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[24249] 異人ミナカタと風祝 【東方 オリ主 ダーク 恋愛(?) 『境界恋物語』スピンオフ】
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/08/22 21:18
 注意!


 ・ヒロインは東風谷早苗です。裏ヒロインが洩矢諏訪子です。目指すは、「ダーク系」「青春」「オカルト」「恋愛」物語です。

 ・外界での話です。《幻想郷》に行くのは最後です。人間と神様以外には、少しの妖怪しか出てきません。

 ・誰の主観とは言いませんが、負の感情と《幻想》的な伝奇風オカルトと恋愛と日常が、4:3:2:1位に混ざっています。

 ・ケロちゃんが可愛いとか、神々しいとか、そんなイメージでないと許せない人は、お戻り下さい。

 ・少しでも感想をくれると、とても嬉しいです。

 ・因みに東方二次創作にして、作者の作品である『境界恋物語』のスピンオフです。




[24249] 異人ミナカタと風祝 序の一
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2011/02/03 01:20




 異人ミナカタと風祝 序の一






 人間は意外と頑丈なのだと思う。
 簡単に死ねないから、そう思う。




 左の手首から先が無い状態で、僕は冷静にそんな事を考えていた。
 真っ黒い、赤黒い、しかし鮮やかな赤い色が、僕の腕から流れて地面に広がっていく。
 衣服を伝い、赤く染めながらも滝の様に流れる血は、留まる事を知らない。
 どろどろと、だらだらと、バケツを引っ繰り返したかのように、流れ落ちて行く。
 痛みは無い。痛みは感じない。
 けれども、視覚から与えられる情報は、確実に僕を蝕んでいく。
 痛い筈なのに、痛くない。痛みを欲する訳ではないけれども、その非常識が、重く重く、のしかかる。


 ――――あははっ


 遠く遠く、小さな笑い声が聞こえた。
 幻聴では無い。錯覚でもない。確かに耳に、声が聞こえた。
 声の出所は何処か、と思った。目の前の減少から目を反らす為にも、一歩足を進める。
 ドサリ。
 と。
 今度は。
 右足首から先が、欠損していた。
 一歩踏み出した格好の僕に、置いて行かれる様に残される足。五本の指から踝までが、はっきりと。
 飴細工の人形の足が、壊れる様に。
 砕けた硝子瓶に似た断面を、煌めかせて。
 ポツリ、と片足が取り残される。
 ……気持ちが悪い。
 そして、その地面に堕ちたままの足は、僕の目の前で腐敗した。
 時間を速めたかのように、時の中に取り残したかの様に、腐食する。
 色が落ち、黴が生え、変色し、臭いと共に形が崩れ、筋肉と骨が現れ、最後には泥の様な塊に成って消える。
 心臓の鼓動と共に、生命の源が流れる場所が、更に増えた。
 ……気持ちが、とても、悪い。
 この状態で、痛くないと言う事実が、僕の精神に圧力を懸ける。


 ――――あはははははっ


 声は、やはり聞こえている。
 先程よりも近いその笑い声は、歪んだ色を抱えていた。
 何処か狂った様な、酷く僕を苛む様な、耳障りな笑い声だった。
 ぐらり、と体が傾ぐ。
 血を流し過ぎたのだろうか。体が動かず、そのまま僕はどう、と倒れてしまう。
 苦痛は何も感じないくせに。
 か細い体は衝撃に軋み、ただの呼吸すらも難しい。
 僕を受け止めた地面は、何処までも黒く、澱んだ、まるで泥を煮詰めた様な色をしていた。
 地面よりも柔らかく、水よりも固く、汚泥か、泥濘か、あるいは干潟か、沼のような感覚がした。
 僕を引き摺り込むのではない。捉えて離さない罠の様な感触を、全身で感じてしまう。


 ――――あはははははっ、あはははは、はははははっ


 狂った声と共に、軽い衝撃が走った。
 足先から首元までの感覚が消える。
 痛みよりも冷たさを。
 無反応には視覚情報を。
 ただ、現象を脳に刷り込む様に、事象は進行した。
 体が、剥がれていく。
 順番に、小さく成っていく。
 そうして、僕の体は、足先から順番に解体されていく。
 爪先。甲。踵。踝。脛。膝。太腿。股間。腰。下腹。掌。鳩尾。手首。腕。肘。胸囲。肩。首。
 まるで見えないピーラーが、僕を足元から一枚一枚、薄く剥いでいくかのように。
 ダヅン! ドヅン! と体が切り離され。
 ブチリ、グチリ、と肉や神経が斬り離され。
 もう流れようにも、流れない血だまりの中。
 後に残るのは、長い黒髪の頭。
 僕の生首だ。


 ――――あははははは、あははははははっ! ははははっ! あははっははははっははははっ!


 哄笑。嘲笑。そんな言葉と共に、笑い声の主が、目の前に進み出た。
 そして、首だけに成って転がる僕を、抱え上げて。
 少女は。
 耳に囁く様に、語った。


 ――――もっと
 ――――もっとだよ


 柔らかい、幼子の声。
 深い水底か、昏い闇の中か、別の世界から響く様な、声。
 あどけなさと、残酷さが、混ざり合った、楽しそうな声だった。


 ――――そんな程度の苦しみじゃあ、駄目だ
 ――――その程度の苦痛じゃ、全然、ぜえんぜん、駄目だよ
 ――――ぜんぜん、たらない。まだまだ、もっと、もっともっと、受けるんだよ
 ――――お前の抱える罪は、そんな物じゃあない
 ――――お前が受けるべき報いは、こんな優しい物じゃあないんだ


 容姿だけは幼く、けれども、何処か老成していた。
 口調だけは舌足らずで、けれども、何処かしゃがれていた。
 外見だけは可愛らしく、けれども、それは人間ではなかった。


 ――――辛い?
 ――――苦しい?
 ――――逃げたい?
 ――――泣き叫びたい?
 ――――死んだ方がましかもしれない?
 ――――だろうねえ。だってその為に、やっているんだ


 狂気とは、こう言う事をいうのかもしれない。
 何かに狂った相手は、こんな風に動くのだろう。
 ああ、“これ”が原因か。
 この少女が、“こうしている”相手なのか。
 それを、感じ取る。


 ――――お前を殺す為じゃない。お前を苦しめる為に、やっているんだもの
 ――――その身に楔を打ち込み、磔にしても止まらない
 ――――地獄が生温い仕打ちを、お前に振りかけよう


 触れる肌から、感じられる空気の全てで。
 情報は、効かない視界と、動かない脳の中に、刻まれる。
 これが、×××××だ。


 ――――涙が枯れるまで泣くと良い
 ――――どうせ、涙など出る筈が無いんだから
 ――――涙が枯れる程度じゃあ、許せる筈が、無いんだから


 子供ゆえの無邪気さの中に、煮詰めた様な悪意を滲ませて。
 大人ゆえの穢さの中に、悪魔の如き残酷さを孕ませて。
 優しく、愛おしく、まるで慈しむ様に僕の頭を撫でながら、猛毒を囁いて、逃がさない。


 ――――けれどもねえ、駄目なんだ
 ――――お前を苦しめても、こっちの心は、満たされないんだ
 ――――お前は生贄だ
 ――――この私を生かす為の、奴隷なんだ
 ――――逃がさない
 ――――逃がさないよ、絶対。
 ――――絶対に、逃がしてなんか、やらないんだ
 ――――この手から、逃れる事が出来ると思わない事だ


 ゆっくりと、僕の頭を持ち上げた少女は、目線を合わせた。
 可愛らしい、蛙帽子を被った、美少女だった。


 ――――ああ、次はどうやって、お前を苦しめようか


 楽しそうに、彼女は哂う。


 ――――叩き殺し、殴り殺し、斬り殺し、刺し殺し、突き殺し、焼き殺し、溺れ殺し、轢き殺し。
 ――――獣の牙で、鳥の爪で、魚の群れで、蛇の毒で、虫の害で、菌糸の苗として。
 ――――その指先から、足の先まで、余す処なく、全てを責め抜き、苛めぬいてやろう
 ――――断頭台か? 絞首刑か? 飛び降りか? 火刑か? 機械で二つに切断しようか? 生きたまま焼こうか?


 どうすれば楽しいのかと考える様に、少女は回った。
 優雅に足を跳ばし、くるりくるりと、泥の中で弧を描く。
 僕の頭を抱いたまま。
 僕を相手に踊る様に。
 撒き散らした体を蹂躙しながら。
 血と泥の中で、楽しそうに。


 ――――拒否なんか許さない
 ――――逃亡なんか、認めないさ
 ――――お前は全てを受け入れるんだ


 持ち上げながら、彼女は言った。
 まるで鞠を捧げ持つ様に、彼女は僕の首を持つ。


 ――――髪の先から爪の先まで、私は逃すつもりは無い
 ――――その身体の全ては、私のモノなんだよ
 ――――もっと、満たさなければ
 ――――もっともっと、満たさなければ、いけない


 陶酔した、甘露にも似た、言葉だった。
 熱く、浮かされた様な、引き摺りこまれる様な、災厄が形になるようだった。


 ――――もっともっと、もっともっと

 ――――もっともっともっともっともっともっともっともっと

 ――――もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと!


 その呪詛にも似た、怨念にも似た言葉は。
 言葉よりも、既にノイズとして、襲い掛かる。


 ――――もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと!


 あははははははっ! と、彼女はワラッた。
 その目の中に、終わりの無い、深淵を見せながら。
 消える事の無い、紛れもない負を込めながら。
 ケラケラと。
 ケロケロと。
 彼女は高揚の気分のままに、声を上げた。


 ――――その絶望に舌鼓を打たせて貰おう
 ――――心が壊れるまで、お前は私に隷属し続けろ
 ――――その精神が蹂躙され、砕け散るまで
 ――――あははは
 ――――あはははははははっ!
 ――――それがお前の、背負う罪だ
 ――――お前が私にした事への、その結果だよ!


 そして少女は、その幼い顔には似合わない、大口を開ける。
 赤い長い蠢く舌と、白い歯の中に見える牙。
 その大きな瞳が、まるで爬虫類の様に感情を見せないまま
 ぎょろり、と四つの瞳孔が、僕を見据えて細まり。


――――グチャグチャ、ベキャグチャリベキャ、バキ、クチャグチャグチャグチャグチャッ!


 そんな擬音を持って、彼女が僕の頭を、咀嚼した所までは、覚えている。




     ●




 「ッ――――!」

 そして、目を覚ました。

 「…………」

 見慣れた木目の天井が、其処には有る。
 ぼう、と星明りに映る室内は、静かに重く、空気が固形化をしたかのようだった。
 太陽が昇る前、人も獣も草木も眠りし、夜半の事。
 乱れた己の息と鼓動、そして玄関に置かれた柱時計の針の音だけが、耳触りだ。

 「――――ッ、ハ、ッ」

 夢だと認識した、途端。
 精神の疲労と記憶が、体へと刻み込まれる。
 全てが体感として戻され、体の奥底から悲鳴が走る。
 不整脈が、起きた。

 「――――、ッ!」

 抑え、胸元から競り上がる衝動。そして、乱れた呼吸。
 咳をすると、喉からは破けた様な音がした。
 額と背中に浮かぶのは、冷や汗と、体が悲鳴を上げる脂汗だ。悪夢と、治る事の無い病魔は、体を常に苛んでいる。

 「……く、――――ッ! ゴ、ホッ!」

 断続的な苦痛が、止まらない。
 枕元。震えるか細い腕で、常備薬に手を伸ばす。水差しからコップを注ぐのももどかしく、御盆に少量が零れるが気にしない。何時でも飲める状態だった錠剤を掴み、喉奥に流し込む。

 「――――ハ、あッ」

 飲み乾し、その雫が顎から寝間着へと伝わる感覚。ひやり、と走る冷たさを感じながら、ごろり、と仰向けに転がった。乱れていた息も、心臓の鼓動も、直に治まる。
 はあ、と荒い息のまま、目を閉じる。眠れない事は承知の上だった。
 涙目のまま薄く眼を開けば、其処には、平均より遥かに細い、青白い腕が有る。消えない病に途切れぬ悪夢。常に害意に犯されているからか、健康と言う言葉は一番、縁が無い。
 思わず。

 「……辛」

 小さく。
 掠れそうな声で呟く。
 けれども、声を聞いてくれる相手は、誰もいない。
 声をあげても、手を貸す相手など、誰一人として、居ないのだ。
 家族や親戚、友人から同級生まで、誰もが皆、傍から消えて行った。
 悪夢を見ても、体が悲鳴を上げても、手を差し伸べる存在など、唯の一人も、無い。






 それが、いつもと同じ。

 御名方四音の、変えられぬ日常だ。








(2010年11月11日投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 序の二 弥生(夢見月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:075d6c34
Date: 2011/01/18 22:37
 異人ミナカタと風祝 序の二 弥生(夢見月)




 寝覚めが良かった事など、記憶に存在しない。

 春の眠りに誘われれば、そのまま黄泉津平坂を転がり落ちて行きかねないのだから。




 朝目が覚めると言う行為にも、千差万別が存在する。

 規則正しく目が覚める人間、中々起きる事が出来ない人間に、限った話では無い。優しい母親が階下から声を懸けてくれる人間もいれば、年下の妹が逐一乗り懸かって来る稀有な人間もいるだろうし、目覚まし時計が相棒の人間も多いだろう。
 比較して、彼の場合。

 「おはよう、ござい、ます」

 彼の朝には、何もない。

 何時もの如く、機械仕掛けの様に、定刻に目が覚める。
 自然と、まるで設定されているかのように、意識が浮上する。

 何時だったか、臨海学校だかに学校行事として連れて行かれた時、同じ学年の連中は不気味だと言っていたか。死体が動きだしたか、人形が動きだしたかに見える、と言って。

 「……起きる、か」

 目が覚めると言う表現は正しくないのだ。夜半に目を覚まし、そのまま白昼夢の様に、意識を漂わせている。丑三つ時か、夜明け前か。夢から覚めるまでによって差こそあるが、目覚めた後に眠れる事は無い。

 ぼんやりと。
 茫洋と。
 日が昇り、社会が動き始めるまで只管に、無為の時間を潰す。

 干渉されず、関与もされない、まるで見捨てられたかのような時間が、其処には有る。

 「……痛」

 寝不足で頭が痛い。芯に響く、ズキン、とした苦痛も、何時もの事。あんな凄惨な夢でも肉体の睡眠時間は足りているらしく、心が病んでいる事を除けば、別状は無い。

 医者も言っていたか。悪夢は心因性の物なので治療は難しい、と。日々の過ごし方に注意するしかない、と。確かにその通りだった。ギリギリでボロボロでは有るが、日々を送れない程の消耗では無い。
 それは、つまり。

 生かされていると言う事だ。
 じわりじわりと、真綿で首を絞められる様に。
 生かさず、殺さずを追求するかのように。
 あの夢の中の娘に、より多くの苦痛の為に、生かされている。

 そうでないのならば、当の昔に命を落としている筈だ。

 苦痛を漏らす喉を押し殺して、静かに体を起こす。腹筋で起き上がれるほど鍛えてはいなかった。まるで老人か被介護者の様に、肘と足で立ちあがる。細い足と細い腕。病院の長期患者でも、此処まで不健康そうな男はいない。

 「――――は」

 しらず、笑みが漏れる。楽しくも無く、明るくも無い、渇ききった笑みだった。

 心の中に有る物は、諦観と自嘲。
 声に含まれる物は、絶望と虚栄。

 その笑みを聞く者はいない。
 誰かから、声を掛けられる事も無く。
 誰かに声を懸ける予定も存在しない。

 この八畳間に、そしてこの家に、居るのは、暫く前から、彼、一人だけだ。




 御名方四音の周りには、誰もいない。




     ●




 老人か要介護者の様に起き上がり、布団を畳んで、着替えて、寝室を出る。築ウン十年の屋敷の廊下は、一歩歩くごとに軋み、鳴き声を上げた。天然の鴬張りだ。鶯等と言う風雅な鳥を最後に見たのは、一体、何時だったのか記憶には残っていないが。

 ふらり、と歩く姿は幽鬼の如く。
 柳の下の幽霊でも、もっとマシな様相か。

 時代が違えば、異形と怪しまれ始末させられただろうか。真夜中に出歩いて不審者と扱われる事すらある。周辺家屋の子供達からはお化け屋敷と呼ばれる木造邸宅に、唯一人住んでいる青年を、誰も語ろうとはしない。

 (無理も、無い)

 ギシギシキシ、と黒く色の変わった木板を踏みながら、静かに思う。
 四音の風貌や態度を見て、親しく付き合おうとする住人は少なかった。元々周囲に人が住んでいない事も拍車を懸け、今では噂の種にまでなっている。警察沙汰に成っていないのは、学校での様子が拡散しているからだ。評判が、下降もしないが、上昇もしない。

 これで四音が、青春を満喫する爽やかな好青年だったのならば、話しは違ったのかもしれない。けれども、そんな事実とはかけ離れている事は、彼が己で承知している。

 「……は」

 掠れた、耳障りな笑い声が漏れる。
 慌てず、騒がず、冷静なままの行動を心がけ、静かに彼は歩く。自室から洗面所までの短い過程ですらも、蝕まれた体では苦しかった。慌てて行動した挙句、廊下の途中で斃れた事も有る。
 慎重を期すれば、日常が辛うじて遅れるのが、今の彼だ。

 洗面所の扉を開けて中に入った。

 所々が剥げかけたタイル張りの壁と、その中に備え付けられた洗面台。合成素材の筈の白い流しは、隅が黒ずみ、流れる水も仄暗さを感じさせる。届く筈の朝日が、陰影を生む。
 古いわけではない。しかし何故か、劣化している様に見える設備だった。

 洗面台の大鏡を見た。
 相変わらず、酷い顔だった。

 顔立ちだけで言えば、十分に美形と判断されるだろう。
 けれども、その顔は、何処か造り物めいていて、生気を感じさせない顔が有った。
 女子が羨む、肌理細やかな肌。けれども、その色は何処か不健康そうだった。

 「……まるで、死仮面、か」

 死者の顔を模ったデスマスク。それに良く似ている、と、彼の数少ない日常の関係者は語ったか。
 漆黒の、烏よりも深い艶やかな黒髪。長く伸びる毛は人間よりも人形の様だった。
 口紅を使用しているのでもないくせに、赤い、血が通う唯一の証明を示す唇が、白い顔に浮いている。

 「……確かに、な」

 鏡の中の瞳は、何も写していない。透明で、曖昧で、硝子玉の様な眼球。それが見ると言う行為意外に、その目が役目を果たした事が、過去にどれ程有っただろうか。
 女性に間違えられる事は無い、美人という表現が似合う己の顔が、仮面の表情意外を浮かべた事が、どれ程に多く有っただろうか。
 数少ない試みは、全て忘却の彼方だ。

 変えよう、と努力した事は有った。
 こんな自分が嫌だと、そう思った事が、有った。
 友人を造り、信頼出来る相手を生み出そうとした事が有った。

 けれども――――全てが無駄だった。

 だから、彼の顔には、無表情と、自嘲しか浮かばない。

 「……それならば、それで、良い」

 周囲に誰かがいる事は、もう、煩わしかった。
 己の心が矛盾している事は理解した上で、何も言う気が起きなかった。
 顔を洗い、古い木箪笥の中から乾いたタオルを取り出して拭う。丁寧に畳まれたタオルは、しかし温かくない。無機質だった。洗濯され、乾かされた筈の顔布巾ですら、その温もりを、多分、家の中に有った温かさと一緒に、置いてきていたのだろう。もう、慣れた感覚だ。
 感じる水の冷たさが、僅かに生の実感を思わせる。

 もう一度、鏡を見る。

 男らしさとは無縁の顔がある。美しいという形容詞が似合う顔だ。格好良くは無い。西洋彫刻か、美術のモデル人形か、あるいは死者の顔が、そのまま動いているかのような、顔だった。
 陶磁器の様な肌。蛇の様な瞳。目の下に有る微かな隈。
 床屋に行っても無駄な、長く長く伸びる腰まである髪。
 痩せた以上にやつれた、針金細工の様な姿形。
 それは、人間よりも、人間以外の何かを、思わせた。
 呟く。

 「……学校に、行こうか」




     ●




 外に出ると、春が近い事を思わせた。

 青い空の中に、小さな羊にも似た雲が浮いている。冬の間は裸だった木も、既に緑の新芽を出している。庭先に植えられた古い梅の花は、そろそろ良い感じに咲くのではないだろうか。
 世間では、三月と言えば出会いと別れの季節だと認識されている。其れは確かだ。間違いないだろう。

 木々や植物が新たに芽を吹かせるという現象は、再生と死の輪廻の一端だ。そして、成長と共に実行される行事も、その中に取り込まれている。
 例えば雛祭り、と語られる行事で会っても、その本質は変化しない。世間では、可愛らしい人形で、女子の健康と成長を祈る行事だ。女子達に、禍が襲いかかりません様に、と祈りを込めて行われる。
 言い換えれば、人間が受ける筈の災厄を、人形に肩代わりして貰おうと言う行事だ。
 古来より、人形は、人間に近いが故に、その穢れを背負わされていた。
 そして、背負ったまま、河に流され、黄泉へと消えていく事を、定められた。

 「……僕の厄は、除けない、んだろうな」

 河は、古来から、あの世へ通じる出入り口と看做されていたという。川の向こう。河の出口とは、世界各国で共通に、畏怖と恐怖の対象だったのだろう。だから、そう言う場所に、不吉を流してしまいましょう、というのが行事の基本理念なのだと言っても良い。

 御名方四音が、不吉な事は、誰にでもわかる。

 自分も同じ事が出来るのか、と昔、紙人形を購入して祀った後に流してみたが――――その結果は、判らない。彼には何の変化も無かったからだ。
 行動から三日後、下流で原因不明の水質汚染が発生し、かなりの魚が死んだ、というニュースが流れたが、果たして本当に、四音が「流し雛」を実行した結果なのかは、ついぞ明らかに成らなかった。

 あるいは、唯の偶然だったのかも知れない。
 ニュースを聞いて以来、二度と同じ行動をしないようにはしたが。

 過去を思い出し、居間に思いを馳せる。

 (――――眩しい、な)

 眩しかった。太陽の光以上に、周囲に有る生命力に充ち溢れた世界が、眩しかった。
 自分が外れていると、自覚する。

 良くドラマなどで、末期の患者が、外の木々を見て『あの木の葉が落ちる頃……』等と儚く悲嘆に暮れる光景が有る。けれど、アレでも十分に恵まれているではないか、と四音は思う。
 まず、病院に居る。次に、自分が死ぬまでの期間が分かっている。そして、大抵は、そんなヒロインを救う為に努力する、医者や見舞いの人間がいる。十分過ぎる程に、恵まれているではないか。

 そんな事にも成らず、何時死ぬかと恐々として過ごす人間が、此処に居ると言うのに。

 「……眩しい、なあ」

 目を細めて、呟く。
 一生懸命に、頑張って生命を芽吹かせている彼らが、羨ましかった。
 自分を追いぬいて行く子供や、擦れ違う犬の散歩をする老人や、変わらずに立ち続ける木々が、妬ましいと思えるほどに、彼の中には、生が無い。

 普通に日々を生きるだけがやっとの四音は、何も手に入れられない。
 体は動く。けれども体力は無い。
 意志は有る。けれども、決して報われる事は無い。
 行動の自由は有る。けれども、行使するだけの環境は存在しない。

 常に体の何処かに故障を抱える四音には、遠すぎる理想だった。




 学校は、近所に有る公立高校だった。諏訪清澄高校。特別に偏差値が高い訳でもなく、かといって進学が難しいほど低い訳ではない。トップクラスが旧帝大に入り、数年に一度、極希に最高学部レベルを受ける生徒が出現する、極々平凡な、何処にでも有る高校。

 立地条件や設備が良いとは言えない家だが、学校までの距離が近い事。徒歩三分で到達出来る事だけは、感謝出来るだろうか。まあ、その為だけで選んだのだし。

 今は弥生。三月。
 高校は、春休みの最中だ。
 けれども、生徒玄関の入口は開いている。

 玄関口の前には何台もの自動車が止まっている。普段は見られない。其処だけでなく、少し奥まった駐車場にも、かなりの数が停車していた。今日、新入生、新一年生達の行事が有る事は、知っていた。

 「おい、あれ御名方先輩……」

 静かに、そう告げる声を聞く。玄関前に待機している、新入生達を勧誘する部活動の一団からだった。各々が手にビラを持ち、横断幕と、倶楽部で使用する道具を手に、アピールを狙う算段なのだろう。

 横目で見て、通り過ぎる。

 ざわ、と一瞬だけ集団がざわめく。四音は自覚していた。己の風貌は異質であると言う事もそうだが、纏う空気が他者と隔絶している事を、十分に知っている。だから、何も気にする事無く、通り過ぎる。

 ――――ざわり、と。

 風が吹いた。春の中に有る、暖かな風だ。花の香りを薫らせる風だった。
 その風が、髪を掻き乱す。彼を翻弄し、弄ぶかのように、大きく。

 「……うわ、すげえ」

 そう呟いたのは、誰だったか。
 四音の長い髪を、大きく揺らし、その身を包む様に流れ行く。
 針金細工にも似た細い体を包むのは、学園の制服の筈だった。
 けれども、彼らは、其れを別のモノに幻視する。
 仮面の様な無表情と相待ったその光景は、普段は苦手意識を持つ一般生徒達すらも怯ませるだけの、独特の華のある光景だった。
 それも、何処か背筋に寒気を覚える、不吉さと共に訪れる、退廃の華だった。

 ぞくり、と背筋に寒気が走った。

 「……怖いよ」

 ポツリ、と女生徒が呟いた。四音は確かに美人だった。けれども、其れが、怖い。
 其処に存在する、御名方四音という男が――――まるで幻か、想念かと、錯覚する程に。

 人間味よりも先に、近寄りがたさを思わせる。
 人形が動いている。あるいは、幽霊が実態化している。その方が、遥かに似合う表現だろうか。

 その時、その一瞬。確かに露呈していたのだ。その身体から見える儚さ以上に、普段は隠される、彼の身に起きている、おぞましさが。

 其れを気にもかけず、彼は静かに校舎に入ると、そのまま廊下を歩いて、目的地を目指す。
 鉄筋コンクリートと化学素材で造られた校舎の中。こつり、こつり、と歩く彼の足音が反響する。新入生たちは何処か別の場所に集まっているのだろう。休日の校舎は静かだ。

 その中を歩く一定の間隔は狂わない。乱れた時は、四音が倒れる時だった。
 無機質な空気のまま、彼は一回の奥まった一角へ辿り着く。図書館と放送室に程近い、大きな鍵が付けられた扉。硝子窓には無数のポスターが貼られ、敢えて室内の様子を伺わせる事を封じている、その部屋。
 扉を開こうとして、錆びついた南京錠は、既に開いている事に、気が付く。

 「おはよう、生徒会長」

 生徒会室には、先客がいた。




     ●




 「シケた面をしているな。病みっぷりは顕在か?」

 「……お早うございます。水鳥先生」

 静かに返す四音に、尊大な態度で、教師は笑いかける。
 彼女は、数少ない四音の顔馴染みだった。傲岸不遜で、偉そうで、尊大で、常に態度を変えない女性教師。乱暴では無いのに、何処か雑な印象を受ける口調と、眼鏡と煙草が特徴。

 名前を、水鳥楠穫(みずどり・くすか)。

 専門は社会科地理学。役職は、生徒会顧問。
 美人だが、口元の不敵な笑みが美貌を打ち壊し、瞳に除く子供の様な破天荒さが、別の変わった魅力を引き出している。気真面目な生徒からは嫌われているが、総合人気も、決して悪くは無い。

 広い生徒会室に二人きりと言う状態だが、四音は別に、何も感じない。
 美人な顔など見飽きている。ナルシストを気取るつもりは更々なかったが、毎朝毎晩、鏡で己の顔を見ているのだ。今迄、美人に対面して、特に心が揺れる事は無かった程だ。

 「ああ、その空っ風の様な声を聞くと安心するぞ。相変わらずの不健康さ。……全く、家で寝ていれば良いものを。其れが出来ないお前に同情する」

 ふ、と笑いながら、彼女は懐から煙草を出す。生徒会室も校舎内も禁煙だと言う事は理解しているらしいが、口元が寂しいらしく、火の付いていない咥え煙草で居る事も多かった。
 煙に関しても、変な耐性が有るから、気に成らない。

 「休日だと言うのに、お前も御苦労だな。そんなに寝る事が嫌か?」

 「ええ」

 即刻に。
 即効で。
 四音は、返事を返す。

 毎日、瞼を閉じる度に、彼は悪夢に苛まされる。

 精神は肉体を蝕み、悪夢は健康を蝕む。休まない体は持病持ちの体に拍車を懸け、休まない心は常にささくれ立つ。睡眠による安寧が存在しない以上、彼に安息は存在しない。
 ならば、気を紛らわす為にも、こうして学校で仕事をしている方が、気楽と言う物だ。

 「……まあ、お前が良いならば良いがな」

 そう言って、四音が来てから中断していた読書を再開する。地理教師と言う事は知っているが、世界の海図や地図を読んで何が楽しいのだろう。謎だ、と思っているが、他者の趣味に口は出さない。
 この水鳥と言う教師は、何をトチ狂っているのか、生徒会室に私物を持ち込んでいる。そして、大抵はこの部屋で時間を潰している。教師としての仕事を何時こなしているのか、職員棟の机を見ても、今一、明らかではない。だが、授業は上手い。

 頭の中で考えながら、彼は生徒会長と書かれた椅子に座り、軽い鞄の中から筆記用具を取り出す。筆記具、といっても昔懐かしい鉛筆だ。しかも手で削って使用するタイプである。鞄の中はスカスカで、最低限の物しか入っていない。持ち運べないからだ。
 木造りの堅めの鉛筆。キチキチ、とカッターの刃を伸ばして、静かに鉛筆を削る行為が、彼の数少ない安息の時間だった。自傷行為の代替なのかもしれない。

 周囲は、不気味だ、といって近寄らないが。
 まるで呪いを刻んでいる様に見えるのだそうだ。

 「…………」

 生徒会役員は、彼以外には存在しない。
 昨年度までは確かに、彼の上役がいた。しかし、年の移り変わりと共に人数は消え、今年の春以降は誰かを加入させない限り、仕事を彼が一手に引き受ける事と成る。

 それでも良いか、と四音は思っている。

 昨年の生徒会の“終わり方”が、どんな悲惨な物だったのかを知っている四音にしてみれば、誰かが入って来て、同じ思いをするのは懲り懲りだった。
 どうせ時間は山ほどある。まともに授業に出席すら出来ない四音は、追試扱いのレポート提出と、毎回の考査での学年トップを条件に、生徒会室での自習を認められている。毎日毎日、休むことなく、生徒会室で雑務をこなし、序に授業を片付ける。
 それが、精一杯なのだ。
 それ以上は、体が、持たない。
 学校に来る事が出来ない、正月と長期休暇を彼ほどに嫌う生徒も、少ないのではないだろうか。

 「…………」

 何十枚も存在する書類の束を読み取り、整理し、判子とサインを印し、分割する。こうして只管に雑務に追われ、頭の中を空にしている最中は、余計な事を考えなくてすむのだ。

 己を襲う、あの深い夢を、思う必要が無い。
 ただ虚ろに広がる、自宅で過ごす必要が無い。

 過ごしているだけで、何かが迫る感覚を、感じないで済む。
 広いが故の圧迫感を、まるで夢が現実に成る様に、感じないで済む。

 「…………コピー用紙が、切れていたか」

 そういえば、と昨日の記憶を探る。

 生徒会に備え付けの最新式は、昨年に購入したものだった。多機能を有する便利なアイテムだが、コンセントとの接触や内部基盤の調子が悪いせいか、中々上手に動いてくれない。その為、他所のコピー機を借りる事も多かった。
 機械内に常駐させるべきコピー用紙も、お陰で用紙切れに気が付かない事も多い。昨日の仕事で使用して、それで気が付いたが、補充をしないままだった。

 「…………」

 教師はと言えば、何が楽しいのか古代の航海図のページを眺め、歴史的有名な航路を指でなぞって悦に入っている。気持ち悪い女だ。
 車の運転を始め、重要書類の確認や許可証等。彼女にしか出来ない事は普通にやってくれるが、それ以外の部分で手を貸す事は無い。昨年からずっと、この教師のスタンスはそうだった。今、コピー用紙を取りに行ってはくれないだろう。

 ふ、と呼吸が整っている事を確認した上で、四音は立ち上がり、備品庫の鍵を取った。




     ●




 どんなに注意をしても、其れが無意味な事は有る。
 どれ程に気を払っていても、唐突に降りかかる災厄から逃れる事は難しい。

 いや、逃れる事が不可能な事象と違い、偶然が作用するだけ、あるいは残酷なのかも知れない。
 諦められない、一縷の希望が、常に目の前を彷徨うと言う事なのだから。


 それは、まさに運命の様に。


 コピー用紙を入手した四音は、生徒会室へ向かう途中、誰かと衝突をした。
 場所は、備品庫との丁度、中間地点。
 前方不注意での相手は、貧弱だった四音を跳ね飛ばした。
 倒れる彼を、彼女の腕が掴み、しかし堪え切れはしなかった。


 曲がり角で誰かに衝突する現象は、ある意味、恋愛物語の王道とも言えるイベントだろう。


 言い換えれば。
 言い換えるのならば、御名方四音の運命は、この時に、大きく形を変えたのだ。



 「……あの、大丈夫ですか?」



 倒れた四音の目の前には、己に覆いかぶさる格好の女生徒を見た。
 どうやら、衝突した瞬間に相手は、自分の上に倒れ込んで来たらしい。
 来ている衣服は制服。糊の張り具合を見ても、新入生なのだろう。迷いやすい校舎だから、ふらり、と誰かが己の位置を見失っても、不思議ではない。



 両者が接触した事は、何処までが世界の掌の上だったのだろう。



 廊下の上に、放射状に広がる黒い髪。
 響く声や足音も、何処か遠く。
 押し倒される格好のまま、頭元に転がるコピー用紙を気にする事も無く。
 白皙の美貌を持つ、仮面の表情の青年は、己の上に乗る少女を見た。
 滅多な事では他者の顔に反応しない彼が、この時だけは、動きを止めていた。

 整った顔立ちの少女を見る。
 染めているのか、何処か濃淡が有る黒い髪と、誤魔化しきれていない、黒では無い瞳。
 長い髪には、大切に扱われている事が分かる、蛙の髪飾りと、蛇の髪留めが有った。

 「……ああ。大丈夫だ」

 口から出た言葉は、意外なほどに、穏やかだった。






 これが、始まり。

 これが、二人の最初の遭遇。

 これが、後に洩矢神社の過去から未来までを巻き込む、物語のプロローグ。

 この世界の主役足る、二人の男女の、ファーストコンタクトだった。






 少女の名を、東風谷早苗と言う。














 (2010年11月13日投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 序の三 卯月
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/01/18 23:01

 異人ミナカタと風祝 序の三 卯月






 僕は毎日、夢を見る。
 今日も昨日も明日も、生まれてから死ぬまで、きっと変わらない。




 悪夢は、生きながらにして蟲毒の中に投げ入れられ、内臓を喰い荒される夢だった。
 気色悪さに嘔吐感を覚えて眼を覚まし、飛び起きる事も叶わない、動かない体を総動員させ、洗面所へ向かい、腹の中の物を全て吐き出した。普段通りの最悪な目覚めだ。
 噎せ、消化された夕食と胃液を全て戻してしまう。中に混ざっている赤色は血だ。
 一時、内容物を排出した後、そのまま、ズルリと僕は床に座り込んだ。脚が動かない。ほんの少し走っただけで、息が乱れて歩行すらも困難だ。全身を末期癌に犯された患者並みに体が弱っている。これで死ねないから、性質が悪い。

 くそ、と誰にともなく毒付く。座り込んで五分は経っただろうか。口を濯ぎ、寝間着を貼り付かせるすっかり冷え切った汗を、タオルで拭う。温かみの無い、清潔なだけのタオルだった。
 ようやっとで立ち上がる。起き上がり、壁に手を付いて来た道を戻って自室へ踏み込んだ。

 そして畳の上に、巨大な蛙を見た。

 「…………」

 軽く息を吐き、静かに敷いた布団を畳む。三つ折りにし、枕と掛け布団をセットに、部屋の隅へと置いておく。そうして全貌を露わすのが、巨大な蛙。

 蛙のように見える、黒く変色した染みだ。
 両手両足を投げ出した、上からの重さで潰された標本の様な染みが、畳の上に広がっている。寝汗であったり、汚れであったりする訳ではない。
 どす黒い、まるで負の感情が形に成ったかのような、見る物を不安で不快にさせる色合いだ。

 常に僕の布団の真下には、この染みが出現する。何をしても、必ずだ。悪夢を見た後に、まるで悪夢が形に成ったかのように、この染みは湧き出て、そして消える。
 そして、僕以外の人間がこれに関わると、必ずと言って良い程に、彼らに災厄を振りまいて行くのだ。
 だから僕は、この家以外の場所で休む事を、極力止めていた。




 その昔。
 小学三年生で、学校で海へ行った臨海学校の日も、そうだ。体調不良で休む筈が、当時の教師が少しでも良いから、と無理に参加させてしまい、僕は二泊三日の学業に駆り出される事と成った。
 場所が変化したとしても、何も変わりはしない。家から遠く離れた新潟の宿泊施設でも、当然の如く悪夢は僕を苛み、そして僕の真下に蛙模様は出現した。
 小学生の布団の真下だ。僕が何か粗相をした訳でもないが、当然の如く噂に成り、二日目の朝以降、僕は周囲の絶好のからかいの的に成った。

 そう。それだけならば、まだ良かったのだ。
 それだけで済まない事態が起きた、それだけである。

 その日の午前、僕をからかっていた男子生徒の一人が、雀蜂に刺されてアナフィラキシーを発症し、病院へ運ばれた(幸い命は無事だった)。
 その日の午後、僕をからかっていた男子生徒の一人が、急な高熱で寝込んだ。泳いでいる途中に飲んだ海水に中った急性胃腸炎だった。
 その日の夜中、僕をからかっていた男子生徒の一人が、階段から落ちて骨折した。偶然に階段近くで足を滑らせたそうだ。

 僕は、外見上は沈鬱そうな顔のまま、内心ではせせら笑っていた。可哀想に、と思いながら、やっぱりそうなったじゃないか、と嘲っていたのだ。連中をではない。他ならぬ、自分自身をだ。

 僕は言ったのだ。確かに、教師達に、僕を連行してもロクな事に成らないと。
 それでも、何かあったら返すから、とおせっかいな……ある意味では人格者な教師が、僕を牽引したのだ。無論、あの教師が悪い訳ではない。原因は僕なのだ。
 多発した事故に、当時の担任達は少しだけ責任を問われ、結果として給料に響いたらしいが、――――まあ、僕には興味の無い話である。

 因みに帰還した僕達は――臨海学校から帰った次の日。宿泊施設の二階ベランダの柵が壊れて、清掃中のオーナーが怪我をした事を知った。
 そして更にその三日後、泳いだ海は突如発生した赤潮が漁業に大ダメージを与えたそうだ。不況に喘ぎ、かなりの赤字が出たらしいが――ここまでくれば何処までが僕の影響なのか分かった物では無い。ただの偶然の可能性もある。
 ただ、多分原因が僕に有るだろう、と自覚していた。

 臨海学校だけならば、まだ、良かったのだろう。翌年の高原学校(つまり山だ。例の如く休みたかったが、休ませて貰えなかった。学習して欲しかった)に置いては、何と市街に野生の熊が出没し、市民に怪我人が出た。行動は急遽に取りやめ。熊は猟友会に射殺された。
 その帰宅途中に今度は、僕を含めた生徒達を乗せたバスは交通事故に巻き込まれた。僕やクラスの面々に被害は出なかったが、バスに突っ込んで来た、車を運転していた若い男は死んだそうである。
 尚、バスの振動と温かさに、つい一瞬だけ眠ってしまった僕の座席には、これまた巨大な蛙が浮かび上がっていた事を追記しておこう。

 まだまだ、僕が外に出る事を好まない原因に成った事例は山ほどあるのだが――――兎に角、僕はこの二つのイベント以降、決して他者の傍で眠る事は無かった。家を出る事すらもなるべく減らした。

 自然と僕は、学校やクラスで孤立していった。
 けれども、其れを苦に思った事はない。僕が一番苦にするのは、苛むあの悪夢なのだから。

 学校の宿泊行事は全て欠席。修学旅行すらも休んだ。因みに、中学校の修学旅行は台湾だったのだが……飛行機の中やホテルで眠って、何が起きるか予想が出来なかった物である。
 後に知ったが、実は僕達が泊まるホテルのすぐ傍で、政治活動に勤しむ青年団が、突然に公安当局と騒動を発生させたらしい。僕が同行したら、きっと誰かが巻き込まれたのだろう。

 帰りの飛行機では幸い何もなかったらしいが、僕が強引に連れて行かれた出迎え先では、何と麻薬密売人とGメンとの大盗り物劇が演じられ、空港はパニックに陥った。そして僕以外の生徒の全員が、その混乱に巻き込まれた。
 僕? 不自然な程に人気のなく無った空間で、静かに騒動を眺めていただけである。どさくさに紛れて鞄や金を盗まれた者もいたらしいが、僕は傷一つ処か、被害一つ、無かった。

 ……流石に、こんな事件ばかり頻発すれば、誰でも気が付く。
 嫌が応にも不安は高まり、疑心と成って口に出る。

 『御名方四音は、疫病神なのだ』と。
 『あの男は、不幸を呼びよせるのだ』――と。

 大っぴらに言われる事は無かったが、小学校・中学校と、影でそう語られていた事を、僕は知っている。僕自身、自分のこの体質にそう名付けていた位だったからだ。他から見れば、さぞかし関わり難かっただろう。
 自発的に表に出ない僕の事を、心の底では有り難がっていたに違いない。

 中学校に入学し、その暗さから、今度は陰湿な虐めの対象に成ったが。……僕に手を出した連中が、三日後、流行り風邪で一斉に学校を休んだ事件を切欠に、いよいよ僕は本気で危険だと認識された。

 以降、僕に近寄る人間はいなかった。
 誰もが僕を見ない様に接し――――否、中には物好きにも、好奇心と共に僕と交流した者もいるが、彼らは皆、揃って事故か、転校かの憂き目に遭い……結局、誰も僕の傍には残っていなかった。




 そんな事を思い出しながら、僕は大きな柱時計を確認した。午前六時半。太陽が昇って間も無い時間だが、早起きの主婦は既に動き始めている頃間だろうか。

 今日は――――学校に行く用事が有る。大事な用事だ。生徒会長としては外してはならない用事。僕が、生徒会と言う僕の領域で過ごす為に、余所から口を出されない為にも完遂させねばいけない義務だ。

 食欲はない。冷蔵庫までを、夢遊病患者の如くに動き、中のゼリー飲料を嚥下する。冷蔵庫の中には、殆ど携帯食しか入っていない。因みに、そんなゼリー飲料の口を開ける事にすらも苦労するのが僕だ。如何に貧弱なのか、それだけで分かってくれるのではないだろうか。
 ぽい、と同じパッケージばかりが覗くゴミ箱に空のパックを投げ入れて、部屋に戻る。

 寝室に隣接した畳敷きの十二畳間。自室として使っているその部屋の壁に掛かる、ごく普通の制服へと着替えた。箪笥の中には、同じ服が三十位揃っている。洗う事すら面倒だからだ。因みに、肌を晒せないので夏でも冬でも長袖である。
 三、四分を使い、かっちりと、隙なく身に付ける。容姿に拘りはしないが……それでも静かな生活を送る為には、人の噂話の原因は極力取り除くべきなのだ。

 僕は、他者を捨てた。他者と関わる事を、止めたのだ。そんな僕が、眼を気にする事を意外と思うかもしれない。けれど、これはもう、幼い昔からずっと変わらない、日頃の一部だ。
 最低限の事も出来ない人間と思われれば、入って欲しくない茶々が入るに決まっているのだから。

 高校を選んだ理由だって、家のすぐ傍だったからだ。求める物は何もなく、唯、他者との関係を拒絶し、全てを排除したままの生活を、僕は送っていた。




 けれども、東風谷早苗と出会って、それが狂った。
 それが良かった事か、それとも悪かったのか。
 僕には、解らないとしか言いようが無い。
 彼女にとっては、如何なのだろう?




     ●




 正直に言えば高校生活に憧れなど、一切、持っていなかった。

 別に家に閉じ籠っていても良かったのだ。金は有るし、生きて行くスキルは有る。けれども、世間体が有るし、遺産だって無限ではなかった。何か職を手にして、自活を出来る耐性を整えない限り――――仮に、自分が、誰とも関わらずに生きることを決めたとしても、障害が有った。

 僕の書類上の保護者である遠い親戚(祖父の兄妹の息子、である)は、僕では無く、背後の遺産が目当てだった。僕が生きて居る限りびた一文彼らの利益には成らない。故に保護者を名乗り出て、監督責任として入手しようとしていたのである。
 幾ら人との接触を絶っていた僕であっても、僕はその程度、十分に見通せていた。

 その癖、僕を恐れて近寄ろうともしない。だから僕には如何でも良い存在だった。生きようが死のうが知ったこっちゃない。感情を殆ど向けもせず、ただの道具としてしか見なしていなかった。
 因みに、進学に関しては僕が成人し、彼らに多少、今迄の礼も兼ねて、遺産を渡す事に成ったとして――――その量を、少しでも減らしてやろうかと思った部分も有る。
 確かに、仮に大検を受けるにしても勉強期間は必要だったのだ。家から歩いて五分の高校は、幸いにも進学校だった。だから、進学の意志を示して、必要事項を保護者に郵送して印鑑を貰った。

 そうして、何の感慨も無く、目標は愚か、生活の目的すらも無く、ただ虚ろに僕は進学したのである。




 高校は――――当たり前だが、小学校・中学校の同級生が多かった。

 その日の事は、よく覚えている。
 新入生代表として、壇上へ僕が向かった時、新入生達の何割かは、確実に息を飲んだ。
 そして、事情を知らない他学区からの生徒達に、僕に纏わる不吉な逸話を、囁きながらも語り聞かせていた。内容までは届かなかったが、何を言っていたのかは敢えて言うまでも無い。根も葉も有る、心辺りが有り過ぎる流言飛語だ。

 代表挨拶、と聞くと凄そうに聞こえるかも知れないが、僕は勉強する時間だけは有ったのだ。
 幸い、臥せりながらも教科書を眺めていれば、それで記憶に入った。お陰で学年の主席。偏差値で75を割った事はない。欠席の代価を、成績で払っていたとも言える。肉体の脆弱さの代わりか、頭だけは優れていた。

 羨ましい、と言った同級生となる柄の悪い、中学時代に僕に手を出していた奴には、小さく呪詛の言葉を囁いてやった。勿論ただの冗談だ。顔を真っ青にした彼が、何処まで本気に受け取ったかは不明だが。

 入学式の中で、僕はやはり、一人だけ浮いていた。
 細身の体型も、長い髪も、男にしては珍しいというだけの物だろう。だけれども僕は、自分の空気を把握していた。立ち上がった僕を見て、確実に何割かは恐れたに違いない。

 体育館に整然と並ぶ椅子が僕の両脇に、道を譲るかのように伸び、その先には新入生代表挨拶の為のマイクが置かれていた。表情を変えず、昇り、正面に立つ学校長に向かい有った。

 『薫風と共に訪れた春の日差しは――――』

 丁寧な動きで、尤もらしい言葉を語り始めた僕だが、頭は、語るべき内容など、追ってはいなかった。
 僕が起した行動は、唯の演技で、今後の高校生活を円滑に過ごす為の、唯のカモフラージュに過ぎなかったのだ。

 多少、態度や内申や出席率が悪くても、文句を言わせない圧倒的な頭脳が有れば――それで社会で過ごす事は出来る。生きて行くには困らない。
 そして学校としては、成績に問題が無く、進学に支障が無いならば、学校に箔が付くレベルの人材ならば大きな事は言ってこない。名門私立なら兎も角、普通はそう言うものだ。

 捻くれている、と人は言うだろう。ああ、勿論だ、僕の心は歪んでいるという自覚が有る。他者に言われるまでも無く、十分に子供の頃から知っていたともさ。




 毎日毎日、自分が殺される夢を、三百六十五日休みなく見続け、しかも自殺や鬱病を発症しない、ギリギリの状態で“生かされ続けている”事を覚っていれば……それで、心が歪まない方が、変だろう?




 原因不明の病魔に苛まされ、高価な薬でも完治は出来ず、体力も無ければ、助けてくれる家族や友人も無い。有るのは、死にそうな自分しかいない家と、勉強は出来ても答えが出せない頭だけだ。

 『今日、此処に入学出来る事を心より誇らしく――――』

 そんな言葉も、所詮は建て前でしか無かった事に、果たして誰が何処まで、気が付いていただろう。
 口から勝手に出て来る言葉に、感情など何もない。

 態度も感情も口調も、心の全てに蓋をして生きている。
 蓋をして、表に出せない、出す事が出来ない感情を抑え込んで生きているのだ。

 『――――新入生代表・御名方四音』

 そう、挨拶の言葉を締め括った時にも、感慨など何も湧かなかった。ああ、これで仕事が終わった、と事務的に感じただけだ。退席している時も、その最中に感じる視線も、ただ無視した。
 態度の悪い奴だと……周囲で言われたかも知れない。だが、面と向かって言えない相手には、何も思わない。面と向かって行って来る相手は突き放す。それが、一番、楽なのだ。

 僕の人生は、それで良い。
 僕はそもそも、生きる意味すらも見失っているのだから。




     ●




 抱えていた物は、停滞か、諦観か。
 僕は自分の心の中に眠っていた感情を、把握出来ていなかった。
 僕の心が、どうすれば動くのか、どうすれば癒されるのか、全く、微塵も、想像が付かなかった。

 学生らしく自分の内面に問いかけて、心の中に眠る感情が、どうすれば動くのか、どうすれば発露してくれるのかを黙考した事も有る。ただ、本当に何も判らなかったのだ。

 辛いと言って、それをどうやって解決すれば良いのか、分からない。
 苦しいと言って、それをどうやって直せば良いのか、分からない。
 何をしても響かない想いを、如何すれば動かせるのかが、一切分からなかった。
 人に触れた感覚や、慰められた経験すらも、遠く見えない過去の記憶だった。だから、僕は心が如何すれば動くのかが、把握出来ていなかった。

 (そうして……高校に入ったが)

 別に、今迄と何も変化が無かった。年が変わって、髪が伸びて、体が育っただけだ。授業も適当に出席し、文句のつけようのない成績を叩きだすことで不平不満を圧殺していた。
 さぞかし扱いにくい、嫌な生徒だっただろう。

 淡々と、ただ無表情に、礼節だけは守り、そして誰とも関わらない。そうして、僕は顔だけは有名で――――その実、誰も関わらない、誰も踏み込ませない、そんな立場を構築していた。
 成績の裏に隠れ、介入されない立場を生み出してきた。厄介事を引き受ける様に、一番に事務仕事で何とかなるだろう生徒会へ所属する事で、クラブ活動からの勧誘を断っていた。

 味気ない、と人は言うが、余計なおせっかいである。僕は僕なりに行動しているのだ。
 そんな中でも、無論……僕に、関わった人が皆無な訳ではない。二年間で、僕に接触して来た人々もいた。しかし、その蓋を開けた人達が、どんな末路を辿ったのかを、僕は良く知っている。

 彼らは、あるいは彼女達は、決して悪人では無く、むしろ僕より遥かに人格者だったが……まあ、今は何が有ったかは語るまい。だが、良くも悪くも彼らはまともで普通だったのだ。僕に世話を焼いた結果、不運な事に、かなりのダメージを受けていった。
 そして、学校を去った。
 珍しくも僕の記憶の中に、小さな棘として残っている事実である。




 そして――――それから多少の時が経過して。色々有りつつも、僕は生徒会長の座に付きながら、日々を送っているという訳だ。




     ●




 学校内で、少し変わった少女と追突し、僅かだけ会話をした、何日か後の事。
 虫に内臓を貪られる悪夢の、午前中の事。

 僕は唯一の生徒会役員にして生徒会長として、新入生達への前に立っていた。懐から出して読み上げるのは、新入生達への答辞だ。数年前、入学して来た時と同じ様に――――ただ仮面で表情を覆い、淡々と、“それらしく”詠みあげる。

 昔から、人の中では演技で過ごしてきた。
 いや、家の中にも、話す相手すらいないのだ。本音を語れる相手は、肉親から何から、既に僕は持っていない。結局、心が動く事は何時何処でも、ないのだろう。
 言葉を贈り終え、静かに目前に並ぶ生徒達を見る。

 そして、気が付いた。
 目線の先に、一人の少女がいる。

 (……ああ、アレが、この前の彼女か)

 染めているのだろう黒の髪に、同じく敢えて隠してある瞳の色。制服を纏った普通の少女だが、普通ではないと、僕は読みとっていた。見れば分かる。彼女一人だけ、妙に空気が違うのだ。
 僕とは真逆。
 忌み嫌われる穢れが僕ならば、彼女は清涼だろう。

 不思議な感覚だった。
 並ぶ生徒達の数は、軽く見積もっても二百人を超している。その中で、何故か、彼女の存在だけが見えた。まるで僕の目が、その場所に吸い寄せられるように、す、と少女を捉えていたのだ。




 僕の心が動いたのか? と問いかければ、答えは……イエス、だろう。

 百の中の一だろうが、コンマ一以下だろうが、ゼロでは無いのだから。




 ほんの僅かな、僕の知らない相手への、感情の針だ。
 ふと、それを自覚する。まさか、この年で色恋沙汰だとは考えない。心が動いた理由も不明なのだ。そもそも、数日前に接触しただけの関係に――――違いないのだから。

 送辞を教壇の上に載せ、ステージから降りる。新入生達の脇、教職員が並ぶ椅子の片隅が、僕の場所だった。呼吸を整えたまま、足並みを崩さす、静かに戻る。こんな僅かな挙動ですら、下手を打つと体に響くのだ。

 静かに席に腰を下ろした後に、思わず、笑ってしまった。
 鏡が有れば、きっと自虐的な、自分を嘲る様な、笑顔を見る事が出来たに違いない。

 (……は、は)

 あの夢が、僕を苛まない日は無い。
 例え何が有ろうとも、あの蛙は必ず僕に、付き纏う。
 そして、体と心を壊していく。
 呪いや、祟り、そんな言葉が最も似合うだろう――――この苦痛。
 自殺衝動に成らないのが、不思議なくらいだ。

 (……神の玩具か)

 情けなくて、嫌になるとも。
 自分は所詮、この悪夢からは抜け出せないのだ。

 (祟り神、か)

 そんな物に出てこられては、如何にもならない。
 神様相手など、お手上げだ。




 神で、蛙。この諏訪の地に住む者ならば、蛙と聞いて、まずミシャグチを思い浮かべるだろう。

 ミシャグチ様。
 嘗て、軍神タケミナカタこと、建御名神に土地を征服された土着神。

 葦原中国を負われた軍神が、自分を負いだした連中と同じ様に、土着神を攻め落とし支配し、そして追いやられた非業にして悲惨な神。
 ミシャグチ神。ミシャグジとも、ミサグジ、ミシャグンシンとも、あるいは字をあてて、御社宮司、御射軍神、御佐口神や、御作神という表記もある。風変わりな所では、み、の発音が抜けて、石神、尺神、裂口、赤虵といった漢字も使われていた。
 字から見える通り、口が大きく裂けた生物の化身。つまり、爬虫類系統をシンボルに持つ神だ。ミシャグチの「赤虵」とは、そのまま読んで“ジャ”。つまり蛇である。
 最も、建御名方神のシンボルも又、蛇なので、蛇に負けたことから蛙と示されているのだが。

 (……は)

 最初に夢の中に蛙が出て来た、記憶の曖昧な程に幼い頃から――――もう十五年は経過している。いや、本当はもっと昔から、其れこそ母親の胎内で居た頃から見ていた可能性すらも有る。
 その時間の中で、自分で解明しよう、解決しようと、調べてみた事も有る。その結果、ミシャグチへと到達するまでに長い時間は掛からなかった。当たり前だ。出生地の伝承である。

 だが、それだけだ。
 ミシャグチが神であり、恐ろしい怨念を有しており、祟り神であると知って――――知った所で、それが何にも成らなかった。何も、変化など無かったのだ。理由は愚か、原因も、見えなかった。

 オカルトの解決方法など、この現代では残っていない。
 洩矢神社に参拝して、平癒を祈願した事も有った。だが、祈ると余計に酷くなった。大社の中に、僕を虐める元凶が潜んでいるのではと勘繰った位だ。結局、その日以来、僕は年末年始に参拝する事すらも止めている。

 あの夢の中に出会う存在に、ミシャグチが関わっていると“仮定”したとしても、それは、僕には何の意味も無い。


 僕にとっては何の価値も無く、解決の手がかりにすら、成らなかった。
 僕にとっての救いとは、この苦痛から逃れ、解放される事なのだ。
 この身を自身で殺めるのも、そう遠くない日に違いない。




 「……っ」

 夢の記憶を思い出して、気分が悪くなった。思わず口元を押さえて、吐き気を堪える。
 流石に入学式の間に倒れる様な、そんな無様な真似をするつもりはない。

 「……御名方、大丈夫か」

 小声で、隣に座っていた水鳥楠穫が囁いた。流石に今日は私服では無く、フォーマルなスーツだ。格好だけ見れば、さぞかし仕事が出来そうな教師で、無駄に似合っているのが腹立たしい。
 外見と人格には何の関係も無い、と言う格好の証明だろう。

 「……ええ」

 だが、この生徒会顧問は、非常識な部分さえ除けば、信用度も信頼度も非常に高い。僕を相手に、付かず離れず、絶妙な距離感で、しかも完璧な対応で関わる存在など、彼女以外には僕は知らなかった。
 もっと言ってしまえば――――曲がりなりとも僕が生徒会に所属し、まだ普通の生活を送る事が出来るのは、この水鳥楠穫という存在の影響がかなり大きい。変人で非常識だが、得難い相手なのだ。

 「これから、新入生代表が挨拶する。抜け出るなら、終わったその瞬間だ」

 「……ええ」

 小声のやり取りを、其処で終える。少し離れた席から他の教諭の目線が向いていた。
 水鳥楠穫も、色々と苦労が多いらしい。生徒に人気は有るが、学校側からは厄介者として見られているらしい。有能なのだが、それとこれは別なのだろう。

 『――――新入生代表・東風谷早苗さん』

 そう名前を呼ばれ、はい、と静かに立ち上がった少女の姿を遠くから見る。
 あの少女だった。僕が接触した、そして先程眼で捉えた、真逆の存在。周囲に、自分の時と別の、息をのむ音がした。名前を、東風谷早苗、と言うらしい。

 (東風谷、……ね)

 そうか、と思った。あの周囲と違う雰囲気もそれで分かった。東風谷の名前を、この地で知らない人間はいない。いたらモグリだ。

 洩矢神社の大祝。洩矢上社の五官「神長官」の役職に付く東風谷家。その一人娘が、彼女なのだ。感心すると同時に、僕は自分の立場を顧みて、自嘲する。僕とは大違いだ。

 『――――木々の新芽も花開く春の中、今日この入学式を迎える私達は』

 僕を初め、静かな、しかし僕よりも遥かに生気の充実した声が、拡声器を通して響いていった。隣席の水鳥教諭も又、感心したように頷いていた。この女、人を見る目は確かである。
 そんな時、だ。




 ふと、違和感を得た。
 最初は、何か――――分からなかった。



 大きくない声は、……何故だろう。僕の中を、僅かに、掻き乱した。
 トクン、と動く心臓の音が、気が付いたら、大きく成っていた。

 (……あ)

 興奮、か。あるいは緊張か。
 何か、大きく心が揺れ動いた相手への想いであると、その時は気が付かなかった。

 (あ、れ?)

 その時初めて、自分が、今迄に無いほどに――――心が悲鳴を上げている事に、気が付いた。
 悲鳴なのか、歓喜なのか、直ぐに分からなかった。
 区別が出来ないほどに、久方ぶりの感覚だったのだ。

 何だろう、この感覚は。
 こんな、まるで自分の目的を見つけたかのような、この拍動は、なんだ。
 まるで世界の中に、自分だけしか存在しないような感覚。
 自分の中の、分からない何かが、一つの形に成った瞬間だった。

 トクン、トクン、トクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクドクドクドクドクドク、と動悸が激しく。まるで心臓が意志を持つかのように跳ね上がり、血流と共に、不快感が覆い尽くす。
 まるで肌の上を無数の虫が這っているかの様な、寒気と嫌悪感。髪と肌が逆立ち、目の前に闇が広がり、そして悪夢がこの場に実態を齎すかのように、蘇った。




 その時、答辞の紙を携えるその少女に、夢の中の少女を重ねたのは、偶然では無かったと信じたい。




 僕は確かに、夢を見た。
 あの悪夢が脳裏に蘇った。
 そして、まるで一枚の絵の色が変化するかのように、記憶の中の全てが、彼女と重なって行った。

 手紙を読み上げる口が、夢の中の少女の声に重なった。
 書を支える腕に、僕の首を抱えた少女の腕を見た。
 その立ち姿に、僕を狂った瞳で見る、蛙帽子の少女の姿を幻視した。

 理屈では、言えなかったのだ。何故か、等と言う理由は存在しない。だが、確かに僕はその時、知った。
 否、知ったのではない。識った、と書く方が正しいのだろう。感覚や空気や、そう言った物を超越した、第六感――――いいや、もっと大きな、言葉で言えない確信を得た。
 絶対にそうだ、と理屈なく、理由なく、心の中から完璧に、覚ってしまった。




 東風谷早苗と言う存在が、夢の中の少女と関わっている事を。




 解らない。如何して、そう思ったのかは、解らない。
 けれども、僕は気が付いたのだ。

 そして、それと同時に――――心が動いた。
 今度は、はっきりと、大きく、心が動いたのだ。




     ●




 僕は、心の中に有る感情が、昔から分からなかった。
 自分の中に、何か、凝り固まった深い物が有る事は自覚していたけれども、そして其れが心と感情を閉じ込める楔で有ると理解していても、それが何なのかは、分からなかった。

 けれど、今、僕は気が付いた。

 (ああ、そうか)

 これは、愛情でも何でもない。
 彼女への尊敬でも、彼女への礼儀でも、彼女への陶酔でも、彼女への欲望でも、何でもない。

 もっと暗く、深い、負の感情だ。

 練られ、練られ、ドロドロに溶け、形作られ、グズグズに腐敗し、悪臭と共に朽ち果て、幾度となく崩壊と再生を繰り返しながら、只管に求めていた結果が、これだ。
 あの悪夢と少女が重なるよりも遥かに明確に、鮮明に、それを知る。
 自分の心の向かう先に、理性が追いついた。

 「は」

 衝撃と反応で、自らを見失いかけたけども――――今ならば、十分に分かる。
 心が動いたその原因は、心に降り積もった、この汚泥だ。
 今迄、この僕が生きてきて抱えた、その全てが、目の前の東風谷早苗と、悪夢の少女とを重ね合わせた。
 夢の中の鬱憤の反動が、まるで渦を巻くかのように、この身を包んだ。

 身を焦がす、戸はきっとこう言う事を言う。
 憎悪に狂うとは、きっとこう言う事を言う。
 意識を失いそうな衝動とは、きっとこう言う事を言う。

 「は、ははははははははははははは」

 声は、形に成らない。殆ど心の中だけの、表の顔は一切変化しない笑顔だっただろう。
 だが、それは僕の、久しぶりの――――記憶に残っている中では、もう十年以上も昔を最後に消えていた、本気の、心からの、笑い声だった。

 歓喜。歓喜だ。あふれ出る、感情に針が有ったら振りきれていただろう喜び。其れほどに僕は、自分の抱える重い闇を、完全に自覚した。
 漏れた笑いが、止まらなかった。

 「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ――――――――!!」

 仮に内面世界が存在していたとしたら、僕はこれ以上無く、心の底から笑っていただろう。

 憎悪に狂った、怨みを宿した、狂う程の衝動を抱いた、狂気の笑い声を聞いたに違いない。
 嘲る様な、世界を馬鹿にするかのような、ただ心が震える様な、圧倒的な歓喜の中で、僕は知った。
 動いた心が嬉しくて、震える感情に感動して、そして出来た目的に、感謝した。

 (……ああ)

 むしろ清々しい。
 風穴の開いた心が、心地よかった。
 そう、この感情は。






 これは、殺意だ。






 煮えたぎる、煉獄か地獄か、恐ろしい程に燃え盛る炎が、僕の意識を包んでいた。
 僕が今迄受けた、あの苦痛の全てが、東風谷早苗へと向かう憎悪の刃、殺意の牙と成っている。
 この場で彼女に駆け寄って首を絞めに行く衝動を抑えられたのは、水鳥楠穫が僕の様子を伺っていたからに他ならなかった。
 最早、あの夢の中の少女と、壇上の少女が、繋がっている事を疑ってもいなかった。確信や予見を越えた、純然たる事実として、僕は彼女達の事を、覚っていた。そして、今迄僕が得た全てを、彼女に死と言う利子を付けて返してやろうと思った。

 僕は、この時、心に決めたのだ。
 深く深く、心の中に刻み込んだのだ。






 必ずこの手で、東風谷早苗を殺そう。


















 以上、「序章」でした。

 次回から、語り手がガラッと変わります。次回以降は早苗サイドからの視点で進んでいく予定。オリキャラの女の子、かな?
 因みに、作中で語られている「洩矢上社の五官」と言うのは、現実では「諏訪上社の五官」として残っており、神長官の役職はしっかりと「守矢家」に受け継がれていますよ。

 ではまた次回。
 クロス31の合間合間ですが、完結まで頑張るので宜しくお願いします。


 (2011年1月18日投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第一話 卯月(植月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/01/23 00:18

 異人ミナカタと風祝 第一話 卯月(植月)






 貴方は神様を信じますか?




 「イエス、かなあ」

 食事もお風呂も台所の後片付けも終えて、パジャマでベッドに寝っころがって携帯電話を弄っていた私は、送られてきたスパムメールの題名に、中身を見る事もしないまま、そう呟いた。

 私は、神様はいる――――存在する、と思っている。西洋や欧米で語られる唯一神とか絶対神という意味では無く、もっと身近で見えない所に、神様は存在しているというのが私の考えだ。
 日本独自の世界観。言葉にすれば自然崇拝や精霊信仰、アミニズムに近い。自分の周囲に存在する全てに潜む八百万の神様達の存在を、信じている。勿論、別に敬虔な神の使途と言う訳ではない。信仰心を持って過剰崇拝しているのではない。きっと神様はいるだろう、と思って、なるべく周囲の対象に感謝を捧げつつ、日々を生きているだけである。

 私も典型的な日本人で年頃の乙女だ。12月24日、25日にはケーキを食べ、2月14日にはチョコレートをばら撒いている。流石に家が家なので、神社と寺を併用する真似はしないが、それでも全く異なる宗教に接していると言えるだろう。
 ま、昨今の神様の事だ。イベントを祝いはせずとも、きっとその名目で騒いでいても不思議では無い、と思う。同時、この国で純粋に神を祀っている者など、もう大分少ないのではないか、とも思った。

 不信心だろうか、とスパムメールを消した私は、携帯電話を枕元の充電器に繋いで、ベッドから起き上がった。
 勉強机の上の、祖母から勉強課題として渡された本を取る為だ。

 「……えっと」

 お世辞にも整頓されているとは言えない机から、ぶ厚く大きな、神社の辞典を発掘して、付箋の付けて有ったページを開く。これだけは覚える様に、と言われている部分だ。記憶力が良いとは言えない私は、まだ完璧に諳んじる事が出来ない。
 ほぼ全てを、コアな部分まで滔々と解説できる早苗は、ほんと凄いと思う。流石は本家の巫女だ。

 本を開いたまま、再度ベッドの上に戻ると、私は寝っ転がって眼を落とす。背暗がりにだけ注意をして、眠くなりそうな小さな字と、見覚えのある四つの写真に眼を通した。

 洩矢上社・本宮。
 洩矢上社・前宮。
 洩矢下社・春宮。
 洩矢下社・秋宮。

 諏訪市、茅野市、下諏訪市。三カ所に分割して置かれている信濃国一宮。律令制の時代には、明神大社として信仰を集めた、全国各地の洩矢神社を纏める本社。神位・正一位の有名観光スポット。

 『洩矢大社』だ。

 最も、近隣の人は『洩矢大社』では無く、普通に洩矢神社で有るとか、御年配の方に成れば「お諏訪様」、「八坂様」の様に正式名称より親しみを込めている。洩矢大社と呼ぶのは、観光客か、畏まった時か、あるいは公的な場面位ではないだろうか。

 主祭神は二柱――――訂正、三柱。
 上社に祀られているのが、建御名方神(タケミナカタ)と八坂刀売命(ヤサカトメ)。
 遥か古代から信仰され、坂上田村麻呂の北方討伐や、元寇の神風にも力を貸したと言われている軍神。建雷神、経津主神と並ぶ日本三大軍神の一人と、その妻。
 そして下社に祀られているのが、建御名方の兄にして、大国主の長男・八重事代主命(コトシロヌシ)だ。正直、上社と比較して随分と影が薄いので、ついつい零れ落ちてしまう。

 遥か昔、それこそ嘘か真か万年以上も昔から、この地で信仰を集めていたというこの巨大な神社である。
 事実、時折、建御名方と同一視される、「洩矢神」と言う存在は土着神の一種なので――――ええと多分、縄文時代の自然崇拝から、延々と脈々と、基盤が続いているのだろう。正直、人間の視点では考えられないスケールの大きさである。

 しかし。

 「私でも、神の眷属には程遠いもんなぁ……」

 呟いた。此処まで大きな由緒正しい神社でも、「状況」が結構、逼迫しているのだ。良く知っている。信仰心という形の無い物が、もし可視出来たら、きっと随分と減少しているに違いない。
 勿論、観光名所としてはかなり有名だ。諏訪市どころか長野市からも援助が出ているし、小学生の頃のオリンピックで御柱祭が紹介されて以来、七年ごとに日本全国からかなりの客がやって来る。市は潤うし、個人の商店や茶店は大繁盛だ。
 休日や週末、年末年始には、御利益を得ようとかなりの参拝客がやって来る。各言う私も、四ヶ月前、年末年始には早苗と一緒に並んで巫女服に身を包み、一日中仕事に忙殺されていた。アルバイトでは無い身の上、確かに手慣れた仕事ではあったが、非常に忙しく、正月など無いも同じだった。

 だから、名所としては尚も継続しているのだ。
 けれど過去の信仰の場と同じであるとは、とてもではないが言えないだろう。早苗の言葉を聞くまでも無く、十分に分かっているつもりだった。

 昔の信仰心とは――――言い換えれば生活すべてに神が存在した時代の信仰心と言う事だ。
 信濃の国で言うのならば、毎日勤勉に働く農家の民や、野山を巡って人々が生活していた時代。そんな彼らが神に祈った事は、毎日の生活と、生命への感謝と、己や身内の平穏だ。現代社会における、悩みを解決して欲しい、という中身の筈が無い。
 彼らの支配者とて、望んだ事は鎮魂や怨霊封じ。利益や俗に塗れた祈りとは、多分、一線を化す。

 神と言う物は、畏怖の具現化だ。だからこそ人々は手厚く彼らを祀り、信仰心を持って祈る事で僅かな目溢しを頂いて来た。参拝客が、賽銭を投げて、こんな事をお願いします……と頼んだ所で、中身や密度に大きな隔たりがあって当然なのかもしれなかった。

 「私の未来は、如何なるでしょう……」

 パタリ、と本を閉じる。小さな文字を眼で追っていたお陰で、随分と眠気が襲ってきていた。こんな体質だから、一向に本を読みこめない。

 ふわ、と軽く欠伸をして枕元の目覚まし時計を見る。そろそろ午後十一時も過ぎようかという時間だ。明日も特別ゆっくりと寝ていられる訳ではない。数日前までは春休みで余裕が有ったのだが、今日の入学式でいよいよ、高校時代がスタートしてしまった。今後の予定は一切が未定、さしたる目標も無いが、過分や夜更かしは健康にもお肌にも悪い。

 本を机の上に戻し、通学用に品定めした鞄の中に明日の準備が出来ている事を確認して、私は部屋の電気を消した。そして、布団に潜り込む。

 眠る寸前の視線の先。木目帳の壁には、入学した諏訪清澄高校の制服が掛けられていた。




     ●




 古出玲央。それが私の名前だ。

 古出が苗字で玲央が名前。初対面の人には、まず“ふるで”と読まれてしまうし、れお、と名前の読みを教えると妙な顔をされる。まあ確かに、女の子の名前にしては少し変わっているかもしれない。
 因みに、綽名は小学校からずっとレオ。カタカナ表記でレオだ。同じ獅子ならば、せめてレオでは無く可愛らしい、「リオ」として貰いたかったところだが、こっちの名前は既に使われてしまっていたのだから仕方が無い。

 家族構成は二人。私と祖母だ。本当はもう一人姉がいるのだが、彼女は海外留学中。両親は……まあ、良いや。余り楽しい話じゃないし。

 身長は160前位。体重はヒミツ。スリーサイズは、……まあ自分では人並みではないかと思っている。親友に比較すれば少々胸元が心許ないが、腰から足に懸けてのラインは自信が有る。
 顔立ちは、祖母が言うには母親に良く似ている、そうだ。鏡を見て評価をすると、――――まあ、悪くは無い。睫毛が少し眺めで、眼が大きいのは、五官の家系の特徴みたいなものだろう。

 住んでいる場所は、長野県の諏訪。長野中央自動車道から『洩矢大社』方面へ向かい、上社前宮と上社本宮の丁度真ん中くらいの位置に家が置かれている。茅野駅から車で七分位だ。近所には私だけでなく、『守谷大社』関係の人達が多く住んでいる。お陰で昔っから付き合いは有る。気の良い人達ばかりで、随分とお世話に成っている。

 そして忘れてはいけないのが、友達。
 昔から一緒に遊んだ、私の幼馴染とも言うべき存在が、早苗――――東風谷早苗だ。




 『洩矢大社』上社本宮の役職「五官の祝」。
 その五つの役職の内、最も偉いとされる「神官長」東風谷家の、末裔にして跡取り娘。
 郁々は「神長官」の座に付くだろう、未来の『洩矢大社』の責任者だ。




 因みに我が古出家も、東風谷家に次いで格式高いとされている「禰宜大夫」職の家系。家も近く同じ年と言う事も有って、昔から私と早苗は一緒だった。

 何を隠そう、私と彼女は昔っから、一緒に遊び、一緒に学校に通い、そして一緒に巫女としてのスキルを叩きこまれた関係なのである。

 最も、仕事が苦手だった私と違って、早苗は実に才能が有った。もう巫女としての天性の才能を持っていたに違いない。私の場合は、生来の不器用さや雑な部分もあって巫女として仕事をこなせる様に――――祖母から、まあ良し、とお墨付きを貰うまで――――随分と時間が懸かったが、早苗は、私が四苦八苦した仕事を完璧にそつなくこなし、小学生の頃から働いていた。

 正直、早苗には、大体全部の面で負けている、と言っても良い。

 巫女としての仕事もそうだが、早苗の方が頭が良いし、スタイルも良いし、器量良し性格良し家庭的スキルも有って、礼儀正しい美人で、しかも気さくと嫉妬する位の完璧ぶりだ。早苗に勝っている部分と言えば、喧嘩の強さくらいだろう。

 ただ、それでも彼女に対して複雑な劣等感を抱いた事はない。彼女は優秀だが、何処か少しずれた面が有るというか、何と言うのだろう……。巫女としての能力が高すぎて、一般社会の人間とは一線を画すというのか。兎に角、ちょっとだけ違っている。
 乱暴に行ってしまえば、宇宙人や未来人や超能力者を目にした時に、平平凡凡な自分にコンプレックスを抱かない、比較するまでも無く抱く必要も無い、といった感覚だろうか。

 他人を素直に見る事が出来て、良くも悪くも率直に言葉を発してしまうというのは、私の数少ない利点の一つなのである。喧嘩が起きても後腐れなく仲直りが出来る人間だ、と早苗は言っていた。

 それに、私だって結構色々と、早苗の助けに成っているのだ。彼女を日々助け、代わりに巫女の仕事では色々と習いつつ、私は早苗と親友の関係を維持している。

 何時から友人に成ったのか、そして何時まで友人で居られるのかを、考えた事はない。
 それが友情だと、思っている。




     ●




 「で、やっぱり信仰心は少ないのかな?」

 「少ないですね。レオの言う通りです」

 精神的に疲れる祖母との朝の会話を終えて、朝から凝った肩に鞄を担いで、私は早苗と歩いていた。二人とも制服に身を包み、春の日差しを浴びながらの通学だ。正直、かなり気持ちが良い。

 制服に身を包み隣を歩く早苗は、黒く染めた髪を、蛇と蛙の髪留めで整えている。風に吹かれる、若さと清らかさを兼ね備えた早苗を見ていると、髪を伸ばさなくて正解だったなあ、と思う。別に正反対の格好をするつもりはないけれど、何かと比較されるのは遠慮したい。私が髪を短く切ったのも、そんな理由だった。

 こうして話をしながらゆっくりと歩いていても、高校までは十五分も懸からない。毎朝、定刻の起床を義務付けられている私達にすれば、遅刻はまず起こり得ないと言えるだろう。多分。

 「……見えるの?」

 「いえ、流石に形には見えませんけど。でも、なんとなく分かる物ですよ。神社というか、土地というか……そんな感じの“声”が、聞こえますから」

 勿論、この場合の“声”は比喩表現だ……と思いたい。巫女として、土地の空気が変化した事を、敏感に感じ取っているのだろう。

 指摘されてみれば。鳥居を潜り、神域に踏み込んだ時の厳かな雰囲気。あの空気が、年々、少しずつ減っている……気が、しなくもない。はっきりと明確に覚えている訳ではないのだが、子供の頃に姉と共に踏み込んだ頃と比較すれば、随分と空気が堅くなっている。
 記憶の事なので美化されているかもしれないが、それでも厳粛さ、冷厳さは和らいでいる、と思う。

 「やっぱ、丁重に祀られ、丁重に参られると、境内の空気が引き締まるもんね。今のままならその内、御神体に愛想尽かされちゃうんじゃない?」

 「流石にそれは無いでしょうけど。――――あ、でも庶民派に転向してる位は、有るかもしれないですね」

 私の言葉に、まるで見た光景を語るかのように、そう返した。

 この辺の、こんな使い方の言葉が、早苗の早苗たる部分だと思う。
 東風谷早苗は巫女として、多分、並み外れている。親友の贔屓目や、親族で言われた擁護の言葉を除外してもだ。どれ位並外れているかと言うと、恐らく、見えない物が見える様に成るレベル。残念ながら私は生まれてこの型、そういった存在を見た事は一度として無い。

 だから早苗の主観を確認する事は出来ないのだけれど――――まるで早苗は、直ぐ傍に神様がいて、何時でも交流出来るかのように語る事が多い。人前では自粛をしているが(あるいは巧妙に隠しているが)、私の前では特にそうだ。昔から変わらない。
 本当に早苗が、洩矢の神様を見ているのか、それとも全て真っ赤な嘘で演技なのか、あるいは感じ取れるだけで見える訳ではないのか、はたまたオカルト宜しく声だけ聞こえるのか。私には判断が付かない。

 一歩間違えれば、“電波系“と呼ばれる、外見は良いけど頭が少し残念なタイプに思われる、だろう。
 まあ、私は長い付き合いだし神社の娘だ。特に気にしてはいないけれども。

 「庶民派……。例えば?」

 『洩矢』は、元々庶民が気軽に祀れる神ではない。大きな神が庶民派に方針を転換する、とは中々思い切った行動だ。

 「ええとですね。――――昔の血生臭い儀式を、もっと簡素化して穏便な物に変えたりとかです。『蛙狩神事』とか『御頭祭』とか『御船祭』とか『御射山祭』とか」

 ――――と彼女は名前を並べる。当然、私も知っている行事ばかりだった。最初の三つは、元日と四月十五日、そして下社で行われるお祭りの名前。これらはまだマシだ。規模や形が少しずつ違っていても、縮小の度合いは許容範囲だろうか。

 「……でもそれ、祀りの規模を小さくするってことでしょ? 良いの?」

 最後の『御射山祭』。これはかなり小規模になってしまった。言い伝え程度でしか聞いた事が無いが、昔は随分と凄かったらしい。今の感覚では、正直グロイと言われておかしく無いレベルの血生臭さだ。

 「良くは無いですけど、仕方ない部分が有りますね。もう規模の変化で変わる信仰心の量も微々たる物ですし、無駄な出費を抑える必要があります。人手も多く有りません。……昔みたいに、神社や大社が生活に密着している時代じゃあ無いんですよ」

 悲しい事に、と早苗は最後に付け加える。何処となく影が有るのは、決して見間違いでは有るまい。
 早苗の神社に関わることへの感覚は、他人では到底理解しきれないだろうと思う。私だって理解しきれないのだ。人間に有りながらにして、現人神とまで呼称される東風谷の家系。人と神の境界線上と言ったって過言ではない。……いや、ちょっと言い過ぎかな。
 でも、早苗のその言葉には同意しよう。本当に全く、文明の発展が良い事で有るとは限らない。進歩した科学の裏で消えて行った存在が、手放してしまった幻想が、果たしてどれだけ存在するのやら。

 「来週後半にも『御頭祭』が控えていますけど――――まあ物好きな観光客と、地元の人達位です。きっと、見に来るのは。だからと言って、止める訳にはいきません。ジレンマですよ」

 「うん。――――あ、そうだ。それで思い出したけど、来週の確認に伺いますって、昨日お祖母ちゃんが言ってた。一応、早苗にも伝えとくね」

 「はい。来週末は、また仕事ですね」

 そうだね、と頷いた。こればっかりは生まれた家の風習みたいなものだ。文句を言ってどうこう出来る物では無い。自分の仕事だと、随分昔に受け入れている。
 将来は神職を継ぐ事を、殆ど義務付けられている私である。私も不満は無いから、それは良いのだ。
 だが、それを知っている祖母は、実にしっかりと私に色々と仕事を任せて行く。いや、別に仕事は嫌ではないが、昔と比較すれば信頼の裏返しとも思っているが、他の事をする余裕が無い、というのは高校生活で、青春時代を送る上で、果たして如何なのだろうか?
 しかも早苗や、祖母が、私以上に神職をこなしているから、文句も付けようがない。
 要領が悪い私は仕事で手一杯だが、彼女達は時間的にも余裕が有るのだ。世の中は不公平だ。

 「あー。アレかな。仮に私が部活動とかに加入したい、っていったら、許すかな、お祖母ちゃん」

 目の前まで来ていた学校の、入口前の横断歩道を見ながら、少し言ってみる。

 「如何でしょう……? あ、レオは、何か興味が惹かれてるんですか?」

 「ううん。思っただけだけどね。そう言う早苗は?」

 「無いですね、今のところは。何かあったら言いますよ」

 「分かった。私もそうするよ」

 そんな会話をしながら、私達は校門を潜ったのだった。




     ●




 と、言っても私達は二人揃って同じクラス。一年三組であるので、教室まで一緒に進む事に成る。
 序に言えば一年三組三十九人の出席番号は、私“古出”が8番、早苗は“東風谷“で9番だった。
 恐らく、学校側が配慮をしたのだろう。小学校・中学校時代は学区のお陰もあって同じクラス、勿論名簿もほぼ隣。流石に席替えをすれば互いの席は遠く成ったけれども、それでもクラスメイトだ。何かと『洩矢大社』に関わる早苗に、手伝いの私(悲しい事に、親族からも割とそんな感じで見られている)をくっ付けたのだと思う。

 「おはようございます」

 と、礼儀正しく一声を懸けて教室へと入る私と早苗。教室内の視線が集まるが、気にしない。一々人目を気にする人間が、巫女姿で仕事を出来る筈も無いのだ。お陰で、私も早苗も度胸は有る。最も、早苗が言うには『度胸と図々しさは別物ですよ』との事だが、私は実感が薄い。

 そんな事を思いながら、席へと付いた。席替えをしていない入学したてのこの時期は、教室窓際から二列目の、後ろから二番目と三番目。席順も、直ぐ前と後という完璧な繋がりようである。

 鞄を机の横に懸けて教室を眺める。近隣では一番レベルの高い高校だけど、見知らぬ生徒が皆無という訳じゃない。私達が卒業した中学校からも、二十、三十人は入学していた筈だ。クラスの中に、見覚えのある顔がちらほらと有る。

 「ええと。……佐倉さん。あっちが、武居さんと――」

 誰だっけ? と、名前を言いながら、眼で顔見知りを追いかけて行く。と言っても、同じ学年の違うクラスだった人達ばかり。私と早苗以外で、中学校のクラスメイトはいない。
 先日行われた入学式の際、クラスの顔は一通り見て確認済みだった。

 「レオ。大丈夫ですよ、慌てなくても。今日は授業が無くて、ホームルームばっかりですから。学校案内と、年間予定。教科書販売。それに、自己紹介と担任の先生の紹介の時間も有りますよ」

 「いや、そうなんだけどね」

 私は割と、人付き合いはしっかりとする性格だ。というか、肩書やレッテルが好きではないので、自ずと自分から相手の方に踏み込んでいく性質なのである。良く言えば活発で、悪く言えばデリカシーが無い。
 この辺り、自分の肩書をそのまま受け入れて、尚且つ自分で居られる早苗とは少し違う。多分、私は心の何処かではまだ、自分の未来に置ける役職に対しての反発心――――では無いにせよ、僅かに覚える物が有るのだろう。『洩矢神社』の「禰宜大夫」とだけで見られるのが、嫌なのだ。

 「そういや、担任の先生も、今日が初披露、かな」

 「ええ」

 話題を変えた私に、直ぐに早苗が付いてきてくれた。こう言う所が早苗の良い所だ。

 入学式の時は、名簿順に「何組で待機」と言われ、そのまま講堂も兼ねた体育館へ直行。早苗は一人、新入生代表挨拶と言う事で座る席が違っていたが、他は大体苗字が近い人達と一緒だった。
 その時に私達に支持を出した教師とは、多分、違う人に成っているだろう。

 「そろそろ、一時限目ですね」

 言われて時計を確認すると、いつの間にか随分と時間を過ごしていたらしい。長針は八時三十五分を示していた。
 廊下を歩く足音が聞こえて来たのは、その頃だ。






 仕事が出来る変人、というのが第一印象だった。

 「初めまして。今日から一年間、君達の担任をする事に成った水鳥楠穫だ。――――宜しく」

 短い髪も、眼鏡の奥の瞳も、そう名乗った教師の活発さを示す様な雰囲気を受ける。女性にしては高いだろう、170越えの身長に、きっちりとしたスーツ。冷たい印象は受けないのは、口元に不敵な、子供っぽい笑顔が浮いているからだろうか。
 教師と言うよりも、個人事務所を構える仕事人、と言えばイメージしやすいのではないだろうか。

 顔はかなり良い。純和風には少し違うけれど、しっかりとした大人の女性と言った感じだ。綺麗なお姉さんが担任、と言う事で、一部の男子が喜んでいるようで……近場の男子達が何人か、目配せしているのが見えた。無理も無い。

 「元気が良くて結構。周囲の迷惑にならない様にだけ気を付ける様に。――――さて、何か質問は?」

 水鳥先生は、その反応に慣れているのか特に注意をする事も無い。
 如何やら放任主義で、締める時にきっちりと締めるタイプなのだろう……と辺りを付ける。私のこう言う推測は、余り外れた事は無い。

 軽く嗜めた後に、私達に訊ねて来た。自己紹介の時は、ともすれば静かになってしまう場合が多いが、幸い水鳥先生は司会進行が上手かった。手近な生徒を指名して、名前を聞き、質問を考えさせる。
 当てられた生徒は、最初は戸惑っていたが、促す様な笑顔に、徐々に乗り気に成って行った。

 以下、大体こんな感じの問答だ。




 ――――年齢は?

