉は遠慮のないきっぱりとしたものだ。
 ――しかし、その気性も含めてよく似た姉弟であるらしい。
「別に花村さんにだけ特別きついわけじゃないですよ。俺は元々こうです」
「そうね。あんた、その女顔に似合わず毒舌だもんね」
「……そこでさらっと人のコンプレックス織り込んでくる姉ちゃんには負ける」
 微笑んで頷いた姉の言葉に、尚紀はげんなりとした様子で肩を落とした。
 白旗を上げた弟に、早紀は傲然と言い放つ。
「私の許可なく花ちゃんをいじめるからよ。花ちゃんをいじめていいのは私の特権なの!」
「うわ、さらっと惚気てるし」
「え、これ惚気なの!?っていうか、そんな特権初耳ですよ先輩!?」
 姉弟+αによる息の合った掛け合いに、暁は小さく吹き出してしまった。
「あ、笑った」
「――ご、ごめんなさい」
 その瞬間を見留めたらしい尚紀の呟きに、慌てて口元を抑えて謝るが、彼は慌てたように頭を振る。
「あ、いや、別に怒ってるわけじゃなくて……初めてちゃんと笑ってくれたな、って思っただけで」
 その言葉に、思わずぎくりとなった。――自己紹介の時も笑顔を浮かべたつもりだったが、うまく笑えていなかったということなのだろう。
 その言葉に頷いて、陽介と早紀も言葉を添える。
「確かに、今日の神代、なんか沈んでるっつーか……そもそも、こんなとこに一人でいた時点で、何かあった感じバリバリっつーか……」
「――さっきも言ったけど、良ければ話くらいは聞くよ?」
 こちらを気遣ってくれるその言葉に、暁は思わず顔を伏せてしまった。
 早紀たちを信用してない訳ではないし、できれば誰かに話して意見を訊ければとも思うが――それ以上に、私事で誰かに手間を取らせる申し訳なさと、その内容を口に出す気恥ずかしさの方が勝ってしまうのだ。
「そ、そんな大したことじゃないんです……私が気にし過ぎって言うか……」
「――何をそんな気にしてるの?」
 しかし、しどろもどろに紡いだ言葉を足場に、早紀に鋭く踏み込まれてしまった。
 そう問う早紀の眼は真摯なもので、純粋にこちらを案じる色に満ちている。――懸念があると零してしまった上で、この言葉を突っぱねるのは彼女の誠意を踏みにじることになるだろう。
 それはどうにも忍びなく――新たに加わったその思いが、暁の中の天秤の傾きを変えた。
 おずおずと、早紀に向かって口を開く。
「……その……なんていうか……ちょっと、口に出しにくいんですけど……」
 しかし、内容が内容なので、思わずもじもじと男子二人の方を窺ってしまった。
「……あー、女の子だけの方がいい感じの内容?なら、俺らはちょっとあっちに――」
「ま、待って!……ど、どっちかって言うと、男の人の意見と言うかそういうのが訊きたいの」
 気を遣ってか、尚紀の背を押してその場を離れかけた陽介を慌てて呼び止める。――しかし、やっぱり、不躾というか、はしたないその相談内容に、言葉がなかなか出てこない。
「……そ、その……昨日、叔父さんの同僚の人が、うちに晩御飯を食べに来たんですけど……その人、酔っちゃったらしくて、その、ちょっと、私に……」
 何とか当たり障りのない表現を探すが、それを先回りする形で早紀が声を上げた。
「――まさか、胸とか触られたとか?」
「さ、触られてません!見られただけです!…………あ」
 咄嗟に上げた訂正の声で、ずばりそのままを告げてしまった。
「あー……つまり、酔っ払いオヤジに視姦セクハラを受けたってことですか?」
「ちょっ、おまっ!もうちょっと言葉選べ!?」
 尚紀にずけっと生々しい表現でまとめられ、思わず顔が赤らむ。陽介が慌てたように声を上げた。
 しかし、姉は弟より更に過激だった。
「……神代さんが気にするぐらいだから、相当じっとり見られた感じ?……うっわ、サブイボ立った。――死ね、変態オヤジが」
 自身の身に置き換えて想像したのか、早紀が殺意すら感じさせる眼差しで呟く。
「――あ、あの、酔った上でのことですし、見られたこと自体は確かにすごく恥ずかしかったですけど、もう今更ですし、それに関してどうこう言うつもりはないんです」
「うわ、さすがの寛容さ……って、じゃあ、気になってることって?」
 慌てて早紀をなだめようと告げた言葉に、陽介が首を傾げた。
「……その……その人は叔父さんの同僚で、当然年齢も私より大分上で……その人からすれば、私は子供みたいなものだと思ってたから……そういうことされてびっくりしちゃったというか……」
 ――やや下品な方向でとはいえ――いきなり足立に女性として扱われて、戸惑ってしまったのだ。
 足立は幾度も暁を助けてくれたし、いつだって優しく接してくれたけれど、その優しさは女性扱いと言うより、菜々子に対するものと同列の、いわば『子供扱い』だと思っていた。
 若く見える足立の外見から、先日までは五歳差くらいかと思い込んでいたが、それでも、十代と二十代に跨る五歳差は、暁にとって大きなものだったのだ。
 自分はまだ高校生で、あちらは成人した社会人。年齢差以上にその立場の差が、『大人』と『子供』の垣根として暁の中にあった。
 自分のことを自分で判断できないほど『子供』ではないつもりだけど、それでも成人した社会人である『大人』から見れば、まだ被保護者という立場の『子供』だろう、と。
 けれど、昨夜の足立の言動は、思い切り『子供扱い』から外れていて。
 一人の『女性』として扱われて――そういう風に見てもらえていたのだと悟って、過去の自分の所業が猛烈に恥ずかしくなってしまったのだ。
「今まで女性扱いされてないと思ってたから、私、今まで無意識に色々はしたないこと……その人がいるの知ってるのに、朝、パジャマのままリビングに降りちゃったりとか……」
 幻滅されてないでしょうか、と羞恥と狼狽で思わず涙目になりながら問う。

 ――『はしたない子』とか思われてたら、恥ずかしくてもう顔も合わせられない。

 早紀に会うまで、そんな風に思考がぐるぐる渦巻き、思わず学校に行く途中の河原で足が止まってしまっていたのだ。
 そんな暁の問いに、男子二人は顔を見合わせ――
「――いや、それはねぇんじゃね?」
「ないと思いますよ」
 何やらアイコンタクトの後、暁に向き直ってそれぞれそう告げた。
「『はしたない』のレベルがあんまり酷けりゃそりゃ男もどん引くけどさ、神代みたいに普段から慎み深いがそこまで酷いことやらかすとも思えねぇし」
「さっき言ってた例くらいの無防備さだったら、男からしたら寧ろ『ありがとうございます』って感じですよね」
 なにやら、確信を持ってそう断言される。――尚紀の言う『ありがとうございます』の意味はよくわからなかったが、とりあえず幻滅されていることはないと男子二人に太鼓判を押されたことで、暁は安堵した。
「そ、そっか……良かったぁ……」
「……えーっと……神代さん……?」
 ほっと胸をなで下ろした暁に、早紀が何やら物言いたげな声を上げる。
「……セクハラ行為されたことよりも、そのセクハラオヤジにどう思われてるかの方が気になってたの?」
「セ、セクハラオヤジじゃないですよ!酔っちゃってただけですし、何よりまだ若い方ですし!」
 早紀の中でどうも間違った方向に膨らんでいるらしい『叔父の同僚』のイメージを正そうと、必死に訂正する。
 それに「え、それって……?」と、早紀よりも陽介の方が反応した。――足立の名誉のために『叔父の同僚』とぼかしていたのだが、察せられてしまったらしい。
 一方、早紀は早紀で何か納得した様子で、「あー、なるほど……」と呟いていた。
 何が『なるほど』なのかわからず、首を傾げた暁のポケットで、携帯がメールの着信を告げる。
 陽介たちに一言断ってから、携帯を取り出してメールを確認し――
「――あ……」
 送信者の名前を見て、思わず声が零れた。――今まさに話題に上がっていた彼からだった。
 メールの内容は、昨晩の自身の行為に対する猛省と謝罪の羅列だった。『ごめんなさい』という言葉だけで三回以上綴られている。
 早番だったらしく、暁が起き出すより早く叔父と共に家を出てしまっていた彼だが、酔いが醒めて、昨夜のことを凄まじく後悔しているらしい。
 暁自身は、酔った上でのことだし、ここまで猛省しているなら責める気さえ起きないのだが――ここまで自分を責めている彼に、どう返答するべきか。下手な返し方だと、余計に自責の念を駆り立ててしまいそうな気がする。
「……どう返信しよう……」
「……それ、もしかして例の人から?」
 思わず呻いた暁に、早紀が声を上げた。
「あ、はい。『昨日はごめんなさい』って、なんだかこっちが申し訳なくなるぐらいの勢いで……」
「んー……だったら、『気にしてないから気にしなくていいです』くらいの、ちょっと冷たい感じで返信してあげれば?」
 早紀の提案に、思わず目を瞬く。
「あんまり優しく赦しちゃうと、かえって相手も心苦しいでしょ。ちょっと怒ってますよー、でも赦さない訳じゃないですよー、ぐらいのニュアンスがちょうどいいんじゃない?」
「――なるほど、そうかもしれませんね」
 早紀の言葉に納得して、さっそくそのように返信を打ち込むことにした。
 その間、何やら物言いたげな目をした尚紀と素知らぬ顔をした早紀が、「姉ちゃん、酷くね……?」「神代さんは赦してても、私がセクハラ赦せないし」などという会話を小声で交わしていたことに、暁は気づけなかった。
「――ありがとうございました、小西先輩」
 メールを送信し、懸念事項が片付いた安堵で暁が破顔して告げれば、早紀も優しく微笑み返してくれる。
「気にしないで。さっきも言ったけど、神代さんには感謝してもしきれないだけのことをしてもらってたんだから。――何かあったら、また気軽に相談してよ」
 優しくも頼もしいその言葉が呼び水となり、脳裏に声ならぬ『声』が響く。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、“刑死者”のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん≫

 ――脳裏に浮かぶ、逆さ吊りの人影が描かれたタロット。
 名も絵面もやや不吉な印象だが、その“正位置”が意味するところは『苦難を耐え抜けば報われる』というもの。――愛する人との未来のために、難題に取り組もうとする彼女にはこれ以上なく相応しいアルカナだった。
「――ありがとうございます、先輩」
 優しくも強い彼女との絆を結べたことを嬉しく思いながら、暁はそう笑って礼を告げた。


 一緒に行動している所を見られないようにと、早紀たちとタイミングをずらして登校する陽介と共に昇降口を上がれば、脇から突如名を呼ばれた。
「お、神代じゃないか!おはよう!花村もおはような!」
「――あ、おはようございます」
「おはようございます。……俺はついでっスか、近藤先生」
「ははは、ソーリーソーリー!ちょっと神代に用があって、ちょうどいいタイミングだと思っただけだ。他意はないから気を悪くしないでくれ!」
 陽介の抗議を豪快に笑い飛ばしたのは、ジャージを着た、いかにも体育会系な容姿の男性。――体育教師の 近藤だった。
 体育の授業は男女別であり、彼は男子の授業を受け持っているため、その点では暁との接点がないに等しい。しかし、教員不足だとかで彼は英語も兼任しているため、そちらの授業では暁も普通にお世話になっていた。
 ただし、陽介あたりに言わせれば、「寧ろ神代がお世話してる」ということになってしまうのだが。
 元々の担当教科ではないせいか、彼の英語は時折怪しいところがある。そういう時、それなりに英語は得意な暁が授業にフォローを入れることが、既に二年二組における英語の授業での日常風景になりつつある。――まあ、暁自身にその辺りの自覚はないのだが。
 寧ろ、暁としては近藤の雑学的な英語知識の豊富さに敬意を抱いているくらいである。――どうも、彼は知識に妙な偏りがあるらしい。
 ――まあ、それはともかく。
 担任でもない彼が、朝から自分に一体何の用だろうかと暁は首を傾げる。
「私に何のご用ですか?」
 そう問えば、彼は精悍な容姿に似合いな爽やかな笑みで告げる。
「ここで話すのも何だからな。ちょっと付き合ってもらえるか。ホームルームまでにはすませるから。――すまんな、花村。ちょっと神代借りるぞー」
 そう言って、昇降口からすぐの職員室に引っ張り込まれ、片隅にある応接スペースのような場所まで連れて来られてしまった。
 すすめられるままに、近藤と対面となる形でソファに腰を下ろす。
「えっと……それで、お話って……?」
 結果的に職員室に呼ばれた形になり、内心「何かしてしまっただろうか」と不安を覚えつつそう問えば、近藤は答えの代わりに、ずずいとこちらに寄りつつ訊ねてきた。
「――神代、バスケ、好きか?」
 その妙に勢い込んだ様子と質問の意図がわからないことに目を白黒させつつ、暁は正直に答える。
「……バスケって、バスケットボールですか?――えっと、見るのもやるのも、わりと好きではありますけど……」
 バスケ、と言われて暁の頭に真っ先に頭に浮かんだのは、NBAの試合を楽しげに観賞する母の姿だった。
 スポーツ観賞は母の趣味であり、特に球技の類はよく好んで観戦する。幼少期から付き合っていた暁も、自然とそれを楽しむことを覚えていた。
 その流れでたいていの球技のルールは把握しているし、身体を動かすことは元々好きである。これまで体育の授業くらいしか機会がなかったが、逆に機会があれば楽しんでやれるくらいにはバスケを好いていた。
 そんな暁の返答に、近藤は満面に喜色を露わにして大きく頷いた。
「やっぱりか!うん、俺の目に狂いはなかった!」
 しばし一人で納得するように、うん、うん、と頷きを繰り返していたが、ややあって困惑した様子で首を傾げる暁に気づいたのか、我に返った風に詫びてきた。
「いや、すまんすまん!――いや、実はな、お前に男子バスケ部のマネージャーをしてもらえないかと思ってな」
「え、マネージャーですか?」
 意外な誘いに暁は目を瞬く。
「ああ。知っての通り、うちの学校は慢性的に教員が足りてない!そんなわけで、俺は男子バスケ部と男子サッカー部の顧問を兼任している」
 はきはきと歯切れのいい調子で近藤は事情を説明しだす。
「で、今年度になって、ある事情でサッカー部の方にだけマネージャーを入れることにしたんだが、それでバスケ部の方に不満が出てな。面と向かって言われたわけじゃないが、こないだバスケ部の部員が「何でサッカー部だけ」とか「不平等だよな」とか言っているのを俺はたまたま聞いてしまった!」
 精悍な笑みを引っ込めて、近藤はしかめ面を見せる。
「確かに、あいつらの言う通り、不平等はよくない!スポーツマンはフェアであるべきだ!――という訳で俺はバスケ部の方にもマネージャーを入れる必要性を覚えたという訳だ」
「な、なるほど……そうなんですか」
 言っている内容はともかく、その勢いに若干引きつつ、暁はとりあえず納得して頷いた。
「最初は普通に募集を出そうかとも思ったんだがな、そうすると今度は「サッカー部の方では募集がなかったのに」という別の不満が出そうな気がしてな。だから、バスケ部の方も俺直々に選抜することにしたんだ。――最初に思い浮かんだのは里中だったんだがな」
「え、千枝ですか?」
 友人の名前が出たことに思わず目を瞬く。
「ああ。あいつは男子とも仲が良くて、バスケ部員にも友達がいる。だが、あいつは自分がスポーツをやるならともかく、スポーツをやる人間のサポートには向いてない気がしてな。――で、その流れで、里中の友達で他人のフォローが巧いお前を思い出した、という訳だ!」
「は、はあ……」
 千枝に関しての評価には何となく納得しつつも、普段近藤をフォローしている自覚のない暁は、自身に関する評価に首を傾げ、曖昧に頷く。
「急な話だし、無理にとは言わん。引き受けてもらった場合も、せいぜい週に一回くらい顔を出して、道具の手入れとか部室の掃除とかしてくれれば十分だ。元々マネージャーなんか必要ない弱小部だからな!」
「い、いいんですか、それで……?」
 暁の戸惑いの言葉は、マネージャーの仕事についてより、『弱小部』と爽やかに言い切ってしまう近藤のスタンスへ主に向けられていた。――そこから脱却しようという意思がまるで感じられなかったからだ。
 しかし、そのことが逆に暁の気持ちを動かした。――些細ではあっても自分が雑用を引き受けることで、その分部員たちが練習に集中でき、結果的に部の実力向上に多少なりとも繋がるのでは、と。
 今は“放り込み犯”の捜査や、もし次の犯行もあるならその“被害者”の救出が最優先事項になるが――今近藤が言った内容程度のことなら、そのあたりに支障なくこなせる気がした。
 元々、暁は困っている人に気づいたら見過ごせない性格である。どうしても出来ないことならともかく、出来ることなら手伝いたいと思ってしまうのだ。――そういう意味では、頼まれた時点で答えは決まっていたのかもしれなかった。
「――わかりました。私でよければ、やらせていただきます」
 こうして、暁は男子バスケ部のマネージャーになることとなったのである。

 * * *

 ――マジかったるい。

 その時の海老原あいの心境を表すなら、その一言で事足りた。
 休み明けの月曜にだるくてサボった、その翌日。二時限目から登校したら、いきなり昨年度の担任だった教師に生徒指導室まで引っ張られた。
 やたら暑苦しいテンションの男性教師の説教を聞き流しながら、あいは膝の上に置いた手に視線を落とす。
(ちょっと授業サボっただけでガミガミガミガミうるさいっつのよ)
 教師から見れば殊勝に反省して項垂れているように見えるかもしれないが、単に机の影でこっそりと指先のマニキュアをチェックしているだけである。
(……ポーズだけ見て、それで判断してるんだから、ホント教師ってバカだよね)
 いや、教師だけに限ったことじゃないか――そんな風にあいは思う。
 クラスメイトや、あいの方からは名前も知らないような生徒たちも、あいの表面的なイメージだけを見て、あいのことを判断する。
 ゆるかわウェーブの亜麻色の髪に、小悪魔系のメイク。制服の襟元から覗くハイネックのピンクのインナー。見事なく脚線美を包む白のタイツ。自信に満ちた“我が儘”な言動。
 ――いかにも今時の“小悪魔系”女子。
 最初は自分で望んで創り出したはずのその“イメージ”――だが、今や自分の手を離れて勝手に独り歩きしている感がある。
(なーにが、『幾らで付き合ってくれるの?』よ。ふざけんじゃないわよ、そんなことしなくても遊ぶお金は有り余ってるっつの)
 先日いきなり声をかけてきた見知らぬ男子の言葉を思い出して、げんなりとする。
 あいの親は所謂“成金”だ。遊ぶ金なら、親が作ってくれたゴールドカードで事足りる。
 自分の外見だけにつられてほいほい寄ってくるような軽い男どもに、自分を売ってやる気なんてさらさらないというのに。
(……“小悪魔系”ってのがいけなかったのかなぁ。でも、負けん気強い性格は元からだし、あたしには“天然系”な可愛さとかはまず無理だもんなー)
 それに、既に確立されてしまった“イメージ”を今更変えるのは相当骨だろう。
(あー、もう、どうすりゃいいのかなー。勘違いしたバカ男どもあしらうのも面倒くさいし、今更イメチェンするのも面倒くさい……)

 ――ホンット、世の中面倒くさい。

 そんなことを考えていて、教師の話を全く聞いていなかったのがいけなかった。

「――と、いう訳で、お前には俺が顧問をしているサッカーのマネージャーをやってもらうぞ!」
「あー、はいはい、わかりました――って……はぁ!?」
 反射的に教師の言葉に頷いてから、告げられた内容に気付いて目が点になる。
「――なにそれ、冗談じゃない!絶対ごめんよ!」
「ほーぉ?そんなこといっていいのかー?お前、本当だったら進級できてなかったんだぞ。それを俺がこの条件で庇ってやったんだ。――今からでも一年生やり直すか?ん?」
 ――なにそれそんなの聞いてない。
 確かに、よく昨年度の単位と出席日数で進級できたものだと自分でも思ったが――そんな裏があったなんて全然知らなかった。
 既に“対価”が支払われてしまっている現状では、あいには拒否権なんて無いに等しい。――最初から留年しているならまだしも、途中から学年下がるとか格好悪いにもほどがある。絶対ごめんだ。
 言葉もなく唇を噛むあいの様子を了承と勝手に受け取って、教師は話を締めくくった。
「まあ、そういう訳だから、明日の放課後、職員室まで来るように!」
 ――そんな風に勝手に話をまとめられてしまったのが昨日のこと。
 正直すっぽかしたい気持ちでいっぱいだが、ここで逃げたら後々もっと面倒くさいことになる。
 幸いなことに、件の教師――近藤は体育と英語の教科を兼任し、部活でもサッカー部とバスケ部の顧問を兼ねている多忙な男だ。毎度毎度サッカー部の活動に顔を出すわけもないだろうから、うまくやればどうとでもサボれるだろう。
 そんな風に割り切って、放課後に職員室を訪れたあいは、彼の席を見やって目を瞬いた。
 まだ戻ってきていないのか、近藤は席におらず、代わりにその脇に佇む女子生徒の姿が目に留まったのだ。
(――あれ、転校生じゃん)
 今学期の頭に隣のクラスへ転入してきた女子だ。名前までは覚えていないが、やたら目を引く容姿なので見間違い様がない。
 ハーフだかクォーターだかで、髪は綺麗なアッシュグレイ、瞳は深い青色。肌の色にいたっては、『透けるような白皙』という表現はこのためにあるのだろうと思うほどだ。顔立ちもよくできたアンティーク人形のように整っているし、スタイルも文句のつけようがない。
 しかし、それだけ容姿が整っているというのに、本人には洒落っ気がないらしく、髪はおさげ、身につけるのは何の改造もされていない制服と、学校指定の紺の靴下。アクセサリーの一つをつけるでもない。
(……そんだけ元がいいんだから、もっと磨きなさいよ!)
 血を吐くような努力の末に現在の容姿を手に入れたあいとしては、そう叫びたくなる。
 確かに品のいい容姿だから、ごてごてとアクセをつけたりメイクをしたりするのはかえってマイナスかもしれない。紺の靴下も白い肌に映えているから、まだ合格ラインだ。しかし――
(――あのダサいおさげだけは絶対却下!)
 ただ下ろすだけでも見違えるだろうし、サイドの髪を頭の後ろで洒落たバレッタか何かでまとめれば、上品な彼女の魅力をグッと引き上げることができるだろうに。
 ついそんな風に、宝の持ち腐れをしている彼女を親の仇のように睨んでいたら、その視線に気づかれたのだろう。彼女がこちらを振り向いた。
「――あ、サッカー部マネージャーの海老原さんですか?」
 にこり、と屈託なく向けられる笑み。――その品のある柔和な微笑みだけで、落ちる男は星の数だろう。
 同性の場合でも、これだけで心を開く人間も多いはずだ。――そうじゃない場合は、嫉妬まじりの敵愾心を抱くだろうが。
 けれど、彼女自身は自分の笑みにそんな影響力があることなど欠片も気づいていない。当然だ、彼女にとってはこれが自然体なのだろうから。
(……これが“天然系”の魅力ってやつ?)
 なるほど、この破壊力は後付けで身につけられるものではない。天賦の才だ。
 この笑顔とセットになると、ダサいおさげですら純朴さを醸し出す魅力要素となるのだから恐れ入る。
「……そうだけど。あんたは?」
 しかし、そんな内心の感嘆などおくびにも出さず、そちらに歩み寄ってつっけんどんに訊ね返す。
 彼女は自分のそんな態度など気にした風もなく、自分が至らなかったとばかりに目を見開いて慌てたように名乗った。
「あ、ごめんなさい。私、二組の神代暁です。海老原さんと同じく、近藤先生が顧問をなさっている運動部のマネージャーをやることになりました」
 私は海老原さんと違ってバスケ部なんですけど、と付け加えられる。
 神代暁、そうだ、そんな名前だった――そう思ってから、その後に続いた言葉に思わずあいの眉が寄った。
「……あんたも、マネージャーやるの?……なんで?」
 意識しないうちに、ぽろりとそんな言葉が零れていた。
 どう見たって彼女は優等生だ。外見だけじゃなく、交わした言葉からもその素行の良さがよくわかる。何をどう間違っても、あいのように何らかのペナルティでマネージャーをやらされなきゃいけないような人種じゃない。
 しかし、暁から返って来た返答は単純明快なものだった。
「近藤先生に頼まれたので」
 なんでも、近藤がサッカー部にマネージャーを入れるという話がバスケ部の方にも伝わり、そこから『サッカー部だけズルい』という不平が出たのだという。
 それであの熱血教師は『確かに不平等はよくないな!』とバスケ部の方にもマネージャーを入れることにしたらしい。
 しかし、そこで浮かぶ新たな疑問。
「……なんであんたなの?」
「え?――それは私にもよく……フォローに向いてそうだから、みたいなことを近藤先生はおっしゃっていましたけど」
 当然浮かんだあいの疑問に、暁も首を傾げる。
(そんな適当な理由でOKしちゃったわけ?……どんだけお人好しよ)
 しかし、これで理由ははっきりした。近藤が彼女に声をかけたのはこのお人好し具合を見込んでのものだろう。
(っていうか、これって逆にサッカー部に対して不平等じゃない?)
 片やサボリ常習犯の問題児、片や絵に描いたような優等生。どっちも同じくらい美人なら、面倒見のいい方にマネージャーをしてもらいたいに違いない。――まあ、それでサッカー部を哀れに思って真面目にマネージャーをしてやる気はさらさらないが。
「いやー、ソーリーソーリー!部員を捕まえるのに時間がかかってしまった!」
 と、そこに暑っ苦しい近藤の声が背後からかかって、暁と二人での会話はそこで終わってしまった。
 自分に何の先入観もなく接してくれた彼女との会話――それが終わってしまったのをほんの少し残念に思ったことは、気のせいだと思うことにした。

