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[22225] 真・恋姫†夢想 とんでも外史
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64fa16e3
Date: 2010/12/31 03:00
真・恋姫†夢想 とんでも外史 ~北郷 一刀 意識群~



     ■ そして外史は始まるのだ


???「流れ星……? 不吉ね」

朝の陽光に紛れて空を切り裂く彗星を見上げて、美しい金色の髪をまとめた少女はそう言った。
揶揄でもなんでもなく、そう思った。
そしてそれが正しく、大陸に落ちた不幸だとは、流石に神ならぬ彼女は知り得ぬ事だったのである。


     ■ 荒野に立つポリエステル

目覚めた時、彼の視界に広がったのは見渡す限りの荒野と地平線。
先に見えるちょっとした山岳のようなものが、中国を連想させるが
どうにも此処に自分が居る経緯が把握できなかった。

だが、思ったほど、彼には動揺は少なかった。
それは、祖父が口を酸っぱくして教えてくれた『冷静を保つ』という事を思い出していたからかもしれない。
とはいえ、如何に冷静であろうとも、現実として荒野に放り出されてしまうと
ぼやきの一つが出てしまうのは仕方が無いだろう。

「どこだ、ここ……っ!?」

胸中をため息と共に吐き出すと、途轍もない頭痛。
一瞬にして、見たことも無い景色、人、世界が脳裏にフラッシュバックしていく。
余りに突然で、不可解な出来事の連続に、北郷一刀はついにその膝を折って蹲った。

「ぐぅっ! こ、これは……?」

脳裏には今も、間断なく様々な情報の断片が送られてくる。

『華琳!』『春蘭!』『秋蘭!』

心なしか、幻聴まで聞こえてくる。

『桃香!』『愛紗!』『鈴々!』

いや……とても幻聴とは思えない。
頭の奥底から、ガンガンと響くように訳の分からない名前のようなものを叫ばれて
一刀をその場で頭を抱えてしまう。

『雪蓮!』『蓮華!』『冥琳!』

叫びは止まず、むしろ大きくなり頭痛は治まる気配が無い。
全身に酷い汗を掻き、空いた手で胸を掻き毟る。
自分の身体に、何か途轍もない変化が起きたことだけは分かるが、それ以外は何も分からない。

『麗羽!』『美羽!』『月!』『恋!』『白蓮!』『貂蝉!』『美以!』『翠!』

そして、良く分からない危機を感じて頭がフットーしそうな一刀は、荒野の真ん中で
獣のように咆哮した。

「あ"あ"あ"あああ"ああ"ああ"ぁぁ"ぁ"ぁあ"あ"ぁぁあ"あぁ"ああ"あ"ああ"あ"あ!!!!!!」


     ■ アニキ達の幸運


誰も居ないと思えるような荒野の片隅で、三人の男が咆哮を聞き汗を流していた。

「あ、アニキ! 本当にあいつを襲撃するんですかい!?」

「な、なんか身の危険を、か、感じるんだな」

自分の隣に居る二人の舎弟の言葉に、アニキは心の中で頷いた。
ハッキリ言って、目を付けた男は近づくに連れて異常な様子なのが分かったのである。
いきなり蹲ったと思ったら、頭を掻き毟るわ胸をまさぐり始めるわ
挙句の果てに虎のような声量で咆哮を上げて
今では地面をゴロゴロと無様に転がって移動しているのだ。

ぶっちゃけ、アニキ的には既に関わりたくない相手になったのだが
曲りなりにもアニキは舎弟を二人持つ、一人の男でありリーダーであった。
ここでイモ引いちゃ格好がつかない、と思いながらも
今は地面に向かって頭突きを繰り返して唸り声を上げる男に向かうのは
なんというかこう、嫌だった。

「アニキ!」

「あ、アニキ!」

「うう……い、行く、いや……」

人知れず、一人の男を危地に追いやりながらも、一刀の奇行はしばらくの間続いた。
結局、アニキは意地やプライドよりも、保身に走ることになる。

これがこの上なく正答であったのは、彼らが知る由も無いだろうが。
アニキ達にとって、この選択は確かに幸運といえたのでは無いだろうか。


     ■ 北郷 一刀は静かに暮らしたい


「ハッ……ハッ……!」

荒い息を吐いて、大の字で寝そべる一刀。
永遠に続くかと思われた頭痛は、しかしあっさりと引いた。
いや、正確にはめちゃくちゃ苦しんで時間の感覚がおかしくなり、死を覚悟するほどの苦悶を味わったが
それでも、今では全然という訳ではないが引いている。

しかし、一刀にとって本当の戦いはこれからだった。
頭痛が引いたのは良い、ディモールト良い!
しかし、もう一つの謎の声達は止むことが無かったのである。

『もう一度、俺は帰ってこれたのか! また華琳に会えるのか!』

『やりなおせるのか、雪蓮! 今度は君を……必ず守る!』

『桃香! 愛紗! そんな……せっかく皆と頑張ってきたのに、戻ってしまったのか……っ!』

歓喜の声を上げる者、新たな決意を抱く者、良く分からないが、嘆いている者。
他にも『ああ、麗羽のやつ、大丈夫かな、心配だ……』など心配する声を上げる者や
『この辺は蜂蜜あるかな……』などと暢気な声を上げる者や
『貂蝉……くそ、お前が居ないと俺は……』と、悲観している者が
頭の中で大合唱を始めたのである。

たまらないのは、頭痛に喘いで物理的干渉を受けた一刀である。
押し寄せる幻聴が留まることを知らずに、むしろ天井のぼりだ。
ふと、声が止む。
一刀はようやく幻聴が止んだのかと、深く息を吐いた。

「なんだよ、なんなんだこr『うおおおお! 自分の意思で動けないっ!?』

『なにぃ!?』

『マジだ! 俺の身体なのに俺がうごかねぇ!?』

『どういうことだ! 俺じゃないのか!?』

『それよりも、さっきから聞こえる幻聴はなんだ!?』

一斉に喚きだした幻聴たちが、再び一刀の頭の中で騒ぎ立てる。
この時点で、温厚で優しいと言われる男、北郷一刀は久しぶりにブチ切れた。

「うるせぇぇぇよぉぉぉぉ! なんなんだよ、この声はよぉぉぉ!
 超いらつくぜぇ~~~! クソックソッ!」

もう頭のほうから聞こえてくる幻聴は、母なる地球へのヘッドバンディングでさえ退けたので
彼は怒りに任せてそのまま地面に、しこたま足を振り下ろした。
地団駄を踏むことくらいしか、今の彼に出来る抵抗は無かったのである。


     ■ 星風凛、ぶらり旅継続


「なぁ、あれは何をやっているのだろうな?」

「さぁ~? まともな神経では無い狂人かも知れませんね~」

「酷く興奮をしていますね、こんな何も無いところで……何をやっているのでしょうか」

「それは最初に私が聞いたのだが……ふむ、まぁいい、我等は先を急ぐとしようか」

「そうですね~、特に放っておいても問題は無いでしょうし、先を急ぎましょうか~」

「そうですね」

一刀を遠方からチラチラと見ながら、3人の少女達は旅の続きへと戻っていく。
ほんの少しだけ、彼が何をあんなに憤っていたのか気になりつつも
基本的に面倒は避けたほうが、旅を続けやすいことに聡明な彼女たちは気付いていたからである。

仮に、彼に構っている間に最近にあったと噂される陳留の刺士の物取りに巻き込まれては溜まった物ではない。
そう判断され、哀れ一刀は荒野に放置されることになった。


     ■ 呼称、北郷一刀意識群


「つまり、俺は俺で、お前たちは一度、俺の前にこの世界を経験した俺って事か?」

自分で言っていて頭がおかしくなりそうだった。
ようやく冷静さを取り戻した一刀と、脳裏に突然住み着いた大勢の俺の脳内 in 俺。
脳内の俺たちも、当初から比べて随分と落ち着いていた。

暫し話し合って分かったことを纏めると、脳内に居る声達は全員が
『『『『『『『『『俺は北郷一刀、字は無いから好きに呼んでくれて構わないよ』』』』』』』』』』
と、合唱した。

誰一人として一字一句、タイミングすら狂わずに会わせてきた。
リアルサラウンドというレベルじゃなかった。
とにかく、彼らはこの荒野に突然降り立った自分と同じ名前を名乗った。

しかも、さっきから騒いでいた原因は、前にも同じ事を経験をしているからだと話してくれた。
そして、この荒野が広がる場所は、遥か昔の三国志と呼ばれる舞台であり
その有名武将たちと、脳内の北郷一刀は共に過ごし、乱世を過ごしたという。

脳内のある俺は天下を取った、ある俺は天下二分計をその手に掴みとり大陸に平和を導いた……
とにかく、脳内に居る俺の分だけ物語の数があり、活躍があり、そして結末があった。

それは、話を聞くうちに、とても作り話や嘘を言っているのでは無いと分かってしまう。
つまり、自分が極度の精神病に陥ってなければ、脳内の彼らの話は真実という事になるのだ。

「……はは、何言ってるんだよ、お前ら、正気なのかよ……」

『俺は冗談でこんな事は言えないよ』

『俺も……それに、君だってもう、疑ってなんかいないんだろ?』

脳内の彼らは、実に北郷一刀という人間を分かっていた。
そりゃあ同一人物なのだから、分かっていて当然なのかもしれないが
正直言って、自分には黄色い救急車が必要だと言ってくれたほうが安心できた。
こんなこと、とてもじゃないが受け入れられる筈が無い。

「……どうすりゃ良いんだよ、俺に、何をしろっていうんだよ」

『そうだな……とりあえず、魏、いや今は陳留の刺士をしているだろう曹操に会いに行こう』

『おい、待て、魏の。 ここは呉に行くべきだ。 曹操の傍は彼にはきっと辛い』

『いや、幽州に向かおう。 桃香なら絶対に受け入れてくれるからさ』

『なんだと、この野郎、呉も蜀も魏に負ける。 それに華琳の傍は辛くなんか無いって、自分を成長させてくれる最高の女の子だよ』

『あ? どう考えても魏の方が死亡フラグたってるだろ、それに呉だって、冥琳や祭達のおかげで成長は出来るよ』

『おい、二人とも争うなよ、魏も呉も、少し血の気が多すぎるよ』

『じゃあ俺の居た麗羽……袁紹のところにしたらどうだい?』

『『『『『それは無い』』』』』

『なっ、お前らな、麗羽だってやる時はやるんだぞ……ちょっと、馬鹿だけど、可愛いんだぞ』

『月の所にしよう、それがいい』

『ああ、月か、可愛いよな、守ってあげたくなるっていうか』

『『『『そうだな! 特にあのメイド姿が!』』』』

『じゃあ月のところに……』

『俺としては、もう一度白蓮を助けてあげたいな……』

『え、お前、白蓮の陣営だったのか?』

『ああ、白蓮……一所懸命でさ、支えてあげたくて、頑張って大陸の半分は取ったけど
 最後の決戦で俺は死んだから、どうなったのか分からないけど、な』

『『すげぇ! 詰みの状態で良く大陸の半分を……』』

『……今の俺なら、きっとその位は』

『呉は寝とけ、夢でなら勝てるかも知れないから』

『売ったなこの野郎、買ったぜ魏の!』

『やめろよ! 見苦しいぞお前ら!』

『蜀の、お前はちょっといい子過ぎるだろ!』

『なぁ……皆、南蛮は』

『『『『『『あそこは暑いからな、嫌だよ』』』』』』

……シリアスに悩む一刀(本体)を他所に、わいのわいのやり始める脳内俺達。
この会話で気付いたが、魏と呉の仲がすげぇ悪い。
いや、気にするのはそこではなくて。

「あのな、一言いっとくけど、曹操とかなら分かるけど真名……?だっけ。
 それで話されても俺には全然わからないぞ」

『そうだったな、俺達はこっちで慣れてるから……』

『それに、俺は呼んでも良いって言われた子以外の真名は呼んでないからな、一応』

『『『『『『まぁ、基本だよな』』』』』』 

「ぜってーお前らこの時代に染まってるよ!?」

『……へへ』

「照れるなっ! 別に褒めてねぇし!?」

なんだか悩むこと自体が無駄に思えてきた一刀(本体)である。
良くも悪くも、脳内に住み着いた俺達のおかげで、寂しく無かったというのもある。
そこまで考えて、一刀(本体)は現実に帰れたら、医者にかかる必要があるのではないかと本気で心配したのだが。

『それより、ここに何時まで居たってしょうがないよな』

『そうだな……それで、俺を動かせる俺は、何処へ向かうんだ?』

「俺は……そうだな」

脳内の俺達の会話を聞いていて、一つ疑問に思ったことがある。
魏や呉、蜀を初めとして、大きな勢力の名前は一通り上がった。
けれど、今現在のこの国の名を挙げる人物は一人としていなかった。

「なぁ、一つ聞いていいか?」

『『『『『『『『『ああ』』』』』』』』』

「三国志ってことは、帝って……いや、漢王朝はあるんだよな?」


      ■ 曹操、荒野で将星を見る


既に時刻は夕刻を過ぎ、夜の帳が落ちようとしていた。
結構な数の兵も動員したというのに、結局犯人はおろか、手がかりすら掴めなかった。
完全に見失ってしまったのである。

知らず、彼女は唇を噛み締めて握る拳は震えた。
それは、珍しく彼女の失態であったからだ。

「華琳様」

「春蘭、戻るわよ」

「……御意」

それだけ言うと、華琳は馬へと跨り、荒野を駆けた。
過去は戻らないのだ。
この失態は必ず取り戻す。
気持ちを切り替えるように、手綱を握る手がふいに緩まる。

「華琳様、どうされました?」

「……秋蘭、あれは何かしら?」

「は……」

尋ねられた秋欄と呼ばれた女性は、華琳の視線の先に顔を向ける。
少し小高い丘の上で、一人の青年が岩場に腰掛けて夜空を見上げていた。

黒い髪に、見たことも無いような白い服をその身で包み、ともすれば何処かの良い所の貴族のようにも見える。
やや、泥に塗れた格好ではあったが、それがワイルドな雰囲気を醸し出していた。
その横顔は、少し憂いを帯びており、こう言っては珍しいと言われてしまうだろうが、少し格好いいとも思った。
暫し秋蘭と呼ばれた少女は男を見やっていたが、華琳に尋ねられて居た事を思い出すと、簡潔に言った。

「男のようです」

「……ふふ、少し鬱憤を晴らす機会が訪れたかしら、行って見ましょう」

「あっ、お待ちください華琳様! 一人では危険です!」

ああ、また悪い癖が出たのだろうか、と秋蘭は思いながらも
前を駆ける華琳と自身の姉、春蘭に追いつくために、一つ手綱を引き絞るのであった。 


     ■ 証明式:種馬*n=xxx


その頃、北郷一刀の意識群は、洛陽へ行く道すがら、小高い丘で休憩を取っていた。
そして、脳内で花を咲かせていたのである。

『な、だから俺はその時にゴマ団子を持って行ったんだよ』

『へぇ』

『それで、どうなったんだ?』

『はは、俺の浅はかな考えに甚く嬉しがってくれて、いい雰囲気になったよ』

『押し倒したのか?』

『『『『『『え、合意も無しに押し倒すとか、駄目だろ』』』』』』

『なんだそれ、話聞く限り、雰囲気的に押し倒せるよ、その位の勢いがないと』

『しかし無の、俺としては押し倒すよりも押し倒される方が、その、萌える』

『俺も俺も』

『だよな』

『でも、押し倒すのも楽しいかもな』

『あー、そういえば麗羽は押し倒されたい願望が地味にあったなぁ』

『『『『mjk』』』』

『まぁ、むこうの麗羽はね、此処ではどうだか分からないけど……』

「なぁ、童貞の俺に、そういう話をするの、無遠慮だと思わない?」

本体が身体全体に影を作りながら力なく呟いた。

『『『『『『『『『大丈夫だよ、俺達がついている』』』』』』』』』

「納得していいのか疑問だ……」

『……よし! やっぱ帝なんて良いから魏に行こう!』

『今の話で盛りやがったな、魏の』

『うるせぇ! どうせお前ら全員そうなんだろ!』

『『『『『『『『ふっ、まぁな』』』』』』』』』

童貞(本体)は、このハモリに本日二度目の怒りを爆発させた。

「うぜぇええええええ! リア充共爆発しろっ!
 俺だって、俺だってやってやる! ヤッテヤルぞ!」


      ■ 華琳様の正しい直観力


「っ!?」

突然立ち上がり、丘の上で咆哮する男。
その余りの剣幕に、華琳は一瞬とはいえ身体を硬直させた。
そして、硬直が解けた瞬間に気付く。

何か、嫌な汗が吹き出るのが止まらない。
全身に寒気が走り、絶対的な本能から警告が発せられ華琳の身体に命令し、彼女はその場で反転した。
走る勢いを殺さずに、しかして馬に負担もかけずに反転した様は流石に見事であった。

「えっ!? 華琳様!?」

「なっ! 華琳様!?」

これに驚き、慌てて馬首を返す羽目になったのは華琳の背中を追っていた春蘭と秋蘭である。
一目散に、まるで一騎当千の猛将に追われる総大将の如く、背を向けて馬を走らせる華琳。

ようやく追いついた春蘭がその顔を覗き込むと、なぜか頬を染めつつ顔面を真っ青にし、唇を震わしているという
器用な表情をした華琳を見ることになった。
その敬愛の精神から、春蘭は主の様子に不安を募らせて声を上げる。

「どうしたのですか! 華琳様! ご気分が優れないのですか?」

「やばいのよ、春蘭……あそこに居たら、何かヤバイという直感があるわ!
 頭から爪先まで食われる自分が脳裏に過ぎって消えない!
 に、逃げなくちゃ! 逃げなきゃ食われるわっ!」

「な、速っ!? 華琳様! 華琳様ぁぁぁぁぁーーーー!」

後に、華琳こと、曹操は語った。
占いも何も信じないけれど、あの場に居た北郷は何か得体の知れない化け物に見えた、と。
そして、彼女の感覚はおそらく、正しかったことだろう。



これは、12人の北郷一刀が合わさって最強になったように見える、一つの外史の物語である。


■ 外史終了 ■



――――――――――――

☆☆☆~10秒で考えた僕の一刀意識群の詳細だよ編~☆☆☆

[本体] 今外史の主人。   種馬予定。
[魏の] 魏ルート一刀。    種馬経験。
[呉の] 呉ルート一刀。    種馬経験。
[蜀の] 蜀ルート一刀。    種馬経験。
[無の] 無印一刀。      種馬経験。
[仲の] 袁術ルート一刀。  種馬経験。
[袁の] 袁紹ルート一刀。  種馬経験。
[董の] 董卓ルート一刀。  種馬経験。
[肉の] 貂蝉ルート一刀。  貂蝉経験・卑弥呼経験。
[南の] 南蛮ルート一刀。  種馬経験。
[馬の] 馬家ルート一刀。  種馬経験。
[白の] 白馬ルート一刀。  種馬経験。






[22225] 桂花の大罵倒祭が最終的に逆の意味に聞こえてきたよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64fa16e3
Date: 2010/12/31 02:59
  

clear!!     ~種馬*N=XXXの計算式は成立すると強く思うよ編~



今回の種馬 ⇒  ★★★~桂花の大罵倒祭が最終的に逆の意味に聞こえてきたよ編~★★★



 
      ■ 己を知れば


今、陽光にきらめく白い服を身に纏い、ようやく街道と呼べる位に
整備されたっぽい道を、北郷 一刀は歩いていた。
何日かを荒野で過ごし、慣れない野宿でやや憔悴した感はあるものの
足取りはしっかりとしており、案外と動けている。

しかし、考えてみてほしい。
普通に現代社会で暮らしていた高校生が、野ざらしの荒野で夜を明かして
それが数日に続いても、まともで居られるだろうか。

少なくとも、足取りはしっかりした物にはならないだろうし
下手をすれば水や食料を確保できずに死に至るといった可能性だってあっただろう。

そんな一刀が、今でも元気に動ける理由は
ここへ来てからずっと、彼を悩まし続ける脳内の声のおかげなのであった。

『しかし、良かったよ。 “南の”がサバイバルスキルを持っていて』

『本当だね、まさか荒野でこのまま野垂れ死ぬかも知れないだなんて、思ってなかった』

『俺の時は、すぐに袁紹達が来たから……』

『俺の時も、すぐに桃香達が……そういえば、あの時は賊に襲われたんだよなぁ』

『俺の場合は、気がついたら軟禁されてたよ。 美羽がお馬鹿で助かったけど……』

『へぇ……』

そう、本体の一刀は、脳内に居る一刀達の助けを借りて荒野を踏破したのだ。
脳内に居る一刀達は、本体の一刀と比べて、乱世を一度駆け抜けただけの経験を持っている。
本体には出来ないだろう、漢文古語の文字だって読めるし書けるし理解できるのだ。

その辺のチンピラくらいなら一蹴できる位の実力だって身についている。
ただ、この実力は脳内での一刀の話なので、現状は邪気眼に目覚めたといったところだろう。
現代で剣を習っただけでは決して身につかない、本当の命を賭けた戦いという物も知っている。

まぁ、そんな頼りになる“自分”の手助けを借りながら
色々と知恵を拝借しながら頑張っている本体である。

「で、俺は、俺達が頭の中に入ったところからスタートか……」

『『『『……』』』』

「俺も、女の子に保護されたかったな……はは、まぁ今更だけど」

『『『『本体……』』』』

「なんだろう、この自演臭。 なんか涙が……」

この時、本体は脳内の自分たちに哀れみの感情を抱かれたと思っていた。
だが、実際には違った。
何気なく本体が言った事だが、“俺達が頭の中に入った”という言葉に動揺したのである。
それは、脳内の一刀達が出来る限り考えないようにしていた事だったのである。

なぜならば、それは本体に限らず、全員が思っていたことなのだ。
何故、俺は北郷 一刀の意識体の一つになっているのだろう、と。


      ■ 第一回 北郷 一刀 リアル脳内会議


脳内の一刀達は、本体が眠るとゆっくりと口を開いた。
この会議を知らないのは、本体だけである。

『とりあえず、仕切らせてもらうよ。 進行役が居ないと、やりづらいだろうからね』

『『『『『『『『『『分かった、任せる』』』』』』』』』』

『とりあえず、本体を覗いて11個の意識があることは、何となく分かる。
 俺の予想だと、それぞれ陣営が違うみたいだけど、自己紹介からしようか
 そうだな……とりあえず、俺は魏の曹操達が居る所に落ちた、“天の御使い”だ』

『呉、孫策のところからだ』

『俺は蜀。 落ちたところは、幽州だったけれどね』

『俺は馬家のところ……西涼からだよ』

それぞれの出身を、短く答えていく。
実際に顔があるわけでもないので、誰がどの意識体なのかは分からないのだが。
“無の”紹介の時に、蜀から二人も? という疑問が上がったが
どうやら、辿った道は随分と違うらしい。

驚くことに、“無の”は“蜀の”と違い、自らが御旗、総大将となって
数多の勢力を打倒し、大陸を統一に導いたという。
しかも、劉備が居ない三国志だというのだから驚きだ。

この本体が来た世界も、もしかしたら“無の”世界と同じように
誰かが欠けているのかもしれない、と脳内の一刀達は不安を募らせた。

『まぁ、とにかく、あなたが最後だ』

『うん、みんな、不安になるのも分かるけど、先に自己紹介の方からすませよう』

『で、あんたは何処の陣営だったんだ? いや“無の”みたいに違う世界から?』

『俺は……強いて言うなら、漢かな?』

『漢? まさか……漢王朝か?』

誰もが一瞬、言葉につまり、最初に立ち直った“白の”が驚きつつもそう尋ねた。

『いや……なんていうのか、噎せ返る漢臭っていうか』

『……おい、ちょっと待て、俺は今、意識だけの存在なのに猛烈な寒気に襲われてるぞ』

『“無の”、大丈夫か?』

『なんだか要領を得ないな、というか漢臭ってなんだ』

『うーん……イメージが伝えられれば楽なんだけど、やってみるか』

『待て! やめろ! 馬鹿! 早くもこの意識群は終了ですね』

“無の”の懇願にも似た叫び声も空しく、“漢の”から発せられるイメージが
脳内の一刀達に流れてゆく。
そのイメージを掴んだものから、意味不明な寄生を上げながら闇へと帰っていった。

イメージを具体的に言えば、XXX、XXXXXXどころか、もはやXXXXXXXXだった。
更にそのXXXがXXXに宛がわれ、XXXXXXXXXXX、常人ならば正気を疑いそうなXXX。

これが、記念すべき第一回 北郷一刀 リアル脳内会議の顛末である。
結局、この会議ではただの自己紹介だけで終わってしまった。

後日、“漢の”から溢れ出る、地獄極楽落としのようなイメージ映像に耐え切った“無の”は
『『『『『流石に大陸を完全に統一した男だ、胆力が違うぜ……』』』』』』
と、自画自賛し、逆に“漢の”に対して
『『『『『お前は“漢の”じゃなくて“肉の”にするべき』』』』』
と、最大の自己嫌悪を送ったのであった。


      ■ 木陰に見つけた王佐の才


『なぁ、“白の”。 お前ならこの立地だと、どう戦う?』

『そうだな……見えてる限りだと、西に陣を敷きたくは無いな』

『どうして?』

『“袁の”、俺の場合は白蓮の所だったからな。 西は騎馬隊が動くには少し狭い』

『あ、そうか』

『歩兵が主部隊なら西は悪くない。 敵の騎馬を誘い込めれば、擬似的な死地を作れると思う』

『俺なら南の丘で出来る死角を利用するな。 あそこに罠を仕掛けられれば効果が大きいと思う』

『“呉の”、それはちょっと条件が都合よすぎないか?』

『答えがあるなら聞こう』

『あ、じゃあ俺だったら―――』

『『『『『『『『『『ちょっと“肉の”は黙っててくれ』』』』』』』』』』』

『ひでぇよお前らっ!?』

何時もどおりの脳内会話をBGMに、本体はただ只管に街道を西に向かって歩いていた。
道中、何度か人に出会ったのだが、いずれも馬上で移動しており
声をかける暇も無く過ぎ去って行ってしまった。

唯一、良い事があったと思える事があるとすれば、ポケットの中に収まっている
この世界のお金である“古銭らしきもの”を道端で拾えたことだろう。

脳内が、騎馬300、歩兵600、弓200の条件で想定したこの場所での戦闘シミュ戦をお題に
良い感じに議論をヒートアップさせていた頃。
本体はやや小高い丘に佇む、大木の木陰で休む人影を捉えた。

遠目から見ても、その体は小柄だと思える。
猫のような耳のついた帽子を頭から被り、背負った荷物を脇に置いて
懐から水筒のような物を取り出して喉を潤わせていた。

とても賊には見えない。
もしかしたら、この世界で自分以外の存在と初めて会話出来るかも。
そんな淡い期待を抱きつつ、本体は近づいてみることにした。

『やっぱ南に罠をかけるのは賛成だな、俺なら……ん? 本体、あの子は』

「あ、気がついた? いや、人を見つけて『桂花っ!』……ハ?」

『うおおおお! 桂花だ! あの猫耳頭巾! 首もとの黒いリボン! 間違いねぇよ!
 アハハハハ! 桂花だぁぁぁぁぁぁ!』

「ちょ、え……おぉぉぉぉい!? 何だ! 何したお前っ!?」

ここで、本体は異変に気付く。
自分の身体が、勝手に動くのだ。
これはどういう現象か。
歩いて近づこうとしていた北郷 一刀の肉体は、“魏の”興奮に引っ張られるかのように
少女の元へと向かって加速していく。

速い。
まるでカール・ルイスの全盛期のようだ! 
意思に引っ張られて、両足が悲鳴を上げながら高速で回転していく。

自分の意思で動かない、自分の体に本体の一刀は顔を強張らせた。
完全に引きつった顔が、風に煽られて、それはもう一部女子の間でイケメンと噂された一刀の顔が
クリーチャーのような表情に変わっていく。

そんな中、最後の丘を越えて、本体の一刀は桂花と呼ばれた腰を浮かし
警戒態勢にある猫耳頭巾少女と、目が合った。


      ■ 上唇、揺れて


どこか、遠い所から駆けるような音が聞こえてきて、彼女は辺りを見回した。

ダッダッダッダッダッダッダッダダダダダダダダダダddddddddddd

最初は馬の蹄が鳴らす音かと思ったが、どうにも音の種類が違う。
辺りを見回しても馬を走らせる者などは居なかった。
若干、不安を感じて彼女は腰を浮かせて、いつでも移動できるように荷物に手を置いた。

その、瞬間だった。

唇が風圧でブルンブルンと揺れて、目から歓喜の涙を流し、勢いに負けて上半身を反らした
北郷一刀が突然に現れたのである。

「あぶぁっ、あ、あぶぶぶぶ」
「き、きゃああああ!」

『あ、やば、こんな近いなんてっ!?』

気が付いた時には、少女はもう顔を背けて来るべき衝撃に備える事しか出来なかったのである。


      ■ フェミニストな奴ら


タイミング、角度、両者の距離……激突は、確実かと思われた。
荀彧という(見た目)可愛らしい花を傷つけることを良しとしない、全ての北郷一刀が瞬間的に意思を統一したのである。

“荀彧-桂花-少女”にぶつかる訳には行かない。
北郷、避けろー!! と、怒声の如く脳内で自分を叱咤する大合唱が起こり
この時だけは全北郷が一致団結したのである。

かくして奇跡は起きる。
完全に直撃のコースだったが、まず胴体が軟体動物のようにグニャリと右に逸れた。
更に、足を限界まで伸ばすことによって、胴体部、脚部は完全に桂花の横を通り過ぎるコースに変わったのだ。

だが、しかし。
顔。
そう、顔だけがどうしても言う事をきかない。
余りの速度に仰け反らせていた分だけ、顔だけは挙動に一手、遅れを取ったのだ。

「いっ……!」

少女の声が、真下から響く。
動かなかったのが顔だったのが幸いした。
そう、少女が僅かに腰を下げたことで、顔だけが元のコースでも激突しない唯一の場所になった。

奇跡。
安っぽい奇跡と言えば、そうかもしれない。
彼女を巻き込んで、怪我をさせるという事態にならなくて本当に良かった。

“魏の”以外の一刀は、その事実に安堵したのである。
こうして北郷は、少女と激突せずにすれ違う事に成功した。


      ■ 主観が呼び名の決まり手なのだ


本体は、ようやく自分の意思で体を動かせるようになったのを自覚する。
だが、少女の方に振り返ろうとして腰砕けした様によろけてしまう。
やはり、あの走る速度は異常だったのか、10分間の間に100Mダッシュを
30本くらいこなした後のような、とてつもない筋肉疲労に襲われていた。

とにかく、体は動かないが、なんとか今の出来事を弁明しようと一刀は口を開き

「ファー……ブルスコー……ファー……」

としか、声に出すことが出来なかった。
ついでに、限界を迎えて蹲り

「モルスァー……ファー……」

口から漏れ出る奇声が、自分の物と気付いて、一先ず息を整える事を優先する一刀。

「ひぃぃぃぃぃぃ!?」

その一挙手一投足に身体を強張らせて、後ずさる少女。
情けないことに、彼女は腰が抜けて立てない状態であったので
即逃げるという行動が取れなかったのである。

「あ……何なのよ、あ、人……!? しかも男……わ、私、私をどうしようって言うの―――」

相手が人間であることを、ようやく把握した少女はそこまで言いかけて
見てしまった。

何とか気合で振り返った、一刀の口元に光る、茶色い糸のような物を。
それは、ちょうど良く陽光に反射して、キラキラと光っていた。
糸は一本ではない。
それを見て、無意識下の中、少女は自分の頭部に手を当てる。

ヌチャァ

「なっ……ななな、な、な、何よこれぇー!?」

少女が自分の頭部に手を当てると、何か液体のような物がベットリと張り付いていた。
手を目の前に持ってきて、その不審な液体を本能からか、嗅いでみたりした。

唾液である。

その事実に気がつき、悲鳴を上げようと少女が息を吸い込んだ時と同時。
ようやく、息が整って動くことが出来るようになった北郷一刀が、少女に一歩近づいた。

「ハァ……ハァ……け、怪我は……ハァ、ハァ、無かったかい?」
『大丈夫か、桂花! すまん!』

自分の頭部をすれ違い様に舐め(桂花視点)
口に咥えて髪を貪り千切り(桂花視点)
荒い息を吐き出しながら近づいてくる男(桂花視点)

しかも、所々で筋肉らしき肌がビクンビクンと鳴動している。
それは彼女にとって、変態としか言えなかった。
男 + 変態性 + 血管ビクンビクン = 全身精液野獣男。
証明完了、脳内で弾き出した言葉を吐き出すのに問題は無い。

オールグリーン、発声OK! GO! GO! GO! GO!
少女が限界まで吸い込んだ肺の空気が、爆発的な勢いで外界に飛び出した。

「いやああっぁぁぁぁ、全身精液野獣お下劣男に犯されるぅぅぅぅぅぅ!」

『ああ……本当に桂花だ……、こんなに嬉しいことはないよ』

とんでもない声量で周囲を響かせる少女の悲鳴が轟く中で
場違いな感想を抱いた脳内の一刀。
本体の一刀は、今日初めて、肉体の無い意識体を力の限り殴りたくなったのだった。


      ■ 男に流す涙


「これが大丈夫に見えるの!? ちょっと、こっちを見ないでよ! 変態!」
「最低……っ! ほんっっと最低っ!」
「全部あんたのせいよ! 死になさいよ! 馬鹿っ! 低脳っ!」

彼女が悲鳴を挙げた理由は、すれ違った時にたまたま口の中に含んでしまった
彼女の髪の毛のせいだった。
違和感を感じて吐き出した時に一刀は少女の髪を貪っていた事実に気が付いた。
突然現れて息を荒げて彼女の髪の毛を口に銜えながら近づく男。

少女が叫ぶように、変態である。
どう頑張っても変態という言葉を否定できる要素が無かった。
だからこそ、本体一刀は彼女のあらん限りの罵声をその身に受け止めているのだが。

「ちょっと! 人の話を聞いているの!?」

「あ、ああ、聞いてる」

「こっちを見るな! 視線で犯すつもりなのは知っているんだからっ!」

「いや……」

「しゃべるな! 息するなっ! 汚らわしいのがうつるっ!」

「……」

もはや取り付く島も無かった。
これは、彼女の怒りのほとぼりが冷めるまで、待つしか無さそうだった。

『はは……この時から全然変わらないな、桂花』

(なぁ、彼女は一体何者なんだ? 知り合いってことは武将?)

『ああ、彼女は荀彧だよ。 王佐の才と言われ、曹操に重用された軍師、その筆頭だ』

(うおっ、有名人だ! そうか……これがあの荀彧……)

「何よ、いきなりこっちをジロジロと……ハッ! あんた、まさかっ!」

しまった、と思ったときにはもう遅かった。
再び烈火の如く吐き出される罵倒のマシンガンに、本体一刀は流石に辟易した。
当然、そんな態度も荀彧に認知されて、罵倒の時間が長引くのだが。

『いや、本体、これでも彼女は素直になれない毒吐きでもあるんだよ、きっと、多分』

一方で、“魏の”は感動もそのまま、桂花の懐かしささえ覚える罵倒に酔いしれていた。
別に“魏の”がドMな訳ではない。
桂花も、華琳と同じように特別な感情を抱いている愛しい人の一人なのだ。

こうして出会えて、嬉しくない訳が無かった。
たとえ、再会であるそれが罵倒の嵐であっても。
自分はただの意識体で、本体である一刀を隔てての再会であったとしても、だ。

むしろ、その罵倒の意味が、“魏の”にとって微笑ましく思えてくるのだ。
時に、桂花の行き過ぎる罵倒は人を不快にさせてしまう。
だが、それは彼女の本心を隠す為の隠れ蓑であるとも、“魏の”は前の世界で消える直前に考えた事がある。

もしかしたら、それは“魏の”の勘違いかもしれない。
桂花本人に直接聞いたところで、まともな答えなど返ってこないだろう。
だから、この感情は“魏の”にとって自己満足に近い物なのかもしれない。

そんな想いが胸を(無いけど)満たしていたからか、気がつけば“魏の”は自然に口が動いてしまった。
最悪なことに、本体がそれを素直に反映してしまった。

「桂花……」

「っ! な、あんた……私の、真名を……っ!」

『馬鹿野労! 何やってんだ“魏の”!』

『え……俺、今喋って……どうして本体の口が!?』

「許さない……許さないわっ、襲われるだけでも万死に値するっていうのに……
 何処で知ったのか分からないけど、わ、わ、わ、私の真名まで呼ぶなんてっ!」

『おい! 何とかしろよ、“魏の”!』

『幾らなんでもこれはやばいよ! 今の荀彧は、“北郷一刀”なんて知らないんだぞ!?』

『どうするんだよ!』

騒ぐ脳内一刀の喧騒を聞きながら、本体である一刀は荀彧を真っ直ぐ見つめていた。
純粋な怒りを込めて見返してくる、その目。
その彼女の目から、確かに一粒の涙が毀れたのを、一刀は見た。
本体一刀はその時、本当に真名という物の意味を知った。

「殺してやるっ! 荀文若の誇りにかけて、必ず殺してやるからっ!」

『「待ってくれ!」』

踵を返して駆け出そうとする荀彧の腕を彼は掴んだ。
このまま喧嘩別れをしてしまうだなんて、悲しすぎる。
しかも原因は、自分ではなく脳内の自分なのだ。
せっかく出会えた、この世界で最初の人と本体一刀は仲良くしたかった。
だからこそ、“待ってほしい”と願った。

一方で“魏の”も、ここで桂花と別れることなど許容できなかった。
彼女の罵倒する姿が、自分の知る桂花とまったく一緒で、感極まってしまったからとはいえ
今、この世界に居る“一刀”は荀彧すら知らないのだ。
それを分かっているのに、迂闊に真名を呼ぶなど、愚か過ぎて死にたくなる。

このまま放っておく事など無責任に過ぎるし、何より桂花に嫌われたく無かった。
ちょっと、手遅れかも知れないなどと思いもしたが、それでも諦めずに
“待ってほしい”と願った。

「触らないでっ! 放しなさいよ!」

「俺が悪かったよ、だから待って……落ち付いてくれ!」

『頑張れ本体! フレーッフレーッ、HO・N・TA・I!』

(やかましいっ! 黙っててくれ!)

「あんたなんかと、一秒だって居たくなんかないのよ! いやっ、やめて、やめてよ……!」

『桂花っ……!』

一刀を振り払おうと、暴れる桂花は恐怖からか、それとも悔しさからか
僅かとはいえ涙を零し頬を濡らしていた。

ああ、何と馬鹿な事をしでかしたのだろう。
自分の浅はかさが招いた事とはいえ、こんな結末は酷いのではないか。
俺の、俺のこの想いが少しでも良いから桂花に伝われば!

こんなにも、“魏の”一刀は桂花を想っているのに!


      ■ 男に流す涙 2


気がつけば、全身精液ケダモノ男は桂花の腰に手を回して引き寄せた。
流れる景色が、荒野だけを映して、桂花は諦観する。
なんだ、こんなところで世界一気持ち悪い男に
無遠慮に真名を汚した最低男に、犯されてしまうのだ、と。

男の胸に沈み込む。
その感覚に寒気と吐き気を覚えて、桂花は身体を震わせた。

「桂花―――」

そうして、もう一度、男によって真名を汚され聞かされた瞬間。
世界は彩を失って、桂花は白昼夢のような浮遊感に身を包まされた。
そして、何かが桂花に流れてくる。

それは、洪水にも似た怒涛の奔流で、押し寄せてくる物が何であるかも桂花は把握できない。
訳の分からない感情が爆発しそうで、頭が真っ白になってしまう。

気がつけば、桂花はいつの間にか男の拘束から逃れて
案山子の様に突っ立って居たのである。

「ちょ、ちょっと……何、したの?」

「……何も、ていうかその、ごめん」

まるで仙人が使うと言われる、幻術か何かのようであった。
何かとても大切で、尊い出来事を体感したような気がするのに
それが何なのかはまったく理解できなかった。

理解が出来なかったのに、瞳は潤み、頬を伝って滴が零れる。

男の腕に抱かれた、とか、真名を呼ばれた、とかよりも先に
桂花は尋ねた。

「あんたって、何者なのよ……」

「それは、なんというか……」

得体の知れない物を見るように、桂花は一刀を見た。

見た事も無い男だ。 それは間違いない。
いくら男に対して、九割以上がジャガイモにしか見えない桂花でも
こんな目立つ白い服を着ていれば、記憶の片隅に残っていておかしくない。

そんな初対面のはずの非常識極まりない男は、先ほどの不可思議な体験を境に
桂花にとって、それほど側に居て不快な存在ではなく、むしろ目の前の男の事が
もっと知りたいと言う欲求に変わっていった。

そう、この男は殺したいほど桂花を穢したにも関わらず、それを置いても男を知りたいと―――男を、知りたい……

「って、そんな訳ないでしょっ!」

「うわっ、ど、どうしたんだいきなり!?」

「なんでもないわよ! とにかく、質問してるんだから答えなさいよ!」

(こんなイレギュラーばっかり、俺にどうしろってんだよっ!)

一刀は、勢いで荀彧を抱いた“魏の”に呪詛のような愚痴を心の中で呟いてから
この場を切り抜ける為に口を開いた。
荀彧がそれほど暴れずに案外と冷静だったのが、せめてもの救いだった。

「えっと~その、だな、あ~」

「……」

「俺は、北郷 一刀! 天からの御使いだ!」

やや、ヤケクソ気味に語気を強めて言い放った一刀。
それを聞いた桂花の眉根が、ぐにょん、と危ない角度に曲がる。

「何よそれ、馬鹿にしているの?」

「本当だ! えっと管輅? の占いだよ、有名だ……よな?」

だんだんと自信がなくなって来た本体一刀の言葉は、途中で力を無くしていく。

「管輅……? 誰よそれ、聞いたことも無いわ」

(おい、有名な占い師で天の御使いを予言したんじゃなかったのかよっ!?)

『いや、予言したのは間違いないし、俺たちの世界では有名だった』

『ここは、どうやら前の世界と相違点があるらしいな』

脳内で傍観に徹している一刀達が補足をしてくれる。
彼らの居た世界と、この世界は若干のズレが生じているらしい。

「……天の御使い、ね」

「はは、納得した――」
「しないわよ、ええ、全然これっぽちも出来ないわよ!」
「うわっ、ごめんっ!」

「いいわよ、気勢も削がれたし、あなたがもう何もしないなら
 今日の事は無かったことにする。 私も忘れる。 貴方も忘れる。
 今日という日は存在しなかった、分かった?」

「……分かったよ、本当はこんなつもりじゃ無かったんだけど」

言いながらも、一刀はほぅ、と安堵の息を吐いた。
改めて思い返しても、荀彧には在り得ない事の連続を“魏の”馬鹿がやってしまった。

ざっと思い返すだけでも
走って激突しかける、髪を食う、鼻息荒く迫る、真名を呼ぶ、抱く。
これだけの事を僅かな時間、高密度で次々と繰り出したのだ。

……え? 
何でこれで許してくれるんだ?
おかしくないか?
などと自問自答している間に、荷物を背負って、荀彧は歩き始めていた。

遠くなる背中を見えなくなるまで、一刀達は見守っていた。

『おい、本体、“馬鹿魏の”、もう終わった事だ、俺達も行こう』

「……ああ」

『桂花……また、会ったら、その時はちゃんと話せるといいな』

『全部自分のミスだろ。 本体が可愛そうだ』

『……ごめん、気持ちが逸って、どうしようもなかった……すまなかった』

『……いいよ、もし最初に俺が麗羽に会ったら、似たようなミスをしてたかもしれないし』

『俺は、そんなミスはしない……』

『“呉の”、それが孫策でもか?』

『……“魏の”奴よりは、マシだよ』

「なぁ、どうして俺、真名を呼んだのに許されたんだ?」

『分からない。 気紛れ……ってことはないか。 “魏の”が何かしたのかもしれん』

『俺には好機とばかりに、抱きついたようにしか見えなかったけど』

『『『『『『『俺もだよ』』』』』』』

「……そういえば……柔らかかったな」

『『『『『『『『『『ああ……柔らかかった』』』』』』』』』』

『コホンッ……じゃあ、天の御使い説を信じたっていうのは』

『あの魏の軍師、荀文若がか? ないだろ』

『……俺の想いが伝わったとか』

『おーい、“肉の”。 “魏の”がイメージを受信したいらしいぞ』

『よし、任せろ』

『うわなにをするやめろ』

「行くか」

短く呟いて、本体一刀は歩き出した。
そして、自分の体が“魏の”意識体に引っ張られて動いた事実に不安を募らせつつ
それを考えないように、ひたすら足を前に動かし街道を西に進んでいくのだった。


      ■ 二人の距離、まだ5歩以上


前を、一人の少女が歩いている。
いや、回りくどく言うのは止めよう。
今、本体一刀の前に、先日出会った荀彧こと猫耳フードが頭を揺らして歩いている。

どうも、選んだ道が重なったようで、彼女も一刀達と同じ場所に向かっているようだ。
黙々と前を見据えて歩いていた一刀と荀彧であったが
ふいに荀彧が立ち止まり、鬼の形相で振り返って一刀を睨んだ。

「……」

「や、やぁ……偶然だね」

「~~~!」

再び顔を前に向け、先ほどよりもやや早足で歩き出す荀彧。
別段、急ぐ必要も無いのでゆっくりと街道を進む一刀。
しばらく進むと、丘の影に隠れて荀彧の姿は見えなくなる。

『いいのか? “魏の”』

『今日は一日、“魏の”は反応が無いんだ』

『え、そうなのか?』

「いいよ、きっと昨日のことでも反省してるんじゃないかな
 そっとしておこうよ」

『ああ、鮮明なイメージを断続的に渡したからね。 解像度7200dpi 位で。
 反省してると思うよ』

『『『『『『『もしかしたら、“魏の”は死んだかもしれないな……』』』』』』』』

当然のことながら、昨日の夜“魏の”は意識不明の昏倒状態であった。
下手に怒られるよりも効いただろう。
まぁぶっちゃけるとその位の罰は必要だったと思うし、何よりだ。

脳内俺と話し合っていると、前に猫耳帽子が揺れていた。
どうやら立ち止まっているようで、地面を見つめている。
肩も大きく揺れていた。

「はぁ……はぁ……」

隣まで来ると、どうやら急ぎすぎて疲れてしまったようだ。
まぁ、後ろに許可なく真名を呼んだ変態だと思っている男が歩いて居れば、その反応も分かるのだが。
それが自分のことを指されているとなると、悲しくなる。
彼ら風の言葉を借りれば、“本体”の仕業じゃ無いんだが。

「大丈夫か?」

「……フッ、フッ」

「おい、平気か? 喋れないほど疲れたなら、座って休んだ方がいいんじゃないか?」

「……ハ」

「ええと、かの有名な軍師である荀彧殿は休憩をなされた方がよう御座いますと思われますが」

「…ッ!」

「荀イ―――」

「うるさぁぁぁぁい! 私の名前を連呼しないでよっ!
 それにどうして、私が軍師志望だってことを知ってるのよ!
 まさか、ずっと今日みたいに私の後ろを付け回していたんじゃないでしょーねっ!?」

「はは、まぁまぁ。 言っただろ、俺って天の御使いだって」

半ばヤケクソの言い訳は、続ける事にした。
少なくとも、脳内に11人の天の御使い経験者が居るのだ。
別にきっと、多分おそらく嘘は言っていないだろう。

「ああっ、もうっ! 私の近くで喋らないで! 近寄らないで! 五歩以上、間合いを広げて! 
 もうっ、何で陳留に向かうだけでこんな思いしなくちゃならないのよ!」

「あ、ここって陳留って場所の近くなんだ?」

「ハァ? もしかして、此処が何処なのか分かっていないの!?」

「あ、うん。 見ての通り荷物も無いし、ここが何処だか分からないし
 ちょっと不安になってたんだ。
 陳留って街までどの位でつくのか、大体でいいから教えてもらえないかな?」

「……なんで私があんたみたいな他人の真名をさらっと穢す鬼畜変態非常識男に
 情報を与えなくちゃならないのよ、そのまま野垂れ死ねば?」

「えーっと、何の話かな……」

「なぅ! あんた私の真名を勝手に呼んでおいてっ―――!」

「ごめん、でも昨日の事は、俺覚えてなくて」

「~~~っ! ああっ、もうっ、分かったわよ! こいつっ、本当にむかつくわね……」

「良かった、じゃあ陳留までの道を―――」

「嫌、それよりもっと離れて、気持ち悪いから」

バッサリ切られた一刀だったが、罵声の部分を無視して言われた通り数歩、荀彧から後ずさった。
しばらく待ってみたが、荀彧は進む様子も見せず、何かを話すつもりも無いらしい。
顔を背けて、完全黙秘の態勢であった。
二度、頭を掻いて埒が明かないと考えた一刀は、彼女を追い越して先に進んだ。
歩き始めた矢先、後ろから声が飛んでくる。

「街道を千里も進めば、あるんじゃない? まぁ、あなたが陳留に気付くかどうかは、別だけど。 
 来た道を戻れば小さな邑があるから、そっちに向かったら?」

「見逃さないように、頑張って歩いてみるよ、教えてくれてありがとう」

「くっ、三千里って言った方が良かったかしら……」

後ろでボソボソと一刀と別れて旅する為の言葉を、明晰な頭脳で練り上げようとする
荀彧を背に、一刀は街道を歩み始めた。

“魏の”が言う、彼女の『素直に言えない毒吐き』という説には
まだちょっと首を傾げてしまうが
その素直さというのは、毒に比してちょっと、本当に僅かなちょっぴりだけ存在する
彼女の優しさを指しているのかもしれないと一刀は思った。


      ■ 外史終了 ■




[22225] 音々音の膝裏から足首にかけて白蟻が行進するよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64fa16e3
Date: 2010/12/31 03:01
clear!!     ~種馬*N=XXXの計算式は成立すると強く思うよ編~



clear!!     ~桂花の大罵倒祭が最終的に逆の意味に聞こえてきたよ編~




今回の種馬 ⇒  ★★★~音々音の膝裏から足首にかけて白蟻が行進するよ編~★★★





      ■ 嵌められて枷


「どうしてこうなった」

北郷一刀は、陳留に辿りついて10分経たずに、暗くて狭くて寒い個室に案内された。
端的に言えば、牢屋である。
牢屋と言っても、地下にあるわけでもなく鉄格子があるわけでもない。

ちょっと街中で“おいた”をしてしまった者や、一時的に尋問などで使われるような
尋問室、および反省を促すように設置された反省部屋のようなところだ。
罪人が拘束されて入る場所という意味では、牢屋と言っても差し支えは無いだろう。

先ほど一刀はどうしてこんな事になったのかと呟いたが、言ってしまえば簡単だ。
一行で説明できる。

荀彧に嵌められ手枷がついた。

それだけである。


      ■ どうしてこうなったか


一刀、そして荀彧は出会ってから約4日間の時をかけて陳留へと到着した。
街へ到着して、人間の生活を営んでいる景色、街のざわめき。
何よりも、これからあるだろう人との交流に期待を膨らませ胸を高鳴らせる一刀は
喜びに震えていた。

「ここが陳留か……すごいなぁ」

『陳留は、曹操の根拠地であるせいか大陸でも活発な街の一つだ。
 でも、盛況さで言うなら建業や寿春、鄴も負けていない』

『でも、俺が初めて見たときと、少し違う所が結構あるな。
 もしかしたらこの世界は、俺達が落ちた時よりも、もっと昔なのかもしれない』

『なるほど、それなら管輅の占いが流行っていないことも説明がつくな』

『確認するためにも、少し歩いてみたいな』

「分かった、どちらにしろ当ても無いし、構わないよ」

脳内の自分の要求に素直に頷く本体。
改めて辺りを見回すと、自分の後方を歩いていた荀彧もすぐ隣に居るのに気付いた。

「ありがとう、荀彧。 おかげさまで陳留に辿りつけたよ」

本体は、素直な気持ちを彼女に告げた。
食料は、脳内の“南の”のおかげで、少ないながらも何とか自給自足は出来たのだが
如何せん水だけは確保に難があったのだ。

我慢の限界まで喉の渇きを誤魔化していた一刀であったが、人には通せる無理と通せない無理がある。
そして大地と星が齎す恵みの一つである水は、無いと生きていけない物である。

ある日、一刀は罵声を覚悟の上で水を貰う為に、荀彧へと近づいた。
此処最近、稀に見る困難を極めたミッションではあったが
荀彧は一刀に水を少量ではあるが、無事に分け与えてくれたのである。

「すぅぅぅぅぅ……」

そんな理由から礼を告げた北郷一刀であったが、それに答えずに、荀彧は何故か大きく息を吸い始めた。
肺が膨れ上がり、胸囲が増す。
本体は思わず、彼女の行動そのものを疑問に思うよりも先に、視線が胸元へ吸い込まれた。

「きゃあああああああああああああああああああああ!!」

「うわっ!? ご、なんだ!?」

瞬間、荀彧から発せられる鼓膜を破らん限りの悲鳴が陳留の街の入り口に響く。
自分が彼女の胸を無遠慮に見ていたのがバレたのかと思ったが
それを言うと更に悲鳴が加速しそうだったので、自分の視線を棚に上げて
周囲を見回していた一刀であったが、続く純幾の言葉に一刀は絶句した。

「犯されるぅぅぅぅぅぅ!!」

彼女の視線は明らかに一刀に向いている。
ついでに怯えた少女のように身を縮こませ萎縮し、震える。
ご丁寧に目元は潤っていた。

「ちょっ! いきなりなんだー!?」

思わず一刀は、荀彧の暴挙を止めるために慌てて口を塞ごうと動いてしまう。
それは、冤罪を被った被害者として、本能に忠実な行動だった。
しかし、それが失策であったと気付くのに時間は要らなかった。

少女の悲鳴が、いや少女でなくても悲鳴が轟けば誰もが振り返る。
その悲鳴の内容が具体的であればなおさらだ。
一刀が荀彧に触れるのと殆ど同時。
入り口近くにある城壁の中に居た、武装した憲兵が藁わらと出てくるのは、ごく自然な現象であった。

そんな憲兵隊が目撃したのは、白い服を煌かせ、少女の口を塞ぎ言い寄る男の姿である。

「おい! 昼間の街の入り口で強姦に及ぶとは何て奴だ!」
「しかもこんな小柄な少女を!」
「口を押さえてどうするつもりだった! まさか強制XXXではないだろうな!」
「許せぬ! そこになおれぇい!」
「なんて酷いことを!」 
「うほっ! 俺を使えばいいものを!」

「ちょっと待て! これには深くない事情が!」

後ろに回りこみ、荀彧の口を塞ぎ、憲兵隊と対峙する本体は
誰がどう見ても少女を盾に弁を立てる犯罪者のそれであった。
一刀は、手の感触から荀彧が笑っているのに気付く。

「こらー! 人に冤罪を着させてほくそ笑むなぁー!」

「むー! むー、むー!」

口を押さえると、巧妙に顔を紅潮させつつ意味の無い言葉を連ねる荀彧。
そのもがき様は、男の魔手から必死に逃れようとする可憐な少女のそれにしか見えなかった。
余りの演技の上手さに、一刀は引きつった笑みを隠せなかった。

そんな一刀の堅い表情は、追い詰められた犯人そのものである。

「おのれぇぇ、少女を盾に取るとは卑劣な!」
「貴様には人としての誇りが無いのか!」
「牢獄にぶちこんでやる!」
「俺の如意棒もぶちこんでやる!」
「地獄に堕ちろ、悪鬼め!」
「絶望した」

「好き勝手言うな! そもそも俺は―――」

理不尽な状況に、本体も熱くなって抗弁しようと口を開くが
一瞬の隙を突かれて荀彧に話す余地を与えてしまう。

「いやああああ! 固いものがお尻に当たってるぅぅぅぅぅ!」

「当たってねぇし硬くもなってねぇよ!」

「硬いもの……だと……」 「なん……だと……!?」
「こんな昼間から……」 「ケダモノの匂いがするぜぇ」
「13cmや」 「13cm……棒が熱くなるな……」

「ちょっと待って! ほんと待って!」

ジリジリと間合いを詰め、一刀に近寄る憲兵隊。
荀彧を盾に、徐々に後ずさる北郷一刀。
計画通り、と歪に笑いほくそ笑む荀彧。

「「「「問答無用!」」」

「あ、アッーーーー!」

一斉に飛び掛られ、一刀は成すすべなく御用となったのである。
その時、執拗に尻を触る奴が居たのはきっと気のせいだった。

「ふふ、見たかっ、この荀文若自らを囮にする最大最強最高で乾坤一擲渾身の、私の雪辱と屈辱と恥辱を晴らす策をっ!」

「言った! 今、“策”って言った! みなさーん! あの人演技ですよー! 最低下策軍師ですよー!?」

一刀の必死の叫びは、奇跡的に憲兵達に届いた。
憲兵が顔を上げて荀彧の顔を見れば、その目には涙。
両手で口元を覆い隠して震えていた。

本体は確信した。 あれは顔で泣いて心で笑っていると。

「「「「「「なるほど、お前が悪い」」」」」」

「このっ、ふざけんな荀彧ーっ!」
「ふふふっ、ははは、負け犬が吼えてるわ! あーもう、最っ高!」
「笑うんじゃねー! このツルペタ貧弱猫耳軍師ー!」

「あ、憲兵さん。 真名も汚された上に身体も汚されたので、百叩きを……」
「うそです! すいません! 俺が悪かったです天才軍師ステキ猫耳荀文若様っ! 慈悲を……あぶぶぶ」

憲兵隊に制圧され、人並みに埋もれる一刀は最後まで言葉を告げることは叶わなかった。
人の圧力で潰されて、薄れていく意識の中で荀彧の捨て台詞を聞いた気がした。

「ふふん、これに懲りたら二度と私の前に現れないでよねっ!」

こうして、こうなったのである。


      ■ 拘束時間の有効利用で得たあれ


「いいかい、これに懲りたらもう二度と他人の真名を無闇に呼んだり
 昼間から怒張させたり、のっぴきならない棍棒を少女に押し付けたり、
 分身を昇天させてやわ肌を濡らしたりするんじゃないぞ」

「はい……」

なんだか罪状の数が増えている気がしたが、敢えて一刀は突っ込まなかった。
下手に藪を突いて蛇を出しては馬鹿らしい。

結局、反省部屋のような牢屋のような場所に送られて、この陳留の町に着いてから3日後に
北郷 一刀は解放された。

名前や犯行に及んだ経緯、チンコのサイズや曲がり具合、その他諸々を細々と尋問され
100 叩きの所を、たったの 5 叩きに負けて尻を叩かれたりと、陳留に訪れた彼のスタートは
中々に最悪に近い滑り出しだった。

考えてみれば、最初から荀彧はこれで手打ちにするつもりだったのかも知れない。
真名を呼んでこれだけで済むのならば、むしろ万々歳だろう。
一応、食事も出して貰ったし、ある意味で良かった部分もある。

僅かなお金しか持っていない事を話したら、お金も少しもらえたし
仕事の紹介状のような物も手に渡してもらえた。

憲兵隊の彼らは実に親切だった。
荷物も無しに旅をしていたことから、余計な裏を勘ぐったのか
深く事情を聞かれることなく、荀彧の申しつけた期間だけ拘束したらすぐに釈放するとも約束してくれた。

まぁ、強姦魔と思われてしまった事は非常に遺憾ではあるのだが。

「はぁ……まぁとにかく、先立つ物は必要だよな……」

牢屋の中はとにかく暇であったので、本体は脳内の自分達と今後の事を話していた。
それで分かった事も、多くある。

まず、脳内の意識群は本体一刀を動かすことができる。
これを聞いたとき、本体は脳内の自分に身体を乗っ取られてしまうのではないかと恐怖したが
意識群が確認を取ったところ、本体を動かせる時間は長くても10秒が限度だという。

更に、本体の意識がハッキリしていると秒数は少し短くなり、7秒が限度だそうだ。
例外として、本体と意識群の感情が怒りであれ、懇願であれ、一致すると
20秒以上身体を動かす事が可能であった。

ただし、意識群は一度、本体を動かすと約一分間ほど意識を落としてしまう。
また、本体を動かす時に、意識同士が競合すると、意識を落とす。

そこまで聞いて、本体は尋ねた。
「大切な人達が、この世界には居るんだよな?」、と。

意識群は“肉の”を覗いて本体の疑問に是を返したが、身体を勝手に使うような事はしないと約束した。
『自重できるか、あまり自信もないけど』と、控えめにだが。
荀彧の時のように、勝手に真名を呼んだり抱きついたりしなければ、本体も咎めるつもりはない。
いやまぁ、抱きつくのは気持ちよかったのは気持ちよかったが。
なんにせよ、意識群の本体を動かす事については、一応の決着を見せた。



話はそれだけでは終わらなかった。

今後の本体の動向をどうするか、というのも話し合ったのである。
そも、本体の脳内に渦巻く意識群は、それぞれ目指したい場所が違う。

その目指したい場所というのは、当然かつて荒野に放り出された自分を保護してくれた陣営である。
皆がそれぞれ、大切な自分の場所を持っていて、大切な人が居るのだ。
それぞれの主張は、始まってからすぐに激化した。

恐らく真名であろう。
華琳、雪蓮、蓮華、桃香、愛紗、麗羽、美羽、月、翠、白蓮、美以、貂蝉。
何故か、貂蝉だけ真名でないし、それを脳内の自分たちに尋ねた直後、意識群が2~3分黙ってしまったが。
とにかく、各々が言うには彼女たちに会いたいと言う事だった。

それを聞きながら、本体は考えていた。
自分は、この世界で一人ぼっちなんだなぁ、と。

荀彧を見つけた時、本体はこの世界で初めて出会った人と仲良くなりたいと思った。
出会った人が荀彧でなくても、そう思っただろう。
本当、ただ世間話をしてこの世界の情報に触れたかったし、人に触れたかっただけである。
しかし、意識群は違った。
この世界で大切な人を見つけて、はちきれんばかりの感情が身体を動かした。

結果はまぁ、散々になってしまったのだが。
本体は、意識群と違ってそんな想いを抱く人物など、当然ながらこの世界には居ない。
居るとすればそれは自分の世界である両親や祖父、友人たちに妹だ。

脳内の彼らのように、誰かの下で一旗上げて、などとも考えられない。
恐らくだが、脳内の自分も最初は生きるために必要だったから、諸陣営についていったのだ。
そして、そこで何物にも代え難い人を、場所を見つけた。
この考え方は間違っていないだろう、と本体は思う。

じゃあ自分は何故この世界に居るのだろうかという疑問が沸いてくる。
まだ彼らの属していない陣営へ訪れて、乱世を駆け巡る為なのか、と最初は思ったが
よくよく振り返ってみると、彼らとはスタートからして違っている。

少なくとも、脳内に自分の分身が数多に存在する所からスタートした奴なんていない。
何処の陣営に付こうか、なんてゲームのような考え方など、脳内の自分達はその余地を与えられなかったはずだ。
そう考えると、自分がこの世界に来た理由は、脳内の自分達が大きな鍵を握っているのではないかと思える。

どちらにしろ、今は答えは分からない。
自身の益体も無い考えに区切りをつけて決着のつかない議論を繰り返す脳内に語りかけた。

「もう、全員に会いに行けばいいんじゃない?」

これには皆が納得。
この世界での本体の動き方は、決まった。
最後に、“肉の”が注釈をつけて。

『方針はそれでいいけど、俺たち意識体は本体の邪魔をしないようにしよう。
 俺達は確かに、北郷一刀だけれど、この世界の北郷一刀は本体なんだから』

これを聞いて、本体は思う。
なんだか意識体の皆に嫌われていそうな“肉の”が、一番、自分のことを考えてくれているなぁ、と。
まぁ、その、なんだ。
全員、北郷一刀ではある訳なのだが。


      ■ 難曰く 「来ることよりも去る方が難しい」


紹介状を片手に、見慣れぬ陳留の街を“魏の”の案内で進む本体。
これを名付けるとしたら、『自分ナビ』、もしくは『自演ナビ』、だろうか。
見知らぬ土地でも、一人で地理が把握できるのは有り難い物である。

順調に街の中を歩く一刀は、しかしその歩みを途中で止めることを余儀なくされた。
原因はやや大通りに接した路地の傍ら。
十数人の青年と、一人の少女だろう口論を目撃したからである。
見るからに険悪そうな雰囲気で、特に青年達の激昂具合は凄まじい。
数十メートルは距離があるだろうに、真っ赤な顔が伺えるのだ。

見た目からして、複数の男たちが少女一人を囲んでいるのは宜しくない。
ここからでは少女の姿が確認できないが、遠からず仲裁に入ったほうが無難に思えた。

が、本体はここで躊躇する。
それは青年達が腰にぶら下げている刀剣のせいだ。
遠目からでも分かる。
人を傷つける、或いは息の根を止める為に拵えた武器だ。

『本体、いかないのか?』
「そりゃ、行きたいけど……あいつら武器を持ってるんだ。 真剣だ」
『ここは三国志の時代だ、武器は基本的には全部真剣だ』
「いや、分かってるけど……」

言われなくても、見れば一目瞭然である。
これで持っているのが木刀や警棒であれば、少しは違ったのかもしれないが
あれだけ刃渡りの大きい真剣を見てしまうと、どうしても身が竦んでしまった。

「ふざけんなっ!」

本体が悩んでいる間に、青年達の中の一人が怒声を上げて剣を引き抜く。
同時に、少女が誰かに突き飛ばされたのか、青年達の輪から飛び出して
勢いよく尻餅をついていた。

その光景が飛び込んだ瞬間、自分でも驚くほど簡単に真剣へ向かう事の躊躇を投げ捨てていた。


      ■ 虎が見ていた


それはたまたま、という表現がぴったり当てはまる。
もともと、一泊の宿を取るためだけに逗留した街であった。
漢王朝から名指しで呼びつけられ、益の無い軍議に見切りをつけて故郷へと戻る最中であった。
だから、この見世物を見物できたのは偶然であり、たまたまだ。

正直、つい先ほどまで無駄に費やした時間と金に憤っていた物が
今になって還元された気さえしてくる。

先ほど飛び込んだ白い服を身に纏った、一見何処にでも居るようで、ひ弱そうな青年が
少女に暴力を奮った集団に突然、無手で殴りこんだのだ。
自分のすぐ脇を、疾風のように駆け抜けて。

一番手前の男の顔面を、飛び掛って殴る白い男。
動きは素人そのもの。
当然、青年達は白い男に敵意を向け、すぐに白い男は倒れるだろうと。
その時、自分は死なれても寝覚めが悪いし、助けてやるかと喧騒の中心に向かって歩き出した。

が、その歩みはすぐに止まることになる。

素人丸出しの大振りな一撃を与えた直後に、白い男の動きは変化した。

奥で倒れこんでいる少女の目の前まで駆け抜けると、守るようにして青年達の視界から遮る。
青年の一人が、剣を抜いて白い男に斬りかかったと思った瞬間
最小限の動きだけで斬撃を避けて、顎に掌打で一撃。
それだけで、襲い掛かった青年は昏倒した。

身内をやられたせいで、青年達の堪忍袋は切れたのだろう。
それぞれ自分の獲物を掴むと、我先にと白い青年へと殺到する。
それを見たからか、白い青年の動きは再び変わる。

獣のように飛び跳ねて、常人では追えない速度で青年の背後を取り頭蓋へ肘を打ち下ろした。
かと思えば、青年の腕に持つ武器を無力化してから腕を抱き込み、叩き折るという、暴徒鎮圧の見本のように押さえ込み
それが本来の型であるかのように、巧みな足技を用いて側頭部を強打し昏倒させる。

たった一人の筈なのに、武の形は流れるように変わっていく。
驚嘆すべきは、最後の一撃であった。
突然、白い青年の肉体が変化したのだ。

恐らく、あれは気によって肉体の筋力を爆発的に盛り上げたのだろう。
全身が膨らむように膨張し、服の合間から厳つい筋肉が存在を主張していた。
それを見て完全に萎縮した最後の一人が、簡単に間合いを詰められていた。
胸倉を掴み、容易に青年を持ち上げる白い男。
そして白い男は笑顔で止めの一撃を叩きこみつつ言ったのである。

「大丈夫だよ、手加減はするからねん? や・さ・し・く・してあげぶるぅぁぁぁぁ!」

筋肉で膨れ上がった右腕が、誇大な表現でなく男の顔面に突き刺さり
そのまま水平に吹っ飛びながら、私の足元まで転がってくる。

震えた。
ここ最近の中で一番刺激的な一幕であった。
私は、無意識に両手を叩いて賞賛していた。


      ■ 虎に見られていた


気が付けば、全てが終わっていた。
脳内の俺達が、全員が揃って言い放った。

『本体、行くぞ!』

少女を、大の大人が大人数で囲んで突き飛ばす様を見て、本体は自然に走り出していた。
何となく、脳内の自分に意識を引っ張られているのかとも思ったが
倫理的に認められない出来事を看過できる性格でないことも、本体は自認していたので
これは確かに、北郷 一刀の持つ正義感からの行動であろう。

青年達が誰も気付いていないのを良い事に、本体は手近な男をとりあえずぶん殴ってみた。
これが、本体である一刀が実行した最初で最後の行動だった。
少女の元まで駆け寄って、後ろを振り向けば刀剣を振りかざす憤怒に彩られた顔、顔、顔。
自分一人での対処は不可能だと、早々に身体の所有権を放棄したのは正解であった。
事前に聞いていたからこそ、萎縮してしまいそうな心に渇を入れて、本体は呟いた。

「俺の身体を、皆に貸すぞ!」
『『『『『『『『『『 任せろ 』』』』』』』』』』』

借り物の力でもいい。
今は、この少女を助けたい。
本体の思いは、意識群に強く伝わり、それを否定する北郷一刀は何処にも居なかった。
自分の意識を無視して動く身体に、恐怖は無かった。

全てが終わった途端、周囲からは割れんばかりの歓声と拍手が巻き起こる。
別に英雄を気取りたい訳でもないし、借り物の力で事なきを得た本体にとって
その賞賛はただの雑音にしか過ぎず、居心地の悪い物であった。

倒れ伏す少女の元まで近づくと、一刀は蹲って容態を確認した。
どうやら突き飛ばされた際に頭を打ったようで、意識は無いが命に別状は無さそうである。

「良かった……」
『ねねじゃないか!』
『本当だ、ねねだ!』
『何でこんな所に?』

「素晴らしい武であった! とても良い物を見せてもらったぞ」

安堵と共に吐き出したため息は、先ほどの雑音などと打って変わって、凛とした響きを持って
一刀の耳朶に響かせた。
声の方向に、一刀は首を回す。

鮮やかなピンク色の長い髪を下ろした女性が力強い笑みを称えて一刀を見ていた。
腰にぶら下げているのは宝剣の類か、煌びやかな意匠を拵えて存在感を示していた。
目鼻立ちがくっきりとしており、誰が見ても美女だと言うことだろう。
何より目を引くのは、前述した全てが霞んでしまう程の乳とボディライン、そして尻。
露出の目立つ服で、下乳は完全に剥き出しだ。

えろい人、それが北郷一刀の最初の感想であった。

「義憤に満ちた武、見ていてとても心地よかった。
 何よりも完成されたその気の扱い方。 正直言って見惚れたよ」

「それはどうも……貴方は?」

「うん? そういえば名乗っていなかったな。
 我が名は孫堅! 字を文台! 世間では江東の虎などと呼ばれている」

孫堅文台。
孫家の礎を作り、各地で火がついた反乱を悉く力尽くで摘み取り
民衆の人望も篤く、武将としても超一流である。
根拠地である江東で、孫堅の名を知らぬ者はおらず、その圧倒的な孫堅軍の威容は
江東一帯のみならず、漢全土と言っても良いくらいに響き渡っている。

それが本体の持つ孫堅という者の知識であった。

「そうですか、貴方が孫文台殿。 出会えて光栄です」

「ふふ、そう畏まるな。 今の私は良き演舞を見せてもらった一観客であり
 舞踏の主役であるお主が縮こまる必要はあるまい」

「……」

この孫堅との会話に、本体は僅かに嫌悪を示した。
それは、脳内の一刀達と違い、まだ本体が現代人としての意識が濃い事が原因であった。
人を上から見ること。
人が傷つく様を目の当たりにして、見世物を見ているような話し方。

この世界では目上の人間が普通に取る態度であるのだが
それらが本体一刀にとって、余りにも酷い見方なのではないかと思ったのだ。

そんな一瞬の一刀の表情の変化を孫堅は見逃さなかった。
そして微笑む。

「ふふ、心は青いか」

「はぁ……」

「ところで、私に名乗らせておいて君は名乗ってくれないのか?」

「ああ、これは失礼しました。 私は北郷 一刀です」

「ふむ、奇妙な名前だな? 偽名か?」

「いえ、本名ですけど……姓が北郷、名を一刀と言います」

言いながら、一刀は少女をお姫様抱っこで抱えあげた。
地べたにずっと寝そべらせて置くのは可哀想だし、孫堅殿から逃げる口実にしたかったのである。
だが、一刀は少女を抱えあげて、そして気付く。

「……う、動けん」
『なんでだ?』
「た、多分お前らが暴れたからだ……」
『ああ、身体に負担がかかってるのか?』
『そういや、俺達は自分の体のように動かしてるけど、本体は鍛えてないもんな……』
『あれが、雪蓮達の……』
『一歩も動けないのか?』
「抱えてるだけで精一杯だ、歩くと倒れる自信しか無い」

「何をぶつくさと呟いている?」

「いえ、持病でして……」

「……そ、そうなの?」

『おい、雪蓮や蓮華の親御さんにあまり変な事を言うな!』
「しょうがないだろ!?」
『なんとかしろっ! 叫ぶな!』

「何がしょうがないのだ?」

「何でもないですっ!」

「ふっ、読めん男だな……面白い」

そう言った孫堅殿の笑顔は、獲物を狙うような獣の目をしていた。
その顔を見て、江東の虎と渾名を名付けた者は生きていたのかな、と本体はふと思ってしまう。

「北郷と言ったな、我らが呉に、将として仕え身を立てようという気はないか?」

『っ……!』
「すみませんが、無いです。 それに今は、彼女を休ませたい」
『“呉の”、耐えろ。 肉は見たくないだろ』
『分かってる! くそっ!』

暫し一刀の回答を聞いても、本意を定めるかのように視線を突き刺していた孫堅であったが
やがてその表情は一変し、柔らかい笑みに一転する。

「ふ……残念だ。 それに、確かにお主の言うように、少女を休ませるのを優先すべきだったよ
 邪魔をしたな、北郷」

そう言って踵を返す孫堅。
将として誘いをかけたにしては、偉くあっさりと引いてくれたようだ。
一刀は、ふと思い出したように口を開いた。
それは、“呉の”意識を感じたが、敢えて自らの口で言葉にしたものであった。

「……孫堅さん、岩の罠に気をつけて」

「うん? 岩? はっはっは、肝に銘じておこう。 それではな」

「……」
『……本体』
「……何?」
『行かないのか? ここはねね……ちん、少女を早く休ませる為に移動するのが自然なのだが』
「……俺も、そうしたい」
『まだ動けないのか?』
「……」

脳内の言葉に、少女を抱え上げたまま、ただただ頷くことしか出来ない本体。
そんな本体に向けて、脳内の一刀達は合唱した。

『『『『『『『『落ち着いたら、体力作りからだな』』』』』』』』
「精進するよ……」

結局、一刀は恥を忍んで近くに居た叔父さんに少女を運んでもらうのであった。

それら全てが終わった後、一人の女性が今の喧騒に興味を持ち詳細を尋ねていた。
その女性は、街の人々から夏候淵様と呼ばれていた。


      ■ その手に得た信頼と


目が覚めたとき、少女は自身の足元に違和感を感じた。
寝ぼけた眼を擦って、違和感の正体を見る。
其処には、白い服を着た男性が彼女の膝裏から足首にかけて頭を埋めていた。

多少びっくりはしたものの、彼女は特にそれを振り払う素振りは見せなかった。
気を失う前の前後はしっかりと、彼女の脳裏に焼きついていたからである。
確かに、彼女は気を失ってしまう直前に、誰かが口論をしていた相手に割り込んで来たのを見たのだ。
その人は、白い服を着ていたはずだった。

言うなれば、彼は恩人である。

『本体、起きろ! 音々音が起きた!』
『おい、これ涎ついちゃってるけど大丈夫かな?』
『まさか陳宮キックはこないよな?』
『分からん、一応覚悟しておこう』
『食らうのは本体だから、本体が覚悟しないと意味がないんじゃあ……』

「……」

少女は首を巡らして、部屋を見回した。
空いた窓から差し込む陽は、橙に染まっているところであった。
気を失った時間が昼を過ぎた直後であったことから、夕刻まで意識がなかったようである。
その間、彼はずっと介抱してくれていたのだろうか。

溢れ出す感謝の念が、彼女の胸に押し寄せた時。
膝裏に感じる人肌が、ビクリと震えた。

『本体ー! 起きろー!』
『朝ー! 朝だよー! 朝ご飯食べて学校行くよー!』
『おいやめろばか! 早くもこの三国志は泣きゲ化ですね』
『それほどでもない』
『お前ら大丈夫か?』

「あ……」

「う……あ、ああ、寝ちゃったのか、俺」

「あの」

『本体、涎! ねねの足についてる!』
『気をつけろ! 陳宮キックに備えるんだ!』
『本体! シャキっとするんだ!』

「うおおっ、起きた? って、うわご免! 足に涎がっ!」

「いえ、いいのですぞ! こんなのは拭けば問題は無いのです!
 それよりも、助けて頂いて……本当にありがとうなのです!」

『『『何ぃ!? ねねがこんなにも素直かつ敬語だとっ!?』』』
『“董の”“蜀の”“白の”、ちょっと五月蝿い』
『だってお前、これが音々音なのか!?』
『そ、そうだ、これはねねじゃない……いや、恋が居ないからか?』
『『それだっ!』』

一刀の脳の中が軽い混乱を起こしている中、寝起きで比較的冷静であった本体は
脳内を意図的に完全スルーして少女との会話に勤しんだ。

「いや、いいんだ、気にしないでくれ。 ある意味、君のおかげで俺の方も脳的に考えて助かったというか」

「……? 良く分かりませぬが、とにかく、ありがとうございましたなのです。
 お名前を聞かせて頂いて宜しいでしょうか」

「ああ、もちろん……俺は北郷 一刀。 性が北郷が名が一刀。 真名も字も無いから、好きに呼んでくれ」

それを聞いて、少女は布団の上で膝を付き、頭を垂れる。
突然の出来事に、本体は驚き固まった。

「は、私は性を陳、名を宮、字を公台、真名は音々音です!
 私のことは音々音、もしくはねね、と呼んでください!」

『『『え!?』』』

「え!? いや、でもそれって真名だろ? 俺が呼んだらまずいんじゃ」

「そんなことは! 北郷殿はねねの命の恩人です。 大恩ある方に真名を預けない方が
 人としてどうかと思うのですぞ!」

「でも……本当に良いのかい?」

「勿論です! 是非呼んでくだされ!」

「うーん……最後に聞くけど、良いの?」

「はい、ねねと呼んでくだされ!」

一刀は、突然に陳宮から真名を呼んで良いと許しを得たことと
いきなり頭を下げられて命の恩人だと感謝されたことに戸惑った。
ついでに、荀彧のことが頭をよぎってしまい、真名を呼ぶことにちょっとした恐れを抱いていた。
そのせいで、本体はくどいくらいに確認をしたのである。

「えっと……ねね、真名を預けてくれてありがとう」

それは本体にとって、初めて受け取った他人からの信頼であった。
交わした言葉は少ない、過ごした時間も短い。
恩人であるから、真名を預けてもらったと一刀は気付いていたが
それでも嬉しいものは嬉しかった。

「……北郷殿、お願いがあります」

「いいよ、何でも言ってくれ、できることなら何でもきくよ」

『おい、なんか嫌な予感しないか?』
『『『するな』』』
『だよな?』
『うん、恋がこの場に居ない、っていうのが凄い嫌な予感がする』

この時、本体は初めて真名を預けられた事に感動して、テンションが上がっていた。
故に、脳内の感じた嫌な予感というものも、完全に聞き逃していた。
そして、本体はこの時、音々音のお願いを安請け合いしたことに後悔することになる。

「このねねを、北郷殿の家臣にしてくだされ!」

「ああ、別にいい……とも……え?」

「ありがとうございます! ねねはまだ、未熟者ではありますが、北郷殿の為に
 粉骨砕身、文字通り身を粉にして支えていきますぞ!」

『『『やっぱり、こう来たか!』』』

「って、ちょっと待ってくれ! ねね、俺は将軍でも城主でもないんだぞ!?」

「では、その身なりからすると……豪族か名家のお方でございますか?」

「違う、一般市民だ! 市民でもないけど、一般人だよ!」

「うむむ……しかし、是のお答えを貰った以上、私は北郷殿以外に仕えるつもりはありませぬ!
 非才の身ながら、役に立つよう頑張りますぞー!」

「ああ、なんてこった、後世にその名を轟かせ歴史に残る軍師が
 斜め195℃錐揉み42回転半ひねりジャンプして得点圏外の場所に着地してしまった……」

先ほどまで気を失っていたとは思えないほど、元気よく音々音は腕を挙げて宣言していた。
この熱意を折ることなど、一刀には出来なかった。

「……とりあえず、頭部を打って気を失っていたんだから、大人しく寝ててくれるかい?」

「はっ、分かりました! ……そ、それと……あの」

布団に入りながら、音々音は恐る恐るといった様子で一刀の顔色を伺った。
それは、先ほどのお願いの時の様な顔で、一刀は何を言われるのかと、身構えたが
先ほどのぶっ飛んだお願いに比べると、実に容易いことであった。

「これからは、ねねも一刀殿と呼んでもよろしいでしょうか……?」

無意識であろう、上目使いでお願いをされて一刀は軽いダメージを負った。
陳宮という美少女の、懇願する眼に、思わず見惚れそうになるのを
意識して、慌てて一刀は頷いた。

「あ、ああ……うん、いいよ。 好きに呼んでくれ」

「ありがとうございますぞ、一刀殿」

「じゃあ、ゆっくり休んでね。 身体に変調があったら、すぐに誰かを呼ぶんだよ」

「わかったのです、では一刀殿、ねねはもう少し眠らせて頂きます」

「ああ、おやすみ」

布団の中で、眼を瞑った陳宮を確認してから、北郷は部屋の扉を開けて退室した。
そのまま立ち竦み、今起こった出来事をまとめる。

助けた少女から真名である音々音という名を受け取った。
その音々音が、北郷 一刀の家臣となった。
音々音は、三国志でも有名な武将として名高い、陳宮である。

今起こった出来事だ。
特に纏めずとも、一瞬でそれは理解できていた。

「俺って、方針としてお前たちの大切な人に出会う事が目的になったよな?」

『『『『『『『『『『そうだね』』』』』』』』』』』

「この場合、陳宮という有能軍師を連れ歩く意味は無いよね?」

『『『『『『『『『『そうだね』』』』』』』』』』』

「……だよね」

『というか、もう家臣として受け入れてしまったし、言質を取られた以上開き直るしか無いと思う』
『ていうか、どうしてあんなにあっさり頷いたんだ、馬鹿』
『恋……呂布はどうなるんだろ?』
『うわっ、すげぇ心配だ! ねねのおかげであらゆる魔手から逃れていたって可能性が高い!』
『うおっ、確かに!』
『どうするんだ!? 天下無双が良い様に操られる様しか思い浮かばないぞ!』

「……もしかして、かなり不味い事した? 俺」

『『『たぶん』』』
『いや、でも早計に過ぎないか? 呂布だってまったくの馬鹿って訳じゃないだろ?』
『けど、あの子は素直で良い子なんだよ!
 ほいほい甘い言葉に釣られて人を殺す様が幻視できるほどね』
『敵対していた俺には絶望的な武神にしか思えなかったがな……』
『“仲の”、仲良くなると恋の可愛さは確かに抗えぬという意味で絶望的だ』

『落ち着けよ、お前ら。 冷静にならないと出来る判断も出来なくなるぞ』
『“肉の”の意見に賛成だ』
『“魏の”に冷静になれとか言われると腹立つな、なんか』

方針を定めた直後に連続して起きたイレギュラーは
外面は静かでも、その内面に大きな波紋を呼んでいた。

かくして、陳宮こと音々音という恋姫は、目出度く北郷一刀の家臣とあいなったのである。


      ■ 贈り物作戦


「一刀殿~! ありましたぞ! 一刀殿の手持ちで購入できる箱が~」

「本当か、ねね! でかしたっ!」

「ああ、もっと褒めてくだされ~!」

結局、細かいことはとりあえず無視して、今在る現状をあるがまま受け止める事にした一刀達。
考えることを放棄したとも、問題を先送りにしたとも言える。
まぁ、乱世を駆け巡った数多の一刀達でも出なかった答えだったので
そうするしか選択肢が無かった訳だが。

現在、音々音は一刀に仕えて概ね満足のいく日々を過ごしていた。
元々、陳留には曹操へ仕官をしようと故郷から飛び出したらしい。
が、陳留に辿りついて見れば、文官の募集は締め切られてしまっており
仕方がなしに陳宮は日々を無為に過ごしていたという。

ちなみに、荀彧も募集の期間に間に合わなかったそうだが
曹操を一目見た荀彧は、何か感じ入る物があったのか
とてつもない熱意で城の者と交渉し、話し合い、仕官を受け入れさせたらしい。
凄いバイタリティである、と一刀は頻りに感心したものだ。

話を戻すが、無為に日々が続いても、陳宮は腐らずに己の研鑽に努めていた。
軍略、知略を独学で学び、政治や国の行く末を案じていた。

次に曹操が文官を募集するまで、ひたすら知識を溜めこみ
その間は自分に出来ることから始めようと、町の人達と協力して土工事の測量を手伝ったり
収入と徴税の帳簿を作ってみたりと精力的に動いていたそうだ。

そんな中、彼女は世を嘆くだけで碌に働かずに、自分を棚に上げ、お上が悪いとわめき散らす
青年の集団の話を聞いた。
若い男出が、働かないで居るなど正に無駄以外の何物でもない。
陳宮は、彼らを諭す為に自ら志望して、若者たちを説こうとしたのである。

そんな経緯から、一刀が叩きのめした青年達と陳宮は言い争いをしていたのだそうだ。

「元々、曹操に仕えるつもりだったのだろう? 俺なんかに仕えてしまって良かったのか?」

「一刀殿、確かに曹操殿は王の器を持っておられます。
 しかし、ねねはイマイチ自信が無かったのです。
 彼女の進む覇道に、ねねが共に突き進む事が出来るのかどうか」

その話を聞いて、一刀は陳宮という人物がどのように三国志で描かれていたのかを思い出していた。
陳宮は、曹操に確かに仕えていた時期がある。
だが、やがて曹操の思う道を外れ、共に歩めないと感じた陳宮は
呂布を主に抱いて、曹操へと反乱を企てたはずであった。

「まぁ……ねねが良いのならば良いんだけどさ。
 でも、どうして俺にいきなり仕えようと思ったんだ?」

「それは……ですね。 ちょっと、言うのは恥ずかしいのですが」

「うん?」

「一刀殿にも仕えるに足る大器を感じたのと、それと、傍にいると優しい気持ちになるのです」

「優しい気持ちに?」

陳宮が言った事は事実であった。
一刀と触れ合うと、彼女は何か、とても尊い物を彼の中に感じたのである。
それが何であるのか、この胸に去来する感情は何なのか、それは陳宮にも分からなかったが
何度も一刀と触れ合うと一つだけ気がついた事があった。

とても、とても優しい気持ちになれるのである。
だから、音々音は一刀が自分の主であることに不満も隔意も無い。
むしろ、一刀に仕える事こそが、陳宮という人間の天命であるかのように思えるのだ。

「ねねのその研鑽を積んで聡明になった頭脳は、俺なんかの為に使うのはもったいないと思うんだけどなぁ……」

「そんなことは無いのですぞ!」

「うん、ねねがそう言うなら、もう何も言わないよ」

「一刀殿……ん、それにしても一刀殿、こんな箱を買ってどうなさるのですか?」

喉に引っかかる物を感じた音々音であったが、それは敢えて無視した。
主が話は終わりだ、という雰囲気を出しているのに、突っかかるなど愚者の極みであるからだ。
そこで、手近にある話題の種を振ってみると、一刀は乗るようにして食いついた。

「この町に来る前に出会った、荀彧って人に贈り物をしようと思ってね」

と、いうわけで、北郷一刀は出来ることから生活を始めている。
音々音にはそれなりのお金があり、仕事についていない一刀は現状一言で表すと
見事に紐状態だったりするのだが
今この時は仕方ないと開き直っていたりもする。

で、何故にそんな状態であるのに荀彧へのプレゼントという暴挙に出たのか。
それは、憲兵隊からの親切心のおかげであった。

意図せず、他人の真名を呼んでしまった場合、誠意を持って謝るのは勿論のこと
お詫びとして、贈り物をするのが普通なのだそうだ。
それで許してもらえるのかどうかは、当人次第ということらしいのだが
何も送らずに適当に謝るだけというのは、外道という奴に堕ちるらしい。

そんな理由から、なけなしの金を投げ打って、半分ほど音々音に支援して貰いながら
用意したこのプレゼント。
後は箱を用意するだけであったのだが、それも今、音々音のおかげで
ギリギリ貧相には見えない箱を用意できた。

「……許してくれるといいなぁ」

「荀彧という方ですか……女性なのですか?」

「ん? ああ、そうだよ。 今は曹操に仕官していると思うよ。
 さってと、後は包装して……うん、オッケーだな!」

「では、ねねがお城の方までお届けいたしますぞ!」

「え、でも贈り物だからなぁ……自分から荀彧に渡した方がいいんじゃないかな?」

「仕えたる主に雑事をさせることは出来ませぬ。
 ねねが居るのですから、一刀殿はねねに任せてくれれば良いのですぞ」

「そういうもんか……分かった、じゃあお願いするよ、ねね」

真名という、未だに余り慣れない習わしに、一刀は音々音の言を聞き入れた方が懸命だと判断して
後事をすべて音々音に丸投げした。
実際は、一刀の言うように、当人同士が会ってお詫びの品を渡すのである。

元気良く外に飛び出した音々音を見送って、一刀は肩の荷が下りた気分であった。
これで荀彧とも仲良くなれれば、と淡い……実に淡い夢を抱きつつ
日銭を稼げる仕事は無いかと家を出たのである。

「……一刀殿からの贈り物……まだねねも貰った事がないのに」

そして、的外れなヤッカミをしている少女が一人。
彼女の頭脳は聡明だ。
しかし、まだ本人が言うように、未完の大器であるのも事実だった。

そんな天に愛された才能を持つ少女も、人間であり、一人の少女である。
主の向いている方向が、自分で無く荀彧と呼ばれる少女に向いているのが良く分かった。
先ほどの会話から、自らが見出して全力を捧げることを誓った主人が
余り自分が仕えるという事にも積極的でないのは明らかだ。
増して、音々音はそんな主人の懸想していると思われる女性に贈るプレゼントの為に
少なくない金額を供出している。

何となく、悔しくて、口惜しくて、陳宮は悪いことと知りながらも行動してしまった。
この行動についての不幸は、荀彧への贈り物である贈り物が、愛情や親愛を込めた物ではなく
一刀が不用意に真名を呼んでしまったが故に渡す詫び品であったことを
音々音が知らなかった事にあるだろう。

故に。


      ■ 贈られたプレゼント


陳留の城、玉座の間にて三人の少女が険しい顔を寄せて話し合っていた。
美しい金髪に小柄な体躯。
完成された顔を持ち、その容姿含めて全身から溢れ出る覇気は余人の及びのつかない威圧感を醸し出していた。
後の魏王、曹操その人である。

その隣に控えるのは、陳留に来るまで一刀と旅を共にし、計略に嵌めて一刀の尊厳を奪った
大陸でも稀有の頭脳を持つ、王佐の才、荀彧が。

曹操の目の前で、淡々と冷静に報告を行うのは曹操の元に仕えて長い、古参の夏候淵だ。
青みがかった頭髪に、怜悧な雰囲気を纏う釣りあがった眼は全てを見抜きそうなほど澄んでいる。
スラッとした体躯は、まるでモデルのようで、こちらもとんでもない美女であった。

「そう、孫堅……江東の虎と呼ばれるほどの者が、その白衣の男を陣営に誘ったのね?」

「はい……その男、聞かれる噂によれば、あの丘で見た男と容姿が相似していたようです」

「……なるほど、桂花?」

「はい、情報から推察するに、認めたくはありませんが。
 ほぼ間違いなくその男は北郷 一刀と思われます。
 短い間ではありますが、私も共に旅を致しました」

「そう……一瞬とは言え、私を怯ませる程の気を放ち、武器を持った多勢の男に
 無手で傷一つ無く勝利を収める……北郷 一刀、か」

唇に手を寄せて、歌うように曹操は呟いた。
次第に、その顔には笑みが浮かび始める。
伺うようにして様子を眺めていた夏候淵が、半ば答えを予想しつつも曹操に尋ねた。

「陣営に誘ってみますか? 報告によれば青年の中には高覧という中々に名の通った男が居たとか。
 それも一撃の元、昏倒させたようです」

「か、華琳様、私は反対です。 その者の実力は分かりませんが、常識というものが抜け落ちてます。
 陣営に加えてしまえば、華琳様の品格まで傷つくことにも成りかねません!」

「……そうね」

即座に入った、つい先日に曹操の元へ士官した荀彧と、夏候淵の真逆の意見を聞きながら曹操は考える。
見た限り、聞いた限りでは有能な人物ではありそうだ。
これで知の方まで優れていれば、男であることを差し引いても十分に心惹かれる話である。
荀彧が言う、品性が云々というのも彼女の男嫌いを加味すると疑わしくなってしまう。

ただ、曹操自身も遠目からではあるが、北郷一刀は見たことがある。
あの時に感じた奇妙な感覚。
まるで狩人と獲物のような、漠然とした焦燥感。
腹立たしいのは、曹操の立場が獲物であると自認できてしまったあの日。

あれが一体何だったのか。
その答えを得る為にも、もう一度接触を試みたいという思いは曹操の胸のうちにあったのである。

実際に会ってみてから考えようか。

そんな思いが華琳の胸のうちで鎌を擡げるまで、そう時間は要さなかった。
が、それを伝えようと口を開こうとした時、物々しい音が響いて部屋に入るものが現れた。

「桂花! おお、ここにいたか! 探したぞまったく」
「ちょっと春蘭! いちいち全力で扉を開かないで頂戴! あんたの馬鹿力で壊れるでしょ!?」
「馬鹿だと!? 馬鹿とは何だ馬鹿とは!」
「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いのよっ!」
「姉者……桂花も。 華琳様の御前だぞ」

「ふふ、相変わらずね。 それで、何か用?」
「はっ、華琳様。 桂花に、北郷という男からの贈り物を届けに来ました!」

「北郷?」
「ほう……」
「うげっ……」

三者三様の反応を見せて、春蘭こと夏候惇は首を傾げた。
夏候惇のアホ毛が、にわかに揺れる。

「そう、丁度良いし、興味深いわね。 空けてみなさいな、桂花」
「は、はぁ……華琳様がそう仰るならば……」

春蘭から、とても質が良いとは言えない綺麗に包みが張られた箱を受け取って
桂花はそれを眺めた。
嫌そうに。

「……精液のついた手とかで、触っていないでしょうね……ああ、気持ち悪いぃぃ」
「早く開けろ、まったく、それにしても男から贈り物とはな、物好きな奴も居たものだ」
「五月蝿いわね、貴方と違って良い女に男は群がるのよ。 いやっ! そんなの嫌よっ!? 妊娠しちゃうっ」

春蘭の茶々に、桂花が即座に反応するが、それで自爆をしていた。
クスリと華琳と秋蘭が薄く笑う。

「はいはい、漫才はいいから早くしなさい」
「は、すみません、華琳様」
「も、申し訳御座いません……くっ、なんで私ま……で……え?」

そうしてようやく箱を開けた桂花であったが、箱の中には何も入っていなかった。
しばし呆然とする桂花。
よくよく見ると、箱の奥には何やら文字が書かれている紙が張り付いているではないか。

覗き込んで確認する。
そこにはこう書かれていた。

   魏の王を支える王佐の才へ

ただ、それだけが書かれていた。

「なんだこれは? 意味が分からんな」
「どういうことでしょう、華琳様」
「魏……なるほど、天の御使いか。 あながちハッタリでも無さそうね」

箱の中身を覗き見た状態で動かない荀彧の腕から箱をもぎ取って
夏候惇が中身を改め、その謎の文章に頭を捻っていた。
夏候淵も腕を組んで考えに耽るが、結局分からずに曹操へと尋ねたが
その曹操は曹操で、納得するかのように頷くばかりであった。

そんな中、固まっていた荀彧がビクリと動いたかと思えば、唐突に笑い出した。

「ふ、ふふふ、ふふふふふふふふ、あの男……ど・う・し・て・くれようかしらっ!
 仕返しにしては、随分と手の込んだ事をしてくれるじゃないっ!」

「な、なんだ!? 桂花、落ち着け! 顔が凄いことになっているぞ!?」
「むぅ……凄い殺気だな」
「桂花?」

「北郷一刀ぉぉぉ……呪う! 全身全霊をかけて、呪ってやるわよ! うがあああああ!」


音々音の幼稚染みた嫉妬によって中身を抜かれた荀彧への贈り物は、意図せず空箱となって届いた。 
しかも、その空箱の底には激烈な皮肉つきとなって、である。

もしも一刀が自分で届けていれば、この喜劇は起こらなかったに違いない。
一刀は荀彧と、懇意になりたく、その為の一歩である詫びに贈った物は、それなりに値が張ったものであるのだ。
音々音の協力が無ければ、買うことなど到底出来ない、高価なプレゼント。
それを見ていれば、もしかしたら仲良くなりたいという一刀のささやかな願いは
荀彧の胸に届いたかもしれなかった。

だが、それはもう叶わぬ願いとなった。

もはや、天の御使い、北郷一刀という胡散臭い男は、荀彧にとっての不倶戴天の敵に成り果てたのである。

ちなみに、その日の桂花の態度を見て、華琳は一刀と桂花を頭の中で天秤にかけ
北郷一刀を自身の陣営に引き込むという考えを諦め
ついでに、桂花に空箱を贈るのは絶対に止めようと心の中で誓ったのだそうだ。


   ■ 外史終了 ■






[22225] 都・名族・袁と仲、割れ目の中で四股が捩れるよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64fa16e3
Date: 2010/12/31 02:57
clear!!     ~桂花の大罵倒祭が最終的に逆の意味に聞こえてきたよ編~

clear!!      ~音々音の膝裏から足首にかけて白蟻が行進するよ編~

今回の種馬 ⇒  ★★★~都・名族・袁と仲、割れ目の中で四股が捩れるよ編~★★★





「堅殿、さっきから何をニヤニヤとしておるのだ」

「祭、とってもいい子が居たのよ。 腕っ節も良いし女子供に優しかったわ。
 雪蓮とまぐわせて子供でも作らせようと思ったんだけど断られちゃった」

「お一人で誘ったのでは、断られるでしょうな。
 交渉の顔ではないですぞ、堅殿の笑顔は」

「なにそれ、ぶーぶー。
 まぁ、でも我が呉に来て欲しかったのは本当よ。
 彼、実力だけなら祭でも難しい相手かも知れないから」

「ほう、それはそれは一度手合わせ願いたいものですな」

孫堅の言葉に、祭と呼ばれた女性は面白いことを聞いたと言う様にニヤリと笑った。
祭と呼ばれた女性も孫堅も、お互いがお互いを認めるほどに武才に恵まれている。
ゆえに、こと武に関して孫堅が認めたのならば、話題に登っている青年は確かな実力を備えているのだろう。

「いつか、手を合わせることになるかも知れないわよ。
 さぁ、とにかく江東へ戻りましょう。 私の可愛いお姫様達が待っているわ」

「御意」

手を合わせることになる、ということは何処か戦場でぶつかることになると予想しているのか
はたまた、それがただの勘であるのか、祭と呼ばれた女性は一瞬考えたが
益の無いことだと、すぐに考えを放棄して前を行く主を追いかけた。


      ■ 外史を知る奴


本体である北郷一刀を宿主として日々を過ごしている意識達は
ただただ無為に、本体と日常を謳歌していた訳ではない。
意識だけの状態で出来ることは、考える事だけだった。

何故、このような状態であるのか。
どうして本体だけが、複数の自分の意識を抱えてこの世界に降りたのか。
この世界は何なのか。

時に意見を出し合って、時に自分の考えを主張している中で
分かったことも分からない事も多くあった。

そんな中、一刀達は“外史”という物を知る。
この世界は、“無の”と“肉の”が言ったように、『外史』という世界であることは
自身の経験を踏まえて考えても疑いようが無かった。
そして外史とは、それぞれの意識が歩んだ分だけは確実に存在する無数の世界を指す。
今の現状は、彼らの情報が正しい事が前提ではあるが
数多の外史の中で北郷 一刀という存在が現代から軟着陸しているという証左であった。

この情報が齎されてから、誰からとも無く、意識群は自身の最後を語った。
いつか“白の”が言ったように、公孫瓚に拾われた一刀は最後の決戦を魏国と行い
その最中に命を落とし、本体の意識群の一つとなった。

他の意識群も大差ない。
例えば“仲の”は袁紹軍と結託し、徐州で劉備軍との激突を征し、孫呉を牽制しつつ魏国とぶつかった。
戦局は優勢に運べたが、結託したはずの袁紹軍に裏切りを受け、その奇襲時に受けた矢傷で怪我が悪化。
治療の甲斐なく、“仲の”一刀は倒れたという。

それぞれの経緯を語った意識群は、一つの共通点を其処に見つけ出した。

『俺達死んでしまった後に、此処へ来たってことなのか……?』

『まぁ、そうなる、よな』

『待てよ、“無の”は銅鏡から飛ばされたんじゃ?』

『“魏の”が言う最後も、死んだとは確定できないな』

『しかし、管輅から身の破滅とハッキリ言われた事を考慮すると、死んだとするのが
 妥当なんじゃないか?』

『それは……どうだろうな。 自分じゃよく分からない。
 華琳の前から消えて、気がつけばもう、本体の中だったから』

『まぁ、確かな事は俺達の多くが志半ばで倒れたってことだな』

『くそっ』

『“白の”?』

『こんなことになるなんて、こんな醜く生きながらえるなら、消えた方がマシだった』

それは心の片隅で、全員がどこか引っかかっていたものであった。
それまで途切れずに続いていた会話が、“白の”の愚痴のような言葉を境に
ぷっつりと無くなっていった。
重い沈黙を切り裂いたのは、“南の”であった。

『“魏の”、聞きたいんだけど、その……曹操と会うのか?』

話を振られた“魏の”は、一瞬当たり前のことを何で聞くのだろうかと考えて
即座に返答した。
それは、殆ど無意識の領域であった。

『え? そりゃ会いたいけれど、なんで?』

『会ってどうするんだ?』

『会ったら……そりゃ……』

尋ねられて、“魏の”は二の句を告げられなかった。
会って出来ることなど、何も無いことに気がついたのである。
この問答を聞いていた意識群は、みな一様に気がついた。

会う。
それは良いのだが、会っても何も話せないし何も出来ない。
本体は、意識群を思って会わせて上げると言ってくれたが、会ってもどうしようもなかった。
主導権が本体である以上、華琳と出会うのは“本体”であり“魏の”ではないのだ。
本体と感情が同調すれば、数十秒は一緒に居られるかもしれないが
それだけの時間で何を伝えようというのか。

まして、この“外史”の彼女たちは北郷一刀の脳内に住む超存在を知らないのだ。

“魏の”の意識が完全にどこかへ行ってしまったのを見て、“南の”は息を吐き出した(って感じの意識)
気まずさが更に加速した空気の中で、声を挙げたのは“馬の”であった。

『……そういえば、この“外史”でも天の御使いって予言されるのかな』

『どうだろうな』

『時代は黄巾の乱、俺達が呼び出された時代の少し手前だ。 これから予言されてもおかしくない』

一瞬の沈黙。
そしてほぼ同時に声が上がる。

『『『『ああ、なぁ、ふと思ったんだが』』』』

何人かの意識が重なった。
流石に全員が北郷 一刀なだけはある。
同時に同じような事に全員が気がついたようだ。

『『『『俺たちを知ってるのは、外史を知る連中を除いて』』』』
『『『『管輅以外には居ない』』』』
『いや……一人例外が居るが……』
『“無の”、誰だ?』
『……筋肉達磨のあいつが『よし、話は決まった、本体に頼んで管輅を探して貰うか』
『そうだな……むしろ雪蓮達に合っても何も出来ない分、管輅を先に探して貰った方がいい』

『本体が賛成してくれれば、って条件だよな?』

『俺達の意見は伝えて、後は本体に任せる形しかないな』

意識群は意識群で、この異常な“外史”を調べる努力を続けていた。
彼らの疑問が答えとなって努力が報われるかどうかは、本体の得る情報と行動次第なのだが。
そんな本体は、今。


      ■ 人材コレクター


「お邪魔するわ」

部屋で朝食を取っていた本体と音々音は突然の来客に驚き戸惑った。
同時に本体は頭を抑えて呻いた。

『ふおおおおお! 華琳! 華琳! ふぉおおおおおお!』
(痛ってぇ! 頭痛ぇ! やめろおい!)
『五月蝿ぇ!』
『“肉の”!』
『ふぅぅぅぅぅかr……n…』
『……よし』

「何の御用でしょう、曹操殿」

箸を置いて玄関に見えた曹操を出迎えながら、音々音が尋ねた。
まぁ、曹操が三国志屈指の人材コレクターであることを考えれば話は見える。
きっと仕官を陳宮に求めに来たのだ。

「あなたが陳宮殿?」

「は、いかにも。 姓は陳、名を宮。 字を公台と申します」

「単刀直入に伺うわ。 陳宮殿、私に力を貸してもらえないかしら。
 我が陣営でその卓越なる知を奮って欲しい」

「……私を」

「ええ、最近街で独自で検地を行っている知名の士が居ると噂があるの。
 その噂に上るのは決まってあなたの名前が挙がるわ」

知らなかった? とでも言いたげに首を傾げて肩をすくめた曹操。
一方で、音々音は突然の曹操の訪問に少しだけ冷静さを欠いていた。
元々はその強烈な覇気に惹かれて、仕官をしようと思っていたその人が
自分の実力が必要であると曹操が判断して招きに来てくれたのだ。

陳留という街で大きな権力を持つ曹操は、有能なる人を愛する、という噂を
当然ながら音々音は聞き齧っていた。
ようするに、その事実が単純に嬉しい。
しかし。

「どうかしら?」

「突然の出来事に、聊か戸惑ってしまいました。
 覇気溢れ、確かな人物眼を持ち、王なる器であると思っている曹操殿のお誘いは
 この陳公台、望外の喜びでございます」

そこで音々音は言葉を切る。
曹操はニヤリと笑って、続きを促した。
そこで飛び出した音々音の言葉は、本体が驚くことになる。

「しかし、我が身は既に主を頂く身でございます。
 曹操殿にはわざわざのご足労申し訳ありませんが、この話はお断りさせて頂きますぞ」

きっぱりハッキリ言った。
本体が居るから曹操には仕えない、とこれ以上に無いくらいくっきり言い放った。

「そう……」

呟くように言うと、曹操はゆっくりと本体に向かって視線を向けた。
今まで蚊帳の外……というよりも、一刀の事を完全無視という勢いで話していた彼女だが
そこで始めて一刀に視線を投げて、何かを探るような目に押されて本体はうっと呻いた。

「あーっと……」

「見たところ職も無いような男に見えるけれど、これが貴女の仕える主ということ?」

「む、一刀殿は確かに職はありませぬが、それは“今は”というだけで器の大きさでは曹操殿に
 負けていないとねねは見ているのです」

職が無い、という言葉に一刀は更に大きなダメージを受けつつ
曹操という歴史の英雄にガン見されてめちゃくちゃ居心地が悪くなっていく。
というより、変な汗が出てきたのを自覚していた。

『ああ、あの目はきついんだよなぁ』
『なんか気がついたら従いそうになるほどの威圧感だからなぁ』
『さすが曹操だ、何度相対しても慣れないな』

「あなた、北郷 一刀ね」

「……俺を知ってるのか?」

「最近仕官してくれた私の可愛い軍師が教えてくれたのよ。
 ふむ、ならばこうしましょう」

何か思いついたかのように曹操が一つ頷く。
何を言われるのか、と精神ファイアーウォールを築き上げようと身構えていた本体だが
それは即突破される脆弱性を持っていた。

「私は陳宮殿が欲しい。 貴方は職が欲しい。
 利害は一致してるのだし、北郷殿も私の元に来ないかしら?」

「え!?」
「なんですと!?」

「何か可笑しい事を言ったかしら?
 私には分からないけれど、陳宮殿はあなたに主の資質を見たのだから
 今は無職のあなたが何を仕出かすのか、少し興味が沸いたわ
 まぁ、北郷殿が来ると苦労しそうなこともあるけれど」

そういう考え方か、と一刀は納得した。
ある意味で実に合理的である。
欲しい人材が目の前に居るが、その人は既に主が居た。
それならば主ごと、ご招待して取り込んでしまえば音々音も手に入れることができるということだ。

正直言うと魅力的な提案だった。
曹操の元に仕官すれば、少なくとも職にありつける。
将来、戦争することになることを考えると二の足を踏んでしまうが
音々音を見ると、歴史的に正しい流れに戻るのではないかとも思うし。

とはいえ、やはり本体からすれば戦争とか、三国志とか、殺し合いなんていうのは
日常からかけ離れ、物語の中での出来事でしか触れた事が無い異常な物だ。
おいそれと参加する気にはなれず、天秤は拒否の色合いも濃い。

どうするの? というように見つめてくる視線に、本体は思わず頷きそうになるのを堪えながら
とりあえず脳内の俺たちに意見を求めることにした。

『『『『『『『反対』』』』』』』
『『『『本体の好きにすればいいと思うよ』』』』
『賛成!賛成!賛成!』

脳内俺会議、賛成3……じゃなくて1、反対8、丸投げ4。
どうやら脳内の俺達は、基本的に反対であるようだ。

しかし、よくよく考えれば、彼らが賛成することは無いのではないだろうか。
それぞれの俺達に、それぞれの大切な人が居て。
曹操の陣営に付くという事は他の陣営で過ごした誰かの思いを裏切ってしまうようで心苦しい。
基本的に、本体一刀の考えを尊重してくれるという事なので
ここで本体が頷いても、彼らはしぶしぶと受け入れるだろうし、受け入れざるを得ないのだろう。

音々音はどうだろうか。
ここで頷いても、多分付いてくると思う。
乱世が始まって、曹操と仲違いしてしまう可能性はあるけれど、少なくとも現時点では
一刀が頷けば、彼女も頷くことだろう。
さっき、満更でもなさそうな顔だったし。

最後は自分の気持ちだ。

たっぷりと腕を組んで数分間悩み抜いている間、曹操も音々音も一言も発さずに
本体の答えを待っていた。
そして、顔を上げて曹操の顔を見ると、本体は口を開いた。

「お誘いは嬉しい。 正直迷ったけれど、俺にはやることがあるから、ごめん」

「そう、脈ありかと思ったけれど、残念ね」

「ごめんなねね、もし行きたかったら曹操と一緒に行ってもいいんだぞ」

「一刀殿、そんなことは。 ねねは一刀殿と共に居られればそれでよいのです」

「そうそう北郷殿、一つ聞いてもいいかしら?」

「何ですか?」

「貴方は未来を知っているのかしら」

「え? それは……」

本体は迂闊にも、そこで黙ってしまった。
突然に予想しない言葉を聞いて、そのまま無意識に答えを弾き出そうとしてしまったのだ。
しまった、と思った時には既に遅かった。
曹操はしばし本体を見つめて

「そう……朝から悪かったわね、邪魔をしたわ」

「あ……」

何か言い訳を考える前に、それだけ呟くように残して曹操は踵を返した。
最悪だ。
未来を知っているのか? と問われて それは…… で言葉を切る。
あからさまに 『未来は知ってるけど、それは言えないんだよねミ☆』という風に捉えられるだろう。

ばれただろうな、と思うと同時に脳内も同意したように頷く。
一人で頭を抱えて唸っていると、覗き込むようにしてねねが一刀の顔を見上げていた。

「一刀殿、未来を知っておられるのですか?」

「……いやその……知っているというよりは、何となく知らされてる、って感じなのかなぁ」

『未来どころか、武将として素晴らしい人材を全員知ってるとかいったら』
『曹操のことだ……知識全部吐き出すまで本体は拷問だな、きっと』

「なるほど、一刀殿がねねに余所余所しい態度に、なんだか納得がいきましたぞ」

「うっ……」

「でも、ねねはそんなのどうでもいいのです」

「え?」

そう言うなり、音々音は一刀の頭の後ろに手を回して、コツンとおでこを合わせる。
やや屈んでいるとはいえ、一刀の身長と音々音の身長では、彼女の足が浮く。
少女とはいえ、首に少女の体重を支えることになったのと
いきなり急接近してきた音々音の顔に、一刀は驚きと共に後ずさった。

「これが証拠なのですぞ! 一刀殿は特に気にしなくても良いと思うのです。
 未来とは未知。 一刀殿が未来を自然に知らされるといっても
 ねねが次にする行動は分からないのです」

「まぁ、それはね」

「だから、ねねは気にしませぬ。 むしろ、未知を朧気にでも見通す慧眼を持つ主が居てくれて心強いのです」

「……ねね」

「なんですか、一刀殿」

「ありがとう」

「うっ! ね、ね、ねねは思った事をそのまま言っただけなのです!
 とととと、特に礼を言う必要など無いのです、一刀殿に笑顔でそう言われるのは嬉しく誉なのですが
 そう、そういう事の為に言った訳ではないので、これは違うのですぞ!」

「ははは、照れなくていいって、本当にそう思ったんだ」

「うう、あ、ど、どういたしましてなのです」

微笑ましい一幕を演じていた本体と音々音であったが、その後の行動は素早かった。
曹操の元を去るならば、早いほうがいい。
それは本体も、脳内も、そして音々音も意見を同じにするところであったからだ。


      ■ 大魚2尾


「北郷一刀を迎え入れる」
「ブバッ」

朝議で開口一番にそう言ったのは、陳留で飛翔の時を待つ龍。
曹操その人である。
その隣で盛大に噴出したのは曹操を支える知の柱、王佐の才荀彧その人だった。

「ぶっ、アハハハハ、桂花! 鼻水が出てるぞ、はしたないな貴様は」
「ちょ、ズズッ、ちょっとお待ちを華琳様、今なんと仰ったのですか」
「北郷一刀を迎え入れる、と言ったわ。 ちなみにこれは覆らないわよ。
 意味は分かるわね、桂花」
「なっ……は、はい」

春蘭の茶々を一切無視して、桂花は尋ねたが華琳から返って来た返答は有無を言わさぬ物であった。
突然の事態に思考が止まった桂花と、それを馬鹿にしたいが華琳の雰囲気から動けない春蘭の間を縫うように
夏候淵こと秋蘭が口を開いた。

「華琳様。 昨日は陳宮という者を誘ったという話を聞きましたが
 どうして北郷一刀に変わったのでしょうか」
「理由は今から説明するわ。
 あれはこの先、他の誰よりも私にとって大きな壁に成り得る可能性を秘めている」

この言葉に驚いたのは、誰よりも華琳が優秀であると認めている桂花と春蘭であった。

「そんなっ、華琳様よりも大きな壁になる者などおりませぬ!」
「その通りです! 仮に壁があったとしても、この私が砕いて華琳様の道を拓いて見せます!」

「ふふ、ありがとう二人とも。 その言葉は疑わないし信じてもいる。
 けれども、自らが天の御使いと名乗る北郷の存在は危険よ」

そして華琳は説明を始めた。
荀彧に当てた空箱の底に眠っていた手紙に記されている“魏”という文字。
これは曹操が、国を興せる段階で考えていた国号の一つである。

更に、荀彧へ王佐の才と記されている。
荀彧の、桂花の知略は曹操も舌を巻くものであるレベルだ。
実際、仕官してから短い時間しか過ごしていないというのに、夏候惇、夏候淵という古参の将を相手に
一歩も引かない能力を見せ、認めさせているのだ。
齎される献策は、曹操をして三国一の傑物と認める者であった。
今後、乱世が来ると予想される現状で、桂花を手放すことなど考えられないのだ。

そして、北郷一刀の恐ろしい所は未来を知っているということだ。
実際にそう言われた訳ではないが、雰囲気や顔、態度から確信に近い。
それがどの程度先を見越しているのかは分からないが、少なくとも“魏”が成るまでは知っている。
これがどれほどの異常であり、脅威であるのかは言わなくても分かる。
夏候惇は首を捻っていたが、後で妹に諭され理解するだろう。

「それが本当なのだとしたら、早急に手を打つべきです」

「ええ、そのつもりよ。 北郷 一刀を陣営に招けば大魚が労せず二尾転がってくるわ。
 もしも無理ならその時は……秋蘭」

「はっ」

「獲れぬ大魚は無用よ。 射りなさい」

「……御意」


       ■ 奇遇が重なる


本体は、音々音を伴って陳留を飛び出し、洛陽へと向かっていた。
音々音の提案で、馬を一頭購入して二人乗りで向かっていた。
当然、二人で乗ってるので走る訳でもなく、徒歩なのだが。
それでも、人間の徒歩と馬の徒歩では、まったく違ってくることを一刀は理解した。

人の足で大陸の荒野を行く辛さは、この世界に来て身に染みている。
懐が寒くなるのは仕方が無いとして、音々音の提案に一刀は素早く頷いた。

洛陽を目指す理由は幾つかある。
まぁ、曹操に未来を知っているような知らないような、という本体の秘密を知られたのが一番だが
特に疚しいことをした訳でもないので結構普通に街を出た。
それ以外にも洛陽を目指す理由ある。
本体は、この世界へ降り立った当初、ヤケクソさを胸に 「帝っているのかなー」 と言った。
三国志なのだから、居るんじゃないだろうかと思って衝いて出た言葉は
本体の中での一つの指標となっていたのである。

何故ならばこの世界に降り立った彼は、脳内の自分から曹操や孫策などの有名武将を口々に聞いたが
帝に一切触れていなかったことに気がついた。
戦乱を駆け抜けた自分達が知らない「帝」という存在を知りたくなったというのも在るし
多くの武将が女性となっているこの世界で、あの「帝」の性別はどちらなのかも気になった。

そんな訳で、何となく本体は「帝を見てみたい」という野次馬的思想から洛陽へ向かう事は目的の一つになっていた。

他にもある。
後漢時代といえば、朝廷の腐敗から乱世へと突入していく動乱の時代であることは
三国志に少しでも触れた人間ならば説明する必要も無いことだ。
とはいえ、朝廷の権力は形骸化の兆しを見せていても、見えぬ力となって諸侯へ与えた影響は大きいものであった。
朝廷の権威は動乱の時代を迎えても同様に、かなり後まで尾ひれを引いている。

農民の蜂起から始まる黄巾の乱も始まっていない今の時代ならば、死に体でありながらも
なお漢王朝は巨大な龍であるのだ。
その超凄い漢王朝の首都である洛陽。
少なくとも、朝廷のお膝元で暴れるような奴もそうは居ないだろうという打算。

これが二つ目の理由。
本体としては、特に音々音と行動を共にすることになってしまったという事実が付随したことによって
黄巾の乱が激化する前に、出来るだけ安全な場所へ行きたいという思いがあったのだ。

でもまぁ、色々言ってもこれらの理由は最大の理由ではない。
洛陽へ向かうと決定したのは、もっと即物的で、能動的で、半ばヤケクソ気味だったのだ。
すなわち。

「陳留の曹操様が怖いから逃げた訳ではない。 仕事が見つからないのが悪いのだ」

「一刀殿、あまり気を落とさなくてもいいのですよ。
 洛陽ならば働き口は陳留よりも多いですし、きっとすぐに見つかるのです!」

「ねね……ありがとな。 お前が居てくれて良かったよ」

「か、一刀殿、あまり真顔でそんなことは言わないで欲しいのです」

「……? 何か変なこと言ったかな……まぁいいか」

本体はこの小さな旅のお供である少女に、多くの勇気と活力を貰っていた。
一人で居たならば、余りにも見つからない働き口にいじけていた事だろう。
現代で高校生をやっていた手前、就職の厳しさを耳にして聞いてはいたが
実際に社会人(世界は違うとはいえ)として働き口を探してみれば、掠りもせずに面接後に落とされる。

と、思えば断られた自分のすぐ後ろに居た人を雇っていたりするのを目撃したりしていたので
俺はいらない人間なのではないだろうか、と欝になってしまいそうにもなった。

実は裏で曹操陣営が手を回していたことを、一刀は知らない。

そんなこんなで、音々音に養ってもらっていた陳留での日々が次第に精神的に辛くなっていき
曹操殿のこともありますし、そろそろ陳留を出ませんか?
という音々音の提案は、本体にとって渡りの船であった。
その提案が、音々音が自分の現状を察して言ってくれた物だと気付いてしまうと
いっそう惨めな気分に陥ったりもしたのだが。



      ■ 一を十にする奸雄


「ちっ、既に陳留を出ているとはね」

舌打ち一つ。
北郷一刀、そしてそれに仕える陳宮を陣営に誘おうと
陳宮の住む家屋に訪れた曹操が見た物は、綺麗に引き払い家具一つ無い部屋であった。

「申し訳御座いません。 見張りは密にしていたのですが……」
「前日まで、同じように男は職を探しに、女は検地に行き何一つ行動が変わらなかったので
 油断してしまいました」
「真昼間に堂々と出て行くとは思わず……」

見張りをしていたものの言い訳を聞き流しつつ、曹操は思案した。
これだけ鮮やかに見張りの目を掻い潜った二人だ。
よほどの能天気でなければ馬を用意して走らせることだろう。
そうなれば、追いつくのは至難の業だ。

「華琳様!」

「春蘭、どうしたの?」

「はっ、この者が北郷とやらを見たそうです」

「話を聞きましょう」

曹操は北郷と音々音らしき人物が、二人で馬一頭に乗り洛陽方面へ向かった事を知った。
それを聞いてもう一度考えることになる。
馬を使うのは予想通りだったが、二人乗りならば十分に追いつける。
しかし、向かった場所がよりによって洛陽とは。
洛陽はまずい。

現在、洛陽では最近の賊の横行について、大規模な軍議が開かれている。
そこには数多の諸侯が集まっているのだ。
未来を知る北郷一刀は、言わば乱世のジョーカー。
孫堅の陣営と、自分の陣営は蹴られても、他の諸侯に掻っ攫われるくらいならば
本当に消えてもらった方が安心できる。

「……出来れば、私の元に来て欲しかったけれど」

「華琳様」

逡巡した曹操に夏候淵は短く名を告げた。
一度目を瞑り、次に開いた時に決意は固まった。

「……秋蘭、お願いするわ」

「はっ、お任せください」

夏候淵は即座に踵を返すと、共を2~3人連れて走り去っていく。
それをしばし見送って、曹操は前から駆けて来る荀彧を見つける。
それをぼんやりと見ながら、ふと思う。

「……そういえば、どうして私はこんなに焦っているのかしら」

孫堅が誘った。 王佐の才と見抜いた。 
その桂花が推薦した陳宮という玉を従えた。
曹操の中でしか存在しないはずの“魏”を知っている。
そして、未来を知る天からの御使いを自称した男。

こうして纏めてみると恐ろしいほど胡散臭く、そして気味の悪い存在である。
しかし、もしも。
もしも天からの御使いというのが真実であるのならば
天は曹操も、孫堅も選ばなかったということになる。

「ふっ、そうよ。 私ならばそれを楽しむことこそすれ、恐れることなど……」
「華琳様?」

ようやく隣に追いついてきた桂花が、華琳から漏れた呟きに首を傾げる。

「桂花、未来とは何かしら?」

「え? はっ、未来とは……すなわち未知でございます。
 未知とは知らぬ事。 知る術は今を流れる時が満ちるまで、方法はありません」

「そうよね、もし未来を知っているのならば私が訪ねた時も平然としていなければおかしい。
 未来を知るのは事実。 しかしそれは虫に食われた葉のように断片的。
 そう、なるほど……桂花」

「はい」

「秋蘭に伝令を。 大魚は逃すとだけ伝えなさい
 必ず間に合わせるのよ、いいわね」

その言葉に桂花は一瞬だけ動揺を見せたが、すぐに華琳の言うとおり行動に移した。
遠のく桂花を見ながら、華琳は呟く。

「例えその器に満たされたのが天であろうと、私は飲み干して見せるわよ、北郷」


      ■ 天の御使い


この時代、将の視力はおかしい。
悪いわけではない、逆だ。
おかしいくらいに目がいいのだ。

それは武将でも知将でも変わらないようで、もしも音々音が居なかったら
この突然の黄砂の中、本体が屋敷を見つけることなど不可能だっただろう。

ついでに、一刀を追いかけていた夏候淵も、一刀と音々音を視界におさめていたというのに
突然の天候変化で身動きが取れなくなったりもしたが、それは本体はまったく知らない。

とにかく、一刀と音々音は見かけた家屋にこれ幸いと転がり込んだ。

「助かったなぁ、運よく屋敷があって」
「どうやら近くに邑があるようですね。 このお屋敷は邑の外れに建てられた物のようなのです」

屋敷の軒先を借りて、衣服や肌に張り付いた砂を落としながら会話を交わしていると
ふいに立付けられた戸がコトコトと震えた。

「おや?」

「あ、すみません。 突然の砂嵐で軒先をお借りしております」
「よろしければ、今しばし休ませて欲しいのです」

「はっは、なるほど、構いませんよ。 こんな屋敷でよければどうぞお上がり下さい」

軒下どころか、思いがけない招待に一刀達は喜んだ。

この屋敷の主、名を荀倹。 荀彧の叔父に当たる人間で荀家縁の者であった。
もっとも、荀彧は男嫌いで更に仕事柄あまり主家に戻らない彼は彼女が才女であることは知っていても
関わりは薄かったらしい。

なんたる偶然か。
旅をすれば荀家に当たる、などと適当な迷言を言い放ちつつ
本体は一人、『人の縁』というものに考えさせられたのである。


一方、何処かの屋敷に入られて手を出せずに砂嵐に晒されていた夏候淵は
とりあえず体力の消耗が無いようにと即席に身を隠せる場所で身体を休めていた。
屋敷に偵察を出し、それが荀彧に縁ある者が所有していることが分かると
夏候淵は舌を巻いた。
これも、逃亡の為の一手か、と。

流石に夏候淵も、屋敷に侵入して暗殺することは出来ないと判断して
北郷一刀と陳宮が屋敷を出てくるのを待つ選択した。

ようやく一時的な黄砂が身を潜めて、月夜が中空で大地を柔らかに照らし出し
そろそろ狙い打ち出来る場所へ、と動き出そうとした時になって曹操からの伝令が夏候淵に届いた。

「なに? そうか……分かった、すぐに戻る」

射程に捉える前に起きた、突然の天候の変化。
転がり込んだ屋敷は我が陣営にとって掛け替えの無い将の親戚の物。
まるでタイミングを計るかのように鳴りを潜めたと思えば、主君からの命令取り消し。
肩にかけていた弓を担ぎなおして、屋敷の奥にしばし目をやる。
戸が開き、馬に二人で乗り込む姿が夏候淵の目に映る。

「ふっ、天の御使いか。 あながち嘘ではないかもしれん」

この後、夏候淵が戻って曹操へと報告している時に
王佐の才が 「取り壊すわ! あの家屋は今、呪われた! 空気妊娠する家なんて最低よっ!」 と
やや取り乱していたとか、いないとか。



      ■ 意識のズレ


「う~、仕事仕事……」

無事に洛陽へ到着した一刀は、一時的に音々音と別れて職を探していた。
思ったよりも街は平穏が保たれており、餓死者満載だとか、肉の腐った匂いとかはしなかった。
ていうか、むしろ元気な奴が多かった。

もしかして、これって黄巾の乱は起こらないんじゃないだろうか? とさえ思うほど
平和な感じなのである。
無論、まだ洛陽へ入って数時間。
大通り(だと思われる)場所しか歩いていないから、こんな感想が出るのかもしれないが。
少なくとも、活気がまったく無いという訳では無い。

都だけあって、広さも陳留とは比べ物にならない。
中央に大きな広場が。
そこから東西南北に分かれて大通りが広がっており、川側に面して王宮が立っている。
その雄大さは本体一刀に少なからず感動を与えていた。

『それにしても、洛陽がこんなに栄えてるとは』
『俺が見たのは反董卓連合が終わってからだから、違和感があるなぁ』
『俺も俺も』
『なぁ、本体。 井戸見てみないか?』
『井戸?』
『ああ、玉璽か?』
『この時期は朝廷にあるんじゃないのか?』
『いやほら、もしかしたらって思ってさ』
『ていうか、玉璽手に入れてどうするんだよ』
『厄介ごとが増えるだけだぞ』
「おお、そうか。 玉璽があるかもしれないのか、見に行こう」

脳内での会話に続くように、本体が流れるように賛同した。

『え? マジで行くのか?』
『職探しはどうした』
「まぁまぁ、俺もせっかくの異世界だし、観光くらいさせてくれよ」
『……観光、か』
『俺らと本体じゃ、この世界に対する感覚がかなりズレてるな』
「そりゃそうだろ。 俺も乱世を一回駆け抜けたら、お前らと同じように思うかもだけど
 正直、今の俺はとっとと現代に戻って学生に戻りたいよ」

これは本体の本心であった。
訳が分からず異世界に飛ばされて、そこが戦争が起こるかもしれない場所で
真名などという不思議な習慣があり、生きるためには誰かの助けを得ないといけない。

音々音には感謝の気持ちも、慕ってくれて嬉しい気持ちも当然ある。
何より、この世界ではもっとも親しい人だ。
自分を主として献身的に世話をしてくれるのは、くすぐったくもあり情けなくもあり。

『ねねが居るのにか?』
「うん、一人と元の世界、天秤にかければ現代の方が重いに決まってる」

そう。
仮に元の世界に戻れるならばすぐにでも戻りたいのだ。
刺激的な事は少ないかもしれない。
もしかしたら、この世界で自立を目指した方が充実した日々を送れるのかもしれない。

脳内の自分たちが、本体と違って身体を鍛えて強くなっているというのは分かる。
それはきっと、この世界を生き抜いていくのに必要で、必須だったのだろう。
乱世を一度駆け巡ってるのだから、精神的にだって強くなっているはずだ。
チンピラが剣を持って歩いているだけで、本体は怖いと思うのに
脳内の彼らは、まるで素手の相手をしているように振る舞い、声を出す。

自分を逞しく出来る場所といえば、確かにそうかもしれない。
それでも、本体からすれば突然降って沸いたような出来事なだけに
受け入れることが出来なかった。

ただ、受け入れられないからといって駄々を捏ねて自棄になるほど子供でもない。
妥協だと思われても、現状は流されるしかないのかも知れないと思っても居る。
元の世界に戻れなければ、嫌だと拒否する以前に此処で生活の目処を立てるしかないのだ。

ただ、一つだけ言えることは、北郷 一刀という人間は生きているのだ。
この一点があるだけで、本体はなんとかなりそうな気がしていた。

「まぁ、だからとりあえずは、目の前で出来ることを、だよ」
『つまり、玉璽探しか』
『そこは職探しってことにしとこう』
『うん、玉璽はあくまでもついでだな、ついで』


      ■ 玉璽が……勝手に……


「あったよ」
『『『『『『『『『『『あったよ』』』』』』』』』』』

玉璽があった。
井戸の中ではなく、井戸の外に玉璽があった。
もう一度言う。
井戸の中ではなく、井戸の外に玉璽が乱雑に放置されていた。

「え、マジで普通に在ったんだけど、これどうすればいいの? 何のイベント?」
『……いや、そう言われても』
『井戸の中に放り込んでおけば?』
『何言ってんの!? 朝廷に届けるべきなんじゃ』
『馬鹿、腐敗してるかもしれない朝廷に玉璽なんて餌を放り投げてみろ』
『……普通に皇帝の元に行くんじゃないか?』
『行くかな……? 十常侍あたりに利用されちまうんじゃないか?』
『肉屋とか』
『肉屋って……ああ、何進か』
『それは嫌だね……』
『月達に負担が掛かるのは嫌だなぁ』
『連合がどう転ぶか分からないもんな、正直扱いに困る』
『俺達の知ってる流れと変わる可能性もあるし、どうすんだよ』
「じゃあこのまま持ってるとか?」
『持ってるの?』

脳内の自分に言われて、本体は身を震わせた。
これは、騒乱の種になりかねない代物だ。
しかも、三国志の中では話のキーアイテムとして度々出ている。

孫策が発起する為の起爆剤。
偽帝、袁術の誕生。
漢中王、劉備の爆誕。

まぁ、劉備に関しては孔明がでっちあげて、王になる決意を促したパチモンとか
実際は袁術死後に曹操へ献上されたとか、色々と説があるのだが
とにかく重要アイテムなのである。

「とりあえず……これは孫堅に渡るように井戸に放り投げておくべきだろうか」
『孫堅さん、まだ生きてたしね』
『あれはエロイ格好だった』
『『『『『同意』』』』』
『というか、孫堅殿は何時ごろ死んだのだ?』
『わかんねぇ』
『“呉の”?』
『すまん、わからん。 俺が降りた時には既に亡くなっていた』
「え、じゃあ孫堅さん死ぬの?」
『それも分からん。 この世界ではどうだろうな……』
『難しい問題になってきたな』

ここで下手に扱うと、歴史がめちゃくちゃ歪みそうである。
ただ、脳内の自分が既に歴史は歪んでいるだろ、と突っ込みを入れてくれた。
考えてみれば確かにそうだ。
しかし、本体はこんな怖い物を所持するつもりはまったく無かった。

「一刀殿~~~!」
「ねねっ!?」

突然の呼びかけに、思わず玉璽をポケットに突っ込んで声のした方へと振り向く。
満面の笑顔でねねがこちらに駆け出していた。

「一刀殿、馬を売りさばいて暫くの生活費は確保できたのです!
 一刀殿の職は見つかりましたか?」

職は見つからなかったけど、帝印は見つかりました、とは言えない。
とりあえず苦笑して誤魔化しながら、ポケットに突っ込んでいる右手に思いっきり
玉璽の感触が伝わって、どうしようか悩む。

音々音の前で玉璽を井戸に投げ捨てるとか、ちょっと怖い。
どういうわけか、本体に尽くしてくれ主と敬ってくれる音々音だが
流石に玉璽を音々音の前で投げ捨てたら『死ねよ偽帝チンコ』とか言われるかもしれない。
今までの音々音からして、そんな反応は無いとも思うが、可能性はある。
そのくらい玉璽とは、漢民族、漢王朝にとって重要なアイテムなのだ。

本体としては、この世界で唯一といっていい、北郷 一刀を認めてくれている人間に対して
そんなリスクは取れるはずもなかった。

「では一緒に歩いて職を探しましょう!
 ついでにお昼ご飯も済ませていくという策を、ねねは提案するのです!」
「う、うん、ソウダネー、いいさくだ、ソウシヨッカー」
「任せろなのですよ! では出発なのですぞー!」

そして俺の懐には、玉璽が収まっていた。



      ■ 考える人


一刀と音々音は職を探しながら、肉まんやシュウマイを買って食べ歩き観光をしていた。
音々音は一度来たことがあるらしく、色々と案内までかってくれたのである。
ほんと、マジでいい子すぎて一瞬泣きそうになる一刀。

そうして一刀が働いてみようかな? と思える場所が3箇所に絞れた。
幸い、先に打診したところ雇ってやるとの返答は貰っている。
後はこの3つから選ぶだけとなったのである。
洛陽最強すぎる。 
陳留は難易度がウルトラベリーハードとかになってたに違いない。

一つ目の候補は飲食店である。
それも、数ある飲食店の中でも割と活気がある場所で、人が多かった。
人が多いということは、必然的に仲の良い友人を作りやすくなるということだ。
勿論、逆に人が集まる場所なのだから諍いや喧嘩もあるかもしれない。

二つ目の候補は本屋だ。
流石に首都・洛陽なわけで、品ぞろいは抜群であった。
音々音も見たことの無い本の数々に、目まぐるしく視線をさまよわせていた。
今までの苦労をかけた分、ここで働いて興味のある本を譲ってもらう事で
音々音の恩返しになればいいかもしれない、と思い候補に残したのだ。
自分も文字を読む練習、書く練習が出来るかもしれないという利益もある。
デメリットを挙げれば拘束時間が長かったことだろうか。

三箇所目は少々特殊で、卸業を行っている商家であった。
なんでも王宮へも品を運ぶらしく、扱う商品はそれこそ多岐に及んだ。
勿論、高い物だけでなく、庶民に卸す品物も多い。
ここの利点は何といっても、この世界の経済について詳しくなれる事だろう。
適正価格や流通具合を見れるというのは、今後の生活の上で大きな武器になってくれるはずだ。
心配なのは、今のこの時期に王宮へ出入りすることになることだ。
見方に寄っては、有名人を見ることが出来るチャンスとも見れるかもしれないが。

「さて、どうしようか」

本体は悩む。
脳内の答えも様々だった。
“魏の”“袁の”“仲の”“南の”は飲食店を薦めた。
食を通じて人と仲良くなることは珍しくなく、人の繋がりを実感できると。
特に“袁の”は袁紹が食事に拘っていたせいか、飲食関係には熱意を見せていた。

“呉の”“白の”“董の”“肉の”は本屋を薦めた。
知識はその人物の支えとなるもの、知識失くして世は渡れない、と諭してくれた。
音々音の事も考えて欲しい、とは“董の”の言。

“蜀の”“馬の”“無の”は卸店だ。
この三人に共通したのは、今の朝廷がどのような状態なのかを理解するべきだとのこと。
更に経済や品物の流通具合は確認したいとの事だ。
この意見は本体も同様に思っていたことなので、素直に賛同できた。

いよいよ迷ってしまう本体である。
脳内でも割れてしまった意見に、何処を足がかりにするのか必死に考えた。
人の和を作るか、この世界の知識を蓄えるか、経済や実情を確認するか。
どれも行えれば良いのだが、あいにくと意識は複数あっても身体は一つだ。

「困った困った……」

ポケットに突っ込んだ玉璽の存在も、非常に困った。
タイミングを逃したせいか、どうにも捨てられない。
下手な場所に置けば騒ぎになるし、どうしろと。

ぼうっとしながらも頭は色々と考えている。
中央広場の階段に腰掛けて、何かの店の人間と会話を交わしている音々音を見ながら
本体は煮詰まりつつあるのを自覚して、目頭に手を当て揉み解す。

ふいに、一刀の頭上から降ってくる声。

「――――ですのっ!」
「――なのじゃ~!」
「きぃぃぃ、許しませんわよ美羽さんっ!」
「ぎゃあああ、七乃~~! 麗羽がいじめるのじゃ~!」
「お待ちなさい! っあ!」
「ぴぅっ!?」

「うん……? なんだか騒がしいな―――ってうおっ!」

階段の丁度中央あたりに位置した一刀に、影が覆いかぶさったと思った瞬間。
彼は怒涛の流れに巻き込まれて、階下でひしゃげた。

「姫~~~!?」
「美羽様~~!?」


      ■ 構造上不稼動部分


「いててて、なんだなんだ?」

なすすべなく、何かに押されて階段から突き落とされた本体一刀。
頭を抱え、顔を顰めつつ原因を探ると、どうやら人に振ってこられたようだった。
視界に収めると同時に脳内が合唱。

『麗羽っ!』
『美羽っ!』

「いたたた……なんてことなさいますの、美羽さんっ!
 球のお肌に傷がついたらどう責任を取るというのですかっ」

「わらわのせいではないのじゃ!
 麗羽が猪みたいに突進しなければ、こんなことにはならなかったのじゃ~~!」

「ぬぁっっっんですってぇー!?」

「ぴぃぃぃ! いきなり凄むのは卑怯なのじゃぁ~」

一刀を無視して、口論を始める二人の美少女。
どちらも金髪。
年上と思われる少女は、とてつもない金髪ドリルであった。
曹操なんて目じゃない。
言うなればボールとビグザムくらいの質量の差である。
キッと吊り上げた眉は細く長い。
整った顔立ちなだけ、その分怒った顔は迫力を増していると言えた。

対して押されながらも必死に口論を続ける少女。
こちらは愛くるしい衣装に身を纏い、くりくりとした瞳が幼さを引き立てている。
顔は若干柔和で騒乱などは苦手な部類のような感じがした。

この二人、姉妹だろうか。
そんなことを思っていた本体に、脳内が声をかけてきた。

『なぁ本体、少しだけ体を貸してくれ』
『出来れば俺も借りたい』

『おい、“袁の”“仲の”、何をするっていうんだ』

『何も出来ないかもしれない……ていうか、多分出来ないよ。 それでも……』
『理屈じゃないんだ、頼む! 声だけでも、自分でかけたいんだ!』

『分かった、貸してあげてくれないか、“本体”』
『おい、“魏の”』
『分かるんだよ、俺。 華琳と出会って、何も出来ないからってあの場では無茶しなかった。
 けど……けどやっぱ、俺も。
 何も出来なくてもいい、意味のある会話もできなくていい。
 真名じゃなくてもいいから、華琳を呼びたい。
 ちょっと後悔してるんだ……だから、二人の気持ちが分かるんだよ』

『……』

脳内の言葉を聞いて、本体は頷いた。
もとより、この世界で自分が決めた目的の中の一つに、彼らの想い人と会わせてあげるという物があるのだ。
こうして出会えたのも運命と言える。
断る理由なんて、今の本体には無かった。

「うん、分かった。 貸すよ、俺の身体」
『ありがとう』
『感謝する』

異口同音に礼を聞き、本体は二人の間に割って入った。
口論に夢中になっていた二人の少女は、突然現れた(かのように見えた)男に視線を移す。
そして、一刀の身体は動いた。

『げっ!』
『おいっ!』
『馬鹿っ!』

そこで本体の意識は途切れた。
意識の俺が何かを叫んだのと、身体の芯からボキリという生々しい音を最後に。


      ■ トラップ発動


それは、不幸な事故なのだろう。
“袁の”も“仲の”も悪気があったわけじゃない。
ただ二人が身体を乗っ取ったのが同時で、本体を操ろうとした瞬間に
“袁の”も“仲の”も意識が堕ちただけだ。
ある意味、本体がお膳立てした位置が最悪だったとも言える。

簡単に本体の動きを説明すると、袁紹と袁術の間に入ると突然身体が動いた。
まず上半身が袁紹へ真正面に向いた。
殆ど同時に袁術の方へ下半身が真正面に向く。
上半身と下半身が、まるで別々の動きを織り成して、そして崩れ行く男の身体。

「ぎゃ、ぎゃああああああ! 化け物なのじゃあああああ!」
「あっ、美羽様~~、待って下さい~~!」

確かに、これは人間には不可能な動きであった。
少なくとも、一人の人間の意志でこの動きを体現するのは不可能だ。
それは例え超一流の武人でも……そう、呂布でも不可能だろう。

「な、な、な、な……」

壊れたレコーダーのように、二の句を告げない袁紹。
倒れ伏した奇怪な態勢の男に驚いて、一目散に逃げ出した袁術と違い
まるで蛇に睨まれた蛙のように動くことが出来なかった。

「姫! 大丈夫ですか!?」
「姫~、こいつなんなんです?」

従者の二人の声で、袁紹は夢から覚めたかのようにハッと顔を向ける。
見慣れた従者の顔を見て、ようやく袁紹の脳は再起動した。

「猪々子さん、斗詩さん、私ちょちょちょっと、驚ろきききましたわ」
「……えっと、姫、とりあえず怪我はないんですよね?」
「ええ、ええ大丈夫ですわ、私は袁本初ですわよ!? おーっほっほっほっほっほほふっげふっ!」
「うわぁ~、姫が高笑い失敗するなんて初めてじゃないかー? 斗詩ぃ」
「うん、そうかも」
「っというか、いきなり何なんですの、この男はっ!」

咳き込んで恥ずかしかったのか、やや顔を紅くしながら八つ当たり気味に
物言わぬ肉塊と化している一刀に蹴りを入れる袁紹。
その拍子に、一刀の懐からポロリと何かが出てくるのを斗詩と呼ばれる少女が見つけた。

「うわー、姫。 既に事切れている民に向かって容赦ないですねー」
「だ、だって本当に驚きましたのよ……仕方ないですわ」
「ええっ!? これってっ!?」
「どうしたー?」
「斗詩さん、どうしましたの?」


「これって玉璽!? でもこんな人が……いや、でもこれは間違いなく本物……」
「え!?」
「何ですの?」

驚く猪々子と斗詩。
何が起こってるのかまったく分かっていない袁紹。
斗詩は懐にサッと玉璽を隠すと、猪々子に目で合図して歩き始めた。

「あら? どうしましたの斗詩さん? ん、ちょっと猪々子さん。
 どうして私の手を引っ張って、っちょ、ちょっとお待ちなさい!
 引っ張らないでも歩けますわよ!?」

抗議を他所に、ズンドコ進んでいくく猪々子と斗詩に引きずられながら
洛陽の中央には、一刀の死体だけが残された。
いや、死んではいないのだが。

ようやく一刀の異変に気がついた音々音が本体を救出したのは
袁紹が去ってから3分後の出来事であった。

「ぎゃあああ、一刀殿~~~!? 医者ぁ、医者を呼ぶのですーーー!?」

洛陽に、音々音の叫び声が響いた。


      ■ 森の中

その頃。

「んっ!? 今、確かに俺を呼ぶ少女の声がしたが……よし、待っていろ! 今すぐ行って治してやるぞ!
 うおおおぉぉぉぉぉ、ごっどぶぇいどぅぅぅおおおおおぉうぅぅぅ!」

洛陽郊外の森の中、凄まじい気を放ちつつライフルで撃たれた弾丸のように走る男の姿が、各所で目撃されたという。


      ■ 外史終了 ■





[22225] 都・洛陽・入念な旗立てであの子の湿地帯がヌッチョレするよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64fa16e3
Date: 2010/11/14 23:06
clear!!       ~音々音の膝裏から足首にかけて白蟻が行進するよ編~

clear!!      ~都・名族・袁と仲、割れ目の中で四股が捩れるよ編~

今回の種馬 ⇒ ★★★~都・洛陽・入念な旗立てであの子の湿地帯がヌッチョレするよ編~★★★



      ■ 無意識下の幻


少女は儚げに湖面の周囲を見つめていた。
湖面の周りには多くの兵士と思われる者が、そこかしこで炊き出しの準備をしている。
煙揺る紫煙が何本も空へと溶けていき、何かを炊き込んだ甘い匂いが鼻腔を衝く。
そんな様子を忘れぬようにと、少女は眼に映る風景を眺め続けていた。

「月、こんなところに居たのか」
「……あ、ご主人様」
「天幕に戻らなくていいのか? 水辺に居たら冷えるだろうし詠も心配するよ」

一刀に気がついた月は、彼の言葉に頷く。
しかし、肯定を示しながらも彼女は動かなかった。
首を再び湖面にめぐらす。
そんな月に、一刀は頬をかきつつ彼女の隣に腰を落とした。

しばし二人で景色を眺めていた。
陽が紅く染まって地平から隠れようかという頃。
月が俯きながら一刀に尋ねた。

「これから、どうなるんでしょう……」
「……」

一刀は答えない。
もう、彼が知る流れは完全に逸脱してしまった。
月が呟いた不安は、そのまま一刀の不安でもあるのだ。

「この先、どうすればいいのか分からないんです。
 ただ流されて、流されてここまで来てしまった。
 こうして私がここに居ることが、本当に皆の為になっているのかも……」

そこで元々消え入りそうなほど声量を抑えた彼女の言葉は途切れた。
俯く月とは対照的に、一刀は星がちらつき始めた空を見上げていた。

「それを言ったら俺だってそうだよ。
 でも、正しいと思うことをしてきたって思いはある。
 だってそうだろう。 月は何も悪くなかったんだ」

「……」

「反董卓連合を打ち破ったことで、乱世で頭一つ飛びぬけた俺達は
 もう殆ど取れる選択肢は少ないよ。
 だからこそ月は悩んでるんだろうけど……」

そう、彼らの選べる道は殆ど無い。
持ってしまった権力が、時の時勢が、なにより今駆け抜けている時代が許してくれないのだ。

「ねぇ空を見てごらん、今日は満月みたいだよ」

「……ご主人様」

「これから先、俺達は長い夜の中を駆け回ることになると思う。
 詠も恋も霞も華雄も……俺達だけじゃない、曹操や劉備、袁紹達だってそうだ。
 この大陸が、今まで以上に深い闇の中を駈けずり回ることになる。
 ……将兵だけじゃなく、商人も、兵士も、平民も、全員が闇の中だ」

何かを伝えようとしているのを感じたのか。
月は天空を見つめる一刀を、見上げるようにして視線を向けた。
彼の視線の先には、既に宙空へ上った丸い月がポッカリと浮かんでいる。
夕焼けと闇宵の狭間で浮かび上がる月は、ある種の幻想的な雰囲気があった。

「闇の中を歩くのに必要なのは光だ。
 月は闇を優しく照らして、道を示してくれる。
 そして……いつか夜が明けて陽が差すんだ」

一刀が言わんとしていることに気がついて、月は慌てたように俯いた。
流石に、月にとって彼の言っている事は過大な表現すぎたのだろう。
一方で一刀の方も、言葉にしてから何が言いたかったのか訳が分からなくなり始めて
とりあえず月に向かって真正面に回ってみた。

「そんなこと……」

「……ちょっと大げさかもしれないけれど。
 月はそうやって悩んでいても良いって言いたかったんだ。
 つまりまぁ……闇の中に居る人間は勝手に光を目指すから、あんまり気にしないで気楽にしてよって事だよ」

「へぅ……無理ですよ……」

「無理じゃないよ、月が光っていられるように、俺も頑張るよ。
 先の事に不安になるのも分かるけど、結局人間って出来る事を一つずつやっていくしか
 出来ないんだからさ」

「じゃあ……ご主人様……夜が明けて大陸を照らす陽になるのは、
 天の御使いであるご主人様ですね」

「はは、そう、だね。 ……闇の中は君が照らしてあげて」

「……ご主人様」

「月……」

そして二人の影は重なり……

「こらぁあああ! 変態ちんこぉぉぉ!」

出来つつある影を引き裂くようにして突然の怒声と衝撃が一刀に走った。
もんどりを打って倒れ、その拍子に湖まで転げ落ちて、盛大な水音を響かせてしまう。
顔を上げた一刀が、肩を震わせながら襲撃者―――董卓軍の最大の頭脳である詠に憤慨しながら詰め寄った。

「いってぇ……何するんだよ、いきなりっ!」

「ちんこ、あんたね、慰めるならもう少し上手く慰めなさいよ!
 訳の分からない詩に酔って月に負担かけるようなことばっか言うんじゃないわよ!」

「うぐ……わ、悪かったよ、でもなんかこう、上手くいえなかったんだよ。
 ていうか、人を指差してちんこを連呼するなっ!」

「うっさい、あんたなんて、のっぴきならないちんこで十分なのよ!
 ったく、任せてみようと思って見守ってれば意味不明の戯言を呟く上に月を混乱させて襲うなんて!
 やっぱりあんたは油断ならないわっ!」

ビシリと再び指を指されて一刀はうろたえた。
別にそんなつもりは無かったとはいえ、思わず良い雰囲気になったのは一刀も認めるところだったのだ。
とりあえず助けを求めるように月を見上げた。
助けとなるはずの月は、何やら頬を紅くして両手で押さえ「へぅ……」とか言いながら慌てている。
どうやら詠の抑止力として今は期待出来なさそうだ。
水の音を聞きつけたのか、気がつけば周囲には恋や霞がこの場に駆けつけていた。

「なんやー一刀、狼さんになってたんか」
「……狼さん?」

「ちょっと待て、俺は別にそんなことは「ちんきゅ~~~~~~~」 ハッ!?」
「キーーーーック!」
「ぐはぁっ!?」

「強姦魔が居ると聞いて飛んできたのですぞ! 悪は滅びたっ、なのです!」

側頭部に見事な蹴りを入れられ、何か叫んでる音々音の声を聞きながら
もう一度水の中に落とされる一刀。
顔から突っ込んだ水の奔流が、一刀の視界を覆う。


視界は暗転した。


次に顔を上げれば、そこは雄大な大地が広がった荒野。
隣に馬を合わせるのは長い髪をポニーテールで結い上げた美少女であった。

「今度の戦いは大きな物になるな、軍師殿としてはどう見てるのかな」

「軍師殿って、別に俺は軍師を名乗れるほど頭は良くないんだけどなぁ」

「何言ってんだ。 瞬く間に中原を食い荒らしたじゃないか。
 謙遜も度が過ぎると厭味になるんだからな」

「はは、確かにそれは事実だけど……でも食い荒らしたのは俺じゃなくて翠だろ」

翠と呼ばれた少女は、褒められているのに慣れていないのか
馬鹿を言うなと言いながらも頬をにやけさせていた。
今度の戦は大きな物になる。
華北を制した曹操との決着をつける為の戦だ。

「場所は、やっぱり官渡あたりになりそうなのか?」

「ああ、そうなると思う」

「そうか……厳しいものになるかな、やっぱ」

深いため息を吐いて翠は馬上で呟いた。
一刀も同意するように頷く。

官渡の戦いでは、どうしたって水軍が必要になってくるだろう。
西涼を拠点とする馬騰軍は、騎馬の扱いには長けていても水の上ではその実力は発揮できない。

一方で、袁紹を水上決戦で打ち破った曹操軍は水戦を一度、二度は経験していた。
この差はでかい。

「母さんも、あんまり体調が良くないみたいだし、出来れば今回は戦いたくないんだけど」

「そうだね……」

翠の母親である馬騰は、今体調を崩していた。
そして恐らく、曹操軍はそれを見越していた。
攻めてきて欲しくない時期に、どんぴしゃで合わして来たのだから、そこは疑いようが無い。

もちろん、馬騰軍も準備は怠っていない。
曹操の取る、このタイミングでの侵攻は予測の範囲の中であった。
一刀は考える。
こうした情勢の中で翠は弱気になっていた。
改めてこうして二人で顔を合わせて、それは確信に変わり。

そして、彼女を励ます為に出てきた言葉は、結局当たり障りの無い言葉になってしまった。

「翠、頑張ろうな」
「なんだよ、突然」

「例え何があっても、(気兼ねなく戦えるように)俺がお前を支えるよ」
「へ? はぁ!?」

短くそう告げて一刀は逃げるように馬を走らせる。
一瞬、頭が真っ白になってしまった翠はしばし呆然と遠ざかる一刀を見ていたが
何かに気がついたかのように自分を取り戻すと、頬を染め手を胸に当てたり顔に当てたりと
わたわたし始めたのである。

「おいこら一刀、今のって……お前……こ、こ、告白……?」
「聞い~ちゃった、聞いちゃった!」
「うわっ、蒲公英っ!? 一体何処から!?」

「くふふふ~、良かったねお姉さま、これでお母さんも安心するでしょ」

「何言ってんだ!? 今のは、あれだ! きっと私が暴れるための舞台を整えてくれるとか
 そういった意味で言ったんだ、多分!」 ←正解

「何言ってるの? 話の流れから考えて一刀がお姉さまを欲しいって意味に決まってるじゃん」 ←不正解

「う……やっぱ、そうなのかな……」

「うんうん、たんぽぽも一刀とお姉さまの事を応援してた甲斐があるってものだよ」

「蒲公英……」

自分を落ち着かせる為だろうか。
翠が胸に手を当てて大きく深呼吸を繰り返す。
そんな自身が姉と慕う翠を見て、蒲公英こと馬岱は柔和に微笑んだ。

「さぁ、お姉さま! 一刀と祝言を挙げるためにも、まずは邪魔者の曹操をぶっちめにいこうよっ!」
「あ、ああ、そ、そうだな! よぉーし、見てろ曹操! あたしの正義の槍の餌にしてやるっ!」

翠は乗せられるようにして気炎を上げると、馬首を巡らして一刀の後を追いかけるように駆け出した。
それを見送りつつ、自分も馬に乗ると蒲公英は小悪魔のようにニヤリと笑う。