 「秘密だ。女性に年を尋ねる物では無いよ」

 ――――家族構成は?

 「まだ独身だ。親は死んでしまったが、親戚が多いから苦労はしていないな。……ああ、自宅に一羽、文鳥を飼っている位だね」

 ――――じゃあ、恋人は?

 「いないね、誰か良い人がいたら紹介して欲しい」

 ――――出身は?

 「南九州だ。霧島の近くだな」

 ――――趣味は?

 「生まれのせいか、海洋学と、船の話題が得意で、女子にしては珍しいと言われていた。最近は、大航海時代や海賊にも嵌っている。昔から船……というか船旅が好きでね。結構色々回っているかな」

 ――――じゃあ、海外渡航経験は多い?

 「勿論多いよ。一応、世界をぐるりと回った事が有る。けれど、最近は国内の方が中心かな。日本も意外と広いからね。色々な名所を巡っていると、段々、新しい発見をしたく成るものだ」

 ――――あ、担当教科って……。

 「ああ、担当教科は社会、地理を教える事に成っている。理数系に進みたい人は、授業担当に成るかもしれないな」




 こんな感じで、実に手際よく、雰囲気良く水鳥先生は質問を受け答えして行った。
 そのテンポが変わったのは、と有る質問を受けた時だ。

 ――――部活動の受け持ちはしているんですか?

 質問に、水鳥教諭は、当然の如くこう答えたのだ。




 「部活動の顧問ではないが、代わりに生徒会顧問をしている。興味が有る人は放課後に来ると良い。図書館と放送室の間にある小部屋だからね」




 生徒会顧問。
 その言葉が出た時に、一瞬、クラスの中の空気が変わったのは、多分、気のせいではないだろう。




     ●




 綺麗な薔薇には棘が有る、と美人を指して言う事が有る。これはつまり、外見が美しくても隠れた武器を持っているとか、見えない猛毒を宿している、と言う意味だと私は解釈している。
 ただ、そうは言ってもだ。私は今迄生きてきて、そんな存在を目の前で目撃した事は無い。精々が悪女役を演じる俳優を、映画やドラマで見た程度である。神職に付いている身近な人々で性悪な者など、一人くらいしか心当たりが無かった。

 多分それは、私以外の殆どの生徒がそうだろう。将来はまだ分からないにせよ、息を飲むほどの美貌、あるいはその裏に隠れるだろう猛毒、その内の片方で有っても目撃した経験を持つ者は少ない。
 けれども、あの入学式で、全員が等しく、味わった筈だ。




 御名方四音は、まじで、猛毒だ。




 感覚が鋭敏な、記憶力に優れた物ならば、思い出すだけで心が震えると思う。間違っても感動や歓喜では無く、まるで死人の如き印象に対してだ。鈍い連中ならば魅了されるかもしれないが、間違いなく、あの顔はヤバイ。私の勘が、全速力で警鐘を鳴らしたほどだった。
 無表情なデスマスクは、なまじ声が美しく、そして並外れた美貌を持っているが故に、気持ち悪い。

 魔性と言う言葉にしては生命力が無さ過ぎる。けれど、唯の美人や美貌と言うには奇妙すぎる印象だった。退廃の美。熟した林檎。落日の魔城。そんな言葉が頭に浮かぶ。一歩間違えれば奈落に誘われそうな、そんな空気をあの男は持っていた。
 今にも崩れそうな、壊れそうな、しかしだからこそ見える様式美。死を自分から感受してしまいそうな、痛い程に冷たく甘い空気。下手に免疫の無い女子が、あの声と美貌で耳元に囁かれたら、ふらふらと誘われ、気が付いたら屋上から飛び降り自殺をしていました、と言っても不思議でもなんでもないのだ。

 あの男は、其れ位に、ヤバイ。
 そして、そんなにヤバイと言う事に、殆ど誰も気が付いていない事も、ヤバイ。
 この学校の生徒会長に居座って、何かを画策していると考えただけで、もう震える位、ヤバイ。

 正直、あんな男を慕っている連中が、馬鹿ではないかと思う。
 其れ位に、私はあの男に、ヤバイ物を感じ取っていたのだ。




 二時間以上にも渡るホームルームは、正直、面倒だった。

 水鳥先生の自己紹介の後、今度は私達の自己紹介になった。私と早苗の紹介をした後には、おお、と感心の声が上がった。やっぱりこの高校に来ている生徒にとっても『洩矢大社』は大事なんだな、と実感させられる。

 これを終わらせ、配布された大量のプリントをファイルに綴じ込み、学校案内を初めとする諸々をやり過ごす。緊張していた事を自覚したのは、教室から水鳥先生が退出した後に成ってからだった。
 私にしては珍しく、思った以上に、慣れない空間に疲れている様だった。

 制服に成れないのと、新しい環境のお陰で、肩が重い。
 この学校、一応私服もOKだ。だから上級生になれば私服や、少し改造した感じの服で学校に来ている人もいる。ただ、正式な制服なら服を選ぶ手間が省けるし、一年生の間は自戒の意味も含めてなるべく着用する様に、と言われていた。
 実は教師達も同様で、スーツが義務と言う訳ではないらしい。明日以降の水鳥先生のセンスに期待だ。

 「ふう……」

 大きく息を吸い込んで、後ろの早苗の邪魔に成らない様に腕を伸ばす。首と肩を回すと骨が鳴った。む、鈍っているかもしれない。日々の運動をもう少し頑張ろう。体重も気にする必要があるし。
 伸びている私に、折り良しと見られたのか、早苗から声を掛けられたのはそんな時だった。

 「レオ。少しこの後、付き合って貰って良いですか?」

 「ん、良いよ。何処か行くの? 部活見学?」

 この後、昼食までで今日の学校は終わりだ。一応お昼の時間に、教科書販売が有るが、これは別に急ぎでは無い。ゆっくりとお弁当を食べて、教科書を購入した後ならば、時間に余裕が有った。

 今頃下校口には、新入部員を確保しようと数多のサークルがアピールをしながら並んでいる事だろう。
 その私の言葉に、ええ、似た様なものです、と早苗は軽く頷いて。

 「少し、生徒会室まで一緒に行って欲しいんです」

 「…………」

 正直に言おう。
 この時ばかりは、親友の頭の中が読めなかった。




 幾ら「御名方」が『洩矢大社』の関係者だとしても、無暗に脚を踏み入れる必要はないだろうに。




 しかし、断ればきっと彼女は一人で行くだろう。
 あの生徒会長の前に、早苗を単体で送り出す事に抵抗を覚えた私は、渋々とでは有るが頷く事しか出来なかったのである。


















 かくして、早苗さんの親友が語り手です。作者初のオリジナル女性キャラなので、ちょっと書き慣れない部分が有りますが、何とか頑張って行くので宜しくお願いします。

 高校や『洩矢大社』周辺の地理、主人公ズの家の住所等は、資料を見た上での適当です。流石に写真までは持っていなし、諏訪に行った事が数えるほどしか無いので大目に見て下さい。話の本筋には余り関わりが無いので。
 その分、神社や歴史、神等は、かなりしっかり東方世界に擦り合わせてあるので、ご安心を。

 ではまた次回。

 (1月22日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第二話 卯月(苗植月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/09/09 14:54
 『洩矢大社』に「五官の祝」と呼ばれる職種が存在する事は、意外と知られていない。これは、東風谷家と古出家以外の家が目立たない裏方で有る事と、過去ほどの信仰基盤を大社が有していないからだ。
 過去ほどの著名度は既に無く、家を継いで仕事をする者も減っている。

 「神官長」の東風谷家。
 「禰宜大夫」の古出家。

 二つの家が辛うじて存続しているとするならば、既に縮退の兆しを見せているのが、二家。
 そう遠くない内に、消えて行くであろう二家だ。

 「権祝」の八島家。
 「擬祝」の尾形家。

 そして、これら四家に輪を懸けて酷い、最早名前が辛うじて残っているだけの家が――――。

 「副祝」御名方家。

 つまり御名方四音の、血筋で有る。






 異人ミナカタと風祝 第二話 卯月(苗植月)






 「早苗、御名方四音という人間の事は?」

 「いえ。レオ、調べて来てくれたんですか?」

 放課後、教科書の購入を終えて、随分と重量が有る鞄を抱えながら、私達は廊下を歩いていた。
 向かう先は無論、図書館と放送室の前に有ると言われた、生徒会室だ。

 「うん。と言っても、クラス内の情報を漁っただけだけどね」

 私は、自分の第六勘を特に信じる事にしている。外部からの敵に関する察知能力は、早苗も認める所だ。このスキルのお陰で潜り抜ける事が出来た現場が幾つあったのか、両手では足らないだろう。

 御名方四音。
 あの、棺桶に一歩足を踏み入れて、RPG宜しく歩く後ろに引き摺っている様な生徒会長。
 読みとるまでも無く周囲から浮いた、早苗とは別の意味で目立っている、人間だ。

 「それじゃあ、御名方四音についての簡単な説明ね」

 得意の社交スキルを発揮して集めた情報だ。因みに私と早苗は、やはり出生が出生故にクラス内でもかなり目立った。割と高根の花と思われがちな早苗と違って、庶民派で人付き合いの得意な私。
 入学して、上手い具合にクラスに溶け込めたのではないかと思う。




 御名方四音。

 現在、高校二年生。年齢は一六歳。私達より一つ年上になる。生徒会長と言う事で三年生かと思ったのだが、実は一歳差だったという事だ。少し意外である。
 身長は百七十後半。体重は不明だが、多分軽い。病弱で体調を崩しやすく、健康とは程遠い。詳細な情報が少ないのは、身体測定や健康診断で大っぴらに参加した事は無いからであり、恐らく特別に便宜を図って貰って、個人で受診しているから。

 虚弱体質の影響か授業に出る事は稀。大抵は生徒会室か、あるいは時折、保健室にいる。しかし数えるほどしか姿を見ずとも成績は非常に良く、クラスメイトが彼を目撃する数少ない登校日、即ち試験や構内模試では、後日に学内トップ、全国二桁という結果が表示される。
 体育も見学する体質と、壁が有る性格の故か、部活動には不参加。しかし一年生の頃――――先代生徒会長に誘われた事も有って、生徒会へと入会。恐らく、他者との接触を絶ち、また仕事に没頭できる環境を欲していたから、だろう。

 成績は良いが内申が悪く、教師達からも扱いが困る存在。しかし、生徒会顧問の水鳥楠穫だけは何かと世話を焼いているようであり、その関わりの深さから一時期は淫行疑惑が浮上した程である(最も、これは後日間違いで有ったと判明したそうだが)。
 特筆すべきは頭脳と、その美貌。決して男らしくはないが、同時に女と見間違える事はない耽美な顔。人間味が無い、ともすれば人形にも思える様な整った顔立ちであり、遠くから眺める分には目の保養に成る。腐女子な人達には、割と想像の対象らしい。勇気が有る。

 白面に長い黒髪は、人間よりも死者を想起させる。昨年の学園祭で、お化け屋敷を開催した男子バレーボール部は、頭を下げて彼に幽霊役を頼みこみ、結果、入場した見物人の中で気絶者が続出したレベルの恐怖感を演出したそうである。
 このエピソードからも分かる様に、公的な関係、生徒会長としての関係ならば、決して近寄っても恐ろしくはない。むしろかなり隙無く協力してくれる。しかし、一歩彼自身に踏み込むと、背筋が凍る程の殺気や恐怖を向けられるそうだ。言い換えれば、外を完璧に取り繕っている。

 私生活は謎に包まれており、常に不穏な噂が絶えないで居る。酷い物に成れば、丑の刻参りを実行しているとか、小動物を夜な夜な生贄に捧げているとか、非常に馬鹿らしいとしか言いようが無い。……しかし、噂を一概に否定出来ないだけの、間違った魅力が有る事は確実であり、彼も否定をしていない。
 住居は、学校から徒歩で三分~五分位の古びた木造一軒家。近所で噂のお化け屋敷であり、一人で住んでいる。両親や家族の詳細は不明。生活費や普段の暮らしも謎のまま。時折その家に、やはり水鳥先生が顔を出している為、先の淫行疑惑が広まった。一応、近所の人々も彼の存在を知っているが、積極的な交流はしていないようだ。



 「……待って、レオ。御名方四音の、父親……。……もしかしますと」

 「うん、多分ね。三司さん、じゃないかな。続けるよ?」

 「ええ、お願いします」



 そんな、入学当時から悪目立ちしていた彼であるが、親交の深い人間は――――水鳥楠穫が辛うじてコミュニケーションをとっている程度で――――ほぼ皆無である。先程語ったが、私的な関係に成ると途端に壁が出来、また所謂「黒い噂」が存在して、それが彼への接触に拍車をかけている。
 冷酷非道な殺人鬼である、裏稼業と関わっている、等など――――「黒い噂」はおそらく大半が流言飛語だろうが、しかし一方で無視できない情報として、『疫病神』と言う話が有る。彼に関わった者が、皆何らかの形で不幸に巻き込まれているという事だ。偶然や思い込み、被害妄想を除いたとしても、確かに事故や事件の発生率が、彼の周囲は群を抜いて高く、それでいて本人に被害が出る事が無い。

 これは先程の「黒い噂」と繋がって、もっと大きな話に成っている。つまり御名方四音は仮面の裏で何か“犯罪“を演出し、被害を撒き散らしているのであり、その結果として大きな犠牲が頻発している……と言う事だ。馬鹿馬鹿しく、所詮は笑い飛ばせる物でしかないが、しかし疑念が湧いている事も確か。
 勉強以外にも辣腕を振るう彼ならば、決して不可能ではない――体力と言うネックを補えさえすれば――故に、尾鰭が付いているのだろう。そして実際、昨年は皆にそう思わせるような大きな事件が、一つあったらしい……。




 「……と、まあこんな感じ。調査時間がざっと一時間だけど、まあ事前学習には良いんじゃないかな」

 「流石ですね。レオ。流石は八坂二中の裏支配者だっただけは有ります」

 「……あー。うん、そうだね。――――で、それでもまだ行くの?」

 私の言葉に、はい、と早苗は静かに頷いた。話している間に、もう目の前に生徒会室が有った。
 大きな南京錠が掛けられ、硝子一面に古びたポスターが貼られた、中に入る事を躊躇わせる引戸を開ければ、其処にはお目当ての生徒会長がいる。はっきり言って気乗りがしない。正直、扉の前にいるだけであの生徒会長の気持ち悪さが、扉越しにも伝わってくるようだったのだ。

 「レオ。嫌なら帰っても良いですよ?」

 「……いや、付き合うよ」

 この友人は、放っておくと何をしでかすか分からない部分が有る。大抵は常識的なのだが、こと神社や信仰に関わる事となると、向こう見ずに突き進む性質が有るのだ。彼女にとっての優先順位のなせる技だと思うが、それでトラブルに巻き込まれた事も有るのだ。
 巫女としての仕事は後背を期している私だが、彼女のそう言う部分を支えるのは私の仕事なのだ。

 「そうですか。――――有難う」

 早苗は私にそう言って、流石と言うべきか。扉の前に停滞していた空気を歯牙にも留めず、澱んだ雰囲気を打ち払う様に、扉を開ける。

 そして、その瞬間。
 白い塊が、頭の上から降り注いできた。




     ●




 人を輪から外す事は簡単だと知ったのは、何時だっただろう。

 孤立。排斥。拒絶。そんな言葉で示される、団体から締め出す行動。誰しもが、一生の内に一回はその被害者か加害者に成る。そして、中には何時までも受け続ける者もいる。
 一体何が悪いのか、何故消えないのか、と原因を語った所で解決はしない。道徳に真っ向から対立するが、確かに差別や排除は、団体の中に残っている。
 誰かが悪いのではない。多分、誰も悪くない。敢えて悪いというのならば、最初に原因を生みだした先祖の“誰か“と、そしてその家系に生まれついた運が悪かったのだ。

 私達の場合も、多分、同じだった。




 一年に数回だが、『洩矢大社』の「五官の祝」のご家族が集まる日が有る。年末が一回、お彼岸が一回。税金対策の旅行が一回。定期的でないが、五官の家系の葬式や――七年来の御柱大祭でも、そうだ。
 東風谷、古出、八島、尾形。そして御名方。その五系が、態々集い、大きな会合を行う。祖母が出ている会議や祭事の打ち合わせでは無い。もの凄く簡単に言えば、宴会に成る。

 だから「御名方」を、私も早苗も確かに入学前から知っていたのだ。




 御名方という家系が、どんな家系なのかを、知らずとも。




 私達がまだ小学校にも入っていない頃だ。その宴会の席に、一人の男の人が座っていた事を覚えている。
 私の母や祖母、早苗のご両親や、矢島・尾形の二家。親戚一同で関わっている中で距離を置き、その人はしかし皆の喧騒を静かに見ていた。見ているだけだった。

 料理は有る。酒も有る。けれども、周囲には誰もいない。
 子供心に、如何して誰かと一緒にいないのか、と疑問に思った物だ。しかし、理由を聞いても誰も答えてはくれなかった。私が近寄ろうとすると、それと無く静止された。そう言う扱いを受けている者が、確かにあの時、いたのだ。

 今思えば、如何して其処で理由を聞かなかったのだろう。親に止められても、少しの隙を付いて関わる事も出来たと思う。けれど私はそれをしなかった。……いや、もしかしたら出来なかったのかもしれない。良い訳に成るかもしれないが、きっと何か、その人と関わらなかった理由が有ったのだと思う。
 静かに参列し、そして唯、静かに過ごし、宴が終わると静かに丁寧に礼節を持って、無言で帰って行く。悪い人には見えなかった。本当にあの人を、他の親族が嫌っていたとは思えない。

 けれども、結果としてその人は、ずっと孤立していたのだ。
 良いか悪いかで言ったら、悪いに決まっている。如何して、正そうとしなかったのかと、きっと人は言うだろう。私だってそう思った。祖母に問いかけた位だ。結局彼女は答えを教えてはくれなかったが、今ならば、理由が分かる。分かる位に成長した。

 それは、きっと業なのだ。
 古来より面々と繋がりし、この『洩矢大社』に関わる者達として抱える宿命。そして覆す事の出来ない絶対の風習の中に、あの人は組み込まれていた。
 だから、誰もが正そうとしなかった。正してはいけない、正すと何が起きるのかが分からない。
 間違って怒らせたら、本当に怖い。だから、怒らせてはいけない。
 それだけの話なのだ。




 それから数年後。丁度今から八年前。
 その人の名前が、御名方三司という名前を持っていた事を、葬式の場で初めて知った。




     ●




 「――――っと、危なっ!」

 咄嗟だった。早苗の右頭上方。扉を開けた衝撃で崩れ落ちて来た、紙の束を大きく右腕を伸ばして支える。重い。ペラ紙では無く何かの冊子らしい。早苗を押しのける様に前に進み、強引に体を割り込ませると、両手で束を、支え。

 「――っ」

 そのまま、押し替え、せない。床に落ちた何冊かを踏み、途中に挟まれた紙が折り曲がっているが、そんな事を気にする余裕はない。本気で重い。私の身長より高くに積まれた紙の雪崩を、引戸の冊子に脚を懸けて抑え、無理やりに戻す。

 「だっ!」

 ぐい、と紙の塔を、反対側に戻した。鍛えて有る私の力でも簡単ではないとは、どんな重量だ。痺れた腕を振りつつ様子を見れば、扉の直ぐ入口に置かれた大きな机の上に、これでもかと言う程の紙の束が積み重なっている。雑多な塊はまるで山。扉を開けた衝撃でこれが崩れたのだ。

 「なんでこんな物が」

 有るのよ、と言いかけた、その時だ。



 「ああ、――――すいませんね」



 たった、その一言で。

 ――――ぞくり、とした。

 背中に氷塊を押しあてた様な、ぞっとする程の不快な感覚を、私は感じ取った。
 夜闇の中で聞いたら、きっとか細く悲鳴を上げていただろう。

 声だけを聞けば美声。けれど、間違っても歌を謡わせて良い声では無いと悟った。唯の声だけで心を凍らせるなど、人間のする事ではない。良くて雪女、悪くて死神だ。嫌が応にも想起させる。喉を震わせて告げられるべき言葉は、きっともっと暗く冷たい冥府の底に響くのだと、理解してしまう。
 たかが声だというのに、これは……ヤバイ。



 「怪我は有りませんか?」



 紙の山を手で押さえ、振り向く。視線の先には一人の男。部屋の中に、私達が来る前から其処に座っていたのだろう。大きな古びた椅子に腰かけ、汚れた机の上に書類を並べ、ただ白皙の美貌を此方に向けているだけの、生徒会長だ。
 幽鬼か死人が人間の真似をしている、と言う表現がこれ以上無く似合う男。

 死仮面で表情を覆った、他者とは隔絶した性質の男。
 異常だ、と人目見てレオは思った。そして改めて、危険だと認識した。最早、生理的嫌悪感に近い。不気味な虫や、滑り気の有る蟲モドキや、ウゾウゾと動くアレとかコレとか、害虫の様に、居ると理解しただけで脳が拒絶反応を起こす。そんな感覚に近かった。

 ただその部屋に“いるだけ”で、此処まで空気を塗り替える物は、早苗以外に彼女は知らない。しかも早苗と正反対の悪しき空気が、充満している。引戸も、錠前も、硝子を覆う無駄に部屋を暗く演出する張り紙も、全てが引き立てるかのようだ。



 「捨てに行く余裕が無くて、其処に重ねて有ったのですが……。“偶然”、お二人が扉を開けた衝撃で、崩れてしまったようです。不幸な事に」



 くく、と引き攣るような音が響く。何の音かは分からなかったが、口元が苦く歪んでいる所を見るに、もしや笑い声か。笑い声まで陰鬱なのか。
 他の者ならば気を付けて、で済む筈の話だ。しかし、この男が語ると、妙に白々しい。仮に唯の偶然で無いにせよ、悪い偶然をこの男が招いたのではないかと、そう思ってしまう。
 そんな空気を、この男は纏っていた。



 「ともあれ、ようこそ生徒会室へ。僕が唯一の役員にして生徒会長を務める、御名方四音です」



 ゆっくりと、彼は立ち上がった。身長は有るが、まるで柳の様に細い。筋肉は必要最低限で、新陳代謝もきっと少ないだろう。叩けば折れるか壊れる、そんな体型。
 小さく、傾ぐ。恐らくお辞儀をしたのだろう。折れる寸前の針金細工の様だった。
 そしてその中で、ただ黒く伸びる、長い髪が一際異彩を放っている。真っ赤な唇と、死体の如き白い肌。人形と呼ばれる訳も、良く分かる。実際に眼で見ないと、この異常さは分からない。
 

 「歓迎しますよ、東風谷早苗さん。古出玲央さん」




     ●




 「まあ、どうぞ」

 急な来訪に嫌な顔をせず――――否、普段からの表情を変えることなく、と言うべきか。私達の来訪を予期していたかのように泰山と、彼は部屋の中に招き入れた。そして意外な事に、隅に常備されていたポットと急須で手づから茶を出してまでいる。

 「毒は入っていませんので、ご安心ください」

 淡々と其れだけを語って、彼は二つの湯呑みを私達の前に並べた。緑色の怪しげな液体で有る。普通に考えれば緑茶なのだろうが、この男が出すと化学薬品にも思えるから不思議だ。
 警戒をしつつも器を口元に運ぶと、柔らかな匂いが鼻に付く。これは……。

 「……どくだみ、ですか」

 「ええ。毒溜めの野草ですよ。丁度、知り合いが届けてくれたので」

 静かに言うと、生徒会長は私達の前に腰を下ろした。部屋の半分を占める大きな、分厚い書類が乗った机を挟み、出入り口に近い方が私と早苗。遠くの、一番奥に据えられた場所に御名方四音と其々向かい合っている格好だ。
 向こうは何も言わない。私は黙っている、と言う事が性格的に苦手なので、何か声を上げようとするのだが、上手くいかない。口の中で苦々しく消えて行くだけである。

 早苗は何も言わず、ただ相手の事を見ているだけだ。何かを観察している様であるが、興味が見え隠れしている訳ではない。恋い焦がれた乙女の様に、顔や一挙一動に見とれている訳でもなさそうだ。後で絶対、内容を問い詰めようと思った私だった。

 それから、一体何分が経過しただろう。

 何時の間にか知らず知らずの内に、私は腕で自分の体を抱えていた。……妙に肌寒いのだ。まだ太陽は高く、季節が季節だ。クーラーも入っていない。だが「寒い」、とそう感じた。多分、気のせいではないだろう。自分の中の肉体が、この場にいる危ない相手を察したのだ。

 それでも退出し様と言う気が起きなかったのは、隣に早苗がいたからか。
 永遠に続くかとすら思った沈黙を破ったのは、以外にも相手の方だった。

 「さて、――――東風谷と古出の二人が揃って、この御名方に一体、何の用ですか? まさか世間話をしに来た訳では無いでしょう?」

 「…………」

 伺う様な相手の顔に、早苗は、静かに黙ったままだ。黙ったまま、何かを考える様に、相手を観察しているだけである。
 その目線に合わせる、御名方四音の眼も、深い色だ。感情を隠した、けれども何かを探る瞳。正直、一高校生同士が行うシチュエーションでは無い。
 早苗が黙っている理由は知らないが、……初対面の相手に対しての礼儀としては、余り良くないだろう。再度膠着状態に陥った空気を打破する様に、私は声を上げた。

 「御名方、先輩。――あー。……私は、早苗の付添よ。特に用事が有って来た訳じゃない。……先輩が噂の通りなら、早苗が危ないと思って護衛も兼ねて付いて来たの」

 「そうですか。――――実に正直ですね。因みに、どんな噂でした?」

 会長も又、一先ず早苗よりも私の方に話を振る事にしたらしい。言葉だけは明るそうに、しかし平坦で抑揚のない声質で、尋ねて来る。口の動きも不明瞭なくせに、声ははっきりと聞こえるのだ。色々おかしい。耳触りというか、テレビの砂嵐というか、そんな雑音混じりの掠れた声に、顔が引き攣りそうになった。

 「……言っても?」

 「ええ」

 促され、私は胸元から一つの手帳を取り出して、該当ページを開く。其処には昼休みの一時間で集めた情報の出所と、その信憑性と、そして肝心の情報が記載されている。私の雑な字なので、他人が読解するには色々と難しい。

 「ええと――――」

 適当な噂を拾い上げる。先の水鳥楠穫の話や、不幸を招くという事や、旅行に出ると必ず事故が多発するとか、実際それで自分は被害に遭ったとか……。
 一通り話した私への返答は、納得する様な、微かな笑い声だった。

 「ああ、……ふふ、なるほど。情報の出所は、武居君ですか」

 「……! ……何故」

 驚く私の前で、にい、と牙を剥く様に微笑む。自分でも変な表現だと思うが、確かにそんな感じなのだから仕方が無い。目で見えている部分では、ほんの僅かに口元が吊り上がっただけだが、私には本性が見えたのだ。
 少し心を穏やかに心がけながら、問いかける。

 「――――御存じで?」

 私のクラスに、同じ中学校から来た武居という女子がいる事は話したと思うが、実は彼女には兄がいた。一つ上の先輩で、丁度、この生徒会長の事を知っていたのである。私は情報を集めている時、武居さんの仲介でそのお兄さんにも話を聞いて来たのだ。

 少し柄の悪そうな人だったが、武居さんの同伴のおかげか、情報自体はしっかりと与えてくれた。
 武居家は四年前に家を引っ越しており、それは丁度彼女が中学校に入る前の事だった。家が変わった為に学区が代わり、彼女は私達と同じ中学校に入って来た。だから、彼女のお兄さんは御名方四音を知っていて、彼女は御名方四音を知らなかったのである。

 「昔から彼は色々と“やんちゃ”でして。……小学生の頃は、何かと絡まれました。まあ、それも三年で行った臨海学校を期に終わりましたけどね。以後、何を思ったのか、彼は何かと此方を目の敵にしている訳です」

 くく、と暗い――――というか黒い笑顔を、ほんの少しだけ浮かべて、生徒会長は語る。
 長い髪が瞳に掛かって、歪んだ真っ赤な口だけが見えている。正直、凄く不気味だ。

 「僕はこれでも、学校の全生徒と全職員を、完璧に覚えています。顔も、名前も、生年月日もね。それは四日前に入学式を終えた新一年生でも変わりはない。……同じ住所に住む、同じ名字の人を見つけたら、其れが家族で有ると把握する事は簡単」

 そして、そこから繋げる事は簡単でしょう? 
 ――――と、事も無げに言うが、普通は出来ない。というか、例え出来てもやらない。自分と親兄弟と、祖父祖母や従姉妹位に親しい友人までならば、私も何とか記憶に留めているが、殆ど一回も話した事の無い、同じ学校と言うだけの人間の事を、覚えるなど。
 御名方四音という人間は、勿体ないと思う。色々な意味で。
 なんてことを考えていると、だ。

 「――――御名方、四音さん」

 ようやっと、早苗が静かに声を懸けた。呆けたように彼を見ていたが、一体何を考えていたのだろう。頭の中で誰かと会議でも開いていたのだろうか。

 意識を会話から早苗に戻して、横を見ると、少しだけ身を乗り出した早苗は、何時に無く真剣な目をしていた。
 親友、と自負する私でも滅多に見ない、『洩矢神社』の跡取りとしての目の色だった。その目は、ただ真っ直ぐに御名方四音を見つめていて、そして彼も又。……微塵も、視線を揺らがせない。
 緊張が糸に成り、ギリギリと空気が軋みそうなほど、ほんの短い間だけ、視線を交わして。




 「私を生徒会に、入れて頂けませんか?」

 「ええ、良いですよ。歓迎します」




 間髪入れない会話が起きた。
 余りにも唐突で率直な、そして互いに腹の探り合いを行っているだろう会話だった。
 脈絡も無く、不自然極まりない態度で、希望を告げた早苗に。
 動揺する事無く、当然の様に頷き、許可を出した御名方四音。
 余りにも急激すぎる推移に取り残された、呆気に取られたままの私が現実に引き戻されるのは、早苗に「帰りましょう、レオ」と声を掛けられた時だった。




     ●




 余りにも早すぎた流れに対して、頭が追い付いたのは、早苗と二人で再度、廊下を歩いている時だった。

 すでに日が暮れはじめた、春の夕刻。蒼い空が赤く染まり、明日の天気が晴れで有ると全力で告げている様な、そんな時間帯の事だった。つまり私は早苗と一緒に生徒会室を訪れて、約一時間半も呆けていたのである。情けない。

 自分が馬鹿だというつもりはないが、情報処理能力は早苗より低い。……いや、この場合は、多分生徒会室に居た面々のスペックが高すぎたのだろう。御名方――――これ以降は、フルネームだと長いので苗字で呼ぶ事にするけれど――――は、既に全国トップクラスだし、その彼が信頼している水鳥先生も、馬鹿では無い、筈だ。
 比較対象が間違っている、と自分に言い聞かせて、私は先の出来事を思い出した。
 整理が追い付いた今では、大体の流れを把握出来ている。

 「生徒会に入れて下さい」「良いですよ」と、学校にあるまじき軽さで、生徒会のメンバーは増えた。生徒会長の権限が強いと言っても、余りにも無理やりに過ぎるというか、周囲に訝しんで下さい、と言わんばかりに簡単に決まってしまった。

 その後、早苗が御名方と顔だけは取り繕って腹黒そうな会話をして、今後に関しての事情や問題の説明を終わらせ、では「東風谷早苗を会長権限により会計に任命します」と、とんとん拍子に話が進んでも、まだ私は復活しなかった。

 その後、仕事を終えたらしい水鳥先生が部屋へと乱入し、早苗の事を見て“やっぱり来たのか”と意味深な言葉を放ち、両方から疑惑の目で見られて、誤魔化しながら椅子に座り、そして時計の針が夕方を示した、そんな頃になってやっと復活したのである。

 「――――レオ、怒ってますか?」

 廊下を歩く私が、ずっと何も話さず無口で有る事に気を使って、早苗が声をかけて来た。
 不安そうな声に、横目で早苗を見る。彼女の目の中には、御免なさい、と心の中で頭を下げる早苗が映っていた。……そんなに不機嫌な顔を見せていたつもりはないのだけど。

 「あー。……うん、まあ、少しね」

 これ以上、早苗と黙ったままで居るのも嫌だったので、私は口を正直に開く。

 「別に、――――早苗が生徒会に入りたい、と言うのは良いよ。でもさ、せめて少し位、私に相談して欲しかったな」

 大きな溜め息は、多分、聞こえていただろう。

 「……やっぱ、アレ? 『洩矢大社』として、「御名方」に対して――相応の行動が必要だって、事?」

 「…………。…………言えません。レオ」

 一瞬、口を開きかけた早苗だったけれど、其れを止めて暗に肯定を告げた。
 私が言った言葉の意味は、これ以上無く彼女へと、伝わったらしい。

 「そう。……なら、仕方が無い、ね」

 まあ、早苗にも話せない事が有るのは、承知している。
 というか仲が良い私達だが――――実を言えば、如何やっても私が知る事が出来ない部分が有る。
 その理由は単純で、早苗の方が家の格式が高いからである。仕来り。あるいは風習。私達が縛られる、『洩矢大社』の五官の家系故に逃れる事の出来ない、古来に定められた法則だ。
 御名方に対する仕打ちではないが、東風谷の家として、古出の家に言えない知識や情報は有る。例えば『年内神事次第旧記』に記される術――――要するに一子相伝の技法などは、私でも絶対に知る事は出来ない。

 「……私は東風谷に口出しできないけどさ、早苗の相談には乗れる。それだけ、良く覚えておいてくれれば良いよ」

 私は、早苗にそれだけを言って。

 「はい! 憂鬱な雰囲気は終わり! ――――帰ろうか」

 敢えて大きな声を上げて、私は空気を塗り替える様に早苗を促した。入学早々に嫌な気分のまま家に帰るのもアレだ。帰ったら堅苦しい祖母の相手もしなければならないのだし、友人とまで悪い雰囲気で別れるのも良くない。

 「ええ、……そうですね」

 にこ、と早苗も微笑んだ。うん、やっぱりこの方が良い。居心地が良いのは早苗も同じだったようで、戻った空気を楽しみつつ、私達は玄関へと辿り着く。

 「レオ。貴方は……如何します?」

 「如何って……。そりゃあ、私も一緒に生徒会に入るよ。雑用しか出来無くても、猫よりは役に立つでしょ。それに、御名方四音と早苗を一緒にしておくと、なんか危なそうだし」

 仮に本当に早苗と彼の間で、危険な出来事が勃発した場合、果たして私で止められるのか、と甚だ怪しい疑問が頭を過るが、其れを無視した。私が放っておけないのだから、仕方が無い。

 「そうですか。じゃあ、一気に生徒会が三人ですね」

 「うん。目立つよ、きっと」

 そんな会話をしながら、私達は帰宅へと付く。
 生徒会室と図書館は学校の三階。玄関は、図書館前の階段を一番下まで降りて直ぐの所にある。私達にとってみれば軽い距離だが、御名方には辛いだろう、と思った。
 下駄箱で靴を履き替えて、二人揃って校舎を出る。この玄関口の頭の上、三階に、丁度生徒会の部屋が置かれているのだ。多分、私達の姿も見えている。

 「……四音さんも、気が付きましたね」

 私と同じ考えだったのだろう。先に上を見上げていた早苗が、生徒会室を指差す。窓硝子を挟み、夕焼けの為かはっきりと顔は見えないが、如何やら向こうも私達を見送っているらしい。アレで人格さえまともなら、さぞかし良い意味で有名になれただろうに。

 天は二物を与えず……は、誰の言葉だったっけ、と思いながら体の向きを変え、いざ下校と一歩を踏み出した。

 その時だ。




 ――――ドシャッ! という音が、背後で響いた。




 音だけを聞けば、大きな砂袋を地面へ叩き付けた様な音。柔らかな、しかしずっしりとした重量感有る代物が、大地と接触した時の様な、音だった。
 鉄錆。何故か、頭の中にそんな単語が過った。何が有ったかと探る前に、風と共に、ぷん、とした強い鉄分の匂いを感じ取ったからなのかもしれない。



 この時、私は振り向くべきでは無かったのだ。
 例え振り向くとしても、もう少し距離を放して、遠目から伺うべきだったのだ。



 振り向いた私は、見た。
 真っ白な玄関口のタイルと、磨かれた硝子に散った赤色。そして、まるで池の様に広がった、真っ赤な水溜まりの中に、一人の男が倒れていた。いや、違う。倒れていたというよりも、これはまるで――高所から地面に、叩き付けられたかのよう。
 不自然な形の、まるで放り出されただけの人形の如き、歪な体。
 堅いタイル張りの床の上に、醜悪なオブジェの様に、それは生み出された。

 「っ……救急車だ! 急げ! 生徒が落ちたぞっ!」

 ガラッ! と生徒会室の窓を開けて、水鳥楠穫が大きな声で叫んだ。
 それを機に、誰もが狂乱状態の様に、動きまわる。表情を変えず、しかし真剣になった御名方四音が携帯を弄る光景。慌てて携帯電話を取り出すが、腕が上手く動かない早苗。音と大声を聞き付けて、駆けよって来る教職員の足音と、誰かの生徒の鳴き声。
 ふとその時、背中が熱いと感じた。手を伸ばして伺うと、衝撃で背中に飛び散っただろう、まだ温かい血糊が、背中からべったりと付着している。
 現実感の薄い中で、何も変わらず照らし続ける、夕焼けの光が、残酷なほどに穏やかだった。




 そして私は、気が付いた。

 地面に叩き付けられた、男子生徒が――――今日の昼に、御名方四音の情報を集める為に訪ねに行った、あの少し不良が懸かったお兄さんだった、と言う事に。
















 某マイナス十三組に在籍していても、全く変では無い人間。それが御名方四音です。なんとなく、そんな雰囲気で書いています。因みに、あの定義を前作キャラ達に当て嵌めれば、縁はアブノーマルで、他の面々はエリートでしょうか。

 この話、神と人間以外の種族は殆ど出てきませんが、その分、もっと身近なドロドロ感です。民俗学、祟り、風習、そして信仰。主人公とヒロインと語り手の行く先は何処だ。

 最近、リアルが忙しいのですが、そろそろ春休みなので、頑張ります。
 ではまた次回。

 (1月28日投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第三話 卯月(夏初月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/02/02 23:08


 「武居大智の死は、不幸な事故だと警察は判断したようだな」

 「……ええ。アレは、事故ですよ」

 「放課後、人気のない校舎からの、運悪く足を滑らせての転落、か――――。ああ、事故だな、確かに」

 「水鳥先生。何か僕に言いたい事でも?」

 「いや。唯、少しだけ気に成ってな。……なあ、四音。生徒会の目安箱の中に、武居の“転落現場”に関する要望が、無かったか?」

 「ええ、有りましたね。屋上のフェンスが緩んで危険だ、直してくれという容貌と、最近屋上で風紀を乱す生徒がいて困る、という要望です。しっかりと対処しましたよ、僕は」

 「だろうな。私も知っている。ただの偶然なら、良いのだがな」

 「今日はえらく絡みますね……。主題は何です?」

 「私はな、四音。お前をしっかりと評価している。お前が仮に人を殺すならば、世間の推理小説顔負けの完全犯罪を行い、死体は愚か、事件すらも隠匿して終わらせるだろう。だから、お前が事故に関わっていた、とは思わない。転落事故は偶発的な物だろう。だが……」

 「……ああ。……だからと言って、誰の意志も関与していない、とは言えないと。……分かりました。頭に入れておきますよ」






 異人ミナカタと風祝 第三話 卯月(夏初月)






 チャイムの音がしたのは、私が目の前の卵焼きを食べ終わった時だった。
 そのまま玄関の開く音がして、続いて「お邪魔します」という声がする。そして廊下を歩く音が台所にやって来て、止まった後に早苗が入って来た。時計を見れば、何時もより十五分は速い。

 「お邪魔しますね、レオ」

 和食の匂いが漂うダイニングルームに、着替えた私と、台の上の朝食。四月の終わりに近い、と有る朝の日の事だ。実は朝、早苗が顔を出すのは昔から余り変わらない。
 制服姿に身を包んだ彼女の外見は、実に優良高校生だ。整えられた髪、清潔感有る雰囲気、ナチュラルメイクに、利発さと活発さ、明るさと優しさを持つ、才媛そのままである。
 こんな時、二人きりだとかなり砕けた空気に成るのだが、残念ながらそうは成らなかった。

 「あ、お早うございます」

 ――――と、早苗が笑顔を向ける先は、私では無い。私の対面で、静かに食事をしていた祖母で有る。

 「はい、お早うございます。今日も良い日柄ですね、早苗さん」

 「はい」

 そう言って互いに穏やかに、静かに微笑む。微笑むと言っても、口元が柔らかく弧を描くだけだが、笑みは笑みだ。生徒会長よりよっぽど穏やかな笑顔で有る。
 正直、その笑顔をもう少し、私の前で見せて欲しい、と思う。普段私が見る祖母は、嫌でも背筋が伸びてしまうような、張り詰めた空気を持っている。何と言うか……、そう、厳しいのだ。
 神職に付いているから当然と言えば当然なのだが、私への教育は非常にしっかりと行ってくれている。何を隠そう、早苗の御婆様と一緒に、神前での礼儀作法や祝詞や儀式の準備や、そんな諸々の巫女スキルを私に叩きこんだのが祖母だった。……正直、愛情が無かったら逃げ出すレベルだった。

 「今日は、何か早くに行く用事でも有りましたか?」

 「いえ。少し早めに朝の仕事が片付いただけです」

 丁度良いので迎えに来ました、と早苗は言う。

 「先週、『御頭祭』も終わりましたし、少し余裕が有るので、一緒に行こうと思ったんです」

 「何時も有難うね。――――玲央、早くしなさい」

 「はい」

 これ幸いと返事をした。祖母から急げと言われなくとも、急ぐとも。
 がっついてると思われない程度に素早く、残った朝食を口に運び、呑み込む。その後、空のお皿を流し台に運び、洗剤に浸ける。朝食の片付けは祖母の担当だ。

 「御馳走様でした!」――と言い残して、私は台所を出た。急いで二階に上がって、歯を磨いて、磨きながら鞄の中身を確認して、宿題と授業の道具が揃っている事を確かめた後に、歯ブラシを置いた。口を濯ぎながら、制服に財布と携帯電話が仕舞われている事を確認する。
 鏡を見て、髪の毛が整っている事を確認して、頬を釣り上げて笑顔の練習を二秒だけした後で、今度は下へと戻った。階段横に置いておいた鞄も一緒だ。使用総時間は、早苗が来てからざっと四分である。

 「待たせて御免。準備出来たよ」

 昔から要領が良かった早苗と違い、巫女修業で時間を取られていた私は、こういう日常生活の行動は速いのだ。日常生活でのサイクルを鍛えないと、とてもではないが時間が足りなかった。
 今ではもう、随分と余裕を持って対処出来るのだが、染み付いた癖は抜けないもの。女子のくせに身支度は早く、中学校時代の水泳では女子の誰よりも早く着替えが終わっていた。

 「それじゃ、行って来ます!」

 私の言葉に玄関で待っていた早苗に追いすがる様に、私も靴を履く。
 玄関の戸を開ける寸前に、背中に。

 「はい。気を付けて行ってらっしゃい」

 静かな、祖母の声が聞こえた。普段は堅い人だけれど、こういう所で少しだけ優しさが見えるから、厳しくとも……嫌いでは無い。愛されている自覚が有る事は、良い事だ。

 一歩外に出れば、今日も良い天気だった。




     ●




 それから約十五分後。
 早苗に付き合って早めに登校した私は、する事も無いまま、生徒会室に座っていた。張り切って早苗に付き合った私だが、考えてみれば、来た所で役目は何もない。

 果たして何時から来ているのか、御名方四音は私達が部屋に入って時には当然の様に座席に座っていて、当然の様に仕事をしていた。普段と空気も態度も変わらない。やっぱり不気味だ。

 早苗は早苗で、「この書類の裁き方は?」「先輩、此処に印鑑を」「吹奏楽部から部室棟管理の要望が来ていますが……」「頼まれていたコピーです」等など、実に有能にこなしている。会計職じゃなくて副会長でも良いんじゃないかと思える程。
 時間を潰す方法を考えなければいけない。授業まで、まだ後一時間近くも残っていた。

 「あ、レオ。温かいお茶を入れてくれると嬉しいです」

 「……うん、分かった」

 しずしずと立ち上がり、給湯前に行く。生徒会の片隅には、簡単な給水設備が設置されているのだ。

 早苗と一緒に生徒会に入った私だが、御名方四音の反応はかなり冷やかで、お世辞にも乗り気とは言い難かった。ただ、最後には許可をくれた辺り、話が全然通じない人では無いらしい。
 階級は一番低い、庶務――――要するに雑用だが、悲しい事に会長と会計が優秀すぎて、私がする事と言えば、本当に雑用ばかりだった。お茶を淹れるとか、水鳥先生を呼んで来るとか、書類コピーとか、荷物運びとか、訪ねて来る奇特な人間の応対とか、だ。

 「はい早苗。……先輩も、どうぞ」

 真新しい湯呑みと、使いこまれた湯呑み、二つにお茶を淹れて手渡す。

 「有難う」

 そう言ってこっちに頭を下げる早苗と、無言のまま、けれども無視せずに受け取った御名方四音。第一印象ほど、危険ではない……のかもしれない。いや、警戒をする、しない、は別としても、殺気を向けられる頻度は多く無い。
 緑茶の残りを自分の湯呑みに注いで、腰を下ろす。そう言えばもう時期、新茶の季節だ。立ち上る湯気の香りを楽しみながら、そう思う。カレンダーの日付はまだ四月だが、天気も空気も五月に移りつつある。窓から、無駄に爽やかに広がる青空が伺えた。

 つい二週間前に、人一人が死んだとは、とても思えなかった。




 結局、武居大智は搬送先の病院で死亡が確認された。

 死因は地面への激突による脳挫傷と頸椎損傷。警察の調べによると、自殺や誰かに落とされた訳では無い、唯の事故だそうだ。それも、死んだ彼自身が気を付けていればまず発生しなかっただろう事故、との事だった。

 事件から二日後に、御名方四音から聞いた話である。
 実は屋上は、少し前から落下防止の金網が緩み始めていて、危険だと生徒からも指摘が有ったらしい。そして実際、何箇所かは破損しており、修復も兼ねて取り外されていた。
 無論、生徒達には、その趣旨を説明した張り紙を掲示したし、入らないように伝えていた。屋上のへの扉は、しっかりと鍵を懸けて立ち入り禁止にしてあった。鍵は職員室と生徒会から動いていないそうだ。

 しかし、件の武居先輩は、こっそりと屋上に忍び込んで、風紀を乱していたらしい。流石に女子を連れ込んでエロい事をしていた訳では無いが、転落現場には吸いかけの煙草が落ちていたそうだ。私が第一印象で語った通り、彼は少し不良が入った様な人だったので、納得を持って受け入れられた。
 即ち『煙草を吸おうと、立ち入り禁止の屋上へとこっそり侵入していた武居大智は、不運にも屋上から転落死した』という事である。日本の優秀な警察が調べて、そんな結論に落ち着いたのだ。多分、間違いは無いだろう。

 屋上への侵入ルートは、すわ密室か、とも思われたが、簡単に解決した。少し前から一部の男子生徒の話題になっていたそうだが、実は非常階段から登るルートが存在したらしい。非常階段を上り、雨樋に足を懸ければ簡単に屋上へ到れる、との事だった。
 その他、疑わしい部分は無かったのだと思う。小説やアニメでは警察官が無能に貶められる事が多々あるが、実際は凄く優秀だ。彼らの目を欺くような妙な小細工は、素人では不可能に近い。

 だからあれは、事故なのだ。

 転落死した事実は大きな話題を呼んだが、武居大智が死んだのは自業自得でもある……と、世間の風潮は思ったらしい。学校側の責任だけでも無い。ニュースで放送されたのは一日で、翌日からは別のニュースに取って代わられた。
 生徒達への動揺を防ぐ為、翌日一日が臨時休校になったが、学習自体は始まってもいない時期。事件発生が夕方で目撃者の数も多く無いことから、直ぐに学校は機能を取り戻した。

 唯一、その名残を抱えているのは、彼の妹、同じクラスの武居さんだけであろうか。心的なショックが大きく、未だ復帰できていない。登校はしているが、まともに授業を受けられていないのだ。四月の授業は高校生活にリズムを合わせる為の重要な時期なので、正直、心配だった。




 「レオ? 教室に戻りますよ?」

 「え? あ、うん。御免」

 早苗の声に引き戻されて、慌てて壁の時計を見れば、授業までもう二十分程だった。一時間目は、確か数学だったか。数字が苦手な私には、かなり難儀だ。

 立ち上がった私は、早苗と自分の湯呑みを回収して、流し台へと片付ける。見れば机の上にはまだ多くの書類や資料が散乱しているが、一部だけが整頓されていた。机には本人の性格が現れるというが……整頓された場所は早苗の仕事をしていた場所で、残った大量の紙の山は、多分、これから彼が使用する分と、彼が始末を付けた分だ。
 生徒会長は授業に出ないまま、仕事を続けるのだろう。此れも普段と同じだった。

 「では、放課後、又来ますね」

 「ああ。……宜しく」

 多分、笑ったのだと思うが、微かに口元を歪ませて、彼は私達を見送った。




 偶然、武居さんから相談を受けたのは、その日の昼休みの事だ。




     ●




 清澄高校には学食が有るが、生徒数と比較して少し手狭だったりする。食券を買い、カウンターへ出して、席を取って注文を待つという、普通の学食なのだが、席の絶対数が原因で、余り人気が有るとは言えない。味は並みだし、常連もいるので赤字では無いのが幸いか。
 だから、私と早苗のお昼ご飯も、どちらも持参のお弁当だ。

 「レオのご飯は何時も、美味しそうです」

 「いや、早苗のも美味しそうだよ。……今日は何を交換する?」

 「ええと。……それじゃ、その卵焼きを下さい。私のポテトサラダ、上げますから」

 教室の一角で机を合わせ、交換しながら食べる。
 私と早苗は互いに家で家事を叩き込まれている。だから料理も出来る。というか、正確には――――私達が神社の仕事の役に経たなかった幼い頃、親達が神社で働く裏で、家の仕事を任されていたのだ。だから、揃って家事が出来るようになってしまった。
 巫女としてはこの先、一生勝てないだろう。でも料理の腕は結構、良い勝負だったりする。

 「昨日は……揚げ物?」

 「はい。レオの家は、……煮物ですね?」

 因みに、早苗の弁当の中身は昨日の夕飯の残り。私の弁当は昨日の残りに、今日の朝御飯がプラスされている。
 もう長い付き合いの私達は、中身や得意料理を鑑みれば、意外と昨日の献立が見えたりする。早苗の家の夕食の場合、カレーと冷奴がセットで出て来る事も承知の上である。想像も何もない、要するに経験だった。
 教室内には、私達以外にも何人かのグループが有る。もう仲良くなった女子達のグループや、騒ぐ男子達やら。孤立している人間がいないのが、幸いだろう。

 私も早苗も、クラスメイトと仲は良い。ただ家の立場が立場だ。お陰で、どう関わったら良いのかを決めあぐねているらしい。別に私も、そして早苗も、軽口は全然気にしないのだが――――。

 「……あの」

 「はい?」

 少し元気の無い声で、話しかけられた声に、反応する。横を向いた時、所在なさげに其処に立っていたのは、顔馴染みの顔だ。同じ中学校から来た、武居さん。
 武居織戸。先日、屋上から落下して死んだ、武居大智を兄に持つ少女だ。

 「何かな。……あ、一緒に食べる?」

 「……あ、……はい」

 如何も、纏っている空気が暗い。兄が死んだ事のショックもそうだろうが、以前の快活さが、無い。
 元々、武居さんは――――言っては悪いが、凄く品行方正だった訳ではない。程程より、少し外れがちな、真面目とは、少し言い難い少女だった。ただ、頭は良かったし、……所謂、世渡りが上手いタイプというのだろうか。悪ぶっている、でも性根は悪くない。そんな少女だった。
 武居先輩の死は、かなり影を落としているらしい。軽い化粧をしていても両目に光が無い。彼の死が、馬鹿の自業自得、と呼ばれている事に起因するのかもしれない。

 「それで、相談ですか?」

 私達は中学校時代から、妙に相談事を持ち掛けられる事が多かった。神社で働いている、という部分が変な風に解釈されたのか、何かとアドバイスを授けて下さい、という人が多かったのだ。
 私も早苗も割と聞き上手で、しかも助言は結構に的確だった。お陰で評判が高まり、ますます多くの人に頼られる様になった。良循環だ。武居織戸ならば、その事実を知っていても不思議ではないだろう。

 「――――お二人は、生徒会、ですよね」

 「うん、そうだね」

 手近な机に、購買で買ったサンドイッチを置いて、少しずつ食べ始めた彼女に、私は頷き返す。
 私達が生徒会に入った事は、もう凄く有名だ。有名税と言う意味も有るのだろうけれど、あの超絶異常者・御名方四音と一緒に活動をしている、と言う衝撃の方が、多かったのだと思う。
 私達が所属した事を知った生徒達が、数日間、噂を確かめようと扉から覗いていた事を知っている。男子の目線の先に遭った殆どが、早苗への物だった事が、少し悲しいが。

 「あの、――――少し、お願いしたい事が有るんですけれど……放課後、訪ねても良いですか?」

 「あ、私は良いけど……。早苗?」

 「良いですよ、私も。ただ、一人では来るのは、雰囲気的にも少し酷だと思うので……」

 良いですか、レオ? と此方を向く早苗の目に、無言で頷き返す。
 美少女の範疇に入る私達ならば兎も角、御名方四音に積極的にお近付きに成りたい人間は少ない。その事実を、生徒会に入って痛感した。

 「良いよ。放課後、案内してあげる。六限目の授業が終わったら教室にいてね?」

 武居さんに確認すると、彼女は、はい、と頷いた。
 「OK。……じゃ、気を取り直してご飯にしよう。武居さん、何かいる? 美味しいよ?」

 沈んだままで食事をしても、美味しくは無い。私は彼女に気を使いながら、お昼を一緒に頂く事にしたのである。




     ●




 さて、放課後。夕焼けはまだ見えず、けれども確かに日が傾き始めた時間帯。遠くからの運動部の掛け声や、響いて来る吹奏楽の楽器の音色を耳にしながら、私達は生徒会室に集っていた。
 御名方四音は、静かに、何も言わずに、手元の書類を片付けつつも、話に耳を傾けている。手を動かしてはいるが、しっかりと話は聞いているのだろう。時折、その手が止まったり、小さな反応を返したりしている。

 「屋上に、行きたいんです」

 それが、武居織戸の最初の発言だった。
 その一言で、生徒会長の腕の動きが一瞬止まったのは、決して見間違いではないだろう。
 短く、はっきりと言われた言葉に、一枚の書類に印鑑を押し終わった彼は、つ、と目線だけを此方に覗かせて、幽鬼の如き暗さで口を開く。

 「武居大智の死は、事故ですよ」

 その、背筋が冷えそうな瞳を受けて、武居さんはたじろぐ。無理も無い。慣れている私でも怯まないのが精々だったのだ。並みの男子程度にしか知り合いがいないだろう彼女には、荷が重い。
 冷酷な物言いに、ちょっと苛っと来た私だ。どうも御名方四音という人間は、思いやりとか優しさと言う物が、かなり欠如している様に思える。前々から思ってはいたけれど、今などは特に。

 「先輩。……話くらいは聞いてあげるべきだと、思いますけれど」

 そう発言したのは、私では無い。御名方四音の始末した書類を整理し、分配し、有る物は廃棄し処分しながら、仕事場を綺麗にしていた早苗だ。
 その目が、まるで仕事中の如くに鋭い事が、意外だった。

 「…………」

 早苗の目線に、生徒会長は歪んだ眼で、ギロリと視線を合わせる。
 そして、そのまま互いに、十秒ほど睨み合い――――小さく悪態を付いて、やはり先輩が先に、視線を反らす。……どうやら私の知らない所で、微妙な力関係が構築されつつあるようだった。

 「どうぞ、全部話して下さい。絶対に他言しませんから」

 不機嫌そうな顔で黙ってしまった生徒会長に変わって、早苗が先を促した。




 「警察の人は事故だと言いましたけど、……納得、しきれていません」

 武居さんは、脅しにも似た眼光が消えたことで、気を持ち直したのか、本心を語り始めてくれた。

 「それは、死んだ事が納得出来ない、んじゃないの?」

 身近な、それも予期せぬ人間が消えて、それを納得出来る人間の方が少ない。
 だったら、別に特別な事では無いよ、と私は言おうと思ったのだが、其れは否定される。

 「いいえ。多分、違うと思います。……如何しても、分からないんです」

 「何が?」

 「……兄は、如何して、落ちたんでしょうか」

 「如何して、って……」

 そりゃ事故で、と言おうと思ったけれども、そう言う答えを求めているのでは、ないだろう。
 ……もしかして彼女は、事故の原因を、求めているのだろうか。

 「確かに兄が屋上から転落死した。それは事実です。でも、――――高校生男子が、危険だと分かっている場所に不注意に近づいて、それで死んだ、……それは少し、変だと、思うんです」

 違いますか? と言う彼女の言葉に、早苗も、悩ましそうな顔だ。
 この場合、相談された側とすれば、率直に感想を答えるしかない。

 「言いたい事は、分かりますけど……。事故の原因、と言っても、それを探るのは容易では無いですよ。不注意から運の悪い偶然まで、探り様が有りませんし」

 警察の話では、武居大智の死体に不自然な点は無かった、そうだ。
 まず、遺体には暴行の様子は見られなかった。つまり誰かに強引に落とされた訳ではない。体内からは睡眠薬を初め、意識に異常を引き起こす薬物も、一切、発見されなかった。
 また、覚悟の自殺でも無かったようだ。遺書は無いし、遺体は靴を履いてもいた。思春期だから他人には言えない悩みが有ったとしても、家族にすら一切心当たりが無く、また死んだ当日の彼は普段通りの行動だった。それは調べが付いている。

 特徴的だったのは、遺体の状態だろうか。詳しい事は、これも御名方四音からの話なのだが――――高所からの落下で死んだ遺体には、相応の違いがあるらしい。
 簡単に言うと、自殺ならば頭部から地面に落下し、事故や強制での滑落ならば、下半身や全身から落下するのだそうだ。司法解剖の結果、武居大智の遺体の状態は、後者に近い物だった。

 「でも、……なんで、屋上に行ったのかも、怪しいんです」

 「煙草じゃなくて?」

 「いえ。それは、確かに理由の一つとして、有りそうなんですけど……。でも、少し変なんです」

 「――――?」

 疑問符を頭に浮かべる私達(というか、私と早苗)に、武居さんは、実は、と言い難そうに告げる。

 「……お母さん、兄が煙草吸ってる事、知ってたんです。――――絶対に人前では気を付けろって、しつこい位に言っていたんです。『高校生だし、興味を持つのは分かる。煙草を吸うのは自由だけど、マナーは守りなさい。その代わり、自分の部屋でなら、こっそり吸っても良いわ』って」

 「……それは」

 現代日本では、喫煙が認められるのは飲酒と並んで二十歳からである。
 お酒の方は御神酒や甘酒、卵酒なども有るし、真夏に冷えたのを、こっそりと自宅で隠れて飲んでいる高校生は多分、珍しく無いだろう。私も早苗も(一応、巫女の仕事の一環では有るが)、注意を払いつつも飲んでいる。実は。
 流石に喫煙経験は無いが、煙草の方も似た様な物なのかもしれない。武居母の言葉は、果たして倫理的に良いのかどうかは、置いといても。

 「態々、兄は屋上まで出て行って、煙草を隠れて吸う必要が無いんです。家で許可が出てますから。……それに、足を踏み外して屋上から落ちた、って言っても、――――じゃあ、如何して兄は、態々落ちるような場所に、近寄ったんでしょう?」

 切々と疑問を上げる武居さんの目元に、光る物が見えたのは、錯覚では無い。

 「……成る程、ね」

 まあ、確かに言いたい事は、分かった。
 武居大智が、屋上に上った理由は、喫煙と思われていた。でも、彼には吸える場所が有るし、隠れて吸う必要も無い。それが一つ目。
 また、屋上が危ない場所で有るという事は彼も当然、知っていただろう。転落防止の柵が壊れていて、立ち入り禁止で有る事は承知していた筈だ。知っていたからこそ、彼は非常階段からのルートを使用した。上った彼の真意は何処にあるのか。それが二つ目。
 そもそも、男子高校生で、それもかなり体格の良い人間が、どんな理由が有ったら、事故で脚を踏み外すというのだろうか。原因は漠然としており、又、説得力に乏しい。これが三つ目。

 しかし、それでも尚、事故としか見る事が出来ない……というのも、入れて良いだろうか。
 其処まで言われてみれば、事故に見せかけた殺人、という疑いを覚えても、無理は無い。

 「その……確かめ、たいんです。この目で。屋上に行ってみれば、何か分かるかもしれません」

 生徒会室に、各教室の鍵が保管されてる事を、聞きました。
 そう言って彼女は、話を締めくくった。




 ……正直、困ったというのが私の感想だった。

 確かに、こうやって事象を並べれば、怪しい、と思えなくもない。ただ、偶然が重なった可能性だって十分に有る。それこそ『家じゃなくて学校で煙草が吸いたくなったから、気紛れに屋上に上ったら、調子に乗って転落した』という事も有り得るだろう。
 事実、警察は残された状況証拠から、そうやって判断を下した。推理小説やドラマの様な、誰かによって演出された事件で有る可能性は、限りなく低い、と思う。

 「くだらない。――――事故ですよ、アレは」

 私の内心を代弁するかのように、あっさりと御名方四音は言う。その忌憚ない意見に、武居さんの顔が、少し歪んだ。多分、ぐさりと心に打ち込まれたのだろう。気遣いという言葉を教えてやりたい。
 他人の顔色など何処吹く風で、生徒会長は不機嫌そうな顔だ。なんか癪に障る事でも有ったのか。

 ……正直に言おう。善人悪人は別として、この顔や態度を見ていると、なんか気分が悪く成って来る。
 存在が異質と言う以上に、性根が歪んでいて気持ち悪いのだ。多分、他人への興味や関心が、かなり薄いのだろう。だから人の想いを気にしない。……彼にとっては、武居さんなぞ如何でも良いのかも、しれなかった。

 「……先輩。ここまで必死に言われて、まだ動きたく有りませんか?」

 部屋に降りた沈黙を破る様に、早苗が言う。

 「――――――――」

 私や武居さんの目など、何も気にしない生徒会長だが……どうも、早苗の言葉と、眼には弱いようだ。
 顔に浮かべる不快感を隠さないまま、大きく椅子に腰かけて、何も言わない。

 「先輩。……こうして、私達もお願いしますと、頭を下げます。……それとも、私達が屋上に行って困る理由でも、有るんですか?」

 傍から見ていると結構、いや、かなり卑怯な言い方だが、生徒会長は特に気にしなかったようだ。目の前の紙の山に区切りを付けて、再度、早苗の顔を見る。
 譲りませんよ、と無言で語った彼女の圧力に、観念した訳ではないだろう。
 だが、大きく息を吐き、小さな舌打ちを隠そうともせずに、……ようやっと彼は口を開いた。

 「……古出。水鳥先生を、呼んで来い」

 面倒くさいんだ、と多分、率直な内心を語りながら、彼は私に命令する。
 表情は嫌だと主張していたが、静かにゆっくりと立ち上がった。

 「?」

 静かに歩いて、生徒会の片隅に置かれていたロッカーから、鍵の束を持ち出す。
 彼は私の方を向いて、億劫そうな顔を隠さないまま、憎々しげに――しかし、確かに言った。

 「屋上に、生徒達だけで行くのは問題、でしょう。……だから水鳥先生を呼んで来いと、言っている」

 「……!」

 理解した私が廊下に飛び出したのは、言うまでも無い。




     ●




 「事情は分かったが……特例だぞ?」

 そう言いつつも、水鳥先生は理由を聞いてあっさりと頷いてくれた。何と言うか、実にもの分かりの良い先生だ。その分、見えない裏で苦労をしているんじゃないかと思う。
 生徒会に保管されていた鍵を携え、屋上へと向かう。既に日は傾き、斜光もオレンジに彩られていた。

 先頭を歩く水鳥先生の後ろに、私と武居さんが続き、最後尾をゆっくりと御名方四音と早苗が歩いている。体力的にも辛いし行きたくない、と件の生徒会長は言ったのだが、手を貸してあげますから、と打算か親切か、今一判断が付かない早苗に促されて同行しているのだ。

 三階の生徒会室から校舎を半周し、屋上へと続く階段を上る。コンクリート製の灰色の階段を上った先には扉が有って、其処には張り紙が貼られていた。『屋上への立ち入りは原則禁止です。何か用事が有る場合は、教職員の許可と同伴の元で……』云々。

 「開けるぞ。風が強いからな、気を付けろ」

 ガチャ、と鍵が開き、言葉通り結構な勢いの風が吹き寄せる。風と共に吹き込んで来たのは、ゴミと木の葉と鳥の羽根だ。立ち入る人間が少ないせいか、埃っぽい。

 けれども、景色は最高だった。

 清澄高校は、この近隣では結構高い建物だ。茅野駅の前まで行けば大型モールや駅ビルが有るが、高校から北には諏訪湖の周辺と言う事で、景観保護として便宜が図られている。具体的には、高さ十五メートル以上の建造物が禁止されている。
 つまり、高校から湖の方を見ると、凄く綺麗なのだ。

 景観が良いお陰で、立ち入り禁止になる前には、結構な生徒が此処を訪れていたのだろう。屋上の床はタイル張りだし、片隅にはベンチも置いてある。
 柵越しに覗くと、西の山間に消え行く太陽と、その光に輝く諏訪湖という、実に幻想的な光景が広がっていた。街並みも一律に揃い、信仰の拠り所として栄えた過去の足跡を示すかのよう。……過去の栄光、と言う言葉が過って、悲しくなった。

 「昇降口の方は、近寄るなよ」

 学校の昇降口。つまり武居大智が落下した方向は南東だ。目線を向ければ……確かにフェンスが無い。転落防止用の柵は、二メートル以上の高さでぐるりと屋上を囲っているが、一部分だけが欠けている。取り外された柵の向こう側が、他より幾分開けて覗いており、そして臨時に付けたのだろう金網が、ロープで固定されていた。
 ぐるり、と屋上を見回してみるが……特に、不自然な所は無い、と思う。仮に何か人為的な影響が、武居先輩の死にあったとしてもだ。司法の手が入っている以上、――それは既に片付いた事件であり、足跡を辿る事は容易では無いだろう。

 「……ここで、兄が」

 感慨深く――――寂寥感を感じさせながら、静かに佇む武居さんは、其れだけを言って黙ってしまった。
 夕暮れの屋上は、春の薫風と共に、言葉では言えない寂しさと、表わす事の出来ない感情を齎して来る。武居さんの心に有るのは、きっと悲しみだろう。親しい身内を亡くした事への、悲哀。

 ふと思う。仮に私が悲しむとしたら、一体、何時になるだろう。
 巫女として育った私は、人の死も、何回か見ている。生死の概念は同年代の人達よりも、もっとずっと深く関わって、そして自分なりの答えに近付いていると思う。だから、私が辛い、悲しいと感じるのは、死では無い、筈だ。
 それは、過去の体験で自覚している。早苗もきっと同じだ。
 ならば、私が泣くだろう体験とは何か。……きっとそれは、親友の彼女が――東風谷早苗が、自分の手の届かない領域に行ってしまうか、あるいは形を変えてしまうか。そんな時では無いだろうか。

 「御名方」

 屋上を歩いて、何か無いか、と当ても無く動く武居さんの様子を見て、水鳥先生が会長に声を懸けた。
 私は武居さんに協力しようと、前に進んでいる。そして、背後の先生は続けて。




 「お前は、事件の全貌を掴んでいるんだろう? 話してやったらどうだ」




 一瞬、強い風が、吹いた。

 「如何いう事ですか、先生?」

 背後で、様子を伺っていた早苗が、私達を代表して声を上げた。落下現場付近で、柵越しに眼下を除いていた武居さんも、彼女に近寄ろうとしていた私も、思わず止まっている。
 早苗の目線は、壁際で腕を組む先生と、入口前で疲弊したように座っている会長を往復していた。

 「そのままの意味だ。……多分、御名方は――事件の全貌を、ほぼ掴んでいる。……だから、事故だと断言していたんだ」

 違うか? と、座り込む御名方四音に、先生は尋ねる。彼は、ちらり、とp先生を見るけれど、それだけだ。それ以上の反応を返さない。
 その言葉に、何よりも反応したのは、当然というべきか。武居さんだった。

 「じゃ、な、何で――――っ。……説明を。してくれなかったんですか!」

 思わずに、だろう。声を荒げてしまった彼女は、自分で自分の声の大きさに驚いたのか、声を呑み込む。
 周囲の反応を伺う様にして、会長へと迫る。憤懣遣る瀬無い顔をしていた。
 だが、しかし、と言うべきか。

 「……死んだ人間が生き返る訳でも、あるまいに」

 ぼそ、と告げられた言葉と。澱んだ、冥府の底の様な眼光に、彼女の進む足は止まった。その迫力に、進む足が強制的に停止させられた。
 風に煽られる長い烏髪が表情を覆い隠す様は、まるで異端の魔術師。表情を消し仮面を被った、魔人の如くの不気味さと目の色に――――。

 「先、輩?」

 やっぱり、早苗から声が飛んだ。にっこり、と可愛い笑顔だが、目線が、私が一歩下がる位に重い。笑ってない。なんか黒かった。中学校時代に、時々見た黒早苗を彷彿とさせる笑顔だった。

 どうもここ最近、早苗は会長に固執している感が有る。そして実に良い感じに御しつつある。その理由や動機を、私が知ってはいけないのだろうが……しかしそれでも、早苗が、彼の手綱を握りつつあるのは、間違いなかった。
 ただ流石に彼も、……此処まで当然の様に使われるのは嫌だったようだ。立ち上がりつつ、早苗に対して言い放った。

 「……東風谷。――――君とは、しっかりと話し合う必要が有りそうだ」

 腐った魚の様な、なんか危ない眼で睨みあい、一拍の後に、静かに口を開いた。




     ●




 「何回も言っていますが、これは事故です」

 生徒会長は、大事な事なのだろう。何回もそう言って、強調する。

 「……知っていると思いますが、この近辺は、諏訪湖と山の地形効果で、結構、風が吹きます。……夏ならば、昼は湖から山への上昇気流。夜がその逆。冬ならば、乾いた空気が山から下りて来るお陰で雪は少なく、その分晴れる日が多くて、放射冷却で寒くなる。湖が凍りますしね」

 「……?」

 何を言いたいのかが、今一、良く分からない。
 それは武居さんも同じだったようで、目を白黒させている。

 「では、対して今の季節はどうか。諏訪地方で、年内を通して平均風速値が最も大きいのは春です。……風向きは西北西。北西から南東へ吹く風。言いかえれば、諏訪湖から南東に、平野を抜けて行く風になる。この学校の屋上に吹く風も同じ事。……そんな大気の流れの中で、煙草に火を付ける時は、――――どうしたって風下に体を向ける」

 こうやって、と風下を向く御名方四音。背中から風を受ける格好だ。
 細い、ひょろひょろの体格の御名方四音ならば、足を踏み外す間もなく風で飛んで行きそうだった。
 ここからは推測ですが、と彼は言う。

 「『煙草を吸う為に屋上に上った』……のは、武居織戸の話を聞けば、確かにおかしい。学校に露呈したら停学ではすみません。……だったら考え方を変えれば良い。武居大智は屋上に上った。上って“何か目的を果たして”、――――その後で、休憩がてらに、つい一服してしまった」

