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[2622] ファフニールの幸福(ハンター×ハンター+現実、第一部、完)
Name: 十八◆4922f455 ID:c47c5104
Date: 2010/02/07 19:15
ハンター×ハンターのトリップもの(?)SSです。
小学生編終了までは集中して書く心算ですが、その先は不定です。


04/02 第六話完結。

 と言うわけで、書き終わらなかった分を投稿。
 で、次回、第一部エピローグ。
 まぁ、ウイングさんと色々話して、独白が入るくらいの予定ですが……。




[2622] 第一話『憑依?転生?世界移動?そんなんあるはずねーだろよ――そう思っていた時期が、私にもありましたorz』
Name: 十八◆4922f455 ID:c47c5104
Date: 2008/08/12 14:26
第一話『憑依?転生?世界移動?そんなんあるはずねーだろよ
    ――そう思っていた時期が、私にもありましたorz』



 オーケイ、落ち着こう。
 俺は今、ベッドの中にいる。
 全身包帯に巻かれて、点滴に繋がれて、妙に大きな――多分病院の――ベッドに。
 それはいい、心当たりはないが、事故なんかのショックで記憶が混乱するのは、案外良くある事だと効く。
 俺は、グルグル巻きのミイラ男にされた体を、極力動かさないようにして部屋の中を見渡した。
 だからそれはいい、それはいいんだが……何で、その、部屋の中に見える文字がみんなハンター文字なんだ?
 俺は、部屋に掛かっていたカレンダーの表示に二・三度目を瞬かせてから思わず身を起こして頭を抱えてしまった。

 ……点滴のチューブが邪魔で、結局抱えられなかったけどな。

 後、ここまでの処置がなされているのに、体が殆ど痛まないのが逆に凄く怖かった。
 それと、なんですか、この腕に纏わり付いて揺らめく、湯気みたいなのは?
 もしかしてあれですか? オーラ、オラオラですか?
 気が付いたらハンター世界で、起きたら念能力者って、一体どんな夢小説よ――等と、自称ちょいオタの俺はひとしきり混乱すると、ハァと大きく息を吐いた。

 ……よりによってハンター世界ですか?

 俺、アレ嫌いなんだけどな。
 面白い事は認めるけど、なんつーか、性に合わない。
 どーせハードな世界に行くんだったら、ハンター世界よりかビィトの世界に行きたかったし、念能力よりか才牙のデザインで悩みたかったんだが、まあ、今そんな愚痴考えてても仕方ない。
 ……まずは、自分の記憶を辿ってみよう。
 もしかしたら、このトンデモな状況に陥った理由が思い出せるかもしれん。

 俺の名は……名は……榊晴信。

 なんだろう、ちょっと違和感があるんだが、まあ、間違いはないよな。
 俺は榊晴信、今年度卒業の大学四年。
 卒論や就職活動も滞りなく終了し、最後のモラトリアムを満喫中――なんだが、そんなに家が裕福でもなければ、就活の都合でバイトもやめてた俺には卒業旅行に出るような貯えもなく、就職先の関係で卒業後も居座る事になった主に学生向けの格安アパートで自堕落な日々を送っていた……少なくとも、俺の記憶ではそのはずだ。
 親しい友人はまだ色々と抱えているし、後輩達は今、試験期間の真っ最中。
 恋人もなく、学外の友人にも乏しい俺は、忙しかった時分に買って封も明けてなかったゲームなんぞを適当摘みながら、自堕落な半引き篭もり生活を満喫していたのだ。

 それで……どうしたんだったか?

 ああ、朝に珍しくダチから電話があったんだ。
 俺もどうにか決まりそうだから、そしたら遊びに行こうぜ…ってな。
 それで、ああ、そう言えばそこでハンター×ハンターの話題が出たんだった。
 確か、H×Hの一時的な連載再開で、最近またH×HのSSが増えてるって奴が言って来て、俺はあんなんのSS書く奴の気が知れんと応えて、そしたら奴は、ハンター文字そらで読める奴が何言ってんだって……なんだか、思い出したら腹が立ってきた。
 なんか、気が付いたら自然に覚えちまってたんだから仕方ねーだろよ――まあ、そんなことはどうでもいいとして、奴が息抜きに読んでるとか言う最近連載が始まったH×HのSSを幾つか紹介されて、内容もお前好みだと思うぜって言われて、まあ、時間もあるし読んでみるかと思ったのが間違いだったんだ、うん。
 きっとそうだ、みんなアイツが悪いんだ。
 いいよな、どうせここにはアイツはいないし、帰れるかどうかも怪しいし……。
 それで俺は、その幾つかに目を通して、それで……その大半が体験系、ハンター世界に現実世界からキャラが迷い込むタイプの話だって事にげんなりして、今の社会は腐ってるとか、俺も考えなくもないけど、でもこの世界の方があんな世界よりずっといいと思って、頭が痛い。

 そうだ、頭痛が……頭痛がしてきて、その先は、その先、なんだっけ?

 思い出せない。
 後は気付いたら、ここにいた、か……湯気のような何かが纏わり付く腕で、自分の頭を押さえながら、俺はそう結論付けた。
 ハンターSS読んでたら頭が痛くなって、気付いたらここにいた?
 つーかさ、どんなダメ夢小説でも、もうちょっとはマシな説明がなくね?
 俺はそんな事を思いながら、その身を起こした。
 どうやら、見た目ほど傷ついていないらしく、先ほど同様、体は殆ど痛まない。
 そして見渡すと、俺が居るのは、どうやらかなり大きな病室だった。
 今は昼らしく、白いカーテン越しに窓から差し込む日差しのせいか、なんだか酷く真っ白な印象がある。
 個人用の部屋らしく、結構大きめの部屋の真ん中に、同じく大きな、白いパイプベッドが一つ。
 その傍らには変な機械やら点滴台やらが置いてあって、俺の腕にチューブやらなにやらで繋がっていた。
 後は、コードで繋がれたナースコールが一つ。
 それらの全てが奇妙に大造りで、ああ、ハンター世界って、西欧人サイズなんだなぁとか、そんな間抜けな事を俺は思った。
 日本人の描いたマンガだから、日本的なサイズかと思っていたけど、けどまぁ、あんな人間の規格外が多数存在する世界だしなぁ……。
 そんな事を考えながら、俺は状況把握の為にもナースコールのボタンを押そうとして……俺は、ベッドの背凭れに張られたネームプレートを見つけた。
 ハンター文字、見慣れた母さんの字で、俺の名前が記してある。

『スルト・マクシェイ』

 ……つうことは、ここはうちの病室か。
 考えてみれば当たり前か、この辺りはウチ以外に病院無いし。
 しかし、母さんは相変わらず几帳面だな。
 ウチの病室なんだから、態々俺の名前まで書く事ないのにさぁ……そこまで考えて、俺は始めて違和感に気付いた。
 スルト・マクシェイ――確かに俺の名だ。
 それが記された字も、見慣れた母のもの――そうだ、そのどちらにもちょっと違和感があるけど、間違いない。
 けど、ここはH×H世界で、俺は、榊晴信。
 母さんは、H×Hなんか読んだ事もないだろうし、そんな人がハンター文字なんか書けるはずがない。

 ……Be Cool、Be Cool。
 まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ。

 俺は、榊晴信だ。
 大学四年生、もうすぐ卒業して、就職見込み。
 俺は、スルト・マクシェイだ。
 十二歳、もうすぐ卒業して、ザパン市にある学校の寮に入る。

 ……ザパン市、あー、あれだ、めしどころ、ごはん。

 本編の序盤の舞台じゃん。
 そう言えば、よく考えたらここもそうだよな。
 ここはノグ村、ヌメーレ湿原やビスカ森林公園に近い辺境の村だ。
 いや、近いって言っても、百キロ近く離れてるけどさ。
 近くに、そう言う危ない場所があることで判るとは思うけど、この辺りは半径数十キロに医者が父さん一人と言う本物の辺境で、付け加えるなら結構な危険地帯……って、コレもしかして憑依モノ?
 しかも、都合よく憑依した人間の知識を手に入れちゃう形の?
 その上、起きて一時間もしないウチに憑依対象の記憶手に入れちまうなんて、随分足が早くね?
 アレ、けど、スルトも晴信も、同じ俺、だよな?
 俺がスルトの中にはいったのか、俺が晴信を引き込んだのか?
 今の人格は、確かに晴信のが強い、そんな感じはするけど、晴信の記憶に、こっちにきてしまうような切っ掛けは全くない。
 逆に、スルトは今包帯だらけで……そういや、俺どうして怪我したんだっけ?

 俺は、俺は、ダメだ、わかんね。

 そう言えば俺、今まではオーラなんて見えなかったよなぁ。
 つーか、その存在すら知らなかったしさ。
 ええと、俺は、スルトは、ノグ村唯一……いや、この地方唯一といっていい、マトモな医者の息子だ。
 いや、各村にも薬草師とか骨接ぎの人とか、癒し手みたいな人はいるんだけどさ、こう、ちゃんとした資格を持った医者は、ウチの父さんだけ。
 ウチの父さんは、辺境向けに広範な知識を持つ立派な医師で、この地方の名士といっていい、結構な金持ちだ。
 いや、まあ、金持ちってもそんなではなくて、貧しいのは貧しいんだけどさ、地域全体が貧乏だから。
 でも、この地域では、かなり金持ちな方。
 個人でネット設備持ってるのは、ウチ以外何軒も無いっつード田舎だからさ、ここは。
 それで、だから、俺は、孤独だったんだ。
 ウチの父さんは、自ら望んで何でもできるしなんにもできない辺境向けの医者になって、この貧乏な地方にやってきた人格者で、この周辺では凄く尊敬されている。
 それに、なんと言うか、この辺り貧乏だから、他の地方に進学できるほど金持ってる人も少なくて、だからその父親の息子である俺には、外の学校に進学してこの病院を継ぐ事が期待されていて……俺は、それを期待する大人達に凄い持ち上げられてきた。
 で、子供はと言えば……まぁ、わかるだろ?
 こんなところでも、一応テレビの電波は届く。
 それを見て大抵の子供はこの村を出る事を望むけど、でも、金銭的にも教育的にも、この地方は貧しすぎる。
 それにここはド田舎だから、産まれる前から血縁地縁に雁字搦めで、本当にそんなことができるのはほんの一握りだった。
 そんな子供達に、外の世界に出るのが確定している、金持の息子を見せたらどうなると思う?
 まぁ、直接いじめられる事は無かったよ。
 父さんは、この地方では、その、ある種の生き神様だったから。
 でも、会う人は無視するか嫌な顔をするか媚びるかで、俺自身を見てくれる人はいなかった。
 まぁ、まだ小学生の『スルトオレ』がずっとそんな事を思ってたわけじゃあない。
 当然コレは、今の『榊晴信オレ』の論評なんだが……でも、性質の悪い事に、俺は頭がよくて明敏な餓鬼でさ、そんな周囲の期待も、拒絶も、ちゃんと理解できていたわけでないけど、肌では感じ取っていた。
 だからずっと、外に出たい、それだけをと考えていたんだ。
 それで俺は、嫌って言うほど勉強して――幸いウチにはネット設備があったから、それを使って調べ物もできれば、中央の家庭教師の授業も受けられる――兎に角中学は、行ける範囲でできるだけ遠い、寮のある学校の、できれば特待を取りたいと、俺はそう頑張って、この度めでたく、ザパン市の名門校、ルスタハイスクールの付属中学に合格したんだ。
 俺は、そんな自分自分スルトの過去を思い返して、口元に笑みを浮かべた。
 あの頃は若かったなぁ……なんだかそんな思いが湧き上がるのは、榊晴信としての生活が余りに楽し過ぎて、それでスルトオレが満足してしまったからだろうか?
 そんな風に思って、俺はそんな自分にちょっとだけ驚いた。
 俺は、榊晴信だ。
 スルトよりも、晴信の人格のほうが強い。
 だから目覚めたとき初めて思い返した名前は、榊晴信だった。
 だが、その記憶の方はと言えば、スルト・マクシェイの方が奥にある。
 なんと言えばいいのだろう。
 スルトと言う人格を土台に、晴信と言う人格が構築されたような。
 或いは、スルトと言う人間が記憶を失って、その間に榊晴信としての経験を積んだような。
 そう感じた俺の、体が瘧の様に震えた。

 トリッパー? 体験モノ? どちらが?

 スルト・マクシェイが、榊晴信を体験していたのか?
 榊晴信が、スルト・マクシェイを体験しているのか?
 きっかけとして強い動因はこちらにある。
 理由として、強い存在はこちらにある。
 榊晴信の人格が強いから、俺は晴信がスルトを体験しているのだとばかり思っていたが、実態は逆なのではないか?
 そう言えば俺は、話としては面白いと思いながらもH×Hが嫌いで、そのくせハンター文字は普通に読み書きできていた。
 背筋が冷える。

 俺は、何故H×Hを毛嫌いしていた。

 判らない、肌が合わないとしか、言いようがない。
 では、何故肌が合わなかった?
 スルト・マクシェイとしての自分を、思い出すからではないのか?

 ……遠くに行きたい。
 誰も俺を知らない様な、誰もが真白な俺と、付き合ってくれるような。
 それくらいに遠くへ、行きたい。

 それがスルト・マクシェイの心の奥底からの願いだった。
 いや、正確にはスルトの心の奥の願いを、晴信が言語化したもの、か……。
 ここ数年、俺は、スルトは、それだけを念じて日々を積み重ねていた。
 そんな俺が死に瀕して、念能力に目覚めて、それで、その状況を制約として、願ったら?
 何しろ、スルトは天才なのだ。
 師もなく、恐らくは意識も混濁していただろう状況下で精孔を開いて、纏を成功させるくらいには……。
 ならば、できてしまえるのではないだろうか、それが?
 いや、それを言うならそもそも、榊晴信としての人生は、現実なのか?
 念能力で、スルトが晴信を体験していたとする。
 全く異なる世界の人間に憑依する事と、仮想世界を構築してその中で遊ぶ事と、どちらが簡単だろう?
 普通は、後者。
 誰もがそう答えると思う。
 確かに今の俺は、スルトの知らない知識も持っているけど、それが正しい知識であるとは限らない。
 それに例えば、念能力者の中にはネオンの様な未来予測能力を持つものもいた。
 ならば、周囲の情報を収集して、説得力のある夢を創るくらい、出来てしまうのではないか?

 ……Be Cool、Be Cool。
 オーケィ、まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ。

 ここでぐだぐだ悩んでいても仕方ない。
 まずは、落ち着いて、今出来る事を考えよう。
 そうだな、取りあえずは、榊晴信の情報の正確性と、スルト・マクシェイの現状の確認か……。
 幸いウチには常時接続OKなネット端末もあるし――そうだな、ベッドを離れる許可が降りたら、心源流拳法とネテロ会長、それから、グリードアイランドについてでも調べてみるか。
 どれもハンターや念がらみだが、心源流は普通に弟子を取っているようだし、その最高師範であるネテロ会長はハンター協会の顔、グリードアイランドも表面的な情報であれば、ゲームマニアのサイトで見つかりそうだ。
 値段も、ハンター専用というその内容も、どちらもマニアの目を引くだろうしな。
 ……俺は、表面だけをどうにか取り繕うと、傍らにあったナースコールのボタンを押した。

 ・
 ・
 ・
 ・

 ……それから暫くの事は思い出したくない。
 なんつうか、父さんとは違って、ウチの母さんはノグ村の出身なのよ。
 ついでに言うと、ウチの父さんが辺境向けの医者になった理由も母さんらしいんだけどさ。
 んで、メンタリティ的に他の村の人に近いから、ナースコールで俺が起きた事を知って、もう泣くやら喚くやら……。
 勿論、親として俺の事を心配してるってのもあるんだけどさ、周りとの地縁血縁のつながりとか、その期待とかに共感できるってのがあるから、もう喜びの余りに自分が倒れんじゃないかと思う位、騒いでたね。
 しかも、その騒ぎを聞きつけたのか、近所の人たちがわんさと押し寄せてくるし……。
 それに気付いた父さんが、途中から面会謝絶してくれたからまあ助かったけど、ウチには見舞いの品がごっちゃり。
 大半が、この辺りで採れる俺の好物なんだけどさ、ウチは家族三人だから、こんなに食いきれねぇよ。
 で、そんな騒ぎの中でも、ウチの父さんは父さんだった。
 一通りの処置が終わってて緊急に処置する必要が無いってんで、一般の患者やら何やらを優先して、俺の診察は後回し。
 面会謝絶になる前に押しかけた村長のおっさんは、そんなんより俺の処置を優先すりゃいいのにっていってたけど、俺的には父さんの行動のほうが嬉しいし、それに、だったらアンタも押しかけてくんなよとか思う。
 そんなこんなんで、俺が目覚めたのはまだ朝方だったんだが、父さんが俺の診察をしたのは三時過ぎになった。
 いや、本来なら夕方過ぎて夜になったと思うんだけど、村長のおっさんが回状出したらしいんだよね。
 俺が目ー覚ましたから、緊急の人間以外は病院行くなって……。
 で、父さんに俺の状況を尋ねると、詳細はわからないが崖から落ちたらしく、昨朝早くに山の中で発見されたのだそうだ。
 途中、崖から生えた木に何度かぶつかりって落下速度が落ちた事と、高い木の梢に巧く引っ掛かって、それがクッションになってくれた事で、どうにか命を繋いだらしくて、発見時には全身切り傷だらけ、骨折箇所も複数の、まさに襤褸雑巾だったらしい。

 ……まあ、念で治癒能力が強化されてたのか、起きた時には大半治っちまってたけどな。

 例外は、背中にあった切傷一つで、それ以外の傷は、もう殆ど癒着しているそうだ。
 骨折ももう繋がり始めていて、激しい運動さえしなければ、出歩いても問題は無いとの事……。
 で、その例外である背中の傷なんだが、父さんの話によると、これだけは刃物による創傷であるらしい。
 そんなに大きな傷ではないのにこれだけ治ってないし、俺も痛みを全く訴えないから、刃に何か塗ってあったんじゃないか?…と、父さんは心配していたけれど、俺も一昨日の晩床についてから、今朝目が覚めるまでの記憶を持っていない。
 ただ、当然と言うか、切傷が治らない理由についての、心当たりはあった。
 それは勿論、念――念能力者か、或いは、念の篭もった器物で切られたのか?
 もし、その洗礼で俺の精孔が開いたのだとしたら、状況は幾分すっきりする。
 攻撃による念の洗礼、傷の痛みと精孔の開いた驚きに俺は崖下に転落、その事実に安心した攻撃者はその場を立ち去った。
 尤も、他の傷が消えているのにその傷だけが未だに残っている時点で、相手の念能力の影響がまだ残っている可能性が高いわけで、そうすると、俺の現状がそいつの念の影響である可能性も出てくる。
 記憶を扱う特質系能力者には、既にパクノダと言う前例があるし、俺がその事件の周辺の記憶を都合よく失っている事を考えると、ねぇ。
 そこまで行かなくても、対象を、記憶が封じられた状態で自分の構築した夢に落とし込む念能力者とかは、普通にいそうだ。

 ……しかし、そうすると、この背中の傷は怖いな。

 これが消えた時には、榊晴信としての俺の記憶も丸ごと失せる可能性がある。
 とりあえず、水見式で自分の念能力の系統を調べて……背中の傷は、どうしよう。
 傷を維持するのは……まあ、「天上不知唯我独損(ハコワレ)」の例もあるし、他人やその念にオーラを提供する能力は一応製作可能だろう。
 尤も、念の内容を把握出来ない状態でそれをするのは非常に無謀だから、取りあえずは考えない事にする。 
 それで俺の精神が消えるのなら、まあそれだけのこと……とまでは言えないが、あせって考えるほどの事ではなかった。
 少なくともこの傷は、まだ暫くは消えそうにはないし、生い立ち等から考えても、スルトの念がトリップの原因である可能性はかなり高い。
 だけど、もし仮にこの背中の傷が原因だったとして念能力の分析をする念能力って、作れるものだろうか?

 可能性があるなら……具現化系か? 操作系もいけそうだ。

 しかし、なにがどう転ぶにしても、師匠は欲しいなぁ。
 できれば、ある程度他の念能力者との間にコネクションを持っている。
 この出来事の発端が、俺に対する他の念能力者の攻撃である可能性がある以上、念と武術の鍛錬は急務だ。
 さらに場合によっては、俺の現状をどうにかする為の発も、早急に収めなければならない。
 父さんは、自分と会話しながら考え込んでいる俺を、暫くじっと見ていたけど、結局は何も問わなかった。

「特に処置する必要は無いようだから、もう、部屋に戻っても構わないぞ。
 外出するのも構わないが、お前が崖から落ちた状況がはっきりするまでは、極力控えた方がいいだろう」

 最後にそう言い残し、部屋を出ようとした父さんの背を、追って俺も部屋を出る。
 自分も余所者で、崇拝に近い情を受ける現状を余り嬉しく思っていない父さんは、この村で唯一の俺の理解者といっていい。
 勿論父さんも、俺が自分の後を継ぐことを望んではいるのだけれど、自身も親の期待を裏切ってこの地にやってきた前科持ちだけに、その希望を息子に押し付けるつもりも無いようだった。
 父さんは恐らく、ノグ村周辺でスルトが医者にならないことを受け入れてくれるただ一人の人間で、だから俺は、虚心無くこの立派過ぎる父親を、尊敬している。
 そんな父さんに何も言わず全てを隠している事が心苦しくて、けれど、オーラを見た感じ念能力者ではなさそうな父にこんな現状を話す事もできず……俺は、暫く無言でその背を追うと、医院と自宅の境目のところで短く、

「ありがとう、ごめん、父さん」

 と言った。
 父さんは足を止め、こっちを見たようだったけど、俺は足を速めて自分の部屋へと走り去る。
 そして、部屋に鍵をかけ端末を立ち上げると、その前に座った。
 端末につながれたマウスと、ハンター文字が記された、使い慣れたキーボードへと手を延ばす。

『心源流 ネテロ』

 そして、機械検索で最初に調べたワードは、実に数十万件もHitした。
 ハンター試験審査委員会委員長ともなれば、このくらいはHitして当たり前と言う事だろうか?
 特に今年は、本編の四年前である1996年――ネテロじいさんがハンター協会の会長に就任する年――だったから、ハンター協会会長選挙の関連ニュースが山と転がっていた。
 四年前と言えば、確かクルタ族襲撃も同じ年だったなと『クルタ族 ルクソ地方』を調べてみるが、こちらはまだ起きていないらしく、少数民族であることと、緋の眼に関する記事とが散見されただけである。
 クラピカには悪いが、俺が介入したところでクルタ族襲撃が防げるわけも無い。
 ここは涙を呑んで、榊晴信の記憶の検証用に使うべきだろう――と、話が逸れたな、次は、心源流拳法を単体で検索してみる。
 今度はHit数、十数万件。
 ネテロ効果の水増し分をさっぴくと、大体空手の四大流派と同じ位の知名度になるだろうか?
 真っ先にHitした公式HPを覗くと、規模もそれらと同じくらいらしく、地味に世界展開していて大規模な大会も開催していた。
 ページ内検索機能があったので、試しにザパン市と入れてみると、なんと支部道場一件あり。
 ラッキーと言うかなんと言うか、取り合えず師匠の当て一件ゲットなんだが、地方都市の支部道場に念能力者が常駐しているものだろうか?
 あーけど、ハンター試験の会場になってる上に、あんな地下道まであるザパン市だ。
 ハンター協会との繋がりも強い街なんだろうし、もしかしたら念能力者が常駐しているかもわからんな。
 それに、普通、昇段昇級審査の時は、本部とか地区総括の人が審査に来るから、その中に能力者がいる可能性は高いと見た。
 なにしろ、念の素養があるズシを、師範代のウイングさんがマンツーマンで指導してたくらいだからなぁ。
 けど、まあ、今はそんな皮算用をしている程の余裕も無いし、この件は俺がザパン市に引っ越してから、だな。
 俺は、幾つかのページをブックマークに残すと、次いで、グリードアイランドを検索。
 九年前のゲームだけに流石に数は少なく、五千件弱がHit。
 だが、その大半がバッテラ氏絡みの情報で、残りの少数がゲームの好事家による伝聞の記事――こちらから特に役立つ情報は入手できなかったが、榊晴信としての記憶の信憑性の多少の補強にはなった。
 うーん、現状ではこんなもんかなぁ……。
 俺は、他に調べる事も思いつかなかったので、端末の電源を落として立ち上がった。
 何かあったら困るので、部屋の真ん中辺りまで移動、周囲を見回して、壊れたら困るものが近くにないか、それを確認する。
 一通り、試すべき事は試したのでもうぶっ倒れても問題ない。
 だから次はお待ちかね……でもないけど、念の修練を試す番だ。
 いやね、本当は一足飛びに水見式を試したいんだが、あれは、『練』が使えないと意味が無いからなぁ。
 ゴンやキルアみたいな天才中の天才でも、最初は極僅かな変化しか現れなかったわけだし……まあ、状況的に考えて、俺も念に関してはそれなり以上の天才なのだろうけど、それでも数週間から数ヶ月程度の訓練を前提に考えた方がいいだろう。
 幸い、纏についてはもう『眠っても維持できる』状態っぽいので――いや、目が覚めた時に纏してたし――修行のアクセントに毎朝水見式を試しつつ、満足いく結果が出るまでは集中的に『練』の訓練をしよう。
 確か練は、力を全身の細胞から集めて体内に溜め、それを一気に外に出すイメージとか言ってたな……。
 俺は、まずは何か判り易いイメージを…と考え、取り合えず腹式呼吸で試してみる事にした。
 まあ、俺の場合、教えてくれたのが空手やってる奴だったから、腹式呼吸というよりは『息吹』なんだがな。
 鼻から吸う、口から吐き出す、腹筋を締めて止める。
 腹式呼吸を行うと、鳩尾の辺りに熱が溜まる――それを強く意識しながら、俺は暫く息吹を繰り返した。
 まあ、ぶっちゃけこれは、念と言うより調息と息吹のごった煮なんだが、そう的外れなもの行動ではなかったらしい。
 なんつーか、昔、悪友達と遊びで気功の真似事をした経験が、こんな所で役立つとはねぇ……。
 俺がそう苦笑するのとほぼ同時、丹田に集う力が、緩やかに旋転し円環を描き始めた。
 そのイメージは、互いの尾を追う二つ巴、或いは、己が尾を追う無限蛇(ウーロボロス)。
 気功――小周天からの連想か、或いは、ヨーガのマニプーラチャクラか?
 マニプーラは火のチャクラ、象徴色は黄色、輝く黄、太陽、太陽の円環、黄金の指輪――父と母の、結婚指輪。
 妙な運行を始めたオーラの姿に、俺の頭の中を、そんな奇妙な連想が流れる。
 そして……

一つの指輪は全てを統べAsh nazg durbatuluk,
 一つの指輪は全てを見つけash nazg gimbatul,
 一つの指輪は全てを捕らえてash nazg thrakatuluk,
 暗闇の中に繋ぎとめるagh burzum-ishi krimpatul

 次いでその連想は、そんな言葉を綴った。
 それは、数年前映画化もされた、余りに有名な小説の一節―― 一人の半神が創った指輪の、余りに強大な力を伝える、伝承
 ……エンディングが改定されていたのと、トム・ボンバディルが削除されていた事を除けば、アレはいい映画だった。
 流れる連想の中、俺は、現実逃避気味にそんな事を思う。
 ずくりと、背中にあると言う傷が痛んだ。
 今までにただの一度も痛んだ事は無かったと言うのに。
 俺は、胸を押さえる。
 心臓……西欧では魂の御蔵とされる場所の裏側、愛と調和を司ると言うアナーハタチャクラの辺りに、その切り傷はあった。
 傷自体は背骨で止まっており、それほど大きなものではない。
 だが、全身を覆う傷が全て繋がった後も、それはぱっくりと口を開け続けていた。
 それが痛む。
 体の中で暴れまわる、黄金の円環に呼応するように――或いは、気付きかけた何かに、か?
 そんな中、丹田で回る黄金は、輝きと速さを増して荒れ狂い、その勢いに俺は思わず蹲った。

『やめてくれ、俺は――じゃないんだ!』

 そして耐えかね、俺は意味もわからずそう叫ぶ。
 いや、叫んだと思った。
 だが、蹲り、心臓を押さえる俺の口から漏れたのは、ひゅうひゅうと言うかすれた、吐息……。

「……なん、だよ、これ……練の修行でこんなになるなんて、聞いた事無いぞ」

 グルグルグルグルグルグル廻る、掛け金が壊れたように、止まらない。
 ああ、吐き出さなければ持たない。
 何を? 何が? 何故?
 判らない、けど、これを吐き出さなければ、もたない。
 何がどうなっているのかも判らずに、俺はただ、夢中でそれを吐き出した。
 俺の内で暴走する、黄金の円環。
 練の成功とか、もうそんな事を考えている余裕は無い。
 失敗でもいい、兎に角それを追い出さねば……。
 その意思に沿うように、それは自らの尾を追う事を止めた。
 一つの塊として動いていたそれは、維持している何かが失せたかのように形を失って散り散りとなり……しかし、ただ、その身に宿った回転の力は残っていたようで、細切れになったかけらは、宿る遠心の力に飛ばされるまま、体の外へと飛び出す。

「で、きた?」

 ……そして、明かに失敗だろうと考えていた練は、余りにあっさりと、成功していた。
 纏の中に、充溢するオーラ。
 僅かに黄味を帯びたような――そんな圧力が纏の薄膜の中を埋め尽くしている。

「……なんだったんだ、今のは?」

 俺は、蹲ったままそう呟いた。
 練で搾り出されたオーラのお陰か体調は既に回復し、じくじくと痛んでいた背の傷も、もう何も感じなくなっていたが、今はまだ、とても立ち上がる気には到底なれない。
 俺は、床の真ん中に寝転ぶと、ハァと大きく息を吐く。
 なんだったんだろう、アレは――或いは、アレが背中の傷の念の効果か?
 纏の中、次第に薄れていくオーラを眺めながら、俺はそんなことを考えた。
 練が成功した事は、まぁいい。

『練ったオーラを纏で留めるタイミングが少し難しかった』

 思えば、練を習得したゴンとキルアが最初に言ったのは、こんな言葉だった。
 つまり、初めから異様な高レベルで纏を成立させていた俺は、力技で練を成功させられる能力があった――多分、そう言うことなのだろう。
 何よりも外に出る事を望んでいたスルトオレが、裏腹に縛る能力に長けるとは皮肉なものだが、現実とは得てしてそんなものなのかもしれない。
 そして晴信オレも、その力に縛られているのかもしれない、か……。
 俺は、もう一度大きく息を吐くと、それていた思考を一旦そこで切った。
 問題はあの奇妙な連想と、その影響で制御を失ったオーラ、そして、その時に痛んだ背中の傷だ。
 今はもう痛みも無い。
 寝転んでいる背の感触からして、血が出ているとか言う事も無いようだった。
 だが、なんなのだろうあの痛みは……。
 あの時、頭の中に浮かんだ言葉を集約すれば、『黄金の指輪』の一言だろう。
 指輪、結びつけるもの。
 スルトオレにとって尤も印象深いソレは、両親の結婚指輪だ。
 シンプルで、飾り気無く、ただ互いの名が記された金の指輪。
 数年前、片割れが盗まれる事で大騒動になったその一対の指輪は、いわば、俺をこの地に縛り付けるものの象徴だった。

「……影横たわる、モルドールの地に、か……」

 別にここがそうだと思ってるわけじゃ――いや、そうだな、自分に言いつくろってもしかたないか。
 今の『晴信+スルトオレ』にとってはそうでもないけど、やっぱりこの地は、『スルトオレ』にとって、『黒の国モルドール』だったのだろう。
 影横たわる、不毛の地――そう、それがこの緑豊かな地であっても、父の影で、父のコピーとして扱われていたスルトオレにとっては、そう、だったのだ。
 そして、ファフニールが竜となったように、スメアゴルが哀れなゴクリとなったように、両親を繋ぐ黄金の指輪は、スルトと言う存在を歪んだ形に繋ぎとめる。
 だから、生い立ちや性格などの影響を強く受ける念の修行の最中に、それを思い出すのはそうおかしい事でもない…かな?
 だが、背中の傷は何故痛んだのだろう?

 ……疲れが取れたら、もう一度『練』を試してみよう。

 オーラが薄れるにつれ、全身に沈殿する疲れを実感しながら、俺はそんな事を思った。
 正直、知る事が怖くもあるが、アレを放って置いても居られない。

「……俺がなりたいのは、トム・ボンバディル、なんだがなぁ」

 そして、またしても、暗合だ。
 繋がれていた『スルトオレ』がなりたがりそうなもの――トム・ボンバディル。
 指輪物語において、最も謎めいた存在。
 彼自身にしか――かの一つの指輪ですら――支配できない、他の全世界を支配したサウロンにすら抗し得る、ただ一人の人。
 晴信は、感性が近いからスルトに呼ばれたのか、或いは、元々晴信がスルトだったのか?
 ……昨日、まる一日寝ていたと言うのに、なんだか酷く、眠い。
 俺は、ベッドに登る手間を惜しんで毛布の端を引っ張ると、それを抱えるように、眠りに落ちた。



[2622] 第二話『ミックスジュースは甘くない――或いは、恐怖の水見式インセクトジュース』 
Name: 十八◆4922f455 ID:c47c5104
Date: 2008/09/17 12:51
第二話『ミックスジュースは甘くない
    ――或いは、恐怖の水見式インセクトジュース』



 俺は月で、太陽の子供だった。

 月は、太陽の影を好んで歩き、それが照らさないものを、気ままに眺める事を好んでいた。
 そんなある時、極寒の地に根を下ろした太陽は、周囲を暖め始める。
 そこに住んでいた沢山の人たちは、太陽の暖かさで潤い、喜んだ。
 死ぬはずだったものが生き、生まれないはずだったものが生まれるようになり、人々は瞬く間に増えて行く。
 そして、人々の中に生まれた一人の賢人が、ついに気付いてしまった。

 太陽ですらいつかは衰え、死する運命を背負っている……。

 それを知って、太陽の暖かさを知ってしまった人々は、悩んだ。
 今の私達が太陽を喪ったらどうなってしまうのだろう?
 人々は太陽の恵みを喜びながらも、いつか消えるそれに悩み、苦しみ、
 そんなある時、一人の人間が月の存在を知った。
 太陽には一人息子がいて、一人夜の国を流離っている。

 月はまだ若い、太陽が死んだら、彼に地を暖めてもらえばいいじゃないか。

 それで人々は、夜の国に、月を探して旅に出るようになった。
 ある時行き会った人たちは、沢山の食べ物を月に供えた。
 月は、挨拶だけしてそれを受け取らず、ただ歩き去った。
 ある時行き会った人たちは、その身で月を誘惑しようとした。
 月は目を逸らすと、その場を足早に立ち去った。

 何を与えようとしても月は受け取ろうとしないので、ついに人々は、月を捕まえる事にした。

 一番のお金持ちと一番の職人が長い長い金の鎖を作って、一番の力持ちが、その端を持った。
 その隣には一番の狩人がいて月を狙い、更にその隣には愛らしい少女がいて、引き下ろされた月を捕まえようとしていた。
 残りの人達は大きな篝火の周りで派手に騒いで、いぶかしんだ月が自分達を見に来るのを待つ。
 それは三日三晩続いて、疲れ果てて騒ぎが終わったその四日目に、月は現れた。
 どうやら騒ぎが終わったようなので、一言注意をしようと思ったのだ。

 こんばんわ、皆さん……月は疲れ果てた人たちにそう声を掛ける。

 月が声を掛けた人達は、騒ぎ疲れていたけれど、狩人と力持ちと少女はその間ずっと力を溜めていた。
 狩人の号令で、金の鎖が月に飛ぶ。
 その狙いは正確で、鎖は過たず、月の体をグルグル巻きにした。
 力持ちは、その鎖を引いて、月はだんだんと地に近付いて行く。
 そして、愛らしい少女は両手を開いて、地に降りた月を抱きとめようとしていた。

 違うんだ。月は太陽じゃあない! この輝きは太陽の照り返しでしかないんだ!

 月はそう泣き叫んだけど、人々は誰も耳を傾けようとはしない。
 暴れて身を捩ったけれど、狩人の狙いは正確で力持ちは強く、金の鎖は頑丈だった。
 月は、足掻いて、足掻いて、それでもだんだん少女の腕の中へと降りて行く。
 何か掴まれる物はないか――月は暴れながら周囲を探し、そして見つけた。
 見たことも無いフワフワとした光が、月の目の前を飛んでいる。

 ……そして月は、それを無我夢中……。


                 ◆◆◆


 ……じくり、じくりと、背中の傷が痛む。

 ベッドで跳ね起きた俺は、全身が寝汗でびっしょりと濡れていることに気付いた。
 この辺りは冬でも暖かな気候のはずなのに、お陰で体は、酷く冷え切っている。
 だが、今この身が震えているのは、それだけではない。
 そう、未だに、その身にかかった鎖の感触が、残っているような気がしていたのだ。
 そして、手の中で儚いモノが潰れる、あのくしゃりという感触も……。

 なんであんな夢を……って、まあ、昨日やった練の修行のせいなんだろうな。

 俺は、引いていく背中の痛みに安堵しながらも、はぁと重い息を吐いた。
 この背中の傷はなんなのだろう?
 反応しているものは判りやすいのに、それを今思い浮かべても何故傷は痛まない?
 そう、思い返してみれば、あれはわかりやすい夢だった。
 なにしろ、夢の中で見たあの鎖は、無数の金の指輪が連なってできていたのだ。
 俺をこの村に縛り付けようとする、情と欲との鎖。
 それを作った金持ちと職人は、村長とその長男。
 力持ちは、村長が経営する製材所の所長。
 狩人は、俺を見つけたという顔見知りの猟師。
 そして、少女は――俺は、彼女の顔を思い浮かべて、重い息を吐いた。
 昨日の連想も、今朝の夢も、こんなにわかりやすいのに、何故、何に傷が反応しているものが判らないのだろう?
 ……考えてもわからないことを、頭の中で何度も反芻してしまうのは、正直、俺の悪い癖だと思う。

 取り合えず、シャワーでも浴びてさっぱりしよう。

 いや、昨日は、昼食以外何も食べていなかったし、食事を取るのが先だろうか?
 俺は、半ば無理矢理現実へと視線を戻すと、クロゼットから着替えを取り出した。
 どうせ、通り道なのだし、台所に行ってから決めよう。
 取りあえず行き先を決めた俺は、部屋を出て歩き出すと――ふと気がついて、首をひねった。
 ……そう言えば、今朝俺はベットの上で目を覚ましわけだが、床に寝ている俺を誰がベッドに上げてくれたのだろう?
 因みに、スルト(オレ)の体は、そう小柄と言うわけでもないけれど、まだ本格的な二次性徴は始まっていない。
 加えて、勉強漬けで運動をしているわけでもなく、それほど大喰らいでもない俺の体は華奢で、母さんでもベッドに持ち上げられる重さだと思う。

 ウチの母さんは、病院で看護士の真似事なんかもしているから、案外腕力も強いしね。

 だけど、夕食を伝えに来た時なんかに、母さんが床に寝ている俺を発見してたりしたら……。
 俺は、ちょっとだけ想像して、身震いした。
 いや、それはないだろう。
 だったら、その時の騒ぎで俺が目を覚まさないわけは無い。
 なんと言うか、母さんはそそっかしくて過保護だからなぁ。
 もう傷は殆ど治っていて、そんな心配ないと判っていても、昨日の今日で床に寝ている俺を見たら、倒れてるとか勘違いしかねない。

 ……きっと父さんが様子を見に来て、ベッドに寝かせてくれたんだろう。

 そう自分に言い聞かせながら台所を覗くと、母さんが丁度、朝食の準備をしていた。
 俺は、空腹に背を押されて思わずクンクンと鼻をひくつかせる。
 匂いと鍋の様子からして、多分メニューは牛乳のパン粥。
 この辺りの主食は小麦で作ったパンだけど、大半の家では安い種無しパンを食べている。
 その上、まとめて沢山作るから古くなってしまう事なんかが多くて、だからこう言った、古くなった硬いパン――尤も、種無しパンは元々硬いが――を美味しく食べる為の料理が大いに発達していた。
 でまぁ、普段種有りのパンを食べている裕福な家庭でも、夕飯用のパンの残りを次の日の朝パン粥にして食べたりする。
 ウチの場合は、母さんがびんぼーな家庭の生まれだったのと、父さんがパン粥好き(……と言うか父さんは母さんの料理なら何でも好きで、母さんはこの系統の料理が一番上手い)なのが重なって、食卓におけるパン粥登場率はかなり高い。

 ……まあ、種有りパンのパン粥に蜂蜜いれたり、挽肉入ったりする時点で、この辺りのご家庭の一般的なパン粥とはかなり違うものなんだけどな。

 前なんかの時にウチのパン粥食って、凍り付いてた奴がいたし……。
 ああそうだ、ウチを離れる前に、一通りパン粥のレシピを聞いておこう。
 俺は、胃袋に誘われるままに台所に入ると、母さんにおはようと声を――出そうとした瞬間、既に母さんは俺の目の前にいた。

 ――新手の念能力者か!?