(――どうせ、これっきりの縁なんだから)

 優等生の彼女と問題児の自分とじゃ、接点などないに等しい。同じマネージャー同士とはいっても、所属する部活が違うのだし。
 なにより――彼女のような天然真珠の隣に並んだら、所詮安い人工ダイヤでしかない自分がみじめになるだけだろうから――

 * * *

「サッカー部もバスケ部も活動日は火・木・土で、水曜の今日は本来なら休みなんだが、明日からでも仕事ができるよう、今日のうちにマネージャーの仕事を教えておこうと思ってな!」
 そんな風に告げる近藤の脇に立つのは、二人の男子。
 一人は、中性的に整った面立ちを持つ、やや小柄めの男子。人懐っこそうな笑みを浮かべている。
 一人は、精悍な印象の面立ちを持つ、ジャージ姿の男子。絆創膏を貼った鼻に、不機嫌そうに皺を寄せている。
「ども!バスケ部の一条康です!あ、ちなみにタメなんで、敬語とかなしの方向で!」
「……長瀬大輔。サッカー部」
 人懐っこい笑みと不機嫌そうな表情のままに、挨拶を告げる二人。
 二人の自己紹介に満足そうに頷いて、近藤は告げる。
「部活のない日だからどっちの部員もさっさと帰ってしまっていてな!何とかこの二人だけ捕まえられた!マネージャーの仕事については彼らに訊いて覚えてくれ!」
 じゃ、これから職員会議だから!と早々に職員室から放り出されてしまい、暁は思わず他の三人の顔を見回してしまった。
「……なんだこれ」
「近藤先生、フリーダムだなー……」
 長瀬は余計に不機嫌そうな表情になり、一条は諦めたような笑みを浮かべて頭を掻く。
 あいは一つため息をつくと、一言。
「――帰る」
「え!?ちょ、海老原さん!?」
 言うなり踵を返したあいを一条が慌てて呼び止めるが、彼女は振り向きさえせず、
「あたし、最初っから真面目にマネージャーやる気なんかないし。やらなきゃ進級ヤバいから引き受けただけだもん」
 そういう訳だから、じゃあね、と告げて、さっさと昇降口の方へと歩き去って行ってしまった。
 それを呆気にとられて見送った三人の中で、最初に我に返ったのは長瀬だった。
「……馬鹿馬鹿し。俺も帰る」
「ちょ、お前もかよッ!?」
 裏切るのか!とでも言いそうな勢いで声を上げる一条に、長瀬は鬱陶しそうな調子で、
「教える相手がいないんじゃ残っても意味ねぇだろ。――あんたもどうせ、近藤に無理やり頼まれただけなんだろ?帰れば?そうすりゃ一条も帰れるし」
「――ふぇっ!?」
 いきなりそこで話を振られ、暁は慌てて変な声を出してしまった。
「――え、いえ、あの、その、確かに近藤先生に頼まれて引き受けたんですけど、お仕事があるならきちんとやりたいと……」
 思う――のだが、本来の活動日でもないのに一条を引きとめてまで仕事を教わるのも気が引ける。
 そんな思いで声は尻すぼみになり、顔も徐々に俯いていく。
「……なーがーせー!お前、もうちょっと言い様があるだろ!神代さん怯えちゃってるじゃんか!」
「あ?……べ、別にそんなつもりじゃ……」
 と、何やらそのリアクションを勘違いされたらしく、一条が長瀬を咎め、長瀬もやや焦った風な声を漏らした。
「あ、いえ、あの、すみません、そういう訳じゃなく……単に、活動日じゃないのに引き留めるのも悪いと思って……」
「あ、そうなの?――いや、そんなん気にしなくっていいって!神代さんのおかげで当番制だった雑用から解放されるんだから、今日だけちょっと時間取られるくらいどうってことないって!」
 暁が慌てて首を振れば、一条は安堵したような顔でそう請け負う。
「……そう考えると羨ましいな、バスケ部」
「だろー?――つーわけで、俺は神代さんに仕事教えてくけど、お前はどうするよ?」
 ぼそりと呟いた長瀬に、一条がニシシと笑ってから首を傾げる。
 長瀬はちらりと暁を見やってから、微妙に困惑気味な表情を浮かべて、しばし考えるように沈黙した後、
「あー……悪いけど、先帰るわ」
「――ん、わかった。愛屋はまた今度なー」
 一条が笑って頷くのを見てから、踵を返してあいのように昇降口へと向かって行った。
「あの……すみません。約束、あったんですよね?」
 別れ際に交わした会話から悟って暁が謝れば、一条はぶんぶんと頭を振る。
「いや、いつも行ってる飯屋に今日も寄ろうって言ってただけだし、別に特別な用事とかじゃないから気にしないでいいって!――寧ろ、こっちのがごめんなー」
 苦笑気味に告げられた謝罪の意味がわからず暁がきょとんとすれば、一条は苦い笑みのまま言い添えた。
「長瀬、態度悪かったろ?ごめんな、悪い奴じゃなんだけど……気を悪くしないでやって」
「いえ、そんなこと」
 今度は暁の方が慌てて首を振る。――確かに、彼はあまり愛想のある態度ではなかったけれど、不器用な叔父と似通ったところのある言動に、悪い印象は覚えなかった。
「そっか、それならよかった。――あいつ、男相手だともうちょっと明るいっつーか、むしろ馬鹿丸出しなんだけど、女子の前だと緊張するのかああなっちまうんだよなー」
 照れ屋なんだってことで許してやって、と笑う一条の言葉に、暁も笑って頷いた。
「はい、わかりました」
「――タンマ。それ、なし」
 ぴっ、と指を突きつけられて、暁は目を瞬く。
「最初に言ったっしょ?タメなんだから敬語なし!……いや、どうしてもその方が話しやすいならそれでもいいけどさ」
「――あ、ごめんね。初めて会った人には、つい癖で敬語になっちゃって」
 ちょっとさみしそうに告げられて、暁は無意識に敬語で話していた自分に気づいて慌てて言葉遣いを変えた。
 一条は「謝るほどのことじゃないって」と笑う。
「――一条君と長瀬君、部活違うけど仲良いんだね。同じクラスなの?」
 気安い仲だと傍目にもよくわかるような二人のやり取りを思い返してふと呟けば、一条は苦笑と言うには明るい笑い方をした。
「いや、俺は一組で、あいつは三組。ただ、小学校の頃からの腐れ縁でさ。あいつホンットバカだから、ほっとけないんだよねー」
 こき下ろすような言葉とは裏腹に、その声は明るい。変に言葉を飾る必要などないほど、仲がいいのだろう。
「――ま、これからよろしく。部活が違うし、会うこともあんまないかもしれないけど、良ければあいつとも仲良くしてやって」
 にぱっと破顔して告げられた言葉を呼び水に、脳裏に響く声ならぬ『声』。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、“剛毅”のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん≫

 ――脳裏に思い浮かぶ、帽子を被った女性と獅子が描かれたカード。

 そのカードが結んだ絆は、目の前の一条一人とではなく、彼を介して長瀬とも結ばれたものだと知れた。

「――はい、こちらこそ、よろしくお願いしますね」

 きっと長いものになるだろうその縁を噛みしめるように、暁も笑ってそう答えた。

 * * *

「やっほー、雪子。具合、どう?」
 足立と堂島、そして医師と看護婦が雪子の病室から立ち去ってしばらく後、授業を終えたらしい千枝がお見舞いに来てくれた。
 暁と陽介はそれぞれ用事があるらしく、『行けなくてごめん』という伝言を聞かされたが、そもそも雪子は気にしていなかった。――あの不可思議で危険な世界にまで助けに来てくれた時点で、彼らの誠意は疑うまでもないのだ。
 あの不可思議な空間から救出されてから一晩。まだ大分だるさは残っているものの、こうやって話す分には問題ないほどに回復していた。
 そのことを確認したからか、千枝は安堵と喜びを噛みしめるような表情を浮かべている。――心底自分のことを思いやってくれる親友の存在に、雪子の心は温かくなった。
 千枝が来るまでは母もいたが、雪子から頼んで席を外してもらった。なので、今は気兼ねなく親友と二人きりだ。――これで、昨日まで雪子が閉じ込められていた“あの世界”について話すことができる。
 千枝がお見舞いに持ってきてくれた一房のバナナ――多分、果物の皮むきスキルがないことを自覚した上でのチョイスだろう。それを手に取って房から一本千切り、親友に差し出す。
「――はい、千枝も食べてって。私一人じゃ食べきれないし」
「あ、いいの?ごめんねー、お見舞いなのに」
 へへ、と少しばつが悪そうに笑いながらも受け取って、千枝は皮を剥き始める。それを見届けてから、雪子は房から自分の分を千切った。
 そうして、昨日から訊きたかった質問を千枝に投げる。
「ねぇ、千枝。昨日まで私がいたあの場所とか、皆が使ってた不思議な力とかって何だったの?昨日、足立さんにも訊いたんだけど、私の具合を気遣ってか、落ち着いてから千枝とかに訊けって言われちゃって」
「……それ、多分面倒くさくて丸投げたんだと思う」
 どこか呆れたような半眼で千枝はそう答えた。意外な言葉に雪子は目を瞬く。
「え……そうなの?」
「うん。足立さん、普段は優しいけど、結構黒いとこもあるもん。言えばあっさり認めるから、自覚して使い分けてるって感じだけどね。――その分、怒ると本気で怖いけど……」
「……そ、そうなんだ……」
 何を思い出したのか、最後は若干蒼褪めた顔で呟かれる。引き攣った声で相槌を打ちつつ、彼を怒らせないよう気を付けようと心に刻む。
 それから、気を取り直した千枝に“あちら”についてのこと――シャドウやペルソナ、町で起こっている事件との関わりについてなどを説明してもらった。
「――そっか……そういうことだったんだ。……でも、すごいね、みんな。特に足立さん」
「へ?いきなり何?」
 聴き終えた後、思わず零れた感想にぱちくりと目を叩く千枝。
 その仕草に思わず微笑みつつ、雪子は言葉を補足した。
「シャドウがそもそも出なかった暁もすごいけど、何の予備知識もない状態でシャドウと対面して、拒絶しなかった足立さんはもっとすごいなぁって。――聞いた感じだと、千枝も花村君も、前提知識があったからこそ、拒絶しないで済んだ部分があるみたいだし」
 足立本人も見ていた暁も語らないそうなので、彼のシャドウがどんなものであったかはわからないが、どういったものであったにせよ“受け入れられない自分シャドウ”に否定の言葉を投げなかったというのはすごいことだと思う。
「あー、いわれてみれば……うーん、ちょっと足立さんのこと見直したかも」
 むむむ、と唸りながら真面目くさって千枝は頷く。その仕草が可笑しくて、雪子は思わず吹き出した。
「――ちょ、何いきなり!?今のどこにツボが!?」
「ご、ごめぇんっ……だって、『むむむ』って……ぶふっ……あははははっ!」
「……あー、もう……こうなるとどうしようもないんだから……」
 やれやれと頭を振る親友の前で、雪子はお腹を抱えて笑い転げる。――自分が一度笑い出すとなかなか治まらない笑い上戸であることを知っているのは、彼女だけだ。
 別段、隠しているわけじゃない。でも、親友以外の人間がいる前では、どうにも笑えなくて――結果的に、自分と彼女だけの秘密のような形になってしまって。

 ああ、そうか――と、不意に悟る。

(――私は、ずっと自分から殻にこもってたんだ)

 親友だけに寄りかかって、それ以外のものを全て自分の世界から排除していた。――家業への嫌気から、家族のことすらまともに見てこなかった。――拒絶して、隙を見せないようにしていた。

 ――「ただの跡継ぎとしか見てないんなら、外聞気にして警察に失踪届なんか出さねぇよ」

 思わず、と言った風にその言葉を投げた足立の気持ちがわかった気がする。――見ようともしないで、端から親の心配をはねつけた自分の態度は、決してほめられたものではなかった。

 ――「自分の気持ちを察して欲しいなら、自分からも相手の気持ちを察する努力をしないと」

 その言葉が、やっとすとんと胸に落ちて受け入れられた。

 ――自分から壁を作っておいて、わかってもらえないと喚くなど、自分勝手にもほどがある。

(――まずは、確かめよう)

 自分と親の間には、『家業』という繋がりしかない――そんな思い込みを、捨てるところから始めよう。

 ――新しい自分を始めるために。


――――――――――――――
2012.4.22
長瀬のクラスについて間違いがあったため、一条のセリフ一部修正。



[29302] 15章.吉凶は揺れる天秤の如し
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/01/22 00:08
 四月最後の金曜日は、『昭和の日』という祝日で、学校は休みだった。
 残念ながら二日前から降り続く雨は止まなかったけれど、菜々子にとっては楽しい休日になった。
「あのね、菜々子ちゃん。友達にあげるお菓子をこれから作ろうと思うんだけど、菜々子ちゃんも手伝ってくれる?」
「――菜々子もいっしょに作っていいの!?」
 もちろん、と頷く従姉と共に、昼間はカップケーキを作ることになった。
 菜々子にとっては生まれて初めてのお菓子作りだったけれど、とても楽しかった。――従姉も誰かと一緒にお菓子を作るのは久しぶりだったそうで、いつもよりももっとにこにこしていた。
 けれど、楽しすぎて、二人して張り切りすぎてしまったらしい。気が付けば、従姉と菜々子の友達全員に配ってもまだ余るくらいの数になってしまっていたのだ。
 思わず従姉と二人、顔を見合わせる。――困惑に眉を垂らしながらも、口元は可笑しさで笑ってしまって。
 同じ気持ちだったらしい従姉と同時に吹き出してしまい、ひとしきり笑い転げてしまった。
 二人でおやつとして幾つか食べたものの、それでもまだたくさん余っていて。二人で話し合って、「ご近所さんにもお裾分けしよう」ということになった。
 ご近所さんたちは皆笑顔で受け取ってくれて、中には『お礼に』と逆に煮物をお裾分けしてくれたお家もあった。――その煮物に合わせて、今夜の晩御飯は和食に決まる。
 そして、その煮物が食卓に並んだ晩御飯には、やっぱり父が足立を連れて来た。
 十日ぶりに四人で囲う食卓は賑やかで楽しく、食後の団欒もデザート代わりに出したカップケーキの出来で盛り上がる。
 足立も言葉を尽くして絶賛してくれたが、それ以上に「美味いぞ。甘すぎなくて、俺にも食える。見た目もよく出来てるしな」と不器用に褒めてくれた父の言葉が、菜々子には嬉しかった。
 嬉しいことが積み重なって、菜々子の気持ちはどんどん浮上していく。
『ジュネスは、今年もゴールデンウィークは休まず営業!来て、見て、触れてください!』
「――エヴリディ・ヤングライフ・ジュネス!」
 いつものようにテレビから流れてきたCMに合わせて口ずさんだ声も、自然と弾んだものになった。
「ゴールデンウィーク、エイギョウしてるって!」
 浮かれた気持ちの勢いも手伝い、従姉が家に始めてきた日のようにみんなでまたジュネスに行きたいと思って告げれば、父が声を上げて笑う。
「はは、わかったわかった。連休、どっか行きたいのか?」
「――どこか行けるの!?」
 連休にお出かけ、という嬉しい返事に、菜々子の声は自然と跳ね上がった。
「――暁、お前、予定空いてるか?」
「あ、はい。大丈夫です」
 父の問いに、従姉が笑顔で頷いたのを見て、菜々子は思わずはしゃいだ声を上げてしまった。
「……みんなでおでかけ?――やったぁ!」
「良かったね、菜々子ちゃん。家族でお出かけかぁ、楽しんでおいでね」
 そこに、にこにこと楽しそうに笑った足立がそう声をかけて来て、菜々子はついこんな言葉を返してしまった。
「アダチさんもいっしょに行こうよ!みんないっしょの方が楽しいよ!」
 言ってから――しまった、と菜々子は慌てて口元を抑えた。
(――こんなワガママを言っちゃいけないのに)
 菜々子は、足立のことが好きだ。明るくて、楽しくて、面白い人だと思う。時々ふざけ過ぎて父に怒られてしまうこともあるけれど、そういうところも含めて、すごく近くに感じられる大人の人だった。
 何より、彼が居るだけで、家の中は普段の何倍も賑やかになる。
 父はあまりお喋りな人ではないから、家に居てもあまり話してくれない。菜々子自身も、自分から話すのはあまり得意ではない。けれど、足立はそんな父や菜々子から話を巧く引き出してくれる。何気ない彼の一言で、魔法のように言葉がすらすら出てくるようになる。
 だから、菜々子は足立のことが大好きなのだ。

 ――お姉ちゃんみたいに一緒に住んでくれればいいのに。

 ――菜々子のお兄ちゃんになってくれればいいのに。

 時々そんなわがままを思い浮かべてしまうくらいに。

 けれど、いくら菜々子が足立を兄のように慕っていても、彼は菜々子の兄ではないのだ。――お客さんにこんなことを言ったら困らせてしまう。
 案の定、足立はひどく驚いた風に目を見開いて固まってしまった。申し訳ない気持ちになって、菜々子は思わず項垂れる。
「ご、ごめんなさい……ワガママ言って……」
「――え!?……ち、違うよ!?すごく嬉しいよ!ただ、びっくりしちゃっただけ!」
 慌てたような足立の声に顔を上げれば、目が合った先で彼が微笑わらう。
「……ありがとう、菜々子ちゃん。――誘ってくれて、本当に嬉しいよ」
 その優しい笑顔の中に迷惑そうな色は欠片も見えず、菜々子はほっとして、強張っていた顔に笑みを取り戻した。
「じゃあ、アダチさんもいっしょに来てくれる?」
「もちろん!――って、言いたいところなんだけど……ごめん、無理そう」
 菜々子の問いに、しかし足立はがくりと肩を落とす。
 今町で起きている事件が解決しないかぎり、父と足立が同じ日に休むのはおそらく無理だと言う。
 それはとても残念で、菜々子はつい沈み込みそうになったが、次の足立の一言で気持ちを切り替えることにした。
「一緒に行けない分、お土産話、楽しみにしてるよ。いっぱい楽しんで、あとでいっぱい面白い話を聴かせてね」
 それからは、どこに行くかの話で盛り上がりかけたが、つい零れたあくびのせいで、父に「もうお風呂に入って、寝る準備をしなさい」と言われてしまった。
 その言葉に足立が時計を確認し、「あ、もうこんな時間?」と慌てたように席を立つ。
「すみません、僕、そろそろお暇しますね。――晩御飯、ご馳走様でした」
 そう言って足立が帰えるのを見送ってから、従姉と一緒にお風呂に向かう。――自然、お風呂での話題も連休でのお出かけについてになった。
 入浴を終えてパジャマに着替え、ベッドに入っても、菜々子の頭の中はお出かけのことでいっぱいで。
(――はやく、連休になればいいのに)
 そんなわくわくした気持ちと共に、菜々子の四月最後の祝日は幕を閉じた。

 * * *

 ――警察官にとって、祝日は休暇を意味するものではなく、寧ろ仕事が増化する日だ。
 昭和天皇の誕生日を記念した祝日。雨が降りしきる中、堂島と共に交通課の応援として交通整理をやらされた足立は、げんなりとそんなことを思う。
 昼に応援のシフトを終え、署内の自分のデスクに戻ると、思わず突っ伏しそうになる身体を叱咤して、積んであった資料を開く。
 警察の調べたアリバイには山野の遺体が吊るされた時間など、実際に犯人が使った手口では意味のないものも含まれている。ここ数日、足立はその辺りを省いて整理し直していたのだ。
 しかし、事件関係者の数が多く、思いのほか作業は難航していた。
 一連の事件が山野殺害に端を発しているなら、彼女の失踪当時、現場となった天城屋旅館に出入りできた人間の殆どが容疑者になってしまうためだ。これは、山野が不特定多数の人間に認知される職種についていた弊害だ。――たまたま同じ宿に泊まり合わせただけの客に彼女のファンがいて、彼女の不倫に逆上して殺害した可能性も否定できないのである。
(……でも、殆ど片付いた。このぺースなら、何とか今日中に終わりそうだよね)
 そんな風に思った足立の耳に、気になる同僚の言葉が届いた。
「――あれ?堂島さん、それ、手作り弁当ですか?」
 眉を寄せながら顔を上げ、堂島の席の方へ視線を向ける。
 自身のデスクに着いた堂島と、その脇に立った同僚の姿。足立と同じように席に戻った堂島が、暁手製の弁当を鞄から取り出したところらしかった。
 堂島のその行動は足立にとってはもはや見慣れたもので、同僚の言葉に対して『何を今更』と訝しげな思いが浮かぶ。
 しかし、よくよく思い返せば、暁が堂島家に来たのと、山野真由美の事件が起きたのはほぼ同時期。それ以降、堂島も足立も昼間は殆ど外回りばかりで、今まで署の自分のデスクで弁当を広げたことがないと、今更ながら気が付いた。
 つまり、同僚たちが暁の作った弁当を目にする機会は、今までなかったわけだ。
「ああ、まあな」
 自身の問いに頷いた堂島を見て、足立と同世代の若い同僚は浮かれたような声を上げる。
「おお、羨ましい!一体誰に作ってもらったんですか?もしかして、いつぞやのひったくりの女性ひと?」
(――は?……ひったくり?)
 覚えのないワードに、足立は思わず片眉を跳ね上げる。堂島も何の話か分からなかったようで、訝しげに眉を寄せた。
 堂島の表情を見た同僚が、じれったそうに言葉を重ねる。
「何ていったっけ……名前出てこないけど、ほら、去年の暮れに堂島さんがひったくりから助けてあげた女性ですよ!しばらく署の方にも差し入れ持ってきてくれた!家も近所で、それを期にちょこちょこお惣菜のお裾分けとかもらうようになったって言ってたじゃないですか!」
「――ああ、いなえさんのことか?……確かにたまに惣菜なんかは分けてくれるが、さすがに弁当はないだろ。どっからそういう発想が出てくるんだ」
 堂島が呆れた声を上げる。――覚えのないその名前に、足立は少し疎外感を覚えた。
(……そういや、まだ一か月なんだよな)
 この町に来てから――堂島達と出会ってから、まだ一か月。
 この土地で得た出会いによって“救われた”足立にとって、この一か月はこれまでの二十七年よりも濃いものだが、純粋な日数としてはごくごく短いものでしかない。
 共有する思い出はまだ少なく、互いの過去を知り合うにも日が浅い。堂島達の過去に対して、足立はどうしようもなく“不参加”で――それが少し寂しいと思ってしまった。
(……まあ、こればっかりはどうしようもないしね……)
 過去は今更変えられない。ならば、変えてゆけるこれからを大事にしていくべきだ。
 そう思いつつ、席を立って堂島の方へ歩み寄る。
「堂島さ~ん!今日のお弁当、何ですか~?」
 事情を知らない同僚へ殊更自慢するかのように、声が弾んだのはしょうがない。――自分の知らない堂島の過去話をひけらかされたお返しだ。狭量だと言われようが知ったことか。気に入らないものは気に入らないのだ。
 いそいそと両手を差し出した足立に、堂島は苦笑を浮かべて鞄からもう一つの弁当包みを取り出す。
「それは開けてのお楽しみだな。――暁に感謝して食えよ」
「もっちろんです!米粒一つまで大事に食べさせて頂きます!」
 ははー、と大仰に頭を下げつつ受け取る。――暁への感謝の気持ちを表すにはこれでも足りないくらいだが、これ以上やったらドン引かれるのが目に見えているので、これくらいのパフォーマンスに留めておく。
 そのやり取りに混乱した様子で、同僚が声を上げた。
「え?なんで堂島さんが足立さんの分の弁当まで?……アキラって誰ですか?」
「ああ、今月から家で預かることになった俺の姪だよ。高校生なんだが、人の好い娘でな。――こっち来た日に足立を俺の相棒だと紹介したら、一人暮らしのこいつを気遣って、俺の分のついでにと弁当まで拵えてやってるんだよ」
「もう、今時珍しいくらい良い子ですよね~、暁ちゃん」
 堂島の説明に合わせ、足立はお世辞ゼロで暁への賞賛を紡ぐ。
 セクハラの後、暁からのそっけないメールに冷や冷やしたが、堂島を介して渡された弁当は以前と変わらず心がこもっているのがよくわかるもので、そのことに胸をなで下ろしたものだ。――心底軽蔑されたなら、そもそももう弁当も作ってもらえなかっただろうし。
 今ではメールも通常運転に戻っており、『本当に赦してもらえたのだ』という実感を噛みしめる日々だ。
「うっわ、いいなぁ~……頼んだら、俺の分も作ってくれないですかね。俺も一人暮らしですし~」
「……本人は了承するかもしれんが、俺が許さん。これ以上、あいつの負担を増やしてたまるか」
 同僚の言葉に、『いいですよ』と笑顔で引き受ける暁の姿を思い浮かべたのだろう。堂島は憮然と呻くような調子でそう答える。
 顔にも態度にも出さないまま、足立は内心で堂島の答えにガッツポーズをとる。
(――『暁ちゃん手製弁当』の希少価値は守られた!)
 ついでに、この同僚が暁との接点を得ずに済んだことにも安堵する。――スペックでこの男に劣るつもりはないが、彼女に近づく男は少なければ少ないほどいい。ただでさえハンディな恋路だというのに、これ以上悪条件増えてたまるか。
「ちぇ~っ、さすがにダメかぁ。――弁当作ってくれる人もいない寂しい俺は、出来合い弁当買いに行きますよ~だ」
 拗ねた声を上げつつ去って行った同僚の姿を見送ってから、堂島はこちらを振り返る。
「お前も今日早上がりだろ。晩飯食いに来るか?」
「いいんですか!?――もちろん行きますっ!」
 堂島の言葉に思わず声のトーンが跳ね上がった。――“やらかして”しまってから十日。暁本人よりも保護者の堂島の方が足立のセクハラ行為を気にして、もう招いてくれないのでは、と密かに危惧していたのだが、幸いなことにそういうことにはならなかったようである。
「……ただし、飲み過ぎるなよ」
 ぼそりと付け足された堂島の言葉。――やっぱり少しは根に持たれているらしい。
 だが、あの過ちを引きずっているのは足立も同様である。拳を握って力強く頷いた。
「はい、誓います!――っていうか、僕もういっそ禁酒しますッ!」
 別にそこまで酒が好きなわけでもないし、暁たちに迷惑をかけるリスクを負ってまで飲みたいとは思わない。
「……い、いや、そこまでしなくても……俺に付き合うくらいは飲んでくれ……」
 足立の決意を重く感じたのか、それとも単に一人酒が嫌なのか、堂島はやや引いた様子でそう呟いた。
 それから、足立の顔を見て不意にふっと微笑わらうと、どこかしみじみとした調子で呟いた。
「――まあ、元気になったようで何よりだ」
 前は少し調子が悪そうだったが、と続けられた声は低く、足立に聞かせるつもりのない独白だったのだろう。
 堂島は、雪子の件で苛立っていた足立の変調に気づいていたようなので、そのことを気にしていてくれていたのかもしれない。
「――暁ちゃんのお弁当と、晩御飯の予約でやる気も元気も充電満タンですよ!ありがとうございます」
 己のことを気にかけてくれる存在に胸が温かくなるのを感じながら、不自然にならないつなぎで礼を告げた。
 その言葉を受けた堂島は一瞬軽く目を見開き、次いで少し意地の悪い表情で笑う。
「そうか。そりゃ良かった。――じゃあ、やる気ついでに午後はこの仕事も片付けておいてくれ」
「――え゛。」
 ぽんと弁当包みの上に重ねられた資料の束に、足立は思わず低く呻いて硬直する。
 ――おかげで午後は、増やされた仕事も定時までに仕上げなくてはいけなくなり、アリバイ整理の方はちっともすすめられなかった。