 ……成る程、と私は感心してしまっていた。
 煙草を吸う為では無く、何か実行をして仕上げに煙草を吸った。煙草は飽く迄も序で、其処に遭ったからうっかりと吸ってしまった、ならば……筋は通っている。
 火を付ける為に口元を覆うにせよ、背中から風を受ける格好になれば、目の前には丁度、柵の無い屋上の端が見える訳だ。

 「その、目的、とは……」

 「……さあ。自分で調べた方が良いでしょう」

 そっけなく言い放つ彼の態度は、本当に面倒そうだ。ともすれば得意げに話す人間も多いだろう“事件の説明”を、御名方四音は本当につまらなさそうに語る。

 しかし、一瞬だけ言い淀んだその態度に、嘘だな、と私は思った。多分、説明する理由が無いから語らないだけで、彼は屋上に上った原因を知っている。生徒会長であり、しかも卓越した頭脳を持つ男だ。

 「含まれるニコチン、タールの分量で微妙な差は有りますが、……煙草を一本、吸い終わるまでの時間は、大体十分から十二分です。……武居大智は割と気が短い性格でした。十分もの間、只管に諏訪湖を眺めている事は出来ない。諏訪湖を見て、今度は反対の――――街を見る。柵の存在しない方向に、足を向ける」

 うん、その行動は想像出来る。
 煙草を片手に徘徊する、と言うシチュエーションは、そんなに珍しくない。
 となれば、後は落下した“理由”だけだ。それさえ分かれば、万事解決したと言って良い。

 「古出。柵の前に」

 「……りょーかい」

 淡々と、何の表情も無く、出された指示に素直に従う事にした。
 勿論、既に仮とは言え柵が設置されているので、何か予期せぬ出来事が有っても落下の心配は無い。

 「まず、足元。――――如何です?」

 「ええと。――――言われてみれば、少し緩い、かな?」

 私の体重では動かないが、思い切り地面を踏みしめると、屋上のタイルが、少しだけ軋んでいる(勿論比喩だ)……気がする。

 「……柵と一緒に、処置が取られましたが――――事故当時は、もう少し不安定でした。タイルがカタカタと、鳴る程度には。建築に問題が有るのではなく、柵が壊れた暫く前の衝撃で、影響が出た、そうです」

 「……あの、まさかそれでバランスを崩したと」

 武居さんが、懐疑的な表情で声を上げるが、其れを無視して御名方四音は私に告げる。

 「……左は? 昇降口前に、何か見えないか?」

 「街以外、ですよね。……昇降口前には、キハダの木が見えますけど」

 自慢の視力を駆使して、周囲を観察し、報告する。
 諏訪市のシンボルであるキハダは、中国漢方で言う黄檗(だったと思う)になる樹木だ。昇降口前に育ったキハダの樹高は、大凡十五メートル。……先端は、高校の屋上よりも高い。
 随分と茂った木の幹には、如何やら野生の烏が巣を作っているようだった。

 「カラス。……アレは意外と、人を襲う。実際、都会では被害が多発している様です」

 そう呟いた生徒会長は軽く頷いて、次を促した。

 「次。……右には?」

 「右って……。右も街、ですが」

 というか、右も左も街だ。湖が背中の方向にあるのだから当たり前である。こちらは特に木が茂っている訳でもなければ、高い建物が有る訳でもない。
 彼の発言の意図が読めないまま、私は答えて行く。

 「……ゴミの収集場所があるでしょう」

 「……ええ。有りますね」

 丁度昇降口から見て、左の隅。かなり奥まった所に、小さな小屋が置かれているのが見えた。
 学校内で発生したゴミが、一回、全て集まって来るのが収集場所だ。一週間ごとに回って来る掃除当番の仕事の一つに、各教室や分担場所のゴミを集めて、あそこまで持って行く。
 流石に昼間では発生しないそうだが、早朝や夜間には、あのゴミを烏が漁る事もあるらしい。

 「次。……頭上を」

 頭上、と言われても……頭の上には蒼い空が広がっているばかりだ。ピーヒョロロ、と鳴きながら、山間から湖に飛んで行く鳶が見えるだけである。
 意外と近くを飛んでいる。手は届きそうにないが……凧揚げでもすれば、接触しそうだ。

 「……鳶と烏が、犬猿の中で有る事は、知っていますか? 餌の奪い合いを、しているそうです」

 「あの。……さっきから、一体、何を言いたいんですか!?」

 ついに辛抱が出来なくなったのか、武居さんが声を荒げて問い詰める。
 冷酷にも見える目線に、少しは馴れたのか、先程よりも距離が近い。

 「……何を? ――――決まっているでしょう。……武居大智の落下原因ですよ。貴方が聞きたがっていた、ね」

 それに怯まず、むしろ真っ赤な口元を歪めて、不気味に言いかえす。
 何がその口元を歪ませたのかを伺い知る事は出来ないが、少なくとも謎解きで感情が高ぶった訳では、無いだろう。

 「言ったでしょう。アレは事故です……。春は烏の繁殖期。どの獣にも言える事ですが、子育て中は非常に外敵に過敏に反応する。まして普段から仲の悪い鳶が近くに来れば、まず間違いなく……喧嘩が起きる」

 ス、と静かに一本、指を立てる。細い、まるで骨だけにも見える様な、白くて不気味な指だった。

 「野鳥というのは、面白い性質を持っています。――――鳶に限らず、猛禽類に言える事ですが……両側に敷居がある空間の、間を抜ける。滑走路的な空間を、自分で認識するのでしょう。――それは例えば、一ヶ所だけ柵が無いなら、その間を上手に抜けて行く……。頻度は低いでしょうが、そう言う事です」

 更にもう一本、ス、と今度は中指が立てられた。

 「見える範囲に餌場が有る以上、其処で食事をするのは鳥も一緒です。……これら、一つ一つの確率は低い。……ですが、其処に先程の諸々の要素を加えれば。そして、それら全ての要素が重なれば――――」

 最後の言葉を、彼は言わなかったが……私はようやっと、転落の原因を理解した。そして納得した。
 確かに事故だ。それも偶然が重なった事による、運の悪い事故。
 事故だ、と言う言葉は、間違いでも何でもなかったのだ。

 例えば、九割の確率で回避できる罠が有ったとする。けれども、この罠が十個存在したら、確率的には、どれか一つには必ず中る事になる。一つ一つは非常に小さくとも、重なれば事故に繋がるとは、そう言うとなのだろう。

 入学式の頃は、春一番の季節だ。風は、今よりずっと強く吹いていた筈だ。
 烏は春が繁殖期だ。縄張りに近寄る相手には容赦が無い。屋上で煙草を吸っていたら、警戒対象になっても変では無い。
 屋上は鳶の領域でも有る。烏と鳶は犬猿の仲で、餌や縄張りを争って喧嘩をする。しかも猛禽類が好む地形が、柵の撤廃で出現していた。
 ……そして足元は微かに不安定。落下防止の柵は無い。

 一仕事を終え、気が緩んでいた状態。そんな時に、佇んでいたら。――同じシチュエーションに放り込んでも、十人に一人で発生するとは思わない。けれども百人や千人に一人位の確立ならば、多分、……事件は起こりうる。

 「それが運悪く、武居大智だったというだけの話です。……満足しましたか?」

 そう言って御名方四音は、事件の説明を締めくくった。
 それっきり、何も言わずに、黙って屋上から帰ってしまった。その顔が、妙に不満げだった理由を知るのは、もう少し、後のことだ。




     ●




 後日、武居織戸は、私達にお礼を言いに来た。

 御名方四音から語られた推測(多分、ほぼ事実だろうが)の後、少しの間を置いて、水鳥先生は私達を屋上から撤収させた。そして武居さんを下校させた。考える時間を与えたのだろう。
 事件や御名方四音の話をしながら帰宅した私達も、事故についてを考えていた。

 「……その、……有難う」

 そう言って、ペコリと頭を下げた彼女は、相談を持ち掛けた日と比べて、随分と気力を取り戻していたと思う。

 「結局、私は……兄が事故で死んだ事に、納得、出来なかっただけなんだと、思います」

 死んだ事に、では無い。偶然に発生した事故を、信じられなかったのだと、彼女は言った。
 けれども、論理立てて経緯を語られて……現実は“そう”だったのだ、と認めざるを得なくなって、始めて彼女はしっかりと受け止める事が出来た、そうである。
 それだけでも、あの人間不適応な生徒会長の前につれていった甲斐が有ったというものだ。


 御名方四音と言う人間と関わって、分かった事が少し。

 それは、彼はプライベートに踏み込まれる事を極力嫌っているが、決して付き合えない相手では無い、と言う事だ。直ぐに機嫌が悪くなるし、何処か暗黒面を覗いている様な態度だけれども――――注意さえすれば、普通に関われる。
 見たくない。近寄りたくない。そんな相手。私だって積極的に関わりたくない相手だが、決して理解が出来ない相手では、無いのだ。




 それを多分、早苗は見抜いていたのだと思う。




 「先輩。……人と関わるのは、嫌ですか?」

 「……遠慮したいね」

 そんな会話が聞こえて来たのは、屋上での一連が終わった翌日の、放課後。
 私が生徒会室に入ろうとする寸前の事だった。
 中の様子は硝子を覆う張り紙に遮られて、伺えない。けれど声は届く。早苗の声が、随分と違った感じに――――まるで大事な話を持ち掛ける様に聞こえて――――思わず私は、手と足を止めてしまった。

 「先輩。先輩は言いましたよね。……結果は、変わらない。何が有っても、現実は覆らないって」

 「……それが?」

 事実だろう? と御名方四音は、答えた。

 「私も、そう思います。結果は逃げずに、受け止めなければならない。……でもじゃあ、屋上で先輩が事故を語った事による変化は――――悪い、事ですか?」

 早苗は、御名方四音に言っていた。
 いや、むしろ訴えていたと言う方が……正しいのだろう。

 「武居大智さんは、二度と返ってきません。彼は死んでしまったから。でも、先輩が嫌々でも語ってくれたお陰で、武居織戸は前に進めました。それでも尚、何もしない方が良かったと、言えますか?」

 「…………」

 「自分から関わらないのは、その人の自由です。でも、嫌か嫌じゃないかで答えて下さい。……私が関わるのは、嫌ですか? 本当に嫌なら言って下さい。もう、二度としません。お節介も焼きません」

 彼は、何も言わない。
 答えないという事実が、彼の内心を露わしている。
 嫌な事は嫌だと、率直に気にせずに言う事が出来るのが、あの男だ。

 「先輩。……負の正の感情は、紙一重、なんですよ」

 「――――東風谷。……僕に、何が言いたい?」

 傍から聞けば変化の無い声は、けれど、ほんの少しだけ色を変えた。

 「……東風谷家の私が、御名方家の闇を見抜けないと、思いましたか? これでも神様に使える巫女さんで、歴代でもかなり優秀なんですよ、私」

 その言葉に。
 御名方四音は、そうか、とごく普通に頷いて。
 そして、目線を顔ごと合わせながら、言った。

 「……僕はね。東風谷早苗。……君が近くにいる事自体は、別に嫌ってはいない。けれども如何しようも無く――――」

 はは、と虚無的な声で、少しだけ声を上げる。御名方四音にしては珍しい、笑い声だった。




 「――――憎いんだよ」




 正直な言葉は、何処までも乾いていた。
 氷の様な冷たさも、炎の様な熱さも、何もない、ただ固形化したような、虚ろな声。
 淡々と、まるで無味無臭、無色透明な水が、空中に消えて行く様な、そんな色。

 「……三週間。君を迎えて経過したけれども、僕の闇は途切れない。むしろ一層、強くなる。殺したくて殺したくて、この凍り付いた心を動かしたくて、仕方が無い。それが出来たら、どれ程に心が弾むだろうかと、ね。……今ここで君を殺さないのは、其れが出来ないからだ。……準備や覚悟が、整っていないだけだとも」

 「……ええ。気が付いてました。殺意がダダ漏れでしたもん。――――でも、良いです」

 気にしません、と、早苗は静かに語りかけた。




 「……東風谷の家とは関係なく。……私が先輩の闇を。先輩が行動するより早く、きっと祓ってみせますから」




 それがまるで告白の様に聞こえたのは、私の気のせいだったと、思いたい。
















 かくして、早苗と四音の間に、奇妙な関係が構築されました。これがどの様に次へと繋がるかを、お楽しみに。
 次回は番外編の「御頭祭」なお話。そして物語は五月へと移ります。洩矢上社「五官の祝」も、そろそろ新たに出てくる予定です。

 ではまた!

 (2月2日 投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 番外編 ~八雲と橙と『御頭祭』~
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/04/02 22:16
 「さて、そんな訳でやってきました『御頭祭』。――橙、人が多いから迷子になっちゃ駄目だよ?」

 「はい! 気をつけます!」






 異人ミナカタと風祝 番外編 ~八雲と橙と『御頭祭』~






 洩矢大社の上社・本宮は、JR上諏訪駅から東南へ六キロ。茅野駅から西へ約二キロの所にある。
 原生林に抱かれた静謐な土地だ。社殿の四隅に御柱が、境内には幣拝殿・片拝殿が隣り合って並び、それでいて本殿が無い、という何とも妙な形をしている。この独特すぎて、諏訪造りと呼ばれている位だ。

 見所としては、徳川家康が寄進したという四脚門――――別名を勅使門。
 あるいは境内の中心に置かれている、東御宝殿・西御宝殿だろう。因みに、この御宝殿から、どんな日でも必ず落ちると言われているのが、所謂『宝殿の天滴』だ。

 「十時か。……丁度、例大祭の時間だね」

 平凡に見える背格好の青年は、時間を確認して小さく告げた。
 その言葉に、傍らの少女が反応する。

 「例大祭、ですか? 博麗神社でも毎年一回、開いていますよね」

 少女の言葉に、そうだよ、と言葉が返った。そして、そのまま口を開いて、語り出す。

 「じゃあ、話はそれからにしよう。――――例大祭、これは正確には『大祭式例祭』という。大祭という単語に、例祭という単語が繋がって出来た言葉だ。成立は明治期以降だから、結構最近だね。さて、橙。大祭、の意味は分かるかな?」

 「えっと。……読んで字の如く。大きなお祭り、ですか?」

 「そう。例祭、という言葉が生まれる以前は、大祭として呼ばれていた。だから、少し昔の――――そうだね、江戸時代前くらいかな。……その頃は、例祭も大祭も、殆ど同じ意味だった。それが別個の意味を持つようになったんだな。ただ、大事な部分がある。当時の大祭の読みは“たいさい”じゃなくて、“おおまつり”だったし、“大祭”の字も“御祭”と書くこともあった。それが変化したのは、近世だ」

 「近世、ですか」

 織豊政権を近世の範疇に入れるかどうかで議論が分かれるが、大体、四百年前になる。
 青年は、そう付け加えた。

 「名所図解という江戸時代発行の書籍がある。案内本の事だ。ここには、日本各地の祭りも紹介されているんだけれど、神社の部分に『×月×日に例祭を行う』みたいな記述が既にされているんだ。だから、例祭という言葉が当時、使用されていたのは間違いない」

 因みに、これが発行された時期は、寛政年間と天保年間がピークになっている。意外な事に、文化・文政年間では数が少ないのだ。幕府が出版制限を強めた事。過去に出された名所図解の再発行が中心だった事が主な理由である。
 ふんふん、と頷く少女に、青年は更に話す。

 「例祭、というのは、一年に一回行われる、その神社にとって最も大切な祭りの総称だね。大体は、その神社に由緒がある日に執り行われる事が多いかな。……大切な祭りだから、大きな神社ほど規模が大きくなった。余りにも有名になってしまって、由緒正しい大社だと、下に祭りを付けるだけで例祭を表せた位だ。例として挙げるならば『春日祭』とかね」

 つまり、春日大社で行われる例祭。だから春日祭となる。非常に単純で分かりやすい。
 毎年その時期になると、やはり影響があるのだろう。新鹿の性格と態度が変わる事は身内では有名だ。

 「つまり、大きな神社での行事・大祭(おおまつり)は、近世以降に、例祭として呼ばれるようになった、んですね?」

 「そうだよ。この時点では例祭も大祭も『その神社で行われるとても大きな神事である』という認識でしかなかった。けれども、ある時、それが変わったんだ」

 「ある時。……何時ですか?」

 可愛らしく首を傾げて尋ねる少女に、青年は静かに、少し冷たい笑顔を口元に浮かべて言った。
 この日本と言う国家が、大きく形を変え始めた頃の、時代。

 「明治期。紫が、博麗大結界にもう一つ、幻想と常識を分断する結界を展開した頃だ。この時、大祭(おおまつり)が、大祭(たいさい)という言葉に、変わったんだね」

 完全に外界の覇権を奪われた、そんな頃だった。
 僅かに、取り繕った表の顔が、揺らぐ。




     ◇




 「――――っ!」

 「ん? どうしたの、早苗」

 「……いえ。……今の、は」

 「早苗?」

 「あ、いえ。何でも有りません、レオ。――――気にしないで下さい」




     ◇




 家族連れ、というのが、その二人を見た時の第一印象だろう。

 穏やかな色合いの私服に身を包んだ父親と、動きやすそうな格好の娘。眼鏡をかけた理知的な、けれども優しそうな雰囲気を持つ青年と、活発そうな猫目の少女。
 互いの顔立ちが特別に似ている訳ではない。しかし流れる空気は穏やかで、抱える雰囲気は近いものがある。誰が何処からどう見ても、観光に来た親子にしか、見えなかった。

 無論、彼らは普通の存在ではない。実を言えば人間ですらない。少女は既に二十を越えているし、青年に至っては万単位で年を重ねた、れっきとした人外。所謂“妖怪”と呼称される存在だった。
 種族名に反し、その行動も身形も、普通の人間と比較してなんら遜色はない。無個性とは違う、平凡な姿形をした、普通の人。言葉から態度まで、世間の中に完全に溶け込んでいる。よほど勘が鋭い人間でも、微細な違和感を持てれば御の字だ。

 (……まあ、今は神域内だ)

 才能豊かな、あの少女ならば――――今ので、ひょっとしたら気がついたかもしれない。微かに嗤う。
 視界の遠くに見えていた、並んで仕事をしている二人の巫女から視線を反らす。自分は勿論、相手だって、こんな人混みの中で余計な行動は起こせない。普通にしていれば、何か手出しをされる心配はない。

 そもそも己ら八雲は、彼女達に気がつかれても、何も問題はないのだし。
 青年は静かに結論を出して、再度、口を開いた。




     ●




 可愛い娘に言い聞かせる口調で、彼は語る。

 「明治期。天皇の権威を復興させ、政治の中心に据える動きが発生するとともに、日本の国家の形が大きく変わって行った。外国からの技術・文化が流入し、人間は幻想よりも科学を。見えぬ物よりも見える物を。夢よりも現実を求めて、去って行ってしまった。――――その対象になったのは、寺社も同じだ」

 少し座ろうか、と青年は少女を促して、境内に置かれた石椅子に腰を下ろした。幸い、まだ例大祭で本番前だ。マニアックな人間しか見物に来ない。優先して座らせる相手はいない。
 腰を下ろした青年の隣に、少女もちょこんと座る。

 「明治期の教育に習っていうのならば、天皇家は現人神の家系と呼ばれる。それは決して間違いじゃなくてね、初代天皇である神武天皇にも両親はいるけれど……。父親は、日向鵜葺――――つまりウガヤフキアエズ。そして母親は、綿月依姫だ」

 その日向鵜葺は、綿月豊姫と八意永琳の甥っ子の間に生まれた子供だ。外見が若い、あの月の姉妹。姉も妹も、実は人妻で子持ちなのだから、本当、神は外見で判断してはいけないと思う。

 「天皇の権威を高める為に、その血縁者である日本の神々を丁重に祀る事にした。……もっと正確にいえば、管理したわけだ」

 静かに、真面目に聞く妖獣の少女に、教えるような口調で彼は続ける。

 「勿論、神社という物は昔からしっかりと管理されていた。江戸時代にも寺社奉行があったしね。……けれど、近代以降の神社は、それまでと違って国家管理の対象になった。その証拠として――――近代以降、神社は必ず「神社」の二文字を、公的に被せなくてはいけなくなった」

 「え? それまでは違ったんですか?」

 意外そうな顔だ。丸い大きな目を、ぱちくりと瞬かせて、青年を見る。

 「そうだよ、橙。例えば、「神社」の二文字が無くて『~八幡』『~稲荷』のように略されていたり、『~権現』『~明神』のように名乗っていたり。近代以後、こういう例外を無くして、全て一括で「神社」と纏めてしまった。天皇の権威を補強する為にも、厳重に管理する必要が出たんだ。だから、国家の礎に相応しくない神社は――――例えば、財産や設備に不備があったら――――それを「神社」と、国家が認めなかった。相応しくない、と言う理由でね」

 そこまで語り、彼はさて、と一拍を置いて、先程の話に戻って行く。

 「例祭が、大祭(たいさい)の括りに入ったのも、この時だ。神社を管理するのが国家なのだから、神社で行われる行事にも、国家が口を挟んだ。そして、例祭を含む『その神社で重要な祭り』を大祭と認めたんだ。……因みに、同じ様に大祭として認められた祭りには、新嘗祭や、秋季神殿祭、神武天皇祭なんかがある」

 「えっと。……質問です。縁様、良いですか?」

 はい、と丁寧にも手を挙げて、橙と呼ばれた少女は、縁と呼ばれた青年に訊く。
 ゆかりさま、が、ゆかりしゃま、と少し舌足らずになっているのは、御愛嬌だ。

 「神社が国の管理に入った、って事は、当時は反発もあった筈ですよね」

 「だろうね。あったと思うよ?」

 「でも、それが抑えられたって事は、きっと悪い面だけじゃなかったんですよね。その、良い点は、何ですか?」

 「うん、良い質問だね。――――例えば、維持費や管理費、祭儀の実行費として、神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう)が支給された。神饌というのは神への供物の事。幣帛というのは、要するにお金だ。布帛、神酒、武具などの現物での支給もあったけれどもね。これは結構な額で、大社クラスになれば、一年に一回、例祭の為に60円も支給された。今の金額に換算して、約1000倍。つまり60万円になる。その他の大祭や小祭でも別途、支給されたから……財源は、助かっていたと思う」

 ただし、幣帛を得られるのは、当然だが国家から承認を受けた神社だけだ。

 「それに、大きな大社になれば、官国弊社、府県社、郷社として扱われた。日本古来の神達にしてみれば、信仰心には困らなかった。……多少、有り方が、歪んではいたけれどね」

 思えば、この国の信仰心とは、常に何処にでも神がいる、そういう考え方の上に存在していた。万物に宿る神。八百万の名に相応しい、無名の神。彼らが圧倒的多数を占めていた。その中で、名前を持っていた極一部のみが――――残って行く。
 自然淘汰、ではない。不自然極まりない、区別や差別と言っても良い分類のされかただ。

 (……まるで)



 これではまるで、人間が神を選んでいるかのようではないか。



 神と人間は対等ではない。人間が存在せず、信仰心が失われても、神は死なない。信仰心は妖怪からも集められる。仮に失っても神霊となるだけだ。
 人間の存在を必要としてはいるが、不可欠とは思っていない。そもそも、人間がいない遥か彼方の時代から、神々は存在していた。八意永琳が良い例だろう。
 けれど、国家が管理をするという事は、同時に信仰心を管理する事にも繋がってしまう。まるで、神の存在が、人間があってこその物だとでも言うかのようだった。

 そして事実。後に彼らは、劣勢に陥った時。――――神風や奇蹟を、そう遠くない内に望む事となったのだ。『これだけ信仰したのだから、其れ位は当然だ』とでも、言うかのように。

 「……元寇とは状況が違うんだ。八坂神奈子が、懊悩を得るのも無理はない、さ」

 「?? どなたですか? 八坂?」

 「“ここ”の神様だ。蒼の顔馴染み。恩人でもある」

 メリットとデメリット。それを計ったのは当時の人間なのだから仕方がない。けれども、そう“せざるを得ない”情勢が存在した事を考えれば……やはり、あの時代が外界での、幻想の限界だったのだろう。そう思う。

 「話を続けようか。……幣帛それ自体は昔からあった。菅原天魔――――《妖怪の山》のね? ――――が人間時代に読んだ唄が『古今和歌集』に記載されているし、終戦後の今でも、宗教法人・神社本庁から支給されている。ただ、政教分離が有るからね……。明治期とは、良くも悪くも時代が違う」

 同じように語る事は出来ないだろう、と青年は告げた。

 「僕は別に、昔の事を軽んじたり、貶めるつもりはないけれど。……でも、あの時代は、色々な意味で未完成だったとは思う。今ほど文明が進んでいる訳でも無し、過去ほど幻想を抱いている訳でも無し。――――紫が隔離したのも、仕方がない事だったんだろう」

 そう纏めて、さて、と彼は話題を変える。時刻は昼前。そろそろ執行前の例大祭も終わる。これからが御頭祭の本番だ。橙にも、色々と説明をするつもりだが……その前に。

 「橙。この後は凄く混むから、今の内にお昼御飯を食べよう」

 「え、あ、はい! ――――あの、実は、少しお腹が空いてました」

 恥ずかしそうに笑う少女に、彼は微笑み返す。

 「うん、朝御飯早かったし、少し歩いたからね」

 そう頷き、携えていた肩掛けのサイドバックから、大きめの包みを取り出し。

 「藍に頼んでお弁当を作って貰った。御握りが中心だけど、味は色々ある。何が良い?」

 「えっと……鮭です!」

 そう言いながら、中身を渡したのだった。




     ◇




 「早苗、さっきから何を見てるの? なんか面白い人でもいた?」

 「いえ。……あの、レオ。あの親子連れ、見えますか?」

 「えっと。――――ああ、石椅子に座ってる二人組? 眼鏡の男の人と、かわいい女の子の」

 「ええ」

 「見えるけど、あの人達がどうかした?」

 「いえ。……その。……何でもないんです。少し、気になって。……私の気のせい、なのでしょうか」

 「……んん? 変な早苗。……御頭祭の本番だよ? 前宮まで急がないと」

 「ええ……」




     ◇




 八雲藍特性の御握り(天ぷら味。てんむす、という奴だ)を食べながら、八雲縁は静かに二人の巫女を見る。一応、性別は男であるので、彼女達の魅力は分かるつもりだ。若くて健康的な、清純な色香を持っている。無論、彼は八雲紫に一筋だから、それ以上には何も思わない。

 洩矢大社の『五官の祝』。既に途絶えた『大祝』を引き継ぎ、神職に就く、五家の――――跡取り達だ。

 『神長官』。大社の全ての監督を務める、東風谷の家の娘。早苗。
 『禰宜大夫』。儀式や祭事に関わる仕事を行う、古出の家の娘。玲央。

 かつて『凝祝』尾形の家系に生を受けた青年とすれば――――懐かしさを抱かずにはいられない。最も、洩矢が大社としての仕事をしていたのは、彼の祖母が子供の頃が最後なのだが。
 それでも、感慨深いものがあった。

 「縁様?」

 「ああ。……食べ終わったかな?」

 指に残ったご飯粒を残さずに食べて、縁は猫の少女を見る。九尾特性の御握りは大層、お気に召したようだ。食欲を見せて、一つ残さず食べられている。同梱されていた小皿も空っぽだ。

 「はい! 美味しかったです」

 「そうか。それは良かった。……口の周りのご飯粒だけ、取っておきなさい」

 「にゃう」

 指摘すると、慌てて口元を隠す。顔が赤くなっていた。気取っていたり、利巧になろうと頑張っていたりしても、やはり子供だ。隠している耳が出たら、へたれていただろう。
 妖怪も神も、精神は外見に左右される。八雲の中で、年齢的な意味でも、そして精神的な意味でも、橙はまだまだだ。……まあ、だからこそ皆、成長を楽しみにしているのだが。

 「さて、それじゃあ『十間廊』まで歩きながら、『御頭祭』についての話をしよう」

 空箱を風呂敷に包み直して、再度、鞄へ詰める。椅子から立ち上がった。
 ここから、1.5キロほど東南に歩けば、其処が『御頭祭』の会場だ。

 「丁度、神輿行列も出立するからね。……一緒に歩きながら行こうか」

 例大祭が終わると、神輿を準備していた人々が、再度、周りへと集っている。その動きは整然としており、誰もが声を話さずとも役目を把握しているようだった。
 彼らの衣裳は皆一様に黄色い。黄丁と呼ばれる服装だ。彼らは、神がいない神輿を此処まで運び、神が宿った神輿を前宮まで運ぶ仕事をこなす。その前後には先導者や、交通規制を行う警官もいる。

 そして、そんな彼らとは違い、両方に顔を出す必要がある者達は、静かに、忙しく動き回っていた。具体的に言えば、件の巫女たちだ。何を任されたのかは知らないが、東風谷早苗と古出玲央は、素早く上着(千早と言う)を羽織り、足袋に草履という履物のまま、本宮を出発して行った。

 「あの、縁様」

 「ん?」

 「手を繋いでっても、良いですか?」

 「うん」

 可愛い娘の言葉に、青年は普通に手を差し出した。




     ◇




 「あ、そうだ。早苗」

 「なんです? レオ、小走りとはいえ、走りながらの、会話は少し、辛いんですが」

 「水鳥先生も、観に来るって、言ってた。……御名方さんも、引っ張って来れたら、引っ張って来る、って――――はあはあ」

 「――――そう、ですか。はあ、それにしても、結構、遠いですよね」

 「幾ら、雑用仕事があるって言っても。車くらい、出して、欲しいよね」




     ◇




 「『御頭祭』は、別名を『酉の祭り』『大御立座神事(おおみたてまししんじ)』、とも言われている。何回も言うように、この神社で一、二を争う程に重要な祭儀だ」

 「現在は、神輿を十間廊に運んで、一定の手順で、神前に三体の鹿の頭――――勿論、剥製だけど――――を祭るだけになっている。時間もそれほど長くない。けれども昔は違った。菅江真澄さんという、江戸時代後期の博物学者が残した記録よれば、随分と血生臭い行事だったようだね」

 ようだね、と言ってはいるが、そこは八雲縁。実は三百年ほど前に、その菅江真澄とは直接対面しているし、一緒に『御頭祭』『御柱祭』を見物に行ってもいる。
 その時の記憶を、さも史料で得た知識の様に、読み上げた。

 「分かっているだけで……。例えば、『耳から足先まで突っ張らせた状態の串刺しにされた兎』『海草と共に串に刺さっている鹿か猪の皮』『生鹿』『切兎』『生兎』などなど。過激な所に行けば、茹でた鹿肉を脳と和えた『脳和え』。――――中世時代はもっと過激で、体全体を潰した『禽獣の高盛』も出たらしい。一回の儀式で犠牲になった鹿の数は、なんと七十五体だそうだ」

 「…………」

 想像したのだろう。さあ、と青い顔になってしまった猫娘に、青年は御免、と謝った。
 鹿とか兎とか、この少女の知り合いには普通にいる。しかも、どちらも神一歩手前の存在だ。人の形をしているし、言葉も話せる。彼女達のそんな姿は……確かに、縁も想像したくはない。
 というか、年端もいかない女の子に語る内容ではなかった。

 蒼白な橙を慰めるように、彼は話題を変える。

 「まあ、そんな歴史はさておくとしてもだ。例祭として最も重要視されるこの行事は……実は、古来より延々と続いてきた訳ではない、と言われている」

 道路を歩き、神輿行列の後ろを歩く。同じ様に追いかける観光客もいて、二人の姿は目立たない。

 「……そうなんですか?」

 反応を返した橙に、よしよし、と思いながら、彼は続けた。

 「そうなんだ。遥か昔から続いてきた行事ではなく、下社造営の後に、“敢えて”上社で執り行う様になった」

 洩矢大社は、二組四種の建物からなっている。縁と橙がいるのが、諏訪湖の南東に位置する上社。下社とは、湖を挟んで反対側に位置する、春宮・秋宮の総称だ。

 「どこかで語ったかもしれないけれど、祭というのは、基本的に神を慰める為の儀式だ。怒らせてはいけない神様を、丁重に祀って、ご機嫌をとって、庇護を得る。だから中途半端に手を出してはいけないんだ。『触らぬ神に祟り無し』の言葉の通りね。……さて、其れを踏まえるとだ。湖を挟んだ反対側に造営して、その上で祭りを行う。これは――――」

 「これは?」

 好奇心が勝ったのか、大分回復した橙に、教える。



 「つまり、下社造営という行動そのものが、上社の神を怒らせるような行動だった……と言う事だね」



 「あ……」

 なるほど、と橙は頷いた。
 下社の造営が、純粋に諏訪の神を祭る為ならば、何も問題はない。しかし、事実『御頭祭』が行われている。ならばつまり――――そこで何か、神の逆鱗に触れる理由があったから、『御頭祭』を行い始めたという事に、他ならない。

 「上社・下社には、昔から『大祝』がいた。今ではどちらの家系も断絶しているけれどね。仕事の内容も、行事こそ違うだけで、大差はないだろう。しかし、決定的に違った部分がある」

 「それは?」

 「呼び方だよ。上社の『大祝』は神別で、下社の『大祝』は皇別だった。言い換えれば、上社は『祭神の子孫』。下社は『皇族の子孫』だと言っていたんだ。これは、……とても、大きい」

 意味深に微笑む青年だが、少女にはよく分からない。

 下社の『大祝』という役職に、皇族が付いてはいけないのだろうか?
 縁の話では、天皇家は神と繋がっているらしい。そして、その一族が、神を祭る―――― 一見すれば、不思議ではない、気がする。けれども、隣を歩く義父の性格を考えれば、きっと裏があるのだろう。

 「縁様、いじわる、しないでください」

 「うん。じゃあ、一番、教えるべき内容を教えてあげよう」

 そう言って、苦笑いをしながら彼は言った。



 「橙。思い出してごらん。洩矢が祀る神は国津神。――――過去に天津神に敗北を喫した神達なんだよ」



 分かるかな? と考えさせるような言葉に、橙は、頭の中を整理する。
 上社に祀られているのは、国津神。そして、その国津神を倒したのが、天津神。

 (確か……)

 主である藍や寺子屋の慧音先生、友人の因幡てゐ。彼女達から聞いた、歴史の話を思い出す。

 天津神が、神の大勢力。高天原という土地に存在していた。けれども、ある時に葦原中国を欲して、遠縁の国津神の一派に、戦争を仕掛けたのだ。結果は、天津神の勝利だった。
 葦原中国を治めていた一番偉い神様、大国主が出雲大社に封じられた。そして、その子供である建御名方神が、この諏訪の地に封じられた。けれども、封じられたとはいえ偉い神様だ。必ず毎年、お祭りをして、その機嫌を取らなくてはいけない。

 (えっと……、じゃあ)

 お祭りをしていない時は、どうするだろう?
 自分達が倒した、自分達を怨んでいる相手は、怒りを抑える以外に――――。



 「あ。……負けた神様の所を、勝った神様の子孫が、見張っているんですか」



 「正解」

 偉い偉い、と頭を撫でて、褒めてあげる。少し擽ったそうな顔だ。親の贔屓目を除いても可愛い。
 頭から手を退かして、説明する。

 「記録に残っている訳ではないけれど、僕はそう解釈をしている。――――つまり、時の朝廷は、上社と諏訪の土地に建御名方を封じるだけでは満足しなかったんだ。何せ、相手は建御名方。日本最強の軍神だからね。念には念を入れる。僕や縁が『永遠亭』をどれくらい警戒しているか、橙は知っているだろう? 同じ事だ」

 「……分かる気がします」

 信頼をする、しない、とは全く別の部分で。
 強大な相手と自分の間には、少しでも緊急時の防壁を準備しておくべきなのだ。
 その感覚は、有る程度の存在ならば承知しているだろう。例え、妖怪としては幼い橙であってもだ。

 「下社を建造して見張る。これ自体は、まだ良い。けれど、その前がその前だ。何せ天津神の一派はその前に散々酷い事をしている。父親を封印し、兄を流刑させ、盛大な裏工作をして喧嘩に勝った。その上で脅して、諏訪という辺境に閉じ込めた。それも空き地じゃない。当時、この土地に居たミシャグジを追い出させてね。その上で、下社という見張りを付けるんだ。……幾らなんでも、非道に過ぎる。流石の天津神達も、やり過ぎか、と思うくらいに」

 そこで一拍置いて、彼は告げた。



 「だから、下社の造営後に――――この『御頭祭』が、行われるようになったんだ」



 「なるほど、です」

 感心した声で納得した橙。その手を引いたまま、視界を上に向ける。これでも意外と、周囲には注意をしているのだ。気が付けば、もう上社・前宮はすぐ近くにあった。

 “前宮前”と書かれた交差点を右に曲がる。これは名前の通り、目前の道路が、諏訪大社の上社・前宮の前にあるから前宮前だ。漢字で書くと、前の字が二つで少し面白い。
 その先にある石段を登る。其れほど長い階段ではないし、急勾配でもない。ほんの数分で、登りきる。そして上った先に広がるのが、前宮の境内だ。既に、観光客と大社職員とで、かなり混雑している。向こうでお昼を食べてきて正解だった。

 「じゃあ、『御頭祭』を見ながら、最後に祭儀の“意味”を話そうか」




     ◇




 「ふう、やっと一息付けました。準備も形になりましたし。……あ、沿道に居ましたね、お二人とも」

 「うん。先生、本当に引っ張ってきちゃったんだね……。私、絶対に御名方さん来ないと思ってたけど。……色々言っても、あの人も『五官の祝』の末席、なのかな」

 「……レオ。以前より、先輩への態度が丸くないですか?」

 「まあね。四月も中旬。転落事故の解決から早一週間。……短い間だけど、早苗の態度を見てれば、嫌でも丸くなるよ、ほんとに」

 「あの人、元からそんなに悪い人じゃないですよ。私はそれを皆に教えているだけです」

 「うん。……ねえ。前から訊きたかったけど、早苗って御名方さんの事」

 「あ、もう御神輿が来ますね。――――さ、仕事ですよ、レオ」

 「…………逃げたね、早苗」




     ◇




 『十間廊』。神原廊とも言われる建物が、『御頭祭』の祭儀場だ。境内の広場を郷原と呼ぶが、その郷原の中心に置かれた『内御玉殿(うちみたまでん)』の一部として建てられている。

 建てられている、といっても、正直、外見は質素な物だ。壁が無い吹き抜けの、長方形の古びた木造建築。普段なら、天井の低い道場か、舞台にしか見えない。
 ただ、今日は『御頭祭』と言う事もあって中の様相も違っていた。まず人数が段違いだ。個人のスペースは非常に狭いし、吹き抜けが覆われているから視界も悪い。縁一人ならば兎も角、橙もいる今は、近くでの見物も難しいだろう。

 しょうがないので十間廊に程近い、様子は見えるが会話が邪魔にならない、という場所に上手に陣取った。妖怪の二人ならば、多少遠くても視力に問題はない。
 大声にならないように気を使って、縁は橙に話す。

 「『御頭祭』は、昔からあった行事じゃない。そして、間違っても、世間でよく言われる自然崇拝の儀式でもない」

 「はい」

 始まったのは、下社の造営後。自然崇拝と言うには、捧げる生贄の数が段違いだ。血生臭すぎる。

 「そもそもだ。遥か昔……。洩矢大社は、元々ミシャグチを祭る神社だった。神社、という概念すら怪しい時代だけれどね。自然崇拝の祭儀場として存在していただろう。それが、建御名方の侵攻によって土地を追われ、建御名方の神社になった」

 自然崇拝による多大な生贄も、ミシャグチ神を祀るのならば分かる。ミシャグヂは土着神であると同時に、日本最大の『祟り神』だからだ。だがその事実は、建御名方神に同じ法則は当て嵌まらないことを意味している。建御名方は軍神なのだから。
 しかし、“それを踏まえても尚、重要な祭り”である事も、また事実なのだ。

 「つまり、ご機嫌取りの意味が違うんだな。……橙、僕はさっきヒントを出したね。国津神は天津神に敗北したんだ、って。――――では、建御名方を倒した天津神の名前は、知っているかな?」

 「えっと……」

 再度の質問に、彼女は顎に指を当てて考える。耳が視認出来ていたら、きっと忙しなく動いていただろう。すぐに態度に出てしまうのが、若い証だ。
 意外と直ぐに思い出せたのか、橙は元気な声で言う。

 「確か、建雷神(タケミカヅチ)、です! ――――あれ」

 「何か思いついたかな?」

 「あの、……その名前、前にも何処かで、聞きましたよ、ね?」

 「うん」

 大国主の国譲り、で調べれば分かる事だが、軽く概略を話すと、こうなる。

 葦原中国を平定しようとした天照の一派だったが、大国主も簡単には、国を渡さなかった。向こうから遣わされたアメノオシホミミ、アメノホヒなどを、逆に懐柔して味方にしてしまったのだ。そうして何回かの失敗の後、送られたのが、軍神・建雷神と、その副官に任命された天鳥船(アメノトリフネ)だ。
 彼らは出雲に降り立つと、大国主に国を譲る様に迫った。大国主は、答える前に、息子二人から解を得るように要求し――――その兄弟こそが、兄・事代主と弟・建御名方神だった。
 事代主は国を譲ることを認めた後に、藪の中に隠れてしまった。建御名方は、建雷と戦って敗北。大国主は、出雲大社に……と、この辺は語ったか。そんな感じで、葦原中国は高天原の神達に支配された訳だ。

 「つまりだ。建御名方神が“最も恨みを抱いている”のは、自分を倒した、建雷神。そして」

 彼は一拍、わざと強調するように、告げる。

 「建雷神は、鹿島神宮と春日大社の神。そして、その部下は鹿だ」

 「あ、そうです。蒼様の所で、聞いたんです」

 思い出しました、と声を上げる橙に、微笑む。その認識はとても正しい。

 彼の大事な従者、八雲蒼は、その鹿島神宮と春日大社の遷社で功績を残した過去を持っている。詳しい事情を知らない橙でも、少しは耳に挟んでいる筈だ。



 「生贄に捧げられる鹿、とは取りも直さず、建雷神を示す。建御名方神を宥める為に、建御名方を倒した一門からの生贄を捧げている。――――これが『御頭祭』の意味だよ」



 因みに、と彼は続けた。蛇足であり、『御頭祭』から脱線してしまうので、短く纏めるだけにする。

 「諏訪七不思議の中に『高野の耳裂鹿』という伝説がある。これは、『御頭祭』の生贄の鹿、七十五体の中に、必ず耳の裂けた鹿がいる、という物だ。実は、この耳裂鹿。呼び方は色々とあるけれど、ミミサケジカ――――ミシャグチ、と同じ存在らしい」

 「……つまり?」

 「鹿を生贄に捧げるだけでなく、捧げる鹿それ自体にも、しっかりとした意味を持たせてあるという事だ。……この辺は長くなるから、また今度にしよう」

 大きく語り終え、八雲縁は息を吐く。気分を変えながら、さて、と会場に目を戻すと、神事は二人の会話を余所に着々と進行していた。

 笙や篳篥(ひちりき、と読む)などの雅楽の楽器を、東風谷早苗や古出玲央が奏でる中、祝詞が奏上され、玉串が奉奠(ほうてん)され、撤饌に移る。
 そして警蹕(けいひつ。掛け声の事だ)と共に神輿の御簾が下ろされ、宮司が一拝して終了だ。実に簡単に、滞りなく行われた。例祭と言っても、やはり、時代の違いだろう。

 「さっき名前を出した菅江真澄さんは――――同じ様に『御頭祭』の儀式を、非常に詳しく書いている。原稿用紙数枚分も長くなってしまうので、ここでは語らないけれどね。……当時と比較すると、非常に簡略化されているね。詳細は『菅江真澄の信濃の旅』という書籍に載っているから、興味があると読んでみると良い。……家の書斎にも有った筈だ」

 「はい、分かりました」

 神事が終わって、空気が緩む。観光客たちも、個人個人の行動に戻り始めていた。

 最も、終わった後も、大社の関係者の仕事は終わらない。緊張感も途切れていない。今度は内御玉殿での祭事があるからだ。素早く移動している巫女娘達に頑張れとエールを送りながら、縁は時計を見た。
 午後二時。帰るには早いが、何かをするには心許ない、中途半端な時間だった。

 「もう少しいても良いけど……橙。如何する? 丁度すぐ近くに、桜が見頃の場所が有るけど」



 「あら、良いわね」



 唐突に、声が挟まった。

 「――!、ああ」

 余りにも突然すぎる声に少し驚くが――――発した相手は、十分に分かる。
 彼が、彼女の声を間違える筈がないのだ。

 「早かったね。紫」

 青年が顔を向けた先、周囲に完璧に溶け込みながら、八雲紫が橙の隣を歩いていた。




     ◇




 「はあ……。あー、何とか、今年も終わったねえ」

 「そうですね。ふふ、私も少し、疲れました。明日は日曜日です、ゆっくりしましょう」

 「うん。あ、そうだ早苗。……宿題教えて」

 「ええ、良いですよ」

 「二人ともお疲れ様。ほら、労いの言葉を届けに来てあげたぞ」

 「あ、水鳥先生。こんにちは」




     ◇




 結局、最後まで祭儀を見るのは止めにして、桜見物をして帰ることにした。大社の近くには、高遠という名所がある。今は花見シーズンと言う事もあって、中々賑わっていた。
 橙を間に挟んで、三人で並んで歩く。これでますます家族連れだ。胡散臭い雰囲気も、随分と軽減されただろう。例え紫と一緒だったとしても、この人混みだ。しかも、誰もが花か団子か身内に集中している状態。自分達に注目する人間はいない。存分に紫の話を聞く事が出来る。

 そろそろ人間の仮面も、終わりだ。



 「それで、どうだった? 八坂神奈子との会談の方は?」

 「完遂出来たわ。縁、貴方が――皆の目を引きつけてくれた御蔭でね」

 「それは良かった」



 さて、種明かしだ。
 僕が、態々『御頭祭』へと顔を出したのは、ただ祭り見物が好きだったからではない。確かに祭り見物や歴史、民俗学は大好きだが、今回は二の次。本当の目的ではないのだ。

 真の目的は、『八雲紫が八坂神奈子と対談する場をこしらえる』という、部分に尽きる。

 祭りのような日。要するに、人間と神とが近付く日は、その感覚は鋭敏になる。神の影響なのだろう。普段は見えない物を感じ、感じられない物を察知出来るようになる。勿論、一時的な物だ。日常に戻れば三日も持たずに霧散してしまう。

 勿論、今の洩矢大社関係者の中にも優秀な者はいる。東風谷早苗がそうだ。今の『神長官』を務める、彼女の祖母もそうだ。その傍らの『禰宜大夫』――――つまり古出玲央の祖母辺りも、まあ合格ラインだろう。

 そして、恐らく。
 恐らく彼女達に限って言えば、神域内に“人間以外の何か”が入り込んだ事だけは、多分、気が付ける。

 一応言っておくならば、紫は妖怪最強だ。だから、例え神域内とはいえ、彼女達では紫に危害を加える事は不可能だし、捕縛は愚か、視認も難しい。
 だが、八雲紫に問題が無くても、八坂神奈子にはある。神社の人間達は、見ず知らずの妖怪は感じ取れない。しかし、非常に近い――――“己が遣えている神”の存在ならば、感じ取れる。

 この会談は何よりも、彼女達に気が付かれてはいけなかった。



 「……八坂神奈子は、《幻想郷》へ来ることについて、何と?」

 「来ることは決定事項ね。でも、時期はまだ、だって」



 なぜなら、神が消える事を、この神社の関係者に、微塵も感づかれてはいけなかったからだ。

 八坂神奈子、及び洩矢神社の神達が《幻想郷》への来訪を考え始めたのは、つい最近の事。ここ二十年位の事だ。前々から親交があった僕たちは、其れから少しずつ、人目を盗んで秘密裏に会談をしてきた。
 けれど、妖怪や神の二十年は、人間にとっては長すぎる。初めて神達が考え始めた時から、既に世代は変わってしまった。
 世代が変われば、価値観や情報も変わる。神への態度すらも変わる。故に、会談は秘密裏に進めなくてはならない。

 八坂神奈子が、僕達に、そう頼んできたのだ。
 そして、僕と紫は了承していた。今までも色々と世話になっているし、貸し借りの清算の意味もあったからだ。



 「――――保留は、先延ばしにしかならない、とは?」

 「ええ、伝えたわ。……でも、向こうも、あと一つだけ、解決していきたい問題があるって」

 「具体的には?」

 「……なんでも、洩矢諏訪子が、この所、一人の人間に御執着らしいわ」



 だから態々、この『御頭祭』に僕は姿を見せたのだ。

 行事の最中の、密度が濃い空間で、僕がわざと妖怪としての本性を一瞬示すだけで、鋭い人間達は否応なしに此方に目を向ける。だから、東風谷早苗も、見事に引っかかってくれた。
 目を向けると言っても、怪しむだけ。小さな違和感を抱えるだけ。人間かどうか分からない、と少し疑う程度で良い。けれど、その疑いと行事に専念するという思考の二つが揃えば。まして、態々、行列に同行する様に歩き、歴史を紐解きながら説明をすれば、――――彼らは必ず自分達に気を向ける。



 そして、僕より遥かに隠密行動が得意な、万能ともいえる八雲紫の存在には、絶対に気が付かない。



 それにだ。『御頭祭』という行事の性質上、八坂神奈子がいる上社・本宮はどうしても手薄になる。警備の人間はいても、それは人間への警備。勘の鋭い、そして八坂神奈子の存在を感じ取れる人間は、皆、前宮に行ってしまう。
 例え東風谷早苗といえども、彼女達と自在に交信できる訳でもない。ここは《幻想》が生きるには困難な人間の世界だ。故に、あの一時間が、彼女達の会談の絶好の機会となったという訳だ。



 「へえ。――――そりゃまた、憑かれた方も大変だ」

 「ええ。本当に大変みたいね。彼女の問題が片付いた後で来る、と言っていたわ」

 「そうか。……それじゃ、後の詳しい話は帰ってからにしよう」

 「そうしましょうか」



 これまでの成果は、まあ及第点だろう。彼女達が《幻想郷》に来ることが決定しただけでも大収穫。神社としての問題は、神社として片付けて貰えば良い。此方の仕事は受け入れ態勢を作ることなのだ。

 仲良く並んで、桜を見物しながら、秘密の会話をする。
 実は、これも中々、僕と彼女の関係を表しているようで、楽しいのだけれど……忘れてはいけない。今は二人ではないのだ。僕と彼女の間に、一番幼い猫の少女がいる。彼女を放って置いたまま、ずっと念話をするのも、少し悪い。

 気分を変えて、気を使って黙っていてくれた彼女に、声をかける事にする。

 「橙。――――何か食べたい物はあるかな?」

 「え。……良いんですか!?」

 途端に、目が輝いた。物に釣られるのも、若い証拠だ。

 「藍が夕御飯を作ってるから、少しだけよ? 今日は一日、私達に付き合わせちゃったわね」

 「有難うございます、紫さま、縁さま!」

 でも、それも良い事だと思う。今しか出来ない、今しか見る事が出来ない光景だ。
 紫円とは、二度とこういう事は出来ない。それに、彼女はもう十分に大人だ。同じ事をしようとしても、多分、向こうが断るだろう。

 僕と橙、紫と橙は、年齢的や立場的には、親子というか、祖父母と孫なのだが、どっちにしても同じだ。橙が、可愛い家族である事は間違いがない。それも、かなり甘い祖父祖母の立ち位置だ。紫が若くない、とは一生、思わないけれど。

 「えっと、えっと。……じゃあ、りんご飴下さい!」

 でも、こうしてきらきらしている橙や、日々を過ごす博麗霊夢や、《幻想郷》の若人を見るたびに、なんか優しい顔をする彼女を見ていると、随分と遠くまで来たんだなあ、と思う。
 彼女が人間だった頃に、こんな顔を見た事なんて、本当に少なかったのだから。
 今日も一日、有るべき八雲の姿だったと思い。

 「はいよ。……あ、蒼や藍にも、御土産として買っていこうか」

 財布からお金を出したのだった。




     ◇




 「御名方は家まで送っておいた。月曜日にはしっかり来るだろう。……東風谷、古出。お前達も遅刻しないようにな」

 「はい。……そう言えば先生。なんか、気分が良さそうですね」

 「そうか? いや、実は昔の友人と会えてね」

 「え、道端で、ですか?」

 「いや、本宮の方に顔を出した時だ。懐かしくてね、ついつい――――」



 水鳥楠穫は、笑顔を浮かべて。



 「一時間ほど話しこんでしまったよ」



 そう語った。






 神湖の畔は、春である。















 まず、今回の物語に当たって、以下の資料を使用させて頂きました事を、報告します。

 『QED 諏訪の神霊』 著・高田崇史・講談社から。
 『菅江真澄の信濃の旅』 信州大学から発行。
 『神長官守谷資料館のしおり』 神長官守谷資料館。
 インターネットサイト『諏訪神社』のHP様。
 インターネットサイト『諏訪大明神画詩紀行 諏訪大社と諏訪神社』様。
 ウィキペディア、です。

 と言う訳で、『境界恋物語』主人公の暗躍な御話でした。
 今回、中身は趣味に走らせて頂きましたが、こういう東方があっても良いですよね、きっと。
 東方世界観に合わせる為に固有名詞を、若干変えて有りますが(守谷 → 東風谷など)、大体は現実に即しています。
 今年も四月十五日に、諏訪大社では『御頭祭』が行われる筈なので、興味がある方は是非、どうぞ。詳しくは自分で御調べ下さい。

 学年も上がり、昨年ほど暇が取れるか怪しいのですが、どの話も完結させるので気長に待っていてくれると嬉しいです。
 短くても厳しくても構わないので、感想を下さい。

 ではまた次回!

 (2011年4月2日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第四話 皐月
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/04/06 22:52
 異人ミナカタと風祝 第四話 皐月




 それは、朝食の時間に出た話だった。

 朝のお勤めを済ませ、身支度を整え、学校へ行く準備をし終わった私は、常の如く祖母と共に向かい合って食事をしていた。お茶碗は卵と共に空っぽ、焼き魚も皮まで食べ終わり、最後の御椀に口を付けている時だ。

 「玲央さん。この大型連休は、何か予定が有りますか?」

 物静かな態度を、欠片も崩すことなく、祖母は私に話しかけた。

 「いえ。特には。……早苗と少し、出る予定だけです」

 私の答えに、そうですか、と頷いた祖母は、そのまま確認する様な口調で続ける。

 「一日ですね?」

 「ええ……じゃなかった、はい。五日間の内、一日だけです」

 五月の大型連休。即ち、ゴールデンウィーク。今年は、五月三日(水曜日)から、翌週の日曜日まで五日間が休みになっている。世間では旅行に行ったり、誰かと遊んだり、と五日間を満喫するのだろうが、私や早苗の場合は、そうもならない。
 祖母も、そして早苗の祖母も、実に如才ない方で――――『日頃出来ない、細かな仕事は、暇が出来た時にやるものです』と言って、既に五日間の内の、丸二日は潰れる事が確実な量の仕事を回してくれていた。まあ、ある意味充実した休日になる事は間違いないだろうけれど、楽しい、とは間違っても言えない。

 「玲央さん。尾形の家の、紗江さんは分かりますね?」

 「はい。仲良くさせて頂いています」

 この祖母の前では、言葉の使い方一つにも気が抜けない。学校で御名方さん(もう、呼び捨ては止めだ)と早苗の会話を聞いているのも疲れるけれど、祖母の前だと、正直、肩が凝って仕方がない。
 祖母はもう、八十歳を過ぎている。だが、未だに病気や不調もなく、矍鑠と日々を送っている。若い筈の私以上に、何時まで経っても精神の緊張が緩まないのだ。……正直、この人が弱った姿を、私はほとんど見た事がない。

 「それで、お祖母さん。紗江ちゃ……さんが、どうしました?」

 「紗江さんが、この連休中に此方に遊びに来たいそうです。私は許可を出しました」

 洩矢大社『五官の祝』の中の一つが、『凝祝』の尾形家だ。
 その仕事は、洩矢大社の記録全般である。記録と言っても、何月何日に行事をしました、という単純な記録ではない。祭具の管理、建物の補修や計画、神事の段取りと下準備などなど、人の流れから物資の流れまでを監督する、縁の下の力持ち的な雑用をこなしている。

 紗江ちゃん――――緒方紗江は、そんな尾形家に生まれた女の子で、一家の長女。祖母の口ぶりでは年齢が分からないと思うが、実はとても若い。年下というか、私の半分にも満たなかったりする。
 今年で六歳。今は幼稚園に通っている、来年から小学生の可愛い女の子だ。

 「……面倒をしっかりと見るなら、任せた仕事を二割、減らします」

 「やりますっ!」

 思わず、私は答えていた。いやホント、神社の娘としてはどうかと思うが、祖母達が回す仕事は、慣れていてもかなりキツイのだ。彼女達は実にイイ性格をしていて、全力で二日間やれば、ギリギリ終わる分量の仕事を回して来る。出来ない量ではないのだ。だから、必死にやる羽目になる。

 働く事全般に言える事かも知れないが、楽な仕事は存在しない。何をしているか、今一知られていない巫女の仕事も、外見からは想像できない位ハードだ。
 一つ一つに礼儀作法があり、決まった手順が有る。祝詞は全暗記、奉納演舞も体に覚えさせているし、雅楽器や和装にも通じる必要がある。私や早苗が日々を過ごしていけるのは、それらが既に生活の一部であり、幼い頃からの習慣になっているからに、他ならない。

 「そんなに大きい声を出す物ではありません」

 静かになさい、と少し顔を顰めて告げた祖母だった。

 「あ、御免なさい。……でも、良いですよお祖母さん。紗江さんと過ごせるなら」

 面倒を見るとは即ち、目を離さず、食事や睡眠、遊びや風呂、更には勉強などに付き合うという事なのだが、私は構わなかった。普段と大きな違いはない。
 それに、紗江ちゃんと話していると、色々と楽しいし、此方も“学べる”のだ。

 「……分かりました。では貴方が世話をする、と先方には伝えておきます。――――さて玲央さん。急ぎなさい」

 祖母は静かに、壁掛け時計を目線で示す。

 「そろそろ、家を出る時間ですよ」

 「あ」

 はっとして確認すれば、いつも家を出る時間まで五分も無い。また早苗を待たせてしまう。
 私は慌てて味噌汁を流し混み、シンクの中に食器を運んで、鞄を引っ掴んだ。

 「――――えと、ごちそうさま! 行ってきます!」

 行ってらっしゃい、の言葉を背中に受けながら、私は五月晴れの空に飛び出したのである。




     ●




 『御頭祭』から三週間。新年度明けの空気も落ち着き、そろそろ授業にも慣れてきた。

 爽やかな風は気持ちが良いし、五月晴れの言葉の通り天気は青く広い。気温も温かく、睡魔に誘われた事も一度や二度ではないが――――幸い、早苗が起きている後ろで眠れるほど、私は薄情な性格はしていない。日々頑張って欠伸を噛み殺しながら、いたって真面目に学校に通っている。

 「レオ、知っていますか? 『五月晴』と言う言葉は、太陰暦で考えるべき単語なんです。だから今年『五月晴』を使うなら、5月26日以降が正しいんですよ」

 「あ、そうだっけ」

 そんな豆知識はさておき。
 通学しながら、紗江ちゃんが遊びに来る事を話すと、早苗もとても喜んだ。

 洩矢大社に関わる人間は多くても、その中で同年代の子は多くない。というか全然いない。私の姉と『八島』のお姉さんを除けば、一つ上に『御名方』の四音がいるだけだ。高校一年生の私達の次は、幼稚園生の紗江ちゃんまで世代が飛んでしまう。
 せめて間に何人か、中学生か小学生の子供がいれば随分違ったのだろう。でも、こればかりは親達に文句を言うしかないし――――それに、文句は最早、言う事が出来ないのだ。家系が途絶えなかったのが幸いと思うしかない。

 「結局、尾形さん達は『御頭祭』の手伝いにはこれなかったしね……。紗江ちゃん、私達に会いたくて、家のお祖母ちゃんに直接、電話で頼んだんだって。勇気があるよ」

 「紗江ちゃんですねえ」

 くすくす、と早苗も笑う。互いに、祖母の堅っ苦しさは知っている。あの人達の緊張感は、電話越しでも伝わってくるのだ。……そして凄い事に、それに紗江ちゃんは怯えない。
 小学生にもならない少女だが、あの娘は本当に行動力がある。持ち前の勘の良さもあるのだろうけれど、兎に角、一人で何でも動いてしまう。何時だったか、一人で電車に乗り込んで遠くの駅で発見され、大騒ぎにもなった。

 「私もレオの家に顔を出しますね。それで、何曜日に来るんですか?」

 「ん、今日の夜だって」

 「はやっ」

 思わずノリ良く答えた早苗だった。早苗は意外とこれで腹黒かったり、Sっぽかったり、敢えての天然ボケを演出したり、もっと酷い時はロボットマニアになったりもするので、特に気にしない。

 「――――? でも、少し唐突過ぎる気もしますよね」

 ふと、違和感を思ったのだろう。早苗が考え込む顔になる。
 先程も言ったが、紗江ちゃんはまだ幼い。だから多少余裕がある。けれども、彼女もれっきとした祝女だ。洩矢大社の立派な血縁者なのだ。……遠くない内に、自分が巫女の修業を頑張らなくてはいけない事。そして、親戚のお姉ちゃん達が大変な事も、分かっていない筈がない。

 「……私も、そう思ったんだけどね」

 祖母が言うには、紗江ちゃんが“如何しても”、と言ったのだそうだ。

 『なーんか、早い内に、来た方が、良い気がするの。なんかね、上手に言えないけど、早くに行かないと、何か起きる気がするの』――そんな言葉を聞いて、祖母は許可を出したのだ。我儘とは違う、漠然とした予感で――紗江ちゃんがそう言ったから。それが理由だ。

 「ああ、ならば、仕方がないですね」

 早苗も、納得したように頷く。

 「うん」

 仕方がない、と思う。
 尾形紗江の予感は当たるのだ。それも余り良くない事に限って。

 「まあ、お陰で、と言うべきかなあ。お祖母ちゃん、紗江ちゃんの面倒見ながらでも出来る仕事に絞ってくれたんだ。書類仕事とかね。……早苗もそうでしょ?」

 「ええ」

 彼女は頷いて、あ、でも、と付け加える。

 「あれ、違った?」

 私の祖母の事だから、きっと平等に早苗の仕事も削ったと思ったのだけれど。

 「いえ、お祓いの予約を消化しないといけないんですよ。それを思い出したんです」

 洩矢大社は勿論、普通の参拝客へのサービスも提供している。……というか大きい神社だから、かなりしっかり提供している。
 その内の代表的な物が『厄除け祈祷』だ。学業成就や交通安全、縁結び、子授け、七五三参り、家内安全に、合格祈願まで。バリエーションが豊富で節操無いなあ、とか私は思っていたりする。

 この現代社会でも。いや、現代だからか。ゲン担ぎの意味も込めてお祓いをやって欲しい、と来る人が結構多い。普段は上社の宮司さん達が行うのだが、早苗は『神長官』の家と言う事で、修業の一環として毎月、何人か任されている。

 「多いの?」

 「いえ。……一人か二人、でした。二時間もせずに、直ぐに終わると思います」

 「そう。じゃ、紗江ちゃんには伝えとくね」

 「はい、お願いしますね」

 実は、私も過去に『お祓い』の方法を教わりはした。だから、儀式の方法自体は知っている。
 ただ、悲しいかな。才能が全く無い私は、誰の目から見ても“効果が微塵もない”事が明らかになるだけだったのだ。参拝してくれるお客さんに、余りにも失礼になりそうな位だった。以降、私の『お祓い』の修業はなくなった、と言う訳である。
 正直に言えば、早苗を手伝えない事が、今でも少し、心苦しい。

 「あ、そうですレオ。少し思いついた事が有るんですが」

 「あ、うん。何?」

 考え込みそうになっていた私は、その声で引き戻される。危ない危ない。下手に悩むのは柄じゃあないのだ。母にも、貴方は考え込んじゃ駄目よ、と昔に忠告されてもいる。私もそう思う。
 取り繕った私の態度は、顔には出ていなかっただろう。早苗は特に変な顔もせずに。

 「紗江ちゃんに、先輩を紹介してくれませんか?」

 さらっと、そんなトンデモナイ事を言った。
 ええー。




 そんなこんなで学校に行き、生徒会室で仕事をする。八坂二中で有名だった私と早苗は、有能な新人部員として各クラブから目を付けられていた様だけれど――さっさと生徒会に入ってしまったからか、勧誘の“か”の字も来ない。普通の生徒に、御名方四音を相手にしろというのが、難しいのだ。

 「……尾形の、紗江、ね」

 早苗から話を聞かされた御名方さんは、興味がないように呟いて、それで黙ってしまった。
 これは最近になって判明した事だが、この人の無言は「勝手にすれば良い」という意味だ。了解の返事と、断りの言葉は使うが、それ以外が基本的に受動的。沈黙に陥ったのならば、こちらが勝手に何かをしても文句は言わない。それを一早く見抜いた辺り、早苗の人を見る目は凄い。

 「顔を見せに行くかもしれないので、宜しくお願いしますね」

 にこにこ、と輝くような笑顔で言われても、彼は、ふん、と軽く鼻を鳴らすだけだった。不機嫌な態度を隠そうともしない。他の男子生徒なら見とれるかもしれないが、この先輩には効果が無い。
 ……しかし如何やら、私が紗江ちゃんを紹介する事は、早苗の中では決定事項らしい。小学生の子供には、御名方さんは少し刺激が強すぎるのではないだろうか。怯えないか心配である。

 「それじゃ、放課後に」

 和気藹々、とまではいかないが、まあ雰囲気自体は悪くないまま、仕事を終え、私達は教室に向かった
 慣れてきたからかもしれないが、高校の授業は、難度は高いが中々楽しい。午前中、真面目に授業を受ける。名前が知られているし、洩矢大社の顔がある為、サボれもしない。居眠りして風聞を立たせる訳にもいかない。有名税という奴だ。

 「ええと、お邪魔します」

 「はい、どうぞ」

 早苗と私、そして最近加わった武居さんの三人でお昼を食べ、また午後の授業。窓からの光は温かいし、満腹で眠気を覚えるし、古典は勉強せずとも理解できる。三重苦に苛まされながらも、気合いで起き続けて、二コマの授業を終わらせる。

 その後、掃除当番が休みな事を確認して、早苗と共に生徒会室へ。当然のように座っていた御名方さんに(この人は、基本、授業に出席しない。でも成績は学校一位だ。理不尽)軽く頭を下げて、鞄を置く。

 早苗が裁く書類を確認している間、私は流しでお茶の準備だ。薬缶ので温度を測り、三つの湯呑みに緑茶を注ぐ。巫女の仕事にお茶汲みが有るのは、なんか少し間違っている気がしないでもない。

 『いえ。美味しいお茶を神社の縁側で飲むのは、巫女の日課らしいです。……私も伝聞ですけど』

 誰だ、そんな事を早苗に言ったのは。
 そもそも、このご時世、勉強と仕事に忙殺される世の中で、縁側が残っている神社で、呑気に茶を啜れる人間が何処にいるというのだ。羨ましい。

 まあ、文句はさておき、私の生徒会の仕事は雑用だ。恐るべき速度で学校の雑務を完璧に終わらせる御名方さんと、其れに追従する早苗を横目に、肉体労働をする。コピー用紙を補充したり、備品の直接確認をしたり、古紙を回収したり、生徒会を掃除したり、約二時間。

 「……さて。今日も御苦労」

 気が付いたら部屋の中にいる水鳥先生が、椅子から立ち上がって荷物を纏めると、それで本日の生徒会業務は終了だ。先生は鍵を閉め、御名方さんを家まで送っていく。私と早苗は、連れ添って家に戻るという訳だ。

 時刻は夕暮れ。薄暗くなり始めで、女生徒二人が――――と言われれば危険に思われるかもしれないが、そんな心配は皆無。大通りを通るし、神社への参拝ルートを通る。近所の人たちは全員、知り合いだ。仮に不埒な輩が出ても……多分、撃退できちゃうし。

 「あ、もう紗江ちゃん来てるかな……。家、寄ってく?」

 「いえ。遅くなると明日に響くので、また今度にします」

 何でも、『お祓い』の予定は明日なのだそうだ。寝坊も出来ないから、明日が終わってから来ます、と語る。うん、紗江ちゃんにはそう伝えておこう。聞きわけの良い子だから納得してくれると思うし、私が一緒に、洩矢大社まで行ってあげても良い。

 「分かった。それじゃ、またね」

 「はい。また明日」

 私と早苗の家は近い。隣、とまではいかないけれども、歩いて一分も無い距離だ。走れば二十秒で付く。私がまた、と言って、早苗が明日会いましょう、と言う。このやり取りも、小学生に入る前からずっと変わらない。多分きっとこれからもだ。
 そう思って、私は家の扉を開けた。

 「ただいま、帰りましたー」

 「おかえりなさい!」

 わお。元気な声だ。

 「お久しぶりです、レオお姉ちゃん!」

 私を出迎えたのは、紗江ちゃんだった。




     ●




 尾形紗江。

 現在六歳。八坂幼稚園さくら組(年長の事だ)で、来年からはピカピカの小学生。
 子供らしく天真爛漫で、行動力に溢れている。ちょこちょこと歩く足で、一人で勝手に行動してしまうから目が離せない。
 生まれ故か空気を読むのが上手で、静かにしなさい、と言われると素直に聞いてくれる。最近は、下に妹が増えた事で少し、お姉ちゃんの自覚が出てきたらしい。おしゃまさんになっている。

 要するに、可愛い親戚の女の子だ。

 「あのね、レオお姉ちゃん!」

 「あ、ちょっと待って」

 お話して、とひっついてくる紗江ちゃんを少しだけ押し留める。私も話をしたいのだが、帰ってきたら遊ぶ前に色々とやる事があるのだ。鞄を置いて、制服を畳み、私服に着替えて素早く下に戻る。
 廊下まで下がった所で、台所から祖母が顔を出していた。相変わらず隙のない立ち姿である。

 「お帰りなさい、玲央さん」

 「お祖母さん。ただいま」

 顔を出した祖母に、挨拶をする。最近は挨拶を家庭でしない家が増えているようだけれど、私は少し信じられない。面倒だとか、必要ないとか、そう思っている人も多い様子だけれど……個人的には反対だ。
 まあ、確かに礼儀作法は叩き込まれた。でも、挨拶は嫌々やっている訳じゃない。幾ら祖母が厳しい人だと言っても、礼儀を欠かしてはいけないと思っている。
 簡単な事をキチンと行う、という事は意外と難しいのだ。巫女の仕事をして、常々思う。私的に巫女の仕事が好きか嫌いかと、公的にちゃんと行動するかしないかは、全く別の話なのだ。

 「何か御用ですか?」

 廊下の真ん中で、ちゃんと向かい合う。人の話はしっかりと聞きなさい、の通りだ。体に染みついた作法は、中々変わらない。
 私が少し空気を落ち着かせた所で、祖母は言う。

 「玲央さん。私はこれから社務所へ行ってきます」

 社務所は大社境内の一番奥にある。今からか、と思ったけれども、祖母が言うからには本当なのだろう。話を聞けば、何でも身内での集まりがあるそうだ。昼間の内に行う筈の会合がすれ込んでしまったらしい。

 「帰宅時間は不明ですから、遅くなるようなら先に休んでいて構いません。紗江さんの面倒をしっかりみなさい」

 状況から見るに、祖母は私の帰りを待っていたのだろう。幾ら紗江ちゃんが良い子だとはいえ、幼稚園生を一人で、夜に留守番させる事をしない辺り、祖母は(固い人だが)優しいのだ。
 既に準備は済ませて有るらしい。少し周囲を見れば、玄関前の片隅には外套が用意され、衣類が入っているだろう鞄が置かれていた。

 「分かりました、お気をつけて」

 「では、宜しくお願いしますね」

 そう言うと、荷物を持って、祖母は私と入れ違う。足袋に草履という時代が懸かった履物で家を出ていく姿は、背中姿まで祖母だ。嫌でも空気が引き締まる。私の言葉に言えない緊張感は、彼女の背中が扉で遮られるまで続いた。

 「……ふう」

 静かに、玄関扉が閉まり、同時に緊張感から解放されて、私は大きく息を吐いた。
 早苗のお祖母さんと並んで、あの人達ほど刀自という言葉が似合う人を、私は知らない。

 「レオお姉ちゃん?」

 祖母が出て行くのを見計らった紗江ちゃんが、声をかけて来た。

 「あ、うん。ごめんね。もう良いよ。……さて、何しようか。お話する? ご飯には早いけど」

 時計の針はもう六時を回っている。幸い、紗江ちゃんが来るという事で夕御飯の準備は、祖母がしてくれていた。台所に漂う香りは、カレーである。……いや、巫女さんだって洋食は好きだし、神職だって肉は食べる。仏教と違って、戒律という囲いが低いのが神道の良い部分だ。

 「あのね、お姉ちゃん」

 私が尋ねると、紗江ちゃんは少し躊躇った後に、勇気を出して言って来た。

 「一緒に、お風呂入ろ!」

 うん、良いよ。






 肩までお湯に浸かると、一日の疲労が抜けていく感じがする。思わず口から洩れた吐息は、湯気と混ざって登っていった。
 普段ならば足を延ばすのだが、今日は紗江ちゃんがいるから、少し狭い。それでも、こうして体を弛緩させ、リフレッシュするには十分だ。

 「はあー」

 可愛い妹分も肩まで浸かり、うなうなうな、と言葉にならない鳴き声で目を閉じている。子猫や子犬には見えないけれど、行動の一つ一つが小動物ちっくだ。とても可愛い。

 子供の可愛さを上手に表現する事は難しい。元気が良い、とか、良い子だ、とか、曖昧な表現になってしまう。世間の本や小説では、よくもまあ、上手に人間を表現できると思うくらいだ。
 例えば、紗江ちゃんの髪型はショートボブだ。綺麗に揃った髪が、首や顔にぺたりと張りついている。大きな目と長い睫毛は一族の系譜の特徴だし、肌は赤ちゃんみたいだ。羨ましい位に白くてすべすべ。体育系のノリに近い私とは、かなり差がある。

 早苗も美人だしなあ、と思いつつ、目を閉じて考えていると、紗江ちゃんが声をかけて来た。

 「ねえ、お姉ちゃん」

 その声は真剣そのもの。お風呂と言う場所に相応しくない感じまでする。

 「んー」

 寝る寸前の様な声で返事をしながら薄く眼を開くと、紗江ちゃんは私を見ている。その視線は、真剣だ。
 何だ、と思って体を起こしかけ――――。

 「どうやったら、おっぱい大きくなるの?」

 ザブン。
 思わず、頭からお湯に沈んでしまった。
 慌てて頭を出して、髪の水滴を拭う。何を、と思ったけれど、小さい子供の言う事だ。腹を立てるのは論外としても、荒げるのも宜しくない。お風呂場で声響くし。大きな声だと近所に迷惑だし。

 「……その内だよ。紗江ちゃんも、育つから大丈夫」

 迷った末に出した答えは、とにかく無難な物だった。
 これは本当だ。小学生にもならない女の子が、今から悩んでも何にもならない。

 というか、私の胸は貧しくはないが、年相応の大きさでしかない。寸胴体系の紗江ちゃん(小学生にもならないのだから当然だ)から見れば大きくても、所詮は並み。豊かにする方法だって私も知りたい位である。……早苗と一緒にお風呂に入った時など、その格差に何とも言えぬ気持ちになったのだ。
 腰とか足なら、自信があるんだけれどね。

 「というかね、そう言う質問はお母さんにしなさい。間違っても、他人に聞いちゃいけないよ」

 「レオお姉ちゃん、他人じゃないよ?」

 「うん。まあ、そうなんだけど……」

 純粋な顔に、上手な答えを返せそうになかった私は、話題を変える事にする。
 確かにまあ、お風呂場らしい話題では有るが、私の頭で変な知識を与えて、紗江ちゃんに悪い影響を与える訳にもいかない。せめて早苗に任せないと。

 「紗江ちゃん、なんでそんな質問を?」

 「あのね、えっとね。――――大人に早く、なりたいな、って」

 体だけ育っても大人じゃないよ、と言う事は簡単だが、じゃあ如何すれば大人なの? と尋ねられると私は答えられない。
 二十歳を過ぎても、お金を自力で稼いでも、それは大人の要素であって定義ではないだろう。高校生として、そろそろ考える時期に来ているかもしれない。……いやいや、話が逸れている。

 「じゃあ、なんで大人になりたいのかな」

 「あのね。あの……。私、大きくなったら、お姉ちゃんとかお爺ちゃんみたいに、神社の仕事したいの。だから、早く大人になりたいなーって」

 真っ直ぐな目で、私に言ってくる。
 そうか、と思った。うん、それならば納得だ。小さいのに考えてるな、と思う。

 他人の家の事情に立ち入るのは失礼だけど、尾形家は親戚なので大目に見てもらおう。
 紗江ちゃんの語る“お爺ちゃん”とは、尾形日文さんの事だ。祖母達とも古い付き合いの、尾形家の総まとめをしていた人。歴史から数字まで『神社の記録』という面で、あの人ほど精通していた人はいないだろう。実に絵に描いた好々爺で、私や早苗も、かなり御世話になった。

 過去形で語っているけれど――――実は日文さんは今年の二月、病気で亡くなった。今年の御正月までは元気だったのだけれど、急に体調を崩して、直ぐに黄泉路へ旅立ってしまったのだ。だから今、尾形の家は、過去のデータ整理で非常に忙しいらしい。

 此処だけの話。『御頭祭』の手伝いには、紗江ちゃん達も来るはずだった。しかし非常に運の悪い事に、四十九日と『御頭祭』重なってしまったのだ。幸い、祭事の準備に支障はなかったけれども。……この大型連休に、来たいと言ったのには、会う機会を逃した代わりの意味もあるのだろう。
 しみじみと思って。

 「紗江ちゃん、そんなに慌てなくても大丈夫だよ」

 考えた私は、自分の思う所を語ってみる。
 知識としてではなく、経験として話すのならば、良いかもしれない。
 未熟な私だが、小さな女の子よりは人生経験を積んでいる筈だ。

 「その気持ちがあれば、多分……もう少し大きくなれば、普通に色々出来るようになるよ。私もまだ、将来の事は分かってないもん。でもね、何かをしたい、何かになりたい、っていう夢を持って、それを目指せば……結果は相応になる、と思うよ。――――それに」

 例え、結果に結びつかずとも、その過程は無駄にはなるまい。
 諦めたら試合終了だ、とはよく言った物だ。

 「――――それに?」

 紗江ちゃんには私と違って才能がある――――、と、そう言いかけて止めた。
 そう言う事は、小さな子供に話す物ではない。

 「あ、いや。ううん、それだけ」

 高校生になった為か、妙に自分について考える事が多い。自分らしくない、本当に。
 誤魔化しながら浴槽に立ちあがって、私は紗江ちゃんに笑いかけた。

 「ほら、おいで。……頭洗ってあげる」






 そんなこんなで私達はお風呂タイムを終えた。

 紗江ちゃんの体と髪とを拭いて、服をしっかりと着せる。尾形家の両親は、ご丁寧にも段ボールで衣服を送ってくれていた。下着と可愛いパジャマをセットにして渡せば、紗江ちゃんならば一人で着替えられるだろう。そしてこの隙に、お風呂の水を使って洗濯機を回しておく。

 そして、ご飯。一時間近くもお風呂に入っていたから、既に大分、空腹だ。手早くカレーを温め、冷蔵庫から冷たいお茶を出して並べる。お風呂上がり、冷たい麦茶、美味しいご飯。これはもう、誰が見ても完璧ともいえる黄金トリオだ。紗江ちゃんも綺麗に一皿、残さず食べ終わった。