 晴信主体の精神が、一瞬そんな馬鹿な思考を浮かばせるほどの勢いで、母さんはオレの前に移動。
 俺を思い切り抱きしめると、『痛いところ無い』とか『お母さんを驚かせないでよ』とか『ちゃんとベッドで寝なさい』とか、息吐く間もなく連続でまくし立てた。

 ――いや、母さんのその抱擁が一番苦しいんですけど……。

 俺は、そうぶっちゃけたくなる自分を抑えながら持っていた着替えを手放すと、母さんの腕を体から離そうとする。

「…………あ?」

 そして俺は、今までは全く脱出できなかった魔の抱擁から、すんなり逃れられている自分に、正直驚いた。
 念能力侮りがたし……まさか、ガリ勉貧弱君なスルト(オレ)の体で、体格で上回る現役無資格看護士の腕を振り払えるとわッ!?
 俺は、暫しの間呆然としてから、それ以上に唖然としている母さんにこう言った。

「あの、母さん、鍋大丈夫?」

 いや、別に、変な匂いとかがしているわけじゃないけど、この気まずい雰囲気は、早い所どうにかしたい。
 そんな俺の言葉に、母さんは呆然としたまま『ああ、そうね』とか言って、自慢のシステムキッチンへと歩いていった。
 俺に振りほどかれた事がそんなにショックだったのだろうか?
 アレでは、パンがグチャグチャになってしまうと思うのだが、母さんはただ等間隔でレードルを廻し続ける。
 注意すべきなのかしないほうがいいのか?

「……スルト。
 朝食までもう少し掛かるから、その間にシャワーでも浴びてらっしゃい」

 悩む俺の視線の先で、暫し無言で鍋をかき回していた母さんが、不意に気付いたようにそう言った。
 
「昨日から風呂に入っていないんだから、体もちゃんと洗うのよ」

 肩越しに振り返り、俺を見た母さんの目に、ほんの少しだけだが寂しそうな色がある。

「……あ、うん」

 俺は、その問いに生返事で応えると、落としたままだった衣類を取り上げ、母さんに背を向けた。
 甘いと言うか、なんと言うか、やはり俺には情の鎖を断ち切ることができないらしい。

 ふん、どうせ俺は具現化系自罰タイプだよ……。

 自虐的に、昔、友達に誘われてやった念能力判定を思い出しながら、俺は手早くシャワーを浴びた。
 ……さっさと朝食を食べて、水見式を試してみよう。
 幸い、母さんは俺に甘いし、背の切傷を知っている父さんも、一日二日だったら学校を休ませてくれるだろう。
 そんな事を思いながら、今度は直接、食卓に向かう。
 俺は、携帯端末を使ってネットの新聞を読んでいた父さんにおはようを言うと、まだ乾ききっていない延びかけの黒髪を掻き揚げながら、自分の席に座った。

「おはよう。
 ……スルト、学校はどうするんだ?」

 そして、俺が席に着くなり、単刀直入に尋ねてきた父さんに、うんと頷いて口を開く。

「ズル休みするみたいで悪いけど、二・三日は休ませてもらおうかと思ってる。
 背中の傷の事もあるし、なんで崖から落ちたのかも思い出せてないし……」

 そう答えると、父さんは目を細めてうんと頷いた。
 父さんは、考え事をする時によく目を細める。
 顔は整ってはいるのだけど、体格も良く、どちらかと言えばいかつい風貌をしている父さんがそう言う表情を作ると、なんだか妙な威圧感があって怖いんだが、俺には未だ嘗て、一度もそれを指摘できた例が無かった。
 そんな表情のまま、父さんは二・三度頷くと、こう口を開く。

「そうだな、それがいいだろう。
 学校とダグさんにはそう伝えておく」

 因みに、ダグさんとは村長の名前、ダグ・クラン、それがフルネームだ。
 村長にも話を通すと言う事は、この件の事件性を考えての処置なんだろうな。

 けど、そうすると、今日は確実にアイツが来るか……。

 学校が終わる時間までには、念の修行を終えなければならんなと考えていると、台所から鍋を持った母さんが歩いてくる。

「……母さん仲間はずれにして、なに親子差し向かいで悩んでるの?」

 拗ねたようにそう言いながら、テーブルの真ん中に鍋を置く母さんに、父さんはちょっと驚いたような表情で口を開いた。

「いや、大事をとって、スルトを何日か休ませるか、とな……」

 口ぶりからして、背中の傷の事は母さんには話していないんだろう。
 まあ、話してたら母さんが、僕の傍を離れる訳も無いしな……。

「時期も時期だし、中学にも受かったんだから、もうずっと休ませちゃってもいいんじゃないかしら?
 ザパン市に行ったら、中々遭えなくなっちゃうんだし、引越しの準備とか、向こうで住む家の話とかもあるから……」

 でも、その割りに、俺が一人ザパン市に出る事に大して反応していないのは、母さんの中では、俺が医者になる為にノグ村を出るのは、生まれた時からの決定事項だからだ。
 まあ、中学はこっちの学校に行くと思ってたらしくて、父さんと私立中受ける相談してた時には凄い取り乱しようだったけど。

「……流石にそれは無いよ。
 それに俺は、ルスタ付中の寮に入るつもりだから、準備も荷物もそんなにいらないし、入らないけど」

 のほほんと、かなり凄い事を言う母さんに、俺がそう突っ込みを入れると、父さんが露骨に視線を端末に落とした。
 鍋つかみから手を抜いていた母さんが、怪訝な表情で俺を見る。

「え?
 スルトは、ザパンじゃマァハちゃんと一緒に暮らすんでしょう?」

 ……はい?
 そんな母さんの言葉に、俺は思わず唖然と口を開いた。
 マァハというのは村長の娘で、俺の幼馴染のような存在。
 実際のところは……まぁいい。
 村長は、俺とマァハを結婚させたいようで、小さい頃からずっと、できるだけ二人一緒の時間が増えるように計らっていた。
 その延長で、彼女も俺同様ルスタ付中への進学希望を出しているが、正直言って今のマァハでは、普通クラスへの入学試験も受かるかどうか怪しいところだ。
 そりゃあ、俺も試験勉強は手伝ってるし、村長にも面倒見てやって欲しいと頼まれてはいたけれど、何で同居?

「……あれ、言ってなかったっけ?
 ダグさんが、寮とは言え子供の一人暮らしは不安だろう、私も何もできないマァハを寮に入れるのは不安だから、この際、二人を同居させて、使用人を一人つけたらどうだろうか……って」

 ……確かに、この地域は貧しい、それは事実だ。
 金持ちといわれるウチでも、外部進学で私立なら特待目指すくらい、この地方には金が無い。
 だが、村長の家は、そんな『普通の』金持ちではなかった。
 ノグ村とその周辺の貨幣経済は、クラン家があって始めて成り立つ――そういわれる位の、それこそ山を幾つも持っているような、正真正銘の金持ちである。
 実際、この辺りの外部交易は村長が一手に担っていて、ある意味、この地域の専制君主と言っても過言ではない状態だ。
 だから、そんな村長の家なら、確かに二人に家一件ポンと与えられるし、使用人をつけるのも簡単だろう。
 けどだからと言って、これから思春期で第二次性徴を向かえる餓鬼二人を同居させようとは……見るからに既成事実狙いだよな、マァハは、村長の意思に反対できるような性格してないし。
 俺がさっき露骨に視線を逸らした父さんをじろっと見ると、がっくり項垂れてからこう口を開いた。

「……母さんがな」

 確かに、母さんはマァハの事も気に入ってるし、俺らの事を完全に子供だと思ってるから、その申し出はホイホイ受けちまうだろうなぁ。
 そして、この村でも数少ない、村長と対等に話せる常識人である所の父さんは、実は母さんには滅法弱い。
 相思相愛だし、普段は父さんが主導権を握っているのだけれど、ここぞと言う時の母さんのおねだりに、父さんが抗しきれた例は実は無いのだ。

 そりゃあ、お目付け役の人が実は煽り役になるかもしれないとあらば、母さんも反対――するのかなぁ。

 しないかも知れないのがちょっと怖いな。
 兎に角、母さんを説得するのはちょっと難しいだろうから、家探しの時に村長に直談判するか……。
 なんだかんだ言って、俺は村長に結構気に入られている――いや、そう見せかけてるだけかもしれないけどさ。
 だから、俺が正論で掛かれば、なんだか譲歩は引き出せるだろう、多分。

「なによ、二人で母さんを悪者にして……」

 そんな俺と父さんの姿を見て、母さんはぶつぶつと呟きながら台所に料理の残りを取りに行ったようだった。
 母さんの、年に似合わぬ拗ねたような姿を見送って、俺は口元に苦笑を浮かべる。

「……スルト、ちょっと雰囲気が変わったな」

 そんな俺を見て、父さんはそう言った。

「え?」

 内心、ドキッとした俺が何とか驚きを隠してそう言うと、父さんはその口元に有るか無しかの微笑を浮かべた。

「いや、なんだか張り詰めた感じがなくなっている。
 中学に合格したから……じゃないな。
 お前の事だ、入学したら入学したで悩みは増えるだろうしな」

 そう言う父さんは、良く俺を理解していると思うし、そんな父さんが俺にそう言った理由も、よく判る。
 今までは張り詰めたものが緩んだのは、晴信の記憶を得たスルトが、それに満足してしまったからだ。
 或いは、目の前にいるのが、スルトの記憶と肉体を持つ晴信だから、か……。
 どちらが正しいのかは、まだ判らない――いや、既に今の俺は、どちらでもないのだろう。
 当初は晴信が強い様に感じられていた俺だが、今ではごく自然に、目の前にいる医師、ディン・マクシェイと、台所で食器を扱っているらしいケイト・マクシェイを両親だと感じている。
 また、スルトとしての俺も、晴信としての記憶を、自分の延長上にある物として確かに受け入れているようだった。
 勿論、今の自分を繋いでいる、このねじくれた鎖を解きたいという気持ちはまだある。
 単純に危険だという事もあるし、真相を知りたいという気持ちも、向こう側に返りたいという気持ちも、ちゃんと自分の中に残っていた。
 だが、それを力尽くで解くには、今の俺はもう甘すぎる。
 少年の潔癖で、一直線に突き進めたスルトは、もうここにはいない。
 そう言った部分は、晴信の記憶の中に、飲み込まれて消えた。
 この世界そのものを嫌っていて、どうやってでも帰りたいと思っていた晴信も、また、同じ。
 スルトとしての情を得た晴信には、その鎖を切り捨てる事がどうしてもできなかった。

「うん、変な話だけど、なんだか、崖から落ちてから肩の力が抜けた気がする。
 大きな怪我とかすると人生観変わるって言うけど、俺の場合、良いほうに変わったみたいだよ、父さん」

 そのお陰で、少し螺旋繰れていたスルトよりも、今の俺の方が素直に、両親と接する事ができているように思う。

「……そうか、お前にとって俺は、余り良い親ではないのだろうと思うが……」

 だから俺は、そう言って目を伏せた父さんに、笑顔を向けることができた。

「そりゃあ、息苦しいとは思うけどね。
 父さんが父さんで無くなったら、それは父さんじゃないよ」

 そして、俺はそう言いながら、ふと、H×H本編でジンがゴンに残したメッセージを思い出す。

『だがその間、絶対に変わらないものがある。
 オレがオレであることだ』

 父さんは、ジンと同様絶対譲れない自分を持っている人間で、だからこそ父さんなのだ。
 尤も俺には、ゴンのように父さんを追うつもりは無いのだけれど……。

「…そうか、それはそうだな。
 確かに俺が俺じゃなければ、俺じゃない。
 当然ここにもいなかったし、お前の父さんでもなかったか」

 そんな俺の言葉に、父さんは父さんにしては珍しく、はっきりわかる笑みをその顔に浮かべる。
 
「さっき、母さんも言っていたが、たったの一日で本当に大きくなったな」

 そして、ポツリと付け加えた言葉に、俺はちょっとだけ驚いた。
 俺の――晴信とスルトの人生経験を足し合わせれば、父さんのそれとそんなに変わらない数字になる。
 勿論、世間の荒波に揉まれていない分、世間知らずではあるのだろうけど……でも、だから父さんが俺を大きくなったと評するのには、そんなに不思議は無かった。
 けれど母さんには、昨日目覚めて以来、心配ばかりをさせている気がする。
 なのに何故?
 そんな俺の疑問が、表情に出たのだろう。
 父さんは笑みを苦笑に帰ると、こう続けた。

「母さんが言ってたぞ、まだまだ小さな子供だと思っていたら、あっさりと振り払われた……とな。
 ああ見えても、母さんの腕っ節は中々たいしたものなんだがなぁ」

 まあ、無資格看護士として毎日力仕事してるからなぁ。
 ……って事は、さっきのアレは傷ついたわけではなかったって事か?
 微妙にほっとするものを感じながら、俺は気のないような顔でふーんと頷いた。
 まあ、一足飛びに人生経験二十年追加されてしまったスルトとしては、これは受け流すしかない話題だって事もある。
 丁度そこに母さんが、小皿とおかずを持ってきたこともあって、その話はここで終わりになった。
 父さんも、母さんも、今朝はそうのんびりしていられない。
 元々、人口に比べて医者の数が少なすぎる事もあるし、昨日回状が廻っていた関係で今朝の来院者は増えるだろう。
 そんなわけも会って、その後の朝食は特に話題が出る事もなく、黙々と進んだ。
 母さんのパンのミルク粥と自家製ドレッシングのサラダはとても美味しく、何時も通りに父さんがそれを誉めたり、珍しく俺が誉めて母さんに熱がないか心配されたり……何の変哲もないスルトの日常は、極ゆっくりと流れていく。
 それが妙に懐かしく感じられるのは、スルトにとってこの経験は、二十余年の長い旅の果ての帰還、だからなのだろうか?
 この場で答えが出ないと判りきっていたけど、でも俺は考えずにはいられない。

 ……晴信(オレ)が、父さんと母さんからスルトを奪ったのか、或いは、それとは逆なのか?

 それ以前に、榊晴信の体は今どうなっているのだろう。
 生きているのか、死んでいるのか、動いているのか、止まっているのか、そもそも初めから存在しないのか?
 例えば、晴信の記憶の中の世界が現実で彼をスルトが呼び込んだとして、肉体に記録されているデータをダウンロードしたとか、そう言う事なら、向こう側には何も変わらぬ俺生きている――そういう事になるだろう。
 もし、魂を奪ったとか、俺の魂がスルトの体に入り込んだとか、そう言うオカルティックな事ならば――それならば、そもそも魂とはなんなのだろうと言う話になる。
 肉体はスルトのものだから、その記憶は当然そこに記されているとして、晴信の記憶は、一体何処にあるのか?
 そう言えば、今の状態になってから晴信の記憶が、古いものや小さなものでも奇妙に思い出しやすい傾向があるが、それは今の晴信の記憶が、肉体ではなく、例えば、オーラに焼き付けられた情報といったものになっているからなのかもしれない。
 考えてもわからない、だから行動しなければ……けれど、こう言った空隙の時間はいつでも何処でもあるのだろうし、そういった時に俺は、それを考えずにはいられないだろう。
 そう、俺が、俺である限りは……そんな否定的な連鎖に陥りかけて、俺は手に持ったスプーンを握りなおした。
 もう、十分に冷めているパン粥を、口の中に豪快に運ぶ。

 ――父さんたちの前でこんなこと考えてはいけない。

 それがスルトの杞憂であれ、真実、晴信の罪過であれ、『そうしてはいけない』事に変わりはない。
 だから俺は、スルトにしては珍しく朝食を口にかきこむと、ご馳走様でしたと両手を合わせた。
 そうして顔を上げると、そんな俺を怪訝な顔で眺める父さんと母さんの姿――そういえば、この辺りには食後に両手を合わせる習慣はなかったか?
 肉体がある分、癖なんかはスルトの方が強かろうと考えていたのだが、どうやらそう言うわけでもないらしい。
 俺は、どうしたのと言うように軽く首をひねると、そのまま席を立った。
 変わってしまったとはいっても、その肉体も、精神もスルトのそれが基盤である。
 ならば、変に誤魔化すよりも普通に流してしまったほうがいいだろう。

「じゃあ父さん、学校を休む話、さっき父さんと話してた線でお願い」

 まずはそう言って、ああと生返事を返した父さんに頷き返すと、俺は台所に向かった。
 カモフラージュも兼ね、手近にあったピッチャーに水をなみなみ汲み入れると、大き目のサイズの硝子のタンブラーを手に取る。
 そして、直ぐに食堂へ取って返し、二人にこう言った。

「必要ないと思うけど、一応言っとくけどさ。
 俺、今日はちょっと集中して勉強したい事があるから、暫く声を掛けないでもらえるかな?
 ……昼時迄には一段落させるから」

 そして、そんな俺の言葉に、母さんはむぅっと膨れて、父さんは無言で頷く。
 結構酷い言い草だけど、母さんははっきり言わないと判ってくれない人なんで、ウチでは昔からこういう感じだった。
 まあ、午前中は父さんも母さんも忙しいから、特に心配は要らないとは思うのだけど、うっかり練の最中に抱きつかれて母さんの精孔が開いちまったよ……なんて事になったら困る、本当に困る、始末に困る。
 いや、遺伝的に考えれば素養持ちである可能性は高いし、あっさり纏を成功させるかもしれんけどさ。
 念に開眼されたらされたで、非常に困る事になるのは目に見えている。

 ……いや、いっその事家族全員念能力者を目指すってのも、手段としては面白いかもしれないけどね。

 爆弾魔一味じゃないけれど、三人で制約を分担すれば、かなり複雑な念能力でも大丈夫そうだしさ。
 けどまぁ、面白いからって実行に移す事じゃないよな。
 少なくとも、今は……俺は、ちょっとだけ馬鹿なことを考えると、口元に浮かびかけた笑みを隠すように食堂に背を向けた。
 水と器は確保。
 残りの木の葉については、ちょうど部屋の窓から手を延ばして届く位置に、庭木が植わっている。
 まあ、そこらで調達するより、部屋に篭もってからちょちょっと手を延ばして取ったほうがよかろう。
 ……俺は、水を零さないようにしながら小走りで部屋に戻ると、扉の鍵を閉めた。
 すぐさま机の上にタンブラーを置き、ピッチャーの水を表面張力の限界ギリギリまで注ぐ。
 窓を開けて木の葉を二・三枚折り取り、そのうちの一枚をタンブラーに浮かべ――そして、俺は気付いた。

 ……考えてみれば、あれから練を試してねぇよ。

 流石にぶっつけで試すわけにもいかないので、少しばかり怯えながらも俺は姿勢を整え、二・三度深呼吸した後、息吹を始める。
 吸って、吐く、取り込んで、吐き出す。
 口、肺、心臓、血液、細胞、グルグル廻る、生命のサイクル。
 その過程から力を汲出し、丹田へと蓄える。
 溜まっていく、溜まっていく、溜まっていく。
 出口のない溜池、注ぎこまれる力。
 力は注ぎ口から水流に沿って渦を巻き、どんどん成長していく。
 俺は、それが充分に育つのを待ってから、蓋を開いた。
 イメージは遠心分離機、洗濯機の脱水でも可。
 遠心の力によって、旋回する水は外へと逃げていく。
 全身から爆発的に吹き出るオーラ、俺は息吹を止めながら集中して纏を行った。
 纏の領域がキュッと窄まり、次の瞬間それは、内側から湧き上がる力に押し広げられる。
 どうやら、練自体に問題はないようだった。
 或いは、あの最初の試みで暴走を齎した何かは吐き出されてしまったのか?
 一度目と比べ明かに弱い、しかし、滑らかなそれを眺めて、俺はほぅと安堵の息を吐いた。
 そう言えば、あの時は微妙に黄味がかって見えたオーラも、今は普通の空気の揺らぎのように見える。
 色々と興味は尽きないが、今はそれより、水見式を試みる方が先だ。
 練が薄れるのを待ってから、両手でタンブラーを挟む。
 纏の領域の大きさには個人差があるが、大体数mmから数cm程度の範囲だとかハンター本編で言っていた。
 絵では、明かに30cm以上の領域があるように思えるが、アレは多分、漫画的な表現って奴だろう。
 俺の纏の領域はと言えば、通常時2cm、集中して1cm、練使った時で4cm程度――練使った時の感じからいって、器が小さいと言うよりは念を引き付ける力が強いんだろう。
 ……で、何が言いたいのかと言えば、今の俺の纏でワイングラスを覆うのはかなり難しい。
 葉っぱ乗せる関係で大きめのタンブラー持ってきたけど、縦長のソレでも普通にやったのでは覆えず、俺は練を始める前に、色々と試行錯誤しなければならなかった。
 普通なら、ちょっと纏を緩めたりすれば事足るのだろうが、俺の場合、そもそもどうすれば纏を解けるのかすら判らない。
 寝ても覚めても慌てても何時も普通に纏してるし、ぶっつけで錯乱してても練に成功するしで、実は俺は特質系で、これが俺の特質能力なんじゃないの?…とか、くだらない事を考えてしまいそうな勢いだからな。
 取りあえず、両掌をくっ付けてそれを覆う纏の領域を繋げると、今度はそれが切れないように離していく。
 丁度、両手にくっ付けたシャボンの泡を、切らないで延ばすような感覚で俺はゆるゆると両手を開いていった。
 念は、使い手の意思に反応する。
 頭の中に纏の領域が繋がったまま開いていく様をできるだけ克明に描きながら、試行錯誤を繰り返す事30分余――俺は、漸くタンブラーを纏の領域内に収める事ができた。
 どうやら俺は、纏が強固な代わりにその領域を広げるのが苦手らしい。
 AOPはかなり期待できそうだけど、円とかは使うの難しそうだなぁ……。
 今回にしても、最後は周の出来損ないみたいな感じで、半ば無理やりタンブラーを纏に収めたんだが、まぁ、取りあえずは問題はなかろう……うん、多分。
 俺は、タンブラーを介して繋げた纏が途切れないようにと注意しながら、練を始めた。
 二回の試行でコツがつかめたのか、三回目の今回は前二回より遥かに容易く、オーラを高める事ができた。
 できたんだが……。

「……切れた」

 どうにも気が逸れると、タンブラーに纏わせた纏が途切れてしまう。
 しかも、一度成功させて纏の内にタンブラーを収める筋道が判ったとは言え、元々纏を拡げるのが苦手な俺のこと、水見式の状態まで再び持って行くのにも、それなりの手間と時間が必要だった。
 張って、途切れて、張って、途切れて、張って、途切れて―― 一時間で六度の失敗を重ね、俺は疲れて床にへたり込む。

 ……水見式って、こんなに難しいものだったのか?

 荒い息を吐き、ピッチャーから直に水を飲みながら、俺はそんな事を思った。
 いや、まぁこれは、どっちかといえば俺の念の特性の方に問題があるのだろうが……。
 俺は、はぁと息を吐いてピッチャーを掴んだ両手を見下ろし――タンブラーより太いピッチャーが、今、俺の手の中に納まっている?

「は、ははははは、はぁ……」

 それに気付いた瞬間、俺は、自らのあまりの間抜けさに脱力せずにはいられなかった。
 H×H本編では、全員が全員グラスに手を翳して水見式行っていた為、『そう言うものだ』と思い込んでいた俺だが、よく考えてみれば、単にタンブラーに手が触れないようにしながら纏で覆えば、それでいいのではないだろうか?
 確かに俺の体はそう大きくはないし、それに比例して指もそれほど長くはないが、こう、両手で輪っかを作ってその中に纏を張るようにすれば、タンブラーの一つくらい覆えるだろう。
 ……俺は、最後に一つ溜息をつくと、息を整えて両手を合わせ、両掌の纏を確りと結び合わせた。
 次いで、指を繋げたままに掌を離し、両手で輪を創る。

「……よし」

 取りあえず、ここ迄は順調――指が繋がっているせいか、両手を覆った纏は途切れる事なく、一つの大きな塊になったままだ。
 予想通りの結果にほっとしつつも、俺は深呼吸をして気を引き締める。
 問題はここからだ。
 今のままでは、まだ間接一つ分くらい足りない空間を、どうにかして作り出さなければならない。
 俺は、頭の中に纏の理想的な変化を思い浮かべながら、そろりそろりと指先を離していった。
 ちょうど、両掌で纏の玉を挟んでいるような状況をイメージし、そうなるように、そうなるようにとただひたすらに念じながら、ゆっくり、ゆっくり、指の間を開いていく。
 そして……慎重に指を開いて行く俺の掌の間で、オーラが動いた。

「え?」

 両手の間に開いた纏の空間に、両手からかなりの勢いで念が流れ込み、右巻きの渦を描く。
 驚く俺の目の前で、流れ込むオーラは纏を内側から膨らませ……

「ストォォォォップ!」

 俺は、思わずそう叫びながら両手に力を込めた。
 きゅっと、一回りくらい纏の珠が縮み、オーラの流動が止まる。
 ……ええと、なんなんでしょう、これ? 幾らなんでも特殊すぎませんか?
 俺は、手の中にある球形の纏を眺めながら、そんな事を思った。
 取りあえず安定しているみたいだし、サイズ的に丁度タンブラーが入るくらいなんだが、これって大丈夫なんだろうか?
 形成された念弾…とかじゃないよね、ちゃんと繋がってるし……。
 俺は、手を動かしながらそれを矯めつ眇めつしていたが、どこからどう見ても形が変わっただけのただの纏だった。
 試しに、パソコンデスクの椅子に近付けてみたが、触れると極普通に透過する。
 次に両手を離してみると、伸びが限界に達したところで左右にちぎれた珠は、そのまま掌を覆う纏に戻っていった。
 さっぱりわけが判らない――が、取りあえずこれでなんとか水見式はできそうである。
 確かめる意味も有って、俺はもう一度同じようにやってみた。
 両手を合わせて、次いで輪にする。
 そして、接した両手指を離し……ああ、膨らんでく、膨らんでく。
 そのまま行ったらどうなるのかと眺めてみると、纏の珠は膨らみが一定に達したところで破け、縮んで両掌の纏に吸収されていった。
 中に入っているのがオーラなのであのような勢いはないが、ちょうど、水を入れすぎた水風船が破れたような雰囲気である。
 ええと、纏を延ばすとそこにオーラが流れ込んで、膨らんで爆発するのか?
 まあ、爆発っても、念弾みたいな破壊力があるわけじゃないけど……。
 なんか、纏が破けて空気が抜けてくみたいな?
 で、力を入れると膨らむのが止まる。
 力、あの、練ん練習の時みたいな感じで、止まれ…って?
 ふと思いついて、俺は練をしてみた。
 特別力をいれずに、練でひねり出したオーラを垂れ流しにしてみる。
 纏とか、引き出す力の強さとか、そう言う事に拘らなければ、練はそれほど難しいものではない。
 殆どタイムラグもなく体表からオーラが湧き出し、その圧力に張りっぱなしの纏の面積が倍ほどにも広がっていった。
 ふむと、頷きながら全身を覆うオーラを眺め、次いで力を入れると纏がきゅっと縮まる。
 纏の――オーラを押さえつける――力が強まり、体表近くに圧縮したのだ。
 その状態で、もう一度両掌を合わせ、先ほどと同じようにやってみる。
 掌の間の珠は、先ほどに倍する速さで広がり、そして、弾けた。

「……圧力かよ」

 その、予想通りの結果に、俺は溜息を付く。
 つまり、こういう事だ。
 俺は素の纏の力が強いので、その体を覆うオーラは、常に圧力が掛かった状態にある。
 そんな状態で俺が局所的に纏を拡げようとすると、オーラの薄い空間ができる上にその部分の纏の力も弱くなるので、周囲からオーラが流れ込んできて風船のように膨らんでしまうのだ。
 恐らく、両掌を合わせて纏を拡げようとしていたときの失敗も、同様の理屈によるものだろう。
 あの失敗の時、俺は纏を引き伸ばす事に失敗しているとばかり思っていたが、実際には、引き伸ばされて弱くなった纏の、補強を怠っていたのだ。
 幸いな事にと言うか、禍福は糾える縄の如しと言うか、俺は纏を強くするのは得意である。
 少しずつ、纏に力を加えながらそれを引き伸ばして行くと、纏の空間は面白いように広がっていった。
 尤も、体から離すやり方は感覚的によく判らないので、手足等を介して引き伸ばさないと広げられなかったのだが……。
 今や、人差し指と人差し指を合わせれば、ヒソカのように釣り橋をかけることも出来たし、もっと集中して練習すれば、スペードも髑髏も出せそうな感じはある。
 って事は、俺って変化系なのかね?
 そう言えば、最初に練を成功?させた時にも、ちょっとオーラに黄味が出ていたような……。
 ネットの性格判断だと具現化系だったけど、変化系よりなのかもしれないな――って、俺、なんか忘れてはいないか?
 気が付くと、水見式を試し始めてから、既に二時間が経過していた。

 いかん、調子に乗りすぎだ、俺。

 俺は、一人ぽつねんと机の上に佇んでいたタンブラーに近付くと、両手の間に纏を拡げる。
 昼食までに時間はまだ暫く有ったが、やってみたい事も考えたい事も数多い。
 俺は、タンブラーを纏の内に収めるとオーラを練り始めた。
 纏を維持する事に不安がなくなった以上、練を加減する必要はないし、今後生き残る為にも、俺が今ここでこうしている原因を探る為にも、早いうちに、確実に自分の系統を知っておきたい。
 元の肉体の能力スペックの差が大きいだけに、ゴン達ほどのオーラが望めないだろう俺だったが、初めから纏が強固であり、練の際に、オーラを高める事のみに集中できると言うアドバンテージも持っていた。
 だから、限界まで搾り出して、限界まで維持すれば、初期のゴン達位の変化ならば得られるはずだ。
 ……いや、できる。
 こんな特異な状況に自分を置ける程のポテンシャルを秘めているはずなのだ、この体は……。
 ネオン護衛団のリーダー、ダルツォネは言っていた。

『お嬢様が本気で怒ったら我々では手におえませんよ』

 マフィアのお嬢様で、特別体を鍛えていなかった筈のネオンがそれだけのオーラを秘めているのなら、肉体的な強靭さは念の強さの絶対条件ではないはずだ。
 搾り出せ、全身の力を……念の力には、その時の人間の精神状態や嗜好が大きく影響するという。
 だから、今だけでいい、信じろ、自分を……。

 そう、フォースの力を信じるんだッ!

 最後になんか、照れ隠しの変なのが混じったが、まぁそれはいい。
 微かな頭痛、ふらりと頭が揺らめき、俺は念ずる力を緩めた。
 どくりどくりと、眉間で血管が鳴っている。
 頭に血が昇りすぎていて、重いくらいだった。
 これ以上念じても、維持できないかもしれないな――そう感じた俺は、はぁと息を吐き出しなが、意識を鳩尾の辺りに落とす。
 そこには、力強い流れが、円環を描いていた。
 最初の練の試みに匹敵する勢いで、しかし、あの時の様に制御を失う事無く流れるさまは、何故か流麗な指輪のようにも感じられる。
 そう、瑕疵も無い、金無垢の……いや、考えるなその先は、少なくとも今は。
 今は、そんなことより、自分の属性を知る事のほうが重要なのだ。

 ……解き放つ。

 堰を外された流れは、自らの宿す勢いによって形をなくし、四方八方へと飛び散って行く。
 俺はその本流を纏で閉じ込め、そして……。




 一分が経過した。




 五分が経過した。




 ……俺は、疲れきって後ろに倒れた。

 どうやら俺は、強化系でも操作系でも放出系でも具現化系でもないらしい。
 すると、ビスケやヒソカ、キルアなんかと一緒へんかけいか。
 まぁ、変化系ベースで、放出系、具現化系を組み合わせれば幽体離脱ができそうな気もするから、これはある意味順当……なのか?
 いや、放出系は相性が良くないから難しい気もするんだが、ビスケのクッキィちゃんも操作系使わないと無理だろうし、強化系だったりするよりは説得力も……と、中の水をぺろりとなめた俺の、体が思わず硬直した。

 ……味がしない。

 ちょっと待て、目立った変化何も無いぞ!
 俺のオーラってそんなにへなちょこなのか?
 俺も、脳の血管はちきれるんじゃないかと思うくらい集中したし、それに、あの鳩尾に感じたオーラの流れは、どう考えてもモタリケ級には達していたはずだッ!

 ……ッ、Be Cool、Be Cool。
 オーケィ、まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ。

 まあ、よく考えてみれば、ゴンたちが最初に発の修行を受けたのは、最短でゴン対リールベルト戦の翌日なわけだから、彼らも最低一ヶ月は練やら凝の修行をした後の筈で、そう考えると今日の水見式は単に時期尚早だった――そう言うことなのだろう。
 そうだな、今日から一ヶ月、地道に練と凝の修行をしよう。

 あー、けど、凝しても成功しているのかどうなのか微妙に判らんし、功防力の移動の修行の方がいいかな?

 凝と攻防力の移動は、基本的にはオーラを目に移動させるか、目以外の場所に移動させるかの違いな訳だし、鏡で自分の目を見ながら凝の修行ってのは、ちょっとばっかりごめんこうむりたいし……俺は、へたばった体を横たえたまま、取りとめもなく今後の予定を考えていた。

 ……やっぱり師匠は欲しいな。

 なにより、自分の持っている情報が正しいかどうか判らないのが一番つらい。
 極端な話、俺が四苦八苦して行ったこの水見式が、実際には存在しないでたらめな手法である可能性すらあった。

 ……いや、逆だな、『出鱈目なのかも知れない』と心の奥底で思っていたから、早々に水見式が行いたかったんだ。

 ほぅと息を吐く。
 息も整ってきたし、もう一度水見式を行ってみようか?
 H×Hの描写を信用するならば、水見式で水に現れた変化は、儀式の終了後にも残留しているようだった。
 ならば、一度では目に見えない小さな変化でも、幾度も繰り返せばわかるほどに濃くなるかもしれない。

 そうだ、今度は練で高めた念を、両手に集める練習を併用してみよう。

 へなちょこらしい俺の念の出力でも、それで多少は……そう思った俺の視界の端を何かが掠めて言った。
 おや、と頭を上げると、タンブラーの上に浮かんだ葉っぱに、一匹の蝶が止まっている。
 どうやら、葉を取った時に開け放したままだった窓から、迷い込んできたようだが、これはまた変なところに止まったものだ。

 ……悪いが、このままでは水見式を続けられない。

 俺は、追い払うつもりでタンブラーを持ち上げたが、蝶は何故か揺れる葉の上で微動だにしなかった。

 え?

 驚く俺の手元に二匹目の蝶が舞い降り、やはりタンブラーに浮かんだ葉の上に降りる。
 タンブラーは、俺が手に持っているのに、だ。

「……まさか!?」

 俺が窓の外を見ると、そこには蝶が舞っていた。
 それも一匹や二匹ではない。
 晴信が昔テレビで見た、熱帯雨林に飛ぶ蝶の塊のようなモノが、種族の別を超えてこちらに向かい寄り集まってくる。
 まだ、二月の初め……暖かいこの辺りでも、それほど沢山の蝶が舞う季節ではないのに、だ。
 俺は、手元のタンブラーに視線を落とす。
 三匹の蝶が、小さな葉の上に止まっていた。
 違う種類の蝶だと言うのに、仲良さそうに、身をすり合わせて……俺は慌てて窓に駆け寄ると、外に水を捨てる。

 べしゃり。

 タンブラーの水が、上に乗った葉とそれに止まった蝶毎、地面に叩きつけられる。
 その上目掛けて、部屋の内外の、窓周辺にいた蝶が降りていった。
 それを見届けた俺は、ぴしゃりと窓を閉める。
 全身に水を被った状態で、地の上に投出されたあの三匹の蝶は、もう二度と飛べはしまい。

 ……だが、そんなことは問題ではないだろうな……。

 窓に背を向け床に蹲り、俺は頭を押さえながらそんな事を考えた。
 ごうごうと、轟く音が聞こえる。
 それは蝶の羽音だ、一つ一つは聴こえないほど微かな、バタフライエフェクトの語源にもなったそれが、一体どれだけ集まればこの轟音になるのだろう?
 その源が、あの僅かな水の、或いは葉の上に降りていったら、一体どんな惨状になるのだろう?
 背中一面を、冷たい汗が滴っていた。

「よりによって、特質系、かよ……」

 しかも、蝶だ。
 空飛ぶ蝶を、宙を遊ぶ魂に喩える場所は、結構多かったように思う。
 確か日本でも、そう言った喩えは有ったはずだ。
 また、夢と蝶を結びつける話も多い。
 こちらは、荘子の胡蝶の夢がその典型か……。
 そして……俺の手の中に、か細い何かを握りつぶしたあの夢の最後の感触が蘇る。
 あの夢が、事実を表しているとは限らない。
 その解釈も幾通りもあるだろうし、単に俺の恐怖や危惧が形となって現れた、それだけのものなのかもしれない。
 だけど、一つだけ確実な事があった。

『……あれは、蝶だったんだ』

 夢の中で、俺が握りつぶしたものは……。
 俺は、頭を抱えていた手をあわてて離し、床に掌を幾度もこすりつけると、脱力して全身を壁にもたせかけた。
 壁越しに、耳障りな音と振動が伝わってくる。
 酷い、吐き気が、した。

 ・
 ・
 ・
 ・

 羽音は、それから十分程で止まった。
 あの水から発散されていたものが蝶の亡骸の壁に遮られてしまったのか、或いは、時間が過ぎて、水見式の影響が消えたのか?
 後に残されたのは潰れた蝶の堆い小山と、その上でのたうつ飛び立つ力を失った蝶達、壁とガラスに跳び散った、無数の鱗粉……。
 流石にこの騒ぎは見過ごせなかったのか、母さんが看護服のまま部屋の戸を叩いたけれど、扉からちょっと顔を出して二・三話しただけでただけでなんとか許してもらい、俺はこの部屋の中でずっと蹲っていた。
 母の言うように、この部屋を離れれば――或いは、ヘッドフォンか何かで耳を塞ぐだけでもすれば――随分気も楽になるだろう。
 でも、今俺が、ここを離れる事は許されない、なぜだかそんな気がしていた。

 アレは、俺だ。

 嘗てのスルトの写し身であり、晴信が遭ったかもしれない事。
 でも俺は、自分の半身が自分を傷付けたかもしれない事を、誰にどうやって抗議すればいいのだろう?
 その時の俺に出来た事はといえば、潰れていく蝶たちの音を聞き届ける事と、彼等の為に自分自身を傷つける事――単なる自己満足の為の、代償行為だけだった。
 大体、本当に贖いの心算があるのなら、俺は自分の目でそれを見届けなければならなかったのではないだろうか?
 こんな壁一枚越しに、それも背を向けて、これが俺の自己満足以外のなんなのだろう。
 そんな風に、自分の心を自分で斬り付けながら、俺は羽音が消えるまでの数分を、ただ座って過ごした。
 それが已んでから部屋を出て、台所からマッチと食用油とを持ち出し、そして今、俺はこうして蝶の死骸の山の前に、立っている。
 そして俺は、まだ生きてもがいている蝶達の上に、無言で油を振りかけた。
 幾度も、幾度も、斑が無い様に、下まで染むように、壜の中の油がなくなるまで、何度も……。
 また、そんな状況の変化に、今までは動いていなかった下の方の蝶達も動き出し、結果油に覆われた蝶の小山そのものが蠢動する様は、まるで悪夢のように思えた。
 動くたびに、壊れていく。
 その度に蝶の羽が欠け、もげ、鱗粉交じりの油はグチュグチュと汚らしくも卑猥な音を立てる。
 ……酷く現実感のないその様を、俺は一体どれだけ眺めていたのだろう。
 俺は、未だ蠢いているその塊の上に、のろのろと火の点いたマッチを落とした。
 初めは弱く、次第に強く、火は燃え上がる。
 火は炎へ、下にある悪夢の山を黒く縮ませながら、それは鱗粉の火の粉を吹き上げる。
 これだけ盛大に火を焚いても誰も近付かない事に疑問を抱きながらも、俺は焼け死んでいく蝶をただ見つめ続けた。
 湿った昆虫の死骸は、嫌な匂いを立てる上に焼けにくく、更には、時々パチパチと爆ぜて火の粉を宙に飛ばす。
 けれど、そんな不快の間近にあっても、俺は全く何も感じていなかった。

 ……いや、感じてはいたのだ。

 この煙で燻された服を見て母さんはどう思うだろう…とか、そんな事が心の隅を横切った事を、俺は覚えている。
 けれど、その時の俺には、受容したそれを認識して対応する余裕がなかった。
 ただ機械のように、火が燃え広がらないように、蝶が燃え尽きるようにと、対処する。
 俺が、そんな機械のような状態を脱したのは、やがて黒い塊になってしまった蝶の山を、庭に埋葬し終えた後の事だった。
 いや、脱したと言うと語弊があるか?
 俺は、素手で固い土に穴を掘り、燻る小山を埋めた。
 いかに念で補強されているとは言え、俺の体は極普通の――いや、余り強靭とは言えない――子供のものである。
 切り傷と火傷の存在を疼痛で訴え続ける両掌を眺め、動いていない頭に『さて、どうしようか』等と思い浮かべた俺を、母さんが背後からぎゅっと抱きしめたのだ。