「――おかえりなさい、叔父さん、足立さん」
「おかえりなさい!」
 何とか定時までに仕事を片付けた足立は、堂島と共に暁と菜々子の出迎えを受けて。
「おう、ただいま」
「お邪魔しまーす」
 堂島と一緒に括られただけとはいえ、二人に『おかえりなさい』と迎えてもらえる喜びを噛みしめつつ、堂島に続いて返事を返した。
 と、十日ぶりに見た暁の姿に少し違和感を覚え――すぐにその正体に気づいた。
(――暁ちゃんがスカートじゃない)
 今日の暁は、ベージュを基調としたチェックのシャツと、淡い色のデニムパンツ姿だ。
 制服はもちろんスカートだし、暁は私服でもいつもロングスカート姿である。部屋着もワンピースタイプのものばかりで、いつか見たパジャマ姿を除けば、暁のパンツルックを見るのはこれが初めてだった。
(こういう格好も似合うなぁ。ちょっと活発な印象が加わって、生彩が増す感じ?)
 彼女の新鮮な格好に、にやけそうになる顔を足立は必死で押さえつける。――そのおかげで、このパンツルックが以前のセクハラ行為に影響されたものだと思い至らなかったのは幸いだったかもしれない。気づいていたら、多分、立ち直れなかった。
 今晩のメニューは、暁手製のサバの味噌煮とほうれん草の胡麻和え、水菜と油揚げの味噌汁。そして、菜々子が炊いた白米に、近所からのお裾分けだという里芋の煮物。
「やっぱり暁ちゃんのご飯は最高だね~!サバなんか骨まで軟らかくなってるし」
 一人暮らしの自宅で出来合い惣菜を突くのでは味わえない家庭の味を噛みしめて、足立は一辺の曇りもない気持ちで賞賛の言葉を綴る。
 一方、貰い物だという煮物は、可もなく不可もなく、という感じだった。見た目は綺麗なのだが、やや濃く感じる味付けで、薄味好きの暁はまず作らないだろうと思う味だ。何も言われずに手を付けていたら『これだけ出来合いのものを買ってきたのか?』と思っただろう。
 食後には、暁と菜々子が合作したというカップケーキをデザートとして頂いた。これまた大層美味しく、足立としては感心するばかりである。
「――エヴリディ・ヤングライフ・ジュネス!」
 と、テレビから流れてきたジュネスのCMに合わせ、菜々子が弾んだ声でメロディーを口ずさんだ。
 昼にやったカップケーキ作りがよほど楽しかったのか、それとも父と一緒の食卓が嬉しいのか、今日の菜々子はえらくご機嫌である。輝かんばかりの笑みを浮かべたその様はとても微笑ましい。
「ゴールデンウィーク、エイギョウしてるって!」
「はは、わかったわかった。連休、どっか行きたいのか?」
 菜々子の無邪気な言葉に、堂島が笑ってそんなことを告げる。菜々子の上機嫌につられてか、堂島も少し浮かれているようだった。
「――どこか行けるの!?」
 そんな父の返答は予想外で、よほど嬉しいものだったのだろう。菜々子の声が自然と跳ね上がる。
「――暁、お前、予定空いてるか?」
「あ、はい。大丈夫です」
 堂島の問いに暁が笑顔で頷けば、菜々子がはしゃいだ声を上げた。
「……みんなでおでかけ?――やったぁ!」
「良かったね、菜々子ちゃん。家族でお出かけかぁ、楽しんでおいでね」
 見ているだけでこちらまで幸せになるようなその姿に、満面の笑みで告げる。
 すると、菜々子はぱっとこちらを振り返り、笑顔で予想外の言葉を返してきた。

「アダチさんもいっしょに行こうよ!みんないっしょの方が楽しいよ!」

 ――一瞬、何を言われたのか理解できなかった。

 その意味を咀嚼できたのは、その言葉を告げた菜々子が、慌てた様子で自分の口を両手で押さえたのを見てからだ。

 今、彼女たちが話していたのは“家族でのお出かけ”についてで――そこに、“お客さん”である足立が加わることはできない。
 それは当たり前過ぎるほど当たり前のこと。――さすがに足立も、そこへ割り込むほど厚かましくはない。
 だが、菜々子は――その“家族”という“内輪”に、足立のことも含めていてくれたのだ。
 無意識に口走ってから、足立が“お客さん”だと思い出して慌てるほど、彼女は足立を近しい存在として認識してくれている。

 ――“家族”のように、想ってくれている。

(……やばい、泣きそう)

 こみ上げてきた感動に思わず足立の目が潤みそうになった時、菜々子が俯いて弱々しい声を紡いだ。
「ご、ごめんなさい……ワガママ言って……」
 どうやらこちらの硬直を、菜々子は『自身のワガママへの困惑』と取ったようだ。正反対の誤解に慌てて、首と両手を左右に振りながら否定の言葉を紡ぐ。
「――え!?……ち、違うよ!?すごく嬉しいよ!ただ、びっくりしちゃっただけ!」
 その言葉に菜々子が顔を上げ――その瞳を真っ直ぐに見つめ返しながら、優しい笑みを浮かべて告げた。
「……ありがとう、菜々子ちゃん。――誘ってくれて、本当に嬉しいよ」
 その言葉にほっとしたように、菜々子が明るい笑顔を取り戻す。
 光が溢れるようなその笑顔に呼応して、脳裏に響く声ならぬ『声』。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者との絆に、“正義”のペルソナを見出さん≫

『我が名はアシャ。汝が選ぶ道行きに、祝福を』

 翼とも後光とも見える光の紋様を背に負った、赤毛の少女。静謐さの中に慈愛を感じさせる笑みを浮かべて、言祝ぎを紡ぐ。

 新たに結ばれた絆に一瞬呆けた足立の意識を、無邪気な菜々子の声が引き戻した。
「じゃあ、アダチさんもいっしょに来てくれる?」
「もちろん!――って、言いたいところなんだけど……ごめん、無理そう」
 反射で感情のまま頷くも、すぐにそうもいかない現実を思い出して項垂れる。
 山野殺害を発端とした連続誘拐事件――この事件が解決しない限り、足立と堂島が同時に休暇を取るのはまず無理だろう。この調査と並行して他の日常的な事件を片付けている現状、ただでさえ人手が足りないのに、現場の刑事がいっぺんに二人も抜けたら完全に手が回らなくなる。
 足立が告げたどうにもならない理由を聞いて、菜々子が落ち込んだように項垂れる。自分のせいで菜々子がお出かけを楽しめないと言う事態は避けたくて、足立は慌ててフォローの言葉を添えた。
「一緒に行けない分、お土産話、楽しみにしてるよ。いっぱい楽しんで、あとでいっぱい面白い話を聴かせてね」
 そう告げれば、菜々子は気持ちを持ち直したように顔を上げ、「わかった!せいいっぱい楽しんで来るね!」とどこか気合のこもった声で宣言した。
 なんかちょっと違う、と思ったが、とりあえず菜々子が元気になったのでよしとして、出先はどこにするのかと話題を振る。
 と、答えかけた菜々子があくびを零し、それを見た堂島が告げた言葉を期に、足立は堂島家を辞去することにした。
 玄関まで見送りに来てくれた暁と共に、未だ降り注ぐ雨を一瞥して、視線を交わす。――それだけで、確認は済んだ。
 食事中、ニュースの天気予報が告げた言葉。

 ――『今夜半から明日にかけて、濃い霧が予想されるでしょう』

 雪子を救出した今、テレビの中には誰もいないはずだが――それでも、念のために今夜の『マヨナカテレビ』はチェックするべきだろう、と。

 結果として、自宅のテレビで確認した『マヨナカテレビ』には誰も映らず――電話越しに暁と安堵を共有するだけで終わった。
 その電話で、明日の土曜から雪子が学校に復帰するとのことで、「雪子次第ですけど、彼女も“あちら”の捜査に加えて貰ってもいいでしょうか?」と訊ねられた。
 無理強いをする気はないが、雪子本人に“あちら”での探索を手伝ってくれる意志があるなら、足立の方に止める理由はない。足手まといは要らないが、戦力になる”ペルソナ使い”は多い方がいいのだ。――その分、暁の負担が減るだろうから。
 そんな手前勝手な理由は胸にしまいこんで、「雪子ちゃんがその気なら構わないよ」とだけ答えておく。
「じゃあ、明日のお昼にジュネスのフードコードで会える?雪子ちゃんがどうするかは、その時に聞くよ」
 わかりました、との暁の返事を聞いて、就寝の挨拶を告げてから通話を終えた。
(……明日の午前中に、アリバイ調査を終わらせよう)
 暁たちと会った時に結果を報告できるように、と決意して、足立はベッドに入って瞼を閉じた。

 * * *

 今日は四月の最終日。祝日と日曜に挟まった、学生たちから疎まれる半ドンの曜日。

 ――ああ、今日も元気そうで何より。

 ジュネスのフードコードで、制服姿の彼女を見つけて小さく笑む。
 日本人離れした色彩と美貌を持つ少女――神代暁。
 堂島遼太郎の姪で、菜々子の従姉。八十神高校の二年生。両親は揃って一年の海外出張中。その間、母方の叔父である堂島の元に預けられている。
 温厚で、気遣いに溢れた性格。家事全般をそつなくこなし、特に料理は大の得意であるらしい。
 ――まさに、誰からも愛されるような、非のうちどころのない女性。
 連れたちと談笑する彼女の姿を見つめながら、自分が知る彼女についての情報を反芻し、確信する。

 ――やはり、彼女は自分に相応しい存在だ。

 そんな彼女と今一緒に居るのは、彼女の同級生三人だ。――花村陽介。里中千枝。天城雪子。
 男一人に女三人の比率だけ見ると陽介が女子三人を侍らせているかのようだが、彼らのやりとりに性別を感じさせるものはない。純粋に友人なのだろう。何より、陽介には別に本命がいたはずだ。

 ――というか、あんなことに巻き込まれたのに、よく友達づきあいを続けられる。

 そう、呆れまじりに感心する。
 雪子はともかく、陽介と千枝は、暁の巻き添えでテレビの中に落とされたのに。――まあ、突き飛ばしたのは自分だが。

 ――ちょっとあの時は、ことを焦りすぎた。

 その時のことを思い返して、反省する。
 危うく振り返った千枝に顔を見られるところだった。あそこで暁を見つけたのは偶然で、相手にこちらの顔を見られないようにする配慮など皆無だったのだ。
 我ながら浅慮だったとは思うが、あまりにタイミングよく大型テレビの前にいたものだから、つい突き落さずにはいられなかったのである。

 ――“警告”を届けた直後に、あの状況に出くわしたら、誰だって天の配剤だと思うはず。

 まあ、その夜に受けた“天啓”で、それが早とちりだったと気付いて大層焦ったものだが、翌日に彼女の無事を確認して安堵し、同時に確信した。――自分にとって都合のいいように、“神様”が采配してくれているのだと。

 ――てっきり、彼女も真由美と同じだと思っていたのに。

 しかし、違ったのだ。彼女は“天罰”を受けるべき存在ではない。
 美しいまま、少しも損なわれることなく、生きていてもらわなければならない。

 ――時が来れば、彼女は自分のものになるのだから。

 そのことを“天啓”が約束してくれた。――その瞬間を想像して、一人恍惚に浸る。

「ごめん!お待たせ!」
 と、その至福の時を邪魔する声が聞こえて、思わず眉が寄った。
 見れば、冴えないスーツ姿の男が暁たちのテーブルに駆け寄るところだった。

 ――足立透。

 稲羽署の刑事。堂島遼太郎の相棒。どうやら都会から飛ばされてきたらしいが、左遷された間抜けな刑事と侮るには危険な男。
 ふやけた笑みを浮かべたその顔を、警戒と敵意を込めて睨み据えた。――あの男は狡猾で冷酷な本性を隠して持っている。浮かべた笑顔の仮面はよくできたものだが、生憎と自分は騙せない。

 ――あの男は、自分の最大の障害になる。

 初めて彼が自分の元を訪ねてきた時、そう直感した。そして今、暁と言葉を交わすその姿に、尚更その思いが強くなる。

 ――あの男は、暁を求めている。

 しきりに笑顔を向け、優しい言葉をかけ、彼女の心を絡め取ろうとしている。

 警察は確たる証拠がない限り何もできないだろうが、あの男個人は話が別だ。
 自分の目的に感づいたら、あの男は確実にこちらへ牙を剥いてくる。何の証拠もなかろうと、そんなことは構いもしないに違いない。
 最悪、暁を奪われまいと、こちらの命を狙ってくることだってあり得る。――あの男は、いざとなったら手段を選ばない人種だ。

 ――時が来るまで、あの男だけには目的を悟られてはならない。

 既に人一人の命を奪った自分の行為も、そのことに何の罪悪感も覚えていない自身の狂気も、酷くおぞましい己の目的も、全て棚に上げて。

 殺されたくないと、狂人は一人、自身が敵と見定めた男への怯えと警戒を募らせた――

 * * *

「ごめん!お待たせ!」
「あ、足立さん。お疲れ様です」
 ジュネス屋上のフードコード。エレベーターの方から自分たちの待つテーブルへと駆けて来た足立に、まず暁が笑顔で声をかけた。
「あ、お疲れっす」
「ども~」
「お久しぶりです、足立さん。お疲れ様です」
 陽介と千枝が軽いノリで足立へ声をかけるのを横目に、雪子はきちんとした口調で挨拶を告げる。――同世代で友達でもある千枝たちならともかく、恩人でしかも年上である足立に対し、砕けた調子で接するのは難しかった。
 しかし、足立の方は挨拶に応える余裕もない様子で、席に腰を下ろすなり天を仰ぐようにして荒れた息を整え始めた。
「そ、そんなに急いでいらっしゃらなくても……お仕事が大変なのは私たちもわかってますし……」
 おずおずと告げる暁の言葉に、足立は軽く首を振り、ようやっと整った呼吸の下から返事を返す。
「いや……商店街の方での聞き込みを口実に堂島さんと別行動取ったんだけどさ、危うくジュネスのそばで鉢合わせしかけて……見つからないよう、ここまで全力で逃げてきたんだ。……あ~、喉渇いた!」
「ちょ、それ俺のレモンスカッシュ!」
 言いながら、足立は陽介の前に置かれた紙コップに手を伸ばす。声を上げる陽介を無視して、中身を一気に呷ってしまった。
「――あー、生き返ったー」
「……そりゃ良かったですね」
 いい笑顔を浮かべる足立に、陽介が憮然とした表情で呻く。
「陽介君、ジュース一杯くらいでそんな顔しないの。セコい男はモテないよ?」
「どっちがセコいんすか!」
 しれっと言ってから、陽介が吠えたのを見て笑うと、「冗談だよ」と足立は席を立った。
「レモンスカッシュでいいよね?買ってくるよ」
「あ、私が行きます。足立さんは休んでてください」
 カウンターに向かおうとする足立を引き留め、雪子は立ち上がる。――この程度では恩返しにもならないだろうが、やらないよりはずっといいだろう。
「……そう?じゃあ、頼むよ。ありがとう、雪子ちゃん」
 Mサイズのレモンスカッシュ二つね、と再び腰を下ろした足立から、五百円硬貨を手渡される。
「あ、雪子、ついでにあたしのもお願いできる?フランクフルト」
「うん、わかった」
 千枝からも小銭と注文を預かって、雪子はカウンターの方に向かい――向かう先に見えた光景に、軽く眉を寄せた。
「――俺には売れないってのか!」
「いえ、ですから、本日はもうその商品は品切れでして……」
「ふざけんな!いいから出せよ!」
「や、ですから、出そうにもそもそも物がもうないんですって」
 自分と同年代らしいブレザー姿の少年が、バイトらしい青年に食ってかかっている。――どうも、売り切れの商品を出せと無理を言っているらしい。
 直接応対している店員は無茶を言う少年にただただ呆れた調子で返しているが、カウンターの奥にいる女性店員は少年の剣幕に怯えているようだった。青ざめた顔に強張った表情を浮かべて、壁際で縮こまっている。
 彼女が不憫で、気づけば雪子は少年に制止の声をかけていた。
「あの、あんまり無理を言うのは止した方が……店員さんも困ってるし」
「――うるせぇな、誰っ……!?」
 ばっと勢いよく振り返った少年は、こちらを見るなり、上げかけた怒声も引っ込めて硬直した。
(――え……?な、なに?)
 目を見開き、ぽかんと口を開けてこちらを凝視してくる少年に、雪子は思わず戸惑う。――その左目下の泣き黒子に見覚えがある気がするが、どこかで会ったことがあっただろうか。
「……えっと、もしかしてどこかで会ったことある?」
「――っ……!」
 思わず訊ねた雪子に、少年は大きく息を呑み、こちらを押しのけるようにして走り去って行った。
「……なんだったんだろう……?」
「――いやー、美人さんは、もはや存在そのものが武器だね」
 呆然と少年の背を見送った雪子に、からからと笑う声がかかる。
 カウンターの方に向き直れば、声の主である青年が笑顔で礼を告げてきた。
「やー、ホントありがとう!助かったよ。あいつマジ話通じなくて」
 勢いよく頭を下げた拍子に、尻尾のように括られた長い髪がぴょこんと揺れた。
「いえ、そんな。私は何もしてませんし」
 笑って首を振れば、店員は何故だか微妙な表情を浮かべて、恐る恐ると言った調子で言葉を紡ぐ。
「……もしかして、ゆっきー、俺のこと全然覚えてない?」
「……え?」
 随分と砕けた自身への呼称に雪子は目を見開き――中学時代、自分をそう呼んでいた人物のことを思い出した。記憶の中の面影と目の前の人物の顔が重なって、合致する。
「……あ、ノブ先輩!?――すみません、気づかなくて……お久しぶりです」
 ぽんと手を打って再会の挨拶を投げれば、彼はがくりと肩を落とした。
「……その調子だと、俺がこないだまで天城屋旅館でバイトしてたのも全然知らなかったのね……」
「――えぇ!?」
 更に投じられた驚愕の情報に、雪子は思わず裏返った声を漏らしてしまった。
 こちらのリアクションに彼は苦笑して、フォローのように付け加える。
「いや、まあ、よくよく考えれば、俺が働いてたのってゆっきーが学校行ってる時間帯だったしな。バイトの名前が耳に入っても、俺の名字ありきたりだから、すぐにはイコールで結びつかんだろうし。気づかなくても無理ないわな」
「す、すみません……」
 彼の言葉は責める調子のものではなかったが、申し訳なさで雪子はつい謝ってしまった。
「はは、いいっていいって。こっちこそ下らんこと言って悪かった。――ゆっきー、ちょっと変わったかと思ったけど、すぐ謝る癖は治ってないのな」
「……変わった?」
 告げられた言葉が何を指すのかよくわからず、雪子は首を傾げる。彼はそれに応えて言葉を足した。
「さっきのバカに注意したこと。――昔のゆっきーだったら、ちーちゃん一緒じゃなきゃ知らん人に声もかけられんかったっしょ」
 告げられた言葉に雪子は目を見開く。――確かに、その通りだった。
 中学時代はおろか、つい最近まで、親友が一緒についていてくれなければ、自分から知らない人に声をかけに行くことなど絶対にできなかっただろう。――一人では何もできないと思いこんでいたから。
 だが、そんな自己否定の気持ちは、既に親友によって打ち砕かれていた。そのおかげで、自分でも気づかないうちに、少し積極的に動けるようになっていたらしい。
「……そっか。私、少しは変われてたんだ」
 些細だが着実に一歩前進していた自分に気がついて、雪子は思わず小さく笑みを浮かべる。
「ところでゆっきー。あのさ――」
「――あの、私語は、もう、それくらいで……」
 と、何やら言いかけた彼の言葉を遮り、今にも消え入りそうな儚げな声で女性店員が注意した。――足立と同じくらいの年頃に見えるが、年下であるはずの彼に対してえらく腰が低い。先程の少年に対して怯えていたところを見ても、気が弱い人なのだろう。
「あ、すんませんミキさん!仕事します!――ご注文はお決まりでしょうかっ?」
「あ――え、えと、何だっけ……フ、フランクフルト一つとMサイズのレモンスカッシュ二つ!」
 慌てたように仕事モードに移る彼。雪子も当初の目的を思い出し、慌てて注文を告げた。