 その後、洗い物。続いて洗濯物を干す。歯磨きを手早く済ませ、揃って二階に上がる。あっと言う間に思えるが、時刻は既に九時前。紗江ちゃんは寝かせないといけない時間だ。結局、余り遊ぶ事は出来なかったけれど――まあ、明日からもあるし、許してもらおう。

 「お姉ちゃん、一緒のベッドで寝ても良い?」

 「うん。でも、お姉ちゃんもう少し起きてるから、先、寝ててね」

 彼女を布団に寝かせて、しっかり掛け布団を被せる。部屋の灯りは消して――――机のライトだけ点ける。
 何をするのか、と言われれば、答えは一つ。
 学生の本分を全うするのだ。

 「さて。……勉強しますか」

 巫女の仕事は、明日以降でも十分間に合う。しかし今日の授業の復習だけは、今日の内にやっておかないと後で泣きを見る。中学校時代、早苗に散々言われたおかげで、得手不得手は別として、しっかり机に向かう事は習慣になっている。祖母から言われた巫女としての座学も、行わなくてはならないし。

 なるべく眩しくない様に、静かに、と背後に配慮しつつテキストと資料を開いた私が眠りに就いたのは、その日の十二時の事。ベッドは紗江ちゃんでとても温かく、実に良い感じで、潜り込むと直ぐに眠りに落ちてしまった。
 そして。




     ●




 その夜、私は人生最悪ともいえる、悪夢を見た。




     ●




 翌日。普段、時間ギリギリまで寝ている事が多い私にしてみれば、破格ともいえる速さで目を覚ましてしまった。背中に走る冷たい感覚は、寝汗だろう。太陽はまだ昇り始めたばかり。けれども、改めて眠る気にはなれない。
 ……夢の中身は、覚えていない。けれども、心の中にしこりが残る、後味が悪い印象があった。

 (……何だろう)

 何か分からない。悪夢は、ストレスを発散させる為の自己防衛機能の一つだ、と何処かで聞いた覚えがある。けれど、自分の心身には何処にも異常が無いし、悩み事も無い。強いて言えばこの数日、考え事は多いけれども……昔から悩んで、しっかり結論を導いた筈の悩みばっかりだ。
 心に僅かにかかる、その暗雲を単語で表せば、きっと不安という言葉になる。ほんの数分、私は考えて。

 「ま、良いか……」

 あっさりと思考を放棄した。
 ウジウジ悩んでいても仕方ない。明日以降も悪夢を見るようならば、その時しっかりと原因の究明に当たれば良い。明るく前向きに、が私のモットー。思慮深い行動は早苗の役目だ。

 セットされた目覚まし時計のアラームをオフにして、紗江ちゃんを起こさないようにベッドから抜け出た。彼女のくうくうと眠る姿を見て和むと、思わず頬を突っつきたくなってしまうのだが、自重する。勝手に顔を触られて良い気分になる人間は少ない。

 妹が出来たらこんな気分だろうか、と思いながら私は階下に降りることにする。とりあえずシャワーを浴びて、着替えて朝の仕事をしよう。
 ゴールデンウィーク初日の、嫌味なほど清々しく晴れ渡った空を見ながら、私は大きく背伸びをした。






 「わあい! 早苗お姉ちゃん!」

 洩矢大社の境内に入って早苗を発見した瞬間、紗江ちゃんは走り出して、そのまま飛び付いた。砲弾というか、そんなイメージだ。普段から元気だけれど、テンションが凄く高い。
 というか、紗江ちゃんの勢いが強すぎて、ドスッ! とか言う音が受け止めた早苗のお腹から聞こえていたけれど大丈夫か。よく見れば、微笑んでいる顔が、微妙に引き攣っている。

 「い、いらっしゃい、紗江ちゃん。……久しぶり、ですね」

 「うん!」

 震えた声の早苗に、元気よく答えが返る。同時に顔に浮かぶのは、満面の笑みだ。……子供の笑顔は、強い。純粋無垢な笑顔に、文句は言えないだろう。早苗の様な周囲に気を使う人間には、なおさらだ。
 普通に歩いて近寄った私は、苦笑いを浮かべながら、早苗に張り付く紗江ちゃんを引き剥がす。勿論、優しく。

 「はいはい、嬉しいのは分かるけど、そんな蛸みたいにならないの」

 ぎゅー、という擬音語はまさにこの為にあるのでは、という位に両腕で早苗に絡んでいた紗江ちゃんだったけれども、私が注意すると(顔は少し不満そうだったが)、離れてくれた。まあ、代わりに早苗の手を掴んだけれども、これは大目に見よう。
 お昼時と言う事もあって、境内の中の参拝客は少ない。社務所にはバイトの巫女さん達もいるし、仕事は宮司さん達がいる。昨日の話では、早苗の仕事は『お祓い』だけらしいので、少しならば時間が取れるだろう。

 「お疲れ様。首尾は?」

 「ええ。先程、無事に終わりました。先程、此方を辞していかれましたが」

 「あ、うん。途中で擦れ違ったよ。女の人だよね?」

 大社の階段を上っている最中に、一人の女の人と私はすれ違っていた。美人は美人だが、何処か位、影のある女の人だった。何か大きな悩みか、あるいは不安を宿していたように思う。
 早苗には遠く及ばない私だが、長年神社で働いているお陰で、参拝客の顔を見れば大体の目的は分かる。確証があった訳ではないが、その女性が『お祓い』を受けたんだろう、と思っていた。

 「はい」

 そうですよ、と頷く。流石に内容までは話せないが、長い付き合いという事で教えてくれた。
 納得した所で、一番重要な質問をする。

 「……えと、後の仕事は?」

 「今日はお終いです。許可も貰って来ました」

 にっこり笑った早苗は未だに巫女服だったが、既に仕事は終わっているらしい。顔には達成感が見える。

 そう言えば朝、境内で掃除をしている最中に話したけれども。紗江ちゃんが折角来てくれているのだから、と早苗は気を使って、今日の午後という時間を捻り出したのだ。その皺寄せは明日になってしまうのだが構わない、と言っていた。
 ……うん、明日は紗江ちゃんにも手伝わせて、一日頑張って働く事にしよう。そうしよう。

 「早苗、お昼もまだだよね?」

 「ええ。でも折角ですし、何処か外に食べに行こうかな、と思うんです。……家の中にただ居るのも、こんな良い天気では勿体ないですし」

 確かに。私達は大凡、連休中に遠くへ出かける事が難しい立場だ。夏休み位の長期休暇ならまだしも、GWでは幾ら長い時間でも、一日が限界。その上、翌日や朝夜の雑務に支障が出てはならない。
 そう考えると、仲が良い者同士でお昼を食べに行く、というのは良い案だ。

 「お外に、食べに行くの?」

 「はい。そうしましょう。紗江ちゃんの好きな物にしましょうか」

 その言葉に、本当? と目を輝かせて紗江ちゃんが声を上げた。

 「ありがとう、お姉ちゃん達!」

 その言葉を聞いた時、別に苦労しても良いかな、と思ってしまった。多分、早苗も同じ気持ちだっただろう。こんな笑顔を見れるのならば、お姉ちゃん達は遊ぶのに躊躇はしない。
 この大型連休は、彼女が来ただけで十分、記憶に残る物になるだろう。私は、そう確信したのだ。




     ●




 そして。
 本当に――――記憶に残る連休になってしまった。


 何故ならば、この二日後。
 連休半ばの、金曜日。
 テレビのニュースで、私達は酷く衝撃的な事実を知ることとなる。




 『それでは、次のニュースです。本日午後十二時三十分頃、新宿駅で人身事故がありました。巻き込まれた女性は、猪去蝶子さん、三十三歳で……』




 『お祓い』を受けて帰って行った、あの女性が。

 その口の中に、『洩矢大社』で購入した「お守り」を口の中に加えたまま。

 東京都新宿駅ホームから列車に飛び込み、表現不可能な程に無残な屍を、衆人環視の元に晒す事になったからだ。














 新キャラの尾形紗江。幼女です。あざとい、とか言わんで下さい。――実は『境界恋物語』で、すこーしだけ彼女について縁が語っています。もしも当時から蒔いておいた伏線を発見出来たら、多分あざとい、という思いは消えるでしょう。そんな役割です。
 平穏に見える。不幸が続いているだけに思える。けれども実は……そんな色々な不安を 感じてくれれば嬉しいです。

 状況転換を場面の説明を、少ない言葉で表現するのが難しい……。
 あと、原作東方キャラを少しで良いから絡ませないと話が地味です。今のところ、何人か、八雲家以外で予定はしているんですが……。どうしよっかなあ。

 ではまた次回。

 (4月6日投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第五話 皐月(早苗月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/04/11 23:39


 そのニュースを見た時、御名方四音は――――納得したように、嗤った。






 異人ミナカタと風祝 第五話 皐月(早苗月)






 私と早苗の一日は、ハードだ。

 まず朝、境内の掃除をする。大体が庭の手入れだ。夏は雑草を抜き、秋は落ち葉を払い、大雪の日は雪かきをする。ほぼ毎日、一年間の中で三百六十日以上は欠かさずに行う。私達が朝の掃除をしないで済むのは、学校行事などで遠くに宿泊している時と、客が多くてそれどころじゃない年末年始くらいだ。
 お陰で、私も早苗も寝覚めは異常に良い。時間が有れば幾らでも眠れる私だが、それでも朝の七時には休日だろうと必ず目が覚める。下に恐ろしきは日々の習慣だ。

 午前九時に、神職も含めた全員で、朝拝、朝礼を行う。最も普段のこの時間、私達は普通に学校に行っているので、出席できない。休日に出る事で、祖母達には大目に見てもらっている。
 その後。午後四時半から再度掃除をして、午後五時半に終了、なのだが。

 この八時間から九時間という時間の中で、巫女は何でも行う。
 参拝客の案内から、社務所の雑務から、宮司や祖母達の手伝いから、郵便書類を裁くことから。暇があればお札を作るし、祭事が近いと神楽舞の確認がある。備品を運び、手順を確認し、会計報告もしなくてはならない。そして私達には学校生活が重なるのだ。
 平日はまだ良い。昼間は学校だし、私達以外の巫女さんがいる。しかし――。

 「お姉ちゃんー。疲れたよー」

 「紗江ちゃん、頑張って。もうすぐ終わるから」

 休日に仕事に駆り出されれば、疲労困憊は免れない。……いや、まだ私は体力有るから大丈夫だけど。でも、可愛い同行者がそろそろ限界だ。やっぱり同伴は止めるべきだった。そう、心の中で反省する。
 晴天の下、春風を全身に感じながら、私は大社近辺を只管、歩き回っていた。神社広報のお手伝い(紗江ちゃん付き)である。

 「さっきも、もう少し、って言ったよう」

 ぐったりした声だ。疲れるのも無理はなかった。この近辺を、かれこれ二時間は歩いている。
 大社を出発した時は“お姉ちゃんと一緒に行く!”という元気な声に許可を出してしまったけれど、しっかり説明して止めさせるべきだった。

 「うん、ごめんね。……でも、後、二件だけだから」

 そう言って、手を引いて歩く。
 私が今しているのは、洩矢のポスターの配布と回収だ。神社祭事のお知らせを貼付したPRの広告を、指定された店舗に届けて、代わりに古い物を回収する。それだけの仕事。相手先も、もう昔からお願いしている顔馴染みの人達ばかりなので、事情を承知してくれている。
 ただ、問題が一つ。店舗は神社周辺の各所に散らばっていて、方向や距離がばらばらで全部回ると非常に面倒くさい。しかし、車を使うには道幅や距離が厄介極まりない。何時もは自転車で回っているのだが、残念ながら紗江ちゃんは自転車に乗れなかった。二人乗りをする訳にもいくまい。

 結果、歩く羽目になる。私には特に支障がないけれど……小さな紗江ちゃんには、やはり荷が重すぎた。説得して、神社に残しておけば良かったのだ。最初に絆さて連れて来てしまった私の責任だった。

 広告なんて他の人に任せれば良いじゃん、とか思うだろう。しかし、そもそも紗江ちゃんが行える仕事が少ないのだ。緋袴を履かせて巫女仕事をさせるにも早い彼女とーーv――本日の仕事で、唯一、保護者と同伴で行える仕事が、ポスター張りだったのだ。

 「分かった。……頑張る」

 何とか返事を貸してくれた紗江ちゃんだったけれど、不満そう。当然だ。
 昨日の午後、しっかりと遊んでしまった代わりに、今日一日は仕事をする。そう決めて。紗江ちゃんもそうしようと言った。だが、仕事の内容は吟味すべきだった。

 『人の視点で考える事が出来ない時がある』。

 それが私の悪い点だ。昔から注意されていたけれども、今も又出てしまった。幼馴染の早苗には、そして現在の紗江ちゃんには、それでどれだけ迷惑をかけているか。
 いけないなあ、と自戒しながらも、何とか。その後、全ての店を回る事は出来たけれども、その時にはいよいよ、紗江ちゃんは限界だった。大社まで一キロ強。まだ太陽は高い、とはいえ歩くのは無理そうだ。

 (……しかし、困ったな)

 今更ながら、自分の考えなしに腹が立つ。
 一番良い方法は、多分、徒歩と自転車の併用だった。紗江ちゃんが問題無い範囲で歩き、一回神社に取って返して自転車で行動する。こうすれば彼女は手伝う実感を得れ、私は仕事を終わらせられる。
 もう少し労わってあげるべきだった。保護者として万全とは、とてもではないが、言えない。後悔する。

 (……背負うか)

 でも、後悔しても神社はやって来ないのだ。自分たちで辿り着くしかない。間の悪い事に、携帯電話は充電を切らしてしまった。……公衆電話は見当たらない。探せば有るのだろうけれど。
 私の運動能力なら、紗江ちゃんを背負って神社まで戻る事が出来る。電車の駅は遠いし、タクシーのお金は無い。家に帰って祖母には盛大に叱られるだろうけれど、謝るしかない。
 そう判断して、背中においで、と紗江ちゃんを呼ぼうとした時だ。

 「おや、古出じゃないか」

 ふと、沿道から声をかけられる。
 聞き覚えのある声だった。

 「如何した? 何かあったか?」




 メタリックカラーの高級車から顔をのぞかせるのは、水鳥楠穫先生だった。




     ●




 「……成る程。お前の親戚か」

 車の後部座席。冷たいペットボトルのジュースを飲む紗江ちゃんを、バックミラー越しに見ながら、先生は笑う。

 色は少し地味だが、内装から乗り心地まで、一目で金が懸けられた超高級車に、私達は乗っていた。車には詳しくないが、恐らくヨーロッパ製。マニュアル車で、しかも左ハンドルだ。自在に乗りこなすその姿は、まるで何処かの凄腕エージェント。安月給の教師には見えない。
 学校に通勤してくる時は国産乗用車なので、きっと複数台を所有しているのだろう。

 「そう言われてみれば、少し似ているな、雰囲気が」

 敢えて説明をするまでもないと思うけれども、一応、言っておく。
 現状を手短に説明した所、先生が神社まで送って行ってくれる事になったのだ。
 疲労で一歩も動けなかった紗江ちゃんは、自販機で買ったジュースを飲んで、ご満悦である。

 「そうですか?」

 むしろ、私は余り似ていないと思う。
 早苗と紗江ちゃんは、なんとなく似通っている気はするけれど。

 「ああ。形では見えないが、私はそんな印象を受ける。正反対に見えても、同じ血が通っているという事じゃないか?」

 皮肉気に笑いながら、先生はハンドルを操る。その手つきは熟練さを感じさせる動きだ。
 高級すぎて諏訪の土地には不釣り合いにも思える車は、軽快に道を進んでいく。入り組んだ道を避け、一回広い道に出るらしい。大通りに出れば、神社まで五分も必要ないだろう。

 「まあ、個人的には。早苗と、お前。後ろのお嬢ちゃん。其処に――――家の問題は知らないが――――私としては、四音を入れてやって欲しい物だがな」

 「……ええと、それは」

 「気にするな、別に責めている訳じゃない」

 唐突に出た御名方さんの名前と共に、思わず口を閉ざしてしまった私を見て、先生は微かに笑う。今度は皮肉気な笑みではない。もっと別の、何か遠くを見る様な笑顔だ。
 この先生は何時も、顔にチェシャ猫にも似た笑顔を浮かべ、真意を見せない事が多いけれども……。どうも、御名方さんが関わると、少しだけ真剣になる。今のように。学校でもそうだ。生徒会メンバーを除外すれば、唯一、この先生だけが御名方さんに付き合っている。
 その視線が、御名方四音に向けているのか、あるいはもっと別の誰かに向けているのかは、不明だけど。

 「アレも中々、難儀な奴でな。四音に問題がない訳じゃあない。というか、随分と問題はある。――――だが、取り巻く環境が最悪的だ。治る物も治らないし、治させる事も出来ん。それにだ。戻った所で、直ぐ歪むだろう。出来る事なら私が解決してやりたいが、それも出来ないんだ。悲しい事に“出来ない理由”がある。だから、せめて縁戚関係に当たるお前達に頼みたいが……」

 中々、それも難しい。アイツの態度も悪いしな、と先生は笑った。
 常の如く、皮肉気な笑顔だった。けれど、その瞳が僅かに悲しい色合いを帯びていたのは、気のせいではない、と思う。
 其れに対して私が何かを言う前に、ウインカーと共に左折。大通りに出て、そのまま加速していく。その勢いに押され、私は言うべき事を忘れてしまった。

 「……古出。この連休中は、忙しいか?」

 先生が再度、話を振る。

 「ノルマを終わらせる必要はありますけど……。今日帰ってからと、土曜日を使えば、終わる筈です」

 昨日の半日の付けを払う必要があるが、紗江ちゃんのお陰で随分と余裕が出来た。
 学校が無い分、神社に駆り出されるのは当然。そして、登校日に行えなかった雑事を行うのも当然。この山積みともいえる課題の量は、修業も兼ねているので……後に回しても、結局何時かは、やる羽目になる。だからもう、素直に諦めて取り組むしかない。

 「そうか。ノルマ消化は大変か?」

 「……決まってる事ですし」

 大変か大変ではないか、と聞かれれば、……楽ではない、としか言いようがない。仕事とはそういう物だ。世の中には趣味を仕事に出来る人もいるらしいが、少なくとも私は違う。
 生まれた時から、私の将来はほぼ決定していた、と言っても良い。その事実に不満が無い、訳ではない。
 けれどもだ。私は大社を継ぐ事以外に気概がない。アレがしたい、コレがしたい、そう思っても実行に移すだけの覚悟も無い。というか、大きな夢も無い。

 「何だ。嫌なのか?」

 「いえ、嫌じゃないんです。……少し乗り気に、成れないだけで」

 いや、本当に神社を継ぎたくない、関わりたくもない、というならば其れは有りなのだ。本当に嫌な事をやらせるほど、私達の保護者は薄情ではない。
 事実、私の姉は、祖母と喧々諤々の白熱した議論の末、神社の関係者から外れる事を選んだ。自分で貯めていたお金を使い、外国の大学の奨学金を得て留学してしまった。色んな意味で、私には出来ない所業だ。

 取捨選択をして、今迄の歩みを振り返れば、きっと将来は洩矢大社を受け継ぐのだろうと思っているだけだ。積極的に信仰出来ない私を、果たして神は許してくれるのだろうか。

 「……そうか。ま、お前はまだ若い。高校一年生で、時間は有る。自分なりの結論を出す事だ。大きくなってしまうと――――色々と、自由に動けなくなるからな」

 恐らくは先生の経験なのだろう。しかし、そんな様子を一切見せず、彼女は私に言ってくれた。
 この教師は謎だが、しかし信頼と信用の度合は非常に高い。あの御名方さんが、そばにいる事に文句を言わない、この事実だけで、十分過ぎるだろう。

 「で、だ。話を戻すが。私としては、四音と関わってくれると嬉しいんだ。古出玲央や東風谷早苗の個人としてでも、『東風谷』や『古出』としてでも構わないから」

 「…………」

 むう、と黙ってしまった私に、考えてくれればいいさ、と苦笑いを返して、先生は車を止めた。
 ふと気が付いて周囲を見れば、洩矢大社の階段近くだ。それも、私達が道に注意する必要が無いように、無料駐車場だった。慌てて、紗江ちゃんを促して降りる。
 有難うございました、とお礼を言った私達に、助手席の窓を開けて先生は。

 「それじゃあ、また連休明けに会おう」

 颯爽と、帰って行った。
 ……さて、如何した物だろうか。




     ●




 翌日。つまり、連休のど真ん中である金曜日。

 私は水鳥先生の言葉に少し考えさせられた事もあって、紗江ちゃんと早苗と共に、御名方四音の家に行ってみる事にした。説得された訳じゃないけれど……あの先生が其処まで言う以上、少しは聞き入れた方が良いのかな、と思ったからだ。

 (……お好きになさい、か)

 因みに、祖母はそう返してくれた。以外な事に。
 さりげなく話題を振って確認してみたのだが、祖母自身としては、御名方四音には何の感慨も抱いていないらしい。殆ど顔を合わせた事もない、縁戚の少年、という認識でしかない。だから、私や早苗が会いに行く事を知っても咎めはしなかった。

 『……けれども、気をつけなさい、玲央さん』

 しかし祖母は同時に、『御名方』という家に連なる者達には、非常に懸念を表していた。
 私の四倍は生きているだけあって、彼女は色々と知っている。そして、その知識の中には『御名方』と関わったばかりに、余計なトラブルに巻き込まれた者についても、あった。
 他の四家から拒絶される宿命を負う『御名方』の家。悪しき風習として壊せない法則だ。風習が悪意を生むのか、逆に悪意が風習を形造ったのか。それは不明だが――――『御名方』の家が、隔絶されている事には変わりない。

 『貴方に何かがあったら、娘に顔向けが出来ませんからね』

 そう言って祖母は、許してくれた。早苗や紗江ちゃんの所も同じだったようだ。
 早苗の話では、多分、誰もが『御名方』に負い目を感じていて、しかし行動出来なかったのだという事だ。娘達が行動してくれたのを、これ幸いと許したのだろう。
 負い目だの、過去の業だの、大人としての立場だの――面倒な事を、と。正直、私はそう思う。けれども相手と付き合うのに考えなければいけない、洩矢大社の歴史を感じ取った。
 古からの習慣は、例え止めた方が理解していても、崩せないのだろう。崩して何が起きるのかが、分からないならば、なおさらに。




 そんなこんなを感じつつ、私達は三人で仲良く連れ添って、御名方四音の家に向かったのだ。




 以前、入学したての頃に調べていたのだが、彼の家は神社の北東に置かれていた。
 学校まで歩いて数分の、広い敷地を持つ建物だ。前々から、割と黒い噂で有名だったため、特に迷うことなく辿り着く事が出来た。

 諏訪という地方の特色上、昔ながらの建物も残っているのだが、彼の家は断トツで怪しい。古びた木造建築の物件、というだけではない。どことなく、危ないオーラが立ち上っているのだ。恰も、御名方四音という人間の持つ気配を、家も保有したかの様に。

 「……あの、お姉ちゃん達。本当に、この家なんです、か?」

 「うん。……多分」

 震えた声で不安げに、紗江ちゃんが聞くのも、無理はない。
 どこからどう見ても、悪霊が取り付いた化物屋敷そのまま。牡丹灯籠とか、番長皿屋敷とかに登場しても違和感がないだろう和風邸宅だった。なまじ建築費用がかかっていそうなだけに、不気味だ。

 何が不気味かと言うと、普通に見えるから不気味なのだ。暗雲立ち込める古城とか、廃墟と化して久しい建屋とかではない。夜の学校や、良く似た別の世界の様な怖さ。
 庭に雑草は生えていない。屋敷も古びてはいるが壊れてはいない。窓は綺麗だし屋根の上に烏が止まっていたりもしない。鼻を擽る匂いも普通の木の香り。唯の少し時代が経った一軒家。しかし。けれども。何かがおかしい。何かが――――奇妙。見えない何処かに、見てはいけない何かが隠れている気分になる。その奇妙さが、どこから来るのかが分からない。だから、怖いのだ。

 「建物は合ってるようですね。表札が出てますし。……大丈夫でしょう」

 視線を家壁に向ければ、門柱に『御名方』と名前が載った表札が確かに嵌めこまれている。
 早苗は、尻込みする私達を尻目に、あっさりと敷地内に足を踏み入れる。……この中で最も、精神力(というか胆力か)があるのは早苗。とはいえ、此処まで躊躇なく踏み込めると、逆に何か勘繰ってしまう。
 まあ、そんな冗談はさて置き、彼女は自然に玄関扉の前に立ち、迷う事無くチャイムを押した。

 「御免下さーい」

 ガラ、と横に滑る扉を開けて、中に声をかける。
 返事は、返ってこない。

 「先輩ー? 来ましたよー」

 大きな声で、中に呼びかけた早苗だったが。

 「……あれ」

 声が響いて、静まり返った後、何も音がしない。広い、伽藍のような建物の中。無味無臭の筈なのに、辛気臭い匂いが漂う空間は、何の反応も伝えて来なかった。耳に届くのは、コチコチ、と壁にかかった大きな時計の秒針が刻まれる音のみだ。
 昼前なのに薄暗く、古びた木は一層の暗さを演出し、まるで私達を中に誘い込む様に、ぽっかりとした黒い空間。こんな所に、良く住める、そう思う。

 「……留守なの?」

 「いえ、靴は出てますし、いると思い……」

 ――――ギシリ。

 遠くで、そんな音が、聞こえた。
 微かで、注意深く聞かなければ耳に入らない、家鳴りにも似た音だったが。

 ――――ギシリ。

 ゆっくりと、淡々とした音が、確実に此方にやって来ていた。
 『御名方』家の玄関口は、扉を開けると土間が有り、玄関口で靴を脱いで上がると、そこで一回左に曲がる。その先が廊下で、各部屋に通じているらしい。音の発生源は、土間へ続く廊下から迫っていた。
 やがて、ヌウッ、という擬音が付きそうな形で。

 「……本当に、来ますか」

 顔だけを、玄関前に覗かせた。
 相変わらず、危ない印象が微塵も揺らがない――――御名方四音だ。

 取りあえず、その死仮面を被ったような無表情さに、紗江ちゃんが怯えた声を発した事だけ伝えておく。




     ●




 空間は、まるで呑み込むかのように広がっていく。まるでダンジョンの様だ。地底深くに築かれた洋館に侵入する感覚、といえば多少は伝わるだろうか。

 建物は和風。ただ、内装のあちこちに年代物のアンティークが置かれていた。古いスイス製のオルゴールだったり、ゴシック衣裳の人形だったり、昔のピアノだったり。中にはガラスケースもあったが、これは暫く前に中身が消えてしまったそうだ。金髪に菫ドレスの少女人形だった、と彼は告げる。

 「広い、家ですね……」

 「……ええ」

 思わず呟いた私の言葉に、御名方さんは静かに返す。そこに感情は込められていなかった。
 敷地こそ広いが、こんな陰気な家に住んでいたら、嫌でも性格がねじ曲がっていくだろう。……逆か。余りにも家主がアレだから、こんな雰囲気に変わったのかもしれない。

 私達は中に案内されている。
 帰れ、と御名方さんが言わなかったのは、多分、彼にとっては興味がない事だったからだろう。……決して、早苗の正面からの“お願い”が功を奏した訳ではない。

 「広いだけですよ。……実際に使っていない部屋も多い」

 言葉少なに彼が語った所によれば、この家には元々、御名方さんと、彼の父親が住んでいたらしい。彼の父親とは――――前にも言ったか。私達が幼い頃、数回のみ遭遇した、御名方三司さんの事だ。三司さんが十年前に亡くなるまで、この家に二人で過ごしていたのだ。

 部屋数は多いし、敷地も広い。ただ、親の私物や商売道具は片付いておらず、物置になっている部屋も多いのだそうだ。御名方さんが片を付けるに量が多すぎるし、そもそも普通に体を動かす事も周知の通り出来ないから、放ったらかしなのだという。

 「……まあ、其れは、兎も角」

 御名方さんは、唯一、使用された痕跡のある和室へと私達を案内した。
 広い部屋だ。畳敷きの十二畳間。壁際には壺と掛け軸、棚の上には人形。そして空気の匂いが随分と薄い。上手く言えないが、奇妙な違和感が少ない部屋だった。
 これは、客間という認識で良いのだろうか。

 「水鳥先生が、使う部屋ですよ」

 さらりと爆弾発言をして、しかし此方の驚きも気にすることなく、押入れから座布団を二枚引っ張り出した。既に置かれていた物と合わせて合計四枚。それを全員に配って、座るように促す。
 固まっている私に、挙動不審な紗江ちゃん。素早く動けたのは早苗一人だった。すとん、と躊躇わずに腰を落として、あっさりと会談の席に着く。……胆力が有るというか、図々しいというか。
 その行動に毒気を抜かれて、紗江ちゃんと一緒に腰を下ろした。習うより慣れろ、の言葉を思い出す。

 「さて、何の用で」

 針金細工のような細い体で、静かに正座する御名方さんは、感情が無いままに言ってくる。言葉だけ聞けば威厳があるのだが、可聴領域ギリギリなので背筋に嫌な感覚が走る。
 この独特の威圧感を、正面から受け止めるだけで結構大変なのだが、そこは早苗と言うべきか。ごく普通に受け答えを始めてしまった。

 「いえ。特別な用事、では有りませんけれど。……一応、私とレオ以外の『五官の祝』も、紹介しようと思ったんです」

 貴方もその内の一人ですから、と、そう付け加える。
 その単語に、く、と多分、笑って静かに視線を紗江ちゃんにスライドさせる。その腐った魚のような目線に、ビクリと彼女は震えてしまった。可哀想に。やはり、この視線は相当にキツイ。

 「率直で。東風谷早苗。……で、彼女が?」

 「はい。彼女が」

 掌で紗江ちゃんを示して、そのまま勝手に紹介する。

 「尾形紗江ちゃん。尾形家の跡取り娘さんです」

 「そうか」

 「はい」

 そして、それきり二人とも黙ってしまった。
 生徒会室でも時々目撃する事が出来る――――狐と狸の化かし合いにも似た、策士の対立を思い浮かべるような沈黙だ。簡単に言えば、腹の探り合い。
 早苗は食えない笑顔。御名方さんは、無表情。腹芸が苦手な私にしてみれば、こういう場面は苛々する。ただ、口を挟めない。紗江ちゃんと同じで、口を挟めるだけの技量に至っていないのだ。

 早苗は、『東風谷』として。洩矢大社として、御名方さんに何らかの目的がある。生徒会に入った頃から分かっていた事だ。そして御名方さんは、その早苗に明らかに……負の感情を抱いている。それも、かなり危ないレベルでだ。

 『君が、どうしようもなく、憎いんだよ』

 そう告げた彼の顔を、私は忘れていない。あの虚ろに歪んだ狂気が、何時早苗に降りかかるか。危害を加えるか。それを恐れているからこそ、私は早苗と共に生徒会に通っているのだ。

 「……東風谷。君に訊ねよう。人を殺す際に、最も困る事は何だと思う?」

 ふと、彼が話題を振る。その目の中には、微かな色が有った。

 「有名な話題ですよね」

 「ああ」

 知っているか? という御名方四音は、読めない顔だ。けれども早苗は素直に答える。

 「ずばり死体の始末です。死体さえ如何にか出来れば、後始末はぐっと楽になる。失踪扱いでも、蒸発扱いでも良いんですから」

 「そう。古今東西、死体が無ければ殺人事件は立証できない。けれども、死体を消すのは並大抵ではない。だから色々な方法を使う。合法的に火葬してしまったり、太平の真ん中に運んだり、と」

 「先輩。何が言いたいんでしょうか?」

 「いいや。例えば、だ。もしも他者を害し、殺する時に――――事故や自殺に見せかけて、完璧に殺す事が出来れば。きっと死体の始末を考えなくても、良いんだろうな、とね――――そう思ったんだ」

 そう告げた御名方さんの目には、小さな、しかし異常なほどに炯々と輝く光が存在していた。
 消えかけの白色矮星こそが最も熱を保有しているかのように。狂的な、得物を捉える様な、獣の目。それでいて冷徹な機械の様な、殺人衝動にも似た光。

 「僕が、何を言いたいのか、分かる筈だ。君ならばね」

 くは、とまるで悪魔か死神の如くに、真っ白な歯を見せる。そのおぞましい笑顔に、紗江ちゃんがぎゅ、と私の袖を掴んだ。
 ……本当に、今日の御名方さんは、何時にもまして危ない。百面を覆う長い黒髪と、左手で敢えて隠された表情、そして間から覗く目が相まって、まるで贄を求める亡者か、破滅に向かう魔導師だ。

 「……帰ります」

 その圧力を受けたからか。いや、多分、余りにも遠慮のない物言いに機嫌を害したからだろう。早苗は立ち上がった。その顔は、お世辞にも穏やかではない。
 家に来た相手に、こんな言い方をされれば、誰だって腹を立てて当たり前だった。私だって嫌だ。

 「そうすると良い。――――精々、お気をつける事だ」

 「……そうですね」

 珍しくも、早苗の顔が固まっていた。憤りを湛えた、危ない顔だった。
 挑発か、忠告か、あるいは宣戦布告か。それとも、本当に私達が邪魔だったのか。真意は見えないけれども、私達がこれ以上、この家に留まる理由はない。行きましょう、という早苗の言葉に、頷く。

 御名方さんは、ゆらりと立ち上がり、先んじて進む私達の後ろから、そのまま玄関まで私達を見送りに来た。例の如くの態度で、そのまま玄関前の壁に寄りかかっている。
 柳にも似た、と表現しようとして思い出した。そう言えば、柳と幽霊はセットだったか。この屋敷ならば幽霊の一体や二体位、住んでいても全然奇妙ではないが。

 「――――お邪魔、しました」

 「ああ」

 軽い返事は、やはり此方を馬鹿にしているのか。小さく手を振って、彼は私達を態度で家から押し出した。
 最後に出た私は、せめてもの意趣返しに、ピシャリと力強く扉を閉める。しかし多分、向こうは微塵も堪えていないだろう。生徒会での早苗との会話を見る限り、火を見るより明らかだった。

 音の後、しん、と場が静まり返る。
 温かな筈の風や日光も、白状に感じるほどに。

 「…………あの、」

 「帰りましょうか。レオ」

 私が懸けた声を遮って、早苗は言う。その声は、彼女にしては非常に冷え切っていて。ああ、これは本気で早苗の感情が揺らいでいるのだな、と私は長年の経験で悟った。滅多に見ない、早苗の激情だ。

 「……うん」

 水鳥先生から“訪ねてやって欲しい”と言われ来た事を、私は後悔していた。……いや、そもそも私達は、一体何のために『御名方』家を訪れたのだったか。それすらも、今では曖昧に感じてしまう。
 確か早苗が、紗江ちゃんを紹介しに行こう、そう言った。しかしその目的も最早、不明だ。会合が終わった今とはいえ、こんな危ない早苗に訊ける話題では決してない。

 連休明けで、一体どんな顔をして生徒会室に行けば良いのだろう。否。そもそも、まだ生徒会に顔を出す必要があるのだろうか。大型連休の最中だというのに、嫌な気分になる以外の何物でもない会合をする位ならば――――ホント、神社で労働していた方が、マシだった。
 心の中に、しこりを抱えたまま、私達は、神社に帰り。




 テレビで、『紗江ちゃんの嫌な予感』を知った。




     ●




 『本日、午後十二時三十分頃、新宿駅で列車に女性が轢かれる事故がありました。被害に遭ったのは、会社員の猪去蝶子さん、三十三歳です』

 『――――事故があったのは、東京都新宿駅の山手線・西武池袋方面乗り場のホームで、所持品などから身元が判明しました。この事故の影響により、新宿駅で一時列車がストップ、また発生時刻がお昼時と言う事もあって周囲に多くの混乱が発生しました』

 『――――警察では、事故の原因を調査するとともに、自殺または何者かに突き飛ばされた可能性を考慮しているという事です』




     ●




 三人の少女が立ち去った後。
 点けっぱなしにていたテレビから、そんなニュースが流れて来て、ふと御名方四音は行動を止めた。

 「……懐かしい、名前だな」

 ボソリ、と呟く。
 その昔。父がまだ存命だった頃。彼は稽古事として、ピアノフォルテの授業に通っていた。随分と変わった名前だから記憶に残っている。同姓同名の別人でない限り、恐らくその時の教師だろう。
 音楽教師。それも、学校ではない、稽古事での顔見知り。

 「…………」

 父、御名方三司が死んだのは、今から二回前の『御柱祭』の年。つまり今から十年前。彼は小学校に入る前。そんな昔の記憶でも、彼は良く覚えている。全国トップクラスの頭脳は伊達ではない。

 他人を拒絶する四音だが、決して他人を見ていない訳ではない。むしろ、自分が関わらない為に、必要以上に他者を観察し、情報として蓄えている。その情報に感情が籠らないから、彼は異常なのだ。
 むしろ憎悪とはいえ、東風谷早苗に見せていること自体が、有り得ない。

 「…………」

 先月に、転落事故で死んだ男子生徒。名前を武居大智。
 生徒会で語ったが、あの青年とは小学校から同じ学校だった。四音の態度に業を煮やし、クラスで虐めていた。そして、それがぱったりと止んだのは小学校の臨海学校だった。
 彼の不運に巻き込まれ、盛大に痛い目に遭遇したのだ。可哀想に。

 「…………」

 しん、と耳が痛いほどに静まり返った部屋。心を殺した四音は、しかし静寂を変えようとしない。彼の力では変える事が出来ない事を、これまでの人生で十分に知っている。
 それを打ち破ったのは、一人の女の声だ。何時から家にいたのか。建てつけが悪い障子扉を開けて、彼女は顔を覗かせる。

 「やあ。邪魔をしているぞ、四音」

 彼が唯一、学校の中で信用している存在。水鳥楠穫だった。
 四音が健在で対応できる時、という条件は付くが、いきなり屋敷内に出現する事も珍しくはない。

 「何か、御用で」

 「いや。相変わらず性格も態度も悪い、女を怒らせた男に、慰めの言葉でも、と思ってな」

 「……先生が、そんな無償の愛を与えてくれるほど、優しい相手とは思えませんが」

 その言葉に、まあな、と彼女はシニカルに笑う。
 そしてそのまま、正面から彼に言った。

 「なに、長い間を生きているとな、四音。やっぱり気になるんだ。……『御名方』と言う家の業を、私も良く知っている。その業に、――――言い代えよう。『呪い』と『祟り』に、お前が蝕まれるのはな。不憫で可哀想で、同情と救済を覚えてしまうのさ」

 「いりませんよ」

 そんな、二束三文にもならないモノなんて。

 「ああ。知っている。だから私は、お前に手を出していない」

 救済や憐憫で救われるのならば、御名方四音は遥か昔に解放されているだろう。しかし、そんな物では、決して彼は戻らない。もっと別の方法を使用しない限り、絶対に、だ。
 そして別の方法を、この教師は取る事が不可能なのだろう。だから、領分を侵さない程度に関わり、信頼と信用を持って動いている。

 「……別に、先生が人間だろうが、人間じゃなかろうが、僕は良いです。……信用できて信頼できる。そしてそれ以外を持たない。今の僕には、それで十分です」

 誰も、其れが出来ない。何れかはまだしも、全てとなると。何かを画策する東風谷早苗も、ただ彼女に並ぶ古出玲央も、見ただけで怯える尾形紗江も……彼の中の水鳥楠穫の価値には、並ばない。

 向こうが動くならば好きにすれば良いと思う。何かを企むのも彼女達の自由だ。
 だが、ならば自分も好きにさせて貰っても、構わないだろう。

 「……悪い笑顔だな、四音」

 「ええ。でしょうね」

 言葉を付けられるほどに大きな心の動きではない。しかし、僅かに触れた心の針を読むのならば、きっと“楽しい”となる。




 「次は……六月です」




 恐らく、六月に――――誰か、命を落とすだろう。
 過去から今迄、自分に関わった事のある、誰かが。
 多分、決して疑われない状況下で。

 「怖い、ですねえ。……本当に」

 く、と御名方四音は、不気味なほどに乾いた、笑顔を浮かべる。

 「本当に、怖い……」

 体を抱くように、彼は擦れた声で哂う。
 きっと、この場に古出玲央がいたら、言葉よりも彼の方が遥かに怖い、そう言ったに違いない。

 しかし水鳥楠穫は、何も言わず、ただ静かに瞳に儚い感情を映すだけだった。














 家にあった色々は、今後の登場フラグです。オルゴールだけは独自設定な旧作キャラですが。
 薄々気が付いている方もいらっしゃいますが、先生は色々と訳ありなお人(?)です。その内、しっかり活躍してくれると思うので、ご期待下さい。

 さて、一話、日常な話を挟んで次は六月です。

 第二次Zをやるので(限定版予約済みです)更新が遅れるかもしれませんが、のんびりお待ちください。
 ファミ通で前情報を読みましたが、三大勢力が一つ、AEU、人革連、に“ブリタニア・ユニオン”って凄い名前ですね。やっぱ序盤はエリア11ルートかなあ……。
 
 また次回。

 (4月11日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第六話 水無月
Name: 宿木◆442ac105 ID:21a4a538
Date: 2011/06/29 23:34
 とある平日の午後の事だ。

 六月ともなれば、高い湿度も相まって、ジトっとした空気を感じる事も多くなる。
 諏訪湖畔に位置する我が学校も湿った風が吹き寄せる。中途半端にぬるい風は、まるで身体にまとわりつくよう。湿度を齎す湖のお陰で、気分だけでも涼しいのが幸いか。

 長野県は標高が高い。だから夏は涼しいんじゃないか、と都会の人は思うだろう。それは正しい。半分ほど。軽井沢を初めとする避暑地は有名だが、主要な都市は意外なほど暑いのだ。
 梅雨前線が停滞し始める今日この頃、今年の夏もきっと暑い。そう予感させる空気が、生徒会室には充満していた。すっかり慣れてしまった生徒会室の中で、私は熱い緑茶を差し出す。

 「どうぞ」

 「ああ」

 擦れた笑い声で、御名方さんは湯呑みを受け取る。
 そのまま、ごそり、と傍らの袋から粉薬と錠剤を取り出すと、口に含み、お茶の温度に拘泥せず静かに飲んだ。
 ちくしょう、煮えたぎる熱湯を並々と注いだ上での嫌がらせだったのに全然堪えていない。
 内心の私の表情を読み取ったのか、彼は死んだ魚の目で私を見る。

 「何か言いたそうだな、古出玲央」

 「……熱くないんですか?」

 「熱くもないし、暑くもないさ」

 室内にいるのは、珍しい事に二人だけだ。
 早苗は生徒会の所用で職員室に呼ばれ、神出鬼没の水鳥先生は、つい数日前に行われた中間考査の採点で席をはずしている。
 ささやかな攻撃を気にする事もなく、御名方四音は茶を飲みつつ机の上の書類を裁いていた。私は何時も通りの雑用だ。

 「僕はね、古出玲央。――外からの刺激に、鈍いんだ」

 くっくっく、と嫌な含み笑いをして、静かに彼は私に告げる。顔の筋肉が全然動いていないのに、口元だけが弧を描いている。気色悪い。
 もう季節が夏に近いというのに、御名方四音の服装は上も下も長袖で、黒髪も長いままだ。それでいて汗一つもかいていない。不気味だ。まるでその場所だけ、彼だけが温度の変化が無いように思えてしまう。

 「苦痛や不快感は、肉体の発する危険信号だという。……僕は外部刺激が鈍い。無痛覚症とまではいかないが、一部それに近い。だから暑さや寒さに強い。――――納得したかな?」

 「……そうですか」

 素っ気ない? いや、他に何を言えという。外部からの刺激に鈍いのは危ないんじゃないかとか。その割には病弱で虚弱体質なのは変じゃないかとか。そんな色々と疑問を覚えたが、訊ねる程に親切な性格はしていない。

 繰り返すが、御名方四音という個人に対する感情は良くないのだ。早苗が拘っているのは承知の上だ。だけど私は早苗じゃない。早苗の様には出来ない。彼女が目の前に居ない今、この男と積極的に絡む気はなかった。

 先月のあの会合以来、上がりかけていた彼への評価はだだ下がりだった。
 水鳥先生が『御名方の性格には難がある』と言っていたが、まさにその通り。可愛い後輩が家に訪ねてきたのに、喧嘩を売って追い返すなんて非常識にも程がある。私だけなら兎も角、学校の華である早苗に、幼女の紗江ちゃんだ。人格破綻者というに不足はない。

 「…………」

 私の視線を柳のように受け流して、御名方さんは素知らぬ顔をしている。普段と違う所と言えば『八意製薬』と書かれた見慣れない薬袋が傍らにあるだけ。
 彼は静かに軽そうな鞄の中にしまい込む。持病の薬か何かなのか。外見からすれば違和感はないが。

 早苗が部屋に戻って来たのは、私が内心で憤慨しつつも、そんな事を妄想していた時だった。

 「遅くなりました。……あれ」

 部屋の中に満ちる、お世辞にも良いとは言えない(二重の意味で)空気を感じ取ったのだろう。

 「――――何か、ありました?」

 「いや、何も。お帰り早苗」

 得体のしれない笑顔を浮かべたままの御名方四音を横目に、私はしっかりと返した。
 例え御名方四音と色々あっても、早苗と私の関係は変わらない。

 この時はまだ、そう思っていられたのだ。






 異人ミナカタと風祝 第六話 水無月






 五月のGWに御名方四音の家を訪ねてから、早いものでもう一ヶ月が経つ。

 この一ヶ月。中間考査を初めとする色々があったが。あの日から今迄、私の御名方四音への感情は悪い方向に向いたままだ。早苗は折り合いを付けて何とか普通に戻ったようだが、私に変化はない。

 子供の頃から『洩矢』を背負っていた私達は、その分、他者との関係に気を使っていた。というか、自分から近寄らないと相手が委縮してしまう。その経験がある。だから、私は積極的だ。人見知りは少ないし、友達を作るのも得意だ。早苗に勝っている数少ない面である。

 だが、そんな私でも特に積極的に仲良くなろうと思わない。
 御名方四音との関係が、如何に悪いのかは分かるだろう。

 一応、言っておけば――――私は、御名方四音が謝りさえすれば、すぐに距離を詰めるつもりなのだ。そのくらいの分別はある。だが、その『謝る』言葉が、かれこれ一ヶ月、聞こえない。
 まるで見下しているようだ、と思われるかもしれない。だが彼の態度を知っていれば十分だと皆が皆、言ってくれると私は確信している。GW中の彼の態度を見て何も言わずに流せるなら、そいつを文句なしに尊敬してやろう。

 「そうでしょ?」

 「……ええ、まあ。否定はしません」

 朝、学校に向かいながら私は早苗と話をしていた。
 六月らしい灰色の空。雨は降っていないが、何時降り出してもおかしくはない天気だった。

 「あの人は、良くも悪くも人と違います。周囲と比較した際の、私やレオとは違う意味で」

 「……つまり?」

 私の問いかけに、早苗は少し言葉を考えた上で言った。

 「……先輩は、多分、どうでも良いんでしょう。嫌われようが好かれようが、他者の其れに興味がない。プライベートな空間が非常に狭くて、その外側の人間は関心が無い。狭い己の世界で、上手に回ってさえいれば、外で誰が死のうが誰が生きようが、憎まれようが恨まれようが、どうでも良いんです」

 「……それは」

 イメージとすれば、あれか。中学校時代に嵌った本で言うなら、戯言使いや『魔法使い使い』みたいなものか。自分から人に迷惑はかけない。だからお前達も自分に迷惑をかけるな、というスタンスの。
 某週刊少年漫画の例えで言えば、過負荷(マイナス)みたいなものだと思っていたのだが。

 「いえ、多分正解ですよ。主観でしかありませんが、先輩は明らかにそのあり方が違います。鬱屈していることは間違いないですが。上手く言えませんが、歪まざるを得なかった? と言いますか」

 「……でも、それで解決して良い話じゃないよ」

 早苗の言葉通りならば可哀想だとは思う。三司さんが亡くなってからもう十年。その間、何があったのかは知らないが、きっと大変だったのだろう。水鳥先生が気にかけるのもその辺にあるのかもしれない。だが、それとこれとは別だ。
 どんな相手であれ、悪い事をしたら謝るのが普通だし、親しい中にも礼儀を込めるのも普通だと、私は教わった。

 「レオが正しいとは思いますが。思いますが」

 大事な事なので二回言った早苗は、それでも、と私に目を向ける。

 「先輩に話を聞かせるのは容易ではありません。外で何を言われていようと、気にも止めませんから。……話をするには、まず距離を詰めないといけません。私だってね」

 その距離を詰めるのが容易ではない、のだが。

 「ああ。だから取りあえずは、仲良くなると」

 「そうです。水鳥先生との関係を見る限り、仲良くなる事も不可能じゃありません。だからまず距離を詰める。相手の世界の中に入る事が最優先です。丁度、命令にも都ご――――おっと」

 「……………」

 今、物凄く不穏な言葉を聞いた気がする。聞き間違いでなければ、命令にも都合が良い、だろうか。
 静かに早苗の顔を見ると、しまったという顔つきで、口元を押さえていた。

 ……そう言えばそうだ。四月の最初、生徒会室に向かった時、早苗は僅かに告げていたではないか。『東風谷』として『御名方』に用事がある、と。そして“理由は言えない”と。

 意外と早苗が狡猾であるとは知っている。中学校時代、実働部隊だった私の背後で、どんな腹黒い計画を立てていたのか、十分に私は知っていた。
 今迄の御名方さんへの態度が全て、仕事の為の演技だったりしたら流石に怖い。

 ふと、気になった。
 生徒会に入ったのも、御名方四音と熾烈な腹の探り合いをしているのも、『洩矢』としての仕事なら――――早苗自身は彼に付いてどう思っているのだろう?
 私の質問に。

 「あ、信号が青です。丁度良いから渡ってしまいましょう」

 早苗はあらかさまに誤魔化して、駆けて行く。
 見えない火種を感じ取ったのは、きっと私の気のせいではない。




     ●




 さて、この一月の間に起きた事を、簡単にではあるが語ろう。

 なにはともあれ、まず語るべき事象は――――猪去蝶子さんの事だろうか。

 猪去蝶子さん。あの日、私と紗江ちゃんが早苗に会いに行く途中に擦れ違った女性。
 そして私達三人が御名方四音の家に行ったその日、東京新宿駅で飛び込み、自ら命を絶った女性の事だ。

 結論から言えば、自殺で片付いた。
 警察が言うには『人間環境や職場での悩みに耐えかねての、衝動的な自殺』という、珍しくも何ともない結論に落ち着いたそうである。伝聞調なのは、早苗から又聞きしたからだ。

 以下、簡単な彼女の概略だ。

 猪去さんは、諏訪生まれの長野市育ち。ごく普通に小中学校を卒業後、音楽を志して小諸の音楽高校に進み、音大に一浪して入った。就職難で苦しんでいた時に、故郷の音楽教室に誘われ、渋々ながらも其処で生計を立てていたそうである。

 その後、再度一念発起して都会に出るも、就職先は見つからない。仕方なく、音楽会社の下請け企業に入りつつ、忙しくも都会で生活を送っていた。そしてその二年後の先月、現実と理想のギャップ、日々の暮らしに耐えかねて線路に飛び込んだ、と言う事である。

 ……本当に簡単になってしまったが、つまり普通の女性が、普通に挫折し、普通に立ち直れないまま亡くなったという事で良いのだろう。言い方は悪いが、別に珍しくもない。

 ただ問題が一つ。
 新宿で飛び込む半日前に彼女は『洩矢神社』を訪れていた。

 偶然と言ってしまえばそれまでだ。だが、口の中にお守りを入れたまま飛び込んだとなれば、それは警察でなくとも怪しいと思う。由緒正しい神社でなければ、嫌な風聞が立つ。

 結局、その事に説明は付かなかった。
 彼女の精神的動揺が不可解な行動を取らせた、と言う事で落ち着いたそうだ。まあ、国家権力でオカルトに詳しい所は、もうこの時代そうは残っていないらしいから、当たり前かもしれない。
 私は――――あの御名方四音が、関係している気がしている。話した事はないが。

 「『猪去』ですか……」

 新聞の片隅に掲載された、その自殺の記事を読んだ祖母の顔が、妙に険しかったのには何か理由があるのだろうか。




 実の所『洩矢』ではGWかその近辺で、何か大きな問題が起きるのでは無いか、と考えられていた。

 『なんか、起きる気がするの』

 そう紗江ちゃんが言っていたからだ。

 尾形紗江。
 洩矢五官『凝祝』の家の長女。
 私や早苗とも仲が良い、小さな女の子で――――漠然とではあるが、予知夢を見る力を持っている。

 欠点は、彼女がまだ幼く、上手に説明が出来ない事。そして夢である為、非常に忘れやすい事だろうか。
 GW前、彼女は夢を見た。だから神社に来た。祖母が許可を出したのも、その夢が背景にあったからだ。

 結局、その『嫌な予感』は、猪去さんに端を発する問題だったと解釈された。
 参拝客の不自然な自殺から、彼女の足跡を辿った警察の事情聴取。その後の嫌な風聞まで。大きなダメージでは無いが、確かに余り良い話題でもない。

 「お世話に成りました。また来ます!」

 その彼女は、ペコリ、と可愛らしく頭を下げて、尾形の実家に帰って行った。
 GWの終わる一日前。尾形のご両親は我が古出家に来訪し、祖母と神社の話をしていたのが記憶に残っている。日文さん(二月に亡くなったお爺さんだ)の後継問題や片付けも随分と進み、今後の活動も師匠は無いだろうとの事だった。

 「今度は夏休みですね!」

 多分そうだろう。夏休み、機会があったら海にでも行こうと約束をして別れた。
 今度会った時は、どれくらい大きくなっているだろう。




 『御田植祭』という祭儀がある。

 六月の第一月曜日に行われる神社の神事で、豊作祈願の為に行っている儀式だ。
 本殿から五百メートル程離れた所にある「藤島社」という場所で、巫女二人が田舞と呼ばれる舞を踊る。斉田の中に入って田植えの真似をしたり、社殿の中で音楽に合わせて奉納をしたりと、結構大変な行事だ。
 『洩矢』の御田植祭の起源は不明だが、嘗ては「八乙女」と呼ばれる女性が、早乙女(田植えを行う女性のこと)となって舞っていたそうだ。

 因みに、豊作の神として有名な「奇稲田姫(クシナダヒメ)」は、ミシャグチ共々、実は蛇に関係が深いそうだ。『洩矢』で祭儀を問題無く執り行える理由も、その辺にあるらしい。

 祭りでの、私と早苗の仕事は演奏だ。途中で学校を早退し、笙を片手に現場に向かい、終わった後にまた学校に戻るという中々ハードな一日だった。

 高校に入学して二ヶ月。学業と家業の両立は中々難しい。最近、つくづくそう思う。

 「さて、それじゃあ先月のテストを返却します」

 入って二ヶ月もすれば、第一回目の中間考査がある。
 二ヶ月に習った事の復習だけやっておけば、そう危ない事も無いのだが――――私の頭は、余り良くない。

 「呼ぶので順番に取りに来て下さい」

 古典や歴史は得意(巫女さんが苦手だなんて笑えない)。だが、外国語や数学ともなれば訳が分からない。
 帰って来た答案用紙を見て、思わず肩を落とす。神事に重点を置き過ぎて勉強できませんでした、という言い訳は……あの祖母には通用しないだろう。
 心情を投影したかのような曇り空を見て、私は大きく息を吐く。

 私の思いは、きっと全国の多くの学生が常々感じている物だ。




 それから三日。
 全てのテスト用紙が返却され、合計得点と学年順位が判明して、私は沈黙した。

 「いえ、レオ。その成績なら余り心配無いと思いますよ?」

 「いや、合計は平均より少し上くらいだし。……要領の良い早苗が、こういう時は羨ましいよ」

 毎日の習慣となってしまった生徒会室の中で、私達は話をする。
 御名方四音は気に入らない。だが、仕事を放り出す事はしない。早苗もいるし。責任感は強いのだ。

 「レオは真面目ですからね。……もう少し、軽く考えても良いんじゃないでしょうか」

 ほんわか、と少し冷ましたお茶を飲みながら、早苗は言う。

 ――――それが出来れば苦労はしない。

 早苗は本当に要領が良い。何もしないで結果を出せるのが天才だとすれば、早苗は秀才。少ない努力で最大限の効果を出せるような人間だ。努力してやっと並べるのが凡才だろう。

 大事な所だけやれば良い、と人は言う。言うが、大事な所を習得するのに時間が懸かるのが凡才だ。大事な所を見抜き、理解し、応用する。その過程に懸かる時間が、才能が無い者ほど多くなる。勉強も巫女の仕事でも同じ。……思い返せば、生まれてから今迄、私が早苗に勝っている事は少ない。変な劣等感を抱えない自分を褒めたい位だ。
 私と同じ立場のはずの幼馴染は、学年10番以内を常にキープしている。

 勉強に関して言えば、私は凡才。早苗は秀才。
 そして、あの御名方四音は間違いなく天才。

 世界は不公平だと思う。授業に殆ど出ず、生徒会室で仕事と自習をしているだけの生徒会長は、八教科(現文・古典、数学Ⅰ・Ⅱ、理科二つ、社会二つ)合計780点以上を取っている。学年一位だ。全国偏差値も80越えらしい。愚痴りたくなっても当然と言えよう。

 「先輩は、……あれは特別です。頭の造りが本気で尋常じゃありません。もしも健康だったら、そのまま外国の超名門大学からオファーが来るとも言われました。比較する方が間違いです」

 慰めるように、早苗は言ってくれた。
 慰めになっていない気もする。

 「……情報源は?」

 「貴方の、お姉さんですよ」

 「……理園ねえ、か」

 以前、私には姉がいると語ったが――――古出理園(りお)というのが彼女の名前だ。
 家庭の事情に成るので追々話すことにするが、父の死後、色々あって祖母と折り合いが悪くなった彼女は、家を飛び出して留学している。行先はMITだ。女性にしては珍しいが、其れが出来るのが彼女の凄い所だろう。
 因みに、私とは血が半分しか繋がっていない。

 「……元気そうだった?」

 「ええ。レオの事も気にかけていました」

 家を飛び出して言った時、理園は二度と家に連絡を入れないと言って出て行った。姉と祖母は互いに頑固で、融通が利かない部分がある。だから祖母は連絡先を聞かなかったし、向こうも残して行かなかった。
 まあ、私と違って理園は優秀すぎる人材だ。連絡なぞ入れずとも、自分で何とかできるだろうと祖母は考えたのだろう。それが事実だから困る。
 ただ、全く連絡を入れないのも悪いと思ったのか。早苗と絵手紙さん(また紹介しよう)を経由して、居場所と勉強内容だけは毎月教えてくれている。

 「ま、良いけどね。……と」

 コンコン、と扉をノックされる。現在、珍しくも生徒会室には、私と早苗しかいなかった。此処二ヶ月で初めての事ではないだろうか。
 立ち上がった私は、扉を開ける。きっと扉の向こうには、常の如く死体のような顔の生徒会長がいるのだろう、と思って……。

 「……どちらさまで?」

 思わず、呆けた言葉を発した私は悪くない筈だ。
 目の前には、見慣れない男の人がいた。




     ●




 生徒会室を訪ねてきた男の人は、須賀長船という二年生だった。

 体育会系のお兄さん。面倒見が良さそうな人だった。御名方四音とは同じクラスらしい。殆ど顔を出さないあの生徒会長だが、学校内では悪い意味で有名だ。
 諏訪さんは、何でも、『生徒会長』としての御名方さんに頼みたい事があって来たらしかった。

 「言伝や届け物でしたら、預かりますが」

 そう言った私達の申し出に、彼はお願いする、と言って素早く帰って行った。
 運動部はそろそろ追い込みの時期だ。二年生だから、まだ彼には来年があるとしても――――三年生が県予選に向けて頑張る中、なるべく長い時間を練習に費やしたい、という思いは分かる。
 結果、私と早苗の前には、折り畳まれた何枚かの用紙が残されていた。

 「……えっと『運動部の活動費用について』。細々と書かれてますね。嘆願書でしょう」

 軽く内容を確認した早苗は、生徒会長の椅子の前に、書類を置いた。
 この時期、合宿の許可だったり、活動費用を増やして欲しいだったりと生徒会には要望が多い。

 御名方四音は、人間的にはアレだが仕事の処理は抜群で、上手に舵取りをしながら運営している。が、上手であっても不満は出る物で、ここ最近は特に多かった。どこも必死ということだろう。
 須賀長船先輩は、同級生と言う立場を使い、出来るだけ早く案件を処理して欲しいと要求していた。

 「しかし、今日は一向に来ないね、御名方さんは」

 放課後。日が長いから明るいが、もう十六時を回っている。午後四時を過ぎても御名方さんが来ていないという事態に直面した事は、今迄一度も無い。

 「ですね。……何かあったんでしょうか。見えないところで倒れてるとか」

 「洒落になってないよ、早苗」

 机の上には、今日明日中に執行する仕事が溜まっている。会計の早苗と雑用の私が、勝手に手を付ける訳にはいかない物ばかりだ。
 大人しく座っていれば、怖い程の不気味さがある御名方さんだが、積極的に動く姿は全く想像出来ない。直立不動で立っている姿すらも難しそうな人なのだ。入学式で挨拶をした以上、最低限の事は出来るのだろうが、間違っても運動が得意ではない。見れば分かる。

 「連絡してみましょうか」

 そう言って、早苗は携帯電話を取り出す。

 「……何時の間に番号を聞いたの?」

 「少し前です。『生徒会の一員として、会長の番号を会計が知らないのは問題がありますから』と言ったら存外素直に教えてくれました。公私混同はしないタイプですよ、先輩は」

 なんか、微妙な力関係が見える。
 この二ヶ月、早苗は確実に生徒会での地盤固めに成功しているらしい。

 短縮ダイヤルを押した早苗は、耳に当ててしばし待つ。私は、さてどうなるかと思って黙る。二人が電話で会話をする、と言う光景が、全く想像が及ばない。
 そもそも、御名方四音が携帯を持っている姿も、想像が難しい。

 「……出ませんね。レオ、水鳥先生にお願いします」

 「分かった」

 こちらの番号は、私も知っている。
 こう見えて私は友人が多い。高校ではまだ少ないが、中学校時代で私達を知らない生徒はいなかったと、断言出来る位だ。勿論、生徒会顧問・担任教師の水鳥先生の番号は、生徒会に入った初日に入手してある。
 二種類の携帯を持っているらしく、流石にプライベートまでは聞き出せなかったが。

 ……というか、水鳥先生の私生活も謎だ。御名方さんの家に時折、出入りしている事を知っているだけである(五月のGWの際、そんな事を言っていた)。四月の質問でも、微妙に具体的では無かった。

 『――――はい、水鳥。……と、古出か。どうした?』

 「スイマセン。少々、お聞きしたい事が有ります。……今、お時間を頂いても良いですか?」

 『ああ。――――』

 スマンが、少し待ってくれ。生徒からだ。

 そんな声が、小さくではあるが届いて来た。
 電話の向こうは、先生一人ではないらしい。職員室とも思えないが、どんな人なのだろう。

 「あの、都合が悪いなら掛け直しますが」

 『いや、良い。待たせても問題が無い相手だ。……それで、どうした?』

 「実はですね……」

 簡単に事情を説明する。本日、朝以降、御名方四音を一回も見ていない。別に心配をしている訳ではないが、来てくれないと仕事が滞ってしまう。行方を知っているのではないか。何かと関係が深そうな先生ならば、事情を把握しているのではないかと思って連絡した。
 私生活でも交流が有るらしい事は知っていたので、少しでも教えてくれれば御の字である。

 「先生に聞くのも変な話だと思いますが、何分、私も早苗も連絡を取れないので……」

 『ん。……ああ。御名方は早退だ。定期の……と言ってもお前達は知らないか。何月かに一回、独自の健康診断が有ってな。優秀な医者が家に来ている。丁度今日はその日だ』

 「そうなんですか?」

 『ああ。普通の医者に見せるのを四音は嫌がるからな……。私の古い友人の伝手を使っている。今、何処だ? 生徒会室か?』

 「はい。早苗も一緒ですが」

 『そうか、なら今日は帰って良いぞ。仕事は一日休んでも問題無い。仕事のスケジュールは調整してあるからな。戸締りだけしっかりしておけ』

 先生曰く、机の上の仕事の山は、明日で十分に片付くのだそうだ。

 「分かりました」

 頷いて、通話を終わらせ、どうでした? と目で伺う早苗に、今の話を伝えた。

 「――――という訳で、好きにして良いってさ。どうする?」

 「あ、先輩の家にお医者さんが、ですか。……そうですね。“玲央”、先に帰っていて良いですよ。私はこの」

 と言って、先程、須賀さんから手渡された書類を掲げて。

 「これだけ、許可を貰ってきます。そうしたら直ぐに帰りますから」

 にっこりと笑った、その早苗の笑顔に。




 ――――何故か、私は。

 ――――今まで感じた事の無い程の、寒気を感じ取った。

 ――――その一瞬。

 ――――早苗ではなく、まるで巨大な怨念の塊が、そこに鎮座していたかのように。




 気が付いたら、言葉が口を吐いていた。

 「いや! 早苗、……私が、行くよ」

 「はい?」

 頭の中で、警鐘が成った。勘と言っても良い。
 理屈抜き、理論抜きで、なんかヤバイ。

 「何時も、早苗が仕事しているからさ。……御名方さんと話をする意味も込めて、私が届けて来る」

 どこも変な所は無い。
 何時もと同じ、何時も通りの東風谷早苗だ。

 だが、それなのに。
 その筈なのに。
 御名方四音の家に、行かせたくなかった。

 早苗の理性よりも鋭い、私の感性が、今だけは絶対に早苗を向かわせてはならないと言っていた。

 「良いでしょ?」

 背中に浮かぶ冷や汗を、感じ取られてはいないだろうか。
 顔だけは崩さず、飽く迄も平然とした顔で、私は平常心を装いつつ、手を差し出す。

 「? ……はい、分かりました、けど」

 突然の私の態度に、早苗の顔は訝しげだ。もしや、早苗自身も気が付いていないのか。早苗自身も……今の私の予感を、覚えていないのか。だが、意識的にしろ無意識的にしろ、危ない事は確かだった。

 もしも本当に、早苗が気付いていないならば……行かせると、早苗でも解決できない致命的な事が起こりそうだった。
 目の前の早苗が、全て演技に連なる態度のままとするなら、もっと危険だと感じ取った。

 「……じゃあ、お願いします」

 「うん。任せて」

 手が触れる。感じる早苗の掌ははっきりと温かさを持っている。
 だが心は、引っ切り無しに私に危険を訴えていた。

 「それじゃ、また後で。帰ったら連絡するから」

 書類を受け取って、鞄に仕舞いこんだ私は。
 何かに追われるように、生徒会室を飛び出した。




     ●




 深く泓く、暗く昏く。
 まるで汚泥で構築されたかのような世界の中で、くすりと嗤い声が響いた。



 ――――へえ、あの娘、気がつくんだ。

 ――――古出の家の、参の娘か。

 ――――才能が失われている癖に、早苗の親友と名乗るだけはある。



 けらけら、けろけろと、嗤い声が響く。
 その声は、狂気と喜悦を孕んでいた。



 ――――じゃあ、まあ、その聡明さに免じてやろう。

 ――――その“医者”が何者なのか、突き止めるのは、止めだ。

 ――――あんまり干渉しすぎると、早苗にも気が付かれてしまうからねぇ……。



 けろけろけろけろけろけろ、と。
 そうして、邪気に満ち満ちた少女の声は、何処かに消えた。




     ●




 「……っはあ」

 学校を飛び出し、そのまま勢いと衝動に任せて、私は一気に走った。
 御名方四音の家まで、歩いて五分の懸からない距離。なら、私なら二分も必要ない。体育系の部活から引っ張りだこの私は、足には自信が有る。
 身体に付くじっとりとした汗に不快感を覚えながら、私は深呼吸をした。

 「……急いで仕事をして、家に帰ろう」

 今日は早く帰って、また明日に仕切り直そう。その方が良い。いや、そうしないとまずい。それで駄目なら祖母に相談だ。

 御名方四音は嫌いだが、そんな事を言っている場合じゃなかった。

 私は古びた木造一軒家を見上げる。住んでいる人間を表す不吉さと、夕暮れ時の赤色が絶妙に混ざり合い、並みのお化け屋敷でも出せない程の陰鬱さが見える。
 なんか、ますます雰囲気が怖いのは、今が宵の口だからか。昼と夜の境目は、昔から異界に繋がりやすいという。更に言えば、この家は大社の北東――つまり鬼門の方向に置かれてもいる。それも不吉の理由の一つなのかもしれない。

 「お邪魔します。御名方さん、いますか?」

 やや乱暴に扉を開けて、声をかける。
 一月前に来た時と同じ、まるで人を飲みこむかのような造りだ。畳敷きの玄関に、古びた柱と時計。襖に遮られた部屋の奥が怪しく、折れ曲がった廊下の先は見通せない。
 肝試しをしたら、そのまま使用できるレベルの家だ。

 「こんにちは。……入りますよ!」

 半ば自棄になって、私は靴を脱ぐ。其処で気がついた。

 玄関に見慣れない靴が有る。女性の物が二足。高そうな革靴と、踵の低いヒールだ。もしやこれが、家を訪れているという医者の物か。
 てっきり男性かと思いこんでいたが――――水鳥先生の知り合いなら、女性でも変ではない。間取りは覚えている。勝手知ったる人の家とばかりに家に踏み込んだ、その時だ。

 ギシリ、と床が鳴った。
 鶯張りを彷彿とさせる音は、廊下の奥から届く足音だった。

 「あ、四音さんのお友達ですか?」

 私の声に気が付いて、玄関へ顔を出した人がいた。
 ……いや、本当に、人だったのか。一瞬、まるでその人が、人ではない“何か”にも見えた。

 早苗の時と同じだ。理性や能力としてではなく――――自分の勘が、僅かではあるが、違和感を告げていた。
 ……おかしい。現実は、こんなに危ないと思える物だったか。

 「……貴方は?」

 本来ならば滅多に感じる筈の無い感覚。十五年という時間の中で数えるほどにしかない、現実離れした感覚を、早苗に次いで立て続けに。常識ではありえない。何かあったら直ぐに逃げ出せるような格好を取って、私は思わず睨んでいた。

 その“人”は、不思議そうな顔をする。まるで、何故私が、此処まで警戒心を持っているのか、理解できないとでも言うかのよう。
 それとも、彼女にとってみれば私の警戒など瑣末なレベルなのかもしれない。ブレザー服も、スカートも、普通の女性の格好の癖に――――妙に隙がない。軍人みたいだ。
 様子を伺う私を興味深そうに見ながら、女性は微笑み。

 「私は稲葉。稲葉鈴です」

 紅い瞳をきらりと光らせて、そう名乗った。

 きっと本名では無い。
 冴え渡る心の何処かで、私は悟っていた。
















 やっと更新できました……。

 さて、此処から東方キャラもちょっとずつ出てくるかと思います。基本“こちら側”ですので、向こうをメインとする人は出ませんが、それでも少しは。神様関係が多い予定です。
 ストーリーの大部分と結末は決まっているので、気長にお待ちください。
 早苗や水鳥先生は当然ですが、玲央の異常な勘の強さも伏線です。

 少しでも感想を頂けると、凄く嬉しいので、宜しくお願いします。
 ではまた次回!

 (6月29日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第七話 水無月(建未月)
Name: 宿木◆442ac105 ID:21a4a538
Date: 2011/07/03 22:49


 「優曇華。……少し外に行って来て頂戴。大丈夫。八雲が手を回しているし、グリューネが大体は把握しているわ」

 「はあ。あの師匠。何故ですか?」

 「……そうね。遥か昔。遥か過去。まだてゐが敵であった時代の――その過ちを、償うだけよ」

 「過ち、ですか」

 「そう。私の非道の犠牲者がいるわ。……行ってくれる?」

 「……分かりました」

 凪いだ瞳は、過去を懐かしんでいるかのよう。永遠に囚われた彼女でも、そんな眼をするのだろうか。
 鈴仙・優曇華院・イナバが外界行きに頷いたのは、きっとその時の空気が、余りにも師匠に似つかわしく無かったからだ。






 異人ミナカタと風祝 第七話 水無月(建未月)






 人間関係とは不思議な物だ。普通はありえない接触が実現したり、偶然の末に個人と個人が巡り合ったり。運命を操れる者がいたとしても、決して侵略出来ない不可侵性を、人の縁は有していると思う。

 そりゃあ、御名方四音の事は殆ど知らない。
 だが、見ず知らずの女性が彼の家に、平然といるというのは――――少し、いや、かなり驚きだった。

 「あの、私は御名方さんの家に、医者がいると聞いていましたけど」

 「ええ。医師免許は持っていますよ。……四音さんを見ているのは、私の上司です」

 立ち話も何なので、取りあえず中にどうぞ。

 そう促された私は、以前案内された和室に通された。相変わらず建物の中には、籠ったような空気が充満しているが――――この部屋だけは空気が違う。何か特別な理由でもあるのだろうか。

 す、と静かに正座した女性と、ちゃぶ台を挟んで向かい合う。一般人ではない、隙のない振る舞いを警戒しながら目線を合わせる。私の心を知ってか知らずか、女性は静かに微笑んで懐から名刺を取り出した。

 「私は、こういう立場にいます」

 稲葉鈴。
 総合商社『ボーダー商事』医療部門の補佐官。

 差し出された名刺には、そう書かれていた。

 「……『ボーダー商事』」

 有名な会社だ。CMこそ流れていないが、必ず誰もが一度は耳にした事のある外資系企業である。
 江戸以前よりも昔に大陸に渡った日本人が財産を築き、それを元手に発足した今でいう総合商社。明治期、現在の七大商社の元となる財閥達が生まれた頃に、アメリカや欧州で業績を伸ばして成長したそうだ。
 豊かな暮らしは隙間から、のキャッチコピーが、日本では有名である。

 「……」

 嫌な感じは消えていないが、取りあえずこの人(人だろう。多分)の身分は、そう言う立場らしい。
 しかし、そんな名立たる企業の人が、何故この家に。

 「御名方三司さんは、ご存知ですよね?」

 当然、知っていますよね? というその態度に、少しばかり違和感を覚える。
 だが考える余裕もなく、私は頷いた。

 「……ええ」

 「三司さんは、『ボーダー商事』の社員でした。最も、私は直接にお会いした事はありませんが」

 「――――そうなん、ですか?」

 「あれ、聞き覚えが有りませんか?」

 無い、……いや、ある。あると言えばあると言えなくもない。

 一か月前。GWの際にこの家を訪れた時、御名方さんが、父親が貿易系の仕事をしていたとか言っていたか。時計や人形、オルゴールといった家を彩るアンティークも、家の各地に置かれている物は、その土産や譲り受けた物と語っていたか。

 「残念ながら、彼は十年以上も昔に退社をしています。しかし当時の知り合いで、腕の良い医者がいました。十年経過した今も――――定期的に、その医者が家を訪れているという訳です」

 私はその手伝いで、補佐役で、序に言えばお目付け役です。

 稲葉さんはそう静かに口元に笑みを浮かべて、私と目を合わせた。

 すう、とそれだけで、意識が切り替わった感覚がする。……不思議な人だ。怪しい事は怪しいが、敵意は感じない。最初に会った時は、色々と危ない感じがしたが――――私の気のせいだったのかもしれない。いや、そもそも危ないという認識も、何処まで正しいか。

 そう言えば、どうして私は早苗と彼女達が接触する事が不味いと、そう思ったのだろう?

 最初に玄関で遭遇して以来、自分の中の意識が、少しずつ安定して来ている。

 「玲央さん、でしたか? 貴方は御名方さんと近しいと思っても」

 「へ? ……いえいえ。まさか!」

 慌てて私は否定する。

 「むしろ仲は悪いんですよ。今日は、学校での用事が有って、仕方がなく来ただけです」

 「そうですか。……良く似ていると思いましたが」

 水鳥先生みたいな事を言う。まあ、縁戚である事は間違いないから、似ていると思うのも無理はない。やっぱり全く事情を知らなくとも分かる人間には分かるのだろうか。

 そんなこんなで、和気藹々と私と稲葉さんは過ごしていた。
 時計の針は進んでいなかったが、密度は濃かったし、意外と長かったとも思う。御名方四音の家に来ている人間だから、どんな変な人かと色眼鏡で見ていた部分が有ったが、神妙に反省しよう。

 診察を終わるまで、色々なエピソードを聞かせて貰った。
 飼っている兎が悪戯ばかりして困るとか、昨年の春は花が異常開花して困ったとか、お陰で鈴蘭の有効利用に結びついたとか、師匠の人使いが荒いとか。

 大企業だからさぞかし堅苦しいと思ったら、意外と楽しい生活をしているようだった。

 にこやかに談笑していると、かたり、と襖が開く。

 「あら、……こんにちは」

 顔を覗かせたのは、西洋風の女性。柔らかそうな金髪に、碧の目をした美女である。年齢は……少し読めない。だが、白衣に身を包んだ雰囲気は、熟練の医者だ。
 彼女は私に挨拶をして、稲葉さんを見た。

 「診察は終わりました。……帰りましょう、“因幡”」

 「あ、はい。グリューネさん」

 イナバ、の発音が微妙に違う気もしたが、私の気のせいだろう。金髪の美女さん(グリューネさんと言うらしい)は日本人には見えない。多少、イントネーションが違っていても無理もないか。

 立ち上がった稲葉さんに合わせて、私も立ち上がる。
 そして、グリューネさんの背後の、細長い体を視界に入れた。

 「…………」

 正面から視線を交錯させたからか、私の体は思わず止まる。
 御名方四音は、ふん、と常の如く表情を変えずに私を一瞥すると、そのまま体の向きを変えた。

 「それじゃあ、私達は帰りますね、玲央さん」

 「え、あ、はい」

 静かに微笑んだ稲葉さんは、私の目を見て小さく手を振ると部屋から出て行った。

 間抜けな事に、私は止まっていた。玄関まで見送るのも違う気がするし、かと言って呆けているのも間違っている気がする。呆けた、という表現が一番しっくりくる。何故かは自分でもよく分からないが――――その一瞬、私の動きは止まった。思考が乱されたというか。

 我に返った私は襖を開けて、遠ざかる二人の背中を見送る。彼女達は辛気臭い建物を平然と通り抜けていった。意外と肝っ玉が太い私でも気押される空気を無視できる辺り……彼女達も、早苗と同じ位は普通ではないのかもしれない。
 足音、靴音、挨拶、扉の音と続き、稲葉さん達が玄関から出て行く。

 うん、大人な感じの人だ。育つならばあんな感じになりたい。知的でクール……な部分は真似出来そうにないが、落ち着いた雰囲気は頑張れば、なんとか。

 未来に思いを馳せていると、家主が戻って来る。なんとなく足取りがしっかりしているのは、医者に診察して貰った影響か。

 「……それで、能天気そうな顔の古出玲央。お前は何をしに来た」

 こいつ、人の神経を攻撃するのが嫌になる位上手いな。

 普段よりも多少乱暴に、足を投げ出すように座った御名方四音は、濁ったままの目で私を見る。何時も以上に不機嫌だ。……そうだ、こいつは来た人間を歓迎する様な殊勝な性格じゃなかった。
 さっきまでの、自分にしては珍しい位の平穏はどこへ行った。

 「これ、お願いします」

  どさ、と鞄の中から数枚の書類を出して、卓袱台の上に置く。行動が少し乱暴に成ってしまったとして、誰が責められよう。……いや、良くない。巫女として反省しなければ。
 中身は、つい数時間前に渡された須賀先輩からの物だ。

 「御名方さん一人なら、別に解決に支障はないのでしょうが。付き合わされる私や早苗の身にもなって下さい。取りあえず、臨時でこれだけお願いしに来ました。……五分で終わると思います」

 「……確かに」

 机の上の幾枚かを手に取った生徒会長は、ぎょろりと黙読で内容を読みこむと、学生服の胸元から黒ペンを取り出して紙に走らせた。
 医者に診て貰っていたはずで、此処は自宅の室内。なのに上下共に長袖の学生服とは。客人が私であっても変過ぎる。脱げない理由でも持っているに違いない。
 アルビノの如く病的に白い指が、静かに動く様子を観察していると。

 「ところで、古出玲央。……目は如何した」

 「眼?」

 唐突に、彼は言う。
 言葉に表情はない。心配のしの字も見えず、ただ変だと彼にとっての事実を伝えているだけ。

 「私の眼が、何か?」

 「赤いぞ。何かあったか?」

 ――――え?