「か、母さんッ、苦しいッ!?」

 一瞬で、その腕の感触が母のものであると気付いた俺(スルト)は、次の瞬間にはもう何時もの自分に戻っていた。
 母からの力任せな抱擁に加えて、掌の痛みも認識してしまったからもう苦しいの二乗……いや、手の痛みは二種類だから、三乗か?
 けれど、俺はそれを振り払うことなく、ただ両手の傷にふーふーと息を吐く。
 なんつーか、俺も精神的に弱ってたとか、母さんを心配させた自覚があったとかってのもあるんだが、それ以上に、抱きしめられた瞬間、その感触が母さんだとわかったのがショックだった。
 抱きしめられた感触でそれとわかるくらい、俺はスキンシップ慣れしてたんだなぁ……とね。
 俺は、俺(スルト)と、俺(晴信)とが入り混じってしまった今でも、父さんのスペアみたいに見られる事や、そう言った立場目当てで近付いてくる連中にはほとほとうんざりしていたし、逆にそれを羨んで遠巻きにする連中にも複雑な感情を抱いたままだ。
 けど俺は、環境には恵まれてないけど、家庭には恵まれているんだよな、それも、充分すぎるくらい。
 まあ、それはただのスルトだった時にも判っていた事なんだが、晴信が足しあわされた後で再認識したっつーか、俺って餓鬼だったんだなぁって、そんな事をしみじみ思ってしまった。
 そうなるともう恥かしくて居た堪れないんだが、だからと言って、母さんの手を振り払ってこの場から逃げるわけにもいかない。
 まあ、逃げていい状況でも逃げないけどな――なんか母さん、俺抱きしめて泣いてるみたいな雰囲気だし。

「……ん?」

 ……と、そんなわけで俺は母さんの腕の中に固まっていたんだが、ふと、近付いてくる足音がある事に気付いて後を見た。
 抱きしめられた姿勢と、母さんの肩越しと言う悪条件は重なっていたけど、それで見逃すにはその人影は大柄に過ぎる。
 俺は、意外じゃないんだけど意外な、そんな人の姿を見上げて、目を大きく丸くした。

「……父さん?」

 視線の先には白衣を着たままの父さんがいて、母さんの腕の中の俺を怖い顔で見下ろしている。
 まあ、ここはウチの庭で普通患者さんの入ってくる場所じゃないし、だからそこにいたのが父さんだったのは、別に意外でもなんでもないのだけれど、今はまだ、時間的には病院の診察時間だし、父さんが白衣を着たままこう言う所に出てきたのなんか今まで見たことがなかったしで、その時の俺が相当な間抜け面をしていただろう事は、想像には難くなかった。
 けれども父さんは、そんな俺の表情と問いに何も答える事無く、ただぼそりとこう告げる。

「……見せてみろ」

 そして父さんは、俺に答える間を与えず問答無用で両手を取ると、一瞥してふむと頷き、ぴしゃりその両手を叩いた。

「いっ、いったッ!」

 母さんの腕の中、抗議の視線で見上げる俺を、父さんは怖い顔のままで見下ろす。

「だったら、一人で火遊びなんかするな。
 それに、一昨日の怪我と比べれば無いような物だ」

 その後、食堂に連行される道すがらに聞いた話だが、どうやら母さんは蝶の騒動とその時の俺の対応に不審を覚えて、昼休みを前倒しにして俺の様子を見に来たらしかった。
 しかし、部屋に言っても俺はおらず、外からはパチパチと何かが燃えるような音と、きな臭い匂いが漂ってくる。
 そこで母さんは、未だ午前の診察の後片付けをしていた父さんを引っ張り出して、二人でここに来た。
 それが、どうやら火が燃え尽きる直前の事だったらしい。
 両親は、俺が燃え殻の後始末を始めたのを見て、すぐに止めようとしたのだけれど、なぜか体が硬直して近寄る事ができない。
 これは多分、天空闘技場でゴンとキルアがヒソカの結界の中に進めなかったのと、同じ現象だと思う。
 念は使い手の精神状態に強く反応するものだし、あの時の俺は相当テンパっていた上に、誰にも近寄られたくないとも思っていた。
 ならばそう言うこともあるだろう――そう俺は辺りをつける。
 で、まぁ、後は大体わかると思うんだが、埋葬し終えた事で気が緩んだ俺に、自由を取り戻した母さんが突撃かまして、その後に父さんが続いた、と……。
 そんなわけで俺は、両親に食堂まで連行されて、母さんが簡単な昼食を作る間、父さんの治療を受ける事になった。

「それで、一体何があったんだ?」

 流石に、親としてはこの奇現象と怪行動の連鎖を捨て置くわけにも行かないのだろう。
 父さんは俺の手に膏薬を塗りながらそう尋ねるが、こちらとしても本当のことを話すわけにはいかない。

 ……まぁ、本当の事と言っても、何か判ったわけじゃないんだけどな。

 わかった事はといえば、ただ、『蝶は魂、或いは夢の象徴として扱われる事が多く、そう言った知識を持っている俺の水見式が、蝶を引き寄せると言う素敵な効果を持っていた』というだけだ。
 見た目にも明らかな特質系判定、変化内容は、匂いの変化と言ったところだろうか?
 昆虫類は所謂知性を持たず、その行動は、基本的に刺激に対する反射の組み合わせによって決定されている。
 無論、キメラアントと言った生物が存在するH×Hの世界では必ずしもそうだとは限らないわけで、これには『晴信の故郷では』と言う注釈が付くのだが、これはまぁ余談だ。
 取りあえず今問題なのは、昆虫とは、概ね外部からの刺激によって操作可能な存在であり、状況から判断して今回の場合には匂いが使われている可能性が高いと言う事。
 匂いとは、その元となる存在が大気中に放散する化学物質なわけで、所謂フェロモンなんかもそれに含まれる。
 これの組み合わせで昆虫を集めるのは可能だろうし、水見式を行ってから目に見える効果が現れる始めるまでのタイムラグやら、蝶が飛来した方角、集まり方なんかを考えるにそれで間違いないだろうと俺は思った。
 匂いを変えるという特性は、見た目変化系に近いように感じられるが、もし水中に化学物質を生成しているのであれば、その効果はむしろ具現化系のカテゴリーに近いだろう。
 しかし、ただでさえ念に関する情報が足りないと言うのに、よりによって、中でも最も情報の不足している特質系とは始末が悪い……と、思考が逸れたな、元に戻そう。
 特質系、蝶、そして、引き寄せる、固定すると言ったキーワードを、俺の現状に差し込めば、開いた先にあるモノは明らかだ。
 『向こう側』が夢か、現か――それはまだ判らないが、晴信をこの世界に引き釣り込んだのは間違いなくスルトであり、そして恐らく、俺にはそこに帰る術はないという現実……。
 勿論、まだそうと決まったわけではないのだけれど、あの蝶の山を見た俺は、そうなのだと確信してしまった。
 俺の念能力は、向こう側に飛ぶものではないのだと。
 ……念には、使い手の精神状態やらなにやらが強く作用する。
 仮に、俺の念能力が本当は『向こう側』に飛ぶものであったとしても、俺自身が『そうではない』と、こうも強く確信してしまっては、使い物にはならないだろう。

 いや、確信していなくても同じか?

 物体移動ではないとは言え、異世界に存在を飛ばす能力など、人間の能力で発動できるとはとても思えない。
 虚仮の一念岩をも通すと言うが、もしそうなのだとすればアレは、念に関して非常に高い素養を持っていたスルトが、死の淵で思い詰めたからこそ発動できた怨念に近い『超』能力なのだろう。
 メルエムのような隔絶した存在ならともかく、ただの人間一人が使うにしては、その能力は規格外に過ぎる。
 いや、俺が人類の規格外で、自由に行き来できてしまったりすれば、それが一番楽なんだけど、まあ、そりゃいくらなんでもありえないよね。
 そんなわけで、それを認識して俺が抱いた二つの思い……

 帰れない、ここで生きるしかない――そんな、晴信に根ざす思い。
 同じ立場に追いやってしまった――そんな、スルトに根ざす思い。

 それが重なって、わけがわからなくなってしまったと言うのが、俺が取ったあの奇行の原因だ。
 過剰なストレスによる逃避行動の一種、かな?
 けれど、そんな事はとても言えないし、父さんに嘘も付きたくはない。
 だから俺は、本当の事を、言えることだけを言う事にした。

「わからないんだ」

 一昨日の晩から昨日の朝にかけての事は思い出せない。
 今日勉強していたら、タンブラーの水の上に蝶が落ちた。
 それを捨てたら、なんだか大量の蝶が群がってきて恐ろしかった。
 あの蝶の死骸の山をどうにかして処分したかった、焼く事しか思いつかなかった。
 後の事はよく覚えていない。

 そんな事を父さんに、訥々と話す。
 今の俺はそうでもないけれど、本来のスルトは純粋で潔癖で、人付き合いが余り得意ではない人間だ。
 そう言った、今の俺と過去の俺とのギャップがどうやらうまく働いたらしい。

「嘘は、ついていないようだな」

 手に、包帯を巻き終えた父さんは、ポツリとそう呟いた。
 信じているのか、それとも、見通した上でそう言っているのか?
 それは判らないけれど、取りあえずこの場ではこれ以上追及する気はなさそうだった。
 なんつーか、ここまで来ると物分りが良過ぎるっつーか、もう放任レベルなんじゃねとか思わなくもないけれど、今はありがたい。
 まさか、父さんは、そこまで読みきって……いや、まぁ、流石にそれはないか。
 俺は、父さんの顔をジッと見ると俯いて息を吐いた。

「……父さん、父さんにお願いがあるんだ」

 そして、すぐに顔を上げ、そう続けた俺に、父さんは真面目な顔をして頷く。

「言って見ろ」

 俺は、そんな父さんの目を正面から見返して、こう続けた。

「あのさ、父さんの指輪……普段つけてない、盗まれたほうの結婚指輪。
 その、向こうに行く時、お守り代わりに貸してくれないかな」

 父さんと母さんの結婚指輪は、実は二組ある。
 一つ目は、結婚した時に作ったもの、二つ目は、母さんの方の片割れが盗まれた時に新調した物だ。
 父さんは、母さんに合わせて新しい方の指輪を嵌めているので、古いほうのそれは、大事に仕舞い込まれている。

「いいだろう。
 ちょっと待っていろ」

 拒否されるか、すぐには答えが帰ってこないと思っていた俺は、そんな父さんの言葉に、唖然口を開いた。

「良いの、父さん?」

 腰を浮かせかけた父さんにそう尋ねると、父さんはああと頷く。

「確かに今のお前には、お守りの一つも必要なようだからな」

 そう言った父さんの目は、俺の心の奥のほうまで見通しているように見えた。
 沢山の人を、毎日見ている父さんだったら、その位の眼力は持っているのかもしれない。
 そう思って、口を噤んだ俺を、父さんは一瞥するとそのまま部屋を出て行った。
 入れ違いに、大皿に盛ったパスタを持って入ってきた母さんの、小言を聞きながら待つ事十分余……。

「……またせたな」

 そう言って父さんが差し出した指輪は、銀の鎖で繋がれていた。

「あなた、それは……」

 鎖に繋がれたそれを、驚きの顔で見やる母さんに、父さんは頷く。

「最近、いろいろと良くない事が起こっている。
 コイツをスルトに、お守り代わりにもたせてやろうと思ってな」

 ……どこに、自分の結婚指輪をお守りに持たせる親がいるよ?
 まるで、自分から申し出たように言う父さんに、俺は内心突っ込みを入れると、その手の上の指輪を取った。
 銀の鎖で繋がれたそれは、鎖を通して尚、俺の指に嵌められるほど大きい。
 しかし、その割に不恰好に感じないのは、その余りに滑らかな曲線とバランスの良さのおかげだろうか?
 掌に乗せて指で転がしながら、その指輪を矯めつ眇めつしていると、俺は、自分が本当にフロド・バキンスになったかのような、そんな心持がした。
 勿論、今の俺の心情は、フロドがビルボから指を受け継いだ時の晴れがましさとは程遠いものがあるだろう。
 冒険への期待や、背負った重責への自負と言ったものは、今の俺の中には全くありはしなかった。
 今の俺にあるのは、かちゃりと体に絡みつく、優美にして優しい、金の鎖の感触だけだ。
 だが、きっとこの金の指輪は、俺を縛るかわりに力をくれる。
 鳩尾で旋回する黄金の円環と、夢の中の金鎖、重なる一つの指輪の心象――それらに加えて、水見式と『向こう側』で行った念能力判定の結果を総合すれば、もう間違いないだろう。
 多分俺は、この指輪を具現化するのが一番いい。
 勿論、それが単なる思い込みだったり、特質系独自の特殊な相性である可能性もあるので、当面は練、凝の修行に加えて放出系と変化系のレベル1修行を試し、その発展の度合いで能力を決定する心算ではあったが、俺の中には、もう間違いないと言う確信があった。
 この指輪を手に入れた俺が、フロドになるのが、ゴクリになるのか、或いは、トム・ボンバディルになれるのか?

「ありがとう、父さん」

 俺は一言そう礼を言うと、指輪を繋いだ鎖を、その首にかけた。



[2622] 第三話『その味が共に楽しめるほど現実であれば―――或いは、皆で歌おうマサラの歌』
Name: 十八◆4922f455 ID:c47c5104
Date: 2008/08/12 14:09
第三話『その味が共に楽しめるほど現実であれば
    ―――或いは、皆で歌おうマサラの歌』

 昼食後しばらくは、俺もおとなしく休んでいた。
 尤も、それは体を休めていただけの話で、首にかけた指輪を弄りながらだから、広い意味では具現化系の修練かもしれないし、同時にこれからどうするのかを考え続けてもいたから、点をしていたと言えなくもない。
 そう言えばスルト(オレ)って、ある意味ではすっと燃の――偽の四大行の――修練をし続けていたと言えなくもないんだよな。
 H×Hにも、怪我をして燃の修行を止められていたゴンが言いつけ通りに毎日『点』を続けていたら、解禁後に『纏』の方も自然、滑らかになっていたという描写があったけど、もしかしたら俺に念の素養があったのはそのせいなのかもしれない。

 ネテロ会長の正拳突き一万回も、燃に対応してるんじゃなかろうかとか、あの馬鹿も言っていたような気も……まぁ、いいか。

 一万回やるかはともかくとして、ネテロ会長風正拳突き修行とかも面白そうなんだが、俺には格闘技経験も無いわけだし、変なフォームで固まっちまったりしたらやばいよなぁ。
 いや、そもそも武術に拘りがない俺がアレやって意味あんのかって意見もあるだろうけど、貫くべき一つに思いを定め正拳突きを繰り返すってのは、念の戦闘能力を養うには格好の修行だと思うわけよ。
 特に俺の場合、指輪を具現化するともう決めちまってるしな。
 ……でもまぁ、聞きかじりの半端な知識しかないような状態で変な癖つけちまうのは問題あると思うんで、素直に格闘技を習い始めるまでは、基礎体力作りに専心するか。
 勉強は軽い予習復習程度に抑えて、その時間はランニングか何かに充てよう。
 ま、色々考えたんだけど、まずはある程度の能力を得ないことには始まらんしな。
 傷関連の放置は少しばかり怖くはあるが、現状で何も出来ない事を考えれば、俺自身の能力底上げこそ急務だろう。
 取りあえず現時点での行動は、第一が心源流拳法に入門して、そこからどうにか協会の念能力者との接触を計る事だ。
 ハンターの料金体系は非常に高額なので、金銭面で非常に心許ないモノはあるんだが、それだけで事が全て解決する可能性もあるし、仮になにも変わらなかったとしても、今後念の情報や能力者とのコネクションは役に立つだろう。
 第二が、ゴンたちと同じ287期ハンター試験に参加し、合格する事。
 主な目的はハンター証の入手と、ゴンパーティ及びネテロ会長との接触。
 ハンター証は、他のハンターに何かを依頼する必要が発生した場合の資金源として、ネテロ会長は……あの人が良い様に使われてくれるとはとても思えないけど、ここで顔を売っておくだけでも、随分後が違うはずだ。
 仮に、今の俺の状態が現在進行形で作用し続ける念能力の影響であり、それを外す事で元の状態に戻れる事がわかった場合、今度は雪男よりレアな優秀な除念師を探さなければならなくなる……わけなんだが、H×H本編で確認された優秀な除念師はたったの二人――それも、片方(アベンガネ)はグリードアイランド内で幻影旅団との競合、もう片方(ヒナ)に至ってはキメラアント――だ。
 残り五年で、俺が旅団やアリと直接戦えたり、交渉したりできる程強くなれる保証は全くない。
 故に、ネテロ会長に未来情報を売る代わりに対象のアリを捕獲してもらうとか、そう言ったある程度話が通じる面子との取引を成立させるのがベストな選択なのだが、そのためにもまずは、自分に興味を持ってもらわなければならなかった。
 そして第三が、バッテラ氏の募集に合格し、グリードアイランドをプレイする事。
 別に、トリップ系SSの定番らしい『島の外に離脱を持ち出して』、なんて事を考えているわけではない。
 なんつーか、ゲーム設定なら兎も角、俺の場合それで戻れるとも思えんし、そもそも、スルトのまま『向こう側』に戻ってどうするよ?
 なわけで、俺がグリードアイランドに行きたい目的はと言えば、ビスケット・クルーガーと、もしもテレビ!思い出写真館!人生図鑑!
 ビスケは当然、優秀な師匠だからで、教えてもらえるかはともかくとして、顔見知りくらいにはなっておきたい。
 もしもテレビは――実際の効果や効果範囲はどうだか判らないから確言はできないんだが、『もし、スルト・マクシェイ(詳細説明)が、“向こう側の世界”の榊晴信(詳細設定)の現状を知る事ができたら?』や、『向こう側への移動方法を知る事ができたら』等と言った文章を打ち込めば、向こう側での俺の現状など通常では手に入らない情報を入手できる可能性がある。
 また、思い出写真館と人生辞典のコンボがあれば、一昨日の晩俺に何が起こったのかを解明する事もできるだろう。
 しかも、これら全ては、レアリティが極悪に高いわけでもなく、カード化限界が極端に低いわけでも無い上に、グリードアイランド内で使っても問題ないアイテムと言うのがまたミソ。

 つーか、よく覚えてんな、俺。

 それも、こんな一覧表に載ってただけのカードデータまで……。
 やっぱりこっちに来たときに、晴信の記憶は念に刻み込まれたデータベースとかになってたりするんだろうか?
 その辺りを調べる為にも、遊魂枕とかも欲しいなぁ。
 後は、アリ戦対策を仮定した能力底上げに役立ちそうな、そう、例えばマッド博士の筋肉増強剤とか。
 アレも、島の中で使っても全く問題ないアイテムだし……くそ、流石は貪欲の島、本当に、己の強欲さがしれるな。
 まあ、最悪クリア直後のゴンに誠心誠意頼めば、そこらのアイテムは快く譲ってくれるだろう。
 その為にも、287期ハンター試験におけるゴンたちへの顔繋ぎは重要だ。
 できれば、天空闘技場までは同行して200階クラス迄は至っておきたい。
 そして、その時に両親やら学校を黙らせる為にもハンター証は必要ッ!
 コイツがあれば、高校卒業しなくても即大学受験できるし、それに、現役ハンター高校生在籍は学校のイメージにとっても大きなプラスになるはずだ。
 幸いな事に、ハンター試験は新年。
 この世界でも新年すぐは冬休みなのだ。
 287期ハンター試験まで真面目に手堅く暮らしていれば、それから出席日数ギリギリまで外を出歩いていても、そう大きな文句は言われないだろう。
 じゃなくとも、公共機関は大半ハンター証で料金免除になるから、特待取り消されても問題なしだしな。
 ……とは言え、現時点ではただの皮算用。
 実際のところ、ガリ勉貧弱ンな俺の体が、たった四年でどこまで出来上がるかわからんし、戦闘技術に至っては何を況や。
 正直、念で超回復力も強化できるだろう事が唯一の楽観要素と言うのが、本当に悲しいな。
 まあ、二十歳過ぎた晴信の体で、こっちに飛ばされるよか百万倍マシではあるし、無い物強請りばかりをしていても仕方ない。
 少なくとも、今のスルト(オレ)はまだ小学生だし、それになにより、ハンター世界で生まれ育った人間だ――と、休みながらこの先の展望について考え(妄想し)ていた所で、机の上の端末にセットしておいたタイマーが鳴った。

 よし、二時間経過だ。

 俺は、寝っ転がっていたベッドから飛び起きると、机の上の端末のタイマーを、再び二時間でセットする。
 天空闘技場でウィングさんが、ゴンとキルアに『睡眠、修行、息抜きには同じだけ時間を…』と言っていたので、俺は、先ほど水見式の試行錯誤に充てた二時間を基本単位にして、交互に修行と休憩を行う事した。
 俺の場合、そうやって時間決めで動かないと、ズルズルと潰れるまで修行続けちまいそうだからね。
 スルトは思いつめて一つの事にのめり込んじまうタイプだったし、晴信は晴信で、止め時が見つかんなくて中毒になるしで……。
 取りあえず今の所は…だが、二人混じっても、バランスよく強くなるなんて甘い事はないみたいだ。
 尤も、晴信(オレ)は、スルト(オレ)に近い点があったからこそ、こっちに曳かれてしまったんだろうから当たり前なんだがな。
 ……俺は、部屋の真ん中に自然体で立つと、目を瞑って腹式呼吸を始めた。
 纏が得意で、だから多分AOP最大値が大きいだろう俺だが、POPを取り出す技術は多分それほど巧くない。
 いや、あの恐怖の蝶汁を思えば低いとも考えにくいんだが、あの時は反応ない事に戸惑って五分以上も延々練してたから、きっとそのせいだろう。
 なにせ、GI編開始後暫くのゴンの、最長持続時間の三倍強も練をたもってたわけだからね。
 だから、単位時間当たりの影響は少なくても、最終的な結果はむしろ多かったのだろうと考えている。
 そんなわけで、オレの当面の修練は、練の反復練習。
 できるだけ早く、できるだけ自然に、できるだけ多くのオーラを搾り出し、高いAOPという持ち味を生かせるようにする。
 これを行えば自然防御力も上がって行くわけだし、攻勢に出られない現在では最良の修行だろうと俺は考えていた。

 後は凝って言うか、流って言うか……まずは凝か?

 重要なんだが、オーラが隠されているものなんか身近にない以上、鏡を見つめながら目にオーラが集中している事を確認するくらいしかやりようがないのが、なぁ……。

 まあいいや、取りあえずは練だ。

 そもそも、取り出せるオーラ量が少なくちゃ、高度な凝をこなせても意味ないわけだしな。
 そんなわけで始めた練の修行だが、これが中々に難航した。
 前に行ったとおり、力はただ引き出すだけならそう難しいことではなかったし、それどころか俺は、練を繰り返す事によって徐々にだが手応えらしきものまで感じ初めている。
 なんと言えば良いのか、俺の中にある力を引き出し集める為の最良のイメージとそれを開放する為のスイッチが、それを繰り返すたびに少しづつ形を確かなものに変えていっている、そんな感覚だ。
 いや、それは言うまでもなく例の黄金の円環で、これが形になっていくにつれ、帰れない深みに足をズブズブ踏み込んで言っているような気がしないでもないのだけれど……。
 だから、練の練習で問題になったのは引き出す技術ではなく、俺の持つアドバンテージである、纏う纏の強さだった。
 引き出されたオーラは、消費されなくても徐々に減っていく。
 纏は、オーラを『固定』する技術ではなく、そこに『留め』る技術だからだ。
 留める力が弱ければ、或いは、コントロールする技術が低ければその減少は激しくなるし、逆に留める力やコントロールに熟達していれば、その減少は少なくなる。
 俺の場合、逆に力を引き出す技術に対して留める力が強すぎて、この不均衡が修練の足かせとなった。
 通常状態のオーラを1、練をして引き出せるオーラを4としよう。
 俺が特に何もしない状態で体外に留めておけるオーラが凡そ3位、集中して纏を行うと……そうだな、最大6~7位は留めておけるんじゃないかと思う。
 そして、現時点の俺が持つオーラの保持力を3以下に抑える手段は、水見式の時にしたように意図的に纏の薄い部分を作って、そこからオーラを流出させるか、強化状態の纏を極限まで保って、オーラを体の周りに留める力そのものを消耗させるかしかなかった。
 それで、ここからが本題なんだが、練の後、オーラを特に留めようとしなければそれは急激に蒸散して行くが、それが保持力の限界まで差し掛かるとそれ以降は緩やかになる。
 つまり、練をした後俺は、通常時の1ではなく、3OP(のオーラ)を常時身に纏った状態になるってことだ。
 勿論、そう言う状態では消耗も通常より早くなるから、纏うオーラは緩やかに1へと近付いていくんだが、これがまた時間がかかる。
 で、時間がもったいなくて纏を弄ってのガス抜きをするんだが、こうすると今度はかなりオーラ=体力の消費が激しくなった。
 試した時みたいな保持力以下の力を引き出す手ぇ抜いた練とは違うから、噴出す勢いも凄いし、適当なところで留める為の纏の修復にも、えっらく手間がかかる。
 つうか、絶や纏解くのって、どうやるんだろね?
 それが出来れば何も問題ないはずなんだが、正直な話、皆目見当も付かんよ
 で、仕方なく、普通の人が練の修行してるのと同じだとと思えばいいやと割り切って、OP3保持状態で練修行を行ったら、今度はなんか変に体が軋んだ。
 息苦しいと言うか、なんか、肉体がオーラの出力に付いていけない感じ?
 流石は特質系、特殊すぎるぜこんちきしょーめぃッ!
 つーか、俺のレベルで体が軋むッたら、コルトピなんかどうなんだよ、コルトピ。
 あのトンでも能力で、しかも体は華奢だぜ?
 もしかしてあれは、極限までシェイプされた究極のボクサーボディなのか?
 それとも奴も、戦闘モードになるとビスケみたいに体膨らむんか?
 そーなのかッ!?
 いや、実際には本当の理由が判らんからなんとも言えんのだが、取りあえず体を鍛えないとOP3保持状態での練修行は拙いっぽい。
 体壊して、通常の練修行までできなくなったら本末転倒だしな。
 そう言うわけで俺は、纏弄って、一々ガス抜きしながら練修行をしなければならなくなった。
 手間が掛かるわ、時間は掛かるわ、疲れるわで、もぉ、大変……。
 薄々感じてた事ではあるけれど、俺の纏って多分普通じゃないよなぁ。
 能力の強さがどうのとか言う以前に、性質からして違う感じだし。
 ゴンは、ぶよぶよの薄皮一枚とかいってたけど、俺の纏はタイヤのゴムみたいな質感がある。
 特に練を使った後なんかはみっちり空気が詰まった感じで、ぶよぶよと評されるような緩みは全く感じられなかった。
 まるでオーラを、確りと内側に閉じ込めるみたいに……。

 ピピピピピピピピピッ!

 そして、再びアラームがなる。
 俺は溜息を一つ付くと服を脱ぎ、用意しておいたタオルで汗だくになった全身を拭った。
 二時間経過……しかし、行えた練の回数は、たったの八。
 そりゃあ、初めっからそうサクサク進歩するとは思っていなかったが、これではいくらなんでも、余計な時間を食いすぎである。
 元々纏に余裕があり、引き出す部分を重点的に鍛えたかった俺にとって、回数こなせないと言うのはかなり痛い事態だ。
 蒸散させるに任せると時間がかかりすぎるし、ガス抜きすると一発で息が上がる。
 重ねて練を行うと体への反動がきつく、今の俺にはその是非を判断できるだけの知識が無かった。
 対策として考えられるのは、纏とオーラ操作の練度向上による流出量操作と、肉体鍛錬による耐久力強化。
 どちらにせよ、一朝一夕には成せぬ事であり、正直、八方塞とも言える。
 まあ、鍛錬に王道なし――いや、地道な鍛錬こそが王道か?
 学校を休んでいる現在いま、本格的な肉体鍛錬はできないわけであるし、せいぜい纏及びオーラの操作に力を入れるとしますか。
 練が片手間になってしまうことは正直口惜しいが、効率こそが資本主義の神である。
 この世知辛い世の中で、少しでも思い通りに生きる為には、多少の拘りは捨てるべきだった。
 殊に、今は俺自身の命とか精神とか存在とか、そう言ったヤバイ物が関わっている可能性が高いしな。

 ……しかし、休憩二時間は長いな。

 気晴らしに予習復習でもやるか?
 いや、まぁ、無茶な事を考えているとは思うんんだが、この部屋、遊び道具の類はなくてなぁ。
 ある物はと言えば参考書と端末くらい――んー、こっちの世界にもネット小説とかあるのか?
 ふと思い立って、端末の前に座るとプラウザを立ち上げる。
 まずはプラウザのロゴが表示され、次いで『幸福は市民の義務です』とか言い出しそうパラノイアチックな電脳ページのイメージが映し出された。

 つーか、この毒電波撒き散らしてそうな脳髄、誰がデザインしたんだろうな?

 採用した奴もそうだけど、悪趣味にも程があるぜ。
 そんな事を考えながら、俺は昨日ブックマークしておいた検索エンジンに繋いで、と……さて、何を調べようか?
 マジな話、スルトオレはそう言った娯楽関係は弱いんで、何調べて良いのやらさっぱりわからん。
 うーんと、取りあえず頭に浮かんだものを検索してみる。

 チョコロボ君……すげぇな、百万件以上Hitしてるぜ。

 なんか、コレクター要素が大きな玩具付きお菓子の類らしい。
 菓子としての味も絶品だそうだが、キルアも存外にオタクなんかいな。
 ゲームもかなりやりこんでたみたいだし、やっぱ、ミルキの影響か?
 ふむんと、頷いてから、今度はトイランドで検索。
 ゲーム関連を見てみると、今の主力機はジョイステーション2。
 3はまだ出たばかりで、余り普及していないらしい。
 キルアの言葉では初代ジョイステーションは三世代前の型って事だけど、そうすると今後四年以内にジョイステーション4が出るわけか。
 ゲームソフトの紹介画面を幾つか見て歩き、ジャンル的に面白そうな作品とレヴューで検索してみる。
 その中で広く名作判定されているゲーム名を……はて、この世界で二次創作って、どう略されているんだろ?
 いかんな、どうにもスルトオレは世事に疎すぎる。
 いや、晴信オレにしても世知に関してはかなり捻くれ曲がっていた自覚はあるが、この世間知らずはどうにかせんとなぁ……。

 取りあえず、ニュースサイトをと、電脳ページの最初のほうに戻って、契約プロバイダのページを調べてっ、と…業者がこの辺りの所だから、周辺のニュースはわかるはず。

 そうして見つけたニュースサイトを捲った俺は、脱力して机に突っ伏した。
 連続殺人鬼-通称解体バラシ屋-真昼の凶行……初っ端から解体バラシ屋ジョネス君の記事かいな。

 あー、そりゃ母さんが村長の申し出を受けて当然と言った態度を取るわけだよなぁ。

 つまるところ村長の申し出は、お目付け役でも焚き付け役でもなく、単にまとめて護衛付けたいって事だったのか。
 ここから無理なく行き来できる都市で、ランクの高い学校があるのはザパン市だけで、そこではジョネス君がお楽しみの真っ最中と……。
 ネットの記事は色々調べてみるとジョネス君もまだ活動初めて間もないみたいで、だから母さんもまだそんなに深刻な危惧は抱いていないみたいだけど、逆に言えばそれは、今後まだまだこの事件は長引くし、それに従って心配も加速度的に増えてくって事だ。
 これは、同居は避けられんかもなぁ、いっそジョネス君のことを官憲に垂れ込むか?
 けど俺、ジョネス君って、147人を素手でばらしたって事位しかしらねーし、せめて、フルネームでも判ればなぁ。
 まぁ、ジョネス君の行動はランダムエンカウントのレアモンスターみたいなものだから、迂闊な事しなければ遭遇率は低いだろうし、今後を考えると、あれくらい楽勝で勝てないとお話にならないんだけど、試したら死にましたなんつーのは愚の骨頂だ。
 下手なちょっかい出してマァハを巻き込んじまったなんて事になったら、目も当てられんしな。
 取りあえず、セキュリティの充実した建物の3階以上の階に住んで、移動は車でを徹底すれば遭遇確率は殆どゼロだろうから、その辺りを村長と交渉しよう。
 最悪奴と出合ったしまった場合も、俺が盾になればマァハを逃がして護衛の人に官憲呼んでもらえるだろうしな。
 なにせ、ゴンが身体能力だけで200階までゴリ押しした天空闘技場の、50階近辺で躓いたズシでさえキルアの本気の一撃に耐えたのだ。
 貧弱な俺でも、堅の状態であればジョネスの握撃を凌げるだろうし、一撃当てられれば勝機だってある。

 ……最悪の場合、念に目覚めたスーパー解体バラシ屋ジョネス君が爆誕するけどな。

 どちらにせよ、この件では早急に村長と話をする必要がありそうだ。
 俺は、頭の中の懸案リストに解体屋ジョネス君の名前を書き付けると、記事をスクロールさせていった。
 んー、気になるのはジョネス君の乱行くらいか、国際ニュースも大半がハンター協会会長選関連だしな。
 興味の赴くままに色々捲って見たが、あんまり面白そうな記事はなさそうだ。
 時間もキリのいいところだったので、俺はプラウザを落とすと大きく背を伸ばす。
 気分転換どころか懸案事項が増えた気はするが、少なくとも念からは気が逸れた。
 だが、もう少しばかり休憩時間は残っている。
 折角だから茶でも入れるかと、俺は席を立って台所に向かった。

 ……けど、この家ってちゃんとした茶葉ってあるのかね?

 いや、それ以前にあったとして、それは俺が勝手に飲んで良いものなのだろうか?
 どこでもそうだろうが、一般的に外から買い入れなければならない品物は高くて、自給できるものは安い。
 特に、貧乏で人口の少ないこの地方では、嗜好品の類は極めて高い値段が付けられていた。
 明かに前者な上に、完全なる嗜好品であるお茶の類は、一応、この村の数少ない商店でも取り扱われてはいるのだけど、それに付けられている値札は、ネットを使って専門店と直接取引きした方が安いくらいである。
 本来なら僻地で運送費が嵩むぶんこっちで買うほうが安くなるのだけれど、ウチの場合、薬品なんかを取り寄せる時に――ぶっちゃけ、村長の家がこの辺りの特産物を輸出するのに使う奴なんだが――相乗りさせられるから、最寄港であるドーレまでの郵送費で済むからな。
 その辺りの事情は、俺も参考書やら何やらを医学書なんかと一緒に取り寄せてもらっているので、よく知っている。
 考えてみればそうだよなぁ。
 この辺りじゃあお茶は高い。
 一応、代用品のハーブみたいなのとかコーヒーの偽者みたいなのはあるけれど、余り美味いもんでもないし、第一入れ方が判らない。
 それに、お茶があったとしても、晴信オレの好きな茶葉は……今まで、色々とショックな事続きでそこまで気が廻らないでいたが、気付いてみればこれが一番ショックな気がした。
 ああ、もう二度とあの祁門の工夫茶はッ、雲南の金芽茶は飲めないのかッ!
 ディンブラはっ!ネパールはっ!マレーシアのBOHはッ!
 国産の那須野紅茶も、仕上がりが段々良くなって来て先行きが楽しみな時だったのにッ!

 ッ……Be Cool、Be Cool。
 オーケィ、まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ。

 そう、ここは逆に考えるんだ。
 まだ見ぬ銘茶を味わえるチャンスと考えれば……それに、希望だってある。
 グリードアイランドには、バーチャルレストランがあるんだッ。
 バーチャルなあそこなら、オレの記憶を元に、この世界にはないお茶でも飲ませてくれるかもしれん。
 しかし、この世界の茶を追うのはもはや確定として、問題は金だわな。
 今後の事もある。
 幾ら特待取ったからって、親にそんなに金出させるわけにはいかんし、ザパン市に行ったらバイトして……って、その時でも俺、まだ中学生じゃん。

 G・I内なら兎も角、ザパン市に中学生雇ってくれる店ってあるのか?

 それに、修行だってあるわけだし。
 いや、ここは四年の一人暮らし歴を生かして、食費や生活費を……って、マァハと同居の時点で無理だよなぁ。
 四年+αの自炊経験を持つ『俺』とは違い、スルトもマァハも全く家事ができないから、生活費やらなにやらは使用人の預かりになる筈。

 クソッ、許すまじジョネスッ!
 貴様がいらんことしぃなせいでッ、俺はッ!