「作戦成功~、一刀にお願いした甲斐があったね」

戦の前、弱気になる姉を励ましてくれとお願いした蒲公英だったが
面白い方向に話が転がったので、非常に満足げに頷いていたのであった。


翠から一里ほど離れた場所で馬を走らせていた一刀は、気がつけば深い密林の中に居た。

「兄ぃ、これが蜀の奴らから貰った手紙にゃ」
「ありがとう」

一刀は手紙を受け取ると、その中をその場で開く。
挑発とも受け取れる文面を最後まで読むと、苦笑しながら書を戻した。

「何て書いてあったのにゃ?」

「こちらを誘い出す為の招待状だったよ。 蜀としては周囲の足固めとして
 南蛮……この辺の地理は無視できないだろうからね。
 急激に纏まりを見せている俺達を取り込めないかと考えているんだろうな」

挑発した理由は、これで怒って手を出してくれれば良し。
手を出さず招待に応じれば、蜀との国力差を考え萎縮した、と考えることだろう。
どちらにしても、南蛮を手に入れる為の足がかりになると思っている。

書を出した人の名前は諸葛亮孔明とある。
三国志を知る人間ならば、いや、三国志を詳しく知らない人でも知っているだろう。
超有名な三国一の天才からの手紙。

狙いは深く考えなくても、南蛮を征して蜀の力を伸ばそうというものだろう。
南蛮を征することによって交易による国力の増加や、単純に周囲に対しての威嚇、蜀という国の存在感を
知らしめる意味も含んでいるかもしれない。

「美以、こっちも蜀に対して手紙を出そう」

「兄ぃが言うならそうするにゃ。 でもなんて書けばいいのか分からないのにゃ」

「大丈夫、俺が言うとおりに書いてくれればいいから」

蜀の狙いであろう物を頭の中で纏めて、それら全てを文面に興した。
この時の一刀の狙いは幾つかあった。
美以達はこの南蛮を治めているが、一刀が把握している限りで見れば事情は良くない。
自分達の暮らす場所を守りたいだけの美以達に、蜀の介入という余計な物を背負わせたくは無かった。
それを牽制したかったのである。

勿論、三国志に出てくる諸葛亮孔明という天才に、自分の浅知恵が通用するなどとは思っていない。
ようは孔明という天才の“彼”の思惑を、少し外して対応に迷わせる時間を作ればいい。
そう、時間稼ぎが出来れば上出来だった。

「諸葛亮孔明が史実や演義のように聡明ならば、手紙の内容には驚くだろうし、こちらを警戒して出足は鈍るはず。
 蜀が警戒している間に、南蛮の勢力を纏め上げることが出来れば、蜀も手を出すのに多くの躊躇いが生じると思うんだ。
 その時に交渉の場を求めれば、話は悪くない方向に転がるはずだ。
 いっそ、呉へと密使を立てて同盟を組み蜀を警戒させてもいい。 うん、案外といい案かもしれないぞ」

「良く分からないのにゃ」

「はは、美以はそれでいいよ。 さぁ、食事にしようか。
 今日はミケ達がお酒を持ってきてくれたよ」

シャムに手紙を預けて、一刀達は食事を始めた。
この手紙の行く末がどうなるのかを、考えながら……


「元気になぁぁぁぁれぇぇぇぇぇ!!!」


衝撃と共に場面は変わる。


そこは月夜の森の中。
一刀は、背を向けて肩を震わしている金髪ミニドリルの少女に向かって優しく微笑んでいた。
彼女は慟哭を思わせる声色で、願った。

「逝かないで」

胸を打つ。
それでも一刀にはどうしようもなかった。
声を震わせ背を向けて涙を流している彼女に、最後の時まで声をかけることしか出来ないだろう。

「ごめん……でも、もう無理かな」

「一刀……!」


「いかん、気が乱れている。 一度安定したはずなのに……!
 負けるものか……こうなったら、もう一度打ち込むまでだ!
 うぉぉぉぉぉおおお! 気よ高まれぇぇぇ!」


ブラウン管の砂嵐のような視界に覆われ、場面が変わる。


「五湖の連中が攻めてきた!?」

「数は?」

驚くように振り返った先で、星が冷静に伝令から詳細を聞いていた。
険しい面持ちで、朱里と雛里も耳を傾けている。
五湖は数多の部族が集結しており、その数は50万を優に越えているという。
とんでもない大軍であった。

「ようやく、これで民の皆も安心して暮らせる世が作れたと思ったのに……」

「桃香様……」

「桃香……」

「……ご主人様! 戦いましょう! こんな事で我々の夢を崩させる訳にはいきません」

力強い愛紗の目を受けて、一刀はしばし黙考してから頷いた。
どちらにしろ、放っておく訳にもいかない。
相手の狙いは、間違いなくこの大陸を横から浚うことなのだから。

「分かった、桃香や愛紗、朱里達が築き上げたものを、横から奪うような奴らは―――」


変わる。


「麗羽様! 左翼、崩れました!」

「ちょっと一刀さん!? どういうことですの! 早くなんとかしなさいな!」

「大丈夫だよ、麗羽。 左翼はむしろ崩して欲しかったんだ。
 味方に崩れて欲しいって思うのは、ちょっと気分が悪いけれどね……
 あそこに、左翼に居るのは獅子身中の虫、いわば排除したかった連中が居るんだ。
 田豊さん、予定通りでいいよね」

「はい、一刀様。 後曲を動かし、これからはそれを左翼と扱います。
 兵数から考えても問題はないかと」

「どういうことですの?」

「これから相手を優雅に倒すってことだよ、麗羽」

「あらそうでしたの? なら、そういたして下さいな」

余裕のある顔に戻り、取り繕うような形で扇をはためかせ始めた麗羽を見て
一刀は苦笑しながらも微笑んだ。
 

変わる。


「雪蓮……誇り高き王……君の意志を継ぐ子はここにいる。
 ここに居るよ……」

「な、一刀……こらっ、離せバカッ……」

「蓮華……」

「皆、見てるぞ北郷」

「……ごめん、蓮華、冥琳。 つい、感極まって」

「やれやれ―――


「はぁぁぁ!! 一鍼同体! 全力全快!!」



変わる。


「いよいよだな、一刀」

一糸纏わぬ姿ではにかみながら微笑む白蓮。
その横で柔らかに笑みを浮かべて彼女の髪を梳いている一刀。

「ようやく、ようやく最後だ。
 全部終わらせる時が、来たんだな」

「違うよ白蓮、ようやく始まるんだよ。
 終わった後の方が、俺達にとって厳しい戦いになるんだ」

「そうか……そうだったな」

「ああ、きっと、ね」


「必察必治癒!!!」


変わる。


「俺は! 俺はこんなところじゃ死ねない……死にたくない……■■■っ!」


「元気になぁぁあああれぇぇええぇ!」

黄金の光が、視界に広がったような気がした。


      ■ 医者王との出会い


最初に眼に映ったのは、何処かの部屋の天井だった。
重い頭を振り切るように、ゆっくりと左右に首を巡らし、周囲を確認する。
何時だったか、自分がしていたように足元で身体を沈める小柄な身体が視界に映る。

「ねね……」

「ん、起きたか……経過4日目で眼が覚めるとは」

一刀が声の方向に振り向くと、赤毛の青年が水桶を持ちながら見ていた。
凛々しい顔立ちに、白いマントのような物を羽織り、黒い布地の服を着ている。
張るような筋肉は、彼の身体を大きく見せていた。
まだ若い。
殆ど一刀と歳は変わらないだろう。

「えっと、貴方は……」

「俺は華佗。 ゴットヴェイドーを広める為に大陸を歩く流れ医師だ。
 陳宮殿に一刀殿の治療を頼まれて伺ったんだ」

「そうだったのですか、すみません」

「気にしないでくれ、人の病を治すのがゴットヴェイドー、俺の使命だ」

深く頭を下げた一刀に、華佗は苦笑しながら頭を上げるように体で伝えた。
口を開けて寝ている音々音を見て、自身の状態を確認すると一刀は自嘲した。
迷惑ばかりを、この小さな少女にかけてしまっている。

「起こさないでやってくれ。 死ぬほど疲れてる。
 陳宮殿は一刀殿を必死に看病していた。
 寝るときもこの部屋から離れないくらいでな、逆に彼女を心配するくらいだったんだ」

「そうでしたか。 華佗さん、重ねてお礼を」

「なに、気にしなくていい。 それより体の具合はどうだ?」

「もう大丈夫ですよ。 すこし体と頭が重いですけど」

立ち上がろうとした一刀であったが、それは華佗に止められた。
なんでも華佗が最初に一刀を見たときは、手遅れかもしれないと思った程だそうだ。
こうして体が快方に向かっているのは、ある意味奇跡だったとも言っていた。

それを聞いて本体は体を震わせた。
脳内の一刀達が自分の身体をどう動かしたのか。
というか、瀕死になるってどういうことだよ、と。

「あれ?」

「どうした?」

そこで気がつく。
本体は脳内で何時も何かしら話している自分達が沈黙していることに。
自分の脳内に自分達が住み着いてから約3週間。
それまで常に自分を励まして、時にイラつかせ、騒がしかった彼らがみな一様に沈黙していた。

「いや、なんでも……」

「そうか? 身体になにか異常があれば言ってくれ」

「ええ、ありがとうございます、華佗さん」

「それじゃあ、俺は行くから。 今日一日はゆっくりと床についていることだ」

「あの、華佗さん、一つ聞いていいですか?」

「なんだ?」

「俺って、どんな状態になってたんですか?」

その言葉に、華佗は眉をすぼめて難しい顔をした。
言おうか言うまいか、少し悩んでから何かに頷くと、教えてくれた。

「君は上半身と下半身が真逆を向いていて口からは泡が、鼻と眼からは血が吹き出ており
 背骨は砕け、腰が捩れ、筋が断裂し、一目見て8箇所から骨が皮膚を突き破るのが確認できて、内の臓が―――」

「分かった、ありがとう。 もういいや」

「そうか……いや、実際あれは目の当たりにすると、本当に生きて話せるのが不思議なことに思える。
 生命力が強いんだな、一刀殿は」

感心するように褒められたが、一刀は全然嬉しくなかった。
むしろそれほどの重症であった状態をマッハで治した華佗が異常に思えた。
何の補正だよ、と思わず心の中で突っ込んだほどだ。

その後、華佗は今日一日は絶対に何処にも行かずに床の上で安静にすること。
暫くの間、経過の観察をしたいので華佗がこの家に通うこと。
それらを一刀と約束し、他の病人の元へと華佗は出かけていった。

「……皆?」

華佗が出て行ったのを確認してから、本体は脳内の自分達に声をかけてみた。
ところが、やはり自分の脳内から答えが返ってくることはなかった。
この世界に来てから、確かに居た存在が消えた。
一刀は首を捻ったが、ある意味正常に戻ったとも言える。
もしかしたら、華佗は脳内の治療まで行ったのかもしれない。

「いや、そんなまさか。 脳内くちゅくちゅされたとかないない」

この現象やゴットヴェイドーについて深く考えるのはやめて
華佗の持ってきた治療食に手をつけると、忘れるようにしてもう一度床についた。


      ■ 駄目だ


一刀は華佗の診察を受け、意識を取り戻してから3日後。
ようやく外出の許可が下りた。
一刀としては身体に異常らしき異常も無く、自由に動けていたので
床についているのは苦行でしかなかったのだが
実際に治療を受けるよう懇願する華佗と、そして何より音々音を無碍にするわけにもいかず
大人しくしていたのである。

3日間、暇な日々を過ごしていたが、2日目辺りから脳内の彼らが一人、一人と本体に戻ってきていた。
おかげさまで最後の一日は彼らの議論をBGMに出来たので、そこまで暇ではなかった。

本体が知らぬところで、華佗が眉を顰めていたのに本体は気がつかなかった。

とにかく久しぶりの外だ、と一刀は早速家を出ることにした。
後ろから音々音がついてくる。

「そういえば一刀殿。 お礼のことなのですが、相談したいのです」

「お礼? ああ、そうだよなぁ。 華佗にもお礼をしなくちゃ……」

「華佗殿もそうですけど、この家に運んでくれた方にもお礼を言うべきですぞ」

「彼が運んでくれたんじゃないのか?」

話を聞くと、音々音が一刀の死体らしき物を見かけて泣き喚いていた時に
一刀を安静に出来る場所へ運んでくれた候が居るとのことだ。

「あの時は、恥ずかしながらねねも気が動転しておりまして、名を伺うのを怠ってしまいました。
 一刀殿が寝ている間に調べて、ようやく分かったのです」

そう言って音々音は懐から書を取り出した。
書と言っても、大層な物ではなく、どちらかと言えばメモ帳のように乱雑に情報が書かれている物だった。
そして、音々音の口から飛び出した名前には本体も、脳内の一刀達にも驚いた。

「そのお方の名は公孫瓚伯珪殿です」

「公孫瓚!」
『『『白蓮!?』』』
『ああ……あの子か、あの普通の』
『おい、普通とか言うなこら』
『実際、騎馬の扱いは普通なんてレベルじゃないけどな』
『“馬の”が言うと説得力があるな、なんか』
『一度ぶつかったんだよ、その時公孫瓚は曹操のところに居たんだけど』
『興味深いが、その話はとりあえず後だ、後』
『っと、すまん』

「一刀殿は知っておられたのですか?」

「いや、名前くらいはね。 そうか……でも何でそんな地位の人が」

「そうなのです。 問題はそこなのですよ」

ため息を尽きながら音々音は肩を落としたように言い捨てた。
何でも、礼を言うべきだと進言したのはいいが、は公孫瓚は幽州遼西郡の太守である。
現在、洛陽では賊の横行に対する軍議が開かれており、当然ながら公孫瓚も出席していた。
そして、軍議は宮内で行われている。

一般人である一刀も音々音も、宮内にはおいそれと入ることなど出来ないのだ。

「ついでに言えば、一刀殿を襲った不届き者も諸侯の……しかも手を出すことなど不可能な程の大物だったのです」

音々音が調べたところ、一刀を襲ったのは袁紹と袁術であることが分かっている。
実際には彼らに襲われたのではなく、ただの意識群の暴走で自滅しただけだったのだが
憤慨する音々音に、なんとなく本体は真実を告げることが出来なかった。

「そうか、それじゃあお礼を言うのは難しいね」

「しかし、ねねとしては世話になった方に何も言えないのはもどかしいのです。
 なんとか会う方法があれば良いのですが」

「うーん、そうだなぁ……」

本体は顎に手を当てて唸った。
本体が音々音と一緒に過ごして分かった彼女のことだが
責任感が強く、礼儀を重んじる。

一刀を主君と仰いでいるため、臣下の分を越えるようなことは絶対にしない。
しかし、かといって一刀を甘やかすだけではなく、異世界に慣れていない一刀の間違いを見かければ
やんわりと諭して、行動の是非を教えてくれたりもするのだ。

音々音の気質は、実直で素直。
弁では正論を振りかざす音々音は、見る人が見れば頑固者で頭が固いというかもしれない。
柔軟な発想をする人間からすれば、音々音の正論が時に疎ましく思うことだろう。
彼女を一刀が助けた時が、良い例ではないだろうか。

そんな彼女だからこそ、礼を言えないことは心の内にわだかまりが残るのだと一刀は思う。
一刀は、感謝してもしきれない彼女に報える事があれば、それをしてあげたいと思っている。

とりあえず頭を捻って考え出したことは、宮内に身一つで入れないのならば
入っても良い人についていこうと言う物だった。

「よし、じゃあ宮内に入れそうな卸店に就職しよう」

「一刀殿、しかしそれは……」

こういった結論に辿りついた音々音はしかし、顔を顰めてしまった。
一刀の答えを聞くまで、彼女の頭にすら思い浮かばなかったのだが
音々音が言ったことにより、一刀の選択を誘導してしまったのではないかと気付いたからだ。

一刀が悩んだ選択肢に、助言をするのはいい。
しかし、今回は一刀がそういう選択をするように導くような発言を先手で打ったように思ってしまったのである。

「良いんだ、どっちにしろ働く場所で悩んでたら事故にあったんだし。
 それに、卸店で働くことで今の世の実情と経済観念が身につく。
 俺としては、候補にあった就職先のどれを選んでもメリット……良い点しかないんだから、ねねが気にする事はないよ」

「そう言われるのでしたら、良いのですが」

「うん、それじゃあ就職しにいこう」

こうして意気揚々と一刀と音々音は卸店に向かい、店主に話をして
店主から次のお言葉を頂戴したのである。

「駄目だ」

「え? どうして、この前は雇ってくれると……」

「いやな、こっちも人手が欲しかったからよ。
 四日も顔を出さなかったから、こりゃあ他の場所で同業の働き口を見つけたかなと思って
 別の人間を何人か雇っちまったんだよ」

「そ、そうだったのですか……」

「つーことで悪いが駄目だ。 また縁があったら、その時には頼むわ」

仕方なくその場を後にし、別のお店で取り合えず足がかりにしましょうと諭され
飲食店と本屋にも足を運んだが、どちらも似たような理由で却下されてしまった。

肩を落として膝を抱え込み、広場の中央で地面にのの字を書き始めて絶望に覆いつくされた一刀に
音々音は肉まんやら饅頭やらを差し出しては必死に慰めた。


      ■ “気”がそぞろ


洛陽へ訪れてから2週間が経った。
職は未だに見つかっていない。
丁度、一刀たちが洛陽へ訪れた時分が一番、人工の掻き入れ時だったようで
一刀が働いてみようと思える場所は片っ端から断られてしまった。

いよいよ選り好みをする時ではないな、と思いつつ、今日も街の広場でブラブラしている。

変わったことと言えば、診察という名の雑談を華佗がしてくれることだろうか。
むしろ華佗の元で働いてみようかな、と、ある日一刀は思いつく。
現代でも医学に特別興味があったわけではないので、医者としては働けないだろうが
医学の発展した現代から、一刀はやってきているのだ。
助手、いやそれも難しいかも知れないが、栄養食くらいはギリギリ行けそうな気がする。

「華佗、俺をゴットヴェイドーの助手にしてくれ」

「いきなりだな……ふむ、助手か、俺も考えたことがあるんだが」

どうも反応が芳しくない、せっかくの友人に倦厭されるのも嫌なので
スパっと諦めた。

「分かった、すまん、忘れてくれ」

「いや、こちらこそすまない。 人を雇うとなると、お金が必要だろう?
 俺は余り裕福ではないからな……人を雇う責任というものを果たせないかもしれないから」

そうだった、と一刀は頷いた。
華佗はあまり客から金を貰わない。
これはちょっと、驚いたことなのだが、基本的にゴットヴェイドーの医者は儲からないそうだ。
なんでも、医者が人の命を救ったり病魔を払ったりするのは当然のことで
人を助けるのに余分な金銭を分捕ったり、医術を私腹に肥やすために使うのは家畜にも劣る所業だと
言われているらしい。

ゴットヴェイドー。 
考えてみるとドMの人でないと務まらない、と一刀が思うほど過酷な職業だった。

「悪いな、華佗。 俺、断られて良かったかもしれない」

「そうか? まぁ一刀はどちらかというと、助手というよりも患者だからな」

「何を言ってるんだ、もう治ったんだから患者じゃないだろ?」

「……それ、なんだがな」

突然、声を落として華佗は言いにくそうに腕を組む。
ちょっと困ったような顔をしながら、彼は口を開いた。

「一刀の治療が終わって、起きてから数日は、確かに完治した。
 俺もそれは疑っていない」

「なんだよ、俺どこか悪いのか?」

「身体が悪いというわけじゃない、身体の中に在る気が安定していないんだ」

「気……? ゴットヴェイドーで言うところの、気が?」

「ああ」

「そうなのか……」
『気が安定してないだって?』
『どうなんだ、“肉の”』
『うーん、俺が本体の身体で気を練った時は、違和感無かったけれど』
『“馬の”と“白の”はどうだ? 気を使えたんだろ?』
『まぁ、少しはね。 でも俺も違和感は無かったよ』
『俺も無かった。 自然に気を扱えたけどなぁ』
『華佗が間違ってるとか?』
『華佗は名医だ。 それは俺も保障する。 間違ってるとは思えないな』
『じゃあなんで気が安定してないなんて事になるんだよ』
『『『知らんがな』』』

脳内の動揺に耳を傾けつつ、一刀は華佗を仕草で促した。

「治療をしていて気がついた。 一刀は……そう、気が特殊だ」

「人とは違うってことか?」

華佗は頷いた。
その表情は、茶化しているともふざけているとも思えない程真剣だ。
一刀は知らず喉を鳴らした。

「普通、人が持つ気は安定しており、無闇に動いたり騒いだりしない。
 けど、一刀の中に眠る気は少なくても7つ。
 多ければ10を超える気を抱えているんだ。
 一刀が強い生命力に溢れているのも、この事が原因になっているのかもしれないな」

『おい、これ俺達のことじゃないか?』
『あー』
『意識を気として捉えてるってことなのか?』
『ありえない、普通は気は一人に一つの気質しか持ち得ないし意識に宿るなんてことも無い筈だ』
『いや、状況から見ても、これは俺達の事だろう』
『本当かよ、“肉の”』
『ああ、“魏の”が言ったように気というものは原則、一人一つの気質だが、
 実際気質は同一人物でも変化することがある。
 俺達が本体の中に入って気質が変わり、それが幾つもの気として感じることは在り得る話だ』
「原因はお前らかよ、ていうかお前ら病気かよ」

「病気だって? 何の話だ? この辺りに病を患ってる人が居るのか?」

「いや、なんでもないよ。 でも、華佗の心配事が分かったというか……」

まさか目の前の頭の中が病気扱いだったんですよ、などと言えない。
それって、目の前の人の頭の中がおかしいんです=俺って頭おかしいんです。
という公式になりかねない。
華佗、ゴットヴェイドーのことだ、きっと頭に針を刺して来るはずだ。
頭クチュクチュは嫌だ。

「まぁ……とにかく、正直言ってゴトヴェィドーを学んできた俺でもこれは初めての病状でな。
 気を幾つも内包する一刀は、何時その身に異変が起こるのか分からないんだ。
 現状は回復の促進や、たまに漏れる覇気のような気を纏っているから害は無く、むしろ有益なんだが。
 しかし、危険性があることには違いないからな、だから毎日一刀に会いに来ているんだ」

その言葉は本体にとってちょっとショックであった。
友人として会いに来てくれてるのかと思っていたので、何時発症するか分からない患者として
会いに来てくれていたとは思わなかったからである。
まぁ、本体がこう思ってしまうのは仕方ないのだが、どちらかというと
気になる患者だからと心配して毎日見に来てくれる医者が友達ではないという結論にはならないのだが。
ともかく、一刀としてはもっとこう、なんかこう
何時の間に呼び捨てにされてたりしたし、アレだったのである。

とはいえ、知らなかった事実がここで一つ分かったのは嬉しかった。
脳内に居る自分が、自分の身体に良い方向での副作用が働いていることに気がつけた。
デメリットは、頭の中が騒がしいことだろうか。
それにしたって、助言を貰っていたりもするので頭の中から消えてしまえ、と思ったりはしない。
邪魔なことも、多々あるのだが彼らもその辺は理解を示してくれているせいか
許容できる範囲であった。

「そうだ、一刀。 俺も君の目的という物に同行していいだろうか」

「え?」

「俺も根無し草の旅をしている。 患者を求めて。
 一刀も旅の目的は聞いていないが、色々と大陸を回る予定なんだろう?
 別々に行動したら、一刀の中にある気の様子が気になってしまうと思うんだ」

それは、華佗の偽りない内心であった。
気を複数もち、気質が騒いだり揺れたりするのを目の当たりにすると
一刀自身の容態も気に掛かってしまう。
更に一刀の病状は、華佗の短くないゴトヴェイドー暮らしの中で初めて見るものであったのだ。
言い方は悪いが、興味が沸いてしまうのは仕方が無いことだろう。

「まぁ……俺は構わないよ」

「そうか、ありがとう……改めてよろしく、一刀」

「ああ、よろしく、華佗」

お互いに握手を交わすと、華蛇は患者の下に行ってくると言い残し立ち去った。
素晴らしい医者である。
病魔と真正面から向き合い、自らの気を用いて苦しむ人々を無償(に近い)金額で救うのだ。
なんという出来た青年だろうか。

「一方、俺は未だに無職であった」

口に出してみれば、陰鬱な気分が少しは和らぐかと思ったが
別にそんなことは全然なく、むしろ深いため息となって一刀の心は更に沈んでしまった。
余り考えるとよくない方向に行きそうなので、一刀は現状の自分の立場を
首を振って無理やり振り払うと思考を切り替えた。

経緯はともかく、これからは華佗も共に旅をしてくれるというのだ。
気になる患者という立場ではあるが、良き友人にもいずれはなれると思う。
実際、華佗はいい奴だと本体は思っている。
“魏の”や“呉の”、“肉の”も同意してくれていた。

洛陽で、自身の怪我が発端とはいえ、一刀は音々音以外に気の許せる友人が増えたことに
素直に喜ぼうと思ったのであった。


      ■ 脱ニート一刀


華佗と知り合ってから2週間が経過した。
無職である一刀は肩身狭い思いをしながらも、ひたむきに職を探し求めて歩き
ついに運搬業へと就職することができた。
落陽へ訪れて、実に1カ月後の出来事だった。

どうしてこんなに仕事にありつくのに遅れたか、という疑問に答えてくれたのは
意外な事に就職先の店主であった。

一刀としては、働けるなら何処でもいい、働きたい、ねねの脛をかじって暮らしていくのは嫌だ。
せめて音々音に負担をかけなくらいには、自立がしたい。
そんな思いで必死に探しまわっていたのだが
経営者側から見ると、あちらこちらに声を掛けている一刀は
特定の職にこだわらず、働き始めてもすぐに別の職種に目移りしてしまうんじゃないか、と映ったらしい。

実際に、店同士の経営者達にとって、最近の一刀の行動は話題の種の一つとなっており
似たような会話を交わしていたらしい。
同業の店で必死になるのならば自然であり、話題になるようなことは無かったろうが
一刀のようにあっちにふらふら、こっちにふらふらと情熱を振りまく人間はかなり特殊だった。

「そういうわけで、お前をパッと雇って見るのに尻ごみしていた。
 せっかく仕事を仕込んでも、すぐに職を変えるような奴に自分の技を教えたくはないからな」

『『『『なるほど』』』』
「って、お前らも知らなかったのかよ!」
『すまん、俺達は基本的にすぐ、宮仕えに……諸侯に仕える事になったようなもんだから』
『一応、市井の流れとか市場の規模とか、そういうことは考えていたけど』
『俺の時は本体みたいにトラブルなんか無かったし、一発採用だったから……』
『俺もその日の内に働き始めたから、知らなかった』
『まぁ店というよりは自給自足しか出来なかった』

口々に理由を説明されて、本体は呻いた。

「とにかく、雇い入れたからにはしっかりとこなして貰うぞ。
 一ヶ月間、仕事を探し続けたお前さんの根性を見せてくれ」

「はい、一所懸命、頑張らせていただきます」

「おう」

運搬業とは、勿論品物を運搬する仕事だ。
食品、衣服、雑貨や工具、あらゆるものが集積され、出荷されていく。
一刀の仕事は、集積された様々な物品を、指定された箇所に運搬する業務だ。

本格的に仕事が始まり、毎日汗を流す中で、運搬業につけたのは一刀にとっても実のある仕事だと実感し始めた。
この時代、道具を運ぶのは基本的に馬車か馬を使う。
しかし、どちらも無ければ人の手で運ばなくてはならない。
基礎体力、筋力は当然メキメキとついた。
働き始めてから数週間は死ぬほど疲れて、仕事が終われば即睡眠の生活であった。

扱う品物は多岐に渡った。
当然、それらを届ける場所は個人から商店まで幅広かった。
中には、手紙を渡す郵便のような事もしたりもした。
この運搬業務を何度も扱う商店も存在し、そこへ毎日顔を出す一刀の顔は覚えられ
何人かの知り合いや友人を作ることに成功している。

また、商品を運ぶという形態上、一刀はこの世界で扱う道具に詳しくなった。
それは日常品から刀剣などの武器、或いは防具、装飾品や壷などの著好品。
子供のおもちゃから大人のおもちゃまで、ありとあらゆる品物に自らの手で触れることになった。
運搬業の店長から、それらの扱い方、値段、所縁なども聞き出せて
一刀にこの世界の基礎知識を現在進行形で学ばせてくれている。

勿論、人気商品や余り売れない商品もチェックした。
一時はどうなるかと肝を冷やした一刀であったが、総じて結果は満足行く職種に付けたと思えた。

そうして日々を、汗水垂らして過ごす一刀は
ある日の夕方に本屋へ訪れていた。



      ■ アレがアレになってやばいよアレが



「こんばんは、おやっさん」

「おう、北郷じゃねぇか。 どうした」

「どうしたって、ここは本屋でしょ。 本を買いに来たんですよ」

「本を? そっか、意外だな、本を読めるのか北郷は」

「ああ、俺が読むんじゃないんです。 日頃の感謝をこめて、プレゼント……贈り物を上げようと考えて」

「なるほど、あの小っこい嬢ちゃんだな。
 北郷と違って利発そうな子だし、納得だ」

「ちょ、ひでぇ、おやっさん!」

「あっはっはっは、わりぃ、今は客だったな! こりゃ失礼」

この本屋には、運送業の中で何度も足を運んでいる。
店主とは顔見知りだし、一刀が知っている本屋の中では一番質がよく、広い店だった。
そして、店主が言うように、一刀は音々音に日頃の感謝を込めてプレゼントをしてあげようと思ったのだ。
最初の給料から、音々音に贈り物をすることは半ば一刀の中での決定事項だったのである。

「おやっさん、何か良い物は無いですかね?」

「そうだな、あの子頭が良いだろう?」

「ええ、政治や経済、軍学にも精通してます。
 でも、あまり軍学書や経済書は持っていないそうなんで」

「へぇ? そうだったのか?」

この世界の本の価値は、結構微妙な値段であった。
宮仕えならば、それほど苦もなく手に入れることが出来るし
商人ならば、購入するにはちょっと高いという認識であった。
ところが庶民が買おうとすると、ちょっと迂闊には手を出せない値段なのだ。

音々音の所持する本が少ない原因はここだ。
彼女も決して、裕福というわけでは無かった。
基本的に質素な生活であり倹約できる性格と、無駄使いをしない性質のおかげで
音々音も幾つかの本を購入することが出来た。

しかし、何冊も買える程貯蓄があったわけでもなく、また生活を捨ててまで
本を買い求めるような、猪突な性格でもない。
何故か一刀の事になると熱くなってしまい、一刀が驚いてしまうほど反応を示したりするが。

それはともかく、音々音は基本的に公共で読めるように手配された本などで勉強し、暗記して帰ってくるのだ。
彼女が書士達と交友を深めようとするのも、ここが大きな要因の一つとなっている。

「ってわけでさ」

「そっか、関心するなぁ」

「だから、最近入荷したもので、何か良いのは無いかい?」

「そうだな、ちょっと待ってろ」

そう言うと店主は店の奥、本を積み重ねてる部屋へと歩いていく。
一刀は待っている間、手持ち無沙汰を誤魔化すように、カウンターに置かれた本を何気なくめくった。

途端に視界に映る、男女のまぐわい。
丁寧に図解入りで、様々な体位が描き出されて陰とか陽とか、恥部とか剛とか書かれてた。
正直言って、現代で写真に見慣れてる一刀にとってはインパクトこそあったものの
その本の内容はお粗末な出来栄えに見えた。

全然関係ないが、本郷 一刀は高校男児である。
この世界に落とされてから、一度もアレはしていない。
自分とはいえ、自分とは違う意識の自分が何人も居るのだから
そんな全編公開状態、びっくりするほどユートピアな感じでアレとか出来ない。

つまり、異世界3ヶ月目にして飛び込んできた、突然のアレを実感できる物質を脳が処理した時
一刀のアレはアレになった。

「うぉ……やべぇ、こんなところで」
『おいおい、本体、アレがアレになってるじゃないか』
『いくらなんでもこれでアレになるのは悲しいね』
「五月蝿ぇよ」
『いや、しかし気持ちは分かる。 俺も三ヶ月目くらいのときはアレだった』
『ああ……“董の”、お前もか』
『うんうん、一日中アレになってたもんなぁ』
『辛いよな、アレは、何よりアレになると周囲の視線が困るし』
「よし、お前ら、俺の身体を今だけ乗っ取っていい。 こんなアレになって苦しいのは久しぶりで辛い」
『すまん、辞退する』
『『『『俺も』』』』
『アレになるのは一回だけでいいよ、もう』
『ははは、皆やっぱ懲りてるんだな、実際目の前に美少女が勢ぞろいしてるのに堪えるのは
 アレだったもんな』
『本体、諦めた方が良いよ。 それに乗っ取ってもどうせ7秒くらいだけだし』

「ブフォ!」

「わっ、なんだおやっさん!?」

店の奥で、隠れるようにしながら(尻だけは見えている)店主の身体は震えていた。
しばらく咳き込むような笑い声を上げた後、ひょっこりと顔だけだしたおやっさんは
物凄く苦しそうな表情でニンマリと満面な笑顔をしていた。

「……おやっさん」

「ああ、なんだ、ブフッ、すまんすまん。 しょうがないなまったく」

口元に手を寄せて、それでも押さえきれないように息を漏らしながらニヤニヤと微笑みつつ
一冊の本を手に持って一刀の近くへと店主が近づいた。

「何処から見てました?」

「うぉ、やべぇこんなところで、からだな……」

一刀はくだんの艶本を広げた体勢のまま、アレがアレになっている状態で固まっていた。
そんな固まったまま話しかけてくる一刀に、店主は視線を持ってきた本と何度か巡らせる。
そして、ちょっと言いづらそうに聞いてきた。

「こっちにするか?」

「……おやっさん」

「何だ」

「そっちをくれ」

「分かった……なんか、すまん」

こうして一刀は音々音のプレゼントを手に入れた。
当然、艶本ではなく店主の持ってきてくれたお勧めの本である。
その本の表題には、青い文字でこう描かれていた。

“孟徳新書”と。


      ■ 忠誠には報いるところがなんたらかんたら


「か、一刀殿~、申し訳ございませぬ、遅れまし……たぁ」

慌てた様子で音々音が家に飛び込んだが、彼女が部屋を見たときには一刀の姿は既に無かった。

一刀が贈り物を買った日、音々音は書士の知り合い達と酒家で飲み明かして
朝帰りになってしまった。
ぶっちゃけ、途中からペースが上がってしまい酔いつぶれたのである。
気がつけば朝。
既に日が昇り始めており、毎朝一刀の朝食を用意していた音々音は慌てて戻ってきたところであった。

ところが、部屋には誰も居ない。

「うむむぅ、昨日は夕方から一刀殿の顔を見ていないのです。
 居ないというのなら、おそらくは仕事に出かけたのしょうが……」

一刀が運送業について仕事を始めてから、音々音と共に居る時間は格段に減った。
主が精力的に働くのを見て嬉しくはあるのだが、会える時間が少なくなってしまったのは
彼女的にちょっと寂しかったりした。

「ううう、なんたる失態。 ねねは自分を許せそうにないですぞ」

そんな貴重になりつつある主君との会話の時間を、自らの失態で逃した音々音は悔やんだ。
だって、好きなのだ。
一刀と一緒に話す時間が、あの穏やかで心地良い時間が好きになっていたのだ。
日々の活力の糧になりつつあると言っても過言ではない。
こんな気持ちになってしまうのは初めての事で、音々音は戸惑ったのだが
そんな気持ちも一刀と共に過ごしているとどうでも良くなるくらい好きになっていた。

肩を落として、とりあえず自分の朝食を取ろうとダイニングらしき部屋へと向かう音々音。
そして見つける。
引き千切ったようなメモ紙(一刀がメモと呼んでから音々音もそう言っている)が置かれ
そのメモ紙の下に置かれた小奇麗な小包が。

手にとってメモを眺める。
それは、音々音ならば見間違えようも無い。
まだ漢文に慣れていない一刀の、たどたどしい文字の後であった。


『ねねへ。 何時もありがとう。 直接渡したかったけど、仕事の時間になってしまった。
 日頃の感謝を込めて、この本を贈ります。 北郷 一刀』


そのメモを何度か読み直してから、音々音は震える手で小包を手に取った。
中には新品の本が入っている。

それは、今、巷で若い書士を中心に評判になっている兵法書であった。
陳留を収める曹操が、兵書“孫子”を編纂した言う話題の書。
ぶっちゃけ、かなりの高額で、飛ぶように売れている為に入手困難な一品でもあった。
庶民の市場に出回っているのは、稀である。
孟徳新書は孫子を習って13篇に編集されていると噂されており、これはその中の第4篇に当たるようだった。

一刀の贈り物、という一文で、既に音々音の感情は昂ぶっていたが
その内容物は音々音にとって喉から手が出るほど欲しいと思っていた一品が飛び出したのだ。
更に、その贈り主が仕える主、北郷 一刀からの物であると気が付けば
胸に熱い物がこみ上げてくるのを、感情のまま込み上げてくる涙を
音々音は止めることが出来なかった。

「一刀殿……」

自身の瞳から流れる涙で濡れぬよう、音々音は孟徳新書を胸にかき抱き
しばし心を落ち着かせるまで時間を要した。

「きょ、今日は書生との討論はお休みにするのです。
 今日一日は、この本の全てを吸収するために使うべきだと、ねねは思うのです。
 賛成1! 反対0! 可決しましたので決定なのです!」

テンション高めで朝食を掻きこみ、部屋の奥にある書斎へ駆け込むと
音々音は音読しながら孟徳新書を読み始めたのであった。


洛陽での日々は、紆余曲折を交えながら、概ね軌道に乗った一刀と音々音であった。


      ■ 外史終了 ■




[22225] 都・洛陽・巨龍が種馬のテクい愛撫で鳴動してるよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64fa16e3
Date: 2010/11/28 20:16
clear!!      ~都・名族・袁と仲、割れ目の中で四股が捩れるよ編~


clear!!      ~都・洛陽・入念な旗立てであの子の湿地帯がヌッチョレするよ編~


今回の種馬 ⇒   ☆☆☆~都・洛陽・巨龍が種馬のテクい愛撫で鳴動してるよ編~☆☆☆




      ■


その一事、大陸に確かに激震が走った。
別に地震があったわけではない。
単純に、王朝を揺るがすほどの事件が起きたというだけの話だ。

霊帝が倒れたという。

情報の統制はされていた筈だが、どういうわけか霊帝が倒れたという情報は市井にまで流れていた。
明らかに、何物かが意図的に伝えたのだろう。
噂は一日あれば千里を走る。
この激震ともいえる報で確実に大陸は揺れ動き始めたのだ。

漢という国を400年支え続けた巨龍は、腸から不満という名の臓物が飛び散り
亡き崩れようとしていた。
そんな大変な事態、大きく歴史の流れが変化を迎えようとしていた日。
われらが種馬こと北郷 一刀といえば……


      ■ 慣れ始めた日々


霊帝が倒れた、という事件が朝廷を揺るがそうとしていた前日。
一刀は今日も朝早くから軽快な足取りで荷物を持ち、目的地を目指してひたすら走っていた。
洛陽へ訪れてはや4ヶ月。
この世界にも随分馴染んできたな、と自分でも思う。

「おう、今日も元気いいな北郷さん!」

「おはよっ、周おばちゃん!」

「君! ちょっと道を尋ねたいのだが」

「はいはい、何処に用事があるの?」

運搬業を今も続けているのは、自分を拾ってくれた店主への恩を誠意で示すため。
なにより、この仕事は洛陽の道を表通りから裏通りまで完全に把握できる仕事でもあった。
今の会話からも分かるように、街の人たちは随分と自分の顔と名前を覚えてくれたし
職業柄、道案内も大抵の場所ならば案内できるようになった。

とりあえず自立をすることは出来たといえるだろう。

今の本体の目的は幾つかある。
帝を一目見てみること。
ついでに、脳内の自分達の大切な人に出会ってあげること。
最後に管輅という占い師を探すことだ。
この三つが一刀の中での目的となっている。
仕事をこなしながら、毎日とはいかないが少しずつ周辺の地理を調べたり
街の人たちに聞き込みをしながら過ごしていた。

後数ヶ月、一刀はこの洛陽で生活をすることに決めている。
この世界の情勢がどう転ぶのか分からないので、お金があるに越した事はない。
タダで動く物は、人の心と大地だけなのだ。
それ以外で、何が人を動かせるかといえば利とお金である。

旅をするに当たって、路銀は多めに持っていくことに越した事はない。
何か予想外な事故、予想外の事態があっても金があれば大抵解決する、多分。
音々音と華佗との旅になるのだし、二人に迷惑をかけたくもない。

何事も備えあれば憂いなし、なのだ。

まぁ、洛陽宮内に入れれば、脳内一刀の大切な人が一杯いそうなので
入れる方法を探すのが近道なのかな、とも思うのだが一般人が中に入る機会などはそうそう無い。

「今日はここで最後、か」

「北郷! おせぇぞ馬鹿!」

「おやっさん、こんにちは、急いで来たんだよこれでも」

最後にこの本屋へ寄るのは一刀の中での決め事であった。
音々音の為に贈ったプレゼントは非常に喜ばれた。
その喜びようは、微笑ましく、思わず頬が緩んでしまいそうな程であったのだ。

そんな素晴らしい本を選んでくれたおやっさんには、感謝している一刀である。
“董の”や“蜀の”も概ね同意であった。
そして、そんなおやっさんとゆっくり話せるようにと全て仕事が片付いた後に残しているのである。

「まぁいい、ほらこっちに来いよ。 茶と饅頭を用意してあるから」

「何時もご馳走様です」

日常の一コマとなっている、おやっさんとの談笑を楽しんでいると
家のヘリから顔だけ出して、華佗が声をかけてきた。

「ああ、一刀」

「おう、華佗」

「すまん、ちょっと急患が入ってな。 遅れそうなんだ。
 ちょっと先に行って食べててくれ」

「そうなのか、分かったよ」

一刀は華佗の言葉に一つ頷くと、席を立ち上がった。

「おう、なんだ、もう行くのか?」
「悪い、おやっさん。 今日は皆で外で食事を取ろうって話しててさ」
「そっか……外か、残念だな」

実は、音々音や華佗と時間が合った時に一緒に食事した時。
おやっさんの家を借りて食事会を開いたことがあった。
音々音も華佗も、おやっさんとは面識があるので特に問題らしい問題も無く。
結構楽しかったのだが、毎度おやっさんの家を借りるのも悪いだろうと言われて
今回は外で食べるという形にしたのである。

まぁ、他にも理由はあったりするのだが。

「さて、と。 音々音へのお礼、第三弾はあそこだったな」

給料が手に入るたびに、一刀は音々音に何かしら贈り物をしていたのだが
今度は食事に一緒に行くだけでいいのです、と言われてしまったので
洛陽でも庶民が行くところでは高級で美味しい場所を選定しておいた。
おやっさんの家で皆で騒ぐのも考えたけど、それは前述の通り華佗に止められている。

値段的にホイホイ入れる場所でもないので下見もしていない。
どんな店か一刀自身も分かっていないので、多少の不安と期待を胸に抱き
ねね達が気に入ってくれるといいなと思いつつ、一刀は書士で使っている平屋から飛び出した音々音を視界に収め
手を振って答えた。


      ■ シュウマイエロイ


「はうぅ、美味しいのです~」

両手で頬を押さえて舌鼓を打つ音々音。
この日の為に、ピンポイントで音々音の好物を調べてきた甲斐があったというものである。
……まぁ、後で脳内の自分に聞けば良い事に気がついて
一人で悩んでいたのが馬鹿みたいだと思ってしまったけれども。
結局、散々悩んで“無の”が提案したこの店に決定したわけだ。

そんな彼女の好物、その名もシュウマイ。
この店のメニュー表に限って言えば、“金の二重奏”

『やっぱりこの世界の音々音も好きな物は変わらないんだな』

『まぁ、喜んでもらえるなら良かったじゃないか、本体』

「ああ」

「ん? あ、一刀殿も食べてみますか? 頬が落ちそうなほどおいしいですぞ」

「いいよ、音々音が全部食べて。 俺はこっちが残ってるからね」

「そ、それでは遠慮無く全部頂くのです」

それにしても、と本体は思う。
この店のシュウマイはちょっと大きすぎるのではないだろうか。
一刀でも、とても一口では食べきれないサイズである。
しかも、蒸しているはずなのに皮が茶色い。

“金の二重奏”というよりは、茶色い球二つと言った感じだ。
シュウマイだけに包皮の皺が寄っており、男の視点で見るとゴールデンボールを連想させるような形状だった。

ぶっちゃけると、音々音が頬張ってる物がふぐりっぽいのだ。
毛のようなものが生えていたら、店を出て行くレベルである。

(なぁ、この絵面は回避できなかったのか?)
『確かに……ちょっと、なんというかな』
『美味しそうに食べている本人がまったく気がついていないってのが、なんとも』
『おいおい、皆同意したじゃないか。 こうなるってこと分かってただろ』
『いや、シュウマイの形なんて普通気を配ってなんかいないし……』
『おい、“無の”。 一つ聞くが、もしかしてお前……』
『見て楽しめるならいいじゃないか』
(な、お前わざとかっ!?)
『この前のアレがアレになった本体の為にささやかなアレの為の用意をだな
 まぁ、こうなったのは偶然なんだけど』
(余計なお世話だっ!)

そんな風に一人で漫才をしながら、外面では努めて平静を装いつつ
回鍋肉をつつき、口に運んでいるとある人影が一刀達の食卓へと近づいて来るのに気付いた。

「悪い、遅くなったな」
「華佗、お疲れ」
「お疲れ様なのですぞ」

もう一刀と音々音の食事は終わっている。
急いできたのだろうか、華佗の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
上着を脱いで椅子にひっかけると、そのまま滑り込むようにドカっと座る。

「華佗殿の分も分けて取っておいたのです」

「ああ、悪い」

さっそく上蓋を開けて、食事を始めようとした華佗は動きが止まった。
それに気がつかず、一刀と音々音は談笑に耽っている。
少し冷めてしまっているとはいえ、良い匂いが漂っており食欲をそそるソレは
しかし、見た目によって余り食べたく無い物になっていた。

水気を十分に吸い込んでしなびている。
ちょっと萎れた茶色いシュウマイが華佗の眼に飛び込んできていた。

「一刀」
「ん、どうした華佗」
「これはなんだ」
「……シュウマイだ」
「……シュウマイか」
「お二人ともどうしたのですか? 美味しいシュウマイでしたぞ」

結局、華佗は俺と同じ回鍋肉を給仕に頼んでいた。
仕事柄見慣れているとはいえ、食事で見せられて食べれる程ではなかったようだ。
それとなく尋ねてみると、見た目で避けた訳ではないらしい。
一刀の耳まで顔を近づけると、こっそりと呟く。

「音々音の前で食べるのは宜しく無い様な気がして」

さすが医者なだけはある。
まともに連想できるシュウマイを食べるのはいいけど、ねねに遠慮をしていたという事実は
一刀を驚かせた。
男であれば、あのシュウマイを食べることなど出来ない。 少なくとも躊躇うはずである。
恥ずかしながら、一刀にはその配慮は出来なかった。
僕にはとてもできない、などと思いながらシュウマイの話は忘れることにした一刀だった。


      ■ 天は変わらない


宴もたけなわ、というには些か盛り上がりに欠けていたが
仕事が終わってからの食事と酒、そして心許せる友人との会話は素晴らしい物だ。
現代に居た頃ならば、友人との関わりもそこそこに、自分の時間を満喫していただろうが
この世界では娯楽が少ないこともあって、人との触れ合いはとても楽しいものであった。

店を出た頃にはもう、どっぷりと日が暮れて
現代では見られないような星の雨が空を彩っていた。

「はー、食べたなぁー」

「一刀殿、今日はご馳走様でしたなのです!
 今度は音々音の案内でまた皆で食べに行くのです!」

「はっはっは、音々音はここのシュウマイの方が良いんじゃないのか?」

「ここは美味しいですけど、ちょっと高いのです」

「ああ、確かに。 一刀、懐の方は大丈夫なのか?」

「ははは、まぁまた明日から頑張るから良いんだ」

「そうか、なんだか悪いな」

「気にするなよ、華佗」

「音々音の後は華佗が奢る番なのですぞ。 しっかり貯金をするように」

「そうなのか? 初耳だが」

「さっき音々音と話した時に、順番でって決めたんだ」

「何時の間に……」

「華佗殿がシュウマイを眺めていた時ですぞ」

もう大通りも人はまばらだ。
夜に灯す蝋燭の類は、勿体無いからと点けもせずにとっとと眠る人が多い。
実際、夜中に起きてすることなんて特にあるわけでもない。
お酒を親しい人と楽しんだり、熱心な勉強家などが蝋燭を使うくらいだ。

ただ、洛陽は都だけあって、街灯の役割を担うように道の端に火が灯っている。
それでも暗い夜道には違いない。
こんな時間に外に出る人は、犯罪に気をつけなくてはいけない時間帯なのだ。
一刀も、一度荷物をくすねられて犯人を追いかける羽目に陥ったりもしていた。

「少し飲みすぎたかな? 身体が熱い」

「大丈夫ですか、一刀殿」

「少し休憩するか、急ぐ必要もないしな」

一刀達3人は、同じ家で住んでいる。
一刀と音々音は言うに及ばず、華佗も洛陽に家など持って居ない。
音々音の借りた6畳間の部屋二つ分くらいの広さの平屋でお金の節約を兼ねて住んでいるのだ。

ほろ酔いであるからか、妙に気持ちがふわふわとして気持ちが良かった。
いいところに酒が回っているようだ。
街道の脇に設置された長椅子に腰掛けるとヒンヤリとしていて気持ちがいい。

「そういえば、音々音はあんまり酔っていなさそうだな」

「ねねはペースを押さえていましたからね。 二度とあんな失態は……」

「何だって?」

「何でもないのです」

二人の会話を耳だけで聞きつつ、一刀は今一度、星降る空を見上げた。
荒野に突然放り出されて、ずっと流されるまま生きる為だけに駆け抜けてきたが
こんな時間が流れるのならば、この世界も悪い物じゃない。

欲を言えば、音々音も華佗も、この世界の人間でなく現代の人間であり
そしてここが、1,800年前の大陸で無ければなお良かった。

「あー、空は変わらんなー」

「……一刀殿?」
「一刀? どうした?」

仕方の無いことだが、本体はふいに思い出してしまった。
それは今はもう遠くなってしまったような気がする故郷。
夜になればネオンが町を照らして、昼も夜も変わらずに光に溢れ。
自動車やトラックの駆動音が響き、此処では聞けないようなテクノ、ポップな音楽が道を歩けば嫌でも耳に飛び込んで。
そんな本体の強烈な郷愁の感情は、意識を通じて脳の彼らにも響いていた。

「二人とも、俺が天からの御使いだって言ったらどうするー?」
『おいおい、完全に酔っ払ってトリップしてるぞ、本体』
『『『人のことはいえないなー、俺』』』
『俺もこの時期だったかなー……こっちの生活に慣れてきた頃にふっと思い出すんだよね』
『『『あるある』』』
『……俺らも、このまま、なのかな』
『あー……どうなるんだろうねー』
『俺はもう、なんか何とかなるだろって感じで開き直ってるけど』
『おー、そんな感じだよね』
「あっはっは、お前らも苦労してんなー」
『本当になー、何でこんな事になってるんだろうなぁ』
『意識一個に身体が10個とかなら大歓迎なんだけどなー』
『いいなそれ』
『身体が一杯あったら便利だよな、マジで』
『感覚共有とかだったら困るけど』
『アレが出たら全員出るとかな』
『『『『『ハハハハハ、マジ受ける、それ』』』』』
『『『笑えねーだろ、それ』』』
「あっはっはっはっは、でもこれよりはマシじゃん」
『『『ははは、違いない』』』

「音々音、一刀はだいぶ酔ってるみたいだ。
 しょうがないからこのまま運んでいこうか」

「一刀殿ー? な……」

とととっ、と声をかけながら駆け寄った音々音は一刀の顔を覗き込むと
彼は星空を見上げ笑顔で泣いていた。
二の句が続かずに、何度か躊躇いながらも音々音は一刀の袖を握った。
服を引っ張られる感触に、一刀は音々音に顔を向ける。

「ん、ねね?」

「……」

「あれ、あらら、泣いてたんだ俺」

「一刀殿、ねねは信じておりますぞ」

言いながら差しだした布を受け取り、一刀ははにかみながら頬を拭く。
少し恥ずかしさを感じつつ礼を言った。

「ああ、うん、ありがとう、ねね」

「俺も信じるぞ。 天から降りてきた人間なら、あの謎の回復力も気が大量にあるのも納得できる」

「はは、それは喜んでもいいのかな……てか、謎の治癒力を発揮する華佗に言われるとなんだかなぁ」

「ははは、それがゴットヴェイドーだからな。
 よし、一刀、音々音、そろそろ家に帰ろうか……それとも、二人は後で戻るか?」

「どういう意味?」
「華佗殿、一緒に帰ればいいのです」

音々音が唇をすぼめて言った言葉に頷く一刀。
苦笑を漏らして華佗は片手をあげつつ言った。

「はは、それで良いならいいけど」

三人で並んで帰路につこうとした時、大通りの向かい側から一人の中年の男性が駆け寄ってくる。
それが誰かに気がつくと、一刀は驚いたように声をあげた。

「店主?」

「おお、一刀、ここに居たか! すまん、頼みがある!」


      ■ 兆し


運送業の店主と一刀の話は長引きそうであった。
その為、一刀は音々音と華佗に先に帰ってもらうようにして、落ち着ける場所へと移動していく。
見送り、残されるは二つの影。
華佗は音々音から顔を背けて、虚空を見つめながら呟いた。

「残念だったな」

「……別に残念じゃないのです、一刀殿のお仕事の事ですし」

「いやまぁ、言うのも野暮じゃないか」

「弱ちんきゅーキックッ!」

「うおっ、危ないないきなり、何をするんだ」

「避けるなです! 分かってて茶化すなって言ってるのです!」

「肉体言語はやめてくれよ、これでも身体が資本なんだぞ医者は」

「問答無用です!」

二人が通りの真ん中でじゃれあってると、風上から妙な匂いが鼻腔をついた。
その事に気がついたのは華佗であった。
突然、じゃれあいを止めると周囲に首を巡らして鼻をひくつかせる。

「華佗殿?」

「音々音、ちょっと待っててくれ。
 あ、いや先に帰っててもいい。 この匂いは……あっちか」

それだけを言い残すと、音々音に背を向けて歩き出した華佗。
漂ってくる匂いを辿るように、しきりに周囲を確認しながら歩いていく。

「ちょ、ねねを置いていくなです!」

「別にそういうつもりじゃないんだ、あそこに居る三人組だ、見てくれ」

指で指されて華佗の要領の得ない言葉に疑問を抱きつつ、音々音は指し示された方向へ視線を向けた。
そこには確かに三人組の男が、店の前で酒らしき飲み物を酌み交わしつつ談笑していた。
別段、おかしなところは無い。
華佗が何を気にしているのかまったく分からなかった。

「この匂いだけどな、料理の匂いとは別に鼻にツンと来るのが混ざっているだろう?」
「むむ……あ、言われてみればするのです」
「この匂いには嗅ぎ覚えがある」
「まさか、あれだけ食べたのにお腹が減ったですか?」

あきれの混じった声色に、両手を挙げて音々音は尋ねた。
華佗は横目だけで彼女を見るとゆっくりと首を振る。

「俺の考えが正しければ、毒だ」
「毒!?」
「しっ、声が大きいぞ音々音」
「っ……」

慌てて自分の手で自分の口を塞ぐ。
目だけで三人組を追うと、相変わらず何か話しながらも華佗が毒だと言い切った料理を貪っていた。
もし、本当の話ならば即座に食事を中断させるべきである。

「と、止めなくても良いのですか?」
「ああ、ちょっと考えがある。
 あの三人組、最近ゴロツキに多い黄色い布を巻いているだろ」
「確かに、巻いてますけど……」
「心配しなくても、勿論助ける。
 ただ、この毒に使われる原材料は、特別な調合をしない限りは毒性にならない。
 彼らを意図的に殺そうとしている可能性がある」

音々音はそこまで聞いて絶句した。
改めて黄布の三人組を見れば、どうってことのない、何処にでも居そうな男だ。
三人を見ての特徴と言えば中肉中背、チビ、デクと体型三種を揃えていることくらいだろうか。

要人にも名家にも、ましてや宮仕えなどしている人間には到底見えない。
どう高く見積もっても街の土木作業員が精々で、普通に考えても賊っぽい。

そんな彼らを殺そうと毒を盛る人間が居るならば、それは怨恨である可能性が高い。

「と、ねねは思うのですが」
「ああ、俺もそう思ってる。 けどそうなると疑問が残る」
「これ以上何の疑問があるのですか……」
「この毒、高価なんだ。 まず原材料からして高価だからな。
 竹の花も、その材料に含まれると言ったら納得するか?」

竹の花。
開花周期が半世紀以上もかかるという、一生の内に見れれば幸運というくらい普段は見かけない。
それだけ見かけない花だから、多くの人間が咲いていても竹の花だとは気がつかない。
当然、希少価値が高ければそれだけ値段は跳ね上がる。

「そんなもの、手に入れられる人間なんて少数だ。
 怨恨の線が強いが、もしかしたらもっと重大な何かが関わっているかも知れない……」
「うう、目が怖いのですよ、華佗殿」
「……うん、音々音は戻っていた方がいい」
「し、しかし……」
「大丈夫、俺は医者だ。 通りすがりの医者が道端で出会った患者を治しても不自然じゃない」

それまで三人の若者に注視していた華佗の視線が、そこで初めて音々音に向いた。
その眼は強く、帰ったほうがいいと訴えている。
音々音は二度、三度と三人組の様子と華佗を見比べてからゆっくりと頷き
そして徐々に華佗から離れるようにして家へと足を向けた。

先ほどまであった、食後のほんわかとした気持ちは完全に消えうせ酔いもすっかりさめてしまった。

家へと足を向けている間、彼女の心中を占めていたのは
自分の主と、洛陽で出会った医者の無事であった。


      ■ 玉無し訪れ


家に戻った音々音であったが、その中に入ることは出来なかった。
暮らしている平屋の前。
そこに一人の男が居たせいである。
それが隣近所の青年やおっさんであれば、音々音だって躊躇うことなく家の中に入る。
しかし、明らかに自分の家の前で陣取っているのが地位の高い人間だと判別できるならば話は別だ。

しかし、何時までも外に居る訳にもいかない。
音々音は意を決して一歩一歩、確かめるような足取りで家へ向かうと
段々と男の相貌が見えてくる。
黒い髪は長く、髪で髪を縛るという器用な結い方で腰まで伸びている。
歳相応といえばいいのか、顔や手は随分と皺がよっており、少なく見積もっても年齢は50を越えているか。
髭は左右に伸び、髪を含めてそれらは白みを帯び始めている。

「我が家の前で何の用でしょう」
「お待ちしておりました、陳宮殿でございますか」
「は、確かに我が名は陳宮と申します」

ゆっくりと頷く、貴人であろう男性。
そして、音々音へと顔をいきなり寄せて、彼女が咄嗟に距離を取ろうとする前に
口が開いて言葉が耳に飛び込んでくる。

「我が名は段珪。 中常侍の官職を貰い宦官をしております」

それを聞き、眼を見開いて固まる音々音。
出来れば音々音は、そのまま固まってしまって、時も止まればいいのにと心の中で嘆いた。

宦官の段珪。
初老に届こうかという男性はそう自らを名乗った。
宦官とは、簡単に言ってしまうと今日の夕飯で食べたシュウマイのようなアレを捨てた男のことである。
基本的にこの時代の宦官は、権勢を誇っていた。

その理由は、今の漢王朝の腐敗にも直結している。
宦官は自らが大きな権力を掴むと、皇帝を国政から遠ざけるように動き始めたのである。
擁立する帝は幼い事が殆どで、実際に国政を左右するのは宦官であった。
その事実を、現時点で音々音は知る由も無いが、きな臭い動きをしていることは
洛陽の一市民でも噂されていることであった。

さらに、宦官は朝廷でも最高権力者である帝、またはその直系である帝室所縁の家族などに仕える。
ようするに、王様のメイドという訳ではないが、王に仕える執事が大量に居ると考えてもいいだろう。
言ってみれば、宦官とは庶民が官僚になるための手っ取り早い一手であった。

もともと、宦官が権力を持つ理由は、時の権力の頂点である帝に権力を集中させないためであったり
女の性による色欲を遠ざけ、帝が欲に溺れ国政を疎かにしてしまうことを防ぐ役割がある。
宦官が無く、すべての権力が帝に集中してしまえば、帝位の簒奪を目論む輩が後を絶たないというのも大きな理由の一つだ。
絶対の権力は頂点に置きつつ、権力の分散化を図ったのだろう。

とにかく、何が言いたいかと音々音のような一書生が構われることなどまずは無い
滅茶苦茶偉い玉無しのおっさんが、アポイトメント無くして訪れたことになるのだ。

音々音からすれば、その現実は恐怖以外の何物でもなかった。

「い、一体、段珪殿はねね……私に何の―――」
「それはここではお話できませぬ。 ……陳宮殿、よろしければ家をお借りしても?」

視線で自分の家を指され、音々音は頷く以外に選択肢が無かったのである。
今日はおかしい。
夢ならば覚めてくれればいいのに、と心の中で嘆きながら、彼女は宦官・段珪を家へと招いた。


      ■ 壷の陰から人違い


「えっと……ここを通るのか」

店主から貰った地図と睨めっこしながら一刀は王宮の城壁沿いに移動している。
洛陽の街では殆どの場所を仕事柄、把握できていたと思っていたがいやはや。
まだまだ知らぬ場所はあるものだと、ある意味で感心しながら一刀は夜の洛陽を歩いていた。

人が入りそうな程の大き目の壷、良く分からない桐の箱数点。
他にも大小さまざまな荷物が乱雑に台車に置かれ、それを引き歩く。
これらは、もともとは予定に無かった仕事だった。

飛び入りで頼まれ、通常の5倍ほどの金額を支払われ、更に城には既に話が通っているとなれば
店主に断る術は持ち得なかったらしい。
きな臭さがあるので、断るのならばそれでも構わないとも言ってくれた。
ただ、飛び入りで入ってきただけに店主も役員の皆様も、別の商家との会談が予定されており
運ぶ物はあっても運べる人間が居なかった。

急遽、店主の頭によぎったのが、まだ仕事を始めて間もない一刀だったというわけだ。
一刀としては、自分に職をくれ熱心に仕事を説明してくれる店主の頼みを
断るには忍びなく、最終的には首を縦に振ったのである。

表通りの城門とは違い、随分と小ぢんまりとした門の前で、兵士に物を届けに来た旨を伝える。
門兵は何度か頷いて、仕草で先を促し、それに従って門を潜った。
話が通っているという話は真のようだ。

本体、脳内共に、店主に話を貰ったときは余り気が進まなかった。
店主がきな臭い、と言ってたことからも原因は言わなくても分かるだろう。

『もしかしたら、何かの陰謀かと思ったけど話は一応とはいえ、ちゃんと通ってるみたいだな』
『考え過ぎだったかな』
『“無の”と“白の”は疑り深いな』
『当たり前の用心かと思うのだけど』
『まぁな……こんな時代だし』
『警戒だけはしておいた方が良い』
『“肉の”もそう思ってるのか、店主の人柄を考えれば余計な心配だと俺は思うんだけど』
『夜中、飛び込みの依頼、この時期の洛陽の城の中に物を運ぶって条件だけで疑うには十分だろ』
『“袁の”“仲の”なんかはほら、宮内に想い人が居るから』

とはいえ、ある意味で一刀にとっては好機であったのも事実だ。
今までは王城の中に入れる隙間すら無かったし入ろうとも思わなかった。
もしもこの城の中で知人が出来れば、それを伝手に今後の王城内の事情を窺い知れるかもしれない。
諸候の動きや、帝の動きを知ることができるかも知れない。
更に、その伝手が脳内の一刀達にとって大切な人であるのならば言う事はない。

『今、城の中に居るのって誰がいるんだ?』
『この前馬騰さんが洛陽を出たよね』
『公孫瓚も』
(公孫瓚が居れば、礼を言えたかも知れないんだけどなぁ)
『多分異民族絡みで帰ったんだろうな』
『ああ、白蓮のところは隣接してるし』
『馬騰さんところ似たような理由かな、“馬の”』
『たぶんね』
『えーっと、居るのは劉表、麗羽、美羽あたりかな?』
『孫堅さんまたこっちに戻ってきてたでしょ、確か』
『そうなの?』
『そういえば、この前酒家でそんな話してた人が居たね』
『昼間なら良かったのになー』
『期待してるぞ本体』
「期待されてもなぁ……物を届けるだけだし」

と、まぁこういうわけだ。
可能性は無いわけではないが、諸侯の誰かに会えるのはかなり難しいとも思う。 夜中だし。
それでも、こうして王城に出向く機会を貰えれば期待してしまうのも仕方が無かった。

地図は、宮内ではなく城内の敷地のある蔵を指し示していた。
屋内に入ると、運んできた物と同じような壷が並んでおり、雑多に道具が置かれていた。
この辺に降ろしておけばいいのだろう。

「こっちの扉は、何に通じてるんだろ」
『あー多分、本宮に向かう渡り廊下のような場所だったような』
『えーっと、確かそうだったかな』
「ふーん……」

脳の自分と他愛の無い雑談をしていると、ちょうど荷降ろしをしている一刀の横合いからぬぅっと人影が伸びた。
誰も居ないと思っていた一刀は、驚き飛ぶようにして咄嗟に間合いを取る。
そこには一人の男が淀んだ眼を向けて一刀を見ていた。

「ふん、随分と遅かったな」
「は……え?」
「まぁいい、例の物は持ってきたのだろうな?
 天和ちゃんの使用済み生下着は」

一刀は固まった。


      ■ 俺が……俺が……


いい年こいたおっさんが誰かの―――女性の生下着を求めてきたのは物凄いインパクトであった。
それも一刀が固まった理由の一つではあるのだが、一刀にしてみれば突然と現れた男性。
明らかに高い地位を持つ者であることが見て分かる。

この城の中に居る者は、大抵、肉体労働に従事している一般庶民よりは地位が高いが
それでも彼の地位の高さは着ている服を含めて考えて、かなりの物ではないかと思う。
何より、最初に眼を引く淀んだ眼光が、剣呑な物を感じさせて固まってしまったのである。

そんな一刀を無視して、男は話を進める。

「いや、私が使うという訳ではなく、私の息子がな。
 まったく嘆かわしい世だ。 生下着などただの布じゃろうて」

顔を背けながらその顔にある髭をこねくり回して語る地位の高そうな人。
ぶっちゃけ、言い訳にしか聞こえなかった。

『あ、本体、呆けてるところ悪いが、こいつが誰なのか聞いた方がいんじゃないか』
『あ、ああ、そうだな、それがいい』
『さすが洛陽の中央だな、初っ端から思考停止させる話術を繰り出してくるなんて』

本体が再起動したのは、脳内の彼らが騒ぎ始めてからだった。
とりあえず、この人は盛大な人違いをしていることは想像がついた。

「えーっと、貴方は?」
「ん……? なんだ貴様、私を疑っているのか? 案外と用心深いな。
 我が名は徐奉。 小帝の宦官をしているものだ」
「徐奉殿……宦官……息子?」
「息子は養子だ。 これで私が誰かは分かっただろう」

一刀はとりあえず頭の中で必死に情報を検索しながら頷いておいた。
宦官なのに息子が居る、ということに一瞬頭の容量を割いたが、脳内の大部分は“宦官の徐奉”という
情報の検索を行っている。
が、一向にピンと来ない。
そもそも、あんまり宦官の名を覚えていない一刀である。
せいぜい知っていて曹操の祖父である曹騰、十常侍筆頭として名のある張譲くらいのものだ。

『うさん臭い展開になってきたな』
『……宦官か』
『あまり係りたくないね』

「まだ疑うというのならば内々に応じた者を書にしたためてある。
 それを譲ってやっても良いが、物々交換に頷いたのは貴様だろう?」

黙ったまま突っ立っている一刀に顎鬚を弄りつつ、何処か芝居かかった声色で
つまらなそうにそう言った徐奉。
そこで一刀はようやくピンと来た。
内々に応じた者という言葉を聞いて、心当たりのある逸話を思い出したのだ。

(これって、もしかして黄巾の乱のきっかけの一つになった逸話じゃないか?)
『なんだ、それ、俺は知らない』
『そうなのか?』
『心当たりが無いな……』
(俺の勘違いかな……)
『少なくとも、俺達が経験した黄巾の乱は賊が横行している時分に
 アイドル達の“歌で大陸を取る”発言を勘違いした暴徒が暴れるというのが原因だったんだ』
(なんだそれ、ありえん)
『うん、そうなんだけど、事実なんだよな』
『うんうん』
『けど、良く考えてみれば張角や張宝達の歌だけが原因っておかしいね』
『確かに、こういう裏で手を回していた奴も居たのかもな……』
『そう、かもな……』

「……まさか、物を持ってきて無いのではないだろうな?」

徐奉の言葉のトーンが急激に落ちる。
何も言わない一刀に業を煮やしたのか、或いは様子が可笑しい事に気がついたのか。
その眼はやはり淀んで暗く、睨みつけるように一刀を眺めている。

「あの、俺は……」

「私が取り次がなければ、貴様のような賊が蜂起する手立てはないぞ?
 なんならば、私が密告して貴様らの企みを暴露してやってもいい。
 そうなれば、馬元義。 お前の死は免れぬだろうな」

ゴトリ、と一刀の運んできた壷が揺れたような気がした。
そんなことにはまったく気がつかない一刀と、脅しをかけている徐奉。
突然、人違いで生死に関わる勘違いをされそうである一刀はテンパッた。
嫌な汗が、背中を伝っていく。

ただ一つだけ、ベラベラと勝手に喋ってくれたおかげで確信出来た事実がある。
本体の知識で“馬元義”という存在は知っている。
馬元義という男は黄巾の乱の一斉蜂起の時、内と外で洛陽を攻めようとした
張角の腹心、という立場だったはずだ。
そんな男の名を呼んだ、目の前の宦官は恐らく、馬元義と内通している。
本体は脳のどこかで、警鐘が鳴り響くのを聞いた気がした。

「いや、俺は―――」

「うん……? まさかお前は馬元義ではないのか?
 そうであればどちらにしろ死は免れぬが……どうなのだ、何か言ってみたらどうだ」

一歩、一歩と歩き近づいてくる徐奉の後ろに、黒いオーラのようなものを幻視した一刀は
押されるようにして後ずさりした。
いえ、人違いですよ、で危機を乗り越えようとした一刀は、先にその手を封じられて窮した。

窮した一刀はただ、自身の命を守るために咄嗟に口に出た。
出てしまった。

「お、俺は……俺が……俺が馬元義だ!」
『『『『『『『『ブハッ』』』』』』』』』

北郷一刀=馬元義が誕生した瞬間であった。
壷がガタリと、揺れた気がした。


      ■ 俺俺! 俺だよ、馬元義だよ、馬元義


「ほう、それにしては随分と動揺していた気がするがな」

「……俺は人見知りで口下手なんだ」

「そんな話は聞いていなかったが……まぁいい」

「悪かった、徐奉殿。 荷物はここに乗っていた物で全部だよ」

馬元義を勢いで騙った一刀は、もうどうにでもなれという勢いで会話を連ねた。
この中に“天和ちゃんの使用済み生下着”があるのかどうかなど知らないが、とりあえず調べてくれれば時間を稼げる。
その間にとっととトンズラして、何も知らなかった事にしよう、と考えていた。
脳内も同意した。

この場所を離れてしまえば、徐奉が密会の類であるこの事実を吹聴することなど無いだろう。
つまり、この場さえ切り抜ければ身の安全は完全とは言えないまでも保障されると思われた。
後は、問題が起こる前に洛陽をできるだけ早く出て行けばいい。

「そうか、この中か。 それを早く言え」

一転、剣呑な雰囲気など最初から無かったと言わんばかりに嬉々として一刀の横にある荷物を物色し始める徐奉。
やっぱり息子云々は言い訳なのだろう。
探し物をする徐奉の顔は真剣でありながらもにやけたものであった。

(今のうちに逃げれないかな)
『奴が背を向けた時に、左側にある壷を隠れ蓑にして移動することを提案する』
『『『概ね賛成』』』
『奥の板間を過ぎたら、走って逃げるのがいいかも』

そろり、そろりと忍び足で離れる一刀。
壷の中身を改めようと手を伸ばした徐奉が、ついに背を向けた。

『今だっ』
「よしっ」

「なっ! おい、これは如何いう事か!?」

小声で応じて、一刀が去ろうとその瞬間、徐奉の鋭い声が響いた。
一刀は額から汗を伝わせながら、徐奉へと振り向く。

「貴様は誰だ、答えよ!」
「俺は……俺は馬元義」

一刀が持ってきた壷の中を覗きながら徐奉の問いに答えたのは、一刀とは別の野太い声であった。
ぬるりと壷から身体を出した、三人目の人物は頭に黄色い布をバンダナのように巻いた細身の男であった。
歳は若い、一刀とそうは変わらないだろう。
しかし、その顔は目つき鋭く、あさ黒い肌は野蛮なイメージを抱かせている。

「俺が馬元義だ。 そいつは違う」
「な、なんだと……?」

驚きつつ一刀の方へゆっくりと振り向く徐奉。
馬元義と名乗った男は、鋭い目を一刀に向けていた。

『あれって、壷の中に人間が入ってたのに驚いたのか、それとも馬元義が二人居ることに驚いたのか、どっちだと思う?』
『“南の”、今そんな場合じゃないと思う』
『本体、ここは押し切るしかない。 下手に及び腰になったら逆効果だ!』
『いざって時は、俺達がなんとかしてやる』

逃げるタイミングを逸した一刀は、脳内の自分の声援に頷いた。
動揺を隠すようにして意を決して口を開く。

「ちょっと待て、お前は何時から壷の中に居たんだ、何処まで俺達の話を知っている」
「なんだと……俺の名を騙るだけでは飽き足らず、謀るか貴様!」
「どういうことだ、貴様ら、どっちが本物の馬元義だ!?」
「俺が馬元義だ!」
「ふざけるな! 俺が馬元義だ!」
「さ、叫ぶな! あまり大きな声では外に漏れてしまうではないか、馬鹿どもが!」
「徐奉殿、俺がここへ荷物を運んできた。 俺が馬元義であることは疑いようが無いだろう、この男は何時の間にか壺へ入っていたのだ」
「奴はただの運送屋だ。 大事にあたり、慎重になって無関係の人間を経由して王宮に乗り込むのは当然だ。
 徐奉殿が勘違いしてその男と話始めるものだから、出るに出れなかった。
 この事実こそが、俺が馬元義であることの証左だ」
「むむむ……どちらも筋が通る話に聞こえるが」
「「何がむむむだ、俺が馬元義だ!」」

どちらの馬元義も、一歩も引かなかった。
一刀は自分の命がかかっている。 
ここで徐奉に密告されれば運送屋で真実を知りませんでした、なんて言い訳が通じるとは思えない。
何故ならば、この密会は黄巾の乱勃発に直結することを知識として知っているからだ。
もはや此処までくれば、後には引けなかった。
馬元義と名乗ったことですら、かなりのリスクを背負っているのだが。

一方で馬元義(本物)も引かない。
引く理由がないのだから当然だ。
もともと、ここには乱を起こすときに朝廷内部と繋がり、内と外で一斉に蜂起する段取りを組むために
今回の密会を仕掛けたのである。
それこそ、裏からあの手この手でようやく成った密会である。
こんなふざけた出来事で全てを不意にすることなどできはしない。

徐奉は二人の馬元義を名乗る者達に混乱していた。
どちらも言い分には納得できる部分があり、事が事だけに信じられないからと言って両方を処断するわけにも行かない。
口では一刀を脅していた徐奉であったが、黄巾党と通じる事を決意した時に
既に退く道は無いと覚悟しきっていたのだ。
今の漢王朝に背くのだ、覚悟無しでこうした内応など、いくら金を積まれたといっても早々できようはずが無かった。
だからこそ困る。
どちらかが馬元義であることは間違いないだろうが、この事を知らない誰かに知られたという事実が困るのだ。

ただ、三人に共通していることは、自分の命に直結することで
ややこしい問題になってしまったという現実であった。


      ■ 馬元義が・・(てんてん)


徐奉は思いついた。
馬元義ならば“天和ちゃんの使用済み生下着”を持っているはずである。
自分がこの密会に是を返す決め手となった徐奉にとっての超重要アイテムだ。

「……とりあえず、取引を進めてしまおう。
 生下着を渡してもらおうか」

この徐奉の声にいち早く意図を見破り反応したのは“董の”一刀だ。
言外に含まれた意味を察したのである。

『本体、奴の狙いは下着を持っているのが馬元義だ、と特定することだ』
『あ、そうか。 俺も“董の”の意見はあっていると思う』
『よし、うやむやにしてしまえっ!』

脳内に急かされた一刀は馬元義(本物)が余計なことを言う前に咄嗟に口を開いた。

「その荷物の中に入っている」
「ほう」
「……ちっ!」

馬元義から舌打ちが聞こえてくる。
半分、賭けのようなものであったのだが功を奏したようであった。
綱渡りすぎて、本体は自棄になって叫びそうになるのを必死で堪え、冷静さを保とうとしていた。
息が詰まって、呼吸が荒ぶる。

「……この桐の箱だ」
「おおっ……これが……」

先手を打たれた馬元義は苦々しくそう言った。
大切そうに桐の箱を抱えて、徐奉は中身を確認すると頷いた。
内心では、どっちが本物の馬元義か分からん、と毒つきながら。
まぁ、目的の物を手に入れて嬉しいことは嬉しい徐奉であった。

「この蜂起、手伝ってくれると見ていいのだろうな」

馬元義が言った。
彼の狙いは、何も知らない一刀ならば、自身の計画した乱の詳細は知らないだろうという狙いだ。
これでボロが出れば問題ない、即座に殺して血祭りにあげるだけだ。
第一、黄巾党の幹部くらいしか知らないはずなのだから出るはずだ、という思惑を乗せて。
徐奉に向けて言ったその言葉には、それだけの含みを乗せていたのだ。
しかし、息の詰まるような展開に流されている本体一刀はともかく
脳内の彼らはすぐに気が付いた。

『分かった、馬元義は俺達が黄巾の乱を知らないと思ってる』
『ああ、それで本体がボロを出すのを期待してるんだな』
『本体、こう言ってやれ、いいか―――』
(そうか、よし……)

二度、三度、頭の中で言うべきことを纏めると、徐奉が馬元義に頷いてるところに言葉をかぶせる。

「お、俺達、黄巾党は内外で一斉に蜂起する手はずだ。 大陸全土で発生する蜂起にあわせて洛陽も襲撃する。
 特に、ここ洛陽を制圧することは大事だ。 徐奉殿の手にかかってる」

「言われなくとも分かっておるわ。 ここに内応に応じる官を書してある。 持って行くといい」

そう言い捨てて徐奉は一刀に密書を手渡した。
徐奉はもう、多分両方とも同じ黄巾の賊であり、陣営がちょっと違うだけだろうと思いこんだ。
判断がつかないのだから、仕方のないことではあるのだが。

密書を受け取った一刀がチラっと覗くと、馬元義が歯をギリギリと噛みつつ一刀を睨んでいた。
何故、徐奉は俺の方に密書を渡すんだよ、などと考えながらも
とりあえず場の雰囲気に合わせて一刀は密書を懐へしまいこんだ。

「う……うわあああぁぁぁ!」

密書を手にして、馬元義が口を開こうとした刹那。
響く悲鳴のような声と物音、走り去るような地を駆ける音が響いた。
後姿から、まだ幼い少年の背と思われた。
外に飛び出した三人が、一瞬、建物の影に隠れた少年を視界に移す。

「見られていたのか!」
「いかん、事が漏れた! 追いかけるぞ!」
「余計な手間を! 馬元義と……ええぃ、もう両方とも馬元義でいいわ! どうせ同じ黄巾の賊だろう!?
 おぬしら二人は外から追え! 私は言いふらされぬよう中に戻る!」

漏れた秘密を抹消するために駆け出す馬元義と一刀。
一刀にとっても、自分が黄巾党と誤解されるのは嫌だし、防がなくてはならい。
そそくさと宮廷に続く扉を開け放ち中へと戻る徐奉。
駆け出した馬元義が、徐奉の姿が消えるのと殆ど同時に一刀へと腕を奮った。
きらめく銀の光。
瞬時に上体を反らして凶刃をかわす。

『そうくると思った!』
『“馬の”ナイス!』
「っ、あぶねぇ!?」
「ちぃ!」

『やっぱこうなるよな』
『手っ取り早くいこうぜ、“肉の”」
「頼んだ、みんな!」

「何をブツブツと言ってやがる、運送屋風情が大事を乱しやがって、死ねぇっ!」
「悪いけど、殺されるつもりはない、俺も、俺達も」

身体の主導権を“肉の”に譲り、馬元義と一刀は交差する。
激昂と共に馬元義が奮ったナイフのような刃は、一刀に届くことは無かった。
それどころか、人差し指と薬指で馬元義の思い切り振りかぶった刀を受け止めていたのである。
目を剥いて驚愕する馬元義。

「な、なんだとっ!?」
「おいたは駄目よんっ!」
「ガハッ!?」

膨れ上がった一刀の右腕が、深々と馬元義の助へめりこんで短い悲鳴と共に吹き飛んだ。
二回、三回、四回とぶざまに地を転げてようやく止まる。

本体は、ただのボディーブローが初めて人を吹き飛ばす威力を秘めれる事実に気が付いた。
動かなくなった馬元義を見て、“肉の”の意思が離れ、戻ってきた身体の感覚に本体が思わず自分の手を眺める。
右腕に残る肉厚を叩き骨を砕いた感触が、酷い違和感を伝えていた。

『行こう、本体。 暫くは気絶してる』
『今の内に彼に追いついて、事情を説明しないと』
「あ、ああ、分かってる」

「ま……て……」

走り出した一刀の背を、馬元義は混濁した意識の中でその目に映していた。


      ■ 道枝は数多、場に滞り難し


結果から言うと、一刀は逃げた少年を捕まえることは出来なかった。
何処からか、賊が侵入したという声だけが飛んでくるのを探している中で耳にしていた。
適当な柱の陰で身を潜めつつ、一刀は脳内会議を開いていた。

「……どうしよう、どうすればいいかな」
『なにかあるか?』
『とりあえず、一つ確実なことは、このまま逃げ出しても洛陽にはもう居られないってことだ』

その通りだ。
自分で招いた種とはいえ仕方ない、で片付く問題では無くなってしまった。
目の前の死を避ける為に黄巾の人間、幹部の名を騙ってしまったのだ。
このまま家に戻っても、音々音や華佗に迷惑しかかけない。
逃げる、という選択をするのなら彼らとは別れなくてはいけないだろう。

『あ、思いついた』
『“呉の”、なにかあるのか?』
「今よりマシになるのなら、もう何でもいいよ」

投げやりな本体を尻目に、“呉の”は今後のプランを提案した。
まず、取れる選択肢は少なかった。
一つは先ほどの通り、今すぐ家に帰って私物をまとめ、旅の準備をして
誰にも何も言わずに一人旅に戻ること。
しかし、逃げることを選んだ場合、この先ずっと犯罪者―――黄巾の乱を煽った人間というレッテルを貼られるリスクを伴った。

二つ目は黄巾の乱で、本当に朝廷を奪う事だ。
大陸はともかく、洛陽だけならば本気で奪える可能性はある。
内と外で混乱を助長させ、帝を保護して政治腐敗の直接の原因である宦官を主導で排除。
その後、時期を見計らって黄巾の中枢から離脱してしまえば、後追いは困難になるだろうし
諸候も簒奪された朝廷に目を奪われて、個人のマークは薄くなるだろう。

しかし、現実問題、この方法を選ぶには多くの難があるし
本体含めて脳内も、諸候を敵に回すことなどしたくはなかった。
自ら率先して、人を殺そうという考えなのだ。
何より、この場合は音々音まで後ろにくっ付いてきそうで怖い。
これはあくまで、一刀が巻き込まれた問題なのだ。
彼女を巻き込むなんて選択肢が出てはいけない。

というわけでこれは相談するまでもなく却下となった。

三つ目は、諸候でもいい、誰でもいいから権力のある人間に事実を話して
一刀が此処に居たことを忘れるまで、或いは居なくなるまで匿ってくれる人を探すことであった。
華佗や音々音にも全てを話し、しばらく黙ってもらうよう口裏を合わせて貰えれば
この危地を乗り越えることは不可能ではないと言えた。
が、ここにも問題は残る。
諸候が自ら好んで爆弾を抱え込もうとするか、という話である。

彼らに自分を匿うことで利となる確固たる物を諭さなければ、その身を売られて終わりだろう。
一番手っ取り早いのは、明らかに武将としても戦えそうな“肉の”で武を示すことだ。
脳内の一刀達も“肉の”の実力は有名武将と比べて遜色ないように映っていた。
そして、それは事実だった。

『どうする?』
『……』

幾つかの道を提示された本体は、段々と騒ぎが大きくなっている声から逃げるように
こそこそと草葉の陰に隠れて移動していた。
現代で言えばもう、10時を超える時刻。
この世界では深夜といって差し支えない時間であった。
洛陽の宮中で、意図せず大きな選択を迫られることになった一刀は
不安を胸に抱え、月を見上げた。

そして、一刀は数分後、とある宮中のある一室に飛び込んだ。
一刀はそこで、突然の来訪に目を瞬かせて驚き、振り返す一人の少女を視界に映した。



この世界に訪れた北郷 一刀にとって、忘れられぬ一夜の始まりであった。




    ■ 外史終了 ■





[22225] 都・洛陽・先走り汁を抑えきれずに黄色いのが飛び出たよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64fa16e3
Date: 2011/01/05 03:13
clear!!         ~都・洛陽・入念な旗立てであの子の湿地帯がヌッチョレするよ編~


clear!!         ~都・洛陽・巨龍が種馬のテクい愛撫で鳴動してるよ編~


今回の種馬 ⇒   ☆☆☆~都・洛陽・先走り汁を抑えきれずに黄色いのが飛び出たよ編~☆☆☆




      ■ 王の血との出会い



一刀は部屋に飛び込んだ瞬間、振り返った少女と眼が合った。
一人でその部屋に居た少女は、突然の来訪者に驚いたのか、後ずさり一刀から距離を取る。

「だ、誰です!?」

「あ、すみません、突然」

とりあえず謝ってみる日本人的思考を経て、一刀は改めて少女を見た。
整えられた前髪が揺れて、耳からたらりと垂らした長い髪が胸元まで伸びていた。
結っている為に分からないが、髪はだいぶ長いと思われる。
形容しがたい帽子を被っており、帽子の先には数珠のような物がヒラヒラと繋がれていた。
よく見れば、それは宝石にも見える。

顔立ちはまだ幼さを残して、やや釣りあがった眼をこちらに向けていた。
出会い頭だったせいか、会った瞬間は成人かと思ったが、全体像を改めてみると
自分よりも3~4は年下の少女だと気がついた。

地位は高そうだ。

「夜分にいきなりで申し訳ない。 俺は北郷 一刀。
 やむを得ない事情により、この部屋の中に入れさせてもらいました」

「偽名ですか、北郷 一刀などという名は珍しいを通り越して胡散臭く聞こえます。 
 真実の名を名乗りなさい」

「えっと……ごめん、そう言われても本当にこの名しか持っていません」

「……それで、何をしにこの部屋へ入りましたか」

彼女の声は毅然とした中ではっきりと分かるほど震えていた。
ふと見れば、両手を胸に当てて震える声を出した少女は眼に確かな不安をたたえていた。
見知らぬ人間が、いきなり部屋に入ってくれば驚きもするだろうし
少女なのだから男が入ってくれば恐れるのも無理はないだろう。
無害をアピールしつつ、一刀は少女の問いに答える前に、確認しなければいけないことがあった。

彼女の名だ。

一刀は自分の身を保護してもらわなくてはならない。
その為に、彼女が誰なのかというのを知らなければならなかった。
脳内の自分が騒がなかったところから、恐らくは諸侯でも余り名の通ってない人間だろうと思いながら。
彼の理想としては、この時期でも発言力が強く、軍事力、国力が高い候であることだった。

「それをお話する前に、お名前を聞かせてもらっても宜しいでしょうか」

一刀が尋ねると、少女は何度かためらったようだが、やがて短く名を告げた。

「劉協」

「……今、なんと?」

「我が名は劉協だと言った」

劉協。
後漢で最後の皇帝となった者で、献帝と呼ばれたその人の一生は傀儡の人生であったと言えよう。
幼い頃は宦官による権力抗争の道具に、時の帝である帝が無くなれば小帝と帝位を争う種に使われ、後に董卓に保護され擁立されるものの
実権は董卓が握り締めており、傀儡のままであった。
それが終われば曹操に拾われて、同じように政治的な道具となって良いように使われ
そのまま物語的にはフェードアウトしてしまう存在。
それが劉協という者の人生だった。

一刀は彼女の正体を知るや、慌てて頭を下げ膝をつく。
知らなかったとはいえ、冷や汗が出てしまうのを止められなかった。
時の皇帝の直系を相手に、無断で部屋へ入り込むとは。
地位的には申し分ないが、守ってもらうにはちょっと困る人に当たってしまったと一刀は一人ごちた。
それにしても皇帝に繋がる血統が、こんな場所に居るとは俄かに信じられない。
いや、まぁここは洛陽で、その宮内で、王城の中な訳なのだが。

「えっと、マジで劉協様? あの帝様のむすこ……じゃなくて娘さん?」

「そうだ。 それで北郷はどうやって此処まで来たのだ
 此処は宮内でも離宮にあたるし禁裏でもあるのだぞ」

「は、はい、それはちょっとややこしい話なのですが……」

確かに一刀は騒ぎの中心から離れるように移動していたが、まさか此処が離宮で
禁裏の場所であるとは思いもしなかった。
そんな事実を知ると、ますます変な緊張が増していく。

一方、頭を垂れたことに少女は安心したのか、やや語気に勢いを増して
改めて一刀へ向かう。
どこから説明したものか、と考えた一刀であったが懐に感じた違和感にハッとする。
徐奉が手渡してくれた、この懐にある密書こそ一刀が掴んだ黄巾党と朝廷の決定的な癒着の証拠である。

「劉協様、誰にも口外しないことを約束してください」

「なに?」

「そうでなければ、この話は出来ません」

「……」

自分でも言ってて何を偉そうに、と思う一刀であったが
この密書は言わば、自分の抱え込んだ爆弾だ。
更に言えば一刀よりも幼い少女である劉協に、大人の汚い部分を呈してもいいのかという自己偽善的な考えも頭に過った。
ここで首を横に振るのならばいい、すぐにでもこの部屋に入った事を詫びて出ていく方が
一刀にとっても、劉協にとっても良いだろう。
自分の中でそう折り合いをつけると、一刀は劉協と名乗った少女と目を合わせた。
僅かに瞑目して静かに問う。

「……それは、先ほどから宮内が騒がしいことと関係があるものなのですね?」

「はい」

確認するように尋ねられ、一刀が是を返すと彼女はゆっくりと頷いて
はっきりと、逡巡すら見せずにこう言った。

「聞きましょう」

その姿は幼くとも、確かに人の上に立つ気概を持った者であった。
突然現れた異性の不審者を追いだすでもなく、叫ぶでもなく
しっかりと相手の言葉の意図を察そうとして、その内容に耳を傾けようとすることは
普通の一般市民の少女では出来ないことだろう。

まぁ、もしかしたら危機感が欠如しているのかもしれないが。

ともかく、彼にとって何よりも優先されるのは、既に賊として勘違いされている一刀の立場を
庇護してくれるほど権力のあるお方に潜り込むこと。
一刀は密書を取り出して、徐奉と馬元義の密会が会った事を劉協へ説明した。

一刀が自分の保身の為に、多くの人間を生贄に捧げたことに気が付いたのは
彼女へ全てを説明し終えた後であった。


      ■ 場違いな再会


事情を話し終えた一刀は、劉協に勧められて座った高級そうな椅子に腰かけて
彼女の裁定を待っていた。
机に置かれた密書が、一刀の話を裏付けるように鎮座している。

そこに書かれた内容は、蜂起する日時、蜂起にあたって内応する人間の名が多く連ねてある。
この密書、漢王朝への直接の反乱を如実に示す物でありながらも、裏を読めば
漢王朝に対して、決起すべきだと不満を抱えている者達の証書とも言えた。

一刀は自分の命が秤にかけられていることから、必死に劉協へと自身の説明をしていたが
彼女はそんな一刀の言葉を聞きながらも、別の事を考えていた。
すなわち、これだけの人間が内応しようとするほどに、漢王朝に不信と不満が募っているのだと、危機感を抱いたのだ。

「この密書に書かれている者が、全員そうなのですか?」

「それは分かりません。 受け取ったのはこれだけです。
 まだあるのかも知れませんが、それは徐奉殿に聞かなければ分からないでしょう」

「そうですか」

対面に座った劉協の手が、硬く握られ、もう一方の手で押さえるように包みこんでいた。
険しい顔をして黙りこむ劉協。
一刀は不安げな様子で彼女の顔色を伺っていた。

「――してきたことは、無駄であったと言うのでしょうか……」
「え?」

細く小さい声で呟いたそれは、一刀の耳には殆ど届かなかった。
それきり俯いて黙ってしまった劉協に、一刀も踏み込んで聞いてもいいものかと悩んで
室内はしばし沈黙がおりた。
それを切り裂いたのは、何かを振り切るようにして首を振って口を開いた劉協であった。

「分かりました。 この事は父様に私から直接お話いたします。
 貴方の安全は私が保証いたしましょう」

「は、ありがとうございます。 劉協様」

「事前に反乱の大事を見破ったことになるのです。
 感謝こそすれ、礼を言われる必要はありません、北郷」

「はい、しかし私としては命が助かったと同じ事に変わりはありません」

「では、その礼は受け取っておきましょう」

丁度話の区切りがついた時、室内に響く木の乾いた音が二度鳴った。
ノックをしてから扉を開いて現れたのは、髪の長い初老の男性と
一刀も良く知る少女の姿であった。

「ねね!?」
「か、一刀殿!?」

思いがけない場所で思いもよらない知人と出会った二人だった。


      ■ 段珪という男


一刀と音々音が出会った直後、驚き目を丸くする二人を尻目に劉協と段珪の間で視線が交わった。
どういうことかを問うような視線に、段珪は短く首を振った。
二人のやり取りに気付かないまま、一刀と音々音の会話が続く。

「ど、どうしてねねが此処に? 家に戻ったんじゃなかったのか?」

「一刀殿こそ、どうして此処に? 仕事があったのでは無いのですか?」

恐らく素であろう二人の反応に、劉協は一刀が虚偽を述べていた訳でないことを確信する。


「どうやら知己の者であるようだな、北郷」

「貴方は陳宮殿と共に暮らしている北郷殿でございますね」

「あ、はい。 えーっと、その通りです」

「申し遅れました。 我が名は段珪。 劉協様の宦官として働かせてもらっております」

「あ、宜しくお願いします」

「りゅ、劉協様……?」

段珪は一刀の事を知っているようであった。
と、いうのも、音々音がこの場所に召されたのには劉協の意向が大きな理由の一つになっているからだった。 


お互いが簡単に自己紹介を交わし、目の前に居るのが献帝である劉協と知ると
音々音は一刀と同様に慌てて頭を垂れてしどろもどろになりながら
拝謁賜り光栄のキワミだとかなんだとか口にしていた。


一方で、段珪は此処に一刀が居るということに疑問を抱いていたようだ。
劉協と引き合わせるために彼女の周辺を調べていた彼は、同じ家に住む北郷 一刀と華佗の二人の事を知っていた。
目的となる人物ではないため、そこまで詳細には調べてはいない。
華佗が最近市井で名高い医者であることには多少の興味を抱いたものの
一刀は一般人以外の何物でもなく、彼の中では特に重要な存在でなかったのだ。
何故、彼がここに居るのかは彼も分からない。

それを尋ねた段珪に答えたのは、劉協であった。

「段珪、これを見よ」

「……これは、なんでしょうか?」

「最近、世で噂されている賊との内応を示す書だそうだ。
 内応の密会に偶然居合わせてしまった北郷がこれを手に入れて私の部屋へと転がり込んできた」

「それは……なんとも」

おおよその事情をそれで把握したのだろう。
段珪はなんともいえないような顔で眉を顰めて書を眺めると、その後に軽いため息を吐き出して
一刀の方へと身体を向けた。

「災難でしたな」

「は、はぁ……そうですね」

「おおよその事情は分かりました。 まずはそれを置いておき、陳宮殿とお話を進めさせてもらおうかと思います。
 こちらから夜分に呼び出したのです。 礼を失する訳にはいきませぬ」

「あ、いえ、どうぞお構いなくなのです……」

「それは、俺も一緒に聞いてもいいものですか?」

居づらそうに小さくなっている音々音を見て、一刀は劉協へと尋ねた。
劉協は少し考えてから頷いた。

「はい、構いません。 段珪、よろしいですね?」

「は。 此処に生きて彼が居るということは、そういうことなのでしょう」

「ええ、そういうことです」

二人の短いやり取りの後、劉協は語った。
音々音を此処へと呼び出した理由。
そして、そこに至った経緯を。


      ■  彼女の事情


簡単に纏めると、劉協という少女は聡明で確固たる芯が通った少女であった。
生まれながらに人として上に立つ者として教えられ、またそれを実践するに足る能力もあるのだろう。
時代が時代ならば、名君として君臨したかもしれない。

まぁ、その時代が大問題だったわけだが。

彼女の父は、劉宏という漢王朝第12代皇帝である。
劉宏は、二十歳になる前に皇帝へと即位すると、国政には殆ど携わらなかった。
周囲の意見に頷いたり、たまに自分の考えを述べてもやんわりと断られて仕方ないと諦めたりしてしまっていた。
政治というものから作為的に遠ざけられていたのだ。

理由は当然、宦官が実権を握り続ける為である。

こうした、宦官が皇帝を傀儡として扱ってきたのは劉宏を帝に仰いでから始まった訳ではない。
それこそ、今の帝が生まれてくるよりももっと前の時代から腐敗はゆっくりと始まっていた。

だからこそ、劉宏は今の自分が暗愚であると自覚できない。
生まれた時から、これでいい、それが当然だ、と教え込まれてきたのだ。
帝が何かを考え伝える度に、不利になりそうな事は宦官達が握りつぶしてきたのだ。
それこそ仕方が無いと言えるのではないのだろうか。

そして劉協には兄も居る。
自分よりも、2~3年上であり、次代の皇帝は彼であると言われている。
今でこそ女性の権力者は増えてきていたが、代々皇帝として君臨するのは男だと取り決められており
少女である劉協が皇帝として成る道は最初から無い。
そんな次期皇帝で劉協の兄の名を弁小帝といった。

「弁兄様も、父様と同じようにして育てられていると聞いています。
 恐らくは今の世がどういう状況であるのかすら分かっていないでしょう。
 私はこの悪循環を何とか出来ない物かと、日々考えて暮らしておりました」


彼女の身の上話が続いた後、ようやく本題と思われる話にさしかかった。
実際、劉協は自分たち朝廷の考えと、民草の願う想いが余りに掛け離れてる事を知ってから
父である帝や兄である劉弁にそうした会話を多く投げかけ関心を呼ぼうと苦心したり
宦官の十常侍の中でも権威を誇る張譲や趙忠を筆頭に、個別に会う時間を取って
国政についての考えを聞いたり、意見を交わしてきた。

短くない時間を割いて行ったそれらの努力は、しかし報われることはなかった。
終いには小賢しくうろついている彼女を倦厭するような空気が出来上がってしまい
宦官の間での不和の遠因となっている、との言に帝が頷いてしまったのである。


そして彼女は離宮であり禁裏であるこの場所に爪弾きされるかのように部屋を移されたという。

やがて、劉協は漢王朝に不満を抱く賊が世に横行し始めたことを知る事になる。
国民の不満がダイレクトに反映されていることに気がついて、劉協は焦りを感じた。
『帝』として人を導く存在である彼女達が為さねばならない事。
それを放棄し続けた結果が、最悪の形となって現れようとしているのだ。


劉協は強く思った。
帝を利用し、私欲に走る官を排除しなければ漢王朝に未来は来ないだろう、と。
どれだけの言葉を尽くしても、改善する兆しが無いのならば排するしか無い、と。
しかし、今の劉協の立場は、皇帝に直接繋がる血を持ちながらも
宮内で振るえる力は何も持ちえていなかった。

「……それは、力を持つということですか」


話の隙間に、一刀は思わず言葉を漏らした。
劉協の話したことは、ある意味で危険な言葉であった。
今の帝、朝廷は役に立たない、次期皇帝にも期待できない、私が力で持って正そうと思う。
そう言っているに等しいのだ。

身内であろうと、こんな発言は危険すぎて口に出して言うことなんて普通は出来ないだろう。
今、帝が倒れれば、彼女はこのまま権力争いの渦中に自ら飛び込んでいきそうでもある。

「そうだ、私は父様も兄様も愛しているし、勿論私を生んでくれた母様も育ててくれた乳母様も好きだ。
 そして、私がこうして生きていられる血を作ってくれる民草は何より大事だと思っている。
 それらを本当に守るためには、力が必要なのだということを知ったのだ」

「それが音々音を呼んだ理由なのだとしたら、もしかして劉協様は」

「智を持つ者が欲しい。 今の私の現状を変えられる程の智を持つ者だ。
 宮内で信用できる人間は、残念ながら居ない。
 諸侯を頼るのは、弱さを見せている漢室が良いように利用されてしまうのではないかという危惧がある。
 民草で智に秀でる者を選ぶしかなかった」


劉協の言葉に、隣で黙って話を聞いていた段珪も頷いた。
確かに、陳宮といえば三国志でも智者として名高い。
段珪の人物眼は間違っては居ないのだろう。


「そ、そんな……ね、ねねはまだ未熟も未熟です
 劉協様のお役に立てられるような自信はまったく無いです……」


顔面蒼白と言った様子で言葉を連ねる音々音。
そこに一刀も口を出した。


「ねねは確かに頭が良いですし、そこら辺の書士と比べれば一つ飛びぬけて居ます。
 しかし、如何にねねが優秀だからといっても、一人だけじゃ何も出来ませんよ。
 そもそも、失礼かも知れませんが劉協様の立場を考えるに目的を果たすのは難しいです」


「そんな事は言われずとも分かっています。
 だからと言って諦めてしまえば漢王朝はそう遠くない内に滅んでしまう。
 漢が倒れたその後に待っているのは、恐らく権力を争う為に大陸全土を巻き込む未曾有の乱。
 それに気付いているのに、何もせず甘んじていることなど、私には出来ない」


「それは……」


うぅむと唸る一刀。
彼女の立場と現状を考えても、その思考は納得できるが選んだ道は無謀でもある。
劉協が立つには、些か遅かったのだ。
それは皮肉にも、黄巾の一斉蜂起が間近い証左となった密書が
三国志を知っている一刀に物証となって教えてくれているのだった。


「陳宮、貴女の智を漢王朝を正す為に使ってほしい」

「ね、ねねは……」

「……今の世、そして今後に訪れる世の中を考えて答えて欲しいのです」


それを聞いて、音々音は一刀の顔を見た。
彼は音々音の方を見ずに、深刻な顔をして腕を組んでいる。
まるで、何かを考えるかのように。

正直言えば、音々音の脳の中でも劉協が動くには遅いと判断していたのだ。
それに加えて、状況が悪いなんてどころではない。
本来味方でなくてはいけないはずの宮内の人間が信用できないという時点で相当まずい。

一刀とは違い、三国志の未来など分かる訳でもない音々音だが
それでも彼女の考えていることが、そしてその目的を達するのが如何に難しいのかを
利発な彼女の脳みそは冷静に判断していた。


だからこそ、困る。


音々音は漢王朝に仕える国民で、漢王朝でも帝室の流れを汲む劉協が自ら音々音への協力を求めているのだ。
これに断ることは、すなわち漢王朝に対しての不義理であり、してはならない事でもある。
漢王朝に住む一人の人間として、力を貸してくれ、と頼まれているのだ。
一刀を主に戴いているから、という理由などまったくもって意味をなさない程の出来事。
それは、漢王朝というものがどれだけの権威と勢威誇っていたのかを裏付けていると言えよう。

一刀と漢王朝。
比べるべくも無い筈のその選択に、音々音は板ばさみにあって答えに窮してしまったのである。

いつの間にか室内は、空気の詰まるような沈黙に包まれていた。


      ■ 第13回 北郷 一刀 リアル脳内会議


そこまでの話を聞いて、脳内が騒ぎ始めた事に一刀は気がついた。
劉協と音々音の話を耳だけで聞きながら、彼は自分の助けを借りようと
脳内一刀達の話に意識を割いた。

『道は無い』
『どういうことだ? “呉の”』
『そのまんまの意味だ。 俺達が選べる道は、実質劉協に付いて行くことだけしか出来ない』
『確かに、そうだな』
(どうしてだ)
『ああ、そっか……俺もわかった。 確かに“呉の”が言うとおりだ』
『説明するよ。 まず細かいところを省いて纏めてしまえば
 本体も、ねねも……特にねねは、今この場においては劉協の話に頷くしかない。
 何故ならば、劉協がこの話をした時点で、俺達は知ってはいけない物を知ってしまったからだ』

“白の”の言葉に“呉の”が続く。

『ついでに言えば、段珪という宦官の男も聞いている。
 下手に断れば、本体は黄巾党の一員として内応の冤罪を被せられ、殺される可能性が高い』

『なるほど……けどさ、劉協様についていくとして、彼女の話は実現できるのか?』
(俺の知っている三国志の通りに進むのなら、まず無理だと思う)
『無理だろうな……本体が言う歴史通りになるとは限らないが
 蜂起の切欠となった朝廷と黄巾党の癒着が決定的になった時点で
 漢王朝を立て直すなんてことは難しい』
『そっか……それでも劉協様は諦めないんだろうね』
『だろうな……』


彼女の言葉には熱が篭っている。
最初に語りだした時と、最後の方では天と地ほど言葉に込められた感情に差があった。
困難であることなど、利発な彼女は気付いているだろう。
それでも、その決意は固い。


『えーっとさ、ちょっといいかな』
『“袁の”、遠慮することないよ。 今は知恵を絞る時だしね』
『うん、どうせ劉協さんところで世話になるんだったら、いっそのこと先を考えようよ』
『どういうことだ?』
『俺って麗羽に仕えてたから良く分かるんだけど、権力者に気に入られるってことは
 生きる上で物凄い助けになるんだって事を知ってるんだ。
 宦官は頼れない、劉協に力は無い。 それなら他の力のある人に頼るしかないでしょ?』
『諸侯に漢王朝を立て直してくれと頼むのか?』
『それは劉協様の言う通り、ちょっと利用されそうで怖くない?
 トカゲの尻尾切りみたいな形でさ』
『月……董卓なんかは逆に利用されて尻尾切りされちゃってたけど』
『うん、だから諸侯じゃなくて、帝にね』
『『『『『帝?』』』』』
『そうそう、だって漢王朝で一番権力があるのって、形骸化しているとはいえ帝でしょ?
 宦官のやっていることを真似しろって訳じゃないけどさ』
『そうか、帝なら信用さえ得られれば大きな助けになるかもね』
『それで上手く劉協や音々音を危険から遠ざけるように動ければ文句は無いな』
(けど……それもやっぱり危険はあるよね……)
『本体、もう事が此処に至れば危険しか無いと思ったほうがいい』
『そうだ、天の御使い名乗れないかな』
『玉璽を無くしてなければ、上手い具合に帝に近付く第一歩になったのにね』
『無い袖触れないんだから、そこは忘れようよ』


“袁の”の一言を切っ掛けに次々と話が進み、脳内一刀達が下した結論は
劉協を足がかりにして、帝に近づき気に入られよう、という物になった。


ただ、頼まれた品物を届けに城へ入っただけなのに、意図しない方向へ
ゴロゴロと、まるで坂を転げ始めた雪玉が、雪だるまを作るが如く転がった展開に
本体は深いため息を吐き出しながらも、脳内の一刀達の意見に従うことにした。


どうかこれ以上、ややこしい方向に話が進まないようにと切に願った本体であった。


      ■ 遠回りな本音


結局、一刀と音々音は劉協の協力してくれとのお誘いに是を返した。
夜も更けにふけて、現代で言えば深夜2時とか3時とか、そのくらいの時間なんじゃないだろうかと
一刀は一人、窓から覗ける空を見つめて嘆息した。

協力を申し出た一刀達は、劉協が今どのような現状であるのかを細部まで確認するために
話を聞いているところなのである。

休憩の意を伝えて、一刀が飛び込んだ部屋の奥にある劉協の寝室らしき場所を借りて
脳内の一刀達とも相談をしつつ、休んでいるところであった。
そこに、乾いた木の音が響いて、ややあって扉を開き段珪が中へと入ってきた。

「段珪さんも休憩ですか」

「はい、劉協様の寝室に入る訳にはと断ったのですが無理やり取らされてしまいました」

「はは、でも長い話になってますからね、休憩は取ったほうがいいですよ」

「同じことを言われてしまいましたよ」

一刀は窓際から離れて、段珪がテーブルへついた対面に、椅子を引き寄せて座った。
この段珪という宦官は、厭味なところも何も無く、ただただ劉協に仕えているという印象である。
際どい劉協の話に参加させて貰っているのだ。
それなりに有能で彼女の信頼も厚いのだろう。

「北郷殿には、振って沸いたような災難になってしまいましたね」

段珪が口を開いて、言ったその言葉に一刀は頭を捻った。
災難、と呼んだのだ。
確かに、黄巾の内応の現場に居合わせたことは災難であったが
その後の劉協の話が災難であると言われたとするならば、それは段珪がこの話は良くない物と感じている事になる。

「ええ、しかし災難とは。 劉協様のお考えは漢王朝の現状を憂う立派な物と思いますが」

「そうですね……北郷殿は、この話をどのように考えておりますか。
 率直な意見をお聞かせください」

「率直な意見、ですか」

初老に達したと思われる段珪が目を細めて一刀を観察していた。
果たして、これは一体なんなのだろうか。
一刀は、もしかして試されてるのかな、とも思ったが、率直な意見を言えと言われたのだ。
素直に思ったことを言おうと考え、口にした。

「志はともかくとして、無謀だと思いました。
 こう言っては不敬になるかもしれませんが、劉協様の望みは恐らく果たされないだろうと考えます」

「なるほど、私と同じ考えで安心致しました」

「安心ですか……」

「はい、ああ、勘違いしないでください。
 別に劉協様に反意があるわけでも、何か妙な考えを起こしている訳でもございません。
 ただ、後事を託すに足る者なのかを知りたかったのです」


これまた妙な話に転がりそうな段珪の物言いに、流石の一刀も顔に嫌な物を浮かべてしまう。
ただでさえ異常な一夜であるというのに、これ以上事件が起きたら
脳内の自分達に願って窓から飛び出して脱走してしまう自信があった。


「北郷殿には、劉協様を支えてあげて欲しいと思っているのです。
 劉協様のお傍に仕える宦官は今や私一人。 幼い頃から傍務めをしている者も一人、また一人と離れていく始末。
 ずっと成長を見守ってきた劉協様は私に取って、言わば我が子とも言える存在でございます」

「そうだったのですか……それならば、なおさら此度の件は心配でしょう」

「はい。 何度か考え直すようにも進言したのですが、漢王朝に関わる物なので
 こればかりはどうにも諭すことが出来ませんでした」

これは何を期待されているのだろう、と一刀は頷きながら思っていた。
言っている事は実によく理解できるのだが、つい数時間前までただの一般人であった一刀に
この様な彼の内事を話すのは些か不自然に思えた。

だから、一刀は段珪の腹に含んだものをこの際聞いてしまおうと考えた。
これから先、劉協を支える言わば仲間内の一人になるのだ。
変に警戒したり、されたりしていても気持ちが良いことではないだろう。

「それで、結局何が言いたいのでしょう。
 突然、そのようなことを話されても、俺にはなんとも……」

「そうですか、思ったよりもやはり聡い。 では、包み隠さずに教えましょう。 
 北郷一刀殿。 私の変わりに劉協殿を支えてやって下さいませんか」

「代わり、とは? 勿論、劉協様の話を聞いて、それに頷いた訳ですから協力はします。
 しかし、まるでその言い方では段珪殿は支えないと言ってるように聞こえるのですが」

「はい、その通りです。 私はこの話に関して今後は傍観を決め込むつもりでございます。
 明らかに私の分水領をはみだしておりますので」

「そんな……」

突然の宣言に、一刀は驚愕した。
今まで、段珪が支えていた劉協を、先ほど自らが彼女を指して我が子のようと言った彼が
この話については一切協力をしないと断言したのである。

理由は察せる。
彼女の無謀に付き合って、身の破滅に結びつきたくはないのだろう。

「劉協様にも既に話を通しております。 だから、これから劉協様を支える
 一刀殿には話をしておこうと思い、こちらへ参りました」

「段珪さん、それは俺や音々音に厄介ごとを押し付けていると思ってもいいんですね」

「はい。 私の代わりが見つかるまでは劉協様を支えるとの約束でした。
 今回の件は、私にとっても渡りの船でしたからな」

頬を擦りながらそう言った段珪は、淡々としており感情は読めなかった。
一刀はそんな彼の言葉をしっかりと理解すると同時に、怒りの念情が湧き上がってくる。
これだけ堂々と厄介ごとを押し付けました、と言えるのもある意味で潔いのかも知れないが
子供の頃から面倒を見ていた劉協を簡単に切るという行動にも薄情な物を感じてしまう。

「俺も音々音も、断れないことが分かったからって事ですね」

「付け加えますと、劉協様を支えるに足る智も持ち合わしていると分かったからですな」

「保身の為に、簡単に一緒に居続けた人を捨てれるんですね、貴方は」

やはり、感情を乱すことなく頷く段珪を見て、ついに一刀は嫌悪を隠さずに言い捨てた。
それは痛烈な皮肉となって、一刀に返って来ることになった。


「はい、北郷殿と同じく命が大切でございます。
 その為には連ねた縁を切ることも出来ますし、誰かに取り入る事も出来ます。
 しかし、私も人であり畜生では無いと思っております。
 劉協様の考えが誰かに漏れる事は私からは無いと約束いたしましょう」


「……」


一刀は段珪の言葉に言い返す事が出来なかった。
少し前の話になるが、一刀は徐奉と馬元義の死を知ることになった。
詳細は分からないが、あの会話を聞いていたと思われる少年の話から内応していたのがバレてそうなったのだろう。
そして、一刀は劉協に事情を説明し、爆弾である彼を受け入れてくれた彼女に守られてこうして生きている。
恐らく、今後もあの密書に名が挙がった人物は処されるであろう。
状況が許さなかったとはいえ、一刀も多くの人を贄として捧げ、生きる為の庇護を得たのである。


「北郷殿。 貴方の怒りは正しい物です。 それを私は受け入れましょう。
 劉協様には生きて欲しいですし、影ながら応援もしております。
 私は全てを知ってなお、貴方を捧げて利用します」


「そうですか、分かりました……」

「ご納得いただけて嬉しゅうございます」

「一つ聞かせてください。 どうして劉協様を切ってまで生きようとするのですか」

そこで初めて、段珪はやんわりと微笑を称えた。
その笑顔には温かみがあり、一転して人情を思わせる確かな表情であった。

「私は宦官に上がる前に、息子を一人、天より授かっております。
 今は私の郷里に住んでおり、私も近いうちに居をそちらへ構えようと思っているんです」

「ああ……そう、ですか」


子と共に暮らすため、大方そんな理由なのかも知れない。
一刀はなんとも言えないモヤモヤとした気持ちを押さえ込んで
段珪から逃げるように寝室を飛び出した。

しばらく、微笑みながら一刀が飛び出した扉を見つめていた段珪は
深いため息を吐いて、テーブルに載る茶をカップに注ぐと、それを飲み干した。


      ■ ペロ……これは、青酸カリ!


結局、徹夜になってしまった。
今はもう陽が上り、洛陽の雄大な城の輪郭を徐々に映し出し始めている。
街の人々も、夜明け前からチラホラと通りを行き来し始めて、朝を迎えて街が息づくのが
離宮であるここからでもしっかりと眺めることが出来た。

劉協は昨夜、あれだけの熱弁を奮い続けて疲れてしまったのか、今は寝室で眠っている。
部屋に居るのは、音々音と一刀だけであった。

段珪のはからいで、朝食を手配して持ってきたものを二人で頂こうとしている所だ。
流石に宮内で奮われる料理なだけに、普段は食べられないような高級な物がずらりと並んでいたが
一刀も音々音も、不思議と食欲は沸かなかった。

普段は他愛の無いことを話して雑談に耽る一刀たちであったが今日の朝食は特に静かだった。
いざ食事を始めようとした時に、その沈黙は破られた。

「一刀殿」

「ねね、どうした?」

「華佗殿が居ない朝食は、久しぶりすぎて変な感じなのです」

「……そうだね」


それだけ言って、一刀はふと気付く。
自分のことだけで精一杯だったのですっかり忘れていたのだが
華佗はどうしているのだろう、と。

それを尋ねようと口を開く前に、食器を置いてその手元を見つめ続ける音々音に気がつく。
一刀も同じようにスープを掬ったレンゲを戻した。

「どうしたの?」

「一刀殿……ねねは、断れなかったのです」

「うん、それは俺もだよ」

「ねねは一刀殿を主に戴いたのに……」

「余り気にしなくてもいいよ。 これはねねのせいじゃないんだから」


むしろ、音々音の実力を知っていた一刀にも、原因があるのではないかと思うのだ。
この洛陽という場所では、滞在期間が4ヶ月にも及んでいる。
陳宮という者が持つ優秀な頭脳は、見る人が見れば4ヶ月といわずに数日で理解できるだろう。

有能な者を見れば、誘いたくなるというのが上に立つ者の性だ。
実際、彼女は自分のところで働かないかと誘われているところを何度も一刀は見ている。
あの人材に貪欲な曹操も動くほどの逸材なのだから、段珪が音々音に目を付けるのも
ある意味で当然の流れであったかも知れなかった。


「これからどうなるか分からないけど、とりあえず一緒に劉協様を支えてみよう。
 きっと、俺は音々音に頼る事が多くなるだろうけど、フォロー……補佐してくれれば嬉しい」

「そ、それは当然なのです」

「うん、俺も音々音が困ってる時に手伝える事があれば支えるからさ」

「は……はい、あの、その時はよろしくなのです」

「うん、こちらこそ、よろしく」

そこでようやく、沈んだ顔を上げて音々音は薄く笑った。
釣られて一刀も微笑んだ。
昨日の夜から、笑い方を忘れてしまったかのように感じていた一刀だったが
こうして親しい人と笑いあえる内は、まだ大丈夫だ、と一人、自分を励ましていた。


食事をしようと料理に目を向ける。
先ほどまで余り美味しそうに見えなかったご馳走が打って変わって美味しそうに見えた。

(気の持ちよう、ってことなのかな、何事も)
「あっ……一刀殿!」

レンゲを皿に突っ込んで、口を開いた直後に自分を呼ぶ声が耳朶を撃ち
何故か音々音が物凄い勢いでタックルを、いやむしろ飛び蹴りのような物が視界に映る。
一瞬のことで咄嗟には反応できず、一刀は音々音のいきなりの凶行に為すすべなく蹴り倒された。

派手にぶっ倒れた一刀は、料理そのものも床にぶちまけてしまう。
けたたましい音が響いて、鶏がらスープを頭から被った一刀は流石に怒った。

「いきなり何をするんだ、ねね!」

「一刀殿、この料理を食べてはいけないのです! これは、毒です!」

「何をっ……え、ど、毒ぅ!?」

「そうです、昨日、華佗殿が帰り際に見つけた毒の匂いと同じなのですぞ。
 下手に食べない方が良いです!」

一刀は床に散らばった料理の一つに近づいて鼻をヒクヒクと動かす。
確かにツンと来る匂いは独特の物であったが、気にしなければ全然気付かないレベルであった。
何かの香辛料だと言われれば納得できるくらいだ。

『“南の”、どうなんだ?』
『うーん……ごめん、本体。 ちょっといい?』
(あ、うん、分かった)

本体と入れ替わり、数秒間、鼻を引くつかせてから床に落ちていた肉を一口のサイズに千切った。
突然、毒だと注意したはずの料理を一刀がペロペロと舐めた上、口に含んで音々音は狼狽した。

「一刀殿、何をしているのですかぁ~!?」
「ご、ごめん、ちょっと調べてて」
「それで死んでしまったらどうするのです! すぐに華佗殿を呼ばなければぁ」

背中をバッシバッシと叩かれて、肉が口から転げ落ちると同時に
本体に身体の感覚が戻ってきた。
約一分半ほど、“南の”は本体を操った反動で意識を落としていたが
戻ってくると開口一番に口を開いた。


『あー、頭無いけど頭重い……えーっと、分かったよ、確かに毒だね。 分かりにくいけど、舌先が僅かに痺れた
 大量に摂取するとヤバイ類の物だね。 料理に入ってたらちょっと分からないよコレは』

(マジかよ……俺殺されるところだったの?)
『いや、本体を狙った訳でも音々音を狙った訳でもないと思う』
『まだ此処に来て劉協様に協力することを決めたのは数時間前の話だよ。
 たった数時間でこれだけ段取り良く殺そうとするなんて性急に過ぎる』
『そうだな、普通に考えれば劉協様を殺そうとしたとか?』
『在り得るけど、ちょっと弱いかな……あの子はまだ具体的な事を何も起こしていないし
 昨日の話を聞いていたのは俺達と段珪だけだ』
(じゃあ……料理を手配した段珪さんが?)

自分で言ってて一刀は彼がそんなことをするだろうか、と首を捻った。
自分や音々音が邪魔だというのならば、こんな回りくどい事をしなくても殺せた筈だ。
何より、傍観するとハッキリ一刀に言っているのだ。
彼が犯人だとは考え辛い。

「これはやはり劉協様を狙った者なのでしょうか」

「いや、可能性はあるけど違うかも知れない。
 決め付けるのは早計だけど……そういえば、ねねは良く毒だと分かったね」

「本当に僅かな差で気がつきましたぞ。
 昨日、華佗殿に教えてもらわなければ絶対にねねも料理を口にしておりました」

「そうなんだ……」

『おい、もしかして街中にも出回ってるのか、この毒』
『無差別テロみたいな? いやまさかそんな』

脳内の自分達が言う無差別テロは、案外ありえるんじゃないか、と本体が考えていると
入り口の扉が勢い良く開き、顔を青くして汗だくになった段珪が飛び込んできた。

「おお、二人とも、無事であったか、劉協様はどちらか!」

「段珪さん! 劉協様は、今眠っておられます……」

「これはどういうことなのですか、場合によっては話を考えさせて貰うのです!」

「すまぬ、これは完全に王宮の料理人の失敗だ。
 いや、しかし良くぞ気付いてくれた。 寝ているとは、そうだ良かった、最悪の事態だけは防げたようだぞ」


何時に無く早口で、感情だけが先走っているのか
言葉遣いが普段とは比べ物にならないくらい変わっていたし、その繋がりも不自然な物になっていた。
これだけ動揺しているのだ。 彼が犯人である線は、消えたと言って良いだろう。
音々音も段珪の様子には気付いたようで、強張った声色で彼に尋ねた。


「段珪殿がここへ急いで来たということは、既に何処かしらに被害を被ったのですね?」

「その通りだ。 宦官から門兵に至るまで、結構な数が倒れてしまった。
 噂では街にまで毒が出回っておるようなのだ」

「街にまで!」

「帝も倒れられた……非常に危険な状態であると、医師が判断しておる」

「「帝が!?」」

「そうだ、劉協様を起こさねば……」

「分かったのです、ねねが起こしてくるのです!」

音々音が寝室に飛び込んだのと同時、脳内に強く言葉が響く。
その余りの言葉の響き、一刀は頭を押さえてよろけた。

(痛って……いきなりどうしたんだ)
『本体、華佗だ!』
(華佗がどうしたって!?)
『帝を治してもらうんだよ、そこで帝とのパイプを上手く繋げる事が出来れば
 今後の見通しが明るくなるだろ?』
『そうか、それが一番早いかも知れない!』
(……なんか、病気の人を打算で救うってのもなぁ)
『選り好みしてる時じゃないと思うけどな、俺は』


確かに本体としても、生きる為に選んだ選択肢であり
細部は違うとはいえ、この世界を駆け抜けた事がある脳内の自分達が
生き抜くために提示してくれる物は正しい道であるように感じる。
どっちにしろ、本体は今のような状況で機転を利かせる事が出来ないのは
昨日の密会に立ち会った時に散々自覚したばかりだ。
無理やり胸の内に燻るモヤモヤを押さえて、本体は告げた。


「段珪さん、俺は華佗を呼んできます。
 彼ならば、きっと沢山の人を……帝も救えます」

「ああ、そういえば君と陳宮殿が一緒に住んでいたのは医者であったな。
 よし、これを持っていきなさい、城への入場許可となる手形だ。
 劉協様の印が掘ってある。 これならば何処でも自由に行き来できるぞ」

「はい、ありがとうございます」


手形を受け取って、一刀は駆けた。

自分でこの選択をして納得できるかどうか、それは自信が無かった。
しかし、余りに急転する事態が続いても、こうして自分が動けるのは脳内の彼らが道を示してくれるからである事も事実だ。

どうせ流されるだけならば、少なくとも同じ北郷 一刀である自分の声を信じて動いたほうがきっと後悔は少ない。
そんなことを思いながら、一刀は城内を駆け抜けて門を出ると、華佗を探し始めたのである。


      ■ 華佗の一夜


三人の男を救った華佗は、その後に続出した中毒者の手当てに奔走していた。
寝ずに洛陽の街を駈けずり回り、既に名医だという噂が流れていた華佗の元には
多くの人が駆けつけて治療を願ったのである。

中毒患者が余りにも多い為、華佗は手持ちの医療薬が絶対的に足りない事に気がついていた。
自身が気を練り上げ、救った病毒の気を消し飛ばすにしても
これだけ人数が膨れ上がると、自分の気を使い果たしてそう遠く無い内倒れてしまうだろう。

そこで華佗は、駄目元で薬の材料を調達してくれる人を募集した。
命の危険がある重病者には直接自分が気を打ち込み、薬を与え
比較的症状が軽い人間には薬のみの治療を施すことを決めたのである。

この時、華佗に協力してくれた人の多くは、一刀の人脈から来る人たちであった。

「おい、華佗殿、運んできたぞ!」

「ああ、そっちに置いておいてくれ! おやっさん、あんたはコレを擂鉢で砕いてくれ!」

「分かった、任せろ!」

「おう! 一刀のところの名医じゃないか! 何が必要か言ってくれりゃ
 俺がコイツで運んできてやるよ!」

「分かった! 文字は読めるか? そこに材料が書いてあるから、それを持っていってくれ!」

「あたし、文字読めます!」

「よし、じゃああんたは俺について来てくれ!」

とまぁ、このように街の住民が互いに助け合って、毒に犯された者は華陀の手により即座に治療された。
また、拡大を防ぐために、鼻の奥を突くような匂いのする物は
全て焼却するかゴミとして捨てるように、と集まった人々に指示を出した。

一夜をそのようにして駆け抜けた華佗は、かなりの人数に気を送り込み
流石に疲労が大きくなっていた。
殆ど休憩もせずに動いていた彼は、ようやく人心地ついたように水を一気に飲み干す。
そんな時、聞きなれた声が響くのを華佗はしっかりと捉えた。

「華佗!」

「一刀か! ここだ!」

「ここに居たか、家に帰ってるかと思ったけど」

一刀は思ったよりも簡単に華佗が見つかって、安堵の息を吐いた。
宮内を駆け抜けた彼は、帝が倒れて混乱に陥っている様子をしっかりと見てしまったのだ。
普段、城の中で見るはずの無い庶民の一刀が通っても
無視してあちらへ、こちらへと足を動かす事に集中する者ばかりであったのだ。

「街中に中毒者が蔓延しててな、帰るに帰れなかった」
「そっか……それよりも」

流石にここで迂闊に 「帝が倒れたお」 とは言えなかったので
華佗の耳元に口を寄せると、小さく事実を呟いた。
宮内も、中毒者が多い、と。

「そうか……幸い薬は余るほど大量に作ったから。
 症状の軽い者なら、この薬を煎じて飲んで数日療養すれば完治するだろう」

「重い者は?」

「直接針から気を送らなければ難しい。 しかし城か。 
 勝手に入れないから、強行突破するしかないか?」

「大丈夫だ、通行手形は俺が預かってる。 すぐに来れそうか?」

「俺は医者だ、病魔に犯され苦しんでいる人が居るのならば、何処にでも行く!」

「よし! じゃあ行こう!」

一刀と華佗で薬の入った壷を分けて持ち、二人は城へと向けて踵を返した。
途中、一刀が余りの壷の重さに足が鈍ったため、緊急措置として
脳内一刀達がローテーションを駆使して身体を操り
華陀に遅れることなく王城まで駆けることが出来た。


      ■ 黄天當に立つべし


「みんな大好きー!」
「天和ちゃ~~ん!」

ほわぁあああっ、ほわぁああぁぁああああああああ
ほわあああわあああああほわぁぁほわあぁぁぁぁあ
ほわあぁぁああホわあわほわほわああああああああ

「みんなの妹!」
「地和ちゃ~~~ん!」

ほわあああわあああああほわぁぁほわあぁぁぁぁあ

「とっても可愛い」
「人和ちゃぁ~~~ん!」

ほわああああァほわあわほわほわああああああああ

「今日はありがとう! また私達の歌を聴きに来てね~!」


とてつもない盛り上がりを見せて、彼女達の3時間にも及んだ公演は終了となった。
その盛り上がりの一端に、桃色の髪を腰まで降ろした少女の服が捲くれて
瑞々しい肢体を一瞬とはいえ、覗かせたことが最大の要因であることは間違いなかった。

そんなハプニングを興した当の本人は、失敗失敗、なんて言いながら
舌先をチロっと出して普通に流してしまったりしたのだが。

異様な盛り上がりと奇声が入り混じるこの空間。
ここは許昌に程近い、打ち捨てられた砦に手を加えて公演会場とした場所であった。
なぜ、コレほどの人気を誇る彼女達が都市部で歌わないかというと
最近ちょっと彼女達の思惑とは違う頭の痛い問題が発生してたからである。

「あー、もうちぃ疲れちゃったー。
 どうして夜逃げみたいな感じでこんな街外れまで歌いにいかなきゃならないのよ」

「でも、皆喜んでくれてたよ~、私あんな大勢の人の前で歌うのって初めてー」

「喜んでたのは天和姉さんが脱ぐからでしょっ!
 一番歓声が凄かったもん」

「あれは事故だもん~、勝手に捲れちゃって困っちゃった~」

「さすが天和姉さん。 自然に観客達を魅了してるわね」

「よぉーし、次はちぃも脱ぐ!」

大胆な発言が地和から飛び出して、天和はビックリしたように目を丸くし
人和は深いため息をついて首を振った。

「でも、あまり興奮させすぎるのも考え物でしょ?
 最近、私達のファンが興奮して暴徒化してしまう事があったから……それにちぃ姉さんのじゃ
 天和姉さんみたいに良く見えないかもしれない」

「んなっ、失礼ねれんほー!
 それに興奮した人だって、私達が悪いことしてる訳でもないのに
 こそこそと公演するのなんて納得いかないわよ」

地和は唇を尖らせて、ブーブーと不満垂れていた。
それを宥めるように天和と呼ばれた少女が彼女の頭を抱え込む。

「ぶわっ、ちょっと止めてよ天和姉さん! 髪型が崩れちゃ……うぶぶ、息が……」

「もー、あんまり言ってるとほらぁ、れんほーちゃんも困ってるよ?」

「天和姉さん、あんまりやると息ができなくなるから程ほどにね」

「だいじょうぶだよぉ~、そんな失敗しないもん」

「あぶぶぶ、あぶぶぶうぶ」

「……だといいけれど」

そんな漫才のような会話を繰り広げている彼女達の元に、一人の男が近づいてきた。
黄巾を右肩に巻きつけ、胡散臭い笑みを貼り付けながら。
それに気がついた天和と人和の動きが止まる。

三人が気がつけば、この辺一体の彼女達に熱狂する人達をまとめている男であった。
殆ど突然と言っていいほど、いきなり現れて彼女達の追っかけを纏め上げた男。
その男は波才と呼ばれていた。

「張角様」

短く名を告げて、彼は桃色の髪をした少女を張角と呼んだ。

「張宝様、張梁様」

続けて、先ほどまで天和の胸に顔を埋め、あわば窒息死かという所まで追い詰められた少女。
波才が現れてから、眉を顰めて睨むような視線を向けている少女。
それぞれを張宝、張梁と呼び彼は頭を垂れた。

「何か用ですかー?」

張角が気の抜けたような声をあげると、波才は頭を上げてコクリと頷いた。

「陳留で、次の公演を希望する者がおります。
 もしお暇がありましたら、そちらに向かって下さるとありがたいのですが」

「うーん、陳留かー」
「あっちの方は、まだ公演を開いた事が無かったわよね」

三人の娘はそれぞれ頭の中に場所を思い浮かべて、人和はまだ公演をしたことの無い場所ということに気がついた。
ここ最近は移動に移動を重ねて歌っているので、暫くゆっくりしたい気分でもある。

「はい、陳留での公演が終われば、暫くは希望している者も居ませんので」

波才のその言葉に、三人は顔を見合わせて頷いた。
後一度だけだというのならば、自分達の歌を待ってくれている人の為にも行って歌ってあげたい。
そうした地道な活動を重ねて、ようやく彼女達は今の人気を手に入れたのだ。
その後の話は特に早く決まった。

「じゃあもう一息頑張ろっか?」

「そうね、今度こそお姉ちゃんよりもちぃに歓声を向けさせてあげるんだから!」

「服は脱がないでね」

「むー、私も負けないわよー!」

「私だって!」

「……脱ぐって話じゃないよね、姉さん達」

「……では、失礼します」


翌日。

張角、張宝、張梁の三人娘は、意気揚々と陳留へと向かった。
彼女達の熱狂的な追っかけは、不思議なことに三人の後ろには誰一人としてついていかなかった。

一応、彼女達の護衛と小間使いにという意味で、何人かの人間に“黄巾”を身につけさせずに当ててはいるのだが。
もしも、彼女達がこの事実に気がついていれば、違った未来もあったのかも知れない。

「よし、全員揃っているな!」

打ち捨てられた砦には、昨日の公演の時と殆ど変わらぬ人に溢れていた。
そこに居る者たちは、殆どが農民であり、今の世に不満を多く持っている青年が多かった。


「先ごろ、我々の同志である馬元義が洛陽への工作を終えた!
 今や洛陽は、城の中も、そしてその街も、流行り病によって力を失いつつある!
 皆も聞いていただろう、天和様の予言通りだ!
 これから我々は、内から同志の馬元義と共に洛陽を攻め、天和様の仰った
 “大陸を取る”為の一歩とする!」


ほわああほわあああああああああ

大歓声が響き渡る。
それはもう、完全なる漢王朝への反逆の意志であった。
ここまで気炎が上がったのは、世の不条理、漢王朝への不満もそうであったが
何よりも自分の愛する天和や地和、そして人和達が望んだ大いなる未来の為という名目があるからだ。

今の世の中を、断片的に捉えた歌詞の内容もさることながら
彼女達の透き通るような声色に、新たな導き手を求めた多くの青年達は心を打たれて
漢王朝への決起を決意したのである。

その数、この砦に居る人数だけでも実に4万人を超える数に及んでいた。


「明日、我等はこの地を出て朝廷の正規軍と当たる!
 恐れるな、我等の天はすでに天和様を示すのように、黄天である!
 腐った蒼い天は最早死に、我らが黄巾で突き破らなくては世の中は変わらない!
 我らの手で、黄天の世の礎を築こうぞ!」


波才の叫ぶような声は、後に大歓声と人のうねりにより地を奮わせる音となって響いた。
満足気に波才は笑うと、奥の天幕へと姿を消した。


「……波才殿、しかし何故、馬元義殿は毒を今使ったのでしょう?」

「それは分からない……それに毒というのはよせ。
 洛陽に蔓延したのは“流行り病”だ」

「そうでした……しかし病が流行するのは、予定では、歳は甲子に在り、との筈でしたが」

「ああ、何か予期せぬ出来事があって止むを得ない状況だったのかも知れん。
 どちらにしろ、流行り病により混乱して機能を失ったはずの洛陽を、今攻めずして何時攻めるか」

波才は、この計画を馬元義と共に練った時に、どんな状況であれ
馬元義が仕込んだ“流行り病”が洛陽へ回れば、攻め取るということを取り決めていた。
如何に数が居れども、所詮は農民達の決起だ。
軍として事に当たるには、相手の混乱を誘わなければ勝ち目が無い。
それが首都である洛陽ならば、尚更であった。


本来ならば、この決起は歳は甲子に在り、とある様に、一斉に各地で反乱を行う予定であった。
それだけ、今、洛陽付近に居る黄巾党だけが決起することは
洛陽攻略に時間をかけてしまうと、諸侯が援軍として駆けつけてしまう可能性が高い。
だからこそ、このタイミングで“流行り病”が回った事に波才は僅かながらも躊躇したのだ。

「馬元義はもしかしたら、死んでしまったかもしれん。
 しかし、奴が死んだという話はまだ来ていない。
 最悪は俺達だけで攻めるとしても、今ならば洛陽を落とす事が出来るはずだ」

「は、私は波才殿を、黄天の世を信じます」

「ありがとう、では後事よろしく頼む」

波才はそれだけ言うと奥に設置された寝台に飛び込んで寝転んだ。
彼もまた、漢王朝に不満を抱き、激烈な決意を持って黄天を望んでいる男の一人であったのだ。


張角や張宝といった人を集める才を持つ少女達を、漢王朝と戦う為に利用していることは多少の罪悪感があったが
こうして黄巾党が立つ為にはどうしても必要な存在であることも、波才は理解していた。
 
せめて、この戦が黄巾の勝利で終わった暁には、全てを話して新たな帝の后にしてあげようと考えた。
負けても、自分達が全ての責任を取り、彼女達は変わらずに旅芸人を続けていればいい。
何も知らぬ少女達の事を考えながら、波才はまどろみ、やがて眠った。


      ■ 一刀 きごう 華佗


帝は、極めて重態であった。
もはや意識は無く、吹き出る汗、下痢が止まらずに吐きだす呼吸は荒かった。
一刀と華佗は宦官の段珪、そして献帝である劉協を先頭にして、その後ろを傍付きのようにして歩いていた。
そして、帝の寝室で病態を見たとき、一番に駆け出したのは華佗であった。

「なんだ、貴様は!」
「何処から来たのだ、何者であるか答えよ」

「俺は医者だ。 名前は華佗。
 悪いが帝を診た医者は何処か教えてくれ」

「は、私でございます」

華佗は即座に、宦官であろう周りの人間を遠ざけて、診察した医師から話を聞き始めた。
初期症状から現在に至るまで、患者にどういう反応があったか。
意識は何時から無いのかを聞き出して、やがて頷きながら針を取り出す。
額には、多くの汗が吹き出て、それを腕で拭いながら帝へと近づいていく。

「華佗……最近巷で噂の医者か」
「余計な真似をしおって、誰だ、呼んだのは」

「これはこれは、劉協様。 華佗を呼んだのは劉協様でしたか」

「呼んだのは、私の傍仕えとなった一刀だ。
 それよりも、どうして父様が倒れたのに私へ話を通さなかったのです」

「申し訳御座いません、すぐに知らせようと思ったのですが
 何分、我々も劉宏様が倒れて混乱しておりまして、報告が遅れてしまいました」

「……そうか」

そんな周囲のやり取りを見ていた一刀は、周囲の視線が自分に突き刺さっている事に気がついた。
本体は何故、視線が向けられているのか分からずに頬を掻く。

『宦官の皆さんは、どうやらあまり劉宏様を助けたくなかったみたいだな』
『そろそろ、小帝へと帝位を移そうと考えていたのかもしれないね』
『……こんな物を知ったんじゃ、そりゃあ華琳は怒るだろうな』
『諸侯が立つことになったのは、それだけの理由があったって事だろうな』
『なんか……嫌な感じだね』
『同感だ』

そんな脳内の声を聞いて、一刀は胸が苦しくなった。
どうして同じ人間を、こうも簡単に権力の道具にすることができるのだろうか。
彼らの思考は、きっともう本体には理解の出来ない場所にあるのかも知れない。

「うぉぉぉおおおお!」

華佗の声が響く。 自分の瀕死の身体を治療した華佗だ。
帝が復活することに、確信染みた感情が浮かんで一刀は周囲の宦官相手に
ざまあみろ、と言った感情がふつふつと湧き出た。
それは、脳内の彼らの意識にも引っ張られていたかもしれない。

「はぁぁぁ!! 一鍼同体! 全力全快!! 必察必治癒!!!
 元気になぁぁあああれぇええぇぇぇ!!!」

華佗の内に眠る、病魔を払う黄金の光が室内を包み―――そして即座に消えた。
彼の突き刺した針は、確かに帝の腹部へと突き刺さっていた。
しかし、華佗はその場で崩れ落ちるようにして膝をついてしまう。

「華佗!?」

「おお……名医と呼ばれる華佗殿でも不可能なのか」

「なんということだ……」

「このまま、帝様が崩御してしまうのか……」

胡散臭そうな声が室内に木霊する。
その言葉は芝居がかっているようにも聞こえた。

「華佗、父様は救えぬのか? それほどの重体であるのか?」

周囲の声に不安を後押しされたのだろう。
劉協が眉を八の字にして華佗へと駆け寄る。


劉宏は、確かに暗愚だ。
客観視してしまえば、国政を放棄してしまい、やるべきことをやらずに税を取り立て
能力ある民よりも、血を作ってくれる農民よりも、官位にあるものを重用し権力を与えて
漢王朝の腐敗を進めてしまった国の王だ。


だが、劉協からすれば帝である劉宏は、王である前に優しい父であった。
死んで欲しいなどと思った事は一度も無い。
いつか、父も兄も、そして母とも一緒に笑って食事を取りたいとも思っていた。
こんなにも突然失うことなど、考えたこともないのだ。

そんな彼女を安心させるかのように、華佗は劉協へと笑いかける。
しかし、彼は誰がどう見ても、疲労の極地にあることは間違いなかった。

「大丈夫だ……ゴットヴェイドーはこの程度でっ病魔に屈したりはしないっ!」

「華佗……すまん、頼む、父様を助けてくれ!」

「勿論だ! 俺は医者、病魔を払う為に学んできた知識を、技を、ここで腐らせてたまるものか!」

『無理ね……』
『え?』
『“肉の”!?」
(無理って……華佗にも治せないのかよ!?)
『違うよ、きっと華佗は夜の間もずっと、ああして針を奮ってきたんだよ。
 もう、彼は病魔の気を打ち砕ける程の気力は残っていない。
 酷く不安定で、ぶれているし、下手をすれば華佗の命も危ないかもしれない』
『なんだって!?』
『それじゃあ、駄目なのか?』
『……本体、ごめんね。 みんなも』
(……なんだよ、急に)
『『『『『『『“肉の”……!?』』』』』』』』
『先に謝っておくわん』


言うなり、一刀は唐突に身体が華佗の方へと駆け寄る。
ついでに、意志に引っ張られて口が勝手に動いた。


「天の御使い、北郷 一刀が、これより華佗へ天の力を分け与える!
 我が気と精を与えることにより、帝は意識を取り戻すであろう!」
『はぁっ!?』
『な、なんだ! “肉の”、何をする気だ!?』
『勝手に何やってんだよっ!』


長ったらしい口上を、周囲に大声でぶちまけつつ、なおかつ脳内の文句をそよ風のように受け流し
本体の身体は真っ直ぐに華佗へと向かっていた。
突然の大声と、一刀の奇行に、全員の視線があつまりそして目を剥いた。

「一刀!? 何を―――!」
「華佗ちゃん、いただきますー! むっちうぅぅぅぅ」
「ぶむっ!?」

なんと、一刀は華佗の頭を両手でガッチリとホールド。
そのままの倒れこむような勢いで、華佗の唇を鮮やかに奪うと強く強く、唇を合わせて呼吸を合わせた。

抵抗する暇すら無い、流れるようなそれは最早連続技と言っても良いだろう程洗練された動きであった。
更に、一刀は華佗の口内をねぶるようにして、舌を突き入れ追撃に余念がない。


華佗の身体が、一瞬、陸に打ち上げられた魚のように跳ねる。


劉協は一番近くに居たために、その行為の様子を間近で目撃。
頬を真っ赤に染めて叫び声を挙げそうになるのを必死の思いで我慢した。

周囲の宦官や侍女は、気が触れた狂人を見るかのような蔑んだ目で彼らの行為を眺めていた。


「う……一刀……これは……」

肉体の主導権が戻った本体は、華佗との熱い接吻に目が眩んでいた。
もはや、何が起こったのか信じられないレベルであった。
茫然自失した、と言っても良いだろう。

そんな一刀に唇を思う存分と舐られた華佗は、身体に湧き上がる気力に驚愕した。
そして、興奮したかのように立ち上がり、声を荒げる。
先ほどまで疲労に膝を屈していたとは思えないほど、元気になっていた。

「いける! これなら行けるぞ! 一刀、お前って奴は俺は何時も驚かしてくれる!」

「……あ、華佗殿! 父様を救えるのですか!」


劉協は今の出来事全て忘れることにして、テイク2に望むようであった。
なかなかに懸命な判断であると言える。
周囲の宦官が、馬鹿な、ただ男と接吻しただけで疲労が回復したり治療の技術が上がるわけが……などと囁きあっていた。


「ハアアァァァ、今度こそ完全に病魔を消し去ってやる!
 唸れぇぇぇ、我が気よ! 弾けろぉぉぉ! 病魔よ!
 一鍼同体! 全力全快!! 必察必治癒!!!
 元気になぁぁあああれぇええぇぇぇ!!!」
 

今度こそ、黄金の光は消えることなく帝の身体を貫き
室内は黄金色の光に、長く、長く包まれたのであった。
本体が気がついた時には、治療が終わっており意識を取り戻した帝に感謝されていた。

後に、音々音の工作による“天の御使いが降りて霊帝を死の淵から救った”という流言が民草に広まり
爆発的な勢いで、それらは大陸全土に流布したという。


      ■ 


漢という国を400年支え続けた巨龍は、腸から不満という名の臓物が飛び散り
亡き崩れようとしていた。
しかし、それを寸での所で阻止した二人の男が現れた。

大きく歴史の流れが変化を迎えようとしていた日。
われらが種馬こと北郷 一刀といえば……様々な人の思惑を乗せられて
漢王朝に天の御使いとして、医者の華陀を伴い降臨したのである。

帝は、自身の命を救ってくれ、朝廷に刃向かう乱の内応を暴いた一刀と華陀を絶賛した。
帝を救う為に、天から使わした御使いであるのかと一刀は彼に尋ねられて、是と返す。
この返答に気を良くした彼は、自らを天と名乗った北郷 一刀を、正式に漢王朝に降りた天の御使いと認めた上で
今回の騒動の原因となった大陸に跋扈する賊の討伐を一刀に願ったのであった。

一刀はこれに、音々音を自身の参謀に据えることを条件に承諾。
ねねの実力を認めさせ安全の為に一刀の傍に置くことで権威を高めさせる。
そして、劉協が権勢を握る為の一助となるための条件であり、布石であった。

一刀と音々音は朝廷の官軍だけで防ぐことは出来ないと考え
まずは洛陽で滞在している諸候へ軍議を行うことを知らせ、参加するよう呼びかけた。
軍議に参内した者は、それまで官軍を取りまとめていた皇甫嵩を筆頭にして
袁紹、何進、孫堅、袁術、劉表、そして董卓であった。



歴史の中で、“黄巾の乱”と呼ばれる物が始まろうとしていた……




      ■ 千里走った


「朱里ちゃん、すごいよ……見て」
「なに? 雛里ちゃん……あわわ、こ、これって」
「ね……すごいよね」
「う、うん……すごい、その、想像が膨らむね、雛里ちゃん」
「うん、膨らむよ……」

風の噂で天の御使い、北郷一刀と帝を死の淵から救った天医、華佗の名が広まり
帝を治癒する天の力を与えるため、北郷一刀が華佗と“まぐわった”という話が伝わった。
荊州北部を中心に、二人を題材にした図解入りの八百一なる本が高い評価を受けることになった、らしい。

      ■ 外史終了 ■



[22225] 頭で撮る記念写真の数々、決めポーズを記憶に残すよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2010/11/12 22:08
      ■ 第24回 リアル脳内会議

『なぁ……ふと気がついたんだが』
『なんだ、“仲の”』

それはある日の事。
本体が運び屋で精を出して働き始めたばかりの頃である。
突然、“仲の”が意識体に声をかけたのだ。

『俺達ってさ、ローテーションで本体の体を動かすときってタッチって言うじゃん?』
『ああ、そうだね』
『それがどうかしたか?』
『いやさ、ほら、公孫瓚って真名が白蓮じゃん』
『『『『『……』』』』』

言われて気がついた。
そうだ。
自分達は“魏の”タッチ、とか“呉の”タッチとか言っていた。
つまり、そう。

『ようするに“白の”の『の』を意図的に無視するとさぁ』
『おい、やめろこら』
『パイ……タッチ……』
『『『『パイ……タッチ……!?』』』』
『中学生かお前ら!』
『まぁ落ち着けよ、“白の”』
『落ち着けるか“呉の”』
『俺だって、のが抜けたら誤タッチだ』
『『『『……』』』』
『誤……タッチ……だと!?』
『誤タッチ……一体何処を……』
『じゃあ俺は偽タッチか……』
『ぷっ、だせぇ』
『おいぃ!?』
『タッチ制廃止にする?』
『『『『悩みどころだな……』』』』

(阿呆か、俺は……阿呆なのか、俺は)

脳内の会話を聞きながら仕事に従事していた本体が、何故か凹んでいたという。


      ■ 第25回 リアル脳内会議

それはある日のこと。
少しずつとはいえ、一刀が運び屋の仕事に慣れた時であった。
洛陽の道もだんだんと慣れてきて、この町に住み慣れた頃である。
相変わらず、本体は日々の生活の為に仕事に汗水垂らして働いていた。

『なぁ“肉の”』
『なんだい?』
『お前、どうやってイメージ映像送ってるの?』
『え?』
『そうだな、どうやるんだ?』
『簡単だよ、念じればいいんだ、こんな風に―――』
『おいやめろ! 暴発させんなっ!』
『あ、ごめん、つい』
『じゃあちょっとやってみようよ皆で』
『そうだな』
『そうだな』
『そうだな』

『ふぉぉぉぉ……桃香桃香桃香桃香桃香』
『こぉぉぉ……月月月月月月』
『はぁぁぁ……美以美以美以美以美以』
『むぅぅぅ……翠翠翠翠翠』

(やめろっ! なんだその呪詛は!)

突然、人の真名らしき言葉を言い放ちまくる脳内。
荷物を運ぶ為に力んでいた本体は、思わず手を滑らせて落としそうになる。

「こらぁー! 一刀、客の荷物を落とすんじゃねーぞ!」
「すみません! 店長!」

大声をあげて謝る本体は、全力で脳内を無視する事に決めた。
他人から見れば、気をそぞろにして仕事をミスする男に見えるだけである。
これが肉体労働であまり頭を使わないで処理できる仕事なのが幸いであった。
こんな声を聞きながら頭を使った仕事など集中できる筈が無い。

『全然、出ない訳だが』
『仕方ない、一度やってもらうのが理解への第一歩になる』
『おい、“馬の”正気か!?』
『俺は、たとえイメージの中だけでも翠に会いたいんだ!』
『っ!』
『……“馬の”お前は漢だぜ』
『君の勇気に、僕は敬意を表する!』
『さぁ来い! “肉の”! お前のイメージを送る様子を見せてくれ!』
『『『覚悟は出来た! 俺達も受け手立つぞ!』
『分かったよ皆! “馬の”! 行くぞ! むぉぉぉぉぉん!』
『『『『グハッ!』』』』

一秒たりとも耐え切れなかった“肉の”のイメージ映像に、一刀たちは1時間以上昏倒することになった。

(阿呆か、俺は……阿呆なのか、俺は)

脳内の会話を聞きながら仕事に従事していた本体が
静かになって仕事に集中できるようになったのに、何故か凹んでいたという。


       ■ 頭で撮る記念写真


それはある日のこと。
一刀は久しぶりに完全な休日を貰って洛陽の街を歩いていた。
こうして骨を休めるのは何時以来だろうか。
貴重な休日に、今日は何をしようかと考えていたところに音々音と会う。

「ねね」
「あ、一刀殿。 おはようなのです」
「今から書生さん達の場所へ行くのか?」
「はいなのです。 そういえば一刀殿はどちらへ?」

特に行くあてなど無かったので、素直にそう言った。
すると、音々音は何かを考え込むように二、三ぶつぶつと呟くとポムと手を重ねて一刀を見た。
何故か顔が赤くなっている。
何度か口をぱくりぱくりと開けては閉じ、不審に思いつつも何かを言いたそうな音々音に
一刀は黙って見守った。
そして、音々音は言った。
微妙に、一刀の顔から視線を逸らして。

「で、では、今日はねねと一緒に行楽にでも出かけますか?」
「ええ、でも書生さんと会うのはいいのかい?」
「もちろんですぞ。 書生の皆さんには事情を説明して納得してもらうのです。
 そうと決まれば、すぐに話をしてきますので暫しお待ちをっ!」

ダダダダッと駆けて音々音は一刀の元から去っていく。

「いいのかなぁ」
『本体、来たぞ』
「え?」
『“蜀の”どうした』
『今のが分からないのか? 俺でも気がついたぞ』
『ああ、今のは……間違いなくOKサインだ』
『OKサイン……!?』
『知ってるのか北郷!』
『OKサインは、古来より女性が男性に対して発信してきた、謎の電波。
 察知することが出来れば、その者は天国の階段を上るという……』
『おい、お前ら馬鹿やってんな、本体が呆れてるぞ』
『……』
(いや、うん……まぁ暇つぶしにはなるよ、こういう話)

“白の”の突っ込みに全員が文字通り白けた様で、脳内は突然静寂に包まれた。
あまりの静寂さに、本体は一応、フォローを入れておくことにしたのである。

ほどなくして、音々音がパタパタと戻ってきたので
一刀と音々音は二人で洛陽の街を出て広大な草原を二人で歩いていた。
天気は快晴、風は穏やか、気温は体感でもポカポカとして気持ちがいい。
空は抜けたような青い空。
雲はぽつんぽつんと青いキャンパスに白地を生やしているだけだった。

「気持ちいいなぁー」
「ですなぁー」

どちらともなしに、一刀と音々音は両手を広げて空を見上げた。
矢のように過ぎ去っていく毎日の中、こうしたゆとりのある日は実に心を躍らせてくれる。
深く吸い込む空気は、今までに経験したことも無いほどにおいしい。

「これだけでも、来て良かったって思えるね!」
「一刀殿ー! あちらは草が少なくて寝転ぶのに丁度良さそうなのですー!」
「よし! 行こう!」

思わず駆け足。
先を行く音々音に追いつくと、テンションが高いまま彼女の腰に腕を回してそのまま抱き上げる。
抱き上げられた音々音は、あまりに突然の行動に頬を染めて慌てていた。

「んっ、か、一刀殿!」
「うわっっと!」

バランスを崩して、しかし音々音だけはしっかりと支えて二人は草原に転がった。
そのまま立ち上がらずに、二人は透き通る青い空と天に輝く太陽を見て目を細めた。
柔らかな風が吹く。
ここが、1800年前の中国であることもまるで些細な事の様に感じられた。

大の字に寝転ぶ一刀は、益体の無いことを考えながら
ふと、隣で同じように大の字に寝転ぶ音々音の方へと顔を向けた。
体が逆側、そして寝転んでいるので、逆さまにしたような音々音の横顔しか見えない。
太陽の日差しに目を細めているその横顔が、なんだか普段見ている音々音の顔とは別の顔に見えた。

「……一刀殿」

しばし眺めていた一刀であったが、もう一度自分も空へと視線を向けると
音々音の声が聞こえてくる。

「なに?」

「……こういうのが、幸せというものなのかも知れないのです」

「……そうかもね」

同意を返して、そして思う。
この先は戦乱が待ち構えている。
それは、歴史が明確にその事実を突きつけていた。
今、こうして洛陽の街で生活を営み、音々音と共に寝転んでいると信じ難いことなのだが。
それでも、きっとこうして過ごせる日々は少ない。
戦乱の世が訪れてしまえば、どうなってしまうのだろう。
自分は、その中でどうしているんだろう。

でも、そうだ。
こうして不安を抱え込んでいることもきっと遠い過去の話になる。
その時、一緒に笑い合える人が居ればいい。
それが音々音であれば、この日を振り返ることもあるのだろう。

(写真が欲しいな……)

暖かい日差しが差す中、一刀はそう思いながらもいつの間にか意識を落とした。
柔らかな陽のぬくさに、睡魔に負けて瞳を閉じたのである。



ふと気がつけば、目の前には少女の顔が。
自分が眠っていたことに気がつくと共に、音々音の膝を枕にしていたことに気がついた。

「ねね……ごめん、重かっただろ?」

「別に全然平気なのです」

くすりと微笑む音々音に、一刀は照れた。
少女の膝を枕にしていたこともそうだが、音々音の笑顔がまぶしく映ったのだ。
それを覆い隠すように一刀は立ち上がると、風を吹いて髪の毛を揺らす。
少し風が出てきたようだ。
眠っていたのは1時間か2時間か。
太陽の位置はそれほど変わっていないので、あまり長時間寝ていたわけでも無さそうだ。
やや早まった鼓動が落ち着くのを待って声をかけた。

「そろそろ戻ろうか」

こくりと頷いた音々音、それを見てふと気付く。
脳内で唸る自分達に。

(どうしたの?)
『いや、とりあえずこれを感じてくれ』
『いくよ?」
(ええ?)