 慌てて、私は手鏡を取り出して自分の顔を見る。




 両目が、まるで狂気に見入られたかのような色をしていた。




     ●




 その翌日。珍しい事に、私達が生徒会室に入ったのは朝のホームルームも程近い時間だった。

 別に寝坊をした訳ではない。仕事をこなしていたらこの時間になってしまっただけである。

 実は昨日の夜……の遅く。神社にお守りが欲しいという電話が有ったのだ。電話の相手はこの学校。目的は、戦勝祈願と言う事だった。

 県大会が今週末に控えている現在、運動部は毎日夜遅くまで活動している。私達が生徒会室に出る時間より遅いくらいだ。そんな部員達の応援の為にと、マネージャーや教師が勝利を祈ってのお守りの大量発注を入れてくれたのである。
 『洩矢神社』の祭神・建御名方は軍神だ。試合に勝つ為に参拝するなら、中々相応しい神だ。

 だが、いきなりお守りを七十個以上と言われても困る。嬉しいが困る。在庫は足りず、全部売ったら明日以降の商売に差し支える。仕方ないので、私と早苗で暇な時間、只管にお守りを造っていた。……いや、一つ一つにお祓いとか相応の手順を踏むと時間が必要なのだ。

 特にウチの神社は、伝統なのか――――製造は工場でも、組み立ててお守りの形を取る間に、必ず結構な手間暇をかける。結果、今朝の朝まで使ってやっと数を揃えたというわけである。

 注文はもっと早めにお願いします、と学校に言いたくなった。

 そんな訳で、私達は珍しく(本当に珍しく)朝の生徒会活動に遅刻してしまった。
 だが、きっと御名方四音は平常運転だろう。

 「お早う、ございます……」

 そんな風に思いながら、少しだけ遠慮をして慎重に扉を開ける。幾ら生徒会長との関係が悪かろうが、公私混同をしない。遅れた事は悪いと思っているのだ。仕事中に暇な私が頑張ったお陰で、以前のように書類の束が開閉途端に崩れ落ちる事もない。

 だが、ふ、と視線が暗くなった。
 なんだ、と思って顔を上げると。

 「あ、えっと――――須賀、先輩?」

 丁度、向こうも扉を開く寸前だったのだろう。
 ちょっと驚いた表情の、先日会った須賀長船さんが目の前に立っていた。

 「ああ古出さんか。いや、お邪魔した」

 軽く挨拶をして室内から出て行く。体育会系の、如何にも爽やかな笑顔で頭を下げて。
 えらく頻繁に会うが、一体何をしに来ていたのか。

 「…………」

 廊下の雑踏に消えて行く背中を見送って、私達は中に入る。
 御名方四音は、私達の遅刻など何もないかのように、机に向かっていた。
 入室に、一瞥すらもしなかった。

 「あの、先輩」

 「……何だ」

 このやり取りも随分と回数を重ねているが、御名方さんの態度は変わらない。
 というか、此処まで何も変わらないのも――――重々、分かっていた事だが――――何だかなあと思う。

 「その、……遅刻して申し訳ないです」

 「ああ。気にするな。僕は気にしない」

 棒読み。この人の事だから本当に気にしていないのだろう。

 「止めたいならいつ辞めても構わない」

 「……ええ、まあ。其れは置いておきます」

 「ああそれよりも、昨日は色々と手間をかけたな」

 有難う、の一言は無い。無いが、……まあ、取りあえずこの人なりの感謝の証拠なのだろう。

 昨日。運動部に関する諸々の書類を片付けた後、私はさっさと帰った。帰った後で、彼に付いて多少、祖母に話を聞いてみた。その話は、また後ほど話すとして、色々と面白い話を聞けた。

 性格が悪いのは知っているし、コミュ障害で人格破綻者、生活不適応者と悪い表現なら幾らでも言えるが――――昨日、嫌々でも家を訪ねて良かったと思っている。
 稲葉さん達の影響もあるのだろうが、GW中からの御名方四音への思いは、多少軽くなった。

 「……あの、すいません。一つお聞きしたいのですが」

 須賀先輩を見て以後、ずっと黙っていた早苗が身を乗り出す様にして口を挟む。

 「先輩、須賀さんに何か渡しました?」

 「…………。東風谷。何故、そう思った?」

 一瞬、一瞬だけ御名方四音の腕が止まった。
 静かに机の上に鉛筆を置くと、無表情の中にほんの微かな鋭さを見せる。
 先ほどとは別の意味で不穏な空気が、生まれた。

 「今、擦れ違う時に感じました。はっきりと。――――つい先日には、感じなかった気配です。何か『曰く付き』の物を、預けたのではないですか?」

 「何故、そう思う」

 「これでも私は由緒正しい巫女ですよ」

 音が無いのは――――扉が閉まり、序に朝のホームルームの直前だからかもしれない。推移を伺う私も、二人をただ見比べるだけ。ギリギリ、と二人の間の空気が撓む。

 なんだ、この状況。

 なんだ、それは。
 いや早苗ほどの巫女ならば、怪しいオカルトめいた品物を判断出来るとは知っている。あの御名方家なら、その辺に置かれた骨董品が、怪しい効能を有していても不思議ではない。否定できないから困る。

 「ああ。渡してあげたが……何の変哲もない、ただの小道具さ」

 ス、と顔を上げて早苗と視線を交わす。
 普段から見られる、狐と狸の化かし合いにも似た探り合い。

 「……どのような?」

 「何故、君に話す必要が有る?」

 「必要はありません。訊きたいだけです。だからお願いします。……話して下さい」

 だが、今日は何時もと少しだけ違っていた。

 ――――早苗が真剣だった。

 その瞳が、普段以上に炯々と輝いていたのを見て、私は息を飲む。私には、何故早苗が其処まで真剣に何かを危惧しているのかが分からない。才能以前に、本当に――――分からない。だが、こんな眼をするという事は、其れに相応しい理由が有る筈だ。
 思わず、仮面のような態度の彼を見る。



 御名方四音。
 お前、一体、何をした?



 状況が掴めず、歯噛みするだけの私を尻目に、傲岸不遜な生徒会長は暫し沈黙する。
 だが、数分後――――恐らくは、頭の中で何か結論が出たのだろう。早苗の眼光に押された訳ではない。間違いなく打算と計算で、何らかの解を導き出した。

 ふ、と蛇のような吐息を漏らし、怪しげに彼は言う。口だけが微かに笑っているが、眼は腐った魚だ。

 「少し前に、家の中から護符(タリスマン)が見つかった。僕の趣味ではなかったから、始末に困っていた。だから須賀に渡した。別に他意は無い。唯の気まぐれだ。……ああ、いや」

 真意は読めない。だが、口元だけの歪むような顔で。




 「あるいは、僕の何らかの企みかもしれない。……呪われた装備を渡した、とかね」




 「え!」

 その発想は無かった。無かったが、しかし、言われてみれば有り得る。
 絶句する私達だったが、早苗はいち早く復活すると。

 「――――っ! ……すいません。レオ、少し用事が出来ました。水鳥先生には、神社の用事で欠席と伝えて下さい」

 言葉を聞いて、早苗は身を翻す。
 やっぱり、と口が動いたのが見えた。
 そのまま、慌ただしい動きで扉を空け放つ。

 「手伝いは」

 「大丈夫です。それよりも事情を問い詰めて、序に見張りもお願いします。出来れば、今日一日中」

 「……りょーかい」

 訳が分からないが、どうもこの男が、密かに何かをした事は間違いないらしい。それも、早苗がヤバイと言う程の何かを。
 自分から騒動を起こすのか、結果として騒動が起きてしまうのかは知らない。
 だが、それをこの男は気にしていない。たちが悪いにもほどが有る。

 「気を付けて、行ってくると良い」

 慌ただしく駆けだして部屋を出て行った早苗を見送る生徒会長の態度は、変わらない。表情も、再び動き始めた書類を片付ける腕も。まるで大犯罪者だ。何か凄い事をしているに違いないのに、其れが見えない。している事を漏らさない。不気味さ以上に、底がしれない。

 もう一回、この男についての認識を改める必要があると自覚する。御名方さんは、平然と悪い事を行えるタイプなのかもしれない。だったら厄介だ。見えない何処かで、凄まじい被害を出している可能性も十分にある。
 だが、怯んでばかりはいられない。早苗の傍にいても役に立てないなら、自分の行える事を精一杯やるだけである。

 『事情を聞いて、放課後まで見張っていて欲しい』。

 まさか一日中、生徒会室に入り浸る訳にもいかない。だから後者は出来る範囲で行うとしても、せめて前者くらいは完遂しよう。
 そう思って、問い詰めようと顔を向けると。




 「良い機会だ、古出玲央」




 耳に、痺れるような音が響いた。
 以外にも、向こうから話題が振られた。
 タイミングを狂わされ、思わず二の足を踏む。

 「君とは一回、話をするべきだと思っていた。……東風谷早苗の邪魔が入らない時にね」

 机の上に肘を組み、顔の表情を拳で隠した生徒会長が、その時、まるで異形に見えた。
 くす、と弧を描く口に、ぞわあっと寒気と鳥肌が立つ。
 綺麗に掃除した筈の生徒会室が、瞬く間に別の空間に塗り替わったかのような錯覚。
 早苗がいないからだろう。入学して、四月の当初に少しだけ見せたその空気が、戻ってきていた。

 渡りに船というより、死地に踏み込む感覚。誘っている。間違いなく。物凄く悪いモノが見える。勘とか理性とか、そう言う物を越えて訴えて来る。
 御名方四音、この状況で、私を利用する気が満々だ。

 「……突然、なんです?」

 声を絞り出す。体は動く。寒気は凄いが、理性は残っている。何かあったら、直ぐに部屋を飛び出せる。
 獲物に向かい合う獣の如く、緊張感を張り詰めた私は相対した。

 「放課後。旧体育館まで来たいならば来ると良い。僕と東風谷の関係を、多少なりとも語ってやろう」

 「…………」

 横暴だが魅力的な提案。抗い難い言葉。釣られると分かっていても尚、踏み込ませるような一言。
 この男の雰囲気は――――年と行動、外見と内面の大きすぎる差だけでは、ないのだろう。

 御名方四音が本当に人間なのかどうか、私はこの日から真剣に悩むようになる。




     ●




 旧体育館とは、現在の体育館のすぐ隣に築かれている古い体育館だ。

 木造建築だった昔の校舎が取り壊された時、一緒に壊される事無く残り、今でも授業や部活で使用されている。少々古く、反響しやすく、軋みも多いが安全性には問題がない。

 放課後、私はその旧体育館に向かっていた。

 早苗は帰ってこない。昼休みに連絡が入っただけだ。何でも、まず須賀先輩の手に渡った物を調べて、出来れば回収をしたい……と話していた。『呪いのアイテム』は一般には流通しておらず、適切に処理される事が多いそうだが、個人の家の中に眠っている代物までは把握しきれず、往々にして被害を齎すそうである。悪影響が出ないうちに対処をしたいそうだ。

 『ところでレオ。そちらはどうです?』

 「それなんだけどね……」

 朝、あの後に言われた事を伝える。返答は保留にしておいた。

 『……大丈夫だと思いますが、注意だけはしてください』

 「うん」

 授業が有るので全部は見張れないが、午前中は特に感じ取れる異変は無かったそうだ。
 御名方四音の性格からすれば――――私を放課後に招くまでは、あまり行動しないのではと思う。朝の会話と挑発が、早苗と私を分断させる為という可能性だってあるからだ。

 『それじゃあ、終わったら連絡を下さい』

 「そっちも、気を付けて」

 かくして私は、覚悟と共に会談に臨むことを決めた。
 まさか闇討ちはないだろうし、偶発的な事故の心配も無い……と思う。警戒心さえ十分ならば、“私なら”大抵の事態は切り抜けられる。中学校時代の伝説に、嘘偽りはあんまりないからだ。

 ただ、それでも念を入れてはある。最近、割と付き合う事が多いクラスメイトの武居織戸さんと、同じ中学校から来た佐倉幕さんの二人に頼んで、体育館前で待機しておいて貰うよう頼んでおいた。特に佐倉さんは新聞部と言う事もあって、すんなりと了承してくれた。

 自分としては十分に手を打った上で、会いに来たと言える。あとは精神的に堅固にしておけば、早々呑み込まれはしないだろう。この二ヶ月、あの生徒会長と接触してきたのだから耐性も造られている。

 御名方四音は人の思考の隙を突くのが上手い。人並み外れた頭脳を持っていて、しかも感情に依っていないからだ。それを分かっていれば、不意をつかれる事もない。

 そう思って、分厚い扉を横に開いた途端。
 私のその予想と覚悟が簡単にひっくり返された事を知った。




 ――――音が、溢れ出ていた。




 旧体育館のステージの上には、グランドピアノが置いてある。蟹瓦というちょっと変わった音楽マニアの体育の先生が、定期的な調律をお願いしている為か……音も質も中々良い。普段は使用されないが、音楽会前の練習時などは弾かれている。

 そのピアノの前に、生徒会長が陣取っていた。
 陣取って、演奏していた。

 「……あ」

 間抜けな事に、完璧に警戒心をぶち壊された。確かに、御名方四音は、どこか俗世間離れした人間だ。そして天才でもある。それを、今迄とは全く別の意味で――嫌でも認識した。

 私は、音楽は全然分からない。扉を空けた時に流れ出た音を聞いて、待機していた武居さんと佐倉さん、二人が固まっていたが、それすら意識の外。演奏されている曲も難解なクラシックとしか分からない。

 けれども鍵盤に無表情に向かった彼の指が、音を奏でている一瞬で、覚った。




 御名方四音は――――常識では測れない。
 いや、測ってはいけない。




 例えば、音の一音。その一音が、美しい程にはっきりと部屋に響く。一音一音からなる連なりが、何処までも繋がって、完璧に形を描いて、旋律を生み出し、曲を形作る。

 死体のように不気味な指も、背中を覆う烏の濡れ羽色の髪も、死仮面のような美貌も、微動だにしない表情も、音楽家と語られて紹介されれば納得できてしまう。

 彼の産む音色は、恐らくは天才と呼ばれる者にしか生み出せない音だ。素人の私でも、明らかにはっきりと分かる。適当なプロやピアノ弾きとは隔絶した、超一流に成りえる才能の証。音楽で生きる者が、喉から手が出るほどに欲しがる、神から与えられた物。

 今まで生きてきたどんな音より、レベルが高い演奏だった。

 けれども。
 それなのに。

 「……ぐ、ッ」

 吐き気が、込み上げた。
 聞いていて、気持ちが悪い。
 口元を押さえて深呼吸をしても、治らない。

 いや音は凄い。腕から何から、世界的に見ても凄いのだが、何か嫌だ。
 私の持つ野生の感覚が、違うと心に告げていた。

 思わず目を瞑って――――それで分かった。御名方四音という人間が弾いている、その姿が消えたからこそ分かれた。技術も、音色も、全てが桁外れだ。
 しかし、見えない。
 弾いている御名方四音が、見えない。
 まるで完璧にプログラミングされたロボットに演奏されている様な曲だった。
 その中に感情だけが入っていない。まるで無味乾燥。味気ない蒸留水の様な、あるいは何所までも灰色なだけの絵の具の様な、機械よりも尚、何もない、演奏。

 音楽は人の心を表すと、何時だったか聞いた。私は納得する。納得せざるを、得なかった。

 ――――これが、彼の心情なのか。

 そこに“ただあるだけ”の不気味さに、私の意識が悲鳴を上げる。
 普通の人間なら凄いと褒め称えるが、何も変わらないという無機質さが、私には恐ろしかった。




 演奏は、それから十分間、続いた。
 体調が悪くなったのは、錯覚でも何でもなかった。




 「昔、親がまだ生きていた頃、音楽教室に通っていてね」

 仮面のような顔のまま、御名方さんは言った。

 「その時の教師が、猪去蝶子だった。僕が弾いた演奏を聞いて、その日の午後に彼女は会社に辞表を提出したそうだ。きっと自分の腕と、生徒の才能に絶望したのだろうさ。それから十年――つい先日、線路に飛び込んだというわけだ。自殺の後押しの一端には僕がいるといえるのかな?」

 目玉の代わりに硝子を嵌めこめば、こんな感じになるのだろうか。
 冷や汗をびっしりと浮かべた私は、息を整えるのに精一杯だ。

 「事象とは観測者によって容易に形を変える。正しさは時に間違いに成るかもしれない。不運が誤解を招き、誤解は悲劇を招くのかもしれない。偶然と必然の境は、何処にあるのか? ――――君の親友は、少なくとも僕が認める位には優秀で、理解している。一連の全てが、決して唯の事件の羅列ではありえない、とね」

 四月・武居大智。
 五月・猪去蝶子。

 まさか、とは思う。でもまさか――――この二つの事件に、繋がりが有るというのか。
 思考が纏まらない。おかしい。何でこんなに調子が狂う。

 「冷静に話が出来るような状態ではなさそうだから、一方的に聞くと良い。……僕は心が動かない。動かないから人の心を動かす気もない。音楽の技術が有っても、それで感動させる気はないし、相手を感動もさせられない。それは君が今、十分に実感した筈だ」

 壁に寄りかかり、座り込んだ格好の私を見下ろす御名方四音。
 眼には、ほんの小さな感情の一滴が浮かんでいる。
 煮詰められ、泥の如く固形化したような、深淵が覗いていた。

 「そんな僕は――――唯一、東風谷早苗への“殺意”だけがある。殺意のみが、自分で自覚できる感情になっていた。後の全ては、全て氷の如く凍りつき、貯め込むだけでしかない。……東風谷は僕の殺意を知っている。知っていて尚、僕を“何とかする”と言った。だから、少しだけ――――面白い、そう思った」

 怒りや憎しみではない。純粋で透明な光。普段と同じ態度、普段と同じ表情、普段と同じ生活を送りながら、恐ろしい事を普通に実行出来る。狂い過ぎて針が一周回ってしまったようだった。

 「これは僕と彼女の争いだ。君は邪魔だった。……だが、どうも君を消すのは難しいらしい」

 誰から聞いたのか、先輩は付け加えて、足音を立てず、幽霊か悪魔のように彼は室内から出て行く。
 外にギャラリーがいても、きっと無頓着に、眼力だけで人を掻き分けて生徒会室に戻るのだろう。

 去り際、小さく背中で、私に告げた。
 多分、初めて、本心からの狂った微かな笑顔を見せていたに違いない。




 「僕は彼女を殺す。誰が目の前に有ろうと、何を使おうとも、思われようともね。例え学校の誰が死のうが、無関係な人間が巻き込まれようが、知ったことじゃない。むしろ利用させて貰う。今迄通り、これからも、ただ目的を達する為に動くだけだ。……それが嫌なら――――好きにすると良い」




 それは、そう、とどのつまり。

 私への、宣戦布告だった。




     ●




 週末。
 長野県高校生体育大会の終了後。
 帰宅途中、疲労の余り自転車のハンドル操作を誤り――――須賀長船が、車に轢かれて死亡した。














 次回は、今迄の事件を、二人が整理する話です。伏線の回収もごそっと行う予定。オの感情や体調で、色々と不自然な部分が有ったと思いますが、全部「伏線」ですので、ご期待下さい。

 ではまた次回!

 (7月3日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第八話 水無月(風待月)
Name: 宿木◆442ac105 ID:21a4a538
Date: 2011/07/08 23:46




 「なんだ」

 『先日、御名方が動いた。どうやら本気で、東風谷と古出の二人を排除する考えらしい』

 「……そうか」

 『やれやれ、と言うか。やっと、と言うか。やはり、と言うべきか。……予想は出来ていた。あいつの事は、昔からよく知っている。生まれた時から、ずっとな。……蝕まれる前の姿も、狂気も、絶望も、そしてその後に到達してしまった絶対零度の心すらも、私は見ていた。毎度のことながら』

 「ああ」

 『私も随分と長生きをしている。そして長い時の中で、あいつが最後の機会になる』

 「それで、何が言いたい」

 『私は、何が有ろうとも絶対に、……四音の味方だ。建御名方神よ』

 「ああ、……それで良いさ」






 異人ミナカタと風祝 第八話 水無月(風待月)






 須賀長船さんが、亡くなった。

 六月の第二週末に行われた、長野県高校体育大会(要するに運動部の県大会)からの帰宅途中、疲労から運転していた自転車が転倒。車道に飛び出し、車に轢かれた。外傷こそ少なかったが、頭を強く打ちつけて意識不明の重体。直ちに救急車が呼ばれたが、搬送先の病院で三時間後、死亡が確認されたらしい。

 因みに、運転手の若い男は特に大きな怪我もなく、衝撃で軽い打撲を受けただけで済んだ。……が、何やら動きや車に不審な点が見られるという事で、現在は身元の確認を急いでいる状況である。

 中学校時代にお世話になった知り合いと、絵手紙さんからこっそり集めた情報によれば、そんな感じだった。

 「……それで、話って何?」

 その週末から一週間。六月も半ばを過ぎ去り、九州地方は早ければ来週にも梅雨明けとなる、そんな頃。
 私は早苗に呼び出されて東風谷家を訪れていた。

 「先輩の話?」

 「それも有りますが……少し、気になる事を確かめようと思いました」

 まあどうぞ、とクッションを進められる。座布団でないのは世代の差か。

 早苗の部屋にこうして入るのも、考えてみれば久しぶりだ。昔は良く遊びに来ていたのだが、中学・高校と、神社と学校に時間を割かれるにつれ、遊ぶ時間は減っている。それでも時間をやり繰りして交流は怠っていない。だが、どちらかの部屋でゆっくり話をするのは、久方ぶりだった。

 大社扱いされるだけあって、洩矢は結構、お金持ちだ。その一人娘である早苗の家も大きいし、部屋も広くて意外と金が懸かっている。和洋が折衷している、空調の利いた快適な部屋をぐるりと眺めた。

 「何か気に成りますか?」

 「ううん。昔とあんまり変わらない、と思って」

 机やベッドと言った大型家具は、小学校の頃から使っている物。本棚やラックの中身が変わり、鞄や服が大人びて、写真や思い出の品が増え、見えない場所に生理用品が隠されている位だ。
 自慢ではないが私なら、部屋を見れば、持ち主が早苗だと一発で分かる。

 「さて、積もる話は後にしましょう。レオ。……御名方さんは、四月・五月での事件が繋がっている。そう言った訳ですね?」

 「まあ、殆ど同じ意味だったとは思う。露骨すぎるけど、嘘を言っている雰囲気は無かったかな」

 回想して冷静に考えてみても、あの態度が嘘とは思えない。

 全く今思えば不思議なくらい、自分の体調が崩れて取り乱してしまった。いの一番に体育館に現れた水鳥先生が素早く対処をしてくれなかったら、実に情けない姿を全校に晒す羽目に成っていただろう。

 何せ佐倉さんが体育館前に陣取って情報を流した為に、校内で暇だった人間が野次馬の如く演奏を見に来ていたからだ。まあ、気持ちは分かる。人を寄せ付けない御名方四音の意外な才能を、皆、驚愕を持って迎えたのだ。

 「……そうですか」

 きらり、と瞳が光る。神職である早苗が、人離れした雰囲気を醸す前兆だった。最後に見たのは、中学校の時か。今はそんなに本気でも無いようだが、かなり“巫女として”真剣に成っている事は事実。
 ぶっちゃけ、早苗も十分、恐れられるくらい腹黒い。

 「……何か分かった?」

 「分かった、と言いますか、……気になる事はあります」

 「ホント?」

 「はい。両方の事件に、其れなりに関わっているからこそ、思い付いた仮説ですが……先日の一件で、ますます度合いが強まりました」

 そう言えば。武居大智さんの事件とも、猪去蝶子さんの事件とも、私達二人は辛うじて両方に関係している立場にある。学校の面々は猪去さんのニュースは気にも留めないし、逆に彼女の関係者で転落死した高校生の事を知っている者もいない。
 だから、気が付けたと早苗は言った。

 「何?」

 「レオ。……貴方も、思い付ける立場にいる筈です」

 分かりませんか? と可愛らしく首を傾けられて訊かれてしまった。そんな態度を取られれば、考えるしかない。頭脳労働は苦手なのだが。

 「……えっとお」

 私でも、気が付けるという事は……神社関係と言う事か?

 私は、武居先輩にも猪去さんにも、出会ってしかいない。接触と言う程の接触はないし、会話だって二分から五分だ。彼らの性格とか、仕事とか、巫女として見るべき立場にヒントが有るならば、私には分かり様がない。早苗とは違う。
 無論、己が巫女として未熟な事は承知の上だ。それでも早苗は気が付けると言った。という事は、知識から繋げる事が出来るという事か。私の神社に関する知識……甚だしく不安だった。
 うんうん、と唸りながら考える私に、早苗は、それじゃあ、とヒントを出す。

 「レオ。……名前に注目してください」

 「?」

 三人の名前に注目する。

 四月・武居大智。
 五月・猪去蝶子。
 六月・須賀長船。

 ……共通点が、有るのか?
 正直に言おう。さっぱり分からない。

 感想なら言える。誰も少しだけ変わった名前だ。……別にそれだけだ。五十歩百歩。そもそも古出玲央、という名前も結構に珍しい部類に入る。それがどうしたという感じだ。まさかこんな理由では有るまい。

 季節と名前の関係性はなさそうだし、名前に縛りが有る訳でも無し(共通の字が見えるとか)。そもそも普通に気が付けるレベルなら、警察官も分かるかもしれない。画数や、イニシャルや、音も違う。

 「それですよ、レオ」

 「え? 何? どれ?」

 「音、です。……漢字で書くから、意味が分からなくなるんです」

 「……はあ?」

 頭の回転が遅い己の頭が、こういう時は恨めしい。
 論理は苦手なのだ。筋道立てて考えるより、感覚的に答えに突き進むタイプだ。私は。

 「武居大智、猪去蝶子、須賀長船。……ええっと。漢字だと字面に引っ張られるの?」

 「はい。ですから漢字を止めて、その上で苗字だけにしてみてください」

 武居大智、猪去蝶子、須賀長船。
 たけいおおとも。いさりちょうこ。すがおさふね。
 タケイ。イサリ。スガ。

 分からん。これが、何の意味を持つのだろう。
 尻取りではないし、時数も違う。平仮名でも片仮名でも法則性は見つからない。特別な繋がりも……。

 …………ん?
 ……………………ん、ん?

 「……あれ」

 一瞬。
 頭に、何かが過った。

 「ちょっと、……あれ?」

 なんだっけ。これ、何処かで聞いた事のある“響き”だ。

 改めて、三人の名字のみをリフレインさせる。
 タケイ、イサリ、スガ。

 順番こそ違うかもしれないが、この名前の響きを、私は過去に聞いている、気がする。
 いや、気のせいではない。だが思い出せない。その名前の羅列に聞き覚えが有る事だけが分かる。
 聞いた事が有る。それは覚えているが、それが何時、何処で、何のために、どんな状況で、と殆どが記憶の底だ。それも泥沼の底である。5W1Hの全てが見えない。
 必死に頭を絞る。確か、何かの話か何かで……その中で……話し手も、身近な誰かで。

 ああ、もどかしいな!

 心の中で悪態を吐く私が面白いのか、早苗はくすりと笑った。

 「レオ。……天竜川の口伝、覚えていませんか?」

 「天竜川?」

 天竜川。長野県の四つの大河の中で、諏訪地方に流れ、諏訪湖から静岡まで流れて行く河川。
 勿論、諏訪との関係も深く、例えば沿岸には諏訪大社とも関係の深い――――。

 「天竜川、の……て、ああっ!」

 連鎖的に、思い出した。
 思わず、大声を上げてしまった。

 天竜川の口承。伝承として伝わる話!
 分かった。そうか、成るほど!
 確かに、両方の事件に精通して、しかも洩矢の知識がないと、とてもではないが思いつきはしない!

 膝を叩いて身を乗り出した私を見て、早苗は頷く。正解だったらしい。そのまま静かに立ち上がって、机の上のノートを持ってきた。

 「日文お爺様の資料を、尾形家から借りてきました。……上手に纏まっているので、これを使わせて頂きましょう。一部要約です」

 ペラリと付箋を付けた場所を開き、引用する。
 その内容は、まさに盲点。目から鱗が落ちる物だった。






 『稲作以前の諏訪には、洩矢の長者の他にも多くの人々が住んでいた。名を以下の通り。
 蟹河原(かにがわら)の長者、佐久良(さくら)の長者、須賀の長者、五十集(いさり)の長者、武居の長者、武居会美酒(えみし)、武居大友主(おおともぬし)、など。
 人々は洩矢神を祭り上げ、豊かな日々を享受していたと言う。
 しかしある時、出雲から神の一団がやって来た。それこそが建御名方神だった。
 洩矢神を筆頭とする人々は、天竜川の畔で御名方の軍勢に対抗した。しかし、御名方神の武器「藤の蔓」の前に、洩矢神の「鉄の輪」は脆くも崩れ去ってしまい、国を追われることとなった。
 この戦場は、今では天竜川沿岸の名所になっており、洩矢神陣営の跡地は「洩矢大明神」として、御名方神陣営と跡地は「藤島明神」として祀られている』






 洩矢を倒した御名方。
 同時に倒された、洩矢の周囲に居た人々――――武居、猪去(イサリ)、須賀。

 符合している。何で今迄気が付かなかった、と自分に言いたい位に。
 寒気が奔った。鳥肌だ。ここまで頭を殴られたかのようなショックを受けたのは、何時以来だ。

 「確証が有る訳ではありません。しかし、一連が繋がっていると聞いた時、私はこれを連想しました」

 いや、東京で起きた飛び込みや、学校から転落死した不真面目な学生や、交通事故の高校生。それらを一緒に結びつけるなど普通は出来ない。繋がっているとすれば、と仮定して初めて共通点を探しだせるレベルだ。

 正直、御名方さんの発言が無かったら、私だって思い浮かばない。疑問を持っただけでも早苗は凄いよ。

 例えば、「猪去」という名前は、全国的に見ても相当に珍しい部類に入るのではなかろうか。盛岡の地主には多いらしいが、中部地方長野県ではまずお目にかからない。そもそも、イサリの響きを聞いただけなら、敢えて連想するならば「漁火(いさりび)」を思い浮かぶのが常識だ。

 「五十集をイサリと読む、この事を知っている人間は少なくありません。しかし、猪去蝶子さんと繋げると言う発想が出来る人間は、神社でも数人。私と祖母と、朱鷺さん……貴方のお祖母さんくらいです。そして、更に言うのであれば――お婆様達お二人は、学校での話には疎かった。だから、猪去という名前に反応しても、武居と須賀、二つの情報には遠かった」

 そう言えば、祖母も新聞で名前を目にした時、何かを連想していた様子だった。もしかしたらあの時、祖母の頭の中では、何か刺激する物が有ったのかもしれない。
 しかし、世俗にはあまり興味を持たない祖母達だ。最近のニュースでは、学生の名前は出されない傾向が強い。私達から直接に情報を得ない限り、祖母達も学生二人の名前には出会えない。

 「あれ、でも」

 ふと、疑問を覚えた。

 「死んだ三人が、洩矢に関係あった訳じゃないよね?」

 伝承が何万年前の物かは知らないが、子孫とは考えにくい。確かにまあ、発音が似通っている以上、何処かで繋がっている可能性も無くはない。ないが、それが動機に成るとは少し考え難い。
 私の意見に、早苗は頷かなかった。

 「それは、分かりません。分からないとしか言いようがないです。子孫なのかもしれないし、偶然かもしれない。……ですが、その辺は後で話しましょう。それより伝承に戻りますが、――――もしも四月から六月までの事件の共通点とするなら、きっと今後も同じ可能性が有る、と言う事です」

 「……今後」

 「非常に都合の良い……いいえ、この場合は都合が悪い、ですが」

 ノートを開いて、小さなテーブルの上に置いた早苗は、名前の部分に指を当てる。

 「私達の身近に、サクラさんも、カニガワラさんも、います」

 ――――! そうだった!

 三人の名前から伝承を連想したのは良い物の、そこから先を考える事をすっかり忘れていた。

 サクラ、と言えば佐倉幕。同じ中学校から上がって来た同級生の新聞部。
 カニガワラ、と言えば蟹瓦浩輔。生活指導をしている、音楽好きの体育教師。

 お誂え向きにも、同じ響きの人間がいる。
 しかも、さっきの三人よりも随分と身近な場所に。

 「……この状況、出来すぎかな」

 「気味が悪いくらいに符号している事は、間違いありませんけど」

 そう言って、早苗は少し考える顔に成った。
 単純な私にしてみれば、此処まで色々と言われてしまうと、もう事件の全貌が見えた気になってしまうのだが、違うのか?

 「さっきも言いましたが、現段階では推測の域を出ません。私は可能性が高い、と思っていますが確証が有るとは言えませんし……そもそも証拠を先輩が残しておくはずもありません。発言、態度、家系等を考えると、こんなルールに基づいているんじゃないか、と」

 そう言えば、御名方家という立場にも謎が多いのだ。五官の中で妙に疎外されているし、色々と隠されている側面が多い。訊ねられないが。
 予想しているだけ。つまり飽く迄も確定事項とは言えない、との言葉に納得しながら、私は気になった部分を訊ねる。

 「ルール、って言うと?」

 はい、と私の疑問に、早苗は頷いて。

 「レオも把握していると思いますが、先輩は良くも悪くも公私混同はしませんし、どこか礼儀正しいんです。最も丁寧というよりも、余計な諍いを起こさない為に、慇懃無礼になっているとも言えますが。……言い換えると、卑劣じゃないんですよ。悪では有るけど外道ではない。人間として失格でも、生物的には随分、真っ当です。……頭脳限定で見ればかなり優秀ですしね。冷静で、残酷で、敵だと恐ろしい人ですが、愚昧とは対極にいる人です」

 四月から六月までの事件を、御名方さんが背後で仕組んでいたなら十分に外道だと思うが。
 だが、まあ……確かに、無関係な人間には外道に見えても、私や早苗に一定の規範を持っている、というのはなんとなく理解出来る。きっちり宣戦布告をしてくれたし。
 必要な事は何でも実行するが、必要でないならば決して余計な真似をしない。それが彼のあり方だろう。
 だから、と彼女は続けた。

 「そこには必ず、本人の特性が見えます。……と言うかですね。最初に出会ってから今迄で三ヶ月です。先輩の頭脳なら、その間、私を幾らでも謀殺出来ました。其れをしなかった。何故か? 何か、一定のルール、制限、もしくは決まりごとが有るからです」

 「……何で?」

 ゲーム感覚ではないだろう。そんな性格の人なら、私達はこれほど警戒をしない。
 もっと別の理由。何か、そうせざるを得ない理由が有る、と見ても良いのだろうか?

 「分かりません。ですが、『ルールの一つが口承だ』と思えます。先輩の名字は御名方。私の家は洩矢です。先輩が私を殺す、という事象を、御名方神が洩矢神に勝利したという争いに準(なぞら)えるとするならば、――――私(洩矢)の周囲にいる人々を始末した上で、危害を加える。そう考えれば、無理が有りません」

 「……なるほど」

 早苗の頭脳は、やっぱり根本的に私とは違うようだ。まるで探偵。中学校時代を少し思い出す。
 と言うか、それだけ分かっているなら、御名方四音に何か言ったらどうだ?
 私の突っ込みに、早苗は首を横に振る。

 「いえ。先輩の事ですから、気が付かれようが気が付かれまいが、気にせずに実行するでしょう。この場合、重要なのは対象ではなく法則なんですよ。私に到達するまでに一定の行動をする。条件に当てはまってさえいれば、個人が誰でも関係はないのではないか、と思っています」

 「……面倒な」

 つまり、最低でも三人以上の犠牲者(サクラ、カニガワラ、エミシ)を出そうと画策しているのではないか。だから早苗に限定すれば、最低三ヶ月の余裕はあるだろう、と言う事だ。
 しかし自分の命を狙っている人間がいると言うのに随分と胆力が有る。精神的にタフな事は十分に知っていたが、それにしても強い。御名方四音の殺意に対抗できるだけの理由を、持っているのかもしれない。

 「じゃあ、……これからは?」

 「簡単です。先輩の計画を挫く。それが第一の目的です。先輩の事ですから、多分、本気で心から負けを認めれば、それで行動は止めるでしょう。取りあえず七月までまだ十日以上あります。決して長くはありませんが、何か取れる行動は有る筈です」

 そうしなければ、無駄な犠牲を出す羽目になる。だから、取りあえずは御名方さんの狙っている対象に注意を払い、妨害工作をしながら過ごす、と。目下の対象は、佐倉さんと蟹瓦先生か。

 「この二ヶ月。先輩の大体の性格、行動パターンは、把握したと思っています。私達と先輩の読み合いになるでしょう。先輩は、どうやって私達まで到達するか。私達は、どうやって負けを認めさせるか。其れを考える必要が有ります」

 うん、と頷いた私に、早苗は言った。

 「だから、その為に――――ここ三つの事件を、考えてみましょう」




     ●




 「やあ、今日も今日とて辛気臭いな」

 「……先生。何か御用ですか?」

 「聞いたぞ、四音。二人に喧嘩を吹っ掛けたそうだな」

 「……。止めますか?」

 「いや、止めないさ。むしろ、良くやったと言いたい」

 「…………」

 「そう疑わしそうな眼をするな。安心しろ。確かに私は目的も、お前にも言えない秘密を抱えている。其れは認めよう。……だが、お前の味方でありたいし、負担に成るつもりもない」

 「……理由を訊いても?」

 「理由。理由か、そうだな。……言葉にするのは難しいが――――想いの可能性を、私は見てみたい。人の思いは、意志は、感情は、どこまで強いのか。私には理解出来ないからな」

 「……先生。貴方は」

 「四音。私が人だろうと人じゃなかろうと、結局は余り変わらんさ。昔っから世界も人も、歩んでは間違え、苦しんでは先に進む。裏切り信じ、愛して憎んで、生きて死ぬ。その繰り返しだ。まあ、それを出来なくなった天才も知っているがね」

 「……そう、ですか」

 「どうした? 何か言いたくなったか?」

 「いえ。……では、ご自由にどうぞ。僕も、好きにします」

 「そうか。そうする」

 「……もう一つ。何故、前掛けを?」

 「エプロンと言え。……少しばかり私なりに、お前の応援方法を考えた。――――夕食をご馳走してあげよう。美人の女教師の手料理だ」




     ●




 「前から気に成っていた事が有ります」

 「それは?」

 「四月の、屋上からの転落死。……警察は事故と判断した。御名方さんは、事故は事故でも偶然が招いた不幸な事故だと判断した。確かに、現場を見ればそうとしか思えません。科学的に不自然な点は、無かった。……ただ、です」

 早苗は、少し慎重な言葉使いで語る。




 「武居大智さんが落下した場所って――――生徒会室の真上なんです」




 えっと、ちょっと待て。私は学校の間取りを思い出す。
 生徒会室は三階にあった。直ぐ上は屋上だった。

 「思い出して下さい。私達があの日、昇降口から真っ直ぐ校門に歩いている時の事を。帰り際に背後を見上げると、三階の窓越しに、生徒会室の先輩を見ました。そして、互いの存在を確認して、再度歩き始めた時に――――上から武居さんが降って来た。そして、私達のすぐ後ろに落下しました」

 ……そうだ。それで、窓を叩き開けた水鳥先生が、救急車を! と叫んでいた。あの時、飛び散った血液が私達の背中にも付着した。ぬるりとした生温かさは記憶に残っている。
 今迄は気に留めていなかったが、確かに、非常に近い位置関係だ。

 「つまり……御名方さんが、屋上の床越しに、何かをした?」

 「はい」

 早苗の目は冗談を言っている様子はない。

 その早苗の言葉に、心で頷いている私が居た。
 確かに。冷静に考えてみれば、不幸な偶然よりも事件を起こしやすいとは思う。突風、床の罅割れ、気の緩み、繁殖期の烏、煙草を携えた不注意な青年。それらが重なって転落事故が発生する確率と、人が何らかの方法で突き落とす確率。統計を取れば、きっと後者の方が圧倒的に起し易い。だが。

 「……あのさ、早苗」

 「はい」

 「――――ぶっちゃけ、警察でも事故や自殺、って判断したわけでしょ? となると御名方さんが武居さんを殺す、あるいは殺す細工をするってのは難しいんじゃないかな」

 「ええ。それは承知の上です」

 日本の警察は超優秀だ。異常に安全な国と海外で有名なのも間違いではない。若い学生が、真夜中に外を出歩いてコンビニまで往復できる。これが普通なのだから、何だかんだ言いつつ日本は凄いのだ。

 御名方四音が天才である事は認める。そして、稀代の悪党にも成りえるだろう事も分かる。だが、それでも実際に殺人をしたとして(まだ確定ではない。繰り返すが)、その痕跡の一切を残さず、警察の追及を逃れる事は可能なのだろうか?

 正直、不可能だと思っている。事件は、起こしやすいが、事故と違って痕跡が残るのだ。

 「いえ、出来ます」

 真剣な顔で、真面目に早苗は言った。




 「要するに、相手に干渉して、自発的に飛び降りさせれば良いんです」




 さらっと鬼畜な発言だった。
 それが出来れば、この世界に殺人も死刑制度も出ないよ、早苗。
 私の無言の目線に、まあまあ、と手で制する。

 「想像してみれば納得しやすいですけども……先輩が、本気で殺意や憎悪を自分の周囲に広げると、多分、隣の部屋でも反応できます。そのくらい、あの人は危ない。理屈は不明でも、本能的にヤバイと悟るでしょう。だから、一般の生徒は滅多に彼と接触しようとしない」

 「……うん」

 それでも付き合う人間は、気にならないほど近しいか、理由が有るか物好きか、だ。水鳥先生は前者。私と早苗は後者。興味本位で接触した人間に、巡り巡って罰が当たるとは学校内で公然の秘密となっている。不吉と称されるのは伊達ではない。
 だったら、と彼女は言った。

 「先輩ならば、武居さんの行動くらい読めます。壁一枚で大丈夫なら、屋上と三階の間も壁一枚。ならば、十分に影響を与えられる。さっきも話しましたが、窓は近いし武居さんは屋上の縁にいました。二人の距離は5メートルもなかったでしょう。少し気分を悪くさせて、少し心に闇を覗かせ、少し衝動を後押しすれば、――――それで勝手に飛び降りてしまう」

 「……そう上手に行く?」

 ちょっと都合が良すぎやしないか。そんな状態、普通は慌てて落ちないように下がるのではないか?
 私の疑問に、いいえ、と早苗は見方を変える答えを告げた。

 「別に失敗しても良いんですよ。一ヶ月の内、毎日同じ行動をして、たった一回だけでも成功すれば良いんです。四月に失敗すれば次の月に回しても良い。期限は有りませんし」

 「あ、――――なるほど」

 合点した。先程、早苗も言っていたではないか。
 誰が、何時かは、恐らく余り重要ではない。決められた法則に従って、実行する事こそが重要なのだと。
 だとすれば、順番が入れ替わっても支障は無いのか。

 「……あ、じゃあ。他の月は?」

 四月は、成るほど。それで有る程度は頷ける。偶然なんかよりよっぽど信憑性が高い。
 だが、他の月はどうする。須賀先輩は道路。五月の猪去さんに至っては新宿駅だ。新幹線を利用したって二時間以上かかる距離にある女性に、どうやって……?

 「猪去さんが五月に亡くなったのは偶然だと思います。結果として亡くなった過程に、先輩が関わってはいたとは思いますが」

 どう言う意味だ。もう少し、私に理解出来るように話してくれ。

 「時期は偶然。でも、死は後押しされた結果、と言う意味です。幼少の頃。接触していた時から、少しずつ御名方さんの闇が猪去さんを蝕んでいた。それが偶然、故郷に戻って来た時に大きくなって――――直ぐ後に、彼女は線路に飛び込んだ」

 御名方四音は昔から危険と思われていた。好むと好まざると不幸を撒き散らしていた。
 ならば、もしも昔から、彼の頭脳が発揮されていたなら、当時から種を捲いていた可能性はある。

 彼女の存在が、都合が良かった。だから利用した。
 今頃に成って、その時限爆弾を発動させたと言う事か?

 「五月は、まだ分からない事が多いんです。先輩が直接、四月と繋がっていると宣言した以上、何かをした事は間違いないですが」

 私生活が謎に包まれている生徒会長の事だ。
 私達が知らない時に彼女に接触し、悪影響を与えて自殺に追い込んだ。そんな可能性もある。普通に想像できてしまう。被害妄想と言われても仕方がないレベルで、本気で。

 あの男に付いて語る時、何よりも重要な事。それは、御名方四音は、其れが出来るし、実行するし、洒落でも比喩でもなく、他者への悪影響が半端無いと言う事なのだ。
 しかも、自発的に動く癖に、他を懸念しないから性質が悪い。疑われても文句を言えない行動をとっている癖に、周囲からの誤解を解こうとしないから、連鎖的に評価が下がって行く。結果、真実かどうかは別として、彼への疑念は決して消えない。

 「六月の、須賀先輩への関与は簡単です。レオ、貴方も知ってるはずですよね、『お守り』」

 「うん。早苗がヤバイって言ってたアレね」

 そう言えば、早苗が何とか回収に成功したのだった。

 先週末の体育大会。会場に指定された運動公園は、施設が複数集まっていた。県大会の応援と言う事で、私達も友人の試合の見物に行って来たが、陸上部・須賀先輩の競技会場も近かった。
 御名方さんは虚弱で応援に行けない。そこで早苗が、生徒会長代理として各地を回っていた。学園の華の早苗だ。頑張ってと笑いかければ皆、奮闘する。立場を上手に利用して、須賀さんへの『お守り』を回収したと語ってくれた。

 「……結局、回収した所で手遅れだったと言う事なのでしょうか。須賀長船さんは交通事故で死亡。運転手さんも……どうやら後ろ暗いことをしていたらしく、芋蔓式に悪事がばれて拘置所だそうです」

 「それは。……ご愁傷様、かな」

 運転手に心ばかりの同情を差し上げよう。悪事をしたツケが回って来たのかもしれない。
 ところで、その回収したお守りは、今?

 「ありますよ。しっかりと保管してあります。――――まだ調査中ですが、どうやら元々、かなり質の良い品物だったようです。御名方さんのお父様が手に入れた物かもしれません」

 「そうなの?」

 直接、その品を目にした事はない。

 「ええ。時代を経て、異なる理を蓄えた『呪いのお守り』が、表現的に近いと思います。――――別に重々しい昔の教会使用の護符(タリスマン)ではありませんよ。アクセサリーにも見間違える品物で、巾着袋やお守りの袋にでも入れておけば、普通の小物です」

 ……呪い。呪いか。オカルトではポピュラーな題材だが、まだ存在を認めやすいか。
 昔、小学校の頃の夏休みの自由研究で、早苗との共同で呪いの勉強をした事が有った。小学生が理解できる範疇で有ったが、内容は大体だが覚えている。ファラオの呪いとか、呪いのダイヤとか、丑の刻参りとか。昔懐かしい都市伝説が中心だったが、クラスメイトにも先生にも好評だった。
 その類なら、まだ現実に近い。
 説明すると長くなるが、まだ人間に影響を与える根拠が、少しは説明出来るし。

 「その『呪いのアイテム』を、御名方さんが見つけて、送り付けたってこと?」

 「発見したのと利用したのが、同時期とは限りませんけどね。……ただ、須賀さんと先輩は話をしていました。今となっては内容が不明ですが、あの時から先輩の仕込みが有ったと考えて良いでしょう」

 「……そう」

 御名方さんから渡された『お守り』が、何処から来ているのかも調べたいそうだが、そちらは突き止めるのは難しいだろう。下手をすれば輸入物だ。これ以上の被害を出さないだけでも良しとするしかない。

 しかし、こうして整理をしてみると、御名方さんの暗躍具合が凄い。
 種明かしとして聞けば、そう難しくない内容だ。けれども早苗の様な、ある種の超常的な側面を持つ人間でなければ決して掴めない方法を取っている。

 「……御名方さん。やっぱり、人の範疇には括れない、か」

 「レオ。……どの時代、どの世代、どの土地にも、迎合出来ない異端者はいます。異端者とまでは行かずとも、人の範疇に入りきれない者も数多く。先輩もそうです。そのあり方が、違っているだけで」

 「早苗。まさか、自分がそうだって言いたい?」

 私の問いかけを。
 早苗は、敢えて無視をした。

 「……ささやかな異能、ってのは結構多い物です。尾形紗江ちゃんの『予知夢』も、絵手紙さんも、私の巫女パワーも、超能力って言ってしまえば超能力です。でも騒ぐほどの物ではありません。人間の常識では測れない物の名残として、今の世の中では殆ど役に立たないけれど、でも歴史の中に確かに存在していた、その証拠だと思っています。先輩もね。……レオ、貴方には分かっている筈です」

 「……うん」

 求めた答えとは微妙に食い違っていた。だが。

 『それ以上は彼を謗らないで欲しい』。

 彼女の目は、そう言っているように見えた。悲しい目、何かを苦悩する眼だ。

 私は、そう言うものかと自分を納得させる。早苗、紗江ちゃん、八島の絵手紙さん、と良く知る事例を出されれば、御名方さんも似た力が有る、と言われて納得するしかないのだから。
 複雑な内心を覚え、互いに気を使いながら、早苗は説明する。

 「『洩矢五官』は仕事が分かれていますが……その過程で、仕事に近い特性が発揮されるのも必然ですよね。縁の下の雑務処理が多かった『尾形家』の場合は、観察や情報処理に近い力になります」

 一番偉い東風谷家は、祀る神の力。他の四家は、神に仕える力とも言える。
 関係無い話になるが、尾形家の究極系とも言える異能『解を得る程度の能力』を、未来に縁という青年が発現する事を、彼女達が知る由もない。

 「御名方さんの場合は?」

 「御名方家は、他の四家から疎まれてきました。その影響が先輩に出た。あるいは、先輩自身が迫害される性質に成ってしまった、のだと思います。……先輩の周囲では不幸が起きるとか、災厄が訪れるとか、気分が悪くなるとか、まさにその影響じゃないですか?」

 言われてみれば、確かに。
 頷ける場面が、この三ヶ月で随分ある。

 「あの奇怪さは、異能の発露、ってこと、か」

 というか、その理屈は根拠もなく頷けた。あの人を選ぶ雰囲気“そのもの”が、御名方さんの持つ力と密接に関わっている。だから周囲に過剰なまでの影響を与えてしまう。
 過負荷、と表現を某漫画から借りて使わせて貰ったが、中身も力もそのまんまじゃないか。

 「勿論、先輩本人の資質もあると思いますけど。……気味悪さ、不気味さの理由の一つである事は間違いないと思います。先輩の行動を探る一方で、なんで性質を発現させたのかも、調べる必要が有りますね」

 「あ、そう言えば私が妙に影響を受ける理由は?」

 「それは……」

 あー、えーと。と言葉を濁した。
 何の気なしに。思いつき、期待半分で訊ねてみたのだが、どうやら答えを持っているらしい。
 言い淀むと言う事は、私に余り良い話ではなさそうだ。

 「早苗。大丈夫。……今は私より、御名方さんの事を知る様が大事だよ」

 じっと眼を見る。カラーコンタクトで誤魔化された瞳は、明らかに迷っている。だが、早苗が答えを知っているなら知っておきたい。この先、前みたいな事はなるべく避けたいのだ。
 私が繰り返し頷くと、渋々とではあるが口を開いた。

 「……こう言っては悪いと思いますが、レオは――――耐性がないんです」

 「……つまり?」

 「その。……レオは、『洩矢五官』として、普通の人より先輩に近い場所にいます。先輩が狙う私とも近い位置にいます。だから、先輩の異能の影響を受けやすい。――でも、レオは……ほら、私達と違って、その……普通ですから」

 …………。
 …………なる、ほど。

 「……ああ。うん」

 そうか。だからか。そりゃあ、早苗だって口ごもる訳だ。

 早苗が天才で、私には才能がない。これは前にも話したと思う。
 でも実は、巫女としての才能は――――早苗だけではない。実は他の親族の女性陣よりも劣っている。まだ修業中だから目立っていないだけで、祖母や母、親族に比較して、明らかに習熟度合いが遅いのだ。私一人だけ、スキルの成長率が異常に低い。
 実は本家では、紗江ちゃんに追い抜かされる懸念までされている。

 「先輩の異能は、同じ様に異能を――――《幻想》を多少なりとも“識って”いる人間なら、薄まります。私もそうですし、多分、水鳥先生もそうでしょう。怖くても対策が打てる。先輩が危ないと分かっていても、耐性が付くんです。……その、レオは私に近くて影響を受けやすいのに……」

 「耐性が無い、と」

 はっきりと言った私に、早苗は肩を落として、御免なさいと謝った。

 識っている。つまり御名方四音を理解すると、多少は影響が弱まって行く。だから四月に初めて出会って以後、徐々に彼の存在に慣れてきた。
 しかし、其れは御名方四音に慣れただけであって、彼の異能への耐性が付いた訳ではない。むしろ私と御名方四音との距離が近くなった分、今まで以上に、より強く影響が出てしまう。
 そう言う事なのだろう。

 そう言えば、GW中に御名方さんの家を訪れたが、その時の紗江ちゃんの怯え様は尋常では無かった。幾ら予知夢が見れても、彼女はまだ子供。きっと私が最初に出会った四月当初並みのインパクトを受け取っていたのかもしれない。

 「良いよ、別に。私が話して欲しいって言ったんだし」

 そう言って慰めつつ、私は言う。

 「早苗は、私をちゃんと見てくれてるしね」

 少しだけ、思い出す。






 『落ち零れ』。
 『巫女の仕事に向いていない』。

 昔から、そう言われていた真の理由が、早苗の先の発言だった。

 幼かった昔は随分、鬱屈していた物だ。

 巫女として優秀と評された人間は、両親を含め、須らく特殊な人材ばかりだった。神社を巡る大きな理由があって、早苗が見ているらしい世界があって、でも私は、そこに入り込めない才能の無い落第者だった。

 そんな私が救われたのは、早苗のお陰だ。だから私は彼女と親友に成った。苦しくても劣っていても、努力で彼女の隣にいようと決めた。

 収まらない感情も多い。今一、神社の仕事に乗りきれないのも、心の迷いが理由だ。

 自分に存在しない、御名方さんのような排斥された者。早苗の言葉を借りるなら――――《幻想》の世界に向き合うには、まだまだ時間が必要だろう。

 ……でも、良い機会なのかもしれない。

 私、古出玲央という存在が、この洩矢に付いて本気で考える為には。






 「……有難う。レオ」

 顔を上げた早苗は、口元で小さく微笑む。
 しんみりした空気を払うように、敢えて深呼吸をした早苗は、今度はしっかりとした目で私を見た。

 「レオ。貴方には口を滑らせてしまいましたが、先輩は結構、神社からも注目されています。此処だけの話、四月に接触したのは上からの命令でした。自由に動ける立場では、ありません」

 それは知っていた。
 洩矢神社の最高位・神長官『東風谷』家。私の祖母へならば兎も角、私には言えない事は多い。
 それを早苗が苦悩している事も、私は知っていた。ずっと昔から。
 構うものか。ならば私が早苗を信じるだけだ。

 「……時間は限られています。でも私は、その間に先輩を何とかしたい。心が凍りついているなら溶かしたいし、負の感情が有るなら取り除きたい。洩矢の巫女としても……実を言えば、私個人としても」

 それは、どんな意味だ。

 ……まさか、そう言う意味なのか?

 一体、どんな経緯が有って、何が切欠で、早苗の心に旗が立ったのだ?

 「古出玲央。手を貸して、くれますか?」

 疑問は尽きない。だが、早苗はその時、久しぶりに私の名前をレオではなく、玲央、と呼んだ。
 明るくて優しくて、でも神々しくも思える、まさに東風谷早苗の姿だった。

 「……分かった。私に出来る事なら何でも協力するよ」

 あの殺意。あの態度。アレを見てしまった以上、御名方四音が早苗に危害を加えるのは、ほぼ確定事項だ。裏工作では勝ち目がなくとも、直接の喧嘩なら負けるつもりはない。八坂二中の裏支配者。黒歴史を紐解くのも、友人の為ならやむなしだ。
 避けては通れない道。なら、自分から覚悟を決めて歩んでやろう。

 「有難うございます、レオ」

 本当に心から笑う早苗の笑顔を見て。
 私は、本当に彼女の親友で良かったと思った。




     ●




 「四音。お前、これから如何するんだ?」

 「……別に。今迄通りの事を、今迄通りに行うだけです。――――ごちそうさまでした」

 「お粗末さまでした。お口に合ったようでなによりだ。……そうか。次は、誰だ?」

 「さて、誰でしょうか。――――個人的には、佐倉さん辺りに注目しています」

 「佐倉、ね。……ああ、洗い物はしよう。心配するな。――――どっちの佐倉だ? 確か姉妹だっただろう」

 「姉。――――先代の、生徒会長です」

 「そうか。……あ、四音。薬、飲むのを忘れるなよ」

 「分かっています」






 神湖の畔で、舞台は回る。
 季節は、夏へと移り変わって行く。
















 今迄張って来た多量の伏線回収の回でした。まあ、火種や他の伏線もありますが、これで起承転結の起は終わり。全体の四分の一は終わりです。
 次回以降は、承の物語。主として御名方四音の物語になります。序章で伏線を張った、先代の生徒会や親世代の話も関わるでしょう。

 感想および読んで言いたくなった色々が有れば、一言でも頂けると嬉しいです。

 ではまた次回!

 (7月8日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第九話 文月
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/07/15 23:08
 県立諏訪清澄高等学校。

 諏訪湖畔に築かれた、そこそこ古い公立高校で、諏訪地方ではかなりレベルの高い部類に入る。県下一位と二位、長野市と松本市の名門二校には及ばないが、それでもまあ、近隣では有名な学校だ。周辺の勉強が良い程度に出来る子供なら、大体はこの高校に来る。

 自主性を重んじる清澄の校風において、生徒の活動に大きな壁となるのが生徒会だ。
 部活でも課外活動でも、生徒が自主的な何かをするならば、必ず生徒会を経由する必要が有る。勿論、教職員が手配をする事も可能なのだが、何処かで必ず生徒会の承認を得なければならないシステムになっている。後か先かの違いだけ。

 そんな関係だからか、生徒会に入る、もしくは入れられる生徒は、他と少し違う。
 カリスマ性が有ったり、ずれていたり、阻害されていたり、天才肌だったり、馬鹿だったりと。

 『2005年度・生徒会役員』
 生徒会の片隅、古びた木造棚の中に仕舞われた活動報告書。
 表紙を捲ると、少し色褪せた写真に、当時の五人の役員の顔が並んでいた。

 生徒会長の欄には、佐倉帳。
 生徒会副会長の欄には、小出理園。
 そして庶務の欄には、御名方四音と書かれていた。






 異人ミナカタと風祝 第九話 文月






 七月。朝から日差しが厳しくなって来たな、と思いながら教室に入ると、教室が騒がしかった。いや、平時の教室と余り変わらない騒がしさなのだが、騒音の発生場所が机のすぐ近くだった。
 私の座席の二つほど後ろで、クラスメイトの佐倉さんが何かを話していた。

 「ホント、凄い美人がいたんだって!」

 口調は興奮気味で、明るい彼女の声が何時も以上に高くなっている。

 佐倉幕。同じ八坂二中から来た、新聞部に所属する活発な女子生徒。
 さばさばした性格は男女に問わず人を惹きつけ、私程ではないが中々の人脈を有している。噂話にも詳しく、人間関係の把握なら私以上かもしれない。
 中学校でやんちゃをしていた頃から、何かと交流が深かった。

 「水鳥先生も綺麗だけどさ、なんか、こう……うん、印象が違ったんだ」

 噂話を聞きながら、私は席に座る。

 本日は火曜日。一番忙しかった先週と打って変わって、生徒会の仕事は無し。素晴らしい。
 と言うのも、今週末には土日も挟んでの四日間の学園祭が有り、下準備と書類仕事の嵐が過ぎ去った今、むしろ学園祭を存分に楽しむのが仕事と言うべき事態だからだ。勿論、当日からは何かと臨時仕事が舞い込むだろうが、それでも暇という事実は心を軽くする。
 私が始業前に普通に着席しているのも、そんな訳だった。

 運動部の大会も終わり、積極的に活動している部活と言えば吹奏楽部ぐらい。その吹奏楽部も、多分夏休みで終わるだろう。ウチの学校のレベルで、県大会を勝ち抜けるとは……残念だが思わない。敵のレベルが高すぎる。
 週末に向け、クラスの出し物の準備も順調だ。授業は早めに終わるし、学園生活を満喫するのに今ほど良い時期は有るまい。まして、運動部三年生は、これが終わったら本格的に受験に入る。最後の青春と言う事だ。

 「どんな人だったの?」

 武居さんが質問した。
 四月に“不慮の事故”で兄を失くして以来、彼女としても心情が変化したのだろう。派手な化粧は抑え目になり、幾分か真面目に学校生活を送っている。背後にある御名方四音の事を考えれば頷けないが、勿論言いはしない。彼女に言った所で、何にもならないし。
 武居さんの言葉に、良く聞いてくれました、と佐倉さんが返した。

 「髪が金髪の地毛で、瞳が紫色。肌は白いし、スタイルが滅茶苦茶良い。皆が想像する『白人の美女』が、もっとグレードアップした感じ。肘まで白い薄い手袋で覆って、西洋と中華が混ざったような服で、日傘を指してた。……口元を扇子で覆ってもいたかな?」

 「……へえ」

 感心したような、呆れた様な声が半々で混ざる中、古出玲央も密かに感想を吐く。
 そりゃまた、随分とインパクトのある格好の女性だ。道端に佇む光景は、ちょっと想像できない。

 「何してたんだろうね、その人」

 「いや、なんか水鳥先生の知人だったみたい。その人か、運転手さんかは知らないけど」

 何でも、地方には不釣り合いな超高級な外車の横で、すらっとした女性の運転手さん(らしき人)と水鳥先生が、楽しく話をしていたそうだ。件の怪しい女性は、穏やかに微笑んで眺めていただけだそうで。
 その女性と、車の運転手。一体何者なのやら。

 思えば、あの先生も随分と謎だ。
 生徒会顧問として。または担任として、もう三ヶ月以上付き合っているが、分かった事は少ない。
 御名方四音がまともに接する数少ない存在で、学校内でも微妙に扱いに困っていて、教師としては問題が有るが仁徳はある。生徒からの人気も高く、授業も分かりやすく、適度に緩くて適度に厳しく、親しみやすい。そして私生活が全く見えない。――――まあ、このくらいだ。

 御名方四音が敵だと言う事は凄くはっきりしているのだが、あの先生の行動は本当に読めない。
 敵には思えないし、かと言って味方でもないと思う。だから困っている。

 「お早うございます。――――遅くなりました、レオ」

 「あ、お帰り早苗。絵手紙さんは何だって?」

 携帯を胸元に仕舞いつつ自席に付いた、早苗の方を向く。
 始業前にした電話は、東京に出ている親戚の姉。八島のお姉さんにだった。異常に密度の濃い生活を送っている絵手紙姐さんに連絡を入れるには、朝のこのくらいの時間しかない。

 「ええ。今週末の学園祭には顔を出すそうです」

 「分かった。――――あ、先生が来たみたい、詳しい話はまた後で」

 はい、と早苗が頷いた所で、私は前を向く。チャイムは朝のHR開始の合図だ。廊下の奥から、こつりこつりという足音が響いて、あちこちの教室に散らばって行く。佐倉さん達も自分の席に戻ったようだ。

 程なくして、水鳥先生が顔を出した。
 教壇の上に乗って、配布物をどさりと置き、全員に一言。

 「おはよう。今日も暑いが、張り切って一日を過ごす様に。あと、各自このプリントを持っていけ。学園祭の詳しいスケジュールが載っている。……以上だ」

 それだけで終わらせた。
 水鳥先生は、公的な場では無駄な話をぐだぐだと続けるタイプではない。素っ気ない、とも言われる態度だが、HRもテンポよく終わらせる為、私達も時間に余裕が有って助かっている。
 この時期、誰もが時間を多く欲している。たった五分とはいえ、授業前の五分がどれ程大切なのか、は学生時代を思い浮かべて貰えれば、きっと誰もが納得してくれるだろう。

 「何か質問や連絡事項のある奴はいるか?」

 「あ、先生!」

 「何だ、佐倉」

 はいはい、と元気よく手を上げた佐倉さんを指名。
 因みに、彼女の出席番号は10番。古出・東風谷・佐倉の順である。……私と早苗が時折、こっそり席を入れ替わっている事が有るのは、此処だけの秘密だ。

 「朝の人は誰ですか?」

 「なんだ、見ていたのか? ――――彼女は知人だ。……もう少し詳しく言うならば、昔の馴染みでね。一時、疎遠になっていたんだが、ここ最近はまた親しくなっている。まあ、朝から学校の近くで遭うとは思ってもいなかったがね。……それだけさ」

 軽く肩を竦めて、先生は話を打ち切った。
 入学初日にも思ったが、先生は質問を回避するのが妙に上手い。のらりくらりと、一件しっかり返答しているように見えて、しかし具体的な言及はしていない。春の質問でも、思いかえせば答えがアバウトすぎる。
 そう言えば早苗が、先生も御名方さんへの耐性を持っているだろう、と話していた。やっぱりタダものじゃないんだろう。

 「ああ、そうだ。放課後、学園祭の準備を行う時は怪我をしないように気を付けるように。やる気を出すのは結構だが、怪我をしたら何にもならないからな」

 はーい、とか、りょーかい、とか適当な返事が返った。

 私達の一時間目は、この教室で古典。移動も必要なく、特に苦手でもない。

 余裕が有るから、少しクラスに思いを馳せることにした。
 このクラスは、別に団結力が高い訳ではないが、低い訳でもない。クラスの纏め役(委員長)が上手に舵を取っているお陰で、それなりにスムーズにクラスの決め事は進んでいる。

 今年のクラスの出し物は、妖怪に纏わるエトセトラな展示、と言う事で、日本の伝説・近代都市伝説・二次創作としての妖怪、と幾つかに分類される。因みに、別サービスとして時間限定で早苗の『お祓い』付きである。集客を見込める、とか立案した女子はほざいていた。
 クラスの中では「巫女喫茶とかどーだ」という意見があがったりもしたのだが、早苗と私で却下した(早苗と比較されるのが嫌な女子も味方に付いてくれた)。学校の中でまで、巫女服を着るのは勘弁して欲しい。ただ『洩矢』として少し学園祭で一言、お願いすると要望が出てしまった為、その序と言う事で、『クラスで短時間だけでも』との懇願を却下しないでおいたのである。

 ……まあ、早苗はあの容貌だ。普段は遠目に見ている連中も、これを機にやって来るだろう。あわよくばお近づきになりたい、と考える輩もいそうだし。
 実の所、中学校時代に早苗に交際を申し込んだ男子が、いなかった訳ではない。というか、むしろ結構多く居た。だが、誰も長続きしなかった。別に早苗の性格が悪かった訳ではない。早苗だって年頃の娘だから、交際を申し込まれれば嬉しく思いはする。悩みを打ち明けられもした。

 だが結局。全て破局で終わっている。相手方が付いて来れなくなったのが理由だった。
 よくよく考えてみれば。
 早苗と友人以上に親しく、且つ異性であり、身内以外の存在は……今日び、御名方四音しかいない。

 ホント、あの生徒会長。性格さえ良ければ、容姿端麗・頭脳明晰・家も金も権力も人脈も仕事能力も全て良し、と文句の付けようのない人材なのだが、肝心の性格が、そのプラスを振り切りまくっている。自分で修正する気が無いから性質がもっと悪い。

 「レオ、なんか物憂げですね」

 「……そう?」

 そんなに顔に出ていたか?

 まあ、御名方四音の事を考えて、それで愉快に成れる人間はいないだろうから仕方がない。
 好いている、とは全く別の意味で、あの男は人の記憶に良く残る。事あるごとに思い出させる。風呂場のしつこい汚れみたいな感じだ。早苗と交流していると、その存在感はより大きい。

 「先週までの書類は、レオにも手伝って貰いましたからね。……疲れが残ってたりしますか?」

 「いんや。確かに多かったけど、休み挟んだし大丈夫」

 振られた話題には応えよう。

 昨日までの書類の嵐は、私も手伝った。と言っても、早苗と御名方さんに比較すれば微々たるもの。
 二人の実務能力は異常だった。本来ならば五人以上必要な筈の生徒会役員の仕事を、二人で全て終わらせていた。その光景を思い出すだけでうすら寒くなる。早苗の鬼気迫る表情なんて久しぶりに見た。

 御名方四音は嫌いだ、が、彼は生徒会長。何かあれば、穏便な学園生活が滞る。普通の生徒に被害を出すつもりはない。だから邪魔はしなかった。
 ……あの男。不健康そうな割には意外と仕事詰めでも普通にしている。外部刺激に鈍いからなのか。

 「それよりも、今日の三限目の数学の宿題、早苗出来た?」

 「ええ。やってはきました」

 「後で答えだけ確認させてよ。私だってやっては来たけど、とてもじゃないけど自信が無い」

 「良いですよ。……あ、そうそう」

 何かを閃いたのか、早苗は良い考えを思いつきました、と顔に浮かべて唐突に言う。

 「レオ、先輩に勉強、質問してみたらどうです? 淡々と懇切丁寧に、妥協無く教えてくれますよ」

 いや、それはちょっと勘弁して欲しい。
 確かに懇切丁寧かもしれないが、きっと気遣いからは程遠い説明だろう。

 私と早苗の日常的な会話は、古典担当の男性教諭が教室に入って来るまで続いた。




     ●




 御名方四音を負かす為に、何をするべきだろう?