 俺は、八つ当たりで打倒ジョネスを強く心に誓うと、一つ溜息をついて自室を出た。
 取りあえずは、牛乳でも飲んでお茶を濁そうと、今は無人の筈の台所を目指す。
 朝の牛乳粥でもわかるとおり、この地方では酪農はそこそこ盛んで、少なくとも『あちら側』で晴信(オレ)が飲んでいたものよりかはるかに新鮮で美味い牛乳が格安で手に入った。
 だから、母さんのパンの牛乳粥が美味い理由の中には、いい牛乳を使ってるってのもあるんだろう。
 いや、まぁ、ここはハンター世界だし、普通の牛の乳じゃないかもしれないが……俺はその味を反芻し、少しだけ唾を飲んだ。
 スルトと晴信ふたりのオレの記憶がが入り混じっているせいか、なんだか随分長い間、不味い牛乳ばかりを飲んでいた気がしている。
 因みに、向こう側では、美味しい牛乳=濃厚なイメージがあるけど、ここの牛乳はそんな不自然に濃くも甘くもない。
 コクはあるんだけど癖は少なく、サラッとしていてとても飲みやすい味だ。

 ……あれと祁門の超級茶辺りでミルクティー入れたら、さぞかし美味いだろうなぁ。

 俺は、ふと、そんな事を思い、緩んだ口元を引き締めると慌てて頭を振った。
 いかんいかん、余裕が出てきたのは悪い事ではないが、緩んでしまうのは余り良くない。
 可能性はそんなに高くないとは思うが、俺は、今後自分が念能力者に襲われる可能性って奴を捨てきれない状況にいるのだ。
 それに、昨日の今日と言うか、現在進行形で非常事態な俺が、あまりに何時もと違うところを見せれば、父さんと母さんは、確実に俺の心配をするだろう。
 なんつーか、自身の存在の保全の為、今後親不孝を繰り返す事が予想されるだけに、俺はそれ以外、それ以前では余り親を心配させない良い子でありたかった。
 今までずっと張り詰めていた俺がいきなりテロテロになって、コアな紅茶趣味を露呈させたりすれば、両親を驚かせてしてしまう。
 そんなくだらない事で父さんと母さんに心配させるのは、情理両面で嫌だ。
 だから、紅茶趣味は中学に入ってから――俺はそう決意して、表情を引き締める。
 どうせ一足飛びに茶道具や銘茶を揃えるのは難しいのだし、向こうでの生活基盤を整えながらじわりじわりと事を進めよう。
 何せ今のスルトオレには、奇妙に強化された晴信オレの記憶があるわけで、だから学業面についてはかなりの余裕があった。
 混乱したり追い詰められたりで、今までは修行かそれまでのインターバルとしか認識できずにいたその余裕だけど、こうして考えてみると存外に楽しみもありそうである。

 まあ、念能力者的には一つの事に凝り固まったほうが強くなれるんだろうが、それ以上に危険だからな、アレは……。

 それは、良きにつけ悪しきにつけ、典型的なクラピカを見れば良く判ったし、俺も正直ああはなりたくは――いや、現状や水見式の結果を見るに、俺は既に一度その陥穽に落ちた後なのだろう。
 そして俺には、同じ轍を二度踏むつもりはなかった。
 二体合体の時点で、もういい加減持て余してるってのに、その相手がこれ以上増える可能性があるなんてのは御免被る。

 正直、『二十四体合体ッ! ビリィィィーッ・ミリッガーンッ!!』なんて事にはなりたくないしな。

 それを避ける為にも、一つの事だけに凝り固まらないように――即ち、修行と息抜きと睡眠を等分に、か。
 これ、多分心源流の教えの一つだと思うのだけど、そう考えると良く出来ている。
 じゃあネテロ会長の万本突き修行とかどうなんだよって声もあるけど、アレは、一度限界に達してからの臨界行なのだろうし、それを基礎的な内容と同列に置くのは間違いだろう、

 ……すると差し詰め、俺はまだ確固とした基盤を持たぬうちに臨界行を行ったようなものか。

 そう考えてみると、俺の現状は、準備の整わないまま臨界行に挑み、半端に成功してしまった者に似ているように思えた。
 結果はかなり特殊だけれど、その詳細を除く俺の状況は、そう言った力と歪みを得た者達に非常に近い。
 特に、起きた変化に拘泥し、凝り固まっている辺りが……その認識にはぁと息を吐き、俺は足を止めた。
 今の俺は、スルトと晴信が混じったものだ。
 恐らくは、スルトが晴信をこちらに引き込んだものと思うが、もしかしたらその逆かもしれない。
 晴信の故郷である『向こう側』の実在も、そこがあるとしたらそこで晴信の体がどうなっているのかも判らない。
 スルトは晴信を殺したのかも知れず、晴信がスルトを飲み込んでしまったのかも知れない。
 もしくは、どちらでもなく、全ては狂った俺の妄想なのかも……。
 どれでも有り得てどれとも言い切れない状況の中で、俺はどれでもある為に全ての罪悪感と不安とを味わい続けていた。
 あちらへ転がり、こちらへ転がり、しかし、最終的に落ちる所は、常に同じ陥穽。
 ここから真に這い上がる為には、少なくとも事実を知る必要があると、そう思いつめて……。
 まあ、なんつーか、絵に描いたような自己嫌悪スパイラルッつーか、中二病?
 いや、実際に理不尽な状況に対応しているわけだから、中二病の表現は適当じゃないか。
 兎に角、視野狭窄で自分の目の前と内側しか見えなくなってたことには違いな……って、話がどこまでも逸れてくな。
 まぁ、なんだ。
 一言で言えば、『ウィングさんありがとう。おかげで一つ壁を乗り越えられました』か。
 もっと視野を広く、一つの事に凝り固まらない。

 理屈では最初から解っていた事を、ようやく感得できたわけだな、俺は……。

 ハハハと乾いた笑いを漏らして、俺は再び台所に向かって歩き始めた。
 取りあえず、牛乳を飲もう。
 ウィングさんはゴン達に言っていた、人生を楽しみなさい、と。
 今まで、この現状に決着が付くまでは本当の俺の人生は始まらない的な事を考えていたが、当たり前だけどそんな事はなかった。
 俺の人生を楽しむ事――それは、一杯の牛乳を楽しむ事から始まる、なんてな。
 晴信オレスルトオレ空想ユメだったかもしれないし、スルトオレ晴信オレ妄想ユメなのかもしれない。
 けれど、それが紅茶の味が楽しめるくらいに現実であれば、実際にはどうだってことには余り意味はなかった。
 少なくとも、今の俺にとっては目の前のコレが現実なのだから、それを存分に楽しめばいいのだ。
 晴信の現在は確かに気に掛かるが、別にそれが死んだとか、失踪したとか、植物状態だとかに決まったわけじゃぁない。
 スルトに至っては、晴信を手に入れた事で強迫観念じみた渇望から自由になっていた。
 そう、今まで混乱してたけど、現状が悪いものだと決まったわけではないのだ。
 その可能性を心の中に留めておくと言うのは確かに重要だけど、それに縛られて可能性を狭めるのは良い事じゃない。
 今のスルトオレは、年齢的にも、状況的にも、今は沢山勉強して楽しんで、自分の可能性を増やすべき時だ。
 勿論、時間が向こうの晴信に致命的な影響を及ぼす可能性もあるけどさ、焦って死んだり、スルトの持つ可能性を歪にしちまっても意味はないんだよね。
 もし『今の俺』はるのぶ+スルトがここにいる事で『向こう側の俺はるのぶ』が昏睡状態に陥っていたりする場合、晴信の『魂』的なものは当然ここにある事になるわけで、だから『俺の体スルト』に『致命的な何か』が起これば、同時に『向こうの俺の体はるのぶ』も目覚められなくなる可能性がある。
 だから、焦ってそれだけを考える事にそんなに意味はないんだよな。
 二つの世界の時間が同期しているとは限らないっつーか、もう殆ど捨てかけている可能性ではあるけれど、仮に『スルトオレ』が『晴信』を体験していたとすれば、こっちの一晩に、向こう側では二十年近くの時間が経過した事になるわけだから。
 それに、これは俺一人で解決しなきゃならない問題でもなかった。
 グリードアイランドのアイテムやら会長やら、都合よく色々頼る妄想考えたいながら、なんでこんな単純な事に気付かなかったのかね?
 俺が必要な能力を備えていないのなら、借りるか買うか奪うかすればいい。
 その為に重要なのは、歪に尖った単能よりも強い人間力であり、それを培うのは修練と広範なる経験――即ち、人生を楽しむ事だ。

 ……だから、まずは一杯の牛乳を飲むところから始めよう。

 俺は、台所に入ると冷蔵庫を開いた。
 ドアポケットから壜入りの牛乳を取り出し、午前中使ったのと同じ型のタンブラーになみなみと注ぎ入れる。
 なんか嫌な記憶が脳の中を過ぎったけれど、俺は気味の悪い連想を無視してタンブラーに手を掛けた瞬間……

 ブーッ。

 ……玄関の方からそんなブザー音が聞こえた。
 間が悪いな、と思いながら、俺はタンブラーを机に置くと、台所を出て玄関へと向かう。
 診療の終わっていないこの時間、両親は病院で仕事をしている。
 この辺りの人間でそれを知らない人は居ないから、玄関から来るのは十中八九、俺目当ての客。
 時間はもう四時過ぎだし、見舞いと証して何人か人が来てもおかしくない時間だ。
 他人前で念修行するわけにもいかないが、この辺りに本当の意味でスルトと親しい人間なんてのは一人二人しかいない。
 向こうもこっちが暖かく応対するなんて想像してない連中が大半だろうし、適当に応対して門前払いを食わせればいいだろう――そんな事を思って玄関に急いだ俺の、行く先からありえない音と声が聞こえてきたのは、そんな時だった。
 扉の開く音、恐らくクラスメイトのものだろう少女達のきゃわきゃわとかしましい笑い声と、それを応対する母さんの声。
 そう言えば、そうだった。
 基本的に子煩悩なウチの両親が、あんな俺の姿を見て一人にしておくはずもない。
 加えて、昨日村長が廻状を廻したから、この辺りの人間は全員、俺が大怪我した事を知っている。
 朝方はかなり患者も多かったようだが、昼食時の父さん達を見るに、今は落ち着いているかむしろいつもより少ないんじゃないだろうか。
 俺は焦って、その足を速めた。
 母さんの性格から言って、彼女達を家に上げてしまう可能性は高い。
 それまでに玄関に辿り着いて、何とか彼女達を追い返さねば……

「今スルトを呼んで来るから、上がって待っていてちょうだい」

 ……そう思った時にはもう遅かった。
 クラスメイト達は兎も角、母さんは俺の現状を良く知っている。
 大方、家族以外の人間と会話させて気分転換させる心算なんだろうが、コイツはスルト(オレ)には逆効果だと思うぞ。
 俺は、大いに脱力すると、肩を落として玄関へと向かった。
 いや、なんかほんとに心の中のやる気メーターがギュンギュン落ちてくよ。
 完全なスルトではない今の俺の中の、嘗てのスルトの嫌悪は結構薄れているし、俺も男だから女性に騒がれるのは嬉しいけどさぁ。
 けど、悲しいかな、俺の精神年齢って二十歳超えてるんだよね。
 いや、まぁ、ほら、時々第二次成長が早く始まって小学生とは思えない体格した子っているし、そう言うのなら外見だけは、ストライクゾーンギリギリ低め外れるくらいには育ってるけどさ、でも、ねぇ。
 同級で一番背の高い幼馴染――悔しいが、今のスルトオレより遥かに背が高い――の姿を思い浮かべて、俺は大きく息を吐いた。

 精神年齢的に完全にボールっつーか、大暴投だよね、小学校六年生って……。

 せめて彼女らが中学三年生なら、精神年齢的にもギリギリアウト程度で済むんだが――俺は、そんな不純な事を考えながら、玄関で会話している母さんと幼馴染+招かれざる六人に物陰からこう口を開いた。
 
「……母さん、どうしたの?」

 そう言って顔を出した俺に、一人を除く少女達のボルテージが、きゃいきゃいと跳ね上がる。
 箸が転げても笑う年頃って言葉があるが、見た感じちょうどそんな風で、大きくて甲高いその声は正直俺の耳には痛すぎた。

「ルト、これ、学校のプリントだから……」

 そして、そんな俺の不快感を感じ取ったのだろう……先頭にいた長身の少女はすまなそうにそう言うと、リストバンドを付けた手を伸ばして一塊のプリントを俺に差し出す。
 ……恐らくは、見舞いに付いてくると主張する、自称友人達に押し切られたのだろう。

「具合悪いのに煩くしてごめんね、その、わたし、すぐ帰るから」

 そう言った少女の身の丈は、百五十九――本当はもうちょっとあるらしいけど、コンプレックスになっているらしくて、頑なに百五十九を主張している――程、流石に女性的なふくよかさと言う意味ではまだまだだったけれど、バランスよく筋肉の付いたそのラインには、猫科の肉食獣を思わせる優美さ精悍さがある。
 目尻の下がった大きな目に嵌るトパーズ色の瞳に、カフェオレ色の肌を彩る銀灰色の髪……『向こう側』ではちょっとあり得ない、派手な色彩を纏う少女の顔は整った造作をしていて、パッと見とても華やかに見えた。
 ……尤も、そんな彼女のおどおどと宙を彷徨う視線は、少女が生まれ持った華やかさを完全に裏切っているんだが……。
 俺は、大きな幼馴染が居心地悪げに身を縮込める様に、ハァと溜息を吐いた。

「……プリント届けろって、先生に頼まれたんだろ?
 だったらマァハのせいじゃないよ」

 そうして告げた俺の言葉に、少女はほっとした表情を顔に浮かべる。
 外見派手目なお姉さんで、内面気弱な妹系――村長の娘兼スルトオレの幼馴染であるマァハ・クランはそんな少女だった。
 ワンマンで迫力のある親の子供が萎縮するってのは良く聞く話だけど、彼女はまさにその典型で、その上村長、あれでかなり有能だったりするから、マァハは『父さんの言うとおりにしてれば間違いない』っつー感じのイエスガールに育ちましたとさ。
 しかも、マァハの母親は、村長が外で惚れ込んで口説き落としてきた女性で、善い人ではあるのだけれどその派手な外見と有能さで村の女性陣からの受けは悪く、そんな母親と村長の外見的特徴を、派手さを増す方向で引き継いでしまった彼女は……。
 マァハの自称友人達が、やんわりと――大人視点だと丸見えなのだが――彼女を押しのけようとする様を見て、俺は再び溜息を吐いた。
 派手な外見を持ち、親は金持ち、本人は気弱で、告げ口すらしない、できない。
 更には、その母親は嫌われ者の余所者で、年の半分は仕事で村の外に出ていて、帰ってこない。
 そんな状況の結果として、マァハは女子の中で孤立していた。
 色々と利用価値や攻撃時のリスクが高い人間なので、基本は無視して必要な時だけ集って毟り取る。
 そして、そう言った自分達の行動が潔癖な少年スルトに嫌悪感を与えていると気付いていない彼女らは、俺に媚びて自分達を遠ざけさせていると更にマァハを嫌って……そんなわけで、スルトオレにとってのマァハは、妹(みたいなもの)で、被保護者、そして、自分を縛る鎖であり、似た境遇にいる同胞と言った、とても複雑な存在だった。

 まぁ、スルトオレがもっと巧く立ち回っていれば、俺も彼女ももう少しマシな状況にでき――いや、無理か、大人の道理が通じる存在なら、子供とは言わないもんな。

 そんなわけで、マァハの自称・友人達と一緒にいるのは俺にとって苦痛だし、マァハにとっても針の筵の筈なんだが、どうしようかね。
 どうにかして彼女らをやんわり追い返し、尚且つ、その皺寄せがマァハに行かないようにしたいんだが、そう巧くいくはずもないよなぁ。
 どーせ、俺たちゃ今後かなりの間この村を離れるんだし、いっそマァハだけ残して他をおん出すか?

 ……今後もずっと、マァハアイツと一緒に生きてく心算があるなら、それもいいんだろうけどなー。

 気心は知れてるし、外見的にも申し分はない。
 それも悪くないかな……なんて事をスルトむかしのオレですら思っていたマァハだけれど、でも、現状と今後を考えるに、彼女が更に俺べったりになるような選択は避けるべきだろう。
 ザパンに行って、中学入って、周囲との関係性が一旦リセットされてしまえば、マァハみたいな美人はそれこそ引く手数多になるだろうから、きっと俺よかいい奴が見つかるだろうしな。

 ま、マァハが変な奴に引っ掛かったら速攻で俺がぶち壊すけど。

 うん、マァハのお相手ならレオリオみたいな奴がいいなぁ。
 アイツはいいヤツだし、都合が良い事に医者志望でもある。
 うまくアイツと知り合えたら、マァハに引き合わ……

「スルト、母さんはお茶を入れるから、お友達を居間にお通したら?」

 ……等と、半ば現実逃避気味にどうしようかと考えていた俺に、母さんがそう言葉をかけてきた。
 困ってるのに気付いたのか、それとも、彼女達から挙動不審な俺の、ここ最近の様子でも聞きだしたいのか?

 ……まあ、心情的には色々アレだけど、ここは母さんの言葉に従ったほうがいいな。

 あいつ等を追い返すのは簡単だし、何時ものスルトならそうするだろうけど、そしたらその皺寄せはマァハの方へ行く可能性が高い。
 けれど、それが一旦ウチに上げてガス抜きをした後ならば、マァハに迷惑掛ける危険性は大幅に減少するし、それに、あの自称・友人一行を自分の部屋に入れるのは今の俺も絶対に嫌だったが、母さんが提案している客間であれば、まだ許容範囲だった。

「ん、わかっ……いや、お茶は俺が入れるから、母さんとマァハは皆の事をお願い」

 俺は、それを了承しかけて、途中で首を横に振る。

「え、けどスルト……」

 そして俺は、怪訝に首を傾げる母さんに『それくらい解るよ』と答え、さっさと皆に背を向けた。

「あ、棚の右端の茶葉、使っていいからね」

 そして、俺の背中にそう声を掛ける母さんに、『 計 画 通 り 』と一人厭らしくほくそ笑む。
 彼女達から『最近のスルトオレ』を聞きだしたいなら、当の本人は居ない方がやりやすい。
 自称友人達の案内も、俺がやればどうしてもマァハを優先するから、後で風当たりが強まる可能性もあるけど、それも母さんならそれほど鼻につかないだろう――それに、奴らも、母さんには色々聞きたい事があるだろうから、それほど不満は出ない筈。
 で、俺は大手を振って来客用の茶葉に触れることができるってわけだ。
 これで、八方丸く収まるな。
 そんな事を考えながら、俺が台所へ向かって歩き出すと、背中の向こうから母さんの声と少女達の歓声――そして、追ってくる軽い足音が聞こえた。

「ん?」

 なんだと思い振り返ると、皆から離れてマァハが一人、俺の後をついて来る。

「どうした、マァハ?」

 怪訝に思ってそう尋ねると、マァハは視線を逸らすように少しだけ俯向いた。

「おばさんが、ルトを手伝ってくれって……」

 あー、こう来たか、母さん。
 ふと視線を感じ玄関の方を見ると、俺に目配せする母さんと、マァハに視線を向けている少女が二人ほど……。
 全くの無意味にされてしまった気遣いに俺は溜息をついた。

「……けど、マァハもお茶なんか入れた事ないだろ?」

 ウチの両親は子煩悩だけど、村長の所は過保護だ。
 村長が、と言うよりは、その周囲の使用人達が、だが。
 ワンマン且つ強健な村長とその妻は、兎の心臓を持つ愛娘マァハにもう少し豪胆に、なんでも自分から動けるようになって欲しいと願っているのだが、その下の使用人達はそれとは逆の考えを持っていた。
 なにせ、この村長であるダグ・クランと言う男は、この地方の実質的な専制君主である。
 その怒りに触れることが怖い使用人達は、できるだけマァハに大人しくしていて欲しいのだ。
 だからアイツは、自分の家の中では何もさせてもらえない。
 そのせいか、マァハは酷く不器用で、実習系の授業では、よくその指に切り傷を作っていた。
 母さんが、俺達をセットにしたがるのはわかるんだが、正直、いるだけ足手まといだと思う。

 そもそも、お茶入れるのに二人も人間いらんしなー。

 災い転じて福……と言ってしまってはマァハに悪いけど、それを理由に断ったほうが波風は立たないだろう。

「うん、けど、おばさんがお茶入れるのを、手伝った事はあるから」

 だから…と、やんわり助力を断るつもりだった俺に、マァハは俯いたままそう答えた。
 なるほど、母さんがマァハを気に入ってるのと同じ位、マァハも母さんに懐いているし、それに母さんはマァハが村長の娘だからといって萎縮するような性格はしていない。
 見てないところでそう言った事があったと言われれば俺は納得する他ないし、だとしたら確かに、マァハに手伝ってもらえるのは助かる。
 手先が不器用な上にあがり性で、ギャグみたいな失敗も多いマァハだが、記憶力なんかは低くない……つーか、むしろ俺よりずっと高い。
 だから、彼女が母さんがお茶を入れた時手伝ったと言うのなら、道具の配置なんかはちゃんと覚えているはずなのだ。

「……なるほどね、俺はその辺り手伝ったりしないからな」

 なるほど、俺がお茶をいれるとなると、その辺りを物色する所から始めなければならない。
 後片付けをする母さんとしては、どこに何があるのか知っているマァハを、俺につけたくもなるだろう。
 俺は一つ頷くと、行こうと仕草で示してからマァハに背を向けた。
 後をついてくる、どこかほっとする気配を感じながら台所の扉を潜り、まずはテーブルの上に置き離していたタンブラーの中身を干す。

 ……ミルクティー向けの茶葉があればいいんだが……。

 そして、そんな事を考えながら、俺は戸棚を眺めた。

「あ、ルト、これ……」

 そんな俺にそう声を掛け、マァハが取り出そうとしたのは、五脚組みのティーカップと、それに合わせたサイズのティーポット。
 ティーカップは自称友人達に廻すとして、それに俺と母さん、マァハの三人が加わった人数八人だから、二度淹れなければ量が足りんな。

「マァハ、棚の右端の茶葉って言うのは?」

「これ」

 言葉少なに差し出す缶を開くと、中には白いティップス入りの茶葉が、かなりの量入っていた。
 葉の縒りもかなり細かく、結構な高級品である事は間違いない。

 ……抽出時間は3~4分ってとこか。

 んー、しかし、よくも母さん、こんな繊細な茶葉を何も知らん奴に飲ませる気になったな?
 正直、高い茶は癖が強い事も多いし、味が繊細で飲みなれない奴にはその好さがわかりにくいものが多い。
 ダージリンなんかは、その際たる例だ。
 何を隠そう、俺もダージリンなら、セカンドやオータムナルより、味は薄めで香高いファストフラッシュの方が好きだしな。
 かと言って、これは見た感じミルクティに使うような茶葉でもないしなぁ。
 ティップス入ると、香が良くなる代わりに、味は繊細になるし。
 他に何か茶葉はないかと、右端以外の棚を見ると……んー、CTCの茶葉があるな。
 CTCというのは砕いて潰して丸めて加工した茶葉で、早く濃く味が出る。
 そうだな、人数的にも季節的にも丁度いいだろう。

「なぁ、マァハ。スパイス入ってる所、知ってるか?」

「それは、ここ」

 んー、基本は一通り揃ってるな。

 んじゃ、シナモンシナモン、カルダモンー、と……。

 俺は、即興の『マサラの歌』を歌いながら必要なスパイスを集めると、適当なサイズの鍋に水を張って火にかけた。
 母さん自慢のシステムキッチンの、火力最大で一気に水を沸騰させる。

「え? ルト、なにしてるの?」

 そして、そんな俺の姿に目を丸くしながらティーポットを指し示すマァハに、笑ってこういった。

「ああ、チャイを入れるんだ。
 ……普通にティーポットで淹れたんじゃ、一度に全員分は淹れられないだろ?」

 マァハは、自信たっぷりに押し切られると弱い。
 目を丸くしたまま沈黙するマァハを背に、俺は水が沸騰するのを待って火を弱火にし、中に茶葉を投入する。

「ルト、その茶葉……」

「うん、解ってる。
 まぁ見てなって、紅茶の淹れ方ってのは一つじゃないんだ」

 マサラマサラガラムマサラーと歌いながらも、俺はそう答えて鍋を睨んだ。
 もう茶葉は充分開いてる――いや、CTCだけどな――試しにスプーンで一口すくうと、ストレートで飲むには濃いめの味が口の中に広がった。

 ふむん、まぁこんなもんか?

 俺は冷蔵庫を開いてミルクをお湯とほぼ同量加えると、弱火のまま微温った鍋の中身が再沸騰するのを待つ。
 泡が立ち始めた辺りで蓋をして蒸らして、数分待った後で各ティーカップに茶漉しで茶葉をこしたチャイを……っ、しまったティーカップ暖めるの忘れてたッ!

 まぁ、いいか、海原雄山にチャイを出すわけでもないしな。

 俺は、五脚組みのティーカップと、俺と母さんと父さんとマァハのマグを取り出して、各々にチャイを注ぐと、最後の仕上げとばかりに上から香辛料を振った。

「……凄い」

 そんな俺の背の向こう、ポツリとマァハが、そうこぼす。

 よしッ、完成!

 マァハの評価とは異なり完璧とは言いがたいチャイだが、飲めないほど不味くもなかろう。
 そして、どうよ、と振り返る俺の視線を受けて、マァハは素直に、丸くしていていた目をおいしそうと細めた。
 そんな彼女に俺は笑顔を返すと、トレイ二つに乗せたティーカップと小道具を二人で分け持つ。

 ・
 ・
 ・

 茶道具を持った俺達が食堂を抜け居間の扉を開くと、部屋の中では、上座に当たる一人掛けの椅子ソファーに座った母さんを、両脇の長椅子ソファーに2・3に分かれた少女達が囲み、何かを話している最中だった。
 母さんは、僕の近況を知りたがっている(だろう)から、なにか聞かれたくない話の最中かもしれない――そう思い、まず最初に部屋の中を伺った俺だが、一同の表情を見る限りそれは杞憂のようだった。

 ……まあ、母さんは色々ざっくりな人ではあるけど、別に馬鹿ってわけじゃあない。

 そう言った話は、まだ湯が沸かないだろう早いうちに済ませているとも思っていたけれど、夢中になるとそう言う気遣いが抜けていくのが母さんだからな。

 そう言った面は、俺も同じっつーか、俺のそう言うところは母さんに似た――って、なんかおかしいな。

 視野狭窄の気はスルトも強く持っているけど、夢中になった忘れるのはむしろ、晴信の属性だ。
 自分で言うのもなんだけど、俺には『目的の為なら手段を選ばず、手段の為に目的を忘れる(by某有名漫画の女神様)』ような所が……いや、いかんな、また忘れるところだった。
 俺は、ふと自分の現状を思い出すと、背後で怪訝に首を傾げるマァハに振り返って苦笑を見せた。

 ……それに、折角入れたチャイなんだ、まだ熱い内に飲んで欲しいしな……。

 僅かに開いた扉を音を立てぬよう一度戻すと、俺はノブから手を離した。
 一度深呼吸、二・三度ノックしてから再び――今度は大きく――扉を開く。

「おまたせ」

 俺はそう、言葉少なに告げると、母さんの対面のソファー前にまずトレイを置いた。
 続いて俺の脇、二人座っているソファーの側に座るようマァハを促すと、目の前のテーブルに彼女の持っていた方のトレイを置かせる。
 少女達が動き始める前に、客人用のティーカップが五つ載ったトレイを取り上げ、俺は再び立ち上がると、母さんを囲む配置についた自称・友人達の前にソーサーとカップとを配膳した。
 次いで、自分達と母さんの席の前に、計三つの、日常使い用のマグカップを置く。
 目の前に置かれたカップ――唐草模様が施された陶磁の器――に、少女達の体が一様に硬直した。
 彼女達のチャイを淹れたカップは本来客人用……プリント模様の大量生産品ではあるけれど、れっきとしたボーンチャイナである。
 この辺りでそんな器を当たり前のように使える子供なんざ、俺とマァハくらいしか居はしなかった。
 少なくとも、置かれた器に萎縮している彼女らに、それを手に取ってこちらに寄せる事など、出来はしまい。
 俺は、内心、クククと悪役笑いを浮かべながら自分の席に戻った。
 とてもいい気分で自分用の、可愛らしい猫柄のマグを手に取る。

「ねぇ、スルト?
 これ、右端の茶葉で入れたの?」

「いや、違うよ。
 その隣にあった、CTCの茶葉を使ったんだ。
 確か、オーキスリとか言う産地名が書いてあったけど」

 マグを手に取り困ったような顔で尋ねる母さんに、俺はそう答えながら手にしたチャイに口をつけた。
 いい茶葉だ―― 一口含んで、まず俺は思う。
 チャイ独特の強いとろみと、牛乳、香辛料、紅茶そのものの甘みが入り混じった、なんとも言えない濃厚な甘さ。
 まだ幼いせいか……或いは、根本的な肉体の出来が違うのか?
 口の中で爆発する幾多の味と香に、俺は、ほうと息を吐いて口元を緩めた。

「へぇ、よくわかったわね、スルト」

 どこか、セイロンの茶葉を思わせる味と香。
 会心の1杯に目を細める俺を、母さんはどこか困惑した様な、感心した様な目で眺めながら、自分もチャイに口をつける。

「……美味しい」

 戸惑ったような顔が驚きに、目を大きく見開いて母さんは言った。

「ちょっと、スルト!
 これ、お茶に何入れたの?」

 母さんに続いてチャイに口をつけたマァハも、驚いた顔で首をコクコクと縦に振る。

「……カルダモンとシナモン、後はグローヴとジンジャー、かな。
 みんな母さんの持ってたスパイスだよ。
 あ、けど、電脳ネットに上がってたレシピを見様見真似で再現しただけだから、香辛料の名前とかはここらでの呼ばれ方とは違うかも」

 お茶入れてて何が嬉しいって、やっぱりこうやって美味しいって言って飲んでくれる時に勝るモノはないやね。
 驚く母さんとマァハの姿に、俺の頬が緩むのが解った……って、俺なんか忘れているような?
 ふと気付いて顔を上げると、母さんを中心に、自称友達の五人、そして、俺の傍らのマァハ――全員が全員、俺の方を見て唖然と口を開いていた。

「……どうかした、母さん? マァハ?」

 そう問いかけると、二人はぱくんと口を閉じ、首をプルプルと横に振る。

「……スルト君がこんな風に笑ったのって、私、始めて見た」

「うん、私も……」

 固まっている二人の周りで、残りの少女達が驚いた顔でそう言い合う……って、お前ら俺に聴こえてんぞ。
 それに、母さんもマァハも、俺が笑ったのがそんなに意外なのか?

 いや、そりゃあ、ここ数年、外に出る事だけ考えて、むすっとした顔ばっかりしてた気は自分でもしてるけどさ。

 そんな思いが顔に出たのか、視線の先で母さんとマァハが慌ててその両手を振った。
 つーか、こういう仕草って母さんそっくりなんだよな、マァハ。
 まあ、本当の母さんよか、ウチの母さんと一緒にいる時間の方が長いし、仕方ないっちゃぁ仕方ないんだろうが。

「いや、スルトがそんなにお茶好きだったなんて、今の今まで知らなかったからね。
 マァハちゃんも、そう思うでしょう?」

「うん、ルトがお茶入れるって言い出した時……ちょっと、びっくりした。
 美味しいのも、ちょっと意外。
 ……ルトが自分から言い出した事だから、不味くはないだろうとは思ってたけど」

 そう、親子のように似た仕草で顔を見合わせる二人に、少しばかり苦味を含んでいた俺の笑顔が、更に引き攣る。
 いかん、晴信オレとは違ってスルトオレは紅茶趣味なんて持ってなかった事をすっかり忘れ……いや、正確に言えば、覚えてたけど忘れてた。
 あんまり違和感ないから、ココが晴信にとって異郷だってことをさ。
 ほら、あれだ、日本ならちょっと紅茶を知ってる人でも、チャイくらい普通に淹れられるだろ?
 けど、この村では、チャイを知ってる人が俺以外に存在しているかどうかすら怪しい……そのギャップを、俺は忘れてたんだ。

 しまったなぁ、普通にロイヤルミルクティーでも淹れておけば良かった。

「……前から、興味自体はあったんだよ。
 電脳ネットで良く見るページの管理人が、紅茶好きな人だから。
 このレシピも、そこで見たものなんだ。
 ルスタ附中にも合格して少し余裕が出てきたし、いい機会だから、試してみようと思ってさ」

 俺は、そんな言い訳を口にしながら、引き攣った笑顔を興味なさそな表情へと変えると、二人にそっぽを向いてみせた。

 別に、母さんとマァハに美味しい紅茶を飲ませてやろうなんて、その、ちょっとは思ったけどさ……。

 そして俺は、そっぽを向いたまま立ち上がると、空になったお盆の片方を手に取る。

「父さんの分も淹れたから、病院のほうに届けてくるよ。
 ……そろそろ、診療時間も終わる頃だから」

 そう言って背を向けた、俺の視界の隅で、母さんとマァハが顔を見合わせてクスリと笑った。
 俺は、ちょっとだけ熱くなった頬を意識しながら台所へと歩き出す。

 ……母さんもマァハも、何がおかしいんだよ。

 今度は、マァハも着いて来なかったので俺は一人、背中の向こうから届くきゃいきゃいと姦しい囀りを聞きながら、台所まで歩いていった。
 耳に届く少女達+1の声の中には、珍しくマァハの物も混じっていて、それは俺にとって喜ばしいこと……のはずなんだが、それを聞いていると心の奥底から湧きあがってくる、この奇妙な敗北感はなんなのだろう。
 やりきれない思いを噛み締めながら、俺は蓋をしたまま父さんのカップをトレーに乗せると、廊下を経て診療所へと続く扉を開いた。
 入った事務室兼受付から待合室を除いてみると、やはり、と言うべきか、そこにはもう患者はいない。
 扉の前で耳を澄まして、診察室に父さん以外誰もいないことを確認してから、その扉をノックした。

「父さん、開けるよ?」

「……ああ」

 返ってきた返事に扉を開けると、そこでは父さんが一人、カルテの整理をしていた。
 普段は、母さんがそう言った作業をしているのだけれど、今日はその母さんが途中で抜けたから、父さんが診療終了後にやっているらしい。

「紅茶入れたから、持ってきた。
 それから、手伝う事があったら言って……」

 そう言ってカップを置くと、父さんは驚いたように目を見開いて俺の顔を見上げた。
 やっぱり、スルトオレがそう言う事をするのはおかしいんだろうか?

 ……おかしいんだろうな、やっぱり。

 ここまで違和感なく二つの記憶が交じり合っている事でわかるとおり、晴信オレスルトオレの嗜好には似通ってる部分が多い。
 だから、一人暮らしを始めたら、遅かれ早かれ何らかのソフトドリンクにはまってたと思うけどなー。
 尤も、こっちの俺スルトには色んな意味で余裕がなさ過ぎたから、今まではその片鱗も外に出していなかったわけではあるし、まぁ仕方ない事なんだが……。

「…………」

 ……なんだが、そう頭では理解出来ていても、やはり感情的には少し、ねぇ。

 そんなもやもやが表情に表れたのか、俺を見上げる父さんの顔が微かな苦笑を浮かべた。

「お茶はもらおう……だが、手伝いのほうは、いい。
 たいした仕事も残っていないし、これでも一応、医者の義務と言うものもあるからな……」

 そして俺に、そう答える。

 ……ヒポクラテスの誓いか、こっちにもあるんだな。

 尤も、母さんにカルテの整理を任せてる時点で、片手落ちって気がしないでも無いが……そもそも俺の場合、中身は兎も角、肉体的には小学生の餓鬼なわけで、確かにそう言った事を任せられるはずもなかった。
 それに、やらせても問題ない掃除やらの雑事は、朝、通いの人にやってもらってるから、今手伝わせる事もないのだろう。

 まぁ、ダメ元で言ったから、断られてどうこうって事も無いんだが、何か言いつけて欲しかったなー。

 なにか、こっちで時間を潰す大義名分になるようなことを……。
 そんな事を考えながら佇む俺を、感想待ちと解したのか?
 父さんは俺を見上げていた目を、カップへと落とした。
 無言のままに蓋を取り置き、開いた手で取っ手を掴むと、中のチャイを口へと運ぶ。
 俺としては、少しでもこっちで時間を潰そうと、ただそう考えただけなんだが、父さんがそう解釈してくれたのは好都合だ。
 感想待ちの精神的姿勢で、俺は父さんの姿をちょっとだけ緊張気味に眺める。
 そんな俺の目の前で、父さんの目元・口元が綻び、俺は思わず、ィヨッシャァッ!と、内心雄叫びを上げた。
 余り激しい反応を見せれば父さんもいぶかしむだろうと、感情を面に出すのだけはなんとか堪えたが、思わず手の中のトレイをキュッと抱きしめてしまったのは、ご愛嬌――愛嬌で済むよね、そのくらい、多分、きっと……。
 ウチの父さんは、俺や母さんとは違ってかなり冷静沈着な人だから、こう、思わず笑ってしまったなんて表情は、かなりの貴重品だ。
 息子が入れてくれたお茶だから……ってのはあるだろうけど、少なくとも父さんの口には合ったんだろう。

 まあ、結構品の良さそうな茶葉に、あれだけ美味い牛乳を合わせ、基本をちゃんと抑えて入れたんだから、不味くなりようはないんだが。

「……チャイを飲むのは随分久しぶりだが、美味しく入っている」

 そして、そう感想を述べる父さんに、俺の目は、ちょっとだけ大きくなった。

「へぇ……。
 母さんもマァハも知らなかったからから、マイナな入れ方だったんだ…って思ってたけど、父さんにわかるならそうでもないのかな?」

「……二人が知らないのも無理は無い、ずっとこの村に住んでいたのではな。
 母さんは村の外に住んでいた事もあるが、あの頃の母さんは、別に紅茶趣味と言うわけでもなかったからな。
 父さんが知っていたのも、ほとんど偶然……だからこれは、あまりポピュラーな入れ方とはいえないだろうな。
 スルトは電脳ネットで入れ方を見たのか?」

 珍しく饒舌な父さんに、俺はうんと頷いた。

「……まぁね。
 暇つぶしにネットを見ていたら、なんだか目に付いちゃってさ」

 実際、宙に浮いた時間つぶしには苦慮したからな。
 それを記述したページが存在しない事を除けば、別に嘘は無い。
 そんな俺の言葉に、父さんはもう一口のチャイを口に含み、ふむと頷いた。

「本当に、美味しく入っている。
 ……久しぶりにこれを飲むと、学生時代を思い出すな。
 昔、父さんが通っていた大学の近くには、チャイが美味い喫茶店があってな……」

 そんな事を珍しく口にする父さんに、俺は診察台に座って話を聞く姿勢に入る。
 父さんには悪いが、丁度いい暇つぶし兼、こっちの世界の生の情報だ。

「それで、どうしたの?」

 そう先を促した俺に、父さんは怪訝そうに……かすかに眉を潜めた。

「いや、それだけだが……」

 そう言って、ふむん…と一人納得したように頷くと、俺に患者用の椅子へ座るよう促す。

「そうだな、ついでだからお前の事も見ておこう。
 ……ああ、背中のほうだけでいい」

 そして、そう続けた父さんに、俺はシャツを脱いで背中を向けた。
 スルスルと包帯を解くと、未だ開いたままの傷がひんやりとした空気に触れる。
 冬の寒い日に、冷え切った剃刀を肌に当てたような――そんな震えを誘う――感触。
 だがその感触は同時、俺の背の傷口が完全に滑り無く、乾ききっている事も感じさせた。
 そんな傷口の周りに、父さんが手を触れる。

「血は完全に止まっているようだが……」

 思わず…と言う様に父さんはそう呟いて、言葉を止める。
 単純に傷の事を考えているのか、それとも俺に話すのは拙いと判断したのか?
 俺は、背中に触れる父さんの手を意識しながら、そんな事を考える。

「……見れば見るほど奇妙な傷口だな、これは」

 そんな沈黙に、俺の不安を感じたのだろう、父さんはそう言って、傷口から手を離した。

「化膿の心配はなさそうだ。
 それに、ちゃんと抑えておけば、これ以上傷口が広がる事も無いだろう」

「でも、どの位で治るかは判らない?」

 そう言いながら、手馴れた様子で包帯を巻きつける父さんに、俺はそう問いかける。
 俺の言葉に父さんは一瞬黙って、けれどすぐに、黙っていても仕方ないと思い直したようだった

「……そうだな、見れば見るほど奇妙な傷だよ、これは。
 切れ味のいい刃物等による創傷では、傷口が開いてから血が出てくるまでに間が空く場合があるが、これはまるで、その途中のようだ。
 傷口が開いてからもう二日近く経つ筈なんだが、血や組織液の滲みも無ければ、肉色の変色も無い。
 お前に大事無いから善い様なものの、一体、どこをどうすればこのような傷がつけられるものなのか……」

 勿論、俺には心当たりがあるのだけれど、なにもしらないだろう父さんに、今そんな事を言っても心配させるだけで意味は無い。
 俺は、包帯を巻き終えた体にシャツを羽織って、無言のまま立ち上がった。

「……ありがとう、父さん。
 それから、仕事中に手間を取らせて、ごめん」

「いや、お前の診察は確かに必要な事だ。
 それに、父さんも懐かしいものが飲めた」

 最後にそう言い、診療室の戸に手を掛けた俺に、父さんは気にするなと言うようにそう答える。

「……それに、親としては不出来な俺だが、息子の逃げ場所くらいにはなってやれるからな」

 そして、父さんは苦笑しながら窓の外へと視線を向けると、最後にそう付け加えたのだった。



[2622] 第四話(完・タイトル未定)
Name: 十八◆4922f455 ID:c47c5104
Date: 2009/04/02 11:48
 唐突ではあるが、マァハはとても観察力のある娘だ。
 引っ込み思案な反面、物事をよく観察していて、それを元に判断する能力にも長けている。

 ……それが、臆病で周りの我が強い面々に応対してきた結果なのが泣かせるけどさ。

 また、記憶力もよく、一度覚えた事は殆ど忘れないと言う特技も持っていて、暗記科目は得意中の得意といっていいだろう。

 ……上がり症で、慌てるとすぐオーバーフローするけどな。

 つまるところ彼女は、頭が良い……んだが、その能力を中々発揮できない、典型的なタイプだった。
 その上依存心旺盛で、近くに信頼できる人間がいないと、些細な事でテンパるからまた始末に終えない。

 まあ、依存心については、逆に、近くに信頼できる人がいさえすればあまり混乱しないって言う利点でもあるが……。

 床に置いたクッションに胡坐をかいた俺は、問題をスイスイ解いて行くマァハを眺めつつ、そんな事を考えていた。
 彼女を廻る人間関係を思えば、マァハをこの村にそのまま置いておくのは、拙い。
 マァハと同居ってのは正直気まずい事も多いが、ジョネス君の事を知った時点でそれに反対する気は全く失せた。
 だから今俺は、マァハを同じルスタ附中に合格させるべく努力してる……んだが、ねぇ。

 この実力を常に発揮できるなら、一緒に特待目指せたんだがなぁ……。

 いや、それでも無理か、特待試験受けた頃のスルトオレには、そんな余裕無かったしなー。
 スルトが晴信を取り込んでから、或いは、晴信がスルトに乗り移ってから、凡そ一週間――流石に、怒涛の初日二日目を越えてからはそう大したイベントも無く、俺はここしばらく、のんびりただ只管と、念と肉体の鍛錬及びマァハの家庭教師だけを続けていた。
 現状、未熟な俺の念や身体能力は、修練すれば修練しただけ伸びていく状態にある。

 ……いや、まぁ、未だに纏を解く方法とか、絶なんかのやり方はさっぱりなんだがなー。

 本来なら、解けている状態が普通――なのにも関わらず、これだけ修練を積み重ねてもその手法の一端も見えてこないのは明かに異常なんで、これはもう確実に、特質系念能力者である俺自身の特異性、なんだろう。
 そう判断した俺は、そっち方面の試行錯誤は……って、いかんな、そろそろ時間だ。

「よし、一時間経過、ペンを置いて……」

「……うん」

 そう宣言し、机に座るマァハの前からプリントの束を取ると、テキスト傍らに添削を始める。
 そんなわけで、現在いま抱えた最大の懸念は、既に充分な学習を積み重ねた状態にあるマァハの、もう三日後に迫る入学試験にあった。
 で、スルトオレが受けた推薦入試の難易度やら手応えやらを考えるに、マァハの学力は既にルスタの――それも、特待の――合格範囲内にある筈、なんだが……。

 コイツの場合、一番の問題点は精神の方にあるからなぁ……。

 丸をつけながら溜息をつくと、じっとこちらを見ていたマァハの瞳が、おどおどと揺れる。

「……ダメ、だった?」

 独特の、文節を切る様な語調――コイツ、長広舌をぶってる時に口挟まれると確実に舌を噛むからこうなったんだが――で尋ねるマァハに、俺は意識して、努力して笑って見せた。

「いや、この出来なら合格間違い無しだな」

 兎に角、コイツに自信を持たせなきゃならないんだが、言い過ぎると今度はそれがプレッシャーになる。
 並んで一緒に試験を受ければ合格は間違いなしなんだろうが、もう既に特待推薦に受かっている身では、校門まで――その日は、一緒にザパンまで出向いて、向こうでの部屋探しやら、諸手続きやらを済ませることになっている――ついていくことしか出来なかった。
 気休めに、特待試験の時に使った筆記用具一式を持たせるつもりではあるが、それもどこまで効力を発揮するか……。
 そんなわけで今は、戦術的なものから性格改善に至るまで、試験対策に思いつく事を片っ端からやらせている、んだが……。

「……よかった」

 安心したようにそう呟いて、はにかむマァハを眺めながら、内心、大きな溜息を吐く。

 どうにも、マァハの試験対策の進展がはかばかしくないっつーか、コイツの場合、俺が考えたって時点で、何でも無批判に受け入れちまうみたいなんだな、これが。

 例えば、今コイツが笑ったのだって、高く評価されたことではなく、俺を失望させなかった事に安心したからだ。
 無茶なこと言っても素直に取り組んでくれる分、基礎能力自体はそれなりに成長してるみたいなんだが、反面、マァハの精神面での訓練には全くなっちゃいない。
 で、今のコイツの一番の問題点は、精神面にあるわけで……。