本体は困惑した。
先ほど、見たばかりの音々音の膝枕から見上げた画。
そして、彼女の眩しいばかりの笑顔に顔を逸らした、その場面。
草原を映す一刀の目の中、音々音の画が浮かび上がっている。

あまりの違和感に、一刀は思わず瞳を閉じた。
そして飛んでくる脳からの声。

『どうだ、イメージ映像が見えたか?』
(見えた……っていうか、なんだよこれ?)

ようやく収まったはずの鼓動がぶり返して
一人勝手に頬を染めつつ本体は尋ねた。

『『『『『『俺達にも見えるんだ』』』』』』
『ああ、つまり、本体の見た画を俺達はイメージ映像として共有、投影することができるってことだな』
『……新発見だな』
『ああ』
『まぁ、また俺達に新たな謎が追加されたとも言えるが』

(す、凄いなお前ら……)

本体は純粋に驚いた。
苔の一念とでも言うのだろうか。
こんな事を実現させるなんて、なんという俺。
この前まで阿呆だと思っていた自分が阿呆なのではないか。
これはそう、なんというか瞬間記憶能力みたいな物ではないだろうか。
後に検証の必要はあるが、これからの生活に大きな助けとなることもあるかもしれなかった。

『『『良し、コツは掴めた!』』』
『ああ、いこうぜ!』
『『『『俺達の、俺達のためのイメージを!』』』』

突然盛り上がった脳内に、本体は顔を顰める。
そして始まったのだ。
脳内大合唱が。

『オォォォォ……華琳華琳華琳華琳華琳!』
『ハァァァァ……雪蓮雪蓮雪蓮雪蓮雪蓮!』
『ヌゥゥゥゥ……白蓮白蓮白蓮白蓮白蓮!』
『見えろ見えろ見えろ、翠翠翠翠翠!』
『麗羽ぁーーー! 俺だー! 馬鹿っぽいところを見せてくれー!』
『くそっ、何故でない! 負けるな俺の意識!』
(……)

本体はとりあえず無視して、一向に立ち上がってこない音々音に視線を向けた。
彼女は目の幅涙、ピクピクとその場を動こうとしてモジモジとしていた。

「ねね、行こうよ」

「うぅぅ……足が痺れて動けないのです、一刀殿~~」

情けない声を上げて涙する音々音を見て、一刀は苦笑した。
そして音々音の元に近づいて、スッと腰を下げて背中を向けたのである。

「いこう」
「うぅ、ゆっくりお願いするのです」
「うん、なるべく振動は与えないからさ」

一刀はねねをゆっくりおぶさると、洛陽への町へと足を向けた。
脳内で気張る呪詛のような誰かの真名の連呼を聞き続けて。

結局、彼らは自分達の持つイメージを具現化することには失敗したようである。
後にこの瞬間記憶能力は、女性武将のみに効果を発揮することに脳内一刀達は気付いて絶望していた。


てれてれてってってー

かずと は ねねねのCG を てにいれた!



[22225] 都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編1
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/01/05 03:14
clear!!         ~都・洛陽・巨龍が種馬のテクい愛撫で鳴動してるよ編~


clear!!         ~都・洛陽・先走り汁を抑えきれずに黄色いのが飛び出たよ編~


今回の種馬 ⇒    ☆☆☆~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編1~☆☆☆




      ■ お礼参りに来たからよ ビキッ !?


北郷一刀、そして華佗の二人は帝の命を救ったことから
離宮の使っていない部屋を与えられて、そこで住む事をこわれていた。
それまで生活をしていた街の平屋から引っ越すことになったのである。

一刀、音々音、華佗の三人はそれぞれの私物を纏め
使わなくなった家具を売り払い、あるていどの金額と換金して部屋を引き払った。
そんな慌しく、時間が矢のように過ぎ去っていく中で
新調する部屋の照明や、これから使う機会が増えるだろう墨などの日用品を買い込んでいる時だった。

華佗が街中で最初に“毒”に気がついたという、料理を取っていた三人組の男が
一刀達の前に現れたのだ。

「あ、あんた、この前は助かった! 本当にありがとう!」
「命の恩人だ、本当にもう駄目かと思ってたんですぜ!」
「か、感謝なんだな」

なんとも個性的な三人組であった。
リーダーらしき中肉中背の男、一刀や華佗の胸元くらいまでの身長しかない男。
そして、とても大きい身体を揺らす男の三人だ。
特に最後の彼は、この時代どれだけ食べればこれほどの巨躯になれるのかと疑う程であった。

彼らは快方してからずっと華佗のことを探していたらしい。
ところが洛陽の街のどこを探しても見つからず
半ば諦めていたところに丁度、一刀達が通りかかったという。

「気にしないでくれ。 病魔に苦しんでいる人を救うのは医者の役目だ」

「それでもだ、俺達はお上に言えない様な事もやるチンピラだが
 命を救ってくれた恩人に礼をしないほどの畜生でもない」
「あ、アニキの言う通りですぜ」

小さい人の言葉に頷くように、巨漢は大げさに頷いた。

「一刀殿、先に行きますか」
「うん、そうだね。 華佗、先に行ってるから、後から追ってきてくれ」

「か、華佗? まさか貴方様が天医と呼ばれている華佗殿なんで?」
「それじゃあ隣のお方は、まさか天の御使い……」
「す、凄い……」

まだ帝が倒れられてから一日しか経っていないというのに、噂は爆発的に広まっていた。
メディアというものが発達しておらず、新聞もテレビも無いこの時代であるのに
天の御使いという通り名はあり得ないほど民草に浸透していた事に、一刀はここで初めて気がついた。

街の中央広場で看板のような読み札が掲げられていたのは一刀も知っている。
と、いうのも、正式に“天の御使い”が王室に降りたことを劉協が広める事を提案し
帝がこれを認めたからである。
何よりも帝は、命を救われた事に対して一刀と華佗には特に厚遇するように自ら話していたので
劉協が何もしなくても、近い内に同じ様なことが起きただろう、とは脳内 in 俺の言だ。
が、この予想以上に民草に話が広まった事実は、ある種の皮肉を孕んでいたと言える。

そもそも、帝が天であるという認識が無ければいけないのに、帝を蔑ろにするように胡散臭い男が名乗った
“天の御使い”というものが許容されたばかりか、突然現れた正体不明の青年を根拠も無く
期待を抱いたり、歓迎するように受け入れたりする者が現れたのだ。
つまり、民の反応から帝は既に“天”では無いと言っているように捉えることが出来た。
これを言ったのは音々音で、劉協に仕えている現状、彼女はこの事実に良い顔をしていなかった。

それはともかく。
まるで釣堀に投げ入れた餌に食いついてくるが如くの勢いで興奮した三人の男に
一刀達は思わず押されて足が止まる。

「す、すげぇ……握手してください!」
「チビ、てめぇ汚ぇぞ。 俺からお願いします!」

「ちょ、待ってくれ、何処の有名人だ俺は!」

「確かに、今や一刀殿は有名人ですけど……」

「ああ、いやそうなんだけど、そうじゃなくてさ」

「三人とも、一刀も困ってるしその位にしておいてくれ」

「あ、そうでした、元々は華佗様に礼を言うためだったんでした」
「わ、忘れてたとは不覚なんだな、アニキ」
「馬鹿っ、デクッ、そういうことは思ってても口に出すんじゃねぇっ!」

アニキと呼ばれた男がデクの尻を思い切り蹴飛ばすが、彼は少し揺れただけで
大したダメージを受けた様子は無さそうであった。
一刀はデクと呼ばれた男の事を、自分の抱く武将のイメージと照らし合わせて、許緒ではないだろうかと予想した。

『よし本体、表でろ』
『『『落ち着けよ』』』
(う、ごめん……)

怨念めいた誰かの声が頭に響いてきた。
どうやら途轍もない間違いだったらしい。
経験を踏まえると、この世界での許緒はどうやら女性のようである。

「アニキ……せっかく天の御使い様が居るんでさぁ、アレ、話しておきやせんか?」
「そうか、そうだなぁ……」
「ア、アニキ、いい方法も思いつかないし、い、言った方が良いと思うんだな」

「なんだ? 一刀に話があるのか?」

華佗に尋ねられて、アニキと呼ばれた男は僅かに悩むそぶりを見せたが
腹が決まったのか、周囲に視線を巡らせて華佗の耳元へと口を寄せた。

「ここじゃちょっと……人気の無い場所に移動できませんかね?」


      ■ まどろみの中へ


アニキから話されたことは、三人に強い衝撃を与えるととも、貴重な情報となった。
それは、馬元義の行動の詳細を知ることが出来たのである。
もともと、彼らも馬元義と同じく、蜂起に加担していた黄巾の賊であったという。
馬元義から頼まれた工作を終えて、黄天の世が近いことを祝して開いた宴会の最中
毒に侵されて華佗に救われたというのだ。

ここで重要なのは、彼らが馬元義の蜂起を行うための工作に関わっていたことである。

元々、馬元義とは面識があったわけでもなく、黄巾という繋がりから
宮内工作の手伝いを頼まれたそうだ。
この事実から、馬元義はアニキ達を利用してそのまま切り捨てる予定であったことがハッキリと分かる。
アニキ達も、祝宴の最中に毒が体内を巡ってからその事実に気がついたという。

「それで、この毒なんですが……こんなに早く街中に広めるつもりは無かったと思うんすよ」

「あいつ、言ったんですよ。 蜂起の時まではまだしばらくかかるって。
 俺達も、下っ端とはいえ黄巾の人間、黄天を仰いだ者ですからね。
 殺すつもりでも、俺達に不審に思われないよう、教えてくれたんでしょうが……
 とにかく、毒を仕込むまで時間を置きたかったんじゃないかって、話してたんですよ」

多分にアニキ達の推測を含んだ話であったが、分かる話でもあった。
確かに此度の、毒が蔓延した事件は街に広がり、住民が倒れ、帝までもが倒れるという大事にまで発展し
大変な混乱を巻き起こしている。
もしも蜂起の日と同時に起こったとすれば、各地に比べて官軍が集まり、充実した戦力が揃っている洛陽でも
大きな危機が訪れていたことだろう。

「この話、他の人には?」

「いえ、まだ御使い様達にしか……俺たちの立場を考えるとおいそれと喋れないっす」

「そっか、貴方達は黄巾の人だったね」

「もともとはただの追っかけなんですけどね、まぁ盗みも殺しもしやした。
 賊ってのは否定できないんですが……」

彼らの話を聞き終えると、一刀と音々音は顔を見合わせて頷いた。
アニキ達の齎した情報から、黄巾党の動きがすぐにでも激化する可能性があることに気がついたからだ。
一刀は脳内の自分の言葉で。
音々音は自己の持つ智謀ゆえに。

「分かった、とりあえずこの話は預かっておくよ」

「アニキ達は、この話を他の方にしないようお願いするのです」

「あ、ああ、分かりました」

「それと……できればこのまましばらく洛陽の街に居て欲しいのですが」

「え、何でなんだな?」

「今度会うときに、お願いしたいことがあるかもしれないからですぞ」

そこで華佗も合いの手を入れて、アニキ達は洛陽へ滞在することに頷いた。
本来の目的である華佗への礼を是非したい、と食事に誘われたものの
一刀と音々音は遠慮して、先に王宮へと戻ることにした。
二人には、一刻も早く為さねばならぬことがあったのだ。

考えることは山ほどあった。
山ほどあるのだが、現状で手をつけてもすぐに限界を迎えることは目に見えている。
二人は新たな居となる部屋へ辿りつくと、室内をぐるり見回し、邪魔にならない場所に荷物を纏めて
早足で寝室へと向かった。

とりあえず布団と枕があることを確認すると、吸い込まれるように飛び込んで睡眠に及んだ。
それこそ、泥のように眠るという表現がぴったりだ。
一刀も音々音も、昨日から一睡もせずにずーっと起きていたのだから当然だろう。
窓から差し込む陽の暖かさからか、驚くほどの速さで二人の意識は落ちていった。

後に、華佗が戻ってきて寝室を覗いた後、ポツリと呟いた。

「やれやれ、仲が良いな」

彼もずーっと起きてはいるのだが、一刀……“肉の”に気を注入されたせいか
それとも注入されてしまった気が“肉の”だからか、眠気などまったくせずに
そのまま引越しの荷解きをはじめて全て一人で終わらせてしまった。
それでも元気があり余っていた為、部屋から飛び出して患者が居ないか辺りをうろつき回ったという。


      ■ 寝起きの迷走


目が覚めた時、辺りは真っ暗で何も見えなかった。
随分と長時間の睡眠に及んでいたのだろう。
頭が重く、瞼を開くのにも気力が必要なほどであった。

二度三度、目頭を腕でこすって意識がだんだと戻ってくると
ようやく闇に慣れてきたのか、音々音の視界がはっきりしてくる。
と、同時に彼女は固まった。
ついでに自分がどういう状況であるのかを頭が理解するごとに、体中の血液が頭に集まってくるようであった。

どうしてこんな事になっているのか、との疑問に
彼女の明晰な頭脳は、寝ている間にこうなったのだ、と答えを返してくる。
しっかりと答えが出ているのに、音々音の脳はどうしてこうなったという言葉ばかりが浮かび上がるのだ。

まず一刀が横に居る。
これは音々音もギリギリ寝る前に確認していたことなので横で一緒に寝ているのは良い。
むしろ大歓迎だ、問題などない、バッチコーンだ。
何がまずいって、言うまでも無くそれは体勢である。
どうすれば一刀の顔を胸元に抱え込み、音々音が彼の耳を甘噛みしているかのような体勢になれるのか。

身体を離してしまえばそれで済む話なのだが、音々音は何故かそのまま一刀の頭を掴んで動かない。
普段は見上げなければ見えない彼の顔。
覗き込むように、おでこの上から見るとまた違った、音々音の知らない一刀の貌を知った気がした。
規則的に繰り返される呼吸が、確かな温かみを伴って音々音の胸を打っていた。

毎日、それこそ何度も見ている顔が、今は別の何かであると思うほど違う物に見えた。
鼓動が早くなるのを押さえることが出来なかった。

「一刀殿……」

ぼんやりと一刀を見つめて、名を呼ぶ。
穏やかに眠る彼からやや離れて、音々音は誰も居ない室内をぐるり見回す。
ゆさゆさと頭を揺すってみるが、起きる気配は無かった。

飲み込んだ唾液が喉を伝い、ゴクリと息を呑む音が室内の静寂切り裂いて響く。
そこは確かにただの寝室であるのに、異様な空間に居るように思えた。

「か、かずと……」

震える唇が、想う人の名を呟く。
敬称を初めて除いて口に出しただけで、音々音は妙に沸騰していく自分を自覚する。
何をしているのか。
何をしようとしているのか。
どこか冷静である部分がそう呟いているのだが、それも視界に一刀の唇を捕らえるまでだった。

まるで何かに引き摺られているかのように、いろんな事を考えていた頭の中が吹っ飛んで真っ白になった。
最早、思考は消えてソレ以外の事がまさしく目に入らなくなってしまう。

そして彼女は一刀の顔にゆっくりと近づいていき、二人の唇が確かに触れ合った。

それは優しい、ただ触れるだけの物だったが
音々音の心を驚くほど充足させたのである。

心の中で一刀の名を呼んで、彼女は夢のような一時であると感じていた。


      ■ まどろみの中


「かかかか、華佗殿! ねねは何をしていたですかっ!?」
「いや、何をと言われても、別に変なことはしていなかったと思うが」
「うあぁ~、誰かねねを消してくだされ~! そ、そうだ、身投げをするのです」
「ま、マテマテ落ち着け、良く分からないが一刀と唇を合わせていたことに何か問題があったのか?」
「語るに落ちたのです! っと、いうかこれではねねも自滅なのです!」
「身投げされて困るのは俺だぞ、いいじゃないか接吻くらい―――」
「言うなー!」
「うわっっと、元気だな! でも蹴撃を加えるのはやめてくれって!」

時間の感覚が気薄になり、ふと目を覚ませば隣の部屋で卓を囲んで話す華佗と音々音の姿が
僅かに開かれた扉の隙間から映る。
しばらく大きな声で言い合い、内密に……だとか約束だ、とかそんな声をかけあって
じゃれあいをしていた様だが華佗のある声を切っ掛けに二人の声のトーンが下がった。

「……より、帝のことなんだが……だ、俺が診たか……だろう」
「むむむ、話を……まぁ、では2年……もしかしたら……ということなのですか」
「そうだ、俺の……判断したが、実際……」
「ねねの聞いた……短い……」
「こればかりは、俺も……」

二人の声が一刀の耳を打って、それはとても心地よくも懐かしくも感じられた。
それらの声は、まどろみに中に居る一刀にとって何一つとして
意味のある言葉として聞こえてこなかったし
話の内容も理解していなかったが、二人の声は彼を安心させた。
それはただの既視感であったが、それだけで一刀の心は落ち着き
そのまま起き上がる事なく目を瞑ると、再び眠りの中に身を投じた。

そして映るは荒唐無稽の情報と景色、人々と想いの断片。
これは夢だ。
たった今、既視感といったものと似たような場所、似たような会話、似たような景色。
場面、立場、居場所を換えては類似した状況が羅列されていく。

決まって最後は自分が起こされる場面だ。
そして、きっとこれもそうだ。
視界に映すのは人肌の、筋張って硬い筋肉と顔に重なる黒い闇。
世界崩壊の序曲のような言葉が一刀の耳になだれ込んでくる。

「あらん、ご主人様起きたのねぇん
 お・は・よ・うんむぅぅぅぅ」
「おお、貂蝉! ぬけがけは許さぬぞ!
 どれ、わしも一つ、むちゅううぅぅぅぅ」

「うわあああぁぁぁあああ!」

飛び起きた時、一刀の身体は寝汗で気持ち悪いくらい下着が張り付いていた。
最後に何かを見た気がしたが、思い出せなかった。
禍々しい物が近づいてきた気がしたのだが。
恐らく脳が強制的にシャットダウンしたのだろうと判断すると同時に、隣の部屋から音々音が顔を出した。

「一刀殿、うなされていたようですが大丈夫ですか?」
「うあ……え……肉? ねね? ああ、大丈夫……妙な夢を見ていたみたいだ」
「……肉? 顔が青ざめているのです、もう少し眠っておくですか?」
「いや、なんでもない、気にしないで」

目を手で押さえて擦りながら、寝ぼけている頭を振って答える。
音々音はその様子を見てから一度部屋を出て、水を持って戻ってきた。

「ああ、ごめん、ありがとう」

「寝汗も随分かいたようなのです。 替えの下着を用意しておくですよ」

「悪いね」

「えーっと、おっけい、なのですぞ」

音々音の話によれば、一刀は丸二日も眠っていたそうだ。
あの事件から、息つく暇も無く起こった連続的な出来事に
心身ともに疲労が濃いとの事だった。

『心……というか意識だけの俺達でも物凄い負荷がかかったからな……』
『ああ……』

どこか憔悴したような脳内の声に、本体は苦笑した。
実際、本体もこうして寝て起きて、ようやく心の整理が出来ている。
正直、整理が終わっているとは言えないが、あまり考えないようにして無理やり納得していた。

『「終わった事だ、ポジティブにいこう」』

確かにアレはとてつもない衝撃であったが、“肉の”が動かなければ
帝が崩御していたかもしれない。
“天の御使い”を名乗れる機会が訪れなかったかも知れないのだ。
それに、マウスtoマウスは素人でも出来る人命救助であり
今回の件は人工呼吸の間接的応用みたいなものだ、多分。

全・北郷一刀はこの様な結論に至って、心の平静を保ったようである。


      ■ 内心どうなのよ


「華佗殿ですか? 帝の容態を診るために呼び出されておりましたぞ」

「そっか、あいつも大変だね」

「華佗殿は、まさしく医の道に全てを捧げておられる者です。
 正直言ってしまえば、医療馬鹿なのです
 ついでに出歯亀やろーなのですぞ」

「ははは、でもそれは素晴らしい馬鹿だね……出歯亀?」

「な、なんでもないのです」

「……うーん? まぁいいか」

やや釈然としないものを感じた一刀であったが料理を受け取り終わった音々音は平然としていたので
別に大した話ではないだろうと判断して流した。
給仕から運ばれた物を音々音が皿を一枚取っては一口食べて、食卓に並べていく。
水瓶で顔を洗っていた一刀はその様子に気がつくと首を傾げた。

「ねね、何してるの?」

「毒見なのです」

あっけらかんと言い放った音々音に一刀は最初、何を言われたのか理解が出来なかった。
確かに、事件があったばかりであるから、料理に対して不信感を持つのは分かるのだが
毒見をされるとは思わなかったのである。

『そういえば、俺も地位が高くなったときは毒見されたっけ……』
『俺もそうだったなぁ』
(でも、毒見って……そんなの言われたら、しなくてもいいって思っちゃうよ)
『俺もそうだったけど、やめろって言っても断られるだけだぞ』
『うん、こういうのって何故か断られるんだよなぁ』
『俺達も、みんなが大切だから止めて欲しいんだって言っても駄目なんだよなぁ』
『うんうん、こういう所は頑固な娘達だった』
(そっか、体験済みなんだ……)
『『『『『うん』』』』』

音々音は全てを食卓に並べると、満足げに頷いた。
どうやら、良く分からないが彼女的に満足の行く内容であったらしい。
毒見に対して突っ込みたかった本体であったが、無理やり納得すると音々音の対面に椅子を引き腰を降ろす。

「一刀殿、朝食の準備が出来たのですぞ」

「うん、頂くよ」

一刀が食事を取り始めたのを確認してから、音々音は一刀が眠っていた時に起きたことを教えてくれた。

まず帝との関係だが、特筆することは余り無い。
“天の御使い”として漢王朝に認められたこと。
書状で“天代”なる身分を与えられたということ。
この役職は言わば、社長と相談役、みたいな関係となることを望まれているということだ。
諸侯でいうところの客将のような扱いと考えていいらしい。

帝は一刀の事をいたく気に入った。
そんな彼を拾った劉協も同じく帝に心象が良かったらしく、帝は劉協本人に

「まさしく天から恵まれた我が宝に命を救われた。 
 協には天の加護が授けられているようだ」

と言したという。
帝との疎遠な関係が続いていた劉協も、この言葉には嬉しさの余り、笑みを零して瞳を濡らしたそうだ。
その日、劉協は久しく家族と共に食事を楽しんだという。

「そっか、良かったね劉協様」

「ですが、やはりというか劉協様には敵が多いようですぞ」

これに面白くない感情を抱いている宦官が、少なからず居るようだとは段珪の証言である。
ようやく劉協を遠ざけたと思ったら、如何わしい“天の御使い”を連れて戻ってきたのだ。
しかも、帝の命を救うという大事を為して。

現状、劉協や一刀に対して何かをしようという動きは無いみたいだが
ある少年の証言から妙な噂が広まっているという。

“天の御使い”は、巷に跋扈する黄天からの御使いなのではないか、と。

根も歯も無い噂だと一笑に付したいところだが、一刀には心当たりがあった。
少年という時点で想像は付く。
一刀はあの時あの場では、自分の命を優先して黄巾の馬元義であると名乗りを上げたのだ。
当の馬元義本人を否定して騙ったのだ。
あの場面に目撃者が遭遇していたのだとしたら、黄巾の人間だと疑うのは自然であった。

「なるほど、一刀殿の事情は経緯は端折って聞いておりましたが
 それは初めて聞いたのです」

「やっぱ迂闊だったよなぁ……上手く言い訳を出来ればよかったんだけど」

「話を聞く限りでは状況が許さなかったのです、一刀殿の判断は間違っていないとねねは思うのですぞ。
 それに、過ぎたことは気にしすぎても戻らないのですから」

「うん、そうだね……けれども、何か考えておかないと誰かに追求されたときにまずいかな」

開き直ることが出来れば楽なのだが、少年に一刀の顔を見られていないという保証は無い。
むしろ見られて居ないと考えるのは楽観的に過ぎるだろう。
“天の御使い”という名を得たからといって、それがそのまま諸侯への信頼にはならない。
いくら迷信深い時代であるからといって、受け入れてくれるとは思えないのだ。
むしろ、何処の馬の骨なのかと猜疑の目を向ける方が自然である。

そう考えると、街中でアニキ達、元黄巾である三人と話をしたのもまずかったのかも知れない。
人通りの少ない場所に移動していたとはいえ、少なからずの人には見られているのだ。
その時の彼らの姿に黄巾は纏っていなかったが、それでも彼らが黄巾の賊として活動していた事実はある。
通りがかった人間が誰も知らないとは言えないし、何処かで見られていることもあり得ただろう。
それが発覚してしまえば、いっそう疑惑は深まるだろう。

そして、アニキ達と言えば

「毒の件、ねねはどう思う?」

「情報が断片的で推測の域を出ませんが、それでも彼らの推測は正しいものだと思うのです。
 馬元義なる男は洛陽を一時的にでも機能不全にさせる役割を担っていたと考えます。
 その日に合わせて一斉蜂起の合図を、何らかの手段で送るつもりだったのかと」

『そうだな、アニキ達に“毒”を仕込む理由もそこだろう。
 計画を完璧に期す為に、事を知り得る者は問答無用で排除しようとしたんだ』
『“呉の”、でもそれだけじゃ説明できないこともあるよ』
『街に毒が出回ったことだな?』
『そうそう』
『宮内に毒が蔓延したのは、本体が運んだ荷物の中に混ざっていたんだと思うけど』
『そこは俺もわからない……“白の”や“馬の”は分かるか?』
『『うーん……』』

「街に蔓延した毒ですが、宮内で使われた毒と完全に一致してると華佗殿が証明してくれました。
 これはねねの予想ですが、事が一刀殿に漏れた内応者が目を他に向けさせるために
 ばら撒いたものかと思うのです」

『『『なるほど』』』

「そっか……」

本体は複雑な気持ちを抱いた。
毒を宮内、街中へばら撒いたのは追い詰められた徐奉であったのだろう。
彼は騒ぎを拡大するのを阻止するために宮内に戻ったはずだ。
少年から広まった噂を抑えきることが出来ずに、苦肉として毒を市街にばら撒いたのかも知れない。

結局のところ、あの蔵であった出来事が全ての事件に直結しているのだ。
もしあそこで馬元義を騙らずに助かる道を見つけることが出来ていたのならば
今の中毒者が大量に出た事件を防げたかもしれないと考えてしまうのは自惚れだろうか。

「それで、一刀殿は帝に跋扈する黄巾の賊の討伐を頼まれたのですよね?」

「うん、でもまぁ、賊を討伐しに行かなくても……」

「はいです。 “毒”の蔓延が蜂起の合図であるのならば、恐らく勝手に相手から突っ込んでくるです」

「だよな」

一刀と音々音は現状を整理すると共に、今後の確認をしあうように話し込んだ。
その時に気がついたことがある。
本体が持つ三国志の知識は、脳内の一刀の物よりも正確であることが殆どであった。
そして脳内の一刀達は、一度乱世を駆け抜けて身についた確かな経験と世界の知識があった。
この二つが、一刀がこの世界の誰にも持ち得ない大きな力であることに
音々音との会話の中で強く思ったのである。
 
本体は三国志のこれからの事象を覚えている限りで脳内会議に送り込み
それらの情報と、現状、今居るこの世界の情勢を鑑みて脳内の一刀達が議論を交わし
それを元にした対黄巾の戦略を聞かされた音々音が噛み砕いて細部を詰めていく。
時に音々音は興奮したように一刀との会話に熱を上げたが
大体の今後の目処が立つと、茶を一口含んでから音々音は一刀を見上げた。
何かを話そうと口を開いた直後、扉が開き室内に華佗が入って来る。

「あ、華佗、お疲れ様」

「おかえりなのです。 帝の様子はどうでしたか」

「ああ、ただいま。 まだ暫くは床に伏せて居て貰わなければならないが
 随分と体調は安定し始めたよ」

一刀と音々音の囲んでいる卓の真ん中に椅子を引き座ると
卓の中央に並べられた竹簡に目を落とす。
それらの内の一枚を手に取って眺めると、諸候の名前や官軍の資料などが書かれていた。
それを見ながら華佗は口を開いた。

「帝のことだか、今回は問題なく治る。
 だが、かなり奥深くまで病魔がこびりついていてな……1年か2年。
 とにかく近い内に、体調を崩してしまうだろう」

「そうなのか?」

「昨日ねねにも話してくれたことですね」

華佗は頷いた。
今言ったように毒の侵は深く、華佗でも完全な治療は難しいとのことだ。
次に体調を壊したときは、死の危険も高いという。

帝の生死は一刀達にとっても、他人事では済まされなくなっていた。
一刀も音々音も、今は劉協に仕えているのだ。
話を変えるように、華佗は手に持った竹簡に目を落として

「賊の討伐を頼まれたって奴の書か。 戦になってしまうのか?」

「おそらくね。 こっちがしたくなくても、向こうから蜂起してくると思う」

「そうか……多くの怪我人が出てしまうな」

「そうだな……」

「一刀はいいのか?」

華佗は僅かに顔を顰めてそれだけを呟いた。
彼の立場は医者であり、それ以外の何物でもないのだ。
大陸の趨勢に全く興味が無いわけではない。
彼にとっては乱がどう決着を迎えるかとか
今後の天下の行く末がどう転がるのかとか、そんなものはどうでも良かった。
華佗からすれば、怪我人がどれだけの規模で増えて、どれだけの人が助かるか。
そちらの方が大きく関心を呼ぶ。

こうした生き方が、ある意味で単純であり楽であるのを華佗は知っていた。
ゴットヴェイドーの道、それは人の命を救う事が至上であり
逆にいえばそれ以外のことは特に考える必要も無いということになる。
ゆえに、華佗は大陸を回って徹底的に人の命、動物の命、それらを救う事だけを命題として今まで旅を続けてきたし
それを今後、覆すつもりは絶対に無かった。
幾ら金を積まれようとも、どれだけの権力が約束されようとも、だ。

だからこそ、華佗には若干の遠慮があった。
一刀があの場で天の御使いを名乗ったことは、帝の治療に必要なことだったと華佗は考えている。
自分が疲労で気を練れなくなり、一刀は“天の御使い”としての技を使わなくてはならなかったのだ。
それが切っ掛けで、彼は帝に頼まれた賊の討伐を請け負うことになってしまった。

友人である一刀が、自分の至らなさ故に乱へと首を突っ込むハメになったのだ。
少なくとも、華佗だけはその様に捉えていた。

「……まぁ、正直言って怖いよ。
 俺は一般人だからね……急に権力を与えられてもさ」

「ねねもその辺は同じように戸惑っているのですよ。
 諸侯からの反感も、多かれ少なかれ出ると思うのです」

「そうか、なんだかすまないな」

「華佗が謝るようなことじゃないって……」

何となく会話に沈黙が降りる。
手持ち無沙汰からか、音々音は筆を墨につけつつ無意味に振っていたり
一刀も一刀で水を飲んでみたり、肩を動かしてみたりしていた。

二人とも、今回の事に不安はあるのだ。
そんな様子を見ていた華佗は、明るい声を出して一刀へと声をかけた。

「そうだ、一刀。 目が覚めたら言おうと思っていたんだが
 あれだけの気を送ったんだ……爆睡していたこともあるし……
 俺の診察を受けてくれないか?」

「あ、それならねねは今の話を劉協様にお伝えする為に行って来るのです」

「そっか……うん、じゃあ華佗、お願いできるかな」


      ■ 続・誤り


随分と深刻な顔をさせてしまった、と一刀は思った。
診察をされてから数分、華佗は顔を思い切り顰めて腕を組んで黙ってしまったのだ。
どこか悪い病気なのかと心配したが、どうやらそうではないらしい。

服を脱いだ状態でそのまま放置されて、華佗は一人でなにやら呟いていた。
まさか、とか、こんな事は、とか。
どんなことだよ、と問い詰める雰囲気にもなれないので、仕方なく呆っとしていたのだが
答えは華佗の口からではなく、脳内の一刀達から返って来た。

『本体、話がある』
(どうしたの?)
『“肉の”の意識が戻らないんだ』
『今さっき、点呼してみたんだけどな。 “肉の”が何処にも居ない』
(えっと、一人消えちゃったってこと?)
『消えたのかどうかは分からないけど……』
『華佗って俺たちの事を、気で判断していただろう?
 それで悩んでいるんじゃないか?』
『一人の気が消えたからだね……』
(もしかして、皆も消えることってあるのか?)

この本体の問いは、今となっては切実な物になってしまった。
旅をしていた頃や、洛陽で仕事をしていた時ならば、むしろ居ないほうがアレも出来るし
特に生活が大変な時期は過ぎていたので大した問題でもなかっただろう。

だが、今となっては居なくては困る存在だ。
帝に賊の討伐を依頼され、それを受諾した時から。
いや、それ以前に徐奉と馬元義との邂逅から、本体は脳内の自分が居なければ
生きていられないと思っているからだ。

彼らの力なくして、今の本体は無かったのだろう。
脳内の自分達が消えてしまうのに一番の恐怖を覚えたのは本体であった。

「一刀、少しそこの寝台に寝てくれないか?」

「もしかして、気が変?」

「ああ……一応いっておくと、気が触れているという意味じゃないぞ」

「はは、分かってるって。 仰向けでいいかい?」

軽い冗談に苦笑を漏らして、華佗が頷いたのを確認すると、言われたとおりに寝台で横になる。
上着を脱いで椅子を引き寄せ、華佗は一刀の丹田の辺りを手で押さえた。

「一刀の身体なんだが、異常は何処にもなかった。
 ただ一つ、一刀の中にあって騒いでいた気が抜け落ちているんだ。
 人から気が抜け落ちるときは、すなわち死ぬときだ」

「えっ!?」
『『『『“肉の”が死んだ?』』』』
『待てよ、決め付けるのは早計だろ』
『けどさ……』
『俺達だって何で意識だけになっているのかは謎だ。
 いろんな事が考えられるだろ』
『……』

「一刀の気は、幾つもあるから一つくらい気が抜け落ちても身体に異常は無いかもしれない。
 それに、沢山の気があるから俺が見えないだけで気は存在するかも知れない。
 今から、俺は一刀の内に眠る気を集中して探る為の診察を行おうと思っている
 少し痛いのだが……」

「あ、ああ。 別にいいよ、頼むよ」

一刀が不安げに了承を返したのを確認して、華佗は自らも寝台へと登って袖をまくった。
右手に握られるは20cmはあろうかという太い針を持ち、左手には謎の液体が。
馬乗りになるように一刀の足を臀部で押さえつけて華佗は右腕を大きく振りかぶった。

「うおぉぉぉぉおお!」

「おぉぉおぉい! 待て! ちょっと待てっ!」

既に了承は取ってある。
華佗に、躊躇う要素は無かった。
何故ならば、これは治療の為の診察なのだ。

「内に眠る気よ! 我が気に答えてその姿を教えよ!
 一鍼同体! 全力全快!! 必察滴注!
 全てを曝せえぇぇぇえええ!」

「ぐっ!?」

華佗の針が、一刀の関元中へと一直線へ振り下ろされて
黄金の気が体内に沈むと、一刀の身体は呻き声を挙げつつ跳ねた。
じわり、じわりと身体の中に広がる何かが一刀の腹部から伝わってくる。
同時に、抗いがたい痛みを伴って広がっていった。

華佗は苦悶に呻く一刀を無視して、手元に糸を引き寄せると
素早く患部を縫合、治療。
もちろん左手で持っていた消毒液をぶちまけることは忘れなかった。
処置が終われば、今度は一刀に送り込んだ気に、華佗の持つ気を同調させるべく
身体を引きつらせて脂汗を垂れ流す一刀を押さえ込みながら覆い被さった。

「ぐぅぅ……こ、こんな方法しか無かったのか、華佗っ」
「すまん、これしかない。 俺の気は、じきに霧散する。
 それと同時に痛みも引くはずだ、悪いが耐えてくれ」
「や、優しく無いんだな、気を調べるってっ」
「すぐ終わるっ、頼むから動かないでくれ、調べにくい」
「そんなこと言っても……いっっつ」

二人の会話は実に真剣な物だった。
一刀にとっては頼りにしている脳内の、言わば自分の生死に関わることだ。
一方で、華佗も一刀の身体に眠る気は、医者として大いなる謎の宝庫である。
今回、この方法を取ったことは華佗にとっても大きな冒険であったのだ。

ただ、二人の声は防音処理の施されている部屋ではない。
外に居る人間には聞こえてしまう。
中途半端に。

「ぐぅ……こんな方法……華佗っ」
「すまん……俺の気は……同時にっ……耐えて」
「や、優しく……気を……」
「すぐ終わるっ……動かないで……」
「そんな……いっっ……」

こんな具合に。

話は変わるが、この部屋に入れる人間というのは限られている。
まずは一刀を“天代”と認め、華佗を“天医”と賞賛した帝。
そしてその娘、劉協……彼女に仕えている宦官の段珪。
この部屋で暮らしを営むことになった一刀と華佗、そして音々音。
他にも給仕や、離宮に居を構えている人間も居るが
現状では今挙げた人物が、部屋に入る事が許されているといって良いだろう。

そして、つい先ほどから劉協が音々音を連れ立ってこの部屋に入室したばかりであった。

「は、はぅっ……」

「りゅ、劉協様っ!?」

頭を押さえて、大仰によろめく劉協。
それを慌てて支える音々音。
本気で倒れそうになる身体を、ねねに支えられながらも何とか持ち直し
妙に動揺して扉の前でウロウロとし始める。

逆に音々音はというと、今すぐ扉をぶち破り事の真実を確かめに行きたかった。
仕える主が目の前に居て入ろうとしない為に控えてはいるが、それも何処まで持つかという感じだ。

「劉協様、とりあえず中に入ってみるのです」
「し、しかし、ああっ、ねね。 私はこの中に入る勇気がありません」
「ねねもそうですけど、真実は中に入るまでは判明しませぬ」

思いのほか落ち着いていた音々音に、劉協はやや自分を取り戻して深呼吸を行った。
隣の部屋から、ううっ、とかああっ、とか妙な喘ぎのような声が聞こえてくるし
自身の父を治療する前に行われた、一刀と華佗の濃厚なアレを見ているだけに
落ち着いて深呼吸は出来なかったが、それでも少しだけは冷静になれたのである。

「でも、ですが、もし、殿方の、その、一物を見ることに……それもズッポリと小ケツに入っていたらと考えると私ではとても……」
「だから、それを確かめに……いや、二人がそんな事をするはずがないのですっ!
 さぁ、早く入ってしまいましょう! 虎穴にいらずんば虎子を得ずなのです!
 こういうことは勇を持って何事も突撃、突撃なのですぞ、劉協様!」
「こ、こけつにいらずんば……ねね、ここは一度退散をしたほうが……」
「何を弱気なことを! 劉協様はねねが支えますからすぐに突撃を!」

猪全開の発言をかまして、音々音は彼女を急かした。
落ち着いてるようにみえて、しっかりと動揺している。
結局、似たようなやり取りを数十秒続け、彼女達は意を決して中へ踏み込むことにした。
そこで見た光景は。

一刀は荒く呼吸をしながら脱力したように寝台に寝そべっていた。
華佗は呼吸こそ荒くは無かったが、やや疲れたような満足そうな顔をして一刀の上から離れたところだった。
服もおおいに乱れており、特に一刀は半裸であったが一応着衣の状態でもある。
シーツは濡れているかのように独特の染みがあり、何故か血液のような赤い点が。
どちらも喋らず、それはそう、何と言うかこう、薔薇の花が咲いた後みたいな。

良く見れば、寝台の近くには針と容器などの治療具が目に入っただろうが
彼女達が余裕でそれらの道具を見過ごしてしまったのは、衝撃故だろう。

「ここここ、これは失礼致しました! 一刀殿、華佗殿、私が訪れたことは忘れてください!」
「ぅぅぅ、か、一刀殿ぉ、これは一体~~!」

この声が室内に響いて、初めて二人は劉協と音々音が部屋へ訪れていたことに気がついた。
何故か劉協は平謝りをして、本来頭を下げる立場の華佗と一刀は眉を寄せて不審がった。
何があったのかと音々音の方に首を向ければ、彼女は彼女でしきりに二人を視線で交互に追っており混乱していた。

「一体何をしていたのですか、寝室で」

「何って、診てたんだ。 分かるだろう?」

「見ていません! 見たのはその、状況証拠というかなんというか……」

「何を言ってるんだ? ちゃんと診たぞ、なあ」

「そうだよ、二人が何に混乱しているのか分からないけど、診て貰っただけだよ?」

「ね、ねねは一刀殿が普通であると信じているのです!」

「ねね? まぁ、俺は普通だと思うけど……一体二人ともどうしたの?」

「お二人こそ、どうしてそんな事を……それに見たか、見ていないかなど、女性に聞くものではありませんっ!」

「話が見えないな……ただ、俺は医者だ。 ああして診るのは普通だと思う。
 そこに性差なんてない」

「華佗殿は医療と称してその、男と関係を持つような方なのですか!?」

「先ほど言ったとおりだ。 男女で差別はしない」

「はうっ」

華佗の信念の篭った目で見つめられ、劉協は短く声をあげると左へフラフラとよろめく。
これは、決意した者の目だ。
誰にも止められない、確かな覚悟が力強い瞳となって如実に劉協へと説明していた。
目は口ほどに物を言う、という話が真のことであったのを劉協はこの時に理解した。

なんだかんだと華佗は一刀の内に眠る気を完全にとは言わないが
おおよそ把握することが出来た。
結果的には“肉の”の気は、途轍もなく弱ってはいるものの存在はしているとのことだ。
基本的に、気というのは病魔や寿命でなければ自然に回復していくとのことで
本体と脳内の一刀達は安堵の息を吐きながら、ため息も一緒に吐くという高等技術を披露していた。

ため息の理由は言うまでもなく、ようやく話が繋がった4人の会話で
音々音の誤解は無事に解けたものの、付き合いの浅い劉協とは
結局勘違いされたままであることだった。

今のところ劉協は、一刀と華佗の関係をキゴウがあるものとして見ており、盛大に見誤っていた。


      ■ 勝利の栄光を君に


劉協が訪れたのは、軍議が開かれる日時が決まったことを伝える為だったそうだ。
本来ならばこの様な雑事は、劉協ほどの身分を持つ者が言伝のために一刀の元へと訪れたりはしない。
身分もそうだが、立場的にも賊討伐を任された男の元に伝言をする皇帝の娘は普通居ないのだ。

つまり普通じゃない訪問をする理由があった。

それは、今後の彼女の身の振り方にも関わってくるものだ。
“天の御使い”として現れた一刀は、帝から“天代”の役職を貰っている。
その“天代”が勤めている場所は劉協の元なのだ。
形式上は帝の客将ということになっているが、実質的には劉協の下でということになっている。

それは離宮に居を構えたことや、一刀が接している人を考えれば分かることだ。
この場所に一刀が居を構えた事は、ある意味で正解であったと言えるだろう。
本人は知らぬ事だが、劉協の元には“天の御使い”に宛てられた大量の贈り物が届けられているのだ。
どんな経緯であれ、今は時の権力者である帝・劉宏に気に入られ厚遇している一刀に
自分を気に入られようと画策する者は沢山居た。

全て劉協の膝元でそれらの贈り物は処分されているわけだが
露骨に金銭を混ぜていた物もあり、それを見かけるたびに彼女は段珪へと愚痴を零したものだった。
彼女がこの場に来たのは北郷 一刀という人間が“天の御使い”という名声を得たからである。

彼女の持つ力は小さい。
一刀と音々音を除けば、自分の身の回りを世話する者だけだ。
段珪からは、既にこの話には関わるつもりが無いことを聞いている。
この部屋に居る者が、彼女の持つ力なのだ。

天の御使い、北郷 一刀。
そんな一刀について回る小さな智者、音々音。
残念ながら、華佗は誰かに仕えるつもりは無いとキッパリ断られている。
よって部屋に居るのは劉協を含めた三人だけだ。

「一刀。 この賊の討伐は成功いたしますか。
 包み隠さずにお話してください」

「まだ何も動いていないのに気が早いような気がしますが。
 勝てるか勝てないかってことですけど、分かりませんとしか言えないです」

「……」

期待していた答えが貰えずに劉協は眉を顰めた。
ここで言葉を濁したのは、一刀も音々音も官軍の質が分からない事にあった。
いくら諸侯の軍を集めるつもりだと言っても、実際に戦場で立つ兵士達は
圧倒的に官軍の数が多い。
洛陽に留まっている諸侯は全員参加するとの旨を事前に貰っているが
それら全てを合わせても、数的に官軍よりも少ないのだ。

黄巾党はその殆どが農民や圧制に苦しむ民であり、当然彼らの使う装備は貧弱だ。
軍での行動というものを知っている人間が一体どれほど居ようか。
その点だけ見れば官軍は負ける要素など無い。
そう、無い筈なのだが。

「この乱は世の中を憂い、今の王朝に不満を抱いた若者達の暴走なのです。
 戦いが長引けば別でしょうが、始まったばかりは気炎を上げて
 決壊した河川の如く、怒涛の勢いで洛陽へ向かってくると思われるのです」

音々音の言葉に続くように、一刀が補足する。

「それに当たって踏ん張ることの出来る精兵が、今の官軍に在るのかどうか、ということです」

偉そうに言っている一刀だが、ぶっちゃけ脳内の受け売りだったりする。
本体は軍略など知っている訳も無く、知識から引っ張り出して官軍の士気を憂いているのだ。

「官軍とて柔ではないと聞いております。 賊の討伐も今回が初めての訳じゃない。
 実力は信用できるのではないのか?」

「今までは、相手の数が少なすぎるのです。
 しかし、今回の乱は内応した者の数を考えても大きな規模になると予想できるのです。
 賊の討伐といっても、公表されているものでも万の規模には届きませぬ」

「そ、それでは此度の乱はそれを越えると?」

「ねねはそう予想するのです。
 ただの推測になってしまうですし、余り言いたくは無いのですが
 官軍を超える規模もあり得ると」

劉協は音々音の予測を聞いて絶句した。
少し大きい戦になるだろうとは彼女も考えていたが、それは今までのような討伐行の規模よりも
やや多いくらいだと勝手に思い、納得していたのだ。

今まで官軍が相手をした中、一番大きな勢力でも規模が一万を超えた物はそうそう無いのである。
あっても、昔といって差し支えないほど前の事である。
それはつまり、官軍は今まで兵法としての前提。
戦う相手よりも数に勝り、戦をしてきたということだ。

「それでも悲観する要素は少ないはずなのです。
 たとえ同規模の数が揃おうとも、我々のほうが軍という物について良く知っていますし
 装備も錬度も賊に比べれば当然、上ではあるのですから。
 短期決戦を許さなければ、負ける事はまず無く、勝てるとねねは思うです」

「そうですか……きっと父様も軽い気持ちで一刀に討伐を頼んだのですね」

『だろうなぁ』
『学級委員にプリントのコピーを頼むような軽さだったからね』
『仕方が無いさ。 あんな宦官が回りに居るんじゃな……』
『そこに疑問を持って欲しいものだけど』
『それが出来ないから、つまり、そう言われるってことだろ』
『うん……だよね』
(悪い人じゃ無いんだけどね……)

しみじみと脳内と会話を交わしていた一刀であったが
深刻な顔をして自分の重ねた両手を見つめている劉協に気がつくと
少し励ましてあげようと考えた。

「えーっと、そうですね。 まぁ官軍だって遊んで暮らしていた訳でもないんでしょうから
 きっと大丈夫ですよ。 なぁねね」

「調練を見てみない事にはなんとも言えないのですが、恐らくは」

「……一刀、貴方は元々は運送業の従業していた市井の者。
 もし無理であるというのならば、無理に参戦しなくても良いのですよ」

「お気遣いありがとう御座います。 でも、やるだけやってみますよ」

「そうですか……いえ、今のは忘れてください」

「ええ、きっと大丈夫ですよ、それに……」

この心遣いは、一刀にも嬉しいものであった。
自分を“天の御使い”という大層な肩書きではなく、一人の一般人として見て心配をしてくれているのが
ハッキリと分かったからである。
事情を知る劉協だから、と言ってしまえばその通りなのだが
変に持ち上げられてしまった感がある一刀にとって、そんな普通の気遣いが嬉しかったのだ。

実際、持ち上げられたというか自分から壇上に上がっただけなのだが
それはそれ、である。

言葉を途中で区切った彼は、音々音に首だけ巡らした。

「心強い仲間が隣に居ますから」

「か、一刀殿」

「くすっ、そうでしたね……では一刀、ねね。
 連絡があって、あと数刻で軍議を行うとの話でした。
 二人とも、それに遅れないよう参加してください」

「はい」
「はっ」

「漢を、よろしくお願いします」

「やってみます……精一杯。 行こうか、ねね」

「はいです! 失礼するのです、劉協様」

二人の声には答えず、劉協は頭を下げ続けた。
この戦の如何によっては“漢王朝”が倒れることになる。
負けることは論外。
劣勢であってもいけない。
それは漢王朝に降りた“天代”が指揮するデメリット。
漢の先を照らす“天”が、失われることを意味するからだ。
民から見える天が、蒼から黄へ移ってしまうからだ。

勝たねばならない。
それも、出来れば圧倒的な勝利を。
そうすれば、漢王朝は未だ健在だと示すと共に、彼女の元に転がり込んだ“天”が新たな龍となって
劉協を、漢をまた支えてくれるはずなのだ。

一刀と音々音の出て行った扉をじっと見つめ、自身の手が固く握られ汗ばんで居たことに気がついたのは
二人が立ち去ってから随分と後の事であった。


      ■ ぼそり


軍議が開かれる事を知った一刀は、この場を開くに当たっての様々な雑事がある音々音と別れて
一足先にと大きな会議室のような場所まで来ていた。
床も壁も綺麗に清掃されており、資料のような物が机の上に置かれており
予想以上に清潔感が溢れていた。

部屋を畳と障子に模様替えをして、家紋などをぶら下げたりすれば
一刀のイメージにある将軍と大名が話し合う物と、そう大差が無いように思えてくる。

さて、何処に座ろうかとうろうろしていると、面識の無い人に御使い様はこちらです、と案内されて
ホイホイと着いていけば一番立派な椅子と机が用意されており、地味に引いていた。
早く来すぎたせいなのか、まだ諸侯も誰も来ていないのは良かったと一刀は思った。
全員が集まっており、視線が集中する中でこんな上座にドカっと座る姿など想像できなかった。

一人で座っていても落ち着かないものではあるのだが。

座っているだけで待つだけの一刀は、ふと机に置かれた竹簡を手に取る。
どうやら軍議に参加する諸侯の名が連ねてあるようだ。

「皇甫嵩、何進……袁紹、袁術……ふむぅ」

流石に帝の命とも言える“天代”の声で集まった者達だ。
一刀にも分かる有名な方々が随分と書き連ねてあった。
ただ名前が書いてあるだけの物であるはずなのに、それを見ているだけで一刀はテンションが上がって来た。

『随分と楽しそうだな、本体』
「はは、だって有名人に会えるような物だからね」
『軽いなぁ。 分かってるとは思うけど、“天代”は本体なんだよ?』
『でも、何進さんとは俺も初めて会うから少し楽しみと言えば楽しみだな』
『孫堅様の名もあった。 もう一度会えると思うと確かに嬉しい』
『董卓も……月も来るのかな』
『どうだろうね、詠だけかもしれないけど』
『まぁ、誰が来ても俺たちは会えないようなもんだけど……』
『言うなよ、皆言うの我慢してたのに何で言うんだよ馬鹿』
『ばーか、ばーか』
『うわっ、いきなりレベル低くなった!?』

「そういえば、袁紹や袁術とは結局全然話せないで終わっちゃったもんね」
『うっ、あの時はすまなかった、本体』
『ごめんよ……』
『まぁ、本体も居る場所が悪かったよな、真ん中だったから……』
「次に二人以上乗っ取られる時は俺、絶対に今度は背後に壁を背負ことにするから」
『そのほうがいいね』
『ははは』
『ああ、そういえばさ、玉璽って二人のどっちかが持っていったんだっけ』
『状況を考えれば、ね』
「ああ、そっか……普通に忘れてたなぁ、玉璽」

そう呟くが早いか、入り口の扉が開いて印象的な金色の鎧を見に包んだ袁紹が入ってくる。
その後ろに3人の共を引き連れて、堂々と自分の席を探し、そこにドッカリと座る。
おずおずと座る一刀とはまるで正反対。
むしろ、何故自分が上座に座れないのかと案に言われているくらいに堂々とした入室であった。

本人的には隠れてやっているのだろうが、チラリチラリと一刀の方を見ながら隣に居る女性とボソボソと会話を交わしていた。
一刀の方も、ジロジロと見るわけには行かないので顔はそのまま、目線だけを動かして確認していたのだが。
ただ、気になったのは袁紹と話している女性と共に居る二人の武将らしき人たちが
何でか顔を青くして落ち着きの無い様子で手をさすったり、閉じたり開いたりしていたことであった。

(袁紹さん以外の人、知ってる?)
『ああ、今、彼女と話し合ってるのが田豊さんだよ。
 洛陽で知り合ったってことは知ってたけど、この時から仕え始めてたんだなぁ』
『後は、俺達も知ってる。 黒髪の子が顔良、活発そうな子が文醜だ』
(ま、また凄い有名人の名前が並んだなぁ)

一人で感心して唸って、彼女達の様子を改めて見やっていると
今度は部屋の奥にある扉が開いてこれまた見覚えのある顔が現れたのである。
袁紹と共に見かけた小柄な体躯、小動物を思わせるような動きをしつつふんぞり返って
自分の席を部下に案内させて、やはり堂々とどっかり座った。

何となくそれらの行動全てを目で追っていた一刀と袁術の視線が交差する。
瞬間、彼女の顔は恐怖に染まったかのように青ざめ、隣の少女にビシっと身体をくっつけた。

「な、七乃ぉ~、こんな場所に化け物がおるのじゃ~」
「み、美羽様、落ち着いてくださいね~、あれは化け物じゃなくて人間みたいですよ~、一応」

「一応って……」

「ちょっと美羽さん。 少し黙っていなさいな、見苦しいですわ」
「む……むむぅ」

袁紹に言われて頬を膨らませながら、袁術は一刀の方をゆっくり見やった。
相変わらず顔は青い。
そこで初めて、袁術は一刀の全身をじっくりと見た。
凄い見た、もう上から下までじっくりと。
ガン見である。

「本当なのじゃ、これは人間なのじゃ」
「そうですよ~、多分きっと恐らく同じ顔した別人なんですねー
 上と下が別々に動く、からくりみたいな変態人間がそうそう居るわけないじゃないですかー」
「うんうん、七乃の言う通りなのじゃ! はぁー、良かったぁ、前の化け物じゃったらどうしようかと思っていたのじゃ」
「そうですそうですっ、簡単に嘘っぽい事を信じられる美羽様さすがっ! 大陸一の器量です!」
「わははは、もっと褒めてたもっ!」

一刀は一連の流れに呆気に取られていたが、脳内の一刀達は、なんとなく苦笑めいたものを浮かべただけであった。
本体がハッと気がついたのは、袁紹が机の上を人差し指でトントンと苛ついたかのように
往復させた音が響いたときであった。

「まったく、くだらない漫才を見せ付けないでくれないかしら」
「あたい達も、あんまり変わらない時あるけどなー、なぁ斗詩」
「う、うん……そうかもね」
「何か言いまして?」
「「いえぇ、別になにもー」」

「……なんか、想像していたよりも随分軽い雰囲気なんだな」
『いやまぁ、その、なんだ』
『否定できないのが困るところだ。 別に不真面目って訳じゃないんだぞ』
「う、ううむ……そっか」

そう言われても、見た限りとても信用できない言葉であった。
今ここに集まっている全員が、一刀を除いて男が居ないからというのもあるかもしれない。
まぁ恐らく、軍議が正式に始まれば、このような事もないのだろうと本体はとりあえず納得した。

『それより、この二人が先に来てくれたのはある意味でよかったな』
『そうだね、本体、それとなく玉璽をどちらが持っていったのか調べてみれば?』

脳内の自分に言われて、一刀は少し考えてから頷いた。
ぶっちゃけると玉璽の存在は、無いならないでその方が良いのではないかとも思う。
本体の知識から考えれば、玉璽なんて物は無いほうが余計な混乱を起こすだけの物なのだ。
しかし、今は黄巾の乱もまだ始まっている訳でもなく
玉璽が収まる場所は漢王朝であるのに間違いなかった。

現状を踏まえるに、現時点で一刀が玉璽を帝に返上しても特に怪しまれない。
むしろ、上手く扱えば有利になる可能性も秘めている。
まぁ、帝が持っていなければならない筈の玉璽が、何故井戸の前に放り投げられていたのかは謎であるが。

わざとらしく咳払いをしつつ、袁紹や袁術がこちらを見始めたタイミングを見計らって
一刀は芝居かかった様子で

「へっくしょん、ぎょくじ」

とだけさり気無く自然にボソリと呟いた、つもりである。

何を言ってるのだという風に首を傾げる袁紹と袁術。
ピクリと肩を震わせて固まる顔良と文醜。
特に先ほどまでと様子が変わらない田豊と張勲。
失礼ながら、本体は名家の二人がピッタリと息のあった首を傾げる仕草に微笑ましい物を感じていた。
重要なのはそこではない、と考え直して一刀は思う。

『『『『『袁紹だね』』』』』
半分の自分が確信してそう言って
『『『『『袁紹だな』』』』』
もう半分が同意を返した。

様子から察するに、袁紹本人は玉璽を持っていることを知らない可能性がある。
後で個人的に顔良や文醜達と話に行くべきかなと考えて、袁紹達の座る席に目を向けると
田豊がこちらをじぃーっと見つめているのに気がついた。
頬をかいて一刀は視線を外した。

結局、その後は音々音も戻ってきて、続々と諸侯が入室し始めたため
彼女が見続けた訳を知る事は出来なくなってしまったが。
全員が揃ったのは一刀が部屋に入ってから、約20分後。
錚々たるメンバーを揃えての軍議がついに始まった。


      ■ 外史終了 ■



[22225] 都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編2
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:6396809a
Date: 2011/01/05 03:15
clear!!         ~都・洛陽・先走り汁を抑えきれずに黄色いのが飛び出たよ編~


clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編1~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編2~☆☆☆



     ■ 虎がニヤついている


「ではこれより軍議を始めるのです」

“天の御使い”の隣に居る女性、陳宮という者の声から始まった軍議だが、
思ったよりも積極的な意見は出ずにそろそろと始まった。
題目は、近頃といっても既に半年が経過している賊の横行についてだ。
4ヶ月以上も前から諸侯が集まり件の軍議を幾度も開いてきており話し合って来たのだ。
彼女がこの軍議に参加し始めたのは片手で数えられる程度であるが
雰囲気や諸侯の様子は普段と別段変わりない。
違うのは“天の御使い”である男が居ることだけだ。

話し合いは続くが、特に目新しい対策が出るわけでもなく、かといって良い意見があるわけでもない。
一刀や音々音にとっては重大であると感じているこの軍議。
諸侯にとってはそれほど重要な物である感じていなく、むしろ面倒だという空気が出来上がってしまっていたのだ。
今回、こうして一人の欠席も無く諸侯が全員揃ったのは、“天の御使い”であり“天代”である北郷一刀という人間を
一目見てみようかという野次馬的な物が多分に含まれているからに他ならない。
そうでなければ、何時ものように集まっても実のある意見が交わされる訳でもなく
そのまま軍議は終わったことだろう。

「ふっ……」

「ん、どうした、堅殿」

「いや、面白い展開になったと思ってさ」

「うん? わしにも分かるように説明して下さらぬか」

「……私には、前の軍議と変わらないように思えますが」

孫堅は祭の言葉に肩をすくめながら、真面目な顔をして鋭い視線を向ける周瑜に薄く笑った。

性を周、名を瑜、字を公瑾。
誰が見ても美しいと言えるその美貌は、美周朗と称えられて久しい。
朗とはどういうことか、とか、余り持ち上げられるのも、とか本人は思っているのだが。
今日は長い髪をまとめて、掻き揚げており孫堅と黄蓋と共に軍議に参加させてもらっている立場だ。
並ならぬ知を持つ者と幼少の頃から評価されて、今もまだその能力は伸び盛りであるという。
吸収できそうなものは全て吸収しようと釣りあがるくらいに上がった目を見ていると
本人には失礼かもしれないが、孫堅にとって微笑ましい物を感じずには居られなかった。

それに、周瑜の言うことは実に正しいのだ。
何もなければ、これは何時も無為に時間だけが消耗される実のない軍議だ。
だが、常と違う点が一つだけある。
上座に座る人間が、大将軍として何進が座っているのではなく“天代”という謎の役職を貰った北郷 一刀なのだ。

「変わるかどうかは、天代様次第。 面白いじゃない? こういうの」

「うぅむ……わしの目にはただの儒子にしか見えませんがのぅ」

「同感です、“天の御使い”という名声も眉唾物です」

「ふふ、私は期待しているわよ、彼に」

「はぁ……」

特に根拠も無いだろうに、何故そんな自信満々に期待できるのかと周瑜は思った。
自分の仕えている主、孫堅が“天の御使い”という名声に踊らされることなどは無い。
どんな偉い肩書きを持っているからといって、その人の人となりまで保証する物ではないということは知っているはずだ。
孫堅がそんな物に振り回される人間ではない事は共に生活していく中ではっきりと分かっている。

「けど、彼に期待しているのが私だけってのも何か釈然としないわね……」

そう呟いた孫堅の顔を見て、黄蓋も周瑜もぎょっとする。
そして二人は同時に孫堅の口を押さえようとして、失敗した。

この笑顔は、良い事を思いついたという様な表情であり、彼女の危険信号なのだ。
面白そうな事と見れば場を引っ掻き回す事に躊躇いの無い、それは孫堅の悪癖といっていい。
口を塞ぐのに失敗した二人は、孫堅の口から飛び出す言葉がせめてまともであるようにと願った。

「皆よ、今まで同じような眠たい話を繰り返していても仕様があるまい。
 此度は天代殿も参加されておるのだ」

諸侯の視線が孫堅へと集まった。
何人かは顔を顰めて彼女へと怪訝な視線を突き刺していたが
臆することもなく、周囲をぐるりと見回してから孫堅は一刀の方に視線を向ける。

「さて、言い出しっぺであることだし、私から一つ訊かせて戴こう。
 天代殿、軍議の内容が今までの物とは違い、明確に討伐という文字が追加してあるが
 これは如何いうことなのか」

この言葉が飛び出して、諸侯には僅かなどよめきが広がり、黄蓋と周瑜は顔を顰めたり頭を抱えたりしてしまった。
孫堅の尋ねた事は、殆どの諸侯が気がついていた事である。
そして、討伐の二文字が踊っている以上は、この軍議が後の軍事行動に繋がる事が確定しているのは間違いなかった。

どこの陣営も、自らこの“討伐”という物に突っ込んでこなかったのは
下手に手を出して余計な苦労や責任を取りたくは無い、という思いがあるからに他ならない。
先に言して追求してしまえば、言い出しっぺである者が率先してやればよかろう。
そう言われてしまうのは目に見えていたからだ。

「今まで軍議に消極的であった孫堅殿が、いやに積極的ではないか」

孫堅の丁度隣で座っていた齢30を超えたかという感じの男がそう呟いた。
彼――劉表はこの時分は、何進の部下であったはずなのだが
どういう訳か既に荊州刺史として着任している。
彼を見た一刀は、イメージとはやや合わない程ワイルドな風貌だと思ったが
実際はこんなものなのか、と上座で一人、納得もしていた。

「おや? 別に消極的だったわけではない。
 今までの軍議は諸侯が揃って欠伸が出そうな世間話で終始しておったではないか。
 それに、言いたくない事を私が率先して言ってやったのだ。
 感謝される覚えはあるが、厭味を言われるとは思わなかったな」

「む……」

孫堅の挑発的な物言いに、劉表はやや顔を顰めたが、それだけで何も言い返さなかった。
話の腰を折られたからか、それとも別の理由かは分からないが
孫堅はやや不機嫌になりながらも、もう一度尋ねた。

「天代殿、討伐とあるからには戦になるのでしょうな?」

「はい、なります」

「一体何を根拠にそう言っておられるのですか」
「本拠地も分からぬ賊を討伐しに行くというのか」
「まさか捜しながらとは言うまいな、時間と労力の無駄でありますぞ」
「賊の活動は大陸の全土と言っても良い、それを根絶やしにするとでも?」
「今までのように諸侯がそれぞれの賊を押さえつければ良いではないか」

などなど。
短く答えた一刀を切っ掛けにして、一斉に周囲から声が上がる。
一刀と音々音は、事件の当事者であるのだから襲ってくる事は疑いようのない話なのだが
帝が倒れられた真相を知らない諸侯にとっては仕方のない事だろう。
世に横行する賊が、各地で一斉に蜂起して漢王朝を打倒しようなどとは考えてもいないのである。

この辺りは事前に話し合っていたので一刀は冷静に音々音へ続きを促した。

「根拠はあるのです。 これをご覧下さい」

音々音が提示したものは密書を写植で移した物である。
一通り、諸侯が目を通したのを確認してから一刀は口を開いた。

「これは賊……ここでは黄巾党と呼びますが、彼らと宮内に居る宦官との内応の証です」

彼の言葉に、周囲がざわめいた。
それが本当ならば由々しき事態であるからだ。
宦官の腐敗が進み、賄賂などの悪行が蔓延しているとの噂を耳にしていたがよりによって賊と通じるとは信じ難い話であった。
ざわめきが収まらぬ中、それに負けないような大きな声が飛んでくる。

「この情報は確かな物なの?」

凛々しい声が、董卓の傍に居た少女から聞こえてくる。
彼女は賈駆という。
人によればキツイとも取れる眼を、ことさら上げて一刀に鋭い視線を投げている。

「当然、確かな物でなければこの場所に挙げることなど出来ません」

「……そう」

「今回、討伐と銘打ったのはこの為なのです。
 ご納得いただけましたか、孫堅殿……うっ!?」

音々音に言われた孫堅は、実に満足そうな笑みを浮かべて頷いていた。
その顔は、酷く獰猛である。
猛禽類に似た視線を受けて、音々音は思わず顔を引きつらせた。

「まったく、地位ある者として情けないですわ。
 賄賂を受け取ったことでさえお馬鹿の極みだというのに」

「まったくじゃ。 小金で喜ぶ神経が分からぬのじゃ」

「まぁ、袁家ならば小金と言えるでしょうがね」

「子供のお小遣いにも満たないですわね」
「うむうむ、これについては不本意じゃが麗羽と同意見なのじゃ」

さも当然と言う様に頷く袁紹。
何故かふんぞり返る袁術。
諸侯の反応は、概ね微妙な目を二人に向けていた。
一部……いや、何人かはそんな二人を更に煽てていたりしたのだが。

「コホン、とにかく今までと違い消極的対策ではなく討伐することが加えられた理由は以上なのです」

「良く分かった。 これだけの大事、見逃すわけにはいかん。
 この情報が何処から来たのか聞くのは無粋かな?」

孫堅の言葉に、一刀は首を振った。
言って特に困る事ではない。

「俺が現場を押さえました。 内密に出会っていたところを偶然通りかかったんです」

「やはり面白いな、天代殿は」

「へ?」

関連性の無いことを言われて、一刀は思わず間の抜けた返事を返した。
そんな二人の様子を気にせずに、袁術の隣に座りそれまで静観していた皇甫嵩が
密書の写しを眺めながら短く告げる。

「写しではなく、実物を見たいのだが」

細身である彼だが、その体躯は意外とガッシリしており見た目以上に大きく見えるその容姿は
威のある人物であると言えた。
一刀は頷いて、音々音へと視線を投げる。
彼女も頷いて、箱に入れられた密書を取り出すと時計回りに諸侯へと手渡すよう話してから
皇甫嵩へと密書が渡る。

手渡した写しではない密書が諸侯へ渡るたびに、彼らは近くに居る部下、或いは諸侯同士でひそひそと会話が繰り広げられた。

「……内応した者の名の下に血判、ついでに字の癖が皆違う、確定じゃな」
「確かに、間違いなく本物の様です」

祭と周瑜がこそりと後ろで話しているのに満足そうに頷いた孫堅は劉表へと密書を手渡し
後ろに振り返ると面白そうに顔をゆがめて言った。

「ほら、面白い子でしょ?」
「堅殿、楽しそうですな……」
「だってほら、天代様を胡乱な眼で見てた諸侯が一様に驚きに眼を剥いてるのよ。
 たった一枚の紙で、面白いじゃないの」
「不謹慎です、孫堅様」
「相変わらず頭固いわね冥琳は……」

全ての諸侯の確認が済み、音々音の元まで密書が戻ると彼女は一刀に目線で問う。
頷いたのを確認してから密書をしまって口を開いた。

「討伐の名目がついた理由は分かってもらえたかと思うのです。 つきましては―――」

「あいや待たれよ。 その前に確認したことがあるのだが……」

それまで発言らしい発言をしなかった何進が手を挙げて話を遮った。
隣に座る何進の部下も、同じように手を挙げている。
どうやら、洛陽で官軍を取りまとめる、大将軍に任命されていた男から待ったが入ったようである。

「一つ不穏な噂を聞いておりまして、それの事実確認を天代にしていただきたい」

「不穏な動きとは何なのですか?」

「失礼だが、陳宮殿は黙っていて下され」

「なっ!」

何進の声に、音々音は声を荒げそうになった。
皇甫嵩はそんな何進を見て顔を顰めたが、彼は気がつかずに待ったをかけた皇甫嵩より前に出て
身振りを交えて口にした。

「天代は、その、黄巾党でしたか。 その幹部であるという噂があるのですが、どうなのですか」

「何進殿の言は私も思っていたところです。
 流れている噂だけならば天代である貴方を疑うことのない話でありますが、実際に目撃者がおります
 本物の密書を持っていることで、いっそう疑いは深まりましたな」

「そうだ、皇甫嵩殿の所に居る儒子が見ておったのだ! これはどういうことか説明して頂こう!」

(来たか……)
『『『『来たな』』』』

皇甫嵩と何進の言葉に、室内の空気が下がった気がした一刀であった。


      ■ ちょっと待って、今、北郷が何か言った


此度の軍議にあたり、一刀も何も考えずに参加した訳ではない。
むしろ、“天代”などという帝の代わりのような、良く分からない役職を与えられてしまった一刀は
これまでに無いくらい、この軍議に参加するに当たって頭を捻ってきた。

何進の言を信用すればだが、現場を目撃した少年は皇甫嵩に近しい人間だという。
やはり、あの逃げた少年は細部まで彼らに告げ口したのだろう。
実際に密書があることで疑いを深めたという皇甫嵩から信頼を得るのは難しいかもしれない。
一番、数の多い官軍を取り纏める何進や皇甫嵩から信を得られないのは厳しい。
“天代”にとって正念場である急所だということは分かっていた。

故に、彼は脳内に住む自分とも相談してどう対応するかを決めていた。

(うん、決めてる……後は俺が頑張れるかどうかだ)

「さぁ、答えて戴こうか。 納得出来るものであれば良いですが」

問い詰める何進を一瞥してから、一刀は諸侯を見回した。
一刀の答えに期待している者、疑いの眼差しを向ける者、興味だけで目を向ける者。
実に様々な反応を示していたが、誰もがこの答えに注目している。

一刀は一つ深呼吸すると、考え込むように顎に手をやってから口を開いた。

「良いですね、それ。 採用しましょう」

「はぁ?」

「その噂があるのは、何進殿や皇甫嵩殿の言う通り事実なのでしょう。
 それなら、俺は黄巾の幹部ということで行きます」

「認めるのか!?」
「何だと、天代殿は何を言っておられるのか分かっているのか!」

この言葉に諸侯はおろか、話を通していない音々音までもが目を剥いて驚いていた。
帝に信用され、帝の代わりとして置かれた“天代”が黄巾党と繋がっていますと宣言したに等しいのだ。
室内は驚愕に染まり、一刀以外の全てが思考停止に陥ろうとしていた。

混乱覚めやらぬ中、それに構わず一刀は続けた。

「俺は今から密会に赴いた馬元義という男の名を騙ります。 この噂が広まれば黄巾党は動き出します」

「ば、何を馬鹿なことを! 今すぐコイツを捕らえて処刑すべきだ!」
「何進殿、落ち着いて」
「天代様……貴方はその、黄巾党では無いということを否定していないわ」

何進の怒声が響いた。
そうだ、一刀は黄巾党であることを否定していない。
それは勿論、誰もがわかっている。

「わかってます、賈駆さん。 俺は黄巾党ではありませんし、噂が間違っていると言い切ります。
 ただ密会の現場に偶然居合わせたことも事実だし、皇甫嵩殿の儒子に見られたことも事実。
 命惜しさにあの場では黄巾党の幹部を名乗ったことも事実です。
 ならば、この事実のような嘘を戦略に組み込んでしまおうと考えました」

これが、本体、脳内共に話し合って決まった事である。
身の潔白を示す方法はある。
簡単だ、劉協に願ってこの軍議に参加して証言してもらえばいい。
それだけで一刀は疑われていようとも、ある程度の信頼をこの場に居る全員から得られる筈だった。
劉協の言葉を賜れば、疑っていても手の出しようが無くなる。
一刀の安全面でも、彼女が出張れば完全にとは行かないまでも解決する事だろう。

だが、一刀は劉協に出張ってもらう事は止めてもらった。
何も知らない人間が一刀に下す評価は、帝の命を救って権力を得た得体の知れない男である。
誰に聞いても何者なのか知らない、“天の御使い”などと不遜な事を自称している変人。
民草ならばともかく、諸侯ともなれば簡単に“天の御使い”を信じることなど出来ないのだ。
その考え方が間違っていないのを一刀はこの場の空気で確信している。

そんな男が劉協を使って言い訳をしてしまえば、劉協という帝の娘はそんな男を妄信する愚者に見えてしまう。
それは、今後自分の力を伸ばして漢という国を正そうとする志を持った劉協にとっては不利だ。
宮内の人間に味方の居ない彼女が、外の……つまりは諸侯に悪印象を持たれる事は避けなければならない。
劉協が味方にしなければならないのは、ここに集まる諸侯しか居ないのだから。

そして、一刀が諸侯に自分の存在を納得させるには、最早この道を選ぶしかなかったのである。

ようやく動揺が収まったのか、何進の席から声が上がった。

「戦略に組み込むと言うが、そんな必要はあるのか。
 討伐の為の軍をすぐに結成して、賊を叩き潰しに行けばそれで終わる話だろう」

それを契機に次々と諸侯の反応が立ち上がる。

「そうだ。 それに大陸の至る所に存在する賊に対して、天代殿が賊の幹部を名乗る事が
 どうして戦略になるのかをご説明していただきたい!」
「効果はあるかも知れないわ。 黄巾党が一つの組織として成っているとなればだけど。
 幹部が朝廷軍に紛れ込んでいることを知れば何かしらの反応は出るわ」
「仮定の話で戦略を練っても意味がなかろう」
「いや、しかしこの仮定はかなり真実に近いと私は思う」
「この反乱の話は、漢王朝に対する不満が原因だろう!
 組織として纏まっていることなどあるものか! 各地でそうした不満が爆発しているに過ぎん」
「断定するのは如何なものか。
 ここまで朝廷に食い込んだ、あまつさえ洛陽の官に内応の約束までさせる規模だぞ。
 組織で纏まっていなければ不可能ではないか」
「何なのじゃ! 何をいきなり盛り上がってるのか訳が分からないのじゃ、七乃、わらわにも分かるよう教えるのじゃ」
「はいはい~、今は他の方に頑張らせておけばいいんですよ~美羽様~、蜂蜜水でも飲みますかー?」
「まてまて、まず現実として天代殿が黄巾党であることを否定できなければ、我々は賊に踊らされるだけだぞ!」
「確かにその通りだ!」
「天代殿は今言ったとおり、戦略に組み込み賊の動きをこちら側から制御しようと言っておられるではないか
 一応、黄巾であることは否定していたが」
「内を疑いながら外と戦うのはご免だと言っておるのだ!」
「天代殿は帝に認められた者だ、そんなお方が黄巾党に繋がっているとは思えん」
「怪しいのは間違いなかろう」

「ああ、もう……子犬のようにキャンキャン吠えないで下さらないかしら?
 頭が痛くて叶いませんわ」

紛糾する言葉の応酬の切れ目、絶妙な間を縫って特徴のある声が室内に響いた。
まさしく、此処しかないと言った発言のタイミングである。
その声の主は袁紹であった。

「天代さんが黄巾党であるのかどうかなど、現時点で証明する方法を我々は持ち得ませんわ。
 そうではなくて? 誰か証明できるというのなら証明しなさいな。
 とりあえず天代さんに従ってみて、その動き方で賊かどうかは判断すればいい話ですわ」

「む……」
「手遅れになってからでは遅いのだぞ」

「ならば、手遅れにならないよう監視すればいいんですわ。 勿論、認めてくださいますわね、天代さん?」

袁紹が一刀へと振り向いて微笑みながら尋ねる。
それは現在進行形で信用を疑われている一刀にとって、断る術を持たない提案であった。
じっとりと手に汗を掻いていた一刀は、ゆっくりと頷いた。

(さすが、三国志でも存在感がある袁紹だ……ここは頷く事しかできない)
『『『『馬鹿な、あの袁紹が普通に会話している……だと……!?』』』』
『『監視か……』』
『あ、皆、これ多分……』

「これでよろしいですの? 田豊さん」
「はい、ご苦労様です麗羽様。 ご覧下さい、麗羽様の今しているご確認が微妙過ぎて誰も何もいえないようです」
「おー、姫さすがー」
「わー、さすがですれいはさまー」
「おーっほっほっほっほ、当然ですわっ、この袁本初のこの場における発言力は―――」
「確認を取らなければ完璧でした、麗羽様」
「あら、何か言いました田豊さん?」
「いえ、もう手遅れですので、だいたい完璧でしたので問題ありません」
「そう? 良く分かりませんが問題は無いんですわね」

(……えーっと、今のは田豊さんの差し金だったのか)
『『『『なんか安堵した』』』』
『『『俺も』』』
『……相変わらず可愛いなぁ、麗羽』
『ええー……』

今の一連のやり取りを、呆然と見送っていた諸侯であったが、いち早く復帰した皇甫嵩が
コホン、とわざとらしい咳払いをして周囲に響かせ彼に注目を集める。
皇甫嵩は全員の視線が自身に向いたのを確認してから口を開いた。

「ここで言い争っても天代殿の言を証明できないのは袁紹殿の言う通りだし、真実を追究するのも時間の無駄だ。
 密書が本物であるのならばなお更のこと、この様な事で時間を潰すわけには行くまい。
 監視を受け入れるというのならば、とりあえずは天代殿を信用することにしよう」

「馬鹿な、内に火種を残したまま進むというのか……」

劉表の言葉に数人の人が頷いていた。
微妙な雰囲気が室内に流れ始めていた。

「天代として皆様を統括する立場になった以上、裏切る事はありません。
 今はそれを信じてください。
 それから、今後は黄巾党の幹部が朝廷の官軍に潜りこんだという噂を流すようにお願いします」
(今後、諸侯の信用を得るのは大変だろうなぁ……)

そう言って無理やりとも、強引とも取れるように話を打ち切ってから
誰にも気付かれないよう短いため息を吐き出した。
諸侯の不安は、自分が黄巾党と相対した時、全てに勝たなければならないだろう。
負けて良い戦がある筈ないが、必ず勝たねばならない立場は精神的に負担が大きい。
一刀は、この時代に胃薬があることを本気で願った。


      ■ 話しているのは一刀“達”


室外から怒鳴るような声が聞こえると同時に、扉を開いて一人の兵士が飛び込んできた。

「何事か! 今は大切な軍議の最中であるぞ」

「申し訳ありません! 火急な報告がありましたので失礼致します!
 許昌の方面から多数の粉塵を確認しております。
 関所を突破して、物凄い勢いで洛陽へと近づいているようです!」

「何だと!」
「まさか、黄巾党か!?」

この言葉に誰よりも青ざめたのは一刀である。
同時に得体の知れない寒気が背中を走っていた。
確かに、音々音の言うように黄巾党の洛陽襲撃の可能性が早まるかも知れないという話は聞いていたが
幾らなんでも行動が早すぎた。
此処に居るすべての人間の眉間に皺がよった。

「規模はどの位なのですか」

音々音が尋ねると、おおよそ4万だと答えが返って来た。
その数字に、殆どの人間は絶句した。

「そ、そんなに居るのか? 見間違いではないのか?」
「報告では少なくても3万の規模だということです。
 途中ある関所も鎧袖一触で打ち破られたとか……」
「仕方なかろう、関所に配備していた官軍の数は少ない」
「むぅ……」
「すぐに、軍備を整えて対応しなければ……しかし4万とは」

立ち上がり、口々に話し合うのを尻目にして、一刀は音々音へとこっそり近寄って耳打ちした。

「ねね、どうする?」
「そうですな……考えるまでも無く、兵士を集めて官軍に当てるしかないのです。
 ただ、ねねの予想の通り、黄巾党の勢いは怒涛のようなのです」
「勢いを削ぐ事が第一か。 けれども兵数で負けてるよね?」
「負けてるのです」

そうなのだ。
今、すぐにでも出陣することが出来る兵士は少ないだろう。
報告によれば3万ないし4万はあるだろう敵軍。
しかも、士気は高いだろうと予測される。

こちらが無防備であるところに万を越える敵の奇襲に当たるようなものだ。
とてもじゃないが、普通に野戦を挑んで勝てるとは思えなかった。

『軍備が整った順に出陣するとか、そういう風に下手に戦力を投入しても逆効果だ。 専守防衛できる拠点は無いか?』
『そうだな。 手っ取り早く数の差を埋めるなら関所のような場所で篭るしかない』
「そうだね……何処かに篭れる場所は?」
「残念ながら、小規模な関しかありませぬ。 一番適している場所は長社の辺りですが
 其処まで向かうには距離と時間の関係で難しいのです。
 他の場所では、黄巾数万の賊を押さえきれる場所は無いですぞ」
『ないなら作るしかないな……』
『馬鹿、砦なんかを作るのに何ヶ月かかると思ってるんだ』
『陣でいい、絶対に避けて通れない場所に陣を立てればいいんだ』
『普通に陣を迂回しちゃうんじゃないか? ちょっと洛陽周辺は平地が多すぎて逆効果だ』
『そうだ……周囲を使えないかな?』
『! なるほど、良い考えだ“魏の” 本体、ちょっとねねに確認してくれ―――』

こうした会話を繰り広げている間も、時間は進む。
やがて、我慢の限界を迎えたかのように、何進が言った。

「とにかく、このまま黙って見ている訳にもいかんのだ。
 出陣の用意が整い次第、迎撃に当たらねばならん」

「……では私の部隊だけでも先行しましょう。
 何進殿が預かる兵は、今洛陽を出て演習を行っているのでしょうし」

皇甫嵩がそう告げて、部下の朱儁に声をかけて部屋を飛び出そうとした。
音々音と対策を話していた一刀が、彼に気がついたのは偶然だ。
慌てた様子で彼は皇甫嵩へと声をかけた。

「待ってください、皇甫嵩さん!」

「む……天代殿、なにか?」

「今動かせる官軍の数は?」

「……」

振り向きながら答えた皇甫嵩は、僅かに逡巡して、黙った。
彼も……いや、むしろ彼が何進と同じくらい、北郷 一刀という存在を疑っていると言ってもいい。
兵数を聞きだそうとするのは、上に立つ者として当然のことなのだろうが
その当然の事が、皇甫嵩をして教えるのを躊躇わせたのだ。

「教えてください、皇甫嵩殿が黙する理由は無いのです」

「皇甫嵩殿、貴方が先ほど信じると言ったのは嘘だったのかな?」

「むぅ……今すぐ出陣できるのは六千ほどだ。 四千は休息を取っている」

音々音と孫堅に言われ、短く呻くと皇甫嵩は数を告げた。
それを聞いた一刀の反応は、やはりこの場に居る全ての人間を驚愕させた。
皇甫嵩に対して、頭を下げたのである。

「なっ……一体何を……」

「すみません、少しで良いのです。 俺の話を聞いてもらえませんか」

正直言って、一刀の立場はこの軍議の中で一番高い位にある。
そんな男が頭を下げたのだ。
皇甫嵩は否を言えるはずが無かった。

ゆっくりと頷いた皇甫嵩は、一刀の元へと歩み寄り
一刀もまた皇甫嵩へと近づいて耳元に囁いた。

「洛陽から最短の道で100里ほどのところに兵五千を用いて防衛陣地を築いてください。
 敵と当たるのは騎馬兵のみ、千だけでお願いします」

「……っ、馬鹿な事を。 四万の賊を千で相手にしろと!?」
 
「要はゲリラ……えーっと……遊撃戦、かな。
 足止めや警戒以外では下手に手を出さないで下さい。
 中途半端でも何でも、足止めの防衛ができるくらいの兵数の確保と陣地の構築を最優先で取り組んでください」

「っ、分かった。 天代殿の言う通りにしよう」

飲み下すように、皇甫嵩は大きく息を吐き出して一刀の提案に頷いた。
資材の準備や援軍の話を一通り終えると、足早で軍議の場を離れていく。
その話を隣で聞いていた董卓軍の軍師、賈駆が疑わし気な様子で聞いた。

「平野部の多い洛土地で陣地を構築? 
 洛陽が狙いだというのに、相手に迂回されないとでも思っているの天代様」

「迂回はしないのです。 黄巾党の目的は洛陽の陥落。
 最短距離で一直線にこちらへ向かってくるはずなのです」

「ですが陳宮殿。 築かれつつある陣を見れば、迂回の選択肢は馬鹿にだって出来るわよ」 

「そうはならないのです」

やけに自信のある回答に、賈駆は激しくその中身を聞いてみたい衝動に駆られた。
性格から、彼女は自分からそれをするのに躊躇っていると
自身の隣にいつの間にか来ていた袁紹の田豊と名乗る女性が声を挙げていた。

「“天の御使い”、そしてそれに仕える陳宮殿の打ち出した策を聞かせて欲しいですね」

渡りに船とばかりに賈駆も頷いた。
孫堅の席の奥に座す、周瑜も耳をひくつかせている。

「そ、そうね。 聞かせて欲しいわ」

「問題ないのです。 これから共に黄巾党へと当たるのですから、全てお話するのです」

「ねね、話し合いはもう少し後で。 とりあえず皆さんは自分の席に戻ってください」
「―――っ、分かったわ、後で必ず聞かせて貰うわよ」
「はいなのです」

賈駆に限らず、殆どの人間が何かを尋ねたそうな顔をしながら自分の席へと戻っていく。
その様子は、さながら国会中継で見た委員長へ詰め寄る議員を連想させた。
全員が席に着き、喧騒が止んだのを確認してから一刀は口を開いた。

「今から俺と音々音が考えた洛陽へ向かう賊への対応を話すので聞いてください。
 質疑応答は話し終わってからお願いします」

この一連の出来事の最中、地味に“蜀の”や“無の”、“呉の”などと交代していた本体は
突く言葉を淀みなく口にした。


      ■ 夕が射す廊下


軍議が終わり、様々な事が取り決められた。
皇甫嵩への援軍は何進と袁紹、袁術から軍を出すことになった。
これは単純に、数字の上で多い順であった。
この援軍が辿りついても官軍は2万強にしかならず、それで黄巾党の猛進を止めなければならなかった。

資材の運搬は劉表と孫堅が対応することになっている。
陣地構築の為に、取り急ぎ軍を纏めて皇甫嵩の造る陣の場所まで物資を運ばなくてはいけない。
劉表に物資を運んでもらい、孫堅軍でその護衛を頼んでいる。
兵糧なども此処で一気に運んでしまうことになっているので兵站を担当することになる。
とても重要な役回りであった。

一刀としては、孫堅と劉表を一緒に行動させるのは嫌だったのだが
今はそれほど不仲でもないのか、協力して事に当たるのに反対するような素振りは見えなかった。
あの二人は、史実で争っているため出来れば別行動をさせたかったのだが。

物資が届いて、陣地を構築している間に黄巾党はどれだけ距離を詰めて来るだろうか。
何進将軍の援軍が間に合わなければ、皇甫嵩は数的不利により為すすべなく討ち取られてしまうだろう。
援軍が合流に間に合っても、数の差が覆る訳じゃない。
諸侯の出陣の準備が終わり、本隊が辿りつくまでにどれほどの損害が出るか。

二階建ての渡り廊下から落ちる夕日を眺めながら、一刀は苦笑した。
半年前は部活の準備はとか、明日はテストだ、とか悩んでいた自分が
今では人の命を預かる問題で頭を悩ましているのだ。
歴史的な人物を相手取って、陳宮という智者と持論を展開し、それを今から実行しようとしている。

兵士が軍議に乗り込んで黄巾党が襲ってきたという話を聞いた時。
背筋に走った悪寒と、何とも言えない感情は“恐怖”であることに今更気がついた。
命を奪う、或いは奪われるという行為が眼と鼻の先にまで来ているという実感。
それに理解が至った瞬間、何もかも放り出して逃げ出したかった。
そも、自分は何のためにこの場に居るのか問われれば、全ては生きて帰るためだったはずなのだ。
どうして此処に居るのか。
生きる為に歩いた道は、酷く場違いな場所に辿りついてしまっていたのだ。
時代がそうさせたのか、それとも自身が時代に関わりすぎたのか。

「考えるほどの頭なんて持ち合わせていないってのに」

「悩み事ですか、天代様」

「いや……まぁ悩みといえばそうなんだけどね
 それと、公の場以外では天代様じゃなく、北郷とか一刀とかで呼んでいいよ」

後ろからかかる声、その主は顔良であった。
黒い髪に柔和な顔立ちをしており、動作の節々から女性らしさを感じる。
礼儀も正しいので、一刀は彼女が監視につくことには安堵していた。
厳つい筋肉ムキムキの男が傍に居るよりも、彼女のような暖かい印象を与えてくれる人のほうが心に優しい。
いや、彼女も彼女で見た目がこれでも大仰な武器を振り回す怪力少女な訳なのだが。
今のところ武器を振り回す顔良を見たことが無いので、可愛らしい女性と一緒に居るというのは
まぁその、純粋に嬉しかったりする部分もある。

顔良は“天代”の見張り役に選ばれてこの場に居る。
ようするに、一刀の監視役になったという訳だ。
単純に、他の陣営が武将を回す余裕がないので、袁紹軍が派遣したのだ。

「あ、そういえばさ。 玉璽のことなんだけど」

「ぎっくぅ……」

「……」
『分かりやすい子だね』
『うんうん』
『声に出して言う子は初めて見た』
『素直なんだよ』

「あの……御免なさい。 ちゃんと返します……」

「それよりも、すぐに使う事になるかも知れないから準備してて欲しいんだけど」

「え!?」

驚きをそのまま、怪訝な視線に変えて顔良は一刀を見つめた。
その顔にはどうしてなのか、とありありと描かれている。
一刀は微妙に自信の無さそうな顔をして答えた。

「さっきの軍議でも話したけど、今洛陽に居る戦力だけでは心許ないから。
 ここに来ていない諸侯にも援軍を呼びかけようと思っててね。
 この策が今回の戦の要になるだろうから、多分、恐らく」

「それは……えっと、つまり玉璽を使って?」

「そう。 勅令として二人に動いてもらおうと思っているんだ」

顔良は聞いて絶句した。
つまり、玉璽を使って二人を援軍として呼び出そうというのだ。
距離的に、確かに微妙ではあるが黄巾本隊とぶつかる時に曹操や丁原が援軍に来るには間に合う、だろう。
どちらも私軍を持っており、それなりに大きな規模を保有していることも顔良は知っていた。
援軍が間に合えば、数の差を埋めるという大きな助けになることは間違いない。

「し、しかしそれは職権の濫用になるのでは。
 帝の許可無しに玉璽を押すなど……」

『その帝が、俺達に丸投げしてるんだからなぁ』
『まぁ顔良さんが躊躇うのは無理ないよ』
「……まぁ、そこは“天代”であることを利用させて貰おうと思ってるから」
『ってことだな』

「うわぁ……あ、でもじゃあ、やっぱり玉璽は返して置いたほうが良いですよね?」

「いや、別に持ってても良いよ。 ていうか、俺が持ってるよりも
 顔良さんが持ってた方が盗まれなくていいんじゃない?」

張り付いた笑みを浮かべていた顔良の笑顔が引きつった物に変わった。
恐らく、彼女も玉璽を持ち歩くのは心身に負担をかけたのだろう。
というか、諸侯に見つかればどう言い訳していいのか分からないに違いない。
本心ではきっと、持ち去ってしまった事に引け目を感じていたのだろう。
街中で捨てるに捨てられず持ち歩いていた一刀には良く分かる話だ。

実際、一刀の監視の名目で一緒に居るのならば、考えようによっては顔良は一刀の護衛みたいなもんだ。
だって、自分よりも余裕で強い筈なのだ。
諸侯から猜疑の目を向けられているし、史実で宦官とも繋がっている何進も居る。
一刀がこの洛陽で襲われる可能性はゼロではない。
ならば、玉璽を持ち歩く事は一刀にとっても新たな火種になりかねないのだ。

つまり、一刀は顔良に玉璽を丸投げした。
ただでさえ黄巾党の乱に深く関わる事になってしまった一刀は
これ以上余計な負担を背負うのは嫌であったのだ。

「今も持っているのは、それを利用したいからじゃないの?」

「ち、違います……多分」

問われた顔良は慌てて首を振った。
彼女としては玉璽とは早く手を切りたかったのだ。
一刀から玉璽を持ち去ったのは、単純に在るべき所へ返そうと思ったからに過ぎない。
仮に玉璽を悪用しようと考えれば、彼女は自分の主である袁紹に隠していたりはしないだろう。
では何故、今もまだ彼女が持ち歩いているかと言えば、それは袁紹軍の軍師、田豊の言葉にあった。

「何かに使えるかもしれないから誰にも言わずに持っておきましょうなんて言うから~」

「そう……なんだ。 なんていうか、あの人も黒いね」

「黒いって……でも、そうなのかなぁ」

「じゃなきゃ帝に即刻返すべき物を返さないでおこうなんて言わないさ。
 まぁ有名な軍師だし、きっと先を見据えてたんだろうな……」

「有名な軍師? 確かに袁紹様はある意味で有名ですけど……彼女が有名って?」

「あ、いや、忘れてくれ―――っと」

「あっ」

前を見ずに歩いていた一刀は、ちょっとした段差で躓き転びそうになった。
傍に居た顔良が彼を支えて、転倒することは防がれた。
腕を掴まれて体勢を立て直すと、一刀は礼を言おうとして

「ごめん、ありが……とう」

言葉尻が萎んで言った。

「いえ……あれ?」

何故か顔良が泣いていた。
自分では気付いていなかったのか、一刀の様子を見てからハッとしたように
手で目元を拭っていく。

「ど、どうしたの突然、もしかして玉璽のこと?
 泣くほど嫌なら、俺が持ってるけど……」

「い、いえ違うんです、おかしいな、別に悲しくもないのに」

「えーっと……」

「あはは、変ですね。 なんか急に気分が盛り上がっちゃって、何だろうこれ」

『……』
『なんか、あったな、前もこういうの』
『最初は桂花の時だったよね』
『なぁ……もしかして、俺達のこと』
『馬鹿いうな、そんなこと現実であるかよ』
『でも、だって他に説明できないじゃんか』
『普通に考えてないだろ……彼女達本人だって分かってないんだ』
『う、うん……』

泣き止むまで律儀に待つと、顔良は落ち着いたのか恥ずかしそうにはにかんだ。
頬を掻きながら舌をだして、てへへと笑いつつ言った。

「人前で泣いたのって久しぶりです」

「そう、すっきりした?」

「はい、あの……なんだか北郷さんとは初めて会った気がしないですね、何でだろう」

「俺も、顔良さんとは話がしやすいよ」

「……なんか」

「え?」

「あの、北郷さんは黄巾党の人間じゃないんですよね」

やや首を傾げて尋ねる顔良に、一刀は苦笑した。
証明する方法は無いのだ。

「黄巾党じゃないよ。 今は物証が何もないから、俺をが言うことを信じてもらうしかないけどね」

「分かりました、私は北郷さんを信じます」

「ええ? いきなりどうして?」

「それは、なんででしょう……」

「えー……」

人差し指を顎にあてて眉を顰めて考え始める顔良に一刀は気のない返事を返してしまった。
OK,お前の話は信じるぜ、自分でも良く分からないけどな。
こんな感じで言われても、何がなんだか分からないのが本音である。
いや、信じてもらえることは嬉しいのだが。

そんな一刀の微妙な反応に気がついたのか、顔良は慌てて口を開いた。

「あ、なんというかその、信じられるかなって。 北郷さんは嘘をつくような人に見えないというか
 賊の幹部になるほどの悪意が見えないというか……うーん、言葉にすると難しいんですけど」

「無理に信じなくてもいいさ。
 信じてもらえるまで、誠実にやっていくしか無いからね」

「じゃあ、私の真名、北郷さんに預けます」

「ええ!? そんな理由で真名を預けていいのかい?」

「私が信じると言っても、北郷さんは確信できないと思うんです。
 自分自身でも、良く分からない理由で北郷さんを認めてしまったのに……
 だから、私の真名……斗詩って言うんですけど、それを預けることで信頼の交換をしようかなと」 

「……君がそれで良いと言うなら、分かった、受け取るよ」

その言葉にコクリと頷く顔良……いや、斗詩に一刀は短く返事を返して彼女の真名を受け取った。
同じように、一刀も下の名前で呼んでいいと言ったのだが、それは遠慮されてしまった。
一刀にも、公の場で真名を呼ぶのは控えてもらうようにと釘を刺される。
諸侯の居る前で親しげに名を呼び合うのは、自分の主である袁紹に不利になるかも知れないからと。

「それもそっか。 俺って皆から疑われてるしね」

「ごめんなさい。 真名を預けておいて公で言うななんて、変ですけど……」

「立場があるからね。 仕方が無いよ」

それから、袁紹の事や田豊の事。
顔良の親友である文醜のことを一刀は聞きながら、時に質問を交えながら
世間話をしていた。
親しげに話す様子を見つけた虎が、凄い笑顔で近づいていたのにまったく気がついていない二人であった。


      ■ 家の娘をファックしていいぞ

「うぐっ―――!?」

バシっと肩が抜けるほど勢いよく叩かれて、一刀は声にならない悲鳴を挙げた。
叩かれた場所を空いている手で押さえて振り向いた。
虎が居た。

「久しぶりだな、北郷殿! 覚えているか?」

「そ、孫堅さん、覚えてますよ、いきなり肩を叩かないで下さい!」

「なんだ、普通に叩いただけだというのに」

「……普通? 滅茶苦茶痛かったんですが」

覚えているかと尋ねられたが、そもそも覚えているに決まっている。
さっきまで軍議で諸侯と共に話し合っていたのだ。
その強烈とも言える彼女の弁は、良くも悪くも印象に残る。
忘れているとしたら、それは余程の馬鹿か軍議にまともに参加していないかのどちらかだ。

「それで、何か用ですか?」

「なんだ、急に不機嫌になって……ううん? ははぁーん」

「うっ、何でしょうか孫堅殿っ」

「言っておきますけど、彼女とは世間話をしていただけですよ」

呆気に取られている顔良を視線で追った孫堅に、ようやく肩の痛みが引いた一刀は先手を打った。
言いながら、一刀は孫堅に視線を合わせると、目線が自然に下へと向かっていく。
なんというエロさだ。
胸を覆う面積が、最早上だけという露出度である。

「……それで、何ですか孫堅さん」

「人の胸を見て話を進めようというのか、北郷殿は」

「あ、いや……その、それは私服で?」

「そうだが、何処か変か?」

「変じゃ……」

否定しようとして言うことが正しいのかどうか不安だった。
だって変だ。
少なくとも、現代日本で下乳丸出し、下腹部まで露出している薄地の服など無い。
あるかも知れないが、少なくとも一刀は知らない。
ぶっちゃけると、微妙に肌も透けているのでじっと見ていると活火山が活動を始めてしまいそうになる。
ついでに言えば、きっと背中はおっぴろげされているに違いない確信がある。

「別に変じゃないですよ、北郷さん。 というか鼻の下が伸びてます」

何故か突っ込んでくる顔良に苦笑を返して、一刀は改めて孫堅へと向かい合った。
斗詩が変じゃないというのだ。
きっと変じゃないのだ。 此処では間違っているのは自分の方なのだ。
そんな事を言い聞かせながら一刀は真面目な顔で孫堅の顔を見ると
今度は彼女も、茶化すような真似はせずに真剣な顔つきになる。

「で、なんでしょう」

「実は北郷殿に頼みがある」

「それは一体?」

一刀は劉表と何かあったかと勘繰った。
一応、軍議の場では争いのような物は見えなかったが、終わってから何かあったのかもしれない。
やはり史実の事を考えると二人の仲には不安があったのだが
孫堅の口から飛び出したのはまったく別の事であった。

「私の陣営に、周瑜という者が居るのだ。
 その娘に経験を積ませる意味を含めて、陳宮殿や賈駆殿との会話に参加させてあげたい」

「なるほど……周瑜、ですか。 もしかしてあの髪の長い女性ですか?」

「そうだ。 なんだ、良く見ておるな。 凄く可愛い子だろ?」

「そうですね」

「そうですか」

「あの、と……顔良さん、何か目が据わってるんですけど、何ででしょう」

「いえ、ちょっと女性関係にだらしないのかなって。 そう思っただけですので」

「誤解だって……」

「ははは、なるほど、手が早いのか北郷殿は。
 伯符や公瑾にはその辺を言い含めておいた方がよさそうだな」

「勘弁して下さいよ」
「ち、違いますよ、私は北郷さんに呆れてるだけですって」

何故か孫堅はクスクスと笑い出して、非常に気まずい思いをした一刀である。
周瑜の参加は、現状マイナスになるような事でもなく
軍師の間でも良い刺激になるだろうと、一も二もなく一刀は許可した。
だって、“孫堅”が加えて欲しいと言ったのは、恐らくあの周瑜である。
赤壁の戦いで超有名な呉の大督、周公瑾だ。
その事実を知る一刀は、この話を断ることなど愚の骨頂であった。

陳宮を筆頭軍師として、賈駆、田豊などの主だった諸侯の軍師が参加して
そこに周瑜という三国屈指の智者が加わったこの官軍。
そう考えると、負ける要素が無いのではないかと一刀は思ってしまうくらいだ。
勝たねばならない戦だが、一刀が何もしなくても何とか勝ってしまいそうな面子でもある。
武将として見れば、顔良・文醜の袁家二枚看板に加えて董卓陣営から華雄などが参加し
孫堅や黄蓋がおり、主だった有名武将だけでこれだけ名前が挙がるくらいだ。
某光栄的な三国志ならばゴリゴリ領地を増やせそうな布陣である。

ここが三国志の世界であり、この世界に降りてから現実が甘い物ではないことを
散々味わってる一刀ではあるが、こうした考えが浮かぶと何となく安堵してしまう。
なんとかなるんでは無いか、と。
少なくとも、先ほどまで張り詰めていた一刀の心は顔良との会話と孫堅の提案で
気持ちは幾分か楽になったと言ってもいいだろう。

「ありがとうございます、なんだか行けそうな気がしますよ」

「あれはまだ表舞台にさえ出ていない雛だがな。
 そう言われれば、こちらも提案した甲斐があったというものだ」

「母さん!」
「孫堅様!」

丁度その時であった、やや高い声が響いて一刀と孫堅が首を回すと
孫堅に良く似た格好をした女性と、先ほど話題にあがっていた周瑜が居た。

『雪蓮……!』
(……もしかして、孫策?)
『ああ、そうだよ、孫策だ。 ……真名だよ、雪蓮っていうのは』
『“呉の”』
『分かってるよ……二人きりだったら良かったんだけどな……』
(仲良くなれるように頑張るよ)

「二人とも遅いぞ。 何処で油を売っておったのだ」

「申し訳ありません孫堅様。 雪蓮が駄々をこねて……」
「ちょっと冥琳、速攻で親友を売らないでくれる、冷たいわよ」
「事実を捻じ曲げて報告するつもりはないぞ、特に孫堅様の前ではな」
「頭固いんだからも~、ってわけで遅れちゃった、ごめんね母様」

「ふ、まぁいいさ。 北郷殿」

「へ? 何?」

「それで、どっちが良い? どちらも味は良いだろうから好きな方でいいが。
 ああ、ちなみにこっちの馬鹿そうなのは私の娘で孫策という」

「は、はぁ……」

「馬鹿って酷いー、ぶーぶー……で、ねぇ冥琳、これ誰? 何の話?」
「立場は私達よりも遥か上のお方だ。 天の御使いである北郷一刀様だ。
 ちなみに何の話は分からんから私に聞くな」
「げっ、これが天の御使い!?」

「あの、聞こえてるんですけど……」

流石に『これ』呼ばわりされるのはご免であった一刀である。
思わずそこに突っ込んだのは、孫堅の言ったどちらを選ぶという不穏な言葉を忘れたかったからかも知れない。
当然、彼女は見逃してはくれなかった。

「ちゃんと答えを返してくれないと私も困るではないか、天代殿。
 それとも、二人ともにするか?」

「あの、孫堅さん。 えーっと余り聞きたくないんですけど、何の話でしょう」

「だから、どちらとまぐわうのか聞いておるのだ」

「「「はぁ!?」」」

「あの、そろそろ私帰った方がいいですか?」

一刀、孫策、周瑜の声がはもって間抜けな声を挙げて
それまで静観していた顔良が笑顔でそう一刀に尋ねてきた。
こめかみに青筋まで立てている。
一刀は経緯はどうあれ真名を預かった、彼にとって二人目の女性にいきなり嫌悪されそうになって焦った。
が、とにかく彼女の事よりは、まず目の前に居る孫堅相手に断りを入れねばならなかった。
そもそも、一体何がどう繋がれば孫策や周瑜とアレしろという話になるのか。
理解不能であった。

「あの、何でいきなりその、行為をしろと?」

「当然だ、我が陣営に天の御使いの血を入れようというだけの話でな。
 まぁ私の希望としては娘の伯符だが、別に公瑾でもいい」

「いや、だから何故……こういうことって本人達の希望もあるでしょうに
 それに、言っちゃなんですが、俺って黄巾の回し者っていう疑いがまだ晴れてないんですよ?」

「安心しろ、北郷殿。 私は北郷殿を気に入っている。
 もしも賊であるというのなら、苦しまぬよう殺してやるさ」

「……」

堂々と、そしてハッキリと悪びれも無くそう言われて一刀は絶句した。
何なのだろう、この人は、今何と宣言したのだろう。
本人に対して、賊だと分かったら殺してあげるなどと言うだろうか普通。
心で思っても、本人にそんな事言うものじゃない筈だ。
少なくとも、一刀の価値観ではそうであった。

「と、とにかく、本人達の心を無視して、その話は出来ませんよ」

「そうなのか?」

孫堅が怪訝な顔をして孫策と周瑜を見ると、彼女達は頬を染めつつ頷いていた。
ガクガクと頭を縦に振りまくっている。
何処かのロックバンドのライブに参加したかのようだ。
髪が振り乱れて大変な事になっていたが、あえて一刀は其処には気にしないようにした。

「まぁ、こいつらの事は別にいいさ、私が決めたんだから問題ない。
 北郷殿が胤を注ぎ込みたい方を選んでくれればいい」

「そ、そ、孫堅様、本気なのですか」
「ちょっと待ってよ、いきなり呼び出されてこんな事言われる身になってよ母様」

「何という殿様状態」
『しゅ、雪蓮から孫堅は滅茶苦茶だと聞いていたが、本当にその通りだな……』
『“呉の”は種馬扱いだったという話だが』
『いや、だってお前、雪蓮はまだ相手の心に配慮してたもん、これは強引すぎるじゃないか』
(本当だよ……)

珍しく本体が愚痴を一発。
心の中で呟いてから口を開いた。

「悪いけど、その話は断らせて貰いますよ。
 嫌がる人に欲情のまま無理やり組み敷くような人間でもないし」

「そうか……残念だな……」

凄くがっくりした、と身体全体を落としながら呟く孫堅。
どうやらこの話、本気も本気、マジであったようである。
違う意味で一刀の体は震え上がっていた。

「まぁ、いいか。 そうだ雪蓮。 お前はこのまま御使い様と共に過ごせ。
 冥琳は軍師会議に参加の許可を貰ったからそれに出ろ」

「え、本当ですか、孫堅様!」
「えー、なんで私がこんな男と一緒に居なくちゃならないのよ」

「礼なら天代殿にするのだな、冥琳」
「は、はい、ありがとうございます! 天代様」
「ちょっと、無視しないでくれる!?」

眼を輝かせる周瑜とは対照的に、孫策は頬を膨らませていた。
子供のように顔を膨らませ、やさぐれる彼女は容姿に比べて随分と年幼い印象を抱かせた。
まぁ、年甲斐も無く目を輝かせる周瑜にも似た印象は抱いたのだが。

「何故か天代は黄巾党だという疑いがかかってな。
 それの監視が名目になる。 一緒に過ごして隙を見て一気に襲って食え」

「本人の前で言わないで下さい、孫堅さん」

「なに、知らなかろうと知っていようと襲うのは決定事項だ。
 正々堂々と行こうじゃないか」

「決定事項なんだ、そうなのか……」

彼女にとって、これは最早一騎打ちの類の話になっているのだろうか。
だとすれば、彼女を止める役目が必要である。
一刀は真剣に孫堅という豪快な女性の対策を考えようとしていた。

「それでは失礼する、劉表殿の護衛をさぼる訳にもいかんからな。
 ああ、そうだ」

一度言葉を区切った彼女に、かなり身構えていた一刀であったが
今回は真面目な話だったようである。

「皇甫嵩殿が、追放された党人らが黄巾に流れないよう党錮の禁を解してほしいとのことだ。
 自分から言う暇が無い為に、取り急ぎ伝えてくれとのことだ」

「党錮の禁、か」

「確かに伝えたぞ、ではな!」

散々、場を騒がせた孫堅が力強い言葉と共に早足に遠ざかっていく。
一刀は皇甫嵩からの伝言に頭を巡らした。
党錮の禁、これは宦官の圧力で排除された集団の事を指している。
詳しい話は省くが、朝廷……というよりも宦官に排除された党人達は、かなりの不満を宦官達に抱いていた。
黄巾の乱に彼らが黄巾へ味方をする可能性は確かにある。
この事は完全に知識から抜け落ちていたため、皇甫嵩の助言はすぐさま実行しようと考えた。
敵を増やす必要は無いし、現状でそんな余裕もある訳が無い。
とりあえず其処まで考えて、所在無さげに突っ立っている孫策に顔を向けた。

「で、えーっと孫策さんはどうするの? 襲ってこないよね?」

「襲わないわよ、気にしないでいいわ、ちょっと母様って頭がおかしい所があるの」

「……えっと、ついては来るの?」

「ついていくしかないわよ。 あの状態の母様に逆らったら鼻責めされるかもしれないし
 もう、やんなっちゃうわ」

「……」

詳しいことを聞くに聞けない一刀は、最終的にはこの件については全てを忘れ自然体に任せることにした。
顔良、そして孫策と共に一刀は軍議をしていた屋を離れて、まずは劉協へ事の顛末を話す為に
離宮へと足を向けた。

脳内で一人、“呉の”がニヤついてはいたが特に影響は無いので放っておくことにしたようだ。


      ■ 小さな背中


夜。
既に皇甫嵩は6千の兵を率いて出陣した。
今は夜を徹して陣地構築の為に進軍していることだろう。
もしかしたら、兵を割いて夜襲を仕掛けるために別働隊を作って、早速黄巾党と当たっているかもしれない。
一刀は布団からムクリと起き上がった。

眠れない。
これから先、今日のように非常に慌しい日々が過ぎるはずなのだ。
寝なくてはいけないと思うのに、いざ横になってしまえば様々な考えが頭を過ぎってしまい寝るに寝れない。
それは根拠の無い漠然とした不安だった。

「……水が欲しい」

緊張することなどない。
自分は担ぎ上げられて何故か諸侯を率いる立場に居るが、歴史上は黄巾党に滅ぼされた事実など無いのだ。
戦術的に負けることはあっても、戦略的に負けることは在り得ない。

この世界が、一刀の知る三国志と同じ歴史を歩むのならば。

形や経緯はどうあれ、脳内の自分達も黄巾党に負けた経験は無いと言っている。
そうだ、負けるはずが無いのだ。
どんな形であれ、黄巾の乱の後も漢王朝は残るはず。
この一戦で潰えることなどは、無い。

「それを一番疑ってかかっているのは、俺か……」

「眠れないのか?」

隣で眠っていた華佗が、顔だけ向けて一刀へと尋ねた。
彼は苦笑して、水を飲んでくるとだけ言い残した。

歴史の通りに勝てる。
本当にそう思っているのならば、眠れるはずだ。
一人自嘲して、立ち上がると水を飲むために寝室から出た。
桶に溜まっている水を、柄杓のような物で掬い上げて口に含もうとした時にふと気がつく。
隣の部屋の扉の隙間から、僅かな光が漏れ出ているのを。

一頻り水で喉の渇きを癒した一刀は、覗くようにして部屋を垣間見た。
そこでは音々音が机に向かって、何かを考えるように腕を組んだ姿が視界に映る。
一度戻ってから茶の葉を取り出して、容器に注ぐ。
二つのコップを持って、一刀は静かに音々音の部屋へと入り込んだ。

背中を向けて机に向かっている音々音は彼が入室したことに気がついた様子を見せなかった。
こうして改めてみれば、随分とその体躯は小さい。
今日一日、精力的に動いてきた彼女が起き続けているのは何故か。
きっと、彼女も一刀と同じように不安があるのだろう。
だから、こうして夜も更けているのに机に向かっているのだ。
勝手な推測ではあったが、一刀はごく自然にそう思っていた。
時折肩を揺らして首が落ちるのはご愛嬌だろう。

「……うなぁー、駄目駄目なのですっ!」

「はは、お疲れ様ねね。 少し休んだら?」

集中力が途切れたのか、音々音は頭を抱えて机に突っ伏したのを見て
一刀は後ろから声をかけた。

「か、一刀殿!? い、何時の間に……」

「少し前からね。 なんだか集中していたみたいだから、声は掛けなかったんだけど」

「別に全然良かったのです。 文面は一行も進んでいなかったのですから」

肩を落として俯く彼女は、ただでさえ小柄な体躯が随分と小さく見えてしまう。

「賈駆殿も、田豊殿も、周瑜殿も、皆素晴らしい知を持っているのです。
 三国一だなどというつもりは無くても、多少なりともあった誇りが少し傷ついたです」

「刺激にはなったでしょ? 軍師の顔してる時のねねは楽しそうだもん」

「それは……まぁ、一刀殿の言う通りなのです」

恥ずかしそうにはにかんだ音々音に入れた茶を手渡しつつ一刀は書面に視線を落とす。
そこには大まかな戦場のような図解が描かれていた。
一口、茶を口に含みつつ書を手にとって尋ねた。

「これは?」

「我々が候補に挙げた陣地設営の場所なのです。
 皇甫嵩殿には既に手渡されていますので、それは防衛図を書いたものでもあるのですぞ」

「そっか……寝なくても平気なのかい?」

「……眠れないのです」

筆を銜えて唇を尖らせる陳宮に、一刀は微笑んだ。

「俺もそうなんだ」
「ん……一刀殿もですか」
「分かってはいるんだけどね、寝なくちゃいけないって」
「ねねも同じなのです。 なんというか、余計な事ばかり考えてしまって」
「そうだよな、ねねもこうして軍の手綱を握るのは初めてなんだろ?」
「うう、情けないのです……周瑜殿も、手綱を握る経験が無いというのに
 あんなにも堂々としていて。
 ねねはどうしても消極的に見える意見しか出せなかったのです」

そう言った音々音の体は震えていた。
それは他の陣営の軍師に劣っていたという悔しさからではないだろう。
勿論、それも含まれているだろうが、言葉の内容とは裏腹に音々音の声に険は含まれて居ない。
それは、同じ境遇に身を置いた一刀だからこそすぐに分かった。

恐怖だ。

意味の分からない恐怖感が、胸を突き上げてざわめくのだ。
それは、余計な事を考えさせて、安静を保たせない。
彼女の背中を見ていた一刀は思った。

この小さな背中に大きな物を背負ってしまった音々音。
そんな彼女の震える体を止めてあげたいな、と。

自分の体ですら言うことを聞かないというのに、何を思っているのかと思ったが
それでもこれはどうやら、自分の本心だったようだ。
なるほど、黄巾党と戦う理由は、なんだかんだと言っても、今この自分の目に映る人であったのか。

この世界で初めて自分に真名を預けてくれた人。
しばらくの生活は音々音に頼りきりだった。
何も知らないこの世界の常識を教えてくれて間違えば、諭してくれた。
この世界に訪れた自分が苦しいとき、常に傍に居て支えてくれたのはこの小さな背中であったのだ。
一緒に旅をして、嫌なことも楽しいこともたった半年といえども共有し一緒に過ごした
この世界で間違いなく自分にとって大切だと言える人。
命の恩人であるから一刀と共に居ると彼女は言うが、一刀からすれば音々音こそが命の恩人だ。

「なんだ、居たじゃないか」

「ん、何か言いましたか、一刀殿」

「……ううん、なんでもないさ」

そうだ。
ありきたりで古臭いと言えばそうかも知れない。
そんな映画や漫画でありふれた言葉が、今ではとても尊い物に聞こえる。

“身近な人を守る為”

それならば、今の境遇にも、今の立場にも、不満は抱いても納得はいく。
この漠然とした不安感にも、負けないくらいの勇が沸く。
何処にでも転がっていそうな理由が、一刀にとっては一番身近に在った。
それだけの話だ。

「ねね」

「なんですか?」

「黄巾なんかに負けたりしないさ」

「……? 勿論勝つつもりですぞ」

「ああ、勝とう。 俺は寝るから、ねねも早く寝なよ」

「そうですね……なんだか煮詰まってしまいましたし、今日はもう終わりにするのです」

ようやく机から離れて、音々音は凝りをほぐすように左右に首を振って肩を回した。
ふぅっ、と息を吹きかけて蝋燭を消してしまえば、月明かりだけが室内を照らす光となった。

「ああ、今日は満月だったんだな」

「あ、ほんとなのです」

「はは、それも分からないほど根をつめる事もないよな」

「ん、そうなのかも知れないですな」

お互いに視線を交わして、二人は笑いあった。
部屋に戻ることを告げて、一刀は音々音の部屋を後にした。

「寝れそうか?」

「華佗、まだ起きてたのか?」

「実際、あまり睡眠は必要じゃない。 一刀に貰った気が充満しているからな」

「……そうなんだ」

一刀は、どれだけ自分の意識体の一人が気を注ぎ込んだのかを思い出そうとして止めた。
何か不穏な映像が呼び起こりそうで怖かったのだ。
この恐怖感は黄巾の様には拭えそうになかった。

「それにしても、良い顔になった気がする」

「え?」

「眼が変わった。 何かあったのか?」

「……ああ、あったさ」

それだけ会話を交わして、一刀は布団の中へ潜り込んだ。
何があったのかなどと、無粋な事は聞かない。
華佗は暫く布団に潜り込んだ一刀を眺めてから、自分も同じように布団に包まった。

しばらく、二人の寝息だけが聞こえていたが、ふいに華佗の耳を一刀の声が打った。

「見つけただけだよ、守りたいものが」

(そうか……)

心の中で華佗は呟き、一刀は先ほどまで眠れなかったのが嘘のように
ストンと睡魔に身を委ねることが出来た。


この翌日の早朝から、一刀は皇甫嵩から送られて来た報告を受けて慌しく動くことになる。


      ■ 外史終了 ■




[22225] 都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編3
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:6396809a
Date: 2011/01/05 03:17
clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編1~



clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編2~



今回の種馬 ⇒     ☆☆☆~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編3~☆☆☆





「それで、これを、最優先で届けて欲しいんですよ」
「分かった、料金も随分多いしな、馬を潰してでも最速で届けてやる」
「お願いします」

一刀は勤め先であったの運び屋の店主の下へと訪れていた。
つまらなそうに店の中をうろうろと物色している孫策と
一刀の後ろに黙って付き従っている顔良を伴って。

「しかしまぁ、ちっと見ない内に随分出世しちまったな、一刀」
「はは、まぁ、自分でもなんだか良く分からない内にこうなっちゃいました」
「しかも、こんな綺麗どころを共に連れちゃってよぉ」
「ははは」

乾いた笑いを返して、幾つかのやり取りを終えると、一刀は頭を下げ店主と別れて店を出る。
綺麗どころ、それは否定しない。
顔良も孫策も、街中で出会えば振り返ってしまうほどの美女だ。
だが、どちらも一刀からすれば手を出すような勇気などあるわけが無い。

孫策は言わずもがな。
正直言って、一刀は孫堅に対して性格的に勝てないと思っていた。
実は殆どの人間が、孫堅を相手にしてまともで居ることは難しいのだが、それは一刀の知らない事である。
とにかく、一刀にとって孫策に手を出すということは
自ら蜘蛛の巣に突貫する蝶のようなものである。

まぁ、孫堅という人間を嫌っているわけではないのだが。
むしろ、余り天の御使いと敬わない姿勢は一刀を安心させてくれても居る。
上の立場に立つことに、まだ一刀は慣れていないのである。

顔良に関しても、袁紹という巨大な名家と深いつながりを持つ女性であるだけで
なかなかに対応が難しかったりもする。
一刀は劉協に仕えているような物なので、彼女に悪い印象をもたれると
袁紹を敵に回してしまいかねない。
顔良本人とは、それなりに良好な関係を築けていると思っているので
そこまで神経質になる必要はないとは思うのだが。

「ねぇ、御使い様。 どうして書を渡すのに民草の運び屋にまでわざわざ?」

「そっちの方が足が速いからだよ」

「ふーん……でもそれ、援軍要請なんでしょ?」

「そうだけど、良く分かったね」

「別に確信があった訳じゃないわよ。 ただの勘」

「もしかして、引っ掛けられた?」
『雪蓮は異常なんだ、勘が鋭いというレベルを超えてる勘を持っているんだよ』
『あー、分かる。 それ』
『戦場で嫌なところにしか出てこなかったのは、これが原因か』
『そうそう、一番嫌な時に嫌な場所で出てくるんだよなぁ』
『俺だけじゃなくて、お前らも涙目だったんだな……』

「そんなつもりじゃないわよ。 でも、それが何なのか聞いても良いかしら?」

「別に隠すような事じゃないから、構わないよ。
 ていうか、何となく目星はついてるんじゃないの? 孫策さんは」

「まぁ、多少はね」

肩を竦めて孫策は首を縦に振った。
本来、援軍の要請は然るべき手順を踏んでから、官史を派遣して請うのが通例だ。
いくら足が速いからといっても、諸侯との面会が出来ねば、どれだけ早く辿りついたとしても意味が無い。
民草のたかが一商人に会う暇など、基本的に偉い方には無いのだから。

その辺は一刀も勿論分かっている。
だが、彼はこの書は必ず届くと確信していた。
送る相手は曹操。
曹操の元には、荀彧も居る。
彼女には残念ながら嫌われてしまっているのだが、むしろそれが良い。
自分の名で差し出したとなれば放ってはおかないだろう。

「陳留に居る曹操へ、援軍をして貰うように頼んだんだ」

「わざわざ手紙を同封したのは何故なんです? 友人でもいらっしゃるのですか?」

顔良が横から顔を出して尋ねてきた。
そう、孫策が聞いたのもこの事だ。

「あれは、まぁ読んでもらう為の保険かな」

正式な援軍の要請書に挟むように、一刀の直筆で書かれた手紙を入れている。
どちらも玉璽で印を押してあり、天の御使いが北郷一刀であることをハッキリと示してある。
曹操も荀彧も、どちらも著しい興味を抱く確信がある。
要請書の方には曹操を、手紙の方には荀彧にと名を宛てている。
両方とも、一目見て分かるように玉璽の印が押されているのだから、彼女達には必ず届くはずであった。

そんな事を話しながら城門を潜り抜けると、三人の下に走って近づいてくる少女の姿が。
あれは董卓の元で知を奮う、賈駆という少女であった。
息を切らせて一刀の元まで走ってくると、一つ深呼吸してから声を挙げた。

「ちょっと、こんな時に何で町をほっつき歩いていやがるんですか、天代様」

「どうしても外せない用事があったんだ、ごめん……あ、そうだ、丁度いいや」

賈駆が一刀に会いに来てくれたのはある意味で渡りに船だった。
董卓と直接会いたかったので、彼女に取り次いでもらおうと思っていたのだ。
しかし、その事を一刀は口にすることが出来なかった。
先を制して放たれた、賈駆の言葉で。

「さっき皇甫嵩殿からの報告があったわ。 
 黄巾党への奇襲を行った朱儁将軍が―――」


      ■ 龍と鳳、波に揺られる


朝廷での軍議が喧喧諤諤としていた頃。
二つの小さな影が宛と許昌の間道をひた歩いていた。

紅いベレー帽の様な物を被り、短くまとめられたクリーム色の髪を左右に振る。
大きなリボンが荒野に良く目立っていた。
背中にはリュックを背負い、その荷物の両は小柄な体躯を隠すほどである。
そんな彼女は諸葛孔明と呼ばれている。
言わずと知れた三国志を代表する人物として名を知られ後世に名を轟かせる人である。

一方で、その隣をひたひたと歩くのはまるで西洋の魔女のような帽子を目深に被り
青い髪を二つにまとめて垂れ下げた少女だ。
同じく背嚢を背負っているが、こちらはそれほど目立つほどの大きさではない。
最近は司馬徽という人物から絶賛されて荊州で評判になっているそうだ。
名を鳳統、字を士元と言った。

二人は智者として名高い。
特に荊州では、司馬徽という者から絶賛されたという噂が広まっており、姿は知らずとも名は知れ渡るという具合であり
そしてそれは、かの人物評の通り疑いようの無い事実であった。
今の世に漫然と漂う王朝の腐敗、それが原因とする暴徒や賊の横行。
正直に言ってしまえば、二人の智者が出した結論として今の王朝は最早死に体であった。
そんな二人が広大で危険が満載の大陸を歩いている理由。
それは、崩れ去った龍の元に今更舞い降りた“天の御使い”と出会う為である。

一体どうすれば今の漢王朝を相手にそんな肩書きを名乗れるのか。
確かに、政治の内部を知らない二人の視点では見えないこともあるのかもしれないが
外から見てハッキリと駄目だと分かる部分が大陸の至る所で見て取れるのだ。
この国を、正常の形にするのは一度壊して直すよりも、遥かに困難である。
“天の御使い”が降りたのは何故だ、どうしてだ、まだやり直せるとでもいうのか。
華佗という天医との噂も、なんというかその、割と個人的なアレとはいえ。
一度気になってしまったら、もう駄目だった。

瞬く間に準備を整え終わると、二人は荊州を出て洛陽へと向かっていた。
示し合わせた訳でもないのに、孔明も士元も似たような思惑の元、自然に旅立ちの日を迎えて
そのまま飛び出してきたのである。

「でも、徒歩だと何日かかるか分からないね雛里ちゃん」
「やっぱり馬は手放さない方が良かったね」
「うん、でも路銀が無いんじゃそもそも向かうことも出来なかったからね」
「うん……」
「と、突然だったからね」
「うん……そうだよね」

そう。
あまりに性急に決めた出立であったので、彼女達は十分な路銀を用意出来なかったのである。
理由の半分が、書物による浪費だというのだから笑えなかった。
勿論、それは天の御使いに会おう! という出立を考える前に購入したものであるのだが。

結果、宛近くまでは馬での移動が出来たのだが
路銀が尽きてにっちもさっちも行かなくなった為に馬を売却。
それで得たお金でとある邑まで出ていた商隊に乗り合わせ、2日前から徒歩で移動している。
後悔が無いと言えば嘘になるだろう。
些か考えが足りなかったというのも否めない。
しかし。

「後もう少しで邑があるから、そこで商人さんが居れば乗り合わせよう?」
「そうだね、私達の足じゃ洛陽まで何時までかかるか分からないもんね」
「うん……でも、楽しいね」
「え? そうかな……」
「雛里ちゃんは楽しくない? こうやって歩いていると行楽に来てるみたいだよ?」
「うん、考えてみればそうかも、朱里ちゃん」
「だよね、きっと何でも気の持ちようなんだよ」
「あわわ、朱里ちゃんが大人っぽいこと言ってる」
「はわ、べ、別にそんなつもりで言ったんじゃないよ?」
「わ、分かってるよぅ」

本人達はそれなりに楽しそうではあった。
それも、すぐに終わりを迎えることになる。
邑も目で視認できるかという場所に近づいた頃だった。
二人は思わずそれまで咲いていた会話を、どちらともなく打ち切って邑の異変に視線を傾けたのである。

「……黄巾が翻ってる」

それはどちらが言ったのか。
孔明も士元も、どちらも自分の言葉だったのか、相手の言葉だったのか分からなかった。
ただ、目の前に迫る騎馬の集団が、こちらに近づいてきているのを眺めていただけだった。

逃げるには遅すぎた。
そもそも、逃げても逃げ切れるような体力は持ち合わせていない。
人と馬という、決定的な機動力の差もある。
逃げれば追われ、そして捕まる。

勿論、このままこの場に留まろうとも拿捕されるのは間違いない。
ただ我が身の安全性が高い方は、間違いなく後者だった。

「黄巾、最近噂になってる賊の目印だよね」
「うん……間違いないよ」
「……朱里ちゃん」
「……雛里ちゃん」

結局、賊と思わしき者が近づくまでに二人に出来たことは、互いの名を呼び合うことだけであった。


一見すれば普段の姿と何も変わらぬ姿。
特に争いも無く、特に喧騒も無く。
普段と変わらない平和の邑を映し出していた場所だ。
数多の黄巾が風にはためいて、小高い丘に元の住民と思われる死体が詰まれて居なければだが。

その邑は、ただ許昌近くの黄巾拠点から洛陽へと向かう道を直線状で結んだ場所に存在していた小さな邑だった。
この事実だけが、これ以上ないほど不幸であっただけに過ぎない。
瞬く間に黄巾に飲み込まれ、邑に住む人々は犠牲になった。
一夜を、この場所で過ごすというだけの話でだ。
勿論、万に及ぶ黄巾党全てを収容することは不可能だ。
この邑に居るのは黄巾党の中でも幹部、或いはそれに近しい将軍だけであった。

結果。

「波才様、不審な人物を連れてきました」
「不審な人物?」

「……」
「……」

「なんだこのチンチクリン共は」

余りな言いようにムっと来る朱里であったが、ここで余計な事を言って立場を悪くすれば
自分の命、隣に居る親友の命まで危険な事になる。
少し頬が膨れてしまったが、なんとか周囲にバレずには済んだようだ。

「それがですね、こいつら荊州から来た奴なんですが名が諸葛孔明と鳳士元なんですよ」
「諸葛亮、鳳統の名は荊州じゃちょっと有名でして」

そう報告を続ける黄巾を頭に巻いた男は、荊州の出身であった。
つまらなそうに二人の少女を眺める波才は、報告の続きを仕草で促した。

「波才様は司馬徽という人物をご存知で?」
「ああ、噂には聞いたことがある。 人物鑑定が正確で有名な書生だな」
「その司馬徽が、この二人の知を絶賛したという噂が荊州で広がっているのです」
「ほう?」

そこで初めて、波才は興味深げに孔明と士元を見つめた。
遠慮の無い視線に晒されて、孔明と士元は波才から顔をそらした。
まるで、その視線から逃げるかのように。

「お前ら、とても槍を持てるようには見えないが」

自身の脇に合った槍を掴み、波才は孔明へと近づいて無理やり手渡した。
当然ながら、このような重い武器を彼女は持てない。
下から掬い上げているにも関わらず、武器の重みに体は泳ぎ取りこぼしてしまう。

「あっ……うぅ」

ガランガランと、けたたましい金属音が部屋に響いた。
その様子を見て、波才は口角を吊り上げた。
武才を持たぬ者が絶賛される理由。
それは果たしてどのような者であろうか。
波才に報告した男の言葉が、やにわに真実味を帯びてきたのを実感する。

「そうか、なるほど……おい、お前」
「はっ」
「良くやった、そこの布袋を持っていけ。 金が入っている」
「おお、ありがとうございます!」

金の入った袋を引っつかむと、報告に来た男は嬉々として外へと飛び出して行った。
出て行くのを確認してから、改めて波才は二人へと振り返った。
その顔には先ほどまで見せていた厳つい雰囲気は無く、柔和な笑みが浮かんでいた。

「ようこそ、我が黄天の世を支える智者よ。 我等は二人を歓迎しよう」

「―――なっ!」
「わ、私達は―――」

「……盃でも交わすか? そんな面倒なことは良いだろう?
 血判状を押してもらうだけでいい。
 なに、我が黄巾には勇奮う者は数多く居ても知を奮う者は少なくてな
 今日という日に孔明殿と士元殿に出会えた事は実に喜ばしいことだ」

嬉しそうに微笑む彼とは対照的に真っ青になって、二人の少女は波才を見た。

黄天の世。
この単語だけで神算鬼謀の頭脳を持つ二人は気がついてしまった。
冗談でも何でもなく、この男は天、すなわち帝位を簒奪する、或いはそれに近しい大事を為す気であることを。
或いは誰か別の人間を仰ぐつもりなのかもしれないが、それは現時点では大した問題ではない。

何時の日か、それも自身が生きている内に不満から起こる内乱。
そして其処から続く血みどろの群雄割拠の日が訪れるだろうと予測していた二人であったが
この場で不満が爆発する現場に居合わせる事など予想だにしなかった事であった。

それは、先日首都・洛陽を存分に騒がせて瞬く間に広まった噂。
“流行病”が蔓延しているという話も、関係している可能性があることに気がついてしまう。
自然に発生したのではなく、目の前の男に、或いはこの黄巾党によって恣意的に起きた事件であることに。

果たして、それらを知ってしまった孔明と士元は
波才が此処から無事に逃がしてくれるなど到底あり得ない事にも察しがついてしまった。
だからこそ、彼は持ちかけたのだ。
死を選ばす、今の天を捨てて彼らが言う“黄天”を仰げと。

逃げ場など無かった。
鳳統は帽子を目深に被り、俯いてその小柄な体を震わせていた。
孔明も、同じような物だ。
実力で突破できるだけの武もない。
今この時を切り抜けるにはより良い将来のためにと研鑽を積んできた知も役に立たない。

孔明も、士元も志は同じである。
将来、国を立て直すほどの器がある人を主君に仰ぎ、積み重ねてきた知を主の下で奮うこと。
それが彼女達が出来る、世直しであると確信している。
決して、目の前に居る男に利用される為に来る日も来る日も勉学に励んでいた訳ではないのだ。

しかし。

「……分かりました、血判状を押します」
「しゅ、朱里ちゃん!?」
「ただし、雛里ちゃんの血判は取らないで下さい!」

それはもう、覚悟の上での言葉であった。
経緯はどうあれ、この黄巾の賊と血判状を取るということは彼らとの関係を示す揺るぎない証拠となり
朝廷の軍とぶつかって敗れた場合、処刑は免れないことになるだろう。
波才と呼ばれたこの男に、決定的な弱みを握られて骨の髄まで自身の頭脳を利用されることも必至だ。
最早、彼女は朝廷軍を自分の知で持って完膚なき勝利を目指す決意を今、この場でしたのである。
勝算は殆ど無い。
如何に腐敗が進む官軍が相手とはいえ、黄巾党は賊である。
装備、糧食、立場、風評、全てにおいて不利だと言える。
孔明の持つ頭脳を持ってして、勝てれば奇跡という答えしか出なかった。

現状をそこまで把握している訳ではないが、官軍がそこまで脆弱とは考えていないからこその答えである。

だからこそ、孔明は選んだ。
諸葛孔明という自分を贄として、鳳士元という鳳を生かすことを。

勿論、鳳統はそんな諸葛亮の思いを即座に見破った。

「待ってくだしゃい! け、血判状は私が―――」

「両方押せ」

にべもない返事が返ってくる。
しかし、ここは二人にとっても譲れないところであった。

「もし、二人共に血判を取ると言うのでしたら死を選びます」
「う、うん、朱里ちゃんの言う通りです。
 どちらも利用されるくらいなら―――」
「じゃあ死ぬしかないな……残念だが」

言い募る雛里の口は、波才の腰から引き抜かれた刀によって断たれた。
首筋に刃を当てられ、雛里の薄皮を一枚剥いで波才は孔明を見た。

「共に黄天を仰がないか、孔明殿」

唇を噛み締める。
その口の端には僅かに血が滲み、拳を作って震わせた。
交差する視線は、やがて逃げるように地面に落ちる。

「最後に聞くぞ、志を共にしないか」

警告するように促す波才に、しかし彼女は地を見つめるだけで答えなかった。
下手に答えてしまえば、胸に秘めた真の志が何処かに消えてしまいそうであった。
返答しない彼女に業を煮やしたか、波才はついにその腕を何も言わずに大きく奮った。
雛里の刃を見つめ動かぬ瞳、揺らぎの無い淀んだ波才の瞳、ゆっくり、ゆっくりとスローに迫る銀の光。
情景はやけに長い刻をかけ流れ―――瞬間、孔明の決死の覚悟はあっさりと崩壊した。

「分かりました! 二人共押します、押すから雛里ちゃんを殺さないでっ!」
「朱里ちゃんっ……」

我が身の命は捨てることが出来ても、親友という絆を切れなかったのだ。
それを分かって利用されている。
判るからこそ、悔しかった。

「……良し、ならば我等は同志だ。 存分に活躍してくれ」

首元に数センチまで迫った刃を引いて、波才は身を引く。
ペタリと腰を落として尻餅を付く雛里に、そっと近づいてその震える肩を支える朱里。
不安げな瞳を見つめて、朱里は首を振った。

その様子を一瞥しながら質の悪い分厚い紙を一枚引き抜くと、それを机の上まで持って行き名前を書く。
自身の親指を切り裂いて自分の名前の上にグッと押さえつけた。

視線で促されて、孔明と士元は、それぞれの名を書き血判を紙に押し付けた。
紅い判紋がしっかりと紙に滲み、ここに確かな三人の血判状が完成した。
それをしっかり確認してから、波才は紙を丁寧に丸め懐に収めてから
にこやかに笑って言った。

「さて、新たな同志に今の我々の状況と目的を話そうか。
 二人の助言に期待させてもらおう」

この世界で始めて龍と鳳凰を手に入れたのは、劉備ではなく波才であった。
二人にとって突然現れた黄色い黄昏は、闇夜の始まりであったのである。


      ■ 騎馬400


邑から10里ほど離れた森の中。
月夜に照らされて、鎧と戟、そして数多の馬と人が犇めき合っているのが見えた。
一際、大柄な男が腕を組んで俯き、忙しなく膝を揺すっていた。
男の名は朱儁。
大柄な体躯に似合う、大きく四角い顔に口ひげが顎からもみ上げまで繋がっており
見る人によっては体の大きさも相まって厳つさが目立つ物の、その顔立ちは柔和であり
そのギャップが溜まらないという人も居る程であった。

それはともかく、皇甫嵩将軍の信頼厚く、賊の鎮圧時には協力しあって官軍の中でも多く実戦を潜り抜けてきた
所謂ベテランの将軍だった。
しかし、そんな数多の戦を渡り歩いた朱儁も、今は落ち着かない様子を見せていた。
彼の元に息を堰切らした兵士が何人か近づいてきて、ようやく朱儁は顔を上げた。

「来たか」
「報告します」
「うむ」
「賊はおおよそ4万ほどで、邑を一つ占拠して一夜を過ごすようです」
「様子はどうであったか」
「は、特に警戒している様子はありませんでした。
 このまま夜襲を仕掛けても大丈夫なほど弛緩しております……」

朱儁は報告を聞いて顔を顰め、そして頷いた。
村の者は? とは聞かなかった。
そんなこと、聞くまでも無く殺されたに決まっているからだ。

皇甫嵩が足止めの部隊として選抜したのは朱儁将軍を筆頭にした精鋭騎馬400。
“天代”からの指令として出ていた最大数は1000であったが、皇甫嵩は防衛拠点の構築に重きを置いた事。
それに加えて、精細を欠く騎馬兵を除いて集めた数が400でしかなかった。

兵数の差は約100倍。
足止めにすらならない数字の差である。

「しかし……朱儁将軍、言わせて貰いますが、いくら夜間の奇襲、それも成功の可能性が高いとは言っても
 この兵数差は絶望的でございます」
「そんなことは分かっている。
 しかし、ここで敵が居ることを奴らに判らせなければ陣を構築する時間が稼げない」
「し、しかし……」
「戦いにならんというのなら、馬で駆け抜けるしかあるまい。
 それで何処まで相手が警戒してくれるかは判らんがな」

ため息を吐いて、朱儁は馬に跨った。
これはもう、生き残るだけの戦だった。
400の騎馬で持って、一気果敢に賊軍の合間を駆け抜ける。
ただそれだけが命がけになるだろう。

果たして、この中の何人が生還できるか。

一つ瞑目した朱儁は、次に目を見開いた時には先ほどまでとは打って変わって
精悍な顔付きとなった。

「乗馬!」

「「「「「「「「ハッ!」」」」」」」」

「「「「乗馬!」」」」

「「「「乗馬せよ!」」」」

低く、しかし周囲に完全に伝わったその声は力強く響き、伝播していく。
やがて、乗馬の掛け声が止み、全騎兵の準備が整ったことを隣の副官を横目で見て確認する。
それを受けて、朱儁は自身の腰にぶら下げた刀剣を引き抜いた。
同時に手綱を引き、一度振り上げると剣を進行方向に指し示して叫んだ。

「賊の鼻っ柱に当てて駆け抜けよ! 怯んだ敵を相手にはせず、ただただ前に突き進めぇい!
 全騎突撃ぃぃぃぃ!!」

オオオオオオォォォォォオオオッォォオオォォォオ!

大地を震わす、400の騎馬が目標に向かって突き進む。
この世界で始めて、大規模な戦の先端を切ったのは間違いなく朱儁率いる騎馬400であった。


      ■ 一兵でも


「しかし、あの有名な二人の娘っ子……胸が無かったな」
「子供に何言ってるんだ、まぁ胸が無いのは同意だが」
「世の中には巨乳な子供も居るらしいからな……」
「まぁ、小さい胸とか、笑えるくらいに価値がないけどな」
「おいてめぇ、地和様を出威素ってんのか」
「巨乳は母性、そして真理だろ、常識で考えれば」
「死ね母愛症候群」
「やんのかコラァ!」
「おい止めろよ、この前の公演で天和様の事件があっただろ。
 あれで巨乳派の声は大きくなってるんだから」
「くっそ、なんで地和様のあのあどけない胸部の魅力に気がつかないんだ、世の中狂ってる」
「やめろよお前ら、みっともない」
「そうだそうだ、俺のように全てを愛でれる男になれよ」

オォォォォオォォォォオォオオオオォオォ
何かが唸っているような声が聞こえた。
会話を交わしていた全員が同じように気がついたのか。
仕切りに周囲を見回して、しかしそれは何が原因で起こっていることなのか理解できなかった。

「な、なんだ……」
「お、おい。 波才様が仰ってたことって、もしかして此れの事か?」
「そ、そうに違いない!」
「不思議な事が起きたら、すぐに報告しろって言ってたな」
「よ、よし、俺が行って来る!」
「俺も行くぜ!」
「頼むぞ!」

彼らが慌しく会話を交わす間も、音は強く、激しくドンドン近づいてくる。
何人かが縺れるようにして足を動かし、その場を離れて行く。
そして、遂にそれらは闇を切り裂いて彼らの前に現れた。

「て、敵襲だぁあああ」

悲鳴のような声が響いて、周囲を揺るがした。
喧騒は波紋のように広がり、やがって大きな混乱を巻き起こす。

「道を開けよ叛徒共! この朱儁の前に現れれば即刻命を落とす物と思え!」
「駆け抜けろ! 賊を相手取る必要は無いぞ!」
「行けっ! 行けぇっ! このまま賊の巣を突き破って駆けぬけろぉ!」

「武器を取れ! 応戦するのだ!」
「うわあああ、止めてくれぇ!」
「敵は大群だぞ……っ!」
「き、騎馬兵だ! 逃げろぉぉ!」

混乱は加速した。
たかが400の数を大群だと勘違いし、殆どの者は圧倒的な馬による突撃に戦意を失い逃げ惑った。
乾坤一擲、駆け抜けることだけに集中した騎馬隊は、まるで人など居ないかのように黄巾の間を
矢のように駆け抜けていた。
運悪く進路に重なった者は、無残にも馬の圧力に吹き飛ばされて命を散らした。
その勢いは留まる事を知らず、奥地、奥地へと突き進んでいく。

「頃合だ! 火矢を番えろ!」
「火矢準備!」
「火矢準備ぃっ!」

「射てぇぇ!」

朱儁の号令が響き、次々に黄巾党の作った天幕へと突き刺さり
周囲に火が燃え広がった。
それらは黄巾党の恐怖を煽り、混乱を拡大させ、心身を強硬させた。

「行けるぞ!」

興奮をそのままに朱儁は叫んだ。
可能であればこのまま逃げ出したかったが、生憎と突撃している400騎もの馬の進行方向を変える事は容易ではない。
後はこの混乱が長引き、このまま徐々に進路を変えて駆け抜けることが出来れば良い。
先頭を走って兵を率先していた朱儁は僅かに緩んだのだろう。
邑の入り口付近を駆け抜けた瞬間に、彼は背筋に震えるものを感じた。

「こ、これはっ!」

開けている。
明らかに此処だけ、人の波が途切れ、不自然に空間が造られていた。
混乱によって自然に開けた場所ではない。
確実に人の手が入っている、意図的に作り出されたスペース。

「今だ! 奴らはわざわざ苦労して自分達から死地に入ったぞ!
 死にに来た馬鹿を歓迎してやれっ!」

一際高い建物の上で、一人の男が叫んだ。
思わず朱儁はその声に顔を上げる。
若い男であった。
少なくとも、朱儁よりかは10歳以上離れているかもしれない容姿だ。
夜の為、ハッキリとした顔は見えないが、あの男が賊徒を率いているに違いなかった。
その背後には、小柄な少女らしき人影がいた。
両者共、俯いている為に顔を見ることは出来ない。
果たしてあの少女達は何者か。
だが、それよりも、何よりもまず、今しなければならないこと。

「蒼天已死!」
「黄天當立!」
「蒼天已死!」
「黄天當立!」
「蒼天已死!」
「黄天當立!」
「蒼天已死!」
「黄天當立!」

前方より、居なかったはずの賊徒の群れが、地中から続々と現れたのだ。
恐らく、土を掘って潜っていたに違いない。
この夜襲は、初めから見抜かれていたのだ。

罠。
そうとしか思えなかった。
故にこの場は男の言ったとおり、既に死地。
留まる事は死を意味する。
そしてそれは、官軍の敗北となるのだ。
それは防がなくてはならなかった。
今しなくてはならぬこと、それは何としても、ただの一兵でも構わない。
この死地から生きて抜け出すことだけだった。

「ぬぅ! 全騎反転だ!」
「反転ですか!?」
「迷ってる暇は無い! 開いてきた道を戻るしか―――でぇぇい邪魔だぁぁああ!」

「く、くっく、見ろ、無様に狭い場所で踊るだけであるぞ、腐った王朝の犬が! ハァーハッハッハッハッハ!」

会話の最中に襲い掛かってくる男を相手に、朱儁は必至に戟を水平に振り、打ち払う。
黄巾と同じように、僅かに開いた邑の入り口で無様に反転し
駆け戻ろうとする朱儁を見て、波才は腹の底から笑いが込み上げてくるのを押さえきれなかった。
自分達に苦しみだけを与えてきた朝廷。
それが今、苦しめられていた自分達が逆に、富を溜め私腹を肥やしていた連中を苦しめている。
これを笑わずして何を笑おうというのか。

「死ねっ! 死ねぇぇ!」
「蒼天已死!」
「黄天當立!」
「ぬぅぅ、朱儁将軍だけでも抜けさせるのだ! 皆よ命を張れぇ!」
「朱儁将軍を守れ! 道を開けぇい! ぐうぅ!?」
「一人も逃すな! 俺達を苦しめてきた奴らの血で埋めろぉぉぉ!」
「殺せぇ! 一人も逃す―――ガッ!?」
「転倒した馬は盾にしろ! 朱儁様を中心に方円陣を組っ、がはっ!」 
「蒼天已死!」
「黄天當立!」

次々と騎馬を反転する合間に、賊徒の槍が、戟が馬に突き入れられ転倒し
その上から必死の一撃が官軍に降りかかる。
腕を貫かれ、目を貫かれ、腸を吐き出させた。
後ろから来る騎馬に押されて、そのまま転倒する者も少なくない。
先ほどまで黄巾党が上げていた闇夜に響いた悲鳴は、今度は官軍のみの悲鳴となって空気を振動させていた。
我を失ったかのように叫びを上げて襲い掛かる黄巾の兵士達。
それらは一人残らず、官軍を震え上がらせていた。

「……無理です、抜けられません」
「戻っても、同じなんです……」

狂ったように笑う波才の隣で、二人の少女が悲痛な声でそう呟いていた。
もしも、彼女達が波才に目を付けられる前にこの夜襲が行われていれば、結果は変わっただろう。

この死地を作り出したのは他でもない。
朱儁が目にした二人の幼い二人の手による物であったのだ。
自らが、この死地を作り出し、朝廷と完全に敵対したことを示す悲鳴が二人の耳朶を打つ。
最早、引けぬ場所へ来た。
お互いに、無念を抱えながらも、自らが引き起こした惨事を胸裏に刻み込むように
最後まで、最後までその光景を眺めていたという。


      ■ 手は打てるだけ


「そう……」

一頻り、報告を聞いた一刀は頷いて淹れられた高級な茶を一口含んだ。
足止めの為に割いた別働隊は、ほぼ全滅という憂き目にあったようだ。
数に大きな差があるのだ、敗走することは予想していたがほぼ全滅とは。
夜襲を予期されて朱儁が敗走したという事実に、しかし一刀は思いのほか冷静であった。
ただ、此処では見えないが確かに命を散らした人々が居る。
それだけが言い知れぬ恐怖を一刀の心にこびりつけていた。

『本体の言う通りだな、だいたい合ってる』
『やっぱり細部は違うみたいだけどね』
『そうだな』

そう、本体の一刀はこの事実を知っていた。
この報告は予定通りといえば予定通りだ。

「やけに冷静ね、もっと慌てると思ったのだけど……」

隣に座していた賈駆が眉を顰めて一刀を見た。
この緒戦、相手の足を鈍らせる為にも、また今後の戦の展開の為にも落としたくは無かった所である。
結果だけみれば、容易に官軍の先手を追い払った賊軍は気炎を上げることだろう。

「大丈夫だよ」

「……」

ため息を吐き出して、一刀は自分に言い聞かせるようにそれだけを口にした。
何の根拠も示さず、ただ大丈夫だとそう呟いた彼に賈駆は鋭い視線を向けた。
この男、自分が黄巾の幹部として疑われているのを忘れているのだろうか。
今の状況で官軍が負けて笑っていられるなど、普通は出来ないのではないか。
不信感を募らせる賈駆であったが、それは何かの間違いだと思いたかった。
この場に居る者は、みな黄巾党と戦う為に集まったのだと、そう信じたかったのである。
一刀はそんな複雑な思いの篭った賈駆の視線を必死に受け流して、たった今したためた書を彼女へと手渡した。

「それより、董卓さんにその手紙を必ず渡してくださいね、出来るだけ早く」

「……分かった、頼まれたわ」

直接会いにいければ話は早かったのだが、目の前の少女にやんわりと、しかし思いっきり暗に
董卓本人とは絶対に会わせるかチンコが、と言われてしまったので
まだるっこしいがこうした形を取ることになったのである。

「ねー、天代様、うろうろしてるだけじゃつまらないわよ」
「そ、孫策さん」

部屋の壁によりかかって座していた孫策が、不満を垂らした。
今日一日、朝を起きてからずっと行動を共にしているが、一刀は確かに傍から見ればうろうろしているだけだった。
朝食後に町をうろつき、柄の悪い三人組に書状を渡して、援軍の要請だという書を運び屋に渡して
そして今度は董卓と接触するために賈駆に与えられた部屋へと乗り込んだだけである。

監視の名目で一緒にくっ付いてきている孫策にはただの散歩と同じことだろう。
一刀が今回の戦の為に精力的に動いている事で、必要に駆られてうろついてるのは承知の上だろう。

「ごめんね、今のうちにやっておかなくちゃならない事が多すぎてさ」

一刀が孫策へ言葉をかけると彼女は肩を竦めた。
理解はしているので、これはただの愚痴であることも知っているのだろう。

「分かってるけど、与えられた仕事が暇すぎるっていうのも苦痛だと思わない?」
「あんた、孫策だっけ? 天代様の疑いを早く晴らしてあげれば?
 そうしてくれれば、私も安心するんだけど?」
「べっつにー、私にはあんまり関係ないことじゃない」
「私は、もう特に疑ってないんですけどね……」
「根拠はあるの?」
「えっと、それは無いんですけど……」
「「駄目じゃん」」

三人でわいわいやり始めたのを一瞥して、一刀は腕を組んで椅子の背もたれに寄りかかった。
董卓がこの書の通りに動いてくれれば、黄巾党が陣を迂回することなど出来なくなるだろう、多分。
脳内の自分達と、音々音と共に頭を捻って出した策。
まぁ、策というには随分と運の要素が絡んでくるし、本体と脳内自分の持つ知識を前提として描いた物ではあるのだが。

「あーでも、チンピラ相手に何かを渡してたのは疑わしいっちゃ疑わしいわよね」
「草のような物だって言ってましたけど」
「何それ?」
「さっき天代様が此処に来る前に町をうろついてたでしょ? その時にね……あ、このお菓子美味しいわね」
「そうなの? このお菓子は最近洛陽で生まれたものよ。 江東では珍しいでしょうね」
「私も食べたことありますよ、お茶に合うんですよね」
「お茶淹れましょうか?」
「おー、いいわね、お願いね賈駆ちゃん」
「ちゃ、ちゃん!? ちょっと止めてよ」
「あはは、じゃあ私が淹れてきますよ」

『ぬぅ』
『どうした』
『いや、一緒に居るのに蛇の生殺し状態だな、とな』
『『俺もだよ、“呉の”』』
『“袁の”……“董の”もか』
『まぁそりゃそうだろうな』
『目の前で見れるだけでも良いよ、俺は何時会えるんだろう』
『南蛮は遠いもんな』
『あの会話に参加したい、あー、本体、俺と代わってくれよ』
(俺的には盛り上がってる女子の会話に入り込むのは凄い勇気が居るんだけど……)
『ええぃ、役に立たない』
『それ、自分自身の事だからブーメランだぞ』
『確かにちょっと尻込みしてるな、俺も』
『実を言うと、割って入るのって結構勇気いるよね』
『『『うん』』』

なんだかそのまま世間話に移行してしまった孫策達と脳内達を置いて、本体は立ち上がって
窓から覗く景色を眺めた。
しばらく意味も無く、辺りを見回していた一刀だったが、ふと気がつくと見覚えのある顔が
誰かを伴って歩いているのが見えた。

「あれ? 孫堅さんだ」

「え?」
「母様が居るの?」

「隣に居るのは誰?」

「華雄じゃない、どうしたのかしら」

ふと呟いた一刀の声に、三人とも反応して窓から覗く。
どうやら、孫堅の隣に居るのは董卓軍の猛将と呼ばれる華雄将軍のようであった。
華雄将軍は董卓軍の将であった覚えがある。
なにやら話あっていた二人であったが、やがて話がついたのか、お互いにある建物の中へと入って行き
その姿は見えなくなった。

「あれは何の建物?」

一刀が尋ねると、顔良が顎に手をやって答えた。

「えーっと、確か練兵場だったような気がするけど」

「おお、面白そうじゃない! ねぇ天代様、行ってみない?」
「あの馬鹿は一体何をやってるのよ……」

結局、一刀達も様子を見に練兵場へと向かう事になった。
孫策に押し切られる形になったが、何をしようとしているのか気にならないと言えば嘘になる。
まぁ、普通に合同で兵士の練兵を行おうという話なのかも知れないが。

「じゃあ賈駆さん、董卓さんに渡しておいてね」
「承ったわ。 華雄のことよろしく」
「ああ」

それだけをお互いに言い合って、一刀は練兵場へと足を向けた。


      ■ 恥ずかしい穴を一日中おっぴろげて


「ハアアァァッ!」

裂帛の気合と共に振り下ろされる戦斧。
常人では受け止めることさえ困難な、激しい一撃が脳天に迫る。
引き抜いた宝剣を斜に構えて、その激烈な一撃を交わすと共に刃を滑らせて喉元へ迫る。
一瞬の間で繰り広げられ、その身に危険を感じた華雄は無理な体勢で斧を勝ち上げて
柄の部分で切っ先をそらした。

安堵するには早い。
瞬時に距離を詰めて奮われる腹部への拳を、空いた左手で弾こうと手を振るが
それは空を切ることになる。
完全に体勢を崩された華雄は、続く攻めから逃れる為にも自らの身を投げ出すように横へ飛んだ。

「痺れるな! 華雄将軍!」
「ぐっ、馬鹿にするなこの程度!」

お互いに奮う剣戟は激しさを増し、徐々にだが孫堅に有利に働いていた。
それを自身も理解しているから、鋭く切り込もうとして荒い剣閃になっているのに華雄は気付かなかった。

「大振りが過ぎるぞ!」
「ぬあぅ、しまった!」

肘を激しく打ち据えられ、獲物である戦斧を取りこぼしてしまう。
目の前に孫堅の宝剣が迫る。
戦斧を拾う暇は無く、もはや後退するしか道は無かった。
それが、決定的となる。

この剣は言わば、本命を叩き込む為の布石。
後方へ身を引いた華雄を追いかけて、完全にバランスの崩れているところに武器を持っていない拳を振り上げる。
防御を行おうと両手を構えた華雄はしかし、孫堅の脇から現れた自身の戦斧が飛び込んでくるのを確認する。
拳が迫る。 斧も唸りを上げて飛んでくる。
華雄はダメージの少ない方、拳の一撃を受けることを覚悟して戦斧を手で叩き落した。
顔面を思い切り打ち抜かれ、華雄は自分の跳躍した力も加わって大きく吹き飛ばされる。

丁度、その瞬間に一刀は扉を開けて入ってきた。
真横を通り過ぎる華雄が一瞬だけ目に入って、続いて壁に打ち据えられて響く鈍い音。
ようやく一刀は反応して、その場を咄嗟に離れて事態を確認する。
頬を押さえて呻く華雄将軍と、手を振り上げ宝剣を掲げて喜ぶ孫堅をそこで初めて見た。

「ぐぅっ……」
「私の勝ちだな、華雄将軍!」

「あー、もぅ、もたもたするから終わっちゃったじゃない」

「いい拳撃が思い切り入ってましたねー」

「ええ……いや、ちょっと待った、何でそんな普通なの?」

華雄将軍の傍らの床に突き刺さっている戦斧を見て、一刀はドン引きした。
確かに、将軍同士で組み手のような物をすることもあるだろう。
真剣勝負であるのならば、こんな時代だ。
刃を潰していない本物の武器で戦うことだってあるだろう。
だが、今は戦を目前に控えているのだ。
練習試合で怪我して本番で戦えませんでしたとなれば洒落にならない。
というか、刃を潰してても骨くらいは折れるし。

「いくら何でも熱くなりすぎじゃあ……」
「おう、天代殿。 どうしたこんな所に」
「それはこっちの台詞ですって、戦の前にこんな危険な試合をするなんて」
「待て、孫堅殿を責めてくれるな」

意外な事に、咎める様な口調でそう言ったのは吹き飛ばされた本人である華雄であった。
殴られた頬を隠しもせずに立ち上がった彼女は、床に突き刺さった戦斧を担ぎ上げ

「私から頼んだのだ。 孫堅殿の武勇は各地に響いている。
 私も武人だ、自らの力がどれほど通じるのか、孫堅殿と手を合わせて知りたかったのだ」

「そ、そうですか……」
「気持ちは分かるかなー、私も武人だし。 顔良もそうでしょ?」
「どうでしょう、あんまり強い人とは戦いたくないかなぁ」
「そうなの? 結構強そうだけど」
「あはは、一応これでも、袁紹様を守る為に鍛えましたから」

「ふふ、まぁ武を修める者は大抵根っこの部分は同じなのだ。
 それに、華雄殿の武は悪くなかった。
 経験しだいでこれからもグングンと伸びることだろう」

「我侭を聞いていただき嬉しかった、孫堅殿」

宝剣を鞘に収めた孫堅が華雄の礼に答えるように伸ばした腕を掴んで握手する。
その光景を見て何となく綺麗な話に終わったなぁと思った一刀であったが
重要な事を思い出してハッとする。

別に武将同士の親交を深めるのは一向に構わないし、それに関しては何も言わないが
戦の前にガチの勝負をすること事態、非常識なのだ。
そうだ、それを忘れていた。

「えっと、まぁ事情は分かりましたが真剣を使うのは事故にも繋がりますし
 せめて刃を潰した物を使って―――」
「さて、では華雄殿」
「分かっている、約束は守る」
「うむ、それは重畳。 ではこれを着けてもらおうか」
「なっ、これは―――!?」

一刀の説教は1秒たりとも聞いてもらえず、孫堅と華雄は話を進めていた。
そんな二人の会話に、顔を引きつらせる孫策。
それを見て不思議そうな顔をする顔良が、孫堅の取り出した何かを見て慄いた。

完全無視の事実を、なんとか心の中で噛み砕いてから一刀もそれを見た。

「は、鼻フック?」

「こ、これを身に着けろというのか」

「そうだ、これは孫家の決まり事でな。 勝負事に負けた者はこれを着用し
 負けたという事実を胸裏に刻み込むのだ」

そりゃあ胸裏に刻み込まれるだろう。
羞恥を煽る器具でしかないこんな物を、公衆の面前で身に着ける神経は普通もてない。
孫家とか言ってたから、恐らく孫策も何か忘れ去りたい過去があるのだろう。
黒歴史という物だろうか?