 * * *

 フードコードで注文の品をそれぞれの胃に収めた後、足立に促される形で、暁たちはテレビの中に移動した。――自分から捜査に参加する意志を示した雪子も一緒である。
「すごい……ここ本当に、テレビの中なんだ……」
 初めて自分で“テレビの中”へ入った雪子が、目を見開いて周囲を見渡す。
「お~、みんな、よく来たクマね!」
 と、そこに暁たちに気づいたクマがぴこぴこと歩み寄って来た。
「あの時のクマさん……夢じゃなかったんだ」
 クマの姿を認めた雪子が実感を深めるようにしみじみと呟く。――記憶がしっかり残っていても、あまりの非常識さに記憶の方を疑ってしまうところがあったのだろう。
「ユキちゃん元気?クマ、ユキちゃんとの約束守っていいクマにしてた」
「そっか、えらいえらい」
 クマの言葉に雪子が微笑ましげな声で応える。そのやり取りは、まるでお使いを果たした子供と、その子を褒める大人の図だった。
 と、『約束』という言葉に、暁は自身が作ってきた物を思い出し、鞄から取り出してクマに差し出した。
「はい、クマ君」
「……ほへ?クマに?何ぞ?」
 ラッピングしたカップケーキをきょとんと見つめるクマに、暁は笑って答える。
「前、『次はお菓子作って持ってくる』って約束したでしょう?」
「わあ!これアキラちゃんの手作りお菓子クマか!?」
 ぱっと顔を輝かせるクマ。
 そわそわと「食べてもいい?」と訊ねてくるのに頷けば、包みごと口に放り込もうとしたので、慌てて「包みは食べられないよ」と止める。
 「袋の口を結んでるリボンを解けば中身が出せるから」と告げれば、クマはいそいそとミトンのような両手で器用に包みを解き、中身を取り出した。
「うわ、うわぁ~!クマ、こんなの初めて見た!甘くていいニオイがするクマね!コレ、なんていうお菓子?」
「カップケーキ、っていうの」
 暁の答えに、「カップケーキ」と嬉しそうに繰り返すと、クマは今度こそそれを口に放り込んだ。
「ん~~~~っ、でりしゃすっクマ!ふんわり甘くておいしいクマよ~!」
「――よかった、気に入ってもらえて」
 クマが嬉しそうな声を上げるのに、暁はほっと安堵の息をつく。
 カップケーキの出来には自信があったし、先に振舞った皆にも美味しいと言って貰えてはいた。だが、クマの味覚が自分たちニンゲンと同じかわからなかったため、口に合うか不安だったのだ。
 カップケーキの余韻に浸るようにゆらゆらと身体を揺らすクマ。その姿を苦笑気味に見つめながら、陽介が雪子へと声をかける。
「――まあ、このクマきちのためにも犯人見つけようってことになってさ」
 雪子はその言葉に一つ頷くと、クマの方に向き直って告げた。
「私も仲間に入れてもらったの。よろしくね、クマさん」
 ――「誰かに命を狙われるほど恨まれているなら、私はその理由を知らなきゃいけないと思う」
 雪子はそう言って、捜査への参加を表明していた。――その凛とした決意には、彼女の持つ芯の通った強さが込められている、と暁は感じたものだ。
「うん!一緒にがんばろうって思ってたクマ!――だから、ユキちゃんに用意してたクマよ!」
 雪子の言葉に大きく頷いて、クマはいつの間にやら手にしていたモノを彼女へ差し出した。
「あ、みんなかけてるの、これなんだ。ありがとう、クマさん」
 受け取った雪子は一瞬目を見開いて、すぐに嬉しそうに笑いながらそれをかける。
 楕円オーバルレンズに、ワインメタルのハーフフレーム。左のテンプルに、カラフルな縦線模様がワンポイントとして入っている。
 すっきりとシンプルなデザインの眼鏡は、雪子の理知的な面立ちにしっくりと馴染んだ。――本当に、クマのデザインセンスの良さには感心させられる。
「ホントだ、霧が晴れて見える……」
 感心したように辺りを見回す雪子の横で、千枝がクマを見て感心したように呟く。
「うちらの眼鏡って、全部クマくんが作ってるんだっけ?機能にも驚きだけどさ、地味にデザインセンスもすごいよね」
「……つーか、信じらんねぇよな。あの手でどうやったら、こんな細かいもんが作れるんだ?」
 陽介の言葉に、クマがむっとした様子で彼へと詰め寄った。
「しっつれいな!クマ、こう見えて凄く器用クマよ!――見るクマ!指先がこんなに動いている!」
 ずずい、と陽介へと突き出した両手の先端を微妙に動かすクマ。――本当に、よく見ないとわからない微妙な動きである。
「――わからんわ!」
 陽介がツッコミの言葉と共にクマを軽くド突く。小さく悲鳴を上げたクマの身体は、一度床へと引っくり返ったかと思うと、その反動でぽよんと跳ねて、そのまま起き上がりこぼしのように立ち上がった。
「……何か落ちたよ?――あー、コレ――」
 と、その一連の動きの拍子に、クマの身体から何か落ちたらしい。それを拾い上げた雪子が軽く目を見開いた。
「あ、それ、ちょっぴり失敗した眼鏡」
 クマの焦ったような声にも構わず、雪子はかけていた眼鏡を外して、拾い上げたモノにかけかえる。
「ちょ、ちょっと雪子?」
 それを見た千枝が焦ったような声を上げた。――無理もない、と暁も思う。
 雪子がかけかえたのは、牛乳瓶の底のような分厚い真円のレンズに、赤い鷲鼻とピンと上へ跳ねたヒゲがくっついた、罰ゲームなどで使われそうな『鼻眼鏡』だったのだ。
「あはは、どう?」
 戸惑う周囲に構わず、当の雪子は上機嫌な声でそう訊ねてきた。――分厚いレンズのせいで目元は見えないが、口元は楽しそうな笑みを浮かべている。
 本来なら、その理知的な美貌に鼻眼鏡は酷く不釣り合いなはずなのに、浮かべられた楽しげな笑みのためか、妙にしっくりと雪子の顔に馴染んで見えた。
「……むしろ自然?」
「ちょ、暁ちゃん!?」
「あはは、やった」
 思わず零した暁の感想に足立が驚愕の声を上げるが、当の雪子は嬉しそうに笑う。
「……ユキちゃん、それ気に入ったクマ?」
「鼻ガードついてるし、私、これがいい」
「おやめなさい!」
 意外そうな声で問うクマに、雪子は真剣な声音で即答した。冗談に聞こえないその言葉に、間髪入れずに千枝がツッコむ。
 しかし、クマは「クマったなー」と首を振る。まさか気に入るとは思っていなかったので、霧を見通す用のレンズを入れていなかった、とのこと。
 雪子は残念そうに肩を落とし、ちゃんとした自分用の眼鏡にかけ直して――何故か、鼻眼鏡を千枝へと差し出した。
「はい、次は千枝ね」
「はぁ!?――ちょ、しょーがないなぁ……」
 呆れたような声を上げつつも、親友の要望に応えて千枝は手渡された鼻眼鏡に付け替える。
 その千枝の顔を真正面から見た瞬間、雪子が噴出した。
「うっ、ぷぷっ……!――あはは、あははっはっはっはっは!」
「……どう流れよ、コレ……」
 『腹を抱えて笑い転げる』という表現そのままに、大笑いする雪子。自分を見て爆笑する親友に、千枝が憮然とした声を上げた。
「――あ、天城さん……?」
 いつもの楚々とした印象をかなぐり捨てた調子で笑い続ける雪子の姿に、陽介が戸惑いの声を上げる。――あまりの豹変ぶりに、暁もさすがに困惑を覚えた。
「出たよ、雪子の大爆笑……あたし前以外では無いと思ってたのに……」
「……実は笑い上戸だったのか、雪子ちゃん……」
 憮然と呟く千枝の言葉に、足立が呆然とした声音で呻く。
 いつまでも笑い続ける親友を「こんな眼鏡じゃ捜査にならないっしょ!」と叱りつけながら、千枝が眼鏡を自分のものに付け替える。
 しかし、千枝が鼻眼鏡を外しても雪子の笑いは収まらず、ひくひくと全身を痙攣させるように笑い続けていた。
「……事件の情報話そうと思って、人目を避けるのに“こっち”へ来たのに……こんなんじゃ話できないよ?」
「ご、ごめんなさぁいっ……!……ぶっ、くくくっ!」
 足立の呆れかえった呟きに謝るも、すぐに発作がぶり返してきたのか吹き出してしまう雪子。
「――すみません、足立さん。雪子、こうなっちゃうと、もうしばらくはどうしようもないんで……何だったら、無視して話進めちゃって下さい」
「……被害者本人が笑い転げてる横で事件の話するって、どういうことなの……」
 千枝の諦めきったような言葉に、足立は心底げんなりした調子で呻き――しかし、結局は待っているだけ時間の無駄だと思ったのか、懐から手帳を取り出した。
「……とはいっても、大した進展もないんだけどね。――寧ろ、余計に混乱してきた感じがするし」
「――どういうことですか?」
 重いため息と共に告げられた足立の言葉に、陽介が眉を寄せて問い返す。
「警察で確認した関係者のアリバイ、『山野の遺体が出現した時間』みたいに意味のないものも含まれてたからさ、そういうのは全部省いて整理し直したんだけど……結局、四件全部にアリバイがない人間が一人も見当たらないんだよね」
「――え……?」
 告げられた情報に、雪子も笑いを治めて真顔になった。
 足立が言うには、山野、早紀、雪子の三件だけなら、アリバイのない人間はそれなりの数がいるが、そこにジュネスでの一件のアリバイを加えてしまうと、一人も該当者がいなくなってしまうのだという。
 その事実そのものも衝撃的だったが――それよりも別の部分が気になって、暁は思わず声を上げていた。
「……あの、私たちがジュネスのテレビに突き飛ばされた件は、警察の方で認知されてないですよね?――まさか足立さん、一人で関係者全員のアリバイを調べたんですか?」
「いやいやいや!さすがにそれはいくら何でも無理だよ。――単に、小西早紀が犯人によってジュネスに放置されたと判断して、警察の方で14日の午後のアリバイも関係者に確認取ってたんだ」
 それを元に暁ちゃんたちが突き落とされた時刻に絞ってアリバイを整理し直しただけ、と足立は苦笑する。
「ともかく――犯人が何らかのアリバイトリックを使ったのか、警察がマークしてない人間が犯人なのか。警察で調べたアリバイから犯人を絞り込むことは、これで出来なくなったわけでさ。――そうなると、動機や手口から犯人を特定するしかなくなるんだけど――」
「――結局、そこが何もわかんないんですよねー……」
 愚痴るような足立の言葉に、陽介がげんなりと呻く。
「最初に山野アナ、次に小西さん、三番目に暁ちゃん、四番目に雪子ちゃん。――とりあえず、この被害者四人の共通点って何さ?」
「……強いてあげるなら、『女性』ってことと、『事件当時八十稲羽に居たこと』ぐらいですかね?四人のうち三人までにあてはまる共通項なら、『マヨナカテレビに映った』とか『八十神高校の女子』とかもあるけど、四人全員ってなるとそれくらいしか……」
「……私と早紀先輩がどうやって浚われたかも、よくわからないんですよね?……まるで不審者や不審車両の目撃情報が出ないって、どういうことなんだろう……」
「――私や山野アナの場合は近くにあったテレビに突き落とされただけだけど、どっちにしても人目のない場所で目撃者はいないし……」
「むごご……話に入れないクマよー……」
 足立、陽介、雪子、暁の順に口を開くも、事態を進展させるような意見は何も出ない。クマに至っては完全に置いてけぼりを食らってしまい、拗ねたようにごろごろ転がり出す始末だった。
「……つーか、里中。お前も黙ってねぇで何か意見出せよ」
「――え!?あたし!?」
 と、陽介に促され、皆の意見を聞きながら首を捻っていた千枝が裏返った声を漏らす。
「や、あたしにこういうのを期待されても!今だってみんなの意見聞いてても『何か変な犯人だな』って感想しか思い浮かばなかったのに」
「……変ってレベルじゃ済まねぇだろ。手口もわかんねぇし、動機も見えねぇし」
 陽介がそう低く呻くのに、千枝は「や、そうじゃなくて」と訂正するように言葉を添えた。
「まず山野アナを無理やり部屋のテレビに入れて、次に早紀先輩をこっそり浚って。その後ジュネスで暁を強引に突き飛ばしたかと思ったら、雪子の時はまたこっそり浚ってるわけじゃん?」
 ただただ不思議そうな口調で、千枝は言う。

「なんか、強引だったりこっそりだったり、統一感ないなぁって。ホントにコレ一人でやってんの?って感じでさー」

 その言葉に――しん、と場が静まり返った。

 その場の誰もが、眼を愕然と見開き、声もなくただ千枝を見つめる。
「――え、え?……な、なに?あたし、何か変なこと言った!?」
 自身を注視する形で固まった一同に、おろおろと狼狽えた様子を見せる千枝。――彼女としては、ただ思ったことをそのまま言っただけだったのだろう。

 だが――その言葉は確かに、視野狭窄に陥っていた一同の視界を広げるきっかけとなった。

「……確かに、そうだ……この四件の犯行……荒っぽくて行き当たりばったりな犯行と、手口すら悟らせない慎重で用心深い犯行が、交互に行われてる――」
 愕然と眼を見開いた足立が、震える声を紡ぐ。
「同一犯のやり口じゃない……これは、同一犯ではありえない……」
 どうして今まで気づけなかったんだ、と鈍い自身に苛立った様子で頭を振り、足立は低い声で断言した。

「――犯人は、一人じゃない……二人、いるんだ」

 ――それは、真実へと迫る、確かな一歩。

 だが、それは同時に――
 『テレビに入れる』という異能。それを、他者を害することに利用する存在が一人ではなかった――そんな恐ろしい現実を、一同へと突きつけるものだった。



――――――――――――――
≪ペルソナ解説≫
以下は、この話に登場したオリジナルペルソナの紹介です。
殆どゲーム的なデータで、読まなくてもストーリー的に支障はないので、興味ない人は読み飛ばしちゃってくれていいです。

名前:アシャ   持ち主:足立※
初期レベル:15   アルカナ:正義
耐性:火 無効:光 弱点:闇

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
アギ(-) ハマ(-)
ハマ成功率アップ(16) マハンマ(19)
アギラオ(22)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 恐怖耐性(24)
Rank2 テトラジャ(28)
Rank3 闇からの生還(32)
Rank4 テトラカーン(36)
Rank5 ハマオン(40) 
Rank6 アギダイン(44)
Rank7 恐怖防御(49)
Rank8 マカラカーン(51)
Rank9 マハンマオン(55)
Rank10 ペルソナ“テミス”に進化する

【設定】
“堂島菜々子”との間に発生した“正義”コミュによって生まれたペルソナ。
外見は、翼を思わせる光の紋様を背負った、赤毛の少女。静かに目を伏せたその面は、されど慈愛に満ちている。
ゾロアスター教における大天使“アメサ・スペンサ”の一員、“アシャ・ワヒシュタ”の別称。
名の意味は『天の掟』。司るものは正義と火と太陽。また、『最善なる者』とも呼ばれ、正義と清潔を司る存在とも言われる。虚偽を司る悪魔“ドルジ”と敵対する存在とされる。
進化後の“テミス”については、“テミス”の欄で後日別途解説。




[29302] 16章.黄金の日々
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/01/28 18:52

 ――犯人は、一人ではない。

 千枝の何気ない一言によって、初めて思い至った可能性。――現状、その可能性を肯定する要素こそあれ、否定する材料は一つもない。
(――どうして今までこの可能性に気が付かなかったんだ!)
 足立は思わず、内心で自分自身に罵声を浴びせる。――だが、その理由は考えるまでもなくわかりきっていた。
 ――それは、『テレビに人を放り込む』というあまりにも特殊すぎる手口のせい。
 『こんな異能の持ち主がそう何人もいるはずがない』という思い込みが、複数犯という可能性を思考から完全に奪っていた。――しかし、それは何の確証もない、楽観的な思い込みだったのだと、今ならわかる。
 『テレビに入る』という能力は確かに稀有で特殊なものだが、どういう条件で得られるものかもわかっていない。
 足立にあり、暁にもあった。そして、その他に犯人が存在する。――そのことが示していたのは、『能力者が“三人以上”存在している』という事実でしかなかったのに。

 ――それを自分は無意識に、最少人数である“三人”だと決めつけてしまっていた。

 “三人”と“三人以上”では、その事実に雲泥の差があるというのに。

「――複数犯……?……本当に……?」
 震える声で暁が呆然と呟いた。その横で、陽介が険しい顔で硬い声を紡ぐ。
「――『テレビに人を放り込む』なんて、非常識なことをやるヤツが二人もいるなんて考えたくもねぇけど……でも、だとしたら四件全てにアリバイがない人間が見当たらないのにも説明がつく」
「千枝の言った通り、手口がちぐはぐなのも、納得がいくよね……」
 微かに顔を蒼褪めさせて呟く雪子。
 そして、その他にも複数犯であることを肯定する要素はあった。
「――それだけじゃない。……荒っぽい二件の犯行時には、必要以上の悪意が透けて見える。拉致の二件にはそれがない」
「荒っぽい方……山野アナと、暁の時?」
 確認してきた千枝の言葉に頷いて、足立は重い声で説明する。
「山野アナが突き落されたらしい旅館の部屋のテレビは、画面が割れてた。けど、割れたテレビ画面は“窓”として機能しない。だとすると、山野と犯人が揉み合ってる時に間違って割れたんじゃなく、山野を突き落した後に犯人がわざと割ったってことになるんだ。――まるで絶対出てきて欲しくない、と言わんばかりにさ」
 実際は、“こちら”はそんなことをするまでもなく、クマに出会えない限り出ることのできない一方通行の牢獄だ。――犯人がそれを知っていたにしろ知らなかったにしろ、その行為からは執拗な悪意が感じられた。
 足立の言葉を聞いて、暁がやや顔を蒼褪めさせて呟く。
「私の時は、テレビは割られなかったけど……その代わりに、あのタロットカードが送られてきましたしね……」
「――え?タロット?何の話?」
 と、それを聞いた陽介が怪訝な顔になる。見れば千枝と雪子、更にクマもそれぞれ表情に疑問符を浮かべていて、メンバーの中でこの情報を有しているのが暁本人と自分だけであることに、足立は今更気が付いた。
「あ、ごめん、言ってなかったね。――暁ちゃんたちがジュネスのテレビに突き落とされた日、堂島家のポストに死神のタロットカードが送りつけられてたんだ」
「……し、死神、って……」
「……えげつねぇな、おい」
 千枝の顔から血の気が引き、陽介が顔をしかめて吐き捨てる。
 雪子が形のいい眉を寄せて、思案気に呟いた。
「――だとすると、私や先輩を狙った犯人より、暁を狙った犯人の方が、より悪質……?」
「……いや、性質の悪さは雪子ちゃんを狙った犯人の方が上かもしれない。手口が巧妙で、まるで尻尾がつかめないって意味でね」
 おそらく拉致犯の方が数段厄介だろう、と足立は思う。
 悪意が強い方の犯人の手口は、かなり稚拙である。一応、山野の件では部屋の指紋を拭うなど、自身の痕跡を消そうとはしているが――その犯行は酷く荒っぽく行き当たりばったりだ。
 こちらの犯人が誰にも犯行を見聞きされずに逃げおおせたのは、多分に運の要素が強い。被害者の貴重品を持ち去っていたり、被害者宅に物を送りつけたりと、今後物証から足がつく可能性も十分あるくらいだ。
 だが、拉致犯の方は全くと言っていいほど自身の痕跡を残さない。示さない。
 もし犯人二人が繋がっているなら、片方捕まえてしまえば芋蔓式にもう片方も捕まえられるだろうが――
「……ここまで手口に差があるとなると、犯人同士が繋がってるかも疑わしい」
「――え!?」
 足立の呟きに、一同がぎょっとした声を上げる。陽介が目を見開いて叫んだ。
「複数犯ってだけじゃなくて、この上それぞれ別口だっていうんですか!?」
「共犯関係だったら、もっと手口に統一感を持たせると思う。単独犯を装った方がアリバイ作りも容易い。一連の犯行のうち、一件にでもアリバイがあれば白として扱われるんだから」
 現にさっきまで僕らもそれでドツボにハマってたでしょ、と足立が告げれば、陽介は言葉を失ったように黙り込む。
「こうなると、『山野と暁ちゃんを襲った犯人』と『小西さんと雪子ちゃんを浚った犯人』は、完全に切り離して考えるべきだ。――動機も、アリバイも、被害者同士の共通項も」
 全部最初から調べ直すぐらいの勢いで整理し直した方がいいな――足立は半ば、自分に言い聞かせるように呟いた。
「――はー……なんかあたし、今初めて、足立さんが本当に刑事なんだって実感した……」
「おま……それ、褒めてねぇよ……」
 しみじみと感心したように呟く千枝に、陽介が呆れたようにツッコむ。
「え?――あ!いや、バカにしてたとかそういうんじゃなくて、その、あの、ホントにっ!」
「――大丈夫、わかってるって」
 陽介の言葉に自分の言った台詞の地味な失礼さに気づいたのか、千枝はあたふたと両手を振って否定した。足立はその仕草に苦笑して頷く。
「それに、実際のところ、今回一番のお手柄は千枝ちゃんだしね」
 足立が続けた言葉に「え!?」と千枝が目を剥いた。
「そうだね、千枝の一言がなかったら、私たち、『犯人は一人』って盲目的に思い込み続けてたと思う」
「うん。鋭い着眼点だったよね」
「チエちゃん、するどーい!」
「――ぎゃー!やめて!ただ何も考えずに言っただけなのに、そんな褒めないでよー!」
 雪子を筆頭に、暁、クマと続いて口々に賞賛され、千枝が耐えかねたように身悶える。――褒められ慣れていないのか、まぐれ当たりを持ち上げられて気まずいのか。
 そんな千枝に、陽介がにやにやと告げた。
「まあ、まぐれでも何でも、実際お手柄だったと思うぜー?案外、お前みたいになーんも考えてない方が、真実が見えるのかもなー」
「――花村それどういう意味!?」
 それこそ褒めてないじゃん!と吠えて陽介の襟首を引っ掴む千枝。――とりあえず陽介の言葉で恥ずかしさは引っ込んだようだが、今度は怒りが顔を出したらしい。
 千枝にがっくんがっくん揺さぶられる陽介を見て、雪子とクマが爆笑し、暁が慌てて止めに入る。――そんな光景を眺めながら、足立はぽつりと呟いた。

「――きっと、捕まえられる」

 その呟きが聞こえたのか、一同が動きを止めて足立を振り返る。
 こちらを見つめてくる五対の眼差しを一つ一つ見つめ返して、足立は笑った。
「僕一人だけじゃ、きっと無理だ。思い込みに振り回されて、真実が見えなくなると思う。――でも、色んな視点を持つ皆と一緒なら、いつか、犯人の尻尾をふん捕まえてやれる」
 そうだろう?と足立が言えば、皆一様に力強く頷いた。

「――もちろん!」

 「です」や「クマ」などと微妙に語尾は不ぞろいだったけれど、重ねられたその言葉に込められた思いは皆同じで。

 その声が呼び水となって、足立の脳裏に響く『声』。

≪我は汝……汝は我――

 汝、彼の者らとの絆を深めたり――

 汝が“愚者”のペルソナに、更なる力の祝福を与えん≫

『――汝、今ここに、真実への新たなる一歩を踏み出せり』

 ――脳裏に浮かぶ、祝福の光に包まれたイザナギの姿。

「――と、ゆーわけで!これからも“連続誘拐殺人事件特別捜査隊”として頑張っていきましょう!」
「――ネーミング、長っ!」
 おどけた調子で告げられた陽介の言葉に、足立と千枝のツッコミがハモる。
 そのことに、また雪子が吹き出し――それにつられるように、一同はひとしきり笑い転げてしまうのだった。