「……少し、休憩にしよう。
 今、お茶を入れてくるから、マァハは少し休んでてくれ」

 もう、試験まで殆ど時間も無い。
 ここ数日、ちょっと無茶っぽい事もさせてるから、幾らなんでも前日は休ませたほうがいいだろうし、となれば残るは今日も入れて後三日……。
 正直、これはもうだめかもわからんなーとか思いながら、ドアノブを掴んだ。
 事が精神の問題だけに、急速な改善は望めない上に、マァハは意気込むと失敗確率が上がる難儀な性格をしている。

 ……兎に角、茶でも入れながら考えをまとめよう。

 背後の少女に聴こえないよう、微かな溜息を吐きながら扉を開く。

「あ、の……、ねぇ、ルト」

 そして一歩、廊下に足を踏み出そうとした俺の背に、マァハがおずおずとそんな言葉をかけた。

「どうした、マァハ?」

 ……やっぱ、俺の不安に気付いてるんだろうな、マァハだし……。

 内心そう思いながらも笑顔を作り、振り返った俺の目をマァハのそれが射抜く。
 珍しくも、その視線を揺らさない美の付く少女の直視を受けて、どきり、生まれ持った蚤の心臓が大きく脈打った。

 いや、見上げたっても、そんなに身長差無いんだけどな、マァハが座ってても……。

 それを誤魔化すようにくだらない事を思い浮かべながら、マァハの視線を見返す。
 いや、別に、本気でマァハと目が合ったことに動転してるとか、実は身長差を気にしてて、この状況もかなり悔しいとか、そういったわけじゃないぞ。

 ……そう…、私は冷静クールだ…!!――って、これじゃ、ぜんぜん冷静クールじゃねぇよな。

 どうやらおちゃらけや誤魔化しが通じるような状況には見えないしーと、軽く目を瞑って大きく息を吐く。
 再び目を開くと、『今』の素の自分の、飾らぬ表情でマァハのソレを見返した。

 まぁ、負け惜しみじゃなく、そろそろ何か来る頃だろうとも思っていたしなー。

 そして、しばしの沈黙……ややあってマァハは、ふうと息を吐くとこんな言葉を紡いだ。

「……ルト、何で、こんなに一生懸命、なの?」

 ふむ、まずはそっちか。
 俺だから言いたい事がなんとなく解るが、言葉足らずで何に付いて尋ねているんだかよく判らないぞ、マァハ……。

「もうちょっと具体的に言ってくれないと答えようが無い……けど、まぁ、大雑把に総括するなら、一度死の直前を経験したから、かな」

 そう言って俺は、背中の傷に手を当てた。 

「……?」

 言葉の意味がよく判らないのか、首を可愛らしく傾げたマァハに、苦笑……。

「……後悔はしたくないって事だよ」

 そう補足すると、マァハの頭を囲む疑問符が更に2~3個増殖する。

「……後悔、したくないから、あたしに勉強を教える……の?
 ルト、あたしと同じ学校に行くの、嫌…なんでしょう?
 それに昨夜、父さん言ってたよ。
 ……向こうでは、ルトとお前は一緒に暮らすんだよって……。
 それだって、何時ものルトだったら、絶対、反対するよ」

 そう言うマァハも、若干普段とは違った精神状態のようで、普段ならとてもいえないだろう言葉を、迷い迷いながらもその舌に乗せる。

 ……うんうん、依存対象に疑問を抱くのは良い事だ。
 この調子で自立してくれればもっと良いんだが、それは無いだろうなー

 俺は、微妙に震える彼女の声に、ちょっとだけ口元を緩めながら、こう答えた。

「ジョ…ザパン市の解体バラシ屋の話はマァハも知ってるよな?
 一人でアレに遭ったら、賽がどう転んだってマァハは死ぬ、間違いなく……けど、俺と一緒だったら、二人とも生きて帰れる目があると思う。
 もし、マァハが、ルスタに落ちたことが原因で独りで死ぬ事があったら、俺は絶対に後悔する。
 ……そう思っただけだよ」

 どうやら、ジョネスは捕まった後でそれと知れたらしく、未だ解体バラシ屋の指名手配はなされていない。
 覗いた襤褸を誤魔化しつつも、そう返した俺の言葉に、マァハの目と口とが、ポカン、開かれた。


「あたしの、為に、なの?」

 返って来た答えが、よほど意外だったのだろう。

解体バラシ屋相手じゃ、ルトがいたってどうにもならない、かもしれないよ?
 それに、あたし、足手まといだから、そのせいでルトが死ぬ事も……」

 呆気に取られた表情で問い返すマァハの、言葉が最後まで紡がれる事はとうとう無かった。

「……違う」

 戸惑ったように揺れるマァハの言葉を、俺はそう言って断ち切る。
 そして、暫し言い淀んだ。
 一応、対ジョネス戦術は既に幾つか考えついているし、それなりに勝つ算段も立っているんだが、流石にそれをマァハに言うわけにもいかない。
 マァハの視線から逃れるように、俺は彼女に背を向けると、言葉を捜して二、三度髪を掻き雑ぜた。
 どうにか満足いく言葉を見つけて、口を開く。

「これは俺のエゴ――いや、俺自身の為、だよ。
 単に俺が、やれば出来たことで後悔したくないんだ。
 ……それに、死んだなら死んだで、そん時ゃ俺はマァハより先に死んでるから、後の事はどうでもいいのさ」

 因みに、信仰を持たない俺は、死んだら意識が拡散してそれで終わりなんだろうな…とか思っている。
 そして、寝て意識が無い時の事を考えれば、それもそう悪くはなかろう、とも……。
 無言のマァハを振り返ることもせず、逃げるように廊下に出ると、俺は、閉じた扉に背を持たせかけた。

 それに、死ねば晴信の体に帰る可能性だってあるからなー

 未だにどちらが主体なのかの結論が出ない、曖昧な状態にある俺だ。
 そういった可能性も、今はまだ、捨てきれない。
 だから、妙に自分の命を顧みない行動を考えたりするのは、きっとそのせいなのだ。

 そもそも、打算なく他人を庇えるほど善人ってわけじゃぁ無いし……。

 そんな俺の思考なんて、打算と言い訳と後ろ向きの三重奏……それっぽい語句並べ連ねて自分を盛り上げにゃあ、こんな状況じゃ、一歩だって前に進めやしない。

 ……尤も、煮詰まって挙句、逃避の暴走って線ならありえるがね。

 だから、マァハには早く自立して欲しい――俺は、心底からそう思った。
 そんな『小心な小利口者ヘタレ』についてきたって何も良い事は無い。
 今のスルトオレは、マァハの『現実リアル』から半ば乖離してしまっているのだから、それは尚更だった。
 しかも、このヘタレオレはそう思いつつも、投げかけられた情の鎖を力尽くで振りほどくだけの優しさすら持ってないときている。

 切り捨てる覚悟も、嫌われる優しさもなく、ただ相手が遠ざかってくれる事を期待するだけってのは浅ましいにも……って、止め止め。

 ただでさえ俺はメンドクサイ性格してんのに、この上ウジウジしてたら、もう手のつけようも無い生ゴミだ。
 大体、無限ループに嵌ってドロドログチャグチャしてても構ってもらえるなんざ、余程美形か立派な奴かの二択なわけで、そのどっちでもない奴が湿っぽくしてたって、黴て腐るが関の山……でもって、今はそんな暇も無い。

 ……思考の迷宮に嵌るのは嫌いじゃないが、わざわざ黴臭い穴倉に篭もって腐る程の悪趣味では無いしな。

 それに、今の俺に必要なのは、思考の迷宮への逃避じゃなく、踏みとどまって戦うStand&Fightの精神だ。
 まあ、ベアナックル時代のボクシングでは死者が続出してたとか、その時代の最強の拳闘士は『卑怯者の戦法Out Boxing』に完敗してるとか、嫌な連想も沢山浮かんだが、それは気にしない事にする。
 気にしたって意味は無い。
 まあ、そんな事言いつつも考えずにはいられないのが俺、なんだが、一応気にしない振りくらいはできた。

 兎に角、今はお茶だ、お茶。

 無くては生きていけない……とは言わないが、お茶を入れるのも飲むのも、俺の精神の安定にはすごぶる役に立つ。
 そんな事を考えてちょっとだけ苦笑すると、俺は扉から背を離して廊下を歩き始めた。
 因みに、これも怪我の功名と言うべきだろうか?
 先日の一件で、紅茶に興味を抱いている事が周知となったお陰で、俺の紅茶ライフは格段に向上していた。
 勉強しかしない我が子に危惧を抱いていた父さんと母さんりょうしんは、スルトが茶道具一式を遊び道具にする事をむしろ奨励してくれているし、マァハは家庭教師の礼にと自分の家で飲んでいる茶葉シルバーティップスを持ってきてくれる。
 それらの事情の変化に、どうやら、味覚は晴信よりスルトの方が優れている――いや、子供だから当たり前、なんだが――らしい事も加わって、ここ数日の俺は、毎日紅茶を入れるのが楽しみで楽しみで仕方ない状態にあった。

 今日は、どの茶葉を淹れっかなー。
 つーても三種類しかねーし、シルバーティップスはマァハあんまり好きじゃないみたいだけどなー。

 まぁ、アレは香りメインで味が淡すぎるから、素人さんにはお勧めできないものだけど……けど、馴れた者にはたまらない魅力があるんだよなぁ……。
 最初にアレ入れて飲んだ時なんか、俺、感極まってマァハに抱きついちゃったしなー。
 いや、晴信オレもシルバーティップス飲んだの初めてってわけじゃないけどさ、この体で味わうアレはマジ反則。
 こう、爽やかで透き通った香りが口の中に爆発するんだぜ、もう、アレは広がるってレベルじゃない。
 正直、初めてフォ○ョンのSAK○RAを飲んだ時以来の感動が……ってまぁ、今はそんなことはどうでも良い。

 ……ま、マァハの趣味を考えると、チャイが適当か。

 母さんもそうだけど、マァハはあの時入れたチャイを甚く気に入ったみたいで、なにが飲みたいか試しに聞くと『……チャイ』と答える状態だったりする。
 まぁ、俺も嫌いなわけじゃあないし、スパイス入りのチャイは気分が落ち込んでいる時にいい――そんな事を口の中で呟きながら、台所へと足を踏み入れた。
 水道から鍋に水を張り、火にかける。
 沸かす間に茶葉と四人分のマグカップを用意して……俺は、キッチンの作業台に備え付けの椅子スツールに、腰を下ろした。

 さあ、湯が沸くまでに考えをまとめとかないとなー。

 随分思考が脱線したが、現状の目的はマァハのルスタ附中合格、その為の精神修養の手法の模索が第一義だ。
 俺は、胸元に下げた指輪を弄びながら、ぶれていた思考を短期目標の前に据え直す。
 
 けど、なんだかなー。

 ジョネスの事を知ってからのこの一週間、色々考えて実行してきたんだけどさ、もう、そう言った小手先の技じゃどうにもならんような気がしてるんだよな。
 まあ、アイツを一生抱え込む覚悟があるんなら、まだやりようも無いではない……って言うのはスルトオレの自惚れか。
 この小さな檻から出れば、マァハももっと自分を強く出せるようになるだろう。
 そして、そうなればアイツは、本当に何でもできるはずなんだ。

 例えば、今も世界中を飛び回っているらしい、アイツの母マリアンさんみたいに……。

 マァハと同じカフェオレ色の肌に赤い髪、青い眼をした女性の姿を、頭に思い浮かべる。
 ダグ村長も、その息子のザグさんも、こんな辺境には過ぎた傑物だとは思うが、村長の妻であるマリアンさんの持つ才は、それらを軽く超えていた。
 正直、どうやってあの人と結婚まで漕ぎ着けたのか、村長に一度問いただしたいくらいである。

 あの人、世界中飛び回っていて滅多に帰って来ないけど、帰ってきた時の熱愛っぷりったらないしなー。

 それこそ、帰ってきた当日は、マァハもザグさんも、自分の家から逃げ出すくらいだ。
 ……で、俺の見た所マァハは、外見も能力もその母親似。
 それも、その持てる気概と父親から引き継いだ白銀の髪とトパーズ色の瞳がいけんてきとくちょうさえ除けば、そっくりそのままと言って良いくらいだ。
 だから多分、マァハに必要なのは、ほんのちょっぴりの自信だけなんだろう――そう、俺は思っている。
 ひとかけらの自信を持って一歩目を踏み出せば、後はドミノ倒しのように一気に進んでいけるはずなんだ、アイツは。
 そう言うわけで、俺はその一歩が誰かへの依存から進むものであって欲しくなかった。

 ……いや、そんな俺が熱心にマァハの受験の手伝いをするってのは矛盾してるんだがなぁ。

 そんな思いが頭を過ぎって、俺は一つ、溜息を付く。

 いや、解ってるんだよ、その矛盾は……。

 実際、スルトオレだって今みたいになる前は、受験を口実にしてマァハを極力遠ざけてた。
 だから、さっき、珍しくマァハが真意を問いただそうとしたのも、積み重なっていた過去と掌を返した現在への不審と不安とが、アイツの心の喫水線を越えたからなのだろう。

 あちらを立てれば、こちらが立たず――まぁ、どっちを立てるべきかは明白な状況だから、悩まずに住むのは良いんだが、精神的に、その、なぁ……。

 そんなこんなで、まともな対策も浮かばぬままに時は過ぎ、気付いた時には、チャイを移し変えたティーポットと暖めたマグ二つ、それから、作業台の上においてあったクッキー――マァハちゃんと食べる事との、母さんのメモ付き――の皿を手に自室の前に立っていた。
 一応……とばかりに二・三度ノックすると、部屋の中から何かばたばたと慌てたような物音。

「どうした、マァハ、何かあったのか?
 ……入るぞ?」

 一応そう声を掛け、それでも二拍ほど待ってから扉を開けると、額に汗し、微かに赤面したマァハはさっきまで俺が座っていたクッションの上で、正座の形に体を凍りつかせていた。

 なーんか、変だな?

 マァハの様子がおかしいだけじゃなくて、なんかこう、部屋の中も変わっているような気がするんだが、今日は結構上の空だったから、それがなんなのかが真面目に解らん。
 こういう時、いつもはマァハの記憶力を頼るところなんだが、事の張本人だからな、今回は。
 んー、しかし、この部屋でなにかするとなると……端末でも覗いてたのかねぇ?
 さっきの受け答えで『最近のスルトの変化オレ』に、疑心を抱いた、とか。

 ……別に、探られて困るようなものなんざ何も無いけど、今警戒心持たれるのはちょっと厄介だなー。

 俺はそんな事を思いながら、マァハの目の前にトレイを置くと、それを挟んだ対面の床に腰を下ろした。

「……お待ちどう様」

 表情を繕って警戒心を強められても困る――困惑を隠さぬ顔でそう言うと、マァハの顔へとまっすぐ視線を向ける。
 目の前にあるマァハの顔はうっすら汗ばみ微かに上気して、それが俺の視線を避けるように俯いて、しかし、その視線は上目使いで、チラチラ俺の顔をうかがっていた。
 それがなんだか妙に可愛らしく、また、女性的なモノに思えて、マァハからちょっとだけ視線を逸らす。

 ……まぁ、なんだ、その、なぁ、俺がいない間、マァハがこの部屋で何かをやって、それで後ろめたさを感じてるのは間違いないな。

 それからどうやら、マァハは俺のことを警戒してはいないようだ。
 それどころかなんだか、いつもより視線が据わってるって言うか、なんだろな、知られたらどうしよう…とか、そう言った怯みみたいなものはあるんだけど、嫌われたくない…とか、普段は過剰に向けてくる怯えがあまり感じられない。

 んー、なんか、普段俺に向けてる視線モノより、母さんに向ける視線モノに近い、って言うか……。

 俺は、奇妙に動揺して纏まらない思考を掻き集める様に、頭皮に爪を立てるとガリガリと掻き毟った。
 そして溜息、意を決し、再びマァハへまっすぐな視線を向ける。

「……取りあえず、冷めない内にお茶にしよう」

 突然の動きに、びっくりしたように身を竦めたマァハの前に、俺は彼女専用のマグカップを置いた。
 そして、開いた手にポットを取り上げ、伸び上がるようにして高いところから、マァハの目の前にチャイを注ぐ。

 インド式~♪

 上手に注ぐのが結構難しいこのインド式――カップへ高いところから、茶を注ぐ手法――だが、実はパフォーマンスの色が強くてたいした意味は無いらしい。
 だから、チャイ入れるからってわざわざやらなくても良いし、実際今までもやってなかったんだが、なんと言うか、部屋の空気と暖かいチャイとを攪拌するこの淹れ方が、実は結構好きだったりするんだよね、俺。
 こう、部屋にふんわりと暖かさと香りとが広がる気がしてさ。

 ……ま、雰囲気だけってーか、気持ち程度だけど、な。

 でも、それでも気は心…とも言うわけだし、それに、マァハの緊張を解すにも良いかもしれん――と、今回はわざわざ鍋に作ったチャイをティーポットに移し変えてから持ってきたわけだ。
 それに、マァハの中にはチャイ=鍋の図式が出来上がっているだろうし、ポットで持ってきたけど中身はチャイと言うサプライズも期待できる。

 まさか、こんな妙な雰囲気を払拭する為に使う羽目になるとは思わなかったが……。

 果たして、始めて見るインド式に、マァハは目を二・三度ぱちくりさせると、その口元にかすかな笑みを浮かべた。
 スルトの体でインド式をやったのは初めてだったせいか、ほんの一回、一瞬だけ茶を乱して零しそうになったが、なんとかそれは堪えてマァハのマグにチャイを注ぎ終えると、一度、ポットをトレイの上に置く。
 クッキーの皿を下ろしマァハに勧めて、自分のマグに普通にチャイを注ぐと、俺はポットとトレイを脇に押しやった。
 再びマァハに視線を向けると、彼女はむぅとちょっとだけ口を尖らせて、俺から逃れるように視線を逸らす

「……なんだか最近、ルトが可愛い」

 どうせまだ第二次性徴始まって無いし、勉強漬けで食も太くは無いから体も細身だよ。
 顔つきもどっちかと言えば女顔で、まだそんな身長に大差なかった頃に、母さんに面白半分でマァハと服を着せ代えられた時も『どっちも似合いすぎてて面白く無い』とコメントされたさ。
 だから、そりゃあ、背の高いマァハから見たらちっこくて可愛い部類に入るだろうが、俺の成長期はまだまだこれから――小柄な母さんだけではなく、大柄な父さんの血も引いている俺だ、これから身長はまだまだ延びるはず。

 それに、直接あった事は無いけれど、母さんの父さん(じいさん)も、背は高か……って、そんな事はどうでも良い。

 俺は、困ったように、ちょっとだけ不満そうにそう言ったマァハに目を丸くした。
 マァハがそうであるように、実はスルトオレもちょっとだけ、身長を気にしている。

 過剰に他人を気にするマァハが、そんな俺に可愛い?

 気付いて目を丸くすると、マァハもあっと気付いたように、口元に手を当てた。
 その動きもなんとなく軽やかで、俺の傍にいてもどこか怯えていたマァハの、何時もの硬い仕草とは微妙に違うように感じられる。
 強いて言うなら、なんだろう、母さんの隣で笑ってる時のマァハに近い、か?
 まさか、俺みたいに…なんて事はないだろうけど、それにしてもこの唐突な変化は不可解すぎる。

 部屋を出てたほんの十分ほどの間に、一体何が起きたんだ?

 そこまで考えて、目の前で慌ててるマァハの姿に気付いた。

 ……いや、ただの気のせいなのかもな……。

 何時も通りハングアップし、ただおろおろ取り乱しているマァハの姿に、一つ溜息を付くといつしかあんぐり開いていた口を大げさにバクンと閉じる。
 それから、怒っていないと示すように、ちょっとだけ苦笑して……。

「そうだな、どうやら俺は、ちょっとだけ大人になったらしい」

 ……そして、俺は、マァハに向かってそう言った。
 返した言葉に、マァハがハングアップから回復する……が、どうやら、混乱自体はまだ収まっていないらしい。
 マァハは、慌てていたせいかちょっとだけ赤くなった顔で、ただほうと俺の顔を見た。

「……大人?
 大人になると、可愛くなるの?」

 判らないというようにそう問い返すマァハに、ああと頷く。

「自分が可愛いって事を……子供だって事を受け入れられる程度には、大人になれたのさ」

 そう言って笑った俺に、今度はマァハの方がポカンと口を開いた。
 まあ、見た目に合わない、らしくない事を言っている自覚はある。
 呆れられても仕方ないかと、マァハから視界を外すように、自分用のマグカップを手に取った。
 そして、開いた左手にクッキーを取って、パクリと一噛み……甘くてサクサクでバターの香りがふんわり広がるその味に目を細めると、今度は右手のチャイを一口。
 自分で言うのもなんだが、かなり上出来な部類――そうにんまりと微笑んで、いやしかしと俺は表情を引き締める。
 このチャイが美味さの五割は素材、残りの半分の内四割くらいは、母さんが作ったこのクッキーの美味しさだ。

 ……やはり、引っ越す前に母さんから料理を教わったほうがいいな。

 今までも、料理はそこそこやっていたが、この辺りの料理のレシピは全く知らないし、それに菓子作りに挑戦した事は未だ一度も無い。
 やっぱり気恥ずかしかった事もあるし、甘いもの好きな友達が居なかったから、作っても結局一人で食べる羽目になると言う周辺事情もあった。
 けれど、マァハも甘いもの好きだし、多分、多少焦げ目があるくらいなら一緒に食べてくれるだろう。

 だったら、今度は菓子作りに挑戦してみるのも面白……って、なんか忘れてないか、俺?

 そう現状(いま)を思いだし、マグを床に置き上げた視線が、マアハのそれと――それも意外な近さで――重なった。
 背が高く、また今はクッションの上に座っているマァハと、背の低く床に直に座っているスルトオレの顔が、これほど近くなる事なんて普通ならありえない。
 ……ありえないんだが、どうやら俺が紅茶と茶菓子に集中している間に、マァハはその姿勢を崩していたらしかった。
 マァハは、正座だった足を所謂女の子座りに崩してその間に両手をつき、背は猫背にして身をこちらに乗り出している。
 そんな崩れた姿勢のマァハと、きっちりとした姿勢に直ろうとした、俺。
 二人の視線が偶さかに至近で交わり……そして、すぐに離れた。

「うわぇ!」

 意外な近距離に驚いた俺が、奇矯な声と共に跳ぶようにして身を引く。
 足元のマグが一瞬揺れて、しかし何とか持ち直したのにほっとするのもつかの間、再び上げた視線の先には、変わらぬまま表情を浮かべたままのマァハが在った。
 今のマァハが浮かべている表情を、一言で評するならば――真剣。
 それは今まで、マァハの顔にはついぞ見た事が無い表情だ。

「ルト、わたし……頑張る」

 そして、そんなマァハがぽつりと放ったその言葉も、何時ものように意気込んで気負った様子のない、ただ、淡々とした、強い意思の様な物を感じさせる、そんな口調……。

 ……頑張る? 何を?

 俺はそう、反射的に言葉に成しかけて、慌ててそれを喉奥に飲み込んだ。
 何でその気になったのかはさっぱりなんだが、マァハが『今』頑張る事など一つしかない。

「そうか、分かった」

 だから俺は、表情を引き締めてただ一言、ただそれだけ、そう応えた。
 そんな、簡素な返答に、マァハもただうんと頷きを返す。
 けれど、その僅かな仕草には、それ以前にマァハが口にしただろう全ての言葉を合わせたよりも多くの説得力が篭もっている――そんな気がした。



[2622] 第五話(完・タイトル未定)
Name: 十八◆4922f455 ID:c47c5104
Date: 2009/04/02 11:48
 それから三日は、本当に瞬く間に過ぎた。
 いぶかしむ俺を尻目に、マァハは独り己が目的の為に邁進し、そしてついに訪れた試験当日……。

「……じゃ、行ってくるね、ルト」

 はにかんで告げるマァハにああと頷くと、隣でほうと息を吐く音がする。

 ……居心地が悪い。

 俺は、背を翻して歩いていくマァハを眺めながら、そんな事を思った。
 なにせ、名門付属中学の入試だけに、周囲には教育ママさんやら緊張顔の小学生やらが沢山居るわけで、肉体は小学生でも中身は二十過ぎの俺としては、その時点でもう場違いっつーか、『何で俺ここに立っているんだろ』感がある。
 それだけでもう逃げ出したいくらいだっつーのに、今日の同行者は二人とも嫌なくらい悪目立ちする美人……その上に、見るからに小学生な俺が見送り組で、場合によっては高校生くらいに間違えられるマァハに先達として訓話をくれたりしているのだから、もうこの三人組が目立たないわけもなかった。
 周囲のママさんお姉さん方の様々な種類の視線に、ぽおっと見惚れるパパさんお兄さん方の視線、試験の緊張を束の間とかれた子供達の興味津々な視線と、場の視線の十字砲火を受けて、俺の硝子の心臓はもう穴だらけ。
 マァハは、校舎近くに到達した時点で必ず振り返る――そう確信しているからまだここに留まってはいるが、本音を言えばアイツが背を向けた時点で、脱兎の如く逃げ出したかったくらいだ。

 ……正直、この人の肝っ玉がうらやましい。

 そんな事を考えながら隣を見上げると、先の溜息の主も丁度隣を見下ろしたところで……合った視線に、ニヤリ、笑みを浮かべると、真紅の髪に青色の目をした女性はこう言葉を紡いだ。

「全く、母親のあたしがこんな事を言うのもなんだけどさ、あの七面倒な娘ウチのマァハを、よくもあそこまで調教したものね」

 周囲を気にせずそう言ってのけたマァハの母マリアンさんに、今度は俺のほうが溜息を付く。

「……衆人環視の中で、人聞きの悪い事を言わないでください。
 俺は別に、調教なんかしてませんよ」

 マァハに視線を戻しながらそう答えると、その声音だけは涼やかに、マリアンさんはからからと笑った。

「でも、何も無くていきなりアレ…でもないんでしょう?
 あの子に一体何したの?
 ……一緒に大人の階段でも登ったとか?」

 そして続けられた言葉に、聞き覚えのあるフレーズが一節。

 あー、この表現って、こっちでも通じるのね。それとも、この世界にもH2Oが居たとか?

 そんな馬鹿な事を思いつつ、俺は、楽しげに不穏な言葉を放つ美女へと半眼を向けた。

「登ってません……と言うか、俺、まだ精通来てないですよ」

 機先を制する心算でそう答えると、マリアンさんは俺を見下ろし目を丸くする。
 晴信と一ついまのオレになった事で両方薄れてるけど、元々スルトオレマリアンさんこのヒトに憬れの感情を抱いていたし、真面目一方一点突破な分、シモネタにも弱かった。
 で、そんなスルトオレを面白がって、よく自分の娘マァハとの関係を題材にしたシモネタを振ってきてたのがマリアンさんなわけで、そんな彼女が、今の『スルト+晴信オレ』に困惑するのは、勿論想定の範囲内……。

「大体、俺だってアイツの『覚醒』には困惑しているんですよ。
 一体、あの短い間に何があったんだか……」

 ……にも拘らずこんな言動を取ったのは、マァハに輪を掛けて鋭い、この人に以前の俺の振りで押し通すなんてのは全く不可能だと、そう考えているからだ。
 ならば、隠さず今の素を見せた方が良い。

「覚醒…か、それ面白い言い回しね。
 あの子はもう『少女シンデレラ』じゃない、か」

 そう考えた俺の言葉に、マリアンさんはそう呟いた。

 確かに、自力で求める物を獲りにいったマァハは、既にあの曲基準のシンデレラでは……ってをい、マジでこの世界にも『想い出がいっぱい』があるのか!?

 まぁ、この世界が富樫の漫画だったり、晴信オレ脳内の妄想ユメだったり、逆に、あっち側がこっち起源だったりするならばそう言う事もありえるのだろうが、それにしてもよりによってなんでまたコレなんだよ?
 確かにアレは名曲だと思うが、幾らなんでもこれは無いんじゃないか?

 ……兎に角、家に帰ったら一度ネット検索してみるか。

 俺は、混迷を深める現状に、内心重い息を吐きながら、校舎に着いてこちらを振り返ったマァハへと軽く片手を上げる。
 同時、目にオーラを集め、強化した眼でこちらを見たマァハがうんと頷く所を確認してから、マリアンさんの顔を見上げた。

「とりあえずこの先は、どこかに落ち着いて話しませんか?」

 この衆人環視の中、これ以上突っ込んだ話をできるわけもなし、タイミング的にも丁度良いだろう。

「そうね、ルト君の言う『短い間』の前後の話も聞きたいし……そうね、まずはウチで一息入れましょうか?」

 そう投げかけた問いにうんと頷き、マリアンさんは答えを待たずに歩き始めた。
 因みに、ウチと言うのは、ザパン市での仕事も多いクラン一家が、こっちに持っているセカンドハウスの事。

 つーか、そんなあって当たり前のものの存在を失念している位、煮詰まってたんだなー、俺。

 尤も、ここはほぼ仕事時専用――残りの部分は、マリアンさんがザパンに寄れる時――の寝部屋なので、今迄の用途に加え二人の子供+目付役を住まわせるスペースは無いらしく、コレを機にもっと広い部屋を借りるのだそうだ。
 小回りが効く車が好みなのだと言うマリアンさんの意向で、借りたミニに似た小さな普通乗用車の中、そう言った微妙に下入った話を効かされる事数分……。

「………」

 俺達が辿り着いたのは、主に単身者向けと思われるマンションの一室だった。
 基本的に『他人を入れる』事は考えていないのだろう。
 セキュリティはそれなりだが、クラン家やマリアンさんの財力から考えると相当質素なその部屋は、それだけに先の話が妙に生々しく感じられて居心地が悪かった。

 いや、だって、ねぇ……その、ここ、多分、逢引用に借りている部屋だよ。

 村長は、必要であれば金はケチらないけど浪費家ってわけでもない。
 マァハの持ってきた茶葉の質でもわかるとおり、『自分の領地むら』ではかなり金回りの良い暮らしをしてる村長一家だけど、あれは権威を守りつつ『共同体』にお金を流すと言う目的があっての話だ。

 あー、『高貴な義務』ノブレスオブリージュ を理解してるって言えば良いのかね?

 使うべき所では使い、締めるべき所では締める――あの人はそのバランス感覚が確りしている人で、だから村長一家は羨まれても蔑まれず、恐れられても憎まれてはいなかった。
 現代日本の感覚で見ると旧弊に感じられるかもしれないけれど、俺の見た所、村長はかなり理想的な専制君主だと思う。
 そんな人がこんな中途半端な部屋を借りる理由は、どう考えても二人っきりになれる部屋が欲しいと言う彼のささやかな我儘くらいしか考えられないわけで……しかも、そう気付いてしまうとこの部屋の調度って、なんか妙に若々しくて可愛らしいんだ。
 こう、デートにいって、勢いで取りましたみたいな安っぽい人形が飾られていたり、とかさ。
 なんつーか、新婚夫婦か同棲中のカップルの部屋にお邪魔している様な、そんな居心地の悪さがある。

「……別に吊るし上げたりしないから、もうちょっと気を楽にしたら?」

 マリアンさんは怪訝な顔でそう言うけれど、そうしながらテーブルに置いたコーヒーですら、やたら若々しいデザインのペアマグに入ってたりする辺り、ソレを意識しないのは相当難しかった。

 ……なんつーか、俺は間男には成れそうに無いな。

 その余りの居心地の悪さに溜息を一つ。
 話をしていれば少しは気が紛れるだろう――そう意を決して顔を上げた俺は、すぐに再び視線を落とした。
 マリアンさんは、髪や眼の色を覗けばその娘マァハと良く似た容姿をしている。
 もう三十半ばを過ぎているはずなのに、下手すると大学生ぐらいに間違われかねない若さで、大人びた容姿のマァハと並んで歩けば姉妹と勘違いされる事請け合いだ。
 だからその、なんつーか、ちょっとだけ思っちまったんだよね。
 マァハもあと何年化したらこんなふーになるのかなって。
 そう考えるとこのシチュエーションも別な意味を持って感じられるわけで、その……なに考えてんだろね、俺。
 最近、癖になりつつある溜息をもう一吐きし、再びマリアンさんの顔を正面から見据える。
 そんな一連の流れからなにを読み取ったのか?
 ニヤニヤと嫌な笑いを湛える(外面は)妙齢の美女に、俺は苦笑めいた緩んだ表情を向けた。

「で、俺はなにから話せば良いんですか?」

 何を…とは言わない。
 この人がその気になったら、嘘で隠し通すのは不可能だろうし、ならば、初めから降伏したほうが色々と楽だ。
 生半な嘘より余程荒唐無稽な話せない事柄の数々については、そもそもマリアンさんにそれについて質問する理由と言うものが無いので気にしないでも良かろうし……。

「じゃあ、まずはルト君の言う『覚醒』の前後の事を話してくれないかしら?」

 そんな俺の無条件降伏を受け、マリアンさんはにこやかにそう口を開いた。

「……言っておきますけど、そう大した事はありませんよ」

 なんだか興味津々な様子のマリアンさんに、そう前置きしてから事の一部始終を語り始める。
 事故に合ったこと、目が覚めたら、なんだか付き物が落ちたように、気が楽になっていたこと……そして、マァハについて考えていた事……。

「まぁ、そんなわけで俺は、マァハがルスタ附中受けるのにそんな乗り気じゃなかったんですが、例の解体屋バラシやのお陰でそう言ってもいられなくなったんですよ」

 そこで、村長の申し出も受け、マァハの家庭教師も積極的に行うようになった事、そして……。

「色々と変わった俺を見て不安になったんでしょうね。
 マァハに聞かれたんですよ、何でなの?…って」

「ふぅん、でルト君はなんて答えたの?」

 事が核心に至ったと感じたのか、初めて口を挟んだマリアンさんに、俺は苦笑を浮かべながらこう口を開いた。

「努力すれば回避できたかもしれない事が原因で、マァハを死なせたら後で絶対後悔するから――詳細ディティールは違うかもしれませんが、内容は概ねそんな所です。
 そしたらアイツ、『なんで自分の為にそんな危険を冒すんだ』って言うんで、単に俺の自己満足の為だし、結局何もできずに終わっても、俺の方が先に死ぬ事だけは間違いないから後はど……って、どうしたんですか?」

 そして、途中から頭を抱え始めたマリアンさんに、途中で話を切り替え、そう尋ねかける。

「いや、あのね、ルト君。
 念のため聞くけどさ――貴方、マァハが君を好きな事、ちゃんと理解してる?」

 しかし、彼女は何も答えず、頭を抱えたままその視線だけを俺に向け、そう問いかけてきた。

「ええ、まぁ、一応は……」

「何か含みがありそうね?
 ……怒らないから、素直に言ってごらんなさい」

 返って来た歯切れの悪い答えに、マリアンさんは重ねて問いかけ――対する俺は、はぁ…と重い溜息を、一つ。

「いえ、確かにマァハは俺を好きなんでしょうけど、それは、母さんの付属品オプションとしてなんじゃないか…って感じることがあるんですよね」

 なんつーのかな、アイツが俺に好意を持っているのは疑うべくも無いし、全てがそうだとも思わないんだけど、身内を除く村の連中が、スルトじぶん父さんの予備にだいめとして扱うのと同じく、マァハの中にはまず母さんがあって、俺はそれに繋がってるだけなんじゃないか…って感じる瞬間が時々あるんだ。
 まあ、アレだ、自分でもそうこだわる程でもないと思うのだけれど、もうこれはスルトオレの宿病みたいな物で、どうしても気になっちまうんだな、これが。

 ……だから、俺はマァハを自立させたいのかもな。
 自立した後も尚、俺が好きなままだって事を確認したいのかも……。

 俺が、母さんのオマケでも、単なる庇護者だから媚びている訳でも無いと、そう信じたいから、試している?
 ――答えながらそんな事を考えていた俺に、マリアンさんは困ったような表情を浮かべた。

「ルト君、貴方がマァハに誠実であろうとしている事も、そう言う潔癖なことを考えがちな年頃だってのも解るけどさ……」

 『スルト+晴信いまのオレ』には微妙にショックな言葉を前置きにして、溜息を一つ。

「……本当に好き、とかそう言う下らない言葉遊びを捏ね繰り回すのは止めなさい。
 それは、絶対に答えが出ない問いだし、それに……それに、私が言うのもなんだけど、確かにマァハは貴方のお母さんケイトさんに傾倒しているわ。
 それこそ、崇拝していると言っても良いかもしれないくらい。
 だからルト君が感じている通り、マァハは確かに、貴方の中にケイトさんの面影を見ていると思う。
 それは間違いないけれど……」

 そして、彼女はこう続けた。

「けれどそれは、単にルト君がマァハの好みだって言うだけの話よ。
 ルト君がケイトさんに似ているからと言って、マァハが貴方を好きになるとは限らないし……それにそもそも、マァハはケイトさんを尊崇しているけど、そっちのレズっ気は無いわ。
 だけど、マァハがルト君に・・・向けている感情は違う」

 マァハは、彼女が母さんに向けているのとは別の感情――即ち、恋愛感情――を、俺に抱いている。
 そう、自信満々言い切るマァハの母親マリアンさんに、スルトオレは、長く胸の奥に痞えていたモノがすとんと落ちていくのを感じた。
 マァハがオレに恋愛感情を抱いているって点には納得しかねる思いも無きにしも非ずだが、それ以外の点については確かにその通り。
 例えば、外見的には母さん似なスルトオレだけど、その鷹揚さの欠片も無い内面やそれに起因する言動はむしろ、見た目にそぐわず細心な父さんに似ていたし、マァハはそんな父さんに苦手意識を持っていた。
 それに、彼女の自立を願いながらも一方的に庇護対象と見做していた以前の俺スルトは、マァハに対して一方的な指示を与える事も多かったわけだけど、それは彼女が尊敬しつつも敬遠するマァハの父親ダグ・クランに通じるものでもある。

 ……いや、まあ、合体後の言動は結構合体前と離れて来ているから、その辺りを突っ込まれたら困るけどさ。

 言われて考えてみれば、スルトオレは、マァハが大好きなウチの母さんのパーツと共に、ウチの父さんやら、付き合いの深いマァハの父さんそんちょうやらの敬遠されている人間達の要素も持ちあわせている――つーか、むしろそっちの要素のほうが多い?
 そういった人間であるスルトオレを、単純に母さんの面影を持っているから好んでいるなんぞと考えるのは、マァハに対して失礼だろう……。

「ハァ……」

 ……そんな事を考え一人ふむんと頷いた丁度その時、前斜め上の方から降ってきたのは、これ見よがしの大きな溜息だった。
 あっと思って顔を上げると、目の前には呆れ顔でこちらを見つめる美女が一人。

「ああ、すいません。話の途中でしたね」

 慌て、そう言って頭を下げる俺に、マリアンさんは再び溜息を落とした。
 何か変な事でもしてしまったのだろうか?
 そう、手早く身の回りを確認すると、マリアンさんは処置無しと言う様に三度溜息……。

「……兎に角、話を続けるわね。
 さっきルト君が説明した事を、『貴方が大好きな女の子マァハ』が聞いたらどう思うか……それを考れば、今回、あの子が張り切っちゃった理由なんてすぐ判るでしょう?」

 そして、気を取り直したように続ける言葉に、俺は首を捻った。

 ……俺は、なにか、そんな特別な事を言っただろうか?

 思い返してはみたものの、本当に心当たりは無い。
 スルトオレがマァハに言ったのは、スルトオレにとって全く当たり前の――いやまて、ここは逆に考えるんだ。
 ある人にとっての常識が、実際には俺ルールでしかなく、その他にとっての非常識だったなんて事例は世の中に溢れている。
 そう、ここ数日マァハに付きっ切りだった為、ずっとスルト基準で物事を判断してきたが、もしかするとあの時に話した言葉の中に、スルトにとっては当たり前でも、晴信にとってはそうではない物が含まれていたのではなかろうか?
 しかし、自分を晴信と規定して状況を客観視するとしても、配役がスルトとマァハでは充分にそれをなせない可能性があった。
 となると、脳内で何か別のものに置き換えて見るのが良いかもしれない。

 しかし、そんなに都合の良いキャラクタなど居ただろうか?

○二人の関係
 幼馴染、なにそのエロゲって言う描写が良く似合うな。ちょっと背景が生臭いけど。

○スルト
 なんつーか、視野狭窄?いや、自分の事だけどさ。
 どちらかと言えば感情には聡い…心算だったけど、マリアンさんの言葉が正しければ相当な朴念仁だろう。
 いや、朴念仁と言うよりは多分アレだな、やってる事に集中しすぎててその範囲外の感情にまで、注意が及んでいない。

○マァハ
 依存心が強く、自己を過小評価しがち。
 外見以外は子犬タイプ?