「まさか董卓軍の将軍である華雄将軍に二言はあるまい」

「くっ、分かった、着けよう」

「ああ、ついでにそれは一日中着ける事になっているからな」

「ダニィ!?」

恐ろしい事実が聞かされ、怒鳴る華雄。
一刀は思わず孫策を見た。 隣の顔良も丁度視線を向けたようだ。
ふいっと顔を逸らす孫策。
どうやら真実の事らしい。

「本当はこの服もセットで着るのだが、流石に宮内だしな。 これは勘弁しておこう」

「ぐっ、こんな恥を受けるのは初めてだ……」

鼻フックを完全に装着した華雄は、鼻をおっぴろげて吐き捨てる。
言ってる事は憐憫を誘うのに、その姿は滑稽であった。
ちなみに、服のことは精神安定的な意味で見なかったことにした一刀である。

「で、では失礼するっ!」

「うむ、明日のこの時間まで外すなよ、華雄将軍」

「分かっているわぁっ!」

恥ずかしいからか、それとも単純に怒っているからか。
彼女は声を荒げて練兵場から早足で立ち去ってしまった。

「明日まで華雄将軍を見る事は出来ないかもしれませんね……」
『華雄が孫家に持つ因縁って、もしかしてこれか?』
『なるほど、これだったのか……』

しみじみと言った顔良の言葉に思わず頷いていた脳内。
本体は一連の出来事を忘れようとした。
董卓軍と孫堅軍を同じ場所に配置しないようにしようと心に留めて。


      ■ 吉報<凶報


朱儁敗走を受けてから4日後。
早急な造りではあるものの、手元にある兵数をほぼ全て動員したおかげか
陣としてはかなり強固な者に出来上がりつつあった。
陳宮や賈駆、周瑜と言った知者からの助言もあって、仮に4万もの軍が一斉に襲い掛かったとしても
この陣を抜く事は容易では無い物になりつつある。

それも周囲が平原で無ければの話だが。

「こんなただっ広い場所に陣を構築して、果たして効果があるのかどうか……」
「既に洛陽から、何進将軍率いる援軍2万2千が援軍としてもうすぐ辿りつくとの事ですが」

皇甫嵩の呟くような声に、部下の一人が難しい顔をしてそれに続いた。
こんなにも開けた場所に陣を築いて、迂回しようとしない馬鹿は居ない。
いかに迂回しにくいようにと左右に簡易な柵を作って、今も伸ばしているとはいえ、だ。
草を放って黄巾党の動向はつぶさに監視しているので、洛陽へ一直線に……そう
構築しているこの陣と別の方向へ向かっているような事は無いようだが。

「相手だって馬鹿じゃなければ草を放つ。 遅かれ早かれ気付かれれば
 それでこの陣は無駄になる」

「そうですな……」

「天代殿の言う事は分かる。 数的不利を覆すには盾を用意するしかなかろう。
 しかし、この陣を迂回されれば我々はただの馬鹿だな」

「まったく」

それでも命令は命令なのだ。
今できることは早急にこの陣を構築し終えること。
それだけだった。

皇甫嵩は自身の天幕に戻ると、コップに水を注いで一気に煽る。
黄巾党の出足を潰す作戦は、こちらの思惑を利用されるようにあっさりと潰された。
精鋭400で当たった騎馬隊は、朱儁将軍本人を除いて誰も戻ってこなかった。
将軍自身の怪我も酷い。
聞けば相当に絶望的な状況からの脱出となったようである。
もう此度の戦で朱儁将軍を戦力に数えることは難しいだろう。

「報告!」

「どうした」

「はっ、黄巾の旗を多数確認、ここから約30里の所で留まっているそうです!」

「来たか! よし、すぐに外へ向かう。 下がれ」

「はっ!」

「皇甫嵩将軍! 火急の報告でございます!」

鎧を着込んでいた皇甫嵩は、入れ替わるようにして入ってきた男達に顔を向けた。
誰もが汗をたっぷりと掻いている。
どうやら随分と長い距離を踏破してきたようだ。

「楽にしていい。 それで何だ、一人ずつ報告せよ」

「はっ、黄巾に援軍あり。 長安から潼関を抜けて数多の黄巾が立ち上がったようです」

眉間に険が寄るのを、皇甫嵩は自制できなかった。
ここにこの報告が上がったということは、洛陽の方でも届いていることだろう。
何進将軍率いる援軍だけがこちらに向かう理由。
そう、天代率いる本隊がこちらに向かえないのは、これが原因だろうかと皇甫嵩は予測した。
そこまで考えた彼は、とりあえずそれを横に置いておき、目線を投げかけ報告を控えている男を促す。

「宛城が黄巾の者に奪われたとのことです。 これによって、賊の援軍が出る可能性があると」

「なんだとっ! あ、待てよ、黄巾の連中は既に目と鼻の先に居るとのことだったな。
 そうか、奴ら、援軍を受けて更に数を増やそうというのだな」

一人納得して、皇甫嵩は報告を下がらせると、うろうろと室内を歩き回り始めた。
今手元にある情報で考えると、かなりの劣勢である。
洛陽に居る本隊は恐らく動けない。
長安、しかも潼関を抜けているということは殆どその道に障害が無いことを意味する。
どれだけの規模かは不明だが、今から自分が相対するだろう黄巾党の数を考えると少なく見積もるのは危険だ。

宛城占拠ということは、許昌から来た賊と宛城を奪った賊、両方を皇甫嵩が戦わねばならないことになる。
何進将軍の援軍が辿りついても官軍は総勢3万に届かない。
対して相手は許昌から登ってくる軍勢だけで4万を越えている。

「用兵に差があれば、勝つことも出来るだろうが……」

そう、敵は軍人ではなく、殆どがこの世に不満を持つ者。
戦のいろはを知らない民草ばかりだ。
戦術というものを使わず、火の玉になって攻めかかってくるだけだろう。
それでも、数の差は脅威ではあるが。

「……良し、決めたぞ!」

皇甫嵩は天幕を出ると、すぐ傍に居る部下に自分の考えを告げた。
そして、陣地を構築している兵士を一兵残らず休息を取るように言ったのである。
更に、備蓄している食糧の一部を開放し、満足行く食事と酒を振舞った。

これは賭けだった。
報告を受け取った皇甫嵩は、今、30里先に居る黄巾党4万が宛城から送られてくる援軍と合流する。
それまでは動かないと判断したのである。
もしも、この判断が間違えば、皇甫嵩の持つ5500の兵は鎧袖一色に吹き飛ばされてしまうことだろう。

しかし、陣の構築を急かしたせいか、皇甫嵩率いる部隊は疲労が色濃かった。
この状態で敵とぶつかれば、いかに防衛に適した陣を構えているとはいえ
士気の差で瞬く間に敗れてしまう可能性も高かった。

「……何進将軍、急いでくれよ」

皇甫嵩は構築されつつある陣を睥睨する場所で一人、呟いていた。


      ■ 一枚目の矢

それは朝議のことであった。
ここ近頃活発になった黄色い布を纏った賊の対応に右へ左へと忙しなく動いていた者が居るため
この場に参内できなかった者も多かったが。
今、この場に居ないのは夏候淵と許緒、楽進に于禁であった。

「全員集まったわね」

「朝議を行うわ、それぞれ順番を守って報告をするように。
 みだりに質問を挟まないで全て聞いてから口を出すこと、いいわね」

荀彧の言葉に、全員が頷くと彼女は曹操へと目線を向けた。
それに頷いて、朝議が始まった。
殆どの人間からは、黄巾党に対する報告が相次いでいた。
普段は金銭の管理などを行う文官も、同じように黄巾党の話をするのだから
ここ陳留でも被害は目に見えて出ていると言っていいだろう。

それら全てに的確な対処を曹操が、或いは荀彧が答えてそれぞれが納得していく。
ある程度の指標を宣言して、今日の朝議は終わりとなった。

次々に自分の役目を全うする為、朝議の場を離れていく者を尻目にして
残ったのは後の魏の重鎮である荀彧と夏候惇だけとなる。

「それで、桂花。 貴女のところにも手紙が来たって言ってたわね」

「は、華琳様。 こちらになります」

一刀の送った援軍の要請書は、複雑な経緯を辿って最終的には荀彧の手元に収まったようだ。
勿論、彼女は差出人の名前を見て条件反射でゴミ箱へ投入したのだが
投入する直前に目にした玉璽印を見て、慌てて引き上げたのは言うまでもない。
ところどころ、書の端っこが折れて曲がっているのは投げ捨てた時に受けたダメージだろう。
握りつぶされていないだけ、マシであった。
その手紙を受け取った曹操は、裏表をマジマジと眺めてから言った。

「なるほど、桂花に宛てた個人的な手紙にも玉璽印か。
 北郷一刀が天の御使いというのは、どうやら本当のようね」

「はっ、どんな妖術を使ったのか分かりませんが、噂にある天の御使いは北郷一刀のようです。
 援軍の書にも玉璽が用いられていますから、真実の物でしょう」

「と、いうことはこれは官軍からの援軍要請ということになるわね」

「はい、断る術はありません」

「手紙には何て書かれていたんだ?」

「……個人的な物を話すつもりは無いわよ、春蘭」

「む、そうか。 ならば仕方が無いな」

天の御使いという噂は、ここ陳留でも既に広がっていた。
曹操も荀彧も、殆ど疑ってかかっていたが、その天の御使いの肩書きを持つ男が
北郷一刀であるというのならば話は別だ。

陳留、数ヶ月前この場所で泳いでいた大魚は、どうやら龍であったらしい。
曹操は内心で僅かに笑った。
自身の目を付けた陳宮という少女が仰いだ主、彼女の人物評がやにわに現実味を帯びてきた。
ついちょっと前までは職を探しているだけの一人の民草に過ぎなかった。
それが今では自分を駒として動かそうというくらいにまで出世しているのだ。

あの、平和そうな顔をした青年が。

面白いではないか。
未来をおぼろげにとは言え知る男が描く戦場。
何時か、覇を争う相手になりえるかも知れない。
その姿は龍か、それとも。

「春蘭、今用意できる兵数は?」

「先ごろ徴兵した新兵ばかりが五千程です。
 しかし、はっきり言って訓練をし始めて間もないので、精鋭とはとても言えません」

もしも、この援軍の話が無ければ十分だったろう数は途端に少なく感じた。
夏候淵や楽進を呼び戻せば援軍として立派な精鋭を率いることができるだろうが
それでは陳留の安全が疎かになってしまう。
とはいえ、新兵ばかりの軍を派遣しても諸侯の笑い者になってしまうだろう。

「我が領内でも黄巾の賊の動きが活発です。
 これ以上の徴兵を行えば、民草の不満が随所に現れることでしょう」

官軍の援軍を断ることは出来ない。
現状では、漢王朝はまだ死んでは居ないのだ。
この黄巾の乱を切っ掛けに、ゆっくりと漢王朝は滅んで行くことになってしまうだろうが
それでも現状で敵対することなど愚の骨頂である。

「華琳様、秋蘭を呼び戻して兵の再編を行いましょう」

桂花が提案した。
それは確かに現実的な案だ。
新兵と元から仕えていた精鋭を混成して部隊を作ろうというのだろう。
だが、それを行うには時間がなかった。

「駄目ね、一刻も早い援軍を、とここには記されてあるわ。
 暢気に部隊を再編していれば、何を言われるか分かったものではないわよ」

「しかし……」

「この書が変な経緯を辿ってここに辿りついたのも、全ては拙速を求めたからでしょう。
 本来踏まねばならない面倒な手続きは全て省かれているのだから
 即座に出立しなくてはならないということよ」

そして恐らく、そうせねばならない事情が官軍にはある。
それが何かは分からないが、何かしらの事情があるからこの書が今自分の手元にあるのだ。
曹操はそこまでこの援軍要請の書が手元に来た時点で読み取っていた。
荀彧も分かっているのだろう。
敢えて、それを無視した逆の意見を曹操に述べているのだ。
それは軍師として当然のことである。

「華琳様、ならば私に提案があります」

胸を逸らして言った夏候惇に胡乱な目を向ける荀彧。
曹操は面白そうに微笑み、夏候惇へ続きを促した。

「新兵5000、鍛えながら行軍し、援軍へ参りましょう!」

「ちょ、馬鹿じゃないのあんた! そんなことすれば辿りつく頃には
 兵はヘロヘロ、馬はボロボロで戦どころじゃ無くなるわよ!」

「ふん! そんな惰弱、我が曹操軍にいらぬわ!」

「いいわね、それ。 採用しましょう」

「か、華琳様!?」
「はっはっは、そら見ろ!」

狼狽する荀彧に腰に手を当てて勝ち誇る夏候惇。
曹操はその様子を満足げに眺めて、宣言した。

「私と春蘭で援軍に当たる! 桂花、陳留を任せたわ
 それと、天の御使いへ援軍に向かうとの旨の書状を送りなさい。
 これは最優先よ!」

「は、はい、お任せください」

「春蘭、すぐに出陣の準備をしなさい! 兵五千を率いて官軍の援軍に向かうわ!
 一直線に最短で、間にある手続きもすっ飛ばしなさい。
 兵糧も片道だけで結構。 官軍に請求してしまいましょう。
 強行軍について来れぬ者は捨て置くと、全兵に伝えておきなさい!」

「はっ! 承知しました!」

「たとえ1千の兵しか残らずとも、それが精鋭に化けるのならば良し。
 ……ふふ、相見えるのが楽しみね、北郷」

こうして陳留から曹操率いる五千の兵が出立した。
片道だけの兵糧。 つまり、脱落すれば飢えて死ぬ可能性すらある過酷な物であった。
必死に食らい付く兵に容赦情けなく曹操は前へ前へと進んで行き
それは多くの脱落者を伴う、凄まじい強行軍であったという。


      ■ 二枚目の矢


綺麗に枝葉が切り取られ、小さな池には幾つかの水葉が浮かんでいる。
平時であれば、景色を眺めて楽しめたであろう。
しかし、今は自分の持つこの書を届けなければならない。

特徴的な紫色の目、小柄な顔に小柄な体躯。
儚ささえ感じるだろうその少女は、非常に高価で動きづらそうな服の裾を上げながら
とてとてと早足に歩いていた。
額にある、目立たない宝石が陽光に反射してきらめいている。

彼女の名は董卓。
天の御使いである北郷一刀からの願いで、荊州刺史である丁原が居るという館へ訪れていた。

「火急の用事ゆえ失礼致します」

「ああ、董卓様でございますね。 お話は伺っております」

「……伺って?」

「はい、先日洛陽の方から」

連絡もいれず、真っ直ぐにこの屋敷へ馬を走らせた董卓である。
一体どこの誰が、自分よりも早くこの場に参じて自分が来ることを伝えたのだろうかと首を捻った。
そんな事を考えていると、入り口が開けられて初老の男性が姿を見せる。

「これは、董卓殿。 お話は賈駆殿から伺っております」
「あ、詠ちゃんだったんだ……」
「うん? 何か?」
「いえ……その、この書を至急届けていただきたいと」
「ふむ、しかし董卓殿を伝令に走らせるとは。
 天の御使い殿も自分の地位が突然上がってしまい混乱しているのでしょうかな?」

確かに、たかが書を渡すのに候である彼女を使うのは如何な物かと思われて仕方が無い。
しかし、月にとってはどちらかと言えば戦となる場所から遠ざけられていると感じてしまっていた。
それは半分正解だった。
賈駆と、そして“董の”、“蜀の”の提案を受けて、丁原へ渡す役目を董卓に預けたのは間違いではない。

勿論、それだけが理由ではなく、この二人が面識ある者だからというのも含まれている。
だからこそ、董卓を行かせることに賈駆が頷いたというものもあるのだ。

「これです」

「ふむ……なるほど。 天の御使いというのも伊達ではないという事ですか」

「あ、内容は見ていないので、私は分からないのですが……」

「では見てください、ご納得戴けるかと」

促されて、董卓は丁原に宛てた書を見た。
そこには援軍の要請と、玉璽印。
そして、呂布の事について書かれていた。

「呂布さん……ですか?」

「呂布という者、私が囲っているのは事実ですが今までそれを世間に知らせた覚えはありませぬ。
 それを知って書いているということは、呂布に援軍を率いてもらおうと言う事でしょう」

「はぁ……」

「誰も知らぬ呂布の才を見抜く、そこに感心して私は天の御使いが伊達ではないと言ったのです」

そうであった。
丁原は、呂布という少女と出会った時、電撃にも似た衝撃を受けた。
詳しい事は省くが、ただ日銭を稼ぐために人を殺していた少女の不遇にも然ることながら
その驚異的な武威は、正に天下の無双であると確信を抱いていたのである。

武にかけてならば、何処の誰であろうが今生負けることは無いだろう、と。

だからこそ、その天下の力を無駄に奮わせない為にも丁原は彼女に金を与え
大切にしている家族を養い、自分の護衛として雇って囲ったのだ。
それこそ、何処の誰に知らせることも無く。

「……これも時代だろうか」

玉璽印がある事から、援軍の要請を受けた丁原が出陣しない訳にはいかないだろう。
そして、この書にある賊の数字が真実ならば、呂布の力を借りずに退けられないことも
丁原は確信していた。

「董卓殿、漢王朝の危機、良くぞ知らしめてくれました。
 お休み戴きたいところですが、すぐにでも出立しなければなりません」

「はい、大丈夫です。 分かっておりますから」

「それでは出陣の準備中、出立してからも呂布を董卓殿の護衛に宛てさせて貰います」

「お心遣い、ありがとうございます」

礼を言う董卓に、丁原は大きく頷くと、慌しい様子で部屋へ戻っていった。
丁原が兵8千を揃えて援軍へと向かうために出立するまでに、約2時間がかかった。
こうして一刀の用意した二本の矢は放たれたのである。


      ■ 総大将 北郷一刀


「一刀殿、曹操から書が届きましたぞ!」

何故か袁術から、天代様へ着て欲しいとの事で用意された鎧をしげしげと見つめ
金色に塗装された鎧は、いくら何でもちょっと恥ずかしくないかと脳内会議を開いていた。
だって、とてつもない派手な鎧だ。
多分、これで戦場に赴いたら「あの金ぴかが総大将だ、間違いないぜ!」ってくらいに目立つ筈だ。
もうこれは、なんというか嫌がらせの類なのではないだろうか。
きっと、あの張勲という調子の良さそうな可愛い子が思いついたに違いない。
そんな下らないことを考えていた一刀だったが
慌てた様子で飛び込んできた音々音が開口一番に言った言葉にすぐさま反応した。

「ねね、見せて」

金ぴか鎧についての考察を途中で放り出して、一刀は一も二も無くその書を引っつかんだ。
すぐさま封をあけて、文面を目で追う。
それは荀彧の字で援軍の了承と、既に出立した事を告げる物であった。

「……来たか」
「一刀殿?」

『来たな……』
『ああ、黄巾党と激突する時が』
『本体、初陣だな』
『俺達がついてる、頑張ろう』
『あれだけ策を練ったんだ、成功するさ』
『そうだね』
(ああ……守る為に)
『大切な人を』
『ああ』

「……ねね」

一刀はそこで音々音を一つ見て、柔らかに微笑んだ。
顔を真っ赤にして思わず後ずさる音々音。
そう、大切な人を守る為に。
全てはこの時に勝つために、一刀はここまで慣れない環境に全力を尽くしてきた。

「……諸侯に出陣の準備を。 皇甫嵩さんの援軍に行く」

「ええ? いや、確かに曹操殿の書が届いてから援軍に行くことは話しておりましたが
 今は状況が変わったのですぞ?
 長安で立った黄巾党が潼関を抜けて―――」

「それは、きっと来ないよ」
『そう、そこには何よりも大きな物理的な壁が存在するからな』
『ああ、最強の武将がね』

「では、迂回されるのを防ぐには……」

「大丈夫、陳留の方面から迂回すれば曹操さんの軍が。
 逆をついても丁原さんの軍が塞いでいる。
 ここから皇甫嵩さんの陣までどっちに進んでも距離は短い、絶対に挟撃できることになるからね、多分」

「うぅむ……なるほどなのです、しかし一刀殿、絶対の後に多分は無いのです」

「ははは、そうだね。
 ……出陣の準備を。 洛陽に在る全兵力で持って許昌と宛から攻めてくる黄巾党を打ち倒そう」

「分かりました、すぐに準備をさせるのです!」


かくして、きっかり一時間後に集まった洛陽の総勢1万8千の兵を目の前に
“白の”が覇気のある口上を7秒間演説、“袁の”が皆頑張ろうー的なことをぶちまけて
兵の気炎を上げさせ、意気揚々と洛陽を出陣した。

総大将、北郷一刀を筆頭にして董卓軍の猛将、華雄が先頭に立ち
物資を運び終えた孫堅、劉表の軍も本隊に加わっている。


かくして、金ぴかの鎧に身を包んみ、キラキラと(鎧が)輝く目立つ総大将、天の御使いは
夜間の内に賭けに打ち勝って防衛に徹していた皇甫嵩や袁紹達と合流して中央、右翼、左翼を編成し
黄巾党本隊とぶつかることになったのである……


      ■ 外史終了 ■



官軍
   総大将   北郷一刀
   大将参謀  陳宮
   中央・本陣 皇甫嵩 何進 孫堅 黄蓋           兵数:約1万5千
   右翼    劉表 袁術 張勲 華雄 賈駆         兵数:約8千
   左翼    袁紹 顔良 文醜 田豊 孫策 周瑜     兵数:約1万
   後詰    朱儁                         兵数:約2千

官軍援軍
将軍    曹操 夏候惇                      兵数:約5千5百
将軍    丁原 呂布                        兵数:約7千

                              総兵数:約4万7千5百

黄巾党
   総大将   波才
   大将参謀  諸葛亮 鳳統                兵数:約5万6千




[22225] 都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編4
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2010/11/13 01:49
clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編2~



clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編3~



今回の種馬 ⇒     ☆☆☆~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編4~☆☆☆



 


       ■ 決戦の火蓋は……


官軍が30里先に陣を敷いている報告を受けて、波才は一度軍勢を停止した。
規模はどうやら小さいようだが、陣を敷いているとなると打ち抜くのに時間がかかる。
洛陽へ到着するまでに、大きな損失をしたくは無い。
数で勝っている黄巾党だが、波才とて官軍全てが無能だとは思っていない。

宛城を味方が占拠したという報告は受けてはいる。
このまま勢いに任せて相手を貫くか、陣を迂回して確実に洛陽へと歩を進めるか。
それとも援軍を受けて万全の体制を整え、官軍と相対するか。
その選択に波才は頭を悩ましていた。

「おい、孔明殿と士元殿を呼んで来い。
 二人の意見を聞きたい」

「はっ!」

近くに居る黄巾兵に指示を出すと、波才は自身の天幕に戻ってどっかりと椅子に座った。
手を組んで両手の親指をマジマジとすり合わせる。
いよいよ、決戦の時が近づいてきたせいかじんわりと手に汗が滲んできた。

馬元義が宮内へと進入し、洛陽で上げた狼煙が届いて波才は此処に居る。
二人で夜を徹して話し合った、新たな世を作るための志を実現するために。
今の朝廷は腐っている。
疑いようも無い紛れもないその事実を看過して見過ごすことは出来ない。
それは波才のような民草達が一番の被害を受けてしまう事に繋がるのだ。
黄巾党として立ち上がった数を見れば、多くの者がその事実を直感していることが分かる。

「お呼びですか」
「……」

孔明と鳳統が、二人揃って波才の天幕を潜ってきた。
孔明は真っ直ぐに波才を見て、鳳統は目深に帽子を被り、対照的に。

「……今から約30里の場所に官軍が陣を敷いて布陣しておる。
 兵数は1万に満たない規模だ。
 宛城からの援軍も、もうすぐ来る。
 我々がどう動くべきか、意見を聞きたい」

手元にある情報を言葉短く全て晒して波才は尋ねた。
それを聞いて二人の少女は顔を見合わせた。
官軍が陣を敷いて待ち構えている、洛陽の平原で。
二人は短く言葉をボソボソ交わすと、やがて孔明が一歩前に出て波才へ言った。

「洛陽の平野分で陣を敷く、いかにも迂回してくださいという様子です。
 これは罠であると考えます」
「う、迂回先には官軍とは別に諸侯の軍が待ち構えている可能性があります。
 もしもそうであれば、陣から飛び出した官軍に後輩を突かれる形になり挟撃を受けるでしょう」

「そうか、確かにそうだ。 迂回は危険か」

洛陽へ向かう前に陣を構築した官軍とぶつかるのは、気分的に倦厭していたのである。
こうして他人の口から説明されると、浮き上がりつつあった心も冷静になってくれる。


「しかし、陣を構えている官軍は本隊ではなかろうか」

「勿論、陣をすぐに打ち抜かれては罠にならないでしょうから、相当数が配備されているでしょう。
 波才様の言うように本隊が待ち構えているかも知れません」
「このまま陣を貫いてしまうのが上策と思います」
「このままか? 援軍を持って数で圧せばいいではないか」
「それは反対します。 官軍が陣を敷いているということは、我々の動きを把握しているという事です。
 それでなお、一万の数を揃えることが出来ない理由は一つしかありません」
「……時間がなかった。 そうでなければ中途半端な数だけで陣の構築を急いだ理由がないからです」

もっともに聞こえる事を言われて、波才はここでも迷ってしまった。
僅かな時間とはいえ、共に過ごした時間からもハッキリ判断できる。
明らかに頭の良い二人、自分よりも軍略に優れていそうな二人が揃ってこのまま突き進む事を良しとした。
確かに二人の言葉に変なところは見当たらない。

が、逆に波才からすれば、蜂起に立った数日の間でここまで用意周到に罠を用意した官軍に
策も無しに突き進むことに躊躇いを覚えていた。
なによりも、波才自身はまだ孔明や士元を信用しきった訳ではない。
彼女達を利用しているのは自覚しているのだ。
今は自分に従ってくれているとはいえ、刃をちらつかせて協力させた人間が
どれだけ真の事を自分に話してくれるのか。

その事実に思い当たると、確実に信頼できる黄巾の兵の数を増した方が安全なような気がしてきた。
今でも4万という大きな数を持っているが、援軍がたどり着けば5万にも6万にもなるだろう。
それだけの兵が居れば、5千強しか居ない陣など吹き飛ぶように貫けるに違いない。
たとえ後ろに官軍本隊が待ち構えていようとも、今の朝廷にどれだけ軍を揃えることが出来ようか。

これほどの大事だ。
中途半端にぶつかるよりも、万全な体勢を整えて突撃した方が利になるではないだろうか。

「いや、やはりこのまま突撃するのは拙速に過ぎる。
 陣が罠だというのならなお更だ。 貫いた先に官軍本隊や諸侯の包囲を受けたくない。
 宛城からの援軍を待って陣を打ち破ろう」

拳を作って波才は椅子の肘掛を一つ叩くと、そう結論した。
その答えに、孔明も士元も反論はしなかった。
波才の言い分も決して間違いではないからだ。

兵数や士気、これらは黄巾が官軍に勝る数少ない要素だ。
援軍がどれだけの規模になるのかは分からないが、許昌で立った黄巾の数だけで4万になる。
兵数を揃えることは、どんな策よりも最善手であり強力なものなのだ。
だから、自身の考えと波才の結論の食い違いも納得できる範囲にある。

天幕を出て、孔明と士元はそれぞれ兵に引っ張られて別れた。
此処に来てから、孔明は一人で居る時間の方が多い。
波才の指示で、二人が逃げないようにだろう、士元と行動を共にすることを意図的に防がれているのだ。
そうだ。
波才は鳳統という素晴らしい知を持つ者と自分を利用するために、お互いを分けて従軍させている。
自分が……そして親友が生きる道は官軍を打ち破ることのみ。
もしも敗れれば、鳳統は殺されて、自分も死ぬ。
それが官軍の手によるものか、波才の手によるものかは分からぬが。

負ける為の策を提案すれば、自分ではなく親友が死ぬ。
お互いがお互いに、波才の利になるように助言を行うしかない。
そして、官軍に勝ち、初めて二人の安全は保証される可能性が出てくるのだ。
その為には情報が必要だ。
官軍の情報だけではなく、諸侯の状況、天候の予測、決戦の地の細部。
自分に出来る手足は封じられて、不明瞭な戦場へ向かっている事実に言い知れぬ不安が心に渦巻く。

「雛里ちゃん……」

兵に連れられて歩く孔明は、視界に広がる草原を眺めて、ポツリと呟いた。


3日後、宛城から来た増援1万7千を加えて波才は官軍の待ち構える陣へ突き進んだ。
そしてまみえる。
決戦の布陣を完全に引いた官軍3万5千と、波才の率いる6万7千の黄巾党。
官軍との数差はおおよそ二倍強。
防衛に適している形とはいえ、急造の為か形は酷く醜かった。
抜ける。
波才は、自分の選択が間違っていないと確信し、口角を上げて官軍を睨んだ。


      ■ 切られた


天幕の外で、皆が慌しく動いている中で資材に腰掛けながら月を見上げていた。
その背を見つけて、周瑜は声をかけた。

「雪蓮、どうしたこんな場所で」

「んー、なんか落ち着かないのよ」

一瞬、周瑜の声に反応して姿を確認すると、もう一度空を見上げる。
手元にある酒を注いで、盃を掲げるように持ち上げると
水に揺らいで月夜が反射していた。

「初陣って、こんな気分なのね」
「不安か?」
「どうかしら、楽しみの方が強いかも」

子供の頃から母の背中を追ってきた。
その時分は江東が荒れていた頃である。
隠れるように海賊が溢れ、宗教勢力も、中途半端に威を振る豪族も多かった。
その江東をまるで障害が存在していないかのように駆け抜けて
各地の乱を平定していく、そんな母の背中を彼女は最も近くで見てきたのだ。

母は畏怖を、或いは敬意を込められて江東の虎と呼ばれるまでに至った。
この大陸で、確かな力を持つ諸侯として認められて。
そんな偉業を難なく果たしてきた孫堅は、偉大な人であるのに間違いは無い。

「ずっと願っていたわ、ようやく、母様の隣に立てる時が来たわ」
「ああ、雛で居られるのは今日までだ」
「お互い、ね」
「うむ、お互いな」

クッと盃を仰いで一気に喉に流し込む。
流れるように、もう一度酒を注ぐと、今度は周瑜の方へと差し出した。

「やけに風情があるな、これも気分か雪蓮」
「いいじゃない、たまには」
「ふ、そうかもな」

盃を受け取って、周瑜も孫策と同じように盃を仰いだ。
度数が強いのか、カーッと喉を中心にして熱が広がるようである。
大事な軍議の前に、酒を飲むなどとも冷静な部分が囁いていたが
だが、これはこれで大事であるとも思った。

「っ、やれやれ、これでは先輩方に怒られてしまうな」
「ふふ、今日は冥琳も悪い子ね」
「雪蓮……駆け上がるぞ」
「ええ、江東の虎の娘なんて、もう誰にも呼ばせないわ
 冥琳も負けるんじゃないわよ」

お互いに拳を一瞬だけつき合わせて、孫策は腰掛けていた資材から飛び降りる。
月見酒の時間は終わりだ。
余計な感傷はもういらない。
偉大な母に支えられて歩く事は、今日から止める。
それこそ、自分が母を支えるくらいになるまで突き進む気概を孫策は持っていた。

「行くわよ、冥琳! 私の初陣を勝利で飾る為にね!」

勢い込んで走っていき、ある天幕へと入った孫策に、周瑜は一つ苦笑を零した。
子供の頃から孫堅を見て育ったのは、彼女とて同じだ。
たかが数を揃えただけの賊などに負ける筈が無い。
何故ならば、そう。

「初陣で泥に塗れるつもりは、私にないぞ雪蓮」

孫堅とは対照的に、燻る情熱を胸に宿したまま彼女もまた天幕を潜ったのである。



そして、その天幕の中では。
天代の到着を受けて、諸将が一斉に集まっていた。
金ぴかの鎧を上半分だけ身に着けた一刀は最後に入ってきた周瑜を確認して一つ頷いた。

「ねぇ、冥琳。 あの趣味の悪いキラキラの鎧はなんなのかしら?
 いくら何でも目立ち過ぎじゃない?」
「そ、そうだな……」

室内は照明を灯しているとはいえ、薄暗い。
一刀以外の諸侯は袁紹を除いて鎧の色など地味な者ばかりである。
この場では、一刀と袁紹だけは何処に居ようとも即座に居場所が分かるであろう。
それくらい、金ぴか鎧は目立っていた。

「天代殿の鎧の趣味は、実に素晴らしいですわね、なかなか優雅ですわ」
「え……あ、うん、ありがとうございます、袁紹さん?」
「まぁもう少し本人に華麗さがあれば良かったですが
 こればかりは如何にもなりませんものねぇ」

「天代様の趣味は悪いのね」
「ほんとですよねー、私も冗談で送ったんですけど、まさか実戦で着用するなんて
 思いもよりませんでしたー、ふふふっ」

ぼそぼそと孫策が周瑜に声をかけていたのを聞いていたのか。
袁術の隣に座っていた張勲が呆れたような口調で、しかし楽しそうに笑いながら同意していた。
ちなみに、周瑜は失礼になるだろうことを鑑みて完全無視の状態である。

「……」

勿論、この声は普通に話している声なので思いっきり一刀には聞こえている。
どうも孫家の皆様は人の心を抉るのが上手いようだ。
孫堅や孫策と下手に舌戦とかしたら泣いてしまうに違いない。
そもそも、鎧がこれしか無いので着ているにすぎないのに、その辺を考えてくれても良いんではないだろうか。

そうは思ったが、大人の対応でスルーすることにした一刀は、とりあえず全てを忘れて軍議を始めることにした。
ちなみに、他の皆様も大人の対応をしてくれていたので一刀は人知れず安堵していた。
軍議が始まる前に諸侯から金ぴかフルボッコとか御免である。

「諸将が揃ったので軍議を始めますが……その前に。
 皇甫嵩さん、俺の言う通りに動いてくれてありがとうございます」

開口一番に一刀は皇甫嵩へと再び頭を下げて、諸侯をどよめかせた。
慌てて皇甫嵩は一刀に頭を上げるように言った。

「私は自分のできることをしたに過ぎません」

「それでも、こうして陣を敷いて事に当たれるのは大きい。 感謝します。
 朱儁将軍も……ありがとうございます」

「私も皇甫嵩殿と同じく、自分の責務を果たしただけです。
 礼を言われることはございません」

怪我を押して出席している朱儁もそうは言ったが、内心で喜んでいた。
自分の怪我、そしてこの陣を構える時間を稼ぐ為に散っていった兵の死。
それらが今の行為で報われたようであった。
実際には、朱儁の行った作戦は失敗に終わり時間稼ぎの目的は果たせなかった。

しかし、運があった。
敵軍は、宛城からの援軍を受けることを優先して、陣の構築を終えるだけの時間が稼げた。
何進将軍が皇甫嵩の元に辿りついて、2万に膨れ上がると、陣は瞬く間に完成した。
相手の数が増えてしまったのは痛いが、目的は達せたのだ。

一刀は顔をあげて、改めて集まった諸侯を見回す。
そして音々音へと首を巡らすと、彼女は得心したかのように頷いた。
今、皆が不安に思っている懸案を潰す為に、彼女は口を開いた。

「長安の援軍は丁原殿の軍が抑えております。
 陳留からは曹操殿の援軍が向かっているとの書を戴きました」

「なんと!」
「おお、それは心強い!」
「数は大きいのですか」

「丁原軍は7千、曹操軍は5500の兵数で出立したとの報告が来ていますぞ
 仮に黄巾党がこの陣を迂回しても、曹操殿か丁原殿か。 どちらかの軍勢とかち合うことでしょう」
 しかし、相手も援軍を受けたということは―――」
「この陣を貫く選択をしたと考えていいわね。
 数を頼りに、我々を打ち抜く事を決めたのよ」

音々音の言葉尻を引き継いで、賈駆がそう言った。
その隣で周瑜、田豊も頷いている。
官軍にとって一番の急所だったのは、陣の構築を終えるまでの時間だった。
ここを抜けられてしまうと洛陽までは直線状に結んで100里の距離。
一日で駆け抜けれる距離だ。
ともすれば、洛陽を包囲されていてもおかしくなかったのである。
そうなってしまう可能性があった事を考えると、ここで援軍を受けた黄巾党には感謝しても良いくらいであった。

「報告では、明日にでも賊軍は攻め寄せてくるでしょう。
 今夜の内に布陣を終えてしまいたいと思います」

一刀はそう言ってから一枚の腰から竹簡を取り出した。
読み上げようとしたところに、手を上げた一人の男を見つけて一刀はそちらに首を向けた。

「天代殿、お願いがあります」
「なんでしょう、劉表さん」
「兵数に差が出てしまうかも知れないが、諸侯の率いている軍をなるべく混ぜないで戴きたいのです」
「それはどういう事だ」

この言葉に、何進が眉を顰めて問い詰めた。

「ここには官軍と共に、諸侯の私軍が集まっている。
 混ぜっ返してしまうと兵の動きがおかしくなってしまうかもしれん」
「国家の大事に、そのような事が……それに敵との数の差は二倍にもなっているのだぞ
 下手に分けてしまえば、大軍に晒されて蹴散らされる恐れがある」
「大将軍、兵卒では大将軍のような気概を持つ者は稀です。
 何進殿の言葉も正しいですが、劉表殿の話も頷けます」
「む……むぅ、それは分かってはいるがな黄蓋殿」
「承知の上で劉表殿も仰っているのでしょう」

何進の不安も分かる話なのだ。
要はバランスの問題だ。
どこかを抜けられては、数の差で不利な官軍は一気に崩壊する恐れがある。
些事に気を取られて数差を突かれ、そして敗北することになれば笑い話にもならない。

とはいえ、劉表の話にも説得力がある。
命令を受け取って、即座に行動に移す。
それが出来なければ兵数で負けている官軍がまともに黄巾党と戦う事は出来ないだろう。
兵が普段どおりの力を出せないというのは、現状で考えると致命になりえる。

どちらの不安も分かるし、それらを考えて組み込んだ布陣は一刀の手元にある。

「とにかく、布陣を発表します。
 意見があれば、それを聞き終わってからで」

「分かり申した、手間を取らせてすまない、天代殿」
「……お願いしよう」

劉表と何進が頷いて一刀へと視線を向けたのを確認して、改めて一刀は竹簡に目を落とした。

「中央には何進大将軍を中心に、皇甫嵩将軍が詰めてください」

「ハッ!」

声を上げる皇甫嵩に黙って頷く何進。
それらを一瞥して、一刀は続きを読み上げた。
誰に交代しなくてもいい、これは音々音を中心にした三国志を代表する軍師が作り上げた布陣なのだ。
本体でも、読み上げることに不安は無かった。

「孫堅さんと黄蓋さんも此処です。 お二人には官軍を率いて貰う事になりますが……
 慣れない兵を率いることになりますが、戦場での経験のあるお二方なら上手くやれると思います」

「任せてもらおう」
「承知した」

「右翼は袁術さんと劉表さんが詰めてください。
 勇猛な華雄将軍を先頭におきます。 兵数差が一番厳しいところになりますので
 無闇に攻勢に出ず、軍師の賈駆さんの言葉に良く従ってください」

「七乃ー?」
「はい、とりあえずふんぞり返って無問題と言っておけばいいですよー」
「承知」
「分かった、賊など我が戦斧でなぎ払ってくれる」

勇猛、というフレーズが気に入ったのか、華雄は満足げに頷いて力強く宣言する。
音々音の隣に居た賈駆が、僅かにメガネを手で上げて口角を吊り上げた。
やる気は満々のようである。

「任せて頂戴」

短く、しかし力強くそう言った賈駆の言葉を聞いて、一刀は袁紹へと視線を巡らした。

「左翼は袁紹さんが中心になります。
 兵数は万に届いておりますが、数で劣勢なのは間違いないです。
 田豊さんと周瑜さんの二人の意見を尊重して袁紹さんを補佐してあげてください
 きっと華麗な勝利を収めることが出来ます」

袁紹軍は諸侯の中でも飛び抜けて兵数を保有していた。
孫堅の連れてきた兵を合わせずとも、8千5百という数字だ。
本拠地である南皮にも兵を残してきている筈なので、個人で2万の軍勢を保持していることを意味する。
袁紹の力である人員、その一端がここでも垣間見れたといえよう。
その隙間埋めるのは、孫策と周瑜、そして孫堅が率いて連れてきた千と5百の兵である。

「おーほっほっほっほっほ、私に任せておけば万事上手くいきますわよ!」
「頑張ります!」
「お、珍しく斗詩がやる気だしてんなー、よし、あたいも頑張るぜ!」
「……周瑜さん、よろしく、本当に宜しくお願いしますねぇ」
「あ、ああ、精一杯補佐させてもらおう」
「母様に負けないように名を上げさせて貰うとするわ」

「ふ、不安になって来たのです」
「大丈夫だよねね。 皆やる気があるだけさ」
「だと言いのですが」

「天代殿、すぐに準備に取り掛かっても宜しいか」

孫堅から声が飛んできて、一刀は頷いた。
夜の内に布陣を終えて、明日には黄巾とぶつからねばならない。

「今すぐにでも準備をお願いします、皆さん、必ずこの戦を勝ちましょう!」

「「「「ハッ!」」」」

諸侯の声が響いて、次々に一刀の天幕から離れていく。
慌しく動く音と声を残して。

「ねね、水は運んできているよね?」
「当然なのです。 動く必要の無い皇甫嵩殿と何進殿に手伝って貰いましょう」

「なんのことですかな?」

「いえ、ちょっと夜の内にやっておきたい事があるんです……」
「小細工に過ぎませんが、やらないよりはマシなのです」

一刀と音々音は皇甫嵩と何進へと近づいて、ひそひそと考えを伝えた。


そして。

時は来た。



波才は腰にぶら下げた刀剣を引き抜いて、全兵に見えるように掲げた。
刀剣が陽光に反射する光は、黄巾党だけでなく官軍の陣にも煌いていた。

「敵は我らに比べて小勢! あつかましくも陣を敷いて我らの天道を塞ぐ愚か者どもを
 一気に駆逐する! 旗を揚げよ! 胎から声を出せ!
 官軍の犬どもに、我々の怒りを全てぶつけよ!
 我らの苦しみ、張角様の大望、そして黄天の世を築くために叫べ! 叫べ! 叫べぇ!」

「「「「「おおオォォォォオオォォオォォォオォオォォォ」」」」」」」

「全軍、敵を見据えて前に進めぃ!」

「「「「「おおオォォォォオオォォオォォォオォオォォォ」」」」」」」

その轟音とも呼べる相手の気勢に負けぬよう、馬に跨る何進は先頭にまで走らせ
同じように刀剣を引き抜くとあらぬ限りで叫んだ。
その何進の叫びはとてつもない声量で、確かに黄巾の怒号が強く響く中を切り裂いて
官軍全てに轟いたのである。

「来たぞ! 卑しくも良人の財産を漁り、自らの欲望だけをぶつける猛獣が!
 守るべきものを忘れ、敬う事を忘れた奴らは最早、理性を持つ汚らしい悪鬼よ!
 ただ暴れる獣と化した物は躾けなければならん! 
 槍を構えよ! 剣を引き抜け! 正義は我らにあり! 天は―――我らにあるぞ!」

「「「「「うおオォォオォォォォオオォォオォォオォオオオオォオォ!!!」」」」

洛陽の戦いが、今始まった。


      ■ 洛陽の戦い・初日


真っ先にぶつかったのは、袁紹率いる右翼と、孔明率いる左翼であった。
小高い丘を駆け下りるように、怒涛の勢いで黄巾党の騎馬隊が突撃してくる。

「おーほっほっほっほっほ! まるで蝗のようですわね!
 さぁ、文醜さん、顔良さん、やっておしまいなさい!」
「おーし! 面白くなってきたぜー!」

「うーんと……ここは素直にぶつかるべきでしょうかねー?」
「相手の士気が高い内にぶつかるのは得策ではないですが……」
「止まりそうもないですからねぇ」
「はい、野戦を挑んだ以上、仕方が無いかもしれません」

のほほんと困ったように頬に手を当てて田豊が尋ね、周瑜が冷静に返す。
やる気になっている将軍の士気を挫くのも、最初から及び腰で相手に調子付かれるのも困る。
しかし、歩兵で騎馬を食い止めるのは難しい。
そこの対処だけはしなくてはならない。

「御使い様も、水をこちらに下されば良かったのに」
「文句を言っても始まらないでしょう。 賈駆殿が居る右翼の方が兵数が少ないのですから」
「そうですね、気持ちを切り替えましょうか……斗詩さーん!」

「顔良殿、弓隊を!」

「分かりました!」

田豊と周瑜の声に頷いて、顔良は今にも突撃しそうな文醜と袁紹の前に自分の隊を出す。
もう既に、敵の騎馬は目の前だ。
何処に射っても何かに当たるだろう。

「弓隊構え! 敵の騎馬隊の勢いを削ぎます!
 番えぇぇぇーーーー!」

「顔良将軍の弓で騎馬の足を止める! 勢いを失ったら槍で引き摺り落としてしまえ!」
「冥琳、ちょっと私も前に出てくるわ」
「おい、雪蓮!」
「だいじょーぶ、無理はしないわよ……初陣で死ぬなんてかっこ悪い事できないしね
 行くわよ! 江東の勇ある兵よ!」

「射てぇええ!」

顔良の掛け声が響いて、空気を切り裂いて数多の矢が天空を埋め尽くす。
何処を見ても黄巾の布がはためいている。
一枚の旗を貫いて、先頭の騎馬を駆る黄巾党に目を貫き落馬し、乗り手を失った馬は嘶いて転倒した。
それを契機に、何百と居るか判らない黄巾党が悲鳴を上げて倒れていく。

「今ですよ、袁紹様。 華麗に優雅に突撃する時は」

短く声を上げた田豊に袁紹は首だけで了承を返すと
高笑いをかましつつ、文醜を先頭にして混乱する黄巾党の渦中へ飛び込んで行った。
いや、飛び込んでいったのは文醜とそれに付き従う兵だけだ。
袁紹はその場で高笑いを続けていた。

「おーっほっほっほっほっほ! おぉーほっほっほっほっほっほっほ!
 今ですわぁ、文醜さん! ほら、あそこにも雑魚が居ますわよ!
 蹴散らすのですわ! おーほっほっほっほっほっほ!」

「田、田豊殿、あの高笑いは何とかならないのか」
「なりませんよ。 それにある意味、色々と嫌な効果がありますしねぇ」

確かに、相手にしてみれば苦しんでいるところにあの高笑いと罵声だ。
逆上して冷静さを失うかもしれない。
味方の将兵にも、袁紹が健在していることを即座に知らしめるだろうし
何よりも敵からすれば必死に戦っている横で高笑いを響かせる存在その物がうざいことこの上ないだろう。
自分が同じ目に合っているすれば、間違いなく袁紹を目の敵にする。
これはある意味での心理戦のような物か。
よくよく考えて、止める必要が無いような気がしてきた周瑜である。

「なるほど、勉強になる」
「いえ、冗談ですけどね。 私もあれは嫌いなんですよ」
「……」

しれっと言った田豊に呆れた目を向けていると、戦況に変化があった。
顔良の驚きの声が響く。

「黄巾党の後ろから砂煙を確認!?」
「何!?」
「うーん……やられましたね」

文醜と共にくっついて暴れていた孫策も、戦場の渦中で気がついた。

「騎馬隊の第二波ですって!? 弓隊は?」

常の彼女であらば、尋常ならざる勘が働いてこの第二波に気がついて控えて居たかもしれない。
だが、彼女はこの洛陽での戦が初陣であった。
それは当然、周瑜もそうなのだが。
とにかく、二人共に初陣ということもあり些か頭に血が上って冷静さを欠いていたのは事実だ。
つまり、貴重な戦力をホイホイと目の前の餌に釣られて出してしまった訳である。

「い、いかん! 今は黄巾党の第一波の渦中に突撃してしまっている。
 この乱戦の最中、騎馬に蹂躙されてはたまらん!」
「斗詩さーん」
「分かってます、同じように弓隊で援護を―――!」

周瑜の焦れた声を耳だけで聞き流して、田豊は腕を上げた。
合図一つ、顔良は自身の隊を率いて賊軍の側面から弓で打ち込む為に移動を開始した。
乱戦になっている場所を迂回し、死角になった丘を乗り越えたところでであった。

「居たぞ! 官軍の弓隊だ!」
「奴らをぶち殺すのが俺達の仕事だ!」
「潰せぇ! 敵が居たぞ!」

賊の歩兵であった。
距離にして約1里。 数こそ少ないものの―――それでも2千は越える規模だが
即座に対応していなすには難しい数。
とても弓の援護による一斉射撃は、この敵を相手にしていては出来ない。

「槍に持ち替えて目の前の敵の前に突き出して! 
 流形から三段陣に! 急いで!」
「はっ! 槍に持ち替えよ!」
「三段陣だ! 隣の者と組め!」
「機先を制します! 陣形が組み終わり次第、私の後に続いてください!
 それと一人伝令を、弓隊は足止めされたと!」
「ハッ!」

矢継ぎ早に顔良は指示して、自身は相棒でもある金光鉄槌を取り出して歩兵隊の前に構えた。
チラリと横目で見れば、敵の騎馬隊は何の障害も無く乱戦の場へと向かっている。
敵を駆逐し、騎馬の足を止める援護は間に合いそうもなかった。

「伝令です! 顔良将軍、敵歩兵部隊と接敵!
 弓による援護は難しいそうです!」

「分かりました、下がってくださいー」
「田豊殿、案がある」
「ここにある兵で鶴翼の組んで相手を反包囲するつもりですか?」
「うむ、その通りです」
「でも、私弱いんですよね、護衛が欲しいです」

腕を組んで瞑目しつつそう言った田豊に周瑜は困った顔をした。
周瑜自身も孫堅に鍛えられて武芸を嗜んでいるので、彼女が嘘を言っている訳でないのが分かってしまった。
だからこそ、困った。
今、この場で兵を率いる将は自分と田豊しかいない。
基本的に、将は兵に守られているので、早々危機が及ぶ事はないのだが
状況によっては距離をつめられて槍を手に戦うこともあるだろう。
その護衛が欲しいと彼女は言ってるのだ。
うーむ、と唸っていた田豊であったがふいに顔を上げて周瑜を見上げると突然尋ねた。

「周瑜さんは賢いので分かってると思うのですが、この兵数で鶴翼を敷けば薄くなりますよ?
 各個撃破にはどう対応を取りますか」
「そう動かれたら挟撃するしかないかと思います。
 一応、中央には雪蓮や文醜殿がいらっしゃるから、そう安々とは相手も自由に動けないはずです」
「不安ですねぇー……しかし、敵騎馬の第二派は目の前、動くには今しかない、となると仕方ないですかね?」

何故か最後に疑問符をつけられた。
良し、と自分の手のひらに自分の拳を当てて、田豊は頷き周瑜の案を採用することを告げる。
即座に兵を二つに分けて、二人はそれぞれ右翼、左翼の役割を持って別れていく。

「さて、こちらの手札をいきなり使い切ってしまったのですが
 あちらさん、まさか第3波は用意してないですよね?
 斗詩さんもすぐに戻ってくれればいいんですけど、うーん、不安です」

歩兵300に囲まれた中央で、悩ましげに首を左右に振る田豊が
独り言をぶつぶつと呟いて、やがて2人の兵へと伝を預けて左翼へと回っていった。

その伝令を持った兵の後ろを、赤い鎧に身を包んだ孫家の兵が後を追うのを彼女は見た。
どうやら周瑜も、自分と同じ不安に思い当たったようであった。



「そろそろ最後の方達は乗馬してください。
 恐らく、乱戦を受け入れて相手は反包囲していることでしょう」

「良し、乗馬だ! 乗れぇい!」
「乗馬だ!」
「はっ!」

「第3波の騎馬に続くように歩兵の皆さんは追いかけてください。
 殿の方は接敵後、報告を私に送るように。
 もしも第3波で反包囲が敷かれて居なければ、最後の騎馬隊である第4波をつぎ込んで威圧します」

羽扇でもってキビキビと黄巾の右翼で指示を出しているのは紅いベレー帽を被った一人の少女。
諸葛孔明その人であった。
彼女が悩み、出した結論は官軍を打倒すること。

別に波才の言った黄天の世を支えたい訳ではない。
そう、いわばこれは私戦。
ただ親友の命を繋ぐ為だけに、数多の命を秤にかけて選んだ、自分の為の戦だ。
最低な、そして選ばなければならない選択肢を突きつけられて、その中で自らが選んだ道。

孔明とて、戦場で羽扇を振るのは初めてなのだ。
盤上の中でしか経験を積んだことの無い、いわば遊戯でしか戦を知らない。
それでも雛里以外を相手にして無敗であった。
羽扇を握り締める拳を強くして、彼女は声を上げる。
自らの親友を、そして自分を守る戦に勝つために。

「第4波で揺れれば、このまま本隊を突撃させます!
 皆さん、準備をして報告を待っていてくだしゃい!」

孔明の決まらなかった声に、周囲が気炎を上げて叫んだ。
そして彼女は首を向ける。 彼女の指揮を振るっているだろう場所へ。
雛里ちゃんは……雛里ちゃんは、どうするの?
そんな思いが孔明の胸の内を走っていた。

―――

「よぉぉし! 死地に乗り込んだ敵に弓矢で歓迎してやれぃ!」
「はぁーい、皆さん、今から一斉にお馬鹿な賊さんを殺しちゃいましょー、番えー!」

劉表の掠れた声と、間の抜けたような張勲の声が同時に響いた。
左翼でも同じように、黄巾党の騎馬が火の玉になって突っ込んできていたのだが
敵は弓による一撃を受けるまでも無く、転倒し、土にまみれて混乱していた。
当然、何もしていない訳ではない。
地面に大量の水を含ませて、ドロドロのヘドロ状態にしただけである。
田豊と周瑜の話の中にもあった水のことだ。

乾いていた大地を蹴っていた馬の殆どは、突然の地面のぬかるみにはまり込んでバランスを崩した。
一馬でも倒れれば後は雪崩だ。
倒れた馬に躓き、その馬にまた躓いて、瞬く間に地は赤く染まり自ら命を散らしていった。
そこに、今言った二人の死の宣告が実行される。

「ありったけの矢をくれてやれ! 射てぇ!」
「バーッっとやっちゃいましょー!」

風を切り裂いた甲高い音が響いて賊の顔を、肩を、胸を、足を抉っていく。
今の一斉射だけで、一体どれだけの人命が失われたのか。
運よく、急所を外した者も人と馬、そして意図的に作られたぬかるみに足を取られて動くもままならない。
そして、それは地獄の最中での儚い足掻きにしか過ぎなかったのだ。

「あのぬかるみに嵌った者共を生かして返すなよ、もう一度斉射の準備だ!」
「あらほらさっさー」

「良し、まずは天代様の作戦が図に当たったわね!
 華雄、この騎馬隊は数が少ないわ。
 ボクの予想だと敵は第二波、或いは第三波まで騎馬隊を分けているかもしれない。
 それを逆に利用して相手を作った沼地に誘い込むのよ、できるわね?」
「ふん、愚問だな、できるに決まっている!
 早くこんなくだらん戦を終えて、私は孫堅殿に再戦を申し込まねばならんのだ!」
「上等、さっさと終わらせるためにも作戦通り動くのよ」
「承知した!」

「……さて、後は袁術に一つ頼みたいんだけど、うーん」

賈駆は一人、黄巾党の騎馬隊に違和感を覚えていた。
敵騎馬隊を死地に誘引するのは華雄に任せてある。
間隔が短ければ、誘引は失敗してしまうだろうが、この騎馬隊を分けて突撃させるという作戦には
どうしても時間の間隔が必要であるのだ。

短ければ、それは乱戦になる前に相手が気付いて引いてしまう。
遅ければ、わざわざ分けた騎馬隊を有効に使えない。

そして、騎馬隊と騎馬隊の間には、必ずその隙を補うように歩兵が配置される筈だ。
そうでなければ、弓隊の攻撃を受けて突撃力を失ってしまうからだ。
その歩兵にぶつける駒が必要になる。
それがこの場では袁術なのだが……

「なんじゃ? 人の顔をジロジロと見て失礼じゃのう……」

「不安だわ……ほんっとに」
「ふ、任せてみようじゃないか詠。 袁術殿とて、一人の諸侯なのだ」
「適当な事言わないでよ、華雄……ていうか、あんたはとっとと配置につきなさいっ!」
「っ! ちょっとくらい良いじゃないか!」

華雄の尻を蹴り上げて、凶暴性を発揮した詠は
ふと真顔になると戦場に蔓延る黄巾を見据えた。

姿は見えない。
しかし、賈駆には確実に見えた。
この数多の黄巾を操る、知を奮う者が黄の道の先に居ることが。

「……獣が知恵を手に入れたってわけね。
 でも残念、ボクが居る限り、この場を抜く事は出来ないわよ!」

手を前に突き出し、ずれそうになるメガネを片手で抑えて賈駆は叫んだ。
呆けた目でそれを見て、袁術はポソリと呟き、後に不満を爆発させた。

「変な奴なのじゃ……七乃ー、わらわは退屈じゃぞー!」

「はいはーい、劉表さん、しばらくここお願いしますね?」
「おい、待て待て待て、張勲殿! 張勲ど……ぬえい! まてまて、相手はあの袁家だ、落ち着くのだ、偶数を数えるのだ。
 偶数は割り切れる素直な数字、心を―――」



――――


「て、て、敵は陣の前に沼地を意図的に作り出して、我らの足を封じた模様。
 瞬く間に先陣が潰されたとのことです!」

「あ、あわわ、分かりました、下がって、下がってくひゃい」

(噛んだ……)
(ああ、噛んだな……)
(くっ、静まれ……俺の人和ちゃんへの愛はこんなことで……)

周囲の喧騒がまるで耳に入らぬかのように、鳳統は頭の中で考えを纏め始めた。
戦場が、彼女の脳の中で盤をとなり、そして部隊が駒と替わる。
普段どおりとまでは行かないが、こうなると彼女の思考は現実から切り離されたかのように
目まぐるしく展開していった。

相手は沼地を用意した。
それも、一つの騎馬隊を丸ごと屠れる程だ。
恐らく、敵の狙いは騎馬の排除。
何故ならば騎馬は、この戦場において最強の駒であるからだ。

幾つかの条件さえクリアできれば、騎馬隊に叶う部隊など存在しない。
つまり、敵はこちらの最大の脅威を最優先で排除することを目的としている。
そう、この場合問題となるのは沼地だ。

ここ最近、雨は降ったか。
答えは否、そろそろ降りそうな空模様ではあるが、昼夜問わず最近ここいらで雨が降った事実は無い。
それではどうやってこの場所に沼地を作り出したか。
水であることは間違いないし、それを陣に持ち込んで夜の内に作り出したのだろう。
ぬかるみが存在する、そしてその規模も中々に大きい。
騎馬隊を分けて運用する事は、相手の誘引の計に嵌れば最強の牙をむざむざと欠いてしまう。
自分が相手ならばどうする?
裏をかかれれば、数の差から劣勢に追い込まれることは予測できるはず。
それ相応に、裏をかかれた場合の対処も考えていることだろう。
ならば、どちらに転んでもその思惑を突き破れるほどの兵数で圧するのが最善か。

殆ど時間をかけずに、鳳統は答えを導き出して俯いていた顔をあげた。
彼女が波才に迫られて一人で出した結論。
それは孔明と同じ物であった。

「あ、相手の作戦は読めました。
 恐らく、騎馬隊を誘引する部隊と、歩兵を足止めする部隊に分けられています。
 わざわざ少ない数を敵の方から分けてるから、かきゅ、各個撃破できましゅ」

(噛んだな……)
(ああ、噛んだ……)
(くっ、皆、俺から離れろ! ぼ、暴走する……っ!?)

「歩兵部隊を呼び戻して、数差で押し潰しましゅ。
 騎馬隊は、部隊をまとめて歩兵から距離を取りつつ、敵を視認したら歩兵を盾にして側面を取って突撃してください」

恐持ての男達……微妙に表情が変であったが、それらに囲まれて所々を噛みながらも
鳳統は作戦を告げた。
波才から、鳳統の指示に従うようにといわれているので、男達はすぐさま彼女の指示に従った。
噛んだとかああ、噛んだとか頷きあったり右手を押さえつけてぶんぶん振ったりしながら。

そして、その話を聞いて動かぬ者が一人。
頭に黄巾を巻いて、やや凛々しくなった顔、そして顎と鼻の下にチョビ髭を誂えている
中肉中背の男が鳳統の前から動かずにその姿を見つめていた。

(……やべぇんじゃねぇか、御使い様)
「あの、何か……」

震える声を出し、帽子を目深に被って視線を逸らした雛里。
すこし遠慮なく視線を向けすぎたようだ。

「いえ、えーっと、一つ聞きたいんですが、あー、名前がわかんねぇが……つまりその、この戦をどうお考えで?」
「え? あ、あわわ、どう、とは……」

(奥の手って言ってたからな……勝手に言っちまって、御使い様の作戦をバラす訳にもいかねぇし……)

むぅぅぅ、と深く唸る黄巾の男。
何か上手い言い方は無いものか。
例えば、そう、なんというか、その、なんだ、こう、凄い感じの。
意味の無い言葉だけがグルングルンと男の脳内を駆け巡り、結局何が聞き出したかったのかも
だんだんと分からなくなってくる。

というか、そう、無謀なのだ。
こんな頭の良い娘っ子を御使い様の為に自分が内応の手を引いてやろうなど、無理だ。
現状、どう足掻いても彼女は黄巾の幹部……馬元義と仲の良かったという波才の味方なのだ。

(仲間にするより、もしかして殺した方が手っ取り早いか?)

男は自分の腰にぶら下げた刀剣をひそかに垣間見た。
そうだ、天の御使いに勝利を齎すためには、黄巾の味方をする頭の良い少女など居ない方が良いではないか。
なるべく目立つ行動は避けるようにとも言われていたが
この女が居るせいで官軍が勝てないとなれば、意味は無い。
ここで排除した方が確実だ、そうだ、それはきっと間違いない。
震え、潤み、恐れている少女は、自分でも容易に切り殺す事が出来るだろう。
人を殺すことなど、既に数えるのを止めた程こなしてきた。
今更少女を一人殺すことなど。
そう、容易い。
そう判断するが早いか、彼の口と体は驚くほど滑らかに動いた。

「軍師殿……ちょっと俺の用事に付き合って貰いたいんですがねぇ?」

男はスラリと腰から刀剣を引き抜いた。
それを見て、雛里は数歩、自然に後ずさった。
雛里は混乱していた。
自分は黄巾党に勝利を齎すために、親友である孔明の命を繋ぐ為に最善の努力をしてきた筈だ。
なのに、これは何だ。
どうして、目の前の黄巾党の男は自分の傍で刀剣を引き抜く?
何かを言わねば、命を失う。
それだけは分かっていたが、雛里の口から突いて出たのは人を疑ったものだけであった。

「しゅ、朱里ちゃん、まさか……?」

「恨みはないんだがな……世の為に―――」

「おい! そこで何をしているんだ!」

「―――っちっ」

別の男から声が飛んできて、舌打ちをかまして男は刀を引いた。
その顔には、明らかな怒気を孕んでいる。
疑いようが無い、この目の前の男は雛里に確実な殺意を抱いていたのだ。

「いえね、先ほど自分の剣が折れちまったんで、ちょっと新しいのを受け取ってただけですよ」

呼び止めた男は、雛里と剣を持つ男を見比べてやがて納得したようだ。
そして、男に名を聞いた。

「俺か? 俺はアニキって言われてるぜ、名前と真名は捨てちまったから、そう呼んでくれや」
「そうか、アニキは歩兵の部隊に加わってくれ、部隊の人手が心もとないのだ」
「おう、分かったぜ、黄天の……そして天和ちゃんの為にも命を張ってくるわ」
「ああ、俺の地和様の分も忘れるんじゃねーぞ」
「へへ、あんたは地和様派か、親友のデクってのが同じ趣味してるぜ」
「そうか、今度紹介してくれよ!」
「生きてたらな!」
「馬鹿野朗、縁起でもない事言うな、またほわぁあああぁぁしようぜ!」
「おう!」

「……っと、鳳統様に報告だったんだ、鳳統様……あれ? どうしました?」

(おうとう様、か)

微妙に名前を勘違いして、アニキは立ち去った。
呆然とそれらを見つめていた士元は、報告に来た男に胡乱な目を向けるだけであった。
そして小さく呟いたのだ。
それは、目の前に居る報告をしに来た男にさえ届かない、小さなものであった。

「そうだよね……普通は、親友よりもそっちを選ぶんだよね、朱里ちゃん……私は」

ここで意気地を張ることが、酷く愚かしい事に思えた雛里だった。
だって、意味が無い。
確かに、普通は数多の人を、漢王朝を生贄に一人の親友を選ぶことは愚かである。
逆もまた、然りでもあるのだが。
それでも、大勢で見て殆どの人にとって正しい道なのは前者の方だろう。
後者を選んだ自分は、あまりに愚かで醜く見えた。

「う……わ、私……あ、あぅ……うぅ、わたしぃ……」

「ほ、鳳統様!? あ、えーっと、ほ、ほ、ほわあ、ほわあぁぁああぁぁぁぁあぁ!」

突然に両の目の端から涙を零した雛里に、報告に来た男はテンパって
慰めようとしているのか笑わせようとしているのか分からない不思議な踊りをしつつ
意味の無い叫びを言い始めていた。

他の者がこの光景に気がついたのは、僅か数分後。
報告に来た男は、鳳統に嫌がらせをして泣かせているとして、軽い鞭打ちの刑に処された。





「報告! 田豊殿から至急とのことです!
 敵の時間差による騎馬隊の突撃に乱戦に持ち込まれ、反包囲をこれから敷く予定。
 しかし、相手の騎馬隊は第三、第四の突撃が来る可能性を否めないとのこと!
 対策を本陣の方で願いたいと仰ってます!」

「報告です! 周瑜殿から、騎馬隊の第3波の可能性が指摘されました!
 左翼では対策が難しいとのことで、本陣に援軍の要請が届いています!」

「賈駆殿より敵騎馬隊を沼地に引き摺り込む作戦が成功したとのことです。
 これより複数隊に分けた敵騎馬隊を各個で誘引すると仰ってます」

「報告いたします! 敵本陣に動きあり、我が方の左翼側に進路を取りつつ
 大群の歩兵を率いて前進を始めた模様です!」

戦が始まって、既に1時間か、2時間か。
事態は次々に動き出して、目まぐるしくその状況を変えていた。
しかも、これらの情報は最新の物ではないのだ。
一刀は音々音へとそっと近づいた。

「敵本陣が左翼に動いたってことは、賈駆さん達が劣勢?」
「そう見せかけて、右翼に援軍を送らせないようにしている可能性もあるです」
「報告を聞いた限りでは、賈駆の方は優勢のようだけど……」

ひそひそと話を交わしていると、細身の男が一刀の元に勢い込んで走りこんできた。
汗を大量にかいている。
気温は暑い訳でも、寒い訳でもない。
一度、戦場に出て指揮を執っていたのだろう。

「天代殿!」
「なんですか、皇甫嵩さん」
「朱儁将軍の報告で、黄巾党を率いる者の近くに少女らしき影があったという話を覚えてますか」
「ええ、それが何か?」
「もしかしたら、彼女達は黄巾共の軍師かもしれませんぞ!」
『やっぱり、俺もそうだと思うよ』
『この動きは獣の動きじゃない、荒すぎるが、統率は取れてるしな』
『黄巾党はもっと、合図の銅鑼が響いたら敵襲と勘違いして突撃するような奴らだったよ』

軍師。
そうかもしれない。
騎馬隊を分ける、などという戦術を黄巾党が使った事実は脳内の自分達に確認しても無かった。
一級の軍師でなくても、二級、三級の軍師でも黄巾にとっては十分な力になる。
それはひとえに、官軍との数の差があるからに他ならない。
こちらは少ない兵でやりくりしなければならないのに、奴らは倍の数を同じ戦術でも投入することが出来る。
ただ兵数差があるだけでも陣を構えねば相手取れない程の物量差なのに
そこに軍略の才を持つ人が居るとなれば、かなり厳しい戦いになってしまう。

たとえ、官軍に有能な者が多くても、裏を掛かれないという保証は無い。
まして数的不利という物が今の官軍にとって重く圧し掛かっている。
盤上のゲームや演習、遊びじゃないのだ。
偽報一つで戦線を崩して敗走してしまうことさえあり得る。

それが分かっても、今この場で具体的な対策は取れない。
ただ、取る選択は慎重にならねばいけないだろう。

「皇甫嵩殿は、どう見ますか?」

「私としては、目に見えて劣勢に追い込まれた袁紹殿の援軍に赴くべきだと思います。
 本陣は何進将軍に預けて、自分が援護に向かおうと進言しに来たのです」

「うむむむぅ……そうだ、一刀殿、皇甫嵩将軍に3000の兵を預けましょう。
 左翼はこれで持たせてもらい、右翼に2000の兵で黄蓋殿を後詰めに置くのです」

この言葉を受けて、一刀の脳内は一斉に騒ぎ出した。
それまでじっとしていたのは、考えに没頭していたからだろう。
それは本体も同じことであり、本体と脳内一刀は音々音の言葉に神妙になりながら考え始めた。

『本体、賈駆が裏をかかれたら各個撃破の的になる。
 音々音の言うように黄蓋という武将を派遣するのは賛成だ』
『左翼には皇甫嵩将軍と、もう一人武将が欲しいね』
『孫堅さんに頼むか?』
『そうすると中央が薄くならないか?』
『相手の本陣も左翼に傾いているんだ。 こっちの本隊も少し移動すればいい、様子を見ながら決定すれば』
『陣を一瞬とは言え空ける事になるぞ、それは危険だろ』
『そうだ、この陣は生命線だぞ、相手も抜くことを第一に考えてるはずだ』
『孫堅さんを送るのが手堅い、あの人なら、早々負けたりしない筈だよ』
『ちょっと待った、朱儁将軍に預けてある本陣の後詰めの数はどの位だっけ?』
『まってくれ、孫堅さんは右翼に送れないか? 前線で武を奮えるのが華雄だけなのは……』
『そうか、武将の層が薄いかも……』
『裏を掛かれると、武将の指揮次第だからな、武を見せ付けて混乱を抑えられる人が居るのは大きいよ』
『確かに』
『話を遮ってごめん、それで朱儁将軍の後詰めの数は?』
『2000弱だったかな』
『2000位だったな』
『その兵を本陣に入れて……ああ、でも後詰めは必要だよね』
『後ろを抜かれれば今度こそ何も無い平原だけだ。
 どうしたって後ろに兵を置いていかないと洛陽に突撃されてしまうよ』
『陣の傍まで、朱儁将軍を呼べば良い。 それだけで後詰めでありながらも陣に居るような物になる』
『『『それだ!』』』
『なら、朱儁将軍に預ける兵は3000くらい足そう。 
 彼も酷い怪我もしてるし、陣の防衛にこれくらいは割かないと数的にまずいよ』
『朱儁さんには悪いけど、怪我を押して頑張ってもらうしかないか……』
『だな、何進将軍には一度部隊を引いてもらって左翼側に傾いてもらおう。
 左翼に直接応援に行くのは提案通り皇甫嵩さんに任せて、孫堅さんと黄蓋さんで右翼の支援に回ってもらうか』
(それが一番か……な……?)
『現状では、多分』

結論が出て、一刀は口を開いた。
と、同時に陣の中に二人の兵が慌てた様子で転がり込んでくる。
あれは董卓軍、そして袁紹軍の鎧であった。
嫌な予感が駆け巡り、そしてそれは―――

「ほ、報告いたします! 右翼の袁術様、張勲様が黄巾党に包囲されました!
 華雄将軍は敵の騎馬隊に足止めされ、劉表様が援護に出陣しましたが
 数の差で攻められて包囲の突破が難しいそうです!
 至急の増援を請われています!」

「報告です! 敵の騎馬兵、第3波の突破を許したそうです!
 次いで、騎馬隊の第4波と右翼本隊だろう歩兵の大群を確認!
 このままでは左翼は壊滅の憂き目にあってしまいます!
 増援を願います!」

現実となっていた。

『(くそっ! 後手に回った!)』
『落ち着け、本体、“蜀の” 俺達が取り乱したら兵に伝播するぞ』
『そうそう、まずは象のようにおおらかに……』
『『『なれねーよ』』』
『突っ込み早いよ……っと、まぁそれはともかく』
(ハハ……お前ら変わらなくて羨ましいな畜生)
『そうだな、だから普通にしてろ』

一刀はその場で伝令に頷くと、動揺をひた隠して再び腕を組んでその場で空を見上げる。
皇甫嵩と音々音が、じっと彼を見るのも気付かずに。

(分かってる……それで、どうする?)
『……右翼も左翼もだいぶ崩されている。
 丸裸になった本隊の何進さんが包囲されるかも知れない』

焦れたような声。
恐らく、危機に陥っている将兵の案否を思っているのだろう。

『多分“袁の”が言ったそれが狙いだね』
『何か、敵の狙いを覆せそうな物はあるかな?』
『……あ』
『なんだ、“呉の”』
『いやいや、ちょっと待て、でもこれは在り得ない』
『なんだよ、言ってみろよ』
『そうだよ、何か気付いたんでしょ?』
『……本体、前線に出る勇気ある?』
『『『あっ!』』』
『『げ、総大将を囮にするのか?』』
『『『ありえんだろ』』』
(え……俺ぇ?)

音々音の方は、時たま一刀がこうなることを知っていたので
黙って見守っていることにしたようだが
脳内会話が盛り上がり、黙っている一刀についに焦れた皇甫嵩が声を上げた。

「天代殿! すぐに対処をせねば、戦線が崩壊いたしますぞ!」

「ちょ、ちょっと待って、すぐ終わるから」

思わず地が出て、思い切り敬語を忘れて言い放ってしまったが
皇甫嵩も焦っているのか、そこを指摘されることは無かった。
逆に、終わるという単語に興味を抱いたようだ。

「すぐ終わる? どういうことでしょう?」

「皇甫嵩殿、とりあえずお茶でも飲んで落ち着くのです。
 一刀殿がこうなったときは、大抵驚くことを言ってくれるのです」

「むむぅ、急いでくれねば困るのだが……」

『時間がない、こうなったらもー“呉の”の提案でいこう』
(ま、待て、俺、だって戦の前線なんて―――ていうかいきなり投げやりになってないか!?)
『『基本、馬に跨ってるだけだ、大丈夫だ!』』
『『『『雑兵くらいなら、俺達でも十分戦えるぞ』』』』
『おいおい、総大将前に出すってことは、一斉に群がってくるってことだろ?
 お前らは良くても俺はお前、死ぬかも』
『でも、敵の目は必ずこちらを向くはずだよ。
 そうだ、“呉の”、一度本隊を突出させる振りをして中央に敵を纏められないか?』
『危険だな……援軍に兵を割いてしまうからどうしても中央が薄くなるぞ』
『連携が取れれば、それも可能かもしれないけど』
『やっぱそうか……しょうがないね』

暫くの間、本体は大きな葛藤と戦い脳内と議論を交わして結論を下した。
口を開いて、その一刀の決断を聞いた皇甫嵩はまず、含んだ茶を盛大に噴出した。
続いて顎が外れるのではないかと思うほどあんぐりと口を開けたのである。
音々音も同じく、口を開けて目を剥いた。
なんせ、その口から出た言葉は、一刀と何進大将軍が率いる本隊が戦場で突出することであったからだ。
一刀は、目を剥いて固まった二人に素早く説明し、伝令を送る用意をさせた。

ただ、出した結論は先ほどの議論よりはやや消極的な物であった。

総大将を囮にするのは決まった。
これ以上の餌は確かにこの場に存在しないし、本来ならば在り得ない。
一刀が本隊の前線に出る事は非常に危険だ。
前線にホイホイと出て行って討ち取られましたなんて事になったら洒落にならない。
総大将を討ち取ったとなれば、敵の士気はもりもり回復し青天井になるだろう。
逆に、こちらは天代=つまり帝の代わりとなるものを失ったことになるのだ。
そうなれば、求心力を失った官軍の兵は黄巾党との戦に勝てない。

その辺は盛り上がっていた脳内達も自重して賛同を返したのである。

陣を空にすることも出来ない。
帰る家を失くすなど、それこそ馬鹿も笑うという物だ。
よって、先ほどの会話の通り、朱儁将軍には5000の兵で持って陣の直後5里ほどの場所に待機してもらう。
目下、苦戦の最中である右翼と左翼には予定通り、3000の兵で皇甫嵩を左翼に。
孫堅と黄蓋を2000の兵で右翼へと派遣。
これ以上、兵を本隊から割くのは不可能だった。
帰り道を確保するために兵を置くことを考えれば、少なくとも2000は欲しい。
何進とすぐにでも合流できれば、もう少し融通が聞くかも知れないが
現状、どう戦況が動くのか予想が難しいので、将兵の判断によって状況は枝分かれすることだろう。
ある程度柔軟性のある対応を心がけるしかなかった。

袁術、張勲の部隊は包囲を脱出したら早急に纏め一目散に本隊と合流するようにと伝えた。
袁紹率いる右翼も、余力が無いようなら本隊へ合流するようにと伝令を走らせる。
余力があるのならば、そのまま敵軍左翼を圧してもらえばいい。
黄巾党が突出した官軍本隊に釣られて食いつけば、方円陣を敷いて徐々に後退することで
戦線の崩壊を防ぐとともに、体勢を立て直すことも出来るだろう。
その後も黄巾党が陣に追ってくるようであれば陣を盾にして篭城するしかない。

袁術、袁紹が本隊に加わっても、援軍に送る5千の兵と後詰めに預ける3千。
合計で8千の兵の分だけ本隊は薄くなる。
本隊に残る兵の数は何進将軍が黄巾党とぶつかっている場所から皇甫嵩が3千の兵を引っ張っていくので
官軍本隊に残る数はおおよそ7千。
黄巾の数はやや削れただろうが、それでも4万は越えているのは間違いない。
一斉に中央へ群がってくるだろう黄巾党とまともに野戦でぶつかれば
平原であるこの場所ではとても耐え切れない。
罠を作るような余裕も、勿論無かった。

敵が篭城することに気がついて陣を迂回しようとすれば
朱儁将軍の5000の兵をぶつけ足止めし、挟撃するしかないだろう。
それで破られたらこちらの負け。
耐えれば再編した部隊を陣から出してもらって押し返すことも出来よう。

「方針は陣への篭城! 敵が本隊に食いついた所を狙って戦略的撤退だ!」
「仕方ありませぬな! それでは、至急兵を整えて援軍に向かいます!」
「一刀殿、右翼、左翼ともに伝令を走らせましたのです!」
「良し……そうだ、ねねは朱儁将軍へ3000の兵を纏めて事態の伝令を行うと共にそのまま後詰めについて」
「か、一刀殿、しかしねねは……」
「頼む、ちゃんと戻ってくるから」

音々音は気がついた。
一刀の腕がやにわに震えているのに。
一瞬の逡巡の後、音々音はしかし頷いたのである。

「武運を祈るのです、一刀殿!」

「ああ、ねねも、しっかり頼むよ」

駆け出した音々音の姿を一瞥して、一刀は踵を返した。
自分のやるべきことは決まった。
精々目だって、諸侯が陣へ戻るまでの時間稼ぎをしようじゃないか。
それくらいしか、今の一刀にはできないのも事実だ。
金ぴかの鎧を身に着けて、腰に一刀でも扱えそうな剣を二本選んで差し込む。

「……やっぱこの鎧、目立つよなぁ」
『今、この状況なら望むところじゃないか』
『キラキラの餌は目立つね』
「まったく。 袁術ちゃんは先見の明があるよ」
『張勲さんじゃないの?』
『ふふん……』
『“仲の”がえばる所じゃないだろ、それ』
『まぁね……』
『うぜぇ』
「ははは、良し、頑張ってみるか!」

金の鎧を煌かせ、全ての準備を整えた報告を受けてから天幕を出る。
一刀は自らの馬に跨ると揃った兵を見回した。
これから、自分の命を預ける兵である。
馬上で失礼だとは思ったが、一刀はそこで一礼した。

一刀に視線を集中させていた者は皆一様に驚いてどよめいた。
“天の御使い”であり“天代”である総大将、北郷一刀が頭を下げたのである。
ただの、雑兵、一兵卒相手にだ。
これは彼らにとって、驚天動地の出来事に等しかった。
帝が、一兵に頭を下げるなど無いのだから。

「みんな、すまないけど、俺と一緒に戦ってくれ」

数は千かそこら。
今まで、其処に居た者達は劣勢であることを知っている。
そして、それは確かに恐れとなって心身を蝕み始めていた。
しかし、どうしたことか。
ただ、頭を下げて短く言葉を連ねただけだ。
自分達の総大将が行ったのはそれだけのはずなのだ。
なのに、自身の心は今までに無いくらいの活力に満ち溢れていた。
正義は確かに、官軍にあるのだ。
だから自分は此処に居るのではないか。
だから、賊と戦う為に武器を拵え、鎧を着込み、この場に参じたのではないか。
天は、漢王朝はまだ、目の前に居る天の御使いと共に生きているのだ。

官軍の陣で、今まで以上に無いほどの気迫が叫びとなり
天を衝いた瞬間であった。


      ■ 外史終了 ■



[22225] 都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編5
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2010/11/14 22:47
clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編3~



clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編4~



今回の種馬 ⇒     ☆☆☆~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編5~☆☆☆






―――



官軍の発した轟音が天を衝いて、波才は一瞬とはいえ体を震わせた。
何か大きな動きがあることを本能で察知した彼は、落ち着かない様子で戦場を俯瞰した。
そして、ついに焦れた彼の元に、報告が走りこんできた。

「何だ、一体なんの声なのだ!」
「波才様!」
「どうした!」
「敵本隊と思わしきものが突出し始めています!
 中央に目立つ鎧を着込んだ男が、恐らく官軍の総大将です!」
「なんだと!」

その報告を聞いた瞬間、波才の震えは興奮へと変化した。
獰猛な笑みを浮かべてしまうのを自制できなかった。
それはチャンスだった。
陣の内側に篭る敵の総大将を葬る千載一遇の好機。

恐らく、両翼を兵数差で圧されてやむを得ず突出したのだろう。
敵の両翼を崩した今、中央に突出した本隊はいわば鎧を失った胴体に等しい。
波才が居る中央は、その数2万を越える大群だ。
見る限り、兵数差は歴然としている。
こちらは相手と何度か小競り合いしただけで、損耗らしい損耗は出ていない。

「ふ、フハハハ! いいぞ、来たぞ、黄天の世が!
 行くぞ、炙り出された敵の本隊を両翼を狭めて包囲し吹き飛ばしてしまえ!」

波才の高揚を乗せた声が、黄巾本隊へ響き渡った。


戦場はそれまでの流れから逸脱した。
官軍の中央が戦場のど真ん中に突出して、それを確認した黄巾党は
矛先を目の前の相手から逸らし始めたのである。

それは戦場全体を俯瞰していればすぐに分かっただろう。
中央に躍り出た一刀率いる本隊を中心に、水に投げ入れた波紋が広がるように
黄巾党の槍が官軍本隊へと確かに方向を変えたのを。
突出した中央が掲げるは十文字の旗。
その事実にいち早く気がついたのは、両陣営片翼を支える軍師達であった。

「そんな、いきなり隊列を崩して……ああ、あれは敵本隊!?」

「黄巾党の動きがおかしい、急にタガが外れたぞ? どういうことだ」
「冥琳! あれ!」
「なっ、あれは天代様の部隊か! まさか!?」

「あー、助かりました……でも今度はあっちが危険になりますよね、こっちはどうなってますかね」
「ちょっと田豊さん、あんまり離れないで下さい!」
「そうですわ、危ないですわよ」

これまで事を優勢に進めてきた孔明は、自軍の統率が突然乱れたのに気がついて、そこから察したのだ。
官軍本隊の中央突出。
孔明は、自分が詰めていた手を盤上ごとひっくり返されたのを確信した。
官軍の総大将、天の御使いは凄まじい肝っ玉を持っているに違いない。
この状況で戦場のど真ん中に躍り出ることなど、普通は出来ないから。

同じく、左翼の乱戦の最中、敵の乱れにいち早く気がついた周瑜は孫策の声で原因を知る。
袁紹を守っていた顔良が勝手に動こうとする田豊に焦りながら声をかけて制止していた。
それまで動くに動けなかった文醜が、顔に張り付いた返り血を手で拭い
武器を担ぎなおして近くで所在無さげにうろついていた馬に跨ると、鬱憤を晴らすように声をあげた。

「おぉーし、とにかく隙間が空いたんだ! 敵の指揮官をとっちめて来てやるー!」
「ぶ、文ちゃぁ~ん!」
「斗詩ぃ! 二人の護衛は任せたぜぇ! 文醜隊、遅れずに付いて来いよー!」
「ハッ!」

「はわわ、隙間を埋めて下さーい! 隊列の前を流形陣に攻勢を受け流します!
 相手の本隊へ向かう部隊と敵左翼を足止めする部隊の二つに分けて!
 乱れた隊列の隙間を埋めて、相手の追撃を交わした後に敵部隊の端を―――きゃあ!」

流れが変わった事に気がついた両軍の判断は早かった。
普通の軍同士であれば、お互いがお互いの指揮官の指示によって大勢は変わらなかったかもしれない。
しかし、孔明の指揮する右翼は黄巾。
時代がそうさせたとはいえ、人として大切な物を失いかけている獣。
結果は、明暗を分けていた。

「うるせぇ! 中央を崩せば俺達の勝ちなんだろう!」
「ここの雑魚共を狩っても意味がねぇんだ!」
「中央の官軍をぶっ殺せば、黄天の世を迎えられるんだ!」
「そうだ! 俺達の目標は中央の総大将だ!」
「蒼天已死!」
「黄天當立!」
「オオォォォォオオォォォオォォオォォ!」

孔明の慌てて叫んだ指示を無視して、それを押し出すように彼女の居る黄巾右翼本隊も
中央へと叫び声をあげ進軍を開始したのだ。
馬上から突き落とされるようにして転んだ孔明は、頭を抱えて受身を取る。
衝撃に短い悲鳴をあげて、だが、しっかりと意識は保っていた。
目の前に吊り下げられた餌は最上級。
これまで我慢を重ねていた獣は、もはや孔明の声ごときで留まる事は無かった。
それを理解すると共に、口に入り込んだ砂利を吐き出して彼女は周囲を見回した。

「捉えた! あいつが黄巾の軍師かぁーっ!」

倒れた孔明がぐるりと視界を回して起き上がると同時に響く文醜の叫び声。
獲物を持って馬を駆る彼女は、中央に移動する黄巾をなぎ払いつつ、確実に近づいてきていた。
一角の将。
それを確信する武を振るって迫る姿は孔明に恐怖を植え付けた。

「―――! に、逃げなきゃ!」

震えだした体に叱咤して、縺れるように走る。
こんな場所で死ぬわけにはいかない。
自分には雛里と共に誓った志があるのだ。
今は闇の中に埋もれたそれも、何時か輝ける日が来るはずだ。
伏龍と、そう呼ばれていた。
ならばその名の通り、見事に伏した後に龍と化けてやろうではないか。
こんな場所で果てることなど、自分は出来ないのだ。

手近に放置されていた馬に転がるように飛び込むと、孔明は一目散に黄巾本陣へと走らせた。
どうしても黄巾党の兵数から、文醜は進路を塞ぐ敵を払いつつ進まねばならず
視認できるまで詰めたはずの距離は、徐々に、また徐々にと離れていく。

「ちくしょー! どけっ、このー! 邪魔すんなー!」

やがて孔明の背は、その小さな体躯も相まって文醜の視界から消えた。
三国一を争う頭脳を持った少女はズキリと響く頭痛を手で押さえ必死に手綱を振って逃げた。
この世界で諸葛孔明という少女の、初の敗北であった。

一方、官軍左翼を実質支えている袁紹の部隊は、田豊が素早く乱戦の最中で凡そ1200の数の兵をまとめて
先手として周瑜と孫策に預けた。
そして、天代への救援となるよう指示を出したのである。
官軍と孫堅軍入り乱れた混成部隊であったが、官軍本隊が敗走すれば自分達の負けであることが分かっているために
驚くほど動きは滑らかであった。

「雪蓮、背中を見せる賊に当たり、減らせるだけ減らすぞ!」
「言われなくたって! 天代様も無茶するわね!」
「言うな! 我々が敵の策にまんまと乗せられたせいなんだ!」
「分かってるわよ! 絶対中央は敗走させないんだから! 我が部隊はこの孫伯符の背に続け!
 乱戦で疲れた者も、もう一踏張り、根性を見せなさい! いいわねっ!」
「応!」
「おぉぉぉぉおお!」

袁紹と田豊が慌しく部隊を取りまとめているのを後にして
即席で組んだ孫策、周瑜の部隊は、今一度気炎を上げて黄巾党の後背に襲い掛かった。

「あれは……江東の虎の娘か!
 このまま行けば我らと挟撃できるな!」

勇猛果敢に突っ込んで蹴散らしていく姿を対面から確認した
左翼の増援として派遣された皇甫嵩は、逆に受け皿となるように
迎撃陣を敷いて黄巾右翼を待ち構えることを選択した。

「押しに負けるな! 地に足を噛んで踏ん張れ! お前達が漢王朝の命の盾だ!
 くるぞぉぉぉぉおお!」
「オオオオォォォォオォォォォォ!」
「邪魔をするな官軍!」
「止めろおおぉぉぉぉおおぉおぉ!」

皇甫嵩の叫びが響き、衝撃は走った。
盾を持つ者が部隊の前に出て、敵の歩兵とぶつかりあって鈍い音を戦場に響かせた。
自らの体だけで支えきれない衝撃は、後ろに居た者に支えてもらい地を踏みしめた。
一人が倒れれば、その隙間埋めるために兵が走る。
走る人馬に自らが飛び込み引き摺り落として、多くの騎馬隊がその場で転倒した。
空馬となったものも槍で転ばせ、それすら防波堤に利用する。

一度ぶつかった皇甫嵩3000の兵と、黄巾右翼の数えることすら馬鹿らしい賊軍は
まるで波間に打ち寄せる水のように、官軍へぶつかるとじわり後退した。

その更に後ろから、黄巾の群れは再び官軍へと突っ込んでくる。
途切れることのない波状攻撃だ。

「踏ん張れ! ここが勝負の分かれ目だ! 命を懸けよ!」

部隊を手足のように動かして、皇甫嵩はこの場の死守に全力を傾けていた。



官軍右翼でも、中央に吐き出された極上の餌により
それまでの荒い統率でもって取れていた黄巾の部隊が乱れに乱れていた。
馬を駆る者は一目散に、歩兵ですらも走って中央へとなだれ込んでいく。

中央を圧せば我らの勝ち。
それが本能で分かっているからこそ、目の前の好機に突撃していくのだ。

自然と包囲が崩れ、絶望的な兵数差で黄巾とぶつかっていた袁術と張勲が率いていた部隊は救われたが
しかし、とてつもない出血を強いられていた。
中央に援護へ行けるどころか、部隊として機能しないほどの状態まで追い込まれていた。

「袁術殿、張勲殿! 無事であるかっ!」
「あ、こっちです劉表さん! 早くっ! 美羽様が……美羽様がっ……」
「ま、まさか、袁術殿が―――!?」
「ぬぁー! 許せぬのじゃあやつらー! 追うのじゃ! 追って奴らを倒してくるのじゃー!」
「ああん、さすが美羽様っ! ボッコボコのベッコベッコンにされた直後にその考えなしの突撃策!
 どんな時でも自分を見失わない三国一の妄想美少女! いよっ、袁家の一番星!」
「わはははは、もっとわらわを褒めてたもー!」
「……元気そうですな」

最悪の事態を一瞬想像してしまった劉表は、何時もどおりのやり取りを交わす二人に大きく肩を落としてしまった。
呆れて頭を掻いていた劉表だったが、そこで気がつく。
張勲の腕や足、果ては鎧にまで数多の矢傷と刀傷が無数に走っているのを。
その一方で袁術には傷一つない。
どこからどう見ても、彼女が体を張って袁術を守り通した証に違いなかった。
無駄に明るく馬鹿をやっているのも、袁術に悟られないようにとの配慮だろうか。

「……張勲殿、そちらの部隊は疲弊が激しいようだな。
 後は任せて、陣内に先に戻られるといい。
 何、本隊への援護は私が行くから心配はご無用だ」

「あ、そうですか? じゃあお願いしますねー」
「な、七乃、好き放題された奴らを放っておくのかえ?」
「大丈夫ですよー、あそこのチョビ髭が微妙な劉表さんが美羽様の為に頑張ってくれるそうですよー?」
「うむ! 劉表とやら、よろしく頼むのじゃ!」
「チョビ……」

もはや礼儀など忘れてきたかの如く、こんな戦場のど真ん中でふんぞりかえる袁術に
劉表は僅かに顔を顰めたものの、すぐにそれを振り払った。
そう、彼女はまだ子供。
そして、自分が本陣の指示を無視して彼女達をいち早く陣へ帰すように言ったのは
主を守る為に自らを壁にした心意気に胸を打たれたからである。
子供に腹を立てるなど、この場でする事ではないのだ。
地味に自慢のチョビを貶された事は悲しかったが、それもまぁ許せる範囲だ……許せる範囲なのだ。

「任されよ、袁術殿、張勲殿」

微妙に硬くなった声でそう言いつつ馬首を返して
劉表は袁術隊に護衛の兵を割くと自らの部下に二、三指示を残し、陣形を整えて本隊への援護へと走った。
ややあって、敵は劉表の前に姿を現した。
確実に中央へと進む敵の中、数多の黄の旗に紛れて孤立した華の旗が敵のど真ん中で翻っているのを見て
彼は目を向いて驚愕した。

「なんと! 華雄殿はあの勢いに乗る敵を相手に奮闘しているのか!」

確かに賈駆から伝令は出ていたはずである。
本隊が突出するため、進路になる華雄隊は一度相手を素通りさせてから後背を襲えと。
それが、実際に赴いてみれば四面楚歌の中で孤軍奮闘しているとなれば
伝令が届くことなく果てたか、撤退しようとして出来なかったか。
或いは、自らがあの黄巾の群れと相対することを良し、としたかだ。

劉表はすぐさま陣形を変更し、彼自身が先頭に立ち突撃陣を敷いた。
一点突破で、華雄将軍の下まで駆け抜けるために。

「行くぞ! 敵を目の前にして背中を向ける阿呆共を貫く!」

「獲物は目の前だっ! 食い破るぞ!」
「江東の虎に続けぇい! 道は堅殿が開いてくれる! 遅れるでないぞ!」

劉表の場所から1里と離れていないところから声が飛んできた。
突撃をしながら横目を送れば、孫堅が自分と同じように突撃陣を敷いて黄蓋と共に
敵の背に突っ込むところであった。

本隊が彼女達の分だけ兵が薄くなったことを知った劉表は、突撃している最中で大声を張り上げた。

「伝令ぃ!」
「ハッ、こちらに!」
「中央は薄くなっている! それだけを賈駆殿に伝えよ!」
「ハハッ!」

唸りを上げて突進する劉表の部隊から、二人ほど進路を逸れて飛び出して行った。



『予想外だ、まさか全黄巾党が一斉に中央へ寄って来るとは……』
『やっぱ銅鑼が鳴ったら突進するような奴らだった』
『『『『冷静に分析している場合かっ!』』』』

そう、ぶっちゃけると全黄巾党が食いついてくるのは無いと思っていた。
いくら何でも、目の前の矛を完全無視して突撃してくるとは思わなかった一刀である。
味方の援護として敵を引き付けるという目的は達成できたが
ちょっと達成率が100%を余裕で越えてしまったようだった。

『後退するか?』
『この状況で後退したらすぐに食い破られる。
 援護が来るはずだから』
『流れが変わるまでは……』

「味方が来るまでの時間を稼ぎます! 敵騎馬兵の突撃に対抗!
 先に言ったように5人で一組、槍手に二人、それを支える人を三人で組んで方円陣を敷いてください!」

今現在、一刀は“董の”が替わっている。
本体は、前線に出てきてからというもの、口が震えて体も痙攣していたので使い物にならなかったのだ。
この場では役に立たない。
それも無理も無い話だった。
本体が戦場を経験するのはこれが初めてだ。
初陣がこれだけの激戦であったのは、脳内一刀の中にも一人として居ない。
この場所では人の死が当たり前のように転がっており、今もなお物凄い速度で生産されているのだ。
乱世を潜り抜けてきた一刀たちでも、これだけの激戦は反董卓連合や官渡決戦、赤壁など数えるほど。
何十と経験していれば命は何回吹き飛んでいることか分からないだろう。
戦の危険に規模は関係ないが、それでもこの洛陽での戦い、初陣である者には厳しい。
目の前で、自ら突撃してきた馬の群れが槍に突き刺さって行くのを見ながら
一刀はグルグルとその中身を変えて指示を出して兵を鼓舞し続け対応していた。

「報告! 皇甫嵩様が左翼の援軍に成功したようです。
 現在は孫策様、周瑜様と共に黄巾党を挟撃を開始したとのこと!」
「報告です! 敵の中央本隊が何進様の部隊と交戦を開始しました!」
「賈駆様より伝令です! 袁術隊と華雄隊は本隊に加勢する余裕は無いそうです。
 一度、陣内に戻り体勢を整えて救援に向かうとのこと!」

「分かった! こちらからも伝令を出そう!
 陣から飛び出る時は盛大に鼓と銅鑼を鳴らしてくれ!
 それを俺達が後退する機の合図にすると! 頼むよ!」

「はっ!」

そう言って伝令が駆けた直後、一刀の横合いを一頭の馬が駆けぬけ、もんどりを打って倒れこんだ。
土砂を巻き上げて、無数の礫が一刀に向かって飛んでくる。
思わず腕を顔の前に持っていき、薄目を開いて確認した。
騎手は居ない。 おそらく、乗り手を失った馬が暴走して、ここで倒れこんだのだろう。
ここまで馬が飛び込んできたのだ、方円が崩されている。
貫かれたのは、左方。
顔に付着した泥を拭って、腰に差した剣を引き抜きつつ“白の”が叫ぶ。

「左方の防御を固めます! 盾を持つ者は隣りに居る者を守ってあげてください!
 方円陣を維持するのは困難なので、俺の居る場所を中心に偃月の陣をっ!」
「偃月の陣だっ! 急げぇ!」
「オォオオォオオォ」
「俺の隣に来い! 人が足りないぞ!」
「任せろ!」

帰路の確保と敵本隊との備えで、一刀が居る中央が一番薄くなっている。
前に動いても後ろに動いてもまずい。
いざとなれば、何進大将軍を孤立させてでも一刀は逃げ帰るべきなのだろう。
だが、それは一刀の性格から選ぶことは出来ない。
この場で何とか留まるしかなかった。
この場に唯一、幸いと言っていいことがあるとするならば
一刀達の予想以上に、兵が天の御使いという名によって意気が上がっていることだった。

一つため息をついて戦場をぐるりと見回して、そして自分の手から放たれた光の反射に眉を顰める。
それにしても、この鎧は目立つ。  
敵の勢いが異常な速さで中央へ群がるのは、数の差のせいだけでは無い気がしてきた。

「この鎧脱いじゃおうか……」
『『『『『……』』』』』

ボソリ呟いた“蜀の”の言葉に、一刀達は黙った。



「何進様、後退しましょう! このままでは孤立してしまいます!」
「分かっている!」
「何進様、天代様より報告! 陣の増援が出てから中央は後退をするとのこと!
 それまでは何とか耐えてもらうようにと!
 不可能ならばこちらへ一刻も早い合流をするよう指示が出ております!」
「えぇい! 無茶を言いよる!」

報告を受けて、何進は一つ雑兵の首を切り飛ばすと兵にこの場を任せてやにわに後ろへと下がった。
敵本隊がなだれ込むように中央への攻勢を始めてから、まだ数分。
しかし、早速タガが外れてきている。
敵の本隊は万を超えているというのに、それを受け止めている自軍の数は4千足らず。
下手に踏みとどまれば即座に敗れて可笑しくない。
中央に陣取る天の御使いの率いる部隊は更に少ない。

腰にぶら下げた水筒を掴んで一気に飲み干すと、何進の気持ちは固まった。

「天代殿の隊と合流するぞ! 槍兵を前面に出して隊列を乱さず後退だ! 走れ!」
「ハッ!」

帰路に残した2千の兵は必要だ。 それは分かる。
残るは中央でどういう訳かやたらめったら士気の高い兵が踏ん張っている一刀と合流して
諸侯の援軍の到着を待つしかない。

最初から一刀と何進がまとまって行動していれば話は早かったのだが
何進はこの戦いが始まってからずっと、皇甫嵩と共に敵の中央本隊と小競り合いをしてきたのだ。
下手に動けば自軍の数に勝る敵の攻撃に晒されることになるので
中央に突出を開始した一刀に合わせて後退し、合流することは出来なかったのである。
皇甫嵩が一刀に対応の是非を問いに行ったときに部隊を下げていれば息を合わせることも出来ただろうが
それはもう、今更なことである。

そうして徐々に後退を始めた何進であったが、統率がしっかりと取れた黄巾の一団が突っ込んでくるのを視認すると
自身も戟を握りなおして、胎に力を込めた。
ほどなく、その黄巾の一団は何進の部隊を矢が打ち込まれるかのように抉りこんで、突き刺さった。
前面に配置した槍の矛先を避け、自軍の内部へと突破を許したのだ。

「おのれ、こしゃくな! 穴を埋めろ!」
「見つけたぞっ!」

一人ごちて、何進が指示を出すと共に馬を走らせた直後、怒声が響く。
一騎駆けだ。
突き破られた場所、何進から見て右側に騎馬が一騎飛び出してきて猛進してきた。
黄巾の武将―――年若いが……おそらく、指揮官!

「何進だな!?」
「何だ貴様はっ!」
「我が名は波才! 命を貰うぞ!」

馬上で両者がその手に持つ戟を振り上げる。
何進が走らせていた馬に波才の馬が横合いに並んだ。
併走を始めたその時。
両者の視線が交錯する。
獲物を握りしめる腕がわなないて、同時にその体が揺れる。

「やってみろ、小童ぁっ!」
「死ねぇぃっ!」

怒号一閃、上から振り落とした何進の戟。
真下から掬い上げるように上半身のバネを持ってかち上げる波才の銀閃。
ガァン! と鈍い鉄の音が響いて、両者の腕に僅かな痺れを残す。
お互いに衝撃にのけぞり、殆ど同時に戟を引き戻した。

左右で激突する衝撃と剣戟の音。
2合、3合、4合。
上下に或いは左右で銀の閃きが踊り、いつしかその音は周囲の音を二人から掻き消していった。
最早聞こえるのは自らの筋肉の唸りと鼓動のみ。
馬上であることさえも思考から消えていき、自らの武で持って目の前の男を打倒するだけ。
打ち据える度に手に痺れが増し、振り上げる腕は重くなっていく。
突然に音が蘇り、何進の肩当を吹き飛ばして波才の戟が顔の真横を貫いていった。
鎖骨の横の辺りから肩にかけて、赤い流線が吹き上がる。

痛みは、ない。

「これまでだ!」
「なめるなよ小僧!」
大上段に構えた波才に、何進は更に馬首を向けて激突するのではないかと言うほど接近する。
「ぬおおおぅ!」
「足掻くかあぁあっ!」

そして、突き入れるように伸ばした何進の鋭い打突が、しかし波才のなぎ払うような戟の振りで左へ流れた。


その光景を、最初に発見したのは黄蓋その人だった。
孫堅の判断で、黄蓋の部隊だけを先に一刀の元へと向かわせていた途中
何進大将軍と黄巾の武将が一騎打ちを行っているところへと出くわしたのである。
距離は短い。
目視で100歩も離れては居ないだろう。

「無粋か!?」
「敵は賊! わざわざと正々堂々になどと、相手から放棄しているような物!」
「わしも同じ結論に達した! 黄巾の武将を射る!」
「お任せを!」

それだけで、全ては通じた。
指揮を任された男は黄蓋を中心にして歩兵で円陣を組んでねずみ一匹すら通れぬよう
何重にも渡って張られた人により築き上げた防御網。

その中心で、静かに、しかし確かに気を集中させて矢を番える。
黄蓋の視界から兵、馬、戦場に在るあらゆる物が波才を除いて掻き消えた。
次に剣戟と馬の嘶きが遠くへ遠くへ消えていく。
ゆっくりと、しかし無駄なく彼女は弓を引き絞り―――必殺必中の矢は放たれた。
空気を切り裂き、一直線へと突き進む。
(殺った!)
確信と共に胸の内で声をあげ、そして矢は敵の脳髄を打ち抜き、貫通させた。

黄蓋と波才、二人の間に滑り込むように飛び込んだ一人の黄巾党の男の。

もんどり打って倒れこむ、雑兵。
戟を打ち合っていた二人の丁度中央に飛び込むようにして。

「一騎打ちの最中に矢を射るとはっ! 官軍はそこまで腐っているかっ!」
「戯言をする余裕があるかぁっ!」
「うぐぐっ―――おのれ、預けるぞ!」

新たな武将、黄蓋を一瞬だけ一瞥した波才は何進の戟と一つ打ち合って
ここで何進を打倒することは叶わぬと見て馬首を返した。
そして、何進がその後を追う事は無かったのである。

「大将軍! 無事であるか!」
「黄蓋殿か! 助かったぞ!」

そう、正確に言えば何進は、波才の後を追って打ち合うことなど出来なかった。
大将軍に抜擢されてから今日に至るまで、何進は自らの武を鍛え上げてきた。
しかしそれでも、合数を重ねる毎に自分は徐々に追い込まれていたのを自認していた。
認めたくは無いが、武として持ちえる才は、波才と名乗った男に劣っていたのだ。
あのまま続けていれば、敗走したのは自分であったことだろう。
じくじくと、今更ながら肩が熱を持つ。
いや、この場で朽ち果てていてもおかしくなかったか、と何進は一人胸中で歯噛みした。

「随分と自軍の兵から引き離されてしまった、黄蓋殿には私の直援を頼みたい!」
「承った、間引くように矢を打ち込んで敵を怯ませ、本隊と合流することにいたしましょう!」

荒い息を吐き出しつつ、何進は言った。
孫堅の命は天代の直援であったが、ここで黄蓋は自らの判断で何進の援護に当たることに決めた。
大将軍の不在は兵にとっても不安だろう。
何より、肩の傷は見た目以上に深そうであった。
数の差に押されている味方を一兵でも救う為に、武による鼓舞を行わなければいけないことを
黄蓋は直感したのである。

部隊を率いて本隊と合流した黄蓋の胸の内はしかし
敵武将を屠る必殺として放った絶好の機を逸したこと。
その悔しさを滲ませていたのである。


―――


一刀はその場を動かずに、何進と陣の帰路を守る部隊の楔として
機能し続けることが出来ていた。
その大きな理由として、孫策の、それに続くようにして来てくれた劉表の援護が大きいだろう。
あわや一刀まで剣を持って奮うことになりそうであったが、それは孫策の援軍のおかげで防ぐことが出来た。
30分とこの場に居ない筈であるのに、額からはおびただしい量の汗が噴出している。

一刀は孫策の部隊に居た周瑜を、この戦場の軍師として一時的に指揮を預けた。
周瑜は期待感と不安感を混ぜ返しながらも一つ頷いて一刀の命を受け取った。
早速、彼女の提案で陣への退却前に、敵との一当てを提案される。
そのまま後退しては、敵の怒涛の勢いに飲み込まれて兵の損耗が激しいだろうと指摘されたのである。
これにはすぐさま頷いて、伝令を走らせた一刀である。
入れ替わり立ち替わりでひっきりなしに一刀の元へ報告を持った伝令が飛び込んで来ては走り去っていく。

「天代様、孫堅様より提案があるとのことです。
 陣に退却するのは良し、しかし賊を野放しにするのはまずいと」
「皇甫嵩様から伝令! 殿を務めた後、孫堅様と共に裏へと周り
 陣へと群がる黄巾党に対して遊撃隊として動くとのことです!」
「賈駆様よりもう少しで兵の再編を終えると!
 退却の用意をしておくように、そう言われておりました!」

「兵の士気は……あの二人ならそれも考慮しているか」
『そうだね、多分』
『再編が必要ならば向こうから言ってくる』
『だな、素直に頷いておこう』
(皆……)
『本体、大丈夫? とりあえず俺達でやっておくからいいんだよ?』
『そうそう、無理しないほうがいい』
(大丈夫……ありがとう皆、助かったよ)

「……孫堅さんと皇甫嵩さんには了承の旨を伝えてください
 賈駆さんには既に退却の準備は進めていると―――」

本体は、自分に体の制御権が戻ったことを確認すると、息を吐き出すようにしてそう言った。
声が震えていないだけ及第点だろう。
待ちに待った陣からの銅鑼の音が戦場に響き渡ったのはその時だった。
ジャーンという甲高くも重苦しい音の余韻が残るうちに、一刀は自然に声を上げていた。

「孫策さん、劉表さん!」

「敵に一当てして後退する! 突撃するぞ!」
「我が孫旗の下に続け! ぶち当たって道を開く!」

一刀の声が早いか、彼らの声が早いか。
それまで防戦に徹していたはずの敵。
盾を構える敵の奥列から飛び出した騎馬隊によって黄巾党の部隊は乱れに乱れた。
特に、孫策とかち合った賊軍は不運であった。
出会い頭に首を切り飛ばされ、胴をなぎ払われ、体を中空に浮かせていた。
その勇を奮う姿は敵の士気を挫いて、味方の気炎を上げさせたのである。

「天代殿!」
「無事であるか!」

「はい、大丈夫です! 周瑜さん、いけますか」
「はい、後退の準備は整っております! すぐに移動を開始しましょう!」
「何進さん、怪我は?」
「なに、この程度かすり傷です」

乱戦の最中に出来た穴に突っ込んで戻ってきた何進と黄蓋の部隊に一刀たちは合流する。
部隊を纏めて、官軍の本隊はゆっくりと陣へ向かって後退を始めた。
勿論、逃げ帰るように陣へと後退する官軍を目にして、黄巾党は苛烈な攻撃を加えている。
それらを守るのは、右翼、左翼から集まった諸侯の軍勢であった。

後退するときが、兵の損耗は一番多いという。
しかし、この帰陣に際して官軍の損耗はごく僅かですんでいた。
大きな理由は武将の激烈な奮闘である。
この時、既に名が轟き渡っていた江東の虎は言うに及ばず
袁家二枚看板である文醜、顔良。
そして、黄巾本隊で勇を奮った天の御使いに傍に居る『系』という旗に居た謎のピンクが正に当千の活躍を見せたのだ。
この風評に、孫策は苛立ちを募らせたのだが
彼女にとって不幸だったのは、乱戦で孫の旗の『子』が破れて読めなかったことにあるだろう。

それはともかく。
殿であった劉表の部隊が戻ると同時に、陣への扉は閂によって完全に閉められる。
いち早く陣へと戻っていた一刀は、朱儁将軍への伝令を送ると
陣防衛の為に軍師を集めた。

「申し訳ありません、天代様。 敵の策にまんまと嵌ってしまいました」
「いや、いいよ。 相手は突っ込むしか脳が無いと思っていたのは俺も一緒だし」

自身のいらつきを隠すように唇を噛み締めて悔やむ周瑜に慰めを一つ。
もちろん、本心からの言葉である。
本体、脳内ともに、黄巾党を数だけを脅威と見て戦術性を持ち合わせていないと
危険な断定をしていたのは事実である。
だから、今日の敗北の原因は自分にあると言ってもいい。
お互いに反省をしていると、賈駆と田豊が一刀の元にはせ参じた。
二人は総大将の無事を確認すると、周瑜と同じように頭を下げようとしていた。
それに機先を制する形で、一刀は“呉の”と交代しつつ口を開いた。

「……何も言わなくていい、それより陣の防衛だ。 相手に後ろを抜かれる訳にもいかない。
 何か良い案はあるかな」

一刀の言葉に、一瞬だけ顔を見合わせる三人。
次の瞬間には、三人ともに声を出していた。

「天代様が囮を買ってくれたおかげで敵の目はこの陣に集中しています。
 動きが変わらなければ、このまま防衛に徹するのが最善と思います」
「そうですねぇ、敵軍師さんがこの状況で対応しないのはありえないと思いますので
 陣後方に怪我をしている朱儁将軍だけでは心もとないですね。
 武を奮える将を派遣しておいた方がよいかと思いますがー」
「陣の外で遊撃隊として動いてくれる部隊を置くことを提案するわ。
 武勇で有名な孫堅殿か、或いは用兵に優れる皇甫嵩殿を配置すれば
 効果的に敵の数を減らすことが出来るわよ」
「ああ、それはもう実行してる。 孫堅さんと皇甫嵩さんが自ら名乗り出たよ」
「水は使い切っちゃいましたか?」

田豊の問いに、賈駆は頷いた。
沼地を作るために運び入れた水は、殆ど使い切ってしまっている。

「相手が陣を崩そうとすれば、火を使うのは必至なんですが、水が無いとなると……」
「土砂や水で湿らせた布で対応するしかないわね。 そうなると土砂を造ってもらう部隊が必要か
 飲み水を使う手もあるけど、それは最後の手段ね」
「時間がない、土砂掘削の部隊は私が率いて行きます」

言うなり踵を返して、周瑜は走って自分の馬まで駆けていく。
一刀は脳内で今もなお繰り広げられている会話を拾って尋ねた。

「運搬の指揮は袁術さんに、えーっと、その護衛を顔良さん。
 朱儁さんの下には文醜さんと田豊さんで兵2500で向かって? ください。
 陣の守衛は俺と袁紹さん、劉表さん、張勲さんで当たります。
 その指揮は賈駆さんにお願いします……問題はあるかい?」

「いえ、適任ね……いいんじゃない」
「天代様、戦を経験したことが?」
「いや……初めてだよ」
「……」

何故か疑いの目を向けられて一刀は汗を掻いた。
疚しいことをしている訳でもないし、腹に一物持っているわけでもないのだが
脳内に自分が一杯いるだけで、何となくバレたくない。
実際、脳内の自分は何度も戦を経験しているしおぼろげながら未来を知っていたり
武将の有能さなどを知っていたりするので、バレたら大変な事になるのだが。

「田豊殿、今はそんな細事に思考を割いている時ではないのは分かってるでしょ」
「そうでしたね。 では猪々子さんとともに朱儁将軍の下へと向かいます」

賈駆に促され、一礼すると共に田豊はてくてくと歩き去った。
残された一刀と賈駆は、彼女を見送ってから自然にお互いに見合った。

「天代様、丁原殿の軍から報告はありました?」
「いや、まだ来てないよ」
「そう……」

そう呟いてから一つため息を吐き出すと、賈駆は一刀へ仕草で促した。
一刀は一つ頷いて、陣の防衛の為に自分に出来ることを思い浮かべながら馬に跨った。




「弓隊は登れ! 敵を陣に近づけさせるな!」
「来たぞ! 全員、門を支えろぉー!」
「私にも弓を貸せ! 弓は不得手だが、この状況でじっと待っていることなど、とてもできん!」 

一刀が陣の前線にたどり着いたとき、弓を兵から奪うようにして物見やぐらの様な物に
駆け上がる華雄の姿を認めた。
全員が、夥しい数で迫る黄巾党を退けるために死力を尽くしていた。
中央に造られた急造で造られた木造の門。
それは、火を用いられれば燃え、陣へ入り込む大きな穴を開けてしまうだろう。
梯子が何十とかけられて、その上に足場を作り込み、上方から矢や水を雨のように降らせていた。

閂は太く丈夫だが、敵だってこれを突破する為に必死なのだ。
自分にできること……

「良しっ!」
「ちょっと、天代様っ!」

門を突く轟音が響いてその光景を眺めていた一刀は馬から飛び降りる。
突然に馬から飛び降りて走る一刀へ、賈駆は静止の声をあげるが
それを無視するように近くに置かれた矢束を引っつかみ、肩から提げるようにしてぶら下げると
一刀は門へと走って、それを抑える兵の中へと混じった。

「て、天代様!?」
「何で天代様がここに!」

「華雄さん!」

兵の声を無視して、弓だけを持って駆け上がった華雄へと声をかけ
持ってきたばかりの矢筒を放り投げる。
彼の声に反応して、華雄はそれを受け取った。
気持ちだけ先走っていたのだろう、彼女は弓を持って駆け上がったのはいいが矢を持っていなかった為
弓を左右に振って味方を鼓舞するしか出来なかった。
恐らく、あのまま放っておけば弓兵から矢を強奪していたことだろう。

「すまぬ! 矢を忘れていた!」
「どんどん射ってください! 皆、門は死守す―――っ!」

三度門を震わせて、轟音が響く。
程近い場所で支えていた一刀は、その衝撃に思わず言葉をとぎらせ転倒する。
木片が飛び、薄く頬を切り裂いて、僅かに血を滲ませた。
生半可な衝撃ではない。
門越しにハンマーの様なものをぶつけられたのだと、衝撃越しに一刀へと伝えていた。

「あーっ、人の手で門を押さえるなんて無理に決まってるでしょーが!
 そこ! 暇なら丸太でも木でも何でも持ってきなさい! 
 つっかえ棒にするわよ! それと、劉表へ早く来いって伝令を送りなさい!」

一連の一刀の行動に呆気を取られていた賈駆であったが、やがて自分の頭を掻き毟ると
とりあえず突っ込んでいった総大将は無視して指示をビシビシと飛ばし始めた。
中央にあらかた指示を出し終えた賈駆は、ふと気付く。
そういえば、袁紹は先にこちらへ向かっていたはずだ。

「天代様、袁紹の姿が見えないわ!」
「なんだって? ……え? マジで!?」
「マジ?」
「賈駆さん、ちょっと俺行ってくるんでココ見ててください!」
「え、あっ、何なのよもうっ!」

僅かな間を置いて、一刀は何か気がつくよう顔を上げると一気に駆け出す。
何処へ行こうというのか、馬に跨るとためらわずに走らせる一刀に賈駆は毒づいた。
一人であちらこちらへ、フラフラと駆けずり回る彼には、もう少し自分の立場を自覚してもらいたかった。

「総大将ならどっしり構えてなさいよっ! 誰か、何人かで天代様を追いかけて!」

「ハッ!」
「了解しました!」
「承知しました!」
「俺が行きます!」
「私がっ!」
「俺も俺も!」
「待て、俺も行くぜ!」
「天代様を俺に守らせてくれ!」

「何人かで良いって言ってるでしょーが! わらわら動くなっ! そこのあんたと貴女で行きなさいっ
 ほら、後は防衛に戻れぇー!」

賈駆の指示に、ざっと100人は移動を開始し始めて、慌てて両手を振り上げて
叫びを上げて制止に励んだ。
必死である。
その様子を、上から俯瞰していた華雄は一人ふっと小さく笑う。

「軍師として活躍できて喜んでいるようだな、詠……楽しそうで何よりだぞ」

的外れな勘違いで柔らかい笑みを浮かべつつ、真下で群がる黄巾の一人をその手に持つ矢で貫いた。



一方で、走り出した一刀は天幕へと赴いていた。
そう、袁紹の為に造られた天幕である。
ようやく目的地へとたどり着いた一刀は一目散へと天幕の中に入った。

「袁紹さん!」
「……あら、天代様。 まぁ……随分と男ぶりを上げていらっしゃって」

突然入り込んできた泥だらけの一刀を見て、袁紹はのほほんと口に手を当ててそう返した。
そんな彼女の後ろでは、侍女だろうか。
脳内の彼らが言ったように、自分だけ優雅にお茶を楽しみつつ
数人の女性が袁紹のボリュームある髪をくしで梳いている。

『『『『流石、三国志でも存在感のある袁紹だ。 この状況で動じていない』』』』
『麗羽マジ麗羽』
『はは、なんか、ごめん皆』
「って、こんな事してる場合じゃないですって!
 陣の防衛には袁紹さんも参加してもらわないと!」

「そんな怒鳴らなくても分かっておりますわ。 少し汚れを落としていただけですのに」

「……汚れはいつでも落とせますよ」

はいはい、とでも言うように片手を挙げてそう返答をした袁紹に、一刀は声のトーンを下げて言った。
皆が死力を尽くして陣の防衛に躍起になっているのに、彼女は少し汚れたくらいで
自分の天幕へと戻って身だしなみを整えているのだ。
いくら何でも協調性が無さすぎる。
そんな本体の怒りの感情をいち早く察知した脳内は、“袁の”が一刀の体をスッと乗っ取った。
本体の怒気に任せて、諸侯との間、或いは一刀との間で亀裂を生むわけにはいかないからだ。

(おいっ!)
「えっと、だから、れい……袁紹さん、俺と一緒に指揮を執りましょう。
 俺は他のどんな人より、袁紹さんの指揮する姿が一番美しくて華麗だと思ってるんですから」
「おほほほほ、そんな事実を仰らなくても宜しいですわよ」
「分かってくれて嬉しいよ、ほら、行きましょう」

袁紹が頬に当てた手を取って、一刀は袁紹を笑顔で促した。
瞬間、椅子に腰掛けていた彼女の身体がビクリと震えた。
そして一刀の顔を見上げて、奮える声で言ったのである。

「―――え? かずと……さん……?」
「……え?」
『『『『『『……え?』』』』』』
(袁紹さん?)

思わず触れていた手が離れる。
お互い、戦の最中だというのに、視線を絡めて離せなかった。
じっと見つめあう一刀と袁紹。
そんな二人の異様な雰囲気に、どうすればいいのか分からずおろおろとしたのは
袁紹の髪を梳いていた数人の侍女であった。

いきなり目と目で通じ合った自分の使える主君と、天の御使いが見詰め合って動かない。
この場を外した方がいいのかとも思うのだが、下手に動くとこの雰囲気が崩れそうで
動くに動けない彼女達であった。

そんな一種、異様な空間を作り上げたこの天幕も、4度目となる門を突く轟音が響くことで終わりを告げる。
ドンッっと大地を震わす重音に、時間が再び動き出したかのように
一刀と袁紹は互いに身を引いた。

「ま、まぁ天代様がそう仰るのならば、頑張らせていただきますわっ!」
「あ、あぁ、うん……」

髪をまとめなおして、鎧をもう一度着込むと、袁紹は一刀から逃げるようにして天幕の出口へと向かった。
そんな彼女を呆っと見ていた一刀であったが、その時になってようやく声が出る。

「袁紹さん、今、俺のこと……」
「なななな、何のことですの? ぼやっとしている暇は無いですわよわよ!」

呂律の回らない声でそう言いながら、袁紹は天幕の外へと飛び出した。
一刀は、そして脳内はそんな今のやり取りに首を捻っていると
ふと自分に突き刺さる視線を感じて顔を上げた。
侍女にガン見されているのに気がついて、一刀は気まずい思いに駆られた。

「あーっと、俺も行かないと……」

言い訳するように言葉を残して、一刀も袁紹の天幕を後にした。
彼が去ると、残された侍女達はきゃいきゃいと今の出来事を振り返って黄色い声をあげたという。





黄巾党本陣に遠まわりするようにして逃げ帰った孔明は、ようやく人心地ついて周囲を見回した。
詰めていなければならないはずの本陣に、余りにも人が居ない。
どうやら、総大将の波才ですら敵の策にどっぷりと嵌って突撃したようである。

確かに、敵の中央が突出したのを崩し、総大将を討ち果たすことが出来れば黄巾党の勝利には違いない。
しかし、官軍の右翼、左翼はどちらも崩れていたとはいえ、仕掛けるには早すぎた。
両翼をしっかりと押さえて、初めて中央が裸になるのだ。
中途半端で両翼の押さえを外してしまうならば、最初から攻撃を仕掛けないほうがマシである。
変に策など用いずに、ただ数で敵を圧倒した方が絶対的に早い。
まぁ、それも今更なのだが。

視線を戦場に戻せば、官軍が陣に篭ったのだろう。
一箇所に集まって攻め寄せる黄巾党の黄色い帯が、荒野に生え揃っていた。
迂回して洛陽を目指してしまえば、官軍は陣から飛び出すというのにそれに気がつきもしない。
これは、天の御使いの思惑通りになったことだろう。

当然、迂回を選択すれば、それ相応の対策で持って迎え撃たれるだろうし後詰めも詰めているはずだが
強固な陣を相手に群がるなど、暴挙もいい所である。
如何に数の差があれど、兵数差は陣という盾によって埋められている。
消耗戦に持ち込まれてることすら、戦をしている当人達は気付いていないに違いない。
自分の指示がしっかりと聞いてもらえれば、こんな無様な戦になどならない筈なのに。

「……こんなんじゃ、勝てるわけがないよ」

孔明が呟くと、カタン、と天幕の中から音が聞こえてきた。
明らかに、自分の声を聞いての物音だ。
誰かに聞かれたということに驚くよりも、孔明は誰が居るのかを先に確認した。
そこに居たのは、呆けたように自分を見つめる鳳士元であった。

「雛里ちゃん……」
「……あ」
「そっか……雛里ちゃんも同じだったんだね」
「朱里ちゃん……」

戦略も戦術も考えず、目の前の餌を追って本能のまま動いた黄巾党に
軍師である自分が何か出きる余地など残されていない。
自分と同じように敗走して逃げてきたのだと、孔明は考えた。
姉妹のように育った士元に、暗い顔は見せたくない。
それだけを考え力の無い笑顔を作って、孔明は士元へ一歩近づいた。
その足にあわせて、士元の足も動く。
後ろに。

「……あ」
「……? 雛里ちゃん、どうしたの?」
「お、同じじゃないよ……」
「え?」
「朱里ちゃんと、同じじゃないよ……」

士元は帽子を被りなおし、俯いた。
そして思う。
そう、決して目の前の孔明と自分は同じではないと。
彼女がこの場に居ること。
それこそが証明しているではないか。
官軍に勝たせるために、指揮を放棄してきたのだ。
自分のように、どうでも良くなって、途中で諦めて、何もかも投げ捨てて本陣へと戻ってきた自分と
自らの意思で指揮を放棄して、官軍を助けるように動いている孔明とは、決して同じではない。
こんなんじゃ、勝てるわけが無いと孔明は確かに言った。
つまり、黄巾党が勝つ余地は、最初から無いと孔明は判断した。
短期的に見れば確かに見える黄巾党の勝算、それは孔明にも見えていただろう。
しかし、下した決断は逆。
二人の道はこの決断を持ってして違えたのだ。
そう思った。

「な、なんで? どうしたの雛里ちゃん」
「いいの、朱里ちゃん、気にしないで……」
「雛里ちゃん!」
「……っ」

孔明にしては珍しく強い声が出て、腕が伸びる。
その声にビクリと肩を震わせて、士元はしかし孔明に黙して帽子を目深にしてしまう。
それは拒絶だった。
何故なのか、理由は全然分からないが、自分の場所には来ないで欲しいという
士元の明確な拒絶の意思。
差し伸べた手は、空で停止した。

「どうして、分からないよ雛里ちゃん」
「……もう、いいから」
「よくないよっ! 理由を説明してくれないと、分からないよっ!」

孔明の心からの声は、士元に確かに聞こえているはずだ。
だが、彼女は唇を噛み締めて俯くだけ。
何で、どうして、何故、親友に拒絶されねばならないのだ。
この場所で信じられるのは、最早目の前で俯く少女だけだというのに!
何かの理由があるはずだ。
それは何だ。

答えは、閃きのような物を伴って、孔明の知に降りた。

「雛里ちゃん……まさか、味方の兵に殺されそうだったの?」
「……」

震えた体が僅かに、しかし確かに首を縦に振る。
瞬間、孔明は激昂しかけた。
自分は確かに、波才の言うように知で持って官軍を追い詰めていたはずだ。
何故、雛里が殺されなければならない。
一当てで波才は官軍を敗れるとでも思ったのか。

最早、こうなってしまっては雛里が孔明を信じることは難しいだろう。
疑われている。
自分が親友ではなく、国家を取って黄巾党を滅する覚悟を持っているのではと。
確かにそれは脳裏に過ぎった。
けれども、自分が苦し紛れに出した答えは死に行く漢王朝ではないのだ。
まだ飛んでもいない鳳と共に天を駆け抜けること。
真実は逆だが、しかし。
死に直面した彼女が、孔明を信じることはきっともう出来ない。
一番信じて欲しい人に裏切られたような物である。

手に持つ羽扇がミシリと、孔明の作った拳で軋みをあげた。

「分かったよ……雛里ちゃん」

震える声でそう告げて、孔明は天幕から立ち去った。
残された士元は、孔明が歩いて去った出口を暫し見つめて
深い後悔と最早制御の効かない涙腺を滲ませ蹲ったのである。

「ご、ごめんね朱里ちゃん……だって、私……」

嫌だった。
孔明を信じきれない自分の心が。
全部吐き出して、何時もするように、相談していればよかったのに。
それが出来ない。
話そうとしても、脳裏に銀色の光がちらついて、喉がひりついたように動かなくなる。
そんな弱い自分自身に気付いて、更に自己嫌悪に陥る。

「最低だよ……私」

力の無い言葉にあわせるように、地面へと目尻から毀れた涙の後が、点々と描かれていった。


孔明は、忙しく鳴る胸の鼓動を必死に抑え、ようやく自分に冷静さが戻ることを自認すると、再び戦場を見回した。
陣に篭る官軍と、外で攻め手を寄せる黄巾党の声がここまで聞こえてくる。
今日は、これ以上の進展を見せることは無いだろう。

「全部守るよ……私が全部、雛里ちゃんも、自分自身も!」

どうせ自分の行く道は、これしかないのだ。
血判状は波才の手の内で、官軍とは知でもって激突してしまった。
親友である雛里と軍略を相談することさえ難しく
今となっては、その雛里も当てにすることは出来ない。
本当の意味で、孔明は孤独な戦いになったことを理解して、なお―――その決意だけは揺らがなかった。
何時か、龍へと至る為にも。

一刀が黄巾党に送った埋伏の毒は、何故か諸葛亮と鳳統の離間の計へと
いつの間にか化けていたのであった。





「夜襲、朝駆けを提案するのです」

攻勢は大分落ち着いたとはいえ、未だ黄巾党が攻め寄せる陣内。
交代で敵部隊を陣の前で食い止めており、今は劉表と周瑜が防衛に当たっている。
どうやら、このまま今日の戦は終えそうだというところで一刀の隣に控えていた音々音がそう言った。
この言葉には、しかし賈駆を先手として待ったが入った。

「今日一日、兵は動き回って疲れているのよ、厳しいわ」
「しかし、この数の差は如何ともし難いです。 疲れているのは相手も同じはず」
「そうですね、陳宮殿の言うように、夜討ちと朝駆けの二段構えならば成功するかもしれませんねぇ」
「ちょっとちょっと、二人共待ちなさいよ。 どちらも失敗したら眼も当てられないわよ。
 敵の軍師は用兵に富んでいるわ。 こちらの狙いを看破されておかしくない」
「士気の差が怖いのです。 長引けば、こちらはズルズルと相手の攻勢に引っ張られるのです」
「分かってるわよそんな事は。 未だに数の差が二倍近くあるっていうのもね!
 でも、今日すぐに行うというのはボクは反対する。
 敵が警戒していると判っているのに、突っ込みにいくほど馬鹿げた話はないわ」
「士気の差ですよねぇ。 そうだ、天代様、兵士全員に頭を下げてきてもらえませんか?」
「田豊殿! 一刀殿に失礼ですぞ!」
「あぁ、ごめんなさい、つい本音が」

会話を聞きながら、一刀は苦笑した。
将兵の有能さを当てにした野戦での激突は、敵の軍師による策で塞がれた。
この兵数差を縮めるには、確かにどこかで奇襲を行い相手の数を削るしか無いだろう。
だが、官軍の頭脳陣が言うように、敵の軍師の存在が奇襲を躊躇わせる。
それに今日は、晴れている。
昼間こそぐずついた天気を見せていたが、今は雲も引いていて、夕日がしっかりと差し込んでいた。
夜討ちも朝駆けも、上手く隠れて移動しなければきっと丸見えだ。

黄巾党の軍師が邪魔だ。
数の差を埋めたいこちらの思惑、それを防ぐ両翼の手を外したい。
敵の情報がほしい、一刻も早く。

ふぅ、と焦れる気持ちを落ち着かせるように一刀はため息を吐いた。
この戦場で一体自分に何ができる。
脳内の自分達であるならばいざ知らず、本体の一刀は戦のいろは等何も知らないのだ。
田豊の言うように、士気の為に兵士全員に頭を下げるのも悪くないかもな、と思っていると
音々音を中心とした参謀陣が、自嘲している一刀へと視線を向けていたのに気がつく。

「決定するのは一刀殿ですな」
「そうね……どっちの言い分も分かるから、後は総大将の腹次第よね」
「で、どうします?」

ここで一刀は汗をかく。
途中から全然聞いてなかった。
六つの見つめる目に一刀は押し負けて、素直に白状した。

「ごめん、もう一度話し合ってもらっていいかな……?」

「はぁ?」
「聞いてませんでしたね?」
「えっと、じゃあ、田豊殿! 一刀殿に失礼ですぞ!」
「っ! あぁ、ごめんなさい、つい本音きゃんっ!」
「はうっ!?」
「真面目にやり直すなっ!」

ボケ倒した田豊と音々音に、素晴らしい突っ込みを入れた賈駆であった。

「痛いのですっ……」
「酷い人です……」
「くっ、あんた達ねぇ!」

結局、ボケと突っ込みを交えたテイク2を見た一刀は軍師の見解を理解し
脳内と相談した結果、今は無理をすることは出来ないという結論に達して
夜討ち、朝駆けの案は却下された。

ついに夕日が沈んだ頃、黄巾党は陣の攻略を諦めたのか
それとも、これ以上自軍の余計な出血を嫌ったのか。
官軍の陣から離れていって戦が始まる前のように対陣へ戻っていった。
戦いを始めてからおおよそ8時間。
遊撃隊として部隊を動かしていた孫堅と皇甫嵩が帰陣して、戦闘は終了したのである。





夜……月が天空に昇り、星がちらつき漆黒を彩る。
数多の死体が折り重なったこの場所は、袁術が包囲されて危地に追いやられた場所であった。
雲に隠れていた月明かりが、その場所に差し込んだその時。
ムクリと起き上がる、一人の黄巾の男。

名前も真名も捨てたという、アニキであった。

「……月が真上に昇るとき、だったよな。 よし、行くか」

周囲を見回して、動く者が居ないことが確認できてからアニキは移動した。
目指すはここから5里東へ向かったところ。
そこには何も無い。
荒野が広がるだけの場所に、今のアニキは行かなければならない訳があった。

月の明かりだけを手がかりに、薄暗い荒野を背を低くして走る。
息も乱れてきた頃、目的の場所に辿りつくと数人の騎馬を携えて天の御使いが視界に映る。

「何者だ!」

近くに居た、長い髪を揺らして一喝する女性の声。
御使いを守るように、一歩前へ出てこちらを威圧していた。
その様子に、思わずアニキは歩みを止めていた。

「黄巾党……?」
「ちょっと、これはどういうことなの、天代様」

「大丈夫、彼は味方だよ」

問い詰める二人の女性。
その二人とは、顔良と孫策であった。
一刀は、二人を制止するように前へ騎馬を進めて、アニキに近寄る。
同じく、黄巾の証である黄色い布を頭から外して、アニキも一刀の元へと歩いた。

「……ちょっと禿げてるわねアイツ」
「しっ! そういうこと言っちゃだめなんですよ、孫策さん」

この場所で、戦の初日の夜。
御使いと会うことは前もって約束してあったのだ。
一刀はアニキ達に、黄巾党の内部を調査……つまりは埋伏の毒となることを頼んでいた。

「あまり時間を取れない、聞きたいことだけ聞くね。
 敵の首領と、軍師の存在を聞かせてくれ」

「総大将は、馬元義と仲の良かった波才という奴です。
 若い奴の中でもかなり上の地位に居まして、個人の武も黄巾党の中じゃ上の方だともっぱら噂です。
 求心力っつーんですかね、そういう物もあって波才についていく奴は多いですぜ。
 俺とおんなじ、天和ちゃんに熱狂してるんで、その辺は好感の持てる奴かと。
 軍師はその波才が道中で拾ってきた娘っ子二人でして。
 一人の名前はおうとう、と言うそうですが、もう一人は分かりません」

「軍師について、出身とかは分かる?」

「すいやせん、軍師については名前くらいしか……後は特徴的な帽子を被ってたくらいでして」

コクリと頷く一刀。
どうやら、何進の報告に挙がってきた名と一致したみたいだ。
これで間違いない。
敵の総大将は波才、軍師二人を携えて官軍とぶつかった今もなお4万を越える黄巾党を率いる男。
『おうとう』という名前に一刀は心当たりが無い。
三国志に出てくる登場人物を全て覚えている訳でもないが、有名どころなら本体は大体知っている。
つまり、それほど能力が秀でている訳ではないのだろう。
当然、この世界でどれだけ自分の知識が一致するのかは分からないが
少なくとも目安にはなるはずだ。
恐らく、この考え方は間違っていない。
脳内で自分の知り合いが居ないことに、安堵を覚えたため息を聞きながら、一刀はアニキへと口を開いた。

「分かった、夜の内にまた敵の陣へと戻ってくれ。
 例の作戦は、時期が来たら実行に移すから。 合図は覚えてるよね。
 それと、敵の軍師のことだけど―――」

「それなんですが、殺してしまった方が早くないですかね……俺はそう思うんすけど」

一刀は一瞬、アニキの言葉に驚いたが、すぐに真顔を取り繕った。
疑うような視線を投げかけていた孫策は、ピクリと今の言葉に反応する。

「討てるの?」

「機会が一度でもあれば、ほぼ確実に」

「……天代様、良い機じゃない?
 もしも彼が軍師を殺して、戦術を相手が失ったなら黄巾党と繋がっている疑いも晴れるわよ。
 そして、私達は獣相手ならば負けることは無い」
「孫策さん、天代様は彼を隠密で使って―――」
「どうかしら。 私達が居るから本当のところは話せないんじゃないの?
 それに、例の作戦っていうのも、私達に隠しているのはどうして?
 悪いけど、私はこの現場を見てしまった以上、天代様を信じることは出来ないわ」
「そ、それは……」

それは顔良も同じ気持ちであった。
本当に作戦であるというのならば、黄巾党とぶち当たったこのタイミングで
一刀が作戦を味方に隠す理由が無いはずだから。
一刀も、それは気がついていた。
監視の名目でこっそりと陣を出た自分にくっついてきた二人。
まず間違いなく、疑われることになるだろうなと。
それでも、彼は今日アニキと会わなくてはならない理由があったのだ。
アニキの生存を確かめるためにも。

「天代様、黄巾党と繋がってないなら軍師を排除できるわよね」
「孫策さんの勘は何て言ってるの?」
「……」

人の命を、自分の疑いの為に人の命を奪う行為を執拗に促す彼女に、一刀は強張った声でそう返してしまった。
勿論、怒ったわけじゃない。
現代人である一刀の倫理観に触れて嫌悪からつい声に出てしまっただけのことだ。
黙した孫策に、一刀はかぶりを振った。

何よりも、今は相手の軍師をどうするかだ。
これだけ自信満々に殺せると言っているのだ。
武を持つような者ではないのだろう。
元々が黄巾党として活動してきたアニキだ。
即座に見破られることは無いだろうが、可能性はある。
黄巾の軍師が彼をスパイに使っている事実に気がつく前に、排除したほうが確かに作戦の勝算は高い。

この作戦というのは、一刀が洛陽に居る間に放った最後の矢であり、切り札だ。
機を見計らって使わねばならないが、決まれば効果は絶大だ。
それこそ、今の劣勢に立たされた官軍が勝利を呼び込むくらいに。

だからこそ、全ての条件が揃う時まで、誰にも話したくなかった。

この作戦、アニキを含む3人の黄巾党が最低でも二人居なければ成立しない。
バレてしまう可能性があるのならば、彼や孫策が言うように殺したほうが手っ取り早い。
謀殺という形になるが、これは戦争だ。
一刀は自分の命令で人の命を奪うことに、僅かに心を痛めたが
勝利のため、そして音々音を守る為だと自分を叱咤して、言った。
結局、孫策の言う通りこれが最善であった。

「アニキさん、その軍師は邪魔です。 出来れば二人共に排除してください
 ……自分の立場が危うそうだったら、無理はしないでください」

顔良、孫策が見つめる中、アニキは深く頷いて黄巾党軍師を葬る事を確約したのである。





陣内に戻ると、一刀は一も二も無く天幕へと向かい
厳しい視線を向ける孫策と、やや心配そうな顔をする顔良を無視するようにして
天幕の中にあつらえた寝台に寝転んだ。

大事である初戦を落としてしまった。
黄巾党、官軍、共に兵の数は減少したが、それではいけないのだ。
最悪、自分の最後の矢は的を逸れてしまうことにも成りかねない。
どちらにも転ぶ可能性はある。

それに、袁紹。
彼女は確かに自分の名を呼んだ。
それまで天代としか言わなかったのに、急に下の名を呼ぶなんて。
あれは何なのか……
孫策も今日の黄巾党との密会を母親……孫堅には言っていることだろう。
疑われるのは承知の上だとしても、気分の良い物であるはずがない。
短い間とはいえ、一緒に過ごした相手ならなおさらだ。
目を瞑ると、どうしても不安感ばかりが募る。
思わず、口をついてボヤキが出てしまう。

「……しんどいなぁ」
『本体、もう寝とこう。 起きてると余計なこと考えるから』
『そうそう』
「そうだね……」

脳内の自分の声に頷いて、一刀はだんだんと、意識が遠くなっていく。
自分の天幕の周りで、周囲がざわめいたような気がして、それが遠いのか近いのかも分からない。
そんな奇妙な感覚が纏わりついて、一度体を震わせると
一刀はハっと意識を戻した。
うたた寝をしていたようで、寝汗を掻いていたがそれを無視して近くにある水筒を引っつかんだ。
喉が非常に渇いていた。
真っ逆さまに落ちてくる水を、喉を鳴らして飲み込んでいく。

「天代様ー、まだ起きてますかー」

敬っているのか、投げやりなような声をあげて、一刀の天幕へと入ってきたのは文醜であった。
何となく罰の悪そうな顔を向けている。

「文醜さん……どうしたの」
「いえー、あの、それよりちょっと夜番の為に寝ちゃってて報告が遅れたんすよー」

ばつの悪そうな顔はそれか、と一刀は苦笑した。
別に気にしてないよ、とフォローを入れて、一刀は文醜の報告を聞いた。

軍師、その姿を戦場で見たという。
その最初の一言で、一刀は眠い目を擦っていた手を止めた。
一気に覚醒したのを自覚して、文醜へと対面する。
紅のベレー帽。
手に持つ羽扇。
淡いクリーム色の髪の色でショートにまとめて。
背には背嚢のようなものを背負っており、その体躯は小柄。

報告を聞いていくうちに、一刀……本体の表情は変わらなかったが。
その脳内は酷いざわめきを見せていた。

『……特徴は一致する』
『嘘だ! そんなはずない!』
『悪いけど、俺も間違いないと思う』
『おうとう、はアニキさんの聞き間違えだな……』
『ああ、きっとそうだね、おうとうじゃない……鳳統だ』
『黄巾党の軍師は―――』

「諸葛孔明……鳳士元、か」
「へ?」

『『ふざけんな! そんな事あるかぁっー!』』

意識体の二人が、大きく叫んだ。
それは、今までに無いほどの激情。
発露となって本体に伝わったそれは、本体の顔を彩らせた。

―――憤怒。

その形相は肝が太いと自他共に認める文醜をして、身を引くほどの貌であった。

「て、天代……様?」
「……ごめん、用事ができたよ」
「あ、ちょっと! 護衛付けないとあたいが怒られるんだけどー!?」

一刀はその場に文醜を残して、天幕を走って飛び出した。
なんと皮肉なことか。
軍師は、三国一の有名人、諸葛孔明。
そして、その親友であるという鳳士元だった。
脳内の俺の、大事な人だった。

アニキ達とは最早、連絡を取ることは出来ない。
どんなに急いでも明日の夜までは。
もう少し、もう少し文醜の報告が早ければこんな事にはならなかったのに。
八つ当たりだと分かっていても、“蜀の”も“無の”も思わずにはいられなかった。

「ハッ……ハッ……ケホッ」
『あいつら、勝手に本体動かしやがって』
『仕方ない、気持ちは分かるよ……』
『がむしゃらに走ったところで、本体が疲れるだけだってのにさ
 陣まで飛び出して、絶対怒られるよ』
『憤るなよ“南の”……とにかく、対策を考えよう』
『“蜀の”も“無の”も、意識が落ちてる。
 今のうちに纏めておこう』
『何ができるんだよ』
『何がって……思いつかないけど、考えるしかないよ』
『……ねねが、夜討ち、朝駆けを提案してたよな』
『ああ』
『それしかないか』
『良いのかよ、兵に無茶させるぞ』
『俺達の都合で、兵の皆を犠牲にしろっていうのか?』
『分かってる、でも他にあるかよ!?』
『……けど』

(……)

脳内に響くざわめきに、本体は息を整えて顔を上げる。
ふいに、自分に影が落ちた気がして視線を上に投げると、そこには大剣を携えた一人の女性が
黒い髪を揺らして堂々たる威風を携えて一刀を見ていた。
後方に控える、おそらく彼女の率いている兵であろう。
その数は僅かに100に届くか届かないか。
不思議なことに、その場に居る兵全員が服は縺れ鎧が激しく傷ついて泥まみれであった。
汚れていないところを見つけ出すほうが難しい有様である。
武将である彼女すら顔に泥をつけていたのだ。
それは、戦をしてきたばかりの集団のようにも見えた。

明らかに武将然としたその女性、数多の戦場で“魏の”の記憶に眩しく映るその人は
ゆっくりと一刀に近寄ると、覇気のある声で言ったのであった。

「官軍の者だな。 我が名は夏候元譲! 天の御使いの要請により曹操様からの命で取り急ぎの援軍へ参った!
 曹操様が率いる援軍本隊は後方30里の場所で待機しておる。
 我らを陣の中に案内して欲しい……ん? どうした、呆けていて。 私の顔に何かついているか?」

『春蘭……』
「夏候惇……」

月明かりがさしこむ荒野の中。
曹操の援軍到着をいち早く知ったのは、伝令でも雑兵でもない。
天代、北郷一刀であった。 

そして、一刀が夏候惇と出会っていた丁度その時。
諸葛亮は波才の天幕へと訪れていた。

洛陽の戦いはまだ、初日を終えたばかりである。


      ■ 外史終了 ■


官軍

総大将 北郷一刀
 参謀 陳宮
 本陣 何進 皇甫嵩 孫堅 黄蓋 :兵数15000→10300
 右翼 劉表 袁術 張勲 華雄 賈駆 :兵数8000→2700
 左翼 袁紹 顔良 文醜 田豊 孫策 周瑜 :兵数10000→6500

総兵数 35000→約19500

官軍援軍
曹操・夏候惇 :兵数5500
丁原・呂布 :兵数7000

黄巾党

総大将 波才
 参謀 諸葛亮 鳳統

兵数57000→約43000



[22225] 都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編6
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/01/05 03:19

      ■ この道が最後の戦でも


一人落ち着かない様子を見せて、天幕の中をうろつく男が一人。
その顔は下唇を噛み締めており、悔しさ、或いは怒りを滲ませていた。
黄巾党を率いる波才その人であった。

この胸中に渦巻く原因。
それは千載一遇の好機を逸した事にある。
相手の総大将が、わざわざ劣勢の最中に中央へ突出した。
何としても首を取ると突撃したのはいい者の、何進の首は取れずに
あわや敵将に矢を射られて絶命するところであった。

「くそっ!」

激情収まらぬ感情を吐き出すように一つ叫ぶと、彼は卓に置かれた盃を乱暴に叩き割った。
あんな好機は二度と訪れないかもしれない。
敵の兵数はこちらと比べれば寡兵だ。
孔明や士元の言ったとおり、初戦は野戦を挑んでこちらの士気を挫こうと官軍は動いた。
その力と力のぶつかりあいを制したのは我が黄巾党である。
これが逆ならば、総大将を討ち取れる機もあるかもしれないが
この状況になれば官軍が陣を空けて出てくる道理はない。

「あの牛婆が邪魔をしなければ……」

すべてはもう、たら、ればである。
何進を打ち倒せていれば。
黄蓋が邪魔をしなければ。
両翼がきちんと抑えていれば。
あの時、あの時、あの場所、あそこで。
激烈な後悔と共に苛立ちを募らせていた波才の元に、孔明が訪れたのはその時だった。