 まず、私達はそこから考える事になった。

 肉弾戦。これは論外だ。彼は痛めつけられて負けを認める人間ではないし、そもそも病院通いすら避ける訳有りの虚弱体質。そんな相手に喧嘩を吹っ掛けて殴る蹴るの暴行を加えたとなれば、こっちが悪者だ。いくら理由が有るからと言って許される物ではないし、私だって遠慮したい。
 それに、だ。実の所、高校以前に彼に暴行を(程度の差こそあれ)加えた者は、皆、手痛いしっぺ返しを食らっている。四月に亡くなった武居さんもその内の一人だった。同じ轍を踏みたくない。

 となれば、精神的に攻めるしかない。
 御名方四音の心を折る。折らないまでも、負けを認めさせれば良い。

 四ヶ月見ていて分かったが、あの男、基本的に根が律義だ。どんな仕事でも放り出す事はしないし、口に出した約束は遵守する。筋さえ通っていれば大体の難問も頼まれてくれる。……にべもなく言えば、都合が悪くなると黙りこみ、余計な諍いを嫌い、偽りを口に出すより沈黙を美徳と考えるのだろうが。
 だから、だ。あの生徒会長が早苗を殺すと告げた以上、実行に動く。これは間違いない。しかし、その一方で、私達に負けを認めれば、それで彼は諦める。

 ならば、どうやって行うか。それが私達の当座の問題だった。

 「先輩に、何が効果的なのか。その心を知るには、先輩自身を知る必要が有ります」

 「そうは言ってもねぇ。御名方さんのご両親は亡くなっているし、本家のお固いお婆様方が、お話ししてくれるとも思わないけど」

 「はい。……此処はもう、学園生活からアプローチするしかないでしょう」

 そもそも、私生活が全く見えない御名方さんだ。あの古びた不吉な家で一体日々何をしているのか。全くと言って良い程、謎に包まれている。近所づきあいも最低限らしいし、伊達に呪いの屋敷扱いされている訳ではない。

 親御さんが亡くなっている事は承知の上。前にも軽く話したが、私と早苗は、御名方三司さんと出会っていたし、葬式に顔を出してもいた。だが、私生活の質問はした事がないし、人間関係も全然知らなかった。
 まさか、ボーダー商事の稲葉さん達に連絡を取る訳にもいかない。

 だったらもう、学園生活から推し量ろうと言うことになった。
 ただし、これも相当に困難なことに違いはない。

 そもそもあの生徒会長。自分の存在が他者にどれだけ迷惑になるのか、それを多少は知っているのか、それとも煩わしいのか。授業に殆ど出席していない。教室の自分の席に着くのはテストを受ける時くらいだ。学校内でも、親しい人間など皆無に近く、一番近しいのが私達なのだ。

 『御名方の事を知りたい、か。……済まないが、私は沈黙を守らせて貰うよ。お前達の敵に成るつもりはないが、御名方の味方で有りたいからな。だから言わない。訊かれても答えない。承知しておいてくれ』

 尚、いの一番に訊ねて行った水鳥先生には、そう先手を打たれてしまった。
 先生の事だから、本当に話してはくれないだろう。

 「どうするの、早苗?」

 「先輩のクラスは……?」

 「無理。ほら、須賀先輩の事もあって、名前を出すのも禁忌っぽい感じに成ってる」

 入学当時から今日まで二年間、御名方四音がクラスに溶け込む努力をした事はないそうだ。予想できるか。……それこそ、須賀長船さんのような、無駄にお節介を焼く人間だけが、細々と交流していた。
 水鳥先生の言う、御名方さんの悪問題もあるのだろうが、それは置いておこう。

 クラスの中で先輩を知る人はいない。何もしなければ無害と言われているお陰で、誰も関わろうとはしない。そして須賀さんが亡くなった事で、やっぱり疫病神だ、という認識が広まっている。事実、私が訊ねて名前を出した瞬間、確かにクラスが凍りついた。

 「早苗は? どうだった?」

 「……一応、佐倉さんから、お姉さんに連絡を取っては頂きましたが」

 「駄目だった?」

 「はい。先代の生徒会長にお話を伺いたい、と自己紹介の後に話を持ち出した所――――こう言われました。『東風谷さん。悪い事は言わない。さっさと御名方四音から離れるべきだ。そうじゃないと、きっと酷い目に合う……!』と。力説でしたね」

 ……それはそれは。あの御名方四音。ひょっとして昨年から、今の平常運転で過ごしていたのか。で、多分。佐倉帳さんを酷い目にあわせたのだ。こっちも十分に予想できる。

 先代の生徒会長の佐倉さんが、私達のクラスの佐倉幕のお姉さんだった。それを知ったのは、つい最近だ。生徒会室内で埃を被っていた過去の議事録を整理していた所、御名方さんが一年生の時の生徒会情報を得たのだ。そこで佐倉さんに頼んで連絡先を入手し、早苗から佐倉帳さんへ、お話を伺いたいと話を持って行ったのだが――――今言った通り、結果は奮わない。

 分かったのは要するに、先代の生徒会からも御名方四音が嫌われていると言う事だけだった。

 「ええと、レオ。……理園さんにも聞いてみましたが、明白に言葉を濁されました」

 因みに、副会長の欄には古出理園と名前が載っていた。
 ……私はどんな反応をすれば良いのか、分からなかった。

 まあ、姉が高校生だった頃、私は中学生。しかも色々と黒歴史を行っていた頃だ。当時は、姉と会話をする事も少なかったし、自分勝手な反発で迷惑をかけていた。姉が生徒会役員だった、との情報は初めだったが、きっと当時の私が自分で聞く耳を持っていなかっただけだろう。

 その他、生徒会には何人か所属していた様だが、彼ら役員の所在は、ちょっと調べてみたが不明だった。当時の生徒会は五人いて、一人は転校、一人は退学。残った三人が、御名方さんと佐倉(姉)と、理園。

 この状況、何と言えば良いのか。正直、もうヤバイ匂いがぷんぷんする。藪を突っつけば、さぞかし巨大な蛇が出て来てくれるだろう。勘など使わずとも分かる。

 「まあ、それは兎も角。じゃあ、先輩の事を知っている人間は、居ないってこと?」

 「いえ。実はですね。……理園さんから、アドバイスが一言、有りまして」

 「うん」

 「私も言われて思い出しましたが、八島のお姉さんも理園さんと同学年です。当時の、御名方四音の話をどうしても聞きたいならば、そちらに電話をしてみれば、……と」

 脈々と受け継がれてきた家の風習が成せる技か、同年代の親戚が結構多い。私と早苗もそうだが、例えば私と早苗の母も同年代。もう一世代戻って、祖母と早苗の祖母(洩矢の総責任者)と、尾形日文さんも同年代だった。古出理園と八島絵手紙も、その例には漏れない。




 かくして、私達は親戚の姉。
 『権祝』八島の一人娘、絵手紙さんに、連絡を取ることを決定したのである。




     ●




 さて、授業も終わった放課後。
 普段ならば部活や帰宅に向かう生徒が多いのだが、今週ばかりはそうはならない。

 机を片付けた教室では各々に展示の準備に追われ、中庭や体育館、その他各地の教室でも部活動や融資による出店、展示、研究発表などに追われて大忙しだ。
 金槌木槌が鳴り響く音、掛け声に呼び声、中庭ではステージの組み立てが行われているし、校庭や昇降口の広いスペースでは、看板やポスターの製作に余念がない。

 「良いですね、こういう雰囲気は」

 「そうだね、うん」

 普段、あんまり教室のイベントに参加出来ない私達だが、今はクラス展示の準備中だ。生徒会の仕事は、先週までの申請書類の決裁が一番大変だった。今も臨時の仕事が舞い込んできているが、まあ御名方さん一人で何とかなるだろう。

 二人で仲良く、私達が何をしているのかと言えば、教室への展示物を運搬中だ。
 持ち運んでいる中身がまともでさえあれば、さぞかし普通の学生生活なのだろう。

 「ところでさあ、早苗って、やっぱりマニアックだよね」

 「レオ、これは常識の範疇です」

 「……常識、ねえ」

 腕の中のバリエーション豊富なDVDを見ながら、私は溜め息を吐いた。
 これが常識だったら、私は常識外れだ。絶対に。

 「じゃあ言いかえるよ。早苗ってさぁ。……意外と残念な感じあるよね」

 「そうですかね」

 軽口を叩く。別に蔑んではいない。友人だから言える気兼ねない一言だ。

 展示物として並べる、妖怪が登場するサブカルチャーな品々を見て、思った。
 まあ人間、誰しも隠れた一面は持っている物。巫女としての早苗、学生としての早苗は凄く優秀な人間だが、庶民な早苗は意外と……まあ、言っちゃ悪いがアレだ。意外と秋葉系だし、かなりマニアック。その辺の男子と対等以上に「語れる」のだ。

 ま、最近の女子高校生の実態なんて、そんなもんだ。
 女に幻想なんて抱くもんじゃない。

 神社だから格式高い、の認識は間違いではないが、別に無駄に高いではない。四月にもちょろっと早苗が話していたが、最近の神社も、ただ偉くて由緒正しいだけではやっていけないのである。身も蓋もなく言ってしまえば、参拝客が来て儲けを出さなければ意味がない。だからあの手この手で金を落とさせる。

 幸いにも近年の景気に逆らって、『洩矢』は資金面では中々に潤沢だ。神社の雰囲気自体が、昔と違い、庶民派に転向しつつあるし、そもそも生まれ育った時代が違う。別に個人の趣味の範疇に抑えて、仕事が出来れば、大体何でも許されるのだ。それこそアニメやら漫画やらに嵌っていても。

 ……いや、そりゃあ昔からの付き合いだから知ってたけどさ。でも日曜日の朝から、戦隊特撮ヒーローとライダーを見たくせに、魔法少女アニメを見ないのは女の子としてどうかと思うよ。

 「レオも見てたじゃないですか」

 「間違えないで、早苗。私はアクションを見てたの。ロボを見て一喜一憂してた早苗とは違うの」

 早苗に付き合って一緒に見ていた、と言っても、方向性は真逆だ。
 俳優やアクションと見ていた私と、ロボットの合体シーンや怪獣の特徴や必殺技、あるいは別作品のオマージュまで語っていた早苗。どっちが健全かは言うまでもない。平成生まれの女子高生なのに、親世代が子供の頃のロボットアニメを語らないで欲しい。
 しかもロボだけと思いきや、大概のアニメや特撮、それこそ今私達が運んでいる、お化けや妖怪に纏わる代物まで持っている。

 「ところでさ、このDVD何処から持ってきたの? 明らかに古いのとか懐かしいのが混ざってない?」

 「ああ、それは――――昔にビデオに録画してあった物を、業者に頼んでDVDに入れ直して貰ったんです。画像処理もして貰いましたし、絵柄は少し古いですが、でもちゃんと見れますよ」

 ビデオテープ。懐かしい響きだ。そう言えばビデオもめっきり少なくなった。2007年現在では、まだ普及しているが、そろそろDVDに取って変わられるだろう。しかも何やら、ブルーレイとかいう品まで出てきているそうだ。機械には詳しくないから、詳しい事は知らないが。
 科学や技術の世界も日進月歩。まだ若い私達だが、それでも此処十年の電子機械の発展レベルは異常だという事くらいは分かる。小学生に入る前、弁当箱みたいな白黒携帯ゲームで、初代のポケモンに嵌っていた時代は遠く昔だ。

 「そういや世界には色々と消えてく技術や、廃れた物が有るけど、そう言った物は何処に行くのかね?」

 何気ない質問だったが、何か、早苗の琴線に触れたのだろうか。
 少しだけ遠い目をして、少し考えた後に、彼女は語った。

 「……さあ。分かりません。……でも、きっと何処かに消えて行くのでしょう。私達が忘れてしまった何処かに。人の記憶から零れ落ちた、品物だけに留まらない色々な物。噂、伝説、概念、信仰心までも――――きっと何処かにね」

 「……ふーん」

 ……早苗は、何か知っているのかもしれない。
 私には分からないが、神社である以上、そう言った物には無関係ではいられないのだ。きっと。

 敢えて訊ねる事はしなかった。何故だろう。その時の彼女の目が、まるで決して遠い事ではなく、むしろ身近な物のように捉えていたからだろうか。
 神社の跡取りとして昔から、早苗は天才と名をほしいままにして来た。そんな彼女だからこそ、分かる事が有るのだと思う。ほんの微かに。私でも見逃してしまいそうな位に僅かに、早苗の表情が陰っていた。

 「レオ、そんな心配そうな顔をしないでください。大丈夫ですよ、別に私は」

 「うん。いや、……そうかな」

 廊下で作業をしている人たちを巧みに避けながら、私と早苗は教室に向かっていく。
 生徒会室が三階にある、とは前に話したかもしれないが、私達一年生の教室も三階にある。三学年が一回なので、つまり学年が上がる毎に昇降口に近いのだ。三階には他に、放送室や図書館も置かれている。
 足元と手元が見えないと、必然的に足運びは慎重になる。
 ええい、話題を変えよう。

 「で、そうだ。絵手紙さんの話だけど」

 「あ、じゃあ朝の続きに成りますが」

 八島家の長女・絵手紙さん。

 理園ねえと同学年で、つまり私達よりも三つ上になる。
 この清澄高校を卒業後、推薦で受かった東京の大学に通い、現在は経済学、神学、経営学と言った様々な分野の勉強中だ。節操がない訳ではない。『洩矢』に貢献できる分野をなるべく多く取っているのだ。
 卒業後は此方に帰省し、家業を手伝いつつ、神社で働く事が決定している。

 「何でも、丁度テストが終わった直後だそうです。五日くらいならば十分此方に戻って来る余裕が有る、と。その時に私達に会って、序に学園祭に顔を出して行くと言っていました」

 「じゃあ、その時に?」

 「はい。先輩の話も聞けるでしょう」

 電話で聞こうとも思ったのだが、絵手紙さんは色々と多忙な生活を送っている。
 性格は呑気なのだが『余裕が有るとサボっちゃうから』という理由で敢えて実行ギリギリのスケジュールを組み、それを完遂する事を得意としているのだ。呑気な割にアグレッシブなのは身体だけではない。

 「序にあの、早苗。……一応聞いとくけど、理園ねえは?」

 理園姉さんの連絡先を知らない事は前にも話したが、実を言えば――――彼女が家を出て行った経緯には、私も関わっている。
 別に、あの姉の事を嫌ってはいない。半分しか血が繋がっていなくとも、あの人は私の姉だ。だが中学時代、拗らせた関係が修復されないままに別れてしまったからか。今でも、どう接すれば良いのかが、今一、自信が無いのである。
 理園と早苗は仲が良い。だから何時も、中継役をお願いしている。

 「理園さんは『絶対に来れない』と言ってました。『悪いけど今は帰りたくないんだー』、でしたかね。詳しい話は知りませんが、面白い研究をしている様ですよ」

 「ふうん?」

 まあ、好きな事に思う存分打ち込める。その環境を満喫しているのならば、別に何も言うまい。自力で金を稼いで(スポンサーがいるようだが)、好きに研究して、充実した日々を過ごす。羨ましい限りだ。
 早苗に、顔で『どんな内容?』と訊ねてみると、なんか変な回答が戻って来た。

 「何でも、サボテンの持つ……そう、『CAM型光合成』? を科学的に利用する、夢のサボテンエネルギー構想とか言っていましたね。世界が砂漠に成っても、サボテンならば生き延びるかもしれない、とか言う部分が着眼点らしいです」

 ……取りあえず、なんか凄い事は分かった。光合成に種類があったなんて今初めて知ったぞ。
 まあ、科学技術の進歩は、先程も言ったが飛躍的だ。例えば何時の日か世界が砂漠に包まれた時、サボテンエネルギーを有効利用して世界に平和が齎されることも、無い、とは決して言えまい。……何かありそうな気がしてきた。良く分からん電波が、VIVIT……じゃない、ビビッと来たのだ。

 「……さて、積もる話は有りますが、今はクラス展示の準備をしましょう」

 「そうだったね」

 階段を上りきって教室に入る。壁際に寄せられた机と、広くなった床に散乱する紙。足の踏み場がギリギリある状態だ。『ただいま帰りました』と声をかけて、私達は長らく運んで来た品々を近くの机の空きスペースに置いた。
 ふむふむ、様子を見るに、どうやら進行状況は順調らしい。

 一応、展示方法は簡単だ。
 教室の後ろの扉を入口に、机を重ねて回廊を造る。机の上に暗幕を掛けて、そこに紙を張る形で展示。回廊を抜けると少し広いスペースが有って、其処で早苗が『お祓い』と言う事だ。一回、百円である。
 勿論、早苗に余計なちょっかいを出されないように、必ず女子二人以上が周囲を見張っている。教室の客引きが一人、出口に一人。私物の見張り番や室内の監視がそれぞれ一人。つまり常時六人以上が教室に常駐している形だ。クラスのメンバーは36人なので、分担すれば六チーム。一回30分で交代して、平均すれば一日二回、午前と午後に見張りが回って来る訳だ。

 既にシフト表も形に成っていて、私は早苗とずっと同じ動きだった。因みに同じチームには佐倉さんもいる。名簿番号で近い人々で集まっているのだ。展示の分担も同じ担当だったのだが、姿が見えない。
 折よく武居織戸が居たので訊いてみる。

 「ああ、幕? ……確か――――そう。新聞の記事の写真撮影、だってさ?」

 「ふーん……」

 なんとなく、彼女の所在が気になった。
 早苗が家から持ってきたDVDを見たクラスメイトが集まり「わあ、懐かしいなあ」「古い」「あ、これ良く見てたよ」とか言っているのを聞きながら、私は、教室から廊下に出る。

 ちょっと探してみた方が良いかもしれない。窓からぐるりと、学校全体を見回すように首を動かす。私は目が良い。視力は2.0以上だ。遠視も少しあるお陰で、遠くの物でも良く見える。

 階下、回廊型校舎の中央広場から昇降口へ至る部分に、メインステージが設置されている。その傍らにはステージ管理の小屋が造られていた。小学校の運動会で見るような、パイプを組み合わせて、上に白い厚い生地を被せる即席の奴だ。
 本格的な暑さまではもう少しだが、日差しは強く太陽が眩しい。晴れ渡った空の下、中庭でも着々と準備が進行している。看板を張ったり、屋台を組み立てたりとさぞ暑い事だろう。

 「……いた」

 そのメインステージの横で、デジカメを携えながら写真を撮っている佐倉さんを見つけた。ふむ、周囲の注意が疎かになっているとみて間違いない。周りにいる生徒が、微妙に邪魔そうな顔をしているが、カメラを弄っている彼女はどこ吹く風だ。
 声をかけても此処では届かないだろうし、あの様子なら暫く動かないと思う。

 ……まあ、大丈夫かな。

 早苗の語っていた『天竜川の口承』通りに御名方四音が動いているなら、佐倉さんへの懸念は当然だ。
 だが、私はその時、確かに安心していた。
 勘。それも、良い方に働いた勘だ。




 多分、今は、御名方四音は何もしない。




 私は、そう思っていた。




 その判断が正しかったのかどうか。
 結局、それは分からない。




     ●




 事故が起きた。


 メインステージの高所に、看板を掲げる最中に――――作業をしていた男子生徒が、バランスを崩して、看板ごと落下すると言う事故だった。
 重量のあった、木製の看板と共に、梯子から地面に落ちる。
 例え二メートルも無い高さの梯子とはいえ、打ち所が悪ければ大きな被害を齎しただろう。
 しかも、男子生徒の落下地点には、周囲が見えていない佐倉さんが偶然にも居た。看板の大きさもある。彼女以外にも、周りの人間が一緒に潰されていた可能性は高かった。




 だが、“そう”は「ならなかった」。




 傾いだ方向が良かったのだ。男子生徒と看板は、地面に落ちるよりも先に、隣接して組み立てられていた本部棟の――――厚い布製の屋根の上に、転がることとなった。
 倒れた梯子は、誰もいないステージの上に倒れ込んだ。
 看板に被害はなく、本部棟も辛うじて男子生徒を支え切った。

 佐倉幕は。
 その様子を写真で撮影し――――『準備中に起きた意外なハプニング』と記事に題する事を決めたそうだ。

 事故と聞いて慌てて先生が飛んできたが、誰一人として怪我を負っていないと分かり、注意で済まされた。
 結局、被害は零。

 『奇跡』的にも誰一人、怪我すらも負わなかったのだ。

 偶然だったのか人為だったのか、其れは分からない。御名方四音は偶然だと言った。事実、彼は現場にいなかったし、生徒会室から動いていなかったようだ。だから、御名方四音が何かをしたかもしれないし、本当に偶然だったのかもしれない。少なくとも、私は訝しむ事は無かった。

 だが、それよりなにより。
 もっと重要で、もっと印象に残った言葉が有った。




 「ふう。危ない。…………偶然や奇跡も、楽じゃありませんね」




 事故の直前。私を探しに来たのか、咄嗟に廊下に駆け寄った早苗の発した、その言葉。
 決して自覚して表に出していたのではないのだろう。耳が鋭い私だって聞き間違いと思った。
 だが、決して聞き間違いではなかったのだ。




 この日から、私は東風谷早苗という親友の持つ“力”。
 そして『洩矢五官』の持つ神秘と《幻想》の事を、より深く知っていく事になる。
















 かくして、起承転結の「承」の始まり。
 「起」が古出玲央だとしたら「承」は御名方四音。「転」は東風谷早苗。「結」は洩矢諏訪子です。
 弥生(三月)が序章。卯月・皐月・水無月が「起」。文月・葉月・長月が「承」。神無月・霜月・師走が「転」。そして睦月・如月・弥生で「結」の予定です。ぐるっと回って一年。エンディング後に『東方風神録』本編スタートと言う感じでしょうか。
 まあ、間にちょこちょこと歴史・風習なんかの説明を入れて行くにしても、多分五十話。今迄の話も、無駄は極力省いて、全部重要な伏線が隠れている位のつもりで進行しているので、間延びはしません。……『境界恋物語』での反省を生かしたいと思います。

 ではまた次回。
 感想を頂けると嬉しいです。

 ……ところで皆さん、ユグドラ・ユニオンという「面白いクソゲー」の二次創作って需要が有りますかね? 何かを完結させたら書こうと思っているのですが。

 (7月15日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第十話 文月(親月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/08/22 21:30
 「……っ。間に合うか……?」

 学園祭二日目。土曜日。

 私は走っていた。学校裏門へと向かう道だ。学校の敷地内を中をぐるっと通り抜けるこの道は、校舎を半周して、昇降口の裏側から細い路地に通じている。
 前を走るのは、一人の男。黒髪に温厚そうな顔の、普通の大学生。だが……きっとその表情は、必死に歪んでいるのでは無いだろうか。

 私はこれでも運動能力の高さには自負が有る。中学校時代、中学総体(インターミドル)まで到達した足腰の強さは伊達じゃないのだ。その足を持ってすれば、並みの大学生ならば十分に追いつける。

 だがそんな私でも、スタートダッシュの差によっては苦しい場面もある。着ている巫女服と草履のせいでスピードも出せない。空を飛べれば良いかもしれないが、そんな事が出来る巫女がいる筈もない。……居ない筈だ。多分。
 じりじりと差こそ縮まっているが、追い付くまでにはもう少し時間が懸かる。

 「不味い……!」

 校舎の裏には駐輪場がある。学園祭中の今、一般に開放されている其処には、鍵の掛かっていない自転車も一台くらいは絶対に有る。それに乗られれば終わりだ。
 学園祭で不埒な真似をした男。絶対に見逃せるものか。
 話は、三時間ほど遡る。






 異人ミナカタと風祝 第十話 文月(親月)






 「スリ、ですか?」

 「スリでも置き引きでも泥棒でも何でも良いが……そうだ。迷惑な事に」

 挨拶代りに生徒会に顔を出した私を待っていたのは、水鳥先生のそんな言葉だった。
 御名方さんから学園祭の間は、基本「好きにして良い」との許可を貰っている。クラスに顔を出して自分の仕事をして、学生らしく楽しんで来い。仕事は全部自分がやるから。まあ実際はこんな優しい言葉では無かったが、好意的に解釈とすればそうなる。そして実際、私達が手伝うまでもなかった。

 件の生徒会長は、仕事はしつつも、我関せずと言う顔で部屋の片隅で本を読んでいる。何と読むのかも怪しい、古びた洋書だ。学園祭だというのに全く外に出ないつもりなのか。ねじ曲がっているにも程が有るだろう。
 仕事はしっかりしているから文句を言われる筋合いはない――それはその通りだが、それにしても。それで全てが許される訳じゃないと思うぞ。今更だが。

 「まあ、四音の事は良いんだ。彼だって分かっているさ。……話を戻す」

 そんな彼に付き合っているのか、先生の前の机にも、同じく何冊かの本が置かれていた。
 軽く笑った水鳥先生は、私に事情を伝えた。

 「姑息な奴だよ。人混みが多い中を狙って、警戒心の薄い学生や一般客の金を掠め取る。……実は一日目の昨日だけで、四件も被害報告が有った。今日も出没するかもしれない」

 学園祭の最中は、当然ながら学校は開放されている。地域の人たちや生徒の家族も大勢やって来る。だから全く見知らぬ人が紛れ込んでいても、気が付かれる事はまず無い。
 当然ながら、善良な観客だけでなく、心無い人も入り込むと言う事だ。

 「はあ。……そうなんですか?」

 「多分な。被害にあった方達には事情を伺ったが――――手順が素人臭い。そもそもこんな田舎の学園祭にプロは来ない。来るにしても、気が付かれるヘマはしない。だから素人だ。……大方、遊ぶ金が欲しくて“ついうっかり”やったら成功してしまったのだろうな。それで味を占めた」

 うん、其れは分かる。中学校時代の私は、そう言う人間を見て来た。見て来たというか、自分から首を突っ込んだと言うか。そんな感じで。
 味を占めた以上、きっと今日も同じ事をするだろう。軽い気持ちで犯罪を引き起こした人間は、えてして自分が捕まる事を予想しない。きっと大丈夫だ。なんとかなるという認識で自分を誤魔化している。
 水鳥先生の意見と私の意見は、一致していた。

 「じゃあ、捕まえろ、と言う事ですか?」

 「いや。無理だろう。普通に考えて。……ただ怪しい人間が居ないか、それだけ確認しておいて欲しい。素人が行為に及ぶのならば、その挙動は必ず怪しくなる。教師もある程度は見回るが、限界が有る。やっぱり不自然無く学校を見て回れるのは学生だ」

 無理じゃなかったりする。私を怪我させられる技量を持った人物は、大人でも中々いない。格闘、もとい近接戦闘術に限定して言えば、私は早苗よりも遥かに上なのだ。
 先生の事だから、其れ位は見抜けていると思う。教師として促せないだけで。
 ともあれ、そんな会話の後、私は学校内に目を光らせる事にした。

 「分かりました。記憶に留めておきます」

 「ああ。それで良いよ。……宜しく」

 話は以上だ、と示すかの如く、にっこりと笑った。

 私だって、御名方さんを嫌っていようとも学校の一員。学園祭に余計な真似をする不埒や奴を放っておくほど、甘ちゃんじゃない。だから素直に頷いて、生徒会室を出た。
 水鳥先生も御名方さんも、公私混同はしない。公私の“私”からして既に見えないのだが、それは置いておこう。この二人は、数字や外見で表せる部分ならば一切の非が付けようもなく、また公の場での行動は論理的・倫理的には文句を付けようがない。だから良いというものでもないけど。

 出る寸前、こんな会話が聞こえてきた。

 『……先生。最近、妙に僕を甘やかしていませんか?』

 『そうか? ……嫌だったら言え』

 『…………』

 『嫌じゃない、だろう? お前だって少しくらい、人の温もりに触れても良いだろうさ』

 この所思う。最近、ますますあの二人の関係が見えなくなって来た。
 私生活でも交流がある。今も生徒会室で二人きりだし、どう考えても『ただ教師として生徒を気にしている』の範疇を超えている。淫行疑惑がもたれて噂されるのも無理はない。確かに二人とも美人だし。

 最も、あの御名方四音が――果たして愛情という感覚を、何処まで知っているのか。そもそも水鳥先生にどんな感情を向けているのか、さっぱり不明なのだが。

 「……あ、もしや今の考えは、御名方さんを負かす何か良いヒントになる?」

 ふっと閃いた。携帯で時間を確認し、昇降口に向かいながら考える。中々良い着眼点かもしれない。
 御名方さんが興味を持っている人間は零ではない。早苗には殺意を向けている。気持ち悪いが笑う事はあるし、厄介事は面倒だとも言っている。他者には読み難いが、確かに感情が有るのだ。
 そして、感情が有ると言う事は――心の動きによって、彼を分析する事も出来る。何が好きで、何が嫌いで。そして何が一番、心の多くを占めるのか。それが分かれば、きっと心を動かせるのではと思う。

 「ま、口で言うのは、簡単だけどね……」

 言うは易く行うは難し。人の心ほど訳の分からない物は無い。まだ若い自分だが、其れ位は知っている。それの格好の勉強対象が親だった。あまり良い話でもないから言わないでおくが。

 そして多分、あの先輩に勝つには、私より早苗の方が向いている。力押しよりも搦め手でなければ無理だ。その搦め手を、早苗は持っている。胆力と腹黒さで、早苗以上の人間は……そうはいない。
 早苗自身も、御名方さんに向けて何か想う事があるらしいし。

 「氷の男の心を溶かしたのは、優しい少女の愛情でした……なんて、まさかね」

 双方、そんな単純な言葉で言える人間ではないし、そんな単純な話ではない。そもそも、あの御名方四音の向ける想いは、愛情とは真逆なのだから。
 そんな事を考えつつ、私は教室に戻ったのである。




     ●




 さて、事件が発生したのは昼前の事だった。

 学校の文化祭だ。OBOGも参加している。地域の住民もいらしている。保護者の方や、中学生も来ているだろう。そんな中で怪しい人間を見つけるのは酷かもしれない。
 だから多分、私が犯行現場を発見できたのは偶然だった。

 「橙。お財布は持っているかな?」

 「はい。持ってます! 藍しゃまが古いを繕ってくれました!」

 「そうか。よし。じゃあお小遣いを上げよう」

 「ホントですか! 縁さま!」

 学校三階の渡り廊下から、階下。中庭と昇降口を観察している時に、聞こえた会話だ。気に成って視線を向けると、一階に親子連れがいた。

 何処かで見たような親子だ。
 何処かで見た気はするのだが――――何処で見たのか、覚えていない。温和そうな男性と、可愛い少女の二人組。はて、一体何処で目撃したのだったか。
 少し考えていた私だが――珍しい事に思い出せなかった。対人関係において私が人の顔を覚えていない事は少ないのだが。

 「大事に使いなさい」

 「はい!」

 そう言って、男性は少女に二枚のお札を渡す。少女は、小さな財布に大事そうに二枚を仕舞い、スカートのポケットに突っ込んだ。
 ……なんとなく、私は気になった。理由はない。勘だ。色々と昔から役立っていた第六感が、あの親子から目を離さない方が良いと告げていた。犯罪者には見えないが、もっと別の。こう……何だ。私に関わる重要事項が有るのではないか。そう邪推してしまう感覚がした。

 「それじゃあ、何処に行こうか。橙。何か見たい場所はある?」

 「全部です!」

 「分かった。じゃあ、全部見て行こう」

 可愛い少女の発言に、父親は破顔させて頷く。何処が怪しいのか、自分でも良く分からないが――なんか気になるのだ。前に会ったかどうかは不明だが、果たしてその時は、こんな風に思ったのだろうか?
 私を取り巻く環境が、そう変化しているとも思えないのだが。

 「……ま、良いや」

 今は、この感覚を信じてみよう。
 そう思った私は、二人を観察しながら、学校を見て回る事に決めて――――。
 そして、少女のポケットから、さり気なく財布を擦り取った男を目撃したのである。




 回想終了。
 さて、かくして私はその男を逃がさないように追いかけている。いたいけな少女から金を掠め取るとは、見逃せる所行ではない。中学校時代の私だったらその場でノシテいた所だ。
 最初は逃げないように見張っているだけだったのだが、向こうが私の視線に気が付いたのだ。一連の犯行を見られていた、と認識すると素早く逃げだした。……昔はもう少し、尾行も得意だったのだが。中学校時代から鈍ったのだろうか。不覚である。
 既に携帯で先生に連絡は取っている。後は逃げる相手を捕まえさえすれば、晴れて騒動はお終いだ。

 しかし――――。

 「逃げ足は、速い……!」

 理想的な陸上スタイルで追いかける私の前で、男は徐々に速度を落としていたが――差はまだある。

 悪い事をした人間の逃げ足は速い。そりゃあまあ、捕まったら大事だから、必死になるのは当然だ。私としては、擦り取った財布さえ返して貰えれば見逃してやるのだが。しかし相手にしてみれば、追いかけてくるなど楽しい話でもないだろう。
 草履履きの巫女を振り切れない、というのもかなり辛い物があるかもしれないし。

 目前を走る男は、駐輪場に辿り着く。息が上がっているようだが、乗る気力はあるのか。鍵の掛かっていない自転車に跨ると、私を振り返って漕ぎ始める。予想通り。祭りということで不用心な者がいた。

 「……!」

 臍を噛んだ私だが、見えるのは背を向けて漕ぎだした男の背中だ。

 学校裏手から続く細い道は、車こそ通らないが人通りは多い。通学路でもあり周辺の皆さんの大事な公共道路だ。今も、学園祭に来るつもりの集団が、道路の真ん中を歩いていた。自転車は徐々に速度を上げ、直線で私を引き離そうとしている。

 「待ちなさい! 危ないわよ!」

 それは、私の心からの忠告だ。
 通路は一本道。地理に詳しい物ならば隠れる場所や逃げる場所、大通りに面している道も知っている。スリの大学生は、きっと逃げることを確信出来ていただろう。警察の厄介になる事までは頭が回っているのか、いないのか。現状、私から逃げる事だけに意識が向いている。

 だが、私は知っていた。否、たった今、知ったと言うべきか。
 そんな事をしても、あの男は絶対に逃げられない、と言う事を。

 「まずい……!」

 本当にまずい。主に男の身の安全的な意味で。

 通路に差し掛かった自転車は、丁度、祭りに向かっていた二人組と擦れ違う。彼女達の目からすれば、自分達に向かって高速で進んで来る自転車と、その背後から追う私の姿が見えた筈だ。男は、彼女達の身の安全など、欠片も考えていない。スリをしている時点でマナーを求めるのは間違っていると思うが。
 私の忠告を、自転車に乗ったままの男が聞く筈もなく。



 そして。
 男は回った。
 自転車ごと。



 くるり、とその場で綺麗に一回転をした。
 丁度、擦れ違った女性で、まるで何か大きな力に振り回されたかのようだった。
 綺麗に投げられた自転車は、宙を舞い、漕いでいた男は地面に投げ出された。ぐえ、という蛙が潰れたような声で地面に転がる。数秒後。ガッシャン! という派手な音と共に自転車がアスファルトに。

 「――――!」

 やった、と思った。
 だから言ったのだ。まずい、と。危ない、と。遠目で見ていた私には理解できていた。何よりも危なかったのは、この男だったのだ。きっと彼は自分に身に何が有ったのか理解も出来なかったに違いない。

 速度を殺さずに慌てて私が駆け寄ると、完全に男は伸びていた。目を回している。幸い、普通に息はしているから、流石に加減はしたのだろう。
 衝撃で微妙にフレームが曲がった自転車を尻目に、私は傍らに佇んでいた女性を見た。
 その、とても見覚えのある二人組。

 「やあ。……元気、レオ?」

 「お姉ちゃん!」

 紗江ちゃんを連れた――――絵手紙姉さんだった。




     ●




 清澄高校の職員室は科目ごとに分かれている。国語や数学のように担当教師が多い科目には大部屋が。逆に音楽や美術の様な、教師の数が少ない科目には小さな部屋が与えられている。そんな中で、地理は社会科と一緒の扱いだ。

 水鳥楠穫の机も、社会科学研究室に置かれていた。

 学園最中とはいえ、職員室に人がいる事は当然だが――ただ、クラスや部活、出店の面倒をみる意味もあり、中には休暇を取っている者もいる。教師の全員が平時のように揃っている訳ではない。
 今は幸いな事に、部屋の中にいるのは、水鳥楠穫を含めて三人のみ。
 ……いや、本当に三“人”と表現して良いかは、かなり怪しい状況だったのだが。

 「……財布を取られたのは、敢えてか?」

 「まさか。偶然ですよ……。まあ、少々幸運や偶然を誘発させはしましたけれども」

 楠穫は、どうぞ、と楠穫は目の前の胡散臭い微笑みに、お茶を出す。
 財布を取られた張本人である猫小娘には、冷蔵庫で冷しておいたオレンジジュースを注いであげた。

 「……ああ。因幡の白兎。彼女か」

 「ええ。あとは、鍵山雛と、紫円にも少し力を借りました」

 悪びれず、真意を見せずに微笑む親と、静かに良い子にしている娘がいる。古出玲央が、なんとなくの勘で追っていた親子だ。彼女は、数ヶ月前の『御頭祭』で、彼らを目撃していた事に気付いただろうか。
 二人を見ながら、楠穫は内心で息を吐く。幸運。厄。そして人と人とを結ぶ縁。この三つを使えば、そりゃあ確かに偶然と言う名目で事件の被害者に成る事は簡単に決まっているのだ。

 青年が八雲縁。少女が橙。
 彼らの事は、水鳥楠穫も良く知っている。
 人間に擬態こそしているが、その正体は――――妖怪である事も。

 「何故ここに」

 「んー。裏工作も兼ねて、この目で確認したかった事が有りまして」

 「……御名方四音、か?」

 「東風谷早苗もですね」

 ……東風谷早苗。目下の所、楠穫が目を付けている巫女だ。良くも悪くも御名方四音に影響を与える。生徒や個人として見れば凄く良い娘だ。だが、彼女は家に縛られている面が有る。
 楠穫は、彼女と敵対する気は無いが、『洩矢』と敵対する可能性が有る立場だ。そうなったら、あの娘とも戦う可能性が有った。生徒と相対する。それは教師として勘弁したい。

 「……正直《幻想郷》に行っても良いと思うのだがな。彼女は」

 東風谷早苗は、この世界で生きて行くには不相応な才能の持ち主だ。見れば分かる。あの娘は優秀だ。
 少なくとも、幻想が消えつつあるこの世界では。

 八雲家が『洩矢』と昔から交流が有る事は承知していた。最も、その交流も定期的な――それこそ、つい数十年前までは、十年百年の単位での会合だった。楠穫も相当の永い時を生きているし、この地に長く留まっている。だが、こうして直接に顔を合わせて会話をするのも、久しぶりではないだろうか。
 ……まあ、楠穫自身。この地に足跡を刻んで居るから消えていないだけで、普通に《幻想入り》の立場だ。偉いことは言えないのだが。

 「その辺は、八坂の軍神の采配ですから」

 「ああ。……大変らしいな。聞いている」

 「…………まあ、良いでしょう」

 伝聞形式で答えた楠穫に、一瞬、八雲縁は疑わしげな眼を向けたが、それ以上の言及はしなかった。
 互いにポーカーフェイスはお手の物だ。会話の推移を伺う猫娘だけが、所在なさげに座っている。隠された耳と尻尾が下がり、困惑した顔で二人を見つめていた。

 「ところで、鹿久の娘はどこに?」

 「ああ、蒼なら――――ちょっと色々と。『ボーダー商事』の方で動いて貰っています。先日は、一時では有るが貴方と会合が出来たようで。彼女も喜んでいました」

 彼が言うのは、数日前の一件。学園祭準備期間の話だ。
 楠穫が出遭った、八雲紫の乗ったリムジンを運転していたのが、八雲の神鹿・蒼だった。

 「……忙しいのか。やはり」

 「まあ、手間が懸かる事は事実です。必要だから決して手を抜きませんが」

 『ボーダー商事』。

 「豊かな暮らしはスキマから」をキャッチコピーに、展開する海外資本を持つ大企業。年収は数兆円にも上り、各分野で大きな功績を上げているとか何とか。八雲家は、創業者一族という扱いだったか。
 何百年か前。今後必ず《幻想郷》の維持の為に表が必要となる事を見越した『八雲』が、ヨーロッパから新大陸、更に暗黒大陸までに予め根を張る布石を打っておいたと聞いた時は楠穫も感心した物だ。

 「……そう言えば、先日。八意様の所の医者が、古出玲央と接触したらしいな」

 毎回、各月の事ではあるが、八意永琳からの薬。アレのお陰で、四音は辛うじてまだ人間を保っている。何でも『蓬莱の薬』を利用した物だそうだ。

 「優曇華ちゃんとグリューネ嬢。二人が彼女と会ったのは偶然です。そもそも遭遇しても此方にメリットが有りません。伏線にはなるかもしれませんがね」

 ふふふ、と浮かぶ怪しげな笑顔は、実に隙間妖怪を彷彿とさせる。
 年月を経るごとに、ますます似通ってきていないか、この夫婦。

 「それに、別に問題はありませんよ。御名方三司が『ボーダー商事』の社員だった事は事実ですし」

 「……まあな」

 『ボーダー商事』の社員の大半は普通の人間だが、中には人妖や特異な存在も混ざっている。
 御名方三司は、種族的には普通の人間だったが、少なくとも隠れている事象が有る事は知っていた。知っていて黙っていたのだ。彼の妻も、息子も、その類だと知っていたから、家族の為に口を噤んでいた。
 そうして黙ったまま、入り婿としても宿命に引き摺られ、最後には事故で死んでしまった。死など山ほど、それこそ山程の死体を見た事もあるし、屍の山も見たが、彼の死に関しては楠穫も少々同情的だ。

 「……それで、八雲縁。お前は何で、わざわざ学園祭に来た」

 「いえ。橙への家族サービスと、暇潰しと、貴方との会合と、序に手紙の配達です。紫が今、何処で、何をしているかは、全く聞いていませんから。解りはしますがね」

 「…………」

 その返答に、水鳥楠穫は何も言わなかった。
 八雲縁の異能。その力の恐ろしさは、彼女も身を持って体験した事が有ったからだ。
 実力は水鳥の方が上だが――――彼が身に宿す才覚。深謀遠慮と言う言葉でも尚、軽い。圧倒的なまでの悪略は、心の底から恐ろしいと思っている。
 まして、妖怪最強の八雲紫と組んだ日には、何がどうなるかも見通せない。

 「……手紙か」

 「ええ。どうぞお好きなように、お使い下さい」

 そう言って彼は、はい、と懐から一枚の便箋を取り出した。厚さから見ても、恐らく中身は数枚。
 何が書いてあるのかは不明だが、きっと又、良からぬ事に違いない。いや、楠穫やその周囲の人物に悪影響を齎すかどうかは兎も角、八雲家に借りを作ってしまうような、そんな内容なのだろう。

 「さて、私達もそろそろお暇の時間です。……丁度、古出と八島の娘が、財布を取り返してくれました」

 景色が見えているかのように語り、彼は隣に座っていた猫又に、立ちなさいと促した。
 その光景だけを見れば、躾けに厳しい父親と可愛い娘だ。だが、そんな甘い存在ではない。
 楠穫は、黙ったまま見送る事にした。

 「財布は、貴方の式にでも届けさせて下さい」

 「良いのか。東風谷に会って行かなくて」

 「遭いたくないから、今、逃げます」

 「……分かった」

 楠穫の目の前で、空間が裂けた。グパア、と擬音が付きそうな感じで、真っ黒な歪みが姿を見せる。その奥には、無数の目玉と腕が蠢き、標的を捕まえ、引きずり込もうとするように動いていた。何回見ても気色が悪い。
 八雲が開いたその隙間に、特に気にする事も無く青年は少女と共に入り込んだ。

 「……『洩矢』は二つに分かれています。八坂と洩矢とに。そして、その原因は遥か過去にある。この地に軍神が追われ、逃げ込んできた神話の時代からね。――――水鳥女史、……応援していますよ」

 「余計な御世話だ。……じゃあな」

 軽く手を振って、さっさと立ち去れと部屋から追い出す。
 八雲縁は、伴侶と同じ胡散臭い笑みを浮かべて、スキマに消えて行った。

 後に残った楠穫は、大きく溜め息を吐くと、どかりと椅子に座り、加えていた煙草に火を付けて、一言。

 「……私が一番、知っているさ。そんな事は。……ずっと見て来たんだ」

 一気に煙草を吸いつくすと、吸い殻を灰皿に押しつけて小さく呟いた。
 座ったまま窓から、何かを考えるように空を見上げる。空には春からの鳶が飛んでいた。

 古出玲央が、親戚達と共に探しに来るまで、彼女は微動だにしなかった。




     ●




 八島絵手紙。

 『洩矢五官』の『権祝』八島家に生を受けたお姉さん。
 綺麗に手入れされた黒髪を伸ばし、眼鏡をかけた姿は、真面目で理知的な文学少女の雰囲気が有る。まあ実際は文学より数学が好みだったらしいし、専攻は政治経済に経営や神学。節操がないラインナップであって、その中に文学は殆ど無いそうだ。

 「元気そうだね」

 口調は簡潔。声も、棒と言う感じ。ともすればキツイ感じを受けるかもしれないが、背筋が伸びた佇まいと、物静かな美貌は多くの男を虜にしそう。全体的な雰囲気はどこか気だるげだ。

 煩わしそうな態度を隠さないが、その割に周囲での厄介事は多い。そして、そのか弱そうな外見から、色々と面倒事に巻き込まれることも多いのだが……まあ、大抵の男は簡単に追い払えるほどに、絵手紙さんは強い。今、スリを簡単に投げた手腕からも分かるだろう。地面に転がった男は、私が近寄るよりも早く、華麗な当て身を加えられていた。

 「……はい。絵手紙さんも、お元気そうで」

 「うん。元気だよ? 元気元気。元気すぎて暇」

 絵手紙さんは、要領良く何でも出来るタイプの人間だ。早苗に似ていると言うのだろうか。暇になると自分が必要以上なまでに怠けてしまう事を知っている。だから、大学の授業等も不必要にギッチギチに詰め込み、何かに追われるように過ごしている。変な人だ。私が言えた義理ではないけれども。
 今日も『学園祭があるから』という理由で東京から新幹線で諏訪まで戻って来たのだ。時間を捻出するのは彼女に取っては全く難しくない。羨ましい限りである。

 「お姉ちゃん! 私もいるよ!」

 「うん。よく来たね、紗江ちゃん」

 GWぶりになるか。紗江ちゃんも一緒だった。学園祭と言う事で絵手紙さんが同行させたのだろう。同じ年齢の親戚はいない私達だが――――同世代。次世代、と言う意味では、大学生の姉さん達や紗江ちゃんとは、関係が強い。十歳以上も歳が離れているが、中は良いのだ。基本的に。
 よしよし、と頭を撫でていると絵手紙さんが聞いてくる。

 「取りあえず、気絶させてしまったけど。……何、これ?」

 これ、とは人に使う単語では無かったと思うが、言わずに答えた。

 「ええ。学園祭中に出没した窃盗犯です。捕まえる気は無かったんですが、つい」

 座って懐を物色すると、盗られたと思しき財布が……三つ。内に一つは、あの女の子の物だった。やれやれ、間違いないらしい。直に、教師たちもやって来るだろう。

 「……ふーん」

 絵手紙さんは、ぐりぐり、と土足で倒れたままの男を踏みつけた。彼女はストレートにSである。過去何回に渡り、私と早苗がのされたか。数えるのも面倒なほどだ。優しい部分もあるから慕われているが。

 何を隠そう、彼女は――――この私、古出玲央の格闘の師匠であったりする。
 今の私も相当に、実力があると自負しているが、それでも勝てると思えないくらい強い。そんな人だ。

 『洩矢五官』には、大体の役割分担が有ると前に語ったと思う。『権祝』八島家の仕事は“力”だ。政治的・あるいは武力的な力を有し、敵を排除する役を担っていた。比叡山の僧兵みたいなものである。
 最も、その実力を大っぴらに出す事が無いのは『東風谷』家と同じだ。

 絵手紙さんは、無表情に足で嬲った後、私を見て口を開く。

 「もう一つ。何で玲央は緋袴の巫女装束?」

 「……クラスの宣伝も兼ねていまして」

 元々、仕事でもないのに巫女姿は嫌だったのだ。だが、クラスの勢いには勝てなかった。学園祭前は時間限定。早苗と一緒に数時間だけ、という条件だった筈の、妥協のライン。それが徐々に緩くなり、今日は朝から帰るまでずっと巫女装束である。目立つし、写真は撮られるし、ではっきり言えば鬱陶しい。
 そんな不満を知ってか知らずか。

 「そう。……似合ってるね」

 それだけを言った。

 「あの、お姉ちゃん。時間があるなら、一緒に学園祭回りませんか?」

 紗江ちゃんが、空気を読んで言う。この子本当に良い娘だ。おずおずと自分を伺うその瞳に、嫌と告げる事は私には出来なかった。まあ、教室の仕事は終わらせている。早苗に連絡だけ入れておけば、大学生高校生小学生、三人で歩くのも悪くないだろう。

 背後から、教師達が此方に駆け寄って来る足音を聞きながら、私は頷いたのである。






 その同時刻。

 「先輩。明日、一日だけで結構です。……学園祭、一緒に回ってくれませんか?」

 「…………何のために?」

 「私が、先輩と、デートをしたいからです」

 「…………」

 水鳥先生がいない生徒会室で、早苗と御名方さんの関係が大きく変化する事件が進行していた事を、私が知るのは、翌日の事だった。












 と言う訳で、学園祭はまだ続きます。前後編の前編と言った感じでしょうか。

 これで『洩矢五官』も五人出てきました。重要キャラが揃いつつある感じです。基本、誰一人として話に不必要なオリキャラはいません。『境界恋物語』での反省です)。
 八雲縁が動いていたりもしますが、基本的にこれが彼の精一杯の干渉です。シャリシャリ出ては来ません。彼は飽く迄も裏舞台の一員。勿論、水鳥先生の正体もまだ秘密です。

 次回は――――読者の皆様がパルパルするような話の予定。
 序に、ゆかりんと八坂のターン、の筈。

 なるべく早くにお届けしたいです。

 (8月22日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第十一話 文月(愛逢月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/08/28 21:23

 世代交代は何時の時代も必ず行われる。『洩矢五官』とて例外ではない。年老いた人間は、後進の若い世代に託して退く。それが普通の有り方。例え由緒正しい神社であっても普遍の法則からは逃れられない。

 この所――――洩矢本家における相談が、時折、行われている。

 東風谷家の総主・東風谷千種によれば、次世代の家督相続における候補は以下の通りだ。

 「神長官」東風谷家の跡取りは、東風谷早苗。
 「禰宜大夫」古出家の跡取りは、古出玲央。
 「権祝」八島家の跡取りは、八島絵手紙。
 「凝祝」尾形家の跡取りは、尾形紗江。

 「副祝」御名方の跡取りについては――――その名前を挙げる事は無い。無論、御名方四音の存在を知らない筈がない。知っている。知っていても、敢えてその存在を取り上げようとしていない。
 それまで大社を牽引してきた老婆は、まるで唐突に頑迷固陋に成ったかのように。長年の相棒である古出朱鷺の言葉にも、決して耳を貸さず、御名方四音の存在を口に出す事すらしなかった。

 彼は今、本家では殆ど存在を消すかのように、扱われている。
 まるで、総主の意向に従わず接触を続ける東風谷早苗こそが、間違っているとでも示すように。




 『洩矢』の裏で何が動いていたのか。
 それは、裏で動いている者にしか、分からない事だった。






 異人ミナカタと風祝 第十一話 文月(愛逢月)






 世の中、何が起きるか分からない。朝起きたら芋虫になっていたザムザ氏の驚きようも、きっとこんな感じだったのだろう。驚きの余り間抜けな事に、ポカンと口を空けて呆然と見ている事しか出来なかった。いや、芋虫ザムザが己の口を開けたかは別としても。
 私だけじゃない。学校内でその光景を見かけた人間は、老若男女問わず全員が呆けただろう。其れ位にインパクトが強すぎた。例外と言えば、微笑んでスルーした水鳥先生と、当の本人達だけである。

 「先輩、はい。口を空けて下さい。あーん、て」

 「…………この場所でか」

 「そうです」

 「……仕方がないな」

 御名方さんの口元に、スプーンを持った早苗の手が近付く。
 目の前に差し出されたそれに、彼は静かに、存外に素直に、あん、と開いた。
 百面の中に浮く舌も唇も血の様に紅い。その中にするり、と白い物が流し込まれた。静かに口は閉じられて、味わうように微かに口元が動く。その時に目を閉じるのは癖か。

 「美味しいですか?」

 「…………ああ。こういう味は、嫌いじゃない。――――それに」

 「それに?」

 「氷菓は好きだ。……温かみを感じなくて、済む」

 椅子に座り、向かい合い、三段重ねのアイスをスプーンで食べる二人組が居た。
 場所は諏訪清澄高校の中庭。メイン舞台からほど近い、休憩用の組み立て式のテーブルセット前。当然ながら周囲には学生も一般のお客さまもおり、眉目秀麗な二人組と言う事で注目の的である。
 時は、学園祭三日目の、最終日。最も盛り上がり、出店も割引をして品を捌く日時。
 そして二人組は、早苗と御名方さんだった。

 ――――お前ら一体、何をしてる。

 アイスは、三年生が開いた出店から買ってきたのだろう。近所にある有名な喫茶店の協賛だった。重ねても尚、固すぎず、柔らかすぎない、その絶妙な溶け具合は、私を含め女子高生だけでなく、暑い夏を過ごす多くの市民を魅了する、が……。そう言う話をしているのではない。
 上から下まで真っ黒な衣装の生徒会長と、清楚におしとやかに、それでいて青い色香を振りまく早苗。そんな二人が一緒にいる。いや、もっとはっきり言わせて貰おう。



 早苗が、御名方さんに、その三段重ねを、向かい合って食べさせている事なのだ。
 コーンを片手に、スプーンをもう片手に。先程早苗が言った通り“あーん”と食べさせる格好なのだ。



 大事な事なので二回言った。
 普段の空気とは打って変わって、どう見ても一緒に学園祭を楽しむ恋人同士だ。間の空気も悪くない。御名方さんの態度は普段通りだが、それでも口数は多いし、周囲に不吉さをばらまいてもいない。

 お前ら、殺すだの救うだの、そんな今迄の前ふりは何処に消えた。まさか私が昨日、絵手紙さんや紗江ちゃんと学園祭を巡っているその半日の間に、キングクリムゾン宜しく和睦までの過程が素っ跳んだとでも言うのか? そしてなんか知らないけどくっ付いた、と。まさか!

 ……いや、いけない、完全に混乱している。ここはフィボナッチ数列でも数えて落ち着こう。1、1、2、3,5,8,13、21。数字をカウントする私の前で、早苗と御名方さんは周りを気にも留めず。あるいは、恐らく確信犯的に無視しつつ『食べさせ合い』を続行する。……よし、落ち着いた。

 「先輩。交代しませんか? 私も味わいたいですから」

 「……スプーンはどうする。一緒に使う訳にもいかないだろう」

 「あ、そうですね、……じゃあコーンを渡しますから」

 「………………。こうか」

 「そうです」

 渡されたコーンを掴み、御名方さんは早苗の口元に二段に減ったアイスを運ぶ。
 その表情は相変わらず、仮面の様に微動だにしない。口元もへの字に引き締められたまま。だが、私よりも細くて白い指は、優雅に動いて、早苗の元へ氷菓を届けていた。
 それだけを見れば、外面は異常に良い生徒会長だ。妖的で絵画芸術のような絵になってしまう。最も、美は美でも退廃の美と言う感じだ。

 「はむ」

 最も、早苗がそれを気に留める筈もなく。
 一瞬、スプーンを使おうかと迷ったようだが、流石に間接キスの勇気はなかったのだろう。
 はむはむ、と早苗は差し出されたアイスを齧る。あれで甘い物も好きな早苗だ。程なく、二段のアイスは一段に減ってしまった。周囲の目は気にして欲しかったなあと思う。

 三段アイスは、上から抹茶・バニラ・オレンジ。本格的な夏の到来を思わせる太陽に焙られ、既に随分と弛み始めているが、固く焼かれた厚いコーンのお陰で崩れてはいない。早苗が一段を食べ終わったのを確認すると、そのコーンを、テーブルの上に置かれていたスタンドで支えて。

 「……東風谷」

 御名方さんが、動いた。

 「はい?」

 「動くなよ」

 余りにも自然な動きだった。
 手を使わず、スプーンも使わなかった早苗は、当然ながら口元にクリームが付いていた。最大限、顔を汚さないように注意はしていたらしいが、それでも頬に少し付着していたのだ。静かに立ち上がった御名方さんは、胸元から取り出した白いハンカチで。



 口元を、拭った。



 二人の距離は二十センチもない。近寄った御名方さんは、す、と早苗の頬を抑える様に拭き取って、直ぐに戻ってしまったが。それでも周囲で見ていた者(特に女子)は口元と鼻を押さえていた。美貌に感じ入って色々出しそうになったのだろう。
 まさか“あの”生徒会長が、そんな行動に出るなんて。

 「……どうも、有難うございます」

 「ああ」

 ――――ほっぺたに付いているクリームを拭ってやるなんて、其れなんてカップルな行動だ。おい。

 私の突っ込みが届くはずもない。
 早苗もまさか、そこまで御名方さんが行動するとは思っていなかったのだろう。優秀な分、不意打ちや予測できない攻撃には弱い。昔からそんな感じだったが、今もあんまり変わってはいないらしい。
 うわ、うわあ、と。早苗は、心の中で言葉に成らない声で悶えていた。良い意味で恥ずかしそうな顔をして、ほんのりと染まった頬に手を添えている。ポーカーフェイスを気取っているが、私にだけは分かる。

 だと言うのに、生徒会長の顔には――何も変化がなかった。座った彼は、長い脚を組み、背もたれに寄りかかり、黒く長く艶やかな烏髪を古の魔術師の如く流しながら淡々としている。……こいつもう、殴っても良いんじゃないか。

 「……残りは、東風谷が食べると良い」

 置かれていたコーヒーを静かに飲み、掠れた声で言う。

 「オレンジは苦手でね」

 「……そうなんですか?」

 数分後。何とか心を落ち着かせた早苗は、軽く咳払いをして尋ねた。

 「……ああ。昔、親がイタリアで買って来た、土産の中に香水があった。それを、玄関前で割ってしまった事がある。……翌日、匂いに惹かれたんだろうな。香水を零した部分に、凄まじい数の」

 「ストップ。言わなくて良いです」

 と言うか、言わないで下さい、と力説して、早苗は話題を変える。
 女子の前で、そんな不気味な会話を持ちだすあたり、この男はやはりデリカシーが無い。

 「そうか。……兎に角、そんな経緯があってね。オレンジは嫌いだ」

 「じゃあ、何で注文したんですか?」

 当然とも言えば当然の質問に、御名方さんは、にや、と不気味に微笑んで。
 恐ろしく妖艶な声色で、甘く囁いた。



 「君が、好きそうだったからだ」



 「……っ」

 そんな文句を言った。口元は隠され、表情は伺えない。だが、深い淀んだ瞳は、歪んでいるが故に人を惹き付ける。魅了、とは真逆の意味で相手を捉えて放さない。真っ直ぐと早苗を見る目は、何を写すか。
 だが、今の一言は多分、結構大きなダメージだったと思う。前から言っていたが、生徒会長は顔“は”非常に良い。真剣に見つめられて、耳元で気障なセリフを怪しく聞かされれば、一流のホスト並みに女を落とせるに違いない。いや、下手すれば男も堕ちる。

 早苗の反応を見て、生徒会長は態度を翻す。普段通りに不気味に笑い、椅子に座りなおした。

 「生徒会室で放課後、古出玲央と摘まんでいたから、そう思った。……違ったか?」

 「……違いません、けど。――――先輩、今の台詞は狙ってました?」

 「君がした攻撃に比較すれば、微々たるものだろうな」

 さらりと告げた御名方さんも、告げられた早苗も、態度は普段と色んな意味で違いすぎる。
 まあ、さっきの羞恥プレイへの意趣返しならば、納得できなくもないか。事実、やりますね、とでも言いたげな顔で、早苗は歯噛みしていた。そしてやっぱり、少し照れているのか顔が紅い。
 しかし彼女も負けてはいなかった。

 「そうですか。……じゃあ、聞きます。先輩はどんな味が好きなんですか? 先輩の好み、私全く知らないんですよ」

 「――――聞いてどうする?」

 「手作りのお弁当を作ります。具体的には、来月とか」

 「…………」

 今度は、御名方さんが黙った。RPG的に言えば、急所か痛恨か改心か。
 今更の話だが、そう言えば――――御名方さんが食事を取っている事を殆ど見ていない。ゼリー飲料やビタミン剤、サプリメントが生徒会室に常備されている事は知っていた。弁当でもなければ学食でもない。買い物で済ませている様子もない……となると、まさか普通に食事をする事も、無いのか。
 溶けてコーンに溜まったオレンジアイスを軽く飲んで、早苗は、にっこりと笑って告げる。

 「確か八月でしたよね?」

 「……誰から聞いた」

 「家です」

 「…………そうか」

 困った物だ、と言いたげに顔に蔭を生み、御名方さんは静かに口元を歪めた。多分、笑ったのだろう。
 内容から判断するに「誕生日」だろうか。本家では、御名方のみの字すら出ないらしいのに、パーソナルデータを聞きだしてくるあたり、流石は早苗。
 静かにコーヒーを飲み終えた御名方さんは、そうして静かに立ち上がる。

 「それで、どうする? これで終わりではないだろう?」

 「はい。勿論。……負けませんよ?」

 「…………良いだろう」

 かり、とコーンを食べ終えた早苗も、微妙に黒く笑っていた気がした。内心では随分と緊張しているようだったが。飽く迄も、顔だけは。

 「何処に行く?」

 「先輩と一緒なら、どこでも良いです」

 「…………」

 最後の一言に、明らかに忌々しげな態度を先輩は取る。だが、言葉を否定する事は無い。

 此処に至って、私はやっと大体の事情を理解した。

 要するに――――恋人っぽく振舞ってデートをして、先に負けを認めた方が負け。そんなルールの対決なのだろう。どうしてそんな話に成ったのかは知らないが、きっと早苗が吹っ掛けたに違いない。ラブコメでは良くあるシチュエーションだが、まさか現実で見るとは思わなかった。

 呆けていた生徒達も戻って来たのだろう。周囲でひそひそと噂をする声が聞こえる。やれあの二人は付き合っていたのか、とか。ああ見ると御名方さんは結構好みかも、とか。気楽な物だ。それぞれの本性を良く知っている私には、地雷……とまでは行かないが、火薬で遊んでいるように見えるのに。

 「レオ。と言う訳で、私は先輩とデートですので」

 「……うん。……健闘を祈るよ」

 私の笑いも、多分、半分くらいは乾いていたと思う。
 にこやかに私に告げて、早苗は先輩と連れ添って歩いて行く。周囲に居た学生は、まるでモーゼの十戒の如く、ざざあと列を割る。二人の邪魔を出来る者は、匆々いる訳ではないという再度の証明だった。

 私もまた、彼女達を止める事が出来る筈もない。
 頭に浮かんだ『なんでそんな勝負を二人がしているのだろう?』という疑問を尋ねる事も、出来なかったのである。




     ●




 屋上から、二人を見下ろす影が有った。

 武居大智が転落死した屋上。一般人が誤って侵入しないよう、春以上に厳重に施錠され、生徒は無論、教師と言えども無暗に入り込めない場所になっている。だが彼女達にすれば、それは大した問題では無い。
 鍵など使わずとも扉は開くし、そもそも学校に入らずとも屋上に出る事は出来る。

 「青春ねえ。私にもあんな時代が有ったと思い返せば、なんとなく懐かしいわ」

 「そうなのですか?」

 「そうなのよ」

 くすくす、と笑ったのは女性だ。流れる金髪に、黄金比の豊満な肉体。紫を基調とした高級そうな服を纏い、日傘を肩にかけ、扇で口元を覆っている。男ならば誰でも注目するだろう美女の、何よりも目を惹くのは、どこか見る者を不安にさせる怪しい笑みだ。
 八雲紫。最古の妖怪にして最強の妖怪。賢者とも呼ばれる怪物。

 「確かに私は長生きだけど。でも、若い時はあったわよ。何万年前かは覚えていないけど」

 彼女は、過去を思い出す様に語りかける。最も顔にも瞳にも、懐かしさは浮いていない。
 過去がある事を仄めかしても、過去を語る事は滅多にないのだ。

 「貴方は、どうなのかしら?」

 「……忘れました。そもそも、時代が違いすぎます」

 返すのは、古臭く老練とした声だった。長い時を生きていたと、声だけで他者に理解させる。
 八雲紫が話しかけている相手も人間ではなかった。いや、むしろ此方の方が――――明らかに人間と同じに姿形をしている八雲紫よりも――――遥かにはっきりと、人間ではないと認識できる。

 そこに居たのは、一匹の蛇だった。
 屋上に身を横たえ、チロチロと舌を出しながら八雲紫を見上げている大蛇が居た。

 「そう。神の眷属も大変ね」

 「……貴方の所の式と、似たようなものですから。僕は」

 もしも蛇が溜め息を付けたならば、きっとそうしていただろう。どことなく、中間管理職の悲哀を感じさせる雰囲気を持っていた。

 美女と蛇は会話をしている。その光景は常識ではありえない。眼下に集う人間が見れば、間違いなく騒ぎになるだろう。転落現場に見知らぬ女性がいる事も、噛まれたら大怪我は免れない大蛇が人語を介している事も。
 だが、今この瞬間は、誰一人として屋上に意識を向ける事は無い。
 そういう風に、してあった。

 「神奈子様からの言葉を、お伝えします。……『成り行きに任せる。今迄通りに』と」

 「良いのかしら?」

 「はい。神奈子様は神奈子様で、密かに尽力しておられます」

 「そう。なら、伝えて下さる? 『貴方がたが無事に来られるよう、祈っておりますわ』」

 「……確かに。お伝えします」

 持ち上げた鎌首を、ゆっくりと上下に動かして肯定する。
 そして、ずるりと蛇は動くと身体の向きを変えた。己が主人の元へと帰還するのだ。スキマを開いても良かったが、以前にも同じ事を聞いて丁重に辞退されたので、小さく手を振って見送る事にする。

 「では、紫さま。次に会うまで御達者でお過ごし下さい」

 挨拶として、手の代わりにひらひらと鎖模様の茶色い尾を振る。彼はそのまま、ずるりずるりと屋上の排水溝から、内部へと侵入し消えて行った。移動には学校の水道管や排水管を使うそうだ。
 あの蛇は泳げるし、土にも潜れるらしい。彼女が心配せずとも大丈夫だろう。

 「……さてと」

 どうしようかしら、と少し考えた後、八雲紫は、取りあえずスキマを開いた。
 『洩矢』に行く必要は無い。学校内をうろつくのも一人では味気ない。縁は、今日は「ボーダー商事」で仕事だ。秘書(という名目の)蒼と一緒にアメリカである。

 「……帰りましょうか。博麗神社に寄って、届けられた橙のお財布を回収して」

 その後は、のんびりしよう。そう言えば西瓜を碧が冷やしていた。
 大妖怪の割には、随分と庶民的な八雲紫だった。




     ●




 東風谷早苗は有名だ。学校内で名前を知らない者は、まずいない。
 この地に住む者ならば、毎年何回もお世話になる『洩矢』の娘。頭脳明晰で成績優秀。人格的にもとても好かれ易い。まあ家柄や立場が壁となって高根の花的な扱いもされているが、有名な事には違いない。

 そして、御名方四音も――――今更言うまでも無く有名。二人が連れ添って歩いているのだから、注目されない筈も無い。何処で何をしたのかは、噂に耳を傾ければ直ぐに分かった。

 ……ただ、其れでも友人の恋路(語弊がある)は気になる。
 私はこそこそと、多分、気が付かれている事を承知で二人を尾行していた。

 そして、呆れた。
 二人の行動が、余りにもアレだったからだ。






 「先輩。デートをする時は、連れ添って歩くだけじゃないんですよ?」

 「……一時的接触を要求していると言う事か」

 「そうです」

 「なら選べ。手を繋ぐ。腕を絡める。指を絡める。肩を抱く。腰を抱く。抱き締める。背負う。お姫様抱っこ。肩車をする。二人三脚。二人羽織り。どれか好きなのをだ」

 ここは公衆の面前。廊下である。どれも少し難易度が高すぎやしないか。
 そう思ったが、早苗は選んだ。ごく自然に。少しだけ虚勢を混ぜて。

 「……恋人繋ぎでお願いします」

 「良いだろう」

 御名方さんは、ぐい、と肩を抱くように早苗を引き寄せる。力は無いが、力の入れ方が上手い。
 一歩、両者の距離が近づいたところで、黒の長袖から伸びた手を、目前に掲げた。そのまま早苗の手を取って、ゆっくりと重ねる。早苗の指も御名方四音の指も、平均よりは細い。その指が、間間にしっかりと絡まって、握られた。
 四音の右手と、早苗の左手で、一つの拳が出来る。

 「……これで良いのか?」

 「はい」

 表情が無い生徒会長と対照的に――――早苗の声の中に、ほんの少しだけ嬉しい色が滲んでいた、気がする。
 大胆な行動に、近くを歩いていた中年のご婦人が、あらららまあまあ、とでも言いたげに口元に手を当てて通り過ぎて行った。生徒からの好機と嫉妬の入り混じった視線が、生温かく二人に注がれているが、やっぱりそんな事を気にも留めない。

 結局そのまま、どちらも、手を離そうとはしなかった。

 逃がさないと言う意志なのか。それとも、互いを拘束している意味合いの方が強いのか。きっと裏にあった思いは、愛情では無く、もっと別の理由による物だったのだろうけど。でも、流れる空気が悪いとは決して見えなかったのだ。




 学園祭の出し物と言えば、食品を売るか、展示をするか、小物を売るかである。クラスで一つ。部活で一つが基本であり、運動部ならば代々の伝統の出店を開き、吹奏楽部ならば体育館でも演奏会が開かれたりもする。手を繋いだままの二人は、ふと通りかかった廊下で足を止める。

 廊下の一角に開かれていたのは、学生の個人店だ。生徒会に来た報告書を読む限りでは――――個人的な伝手で、何でも付き合いのある業者から、安く質の良い品を幾つか入荷出来たらしい。中間決済によれば、学校内でも相当の売り上げを誇っていた。
 学生自身にも問題が無かった為、利益は学校にも還元する事、そして部活やクラスでの出店もこなす事、という条件付きで出店を認めたのである。

 「あ、可愛いですね、これ」

 店の説明では『メーカー卸売! 大好評!』と段ボールの看板に銘打たれている。

 「……そうか?」

 「そうですよ」

 「……君の趣味は、良く分からない」

 早苗が取り上げたのは、所謂“ゆる可愛い”感じのマスコットだった。
 少女の顔で出来た饅頭みたいな生物で『ゆっくり』とか言うシリーズだ。製造は「ボーダー商事」。あの会社も随分と節操無く、良く分からん仕事を行っていると思う。 出店の後ろに座っている担当の学生Aは、早苗と御名方さんのペアを興味深げに伺っていた。

 「先輩の趣味だって分からないですよ。……前に伺った時も、色々部屋に置かれていたじゃないですか」

 「アレは、片付けられないだけだ」

 「物理的な意味で、ですか?」

 「さあ」

 早苗と御名方さんの言葉は、公共の場と言う事で穏やかだ。生徒会室でも、その位に平穏に会話をしてくれれば私も心が休まるのだが。
 流石に二人とも、品を物色する間は手を離している。だが、距離は近いし、どう見ても“一緒に回っている”図そのものだった。

 「……欲しいのか」

 「先輩。私は、奢って貰う為に一緒にいる訳では有りません」

 尋ねた御名方さんに、良いです、と返答する。そして『お邪魔しました』と断りを入れて、そのまま二人は進んでいく。残念そうな顔を、店主の学生Aはしていたが、まあ、それが商売だ。
 実際――――早苗と一緒にデートが出来るならば、幾らでも金を出す様な男はいる、と思う。気を惹こうと一生懸命に成って、好いて貰おうと躍起になって。そんな男には、早苗は決して靡かなかった。



 私は御名方四音が嫌いだが。
 でもあの男は、今迄に見た事が無いタイプの人間である事は、否定出来ないのだ。



 「……スイマセン、ゆっくり一つ」

 因みに『ゆっくり』シリーズには一部にコアなファンがいる。私もその一人。慰めと言う訳ではないが、私は店から『ゆっくりマリサ』の携帯ストラップを購入してあげた。金髪の魔女娘がモチーフだ。

 品を懐に入れて、早苗達を伺うと――――再度、二人は肩も近くに、手を繋いでいた。
 どちらから促したのかは、私にも解らなかった。






 それから。

 「あ、先輩。写真を撮りませんか?」

 「写真部か。ツーショットで良いのか」

 「ツーショットが、良いんです」

 「……良いだろう」

 万事が万事、そんな形で進んでいった。
 もしかしたら、二人の頭の中からは、途中から『勝負』の文字は消えていたのかもしれない。そうだったら良いと真剣に思った。

 私が隣にいる時より、少しだけ女の子っぽい顔をした早苗は、当初の恥ずかしい顔も何処へやら。常に御名方さんを引っ張る様に行動していた。
 無愛想で不機嫌そう、殆ど表情を出さない御名方さんは、それでも無言に成る事は無く、素直に早苗に従っていた。

 勿論、手を繋いでいる事の方が多かった。

 「先輩。何処か行きたい場所、有りますか?」

 「図書館だ。――――古書の販売をしているから、少し覗いて行きたい」

 「…………」

 「……一緒に来るか」

 「はい」

 私は途中から、もう二人を目で追うのは適当に成って行った。私も疲れて来たのだ。肉体的には大事がなかったが、精神的に疲弊していった。
 本人達にその気がなくても、惚気を見せられているのと同じだ。

 中でも、家庭科室での一件は、特にごりごりと私の心を削った物だ。




 「……先輩。髪、綺麗ですよね」

 「そうでもない、と思うがな」

 家庭科室の隣に置かれた教室を借りて開かれていたその店は、手芸部が開いた店だ。裁縫道具や、手作りの化粧品や、布で作った日用品などが売られている。店に入って来た二人組に、店員(女子だけしかいなかった)の目は、槍衾の如く突き刺さっていた。

 教室の片隅に置かれた、試着の為の、大鏡。その前には何処からか持ってきた少し大きめの椅子が一つ。
 そこに、御名方四音が腰かけていた。

 「手入れとか、どうやっているんですか?」

 「別に。特に何も。……感覚が鈍い事もあるが、元々新陳代謝は低くてね。髪や爪の伸び方も遅い。汗もかかない。毎日シャワーだけは浴びて入るが、汚れ無いんだ」

 あるいは、外の汚れなど意味がない位に内が危ないのかもしれないけれど。
 そう言った先輩を、駄目ですよそんなこと言っちゃ、と早苗は窘める。

 「……羨ましいです。こんなに綺麗な髪、女子でも滅多に居ないですよ」

 御名方四音を椅子に座らせ、早苗はその背後に立っていた。
 片手で、その髪を撫で付けつつ、もう片手には、店で買ったと思しき少し値の張りそうな櫛が一つ。



 早苗は、御名方四音の長い黒髪を梳いていた。



 丁寧に櫛を通し、真っ黒な髪を梳かす。手つきは優しく、自分の髪よりも大切に扱っている様子さえ見受けられた。男女が逆ではないかと思うが、逆でもこのままでも、目に毒な光景である事は間違いない。
 早苗に弄られても、御名方さんは目を静かに閉じて微動だにしなかった。
 普段は、ただ地面に向かって垂れ下がる形の髪が、真っ直ぐに整理されて流れる。手入れをされずとも怪しい魅力があった御名方さんの顔は、ほんの少しだけ邪気が薄まった感じがした。

 「……東風谷。交代をしよう」

 「はい?」

 「君の髪を、梳いてあげようと――言っている。嫌なら良い」

 「……じゃあ、お願いしても良いですか?」

 「ああ」

 女の命でもある髪に触る承諾を、あっさりと御名方さんは取っていた。

 早苗の髪と瞳は、実際は黒ではない。黒く染めているだけだ。実際は、鮮やかな緑色の地毛を持っている。普通の人間では持てない髪の色なのだ。だから、早苗は決して髪を他者に触らせない。仲の良いクラスの女子にだって触らせない。私の知っている限りでは、故人である早苗の母と、本家の総督と、私達身内だけ。
 その早苗が、御名方さんに髪を梳く事を許す。それは特に、ショックだった。

 「……先輩。お願いしても良いですか?」

 「何をだ」

 「また明日から、髪を梳かすの」

 「………………」 

 流石に、黙った御名方さんだったが。
 最後に、小さく「考えておく」とだけ言った。




 そして学園祭が終わった次の日から、生徒会では度々、二人が長髪を梳き合う姿を見る事になった。




     ●




 その後、二人がどうしたのかは知らない。私も良い加減、嫌になってその場を離れたからだ。

 ……いや、もっと違う理由が、私の中にあった事は否定できない。
 なんとなく二人の間にある物を、理解してしまったからだ。

 私と早苗の間には、友情がある。自分で言うのも何だが、早苗の一番の親友はきっと私だろう。そんな自覚がある。けれども、あの二人の間にある物は違う。敵意か、殺気か、憎悪か。どれかは知らないが、きっと友情よりも太い結びつきを構成する物なのだ。私だから解る。誰よりも早苗に近い私だからこそ。

 今日のデートもそうだ。きっと早苗には理由があった。御名方さんも断りはしなかった。『勝負』の名目で、その裏で何があったかは解らない。でも感覚的に解るのだ。言葉で言う事は出来ない。だが、二人の間には私が見えない“何か”が有る。




 そう気が付いた時に、足元が大きく崩れた気がした。




 二人の今日の行動。ただ楽しみたかったのか。全てが演技だったのか。見えない真意があるのか。ぐるぐると疑問と不安がない交ぜに成った。その思いは、二人を見ていると特に強く成って行った。

 御名方さんの考えている事は解らない。
 でも、早苗の考えている事も――――同じ位、解らなくなってしまった。

 だから私は、目を背けてしまった。それ以上見ていると、何か、今迄の自分が変わってしまう。そう確信してしまった。理由なく、そうであると、ただ分かったのだ。




 きっと、“何か”は諸刃の剣だ。
 私達の関係を繋ぐか、壊すか、周囲に滅茶苦茶に被害を齎すかの。




 学園祭の最後、校庭にキャンプファイヤーが灯された後に成っても、御名方さんと早苗は、私の見える所には戻ってこなかった。本部棟には、私と水鳥先生がいたから運営に支障は無かった。呼び出すのも、探しに行くのも、何となく躊躇ってしまった。
 結局、二人が戻って来たのは、最後の「生徒会からの挨拶」に成った時だ。淡々と挨拶を終えた御名方さんに代わって早苗が皆を盛り上げ、文化祭の実行委員長と一緒に拍手で壇上を降りた。

 火が消えた。気が付けば太陽は沈みきっている。出店が解体や利益の分配、後片付け等は明日に回される。皆、一日中楽しんで疲労しているのだ。三々五々、皆が帰って行く。
 私も早苗と一緒に帰宅したが、正直、道中で何を話したのかを全く覚えていない。




 ただ漠然と。
 見えない所で、知ってはいけない事象が進行していた予感だけを感じ取っていた。






 翌日、一つの噂が流れた。
 最終日の最後。挨拶に来る前に。
 生徒会室で、早苗が御名方さんにキスをしていたと言う――――根も葉もない、噂だった。


 あの学園祭を、早苗と御名方さんは、本当に楽しんでいたのだろうか?















 今回の目標。それは『書いてるこっちが恥ずかしい位に熱い』。
 まあ四音も早苗も演技が入ってますが。でも何割かは素なので、つまり二人の関係は期待出来ると言う事です。……一応言っておきますと『境界恋物語』エンディング時の二人は、本気でこんな感じです。
 でも、やっぱり作者に普通の恋愛は書けないなあ……。
 
 作中でまだ触れてない名有りのオリキャラは、残るは親世代と数人だけです。
 御名方四音、『洩矢』の「五官」、水鳥楠穫、学校関係者、「蛇」。これでほぼ全員が出ました。人じゃないのもいますけど。

 因みに、終始平穏に見えて、トンデモナイ『爆弾』が裏で動いていますが……それが表に出るのは、きっと暫く先の事です。中身を見れば、本気で気持ち悪くなる可能性もありますから。今回のお話。……フフフフフ。

 では、また次回。
 以前に張った伏線を回収し、“あの”東方キャラが出る予定です。

 (8月28日)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第十二話 文月(文披月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/09/02 02:37

 その日の悪夢は、今迄でも指折りの苦痛を伴っていた。


 ――――苦しい。

 ――――苦しい。

 まるで泥の中か、沼の中に沈み込んでいるような感覚。

 ――――息が。

 口を開けると、腐臭の香りと共に、どろりとした闇が流れ込む。
 汚泥は、僕の灰を満たし、消化管を全て埋め尽くし、口から溢れだしても尚、入りこむ。
 どろり、どろりと体中に纏う感触は、泥で有りながら泥では無く。時折、まるで意志を持つかのように体を拘束し、拘束のみならず汚染し、より深い深淵へと導いていく。
 何も見えない。何も聞こえない。己の、もがく息の根だけが泡となって消えて行く。
 足を掴むその感触は、爬虫類のようなぬるりとしか感触で、氷の様に冷たい温度で、僕を深くに運ぶ。

 「くふ、くふふふ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」

 底へと辿る僕の耳元で、笑い声が聞こえた。
 耳にこびり付いて決して消えない、狂気に満ちた哂いだ。
 少女のような、老人のような、人の様な、妖の様な、神の様な、不吉で禍々しい音がする。

 「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくく」

 ざわり、ざわりと、感覚全てが逆立つ。
 髪も肌も、己を握る少女の全てを恐れている。
 だが、逃げることなど出来なかった。

 「くくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくくふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろけろ――――」

 何時までも、何処までも続くと思えた、その哄笑。
 僕の聴覚全てを席巻した狂気は、唐突に止む。

 そして耳元で。
 背後から抱き締めるような格好で、少女が囁いた。

 「絶対に、逃がさないよ」

 ぎゅう、と抱きしめられたその強さに、全身の骨から内臓から、全てがすり潰される。人の身など、所詮は脆い器なのだと言う様に。
 己を包む全てが、己を喰らおうと、呑み込もうと口を開いている。

 そして。
 ぶちり、と僕の頭だけを取り外し、頬ずりするように、少女は僕を抱きあげる。

 「――――お前は私の物だ。私だけのものなんだ。私だけを見ていれば良い。他の誰でもない。私だけを」

 恋い焦がれた、熱い吐息と共に、名前を呼ぶ。

 「四音」

 毒々しく、禍々しく、まるで煮詰めた殺意が固形化したかの様に。
 生首に、甘く甘く、囁いた。






 「――――!!」

 目を開き、意識が覚醒する。

 「――――ぐ、ガッ!!」

 同時、胸に激しい痛みが奔り、僕は声にならない悲鳴を上げた。肩から背筋に。背から全身に伝播する様な鋭い痛み。同時、頭の中が震え、視線が回り、耳元の音が遠くなる。

 その時。その瞬間。
 僕の心臓は、確かに動きを止めていた。

 心臓の鼓動の音。それが、普段は全く気にも留めなかっただけで、実際は意外と大きかったのだとその時、認識した。
 心臓が動かなければ、普通の生物は当然、死ぬ。
 自分が真っ当な人間であるとは思っていなかったが、それでもまだ、生物の範疇には入っているらしい。
 そんな下らない思考が脳裏を掠めたが、身体は全く、動かなかった。

 「!!」

 息すらできない。
 急激に、視界が暗くなっていく。
 腕を伸ばしても、虚しく宙を掻くだけ。
 枕元の薬も、水の入ったコップも、すぐ傍なのに酷く遠い。
 手が震え、意識が揺らぎ、苦痛と闇の中。
 苦痛が遠ざかり、冥府へ運ばれる。

 脳裏に何かが過る。自分か、自分ではない誰かか。親の顔か。他人の顔か。いや、他人ではないだろう。一瞬、記憶の中の知らない人間の顔が浮かび、飛沫のように消え、それきり二度と浮かんでこない。

 意識が、ずわあ、と下がって行った。
 何処までも落下していく感覚。
 狂気の声が、幻聴として鳴り響く。

 今、この傍らに――――あの少女は、いるのだろうか。いるかもしれない。いないかもしれない。解るのは、きっと僕が死ねば、僕は彼女の手に落ちると言う事だけ。

 それも良いのかもしれない。頭の中で、微かに過った思考は。

 ■■。■■■■■。
 ■■は、■■■■■■■。

 何かに、妨害をされたように、溶けて消えた。
 それを疑問に思う暇も無い。腕から力が抜けていく。心臓を抑えていた掌も痺れている。頭痛が遠くなり、意識が何処かに消えていく。

 死が寸前にある、その今際に。

 「――――四音! 死なせないぞ! お前が死んだら“まいる”に顔向けが出来ないからな!」

 遠く、水鳥楠穫の声を聞いていた気がする。






 異人ミナカタと風祝 第十二話 文月(文披月)






 学園祭が終わって、早い物で二週間が経過した。

 「先輩。吹奏楽部から、夏休みの合宿の申請が来てますよー」

 「…………渡せ」

 ちょいちょい、と指で合図をした御名方さんは、早苗が渡した書類に目を通す。以前と同じく、腐った魚の様な瞳に変化は無い。だが、前髪は手入れされていて鬱陶しさは軽減されている。

 因みに、御名方さんの前髪は、早苗が『先輩。もう少し顔を出した方が美人ですよ!』と勢いで押し切って手を出したのだ。そこで嫌だと言わない辺り、早苗との力関係は以前よりはっきりしている気がする。
 数秒で書類を読み終えた御名方さんは、手に持っていた万年筆でサインを書き、机の上の印鑑を押して。

 「――――」

 無言で、早苗に手渡した。

 「はい、確かに」

 てきぱきと、たった二人で実質的な仕事を進めている。相変わらず事務処理能力は凄まじく高い。
 清澄学園生徒会は、相も変わらず平常運転である。

 「あのさあ、古出さん。あの二人、何時もああなの?」

 「そうだよ、織戸さん」




 学園祭以後、あの二人の関係の何が変化したのかと言えば、実は殆ど変化していない。あれだけ周囲を呆れさせたデートをしていたと言うのに、次の日からは平然と。それこそ、昨日の事は何でもなかったかのように、今迄通りだった。
 クラスでも多少冷やかされたのだが、早苗は笑顔で『はい。楽しかったですよ』と言っただけで、それ以上は言及しなかった。風の噂である生徒会室でのキス云々は、もっと強い笑顔で否定された。その威圧感に、それ以上の追及を出来た人間はいなかった。

 「……で、どうだったのさ。本当は」

 「ああ、あれは見間違いですよ」

 学園祭の翌日。後片付けに皆が追われ、放課後は成功を祝っての打ち上げ会を心待ちにしている頃。
 こっそり尋ねた私に、早苗は事情を解説してくれた。
 最初から、あの日の行動を説明するとこうなるそうだ。

 「先輩が、私と行動してくれたのは、純粋に“対価“を払ったからです」

 「――――対価?」

 大雑把にしか掴めないが……御名方四音が早苗と学園祭で行動していたのは、早苗から情報を得る為だったという解釈で良いのだろうか?
 女子に『デートして下さい』と言われ、代わりに情報寄こせ、とは。相変わらず捻くれ者だ。
 それでも良いとデートに持ち込んで、彼と一日中一緒に過ごした早苗も頑固で捻くれているが。

 「……対価って何さ」

 早苗と御名方さんの事だ。色目かしい事ではないだろう。そもそもあの生徒会長に、通常の人間の恋愛感情があるとも思えないし。それに何処か達観していて、下半身(まあ、女子の私が色々言うのもどうかと思うが)の問題だって考えた事すらない気もしている。……水鳥先生との怪しい関係は兎も角としてだ。
 女子が御名方さんと一緒にいて感じる不安は、良くある『襲われないか』よりも『殺されないか』『呪われないか』だろうし。

 「先輩の、ご両親の情報です。先輩自身、特にお母様については、知らなかった部分が多かったらしいですからね。しっかり約束してくれました」

 「……なるほど」

 御名方さんも、人の子で有る以上両親がいる。お父さんの方は知っているが、お母さんの方は私の与り知らぬ情報だ。三司さんが入り婿であるならば、当然ながら『御名方』の家督を継いでいたのは彼の母親と言う事に成る。
 考えてみれば、御名方四音の親と私達の親は、同じ世代ではないか。ならば本家に情報が残っていて当然。私も御名方さんも両親は既に亡く、早苗も母を失くしている。だが、早苗のお父さんは存命中だ。毎日都会で精力的に働いている。娘思いの良い人だから、聞けば応えてくれるだろう。

 「そう言う事です」

 解りましたか? と尋ねる早苗。納得しながら、私は一番気に成っている部分を追求した。

 「……じゃあ、キス云々、ってのは」

 「向きですよ。ほら。耳に、ひそひそ声で話を伝える格好でしたから。暗がりなら、身体の向きによってはキスしているように見えますよね。マウストゥマウスではなくて、頬へのキスですけど」

 そう言えば、どんなキスだったかも確認していなかったか。きっと早苗と御名方さんの関係に、自分でも気が付かない位に動揺していたと言う事だ。流石に花も恥じらう乙女。同姓でのキスならば、早苗の初めての相手は多分私だろうが、異性への接吻は、まだか。少し安心だ。
 ……これで、早苗が普通にキス出来る位、御名方四音の事を思っている、とかだったら、本当にどんな反応をして良いのか分からないし。

 「……その、情報の内容は?」

 「ごめんなさい。レオ。それは他言無用なんです」

 「……了解」

 ま、慣れ切った事だ。肩を軽く竦め、私は天覧に使った暗幕を畳む事にした。
 そんな会話から二週間。結局、二人の関係は改善されていない。御名方四音は変わらず、虎視眈々と水面下で早苗抹殺の計画を進行させているようである。いや、確信がある訳ではないが、恐らくそうだ。

 不幸な事件が、このところ結構多いのだ。

 佐倉幕。学園祭前に、圧殺されかけた新聞部員。彼女の周りとか。
 蟹瓦浩輔。音楽好きの体育教師で、生徒指導も行っている男性とかに。

 例えば、スクープをゲットしようと一心不乱だった幕さんが、赤信号に気が付かず轢かれかけたとか。
 例えば、いよいよ修理が開始された屋上フェンスの工具が落下し、巡回中の先生の頭にぶつかった(幸いにしてヘルメットを被っていたし、工具自体はごく軽い物だった)とか。
 例えば、夏の暑さでお弁当が痛み、危うく食中毒に成りかけたとか。

 そんな、事故なのか偶然なのか悪意なのか、区別がつかない事件が結構――多い。不運にも思えるからか、不穏な空気に気が付いているのは一部だけだろう。御名方四音の暗躍は、そう言う部分が怖い。……正直、かなり嫌な流れだ。

 「気にしてもしょうが有りませんよ、レオ」

 そう言った早苗だった。

 「大丈夫です。……私が、何とかしますから」

 その時の彼女は、自信にあふれた強い目をしていた。まあ長年一緒に連れ添ってきたのだ。彼女がこういう目をする時はきっと秘策を持っているに違いない。はっきりした事は言えないが、早苗は早苗なりの――御名方さんを“何とかする”方法を持っているのだろう。
 現状、油断はしていないが、私はその言葉を信じている。




 「先輩。水泳部から合宿の許可証が申請されてます」

 「……渡せ。と言うか他の部活関係も纏めてよこせ」

 「はいはい」

 日常の裏で、如何なる策動があるのか。その片鱗を微塵も示さず、御名方さんは日々を送っている。
 阿吽の呼吸で仕事をこなす二人の姿は、お似合いだ。裏の姿さえ知らなければ、十分に良い相棒同士に見える。私の傍らで、本日の生徒会活動記録を記入していた武居さんも同じ気持ちなのだろう。シンクロするように、溜め息を付いていた。

 「古出。溜め息を吐く暇が有るなら茶を入れろ。……そろそろ、薬の時間だ」

 「へいへい」

 自分でも、やる気のないだなと思いながら立ち上がり、備え付けのガスコンロに。慣れた手つきで薬缶に火を懸け、急須と湯呑みを出す。まあ毎日の雑用の一つである。

 タイマーと温度計をセットして、振り向きざまに傲岸不遜な生徒会長の様子を伺えば、忙しく両手を動かしていた。早苗から渡された書類を片手で裁き、片手で鞄から薬の袋を出す。
 薬が、昔懐かしい薬包紙に包まれている所を見るに、きっと先輩への特注の品なのだろう。

 タイマーが鳴るまで、再度椅子に戻って腰掛けた私に、丁寧に筆を走らせていた武居さんが尋ねた。

 「古出。貴方、毎日こんな環境で仕事をしてたの?」

 「そうだよ。苦労が分かるでしょ?」

 「うん」

 あ、そうそう。折角だから報告しておこう。

 生徒会の真役員・役職は『書記』。
 武居織戸である。




     ●




 武居織戸。

 今更ながらの紹介になるが、私と早苗のクラスメイトで、四月に転落死した武居大智さんの妹である。四月、高校に入学したばかりの時は高校デビューを目論見、中学校に輪を懸けて遊んでいる空気を持っていたが――――兄の死に感じ入った物があったのだろう。神妙に反省し、逆高校デビューをした。

 生活態度も真面目に成り、化粧も抑え目に成り、服や装飾品を「派手ではないけれどもセンスがある」利巧な使い方で際立たせ、序に言えば勉強も結構真剣にやるようになった。まあ、清澄高校のレベルは元々高い方なので、地力はある事は知っていたが。それでも態度が変わると周囲の目も変わる。

 大智さんの死から三ヶ月が経過した今では、すっかり“良い子”の評価に落ち着いていると言う訳だ。

 「先輩。どうですか?」

 「――――本気で彼女を生徒会に入れたいと?」

 「そうです」

 「駄目だと言ったら?」

 「諦めません」

 「…………」

 そんな彼女が生徒会入りしたのは……まあ、必然的な、成り行きだった。
 今年は、とんでもなく優秀な役員二名がいるから、三人だけでも生徒会は動いている。しかし来年は御名方さんも三年生。会長職から抜ける。そうなれば、結果は火を見るよりも明らかだ。

 それに――――



 ――――この先、東風谷早苗がこの場所から居なくなる可能性だってある――――



 ――――のだから。だったら今の内に行動しておいた方が良い。

 かくして私達が選んだのが、武居さんだったという訳である。

 「で、古出さん。私は何をすれば良いの?」

 「取りあえず、御名方さんが『適当に』纏めたこれが」

 よっこらせ、と命令されて運んで来た報告書を机に置く。どの紙にも神経質なまでに整った字が書き込まれており、一日の仕事の詳細が記録されていた。

 「御名方さんが会長になってから、今日までの議事録だって。パンチで穴開けて、日付通りに並べて、ファイリングして欲しいだってさ」

 珍しく、私に懇切丁寧に語った上で、仕事を渡して来た。学園祭が終わってから、早苗への態度は戻っている。しかし反動が私や織戸に来ているのかもしれない。そんな風にも思っている。
 はっきり言おう。不気味だ。今迄の犯行が、全て天竜川の故事に見立てられている以上、多分、私達が狙われる事は無い、のだろうが。それでも不気味な物が不気味なのである。

 「……分かった」

 机の上には、優に200枚を超える紙の束が積み上がっていた。御名方さんが昨年に会長職を引き継いでから、今日に至るまで、およそ二百数十日間にも渡る活動記録だ。これだけの議事録、今迄何処に保管しておいたのかと疑問に思って尋ねたら。

 『自分の頭の中だ。……武居織戸が書記として入る事を認めたからな。記憶の中から引っ張り出しておいた。読み易いように纏めるのは任せる』

 そんな風に返されてしまった。半年以上の活動記録を、己の頭の中に保管していたならば――早苗が言っていた『御名方さんは、本気で頭が良い。桁が違う、正真正銘の天才です』という言葉も凄く納得できる。だが、敢えて言うならばその頭、もっと別の場所に使って欲しかった。

 「御名方さん曰く、全部書いてあるから、議事録として読み易く情報を取捨選択するのは任せる、だってさ。過去の議事録を参照して、読み手のレベルに下げろだと」

 「……これ、全部読むの?」

 「大丈夫。私を手伝うよ」

 一番上に置かれていた議事録を見ると、去年の年末の活動報告が記されている。内容は――――やれ、今日も一日特に何もなかっただの。水鳥先生に××の書類を頼んだだの。須賀長船が顔を見せて鬱陶しかっただの。なんちゃらに関するアンケート結果がどの部活だけ出されていないだの。そう言った事が、事細かに記されていた。

 「無駄な情報もあるからね。何れにせよ、今季の活動報告は作る必要があるみたいだし」

 因みに、御名方さんは何の嫌がらせか、議事録の中を随分とフリーダムに書いてあった。日本語の中に、妙に英語、漢文、古典等の単語が混ざっている。それに多分……良く分からん字。英語に似ているが、英語ではない。ヨーロッパの方の、区別が出来ない言語まであった。
 本当に、無駄な方向にしか発揮されない頭脳だ。

 「しかもさあ、これ。ギリギリ私達が、頑張れば読み解けるレベルに成っているのが、もっと嫌だ」

 愚痴混じりに言った言葉を、御名方さんは鼻で笑って無視し、早苗は。

 「……まあ、頑張って下さい」

 流石の早苗も、200枚の議事録には半笑いだった。かくして、この二週間。私達は二人で、大量の書類を裁いている(物凄く間違っている気がするが、嘘ではない)のだった。




 蛇足だが。

 「先輩、有難うございます」

 「…………」

 「議事録の中に、難しくなり過ぎないように英単語や、各教科の頻出単語を混ぜ込んで問題を造れるのは、先輩だけでした」

 「…………」

 「あれで、きっとレオや武居さんの成績も上がりますね。ふふっ」

 「東風谷。……本家の情報は、忘れるな」

 「はい。勿論」

 そんな裏話が有ったと言う事を知るのは、夏休み前の期末試験の終わった後だったりする。




     ●




 さて、その他、色々と語りたい事は多いのだが。

 其れは、追々に話すとして、だ。
 目下の所、最も重要だろう話をしよう。

 「重要な話がある」

 とある日の放課後、水鳥先生は私達を集めて言った。普段、殆ど生徒会の仕事に口を挟まず、教師として関われる程度に止めている先生だが、行動力や才能は、早苗や御名方さんでも感心し、一目を置く程に凄い事は、今更言うまでも無い話である。
 その彼女が重大な、と言うからには、きっと重大なのだ。
 生徒会室に、沈黙が下りた所で、先生は口を開く。

 「夏休み。……生徒会は、毎年合宿を行っているんだ。その話でな」

 夏休みの合宿。響きだけを聞けば、凄く楽しそうなイベントだ。そもそも生徒会が合宿に行って何をするのだろう。要するに遊びに行く、という認識で良いのか?