 状況把握、まさにエロゲ――まぁ、まだ二人とも小学生、だが。
 スルトは少年漫画タイプの朴念仁主人公、マァハは自虐的子犬系の主人公に懐いているヒロインと仮定し、何かそれっぽく当てはまりそうな奴らを脳内検索する……二つの名前が頭の中に浮かんだ。

 衛宮士郎、間桐桜。

 むぅ、なんか嫌な名前が出てきてしまったが、スタンス的にはそう遠くないだろう。
 強く執着するものがあって精神のバランスを崩している朴念仁と、男に強く依存していて自分を過小評価するネガ女。
 俺は冷静になろうとマグの珈琲を一口すすってから、先のキャラクターにあの時の言葉を合成……

「グボァ!
 …ゲホゲホッ、ゲホ!」

 ……してみた瞬間、思い切り口に含んだ珈琲に噎せ、吐き出した。
 吐き出したものも気にする余裕もなく、恐らく青くなっているのだろう顔面を、空いた左手で抑える。
 それでも一応、残った右手に持ったマグを、なんとか零さずテーブルの上に置く位の理性は残っていた。
 そして、毀れ落ちる仮面を抑えるかのように左手を顔に置いたまま、その遣り取りをスルトじぶんとマァハとに再変換……思い返すに連れ、一度はさっと引いていった血の気が、勢い良く顔に登ってくる。

 び、び、びーくーる、Be Cooooool。素数……いや、素数なんてどうだっていい。

 疑問を氷解させた俺は、その中から溢れ出た色々なものに思考を止めた。
 止めざるをえなかった。
 何故なら、それ以外に答えは無いと気付いてしまったからだ。

「なんだか、暫く見ないうちに、随分リアクションが激しくなったわね」

 マリアンさんは、人事のように――と言うか、人事なのだろう。この人基本的にマァハの味方だし――そう言いながら、どこからか取り出した台布巾でテーブルの上に零れた珈琲を拭う。
 そんな姿を意識せず視界に納めながら、俺は内心叫んだ。

 ……し、知りたくなかった。こんな真実!

 そう、知らずにおれば、この餓鬼スルト=オレは、今後も『無敵の朴念仁』のままで居られたのだろう。
 だが、気付かぬままではマァハに不実だった事も確かで、だから、マリアンさんがスルトオレにそれを自覚させようとするのも当然だった。
 また、元凶が自分である時点で彼女に恨みがましい視線は向けたりする選択も残っていない。
 いや、今の不安定な精神状況を立て直すには何かに吐き出してスッキリするのが早道だろうし、互いの関係と年齢差を考えるに、その位の八つ当たりしても許されるじゃないかなとも思わなくも無かったけれど、自覚的にそれを行うのは流石に憚られた。
 なにせ、こちらは精神年齢二十越え、羞恥心割と強めの男の子である。
 彼女みたいな美人さんの前で、そんな恥の上塗りはしたくない。
 結果俺は、こちらをニヤニヤ眺めるマリアンさんにちらり視線を向けすぐに逸らすと、既に癖になった感のある溜息を、また一つ吐いた。
 マリアンさんとしては、マァハを意識させるのに成功した上に、スルトオレのこの予想以上の反応を見る事が出来た会心の状況なのだろうが、こちらとしてはその逆だ。

 とにかく、逃避でも良いからなんとか自分を立て直さないと……今の状態では、正直マァハの顔を直視出来そうに無い。

 そして、今後の危険なんかを考えても、どうにかしてマァハへの対処法をひねり出さねばならなかった。
 だが果たして、今前者だけでも果たせる時間はあるのだろうか?
 マァハの試験時間はまだまだ在るが、こちらでの用事も全く無いというわけではないのだ。
 郵送で行える手続きは全て終わらせ、実質マァハへの付き添いの言い訳みたいになっている今回のザパン行きの理由ではあるが、それでも役所やらなにやら、行かなきゃならないところは結構多い――と、人の心とは不思議なもので、そう散文的な事に集中すると、些かではあるが心の波が緩やかになってくる。

 ……問題から目を背けているだけって事はわかっているんだが。

 俺は、下を見て目を瞑るとフゥと息を吐き出し、マリアンさんの顔を再び見上げた。
 ま、長々とグチグチ続けてしまったけれど、これは文字通りの愚痴であって、別に、『本当に知りたくなかった…』とか、そう言うわけじゃあない――いや、少なくとも晴信オレの理性はこう判じている。
 コレに気付かずにいたら、マァハを危険に晒していた可能性が高い――と。
 スルトは、崖から落ちる以前は、環境の変化が彼女の自立を促す事を期待して、マァハを遠ざけるように動いていた。
 優れた記憶力と鋭い観察眼とから、それが悪意に基くモノではないと気付いていただろうが、それでもマァハが、持ち前のネガティブさから相当な不安に駆られていただろう事は想像に難くない。
 そんなマァハの不安は恐らく、『スルトが崖から転落し重体』と言う情報を受けた時点で頂点に達した。
 生存の報に安堵し、会いに行きたいと思いつつ遠ざけられていた事実も有って悩み、大義名分を得て漸く見舞いに行けると思いきや、自称友人連中のごり押しにあって……きっと怒られる嫌われると怯えていたマァハを迎えたのは、打って変わって親身なスルトである。
 それで不安に混乱が加わり、どうにもならなくなって尋ねてみれば、帰ってきた答えがアレだ。
 
『……理由? ザパン市で解体屋が暴れているからよ。
 か、勘違いしないでよね、別に貴方のことが心配とかじゃなくて、単なる私の自己満足のためなんだから!』

 自分で言うのもなんだが、あの一連の会話の客観的評価は、『まさにツンデレ』の一言。
 お前の死ぬ所は見たく無いから命かけても守る――不安と混乱の中言われた言葉にマァハの中で不安と混乱とが反転し、そして彼女は目出度く、『自分はスルトに大切に思われている』と言う自信を手に入れたと言う訳だ。
 まいったなぁ…とは正直思うが、知らぬままに失敗するよりはマシなわけだし、幸い、現状マァハに見える変化が肯定的なモノという事実もある。
 才能全開にしたマァハに隠し事するのは不可能だろうし、そうなるとハンター試験以後も普通に同行を望まれそうで怖いが、その辺りは後三年と何ヶ月かの猶予期間に何とかすれば良いことだ。
 それに、今後ザパン市に引っ越せば、マァハを取り囲む環境は大きく変わる。
 その変化とこれからの時間が、マァハに依存状態からの自立を促す可能性だってあった。

 ……まぁ、あの会話をした点でその可能性は殆ど無くなってるだろうが、その位の夢見たって許されるだろうさ。

 んっ…と、こっちを見返したマリアンさんを前に手早く現状を再認――二三度意識して呼吸を整え、それからこう口を開く。

「あ、話は戻しますけど……それからすぐ、俺はマァハに考える時間を与えようと席を立ったんです」

「……また、あっさり戻すわね。
 まぁ、ルト君が納得できたのならそれで良いけど」

 今の時点で既に決定的ではあったが、更に駄目押しで、変なフラグでも立っていたら目も当てられない――そう考えて話を戻した俺を、マリアンさんはそう論評した。
 その表情を見るに『下手な誤魔化し』と判断したのだろうが、話の先には興味があるのか茶化すことなく続きを促す。

「で、ゆっくりとお茶を入れてから部屋に戻って、何かトラブルがあったら困るからとノックしたら、そしたら中でマァハがなんだかドタバタしはじめたんですよ」

 ……が、そんなマリアンさんの聞く体勢も、そう長くは続かなかった。

「……マァハが? 本当に?
 それでルト君は、間に何かあったと思ったんだ?」

 再開された説明にすぐ目を丸くした彼女は、テーブルの上に身を乗り出すようにしてそう口を開く。
 スルトオレ自分マァハを大切に思っている――直前の出来事でそんな確信を得、マァハのオレに対する言動から遠慮が減っただろう事を加味しても、それはそれほどに珍しい行動だった。

「ええ、マァハ一人でああ言った状況に陥るとはとても考えにくいですから……。
 だから居ない間に、偶然か、或いは何かの介在があって、アイツはああなったんじゃないかと」

 彼女は元々、慌てるとフリーズするタイプであるし……それ以前にそもそも、過剰に周囲を気にするマァハが他人の部屋で慌てて隠さなければならない様な行動を行う事自体が考えにくい。

 ……あれから、今日今までの三日間、マァハの遠慮おびえ?はかなり減ってる様子だけれど、図々しさなんかはそんなに増した感じが無いからなぁ。

 まあ、ちょっとやそっとの意識改革があった所で、身に刻み込まれた習性までは払拭できないと言う事だろう。

「で、まぁ、その音が止んでから声を掛けてそれから部屋に入ったんですよ。
 そしたらマァハは、なんだか赤い顔で硬くなって、椅子に座ってたのが帰ってきたら床の上でクッションに乗ってて……」

 俺は、あの時の事を思い出し、思い出し……たどたどしく状況を説明していった。

「あの時気付いたのはそれくらい、ですね。
 大事な時だし畏縮させんのも不味い…って、見ない振りですませたので」

「………」

 あの時の事は折に触れ考えてはいたのだが、未だにあの時の引っ掛かりがなんだったのかは判らない。
 そして、流石のマリアンさんも、こんな情報の少ない、それも又聞きの状態ではそれは同じなようで、彼女はただ黙ったまま、腕を組んで何事か考えこんでいるようだった。

「その後のマァハは、もう今のアイツと殆ど変わらなかったですね。
 気を使う性質タチは相変わらずだけれど、微妙に遠慮とかが減っていて……。
 それで、アイツ、最近俺が可愛くなったとか言い出したんで、『自分が可愛いって事を受け入れられる程度には大人になったんだ』って答えたら、『私……頑張る』って。
 それで、終わりです」

 そんなマリアンさんにあの時の事を伝え終え、フムン、そう息を吐いて視線を落とす。

 全く、俺は何をやっているんだろうな……。

 そしてふと、そんな事を思った。
 解体バラシ屋ジョネスに、ヒソカにイルミ、幻影旅団に爆弾屋ボマー
 俺の現状は、一体どのようなものなのか――それが解るまではこの地に根付く事すら出来ず、そして、それを知る為の道程には、ざっと並べただけでも大きな障害がこれだけある。
 相対的にそれらより小さくとも、実際には大きいだろう障害に至っては、それこそ数数え切れないほど――だが、にも拘らず、スルトオレは、どうやらそれらより、マァハとの関係性の方が重要だと感じているようだった。

 器は兎も角、精神年齢なかみは二十を超えているはずなんだがなぁ……。

 本来なら年上の余裕で受け流さなきゃならない年齢の男が、なにやら覚悟を決めた児童女子との関係性に思い悩んで、その親と差し向かい――解釈のしようによってはもはや笑うほか無い現況に、俺は顔を落としたまま苦笑する。
 尤も、判断とは経験=記憶に依存するものなので、マァハの事を考える際にスルトの精神に引き摺られるのは、まあ、当たり前と言えば当たり前ではあるのだが、そんな言い訳で我に返った時の気恥ずかしさが軽減されるわけではなかった。

 ま、晴信オレも恋愛経験はあんまり無いから、スルトの事はあまり言えないけどな。

 彼女居ない歴=年齢ってわけじゃあないけど、友達づきあいの延長でそうなった奴しか居ないし、しかも、なった後は互いに意識しすぎて、すぐ空中分解したしー。
 それはそれで雨降って地、固まると言うか、そうなった後も友人関係は良いまま続いてたから、まあ結果オーライだったんだけどな――少なくとも、今思い出して胸が痛む位には……。

 ……アイツ、場合によっては俺の第一発見者になってるかもしれないんだよな。

 そして、目を瞑る。
 こうなってからやたらと明晰になった晴信の記憶は、酷くクリアにアイツの顔を取り出した。
 アイツの顔、両親の顔、他の知人、友人達の顔。

 ……帰りたい。

 晴信は、素直にそう思う。

 せめて確認したい、向こうの自分がどうなっているのかを……。

 今度は目を開けて、マリアンさんの顔を見る。
 マァハ、両親、クラン夫妻と、マァハの兄――スルトは向こう側に憬れつつも、これらの情を断ち切れないとも思う。
 これもまた、今のオレの素直な感情だ。
 互いの記憶を持っているし、思考もシームレスだから融合したものと考えていたオレだが、どうやらそれは誤りだったらしい。
 スルトの部分と混じったオレと、晴信と――此岸と彼岸に立つ二人の間に渡された綱がオレで、それは常時互いに曳かれている状態にあるようだった。
 まあ、そんなどっちつかずのグタグタは、スルトにも晴信にも似つかわしいもののように思えるから、結局のところ二つはちゃんと混じっているのかもしれないが……そんな事を思いながら、もう幾度目か、数えるのもうんざりする様な、重い溜息を吐く。
 そして、目の前のマリアンさんが奇妙に眉を潜めているのに気付いて、こう口を開いた。

「……そろそろ、良い時間ですよね。
 ここで考えていても何も進みませんし、先に用事を済ませてしまいませんか?」

 そう言って俺は、さっさと立ち上がる。
 自分が何であれ、結論が同であれ、片付けねばならないモノはあるし、それに手を掛けている間は思考の泥沼に飲み込まれないで済む。
 ただの問題の先送りだと言う奴もいるだろうが、こう言った問題は、ふとした切欠で簡単に解けてしまう事も多いのだ。
 思考の迷宮を彷徨う者には、大抵視野狭窄ッつー呪いがかかってるからな。
 アリアドネの糸球が手元に転がってくるまで待つのも一つの手ってヤツだ、うん。
 そして、答えを待たずに踵を返し、玄関へ歩き出そうとした俺の背を、マリアンさんは凝と見たのだろう。
 なんだか背中にかかる奇妙な圧力に前後して、彼女は溜息を吐いた。

「……ルト君、なんだか変な意味で大人になっちゃったみたいね」

 悪い意味、そう言わないだけまだマシって事なのか、或いは、少々舌に絹を着せてくれたのか?
 判別の付かない言葉に俺は顔だけ振り返ると、自分も立ち上がったマリアンさんに半ば無理やり、作り笑顔を浮かべて見せた。

「こう見えても俺、まだ小学生ですし……だからソイツは、誉め言葉として受け取っておきますよ」

 まあ、変に大人びたなら兎も角、大人になっちゃったならまだ誉めている範疇だろう。
 こう見えてもオレ、学童ですから――あと1月程の短い間だけど。
 自分でも都合の良い事を言っているのは分かっているが、悩むのは一人でじっくりやりたいのよ、俺的には……。

 つーか、生暖かい目で見守る綺麗なお姉さん(註:三十半ば過ぎ)を前に、青春の悩みに耽るって、それどんな羞恥プレイよ?

 そして、気付いてしまえば、もう上気する頬を押さえられない。
 俺は、すぐ前に向き直ると、首の後ろや耳までは朱に染まっていないことを祈りながら玄関へと歩き出した。

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 ・
 ・
 ・

 それから先暫くは、案外すんなりとあそばれずに事が進んだ。
 抱えた手続き処理の数々は、お役所仕事だけに面倒ではあれそれほど難しいものでも無かったし、今回補助してくれているマリアンさんの経験と能力は、ケチの付けようも無い高レベルにある。
 そして、今の『俺』スルトの精神年齢が二十歳越えの若者である事は言わずもがな、加えて、所謂『秀才』であるスルトの体も、今までの弛まぬ反復練習によって年齢に似合わぬ速記力を備えていた。
 悩みながら――或いは、ソレに蓋する様に――役所で手を動かし、不動産屋を廻り条件にあう物件をリストアップする。
 尤も、住宅関連は先行してザパンに来ていたマリアンさんが、既に『大人の』視点から絞り込んでいたので、俺は残った候補の中から問題の無いものをより分け、実地で部屋を見られるものはその手続きを行うだけなのだが……だ。

 たまにネタ物件が混じってたから気が抜けないのがちょっとアレだが……。

 念の存在を知る者としては、幽霊つき物件の類は遠慮したいところだし、他にも洒落で『何これ神田川?一つの布団で二人背を付けて寝ろと?』とか問いたくなるような貧乏四畳半物件が混じってたりもする。
 だが、主に対ジョネス用に綿密なチェックを行っていた俺が、その辺りを見落とすわけも無く、そう言った面白物件は全て振るい落とされ、後に残ったのは奇襲を喰らう可能性が低く、逃げやすく、またマァハに見せても問題ない優良ぶなんな物件ばかりだった。
 その代わりにと言うべきか、豪華な物件ばかりが残ってしまったのだが、今までの隠れ家的なヤサとは違って今回の物件は真性の『クラン家のセカンドハウス』だから、その点は仕方がない。
 今後、ザグ・クランマァハのあにを中心にザパンでの経済活動を強化しようという話があって、その流れもあっての新居選びだから、あまり安い物件だと体面上の問題があるのだ。

 つーか、そんな大事な物件選びに俺なんか関わらせるなよ……。

 そんな緊張か、或いは単なる現実逃避からか?
 幾たびか場所を変えつつも、同じその作業に埋没し続ける事数時間……得られた結果は、抱えた問題の半ば放棄と疲れて重い体とを引き換えにした、試験終了前の検討終了であった。
 のめり込む性質を持つ晴信オレと、単純作業の反復に適応しきっているスルトオレ――今まで散々、『1+1でも人間同士の融合では単純な2にはならん(主にマイナス方向で……)』等とぼやいていた俺だったが、どうやら逃避行動に限ってはそうでも無いらしい。

 ……我が事ながら泣きたくなってくるな。

 重い頭にそんな思考を浮かべて溜息を吐きつつ、奇異の視線を背に最後の不動産屋を出たのは、当初の予定よりはずっと早い時刻だった。
 具体的に言えば、今日を含め三日かけて、一つ一つ物件を確認しながら廻るはずの不動産屋を、事務所だけとは言え、一日目で一巡りしてしまった事になる。
 ザパン市への転入に関わる事務処理の数々は既に完了しているし、実地に廻る物件の数や契約等を考えても、スケジュールには相当な余裕ができそうだった。

 まぁ、これなら、心源流の道場を見学に行く余裕もあるだろ。

 俺は、無理やり好転要素のみを思い浮かべつつ、車の助手席に乗り込むとシートベルトを体にかける。
 そして、詰らなそうにハンドルを握ったきり、黙り込んでいるマリアンさんへ、こう声を掛けた。

「次は……そろそろ、マァハを迎えに行かないと不味い時間でしたよね?」

 予定が大分早まったのは確かだが、ソレはあくまで旅程全体と比べての話である。
 今日だけの予定なら、むしろ俺の無意味な頑張りで、遅れ初めていると言えた。
 しかし、マリアンさんは黙り込んだままエンジンに火を入れない。

 ネタ物件全部弾かれたのが、何気にショックだったのかね?

 そんな些事をこの女傑マリアンさんが気にするとはとても思えない……思えないのだが、何事も無く進んだこの不動産屋巡りイベントの中で、彼女が引っ掛かりを覚えそうな事等、本当にそれ以外、何もなかった。
 マリアンさんに倣って暫し口を塞ぐと、再び先の不動産屋巡りを思い返してみたが、やはり、思い当たる事等何もない。

 ……つーか、そもそも不動産屋巡っていて何か思い当たる様な事件イベントに遭遇するって、一体どんな確率よ?

 正直、マンション見学していてレアモンスターバラシやジョネスに遭遇するくらいの低率なんではなかろうか――そんなくだらない事を考えて、ハァと息を吐いた。
 この世界を『虚構ゲーム』と混同しているつもりは無いのだが、どうやら『俺の中の晴信オレのカタワレ』は、現状を非現実アンリアルと判じているようである。
 或いは、これが、晴信の現実とも、スルトの日常ともかけ離れた状況だからだろうか?
 マリアンさんがこれだけ悩むような何かがあの不動産屋で起きた――或いは、俺がそれだけのミスを犯した――らしいと言うのに、現状の現実感は奇妙に希薄で、まるで物語でも読んでいるかのようだ。

 ……疲れているから、かね?

 胡乱な頭にそんな思考を流して、はぁ…と一つ、息を吐く。
 そして、どんどん重くなってくる体を、柔らかなシートへと埋めた。
 自覚は無かったのだが、もう相当に疲れていたのだろう。
 思考と集中の線が切れてしまった体を、一度重力の頚城に委ねてしまうとこれがとても心地いい。
 座席のクッションも良い感じで効いているし、車体が小振りな2ドアセダンでも、収めるのが歳相応以上に小柄なスルトの体であればそ寛ぐに充分な広さを持っていた。

 ちょっと位、眠っても、良いかな?

 今まで俺の現実逃避に付き合ってくれたマリアンさんには悪いけど、これはもうどうしようもない。
 けれど、予定と距離的に、そろそろマァハを迎えに行かなければなら無いし、せめて車が動き出してからにしないと不味いだろう。
 俺は、首をマリアンさんの方に廻すと、重い瞼を押し上げるようにして唇を開いた。

「マァ……」

 発しようとした言葉がどこまで声になったのかは覚えて居ない。
 切れた意識の糸が再び繋がった時、俺は助手席で座ったまま、車も止まっているようだった。

 かちゃり。

 次いで聴こえた音に薄く瞼を開くと、身を屈めて運転席の背に手を置いたマァハと、丁度目が合う。

 ああ、もうついていたのか?

「ん、ご苦労様。
 試験は?」

 まだ、頭はきちんと動いていない。
 とりあえず思いついた言葉をそう口を開くと、マァハは珍しくもにっこりと、俺に向かって笑って見せた。

「ばっちり」

 マァハがそう言うならそうなんだろうな。
 そう言った面では、とても信頼できる娘だし……。

「ルトの作ってくれた、問題の方が…ずっと、難しかった」

 そりゃ、そうだ。
 アレは、マァハのパニック症をなんとかしようって、わざわざ難問奇問を取り揃えて作った特別製だからな。
 試験範囲を超えないように問題作るの、かなり大変だったんだぜ

「そうだったんだ」

 かなり近い位置で、マァハの顔が今度はふんわりとした笑みを浮かべた。
 照れているのか、その頬が、かすかに赤い。

 しかし、今日は珍しい表情のオンパレードだな。

「おかしい?」

 いや、お前、素材は良いから、笑ってりゃ映えるよ。

「……あ、りがと」

 ……って、なに真っ赤になってんだよ、マァハ。

 薄瞼の間に飛び込んでくる視界は、日差しのせいか微かに紗が掛かったようで……その所為か、目の前の少女の仕草が奇妙に可愛らしく目に映る。

「だって、その……」

 何故か照れているマァハを目の前に、俺は微かに身を起こして首をかしげた。

 きっと、こっちに越して来たら、そう言われる機会が増えるよ。
 今の内に慣れ……なくてもいいか、そう言う初々しいのが好きだって奴も多いだろうし。

 寝起きのせいか、頭が良く廻らない。
 さっきよりマシだが、体もまだ大分重かった。

「え、あ、あ」

 そんな俺と、顔を真っ赤にして口をパクパクさせるマァハとで、お見合いする事、暫し……。

 うーん、やっぱりまだ眠いな。

 因みに、スルトも晴信もオレは、本来寝覚めは良い筈なんだが、二つが一つになってからは、微妙に寝起きに弱くなっている。
 なんと言えば良いのか、治癒能力を含む肉体能力全般は格段に上昇しているのだけれど、睡眠時に限らず疲労はかえって取れ難くなっている印象があった。
 或いはそれは、念に目覚めた為なのかもしれない。
 念の力で、以前と比べ無理が効く様になった分、その反動も大きくなっているのか、或いは、纏を解く事が出来ないと言う俺の特性によるものか?
 とにかく、眠い。
 本当に眠い。

「……ごめん、もう少し寝かせてくれ。
 目的地に着いたら起こして」

 だから俺は、胡乱な頭のままきちんとした覚醒を迎えず、マァハにそう言って瞼を下ろした。

「あ、うんまかせて!」

 ・
 ・
 ・
 ・

 ゆさり、ゆさりと、遠慮がちに揺らされる。

「ルト、ルト?」

 うん、マァハか?
 もう、試験済んだんだな。
 どうだった?

「え、ルト……さっきの事、覚えてないの?」

 そう言えば、そんな会話をした気も……じゃあ、もう最初の物件に付いたのか?

「あ、うん」

 むー、流石にもう大丈夫そうだな。

「あ、まだ寝ていても、大丈夫、だよ?」

 いや、起きるよ。
 さっきはごめん。
 マァハだって試験疲れしているのに、一人で眠っちゃって。

「え、あ、そんなこと無いよ。
 試験、本当に簡単だったし……」

「それはよかった、ちょっとどいてもらえるか?」

 ぎゅっと目を閉じてぱっと開くと、俺は一気に車の外へ出た。
 ちょっとよろけ掛け、傍らのマァハの手を借りる。

「ありがとう、マァハ」

 日差しの元体一杯伸びをすると、流石に眠気も抜けてきた。
 体を軽く動かして、異常を確認する。
 体が小さいのが幸いしたか、流石に小学生は柔軟と言うべきか、それとも、これも念による回復力の強化のせいなのか?
 違和感を全く感じない事にちょっとだけ驚きながら、周囲を見渡す。
 目の前には、大通りに面したかなり大きな高層マンション。
 その前では、何故か機嫌が戻った様子のまりあんさんが、ニヤニヤとこちらを眺めている。

「すいません。すっかり寝てしまったみたいで……」

 訝しみながらも歩み寄り、そう頭を下げると、マリアンさんはその端正な顔に意味深な笑みを浮かべた。

「いいわよ、ルト君の可愛い所も一杯見られたしね。
 ……けど、君があんなに寝起きが悪かったなんてねー」

 そして、意味深な事を言う彼女に、苦笑を浮かべてこう答える

「……前はそうでもなかったんですけどね。
 ここ暫くバタバタしていたのが、意外に響いているのかもしれません」

 考えてみれば、念の修行して、体を鍛えて、こっちの世界をネットで調べて、マァハの勉強を見て、その時のテスト問題作って、マァハの性格矯正方を考えて……と、ジョネスの活動を知ってからこっち気の休まる暇も無かった。
 それを、未だ成長しきっていない子供スルトの体で行っているのだから、多少の不調は仕方ないだろう。
 寝る子は育つと言う言葉の示す通り、ただでさえ、成長期の子供は良く眠るものなのだ。

「……まあ、慣れれば戻ると思いますけどね」

 ……と言うより戻ってもらわないと困る。
 ただでさえ、これから人外の領域に足を踏み入れようと言うのだ。
 寝起きが悪いなんて爆弾、何時までも抱えている余裕なんざありゃしない。

「……ふぅん」

 マリアンさんは、何故か急に不機嫌そうな表情になって気の無い応えを返すと、俺達に付いてくるよう促してから歩き始めた。
 前以て連絡の行っている管理人と少し話をして、中に通してもらう。

「……ルト君、アレだけ熱心に書類を調べていたわりには、実物見るのは随分適当なんじゃない?」

「まあ、防犯設備と位置、周辺の地理、主要な交通手段以外には余り興味ないですから」

 マァハは意見を求められると俺に振るし、その俺はジョネス関連の防犯にしか興味は無い。
 強いて感想を言うなら、どの物件も高級すぎて肌に合わないのだが、クラン家の立場も知っているし、こっちは居候させてもらう立場だしで、その辺りに文句をつけるつもりは無かった。

 それにそもそも、建築の手抜きとか不具合なんか、判らんしな。

 だからその辺りは、抜け目無いクラン夫妻に丸投げして、確認とダメ出しは、周辺地理やら逃走経路、立地条件なんかに留めている。
 今後数年、主に住む事になる俺もマァハがそんなだし、マリアンさんの方は今探している物件に住む予定が無いから、自然、物件を廻るスピードは速くなった。
 そもそも高価な物件が多いだけに、必要なものは充分以上にそろっているから、住む人間に拘りが無いと『内装が明かに下品』とか、そう言ったモノ以外には撥ねる要素がないのである。

「しかし、貴方達と廻っていると、本当に張り合いが無いわね」

 以後、マリアンさんが思わずそう愚痴るような、そんなルーティンめいた乾いた行脚を続ける事、数時間……。

「……そろそろ夕方ですね。
 今日の分はここで終わりにしませんか?」

 暮れ行く空を眺め、俺はマリアンさんにそう言った。
 幸い、と言うか、今見ているマンションはハズレだ。
 正面は表通りに面しており、大通りのみを接いで通学できるのだが、今三人がいる建物の裏側が面しているのは、細く込み入った道が多い歴史ある町並み――それも、新興の住宅地に人をとられて、衰退気味の、である。
 これでは、建物の中を確認する迄も無い。
 相手は、通りすがりに肉を掻き取れる即死攻撃クリティカル持ちのモンスター、解体屋バラシやジョネスなのだ。
 ただでさえ、戦闘技術も経験もないと言うのに、裏側がこんな死角の多い場所では、不意を撃たれる危険性が怖すぎる。

「幸い、ここは外れみたいですし、中を……」

 それは多分、晴信オレの、この世界への嫌悪が齎した過剰反応だったのだろう。

 ……この、薄暗い彼誰時かはたれときに、こんな死角の多い場所になんか居たくない。

 念と言う、猛獣以上の能力を持つ化け物共フリークスが紛れている世界への、恐怖が齎す、過剰な警戒……。

「……ッ!」

 だがそんな怯懦が、今回の俺の、生死を分ける事になった。
 そうマリアンさんに声を掛けながら、些か神経質に周囲を見廻していた俺の、視界に、ポケットに両手を納めた、背の高い男が映り込む。
 ゆらりと、ふらついて歩くその男の、年の頃は三十か、四十代か?
 ヒゲを蓄え、洒落ッ気の無いジーパンとジャンパーを纏ったその男の目は、まるで酩酊しているかのように宙を彷徨っていた。

「……解体バラシ、屋……」

 一目見て、そうと判る、アレはそれほどの、異常……。
 全身が総毛立ち、胃の腑の底がきゅうと縮んだ。

 アレはいけない。

「どうしたの、ルト君?」

 俺の言葉が途中で切れたのが気にかかったのだろう。
 そう尋ねかけるマリアンさんの言葉が耳に届くまで、俺は全く動けなかった。
 その間に、ジョネスは随分近くまで寄って来ている。
 そして、背後からも、近付いてくる二つおやこの足音……。

「こっちに来ないで……!」

 幸い、アレに一番近いのは――俺はどうにか覚悟を決めて、そんな声を上げた。

「どうし……!」

 そうして見た先に、ジョネスを見つけたのだろう。
 マリアンさんの声も、途中で止まった。
 何かに欲情したような、緩んだ表情、酩酊したかのように、宙を彷徨う瞳……ジョネスと判らずとも、あれが異常である事は一目瞭然である。
 そして、そんな俺達のやり取りに、向こうからクククと、喉奥で笑う様な、不快な音が聞こえた。

「随分と勘が鋭い女どもだな。
 だが、今日の得物は女三人か……悪くない」

 そう言ってジョネスは右手をポケットから引き抜いた。
 背後で、張り詰めたマリアンさんの気配が僅かに弛緩する。
 恐らく、目の前の男が空手である事に安心したのだろうが、アレはある意味、銃等より余程剣呑な凶器だと言う事実を、俺は知っていた。

「……マリアンさん、マァハを連れて表通りに……警察を呼んでください」

 そして、告げた言葉に、弛緩していたマリアンさんの気配が、再び硬化する。
 絶対、そうはならないだろうな――そう思いつつ、俺は息を整え練の準備を整えた。
 先の言葉は、基本ジョネスへの牽制であり、元々マリアンさんは、オーラの威圧で止める心算でいる。
 奴が慌てて向かってきてくれればと考えての揺さぶりだったが、余程自分の足に自信でもあるのか、或いは、裏の二人が二人とも逃げないと踏んでいるのか、ジョネスはゆらゆらと近寄るのをやめなかった。

 ……やはり、そう旨くはいかないか……。

 一瞬だけ止まった背の向こうの二つの足音が、強さ忙し無さを増し再開するのを聞きながら、俺は苦笑……二人を止める為の練の、タイミングを慎重に計る。
 だが、そんな俺の背に次に届いた音は、予想とは若干異なるモノになった。

「そんな事でき……マ、マァハ!?」

 そう、予想通りの言葉を口にして駆け寄ってくるマリアンさんの、言葉と足音とが途切れる。

「……マァハ?」

 その言葉に、何故か背筋を走る、衝撃。
 ジョネスすら忘れ、肩越しに覗きこんだ視界にその時飛び込んできた光景モノを、きっと、二度と忘れる事ができないだろう。
 それを見た瞬間、そう直感した。
 前に出ようとする自分の母親マリアンさんを、羽交い絞めにした、マァハ……現況を考慮に入れなければ、それは異常でもなんでもない。

「ルト」

 だが、振り返った俺に、言葉少なにそう声を掛けたマァハの、その顔には笑みが浮かんでいた。
 そう、マァハアイツはあの時、笑っていたんだ。
 とても楽しそうに、嬉しそうに、ふうわりと、包み込むように……。

 ゾクリ

 ソレを目にした瞬間、先にジョネスを目の当たりにした時以上に冷たい汗が、俺の背筋を滝の様に流れた。

 ……マァ、ハ?

 なんと評すれば良いのだろう、今目にしたあの笑みを……。
 何か、楽になってしまった様な、捨ててはいけない何かを、誰かに投げ与えてしまったような、潤んだ、媚を含んだ、心地よい酔いの中を漂う様な、そんな婀娜な眼差し。
 その目に目を覗きこまれて、まだ精通前こどもの筈のスルトオレの『男』が、ひくりと反応した。
 首に下げた指輪が重く、忘れかけていた背中の傷が、ずきりと痛む。

「マァハ、どう言うつもり、早くその手を離しなさい。
 このままじゃ貴方もルト君も……」

 母親の言葉にもマァハは応えず、ただこちらを眺めながら淫猥な微笑えみを浮かべる。

 ……俺はあいつに何をした? 何をしてしまった?

 羽交い絞めにされたその態勢から、娘の表情を見ないで済んでいるマリアンさんかのじょは幸いだ――その時俺は、本気でそう思った。
 俺は正直、怯えている。
 あのマァハの笑顔と、その中に潜む何かに官能を刺激されている、自分自身とに……。
 だから、

 ジョネスからは目を離せない。

 そんな言い訳を自分にして、俺は背後で揉み合う二人から目を逸らした。

 ……あの笑顔はなんなのだろう。

 こちらが逃げないと見て取ったのか、ゆらりゆらりと近付くジョネス――その浮かべる表情モノよりも、遥に剣呑に見えたあの笑顔は……。
 目を離しても頭からは離れぬマァハの笑顔に悩まされながら、俺は丹田に集う気、腹部を廻る黄金の円環を幻視した。

 もうタイミングもクソも無い、ただ出来るだけ、強く、強く。

 緊張のせいだろうか?
 何時もより随分と勢いが強いそれに、戸惑いながらも息を整えて、堅……ジョネスに対してファイティングポーズを取る。
 極端な前傾姿勢をとったボクサーの、両手を体に引き付けたようなスタイル。
 そんな、笑ってしまうような姿勢のまま全身の纏を結合し、先ずは滑らかな卵のように塑形する。
 ジョネスの攻撃方法は、ただ一つ、その超握力による圧迫攻撃――ならば、掴まれなければ良いというのが、俺の出した結論だった。

「クククッ…本当に勘の良い嬢ちゃんだな。
 なるほど、確かに掴まれれなければ良い……が、無駄だ」

 ジョネスがこれ見よがしに傍らの塀を掻き取るが、無視……。
 俺は、全身のオーラを繋ぎ、形を整えて、全身を一つの騎兵槍の如きものへと変化させていった。
 攻撃的な意思を込めたオーラが、接触しただけでもその対象に対して威力を発するのは、堅の修行の時にビスケが見せた硬でも判る通り。

 ならば、この状態での体当たりなら……。

 掴もうとしたジョネスの手を弾き、その体に一撃を入れられる筈だ。
 体を締め付ける苦痛を堪え、続けて更なる練、そして、意識を集中して纏を強化する。
 それに伴い、全身にかかる圧迫感が、気圧から実体を持つ鎖の如き硬いものへと変化していた。
 ずりりと、肌の上を冷たい感触が擦る。

 そう、あの日夢の中で受けた、金の鎖の感触のような……。

 そう思った瞬間、背中の傷が、更に痛んだ。
 ぬらついた感触は無いけれど、もしかしたら傷が開いたのかもしれない。

 だが、今はそんなことよりジョネスだ。

 そう思うが、思考が定まらない。
 体を締め付ける、冷たい感触、背筋を走る痛み。
 なにより、背後で、オレを凝視しているのだろう、マァハの笑顔。
 思わず顔を伏せた俺の、目に金色が映った。

 …なっ!

 声無くそう叫ぶ。
 俺の目に映ったものは、袖から覗く金鎖、優美なデザインの指輪を連ねた。
 締め付ける感触、纏が収縮する。
 薄く薄く薄く薄く薄く、強く強く強く強く強く。
 無色の蒸気オーラは、沈む陽光を受けて金色に照り映えた。

 なんだ、これは?

 目の前からジョネスが消え去る、見えなくなる。
 目隠し、されたのだ。
 いまや全身を覆う金鎖に……。

 クッ

 俺は苦し紛れに顔を覆う金鎖の一環に右の中指を差込み、引っ張る。

「ククククッ怖くて動けないのか?」

 耳に届く、近い声、ぱきり、冷たい音、視界が開き、覗く巨体、延ばされた、手、俺の脚の溜めが、反射的に弾けた。

 バンッ!

 肉弾、そして、轟音……宙を弾き飛ばされる、ジョネス。
 奇妙に緩やかな時の流れの中で、飛んで行く男の胸郭は不自然に落ち窪んでいた。
 内臓が潰れているかどうかは判らないが、アレなら確実に肋骨はいかれている。

 ……流石にもう大丈夫、かな。

 そんな長い長い一瞬が行き過ぎ、ジョネスは先に自らが掻き取った塀に激突した。

 ガラガラと、動かないジョネスの上に崩れ落ちる塀。
 ソレを確認し、俺ははぁと息を吐き、息を抜く。
 身が軽い、背の痛みは消え、体を締め付けるアノ感触も無い。
 ただ、右の中指だけには冷たい金属の感触が残っていた。

「ルト君! 今一体何を!?」

 背から届く驚きの声に振り返る度胸も無く、俺は右手を眺める
 ……袖口から覗いていた金は、今はもう見えない。
 あの時、身を覆い尽くしていた筈の金鎖は、右の中指に嵌ったその一環ゆびわだけを残して、忽然と姿を消していた。




[2622] 第六話(完・タイトル未定)
Name: 十八◆4922f455 ID:08a626d7
Date: 2009/04/02 11:47

 俺がジョネスを潰した晩……俺達は予約したホテルではなく、警察署に泊まる羽目になった。
 まあ、

『ザパン史上最悪の連続殺人鬼らしき暴漢を打っ飛ばした。
 相手はかなりの重傷のようだから、救急車と警官ヨロ』

 なんて内容の通報をしたんだから、ソレは仕方ないだろう。
 小学生の俺とマァハは兎も角、マリアンさんは事情徴収やらなにやら大変そうで、色々心苦しかったのだけど、俺達が本当の事言っても誰も信じないのがねー。
 最初は半ば犯人っぽい扱いを受けていたし、その後鑑識から、ジョネスの髪や指紋が現場の遺留品その他と一致した事や、レンタが無傷である事、奴の服についてた持ち主以外の髪の毛が俺のと一致した事なんかが伝わってきて、漸く俺達の証言が真実だとわかった……んだけど、そしたら今度は、解体屋バラシやにかかっていた懸賞金関連の手続きやら、メディアの取材へ申し込みへの対応やらが目白押しでさ。
 ……で、そんなマリアンさんに対し、この度目出度く逮捕されました、少なくとも124人を殺した連続殺人犯『解体屋バラシや』ジョネス君の方はと言えば、肋骨と胸骨はバキボキになってたらしいけど、命には別状が無かったらしい。
 多分、オーラに接触した時点で、衝撃に跳ね飛ばされたのが良かった(?)んだろう。
 殺さずに済んで良かったような、けれど、もしかしたらこれでトリックタワー編で隠しボス『念能力に目覚めたジョネス』に遭遇するフラグが立っちまったかも、とか色々と複雑な気分だ。
 正直、ジョネスが念に目覚めたら、あの時点のゴン達で対応出来そうな奴は本気キルアのみ、下手打ったらパーティ全滅の危機も有り得る強力キャラ――って、よく考えたらリッポー所長も正式なハンターなんだから未熟な念能力者の能力の有無は見ればわかるんだよな。
 流石に、そんな危険な奴は試験に出さない……と良いんだが。

 正直、あのパイナップル頭は色々怪しすぎるから…

『趣味の虐めを堪能する為に、所長の委託を受けてます』

 …って言われても、多分俺は納得するね、いやいやマジで。
 
 とは言え、ジョネス君関連についてはもうこっちにはどうしようもない。
 ああ言う、一念に凝り固まったタイプは一度覚えたら後の熟達速度は速いだろうから、こっちも試験まで負けずに訓練して、できれば念使わずに素のジョネスを倒せるくらい強くなる位しか方法はなかった。
 トリックタワーの多数決の道に、トンパの代わりに参戦するのはそう難しくもなさそうなので、そっち方面は楽観しても良いだろうしね。
 取りあえず、犠牲者数が146人から124人に減った事は喜ぶべきだし、連動して現れそうな不都合もこっちの努力でフォロー可能なのだから、全般的に見れば良かった、の、だろう。
 一応、警官の前で昏倒しているジョネスを指して、

『その人は握力だけで煉瓦壁抉って粉々に磨り潰せる上に、肉を手で千切る事に異常な執着を持っているみたいですから、手首を後ろ手に固定して、掌で摘める範囲には近寄らない方が良いですよ』

 …と言う警告もしておいたので、レオリオの逸話の可哀相な警察官みたいな人も減るだろうしね。
 そう言った瞬間、近くにいた警官数名が異句同音に驚いた顔で、

『何でこんな小さな女の子が…!』

 とか言って一歩引くのを見て、正直結構傷ついたが、まぁその程度の代償を払っただけで何人かの人生が好転するなら安いものだろう。
 尤も、性別を勘違いしたまま確認もせず、マァハと一つの仮眠室を宛がってきた時には、正直本気で抗議したがな。
 ジョネスを倒した後のマァハは、一応、何時もと変わらない姿を取り戻していたのだけれど、流石にアレからそんな時間の経っていない今、同室で並んで寝るのは色々と怖すぎる。
 ロリコンで無いはずの俺だが、あの時のマァハが同じ布団に入ってきてこっちをぎゅっと抱きしめてきたりなんだりしたら、その状態で長く理性を維持する自信は無かった。

 ジョネスの一件で、『向こうマァハは拒まない』という確信も出来ちまったしな。

 まぁ、まだこの体スルトは精通前だから、最悪の事態には届かないだろうけど、その行為で完成してしまうだろう人間関係は、それだけでもう致命的に過ぎる。
 しかし考えてみるに、今後も俺はジョネスの脅威が無くなったこの街で、今後数年は、マァハと二人暮しをせねばならんわけで……お目付け役の人が厳格な人だったりするとありがたいんだが、どうだろう?
 そんなの村長の口だけで、実際には通いのお手伝いさんが来るだけとか、そう言った可能性も捨てきれないのがアレなんだが……。

 そうなると、今は怪しい態度を取ってマリアンさんを警戒させて、出来れば同居を取りやめさせるべきか?