「おきてますか」
「起きてる、なんだ!」

激情で持って返答を返すと、静かに孔明は天幕の中へと滑るように入り込んだ。
能面の無表情を作り、見上げる孔明。
その様子がまた、波才を苛立たせる。

「なんだ、こんな夜中に、犯されにでも来たのか!?」
「冗談はやめてください。 官軍の夜襲に備えるべきだと忠告へ来ました」
「夜襲?」

肩眉を吊り上げて、波才は孔明を見た。
相変わらず無表情のまま頷く。
波才はそんな彼女の提案を笑った。

「ははは、何を言うかと思えば、馬鹿を言うな。
 今日一日、兵は駆けずり回って疲れているのだぞ。
 劣勢であった奴らならばなお更、そんな事はしない」
「そこが相手の狙いです。
 大軍であればあるほど、気は大きくなります。
 仮に夜襲が無くても、この規模ならば休息を交代で取らせ警戒することで夜襲の可能性を潰せます」
「もっともらしい事を言うが、それは―――」

孔明から面倒臭そうに顔を逸らした波才の言葉を遮って
彼女は更に言を重ねた。

「それに、雲の流れを見れば夜襲の警戒も2,3日ですむと思います。
 夜襲には混乱を煽るために火を用いるのが常道ですが、雨が降ればそれも叶いませ―――」

最後まで言い切ることは出来なかった。
それまで大人しく聞いていた様子であった波才が、急激に視界の中でぶれて消え
次の瞬間にはその腕で、孔明の胸倉を掴んで持ち上げて、そのまま天幕に配置された棚へと叩きつけたのだ。
短く、肺に溜まった息を吐き出す。

「かっ……」
「なぁ、お前はどっちの味方なんだ? 官軍が突出した時、右翼の指揮を放棄したよなぁ!
 しっかりと両翼を押さえていれば、総大将は討ち取れたんじゃあないか!?」
「っ……あぅ」

それは波才の本心であった。
官軍の中央と、黄巾党の中央でぶつかり合えば一気に押しつぶせた筈だ。
それだけの数の差があったし、総大将を討ち取れる機であることは自分よりも賢いであろう孔明には分かっていたはずである。
敵の将が中央に寄ってきたのは、両翼が中央へと群がったせいだ。

襟首を持たれ、息を止められて、言葉にする事が出来ず孔明は呻いた。
波才の腕に込める力は、自身の発した言葉に呼応するかのようにどんどん強まる。
顔色を青くさせて、必死に身をよじっても孔明の持つ膂力では波才の腕を掴むことだけしか出来なかった。

「次はなんだ? 俺達を疲れさせるための提案にでも来たか?
 適当な事を言って、官軍に利を持たせようとしているんじゃないのか!? どうなんだ、ああっ!?」

もはや、孔明に出きる返答は眼だけで波才を睨みつけることだけだった。
青筋立てて怒鳴り散らす波才から、しかし決して眼だけは逸らさずに。
そこで初めて、この天幕に入って表情が色ついたことに波才は気付く。
放り投げるようにして孔明を地に投げ捨てる。
運動神経が良い訳でもない彼女は、地面に背中から落ちて激しく咳き込んだ。

「まぁいい。 夜襲の警戒はすることにしよう。
 だがな、諸葛亮……」

言葉を区切って、孔明の下までゆっくりと近づき屈みこむと
波才はねめつけるように孔明を睨み、そして底冷えのする声で言った。

「もし夜襲がなければ、鳳統を殺すぞ」
「―――っ! 波才さアぐっ!」

必死に行っていた呼吸を咄嗟に止め、言い募ろうとした孔明であったが突然視界に星がちらついた。
鈍い音が響いて視界が明滅する。
尻餅をついたような状態で暫し放心し、ややあって目の前の男に殴打されたことに気がついた。

「お前が言ったんだろう。 数日後が楽しみだな、おい」
「っ……」

この孔明の案、結果的には採用されて夜襲に備えた黄巾党が荒野を警戒しうろつき始めたのだった。
天幕を出て、彼女は熱を持った頬を押さえながら拳を握って自分を奮う。
目尻から毀れそうになる涙を必死にせき止めて、それを抑えることに成功した。
泣きたくなかった。
総大将である波才にも疑われているとは思わなかったが、むしろ今、この場でその事実に気がつけたのは
ある意味で貴重な情報であった。
まさしく、一人での戦になる。
ともすれば、俯きそうになる顔を無理やり上げて前を見据え、彼女は歩いた。

その一部始終の様子を、同じように夜襲の警戒を促しに来た鳳統が
天幕の外で目撃していたのであった。

「朱里ちゃん……」
「おい、早く歩け」
「うっ……」

黄巾の兵に背中を押され、あわや倒れそうになるが、何とかバランスを取ると
彼女は視線だけを朱里の方へ向けて歩き、やがて波才の天幕の中へと姿を消した。





夏候惇と共に帰陣した一刀は、天幕に居ない事を知った諸侯から怒られた。
そりゃあそうだ。
一人で総大将が荒野へ飛び出すなど、常識を疑われて仕方ないだろう。

が、そんな説教も、一刀は話半分にしか聞いておらず集中が出来なかった。
頭が痛かったのだ。
夏候惇と出会って一刀の気持ちが固まってから、酷い頭痛がずっと続いていた。
寝不足とか、疲れのせいとかじゃない。
脳の中が騒いでいたからでもない。
もっと別の、そう。
北郷 一刀の奥にある芯の部分で吐き気を催すほどの頭痛が響いてきているのだ。

一刀の出した結論は、夜襲、朝駆けの却下であった。
夏候惇、ひいては曹操の援軍の到着を知ったときは、確かに手札が増えたことに喜んで
夜襲や朝駆けの案も押せるのではないかと思えた。
しかし、それはやはり駄目だ。
相手はあの三国志で最も名高い知名度を誇る策士、諸葛孔明と鳳士元なのだ。

官軍が黄巾党の数を少しでも減らしたいと思うのは分かっているはずであった。
そして、野戦で押し負けた以上はこちらは策で持って相手にぶち当たるしかない。
その内の一つに、夜襲や朝駆けがあるがとても成功するとは思えなかった。
と、すれば唯でさえ数で負けている官軍は急激に打てる手がなくなってしまう。

野戦は駄目だ、数差を武将の有能さで埋めるにも敵の数が多すぎて殆ど五分。
奇襲も難しい、特に相手が一流の軍師であるならば。
あの諸葛亮や鳳統に果たして、策が通じるかどうか。
一刀の最後の矢も、諸葛孔明なら簡単に見破られてしまうかも知れない。

勝つためには、何でもいいからこれらの要素を覆さなくてはならない。
数を減らしたいがそれは難しい。
と、なれば相手の将を削るのが常道だ。
つまり、結論は変わらなかった。
諸葛孔明と、鳳士元を討つしかなかったのだ。

それから、一刀は頭痛に悩まされている。
原因は、多分とか恐らくとか、そういう曖昧な物じゃない。
この頭の痛みは、初めてこの世界に降り立った時に感じた物と同一の物。
のた打ち回るほど酷い物ではないが、無視できるほどの物でもない。

そんな嫌な痛みに顔を顰めている一刀の横で、ねねは心配そうに見上げてから
この陣へ来たばかりの夏候惇へと顔を向けた。
今、この場に居るのは音々音、孫策、顔良、皇甫嵩、華雄である。
他のものは夜番を行っているか、明日の為に対策を話し合っているか、眠っているかだ。

「長い行軍、それもこれほどの速さで来てくれるとは。
 本当にありがたいのです、夏候惇殿」
「私は華琳様の言った通りに動いただけだ。
 そういうことは我が主に言ってくれ、陳宮殿」
「分かりました、そうするのです」
「それにしても……まさかこの貧相なのが天の御使いだとは思わなかったぞ。
 本当にこの者が総大将なのか?」
「か、夏候惇さん……」
「まぁ、気持ちは分かるけど」

夏候惇へ同意を返した孫策に最早定型になりつつあるフォローを顔良が返した。
音々音のこめかみには、ピシリと青い筋が立っている。
条件反射で声を上げそうになるのを必死に自制するねねである。
官軍総大将を相手にして、しかもそれを聞かされたというのに、わりと失礼極まりない言葉を言い放った夏候惇だが
曹操という稀代の傑物を普段から眼にしている彼女からすれば
この言葉が突いて出てくるのはある意味仕方が無いというものだ。

夏候惇だって、お馬鹿だが馬鹿じゃない。
矛盾しているが、お馬鹿であっても天の御使いである目の前の男が“天代”という
奇天烈な称号を貰った、目上の人間であることは理解している。
そんな彼女に、一刀は苦笑した。
自分でも、総大将が似合っているとは思っていない。
似合ってるとすれば、分不相応に金ピカな鎧だけだろう。

「とりあえず、夏候惇さん。 兵糧の件ですが、こちらは了解しました。
 それより、増援に赴いた数が随分と少ないようですが……」

そう、彼女達がこちらの増援に赴く数は5000余と記載されていた。
しかし、夏候惇から曹操の援軍の数の詳細を聞くと、なんと半分以下。
2000を下回る数であるのだから、何かがあったのかと一刀は思ったのだ。
ところが、夏候惇の口から飛び出したのは常識外れの答えであった。

「なに、行軍を進める最中に訓練を積んで、腑抜けが脱落しただけだ。
 この程度の強行軍に着いて来れぬものは、我が曹操軍に必要ないのでな」
「んなっ!」
「……そうですか」

尋常でない速さで官軍への増援に来れた理由はこれか、と一刀は思った。
隣で非常識な行軍に眼を剥いた諸侯も、それがどれほど異常な事なのかに気がついた。
行軍をしながら兵を調練するなど、やる意味を見出せない。
それでもやる理由があるとすれば、曹操軍の兵士は新兵、戦を経験した事の無い者達の集団。
頭の中で手早く情報を纏めるとこうなってしまう。
だからこそ、音々音は言いにくい事ではあるのだが、言うしかなかった。

「一刀殿、曹操殿の2000が軍列に参加したところで焼け石に水なのです。
 それならば、見えない手札として控えて置くほうが良いのではとねねは思うです」
「それは、そうかもしれない……」
「です」

一刀はしばし腕を組んで黙考し悩んだ。
行軍しながら調練してきたとなると、それは想像を絶する強行軍だったのだろう。
曹操の兵が使い物にならないとは思えないが―――ここに居る黄巾党は戦を経験している。
ただの一度のぶつかり合いとはいえ、確かに死と意志が渦巻く戦乱に身を置いた。
これは何度調練しても得られない、確かな経験値だろう。

「錬度の低い部隊は逆に邪魔よ」
「孫策殿の意見は厳しいものだが、彼女の言う通りでもありますな」
「ふん、私の部隊の錬度が低いと言うか?」

挑発的に笑って顎を上げる夏候惇。
孫策と皇甫嵩はそんな不敵な様子に面白そうに笑い返した。
一刀も二人に似た感情を持っているだろう。
自信あり。
それだけは夏候惇の態度から、しっかりと伝わってきた。

「夏候惇さん、兵糧を受け取って、曹操さんの元へ戻ってください。
 それから曹操さんには10里ほど進んでそこで待機して貰うよう伝えて下さい」
「なに、援軍に赴いた我らを陣ではなく外で待機させるというのか」
「はい、作戦の内の一つ……そう言えば曹操さんなら分かるかも知れません」

陣に入らずそのままそこで待機せよ、という言葉のみで作戦の全貌がバレるとは思わないが
それでも何かしらの意図があることを曹操なら察してのけるはずだ。
全部察せたら、それはもう恐怖でしか無いのだが。
“魏の”の曹操に対する評価は決して過大な評価ではない。
脳内に居る誰もが“魏の曹操”という存在には高い壁として苦渋を舐めさせられてきた。
この世界でも、王者にふさわしい風格を持っていることは、実際に会って知っている。

そうして一刀は夏候惇に説明したのだが、彼女は是を返さずに追いすがってきたのである。

「天の御使いの指示は分かった。 しかし、私は賊共をなぎ払う為に突撃しに来たのだぞ
 首級を一つも挙げずに、兵糧だけを受け取って帰るなど出来ぬわ」
「うむ、武人としては夏候惇殿と共に一度戦場を走ってみたいものだな」
「ほう、話が分かる奴も居るじゃないか」
「陳留に居る曹操の大剣と呼ばれているそうじゃないか、夏候元譲! 一度武を争ってみたいものだな!」
「貴様、名は」
「華雄!」
「覚えておこう、華雄。 貴様も我が名をしっかりと覚えておくことだ」
「ふっふっふっふ」
「はっはっはっは」
「いいだろう、天代殿! 私は夏候惇殿と轡を並べて突撃したい、なんとかできぬか」
「そうだ、私にも突撃させろ、けちんぼ」

頭の痛みが二重に響いてきた一刀である。
いや、一刀だけではない、音々音や皇甫嵩も頭を抑えて被りを振っていた。

「まぁ、気持ちは分かるけどさぁ」
「文ちゃんが増えたみたい……」

詰め寄る夏候惇と華雄から何とか体を逃がすと、その隙を音々音が見逃さずにつつつっ、と体を寄せて
一刀の耳元にささやいた。

「一刀殿、是非ともこの猪は曹操殿の元に戻しておくべきなのです」 

いきなり猪扱いされてしまった夏候惇だが、“魏の”はこれが正常運転だと保証してくれた。
余り嬉しくない保証だった。
夏候惇の名は曹操が治める陳留を中心にしてそれなりに広まっている。
華雄が知っていたことが証拠になるだろう。
彼女が夏候の旗を掲げて突撃してしまえば、曹操の率いる本隊が何処かに居ることもバレてしまう事は想像できる。
一刀としても、武将の希望にはできるだけ添えてあげたかったが、今回は諦めてもらうほか無かった。

15分ばかり、一刀は夏候惇と華雄からのお願いおねだり攻撃を断り続けて
ようやく、しぶしぶと言った様子で夏候惇は兵糧を手勢に持たせると
曹操の下へと戻っていった。

それを見送って、一刀は何時寝れるのかな、と思いながらも口を開く。

「孫策さん、周瑜さんを呼んできてください。 華雄さんも賈駆さんを。
 顔良さんは田豊さんを。 なるべく早くお願いします」

一刀の声に、顔を見合わせた三人はややあって了承を返してその場を立ち去る。
残された皇甫嵩は、一刀の傍まで近寄ると水を差し出した。

「天代……いや、北郷殿、余り無理をなさらずに休息もしっかりと取ってくだされ」
「ありがとうございます、皇甫嵩さん……あれ?」
「軍師の話に武官は必要ないでしょう。 私も休ませて戴きます」
「ええ、あの、皇甫嵩さん。 今俺のこと名前で呼びました?」

背中を向けて歩き出した皇甫嵩に、一刀は思わず呼び止めて尋ねた。
そう、今まで彼は自分を天代殿としか呼ばなかった。
それはきっと、疑われていたから。
ここで彼が自分の名を呼んだことに、一刀は驚いたのだ。

「両翼を崩され、囮になる為だけに死地となる中央へ赴いた男を疑い続けるなど、失礼というものでしょう」
「皇甫嵩さん……」
「疑った我が不明は、戦にてお返し致します」
「……ありがとう」

立ち去る背中に小さく呟いて一刀は礼を言った。
なんとなしに、皇甫嵩が立ち去った場所を見つめながら一刀は隣に控える音々音へ声をかけた。

「ねね、軍師のみんなには作戦を伝えるけど、良いよね」
「曹操殿の援軍が来た、このタイミングなら良いかと思うのです」
「後は、丁原さん達次第か」
「……きっと上手くいくのです。 一刀殿とねねで一緒に考えたのですから」
「そうだね、きっと……」

一刀は夜空を見上げた。
真上に浮かんでいたはずの月は随分と傾いている。
2~3時間もすれば、夜明けを迎えるだろうか。

『本体……』
(分かってるよ、俺も孔明の立場が音々音だったら同じ思いをするさ。きっと)
『……』
(でも、でも、俺はまだ見ぬ人より、大切な人を守りたいんだ……)
『分かった、これは……本体の外史だもんな』
『朱里……雛里……』

ズキリズキリと響いていた頭痛が和らいで
自嘲するように脳内を震わせた声が、いやに一刀の中で尾を引いて残した。

30分ほどして、官軍で知を奮う賈駆、周瑜、田豊の3人が集まった。
賈駆と田豊は寝起きの為か、随分と眠そうである。
さらに、かなりの不機嫌さをその体全体の仕草から醸し出していた。

「疲れているところにすまないね、皆」

「いえ、お構いなく」
「閨をご希望なんですか?」
「はぁ……ようやく寝れたと思えばこれよ、なんなの、私に恨みでもあるの?
 ああそう、閨ね、いい度胸じゃない、受けて立つわよ、さぁかかってきたらどうなの
 チンコ引っこ抜いて宦官にしてやるわ」
「いや、別にそんなつもりじゃないってっ」

思わず前かがみになりそうな底冷えのする声を繰り出す賈駆と
小声かつ低い声で身も蓋もない事を言い出す田豊に、一刀は慌てて両手を振って否定した。

「なるほど、魅力が無いってことですかぁ。 残念です、胸には自信があるのですが……
 周瑜さんには叶いませんけど」
『『『『『『『ほう……』』』』』』』

言いつつほよほよと自身の胸を下から掬い上げ揺らした田豊。
一刀は脳内の声も手伝って、ついついその様子を視線で追った。
瞬間、ズザザザッと地を蹴って遠ざかる賈駆。

「け、けだものっ! ついに正体を現したわね! その身の内に潜むチンコが目覚めたわね!」
「……」
「まぁ、天代殿の視線も今のはいけなかったと思いますが」
「それは、謝るけどさ……ん?」

ポンと背中を叩かれて振り向けばにっこりと張り付いた笑みを向ける音々音の姿。
一刀は素直に謝って事態を収束させる為に必死に全員を宥めた。
音々音が怖かったのでそうせざるを得なかった。
夜遅くまで今後の戦の趨勢を話し合っていた最中、一刀が陣を飛び出して消えた事に
余計な手間を取られた上に、つい今しがた短い睡眠を取る為に眠ったばかりとあっては
彼女達の怒りもむべなるかな。
閨云々は、二人のちょっとした意趣返しであるのだろう。
そうであってくれ。
とりあえず騒ぐ二人を無視して、一刀は周瑜と音々音との雑談に暫し興じることにした。

全員がしっかりと向き直り、周瑜に何故呼ばれたのかを問われてようやく一刀は本題に入った。
というか、入れた。

「黄巾党に対する必勝を期すため、皆の意見を聞かせて欲しい」

全員の顔つきが変わって、それは、その日の朝方までという長い話となった。
その為、殆ど眠らずに兵の指揮を執る軍師陣はヘロヘロであったという。
孫堅が 『周瑜が先であったか』、とか微笑ましい物を見る目で呟いていたが彼女には反論する力も無く
孫策が凄い顔で周瑜へと視線を向けていたのを一刀は丁度目撃したのだが
この話題に触る勇気は無かったので、そのまま周瑜を見捨てることにした。

ちなみに、軍師陣とはうって替わり、一日中元気に走り回る天代が居たと言う。

『まぁ、本体が寝ている時はローテーションで俺達が動かせばいい訳で』
『俺達、寝ることは出来るけど眠る必要性はあんまりないもんね』
『うん……意識だけだから、落ちてない時は平気だしね』
『そろそろ替わろうか、“仲の”』
『頼んだ“白”タッチ』
『その言い方は止めろって言っただろう!』
『皆ー、“仲の”が休憩入りまーす』
『『『『『把握した』』』』』

からくりは、こんなところであったのだが激戦後に徹夜しても
余裕で動きまわる一刀を見て、周囲には異常な物として映ってしまっていた。
眠い眼をこすりつつ、軍師陣は力なく呟いていた。

「ば、化け物だわ、アイツ……」
「人ではないかもしれませんねぇ……」
「胸だけは、胸だけはどうにもならないのですよぅ……」
「陳宮殿、私の胸を見て唸るのは止めていただきたいのだが……」





「そう、北郷一刀は、そう言ったのね」
「はい、本当に頭の固い奴です。 まったく、桂花はあんな男の何処がいいのだ」
「ふふ、面白い勘違いね」
「はい?」
「いいのよ、それで兵糧は?」

昼になって曹操と合流を果たした夏候惇は一通り報告を済ますと、天の御使いと面識のある桂花を引き合いに出して
文句をぶー垂れていた。
実は、手紙のやり取りから夏候惇は勘違いをしている。
北郷一刀と桂花は、手紙で私信を交し合う親しい仲であると。
独り言からその事実に気がついた曹操は、ニヤリと笑ったのである。
理由は単純、放っておいたら面白いことになるかも知れないからだ。

まぁそれはともかく、兵糧を受け取った事と陣に来るなという事について考えねばならない。
黄巾党とは当初の予想を覆して思いのほか激戦となったらしい。
しかも、官軍の劣勢で初日の幕を閉じているそうだ。
官軍にとって、このタイミングでの援軍は喉から手が出るほど欲しい存在であるはずだ。
だというのに、外で待っていろとはどういうことか。

「機を計っている……?」

馬上で強行軍に着いて来た兵2000弱。
それらに兵糧を配る為の指揮をしている夏候惇を眺めながら曹操は考えに耽った。

この兵力2000、どう扱うつもりか。
普通に考えれば奇襲の一つだろうが、どうもそれだけではない気がする。
そうして考えながらややあって気がつく。
果たして天の御使いは自分以外に援軍の要請を送らなかっただろうか。
それに、ここから10里先での待機……戦場まで20里というのは微妙な距離だ。
戦場に近すぎず遠すぎず。
敵兵が斥候を出しても、ここまで来る事はないだろう。
つまり、北郷一刀の狙いは、曹操の増援という事実を敵に伏せておきたい理由があるわけだ。

「なるほど……私は伏せ札扱いか、悪くないわね」

満足げに笑うと、曹操は手近な兵に命を出す。
7里ほどの間隔で騎馬の伝令を置いて、戦況を知らせる為の駒として走らせた。
これで、何時、参戦せよとの命が下っても素早く動けるだろう。

曹操が笑った、その理由は一刀から送られた言葉に無いメッセージ。
それは、曹操が参戦する為の絶好の機を、作ってみせると伝えていたのだ。
自分が決め手になる。
天の御使いは、曹孟徳という女をよく分かっているようだ。

「2000弱、数字以上に強いわよ、私の率いた兵は」

来るべき戦に心を高鳴らせる曹操の後ろで食事を取っていた兵達は、ひそかに馬上の曹操を見つめ涙していた。
大将の様子から、この長く辛い強行軍が終わった事を悟ったのだ。

「くそっ……次の移動で曹操様と夏候惇様の馬上で上がる尻も見納めか……」
「なんでこんなに早くついてしまったんだ」
「馬上で揺れる桃、それだけを求めてついて来た俺達はこの怒りをどうすればいいんだ……」
「飯がしょっぺぇよ……」

多くの脱落者を伴い、厳しい行軍の最中で塩分が不足していた兵達は弱っていたが
官軍からの兵糧配給により何故か塩分も一緒に摂取して元気になったという。
類稀な強行軍として、この官軍の増援に用いた曹操の用兵は有名になるのだが
後に真実を知った曹操が、用兵書に乗せる書を作る際にこの強行軍の詳細を是非にと願われたものの
硬く口を閉ざし、真実は闇に葬られた。





夜が明けると、黄巾党は再び陣へと攻め手を寄せた。
二日目となるこの戦い。
黄巾党は数に任せた強引な攻め方であり、急遽調達した不細工な丸太の槌で持って
これまた急造の為に不細工な門を打ち据えようと躍起に突撃した。
脆くなった場所は夜の内に修復されて、更に頑強さを増すために
幾重にも資材を重ねた門は硬く、黄巾党にとって大きく立ちはだかった。

官軍は、前日と同じように孫堅や孫策、華雄、と言った武将を遊撃隊に置き
陣に攻め寄せる相手の後ろを脅かし、時に攻め込んだ。
火を用いても土砂でかき消され、土砂を駆け上がろうとすれば水が振りかかり
ぬかるみを作られて動きを制限されてしまう。
何度も何度も攻めて行っても、跳ね返される官軍の陣。
これに黄巾党は徐々に、しかし確かに苛立ちを募らせていた。

更に翌日。
ここで波才は、兼ねてから孔明に言われていた、陣を迂回する手段を初めて打つ。
一気果敢へと万の軍勢が陣に襲い掛かるそぶりを見せながらも、別働隊が波才の指揮の下
7000ほどの兵で陣の左方を駆け抜けたのだ。
官軍も、数万に及ぶ軍勢の突撃には眼を背ける事は出来ない。
左右に伸びた木柵は、1里も延びていた。
ようやくそこで折り返した波才は、皇甫嵩と顔良、文醜が率いる官軍によって受け止められる。
顔良、そして文醜という袁家二枚看板の名は初戦の折に名が広まっていた。
その為、波才が鼓舞しても士気を奮うことが出来ず、やむなく敗走することになる。
肝心の陣の攻略も、2万以上の軍勢を投入したにも関わらず
天代が陣頭で指揮を奮い、官軍全体を鼓舞したことで押し返されたのだ。

次に波才が打った手は

「迂回をするにも、陣から横に長く伸びる木柵が邪魔だ!
 夜の内に、あの木柵を撤去してしまうのだ!」

孔明、そして士元の反対を押し切り、波才は黄巾全体を左右に割り振って
夜中の内に木柵を撤去してしまおうと命を下した。
急いで造ったからだろうか。
騎馬が飛び越えるには難しいが、それでも背の低い不恰好な木柵は
無理やりに組み上げていたせいで、随分と不恰好である。
中には斜めに反りたって刺さっている物も折り重なって組まれている物もあった。
乱雑とはいえ、黄巾数万を阻むために組まれた木柵だ。
意外としっかり大地に根をはっており一晩で撤去するとなれば、多大な労力を強いられる。

「木柵を迂回できぬとなれば、相手が次に考えるのは撤去なのです」
「いっそ、暫く撤去の作業でも眺めてあげましょう」
「良いですね、心に余裕が出来た頃に襲い掛かってあげましょうか」

が、この波才の行動は音々音に看破された挙句に賈駆の助言が入って、黄巾党に多くの出血を強いる結果に終わる。
ほうほうの体で逃げ帰る自軍の惨状を見て、波才は地団太を踏んだ。

初日とは打って変わって、地味な戦となりつつあるこの戦。
その戦場に変化が訪れたのは、4日目の夜であった。
それは官軍、そして黄巾党へほぼ同じ時刻、同じ頃に総大将の下へと報告が入った。
その報告は、確かに大きな変化を見せるに値する、衝撃的な物であったのだ……





荒野を駆ける者達が居た。
夜の月明かりだけを頼りに、数千の馬蹄を響かせて突き進む。
先頭を取るのは、たった今、夥しい数の人の血を吸った戟を携える赤毛の少女。

性を呂、名を布、字を奉先。

その天下無双の武を知る者は、今は多くない。
この三国一の武が、一軍に匹敵することを知る者となると、この世界には誰も居なかった。
ただ一人、天の御使いである北郷一刀を除いて。
明日、その事実を知る者が爆発的に増えることになるだろう。
騎馬に跨り、風を切って先頭を走る少女はそんな事実など露ほども気にしていなかったが。

やがて騎馬の一団、いや真紅の呂旗を掲げた丁原軍3000の兵は荒野に建てられた天幕の前で止まった。
呂布一人だけが、天幕の傍まで馬を走らせるとその場で降りて
自らの馬を木柵にくくりつけてから、中へと入った。

「こほっ……よかった、恋よ。 生きていたか」
「ん……終わったから戻ってきた」

出陣してから、丁原本人は咳が止まらず、腹を下すなどの症状が出ており、体調を崩してしまっていた。
やむを得ず行軍を止めて、この天幕で休んでいたところ
長安潼関から洛陽を目指して突き進む賊軍の報告が届いたのである。
発生した黄巾党の兵数は3万を越えていたのだ。
それを受けて、丁原はこの場に留まり敵増援を迎え撃つことを選択する。
洛陽で戦っているはずの味方に、即座に伝令を送って。
先手に自軍の兵3000を預けて呂布を置き、後詰めに4000の兵を置いて
迎撃陣で迎え撃った。

ほぼ絶望的と言っていい兵数差。
今の今まで、呂布の姿をその目で見るまでは、丁原は気が気ではなかった。

「そうか……今日の戦は終わりか……ケホッ」
「大丈夫ですか? 丁原さん……これを」
「おお、すまぬな董卓殿。 国家の大事に不甲斐ない」

董卓から水を受け取って丁原はそれを飲み込んだ。
黄巾党との戦になるとのことで、董卓も丁原の居る後方へと下げられていたのだ。
その様子を見ながら、呂布は驚愕の言葉を言い放った。

「……ううん、全部倒したから、終わり」
「ブーッ! ブエッヘェ、ゲハッゲハッ!」
「きゃあっ!」
「……原爺、大丈夫?」

口に含んだ水を一直線上に放流して、見事な曲線を描き地面を濡らしつつ、丁原は激しくむせ返った。
涎をたらし、鼻水が伸び、必死に呼吸を行う姿は滑稽であった。
幸いであるのは、目の前の少女は苦しんだ人間を指して笑うことなどしない者であったことだろう。
かつて無いほど、咳き込む人間を見て董卓は驚きながらも、必死に丁原の背を擦る。
顔を真っ赤にして、驚きにわななきながら彼はもう一度聞いた。

「い、今なんと言っひゃのだ恋」
「……? 全部、倒し―――「ぶっはっ、ゲホッガハッ!」

首を傾げつつ、呂布はもう一度丁原へと報告すると、それを遮って再び激しく咳き込むハメに陥った。
全部倒した。
それを言葉通りに受け取るのならば、まさしく黄巾党三万余の敵を打ち倒した、或いは追い払ったということだ。
ただ一戦、約10倍もの敵兵とぶつかって。

事実を述べると、呂布一人で倒した賊の数は3000人を越える人智を越えた戦果であったが全てではない。
他のものは、戦っている筈なのに無人の荒野を走るが如くの呂布の武威に恐れをなし
心を折られて逃げ帰っただけである。
ある者は来た道を一直線に、またある者は恐怖のあまりに自ら近くにあった黄河の支流に飛び込んだ。
一部、それでもなお波才の率いる黄巾本隊に合流しようと丁原軍を迂回した者も居たのは事実だが
その数は余りに少なかった。

つまり、黄巾援軍としてたった潼関方面の敵軍を、呂布率いる3000余の軍勢だけで追い払ってしまったのだ。

「はぁはぁ……我が目に狂いは無かったか……」

恐るべき武才。
事実を何度も確認し、ようやく気持ちに整理がついた丁原は呂布の武に再び体を震わせる。
目の前で、手を少しあげながら、ちょっと頑張ったとか言っている姿を見ていると、とても想像は出来ないが
この娘の才能が天に愛されていることだけは身に染みて理解できた。
だからこそ、だろうか。
彼女が生きる、この時代だからこそ天は武才を与えたのだろうか。
だとすれば、何と皮肉なことだろう。

「セキト……なついてるね」
「あっ」

董卓の足元でじゃれついていた子犬が、尻尾を振って名を呼んだ呂布の元へ駆けていく。
それを胸元に掬い上げると、セキトはペロペロと舌で呂布の鼻の上を舐め始めた。

「呂布さんにとても懐いていますね。 可愛いです」
「ん……恋でいい、セキトが人に懐くの、珍しいから」
「本当ですか? 私の真名は月です。 そう呼んで下さい」
「うん……月」
「はいっ」

この、二人の心優しい少女達にせめて優しい時代が訪れてくれることを
丁原は微笑ましく真名を交し合うやり取りを眺めながら、皺のある顔をゆがめて微笑み、そう思った。

丁原の天幕を出て、呂布は自分の騎馬に乗り込む間際、ふいに空を見上げた。
しばし茫洋と見つめ、そして口を開く。

「雨が来る……」

この黄巾党3万が、官軍である真紅の呂旗にある一人の武将に蹴散らされた話は
敗残兵を通して幅広く伝わり、呂布という名と武は、瞬く間に噂となって広がったのである。
まさしく、この報が洛陽で睨み合う官軍、黄巾党に届いた衝撃であった。





長安の援軍、来ることを期待していた波才は事態を今一度
冷静に振り返る必要があるとして水の桶を用意すると
そこに頭から躊躇いも無く突っ込んでいった。
大きな水の音を響かせるが、その音は波才の耳にくぐもった物しか残さなかった。

潼関近くから立った黄天の同志は官軍に敗れたという。
数の差が4倍以上あったにも関わらず。
確かに、立った彼らには自分のような将兵は居なかった。
それにしたって、漢王朝に不満を持ち、張角様達の歌でもって新たなる世を夢見て
強烈な志で持って立った兵を一夜で破るなど尋常でない事である。
とてつもない隠し玉が用意されていたものだ。
もしも、潼関への部隊に当たった官軍が、目の前に居る陣を引いて亀のように
閉じこもった奴らと合流されることになれば、濃厚な敗北という色が見えてしまう。
各地で仲間が立ち、全ての将兵がここに集まれば
他の手も見えてくるだろうが、それは無いものねだりに過ぎない。

水の中でゆっくりと眼を開ける。
樽の底が歪に歪んで視界を歪めた。

(決戦を仕掛けるしかない)

敵に援軍がある可能性がでてくるとなれば、その前に決着をつけるしかない。
この陣と相対してからというもの、中々上手く事が進まないが
相手だって苦しい筈なのだ。
数に劣り、将兵が自ら前線に立って、陣を盾にすることでようやく五分。
その陣の防衛にしたって、資材が無限に沸いてくる訳ではない。
3日も4日も攻勢を仕掛けているのだ。
そろそろ、手持ちの弓矢、水や木材、つまりは防衛を支えている資材も底を突き始めているはずなのだ。
事実、陣からの応戦は緩まりつつあり、遊撃隊として動く将軍が指揮する部隊の攻撃が
激しくなっている。

流石に息が苦しくなってきて、波才はその顔を一気に持ち上げた。
入った時にも同じように拡散した水が、周囲を濡らして音を響かせる。
その音は、いやにクリアに聞こえていた。

波才は横に置いた戟を持って、天幕の外へと飛び出す。
小細工なしの一発勝負。
闇夜の中、火による明かりを灯す敵の陣を見つめ、明日の決戦に心を震わせる。

「おい!」
「はっ! なんでしょうか!」
「食料はどれだけ残っているか」
「節約して後4日というところです」

暫し黙考して、波才は命を出した。
今日の夜は豪勢な食事を振る舞い、士気を上げることにしたのだ。
夜襲の警戒も、最早続ける必要はないだろう。
結局、官軍は夜襲など一度たりとも仕掛けてこなかった。

「……あの二人はもう用済みだな」

決戦を挑むのだ。
陣をすぐに抜けれたのならば、生かしておいても良かったが
決戦において不安な要素など必要ない。
むしろ、身内を疑い戦う事は集中を欠く要素にしかなり得ない。

「おい、お前ら……諸葛孔明と鳳士元を殺して来い」
「え、いいのですか」
「あの二人は、軍師だと……」

手近に居た二人の男を呼んで、殺害を命じた波才に一瞬躊躇いを見せたが
二人の男は理由を聞いて頷いた。
知を持っているとはいえ、武を持たぬ子供のような孔明と士元ならばあの二人だけでも
十分だろう。
陣を見つめて、波才は手に持つ戟を一つ振ると、体を休めるために天幕へと戻っていった。


一方で、丁原軍が潼関から立った黄巾党の援軍を破ったという報を受けた官軍は沸いていた。
敵に対して数倍もの数を蹴散らした報告は、確かに兵にとって嬉しい物であり
勇が沸き希望に溢れる話であった。
将であっても、笑顔を零すものが居る中でしかし、表情を曇らせた者も居た。

「天代殿」
「孫堅さん、どうしました」

その中の一人、江東の虎である孫堅が一刀の天幕へと訪れていた。
椅子に座り、卓の上で戦況図を眺めていた一刀と音々音に手を合わせて一礼し
薦められても居ないのに空いた椅子へ座ると口を開いた。

「獣を追い詰めてしまったということ、ご理解しておいでか」
「戦術的には追い詰められてるのはこちらですよ。
 戦況的に追い詰められているのは向こうですが」
「そうか……分かっているのならば結構だ。
 これも例の作戦への布石か?」

孫堅の言葉に、一刀と音々音は顔を見合わせた。
一刀の考えた作戦を話したのは数日前、曹操の援軍が辿りついてからだ。
しかし、話をしたのはまだ軍師のみである。
全員に時が来るまで黙っているようにと釘を刺しておいたので、孫堅が知っている筈は無いのだが
嫌に確信めいて頷く姿に、周瑜は孫堅に詳細を話したのではないかと思ったのだ。

「周瑜さんから聞きましたか」
「ああ、言わねば尻の毛を全て抜くと言ったら、泣きながら聞かせてくれた」
「ぶふぉっ」
『『『毛抜きプレイだと……』』』
「唾を飛ばすな、天代殿……ん? これは唾をつけられているという事か?
 ふふぅん、私も捨てたもんじゃないな」
「……周瑜殿は責めない事に致します」
「それは重畳」

腕を組み相変わらずの笑顔で頷く孫堅。
最近気がついたが、孫堅は別に威嚇とかをしようとして獰猛な笑みを浮かべている訳ではない様だ。
笑うとそうなる顔のようで、これは彼女の不幸の一つなのでは無いだろうか。
ニヤリと笑ってもわっはっはと笑ってもどこか威圧感があるのだ。
この人はそのことで勘違いされることも多いのかも知れない。

そんな孫堅に呆れたような視線を向ける一刀と音々音は、一応作戦については
諸侯に黙っておいてくれることを約束してくれたので、彼女を信用することにした。
音々音に出された茶を一つ含んで、孫堅は真面目な顔で一刀を見た。

「追い詰められた獣の出す答えなど一つだ。 決戦を仕掛けてくるぞ」
「はい」
「そうですな」

丁度、そのことで一刀は音々音と共に話を詰めていたところだった。
明日は敵も意気を上げて、この陣を貫こうと決戦を挑むだろうと。
このタイミングで決戦に挑まれるのは、実はかなり間の悪いところであったのだ。
波才の考えるように、物資は当初に比べて随分少なくなっていた。
ここ数日の攻勢で、陣そのものにもダメージが大きい。
できる限り修復を行っているとはいえ、それにも限界はある。

「抜けそうなところをわざと見せ、そこを狙わせるのはどうでしょう、一刀殿」
「うん……実際には一番強固なところを脆く見せるのはいい考えだ」
「一度火をかけて、炭だらけになった部分を見える場所に配置するのです。
 見た目はボロボロになりますから、誘導するには丁度いいのです」

「話を遮ってすまぬが、周瑜が一度野に出て押し返す必要があると思うと言っていた
 正直、私もそう考えている」

孫堅の言葉に、音々音は頷いた。
賈駆と田豊からも同じ事を提案されていたのだ。

「相手が決戦を仕掛けるならば、陣に篭り切っていては駄目だとねねも思うです。
 ただし、初戦のように最初から野戦を挑むには数の差と士気に差があります」
「だから、最低でも一度、できれば二度の攻勢を防いでから、出陣という形を取ります」

そこまで話したところで、一刀の天幕に皇甫嵩が訪れた。
彼の用件は、何進大将軍と朱儁将軍の不在に気がついたことであった。
もちろん、彼らに付き従う兵士5000ほども、一緒に陣から立ち去っている。
その事を尋ねに来たのであった。

「お二人は怪我をしていましたので、洛陽へ戻ってもらいました」
「何進大将軍には、もう一つ、別の事を頼んでいるのです」

この言葉に、孫堅と皇甫嵩は眉を顰めた。
ただでさえ数の差があるというのに、この時期に何進大将軍の兵5000を失うのは痛い。
実質的には、一万余の兵力で相手を押し返さなければいけなくなるのだ。
怪我をしているのは分かる。
陣があり、防衛には有利な地の利であることも。
それでも、やはり、長期間に渡る陣の防衛で疲れ始めている兵の士気や
相手との数の差を考えると、この決断は孫堅と皇甫嵩にとって危ういものに思えたのだ。
それを話そうと孫堅は口を開いたが、皇甫嵩に遮られてつぐむことになった。

「別の事とは、何を頼まれたのですか?」
「勝つための、一手を」

短く答えた一刀の隣で、音々音もゆっくりと頷いた。
顔を見合わせた孫堅と皇甫嵩は、しばし沈黙した後、不敵に笑いあった。
目の前の二人は、どうやら何かの悪巧みの最中らしい。
興味はもちろん惹かれる物の、自らの口で喋らないのならば
現状、武将である自分達に話す必要は無いと言ってるに等しいのだ。

「興味のある話だ。 それを見るために、精々武を奮うとしよう」
「驚かせてくれる事を期待しましょうか、孫堅殿」

それだけを言い残して、二人は一刀の天幕を立ち去った。
卓におかれた凸の置石。
それを眺めてから一刀は眼を瞑りった。
曹操の敵に知られていない援軍、呂布の武の噂。
最後の一手が間に合わずに黄巾の決戦をこのタイミングで決意させてしまったが
準備は明日、終わるだろう。

一刀の原案に音々音が修正を加え、そして賈駆、周瑜、田豊と言った三国志でも有名な
軍師達の意見を取り入れて完成が見えたこの策。
明日の黄巾との決戦に敗れれば、全ては夢想を描いたに過ぎなくなる。
追い詰められたのは間違いなくこちらだ。
ゆっくりと眼を開けて、一刀は呟いた。

「正念場だ」





孔明は、波才に呼び出されて陣内でも人気のない場所を一人歩いていた。
相変わらず、能面のような無表情を顔に張りつけていたが
目的地へ到着すると、その顔も一瞬強張って表情を彩る。

そこには決別と決意の日から顔を合わせていない鳳統が、一人で立っていたからだ。
何か違和感を感じつつ、孔明は一つ唾を飲み込んで
自分に気付いていない様子の鳳統の下へ歩み寄った。

「雛里ちゃん」
「あ……朱里ちゃん」
「なんか、久しぶり……だね」
「うん、そう、だね」

黄巾党に拿捕され、血判状を押したあの日から
こうして二人きりで会話することなど殆ど無かった。
いつも何処かに、黄巾党の兵が控えており、内緒話など絶対に出来ぬようにされていたのだ。
こんな間近で、お互いの顔を見るのは本当に久しぶりであった。
今更、こうして二人で話し合う機会を設けるとは。
違和感が徐々に確信に近づいていたのを、孔明と士元は気がついていたが
それは敢えて無視していた。

「朱里ちゃん、その顔……」
「あ、これは……」

丁度頬骨の辺りだろうか。
孔明の顔に青い痣がついているのに士元は気がついた。
月明かりの元でハッキリと確認できるソレ。
陽の出ている時間に見れば、おそらく痛々しい傷跡が刻まれているのだろう。
誰がやったかなど、聞かなくても分かる。

「大丈夫だよ、ちょっと、痛かったけど……」
「朱里ちゃん、あのね……私も……」
「いいよ、分かってる。 多分そうだと思ってたから、いいんだよ」

自らの服をたくし上げ、何かを見せようとしていた士元を遮って
孔明は顔を歪ませつつ首を振って士元の手を取り止めさせた。
作戦が失敗する度に、孔明は波才に天幕へ来るようにと呼び出されていた。
彼の八つ当たりに付き合うのが日課のような物になっている。
日が進むごと冷静さを失う波才は、最早孔明や士元の言などしっかり取り合う気もないのだろう。
孔明から見れば、機を逃し続ける波才は愚かに映る。
だが、自分は策を練り、考え、伝えなければならなかった。
暴力を奮われようと、それが鳳統にまで及んでいようと、二人で生きる為に。

実際のところ、孔明は波才から聞かされていたのだ。
だから、分かっていた。

「あ、あの、あいつが来たら言っておくね、雛里ちゃんにはもう手を出さないようにって―――」
「朱里ちゃん」

俯きながら、士元は孔明の名を呼んだ。
その声には確かな意志が込められている。
一つ俯き、自分の言葉を整理するかのように何度か頷いた士元は
顔を上げて孔明と向き合った。

「もう、もう止めよう? こんなのもう、やだよ」
「雛里ちゃん……」
「だって、おかしいもん。 私、朱里ちゃんが大切だから
 大好きだから、だから、頑張ってる朱里ちゃんを見てるのが辛いよ!
 一人で戦ってるのを、もう見たくないよ!」
「……っ」

それは、鳳統にとっては稀有である激情の発露であった。
自らの命、そして親友の命を守る為に、黄巾党に与した事は否定しないし出来ない。
官軍にぶつかって、もう引けない場所にあるのはその通りだ。
孔明は、龍として天を翔けるために黄巾党へと孤独な戦いを挑んでいる。
過程はどうあれ、同じ立場であったとはいえ……いや、だからこそ孔明の立場を見るのは
鳳統にとって胸を痛ませていた。
もしも、何かが違えば孔明の立つ位置は自分であったかも知れなかったから。
策を献ずれば否を返され、無謀を諌めても付き合わされて。
戦を終えるたびに波才の天幕から親友のくぐもった声が響いてきて。

そう、彼女は常に孔明の後に呼ばれ、親友の声にならない悲鳴を聞かされていた。

「だから……」

雛里の懇願のような声に下唇を噛んで、孔明は潤む目元を必死に押さえていた。
口の端から、僅かに赤い血を滲ませる。
泣いては駄目だ。
泣けば、雛里は生きることを諦めてしまう。
官軍か、波才か、どちらかに殺されることを是としてしまう。

「雛里ちゃん、だってもう戦っちゃったんだよ……
 官軍と、私達戦っちゃったんだよ!」

戦いを放棄することを選択するには、今は遅すぎた。
多くの人々を命の天秤にかけて、雛里を選んでしまった、今は。
顔を歪ませ、自分の胸を抱きながら叫ぶようにそう言った孔明に
士元は優しく覆いかぶさって、抱いた。

「ねぇ朱里ちゃん……?」
「雛……里ちゃん?」
「志に縛られないでよ……私達、きっと間違ってるもん……」
「……うん……そう、だよね」

肩で支えあうように抱き合っていた二人は、そこで体をやや離して
お互いの顔を見た。
口が上ずり、涙を零す鳳統。
眼を細めて口を真一文字にして震える諸葛亮。

「馬鹿だね、私達……」
「うん……馬鹿だよ」

孔明の手から、握り締めていた羽扇が落ちた。



重なるように横並びに座り夜空を見上げる。
既に波才に呼び出された刻限を過ぎていた。
ここに彼が来ない理由はもう分かった。
官軍の増援が来る可能性があることを、今日の夕刻知った。
当てにしていた長安、潼関の増援が打ち破られた波才が取る手段は
数を任せて陣を貫く、愚直なまでの突撃策しかないだろう。
つまり、決戦を行う腹積もりであることは容易に想像がついた。

その決戦を前にして不確定な要素……つまり、自分達を排除しようという考えだ。

星のきらめきが、二人を包むように広がっていた。
これだけ綺麗な、これだけの星を瞬かせる天はどのような場所なのだろうか。

「天の御使い様に、会いたかったね」
「うん、最後に一目見たいね、朱里ちゃん」
「ここから、見えないかなぁ?」
「流石に無理だよぉ」

手を傘にして遠くを見るように孔明が首を伸ばした、その時だった。
ガサリと近くの藪から三人の黄巾党が現れたのは。
ああ、これで終わりかぁと思いつつ、孔明はしかし夜空を見上げ続けていた。
自分も死ねば、あの星の瞬きのどこかが落ちてゆくのだろうか。
将でもない自分では、落ちる事はないのかな、と。

「へっへっへ、ようやく二人同時に殺せる時が来たぜ……ってなぁ、おい、こら」
「なんすか、アニキ」
「この場合どうすりゃいいんだ?」
「む、難しい問題なんだな」

死の覚悟を決めて、完全無視を決め込んでいた孔明と士元だったが
どうも様子がおかしい会話に、そこで初めて黄巾党の姿を認めた。
何故か、仲間である黄巾党の首を二つぶら下げて、三人の男達は会話を重ねている。
仲間割れとも、少し違うような気がする。

「だぁ、くそっ。 こんな話聞いたらお前おい、約束を違うじゃねーか!
 あの桃色頭に御使い様が疑われ続けちまうぞ」
「いいじゃねーすか、殺さなくて済むんすから。
 殺すのも犯すのも、後が大変になるだけですし……桃色頭ってなんすか?」
「五月蝿ぇよ。 じゃあお前、ちょっと前までの俺のこの、とてつもない意気込みは何処にぶつけたらいいんだ、えぇ?」
「アニキ、お、俺の腹を使ってもいいんだな」
「おーし、よく言った、俺の刀の錆びにしてやんよ」
「か、刀は無理なんだな! ひぃー、アニキ、ごめんよー!」
「待ちやがれっ!」

呆気に取られて、孔明も士元も呆けてしまった。
暫くして、ようやく自分を取り戻すと孔明はどういうことなのかを聞こうとして
逆に意見の纏まった三人組の一人、アニキと呼ばれた男がずいっと前に出て尋ねられたのだ。

「で、波才と官軍、オメーラどっちなんよ?」
「え?」
「だぁら、どっちだって聞いてんすよ! それを聞かない事にはアニキも動くに動けないんす!」
「あ、あわ、あの……前に私を殺そうとした人……」
「あー、あん時は波才の奴と繋がってると思ってたんでな、わりぃ。
 とにかく、このまま二人を殺すかどうかを決めなきゃいけないんで、早く教えてください」

間抜けなことを白状しながら、アニキは孔明と士元へ率直に。
それはもう率直に尋ねたのであった。
波才、と答えると必ず死ぬことになるようなので、孔明も士元も官軍に与すると即座に答えた。
無論、先ほどまでならいざ知らず、憑き物が落ちたような二人にとって
この答えは生死を問われずとも、官軍と答えたことだろう。

この返答に、アニキは先ほど二人が話していた 「天の御使いと会いたい」 という状況も加味して考えて
孔明と士元が波才の元で黄天を仰いでいないと判断する事にしたのである。
鳳統の元で、官軍右翼と戦っていたアニキは、目の前の少女が自分には及びも着かない知を持っている事を知っていた。
そこで、アニキは北郷一刀の最後の矢。
その作戦を二人に話すことにしたのである。

それを聞いた孔明と士元は殆ど同時に頷いて、アニキへ刀を構えてくれと要求した。
首を傾げながら、アニキは言われた通りに刀を構えると
そこに向けて孔明は自らの腕を差し出して、切り裂くという暴挙に及んだ。

「ちょ、何してんだお前!?」

動揺するアニキを無視して、噴出した血を自分の髪に塗りたくると
孔明はそのままアニキの刀へ向かって、自分の髪の毛を持って切り裂く。
コクリと頷いた孔明に、鳳統は頷き返して同じように刀で血を塗り髪を切り裂いた。

「おいおい……」
「アニキさん、言葉だけで殺したと言っても波才は信じません。
 この髪と、血のついた刀を持って、私達を切った証拠にしてください」
「お、おう……」

孔明と士元はお互いに顔を見て笑った。
やや不恰好になった髪型。 血の跡を残す顔や髪。
その醜くなった姿が、波才との別れを告げたようで妙に心がスッキリしていた。

「朱里ちゃん……」
「雛里ちゃん」
「最後の戦でも、いいよね?」
「うん! 一緒に頑張ろう、雛里ちゃん!」

声を掛け合い、孔明はふと視線の先に落ちる物に気がついてそれを拾った。
落ちたはずの羽扇は、孔明の手元に再び納まったのである。
グッと力を握り締めて、眼を瞑る孔明を見てアニキは薄く笑った。

「……へへ、おいチビ、おめぇこれ波才に渡してこいよ」
「げぇ、俺っすかぁ? っと、あーあー、血がついちまった」
「デクじゃ上手く口がまわらねぇだろ。 ほら、行け」
「ったく、人使い荒いんすから……」
(……まぁ、御使い様も軍師を殺すのに悩んでたみたいだし、これでよかったよなぁ)

一人心の中で呟いて、アニキは天を見上げた。
数多ある星のひとつが、強く光っていたような気がした。





天代 北郷一刀が官の軍勢を率いてはや4,5日は経とうか。
昨日、黄巾党本隊と激突した旨の報を受けてから、何をしていても
その事ばかりを考えてしまう。
明日の朝には、新たな報が入ることだろう。
初日を劣勢で終えた官軍は、陣に篭り戦い続け、今はこう着状態であるという。
月が天の真上に浮かぶ時間に目を覚ましてしまった劉協は喉の渇きを感じてムクリと起き上がる。
水を求めて、寝室から出ると卓に座る段珪が一人、椅子に座ってうな垂れていた。
卓上には劉協の求めた水が置かれている。

「段珪、水を貰ってもよろしいですか」
「あ、ああ、劉協様……これは失礼いたしました」

段珪の言葉から、僅かに漂う酒精の匂い。
それを感じて彼女は僅かに眉を顰めた。

「これはお酒ですか?」
「いえ、それは水ですよ……さきほどまで、帝が快方されたことを祝う盛大な宴がありまして
 それに出席しておりました」
「盛大な宴……?」

水と聞いた劉協は、近くに置かれた盃に注ぎ水を飲み込むと段珪へと向き直った。
確かに父である劉宏が快方したことを祝う催しがあることは知っていたが
宴を開くとは聞いていない。
そもそも、華佗から暴飲暴食、酒や女性との性交は禁じられていたはずだ。
何より、今は黄巾党と呼ばれる叛徒達が起こした乱の最中。
そんな大事に国の上に立つ者が、暢気に酒を飲んでいることなど考えられなかった彼女はしかし
段珪の続く言葉に否定された。

「事実でございます。 一足先に、私は席を辞してきたので今も続いているかは分かりませんが恐らくは」
「……規模はどの程度なのです」
「宮内全てを巻き込んでおります。 離宮におらせられる劉協様には、黙って置くようにとの話もありました」
「なんということ……」

劉協は椅子を引いて腰掛けたると再び注いだ水を見つめて唸った。
戦というのは、とにかくお金がかかる。
その位は劉協も分かっている。
湯水のように消えていく金は、漢王朝という物に大きな負債を積もらせていく。
税の取立てはきっと、今よりも厳しくなるだろう。
それに民は更に朝廷への信を失っていくことになる。

此度の乱は、何故起きたのか。
それを考えれば、如何に帝が快方したことが目出度いとしても
大きな宴を開いて金を掛けるという判断はしない筈だ。
ただでさえ、不満を抱えて起きた此度の黄巾党を裏で援護射撃しているようなものだ。
この一事、今行われている戦に勝たねば色々な意味で致命になり得るかも知れなかった。

既に起きたことは、どうにもならない。
劉協は一つ息を吐き出して窓へと視線を向けた。
空は、雲が広がり黒く歪んで薄暗い。
まるで、今の漢を表しているかの天候ではないか。
振り出した豪雨は、少しばかり勢いを弱めてはいるものの、未だ止みそうもない。
この雨は果たして、どちらの軍に利を齎しているのだろうか。

「一刀……勝って下さい……」

今の劉協に出来る事は祈ることだけ。
きゅっと胸元で握った手が、少女の服に皺を残した。





薄く雲が広がり、陽の光は霞んでいた。
雲の流れが速く、暗雲が空に立ち込めている。
空を見上げた波才は、火を用いることが難しい事に気がつく。
雨が降れば、地面はぬかるみ機動力を削がれてしまう。
決戦を行うに当たって、この天候の変化は歓迎しがたい物であった。
とはいえ、今更中止にすることなどは出来ない。
官軍の陣をまさしく力で貫くしかないだろう。

自らの腕に巻いた黄巾を手で掴み、握り締めた。
現王朝を打倒するべく立ち上がり、新たな世の礎になる為に死をも辞さない覚悟で持って
此度の決戦に踏み込んだのだ。
そんな激烈な覚悟を自分の胸に歌で持って刻みつけた張本人は、黄巾党が立った理由など知りもしないだろう。

黄天の下で大地を踏みしめて、根付いた人々が国と成る。

多分に意訳を挟んでいるが、決して間違った解釈でもないだろう。
農民であった自分はその歌の内容を耳朶に響かせた瞬間に、自然頭を垂れていた。
重税にあえぐ現実を忘れ、彼女達の歌に陶酔していた。
最初はそれだけで、十分だった。
しかし気がついてしまった。
今の世が間違っていると思い始めてしまったのだ。

それが何時だったのかは、最早分からない。
周囲で叫び、自分と同じように歓声をあげて張三姉妹の歌声に体を揺らす中。
ふと、気がついたのだ。
ここで現実を忘れて浸っているだけでは何も変わらない事に。
変えるにはどうすればいいのか。
それを必死に考えて、何も思い浮かばずにドツボに嵌った。
結局、張角達の歌う公演会は、夢を見るだけの場所で現実は何も変わらない。

大きな都に在れば見えないだろう。
しかし、少しでも中心から逸れれば嫌でも目に入ってくるのだ。
匪賊が増え、田畑は荒れて、税は重く、苦しく辛い。
ただ生きることすら諦めたくなるくらいに、歯を食いしばって日々を過ごす人々が。
助けを求めても、余裕のある者など隣には存在せず、飢餓を迎えては隣人が消える。
そして、人が人を食すのだ。

地に立てた鍬は折れ、干ばつに水も無くなって悲鳴を上げた者が居る。
病が流行って、邑の住人が一夜で消えるような死を見てきた者が居る。
この黄巾を巻くもの全てが、自分と同じような日々を歩んできているのだ。
国が民というのならば、この黄天を夢見る我らが国であるべきではないか。
歌で大陸を取る、とそう言った張角に波才は黄天の世を垣間見た。
これこそ、悩み苦しんでいた自分の求めていた答えであり
天下万民における正答。

今日で足踏みも最後としなければならない。
これは、この世を変える最初の一足になるのだから。
握り締めた黄巾を自らの腕から引き千切るように引っ張る。
悪鬼と呼ばれても良い、修羅に落ちても良い。
この道の先が、たとえ惨たらしい自分の死であろうとも、ただ一人の農民であった自分が
漢王朝を崩して黄天の世の礎になるのであれば本望!
解れた布を頭に巻き、波才は馬上で叫んだ。

「貫くぞ!」

たった一言。
その、一言に全ての激情を込めて波才は馬を走らせる。
この道が、黄巾を纏って立ち上がった全ての者の道しるべとなることを信じて。





黄巾党3万を超える大群は、陣に篭る官軍へと殺到した。
対陣から雪崩のように荒野を埋めて襲い掛かる黄の波。
修復の手も加えられるだけ加えて、当初の様相から随分と姿を変えた官軍の盾。
此度の決戦、遊撃隊を置く事も兵数の関係で出来ない。
間違いなく、今までの防衛の中で最も苦しくなるだろう。
門の上に立ち、全軍に見える位置で一刀はその様子を見た。

ここからは全てが見える。
この戦場に立つ者の顔、黄巾党も官軍も、その全てが見える。
眼を閉じれば、この場に立つことになった原因。
馬元義と徐奉と鉢合わせたあの蔵が、瞼の裏に映り込む。

あの時、あの場で馬元義を名乗った。
それが、帝への毒となり、黄巾の蜂起を引き起こした全ての原因。

諸葛亮が、鳳統が、黄巾党に参加しているのもきっと。

『空が……』

ポツリ、と鼻の頭に雫が垂れるのを感じた。
弱く、微弱に、だが、確かに雨が降り出した。

『火は使えないな。 僥倖だ』
『俺達には嬉しい天気になったな』
『ああ』

(……ここで、負けたくない)

責任を取るなどと、そんな事は言わない。
遅かれ早かれ、乱は起きていた。
切っ掛けになってしまった事は悔やむほか無いが、それでも何時かはこうなったはずだ。
乱の中心に居ることには、想像すらしていなかったし、納得は行かなかったが、しかし。
理不尽に対してぼやくのは全て終わった後でいい。
生き抜かなければ、それも出来ないのだから。
だから、せめて。

だんだんと強くなっていく地響きと雨。
傍に控える音々音の、かすかに息を吐くのが感じられた。
群れをなして襲い掛かる黄巾を見つめながらも、音々音を横目で一瞥して……

それから、一刀は腰に刺した剣を引き抜いた。

本来ならば、何進が行う陣頭の鼓舞。
この、戦の前の檄を飛ばすにふさわしい地位を持つ者は、怪我で退陣した何進を除けば一刀しか居なかった。
一つ、深呼吸して息を吐き出すと、剣を掲げた。
全員に、しっかりとその剣が見えるように。高く、高く。
限界まで肺に空気を吸い込んで、一言だけを発した。
爆発的に肺から押し上げられた空気が振動を伝え、音となって陣へと木霊した。

「守り抜くぞ!」

「オオオオオオォォォォオォオォォオォォ!」

両軍から気炎が上がり、戦いは6日目を迎えた。


      ■ 外史終了 ■


■官軍

総大将 北郷一刀(天の御使い・天代・チンコ)
 参謀 陳宮
 本陣 皇甫嵩 孫堅 黄蓋
    劉表 袁術 張勲 華雄 賈駆 
    袁紹 顔良 文醜 田豊 孫策 周瑜
    曹操 夏候惇

何進 朱儁 兵5000 OUT
曹操 夏候惇 兵2000 IN

総兵数 19500→13500

官軍援軍
丁原・呂布 :兵数6500



▼黄巾党

総大将 波才
 参謀 諸葛亮 鳳統

兵数43000→32500



[22225] 都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編7
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/01/05 03:33

      ■ 泥に塗れても



「矢を持てぃ! 猪のように突っ込む奴らの鼻を潰してやれ!」
「弓隊のみなさんへ矢筒を全て渡してくださーい!」

黄蓋、張勲の両将軍の声が響く。
猛攻を抑える為の大事な初手。
劉表、袁術の部隊は兵を幾つかの隊に分けて、弓兵に矢が行き届くように矢筒を持たせて回らせた。

人が乗り越えるには難しい高さにある柵の上で、弓兵は静かに矢を番えて構える。
この初撃で相手の数を減らすために、余った土砂を用いて積み重ね
無い筈の足場を作り上げている。
一人でも多く、弓を射ることができるように。

「一刀殿、そろそろ下がるのです」
「分かった」

「何処を狙っても相手には当たる! 弓を射る事にだけ集中せよ!」
「今でーす! 射って下さいー!」
「黄蓋隊、斉射三連! 3秒の間隔で敵を射よ!」

音々音に促されて、陣の奥へと戻り始めた一刀の耳に
空を切り裂く金きり音が無数に響いて、矢は天を埋めた。
この矢は、殆どが地に落ちることなく黄巾に突き刺さった。
雄たけびの中、確かに人の悲鳴が轟いて、陣を襲う波は僅かに歪んだ。

それらを無視して、一刀は滑り落ちるようにして地を踏むと、賈駆の下まで走って近づいた。

「賈駆さん、どう?」
「頑丈な物にしないといけないから、もう少しってところね」
「そうか、ここは任せるから宜しく」
「誰に言ってるのよ、任せて頂戴、天代様」

二、三のやり取りを交わして一刀は音々音に顔を向けた。
一刀の視線に力強く頷いて、音々音は兵を率いて駆け出す。
そして、一刀もまた馬に跨ると待機している500の兵の下まで駆け込みながら指示の声を飛ばした。

「敵の誘導を開始するのです! 装備を持ってねねに続くのですぞ!」
「音々音の誘導に敵が食いついたら、修復の終わっていない箇所を塞ぎに行こう!」






雨は、本格的に降り始めていた。
バケツをひっくり返したかのような豪雨になりつつある。
とてつもない雨量であった。
もし、これが東京のど真ん中で降り始めたら、交通機関が麻痺していて可笑しくない。

一刀はそう心の中で思いながら、着込んだ鎧に蒸し暑さを感じて兜を脱いだ。
雨の音にかき消されているせいか聞き取りづらい中でしっかりと聞こえる雄たけびと剣戟の音。
その音が遠いのは、雨のせいだけではないだろう。

「敵はしっかりと陣の硬い場所に誘導されたようだな……」
『相手もその内気付くぞ、早く終わらせよう』
「分かってる……皆! 木材を運ぶ人と修復をする工とで兵を分けるよ!」

そう一刀が声を上げた時であった。
近くに積み上げられていた土砂が雨によって崩れ、何人かの弓兵が落ち
崩れた土砂に巻き込まれて何人かが埋まってしまう。
勾配の影響か、上の方から流れ込む水は全て陣内へと入っていた。

「箱を持ってきて、崩れた土砂はその中に! 巻き込まれた人は俺達が助ける!
 皆は予定通り修復を急いでくれ!」

一刀は下馬すると、駆け寄って様子を窺った。
幸い、土砂崩れに巻き込まれた者は皆、顔は出ており生きているようだ。
この時代、鉄のスコップなどある訳も無く、一刀は道具になりそうな物を探して周囲を見回した。
青銅で作られた、恐らく壊れた鎧の一部だろう。
それを見つけると手に持って土砂を掻き出し始める。

「て、天代様、俺に構わなくても……」
「だ、大丈夫です、これなら死にはしませんから」

「御使い様! これを使ってください! 木の鍬ですが、それよりは丈夫ですよ!」
「ありがとう!」

鍬を持って掻き出し始めると、陣全体を揺るがすような轟音が響いた。
門に、黄巾の一部が取り付いて打ち始めたのだろう。
取り付かれるのは分かっていたが、余りにも早い。
そう思っている間にも、二撃目が打ち込まれたのか衝撃が走り陣を揺らした。

土砂が更に崩れ、一刀の頭上にも泥が降りかかる。
先ほどまで、顔だけ出していた人が土砂に埋もれてその姿が完全に見えなくなってしまった。
一刀は必死に手を動かして、泥を掻き出すと、やがて咳のような物が聞こえて
顔を出す兵を見つけ出すことが出来た。

結局、土砂に巻き込まれて助かった者は、一刀の見つけた一人だけであった。

「工具を持って修復を行う! 修復を手伝えない人は資材を運ぶのを手伝ってください!」

自らに言い聞かせるようにそう言うと、一刀は踵を返して資材置き場へと走った。

「天代さん!」
「袁紹さん!」

その最中、木片の束のような物を馬に括りつけて走る袁紹、それに付き従う兵士達とすれ違う。
つい先日まで、戦で少し汚れただけで自分の天幕へと戻って身を清めていた彼女が
今は自慢の髪であろう金髪を茶に染め上げて居るのに驚く。
馬を走らせて一刀へ近寄り、袁紹は口を開いた。

「天幕を崩して、資材にしてしまおうと思ったのですけど、よろしいですわね?」
「そうか、分かった、俺の天幕も撤去して防衛資材にして良いよ。
 その指揮は―――」
「わたくしがやりますわ!」
「お願いするよ! よろしく!」
「おーっほっほっほっほ、私に任せておきなさい……馬を!」

袁紹の声に、兵の一人が反応して資材を運んでいた馬を引いて一刀へと轡を手渡した。
ぶふぅっ、と一つ嘶いて一刀の横で立ち止まる。
この雨の中で垂れ下がっているが、立派であろう鬣、そして長い尻尾は金色と言ってもいい。
尾花栗毛という奴だろうか。
この時代の馬にしては立派な体躯を持っている、顔も随分と利発そうだ。
これに跨れば金色の鎧、金色の尾っぽを持った馬を持つことになるわけだ。
まぁ、今は金ではなく泥に塗れて茶な訳だが。
一刀が何かを言う暇も無く、兵は資材をその身で担ぐと、そのまま走り去っていく。
思わず袁紹を見上げる。

「総大将が馬無しでは格好がつきませんわ」
「ありがとう、借りるね」
「ふふ、差し上げますわよ」

笑顔で答え、顔を上げて兵の先に立ち袁紹は去っていった。
一刀は呆気に取られて思わずその場で立ち尽くした。
しばし袁紹が去った後を見つめていたが
隣で待ち呆けていた馬が顔を巡らして一刀の顔を小突く。
確かに、今は袁紹の豹変に驚いている場合ではなかった。

「そういえば、お前、貰っちゃったんだよな……」
『今度名前でも付けてあげなよ』
『そうだな』
「そうだね……良し、急ごう!」

馬に跨って、一刀は一つ手綱を奮うと一つ大きく嘶いて走り出した。





陣に取り付いてから約20分ほど経過しただろうか。
見た目はボロボロであり、丸太で一つ突いてしまえば今にも崩れそうであるのに
3度、4度衝撃を与えても破壊するどころか泥のついた丸太の円を刻むばかりで
一向に崩れる様子は無かった。
いかに修復をしたと言っても、これは異常であった。

しかし、それでも手応えはある。
一度衝くたびに、官軍の陣は悲鳴を上げてその建造物と大地を揺らすのだ。
黄巾党の兵は士気が高い。
決戦であることを触れ回り、豪勢な食事を振る舞い、兵糧が少ない事を暴露した甲斐があるという物だろう。
ここを抜かねば飢え死ぬかも知れない。
すなわち、官軍に敗れるかも知れない。
優勢にここまで進めてきたのを、食糧難で敗北することなど
黄天を目指して立った彼らにとっては、到底納得できるものではないのだ。
だからこそ攻める。
一心不乱に、限りなく、だ。

「もう一度衝くぞ!」
「官軍の陣を突き破るぞ!」
「持てぇー! 持つのだっ!」

意気を挙げて陣に押し寄せる黄巾の集団の中央で、俄かに動く黒い物。
雨の荒野を駆け抜けて、30人は必要でありそうな重量の丸太を抱え上げる。
それは、ゆっくりと加速しながら官軍の陣まで迫って行った。

「槌を持つ奴らを重点的に狙う!」
「しっかり狙えよ! 斉射ぁー!」

官軍の陣から声が聞こえ、数多の矢が放たれる。
天から大地の恵みである雨と共に、死を与える銀の矛が混じって彼らの頭上を脅かした。
この丸太の槌を狙われることは流石に黄巾党も理解できる。
そして、烈士の決意を持って立っている波才の言葉も、彼らは心に刻んでいた。

「礎になるのだ!」
「我らの作る、黄天の!」
「怖くなど、ないぞぉっ!」
「オォオォォオオォオォォ!」

槌を運ぶ部隊を守るように、彼らは自らの体を盾に覆いかぶさった。
身を低くして丸太を運ぶ部隊は、止まる事なく前進し遂に門へとぶち当たる。
衝撃に丸太を持つ手は滑り何人かは下敷きになって押しつぶされた。
その数人の死を持って、進むは僅か1センチか2センチか。
しかし、確かに門の木片を砕き、門そのものを軋ませて陣への穴を広げていた。





「ええぃ、矢や岩を落とすだけでは奴らの勢いが止まらんな! 矢筒が足りぬし視界も悪い、ままならぬわ!」
「黄蓋様! これを!」
「足りぬ! もっと寄越せぃ!」
「劉表さーん! こっちも無いので早くしてくださいー!」
「無い袖は振れぬ! 岩を運ぶから代用してくれ!」
「わらわの部隊が少し矢を持っておるのじゃ!」

閂をかけた門、つまりはこの陣で最も大きな入り口である中央。
最も攻勢の激しい場所には、勿論将も多く配置されている。
賈駆、そして周瑜の指揮の下で黄蓋と張勲が弓矢を取って鼓舞している。
劉表、袁術の部隊で矢と岩を運び出して、上に引き上げていた。
劉表は言うに及ばず、袁術さえもその小柄な体躯を慌しく動かして矢を運んでいた。
この場を守りきらねば、負けることが分かっているから。
そして、孫策もここに居る。

「賈駆ちゃん、どう?」
「ちゃんはよしてよ……まだもう少しかかるわ。
 大方は組みあがったけど、これじゃあ強度が足りないもの」
「そう……」

この時、孫策は自身の身体全身を包む嫌な予感を感じていた。
それは、門に打ち込まれる衝撃だけが伝えるものではなかった。
今まで、そして恐らくはこれからも自分を導くだろう直感。
それが働いていたのだ。
このままではまずいと。

「やっぱり、私も母様のところへ行くわ!」
「待て、雪蓮! 行っては駄目だ」
「冥琳、やばい気がするのよっ」
「……」

周瑜は確信を持って言った孫策に、二の句を告げることは出来なかった。
孫堅、文醜、華雄は陣の外……勿論、黄巾党の居ない方の洛陽側であるが
そこで部隊を纏めて待機している。
決戦ではあるが、相手が迂回しないとも限らない。
その為の防波堤でもあり、そして相手を押し返す機が訪れた時の為の手札でもあった。
周瑜は、作戦通りに動くべきだという軍師としての冷静な思考と
共に過ごして知っている孫策の恐るべき勘との間で揺れ動き、判断に遅れたのだ。
その合間に口を開いたのは賈駆だった。

「孫策、焦れる気持ちも分かるけれど、動かないで。
 もしも門を抜かれたら、貴女が食い止めなきゃいけないのよ」
「分かってるわよ、でもそれじゃ多分まずい―――」

瞬間、もう何度目かになるか分からない衝撃が陣内を走った。
相手の攻勢が激しくなっているのか、それとも他の要因でこちらの攻撃が効果を発していないのか。
だんだんと間隔が短くなってきているように思えた。
今の一撃で、門にはわずかに穴が開いて、この戦が始まって初めて賈駆や孫策は
黄巾党の姿を垣間見る。
小さい、相手の顔を半分も覗けない程の小さな穴だが、確かに開いた。

「賈駆ちゃん!」
「駄目よ! 穴を塞ぎなさい!
 開いた場所に板を持って走れ! 閂を支える木材を集めるのよ!」

孫策を無視して、門の防衛に声を張り上げる賈駆を見て
そして周瑜へと顔を向ける。
激烈な視線に当てられ、周瑜はやや俯きながら首を振った。

「雪蓮、我慢してくれ」
「……分かった、分かったわ」
「伝令!」
「はっ!」
「敵の攻勢が激しい。 門で防ぐには難しいゆえ、前へ出て押し返してくれと伝えよ」
「はっ!」

命令を受け取って馬で駆ける兵を見て、孫策はバツの悪そうに顔を背け息を吐いた。
雨の音が、嫌に重く響いて聞こえた。
暫くして、木柵の一部を取り払い、盛大な銅鑼の音を鳴り響かせて
孫堅と文醜、華雄の三人が陣から飛び出したのだ。
黄巾の悲鳴は数多に聞こえど、門への攻勢が緩む事はなかった。





巻き上がる土砂が全身に引っ付いていく。
陣越しに、敵である黄巾が見えていた。
修復の終わらぬうちに、数は少ない物の黄巾の部隊と鉢合わせたのだ。

「槍兵は前に出て構えなさいな! 合図と同時に渾身の力で貫きなさい!
 よろしいですわね、袁家の兵に弱卒は居なくてよ! 見事です麗羽様……おーっほっほっほっほ!」

もはや、泥のついていない場所を探す方が難しい状態で
袁紹は大声を張り上げ剣を振り回しながら指示していた。
横の田豊の言葉を、繰り返して、時にその事実を暴露しながら。
高笑いで誤魔化してはいたが、どれだけ誤魔化せているかは謎だった。

「敵が槍に腰が引けたら、土砂を崩してこの場所は塞ぐぞ、皆!」

一刀も袁紹に負けぬよう、馬上で大声を張り上げた。
合図が響いて、槍は一斉に陣の中から外へ飛び出した。
敵の悲鳴が幾つも折り重なって、豪雨の音を掻き消す。

「今だ! 土砂で塞げ!」
「オォオオォオォォ!」

号令に官軍の兵は即座に動き始めた。
皆、それぞれに持った容器をひっくり返して土を積み重ねていく。
先ほど土砂で崩れた場所から、木箱で運んだ物を数人がかりで持ち上げてドンドンと積み重ねる。

「麗羽様、槍兵を戻してください。 土砂に埋まってしまいます」
「槍兵は戻りなさいな! 土砂に埋まってしまいますわよ!」

張り上げた声はしかし、遅かった。
陣の前面で槍を突き出していた彼らの下に黄巾党の群れが襲いかかっていた。
前の陣の外構は、黄巾の数に任せた突撃でへし折れて、せき止める事が出来なかった。

「土砂で埋まった場所は捨てていい! 味方を助けるんだ!」

見ていることは出来ずに、一刀は馬を飛び降りて今しがた埋めた泥の上を走って登ると
黄巾と僅かな兵で戦う槍兵を認めた。
槍を前に突き出しているので、懐には入られていないが時間の問題だ。

「工具を持っている者は黄巾に投げつけろ! 他は兵を助けるんだ!」
「二人一組であたりなさいな! 引き上げる者と、引き摺り落とされないよう守る者と!
 田豊さん、それで後何を言えばいいんですの!?」

「貴方達は土砂を運んできてください。 ここは完全に土で埋めて壁にしちゃいましょう」

袁紹に指示を送るのがもどかしくなったか、田豊は自らの声で持って指示を出し
兵の指揮を執り始めた。
引き上げて救出できた槍兵の部隊は大よそ半分。
這い上がろうとする黄巾には土砂を被せて、或いは引き上げた槍兵が突き殺し
ようやく壁を作りだした時だった。

一際大きな……まるで耐えていた何かが折れるような轟音が陣内に響いたのは。





中央の門。
それまで、黄の波を支え続けていた官軍の盾。
崩れ落ちるように、限界まで耐え続けていた閂が完全に真っ二つに割れて
門は大きな穴を開けて粉砕された。

「―――抜いたぞ!」
「抜かれた―――っ!」

「私に続け! 門の前で押し留める!」

叫びを上げて突撃する黄巾党に、孫策はその穴を塞ぐようにして剣を振り上げた。
一撃で敵兵の数人が吹き飛び、腕や足を千切れ飛ばしていく。
開かれた穴から飛び出してきた兵は、孫策と、彼女の率いる部隊に即座に屠られていった。
死体が折り重なって、徐々に足場が悪くなっていく中で
一人でも多く、それだけを胸に孫策は武を奮った。
門は広い。
彼女一人だけではとても支えきれないが、今はまだ味方の兵がこの場には多い。
弧を描くようにして門を官軍で塞いで、その中央で孫策は吼えたのである。

「この先を越えられるのならば越えてみよ! 我が武で押し返してくれる!」
「も、桃色頭だっ!」
「頭が桃色の女が居るぞ!」
「桃頭っ!」
「誰が桃色の頭かーっ!」

そんな、決まりそうで決まらなかった名乗りをあげて孫策は突っ込んでいった。
それを目にして、周瑜は声を張り上げた。
如何に孫策が当千の将と言えども、この広い場所では抜かれるのも時間の問題だ。

「賈駆殿、まだか!」
「今出来たわよ! 劉表隊と袁術の隊はこいつを上に引き上げるわよ!」
「オォオオォオオォ!」
「黄蓋を戻して門の防衛に当たらせて! 矢は全て張勲の元に集めなさい!」
「弧を崩すな! 槍を前に構え、敵を絞るように追い出してしまえ!」

周瑜の、そして賈駆の鋭い声が響いた。
賈駆は、指揮を周瑜に一任すると、自らの部隊に叫ぶ。
この時の為に、今まで自分の部隊は戦に参加しなかったのだ。
失敗は出来ない。

「梯を架けよ! 全部よ!」
「はっ!」
「梯を架けるのだ!」
「急げ! 敵は内部まで入っているのだぞ!」

組み上げた梯子を、先ほどまで弓兵が居た場所にかけられた。
幾つも幾つも、長い梯子が次々に兵の垣根を飛び越えて、門の上部に築き上げられていく。
全ての梯子がかけられて、門から伸びるそれは異様な形態であった。

「木板を!」

短い指示に、梯子の幅とサイズをあわせた木の板を持つ兵たちが、一斉に門にかけられた梯子の上を登っていく。
生半可な数ではない、200人を越えた者が、ただ一枚の木の板だけを持って駆け上がっていた。
木の板を重ねて、梯子の穴を塞いだ事を確認すると大声をあげつつ
待ち構えた部隊に身振りで指示した。

「新たな門を運ぶ! 門運隊、前へ進めっ!」
「オオォォオォオォオォオォオ!」

下に、幾つもの木の車輪が付けられた、巨大で分厚い木の門が
数多の兵に押されてゆっくりと動き出す。
鈍重な音を響かせて、徐々に、徐々に前へと進んで行き、ついに梯を上り始めた。
引っ張りあげる者と梯子を支える者、そして新たな門を押し運ぶ者が掛け声を上げつつ全力を尽くしている。
そして、ようやく門の上に門が乗せられた。

「縄を開いた穴にくくりつけろ!」
「急げ! これ以上の侵入を許すな!」
「オオオォォオォオォォォオォォ!」

一際大きな雄たけびをあげ、全兵が括られた縄を引っ張って、門の上に門が立ち上がり始める。
そこで初めて、黄巾党は陣から立ち上がる黒い影に気がついた。
雨で滑って、或いは括られた場所が立ち上がる途中に重量で折れ、幾つかの縄は
引き絞られた張力により暴れて官軍の者を巻き込んだ。
賈駆のすぐ横にまで縄が襲い掛かり、地を跳ねて泥水が飛沫する。

そして、ついに門は完全に立ち上がった。

「落とせぇぇぇ!」

それは誰の指示だったか。
賈駆か、周瑜か、それともただの一兵卒か。
それは分からないが、やるべき事だけはこの場に居る全員が知っていた。
開け放たれた門の少し先へ。
新たな門となる木の板は隙間に押し込まれて僅かに動くと
重力に引かれて真っ直ぐに落下した。
その渦中で武を奮っていた桃色の頭こと孫伯符、その頭上にも。

「策殿ぉーっ!」

陣に轟音がとどろいて、黄巾党、そして不幸にも侵入を防ぐために刃を交えていた官軍が押しつぶされる。
人の血や内臓と、泥が入り混じった水が衝撃にしぶきをあげて周囲へと飛んでいく。

「ごめん、助かった! ……って、袁術?」

間一髪というところで、門に押し潰されそうだった彼女は襟首を持たれて引っ張られ
陣内へと引き倒された。
彼女が周囲を見渡して確認する限り、目の前に居る金髪の、子供といって差し支えない少女が助けてくれたようだ。

「ありがとう―――」
「え、袁術様ご無事ですかー!」
「策殿、無事でしたかっ、良かった……袁術殿、礼を言うぞ!」

「うう、た、助かったのじゃ、丁度孫策が居てよかった……」

どうやら、新たな門を押し出す時のへし合いで兵に突き飛ばされ落下した袁術が
たまたま孫策の真上に落ちてきたようである。
その事実に気がついた孫策は笑わずに居られなかった。
自分が助かったのは、落ちてきた袁術のおかげであり
袁術が助かったのも、また孫策がこの場で武を奮い続けたからであった。
堰が切れたかのように笑い続ける孫策を見て、黄蓋と袁術は顔を見合わせた。

「狂ったのじゃ……」
「桃色頭と、馬鹿にされすぎたのかのぅ……」

笑いすぎたのか、腹を抱えて二人に向けて必死な笑顔を向けて首を振る孫策であった。





一進一退の攻防が、豪雨の中で繰り広げられていた。
中央の門を突き破れば、それを塞ぐ新たな門が降ろされ
陣の一部を崩壊させれば、官軍の槍兵と土砂に阻まれて侵入できそうで出来ない。
数の差から、完全な後手になっているはずなのに、官軍に的確な応手を返されて
後一歩のところで官軍の盾を粉砕することが出来なかった。

後一歩。
だからこそ、諦めきれずに黄巾党は官軍の陣へ執拗に攻勢を仕掛けていた。

後一歩。
その一歩を抜かせぬ為に、休む間も無く死力を尽くさねば押し潰されてしまうのが目に見えていた。

決戦からどれくらいたったのだろうか。
止まる事を忘れたように動き続けていた一刀は、荒い息を吐き出しながら戦場を見回した。
時間の感覚は無い。
だが、陽は確かに落ち始め、景色を赤く染めつつあった。
もう少しだ。
もう少しだけ耐えれば押し返せる。

「みんな、あと少しだ、気合を入れよう!」
「オオオォオォォオォオオー」

一刀の檄に、近くに居た者から順々に声が返ってくる。
その意気も、搾り出したかのような物で疲労が激しいのがよく分かった。
朝から今まで、休息も取らず、食事も取らずだ。
糞尿を垂れ流しながら防衛に当たっている者も多い。
そして、一向に弱まらない豪雨が、ただでさえ苦しい戦の中で体力をこそぎ落としていく。

「こっちはもう土砂で埋めてしまったから大丈夫かな?」
『ああ、元々、敵の目もあまり向いていない』
『他の場所に援護へ行こう』
『中央の門は、新しい門で上手く防げているみたいだよ』
「よし……ねねの援護に向かおう」

中央の門、そして皇甫嵩と音々音が防衛に当たった脆く見えそうな場所。
殆どの道具や資材は、そちらに回している。
兵が一番多く、敵が多いのもそこである。
今言ったように、一刀と袁紹で当たったこの場所は土砂で埋めてしまった。
袁紹の兵だけ残せば、この場は十分に防衛できると判断したのだ。

彼女に貰った馬で、一刀に付き従う兵と共に走ること数分。
ようやく見え始めた皇甫嵩と音々音の部隊はしかし、その前曲がおおいに歪み撓んでいた。

「て、敵に入り込まれそうなのかっ!」

付き従う兵の言葉に、一刀は視界の悪い豪雨の中で目を凝らした。
多くのバリケードで築き上げられた一部を破壊されて、陣内に確かに黄巾が広がりを見せつつあった。
その広がる速度は遅い。
しかし、元々の数が違う上に相手も決戦を挑んでいる以上、これが最後の勝負どころであるのが分かっているのだろう。
反抗する官軍の声は聞こえず、気炎を上げる黄巾の雄たけびが響き渡っていた。

「まずい! 急いで敵を陣から追い出すっ―――!?」

一刀が声を上げると同時、一刀の真横を通り過ぎていく、人馬。
ただの一人で駆け抜けていくその者の手には大刀。
黒い髪を靡かせて、ただ一騎で官軍の前曲に飛び込んでいく。

『春蘭―――!?』
「夏候惇さん!? どうして!」

「どけぇぇぇ!」

気迫の篭った、怒声にも似た大声と共に大地へ打ち付けるように
夏候惇の七星餓狼は唸りをあげて叩きつけられた。
瞬間、宙を舞う黄巾の群れ。
10.11人は居るだろうか。
それらは吹き上がるようにして中空に浮かび、そして落下した。
ただの一撃、ただの一振りで官軍、そして黄巾の兵はその動きを止めて原因となった彼女を見た。

夏候惇は下馬し、武器を片手で肩に掛けてゆっくりと破壊された穴の前へと歩く。
同時に、夏候惇から後ずさるようにして黄巾党はその輪を歪めた。
圧倒的な武を、黄巾党の兵は初めてみる訳ではない。
孫堅や孫策、文醜や華雄といった時代を代表する武将と今日まで激突しあってきた。
しかし、この戦場で彼らの武は疲労から完全であるとは言えなかっただろう。
防衛に継ぐ防衛、一日、一日と削られる気力と兵数。
ただ、自らの武のみに気を配ることは出来なかった。
それは黄巾とて同じことだ。
今、一騎で駆けて強大な武を見せ付けた夏候惇に、彼らは新鮮さと共に恐怖を抱いたのである。

そんな事態の中心に居た夏候惇は告げた。
短く、一言で。

「この陣に入れば屠る」

「か、夏……あ、いや、元譲殿……」
「まさか、援軍に来てくださったのか」
「ふん、私一人ならば文句は無かろう!」

これでどうだ、問題ないだろうが、と言いたげにそっぽを向きながら夏候惇は音々音と皇甫嵩へと答えた。
それを隙と見たか、何人かの黄巾兵が勇を奮って夏候惇へと突撃した。
危険を知らせる兵の声。 それに答えるように、低い声が周囲に響く。

「越えたな?」

瞬間、夏候惇の身体がぶれて、3つの首が舞い上がり泥を跳ね飛ばして地に落ちた。
無駄の無い、ただ力任せに横へ一薙ぎしただけのそれが、死の暴風となっていた。

「馬鹿め、隙など見せるか……どうした、越えてこないのか?
 貴様らのせいで華琳様に名乗りを禁止されるわ、三日も閨禁止にされるわで頭に来ているのだ。
 ほら、早く攻め掛かって来い、ほらっ、ほらっ!」
「ぷっ、あははははっ!」

武器を携えていない方の手で、挑発するかのようにクイックイッと手首を返す夏候惇。
その様子を見て、一刀は笑ってしまった。
何と心強いことか。
この苦しい状況で攻めて来いなどと、誰が言えよう。
笑いを堪えることなど無理だった。

総大将である一刀の笑い声と夏候惇の不敵な態度に、官軍の兵は高揚した。
この余裕、まだまだ官軍は負けていないと、はっきりと伝わったのである。
その認識が誤解かどうかなど、この場では些細な問題であった。

「敵を追い出すぞ!」
「腑抜け共がっ、来ないなら私から行くぞ!」

「わ、うわあああああっっ!!」

二度の突撃を敢行する夏候惇と、そして意気高揚した官軍の圧力に
黄巾はその士気を挫かれて、ついに陣の外へと押し出されてしまう。
即座に皇甫嵩の部隊が資材を持って穴を埋め、防衛に成功した。

「はーっはっはっはっはっは! 見たか! 私の武を! 
 あー、くそっ、名乗りたい名乗りたい名乗りたい! しかし、華琳様を裏切るわけには……ええいっ!
 お前らのせいだ、覚悟しろ賊徒共がぁっ!」

ついには陣の外まで一人で飛び出して暴れまわる夏候惇は、実に楽しそうであったという。


この一事を持って、黄巾党はついに陣から離れ始めていく。
貫くという意志の矛は、守るという決意の盾に敗れた。
夕日が沈み、月が空へ浮かぶ時刻であった。





黄巾党の決戦の矛を交わした官軍は満身創痍であると言っていい状況であった。
一万余で陣を支えた兵は言うに及ばず、将にも少なからずけが人が出ている。
3万を越える大群と僅かな兵で陣の前に立って激突した二人の将。
孫堅は右の腕を、文醜はわき腹を負傷して治療を行っている。
特に、孫堅の右腕の状態は悪く、利き腕で武器を持つことも出来ないほどであるそうだ。
孫堅の南海覇王がその手から毀れ、絶対的な危機を迎えてこれを助けたのは、華雄だったという。
嫌な予感がすると言っていた孫策がそっと胸をなでおろしていたのが印象的だった。
幸いと言っていいのだろうか。
文醜の怪我は、そこまで深くは無く行動するのに支障は無い。

それらの様子を窺ってから、一刀は音々音に用意された天幕に入り、椅子に腰を降ろした。
自分の天幕は、袁紹の案によって防衛の資材として使ってしまったので
ここしか一刀が休める場所が無かった。
深く腰掛けて、天井を仰ぎ見る。
誰も居ないせいか、天井の布を打つ雨の音だけがシンシンと響いていた。
ふいに、一刀の体は震えた。
寒いわけでも、雨に身体を打たれて冷えたからでもない。

実を言うと、最近一刀はこの肉体の痙攣を戦の直後に何度も経験している。
初陣でこれだけの戦を行っている本体を気遣うような声が脳裏に響く。

『本体、少し休んでいるか?』
『俺達が変わるよ?』
(……いや、平気だよ)
『そうか、無理はするなよ』
(違うんだ……怖くないんだよ)
『え?』
(怖くないから、怖いんだ……)

それは脳内の一刀達も知らなかった、本体の本心だ。
もしかしたら、自分はこの戦争で心の何処かが壊れてしまったのではないかと思った。
目の前で人が矢に倒れ、斬り裂かれ、血を流し、臓物を撒き散らしても怖くなどなかった。
確かな殺意を持って群がる黄巾党の鬼のような形相を目の前にしても萎縮はしなかったのである。
当然、何も感じない訳ではなかったが、それでも無感情に近い。
人が、命を散らしているのに。
そんな自分に気がついてしまったら、もう駄目だ。
身体の震えを抑えることは出来なかった。

(戦が始まってからずっとそうだった、ねねと出会った時は真剣を見たら足が竦んでいたのにな……)
『……そう、だったんだ』
『もしかして、俺達の影響か?』
『ありうるかもね』

華佗が診断した結果、意識体の数だけ一刀の中には気が存在していると言っていた。
基本的に一人の人体に宿る気質は一つだけだとも。
本体一人の中に北郷一刀の意識が10以上も詰め込まれているのだ。
どこかしら、精神的な部分で干渉があっても可笑しくないように思えた。
事実は分からない、だが可能性はありそうな話だ。

カタン、という何かが落ちた音が響いて身体を起こす。
どうやら、僅かな間ではあるが眠ってしまったようだった。
身体の震えは止まっている。
ぐるりと周囲を見回すと、腕にあたったせいだろうか。
卓の上に置いてあった凸の置物が地に落ちていた。
茫洋と見つめていると、入り口に人影を認めて一刀は視線を巡らした。

「一刀殿、何進大将軍から伝令が参りましたぞ」
「ねね……ああ、それでなんて?」
「明日の朝には、だそうなのです」

一刀は地に落ちた置物を拾い上げて、卓の上に置いた。
もう隠す必要は無い。
決戦を挑んで来た黄巾党、7日目である明日、戦乱を駆けた脳内の経験と軍師達の知恵。
きっと、これで最後だ。

「ねね、将を全員この天幕に集めてくれないかな?」
「わかったのです」

何進からの書を卓の上に置くと、音々音は踵を返して天幕から飛び出して行った。
黄巾党の決戦はいなした。
今度は、こちらが決戦を仕掛ける番だ。

「疲れているだろうけど……」
『これで最後になる、頑張ってもらうしかない』
『そうだね、辛いだろうけど』
『うん、兵士の皆には後もう少しだけ働いてもらおう』
「最後にしよう」


      ■ 虹に、手を突き上げて


波才は黄巾党の本陣へと戻って来て、兵に休息を取らせると、明け方に最後の糧食を与えて備えさせた。
決戦にあたり、多くの食事を与えたために全軍へ配給できる食事はこれが最後となる。
しかし、悲観はしていなかった。
陣を抜く事は出来なかったが、確かな手ごたえを感じていたからだ。
もはや、官軍の盾は傷ついてボロボロだ。
新たに落とされた中央の門には、驚き戸惑ってしまったが
その後の攻勢で、新しい門も時間をかけずに抜くことが出来るくらいに消耗させている。

夕日が差す頃には、弓矢も殆ど飛んでこなかった。
せいぜい、真上から岩のような物を投げつけてくるだけで、注意していれば被害も少ない。
如何に官軍の将が一騎当千の力を持つ者が4,5人居ようとも
万の兵で押しつぶしてしまえば良いだけだ。
初日ならばいざ知らず、ここで見敵してからもう7日も立つのだ。
将であろうと人間。
剣を振るえば疲れるし、鼓舞をすれば体力は減る。
今日こそはきっと抜ける。
何か、官軍にとって予想外の事が一つでも起きれば確実に。

実際、波才の見立ては正しい。
官軍が手をこまねいて、現状のままであればの話だが。
昨日よりかは幾分、雨も上がってその量は弱い。
今日は途中から晴れることだろう。
徐々に、真っ暗闇であった世界が息づいていく。
木々は緑を彩り、大地は黄をたたえて、そして雨が上がれば天が覗く。
黄天の世が、確かに息を吐き出していくのを波才は感じた。

声を張りあげる。

「背水の陣と心得よ! これより、我らは前だけを見て進む!」

戟を掲げる。

「右翼と左翼も中央に集めて、正門を突き破るぞ! 伝令は走って伝えよ!」

そして、馬を走らせた。

「突撃せよ!」

一丸となって波才率いる黄巾党の中央は突出するようにして陣へと突き進んだ。
波才の命令が届けば、両翼も後に続いて、全軍で群がることだろう。
今日抜けなければ飢え死ぬ。
全員がそれを知っているのだ。
これだけの条件を揃えれば満身創痍の官軍と、その盾を抜けないはずがない!

確信を持って突き進む波才の視界に、官軍の陣が異様な動きをしているのが映ったのはその時だった。

黄の旗がゆっくりと立ち上がり、官軍と当たって砂塵と泥を巻き上げていたのだ。
よくよく耳を凝らせば、剣戟の音が馬蹄の響きに混ざってにわかに聞こえる。
果たしてあれは何なのか。
波才の隣を馬で走らせていた黄巾の兵が、叫びをあげた。

「は、旗印は馬です! 波才様っ!」
「まさか、馬元義か! はっは、生きていたのか! あいつめ!」
「陣の後方から官軍を脅かしている模様です!」
「はは、ハッハッハッハッハ! よぉぉし! 同志の援軍が来た!
 皆、意気を上げて官軍を打ち抜くぞ!」

思わぬ援軍を受けた事を知った黄巾党は、火の玉になって官軍の陣を目指して突き進んだ。

―――

「明日、俺は馬元義になります」 
「ほう?」
「天代様、それはいったいどういうことですか?」

昨日、諸将を集めた一刀は全員が揃ったことを確認してから口を開いた。
真意を掴みかねた皇甫嵩や劉表が眉を顰めて一刀に尋ねる。
それに一刀は、自らの策を全員を見回しながら話していった。

まず、陣の外で一刀の隊は馬元義の旗を掲げて、官軍と争う振りをする。
それを見た波才は、間違いなく突っ込んでくるはずだ。
抜きたくて溜まらない陣が、危機に陥っているのを目の当たりにし、援軍が来たと思い込むのだから。
馬元義の死亡は、まだ噂に広がっていない。
朝廷も、賊と内応していたことがバレるとまずい、ということで情報を規制しているからだ。
波才が、馬元義の死を知る方法はなかったはずであり、一刀の流した欺瞞情報くらいしか手元に無い筈である。

「どちらにしろ、もうこの陣は使い物になりません。
 それならば、欲しがっている相手にくれてあげましょう」

一部の者を除いて、周囲がざわめいた。
それに構うことなく、一刀の言葉尻を引き継いで音々音が話始める。

兵糧や資材を最低限運び出し、後は全て残して陣を放棄する。
黄巾党が食料に難があるのは蜂起に至るまでの時間や決戦を仕掛けてきた時期
他にもアニキ達の内応や官軍の斥候から割りと正確に把握していた。
陣へ突き進むだろう黄巾党は、飢えを脳裏に過ぎらせて死に物狂いで突撃してくるだろう事は予測できた。
手に入れた陣に、大量の食料があればどう思うだろうか。

答えは簡単だろう。

―――

馬の黄旗が戦場に揚がる時、偽報を使って相手の混乱を促して欲しい。

アニキ達が一刀に洛陽で頼まれたのは、これだけであった。
諸葛亮と鳳統、軍師の暗殺などの依頼はむしろオマケに過ぎない。
だからこそ、両翼にてアニキ、デク、チビの三人は常にそのタイミングを窺っていた。

馬の旗はあがり、時は来た。
唯一つ、予定に無いといえば黄巾の軍師としてこの地に立った少女が隣に居ることだろうか。
羽扇を握り締めて、黄巾党の右翼で馬上に乗る孔明を見上げつつアニキは頬を掻いた。

「なぁ、逃げた方が良かったんじゃあねぇか?」
「いいんです、アニキさん。 最後の戦でも良いって、決めたんです」
「そうかよ、まぁそれならいいんだが……死なないですむかも知れねぇのに、わっかんねぇなぁ」

波才の出した諸葛亮と鳳統の殺害。
横着して、ただの一兵にだけしか伝えなかったことが命取りだ。
右翼、左翼の多くの兵士が、未だに孔明と士元の二人を黄巾の軍師だと勘違いしている。
波才の意志が全黄巾党に広まっていれば、この場で羽扇を振る事など無かっただろう。
アニキの言うように、逃げることくらいしか選択肢は無かったはず。

「まぁとにかく、御使い様の作戦がやり易くなるってんなら文句はねぇ!
 諸葛亮、頼んだ!」
「はい!」

孔明は一歩前に出ると、黄巾右翼へと命令を出した。
木柵を越える素振りを見せて、陣へと突撃した本隊を援護すると。
右翼が意気を上げて前進を始める直前、左翼も同じように動き出すのを確認する。
鳳統と、そしてチビとデクが黄巾左翼に命を下したのだろう。

「お、おい! 波才様の命令は中央への突撃だぞ! 何を勝手に兵を動かしておるのだ!」
「あー、あんた、わりぃ! まさか波才様の伝令っすか!?」
「そうだ! おい、すぐに兵を戻っげぇ!?」
「邪魔なんだよっなっっと、ちょっと先に死んでてくれ」

アニキを無視して孔明へと声を上げて迫った男の背後から、心の臓を突き刺す。
当然、伝えられてはまずい内容なので口を封じる必要があるのだ。

「後は御使い様次第、ですよね……」
「ああ」

―――

陣からは酷く散漫な抵抗しか起きなかった。
馬元義により裏手を攻められて、陣の防衛もままならないほど混乱しているのだろう。
言葉の意味として伝わらない、叫び声のような物と喧しい程の銅鑼の音が波才の耳朶を打っていた。

「今ならば門をぶち壊せるぞ!」
「運べ! 丸太だ!」
「オオオオオォォオォォォォォォォオオォオォ!」

何度も陣の門へと攻勢を仕掛けたからか、その動きはかなり錬度の高い物となっていた。
殆ど、障害もなく丸太は門へと確実に速度をつけて吸い込まれていく。
一度だけ弓による斉射があったが、それだけだ。
言い知れぬ高揚感が波才を、そして黄巾党全兵に伝わって広がるのが手に取るように分かる。
抵抗らしい抵抗を受けず、ついに中央の門は大きく穴を広げて一気怒涛に陣内へ黄巾党がなだれ込んでいく。

「勝った!」
「勝ったぞぉおお!」

「よぉーし! 官軍を蹂躙してしまえ!」

雄たけびを上げる黄巾党。
その様子に自身も興奮しながら波才はできるだけ冷静さを装って命を出し
自らも陣内へと馬を走らせていった。
誰かが言った。 食料があると。
耐えること叶わぬと見て、官軍は陣を捨てたか。
そう胸の内で勝利に酔っている波才はしかし、陣の中に入り周囲を見回すと酷い違和感を覚えた。

「な、なんだ……あまりにも敵が少ないぞ」

官軍の姿は、一応見える。
全員、背を向けて一目散に陣の外……馬元義の旗を目指していた。
一体どういうことなのか。
そもそも、陣を捨てるのならば官軍が僅かにとはいえ兵を残す必要など―――

「しまった! まさか、罠か! おい、全軍を停止させろ!」

罠の可能性に気がついた波才であったが、その命令は最早遅すぎた。
先の命令で、波才の後に続く黄巾の兵がドンドンと陣の中になだれ込んでいるのだ。
必然、止まろうとする波才の周囲も人の波に押されて陣の奥へ、奥へと流されてしまう。
必死に声をかけて制止を促す波才であったが、一度勢いづいた物は人の流れであろうとも容易には止まれない。
ついに、彼は陣の中でも奥深い、兵糧がたんまりと残された場所にまで追いやられてしまった。

「くっ! おい、その兵糧は無視してしまえ! 聞いているのか!」

飢えて死ぬかもしれない。
それを自身によって脳裏にこびりつけられていた黄巾党の兵は波才の制止があるにも関わらず
一目散に兵糧へと群がり、そして―――

―――

「せっかく捨てる陣ならば、それを有効に利用しない手はないわよね。
 兵糧を誘導路にして、落とし穴を作って嵌めてあげましょう」
「火が使えれば、捨て置く物資を燃やして恐怖を煽るのもいいかも知れませんね」

賈駆はメガネを持ち上げながら、一刀と音々音の策を聞いてそう言った。
周瑜も頷いて、賈駆の言葉に補足するように自らの案を重ねる。
その為に、昨日は一刀が言ったように、疲れている中でも頑張ってもらわねばならなかった。
5千の兵を選抜して、賈駆の指示によって誘導する道を作り、兵糧を積み上げ、穴を掘った。
幸いであったのは、豪雨によって随分と掘削しやすい地面であったことだ。
乾いていれば、それこそ全軍を挙げて掘らなければならなくなり
今日、作戦を映す為の兵数が確保できなくなってしまう。

劉協が胸を騒がしていた雨。
それは間違いなく、官軍にとって利となる雨であったのだ。

「何進大将軍が率いている5千の兵が戻ってきます。
 疲れているでしょうが、5千の兵を割いて、この罠の準備を進めます」

そして、『5千』の兵で事に当たったのは当然理由がある。
その数は、今一刀が言ったように何進の率いる兵数と一緒だ。
つまり―――

―――

兵糧に手が届こうかとした時。
突然に地面が揺らぎ、大量の人馬が落下して消えていった。
馬に押しつぶされて圧死するもの、落下によって骨を折ったもの。
無数の悲鳴が陣のあちらこちらから響いて聞こえてくる。
黄巾党中央の部隊に多くの被害を齎した落とし穴は、ここだけでは無かったようである。
人により押され続けた波才も、この穴に落ちて馬から放り出された。

波才自身に怪我は無かったが、しかし。
この落とし穴、ご丁寧に縁の部分が反り返っている。
這い出るには時間がかかりそうであった。

「落ちた賊を閉じ込める! 蓋をあげい!
 味方の兵が身を削って作った死の穴から、逃れさすで無いぞ!」

手を土に食い込ませ、人や馬を足蹴にしながら外を目指した波才であったが
それは徒労に終わる事になる。
どこかで聞いた事のある男の叫びが聞こえたと思うと、穴を埋めるように
四角い網状に組まれた木の蓋が、落とし穴を埋めるように覆いかぶさって来たのだ。
その木に咄嗟に手をかけた波才は、その木を掴んで這い上がる事が困難であることを知る。
掴んだ場所が、くるくると回転を始めて木の蓋にぶら下がり続けることすら難しい
『からくり』が施されているのだ。

「ぬぅぅ! あ、あれは、何進か!」

波才は隙間から見える馬上の人間を見て、その名を呼んだ。
一騎打ちを行った相手を見違うはずなど無い。
自分の貫いた肩に、多くの布を宛がっていることから、断言できる。

「お、おのれ!」

「這い出ようとする者は槍で貫いてしまえ!
 外に残る者は追い立てて滅せよ!」

何進の大声に、5千の兵はキビキビと動き出す。
隙間から降りかかってくる青銅の槍の嵐に、落とし穴に落ちて無事であった黄巾党の多くが貫かれ、果ててゆく。
波才は慌てて身を隠し、死体や馬を盾にしながら落とし穴の中を移動した。
地面が昨日の雨でぬかるんで、モタモタとしながら。

彼は歯軋りをして悔しがった。
罠にはめられた事は理解できるが、たとえ中央を抑えたところで
黄巾党の両翼は万を越す軍勢が居る。
陣を捨てたことは官軍の最後の悪あがきに違いない。
その痛撃を、自らが受けることになるとは何と言う無様であろうか。

「だが、ここを生き延びれば助かる! 両翼の味方が来るまで、生き延びれば!」

垣間見える敵兵、必死に這い上がろうとする同志。
その後ろで燃え盛る陣を見上げながら、波才は両翼の援軍の到着を待った。

波才は分からぬことであったが、偽報によって木柵へと詰めている右翼から
真紅の呂旗が揚がったのはその時であった……

―――

「敵を罠にはめるのは分かった。 しかし、残りの抑えはどうするのですか」

劉表は得心するように陣を空けることに賛成した。
だが、この陣の罠はとても黄巾党全体を収容するほどの規模ではない。
あぶれ、漏れた敵が居るはずなのだ。
中央、左翼、右翼、そのいずれかを罠に嵌める事が出来るかどうかといった所だろう。
彼の言葉は最もであり、その対策も練ってある。
音々音は凸の置石を一つ持って、敵の右翼の傍にそれを置きながら言った。

「呂布を用意するのです」
「呂布だと?」
「丁原殿の援軍が来てくれたのか?」

諸侯からの疑問に、音々音は首を振る。
本当に間に合っていれば、それこそ良かったのだが残念なことに丁原軍は間に合わなかった。
こちらへの援軍に向かってることは報告されているが、時間的に到着は難しい。
と、なれば一足先に流布して黄巾党、そして官軍に衝撃を与えた呂布の武名だけを利用することにしたのだ。
この策は音々音が主導で行っている。

「真紅の呂旗は用意できているのです。
 本来ならばこの旗を立て、孫堅殿に兵を率いてぶつかって貰おうとねねは思っていたのですが」

チラリと孫堅の方を見る。
その視線に彼女は気付き、肩を竦めた。
右腕の怪我は酷く、片手で武器を振るえなくも無いが馬上では難しいだろう。

「私がやるわ」

それらの様子を孫堅の後ろで眺めていた孫策が、ずっと前に出てそう言った。
呂布を騙ろうというのだ、武のある者で無ければ難しい。
夏候惇と華雄は、残念ながらあまり良く分かっておらず名乗りを上げることは無かった。

「母様の怪我の仇、とってきてあげるわよ」
「ふっ、いいだろう。 任せたぞ雪蓮」

「……呂布に化した孫策殿は、今から部隊を率いて外に待機しておくのです。
 時期を見て、横撃を加えてください。
 呂布の名が広まっている以上、相手は必ず混乱をするはずなのです」
「相手がわざわざ人をかけて木柵を撤去してくれていた場所がありますので
 そこから一気に相手を押し上げて反包囲しましょう」

音々音の言葉に頷く諸将に、田豊の声が重なった。
陣の外から横撃を受けて混乱する黄巾党を、野戦で撃滅するというのだ。
名が上げられたのは皇甫嵩、劉表、孫堅、周瑜、黄蓋、華雄、賈駆、顔良、文醜、張勲。
官軍のほぼ全軍を上げて、木柵の外から飛び出して相手を押し上げるというものだった。

「失敗すれば、我らの負けですな」
「ふん、ここまでお膳立てされて失敗するようならば、負けて当然だ」
「確かに」
「曹操殿へ、連絡を送らなくてよろしいのか」

一刀はその心配に、薄く笑った。
そして、夏候惇へと声をかけたのである。

「夏候惇さん、曹操さんの元へ戻り、横撃に出る準備を」


―――

銅鑼の音が、戦場に響き渡った。
立ち上がるは真紅の旗。
旗印は呂。
突然の戦鼓と共に起き上がったそれを見て、自然に声は上がった。

「呂、呂布だぁあぁー!」
「呂布が来たぞ!」
「か、官軍の援軍だ!」

「行くわよ! 呂布の名で怯えを見せている敵など、恐れるに足らないわ!
 今こそ勇を奮う時、進めぇー!」

足並みの崩れた黄巾党右翼へ、孫策率いる『呂布軍』は突撃した。
中には、孫策の姿に気がつき相手が呂布ではないことを知る者も居たが
それでも混乱広がる黄巾党の全軍の中でも僅かに過ぎなかった。
見たことも聞いたことも無い呂布という武の噂は、確かに黄巾党全軍に伝播していたのである。

「旗を揚げよ! 全ての苦労が報われる時が来たぞ!」

真紅の呂旗が黄巾党右翼に突き刺さると同時に、黄巾党左翼へ向かう蒼旗があった。
掲げられた旗印は曹。
楔陣形で先頭を走る夏候惇は大剣を構えて突撃していた。
そのやや後方、馬上にて鎌を持ち、天へと突き上げながら声を出す者。
三国志でのぼる英雄の中で、最も大きく飛翔する龍が気炎を上げて突撃していた。
曹操が自軍に響き渡る檄にて、鼓舞する。

「ここに至るまでの強行軍を思い出しなさい! 全ての苦行はこの一戦の為!
 声を出せ! 声を出せ! 声を出せ!
 目の前の黄巾を、我が曹旗の下で全てなぎ払い、この乱を終わらせるっ!」

「オオォオオォォォオォオォォォオォオォオオォオオォオオオオ!」

「な、何だ奴らは!」
「何処に隠れていたんだ!」

曹操率いる2000の、まったく疲労を残さない、これが初めての戦となる新兵の突撃。
夏候惇が開いた道へと雪崩れ込む曹軍は、新兵とは思えぬ働きを見せて
黄巾党左翼を真一文字に切り裂いていく。
仲間を置き去りにしなければならない程の強行軍。
必死になって辿り着けば、戦争にはすぐ参加するなという始末であった。
これでは置き去りにされた仲間が報われないではないか。
そうした不満の矛先を、曹操は巧みに敵である黄巾党へと兵の思いを誘導してきた。
この一撃のために、曹操軍の士気は天井知らずに揚がっていたのである。
今、この時、この場所に置いては、ここにいるどこの官軍よりも精兵であるかもしれなかった。
それこそ、呂布の名によって混乱に陥った右翼と変わらぬほどの混乱を見せ
黄巾党はズタズタに引き裂かれたのである。


「あれが、曹操……はははっ! 面白い! 血がたぎってきたぞ!」

木柵の裏で、一部始終を目撃した孫堅は獰猛に笑い、皇甫嵩へと視線を向けた。
早く私も行かせろ、そう言っているのが言葉にしなくても伝わってくるようであった。

「銅鑼を鳴らせぇぇぇぇぇい!」

それらを受けて、皇甫嵩は雄たけびを上げた。
一喝のもと、皇甫嵩の部隊に居る兵が、木柵を支える一本の長大な軸を抜きさる。
同時に、ゆっくりと加速して、200Mほどの木柵は大地へと倒れ伏したのである。
号令が響き渡って、官軍の旗が揚がる。

「混乱する敵を一気に屠るぞ!」

言いながら、孫堅は怪我をしていない手で剣を振るい、馬を弓のように逸らせて矢のように走らせる。
官軍全体が、混乱する黄巾党を押し上げ始めた。





止めとなったのは、本物の呂布……すなわち、丁原軍が援軍に間に合ったことだった。
混乱しながらも、数に勝る黄巾党は徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。
その僅かに残る冷静さを吹き飛ばしたのは、丁原が先行して送り込んだ
兵3000を率いる呂布本人であった。

馬元義の旗の下に居る一刀は、その戦場が良く俯瞰して見れた。
一番に陣へと飛び込んだ中央は、完全に制圧したと言ってもいい。
数多の黄巾党は穴に落ち込み、ぬかるみに嵌り、這い出ようとした所に槍で突かれた。
落ちなかった者も、陣全体に広がる炎によって恐慌していた為か
何進が率いる疲労の無い部隊によって簡単に駆逐されていった。
荒野では、アニキ達の偽報によって踊らされたことを敵が気付く前に
孫策、曹操による強烈な横撃に完全に混乱を引き起こした。
それまで、陣の防衛を行っていた官軍全軍による一気果敢の突撃。
これを防げる手など、黄巾党は持ち合わせていなかった。
殆ど半包囲での殲滅に等しかった野戦は、呂布の参入によって全方位となる。
抵抗はだんだんと止み、それは官軍による一方的な蹂躙へと変化の兆しを見せていた。

戦の趨勢は決まった。

「わらわ達の勝ちなのじゃー!」
「おーほっほっほっほっほっほ! おぉーほっほっほっほっほ! 大勝利ですわねっ!」

一刀と同じ確信を抱いたのだろう。
同じ場所に配置された袁紹と袁術が、ほぼ確実に手に入れた勝利に手をあげて喜んでいた。
彼女達の役目は、馬元義に扮した一刀の部隊と遊戯のような剣戟を交え叫びをあげることであった。
勿論、何か起きればそのまま後詰めとして働く役目も背負っている。

勝った。
それはきっと、疑いようの無い事実だ。
一人の伝令らしき騎馬が、一刀の前に居る音々音の元へ走ってくる。
恐らく、優勢を知らせる兵であろう。
首を巡らして、一刀は空を見上げた。
雨はまだ降っているが、とても弱く、すぐにでもやみそうであった。
雲に隠れていた陽が、ついにその顔を出そうとして……

「お、おい止まれ!」
「何者だ貴様!」

前の方で、突然数人の兵がざわめき声を上げた。
異常な様子を感じ取って、一刀は視線を前に向ける。

伝令だと思っていた、官軍の鎧を身に着けた騎馬は一直線にこちらへと向かっていた。
一刀が視線を戻したとき、数メートル先まで迫っており
守るように道を塞いだ音々音へと凶刃を向けていた。

「陳宮様っ!」
「ねねぇーーーーー!」

一人の兵が覆いかぶさるようにして、馬上から陳宮を引き摺り落とすのと同時に
騎馬兵の戟は彼らに突き刺さった。
赤い血しぶきを上げて、倒れこむ様子が、一刀の目にしっかりと映り込む。
どちらの血であるのか、一刀の位置からは判断できなかった。

敵。
伝令だと思っていた騎馬兵は、官軍の鎧を着込んだ黄巾の兵だった。
勢いをそのままに、一刀へと迫る黄巾の男。
誰もが、突然の凶行に身体が硬直し、驚きに動けぬ中で、男は鬼の形相で声をあげた。

「総大将、天の御使いだな! 貴様だけは、貴様だけは連れて行くぞぉぉぉぉ!」

「うわああ!」
『本体っ! 貸せぇ!』

突き入れられる戟。
一刀の体はその瞬間ぶれて、左手の鎧の手甲で、その一撃目をいなした。
手綱を引いて、馬の方向を御すると、勢いでぶつかってくる敵騎馬と身体をあわせる。

一刀の乗る騎馬、そして敵の突っ込んできた騎馬の後ろの腿同士が激突し
それに反応して馬は加速を始めて走り始めた。

馬上にて戟を握るは顔半分を火傷で失った波才。
相手取るのは一刀―――“馬の”

「うおおぉおおお!」
「はぁああぁっ!」

陣の中に飛び込んだ一刀と波才の戟が交わる。
凪ぐように、突くように、そして払うように。
形を何度も変えて激突する戟の応手。

陣で指揮を奮っていた何進が、いの一番に気がついた。

「あれは! いかん、誰かあの一騎打ちをやめさせよ!」

その声は遅かった。
一刀と波才の馬も馬上での激突に興奮しているのか。
お互い、馬同士が睨み合うような形で併走し、どんどんと加速していた。

「貴様が波才かっ!」

“白の”が“馬の”を引き継いで戟を交えて問う叫びはしかし、波才の戟にて返って来た。
その一撃、よほどの膂力が込められていたのか。
一刀の戟を半ばで圧し折って、突き抜ける。
腰に刺した二本の内一本の剣を引き抜いて、唸りを上げて差し迫る一撃を、顔の真横でギリギリ打ち弾いた。

“白の”が出来たのはそこまでだった。
一瞬、一刀の身体がだらりと力抜け、波才の振りかぶった頭上への一撃をかわす。
次の瞬間には“呉の”が立ち上がり、刃を交えた。

進む。
進む。
進み続ける馬はついに陣を飛び出して、官軍と黄巾が乱戦している荒野へと飛び出した。

「天代様っ!」
「波才様っ!」

二人の一騎打ちは、終えることなく、小高い丘を登り始めていた。
怒鳴るように言葉を交わす一刀と波才。
一刀の元へ多くの将は向かおうとして、しかし距離から諦めざるを得なかった。
それは、官軍の作戦の弊害でもあった。
官軍の武将は完全に荒野の中央へと寄せており、陣の近くで矛を交わす一刀を知っても
援護に行くには時間がかかりすぎる。

「諸葛亮と鳳統は!」
「殺してやったわっ!」
「貴様がかぁーーー!」

“無の”の一撃は波才の腕を突き刺していた。
確かに突き刺し、血を噴出させているのにも関わらず、その腕を持って波才の一撃は一刀へと迫った。
“董の”へと変わった一刀の元に、予想外の奇襲となって襲ったそれは
受け止める事に成功するも、馬上から吹き飛ぶように落とされてしまう。

それを見て、波才は自ら馬から飛び降りると、落ちた一刀の下へと走って
大上段からの一撃を見舞う。
瞬間―――衝撃。
落馬したばかり、その隙を見逃さずに一撃を振るった波才は自らの頭に走った衝撃に
何が起きたのか理解することはできなかった。
落馬によって意識を失った“董の”に変わった“南の”が器用に戟を受け流し
刀を軸に変則回し蹴りを、波才の頭部へと叩き込んでいたのだ。

一刀と波才の打ち合いは、都合40を越えてなおも続いていた。
いつの間にか、周囲に居る官軍も、黄巾党も、諸手を挙げて自身の総大将を鼓舞する。
命を削る一撃が交じり合うたび、轟音となって周囲へ声を響かせていた。

剣を引き抜いて、よろめく波才へ突き入れる。
弾かれ、膂力で負けていた一刀の剣は空へ飛んだ。
最後の一本を腰から引き抜いて構え、そして脳内の皆は意識を落とした。

「貰ったぁッ!」

それまで動き続けていた、その動きが止まったのを見て波才は地を蹴って戟を突き入れた。
空気を切り裂いて、一刀の顔へと迫る。
動きを止めた一刀は、その戟が確かに迫るのを見つめ波才は口角を吊り上げた。

一刀は動かない―――脳裏に走る意志に頭を打たれていたから。

春蘭が―――
「そうなった時は前に出ろ、首を刎ねられるぞ北郷!」
祭が―――
「勇を欠けば、討ち取られる。 気持ちは前へ、じゃ」
鈴々が―――
「お兄ちゃん、鈴々は前に出るのだ! 運がよければ、怪我ですむのだ!」
愛紗が―――
「常に気持ちは前へ向ける。 一騎打ちで臆せば、相手に負ける前に自分に負けているのだと、そう思います」
翠が―――
「あたしなら、たとえ負ける戦いでも前のめりに倒れたい。 だから、そうなったとしたら前に出るぜ!」
猪々子が―――
「まぁー結局その辺は運なんだけどさー、あたいなら前に出る。 その方が燃えるじゃん!」
美以が―――
「猪のように前に出ると、案外助かるにゃ、だから前に出るのにゃ」
恋が―――
「……? 大丈夫、ご主人様は恋が守る、でもそうなったら前に行った方がきっといい」
星が―――
「主が一騎打ちすることは、まずありえませんが……そうなった時、気持ちで負ければ誰が相手でも勝つのは難しいと思いませぬか?」
華雄が―――
「戟に向かう勇なくて、何故戦えるか! 前に出ろ、前に!」

本体は、その瞬間、確かに全員の画が見えた。
見たことの無い少女も、見たことのある少女も居る。
それが、脳内の彼らのイメージであること、そして今の自分に向けたメッセージである事を理解して
死の暴風が吹き荒れる波才の戟へと、身体ごと飛び込んだのである。

兜は砕け、後方へ弾き飛ばされた。
その中に入れた額宛も、完全に砕けてその場に崩れ落ちる。
皮膚を一枚削いで、しかし、そこで波才の放った必殺の戟の猛威は終わった。

前だけを見て進んだ一刀の目の前にそれはあった。
伸びきった腕、突き出されていた戟。
構えた両の腕は自然に動き、空気が切り裂かれ、刃は天を向く。

「て、天の御使い―――っおっ!?」

音が消えた世界の中、戟は太陽へと向かう。
波才の腕は、肘から先を完全に喪失して、その手に持っていたはずの戟が波才自身に影を落とした。
痛みはなく、顔は歪んだ。
噴水のように噴出した血の奔流が、一刀の顔を濡らす。

時が、止まったように時間は緩やかだ。
刀を戻した一刀が波才の左方から振り上げるようにして銀閃を向ける。
刀剣に反射した光が一瞬視界を染めて、次の瞬間には魂の底から突き上げる声が
自然に出ていた。

「き……貴様がっ、貴様がっいなければぁっ!」

獣のような声が聞こえ波才はそこで初めて、自分の腕が切られ獲物を失ったことに気がついた。
と、同時に唸り声は自分のものだと波才は知る。
視界は広がった、首筋に唸る煌き。

「うわああぁあぁああぁ"ぁ"ぁ"あ"」


一刀の裂帛の気合と共に放たれた一閃が、波才の首を飛ばした。


そして波才は天を見上げることになる。
いつの間に晴れたのか。
太陽が彼の視界を埋め尽くしていた。

(おお……見よ……黄天の世が……)

そこで彼は考える能力を失った。
波才の首が地に落ちて、剣を掲げるまま、一刀は立ち尽くした。
両腕で剣を天に掲げ、雨の上がった太陽の光。
そして……後ろに七つの色をたたえ弧を描いた虹が天へ昇ってやがて陽にかかった。

それは、一枚の絵画にも似た、まるで神話のような姿であった。

その姿に黄巾党は、誰からとも無く膝を突く。
黄天は、虹に彩られ姿を変えた。
それを、分かってしまった。

吐き出した息を吸い込んで、一刀は天を見上げる。
『本体』
「ねね……後は任せたよ……」
『ああ』
そこで本体は意識を脳内に預けて、一刀の声は轟いた。
腕よ、天へと届けと言わんばかりに大きく振って。

「黄巾の総大将波才、天の御使い北郷一刀が討ち取ったぞっ!」

両手を挙げるもの、武器を掲げるもの、誰もが天に拳を突き出して一刀を喝采した。
将も、兵も、馬でさえも興奮したように嘶き。
地響きに似た音は遠く洛陽の都まで轟きついて、勝ち鬨は上がった。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


―――洛陽の戦いは、幕を閉じた。


      ■ 天代マジパネェよ


一際大きな天幕に、黄巾とぶつかりあった官軍の将は集まっていた。
決着を付けてから既に時刻は、夜深い。
何進が都へ戻り、持ってきた資材で組み上げられた臨時の天幕は、酷く不恰好ではあった。
そこでは、今までにない諸侯の笑い声で満たされていた。

「はっはっはっは、天代様が描いた策、お見事でございましたな!」
「まさしく、漢王朝へ降りた天の御使いでありましょう」

杯を酌み交わして、酒を持って勝利を祝う。
戦勝を祝った、小さな宴がこの場で開かれていたのだ。
中には、飲みすぎて倒れている者すらちらほらと見えた。

上座にて、一刀はしかし、そんな彼らのテンションとは真逆で微妙に沈んでいた。
音々音は無事であったが、落馬のせいで腕を折っていたのだ。
波才の戟から身を挺してかばった兵は、一刀が土砂で埋もれた時に助けた人であった。
残念ながら、その人は出血の多量が原因で命を落としている。
戦で勝ったのは喜ぶべきであるのだが、音々音の怪我とその兵への感傷で素直に喜べない一刀である。
それに―――

『波才の懐から出た、それもあるしな』
「うん……」

そう、あの一騎打ちの直後、死体となった波才の懐から飛び出た血判状。
諸葛亮と鳳統の文字が綴られているこれを発見し、一刀は自らの懐に入れていた。
孫策によって捕らえられ、今は官軍の捕虜として即席の牢に入れられている。
彼女達の今後は、明るくない。
何とかしなければ、洛陽へ着いて戦後の処理が始まったときに死ぬことになってしまうだろう。

「わっはっはっは、いや、しかし天から来られたというのでは、言葉も色々と違うのでしょうな」
「確かに、時たま天代様は我々に分からぬ言葉を使いますからな」
「そうだ、天代様、こういう勝利を祝う言葉は無いのですか」

『おい、本体』

そう尋ねられているのに、戦後の感傷に浸っていた本体は気がつかなかった。
波才を自らの手で切り殺した。
大切な身内が怪我をした。
それだけでなく、諸葛亮や鳳統を含めた今後のこと、戦争の最中の出来事。
そういうものを心の中で振り返っていた一刀から漏れ出た言葉は、これだった。

「……マジパネェよ」
『あーあ』
『本体、マジパネェな』
「え?」

そして、手遅れとなる。
何進が一刀の傍へ寄り、酒で満たされた盃を差し出して

「天代様、マジパネェですぞ」

同じように皇甫嵩が酒を注いで満たされている盃を諸侯全員に見えるように掲げて

「北郷様、マジパネェよ!」

「マジパネェよ!」
「マジパネェよ!」
「マジパネェですわ!」

諸侯全員が合唱して、一刀を褒めちぎった。
一瞬、何が起きたのか分からない一刀はその様子に驚き固まった。
再び騒ぎ出す諸侯を置いて、孫堅が一刀の元へ近寄ると
珍しく獰猛でない、柔らかな微笑みを称えて杯を重ねた。

「ふふふ、まずはマジパネェよ……といっておこう、北郷殿」
「そうね、私からも言わせて貰おうかしら」

引きつった笑みを浮かべた一刀が声のした方向へと首を向けると
そこには金髪をツインにまとめてドリルにした歴史に名高い乱世の奸雄殿が笑顔を向けて立っていた。
曹操に差し出され、その盃に一刀は何となくしなければならない様な気になり、自分の物を重ね当てる。

「マジパネェよ」
「……あ、ありがとう……」
「あら、あまり嬉しくなさそうね?」
「そ、そんなことないよ、ははは」

乾いた笑いをあげつつ、一刀は自分の酒を煽った。
ぐいっと一気に。
というか、自分の失言のせいだとはいえ、こんな状態では酒を飲まずには居られなかった。
いくらなんでも、そう、理不尽ではなかろうか。
自業自得とはいえ、こんな祝いの言葉を浴びせ続けられるのは罰ゲームみたいなものだ。
とはいえ、流石に今更、実は違うんですミ☆、とは言えなかった。
その位、盛り上がってしまったのだから。

「はははは、天代様もイケル口でございますな!」
「ふふ、私からもお酌してあげるわよ」

いつの間にか一刀の近くに集まっていた諸将の酒を受けて、一刀は飲みまくった。
マジパネェ、という微妙な賞賛を受けながら。


      ■ 暗雲を払って晴天を見ゆ


もう、明け方に近いだろうか。
暗い大地が、徐々にその姿を光によって明るさを取り戻し始めた明け方。
未だに笑い声が響く天幕を、酒と戦勝、そして興奮して自らの戦功を話し合う諸侯の目を盗んで
一刀はそっと抜け出した。
劉表が、孫堅と何か言い争っていたが、酒の席だ。
大事にはならないだろう。

本体が酔いつぶれて意識を落としてしまったので、今は脳内の彼らが身体を動かしている。
こうして諸侯の目を盗んで外へ出たのは、“無の”と“蜀の”の希望に沿ってだった。

休息をしながら、同じように戦勝に祝い酒を交わしている兵から食事を貰って歩く。
どこからもれ出たのか、天代様、マジパネェよ、と声を掛けられながら。
天幕を離れて、さびれた場所へ向かう一刀の様子を曹操は見逃さなかった。
先ほどまで酔いつぶれた様子であった一刀が、何処へ向かうのかと後をつけたのである。

そんな曹操には気付かず、一刀はある場所で立ち止まって、コンコンと木で作られた牢を叩いた。

「……あ、あれ?」
「あ、あわ、て、天の御使い様……」

「寒くないかい?」

柔らかい微笑みを向けて立つ一刀に、二人は驚いた様子で眼を丸くした。
一刀はお互いにくっついて眠っていた諸葛亮と鳳統の元へ訪れたのである。
お互い、これが最後の戦として望んだ洛陽の戦いが終わり、あとは官軍の採決を待つだけの身。
いわば、死の覚悟を決めた二人にとって、天の御使いがわざわざ訪れることなど
青天の霹靂以外のなにものでもなかった。
食事を牢の柵の隙間から手渡し、二人に渡す。

「「だ、大丈夫です」」

慌てたようにして声を揃える二人に、一刀は笑った。
なんで、ここに来たのだろう、と不思議そうな眼差しを向ける二人に
一刀は懐から血判状を取り出した。
途端、二人の顔は青ざめて俯いた。
波才が持ち歩いていた血判状、これこそ官軍に楯突いた事実を表す明確な証拠である。
それが、天の御使いである一刀の元に渡ったということは、自分達の終わりを決定付けたものだった。
書を取り出して、一刀は読み上げる。
波才と、諸葛亮、鳳統、たった三人の名を呼び上げて。

一つ息をついた一刀は……いや、“蜀の”は血判状の両端を持って呟いた。

「この血判状だけど……君達の意志なんかじゃ無いんだろ」
「え?」
「とりあえず、二人の身柄は俺が預かることになっているけど
 洛陽へ戻れば、君達の処罰は決められる。
 それはきっと厳しいものになると思うけど……耐えてほしい」

何を言っているのだろうか、と二人は思った。
ただ、目の前に居る天の御使いの声は柔らかく、励ますものであったことは分かった。
一刀の背に隠れていた陽の光が、頭を飛び越して諸葛亮と鳳統を照らしていく。

「二人の志を、俺は知っているよ。
 助かるように何とかしてみせる……だから信じて生きるのに絶望しないでくれ。
 きっと、なんとかなる」

そう言って、一刀は持つ両手に力を込めて血判状を引き裂いた。
左右に別れていく、賊軍に加わった確かな証拠。
上下に、左右に、何度も引き千切られていき、一刀は風に乗せるように書を周囲へと投げ捨てた。

諸葛亮と鳳統は、その一刀の行った行為を理解するにつれて、例えようのない感情が
身体の奥底から込みあがってくるのを抑え切れなかった。
何故会った事のない自分を信用しているのか、とか。
どうして雛里以外に知るはずのない自分の志を知っているのか、とか。
そういった彼の不思議な部分など、取るに足らないくらい突き上げてくる思い。

この洛陽の戦いの最中。
決して顔を濡らすことの無かった孔明の頬に、自然と雫が垂れ落ちた。
陽の光を浴びて柔らかに微笑む一刀に、顔を歪ませて泣いた。

「う、う、あうっ……」
「ズッ……朱里ちゃん」
「ふぇぇぇぇぇ」

ついにはその泣き声を響かせて、孔明は天を仰いだ。
諸葛亮と鳳統の二人に突然降りた闇は、目の前に居る柔らかな陽に溶かされたのだ。
天の御使いである、北郷一刀を前にして。


      ■ 一を聞いて十を知る……?


それらの一部始終を見守っていた曹操は、ぶるりと身体を震わせていた。
声が聞こえてきた訳ではないが、なんとなく分かる。
北郷一刀は、捕虜である二人の前で何かの書をビリビリに引き裂いて
少女達は泣き叫んだ。

「……北郷一刀、恐ろしい男ね」

曹操が捉えた限りの会話だけでも、寒気がするくらいだった。

「君達の意志」
「二人の身柄を俺が」
「処罰は下される」
「厳しい」
「耐え」
「志」
「生きるのに絶望」

耳に捕らえた言葉を総合すると、一刀はこのような事を言っていたに違いないのだ。
それは、相手が賊軍であることが何よりの証拠。

お前達の意志は砕かれ、もはや起き上がることは無いだろう。
身柄を預かった俺の下す処罰は厳しい。
どれだけお前達は耐えることができるかな?
志を挫かれ、官軍に楯突いたお前達に与える罰によって
生きることすら絶望になるほどの責め苦に打ち奮えているが良い。

恐らく、このような言葉を敗軍の将へと投げかけて、彼女達は泣き叫んだ。
破り去った書も、何か彼女達にとって大切な物だったのだろう。
拷問か、それとも別の何かか。
官軍に楯突いた彼女達を、最大限まで利用して大陸に蔓延っている黄巾党の士気を挫くつもりなのかもしれない。
諸侯が勝ち戦に現を抜かしているこの時間にも、北郷一刀は次の一手を即座に打ち込んでいる。
抜け目の無い男だ。

「……かわいそうにね。 あの子達も……」

盛大な勘違いをしたまま、曹操はその場を後にした。



洛陽の戦いに決着をつけた官軍は、翌日に戦場での処理を終えて
二日後、都である洛陽へと堂々と凱旋し、大きな歓声を受けることになった。

こうして『天の御使い』である一刀の名声は、大陸に広く轟いたのである。



      ■ 外史終了 ■





[22225] 頭で撮る記念写真の数々、決めポーズを記憶に残すよ編2
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/29 01:04
clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編6~



clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編7~



今回の種馬 ⇒     ☆☆☆~頭で撮る記念写真の数々、決めポーズを記憶に残すよ編2~☆☆☆



      ■ たすけてめいりん


それは、洛陽の決戦が行われた日の夕刻であった。
一刀が黄巾の総大将、波才との一騎打ちに打ち勝って、敗残兵となった黄巾党を追い回していた孫策は
戦場で泰然とそれらを見届けて馬に乗って佇む少女を見つけた。
彼女達こそ、黄巾党の軍師として知をふるったという少女達であろう。
幼い容姿であることは、報告で聞いていたが実際に見てみると本当に幼い。
はっきり言って、袁術や陳宮のような子供に近い容姿に孫策は度肝を抜かれていた。

「黄巾党の軍師ね」
「……」

孫策の問いに、声を発さずに頷いたのは諸葛亮であった。
つっと脇を覗き見れば、どこかで見たことのある男がそっぽを向いて佇んでいた。
うむむ、と唸ってみるがどうにも思い出せない。
戦場のど真ん中でずっと考えている訳にもいかず、とりあえず少女が抵抗する様子が無いので
兵に縄を用意させて拿捕する。

「もう一人、居ます」
「そう? もう大勢は決したし諦めたってとこかしら」
「……彼女も一緒に、連れて行ってください」

大きく息を吐いてそう言った孔明に、孫策は肩を竦めて頷いた。
話を詳しく聞いて、孫策は馬を走らせ、やがて鳳統を発見すると孔明と同じように縄をかけて捕獲する。
周囲を見回すと、どうも敵の姿も多くなく、殆ど抵抗らしい抵抗も無い。
これはもう、引き上げ時か。

「我が部隊は捕虜を連れて官軍本陣の下へ戻るわよ! 捕虜には猿轡と手縄をかけておけ」
「ハッ!」

どうやら孫策の武功は、正門の防衛と、横撃による敵軍混乱の誘発、そして捕虜の確保となるようであった。
初陣であるこの戦場において、大きくは無いが確かな勲功を手に入れたことになる。
主役は天代である北郷一刀に譲ってしまったが、それでも初陣であることを考えれば良いといえる結果だろう。
概ね満足して、孫策は自軍の天幕へ向かって部隊を走らせた。


手に傘をして顔を巡らし、孫策は一刀の事を捜していた。
捕らえた軍師の事を報告せねばならなかったからだ。
別に、孫堅や周瑜に丸投げしても良かったのだが、一応自分の手柄である為に自ら報告することにしたのだ。
捜し続けること約数分。
何進と華雄の部隊が大きい天幕を作り出している場所で、一刀はその様子を一人の少女と共に
遠巻きに見守っていたのを彼女は見つける。

「ねね、痛む?」
「っっ、ちょっと響くのです」

膝の上に官軍の知恵として働いていた陳宮を乗せて、患部の様子をうかがいながら談笑をしているようだった。
孫策は一瞬悩んだ。
仲良さそうに話し込む二人の邪魔をしていいものかと。
本人達は知らないかも知れないが、一刀と陳宮の二人は恋仲なのではないかという噂が諸侯の間で出回っている。
一刀が敵軍総大将と一騎打ちに応じたのも、陳宮が馬上から振り落とされからだという噂になっている位には。
実際、それは半分くらい正しいのだが、もう半分は波才に強引に付き合わされただけである。

とはいえ、遠慮して待ちぼうけしているのも馬鹿らしい。
そもそも、これは大切な報告の一つなのである。
ずっと二人のイチャイチャぶりを見続けるのも、失礼だろうし見てて楽しい物では無い。
そんな事を心の中で繰り返しながら、孫策は彼らの背後から
持っていた剣の柄の方を向けて一刀の肩をトントンと叩いた。

「うわっ!」
「うあっ!?」
「ああ、ねね!?」

「あ、ごめん、そんなに驚くとは……」

突然だったからか、大げさに一刀は振り返る。
その拍子に音々音の顔面へと一刀の右ひじがクリーンヒット。
それはもう、流れるような動きであり、見事な肘打であった。

「そ、孫策さん? なに?」
「ただの報告。 悪いとは思ったんだけど、敵の軍師を捕らえたからそれをね」

『軍師だって!?』
『まさか、朱里かっ!』
『雛里は無事なのか!?』
『でも、波才は殺したって……』

脳内の声を聞いて、一刀はとりあえず音々音に肘打した事を置いといて確認を優先した。
孫策の口から出た言葉は、諸葛亮と鳳統、二人の名前であった。
瞬間、一刀の体は動いていた。
“蜀の”と“無の”が制御権を奪って、孫策の手を握り勢いのまま抱擁したのである。

「孫策さん、ありがとうっ!」
「ちょっ……え?」

同時に身体を動かした反動か、脳内二人の意識は落ちて本体に戻った身体の制御。
しかし、一刀は動くことができなかった。
脳内の自分の行動は、暴挙と言っても良い。
いや、そりゃあ嬉しいことは分かる。
数時間前に、音々音の命がどうなったのか気が気でなかった本体だ。
この戦で二人が生きている可能性など、かなり低いと思われていたのだ。
生存を知り、二人の感情が爆発してしまうのは、十分に分かるのだが。

「うぅ、一刀殿……やはり胸なのですかぁ……胸なのですねっ……」
「な、な、な、何、を……あ?」

孫策へと抱きついたまま動かない、いや動けない一刀。
すぐに離れなければという思いもあるし、誰かに見られたら何か大変な事になりそうだし
何より隣の音々音に凄く気まずいのだが、抱きついたのは客観的に見て一刀である。
変に誤魔化せば、もっとまずい事になりそうだ。
孫策の『あ?』が耳朶に響いた瞬間に、そのまずいという予感は確信を帯びつつあった。

一方で孫策は突然襲い掛かってきた不可思議な感情の奔流に、一刀を斬り殺すという考えをする余裕もなく
意味の無い言葉を繰り出すだけであった。
正直、たまたま『あ?』と、言葉が上ずってしまっただけなので、すぐに離れて貰いたかったのが本音だっただろう。
そもそも、抱きついて来た男は“天代”であり、孫策とは天と地ほど離れた身分であるので
一刀が斬られることなど無に等しい可能性ではあるのだが、それはともかく。

突然、熱い抱擁のように見える物をかわして、その状態で静止する一刀と孫策を見上げて
音々音はなんだかこの場に居るのが辛くなってきて泣きたくなってきた。
胸のこともあるし、鼻も痛いし。

『おい、本体、俺に変われ、うらやま……じゃなくて、ええい、とにかく変わるぞ』
(な、なんとかしてくれ)

そして脳内の一人に丸投げした本体であったが、替わったのは“呉の”であった。
瞬間、孫策の身体がビクリと跳ねた。
少し遅れて一刀も彼女の胸の揺れに驚いてビクリと跳ねる。
それら一部始終をしっかり目撃した音々音もビクリと跳ねた。

三人して、ビクンビクンと動くさまは実に滑稽である。

「か、一刀……?」
「んなっ、孫策殿、一刀殿の名を呼ぶのは失礼―――」
「……アウアーッ!」
「おぶっ!?」
「こ、こらー、待つのですっ!」

名を呼ぶ、という行為は実はかなり失礼なことである。
よほど親しい者か、その人の信頼を得なければ呼んではいけない物であるのだ。
真名を持たない一刀からすれば、孫策に名を呼ばれることは真名を呼ばれたことに等しいだろう。
これには流石の陳宮も反応して、孫策を諌めようと声を出した瞬間であった。
物凄い勢いで一刀を突き飛ばすと、謎の叫びを発してバックステップ。
瞬時に踵を返して脱兎の如く駆け出したのである。
並みの者では到底出来ない、武才溢れるしなやかな動き。
身体能力の高さを生かした、見事な逃亡であった。

『これ、多分間違いないよね?』
『ああ、桂花、顔良、袁紹、それに今の孫策……俺達の想いの断片が届いているのかも』
『顔良も、袁紹もそうだったけど孫策もきっと』
『ああ……多分俺達の事がわかってる訳じゃないよな……』

突き飛ばされた本体は、脳内の会話を聞きながら、今まで触れた人たちの顔を思い出していた。
まだ脳内の大切な人と直接的な接触は4人としかしていないが、話は納得できるものであった。
それは、本体にとって悲しいことのように思えた。
荀彧が真名を呼んだ自分を許したのも、突然疑いを晴らして談笑していた斗詩も
袁紹が笑みを向けて馬を譲ってくれたのも。
それは、脳内の自分達から伝わった想いの断片であり、本体に向けた心ではないという事にならないだろうか。
借り物の信頼。
そんな言葉が脳裏を過ぎって、やるせない気持ちを抱いた。

しばし脳内の会話に顔を伏せていた一刀は、ようやく音々音の方を向いて謝った。

「……ねね、鼻は大丈夫?」
「聞くのが遅いのです、一刀殿……ねねは知らないのです」

口をすぼませて頬を膨らませる少女を眺めて本体は薄く笑った。
それでも、きっと、本体が歩んできた道には信頼できる人が居る。
他の誰でもない。
この目の前の少女だけは、自分で得た確かな信頼だと断言できた。
手招きをして、一刀は声をかける。

「ごめん、ほら見せて?」
「ぶー……」
「ははっ、拗ねないでくれよ……ほら、ねね」
「わっ、か、一刀殿っ」

そっぽを向いて不機嫌そうな音々音を、一刀は突き飛ばされて寝転んだままの体勢で引き寄せて
骨折した場所を響かせないように注意しながら自分の上に乗せると、そのまま腕に抱いた。
顔を真っ赤に紅潮させて、後ろから抱かれる音々音の耳元で、一刀はささやいた。
気持ちを、乗せて。

「ねねが居れば良いよ、俺は」
「―――っ……」

感じていた、居づらさや鼻の痛みも全部どこかへ吹っ飛んでしまった気がした。
それ以上に顔が熱い。
一刀の体温を背に感じたまま、音々音しばし緊張に身を硬くしたが、やがてその身を委ねた。
ぼうっと遠くを見つめる一刀を見上げ、同じように前方に視線を向ける。
兵の数人がこちらをチラリと見ていたが、特に気にならなかった。
音々音にとって、一刀とこうして一緒に居ることが余りにも自然であると思えたから。

「一刀殿……」
「なに?」
「鼻が痛いのです」
「そっか、じゃあ洛陽へ戻ったらお詫びの品を送らなきゃね」
「詫びは、“金の二重奏”で良いですぞ、一刀殿」
「あれかよ……別のシュウマイにしない?」
「それは譲れぬ話なのです」

穏やかな時間が流れて、一刀はこの景色を忘れたくないと思った。
音々音と共に過ごす、この時間を。
二人は、何進と華雄が指揮して作られていた天幕が立ち、兵が酒宴を開くと呼びに来るまで
夕日に差されながらずっと、そうして居たという。


一方、逃げ去った孫策は感情のままに天代を突き飛ばした事にパニックに陥っていた。
良く覚えていないが、一刀の隣にいる陳宮も怒っていたような気がする。
たかが諸侯、しかもその一武官に過ぎない孫策だ。
天代、帝の代わりというとてつもない役職を戴く一刀を、江東の虎の娘が突き飛ばしたとなれば
母は言うに及ばず、孫家の評判にさえ傷を付けかねない。

それらの要素も含まれて、更にこの持て余す感情。
とてつもなく自分の中で尊い気がするのに、何なのか良く分からない突き上げてくる想い。
心の中を突然引っ掻き回されて、はっきり言って冷静な思考など今の彼女にはできなかった。
とにかく、孫策は周瑜という自らの最も信頼する友を求めて孫家の天幕へと飛び込んだ。
周瑜がお茶を容器に入れており、その奥では孫堅が怪我の様子を黄蓋に看られながら茶を楽しんでいた。
興奮したように息を荒げて頬を紅潮させて入ってきた孫策に、顔を顰めて周瑜と孫堅は尋ねた。

「雪蓮?」
「どうした、そんなに慌てて」

「て、天代様に抱かれたのっ!」

瞬間、周瑜の持つ容器は地に落ちて割れた。
孫堅は物凄い笑みを浮かべて立ち上がり、黄蓋は呆気にとられ替え布の手を休めてしまう。
気が動転して居る孫策の言葉は間違いではない。
確かに、抱かれたのは事実ではある。
孫策の顔は真っ赤で、息を荒げている様子が微妙に真実味なアレを漂わせていた。

「おぉーしっ! よくやったぞ雪蓮!」
「ほ、ほう……」

卓を一つ叩いて、孫策へ親指を立ててガッツポーズのような物を上げ、雪蓮に突き出す孫堅。
超良い笑顔だった。
対照的に、震えた声で短い言葉だけを絞り出せた周瑜である。
言ってから、自分の失言に気がついた孫策は慌てて言葉を取り消した。

「ち、違うのよ、抱かれたけど、最終的には突いたというか」
「ほう、自らか! いいぞ、もっとやれ!」
「母様は黙ってて! 最後に突き飛ばして逃げちゃってっ!」
「かぁーっ、馬鹿娘が! そこまで犯ってなぜ途中で投げ出すかっ!」

孫策は必死に、天代を突き飛ばしちゃった、どうしようヤバいよ、と説明しているのだが
如何せん混乱している彼女の言葉は要領を得ず、孫堅のテンションを上げていくだけであった。
最終的には、黄蓋にも

「策殿、大人になりましたな……」

と、柔らかい笑みをたたえて涙を拭うような仕草をされつつ勘違いされ
孫堅はそんな黄蓋の言葉に満足そうに頷いて二人を見回し

「なんだかんだ言いながら、結局二人共においしく頂いたという事か、うむ、やはり男だな」
「ちがうわよっ!」
「違いますっ!」

孫策と、動揺からか一連の流れに反応できないで居た周瑜の言葉が見事に重なった瞬間であった。
ちなみに、全身全霊をかけて挑んだことによって
無事に二人の誤解が解けたのは勝利の酒宴が始まる数分前であったという。


      ■ 恐ろしいものに跨っていた


それは諸侯が集まって酒宴を開き、陣の撤去が始まる頃。
それらを眺めて時に手伝いながら、馬上でかっぽかっぽと練り歩いていた男が一人。
天の御使いである北郷一刀は袁紹から貰った馬の名前を考えながら
陣内を馬に乗って練り歩いていた。

この馬、特に名のある馬では無いそうなのだが、袁家で所有している軍馬でも一等価値のあるものなのだそうだ。
もともと、馬体が立派であることと、鬣と尻尾が金色であることから
いたく袁紹が気に入って大金を支払って買い取ったという馬の一つであったそうなのだ。
つまり、一刀はそれを譲られたことになる。
酒の席で顔良から聞かされているので、これは事実なのだろう。
袁家が『大金』と言うのだ。
素面であったならば敢えて聞こうとはしなかっただろうが
一刀は自爆による天の言語に精神的ダメージを与えられ、さらに酒の力が手伝っていたので聞いてしまった。

大きな屋敷を5つは整地して建てられそうな金額であった。
買うではなく、建てるである。

「あー、どうするかなぁ……」
『……ううん』
『下手に変な名前をつけると、怒られそうだしなぁ』
『相変わらず袁紹には困らされるなぁ……』
『むぅ……』

そんな訳で、一刀は悩んでいた。
他にも色々と……例えば洛陽へ戻った後に下される諸葛亮と鳳統についての事など
考えることはそれこそ沢山あるのだが、重苦しい物ばかり考えていても気分が沈んでしまう。
そういうわけで、とりあえず考えるのに労力を使わないような物を考えようということになり
平民が低頭しそうな価値を持つ馬っころの名前を考えているのだが、これが中々難しい。

最初に思いついたのは、三国志に登場する馬の名前であったのだが
絶影とか名付けて、曹操の持っている馬と名前が一緒だとかなると、ややこしい問題になるような気がしないでもない。
モジッて、似たような名前を付けてみようかとも思ったが
どうもしっくり来る良い物が思いつかなかった。

『麗羽なら、何かしら呼び名はつけてると思うけどね』

“袁の”の言葉に、本体、脳内共にすがりつく事にした。
貰った本人に馬の名を聞くのはどうかとも思ったのだが、元々は袁紹の馬である。
そこから、何かしら良い名前が思い浮かぶかもしれないし、聞くだけ聞いてみようということになった。
馬を譲り受けたのだし、手土産か何かを持っていった方が良いのかなとも思ったが
一度自分の天幕に戻るのも面倒だったので、そのまま直接向かうことにした。

「あら、天代さん」
「おはよう、袁紹さん……忙しいところ悪いね」
「別に平気ですわよ」

貰った馬から下りつつ、一刀は袁紹の休む天幕へと足を運ぶと、捜す手間なく本人が出迎えてくれた。
せっかく来たのだからと一刀は天幕の中に案内されて、しばし茶を飲みつつ談笑をかわす。
注がれた茶に口をつけると変わった味わいが口の中に広がって一刀は驚いた。

「これ紅茶?」
「まぁ、天代さんは茶にも詳しいのですわね。
 西域の方で取られる茶葉を使った物らしいのですけど、残念ながら商人も詳しい事は知りませんでしたわ」

大陸に訪れてから飲んでいる茶も、最初は同じように驚いた物である。
よりおいしく、より楽しめるようにと加工されている現代のお茶や紅茶に慣れていた一刀は
味わいや風味などが物足りなく、お湯に僅かに味がついてる感じだとしか思えなかったのだ。
それもまぁ、半年以上この地に足をつけて生活しているので
慣れてしまって問題は無いといえば無い。
久しぶりに飲む紅茶の味に驚いて、ついつい反射的に尋ねてしまった一刀であったが
本題を思い出して、紅茶を買った時の様子を話始める袁紹を遮って切り出した。
間に聞こえた紅茶の値段は聞こえなかったことにした。
馬と紅茶で、合計して屋敷を8つ建てることができる様になったことなど、聞こえなかった。

「そういえば、あの馬の名前はなんていうんですか?」
「馬? ああ、天代さんに差し上げた軍馬ですわね?」
「そうそう、袁紹さんなら、いい名前をつけてると思ってね」
「まぁ、口が上手いですわね。 でも事実ですわ。
 あの馬の名前ですけども……」

一刀はこれで問題の一つが解決すればいいなぁ、と思いながら袁紹の続く声に集中した。

「農獅ですわ」
「……脳死?」
「ええ」
「そ、そうなんだ……」
『『『『『『『……』』』』』』』

微妙な沈黙が降りた。
由来を聞いてみると、農家で生まれた馬だからだそうである。
馬体はがっしりしており、獅子のように立派な鬣を持つことから
農地で生まれた獅子のような立派な馬という意味を込めて名付けたそうだ。
文字に書いて説明してもらった時に脳死でなかった事に、深い安堵の溜息を吐いていた。
確かに、ありそうな名前だし、悪くはないかも知れない。
しかし、語感がまずい。

「天の御使いであられる天代さんに、立派な馬格を持つ農獅はお似合いだと思いますわ」
「……う、うん、農獅が似合う、か」
「褒めてますのよ?」
「あ、はは、いや嬉しいよ、ありがとう」

微笑を浮かべる袁紹に、一刀は曖昧に言葉を濁して上っ面の言葉を返すことしかできなかった。
それから、慌てるように一刀は袁紹の天幕を後にして
名前が判明した超高価な馬である農獅に跨って立ち去った。
本体が言われた訳でもないので、本体の一刀的には脳内の彼らに気を使って立ち去ったのだが。
袁紹の名付けた物は参考になるどころか悪意のない笑顔で、脳内死ねよ、と暴言を吐かれた気分であったのだ。
実際には全然そんな事を思っていないと知っていても、脳内の一刀達にとって、かなり衝撃的な事であったのだ。

『袁紹、何て恐ろしい名をつけるんだ……』
『ああ……そして俺達は、何て恐ろしい物に跨っていたんだろう』
「名前は……変える、よね?」
『『『『『『『『『『頼むから変えてくれ』』』』』』』』』』

久しぶりに脳内全一刀の想いが重なった。

結局、馬の名前は毛色と凄い高価な馬である事実。
それに加えて袁紹の名付けた獅子をあわせ、『金獅』となった。
ちょっと格好良すぎる気がしないでもないが、 『農獅よりはマシ』 という意見により決着をつけたのである。
新たな名を授けると同時、一つ高く鳴いて金獅はしょうがねぇな、と言った顔つきで答えた。

一刀にとって、長い相棒となる金獅の誕生の瞬間であった。


      ■ 覚悟、その違い


立ち去った一刀を見送りながら、袁紹はふぅ、と一つ溜息をついていた。
どうやら、自分の下に訪れたのは馬の名前が気になったからであるようだ。
差し上げた物なのだから、彼が決めてしまっても良かったのだが。
ちょっとした心遣いであるのだろう。
その一刀の思いが透けて見れて、嬉しいか嬉しくないかと聞かれたら
まぁ、嬉しい袁紹であった。

天幕の中で腕を組みつつ、一刀の容器を見てむぅと一唸り。
半分ほど無くなった紅茶をじぃーと眺めて手の先で容器をコンコンと叩く。
勿体無いことに、飲みかけで中座されてしまった。
正直、もう少し一刀と話がしたかった。
その為に高く買い付けた茶葉もこうして用意したというのに。

いくら袁家が大金持ちであり、大陸に名を轟かす超名家であろうとも
流石に茶葉一つに家が建つような品物は高価ではあるのだ。
まぁ、その位で財政が揺らぐような家名ではないので、大金持ちであるのは間違いないが。

「麗羽様ー」
「猪々子さん、斗詩さん、どうでしたの?」
「報告受け取ってるだけですから特には、って麗羽様こそ何してるんですか?」

顔良と文醜が天幕の中に入って来るのを見て袁紹は尋ねた。
軍の事は基本的に良く分からないので全部目の前の二人と田豊に放り投げである。
その方が文醜たちも話が早くなるので、放棄に等しい袁紹の態度も特に文句は無い。