 仲間たちとの集まりにも名前が付き、更に団結を強めたその後。
 クマと分かれてテレビの“外”に戻り、足立たちは『だいだら.』へと足を向けた。
 これ以上誰もテレビの中に放り込ませないことがベストではあるが、どちらの犯人の目星もついていない現状、未だ犯行を止める術がない。ならば、より確実に被害者を救出するため、新戦力である雪子の装備を整えようという話になったのだ。
 足立は最初、雪子の付き添いは他のメンバーに任せ、署で事件の整理をし直そうかと思ったのだが――雪子のシャドウ戦で自身の得物模造刀が折れてしまったのを思い出し、武器を新調するために同行することにした。
「……しっかし、えらく溜め込んでたな、クマのヤツ……」
「ホントにね。――まさか雪子のシャドウの羽根まで拾い集めてたとは思わなかったよ」
 『だいだら.』に向かう道すがら、陽介と千枝が呆れた調子で話すのは、クマが溜め込んでいた“素材”のことである。
 倒したシャドウは、基本的に黒い霧と化して消えてしまうが、稀に持ち物や身体の一部を残すことがある。クマがそれらを自身の作る道具の“素材”として集めていることは、足立たちも知っていた。
 だから、『だいだら.』に行くという話になった時に「素材を持って来れば特注してやる」という店主の言葉を思い出し、クマの“素材”を分けてもらおう、ということになった。――しかし、それに応えてクマが出してきた“素材”の種類と数の多さは、一同の予想を大幅に超えるものだったのだ。
 その中には雪子のシャドウが残した羽根も十数枚あり――「天城たちの感動の場面の裏で、お前はこれをせこせこ拾い集めていたのかよ!?」などと陽介のツッコミが炸裂したものである。
「まあ、『強力なシャドウが残した“素材”からほど、強い力を持った道具が作れる』って言ってたしさ、そういう意味では雪子ちゃんのシャドウが落とした羽根ほど上等な“素材”もないでしょ」
 とりあえずここは空気読まないクマ君の行動に感謝しとこう、と足立はこの場にいないクマをフォローしておいてやった。
 と、そんな会話をしているうちに『だいだら.』の前まで辿り着き――足立は、テレビの中の扉からベルベットルームに預けておいた“素材”を引き取るため、その隣の蒼い扉を潜る。
 最初は人目がそれなりにある商店街に、出現・消失現象が起きるベルベットルームへの出入り口があるはどうなのだろうか、とも思ったものだが、イゴール達に抜かりはなかった。“外”にある扉の場合、契約者がベルベットルームに出入りしても、普通の人間にはそれが知覚できないようになっていると保証してくれた。どうも、ドア付近にいる人間の存在が意識に上らないような術が施してあるらしい。
 ただ、ペルソナ使いであるとその術も無効らしく、陽介たちには相変わらず突然消えたり現れたりしているように見えるようだが。
「わ――おかえりっす。しっかし、ホントすげー量ですよね」
 ベルベットルームから戻った足立の出現に陽介が小さく声を上げ、手にした荷物の方を見て苦笑を浮かべた。
 とりあえず、以前『だいだら.』で買ったものごと預けてあった紙袋に詰め込んで持ってきたのだが、一抱えはある紙袋がいっぱいになってしまっている。
 当たり前だが量に比例して重さもある。長々持っていたくないと、足立は一同を促してさっさと『だいだら.』の中に入ることにした。
「――お、おめぇらか。よく来たな」
 刀傷が壮絶な顔に迫力のある笑みを浮かべた店主の出迎え。ひ、と足立の背後で雪子が小さく息を呑む。
「大丈夫だよ、雪子。見た目はあれだけど、悪い人じゃない……と、思う、よ?」
 千枝が雪子をなだめようとしてか声を上げるも、だんだんと自信なさそうに尻すぼみになっていく。――まあ、まだ完全に人柄がわかる程の付き合いもないし、何といっても刀傷のインパクトが強力過ぎる。無理もないと言えば無理もない。
 背後で交わされるやり取りに苦笑しつつ、足立は手にしていた紙袋をカウンターに置いた。
「この間、素材を持ってきてくれれば特注してくれるって言ってましたよね?だから、ちょっと変わった素材を持ってきたんですけど」
「――ほう?」
 ぴくりと片眉を跳ね上げた店主が、紙袋の中を覗き込んだ。袋の口にまで詰め込まれた“素材”を一つ一つ手に取って検分していく。
 最初のうちは面白がるように口元に笑みを浮かべていたが、検分を終えてカウンターに並べられる“素材”の数が増えていくうちに、だんだんと険しい顔になっていった。
「……もしかして、ヤバかったかな……?」
「……妙なもん持ってきて馬鹿にしてんのか、とか思われましたかね……?」
 その表情の変化に不安を覚え、足立は思わず陽介と小声でそんな言葉を交わし合う。
 何しろ、クマの集めていた“素材”は、素材と言うよりガラクタと言った方がいい代物ばかりなのだ。
 壊れたカンテラに破れた布の端切れ、ひしゃげた金属の皿や妙に軽い金属片。皆どこかしら破損しているのは、自分達との戦闘の名残である。――中には大人の拳ほどもあるシャドウの歯などもあったのだが、「何の歯だ?」と問われたら困るため、それはさすがに持ってこなかった。雪子シャドウの羽根はまだ言い訳が利きそうなので持ってきたが。
「――おい、あんた」
「は、はいっ!?」
 と、不安を囁き合っているところで店主の低い声がかかったものだから、足立は思わず裏返った声を返してしまった。
 慌てて店主の方に向き直れば、その先で出くわした射殺すような鋭い眼光に、思わず硬直する。
「――こんな代物、一体どこで手に入れた?」
 そう問う店主の声音は、恐ろしいほど真剣なものだった。
 情報秘匿の意識以前に、その迫力に呑まれて答えられない足立たちをよそに、店主は検分を終えた品々に視線を向けて、独り言のような口調で呟く。
「ワシはこれまで、より良いアートを作るため、様々な素材に触れてきた。特に金属類は天然・人工を問わずにありとあらゆるものを集めて試した。――にも関わらず、あんたらが持ってきた金属類にはまるで心当たりがねぇ」
 言いながら店主がつまみ上げたのは、やたらに軽い金属片だ。
「これなんぞ、強度は鍛えた鋼に劣らねぇほどなのに、重さはアルミ並みだ。――こんな夢のような金属の存在が公になったら、出所に世界中の人間が殺到するだろうよ」
 ぶふっ、と足立は思わず吹き出した。――別に、雪子のように上戸のツボに入ったわけではない。
(――ヤバい。これはヤバい……!)
 今更ながらに、自分のとった行動の軽率さに気づいて焦る。
 この世とは違う法則性を持つ“テレビの中の異世界”――そこで手に入れた素材がまともなわけはないとは思ったが、ここまで高価値がつく代物だとは思わなかった。
 こんな希少で上等な金属を持ち込んでしまった以上、ここで足立たちが黙秘を貫いたとしても、店主が出所を知ろうとこちらの身辺を探りまわる可能性だってある。――それは、非常にありがたくない。
 どうしたものかと、顔を強張らせて思考を巡らせる足立の耳に、ふぅ、と溜息の音が届いた。
「――言えねぇか。……まあ、そうだろうな。どう考えたってまともな出所とは思えねぇような代物ばかりだ」
 そうして、店主はひどく真剣な声音で呟いた。

「――これらは、きっとこの世のものじゃねぇ。本来、人間ヒトがお目にかかっていい代物じゃぁねぇんだろうよ」

 ――それはきっと、単なる比喩表現だったのだろう。
 だが、それは確かに真実をついていて、足立たちは思わず目を見開く。
 そんな足立たちを見つめて、店主は微かに口元を緩めて笑うと、さばさばとした口調で言った。
「あんたたちがどこでどうやってこれらの品を手に入れたかは、もう訊かねぇよ。――あんたらはワシが望む以上の素材を持ってきてくれた。それだけで十分だ。これ以上を望んだら、お天道様から罰を食らっちまう」
「――ありがとうございます。……それと、このことは他言無用にお願いできるでしょうか」
 追及されなかったことにほっとしつつも、そう言い添えれば、店主は呆れたような顔で頷いた。
「あったりまえだ。こんなレア素材の話を人に漏らしたりしたら、ワシまで面倒に巻き込まれるわ」
 言われて見れば確かにその通りだった。余計な言葉だったと気付いて苦笑する。
「……じゃあ、オーダーメイド、お願いできますか?」
 足立の確認に、店主は呆れ顔を引っ込めて雄々しい笑みを浮かべた。

「――いいだろう。こんだけのものを持ってきてくれたんだ。最高のアートにして、あんたらに渡してやるさ」

 力強く頼もしいその言葉を呼び水に、声ならぬ『声』が響く。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者との絆に、“剛毅”のペルソナを見出さん≫

『――我が名は馬頭観音バトウカンノン。汝に降りかかる惑い、我が晴らして見せようぞ』

 頂く冠は白馬のかしら、額に開く第三の眼。憤怒の表情を浮かべながらも、手を合わせて蓮の上に坐す御仏。

 ――ペルソナ、“バトウカンノン”。

(――え……マジで?)
 名も知らぬ相手と結ばれたコミュニティに、足立は思わず目を見開くが――同時に、彼と確かな信頼関係が結べたのだと知れて、安堵した。
「――で、どんなもんが欲しいんだ?」
「あ……ああ、そうですね――」
 にやりと笑った店主の問いに我に返り、足立は具体的な注文を皆と確認しながら告げていく。
「――よし、わかった。一週間以内に仕上げてやる」
 結果的にかなりの数の装備を注文することになったにも関わらず、店主は頼もしげにそう確約してくれた。

 * * *

 犯人が複数という事実の発覚により、一部の謎は解けたが、そのことによって解明すべき事象の数はむしろ増えてしまった。
 「全部最初から調べ直す」と宣言した足立は、『だいだら.』の外で分かれた直後から、それこそ他の全てを放り出す勢いで資料との格闘を開始したらしい。
 暁がそれを知ったのは、その日の夜、珍しく二日連続で早上がりだった堂島の言葉からだった。
「足立のヤツも誘ったんだが、今日は珍しく自主残業するってんで断られてな。――雪でも降るんじゃねぇだろうな?」
 堂島はそんな風にこき下ろしつつも、「何か気づいたなら俺にも言えってんだ」と足立の奮闘の理由を薄々察していたようだった。
 翌日から、毎日のようにくれていた弁当の礼のメールもふつりと途切れた。堂島越しに返される弁当箱は相変わらず綺麗に空にされているので、そのことにとりあえず胸をなで下ろす。――捜査に没頭しすぎて食事を疎かにするようなことはしてほしくない。睡眠と食事は健康を支える基本なのだから。

 ――せめて、これ以上彼の負担が増えないよう、状況の整理が終わるまででもいいから他の事件が起きないでほしい。

 そんな暁の祈りをあっさりと踏みにじって、『憲法記念日』前日の夜、そのニュースは流れた。

『今日未明、稲羽北にある稲羽信用金庫のATMが、重機によって壊され奪われる事件がありました』
 菜々子と二人の晩御飯を摂り、片付けも終えた後、居間で談笑している最中にテレビから聞こえてきたニュース。
 え、と思わずお茶を取ろうとのばしていた暁の手が止まる。テレビへと向き直る暁につられてか、菜々子もテレビに視線を向けた。
『現場に乗り捨てられた重機は、近くにある土木業者から盗難届が出ている車両でした。犯人は警備会社が来るまでの非常に短い間に逃走しており、警察では――』
 犯人が逃走している、という情報に暁は思わず眉を寄せる。――つまり、この犯人の捜索が新たに稲羽署の仕事として加えられてしまうのだ。
(――なんで、よりによってこのタイミングで……)
 どんなタイミングであろうと犯罪は許されないことだが、ついそんなことを思わずにはいられない。
 足立の負担が増えることもそうだが、家族旅行に行く予定日が間近に迫っている。
 ――このタイミングで事件が増えたりしたら、叔父は休暇が取れなくなってしまうのではないか。
「……お父さん、おそいね……」
 暁の思考に呼応したように、菜々子もどこか不安げにそんな呟きを漏らす。
 と、そんなタイミングで電話が鳴り、暁は嫌な予感に思わず表情を曇らせた。
 思わず電話の方を振り返って凝視してしまう。その間に、菜々子が電話に歩み寄って受話器を取った。
「もしもし――お父さん?……うん、だいじょぶ」
 やはり電話は叔父からのものだったらしい。――だんだんと、受け答えする菜々子の声が沈んでいく。
「……分かった……」
 沈み切った声でそう言うと、菜々子はコードレスの受話器を持ったまま暁の方へと歩み寄り、それを差し出した。
「かわってって……」
「……菜々子ちゃん?」
 受け取りながらも、その寂しげな表情に声をかけずにいられなかった暁に、菜々子はか細い声で告げる。
「……お休み、取れなくなったって」
 言うなり、菜々子は踵を返して自室に通じる廊下の方へと走り去って行ってしまった。
「――菜々子ちゃん……!」
『……暁?……菜々子がどうかしたのか?』
 咄嗟に追いかけようと思ったが、受話器から響いてきた叔父の声に、我に返って受話器を耳にあてる。
「――す、すみません、叔父さん。……菜々子ちゃんが部屋の方に走って行っちゃって……」
『……そうか……聞いたかもしれんが、出かける予定だった4日と5日、仕事が入っちまったんだ』
 暁の言葉に応え、堂島の声は申し訳なさそうにそう告げる。
 何でも、新たに事件が起きたのに加え、一人若い刑事が身体を壊して休むことになってしまったらしい。その穴を埋めるため、堂島が出るしかないとのこと。
「……そうですか。――残念です……」
 嫌な予感が的中してしまったことに、暁は言っても仕方がないとはわかっていても、ついそう呟いてしまった。
『悪いな……菜々子のこと、気にかけてやってくれ』
 はい、と答えた暁に、『今日は遅くなるから先に戸締りして寝てくれ』と告げて、堂島からの通話は切れた。
 暁は受話器をダイニング脇の棚に戻しながら、そこから見える廊下の奥へと視線を向ける。
 部屋に閉じこもってしまった菜々子の心境を思い、明日からの連休は、せめて自分だけでも出来るだけ彼女と過ごそうと心に決める暁だった。


 翌日、昼前に堂島家へと顔を出した千枝の誘いで、菜々子と共にジュネスのフードコートに遊びに行くことになった。
 雪子と陽介、そして陽介が誘ったらしい早紀も一緒で、賑やかな集まりに曇っていた菜々子の表情も明るくなる。
 早紀が「ゴールデンウィークなのに遊び場がデパートとか可哀そうじゃない?」と菜々子を気遣うが、菜々子は今朝の朝食の席で見せていた憂い顔が嘘のように、はしゃいだ様子で笑った。
「菜々子、ジュネスだいすき!」
「――な、菜々子ちゃん……!」
 やはり親の経営する店を褒められれば嬉しいのか、菜々子の言葉に陽介が表情を輝かせる。
 しかし、菜々子はすぐに思い出したように俯くと、「でも、ほんとうはおべんとう作って、りょこうにいくはずだったんだ」と少し寂しげに言う。
 その言葉に、暁と菜々子の合作カップケーキを食べたことのある一同は、納得したように頷いた。
「そっか、あのカップケーキも美味かったもんな。――菜々子ちゃんみたいによくお手伝いしてくれる娘がいる上に、神代みたいに料理上手な子が家に来たんだから、菜々子ちゃんのママ、大助かりだろうなぁ」
「――は、花村君」
 はは、と笑っての陽介の言葉にぎくりとなって、暁は慌てて遮るように声を上げる。
 しかし、菜々子は気にした風もない調子で、静かに首を振った。
「お母さん、いないんだ。ジコで死んだって」
 菜々子が告げた重い事実に、さっと一同の顔色が変わる。――陽介の身体に、左右にいる千枝と早紀から咎めるような肘鉄砲が刺さった。
「……そ、そっか……えっと……ごめん、知らなかったからさ……」
 二人に咎められるまでもなく、地雷を踏んでしまった陽介は申し訳なさそうに項垂れる。
 そんな陽介に、菜々子は慌てた様子で首を振って「へーきだよ」と笑った。
「お母さんいなくても、菜々子にはお父さんがいるし、今はお姉ちゃんもいるし。アダチさんもよく遊びにきてくれて、だから、さみしくないよ」
 そうして、花が咲くような笑みで一同を見て、告げる。
「――今日は、みんなとジュネスに来れたし、すごい、たのしいよ」
「……菜々子ちゃん……」
 そんな健気な様子に、皆感極まったように菜々子を見つめた。
 口々に「またいつでも遊ぼう」と告げ、それを聞いた菜々子が嬉しそうに笑う。
 その後、菜々子は皆から色々買ってもらい、それらを皆と嬉しそうに分け合いながら食べていた。
「――今日、楽しかったね!」
 夕刻、皆と分かれて二人で家路をたどる最中、菜々子はそう言って笑う。
「りょこうはダメになっちゃったけど、お姉ちゃんのお友だちと遊べて、うれしかった。――お姉ちゃん、菜々子もつれてきてくれて、ありがとう!」
 その笑顔に呼応するように、脳裏に響く声ならぬ『声』。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、“正義”のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん≫

 ――脳裏に思い浮かぶ、天秤が記されたカード。

「また、みんなで遊びにいける?」
「――もちろん!」
 少し不安げにそう訊ねてくるのに、暁が迷いなく頷けば、菜々子は光輝くような笑顔を浮かべてくれた。


 残りの連休も、暁は菜々子と共に過ごした。
 『みどりの日』には、陽介からの誘いで、菜々子と共にまたジュネスへ行った。
 待ち合わせ場所に行ってみれば、一条と長瀬が陽介と一緒におり、暁は軽く目を見開いたものだ。
 話を聞けば、三人は以前からの友人だったらしい。暁がバスケ部のマネージャーであると知っている陽介が一条を誘い、一条が長瀬を連れて来た、とのこと。――言われて見れば、陽介と一条は少し雰囲気が似ている気がした。きっと気も合うのだろう。
 小さな妹がいるらしい一条は「うちのもこんな風に可愛く育ってくれればなー」と菜々子を褒め、それに「可愛くないよ」と照れた菜々子へフォローのつもりか「うん、可愛くないよ」と長瀬が告げてしまい、陽介と一条に「それはねぇだろ!」と思い切りツッコまれる一間もあった。
 そんな男子たちのやり取りにやや戸惑いながらも、その可笑しさに暁と菜々子は顔を見合わせて笑ってしまったものだ。
 そして、三連休の最終日である『こどもの日』。
 昼間は、来週から暁のテストが始まることもあり、居間のテーブルで一緒に勉強することにした。
「菜々子ね、漢字トクイなんだよ。こないだもね、テストで100点とった!」
「え、凄いね!菜々子ちゃん」
 漢字ドリルを開きながらの菜々子の言葉に、暁は思わず目を見開いて驚きの声を上げてしまう。
 えへへ、菜々子は照れたように笑って――「実はね」と、とっておきの内緒話のように告げる。
「いなえさんに、コツを教えてもらったんだー。――『漢字は一回バラバラにしたほうが、おぼえやすいものもあるよ』って」
「――バラバラ?」
 首を傾げた暁に、菜々子は楽しそうに解説した。
「『右』って漢字だったらね、カタカナの『ナ』の下に『ロ』。『左』だったらね、『ナ』の下に『エ』っておぼえるの!」
「あ、そういうことか。――そっか、それは確かに覚えやすいかも」
 実際には書き順などが変わってしまうのであまり良くないのかもしれないが、漢字の『形』を覚えるにはいい方法かもしれない、と暁は思った。
 そんな風に何気ない会話を交わしながら、それぞれの勉強を進めていくうちに、あっという間に時間は過ぎる。
 夜には、二晩署に泊まり込んでいた堂島が、足立を連れて帰宅し――暁と菜々子は思わぬサプライズプレゼントを受け取ることとなった。

 * * *

(――あのバカ、ぜってぇ許さねぇ……)
 ゴールデンウィークの三連休――その最終日の夕刻まで、足立透は凄まじく不機嫌だった。
 理由は言うまでもなく、突然病欠で仕事に穴を空けた若い同僚のせいである。――こいつのせいで、堂島は休みを取れなくなり、菜々子や暁と行くはずだった旅行もおじゃんになってしまったのだ。
 それどころか、人手不足から連休開始と同時に署に泊まり込む体制になってしまい、堂島にとって、旅行どころか家族と顔を合わせることすらできないゴールデンウィークとなってしまった。
 当然菜々子たちは悲しんだだろうし、堂島も顔にこそ出さないものの、内心ではかなり堪えているだろう。
 とりあえず、休んだ同僚も連休明けの明日からは復帰してくるらしいし、連休前にやらかしてくれた強盗犯も逮捕した。泊まり込まなければ手が回らないほどのがむしゃらな忙しさはこれで終息するだろうが――しかし、おじゃんになった旅行の機会はもう取り戻せない。
(――昇級できないようにしてやろうか、あの野郎……)
 足立の頭に、ついそんな黒い思考が浮かぶ。――今自分が握っているカードを切れば、同僚の昇級機会は遥か彼方へ遠退くことだろう。ノンキャリアであることも踏まえると、昇級の目自体がなくなる可能性が高い。
「……足立、何かヤバいこと考えてないか?」
 と、横から堂島にそんな言葉をかけられ、足立ははっと我に返る。
「……顔に出てました?」
「ああ。悪巧みしてる犯罪者の顔だったぞ」
 酷い言われようだが、事実似たような思考状態だったので反論できず、足立は気まずく頭を掻いた。
「すみません……休んだバカへの怒りが、ついふつふつと……」
「……言ってやるな、体調不良じゃ仕方ねぇだろ。――まあ、俺もお前も、今日は早く上がっていいとのお達しだ。晩飯呼んでやるから、暁の飯で機嫌直せ」
 堂島はそう足立を宥め――ふと思い出したように言葉を付け足す。
「――と、そうだ。帰り、ちょっと一緒にジュネス寄ってくれるか」
「え、いいですけど……何か買い物ですか?」
 珍しい、と首を傾げた足立に、堂島は苦く笑った。
「……結局、また菜々子との約束破っちまったからな。その詫びとは言わんが、今日はちょうどこどもの日だし、何かプレゼントでも買って行ってやろうと思ってな」
「ああ、なるほど。――そういうことなら、もちろん付き合いますよ」
 それは菜々子も喜ぶだろうな、と足立は頷く。
 同時に、ふと『プレゼント』という単語に閃くものがあった。
「――僕も、暁ちゃんに何か贈ろうかな……」
「……暁に?お前が?」
 思わずそのまま口に出てしまった考えに、堂島が低い声を出す。
「い、いやいやいやいや!変な意味じゃなくてですね!単に日頃のお弁当のお礼と言うか……!――作ってくれる手間のこともありますけど、それ以上に弁当の材料費、暁ちゃんがお小遣いから自腹切ってくれてるも同然じゃないですか」
「……ああ、そういや、そうなるのか……」
 慌てて足立がまくしたてた言葉に、堂島が虚を突かれた様子で目を見開く。
 弁当の材料費を含む堂島家の食費は、毎月堂島が暁へと渡している。その定額から食費を引いて、余った分はそのまま暁のお小遣いになる仕組みだ。
 暁はその『余ればそのまま自分の小遣いになる金銭』で、わざわざ足立の弁当の食材も買ってくれている。――これはもはや、暁の小遣いから自腹を切っているに等しい。
 堂島を介して弁当代を払おうか、と思ったこともあるのだが――しかし、現金で渡そうとしても暁はまず受け取ってくれないだろうと予想できて、これまで言い出すこともできなかったのだ。

 ――その点、『プレゼント』ならば喜んで受け取ってもらえるのではないだろうか。

 「ありがとうございます」と、はにかんだ笑みを浮かべる暁の姿が、自然と想像できた。
「――そうだな。暁に何もやらずに、菜々子にだけプレゼントするのも何だしな。……じゃあ、暁の分はお前に任せる」
「はい!任されました!」
 堂島のお許しに、足立は張り切って敬礼を返す。
 そうして、終業後に堂島と寄ったジュネス。しかし、足立はそこで頭を抱える羽目になった。
 堂島が菜々子へのプレゼントを選んでいる間に、足立が暁へのプレゼントを選ぶことになったのだが――決まらないのだ。
 まともな恋愛経験などない足立には、女性への贈り物など、花かアクセサリーくらいしか思い浮かばなかった。
 しかし、花は日持ちしない。贈るならやっぱり長く持ってほしいと考えて却下し、その結果、とりあえずアクセサリー売り場に来たのだが。
(……どれがいいの、これ……)
 ガラス張りのカウンターディスプレイにずらりと並んだ数多のアクセサリーに、軽く眩暈を覚えた。
 うーん、と唸りながら、きらびやかな装飾品の数々を睨みつける。
「――お客様、どのような商品をお探しでしょうか?」
 と、カウンターの向こうから、女性店員が声をかけてきた。
 店員に声をかけられた場合、「煩い、黙って選ばせろ」と思うのが足立の常なのだが、今回ばかりは天の助けに思えた。
 とりあえず、当たり障りのない程度に状況を説明する。
「あー、その、お世話になってる女性に、日頃のお礼としてプレゼントを贈ろうと思ってるんですが……」
「お世話になっている方へのプレゼント、ですか。――贈られる相手の方は、普段どのようなアクセサリーを身につけられていますか?」
「――え……いや……そういや、つけてるとこ、見たことない……」
 店員の問いに、制服でも私服でも暁がアクセサリーの類を付けているところを見たことがないと気付いて、足立は顔をしかめた。――アクセサリーなど贈っても寧ろ迷惑なんじゃなかろうか、などという思考が脳裏によぎる。
 そんな足立の様子を見てか、店員は少し考える素振りを見せてから、ディスプレイの一画を指し示した。
「――でしたら、こちらの商品などはいかがでしょうか」
 そこに並んでいたのは、ブレスレットでもネックレスでもなく――
「……髪留め?」
「はい、バレッタですね」
 思わず呟いた足立に、店員がさりげなく呼称を訂正した。
「ヘアアクセサリーの類は、装飾品というだけでなく実用品の側面がありますから、普段アクセサリーになじみのない方でも抵抗なく身につけられるかと」
「なるほど……」
 店員の説明に納得して、足立は感心まじりに頷く。
 と、並んだ商品のうちの一つに、ふと目が留まった。

 ――彼女の瞳と同じ、深い青。

 足立の視線に気づいてか、店員もその商品へと視線を向けた。
「――ああ、こちらの蝶のバレッタですか?瑠璃色というんでしょうか、綺麗な色合いですよね。精緻なデザインで、一見脆そうに見えますが、アクリル製なので意外と頑丈ですよ」
 お手に取ってご覧になりますか?と問われ、気づけば考える間もなく頷いていた。
 カウンターから取り出されたその商品を受け取って、まじまじと眺める。
 それは店員が言うように、蝶を模した瑠璃色のバレッタだった。
 大きさは、煙草の箱と同じくらいか。細く引き伸ばされた数本のアクリルが編み合わさり、羽根を広げた蝶の姿を形作っている。羽根の模様部分も凝っていて、非常に精緻で繊細なデザインだった。
 この蒼い蝶が、彼女の銀の髪に止まった姿が自然と目に浮かび――
「――これにします。プレゼント用の包装でお願いします」
 気づけば値札すら見ずに、足立はそう口走っていた。
 アクリル製なので貴金属や宝石類のついたアクセサリーよりは安かったが、ただの髪留めにしてはかなり値が張るものだった。おそらく、手の込んだデザインのためだろう。――もしかしたら、職人の一品モノだったのかもしれない。
 それでも、その値段分の価値はあると、足立はその商品を選んだことに後悔を覚えることはなかった。
 店員がバレッタを包んでくれている間、何気なく辺りを見回した足立の目に、カウンター脇のフックに吊るされた商品の一つが目に留まる。
 小さな蒼い蝶がついた、二本セットの髪ゴム。プラスチックでできた半透明の蝶は、先程のバレッタの蝶とは比べ物にならないほど単純なつくりだが、これはこれでなかなか可愛い。
 ――暁には少し子供っぽいかもしれないが、菜々子くらいの年齢にはちょうど似合いそうだ。
 ふと、そんな感想が浮かぶ。
 暁と菜々子は本当の姉妹でないのがいっそ不思議なくらい仲が良い。おそろいの意匠の品を贈れば、二人ともきっと喜ぶだろう。
「――すみません、これも買います。さっきのとは別に、プレゼント用に包んでもらえますか」
 結局、足立は殆ど迷うこともなく、その髪ゴムもカウンターへと差し出していた。