 「……あの、具体的に、どの辺が重要なんですか?」

 おずおず、と質問をする武居さん。まだ入ってからの日日が浅いせいで、空気に適応しきれていなかったりする。

 「毎年、行先は役員で決定できる。山に行くかとか、いや海だとか、都会のテーマパークに行こうだとか、世界遺産だとか。……流石に海外は無いがな。で、今年はどうしようかと迷っていたんだが――――この前の学園祭の時、友人から、合宿に丁度良い場所を紹介された」

 懐から、少し厚みのある封筒を取り出し、先生は告げる。

 「色々、プランも考えたんだがな。結局、友人の紹介を受ける事にしたよ」

 「あの、すいません。……先生が、独断で決めたんですか?」

 思わず、私の口に付いて出た言葉を。

 「そうだ。重要な話だっただろう?」

 笑顔で肯定した。悪びれている様子も無かった。
 ……確かに重要だった。いや、夏休みは一日中、普段出来ない巫女の仕事を、修業も兼ねて毎日毎日繰り返しやらされるから、合宿自体は良いのだが。でも、独断ってのは少し“ない”のではないだろうか。

 「日程や持ち物は、また連絡をする。とにかく今は、夏休み中に合宿を行う事だけ承知しておいて欲しい。……まだ二週間はあるからな。親御さんに連絡すれば、十分、日程の調節は可能だろう」

 全員が楽しめる計画にしたからな、と先生は笑う。美人の癖に男前な笑顔だ。
 その笑顔を見て、ああ、これは反対は出来ないなと悟らざるを得なかった。

 「先生。場所はどこですか?」

 手を挙げて尋ねた早苗に、良く聞いてくれた、と頷く。




 「場所は――――新潟県。佐渡島だ」
















 佐渡と言ったら、最新作に登場のあの人です。

 文章が気持ち悪い。そう感想を頂く為に、敢えてこんな文を書きました。……自分でも引きますよ。今回の悪夢は。四音は毎日毎夜毎晩、こんな夢を365日見てます。そりゃ精神がねじ曲がって当たり前です。自殺しないだけ凄いです。――自殺なんかさせてくれないんですけどね!

 さて、次回も日常(という名の伏線ばら撒き)編。意外な「あの娘」が登場します。今回が上とすれば、次回は中ですね。ヒントは「心臓」。そして、四音の家に有った“とある道具”。……バレバレですね。

 一言でも感想を頂けるとモチベーションが上がる、と思います。

 ではまた次回!

 (9月1日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第十三話 文月(蘭月)
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/09/12 00:51


 夏休みも目前に控え、期末テストも終わった月末。
 その日、本気で危ない場所が有る事を知った。




 からり、と恐る恐る玄関の扉を開けると、生温かい、ぬるい風を頬に感じ取った。
 地域で有名な、襤褸屋敷。決して古い訳ではない。朽ち果てている訳でもない。だが、どこか寂れた空気を伝える、陰気な屋敷。御名方四音の住む家に、鍵は懸かっていなかった。

 「――」

 ごくり、と思わず息を飲む。家は住宅地にあり、今も炉端では老婆が世間話をし、犬を引いた女性が散歩がてら歩んでいる。休日の、なんら変わらない片町の風景。だが、その温かく賑やかな空気が、屋敷の中には届いていない。家の中と、家の外。それが見えない壁で区切られているようにすら感じられた。

 「……お邪魔、します」

 誰に言うまでも無く、静かに一歩、玄関に足を踏み入れる。コンクリート造りの玄関には、揃えて並べられた黒靴が一足。御名方四音の物だ。彼は家にいるのだろう。
 しん、とした部屋の中。乾いた、黴臭く――――葬式のような家の中だ。古い畳の匂いも、長い時を刻んだ梁も、カチコチと静かに時を数える古びた時計も、静寂を引きたてる一要素でしかない。
 外の音は何も届かない。いや、耳に聞こえているが――――何処か、遠い。それは、意識を一点に集中させた者には、周囲の音が耳に入らないのと似ていた。自分の意識が家の中に向いている。神経が尖っている。否応なしに、家が持つ空気を全身で感じ取る事に、全身を傾けているのだ。

 それは、この屋敷の持つ――――空気だ。
 まるで闇が手招くか、深淵が引きずり込むか、どこか異界に迷い込んでしまったのか。踏み込んだが最後、恐怖で心が鋭敏になってしまう。そして、周囲の全てに感覚を向けなければ怖くなってしまう。

 ――――ギシ。

 少し離れた所で、床が鳴る音がした。確か、古出玲央が語っていたか。この家は古い。誰かが廊下を歩むと軋み、まるで天然の鶯張りになっているのだと。

 (……さあ、御対面、ですね)

 己を叱咤して、彼女は御名方四音が出てくるのを待つ。身体に走る震えは武者震いだと言い聞かせる。額に浮かぶのは冷や汗だと誤魔化す。心が、逃げた方が良いと囁いている。だが無理やりに抑え込み、彼女は静かに待った。
 一秒が一時間に。須臾が永遠に。まるで時間が引き延ばされた感覚。長年使われ、しかし人の気配が染みついていない不気味な屋敷には、なにか別の物が憑いていると思わせるに十分だった。

 ――――ギシッ。

 床を踏む音は、徐々に大きくなる。歩みは静かで、そして一定だ。家鳴りに集中するのを避けるように、彼女は大きく息を吸った。すう、という息の音は――静まり返った屋敷に響く。吐き出す息は荒かった。
 かちかち、と時計が針を刻む。針の進み方は、どこか不安定だ。止まったり進んだりを繰り返しているのかもしれない。だが、その長針と短針は、確かに今の時間を指している。音だけが揺れ動き、針は決して間違えない……。どんなに遅れようとも、秒針がぶれようとも、その針が、“何時の間にか正しい時間を指している”――――まるで、そんな事象が、正しいと思ってしまうような。

 ――――ギシィ。

 足音は、より近い。そろそろ、対面だ。彼女は心に気合を入れ直し、びっしょりと汗をかいた掌をズボンの裾で拭う。真夏の筈が、妙に肌寒い。温度差まで異様なのだろうか。
 これは、この恐怖を文字で表せという天のお告げだ。そう思う事にする。学校でも悪名高い生徒会長。洩矢の巫女とその親友の弱みを握り、手籠めにしている悪逆非道な男。まあ所詮は噂だが、要するにそんな噂が流れる位に危険人物扱いされている人間に、記者の魂が騒いだのだ。此処で退く訳にはいかない。
 それにだ。この家は、昔から怪しかった。住んでいる人間は少ない筈なのに、妙に人の気配が有る。その割に生活感が異常に少ない。庭も、手入れされていない癖に殆ど様子が変わらず、時の流れから断絶してすらいるのではと疑念を抱かせる。そんな家だ。御名方四音が住んでいなくとも、何れ来てみたいとは思っていた。

 ――――ギシ。

 足音が止まった。畳敷きの広間には、90度曲がった形で廊下が配置されている。つまり玄関から建物の奥を覗く事は出来ず、境目の廊下を閉めてしまえば四角いだけの空間になってしまう。それなのに。
 壁には幾つかの扉や襖が有ったが、その何れもが今にも開きそうな印象。あるいは、ほんの微かに開いて、人ではない何かが覗きこんでいるような印象を、齎して来る。
 さっさと廊下の戸を引き開けて、出て来てくれないだろうか。この際、御名方四音でも良い。一人きりでいると、心がどうしようもなく騒いでしまうのだ。
 その思いが通じたのか。
 ――――カラリ、と玄関と廊下を繋ぐ扉が開き。




 ――――それだけだった。




 「……。……え」

 しん、と静まり返った周囲からは、他のどんな音も聞こえてこない。先程までの、床を歩く軋む音もだ。
 廊下と隔てていた扉は開いたまま。だが、そこから御名方四音が顔を出す事も無い。てっきり、驚かそうとしているのだ。そう思って、時計の針を眺めるが――――不安定な秒針が一回転しても尚、誰かが出てくる気配は無かった。

 「……あのー。御名方、さん?」

 言葉が途切れているのは、内心の不安の表れだった。誰かが出てくる気配は無い。いや、それどころか。
 床を踏む音が無くなって、気がついた。
 廊下の影に居る筈の、人の気配が、微塵も感じられない。

 「――――」

 こめかみから流れた汗が顎を伝うに至って、彼女は体が硬直している事に気がついた。
 帰った方が良い。また学校で話を伺おう。そう言い聞かせる。ゆっくり一歩、後ろに下がって。




 玄関の扉が、閉ざされている事に気がついた。




 「――――っ!!」

 古い引き戸だ。横に動かす扉は、必ず大きな音を出す。まして神経は鋭敏で、必要以上に周囲の物音には注目していた。その癖、全く気が付かなかった。扉が閉まっていた事に。
 慌てて扉を開こうとする。だが開かない。鍵が懸かっている訳でもない。固い訳でもない。まるで扉が壁に成ってしまったかのように、微動だにしない。慌てて、ガタガタと枠を動かし扉を大きく叩く。

 「……ちょ、なんで! 何で開かないの!?」

 恐慌状態だった。恐怖への限界を越えれば、人間は容易くパニックに陥ってしまう。
 好奇心は猫をも殺す。そんな格言が脳裏をよぎったが、既に遅かった。

 ――――ギシィ。

 床を踏む音が聞こえた。




 自分の直ぐ、真後ろから。




 ギグ、と。振り向こうにも、身体が機械のように硬直して動けなかった。
 余りにも突然に。まるで現象だけがその場所に現れたかのように。
 床を踏む音がしたと思えば、何かの気配がある。僅かな身体の動き、息の音、衣服が擦れる音。それらが伝わって来る。明確な何者かの痕跡だ。たった一つ。……人の気配がない事を除いては。

 「――――!!」

 廊下から玄関に目を向けて僅か十数秒。何時だ。何時の間に、背後に存在していた。
 彼女を急き立てるのは、それだけではない。背後に立つ、何か。そう、何かとしか思えない物がいる。気配は真っ当な物ではない。振り向いてはいけない。それが解る。理性やら感覚やら、そう言った物を越えて教えて来るのだ。

 ――――本気で、ヤバイと。

 心に囁く、振り向けという意志を押しとどめる。見てはいけない。見たら、必ず終わる。何が終わるのかを考えるまでも無い。自分が終わる。ガチガチと震える歯を食いしばって、彼女は耐える事しか出来なかった。
 唐突に。

 「    」

 人間とはとても思えない声で。
 肩に置かれた手は。
 まるで泥の塊か、腐敗した人体の如くに醜悪な掌であると視界の片隅で認識し――――。




 そこから先は、覚えていない。
 次に目覚めた時は、自宅のベッドの上だった。




 この日以降。
 彼女は――――佐倉幕は、御名方四音には二度と関わらない事を、心に固く誓った。
 だが、それが手遅れだったと知るのは、もう少しだけ後の話。






 異人ミナカタと風祝 第十三話 文月(蘭月)






 まどろみから覚醒すると、枕元に水鳥楠穫が居た。

 身体が冷たい。全身が汗でびっしょりと濡れ、筋肉は強張っている。
 光源は一つしかない部屋だ。だが夜目は利く。天井付近のオレンジの蛍光灯が、ぼうっと部屋を照らす中、目を開けると水鳥先生が、瞑想のように目を閉じて静かに座っていた。存在には驚かなかったが、枕元に居た事に驚いた。ほんの少しだけ。

 きし、と胸元が軋む。静かに息をすると、先程までの苦痛を証明するかのように――――僅かに、胸元が痛んだ。心臓だけでなく、肋骨にも支障が出ているかもしれない。

 「……起きたか」

 呻いた声に、静かに目を開けて彼女が語りかける。目も声も穏やかだ。
 神出鬼没だと思うが……この人は。いや、人じゃないのだろうが。彼女が空間を渡れる事は、少し前から承知の上だった。

 「……どうも」

 声は擦れていた。喉から絞り出された、引き攣った様な音だった。

 「ああ。起きるな。寝ていろ。……お前、また死にかけたぞ」

 「……そう、ですか」

 「助かるかは、武の悪い賭けだった。――――運が良かっただけだよ。お前が今回、死ななかったのは」

 死にかけた。でも死んではいない。いや、偶然に死ななかった、だけだろう。
 真綿で首を絞める様に、嬲る様に殺される。悪夢に苛まれ、その反動が身体を蝕む。今回はかなり危なかった。結果として息をしているだけの事。悪夢自体を解決しない限り、僕の命は永くないのだと思う。
 “汚く生き延びているから苦痛が続いている”と言う言い方が正しい気すら、するのだ。

 「……起こしてくれませんか?」

 「良いのか?」

 「はい。……少しだけ」

 腹筋を使って起き上がろうにも、身体に力が入らなかった。背中を押されて身体を起こす。

 起き上がって、確信した。見覚えの無い部屋だ。天井にオレンジ色の蛍光灯が輝いていた時点で変だと思った。少し前に切れて、そのままだったからだ。
 寝ている寝具も煎餅布団では無く、簡素ではあるが清潔な病院のパイプベッドだった。布団も、シーツも枕も真っ白。部屋は、古びた木の香りが漂っている。色のコントラストだけを見れば、自宅と変わりは無いが、不吉さや陰気さは雲泥の差だ。勿論、我が家が泥である。
 カーテンが引かれていて外の様子は伺えない。だが多分、夕方から明け方までの間だろう。体内時計がそう教えてくれた。

 「……事情を、説明して貰って良いですか?」

 夢の中で、泥に引きずり込まれて。
 無数の狂った哂い声に包まれて。
 心臓の拍動が止まって、倒れ込んだ時に――――水鳥楠穫が駆けこんで来たところまでは、覚えている。

 「私が気付いて乗り込んだ時には、お前は倒れて心臓が止まり、呼吸も危なかった。……取りあえず、心臓マッサージに人工呼吸をして応急手当。多少強引だったが、それで息は戻った。で、今回は放っておくのも不味いと思ってな……。知り合いの医者の所に、運び込んだと言う訳だ」

 「……それは、どうも」

 「照れ臭いか?」

 「――――いえ。昔からの付き合いですし」

 感謝をするべきだろう。人工呼吸の部分も含めて。礼儀としては。
 だがキス程度、今さらという感じがする。そもそも風呂に一緒に入った事だって有った。昔は。
 父親の死もかなり昔の事だ。母親など、記憶にも殆ど残っていない。東風谷早苗から聞いた“情報”には、一日を同伴した価値が有ったが、それだけだ。御名方四音が未だに人間として――――真っ当からは離れていても――――過ごす事が出来るのは、水鳥楠穫の恩恵に依る所が大きい。
 つかず離れず、距離感こそ絶妙な位置を保っているが、概念とすれば、きっと彼女は親だ。

 『お前の母親に悪いぞ、それは』

 そう言って、その昔に笑顔で否定されて以来、二度と口に出してはいないが。

 「……ところで、此処は、何処ですか?」

 ふと、尋ねてみたくなった。
 彼女の知り合いの医者。普通の医者ではないだろう。並みの医者では、僕の容体を聞けば、手を投げて降参するか(遅いか早いかの違いはあっても)、研究するかだ。表に出せない裏の医者なのだろうか。
 水鳥楠穫ならば、その位の伝手は十分に持っていそうだが。

 「ここか。ここは――――」

 ふむ、と一旦腕を組み、どう説明したものか、と考えた末に静かに、短く場所だけを告げた。

 「こう呼ばれているよ。……『永遠亭』とね」




     ●



 次に目を覚ました時は、既に太陽が昇っていた。
 とはいっても、空が少しだけ明るい程度だ。強い光は差し込んでこない。
 開かれたカーテンの奥には、先端が見えない程に高く伸びた青竹が、有り得ない密度で繁殖していた。竹藪が何処まで続くのかもわからない。緑色に遮られ、館は常に薄暗い。

 こんな建物の中にいれば、きっと時間も解らないだろう。
 永遠亭、という屋敷の名前を思い出す。

 「…………」

 確か今日は、土曜日だ。
 今日と明日。二日間を使って、思い切り静養するのも悪くは無いだろう。
 あの狂った蛙が、静養させてくれるかどうかは――――別としても。

 「……無理だな」

 結論など、言うまでも無かった。
 小さく吸い込んだ空気は、今迄嗅いだ事がない程に清浄だった。長野県も、都会に比較すれば随分と空気も水も綺麗だが、それとは一線を画す。まるで人間が立ち入らない、仮に立ち入ったとすれば遭難は必至とも言える、奥深い自然の中の香りだ。最高級のサナトリウムでも、きっとこうはいかない。

 古く時代を感じさせる木造の建物。緑色の中に隠れるような屋敷。
 どこか、洩矢神社の本殿に近い物を感じさせた。

 「……御馳走様でした」

 十分後。
 寝台の前に置かれた、軽めの朝食。和風の味付けをしたスープの中に、パンと卵を落としこんだ一品だった。僕の食事量を考えてくれたらしく、マグカップに一杯分。滅多にまともな食事をしない僕でも、全て食べてしまう。そんな質と量だ。
 トレイを頭の上に乗せた兎が、零すことなく運んできてくれた時には、何だかなと思ったが気にしない。ここは“そう言う場所”なのだ。そう心の中で解っていたからだと思う。

 スプーンを置いて、少し自分の身体を見る。昨日の寝巻ではない。誰かが交換してくれたのだ。
 無駄足を踏ませたな、と思いながら部屋の中を観察していると、ノックの後で水鳥楠穫が入って来た。

 「少しだけ調子が戻ったらしいな」

 安心したぞ、と僕が完食した椀を見て、笑った彼女は言う。

 「取りあえず、顔を見せに行こう」

 「……誰にですか?」

 「お前を診察する、医者の所にさ」

 立てるか? と促されて、僕は静かに肯定する。
 彼女の気遣いは嫌いではない。同情とは違う、決して揺るがない理由の上に成立しているからだ。無為の優しさは煩わしいだけだが、根の張った想いを蹴り飛ばすほど残酷でもなかった。
 廊下に出ると、夏の筈が妙に涼しい。冷房機能が有るのだろうか、と思って水鳥楠穫に聞いてみると『常時稼働している訳ではないがな』との事だった。詳しい言及を避けている――――有るには有るが使い難い、と解釈をしよう。

 病室から、すぐ隣の部屋。
 歩いて5メートルもしない内に、通された。
 水鳥楠穫に同伴されて、僕が入った部屋には、三名の女性がいた。
 その内の二名は、もう暫く前から顔を知っている女性だった。

 「…………」

 見覚えのある顔だ。金髪碧眼の美女と、銀髪の美少女。
 名を、グリューネ・E・クロウリーと稲葉鈴。
 本名かはさておき、僕はそう名前を聞いている。
 最後の一人。見覚えの無い女性は、診察室の椅子に座っている。赤と青のツートンカラーのナース服(らしき衣装)の上から白衣を羽織った、銀髪で長身の美女だ。年齢は不明だが、大人の色香を持っていた。

 「……なるほど」

 グリューネさんが、僕に軽く目で微笑んだのを確認する。

 「……そう言う事ですか」

 何月かに一回。僕に薬を渡してくれている二人が此処にいる。

 元々、僕は薬を服用している。それは皆が知っている事実だ。その薬は、父親が死んで以後、本格的に“向こう”からの浸食がヤバくなり始めた僕を見かねて、水鳥楠穫が渡してくれた物だった。
 表向きは『父親がボーダー商事の一員で、その伝手を今でも使っている』となっている。古出玲央もそう思っている筈だ。……それは間違いではない。だが、完全な事実でもないのだ。『父親が所属していたという名目を利用し、ボーダー商事から水鳥楠穫が手に入れて来た』が、正しい。

 要するに、だ。
 僕は水鳥楠穫に紹介されるまで、薬を飲んだ事は無かったし。
 家に二人を来訪させたのも、水鳥楠穫だったということである。

 その二人が此処にいる。と言う事は――――難しく考える必要も無い。

 「あら、理解が早くて結構ね」

 僕の言葉に、ツートンカラーの女性が感心したように微笑した。

 「初めまして、ね? 御名方四音。……私が薬師の、八意永琳よ」

 この女性。
 八意永琳が、僕の薬を造っている薬剤師で、そして水鳥楠穫の知っている凄腕の医者だと言う事だ。
 この際、彼女達の正体については、何も言及しない事にする。

 「……貴方、賢いわね」

 僕の目線に、何かを感じ取ったのか。
 恐らく、僕が知る中で最も優れた頭脳を持っていそうな彼女は、怪しい笑顔で言った。

 「知るべき事と、知るべきではない事。両方を理解出来る人間は少ないわ。その見極めが出来る人間も。大抵は、知るべき事を知ろうとしないか、知らなくても良い事を知ろうとするか、そのどちらか。貴方はどちらでもない。この場所や、私達についてを尋ねようとはせず、その代わり――――己が知るべき事は解っている。ええ、そう言う賢い人間は、嫌いではないわ」

 真意は見えない。見えないが、多分、楽しんでいるのだと思う。
 人間ではない――――と言う事は、彼女も水鳥楠穫と同じく、人ではないと言う事か。まあ僕だって人間かと言われればギリギリ人間の範疇だが、そろそろ逸脱しかけている。敢えて口に出す必要も無い。
 人間と人外の境目など、あって無い様なもの。違いなど些細なことだ。人を襲うとか恐怖の対象であるとか。だったら僕もそう違いはしない。

 「さて、まず前提を一つ。貴方は、根本的な原因を潰さない限り治りません。貴方が呪いを解除する。そうなって初めて悪夢と苦痛は消えます。――――私の薬は、苦痛を取り除き、悪夢に伴うダメージを回復させる事は出来ますけれども、ね。常時責め立てている『祟り』を切り離す事は出来ないわ」

 淡々と情報を伝える。初めからそう言ってくれる辺り、世辞や虚偽とは無縁の人らしい。
 その方が僕も気楽だ。

 「では何故、貴方を見るか? それは簡単な話。……貴方が呪われている背景には、私も関係しているからよ」

 「……何が、どう関係しているのかは」

 「秘密。貴方には直接は関係ないもの。それに――――関係が有るとすれば、尋ね先は私ではなく、楠穫の方が詳しいわよ?」

 「…………」

 聞いても答えてくれそうになかった。ならば尋ねるのは無粋と言う物だ。
 祟られている僕だが、触ってはいけない存在を見極める事は上手いつもりである。

 八意さんは、背後にいた稲葉さん(優曇華と呼んでいた。彼女の名か)に何かを囁き、部屋から退出させる。誰かを連れてこいと言っていた。僕に合わせる相手なのかもしれない。
 グリューネさんはグリューネさんで『では、私はエルと外来に居ます』と言い残して出て行った。エルが誰だかは知らないが、一般の客も来ている事が以外だった。

 部屋の中に、僕と八意永琳と水鳥楠穫。
 三名だけが残される。何をされるのか、と少しだけ身体に緊張が走ったが――――それを自力で解放した。水鳥楠穫が連れて来たのだ。ならば信じよう。

 「それじゃあ診療を始めましょう」

 彼女は、静かに掌を僕に向けて。
 くすり、と頬笑み、呟いた。




 ――『胡蝶夢丸ナイトメア』――




 視界が、霞んだ。




     ●




 夢と記憶は密接な関係が有る。安心なさい。心に踏み込みはしないから。

 そんな声が響いた時には、僕の視界は白く染まっていた。霞みか霧か、唯白いだけの世界だ。夢の中。記憶の中に有る限りでは、悪夢しか見なかった僕にとって――――ただ、普通に夢の中の漂う体感は、初めてだった。
 ゆらゆらと揺れる空気は、仄かな温かみを伝えて来る。悪くない感触だ。

 八意永琳は薬師だと言った。それも、あらゆる分野に効果を齎す薬師だと。抗鬱剤や栄養剤、興奮作用のある薬。そう言った薬が巷には溢れている。ならば心療も診療もお手の物と言う事か。
 起きているかは解らない。だが、思考能力と冷静さと、彼女の問いかけに答える意志は残っていた。




 ――貴方の名前は。
 御名方四音。

 ――生年月日は。
 198……9年、8月8日。

 ――家族は。
 既に、亡い。

 ――では、記憶に残っている家族は。
 父親だけ。

 ――両親の名前は。
 父親は、御名方三司。
 母親は……御名方、参。……まいる?

 ――では、両親の死亡動機は。
 父親は、今から8年前。1998年の――『御柱祭』の下社・木落坂で死亡。
 母親は、……病死とだけ。

 ――父親の事は、何処まで知っていますか。
 ……地元の高校を卒業後、東京の大学に進学。その後、外資系企業『ボーダー商事』に入社。日本を拠点に貿易に携わる。海外出張も多く、当時の土産が家に残っている。……後、母の病死を契機に退社したそうですが、僕にその記憶はありません。――――稼いだ遺産と人脈を基に資金を運用し、投資で利益を上げる。……その遺産は、現在は僕の名義になっている。

 ――貴方の家には、何が有る?
 色々と。生活に必要な物は全て。

 ――父親が持ってきたもので、印象に強く残っている物に、何が有ったかしら。
 ……人形。オルゴール。時計。お守り、など。

 ――良いわ。では次、貴方の母親の事を話して?
 ……全然、全く知りません。

 ――それは、何故?
 何故か、と言えば……。………………。

 ――疑問に思った事は無い?
 ……なかったですね。




 質問は続いて行く。
 冷静に、順当に。
 僕が答えを持たない、幾つかの疑問を生みだしながら。




 ――質問を変えましょう。貴方の身近にいる人物を一名、上げて下さい。
 水鳥楠穫。

 ――では、全く関心がない人物を一名、上げて下さい。
 誰でも。僕の関心が有る人間は、両手の数で足ります。それでも敢えて無関心な相手を言うならば、入り婿だった父方の親類縁者です。僕の金しか見ていません。

 ――では、最も気にしている人物を一人、上げて下さい。
 ……東風谷早苗。

 ――彼女を上げた理由は?
 ……嫌でも、僕に近い場所にいるからです。

 ――彼女の事をどれくらい知っていますか?
 ……東風谷早苗。16歳。五官の祝『神長官』の跡取り。人ならざる血の発言か、髪と瞳は緑色。普段は其々、髪染めとカラーコンタクトをしている。現在は後継者としての修業を積みながら、師でもあり現『神長官』でもある祖母・東風谷千種と生活中。母親は既に他界。父親は健在だが東京に単身赴任し、国家公務員。……親友の古出玲央と共に、学校生活を満喫し、生徒会に。権謀術数を巡らせている。……なお、古出玲央と共に中学校時代は、当時通っていた学校を裏から支配していたと言われている。

 ――では、彼女を。
 ――彼女を、貴方は、どんな風に思っていますか?
 …………。
 ………………。

 ――言い変えましょう。
 ――貴方は、本当に。
 ――本当に東風谷早苗を、殺したいのかしら?
 当然です。

 ――即答できるのね。
 ――そう。ならば何も言わないわ。……では、最後。
 ――貴方は、自分がなぜ、呪われているのか。
 ……知りません。

 ――なら、私から言う事は一言だけよ。
 ――『思い出し』なさい。御名方四音。
 ――遠い遠い、遥か過去の記憶。
 ――“前の貴方”の事をね。




 くすり、と微笑んだ八意永琳は。
 ここではない、何処か遠い時代を見ていた気がした。




     ●




 月曜日。既に学校も夏休みに入る直前であり、空気も何処か浮ついている。そんな明るさを、どこか遠くに感じながら、御名方四音は常の如く生徒会室にいた。
 仕事は無い。殆ど全て終わらせてしまっている。それでも学校に来ていたのは、成績を確認する為だ。内申評価は実は悪い四音だが、生徒会長という題目で緩和されるし、テストの成績は文句が付けようがない。そんな結果は良く知っていたが……まあ、それでも顔は出したのだ。

 「お早う」

 「…………」

 お早うございます、と小さく、入室してきた水鳥楠穫に頭を下げる。
 ごく一部の相手にだけは、四音は其れなりの対応をする。

 「調子は、良さそうだな」

 「……お陰さまで」

 四音は、感情を表に出さずに淡々と頷いた。
 あの後、目が覚めた時には再度、隣室で横に成っていた。それまでの問答が全て夢であったかの錯覚さえ受けた。応答は記憶に刻まれている。むしろカウンセリングに近かった八意永琳の診察は、四音に僅かながらの変化を与えていた。

 (――僕自身が知らない、何かが有る、か)

 心情的な変化ではない。天才の四音が、僅かに自分を自覚しただけの話。
 自分の記憶も、案外頼りにならないらしい。
 八意永琳は、僕に『前の自分を思い出せ』と言った。その意味の推測は……全くない訳ではない。
 ヒントは己の中に有る。自分が解らない事を探すのは久しぶりだ。だから、少しだけ気分が高揚しているのかもしれない。きっと他の人間には、何も変わらずに見えるのだろうけれど。

 「なあ、四音」

 「はい」

 「……どうだった?」

 「有意義では有りました。……面白い少女にも会えましたし」

 目覚めた後に、一人の少女と対面させられた。何処かで見た覚えが有る、一人の少女だ。いや、少女と言う程育ってはいない。まるで幼女。金の髪に菫色のドレスを着た女の子。

 名前を、メディスン、と言ったか。
 優曇華と呼ばれていた彼女が、僕の診察の合間に呼んで来たらしい。

 『貴方。……昔、私を持っていた人ね』

 一目で分かった。
 昔、父親は人形を買って来た。古風な、古びた人形。どこで手に入れたかは知らないが、随分と変な土産物だった。結局アンティークとして硝子の箱に入り、家に陳列されていたが――――人形は、何時の間にか姿を消し、今では部屋の片隅に虚ろな硝子箱が置かれているだけである。
 東風谷や古出も知っている筈だ。彼女達が家に訊ねて来た時もガラスケースは其処に有った。誰一人ケースを開ける事も無いまま、寂しく放り出されている。もう暫く前から。
 中身の彼女は、盗まれたのかもしれない。彼女が勝手に消えたのかもしれない。四音は消えた時も、対して驚きはしなかった。まあ、そう言う事もあるだろう。悪夢に比較すれば、全然なんともない事だった。
 だが――――。

 『何かな、お嬢さん』

 『捨てた人間は癪だけど、私は貴方のお陰でもあるわ』

 一つ分かった事は、その人形が、妖となってこの場所に来ていた事実。過程は知らない。彼女に興味も無い。だが、少なくとも彼女の存在の一端に関わっている。そう考えれば、案外、忌み嫌われる性質も悪いばかりではないのだろう。今も御名方の屋敷に化物の一匹や二匹いても、全く変ではないのだし。
 そう考えると、途端にデメリットやリスクが些細な事に思えて来た。

 『だから心臓に効く、お呪い』

 そう言って、特性の薬を投与してくれた。彼女の住んでいると言う、鈴蘭畑の力だ。鈴蘭の花は心臓に強心効果が有る。八意永琳の診療・治療と相まって、健康状態は少しだけ良くなった。普通に出歩いて心臓が悲鳴を上げない。
 その普通は正直、少しだけ有り難い。普通に戻るつもりはないが、擬態をするつもりはあるのだ。少なくとも目的を達成するまでは。

 「……ええ、経験と言う意味では、他とは一線を画します」

 そう。有意義では有った。色々な意味で。時間こそ短かったが、あの『永遠亭』での“会合”は、四音にとっても良い物を得たと実感させた。言葉にすれば、実感させただけ、という非常に短く簡単な一言に成ってしまう。けれども。

 「……久しぶりです、こんな感覚は」

 心が大きく動くのは、四月に感じて以来だ。
 八意永琳との接触は、自分に――――ある意味、確かに薬を投与した。自分が知らない、自分が知るべき事実が有る事を教えてくれた。効果はあった。だが、薬には必ず副作用がある。

 「――  っ」

 くふう、と大きく息を吐いて、生徒会室から窓の外を見る。
 あの時あの入学式で。東風谷早苗を見た時に四音の心は揺れ動いた。喜怒哀楽を封じ込めたのが何時の時分だったか覚えていない。悪夢に魘され、苛まされる度、心は摩耗し感情を消して行った。そうでなければきっと壊れてしまっていた。




 四音は、渇いているのだ。何よりも自分の心が渇いている。
 だから、心を動かしたい。
 どんな感情でも構わない。
 ただ、呪いによって喪失した感情が、何かで戻ればそれで良い。




 東風谷早苗を、本当に殺したいのか?

 八意永琳はそう言った。ああ、勿論だとも。僕は彼女を殺したい。悪夢の中の少女と、何かが重なっている。勘や推測ではない。それは確固たる確信だ。呪いと東風谷は、そして多分ミシャグチと洩矢は繋がっている。鍵は自分と彼女だ。だから、御名方四音は彼女に固執している。
 何より、彼女への殺意は心を呼び起こす。彼女を殺そうと思っている時は、自分が普通の人間に戻った様な錯覚を受けるのだ。だから東風谷早苗を殺したくて殺したくて、どうしようもなく堪らない。
 歪んでいる自覚はある。人の道から外れている自覚もある。けれども。

 「……先生」

 「何だ」

 昇降口に、女子高生二人の姿を見た。明るい古出と、清楚な東風谷と。二人は連れ添って歩いている。楽しそうだ。何を話しているのだろう。夏休みの話だろうか。
 古出が、自分の視線に気がついた。姿を見て指をさす。口の動きは――――オハヨウゴザイマス。読唇術で読んだ。嫌っている事は知っていたが、公私混同はしない。良い娘だ。そして“都合の良い”娘でもある。

 腕で自分の身体を抱き締めるように。まるで、そうでもしないと意志に従って、体が動きだしてしまうと示すかのように。狂おしい程の激情が暴れ出さないように。
 四音は彼女を見て呟いた。




 「古出玲央を殺すと……東風谷早苗は、どうしますかね?」






 翌日。
 先代生徒会長・佐倉帳が――――消息を絶った。














 誕生日とか御柱祭の日程とか、細かい数字は最新の話が正しいです。直しておこう。

 御名方四音。一日だけの《幻想入り》。序に、メディスンとの繋がりも回収。この辺は追々、八雲縁あたりが無駄に解説してくれると思います。家には結構、他にもフラグが有ったりしますよ。
 そして段々と超スペックが明かされる水鳥楠穫。何者なんでしょうね。この人(人じゃないですが)。

 ともあれ、時期は八月に……。こっから、やっと御名方四音が主人公っぽくなります。
 ではまた次回!

 (9月12日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 番外編 ~『御船祭』と封印と~
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2011/09/17 20:50

 「何時の時代も、人間と言う生き物は対して違いが無くてね……。技術が発達しようが、文明が育とうが、量子の重ね合わせに気が付こうが――――行動の指針や意識自体は、対して変化が出ないんだな。自分達が理解できない物を恐れて隔離したり、欲望に任せて行動した揚句竹箆返しを恐れたり、と。正直、本能ではないかと思えるほどだ」

 「いつの時代も、ですか?」

 「そう。神代の時代から今日に至るまで。――――裏に有るのは、何処までも自己中心的な保身の力さ」

 縁様は胡散臭く笑った。






 異人ミナカタと風祝 番外編 ~『御船祭』と封印と~






 「橙。船の概念を知っているかな」

 その日は、珍しくも家に閻魔様が来ていた日だった。

 閻魔と言っても四季映姫・ヤマザナドゥではない。もう二つほど階級が上の閻魔様。八雲家が昔から懇意にしていて、藍様、簧様とも関わりが深い、泰山府君だ。大雑把な話を聞いた事しかないが、その昔、藍様が紫様の式ではなく人間に非常な悪さをしていた頃に中国で出会ったそうである。
 身体も大きく、豪快で、歴戦の猛者という貫禄を与える泰山府君様。豪快に酒を飲み、豪快に肴を摘まみ、縁様を相手に色々な話をして帰って行った。酒の席に同席していたのは、森近霖之助(被害者1)とカノン(被害者2)さん、碧ねぇ様だ。三人が倒れる位の酒を飲んで、それでもケロっとして足取りも軽かった。
 またなあ、と手を振って帰った彼を追いかえした縁様は、蒼様に片付けを手伝わせていた。紫様はお友達の蓮子さんと出かけて行っている。私は、料理を出す藍様の手伝いをしていたけれども、部屋の中は燦々たる有様だ。畳みから壁まで、酒の匂いが染み付いている。

 窓を開けて空気を入れ替え、酒瓶と皿を台所に運び、台を拭いて座布団を戻す。
 やれやれ、と一息を付いた所で縁様は、カットした氷と飲み物を、酔い覚ましに運んで来た。倒れた三名は隣室に運ばれていた。
 そして、唐突に私に話題を振ったのである。

 「船の概念、ですか?」

 死神から連想したのかもしれない。
 縁様も相当に酔っているのだろう。目つきが鋭い。薄い笑みも相まって、どこか剣呑だ。
 倒れていないのは、酌をしている事が多かったからだと思う。

 「そう。船。と言っても橙も海に浮かぶ船を見た経験は、数えるほどしかないだろうけど。……それでも木船や聖輦船や、死神の船は知っているだろう。あの概念の事だ」

 海は知っている。少し前に八雲家御一同で海に行った事が有った。なんでも外国の海に浮かぶ無人島を買い取ったとか何とか……。詳しい事は知らないけれど、兎に角、私達の正体がばれる事も無く、危険も無い。そんな島で海は体験済みだった。泳げない橙は、吊りと砂遊びだけだったが。
 そして、船は―――― 一般常識だ。ただし、概念となると如何だろうか?

 縁さまの見方は独特だ。面白い、思いもよらない理論を展開される。それが本当に正しいのかは橙には判断が出来ないが……。でも、何となく為に成る様な気はしていた。

 「……うーんと、渡る物、ですか?」

 「おしい」

 良い線を言っている、と頷きながら硝子の器にジュースを注ぎ、私に手渡してくれた。少し前に、紫様が天人から貰った桃を絞った物だ。冷たくて美味しいのである。
 有難うございます、と私はお礼を言って、縁様の隣に腰をおろした。

 「船は、渡るだけのものじゃない。……注目すべきは、何処を渡るか、だ」

 「……何処を」

 「そう。海に限らず、川でも空でも、何処でも良いが……船とは流れる物の上に置かれる物だ。そして流れる物とは即ち境界なのさ。顕界と冥界の境界であり、彼岸と此岸の境界でも有る。以前、橙には話しただろうが――――筒とは異界への出入り口だ。門のように開閉する物ではない。常に開いている、通り抜けると別の場所に繋がってしまう物だ。……それに対して、船とは境界を渡る性質を持っている。――――だから三途の川を渡る時、死神は船を使うし、聖輦船は魔界に行く事が出来る」

 「なるほど」

 まあ渡るだけで境界への干渉とは全く別の話だけれどね、と付け加えた。
 瓶詰めの桃ジュースを、もう一杯注ぎ、余った分を私に渡してくれる。美味しいが少し甘い。もう少し氷で薄めた方が飲み易いかもしれない。縁様に頼んで、氷の塊が入った容器を貸して貰った。

 「橙。『御船祭』を知っているかな?」

 「……えっと、熊野のお祭りですか?」

 確か、何年か前の神無月に連れて行って貰った記憶が有る。

 「うん。『御船祭(みふねまつり)』は熊野だね。……実は“みふね”ではなく“おふね”と読む祭りもある。北茨城の佐波波地祇(さわわちぎ)神社。千葉館山の相浜神社。信州松本の須々岐水(すすきがわ)神社。安曇野の穂高神社と熊野神社。それに――諏訪の守矢神社でも行われる行事だ。――――青峰信仰でも有名だが、向こうは寺の話だから別の機会にしよう」

 「それが、何かあるんですか?」

 私の質問に、縁様は怪しげに笑う。こういう笑顔は、紫様に良く似ているのだ。

 「細部は違うが、『御船祭』は――――船(山車)を陸地で動かす。動かして練り歩き、目的地まで向かう。……不思議な事に――――御船祭と名を冠している癖に、実際に水の上に船を浮かべて祀る神社は殆ど無い。さきほど並べた中では、熊野速玉大社ぐらいで、その熊野速玉大社でも目的ははっきりしている。……つまり水の上を浮かべて走る以上に、船の上に“何か”を乗せて運ぶ目的の方が強いんだ。さっきの話に繋げれば『境界を越えさせる』意味合いの方が強い」

 お酒が入ると饒舌になる。それが縁様だった。

 「では、何を乗せて運ぶのか? 答えは二種類しかない。『神霊』か『怨霊』か、そのどちらかさ。……熊野の場合は『神霊』。洩矢の場合は『怨霊』だ」

 神霊。怨霊。どちらも橙には余り馴染みがない単語だ。

 「神霊の説明は、まあ敢えてする必要も無いだろう。人の欲や信仰心や――――要するに『想い』が形となって現れた物だ。力は霊だけに幽かだが、その数は一つの目安に成る。良い神社には多くの神霊が集まるし、逆に言えば神霊が集まっている所には何かが有るわけだ。――――そうだね、大体……今から4年後くらいかな? その位の時期になれば、橙にも凄く分かり易い異変が発生するから待っていると良い。飛鳥時代の古ーい知り合いが、こっちにやって来ると思うからね」

 縁様の予測能力は、まず外れない。なんで解るのか、と言えばそれが縁様の力だからだ。戦闘能力は私より上くらいの縁様だが、こと頭脳と言う部分に限定すれば、非常に凄い。
 飛鳥時代の偉人でも、海千山千で万年以上を生きる二人に懸かれば掌の上と言う事なのかもしれない。

 「では『怨霊』と『神霊』は何が違うか? 怨霊とは、強い恨みを持って死んだ生物の幽霊の事だ。神霊は自己の存在の為に存在しているが、怨霊は他者の為に存在をしている。言いかえれば――――神霊は(その想いがどうであれ)自分に意志が向いているが、怨霊は周囲に被害を齎すのさ」

 縁様は、近くに有った白紙と筆を取って、さらさらと書く。
 こんな感じだ、と私に見せてくれた。



 ・幽霊――――存在の痕跡。性質は、嘗て存在していた生前(生物に限らず、物質でもあり得る)の気質による。騒霊もこの仲間。自分の憑く対象を見つければ、存在は固定される。

 ・亡霊――――意志の具現化。強い想いによって死後も留まっている。性質は、今尚も(何処かに)存在する肉体による。その為、存在は固定されている。

 ・神霊――――意志の具現化。ただし寄代が無く、想いの間に存在している。性質は宿った場所による。

 ・怨霊――――意志の具現化。亡霊よりも想いの強さが大きく、尚且つ対象は己以外である。幽霊と亡霊の両者の特徴を持ち、性質は気質を齎し、肉体も必ずしも必要とする訳ではない。

 ・御霊――――手厚く祀られた怨霊。



 「『怨霊』にもなれるのは、元々非常に優れた才能を持つ者だったり、非常に特殊な事情を持つ事が多い。生贄や人柱だったり、敵を持っていたり。特殊なシチュエーションを持つが故に、死後もその力を発揮できるという感じかな……。だから『怨霊』に成れる者は、生前から色々と複雑な事情を持っているのさ」

 「なるほど」

 凄く解り易かった。

 「魅魔みたいな『悪霊』の定義は少し難しいけれどね……。僕は名無しの――――要するに恨みを抱いて死んで行った――――悪意を振りまく亡霊の集合体みたいな物じゃないかと思っている。……さて、長々と話した所で、今日はここまでにしよう」

 縁様の話は、其処で終わった。立ち上がって、氷と器を台所に運んで行く。
 藍様の台所の片付けも終わり、碧ねぇ様が隣室から頭を押さえながら這い出て来た。水、と呻いていた所を、縁様に支えられて運ばれていく。戻って来た時には、すっかり顔も素面に戻っていた。流石だ。
 そろそろ休む時間だろうか。橙がそう思っていると、唐突に空中にスキマが開く。

 「ただいまあ……」

 高揚した声と共に、ずるっと紫様が抜け出してきた。顔が赤いし、眼も潤んでいる。お友達との会合を経て、随分とご機嫌らしかった。

 「お帰り。……丁度、休む所だ。――――部屋まで運ぼうか?」

 「お願いー」

 くたっとした紫様を、縁様は軽く持ち上げる。所謂『お姫様だっこ』の格好だ。ご丁寧な事に、紫様も縁様の首元に手を回している。色々と目に毒だった。
 まあ、お二人の関係は私が口を挟んで良い物ではないので、見ないふりをする。

 「あ、そう言えば縁様。……蒼様はどちらですか?」

 簧様の姿が見えないのは何時もの事だから良いとしても、蒼様が居ない理由は解らない。
 私の質問に、縁様は、ちょっとだけ怪しく笑って。

 「ちょっとお使いだ。――――伊勢の刀鍛冶の所までね」

 一刀さんの所まで行っている、そうである。
 縁様は、それじゃあ、お休み。そう言って、それ以上は語らなかった。先程までの饒舌は何処に投げ捨てたのか、あっさりと寝室へ行ってしまった。変わり身が早いと言うよりか、既に話す事への関心が薄れているように見えた。

 私は思った。
 もしかして、紫様が帰って来るまでの暇潰しに付き合わされただけ? ――――って。




     ●




 「橙。人が最も弱くなる瞬間は、何時だか知っているかな」

 「……解らないです」

 その話の続きは、数日後の――――『白玉楼』での稽古の後だった。

 修行は、魂魄佳夜さんが見てくれる。妖夢さんのお母さん・佳夜さんは、非常識なまでの剣の使い手で、失踪した妖忌さんから直々に家督を譲られた人だ。魂魄流の免許皆伝であり、私と妖夢さんどころか、近接戦闘に限定すれば藍様や紫様とも互角以上に戦える恐ろしい人である。
 最も、肉体は人間レベルだし、能力と剣技に偏っている部分はあるらしいけれど。

 『お茶でも飲んでいくと良いよ』

 そう言われた私と縁様は、言葉に甘えて庭を見ながら休んでいた。一緒に修業をしていた妖夢さんは、まだ鍛錬が半分も残っているそうだ。頑張って、とエールを送っておいた。

 『白玉楼』の庭は、白石と岩で構成された枯山水。勿論、木々が生える艶やかな庭もあるのだが、縁側に面している部分は白と黒の世界である。屋敷が建造されたのは室町時代より、かなり前らしいので――何故、枯山水が有るのかは謎だ。
 でも景色は良いし、春の桜とのコントラストも美しい。お茶とお茶受けが揃えば、怖いものなしだ。

 「うん。今日の修業は中々だったね」

 「ハードでした……」

 何時もの修業の倍くらい疲れた。普段は、簧様や碧ねぇ様が相手をしてくれる。時々、他の友達とも実戦を踏む。でも、全然付いていけなかった。
 普段は優しい魂魄家の当主は、いざ鍛錬となると鬼だった。容赦なかった。毎日、あの修業を受ける魂魄妖夢を尊敬したい。心から橙は思ったのだ。

 「まあ、橙。君が自分で望んだ事だ。止めたいなら何時でも言いなさい。止めさせてあげるから」

 「いえ、……頑張ります」

 「そうか」

 私も、ちょっと色々思う所が有って修業をしているのだ。藍様は止めたけど、過保護はいけないわ、という他の皆の言葉に、渋々ながらも同意してくれた。藍様の愛情は嬉しいのだけれど、一緒だと修業にならないので、代わりに縁様が同行していると言う訳である。
 『白玉楼』には色んな幽霊が居て、働いている幽霊もいる。そんな一体に差し出されたお茶を飲んで、ふう、と一息を付いていた時、縁様が口を開いたのだ。

 ――――人が最も弱くなる瞬間は、何時か。

 「橙。人は……もとい、生物はね。自分が罪悪感を持った時に、最も弱くなる。――――野生の獣は罪悪感を覚えない。弱肉強食の世界では、戦いに負けた者こそが弱いからだ。その価値観が消える時、結果として勝利の二文字を掴んでいたとしても……結局、勝者は利益を手に入れる事が出来ない。橙。猫の君ならば、容易に想像できるだろう」

 その言葉に、私は頷く。昔、藍様に拾われるずっと前。ずっと昔。私はそうやって生きていた。
 弱者に同情を向ける事や、倫理観を欠落させる事とは違う。正当なる勝ちには、それに見合った報酬があったし、それを手に入れる権利が有った。むしろ勝利の結果を自ら手放す事は、勝ったという事実への侮辱だったかもしれない。

 「橙。僕の言葉の意味がわかるかい? 逆に言えば、だ。……相手に罪悪感を上付ければ、それだけで強者を縛る事が出来るんだよ」

 え、という顔で、私は縁様を見た。

 その目は、美しい景色を眺めている。顔も態度も普段のままだ。けれども、何故かぞくりとした。背筋に、良く分からない不安が奔った。紫様を見た時に感じる、曖昧な不安定さ。それが現れた感じだ。

 《幻想郷》を守る賢者。八雲の縁。紫様の相方。

 私に危険を加える人ではない事は、これ以上なく知っている。優しい、お父さんみたいな人だ。けれどやっぱり、とても怖い存在だ。この地を守る為ならば、いとも簡単に、えげつなく外道な方法を――――この人が何も躊躇う事無く行動出来る事を、私は知っている。
 また、何かを企んでいるのだろうか?
 私の顔に現れた不安に、苦笑いで縁様は返す。

 「そう怖がらなくて良い。……大体の手筈を整えつつあるだけさ」

 「?? ――――手筈?」

 「何、ちょっと色々とね」

 訳が分からない私に、気にしないで良い、と縁様は微笑んだ。
 これ以上、決して話してくれない。そう悟った私は、静かに黙る事にした。




 勿論、この時、橙は全く知らなかった。

 紅魔館ではプロジェクト・スミヨシが稼働し始めている事も。
 八雲紫が、博麗霊夢に神卸しの稽古を付け始めている事も。
 月で流れ始めた不穏な噂に、綿月姉妹が地上に目を向け始めている事も。
 その裏で、縁様が計画している深謀遠慮の言葉でも尚浅い、月を相手にした一大計画が進んでいる事も。

 知らない方が幸せな事実も世の中にはあるのである。




 「強さとは不変ではない。例えば、戦いじゃ僕は八意永琳に勝ち目はないが、でも勝つ方法はあるし、思い付けるし、実行できる。強者には強者にしか持ち得ない弱点が有るし、弱者には弱者なりの攻撃方法が有る。だから僕も紫も弱点を補い合っているんだが……」

 縁様は、何となく不安そうな顔をしている私を、高揚させるように言ってくれる。

 「でも、それが出来ない者もいるんだね」

 恐らくは、その“出来ない者”を頭に浮かべながら縁様は言う。

 「もっと解り易く言おう。……例え大戦争に敗北しようが、表向きには圧倒的な趨勢が決まっていようが、どうしても“出来ない一行動”は存在する物だ。――――ふむ、橙。建御名方を思い出してご覧」

 唐突に、話が飛んだ。
 縁様の話は、脈絡が無い。いや同じ思考が出来る人(紫様とか)には問題が無いけれども、追随出来る頭脳を持っている者自体が少ないから、結局、何を言いたいのかが解り難いのだ。

 「えっと、……スイマセンです」

 ちょっとだけ時間を貰って、頭の中を整理する。
 この場合の軍神とは、多分、諏訪の神様の事だろう。
 建御名方神。外界の守矢という神社にいる神様で、もう直に《幻想郷》に来る予定の御方。紫様達は密かに連絡を取り合っているらしい。中々、内部で複雑な問題を抱えている……のだったか。
 あってますか? と伺ってみる。

 「そう。現在、色々な問題が『守矢』を取り捲いている訳だ。しかし、その問題を八坂は解決できていない。何故だと思う?」

 「……現世の問題は、人間が解決すべき、って事ですか?」

 「一つはそうだね」

 あの軍神も、自分を祀る者達には随分と心を砕いているようだが、所詮は人間の世界。信仰心が少ない今の外界では、奇跡を起こす事もかなり難しいだろう。必然的に、問題は自分達で解決させるしかない。

 「ただ、もう一つあってね。――――八坂の軍神は動けないのさ。彼女の力を恐れた天津神の、非常に上手に出来ている封印が有る。しかも内部に敵を抱えている。その二つが、八坂神奈子を妨害しているんだ」

 「動きたくても動けない。そういう状態に成っているって事ですか?」

 「聡明だな。良い子だ。……それで正しい。――――なまじ非常に強いと周囲からの反発が怖い物でね。八坂神奈子は、非常に大きな力を持っているが、それを振るうには障害が多すぎるのさ。いや、むしろ正しく言うのであれば、振るわせて貰えない。そんな状況を作り出してくれない。……どうやったって動けない状況に追い込まれている」

 むしろ祭神という立場は、きっと大見栄を切って動くには邪魔なのかもしれない。
 まるで見ているかのように語った縁様だった。
 何となく黙ってしまった私に、疲れている時に悪かったね、とねぎらって。

 「ところで、このお茶受けは自家製かな? 美味しいから、是非ともレシピを教えてほしい」

 ひょい、と顔を背後に向ける。其処には、黙ったままの佳夜さんが佇んでいた。
 ……全然、気が付かなかった。橙も野生の獣なのだが、その感覚を越える事位、楽勝なのだろう。普通に悟れる縁様との間にも、実力の差が垣間見える。

 「新しい幽霊の子が入ってね。……表で亡霊をしてたけど、最近こっちに来たらしい。出生は明治だってさ。料理の腕も上手いからね。居て貰ってるよ。……又、届ける。それで良いかな」

 「ああ。……そうだね。御馳走様だ」

 ゆっくりと湯呑みの緑茶を飲みほした縁様は。
 帰るよ、と私を促した。
 さり気なく、手を繋いでくれるから――――私は縁様が好きである。




     ●




 『白玉楼』を抜けた僕達は、冥界の大通りを歩いて行く。

 死者や霊魂や冥府の関係者が集っている。両脇には商店が並び、冥府の癖に賑やかだ。未練がましい死者の魂が集い、冥界だからこそ楽しめる縁日も出ていた。橙の手には卒塔婆が一つ握られていて、其処には『白玉楼』で頂いた一匹の魂魄が付いていた。夏に冷気を取る為のお土産である。

 (……冥府か)

 この地に本格的に来るのは、果たしてどれだけ先になるだろうか。結構、否。妖怪で最高齢の僕と紫だが、寿命はまだ先の筈だし……過去と殆ど、変化は無い。まあ成長を止めた代わりに寿命を延ばしてもいるけれど、人だった頃から数えて――――幾万年。経験こそ積んだが、性根は大きく変わっていない。
 そして人の世も同じ。人間だった頃の記憶は『能力』で何とか保持しているが、忘れてしまった部分も多い。メリーの部分だけは、記憶に刻み込まれているから絶対に忘れないのだけれど。

 (……人も、対して変わらないね)

 神の時代の直ぐ後から生きていた僕は、この目で色々と見て来た。古代の哲学者や預言者やクライストや中国の皇帝や――――ああ、勿論、聖徳太子とも仲良くなった(何となく、近い内に再会出来そうな気がしているのだ)。そして、やっぱり人間は変わらない。それを嫌う者もいるが、僕はそんなに嫌いでもない。良い部分もあって悪い部分もある。そう言う事だと思っている。

 呑気な猫娘の手を引きながら、僕は少し、思索に耽る。




 幽霊を恐れる人間は多い。では、何故、人間は幽霊を恐れるのか?

 一つには、幽霊が違う存在だからだ。自分とは全く異なる種族。共存が不可能かも解らない存在に対して人間は過剰に反応する。それは歴史が示している。他民族ですら侵略し、侵略し返し、の繰り返しだったのだ。利用価値でも見出さない限り、異種族との融和は測れない。
 だからだろう。共存が古くから続いている《幻想郷》では、幽霊を恐れる者は多くない。勿論、危険な幽霊の存在は脅威だし、人に恐れられている。いるが、要するに『幽霊全てが脅威』と思われている訳ではないのだ。夏場に開かれる肝試しは大盛況だし、プリズムリバーの演奏会は人気を博している。

 だが、それでも怖いと言う者はいる。そう言う相手の場合、原因は、その人間に有る事が多いのだ。
 幽霊は存在の痕跡だ。要するに『亡くなってしまった筈の物が、其処に有るから怖い』という理屈。
 普通に考えて――――形を失くした物が手元に有る事は少ない。例えば、大切に使った人形ならば壊れて供養すれば、幽霊となって戻って来る事は無い。飼っていた動物も同じ。それに慈しんだ物ならば、幽霊になって戻ってきても恐れる筈が無いだろう。むしろ喜ぶ者だっているかもしれない。

 幽霊が存在して恐れる理由は、人間が“失った事”に対して罪の意識を抱えているからに他ならない。言い換えれば、自分の罪を目の前に証拠として突き付けられるから、存在を恐れるのだ。

 犯罪者が、被害者の恨みを恐れる心理――――と言えば、解るだろうか。

 古来から、人の世は権謀術数の渦だった。裏切り、殺され、血と戦いに塗られていなかった時代は無い。煌びやかな朝廷の裏でも陰謀が渦を巻き、雅な言葉の影に隠れて悪意が横行していた。歴史の裏で、一体どれほどの人間が死に、闇に葬られて来たのか。それは僕にだって解りはしないとも。
 こう見えても縁は、結構、人間社会に溶け込んでいた。平安時代なんかは陰陽寮に入り込んでもいた。だから良く知っている。人間時代の知識と合わせて、国の歴史は殆ど全てを見て来たのだ。

 だから――――良く、知っている。
 人間は、ふとした弾みでその罪の重さを自覚する。それは死の直前かもしれないし、恨みの代価に襲撃を受けた時かもしれない。唐突な災害に巻き込まれた時かもしれない。兎に角、ある時に――――自覚をする。自分の行動を思いかえし、『自分がどれだけ恨まれていたのか』を悟り、彼らの呪いを恐怖する。だから恨みを買った人間ほど、用心深くなり信心深くなる。
 権力者達が挙って寺院を建立したのも、政敵を滅ぼした後に恨みを恐れて奉ったのも、本音は其処に有る。恨まれても仕方が無い事をしたと、彼らは自覚していた。怨霊や幽霊や、兎に角“この世成らざるモノ”からの攻撃を自覚した時に、初めて実感として悟った。

 そして当たり前だが――――そう言う相手に、強く出られる筈も無い。強く出て、それ以上の恨みを買う事は何よりも恐ろしかったからだ。只管に祭り、頭を下げて、宥める。そうして恨みを解消させるのだ。
 やがて恨みを解消した怨霊は、今度は二度と同じ被害を出さないよう――自分と同じ境遇の民を出さぬように、人々の味方になる。強い恨みを抱いて亡くなった者が祀られれば、その恨みに関係する御利益を持つ神様になる。


 『御船祭』の一番の目的は、異界から怨霊や神霊を運ぶ事だ。
 では、何故、霊を運ぶのか?
 それは、祀ってある神の力を削ぐ事が目的だからだ。


 人も神も、自分に恨みを持つ相手は苦手だ。
 ミシャグチは建御名方に滅ぼされた。その戦いの様子は天竜川の伝承として残っている。では、その建御名方の力を削ぐ為には、どうすれば良いのか?

 答えは先程の通りだ。建御名方に滅ぼされた者を怨霊として呼び寄せれば良い。

 自分に強い恨みを持つ、既に死んでいる存在。そんな連中に対して攻撃をすると――――勿論、倒すのは簡単だろうが――――それでは延々、終わらない。彼らの干渉を耐え続けるしかない。耐えると言っても、要するに自分から無駄に挑発しなければ良い。そうすれば怨霊はやがて恨みを流されて消えて行く。

 『守矢』の祭事は、二種類に大別できる。片方は、八坂神奈子を逃がさない為の祭り。もう片方は、ミシャグチの為の祭りだった。両方とも実行するのはミシャグチの血を引く『五官』の家。実質的な権力をどちらが握っているかなど言うまでも無い。『御船祭』は――――八坂神奈子が暴れないようにする、洩矢の血族が行事なのだ。

 この辺り、まだまだ複雑な事情が有るのだが。
 それを一概に説明するには、僕の説明能力も磨かなければならないだろう。




 「あ、縁様。お迎えです」

 手を引く橙の声で、引き戻された。

 「ん、ああ。……そうだね」

 冥界の出入り口に、策士の九尾がいた。自分の式に関わる事においては、かなりの心配性なのだ。
 僕は思索を其処で中断すると、軽く手を挙げて合図を出した。

 「有難う。助かった」

 「いえ。――――あ、縁様。水鳥楠穫から手紙が届いています。彼女の式が届けてくれました」

 どうやら本件はこれ。この手紙を読ませる為に迎えに来たようだ。橙一人だけならばまだしも、藍が僕を守る事は少ない。藍は紫の式だし、僕を守る仕事は、彼女ではなく蒼であるからだ。

 「ああ」

 差し出された封書を受け取って、中を見る。

 書かれていた文面を見て、僕は、くすり、と微笑んだ。
 やれやれ、学園祭の時に渡した招待状を――――有効に活用してくれるらしい。

 (さて……)

 海を挟んだ離れ小島ならば、ミシャグチの影響も少ないだろう。あの土地に縛られている水鳥楠穫も――――数日ならば問題は無い筈だ。言い換えれば、御名方四音の因縁に蹴りを付けるには良い機会。守矢が《幻想入り》する障害が、御名方四音との一件にあるならば……その解決の手助けをしても、でしゃばりすぎなければ問題はあるまい。

 色々ごちゃごちゃ、煩い事を説明していてもだ。
 僕の目的は、《幻想》へ至る者達を穏便に迎え入れることである。
 『守矢』が《幻想郷》に来る為だったら、暗躍でも策動でも、幾らでも弄してやるともさ。

 「藍。君、狸は好きかな?」

 「相手にもよりますが……。――――まさか、縁様」

 唐突な僕の話題に、何となく嫌そうな顔を藍はした。結構、僕の言いたい事は伝わったらしい。
 とりあえずは、そう……佐渡に住んでいる狸のお婆ちゃん、二つ岩大明神の所に、連絡を入れておこうか。

 夏休み、何が起きても大丈夫なように、下準備だけは確実に、だ。
 僕はほんの少しだけ、遠い嘗ての故郷に思いをはせる。
 きっとあの地の軍神も、同じ様な事を思っているに違いないのだから。




     ●




 「ちいっ!!」

 深夜。信州諏訪『洩矢神社』本殿内。
 その床の間を、激しい舌打ちと共に、洩矢諏訪子は、ダン! と踏みならした。
 普段は可愛らしい少女の格好をしている彼女だが、ここ最近は荒れていた。怒りを露わにする訳ではない。ただ、その可愛い顔を醜悪に歪め、憎々しい瞳で激しく地団太を踏んでいるだけだ。その中に込められている物は、単純な怒りではなく、もっと別の想いだった。

 「……騒がしいな、諏訪子」

 神域内での、彼女の暴挙に惹かれたのか。
 神体の真上。重なるように姿を見せた女性がいた。腕を組み、足を組み、傲岸不遜を絵に描いたような態度を取っている。目も鋭く、口調も乱雑。だが粗野なのではない。指導者の如くなくカリスマ性は、れっきとした高貴さを示しており――――居丈高な様子も、彼女がすれば不自然ではなかった。

 「神奈子! アンタだね!」

 「何の話だ?」

 八坂神奈子。
 『洩矢神社』の祭神にして軍神・建御名方神、その人である。

 「とぼけるんじゃないよ……! ここ最近、妙に御名方四音への干渉が、何かに妨害されている。四音一人で何とか出来る筈も無い。今迄、ずっと成功して来たんだ……。――――ここに来ての突然の不調! 不具合! 私の見えない所で、誰かが私の祟りを邪魔している! 神奈子、違うか!?」

 「さあ。私は知らんね」

 素知らぬ顔で無視を決める。人間ならば睨み殺されそうな猛烈な鬼気を受けても、表情一つ変わらない。
 今にも掴みかかりそうな諏訪子を見て、不敵に笑う。

 「大体、私が動けない事はお前が良く知ってるじゃないか? 私がこの土地に来た時。お前の王国を奪った時。その後で天津神から助言を訊いて――私を封じる『守矢』の例大祭を執り行ったのはお前だろう。そして今もなお、祀りは続いている。それで如何してお前の邪魔を出来る?」

 「……ッ」

 神奈子の指摘は的を射ていた。

 嘗て天津神と国津神の戦いが起きた時、八坂神奈子は敗北した。そこにどんな過程が有ろうとも敗北は敗北だ。彼女は出雲から志雄へ、志雄から長岡へ、長岡から長野と松本を経由し、諏訪へ。逃げ続け、最後には諏訪のミシャグチを討伐し、諏訪から逃げない事を確約する事で生き永らえた。
 神奈子には神奈子の事情が有ったにせよ、諏訪子にしてみれば完全なとばっちり。無論、天津神の奴らは土着神にして崇拝の対象である己が邪魔だったのだろう。だから、神奈子に任せる事にした。神奈子が勝っても負けても、彼らの損にはならない。結果、諏訪子は――――最後には神奈子に敗北。それまで治めていた王国を受け渡す事に成った。

 だが、それで終わらないのが戦争と言う物。
 建御名方の力を知る天津神はそれだけで安心しなかった。下手をすれば再度、自分達が戦う羽目になる。いや更に悪くなれば、ミシャグチと手を組んで攻め入って来るかも知れない。それを防ぐ為に、幾重もの封印と結界を――――ミシャグチに敷き詰めさせたのだ。

 『軍神から、貴方達の国を奪い返す手伝いをして差し上げますわ』

 あの時に自分達に囁いた“何処かの神”を諏訪子は忘れるつもりは無い。

 要するに同士討ちだ。手を組んで貰っては困る。だからこそ、相手を敵と思わせる。実際、この作戦は見事だった。戦に敗北したとはいえ、諏訪の住民は――ミシャグチの王国の住人は、易々と神奈子に屈する事はなかった。神奈子の立場は名目でしかなく、実質的には諏訪子の支配のままだった。敗北の腹いせに、八坂神奈子を閉じ込める祭りは喜んで行った。
 あの当時の自分の判断を間違いだと言うつもりは無い。今も間違えてはいない。互いに立場を隠れ蓑にしている身。相手だけを詰って自分は免れる事は間違いである。其れ位は諏訪子も理解していた。

 「……じゃあ、神奈子。尋ねる。――――あの水鳥とかいう女、何者だ」

 ぎりい、と歯を食いしばった諏訪子は、憎々しげな瞳で射抜く。

 「私はアレを知らない。見た事も無い。人間ではない事は分かる。だが実力も神力も隠している! 早苗を通して伺うだけじゃあ尻尾は掴めない……! 神奈子、あの女はお前の知人だろう!?」

 「さあ? 例えそうだとしても諏訪子に話す義理はないじゃないか」

 姿勢を崩し、諏訪子の方に身を乗り出して――――神奈子は笑いかける。
 その口は軽く、けれども内部に燻る業火を孕んでいた。

 「なあ、諏訪子。実際の『守矢』の支配者はお前だ。私は飽く迄も名目の祭神でしかない。この神社の『五官の祝』も、既に途絶えた『風祝』の家系も、元々全てがお前の血族さ。――――だから今迄こうしてやってこれた。だろう? 勝者の私をお前達が祭儀で宥めて封印し、敗北のお前は従いながらも神社の、ひいては王国の実質的な支配権を得る。私の顔も、自分達の顔も、天津神の連中の顔も立てる良い方法だった……。だからこそお前が良く知っている筈だ。私はお前に口を出さないし、お前は私に口を出さない」

 鋭い、事実のみを言った言葉に諏訪子は歯噛みする。

 ――――そんな事は承知の上だ!