「天代さんが来ていらしたのだけれど……」
「一刀様が?」
「え?」
「え?」
「あ……」

それは余りにも自然に口から滑り出していた。
顔良は、自分の失言に気がつくと手を口元に寄せて狼狽した。
が、詰問されると思っていた彼女の思いとは裏腹に、袁紹は頷いて微笑んだ。

「そう、斗詩さん……そういえば、監視役として天代さんと一緒だったのよねぇ」
「いえ、別にその……えーと、あはは」
「ままま、待った、姫も斗詩も何の話をしてんの?」

「失礼するわ」

三人で話し込んでいると、許可もないのに勝手に天幕へと入り込んできた少女が居た。
その姿を認めて、三人が三人とも眉を顰める。
入ってきたのは曹操、その人である。

「あら、華琳さん。 何か私に用かしら?」
「軍部の指示が粗方終わって暇なのよ。 珍しい茶があるから誰かを誘おうと思ったのだけど
 あいにく暇そうな人が麗羽しか居なそうだったからね」
「ふぅん、珍しい茶?」
「そうよ、紅茶、という物らしいわ」

許可された訳でもないのに、曹操は袁紹の卓に椅子を引いてさっと座る。
先ほどまで一刀が座っていた場所だった。

「うん? 誰か来てたの?」
「天代様がいらしてたのよ。 馬を譲ってさしあげたから、それでね」
「ふぅん、そう……それで、この茶は何なの? とても私が持ってきた物と似ているのだけれど」

中途半端なところで話を中断することになってしまったが
袁紹は曹操を歓迎して茶を楽しむことにしたようだ。
宙ぶらりんになってしまった話題に後ろ髪惹かれつつも
顔良と文醜はしょうがなく、麗羽へ軍の指示を続けてくると断って席を外した。

紅茶を実はもう飲んだことがある、曹操よりも先におーっほっほっほ、と袁紹に自慢されたり
実は袁家ということで足元を見られ、曹操の3倍の値段で商人から茶葉を買っていた事を曹操にからかわれたり
たまに口論を交わしたり、曹操が呆れたり袁紹が高笑いしたりちょっと言い争ったりしながら
なんだかんだと楽しくお茶の時間を過ごしていた。
そんな、旧友を暖めている二人の話は、なんとなく一刀の話になっていく。

「そういえば、麗羽は北郷一刀をどう見ているの?」

紅茶を一口含んでいた袁紹は、ピクリと身を僅かによじり、視線だけ曹操へと向けた。
つまらなそうに、如何にもとりあえず聞いておくか、という様子で。

そんな曹操の態度に、袁紹は天幕に入ってくる前に話を盗み聞きしていたのだろうかと思った。
目の前の女ならその位の失礼はやりかねない事を知っているので、袁紹は肩を竦めて言った。

「そうですわね……ヤバイですわね」
「そう……麗羽もただの馬鹿って訳じゃないわね」
「誰が、お馬鹿、ですって?」
「あー、もう、鬱陶しいわね。 いちいち反応しないでちょうだい」

追い払うように詰め寄ってくる袁紹を手首だけで返して、曹操は考えた。
実は、曹操は北郷一刀をどう扱うか決めかねていたのである。
漢王朝はもはや、ゆるりと死に行く国。
何度か宮内へ足を運んで、そう判断を下した曹操は、自ら私軍を形成し徐々に地位を高めつつ
そう遠くないであろう来るべき混乱に備えていた。
人材を広く求め、漢王朝ではない、曹操の軍を作り、国を作ろうと。
今はまだ水面下での準備に過ぎない。
漢王朝が在り続けるのであれば、それもまた良し、という考えも持っている。

そして、自ら天の御使いと名乗り未来を知るだろう北郷一刀は、死にゆく漢王朝に檄を入れている。

しかし、一刀が荀彧に宛てた、真名を詫びるという名目で送られた手紙には
確かに『魏の王』という言葉が書かれていた。
矛盾しているではないか。
漢王朝が存続できるのならば、魏の王、などと言う言葉を自分に贈る事などしなければいい。
その言葉を贈るということは、漢王朝が死を迎えることを示していたのではないのか。

彼が見えている未来と、本人の意思は食い違っている?
それとも、漢王朝に未来があるのだろうか。
状況は、どう考えても朝廷の未来は暗いはずであるのに。

「読めないわ……何を考えているのかしら」
「華琳さん……?」

真剣な顔をして悩み始めた曹操に首を傾げた袁紹だったが、やがて得心がいった。
つまるところは、こうだ。
曹操も、袁紹と同じように北郷一刀という人間が気になっている。
あの時、自分に戦場へ行こうと笑いかけた彼に、何か尊い物を感じて
自然と泥臭い戦場へ向かう事に嫌悪を抱かなくなった。

泥にまみれて戦うなど、無様だ。
華麗さなど、微塵も帯びて居ない、格好の悪い事だと思っていたし
その考えは今でも間違っていないとも思う。
しかし、北郷一刀という男に手を取られ、声をかけられた時に悪くないと思ってしまった。

軍議の席で初めて出会った男だ。
そんな感情を抱く筈は無いのだが、でもやはり一刀には感じ入る物がある。
それは、敵軍総大将、波才を斬ったあの場面。
天と太陽、そして虹を背負った一刀を見て確信したのかも知れない。
あの光景は、袁紹が見たどの景観よりも優雅で華麗なシーンであったようにも思える。

袁紹は、昔から手に入らない物は無かったと言ってもいい。
生まれた時から不自由の無い暮らし、生活、食事、風呂。
この時代、誰もがうらやむ権利を生まれた時から持っていた。
そんな彼女も、一つだけ手に入れることがままならない物がある。

人の、心。

何もかも手に入る彼女はいつか、目の前に居る曹操を欲した事があった。
だが、曹操は決して自らの芯を曲げることなく、袁紹にへり下る事は無かったのだ。
そんな彼女を見たときに感じた物を、一刀にも感じていた。
すなわち、人の心を掴む力を持つと。
それ故、袁紹は曹操の悩みに気がついた。
曹操は一刀に惚れた。
袁紹の導き出した答えは、かなり斜め上にすっ飛んでいったが、彼女からすれば経験を踏まえた結論である。

「華琳さんの悩み、分かりますわ」
「へぇ……少し見ないうちに随分変わったわね、麗羽」
「華琳さんほどではありませんわよ……天代さんは確かに、中々華麗なお方ですから」
「ふふ、言うわね」

言ってニヤリと笑いあう。
曹操は、一連の会話で袁紹をかなり見直していた。
自分の危惧、そしてその悩みに同感を得るとは。
もしも乱世となった時、もしも乱世でぶつかりあった時、最大の敵は袁紹となるかもしれない。
軍事力、金、家柄、風評。
これほどの条件を兼ね備え、さらに上に立つ者が求心力さえ持ち始めたとなれば
とてつもない難敵になることは間違いない。
かつて親交を深めた友は、正直言って刹那的な生き方をしており、決して賢いとは言えなかった。
そんな彼女が、自分と覇権を競い合う龍となろうとしているのか。
無数に伸びる未来の枝の中、曹操は目の前の友との決戦を夢想して笑った。

「まさか、麗羽がね」
「華琳さん、負けませんわよ」
「私に勝てると思ってるの?」
「当然ですわ、私は名門袁家を束ねる袁本初ですわよ? おーほっほっほっほっほっほ!」
「あら、手強そうだわ」

この会話を持って、袁紹は自分の気持ちに気がついた。
曹操へ向けていた時と同じ感情を抱いた。
それは、つまり、北郷一刀に懸想している自分に気がついたのである。
そうだ、袁紹という女は北郷一刀という男と一緒に話をしたい。
彼のことを知りたい。
自らの胸を突く、不可思議な感情を分かりたい。
同じ恋心を抱く相手が、友である曹操というのも面白いではないか。
一度目の前の少女で失敗しているのだ。
この経験があるだけ、彼女に気持ちで負けることはまず在りえない。
失敗を経験しない者に、成功は無いとも言うし。
たとえ、この恋が実らずとも目の前の少女には負けたくないのが本音だ。
そうした気持ちがスラリと袁紹から吐き出されていた。

「けど、それも……」

曹操は呟いた。
もしも漢王朝が再び立ち上がれるのならば、この会話も夢想となる。
そして、本当に漢王朝が息を吹き返すことができるのであれば。
不可能なはずの、腐りきった今の世を変えられるのならば。
それは不確かな未来で、酷くあやふやだ。
胸に灯した覚悟を捨てるには遅すぎるし、自分の志の火は消えないだろう。
しかし、北郷一刀が自らにとっての水龍となって道を示してくれる可能性は、ある。
目の前に居る友と、手を取り合って国を支える未来の枝も、確かにありえるかも知れない。
曹操はすでに冷えてしまった紅茶に目を落としながら言った。

「それも、北郷一刀次第、ということね」
「そうですわね」

そう、結局選ぶのは北郷一刀なのだ。
どちらの想いを汲み取るのか、それは曹操や袁紹の想いとは別の事。
袁紹は、そのことを知っている。
或いは、二人共、ということもあるのかも知れないが
それはそれで悔しいし、しっかりと格を決めてもらわなければならないだろう。
袁家の長である自分ということになれば、後継者問題というのもある事だし。
そんな思いから、同じように紅茶を見つめていた袁紹は、呟くように言った曹操の言葉に同意を返したのである。

そして、二人は同時に盃をあおって、同時に茶を飲み干した。
ほのかに香る紅茶の後味。
なかなか美味しい茶であった。
高くついた物だが、それだけの価値はあっただろう。

「とても楽しかったわ、麗羽。 高い茶を持って親交を暖めに来た甲斐があるというもの」
「そうですわね、華琳さん。 私も華琳さんと話をして覚悟が決まりましたわ」
「そう……またね、麗羽」
「ええ、また」

顔だけ向けて袁紹へ別れを告げると、振り返ることなく曹操は天幕を去った。
曹操、そして袁紹。
時代の英雄達は覚悟を決めて並び立った。
お互いの真意を知ることなく、顔を突き合わせて話しているのに、何故か真っ向からすれ違って。


      ■ 趣味、道楽、もしくはホビー


それは、曹操が袁紹と天幕で話をしていた時であった。
賈駆は、陣の撤去の指示を取りながら、ある場所へと視線を向ける。
自分の知と同格……あるいは、それ以上かも知れない敵の軍師。
諸葛亮と鳳統という少女達をチラチラと見ながら、兵の指揮を奮っていた。

そんな賈駆に、ふと声が聞こえてくる。

「ふん……」
「はわわ……」
「あわわ……」
「良く聞け、賊徒共。
 お前達の意志は砕かれ、もはや貴様らが掲げる黄天の世を迎える事は無いだろう。
 身柄を預かったのは天代殿だが、下す処罰は厳しい物になるはずだ。
 例えば、それは拷問かも知れないし、慈悲を与えた斬首かもしれん。
 志を挫かれ、官軍に楯突いたお前達に与える罰によって
 黄巾党にとって絶望になる、いわば見せしめとなるのだ」

諸葛亮と鳳統に向かって、低い声で睨みながらそう言った男。
名を何進という。

孫策が捕らえたという黄巾党の軍師をしていた少女達。
この二人、当然のことながら官軍の兵や将からは厳しい視線を向けられていた。
隣の友が死んだ。
一緒の釜の飯を食っていた仲間が、次の日には居ない。
それは、紛れもなく牢の中で子羊のように無力な二人の知によって引き起こされた物だ。
どんな美辞麗句を語ったとしても、その事実は覆せない。
もしも天代という役職を貰った一刀が居なければ、何進によって即斬首の刑を受けてもおかしくないのである。

一応、兵の不満を抑える手前、こうした脅しを行っている何進であったが
その内心は複雑ではあった。
自分の子と、さして変わらない見た目の少女を脅すのは心苦しい。
顔を俯いて、下唇を噛み、震えている少女を虐めるような趣味などないのだ。
とはいえ、このまま放置しておけば官軍の兵は幼い二人に怨嗟から傷つけるのは間違いない。
そんな兵の感情は確かに正しい。
何進も二人が黄巾党に参加した理由はどうあれ、孔明と士元に情状を汲む余地は無いとしているが
それでもこうして行っている少女への脅迫は、気分の良い物ではなかった。

とりあえずは、これで兵達の溜飲を下げてもらうしかないだろう。
何進は一つ溜息をつくと、孔明と士元を無視してその場を後にした。

それらを一部始終、耳をタコにして聞いていた賈駆もまた
複雑な感情を抱いていた……

約二時間後くらい。
賈駆は、華雄と夏候惇が持ってきた昼食を一緒に取ることになった。
ふと目を向けると、今度は別の男が諸葛亮と鳳統の前で何かを言っているのが聞こえてきた。
賈駆の視線に釣られたのか、華雄と夏候惇も同じように賈駆の向いた方へ首をめぐらした。

「はわわ……雛里ちゃん……」
「あわわ……朱里ちゃん……」
「お前達の意志は砕かれた。 こうして自ら捕虜に下ったのは潔い。
 身柄を預かったのは天代殿だが、それでも下す処罰は厳しい物にならざるを得ん。
 例えば、それは拷問かも知れないし、慈悲を与えた斬首かもしれん。
 この乱が、漢王朝の腐敗が原因であることは我らも分かっているが
 それでも死は免れんだろう。 覚悟をしておくことだな」

どこかの誰かが話した似たような事を言いながら、険しい顔でそう言ったのは皇甫嵩であった。
静かな威圧感というのだろうか。
そうした物が彼から立ち上がっていた。
一頻り脅した皇甫嵩は、周囲をぐるりと見回してから渋面を作りつつ立ち去っていく。

隣で聞いていた華雄が、首を傾げて賈駆へと尋ねていた。

「あれは一体何をしておるのだ?」
「天代様が、やってるんでしょ。 敵軍の捕虜なんてこの場では恨みの吐け口にしかならないわよ。
 場所が無いから、兵にも見えるあの場所へ牢を設置したのかと思ったけど
 何進大将軍や皇甫嵩将軍を見ていると、どうやら、わざとみたいね」
「何を言ってるのか全然わからん。 もっと簡単に説明しろ」
「そうだな、全然わからんぞ」
「……つまり、天代様は彼女達を虐めてるかもってこと」

かなりあんまりな意訳になってしまったが、賈駆を責めるのは酷であろう。
要点を抽出すると、こうなってしまったのだ。
話の流れや雰囲気から、今の話を理解できないのであれば、要点のみを話して説明することしか出来ない。
兵の溜飲を下げる為に、将兵はこまめに敵の軍師であった少女達に罵声を浴びせていた。
それは賈駆もしっかりとこの場で目撃している。
牢を少し、兵から遠ざけるだけでこの現象は回避できたはずなのだ。

「すぐに斬首しないのは慈悲と思ったけれど、認識を改めないといけないわね。
 敵対した者には容赦しないか、あの男……」

彼女達は彼女達で、大きな志を持って蜂起したのだろう。
それは、確かに漢王朝に敵対するという愚挙であったが、しかし。
裏を返せば民……それも農民を中心とした漢王朝打倒の旗を掲げた乱だ。
どれだけ、今の漢王朝に民草は不満を抱いているかが分かるというもの。
敗将に慈悲を与える必要などない。
それは分かる。
しかし、あの少女達は同じ軍師である賈駆にとって哀れな物に見えて仕方なかった。
折を見て、天代には牢の位置を変えてもらうように進言するべきだろう。

「むぅ、纏めると、天代である北郷一刀という男は、あのような幼女を嗜虐する趣味を持っているということか?」
「なるほど、分かりやすいな元譲殿」
「ちょっ、あんた達、あんまり滅多なこと言わないでよ」

直で一刀を批判するような夏候惇の声に頷く華雄に、賈駆は慌てて黙るように人差し指をたてた。
自分の目上の人に、幼女嗜虐趣味などという暴言を吐いたに等しいのだ。
誰かに聞かれて天代の耳に入ったら溜まった物ではない。
董卓の将と曹操の将がそんな事を話していると知られたら、どうなるか。
少なくとも、今回の劇的な一騎打ちによる勝利によって生まれた、一刀の爆発的な人気から
董卓軍と曹操軍の風評は悪くなることだろう。
曹操軍だけならばともかく、董卓軍に悪評が広まったら溜まったものではなかった。

「しかしな、賈駆。 私も天代が軍師の陳宮殿に見事な肘打ちくれているところを見てしまった。
 元譲殿の話は納得できるものだ」
「え? そんなことしてたの?」
「ああ、この目でしっかりと見た。 しかもその後、泣き喚く陳宮殿を無視して孫策と抱きついてた」
「えええ? 抱きっ……そ、孫策と!?」

華雄から齎された衝撃の真実に賈駆は驚愕した。
ちなみに陳宮は泣いてなどいなかったのだが、鼻の痛みから目尻を潤わしていたのは確かだ。
肘打ちしたのも、抱きついたのも、まぁ事実である。

「そんな趣味の男と文通しているとは、趣味が悪いにも程があるな」
「文通?」
「ああ、我が曹操軍でも最も小さい口うるさくて喧しい女とな」
「……最も小さい」

夏候惇の話もまた、真実ではある。
文通かどうかはともかく、一刀が荀彧に手紙を一度ならず二度も送ったのは事実だし
許緒や程昱などが、まだ陣営に参加していない曹操軍では確かに、荀彧が一番小さいだろう。
何となく、嫌な符号が一致しつつあった。
そんな時だ。
少女の声が響いたのは。

「か、辛いのじゃぁ~!」
「ああ、ごめん、って、これで辛いのか!?」
「も~天代様ったら、甘党の美羽様に唐辛子入りの食事を持ってくるなんて鬼畜すぎですよ!」
「七乃ぉ~」
「はいはーい、こっち来て吐き出しちゃってくださいね~」
「張勲さん、コレでも駄目なの?」
「そうですねぇ……んくっ……ああ、これじゃ美羽お嬢様には辛いですねぇ」
「舌がピリピリするのじゃ……」
「そうなのか……ごめんよ」

おおよそ、1里ほどは離れているだろうか。
ある天幕の近くで昼食を取っていたであろう袁術が飛び上がって張勲に泣き付いていた。
怒ったように一刀へと何かしらを言っている張勲へ、一刀は笑いながら袁術へと頭を下げていた。
笑いながら、だ。
夏候惇も、華雄も、賈駆も。
将であるだけに目は良い。
その光景をしっかりと捉えたが、距離からか、一刀達の声は流石に聞こえなかった。
つまり、彼女達にとっては一刀が袁術に何かして、泣かした上に笑っているという事実だけが残った。

なんとなしにその光景を見ていた中で、すくりと無言で賈駆は立ち上がった。

「……華雄、ちょっとこの場は任せるわ」
「ん? おい、どうしたのだ?」
「月のところに行って来るから!」
「ちょっと待て、ここはどうするのだ!」
「任せたって言ったでしょ! 今、この場の指示よりも重要な用事が出来たのよ!」

そうして結構な速度で自らの天幕を目指して賈駆は走り去った。
残された夏候惇と華雄は、仕方が無いので適当に兵士へ指示を出して
その後、洛陽へ戻った時に仕合う約束をして別れた。

そして。

「よ……幼女嗜虐趣味だって、しゅ、朱里ちゃん……」
「はわ、そ、そんな事無いよ、きっと……」
「それに、その、優しい人だったもん……ね?」
「う、うん、天の御使い様だもん……そ、それに私達、別に幼女じゃ……」
「あわ……よ、幼女じゃないよ、うん」
「そ、そうだよぅ、きっと」

賈駆へと声が聞こえていたということは、しっかりと彼女たちにも聞こえているわけで。
ある意味で皇甫嵩や何進とは違った意味で、精神的な攻撃を加えることに成功していた賈駆達であった。

ちなみに、一刀は後に皇甫嵩と何進の報告から状況に気がついて
牢を設置した張勲に命令し、牢の場所はしっかりと移動されることになった。


      ■ いつか自慢しても良い


明日には洛陽へと凱旋する予定の官軍。
その日の夜に、孫策は一人で陣内の丘で蹲っていた。
記号的表現が空間に現れるとするならば、縦線で埋められていたことだろう。
簡単に言うと沈んでいた。
理由は簡単だ。

初陣で上げる筈だった、孫策という名が全然広まっていなかったことを知ったからである。

何故だ。
何故、こうなった。
親友の周瑜の名は、官軍の知者として知れ渡ったのに、どうして自分の名前がないのだ。

限りなく落ち込んでいく孫策は、今日の出来事を振り返った。

―――

兵士達の談笑を何気なく耳にすることは多い。
陣にいるのだ。
天幕の中に居たって、時たま意図せずに話が聞こえてしまうことだってある。
そんな聞こえてくる声の中で、自分の名前がないことに気がついた。

呂布を筆頭に、袁紹の二枚看板である顔良、文醜。
自らの母である孫堅は言うに及ばず、曹操の大剣と呼ばれた夏候惇。
董卓軍一の猛将として名が広まった華雄。
天の御使いに重用されているとして、陳宮は『天の軍師』と呼ばれ始めていた。
門を守りきった賈駆や周瑜、張勲や劉表、そして部隊運用で光る物を見せた皇甫嵩。
大将軍である何進は、もともと名が広まってるから良いし、天代に関しては言うに及ばず、だ。
袁紹ですら、

はっきり言うと、彼らや彼女達に比べて自分の活躍が劣っているとは思わない。
同じように名が広まらなければ、おかしいではないか。
そう感じた孫策は、ちょっとした意識調査を周瑜へとお願いしたのである。
その様子を見ていた周瑜は呆れた声を出して孫策に溜息を吐いていた。

「しっかり見ている者は見ているよ。 雪蓮の名が広まっていないはずないだろう」
「でもでも冥琳。 よくよく考えてみると、私の部隊はともかく、名乗りを全然あげてなかったわ」
「まさか、門の防衛の時に言ってたではないか」
「そうだっけ……熱くなってたから、良く分からないわ」
「……うーん、確か言ってたような気がしていたが」
「むぅ、冥琳が言うならそうなのかも知れないけど……」
「たまたま、雪蓮を知らない兵だけの会話を捉えたのだろう」
「でも気になるのよ、お願い、冥琳!」
「はぁ、仕方がないな」

懇願されて溜息を吐きつつも孫策という武将について、それとなく聞き出す草を放った周瑜である。

フォローした周瑜だが、彼女自身も門の防衛時にはクールに熱く燃えていたので、思い違いをしてしまったのだろう。
武を見せ付けるとは宣言したが、孫策は一言も自分の名を名乗っては居なかった。
それ以前も同様に、陣の防衛の為に名乗る機会は恵まれなかった。
初陣となるため、基本的に孫堅が鍛えていた私軍を率いていた孫策である。
結果だけを言ってしまえば、孫伯符を知る者は実は少ないのだ。

兵、曰く。

「ああ、系の旗の将軍様でしょう?」
「江東の虎の娘ってこと以外は特に……すみません」
「知ってますよ! 頭が桃色の人ですよね?」
「馬鹿、それは髪の色だ。 通り名は“桃色頭”だったろ」
「袁術様に命を救われた方でしたよね?」
「あれ、逆じゃあなかったか?」
「孫……策……? 孫堅様の間違いでは」
「呂布様じゃなかったか?」
「いや、呂布様の分身だったよ、見たもん俺」
「なるほど、分身か……呂将軍ってすげぇな」

ご覧の有様だった。

続々と報告に来る、周瑜の放った草達は、皆一様に言いずらそうに
時に脂汗を流して視線を外し、呂律が回らないような調子で不機嫌になっていく孫策へと報告した。
『呂布の分身という名が広まっております!』という報告を受け取った孫策はついに切れた。

「人が、分身なんぞするかぁーっ!」
「ひ、ひぃぃぃ、そ、それは恐らく、呂布並の武力を持つ孫策様という意味でしょう!」
「もういいっ! 下手な慰めをしなくていいからゆっくり出て行って!」
「は、ははっ!」

勇ある伝令は、孫策を慰めようとして逆に怒られながら天幕を律儀にゆっくりと飛び出して行った。
その間、孫策に睨まれるようにして眺められていたので、伝令兵は滝のような脂汗を流していた。
はぁっ、はぁっ、と大きく肩で息を吸って、一つ大きな呼吸をして精神を落ち着ける。
全然落ち着かなかったが、とにかく冷静にならなければならない。

自分の武名が広がらずに暴れた将、江東の虎の娘、孫伯符。
厄介な気性だけを引き継いだ、孫家の次代を担う孫伯符。

そんな形で名が伝われば自殺物だ。
ちょっと切れて怒ったけど、ギリギリなんとか自分を抑えて兵に八つ当たりすることは防いだ。
言い散らして睨んだ気はするが、この位なら許容範囲だ。
そのはずだ。
荒々しく酒を容器に注ぐと、孫策は一気に煽った。
お酒は美味しく楽しく飲みたいのだが、流石にショックで味が分からない。

「ううっ、最低ね」

不味い酒を飲むのは、逆に失礼だ。
酒瓶を卓に戻して、孫策は何度も深呼吸を繰り返しつつ体をほぐして、怒りの溜飲を下げる努力を続けた。
それは数分後にようやく成果を出した。
冷静になった頭で考えると、この事でちょっとくらい泣いても良い様な気がしてきた。
そうだ、もう泣いてしまおうか。
そうすれば、逆にこの気持ちもスッキリするような気がする。

「冥琳に慰めてもらお……」

孫策は力なく呟いて立ち上がると、フラフラと周瑜を求めてさまよい始めた。
そして見つける。
黄蓋と談笑をしている周瑜にゆらりと近づくと、孫策は迷うことなく胸に飛び込んだ。
近くに他の誰かも居たような気がするが、とりあえず彼女の目的は周瑜の胸である。

「め~~い~~りぃ~~~ん!」
「うわっっと、どうした雪蓮……昼間から酒くさいぞ……」
「策殿、どうなされた? 飲むのならば誘ってくれれば良いのに」
「全然、私の名が広まってなかったぁ~~!」

その言葉と様子から、大よその事情を察した周瑜と黄蓋は顔を見合わせて孫策を慰めた。
そんな彼女の肩を叩く、一人の少女。
肩を叩かれた条件反射で、孫策が振り向くと、赤毛のアホ毛がピリリと伸びる呂布が立っていた。

「呂布殿?」
「え、呂布? ……ん? 何?」
「……元気、出して」

様子に心配したのだろうか。
呂布は彼女が気付くと、ゆっくり、しかし確かにそう言って孫策を励ました。
コクリと頷く様子を眺めて、思わず目を丸くしてしまう。
まさか、分身体の自分に、本体が慰めてくれるとは。
いい子だ。

「あ、ありがとう」
「……いいよ、えっと、呂布?」
「そ、孫策よ!」
「……私と同じ名前だって、兵が言ってた」
「それは違うのよ! も、もういいわよ馬鹿ーっ!」

孫策は、本体にトドメを刺されてその場から逃げ出した。
慰めてもらうどころか、傷を抉られてしまったようである。

「あ、雪蓮!」
「呂布殿、悪意がないのは分かるのだがのぅ……ああ見えて策殿は繊細なんじゃ」

「……?」

呂布は表情を変えずに首を傾げた。
そんな彼女を見て、黄蓋は苦笑して首を振り周瑜は肩を竦めた。

「冥琳、今夜は策殿に付き合ってやりなされ」
「はい、そう致します……まったく」

「……孫策」

ポツリと、呂布はそう呟いて彼女が消えた方へ視線を向けていた。


―――


とまぁ、そういう訳で目に見えて沈んでいた孫策である。
陣を出たすぐ近くで膝を両手に抱き、ちょっと高くなった荒野の丘で徳利のような物を持つ彼女の背中は
正直なんというか、少し煤けていたように見える。

そんな鬱々としている孫策を最初に見つけたのは、彼女とは対照的に
その名を爆発的に上げて、今もなお大陸に迸っている天代、北郷一刀であった。
陣の外で黄昏ている孫策に、一刀はそっと近づいた。

「孫策さん、そんなところで何してるの」
「あ、えーっと……」

振り返って一刀の姿を認めると、孫策は身を硬くした。
考えてみれば、突き飛ばして逃げてから一度も会っていなかった。
正確には酒宴の時に会っているのだが、話そうとしたら物凄い勢いで飲みまくった彼に
彼女は乗り遅れて会話をすることが出来なかったのである。
それはともかくとして、突き飛ばした事は謝らねばなるまい。

「あの、この前は突き飛ばしちゃって悪かったわ」
「え? ああ、それか。 別に全然気にしてないよ」
「そう? それなら良かった……じゃなくて、良いのだけれど」

なんとなく隣に立った一刀は、空を見上げて星を見る。
そういえば、彼女はどうしてこんなところに居るのだろうか。

「天代様って……」
「ん?」
「……」

不自然にそこで言葉は切れ、沈黙が降りる。
孫策自身、なにを言おうとしたのか分からなかったのかも知れない。
相も変わらず地を見つめて、ブルー将軍となった孫策を眺め
一刀は何となく立ち去る雰囲気でも無くなったので、隣にゆっくりと腰を降ろした。
ツン、と一刀の鼻腔を擽る酒の匂い。
見れば、彼女の膝を抱えた右手には徳利のような物が納まっていた。

「それ、入ってるの?」
「もう、からっぽ」

そう言って、孫策は容器を地に落とした。
カラカラと乾いた音が響いて丘を転がり、やがて止まる。

『こんな雪蓮を見るのは、初めてかも』
『何かに悩んでるのかな?』
『うん、心配だね』
「……何か悩み事かい? 俺でよかったら聞くよ?」

「うーん……」

一刀が脳内の声も手伝って尋ねると、孫策はジト目で一刀を見た。
正直、この話を一刀にするのはちょっと恥ずかしい孫策である。
しかしまぁ、程よく酔いも回っていた彼女は話してもいいかと思った。
どうせ、一時の恥だ。
今回は名を広めることが出来なかったが、いずれは、きっと。
そう一人で飲みながら考えが纏まっていたので、暫しの沈黙を破って孫策は語り始めた。

『なるほど……』
『確かに、この時代じゃあ孫策は初陣でもおかしくないんだよな』
『雪蓮にも、こんな時があったんだね』
『ははは、なんか新鮮だな』
『うんうん』
『王としての彼女しか見たことなかったからね……』

脳内の言葉と、孫策の話を同時に聞きながらという地味に凄い事を成し遂げて
本体は慰めようと口を開いたが、急に立ち上がった孫策に噤むことになった。

「でも、きっと何時かは私も名を広めて見せるわ!
 母様と同じ……ううん、孫文台よりも大きく大陸に響かせて見せるわよ」

手を胸に当てて、目を瞑り、宣言するように決意を話す孫策。
一刀はそれを見て、ゆっくりと立ち上がって孫策が下に転がした徳利を拾う。
先ほどまで、真横に居た一刀の気配が移動したのに、彼女は気付いた。

「大丈夫だよ」

正面から聞こえた“呉の”一刀の声に、孫策は目を開いた。
振り返った一刀が、それを確認してから

「俺が保証するよ。 孫伯符の名は、絶対に大陸に響くさ」
「……ありがとう、慰めでも嬉しいわ」
「慰めじゃないさ。 孫策さんの名を知ったのは“ここ”じゃ俺が最初だ」
「え?」

「孫策の名が広まった時は、俺が最初に孫策を知ったんだ、ってみんなに自慢しても良いだろ?」

そういって一刀は優しく微笑んだ。
呆気にとられたように孫策はしばし一刀を見やり、やがてクスリと笑った。
なるほど、天の御使い。
確かに、人の心を掴む求心力があるのかもしれない。
だって、孫策自身、正直少しばかりクラっとしてしまった。

「ちょっと格好つけすぎ」

『同意すぎる』
『ほんとにな』
『まったくだ』
『ウィンクしてたらタッチしてた』

「はは、似合わなかったかな。 でも……うん、俺の本心だよ」

意識を失った“呉の”をフルボッコにした脳内の声を無視して
本体も確かにそうなった時は、自慢しても良いかなと思った。
戦場で確かな武を振るって官軍の力となってくれた事は、誰よりも総大将である一刀が見ている。
きっといつか、大陸へと孫策の名は轟く。
それはもう、あやふやな未来じゃなく、確かな一刀の確信だった。

「でも……うん……」

孫策の声に一刀は彼女を見た。
一瞬、逡巡したような様子を見せたが、一つ肩を竦めると一刀を真正面から捉えた。
丘の上で両の手を腰に当てて、胸をそらし。
そして、笑った。
その笑顔のなんと綺麗なことか。

「孫伯符、誇ってみんなに言えるようになって見せるわ、一刀」

見入ってしまった一刀は、その孫策の声にハッとして
言葉の意味を理解すると同時、自分の名がしっかりと孫策の口から飛び出したのに気がついて
一刀は同じように笑顔を向けて返した。

「……ああ、楽しみにしてるよ」

翌日、一刀が許された孫策の真名をさらりと自然に呼んだことにより
孫堅が超エキサイティングになって、雪蓮のストレスがマッハになったそうだが、それは余談である。


      ■


てれてれてってってー

かずと は のうない CG を手に入れた!

・膝の上に在る信頼(音々音)
・いつか大陸へと轟く名(孫策)

なんと かずと は あらたな称号 を手に入れた!

・天の御使い
・天代
・チンコ
・幼女虐待趣味 ← NEW!



[22225] あの宮の内側がズクリと疼き出し空騒ぎの日々を送るよ編1
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/01/05 03:40
clear!!         ~都・洛陽・諸侯が御使いに興奮を抑えきれなくなるよ編7~



clear!!         ~頭で撮る記念写真の数々、決めポーズを記憶に残すよ編2~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編1~☆☆☆





      ■ 洛陽凱旋で絡む糸


「うわぁ……」

感嘆の声を漏らして、一人の少女は門を通って大通りを歩く官軍を見つめていた。
その道は門から大通りを抜けて、宮内にまで伸びている。
庶民を入れる訳にもいかないので、官軍だけでなく、諸侯の兵までもが動員されて
凱旋となる大通りに、人が入り込まぬよう規制が行われていた。

街ならばともかく、宮内にまで軍など入ることは出来ないのだが
しかし、今この時に限っては許されていた。
それもこれも、天代となった北郷一刀を一目見ようと、近いところでは陳留や長安から
遠い場所では幽州まで、多くの人々が駆けつけているのだ。
天の御使いの噂、それを聞いた彼女は郷里を飛び出してきた。
そういう行動に出た人は、この少女以外にも多い。
その上、つい先日の黄巾の乱での活躍は噂に尾ひれが付いて一刀の名を爆発的に押し上げていたのだ。
余りにも多くの人々が駆けつけたため、人の流れを規制せねばならなくなったのである。

そうした様子は、官軍を率いて洛陽にたどり着いた一刀にも目に映った。
洛陽の街、その外まで人々で溢れかえってるのだから気付かないはずがない。
そこで一刀は、大勢の人間が駆けつけた事によるパニックが起こるのでは無いかと危惧して何進へと相談した。
何進は宮内の許可を得てからの方が良いとして伝令を送り、帝の許可が出たことによって
こうして凱旋することとなったのである。

そんな中、件の少女は必死に官軍の姿を視界に収めようと悪戦苦闘していた。
人垣が出来ていて、なかなかその全容が見れない。
踵を上げたり、はたまた跳躍してみたりして、何とかその姿を見ようと
多くの人ごみに紛れて、薄桃色の頭を揺らしていた。
その跳躍のせいで豊満な胸が揺れて、街の一部の男性の視線を集めてることには全く気がついていない。

前髪を真ん中で分けて、白いリボンを左右にくくり、腰まである髪は艶があり瑞々しい。
服の背の部分から伸びる白く薄い布地が印象に残る。
腰に差した剣は宝剣の類であろうか。 随分と煌びやかな修飾が施されており
庶民が持つには些か分不相応にも見えた。
そんな彼女は人の波に揺られながら、ここに集まった多くの人々と同じく
天の御使いを一目見ようと、人垣の中でぴょんぴょんと跳ねた。

「玄徳、相変わらず落ち着きの無い娘だね、まったく」

玄徳、そう呼ばれた少女は口をすぼめて隣に佇む美女へと顔を向けた。
片メガネに長い亜麻色の髪、ぼうっとした雰囲気を持ち暑くても寒くても毎日身に着けている肩掛けを纏って
佇むその姿は、真面目なのか不真面目なのか、良く分からない雰囲気を醸し出している。

「だって盧植先生、せっかく洛陽まで来たんですよ。 一目くらい見たいんです!」
「気持ちは分かるが……跳ねるのは止めて欲しい、子供だな」
「う、また子供扱いするんですからぁ」
「ふふふ、教え子とは何時までたってもそういう物だよ、劉備」

柔らかく笑みを浮かべて、盧植は劉備を嗜めた。
洛陽のすぐ傍で賊徒が暴れている最中、突然来訪した何時かの教え子の訪問には驚いた物だった。
久しぶりに会う劉備は、以前からまったく変わらない人柄であった。
どこか人を惹きつける、太陽のような笑顔と優しい心根。
別れてから久しいが、相変わらず明るく元気に馬鹿をやる彼女に盧植は
突然の訪問であるにもかかわらず暖かく劉備を歓迎したのである。
彼女が教えてきた人の中でも、下から数えたほうが早いくらいに出来が悪い劉備であったが
学ぶと定めた時間を越えても、自ら教えを請い、最後までやり遂げた一所懸命な劉備を盧植は好きだった。
出来の悪い子ほど可愛い。
その言葉を盧植に教えてくれたのは他でもない、目の前の劉備である。
まぁ、本人にそんな事を言えば頬を膨らませて拗ねるのだろうが。

「おぉ!」
「きゃぁ!」
「あ……わぁっ!」

そんな事を考えていた盧植は、一際大きい声に柳眉は視線を向けた。
彼女の声がきっかけになった訳では無いだろうが、人垣が波打ち大きなどよめきの様な物が上がった。
ここに居る多くの人々が、ある男を一目見ようと駆けつけたのだから自然な現象であろう。
官軍の中で一際目立つ、金ぴか鎧に金の鬣を持つ馬に跨って門を潜り、彼らを囲む街の人々を
ぐるりと見回していた。
何を隠そう、劉備が洛陽へ訪れたのは天の御使いを一目見るため。
人々は次々に立ち上がり、天の御使いの男を歓声で出迎えた。

「あれが、天の御使い様かぁ……きゃっ」
「あれが天っ、っと……ああ、申し訳ない」

劉備と同じように人の垣根を越えて見ようとしていたのだろう。
丁度隣あった時に、押し出されるように劉備は突き飛ばされてしまい尻餅をついた。
謝りながら手を差し伸べた相手へ顔を向ける。

その時、劉備の目に映ったものは今までに見た事も無いような美しい黒髪。
頭部の側面で髪を一括りにして、長く垂れた髪は同姓ながら見惚れるものであった。
凛とした顔つき、背中には武器が提げられている。
大きな偃月刀を携えている事から、武人の類なのだろう。
そんな彼女の手を取って、劉備は立ち上がり頭を下げた。

「ご、ごめんなさい、私夢中になっちゃって」
「いえ、夢中になっていたのは私もですから。 怪我はありませんか?」
「う、うん、大丈夫です……えっと……」
「私は関羽。 流れの武人です」
「これはご丁寧にどうも、私、劉備っていいます、よろしくね関羽さん」

お互いに名を交換し、劉備は笑顔を向けてそう言った。
関羽は暖かい笑顔を向ける人だな、と場違いな感想を抱いて。
過去に類を見ない位、この場所の人口密度は異常だった。
押し合いへし合いになることも多く、こうした事象は劉備たちだけではなく他にもちらほらと窺えた。
一部では喧嘩のような物も散見されるほどである。
お互いに注意不足もあるだろうが、二人が衝突してしまったのは、もう仕方のないことであった。
そして、大勢の人が集まったこの場所で悠長に自己紹介しつつ
会話をすることなど不可能といって良い。

「あの、ひゃあっ!?」
「あっ」

何かを喋ろうと口を開いた劉備だったが、後ろから押されて素っ頓狂な悲鳴を上げつつ
関羽の胸へと飛び込みかけたが、誰かに襟首を持たれてグイっと引っ張られてそれは回避された。
盧植が片手で引っ張り倒して、捕まえるように劉備の顎へと腕を回す。
目の前の胸に倒れた方が安全だったような気がした劉備である。

「あー、関羽殿だったか。 私は盧植。 うちの教え子がすまないね」
「あ、いえ……お構いなく……」
「せ、せんへぇ……首……くるす……」

盧植の腕は劉備首をぐるりと回り、今で言うところのチョークスリーパーが見事に決まっていた。

「お目当てである天の御使い様も見れたし、こんな人ごみの中ではこの子が怪我しかねん」
「そ、そうですね……あの、腕を緩めたほうが……」
「……あぅっ、……かうっ!?」
「と、いうわけで関羽殿には悪いが、我々は失礼させてもらおう」
「はぁ……あの、腕を……」

そういって首根っこを引っつかんだまま、劉備という出会ったばかりの少女は連れ去られてしまった。
しばし呆然と見送った関羽は、劉備の顔が赤から青くなるのを目撃して
一瞬追いかけようと思ったが、頭を振って立ち止まる。
良く聞こえなかったが、先生と呼んでいたっぽいことから、二人は親しい間柄なのだろう。
多分あれはそう、じゃれ合いみたいな物だ。
ちょっと、心配だったが。

「お姉ちゃ~~~~ん!」
「鈴々、どうした」
「人が多すぎて見過ごしたのだ! 鈴々も御使い様を一目見たかったのにぃ!」

そんな関羽の元へと駆け寄ってくる少女。
赤い髪短く切り揃えて、虎模様のジャケットにスパッツ。
何処からどう見ても元気一杯の女の子と言って差し支えない、幼さを残した鈴々と呼ばれた少女が
半泣きのような表情で関羽の元へと飛び込んでくる。
何処かの誰かが彼女の持つ蛇矛に当たって吹っ飛んでいったが、それには全く気がついていない。
よろよろと立ち上がる吹き飛ばされた人、どうやら無事なようである。
短く溜息を吐いて、関羽はとりあえず叱り飛ばすことにした。
武器の名で分かる人には分かるだろう。
少女の名前は張飛その人であった。

「鈴々、人ごみの中で走るなと言っただろう!」
「あ、ごめんなのだ……」
「まったく……まぁこの人ごみでは、見れなかったのも仕方がない」
「あぅー、せっかく見に来たのに」

身体全体で残念だと表している張飛はわざわざ高い場所まで上って、噂の天代を見ようとしていた。
その分がロスになってしまったのだろう。
彼女が見えたのは、金の尻尾を揺らす金獅のみで、肝心の一刀の姿を見逃していた。

「それに、私達の目的は天の御使い様を見ることじゃない。 忘れてはいないだろう?」
「勿論なのだ! 玄徳って人なのだ!」
「うむ、玄徳様という方を探しに洛陽まで来たことを忘れていない鈴々に、少し感動したぞ」
「む、それはちょっと鈴々を馬鹿にしすぎなのだ」
「くす、そうだな、すまん」

一つ笑って、関羽と張飛は人ごみからゆっくりと離れた。
勿論、途中で張飛の持つ蛇矛で吹っ飛ばした人の手当をしてから。
結構怒りながら、その人は腫れてしまった患部に手を当てていたが
張飛の姿を認めるや否や破顔し 「いえ、ご褒美ですから」 と言い残して去ってしまった。

それはともかく。
先ほどの会話からも分かるように、関羽、そして張飛は天の御使いを見に来た訳ではなかった。
幽州を訪れた際に聞いた玄徳という人物の噂を耳にして、遠く洛陽を目指してきたのだ。
黄巾の匪賊の動きが活発となり、それらを道すがら退治して旅をしていた関羽と張飛。
最初は、個人の武だけを見せ付ければそれで終わる小規模の物ばかりであったが
日を追うごとにその規模は膨らみ、その事実に関羽は強い憂いを抱き始めた。

来る日も来る日も、黄巾を纏った賊徒共を屠る毎日。
10人斬った。
次の日はその倍を斬り捨てた。
その次の日は、そして翌日は……
はっきり言って、精神だけが磨耗していく辛い日々であった。
玄徳という人の噂を二人が聞いたのは、そんな人を殺す事が当たり前になっていた時であった。

ある邑に立ち寄った時、そこでは今まで訪れた邑とは違い笑顔に溢れていたのだ。
今までと違うところは、そこだけ。
裕福でも、賊が襲ってきていないわけでもない。
しかし、人々は明るく生気に満ち、鬱蒼とした影を落とす人はいなかった。
関羽と張飛は、どこか新鮮な気持ちでその邑で一晩を過ごした。
翌日、気になって聞いてみると飛び出したのは『玄徳様』という名。
何でも、ここ近隣の邑は玄徳が人々の中心に立って協力し合い、賊徒共と戦って追い出したのだという。
それから近くの邑を渡り歩いた二人は、たびたび玄徳の噂を聞いた。
人を惹きつける求心力を持ち、困っている人を率先して助け
決して武に優れている訳でもないのに、剣を取って黄巾の賊へと立ち向かったという。

勿論、玄徳の武で追い払ったのではない。
邑に住む人々が協力し合い、時には近隣の邑の人までが義狭から立ち上がり、共に手を取り合って賊と立ち向かった。
その中心となったのが、玄徳様、と口をそろえて言った。
聞いただけでは、その凄さは分からないだろう。
しかし、その行動を起こすのに、邑の人々がその勇気を奮い立たすのに
一体どれほどの覚悟が必要であろうか。
旅を続けて様々な邑の現状を見てきた関羽と張飛だからこそ、分かる物もある。
その玄徳というお方は、確かな求心力があり、人々に笑顔を齎すことが出来る人。
賊を追い払う事だけならば、関羽でも張飛でも出来ることだ。
でも、その後の人々に笑顔を取り戻せたことなど無かった。

ある日、張飛は関羽へと言った。

「もう、鈴々とお姉ちゃんだけの武じゃ、どうしようもないのだ」

関羽は頷いた。
漢王朝に舞い降りた天の御使いの話は、関羽も張飛も知っている。
しかし、それでこの幽州は何が変わったのか。
何も変わっていない。
相も変わらず黄巾の賊は幅を効かして、人々を苦しめている。
ここに必要なのは遠い英雄の活躍や名高い御使いなどの名声ではないのだ。

「玄徳様に会ってみよう」

そう結論を出すのに、それほど時間は掛からなかった。
翌日には玄徳が住むと言われる邑へと訪れて、彼女達は何処へ居るのかを尋ねた。
すると、返って来た言葉は驚くべきものだった。
天の御使い様に会いに行くと言って、幽州を飛び出したというのだ。
関羽はその話を聞いて強い失望を抱いた。
結局、玄徳と言う者も今この場に必要な物が見えない愚者であるのかと。
人々の中心となる彼女が居なくなったら。
そんな考えを持たず、自らの欲求だけで遥々と洛陽まで向かったのか、と。
そうした言葉を漏らした彼女に、邑の住人達は血相を変えて関羽を非難した。
終いには、言葉を取り消さなければ追い出すとまで言われて慌てて謝罪することになった。

冷静になって話を聞けば、御使い様に会いたがっていた玄徳様を、邑の人々が自ら送り出したという。
日ごと、その感情を募らせ、自分達の存在が留まらせている事を察した彼らは
それとなく玄徳様を諭して、洛陽への路銀を集めて送り出したらしい。
自らの勘違いに関羽は深く謝罪して、いっそう玄徳様と呼ばれる人が気になった。
二人が洛陽を目指すのに、そう時間は掛からなかったのである。

「……とはいえ、こうも人が多いのではな」
「すぐには見つからないのだ……」

路地裏の少し高い段に腰掛けて、二人は遅くなった昼食と呼ぶには寂しすぎる物を取りながら嘆息した。
人柄や容姿、雰囲気は聞いているが、実質『玄徳』という名だけしか手がかりは無かった。
先ほど出会った少女が、『劉玄徳』と気付くには、先ほどの邂逅は短すぎたのである。
なにより元から洛陽へ来るつもりの無かった彼女達には、目先の問題もある。
サクっと食べ終わった昼食も終わって、しかし。
張飛は地面に寝転がりつつ青空を見上げた。

「うあー……愛紗ぁ、鈴々はお腹すいてるのだぁー」
「……言うな、私もだ」

肉まん一つを半分こ。
今日の昼食はこれだけだ。
残っている金額は、後何か一つ食べ物を買ってしまえば潰えることだろう。
店に入れば拿捕されるくらいしか、懐には残されていない。
つまり、早急に金を稼ぐ手立てが無いと、最悪このまま飢えて死ぬ。
まずは玄徳という人を捜す前に、彼女達は何処かで日銭を稼ぐ必要があるようだった。


―――


「随分と人気者になったものだな、天代様は」

宮内の一室で、数人の男たちが窓から凱旋する一刀を見届けていた。
室内には何かを転がすような音が響いている。
窓の外の一刀に唯一人興味を示さずに、手のひらで琥珀色の宝玉をコロリコロリと転がす者が一人。
宦官の中でも最高位を示す章を付け、目鼻立ちがくっきりとした細い目を向けて
他人の会話を無視しながら、自らの手に転がる琥珀の宝玉を眺めていた。
纏う雰囲気は風の無い湖面のように静謐であり、白くなった髭と見せかけていたマフラーの様な物は首元まで伸びている。
もみあげだけ、クルクルと円を描いているのが印象的だった。

「功を挙げて、ますます増長するぞ、あの男は」
「調べはついているのだ。 あれはただの運送屋で働いていた庶人よ。
 よくもまぁ、ここまで上手く成り上がったものだと感心するな」
「まったくだ……面の皮が厚いにも程があるな」

窓から眺めて、不満のような物をぶつける男たちを一瞥して
宝玉を相変わらず手の中で転がしながら、スクリと立ち上がった。
未だ益体の無い話を繰り返す同じ宦官の男たちを残し、ゆっくりと中座して部屋を出る。
部屋を出た直後、横合いから声が飛んできて振りかえる。

「張譲殿」

やや肥えて弛んだ頬、口元が厚ぼったく、髪は薄くなって久しい。
何時もその手に抱いている銅雀をなでぇなでぇ……しながら
胡乱な目を向ける皺の多くなった顔の男を見て、張譲は口を開いた。

「……蹇碩(けんせき)殿か」
「大丈夫なのか、随分と人気者になったじゃないか、天代様は」
「何の心配をしている」
「此度の乱の功績には、帝も随分気を良くしているぞ」
「名声、風評、勲功、上げるだけ上げれば良い」
「なに?」

片眉を上げた蹇碩に、張譲はニタリと笑みを向け、手に持つ宝玉を転がし始めた。
ころり、ころりと。
そして何も答えずに踵を返す。
廊下を進む張譲を眺め、蹇碩はやがてそっぽを向いて疲れたように息を吐く。
その時、やや離れた場所から何かが落ちて割れる音が聞こえた。

蹇碩は視線を張譲へと戻した。
先ほどの音は、彼の足元に落ちた宝玉が硬い廊下の床とぶつかって割れたのだろう。
彼らがその手に持ち歩いているのは帝からの寵愛の証。
それは十常侍である宦官にのみ、帝から直接手渡される、宦官の最高位にある何よりの証だ。
その証の宝玉を落とし割った。
やや重い沈黙が降りて、やがて張譲は口を開いた。

「……天代様が居ても、まったく困らん、違うか」
「……? 意味がわからんぞ、張譲殿」
「まずはマジパネェヨと祝っておくとしようではないか、蹇碩殿」

それはどういう意味かを蹇碩は問いただしかったが、張譲は足元に落とした宝玉の欠片を
律儀に拾い集めると、それきり歩き去ってしまった。
蹇碩の知る限り、宦官の中でも特に恐ろしい謀略を振るう張譲が
はっきり言って宦官にとって邪魔者以外の何者でもない天代、北郷一刀に
何も考えていない訳が無いのだ。
無いのだが……

「読めん、何を考えておるのか……」

ついでに、張譲が持ち歩いている宝玉を落としたのか、それとも落ちちゃったのかも気になった。
帝からの信頼の証である大事な銅雀の表面をなでぇなでぇ……しながら
渋面を作った蹇碩の額に嫌な汗が自然、つぅと流れた。


       ■ 噂走れば天代が泣く


帝から庶人まで。
大陸を最も騒がしている一刀は部屋で一人、空を見上げていた。
都、洛陽の街へ戻って既に三日。
一刀を取り巻く環境は驚くほど変わっていた。

自分を見れば何か途轍もないご利益が齎されると思っているのか
マジパネェよ! とか言われつつ頭を下げられたり手を握られたり。
中にはお守りとして陰毛が欲しいとか言い出したり。
それこそ時の権力者である宦官から庶民から、皆が揃って同じような反応を示しているのだ。
正直、戸惑っている。

まぁ、それは良いのだ。
天の御使いを名乗った事や、天代という身分を与えられた事。
黄巾の乱をいち早く見破ったし、実際に蜂起した賊の乱を七日で鎮めたのも事実。
それらを考えれば、確かに今の自分を持て囃す現状はおかしいとは思わなかった。
迷信深いと言われる三国志の時代だ。
分かる話。

……話が分からないのは、瞬く間に大陸へと今も広がっている一刀の『ある噂』の方だ。
殆どの噂は概ね他愛の無い話である。

「天の御使い様は戦に出れば3回に5回勝利する」
「天の御使いが戦場で武を奮うだけで、賊軍は膝をついた」
「天代が武を奮えば、天に虹がかかる」
「幼女虐待趣味がある」
「武器を使わず無手でも敵将の首を刎ねれる」
「戦場でも余裕で閨に誘って4人同時にまぐわった後、陣頭で一日中指揮を執った」
「天の御使いに触ると、病気にならなくなり健康でいられる」
「天の御使いは、戦の勝利を祝うとき、マジパネェよ! と連呼する」
「天代の罠は108通りある」
「劉協様を狙っているらしい」
「帝は天代に、自らの信頼の証を渡し厚遇している」

などなど。
自らを称える人々の話に、一刀は苦笑で返すことしか出来なかったが。
しかし、どうしてもこの噂の中で容認できない物がある。

空を、一羽の鷲が太陽の光を遮って一瞬の影を一刀に落とし
甲高い鳴き声を上げながら空へと向かっていく。
それを眺めて一刀は言った。

「どうして幼女を虐める趣味がある、だなんて噂が流れるんだ……」

そう、これだ。
この噂は、一刀としては決して容認できない物であった。
しかも最悪な事に、音々音に確認を取ったところ、これらの噂は市井に出回ってしまっているそうなのだ。
天の御使いと言う虚仮は、大陸全土に走ったという。
漢王朝が治める大陸にとって、天の御使いが現れたという情報はすさまじい衝撃を与えたのだろう。
そんな天の御使いの事を、きっと人々はどんな者なのだろうかと知ろうとする筈だ。
他人事だったならば、自分も進んで天の御使いにまつわる噂話をしている輪に加わった事だろう。
そして聞くのだ。

「天の御使いは幼女を虐待するそうじゃ、本命は帝の娘様らしいぞ」

と。
大陸に住む全国民……いや、全幼女が震えるに違いない。
無いとは思うが、天の御使いを妄信してしまった人が、幼女を虐待したりするかもしれない。
どうやらこの噂は脳内の自分達にも相当な衝撃を与えたようで、憤慨した。
そんな訳で、窓に寄りかかりながら一刀は空を見上げているのだ。
怒った顔が戻らないのである。

『一体どんな尾ひれがついたらそんな噂になるんだか』
『なんでだろうねぇ……』
『こんなんで、季衣達に嫌われたら泣くぞ、俺は』
『ああ、小蓮にも心証は良くないだろうな……』
『あああ、違うんだ鈴々、俺は違うんだよ、そんな目で蛇矛を振り回さないでくれ』

人は怒りが冷めると、虚しさを覚える物らしい。
だんだんと怒りが冷めてきた一刀は、今度は悲しくなって顔を歪めた。
この虚しさ、今は他の一刀と感情が一致していることもあって、何倍にも膨れ上がった。
自然、頬を伝う涙。
その内に今度は自嘲したように笑ったり、突然恐慌したり、そしてやっぱり笑ったりと
一人百面相が続いて暫く空を見上げる事しか出来ない一刀であった。


とにかく、こうして沈んでいても広まった噂が無くなるなんて事は無い。
なんと言われようがそんな趣味は無い! と毅然な態度で接すれば、出会った人は
ああ、この人は違う、普通の人だ……と分かってくれる筈だ。
噂は淘汰されるもの。
半ば開き直ることで復活をしようとしている一刀。
そんな窓辺へ腰掛ける彼を見ながら、考え込むように座る一人の少女。

一刀に虐待できるチャンスを窺われていると噂になっている劉協様である。

黄巾の乱は官軍の勝利に終わった。
その決着は、とても信じられないような奇跡のような話である。
敵が掲げる黄天が群雲から顔を覗ける時、虹をかけて覆った瞬間に首を跳ね飛ばしたと。
誰に聞いても従軍した物は、一様にその有様を興奮して語った事から
それは事実なのだろう。
一刀が成し遂げた事は、とても大きな事だ。
宮内で開かれた宴の話を聞いた時に感じた不安感など、吹き飛ばしてしまうくらいに。

一刀の立場は確たる物となった事だろう。
帝に呼び出され、勝利の報を直接伝えて勲功として銀で作られた篭手を直接その手で授かっている。
劉協を……そして十常侍ですら飛び越え帝の隣に立つ地位を手に入れたのだ。
この一事を持って、一刀へとへりくだり始めた宦官の数は多い。
もしかしたら、このまま良い方向に向かうのでは、という期待感が劉協の胸を弾ませている。

だが、不安も勿論ある。

それが、敵の捕虜であるという少女を二人、生かして連れ返った事だ。
何故斬らないのかを聞くと、助けてあげたい、と彼は答えた。
そんな事は無理な話だ。
漢王朝に弓を引き、多くの兵を、そして仲間を失った官軍の怒りは大きい。
天代としての確固なる地位を手に入れ、人々の上に立つ者となった一刀は断固たる姿勢を見せねばならない。
そんな事を必死に諭したのだが、一刀は首を縦には振らなかった。
賊の将であった少女を匿う事、それは一刀の弱点になってしまうのに。

自分が気付いていることだ。
恐らく、一刀も気がついている。
劉協は一刀が洛陽へと戻ってから、その事に頭を悩まし続けていた。

「一刀……」
「ん、何?」

振り返った一刀は少し首を傾げて劉協を見やった。
優しい人だと思う。
だからだろう、容姿が自分よりも幼い少女達だ。
同情する気持ちも分からないではないが、やはり処さねばならないのだ。
そうでなければ、近い内にもっと大きな問題を抱えてしまうかも知れない。
こう見えて頑固である一刀の首を縦に振らす為に、何とかしなければ。
劉協はよし、と一つ気合を入れるように大きく息を吐いて口を開いた。

「話がある」


      ■ 墓穴を掘りつつ恋揚々


「はぁ……」

一つ大きな息を吐いて、茶の入った容器を指でなぞる。
飽きたかのように手を戻すと容器を持ち上げ茶を一飲み。
椅子に腰掛けて、容器を置きながら窓から外を見やる。
しばらくして、手持ち無沙汰から再び容器に指をつつつっと滑らせた。

「なぁー、斗詩ぃ、なんか姫が気持ち悪いんだけど……」
「うーん……あんまり見ないよねぇ、たそがれている麗羽さまって」
「ぜぇぇぇったい、何か変だって」
「やっぱ、あれなのかなぁ」

ひそひそとわざわざ部屋の隅っこまで移動して会話を交わす顔良と文醜。
そんな二人を他所に、心ここに在らずといった面持ちで唸ったり首を捻ったりしている袁紹。
少し主である袁紹から離れた卓で、茶を楽しんでいた田豊の器がコトリと音を立てて置かれた。

「麗羽様」
「あら……なんですの、田豊さん」
「恋わずらいですか」
「ブフッ!」
「きゃっ、ちょっと文ちゃん、やめてよ」

田豊の声に反応を返したのは文醜であり、顔を寄せて話し合っていた顔良の顔に唾液が飛沫する。
しかし、彼女を責めることは出来ないだろう。
我が道を、行けよ行け! とばかりに奔放であった袁紹である。
こう言っては失礼だが、袁紹に付いていける男性は当分現れないのではと文醜は思っていたのだ。

「ここ数日、失礼ながら観察させて貰いました。 麗羽様は懸想しておられますね?」
「……そうですわね、まぁ隠すほどの事でもないですし」
「えぇー、ほんとに!? うっそだぁー!」
「ぶ、文ちゃんっ」
「相手は誰なんですか?」
「そ、そうそう、姫が懸想しているのって誰なんです?」

そこで初めて、袁紹は室内にいる三人を見渡して何度か頷くと
何時もの調子を取り戻したかのように片手を頬にあてながら

「おーっほっほっほ、まぁ? この袁本初にふさわしい相手がどれだけ居るのかを考えれば
 すぐに答えは出ますわよね」
「なるほど、天代様ですか」
「えぇーーーー!?」
「やっぱり……」

どこか溜息のような物と共にそう言った顔良に、目ざとく田豊は気がついていたが
驚き固まっている文醜も同じく無視して袁紹へと声をかける。

「つまり、悩みは天代様にどうやって近づこうかということですか」
「む……ま、まぁ平たく言えばそうなりますわね」

高笑いをやめた袁紹は、やや頬を染めて素直に頷いた。
天代、つまりは一刀のことだが、彼は諸侯達が居る場所には普段居ない。
劉協が居る禁裏である離宮へと居を構えているので、皇室と、それに近しい関係を築いている者しか入れない。
つまり、袁紹は昼間に出歩いている所で一刀と偶然出会うくらいしか無いのである。
勿論、特別な理由があれば別だろうが、そんな物は考え付かなかった。
なので、無意味に溜息を吐き出していたりするしか無かったのである。
袁紹としては、自分の気持ちに気付いてからこっち、とにかく逢瀬を重ねる事がまず第一歩と考えた。
というか、それしか考えていなかった。
それは間違いではなく、確かに会わない事にはどうにもならない。

一方で田豊は、天代である北郷一刀の顔を思い出していた。
主に戦場でしか見ていないが、まぁ顔は悪くなかったように思えるし性格も素直だ。
加えてあの一騎打ちを見れば、袁紹の好む華麗さや優雅さと言った物はあるかもしれない。
袁紹が天代に懸想する要因は確かに転がっていた。
そんな分析を一瞬で終えた彼女は、次に自らの仕えている主と天代が交際を持つ事に頭を巡らした。
一刀の今の立場は、帝と殆ど対等だ。
勿論、帝から役職を貰っているという点では下になるのかもしれないが
天の御使いという名が広まっているので、言わば漢王朝の客将と言ってもいいかもしれない。
実際に恋仲になるかどうかは別として、関係を持つのは悪くないように思える。
この件について、田豊は袁紹をその気にさせる事を一瞬の打算で決めた。

「どうにか会う方法はありませんこと?」
「残念ですけど、いくら袁家であっても天代様のおられる離宮には入れませんよ」
「そうですわよねぇ……はぁ、もどかしい」
「ですけどほら、麗羽様の友人に宦官の祖父様を持つお方が居たような気はしますよ」
「……背に腹は変えられませんわね」

「いや、そこは麗羽様が気付かないといけないんじゃないかなー……」
「曹操さんの事が、頭から抜けてるってことだもんねぇ」

好き勝手に言い合う文醜と顔良に、チロリと目を向けて袁紹はしかし、ぐっと堪えた。
彼女とて、曹操に協力を求めるかどうかは悩んでいたのだ。
しかし彼女は恋敵でもある。
一番最初の第一歩から、曹操の手を借りようとするのは気が引けていたのだ。
とはいえ、このままでは仲を深める以前に会えないという落ちで終わってしまいそうだった。

「仕方がありませんわ、華琳さんのところへ行くわよ!」

バッっと立ち上がった袁紹に、三人の声が重なる。

「あ、いってらっしゃい」
「いってらっしゃいませ」
「……い、いってらっしゃ~い」
「こらっ、私一人で行かせる気ですの!?」

「だって、私達別に関係ないじゃないですか姫」
「あー、私は曹操さんと会うのはちょっと……」

頬を掻いて言い繕う文醜と茶を飲みながら気が進まない様子でやんわりと断る田豊。
どうも行く気が全く無い二人の様子に、袁紹はすいっと顔良へ視線を向ける。
そんな視線を向けられた顔良は、両手の指先を合わせつつ曖昧な顔を向けていた。

正直なところ、袁紹が一刀へと好意を寄せているのに気がついていたのは彼女が最初だった。
一刀に対しての袁紹の様子を察したというのも大きいが、一番は顔良も一刀へと懸想している気がしたからだ。
自分の気持ちに自信が持てず、ハッキリとは言えないが
袁紹が一刀に気持ちを向けている事を知ってから、胸に燻る強いモヤモヤは大きくなっていった。
だからこそ、彼女は一刀に会う為に袁紹が向かうのに付いていくのは憚られたのである。

顔良も一刀には会いたい。
しかし、尽くしている主が懸想した相手ならば身を引くのも吝かではない。
そもそも、まだ恋心なのかどうか、あやふやな物だからというのも在る。
しかし、会えるのならば会いたいのは事実だった。

そんな思いが複雑に絡み合って、彼女は結局身を引いた訳なのだが。

「斗詩さん、斗詩さんは来ますわよね?」
「は、はぁ……」
「返事!」
「はいぃー!」

その主にこうして呼ばれるのならば仕方ない。
そんな事を思いつつ、思いのほか軽い足取りで袁紹の後ろをくっ付いて行く顔良を
文醜と田豊は見送りながら茶を入れていた。
パタリ、と戸が閉まり。
新たに淹れた茶を文醜へと注ぎ、自分の容器にも満たす。

「ありがと、田ちゃん」
「いえー」
「ところでさー、どうして曹操に会いたくないの?」
「洛陽へ戻る途中に勧誘されちゃいましたから」
「え、そうなの?」
「そうなの」

困ったと言いながら頬に手を当て、にこやかに首を傾げる田豊。
余り困ったようには見えなかったが、文醜は納得することにした。
卓に並べられてあるお菓子を手にとって文醜が口に放り込み、茶を口に含む。
田豊は彼女の一連の行動を見届けてから、ふと思いついたように口を開き、そして言った。

「あれは、斗詩さんも惚れてますねー多分」
「ブバッ!?」
「……ふっ、我が策、なれり」

ちょっとした悪戯が成功して薄く笑った田豊は、文醜が怒涛の勢いで近づいたと思うと
笑っていられる余裕は一瞬で無くなった。
両肩をがっしりと捕まれて、激しく上下左右に揺さぶられたのである。

「ええ、やだ、斗詩が取られちゃうなんて、そんなの嫌だぁー!」
「ま、ままま、ま、ちょ、っやめ、んっは!?」
「でもなんか最近変だとは思ってたんだ、話してても上の空の時があったし、どうしよう田ちゃん!」
「ふあっ、あっ、あうう……っ」

文醜の膂力は強い。
田豊では振りほどく事も出来ずに、なすがままに頭を揺らされて彼女の唯一の武器である
思考能力をこそぎ落としていった。
ついには、田豊の様子に気付くこともなく錯乱してシェイクを止めなかった文醜に
これからは、もう少し自分に被害のない様に悪戯をしよう、それだけを固く心に決意して
田豊は現実から目を離す事にした。
要するに自ら意識を手放した。

動かなくなった田豊を、死体に鞭打つかのように、しばらく揺すぶり続けてからその様子に気がついた文醜は
白目で力なくダラリと身体を落とした彼女に、死んだのではないかと焦りもう一度混乱に陥っていた。

―――

その日、曹操は朝から眉根を顰める事になった。
原因は自分の目の前にある一枚の竹巻のせいである。
洛陽で起きた黄巾党の乱、その増援として曹操は陳留を飛び出した翌々日に
陳留でも黄巾を巻いた賊軍の一斉蜂起があったらしい。
その規模は2万を超えたものであり、曹操の私軍は兵糧を潰すことによって勝利を得たという。
そんなことが、目の前の竹簡に書かれていたのだ。

この勝利、おそらく陳留で立った黄巾党に波才のような将は居なかっただろう。
戦で最も気をつけなければならない兵站を断たれるなど、軍略のぐの字も知らないに違いない。
曹操にとっては幸いであったが、一歩間違えば宛城に続き陳留を落としていた事態も在り得ただろう。
一つ嫌な予感が走った。
此度の洛陽での乱、ただのきっかけに過ぎないのではないのか。
黄巾を率いた大将、波才が立ち上がり、それに呼応するかのように宛城を攻められ
長安・潼関からも黄巾党は現れた。
そして、自分の治めている土地である陳留からも。
歪な円を描き、その輪は広がりを続けているのでは無いか。

「一番最初に頭を潰したか……」

波才の建てた計画、それは洛陽の奪取に違いない。
内と外で呼応し、時期を定めての一斉蜂起。
既に処刑されたという、内応した宦官と共に洛陽を落とし中央を麻痺させようとした。
そして殆ど時間差なく立ち上がる黄巾党を持って諸侯を牽制。
洛陽には空白の時間が出来る。
それを使って内部を把握し、一気に漢王朝を滅する考えだったのだろう。
これを食い止めたのが、馬元義という黄巾党の密会に居合わせた北郷一刀。
果たして未来の知識からか、それとも偶然か……
曹操は今後も黄巾党は各地で蜂起を行うだろうが、波才という頭を潰した以上
その内に落ち着きを見せるだろうと予測していた。

まぁ、陳留も無事だったようなので、後は各地の乱を鎮めていけば良いだけだ。
この報告についてはそこで考えを止めて、曹操は気分転換に『楽しく学ぼう房中術・位編~体位の秘密~』を手に取り
椅子を倒してゆっくりと腰掛け、パラリと頁を捲った時だった。
扉の外から声がかかり、許可を得て一人の文官が中に入り、曹操へと二、三報告をすると
竹簡を渡して恭しく退出した。

片手だけで器用に竹簡を開いて、桂花の文字であろう文章を追っていくうちに
曹操の眉間に深く皺を寄せることになった。

「……これは」

黄巾党の首魁の一人、張梁を捕らえた。

その一文を目にして、曹操は先ほどの考えが間違いであったことを悟る。
波才は黄巾党の一将にしか過ぎなかった。
波才を操り、裏で漢王朝簒奪を描いた黒幕がいる。
先ほど手に取った書物を投げ捨て、焦れたように両手で竹簡を全て開く。
黄巾党の賊も張梁自身も自供はしなかったにも関わらず
何故、張梁という人物が黄巾党の首魁であるかを特定できたか、その理由が書かれていた。
その理由、玉璽を用いて届いた荀彧への手紙に記されていたというのだ。

視線で続きを貪るように追う。
北郷一刀からの手紙から判明した黄巾党の首魁は3人。
それぞれ張角、張宝、そして曹操軍が拿捕した張梁の名が記されているという。
北郷一刀は、これを見かけたら殺さずに捕らえたままにしておいて欲しいと言ってるそうだ。
その為、曹操の判断を仰ぎたいという一文で締めくくられていた。
ついでに、隅の方に小さく、荀彧の字で曹操に会いたいのでそっちに行きたいとも追記されていた。

「……」

竹簡を巻いて、卓へと置いた曹操は自分が自然と立ち上がっていることに気がついた。
やはり、北郷一刀は未来が見えている。
そうでなければ、黄巾党の首魁の名を知る事など不可能だろう。
誰がどう見たって、洛陽へと攻め上がった波才がそうであると思ってしまう状況だ。
何より、張角や張宝などという名にはとんと覚えがない。
諸侯に尋ねて回っても、その名を知っている者など恐らく居ないだろう。
そして、黄巾党の首魁が見つかれば、殺すなとは。

「北郷一刀……貴方には何が見えているの?」

殺してはまずいのか、それとも殺したくないのか。
諸葛亮と鳳統という捕虜に接した態度から、殺したくないと言うのは想像できない。
殺せば未来が変わるからか?
何にせよ、一度本人に確認を取るべきだろう。

「桂花にも来て貰おうかしら……」

荀彧の知は本物だ。
こっちに来たがってる旨を書の端にしたためる位だし、曹操も弄りたくある。
勿論、今後の対応を検討するのに、彼女が居たほうが心強いというのもあるが。
陳留へ送り返す返書をしたため始めた曹操は、ふと、一刀が送った空箱に書いてあった文を思い出した。
魏の王、その王佐の才と。
確かに、そうかも知れないなと苦笑して、曹操は文官へと返書を預けると
暫しその場で黙考していたが、今度こそ『楽しく学ぼう房中術・位編~体位の秘密~』を読もうと床に手を伸ばして……

「華琳さん! ちょっとお話がありますわ!」
「すいませぇん……失礼しますぅ……」
「……」

何の前触れもなく扉が壊れるのではないかという勢いで開け放った袁紹が現れ、そのまま手を引っ込めた。
後ろには袁紹の将である顔良の姿も見える。

「……何かしら、麗羽」
「私、天代様に会う用事がございますの、なんとかなさい」
「……随分ね、けど丁度いいわ。 私もどうにか会えないかと考えていたところよ」
「! やはり、華琳さんもそうですのね」
「麗羽も気がついているの?」
「当然ですわ、何としても会わねばならない……あら?」

ずかずか歩いてきた袁紹は、曹操の目の前で停止すると、何かを踏んだ感触に口を噤んだ。
自然、彼女は目を落とす。
そして曹操は目を逸らした。

「なんですのこれ……なっ! これは艶本!?」
「ちょっと暇だったから読んでいただけよ、いいじゃないの」

目を逸らし、顔を背けた曹操の頬はやや朱が差していた。
なんとも気の早い話だろうかと、袁紹は思った。
この女、既に天代とまぐわう事を想定しているのである。
そんなこと、今の今まで袁紹は思いもしていなかった。

「か、華琳さん……貴女……」
「な、何よ」
「ハッ……いえ、コホン、まぁ、いいですわ」

その事を問い詰めてやろうとした袁紹だが、ハッと気がつく。
一刀と会うのが主目的であり、今は曹操の膨らんだ妄想に構っている場合ではないと。
それは、袁紹にしては珍しく衝動的行動を自制した瞬間であった。
サラリと流した袁紹に、ちょっとだけ感謝した曹操である。

「華琳さん、ちょっと愛する天代様と上手く会う方法はあるかしら」
「……え、何? ちょっと待ってちょうだい。 もう一回言ってくれる?」「
「はぁ? 良く聞いてなさいな。 華琳さん、ちょっと愛する天代様と上手く会う方法はあるかしら」
「もしかして麗羽……」
「なんですの?」
「北郷一刀に懸想しているの?」
「何を今更。 そんなの知っていたでしょうに」

曹操は突然、袁紹が恋心を暴露したことに珍しく混乱した。
この女、成長したなと見直した先からコレである。
確かに今までよりは大分マシではあるが、相変わらず素っ頓狂なのは変わらないようだ。
恐らく、袁紹の思考はこうである。

天代様は張角とか張宝とか、誰も掴んでいない情報まで手に入れていた。
なんとも華麗に優雅な手回し。 天代という身分も十分に釣り合うし顔も悪くない。
名門袁家にふさわしいですわ、おーっほっほっほっほっほっほ!

と言ったような感じだろう。
長年友人として付き合ってきたのだから手に取るように分かる。
未来を知っていることなど知らないだろうし、曹操と同じ情報を得たのならば、その勘違いも確かにあり得る。
確かに彼には天運があるだろう、未来を知っていても一騎打ちの勝利に虹を描くことなど万に一つ。
いや、もはや奇跡と言っても過言では無いかもしれない。
そんな眩しい輝きを放つ男を、この派手好きな旧友が見逃すはずは無かった。
一つ一つを考えてみると、凄く自然な流れのような気がしてきた曹操である。

一瞬、惚れたという言葉に呆れたが、すぐに思い直す。
天の御使いである北郷一刀を手に入れる事は、何かしらの打算を含んでいるのかもしれない。
今の一刀の立場は名声も権力もある。
少なくとも惚れている事を伝えれば、男である以上は袁紹に悪い印象を持つまい。
なるほど、良く考えれば奇手ではあるが効果的でもある、侮れない。

「ま、まぁいいわ。 ちょっと驚いたけれど……それで、何の話だっけ」
「ですから、何度も言ったように天代様と会うのにどうしようかという話ですわ」
「ああ……そうだったわね……とりあえず、お祝いの品を渡すということで口実を作ればいいんじゃない?」
「ふむ……なるほど、こちらから行けないのならば、呼び出せば良いという事ですわね」

それは確かに手っ取り早いのだが、彼が贈呈された贈り物に気がつくかどうかは分からない。
何故ならば、帝から直接手渡された玉のせいで、宦官達の動きが慌しいと曹操は祖父から聞いていた。
今頃、贈り物で窒息しそうな量が贈られている事だろう。
後は一刀が出歩いているところや、祖父に頼んで一刀の住む離宮へと入れてもらう事だが
そもそも一刀の住んでいる離宮は禁裏である。
いかに祖父が宦官であり、権力を持っているとはいえ許可が出るとは考えにくい。

「何かありますかしら」
「武器はどうでしょう?」
「うーん、なんだか、ありきたりの様な気もしますわね」
「でも、お菓子とかはきっと取り上げられちゃいますよ。 この前の毒騒ぎもありましたし」
「やっぱり、武器がよろしいのかしら斗詩さん」
「そうですねぇ……鎧や馬に比べて天代様の武器は地味ですから、それが無難で良いと思いますよ」

そして曹操を無視して一刀の贈り物に悩み始める袁紹と顔良。
曹操は自分の部屋で雑談に興じ始めた二人を追い出そうと口を開き

「では、華琳さんも一緒に参りましょう?」
「そうですね、曹操さんも一緒にどうですか?」
「……うーん」

ここで曹操は唸った。
正直、袁紹の恋路云々はどうでもいいし、袁紹が打ったこの手について考えたいとも思うのだが
ここ最近は終ぞ買い物に市井へ出ることなどなかった曹操である。
洛陽へ来るのも久しぶりだし、買い物ということならば付き合ってやっても良いかなと思ったのだ。
買い物を楽しみながら、考えることも出来るだろうし。
艶本を読む気分でもなくなってしまったし。

「ま、付き合ってあげてもいいわよ」

肩を竦めてそう言って買い物の準備を始めた曹操を眺め、袁紹と顔良は生暖かい視線を送りつつ小声で囁きあった。

「曹操さんも、結構意地っ張りなところがあるんですね……麗羽様」
「恋は乙女を変える、ということですわね、斗詩さん」

二人のすれ違いは未だに続いていた。


      ■ 子供のように泣きじゃくり


一刀は音々音を伴い、宮内の中を歩いていた。
と、いうのも在る場所へと向かっているからである。
正直、こうして外に出てこれた事は助かった一刀である。

「さ、流石に今回はしつこかったな、劉協様」
「仕方のない事なのです。 正直、ねねも諸葛亮と鳳統に関しては劉協様と同意見なのですぞ、一刀殿」
「う、いやまぁそうだけどさ……あの剣幕は焦ったよ」
「それについては同意なのです……」
「華佗が来てくれて助かったのが本音だなぁ」

一刀も言われずとも、理屈の上で劉協と音々音の言葉が正しい事はわかる。
黄巾党に参加して、知を奮い、官軍を苦しめた事実があるせいで、覆すのは難しい。
脳内の自分からは、諸葛亮と鳳統は波才によって選択の自由は無かったと言うが
客観的に見れば彼女達は朝敵なのである。

かといって、本体も見殺しにはしたくなかった。
彼女達と僅かとはいえ話したことで、情のような物もあるし、その人柄は確かに脳内の保証通りであったからだ。
何とかしたいが、どうにも出来ない。
一刀はそんなジレンマを抱えていた。
今のところ、帝からも逆賊の将についての処置は一任するとの旨を貰っているので
すぐさま誰かが文句を言うこともないだろうが、このまま無為に時間を過ごせば早く処罰しろとせっつかれる事だろう。

「うーむ、どうしたものか」
「ねねは一刀殿の判断に従うだけなのです」
「うん、ありがとう……ついでに、牢に入れられた彼女達が不当な扱いを受けていないかも調べておいて」
「……一刀殿は少し優しすぎると思うのです、相手は漢王朝に弓引いた賊なのですぞ」
「うん、でも調べてくれるだろ?」
「うっ、そそ、それは、勿論調べるのです……」

苦笑を、しかし視線はしっかりと音々音を捕らえた一刀に
音々音は仕方が無いと言う様に息を吐き出しながらも了承を返した。
少し照れながらなのは、突然向けられた視線のせいだった。

「あ、あの……天代様、ですよね」

一刀と音々音がひそひそ顔を近づけて話し合っていると、恐る恐る声をかける女性の声。
振り向けば“董の”の記憶に眩しい、董卓の姿が認められた。
軍議の場で一度見ているが、彼女は参加こそしていたものの、話していたのは賈駆である。
その後は賈駆の執拗な個人マークにあい、一刀は董卓本人と会話する機会に恵まれなかったのだ。

細い眉に柔らかそうな髪質の薄い藍色の髪を揺らして佇む彼女は儚い印象を一刀に抱かせた。
小柄な体躯に華美な服。
地位としては、諸侯の中でも何進や袁紹に比べれば少し落ちるが、それでも高い方である。

『月……変わらないな……』
『『ああ、変わらないね……』』
「えっと、何か用かな?」
「呂将軍の変わりに来たんです。 案内役として」

そう、一刀が離宮を離れる切っ掛けは、劉協の怒涛の言葉攻めに耐えていた一刀へ
空気を読まずに華佗が話しかけたことであった。
なんでも、行軍から体調を崩してしまった丁原の具合が宜しくないらしい。
一刀は、丁原の見舞いに向かうと劉協に断って彼女から抜け出せたのである。
説得に失敗した劉協はなにやら気を落としていたが、諸葛亮と鳳統は脳内の自分の大事な人でもある。
首を縦には降れない以上、この話に限って劉協とは平行線を辿るのだ。

勿論、その為だけに抜け出したわけではない。
もともと一刀の応援に答えて出陣した丁原を見舞いに行こうとは思っていたのだ。
華佗からの伝言では呂布が迎えに来ることになっていたが、どうやら董卓が迎えに来てくれたらしい。

「ああ、わざわざありがとう」
「いえ、こちらへどうぞ」

ペコリとお辞儀して、董卓は静々と歩き始めた。
その様子に思わずほっこりする“董の”他数名。
本体は釣られてほっこりすると、音々音にジト眼で見られてしまった。
取り繕ったように咳払いをかまして、一刀は董卓の後を付いていった。

三人で、宮内の中を練り歩く。
ふと顔を向ければ、整えられた草木に花。
ゴミも掃除する人間がいるのでゼロという訳ではないが目立たない。
洛陽の街を駆けずり回っていた一刀から見ると、この場所は随分と衛生面に気を配っている。
大陸の首都なのだから当然だとも思う一方、街中の様子を知っている一刀は複雑な感情を抱いた。

この場所に居る人たちだけ、恵まれている。

それは時代、そして身分や王朝という制度から考えて仕方のないことなのかも知れない。
しかし、一刀は現代の町並みをなまじ知っている分、やるせない思いを抱いた。
もっと暮らしが豊かになれば良いのに、と。

「天代様、足元を」
「あ、ごめん、ありがとう」
「一刀殿、余所見は危ないですぞ」

董卓に言われて、段差に差し掛かった事に気がついて一刀は礼を言った。
確かに余所見をして歩くのは辞めた方が良さそうだ。
暫く歩いて、ある宮内の中へと入る。
中へ入って階段を登り、ある部屋の前でようやく董卓は歩を止めて振り向いた。

「こちらになります」
「ありがとう……それと、そんなに畏まらなくても良いよ」
「えっと……その……」

董卓はそう言われて困ってしまった。
目上の人にそう言われても、彼女としては性格的に考えても困るだけである。
礼儀や礼節というものを彼女はしっかりと弁えているのだ。
一人でわたわたと落ち着かない様子を見せ始めた董卓に、一刀は苦笑して

「ごめん、いきなりは無理だよな。 でも少しずつで良いから慣れてくれると嬉しい。
 あんまり畏まれるのって慣れてないからさ」
「は、はい、頑張ります……」

そう言って董卓は一つ頷いて俯いてしまう。
慌てる董卓は見ていて和むのだが、心なしか怯えているようにも見えてしまう。
仲良くなるには、少し時間が必要なようだ。

『……この場に詠が居れば、少しは会話も弾んだかな……』
『『『『無いものねだりだね』』』』
『分かってるよ、ちぇ』
「……ゆっくりでいいから、うん」
「ゆっくり……」

自分の脳内にも言い聞かせるように呟いた本体の言葉を、反芻しつつ董卓はチラリと一刀の顔を垣間見た。
頬を掻いていた一刀の視線と、董卓の視線がバッチリと合ってしまう。
途端、董卓は両手で自らの頬を押さえ、言った。

「へぅ……」

『『『へぅ……きた!』』』
『うるせぇ! 月を茶化すなっ!』
『いいじゃん、可愛いよ』
『あ、だろ? 可愛いよな』
「……中に入ろうか」
「ぐむむ、鼻が伸びているのです……」

慣れた脳内の騒ぐ声、そして何か振り向きたくなくなる音々音の声をスルーしつつ、一刀は頷いた董卓と共に室内へと入った。


―――


出迎えてくれたのは、床について青白い顔をした老人と
介護をしているのだろう、濡らした布を持った赤毛の触覚を生やした女性であった。
一刀が入ると、赤毛の女性……洛陽へ戻る際に見かけたことがある呂布が一瞥し、再び濡れた布を眺める。
丁原本人は、眠っているのか。
僅かに胸を上下させており、静かに寝息を立てているだけであった。

「呂布さん、だよね」
「……ん、天代様」
「うん……具合はどう?」
「あまり、良くないって、お医者さんが言ってた」
「丁原殿はさっき眠ったばかりなんです」
「そっか、それじゃあ起こすのは悪いね」

そして流れる沈黙。
外で鳥の鳴き声だろうか。
特徴的なキィーキィーという声が、静かな室内に響いていた。
一刀は静かに佇み、暫くの間その場に居たのだが、ふと気がつく。
濡れた布を持ったまま、呂布が動かないのだ。

「呂布殿、その布はなんなのですか?」

同じ事を思ったのか、隣で同じように所在なさげに立っていた音々音が彼女へと声をかけた。
ゆっくりと振り向いた呂布の顔は、かなり困っている顔に見える。
まさかとは思うが。

「もしかして、どうすればいいのか分からない?」
「……」

コクリと頷く呂布。
戦場では万夫不当の実力を持つ彼女も、この場では実に無力であった。
董卓も呂布の頷きでようやく得心がいったのか、彼女に近寄ってひそりと声をかけた。

「恋さん、絞ればいいんですよ。 そのままだと水気が多すぎますから」
「ん」

董卓に何事かを囁かれた彼女は、一つ頷いたかと思うと布の両端を持って捻った。
瞬間、何かが割かれる音が響き渡り真っ二つに割れる。
両手に残る布。

「……ちぎれた」
「……そ、そんなに力を入れなくても良いんですよ」
「そ、そうですぞ。 ただ水気を取るだけなのですぞ」
「董卓さんがやった方が早いんじゃ……」
「て、天代様っ!」

一刀が思わず呟いた言葉に、董卓は慌てて人差し指を口元に当てた。
その様子から、呂布では無く董卓が迎えに来た訳、そして今彼女が行おうとしている行為に
呂布の気持ちが分かった。
彼女は丁原を自分の手で看病したかったのだろう。
そう考えると自分の言った言葉は正に余計な一言だった。

そんな時だった。
丁原が一つ唸ると、眼を開きムクリと身体を起こしたのである。

「原爺、平気?」
「丁原殿……起こしてしまいましたか?」
「おお……すまんな二人共。 いやなに、大丈夫じゃ……む?」

丁原は一つ礼を言うと、部屋の奥に居る一刀へと首を巡らして、その存在に気がついた。
驚くような表情を見せる彼に、一刀は一つ会釈をかます。
音々音も一刀に釣られたのか、同じように軽く頭を下げた。

「これは、天代様ではないですか、医者の手配をして戴き嬉しく思いますぞ」
「いえ、俺の無茶な要請で体調を崩してしまったんです。
 医者の手配をするのは当然の事ですよ」
「これは老骨には勿体無いお言葉ですな」

思いのほかハキハキと喋る丁原に、一刀は内心で安堵の溜息を吐いた。
顔色と、そして華佗の言う『良くない』という言葉に、一刀はこのまま息を引き取ってしまうのでは無いかと思ったのだ。
しかし聞く限り、快方に向かうのでは無いかとさえ思えるくらい彼の声には張りがあった。
横に居る音々音も、一刀へ予想よりも体調が良さそうなのです、と耳打ちしていた。
頷いて一刀は丁原の近くに寄る。

「もっと早く来ようと思ったのですが、なかなか時間が取れなくて申し訳ありませんでした」
「天代様ともあろうお方がわしの様な物に頭を下げないで下され。
 それに、礼を言いたいのはこちらの方ですぞ。
 一度、天代様とは直接会ってお話したかったのだ」
「そうですか、そう言ってくれれば楽になります」

頭を掻いてそう言った一刀に、ニコリと笑顔を向けた丁原。
その笑みは、温かみのある物であり、一刀も思わず笑みを零した。
しばし呂布や董卓、そして音々音を交えた雑談に興じた一刀は、そろそろ暇をしようかという時になって丁原に止められた。
そして、人払いを求められたのである。

「天代様、お話がありまする」

陽が傾き始めた頃であった。
窓の外へと視線を向けた丁原の横顔を見ながら、一刀は何の話だろうかと首を捻っていた。
何となく、あまり聞きたくないと思った。

「こうして最後に天代様と話が出来たこと、天命なのでしょう」
「丁原さん、最後だなんて―――」
「わしの体はもう持たないでしょう。 最後の刻が近づいて来るのを、ヒシヒシと感じております」
「……」

一刀は何とも言えなかった。
だって、こうして目の前で普通に話しているのだ。
もう身体は持たないなどと言われても、少し顔が青いのを見ていても、俄かには信じ難い。

「天代様の人柄に触れ、信用できると判断しました。
 曇りながらも人を50年以上見てきたわしの目は、狂っていないと信じたい」
「丁原殿、一体何を……」
「恋の事ですじゃ……あの子を引き取ってやってくれまいか」

『呂布を?』
『恋を……』
「……突然ですね、しかし呂布殿は丁原殿の臣下なのでは。
 横から奪うような真似は、いくら権力があってもしたくないです」

一刀の地位ならば、帝の許可さえあれば何をしても誰も文句を言えないくらいなのだ。
極端な話、一刀は豪遊しようと思えばいくらでも出来る。
男にとっての夢、酒池肉林を強制的に行うことだってやろうと思えば可能だろう。
だからこそ、一刀はこの権力の行使というものについて余り奮わないように心がけている。
人は慣れる物。
一度でも今の地位に甘んじてしまえば、自分を見失うことになりかねないと自戒しているのだ。
当然、本体が間違えれば脳内が諌めるだろう。
そうなってもすぐに戻れる保険はあるのだが、一刀自身、自分が持つことになった権力に溺れたくなかった。
溺れてしまえば、きっとそれは無様だ。

「恋は客将の扱いじゃ。 丁原軍に居ることを示すのは名前が載っているだけの書が一つあるだけ。
 燃せばそれで終わりじゃ……あれはわしが拾った物じゃが、使おうとは思わなかった……」

丁原は、何処か遠い眼をして優しい表情でそう言った。
そして続く。
呂布という者を見つけた時の話を。
人を斬り、日銭を稼ぎ、そして沢山の動物達と食事を取って眠る。
これが丁原が拾う前に営んでいた呂布の生活であった。

金の為に人を殺していた呂布は、それこそ善人だろうと悪人だろうと同様に斬ってきた。
その武を利用した者が、呂布を恐れて罠に嵌めたこともあった。
しかし、呂布は全てその罠を粉砕した。
己の武、それだけで。
それがまた、評判を呼んで殺す為に利用される。
与えられるは僅かな金銭、動物達の世話をすれば一日で消し飛ぶような小金で。
良いように、利を求める者達にその武を使われていたのだ。

ある役人が斬り殺された事件で呂布を知った丁原は、呂布の人となりを調べているうちに真実を知る。
最初は人を斬る事に抵抗の無い、鬼のような者だと思ったが
仕事の時以外で殺害したことが無い事を知ると、丁原は意を決して呂布の元へ直接赴いたそうだ。
そして、武を奮い続けた呂布は丁原の元で安息を得た。
利用され続ける運命の輪から解き放ったのは、目の前に居る年老いた男。

「あの子は、この大陸でも一番純粋な者だとわしは思う……誰かの為に殺せと言われれば、その通りにしてしまう。
 幸せにしてあげたい、そう思ってしまうのだ」
「……そうですね、分かります」

調子を合わせるように頷いた一刀であったが、その声には実感を伴った色が篭っていた。
呂布。
脳内の彼らは敵であれ、味方であれ、その正体を知っている。
本体はともかく、脳内の皆は丁原の言葉には強く頷けるだけの事実がある。
一刀の声色を聞いて、丁原はようやく窓を眺めるのをやめて一刀の顔へと視線を向けた。

「ああ、やはり天代様に任せることが出来れば安心だ。
 恋は天代様が使ってやってくださらぬか」
「……」
『本体、丁原殿の死に際の遺言だよ』
(まだ、死ぬって決まった訳じゃないだろ……)
『そうだな、でも、彼はもう決めてしまっている』
『決めちゃってるね……』
(……分かってる、俺もわかってるよ……ただ、なんか……)

そんな一刀の葛藤を分かったかのように丁原はやや顔をふせて笑った。
俯いた一刀は、彼の笑い声に顔を上げる。

「はっはっは……天代様は、お優しいですな」
「分かりました……呂布殿が納得するのならば、約束しますよ」
「ああ、良かった。 これで心残りは無くなりましたぞ」

一刀はスクリと立ち上がり、丁原へ一つ頭を下げると踵を返した。
いざ部屋を出ようと扉の取っ手に手をかけた時、丁原の声が一刀の耳朶を打つ。

「未来は……」

驚くように振り向いた一刀へ、彼は柔らかい笑みを向けながら尋ねた。

「漢王朝の未来は、明るいですか、天代様」

一刀は雷に打たれたかのように驚き、動きを止めた。
丁原は自分がおぼろげながらも先を知っている自分に気がついていたのか。
彼の質問に口を開こうか逡巡している内に、丁原は一つ頷いた後に床に手を付いて深く頭を下げたのだ。

「呂布のことを、お願い致します、天代様」
「……はい、お任せ下さい」


―――

翌日。
深夜に容態が悪化した丁原は、華佗の治療の甲斐なく天に昇った。
死に際は笑顔であったと華佗は悔やみながら話してくれた。
一刀が去った後に、呂布とは話をしていたのだろう。
離宮であり禁裏である筈の一刀の部屋まで一人で乗り込んできて、呂布は濡らした瞳を携えて一刀の前に現れたのだ。
そして言った。

「……原爺が、ここに居ろって」
「ああ、此処に居ていいよ」
「……セキトとか、動物達も」
「分かってる、手配しておくよ」
「……」

それは劉協にもまだ、許可を得ていない話であったが、一刀は約束した。
その約束に、コクリと言葉無く頷いた呂布は、そのまま俯いて唇を震わす。
一刀は、呂布へとゆっくりと近づいて、懐から取り出した布を顔へと宛てた。
僅かに顔を上げた呂布へ、一刀は笑って言った。

「泣いてもいいんだよ」

言葉と共に、静かに抱擁すると呂布は一瞬身体を震わせて―――子供のように泣きじゃくった。
声を出して、下唇を噛み、途切れる事無く両の目から雫を垂らした。
泣き止むまでずっと、胸を貸して一刀は呂布をその腕に抱いていた。

こうして天代、北郷一刀の元に、飛将は舞い込んできたのである。

まだ少し肌寒い、洛陽の春の頃であった。


      ■ 外史終了 ■






[22225] あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編2
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2010/12/19 20:23
clear!!         ~頭で撮る記念写真の数々、決めポーズを記憶に残すよ編2~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編1~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編2~☆☆☆





      ■ ぴったり(一刀、劉協、音々音、恋、華佗)


呂布を迎え入れた翌日の朝に、それは起きた。
眠っている時に感じ始めた重み、そしてそれと共に鼻をくすぐる甘くて良い匂い。
寝苦しさを感じて薄ら眼を開けると、何か赤い物が自分の右腕に乗っかっている事を知った。
モゾリと動いたその赤い物。
僅かだが人肌のような物と、おうとつを作っている輪郭が見えた。
寝起きにも関わらず、北郷一刀の意識は最速で起動する。
息を吸うのを忘れたかのように、一刀は目の前の物を凝視して……その物体が上下に呼吸を繰り返しているのを
確認すると同時に確信に至った。
一刀の胸の近くを圧迫して寝苦しさを与えていた原因は、異性の人間、おそらく呂布。

胸を貸して、さんざんっぱら泣きまくった彼女はそのまま眠ってしまったのは覚えている。
寝具へと苦労して運び、その後に一刀は華佗と共に酒を飲んだのも。
丁原が病を患ってしまったのは、或いは援軍を急かした自分のせいではないか、とか
まさか本当に死んでしまうなんて、とか色々と愚痴をぶちまけていたのだ。
華佗も丁原を救えなかった事は悔やんでいたのか、二人で結構な量の酒を飲み
随分と深酒になってしまったような記憶はある。

だが、呂布と一緒の布団で眠った記憶は全く無かった。

今思えば、何故もう少し寝苦しさに負けずに、寝ていられなかったのかと思わずには居られない。
一刀がその事実を知り慌てると同時に扉が開けられて音々音が現れた。
その扉を開け放った音に、何故か床で眠っていた華佗が眼を覚ます。
そして見る。
布団の中で呂布と抱いている様に見える一刀を。

「一刀殿、おは、っよなぁっ!?」
「ふぁ……もう朝か……おはよう、一刀、音々音」
「お、おまひょう」

一刀は不自然な体勢で挨拶しきれなかった音々音と
何時も通り極自然にあくびを一つかまして起きた華佗にピヨった朝の挨拶を交わした。

基本的に毎朝、一刀は音々音に起こしてもらっているのだが
その起こし方は様々である。
それは一刀の眠っている顔をペチペチと叩いたり、肩の辺りをゆすったり
華佗の目が覚めていない時には耳元で囁いたりする物であったが
流石に、布団の中に入ってくる、或いは飛び込んでくる、潜り込んでいるというものは無い。
眠る少女を抱いた状態で朝を迎えたことは、一刀……少なくとも本体にとっては初めての体験だった。

自分の腕の上で気持ち良さそうに眠っている呂布を起こして、事情説明させる為の手を打ちたい気持ちと
泣きつかれて眠っている彼女を起こすのは忍びないと思う気持ちがぶつかりあって
中空に揺らいだ空いた左手は、特に目的もなく彷徨った。
下手に動けば起こしてしまいそうなので、体制を変えることも侭ならない。
とはいえ、このまま凍った時の中を過ごしたくは無い。
一瞬でそれだけの葛藤を抱えた一刀の悩みを砕いたのは、同じように固まっていた音々音だった。

「ちんきゅぅぅぅぅぅ」
「ハッ! ま、まった、何をするつもり―――」
「キィィィィッック!」

一刀の制止は間に合わず、器用に一刀の居る場所を避けて叩き込まれる音々音の必殺技。
わき腹の下辺りに鈍い音を響かせて、武名広まる呂布へと直撃させていた。
その蹴りの衝撃を利用して空中でクルリと回り、ピタリ着地。
陳宮のその動きは実に華麗で、思わず華佗が拍手するほどであった。

「……ん?」

流石に今の一撃は目が覚めたのだろう。
呂布は吐息しながらゆっくりと身体を起こすと、ぐるり周囲を見回した。
眼を擦りながら、自らに走った衝撃を起こした人物。
異様にいきり立ちビシリと彼女へと指を向けている音々音と視線が絡む。
そこで初めて、音々音は自分が蹴りを入れた人物が誰なのか気がついた。
一人で3万の黄巾党を追い払い、分身体を作ることが出来る呂奉先その人であることに。

「か、一刀殿を誘惑することはねねが許さないのです!」
「……うん?」

何が起きたのか分からない様子でビシリと指さす音々音を見て首を傾げ、拍手する華佗を見る。
しばし茫洋と華佗を見てから、そして最後に視線を一刀へと向けて、再び頭から突っ込んでくる。

「……ふわぁ……んっ」
「そ、そこで寝るなですーっ!」

流石に今度は呂布と分かったからか、それとも少し落ちついたのか
両手を挙げて呂布の腰のあたりを引っつかんで力む音々音。
体重差から考えて、動くはずは無いのだが音々音としては必死である。
そんな中、どうしようかと思案していた一刀は動くと何か色々とまずいので、動くに動けなかった。
朝のアレが襲い掛かってきていたからである。
正直、圧し掛かる呂布のアレの感触のせいで悪化の一途を辿っている。

「ん……うるさい……」
「う、う、五月蝿いですとぉぉ!?」

『あ、ちなみに余り五月蝿いと恋の戟が飛んでくるかも知れないから、静かにね』
(そういうのは早く言えっ! ねねが危ないじゃないか)
『ハハ……そういえば桃香が髪の毛斬られてたっけ……』

黙っていた脳内が突然、あまり嬉しくない貴重な情報を齎してくれる。
動くことままならぬ一刀は、とりあえず華佗に助けを求めることにした。

「か、華佗、助けてくれ」
「さて、朝食にするとしようか」

いたってマイペースで華佗は立ち上がると、そんな事を言いながら歩き始めた。
この件については見なかった事にするつもりらしい。
真面目な顔してるのに頬を引く付いているのが、その証拠だ。
そんな我関せずを心に決めたであろう華佗はきっと正しいのだろう。
一刀は必死に懇願した。

「か……華佗っ……頼む! 命を救うと思って……」
「ぬぬぬ、そっちがその気ならばねねにも考えがあるのですぞ!」
「一刀、先に食べてるからな」
「……むぅ~」
「は、薄情者ーっ!」
「てぇーいっ!」

一刀の怨嗟の声と殆ど同時、やたら気合の入ってる声が聞こえた瞬間に
呂布の乗る右側半分ではなく、左側から何か柔らかい物が衝撃と共にひっついた。
両手というよりも、両腕に花と言うべきか。
男としてはこの状況は嬉しいのだが、朝っぱらからこんなに難度の高い状況は止めて欲しかった。
嬉しいのだが。

「はなれるのですー」 などと言いながら、手で呂布の肩や頭を押しだそうとする音々音に
一刀は顔を青くさせながら地味に体勢を変えて、呂布を防御しつつ
そんな攻防など知らぬとばかりに 「う~~」 とか 「ん~~」 とか唸りながらも眠る呂布を眺めてる内に
一刀はだんだんと、もう一度寝てしまおうかと考え始めた。
一度そう考えると、凄く良案な気がしてくる。
次に起きたときはきっと、この妙な状況も改善されていることだろう。
そう思い、全てを忘れて眼を瞑ろうとした直前に、手の止まった音々音から妙な重圧を感じ取り視線を向けた。
眼が、据わっていた。

「一刀殿」
「な、なにかな」
「……後で、詳しく、お話を、聞かせて、戴くのです」

一語ずつしっかりと区切って良く分かる様に言った音々音に、一刀は声を震わせながら短く了承を返した。
ちなみに暫くの間、呂布が覚醒に至るまで三人でぴったり、くっついて寝転がる事になり
一刀はとても落ち着かない時を過ごす羽目になった。


      ■ 続・ぴったり


「おはようございます、劉協様」
「おはよう、一刀、ねね……うん?」
「おはようございます、天代様」

卓に並べられた、朝食と呼ぶには豪勢かつ、一人で食べるには少々過剰な量である皿を突きながら
朝の挨拶を交わす。
既に華佗は食事を終えて、戦で傷ついた兵士達を診察すると飛び出して行ったそうだ。
椅子に座り、朝食を取ろうとする一刀をチラリと見る劉協。
そんな一刀の隣に座った音々音に視線を移して、最後に音々音とは反対側に座った赤毛の少女を見やる。

「今日も無駄に多いなぁ」
「勿体無いのです」

ここの生活にも随分と馴染んだのか、一刀と音々音は極自然に朝食を取り始めるのに対し
劉協が箸を止めて観察する呂布は、料理の並ぶ器を前にじーっと動かず。
そんな二人の様子を暫くしてから気がついた一刀は口を開く。

「あ、劉協様。 この子は呂布です」
「はぁ……呂布……え?」
「で、このお方は帝の娘である劉協様。 隣に居る方は段珪殿だよ」
「お噂は聞いております、呂布殿。 此度の戦はご苦労様でした」

段珪殿は冷静だな、と一刀は感心しつつ呆けたように視線を絡める劉協と呂布を見た。
昨日飛び込んできた呂布を、離宮に住まわすには目の前のお方、劉協の許可を得なければならない。
他にもいろいろと面倒な手続きはあるのだろうが、まずはこの人からだ。
丁原、そして泣きはらした呂布と約束した一刀が酒に溺れながら出した結論はこうだった。
朝会わせてみれば多分なんとかなるだろう。
そう力強く導き出した結論に従い、一刀はごく自然に振舞って食事を始めたのだが。

「……」
「……」

『見てるな』
『ああ、見てる』
『大丈夫なのか?』
『どうだろうな……』
(だ、大丈夫だよ、きっと)

無言で見つめあう二人を眺めている内に、前もって一言くらいは言っておいた方が
良かったのでは無いかと不安になり始めた一刀である。
何せ昨日は、呂布が眠った後に戻った華佗を最速で誘い酒に溺れた。
黄巾相手にはしつこい位に対策を考えていた一刀も、呂布に関しては全くノープランで突っ込む事になった。
しかも、今回は音々音の援護も見込めない。
むしろ、下手を打てば今朝の様子から敵に回りかねないだろう。

そんな中、先に動いたのは呂布であった。
視線をスッと下げて豪勢な料理を一瞥し、再び劉協へと顔を向けると手を合わせて頭を下げた。
それは礼であった。
身分が上の者に対して行う、忠を示す礼を受けて
驚くように劉協は身を一つ震わせ、そんな彼女を凝視する。
再び頭を上げた呂布は、そこで初めて口を開いた。

「……食べて、いい?」
「え? え、ええ、構いません」

おそるおそると言った様子で、食事に手をつけると、やがてその勢いは増していき
軽快に出された料理を口の中に入れていく。
依然呆けたまま見つめる劉協に、一刀は口を開いた。

「えっと、丁原さんが亡くなってしまって、呂布を引き取ったんです」
「……はぁ」
「それと彼女の家族……と言っても動物なんですが、面倒を見ることにしました」
「ええ……」
「というわけで、呂布も一緒に離宮に住まわせたいのですが」

放心しかけているのをこれ幸いと、一刀は一気にそこまで畳み掛けた。
最後の言葉に反応したのか、劉協はそこでようやく一刀へと視線を向けると一つ溜息。
眼を瞑り、今の話を噛み砕いているのだろう。
そんな時、それまで一連のやり取りの中で沈黙を保っていた段珪の口が動いた。

「呂布殿と言えば長安方面の賊を一軍で蹴散らしたそうですな」
「ええ、その噂は真のことですよ」
「護衛にはうってつけですな」
「それはもう……どうですか、劉協様」
「はぁ、分かった……ちょっと驚いたけれど問題が無いのならば許可します」

腕を組んで考えていた劉協も、嘆息と共に是を返してくれる。
後で詳しい話を求められるのだろうな、と思いながらも一刀はほっとした。
この離宮に居る中で最高位の地位を持つ者に、認められたのだ。
呂布はこの時点で、此処に住めるようになったと言って過言ではないだろう。

そんな安心した一刀を見て、話がひと段落ついたと感じたのだろう。
呂布は食事の手を休めて一刀の腕に身を寄せた。
驚く一刀と音々音を置いて、一つ首を傾げてから再び食事に没頭する。
一拍遅れて、反対側の音々音も同じように一刀の腕へと身を寄せる。
両腕を封鎖された一刀は、仕方なく卓上に箸を置いて食事を止めることになってしまった。

「ほっほ、両手に花ですな一刀殿」

茶化すように茶を飲みつつそう言った段珪。
心なしかジト眼で見られている劉協へ向き直り、一刀は薄く笑った。

「……問題がなければ、許可します」
「ハハハ」

先ほどより、やにわに声のトーンが下がった劉協がそう言った時であった。
外から声が掛かり、劉協の許可を得て静々と一人の宦官と思われる男が入室すると
挨拶もそこそこに、一刀へと視線を向けた。
そして言った。

「天代様、帝がお呼びで御座います」


      ■ 籠の鳥(一刀、帝、趙忠、張譲)


一刀は一人、指定された宮の庭園へと向かってゆっくり歩いていた。
流れる雲を見ながら、考える。
劉協が呂布と出会った日から連日、こうして一刀は帝の元へと招かれていた。
こうして呼ばれるのも、もう既に2週間に及んでいた。
何か大事な用事であるのかと思えば、他愛のない世間話に終始して
やがて政務の時間になると帝と別れる。
その、繰り返しだった。

帝との関係が良好であるのは一刀としても好ましい。
彼と実際に触れた人柄を、一言で表すならば『良い人』ということに尽きる。
個人の感情として劉宏と仲が良くなる事は嬉しいのだが、消せない不安感は彼の権力と帝という地位。
そして、周囲に必ず控えている宦官の存在のせいだろうか。
何かしら感情の篭る視線をぶつけてきて、居心地の悪い事この上なかった。
なまじ宦官によって漢王朝が腐敗しているという知識を持っている分、余計な先入観を抱えているという側面もある。
はっきり言って、劉宏と会う際は何とも言えないモヤモヤした気持ちを抱えてしまう。
一刀達は、幼女嗜虐趣味と噂が流れたのは天代という身分となり、一足飛びに出世した自分を疎んで
宦官から流されたのではないかと、予想していたからなお更だった。

『帝と会って仲を深める、か』
「……実際、どうなんだと思う?」
『なんとも言えないな……』
『劉宏様自身は特に何か裏がある訳ではないと思うけれど』
『宦官が何か考えてそうで』
『裏、ありそうだよなぁ』
「そうだよね……」

「誰と話しているのかな?」

脳内と会話を繰り広げていた一刀は、ふいに呼びかけられて振り向いた。
光の照り具合だろうか、もしゃりとした茶色がかった髪。
眼の下に僅かに見える刺青の様なものが印象に残る、幼い顔立ちを残した少女……と思ったのだが
着ている服はいまや見慣れた宦官の物。
両手で抱いている熊の人形は幼さを加速させているよう見えた。
中性的な雰囲気を持つ宦官を見つめた一刀にクスリと微笑む。

「はじめまして、天代様」
「えっと、君は……」
「え、見て分からない? 宦官だよ」
「いや、それは分かるけど……男?」
「そうだよ、何を当たり前の事を言ってるの?」

腕を組み首を傾げて、眉を顰めながらじっと見つめる。
見た目と仕草から、女性らしさしか感じない目の前の子は、どうやら立派な男らしい。
確かに胸は無いし、良く見れば肩幅も広いような気もするのだが
それほど性差の出ない年齢ゆえか、女性と言えば通じそうな容姿である。

「ああ、信じてない? 結構間違えられるんだよね。 ほら、これなら信じられるんじゃない?」
「ちょっ、良い、分かった、信じるから止めてくれ」
「あはははっ、冗談だよ、流石にこんなところじゃ脱がないよ」

服を捲り上げようとする素振りを見せて一刀をからかった目の前の宦官。
名を聞いて、一刀は再び空を仰いで雲を眺めることになった。
心に冷静さを取り戻す必要があったのだ。
彼は性を趙、名を忠と言うらしい。
一刀は三国志で宦官の名前をほとんど覚えていない。
覚えていたのは宦官の中でも特に存在感のある張譲と―――目の前に居る趙忠だけであった。
名を聞いて驚き固まった一刀に、不思議そうな顔を向ける。

「驚く人は多いけど、そんなに驚いた人は初めてだよ。
 少し失礼なんじゃないかな、天代様」
「あ、ああ、すまない、趙忠殿」
「顔が戻ってないんだけど……器用だね」

取り繕ったように本体は言ったが、脳内の衝撃が尾を引いて驚愕した顔のままであったようだ。
手で顔の造詣を治すように何度か揉みしだく。
基本的に、帝と会う場所はこの庭園であり、宦官とくっ付いて赴くので趙忠が此処に来るのは自然でもある。
ただ、今までは重厚な雰囲気を醸し出す爺さんや中年の方ばかりだったので
趙忠の容姿はかなりの変化球であった。
熊の人形は帝から賜った物だそうで、随分と大切に扱っているとの事である。
今日は趙忠殿が帝の側役なのかと問えば否と帰ってくる。
何でも彼は一刀と会ってみたかったらしく、政務を預けて休憩中にこちらへ顔を出したというのだ。

「おや、誰と話していると思えば」
「あ、劉宏様」
「……趙忠、政務はどうした」
「気になって見に来ちゃった、ごめんね譲爺」
「良いではないか。 趙忠も共に来よ」
「帝、趙忠には外せない政務がありまする」
「久しぶりなのだ。 少しくらい話す時間はないのか」

張譲を連れ立って訪れた帝は、趙忠も誘ったが即座に断られてしまう。
一度追いすがるも、強い調子で首を振られて劉宏は引き下がった。
やれやれ、とでも言いたそうに頭を一つ振って仕草だけで趙忠に出て行けと指示する張譲。
二人のやり取りを眺めながら、少し残念そうにして微笑んでいた帝だったが
やがて一刀へと耳を寄せた。

「待たせてしまったな、退屈だったか?」
「いえ、大丈夫ですよ」
「うむ、それならば良いのだが……さて、少し歩こうではないか
 また天の話を聞かせてたもれ」
「じゃあ今日は、街の様子なんてどうですか」
「おおう、天の街か、それは興味深い」

帝の最近の楽しみは、一刀と共に過ごすこの散歩の時間であった。
基本的に宮内の中で生活を終える彼に、一刀が話す世界はとても珍しい物であったのだ。
楽しそうに話ながら歩を進めて、離れゆく帝と一刀を追いかけようと
張譲が歩き始めた時だった。
服の裾を引っ張って、彼の歩みを止める。

「なんだ?」
「ねぇ譲爺、天代様は何時まで居るのかな?」
「……政務に戻れ、趙忠」
「邪魔だよね、あいつ」
「……」

笑顔で語りかけてはいるが、その眼は笑っていなかった。
眉根を顰め、目を細くし張譲は趙忠を見下ろした。
威圧感さえ伴うその視線をものともせず、肩を竦めて熊の人形を振り回し踵を返す。
やや歩き、何かに気がついたかのように趙忠は立ち止まって振り返った。
その表情は拗ねたように口を尖らせていた。

「ああ、そっか、もしかして劉宏様に会わなければ良かったのかな、僕」
「……趙忠」
「もう、少しくらいは話してくれてもいいじゃん。 頭硬いんだからさ」
「何か話すことがあるとでも?」

手の中で玉を転がし始め、それを眺めつつ尋ねた彼に趙忠は一つ笑うと
手に抱く人形を抱えて真っ直ぐに見つめる。

「無いの? 府抜けたね、譲爺。 誰かにハメられる前に僕が殺してあげようか?」
「殺す? くっくは……ははは」

そこで初めて、張譲は表情に変化を見せて、くぐもった笑いを零した。
何が可笑しいのか、眉を顰める趙忠を無視して踵を返すと、手に持つ玉を懐に入れて言った。

「太陽を見れば、眩しすぎて人は目を眩ませる物だ」
「え?」
「目が眩んでいる間、何かを見る事は難しくなる」
「……何それ、様子を見ろってこと?」
「政務に戻れ、趙忠」

話す事はもう無いとばかりに、張譲は無言で帝と一刀の後を追いかけて歩き始めた。
一瞬追いすがろうとも思ったが、これ以上問答を重ねても張譲が何かを話すことは無いだろう。
靄っとした気持ちを抱えて、彼は大きな息と共に口を開いた。

「意味分からないよ、本当に耄碌したかな?」

一つ愚痴ると、趙忠は抱えた人形を振りまわしながら宮内へと戻って行った。


―――


談笑も一区切り。
自分の知る街の様子を大体語り終えた一刀は、花壇に咲く花を見る帝を眺めていた。
劉宏は背はほとんど一刀と変わらないが、横に随分と伸びている。
この世界に降り立って、図体の大きい人は見ても、肥えたと言える様な人を街で見た事は殆ど無かった。
体躯一つだけでも、宮内に居る人々と街に居る人々には違いがある。

一刀は元の世界の町の様子を話すと共に、自分が見てきた洛陽、そして陳留の街の話も交えて語っていた。
聞いている反応を窺っていると、帝も政務に無関心という訳ではなさそうだった。

「一刀、天の国は素晴らしいところだのぅ」
「そうですね……」
「この漢にも、一刀の国の事を上手く取り入れられぬだろうか」

眺めていた花を一つ摘んで手に取り、劉宏は呟くようにそう言った。
出来るか出来ないかという話であれば、難しいと答える他ない。
一刀自身、脳内の皆と共に考えた事はあったが、出てくる案は何をするにしても金と時間がかかってしまう。
そして、その莫大な金と時間を使って出来上がる物が成功するとは限らない。
更に、今の漢王朝は民から信を失いつつある最中だ。
黄巾党の乱は洛陽での戦いを終えた今も、次々に各地で湧き上がっている。
首都、洛陽を中心に歪な輪を描いて。

「……張譲、どうかのぅ」
「興味深いお話ですが、今は不可能でしょう」
「そうか……我が民には苦労ばかりをかけているな」
「仕方がありません。 今は民に耐えていただく他ないでしょう」

そんな各地で乱が起きている現状は、劉宏も聞き及んでいる。
何とかしてあげたいと思うが、何をすればいいのか分からないのだ。
張譲を筆頭に、宦官達にも意見を求めたが今のやりとりと似たような形で
同じような答えを返されてしまうのが常だった。
一刀も同じ事を良く尋ねられるのだが、一刀とて一国の政治に携わった事など無い。
脳内の自分が国政を取り扱った物も、この漢王朝では何処まで参考になるのかは不透明に過ぎる。
故に、一刀もこの件については押し黙ることしか出来なかった。

「仕方の無いことか。 そうかも知れん……」
「劉宏様、では天代様とお話する機会を戴けませぬか」
「ほう?」

張譲の声に劉宏は疑問の声を上げる。
一刀も思わず、彼の方へと訝しげな視線を向けてしまう。
ここ連日、帝と共に一刀の話を横で聞いていて、その発想に甚く関心を呼んでいたらしい。
一度腰を据えて話し合い、良いところは積極的に取り入れてみるのも面白いかも知れないと
張譲はそう思ったのだそうだ。
例えば、それは駅で使われていた待合掲示板の話であったり、メモの話であったり。
大きく変革を起こすような改革などではなく、ちょっとした生活に役立つ話などに興味を引かれたのである。

「ふむぅ、一刀どうだろう。 張譲に時間を取ってやれぬか」

劉宏に尋ねられ、一刀はしばし黙した後に笑いながら頷いた。
そして、張譲を見て口を開く。

「俺は構いませんよ。 天代なんていう大層な身分を戴いたのですから。
 少しくらいは役に立たないと、追い出されちゃいますし」
「はっはは、洛陽を守った漢王朝の天の御使い、それを追い出すことなど誰ができましょう」
「張譲さんにそう保証してもらえると、とても心強いですね」
「心強いとは。 何か心当たりがお在りですか」
「いえ、しかし張譲さんは権威あるお方でしょうから、そう申したまでです」
「では私の余計な勘繰りでしたかな? それならば良い事です」

コロリ、コロリと手の平で玉を転がし眺め始めた張譲は、薄い笑みを貼り付け言ってから、僅かに頭を垂れた。
一刀は張譲の様子を見て一つ息を吐き、きょとんとした様子で二人を見やっていた劉宏へと向き直った。

「じゃあ、これからは張譲殿と会う時間も設けることにします」
「う、うむ……二人で力を合わせて漢王朝を良く導いてくれよ」
「はい、頑張ってみます」
「御意」

劉宏と張譲が連れ立って去り、庭園に残された一刀は先ほどまで帝が眺めていた花に近づいた。
一刀の脳内は、分からない、とか読めないなどと騒がせていたが
とりあえずは様子見ということに落ち着いたようだ。
立ち去る一刀を送り出すように、風が吹いて花は揺らいだ。
陽に爛々と照り返す力強い赤い花をつけて、百合車は綺麗に咲き誇っていた。


      ■ 友との再会(劉備、公孫瓚、皇甫嵩、盧植)


洛陽の城へと入る門の前。
二人の女性が中へ入ろうとし、微妙に騒いでいた。
盧植と劉備である。

「お邪魔しまぁ~す」
「おい、不審者にしか見えんぞ。 早く門を越えろ」
「だって、緊張しますよぉー」
「緊張なんかしないで良いから。 そもそも……」

そこで言葉を区切って、彼女はぐるりと周囲を見回す。
門の前なので、宮内の警備と思われる兵がちらほらと見え、文官らしき人がちらりと覗ける。
そのくらい、閑散としている場所である。
こんな場所で変に遠慮していれば、それこそ目の前の兵士さんに何しているのか問われかねない。

「誰もお前になど注目しておらん。 早く行くぞ玄徳」
「ま、待ってください先生っ!」
「……なんだい」
「良いですか先生、あえて今の私の心境を言うならば
 千尋の谷に突き落とされる獅子の子供が、崖に追い詰められて震えているような―――」
「行くぞ」
「ああっ、最後まで聞いてぇー!」

劉備も、これが例えば地元の権力者などであれば尻ごみなどしないのだろうが
事、漢王朝のお膝元である洛陽の宮内へ足を踏み入れるのは初めての事であり
故郷では大陸に住む邑の一庶民であることを鑑みれば、こうして恐れ多いと思ってしまうのも仕方のない事だった。
それは盧植も理解しているのだが、如何せん劉備の風貌は目立つ。
門の前で騒ぐ彼女達に、様子を窺っていた門兵が近づいてきたのを視認すると
盧植は一つ溜息をついた。

「まったく、相変わらず手がかかる」

それで居て、何故か嫌じゃないのだから羨ましいことだ。
腰に手を当てて嘆息する盧植へ、一人の兵が代表するかのように前へ出ると口を開いた。

「どうされました」
「いや、皇甫嵩将軍の元に向かう途中なだけだ。 これを」
「ふむ、確かに。 では私が案内いたしましょう」

通交の許可を示す書を見せると、頷いた兵は案内を申し出たので
その好意に甘えさせてもらい、盧植と劉備は皇甫嵩の元まで向かった。
初めての洛陽の宮内ということで、劉備は色々と落ち着かない様子を見せて
時に綺麗に咲く花や草木に足を止めたり、華美な建物に釣られてふらりと道を外したり
そのたびに盧植から頭を叩かれたりしながら、ようやく目的の場所に辿りつく。
扉を何度か叩き、盧植が声をかけると何拍か遅れて物音が響く。
僅かな間を置いて、皇甫嵩は扉を開いて盧植を迎え入れた。

「久しぶりだな、義真」
「ああ、何時振りかな。 元気そうで何よりだ子幹」
「ふわぁ!?」

言いながら握手を交わし、軽く抱擁を重ねてすぐに離れる。
その二人の行動をバッチシ間近で見た劉備は、驚くと共に素っ頓狂な声をあげて頬を染めた。
そこで初めて気がついたように、皇甫嵩は尋ねた。

「この子は?」
「劉備だ。 私の教え子でな……今日はこの子の為に来たと言ってもいい」
「ほう……はじめまして。 私は皇甫嵩だ」
「は、はじめまして、劉玄徳ですっ」
「ははは、愛らしいな……まぁ座ってくれ。 茶でも出そう」

暫しの歓談を交えて、皇甫嵩と盧植は昔話に花を咲かせた。
劉備もその性格故か、しっかりと二人の会話の中に混じって思いのほか盛り上がる。
楽しい時間はすぐに過ぎ、やがて話は本題へと移っていった。
そう、劉備は天の御使いである北郷一刀に会いたい想いを抱えていたのだ。
自らの師であった盧植に、どうにか会えないかと相談した所、彼女がかつて宮内で努めていた際に
友誼を交わしていた皇甫嵩の事が思い出された。
皇甫嵩は、先の洛陽での戦の際に天の御使いと共に戦場を駆けたそうである。
そこで盧植は、聞いてみるくらいならば良いかと皇甫嵩へ会わないかという書を認めて打診。
先日、返って来た書と門の通行証によって、今日会うことになったのである。

この話を聞いた皇甫嵩は、腕を組んで渋い表情をした。
如何に旧友の頼みとは言え、天代である一刀と引き合わせる事は憚れたのだ。
たった今、知ったばかりの少女の人柄は暖かい物を感じさせるが
それでも帝に気に入られ、最近では宦官とも仲が良く、政務に励んでいるという一刀に
一般の庶人に過ぎない目の前の少女を紹介して万が一何かあれば
それこそ皇甫嵩は悔やむ事になるだろう。
何より、天代である北郷一刀の人気は凄まじい。
変に引き合わせて余計な波紋が広まれば、彼女自身も何かしら言われておかしくない。
むしろ、後ろ盾のない劉備の方が危険になる可能性もある。

「すまん、この話は受けれないな」
「そ、そんなぁー」
「そうか、いや駄目で元々と言う話だったんだ。 駄目だというならば仕方が無い」

肩を落としてうな垂れる劉備を見ながら、盧植は苦笑を混ぜて彼女の肩を叩いた。
盧植としても、時の人となった天代にホイホイと会えるとは思っていなかったのだ。
この皇甫嵩の返答には、彼女自身も予測していたので劉備の反応も想定内だ。

「駄々を捏ねるなよ。 良い酒を用意してあるんだ、一緒に飲もうじゃないか」
「……先生、最初から分かっていたんですね」
「馬鹿をいうな。 9割以上駄目だろうと思っていただけだ」
「それって全然期待してなかったって事じゃないですか……」
「そうとも言うか」

二人のやり取りに、だんだんと心苦しくなってきた皇甫嵩は話題を逸らそうと
盧植へ向き直り口を開く。

「そうだ、子幹。 お前もこっちへ戻ったらどうだ。
 今は宦官共も天代様に目を向けているし、党錮の禁も解けた。
 私が口を利いてやれば、尚書くらいにならば斡旋できるぞ」
「ふむ……しかしな」
「それに、お前が尚書になれば宮内との繋がりが出来るではないか。
 劉備殿も、天代様と出会える機会に恵まれるかも知れない」

話題を変える為に振った話ではあったが、話してから妙案ではないかと皇甫嵩は思い至った。
盧植という人物を知ると、どれだけ清廉であることかが分かるだろう。
面倒見が良く、聡明で、武にも文にも通じる一時は太守も任される程の者だった。
党錮の禁により、不遇な時代を迎えてからも腐る事無く、庶人達に文字を教え学問を説いてきた彼女を
在野の士のままで居させることは、漢王朝にとっても損失となるだろう。
それに、皇甫嵩は何かしらの役職を与えれば、目の前の女性はその仕事を怠らないことを知っている。

「っ! 先生!」
「……ふぅむ」
「やります! 皇甫嵩さんっ! きゃぅん」
「人の道に勝手に答えを出すな、馬鹿者」
「おふっ!?」

室内に何処から取り出したのか、竹の棒のような物が見事に劉備の頭部にめり込んでいた。
余りにも大きな音が鳴り響き、茶を飲んでいた皇甫嵩の方が驚いて、口と鼻から溢してしまう。
目の前の劉備と盧植に飛ばさなかったのは、彼の意地であろうか。

「いーたーいー! 冗談だったのにぃ」
「とても冗談とは思えなかったが……しかし、考えさせて貰うよ、義真」
「あ、ああ……」

曖昧な返答を返して、皇甫嵩の仕事の邪魔をするのも悪いと言う事で二人は
皇甫嵩が書いた竹簡を受け取って退室した。
不満そうな劉備の頭を軽く叩いて促し、宮内の門を目指す。
何かを考えるように歩く盧植は、来た時とは打って変わって背後に縦線が見えるほど沈んだ劉備を従えて
門の出口の近くに辿り着くと共に足を止める。

「ここは、境界だな」

突然、奇妙な事を言い出した盧植に不思議そうに顔を上げた劉備。
視線は開けた門の先に在る、洛陽の街の大通りへと注がれていた。
釣られるように、劉備も外へと視線を向ける。
大きな馬車がこちらへゆっくりと向かっており、何人かの兵を連れ立っていた。
何処かから来た諸侯だろうか。
その諸侯の兵と思われる者が、通行証と思われる物を持って飛び出してきた。

「公孫瓚様のご到着です。 これを」
「む、確かに受け取った。 馬はこちらで預かる由、伝えておいてくれ」
「分かりました」

兵のやり取りが聞こえてきて、盧植と劉備は顔を見合わせた。
とても聞き覚えの在る名が呼ばれた気がしたからだ。
馬車を預ける為だろう。
そこから降りて見えた人影は、二人にとって懐かしい面影をしっかりと残す
公孫瓚その人であった。

「わぁぁぁ! 白蓮ちゃぁーん!」
「ん? うわっ!」
「何者だ貴様! ご無事ですか!」
「あいたたた、痛い痛い」

駆け出した劉備が公孫瓚の胸元に飛び込んで、当然のように周囲の兵に押さえつけられる劉備が騒ぎ立てた。
驚き戸惑った公孫瓚ではあるが、その下手人の顔を覗きこむと同時に歓喜の声をあげる。

「桃香じゃないか! おい、大丈夫、私の知り合いだ。 離してやってくれ」
「うう、なんか先刻から痛い思いばかりしてる気がするぅ」
「ごめんごめん、でもいきなり飛び込んでくるのが悪いんだぞ」
「それは、えへへ、嬉しくて」
「変わらないなぁー、先生と一緒だった時以来じゃないか……って、え? あれ? 盧先生!?」

公孫瓚が気付いたのを見て、彼女は片手で片眼鏡を治しつつ開いた腕を振った。
慌てて公孫瓚は劉備を起こして、共に盧植の元へと近寄ると礼を取る。

「お久しぶりです、先生!」
「元気だったか、白蓮」
「おかげさまで……劉備といい、懐かしい顔ぶれに思いがけず再会して嬉しいです」
「あはは、白蓮ちゃん固いよー」
「もう、茶化すなよ……ところで二人とも、どうして此処に?」

理由の説明は、殆ど桃香が話した。
劉備の行動力に呆れた顔を向けたり、盧植に役職が与えられるかも知れないという話に喜んだり
逆に公孫瓚がどうして此処に来たのかを問われたり。
公孫瓚は、異民族との緊張状態がやにわに解消されたのと同時に舞い込んできた
洛陽の変事を知ると、即座に軍勢を率いて急いで向かったのだという。
結局、この洛陽に到着する前に波才率いる黄巾党が敗北したのを知って彼女の行軍は無駄に終わった。
戻ろうかとも思ったのだが、せっかく向かったのだからと兵だけを帰して
洛陽へと色んな街の視察を兼ねつつ来たのだそうだ。

「でも、戻らなくて良かったよ。 こうして桃香にも会えたしね」
「うんうん、本当だよぉ」
「桃香、今日は白蓮の元で過ごしたらどうだ。 積もる話もあるだろう」
「え? うーん、いいのかな?」
「私は構わないよ、話は通しておくからさ」

再び宮内へと楽しそうに会話を交わして劉備と別れると、盧植は一つ息を吐いて
皇甫嵩に貰った竹簡の上を指でなぞる。
漢王朝の今の在り様には、強い不信感を抱いている。
尚書として働くのもいいが、庶人の生活と営みを知った今では前のように働けるかどうかは疑問だった。
そういえば。
劉備と共に飲もうと酒を頼んでいたのだった。

「しまった、無駄になってしまったな」

結構な値段な上、前払いで支払ってしまったので取りに行かなくては勿体無い。
一人で飲むには量が多いし、何より寂しい。
今から劉備と公孫瓚を呼ぶのも、間を外しすぎていた。
今日は深酒になりそうだと思いつつ、彼女は門を潜って洛陽の街へと繰り出した。


      ■ 荒ぶる天代のポーズ


ここ最近の一刀は、帝に宦官にと引っ張りだこである。
離宮へ戻ってくるのは何時も夕食を過ぎてから。
その日一日の出来事を遅い夕食をとりながら音々音と話して、疲れているのか早く寝てしまう。
音々音は補佐をしながら、一刀と宦官の纏めた書を机に置いて頭を悩ます時間が多くなった。
離宮で一刀に頼まれた物を処理しているので、あまり外に出る機会には恵まれない。
故に、彼女は一刀と同じく仕えている劉協や、護衛として置かれる呂布と共に過ごしているのだが。

「むぅ……」

二人共、何かをするでもなく日々を過ごしているのに気がつき
こう、なんというか音々音としてはちょっと不満を抱いている訳だった。
劉協はまぁ、分かる。
彼女は任された仕事など無い。
強いて言うならば、見識を広め知識を蓄え、何時か政に参加する時の為に勉学をすることくらいだ。
そして、定められた時間はしっかりと勉強し、音々音に限らず一刀にも街の様子などを聞いたり
庶人の生活にも興味を示しているし、良い傾向だと思う。
だから、これはいい。
しかし、問題は恋である。

彼女は一刀と劉協の護衛という立場ではある。
しかし、音々音が観察した限りでは食べているか寝ているか、はたまた動物と共に戯れているか。
当然、一刀が離宮を離れる時は一緒に外へ向かう時もあるのだが
護衛というよりは、怠惰な生活を送っているだけの様な気がしないでもない。
音々音にとって、仕事をしない人間というのは印象に良くなかった。
ついでに、やたらと一刀へと身を寄せるのも心象に良くなかった。
と、言うわけで。

「恋殿ー! ねねが仕事を用意しましたぞ!」
「……ん?」

セキトと共に戯れていた恋は、ピシャンと音が鳴りそうなほど引き戸を
思い切り開け放ちながら現れた音々音の言葉に首を傾げた。
そんな彼女を無視して、音々音は人差し指を顔の横に持っていき口を開いた。

「最近、一刀殿に送られる物が多すぎるので整理をして欲しいと段珪殿が仰ってたのです。
 しかし、段珪殿もねねもちょっと手が飽きそうも無いので
 手の空いている恋殿に掃除をお願いしたいのですぞ」
「掃除……掃除は得意」

思いのほかあっさり頷いた上、得意だと豪語する恋に、コクリと頷き後に付いてくる様に言うと
何故か愛用の武器、方天画戟を握りしめて音々音の後ろを素直に付いていく。
階段をくだり、それなりに広い部屋へと辿りつく。
そこには確かに、多くの物が乱雑に積み上げられていた。
それは宝石の類が貼り付けられた刀であったり、高価そうな装飾が施された壷であったり
使えそうな物から、何に使うのか分からない不思議な形状の物まで。
この部屋に在る物全てを市に放出すれば、それだけでそこそこ稼げそうなほどの物の数である。

とはいえ、一刀に送られてくるこれらの品は、正直扱いに困るのが本音だ。
受け取ってしまえば、賄賂と呼ばれ後ろ指指されても否定できなくなる。
漢王朝に降りた、天の御使いであることを名乗ってしまった以上
一刀には清廉であることが求められるのだ。
そうでなければ、今の民草に広まる爆発的人気が一転して憎悪に変わっていくことが容易に想像できる。
勿論、純粋な好意から送られてくる物もあるのだろう。
しかし、何も知らぬ者にとって受け取ってしまえば、それは賄賂と同じことなのだ。

では、突っ返せばいいではないかとも思うが、それも難しい。
食べ物など、そういった腐ってしまうような物はすぐさま突っ返してはいるが
受け取ったものは一時預かり、折を見て返さなければ敵を増やしてしまう事になる。
すぐに返せば、打算を含んでいるとはいえ相手の心象は良くなくなる。
天代という、高位の権力を得た一刀は様々な思惑から様々な人に近寄られる立場であるのだ。
自ら敵を増やすような事は、あまりしたくないと言った所だろう。

そんな贈物攻撃に耐えるのに、大きめの部屋を一つ丸々使っているのだが
連日連日、ドンドコ積み上げられていく荷物の量は増えていき
ついに整理しなければ部屋を飛び出してしまう一歩手前にまで追い詰められたのである。

「数が多くて大変だと思うのですが、一日でなくても結構なのでよろしくなのです」
「……分かった、でも一日で大丈夫」
「うむ、その意気ですぞ、恋殿……道具はこちらに用意してあるので」

そう、音々音が恋へと事を託した時であった。
音々音は、恋の言葉を意気込みと捉えたのだが、実際には違った。
恋は、本当にこの量をただの一日で終わらせるつもりであったし、その方策が見えていた。

「すぐ、終わる」

言うが早いか。
手に持った方天画戟を肩に担ぐと、真っ直ぐに振り下ろす。
大陸でも一番の武を持つと言われる、呂奉先の戟は寸分違わず贈物を押し潰し
あるいは引き裂いて積み上げられた一角が、一瞬で崩壊した。

「ああああーーーー!?」

恋は、音々音の叫びを無視して思うままに戟を奮い、品々を破壊していく。
時に方天画戟が床にめり込み、壁を砕き、窓を割った。
ソレは最早、掃除というよりも何かの解体に近かった。
確かに早い。
これを繰り返せば、遠からず部屋には残材しか残らないだろう。
破壊が掃除とイコールで結ばれているならば、恋は大陸一掃除が上手いことだろう。

「だ、駄目なのです! いったん止まるのです恋殿!」
「……ん?」
「これでは、ただ壊しているだけですぞ!?」
「壊した方が、片付けるの早い。 後で拾うほうが、楽」
「そ、それは確かにそうなのですが……」

音々音はここで後悔した。
掃除といわず、整理と言えばよかったのだ。
青い顔をして二の句を告げない音々音を見て、しばし黙考した恋は得心したように頷くと口を開く。

「ん、窓とか床は、気をつける」
「そ、それはありがたいのですが、最早手遅れというか」
「大丈夫、注意する」

そして再び、唸る方天画戟、揺れる建造物、飛び散る残骸。
破壊の音を響かせて、その場で諦めたように崩れ落ちた音々音の耳朶を響かせ
結局、数刻後に部屋は綺麗さっぱり片付いた。

後に、この一事を立ち直った音々音が利用して
天代は多くの者から差し出された賄賂を、全て破壊したという噂が流行した。
これに民は、更に天代の事を褒め称える事になるのだが。

結局、壊してしまった物はしょうがない。
止める手立ては無かったのだ。
そう割り切って、床に散らばった贈り物だった残骸を片付けている時に、恋はある物に気がついた。
それは奇跡的に、振り回された方天画戟の一撃から逃れ、全く傷を残さない布地。
パッと見は余り高価そうには見えない。
屈んで手に取ると、それは服であることが分かった。
何となしに広げてみれば、赤と白で構成された随分と簡素な服であった。
ただ、使っている布は触った事もない肌触りで気持ちがいい。

「恋殿、何を見ているのです?」
「これ……触ると気持ちいい」
「服、ですな……ふむ、確かに見たことも無い布を使ってるのです」

この部屋に在るという事は、天代へと送られた贈り物の一つだろう。
ただ、どう考えても男物のようには見えなかった。
確かに、男が着ても変ではないがどちらかと言えば趣は女性向けだ。
しばし見つめてた恋と音々音だが、自らの服に手をかけて脱ぎ始める恋。
その様子を見て、彼女が着てみるつもりである事を理解した。
どうせ捨てるものだし、一度も着られないで捨てられるのは服にとっても不幸な事だろう。

「ふむ、丁度いい大きさですし、ねねも着てみるとするのです」
「……着たら、多分もっと気持ちいいかも」
「むむぅ、そうかも知れないですな」

恋の声に、服を手に取った音々音は同意を返した。
丁度よく、恋にも音々音にも着れそうな物が2着で置いてある。
触り心地は、確かに今まで見てきた服のどれよりも滑らかであった。
ただ、この服。
どうも着付けが複雑なようで、どうやって着ればいいのか分からなかった。
上下で別れているようで、とりあえず袖はあるので、音々音はそこに腕を通してみた。
基調が赤い下の服に足を通して、そこから困ってしまった。
紐は沢山垂れ下がっているので、これでどこかを縛る事は想像できるのだが
何処をどうやって縛り付ければいいのかサッパリ分からなかったのだ。

「これは中々の難問なのです」
「……こっち?」
「そっちに通すと、腕の裾が引っ張られて変ですぞ。
 それに、この帯は~」
「あ、ねね。 分かった……ここ」
「おお、確かにこれならば安定するのです。
 それとこの赤い帯は腰で固定するようですぞ」

お互いに謎解きのような服の着付けを一つ、一つと解いていく。
帯を前で結ぶのか、後ろで結ぶのかで悪戦苦闘している音々音をマジマジと眺めて
恋はふいに言葉を漏らした。

「一刀は……ねねが好き」
「ふあっ!? と、突然なんなのです!」
「恋も……ねねが好き」
「……れ、恋殿?」

音々音の持つ帯を、恋は手に取って腰の後ろに回してやる。
一瞬、手を引いた音々音だが、結局は恋に任せて着付けてもらうことにした。

正直な話、音々音は恋を邪魔に思っていた。
正当な理由があるとはいえ、一刀へと近づいてぴったりとくっ付こうとする恋は
音々音にとって突然現れた邪魔者も当然だったのだ。
だって、それまで一刀の膝の上は音々音の場所だった。
朝、一刀の隣で食事を一緒に取るのも、あれも、これも。
なのに、恋が来てからというもの一刀は丁原に頼まれた事もあるせいか音々音に構う時間は減っていたのである。

それが独占欲から来る嫉妬であることは、自覚はしていた。
恋にしたって、やむを得ない事情で一刀の元に転がり込んだのも分かっている。
仕事に関しても、護衛であるのだから一緒に居る事が仕事なのだ。
当て付けのように仕事を割り振ったのだって、きっと。

「ねねが可愛かったら、一刀も……嬉しい」
「……」

音々音は自分を恥じた。
いつか、荀彧という者に嫉妬心を抱いて悪戯というには悪質な事をしてしまった。
その時に突き上がってきた罪悪感を、ここでも抱いてしまっている。
まるで、成長していないでは無いか。

「……申し訳ないのです」
「……ん?」
「恋殿は、ちゃんと、仕事をしているだけなのに、ねねは……」
「……大丈夫。 お手伝いだけでも、頑張れる」
「恋殿……」
「ねねも、一刀も好き。 二人共、優しい」

ニコリと笑った恋に、音々音は強く心を揺さぶられた。
そして、小さく礼を言った。
ありがとう、と。
そんな二人の作った和やかな空気を破ったのは、丁度離宮へと帰ってきた一刀であった。
ガタリ、と盛大に扉の音を鳴らして、音々音と恋は視線を向ける。
何故か、鼻の辺りを押さえて一刀はよろめいていた。

『見たか!?』
『ああ、見た!』
『巫女服だ!』
『ああ、巫女服だ、間違いない』
(くっ……うお……)
『しかも半裸だった』
『半裸じゃないよ、ちょっとだけ見えるだけだよ』
『おい、本体の鼻から血が出てるぞ、皆おちけつ!』
『“仲の”がおけちつ!』
『メイド服は無いのか!?』

一刀の精神を一瞬で破壊した、巫女服だろう物を着付け途中の恋と音々音。
何故か白衣や襦袢を無視して、千早から身に着けているためチラリと見える肌の色。
そして普段の格好からは及びも付かない故郷を思わせる変化に対して、一刀の対ショック機関は余りに無力であった。
何故この三国志の時代に巫女服が、とか、巫女服よりはメイド服の方がとか
そうした一瞬頭を過ぎった思いなど一撃で粉砕し、よろけるハメに陥った一刀である。

よろけた身体を壁で支え、鼻から吹き出る血を片手で抑えながら片足は地につかず浮き妙なポーズで固まり
音々音と恋の半裸姿をニタリと笑いながら凝視する姿は、ハッキリ言って変態以外の何者でもなかった。
結局、鼻血の手当てをすると言いながら一刀は逃げるように退室した。

「くっ、流石に予想外だったよ……」
『ああ、仕方ない』
『うん、仕方ないな』

懐にしまっていた布を取り出して、一刀は血を止めようと暫く上を向く。
ようやく落ち着いた頃に、部屋の扉が開いて完全に着付け終わった音々音と恋が姿を現した。

「一刀殿、大丈夫ですか?」
「……血、止まった?」
「うん……なんだろう、俺、今すごい幸せな気がする」

ふがふがと布を鼻に当てつつ、柔らかい顔を二人に向けた一刀は
ここ最近顔を突き合わせていた宦官や帝とのうわべで笑って腹の内を勘ぐるという
地味に精神的な鍔迫り合いが続いていた緊張感が、一気に抜け落ちたような気分であった。
意図せず着た物であったが、そう言って喜ぶ一刀を見て、音々音は嬉しくなった。

後に、最初に見たときには気付かなかった破壊された室内をしっかりと認識して
赤くなった顔が一瞬で青くなってしまったのだが、許してしまった一刀である。
部屋の惨状によるショックよりも、その部屋で見た二人の貴重な姿の方が何倍も心に響いた結果であった。


      ■ 見つけた導


その日、一刀は珍しく誰に呼ばれる事もなく、ブラリブラリと散歩をしていた。
と、いうのも皆から毎日の政務には休息も必要だろうと言われ、休日のような物を貰ったのである。
しかし、ここ最近の目まぐるしい忙しさは異常だったので
こうしてポンっと休日が降って沸いてくると、何をすればいいのか分からないのが本音だ。
ただ、一つ。
そろそろ解決しなければならない悩み事がある。

波才率いる黄巾党を洛陽郊外で打ち破ってから1ヶ月が経過する。
その間に、荊州、幽州、冀州、徐州でも、漢全土と言っていい位に次々に黄巾党蜂起の報告が相次いだ。
ただ、残していた軍でも対応できているのか、曹操や袁紹など主だった者は洛陽に留まったままである。
当然ながら、帰らねばならない時になれば洛陽を発つのだが。
実際、徐州での反乱は規模が大きいようで袁術と張勲は自分の治める街へと戻っている。

黄巾党に攻め取られた宛城だが、先ごろ奪還の為に出立した皇甫嵩将軍から、見事に奪い返したとの報告が揚がっていた。
何進大将軍と共に1万を越える大群を率いて、一夜の内に攻め立てて一気に落としたらしい。
今日、宛城へと支援の物資を送る手筈になっており、それは朱儁が担当している。

軍部の事だけではない。
最近は宦官だけでなく、政務に携わる官から天の政策に興味を抱いたのか
引っ切り無しに質問攻めにあっていた。
現代で政治を行っていたわけでも、専攻して学んでいた訳でもないので
詳しいことを答えることは殆ど出来ていなかったのだが、概要を掻い摘んで話すだけでも十分なのか
朝から夕日の射す時刻になるまで、室内に閉じ込められていることもざらだった。
ようやく自室に戻れば、たんまりと机の上に載せられた竹簡の山。
中には、脅迫状の様な物や意味不明の言葉が連ねてあるだけだったりと、地味な嫌がらせも混じっていた。
そんな慌しい日々を過ごしていたせいで、ついに、と言うべきか。
殆ど取り組めなかった問題が最近浮上しつつあるのだ。

諸葛孔明、そして鳳士元の二人のことだ。

宛城から送られてきた報告の書簡の中に混じって、何進大将軍から処罰をせっつく物が混ざっていた。
もう捕虜として捕らえてから一ヶ月にもなる。
牢屋で過ごす孔明と士元には、時間の空いた隙に覗きに行っているのだが
日の光に長いこと浴びていなかったせいだろうか。
最近、少しずつ見せる笑顔にも力が抜けているように見えたのだ。
そんな二人をどうにかしようと、策を練ってる一刀もいっこうに解決策が浮かばずに手詰まりの感が否めなかった。

劉協のこともある。
離宮に隔離されているせいで、諸侯との接点が見つけられない。
袁紹や董卓など、力のある候と会わせてあげたいのだが監視の目が強くて難しい。
それは自分にも言えることであった。
諸侯と下手に関係を持つと、何か言いがかりをつけられそうな雰囲気が漂っているのだ。
それはもしかしたら、一刀の勝手な予想なのかもしれない。
諸侯と会っても何も言われないかもしれないが、しかし。

芝の生えている、少し開けた場所を見つけて一刀は寝転んだ。
空を見上げれば、青空が広がり雲ひとつない。
悩みもあの青空に溶けて、無くなってしまえばいいのに。
それは少し、贅沢な願いだろうか。
こうして地面に寝っ転がるのは何時振りだろう。
音々音と共に洛陽の郊外へ、また気を抜きに行きたい気分になってくる。
今度は、恋も連れて。

「あー……」
「あーーー!」
「え、何? なんだ?」
「天代様だぁー!」

気を吐くように息を吐くと、悲鳴のような少女の声が聞こえてムクリと起き上がる。
こちらへと向かってくる少女は、一刀には見覚えが無かったが

『あ、桃香……』

脳内の呟くような真名を呼ぶ声に、それが誰かの大切な人だという事が分かった。
走り寄ってきた桃香と呼ばれる少女が、立ち止まったと思うと急に頭を下げる。

「はじめましてっ、私、劉玄徳と言います!」
「あ、うん……え、劉玄徳!?」
「はいっ! あの、天代の北郷様……ですよね」
「ああ、そうだけど……これが」

一刀は顔を上げて柔らかい笑顔を向ける少女を凝視した。
曹操、袁紹などの英傑を見てきた一刀であるが、目の前の少女とは違って
何処かピリリとした雰囲気を持っていた。
今まで見知った三国武将の中でも、こんなにも女の子然とした者は董卓くらいだろうか。
それでも、董卓には女の子らしさと言うよりも高貴さの方が雰囲気としては強く感じられた。
じろじろと観察していると、身じろいだ劉備から声が漏れる。

「あの……」
「あ、ごめん。 無遠慮だったね」
「いえ、あのぅ……少し時間あったら、お話しませんか?」
「今日は休日なんだ。 暇だったしいいよ、話そうか」
「ありがとうございますっ! えへへ、隣、いいですか?」

一刀が頷くと、先ほどまで寝転がっていた草っぱにちょこんと座る。
それに倣って、一刀も腰を落ち着けた。
それを確認すると、劉備は振り返るように喋り始める。
劉備は天の御使いの噂を聞き及び、一刀と会いたい一心で郷里を飛び出してきたこと。
こうして会えたのは、自分の為に力を貸してくれた人が大勢居ること。
傍らで感情を乗せて身振りを交えながら話す劉備を見ながら一刀はふと思った。
劉備といえば、関羽と張飛の二人の存在が思い浮かぶ。

「それで、頼んだんですけど―――」
「あのさ、劉備さん」
「はい?」
「関雲長って人を知ってる?」
「……うーん? 関雲長さん? ふぅむー?」

『知らない、のか?』
『まだ愛紗と会ってない……?』
『そうかもね』

顎に手を当てて上を向き、うんうんと思い出すように唸り始めた劉備は
どうやら関羽の事をまだ知らないようである。
そうなると、一つ、大きな歴史の曲がり具合が認識できた気がした。
黄巾の乱が起きたときに、劉備は関羽と張飛に出会い、義勇軍を立ち上げて乱世へと飛び出す。
そして戦功を上げて群雄の中へと混ざって行くのだが、今回は義勇軍を立ち上げることもなく
天の御使いである自分が気になって会いに来たのだ。
こうして思うと、細部ではもっと大きく変化が訪れていることだろう。
それは例えば、劉備が関羽を知らないという事も含まれるのではないか。

「天代様、あの私……」
「うん?」
「私、実は漢王朝はもう駄目なのかもって思ってたんです……」
「待った!」
「へ!?」

何かを―――少しここでするには危険な話だったような気もするが、話そうとした劉備に手をかざして、一刀は制止した。
と、いうのも一刀の脳内から劉協と合わせてみないかという声が掛ったのである。

『劉協様と合わせる?』
『それってさ、ねねと同じような感じになっちゃわない?』
『そうかもしれないけど、義勇軍を立ち上げて勇躍するのにはもう遅すぎる』
『今からでも立てるとは思うけど、まぁ難しくはなったよね』

黄巾の乱は未だ続いているが、諸候の動きは素早い。
それも天代として働く期間に、一刀の方から規模の大きい場所を特定し、集中的に軍を運用したからである。
勿論、一刀の記憶違いからくる間違いもあったが、大体に於いて的確な指示を出せていたのだ。
この調子で順調に討伐が進んだ場合、脳内の一刀達が駆け抜けたどんな黄巾の乱よりも
その規模は随分と小さくなるだろう。
なれば、彼女の立ちあがる機会は無くなると言っても良いかもしれない。
それは果たして、目の前の少女にとって幸福であるのかどうか。

『これからも、乱は続くし漢王朝もどうなるかは分からないだろ。
 そうなれば桃香は絶対、自分で立ってくる。
 それだけの強い意思は持っているんだ……その時に支える人が居ないのは不安すぎる』
『むぅ……』
『そっか、いっそ本体の元に置いといた方がってことか』
『頼む! 俺の我がままかも知れないけど、聞いて欲しい!』
『本体に任せるか』
『……そうだな』

意見のまとまったらしい脳内の声に、一刀は頷いた。
劉備と言えば、三国志を代表する『蜀漢』を立ち上げた英雄だ。
勿論、彼女自身の意思が最優先ではあるが、会わせてみてから確認しても遅くはないだろう。
音々音の時とは違い、今の一刀の立場ならば劉協を諭す事もできる。
ぼやーっと待っていた劉備に向きなおり、一刀は口を開いた。

「……劉備さん、ちょっと俺と一緒に来てもらいたい所があるのですが」
「え? いいですけど、どうしたんですか突然」
「ここじゃ会えない人の所に案内したいんです」

そう言ってから、一刀は立ち上がった。
義勇軍を立ち上げてすらいない今はまだ、劉備はただの庶人でしかない。
彼女がいずれ立つ事になるのかどうか、それは分からなかったが。
どちらにしろ、彼女が今話そうとした内容は、恐らくあまり大きな声で言えない類の物だろう。

今はこの洛陽も、平和を保っている。
この平和が何時までも続く保証は、歴史を知っている一刀にとって出来ないものであった。
その中心に自分という異物が在ったとしても、だ。

「ああ、一刀……此処に居たのか」
「華佗、どうした……ん?」

一刀は劉備を連れ立って、離宮へと向かう途中に華佗と出会った。
その格好に違和感を覚えて立ち止まる。
何時もと変わらない服装ではあるが、背嚢を一つ背負っていた。

「……華佗、行くのか?」
「ああ、帝の容態は安定した。 戦で傷ついた兵の処置も、一通り終わった。
 ここに俺の見る患者は居ない……一刀だけだ」
「そうか」

その話だけで理解した。
一刀は天代としての役職を貰い、ここ最近は未だ続く黄巾の乱の対策と指示。
政務に関しても、天の御使いという立場から関わっている現状、洛陽から離れることは出来ない。
恐らく、華佗は洛陽に留まる事よりも、旅立つことを決めたのだ。
気が複数ある……つまり、脳内の北郷一刀に気がついた華佗は、自分の身を心配して一緒に居てくれたのだ。
こうして日々を過ごす中で、突然暴発することは無いことを知ったのだろう。

何より、華佗は大陸で病魔に苦しむ人たちを助ける事を己の使命とし
毎日、医に関連する書物や薬の開発などに勤しんでいた。
つい最近は一刀のちょっとした言葉から、麻酔技術を思い立ち研究していたのだが。
こうして旅立つことになったからには、その研究も一段落が着いたのだろう。

多分、華佗も悩んでいたはず。
こうしてわざわざ、報告に来たのだ。
引き止めるのは、無粋という物だろう。

「……そうか、寂しくなるよ」
「洛陽は大陸の中心だ。 ちょくちょく見に来るさ」
「ああ、何処へ行くんだ?」
「そうだな……とりあえず、西だな」

そう言って、華佗はくすりと笑うと拳を一つ突き出した。
差し出された拳に、自らの拳を当てる。

「じゃあまたな、一刀」
「ああ、またな」

踵を返して、振り向くことも無く歩き去っていく華佗を見届けていると
隣から感嘆のような息を吐く声に気がつき、一刀は視線を向けた。
胸の前で腕を組みつつ、劉備が呆けた顔で一刀を見ていた。

「どうしたの?」
「天医様、ですよね、今の」
「そうだけど、用があった?」
「いえいえ、なんというか男の友情を見たというか、その、素敵だなぁって」

そう言われて一刀は照れた。
華佗の雰囲気から自然に行ったことではあるが、考えてみれば確かにちょっと気取っていたかもしれない。
気恥ずかしげに肩を竦めると、早足で離宮へと向かう。

「あ、待ってくださいっ!」

割と早いペースで歩く一刀に置いていかれそうになった劉備が慌てて、一刀の背を追いかけた。


―――


劉協と劉備を引き合わせ、最初こそガチガチに緊張していた劉備であったが
本来の性格のせいか、それとも少しはこの空間に慣れたのか
そう時間をかけずに劉協とも自然に接するようになった。
お互いに自己紹介をすまし、茶を一つ入れたところで、一刀は本題へと切り込んだ。

「……劉備さん、さっきの話、此処でしてもらってもいいかな」
「え、あ……えーっと」
「大丈夫、劉協様はちゃんと聞いてくれるよ」
「何のことだ?」

一刀に促されて、劉備は何度か喉をならし、やがて意を決したかのように話し始めた。
最初の一言。
漢王朝は駄目かも知れないと感じた、そう切り出した劉備に、劉協は自然に険しい表情となる。
一刀はそんな彼女を押さえ、劉備に続きを促した。

劉備は幽州の邑で暮らしていたこと。
その邑から一人の人間として世を見て、感じ思い入った素直な気持ちを吐露していく。
乱れていく世の中、見ているだけなんて事はしたくなかった。
そんな劉備の憂う気持ちは一つの邑という小さな規模から、段々と膨らんで行き洛陽へ向かう旅路の中で大きくなった。
自分の居た邑、そんな狭い世界で抱いていた燻る気持ち。
それが大陸全土に広がっていることを、道すがらその身で体験してきたのだ。

「でも、どうしたら良いのか、洛陽へ向かってる途中から分からなくなっちゃいました。
 私一人で出来ることなんて、たかが知れていて。 差し伸べる手も引っ込めたくなる位に力がなくて。
 だから天の御使いである天代様に会いたい気持ちが大きくなっていったんです」

徐々に。
徐々に思いは強く吐き出されていく。
劉備の抱える憂いの気持ちは、最初に切り出した漢王朝に対して見捨てる様な物ではなく
強く憂う、漢王朝を思う気持ちであった。
一刀と会いたっかたのは、自分すら見捨てかけていた王朝に対し天の御使いを名乗った事。
そこに、劉備は大きな希望を見た。
誰も立ち上がらないのならば、遠からず自分が立ち上がっていたかも知れなかったとも口にする。

「朝起きて、働いて、遊んで……眠る、そんな一日一日を笑って暮らせる世になってほしい。
 だって、知ってるから。 あの時、楊さんは笑ってた。 あの頃、朱君は元気に走り回ってた。
 みんなが笑って楽しく暮らしていた時を、知っているから感情だけが先走って、何も出来ない自分がもどかしくて。
 それで、居てもたってもいられなくて……」

言葉尻は萎んでしまう。
彼女の声は、今、まさに天下万民の抱える夢。
近くに居た人が笑えなくなった、それがもしかしたら劉備の志の最初に在った物なのかもしれない。
きっと彼女の言葉は、この大陸に住む多くの人が訴える声にならない声だ。
そして劉備と言う少女は、誰もが想っていても出せない声を、口に出して言える者だった。

劉協は、そんな彼女の言葉に心を震わし目尻を潤ませた。
王朝を生まれた時から見続けている劉協は、彼女の声が心に強く刺さっていたのである。
そして強い共感の意を抱かせていたのだ。
何とかしたい。
でも、何をすればいいのか分からない、できない。
それは、劉協もずっと抱えていた想いなのである。

「天代様……」
「ああ」
「平和は……天はまだ、漢王朝を照らしてるのですか」

熱の篭った静かな声に、一刀は答える事は出来なかった。
斜陽を迎えたこの国を想う。
一刀にとって、その思いを抱えることは世界の違いからという事も在り、困難であった。
だが、複雑な経緯を経て辿りついた天代という身分を持った今の一刀に
劉備の声は忘れかけていた大切な物を、思い出さずにはいられなかった。
だからこそ。

「天は、まだ晴れないよ……」

軽率な事は言えない。
自分がいるから変わるだなんて、大言壮語は吐けないのだ。
目の前で、強い想いから此処に立っている少女を前にするならばなお更だ。

「ただ……」

そう、ただ。

「晴れれば良いと思って、俺は頑張ってる」

そう言って窓から空を眺めた一刀を、劉備はハッとした様に見た。
目の前の天代と呼ばれる男は、何とかしようと足掻いている最中であると言う事を知ったのだ。
劉備にとって、答えの出なかった物が北郷一刀の見た先に広がっているように思える。
そんな天の御使いを名乗った一刀にも、先など見えて居ない事が分かってしまった。

嘆いていただけの自分があさましく思えた瞬間。
どんな人間であろうと、先の見える者は居ないのだ。
夢のある未来を見て、進まなければ希望は無い。
劉備はそれをきっと知っていたはず。
なのに、見失ってしまっていた。
呆けた様に見つめる劉備に、劉協はそっと立ち上がって近付いた。

「なぁ……劉備の想いは私の抱いた想いとまったく同じだ。
 私や一刀を支えてはくれないか」
「っあ……」

劉協は彼女の手を取って、それを包む様にもう一方の手を重ねた。
見上げる劉備の目に、潤んだ瞳を向ける劉協の姿が映り……そして横から一刀の声が飛んでくる。

「君の意思を尊重するから、ゆっくり考えてくれれば良いよ」
「……」

今の王朝に在る民の不満に、しっかりと向き合って立ち向かう人たちを支えてくれと言う二人に
どうして劉備が否を言えるだろうか。
霧に隠されて見えなかった道が、見えた気がした。
劉備は二人を交互に見て、しかし一つ頷くと美しいと言っても良い笑顔を見せて。
そして礼を取った。

「精一杯、仕えさせて頂きます」
 

      ■ 閃く


「さて、とりあえず今日は余っている私の部屋を使ってくれ。
 明日には自室を用意しておく」

あっさりと答えを出した劉備には、一刀も驚いていた。
もう少し戸惑うのではないかと思っていたのだが、ちゃんと良いのか確認したところ
逆にしつこかったようで、彼女の頬を膨らませる事になってしまった。
本人がしっかりとした意思を持って承諾したのだから、まぁ良いかと納得することにした一刀である。

これからの事を確認するように話す劉備から、真名を預かって欲しいということで
一刀は劉備から真名を頂いた。
勝手に呼んでしまえば、命を取られてもおかしくないという真名という風習。
これを預かったからには、桃香は命を預けてくれたのと同じことだ。
一刀も精一杯、信頼を持って接しようと決意する。
そして、話は今後の事になるのだが、そこで事件は起きた。
主に、一刀にとって不名誉な形で。

「では一刀、暫くの間は桃香の面倒をみるようにせよ」
「分かった、よろしくね」
「宜しくお願いします、一刀様」
「はは、様って……別に呼び捨てでも良いよ」
「そんなこと出来ませんよぉ」

『今回はご主人さまじゃないのか……』
『『『何!? ご主人様と呼ばせていたのか、お前』』』
『『あ、俺も呼ばせてた』』
『もげれ』
『『『なんでだよっ!』』』

「……あー、まぁいいや」
「何がです?」
「なんでもないよ、うん」

脳内の何人かがご主人様プレイをしていた驚愕の事実が知らされて、『一刀様』くらいはジャブ程度なのかも知れないと
本体は感じ入り、変に言ってしまうと自分がご主人さまと呼ばれそうなので
無難な所に落ちつけた本体である。
二人のやり取りを見届けつつ、劉協は尋ねた。

「ところで、劉備は字は読めるのだろう?」
「はい、盧植先生の元で学んでいたので、字を読むくらいは……」
「そうか、では政務を手伝えるな」
「はあ……あの、でも正直、自信がないです、けど」

両手の指をちょこんと合わせて、俯きながらそう言う劉備は、本当に自信が無さそうであった。
そんな劉備に劉協は安心させるように笑顔で頷き

「大丈夫だ、ちゃんと一刀に教わればいい……そうだな、少し時間を割いてもらって
 一刀に学べばいいだろう、平気か?」
「まぁ、少しなら平気だよ」
「あ、じゃあ北郷先生ですね!」
「ふむ、今や天代である一刀に先生というのも味気ない……」

そうのたまいつつ、劉協は顎に手をやり机の上で考え
やがて何かを思いついたのか、彼女は硯に墨を垂らすと、シャカシャカと音を鳴らして擦り始める。
そんな突飛な行動に、一刀と劉備は互いに顔を見合わせた。
やがて書きあがったのか、それを二人に良く見えるように掲げ―――一刀は吹いた。
口から唾を、鼻から水を垂らして。
貴重な紙が使われて、達筆に描き出された黒々とした文字列。

「えーっと、ちょぉーきょーし?」
「ふふ、我が事ながら素晴らしい閃きだった」

そう、調教師、と確かに紙にはそう書かれていた。
仮に、このまま一刀が大陸で一生を過ごし、何時か歴史書に乗ったとしよう。
遥か未来で、子供たちは授業で教わるのだ。
北郷一刀という者は、後漢時代に天の御使いとして現れると重用され、役職に天代、調教師を戴いて活躍した、と。
嫌だった。
天代はともかく調教師は嫌だった―――それを訴えたところ

「嫌だ」
「そ、そんな……」
「良い言葉ではないか。 教える者と一目で分かる役職だぞ」
「分かりやすいですけど、何が不満なんです?」

いや、調教というのはちょっとアレな感じの言葉だから嫌なんだよ、とは言えなかった。
そもそも、劉協と劉備、どちらかでも調教という言葉の意味を知っていれば話は早かったのだ。
劉協は年齢故に知らなくてもおかしくないし、劉備は盧植先生が教えなかっただけだろう。
それなりに裕福な者、或いは劉備のように先生を迎えて学を習う事ができれば知っている事でも
庶人では一般常識はともかく、調教師などと言うマニアックな言葉など知る方法は無い。

ここで必死に否定しても、彼女達からすれば頭がおかしくなったか
調教師という名を嫌がって苦し紛れの嘘を吐いていると捉えられるのが関の山だ。
分かる話だ。
だが、分かる話であろうと調教師という肩書きを得るのは一刀も嫌だった。
何とか取り下げて貰えないかと粘ったのだが、よほど劉協も自ら編み出した調教師という
言葉に執着しているのか、なかなか縦に首を振らない。
そして。
一刀と劉協の熾烈な争いの末、妥協案にて決着を迎えることになる。
在る意味、悪化したと言える役職名となって。

新たに取り出された貴重な紙に描かれた文字を見て、一刀は強烈な一撃を頂戴し、項垂れた。
紙を突き出す劉協から、これ以上の変更は無いと態度で見て取れる。
その白い紙にはハッキリと映し出されていた。

調教先生、と。


―――


落ち込んだ一刀であったが、この位の不条理は黄巾の乱に関わった時から
稀に良くある事では無いかと、自分を奮い立たせて何とか立ち直る。
所詮は役職の名前。
一刀自身を揶揄している言葉では無い。
それに、調教先生よりも恥ずかしい役職はきっと何処かにある。

とりあえず何かもっと、他の事を考えて気を紛らわそうと思った一刀は
ふと劉備の方を向くと目があった。
そういえば、劉備といえば諸葛孔明の三顧の礼などが有名だよな、などと思いながら眺めていると
ふと思い至る。
それは、先の劉協のことではないが、閃きにも似た天啓であった。

「……皆、ちょっと相談したいんだけど」
『何?』
『どうした?』
「……死ぬよりも辛い刑って何があるかな」

それを聞いた脳内は、それぞれに今まで見てきた、或いは聞いて来た刑罰を上げて
本体が自信無さそうに思いついた事を連ねると、脳内から力強い返事が返って来る。
今までずっと考えていたのに、見えなかった孔明と士元を救う道。
その一本の道が、本体の閃きから徐々に照らされて形作る。
一気に盛り上がった脳内の会話を拾いつつ、一刀は頷いて部屋に居る劉協と劉備へと声をかけた。

「二人とも、急用が出来たから席をはずすよ!」
「なっ、おい一刀!?」
「一刀様っ!?」

劉協の部屋を飛び出して、一刀は全速力で離宮から厩舎へと向かうと
そこに居る驚いた人々を無視して、一気に金獅の元へと走った。
閃いたこの案。
どうしても医者の助けが……いや、華佗が必要だった。

「久しぶりだね、金獅。 悪いけど、全速力で頼むよ」
「ブルッ」

華佗は西へ向かった。
それだけしか聞いていないが、まだ旅立ってからそう遠くには行って居ない筈だ。
鞍をつけて、宮内の中から馬を走らせると、一刀は西門を目指してすっ飛んで行った。

そして、見る。
夕焼けの荒野の中、一人歩く華佗の姿を。

「華佗ぁーーーーーー!」
「ん?」

振り向いた華佗の目に、金獅に跨る一刀を捉えて立ち止まる。
荒い息を人馬共に吐き出して、馬上から見下ろす一刀に尋常ではない様子を感じ取り
華佗は真剣な顔を向けて尋ねた。

「どうしたんだ、一刀」
「……ハッ、ハァ……華佗、頼む、力を貸してくれないか!」
「……なんだ、急いでいるから何事かと思ったぞ」
「……すまん、旅立ちの邪魔をして」

馬から降りて頭を下げる一刀に近付いて、華佗は彼の胸を一つ叩く。
一刀が顔を上げて華佗を見ると、彼は笑って言った。

「友人だろ」
「あ……ああっ、ありがとう!」

一刀は同じように華佗の胸を叩いて、嬉しそうに笑った。


      ■ 名族は見ていた


それは、一刀が馬で飛び出し華佗を追っていた頃であった。
毎日、一刀に会えないものかと意味も無く外をぶらりぶらりと散歩していた袁紹は
陽も沈むことだし、そろそろ部屋に戻ろうかと考えていた時だ。

ふと視線を向けた先に、宛城へと賊の討伐に向かっていた何進の姿を捉えた。
誰かと何かを話して、別れたところで在るようだ。
何進の姿はすぐに建物に隠れて見えなかったが、袁紹には何か紙のような物を持っていた風に見えた。
そして、何進と話していたであろう人物を見る。

宦官、それも十常侍を示す服に、遠目であるせいで何かは分からないが人形を抱えて歩く者を。

「……十常侍に、大将軍。 きな臭いですわね」

嫌な物を見てしまったな、と思いながら彼女は今日の天代捜索を終えることにし
自分に与えられている部屋へと戻って行った。


冬を過ぎ春を迎えた洛陽に、暖かい風が優しく吹いていた頃であった。


      ■ 外史終了 ■


・脳内恋姫絵巻

天代の巫女(音々音&恋)
道を見た大徳(桃香)

・一刀はあらたな称号を手に入れたぞ!