 堂島との合流後、足立が「結局、菜々子ちゃんへのプレゼントも買っちゃいました」と告げれば、堂島は「お前もか」と苦笑した。――堂島も、暁へのプレゼントを買ってしまったらしい。
「しっかし、何にすればわからなくてな。選ぶのにえらく時間がかかっちまった」
「そうですね。僕も散々迷いましたよ」
 足立がアクセサリーコーナーで頭を抱えている間、堂島は子供服売り場付近で散々首を捻っていたらしい。
 暁たちが晩御飯を用意してくれているのに長々待たせるのも悪いと、二人で急いで家路につく。
「――ただいま」
「お邪魔しまーす」
 堂島と一緒に玄関をくぐりながら家の中へと声をかければ、ぱたぱたと軽い足音が玄関へと駆けてきた。
「おかえりなさい!」
 出迎えてくれたのは、満面の笑みを浮かべた菜々子だ。――そこには、純粋に父の帰りを喜ぶ色だけがあって。
(――ああ……ほんっと、良い子だなぁ!もう!)
 約束を破ってしまった堂島を責める気配さえない菜々子の天使っぷりに、足立は思わず目頭を押さえる。
 同時によぎる、この事態の元凶を呪う思考。――こんな良い子が楽しみにしていた父との旅行を潰すとか、あいつマジ赦さない。
「……菜々子、悪かったな。また約束破っちまって……」
 リビングに向かう間も自分の手を握ってぴったりと寄り添う娘に、堂島が心苦しそうに告げれば、菜々子はぶんぶんと頭を振って笑った。
「あのね、お姉ちゃんたちが遊んでくれた!」
「そうか。――ありがとうな、暁」
 ちょうどそのタイミングでダイニングにつき、流し台の前に立つ暁へ向けて堂島はそう礼を告げる。
「――あ、いえ。私の方こそ、菜々子ちゃんと遊べて楽しかったですし」
 暁も、やはり少しも堂島を責めることなく、笑顔でそう応えた。――やはり、この従姉妹二人は本物の天使だと、足立は確信する。
 ――とりあえず、この家族に迷惑かけたあの馬鹿は、仕事休まずに済む範囲で不幸な目に遭いまくればいい。
 と、そんな和んだり呪ったりと忙しない足立の方へと、暁が向き直った。
「――足立さん、『連休前からずっと忙しそうにしてた』って叔父さんから聞きました。今晩は滋養のあるメニューにしましたから、たくさん食べて行ってくださいね」
(――暁ちゃん、マジ良妻っ……!)
 暁の気遣いに溢れた言葉によってこみ上げてきた感動に、足立は思わず打ち震える。
「――暁、飯の用意まだかかるのか?」
「あ、いえ。温め直すだけなので、すぐご用意できますよ」
 そんな足立の感動などお構いなく、堂島がそんな風に暁へと声をかけ、彼女はそちらへと向き直ってしまった。
「そうか。――なら、ちょっと居間に移ってくれるか。飯の前に済ませときたいことがあってな」
「?……わかりました」
 堂島の言葉に小さく首を傾げながらも素直に頷いた暁も一緒に、一同は居間へと移動した。
「――ねぇ、お父さん!そのジュネスの袋、なぁに?」
 いつものテレビ前の定位置ではなく、父の横に並んで座った菜々子が、堂島の手にしていたジュネスの紙袋を見て訊ねる。
「今日は5月5日で、こどもの日だからな。菜々子にプレゼント買ってきたんだ」
「ほんと?――やったぁ!」
 自分の隣に寄り添う娘を微笑ましげに見つめながら答えた堂島の言葉に、菜々子ははしゃいだ声を上げる。
「あー、服だー」
 堂島はラッピングを頼まなかったらしく、紙袋から取り出されたのは畳まれただけの剥き身の洋服だった。手渡された菜々子は、その場でそれを広げて見せる。
 それによって露わになったその服のデザインに、足立は思わず上げそうになった声を無理やり押し殺した。
(――なにあれ、ダサッ!)
 何かの動物をデフォルメしたらしいキャラクターがデカデカとプリントされた、白地のTシャツなのだが――なんというか、そのキャラクターが問題だった。
 どこか情けなく見える表情とデフォルメされたデザインは、今はやりの『ゆるキャラ』と言えなくもないが、鳥とモグラの合いの子のような奇妙なイキモノは、何とも可愛いとは言い難い容姿をしていた。
 さすがにこれはどうなんだ、と思った足立の心配をよそに、菜々子が楽しげな声を上げる。
「なんか、ヘンな絵がかいてあるー。ヘンなのー、あはは、やったー」
 その曇りない笑顔に、このプレゼントへの不満は浮かんでいない。
 やはり菜々子の目から見ても、このキャラクターデザインは『変』ではあるようだが、それ以上に『父からのプレゼント』が純粋に嬉しいようだった。
「そうか、気に入ったか。――散々悩んだ甲斐があったな」
 娘の反応に安堵したようにそう呟いた堂島は、今度は姪の方へと向き直った。
「それと、お前にもあるんだ」
「――え、私にもですか?」
 それまで微笑ましげに父子のやり取りを見つめていた暁の目が、驚いたように丸くなる。
「子供扱いってわけじゃないが、まあ公平にな」
 そういって堂島が暁へ手渡した品を見て――足立は、もはや乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
(――堂島さん、センスなさすぎだろ……)
 堂島の暁へのプレゼントは、紫を基調としたビーチサンダルだった。
 ――何故、姪へのプレゼントにビーサンなのか。しかも、結構どぎつい原色系の紫とか。
 足立は、喉の奥からせり上がってくるツッコみを必死で噛み殺す。
 描かれたハイビスカスの模様は確かに結構可愛いのだが、全体的にひどく派手な印象で、大人しげな暁には似合いそうもない品だった。
「夏にでもなりゃ、川で遊ぶ機会もあるだろう。ただ、あそこの河原は砂利だし、結構ガラス片とかも落ちてて、裸足だと危ないからな」
 なるほど、それでビーサンか――堂島の言葉に、とりあえず物品チョイスの理由は納得できた。――デザインに関しては、どう説明されても多分納得できないだろうが。
 ちらり、と足立は思わず暁の方を窺うが――そこにあったのは、嬉しげに笑う暁の顔だった。
「ああ、なるほど、そうなんですか。じゃあ、川で遊ぶ時は使わせてもらいますね。――ありがとうございます、叔父さん」
 ――これは、堂島に気を遣っているのか。それとも、彼女のセンスもちょっとズレているのか。
 にこやかな暁の顔からは、そのどちらなのか判別できず、足立は微妙に顔を引き攣らせる。
(い、いや、暁ちゃんの私服はいつも趣味のいいものだし、センスが悪いとも思えない。でも少しとはいえこの堂島さんと同じ血が流れている訳で――)
「で――おい、足立」
「――あ、は、はいっ!」
 暁のセンスを案じる思考に没頭していた足立は、堂島に声をかけられて我に返った。慌てて、脇に置いておいたジュネスの袋を手に取る。
「その、僕も二人にプレゼント買ってきたんだ。――別にこどもの日だからじゃなくて、いつも晩御飯に招いてくれたり、お弁当作ってくれたりするお礼、って感じなんだけど」
 え、と暁と菜々子が驚いた顔をした。
 「まずは菜々子ちゃんに」と小さな紙の包装袋を差し出す。
「あ、ありがとう、アダチさん!……あけてもいい?」
 おずおずと伺う菜々子に、もちろん、と頷けば、菜々子は嬉しそうに包みを開く。
「あ、チョウチョのゴムだ!――かわいい!キレイな色ー!」
「――ホントだ、可愛いね。良かったね、菜々子ちゃん」
 菜々子の手元を覗き込んだ暁の言葉に、菜々子は嬉しそうに頷いて、改めて足立へと「ありがとう!」と笑った。
「よかった、気に入ってもらえて。――で、こっちは暁ちゃんにね」
 菜々子の反応に胸をなで下ろしてから、もう一つの包みの方を暁へと手渡した。――何でもない風に笑って渡したものの、内心心臓バクバクである。
「あ、ありがとうございます。――開けても……?」
 どうぞ!と足立が頷けば、暁は丁寧な手つきで包装紙を解いていく。――そうして、露わになる蒼い蝶。
「――わ……」
 それを一目見るなり、暁は小さく声を上げ、目を見開いた。
「……綺麗……」
 どこか呆然とした呟きに、堂島と菜々子も彼女の手元を覗き込む。
「あ、お姉ちゃんのもチョウチョだ!おそろいだね!」
「おお……えらく凝ったデザインだな、おい」
 足立が思った通り『お揃い』を喜ぶ菜々子の横で、堂島が驚いたように目を見開いた。
「……その……気に入ってくれた?」
 食い入るように掌の上の蝶を見つめている暁にそう声をかければ、彼女は我に返ったように足立の方へと向き直る。

「――ご、ごめんなさい、見とれちゃって……ありがとうございますっ、すっごく素敵ですっ」

 そう言って笑う彼女の頬は、嬉しさにかほんのりと色づいていて。

 清楚さの中に艶やかさを感じさせるその笑みに、脳裏で響く『声』。

≪我は汝……汝は我――

 汝、彼の者との絆を深めたり――

 汝が“女帝”のペルソナに、更なる力の祝福を与えん≫

『――これからも一緒に頑張ろうね、トオル』

 ――脳裏に浮かぶ、嬉しそうに微笑んだニャンニャンの姿。

「ねぇねぇ、お姉ちゃん。そのチョウチョ、髪につけるやつだよね?菜々子、つけてるとこ見たい」
 気づけば見つめ合う形になっていた足立と暁は、そんな無邪気な菜々子の声で我に返った。
「――あ、ああ、そうだね。僕も見てみたいな」
「あ、は、はいっ。じゃ、じゃあ……」
 慌てて互いに目を逸らしながらそんな言葉を交わして。
 暁は首の脇で一つに括っていた髪を解いて手櫛で整えると、サイドの髪を後頭部でまとめる形でバレッタを留めた。
「――ど、どう、ですか……?」
 後ろにつけたバレッタがよく見えるようにと、卓の方へ背を向ける形で座り直す暁。
「お姉ちゃん、すっごくキレイ!おとなっぽい!」
「ああ、よく似合ってるじゃないか」
 菜々子と堂島が口々に賞賛の声を上げる横で、足立は声もなくその後ろ姿に見入った。

 ――さらりと手触りの良さそうな銀髪の上、留まった蝶の蒼が映える。

 サイドの髪をまとめたことでか、彼女の清楚な容姿から、品のいい艶やかさが引き出されていて。
 どうしようもなく、その細い肩を引き寄せて抱きしめたい衝動に駆られ――足立は必死でそれを押し殺した。
(――落ち着け……落ち着け、足立透ッ!あのセクハラの後の絶望を忘れたかっ!)
 以前“やらかして”しまった直後に来たそっけないメールと、それを見て胸を支配した絶望感を思い出し、何とか衝動を抑え込む。
「――あ、あの……足立さん……どうでしょうか?」
 と、自分との戦いに必死で、結果的に黙り込んでしまっていた足立の反応に不安を覚えたのか、暁が振り返っておずおずと訊ねてくる。
「あ――良く似合ってるよ!……その、すごく綺麗だ」
 慌てて浮かんだ感想をそのまま告げれば、暁はほんのりと頬を染めて微笑んだ。
「――あ、ありがとうございます……」
 そのはにかんだ笑みは、まるで恋する少女のもので。
(――あれ?もしかして、ちょっといい感じだったりするんじゃないか、これ?)
 などと、そんなことを思った瞬間。

 ぐぅ~、と空気を読まない音が、足立自身の腹から響いた。

 きょとん、とこちらを見つめる暁の目が見開かれ、そこに無邪気な菜々子の声がかかる。
「――アダチさん、お腹すいたの?菜々子もお腹空いた!」
「あ――そっか、そうだよね。じゃあ、ご飯にしよっか」
 菜々子の言葉に頷いて、暁は笑顔で席を立って台所へと去っていってしまった。
(……なんで……なんで、僕はこうっ……!)
 遠ざかって行く蒼い蝶を見つめながら、足立は一人、自身の間の悪さを呪いながら、心の中で滂沱の涙を流すのだった。

 * * *

「――今日は俺も手伝う」
 楽しい晩餐を終えて足立が辞去した後、堂島がそんな風に言って、食器洗いのために流しに立った暁の横へ並んだ。
「え、そんな――いいですよ。お疲れでしょうから、休んでいてください」
「いや……やらせてくれ。いつもは菜々子も手伝ってるんだろう」
 慌てて頭を振った暁に、堂島はそう言って洗い終わった皿を手に取って布巾で拭き始める。
 それは、いつもなら菜々子の仕事で――しかし、その菜々子は、楽しい晩餐にはしゃぎ過ぎてしまったのか、居間のソファで寝入っていた。
「す、すみません。ありがとうございます」
 まさか皿を取り上げてまで止めるわけにもいかず、暁はありがたくも申し訳ない気持ちでそう告げた。
 しばらく、堂島は手元に視線を落として、黙々と皿を拭いていたが――ふいに、ぽつりと零すように口を開いた。
「――その……菜々子のこと、ありがとうな」
 え、と思わず目を見開いた暁に、堂島は少し苦い色の混じる笑みを向けて、言葉を続ける。
「菜々子のことだけじゃない。家のことも……お前が来てくれて、本当に助かってる。――なのに、俺は何もお前に返してやれてない」
 すまないな――そう告げられた謝罪に、暁は慌てて頭を振った。
「そ、そんなこと……叔父さんは、十分よくして下さってます。一緒に居られる時間が少ないのはお仕事の都合で、叔父さんのせいじゃないでしょう?」
「……ありがとうな。そう言ってもらえると、助かる」
 そう言いつつも、やはり堂島の声には、隠しきれない申し訳なさが滲んでいる。
 その憂いを払う術を見つけられず、暁は思わず俯きかけ――
「――だから、せめて、何か困ったことがあったら、すぐに言いなさい」
 聞こえた、芯のある強い声に、俯きかけた顔が上がる。
「お前は、人に遠慮し過ぎそうな性質だからな。困ったことがあっても、一人で抱え込んじまいそうで、心配なんだよ」
 そう言ってこちらを見つめる堂島の顔は、真剣にこちらを案じてくれていて。
「『大したことじゃない』と思っても、一人で抱え込むな。――もしそれで事態がこじれて、お前に何かあったら、俺も、菜々子も、足立だって悲しむんだからな」
 暗に「お前の問題は、お前一人の問題じゃない」と告げている堂島の言葉に、暁は思わず、胸がじんとなるのを感じた。
「――はい。ありがとうございます」
 ――自分は本当に、周りの人に恵まれている。
 そう思って頷いた暁の頭に、ぽんと堂島の手が乗せられて。
「――いい返事だ。ちゃんと守れよ?」
 笑いながらこちらの頭を撫でてくる堂島の姿に被って、脳裏に声ならぬ『声』が響く。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、“法王”のペルソナを生み出せし時、我ら、更なる力の祝福を与えん≫

 ――脳裏に思い浮かぶ、“法王”のタロットカード。

「じゃあ、さっさと片付け終わらせちまうか」
「――はい」
 そう言って笑う堂島の言葉に、やはり笑顔で頷いて、暁は流しの洗い物へと向き直った。



――――――――――――――
≪ペルソナ解説≫
以下は、この話に登場したオリジナルペルソナの紹介です。
殆どゲーム的なデータで、読まなくてもストーリー的に支障はないので、興味ない人は読み飛ばしちゃってくれていいです。

名前:バトウカンノン   持ち主:足立※
初期レベル:15   アルカナ:剛毅
耐性:物理 弱点:雷 無効:光

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
二連牙(-) 警戒(-)
コーチング(16) 電光石火(20)
蒼の壁(22)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 カウンタ(24)
Rank2 チャージ(28)
Rank3 黒点撃(32)
Rank4 混乱防御(36)
Rank5 金剛発破(40) 
Rank6 ハイパーカウンタ(44)
Rank7 アドバイス(48)
Rank8 デスバウンド(52)
Rank9 ハイパーカウンタ(56)
Rank10 ペルソナ“ゴウエンマソン”に進化する

【設定】
“だいだら.の親爺”との間に発生した“剛毅”コミュによって生まれたペルソナ。
外見は、白い馬頭を模した冠を被り、縦に裂けた三つ目の眼を額に持つ仏の姿。忿怒の表情を浮かべながらも、座禅を組み、祈るように合掌している。
漢字表記は『馬頭観音』。仏教における六観音のうち一尊であり、また観音菩薩の変化身の一つであるともされる。また、観音には珍しい忿怒形をとっているため、『馬頭明王』とも呼ばれ、こちらの名では八大明王の一尊とされる。
馬が草を食い尽くすように、衆生を惑わす煩悩や魔を食い尽くすとされる。原名は“ハヤグリーヴァ(馬のたてがみを持つもの)”。
その名のためか、民間では馬の守護仏として知られている。
進化後の“ゴウエンマソン”については、“ゴウエンマソン”の欄で後日別途解説。




[29302] 17章.神隠しの法則
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/02/21 20:06
 五月の第二日曜日。その日の午前中に行われた捜査会議。

「――上の方針により、小西早紀、及び、天城雪子の一時失踪を『自主的な家出』と結論付け、これを持ってこの二件の捜査を終了とします」

 会議冒頭、橘捜査指揮官が淡々と告げたそんな言葉。
 その意味が堂島の脳内に浸透するまで、約三秒の時間を要した。
「――ちょ、ちょっと待ってください!」
 堂島が事態を把握するのと同時、隣にいた足立が椅子を蹴倒す勢いで立ちあがって叫ぶ。
「家出って――小西早紀も天城雪子も失踪当時の記憶がないんですよ!?」
「それは本人たちがそう言っているだけでしょう。――拉致されたと見るには不自然なほど不審者や不審車両の目撃情報がないことから、これらは『家出人の狂言』と判断するのが妥当と結論付けられました」
 どこまでも淡々とした橘の返答に、足立の喉から奇妙な音が漏れた。――おそらく、上げそうになった怒鳴り声を無理やり押し殺した音だろう。
 怒りにか、細かく震えている足立の肩を掴み、座るように促す。足立は一瞬こちらを凄まじい形相で睨んできたが――堂島の表情を見るなり、泣く寸前のような情けない顔になって、そのまま力なく椅子に腰を落とした。
 それを見届けてから、堂島は発言の許可を求めて右手を掲げる。どこまでも沈着な態度で橘が許可を告げた。
「――どうぞ」
「稲羽署の堂島です。……二人とも、非常に衰弱した状態で発見されています。これに関しては医師の診断書も出ているはずです。……この件に関しては、どう解釈されたのですか」
「――年頃の少女が無理なダイエット等で栄養不良や脱水症状を起こす例もある、とのことです」
 そう答えた時、橘は初めて表情を隠すような動きを見せた。――左下を見るような角度で俯き、フレームに指先をかけた右手で顔を隠す。
 ――おそらくは、橘自身もこの上の決定に納得できていないのだ。
 しかし、それでも組織に属する人間である以上、命令系統を無視して動くことは出来ない。故に、感情を殺して上の決定を通達している。
 今の動きで足立にもそれがわかったのだろう。それまで射殺すように橘を睨んでいた眼を固く瞑り、怒鳴り声を噛み殺すように歯を食いしばっていた。
 堂島は義憤に震える若い相棒の姿を痛ましい気持ちで見つめ――その時、耳に届いた信じがたい呟き声に、愕然となった。

「震えてるよ、おい――せっかく得た『拉致被害者保護』の手柄がなくなるのが、そんなに悔しいのかねぇ、元エリートさんは」

 意識が真っ白になるような一瞬の空白の後、こみ上げてきた視界が赤く染まるほどの怒りに、堂島は眦を吊り上げて口を開き――

「――今、不謹慎な発言をしたのは誰ですか」

 そこから怒声が飛びだすより先に、静かだが威圧感のある声が場に響いた。
「名乗り出なさい。今、発言したのは誰ですか」
 特に声を荒げている訳でも、声量を上げた訳でもないのに、突き刺さるような鋭さを持って場に響き渡る橘の声。
 これまでまるで表情が見えなかったレンズ越しのその眼差しに、僅かながら怒りの色が滲んで見えた。
 指揮官が初めて見せた怒りの色に、場が俄かにざわめき、誰もが発言者を捜すように視線をさまよわせ始める。
 この意外な流れに、最も戸惑った様子を見せているのは足立だった。今さっき受けた手酷い中傷の言葉も忘れ去った様子で、信じがたいものを見るような眼差しを橘に向けている。
 その眼差しに気づいているのかいないのか、橘は一向に名乗り出ない発言者に向けて痛烈な言葉を吐いた。
「……人をあげつらうのだけは一人前。その癖自分の発言には責任も持たない。……何とも情けない限りですね」
 その言葉に、何故か足立が刺さった顔をした。――過去の自分の所業に思い当たる節があったのだろうか。
 他にも気まずげに俯く者の姿がちらほらと見え――あの中の誰かが、先程の呟きの主なのかもしれない。
「――この件はこれ以上追及しませんが、今後、会議の進行を妨げるような悪質な発言は慎むように」
 ぴしゃりとそう告げてから、一度眼鏡の位置を直す仕草を見せてから、元の淡々とした口調に戻って告げる。
「……今後は山野殺害にのみ焦点を絞って捜査していきます。一から洗い直すつもりで捜査に取り掛かって下さい」
 その言葉をシメとして、この日の捜査会議はお開きとなった。
 解散を告げた橘の声を合図に会議室の外へと散っていく同僚たちの背を見送りながら、堂島は未だ椅子に腰かけたままの足立に声をかける。
「……大丈夫か?」
「あー……まあ、何とか。……ちょっといろんなことがいっぺんに起こりすぎて、脳みそオーバーヒートしそうですけど」
 答えながら足立が浮かべたのは、いつものへらりとした笑み。――しかし、堂島の目には泣く寸前かのように引き攣って見えた。
「……しっかし、参ったなぁ、これ。小西さんや雪子ちゃんにどう話せばいいんだか。……も~、被害者たちに睨まれるのは現場の人間だって、上はわかってくれてるんですかねぇ~?」
 あはは、と笑いながら軽口のように吐き出される足立の言葉。――その声は、さながら傷口から溢れる血を思わせて。
 被害者たちの第一発見者となったからか、この町に来ての最初の事件だったからか――それとも他に理由があるのか、何にせよ、彼のこの事件に対する意気込みは並々ならぬものがあった。
 特にここ最近は個人的に何かとっかかりを掴んだのか、他の全てを放り出して資料を整理し直していたというのに――その矢先に、この事態だ。凹むのも無理はないだろう。
 それでも、まだ終わったわけではない。そう思って、励ましの言葉を投げる。
「……そう落ち込むな。山野の件の捜査まで打ち切られたわけじゃない。犯人を上げてから余罪を追及してやりゃあ、小西早紀や天城雪子の件も――」
「――それは、山野殺しと同一犯の場合でしょう」
 言葉半ばで返された短い呟き。――その意味を咀嚼して堂島は愕然と眼を見開いた。
「……まさか、別人の犯行だってのか……?」
 呆然とした呟きに、足立はどこか疲れたような声音で自説を語り出した。
「……山野殺害時と二件の誘拐事件では、犯人の手管の精錬さに大きな差があります。山野殺しは散々揉み合った末の犯行。しかも、後から慌てて指紋を拭うようなお粗末ぶりです。一方で、誘拐時の手際は恐ろしいほど隙がない。二件のいずれでも、被害者に抵抗の隙さえ与えずに拉致。まるで自身の痕跡を残すことなく現場から立ち去っています。――同一犯と見るには、ギャップが激しすぎる」
 『一時的に失踪する』という共通項にばかりに目が行って、まるで気が付かなかった手口のギャップ。それを指摘されて堂島は愕然と眼を見開いた。
「犯行の手口には犯人の性格が出るもんです。――そう考えて見ると、山野殺しと拉致の二件はまるで別人の犯行としか思えない。しかも、互いに共謀している様子もない――完全に別口の犯行ですよ」
 ――確かに、その通りだ。
 愕然とした思いと共に足立の言葉を受け入れるも、それによって一つの疑念が堂島の胸に湧き上がる。
「……どうしてお前、その件を上に上げずに、一人でジタバタしてたんだ」
 殺人と誘拐が別人の犯行だとすれば、捜査方針を大きく変える必要があるというのに、それを秘匿するのは多大な捜査妨害だ。今更この若い刑事が手柄を独り占めするために情報を秘匿したとは思わないが――だからこそ解せなかった。
 しかし、彼がため息まじりに返してきた返答に、嫌というほど納得した。
「……現時点で山野殺しと誘拐事件を切り放したら、目撃者も物証もなく、被害者の証言だけが根拠の誘拐事件は、『家出人の狂言』として片付けられてしまうかも、と思って……」
 結局、言わなくてもこうなっちゃいましたけど――そう呟いた声には、悔しさがありありと滲んでいて。
「――足立……」
 かける言葉を見失い、堂島はただ若い相棒の名前を呼ぶことしかできなかった。