 昼間寝ていた事もあって眠気が薄れていた俺は、何とか勝ち取った別の部屋の長椅子の上で、そんな事をグダグダ考えながら毛布引っかぶって唸っていた。
 んで多分、漸く寝入ってから2・3時間経ったかな…位の所で、妙に満足げな照れ顔で微笑むマァハに起こされて、それから、明かに眠っていない風なマリアンさんとご対面……。
 昨日の今日だし、結構色々言われるかと思ったけれど、現在の彼女にはどうやらその暇も無いようで、

『刑事の護衛を付けてくれるらしいから、今日は一日、二人でどっか遊びに行って来なさい』

 と、小学生二人には些か高額すぎる額の小遣いを渡された。
 その後、朝食も取らずに若い女性私服刑事に引き合わされて、その人の個人所有らしい車両に待機。
 そのまま正門前で騒ぎが起きるのを待ち、更に僅かにタイミングをずらして裏口から警察署を脱出――その時点で初めて、どこへ行くかと問われたので、俺はまず、食事の出来るネットカフェをと指定した。
 如何に凶悪なシリアルキラーを捕まえたからって言って、昨日今日のマリアンさんは忙しすぎる。
 幾らなんでもそれ以外の理由もあるだろうし、そこん所知らずに動くと迷惑掛けちゃう事があるかも…等と思って、刑事の人に現状を尋ねてみたんだが、こっちを子供扱いして何も教えてくれないんだよね。
 まぁ、その判断も普通なら間違っちゃいないのだろうけど、こっちはマァハ共々規格外の子供だふつうじゃないから、彼女の判断には当てはまらない。
 だからそれを、判りやすく見せてやろうとか、寝起きの俺はつまんない事を考えたんさ。
 ちゃんと教えないと、かえって厄介な事になるかもよ…ってね。
 そんな意図を理解しているのかいないのか、刑事さんは特に難色を示さず、マァハはいつも通りの『ルトと、一緒で、良い』――そんなわけで俺とマァハの朝食は、サンドイッチ片手に一つの端末を囲むと言うあまりお行儀のよくない形式になった。
 こう、身を寄せて同じ端末を覗きながらサンドイッチを摘むマァハのことはあまり考えないようにして、ブラウジングを開始する。

 先ずは、ポータルサイトで最新のニュースを確認、関連ニュースで時系列ごとに流れを追って……もう一つウィンドウ開いて、こっちではニュース検索……へぇ、もうwikiあるんだ、こっちも開いてみて、と。

 そして、解体屋ジョネスまとめwiki――この世界における2ch的なサイトの情報集積ページを開いた俺は、目に飛び込んできた現行スレ・関連スレの名を見て、思わずモニタに叩頭しそうになった。

 ……Be Cool、Be Cool。
 オーケィ、まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ。

「……ど、どうしたの、ルト?」

 驚くマァハになんでもないと言って目を閉じ、心の中で素数を数えてからもう一度目を開く。

 【武闘派?】解体屋事件の顛末を考察するスレPart32【美幼女?】
 【ザパン市に】武闘派幼女の天空闘技場参戦を祈願するスレ【天使降臨】

 ……どうやら、さっき見たタイトルは幻覚や見間違えでは無いらしい。

 で、事件の経緯をざっと調べると、どうやらネットの流れはこんな感じだったようだ。

1)初期報道、ジョネス捕まる?
 ……この時点では、ジョネス、模倣犯、マリアンさんの狂言説を並列する報道。

2)ジョネスと確定
 報道内容に加え、その道では結構名の知られているマリアンさんの写真が貼られてスレが加速する。
 ……いや、あの人美人だからねぇ。

3)詳細報道始まる
 ジョネス、美女に返り討ちで祭り状態……の所に、更に内部関係者?からの情報リーク。
 俺達三人の写真と、実はジョネス返り討ちにしたのはこの幼女との書き込みが……。
 書き込み内容はかなり正確で、俺が警官達にした忠告も殆どそのまま載ってる。

4)マスコミがザパン市警を吊るし上げ&謎の美幼女祭り←今ここ
 どうやらこの情報が真実らしいって証言が出てきたところで、マスコミがザパン市警に突っ込み開始。
 同じ頃ネットでは、マリアンさんの線で簡単に名前が割れたマァハと異なり、情報が全く出てこない俺の事が謎の武闘派美幼女(←せめて少女にして欲しい)として話題に……。
 警官に忠告した言葉とかから、素直クールだのなんだのと一部で異様な盛り上がりを見せているらしい。
 既にAAまで作られているのを見た時には正直泣きそうになった。

 そもそも一体、どこからでてきたんだよ……。
 ジョネスらしき髭の生えたヌリカベを蹴り砕く、あのクールな武闘家幼女のAAはっ!?

 アレが俺に向けている世間一般のイメージなのか? そーなのか? マジ泣くぞ?
 大体、俺がジョネスを倒したのはもっと泥臭い肉弾であって、あんな華麗な蹴りかましてないやい。
 そんな事を考えながらじっと耐えていると、マァハがそっと俺の頭を撫で始めた。

 ……すいません、マァハさん。
 弱っている時にそんな事をされると、人の情けが身に染みすぎて惚れてしまいそうです。

 正直、そのまま撫でられていたい衝動もあったのだが、無理やり押さえつけて一旦席を離れると、ちょっと離れた席でこっちを見守っていた私服刑事のミランダさん――親しく見えるよう名前で呼ぶように言われている――にこう尋ねてみる。

「あの、報道で僕の性別が誤認されている件は、プライバシー保護の為のミスリードなんですか?」

 ネットから流出したジョネス事件顛末の真相は、警察からの発表で概ね真実であると発表された。
 ただし、ジョネスを撃退した子供については、未成年である事やプライバシー保護の観点から発表できない、と……。
 そのお陰で、『謎の武闘派幼女』に関する情報には尾鰭背鰭が付いて情報の海を泳ぎまわっているわけなんだが、それが一向に真実に迫らない理由の一つに、皆が性別を取り違えているという事実がある。
 で、何で間違えられたままなのかといえば、警察が、マスコミの『ジョネスを返り討ちにした少女』についての質問全てに、一貫して『未成年』を理由としただんまりを決め込んでいる事と、同時に質問自体には肯定的な発言を行っている為、『武闘派幼女』と言う先入観が蔓延している事の二点が大きいようだ。
 基本的に、記事はセンセーショナルな方が受けるから、マスコミ的にもネット的にもジョネスを返り討ちにしたのが『未成年の少年』であるよりも『幼女』である方が望ましい。
 そう言ったマスコミ&ネット側の願望と警察側のミスリードが巧い事噛み合って、この現状のカオスが生まれているわけなんだが、正直言って俺にはこの状況は辛すぎた。
 初めに、マリアンさんとマァハが名前バレしてるのに、当の張本人だけが守られて隠れているという状況が気に入らない。
 次に、自分が変な萌えキャラにされてあちこちで消費されていくのが耐えられない。
 最後に――これが一番餓鬼っぽくて自分でも嫌なんだが――蚊帳の外に置かれているのが面白くない。

 ……なんか自分でも、俺のことを隔離しているのは方策として正しいんじゃないかと思えてきたな。

 自覚以上に子供っぽかった自分に羞恥を覚えない事も無いんだが、これら全ては嘘偽り無い真実だから否定する事に意味はなかった。
 むしろ、受け入れた状態で如何に御すかが重要だろう。
 でまぁ、この状況を何とかしたいのだけれど、同時、今は各種手続きにマスコミの依頼、その他、警察との調整、抗議なんかで猫の手も借りたい筈のマリアンさんに、変な迷惑はかけられなかった。
 だから、とりあえずこの状況が警察とマリアンさんの誘導で創られたかどうかだけは聞いておきたい。
 もし、そうなら俺は黙って耐える心算だし、そうでなければ――マリアンさんには悪いけれども――こっちから情報を流してある程度マスコミを満足させてしまった方が、俺も大人たちも楽だろう。
 馬鹿な子供が調子に乗って情報を流した。
 しかも、実は男……そう言った事件を起こして図らずも俺が纏ってしまった神秘性を引き剥がせば、マスコミやネットの興味も少しは引くだろうしね。
 けれど、そんな事を考えて投げかけた問いを、ミランダさんはすぐに理解してはくれなかった。
 頭が悪いとかではなく、単に小学生がこんなことを言ってくるとは思っていなかったのだろう。

「いや、ですから、動議的にも、既に情報をリークしてしまった状況的にも、警察側は本来被害者である僕の情報をマスコミに伝えるわけにはいかないじゃないですか?
 その上、ジョネスの容態を考えれば直に事情聴取ともいきませんから、どうしても公開できる情報の幅と量が狭まってしまいます。
 そんな状況で情報に餓えたマスコミは、既に失点のある警察側が何かを隠蔽しているんじゃないかと邪推して、警察及びマリアンさんに粘着するに至ったわけですけど……」

 だから俺は、彼女の止まった頭が動き出すように、ゆっくり解きほぐすような説明を始めた。
 ポータルサイトのままだったブラウザにジョネス事件関連のニュースを表示、時系列で並んだ見出しを見ればマスコミ報道の変遷は一目瞭然、良く判る。

「だったらいっそ、マスコミに情報を与えてしまえば、良いと思うんですよ。
 僕がリークするのであれば、僕自身以外には余り迷惑もかかりませんし……ですが、ほら、これをみてください」

 ブラウザの新しいウィンドウを開いて、記憶していた幾つかの記事――その全てが、ネットへの情報流出か、或いはそれに関するマスコミからの質問を扱ったものだ――を表示して見せた。
 そして、こう続ける。

「記事を視ていてどうも違和感があったんですけど、良く調べてみると、どうもあらゆる媒体で僕が女性だと報道されているみたいなんですよね。
 ……これが単なる、マスコミ側の勘違いなら良いんですけど、もし僕のプライバシーを守る為のミスリードとしてマリアンさんや警察が意図的に行っている場合、迂闊な情報を流出させると警察の方々に迷惑がかかるんじゃないかと思いまして……」

 そう、一通りの説明を終えた俺に、女私服刑事ミランダさんが最初に見せたものは、ぽかんと口を開いた酷く間抜けな表情だった。
 今まではそれほど気にしていなかったけれど、改めて観察してみると若いと言っても二十代半ばといったところだろうか?

「ど、どうかなさいましたか?」

 子供二人オレとマァハを安心させる為に配置されたのか、優しそうな――そう、刑事なんかより保母さんかなにかの方が似合いそうな――面立ちをしたその女性ミランダさんは、その問いかけに心底驚いたような表情でパチパチ目を瞬かせる。

「あの?」

 流石に困って重ね尋ねると、女刑事は首をぷるぷる振って顔から呆気を引き剥がし……次いでその目を、大きく丸く見開いた。
 そんな彼女の姿を、ちょっとだけ可愛いかなとか思って眺めていたのが悪かったのだろう。

「えーっ!?」

 昼と言うには早い時間のネットカフェを、雑巾でも裂くような頓狂な叫びが駆け抜けた。

 一体どこのどいつだっ!
 こんな阿呆を、マスコミに追われる重要参考人の護衛なんかにつけたのはッ!

 因みに、俺が被疑者ではなく重要参考人なのは、日本と比べて治安の悪いこの国では、正当防衛の範疇も比例して広いからだったりする。
 特に、相手がジョネスみたいなアレだった場合、素手の相手に銃をぶっ放しても罪には問われないどころか、場合によっては懸賞金まで出るようだ。
 そんなわけで俺たち三人はお咎めなし……どころか、俺には少なくない額の懸賞金が出るらしい。

 ――閑話休題。

「だ、だって、こんな可愛い子が男の子のはず無いじゃないですかッ!」

 此処に居続けるのは流石に不味い――こちらを伺うマァハに目配せして、錯乱した言葉を喚き散らす阿呆の両脇を囲むと、その両腕を二人で取り押さえた。
 本当なら殴り倒したいところなんだが、念を覚えたての身では巧いこと手加減できる自信が無い。
 幸いここは先払いの店だったので、俺は、耳元で撒き散らされる雑音を努めて無視して、周囲に頭を下げつつ愛想笑いを振りまくと、子供二人で有無を言わさず阿呆を店の外に引っ張り出した。
 駐車場の車の所まで引き摺ってから手を離すと、即座に上に手を伸ばし猫騙し……言葉を途切らせた女刑事をオーラで威圧する。

「車のキーを……。
 後の話は中でしましょう」

 声変わり前の未だ男のものとも女のものともつかぬ声が、精一杯冷厳に聞こえるように努力と工夫を重ねながら、俺は言葉少なにそう伝えた。
 こう言う時、念は便利だな…と思う。
 なにせ、写真を見た大多数の人間が『幼女』と定義して誰も疑問を抱かないスルトオレですら、大の大人を容易く威圧できてしまうのだから……。

 引き攣らせた顔を、玩具の様にかくかくと動かす女刑事ミランダさんの手から鍵を受け取り、ソレで自動車くるまの戸を開いて運転席に座らせる。
 マァハを後席に座らせ助手席に腰掛けると、動けないままの女刑事に視線を向けた。

「……少しは落ち着きましたか?」

 AOPオーラを絞りつつ尋ねると、ミランダさんは若干ほっとした表情で、今度は一回、首を縦に振る。

「それはよかった」

 若干の皮肉を込めてそう応えると、ちょっと気になった事を尋ねてみた。

「ところで、ミランダさん。
 あなたの所属部署を教えてはもらえませんか?」

「は、ハイッ、生活安全課少年係、でしゅッ!」

 ……あ、とちった。

 身内でも近寄る事を躊躇するオーラの重圧プレッシャーである。
 良く知らぬ――それも、連続殺人鬼を病院送りにした前歴を持つ――少年が発するソレを受けて、怯えず対応できる者は、そう多くは居ないだろう。
 ソレこそよほど豪胆なものか、あるいは鈍感か、そうでなければ念能力者か……そのどれでもないミランダさんはとちってしまった事に怯えておどおどとした視線をこちらに投げかけてきた。

 なんだかやっぱり、可愛いかも……。

 少なくとも晴信は、顔立ちが可愛らしいとはいえ、年上の女性が怯える様を見て喜ぶ等と言った変態染みた嗜好は持ち合わせていないはずだから、この感情の起源はマァハの幼馴染であるスルトだろうか?

 まあ、晴信オレもアイツから『意外に世話焼きだな』との苦笑交じりの論評を受けた事があるので、表に出ていなかっただけで嗜好自体は持っていたのかもしれないが……。

 なんとなく、キョトンとするマァハと怯えた様子のミランダさんとを見比べ、俺は一つ、溜息を吐いた。

 ……べ、別に浮気しているような気分になったわけじゃあないぞ。
 ないんだからなッ!

 そして、溜息にナニを思ったのか、身を縮込ませるミランダさんの頭に背伸びして手を伸ばし、緩やかに撫でる。

「大丈夫、怒ってなんかいやしませんよ。
 ……しかしそうなると、さっきのアレは引継ぎの齟齬ですか?」

 そうしながら尋ねると一瞬キョトンと表情を創ったミランダさんは、すぐ顔を上気させて、首を激しく横に振った。

 そりゃあ恥ずかしいよなぁ。

 大の大人が、幼女と見紛う外見の少年に頭を撫でられている現状に羞恥を感じないはずもない。

 ……つーか、感じない奴がいたら、そいつもう相当終わっとるだろ。

 マァハの手に安らぎを感じてしまった自分を棚に上げてそう断ずると、俺は手を止めてミランダさんから体を離した。

「……あっ」

 微かに驚いた――そんな様子の女刑事を見上げて、もう一度問い直す。

「それで、先ほど僕が男だと言う事に過剰に驚かれていた件ですけど……」

 さっきは『武闘派美幼女スレ』の衝撃で気付けなかったけれど、この状況下で刑事課刑事が子供二人を連れ歩くなんて、注目してくれとマスコミに喧伝しているようなものだ。
 もちろん、本来はそういった事態を避ける為に私服警察官いわゆるデカってのがいるのだけれど、解体屋バラシや事件で、この街に大量のマスコミが集まってきている現状を考えれば、ザパン市警刑事課の主だった捜査員は皆、それなりにチェックされていると考えるのが妥当であろう。
 ジョネスが重傷、警戒すべきはマスコミのみと言う現状を考えれば、俺たちの引率に子供を連れているのが不自然ではない生活安全課の私服警察官デカを付けると言うのは至極真っ当な判断だった。
 そして、その引継ぎの際に何らかのミス――そう、たとえば護衛対象の性別を伝え忘れるとか――が起きる可能性も、現状の混乱を鑑みるにそう低くは無いだろう。

 ……実際、昨晩はマァハと一緒の部屋に詰め込まれそうになったしなー。

 昨夜、部屋に案内された時の恐怖を思い出しつつそう尋ねると、ずいぶん柔らかくなっていたミランダさんの表情が、再び硬く引き攣った。

「あ、いえ、別にその事を怒っているとかそう言う事ではないので……」

 不快な記憶を思い返した為に、顔が怒っていたのかもしれない――自分の顔に右掌を当てて、指先で頬を叩きながらそう続けたが、対する女刑事は、焦った表情のまま不自然に視線を逸らす。
 まるで、下手に悪事を隠そうとする子供のような仕草……。

「じゃあ、市警の担当部署への連絡だけでもさせていただけますか?
 マァハの母さんに直接連絡だと、会見中だったりした時に困りますから……」

 何でこの人、刑事業勤まってるんだろう…等と思いつつも重ねてそう尋ねると、女刑事は焦りに驚きを加えたような表情で後ろに下がろうとした。
 車の中、椅子に座った状態でそんな事ができるはずも無いのだが、そんな状況すら忘れていたのか、慌て動いたミランダさんが大きくその姿勢を崩す。

「はわわっ」

 奇妙な、悲鳴めいた声が上がった。
 シートベルトを着けていなかった女性の体が、ズルリとシートを滑り落ちる。
 そのおまけに、半端に閉じた状態で適当に突っ込んででもいたのか、そのポケットから携帯までするりと抜け落ち、床にあたって転がるとその衝撃でぱくり開いた。
 きっとその瞬間、俺の顔にはこれ以上無い程、濃い苦味が浮き出た事だろう。

 ……もしかしてこの人、俺達と一纏めにマスコミから隔離する為に引率役を任せられたんじゃ……。

 ははは…と、ソレを隠すように上からお子様ランチ的しょうがくせいいかたいしょうな微笑を貼り付けて、足元に転がってきた携帯に手を伸ば……

「イァ!」

 ……そうとしたその瞬間だった。
 照れ笑いを浮かべていたミランダさんが、どこぞの邪神崇拝者なのかと疑いたくなるような声を上げながら、その顔にムンクか梅津かといった風な異貌を形作ったのは……。

「……へ?」

 その、目の前の女性のあんまりであんまりな御面相に、思わず手にした携帯に視線を落としてしまったのは、その、不可抗力だと思いたい。

 ……いや、本当に女性のプライバシー覗き見するつもりなんか、全く無かったんだよ。

 まあそんな、画面を覗き込んでしまった瞬間に浮かんだ言い訳がましい思考も、設定されていた待ち受け画像が脳に染み込んだ途端にマゼラン星雲の彼方まで一気に吹き飛んでいったんだが……。

「………」

 俺はソレを眺めて目を二・三度ぱちくりさせると、ふとある事に気づいてマァハの方へと視線を向けた。

「なあ、マァハ。
 俺達がミランダさんと最初に会ったのがいつだか、わかるか?」

 問われたマァハは、嬉しそうな微笑を浮かべ、数瞬だけ目を瞑る。

「今から、十六時間と三十二分前、だと思う。
 ルト君の連絡で、最初に警察が来た時、降りてきた人の中にいた、から」

 そして返ってきたそんな答えに、ひとつ溜息――無言でミランダさんの携帯を弄ると、ブラウザを開いてブックマークを確認した。

 ……やっぱり、有った。

 目当てのモノを見つけ出して、二たび溜息、蒼白な表情のミランダさんへと視線を向ける。

 まあ、怖がるのは当然か……。

 なにせ、連続殺人鬼を一撃必殺する小学生が、一足一撃の間合いにいるのだ。
 しかも、自分はソレの怒りを買うような事をしてしまっている。
 俺は、待ち受けに張られたクラン親娘と自分の写真を女刑事に提示すると、どこぞの名探偵めいた言い回しで告げた。

「……貴女だったんですね。
 掲示板に僕の写真を貼ったのは……」

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425 名前:332◆4922f455 投稿日:1996/02/19(月) 02:19:09 ID:Rt4+IdNV0

こ、こちらスニィフ! も、目標を発見したよっ!



 ……なんだか、妙に都合のいい展開なんだが、まさか、自分が憑依系SSの主人公だったなんて事はあるまいな?

 新たに入った別のネットショップの席上、俺は流れる2ch的な掲示板を眺めつつ、ふと、そんな事を思った。
 因みに、スニィフというのは、固体な蛇さんの誤植ではなく、この2ch的な掲示板で蛇さん的な立ち位置で使われているキャラだったりする。
 なんでも、ベート・ソンヤンなる人物が描いた『ミームン谷の悪魔達』なる物語に登場する斥候役を務める妖精で、小さなカンガルーの様な姿をしているようだ。
 スニィフは、小ずるくて小心で欲深だが、すばしっこく身を隠す術に長け、自分より弱いものには優しく、故郷の為に恐怖を乗り越えるだけの勇気を持っていると言う人気キャラ……らしいんだが、コレってスニフの捩りだよな。

 けど、スニィフやミームンは兎も角、このヘイへって誰よ?

 ざっと調べてみると、この『ミームン谷の悪魔達』と言う物語は、赤熊の帝国に侵略された祖国と、その侵攻ルートの只中にあるこのミームン谷を守る為にと、谷の妖精たちが、リーダー格のミームン、村唯一の猟師で銃の扱いに長けるヘイへを中心にレジスタンス活動を進めると言うもので、第一作の『ミームン谷の悪魔達』は赤熊の帝国の兵隊たちが、『ここは、悪魔達の住む谷だ……』言い残して撤退していく所で終わるそうだ。

 確かに、海に行く話で猟師は出てたけど……トーベ・ヤンソンが聞いたら怒りの余りに卒倒しそうだな。

 特に、第二部で、戦線をミームン谷から押し上げることに成功したミームン達が、義勇兵として軍に参加してからの話は、マジ十二推じゃすまない内容らしいし……。
 つーか、なによこの第二部以降の登場人物?
 特に、ミームンの故国と同様、赤熊帝国と戦争している賢犬帝国は猛犬連隊からの派遣部隊、黒犬中隊隊長、ストレイブラック大尉って、なんか色合いがのらくろと一緒なんすけど……。

 これって、もしかして、晴信オレと同郷の人間が書いていたりするのか?

 けど、良くある出来の悪いトリップモノみたいに、向こうの知識でこっちで大もうけなんざ、移動してきた人間がよっぽど高い技術を持っていない限りできようはずも無いし――出来ると考えるのは、こっちの人間に対する侮辱だろう――そうなると浮かび上がるのが、オレの現状がすなわち出来の悪いファンフィクションだと言う可能性だ。

 ……あんまり、考えたくない可能性だったんだがな。

 だが、流石にここまでくると自分が架空の存在であると言う可能性を疑わずにはいられない。
 まぁ、それは逆に言えば、俺には一定の安全性が与えられている可能性を示唆してもいるのだが、それに胡坐をかいて研鑽を止めたりしたら、勘違いした痛いトリップキャラとして真主人公の引き立て役にされた挙句、ヒソカ辺りに狩られてしまったりして……うー、桑原桑原。
 仮に主人公だったりしても、『なにこの痛い厨二病主人公!』とか作者の無能を一身に受けてしまったり、マァハ萌えーとかの感想が大半で空気扱いされていたり、最悪の場合主人公萌えーとか……。

 うわっ、あり得る、あり得るぞッ!

 考えてみれば、今のオレスルトはかなりの美少年で、実際、女の子と間違われていたりしている。
 その上頭が良くて特質系――この時点でどこの厨二病主人公と後ろ指指されていてもおかしくはないのだ。

 クッ!

 俺は、いるかどうかもわからない作者にサノバビサノバビと怒りの念力を送りながら、無言で板を更新する。
 とりあえず、この一手で俺達に対するネットの好奇も多少は収まるかもしれないのだ。
 今はそっちに集中して、出来れば俺も掲示板に書き込みして流れを弄れればいいんだが――とは思うのだが、この小心者チキンハートは、そういった事が気になって仕方ない。

 それに、俺にネット工作そんなことなんかできるわけねーしな

 掲示板を走るキターとうぷ!の乱舞……リアルタイムで見ると尚更頭を抱えたくなるような、そんな光景を眺めながら、俺はハァと溜息をついた。
 そして、自分が架空の存在ではないのかという、新しい悩みの種に頭を抱えつつ、目の前の画面と隣の席にに座るミランダ――流石にもう敬称を付ける気にはなれない――を見比べる。
 それから、同じ席に寄り添っているマァハの顔を見上げつつ、かすかな苦笑を浮かべた。

 ……マァハの温もりが有難いだなんて、俺も相当弱ってるよなー。

 目が合って嬉しそうに笑うマァハに憮然とした表情を作り、ディスプレイへと視線を戻す。
 情報流出で警察が責められている現状、彼女ミランダが俺達の引率をしているという事実は厳重に秘せられ、それを知るもの達は相互監視を行っている筈だ。
 そして、マァハの見立てでは追跡者は存在しないようだし、遠方の監視から身を隠すのは都市の中であれば容易い。
 ならば、俺達がミランダに協力し、ミランダと自分達が写っている『盗撮写真』をネットに上げれば、警察への非難とネットでの情報に対する需要を共に減らせるのではないか?
 元々、ネットへの情報提供を考えていた俺は、だから彼女を脅迫した。
 尤も、一応現状への反省やらなにやらを抱いていたミランダも同様の事を考えていた――その隙を窺っていた時だったので、俺の『自分は男』発言にあそこまで動揺したのだが――ので、実際には脅迫まではいかなかったし、お陰でこっちの札を温存した上に向こうへの貸しが増えて万々歳である。
 まぁ、その都合が良すぎる流れで、『自分が創作物なのかしらん』等と言う奇天烈な考えに思い至ってしまったわけでもあるのだが……とにかく、自分で言うのもなんだが、俺みたいなマスコミに追われている謎の重要参考人を、それも、内通者が疑われている状況下で、たった一人で任されるような、有能な少年係刑事に大きな貸しが二つもできたと言うのは、今後の活動や現在の年齢を考えると非常に嬉しい状況だ。
 正直あのミランダがそれ程迄に有能だとはちぃとも思えんが、警官と言う身分だけでも充分に役立つだろう。

 とにかく、今はミランダの監視とネットの状況の変化を確認しなければ……。

 俺は、悩みもマァハの感触も全て頭から切り離し――もちろん、切り離せていないのだが――モニターとキーボードとに向き直った。

 ・
 ・
 ・
 ・

 そして、それから約一時間――俺は半ば放心状態でネットカフェを後にした。

 いや、いいんだ……目的は、ちゃんと目的は果たせたんだからなッ!

 そう心中強がりつつも顔は俯けたまま、溜息も吐かずにいられない状態な俺の、隣に寄り添い頭を撫でるマァハの手が心地良い。
 人間として、本格的に駄目になりかけてるんじゃなかろうか?――そんな危惧を抱いてマァハをやんわりと引き剥がすと、俺達の後に続いたミランダの方へと振り返る。

「あはははは、まさかあんな事になるとは……」

 こちらに向かって頭を下げつつ、乾いた笑いを見せるミランダに、俺は出来るだけ平静な顔で首を横に振った。

「いえ、最大の目的は果たせたようですから、それで良しとしましょう」

 俺自身は殆ど役に立てなかったけれど、ミランダの友人だと言うハッカーの人の支援のおかげで、少なくともネット上では、警察内からの情報流出と言う線が薄まっている。
 これで、マスコミの攻撃の矛先も多少は鈍るだろうから、同時にマリアンさんへの取材攻勢も緩むはずで、そう言った意味合いではこの作戦は成功したのだ。

 まぁ、そういった意味では良かったんだが、問題は……。

 ミランダに背を向けて駐車場の車に歩き出すと、見えないように溜息を一つ。
 2ch的な掲示板に巻き起こったティーカップの中の嵐を思い返して、俺は内心頭を抱えた。

 まさか、まさか、あの工作の結果スレが、「あんな可愛い子が男の子のはずないよ」派と「あんな可愛い子についてないはずないよ」派、「マァハとのカップリングに萌えるよ」派の三つ巴の宗教戦争に発展するだなんて……。

 おかげ様でただでさえ盛り上がっていたのが再加熱――職人さん達もヒートアップしたのか、俺としてはあんまり見たくないブツなんかも大増殖の気配を見せている。

 正直な話、できれば一生、女装美少年なんてジャンルには係わり合いになりたくなかったんだがな。

 だったら見るなって言う意見もあるるだろうけどさ、見ないなら見ないで気持ち悪いんだよな。
 こう、自分の見ない所で、自分から切り分けられた分身が色々されてるのって……。
 俺みたいな、事件でちょっと有名になっただけの餓鬼ですらこんだけのプレッシャーに晒されてるってぇのに、よくもまぁ芸能人――特にグラビアアイドル辺り――はああやってプライバシー切り売りできるもんだ。

 ……きっとあの手の手合いは、俺みたいなチキンと違って心臓に毛でも生えているか、或いは想像力が爬虫類並みに退化しているに違いない。

 俺は、無意味に天を仰いだりしながら、ミランダの車に蹌踉よろぼい寄ると、助手席の戸に背を付けて、ぐてっと駐車場に座り込む。

 ……ごめん、もうマジかなり限界。ここ二・三日、幾らなんでも色々起き過ぎ。

 スルトはるのぶとが交わってからこっち、全体的な出来事は都合が良すぎるほど都合よく動いているのにもかかわらず、その一つが起きる毎に俺の精神はざくりざくりと鑢られている気がしていた。

 ……も、もしやこれがかの白魔術の秘奥、存在の引き算ッ!

 まぁ、いけずな作者が俺を虐めて喜んでいるだけと言う可能性もなくは無いが……再びサノバビ!サノバビ!と、いるかどうかもわからない作者に怒りの念力を送りながら、ウンコ座りでただぼうと口を開く。
 アニメやら漫画やらゲームやらのネタで冗談めかしおちゃらかして、馬鹿馬鹿しく粉飾して、それで色々誤魔化して来た俺だけど、もう流石にここまで来ると溜息すら口から出なかった。
 今までの脅威は、力だったり情だったりと、まぁ何とか立ち向かいようのある内容だったし、だから修行しようとか、勉強しようとか、逃げちゃ駄目だとか、恐怖から目を逸らして目先に対抗してれば何とか処理できたんだが、今度ばかりは、ねぇ……。

 大体、不特定多数の好奇と、欲望の玩具にされる自分の分身なんてモンに、いったいどうやって対処すればいいんだ?

 状況シチュエーションと情報不足から来る神秘性を打ち消せば、ネットの興味も多少は失速するのではないか――そう考えて行った行動が、自身の幻像に見出された新たな付加価値によって逆効果となってしまった以上、現状取りうる一番良い手段が、静観してやり過ごす事だ。
 古人曰く、『人の噂も七十五日』
 ネットと言う情報流通・集積装置の普及で、その期間は大幅に延長されたと見て良い昨今だが、それは同時に、新たな噂の種が発芽する良い土壌でもある。
 だからまぁ、古人の言葉の倍にちょっと色をつけた程度の――そう、半年も――時が経てば、世間は俺の事なんか忘れてしまうはずだ。
 そう、それは解っている。解っているんだが、だからこの嫌悪感が消えるかって言われたらそれは違う。
 元々、幼い子供を欲望の捌け口にする者には嫌悪を抱く性質だが、現実に手を出さないのであれば、それを許容する程度の柔軟性も持っていた……つもりだったんだが、どうやら俺のそれは、自身が対象の時は硬化してしまう程度のもののようだった。

 ……いやまぁ、男が男に萌え萌え言われるなんて状況、よっぽどの聖人君子マゾヒストでもなければ耐えられないだろうけどさ。

 先にその手を拒否された為躊躇しているのか、近寄れずにいるマァハと、現状受けているショックに責任を感じているらしいミランダ――追ってきた二人と車とに囲まれた中心で、俺は集まる四つの視線に俯き目を瞑って、ハァと長い息を吐いた。
 実は、溜息はそんなに嫌いじゃない。
 体の中の悪い物を追い出しているような、そんな実感が得られるからだ。
 だから俺は長く長く、体の中の弱い所をすべて追い出す気持ちで体の中の息を吐き出し、そして新たな空気を吸い込みながら目を開く。
 ノグ村と違って排ガス臭い、どこか懐かしい空気の匂いに咽掛けるがそこは御愛嬌……立ち上がって体を伸ばし、精一杯の笑顔を顔に浮かべた。
 ちょっとだけ背伸びして手を延ばし、少し怯えた感じのマァハの頭をゆっくりと撫でる。
 なんにしてもこれらの事態は全て自分で撒いた種なのだ。
 いけずな作者かみさまに捻じ曲げられている気配をひしひしと感じ取ってはいても――いや、その認識こそが最大の逃げなのかもしれないが――刈り取るのは俺の責任なのだろう。

 そんな、悟りきった様な事を自分に言い聞かせて……納得できるわけねーだろがよ。

 少なくとも、セルフ突っ込み入れられるくらいには回復した俺は、そう内心喚きながらマァハの頭を撫で続け――チーと耳に届いた機械音に、黙ってこちらを見ていたミランダの方に視線を向けた。
 向けた視線の先では、「マァハとの関係性カップリングに萌えるよ」派の首魁が、とろけたような笑顔でデジカメを構え、幾度もシャッターを押している。

「……ミランダ、貴方が『幼いカップルが微笑ましい』等と言い出したのは、こちらに対するフォローじゃなかったんですか?」

 逆ギレ気味に沸きあがって来る怒りに、思いっきり冷たい顔と声とで睨んでやると、ミランダはなにやら微笑ましげな視線をこちらに向けて、パチリ……。
 恐らくは、照れているとでも思ったのだろうが、非常に不愉快だ。
 いっそもう一度オーラで脅してやるかとマァハから離れて――練使うとき近くにいたら何あるかわからんしな――もう一睨みすると、流石に本気だと判ったのかミランダもカメラを下ろす。
 本気で怯み、ちょっとだけ媚びたような歪んだ笑みを浮かべるミランダと、そして、同時、自然体に立った俺の掌に絡みつき握る柔らかな掌、手首にちりと擦れるリストバンド……。

「……マァハ?」

 傍らに滑り込んだマァハに、俺は驚きの声を上げ、そして気付いた。

 ……そう言えばマァハ、俺の練の威圧を怖れた事がない様な。

 明確な『意思の志向性』を受けて多量のオーラが湧き上がっていないと言うだけで今纏っているオーラにも怒りの意思は滲んでいる。
 にも関わらず、マァハは躊躇なくその中に滑り込み、その手を握った。
 そして俺は、そんな彼女が手に触れるまで、それに気付けなかった。
 念能力者にとって、纏は第二の皮膚のような物である。
 にもかかわらず俺は、その内に滑り込む彼女に、気付けなかった。
 掌に絡みつく、暖かな感触、そして、背筋に滑り込む、冷たさ。
 ぎちりと、どこかで鎖が軋む、そんな音が聞こえた気がした。

「マァ、ハ?」

 確かめるように、マァハを見上げる。

「?」

 真夏の熱気に蕩けて行く、アスファルトの上に落ちた真っ白なアイスクリームのような笑顔で、マァハは見下ろす。
 なぜだろう、俺はマァハの笑顔にそんな感想を抱いた。
 背中の傷が痛む、ずきり、そして……。

「あ、あの、スルトさん?」

 そして、ミランダの声。
 驚いて視線を向けると、心配と恐れが入り混じったような女刑事の顔が、意外に近い場所でこちらを見ていた。
 マァハが俺を取り成してくれたと、そう勘違いしたのだろう。

「その、調子に乗ってしまってすいません」

 完全に、目上に対する口調でそう続けるミランダに、俺はハァと大きな溜息を吐いた。

「いえ、いいですよ。
 その代わり、一つ俺の言う事を聞いていただけますか?」

 背の痛みと冷たさとは共に引き、感じるのは掌の温かさのみ――そんな現状に正直ほっとして、そう答える。

「なんでしょう?」

 そう尋ね返すミランダに、俺は微笑して見せた。

「……街――番地、ここに俺とマァハをおろして、こちらから連絡するか緊急事態以外には接触を取らないでください。
 そうですね、午後初回の上映時間に合わせて映画館にでも入っていてもらえれば……」

 都合よく、念能力者がいるとは限らない――けれど、いた場合に備えて女刑事ミランダは隔離する。
 本来、マァハも預けて一人で行くつもりでいたが、こうなれば彼女も、そこに連れて行ったほうがいいだろう。
 『スルトオレ』にとって、俺をあの地に繋ぎ止めるモノの象徴と言えば、まずは両親とマァハ――あの鎖が指輪で綴られていることを考えれば、第一はマァハ――だ。

 ……あの指輪自体は両親の象徴なんだが、俺が繋がれるとなると、な。

 ちゃりりと、首に下げられた指輪を掴み、俺は考える。

 ……だから、あの念がマァハに反応するのは特に不思議な事ではない。

 ないのだ…と口の中でだけ呟き、俺はマァハの手を振り解いた。

 ・
 ・
 ・
 ・

 それから暫く、目的地を目指す間の時間は酷くもどかしく、そして、過ぎ去ってしまえばほんの瞬く間だった。
 無言で俺を追うマァハが、ちゃんと付いて来ているか確認すら労すらを厭い、街路の表示を追って街を彷徨う。

 ……いや、本当に無言だったのだろうか?

 少なくとも、スルトオレの記憶の中のマァハは、ここまで無機質ではなかったように思う。
 無言で追ってきたと記憶しているのは、焦っていたが為にマァハの呼びかけに気付けなかっただけなのか?

 ……或いはマァハは本当に、ただ黙って付き従っていたのだろうか?

 幾ら頭を捻っても、その道行で俺が覚えていた彼女の姿は唯一つ――古びた雑居ビルの二階に目的地見出した俺が、ようやく道連れを思い出して振り返ったその視線を受けて、マァハが嬉しそうに笑い返した、その笑顔だけだった。

「ついた?」

「ああ……わるかった」

 尋ねかけるマァハにまずそう謝罪したのは、彼女が先に想像してしまった様な、無機質な、昆虫めいた存在だと信じたくなかったからだろうか?

「……ん?」

 けれど、マァハはまるで、その言葉が理解できないと言うように、困ったように小首を傾げ……その姿を目の当たりにした、俺の背筋を強い震えが走った。
 それを目の当たりにしたからだろうか――歩み寄り、腰を屈め視線を合わせていた少女の、表情が始めて曇る。

「……大丈夫」

 そう言いながら伸ばされたマァハの両手が、その掌が、指が俺の手指に絡みつく。
 傍から見れば、微笑ましい光景なのだろう。
 少女らしい、すらりとした柔らかな手指の、絡みつくその感触がしかし、俺には強固な鎖の様に感じられた。
 見た目だけは限りなく優美な、黄金の指輪を連ねたような……。
 そう、冒険に憧れた少年の心を、影の国に繋ぎとめるような、どこまでも美しい、黄金の。

「私が、一緒に、いる」

 俺のすぐ目の前に、そう宣言するマァハの、黄金のような笑顔があった。
 いる、ではない、ある。
 それを目の当たりにした俺の頭の中に、最初に浮かんだ像は、等身大の蟷螂がその鎌を首筋に当て、目の前でその大顎をがちりがちりと動かしている、そんな幻だ。
 感情の揺らぎも無くただ首を刈り取る昆虫の、その機能美に満ちたキカイてきな煌きの様に、柔らかく輝きに満ち、そして、何よりも重く安定して揺ぎ無い、黄金。
 霜が張り付いたような冷たさを全身に感じたまま、俺は痺れた様に動けずにいた。

 一体いつから、マァハは『こう』なったのだろう?