 叫びたい。だが、ぐっと堪えた。

 「私はこうして此処にいる。そして私自身は動いていない。この約束は絶対だよ、諏訪子。――――私がしている事は信仰心確保のために、拠点を《幻想郷》へと移す交渉を八雲としているだけさあね」

 そして、その八雲との交渉は、神奈子の仕事だ。名目だろうが神輿だろうが、一番の祭神は神奈子だ。交渉や会談と言う厄介な仕事を――過去に、暗躍には邪魔でしかない仕事を彼女に任せたのは、他ならぬ諏訪子だった。
 苛立ちが募る。このままこの場所にいれば、余計な真似をしそうだった。自分の目的を第一に考えるならば、冷静に成らなければならない。神奈子に攻撃を仕掛けるなど、愚行の最たる例だ。

 「水鳥楠穫が邪魔ならば、好きにすれば良いじゃないか」

 からかう様な言葉に、諏訪子は――――。

 「ああ。……じゃあ、そうさせて貰うさ! 御名方四音、共々なあ……!」

 吼えた。まるで癇癪を起した子供のようだった。
 ダンッ! ともう一回大きく、床を踏み鳴らして諏訪子は虚空に消えた。土の中か、あるいは跳んだのか。この土地が諏訪子の王国である以上、彼女に出来ない事は少ない。神奈子だって四十六時中、彼女を監視する事は不可能なのだから。

 狂えるミシャグチが消え去ると、本殿内部は一気に静寂が満ちる。
 しん、と静まり返った部屋の中は、先程の諏訪子の不穏な空気も名残を留めていない。
 その中で、神奈子は――――困った物だ、と息を吐く。

 「やれやれ、全く。……あれさえなければねぇ」

 口に出た言葉は、本音だ。

 諏訪子が何をしているのか、神奈子はほぼ全部、承知している。
 だが止める事は出来ない。奇跡で解決できる事件では無いし、それ以前に――――神奈子は口を出せないのだ。洩矢諏訪子が『御名方』に拘る理由を知っている。更に言えば、拘る様になった原因の一端に関わっている。だから口を挟めない。一種の盟約と言っても良い。
 表の“お飾り”でも、随分と良い目を見た。信仰心が多ければ、その利益は全て神奈子の物だった。暗躍を望んだ守矢は、長々と神奈子を祭り、神奈子の威光で過ごしていた。理想の共存関係だったと思う。諏訪子と神奈子、両者が共に神として争わずに居れた時分が確かにあった。

 だが信仰心が減った今では、それも少し遠い。
 少なくとも――――諏訪子の策動に対して、神奈子は対応しきれない。制限の度合いが違いすぎる。
 どんなに戦争が得意でも、出来ない事はあるのだ。

 「……甲の字、いるかい?」

 「は。此方にいます」

 神奈子の呼び声に、応じるのは若い声。老練な、それでいて朴訥な印象を受ける男声だ。するり、と神奈子の傍らに姿を見せたのは一匹の蛇だった。大きく茶色い蛇肌には、鎖模様が載っている。
 学園祭の当日、八雲紫と歓談していた蛇こそが、彼だ。

 「諏訪子には手を出す必要はないが、八雲との連絡は密にして欲しい。……あのままじゃ、御名方四音だけじゃない。下手をすれば、早苗にも大きな怪我を与えかねないさね」

 「……怪我ですか?」

 「そう。身体じゃない。心に傷を負う。――――早苗は確かに諏訪子の子孫だが……アレは私にとっても大事な巫女なんだよ。早苗に被害が行くのは流石に止めたい。諏訪子なら、早苗すらも壊しかねないからねぇ……。勿論、私は諏訪子の行動に干渉できないし、するつもりは更々無いんだが」

 其処で一拍置いて、神奈子は『甲の字』と呼ぶ蛇を見た。

 「困った物だ、と部下に呟くのは制限されていないもの。そして部下が、八雲との交渉において“ついうっかり”悩みを言ってしまっても、それは仕方が無いことさ。――――ああ、そう言う事だ。愚痴を言って悪かったな」

 「いえ。それも仕事ですから。……ところで、水鳥楠穫様は?」

 「ああ、放っておいて良い。私が口を出す必要すらない。忠告もお節介にしか成らないよ」

 良く知っている、と言って、神奈子は話題を強引に終わらせた。
 帰って良いぞ、と『甲の字』に合図を出す。忠実なる眷属は、鎌首を持ちあげると、恭しく一礼をして姿を消した。

 「御名方四音と早苗の関係は、水鳥に任せれば――――あとは当人次第だ。四音が誰を害そうが、誰に悪意を持とうが、早苗と……後は古出玲央か。二人によって幾らでも結果は変わる。喜劇か茶番かグランギニョルから知らないが……悲劇には、させまい。……いや、して貰っては困る。――――御名方。御名方の血族、か。……悲しい事だ」

 誰にともなく呟きながら、すう、と神奈子も姿を消す。

 今の時代の人間には、決して見えない形となった。
 最後に、言葉だけが残り――――。

 「私がこの国に攻め入り、諏訪子の国を奪った時。……あの時の裏切りの代償を、今尚も受け続けているなんてな」

 ――――後には、ただ暗闇が広がるだけである。













 神霊廟ネタもたくさんでした。

 かくして『洩矢』のお話・第二弾。今回のメインは、最後の諏訪子・神奈子の会話です。というかそれが全て。それが一番大事。縁の説明何ぞ、へーそうなんだ、で飛ばしても問題無いです。
 一応、他にも暗躍の伏線はありますが、回収するのは第三部以降でしょう。

 さて、これで――――やっと八月です。早苗と御名方四音の関係が、一回、形を成します。かなり本気で、恋愛(?)……かは兎も角、波乱が起きると思いますので楽しみに待っていてくれると嬉しいです。
 感想も出来れば、下さい。一言でもあるとかなり心理的に違います。

 ではまた次回。

 (9月17日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第十四話 葉月
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2013/02/17 12:30

 「海だ!」

 「海です!」

 「海だね!」

 「……先生」

 「如何した四音。気分でも悪いか? 席を倒しても良いぞ」

 「いえ、それは結構です。……今ほど、姦しい、の意味を理解した事はありません」

 同乗しているのが平均以上の女性達であるにも関わらず、その華やかさを煩わしく感じているのか。
 相変わらず、真夏の晴れやかな気候に似合わない御名方四音だった。

 「そうか。――――お前はどうだ? 海は?」

 「……景色として見るだけなら、悪くは無いと思っています。……先生は?」

 「私か? 私は大好きさ。――――ここだけの話」

 水鳥楠穫は、怪しく微笑んでさらっと爆弾を投下した。

 「私はこれでも元海兵だ」

 「――――※××!?」

 車の中に、主に女子三名の悲鳴が響き渡った。
 窓の外には、日本海が見えていた。






 異人ミナカタと風祝 第十四話 葉月






 夏休みだからといって、ぐーたらした生活を送れるほど、私の家は緩くない。

 朝から早苗と一緒に境内の掃除を行い、各々の割り当てられた仕事を行う。強い日差しにゲンナリとしながらも、修業は尽きる事は無い。夏休みのお陰で観光客も多いし、仕事は山積み。同じく夏休みの絵手紙姉さんに、小さな紗江ちゃん。御名方の家を除いた全員が揃って動員されていた。

 紗江ちゃんはその天真爛漫な態度で、不慣れながらも裏方を和ませるし、絵手紙姉さんは才能だろう。土産物屋や駐車場管理など、文句が付けようもなく遂行している。相変わらず才能の無い私は、早苗の手伝いをしているのか、早苗に助けて貰っているのか、ついぞ怪しいままだった。

 しかしまあ、そんな日々も一週間もすれば大体、形に成る物だ。
 夏休みの合宿について、祖母から許可が下りたのはそんな頃だった。

 「楽しんでくると良いでしょう。帰ってきたら、1日休憩して、その後はお盆ですからね」

 大変でしょうから、覚悟しておきなさい。
 そんな不吉な言葉と一緒だったが、許可は許可だ。刹那の遊休だ。

 生徒会の合宿は――――名目の上では、学園祭を成功させた生徒会への慰労と、次期生徒会に関する話し合い。更に言えば親交を深めるという事らしいが、はっきり言ってしまえば遊びに行くようなものである。
 夏休み。海。合宿。ああ、なんて良い響きだ。私は昔から前衛系でやんちゃも色々していた。正直、今でも冒険には心が躍ってしまう。女子高生の癖に、とか思われそうだが――――世の中に数多い女子高校生に一人くらい、そんな人間が居ても良いではないか。探せば結構いると思うし。
 そうでなくても高校生活初めての合宿だ。今迄にない体験である事は間違いない。

 「さて、では許可証を書きましょうか」

 そう言った祖母は、渡して保管を頼んでおいた一枚紙を取り出して、丁寧な字で書き始めた。
 学生が合宿を行う際には、当然ながら保護者の許可が必要になる。引率の教師が『これこれこんな理由で合宿を行います』と説明をし、それに保護者が許可を出して署名をし、初めて生徒は参加出来る。未成年である私は、例え自分が行きたくても、祖母が駄目と言ったら絶対に行く事が出来ない。
 不満には想わない。……そもそも母が昔に死んで以来、祖母にはずっとお世話になっているのだし。

 「おや、水鳥……。水鳥ですか?」

 生徒会合宿の説明したプリント。そこに記された引率教師の名前を見て、祖母が言う。
 生徒会の合宿なのだから、引率は当然、水鳥先生だ。

 「どうかしました?」

 「――――いえ。変わった名前だと思いました。……何処かで聞いた覚えはありますね。記憶は定かでは無いですが――――あれは、確か、舞鶴から」

 「え、お母さんから?」

 古出舞鶴。読み方は、そのまま「まいづる」である。
 私の言葉に、そうですよ、と祖母は頷いて。

 「高校の学生の頃でしたか。水鳥という女性の名前を、生前に口に出していました。関係は不明ですが……多分、同一人物でしょう。同姓の別人にしては、少し珍しすぎる名前ですからね」

 「……へえ」

 意外な関係だ。そう言えば――――年齢を聞いた事は無いが、私達とは丁度一世代くらいは違っても変では無い。そういう雰囲気が、水鳥先生にはあるのだ。

 この合宿中にでも、少し話を聞いてみようか。そんな風に思う。

 出来ましたよ、と渡された許可証には、丁寧な楷書で書かれた文字が躍っていた。




 さて、そんなこんなで私は水鳥先生が運転する車に乗っている。

 数ヶ月前。古出の玲央ちゃんと乗った高級車だ。この車を見ただけでも、水鳥先生が一介の教師では無いと一発で分かる。教師の金で買える品では無い。公務員の副業は禁じられている以上、他に仕事をしていると言うよりかは……多量の財産を蓄えている癖に、教員として働いていると、そういうことだ。

 早朝。朝の六時。学校の昇降口前に荷物を持って私達は集合した。
 ボストンバッグをそれぞれ携えて集まった、私と早苗と武居さん。やがてやって来た車には、既に御名方四音が乗車していた。……合宿だと言うのに、表情は浮かず、荷物も殆ど持たず、水鳥先生におんぶにだっこな状態だったのは、もう言うまい。何時もの事だ。
 早苗だけは『先輩、もうちょっとしっかりして下さいね』と気を使っていたようだけれど。この二人の関係を表す言葉を私は言葉で知らない。だから何も言わずにおいた。

 助手席に御名方さんが座り、私達は全員、後部座席に。朝食や菓子を食べながら車で国道を走って新潟に向かう。朝の空気は爽やかで、車も少なく、とても快調なドライブだった。蝉の鳴き声も耳を賑やかせ、夏休みと言う実感を与えてくれる。

 「…………先生。――日差しが強くて、気分が悪くなりそうです」

 そんな空気をぶち壊す御名方さんだったが。

 「先輩。それは日差しが嫌なんですか? それとも日差しに対して見る己が嫌なんですか?」

 「――――。…………」

 よく分かんないが、早苗の一言で黙り込む。つまり都合が悪いと言う事だろう。
 早苗を一瞥して(私と武居さんには見向きもしない)、目を閉じる。そして膝の上に置いてあった仮眠用のタオルケットを頭から被ってしまった。
 これ以上は話しかけても無駄だと悟る。

 「えっと、……そうだ先生。それで、向かう先の解説をして貰っても良いですか?」

 「ん、ああ。そうだな。そうしようか」

 空気を読んで、話題を別に逸そう。
 幸いにも私の質問に、先生は頬に笑みを浮かべて頷いてくれた。

 「今から行く旅館は――――『儚月亭』と言う。儚いに月、と言う字を書く」

 「……聞いた事がないですね」

 「まあ、マイナーな旅館である事は確かだ。ただ、歴史は結構古くてな。江戸時代から続く老舗の旅館で、一見さんお断りでもある」

 「…………」

 そんな場所を合宿で使用して良いのか、と言う疑問が湧いたが、取りあえずは黙っておこう。

 「これから向かう佐渡には、昔からの知人がいる。二ツ岩と言って、あの辺りを先祖代々に治めていた地主さんだ。――――江戸時代には、佐渡金山を使って利益を上げ、周辺の土地を保有していた。徳川幕府ともそれなりの親交はあったらしいな……。二ツ岩は、佐渡島の周辺に、幾つか小島を保有していてな。地図帳を見ても乗りきらない、小さな島だが。その島の一つを利用して経営されているのが『儚月亭』だ」

 佐渡島から北東に、個人船舶で15分くらいの位置にあるらしい。
 早朝で車の気配が少ない国道117号を、すいすいと進みながら先生は続ける。

 「島自体も発見し難い場所に有るし、集客を見込んでいる訳でもない。だから有名では無いが……良い場所だ。それは私が保証しよう」

 「ん。……あれ?」

 疑問に思ったのか、早苗が尋ねた。

 「先生。ご友人から招待状を受け取ったんですよね?」

 「ああ。旅館への招待状自体はな。――――ん、ちょっと回り道に成るが、その辺りも説明をするか」

 新潟までは三時間近く懸かる。時間を潰すには丁度良いだろう。
 ふ、と軽く息を吐いて、水鳥楠穫は話し始めた。




 「私に招待券を譲ってくれたのは、八雲という家だ。少し前に、佐倉幕には追及されたが……学校近くで出会った古い友人も、八雲の家の一員だな」

 隠す事はしないが、と前置きをして、先生は言う。

 「八雲家は、『ボーダー商事』の株主だ。それも大株主、経営権も保有している家だ。まあ、酔狂な者達が多い為か、無駄に儲けを出そうとか、そういう精神とは無関係なんだが……。ともあれ私は、その『八雲家』とは知り合いでね。世界をぐるぐると回っていた事は以前に話したと思うが、その時に何かと世話になった。縁もあって、今でも親しくしているんだ」

 ……ん、なんか色々と。色々と、他の部分とも繋がって来そうな話だった。
 自然と私は先生の話に注目をする。早苗も同じだった。
 見れば、助手席の御名方さんも目を開いて静かに聞いていた。

 「『ボーダー商事』は、豊かな暮らしをスキマから、をコンセプトに掲げている。その方法は大きい割には堅実でな。世界各地にいる地主や資産家、由緒正しい家系や貴族。要するに、金と人脈と歴史を持っている者達と関係を深めるんだ。そして彼らを相手に商談をする……んだが、……表現が少し違うか? 彼らを通じてスキマ産業を埋めて行くんだな。大手のメーカーと競う事はしない。それよりもニッチな需要を確実に確保していく。痒いところに手が届く……という商売と言えるか。だから目玉商品と言うものは余りない。しかし確実に、日常生活に。もとい、地場産業や文化を壊さないように浸透していく。活動からすれば国際レベルの商社なんだが……各地の有力者と深く関わり、彼らを結び、各地での互いの需要を満たさせる事で動いている、という方が近いかもしれないな」

 そんなコンセプトで世界でも有名な会社に成れるのかどうか、と疑問はあるが。
 まあ何とかなっているのだから、きっと他にも理由は在るのだろう。金とか権謀術数とか人脈とかで。

 「そんな『ボーダー商事』だから、佐渡の二ツ岩さんとも知人だったんだな。旅館経営へのアドバイスもしていたらしい。だから『八雲家』は、招待権を得ているんだ。……私は私で、各地を旅行していた時に彼女とは知り合って居てな」

 彼女、と言う事は。件の二ツ岩さんは女性なのか。

 「とても気心の知れた御老体だよ。関係者の間では、二ツ岩の刀自と呼ばれている。雰囲気は、煎餅袋に描かれているお婆さんだが、中々老獪で、そして人を見抜く目を持っている。――――少しずれたが。要するにだ。私は八雲家とも知り合いだったし、二ツ岩さんとも知り合いだった。だが両者がどのくらい親しいのか、そんな関係なのか、までを把握していた訳では無かったのさ。学園祭の折に、その事実を聞いてね。夏休みの合宿に使って欲しいと、権利を譲られたと言う訳だ」

 なるほど。
 と、頷いたのは私と武居さんだけだった。

 「………………」

 「――――――」

 早苗は釈然としない顔で何かを考え込み、御名方さんも(見えないが)、気配から判断すれば寝ている訳ではないだろう。今の水鳥先生の一体何が二人の琴線に触れたのか。それは私に分ろうはずもない。

 「さて、――――まあ、私ばかり話をしても退屈だろう」

 空気を変えるように、先生は声を上げる。

 「古出。何か話せ。……出来れば、皆が楽しめるような話題だ」

 「――――え!?」

 余りにも唐突な話題の提供に、私は一瞬困ったが。

 「えっと、それじゃあ。……中学校時代の話でも」

 ともあれ、水鳥先生の話に繋がる様な話題にしよう。
 そう考えて、中学時代に体験し解決した、ちょっと不思議な出来事を話す事にした。
 多分、盛り上がってくれたんじゃないかと思う。




     ●




 目の前には、巨大なクルーザーが停泊していた。
 擬音語にすれば、ででん、と言う感じだ。

 視界一面を占める、巨大な船。個人で所有する事が出来るクルーザー(プレジャーボート、と言うらしい)は、今日び、裕福な家庭の保有物としても知られている。だが、ここまで大きいのは初めて見た。周囲に浮かぶ他のボートと比較して、二周り以上も大きい。……いや、多分25mプールに浮かべる事が、出来るか出来ないか、そんな大きさの船だ。

 「…………」

 早苗も圧倒され、武居さんに至っては口を開けて驚いていた。
 新潟の海へと到着した私達。車で向かった先は、日本海に面した港だ。漁港でも港湾センターでも無く、個人保有の船舶が並ぶ港。要するに、金持ちが集まる船着き場。
 駐車場に車を止め、荷物と共に足を運んだ先に、クルーザーが停泊していた。

 「……これ」

 「私の物だ。カッコいいだろう」

 少し自慢げに、水鳥先生が言った。
 うん、確かに格好いい。白い船体に、デフォルメされた鳥マークが付いたシャープなライン。個人の保有にしてはちょっと豪勢過ぎる。生徒会メンバー四人と引率。合計五人で使用するにはちょっと不相応ではないだろうか。……まあ自慢げになるのも解る気がする。

 「……あの、俗っぽい意見でスイマセンけど。……これ、幾らしました?」

 「値段か? 本体価格、内装、燃料、各種申請、年間維持費を合わせて……5億弱くらいだな」

 「…………」

 一介の一教師にはとても――――いや、この話題は既に何回も出した。止めよう。
 車の中で話された、海軍がどうのとか『ボーダー商事』がどうのとか、その辺だ。きっと。

 「日本では規制や、文化の影響もあって、クルーザーの普及は、近年になってやっと進んでいるくらいなんだがな。それでも持っている者、同行の士もいる。そう言った数少ない面子が利用する波止場が此処だ。私自身、付き合いは余り無いが……金さえ払っておけば、使用する権利は持てる」

 長野にいる間は、ずっと専門業者に頼んで保管しておいたらしい。
 簡単に先生が話してくれた所によればだ。日本の法律では、78.7フィート(24m)以上の船の取得は制限もあって面倒なんだとか。で、この船の全長は約22メートル強。ヨーロッパで大ヒットしているメーカーの品(80フィート弱の大ヒット品らしい)を、個人での操縦が可能なように弄った。漁船のイメージで運用出来る、……そうだ。海の無い県に住んでいる私達には、余り関係ない話題だ。

 要するに、凄くて高いが、日本での運用は面倒な船、と言う認識で良いのだろう。私も早苗も武居さんも、御名方先輩も。それが如何した、という表情だった。珍しくも楽しそうな水鳥先生の、子供っぽい笑顔だったから解説を遮る事はしなかったけれど。

 「海技免許も持ってるし、メンテナンスもしている。……昔、世界を旅行していた時はこれを使っていたんだ。燃料と食料を積み込んで、贅沢をしようと思わなければ十分、海を航海出来る。まあ専門の大型船舶には負けるが、小回りも利く。嵐とか鮫とか海賊は、別に大した物じゃない。撃退できるし」

 燃費や足回りは改造済みらしい。いや、それでも嵐を撃退は出来ないだろう。幾ら早くて小回りが利くと言っても、海賊相手に立ち回れるとか言われると、流石に眉唾物……。

 「嘘だと思うか?」

 言葉と同時、既に“目の前に有った”拳を確認して――――いいや、訂正だ。私は首を横に振った。多分、この人が言ったのならば、本当に「出来る」のだろう。……私も腕には少々自信が有るが、桁が違う。

  (……滅茶苦茶、強い)

 拳の動き一つで、私が“納得できてしまう”程、だった。だって見える見えない以前に、その挙動すら感じ取れなかったのだから。

 「まあ、余り御託を言っていても退屈だろう。乗ると良い」

 後部デッキ。乗り込み口の前で、先生は笑った。
 その先生への印象が、十分後に180度変化するとは微塵も思っていなかった。




 塩の匂いを孕んだ風を受けながら、船は進む。
 私は波を割って進むクルーザーの上部。メインデッキで遠ざかっていく港を眺めていた。操縦席には水鳥先生が座りハンドルを握っている。まあ教師については……もう良いや。私の想像の遥か範疇外にいる。考えるほど馬鹿らしい、廃スペック(誤字に有らず)な存在なのだ。

 何となくそんな気はしていたが、この合宿で最初にそれを学んだ私だった。
 白波を立てて進む船の先端を、何とも無しに私は眺めている。空には鴎が飛んでいる。

 「あー。良い天気だし、文句の付けようも無いんだけど」

 でも、なんかなあ。
 上手く言葉に出来ないが、絶好調という気分では無いのだ。車の中ではまだ良かった。乗り込んだ時も気にしなかった。船が発信し、合宿先へと向かう間に、なんか段々と気分が。悪い訳ではないが、こう……もんにょりするのだ。腑に落ちないと言うか。

 「どうした? 酔ったか?」

 「あ、いえ。そう言う訳では無いですけど」

 因みに、武居さんは休んでいる。三半規管が弱いらしい。出発してまだ五分なのに船に酔っていた。朝も早かったし、無理もないだろう。寝台で休ませてある。
 早苗と御名方さんは……何か、二人でいたから邪魔をしないでおいてあげた。暫くは上に上がってこないだろう。つまり、この場にいるのは私と先生だけだ。

 「なら何だ」

 「いえ。……そうだ先生、一つ尋ねても良いですか?」

 「ん。内容にもよるが、言ってみろ」

 少しさっきからの話で連想された事実が有ったのだ。丁度良いから尋ねてみよう。

 「あの、少し前にです。御名方さんの家で。『ボーダー商事』所属の薬屋さんに会ったんです。先生、お知り合いだったりします? 稲葉鈴さんと、グリューネ、っていう女性の方ですけど」

 「……いや。その2人は知らない」

 名前を思い出していたのか。少し迷った後に、先生は問いかけに否定を返す。

 「御名方さんのお父さんの事は?」

 「……事情は知っているな。だが、別に御名方三司とは特別な親交が有った訳ではないぞ」

 「じゃあ――――」

 うん、飽く迄も気軽に。雰囲気をそのままに。
 こう見えて、私だってそれなりの知恵を使う事はある。




 「――――私のお母さんの事、知ってますよね?」



 口に出した。
 その途端に。
 笑顔だった先生の顔は、消えた。

 刹那。

 (――――!!)




 飲 ま れ た。




 圧倒的な存在感の奔流が、私の身体を飲みこむ、そんな印象。言葉で言うのならば、大津波に呑み込まれる様な、押し寄せる感覚。
 船の周囲に会った大海原が、一瞬にして猛威を奮い、濁流となって包み込んだような、錯覚。
 海中に引きずり込まれ、海の底に永劫に沈んでいく様な。

 「――――、――――っ!!」

 喰われると、真剣に思った。
 何か踏んではいけない地雷を踏みぬいたのだと。

 それは次の瞬間には溶けて消えて無くなっている。だけど分かった。その一瞬で十分だった。間違いない。今のはきっと先生だ。先生の本性だ。
 息が乱れて、視界が歪んだ。冷や汗と悪寒と鳥肌が一向に収まらない。倒れないのがやっとだった。
 認識を改める。この人は、もう常識とかそういう範疇で括れる存在では無い。もっと別の何かだ。
 本気で怒った早苗も、危ない御名方さんも、私は知っている。けれど桁が違う。あの二人なんかとは時限が違う。圧倒的な格差がある。才能が無い私でも、否応なしに納得してしまう差が。

 「それが、本題か? 古出」

 僅かだけ、言葉の中に剣呑さを滲ませて彼女は言う。私を見てはいない。だが普段の教師の顔では無い。多分、水鳥楠穫という存在としての顔つきだった。

 「……そう、です」

 「長い。又の機会だ」

 質問を一刀する。良いな? という無言の圧力を受けて私は頷いた。頷く事しか出来なかった。
 それだけを言って、取り付く島も無い。先生は前を向いた。

 私は、何も言えない。
 何も言えないまま、その場から逃げだす様に身を翻した。いや、様にではない。確かに私は逃げたのだ。

 圧倒的な存在を前に、距離を取る事しか選べなかった。

 今の波動を感じ取り、一体何事かデッキに上がって来た早苗(その手は御名方さんを引いていた)が来た時には、きっと何の変哲も無い先生が座っていただろう。
 私は、二人の顔を見る事も出来ずに、すれ違っていた。
 だから、二人の顔色がはっきりと険しくなっていた事に気付く余裕もなかった。




     ●




 同時刻、一つのニュースが流れていた。

 『八ヶ岳付近を歩いていた女性登山客が行方不明となり、安否が心配されています。行方が分からなくなっているのは、県内の女子大学生・佐倉帳さん(19歳)です。佐倉さんは今日の朝七時ごろ、山頂付近の山小屋を出発しましたが、午後六時を過ぎても下山の報告が無く、警察に届け出がなされました。現在も県警と地元の山岳救助隊で捜索活動が続けられており――――』




 「…………先輩?」

 「東風谷。……僕の言いたい事は、解るだろう?」




 二人の顔が険しい、その理由。
 その情報を、古出玲央が知るのは、もう数時間ほど後の話。




     ●




 八入島――――はちいりしま。

 佐渡島からほど近い小島だ。小島と言っても結構大きく、小山もあるし野生動物も住んでいる。とは言う物の、佐渡島から視認は出来ないそうだ。島自体の大きさが微々たる物であるし、山の高度も高くは無い。霧が発生する事も多いから、と先生は言っていた。
 大きさは、島の周囲を歩いて一時間で一周できるくらい。半径300~400メートル位の円状の島だと思えば、大体間違ってはいないだろう。最もそれは距離だけの話で、海岸線も全部が整備されている訳ではない。歩いて一時間で一周するのは大変らしいが。
 元々は無人島だったが、二ツ岩さんが購入し、自然景観を壊さぬように旅館を建てた。

 その旅館『儚月亭』のある島に到着したのは、出発して三十分ほど後の事。
 時間と海の状態が良かったおかげだろう。私と武居さんの気分は優れていなかったが、早苗と御名方さんと先生は平常通り。この場合、異常なのは前者か後者か。

 「…………時代を感じさせる島だね」

 「……うん。そうだね」

 早苗も、遠い位置にいるのかなあ、と思いながら私は武居さんに同意する。
 結局、あれから島に着くまで先生と、あと早苗とも会話は出来なかった。武居さんの部屋に逃げ込んだのだ。私の顔色がよほど悪かったのか。唸っていた武居さんも思わず寝台を譲り渡してくれそうになったほどだった。
 早苗と先生と御名方さんが、何を話していたのかは知らない。ただ、横に成って思った。

 私は、本当に――――あの中に入っていける早苗や御名方さんとは違うのだ、と。

 早苗には才能が有る。その才能の中には、“あういうモノ”への耐性もある。御名方さんもそうだ。正か負かの違いはあれど、早苗も御名方さんも、大凡常識外の存在に対する耐性は遥かに高い。一族の中でも指折りに耐性が低い私と、彼らとでは、見ている世界が違う。

 武居さんの部屋に入ってしまったのは、だからだろう。
 自分と同じレベルの存在の近くにいようと、思ってしまった。

 「レオ。どうしました?」

 「あ、うん。……御免」

 余りにも呆けていた為か、早苗も心配をして声を掛けて来た。
 いけない。自分を戒める。
 それ以上は、いけない。
 例えそう思っていても、それ以上は思うべきではないのだ。私は決めたのだ。早苗の隣にいる事を。辛くっても、劣っていても、彼女の友人でありたいと。そう決めているのだ。

 自分の考えを反省し、ゴミ箱に捨てて。
 無理やりに気持ちを奮い立たせる。

 「大丈夫。ちょっと緊張してただけ」

 顔に笑みを浮かべて、面を上げる。無理をしている事は、悟られているかもしれない。それを言うべきか、早苗の顔は少し迷っているようにも見えた。
 でも、私の視線が揺らがない事を見て。

 「……解りました。無理はしないで下さいね」

 そう、頷いて下がってくれた。
 こういう所が、早苗の良い所だ。

 「さて、良いか? そろそろ向かうぞ」

 クルーザーから5人分の荷物を降ろし終えた先生は。

 「あ、……はい」

 クルーザーを港に固定して、皆に向かって言う。
 先程の危険さは、何処かに消えていた。

 島の港は、船三隻を繋留するのがやっとの、小さな港だった。
 大きな丸を書いて、その何処からか適当に海に向かって真っすぐ線を引けば、それで上空からの形になる。棒線が港。今は、乗って来たクルーザーと、島の物らしい中くらいの漁船が停泊している。
 反対側(円の中心側)が旅館だ。港から旅館までは、建物こそ無いが石畳で綺麗に舗装されているようだった。そちらに歩き始めながら、私は思う。

 ――――とても、静かな島だ。

 響く音は足跡だけ。
 観光客の姿も無ければ、土産屋も無い。

 クルーザーのエンジン音が消えた今、都会の喧騒は殆ど聞こえない。諏訪も静かな方だが、この島は段違いだ。鳥の音から虫の羽音、更に言えば木々のざわめきまではっきりと耳に届いてくる。痛いほどの静けさと、生命の鼓動が同居している音だ。
 ざわり、と風が吹き、山が鳴った。それこそ天狗でも済んでいそうな雰囲気だ。そう深い訳でもないのに、何故か心を騒がせる。

 ……静かだからこそ、落ち着かない。

 そんな言葉が、良く分かる。
 水鳥先生も早苗も御名方さんも、誰も空気を気にしていない。
 まるで“気にする自分がおかしいのだ”と、そう暗黙の内に言われているようだった。
 得も言われぬ不安を押し殺し、私は石畳を歩く。

 その静けさは、まるで。
 まるで、嵐の前の静寂だった。




 島の名前は八入島。
 旅館の名前は『儚月亭』。
 そして、まだ見ぬ招待客は――――彼ら5名を含めて13人。
 何も起きない筈は、無かったのだ。












 すいません。リアルが忙しくって遅れました。今後も不定期になりそうですが、どの作品も完結させる意欲はあります。長い目で見て頂けると嬉しいです。
 この話から起承転結の「承」の終わりに入ります。四音と早苗の行く先に、一つの決着が見えます。
 ではまた次回。

 (11月2日・投稿)



[24249] 異人ミナカタと風祝 第十五話 葉月(紅染月)   ←NEW!
Name: 宿木◆e915b7b2 ID:21a4a538
Date: 2013/02/17 12:31
 10人の男の子が食事に行った。1人が喉に詰まらせて9人になった。
 9人の男の子が夜更ししていた。1人が寝過して8人になった。
 8人の男の子がデボンを旅していた。1人が其処に残って7人になった。
 7人の男の子が薪割りをしていた。1人が自分を割って6人になった。
 6人の男の子が蜜蜂と遊んでいた。1人が刺されて5人になった。
 5人の男の子が法律に訴えた。1人が裁判所に残って4人になった。
 4人の男の子が海に行った。1人が鰊に飲まれて3人になった。
 3人の男の子が動物園に行った。1人が熊に抱かれて2人になった。
 2人の男の子が日向ぼっこをしていた。1人が日干しになって1人になった。
 1人の男の子は寂しくしていた。その子が結婚して誰もいなくなった。

 ――マザー・グース『そして誰もいなくなった』より。




 異人ミナカタと風祝 第十五話 葉月(紅染月)




 夏と言えば海。海と言えば水着。数日前に買った新品の水着を身にまとい、私は大きく両手をあげて。

 「ううううううみいいいいいだ――っ!!」

 思いっきり叫んでみた。周囲は誰も居ない静かな海。波の音と照りつける太陽。白い砂浜が相棒である。
 両腕を太陽に向けて、万歳する格好。露出した肌に潮風が当たって実に気持ちが良い。がんがんと降り注ぐ紫外線だって風物詩だ。あ、ちゃんと日焼け止めは塗ってあるよ。巫女さんが肌焼いちゃう訳にいかないしね。更衣室で互いに塗りあったのである。

 『ちょ……ひゃ、んっ。早苗くすぐったいって』
 『意外と敏感なんですねー。余計なお肉がなくて羨ましいです』

 ペタペタと背中に塗られ、全身をくまなく優しく撫でられ、思わず変な声が出てしまったほどである。
 心なしか普段よりも手付きがねちっこかったのは気のせいだと思いたい。

 『お、お返し……!』
 『あ、や、……ん、こら、ちょ――レオ、駄目ですって、ばあ……』

 勿論、ちゃんとやり返しておいた。

 『早苗さんと百合な関係ってのも噂じゃなかったんだね』

 武居さんの目が何となく誤解を孕んでいた気がした。
 失礼な。この位なら仲が良い女子同士のスキンシップである。

 そんな感じで水着に着替え、こうして砂浜に出てきている。太陽で頭が茹りそうなくらい暑い。

 私の水着はスポーティなセパレートタイプである。露出はほどほどだが、その分自由に体を動かせる。タンクトップ型の上半身と、トランクス型の下半身。腕回りやお腹回り、あと脚には自信があるのだ。

 『レオは健康的ですからねー。二の腕とか肩甲骨とかおへそか、はち切れんばかりに覗いていて可愛いですよ』

……というのが一緒に水着を選んだ際の、早苗の言葉である。

 「レオ。そんなに叫ばなくても」

 少し呆れた顔で、早苗もやってくる。
 いや、ちょっと気分を思いっきり変えたかったのだ。

 早苗の水着は明るい黄緑生地のビキニだった。腰回りにパレオを捲いているのが、せめてもの羞恥心の表れだろう。白くて柔らかそうな肉付きが良い体である。お尻と言い胸と言い、胸囲の、じゃなかった脅威の格差社会を実感せざるを得ない。水着だと歩くたびに、たふんと揺れるのだ。くそう。
 髪飾りは相変わらずだが、肌色が多いせいでそれも新鮮に映る。同性の私でも絶対にナンパしたくなる美少女だ。此処の人気が無くて正解だったと思う。

 「いやーテンションあがっちゃってさ!」

 ははははは、と笑う。
 来る道中の船の中でと良い、島に到着してからの静けさと良い、雰囲気をそのまま引きずってはいけないと思ったのだ。折角の夏休みそして合宿。テンションが低いままで満喫出来る筈もない。あんな辛気臭いまま旅行するなんて間違っている。

 「気にしない気にしない! 気分もすっきりするし!」

 腹から大声を出せば少しは肩が軽くもなる。熱された空気を肺一杯に吸い込んだ。正直ちょっと暑くて焼けるが、しかし風も空気も最高。バカンスを味わうには最適なシチュエーションである。

 「なんだ。賑やかだな」

 砂を踏みつけて水鳥先生がやってくる。

 こちらは派手な水着だった。元々全体的に細くて脚が長くて、スタイルがかなり良い事は知っていたが、こうして水着だとそれが更に良く分かる。すらっとした野生動物のような美しさと、神秘的な輝きが、子供っぽい笑顔に同居している。思わず目を引く存在感があった。

 さて、そんな先生の水着はスリングショット。しかも結びが紐だ。所謂、縦に肌を隠すタイプの水着である。布地の面積で言えばビキニの方が、隠している部分が少ないのだが……。水着の形が形である。横乳は見えているし、胸の谷間も見えているし、正中線は腰以外隠されていない。その腰の下だって見えるギリギリだし、太股と主張するには難しいレベルまで脚も出ている。
 大人の魅力大爆発だ。

 「……教職なのに良いんですか?」

 「何がだ。お前達が写真に撮って報告でもしない限り、別に問題にはならないさ」

 あ、一応危ない水着という事は分かってるんだ……。

 「プライベートだ。大目に見てくれ」

 ……いや、あの生徒会の合宿……まあ良いか。

 その顔に、船の中でも私に見せた『凶暴さ』は存在しない。あれが嘘であったかのように平然とした顔だ。自分の領域に踏み込ませないだけでは無い。不用意に踏み込めば脅し、それでも下がらない相手を食い殺す。そんな獰猛さを持っているとは思えない。

 何回目になるか。色々とトンデモナイ人が、何らかの理由で地理教師をやっているのだと己に言い聞かせる。その“理由”なんてものには全く予想がつかないし、その割に御名方さんへの気配りなど、違和感を挙げればきりがない……。というか、あれ。先生の事を想うと毎回毎回そんな事を言ってるぞ多分。

 「顔に何か付いているか?」

 「いえ……」

 何時か事情を把握しないとなあ、と思いつつ。

 ――――でも、怖くて聞けないなあ……。

 船の中で、『踏み込むな』と言われてしまった。生徒に向けて教師が言う言葉では無い。
 だが、あの時、相当な精神力を持つ(と自負している)私すらも容易く飲み込む、大海のような圧力と、視認できない速度の拳を見たのだ。

 『私の母を知っていますよね?』

 その返事で“踏み込め”と背中を押すように言われるならば分かる。踏み込んで来いと激励するならば。
 水鳥先生は、そう言う先生だと思っていた。だが、そうでは無かったと言う事は……。先生の中で、私に拒絶の意志を見せるほどに、その中身は重いと言う事なのだ。恐らく。

 ――――参ったな。どうにも嫌な謎が隠れていそうで、嫌だ。考えないように意識しないと。

 「……うわあ。綺麗ですね」

 武居さんもやってくる。船酔いで真っ青だった顔は随分と直っていた。

 ワンピース型の普通の水着である。ただし、色は紺では無くて黒いラインが入った白の水着だ。下の肌色が見えかねない水着を選ぶ辺り、武居さんも侮りがたい……。まだ本調子でないからか、上から白いパーカーを着ていて、それも中々味がある。お高い印象を受けないのもポイントだ。

 着て早々にダウンというのは流石にちょっと可哀想だと思っていたら、旅館の人から薬を頂けたのだ。小柄なお婆さんから差し出された薬袋には、『永遠亭』と印が押してあった。

 以前に、御名方さんの家で出会ったお医者さんも『永遠亭』印の白衣を着ていたし、生徒会室で彼が飲んでいる薬も『永遠亭』製品。
 その薬を製造している大本は、遡れば『ボーダー商事』だ。つまりこの島の持ち主である。
 ならば常備されていても、何らおかしくはない。……おかしくないよね? なんか違和感があったが、それは飲み込んだ。御名方さんのお父様・三司さんと言い。どうも色々と縁は存在するんだなあ、と私は無理やり己を納得させたのである。

 「……暑いな」

 そして、水鳥先生が浜に突き刺したパラソルの下。椅子に腰かけて微動だにしない“変態”御名方四音。
 静かに黙っているその姿は、水着ではない。全身真っ黒。黒の長袖長ズボンのまま。通夜に出れそうな姿。暑い暑いと言いつつ、汗一粒掻いていない。

 「先輩。そりゃその恰好じゃ暑いですよ。脱がないんですか?」

 「良い。――それに、暑いと言っても――支障はない」

 早苗の言葉も一蹴し、ビーチチェアの上に腰かけたまま。
 傘の影の下、持って来たらしい古い文庫本を静かに捲り始める。
 無駄に長い黒髪は見ているだけで鬱陶しい。肌を見せない全身の黒尽くめ姿は暑苦しい。私よりも白い肌と美形な顔立ちが、無機物の様に汗一つ掻かず平然としている当たり、もっと気持ち悪い。

 「と言うかさあ……」

 はっきり言おう。
 この場に居るのは御名方四音以外、全員、性別・女だ。
 私だけでは無く、早苗と、水鳥先生と、武居さんも揃って水着姿なのである。

 それなのに、欠片も楽しそうでは無く、しかも瞳は岩場の藤壺を見る様な色。
 この美少女(と語弊があっても言わせてもらう)と美女達に、囲まれて男一人なのに、興味を微塵も持たず見せないのだ。ああ、腹が立つ! クラスのモブ男子辺りなら涙流して喜ぶシチュエーションだぞ!
 女としての矜持が激しく傷ついている。

 「あーもう! 早苗、織戸。泳ぐよ!!」

 照りつける太陽とは別に、頭が熱くなった私は、二人の手を強引に引っ張って海に飛び込んだ。

 「そこ。準備運動をしろ」

 …………。
 先生の言葉に、黙って上がる事になった。


     ●


 「遠くからわざわざ、よう来て下さいました」

 玄関に来た私達を出迎えたのは、和服姿の小柄なお婆ちゃんだった。
 品物が並ぶ人気(ひとけ。“にんき”ではない。いや、人気が有りそうなグッズは御当地ゆっくりの「ゆっくりマミさん」だけだったが)のない土産屋。それらの商店街を抜けて、少し石畳みを歩けばすぐだった。

 ゆったりとした空間を持つ、趣がある木造の旅館だ。外観は整備してあるのか塗装に覆われているが、洋式のイメージは無い。木造建築と言うと思い浮かぶ古びたイメージもだ。むしろ歴史の風格が見える。格式高い入口には、高そうな墨絵に活花。畳和室の休憩所が置かれても居るし……。
 入口脇の支払場所には数枚のパンフレット。カラー印刷の表には、旅館のオーナーと出資者ボーダー商事からの挨拶が掲載されていた。

 「この旅館の仲居をしております、大江と申します。皆さまの滞在の最中、お世話をさせて頂きます……。どうぞ、気軽になんでもお申し付けください」

 大江さん、と言うお婆ちゃんが、出迎えてくれた。結構お年を召されているようだが、仕草もしゃんとしている。きっと長い事この旅館で働いているのだろう。温和な顔の中にはプロの風格が有った。

 「まずはお上がり下さい」

 布のスリッパを差し出される。各々、靴を脱いで靴箱に仕舞い、歩き出す。
 私達が滞在している八入島は、日本海に浮かぶ小さな島だ。元々の住人が居ない個人所有の島だったらしい。代々、この島の所有権を受け継いできた地主の名を二ツ岩マミさんと良い、そこを『ボーダー商事』が提携を結んで旅館『儚月亭』を経営している。どうせ土地があるなら有効に、と言う事だそうだ。

 夏休みの生徒会の合宿と言う事で、私達はここに来ている。先生が友人から譲り受けたという宿泊券を利用しての滞在だ。本来はかなり高価な物(零が6つ以上は確実)らしく、一介の高校生が来る場所では無いとか。先生の友人には感謝だ。

 島の形は、ほぼ円形。海岸部を一周するのに数時間。途中で足場が悪い所もある。中央には高さ300mくらいの小山があって、上るとそれなりの運動にはなるらしい。山頂付近では、広くはないが岩をくり抜いた疑似洞窟もあるとか。明日か明後日にでも昇れたら面白いと思う。

 「足場にだけはご注意くださいね」

 晴れて居る日は良いが、雨の日はぬかるみ、地盤が緩む事もあるのだそうだ。嵐の日に上って、土砂崩れに巻き込まれても助けられませんよ、と忠告をしてくれた。実際、過去にも事例があったらしい。

 島の大体の説明を終えた大江さんは、荷物を運びながら客室へと案内をしてくれる。
 旅館自体は大きく、しかし逗留客は少ない。一部屋が大きく、その代わり客室が少ない作りだ。私達の部屋は三部屋で予約してあり、先生で一部屋、御名方さんで一部屋、私と早苗と織戸さんで一部屋である。

 「今の季節、お客さんが多く予約されまして、有難いことです」

 「とすると、結構な数が?」

 「はい。13人でございます」

 私達を含めて13人が宿泊しているのだと大江さんは語る。それで“多く”と表現している辺り、この旅館の秘密さが良く分かる。
 しかし、13人……。13人か。何となく不吉な数字だ。神社の娘が思う言葉ではないけれど。
 私達が5人。他に女性で宿泊している客が2人。アベックで来ている客が2人。残り4人が個人での滞在、と言う事らしい。食事や浴場で顔を合わせるでしょう、という事だった。

 しずしずと私達は入口がある建物から、隣の建物へと移っていく。

 『儚月亭』は上から見ると、「コ」の字の形をしている。南が入口だ。北が宿泊の棟。南が食堂等の棟。両方を繋ぐ縦棒が廊下。この3つをぐるりと瀟洒な柵格子が囲んで境としている。廊下の西からは中庭と、その向こうに広がる海が見えるのだ。廊下の東に見えるのは、先ほども話題に出てきた小山である。
 私の説明が下手だから小さく見えるかもしれないが、本当に広い旅館である。廊下の幅も、私達が全員横並びになっても余裕がある位に広い。圧迫感が全然ないのだ。

 「……建物は小さいですが、見えない所にお金が懸かってます。一泊の値段も高いけど、来れるお客は元々限られた金持ちだけ。満足させれば、結果として利益は出ます。……中々上手いやり方です」

 歩きながら調度品や内装を見ていた早苗が、こそっと私に囁く。審美眼に叶ったらしい。

 「広いですが、不自由はさせませんよ」

 旅館側にも人数は揃っていると大江さんは言う。なるほど。よく見ればスタッフ控室があちこちにある。何時でも痒い所に手を届くと言う事か。要するに、バカンス――じゃなかった。生徒会の合宿を満喫するには十分と言う事である。

 「とすると、島内には全部で……3、40人ほどでしょうか?」

 「そんな位に成りますかねえ」

 先生の言葉に、旅館の廊下を歩きながら、のんびりと大江さんは頷く。
 島の大きさとして見れば、30人は十分だろう。

 「なんにも有りませんが、海と景観と静寂は自慢できますよ。……荷物を置かれた後、泳いでこられてはいかがでしょう」

 「良いですね。都会には無い物を味わうのが一番です」

 大きなバッグ二人分(先生の分と御名方さんの分)を軽々と運びながら、先生が頷く。
 先生は基本海好きだ。私達にも――気持ちは分かる。長野県にも湖こそあれ海は無い。日本海に毎年、夏に車で出かけるのは信州人の共通の思い出だ。

 「では、お部屋は此方から三部屋になります」

 気付けば渡り廊下を抜け、宿泊施設が並ぶ棟に到着していた。二階への階段を通り過ぎ、一階一番奥の三部屋の前に私達はやってくる。
 分厚い木の引き戸に鍵を差し込み、開け放つ。
 カラカラ、という軽い音と共に扉が横にスライドし、やはり広々とした調和ある和室が見えた。

 「どうぞ、ごゆるりと」

 大江さんは、静かに微笑んだ。


     ●


 バシイ! と手に叩かれて地面に向かうボール。その方向には――。

 「早苗―!そっちにボール行ったー!」

 「ああ、レオ、任せて下さい! てえい!」

 両腕を組んだ早苗が居る。腕に挟まれた胸が窮屈そうだ。谷間が視界に入る。両腕にしっかりと受け止められたビーチボールは、綺麗に弧を描いて私の頭上にやってくる。
 それに合わせて、思い切り両足で砂を蹴る。足場が悪くとも私の脚力ならば楽勝。55センチを飛び上がる。元全国中学校体育大会(インターミドル)出場の身体能力は伊達では無いのだ……!

 「てえええい!」

 バアン!! とボールを打撃する。学校の授業でバレーボールをやった時、男子でも取る事が出来なかったその一撃。自分で言うのもなんだが、相当な威力を持っている。速度も十分。体重も乗っている。

 「良い一撃だ」

 だが、それを水鳥先生は容易く受け止める。居ない場所に向かって落とすように打撃をしたにも関わらず、既に先生は落下地点に出現していた。縮地でも使用してるんじゃないのかと思える速度。というか目で追えない移動速度だ。
 バシッという音がして再び中にボールが舞った時、武居さんが攻撃の準備を終えていた。

 「やあっ!」

 可愛い掛け声と共に、ぴょんと飛び、平手で一発。咄嗟に早苗が前に出るが、砂地に足を取られて追いつけない。バックスの早苗とフロントの私の間に、ぽてんと正確にボールは落下した。

 「よし!」「やった!」と、先生と織戸さんがハイタッチをする。対象的に私達はがっくりと肩を落としていた。これでスコアは21-12。私達の負けである。

 「あのタイミングでコンビネーションでも勝てないか……」

 「ええ……。ちょーっと、強すぎますねえ……。ふう」

 くっそ、先生強すぎるぞ。思わず毒付いてしまう。というか身体能力で勝てる目が全くない。何だあの動き。普通にテニスをしている中で、テニ「ス」ではなく「ヌ」な漫画が混ざってる感覚だ。そういやアレにもビーチバレー篇があったなあ。
 本気で遊んでいて大人げないとは思わないのだろうか。楽しいから良いけど。

 「よし、じゃあ今度は私一人とお前達三人での試合でもどうだ?」

 「分かりました。良いですよ」

 「ちょ、ちょっと待って……!」

 ふう、と私達の声を遮ったのは、武居さん。その息は荒い。額に汗を浮かべ、ふうと暑い息を吐く。
 ポール横に置いてあったスポーツ清涼飲料を飲むと、私達に向けて一言。

 「もう、これで30分続けてるよ……。二人とも、運動神経良すぎます……。休憩させて」

 「先生とレオの意識で、運動を比べちゃいけませんよねー」

 武居さんより余裕はあるが、早苗も結構疲れたらしい。武居さんに同意して、休憩しましょうと笑顔で提案する。そう言えばさっきも足が上がっていなかったし。
 む、流石に3セット連続でのゲームは大変だったか。さっき2時間泳いだ後だったし。

 「じゃ、そうしよう」

 ボールを拾った先生は、それを弄びながら、砂浜に置かれたビーチチェアとパラソルの元に戻っていく。そこでは相も変わらず御名方さんが静かに読書中だ。手に持っている古びた文庫本は、海外ミステリーらしい。
 砂を払った先生は、その御名方さんの横に腰かけ、サングラスを装着。何も言わずに日光浴を始めた。先生を横目で見た御名方さんは、何も言わない。普通もうちょっと反応しないか?

 「……何か冷たい物でも買ってくるよ」

 「お願いできますか?」

 「うん、良いよ」

 私もお財布を取る。四本……いや、五本か。それでも一応、御名方さんを勘定に入れて、私は歩きだす。全く、私の心の広さに感謝感激感動して欲しい物だ。あれほどまで嫌っているのに、それでも気を使う人間なんて、そうはいない。幾ら公私混同をしない性格と言えども、だ。

 背後では、早苗は武居さんを引っ張って、パラソルの下に腰を下ろしていた。
 その景色は、どこからどう見てもバカンスを楽しむ学生達。合宿と言う定義から外れつつあったが、楽しければ良いのかもしれない。私はそう思って、足取りも軽く冷たいドリンクを買いに出発した。


 その認識が、数分後に叩き壊されると思う事すらせずに。






 自動販売機は、浜辺から僅かに陸に向かう途中にあった。
 じいじいと蝉が鳴く木陰の下。砂浜は途切れていない。だが、傍に更衣室があり、遊んでいる最中に顔を出す事は少ない。そんな場所だった。輝く太陽からの攻撃を避けるように、木陰に入って、私は一息をつく。ガンガンと降り注ぐ日光に、運動終わりで火照っているせいもある。歩くだけで汗が流れた。

 「暑いなあ……」

 良い夏だ、と万感を込めて手で顔を仰ぐ。空気も温い。
 額の汗を腕で拭う。

 早苗達の姿は見えない。涼しい影を産む大きな樹が、自販機の傍に聳えているのだ。樹の幹は太く、私が両腕で抱えても直径に至らないだろう。それが自然の壁を生み出して、浜辺への視界を遮っている。

 手持ちの財布から、500円玉をだす。田舎の自販機にありがちな釣銭切れで購入できない、という事はなさそうだ。コインを入れて、購入ボタンが点滅したのを確認し、ピッと――――


 「旅行中? お姉さん……?」


 声をかけられたのは、自動販売機で炭酸飲料を購入して、取り出そうとした。
 その時だ。

 「――っ!?」

 音が消えた。

 ぞわっ……と、背筋に鳥肌が立った。
 掻いていた汗が一瞬にして引っ込み、全身が凍えた。
 それは、形容しがたい、冒涜的な、曖昧模糊とした恐怖だった。
 気持ち悪い御名方さんへの感情や、圧倒する先生に感じた色とは違う、訳の分からない力。

 ――――なんだ、この邪神に絡まれたかのような感覚は。

 肺が詰る。喉が引きつる。やっとこさ体を起こすのに、葛藤が渦を巻いた。怖くて見たくない。そう思ったのは何時以来か。歪んだ全身が悲鳴を上げた。
 軋みと共に身を起こす。上半身を折り曲げていたので、最初は顔が分からなかった。
 ボトルを取り出し、抱えて振り向くと、可愛い女の子が笑っていた。

 ――――いや、笑っていたのだろう。多分。その笑顔が不安定で、私は一瞬、暑さを忘れていた。にこやかな笑みでも、殺気だった笑みでもない。にやにやとした、仮面のような、酷く妖しい笑み。

 だが、それも一瞬だ。海辺の夏が戻り、感じた冷や汗も遠くに行ってしまう。蝉の鳴き声が酷く耳障り。じいじい、じいじい、じいじい、と反響する蝉の合唱と、物理法則を無視した悪寒が這い寄っている。

 今感じていた感覚が、全て幻であったかのように。
 今感じていた恐怖が、全て嘘であったかのように。

 先ほどまでと何もかもが同じ、夏の変わらない情景だ。
 誤魔化すように、私は少女に、敢えて口調をはっきりと返事をした。
 ごくり、と息と共に口の中の生唾を飲み込んだ音が、やけに耳に残る。

 「……そうだよ。お嬢さん」

 よし、緊張は……あるが、声に出て無いな。中学校時代の黒歴史を想い出して、落ち着く。これでも修羅場は潜ったのだ。未だに心臓は音を立てて動いているが、全身が硬直して動けない、などと言う事はない。
 脱力して、先ほどまでと余り変わらない自分である事を確認する。意識して呼吸を深くし、自販機のボタンを再度タッチ。ピッという音と共に、二つ目のペットボトルが吐き出される。

 相手の顔を確認した癖に、敢えて一度顔をそむけて、無礼だと思うけれども。
 そんな事を想っている場合では無かった。

 再び、ゆっくりとそれを抱えながら、無理やりに心持ちを変化させて、向き直る。
 水着姿だが、ここはまだ浜辺の近く。不自然ではないな、と自分を確認。見られて恥ずかしい体系でもないし。先生の水着だとちょっとアレだったろうが。

 「初めまして」

 目の前に居たのは、年下の女の子だ。
 可愛い……いや、可愛いよりは美人という言葉が似合う、そして、どこか不可思議な少女だった。
 上質の服は少女にしては大人びている。直射日光を防ぐための日傘を手に持っていた。それが奇妙な陰影を産み、捉え所がない。年齢は、沙絵ちゃんと同じくらいだろうか。
 一目で外国の血を引いていると分かった。金髪に紫の大きな目をしているからだ。肌は白磁のよう。唇と頬は健康的なサクランボ色。まるで出来の良いお人形の様な、人間以外の何かが人間を真似ている様な。不自然な印象を受ける、美少女だ。

 「……えーと」

 後ろ手で、ガシャコン、とボトルをゲット。
 目を離す事が出来ない。
 奇妙な存在感に圧倒されている事が分かる。人を外見で判断してはいけない、という言葉を実感している。私が16年の人生において今まで出会った中で、断トツに胡散臭い。
 その雰囲気に飲まれないように、私は尋ねた。

 「何か、用?」

 「いいえ。ただ、先ほどから浜辺でビーチバレーをしていたのを、見ていましたわ。楽しそうと思って、声を懸けてみただけです」

 「あ、……そう、なんだ」

 服装から見ても、旅館に宿泊している客だろう。
 見知らぬ八人の客の内、一人はこの少女、と記憶に留めておく。

 「そういうお嬢さんも、旅行中、なのかな?」

 「ええ。家族と一緒ですわ。半分お仕事ですけれどね」

 なるほど。……お仕事?

 「こう見えても頭は良いのよ」

 ふふ、と笑った笑顔の奥に、はやり何か“違う”光を見る。子供の笑顔じゃない。
 ガシャコン、とボトルが落ちる。相槌を打って会話をしている間も、私の手は自販機にコインを入れ、ボトルを取り出し、抱える作業を止めていない。これで丁度五つだ。

 「えーと……御免ね。私、友達が待ってるから、戻らないといけないの」

 「ええ、構わないわ。一回お会いしてみようと思っただけですもの」

 話を打ち切ろうとする私の態度は、見通されているのだろう。笑顔を変えず、少女は促す。



 「私は八雲紫よ。また会いましょう。お姉さん」


 逃げ出そうとしても、駆けだそうとしても、足が動かない。
 焦燥感だけが募る中で、くすり、と優雅に微笑んで、彼女はくるりと背を向ける。
 そのまま静かに坂を上り、旅館へと歩いて行った。
 私が動けるようになったのは、彼女の姿が完全に見えなくなってから。
 がらがら、と手に抱えていたボトルが地面に転がった。
 蝉の鳴き声も、茹だる様な暑さも、元に戻って来ていたが、冷や汗だけは止まらなかった。


 その幻想と間違う接触に、この日から島に滞在している最中、私は悩まされる事となる。




 「ただ、いま……」

 「あ、お帰りなさい。レオ、速かったですね」

 「……そう?」

 早苗に言われた。八雲紫と会話をした時間を考えると、むしろ遅く成ったと思っていたのだが……。
 荷物と一緒になっていた携帯電話(圏外である)で時間を確認すると、本当だ。私がボトルを買いに離れて、まだ3分しか経過していない。光の巨人が怪獣を退治するのと同じ時間である。
 一体あの時間は何だったのだろう。夏の幻、という訳でもあるまいし……?

 「どうした古出。何かあったのか?」

 「え、……いえ、旅館のお客さんと顔を合わせただけです。えっと、取りあえず、はい。コーラだけど良いよね?」

 先生の追及を誤魔化して、私はボトルを手渡す。
 何も言えない。言葉にならない。

 「あ、お金払いますよ。150円です?」

 「いや、140円。10円安かったよ」

 早苗に一本。先生に一本。武居さんに一本。一応、御名方さんにも一本。
 飲むかどうか妖しかったが、私はこう言う所で、一人だけをハブにする事が出来ない人間なのだ。
 御名方さんは、ちらりと濁った瞳で一瞥して。

 「置いておけ。金は後で払う」

 それだけを言った。
 思わず、動きが止まる。

 「…………」

 「なんだその顔は」

 「……いえ。何でもないです」

 炭酸飲料を飲むイメージが沸かなかったというのもある。だがそれ以上に、まさか普通に反応してくれるとは思って居なかった。金も払うと。いや、そりゃ律義な部分がある事は承知していたが……。

 ――――ま、良いか。

 取りあえず……そう、取りあえずだ。
 喉が渇いた。
 暑いし会話は多いし精神にストレスだしで、カラカラだった。

 空気が漏れる音と共にキャップを開け、炭酸の刺激に涙目になりながら、喉を潤す。くう、と親父臭い反応を見せてしまっても止む無しだ。
 ふう、と一息。やれやれと座り込んだ。
 泳いだ後の砂地バレー。意識していなかったが、私も足に疲労があったようである。
 潮の香り。暑い砂。波の音色。常夏の風。親しい友人以外は誰も居ない空間。
 日々の喧騒も、学校も、御名方さんの鬱陶しさも、肩の力と共に逃げて行く。
 誰も何も会話をしない。黙っている。この余韻を感じているのだ。
 他に誰も居ない事が幸いだった。独占出来ると言う楽しみは、体験しなければ分からない。

 それで、私は、あの接触の記憶を強引に振り払った。
 深く考えると、そのまま引き摺りこまれそうだった。

 「今、古出が買い物に行っている間に、次何をしようかと相談していたんだ」

 炭酸の抜ける音と共にキャップを開けた先生が、話してくれる。

 「ビーチバレーじゃなくて、ですか?」

 「ああ。武居は大変そうだしな。素直に泳ぐか、砂遊びを本気でするか、魚でも釣ってみるか、とか意見が出ていた。パラセーリングやモーターボートは、監督役が私しか居ないから駄目だけどな」

 「今のところ、釣りが有効ですね。釣った魚、旅館に持って行けば捌いてくれるそうです」

 「あ、良いね。私も賛成かな」

 海の幸。そう聞いただけでお腹が動く。全身で運動した後だ。さぞかし夕ご飯は美味しいに違いない。
 現金な物で、ご飯と聞くと元気が出る。先ほどの、八雲紫ちゃんへの感情を忘れた。

 「釣り具は?」

 「それもあるようだな」

 「じゃあ、そうしましょうか」

 そのままじゃ危険なので(ゴミを釣ったり毒針持ってる魚を釣ったりする可能性があるしね)着替えて集合と言う事になる。ビーチに置かれたパラソルや椅子、荷物はそのままでも大丈夫だろう。御名方さんが荷物番で居てくれるようだし、基本、他者の視線を感じることも無い。

 「じゃあ、先輩。荷物番お願いします」

 「ああ」

 一声かけて、更衣室に歩き始める。


 ――――そして、気付いた。気付いてしまった。


 「……あれ……?」

 ふと周囲を見回す。広い砂浜だ。途中でカーブしているが、砂浜に遮蔽物は殆どない。隠れる場所がないとも言える。……そう。視線は無いのだ。此処に来てから視線を感じた事が無い。
 勿論、運動中、遠めに静かに見られていた可能性はある。意識がボールに向いている最中、誰かが見ていた可能性はある。あるのだが――

 「……なんか、……え」

 ――――どこから、見ていたのだろう。

 ビーチパラソルとチェア、小さなテーブルは、旅館から貸して貰った物。倉庫という物は砂浜にはないし、安っぽい焼きそばやラーメンを提供する『海の家』も無い。
 自動販売機や更衣室はある。だが自動販売機の位置から早苗達は見えない。それはさっき確認した。大樹と言う自然の壁は、“作為的なまでに”浜辺への覗きを防止している。
 更衣室はある。だが窓は無い。隙間もない。当たり前だ。視線が通ると言う事は逆も可能と言う事。着替える場所である更衣室にあったら困る。

 旅館からこの浜までは――――距離や時間こそ僅かだが、しっかりと高低差がある。その間には木々が生い茂っている。一番海に近い部屋から浜辺を見ても(この場合は、見下ろす、という方が正しいか)私達を見るのはかなり苦しい。大体、一番海に近い部屋は、隅の部屋。私達の部屋だ。部屋には誰も居ない。
 港とも離れている。波止場に船は数隻で、通り掛かった船を見ても居ない。即ち旅館に行く途中で私達を見た、という理屈も成立しない。

 「……待ってよ、それ」

 木々によって造られた生け垣。自然の柵に頭を突っ込めば別だ。だが、あの少女は綺麗なままだ。足に砂は無く、服に葉や枝も無い。と言うか、そもそもだ。こっそり覗く理由も無いのである。堂々と見れば良い。あの口調からしてもそんな感じがしている。

 恐らくあの八雲紫という少女は、私達を堂々と見ていたにも関わらず
 ――此方が彼女を認識していなかったのだ。

 深く考える必要が無い疑問なのかもしれない。
 偶然、私が思いついていないだけかもしれない。いや、きっとそうなのだ。
 皆とのゲームに集中していて、浜辺に居た少女を見落としていた。その間に彼女が帰って行った。それで何も問題がない。説明が出来るのだ。そうにきまってる……。

 だが、私はどうしても、どうしても疑念が頭から離れなかった。

 「どうやって……私達の事を見てた、のかな? あは、は」

 単純な理由があるに違いない。私が疑心暗鬼に囚われているだけだ。
 そう言い聞かせても。這い寄る何かが絡みついたまま離れないように、私の頭の中から消えなかった。
 その心機臭さが魚にも伝わったのか。私の釣果は皆の半分以下だった。


     ●


 「ふいー……」

 どさっと畳敷きの部屋に転がって、天井を見上げた。
 来てから四、五時間ほどだが、かなり遊んだ感覚だった。海で3時間、泳いだりバレーしたりで時間を消費し、釣りを楽しんで、その後でまた遊んでと。海での一日を満喫したと言っても良い。

 全身に溜まる疲労と倦怠感。海の中を漂っている感覚が、未だに体に残っている。今夜は良く眠れそうだ。そして明日の朝目覚めると全身が筋肉痛になっているに違いない。
 柔軟体操でもしておこうか、と身を起して前屈。座ったまま体を倒し、ぐにゃーとお腹を地面にくっつける。打撃が多い格闘技を習得している私は、実は体は凄く柔らかいのだ。特技の一つである。

 「れおー、お茶取って下さいー」

 「いーよー」

 「私もお願いしても良いー?」

 「んー」

 部屋の中には、平均的な旅館の家電が置かれている。テレビと電話。窓際に冷蔵庫が一つ。洗面台の傍にドライヤー。コンセントの数は少ない。良く思うのだが、旅館のコンセントって少なくないだろうか? 携帯の充電とか大変なんだけど。

 はい、と冷蔵庫にあった烏龍茶を瓶で渡す。横になりたいのは私だけでは無い。早苗と武居さんも同じだった。部屋の中、ごろごろと横になっている。全員が全員、体力を絞って遊んだのだから無理もない。
 花の女子高校生が三人。揃って横になっている光景は、果たしていかがな物だろうか? と思考を過るが、誰が見ている訳でもないし、良いか。
 ふわ、と欠伸をした武居さんは、そう言えば、と私達に尋ねる。

 「私、古出さんと東風谷さんの事、詳しく知らないんだよね」

 「……言われてみれば、そうだったかも知れませんねえ」

 クラスの同級生より親しい自信はある。が、親友ではない。一緒に活動している仲間という関係だ。

 「折角、こういう旅行に来たんですし。そういうお話します?」

 「私は聞きたいな。特に中学校時代の事とか、なんか色々あったらしいじゃない?」

 「あー……」

 あははは、と渇いた笑いが漏れる。早苗も同じだった。なんだ。えーと、うん。中学校時代、私と早苗で色々やってた事は以前にも語ったと思う。確かに色々あって、正直黒歴史なのだ。
 馬鹿やってたし、馬鹿だったからこそ出来た事がある。成長に繋がってるから、否定は出来ないが……。

 ……まあ、ちょっとなら良いか。

 早苗とアイコンタクトをして、話す事にした。武居さんは大事な友人なのだし。

 「私とレオが幼馴染と言う事は知ってますね? 洩矢神社の役職は代々受け継がれています。当然ながら家は近いし、年齢も近い。何時から一緒に居たのか、実は憶えてません」

 「最初は親戚だと思ってたしね。実は血が殆ど繋がってない、って知った時は驚いた」

 「私もです。――ただ実際、家族ぐるみでの付き合いは多いんです。東風谷、古出、尾形、八島、御名方って、年齢が近い者同士は仲が良い。私と母とレオのお母さんも、昔からの友達でした」

 早苗のお母さん、つまり東風谷双芽さんと、私の母・古出舞鶴は、実に仲が良かった、らしい。祖母・朱鷺からの言葉である。そして、ひょっとしたら水鳥先生もその一員だった可能性があるのだ。

 「待って。会長さん、も……?」

 「ええ。家の事情で関係は悪化していますけどね」

 「ああ、だから早苗さん気にしてたんだ……」

 合点が行った、という顔で頷く。そうだよね、そう思うよね。
 昔から関係がある家だから、東風谷として御名方さんに色々気を使って居るんだろう、と。……本当にそれだけだったら私もどんなに気楽だったか。……武居さんに告げても仕方がない事だ。

 「そんな訳で、私とレオは気づいたら親友になってたんですね」

 「まあねえ。お風呂とかお泊りとか何回したかも数えてないよ」

 さて、そんな感じで幼稚園小学校と私達は共に過ごしていた。
 過ごしている中にも、色々あったとも。
 家柄が家柄だけに、互いに躾けや教育は厳しかった。当然ながら早苗の方が仕事や学ぶ秘伝は多かった。だが早苗は習得が早く、学ぶ量が少ない私は、早苗より遥かに遅かった。
 陰口叩かれた事もある。劣等感や悩みやらで、早苗相手に反発したこともある。複雑な胸中を打ち明けたり、苦しんで喧嘩したり。自分に才能がないのかと諦めたり、逃げ出した事だってある。早苗が私を慰めてくれていなかったら、何処かで潰れていた。

 「で、頑張って中学生に上がったんだけど……」

 「……ど?」

 武居さんが、興味津津といった顔で繰り返す。



 「……父親がちょっとね。色々あって、家を出る事になった」



 「え……」

 しまった、と武居さんの顔が変わった。私の傷に踏み込んだ事を悟ったのだ。

 「あの、御免……」

 「良いよ別に。もう自分の中で消化されてるしさ」

 そう。もう終わった事だ。
 当時の事を思い出すと、今でも哀しくなる。それだけの話。
 父は消え、母は亡くなっている。
 姉と祖母の関係は修復され、私は今も頑張っている。それだけの事なのだ。

 「ただ、中学生に上がったばかりの私には……ちょっとショック大きかったんだよね」

 私だけでは無い。姉:理園(りお)にもショックが大きかった。そこから祖母との関係悪化が始まり、今に至っている。結局彼女は海外に留学してしまった。

 私の場合――――それが、中学校での黒歴史に繋がる。

 「……八坂二中ってあるじゃない?」

 「うん。そこで何か有名だった事は聞いてる」

 「要するに、正義の味方みたいな、何でも屋みたいな、そういう気取った事をしてたのよ」

 それは大人への反発で、思い通りにならない現実への抵抗だったのだろう。
 事情を聞いて、解決する。早苗が指示を出して私が行動する。そういうコンビだった。範囲は学校内ならば何でも良し。通っている生徒はそこそこ多かったから、数百人を相手に立ちまわっていた。

 「私、これでも実力はあったからさ」

 当然ながら喧嘩になることもあったが、私は一度も負けなかった。絵手紙姉さんに鍛えられていた事もある。早苗と対照的な力を得ようと努力したからでもある。自分で言うのもなんだが、その辺の大人数人と喧嘩しても負ける気は毛頭ない。今も同じだ。

 「古武道も習得してるし、鍛えてるしさ」

 喧嘩っぱやくて、常に苛々して、何処か荒れていた。
 成績と部活の実績だけは出して、好き勝手やっていた。
 姉が、私が今居る高校の生徒会に――逃げていたのと同様に、だ。

 「で、段々と調子に乗ってって……。最後は、色々傷つけた。早苗に頬を叩かれて、祖母を認めてね。それ以後、心を入れ替えて真面目になった。まあ、そう言うお話だよ。具体的に何やったかは……またにしてくれると嬉しいな」

 「うん……」

 御免、悪い事聞いた、と武居さんは頭を下げる。

 「良いよ良いよ。私も、話せて良かったし」

 ある意味、これも合宿の醍醐味、青春ではないだろうか。
 話が一段落した所で、私は努めて明るく言った。

 「武居さん、今度は貴方のお話を聞かせてね?」

 「……はい!」

 私が笑ったからか、武居さんも笑顔で返す。うんうん、やっぱりこう言う方が良いよね。

 「さて、そろそろ夕ご飯ですね。行きませんか?」

 運動したし、お腹がすきました、と微笑む早苗。大賛成だ。
 時計の針は午後六時前を指している。太陽も斜めに差し込んでいた。多い雲が橙色に照らされている。
 釣った魚は、既に旅館に届けてある。収穫した魚の内、小魚は海に返し、大物だけを選んだ。裁いて夕食に出してくれるらしい。先生曰く、味は保証する、との事だ。
 和やかで楽しい雰囲気のまま、私達は食堂に向かうべく、立ちあがったのだ。


     ●


 「お、美味しい……っ!」

 一口、食べて思った言葉が、それだった。
 なんだこれ。一口食べるだけで旨味と甘味が押し寄せるご飯。こんな味初めてだ。
 つやつやと輝く白米の一粒一粒が宝石に見える。何か言う前に、私の箸は二口目を運んでいた。

 「流石、海が近いだけありますね……。魚とか凄いですよこれ、歯応えと弾力がもう……」

 刺身の盛り合わせは、お皿にどんと載っている。厚切りでたっぷりと盛られたその身は、ぷりっぷり。弾力がある癖に、歯で噛むと柔らかく切れるのだ。脂分は多くないのに、蕩ける様な舌触り。
 やべえ、ご飯の上に乗っけて食べるだけで御代り出来る。

 「もぐもぐ、……太りそう……」

 武居さんも、感動しながら食べていた。
 手は止まらない。かくいう私の手も止まらない。私達は意外と健啖家で、食べる時はしっかりご飯を食べるのだ。大食いではないが、ちゃんと食べるタイプなのだが、これは別格だ。

 美味しい。自分で釣った魚、という認識もあるかもしれないが、やっぱり美味しい。海の傍で当然ともいえる(偏見か?)の味だった。いや、魚以外にも超おいしい。旅の醍醐味がご飯という気持ちが超分かる。先ほどから「美味しい」しか言ってない気がするが気にするな。

 「…………」

 御名方さんですら、文句を言わずに淡々と、しかし確かに食べている。

 さくっと衣が付いた、野菜と白身魚の天麩羅は自然の味。茄子を噛むと、じゅわっと熱い露が飛び出し、海老を齧ると口の中で身が躍り、獅子唐は鼻に抜けるふわっとした香りが溜まらない。根菜類の歯応えと味ってこんなに良かったっけ?

 酢の物は良い塩梅で、口の中がさっぱりする。酸すぎず甘すぎず、一緒になっている和布に絡んで、またご飯に合う。お新香は口直しに抜群。こりこりぽりぽりと食べた後に、またご飯を食べる。お豆腐とすり身、野菜で作ったお浸しは新鮮そのもの。出汁が加えてあるのか、複数の味が絡まってヤバイ。ご飯を食べる。

 「……酒が飲めないお前達が可哀想だな」

 新潟県は日本の酒処。そう言った先生は、地酒を頼み、硝子の器に注いでご満悦だった。
 透明な器に注がれた日本酒を、空けて、くっ……と言う顔で味わう。美味しそうに飲む先生だ。ごく、と思わず喉が鳴る。これでも日本酒の味は分かるのだ。巫女として御神酒を飲んでいる。

 「流石に学校の合宿でアルコールを飲ませる訳にはいかないな。我慢しろ」

 私だけでなく、早苗からも羨望の目線が飛んでいた事に気付いたのだろう。にっこり微笑んで却下された。最近は教育的にも厳しいし、仕方がない。
 お肉がちょっと少ないと思っていたら、赤身のステーキが陶器のお皿で出て来ていた。シンプルに塩と胡椒だけでの味付けだ。新潟のブランド和牛か何かに違いない。

 「旅館の方針だそうだ。食事には一切の手を抜かないらしいな」

 「なるほど」

 ナイフで静かに刃を入れると、すうっと簡単に切れた。火の通り方はミディアム。僅かに覗く赤身にも火が通っていて温かい。透明な肉汁は、お皿に溢れるのが勿体ない。やばいな、もう御茶碗で二杯目が終わりそうだ。三杯目……いやいや、流石にそれは食べ過ぎだ。

 「ああ、天国ですねえ……」

 早苗が至福の顔で言う。
 ご飯を飲み込んで、蛤のお吸い物を空にした早苗だった。
 夢中で食べて、あっという間に食事が終わった気すらあった。もっと味わえば良かった。

 「思いっきり遊んで、美味しいご飯を満腹まで食べて、仕事や喧騒を忘れて、存分にこの後眠れるんですよ? もう幸せで幸せで」

 美味しかったなあ、と箸を置く。

 確かに、食事が終わって部屋に戻ると、きっと布団が敷いてあるだろう。真っ白なシーツにそのまま横になれば、眠りに落ちるのに数分と掛かるまい。私も今からそれが待ち遠しいのが本音だ。色々あったし、思いっきり熟睡して明日も楽しみたい物である。

 「御馳走様でした……。本当に御馳走だった」

 「明日のご飯も楽しみですねえ……」

 「うん……」

 私達二人は勿論、あの御名方さんですら綺麗に食べていた。御名方さんの分量は、若干少なめにしておいたらしいが、それでも全部の器が空っぽ。完食されている。
 鳥のお摘みを片手に酒瓶を開けていた先生が、ふと話題を出す。

 「あ、そうだ。明日と言えば。天気が崩れるらしいな」

 既に一瓶を開けていた。口調はしっかりとしているが、目元がとろんと下がっていて妙に色っぽい。酔っているからだろう。御名方さんの方に体が依っていた。色々と目に毒で、教育的にもアウトになりそうな絵柄だった。因みに、その御名方さんは、食事を終えていた。擦り寄る先生を無視して読書である。

 まあ良いや。お腹が一杯で怒る気もしない。苛々感は消えていた。

 天気予報では日本海側が荒れるそうだ。時化るのだと。となると旅館の中でごろごろしつつ、皆でゲームしたりお話したりだ。温泉にじっくり浸かるのも良い。
 まったりと考えていると、そのまま眠ってしまいそうになる。頭が働かない。

 「ふわ……」

 欠伸を一つ。これは、さっさと部屋に戻って寝るのもありかもしれないなあ……。
 そう思っていると、目の前で、男性が唐突に立ちあがった。








 食事時。旅館一階南棟の食堂にて。幾つかのテーブルと椅子で島が作られた一角。
 ガタッ、と震える音と共に、男性が突然、立ちあがった。

 食堂には宿泊客の大半が集まっていた。誰しもが困惑の視線を向ける。
 穏やかならも生活音で満ちていた空間に、静寂が訪れた。
 だが、困惑はやがて驚愕に変化する。

 男性の様子が分かったのだ。喉元を抑え、口元に泡を吹き、震えではなく痙攣していた事に、まずは対面の女性が。序で、周囲にいた複数の客が、気が付いた。

 「――ッ!」

 声を出せないまま、男性は必死に喉を動かす。だが、呼気が漏れるだけ。言葉は形にならなかった。
 ぐらり、と男は倒れて――――


 そしてそのまま、動かなくなった。


 「…………」

 誰も、何も言わない。
 半分寝ていたせいもある。
 一体何の冗談なのだ、と思っていた。
 この流れで唐突にコレなのか、と。

 別に油断をしていた訳ではない。ただ、いつ来るか分からない落差に怯える気はなかっただけ。……いや、それも違うな。……きっと私は、目を逸らしたかったのだ。昼間の接触を忘れたかったし、平穏に浸かったままで居たかった。見て見ぬふりをして、そのまま合宿を終えたかったのだ。

 それが無駄な抵抗だと、心の何処かで知っていながら。

 だが同時に、確信もあった。予見として確かに持っていた。私だけじゃなくて早苗だって持っていたに違いない。御名方さんに、謎が増えた先生に、八雲紫という少女に。明らかに異常な者達が居て、普通に終わる筈もなかったのだ、と。

 合宿が完膚なきまでに終わった事を、先ほどまでの楽観が砕け散った事を。
 私は静かに、諦めにも似た形で受け入れる。

 限界だ、色々と。
 目を閉じて――眠るように、逃げるように、現実から目を逸らす事にした。



 盛大な悲鳴が上がったのは、直ぐ後の事だ。


     ●


 ――――騒がしいな。

 御名方四音は、読んでいた文庫本を閉じる。
 古びた海外のミステリー。彼の父が好きだった古典名作。
 気まぐれに選んで持ってきたが、中々どうして面白い事になっている。

 「計画」と言ってしまえばそれまでだが……。

 食堂。倒れた青年の死と言う事実が徐々に、徐々に皆に受け入れて行く中、彼は静かに観察していた。

 騒ぎ出す宿泊客の中。
 素早く動き始める水鳥楠穫。
 訳も分からず呆然としている武居織戸。
 許容量がオーバーしたのだろう。椅子に座ったまま目を閉じた古出玲央。
 従業員を呼ぶ声と、斃れた青年に抱きつき呼びかける恋人だろう女。

 狂騒とパニックと怒声とが混ざりあう。何も知らない宿泊客は、さぞ混乱している事だろう。

 名も知らぬ妖しい少女が居る。恐らく人間では無いだろう少女は、平然とした顔で従者の女性と食事を続けている。どうやら我関せずを貫いて傍観するようだ。まあ、それも良いだろう。

 ぐるり、と視線だけで部屋を見回して――最後に、険しい顔で自分を見る東風谷早苗と、視線があった。



 ――――先輩?



 その目線が、厳しく、強張った、苛立ちを孕んでいて。

 ……ああ、どうやら退屈はしないで済みそうだ。

 くすくすくす、と御名方四音は静かに笑う。口元だけを動かして、美しく恐ろしく。
 この先に待ち受ける凄絶な事件に、胸を弾ませながら。
 やっと“此方の手番”だと示すように顔を歪めながら。
 彼は静かに立ち上がった。今後の為にも、探偵役はしてやろうか。

 ……最後に東風谷を×す為に。



 『10人の男の子が食事に行った。1人が喉に詰まらせて9人になった』



 彼が読んでいた、その本の名を――『そして誰も居なくなった』。










 お久しぶりです。今回から起承転結の「承」の終わりのお話。クローズドサークルでの連続殺人事件。ベッタベタ。だがそれが良い。早苗さんとの決着も間近でございます。
 リアルが忙しい上に、人狼とかドミニオンとかTRPGが面白くて遊んでしまいますね。因みにルルブも大凡集めました。

 プレイ済み DX、ARE。シノビガミ、ハンターズムーン、ブラッドクルセイド。
 大凡把握済み CoC、BBT、天下繚乱、NW、ALS、モノトーンミュージアム、迷宮キングダム、デモンパラサイト、ネクロニカ、サイキックハーツ。
 ルルブのみ スフレ、天羅、NOVA、とらエリ、マギカロギア、ピーカーブー、バルナクロニカ、ガンドック・ゼロ。

 こんな感じですね。
 では、次回(なるべく早く出来るように頑張ります)も宜しくお願いします。
 (2013年2月17日)


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