「――けど、まあ、やるしかないですよね」

 だが、その呼びかけに返って来た声は、芯の通った強いもので。

「他の連中がやらないっていうなら――もう僕らだけででも、誘拐犯を追うしかないですよね?」

 そう告げて笑うその顔は、今まで見てきた彼の表情の中で、最も雄々しいものだった。

(――ああ……こんな顔もできるんじゃないか)
 ――へらへらした愛想笑いなんかより、こっちのがよっぽど男前だ。
 そんな風に思いながら、堂島もつられたように口元を不敵に吊り上げる。
「……ちなみに、その“僕ら”ってのはお前と誰のことだ?」
「そんなの当然、僕と堂島さんに決まってるじゃないですか~。それともなんですか?堂島さんは一抜けですか?」
 意地悪く訊いてやれば、それ以上に生意気な調子で返される。
「――誰に向かって言ってやがんだ!俺は泣く子も黙る稲羽署の堂島だぞ!」
 そう勢いよく啖呵を切って、へらへらと笑う相棒の後ろ頭を軽快に叩いてやった。

 ――上の思惑など知ったことか。

 二人して、体裁を取り繕うのに必死な上の姿勢を笑い飛ばす。

 ――どれだけかかろうと、必ず事件の真相を暴いてやる。

 そう、固く、決意した。

 * * *

「――誰に向かって言ってやがんだ!俺は泣く子も黙る稲羽署の堂島だぞ!」
 平手と共に見舞われた、堂島の勢いのよい啖呵。
 その声に呼応して、脳裏にもはや馴染みとなった『声』が響く。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者との絆に、“法王”のペルソナを見出さん≫

『我は白澤ハクタク……瑞兆は、汝が行く末にこそあると知れ』

 全てを見通す輝きを持つ、面に三つ、胴に六つあるそのまなこ。額に一対、背に二対の角を生やした、人頭牛身の霊獣。

 ――ペルソナ、“ハクタク”。

 堂島との間に結ばれた絆の証に、思わず足立は不敵な笑みを深め――
「――だが、誘拐犯が山野殺しと別人となると、これまでの捜査はまるでアテにならないな……」
 しかし、そんな呟きと共に渋い表情となってしまった堂島を見て、思わず苦い顔になる。
 その点は、関係者のアリバイを洗い直そうとした時点で足立も気が付いていた。
 現在、警察関係者にマークされているのは、そもそもの発端となった『山野殺しの容疑者』――『山野に強い利害関係のある人間』や『事件当時、天城屋旅館に出入りできた人間』だけなのだ。
 つまり、そもそも『山野殺し』と全くの別口である『誘拐犯』は、現状、捜査リストに上がってさえいない可能性が高い。
 こうなってしまうと、動機も不明、手口も不明な現状では、容疑者のアテさえつけられないのだ。
「こうなると、もう、被害者の共通項から洗うしかないんですけど……正直、誘拐された二人の共通項なんか、『八十稲羽在住』、『女性』、『十代後半』、『八十神高校の生徒』ってくらいしか思い浮かばなくて……」
 『マヨナカテレビに映った』という共通点もあるが、それはあえて口にしない。――別ベクトルからの視点の維持という点でも、“非常識”な事象の情報はあまり堂島の耳に入れたくなかった。
 足立の言葉に応え、堂島が顎に手を当てながら告げる。
「他にもあるぞ。――『被害に遭う直前、メディアに取り上げられている』」
 あ、と思わず間の抜けた声が足立の喉から漏れた。――脳裏に蘇るのは、雪子救出の際に『城』で聞いたインタビュアーのセクハラ発言だ。
 堂島は自身の手帳を取り出して手繰りながら、情報を補足する。
「小西早紀は『山野真由美の遺体発見者』として、天城雪子は『事件のあった旅館の女将代理』として、それぞれテレビのインタビューを受けている。被害に遭ったのは、どちらもインタビュー映像が放送された翌日だ。――ついでにこの法則は、事件前日から不倫報道で騒がれてた山野真由美にも当てはまるんだがな」
 だから、俺はてっきり、一連の事件は『この町の“時の人”を狙った愉快犯』の仕業かと思ってたんだが――そんな呟きが最後に添えられる。
 堂島は薄い手掛かりの中でも、自分なりの犯人像を描いていたらしい。そのことに感心しつつも、足立の脳裏に引っかかるものがあった。
(――あれ?……事件の前日ってことは……この法則性、もしかして、マヨナカテレビとも符合するのか?)
 被害者たちがマヨナカテレビに映ったのも、決まって事件の前夜だった。――時間的に考えれば、テレビで取り上げられたそのすぐ後、マヨナカテレビに映った形になるのだろう。
(……マヨナカテレビは、『この町の“時の人”』を映し出しているのか?)
 意外なところから見えてきたマヨナカテレビの法則性。――しかし、誘拐犯の狙う被害者の共通項が『マヨナカテレビに映ること』であると断定できていない現時点では、この情報が生きるかどうかは微妙なところだった。
「――気になるのは、山野殺害に誘発されたような犯行開始のタイミングだな。ただの偶然なのかもしれないが……同一犯に見せかけた一種の模倣犯か、山野の死が犯行の動機に関わっているという可能性もある」
 堂島の言葉に、足立もそれらの可能性について思案してみる。
 模倣犯という可能性は低いだろう、と足立は思う。
 『テレビに人を放り込む』という非常識な犯行手段は、模倣しようとして模倣できるものでもないはずだ。しかも、『放り込む』までの手際は寧ろ誘拐犯の方が巧みである。これはもはや“模倣犯”とは呼べまい。
 では、山野の死が誘拐犯の動機と関わっている可能性についてはどうだろうか。
 誰かが殺されたことを期に、その殺人犯とは別の人間が犯罪に手を染める動機。――単純に考えるなら。
「……復讐?」
 ぽつり、と呟いた足立の言葉に、思考に没頭してか俯いていた堂島が顔を上げた。
「……ありえない話じゃないな。誘拐された二人は、山野の事件と少なからず接点がある。――山野殺しの犯人ホシを捜しだして復讐するために、関係者を拉致して事件の概要を無理やり聞き出そうとした可能性もあるぞ」
 思いついた言葉を単に発しただけだったのだが、堂島の言葉でそれが存外的外れでもないことに気が付き、足立は思わず眉を寄せた。
 “テレビの中の世界”は放り込まれた人間が抑圧かくしている心理を具現化する。――誘拐犯は、山野殺害事件の関係者を“あちら”へ放り込んで、その人物が“白”か“黒”かを判断しようとしているのかもしれない。
 わざわざ危険を冒して中に入って確認しなくとも、人を放り込めば、その人間から生まれたシャドウの言動はマヨナカテレビに映し出される。それは雪子の件で確認済みだ。
 そして、これなら一度放り込まれた人間が再び狙われない理由も説明できる。――山野殺しの犯人でないなら、それ以上狙う理由がないという訳だ。
 だが、もしこの推察が当たっていたとしたら――
「被害者たちの記憶が曖昧だったのも、自白剤のような薬物を使用された副作用かもしれん。――だとしたら、誘拐犯は、被害者たちの身の安全にまるで頓着してないということになるが……」
「……そういうことになりますね……」
 堂島の低い呟きに、足立も暗い声で肯定の意を返す。
 ――誘拐犯は、自身が放り込んだ被害者の“安全”をまるで問題にしていないのだ。
 足立たちが救出したことで、早紀も雪子も助かったが、あのまま“あちら”に放置されていたら、遠からず山野と同じ死に様を晒していたのは想像に難くない。
 誘拐犯の動機が足立の推測通りならば、犯人はとんだ狂人だ。――山野の復讐さえ遂げられるなら、その過程で無関係な人間が何人犠牲になろうと構わないということなのだから。
「しかし、そこまで復讐に固執するとなると、相当山野に近しい関係者ということになるが……そうなると、思い当るのは一人しかいない」
 何とも言えない表情での堂島の呟きに、足立も微妙な顔で頷く。
 復讐に走る程、山野のことを思っていた人物――堂島の言う通り、そんな人物の心当たりは、今のところ一人しかいなかった。
 山野と不倫関係にあった元議員秘書――生田目太郎だ。
 動機の点からいえば文句なしに最有力容疑者なのだが、何故二人して微妙な表情を浮かべているかといえば。
(――あいつは、こんな狂った“復讐”に走るタイプには見えなかった)
 この一点に尽きるのだ。
 どちらかといえば、善良でお人好しそうな――他者を害することから縁遠そうな人種に見えた。少なくとも、自身の復讐に、無関係かもしれない人間を平気で巻き込めるようなタイプには見えなかったのだ。
 しかし、最有力容疑者を単なる心証で判断するわけにもいかない。
「――えーっと、生田目のアリバイはどうだったかな……」
 会議の席にも持ち込んでいた自作の資料ファイルを開き、生田目に関するページに目を落とす。
「えーと……誘拐事件の際は、いずれも『家業の手伝いで配達に出ていた』と本人は証言していますね。一応、配達先の裏は取れていますが、それでも全くの空白がないという訳ではないので完全なアリバイとは――」
「――配達……?」
 資料を読み上げる足立の声を途中で遮って、堂島が硬い声を零す。
 ファイルから視線を上げて堂島を見やれば、彼は眉間に深く皺を寄せて何やら思案している様子だった。
「……堂島さん?」
 訝しんで声をかければ、返されたのは驚愕の答え。
「――誘拐犯の手口がわかったかもしれん」
「え……本当ですか!?」
 思わず裏返った声を漏らした足立に、堂島は固い表情のまま、誘拐犯の手口について語り出す。
「今までの聞き込みで、“不審車両”の目撃情報はまるで出なかった。俺たちは『犯人はどうやって誰にも目撃されずに犯行を成し遂げたのか』と頭を悩ませていたが、そもそもそこが間違っていたんだ。犯人の車両は“目撃されなかった”んじゃなく、“目撃されても不審に思われなかった”だけなんだ」
 そこまで言われて、足立も“その可能性”に気づく。――ファイルに書かれた、『配達』というキーワード。
「……宅配業者の車両なら……商店街に停まっていても、旅館の敷地内に停まっていても、不審には思われない……」
 ――というより、どこの路肩に停まっていようと、風景の一部として意識すらされないだろう。
 そういうことだ、と頷いて、堂島は結論を重い声で告げた。

「――誘拐犯は、宅配業者の車両で犯行を重ねていたんだ」

 ――動機と手口を持ち合わせた男は、資料上の写真の中で暗い表情を浮かべていた。


(――で、結局目撃情報なしですか……)
 残念な結果にガックリと肩を落として、足立はとぼとぼと夕暮れの商店街を歩く。
 誘拐犯の出口に目星がついた後、『事件当時、現場付近での宅配車両の目撃情報』を得られないかと、堂島と手分けして訊き込みに出たのだ。
 最有力容疑者の目星がついたといっても、現時点では何の証拠もないただの推論だ。せいぜい生田目を任意同行で引っ張るのが限界――否、誘拐事件そのものが“事件”扱いされていない現状では、それすら不可能といえる。
 せめて、『事件当時、現場付近に宅配トラックが停まっていた』などの目撃情報が上がれば、その車両による“誘拐事件”なのだと、上に働きかけることもできるのだが――
 「宅配の車なんかいちいち気にかけないし……」「商店街で宅配トラックを見たことはあるが、それがいつだったかなんて覚えてない」などなど、足立の推察通り、“宅配車両”は完全に日常風景の一部と化していて、まるで人々の記憶に残っていなかったのである。
 せっかく手口に目星がついたというのに、奮闘空しく、何の収穫もないまま日暮れを迎えようとしている。――やたらに綺麗な田舎の夕暮れが憎らしい。
「――あれ、足立さん?」
 と、仇敵を見るような眼で茜空を睨んでいた足立に、背後から耳慣れた声がかかった。
 振り返れば、少し離れたところに佇む、私服姿の暁の姿。
 傾きかけた西日に照らされたその姿に、先程までの不機嫌さなどどこか彼方に放り投げて、足立はにこやかな笑みを返した。
「暁ちゃん!どうしたの?お買い物?」
「あ、いえ、千枝と河原に行った帰りなんですけど。これまであまり商店街の方に来たことがなかったので、ちょっと寄ってみようかな、と思って」
 笑顔で応えてくれる暁に「そうなんだ~」としまりのない笑顔で頷く。
「足立さんはお仕事ですか?」
「うん、訊き込み。――結果は散々だったけど……」
 そう答えて項垂れつつも、さりげなく横に並んで、一緒に歩き出す体を作り――
「――あ!」
 暁の後頭部に留まった蒼い蝶の姿に気づいて、思わず声を上げてしまった。
「ひゃっ!……ど、どうかしました?」
「あ――ごめん!……それ、つけてくれてるんだ、って思って……」
 びくりと身を竦めた暁に慌ててそう謝れば、西日に染まった彼女の頬が、少し赤みを増した気がした。
「あ……は、はい……」
(――ああ、もう……ほんっと可愛いなぁッ!)
 はにかんだ様子で俯く暁の姿に、その場でごろんごろんのた打ち回りたい衝動に駆られつつも、足立は必死でそれを自重し――ふと気づく。
「……あれ?バレッタ、ちょっと曲がっちゃってるよ」
「え?ホントですか?」
 留まったバレッタが少し斜めになっている。足立の指摘に、暁は慌てた様子でバレッタを外した。
 そうして、バレッタを軽く唇で咥え持つと、空いた両手でサイドの髪をまとめ直しはじめる。
(――ちょっ……その仕草反則っ!)
 その姿に、足立は思わず漏れそうになった声を何とか噛み殺す。
 後頭部に手をやるため、自然と俯いて伏し目がちとなり、その上で髪留めを浅く咥えて、西日に頬を染めたその姿が、妙に艶っぽく見えてしまったのだ。
(お、落ち着けっ!落ち着くんだ僕!――っていうか、こんなんでいちいち反応するとか、どんだけ飢えてんだよ、俺はっ!)
 暁からすれば何の他意もないだろうそんな仕草にまで過剰反応してしまう自分に、もはや情けなさすら感じる。
「……足立さん?……えっと、何か……?」
 まとめた髪を左手で押さえ、咥えたバレッタを右手に持ち直したところで、足立の視線に気づいたらしい。暁が若干不審そうに眉を寄せながら、足立の方を見上げてくる。
「――あ、え、その……っ!」
 ――ヤバい、何も言い訳が思いつかない。
 足立が思わず口ごもったその時――バレッタを持っていた暁の右手を掠めるように、何かの影が素早く横切った。
「――きゃっ!?」
 驚いたように身を捩った暁が、バランスを崩して足立の方へと倒れ込みそうになる。それを咄嗟に抱くようにして支えつつ、足立は暁の頭越しにその影の正体を見た。
 そのフォルムは、一見犬と見紛うものだが――違う。
「――キ、キツネ……!?」
 そう、それは、身体のあちこちに傷跡を刻んだ――キツネだった。
 そのキツネは足立と暁からやや距離を取ったところで佇み、その口に咥えたモノをアピールするように顎をしゃくって見せる。――先程まで暁の手にあった蒼い蝶の姿をそこに認めて、足立はぎょっと目を剥いた。
「ちょ、お前!それ!」
 足立が反応したのを見るなり、キツネは踵を返して走り去っていく。――すぐそばにある神社の方へと。
「――待て!」
「きゃっ!?」
 咄嗟に追いかけようとして、腕の中で上がった悲鳴に慌てて動きを止める。――危うく、抱えたままの暁を突き飛ばしてしまうところだった。
「ご、ごめんっ!――って、ちょ、待てお前ぇーっ!」
 その間にも見る間に小さくなるキツネの姿に思わず叫ぶ。――途端、それに応えたようにキツネの足が止まった。
「――へ?」
 「待て」とは言ったものの、本当に待つとは思わなかったため、足立は思わず間の抜けた声を漏らして、足を止めたキツネを凝視する。
 よく見れば、そのキツネは赤い前掛けを首から下げており――野性味あふれるその姿とは裏腹に、もしかしたら人慣れしているのかもしれなかった。
 キツネは足立が凝視する間も、じっとそこに佇んで足立たちの方を眼光鋭く見据えている。
「……こっちに来い、ってことでしょうか?」
 こちらを見上げて首を傾げた暁と目が合い――不自然に近いその距離に、抱え、抱えられたままの姿勢を互いに自覚し、慌てて身を離した。
「――え、えっと……と、とりあえず、バレッタ返してもらわないとだし……お、追いかけようか……?」
「あ、は、はい……」
 互いにどぎまぎとそんな言葉を交わしつつ、キツネの方へと向き直れば、キツネはどこか呆れたような眼差しをこちらへ投げてから、神社の敷地の奥へとやる気のない足取りで歩み始めた。
 走れば追いつきそうだと思って足立たちが足を速めると、それを察してかキツネの方も速度を上げる。一定の距離を保った状態のまま神社の境内まで誘導される形になった。
 神社の本殿前でキツネは大きく跳躍し、脇に生えた木の枝も足場にして本殿の屋根に上がる。かと思えば、すぐに飛び降りて、追いかけてきた足立と暁の目の前に着地した。
「――って、お前、暁ちゃんのバレッタどこやった!?」
 キツネの口に咥えられていたはずのバレッタがいつの間にか消えていることに気づいて、足立は目を剥いて叫ぶ。
 それに答えるように、キツネはついと視線を本殿の屋根へと向ける。――先程屋根に上った時にそこへ置いて来たらしい。
 足立は咄嗟に先程キツネが足場にしていた木を見る。小学生ほどの体重しかないだろうキツネならともかく、足立や暁が登れば折れてしまうだろう細さに、自分で登って取るという手は早々に却下されてしまった。
 どうしたものか、と思案する足立の気など知らぬ様子で、キツネはテコテコと小さな屋根が付いただけの簡素な絵馬殿に歩み寄ると、ひょいと跳躍して一枚の絵馬を取る。その絵馬を咥えたまま、不自然に足立を迂回して暁の方へと歩み寄った。
「……えっと……私に?」
 目の前で、ずい、と突きつけるように絵馬を掲げるキツネの姿に暁が困惑したような声を漏らす。キツネはまるで頷くように一度頭を上下させた。
(……コイツ、化け狐かなんかじゃねぇだろうな……?)
 どう見ても人の言葉が理解できているとしか思えないキツネの動きに、足立はわりと本気でそんな疑惑を抱く。――空っぽで動く着ぐるみやシャドウのような魍魎だって存在するのだ。妖怪が実在しないとは言い切れないのではないか。
 おずおずと暁が絵馬を受け取る。暁の手元を覗こうと足立が彼女へ身を寄せれば、キツネが足立から逃げるように距離を取った。――隙あればすぐにでもふん捕まえてやるつもりなのだが、生憎相手もそれに気付いているようだった。
 ちっ、小さく舌打ちしながら、今度こそ暁の手の中の絵馬に視線を落とす。

 ――『おじいちゃんが元気になりますように』

 何とも健気な願いが、子供らしい稚拙な字で書かれているのを見て、足立は思わず眉を寄せた。
「……この願いを叶えて欲しい、ってことでしょうか……?」
 暁の困ったような呟き。――だとするならば、とんだ人選ミスである。足立も暁も医者ではないというのに。
「――って、あれ?裏に何かついてる?」
 と、絵馬の裏に何か張り付いていることに気づき、足立はそれを引っぺがす。――大葉のような形の青々とした木の葉だった。
「……何これ?」
 思わず伺うようにキツネを振り返れば――途端、キツネは何かに気づいたようにぴくりと耳を揺らすと、ぱっと身を翻して本殿の影へと逃げて行ってしまった。
「え、ちょっ……!」
「――おお?この神社に若いもんがいるなんぞ、珍しいこともあるもんじゃ」
 いきなり逃げたキツネに足立が思わず声を上げかけた時、老いた声が足立たちの背後からかかった。
 驚いて振り返れば、そこに居たのはどこか見覚えのある老人。
「……あれ、お爺さん、いつかの……」
「お?刑事の兄さんじゃないか。お参りとは、都会育ちの割に信心深いの。――それとも、そちらの御嬢さんとのデェトかの?」
 いつぞや『屋号』の話をしてくれた老人だった。冗談交じりにそんなことを言って、ほっほっ、と身体を揺らして一人楽しげに笑う。
 かと思えば、途端に顔をしかめて「いだっ!」と濁った悲鳴を上げた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……あ、ああ、すまんね、お嬢さん……」
 曲がった腰を押さえて硬直した老人を、暁が寄り添うように支える。それに礼を言って、老人は忌々しそうにため息をついた。
「――ったく、この腰痛がのー……日課のお参りも毎日は来れんようになってしまったし、何より孫と遊んでやれんのが辛くてのー……」
 ぼやいているうちに痛みも治まって来たのか、老人は俯いていた姿勢を徐々に上げていき――足立の手元まで視線が上がった途端、カッとその眼を見開いた。
「――おおおおおおお前さん!それっ!」
「うわっ!?」
 腰痛はどうした、と言いたくなるような物凄い勢いで詰め寄ってきた老人に、足立は思わずビビって腰を引く。
 そんな足立の様子にお構いなしに老人は食い入るように足立の持つ葉っぱを見つめ、やがて何やら確信したように頷いた。
「……やはり!こりゃぁ、『八十神の霊薬』じゃ!――若いの!それを儂に譲ってくれんか!?」
「え、あ、わ、わかりました!」
 勢いに呑まれて、言われるままに足立は老人にそれを手渡してしまった。
 受け取った老人は嬉しそうにそれを掲げて、「ありがたや~」などと呟いている。
「そ、それ、何なんですか……『八十神の何とか』って言ってましたけど」
 あまりに大げさなその反応に、思わず問わずにはいられなかった足立へ、老人は我に返った様子で向き直る。
「あ、ああ。すまんすまん。――『八十神の霊薬』と呼ばれる、ここの山でだけ取れる薬草じゃよ。摩り下ろして塗れば傷に効き、煎じて飲めば万病に効くと言われて重宝されとったんだが、最近は山が違法廃棄物やらなんやらで汚されたせいか、めっきり姿を拝めなくなってしまってなぁ……」
 まだ生えとったんだのう、としみじみと呟く老人の説明に、足立と暁は思わず顔を見合わせた。
(――『おじいちゃんが元気になりますように』の願い……『腰痛で孫と遊べない』と嘆く老人……で、万病に効くっていう薬草……)
 あのキツネは、まさか最初からこの展開を狙っていたとでもいうのだろうか。
「しかし、この場所でこの薬草を手に入れられるとは、これもきっとお稲荷さんのご加護じゃなぁ。感謝せねば」
 言って老人は賽銭箱に歩み寄ると、結構な額の賽銭を投じて長々手を合わせる。
「――さて、さっそく家に帰って、この薬草を煎じて飲むかの。……ありがとうな、お二人さん!」
 老人はそう言い残すと、やや腰を庇いつつも軽い足取りで去って行った。
 途端、本殿の影から姿を消していたキツネが現れ、賽銭箱を覗き込んで尻尾を振り出す。その姿に、足立は思い切り顔を引き攣らせた。
(――賽銭目当てかよこのキツネ!?)
 というか、賽銭貯めてどうする気だというのか。動物の身では金銭など使い様がなかろうに。――まさか、本当に化け狐で、人の姿に化けて買い物でもするのではないだろうな。
「――キツネさん……あのお爺さんのために、私たちを呼んだの?」
 「いや賽銭のためだと思う」とのツッコミを噛み殺す足立の前で、おずおずとした暁の問いにキツネはコン!と一つ鳴いて見せた。――そうして、再び枝を伝って本殿の屋根に上ると、暁のバレッタを咥えて戻って来る。
 ことん、と静かに暁の足元にバレッタを置くキツネ。更に前掛けのポケットへ器用に鼻面を突っ込むと、そこから数枚の木の葉を取り出して、バレッタの横に沿えた。
「……お礼のつもり?」
 足立が問えば、コン!との返事が返ってくる。――多分、肯定のつもりなのだろう。
 『八十神の霊薬』と称される、希少な薬草。その効能がどれほどのものかはわからないが、これは“あちら”での探索時に重宝するかもしれない。
「……できれば、もうちょっと数が欲しいよな」
 しかし数が心許ないと思って足立がぼそりと呟けば、キツネは絵馬殿の方へ駆け寄ってこちらに向き直る。――その尻尾は、ぶんぶんと勢いよく振られていた。
 その動きの意味が嫌でも察せられてしまって、足立は引き攣った笑みで引き攣った声を漏らした。
「……もっと欲しけりゃ、願いを叶えろ、ってか?」
 「その通り!」と言わんばかりに、キツネは一際高く、コーン!と鳴いて――
 その鳴き声に呼応するように、脳裏に響く声ならぬ『声』。

≪我は汝……汝は我――

 汝、新たなる絆を見出したり――

 絆は即ち、まことを知る一歩なり――

 汝、彼の者との絆に、“隠者”のペルソナを見出さん≫

『ワレ、クダギツネ。……コンゴトモヨロシク……』

 竹筒の中から細長い身体を伸ばした、キツネの頭部と毛並を持つ化生。鋭く小さな牙を覗かせて静かに笑う。

 ――ペルソナ、“クダギツネ”。

(――今度は人外かよッ!?)
 『だいだら.』の親爺以上の予想外過ぎるコミュに、足立は思い切り顔を引き攣らせる。
「……コミュニティって……人とじゃなくても結べるんだ……」
 と、どこか呆然とした暁の呟きに、彼女もまたキツネとのコミュニティを結んだのだと知って――もはや、色々とどうでもよくなった。