天の御使い
天代
チンコ
幼女嗜虐趣味
調教先生 ← NEW!



[22225] あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編3
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/29 01:04
clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編1~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編2~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編3~☆☆☆




      ■ 陳留騒々


それは雲の多い夜の事であった。
ここ陳留では現在、夜間の出入りを禁じる令が出されていた。
今は洛陽に居る曹操から出された指示の中でも、必ず守るように厳令されていた事だった。
理由は、一刀の送った荀彧への手紙に他ならない。
あの手紙には曹操から一刻も早く援軍を呼び寄せるために玉璽の印が押されていた。
勿論、曹操へ送る援軍の書も同じように玉璽を用いたのであるが
これは唯単に、どちらが届いても伝わるようにとの保険に過ぎなかった。
正式な手順を踏まなかった為に生じる、確実性を二枚にすることで増やしたに過ぎない。

一刀がこの手紙を出したときの思惑は二つ。
一つは今述べた様に、曹操からの援軍を一刻も早く引き出すこと。
そして、できるだけ張三姉妹の身の安全を保証することであった。
何故曹操の元にだけ、張三姉妹の情報を流したのか。
当然理由はある。
脳内が駆けた11の外史、その黄巾の乱。
彼女達を確保したのは、いずれも曹操の陣営であったからだ。
今回もそうであるとは確かに言えないが、高い確率で曹操の元で彼女達の意図しない反乱が起きてしまう事は予測できたのだ。

そして、その一刀の判断は正しいと言えた。
結果的に、陳留で蜂起した黄巾党の中に張角、張宝、張梁の三人は確かに居た。
一刀にとって予想外だったのは、その三人の内で張梁だけが捕まったことだろう。
言ってしまえば、張梁だけを捕らえてしまった事が緊張状態を保つ大きな理由になってしまった。
黄巾党の盟主、その一人を差し押さえた曹操の陣営は、常に厳戒態勢であったのだ。
今のところ大きな動きは無いものの、張梁を生かして捕らえているせいで
黄巾党の襲撃が訪れても可笑しくなかったのだ。

これが、今の陳留が夜間の出入りを禁ずる事になった経緯である。

そんな夜間の警戒に当たっているのは警備隊であり、その警備の長を務めているのは
曹操軍に参加したばかりの、楽進であった。
共に警備に当たっているのは楽進と同じ街で暮らしていた親友の李典、そして于禁。
生真面目な楽進は、厳令ということでずっと門の外で立っているのだが
友であるはずの李典と于禁は、警備宿舎の中で話に興じていた。
何度か諌めても、逆に一緒に話そうと誘われる始末である。
若干の苛立ちを胸に収めて、楽進は陳留の門の前で立ち尽くしていた。

数日。
厳令が出されてから、夜間の出入りは全くと言って良いほど無い。
それを知らぬ商人達が、夜間に訪れた際も否と言えば渋々とはいえ従い、朝になってから検問を抜けて
陳留の街へと入っていった。
しかし、この日は違った。
そろそろ明け方を迎えようかと言う時刻。
一体の華美な装飾が施された馬車が、閉まっている門の中へと辿りつくと
その馬車の主に仕える従者だろうか。
楽進の元へと走り寄ってきた。

「急用ゆえ、洛陽へ向かう用事が出来た。 通行の許可を願いたい!」
「駄目です。 明け方とはいえ、陽も出ておりません。
 厳令が出ておりますので許可することは出来ません」
「しかし、一刻も早くとの事なのだ。 この馬車に乗られるお方は
 十常侍の蹇碩様、その叔父方である」
「たとえそれが何者であろうと夜間の通行を許すなと言われております。
 日が昇り、朝を迎えれば許可を出しますのでしばらくお待ち下さい」

従者は何度も何度も、楽進へと説得するのだが彼女は決して頷かなかった。
次第に語気も荒くなり、最終的には脅すような口調に変わっていったが
やはり楽進の首が縦に動くことは無かったのである。
そして、ついに痺れを切らしたかのように馬車の中から絢爛な服を着た一人の男が降りた。

「おい、何時まで待たせるのだ。 早く門を開けよ」

その男は恰幅がよく、一目で凡庸な民草で無い事を知らしめていた。
そんな彼を一瞥し、そして楽進は言った。

「なりません」
「なんだと、私が誰かを知ってそう言っているのか。
 親族であり十常侍の蹇碩から至急に呼ばれているのだ。
 これを開けねば、それは漢王朝に逆らう事と同じなのだぞ」
「例え帝であろうと、通してはならないとお達しが出ています。 それはご存知でしょう」
「ええぃ、話にならんわ! 勝手に通らせてもらう、おい、お前! 門番を下せ!」

楽進ではどうにもならないと感じたか、男は一人の曹操の兵に恫喝するように声をかけた。
躊躇う兵士に、楽進は首を振って下すなと示す。
交互に楽進と男を見やり、結局その兵は動くことが出来なかった。

「糞! 貴様は自分が何をしているのか分かっているのか!?」
「はい」
「……ふん、良く躾けられた犬だな」

言い捨てるようにして、彼は自らの従者に二、三声を掛けると馬車の中へ戻っていく。
その様子を見て、大きく息を吐いた楽進であったが、瞬間悲鳴が上がって振り返る。
自分の指揮する兵の一人が、男の従者であろう者に斬られて血を流していた。
瞬きする間に状況は変わり、門の番を守っていた兵も同じように斬り捨てられる。

「おいっ、やめろ!」
「貴様の頭の固さが悪いのだ!」

馬車に乗り込んだ男は、自らが御者になって馬を進め門を強行突破し通り抜けようとした。
しかし、その試みは無駄に終わった。

「はあぁぁぁぁぁっっ!」

裂帛の気合と共に放たれた、楽進からの一撃によって馬車の車軸は吹き飛んでバランスを崩す。
やがて御者台から投げ捨てられるように、男は飛び出して、馬車は転倒した。
流石に今の一撃は轟音が響いたのか、宿舎で休んでいた多くの兵が飛び出してくる。
その中には、李典と于禁の姿もあった。

「ちょっ、何やっとんの凪!」
「もー、うるさいのー!」
「門を強行突破しようとした男を、確保しただけだ」

そう固い声で話す楽進が指で示した場所を追うと、そこには兵が斬られ倒れている男達が呻きを上げていた。
それだけで、李典も于禁も、ここで起きた事の大体が想像ついた。
なんて馬鹿な事をするのだろう、と思いつつ李典が馬車から投げ出され、気絶しているのか
倒れて動かない男に近づく。

「げっ!?」
「どうしたのー、真桜ちゃん?」
「どうしたもなにも、官僚やん。 まずい事になるんやないの?」
「命令は帝であろうと通してはならない。 そう聞いているから問題ない」

楽進は李典の横まで来ると、そう言って乱暴に男の腕を掴み立たせる。
囚人に嵌められる枷を強引につけて、服の襟を持ってそのまま引っ立てる。
そこまでの行動をついつい見守ってしまった李典と于禁であるが、楽進が何をしようとしているかに気がついて
慌てて声を上げた。

「ちょ、ちょい待ち、凪!」
「そうなのー、流石に棒刑を加えたらその人が死んじゃうの!」

門、これの突破を試みようとした者は廷杖50回を与えよ。
命令された物の中に混ざっていた一文、楽進はこれを実行しようとしているのだ。
廷杖とは、棒で大腿部を打ち据える刑罰の事であり、死に至ることもある過酷な刑だった。
当然、打ち据える者の力の入れ具合で大分変わってくるのであるが。
楽進はその生真面目な性格から、恐らく全力で打つ。
確かな武を持ち、気の戦闘を会得している彼女に50回もの廷杖を受ければ
普通の人は大抵死ぬだろう。

とはいえ、李典も于禁も、ここで楽進を止めるのは困難であった。
規律を破って門を突破したのは男の方であり、どう見ても正当性は楽進の方にある。
ついでに言えば、ここで彼を見逃してしまえば、門を抜けても大丈夫だという前例を作る事になり
この先も続くであろう夜間での出入りの禁令は、破られてしまうことになるかもしれない。
会話を聞いていた訳ではないが、周りの兵士から十常侍という単語も飛び出たという事で
李典も于禁も、下手に扱えば大きな問題になってしまうと頭を悩ませた。
苦悩する二人の親友を見て、楽進は不満そうに口をすぼませて言った。

「私だって、人を殺したい訳じゃないんだぞ」
「もう、これはうちらの手に負えないんやないか? 夏候淵様に投げよ?」
「そうなのー、ちょっと難しすぎるの~」
「……分かった、夏候淵様の判断を仰ごう」

そうして朝には、夏候淵の元に判断を仰ぐ報が伝えられた。
男の身元を調べたところ、確かに十常侍で力を握る蹇碩の叔父であることが分かった。
黄巾党の盟主、張梁の捕縛に続いてのこの問題。
はっきり言って頭を悩ませるどころの話ではない。
夏候淵は、その場で曹操宛てに書を認めると、使者が宮内へ入る為の道具全てを揃えて
その日の昼には送り出し、曹操の判断を仰ぐことにしたのである。

「しかし、予想はつくが……」

自らの主との付き合いが長い、夏候淵にはどういう答えが返ってくるのか予想はついた。
自分の判断だけで行っても良かったが、洛陽に滞在する曹操の身に何かあっては後悔しても仕切れないだろう。
姉である夏候惇が傍に控えているはずなので、滅多な事にはならないだろう。
それに、曹操の知恵袋でもある荀彧も、先ごろ洛陽へ向かって出立している。
これが夏候淵の心配のしすぎである事は分かっているのだが。

「心配の種は尽きぬな」

ふと、自分が今吐いたのは弱音であろうかと考え、クスリと自嘲するように笑った。
こうして仕事がたんまりとあるのは、ある意味で僥倖だ。
愛する主、そして愛する姉と離れている寂しさを感じる暇が無いのだから。
しかしまぁ、荀彧が傍に居てくれればと思わないでもない夏候淵であった。


      ■ 設立に至る経緯


洛陽―――
朝だというのに、室内は暗かった。
雨が降っているわけでも、曇りなわけでもない。
窓と、遮蔽性の高い布地で部屋を暗くしているだけだ。
自らの傍らに灯した火だけが光源となり、周囲を赤く照らす。
何進はそんな暗い自室で、目の前の机に置かれた書状を腕を組みながら眺めていた。
一方の手は鼻の下に広がる髭を、意味も無く擦っている。
眉間には皺がより、口は強く閉じられて。

こうした行動を取るのは自身が出世の道を歩み始めた頃からの習慣だった。
詳しい経緯は省くが、十常侍とそして異母妹、帝との関係から―――言うなればコネで成り上がったと言える
何進は出世街道を驀進したのである。
当然、その道の最中は順調であるとは言い難く、色々と嫌がらせを伴った様々なヤッカミがあった。
一歩でも踏み外せば、栄達の道から転げ落ち、下手すれば死ぬ。
そういう世界で何進という男は生きてきて、今日が在る。
そして、朝一番で机の前で唸る事は、何時の頃からか変わらぬ習慣となってしまったのだ。
たとえ特に、頭を悩ます事が無かったとしても必ず行っている。
いわば、一人朝議である。

そんな何進の今日の議題は、先日に趙忠から頼まれた事であった。

黄巾の乱は先ごろ自分自身と皇甫嵩将軍と共に、奪われていた宛城の奪還が終わり
洛陽を中心とした都周辺はだいぶ落ち着きを取り戻してはいるものの
未だその火を燻らせて大陸に広がっている。
宦官、趙忠から渡されたこの書の示す思惑は、恐らく爆発的に名の広まった天代を利用することにあるのだろう。
眺めるのをやめ、何進が一つ息を吐くと、蝋の火はゆらりと揺れる。

「……西園三軍、か」

宦官の立場からか、新たなに置かれる事になるだろうこの官職は、大将軍である何進から帝へ上奏をせよとの事であった。
この最上位に天代である北郷一刀を置くことから、狙いは一目瞭然である。
言わばこれは、帝が兵を持つ事と等しい。
その事に関しては、政の側面もあるのだろうし、何進が悩むようなことではなかったのだが。

椅子の背もたれに体重を預け、耳障りな軋みを一つ立てた。
北郷一刀。
彼の存在は、何進にとって複雑な気分を抱かずには居られない人物であった。
突如、天の御使いを名乗って現れた青年は、劉宏帝の命を救って信頼を得ると
数多の地位官職をすっ飛ばして、いきなり天代なる身分を戴いた男。
宦官ともそれなりに関係を持つ何進は、一刀が元々は運搬業の一職人でしかない事実を知っていた。
天代に対して黄巾党なのでは無いかという疑いは晴れたが、黄巾くずれの者と親しげに話す様子も見かけたことがある。
今も黄巾党の反乱が大陸の各地で起こっている中で軽率が過ぎる。
恐らくは天代になる前に付き合いのあった者達なのだろうが、正直苦言を申したくなる行動だ。
黄巾、そして世情から一刀に対して思うところが無いかと問われれば、何進は無いと言えなかった。
とはいえ。
同じ戦場で轡を並べて、黄巾党と槍を交えた今ではある意味で共感も覚えている。
何進も同じように、元々はただの屠殺業を営む一市民であったのだ。
この辺りの蟠りは、今まで大将軍への出世をしてきた何進にとって理解できると共に
一足飛びで大出世を遂げた一刀に嫉妬心も抱いている。
もしかしたら、自分の嫉妬心が上奏する事を躊躇う原因かも知れない。

書をしっかりと折りたたんで懐にしまいこみ、蝋燭の火を息で吹き消すと
何進は立ち上がった窓にかけられた布を取り去った。
陽の光が差し込み、僅かに眼を細める。
いい天気だ。

「知らずして語れず。 天代を知らねばならぬな」

黄巾の蜂起が続く、乱れた世情だからこそ。
幾つかの荷物を抱えると、何進は自室を出て優先順位を頭の中で組み立てると
まずは宮内の議場へと足を向けた。
しばらく歩くと、帝も良く散歩なされる庭園から件の天代、北郷一刀と天医の華佗の姿が見えた。

「あ、おはようございます、何進さん」
「天代様、華佗殿、おはようございます」
「肩の調子はどうですか、何進殿」
「おかげさまで調子が良いですぞ。 しかし、華佗殿がまだおられるとは思いませんでした」

華佗は肩を一つ竦めて苦笑する。
何進は波才から受けた肩の怪我の治療を、華佗に看てもらっていたのである。
その為、近い内に洛陽を出ることになる話を、本人から直接聞いていたのだ。
この事に何進は残念がっていた。
宛城での戦の時にも、医者に看て貰っては居たのだが、華佗と比べてしまうとどうしても
その治療に不満が残ってしまったのだ。
既に傷を受けてから一ヶ月が経過している。
もう僅かに痛む程度の具合だが、それでもコレだけ早く治ったのは華佗のおかげと言ってよかった。

「もし良ければ、今からでもまた診察しますよ」
「これは申し訳ない。 是非頼む」
「じゃあすぐに看ることにします」
「……しかし、天代様とはよろしいので」
「俺は構いませんよ。 用事も済みましたし」

そう言い残して離宮へと向かう一刀を見送ってから、宮内へと再び戻り
宮の入り口近くの空いている小部屋へと入り込む。
自室に戻って看てもらうのも良かったが、ハッキリ言って手間になるだけだったので
ここで看て貰う事にしたようだ。

「では服を」
「うむ」

袖をまくりあげ、患部が見えるように片側だけはだける。
手で触ると熱を持っているのが分かり、むくれた皮が浅く黒く変色していた。
一度血を抜いて、消毒する必要があると診断した華佗は、針を肩の周囲に突き刺していく。
皮膚を突き破る時に痛みは走るがそれだけだ。
呻くほどの痛みは無い。
どれだけの研鑽を積めば、これだけの医術を手に入れることが出来るのか。
何度見ても感心することしか出来ない華佗の医の腕に内心で絶賛しつつ、何進は口を開いた。

「華佗殿は、天代とは古い仲なのですか」
「出会ったのは半年ほど前ですよ」
「なんと、半年とは。 それでは華佗殿もあまり天代の事は知らぬということですか」
「ええ、ねねに出会ったのも、俺とそう変わらない時期だったそうです」
「ふむ……」
「ちょっと腕を上げてください」

腕を上げながら、何進は今の華佗から齎された情報に頭を捻った。
宦官の調べた一刀の情報は、陳留から洛陽へ訪れた時の物から前は全く無かった。
殆ど一緒に時を過ごす陳宮とも、出会ったのは華佗とそう変わらない時期だったという。
天代とて人の子。
空から降って沸いて出てきた訳でもあるまい。
恐らく、洛陽や陳留などの都からは遠い場所で生まれたのだろう。
或いはもしかしたら、異民族である可能性も否めない。
字も真名も持たず、ただ珍しい性と名。
そんな事を考えている眉間に皺を寄せた何進の服の隙間から、一枚の書が毀れているのを華佗は見た。

ちらりと見えた書から、一刀の役職である天代の文字と、軍という文字が垣間見える。
華佗は、何進が一刀の事を話題に出したのはこの事かと思い至った。
また何か、大きな物に巻き込まれようとしているのでは無いかと心配にもなった。
しかし軍の話となれば政の一環の様な物である。
自分が口を出すようなことではない事と律して、何進へと口を開く。

「何進殿」
「ん?」
「懐に入れた書が、零れ落ちていますよ」
「おお、すまん……見られてしまったかな」
「まぁ少し」

片手で器用に懐へ仕舞い直す何進が問うと、華佗は隠すことなく頷く。
華佗は医者としての立場を超えることが無い。
それを知っていた何進は、しばし懊悩した後に、書についての気持ちを吐露し始めた。
疑いから始まって、駆け抜けてきた戦場。
一気に頂点に至った一刀の地位。
そのせいで宦官からの媚や嫌がらせと共感できる想いと立場。
そして。

「この書を帝に上奏することが果たして良い事なのか分からないのだ」

そうだった、黄巾の乱が広がり大陸を騒がせている今は、それを鎮圧することを第一にしなくてはならない。
そもそも、このような役職をわざわざ与えずとも一刀とは日頃から相談もしているし
彼の案を採用することも多々あった。
実際に軍を動かすのが何進であるだけで、上奏して余計な手間をかけるだけ無駄な時間になるのでは無いか。
そう思わずには居られないという部分もある。
当然、政を抜き考えればの話だ。

「そうですか……終わりましたよ、何進殿」
「うむ、ありがとう」

肯定も否定も、特に何かの意見を言うわけでもなく。
ただただ何進の話を聞くことだけだった華佗は、治療を終えた事だけを告げる。
何進としても華佗から何かを言われたい訳ではなかった。
ただ、今の気持ちを吐露することで心を楽にしたかったのだろう。
実際、朝から感じていた鬱屈とした気持ちは前に向き始めているのを実感する。

「華佗殿は天医の名にふさわしい」
「はは、どうしたんですか突然」
「褒めているだけだ、他意はないのだぞ」

思わず素直な気持ちが出てしまったのだろう。
取り繕うように何進はそう言って、部屋から出ようと荷物を纏めると出口へと向かった。
入り口である扉の取っ手に手をかけた時、華佗の声が背に響く。

「一刀に声をかけておきましょうか?」
「……いや、良い」
「分かりました」

そうして何進は部屋を出た。
天代には、今日の自分の話が伝わるだろうか。
まぁ、伝わったところで疚しい考えをしている訳ではないし、困る事では無い。
この悩みというのは軍権ということで宦官から頼まれたという一点と、一刀に対する自身の嫉妬のような感情が原因。
勿論、一刀自身に無関係という訳ではないのだが。

今日は朝から頭を捻りすぎだ。
元々、学を修めたのは異母妹が宮中へ入って貴人となってから。
それほど賢しいという訳でないのは自覚している。
改めて議場へと前を向いて歩き出したところで、何進は気がついた。
広間、それも宮内にある良く見える場所の前で二人の宦官が何やら騒いでいる。
あの部屋は確か……そんな場所の前で周囲を騒がす宦官の顔には見覚えがあった―――蹇碩と、趙忠。
二人の背後には張譲の姿も認められた。
興を惹かれ、何進は宦官たちに気付かれぬよう少し離れた場所で聞き耳を立てる。

「どうしても聞けぬか、趙忠よ」
「聞けない相談だね。 蹇碩殿が大人の態度を見せて引けばいいんじゃないかな」
「それこそ出来ぬと言うものだ……」

二人の表情は険しく、まるでこれから殴り合いの喧嘩でも始まりそうなほど剣呑な雰囲気である。
場所が場所だけに、想像を覆されて、思いのほか真剣な様子で向かい合って話す内容に
知らず息を潜めた何進である。

「……趙忠、最近は理由をつけて帝に会っていないそうだな」
「なに、突然」
「帝が嘆いておられたぞ」
「関係ないでしょ。 蹇碩殿もやたら天代様に突っかかってるみたいじゃん」
「ちっ、露骨に話を変えるとは。 よほど後ろ暗いことでもあるのか、趙忠」
「そっちこそ……劉宏様の事をこの場で持ち上げるのが不自然すぎるね」

蹇碩はやにわに笑みを浮かべ、その手に浮かぶ銅雀を撫で回し始める。
対する趙忠も同じように乾いた笑みを貼り付けて、熊を模して作られた人形の頭部の毛を毟り始めた。
早い。
現代の音楽シーンを彩る、DJスクラッチの佳境の部分であるかのように、銅雀の表面を撫でまわしている。
人形も、その毟られ具合は芝刈り機を使われたかのように、周囲へと毛を落とし始めていた。
帝から賜った寵愛を示す証が、禿げるのでは無いかと何進が心配する程だ。
ふと視線を向けると、張譲もころり、ころりと掌の上で玉を転がして蹇碩と趙忠を凝視していた。
張譲に気付かれた様子は無いが、何進はこの音を出す彼が苦手であった。
尋常ではない宦官達の行動に、無意識に喉をゴクリと鳴らす。

「そうか、引く気は無いようだな趙忠よ」
「仕方ないね、手勢令で決めようか」
「よかろう……」
「恨みっこは無しだ」

向かい合った趙忠と蹇碩、彼らから凄みすら見える。
二人の背後には龍と虎が対峙していた。
まさに竜虎相打つと言った様相である。
二人の額から、たらりと汗が滲むのを何進は見ていた。
同時に撫で回すのと、毟りまくるのを止めて体が大きく動く。

「手掌を以て虎膺とし」
「指節を以て松根とし」
「「大指を以て蹲鸱とする!」」

掛け声と共に、蹇碩と趙忠は両の手を前に突き出す。
その合間には、何度も手の形が変えられて素早く動く。
手勢令とは、いわば今の世で言うところのじゃんけんである。
高度な心理戦を交えた二人の応手。
気迫の篭った手勢令を出し合うのを尻目に、それまで動きの無かった張譲がゆっくりと歩み寄った。
恐らく、何かの案件で揉めている二人をようやく止めようと動いたのだろう。
何進はそう確信したが、意外な事に張譲はそのまま傍に在る部屋の扉に手をかけて開け放つ。

「渦中にあらば、気付かぬものよ」
「あっ!」
「むっ!?」

張譲がそう言うなり、二人は動きを止めて張譲が開け放った場所へと注視した。
そこは、厠である。
確かに、何進もその部屋の用途は知っていたが、余りにも緊迫していた雰囲気に
まさか厠を使う順番で争っていたとは思わなかった。
張譲に指を刺して驚き固まっている趙忠と、再び高速で銅雀を撫で回し始めた蹇碩に
物凄く嬉しそうに、張譲は告げた。
その笑みは、滅多に見せることの無い張譲の満面な笑顔であったという。

「くっふふ、かつての偉人は言ったそうだぞ。 漁夫の利とな」
「うあー! 譲爺ーずーるーいー!」
「くっ、張譲め……流石だな……」

そして扉は閉まり、消えていく張譲。
厠へと、不満を叩き付けるように人形を何度も打ち据え扉に悲鳴を上げさせ叫ぶ趙忠。
吐き捨てるように言い捨てて、心持ち早足で別の場所へと移動を開始した蹇碩。
それら一連のやや真剣にカオスった流れを見守っていた何進は
宦官達は実は何も考えていないのでは無いかと思わずに居られなかった。
当人達にとっては大きな問題だったのかも知れないが。
懐にある書をそっと手でなぞり、ふと視線を向けた空に、鳥が鳴き声をあげながら建物の影に消えゆくのを見やりながら何進は呟いた。

「上奏するか」

歴史に西園三軍が生まれることになるだろう瞬間であった。


      ■ 『しん』を乗せて告げる名


夕方、一刀は離宮へと入るなり盛大に息を吐いて身体を伸ばした。
ゴキリ、と嫌な音が身体の奥から響いてくる。
今日は一日中、身体を動かすことなく座りっぱなしであった。
これが今の仕事なのだし、無駄に豪華な食事をする為の努力なのだから仕方が無いと言えば仕方ないが
ハッキリ言わせて貰うと、正直辛い。
戦の時は体力的にも辛かったが、これはこれで精神的な辛さがある。
勿論、立場的な物も含めて。

「政務とは血の流れない戦争である」

おお、上手いことを言ったな。
誰かの名言であっただろうか。
どちらにしろ、未来の名言だろう、多分。

『あ、それ言ったことある』
『俺も』
『俺もだよ』
「……」

何人か先達が居る事が、名言だと思われる言葉を発してから10秒も経たずに判明する。
同じ北郷一刀なのだし、一刀が言ったことには違いない。
そう結論付けて満足しつつ、一刀は階段を上って自室を目指した。
その途中、段珪の部屋の前を通りかかった一刀は何か陶器のような物が割れる音を聞いて
僅かに覗ける隙間から様子を窺おうとして、爪先が扉に当たり、開いてしまう。
ハッとしたように顔を上げた段珪は、不自然な格好で扉の前に突っ立つ一刀を見上げた。

「あ、ごめん段珪殿。 音がしたから何かなと思って」
「あ、ああ、そうでしたか。 いや少し手を滑らせて茶器を割っただけで御座います」
「あ、うん……大丈夫ですか?」

段珪がそっと懐に何かの書を入れて、床の残骸を片付け始めた。
一刀はその様子を不審に思うより、顔色が悪そうに見える段珪を気遣った。
と、いうのもここ最近は夜遅くまで部屋に明かりが点いているのを一刀は知っていたからだ。
この離宮は禁裏であり、限られた者しか立ち居る事を許されない。
劉協、そして天代の役職なる一刀や天医である華佗は問題は無いが、音々音や恋、桃香などは本来許されない。
とりあえずは傍仕えということで、彼女達はこの場所に居ることが許されているのだ。
許可を得るために奔走したのは段珪である。
そして、もともとの役目である劉協の身の回りの世話も怠らず、それに纏わる雑事もこなしている。
更に、一刀へと送られてくる贈り物の数は、未だに一向に減らない為、差出人や送られた物などを記帳したり運搬したり。
劉協から桃香への問題集を作るように言われて、実際に作ったのも彼である。
とにかく上げれば切りが無いほど、彼は忙しい。
その忙しさを加速させている要因の一つが自分なのだから、気遣ってしまうのは当然だといえた。

「いえ、問題ありません。 華佗殿にも元気になる薬を戴いておりますので」
「……元気になる薬?」
「はい、これでございます」

見せられた瓶のような物を手に取って眺める。
蓋の場所に気という文字が書かれており、中身を透かしてみると丸薬らしき物が見えた。
滋養強壮薬のような物だろう。
一刀は何となく危ない薬ではなかった事に安堵した。
どうも薬と訊くと、劇薬が脳裏を過ぎるのは何故だろうか。
受け取った薬を段珪へと返し、一刀は口を開いた。

「一番の薬は十分な休息を取ることですよ」
「分かってはおりますが……」

段珪は苦笑しつつ顔を綻ばせた。
馬鹿な事を言ったかな、と一刀は思ったが心配であるのに代わりは無い。
薬に頼ってまで働くのを見ているだけなのは、少し気が引けたこともあり
一刀は何か手伝えないかと申し出た。
段珪は、最初こそ渋ってはいたものの結局一つだけ一刀に頼むことになった。
それは―――整理である。

かつて、恋が掃除という単語から全ての物品を破壊しつくした為、今は整理という言葉が用いられている。
紆余曲折あって、その件は音々音の流布した噂により風評操作へと繋がったのだが
送った物を全て破壊したという一事は、贈り物を出した者にとっては顔を顰める事件でもあった。
実際、明らかに嫌がらせの数は増していた。
それは具体例をあげれば、根も葉も無い噂をあげて中傷するものだったり
話しかけても無視したりという、子供のイジメのような物ばかりではあったが。
特に、十常侍の蹇碩という人からの皮肉は最近激しく、聞き慣れてしまったくらいである。
しかしやはり、この身が戴く天代なる分は大きいらしく、めげずに送り届ける者は後を絶たなかった。
そんな事件の中心地である室内に、一刀は入ると共に部屋を見渡し、そして溜息。

「はぁ……」
『どうした』
『自分から言いだして後悔したとか?』
「いや、そうじゃないんだけどさ……」
『うん?』

言葉を濁すように言葉尻は消えていく。
原因は、帝との会話の中に在ったのだ。
最近は宦官があまり帝の傍に寄らないという愚痴を聞いたのである。
それまでベッタリとくっ付いていた趙忠も、仕事の合間に様子を見に来ていた張譲も。
なにやら急がしそうで引き止めることも憚れ、寂しさを感じているそうだ。
逆に、一刀の方は毎日事あるごとに宦官とは顔を突き合わせていた。
天代として国政に参加して欲しいという名目で。
そう願われれば一刀としても断ることは難しく、出るしかない。
そんな事を脳内に相談しつつ、整理に取り掛かる一刀。
大き目の壷が邪魔臭いので脇に避ける。

『ああ……なんなんだろうな』
『帝と本体を引き裂くのなら分かるんだけどね』
『うーん……』
『得する人間なんて居ないよなぁ』

同様に頭を捻り始める脳内達。
そう、おおよそ一週間前から―――正確には趙忠と出会ったあの日からだろうか。
確信は持てないが、宦官達の動きは帝を自然に避けるように動き始めていた様に見える。
目の前には煌びやかな服が、木製で作られた綺麗な衣服掛けにかけられている。
丁度胸部に当たる部分に太く逞しさを醸し出す字で、ごんぶと、と書かれていた。
多分嫌がらせの類だろう、達筆の無駄遣いである。

『俺達の方から、宦官に会うように催促してみるか?』
『帝に会ってくれって?』
『それ、劉宏様を避ける理由が宦官達にあれば、普通にぼかされると思うよ』
『だよなぁ』

宦官の思惑が在るかどうかは別にして、本体としては純粋に劉宏様に元気になって貰いたかった。
そうでなければ困る。
頻繁に呼ばれるのも、会いに行くのも嫌ではないが、その度に愚痴に付き合うのは勘弁してもらいたい。
異様に高レベルな品質の服を纏めて置き、やたらと大きく高価そうな調度類に手をかけた時に
ふと眼に映った書の束に、一刀は視線を向けた。
なんとなしに一番上の物を取ると、何かの宴会を知らせる招待状のような物だった。

「ほとんど、宴の誘いとかなのかな」

殆どが一刀の呟きのように、歓待をするので是非出席してくれないかと言う物であった。
勿論、例の嫌がらせのような罵詈雑言が書かれている物もあったのだが。
中には意味不明の物も出てくる。

「ははっ、こんなのまで」
『おー、この時代からあったのか』
『なんだか不思議な気分だね』
『うんうん』

それは一刀の居た時代にもしばしば見られる、文字の切り抜きから作られた脅迫文のような物であった。
興を引かれて最後まで読んでしまう。
なんてことはない。
隣に転がっている遠まわしに一刀へ警告するものと殆ど同じく
志貫けばとか終端とか、泡となりてとか、消失とか、その他もろもろ似たような言葉を用いて脅していた。
中には直接『死ね』と書かれている豪速球を投げ込む蹇碩殿も居たが。
とにかくそれらを要約すると、立場を弁えて大人しくしとけや、という旨の文が書かれていたのだ。
一瞬、脳内の誰かから強張った呻き声が聞こえたが、特に気にせず本文を読み進める。
一刀はそれをしっかりと読んでから、脇に積んだ書物と一緒に置く。
次に手を取った物に、驚きを交えながら。

「うお……これは」
『荀彧から?』
『桂花が?』

その書は確かに、差出人の名が荀彧となっている。
一刀は知り合いからの、まさかの手紙に自然に頬がほころんだ。
正直、これまで何となく読みふけってしまった書に段々と飽きていたところだったのだ。
飾られた言葉で美辞麗句や罵詈雑言を並びたてられて居るだけで代わり映えしなかった。
わくわくしながら封を空けて、中の手紙を取り出す。
そして、たったの二文字が一刀の目に飛び込んでくる。
先に見た、ごんぶと、と変わらぬとても強く逞しい達筆な字体で、こう書かれていた。

変態

「……」
『『『『……』』』』

一刀は黙ってその紙を戻し、傍らに積み上げた書に重ねる。

『まぁ……その、なんだ』
『うん、なんだ』
『噂のせいかな』
『そうそう』
『ほら、桂花だし』
『しょうがないよ』
「……」

一刀の気分は高揚から転じて一気に冷めた。
適当に書の処理を終えると、整理の続きに戻っていく。
期待しただけに、その精神的ダメージは大きく、脳内の慰めも余り効果は無かった。
ついでに新たな役職を授かった事を知られた時を考えると、誤解はますます深まりそうである。
暫くの間、一刀は無言で整理を行い、それは音々音が夕食を持ち込んでくるまで続いた。


―――


途中、音々音と華佗が手伝ってくれたおかげで、随分と整理は終盤に近づいた。
雑多に積まれた贈り物は、今やきちんと整理されている。
これならば相手に突き返す時にも分かりやすいだろう。
段珪が記帳した品物の検分を行うのも楽なはずだ。
久しぶりに身体を動かしたおかげで、妙に気分がスッキリとしている。
ごちゃごちゃに積まれた品物を綺麗に纏められたことも、清清しい気持ちになった。
段珪に無理を言って自ら始めたことではあるが、有意義な時間を過ごせたという物だろう。
彼の負担が少し減ってくれれば幸いというもの。
そろそろ自室に戻ろうかと言う時になって、部屋の扉が開いた。
顔を出したのは意外な事に、劉協であった。

「あ、一刀か?」
「やぁ」

一刀が居るとは思って居なかったのか、彼女は驚いたように声を上げた。
既に夜は更けている。
この場で食事を取った事も重なって、今日は朝から彼女と会っていなかった。

「ここに居たのか」
「何か用事だった?」
「いや……用事は無い」
「そう? ならいいんだけど」

まだ此処に居るのか、と問われて一刀はそろそろ戻るつもりであることを告げた。
一度頷いた劉協は、チラリと部屋の奥の方へ視線を向けて。

「えーっと、何か用事があるの?」
「……まぁ、一刀ならば良いか」
「何?」

怪訝な表情を向ける一刀に、劉協は部屋の奥へと進んで行き
何かを探すように柱を点々と覗き込んでは歩いていく。
なんとなく無言で後を付き添った一刀は、無言に耐え切れず口を開いた。

「何か探し物かい?」
「探し物……うん、まぁ似たようなものだ」
「良いよ、一緒に探そう。 何を探してるの?」
「想い出だ」

気楽に尋ねたことであったが、劉協から返って来た言葉は予想外の物であった。
ある柱の前で歩みを止めると、彼女の視線に合わせるように柱を見つめる。
暫くの間、一刀へと送られてくる贈り物に隠れていたであろうその場所。
やにわに積もった埃を手で拭き取ると、柱には小さな傷が見えた。

「これは、私」
「……」
「そして、少し高いところにある傷が、弁兄様のだ」
「身長かい?」

コクリと頷く劉協。
劉弁の事は、一刀も何度か宮内で見かけたことがあった。
父親の面影を残す目鼻立ちに、少し太った少年。
宦官と連れ添って歩いていた所を、何度か声をかけられて話し合ったこともある。
抱いた印象は、あまり良くは無かった。

「もう暫く会っていない……」
「そうなのか」

兄妹が一緒に居られない環境というのはどういうものだろうか。
自分には妹が居た。
元の世界では、時に邪魔に思う事はあれど大切な家族。
帝を含めて、家族と共に過ごせない心境というのは今だからこそ理解できる。
この世界に落ちた、一刀ならば理解できた。

「さきほど、ふと思い出してな……ここで遊んだ時に背比べをしたのを」
「そうか……それじゃあ大切な物だね」
「ああ、数少ない親族の想い出だ」

そう言って柱に手を伸ばして傷をなぞると、彼女は目を瞑って佇んだ。
どうしてこの部屋に、自らが確認に訪れたのかが分かった気がした。
こういう物は、自分が来なければきっと意味がない。
一刀もそんな彼女の行動から、残してきた家族や友人を思い起こしていた。
もしかしたらきっと、二度と会えないかも知れない。
こんな時代に居るのだ。
会えない確率のがきっと高い。
戻るにはもう、この世界に長く留まりすぎた様な気もする。
どれだけ互いにそうしていたか。
やがて、劉協の口から想い出に耽る時間は終わりを告げた。

「一刀……少し痩せたな」
「ん? どうだろうな……分からないけど」
「ずっと言おうと思ってた事があるんだ」

眼を瞑ったままで問いかけられた一刀は、柱から視線を逸らして劉協へと首をめぐらした。
薄く眼を開けた彼女は、一つ喉を鳴らして口を開く。

「本当はもっと早く言うつもりだったのだけど、怖くて言えなかった」
「良いよ、なんだい?」
「……お前は、このままでよいのか」

言葉を選ぶかのように、ゆっくりと話す彼女の言う所はこうだった。
劉協へと協力を仰いだのは、元は馬元義を名乗った自分の身の安全から庇護を得たいと考えて
転がり込んだ一刀である。
その疑いは晴れ、天代としての地位を得た一刀を縛る物は無くなったといえた。
正直な話、このまま劉協を無視して宮内で権力を奮う事も出来るのだ。
勿論、一刀と共に暮らしていく中で、そんな行動を取るとは思わなかった劉協ではある。
ただ、不安は募った。
現状、一刀が居なければ劉協は結局何の力も持っていないに等しい。
もしも此処で一刀が劉協の元から去るような事になれば、彼女は一刀と出会う前となんら変わらなくなってしまうのだ。

「それは悔しいけど……事実でもある」
「……ああ」
「でも、一刀。 私はお前の真実を知っている」

一刀が元々は、ただ密会の現場に居合わせた庶人であることを。
疑いが深まる諸侯と折り合いを欠く事無く、反乱に当たって打ち破った。
天代として帝に重用される中で、一刀に向けられる羨望と嫉妬。
それは、一刀を見るものは大出世として捉えてしまうのも無理はない。
事実、客観的に見て残るのはそうした彼の輝かしい栄達だけだ。

劉協は一刀が苦悩している場面を何度も見ている。
朝の朝食の時に、夕食の時に、こうして日常生活を共に営む中で、何度もだ。
正直なところ、波才率いる黄巾党とぶつかった後も暫くは、それが当然の事だと思っていた。
だが、桃香が劉協と一刀に仕えるようになってから気付いた事がある。

「一刀が、音々音が私に仕えてくれたのは、状況が許さなかったのではないかと」

桃香へと、君の意志を尊重すると一刀が投げかけた言葉。
その場では気がつかなかったが、切っ掛けになって二人を迎え入れた状況を振り返った時に
劉協は一刀と音々音の状況や意志を無視したのではないかと愕然とした。

「……劉協」
「……」

劉協はそこでようやく真面目な顔で立っている一刀へと向き直った。
彼女に仕えたのはあくまで一時的な物に過ぎないのではないか。
それは黄巾の乱の中心になってしまった時から、そうだったのかも知れない。
そして、一刀は戦に打ち勝って、天代の身分は確たる自由の羽となり、手に入れたとも。
桃香との会話から気がついた、そんな一刀の状況の変化から
彼が此処から離れる事になるかも知れないと思うと、劉協は怖くなってしまった。
自分を捨てて、何処かに行くのではないかと不安だった。
何故ならば、彼女は漢王朝の先を憂いて行動した結果、爪弾きにされてしまったから。
一刀は何処か人と違うと思っていても、染み付いた疑念は消えなかった。
例え一刀が目の前から居なくなったとしても、自分の志はくじけない。
そう思っても、不安は消えなかった。
だからこそ。

「一刀、お前に問う。 理不尽な状況に流された一刀には、もう一度問うべきだろう」
「……」

たとえここで、望む答えが得られなかったとしても。
一刀がこのまま、自分の元から離れたとしても。
固く握られた拳を震わし、落ち着かせるように大きく深呼吸を何度か繰り返してから

「このまま私に仕えてくれるのか、一刀」

劉協の震えた言葉が室内を震わせて、沈黙が落ちる。
お互いに見詰め合って数瞬。
一刀は一つ息を吐くように笑うと、口を開いた。

「ありがとう」
「え?」

一刀から返って来たのは彼女に頷くのでも否定をするのでもなく、礼であった。
理不尽な状況に流されてきた事に気がついてくれたのは、素直に嬉しい。
誰しも当たり前のように、一刀の事を天代と呼ぶのだ。
勿論、音々音や華佗は自分を見てくれているが、多くの者は天代という名を無視できないのだ。
自分はそんな大層な人間ではないと思っているから、何処かで気付いてほしかったのかもしれない。
天代というのはただの役職で、北郷一刀を見てくれと。

「……そっか、やっと分かった気がする」
「一刀?」
「天の御使いなんて、大仰過ぎるけれど……」
「え?」

一刀はこの世界に放り出されて、一人だった。
脳内の自分達に支えられて、くじけそうになりながらも人々の触れ合いを求めた。
それは、今までの人生の中で生きるのに嫌になってしまうくらい、苦しい時間でもあった。
今でこそ北郷一刀には音々音が傍に居てくれるし、掛け替えの無い友人も出来た。
一緒に居てくれる人が居る。
それは、血は繋がっていなくても家族のように暖かかった。
この世界で、本当に自分が立って来られたのは音々音や華佗のおかげだ。

そして。
目の前の少女は。
家族と一緒に、仲良く暮らしたい。
そして、乱れる大陸で生まれてしまうだろう多くの家族と人々を救いたい。
それだけを願って、誰も頼れる人が居ない中で立ち上がっている。
家族すら手を差し伸べてくれない状況で、それでも諦めず。
強い。
感心を通り越して、尊敬するくらいに。

もしかしたら、自分がこの世界に来たのは―――彼女の為なのかも知れない。
脳内に居る、多くの自分達がそうだったように。
諸侯達の下に降りた自分達が、天の御使いとしての役目を背負っていたのだとしたら。
自分は、きっと。

「一人で頑張るなんて無理だろ。 俺も君も、同じ人間なんだから」
「……か、一刀」
「君を助けたい。 あの時、桃香に言った言葉は嘘なんかじゃない」
「う……ふっ……」

群雲が抜けて、月の姿を天に描き出して月明かりが差し込む。
視線が交わり、劉協の目元を震わした。
そんな彼女の頭へ、一刀は自然と手を優しく置いた。

「一緒に天を晴らしてみたいって、思ってるよ」
「うあっ、うぅ……」

そのまま劉協は俯いて、声を殺して呻いた。
今まで手に入れる事が叶わなかった信頼は、長い時間をかけてようやく掴むことが出来た。
それと同時に、暖かい気持ちが流れ込んでくるのが頭に置かれた掌から伝わる。
どれだけの長い暗闇の中に身を置いていたのだろう。
父からも、兄からも信頼を失い、共に居ることを拒まれ離宮へと移された。
宦官の讒言に惑わされたとしても、官僚による腐敗から生まれたにしても
一緒に居て欲しかったのが、奥底にずっと在った想いの叫びだった。
誰からも避けられ、遠ざけられ、上辺だけで手を取り合い、心の中で吐き捨てられていた。

「ずっ……か、一刀、晴れるのかなぁ」
「……ああ、きっと……頑張ろう」
「はっ……うん、晴らそう、きっと」

ずっと声を殺して涙する劉協を包むように、頭を撫でながら一刀は窓から見える空へと視線を向けた。
満点の星空の海の中、雲が自由に泳いでいる。
浮かぶ月と、星空を見上げながら。
一刀は誰かに別れを告げるように呟いた。
決して届かないと、知っていても。

「さよなら、元気で……」

それでも確かに、言葉に想いを乗せて。
そんな一刀の様子に、劉協がふいに顔を上げた。

「一刀、今のは……?」
「俺はここに居るって決めたから」
「そう、か……一刀、私の真名を」
「ああ」
「……」

一刀から視線を外して、濡れた頬を擦る。
先ほど、一刀に居てくれるのか聞いた時と同じくらい緊張していた。
何せ、親兄弟を除けば、彼女が真名を預けるのはこれが始めての事であったからだ。
信を、預ける人が居なかったから。

「私の、私の真名は―――」

この日、一刀は劉協の真名を受け取った。
初めての、他人。
劉協の強い要望から、二人だけで居るときにだけ呼ぶことが許されたものであった。
音々音達がこの事実を知るのは、随分と後のこととなる。


      ■ 志在を託して


「うあー……」

情けない声をあげながら、桃香は思わず天井を仰ぐ。
そのまま天井のシミを数えるという現実逃避に入りかけて、気がついたかのように首を左右へ振ると
もう一度机にかじりついた。

「だぅー……」

そして数分持たず、今度は机に突っ伏す。
手に持った毛筆を転がしつつ、或いは鼻と口で挟んだり墨を拭ってくるりと回したり。
暫くして、大きく息を吹くと姿勢を正して座りなおし、硯に墨を垂らして擦り始めた。
そうして筆を持ち、机に向かい―――そして

「うぅぅ……」

桃香のここ最近の日課であった。
朝起きてから、一刀が帰ってくるまでに終わらせておかなければならないのだ。
それは“蜀の”と“無の”が中心となり、眠っている本体の身体を使って作成した問題集のようなもの。
簡単に言うと、ただの宿題である。
これが中々に難しい。
特に、桃香にとっては盧植から物を学び始めてから久しく始める勉強だ。
その盧植から学んだ物が余り生かせない時点で唸る事になるのは仕方がないのだろう。
正直、行動指針を決定するための選択肢問題とか、この時に在る兵の不満とは何かとか
そういう変わった問題も多くて手が付けられないのだ。

ただ、この一刀が作った物は、出来ても出来なくても怒られるような事は無い。
何故分からなかったのかを聞かれ、素直に言うと一刀は嫌な顔一つせずに教えてくれるからだ。
しかし、桃香は幸か不幸か。
劉協にやたらと気に入られて、何故か帝としての教養を育むための彼女の勉強と同じような
問題集が作られて宿題が出始めた。
ついでに、一刀を一緒に支える仲間となったのだから、と陳宮からも宿題が出た。
要するに、ここ数日は部屋の中で缶詰なのである。

劉協様と、一刀様に仕えることになったのだから頑張らなくては!
そう気合を入れて机に向かうも数分後には撃沈してしまう。
不甲斐ないと思うと同時に、分からない物は分からないと開き直りそうになる。
分からないのならば、聞くしかないのだが。

「……うう、またねねちゃんにキツイ視線を投げられそうだよぉー」

そうなのである。
既に分からない問題にぶち当たった時に、音々音の元まで訪ねて訊いているのだ。
何度も。
最初の方こそ、にこやかに対応してくれたのだが3回目を超えた辺りから
音々音の眦が危険な方向へと傾き始めた。
7回目を越えると、顔は笑っているのだが眼が笑っていない。
都合11回目に、ようやくこめかみに走る青筋に気がつき
そして桃香は音々音の元へ行くのを断念したのである。
これが約一時間前の出来事であった。

少し外に出て休憩をしようか。
いやいや、一問も解かずに外へ出れば遊んでるとしか思われないでは無いか。
でも、こう詰まってしまったら気分転換は必要だろうし精神的に良くない。
それは分かるが、このままでは問題集を作ってくれた劉協様や一刀様に申し訳ない。
うんうんと唸る桃香の頭の中で、繰り広げられる会議は一つの結論を導き出した。
一問解いたらちょっと気分転換しに行こう。
そう、一問だけ解いたら。
心の中で決めてしまうと、やたらやる気が沸いてくる。
桃香はとりあえず、簡単に解けそうな物を机にどっちゃり詰まれた問題集の中から探すことにした。


―――


ある扉がやにわに開き、軋みを上げて廊下に響く。
顔だけだして左右を確認、周囲を見渡して何も無いのを知ると、そろりと足を出す。
つい先ほど、一問解いて外に飛び出そうとしている桃香である。
心理的に気まずいせいか、忍び足で廊下の前を歩き出した。
きょろきょろと視線をめまぐるしく移動させ、僅かに屈みながらソロリと歩き出す様は
傍から見ればただの不審者だ。

そうして彼女は音々音の居る部屋を通り抜け、恋の眠る部屋を通り抜け
最後に一刀の部屋を通った時に、物音が聞こえてビクリと身を震わした。
何事かと興味に引かれて扉の前で息を潜める。
何かが動く……衣擦れのような音は聞こえているのだが、声はしない。
もしかして、盗人か何かが入り込んだのでは無いか。
桃香はおそるおそる扉の取っ手に手をかけて、僅かに開いた。
その瞬間だった。

「う!? あいだだだっだだだ!」
「む、ちょっと浅かったか」
「わああっ!?」

悲鳴のような声があがって、それに驚いて桃香は尻餅をつく。
どんな力がかかったのか、扉は音を立てて開かれてしまった。
慌てて彼女が室内に眼を向けると、しかし、部屋の中に居た一刀と華佗は気付いた様子もなく。
不審に思ってよく見れば、一刀の左腕から夥しい数の針が生えていた。
もはや腕よりも、針の方が目立つその姿は痛々しい。
眼を剥いて驚いた桃香は、黙っていることなど出来なかった。

「ああっ! 一刀様の腕が剣山にぃー!」
「うおっ!」
「うわ、ビックリした!」

そこでようやく、二人は桃香の存在に気がついた。
驚く二人へとズカズカ近寄り、顔を顰めて一刀の腕に生えた針の山を一瞥した後
華佗へと視線を向ける。

「これ、治療なんですか?」
「いや、治療じゃないんだが」
「あー、強いて言えば練習かな?」
「練習?」

一刀は不審な目を桃香から向けられ、困った顔の華佗の為に横から説明する。
華佗の麻酔技術がどの位のレベルに達しているのかテストしているのだ。
この左腕に突き刺さった針の山は、見た目は痛々しいが急所はしっかり外されていた。
当然、皮膚などには痛みが走るし、痛覚も刺激しているので痛い。
麻酔の効果は肘から先だけで、二の腕を試してみたところ激痛が走って声をあげてしまったのだ。
桃香はその話を聞いても訝しかんだのだが、華佗に試してみるかと問われて慌てて首を振った。
彼女の反応は仕方のない部分もある。
この時代に麻酔技術など無かったからだ。
たとえ、痛みは少ないと聞いても一刀のように腕に剣山を生やす事などしたくない。
そも、桃香も乙女である。
やたらと肌を傷つけるのはご遠慮願いたい事だろう。

「うぅーん、医の道は厳しいんですね」

苦笑しながら桃香の言葉を聞き流し、華佗は一本ずつ一刀の腕から針を抜いていく。
おなじく一刀も、今は確認しなければならない事があった。

「で、どうかな」
「まぁ結局のところは程度によるんだが、力は尽くすつもりだ」
「そっか……自分から考えた事とはいえ気が滅入るよ」
「動かなくなるという事は無いだろう、それと此処は何度も言うように、絶対当てちゃ駄目だ」
「分かった、一応だけど印もつけているから多分大丈夫だ」

真剣に話し合う二人の様子に邪魔するのも悪い。
かといって、針を抜いて血を引く一刀の腕を眺めているのも嫌だったので
勝手悪いとは思ったが、卓に置かれた茶葉を手に取り作り始める。
さり気に一刀と華佗の分もしっかりと作って、横に置いておく。
やがて話の方はひと段落したのか、一刀は自然に手を伸ばし器を手に取って

「あれ? ああ、桃香が淹れてくれたの?」
「へ? まぁその、暇だったので……」
「ああ、そうか。 何か用事だった?」
「ううん、全然用事は無かったよー」

音を立てて茶を啜りながら、一刀は密かに感心していた。
桃香に与えられた宿題、それは結構な問題集の束になっていたと思ったが、もう終わったのかと。
これも、盧植という人が教えた下地があるからだろうか。

「凄いね、もう終わったんだ」
「へ? いや、えーと、まぁ、えへへへ?」

なんとなくまったりとした時間が流れているのも手伝って、一刀は世間話に興じることにした。
この後、諸葛亮と鳳統に会いに行くことになっているが、時間が余っているのだ。
それに、桃香がこの部屋に来てくれたのは都合が良かった。

「そういえばさ、盧植さんの話聞いた?」
「盧先生の話ですか? なんだろ」
「皇甫嵩さんの話に頷いたって。 近い内に宮内に参じるみたいだよ」
「え、本当ですか!? わぁー、嬉しいな」

手を叩いて嬉しそうに笑う桃香に、華佗の鋭い突込みが入る。

「桃香は勉強のせいで外に出れないんじゃないか?」
「はうっ!」
「まぁ、ずっと休みなしで勉強してろって訳でもないし。
 会いに行くくらいの時間もあるでしょ」
「さっすが一刀様、話が分かりますね」
「ははは、俺も公孫瓚さんには会いたいから。 紹介してよ」

一刀が公孫瓚と会いたい理由は簡単だ。
随分前の話になるが、一刀が結構ありえない大怪我を負った時に、安静に休める場所を手配してくれた者が居る。
その時の怪我は音々音が呼んだ華佗のおかげで、一刀は一命を取り留めたのであるが
あの場から静かに休める場所を提供してくれた公孫瓚に、兼ねてから礼を言いたいと思っていたのだ。
桃香はしっかりと紹介することを約束してくれた。

一頻りの談笑を終えて、一刀は窓の外を見る。
陽はずいぶんと落ちた。
そろそろ、頃合だろうか。

「さて、と……じゃあ華佗、明後日までに頼むよ」
「ああ、手配しておく」
「桃香って今は暇?」
「えーっと、暇というか何と言うか。 どちらかと言えば暇じゃないけど暇のような」
「そっか、じゃあ一緒に来てくれないかな」

暫しの逡巡の後、彼女は一刀と共に行く事にした。
僅かに意識に残っていた、たんまりと机の上に乗っている宿題の事は、とりあえず忘れることにしたようである。


―――


夕刻に差し掛かった。
陽の光が赤く色づき始めて、洛陽の宮内を照らし始めた時間を選んで牢に訪れたのには訳がある。
この時間が最も、牢の周りをうろつくのに目立たないからであった。
朝早く、夜遅くになると、逆に目立ってしまうのだ。
昼間でも構わないのだが、基本的には仕事に慌しく、見に来ても話をすることは僅かにしか出来ない。
故に、自然と牢屋へ足を運ぶ時間帯は夕刻が多くなっている。
おかげさまで、牢番を勤める兵士達も今では、一刀が来れば鍵を開けてくれるのだ。

「あ」
「あれ?」
「天代様じゃねぇっすか!」
「アニキさん、どうしたんですか!」

諸葛亮、そして鳳統が繋がれている牢の扉の前。
そこに官軍の武具を装備して突っ立って居た男達の中に混じって、見覚えのある顔が声をかけてきた。
黄巾党の乱、そこで一刀の為に働いてくれたアニキである。
戦場から姿を眩ましていた為、一刀がアニキと再会したのは戦の時以来だ。

「久しぶり、ここで働いてるんだね」
「へへ、まぁ結局こういう事しか出来ねーんで」
「そんなことないよ。 でも、そっか……」

アニキが再出発に選んだ道は、兵となることであったようだ。
話を聞くと、先の宛城にも出征し歩兵として黄巾党とぶつかったらしい。
チビは、一刀との繋がりが在ったからか、前に一刀が務めていた運送屋で働き始めているそうだ。
兵になるのは、怖くて出来なかったという。

「デクは故郷に帰りやした。 いつか採った魚を天代様に届けるって伝言を頼まれてます」
「それは楽しみだよ」
「……ところで、今日はどうしてこんな臭ぇ所に来たんですかい?」
「あの子達の様子を見に来たんだ」

それだけで、アニキは諸葛亮と鳳統のことであると気がついた。
一瞬、まだ生きてたんですか? と聞きそうになったが、それは辛うじて口を噤む事に成功する。
頭を掻いて、それからアニキは腰から牢の鍵らしきものを取り出し一刀に手渡した。

「あんま長い時間居ると、匂いが映っちまいますぜ」
「ありがとう、恩に着るよ」
「あのぉ?」
「大丈夫、行こう」

牢の中の誰かに会いに行く。
それは流石に桃香も分かったが、正直牢屋の中に入るというのは予想の外の事だったので躊躇ってしまう。
ぶっちゃけると、勉強ずくめで部屋に押し込まれていた彼女は、やっと少し外で遊べるのではと期待していた分だけ
ちょっと落胆したのが本音だ。
そも、一緒に行こうと誘ったのは一刀なのだ。
女性を誘って一番最初に訪れた場所が牢屋である。
不満といえば不満だが、至極真面目な様子で話を進めている一刀を見ていると
これも仕事の一つなのかな、と割り切ることにして、彼の後に続くように牢の中に入った。

入った途端、むせ返るような匂いが、ツンと鼻腔を刺激する。
牢屋に入っているのだ。
当然、身を清めることも出来ないだろうし排泄物などは一箇所に置かれているだけだろう。
桃香は自然、眉根を顰めてしまう。
匂いが身体につかないだろうか、そんな心配事をしながら歩くこと暫し。
ようやく目的の場所に着いたのか、一刀は立ち止まった。

「元気かい?」
「あ……」
「天代様……」

二人で一緒に、丸くなって眠っていたのだろうか。
眼を擦る様な仕草をしながら、二人の少女は顔を上げて一刀と桃香を見上げた。
そんな二人を見て、桃香は驚き固まっていた。
こんな幼い少女が、一体何をすればこの牢に閉じ込められる事になるのだろうかと。

「食事はちゃんと貰っているの?」
「はい、その、手配してもらってますので」
「大丈夫、です……あの」

鳳統の視線が、桃香へと突き刺さるのを見て、彼女は薄く笑った。
その笑顔に、思わず俯いて顔を隠す鳳統。
何気ない仕草であったが、桃香は自分の笑顔から逃げられた事にショックを受けた。

「この人は最近知り合った劉備さんだよ。 俺の仲間だ」
「劉玄徳、私の名前です、よろしくね」
「はわわ、私は諸葛孔明です」
「あわ、ご丁寧にどうも……鳳士元、です」

洛陽、その牢屋越しに大徳の劉備、それを支える伏竜鳳雛の出会い。
自分が居なければもっと違った形で3人は出会っていたのだろう。
一刀はそんな、益体も無いことを考えながら諸葛亮と鳳統を気遣うように
体調の確認や、近況を聞いていた。
そして、自分の身の回りに起きた変遍、出来事、そして時には悩みを二人に話していた。
これは訪れた時に何時も行うことだった。
今日は桃香も交えての話だったせいか、最初こそ桃香との会話に躊躇いを見せていたが
元から持っている彼女の雰囲気が、二人の緊張をすぐに解いたのか。
思いのほか、会話は長く続いていた。
それは楽しいひと時ではあったが。
そろそろ伝えなくてはならない。

二人の処遇が決まった事を。

「……二人共、良く聞いて欲しい」

一刀の態度、そして硬い声から察したか。
ピクリと身を震わせて孔明と士元は一刀へと顔を向けた。
一人、首を傾げる桃香。

「君達の処遇が決まった……読み上げるよ」

一刀は懐から書を取り出して、それを広げる。

諸葛孔明、鳳士元。
黄巾党の乱に加わり、現王朝に刃向かった以下の二名には、その両目を刳り貫く『あつ眼』の刑を与える。
混乱を加速させた責を加え、刑の執行後は大陸の乱の平定の為、官軍に尽力することを強制する。
黄巾の乱が終わるまで、常に前線へ赴きその知を奮う事とする。

要約してしまえば、一刀が孔明と士元に読み上げたのはこういう意味になる。
両目を失くした軍師が、一体戦場に行き何をすればいいのか。
文字も読めない。
戦況図も見れない。
戦場も見渡せない。
敗戦となれば、逃げることすら出来ない。
なにより、賊将であった自分を助ける官軍など存在しないだろう。
眼を失った軍師の助言が果たして、聞き入れてくれるのかどうかは甚だ疑問だ。
囮として最前線に放り投げたほうが、まだ官軍にとって役に立つかもしれない。

言わば、一刀が告げた刑の内容は死ねと言ってるに等しい。

二人は、一刀が刑の内容を話している最中も俯いていたが。
やがて顔を上げてはにかんだ。

「天代様、ありがとうございます……」
「分かって、ましたから」

それでも、彼が自分達の為に色々と方策を練っていたのは知っていた。
だからこそ、孔明も士元もまだ笑うことが出来た。
そんな彼女達を一瞥して、一刀は淡々と続きを読み上げる。

「刑の執行は二日後に決まった。 直接、俺が執り行う」
「はい、天代様ならば覚悟もつきます」
「……こく」

そして二人の両目に落ちる雫。
牢屋を挟むこの場所では、それを拭う事は出来ない。
一刀は書を仕舞いこむと、二日後に、とだけ言い残して踵を返した。

余りに衝撃的だったのか。
桃香はしばし呆けた様子で孔明と士元に眼を向けていたが、気がついたかのように一刀の後を追った。
牢に入れられた少女達は世を乱す黄巾党だった。
そして、彼女達は自らの罪を認めるように一刀の告げた刑を受け入れた。
しかし―――何故だ。
桃香の心の中で、何故か納得できない不満が彼女を突き動かしていた。

ようやく見えた一刀は、牢である建物を出て離宮へと向かう背中。
桃香は走って一刀の前に回りこむと、息を切らしながらも口を開いた。

「ハッ……はっ……ま、待って、一刀様!」
「……桃香、どうしたの?」
「だって、あんなのあんまりです! 何とか、何とかできないんですか!?」
「……」
『桃香……』

知らなければ、知らなければこんな風には言わなかったかもしれない。
何より一刀は今、仕えるべき主だ。
しかし、諸葛亮と鳳統。
二人を知ってしまった今では、一刀の告げた決定に頷ける物では無くなってしまった。
そんな桃香に答えず、一刀はただ悲しげな眼で見つめた。
そして、首を振る。

「一刀様っ―――あっ!?」

胸に突き上げる感情から、桃香は一刀の肩を持って何かを言おうとして
突き上げるように膨らむ何かの激情が、口を噤ませた。
肩から離れた手が、桃香自身の胸に向かい、服に皺を作らせた。
そんな桃香の手の上に、一刀は右手の掌を乗せて。

「な、うそ、ご主人……様?」
「桃香、何とかするためにこの刑を選んだんだよ」
「え、あ、だって、でも―――っ!」

彼女の前に掲げられた左腕。
長い袖から捲くれて見える、赤くなった腕の模様。
それを見て、桃香はハッと気がついた。
先に見た、あの針で埋まった左腕は麻酔というもので痛みが無かったと言っていた。
そして、二人を助けるつもりだという一刀の意図が薄ら見えてしまった。

「……」
「彼女達は、刑が終わればしばらく、離宮に隔離することになる。
 誰の目にも触れられないように、刑が嘘であることを知られないように。
 だから、俺が諸葛亮と鳳統を守ることは出来ない」

それは天代という立場が許さない。
そして、刑の中に在る最前線を渡り歩かねばならないという罰。
その裏の意図を桃香は察して、一刀がこの場所に二人を残さない事に決めたのだと知った。

「孔明と士元を守るのは、桃香」
「……」
「君で……在って欲しいんだ」

桃香は、何も言葉に出来なかった。
一刀の覚悟と想い、そして自分にやたらと多くの不思議な問題を出したこと。
盧植から学んだ事が生かせないというのは、それが純粋に学問であったからだ。
実際に軍を率いて歩く術など、学ぶことなど無かった。
全ては、二人を救うための道。
そして溢るる、一刀に対しての暖かい不思議な気持ち。

「……嫌かい?」
「嫌じゃ、無いです……」

笑って話す一刀に、桃香は力なく震えた言葉でそう答えて、首を振った。
桃香の感情の昂ぶりも落ち着いてきたのを見計らって、一刀は離れると踵を返して離宮へと歩き出す。
桃香もその後ろを付き従って、歩き始める。
一刀が桃香に望んでいること、それを知った今。
桃香はその思いを含めて自分の心を噛み砕いている最中だろう。

『“蜀の”も“無の”も、大概自分勝手だね』
『……ああ、でも』
『うん』
『劉備、だもんな』

「やります……私」

脳内の言葉に追従するように、桃香の声が一刀の耳朶を響かせる。
振り向くことなく、一刀は頭だけで頷いて。

本体が閃いた時、一番の懸念であったのは桃香の意志を無視してしまう事だった。
“蜀の”や“無の”の押し付けになってしまうかも知れない。
脳内の皆に諭されても、彼らは本体が見つけ出した道に願った。
だが、それに頷けなかったのが本体であった。
自分のように、流されて歩く道を桃香に強要したくなかったのだ。

そうした一刀の配慮から、敢えて桃香を連れ立って牢へと赴き、孔明と士元に刑を告げた。
黄巾党に加わっていた事を、刑を告げた時に桃香は知ったはずだ。
更に、孔明と士元はそれを聞いて素直に受け入れた。
これだけの状況が揃っていれば、まず助けてやれなどと普通は言えない。
それでも追いすがってくるのならば。

そして、桃香は答えを出した。
意識を落とした二人が彼女の答えを聞く事は無かったけれども。
“蜀の”も“無の”も分かっていた―――かも知れない。


そして。
離宮へと戻った一刀と桃香だが、まだ一問しか解いていない問題集が音々音に見つかってしまい
彼女は大目玉を貰う事になった。
夕食抜きの刑も追撃で降りかかった。
その最中。
青い顔で一刀を見やった桃香の気まずそうな顔に、一刀は腹の底から盛大に笑ってしまった。
何せ、全て問題を終えていたと勘違いした一刀である。
自分の勘違いとあいまって、それはそれは、久しぶりに声を上げ腹を抱えて笑った。

頬を膨らませて腹の虫を鳴らしつつ拗ねた桃香の勉強に
その日は音々音と共に一日中付き合った一刀であった。


      ■ 涼の州、煽られて


涼州。
西方に位置するこの場所で、ある男が荒野を駆け抜けていた。
今で言うところのモヒカン頭に長いお下げを後ろに靡かせている。
モミアゲも肩に付きそうなくらい長く、眉は太い。
面は、はっきり言って四角と言ってもいい位に角ばっていた。
広い荒野をただの一人で馬を駆り、目指しているのは名高い女性の下。
目的地に到着するなり、馬から飛び降りて中へと潜ると、一人の女性が寝そべるように腰掛けて書を眺めていた。
火を燃やしているのか。
室内は随分と暖かく、焦げた匂いが彼の鼻腔を突いた。
誰かが来たことに気がついたのか。
女性は僅かに身を起こして男を見やる。
ざっくばらんに切られている長い赤い髪は、見た目よりも艶やかであった。
厚ぼったい唇が妖艶な雰囲気を醸し出しているが、仕草は随分と荒く
容姿の艶やかさはそんな荒っぽさに隠れて見えなくなってしまっている。
そんな彼女の名は。

「韓遂、お前のところに、来たか?」
「ん? ああ、辺章か」
「俺のところも来た、見ろ」

投げ捨てられるように韓遂の元へと書が転がり込む。
辺章と呼ばれた男の元に訪れた書は、字体こそ違う物の明らかに韓遂と同じ内容が記されていた。

「どう思う」
「ははっ、こりゃあ相当中央も乱れてるねぇ」
「やはりそう思うか」
「思わないかよ、辺章。 ここに記されているのが事実なら中央を攻めろってあるんだぜ」

そう、確かに韓遂と辺章の元に届いた書には、中央へ攻め寄せろとの旨が書かれていた。
反乱を起こせ、と。
では一体、このような不穏な書を寄越したのは誰なのかという事になる。

「……官僚か?」
「だろうよ、無駄に達筆だ。 西方の連中は字に気を使わないしな」
「……」
「立つのか、辺章」
「分からん、まだ怖い」
「ハッ、しかし……面白い事になるかも知れねぇな、この書は」

そこでようやく身体を完全に起こして座り、韓遂は投げられた書を同じように辺章へ投げ返す。
大きな音を響かせて受け取った辺章は、そんな韓遂を見つめた。
辺章はどうするか悩んだとき、人を見つめる癖があった。

「おう、一応動く用意だけはさしとくかい?」
「分かった、そうする」

話は終わった。
そう示すように大仰な動きで踵を返した辺章は、再び彼女の元から飛び出すと
馬へ乗って駆け出していく。
広い広い、涼州の荒野へと。

「上手く利用すりゃ、力を伸ばせる良い機になりそうだぜ」

その場から動かずに、書を細い指でなぞっていた韓遂は呟くようにそう言ってから
書を掴んで投げ捨てる。
燃え盛る火の中に飛び込んだ反乱を煽る書は、やがて引火し、灰となって消えていった。


洛陽から肌寒さの消えた、木々に緑が生ゆる頃であった。


      ■ 外史終了 ■






[22225] あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編4
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/29 01:04
clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編2~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編3~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編4~☆☆☆



      ■ 邪気眼-終焉工作室-


随分と過ごし易い気候になったものだ。
最近では服装も厚ぼったい物や長袖を着ればじわりと汗が滲んでくるほど、暖かい日が続いている。
こうして歩く洛陽の町並も、この暖かさに浮かれているのか、どこか落ち着かない。
そういえば、洛陽の町並も随分と見慣れている自分に気がつく。

曹操は先日洛陽へ赴いた荀彧と合流し、今は大広場で待ち合わせた人と会う為に町へ繰り出していた。
洛陽の街を見慣れたとは言っても、滞在している間、毎日フラフラと遊び歩いている訳ではない。
陳留から毎日届く報告に頭を悩ませ、賈駆を勧誘したり、宦官の祖父の下に訪れたり、陳留の動向に気を配ったり
田豊を勧誘したり、実に恐ろしきこの世の物とは思えない筋肉の塊を見かけて3日間もの間うなされたり、荀攸を勧誘していたりした。
一昨日は、機知良く弁立ち器量良しと絶賛されていた司馬懿の元に自ら訪れたが、空振りに終わっている。
そんな曹操も、今日は肩の力を抜いて街で楽しむ事に決めていた。

ゆっくりと町の様子を眺めながら、歩くこと暫し。
目的地には既に、待ち合わせの相手が居るようだった。
優雅に椅子へと座り、店先の茶と饅頭を楽しんでいる様子が見て取れる。
昼間まではまだ時間もある。
間食を楽しむのも良いだろう。
そう思いつつ、曹操は袁紹の座る卓へと椅子を引いて座った。

「遅いですわよ、華琳さん」
「あら、そんなに遅れていたかしら」
「私を待たせた時点で遅れたのと同じようなことですわ」
「はいはい、それは悪かったわね」

そう、相手は袁紹だ。
ここ最近、旧友ということもあってか洛陽に滞在している間、良く顔を合わせている。
その原因の一つ……と、いうよりも殆ど原因の大部分を占めているのは天代、その人のせいである。
どうやら一刀へ贈る物は武器に決まったようだが、特に武器が見たい訳でもなかった曹操は
巧みに袁紹の思考を誘導して、自分の行きたい場所を巡っていた。
その為、袁紹から都度誘いがかかってくる訳だが。

「今日こそは天代様に送る武器を選びますわよ」
「……まぁ、今日は付き合ってあげるわ」
「なんですの?」
「なんでも」

ぶっちゃけると、自分の行きたい場所は殆ど巡ってしまった曹操である。
今日こそは選ぶのだという気概が、袁紹から立ち上っているのを見てこの辺が頃合だったという部分もあった。
そもそも、袁紹はあまり我慢強い方ではない。
今まで一人で見に突撃して行かなかった方が新鮮で、驚きだったくらいだ。
と、いうのも袁紹は正直見た目の美しさや己の価値観に基づく華美な物の判断は出来るのだが
武器として実用性があるのかどうかの判断は余り出来なかった。
今までも、そして恐らくこれからも自身が武器を奮って戦う事など来ないだろうと考えているのだ。
ただ一刀に贈る武器の、実用性を求めるだけならば顔良や文醜でも構わないのだが

「やっぱり、美しさも備えて欲しいですし」

これは、袁紹が曹操に付き合って貰う大きな理由でもある。
彼女の感性の良さ、それは袁紹も多少なりとも認めている物であった。
正直、袁紹の好みはド派手とは言わないまでも、見た目からして煌びやかな物に惹かれる傾向がある。
一方で曹操は、一見渋めな物でもその価値を見出せる審美眼の持ち主だった。

「適当に宝剣でも贈ればいいじゃない。 名刀もあるわよ」
「最初はそう思ったのですけど……」

下手な鉄砲数打てば当たる、それを無意識に実践しようかとも袁紹は考えていた。
数多に贈った物の中から、一刀が気に入った物を使ってくれれば良いと。
ところが、その考えは田豊が強く却下した。
建前として、宦官や高官達からの宴の誘いや賄賂と言えそうな贈り物を全て破壊した
天代の清廉さから、受け取る可能性が低いと言う事を話されたのだ。
この裏に潜む思惑は、下手に多くの物を贈るより、心の篭った一つの品を贈った方が心象に良いだろうという
袁紹と一刀をくっ付けるのを良しとした、田豊の考えからだ。

小一時間ほどだろうか。
一頻り談笑を楽しんだ二人は、自然そろそろ向かおうかと、どちらからとも無く立ち上がった。
ふと、曹操は今日向かう場所が何処なのか知らない事に気がつく。
辿りつくまでのお楽しみにしようかとも思ったが、聞きたい欲求は抑えきれず袁紹へと尋ねた。

「何処へ向かうの?」
「邪気眼-終焉工作室-」
「え?」
「なんか、そんな名前だそうですの」
「そう……」

どうにも胡散臭そうな店の名であった。
宗教のような物だろうか、少なくとも邪気などと書かれている時点で良い印象は抱かない。
口ぶりから、この店も袁紹が自分で見繕った訳ではないだろう。
一体誰が見繕ったのか。

―――邪気眼-終焉工作室-
そこは洛陽の中でも寂れている区画にポツリとあった。
華やかな大通りから逸れ、住宅街を抜け、職人達の集まる工場の片隅に。
しかし確かに、目立たない程度に誂えた看板が掲げられ、そこに店の名前はハッキリと書かれている。
基本的に武器というものは店で並べられている物を選んで買うというより
鍛冶技術を持った職人に作らせるか、作られた物を買い取るというのが普通だ。
ところが、この店ではどうやら鍛冶場で打った物を直接店先に並べているようであった。
その鍛冶場と店が、長屋のように連なって建てられている、珍しいといえば珍しい光景である。
実際、目の前に数本の武器が立てかけられて展示されているので間違いないだろう。

「ここ、ですわね」
「みたいね……」
「地図では此処の辺りなのだが」
「うむ……ん?」

曹操と袁紹がぼけーっと店の外観を眺めていた時、路地からひょっこりと顔を出したのは
片手に地図を持って歩く周瑜と、その後ろを気だるげに歩く黄蓋。
宮内でも殆どすれ違うことも無いのに、こんな街の片隅で出会うとは如何なる偶然だろうか。

「周瑜に、黄蓋だったかしら。 この店は良く使うの?」
「曹操か、戦の時以来じゃな」
「孫堅様に薦められて、来ただけですよ」

無視するという訳にもいかないので、お互いにそこそこの挨拶を済まして
その間に曹操は考える。
周瑜と黄蓋、どちらも黄巾の乱で名声を上げた孫堅を主と仰ぐ将達。
この二人、どちらも武に覚えがあるようで、普段の立ち居振る舞いからそれを見て取れた。
そんな二人が訪れた、この店。
孫堅の紹介ということから、少なくとも実用性のある武器を打って販売しているのは間違いないだろう。
店の名前はともかく、少し興味が沸いてきた曹操である。
そんな周囲のやり取りも、袁紹の焦れたような声から切り上げることになった。

「時間が勿体無いですわ、早く覗きますわよ」
「ふむ、袁紹殿は武を奮うようには見えないが、どうしてここに」
「天代様の武器を見繕うためですわ」
「……天代様に?」

周瑜と黄蓋、どちらも片方の眉がくいっと上がる。
袁紹は、後漢4代に渡って三公を輩出した、名門中の名門である袁家の候である。
その権勢は筆舌に尽くしがたい。
漢王朝の中でも、存在だけで影響力を与え得る数少ない勢力の一つであった。
そんな袁紹が、時の権力者となった天代に贈り物を贈るということは
様々な裏があると見て然るべきである。
そんな理由から微妙に表情を変化させた周瑜達に袁紹は気付く事無く、扉を潜って店内へ入っていく。
残された曹操に視線が集まり、彼女は肩を竦めた。

「あまり深く考えなくても良いわよ、そのまんまの意味だから」

この回答に、周瑜は曹操も一枚噛んで居るかも知れないと考えた。
自らの主である孫堅にも気に入られている一刀の事を思うと、諸侯が天代と接触を持とうとするのも頷ける話だ。

「なるほど……袁紹殿は天代様に恋焦がれたか」
「祭殿、戯けた事を……袁家は名門、いくら袁紹殿と言えども、それを束ねる以上裏を考えない訳がありません」
「はい、黄蓋殿が正解」
「ば、馬鹿な……」

まるで鉄壁の城砦が陥落したという報を聞いたかのように、周瑜は言葉を漏らした。
よほどショックだったのだろうか、思わず後退りするほどであった。
そんな周瑜の様子に、含むように笑い声を漏らし肩を震わした黄蓋であったが
やがて我慢できずに豪放に笑い飛ばした。

「はっはっはっは! 冥琳、このような人の機微に気付かぬとは、軍師として不甲斐ないのぅ」
「くっ、祭殿はたまたま当たっただけでしょう!」
「馬鹿を言うな、ちゃんと袁紹殿を観察しての答えよ、見苦しいぞ」
「いや、しかし……」

恥ずかしさだろうか、それとも悔しさか。
周瑜にしては珍しく息を荒くして、言い訳染みた言葉を並び立てていた。
頭の片隅に、袁紹と曹操が共謀している可能性があることに気がついた故でもある。
まぁ、これは不正解な訳なのだが。
とにかく、その可能性を思い浮かべてしまった以上、曹操の言葉をすんなり信用できなかったのだ。
しかも目の前に曹操が居るため、黄蓋に説明しようとも出来ない状況だ。
二人の舌戦で珍しく優勢なのは、明らかに黄蓋の方であった。
曹操は、じゃれあう二人にしかし、袁紹が天代と繋がる可能性があることは大きな意味を持つと話した。
周瑜、そして黄蓋も曹操の見解には同意を示す。
袁紹その人だけでも、周囲に影響を及ぼすほどの大諸侯だというのに
天代と関係を持つ事になったらどうなるだろうか。

「まぁ、袁紹殿の性格を考えますと、少なくとも増長はするでしょう」
「同感だわ」
「策殿は先を越されてしまうかな? のぅ冥琳。 お主もうかうかしてられぬぞ」
「祭殿、お願いですから蒸し返して茶化さないでください」
「何? 天代様は孫家にも粉をかけているわけ?」

ニヤニヤと笑いながらからかいの種を花咲かそうとする黄蓋に、周瑜は辟易しながらも諌めたが
意外な事に食いついて来たのは曹操であった。
ここで曹操は知る。
孫堅の胸を見て会話したこと、雪蓮へ抱きついたこと。
他にも孫家に絡んだ天代との話を、あれやこれやと。
そして、極めつけは黄蓋から出た新たな情報だった。

「わしの確信に近い予想だが、天代様は胸を好む」

自らの豊満な胸をくいっと持ち上げ、ゆっさゆっさと揺らす黄蓋。
思いがけない行為と新たな情報に、曹操の肩眉がピクリと反応する。
更に周瑜から、追加の一撃が齎される。

「確かに……そういえば、田豊殿の胸にも反応しておられました」
「へ、へぇ?」
「まぁ男は皆、胸は好きになるものじゃが……」
「ふむ……しかし、それも人の性というものでしょう」

正直、理解はしかねますが……などと言いながら周瑜も自分の胸に手をあて動かす。
ふよふよ動く、たわわな果実達。
曹操は、自然とそこから興味なさそうに視線を逸らし、周瑜と黄蓋から齎された情報を整理し始めた。
彼女の名誉の為に付け加えさせてもらうと、現実逃避ではないし、現実逃避ではない。
とにかく、曹操がその頭脳をフル回転させて現時点で手に入る情報から結果を纏めると
天代である北郷一刀の好む異性の趣味著好は、幼女を好み、巨乳が好きで、その上虐待をする男という事になる。

最低だった。
ついでに言うと、袁紹の人となりに、かすりもしないラインナップでもある。

「……」
「曹操殿?」
「どうなされた」
「……いいえ、なんでもないわ」

何かを振り払うように頭を振った曹操は、一つ断ってから店の中に入る。
周瑜、黄蓋も一度だけ顔を見合わせて、彼女の後に続いた。


―――


店内に入ると、目の前に座る岩のようなという形容がしっくりする店主が、むっつりとした顔で視線を向けていた。
しばし観察されるように見つめられた曹操達であったが、やがて興味をなくしたように視線を外される。
そんな彼の腕……特に右腕は丸太のように太い。
左腕と比べると余りにも差異が大きかった。
まるでこの道一筋、打ちに打った右腕、30年と言った様相である。

「なるほど、期待できそうね」

ボソリと、自分だけに聞こえるように呟いた曹操である。
店の奥の方で袁紹が、そして目の前に孫家の武将と自分が居るというのに
媚びへつらう訳でもなく、興味すら向けないというのは自分の打った武器によほどの自信があるからだろう。
黄蓋はそんな店主の目の前に行き、自らの武器である大弓『多幻双弓』を差し出していた。
彼女の目的は武器の調整であった。
武将である以上、自らの武器の手入れは日常的に行うもの―――多くの者にとってはそれが当然―――だが
使い込めば、物である以上必ず疲弊する。
こうして鍛冶職人に調整を頼むのは珍しいことではなかった。
周瑜も途中まで黄蓋と共に話に加わっていたが、やがて品定めするように店内をうろつきはじめる。
同じように曹操も、立てかけられている剣の意匠に眼を引かれ、何気なく手に取った。

「ふむ、なかなか……あら、名も付いてあるのね?」

手に取った武器の名は、†十二刃音鳴・改†だそうだ。
名称や刃の質よりも、まず意匠の方が眼に惹かれた。
派手に誂えた訳でもなく、一見地味だが、埋められた赤い玉は本物の宝石だろう。
柄の部分に多くの逆トゲが付いており穴が空いているが、扱いに慣れれば問題は無さそうだった。
穴が開いている分、強度の方は些か心配である。
一つ腕を走らせて振ると、甲高い空気を切り裂く音が音色となって聞こえてきた。
あえて擬音で例えるなら、ピーヒャララーといった感じだろうか。
思いの他、間の抜けた音の鳴る剣であったが、曹操は感心した。
馬に乗って駆けるだけで、戦場でも目立つ武器になりそうである。
将が持てば、その鳴る音自体が兵の鼓舞の役目を持つかもしれなかった。

しばらくして別の列の武器に視線を向けると、権力者を象徴することが多い両刃の剣が立てかけられていた。
こちらも意匠は曹操の目に叶うほど素晴らしい。
良くある龍を象った物で、名を『無龍・戟震』と書かれている。
思いきり龍が二匹居るし、戟ではなく剣なのだが、見た目は良い。
どうもこの辺は、実用性よりも麗容な武具が並べられているようだ。

そんな風にあれこれ歩いては手に取って眺めていた曹操だが、ふと顔をあげると目の前に武器があった。
袁紹が突き出したその武器は、先ほど華琳が手に取っていた物とは違い
柄と、刀身があるだけの随分と地味な物である。

「ねぇ華琳さん。 こういうのが実用性がありまして?」
「これは流石に……悪くは無いけれど、重量も無いし雑兵用じゃないの?」
「そう、良く分かりませんわ」
「あっちの音の出る剣の方が、まだマシね」

曹操の言葉に興味が沸いたのか、案内するようにせっつかれて渋々と連れ立って歩く。
顔を巡らすと、今度は周瑜が、何やら鞭のような武器を持って店主と話をしていた。
彼女は鞭使いか、などと曹操が心に留めている最中、重さによろめきながら武器を振り回してピーヒャラ奏でる袁紹。

「おーっほっほっほっほ、華琳さん御覧なさい、間抜けな音が出ていますわ」
「そうね、間抜けね」
「良いですわね、意匠もまぁ、悪くはないですし……ちょっと重いし地味で・す・け・どっ、えいっ、えいっ!」

すんでの所で、曹操は麗羽が、という言葉を飲み込んだ。
どうも自分が気に入ってしまったようで、汗を掻いてまで振り回す袁紹は正直耳障りで迷惑だった。
間抜けな音が店内に響く中、新たな客が入ってきた。
扉の開かれる音に釣られて首を巡らした曹操。
その時、電撃走る。
黒く長い麗髪に、豊満な胸。
凛とした顔立ちと、堂々とした立ち居振る舞い。
微妙な所作からでも、武人とすぐに分かる佇まいは魅了して止まない。
曹操に電撃を走らせた人物は、関羽であった。
彼女は自分の青龍偃月刀の刃を研いで貰うためにこの店に預けていたのだ。

「店主、預けていた武器を受け取りに来たのだが」
「そこだ」
「うむ」

「……」
「華琳さん、天代様に送るのはこれでも良いかしら?」
「……良いわね」
「そうですわねぇ、天代様の奮う剣が音を奏でるというのも悪くないですわ」

呆然と言った様子で、曹操は関羽が店主から武器を受け取るのを見やりつつ、袁紹の問いかけに適当に答えていた。
いや、むしろそれは独語と言っても良かったかもしれない。

「それより、華琳さんは、愛する天代様に贈らなくてよろしいの?」
「そうね……贈りたい位には惚れたわよ」

この言葉に反応したのは、関羽に店主との会話の席を譲った周瑜であった。
曹操が惚れたと言った瞬間、周瑜の耳が史実の劉備のように大きくなる。
やはり、贈り物の件は曹操も噛んでいたか、という気持ちと同時に、惚れている……だと……というショックも重なった。
ちなみに袁紹は、ようやく本音が出ましたわね華琳さん、と言った様な表情で満足げに頷いていた。

「何か選んで差し上げては?」
「……でも武器は……愛用してるのかしら、駄目ね」
「あら、遠慮しなくても宜しいのに」
「遠慮はしないわ、別の物を贈って誘うとするわ」

どうやら曹操は武器ではなく、別のものを贈って天代の興味を惹こうとしている。
そう判断した袁紹と、そして周瑜である。
思い切り勘違いした周瑜は、何となく危機感を覚えてしまった。
今、この時勢において天代との関係をしっかり築いておくべきではないかと。
既に周瑜が認めている力のある諸侯の袁紹と、曹操が結託して関係を築こうとしているのに、孫家は動かなくて良いのか。
袁紹は先も言った通り説明はいらないし、曹操も語らずに理解できる覇気を持つ。

「……やはり孫堅様は先見の明があるな」

呟いて、周瑜は素早く孫家において最も天代と仲が良い者を考えた。
深く考えるまでも無く、真名を許したと言った孫策の名が思い浮かぶ。
次に周瑜は、今後の動きを考えた。
曹操、袁紹が贈り物を送るのに便乗するのも良いが、もっと良い方法は無いかを頭の中で捻り始める。
そんな、自分の考えに没頭し始めた周瑜を置いて
曹操は武器の具合を確かめている関羽に徐に近づいていき、そして言った。

「ねぇ、あなたの名は?」
「ん? 申し訳ありませんが、どちら様でしょう」
「我が名は曹操。 字は孟徳よ」

名を聞いた瞬間、関羽は驚き眼を見開いた。
ついでに店主の眼も見開いた、おそらく知らなかったのだろう。
曹操、その名は先の黄巾の乱の戦でも大きく勇名を馳せた諸侯の一人だ。
そんな人物に名乗られて、黙る訳にはいかない。

「! これは失礼致しました。 我が名は関羽。 字は雲長です」
「関羽……素敵な名ね、覚えたわ」
「それで、庶人である私に何か用があるのでしょうか」
「私の元で働く気はないか、関羽よ」
「なんと……」

この曹操の申し出は、関羽にとって衝撃であった。
そして同時に、嬉しさも心の内からこみ上げる。
自らの武には、それ相応の自信がある関羽にとって諸侯の一人、それも勇名を馳せる曹操の誘いであれば嬉しくもなろう。
ただ、彼女はこの申し出には頷くことは無かった。
確かに認められて嬉しい気持ちもあるが、彼女の頭の中に、気になる人の名が刻まれている。
そう、劉備の事である。
関羽は一度『玄徳』という人に会ってから答えを出したいと考えた。

「そう……残念ね」
「曹操様のお誘いを私は忘れません。 光栄に思っております」

玄徳。
その名を忘れぬよう、深く心に刻み込んだ曹操である。
欲しいものは何であろうと手に入れてきた彼女にとって、玄徳という者は今、敵になった瞬間だった。
負ける事など、まず在り得ない。
そういう自負があるからこそ、曹操は関羽が断る事を寛大に受け止められた。

「縁あらば、またお会いしましょう、曹操様」
「ええ、楽しみにして待っているわ」

そう言って礼を取って店を出た関羽を、名残惜しそうに見送った曹操の後ろで
ひそりひそりと声を交わす周瑜と黄蓋の姿。

「……のぅ冥琳」
「なんですか、祭殿」
「曹操が誘った関羽と言ったあの者、どう思う?」
「……ふむ、確かに雰囲気はありますね」
「よし、わしも誘ってみるとしよう」
「本気ですか」
「本気じゃ」

言い残し、後を追うように―――しかし極自然に―――店の扉をくぐって、関羽の後を追った。
今の一連のやり取りから、関羽が素直に頷く事は無いだろうことは黄蓋も承知の上だろう。
言葉は悪いが粉をかけておく、つまりそういう事だ。
本当に関羽と言うあの者が、一角の将になれる器であるのならば
黄蓋を止める理由を周瑜はもたなかった。

そして、袁紹の買い物が終わると、早速関羽の関心を引こうと考えた曹操が彼女を急かして店を出て街へと繰り出す。
そんな風にドタバタと店内を騒がせた者が立ち去って
鞭「白虎九尾」を受け取るために残っていた周瑜に店主は落ち着かない様子で一つ目を向けた。

「な、なぁ、あれは、偉い方々なのですか」
「ん? ああ、袁紹殿に曹操殿、そして私達は孫堅様所縁の将をしている」
「……」
「ところで店主、ここにある武器は変わった名前が多いな」
「は、はぁ、息子の趣味で付けさせてますからね。 本来、武器には名など必要ありませんし俺ぁ打てればそれでいいんで」
「そうか、質が良いだけに名前で損をしていると思っていたのだ。
 少し考えてみたほうが良いかも知れんぞ」
「は、はい、後で相談してみやす……」

沈黙した店主に、満足そうに頷いた周瑜は再び店内を一人、見渡し始めた。
実際、この店主の打った武器は、孫堅が薦めたように質は素晴らしい物であった。
江東で帰りを待つ孫権や、小喬にも何かしら買っていってやろうかという考えから
『白虎九尾』を受け取る直前まで悩んでいたが、武器を贈るのも無粋かも知れないという結論に達して
彼女は自分の鞭を受け取ると、洛陽の街へと去っていった。
そんな周瑜を見送った後、店主はその場で店仕舞いを始めて、そして。
翌日、店の名を示していた看板が変わっていた。

曹操様と袁紹様と孫堅様が使う邪気眼-終焉工作室-、と。

わざわざ新調した高級な作りの調度品に、達筆な文字で描かれたその看板は
職人の集まる場所にしては、やたらと目立っていた。
そして確かに、その看板の効果は高く、店主はしばらく金に困る生活を送る事はなくなったという。


      ■ 渡されて、受け取って


その日の一刀は貴重な休みを貰っていた。
日々の激務から開放されるひと時。
明日には、諸葛孔明と鳳士元の刑を実行する事になっている。
段取りは殆ど整え終わっているし、帝からのお誘いも珍しく無かった。
今日は本当の意味で久しぶりの完全休日だ。
朝食を終えた一刀は、そのままお茶を楽しみながら談笑を交わしている劉協と桃香の二人を眺める。
何やら楽しそうに笑いあう二人。
一体何の話をしているのだろうか。

「ええ、華佗様と一刀様が!?」
「うむ、そうなのだ。 本人達は誤解だと言っているが、あの雰囲気はなんとも言えない空間を―――」

傾けた耳をパタリと閉じ、一刀は半開きになった音々音の部屋へと首を向ける。
恋に抱えられた音々音が、鼻歌を歌いつつ服を畳んでいる姿が覗けた。
服といえば、巫女服は良かった。
後から冷静に考えてみると、何故巫女服がこの時代、この世界にあるのか分からなかった。
あの部屋は一刀へと贈られた物を纏めていたのだから、官僚の誰かが贈りつけてきた物だとは思う。
誰が送ってきたのかは分からないが、巫女服を選ぶとは。
良いセンスだ。
ちなみに、一刀が着る為に贈ってきたのでは無いかという懸念は、既に投げ捨てている。
結局、件の巫女服は捨てる事になってしまい、一刀としてはちょっぴり残念だった。

「待てよ、巫女服があるということは他の服も作れるのでは無いか」
『ようやく気付いたようだな、本体』
『忙しかったからしょうがないかも知れないけど』
『正直見損なってたぜ』
「好き勝手言うなぁ。 でも、そう言うからには作れるって事だよな」
『『『『『『『ああ』』』』』』』

声を揃えて是を返す。
脳内は既に、経験済み―――或いは既に実践済みのようであった。
テンションが上がりつつある一刀は、椅子を浮かせて前後にゆらりゆらりと揺らめいた。
音々音は言うに及ばず、此処には劉協も恋も桃香も居る。
明日、一刀の思惑が成功すれば諸葛亮と鳳統もここへ来る事になるだろう。
着せ替えで遊ぶのは正直言ってどうなのかとも思ったが、妄想の中でくらいは楽しんでも良いだろう。
脳内と共に、あれが似合う、これを着せたいなどと、思いのほか白熱した議論になって
一刀は一人、椅子の上で薄く笑ったり鼻息を荒くしたりしていた。
当然、それは周囲から見れば気持ち悪く見える。
いつの間にか音々音や恋達も桃香の話に加わって、一刀の事をひそひそと話していたが
それには全く気付かない一刀だった。


「一刀様ー」

しばらく、妄想に耽っていた一刀であったが桃香の声に我を取り戻して振り返る。
気がつけば、先ほどまで談笑を楽しんでいたはずの劉協や音々音達が居ない。
確かに小一時間ほどゆらゆらと茶を飲みながら、揺れ続けていたような気がする。

「……どれだけ夢中になって議論してたんだ」
「何をです?」
「いや、こっちの話だよ……何?」
「あの、今日お暇だったら白蓮ちゃんと会いませんか?」

この桃香の提案に、一刀は頷いた。
正直言って、暇だったからだ。
公孫瓚の予定もあるだろうから、昼過ぎにでもしようという事になった。
ついでに音々音から伝言があり、恋が董卓と会いたがっているらしい事を聞いた。
確かに、恋は離宮に住まいを移してから余り外出していない。
したとしても、一刀にくっ付いて来る時くらいだったので董卓とは久しく顔を合わせていないだろう。
一刀も、董卓とはゆっくり話をしてみたかった。

「分かったよ、董卓さんに聞いてみる。
 それと、公孫瓚さんとも一緒に、桃香の勉強を見ようか」
「へ!? あー、そのー、今日は一刀様もお休みだし、私もーって……あはは、駄目かな?」
「良いよ、って言いたい所だけど、桃香の休みは他にちゃんとあるじゃん」
「うぅ、そうですけど……」

あっさりと一刀に退けられて、桃香はうな垂れたがすぐに顔を上げて
公孫瓚に下話をしてくるとだけ言って、部屋を出て行った。
一刀は桃香の勉強に付き合う為の用意だけはしておくかな、と軽い気持ちで問題集を作り始めた。
一刀の母国、いわゆる天の国での話を交えるのも面白いかもしれない。
そんな事を考えながら、案外と先生という役職を楽しんでいた一刀だった。


―――


午後。
劉協と共に昼食を取っていると、段珪が一刀へと声をかけた。
桃香と公孫瓚が待っているという話を聞いて、早めに昼食を切り上げ、作ったばかりの問題集を手に取って中座する。
離宮からしばし歩いた場所に、確かに公孫瓚と桃香の姿が見えた。
仲良く語らっている二人の少女。
良い絵だな、と思いつつ一刀はそんな二人の間に割って入った。

「待たせちゃったみたいだね」
「あ、一刀様」
「初めまして、天代様……って、あれ? どこかで見たような……」
「はは、怪我した時はお世話になりました」
「怪我? ……うーん……あ、え? ええーーーーー!?」
「きゃあっ、何、白蓮ちゃん!?」
「……まぁ、驚くよね」

そう言われて公孫瓚は、しばし記憶を探るように思い返し、やがて気がついた。
もう数ヶ月前になるだろうか。
洛陽の街、その中央広場にて四股を水雑巾のように捻られて、語るも無残な状態に陥っていた青年。
正直、誰がどう見ても手遅れな状態であり、こうして立っている事自体が信じられないというのに。
なのに、その彼が今の世に轟く天代、その人だったのだ。
公孫瓚からすれば、死人が蘇って超出世したのに等しい。
実際、彼女は一刀を運ばせた後に苦しまぬよう逝ってくれと手を合わせつつ、幽州へと向かったのだから尚更驚いた。

「でも、貴女のおかげで俺も助かりました。 本当にありがとう」
「あ、うん……いや、当たり前の事をしただけですので」
「それでもです。 本当は言葉だけでなく、礼を尽くしたいのですが……」
「一刀様の立場だと難しいですよね」

言葉を濁した一刀であったが、桃香が続きを引き継いだ。
王朝での地位は最高位ともいえる天代の一刀は、友誼を育んだ一個人であるならばともかく
公孫瓚のような朝廷での身分がある者に贈り物をしてしまえば、それだけで裏を勘ぐられてしまうのだ。
勿論、公孫瓚も一刀と桃香の言葉から、その事ははっきりと理解して問題無い由を伝えた。
が、桃香は何かを思いついたかのように両手を合わせて言葉にする。

「あ、そうだー、一刀様が直接贈るのがまずいなら、私が贈ればいいんだよ~」
「あ、そうか」
「いや、本当に気を使わなくてもいいんだ」

しばらく固辞し続けた公孫瓚であったが、盛り上がった桃香と礼をしたい一刀に押し切られて
後日、桃香の方から一刀の贈り物を受け取ることに承諾した。
しばし三人での会話を散歩しながら楽しんでいたが、公孫瓚と桃香の後を歩く一刀は、手に持っていた問題集の存在に気がつく。

「あ、そうだ。 桃香の勉強があったんだね……」
「ああ、そうだよ桃香。 皆も集まってるだろうから早く行った方がいいかも」
「もぅ、二人共。 ちゃんと覚えてるもん」
「皆……?」
「天代様の教えがあるって、桃香から聞いたので諸侯にも声をかけておいたんです」
「うんうん、皆行くって言ってたよね」

今、目の前の二人は何と言ったのだろうか。
皆と言った、ついでに諸侯とも言った。
確かにそう言った。
嫌な予感を抱えつつ、桃香、そして公孫瓚に連れられて訪れた部屋に入り、一刀は呻いた。
それほど広い部屋ではないが、それでも数十人は収容できそうな室内に見覚えのある顔ぶれが勢ぞろいしていた。

曹操、荀彧、孫策、周瑜、董卓、賈駆、袁紹、顔良、田豊。
何故か何進と皇甫嵩まで居る。
そこに元からの劉備と公孫瓚が混じれば総勢13名……しっかりと律儀に教壇が用意されており
その教壇から全員を見渡せるような形で机と椅子に座り、並び立つ英雄達。
ここはどこぞの学校か。
嫌な予感は的中していた。

「あ、盧先生も来たんですね」
「天の世界の授業なのだろう? 興味が沸くよ」

公孫瓚の声から察するに盧植まで来たようである。
一刀は、もはや声も出ない様子で周囲を見回して顔ぶれを確認するばかりだ。
なんということだろうか。
相手は歴史に名を残す、偉人ばかり。
しかも、何の因果か8割以上が女性である中で今から自分は、一体ここで何をするのか。
そう、先生としてこの部屋に入った北郷一刀は、教鞭を取らなければならないのだ。
この事実を理解するに至り、一人で勝手に精神への衝撃を受けた一刀は、よろめきながら思わず助けを求めた。

「おま……ら、ライフライン……っ!」
『オーディエンスしか無いんだけど』
『テレフォンは? とうおるるるるる、とうおるるるるる』
『北郷一刀殿と電話が繋がってます』
『そりゃそうだ』

呻くように助けを求めた本体の使ったライフライン。
鋭い突込みと下らないボケが入ったが、この状況を何でもいいから何とかして欲しい本体である。
そもそも、この場に居るということは、曹操や周瑜にも何かを教えろということである。
一体何を教えればいいのか。
むしろこっちが色々と学びたいくらいであるのに、コレはどういうことだ。
正直、今の脳内の会話を聞いているとあんまり期待できそうにないのだが
苦しい時は何時も一緒に戦ってきた彼らを、本体は信頼していた。

『本体、落ち着くんだ』
『そうだ、爺ちゃんの言葉を思い出すんだ!』
「れ、冷静になれ……」

脳内の檄に、一刀はなんとか持ち直して改めて周囲を見回した。
突き刺さる視線を受けて、もう一度よろめきたくなったが、グッと踏ん張って耐える。
桃香と公孫瓚が空いている席に座るのを見届けて、一刀は静々と教壇へと向かい歩き始めた。
やたら一刀の所作が遅いのは、出来る限りの抵抗であった。
勿論、その間も脳内との会議は加速度を増している。

「お、俺はどうすればいいんだ」
『事ここに至っては、なんとかやり通すしかない』
『下手な事を言えば、即座に突込みが入るだろうな』
『この面子じゃそうなる可能性は高いね』
『かといって、突っ込まれない自信は俺には無いよ』
『俺も……』
『確かに……』
『現代の話でなんとか誤魔化すしかないんじゃない?』
『それにしたって限度があると思うけど』
『諸侯同士で議論させる方向に持っていけばいいんじゃない?』
『『『『それだ!』』』』
「議論……現代の……」

脳内の慌しい会話に混じって、本体は誰にも聞こえないような声量でぶつぶつと
この危地を切り抜ける為の方策を確認するように呟いていた。
そんな考える時間は、一刀が教壇に辿りつく時に終わってしまう。
ずいっと前に出た袁紹が、顔良を従えて一刀の目の前で一礼すると

「お久しぶりですわ、天代様。 自ら教鞭を取ると聞いて、飛んで参りましたのよ」
「あ、うん、久しぶり袁紹さん、ははは」
「斗詩さん、手渡して差し上げて」
「は、はい~」

そう斗詩へと声をかけて、一刀の目の前に差し出される包装された長い物。
脳内、本体共に少なからず精神的動揺が走っていたので、思わず受け取ってしまう一刀である。
そして、受け取ってからハッとして固まった。
それは、つい先日に購入した武器、『†十二刃音鳴・改†』であった。
諸侯が集まる中、堂々と目の前で贈り物をした袁紹、そして自然に受け取った一刀。
この行為は当然、多くの者に衝撃となって襲い掛かった。

「おーっほっほっほ、とても素晴らしい物ですわ、大事にお使いなさって下さいな」

目的を果たせてご満悦なのだろう。
袁紹は大きく高笑いを一つあげると、満面の笑顔で一刀へとそう言った。
こんなにも喜んでくれている袁紹に、一刀は受け取った物を突っ返す事がどうしても出来なかった。
むしろ諸侯の目の前で突っ返せば、それは袁紹を貶めてしまっていると受け取られかねない。
状況的にも、一刀はこれを手にとった時点で、受け取らざるを得なかったのだ。

「麗羽……こう来るか、抜け目ないわね」
「この場で渡すか。 袁紹殿も上手い手を使うな……」
「袁家と天代が繋がっている……?」

順に曹操、周瑜、賈駆の呟きがきっかけになり、室内をざわめかせていた。
一番後ろの席で座って、一連の流れを見ていた田豊はやにわにほくそ笑み、書で口元を隠す。
ざわついた室内を鎮めるように、桃香は立ち上がると声を挙げた。

「みなさーん、そろそろ一刀様の話を聞きましょうよー」

視線が桃香へと集まる。
袁紹が一刀へ贈り物を捧げた事実に無関係である彼女が、こうした声を挙げるのは当然だったかも知れない。
一刀としてはこのまま忘れ去ってくれた方が良かったのかも知れないが。
そんな視線を集めた桃香へ、孫策の声があがる。

「あのさ、あなた誰なの?」
「……そういえば、自然に居るから分からなかったが、見ない顔だな」
「ああ、この子は劉備、字は玄徳。 私の教え子だった者だ」
「劉玄徳です、皆さんよろしくお願いしますっ」

諸侯からの不審な声に答えたのは、盧植であった。
皇甫嵩も盧植の声に大きく頷いて、彼女の言葉が真実であることを示した。
そして―――

「玄徳、ですって?」
「はい、そうですけど?」
「そう……貴女が玄徳……ふっ」
「?」
「華琳様?」
「なんでもないわ」

曹操は過剰に反応し、それを不審がった荀彧の目線を流して一人納得する。
この間、ずっと黙っていた一刀は諸侯の話など全く耳に入っておらず、脳内との会議を繰り返していた。

「まずは話を拝聴しますか、我々はそれで集まったのですから」
「天の知識、興味あるわ」
「どんな物があるか今から楽しみね」
「とにかく先生の話を聞くことにしようではないか」
「違いますよ、皆さん。 一刀様はただの先生ではなくて、調教先生なんです」
「はぁ?」
「……やだなにそれ、この部屋に居たら妊娠しちゃう……」

胸を揺らしてそう訂正した桃香に、賈駆の一際大きな声と、何処かの誰かの怯えを含んだ嫌悪の声が室内に響く。
ついでにまた、室内はざわめき始めた。

「大丈夫だから安心しなさい」
「か、華琳様、早く帰りましょう……は、吐き気がします……」
「吐かないでね、桂花……それにしても北郷一刀……やはり巨乳か……」

「ねぇ冥琳、この場合は喜んでいいのかしら」
「ああ、いや……うむ、その、孫堅様なら喜ぶだろうが……」

「やっぱ此処に月を連れてくるんじゃなかったわ……狙われるわ、確実に」
「詠ちゃん? 何を一人でぶつぶつ言ってるの?」

ここでついに、一刀は諸侯の尋常ならざる視線に気がついて、待たせすぎて不審がられていると思い込み
慌てた様子で一つ咳払いし、口を開いた。

「えー……コホンッ、よし みんなきけ」

テンパッたまま言葉を連ね始めた、歴史に残る北郷一刀の初調教が始まった。


      ■ 調教後


一刀の調教は陽が傾くまで続けられた。
と、いうよりも途中からは諸侯の白熱した議論になって、会議になっただけのような気がしないでもない。
一刀が思いつくまま、何となく議論の白熱しそうな話題を適当に並び立てたおかげだろう。
例えば、それはうろ覚えに過ぎない兵農分離の話だったり、治水に関して覚えている文禄堤の話だったりした。
いずれも諸侯の関心高く、一刀が概要を説明すると、どれもこれも一気に議論が白熱した。
勿論、質問される事も多かったのだが、曹操や賈駆などに、どう思うかを聞くと
つらつらと自分の考えを述べて、そこに周瑜や盧植などから横槍が入って―――
そんな形で、一刀はこの危難を何とか無事に乗り越えたのである。
ぶっちゃけ、先生として教壇に立っていた間、緊張で手に汗がずっと滲んでいた一刀である。

大きな溜息をついて、椅子の一つに背を預ける。
周囲に居るのは物を片付けている桃香と、そして一刀に言われて留まっている董卓だけだ。
残るように言った時、賈駆に怒髪天を衝くように物凄い勢いで抗議されたが、なんだったのだろうか。
別に賈駆も居て問題なかったのだが、その勢いに押されて正直ちょっと怖かった一刀は居ても良いとは言えなかった。

「お疲れ様でした」
「ああ、桃香……出来ればこういう事は事前に知らせて欲しかったよ」
「でも、皆さん凄かったです。 色んなことを知っていて、色んな考えができて……」

ある意味で、桃香には良い経験になったのかも知れない。
一刀は今日の諸侯会議になったと言えそうな授業を振り返る桃香を見ながら、そう思った。

「詠ちゃんも楽しそうでした。 小声で天代様のこと、発想が凄いって褒めてたんですよ、ふふ」
「そっか、さっき凄い怒ってたから、満足行かなかったのかなって不安になってたんだ」
「そんなことないですよ? あれは詠ちゃんがたまになる発作みたいな感じですから」
「一刀様の話は聞いたことも無い物が多くて、驚かされちゃいます」

くすくす微笑む董卓と桃香に、一刀は癒された。
この二人の笑顔が、先ほどまでの緊張と苦労を和らげてくれた気がする。
しばしゆっくりと談笑、そう行きたいところであったが、部屋の外で待つ賈駆が怖いので
一刀は早速本題に入ることにした。
そんな一刀の様子を見て、会話の輪から外れ、桃香は一人で部屋の掃除を始めた。

「あの、董卓さん」
「はい?」
「恋が、会いたがってるんだ」

一刀は単刀直入に董卓へと告げると、彼女はコクリと頷いて同じように会いたいと言ってくれた。
どうにかお互いに時間を取って、会える時間は無いかと尋ねると
彼女は少し顎先に指を当てて考えて

「丁原殿の墓が、先ごろ出来上がったそうなのです。
 近い内に参ろうかと思っていたので、恋さんにも来ていただければと悩んでいたんです」
「そっか……丁原さんの……」

離宮に居る一刀、そして恋とどうやって連絡をつけようか迷っていたそうだ。
手紙を送ろうとしたのだが、基本的に一刀に贈られてくる物や書は全て段珪が処理している事を聞いて
どうにか会えないものかと彼女も思っていたらしい。
こうして講義の場を設けてくれて助かったと、董卓は嬉しそうにそう言った。

「時間が作れたら、こちらから連絡をするようにするね」
「はい、ありがとうございます……」
「じゃあ、賈駆さんが待ってるだろうから、いいよ」

そう言って退出を促した一刀であったが、片付けの手伝いをすると董卓は断り
机を動かそうとした彼女がよろけた所を、思わず支える。
一刀の胸に肩を当てるように。

「え……?」
「大丈夫?」
「……あ」

何かに気がついたかのように顔を上げ、交わる視線。
見る見る頬が紅潮していく董卓。
その変化は、一刀が見ていてもはっきりと分かるくらいの変わり様であった。
心なしか董卓の瞳は潤み上気した息を吐き出して、そして―――部屋の扉がピシャーンと開いた。

「現場は全て見させて貰ったわ! 調教チンコの御使い様!」

敬称と蔑称が混ざり合った、彼女の心情がハッキリと分かる微妙な罵倒が響いて、室内に踏み込んでくる賈駆。
声は殆ど発してなかったので、恐らく覗き見をしていたのだろう。
一刀は賈駆の剣幕に、思わず身を引いたが、肝心の董卓から離れることが出来なかった。
彼女は一刀の服襟を手に掴んで、離さなかったからである。

董卓自身、どうして離れようとする一刀を引き止めるように、服を掴んでいたのか分からなかった。
ただ、そうして居たかった。
何よりも、自分の中に在るこの感情がそれが正しいと董卓に認識させていた。

そんな中で、蛇のように睨む賈駆が早く離れろと一刀へ視線だけで威嚇し
睨まれた蛙のように慌てふためく一刀は、どうしろっちゅーねんと視線だけで投げ返した。
今この瞬間、二人は目だけで会話が出来ていた。

「……あの、と、と、董卓さん……」
「ご主人様……?」
「ゆえぇぇぇぇええぇぇぇ! 正気になってぇぇぇええぇ!」
「わっ、え、詠ちゃん!?」

董卓の発言に、靴の裏で一刀を蹴飛ばして無理やり離すと、賈駆は抱きつくように董卓の肩を持って揺さぶった。
どこぞの軍師のごとく、はわわ言いながら目を回す董卓。
余りの声量に、流石に桃香も気付いたのだろう。
パタパタと動かしていた手を止めて、一刀と賈駆の方へ視線を向けていた。
その余りの賈駆の揺さぶりように、流石の一刀も賈駆の剣幕に恐れず声をかける。

「あの、少し落ち着いて……」
「こんな短時間でこんな風になるなんてっ、どんな調教したのよあんたっ!」
「してねーよっ! ていうか覗いてたなら分かるだろっ!」
「あんたが言葉で誘導して机を罠に、月を引っ張って押し倒したところからしか見てないわよ!」
「ええっ! 一刀様、全然こっちの手伝いしてくれないって思ってたらそんな事してたんですかっ!?」
「半分以上嘘かよ!?」
「くっ付いてたじゃない!」
「いや、それは違わないけど、細部が全然違うんだよ! ほら、董卓さんも何か―――」

「月に近づかないでっ!」

証明してもらおうと手を伸ばした一刀だが、その拒否っぷりと言ったら。
汚物が近づいて来ていると認識されているかのように、足を上げて振り回し拒絶している賈駆と
胡乱気な視線を突き刺す、桃香の様子も加わって一刀は結構な勢いで傷ついた。
それでも一刀は諦めずに董卓を見たが、完全にノックアウトされたようで、クルクルと眼を回していた。

『×董卓 VS 賈駆○ 肩部揺さぶり』
『やはり脳への揺れが激しかったのでしょうか』
『ですね』
『月、平気かな……』
「ひ、人事だと思ってお前らっ……!」

結局、賈駆はそのまま汚物を見るような視線を向けつつ、董卓を介抱しながら部屋を飛び出して行った。
最後に、こんな風に月をするなんて、悪魔、鬼畜! とか言いながら。
正直、董卓を追い込んだのは賈駆なので、謂れの無い罵倒に一刀も思わず そんな風にしたのは賈駆だろ、と言い返した。
賈駆から返って来たのは開いた時と同じようにピシャーンと閉まった扉の音であった。

「……ち、畜生……」

久方ぶりに襲ってきた、自らの理不尽に一刀は机を叩いて悔しがった。
そんな一刀の肩を叩いて、桃香は彼を慰めたという。
微妙な視線だったので、効果は薄かったようだが。

久しぶりの一刀の休日は、こうして終わった。


      ■ 代償で得るもの(一刀、朱里、雛里、音々音)


明けて翌日。
一刀は朝早くから眼を覚ました。
まだ音々音も、劉協も起きておらず、陽も昇る前の時間であった。

「うっ……」

短く呻き、一刀は左腕をなぞった。
そして、長袖に手を通し、ゆったりとした服に着替える。
自室で準備を整えていると、一刀の部屋の扉が開く。

「華佗か?」
「ああ、こっちの準備は終わった……一刀は?」
「大丈夫、終わったよ……良し、行こう」

そう、今日は諸葛孔明、そして鳳士元への刑の執行日であった。
ただ死ぬことよりも辛い生を与える。
ごく一部の者を除いて、殆どの人間にはそう言う風に申し渡してある。
刑罰の流れも、通常とは少し異なることになった。

二人の仕出かした事は、洛陽の中央広場で見せしめに刑罰の一部始終を晒されてもおかしくない。
だが、そんな見晴らしの良い場所で刑を行えば、間違いなく一刀の考えている事はバレる。
そんな訳で、二人があつ眼の刑を受けるのは、執行の為に一刀が用意した室内で行われる。
用意した部屋はそれなりの広さを持つが、30人を越えれば一杯になってしまうだろう。
そんな部屋の奥に孔明と士元を押し込んで、眼を刳り貫く作業を行うのだ。
当然、一番前に居る者たちには見られてしまうかも知れないが、孔明と士元の身体は小さい。
子供と言っても信用してしまいそうな程に。
一刀と華佗が覆いかぶされば、まず間違いなく細部は見れない。
生きるよりも辛い生を与える、この一文があるおかげで、華佗が一刀の隣に控えていても問題ないのだ。

「それで、鑿は?」
「ああ、一応2本用意した。 大きい方が深く抉られる」
「そうか……」

華佗が懐から出した鑿。
先端に光る鈍い刃が洛陽の建物の間から登った陽に照らされて、僅かに顔を顰めた。
雲が多いので、陽の光はすぐに隠れたが。
しばし二本の鑿を観察して、一刀は華佗へと返した。
今、一刀と華佗が離宮から出て向かっている場所は、帝の元だ。
帝に、これから二人の処刑をしますよという旨を話に行くのである。
実際に処刑が始まれば、一刀や華佗ではなく、別の人間が都度、帝へと報告することになっている。
眼を刳り貫かれた時、そして視力を失った孔明や士元は、洛陽の街を皇甫嵩や何進に連れられ歩く事になっている。
これは、未だ大陸を騒がせている黄巾達に対して恨みや遺恨を、彼女達にぶつける為の措置だ。
民たちには目先の仇に怒りをぶつけてもらい、とりあえず不満を納得して貰おうという考えなのだろう。
最初こそ一刀は難色を示したが、多くの者に諭されてこれは実行することになってしまった。
その連れだって歩く時の兵の中に、一刀は苦肉の策として恋を配置した。
恐らく孔明や士元に向かって飛来するであろう投石や、鍬の刃などから守ってもらう為に。

「一刀」

これから刑の執行をするにあたって、思考していた一刀は華佗の声に顔を上げる。
どうやら物思いに耽っている間に、帝のおられる宮へと辿りついたようだった。

「華佗、先に行っててくれ」
「ああ、分かった」

ここから、一歩間違えれば孔明や士元の命だけではない。
一刀自身にも大きく関わってくる。
これまで一刀が築いてきた帝や諸侯への信頼は、一気に失われるだろうし
疎まれている宦官や高官達から、都合の良い攻撃の理由を与えることにもなるだろう。

失敗は出来ないぞ、北郷一刀。

一つ大きく深呼吸をして、一刀は宮内に入って帝の元に向かった。


―――


執行場となった部屋には、諸侯は既に集まっていた。
室内はあまり明るくない。
太陽の光も、薄く雲がかかった天候のせいで、そこまで室内を照らしはしなかった。
時刻にして、今で言うところの朝8時過ぎ。
狭い室内に、あの洛陽郊外での戦に参加した諸侯は勿論のこと、劉備や宦官の趙忠などもこの場に居る。
誰もが黙し、視線を少し高くなった壇上の上に在る二つの椅子と、処刑に使われるだろう台座
そして、ただ一人壇上で佇んでいる天医の華佗に向けていた。
異様な雰囲気の中、音が響く。
二つある扉のうち一つが開いて、官軍の兵に連れ添って孔明と士元は木で作られた手枷をした状態で現れた。
周囲が見えないようにだろう。
覆いかぶさるように、帽子と黒い布で顔を隠されていた。
兵にゆっくりと押し出され、壇上へ上った二人は華佗に手を取られ椅子に座らされる。
この椅子は拘束具でもあった。
肘置きに皮のベルトのような物が誂えており、足にも木と銅で作られた枷が嵌めこめる。
顔も、真正面を向くように首に閉まらない程度に調節できる革帯が飛び出している。
静々と壇上に上った執行を手伝う者達が、孔明と士元にその拘束具をしっかりと嵌めこんでいく。
時に金属がぶつかり会う音を鳴らして。

やにわに室温が上がったような気がした。
桃香はまだ10分もこの場に居ないというのに、嫌な汗が額を伝っていく。
昨夜一刀から、この刑罰の執行においての全てを聞かされた今でも、この雰囲気からは眼を背けたくなってしまう。
何より、一刀の考えに桃香は全て賛成したわけではない。
二人を救うように懇願した自分は、この場に来て初めて彼の大きな決意を知ったと言える。
喉を鳴らし、孔明と士元に視線を注ぐ。
二人にかけられていた帽子と布が外されて、その相貌が露になった。
不安そうな面持ちで、顔を前に向ける二人の少女。
目の前に居る諸侯からの視線を一身に浴びて、身じろいだが、拘束具のせいでそれも出来なかった。

しばしの時間を置いて、執行人が孔明達の入った扉とは別の方から軋みを挙げてドアを開き入ってくる。
長袖に身を通した、一刀であった。
壇上にのぼって、集まった諸侯を見渡し彼は短く告げた。

「これより、諸葛孔明のあつ眼の刑を執行する」

そして一刀は、華佗へと眼を向けると、彼はコクリと頷いて孔明の元へ鑿を持って立った。
一刀も同じく踵を返して、孔明の前に立つ。
諸侯から見えるのは孔明の足と、そして僅かに一刀と華佗の隙間から覗ける口元だけだった。
華佗から鑿を受け取り、一刀は一瞬だけ視線を諸侯と共に立つ桃香へと向けた。

それを受けて、僅かに顎を引く桃香。

「……孔明、気をしっかり持って」
「……」

下唇を噛んで、孔明は動かぬ首を振ろうとした。
そんな彼女の目をしっかりと見てから、一刀は鑿をゆっくりと孔明の顔の高さまで持っていく。
華佗も懐から針を一本取り出して、一刀の動きに合わせるように近づけていった。
そして、身体を震わすように一刀は鑿を突き入れた。

「っあ”っ! うぁ”ぃあ」

瞬間、孔明の身体も、華佗の身体もビクリと震えて、赤い鮮血が一刀の手元から滴り落ちる。
僅かに遅れて、孔明の悲鳴が室内に響いた。
容赦なく鑿を突き入れ、その度に人の声とは思えぬ悲鳴が轟き、身体を震わせた。
先に左目からだったのか、孔明の左の頬は肌から赤く、赤く染め上げていく。
ポタリと落ちる血は溜りとなり、徐々に床へその輪を広げていった。

「右目を行う」

一刀はそれだけを言って華佗と入れ替わるように体勢を変えた。
口から大きく息を吸うように、胸を上下させた孔明に、今度は何も言わずに鑿を突き入れる。
同じように悲鳴を挙げて、室内は孔明の声に包まれた。

それらを隣で一部始終、横目でとはいえ見ていた士元は絶句していた。
僅かに歯を鳴らして、しかし、孔明に施される刑から視線を逸らすことは出来なかった。

ふいに。
一刀と華佗の動きが止まる。
荒い息を吐き出す孔明を一瞥し、華佗から木板と布に載せられた物を受け取ると
一刀だけ諸侯の前に戻って、台座の上にそれを置いた。
置かれた時に、コロリと転がる、白い玉。
それは間違いなく、目玉であった。
決して動物の目ではない、瞳孔が開いた人の眼球。
この場に集まった全ての人間が、その台座に置かれた孔明の目玉に視線を向けた。
その間、華佗は孔明の目が在っただろうその上に布を当てて、巻きつけるように頭へと巻いた。
しっかりと縛り、決して解けないように。
僅かな時間であるのに、その布は徐々に赤黒く変色していく。

「続いて、鳳士元のあつ眼を行う」

そんな周囲の反応を完全に無視して、一刀はそう宣言すると、孔明の時と同じようにゆっくりと近づいた。
彼の額には、夥しいほどの汗が浮かんでいた。

「あ……」
「大丈夫だから」

何かを言おうと口を開いた鳳統に、一刀はそれだけを告げて鑿を握りなおして士元へと向けた。
ゆっくりと迫る鑿に、鳳統は思わず眼を細める。
ズプリと何かを抉るような音が駆け抜け、瞬間激痛に士元は全身を震わせた。
同時に、自分の者とは思えないような声が肺から押し上げられて吐き出される。

「ぐっべあぁ”」

全く同じ行為を4度、無表情を貼り付けて繰り返した一刀は、同じように台座の上へ士元の眼球を置くと
一つ大きな息を吐いてから部屋に集まった人物を見渡し、告げた。
その声は、かすかに掠れていた。

「これであつ眼の刑を終える。 次に洛陽の街へ準備を進めるため、ご退室ください」
「……」

終始沈黙が降りた部屋は、桃香が後退りするかのように鳴らした足音をきっかけに退室を始めた。
たったの数分で、部屋に残されたのは一刀と華佗、そして執行人の手伝いを行っていた者と
刑罰を受けた孔明、士元だけになった。

「水を被せて起こして。 手伝いの人は起きた両名を連れて準備を急いでください」
「は」
「分かりました」

用意してあった桶を頭からかぶせ、気絶していただろう孔明と士元は大きく咳き込みながら眼を覚ます。
その間、拘束具が外されていき、突き飛ばされるように床へと自ら倒れこんだ。
すぐに身体を捕まれて起こされ、彼女達は抱えられて来た扉へ引っ立てられて立ち去っていく。
扉が閉まり、室内に居るのが一刀と華佗だけになる。

瞬間、華佗は少し離れた一刀の元に走って近づいた。
腕を押さえ込むようにして、屈んだ一刀を寝かせ、心臓よりも高い位置に患部を持っていく。

「一刀!」
「ああ、大丈夫、麻酔が効いてるから痛くないよ……見た目はグロいけど、ははっ」

そう、一刀の左腕の手首より下。
そこからは夥しい出血をしていた。
鑿で抉り出したのは、孔明と士元の眼球ではなく、一刀の腕であった。
即座に華佗は彼の長袖を捲り、自傷した傷跡を触診する。
先に教えたとおり、傷つけてはならない場所はしっかりと避けており、重要な血管もしっかりと避けている。
安堵の息を吐きながら、華佗は針を一刀の腕に刺しつつ、持っていた布を巻いて止血を始めた。

「華佗……眼、ばれなかったかな?」
「大丈夫だ、あれは本物の人間から取ったものだ。 勿論、死んでいる人からだが」
「悪い、嫌な思いさせちゃって」
「……気にするな」

医者が、死者の体をもてあそぶなど、嫌悪感が先んじたに違いない。
一刀はそれを華佗に謝っていた。
当然、ボロが出ないように孔明、士元の視力は実際に失われている。
それも、今夜までの話だ。

華佗の突き刺した針は、痛覚を刺激する物でよほど痛みに強くなければ我慢することなど出来なかった。
事実、一刀も一度試してもらったのだが途轍もなく痛い。
何でも眼というのは、脳の一部と言っても良いくらい繊細な場所であり
その周りには脳に直接刺激を与え得る点孔が幾つも存在するという話であった。
華佗が行ったのはツボを針で刺激しているだけなので、二人の眼を傷つけるような事は無い。
視力は問題なく戻るだろうことを、華佗は約束した。

「……なぁ、これってやっぱ治るの時間かかるかな?」
「そうだな……出血は激しいが深くは無い。 上手く抉ったな、1ヶ月もすれば治ると思う」
「はぁー……良かった、ちょっと怖かったんだ」
「そうだろうな……痛みは?」
「今のところは。 でも夜は痛くなりそうかな」
「麻酔薬は洛陽に全部置いておく。 バレないように痛み出したら使うことだ」
「何から何まで悪い、華佗」
「いいって、頼むから謝らないでくれ」

その場で腕の縫合を始めた華佗にされるがまま、一刀は薄く笑って頷いた。
良かったと思う。
腕が元に戻るなら、迷うことは無かったし、華佗も抉る場所を間違わなければ大丈夫だと言ってくれた。
きっと、華佗が居なかったらこの行為に踏ん切りはつかなかっただろう。
間違いなく諸葛亮と鳳統の命を救えたのは、今も自分の治療を続けてくれている目の前の男のおかげだ。
この腕の痛みが、少女二人の命に変わったのならば。
傷は治るが、死体は直せない。
傷一つ、それを代償で得られるのなら。

「華佗、人の命を救うのって大変なんだな」
「……そうだな」

それきり、一刀は喋ることを止めて華佗の治療が終わるまで天井を見つめていた。
一刀の腕を縫う華佗の衣擦れの音だけが、響いていた。


―――


その後、孔明と士元の二人は一刀の予想通り、街で多くのものを罵声と共に投げつけられた。
それはゴミであったり、石であったり、とにかく手元にあるものを手当たり次第に住民達は放り投げた。
周囲に不自然にならないよう、傍に居た恋が長大な方天画戟を巧みに動かして
言いつけ通りに二人を守っていた為、大事になるような事は無かったが。

最後に傷の治療を終えた一刀は、長袖を再び身に纏って宮内に入る門で孔明達を迎え入れると
その場で刑の執行は終了となり、最後に一刀の声で締めくくられた。

「今後、二人の傷が落ち着きを見せ次第、行軍に参加させる。
 配属は後ほど決めるため、追って通達を待て。
 以上で、諸葛孔明、鳳士元の両名の刑を終える」

帝の元に、一刀の言葉を伝えに行く者を見送り、その場はぞろぞろと解散の雰囲気になっていく。
一刀も、恋の元まで歩くと孔明と士元が未だに荒い息を吐き出していたのに気がついた。
二人には、演戯だとバレないように、刑罰の内容だけしか教えなかった。
あの激痛に加え、眼を刳り貫く振りをした状況を考えれば、ショックが大きくても仕方が無いだろう。
その上、市中を連れられて歩き、罵倒を繰り返されたのだ。
精神的に大きな傷を負っていても仕方が無いだろう。
そんな様子を見ていた一刀は、一瞬の躊躇いの後、赤黒い布で目線を隠している孔明と士元の手を取った。
瞬間、二人の身体が大きく震える。
それは、今までのような痛みから来る震えではなく、どこか柔らかく暖かい感情からこみ上げる震えだった。

「……人の感情を弄るみたいで、納得いかないけど」
『……変わるよ』
「ああ……」

“蜀の”と“無の”に触れられ、その想いはより強く、孔明と士元の気持ちを揺さぶった。
引っ立てられる時に何度も眼を隠され、手を握られていた彼女達は、その人肌に恐怖を覗かせていたのだが
今、自らの手を引くこの手は不安よりも安堵の方が勝った。
徐々に呼吸が落ち着いたのを見て、一刀は優しく柔らかい笑みを向けた。
この笑顔は視力を失っている二人には届かないだろう。
それでも、“蜀の”と“無の”は優しく、優しく朱里と雛里に微笑み続けていた。
彼女達に脳内の自分が贈れる数少ない笑顔は、こういう時にしか訪れないだろうから。


―――


離宮へと戻った一刀達は、明日に旅立つという華佗の為に送別会の様なものを開いた。
労わる様に一刀の腕を手で包む音々音と、三人で。
その最中、精神的な疲れからだろう。
眠っていた孔明と士元の短い声に気がついて、三人は顔を見合わせて席を立った。
二人を安静に眠らせていた部屋を覗き込むと、丁度むくりと身体を起こしたところであるようだ。
一刀は手で周囲に何があるのかを探す様に、さ迷わせていた孔明と士元の手を取った。

「痛みはあるかい?」
「あ……天代、様?」
「あの、手……」
「今解くから待ってて」

一刀の声に、華佗は頷いて、二人の頭に巻かれた布をゆっくりと解いていった。
ずっと暗闇であっただろう孔明、そして士元の為に、音々音は蝋燭の火を吹き消して
室内には月明かりだけが照明となる。
そして、孔明と士元の眼に飛び込んできた景色に、彼女達は呆然とした。
見える。
牢の中にまで、天代と言う身分を持つお方が足しげく通ってくれた。
その人の覗きこむ笑顔が。
あの、死んでしまうかも知れないと思った痛みの中、どのような魔法を使えば一刀の顔が見えるように刑を執行したのだろう。
確かに刑は執行されたはずだ。
ここが牢屋で無い事が、あつ眼の刑が実行された事を何よりも証明していた。

「あ……」
「朱里ちゃん……」
「雛里ちゃん……」

お互いに名を呼んだのがきっかけとなったか。
堰切ったように声を殺して泣き始めた二人を抱えて、一刀は音々音へと視線を向けた。
実は、彼女達を救う話をした時に、最後の最後まで首を縦に降らなかったのは音々音だったのだ。
それは、一刀の身を犠牲にする事もあったが、一番の懸念は一刀の立場のせいである。

しかし、事ここに至って一刀を責めることなど、誰が出来るだろうか。
両手を挙げて降参を示した音々音は、一刀に微笑んで頷いた。
元より、何処までも一刀に付いて行こうと音々音の気持ちは固まっているのだ。
彼の選んだ道が、こうあるのならば、その後ろを支えてあげるだけ。
とはいえ、直前まで相談もせずに孔明と士元の事を抱え込んだ一刀には、文句の一つも言いたかった。

「こうなったからには、一刀殿と地獄の淵まで覗くまでですぞ」
「はは、地獄って……」
「孔明殿と士元殿にも、ねねと一緒に付き合って貰うのです」
「……うん、ありがとうねね」

そんな音々音の気持ちに一刀は気付いた。
気付いたから、謝るのではなく礼を返した。
孔明と士元の柔らかな髪がさらりと流れて、一刀は二人の頭を泣き止むまで撫で続けた。


      ■ 罪に貴賎なし


諸葛孔明、そして鳳士元の二人の刑罰が終わってから3日。
当然、その場で居合わせた曹操も、二人の刑の執行の事を知っている。
しかしなんだか、どうにも腑に落ちない点があった。
それは、彼女達の出血の量であった。
ちょっと余りに多すぎるような気がしたのだ。
それに、孔明の元から離れる時にチラっと見えた彼女の顔。
薄暗く、血のせいでよく見えなかったが眼球がまだ存在していたような気もする。

「……まぁ、下衆の勘繰りはやめておきましょうか」
「華琳様」
「なに?」
「陳留から、このような書が……」

考えに耽ることをやめて、曹操は手渡された書を開き文字を追った。
しばし眺め、傍に控える荀彧へと首を巡らす。

「桂花、陳留に一人走らせて。 罪に貴賎は無しよ」
「御意……では、変態も一緒に処理してよろしいでしょうか」
「変態? 誰のこと?」
「街中を連れまわして散々に貶めた賊将孔明と士元に、満足そうに微笑を向けていた幼女虐待趣味を持つ最低な下衆です」
「……え、なに、あの男、そんな良い笑顔を向けてたの?」
「はい、それはもう、この笑顔よ見えぬ視界に映れとばかりに……」
「……噂に間違いは無いようね」

そんな間の抜けた会話が行われた、その3日後。
宦官、十常侍である蹇碩の叔父の命が、陳留にて消えた。
この一事は、一部の人間から漏れ出して、そう遠くない内に洛陽へも届くことになる。


もう長袖では暑い日の方が多い、花と緑が色濃く咲く頃であった。


      ■ 外史終了 ■


・脳内恋姫絵巻

映した景色(朱里・雛里)

・かずと は あらたな 称号を てにいれたぞ!

調教チンコの御使い様



[22225] あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編5
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/29 01:04
clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編3~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編4~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編5~☆☆☆





      ■ 天代三軍師


最近、一刀には悩みがある。
それはこの世界に訪れてから約7ヶ月たって、落ち着いた日々を過ごす中でとても気になる物だった。
先ごろ、帝へと上奏された西園八校尉なる物の設立が、一刀に相談された事……ではなく
下を向くと、視界を塞いでくる憎い奴。
そう、前髪が鬱陶しいのだ。
物を書くにしても、振り向くにしても、一動作のたびに絡み付いて気持ち悪い。

『ほんと、随分伸びたね』
『些細な事なんだからイライラするなよ』
「このまま伸びたら井戸から出ても違和感なくなりそうだ」
『流石にあそこまでは伸びないと思うけど』

脳内の突っ込みをスルーしながら、一刀はしばらく机の前に噛り付いていたが
ついに我慢が出来なくなったのか。
髪を切ろうと決めると席を立ち上がって、鋏の様な物は無いかと室内の物色を始めた。
台座の前に掲げられている金ぴか鎧を脇にどけて、妙に格好ついた名前の剣を横に置き
辺りの物を手当たり次第に見回していくが、何処にも見つからない。
一瞬、剣で切ってしまおうかとも考えたが、流石に剣で切るのはちょっと怖かった。
しかし確かに置いてあったような気がしたのだが、誰か何かの用事で持ち出したのだろうか。
しゃがみ込んで引き出しの中身を覗いていた一刀の目元に、伸びまくった前髪が視界を覆う。

「あああああっ、うざったい!」
「……一刀、どうしたの?」
「おおおっ!?」

すわ忍者か! との勢いで一刀はバックステップするように飛びずさった。
つい先ほどまで、というか今の今まで誰も居なかったはずなのに
いつの間にか一刀の横には恋が不思議そうな顔で突っ立っていた。
見事なまでの隠行である。
普通に部屋に入ってきたのだが、一刀からすれば音も無く滑り込んできた恋は、瞬間移動したようにしか思えない。
鼓動が早まっていることから、相当に驚いたことを自覚した。
ぼやーっとしている彼女の視線を受けていると、なんとなく気まずくなって咳払い一つ。
誤魔化すように口を開く。

「コホン、ああ、恋、この辺で鋏を見なかったかな?」
「ん?」

首を傾げて数秒。
恋は見覚えが無かったのか、首を左右に振った。

「そう、桃香か劉協様なら知ってるかな……ありがとうね、恋」
「ん」

こっくり頷いて、恋はそのまま一刀の寝床まで歩いて行き、そのまま倒れこんだ。
どうやら今日のお昼寝は一刀の部屋にするようだ。
劉協と一刀の護衛という役も、外出しない日では離宮の中に篭りっきりである。
勿論、動物達と戯れる為に外へ出ることもあるが、その動物達も一部屋まるまる使って離宮の中に居るので
よほどの理由が無ければ、外へ出ることは余り無い。
ちなみに、世話は忙しい日々を送る一刀以外の皆がしている。
何故か一刀に負けないくらい忙しい段珪も、しっかりと劉協から世話をするように言われていた。
仕事を増やしてしまった一刀は、彼に頭を下げたのだが、段珪は笑って衝撃的だが動物の世話も悪くないと言ってくれた。
宮内に動物園が出来たのだから、それは衝撃的だったことだろう。
今のところ、周りにはバレては居ないようだが、獣臭が結構するので時間の問題だとも思う。
窓から毀れる日差しを受けて、気持ち良さそうに眠り始めた恋を見ながら一刀は呟いた。

「何か良い考えある?」
『『『無い』』』

にべもなかった。
この件に関しては黙っておいて、ばれたら開き直ることくらいしか出来ないだろう。
ふと考えに没頭していた自分に気がつく。
そうだ。
とにかく今は、鋏を探さなくては。

自室を出て何時も食事を取る部屋へ。
ここはリビングのような場所で、日常的に使うところなので期待できそうだ。
しばらく棚や台座をひっくり返して探したが、何処にも見えない。
一体どこへ行ったのか。

「あ、一刀」
「やぁ」
「何か探しているのか?」
「鋏だよ。 自分の部屋にも無かったんだ」
「ふぅん……」

あちらこちらへ、きょろきょろと視線をさ迷わす一刀に声をかけたのは劉協であった。
しばらく、一刀を視線で追って、ついでに鋏があるか周囲を探してみたが彼女の視界にも鋏は見当たらなかった。
とりあえず一刀の事は置いといて、自分の喉の渇きを潤す作業に戻る劉協である。
今日の彼女は、今で言うところの体育の授業のような物をしていた。
ようするに、運動する日であった。
この暑さの中、よく動いたのであろう。
夜になればまだ冷えるこの時期に、随分と薄着な姿であった。
ほどよく汗ばんだ白い肌が、チラリと裾から垣間見える。
水を容器に注ぎ、喉を鳴らして水分を補給する劉協に視線が向いて、一刀の動いていた目と手が止まる。

「……」
「ぷはっ……ん? なんだ一刀。 飲みたいのか?」
「えあ、ああ。 じゃあちょっと貰おうかな」
「分かった、ちょっと待て」

別に喉は渇いていなかった一刀だが、せっかくだし貰うことにした。
何故か劉協がそう言ってくれて安堵した一刀である。
水を入れてくれたコップを受け取って、そして気付く。
コレは今、彼女が口を付けた物ではなかったか。
受け取った姿勢のまま、一刀は視線を容器へと注ぎ止まった。

「どうしたんだ、早く飲んでくれ。 私ももう少し飲みたいんだ」

『そうだ、早く飲め、いいから飲め!』
『何を考えている、ハリーハリー!』
『GOGOGOGO!』
『ムーブ!ムーブっ!』
(どこぞの軍隊かお前らっ!)