 スルトオレの持つ恐怖がマァハに投影されている可能性は否めない。
 けれど例えば、ジョネスと戦ったあの時に、マリアンさんははおやを取り押さえて笑った、マァハ……。
 スルトオレが自分の影に怯えているだけとするには、彼女の言動は奇矯にすぎた。
 逃げ出したい、この手を振り払いたい、振り解けない、体が動かない。
 だから……

 アイツは、『犬系幼馴染キャラは萌える』とか言ってたけど、現実に目の当たりにすると、なんつーか、その。

 だから『俺』スルト+ハルノブは顔を俯け目を瞑って、向こう側の事を思い返した。

『……Be Cool、Be Cool』

 そして、心の中で呪文を唱える。

『オーケィ、まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ』

 心を、晴信オレに引き戻す為に、スルトオレから引き剥がす為に……。
 向こう側の創作物から引き剥いで集めた、くだらない自己暗示を、唱える。
 自分は晴信だと、そう自分に言い聞かせて――それでも鉛のように重い体を、『晴信』オレはようやく動かしていた。
 目を開くと、目前には柔らかく綻ぶマァハの笑顔。
 昆虫の形をした恐怖も、黄金の幻像も、そこには無く、しかし……。

 やっぱ、殆どホラー、だよな。
 綺麗な分、なんか凄みがあってこえぇ……。

 そう思って、俺は彼女の手を解き、その体からを身を離す。
 目を開いた俺を見て、マァハがちょっと目を閉じかけたり、唇をすぼめたりした気もするが、きっと気のせいだ。
 美味そうだと、一瞬目を奪われたのも……。

 つーか、マァハさん? どうしてあの場で、キス待ちの体勢に入るですか?

 スルトオレが、それも街中で、そういうスキンシップ取らない事は理解しているでしょうに?
 しかも、それを回避スルーされたのにも拘らず、表情的には変わらず柔らかく微笑んでいる辺り、俺にはマァハが何を考えているのかが真面目にさっぱり判らない。
 ただ、マァハの精神状態が正常とはいえないだろう事だけはこの上なく理解できて、俺は顔を歪めずにはいられなかった。

「……?」

 その原因が自分であると理解できていないのだろう、マァハはそんな俺を心配そうに眺める。
 可愛らしく小首を傾げ、何処か小動物の様な、しかし、以前の彼女とは異なり怯えを纏わないその姿を、俺はそれが異常だと悟っていてもなお、愛らしく感じずにはいられなかった。

『結局、晴信もスルトも同じ俺ねはおなじって事かね』

 ……或いは、それだけ融合が進んでいると言う事か?
 今の俺の思考は晴信ベースが多く、『家族』や『隣人』関連の事を考えていると徐々にスルトの感情が浮き上がってくると言った状態だが、肉体は一つである為、片方が抱いた情や思考、それに対する肉体的な反応なんかは両者が共有している。
 故に、晴信オレが、マァハを見てスルトに似た感想を抱くのは、そう奇妙なことではなかった。

 何れはその継ぎ目も判らなくなるんだろうな……まぁ、ベースは『晴信』オレみたいだが。

 そう、晴信は『晴信+スルト』いまのオレの状態と、『スルト』かつてのオレの感情とを客観する。
 真実、それがどうであるかなどが、知識も経験も足りない今の俺に理解できる筈も無い。
 だが、そういってそれっぽい理屈を捏ね繰り回して状況を落とし込む事で、目の前にある恐怖から気をそらせたし、少々の安堵を得る事もできた。
 それを頼りに、目の前のマァハから視線を外し、傍らにあるビルの二階を見上げる。

 心源流拳法、ザパン支部。

 俺の知る限りにおいてH×H世界で唯一、組織的に念能力者の育成を行う組織。
 その師範がハンター協会会長にして現役最強のハンター、師範代が裏ハンター試験の試験管を勤める等、ハンター協会との関わりも深く、念能力に関するノウハウではH×H世界でも上位にあるだろうと推測される。
 
 ここが足がかりになってくれるといいんだが……。

 そう、声には出さず呟きながら、ビルの入り口へと視線を向けた。
 練習時間はネットで確認済――定期練習は毎日午後五時から七時だが、それ以外の時間も道場は門下生に開放している。
 道場を開放できると言う事は、つまり、道場の管理者がそこに常駐していると言う事だ。
 道場主が道場だけで生計を立てる事は、今も昔も難しい。
 昼間もそれを開放できている以上、道場主はある程度の資産家か、でなければ、この道場でなんらかの業務を請け負っていると言う事になるだろう。

 ……勝率は決して低くない。

 俺はそう結論付け、一つ、深呼吸――何の変哲も無い、古びた雑居ビルの扉を開いた。

「マァハ、これから良いと言うまで、決して俺の傍には寄るな」

 そう振り返りもせずマァハに告げると、微かに目を閉じ、鳩尾の辺りを回転する金環を幻視する。

 ……錬!

 砕けた黄金の雫が全身から飛び出し、体に絡みつく。
 些か乱暴な方法ではあるが、心源流は念能力者の団体としては極めて穏健――他の団体がアグレッシブすぎると言う説もあるが――であるし、正面から扉を叩けば問答無用で殺される事は無いと思いたい。

 それに、念能力者を見分けるならこれが一番楽だろうし……。

 そんな事を思いながら、俺は全身に緩々と絡みつくオーラを、凝で目の辺りに集中した。
 絡むオーラの感触が和らぎ、その反面、目の辺りに細く冷たい金鎖が幾重にも巻きつけられたような、そんな締め付けを感じる。

 結構、キツイ、な……。

 今までも、練や流の訓練時にオーラに体を圧迫される様な感覚を受けた事はあるが、これほど強いモノは初めてだった。
 グゥ…と俯き、歯噛みしてその痛みに耐え、俺は体がその感覚に慣れるのを待つ。
 堅の状態で流を使用しているのだから、通常以上の圧迫感を受けるのは道理――だが、その訓練自体は、今までも幾度と無く行ってきていた。

 ジョネスとの戦いで、一皮剥けたって事かな……。

 そんな事を思いつつ、オーラを収束させた瞳で、握り締めた拳を眺める。
 『錬』で押し広げられている筈のオーラの領域は、通常時のそれとなんら代わりの無い範囲に収まり、内圧で力強さを増したオーラは、金の燐光を放っているかのように見えた。
 色々試して判った事だが、他の多くのエネルギーと同様に、オーラも密度が増せば力が強まる。
 ネテロ会長の練の描写で、針の様に練磨されたオーラと言う表現があったが、おそらくあれは、それだけ強く圧縮されたオーラと言う事なのだろう。
 自分の纏がそこまで達しているなどと自惚れる心算は無いが、通常のそれを気流とするなら、鎖に例えられる程度には強くなっているのではないか、そんな風に感じた。

 ……肉体の強さとその内圧とのギャップで、逆に面倒な事になってるけどな。

 金の燐光を纏う右拳と、その中指に嵌められた一つの指輪……それを眺めながら、俺はそんな事を考える。
 そして、ふと違和感を感じた。
 握った拳を開き、首元の銀鎖に手を当てる。
 そこにある指輪の感触を指で確かめると、俺はそのまま下ろした掌を眺めた。
 その右中指に嵌められた、金の円環を……。

 そう言えば、この指輪、何の能力も設定してない筈だけど……。

 ジョネスとの戦いで発現して以降、その感触を身に刻み込む為にと着け続け、何の変化も感じられなかった事もあって存在すら忘れかけていた具現化物……だが、結びつける、縛り付けると言った指輪の持つイメージと、蝶を引き寄せたあの水見式の結果を重ね合わせれば、有り得ない話ではなかった。

 ……まさかこの指輪が、俺の纏を強化しているのか?

 いや、卵が先か、鶏が先か?
 某魔術使いではないけれど、或いは、この指輪の能力の余波こそが、俺の常時纏い続ける強い『纏』なのかもしれない。
 俺は、ごくり、一つ息を飲み、黄金の円環を左手で摘んだ。
 そして、それをそろそろと抜きかけ……すんでの所で、戻す。
 仮に、指輪の効果が纏を強化するモノとして、どのような制約が課せられているか判らないものを、今の様な状況に解いてしまうのは明らかな短慮だ。
 最低でも、ノグ村に帰ってから安全なところで、理想的には、念の師を手に入れてから、その目の前で……。

 ……どちらにせよ、今は駄目だ。

 俺は、そう好奇心と現実逃避とを断ち切ると、開け放してある入り口のガラス戸を潜った。
 極普通の、古びた四階建ての雑居ビル。
 その階段を上り、三階へ……。

「すいませ~ん」

 心源流拳法、ザパン支部、道場――そう大書きされた両開きのガラス戸の手前で足を止め、中へ向けて声をかける。
 どうやら今の時間、練習中の門下生はいないらしい。
 ガラス戸の向こう、覗く道場は人気無く……しかし、戸が開け放たれている以上誰かは居るのだろうと、続けて呼ばう事、四度。
 がたん、あるいは、ごとん。
 奥の方で、人の載った椅子が倒れるような音、それに慌てたような足音が続く。

「いやぁ、すいません。
 つい居眠りをしてしまいましてね」

 そう言って現れたのは、ウェストからシャツをはみ出させた、糸目に眼鏡をかけた寝癖の兄さんだった。
 髪形こそ違うが、この人はまさか……。

「はじめまして、私はこの心源流拳法ザパン支部道場を預からせていただいております。
 指導員のウィングと申します。
 今日は、わが道場へどのようなご用件でしょうか?」

 ……ま、まさかの原作キャラ登場……。

 俺は、かくんと大きく口を開くと、直ぐに表情を引き締めて目の前の青年を眺めた。
 普通に話しているように見えるが、目の前のウイングも纏状態で額に汗した、バリバリの戦闘体勢である。

 俺みたいな子供に丁寧語なのも、多分、見た目通りの年齢じゃないのを警戒してるのだろうしなー。

 背後に控えるマァハは、見た目高校生くらいに見えるし、それに、ウイングさんの師匠はあのビスケなのだ。
 その上、自身と指輪と能力特性から堅を纏の様に維持している今の俺の姿は、鎖の様に圧縮された大量のオーラを纏った少年が、目にオーラを収束させて彼に警戒を向けている様に見えるだろう。
 そんな奇妙な子供に対し、彼が警戒を返すのは当然の事だった。

「いえ、こちらこそ稽古時間でもないのに、突然すいません。
 僕の名は、スルト・マクシェイ。
 こちらは僕の友達で……」

 だから…と、俺は笑顔を作って軽く頭を下げると、背後のマァハに身振りで促す。

「マァハ・クラン、です」

 そういってペコリ頭を下げたマァハの、頭が再び上がるのを待って、ウイングさんにこう尋ねる。

「あの、不躾な事を尋ねるようですが、普通、支部道場を預かるのは師範、ですよね。
 先ほどウイングさんは、指導員、と名乗っておられましたが?」

 俺が、彼の姿を目の当たりにした時に見せた驚きを転嫁する為――というのは半分大義名分で、前々からネテロ会長がただ師範と称されている事が気になっていたのだ。

「ええ、そのようですね。
 確かに普通、一定位に達した弟子が現れた時点でその者を師範とし、師範は開祖、流祖、筆頭・主席・最高師範等と格上げされるものなのですが、我が心源流には、お恥ずかしい話なのですが、未だ師範の技を十全に受け継いだ者が一人も居ないのです。
 そこで、他流では最高師範とされている位階を師範、役付きの師範に当たるものを師範代、師範を指導員、その下で指導に当たる、所謂指導員を指導員補と、そう呼び慣わしています。
 私は名目上は指導員ですが、他流では師範に当たる立場だとご理解ください」

 察するに、武術と念能力を一定レベルまで収め、指導を習い始めたものが指導員補、指導を任せられるようになったものが指導員、念の指導を行える経験と能力を備えたものが師範代、で、その上が人の極なネテロ師範、と言う組織構造なのだろう。
 そして、各地で道場を任されている指導員が念の素養の高い者を見つけると、本部に連絡して師範代が派遣される、と……。

「なるほど、丁寧なご説明、ありがとうございます。
 ところで話は変わるのですが……」

 俺は納得したようにそう頷くと、両手を合わせて纏を繋いだ。

「……これ、見えてますよね?」

 そう言って、離す。
 同時、頭の中に幻像を浮かべ、纏を操作――合わさっていた五指の頭の間に、線の様なオーラを張った。
 念の糸、いや、太さ的には細めの綱か?
 やはり俺は、具現化か変化系に属する特質能力者らしく、こう言った念の操作は割合楽に出来るようになった。
 ただ、オーラを体から離すのは、押さえつける能力が強すぎる為か相当に不得手らしく、指先に数字を出すどころか、数字を出すためのオーラを指先に集める段階すら未だにクリアできない。

 こうして、纏を繋いで引き伸ばした上で、伸ばした物を操作するのは割合簡単なのだけれど……って、高望みしすぎだな。

 なんと言うか、気分的には既に一年以上経っている様な雰囲気なのだが、実際には、俺がこの状態になってから未だ半月も経っていないのだ。
 才能的には、チート主人公レベルと言っても過言ではない。
 そんな事を考えつつも張った糸を上下に動かすと、否定しても意味が無いと考えたのか? ウイングさんは、はいと首を縦に振って見せた。
 こちらを警戒しなければならない現状、こういった事をすれば出したオーラにある程度注意を払わずには得ない。
 相手が否定した場合、その視線の動きを指摘しようと考えていたのだが、それは流石に穿ち過ぎな様だった。
 そもそも、相手が念能力者とわかった時点で、向こうに自分がその技術を持っている事を隠す必要は無い。
 
「なるほど、やはりそうでしたか」

 俺は、ホッとした様に息を吐くと、ウイングさんに向けて頷き返して見せた。

「……実は僕、先日崖から落ちて九死に一生を得まして、その時以来、自分の周囲にこう言った物が見えるようになりました」

 そして、そう言いながら、指と指とを繋ぐ線を引き伸ばし、切断する。
 オーラが流れ出さないように断面の纏を強化しつつ、指の先へと収縮させて行った。

「それから色々試してみて、これが自分の妄想の類ではないと言う事は納得できたのですが、その、僕が崖から落ちた経緯や生還、その時受けた傷からの回復の過程等に幾つも奇妙な事があって……」

 顔を伏せて視線を落とし、綱を完全に吸収した掌を、握って、開く。

「もしや、崖から落ちた原因や『力』を使えるようになった理由に、この『力』を持つ誰かが関わっているのではないか……そう思って色々と試行錯誤している時に、偶然、ハンター協会会長選挙関連のニュースを見たんです」

 そう言って顔を上げた俺を、ウイングさんは注視していた。
 その顔に浮かぶ表情モノは、微妙な緊張を孕んだ、『微笑』ポーカーフェイス――いや、先ほどと比べ微妙に目が見開かれているか?

 原作では、ゴン達の事を考えて熱くなっている時の表情……なんだが、実際に目の当たりにするとかなり怖ぇな。

 そんなウイングさんの心情を映してか、そのオーラも先と比べかなり強まっている。

 しかし、これだと俺は兎も角、マァハはかなり辛いな……。

 そう思い、俺は肩越しに背後を見ると、ウイングさんの視線からマァハを遮るように微妙に立ち居地をずらした。

「……マァハ、辛かったら下で待っていてもいいぞ?」

 小声でそう声をかけると、マァハはそんな俺を見て嬉しそうに笑う。
 気遣った様子も無い、自然な声と表情……。

「大丈夫、ありがとう、ルト」

 小声でそう返すマァハに、俺は驚き半ば、安堵と納得が半ばと言った表情で頷き返した。
 そうして再び視線を向けると、ウイングさんは気配を緩めて軽く俺たちに頭を下げる。

「……いや、すいません。
 それで、貴女は、心源流の事を知った、と?」

 バツが悪そうに頭を掻きながらそう答えるウイングさんに、俺は『はい』と頷いた

「ネテロ師範のソレは、見紛い様が無い程に普通の人のモノとは異なっていましたから……それで、もしかしたら心源流にはこの『力』を扱うノウハウを持っているのではないかと考えたんです。
 それで心源流について調べてみた所、どうやら、俺と同じ力を扱える人が複数在籍しているらしい事と、このザパン市に支部があることがわかりました。
 ちょうど僕は、四月からザパン市にある私立中学に進学するので、もし訪ねてみて、この『力』に……どうかなさいましたか?」

 そしてそう説明を続け……る途中、ぽかんと大きく口を開けて呆気にとられているウイングさんに気付き、尋ねる。

「いえ、不躾な事をお聞きするようですが、貴女はお幾つですか?」

「……?
 僕もマァハも十二ですが」

 返ってきた問いかけに首を傾げつつ答えると、ウイングさんは今度は目をぱちくりさせながら、俺とマァハとを見比べた。

「いえ、随分話し方が大人びているようでしたので、少しばかり驚きました。
 ……しかし、そうなると貴女が崖から落ちたと言うのは?」

 そう、苦笑しながら尋ねるウイングさんに、俺もまた苦笑を返しながら口を開く。

「そうですね、かれこれ……十三日前になりますか?」

 落ちた次の日に目覚め、それから十一日目がマァハの試験日、今日はその翌日だから、日付的には十三日目だ。
 経過時間なら、大凡十二日弱、と言ったところだろうか?

「ん、十一日と、十四時間、四十七分、五十二」

 振り返りつつ指折り数えると、マァハが頷き俺の言葉を補足する。
 それを確認――向き直ると、ウイングさんはその眉根を微かに寄せ、鋭い目つきで俺を見据えていた。
 何か、心当たりでもあるのか?

「……本当に十二日、なのですか?」

 そう念を押す青年に俺は『はい』と頷き……その直後に漸く、ウイングさんが何を不審に思っているのかに気付けた。

 ……そう言えば、たった十二日でこの練度って無いよな。

 俺の場合、纏の維持に全く神経を使わないアドバンテージと、原作主人公達のチート成長能力の記憶があるので、それほど気にしていなかったが、覚えが悪かったらしいウイングさんにしてみれば、有り得ない成長速度だろう。
 とは言え、念について何も知らない筈の俺が、そんな事に気付く筈も無いわけで……。

「何か心当たりでもおありですか?」

 俺は、そう尋ねて場を取り繕う事にした。
 先のウイングさんの発言内容なら、『十二日前に何かがあった』と取れなくも無い。

「い、いえ、そういうわけではありません、が……」

 原作通りのまじめな性格なのだろう――困ったように眉根を寄せると、ウイングさんはその視線を俺から逸らした。
 そのしぐさに、俺への猜疑を感じるのは、俺の思い込みだろうか?
 俺の言動は、確かに年相応とは言えないし、その念能力も目覚めて十二日と証する発言内容にはそぐわないモノだ。
 警戒されるのは仕方ない……が、時間制限のある現状、余り嬉しくも無い。

 ……ここは、一旦引くべきか?

 俺たちには、探られていたい裏なんか、何一つ無いのだ。
 こちらの個人情報を与えて引いて、後は引っ越した後で再訪問したほうがいいかもしれない。

 バタンッ。

 強く扉を開くその音が聞こえたのは、俺がそんな事を思った丁度その瞬間だった。
 それに足音を挟んで、あの入り口の古びたガラス戸に、これは不味いのではないかと思うくらい乱暴な、戸閉めの音が続く。

「あっ…」

 その音を聞き、ウイングさんは何かを思い出したようにその目を見開いた。
 来客の予定でも忘れていたのだろうか?
 半ば焦ったような表情で青年が階段に顔を向け、何かを口に出すその前に、この三階にまで階段を駆け上がる強い靴音が届く。

 ……このまま話を続けるのは無理か。

 どうやら、どうあっても一度、仕切りなおさなければならないようだ。
 俺は、念の為にとウイングさんを眺めながら、階段から聞こえる足音に耳を済ませた。
 強い足音だが、音は余り重くない。

 ズシ……ではないだろうけど、子供には違いないのかな?

 どちらにせよ、この勢いでは、道を開けておかないと追突されそうだ。
 階段から入り口前のウイングさんへの道を開けて壁際に下がると、空かさず続いたマァハが俺の身に触れないように傍らへと寄り添う。

 この狭い空間で道を開けるにはそうするしかないと言うのは判るが、幾らなんでも自分の欲望に忠実すぎやしませんか?

「せんせい、せんせい、せんせ~いッ!」

 ……階段を猛速で駆け上がって来たランドセルの少年が、そう叫びながらウイングさんに衝突したのは、俺がそんな感想を頭に浮かべたその直後の事だった。
 階段を駆け登る少年が、入り口に立つウイングさんと俺達に気付き、足を止めようとして最上段の滑り止めに爪先を取られる。
 そんな彼を受け止めようと、ウイングさんは纏ったオーラを移動させつつ前進、少年の体をその両腕に納めた。
 単純に、一般人を戦闘レベルのオーラに触れさせるのは不味いのか、或いは、俺たちへの不信を捨てきれなかったと言う事か?
 目にも留まらぬような文字通りの『流』の後、俺達の前に現れたのは、抱きとめた少年を全身で守り、背面を有り丈のオーラで鎧った、亀の様な姿のウイングさんだった。
 『たった十二日で、これだけ能力』――やはり、俺は心の何処かでスルトの体じぶんの才能に慢心し、念を甘く見始めていたのだろう。
 どうやら俺の心は、目の前のウイングさんの姿に、かなりの衝撃を感じているようだった。

 ただ愚直に、基本を伸ばし続けた強化系とはこういうものなのか。

 それほどまでに自然且つ、速く滑らかな流。
 小手先の才能ではどうにもならない、積み重ねられた時間こそがそこにはあった。
 ただの練が堅となり、ただオーラを動かすだけで流となる――纏の力が強いと言う単純極まりない、だからこそ侵し難い能力の存在とそれを生かした強引な力技に、浮かれていた自分が嫌になる。
 ただでさえ俺は、基礎体力が足りない、戦闘技術がない、学業も疎かには出来ない。
 恐らくは、変化系と具現化系の狭間にあるだろう属性系統と、纏が強いと言う能力系統も決して合っているとは言えない。
 浮かれている時間等無かった筈なのに、ソレは自覚していた筈なのに、いつの間にか自分は余裕を持っていたようだ。
 そして、俺がそんな事を考えている間に、ウイングさんは少年の体を離すと、自分の目の前に立たせる。

「……ライカ、君は女の子なのだから、もう少し落ち着きを持ちなさいと、何度も話した筈なのですがね。
 それに、いくら解体バラシ屋事件で学校が半科になっているからと言って、練習時間以外に道場に来てはいけませんよ。
 一体何処で解体屋に出くわすかわからないのですから、ちゃんと行き帰り、親御さんに車で送ってもらいなさい」

 ここまで走ってきたからだろうか?
 そう言って諭し始めたウイングさんの声を、少年――もとい、少女――は、当初額に汗し、微かに上気した顔でただ見上げていたが、その言葉がジョネスに至ると、得意そうにふふんとその薄い胸を張って見せた。

「あ、やっぱり先生知らなかったんだ?
 解体バラシ屋『ジョネス』はもう捕まったんだよ。
 明日からは学校も、普通に戻るってさ。
 今日はまだ昼までだし解体屋も捕まったから、学校から真っ直ぐ道場に来たんだけど……」

 そう言って、期待するように目の前の青年を見上げた少女ライカに、ウイングさんは困ったように息を吐く。

「喩えそうだとしても、学校からの寄り道は余り誉められたものではありませんよ。
 それに、今はお客さんもいらっしゃっています。
 ライカは一度家に荷物を置いてから、もう一度道場に来てもらえますか?
 そうしたら、練習を見てあげましょう」

 そう告げるウイングさんに、ライカさんは不満げに唇を尖らせた。

「……お客さんって、小学生じゃん」

 自分もそうだろうに――いや、だからか?――ライカさんは納得できないと言う風に、壁際に立つ俺の方に視線を向ける。

「……え?」

 そして、そんな彼女の目が俺の顔を捕らえた瞬間、大きく丸く見開かれた。

「まさか、スルトちゃん?」

 心底驚いたと言うように顔をマジマジと眺めてくる少女に、俺は正直、困惑して首を傾げる。

「ええ、確かに僕の名はスルトですが……」

 しかし自分スルトには、ザパン市に住む小学生の知人などいなかったはずなのだが?
 試しにとマァハの方へ視線を向けると、彼女も知らないと言うように首を横に振る。

「ライカ、こちらのスルトさんを知っているのですか?」

 そんな俺たちの疑問を代弁するように、ウイングさんがライカさんにそう尋ね……少女はエヘンと、二度ふたたびその薄い胸を一杯に張って見せた。

「ご存知、ないのですか!?
 彼女こそ、ザパン史上最悪の連続殺人鬼を蹴り倒し、天空闘技場参戦を期待されている武闘派幼女、スルトちゃんです!」

 そう、なぜか誇らしげに告げるライカに、一瞬、場を沈黙が走る。

 ……確かソレ、武闘派幼女の天空闘技場参戦を祈願するスレのテンプレじゃなかったっけ?

 確か、変なサングラスをかけたおっさんのAAが、そんな言葉を発していた筈――
「……だっ、誰が…」

 白い空隙が真っ赤に染まる。
 我知らず噛み締めていた歯列の狭間からは、そんな呟きが漏れ出ていた。
 オーバー・フロウ。
 空隙に、意識に蓋されていたモノが流れ込み、それを広げ、溢れる。

「…誰が幼女だ! 僕はッ、僕は男だッ!」

 そして気付いた時、俺はそう叫んでいた。
 同時、元より堅の状態にあった全身の精孔から、怒りの余りに大量のオーラが溢れ出し、強力すぎる纏に押さえ込まれたそれが、全身を強く締め付ける。
 そのオーラの圧力に、凝をしていた両眼が悲鳴を上げた。
 思わず瞑った両の目尻から、止め処なく零れる涙の雫――痛みに我に返って慌てて凝を解いたが、それでも眼球に冷たい鎖を押し当てているような、そんな鈍痛は消える事がない。

 ……もしかすると、この痛みは『制約/誓約』なのだろうか?

 ふわりと触れる、暖かさ――声もなく触れた寄り添うマァハの息遣いに、体を締め上げられる痛みが微かに退いた気がして、俺はハァと息を吐いた。
 本編の描写と比して余りに異常な状況オーラに、再び奥歯を噛み締めつつ目を開く。
 リノリウムの床にへたり込んだ少女ライカさんが怯えを含んだ目で見上げ、そんな彼女を半ば背で守るように――しかし、驚いたような、呆気に取られたような顔で――ウイングさんが俺に正対していた。
 丁度、互いに少女を庇い睨み合うような格好、一種の、男子の本懐って奴か、冗談めかせてそんな事を思い精神を切り替える。

 ……Be Cool、Be Cool。
 オーケィ、まずは落ち着こう、素数でも数えるんだ。

 何時もの、多分世界で一番陳腐な呪文を唱えて、一つ嘆息。

「……すいません、思わず我を忘れてしまいました」

 そう言って、目の前の二人に無理矢理微笑んで見せると、へたり込んだライカさんの喉から、ひぃと、怯えたような、慌てたような、そんな音が漏れた。
 大人でも怯える、念の威圧だ。
 ライカさんのような極普通の少女には、些か以上にきつい仕打ちだっただろう。
 そう思って俺はマァハを一瞥、仕草で促して体を放させると、ライカさんから見てウイングさんの陰に入るように体をずらした。
 既に纏ってしまったオーラを緩める事は自身にも出来ないが、自制を取り戻した事で少しはその刺々しさも緩んでいる。

「……あっ」

 加え、ウイングさんのソレが盾になるように位置をずらせば、ライカも少しは楽になる筈――そう考えて動いたのと、少女の安堵したような、放心したような、しかし絶望的な声が漏れるのとは、ほぼ同時の事だった。
 ちょろちょろと、水が漏れるような音が足元から漏れて、俺は睨み合う格好になったウイングさんと思わず顔を見合わせると、視線をほぼ同時に落とす。

「あぁぁぁ……」

 四つの視線の先で――と言うのも、マァハの視線はずっと、俺に据えられたまま動いていないからなのだが――座り込み呆けた表情を浮かべるライカさんの顔が、濃い朱に染まった。

「マァハ……悪いけど、ライカさんの面倒を頼む。
 ウイングさん、ここ、シャワーとか洗濯機とか着替えとかってありますかね?」

 まだ幼いとは言え、流石に少女のあんな姿を凝視するのは不味い。
 液体に続いて嗚咽を漏らし始めていたライカさんから一瞬で視線を逸らすと、マァハとウイングさんとに交互に視線を向けた。

「うん」

 何が嬉しいのか、マァハはにこり笑ってそう応え、

「下着は兎も角、ライカの鞄の中に、道着があると思います。
 奥の私の部屋には、タオルとシャワーがありますから……その、お願いできますか?」

 続いて、すっかり毒気が抜けた様な困り顔で、ウイングさんが頭を下げる。

「……ふぅえぇぇぇぇぇぇぇぇ……」

 そして、そんな三人の視界の外で、少女はただずっとすすり泣いていた。



[2622] 第一部小学生編エピローグ(仮)
Name: 十八◆4922f455 ID:6d3a8db7
Date: 2010/02/07 19:14

 ごうん、ごうん、ごうん、ごうん……。
 回る洗濯機と、それにさーと重なるシャワー音、微かに届く少女達の声。
 シャワー降って地固まる――と言うか、寧ろ水とは違うものが漏れたのだけど――とにかく、一人の少女の貴重な犠牲により、ウイングさんと俺たちとの間の緊張は解けた。
 なんでウイングさんがライカさんをマァハに預けるほど信用してくたのかは良く判らないのだけれど、どうやら俺がキレた時には既に、暴発は警戒しても悪意はそれほど気にしていなかったようだ。

 ……ライカさんには、後でお詫びの品でも持ってかないとね。

 とは言え、ノグ村の特産と言えば、隣接したヌメーレ湿原で取れる僅かな動植物ぐらいしかないので、ライカさんが貰っても嬉しくはないだろうけど……っとまぁ、そんな事は今はどうでもいい。
 道場の奥に設えられた、独身向けの安手のアパートのような居住区画ウイングさんのへや、気まずげにシャワーと洗濯機の立てる音を聴いていた俺は、顔を上げ、同様に俯いているウイングさんへと口を開いた。

「すいません、マァハとライカさんがシャワーを浴びている間、先の話を続けても良いですか?」

 状況的に連れて来ざるを得なかったマァハだが、正直、聞かせたくない話も多い。
 余りに気まずい現況は、しかし、彼に事の概要を話すにはもってこいでもあった。

「……ええ、そうですね」

 こちらの事情を忘れかけていたのだろう。
 顔を上げて苦笑するウイングさんに、苦笑を返し、立ち上がる。

「……では。
 二月六日の深夜、何らかの理由で部屋を離れた僕は、翌朝崖下に血まみれで倒れている所を発見されました。
 傷の原因は崖からの落下、木々がクッションにならなければ確実に死んでいたそうです。
 そして、翌々日の二月八日早朝、僕は全身の傷が殆ど治った状態で目を覚ましました」

 そして、説明を始めた。
 目覚めたらこの力にを使えるようになっていた事、自分が崖から落ちた晩の記憶を失っていた事、そして……。

「それが問題の傷、ですか?」

「はい、傷の大きさにも拘らず出血も痛みも無く、また、他の傷は完全に治っているというのに、これだけは治癒の気配も見せません」

 そう応えつつ肩越しに覗き見ると、眼にオーラを集めたぎょうのじょうたいのウイングさんは、同時、何故か困ったような表情でこちらから目を逸らしていた。
 なにか、見てはいけないものを見ているかのような表情で、チラチラと傷の辺りを目の端で眺めている。
 晴信オレは向こう側で、敢えて視界の中心に対象を捉えない観相法があると言う話を耳にした憶えがあるが、これも似たような術理の念の技法なのだろうか?
 表情的に、とてもそうとは思えない――とは言え、ウイングさんがこちらから目を逸らす理由など、他に何も思いつかない。

「どうかなさいましたか?」

 そんな彼の姿に困惑しつつもそう尋ねると、ウイングさんは、その顔に浮いた苦味を深めながら、下がっていた眼鏡を中指で押し上げた。

「いえ、すいません。
 もう服は直してもかまいませんよ。」

 言葉を濁してそう答えると、今度は真顔になって、こちらの顔をまっすぐ見据える。

「スルトさんの物に紛れてかなり判別し難い状態ですが、確かにその傷口には、貴方の物とは別のオーラが残留しているようです。
 貴方を傷つけた人間が念能力者であり、また、そのせいで念に目覚めたのは、まず間違いないでしょう」

「オーラに、念能力?
 それがこの湯気のようなものと、それを扱う能力の名前ですか?」

「……はい。
 そう言えばまだ貴方には、この能力のことを何も話していませんでしたね」

 誘導尋問なのか、素で忘れていたのか――先の表情や、マァハにライカさんを任せているところを見るに、後者か?

 こほんと咳払いを一つ、ウイングさんは念の説明を始めた。
 念、生体エネルギーであるオーラを扱う技術の総称。
 基礎の技法として、纏、絶、練、発の4大行が存在し、また、使い手はその資質により強化、変化、具現化、放出、操作、特質の六系統に分類される。

「……ちゃんと確かめてみないと判りませんが、話を聞いた限りでは、貴方は強化系の念能力者のようですね。
 それだけの怪我を一昼夜で回復させる程、それも、無意識の内に自己治癒力を向上させられる能力を持っているのですから」

 既に念をある程度修めているためだろうか?
 そう言って、原作でゴンたちに話した内容と比べ、より詳細な説明を終えたウイングさんに対し、俺は首を横に振る。

「いえ、恐らく僕の能力は具現化系に属するものだと思います。
 その、これを見ていただけますか?」

 そう否定しながら、首に提げた指輪を引き出すと、右手指に嵌めたままのそれと比べて見せた。
 瓜二つのそれを眺めて怪訝な表情を浮かべるウイングさんに、こう続ける。

「首に下げているこれは、御守り代わりに父から預かったものですが、こちらは違います。
 ……その、僕が創ったものなんです」

 制約の発動を恐れて放置していたこの指輪だが、目の前にウイングさんが居る今こそが、これを外す良い機会だろう。
 俺は両親の指輪を下ろすと、俺の指輪を開いた指でつまみ、そろそろと引き抜いて行った。
 指輪が外れたとたん、ふわりと身を押し包む重圧が和らぎ、俺は安堵の溜息を吐く。

 予想通り……か。
 いや、まてよ? これを俺の心象が作り出したものだとすると、もしかして……。

 ふと気付いて、俺は指輪を窓越しの日差しに翳すと、本来両親の名が刻まれている筈の環の内側を眺めた。
 果たしてそこには……

一つの指輪は全てを統べ。Ash nazg durbatuluk,一つの指輪は全てを見つけ、ash nazg gimbatul,一つの指輪は全てを捕らえて、暗闇の中に繋ぎとめる。ash nazg thrakatuluk, agh burzum-ishi krimpatul……』

 そこには予想通り、両親の名に代わってエルフ文字テングワールの流麗な連なりが刻み込まれている。
 俺の心象が作り上げた、その指輪――この身にオーラを繋ぎとめるそれ――は、火にくべずとも読める銘が裏返しの場所に刻み込まれた、一つの指輪の紛い物だった。
 何故だかそんな紛い物が、自分には酷く似つかわしく思えて得心……俺は思わず、クスリ、微かな笑みを漏らす。

「……これは」

 そして、思わずといった風にそう呟いたウイングさんへ、摘んだ指輪を差し出した。

「これについて、何かわかりますか?」

 念で作られた、或いは、篭められた器物に、念能力者が何の防護も無く触れる筈も無い。
 怪しまれるだろうか――そうも思うが、念の知識も無い子供が、如才ない対応をしすぎるのも逆に不自然だ。 
 ままよ…と、差し出されたそれを、やはりウイングさんが手に取る事は無かった。

「失礼……」

 そう言って立ち上がるとその腰を屈め、摘んだ指先にある指輪を凝の眼で、矯めつ、眇めつ。

「なるほど、確かにこれは、念で創られた物のようですね」

 ウイングさんはそう言うと、再び椅子に腰を下ろした。
 軽くなったオーラを再び凝、掌の中の指輪を観察したが、俺にはこれが、オーラを纏っている程度しかわからない。

 ……原作では、操作系で操る道具と、具現化系で具現化した物の判別は困難、或いは、出来ないような話だったんだが……。

 少なくとも、クラピカやコルトピの具現化させた器物を他の念能力者はそれと見抜けなかった筈だが、この指輪のは簡単にそれとわかってしまうほど念の構成が甘かったりするのだろうか?
 金の指輪を陽に翳し、首を傾げて眺める俺に、ウイングさんは、年相応の子供に向けるような、笑みを含んだ視線を送った。

「光に当てないように、指輪を見て御覧なさい」

 そして放たれた言葉に、指輪を掌の影に収める、と……。

「字が……?」

「ええ、どう言った意味があるのかはわかりませんが、その指輪に刻まれた文字は、日に当たっている時だけ姿を現すようです」

 確かにこれは判りやすい。
 光の加減どころではなく、その有無で刻されている筈の文字そのものが消えたり現れたりするとなれば……。

「……しかし、そうなると話に出てくる回復ぶりは、貴方の念とは関係ない可能性が出てきますね。
 傷が消えない事と不自然な治癒を併せて考えると、これは……」

「………」

 そう、何かを考え込む様子のウイングさんを前に、俺は口を挟むことも出来ずただ掌の上の指輪を転がしていた。
 今日までの日々に考えた事は色々ある。
 それらについて、ウイングさんに問いたい事は沢山あるのだが、今の俺は念のことをほとんど知らない人間だった。
 どういう理由かは判らないが、せっかく警戒を解いてくれたウイングさんである。
 うかつな事を口走って再び警戒させるなんて、真っ平御免だ。
 だから、掌の上の指輪を転がしたり、指に抜き差ししたり、凝で眺めたりと、今までその機会の無かった観察を続ける。
 オリジナルの『一つの指輪』の効果は、着用者の身を隠す、他の魔法の指輪の支配、そして、サウロンが指輪に封じ込めた力の行使等、多岐に渡っていたが、これの力はどうなのだろうか?
 俺はふと思いついて、この指輪を傍らのテーブルに置いてみる事にした。
 この指輪のモデルを『一つの指輪』と『両親の指輪』と仮定した場合予想される性質は幾つかあるが、その中でも大本命と言えるモノは『俺を・・繋ぎとめる』だろう。
 全身に絡みつく鎖として現れた具現化の過程と、纏を強化する代わりに反動で身を圧迫すると言う現時点で明らかになっている能力も、その予想を裏付けるものと言えた。
 ならば、『一つの指輪』の最も印象的な能力の一つ、『魅了の力』はどうなっているのか?
 俺を縛り付ける事がこの指輪の能力の本質であるならば、当然備わっているはずなのだが――コトリ、音を立て傍らにあったテーブルに指輪を置く。
 そして、それから指を離すか否や、黄金の円環は崩れた。
 まるで、紡がれた糸が解れるかの様に、それは形を崩し無数の金糸と化して俺を取り巻く纏の中へと消えていく。

『こちらではなく、向こうが離れない、か……』

 そしてふと、脳裏にマァハの姿が浮かんだ。
 身に絡みつく地縁、断ち切れない情、それらの象徴が両親であり、彼女である。
 だから、連想してもおかしくはない、おかしくはないのだけれど……やはり、おかしい。

「……ふむ、やはり貴方は具現化系かそれに近い系統の念能力者のようですね」

 崩れ行く指輪を目の当たりに、ウイングさんはそんな独り言とも語りかけているとも付かぬ言葉を漏らした。
 俺の念系統は特質系――どの系統からでも特質能力が発現する可能性がある事や、クラピカのエンペラータイム、ネフェルピトー、クロロ等の格闘戦能力等を鑑みるに、系統図の能力効率は必ずしも反映されないと考えられる。 
 でも、もしそうでないとすれば、傷はどうして癒えたのか?
 ……誰が癒したのか?

「ウイングさん……。
 俺とマァハに、念を教えてはくれませんか?」

 胸中に湧き上がる疑念を飲み下しながら、俺はウイングさんにそう頭を下げた。

「ええ、それはかまいません。
 元々、我々心源流は、あなたの様に突発的な状況で念に目覚めた者達の指導をその活動の一つとしています。
 どうやらマァハさんも念に目覚めかけている節がありますし、状況的に考えても二人一緒に教えた方が良いと思います。
 ただ、名目だけでも心源流に入門していただく事になりますが……」

「はい、そちらの指導もよろしくお願いします。
 異常な状況が続いているだけに、身を守れるくらいの実力は欲しいので……」

 今後の予定を考えても、ここ一ヶ月ほどの異常な出来事の数々を考えても、戦闘能力の強化は急務だろう。
 少なくとも、俺の『能力』の詳細がわかるまでは、気は抜けない。
 何しろ、そのモデルである『一つの指輪』は、様々な災厄を引き寄せるのだから……。

「俺たちは、三月半ばにはこちらに引越し、四月からルスタ附中に進学する予定です。
 正式な入門はそれからになると思います。
 親への説得に関しては問題ないと思いますので、三月からはどうかよろしくお願いします」

 こうして、俺達は心源流に入門し、それは後の波乱万丈な一生を決定付ける事となるのだけれど、この時はまだ、そんな事になるとは全く思っていなかった。
 


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