 ――もう、人外だろうが、無生物だろうがドンと来い。

 半ば開き直りのような心境でそんな風に思う足立を後目に、キツネはコーン!と藍色に染まり始めた空へと楽しげな声を響かせるのだった。

 * * *

「やーっと終わったなー。うあー、この解放感!これだけは全国共通だな!」
 5月12日の木曜日、中間テスト最終日の放課後。――結果はともかく、厄介ごとが終わった清々しさに、陽介は大きく伸びをして声を上げる。
「ちょっと、うっさい!」
 すると、斜め前の席から叱責の声が飛んできた。不機嫌そうな顔でこちらを睨んだ千枝は、すぐに前へと向き直ると、成績優秀な親友へと問いかけの言葉を投げる。
「じゃあ、問7は何にした?文中の“それ”が差す単語を答えよってヤツ」
「えっと――」
 雪子が自身の回答を告げるなり、千枝の悲鳴が響く。どうも答え合わせの結果は芳しくないようだった。――嫌でも聞こえてくる雪子の回答と自身の回答の差異に、陽介は思わず顔を引き攣らせる。
「里中もよくやるなぁ~……今更どーしよーもねぇのにさ~……」
「でも、返ってくる前に自分で答え合わせするのは、いい復習になるよ?」
 進んで自爆していく千枝に思わず感心と呆れが混じった声を漏らせば、暁がおさげを揺らして振り返り、穏やかに笑って告げる。――雪子の回答を耳にしても顔色を変えない辺り、おそらく彼女も成績優良組なのだろう。
(……っていうか、学校転々としてると、嫌でも自習とかの習慣身につきそうだもんな……)
 学校ごとに授業内容のズレがあるのはザラだというし、その辺りを自力で埋めるならばやはり自習するしかないだろう。――自身の境遇のせいにして投げるのは簡単だが、彼女の性格的におそらくそれは無理だ。
 そういう風に考えると、何でもそつなくこなす暁の如才なさの裏に、彼女のこれまでの苦労が透けて見えてくる。例えば、年齢の割に卓越した料理の腕だって――そう考えかけて、陽介は慌ててその思考を中断した。
(――あー、もう、どうしてこう、人の裏を探っちゃう癖が抜けねぇかなー……やめやめ)
 他者を分析し、付き合う距離を測る能力。なあなあな付き合いがデフォルトの都会暮らしで身につき、敵の多いこの町で磨かれてしまった嫌な特技だ。
 人を気遣うことにも応用できるものではあるが、やはり友人についてあれこれ勝手に推測するのは、やっていても気持ちのいいものじゃない。相手だって、話してもいないことを勝手に探られたらいい気はしないだろう。
(友達なんだから、そんな風に探らなくたって自然に知っていけるだろ)
 この町で自分が得た友人たちは、都会の頃のようになあなあな付き合いでも、こちらを攻撃する材料を探ってくる敵でもないのだから――そう、陽介は結論付けた。
「――わかった。もう現国は諦める。地学にかける」
 と、陽介が自身の悪癖と向き合っている間に、千枝は現国の答え合わせを終えていたらしい。その悲痛な呟きに、陽介は思わず苦笑する。――まあ、自分も人のことを言えるほどの出来ではなかったのだが。
「ねえ、暁、『太陽系で一番高い山は何か』って四択、答えどれにした?」
 今度は雪子ではなく、暁に問う千枝。話を振られた暁は記憶を探るそぶりも見せず、さらりと答えを口にした。
「3のオリンポス山にしたよ」
「ギャー!マジで!?違うのにしちゃったよ……」
「あ、私と一緒だ」
 千枝が頭を抱えるのと対照的に、雪子が顔を綻ばせる。
「おっ、天城も!?じゃあ、それ正解っぽいじゃん……」
 言いながら自身の書いた答えはどうだったかと思い返すが、ロクに思考せず勘で選択したのか、何を選んだのかまるで思い出せなかった。
「――あーあー、廊下に張り出されんのが楽しみだよ、ったく……」
 こんな有様では自分のテストの出来はたかが知れていると、自虐的に低い声で呻く。この学校では、今時珍しく、定期テストの点数順位が昇降口前の廊下に張り出されるのだ。――個人情報の保護的にどうなんだと猛烈に抗議したい。
(――っていうか、俺はテスト勉強よりも重要なことに脳の容量使ってるんですから大目に見てくださいよ先生方!)
 決して口にはできない言い訳を、自身への慰めのために思い浮かべる。
 実際、家で机に向かっても、商店街とジュネスの問題や事件のことへとつい思考が逸れてしまって、テスト勉強に身が入らなかったのは確かだ。――足立あたりに知られようものなら、「テストの成績悪いの事件のせいにするなら捜査に入ってくんな」などと切って捨てられそうなので、口が裂けても言えないが。
「――聞いた?テレビ局が来てたってよ」
「どーせ、例の“死体がぶら下がってた”事件のだろ?」
 と、事件のことについて思考が向かいかけたタイミングで聞こえてきた、クラスメイトたちのそんな会話に、陽介は思わずそちらに意識と視線を向けていた。
「や、違くてさ、幹線道路あんだろ?あそこ走ってる暴走族の取材だってよ。オレのダチで族に顔出してるヤツいるがいてさぁ、そいつから聞いたんだよね」
「おま、友達にゾクいるとか、作んなよ?」
(……なんだ、事件と関係ねぇじゃん)
 事件とは無関係の話題と気づいて、陽介は視線と共に彼らの会話から意識を逸らしかけたが――次に聞こえてきた聞き捨てならない言葉に、思わず眉を寄せた。
「――んなことよりさ、明日の合コン、外待ち合わせでヘーキかな?明後日から本格的に雨なんだろ?明日もヤバそうじゃね?」

 ――雨。

(――マヨナカテレビ)

 雨、という言葉から、その単語が自然と連想された。
(――マヨナカテレビに映った直後に、先輩も天城も誘拐された……)
 マヨナカテレビと事件の関わりは今のところはっきりしないが、陽介としてはこの奇妙な符号が偶然とは思えない。
 山野真由美が殺されたのも、マヨナカテレビに映った直後。そしてそのすぐ後、その遺体発見者である早紀が、マヨナカテレビに映し出され、浚われた。
(そもそもマヨナカテレビの噂は、『運命の人を映し出すもの』として広まってるんだよな)
 実際には、マヨナカテレビに映る映像は視聴者が誰かに関わらず統一されたモノで、『運命の相手』を映し出すなどという代物ではありえないのだが――そんな事実は他の視聴者とマヨナカテレビについて語り合いでもしない限り、気づきようがない。
(――もし、噂を真に受けた人間が、山野が映ったマヨナカテレビを見ていたら……)
 そして――それによって山野を『運命の相手』と信じた人間にとって、彼女が殺害された以降に映ったマヨナカテレビは、どういうものとして解釈されたのか。
 浮かんだ考えについて、陽介は想像を広げていく。
(『新たな運命の人』として解釈するか?――いや、それよりも……)

 ――『死んだ運命の相手からのメッセージ』だと、思い込みやしないだろうか。

(……誘拐犯の動機になり得るんじゃないか、これ)
 何気ない連想ゲームのような思考の着地地点。自身の中で思い浮かんだ動機に、陽介は表情を険しくし――
「ねぇ、花村んちは――って、うわ、すごい顔。……なに?そんなにウルサイの?」
「――はっ?……何が?」
 いきなり千枝に名を呼ばれて、思考の海から引き上げられる。話の前後が見えず、間の抜けた声が漏れた。
「ちょ、聞いてなかったのかよ!……暴走族だよ暴走族!時々夜ウルサイよねーって話」
「暴走族?……あーあー、アレね。――俺んち、道路沿いだからスゲーよ」
 先程聞こえてきたクラスメイトの会話から派生した話題だろうか。陽介が思考に沈んでいた間、女子たちはこの近隣の道路を流している暴走族の騒音問題について話していたらしい。
「なんか、ウチの生徒もいるらしいじゃん?」
「あー、確か、去年までスゴかったってヤツがうちの一年に居るとか、たまに聞くな。中学ん時に伝説作ったって、ウチの店員が言ってたっけ。――んー、けど……暴走族だっけな……?」
 千枝の言葉に記憶を探るも、特に親しくもない店員の話を仕事の片手間に聞き流していただけだったので、きちんと思い出せない。何となく、暴走族ではなかったような気がするのだが。
「で、伝説って?」
 と、『伝説』という単語に雪子が妙に食いついてきた。見れば、期待に目を輝かせた様子でこちらを見つめている。
「あー、多分、雪子が考えてるのとは違うと思うけど……」
 呆れたように釘をさす千枝の横で、暁が「伝説……?」と首を傾げていた。――彼女も時々驚くような天然っぷりを発揮する。彼女の脳裏で話題の不良が築いた『伝説』がどんなものになっているのかと思い、陽介は苦笑してしまう。
 しかし、今はそれよりも、先程思いついた可能性について特捜隊メンバーで話し合いたかった。
「――ところで神代。テストも終わったし、今日あたり、リーダー含めて特捜隊メンバーで集まれねぇかなー、とか思ったりするんだけど」
 リーダーとはこの場にいない足立のことだ。――別段、皆でそう取り決めた訳でもないが、皆をまとめる立場におり、一同の行動の最終決定権を有しているのは彼だ。
「あ、テスト前に会った時、足立さんもテスト終わったら一度皆で集まりたいって言ってたよ。――今日でテストが終わりなのは伝えてあるから、予定は空けておいてくれてると思う」
 足立をリーダーと呼んだ陽介の言葉をすんなりと受け入れて、暁はそんな言葉を返してきた。千枝と雪子からも特にツッコみや抗議の声は上がらない。――やはり、今更取り決めるまでもなく、彼をリーダーとして認めているのだろう。
 足立が最初に『放り込み犯』の捜査を始めた人間だというのも大きいが、やはり一番の要因は年齢と職種だろう。――一同の最年長者で、しかも刑事。わかりやすく頼りになり、頼りやすい立ち位置だった。
 だが、だからこそ、寄りかかりすぎないよう気を付けなければ――そう、陽介は自戒する。
 彼をリーダーと呼ぶのも、最終決定権を委ねるのにも抵抗はないが、甘えが過ぎて、何もかもを彼に背負わせるようなことはないようにしなければ、と。

 ――彼は、自分を“助手”と呼んでくれたのだから。

 “助手”とは、『手助けする人間』であって、『お荷物』ではないのだ。
「――そっか、じゃあ、連絡取ってくれるか?ちょっと犯人の動機についてちょっと思いついたこともあるし」
 胸に刻んだ自戒について態度に出すこともなく、陽介は笑って暁にそう頼んだ。――足立のアドレスは知っているので、別に自分で連絡を取ってもいいのだが、足立としては暁から連絡を貰う方が嬉しいに違いない。
(――ま、とりあえずはこういう方面から“手助け”させていただきますよ、足立刑事)
 素直に頷いて携帯を取り出す暁の姿を見ながら、陽介はこの場にいないリーダーへと心中でそんな風に語りかけるのだった。

 * * *

 昨日の放課後、ジュネスのテレビから入った“向こう”で行われた特捜隊の会議は、様々な衝撃と進展を暁たちにもたらした。
 足立から聞かされた、警察が早紀と雪子の“誘拐事件”を“狂言”と断定し、捜査を打ち切ってしまったという事実。
 同時に告げられた、足立は堂島と共に“誘拐犯”を追い続けるという決意のこもった宣言。
 そして、足立が“複数犯説”を堂島に伝えたことで浮上した、“誘拐犯”の手口と動機、そして有力な容疑者――生田目太郎。
 そこに陽介が一人巡らせていたマヨナカテレビと“誘拐犯”の動機に関する推察が加わって、容疑者への推測はより深いものになった。

 ――生田目がマヨナカテレビを山野真由美からのメッセージと思い込み、そこに映った人間を山野殺しの容疑者と見なしてテレビの中に放り込んでいる。

 この推測が正しければ、もはや山野真由美と全く関係のない人間でも、『マヨナカテレビに映った』というだけで狙われてしまうということだ。
 足立が言うには、マヨナカテレビは『この町の“時の人”』を映し出している可能性が高いという。――つまり、町で話題になっただけの人間が、全く無関係な復讐劇に巻き込まれてしまう可能性があるということなのだ。

 ――そんなのは、あまりにも救われない。

 勘違いで命の危険に晒される被害者も、愛する人を喪って、見当違いの復讐に駆り立てられている犯人も――そんな風に思い、暁は胸が締め付けられるような悲しみを覚えた。
 同時に、強く思う。
(――これ以上、こんな哀しい事件を繰り返させないようにしなきゃ)
 そのために、足立は今日から、最有力容疑者である生田目を、堂島と共に張っているはずだ。夜も交代で仮眠を取りながら、しばらくは二十四時間体制で見張るつもりらしい。――堂島は今朝、細かい内容こそ告げなかったものの、しばらく泊まり込みになると言って家を出て行った。
 暁はただの高校生で、それを手伝うことは出来ないけれど――せめて、差し入れくらいはしようと、学校から帰宅後、夕食の準備を終えてから、夜食のおにぎりを拵えることにした。
 菜々子にも手伝ってもらって、梅干し、鮭、明太子、昆布、おかかを具に、一口サイズのおにぎりを二つずつ作る。一リットル入る大きめの水筒にお茶も用意し――そこまでして、今更これらをどこに届ければいいのかわからないことに気がついた。
 あまりにもうっかり過ぎるポカミスに、顔を思わず赤らめながら、堂島の携帯に電話を入れる。
 夜食を届けに行きたい、と告げた暁に返されたのは――しかし、断固とした拒絶の声だった。
『――ダメに決まってるだろう!』
 受話器に耳を当てていた暁はもちろん、隣にいた菜々子までもが思わず身を竦めるような怒声。
『――ちょ、ちょっと堂島さん?いきなり大声出して……どうしたんですか?』
 予想外の反応に思わず声を失くして固まる暁の耳に、受話器越しにそんな足立の声が届く。
 と、受話器の向こうから息を呑むような音がして、気まずげな堂島の声が続いた。
『……す、すまん。大声を出して。――だが、届けに来てもらう訳にはいかないんだ。今、俺は容疑者の張込中で、場所は明かせないし……何より、もう日も暮れたっていうのに、女の子が外を出歩くもんじゃない』
「――ご、ごめんなさい……」
 堂島の言葉に、暁は自分がつくづく浅慮だったと気がついて、思わず項垂れた。――確かに、容疑者の張込先を明かすなど、いくら家族相手であっても刑事には出来ないだろう。
 と、そこに、呑気な響きの声が割り込んできた。
『女の子……?――あ、もしかして暁ちゃんですか?』
『あ、ああ。差し入れを届けたいと言ってきたんだが、まさか来させるわけにもいかんだろう』
 受話器越しに聞こえる、足立へと事情を説明する堂島の声。
『ああ、なるほど。確かにそうですよね。――じゃあ、堂島さん、取りに行けばいいじゃないですか』
 意外な足立の提案に、え、と暁と堂島の声が受話器越しに重なった。
『ここから堂島さんちだったら、歩きでもそんな時間かかんないでしょ。しばらくは動く様子もないし、ちょっとぐらいなら僕一人でも平気ですって。――菜々子ちゃんたちの顔見て、やる気充電してきてくださいよ』
 何より、菓子パンかじるだけの夕飯より暁ちゃんの差し入れが食べたいです、としれっとした口調で告げる足立の声。
『……わかった。――暁、俺が家まで取りに行く。家を出るんじゃないぞ』
 その言葉の直後、堂島の方から通話を切られてしまった。
 一瞬呆然と受話器を見つめた後、不安そうな菜々子の視線に気づいて、暁は慌てて笑顔を浮かべて告げた。
「――菜々子ちゃん、叔父さん、お夜食取りに一旦お家帰って来るって」
「え?――本当!?」
 最初の堂島の怒声で曇っていた菜々子の顔が、ぱっと明るくなる。
「すぐにまたお仕事に戻っちゃうと思うけど、『頑張ってね』って見送ってあげようね」
「うん!」
 泊まり込みで今日は会えないと思っていたからか、一目でも父に会えるのが嬉しいのだろう。暁の言葉に菜々子は笑顔で素直に頷いた。
 堂島が夜食を取りに戻って来るまで、とりあえず自分たちの晩御飯を摂ることにする。
『静かな町を脅かす暴走行為を、誇らしげに見せつける少年たち……そのリーダー格の一人が、突然、カメラに向かって襲いかかった!』
『てめーら、何しに来やがった!』
 食事中、テレビから響いてきた突然の怒声に、暁は菜々子と揃って首を竦めてしまった。
『見世もんじゃねぇぞ、コラァ!!』
 見れば、八十神高校の制服を着た少年がカメラに向かって威嚇するように怒声を上げている。
 顔にボカシはかかっているが、声は加工されている様子もなく、何より制服を着込んだ体格のいい長身だけで、知っている人間が見ればすぐに誰だか特定できてしまえそうだった。
(――もしかして……この子、昨日の学校で聞いた話に出てきた……)
 去年『伝説』を築いたという、八十神高校の一年生ではないだろうか――暁がそう察した時。
「――ただいま」
「……お父さんだ!」
 と、思ったより早く玄関から堂島の声が聞こえてきて、菜々子が箸を置いて立ちあがり、玄関へと駆け出す。
 暁も箸を置いて立ち上がると、ダイニングテーブルに置いておいた差し入れの包みを持って玄関へと向かい――
「……お父さん?おてがみ?」
 すぐ出て行くつもりだったのだろう。靴も脱がず、玄関の三和土たたきに立ったままの堂島へ、菜々子がそんな声をかけていた。その視線の先にあるのは、堂島が手にした真っ白い封筒。
「ああ、ポストに入ってたんだが……」
 菜々子の言葉に頷く堂島の表情は、何故か妙に硬い。険しい表情を浮かべ、慎重な手つきで封筒を改め始める。裏表をひっくり返して見比べる動作によって、暁の方からも封筒の表裏が見て取れた。
 封筒に記されていたのは、『堂島 遼太郎様へ』という宛名のみ。住所もなく、当然のように切手も貼られていない。――直接ポストに投函されたらしかった。
(――まさか……これって……)
 『直接ポストに入れられた不審物』――連想ゲームのように、いつかポストに投函されていた死神のタロットカードが暁の脳裏に浮かぶ。
「……差出人の名前はどこにもなし」
 暁と同じ懸念を抱いているのか、堂島は険しい表情で、封筒の口に手をかけ――
「……封もされていないのか……」
 固い声で呟かれた通り、あっさりと開いた封筒の口は、糊付けすらされていないようだった。
 堂島が封筒に指を差し入れ、中身を引き出す。――三つ折りにされた白い便箋。

 同時に――便箋と共に封筒から出てきた“何か”が、ひらりと框の上に舞い落ちた。

(――ああ、やっぱり……)

 “それ”を目にした途端、暁は悟る。――この手紙の送り主は、以前、死神のタロットを送りつけてきた犯人に違いないと。

 何故なら、暁の足元の床に落ちたそのカードは――寄り添う男女が描かれた、“恋人The Lovers”と呼ばれるタロットカードだったのだから――



――――――――――――――
≪ペルソナ解説≫
以下は、この話に登場したオリジナルペルソナの紹介です。
殆どゲーム的なデータで、読まなくてもストーリー的に支障はないので、興味ない人は読み飛ばしちゃってくれていいです。

名前:ハクタク   持ち主:足立※
初期レベル:15   アルカナ:法王
耐性:風・氷 弱点:闇 無効:光

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
毒耐性(-) マズルシュート(-)
魔封成功率アップ(16) マハブフ(20)
マハガル(22)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 小気功(25)
Rank2 毒防御(29)
Rank3 シールボムズ(33)
Rank4 ポズムディ(36)
Rank5 マハガルーラ(40) 
Rank6 マハブフーラ(44)
Rank7 闇耐性(48)
Rank8 勝利の息吹(52)
Rank9 マハガルダイン(56)
Rank10 ペルソナ“キリン”に進化する

【設定】
“堂島遼太郎”との間に発生した“法王”コミュによって生まれたペルソナ。
外見は、顎髭を蓄えた人面牛。額に一対、背に二対の角を生やし、人面にある三つ目とは別に胴にも六つの目を持っている。
漢字表記は『白澤』。中国に伝わる、万物に精通し、徳の高い姿勢者の前に姿を現すという霊獣。聡明で森羅万象に通じ、白澤に出会った者の家は、子々孫々まで繁栄するという。
また、病魔を退ける力を持つとも言われている。
進化後の“キリン”については、“キリン”の欄で後日別途解説。


名前:クダギツネ   持ち主:足立※
初期レベル:15   アルカナ:隠者
耐性:火 弱点:光 無効:闇

習得スキル一覧[()内は習得レベル]
マハムド(-) アギ(-)
ムド成功率UP(17) マハラギ(21)
バリアントダンス(23)
※足立(ドロー能力者)のペルソナは、対応アルカナのコミュランクアップに応じ、随時習得スキルが追加される。
 ランクアップ時に既に追加されたスキルの習得レベルを超えていた場合は、その場で習得できる(スキルがいっぱいの場合はその場で取捨選択)。
Rank1 アギラオ(25)
Rank2 コンセントレイト(29)
Rank3 光からの生還(32)
Rank4 ムドオン(36)
Rank5 マハラギオン(40) 
Rank6 吸魔(44)
Rank7 アギダイン(48)
Rank8 マハムドオン(52)
Rank9 光からの大生還(57)
Rank10 ペルソナ“キュウビ”に進化する

【設定】
“キツネ”との間に発生した“隠者”コミュによって生まれたペルソナ。
外見は、蛇のように細長い体躯をした狐。竹筒の中からひょろりと首を出している。
漢字表記は『管狐』。人や家に憑くことがあるという妖怪。
使い魔として扱われることも多く、その場合は竹筒に入れて飼う。使い魔としての管狐は、主人の目となり耳となり、方々を飛び回るという。
家に憑いた場合、上手く飼い慣らせば家を繁栄させてくれるが、扱いを間違えると逆に不幸をもたらすという。
人間に憑いた場合は管狐の好物である味噌ばかり食べるようになってしまうとのこと。塩分過多ですね。
進化後の“キュウビ”については、“キュウビ”の欄で後日別途解説。




[29302] 18章.逆位置のラヴァーズ
Name: 満夜◆6d684dab ID:49a02ea9
Date: 2012/03/13 19:56
 床に舞い落ちた一枚のタロットカード。――それから視線を外すことが出来ず、暁は思わず凍りついたように立ち尽くす。

 ――以前、何者かによって無理やりテレビに突き落とされたのと時を同じくして、送りつけられてきた“死神”のタロット。

 ならば、このカードも、やはり何か不吉の前触れなのではないかと、嫌な想像が暁の脳裏に膨れ上がり――

「――お、お父さん……どうしたの……?……そのおてがみ、何なの……?」
 と、不安げに震える菜々子の声に我に返った。――見れば、彼女は怯えたように顔を蒼褪めさせていた。
 その視線を追って堂島の方を見て、暁は再び凍りつく。
 手にした便箋に視線を落とす堂島の表情は――思わず凶相と称したくなるほど、恐ろしい形相だった。
 ぐしゃり、と音を立てて便箋に皺が寄る。――堂島の手は細かく震え、力を込めすぎたかのように白くなっていた。
「――暁」
 その堂島に怖いほど低い声で呼ばわれ、暁は思わずびくりと肩を震わせてしまった。
 便箋から顔を上げ、こちらに向き直った叔父は、先程までの凶相を浮かべてはいなかったが、それでも険しい表情であることには変わりなく。
 感情を押し殺したような低い声音で、彼はその問いを口にした。

「……お前、前に“死神”のタロットが送られてきた頃、何か危険な目に遭わなかったか」

 その言葉に、暁は己の表情がわかりやすく引き攣ったことを、鏡を見るまでもなく自覚する。
 脳裏に蘇るのは――強く背を突き飛ばされた衝撃と、放り込まれた四角い深淵の向こうの世界。
「――どう、して……?」
 動揺を隠しきれない声が、暁の唇から零れ落ちた。
 ――何故あの場に居なかった叔父が、あの出来事を知っているかのような問いを口にするのか。
 そんな暁の反応を見て、堂島は痛みをこらえるように顔をしかめ、ため息をつく。
「……心当たりがあるみたいだな」
 苦々しさを隠そうともしていない重い声でそう呟きながら、堂島は手にした手紙を暁へと差し出した。
「……宛名は俺の名前になってはいるが……実質的にはお前に対する“警告”――いや、“脅迫”だ」
 剣呑な言葉と共に手渡された便箋に、暁は恐る恐る視線を落とす。

 ――『親愛なる堂島遼太郎様へ』

 そう書き出されたその文章は、手書きではなく印字だった。――便箋のように見えた白い紙が、そういうデザインで印刷されただけのプリンター用紙であることにそこで気づく。
 先程見えた封筒に書かれた宛名も、印刷した文字を張り付けただけのものだった。――刑事の家に怪文書を投函する程大胆な相手