茶化された勢いもあってか、一刀は一気に仰いで器に満たされた水を飲み干した。
若干、口元から水が毀れて飛沫を上げ、床を濡らす。
豪快とも言えるその飲み方に引いたのは、劉協の方であった。

「あ、うん。 そんなに喉が渇いていたなら、もう一杯先に飲んで良いぞ」
「……いや、大丈夫、ありがとう」
「そうか……」

一刀は何となく居づらくなって、仕方なしに別の場所を探すことにした。
そんな別の部屋に向かう彼を見送った劉協は、容器に視線を戻し

「……成功はしたんだが、これは……」

そう呟いた後に、器を変えてもう一度水を飲み込み、自室へと戻っていった劉協である。





「ぐむむ……」
「はわわ……」
「あわわ……」

ああ、鋏よ、いずこへ~消えた。
内心で謎の歌を唄いながら邪魔な前髪を掻き揚げつつ、音々音の部屋に一刀が訪れるとちびっ子三人が
盤を挟んで相対し唸りを上げていた。
いや、上げていたのは音々音のみで朱里と雛里は戸惑っているような声だったが。
鋏を探して入り込んだ一刀であったが、何となく興味を引かれて三人が見つめている盤を覗き込む。
それは、軍将棋であった。
朱里と雛里の二人は、この離宮の中でも音々音の部屋と一刀の部屋、そして卓のある場所にしか動けないのである。
少しでも暇を紛らわせたらと、桃香と二人でプレゼントした物であった。
三人ともに真剣なのか、一刀に気がついた様子は微塵も無い。
唸っている音々音が不利なのか、相対して慌てふためいている雛里が不利なのか。
盤上を覗き見た一刀だが、本体は駒の動き方くらいしか知らないので判断つかなかった。

『ねね、随分押し込まれてるな』
『補給断ち切られて孤軍になってるね』
『総崩れ間近だ』

脳内の声から、どうやら随分と音々音が不利らしい事を知る。
パチリという音がして、盤上に雛里の軍が全体を押し上げた。
ビクリと震える音々音の肩。
しばし眺め、大きく肩を落として音々音はうな垂れた。
どうやら決着がついたようだ。

「暇は潰せているかい?」
「うあっ! か、一刀殿!?」
「はわわ! か、一刀様っ!」
「あわわわわわ」

優しく声をかけたのに、三人共に物凄い勢いで後退る。
誰かの足か手が引っかかったのか、けたたましい音を立てて盤はひっくり返り、駒は宙に浮き、縺れるように一刀から身を引いていく。
声をかけた一刀の方が驚く有様である。
というか、ここまで見事に逃げられると悲しくなるくらいだった。

「ど、どうしたの、皆」
「急に現れて声をかけてくるからで、ですぞ!」
「……」
「……」

音々音の非難に一刀は謝った。
つい先ほど、恋に対して同様の想いを抱いていたことから、彼女達の心境が良く分かったのである。
まぁそれでも、飛び退るように逃げるのはどうかと思ったが。
考えてみれば、自分も恋に対して同じ事をしていた気がする。
後で謝っておこう、と思っていると音々音の声がして顔を向けた。

「ところで一刀殿は、何かご用でしたか」
「ああ、いや、鋏を見なかった?」

未だに頬を赤らめて固まっている朱里と雛里を無視して音々音が訪ねると、一刀は前髪をつまみながら答えた。
それだけで、何をしようとしているのか全員理解できたのだろう。
相変わらず二人は固まったまま一刀を見つめて動かないが、音々音は首を振って無い事を伝えた。

「そう、いい加減邪魔だから切りたいんだけどなぁ」
「あ、ありましゅ! あるよね、雛里ちゃん!」
「あ、うん……確か……」

朱里が再起動を果たし、慌てた様子で一刀へと声を上げた。
彼女の言葉に、雛里も控えめに同意を返して荷物の中を漁り始める。
かくして出てきたのは、少し刃渡りが長いものの、鋏であるようだった。
一方が長く、鋏にもカミソリにも使えそうな代物である。
一刀はそれに喜んで受け取ろうとしたが、すいっと手を引っ込められてしまう。

「あの、一刀様……」
「えと、その、もしよろしければ切るのを手伝いますけどっ!」
「んっ、はい、はい」

予想だにしない朱里の提案に追随するように、雛里も頷く。
隣に居る音々音の眦が僅かに下がった。
一刀は一瞬考えたが、自分で切るよりは見た目も良くなるだろう事から頷いた。

「うん、じゃあ切ってもらおうかな」
「あっ、それじゃあ―――」
「そこまでなのですぞっ!」
「はわわっ!」
「あわわっ!」

一喝が響いて、全員の視線が驚きと共に音々音に集まった。
彼女は手を突き出した状態で静止しており、その表情は酷く真剣だった。
全員の視線が集まった事を確認して、音々音はつかつかと歩いて雛里の手に持つ鋏を手に取った。
そして、その鋏を閉じたり開いたりしながら独特の音を響かせつつ朱里と雛里に相対した。

「一刀殿の髪の毛は、ねねが切るのです」
「そ、そんな、それは横暴ですよっ」
「鋏とはいえ、刃物に違いはないのです! 間違いがあったら大変なのです」
「あわ、そ、そんなことはしません……」
「これは私の提案ですっ、横取りするなんて……」
「うっ、ね、ねねも思いついていたのを先に言われただけなのですっ!」
「でも、客観的に見ればそれは横取りと大差ないかと。 ねねさん、ずるいです」
「うん、ずるいっ!」
「うぬぬ、だまらっしゃい!」

いきなり話に置いてかれた一刀は、しばし一連の流れを見守っていた。
というか、何でいきなり全員が自分の髪を切ることに白熱したのか良く分からなかったので
脳内に対応の是非を尋ねていたのだ。

『こういう時は、全員に任せるのが角が立たなくて良い』
『『『一票』』』
『むしろとっとと座って、早く切ってくれないかな~待ってますよ~? オーラを出すべき』
『オーラとかでねぇし』
『雰囲気だよ、雰囲気』

との結論から、一刀は手近にあった椅子を引いて其処に座った。
いざ、全員に頼もうと口を開きかけたその時。
三人の間で決着がついてしまったようである。

「あのさ、皆に―――」
「ならば、軍盤で決着をつけるのです!」
「望むところですっ!」
「ま、負けないもん」
「……」

一刀の事で話が盛り上がっているというのに、当の本人を置かれてバタバタとひっくり返された盤上を起こし始める。
散らばった駒をかき集め、テキパキと準備を始めた彼女達に、一刀は声をかけることを諦めた。
そして、総当りでの軍将棋大会が開かれることになった。
長引けば1時間を越える勝負になるこの将棋。
三人での総当りなので、計数は3本。
最大まで長引けば、3時間以上もの間差し続ける事になる。
正直、たかが前髪を切るだけで3時間も待ってはいられないのだが、盤を挟んでにらみ合いを始めた三人の様子を見るに
あ、やっぱり自分で切るから構わないよ♪ とか言えなかった。

「審判は、一刀殿にお願いするのです」
「え、あ、うん」

勢いに押されて、一刀は頷き審判をすることになってしまった。
もはや、一刀はこの勝負が一刻も早く終結し、角が立たずに終わることを願うことしか出来ない。
準備が終わり、勝負は始まった。
それまで随分と騒がしかった室内が、いきなり沈黙に支配される。

(こと一刀殿に関しては、ねねは無敵なのです、ここは譲れないのです)
(雛里ちゃんとねねちゃんの傾向は把握してるし、勝算は大きいはず……)
(効率的な運用を好むねねちゃんには奇策、考え込む朱里ちゃんには正面からぶつかって……)

三者の鋭い視線が絡み合う。
黄巾とぶつかった時のように……いや、それ以上に三者から気炎が上がり独特の空気を作り出す。

(とはいえ、朱里殿も雛里殿も傑物なのです。 今までとは違う戦法を試すべきかも……)
(先ほどまでの遊戯とは雰囲気が全然違う……ねねちゃん、本気だ……油断できない)
(ううん、変に固執せず、その場で対応すべきかも……きっと朱里ちゃんもねねちゃんも得意な形に持っていく気がする)

「えー、それじゃあ、はじめ」

黙り込んで忙しなく盤上へと視線を注ぎ、知、溢れる三人の頭脳が働き始めた時
そんな熾烈な脳内の計算からかけ離れた男のスタートを知らせる声が響く。
先番である音々音の手が、盤上にひらめいた。


―――


勝負はめちゃくちゃ長引いた。
具体的に言うと、体感で2時間半くらい。
本体としては、一手一手が遅く、とても焦れる戦いではあったのだが
脳内の白熱した実況に暇を感じることは無かった。
というか、本当に素晴らしい名勝負だったくさい。
結局、勝利をもぎ取ったのは雛里である。
そんな訳で、一刀は部屋を移して雛里の手で髪を梳かれている最中であった。

「くすぐったくないですか?」
「大丈夫だよ、気持ち良いくらい」
「あ、良かった……じゃあ、切り始めましゅ……あぅ」
「ははは、うん、お願いね雛里」

髪をつままれる僅かな違和感を感じると同時に、刃が擦れる音が響いてハラリと落ちる。
落ちた髪が鼻をくすぐって、むず痒さを感じた。
最初こそ、おそるおそると言った様子で髪を切り始めた雛里であったが
しばし行い慣れてきたのか、だんだんと軽快な音を鳴らし始めてペースが上がった。

「すごい勝負だったね」
「あ、はい……朱里ちゃんもねねちゃんも、凄く強かったです」

それは謙遜でも何でもなく、雛里の本心であった。
先に行われた朱里との一戦で敗北を喫した音々音は、雛里との戦いで驚異的な粘りを見せていた。
盤の上で翻る駒それぞれに、ちゃんとした意味が伏せられており
雛里の目を持ってして一つ二つ、見抜けなかった策が存在していたのだ。
結果的には雛里の戦線を僅かに崩しただけで終わったのだが、布石までが見事であったと言う外無かった。
負けてしまうのでは無いかと肝を冷やした場面も一度や二度ではない。
朱里との戦いも、何時ものこととは言え辛勝で終わっている。
正直言って、二人の策を防げたのは偶然の要素も混じっており、勝利を拾えたのは運が良かったと言っても良い。
髪を切り、襟足を揃え終わった雛里は、ふと自分だけがペラペラと喋っていることに気がつく。

「あ、私ばっかり喋ってて……」
「ううん、楽しいから気にしないよ」
「あわわ……」
「ふあぁ……そろそろ前髪の方切ってもらっても良いかな」
「あ、すぐに切りますっ」

声に慌てて、一刀の前まで急いで回り込むと、ちょうどバッチリと眼が合ってしまう。
髪を切られている間に眠くなってしまったのか、少し瞼の下がった一刀の瞳に見つめられ
瞬間、雛里は目線を俯くようにして逸らした。
恐らく顔は火が吹き上がってるように赤くなっていることだろう。
それが自覚できて、彼女は顔をあげることが出来なかった。
更に、髪を切らなくてはという思いも重なり、彼女の鋏を持った手は一刀の前髪に突き入れられた。

ざっくりと言う表現が正しいだろうか。
丁度額の中央から、右側頭部にかけて豪快に切り取ってしまった。
バラバラ落ちていく、一刀の前髪。
その音の違和感に一番最初に気がついたのは、鋏を手に持った雛里であった。

「あ、あわ……あわわわわ」
「ん? どうしたの?」
「な、なんでもにゃいでしゅ!」
「……そう? 何か眠くなってきたしちょっと寝ようかな……終わったら起こしてくれる?」
「はははははは、はいっ」

動揺に噛みまくっている雛里に、一瞬だけ一刀は怪訝な視線を向けたが
まぁ照れ屋だし、と深く考えずに瞼を閉じる。
時置かずして、一刀はすやすやと寝息を立て始めた。
やたらと震える雛里の手に気がついていれば違う結果もあったかもしれない。
とにかく、結構取り返しのつかない勢いで切り裂いてしまった前髪は
丁度軽い剃り込みが入ったかのように、見事に斜め上に切られていた。
切り込まれた場所が、額の中央であったことは幸いだった。
同じように左側も切れば大丈夫。
雛里はそう判断して、軽快だった手の動きは最初の頃のように怯えが混じり、鋏を突き入れた。
途中、斜めになったり浅かったりしたが、何度か突き入れる内にどうにか左側も同じように切れた。
が。

「あわわわわ、今度は右側が少し……」

一人であたふたしながら、右側の側頭部に鋏を入れる。
すると、当然ながら整えていた左側とバランスがおかしくなってしまった。
右に行ったり左へきたり。
小動物のように一刀の周りをぐるぐる回って、どうにか完全にバランスを保った頃には
耳の先までしっかりと剃り込みのラインが一本、走ってしまった。
剃りだけ見れば、どこぞのヤンキーと取れなくも無い。
とりあえず左右のバランスは取れたのだから、大丈夫だと思って雛里は数歩下がった。

「あわわーーーーーー!?」

悲鳴にも似た叫び声。
流石に一刀が眠っているので、声量は抑えているが、一刀の頭部の全体を見て声を上げずには居られなかった。
額から走った剃りこみは、一本の線になっている。
手が付けられていない頭頂部から垂れる髪によって、少し隠れてはいるがしっかり眼で見て確認できる程だ。
つむじのあたりから左右に盛り上がってるそれは、正直なんというか、そう。
一刀にまつわる噂の、その一つにあるようなそういう状態だった。
慌てて一刀の頭頂部を切ろうと雛里が駆け寄った時、焦れたかのように扉が開いた。
恐らく、先ほど挙げた声が原因だろう。

「雛里殿、終わったのですか」
「雛里ちゃん、入るよー?」
「あ、ま、まだだめぇー!」

勿論、このような静止で止まる訳が無かった。
部屋に入った音々音と、朱里の動きが一刀を―――当然、頭部を見て動きが止まる。
雛里も視線だけを音々音達に向けて隠すように両手を挙げた状態で止まっていた。
今、この瞬間。
全員の時間が止まっていたと言っても良いだろう。
時が動き始めたのは、朱里の声からであった。

「はわわわわーー!? 雛里ちゃん!? これは酷いよっ!?」
「ち、違うの、朱里しゃん!」
「雛里殿ー! 一刀殿の頭になんてことをするですかー!」
「そうだよっ、幾らなんでも一刀様の頭をそんな卑猥に―――」
「わぁぁぁ、わぁぁぁっ!」

そして混乱気味に騒ぎ出す三人だが、流石に歴史に残る軍師達というところか。
すぐに直面した問題に気がついて、とにかくこの頭部を何とかしなければならないと結論を出した。
ただでさえ、一刀には色々と妙な噂がある。
それの一助になってしまうかもしれない髪型は、早急に何とかせねばならなかった。
疲れているのか。
よく眠って動き出さない一刀の周りを、三人で囲んでうんうんと知恵を出し合う。
朱里の提案から、頭頂部に鋏を入れて、盛り上がってるところを切ってみたらそこだけ禿げているように見えてしまった。
これもまずいと言う事で、再び三人は天から授かった叡智を出し合って前後左右に髪を切っていく。

「ねねちゃん、そこは駄目だよ! 変だよ!」
「何を言ってるですか! ここを切らないと襟足だけ伸びてて不恰好なのです!」
「あの、耳の後ろが妙に飛び出てるから……」
「だめー! 雛里ちゃんに鋏を貸したら、一刀様の髪がおかしくなっちゃうよ!」
「ひ、酷いよ朱里ちゃんっ!」
「ち●こにした雛里殿は信用できないのですっ!」
「あうっ、ねねちゃんまでぇ~」
「とにかく此処を切れば……ああっ! 一刀殿!?」

音々音が鋏を突き入れて、切り始めた瞬間、寝入る一刀の身体がゆらりと動く。
後頭部に入れられていた鋏は、一刀の頭部が動くのと同時に滑るようにして切り裂いていく。
椅子の上で眠る一刀の首ががくりと動いたせいではあるが、これで後頭部にも見事な剃りこみが広い範囲で入った。

「ねねちゃん! 何やってるの!」
「ち、違うのですぞ! これは一刀殿がいきなり動くからで―――」
「あ、仲間……?」
「誰が仲間なのですかっ!」

先ほどまでとは別の意味で一刀のことで白熱し始めた三軍師。
どんどこ髪を切り取っていき、最終的にはもみ上げだけが残された。

「……」
「……」
「……」

三様に黙り込んで、一刀の周りを衛星のように、うろうろとうろつく。
坊主である。
何処からどういう角度で見ても、もみ上げだけが残った坊主姿。
それはもう、何週と一刀の周りをうろつこうとも変えられない事実だった。
僅かに主張するモミアゲの毛が、静寂間を醸し出している。

「ううん……」

「あうっ!」
「はわっ!」
「あわっ!」

小さく呻いた一刀の声に、三人とも同じように身体を震わせた。
そもそも、椅子に座っての睡眠だ、眠りは浅くなるだろう。
これだけ騒いでいて、今まで起きなかった方が不思議なくらいである。

(―――朱里殿!)
(ねねちゃん!)

眼と目で通じ合い、朱里が持っていた鋏を雛里に手渡した。
一拍遅れて、雛里は気がつく。

「え、あ、二人共逃げるつもり―――」
「では、失礼するのです、雛里殿」
「雛里ちゃん、頑張ってっ」

軍師であるのに、素晴らしい身体能力を見せて音々音と朱里は部屋の外まで戦略的撤退を行う。
その鮮やかさといったらどうだ。
雛里が二の句を告げる間もなく、まるで決壊した河川の如く立ち去ってしまった。
周囲を慌てふためいて見回し、手に鋏を持ったままどうすれば良いのか迷った雛里は
眼を覚ました一刀と再び視線が絡んだ。

「ふあぁ、あー……寝たなぁ……」
「あわわわわ」
「終わったかな、雛里?」
「あわわわわあわわわわ」

寝る前と同様に、慌てふためく雛里を前にして流石の一刀も様子がおかしいことに気がつく。
というか、何か目尻が潤んでいるような気がしないでもない。
何をそんなに焦っているのだろうかと雛里を見ながら思いつつ、やたらと涼しい気がする頭部に手を当てた。
なにか、細かな筆の上を撫でているような感触。
二度、そして三度自らの頭部を撫で回した一刀は、理解にいたる。

「な、なんじゃこりゃあああああ!」
「ふ、ふわあぁぁぁぁん」
「あ、ま、なんじゃこりゃあ、ハハハ、最高に涼しいし、後はその、涼しいぜいやっほー!」

即座に言い直し、なんとか取り繕う一刀。
切ってくれることを受け入れたのも自分だし、切ってもらって文句を言うのもアレだ。
しかし、流石に坊主になっているとは思わなかった。
ツルッパゲで無い事をむしろ、喜ぶべきだろうか。
何故か盛大に声を上げて首をふりつつ涙を零す雛里を、気にしていないと必死に窘め始めた。

「でも、でも、なんじゃこりゃあって言いましたっ……」
「いや、あまりに最高すぎてつい思いの丈をぶちまけたというか」
「いやっほーが棒読みでした……」
「それはね、天界の流儀なんだ。 喜びを棒読みにすることで、自分を戒める自戒の抱負なんだよ」

自分でも何を口走ってるのか分からないが、とにかく必死に慰めた事が巧を奏したか。
ようやく落ち着きを取り戻した雛里から経緯を説明され、一刀は笑顔で許した。
そもそも、坊主頭になるのは久しぶりと言えども初めてという訳ではない。
中学時代、もしくはもっと子供の頃に坊主になったことは何度もある。
それは家で剣術、学校で剣道を習っていたことも関係していたが、長いよりは短いほうが随分マシだ。
ただ、不自然に残ったモミアゲだけは切ることにしたが。

何度も謝る雛里に苦笑しつつ、一刀はようやく髪を切る目的を果たして自室へと戻ってきた。
都合5時間に渡る、長丁場であった。
執務机に座り、来る時よりも溜まっている書簡の塊を見やりながら一人ごちる。

「……鋏、買っておくかな」


―――


翌日。
一刀は起きて着替えを行っていると、机の上に乗ったままの鋏に気がつく。
昨日、髪を切り終わって戻ってくる時に、そのまま持ってきて返すのを忘れてしまった物だった。
これは確か、雛里の物だった筈である。
着替えを終えて、一刀は鋏を持つと音々音の部屋に向かった。
余り急に現れると驚くだろうし、何より三人とも小柄な体躯とはいえ立派な女性。
一刀はノックをしてから声をかける。

「ねね、起きてる?」
「……あ、かずとどのー?」

やたらと間を空けて、眠そうな声が返って来た。
寝起きなのだろうかと思いつつ、許可を得て中に入ると軍盤を囲んで寄り添うように眠る朱里と雛里。
相対するように眠たい眼をこちらへ向けてくる音々音。
もしかしてとは思うが、まさか貫徹して差し合っていたのだろうか。
夜になっても、駒を差しあう音は聞こえてきたので、熱心にやっているなとは思っていたが。

「眠そうだね、ずっと起きてたの?」
「かずとどの、盤上を見てくだされ」
「うん?」

言われて一刀は覗き込んだ。
音々音の持つ黒い駒が、白い駒を大きく削り取って王将を倒していた。
これは、音々音が勝利したということなのだろう。

「一刀殿の軍師は、ねねなのです。 強敵でしたが、二人に勝ったのです!」

言いながら一刀に向けて笑顔でVサイン。
突っ伏すように眠っている朱里と雛里を一瞥して、一刀は音々音を褒めた。
実際のところ、音々音が拾った勝利は最後の一局だけであった。
眠気による思考能力の低下と長時間渡る軍将棋の疲れ、言わば朱里と雛里は音々音に根負けしたのである。
この長時間に渡る思考能力は、音々音の武器でもあるだろう。
黄巾党との戦の時にも、徹夜で戦い、思考を途切れさせずに戦い抜いた。
そんな経験が、此度の勝利に結びついたに違いない。
勿論、そんなことは知らない一刀ではあったが。

「ねね、頑張ったね」
「ふぁぁ、一刀殿ー」

ふらふらと覚束ない足取りで、一刀の胸へと滑り込むように飛び込んでくる。
そんな音々音を支える為に、一刀は腰を降ろして受け止めた。
徹夜で一日中、軍略を考えていればこうなっても仕方が無い。
今日は無理させずに、このまま眠らせてあげようと一刀が思っていると
音々音の顔が突然視界に広がって、唇に柔らかい物が押し付けられた。

「ねねへのご褒美はこれでいいのです―――」

呆気にとられた一刀に笑顔で言うと同時に、くず折れる様にして支える両腕に体重がかかる。
慌てて受け止めて、一刀は音々音の顔を覗きこんだ。
幸せそうに眠っている。
暫く茫洋と音々音の寝顔を見ていた一刀だが、やがてクスリと笑った。

「どっちのご褒美なんだか」

なんだか、途端にやる気が出てきた一刀である。
今日は音々音の分まで余裕で働けそうだ。
雛里と朱里、そして音々音をしっかりと布団に移してから一刀は明かりを消して部屋を出た。

「……よし、やるかー!」

一つ声を上げて、一刀は揚々と自室に向かった。


      ■ 西園八校尉


「おのれ……曹操め」

日が昇り、今日も暑い気温まで上がる予感をさせる日照り具合を眺めつつ
一人の男が、暗い室内をうろうろと落ち着かない様子で歩いていた。
名を蹇碩という。
帝から貰った大切な銅雀を撫で回しながら、彼は何とか気を落ち着けようと荒い息を吐き出していた。
彼が怒っているのは、陳留から流れた一つの噂が原因だった。
彼の叔父が、禁令を破った罪で拿捕された上に処刑されたのだ。
この話を聞いた蹇碩は、曹操の元に一人で乗り込もうとしたくらいに興奮していた。
周りに居る者が止めなければ、今頃は曹操相手に、この胸中渦巻く怒りの感情をぶつけていただろう。
この一事に、多くの者は蹇碩の事を親族を想い、激情に駆られてると断じた。
しかし、実際のところの彼の怒りは、もっと別のところにあった。

叔父が死んだのは、確かに驚くべきことで怒りの感情も沸く。
事実確認の為に情報を纏めるところによると、悪いのは禁令がある事を知って強行した叔父の方である。
勿論、殺すことは無かったのではないかという感情はあるが親族とはいえ、付き合いは深くない。
死んでしまったのならば、それは仕方が無いと割り切れた。
しかし、それよりも何よりも、どうしてただの諸侯の一人が、断りもなく十常侍である自分を無視して
叔父の処刑を断行したのかの方が、蹇碩にとって重要であった。
そして、一つ心当たりがある。
何進から聞いた話だが、天代は諸侯を集めて調教先生などと戯けた役職を自ら名乗って、教鞭をとったのだそうだ。
それも、一度や二度ではない。
既に2~3日に一度、顔ぶれは違えど定期的に行っているらしい。
それを考えると、おぼろげに裏が見えてくる。
一諸侯に過ぎない曹操が処刑の決断を下したのは、天代という背骨があるからであり
十常侍の存在を軽んじたのではないか。
現状の権力図を考えれば、十常侍の上に天代が在り、そして帝が居る。
北郷一刀の権力は確かに、現時点では十常侍を越えた所に存在しているのだ。

「もし多くの者がそうだと認識するならば、由々しき事態であるぞ」

一つ吐き出し、ようやく頭に上った血も冷めてきたのを自覚する。
十常侍の中であっても、蹇碩の地位は高い。
その理由に、軍を統率し反乱を鎮圧したことがあり、武功を挙げていること。
宦官の中でも燃やされやすい性格でも、独自の築き上げた勢力の中に蹇碩を仰ぐ者が多い事。
何より、帝からの信頼は厚く、裏切った事が一度も無かったことから多くの寵愛を受けていることだ。
そんな蹇碩は確かに、朝廷で何度も繰り返される政争の悉くを退けてきて、今の地位についた張譲。
そして、帝に我が母とまで呼ばれた趙忠と肩を並べてもおかしくない人物であったのだ。
蹇碩は、少なくとも彼らの事は腹を探りあう仲でありつつも認めてはいた。
共に政を行い、漢王朝を支える者として不満は無かった。
当然ながら、仲が良いという訳ではない。
張譲には何度も煮え湯を飲まされているし、趙忠の事は性格的に反りが合わない。
だが、何の苦労も無しに突然権力を握った男と比べれば、彼らの方が認めることが出来たのだ。

「やはり、権力を握り続ける為には北郷一刀が邪魔だ。
 なんとしてでも排除せねば……」

そして蹇碩は、帝の為にも今の……いや、今以上に権力を握り続ける必要性があると考えていた。
何故ならば、今までの政争の中で帝を護り続けたのは自分達なのだ。
この国を動かしてきたのは自分達だという誇りもある。
だが。
今のところ一刀の立ち回りは上手く、蹇碩が見たところ隙は無い。
帝からの信頼も厚く、一刀と楽しそうに話している帝の事を思うと、無碍に追い出す訳にも行かない。
良くも悪くも、蹇碩は帝に対しては大きな忠誠心を持っていた。

「蹇碩よ、おるか」
「む、開いている。 なんだ」

扉を開き、入ってきたのは珍しい事に張譲であった。
自室に訪れることなど、年に一度あるか無いかという事であるのに珍しいことも在る物だ。
まぁ、張譲が訪れた理由は大体想像がついている。
大方―――

「うむ、落ち着いておるな」
「周りの者にせっつかれ覗きに来たか? 相変わらずだな、張譲」
「為ん方無い。 立場という物がある」
「ふん……しかし、分かっているだろう。 曹操のした事は王朝の根本を揺るがしかねん」
「まさしく」

互いに気難しい顔をして視線を交わす。
どちらも十常侍であり、この地位を得るまでに多くの出来事の渦中に居た。
曹操の十常侍を軽んじる態度は、放ってはおけない事だった。
その点においては間違いなく、蹇碩も張譲も同じ意見であったのである。

「ところで蹇碩よ、西の方の騒ぎに心当たりはあるか」
「うん? いや、特に無いが」

突然、話題が変わった事に話から逃げたのかとも勘ぐった蹇碩だが
それはおくびにも出さずに話をあわせ、首を捻った。
西といえば、涼州の方で俄かに軍備を整える動きがあると聞いたが、異民族との間での事だろうと思っていたのだ。
この蹇碩の自然な振る舞いを見て、張譲は一つ首を縦に振る。

「そうか」
「何かあったのか」
「軍備を進めている不穏な動きを見せているらしい。
 かの地はどうもきな臭い……ここ数年は特にな」  
「うむ、黄巾党の動向を見て様子を窺っている可能性はある」
「黄巾党か。 あれも上党の方で血気盛んであるな」
「ああ……いや」

そこまで話して、蹇碩は突然かぶりを振った。
こうした話をするのは一向に構わないが、何も自分の部屋ですることもなかろう。
その様子を見て察したのか、張譲は一つ頷いて部屋の出口へと向かった。
そのままの流れで、二人は連れあって歩き始め、何処とも無しに宮内を歩き始める。

「蹇碩」
「なんだ」
「天代は諸侯との繋がりを深めつつあるようだ」
「ああ、その事か。 講義を開いて聞かせているらしいな」

蹇碩もその事は知っていたので、素直に同意を返す。
例の一刀が教鞭を取った件は、中々に話題になっていた。
ただ、張譲が次に発した言葉は初耳であった。

「西園八校尉、諸侯が選ばれれば劉協様の居られる離宮に、諸侯が入られることにもなるだろう」
「なんだとっ!?」

顔を顰めて、ついつい声を荒げる。
劉協を隔離している離宮にわざわざ住んでいると思えば、まさかこのような裏があったとは。
なるほど、考えてみればあの場所は良い隠れ蓑だ。
権力を得た今では、劉協に仰ぐ必要も無いということだろう。

「好き放題にやりおって。 どうして動かぬのだ張譲」
「動かぬとは?」
「分かっているだろう。 忌々しい天代のことだ」
「ああ、天代のことならば動く必要が無い。 それだけだ」
「……なに?」

それまで歩調を合わせて歩いていた宮内の廊下。
蹇碩は立ち止まり、険のある声を含んだ物を張譲にぶつけた。
今まで、張譲は天代に対しては特に大きな動きは見せていない。
むしろ、国政の話だろうと、プライベートの話だろうと普通に交わしている。
傍から見れば、仲が良いと言っても過言ではない。
蹇碩は、天代に対して攻撃的な姿勢を見せている。
勿論、そんな蹇碩を仰ぐ一派も同様に一刀への風当たりは厳しいものだ。
そんな蹇碩を筆頭にした宦官達は、宦官を取りまとめる十常侍、その十常侍の長と言っても良い張譲に
不満や不審を募らせ始めていた。
当然、そんな不信感は蹇碩も持っている。

「貴様、天代なる者を認めるというのか」

まるで蹇碩の声に合わせるように周囲の音は消えて、銅雀を撫でる音が響いた。
そこでようやく張譲も立ち止まり、振り向く。

「なぁ蹇碩。 天の知識を聞いたことはあるか」
「マジパネェよしか知らん、貴様は何度か天代から教鞭を受けたらしいな」
「ああ、その時は工芸品を見せてもらった、ひゃくえんだまと言うものだ」
「彫り物か?」

蹇碩の声に、張譲は頷く。
思い出すように顎に手を当てて、やにわに笑みを作った。
張譲は最近、趣味として彫り物に凝り始めている。
一刀から見せて貰った百円玉に施された彫刻を見て、感嘆の声を漏らしたのは記憶に遠くない。

「うむ、彫り物も勿論そうだが、天の知識も良いぞ。 漢王朝にとって有益だろう物も散見される」
「……そんなことはどうでも良い。 貴様は俺の質問に何も答えていないぞ」
「何を言うか、最初からちゃんと答えているではないか」 

静かに笑みを浮かべ、諭すようにそう言った張譲の目は鋭かった。
最初の答え。
つまり、動く必要が無いと言っている。
受け取り方によっては、天代の存在を認めているとも取れた。
蹇碩にとって、その答えは在り得ぬ物だ。
もしや、この目の前の十常侍筆頭に挙げられる男は、天の御使いなどという戯けた話を受け入れるというのか。
そうだとすれば。

「相容れぬぞ、それは」
「そうか」

是も非も無い。
この話に関して張譲の答えが変わる事はありえないと蹇碩は理解した。
自分がどう動こうとも構わない傍観の姿勢とも取れる。
蹇碩は、そう捉えて張譲を抜き去るように早足ですれ違った。
硬い表情を貼り付けて、通路の奥へと消える。
足音が完全に聞こえなくなるまで、張譲はそのままの姿勢で眉一つ動かさずに微動だにしなかった。
そして、蹇碩の消えた通路の奥を見やり、言った。

「……長い付き合いだったな、蹇碩」

ころりと一つ、張譲の掌の上で宝玉が転がった。


―――


自分の部屋の椅子の上で天井を見上げ、起用にその椅子を回してクルクル回っていた。
その理由は、帝から西園八校尉なるものを設立したいとの旨を頂いたからである。
元々は宦官の草案から話が出たようである。
そこから大将軍である何進を経て帝に上奏され、これを受け入れた。
そして、相談役のような物をしている一刀にお鉢が回ってきたのである。

実はこれは、結構頭を悩ます物の一つだった。
史実でも設立された西園三軍。
その校尉に選ばれた人物を、一刀は全然覚えていないのである。
おぼろげに、なんとなくそんな物があったような気がするなー位にしか知らなかった物だ。
ついでに宦官からということで、慎重になってしまう一刀であった。
付き合い始めてから分かったが、宦官と一括りに言っても、色んな人が居る。
中には一刀が好ましく思う人物も、ちらほらと見えるのだ。
勿論、色々と調べると賄賂を受け取ってる者は多いし、どこか人を疑わせる雰囲気も持っている。
国政に携わっている人間が汚職を繰り返す事は間違いなく悪い事だ。
それは一刀も分かっているが、実際問題、しっかり取り締まる事は難しい。
何故ならば、長きに渡って繰り返された悪い事を、悪い事だと分からない者が多いからだ。
そうなれば、大きく取り締まる事は反発を招く。
改革に反発は付き物とはいえ、現状は大きく動く事は出来ない。
下手すれば、混乱を招いたとして自分の立場が危うくなるだろうことは想像に難くない。

少々話が逸れたが、結局のところこの西園八校尉なるものは

『うん、これは慎重になるべきだね』
『軍権の話だからね』
『うん』
「軍権かぁ……」

そういうことだ。
洛陽郊外での戦のことも考慮されているのだろう。
何進からの話、そしてその書状に書かれている事を纏めるとこうなる。
一刀が天使将軍という役職を貰い、帝の身辺或いは軍の統率を行う権限を得るということになる。
帝にも、無上将軍という肩書きが付くことになるらしいが、実際に軍として動く時に指揮を奮うのは一刀になるだろう。
そして、大将軍である何進、そして宦官でも壮健で知られ帝の信頼が厚い蹇碩。
諸侯の中でも権威ある袁紹が一刀の下で組み込まれる事が決定されている。
これは何進が上奏した際に帝の方針も加わって出来上がったそうだ。

一刀が悩んでいるのは、西園八校尉に誰を選ぶかで悩んでいた。
信頼できるのは、間違いなく洛陽郊外で協力して黄巾党を打ち破った面子だ。
ただ、余りに一刀の好きな様に任命してしまえば角が立つかもしれない。
何よりも気になるのは。

『なぁ、この天使将軍ってさ……』
『天の御使いからだろうね』
『これ何とか変えられないかな』
『『『無理だろうなぁ……』』』
「それはもう忘れる事にしたから」

都合の悪いところはしっかり忘れる特技を、本体は身に着けつつあるようだった。
実際、この話を聞いた時に一刀は断ろうとした。
それは勿論、軍権を得ることで様々なヤッカミがあることも含まれていたが
何よりも警戒しているのは、宦官達に嵌められているのでは無いかという懸念であった。
特に、ここ最近では蹇碩を筆頭にして五月蝿い。
それは恐らく、例の講義の話からだろう。
この西園八校尉に選ばれた人物は、一刀の住む離宮へスムーズな連絡を取るために
立ち入ることを許される権限を持つことになるのだ。
劉協と、諸侯のパイプを繋げる為には思いもつかず転がり込んできた妙手でもある。
机の上で頭を捻っていた一刀であったが、段々と今日の夕食はなんだろうかとか
そういえばオーダーメイドで発注した服は何時ごろ受け取れるのかとか
真面目な話から益体も無い話にシフトし始めた時に、とたとたと床を叩く音が聞こえてくる。

「一刀殿~!」
「ねね、どうしたの?」
「今度の休日の予定、空きましたぞっ!」
「え、本当? じゃあ一緒に行けるね」
「行けますぞ」

二人が話していたのは、何時かの“金の二重奏”を一緒に食べる約束の事だ。
一刀がやたらと忙しかった為に、今まで頭の片隅にはお互い残っていたものの
休日が合わなかったり、予定が食い違ったりしてしまって食べに行くことが出来なかった。
本当は華佗とも約束していたのだが、彼は残念ながら既に漢中へと旅立ってしまった。

「今回は華佗殿が支払うはずでしたのに、上手く逃げたのです」
「そう言うなって。 みんなは?」
「手の空いてる朱里殿と雛里殿が、桃香殿と劉協様に勉強を教えていますぞ。
 恋殿は、屋上で寝てるのです」
「ふーん、捗ってる?」
「今日はねねは別行動だったので、良く分からないのです」

言いつつ、音々音は一刀の隣まで歩いてきて、竹簡を一つ手に取る。
最近は音々音の方も若干余裕が出てきたのか。
こうして一刀の政務を誰に言われるでもなく手伝い始めているのだ。
一時期に比べれば、一刀が処理している問題も随分と少なくなったように思える。
まぁ、諸侯との講義の時間などが加わったので、トントンであると言えばそうなのだが。
それはともかく、次の一刀の休みは久しぶりに音々音と一緒に洛陽の街に出ることになる。
ここ最近はずっと宮内で過ごしていたので、良い気分転換にもなるだろう。
同じようにずっと宮内に居る、桃香や恋を誘うのも良いかもしれない。

「せっかく街に出るんだから、皆も一緒に誘おうか?」
「え?」
「え?」
「う、その、みんなも?」
「あ……駄目かな?」
「あ、いや、別に……」

それきり、妙な沈黙が室内に走った。
何か、今までに経験した事の無い不思議な重圧を感じる。
ついでに、明らかに目に見えてテンションが落ちた音々音の様子に一刀はうろたえた。
なんとか形成された空気を打破しようと、口を開いて。

「……あ、じゃあねねとだけ―――」
「構わないのですぞ、みんなにも話を通しておくのです」

途中で遮られた。

「あ、ねね―――」
「朱里殿と雛里殿には、留守番していて貰う事になるでしょうけど仕方ないのです」

一刀が言葉を繰り出すたびに遮られ、そのまま踵を返して音々音は立ち去っていく。
声をかけた時に挙げた手は、宙を泳いで行き場所を失った。
音々音が開いた竹簡はそのまま、途中まで書かれて止まっていた。
不自然な体勢で固まった一刀は、扉が閉められた場所を見つめることしか出来なかった。
自分の考えが足りなかったといえば、そうかもしれない。
あのテンションの下がり具合を鑑みるに、きっと二人だけで行きたかったのだろう。
それは途中で、一刀も気付いたが時既に遅しである。
溜息を吐き出して、一刀は椅子に座ると再び天井を仰ぐことになった。

「ああ、もぅ……失敗した……」
『本体、ほら手が止まってる』
『こういう時は仕事に打ち込むことが落ち込まないコツだよ』
「さようで……」

脳内の助言を受けて、一刀は一心不乱に仕事に打ち込んだ。
おかげさまで、件の西園八校尉に関する案件も処理が終わった。
ぶっちゃけ選ばれた人物なんて覚えていないし音々音の事もあるしで、半ばヤケクソ気味に決定したのだが。
途中、脳内からこの際軍権をしっかり握ってしまうのはどうかという案に議論が巻き起こったが
翌日、無事に西園八校尉の書状は無事に出来上がった。



―――


西園八校尉。
一応、軍の設立ということで正式な手続きを踏む必要があるので、上奏するという形になる。
本来、上奏には多くの時間がかけられて、すぐさま行われる事は無いのだが一刀は別であった。
何進へ打診したところ、その日の昼には行われることになったのだ。

正装、それもしっかりと長袖を着込んでから一刀は書を持って昼ごろに離宮を離れた。
帝である劉宏とはほとんど毎日、顔を突き合わせていたが、こうして仰々しく帝の前に出るのは初めてである。
色々と順序があべこべなんじゃないかとも思うが、それはまぁ規格外を地で行っている一刀である。
今更だった。
上奏の場では、多くの者が一様に集まっていた。
その中央の道を、一刀は書状を持って歩いていた。
官僚も、宦官も、時の権力者が一同に集まって一刀へと視線を突き刺す。
どこまで歩いて近づけば良いのか分からず、そのまま壇上に上がりかけた一刀は
慌てて蕎麦の兵士に止められて周囲に嘲笑のような、普通の笑いのような、微妙な声が響いた。
無くなった頭髪のせいでは無いと思いたい一刀である。

そんな中、帝の元までたどり着いて、ようやく一刀は頭を垂れた。

「では一刀よ、申してみよ」
「は」

劉宏の声に短く答え、一刀は書状を広げた。
一つ間を置いてから読み上げる。

無上将軍、劉宏帝。
天使将軍、北郷一刀。
天使将軍の直轄に蹇碩、何進、そして袁紹が続く。
その下には洛陽郊外の戦から功のあった曹操、孫堅、そして董卓や袁術など、順に名が記載されている。
淳于瓊などの、一刀が覚えの在る名前も地味に名を連ねていた。
殆どが洛陽郊外での戦で活躍した者達が挙げられている。
一刀個人との関係も、諸侯の中では一際太い者達でもあった。

読み上げが終わり、一刀は劉宏へと視線を向けた。
視線を向けられた劉宏は、何度か頷くと言った。

「うむ、全て一刀の言う通りにしよう……任せたぞ」
「御意」

これが実際に動き始めるのは、諸侯へと正式な任命を終えてからになるだろう。
一刀は来た時と同じように頭を下げると、そのまま道を戻って立ち去った。


―――


「くそったれがっ!」

上奏の場から離れると、開口一番に蹇碩の口から罵声が飛び出した。
蹴り上げた雑草が、空中に舞ってやがて落ちる。
ついに北郷一刀は、軍権までも手に入れた。
上奏の場でその事を声高に指摘したかったが、帝の口ぶりから一刀への信頼が見えて
あの場で遮れば気分を悪くしたに違いなかった。
完全に、一刀へ全幅の信頼を寄せているのだ。
選ばれた校尉の名を見れば、軍を天代のその手に治める意図が丸見えだというのに
それを黙って見守ることしか出来ない自分にも腹が立つ。
曹操が叔父を処断したと聞いた時よりも、蹇碩の腸は煮えくり返って燃えそうであった。
そんな近づき難い雰囲気を周囲に振りまく蹇碩に、物怖じ一つせずに近づく人形を抱えた宦官が一人。

「蹇碩さん」
「……趙忠」
「ねぇ、譲爺の話聞いた?」
「知らん、何かあったのか」

コクリと頷く趙忠。
普段からは見えない、真面目な顔をして人形をぶら下げている。
どうやら余程の話であるようだ。

「何があった」
「共に漢王朝を支えましょう。 何進の叔父さんと天代と三人の話の間で、聞こえてきたんだよね」
「張譲がか、やつめ劉宏様を見限ったか?」
「許されないよね、殺しちゃおうよ、あんな老いぼれ」
「……」

まるで明日の天気を話すかのように、趙忠は蹇碩へと共謀の誘いをしている。
蹇碩はそんな趙忠に眼を細めた。
彼の知る限り、趙忠は張譲と仲が良い。
それも当然の話だろう、趙忠を拾ったのは殺そうと言った張譲なのだから。
まだ右も左も分からぬ子供であった頃に一物を抜かれ、10に満たない歳で宦官へと上がった。
全て張譲が手配したもので、この宮内の中でも筋金入りの宦官の一人ということになるだろう。
いわば、張譲とは名を呼び捨てに出来るほどの仲であり、親子と言っても過言では無いかもしれない。

「それよりも、天代を排除した方が話は早い」
「そう? じゃあ僕も手伝うよ。 譲爺はその後だね」
「そうだな……長い付き合いだったな、張譲」

その趙忠にこう言われるとは、道を誤ったとしか思えない。
若い頃から時に激突し、時に協力しあった張譲を思うと、選んだ道がすれ違う定めであったことに自然と納得がいく。
結局、最後の最後ですれ違う運命であったようだ。
窓から見える景色を眺め言って、蹇碩はそのまま趙忠を見ずに立ち去った。
残された趙忠も、同じように肩を一つ竦めると歩き出す。

西園八校尉は、ここに設立されることが決定した日であった。


      ■ まっかっかかっ


朝。
残念ながら、今日は曇りであった。
そんな少し暗い日の光の中、桃香は一人離宮の傍で靖王伝家を振るっていた。
ここ最近、勉強漬けの毎日であり身体が鈍ってしまっていたので早くも吐き出す息は荒い。
それでもこうして剣を振るうのは気持ちが良かった。
なんせ、桃香の一日は勉強に始まって勉強に終わる。
見てくれる人が音々音だけだった頃ならばとにかく、今では朱里と雛里まで居るのだから溜まらない。
習う勉強も、日に日に難易度は増していくし量も増えている。
しかし、明日は別だ。
明日はみんなで食事をしに、街まで繰り出す事になっている。
一刀の休みに合わせて、雛里と朱里、劉協を除く全員でのお食事会だ。

「楽しみだなぁー、っていっ!」

靖王伝家が重い音と共に空気を切り裂く。
一応、闇雲に降っているわけではなく不恰好ながらも型に反った物では合った。
桃香は確かに、武の才は乏しいものの全く無いという訳ではない。
これでも幽州で邑の中心となって賊と戦って剣を振るったのである。
勿論、一騎打ちのようなことはしなかったし、桃香自身も人の命を奪った事は無いが
賊の槍から逃れるために打ち合ったことは何度かあった。
怖かったが。

「せいっ! やぁっ!」

一つ振る度に、気の入った声が響く。
まだ早朝も早い時間なので、誰に聞かれることも無い。
そろそろ切り上げようかと桃香が思った時に、離宮から一刀と恋が連れ立って出てきた。

「あ、桃香……」
「え? あ、本当だ。 おはよう」
「おはようございます、一刀様、恋ちゃん」
「何処に行っちゃったのかってずっと思ってたんだ。 朝食、取り置いてあるからね」
「あ、もうそんな時間だったんですね」
「おいしかった……」
「宮内の料理はおいしいし、量も多いです」

どうやら一刀は恋と共に何進と皇甫嵩の元に赴くらしい。
軍事的な話になるのだろう。
やがて話の内容は、桃香の今しがた行っていた事について変わっていった。

「そう、うーん……じゃあさ、今日の昼過ぎに一緒に稽古しようか」
「え、本当ですか?」
「うん、俺もちょっと最近は椅子に座ることばっかりだったから」
「わぁー、一刀様に武の方も鍛えてもらえるなんて、嬉しいです」

『本体、丁度良いし本体が相手すれば?』
『ああ、そうだよ。 俺達の反動あっても動けるように鍛えなよ』
『いいね』
『傷が開かないように気をつけろよ』
『あ、左腕使えないのか』
『さり気無く補佐してやる』
(忘れてたけど、そうだね……体力つけないとな)

一刀と桃香は、そのままの流れで昼過ぎに練兵場で落ち合う事を約束した。
きっと、一刀にとっても桃香にとっても、有益な時間になることだろう。

「ん……恋も付き合う」
「え"?」
「へ?」
「ん!」

ぐっと力瘤を作る恋。
確かに、武に関して呂布を越える者はそうは居ないだろう。
一人で黄巾党3万を追っ払った飛将である。
きっと一緒に学べば、多くのものを得られるはずだ。

訓練で死ななければ。

「……恋、手加減できる?」
「がんばる」
「いや、頑張るというか、出来ないと死ねるかもしれないんだけど」
「うんうん、恋ちゃんの攻撃受けたら死んじゃうよ~」
「……」

一刀と桃香の声に一つ唸って、恋は自分の手をじっと見やった。
開いたり閉じたりして、後にこくりと一つ頷く。

「大丈夫、なんとか」
「……うん、じゃあ恋も一緒にやろうか」
「一刀様……」
「恋を信じよう」

若干の不安を残しつつ、一刀はそう言って桃香と別れた。
雑巾を引き千切った膂力を見ていたこともあり、本当に手加減できるのかどうか分からないが
恋は優しい。
きっと、こちらのレベルに合わせてくれることだろう。
あわせられなかったら、きっとそれは一刀や桃香のレベルが低すぎるだけなのだ。

「ほんと、すごいよな恋は」
「? ……すごい?」
「ああ、すごい」
「褒められた」

口元が緩み、僅かに照れて笑う恋に一刀は微笑ましく見守った。
誰よりも強いのに、こうして話していると可愛らしい少女だ。
丁原が一刀へと後事を託したのも、きっとこの少女の性格故に心配だったからだろう。
劉協と、恋と。
この洛陽で積み重ねている日々の中で、失いたくない物がどんどん増えていく。
その為にも、一刀は頑張らなければならない。
史実で漢王朝が滅んでいることを知っているのだ。
宦官の中でも筆頭に上げられる張譲は、共に漢王朝を盛り立てて行くことを約束してくれた。
口約束を何処まで信じられるかと脳内は言うけれど、約束した時に見えた笑顔を思い出すと嘘を言ってるようには思えない。
曹操の祖父である曹騰とも、ついにと言うべきだろうか……先ごろ出会うことが出来た一刀である。
曹操から色々と話を聞いていたのだろう。
人の良い笑顔を見せて、話し合った印象はとても良い。
張譲の事が話題になると、気を許さないほうが良いだろうと脳内と同じ意見をくれたが。

「……皆が仲良くできるのには、どうすればいいのかな」
「一刀?」
「ああ、いや……恋、丁原さんの墓参り、今度行こうな」
「……原爺のお墓、早く行きたい」
「うん、そろそろ俺の方も落ち着いてきたし、近い内に一緒に行こう」
「月も、一緒」
「ああ、董卓さんも一緒に」

そんな会話をしているうちに、一刀は皇甫嵩と出会った。
恋の役目は、一刀の護衛である。
しばし一刀と皇甫嵩の会話に耳を傾けていたが、あまり面白そうな内容でもないので
恋は一人、中空に向かって手を降り始めた。
早い。
常人では全く手元を見ることが出来ない。
話が一段落した一刀は、そんな彼女の不思議な様子に気がついた。

「何してるの?」
「……手加減の……練習」
「……頑張って」
「ん」


―――


練兵場に訪れた一刀は、周囲を見回して桃香がまだ来ていないことを知る。
恋は、方天画戟を持ってきてしまったので、刃を潰した練習用の戟を持ってくるようにと言いつけてある。
ただでさえ、恋と相対することは躊躇うというのに
刃がキラリと光る、真剣を持って相対したら、呂布だぁー! とか言いながら逃げる自信が一刀にはあった。
恐らく桃香も、同様の意見であろう。
何故か予感ではなく、確信が得られる辺り、彼女の武の凄まじさが窺える。

「ん、そこに居るのはもしや天代だろうか?」
「おう、随分とサッパリして良い男になったではないか」

声に気がついて振り返ると、それぞれの得物を担いで歩く二人の姿。
孫堅と黄蓋であった。
お互いに武器を携えていることから、恐らく練兵場で身体を動かしにきたのだろう。
まぁ、それは良いのだけれど。

「孫堅さん、腕は平気なのですか?」

そう、彼女の腕は、先の黄巾との戦の折に千切れるのではないかと思うほどの怪我を負っていた。
今は事情があって、一刀も腕の傷があるので余り人の事は言えないのだが。

「うん? はっはっは、安心しろ、余り良くはないぞ」
「え、駄目じゃないですか」
「それでも身体が鈍ってしまうよりはな、動かない訳では無いし」
「堅殿は言い出したら聞かぬしな。 己が平気だというのならば付き合ってやろうという事になった」
「そうですか……」

逆に彼女達からは何故ここに居るのかを問われた一刀は、隠す必要もないので素直に答えた。
桃香と恋と身体を動かしに来た、と。
この言葉に武人である二人は当然反応する。
勿論、恋の名の方だ。

「ほう、呂布!」
「ふぅむ、機会があれば打ち合ってみたいのぅ」
「祭、先に私にやらせてみないか」
「けが人が何を言う。 わしが先に打ち合うわ」
「けちんぼー」
「誰がけちんぼじゃっ!」

二人の様子を眺めていると、一刀は孫策と周瑜の二人を思い出す。
孫家の将達は傍から見ていても、団結力というものが在りそうに見えるが
この二人の仲は特に良い。
それこそ、先にあげた孫策と周瑜の関係に近い気がした。
そういえば、脳内の“呉の”が言うに、孫堅と孫策は似ているという話を聞いたと言っていたが。

「まぁ、そういうわけで呂布が来たら聞いておいてくれ」
「良いですけど、孫堅さんは駄目です。 怪我してるんですから」
「そうじゃそうじゃ」
「何よ二人して、か弱い乙女を虐めて楽しいのか?」
「乙女……?」
「……俺は何も言わないことにします、言ったら怖いので」
「ふっ、良い覚悟だ、二人共」

なんとなく、三人連れ立って練兵場の中にくだらない話をしながら入っていく。
一刀は一瞬、桃香や恋を待とうかとも考えたが、中で待っていても外で待っていても同じことだろうと結論付け
ならば孫堅と黄蓋の立会いを見るのも良いだろうと思ったのだ。
ところが、中に入ると既に剣戟を交えている音が聞こえてくる。
白熱しているのか、裂帛の気合が篭った声が飛びかい、そして甲高い音が響いた。

「この声は……夏候惇と華雄かな?」
「ふむ、あの二人も飽きないのぅ」
「夏候惇さんと、華雄さんは良く仕合っているんですか?」
「うむ、よく見るな」

黄蓋の声に、一刀は自然音の鳴るほうへと首を向ける。
華雄の戦斧と、夏候惇の大剣がかち合い火花を散らした。

「くっ! 相変わらずやるな、夏候元譲!」
「ふっ、この程度で感心されては困るな、華雄! ハァァァァ!」
「減らず口を! オォォォォォ!」

互いに勝負に出たのか。
一際大きな声が上がると共に、今までの甲高い音から一際鈍い音が練兵場に響いて
華雄の戦斧が空へと飛んだ。
どうやら軍配は、夏候惇にあがったらしい。

「はーっはっはっはっは! 力比べは私の勝ちだな!」
「ちっ! 今のは少し油断しただけだからな、本当だぞ」
「なに、私など実は半分以上の力しか出していなかったんだぞ」
「馬鹿め、私なんか小指を一本外して奮っておったわ」
「いや、間違えた。 半分以下しか出していなかった」
「私も、実は打ち合う瞬間しか力をこめてなかった」
「嘘だな、華雄」
「嘘じゃないし、本当だし」

なんだか低レベルな言い争いが始まっていた。
そんな二人の会話は良くあることなのか。
孫堅と黄蓋の二人は、共に準備体操や柔軟体操を始めていた。
ぐっっと身体が沈みこみ、零れ落ちるのではないかという程に胸が揺れる。
一刀は視線を孫堅と黄蓋から僅かに外して、しかし、チラリと横目で見ながら何食わぬ顔で見届けていた。
とりあえず、自分も身体を解しておこうかと首を回したり肩を回したりしてみた。
ぶっちゃけ、落ち着かなかったのである。
屈伸を行ってしゃがみ込んだときに、ふいに影が落ちて見上げた。
褐色の肌に、大きな胸と笑顔が飛び込んでくる。

「おう、天代様。 柔軟に付き合ってくれるか」
「え、俺?」
「他に誰がおるのだ」
「……いいですけど、孫堅さんは?」
「堅殿は怪我しておるからな」

そういうことなら、と一刀は納得して髪を掻き揚げて屈んだ黄蓋の背中に手を当てる。
グッっと押し込むと、一刀の指に食い込む肌の柔らかさにも驚いたが、それよりも何よりも
押した分だけ沈んでいく黄蓋の身体のしなやかさに驚いた。
思わず感嘆して、手が止まる。

「ん? どうした?」
「あ、いや……凄い柔らかくてビックリして……」
「……ふむ、助平じゃな」
「違います! 凄いのは身体の方です!」
「ほう、わしの身体が凄いと」
「ちげーよ!」

思い切り否定した一刀に、片眉が上がった。

「いや、ちがくないけど違うのっ! 黄蓋さんの身体が凄いっていうのは、つまり―――」

必死に言い繕った一刀に、黄蓋はしばし伏せていた顔を上げて大きく笑い声を上げた。
からかわれた事に気がついた一刀は、勘弁してくれと言う様子で首を振る。
どうしてこう、孫家の皆様はからかうのが上手いのだろうか。
まぁ、その。
身体に興味があるのはどっちの意味でも間違いではないと言えば間違いではないのだが。

「あんまりからかうと、手伝いませんからね」
「だから謝っておるではないか」
「はぁ……じゃあ、もう少し押しますよ」
「お主も動くのだろう? わしが手伝ってやる」

振り向いて笑いかける黄蓋に、一刀はせっかくだし自分も柔軟体操をしておこうと思い
股を広げて座り込む。
彼女の手が、一刀の背に触れて

「せぇーの」
「じゃあお願いしまっただっだっだいだだだだだ、痛い、痛いよ黄蓋さんっ!」

一気に押し込まれて、一刀は言葉尻が悲鳴に変わって行った。
家でも、部活でも身体を動かす関係上、身体が硬い方ではなかったが
それでも180度曲げることなど出来ないし、ぐいぐいと押されれば痛い。
一刀が間抜けな悲鳴を上げている最中、桃香と恋が途中で出会ったのか連れ立って練兵場に顔を出した。

「おお! 呂布!」
「……ん?」
「何! 呂布だと!?」
「ほう、あれは確かに呂布」

孫堅の声をきっかけに、夏候惇と華雄も言い争いをやめて恋へと視線を向けた。
向けられた当人は不思議そうにきょろきょろと見やっている。
黄蓋の手も緩んで、ようやく地獄の痛みから解放された一刀は、涙目になりながら
彼女の押し込みが再開されないように、さっと立ち上がった。
股が痛い。

「お待たせしました、一刀様」
「……いでぇ……」
「へ?」
「いや、ううん。 準備できたら早く始めよう、桃香……」
「はいっ!」

逃げるように一刀が桃香と連れ立って歩いていくのを尻目に、黄蓋は肩を竦めた。
先ほど、孫堅と共に身体を解していた最中、じっとり胸へと視線を感じていたのに気がついていたのだ。
ちょっとした悪戯でこの件を許してあげようとも思ったのである。
桃香と呼ばれた少女の胸も、これまたでかい。
やはり、天代は胸が好きなようである。
黄蓋は確信した。

「さて……では、わしも呂布殿に一手願うとするか!」

孫堅、そして夏候惇と華雄に相手を頼まれて恋は困った顔をした。
一刀と桃香の練習に付き合うのが、今日の目的だ。
確かに、大陸でも一なのではないかと噂される呂布の武を確かめたいのは
武人の本能というべきものなのだろう。
あの孫堅でさえも、一手願っているのだから間違いない。
一刀は周囲の喧騒を眺めながらそんな事を思っていた。

「さっき負けたのだから、ここは私に譲れ!」
「断る! それにさっきのは負けた訳じゃないし、油断しただけだ!」
「くうう! ああいえばこう言う!」
「事実を言ってるまでよ!」
「ならば、もう一度決着をつけるか!」
「良いだろう! 勝ったほうが呂布と勝負だ!」

夏候惇と華雄は、お互いに煽りあって自ら自滅していた。
本人の許可を得た訳でもないのに、白熱して打ち合い始める。
その間、困った視線を向けていた恋に、一刀は小さく苦笑して頷いた。
孫堅へと向き直り、恋は小さく顎を引いて一手あわせることに承諾する。
途端に笑顔が咲く孫堅。
その肩を叩く黄蓋。
あっちでもこっちでも言い争いが始まってしまった。

「……すごい人気ですね、恋ちゃん」
「まぁ、呂布だしねぇ……」

至ってマイペースに体操を終えた桃香が、武器を持って降り始める。
それに付き合うように、一刀も持ってきた訓練用の剣を振るった。

「ふ、華雄……お前もなかなか骨のあるやつだ。
 よし、私の真名を預けるぞ!」
「ま、真名だとっ!?」
「我が真名は春蘭! しっかりと覚えておけ! 華雄、貴様の真名は!」

剣戟を交えながら、互いに口を開いている。
その交えている剣も、躊躇や遠慮など一切無く、一般兵ならば何度吹き飛んでもおかしくない程だ。
そもそも、動き自体が常人の外にあった。

「ま、真名……ま、あ、ま」
「なんだ! 聞こえぬぞ! はっきり喋れ!」
「まっ、かっかかっ、かゆう!」
「なるほど! 貴様はまっかっかかっ華雄という真名……なにぃ!?」
「す、隙ありーーっ!!!」

バコンと一際大きな殴打の音が鳴り響いて、驚き止った夏候惇の額へと華雄の柄が突き刺さった。
盛大に吹き飛んで、一刀の真横、桃香の真後ろを滑って転がっていく。
無事とは思えない速度で突っ込んできた夏候惇へと視線を向ける一刀と桃香。
おでこに真っ赤な後を残し、それでもムクリと起き上がった夏候惇は驚いたように華雄へと視線を向ける。
まったくもって無事である彼女は、身体が鉄で出来ているのでは無いかと疑う一刀達であった。
それはともかく、夏候惇の衝撃は続いていた。

「お、お前は……最初から、最初から真名を預けていたというのか!」
「あ、その、うん、なんだ……えーっとまぁ、そうというか何というかだな……」
「くっ! ならば早く言え! 私はずっとお前に真名を預けずに……くそっ!」

何故か悪態をついて、己を悔やみ始める夏候惇。
やたらと動揺して、落ち着かないまっかっかかっ華雄。
距離を開けた向こうの方では、孫堅と黄蓋がガチのバトルを繰り広げ、それをボーっと見ている恋が見えた。

「……一刀様、私……なんか最初から無かった自信が零になってきました」
「大丈夫、俺も最初から自信なんて無いから。 俺達は俺達のペースでやろう」
「あの、ペースって?」
「ああ、進行の速度みたいな感じかな、そういう意味だよ」
「へぇ……私達のぺーすで?」
「そうそう、俺達のペースで」

くすりと互いに笑みを交わして、一刀と桃香は剣を打ち合った。
それは、周りのレベルから比べれば随分とお粗末な動きであり、子供の遊戯と笑われても否定できなかったかも知れない。
それでも、打ち込む剣は、弾く剣は真剣そのもの。
互いに自分達のペースで、ゆっくりと武の道を歩いていく。
一刀は脳内の声に指導されながら、桃香はそんな一刀に習いながら。
周囲の喧騒を、BGMに二人は打ち合っていた。

「堅殿! いい加減諦めなされ!」
「聞けないわよ! 祭こそ歳なんだから止めておきなよ!」
「堅殿が歳を言うかぁー!」
「わわわっ、ちょっと本気で気を込めないでよっ! 床が抜けたじゃない!」
「いーや、今のは本気の半分も出しとらんわ、怪我人に無茶など出来ぬし」
「うそねー、本気も本気だったし」
「分かった、じゃあ8分目くらいじゃ」
「それもうそー!」

「そうか、まっかっきゃ華雄、まっかかっゆ、ええい言いにくい! 華雄でいいか!」
「う、うむ、そうだ、ああ、ああ! 華雄でいいぞ!」
「おう、心得たぞ、華雄!」
「はっはっは、そうか、心得たか! 良かった、本当……」

結局、恋は誰とも戦うことなく、最終的には一刀と桃香と一緒に訓練をすることになった。
一度、加減を間違えて桃香の修練剣を真っ二つにし、床をぶち抜き、地面すら割れて桃香が泣いてしまうという事件もあったが
概ね予定通りの練習が出来たと言って良いだろう。
帰り際、桃香が機会があればまたやろうと言っていたので、概ね満足してもらえたようだった。


本格的な暑さを前に、雨季を迎え始めた洛陽の頃であった。


      ■ 外史終了 ■





[22225] あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編6
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/29 01:04
clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編4~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編5~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編6~☆☆☆





      ■ 未知のエリア


歩きながら、渡された書簡に目を通しつつ話す。
隣を歩くのは共に支えようと言ってくれた宦官の張譲である。
殆ど毎朝の日課となっている帝との散歩の後、相談したい政があると言われて共に宮内を歩いていたのだ。
何かと思った一刀だが、なんてことはない。
以前、一刀が話の中で漏らした、街と宮内での清潔感の差に突っ込んだことであった。
いちおう、正式な書類としてだしてもいた。
街の人々に有償で働いてもらい、街のゴミを片付けてしまおうという物だ。
先ごろ行われたようで、その報告が舞い込んできたのである。

「へぇ、万を越える人が……」
「最初は3000人の予定でしたが、周りの者の行為に触発されたようで」
「最終的にはその数字になったと」
「はい、ゴミを片付けるだけで飯の種にもありつけますからな」

話を聞くに、仕事にあぶれて手に職を持たない人や普段の生活の中で働き口が少ない女子供が
こぞって参加したようである。
評判を聞くに、かなり好評であった。
それはまぁ、そうだろう。
自分達の住む町を綺麗にして、なおかつ金が入る。
またやって欲しいという民の声は、まさしく素直な気持ちなのだろう。

「それと、天代様が仰られた……ああ、これです」
「これは?」

竹簡をもう一つ受け取り、中身を覗く。

「洛陽でも主要な大通りに、灯りを3倍設置いたしました」
「ああ、街灯だね」

そう、これも一刀が洛陽の街で運送しながら思っていた事の一つである。
電気の無いこの世界では、とにかく夜中が暗い。
夜の暗闇は、何が起こっても気付きにくいものだ。
それが強盗であれ、空き巣であれ、レイプであれ……殺人であろうと。
勿論、街を巡回している警邏隊は居るのだが、警邏の数にも限りはあるし暗くて見逃すこともあるだろう。
町の隅々まで見回らせることも、中々に難しい。
そんな訳で、夜でも明るくなればそうした犯罪は減るし、結果的には警邏隊のコストも落とせるのではないかと提案したところ
実行に移してくれたようである。
報告では、確かに犯罪の件数は減ったと書かれていたが……

「しかし、馬鹿にならない金銭が飛んでいきます」
「うん、確かに……蝋燭もただじゃあ無いしね……警邏の数は?」
「当面、減らせないでしょう」
「だよなぁ……うーん」

今、効果が出ているのは従来の警邏隊の数に、街灯の設置があって初めて生まれている。
これで人数のほうを減らしてしまうと、元に戻ってしまう可能性もある。
それに、人を減らせばその分、雇用の問題だって生まれてくるのだ。
人間は慣れる生き物だ。
街灯がしっかりと設置されて明るい環境があっても犯罪が無くならない事は、一刀の世界で証明されている。
一番望ましいのは、このままの状態を維持しつつ、コストをどれだけ下げられるか。

「何処に行っても金は付きまとうか」
「愚痴を言っても始まりませんが、確かにそうですな」

不正を行った官僚達から押収した、民から搾り取った財を吐き出して、今の政策を実行しているがそれもいつまで持つか。
何より、未だに賄賂が後を絶たないし、地方の税率は異常に高い。
不正だって、見えないところだ。
行われているのは想像に難くない。
この辺の問題も早急に処理しなければならない。
とは、脳内の自分達の談ではあるのだが、なかなか妙案は生まれそうも無い。
今の体制のまま、漢王朝を盛り立てて行くのはやはり難しいとしか言えなかった。
と、なれば話は王朝を支える者達の選別となるのだが、これは挿げ替えることで生まれる反発が怖い。
黄巾の乱を抱える今の王朝で、新たな火種を生み出すことが得策と言えるのかどうか。
暫く張譲と共に難しい話をして頭を捻っていると、一刀と張譲に声をかける者が居た。
何進だった。

「ここに居られましたか、一刀殿」
「ああ、何進さん、何か?」
「実は西園八校尉に関しての事なのだが、時間をよろしいか」

一刀は張譲へと視線を向けると、彼は頷いた。
一刀に預けていた竹簡を受け取って、何進が現れた方とは逆方向に向かい歩き始める。
そんな張譲を何となく見送っていた一刀であったが、何進の声で視線を戻した。

「どうやら……」
「?」
「どうやら、張譲殿も本気のようですな」
「へぇ……どうして?」

一刀が興味深そうに聞くと、何進は顔を綻ばして語った。
宦官の中でも筆頭に上げられる張譲が、どういうことか他の宦官達からやにわに避けられ始めているという。
中には、張譲を仰いで付き従っていた者ですら離反が始まっているらしい。
そのあぶれた者の多くは、蹇碩の元へと舞い込んでいるそうだ。

「一刀殿と仲が良いことに、我慢ならないのでしょう」
「そう……苦労してそうだね、張譲さん」
「しかし、張譲殿が天代である一刀殿と仲が良いという事実は、彼らにとって良い傾向だろう」

ここ最近、何進の機嫌が良いのは、今の言葉に尽きた。
十常侍筆頭と呼ばれるくらいだ。
張譲は確かに、今の宦官たちにとって大きな影響力を持っている。
そんな彼が、一刀の元についたと捉えられているということだ。
それは、傍から見れば贈り物をしてきた高官達の思惑と大差ないのかもしれない。
しかし張譲に関しては、それ以上の何かが宦官たちの間であるのだろう。

「張譲殿と一刀殿の仲が良ければ、漢王朝も安泰です。 このまま仲良くしてやってくだされ」
「……ええ、俺も仲が悪いよりは、良い方がいいですから」
「うむ……さて、では本題と行きましょう」
「分かった、ちょっと中に入って話そうか」

近くにあった宮に入り込み、何進と設立されたばかりの軍においての役割を大まかに話し合っていると
最近知り合ったばかりの曹騰が顔を出した。
どうやら一刀を探していたらしい。
目尻は垂れ、鷲鼻というのだろうか。
やたら高い鼻をすんすんと鳴らし、薄い眉におでこが丸見えになるくらいまで後退している髪は金。
過去、事故の為に口元が曲がってしまい戻らないという特徴的な口から、彼の用件は飛び出した。

「おう、天代殿ここに居たか。 探してしまったぞ」
「こんにちは、曹騰さん」
「いや、なに、前に言った人らの予定が空いているということでな」
「ああ、話がついたのですか」
「違う違う、わしが話をつけたのよ」
「あはは、それはお手数かけました」

ニヤリと笑って不細工にウィンク。
口が曲がっているせいなのか、片目ではなく両目でバチコーンと言った様子だ。
ひょうきんなお爺さんという言葉が似合うだろうか。
明るく笑う曹騰に釣られるように、一刀と何進も思わず笑顔になる。

「おう、それでこれがそいつらの居る場所だよ」
「あ、どうも……此処は街の中かな?」
「うむ、竇武(とうぶ)と陳蕃(ちんはん)という漢たちでな。 党錮の禁により遠ざけられていた」

一刀は頭を捻る。
誰なのか全くと言って良いほど思い出せない。
首を傾げ、唸り始めた一刀に、何進が説明してくれた。
なんでも、党錮の禁というものは1度だけでなく2度行われているようで
詳しい話は省くが、第二次とも言える党錮の禁が発令された時に反発したのが竇武と陳蕃だそうである。
公式的にはこの二人は劉宏を帝の座から引きずり落とそうとしていると、濡れ衣を着せられて乱を起こそうとした大罪人となっている。
事実は、汚職を繰り返す宦官を排除しようと決起しようとした清廉な人たちであったそうだ。

どうして一刀が、曹騰に人を紹介してくれと頼んだかは、地方に眼を向ける人が欲しかったからだ。
実際に、使うかどうかは別として、知り合いになっておくことは悪くない。
これも脳内の皆からの意見を取り入れて、頼んでいたことであった。

「そうですか、是非会いたいですね」
「そうか、下話したら向こうも会いたいと言ってくれた。 時間の出来たときにでも気が向いたら行くと良い」
「ええ、そうします」
「しかし曹騰殿。 竇武殿や陳蕃殿が天代と会うことを知れば周囲は騒ぐでしょう?」
「騒ぐなぁ……恐らく、帝にも話は通る可能性はある。 だがまぁ、すぐに如何こうと言う事にはならんと思うがなぁ……」

言葉尻を濁した曹騰には、もちろん根拠があった。
と、いうのも、この話が何処から漏れたのかは知らないが、竇武達と一刀が会うかも知れない事を張譲が知っていたのである。
彼から、それは是非会わせるべきだと声を掛けられ、曹騰は張譲と互いに牽制しまくった。
ファーストランナーに5回は牽制球を投げるくらいに。
帝は、大罪人である竇武や陳蕃と一刀が会う事に良い顔はしないだろう。
彼らが生きていることを知っている者も僅かではあるが、居るには居る。
状況によって帝に話が通る可能性もありうるのだ。
そうなれば、一刀の立場は不利に傾く。
張譲の狙いが其処にあるとしても、正直この手は分かり易すぎた。
こんな安直な手に、一刀を乗せるとは思えないのだ。
それが裏をかいている可能性もあるが、言い始めたら切りがなくなってしまう。
竇武と陳蕃へ会うかどうかは、ぶっちゃけたところ一刀の判断に任せることにした曹騰である。
もちろん、一刀が二人に会ったとして、その後にまつわる張譲の動きには警戒すべきだとは考えていたし話しても居る。

「そういうことならば、是非会った方が良いですな。 私も会った事は無いが、清廉さは宮内において響き渡った者だ」
「ええ、早速今日行って見るつもりです」
「そうか、行くのか……じゃあ頼んだ、気をつけてな」
「え?」

言うなり背を向けて、手を振りながら立ち去っていく。
曹操の祖父だというのに、随分と性格が違うものだ。
下らないことも言うし、時に下品だと思うことすら遠慮もせずに言ってくるのだ。
嵐のように来て去っていった曹騰が残した言葉が嫌に頭残った一刀は、何進に向けて口を開いた。

「気をつけるってどういうことだろう?」
「ふむ……気に入られるように頑張れという事では」
「そうなのかな……張譲さんのことかな?」
「ふーむ……分かりませんが、しかし会うのは会うのでしょう?」
「その、つもりだけどさ」

若干不安になった一刀である。


―――


昼食を軽めに取った一刀。
今日は兼ねてからの約束で、夕食は街で食べ歩く事になっているので余り食べなかった。
おかげで腹の虫が抗議しているが、気合で無視する。
先ほどの話から、先に竇武と陳蕃という人に会いに行こうと思い立った一刀は
離宮を離れて街へ向かい始めた。
街へと出る門に差し掛かった頃、珍しいところで段珪とすれ違う。

「あ、段珪さん」
「……ああ、一刀殿でしたか」
「大丈夫ですか、顔が青いですけど」
「情けないことに風邪を引いてしまいました」

そう伝えるなり、喉が絡むのか咳き込む。
胸に手を当てて青い顔をしている段珪は、本当に苦しそうであった。

「今日はもう、お休みにしては」
「……そうですな。 劉協様にお伝えしてから休ませて戴きます」
「そうしてください。 その、色々忙しい思いをさせちゃってすみません」
「気にしないでくだされ……」

力ない様子でそう言って、口を押さえて咳き込む段珪は離宮の方へと向かって歩き始める。
心配そうな顔を向けて見送った一刀だった。
劉協の世話、桃香の問題集を作り、恋の動物の世話、無限に送られてくる贈り物に対処し
離宮の食事の手配や家具雑貨の購入、加えて宦官達の相手もこなして簡単な政務も行う。
ちなみに、今これだけ挙げた以外にも仕事があるそうだ。
ここ最近の段珪は、誰がどう見てもオーバーワーク気味であったのだ。
夜、部屋の明かりが無いのでしっかりと眠っていると思えば、部屋に居なかったことなどザラである。
とはいえ、宦官を離宮へ補充することは出来ない。
段珪には承知して貰っていることではあるが、朱里と雛里の眼が存在することを知られてはまずい。
彼一人では持たないし、何とかしなければならないだろう。
出来る限り、段珪の負担を減らすようにと桃香に頼んではいるが……

「たまに、仕事を増やしてるみたいだしな、桃香……」
『一所懸命にやった結果増えるから、桃香を怒れないだろうしね』
『音々音は?』
「うん……ねねにもお願いしてみようか」

過労で死なれてしまっては、目覚めが悪いどころの話ではない。
出来る限り彼をサポートしてあげるべきだろう。
自分達の生活は、多分に段珪に支えて貰っている。
そんな事を心で決めつつ、一刀は門を潜って街へと繰り出した。
久しぶりに出る洛陽の町。
今までの暮らしが宮内の中で完結していたせいか、周囲の喧騒が懐かしくもあり楽しくもある。
しばらく、町並みをにっこりしながら立っていた一刀だったが。

「あーーーーっ!」

悲鳴のような声が上がって、思わず首を巡らすと、妙な体勢で指をこちらへ向けている少女が一人。
確か、彼女は文醜。
正直、指差されて大声を出される理由など心当たりがなかった。
驚いたような、不思議そうな顔を文醜へと向けていると、彼女は頭を掻きながら近づいてくる。

「姫も大概だけど、天代様も相当だよなー。 また一人で飛び出してるし、この泥棒猫っ」
「うっ、そうだね……確かに、一人でうろついてたのは迂闊だったかも……泥棒猫って?」
「ったく、しゃーない。 あたいが付いて行くよ。 何かあっても姫が困るだろうしさー」
「袁紹さんが……? まぁいいや、それより良いのかい? 予定があるんじゃないの?」
「大ぁーい丈夫! もう負けたとこだからっ!」
「……うん?」

色々と、文醜の投げかける声には、結構な疑問が沸き起こる一刀であったが
何となく培ってきた危険センサーが反応して、華麗に流すことに成功する。
どうやら、文醜は既に螻蛄になって戻ってきたところらしい。
博打好きとは聞いていたが、真昼間から街で賭け事とは筋金入りのようだ。

「あ、その目はなにさ。 一応、今日は休み貰ってるんだから」
「ああ、そうか、うん、そうだよな」
「はぁぁぁあぁ……皆、そういう目で見るんだもんなぁ……文ちゃん悲しい」
「……普段の素行のせいじゃない?」
「あー! 天代までそう言うんだ。 傷つくー」
「う、ごめんよ」
「あーうん、別にいいけどね、事実だし」
「事実かよっ!?」
「あははははー、直そうとは思ってるけど、やっぱ無理なんだよねー」
「……」

斗詩から時たま文醜や袁紹に対しての愚痴を良く聞くはずだという言葉を、一刀は必死に飲み込んだ。
しかしなんだろうか。
文醜のこのお気楽さは、数ある諸侯の中で出会った中でも随一だろう。
何より、一刀に対して変に斜に構えていないので、とても好感を持ってしまう。
一応、役職で呼ばれているが立場から考えれば様が抜けているのは破格であろう。
礼儀のなっていない者とも受け取れるかも知れないが、少なくとも一刀はそんな事は気にしなかった。
街を二人で歩く。
話題は当然、袁紹達の話となった。
曹騰から貰った地図を片手に、右に曲がり、左に曲がり、時に店を覗いたりしながら。

「んでまー、姫がすたんぷって奴におおはしゃぎでさ」
「喜んでもらえたなら、考えた甲斐はあったけどね」
「あたいは一個しかないけどね」
「文醜さんには講義の内容が合わなかったかな」
「うん、すげー退屈だった」
「ひでぇ……」

今の話題は、一刀が調教先生として教鞭を奮う際にペタンと押す判子の事だ。
第一回の講義の後に思いついたことで、出席した者に押してあげていた。
諸侯同士の話し合いに誘導する方法が功を奏して、一刀が教鞭を取ることは余り苦労していない。
というか、ぶっちゃけると丸投げしてるような物なので楽だった。
そんな一刀の講義に、今まで一度も欠席していない皆勤賞を取っている者は
一刀の元に居る桃香と、そして文醜の主である袁紹だけだ。
二人共、諸侯との話し合いとなると付いていけない部分があるようで
最近では熱心に勉強に取り組んでいる様なのである。
まぁ、桃香の場合は強制的にとも言えるが。
他にも、郭図という人物が袁紹へ臣下の礼を取ったという話もあって、一瞬考え込む一刀である。
そんな世間話が続いたが、ふと目を向けた文醜が立ち止まる。
あわせて一刀も同じように立ち止まった。

「あ、ここの甘味おいしいんだ。 知ってた?」
「いや、街には最近出ていなかったから」
「へぇー、なんで?」
「まぁ色々あってさ。 ほんの数ヶ月前だっていうのに、随分と街の様子も変わったね」

そう、一刀が街に住んでいた頃から比べると、町並みは随分変わっていた。
勿論、元から帝の居る洛陽である。
その規模は大陸の中でも有数、町も活発であったのだが、以前よりも更に活気を増しているように思えた。
人も随分増えているようだ。

「そっかぁ、街に出れないのも大変だねぇ……ところでお腹すかない?」
「なぁ、それ絶対自分が食べたいだけだろ」
「てへ、ばれた?」
「博打で負けた人が白々しく言えば、流石に気がつくよ」
「わーすごい! じゃあ天代様の驕りということで、注文してもいい?」
「今の話の流れでどうしてそうなるっ!」

結局、粘り勝ちをされて甘菓子をご馳走することになってしまう一刀である。
ちゃんと段珪から、お小遣いは貰っているので大したダメージにはならなかったが。
これ以上町をゆっくり見回っていると、文醜から毟り取られそうな直感が働いて、一刀は目的の場所までとっとと向かうことにした。

「あ、まだ食べてるのに……」
「ほらほら、早く付いてこないと置いてくよ。 護衛してくれてるんだろ?」
「もう、器量が狭いとこは姫そっくりなんだから」
「……マジで置いてくぞ」
「マジ?」
「マジ」
「マジ……? 魚?」

意味を教えてあげても良かったが、意地悪して教えないことにした一刀である。
大した金額ではないとはいえ、奢ってあげたのだからこの位の仕返しは良いだろう。
首を捻って後ろを付いてくる文醜を尻目に、一刀はようやく目的の場所へたどり着いた。
そこは、何かの店のようであったが、店頭には何もなく、扉が一枚あるだけだ。
一見すれば、普通の家と変わりない。
小さく扉に立てられた看板が、そこが店であることを主張していた。
文醜が屈みこんで、看板の文字を読み上げる。

「えーと、なになに……おとめかん?」
『おとめ……かん?』
『ゲホッ! ゲホッゴホッ!』
『やだ、こあい……なにここ、こあい』
『え?』
『え?』
「変な店だなー、本当に此処なの? って凄い顔してるよ天代様!?」

別に本体はどうって事のない名前だったのだが、一部脳内の強い拒否感情から
凄まじい渋面を作ってしまったようだ。
取り繕うように無理やり笑みを作り、一刀は大丈夫だと告げた。
物凄く疑わしい眼差しを突き刺され、居心地が悪かったが、実際脳内が騒いでいるだけなので
一刀に実害など無いのは事実だった。

「とにかく、地図では此処に竇武さん達が居るみたいだから入ってみよう」
「だなー、どんな店なんだろ」

そして扉を開ける一刀。

「どんぶらこっこー! どんぶらこっこー!」
「ハァー! ヒィー! フゥー!」

瞬間、熱気のような物が室内から吐き出され、湯気のような物が開けられた扉から飛び出た。
弾け飛ぶ汗。
瑞々しい肌。
踊る肉体は紐のパンツや黒いマント、蝶ネクタイなどで着飾っている。
熊ですら逃げ出しそうな程の野太い声。
筋肉モリモリマッチョマンの宴が、そこで繰り広げられていた。

音が街中に響くくらい、思い切り開けた扉を閉める一刀と文醜。
瞬間、手が触れて文醜は何故か急に胸の鼓動が早くなった。
しかも、良く分からない暖かい気持ちが心に広がる。

「え! へ? 何!? 何で!?」

トキメク彼女の傍らで、一刀はやや前傾姿勢になり、首を振りながら目を擦っていた。

「今のは……一体……」
『筋肉が居た』
『ああ、筋肉が居た』
『身体から湯気出してた』
『後、ハゲも居た』
『いや、ハゲはいねぇよ』
『いや、居たよ。 俺も見たもん』
「待って、ここは竇武さん達が居るって話だよね?」
『そうだけど、あれなの?』
『ぇー……』
『貂蝉かと思った……心臓に悪いよ』
『いや、あれでも十分心臓に悪い』

一刀も文醜も、二人して混乱の真っ只中だ。
町の片隅、おとめかんと呼ばれる店の前で一刀と文醜の胸の鼓動が高鳴っていく。
別に良い雰囲気など欠片も無い。

「と、とにかくもう一度確認を……」
「あ、ちょっとアニキ、待って―――」

言って一刀の肩を掴む文醜だったが、一刀の方が一手行動が早かった。
開け放たれる扉。

「せぇーやさぁっ! よぉーやさぁっ!」
「ムゥー! メェー! モォー!」

同時に、先ほどと同じように唸り声と湯気が街中に放出される。
見えた景色は、全く持って変わらなかった。
紐のパンツとネクタイを締め、長い髪をリボンらしき布でまとめた変態、一匹。
細いふんどしを巻いてマントを着込んだ、頭髪の寂しいハゲの変態、一匹。
一刀に再び触れたせいで胸が高鳴る文醜の視線は変態達へ向かっている。
そして、やはり何処かで見たような気がする姿形に硬直する脳内。
そんな止まった時を動かしたのは、遂に耐え切れず叫び声を挙げた文醜であった。

「いーやーだー! あたいの趣味はこんなのじゃないもん! 嘘だぁぁぁぁぁ!」
「む! 何奴!」
「ちょっ、文……しゅ……首、くびゅ」
「ぬぅぅ! いきなり現れていちゃつくとは、下品な奴らよ!」
「ドキドキなんかしてないっ! ドキドキなんかしてないもんっ!」

肩に手をかけた一刀に、そのままの体勢から見事な締め技に変化させる文醜。
一刀にしっかり極めて抱え左右に揺さぶり、暴れまわるものの鼓動の高鳴りは未だに収まらない。
おかしい。
なんでこんな変態に胸をときめかせなければならないのだろう。
視界に映る怪物に、文醜のトキメキは留まることがなかった。
それでも在り得ないと必死に否定する感情はしかし、一刀に触る事によって中和、逆転していく。
もはや文醜は、泥沼に陥っていた。

「むむ! 良く見れば良い男ではないか!」
「おお、確かにそうだな、竇武!」
「……し……死ぬから助けっ……」
「よぉぉぉし! いいぞ娘! そのまま締め落としてしまえ!」
「合法的に唇を奪えるわっ!」
「寄るな! 来るな! 近づくなぁぁぁぁぁ!」

文醜は普段の得物を振り回すように、一刀を持ちあげて凪いだ。
流石に歴史に轟く武将である。
その膂力は、成人男性一人を軽々と持ち上げていた。
やがて一刀の頭を掴んでいた文醜の手がすっぽ抜ける。
髪の毛が無くなって坊主頭になっていたせいだろう。
最早抵抗する力も残されていなかった一刀はそのまま、竇武と陳蕃の元へ飛び込んでいった。

「おほっお!」

良く分からない歓喜の叫びを上げて、竇武の胸に飛び込んだ一刀。
受け止めるかと思われた彼も、一緒になって吹き飛ばされて室内の奥に転がっていく。
その衝撃に、一刀は普通に意識を落とした。
ついでに、竇武も口から泡を吹いて倒れこんでいる。

「ああああ……て、て、天代投げちゃったー!?」
「竇武、無事か! お、おのれ小娘、何をするかぁ」
「ひぃぃぃぃぃ! ご、ごめんなさいー!」

自分の仕出かしたことがどういうことか、文醜も理解に至ったのだろう。
僅かに取り戻した冷静さで、投げ飛ばした一刀の無事を確かめようとしたのだが
陳蕃がずいっと一歩近寄ることで、即座に断念。
悲鳴を上げて部屋から飛び出して逃げ出した。

「うぬ……素晴らしい逃げ足……」

そんな文醜を眺め、陳蕃は感嘆の息を漏らしていた。
逃げ出した文醜は、止まる事なく宮内へ戻って斗詩を見つけると
そのままの勢いで突っ込み、彼女の胸の中でわんわんと泣き始めた。
意味も分からず、泣きじゃくる文醜を嗜めつつ、何があったと聞こうとするが
胸が筋肉にドキドキするとか、変態パンツにときめいたとか、天代一本投げとか、どうにも要領を得ない。

「ぶ、文ちゃん……あの、頭は平気?」
「ふえええ、斗詩ぃー、本当なんだよー!」
「あ、うん……えーっと、どうしよう」

小一時間ほど錯乱していた文醜から、ようやく事の経緯を知った斗詩は顔を真っ青にして
未だに泣きじゃくる文醜を引き摺りつつ、田豊の元に走った。


      ■ 心の刀


気がつくと、一刀は家の外……丁度門の前の辺りに居た。
其処はいやに見覚えがある。
そう、この家は……一刀にとって思い出深い場所であった。

『爺ちゃんの家……? どうして?』

聖フランチェスカへと入学する前。
一刀はこの家で過ごしていた。
見慣れた門を開けて、狐につままれたような表情で石で敷き慣らされた道を歩く。
ぐるりとそこで見回せば、子供の頃から何度も何度も見てきた景色が広がる。
匂いも、風も、目に映る景色さえも全く記憶と変わらない。

『か、帰ってきたのか……?』

突いて出た言葉は、震えていた。
信じられないという気持ちと、何故か胸の奥に焦りを感じる。
玄関を開けてみれば、やはりそこは一刀の住んでいた家だった。
渡り廊下が広がって、リビングが奥に広がる。
床が少し軋みを上げるのも、全く変わらない。
やや奥に抜ければ、廊下は続いてそして……縁側に出た。

『……誰か、居るのか?』

この奥には道場がある。
そこは、自分が剣道を始める切っ掛けとなった原点。
爺ちゃんから、戦国時代に生み出された剣術の指南を受けた場所。
果たしてそれは、本当に戦国時代の剣術なのか疑わしかったが、少なくとも一刀はそう聞いていた。
なんでも、先祖は武士として大成したという話だが。
祖父から習った剣術は、本当に触りだけ。
懐かしさが一刀の胸に広がって、そのまま道場へ続く扉を開けた。

途端、一刀の耳朶に聞こえる竹刀の打ち響く音。
ハッとしたように視線を向けると、自らの祖父が子供を相手に竹刀を奮っていた。
子供の足元には、今しがた打ち落とされたのだろう。
祖父のよりも一回り小さい竹刀が、コロリと転がっていた。
一瞬、何をしているのかと声をかけようとして、止まる。
あの子供は―――俺だった。

「一刀、しっかり構えておれと言っただろう」
「でも爺ちゃんは大人だから、勝てないよ」
「はっはっは、うむ、まぁそれはそうだが……最初から諦めてはいかんぞ」
「でも……」
「出来た妹を守るんだろう。 ほら、もう一度持ちなさい」

一刀にはこんな記憶はなかった。
確かに祖父と竹刀を交えていた記憶はあったが、こんな会話はしただろうか。
もしかしてこれは、脳内の誰かの記憶ではないのだろうか……
呆然と様子を眺めていた一刀だったが、二人の姿が突然消えた。
今の今まで、視界に捉えていたというのに何処へ消えたのか。
首を巡らしていた一刀は、中庭で聞こえる話し声に、道場から飛び出した。

あれは、父と母だ。
生まれたばかりの妹を抱えて、一刀は中庭で竹刀を奮って見せていた。
微笑ましく見守る父と、妹を抱え優しく笑う母。

「一刀、爺ちゃんに何を教えてもらったんだ」
「心の刀!」
「心の刀ってなぁに?」
「どんな名刀でも折れるけど、絶対折れない刀は心に在るんだって!」
「はっはっは、難しいこというな、父さんも」
「格好良いわね」
「ほんと! 母さん、俺かっこいい!?」

微笑ましく見守る父と母の姿に、一刀は子供の自分の頃を思って恥ずかしくなるよりも
もう二度と会えないと思っていた両親を何時までも眺めていた。
やがて消えるだろう、その時まで。
そして、一刀の予想通り消えていく両親と妹。
これは。
これは夢だ。

『辞めてくれよ……今頃』

「一刀! どうして闇雲に振るうんだ!」
「俺だけ遊べないんだ! 爺ちゃんとの稽古があるから!」
「今日は稽古の日だと約束していただろう」
「でも、今日は遊びたかったんだもん! 稽古なんて後ですればいいのに」
「兄ちゃん、怒らないで、私もつきあうから」
「なんだ、一刀。 お兄ちゃんが駄々を捏ねていたんじゃ格好がつかないぞ」
「うふふ、しょうがないわよ。 一刀だって友達と遊ぶ方が楽しい時なんだから」

家族総出で、爺ちゃんの稽古を受け始める。
流石にこの場面は、一刀にも見覚えのあるシーンであった。
確かそう、妹がやってるんだからと竹刀を手に取って。

「じゃあ今日はやる、明日休んで良い!?」
「まったく……ああ、良いぞ。 さぁ、竹刀を握れ」
「わかった……」

一刀は眺めていた。
家族の団欒が多かった、一刀が子供の頃の記憶を。
夢の中であるとはわかっている。
今の自分は、決して此処に帰ってこれないという事も。

望郷の念が胸の内に広がる。
けれど……今すぐここに帰りたくなった訳でもない。
そんな自分の心情に驚きながらも理解する。
帰るには少し、積み重なった荷物が重かったのだ。
音々音のこと、劉協のこと。
今の自分が生きている、大陸の漢王朝のこと。
捨てるには重過ぎるし、失くすには惜しい物が沢山ある。
だから、この夢は意味を持たないのだ。
決して届かぬ言葉を、伝えること以外に、意味は無い。

『……さよなら』

「心の刀!」

いつの間にか、呟いた一刀の胸に拳を当てるように、子供の自分が腕を突き出していた。
その手には、自分の名札の付いた竹刀が握られている。
驚いた一刀であったが、夢の中だ。
これはきっと、自分への叱咤激励なのだろう。

『ああ、折れない刀は心の中に、だろ』

言って一刀はその竹刀を受け取った。
そして、視界は白く染まっていく。
ああ、この夢はここで終わりなのだ。
自分自身の笑顔が、最後に見えた気がした―――


―――


「う……」

「おう、竇武。 目が覚めたようだぞ」
「おお、気がついたか北郷殿」

目を覚ました一刀は、思わず目を細めた。
別に目の前に広がる竇武と陳蕃の肉体が、テカっていて眩しかった訳ではない。
彼らはしっかりと服に袖を通していた。
年がら年中、あのような肉体を曝け出すような男達ではなかったようである。
ここは寝室だろうか。
気絶した自分を、しっかりと安静な場所へと移して置いてくれたらしい。

「すみません、気を失って……」
「こちらこそ、先ほどは失礼した。 曹騰殿からの話をすっかり忘れておったのだ」
「我が名は竇武。 こっちの男は陳蕃だ」
「……北郷一刀です」

なんでも、彼らはある者に命を救われて以来、ああして自らの肉体を磨き上げてきた。
竇武と陳蕃は、二度目の党錮の禁の際に死を覚悟するほど追い詰められたという。
完全に兵に包囲され、自死すら覚悟した彼らであったが半裸というよりも、全裸手前の漢女と呼ばれる種族に助けられた。
あの格好をしていたのは、その人たちに肖ってということらしい。
命を救われた際に、憧れの人となったのだそうだ。
実際、筋肉はついたものの、化け物染みた強さは身に着かなかったそうだが。

「まぁ、最近ではあの姿も慣れてしまったので恥ずかしくはないのだが」
「うむ、むしろ気持ちよくなって来たと言うか」
「それは何と言うか……」

何もいえなかった一刀である。
脳内も揃って呻き、彼らを助けたのは“肉の”に縁深い奴等なのだろう。
この世界にも、存在自体が犯罪っぽいアイツが居るらしい。
“肉の”が起きていたら興奮して、イメージを発信しかねなかったので
未だに反応のない彼には悪いが、全員が安堵の溜息を零していた。

色々と間に挟まったが、ようやく落ち着いた一刀は二人との顔合わせに訪れた事に気がついた。
元々、外威として権限を得て、紆余曲折を経た末に追放された二人ではあるが
こうして洛陽の街で同じく追い出された党員達と共に、隠れて活動しているらしい。
いわば、地下組織のような物だろうか。
いずれも潔白の身を貶められ、宦官達に排除された者同士で独自のネットワークを形成しているのだそうだ。
名を連ねた血判状もあるそうで、それを見せてもらう事になった。
陳蕃が桐の箱を大切そうに抱えて持ってきて広げ始める。
その数、なんと300人を越えていた。
これを見れば分かる。
見た目と違って、竇武と陳蕃の二人は至って真面目に活動をしてきたことが。
一刀は、曹騰が二人を選んで紹介し、会わせた理由を理解した。
300人以上という数から、それは確信に至る。

「なるほど……つまり、洛陽以外の場所へと言うことですね」
「そうだ。 天代なる北郷殿には出来ると思うが、どうだろうか」

ここ洛陽、そして洛陽に近い長安や陳留などの場所では汚職をする官吏は少ない。
見えないところで行っている者も居るだろうし、十常侍の中にも居るだろう。
それでもやはり、地方に比べれば少ないと断じるしかないのが現状なのだ。
見えぬ場所には、神ならぬ一刀では取り締まることなど出来ない。
それこそ、信頼できる人を派遣するしか無いのである。

その人員として、自分達を抜擢してくれと竇武と陳蕃は頼んでいるのである。

一刀は考えた。
地方の問題は、一刀もちょうど、頭を悩ませていたことだったのだ。
特に、黄巾党が激しく活動を繰り返している徐州や華北では、早急に賊と官吏の繋がりを断ちたかったのが本音である。
徐州は黄巾党の活動が激しく、袁術から増援の要請が出ている程である。
それもこれも、袁術の行ってきた政が一つの原因であり自業自得とも取れるのではあるが、何とかしてあげたい。
勿論、脳内の受け売りだ。
民を思えば、早急に諸侯の軍勢を派遣して黄巾党を叩き潰すべきだ。
それは当然ながら一刀もそう思っているのだが、余りにも諸侯を目立たせてしまうと王朝の権威が翳ってしまう。
官吏を挿げ替え、官軍と諸侯が手を取り合って打倒するのがベストであった。
少なくとも、漢王朝にとっては諸侯に力を持たせすぎるのを避けたかった。
何度も同じ問題を一刀達全員で話し合って、導き出した答えの一つ。
今まで実行できなかったのは、単純に官職を持つ者で信頼できる人々が少なかったからであった。
竇武と陳蕃は、ここに滑り込んで一刀を支えると言っている。
正直言って、この話は渡りに船だ。
とはいえ……ここですぐさま是を返せば、官僚達の心象は思わしくないだろう。
竇武達の願いは、人事に大きく関わることであり、一刀の一存で決めることも出来ない。
気持ちは二人の協力を仰ぐことに傾いてはいるが、グッと我慢して一刀は口を開いた。

「……分かりました。 ですが、答えは少し待ってください」
「そうか……仕方ない、期待して待たせてもらうとする」
「我々は、腐った宦官を排除しようと動いたときに謀略がばれて失敗した。
 同じ過ちをおかすほど愚かでは無いつもりだ。 茶を飲みながら待たせてもらうとしよう」
「分かってます、この事は誰にも話しません。 約束しますよ」

一刀はそう言って、竇武に手を差し伸べた。
しっかりと握り、握手する。
離そうと一刀が手を引くと、何故か竇武は離すこと許さず、そのまま空いている手を重ねて擦り始めた。
まるで、一刀の手を合わせてゴマをする様にモミモミと。
手の大きさもさることながら、肉体も一刀より一回り大きい竇武である。
奴を目指していたということもあり、見た目の筋肉もモリモリだ。
その姿はなんというか、気持ちが悪いと言えた。

「……え、あの竇武さん」
「あ、いや、すまない。 つい何時もの癖で」
「……では北郷殿、改めて宜しくお願いする」
「……」
「北郷殿、手を」
「は、はい……」

竇武と同じような肉を持つ陳蕃へ、警戒するように差し出した手は普通の握手ですんだ。
ようやく一刀はおとめかんから町に出る。
色々とあった気がしたが、既に陽は傾き始めていた。
そろそろ、音々音達と食事に行く約束の時間が迫っているのだろう。

「おのれ竇武! 一人だけ良い思いをしおって!」
「ふん、馬鹿めっ! 先手必勝よ!」

何やら叫び始め騒々しくなった『おとめかん』を後にして、一刀は小走りで離宮へと向かった。
文醜が何処へ行ったのかも気になったが、『おとめかん』が何を売って商売しているのかも気になった。
余り考えると、碌な推測が出そうになかったので早々に切り上げたが。

こうして一刀は宦官によって追放された外威であった者達との関係を持つことになった。
何進のように一個人ではなく、一度宮廷に勤めたことのある清廉な人物を大量に確保できつつあったのである。
この事実は、何故か数日の間に宮内にも流れて、多くの官僚や宦官に危機感を持たせるに至った。


      ■ 志在に仕える神将


「う~っ! 早く行きたいなぁー!」
「もう、桃香殿ははしゃぎ過ぎなのです!」
「だってだって、久しぶりの洛陽の街! 勉強しなくても良いところ! 最高だよぉ~!」
「そんなに喜ばれると、その……」
「あの、勉強、楽しくなかったですか……?」
「あ、そんなこと無いけど、でもほら、やっぱり、ね?」

今、部屋には桃香と音々音、恋が着替えをしており、外出の為のおめかしをしていた。
久しぶりに洛陽の街へ出て、一刀と共に夕食をとる。
ただそれだけの話ではあったのが、自然と着ていく服選びにも力が入るというものだ。
朱里、雛里と劉協は、宮内から出るわけにもいかないので、残念ながらお留守番だ。
楽しそうに服を選ぶ桃香と、文句を言いながら着付け始めた音々音を羨ましそうに見送りながら
一緒に着ていく服を選んであげていた。

「一刀様は、あまり派手な服は好みませんから落ち着いた色合いの方が……」
「でも、桃香様には暖色系が似合いますし……」
「いい加減、早く決めて欲しいのです」

桃香へと服をあてがったり、山の中から取り合ったりしながら話し合う。
朱里と雛里は、桃香預かりということになっている。
形の上では、一刀や劉協に仕えている訳でもなく、桃香が面倒をみてあげているような物になっていた。
と、いうのも、彼女達はいずれ最前線へ送られる定めとなっているからだ。
目の容態が落ち着いた時に黄巾平定の為に。
そういう名目になっている。
今はまだ、洛陽に留まっては居るものの何時かは別れのときが来るのだ。
それを知っているから、此度の街に繰り出す者達が羨ましくなる二人であった。
当然、そんな様子はおくびにも見せないが。

既に音々音と恋は着替えが終わっており、残すところは桃香のみ。
早くしろとせっついては居るが、つい先ほどまで音々音も一緒に頭を捻って服を手に取っては戻していた。
恋に至っては30秒で着替え終わり、今は座ってボーっと皆の様子を眺めている。
半裸の桃香が、服を一つ、帯を一つとって胸元に持ってくる。

「この赤い帯はどうかな?」
「胸元にですか?」
「少し、派手なような気もしますけど」

「皆、そろそろ準備は終わったかな?」

そんな折、離宮へと戻ってきた一刀が劉協から話を聞いてこの部屋の扉を開いた。
自然な様子で室内の扉を開き、一歩前に進んでそのまま動かなくなる。
丁度部屋の真ん中、朱里と雛里の前で服を持つ桃香へと視線を向けて。
当然、部屋の中に居る者は全員、そんな一刀に視線を向けていた。

「あ、一刀様、ごめんなさい。 もう少し待っててください」
「うっ、あっ、すまん!」

極自然に振舞い、頭を下げる桃香。
一刀はそこで今の状態に気がついて、慌てるように部屋の外へと戻っていった。
そして今度は、桃香へと視線が集まることになった。
流石に雰囲気が変わったことに気がついた桃香が首を傾げる。

「あれ? 皆どうしたの?」
「ど、どうしたのって、桃香様見られて恥ずかしくなかったんですかっ!?」
「そ、そうです、見てました、一刀様」
「えー? でもちゃんと服で隠してたし、きっと一刀様にも見えてないよ」
「むむ、まさかこの動揺の少なさは、桃香殿の作戦……」

一拍遅れて全員がわいわいと騒ぎ出す。
桃香は次の服に手をかけて、朱里と雛里がひそひそと内緒話を交わしあい、音々音が疑わしげな視線を向けて独語する。
そんな一部始終を見送って、恋は一つ大きな欠伸をかましていた。
一方で、部屋を出た一刀は眼と眼の間を揉み上げていた。
昼間に見た筋肉の塊を見た疲れが、一瞬で吹き飛んだような心地である。
桃香が言ったように、隠されていたので殆ど彼女の姿は見えなかった。
しかし、しかしである。
服の合間から見える白い肌と、隙間から覗く白い肌や、狭間から飛び込んでくる白い肌は
一刀にとって筋肉の唸りを吹き飛ばすのに十分だった。
着替え中の女性の室内に踏み込んで、悲鳴一つ上げられなかったのも合わせて良かった。
というか、助かった。

「……ふぅ」

一つ息を吐いて一刀は精神を落ち着けると、彼女達の準備が終わるまで
近くにあった椅子の上でゆっくりと待つ。
出てきた彼女達の服装を褒めることも、しっかり忘れずに行う一刀であった。


―――


ポツリ、ポツリと雨が降ってきた。
あいにくの天気になってしまったが、それでも雨足は弱い。
傘が無くても十分に動き回れそうだが風邪を引かれても困るからと、傘は持っていくことになった。
この時代の傘は、現代の物のように閉じることが出来ない。
自然、持って歩くということは、傘を差して歩くことになる。
軽い木の素材で作られているので、点々と雨の模様がつくのを楽しむことも出来そうになかった。
一刀がそんなある意味で不便でもある傘を差して歩き出すと、その隣に音々音が滑り込んでいく。
それを見て、後ろを歩く桃香が感嘆の息を吐いていた。

「はぁー、ねねちゃんの分の傘はいらないって、こういうことだったんだねー」
「桃香も、入る?」
「恋ちゃんのに?」
「ん、おいで」
「うん、お邪魔ですよ~……って、肩が出ちゃう!?」
「ははは、桃香と恋が入るんじゃ少し狭いかもね」

外へ出て、門までの道のりの中で傘をさして連れ立って歩く。
目的の場所は、洛陽の中央にあるので迷うこともない。
ゆっくりと4人で談笑しながら歩いていると、思わずにはいられなかった。

「劉協様や朱里と雛里とも、こうして歩きたいね」
「うん、本当! 皆で行きたかったよ~」

一刀の呟くように言った言葉に、即座に返ってくる桃香の同意。
遅れて音々音も頷いていた。
最初こそ、音々音は朱里と雛里に対して過剰な警戒を寄せていたのだが
ここ最近は……というよりも、あの軍盤での一件から二人を認めたようである。
まぁ、言い争いになる時も多いようではあるが。
劉協のことは、言わずもがな。
彼女が宮内の外へ出ることが出来るのは、一体いつになることだろうか。

「でも、今日はそういうしがらみはパーっと忘れて楽しむのです」
「はは、そうだな。 うん」
「そうそう、せっかくの外出なんだから! みんなの分まで楽しんじゃおう?」
「おー……」
「ちょ、恋ちゃん冷たいっ!」

声を上げて腕を持ち上げた恋の掲げる傘の範囲から逃れてしまったのだろう。
傘の雨露が桃香の首元から入り込んで、悲鳴を上げる。
笑い声をあげながら一刀達は目的地へとついた。

あの時は特に気にしていなかった見上げた店の名前は、看板に大きく書かれている。
食彩房『馬鈴』というらしい。
馬の鈴……バベルか、とか下らない事を考えつつ、一刀はふと思う。
街に居た頃は高価に思えた採譜のお品書きも、段珪から貰っているお小遣いで十分足りる。
この事からも、官僚と民との間の差が大きいことが窺えた。
ふとした瞬間に感じるこういう感覚を、今は一刀も心の奥底に仕舞う。
今日は皆と楽しむために来たのだ。
桃香を先頭に、音々音の後ろをついて入った一刀を明るい声が出迎えてくれる。

「い、いらっしゃいませぇーっ♪」
「いらっしゃいなのだー!」
「わぁ、かわいいー」

視界に飛び込んできたのは、一刀にも見覚えのある衣装を身に纏った女の子達。
見覚えのある、と言ったがそれはこの世界での話ではない。
そう、一刀が元々居た世界での話だ。
黒く美しい艶やかな髪をサイドに纏めた女性は、やたらと丈の短いセーラー服を身に纏い
微妙に引きつった笑みを浮かべてお盆を掲げていた。
サイズがあっていないせいか、胸の辺りから腹部の上くらいまでしかなく、肌が晒されている。
彼女の豊満な胸のせいでも、あるのだろう。
その隣で元気一杯の少女が、丈の余った同じセーラー服を身に纏って両手を挙げていた。
虎を模したバッチだろうか。
それが胸元に付けられ、ただでさえ幼い容姿を前面に引き出している。
思いがけず視線に飛び込んだ強力な一撃に、一刀は一歩、自然に後退った。

『げぇっ! 関羽!?』
『げぇっ! 関羽……あれ?』
『張飛……袖余りだと……』
『あ、愛紗、なんて格好を……ぐはぁっ!』

脳内の声―――呻き声のような物が混じっていたが―――響くと同時に、一刀はよろめいた。
愛紗と聞こえた。
それは、脳内の誰かの大事な人であったような覚えがある本体である。
傍から見て、不自然な行動をした一刀に視線が集まる。

「お兄ちゃん、どうしたのだー?」
「……うっ」

鈴々こと張飛が近づいてきて、音々音の隣に立って一刀の顔を下から覗く。
一刀が咄嗟に抑えた口元の手が、僅かに赤い。
鼻血である。
本体もセーラー服には驚いたものの、彼女達への面識が無かったのでそれなりの衝撃しかなかったが
脳内の自分達には別で、結構な衝撃であったようだ。
げぇっ、とか聞こえたし。
しかし、彼女達が音に聞こえる関羽と張飛とは。
女性であることは脳内からと、自らの今までの経験から理解していた一刀ではあったが
初対面が店先で給士として働いているところに、セーラー服付きでだとは思いもしなかった。
鼻から呼吸が出来ないので、口を開きつつ関羽と張飛なる人に視線をぶつける。

「のわわわっ! お兄ちゃん、鼻血が出ているのだ!」
「か、一刀殿! 平気ですかっ!? また胸ですかっ!?」
「ハァー……ち、違う……ハァー……これは突然……」
「息が荒くて説得力がないのですぞっ!」
「一刀、好き?」
「……あのね、だからね?」
「にゃははは、お兄ちゃんって変なのだー」
「この服、可愛いなぁー! どこから買ったのかなぁ?」
「あ、ちょっと引っ張らないで下さい……その、お店の物なので困ります」

混沌とし始めた店内の入り口。
とりあえず、店の入り口を陣取ってしまっては迷惑になるからと、やや強引にだが関羽の声で中へ案内される。
店に迷惑をかけるつもりもないので、一刀達は素直に従って奥へと歩き出した。
前からもそうだったが、今でも中々に繁盛しているようだ。
食事を楽しんでいる者に、町の人達が少なく商人などの姿の方が目立った。
案内された卓の隣を見やると、今度こそ見覚えのある顔が一刀の視界に飛び込んでくる。

「あら?」
「あ、こんばんは、一刀さん」
「あ、うん、こんばんは」

どうやら、曹操と袁紹もここの食事を楽しんでいるようで、曹操の隣には荀彧が。
袁紹の隣には斗詩と文醜が料理をつついていた。
先ほどのこともあって、地味に心配していた一刀は、自分の卓の椅子を引きながら斗詩に挨拶を返して声をかける。

「良かった、さっきぶりだね文醜さん」
「っ―――!?」
「突然居なくなったから心配してたんだよ。 大丈夫だった?」
「て、ててて、天代様こそー!」

何故か顔を真っ赤に染めて、焼き鳥を振り回しながら返してくる。
微妙にタレが、荀彧の方へ飛んでいき彼女は顔を顰めていた。

「袁紹さんも、曹操さんも今日はここでお食事ですか?」
「ええ、料理を楽しみに来たというよりは別の事を楽しみにして、だけどね」

桃香に問われて曹操はニヤリと笑って視線を関羽へ向けた。
採譜を配っている関羽が、丁度一刀へと手渡したところに。
それを見て、袁紹もニヤリと笑う。
そんな二人に、桃香は釣られて首を向ける。

「そうですわね。 華琳さんが特筆することも無い、このお店にしようと言った理由が分かりましたわ」

そんな曹操や袁紹の視線には、関羽も気付いているのだろう。
袁紹の視線は一刀に向いているのだが、同じ場所に居るのだから変わらない。
一つ、曹操と袁紹へ一瞥すると、彼女は自分の仕事を果たすべく無視するように新たな採譜を取り出して
傍に座る音々音へと腕を伸ばしていた。

「貴女が此処に来た事は丁度いいわ、劉備」
「へ? なんのことでしょ?」
「関羽殿!」

呼ばれて関羽は、採譜を配る手を止めて張飛へと任すと曹操の元まで歩いてくる。
名を呼ばれて自分にも関係しそうだけど何のことか分からない桃香であった。
そんな曹操へ、関羽は口を開いた。
恥ずかしそうに。

「そ、曹操様。 今の私はほやりんッ給士、かんかんちゃんです。 そうお呼び戴きたい」
「……かんかんちゃん」
「はい、ご注文を承ります」
「えっと、貴女の探し物が見つかったわよ」

華麗にスルーしつつ、曹操は人差し指を桃香へ向けた。
指指された桃香は、意味が分からないながらも曹操と関羽へと顔を交互に向ける。
関羽の眼差しが桃香に刺さり、彼女は耐え切れなくなって誤魔化すようにニヘラと笑った。
桃香もそうだが、関羽も動揺に戸惑っている。

「彼女が、“玄徳”なのよ」
「え、はぁ……私は確かに玄徳ですけど……」
「な、なんと! 貴女様が玄徳様!」

関羽の声は、室内に良く響いた。
一刀や音々音の注文を受け取っていた張飛も、ピクリと耳を大きくして反応する。
当然、張飛へ声をかけていた一刀にも聞こえていた。
そういえば、劉備、関羽、張飛の三人がこの場には居るのかと気付く。
そして、曹操の言葉を思い返すと一刀の知っている歴史の話を思い出してしまう。
有名な関羽千里行である。
劉備と固い絆で結ばれた関羽は、曹操の厚遇を蹴ってまで彼の元に向かった。
曹操軍の関所を5つも単独で破り、武将との一騎打ちまで繰り広げて、最終的には曹操に見送られるという話だ。
形は物凄く変わっているが、ある意味今のこの状況。
曹操と劉備が、関羽を取り合っているのだろうか。
大きく歴史が歪む瞬間を、一刀は見ようとしているのではないかと自然に汗が出る。
何故汗が出るのかは、良く分からないが。

「あそこに居られるのは、天代様ですか……」
「あ、ねぇ、かんかんちゃん。 あたい、シュウマイ追加で」
「ちょっと空気を読みなさいよ馬鹿じゃないの馬鹿」
「うっわ、彧ちゃんひっどっ! 聞いたか斗詩!?」
「う、うん、聞いたよ。 でもその、確かに今のは文ちゃんが空気読めてない気が……」
「うう、今日は皆が虐める……もういい、こうなったらヤケ食いだぁー!」

そんな文醜たちの声も今は遠いのか、桃香へと視線を投げかけていた関羽は一つ眼を瞑る。
『玄徳』という者は、天の御使いたる天代の元へ赴き、そしてこうして一緒に居ることから出会ったのだろう。
曹操や袁紹とも知り合いであることから、宮内の中で暮らしているという事も理解できた。
やがて、関羽は桃香から視線を外す。
聞きたい事、話し合いたい事は山ほどあるが、今は自分の仕事がある。
そんな関羽の、桃香から溜息のような物を吐き出して逸らした視線を見て、曹操は薄く笑った。

「シュウマイ一つ、追加でよろしいですか」
「ハフハフッ、ハッ、え? あ、うん……聞いてくれてたんだ」

文醜へと向き直り、硬くなった声が店内に響いた。
凛とした声は、思いのほか遠くまで聞こえていたようである。
騒がしかった店内の喧騒が、一瞬やんだ。
距離の離れた卓に、料理を運んでいた店員から、そんな関羽を嗜める声が飛んでくる。

「かんかんちゃーん! 暗いよ、暗いっ! 明るく楽しくっ!」
「あ、は、はーい! シュウマイ一つ、入りまぁーすっ♪」

取り繕うようにパタパタと慌しく上ずった声を上げて立ち去る関羽。
取り残された桃香は、一体なんの話だったのかとしばし首を捻ったが、やがて一刀の卓に料理が運ばれてくると
気にしない事にしたようで、談笑に耽りはじめた。
結局、袁紹のお誘いでせっかく一緒の場に立ち会ったのだからと卓を繋げる事になり、大所帯での食事と相成った。
例の『金の二重奏』をおいしそうに食べる音々音に微笑む一刀を見て、曹操と荀彧が険しい顔をして耳打ちしていた。
恋と文醜で、大食いが始まったり、それを給士であるはずの張飛が間近で覗き込んで参戦しそうになったり
関羽が慌ててそれを止めていたりして、色々と騒がしくなった食事会も、概ね問題なく終盤を迎える。
程よくお酒が入り、全員に笑い声が絶えない中、気持ち良さそうな袁紹の声が響いた。

「おーっほっほっほっほ、こうして笑い合えるのはとても素晴らしい事ですわね」
「ふふっ、そうね」
「本当ですね、袁紹さんの言う通りですよ~」

関羽の様子から見て、自分のところに転がり込むのではないかと上機嫌であった曹操が袁紹に同意を返し
その後をすぐに桃香が頷く。
一刀も、彼女達の声には同意見なのか一人首を縦に振っていた。
この周囲の同意に気を良くしたのか、更に袁紹が夢心地で声を上げた。

「きっと、わたくしや華琳さんを初めとして、全員が天代様に惚れているからでしょう!」
「ブバッ!」
「そんなこと、天地がひっくり返っても在り得ないわよっっっ!」

爆弾だった。
麺の汁を啜っていた一刀が、ノズルから噴射されるスプレーのように見事な汁の噴射を見せると同時に
荀彧が勢いよく立ち上がり袁紹の声を完全否定する。
が、袁紹の声に反応したのは、この二人だけであった。
曹操は、突然告白したに等しい袁紹に唖然とした視線を向けていた。
自分が含まれているという事実を、この瞬間だけは袁紹の突然の暴挙に彼女も見逃してしまった。
音々音を初めとして桃香や斗詩、恋や文醜も、一刀に視線を向けて頬を染めていた。
一部、何故顔が暑くなるのか分からない者も居たが。

「……あ、えーっと……」
「あら、みなさんどうしましたの? 固まってしまって……」
「ひ、姫……一刀様、此処に居ますよ……」
「おーっほっほっほ、斗詩さん、何をあたり……まえのこと……」

自分の言ってしまった事に、袁紹も気がついたのだろう。
顔色が酒の入った赤みを帯びたものから、青く変わっていくのが全員にはっきりと伝わっていく。
そんな中、ようやく自分を取り戻した曹操が声をあげる。

「……えっと、一応言っておくわ。 私は別に、惚れているわけじゃないからね」

視線を袁紹と一刀からそらして、明後日の方向に向けていかにも興味ないから、と否定した曹操。
しかし、彼女にも十分酒が入っていたせいで、頬は紅潮していた。
それが、全員に誤解させてしまう。
今の否定の言葉も、曹操の様子から一種の照れ隠しに見えてしまったのだ。
勿論、普段から一緒に居る荀彧が誤解することは無かったが。

「……えーっと、の、飲もうか皆!」
「あ、うん! そうしましょうよ、皆さん! こうパーッと飲んじゃいましょう!」

気を取り直すかのように、やたらと明るい声で一刀が促し、桃香がそれに便乗する。
時間の止まった時が動き出すかのように、皆が今の一連の話を忘れようとして動き始めた矢先だった。
ずずいっと袁紹が、覚悟を決めたかのような面持ちで一刀の前まで近づいてきたのは。

「て、て、天代様! もうこうなったら、開き直るまでですわ!」
「あ、うん! な、何かな!?」
「愛してますっ!」
『麗羽……!』

その時、一刀が動いた。
袁紹の超ど真ん中剛速球が、一刀の胸を打ったのである。
思わず、彼は袁紹の肩を両手で掴んだ。
熱い視線を交し合う一刀と袁紹。
トクトクと、高鳴る心臓の音が自らを打つのを自覚した。
微妙に二人の距離も、近づいているような気がしないでもないような気がしない。

周囲は完全に、二人の作り出した空間に再び時間が凍り付いていた。
いや、恋だけはもくもくと食事を呵責していたが。

「麗羽……」
「あぁ、てn……一刀様……」

約7秒間だった。
真名までどさくさに紛れて呼んだ一刀は、我を取り戻したかのように袁紹の肩から手を離すと同時に音々音が動く。
こういう時、いの一番に制止の声が入るのはやはり彼女だった。

「そこまでなのですっ!」
「そ、そうです! そこまでですっ!」

音々音の割り込むように身体が入ると、桃香の声も飛んできて、二人の距離は離された。
ふらり、と言った様子で袁紹が自分の椅子に倒れこむように座る。
隣に居た斗詩と文醜が、しっかりと転ばないように支えて。

「ひ、姫、平気ですか?」
「あぁ……ま、真名……真名を呼ばれてしまいましたわ……はふぅ」
「そ、それは良かったですねっ!」

「……華琳様、帰りましょう。 わわわ、私の頭が溶けそうです」
「そ、そうね……付き合いきれないわね……麗羽、良かったじゃない、うん」

微妙に祝いの言葉を述べて、音々音や桃香に責められる一刀を尻目に曹操達は中座した。
この場に居ると、袁紹から始まった一連の話に無理やり巻き込まれることも恐ろしかった。
何よりも、荀彧は真名をもう一度一刀に呼ばれたくなかった。
今までの会話の中から、彼は”袁紹さん”としか呼んでいなかったのに、油断するとすぐこれだ。
勝手に真名を呼ぶ男は、数ヶ月たった今でも健在であったのだ。

隠れるように逃げ出した曹操達に一刀達は気付く様子もなく。
腰砕けになった袁紹を抱えて斗詩と文醜も曹操に遅れること数分、退散する。
袁紹が復活して自分の気持ちを暴露されては溜まらない、そういう思いを持つ斗詩の声がきっかけだった。
何より、自分の主である袁紹を始め、侯である曹操や一刀の傍に仕える音々音を差し置いて懸想している事が判れば
目を付けられることになるだろう事は想像に難くない。
斗詩の声は、文醜にとってもなんとなく理解が出来る話だったので、それは見事な連携で
未だに現実に帰ってこない袁紹を抱えて店から立ち去っていった。

ようやく落ち着きを取り戻した一刀達は、気がつくと皆が居ないことに呆然とする。
ついでに、袁紹も曹操も会計が終わっていない事を知って一刀達は呻く事になった。

「う、上手く逃げられたっ!?」
「むむむ、なんという策略……流石のねねも見抜けないのです」
「ははは、もういいよ、どうでも」

桃香と音々音の驚くような声に、一刀は涙が混じった声で投げやりにそう言った。
そして、カランと響く皿とスプーンのかち合う音。
持っていた布で口元を拭い、恋は静かに、そして満足そうに笑みを浮かべて言った。

「ん、満足した」

一刀のお小遣いは、こうして一夜で消え去っていった。


―――


そんな喧騒の一部始終を、仕事をしながら眺めていた少女がいる。
どちらも丈の合わない、店で支給された服を纏って一人はよだれを垂らしながら。
もう一人は、桃香へと鋭い視線を向けて。
随分と盛り上がっていたのだろうが、そろそろ帰られる頃合のようだ。
曹操がこっそりと共を連れて出て行く際に、バッチリ視線を投げかけられた関羽である。
ついでに、荀彧からも殺意の篭った視線を投げかけられたが、あれは何だったのだろうか。

「鈴々。 天代様方の会計が済んだら、私は後を追う」
「はにゃ? 天ぷら買いの刑なのだ?」
「……まかない、先に食べてていいから」
「ほんとなのだ!? わー、愛紗大好き!」
「ええいっ、くっつくな鈴々、鬱陶しいっ!」
「かんかんちゃん、笑顔を忘れちゃ駄目なのだ! にゃははー」
「うっ……にや、にゃははん~」

そうそう、その調子とからかう張飛に、青筋を浮かべながら関羽は笑っていた。
やがて、一刀達も席を立ち、荷物を整理しはじめる様子が窺えた。
店長に断って時間を貰い、関羽は裏口に向かって荷物を引っつかむと、急いで着替える。
目線だけで店内をサッと見て、一刀達が居なくなった事を確認してから、関羽は裏から飛び出して行った。
飛び出した瞬間に、関羽の身体に水が滴る。
雨足は一刀達が店に訪れたころと比べても、随分と強くなっていた。
そんな雨も、関羽は気にせずにひた走った。

どうしても聞きたかった。
先ほどまでの様子を見るに、ただ天代を中心に楽しんでいる姿だけが視界に映った。
彼女の噂は、噂であり―――
自分の目に映った彼女は、自分と同じ志を抱いていた人とはどうしても思えなかった。
こうして慣れない働きで日銭を稼いで、日々を暮らしている関羽の心中は内心で穏やかではなかったのだ。
洛陽での乱から数えて随分日が立つが、町で暮らしている中で聞こえてくる民の悲鳴は変わらずに在る。
洛陽がここ最近迎えている活気は、裏を返せば他の場所から逃げ出してきた民の悲鳴。
“玄徳”なる者は、現状に満足して動く事はないのか。
彼女の噂を追ってきた自分は、間違っていたのか。
そうであるならば、曹操や孫堅に声をかけられているのだ。
平和を願う以上、自分の志を貫く以上、個人で出来ることは限られている事に気付いている。
自分の志すらも飲み込んで、平和を齎す人の下で力を奮うことも考えていた。
そして。
出来れば、腐りきった大陸、漢王朝。
漢王朝でそうした世を作ることが出来るのならば、余計な混乱が少なくて一番良い。
そうした思いや考えが自分の中に密かにあることを、関羽は自覚していた。
勿論、それは彼女の理想であり、漢王朝に変わる新たな王朝が出来ても平和に暮らせる世の中であればそれで良い。
今、この大陸に求められているのは何よりも人と人が手を取り合って暮らせる日々。
それだけなのだ。

「天代様っ!」

関羽が想いに突き動かされるように走った視界に、傘を差して歩く天代と“玄徳”である桃香が映る。
その声に振り向く、一刀と桃香。
雨に濡れ、しかし、店に居た者と同一人物だとは思えないほど、凛としている。
一刀は、それだけで関羽が何をしに来たのか。
おぼろげに判った。
そも、桃香と出会い劉協の元に突き合わせたのは一刀である。
本来ならば、関羽という目の前の少女と先に出会って志を共にしたかもしれない桃香だ。
こうして店を飛び出してまで来る関羽を見ていると、彼女の話とは。
それはきっと。

「……大切な話だね?」
「はい」

頷いて、関羽は桃香を見やる。
水を向けられた桃香は、一刀へ首を向けた。
一刀はしばし黙して考えていたが、やがて一つ頷いて口を開いた。

「……恋、傘に入れてくれないかな。 桃香、先に行ってるから」
「え? いや……あの……?」

無理やりに自分の持っている傘を桃香へと手渡して、恋の持つ傘の中に音々音と共に入っていく。
一刀の不思議な行動に狼狽する桃香は、視線を関羽へと向けると
関羽は一刀に向かって頭をしっかりと下げていた。
本来、ただの民草の一人である彼女が天代という身分に願うことなど出来るはずもない。
彼女の声をかけた目的を知らずして、こうして傍に仕える桃香との時間を設けることなど
頭ごなしに拒否されても文句は言えなかった。
だからこそ、関羽は一刀へと深々と頭を下げたのだ。
頭を下げられた一刀が気付いているのか、居ないのか。
彼は桃香を置いていくようにして、言葉無く恋や音々音と共に立ち去っていく。

残されたのは、雨に打たれ頭を下げる関羽と、その前に傘を持って立ち尽くす桃香。

「……かんかんちゃん」
「うっ、いや、私の名は関羽といいます。 字は雲長です」
「あ、ごめんね。 かんかんちゃんしか知らなかったから……うん、私は劉備、字は玄徳です」

ようやく顔を上げた関羽に一つ謝りつつ、桃香はにっこり笑って名を告げた。
そんな桃香の笑顔に、関羽は一瞬だけ顔を綻ばした。
よく見れば、彼女はあの時、天代を見るために集まった観衆の中に居た女性ではなかったか。
顔を突き合わして会話した今になって初めて気がつく。
あいにくと桃香の方は、関羽のことを覚えていないようだが。

「……玄徳殿、幽州で、貴女の噂を聞き参じました。 それを追って、私はここに居ます」
「うん、あ、そうなんだ」

関羽の洛陽にいたる、今までの経緯を彼女は静かに話し始めた。
真剣な様子で話す彼女の言葉に、桃香も向き合って聞き役に徹する。
桃香はそんな関羽の話す様子に、自らの志を思い返していた。
自分が天代に会いたかった理由を。
眼を瞑って、関羽の言葉に頷き返していると、彼女の言葉がふいに止んだ。

「……関羽さん?」
「玄徳殿、お聞きしたいことがあります」
「なにかな?」
「貴女は今、何をしておられるか」

彼女が問うているのは、今の自分は前と同じ所に居るのかという事だろう。
そう、志在って郷里を飛び出した自分が居るのかと。
答えは決まっている。
いや、正確には答えは一刀を初めとした勉強を見てくれている全員から教えてもらっている。
それは言葉にせずとも、ハッキリと判る問題の数々で。

「うん……」

小さく頷いた桃香に、関羽は息を呑む。

「国をね、立て直すためのお勉強だよ」

そう、今何をして居るかなど、これしか答えることなど無い。
桃香のしている勉強は、間違いなく国に関する政であった。
それは経済から軍に至るまで、事細かに状況も詳しく並べられた、市井には全く出回ることの無い問題集から見て取れる。
何故、自分にこんなことを教えるのかを考えたとき、そこには劉協の姿があった。
彼女を支える為の知識を、蓄えさせている。
一刀が教えている物の中には、別の思惑も含まれていたのだが、間違いでもない。
段珪や朱里、雛里や音々音の作る問題を見ればその意図が見え隠れしているのは
桃香でも気がつくことが出来ていた。
彼女の答えに、関羽はふいに視線を外した。

「……今の世は、乱れております」
「うん、この場所で見えないところで、今もきっと苦しんでいる人が沢山いるよ」
「私は、とてもこの国が立ち直ることなど想像できない」
「きっと難しいね」
「天代様や、玄徳様なら、それが出来るのですかっ!」

自分が思うよりも、大きな声となってしまった。
叫ぶようにそう言った関羽は、言葉にしてからも信じられない事だと実感していた。

一方で、吐き出すように自分の気持ちを吐露する関羽は、まるで映し鏡のようであったと感じる桃香だ。
ついこの間まで、彼女と同じ苦しみを胸の内に抱いていたのである。
今の世の中の乱れを身近に感じて、何かをしたいと思った。
何かしなければと、自分で出来ることをして、そして打ちのめされた。
桃香とは違い、武に誇りある関羽であっても、こうして何をすればいいのか判らなくなって曇ってしまう。

関羽の叫びを聞いて、共感を覚えた桃香は、語り始めた。
それこそ、関羽が洛陽に至るまでの事を聞かされた時のように、自らのことを。

気がつけば、雨の音は止んでいる。
離宮を出たばかりの、ポツリと振ってくる弱い雨。

「……関羽さん。 漢王朝を照らす天はね、まだ晴れないんだ」
「玄徳様……」
「でも、晴れれば良いと思って頑張ってる人が居る」
「……しかし、できないかもしれない」
「駄目だよ、それじゃ。 広がる先が見えなくても、後ろを向いてちゃ何も見えないよ。
 大切なのはね、関羽さん」

そこで桃香は関羽へと近づいて傘を差す。
もう止んでしまっていると言って過言ではないが、しかし。

「笑って過ごせる日が来るって頑張る人を笑わずに、自分も頑張ることなんだよ」

桃香の視線が、関羽の視線と絡み合う。
言っている事は、子供でも理解できるような事だ。
そんな簡単で単純なこと、しかしそれは確かに関羽の胸を打った。
確かに、関羽は後ろ向きに物事を捉え始めていたかもしれない。
賊の横行から人を斬り始めた。
このままではいけないと、立ち上がる人を探した。
そんな中で、漢王朝は終わった物として捉えていたかもしれなかった。
何故ならば、先ほど内心で強く思った自分の願いの中に、漢王朝が在るまま平和にならないかと考えていたからだ。
それは、本来ならば考えに昇ってはいけないことなのかもしれない。
漢王朝を立て直す、という選択肢が、一番最初に想いに浮かばなければならないのでは無いか。
確かに、王朝の腐敗や不満から、民の暴動という形で黄巾の乱が起こったのは大陸において間違いない事実でもある。
そんな中で、王朝に居る者全員が腐っていると断じるのは、早計に過ぎないだろうか。
一歩でも間違えればきっと、乱世となる。
まるで薄い氷の上を歩いているような、今の漢王朝を支えて照らそうとする者達が確かに居る。
関羽の目の前にも、一人。

同じような想いを持ち、同じように志を持った、そんな自分と似た少女が選んだ道。

「……玄徳様に、会えてよかった」
「そう? 私も会えて良かったよー、こうやって皆が繋がっていくのが、一番素敵だよね」

そう言ってやはり、最初にあった時と同じように、今度は関羽の手を取って微笑む。
その笑顔に、今度こそ関羽は息を吐いて破顔した。
人々に平和を齎せる人。
それはきっと、力のある諸侯でも出来る。
しかし、その平和の上に笑顔を溢れさせる人は居ないだろう。
だが、劉玄徳。
彼女ならば、もしかしたら。

「かないませんね。 貴女には」

武、そして将器や容姿を買われて請われた諸侯の声よりも。
同じ志を持つ芯を持った少女の想い。
関羽は、自然に両の手を合わせて礼を取っていた。

「わわっ、困るよ! 私も劉協様と天代様に仕えてるんだから」
「それでも、私は貴女に仕えると今の話で決めたのです。 私の真名を受け取ってください」
「うー、いいのかなぁ……うーん」

結局、桃香は関羽の真名を受け取ることになった。
勤めている店への事もあるので、実際に仕え始めることになるのは店を出た後になるそうだ。
その時、同じように給士をしていた張飛も、一緒に紹介することを約束した。

翌日、その事を一刀へと相談した桃香は、この離宮へと案内するように指示される。
そして、この一事が一刀のある考えを決定付けた。
桃香の元に、関羽と張飛が来たることになる。
前から考えてはいたが、それでも踏ん切りが付かなかったことが出来る様になってしまった。
桃香が部屋を出た後、一刀は一人呟いた。
寂しくなる、と。


      ■ 目を西へ


多くの山と丘で、平地が見えないこの場所は上党、壺関の近くである。
この場所では、黄巾党の動きが特に活発であった。
原因は、陳留で曹操軍とぶつかり合って、何とか逃げることの出来た張角と張宝の二人が落ち延びた場所。
それがこの場所であったのだから、分かる話だという者だろう。
黄巾を仰いだ者たちが、一心に仕える二人を迎え入れて奮闘しないわけがない。
おかげさまで、この地方の黄巾党たちは盛んに動き目立つことになっているのだが。

そんな張角と張宝の二人の表情は暗い。
曹操軍により二人の妹である張梁が捕らわれたせいである。
元々、彼女達は旅芸人であり、その歌で大陸を取ることを目標に歩いてきていた。
ところがどうだ。
自らの歌が原因となり、一部の黄巾党が暴走を始めてしまい、朝廷と完全に敵対することになってしまった。
張三姉妹からすれば、正に青天の霹靂な現実が突然降りかかってしまったのだ。
この、朝廷に反旗を翻した首魁と成り果てた事も、重い気持ちを抱える一つではあるが何よりも。
寝食を今まで共にし、辛いときも苦しい時も一緒に大陸を歩いてきた張梁が居ない。
それが、彼女達にとって最も落ち込む原因であったのだ。

「あ、ほら天和姉さん。 今日は真鯛だって、一緒に食べよう?」
「うん……ちぃちゃん先に食べてていーよ?」
「何言ってるの、この前もそう言って結局食べなかったじゃん。 死んじゃうよ」
「あはは、それは困るね……うん、じゃあ私も食べるよ」

張角に至っては、食事の量も減り、目に見えて元気がない。
張宝はそんな姉を励まそうとしているのか、明るく振舞ってはいるが、こちらも空元気であった。
そんな風に、気丈に振舞う張宝が、モソモソ食べ始める姉を見てから食事を取り始めると部屋の扉が開かれる。
現れたのは、この地に辿りついてから甲斐甲斐しく二人の世話をしていた、裴元紹(はいげんしょう)という男。
人受けの良さそうな笑みを作って、小柄な体躯に猿と言えそうな顔付き。
やたらと長いコック帽の様なものを被り、二人へと礼をする。
噂では、その頭髪はちょっぴりさびしんぼであるという話だが、真偽は定かでは無い。
張角達が摂っている料理の乗っている卓の傍まで、帽子の先が上下していた。

「朗報ですって、お二人とも。 張梁様の生存が、今しがた確認できましたぞ!」
「え! 本当!?」
「れんほーちゃん生きてるの!?」

裴元紹の言葉に、張角と張宝は勢い良く立ち上がった。
食事の椀が零れ落ち、床にぶちまけられたが、それすらも気にせず視線を裴元紹へと送る。
陳留で捕らわれたという話を聞いて以来、張梁の生死は不確かだった。
洛陽で行われた戦のせいで、きっと処刑されている。
陳留へと密偵を送っても、誰一人として報告を持ち返る事無く行方が知れなくなった事もあり
言葉にせずともそう思っていた二人にとって、裴元紹の口から齎された報告は確かに朗報であった。

「どうして分かったの?」
「ええ、ええ、親友の周倉が一晩でやってくれました。 陳留に居る張梁様と話す事は叶わなかったそうですが
 御身が無事であることはしっかりと確認したと」
「そうなんだ……良かったよぉ~」

泣き始めるのではないかと言うほど、顔を歪ませて安堵した張角ににっこりと笑う。
裴元紹は、落ち着き始めた二人に向かって、張梁を救出する方法があるかもしれないと口を開く。
独断ではあるが、張梁が生きていた時の事を考えて西の方に手紙を送っていたそうだ。
宛てた先は、騎馬民族で知られる羌族。
漢王朝の統制の中にあらず、異民族と呼ばれる者達へと宛てたものだ。

「ええ、ええ、既に、軍備を整え始めていることが分かっておりまさぁ。 
 近い内に、我々の要請に答えて動き始める筈。
 そうなれば、王朝の目は見える反乱となる西に向かうって事になりまして、ええ」

そう、主だった涼州でも力のある人物へ、手当たり次第に書簡を送り続けていた。
そうして西に眼が向いた時、張角と張宝の為に考えた作戦を実行に移せるのだ。
すなわち、陳留で捕らわれの身である張梁を助け出す為に反乱を起こす機であると。

「で、でも……乱を起こしたら」
「天和姉さんっ! もう私達、普通に反乱軍の首魁ってことになってるかも知れないんだよ。
 だったら、もう……人和を助けて、大陸から逃げたほうが……」

勢いよく話始めた張宝であるが、言葉尻は窄んだ。
今、彼女が言った事は自らの夢を放棄することに等しかった。
大陸で、自分達の歌を聞いて幸せになってもらいたい。
そんな、何処にでも転がっているような、それでも大きな大きな大望。
それを諦める。
とはいえ、他に張梁を取り戻す手立てなどない。
少なくとも、張角も張宝も、そんな妙手は思いつかなかった。

「……れんほーちゃんの為、だもんね」
「そうだよ……人和が居ないなんて、そんなの嫌だもん……」
「うん……諦め、つくよね」
「うん」
「こっそり、救えないのかなぁ?」

面を上げて、そう言った張角へ裴元紹は首を横に振った。
こっそり救えるのならば、とっくに救っているということだ。
張角は、あまり期待はしていなかったが、この答えに肩を落とした。
乱が起きてしまう、張梁を救う為に。
この事実に、張角の気持ちはまたも沈みそうなってしまった。
慌てて張宝が姉を慰め、力ない笑みを浮かべて大丈夫だと答える。
陳留は平時であるにも関わらず、すぐさま一軍を持ってぶつかれるような非常体勢を維持していた。
正直、その物々しさは下手に武装した砦を攻めるよりも恐ろしかった。
張梁を取り返すには、どうしたって一軍をぶつけて中へ救出隊を送る方法しか思い浮かばなかったのである。
裴元紹がどれだけ頭を捻っても、これしかなかった。

二人の間で結論が出たのか、張宝は裴元紹へと向かい合って頷いた。
それを受けて、裴元紹は首を縦に振り力強い足取りで踵を返す。
自らが仕える主が、自身の提案に是を返した。
これ以上話をする必要は、裴元紹にとって無かったのだ。
話よりも、張梁を救う方法に全精力を傾けねばならない。

張角、張宝の部屋を離れて、自室には戻らずに少し離れた小屋まで歩を進め中に入る。
そこでは、件の策を進める、書簡の作成が行われていた。
中に居る人物は一様に、官吏の服を着込んでいる。
上党の壺関へと勤めていた者達であった。
ここを制圧した際に、文字を書けるからと取り立てており、妻子を人質にして強制的に働かせているのだ。
勿論、黄巾党の為に。

「おうおう、韓遂とか馬騰にもう一度書いてくれ。 贈り物もちゃんと送ってな」
「い、いつまでこんな事をさせるのだ。 も、もう何枚も、か、書いたではないか」
「いや、いや、そんな事は俺に聞かないでくれって。 あちらさんが動いてくれるまでは何度もだ」

そこで言葉を切り、裴元紹は一つ懐から巾着のような袋を取り出す。
その中に入っていた小さな物を手に取って、男へと手渡した。

「ほら、これを最後に使ってくれよ」
「こ、これは……馬鹿な、何故こんなものをお前が……」

途端、動揺に震え目を向く男に向かって、裴元紹は相変わらず人受けの良い笑みを浮かべていた。
歯の根が合わず、首を振る男の肩を抱くように、手を載せて耳元で囁く。
それは男にとって、裴元紹の声が死神の足音に聞こえるようであった。

「俺達はもう仲間、仲間じゃないか。 なぁ?」
「あぁ……なんということだ……」
「書けよ、もう遅いんだから。 二度も三度も四度も、同じことだろう? なぁ」
「……」

生気の無い目を向けて、男はしばし裴元紹を見やったが、やがて頭を垂れて墨に筆をつける。
その様子をしっかりと確認してから、部屋の扉を開けて外へ出た。

洛陽の失敗は、在り得る事だと彼は考えていた。
波才や馬元義と直接顔を合わした際に、彼らの顔つきと目を見てそう感じていたのだ。
力や知は、己よりもあるかもしれない。
馬の扱い方も長けているし、若さから発せられる意気が妙な求心力も生んでいた気もする。
だが、彼らは若さ故だろうか。
愚直でもあり性急でもあった。
馬元義から洛陽を落とす手順を聞いた時、裴元紹も行けるのではないかと思ったがしかし。
彼に二の足を踏ませたのは彼らの作戦ではなく、若さのせいだった。

そんな彼が、失敗した時の事を考えなかった筈が無い。
張三姉妹を熱狂的に支える一人の男として、馬元義や波才に神輿にされた三人の安全の為に
陳留から官渡、そして上党への道を黄巾の者たちへ指示し、確保していた。
張角と張宝が曹操軍から逃げ切れたのは、決して偶然ではないのだ。
三人揃っていれば、用意していた幽州から北へと向かう道に案内したのだが、そうは問屋が下さなかった。
張角と張宝を迎え入れた裴元紹は、当然ならが一人足りないことに気がつく。
もちろん、これも予想され得る事態ではあったので裴元紹はすぐに二人を確保して安静にさせた後に行動を起こした。

それが、直接反乱を起こした黄巾党に向かう王朝の目を、他所へと向けさせる事だった。
つまり、この場合は涼州へと。

「若者の尻拭いをするのが、大人の務めってやつだがねぇ……」

傾き始めた陽に目を細め、視線を西へ投げかける。
既に涼州では軍備を進めているという情報は確かな筋から入手しているのだ。
乱を起こす機を窺っていると見て、まず間違いない。
今度の書で動かなかったとなれば、涼州の動きは変を待つという行動方針が透けて見える。
その場合は、陳留以外の場所に一度、黄巾党が動く必要があるのかもしれない。

「……どっちにしろ賭け事になるって。 なぁ。 まったく、足りない頭を動かしたら熱がでちまうよ」

一人ごちるように言って、裴元紹は自室へと向かった。


晴れる日よりも雨の日の方が多い、洛陽の雨季の頃であった……


       ■ 外史終了 ■


・脳内恋姫絵巻

いらっしゃいませっミ☆~ほやりんッ給士かんかんちゃん~(愛紗・鈴々)




[22225] あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編7
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/01/05 03:57
clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編5~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編6~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編7~☆☆☆




洛陽は毎日のように天から降りしきる雨に晒されていた。
今まで良く晴れて乾いていた分を取り戻すかのように。
そこまで強い雨が降る事はなくとも、同じ雨量で淡々と降り注ぐ。
雨季ではあるが、雨の日がここまで続くことも稀ではあった。

「やれやれ、天が泣いておるわ」

一つ呟いて、雨露を避けるように、張譲は宮内の屋根の下を通り目的の場所を目指していた。
雨のせいで随分と遠回りすることになったが、器用に雨水を避けてある建物の中へと入っていく。
靴についた水分を入り口で振り払い、幾つかある棚を眺める。
ここは、何の変哲もない書庫であった。
この書庫は彼が良く使うところである。
しかし、張譲がこの書庫に用事があるときは何かを読むためではない。
この場所で本を手に取ることは、実に自然であるからに過ぎなかった。

一つの棚に近づいて、彼はある本を抜き取って中身を確認する。
本の背に書かれた表題は、女体盛りの盛り付け天の巻。
こうした本は、余程の者でなければ手に取ることすらないだろう。
流れるように開いた本の隙間には、紙が挟まっていた。
それを抜き取って、紙に書かれていた内容をその場で確認すると懐に入れて、張譲は本を元の場所に返した。

「……張譲殿?」
「む?」

声をかけられて振り向く。
やたら長い髪を髪で縛っている初老の男性が、そこに立っていた。
その両の手には、4~5冊ほどの書を抱えている。

「段珪か……」
「珍しいところに居られますな」
「お主もな」
「わたくしは、劉協様が読まれた本を返しに参っただけですが」
「声が掠れておる。 病を患ったか?」
「先日まで寝込んでおりました」

言いながら、張譲の脇をすり抜けて本を元に戻し始める。
どれも劉協の勉学の為に選んだ物なのだろう。
経済や儒教、歴史に関する本ばかりであった。
棚を挟んで、本を置いたり抜いたりする音だけが室内に響く。
耳朶を打つのは、外で降る雨の音だけだった。
全ての本を棚に戻し終わった段珪は、ふと口を開いた。

「……趙忠殿」
「うん?」
「趙忠殿を初めとして、帝には余り会われていないそうですな」
「そのようだ」

お互いに姿は見えない。
背の高い本棚を挟んで、張譲と段珪の声だけが二人の存在を示していた。

「帝のことも含めて、果たしてこれは正しいことでしょうか?」
「ふむ。 私から言って皆が聞けばよいがな」
「十常侍を取り纏める張譲殿ならば可能でしょう」
「ふっ、十常侍か」

まるで自嘲するように張譲は鼻で笑った。
眼を細め眉間を寄せた段珪の表情は、当然見えない。
同様に、わずかに口角を吊り上げた張譲の顔も。

「段珪」
「はい」
「十常侍はおそらく、その席が近い内に空く事になる」
「……それはどういう意味で?」
「そのままの意味だ」
「……」

段珪は彼の言葉に、一瞬だけとはいえ怒気を孕んだ顔を見せた。
すぐに表情は無表情に戻り、一つ喉を鳴らす。
言葉をそのまま受け止めれば、十常侍のポストは空くことになると張譲は言っている。
そしてそれを段珪に話す意味は一つ。
その空いた席に、段珪を推すつもりなのだろう。
そこまでは深く考えなくても察しがついたが、それ以上、張譲の考えを読みとる事は叶わなかった。
段珪とて、今まで宮内の中で宦官として働いてきた。
こうした腹の探りあいが下手な訳でもない。
劉協の傍仕えとなってから、しばらく一線からは退いてはいたものの、それまで熾烈な謀の争いを繰り返していたのだ。
そんな段珪も、この張譲の言葉に裏があるのかどうかは計れなかった。
一つ、確実なのは。
張譲は帝を避けている宦官達が居るのを知っていて、それを黙認している事実があるだけ。
当然、彼自身が諌めるつもりも無いだろう。
そして、帝の代わりに会っているのは天代である。
この動きの裏にある思惑は、帝が一刀への悪感情―――この場合は嫉妬を―――募らせる事だと段珪は思っていた。
本当に一刀に協力するつもりであるのならば、この動きを抑える必要があるはずだ。
それをしないと言うことは、つまり張譲が協力的であるのは裏があると見て然るべきだった。
しかし、それはまぁいい。
とにかく段珪にとって大切なのは、十常侍になり得る可能性を潰すこと。
そして、この場に張譲が居ることは、あの時の段珪の自室に書を送った者は、この男であることを裏付けているのだろう。

「……失礼しまする」

短く告げて、段珪はゆっくりと書庫から出て行った。
一刀から直接頼まれた訳ではない。
ただ一刀が気にしているという事で劉協の口から段珪へと零れたのを聞きかじっただけである。
そして、上っ面だけでも段珪へ宦官達の動きは黙認すると答えた張譲にとっても、これが痛い話になる事は無いのだろう。
そんな考えをして部屋を立ち去った段珪を、扉の開閉する音だけで確認した張譲はゆっくりと段珪の居た本棚の列まで歩く。
先ほど段珪が戻したばかりの本を手に取って、開いた。

「……未だ帝は動かず。 時間はもう無い」

ペラリと紙をめくる音が、雨の音に混じって聞こえた。


      ■ 金獅走れば将に当たる


「晴れたぁー!」

今現在の時刻、おそらく朝八時くらい、多分。
体内時計で測った時間を予想しつつ、一刀は窓から久しぶりに差し込む陽の光を浴びて腕を伸ばす。
都合2週間も、雨は強く降っていた。
今日は久しぶりに雨雲も息切れしたのか、陽光が気持ちよく宮内を照らしている。
窓を開けて、景色を眺める。
湿った空気が入り込んで、雨の後の独特な匂いを運んできた。
宮内は雨露が反射して、キラキラと眩しい。
しばし外を眺めていた一刀であったが、ふと視線を机に向ける。
昨日はてんこ盛りと言える書簡や竹簡の数も、随分と減って机が何時もより広く見えた。
そう、昨日は頑張って消化したのである。
どうせ明日にはまた、結構な量になっているのだろうが、それでも。
この一時的な机の広さに、一刀は人知れず達成感に満たされていた。

「……よし、外に行こう」

そうして出た結論は、外に出ることだった。
今までの天候のせいで、碌に外へ出ていない。
桃香と剣を振り合ったり、例の授業で離宮から出ることはもちろんあった。
しかし、やはり二週間以上も缶詰であったのだ。
外に出てお日様の元で過ごしたいと思うのは、自然なことだろう。
まぁ、おかげさまで色々と溜まっていた考え事に耽る時間も持てたのだが。

まず、一番大きなところでは徐州の黄巾党が駆逐こそしていないものの、落ち着きを見せた。
袁術から七乃の文字で、とりあえずは平定できたという報告が届いている。
放棄された城砦に追い詰めた賊軍を、大量の衝車でどーんっ! らしい。
良く分からないが兵器を用いて相手の心を折ったとかそんな感じだろう。
地方に派遣された官軍も、同じように行軍して攻め立てたらしいが、結局は袁術の軍勢だけで決着をつけてしまったようである。
手紙には冗談だろうが、報酬として大量の蜂蜜を要求されていた。
そんな大陸で大きな動きを見せている黄巾党も、今は大人しい。
このまま黄巾の乱が終わってくれるのを願うだけである。
また、涼州で軍備を進める動きが認められる件もある。
あれは使者を送ったところ、異民族の動きが活発になってきており、その対応をする為との返答があった。
ただ、出てきた名前が『韓遂』の二文字であったため、一刀は油断できないと感じた。
歴史を見ると、韓遂という人は中央に反乱を続けて、ついにはそのまま果てたという人物評である。
確か黄巾の乱の前後に一度、反乱を起こしている筈だ。
近い内に直接赴いて、釘を刺しておいたほうが良いのかもしれない。
その時間が取れるかどうかは、甚だ疑問ではあるが……

身近なところでは、あの食事会の後で袁紹からは正式に真名を預けられた。
告白された事もあって、一刀は最初どうしたものかと悩んでいたのだが
向こうから何の反応もないし、会った時に実に今まで通りだったので悩むのをやめた。
正直、返答を求められたらどうしようかと随分悩んでたし、今も結局答えは出ていない。
酒の席での事だったし、向こうも忘れているのかも知れないと思いながらもずっと放っている形になっていた。
あの食事会の日は、桃香にとっても大きな出来事があった。
関羽と張飛、二人に出会い礼をとった。
桃香も、二人のことが気になるようで雨の中でも傘を差して、時たま食事を兼ねて会っているようである。
未だこの離宮には訪れていないが、そろそろ店の方も勤めが終わるようであり
段珪に関羽と張飛を離宮へと迎え入れる手配を頼んでおくべきだろう。
後もう一つ。
忘れてはならないことがある。
董卓と劉協が、離宮に訪れた際に出会ったのだ。
西園八校尉に選ばれて、離宮へと入る許可を得た彼女は一番最初に訪れてくれた。
僅かな時間の邂逅ではあったが、諸侯との繋がりを手に入れた劉協はいたく喜んでいた。
その時に、一刀は董卓から宝石のようなペンダントを貰っている。
最初は貰うのはまずいと断った一刀であったが、西園八校尉に選んでくれた礼であり、劉協からの薦めもあり。
何よりも、この離宮に居る者以外は知らないのだからと言われて、一刀も両手を挙げて降参した。
せっかく持ってきてくれた董卓の気持ちを無碍にするようで悪いという罪悪感もあった。
何故かその時に、一緒にくっついてきた賈駆に一刀はギロリと睨まれてしまったのだが。
睨むくらいならば止めて欲しかった一刀である。

「やることは一杯あるけど……」

そこで一刀は頭を捻るのをやめた。
休日という訳ではないが、せっかく晴れているのだ。
外で何をしようかと思考を切り替えた時に、ふと頭に過ぎるのは麗羽から貰った馬のこと。
暇が出来た時にちょくちょく顔を出して仲を深めていたが、最近は雨が続いた事もあって任せきりである。
今から行って、昼頃に戻ってくれば丁度いいかもしれない。

「よし、決まった」

今日は、金獅に構ってあげる日になった。
ところが、朝食を取った際に桃香に頼まれて一緒に剣を振る事になってしまった。
練兵場で振るのかと聞いたところ、外で振りたいとのことだった。
結局桃香も、一刀と一緒で外に出たかったのだろう。
恋は屋上で二度寝する為に枕を持って向かったという目撃情報もあった。
確かに、久しぶりに晴れたのだからみんなの気持ちも分かってしまう。
桃香と一緒に剣を奮えば、政務をするのは夕方だけになるだろう。
そんな時間まで遊んで、働く気にはならないかも知れない。
今日くらいは自主的に休みにしてしまおうかと、流される一刀だった。

そんな訳で。
今、一刀は練兵場を目指して桃香と二人して歩いていた。
それぞれ、刃を潰した剣を二振り持って。
久しぶりの陽射しに気分が高揚しているせいか、話かける桃香の声も楽しそうだ。
自然と歩調を合わせて、お互いの距離も触れるか触れないかと言ったような微妙な距離を保っていた。

「ねーねー、一刀様」
「うん?」
「一刀様は、髪の長い人と短い人、どっちが好き?」
「どうしたの、いきなり」
「いーから。 教えてよ」
「別に良いけど……まぁ似合ってれば長くても短くても良いと思うけど」
「……うーん、微妙」
「微妙っ!? なんかいきなり駄目だし食らったんだけど……」

一刀の答えは桃香の中で納得の行かないものだったらしい。
他にも好きな食べ物とか好きな声色とか、色々と聞いてきて、素直に答えていく。
別に答えることが嫌な訳ではないが、だんだん気まずくなってくるのは、桃香の表情がだんだん翳っているからだ。
変な答えを返している訳ではないのだが。

「あのさ、桃香……」
「じゃあっ! その……」
「な、何かな?」

一刀の声を遮るように、強い調子で言ったにも関わらず、桃香の言葉尻は萎む。
一体何を言われるのだろうかと身構える一刀であったが、実際のところ桃香も何を言おうか悩んでいた。
一瞬、そのまんまズバリと一刀の女性の好みを聞こうとして思いとどまる。
そう、桃香の話の裏には、一刀への思慕が隠れていた。
と、いうのも食事会で言われた袁紹の言葉。
酒の席で勢いだったのだろう袁紹の告白。
自らを含めて、あの場に居る全員が一刀に対して恋慕を抱いていることを桃香は知った。
あの日、ずっと胸に突っかかっていた一刀に対する気持ちが言われて初めてハッキリ分かったような気がしたのだ。

それから、何気なく過ごした雨の中の日々。
袁紹と一刀の関係がどう変わったのか、桃香は知らなかったが
その間に彼女の中で導き出された答えが、一つある。
袁紹のように告白することは難しいけれど、この気付いた自分の気持ち嘘は付きたくなかった。
だから、一刀に振り向いて貰うために、孫氏に習って一刀の情報を集めることにしたのである。
今が正に、その大切な情報戦の初戦であるのだが、中々に一刀の防衛網は硬い。
あれもこれも好きだという彼に、桃香も焦れてしまったのだ。

「ふぅー……急いては事を仕損じる。 待てば海路の日和あり……」
「あの、桃香さん?」
「何でもないよ? うーん、じゃあ次は、一刀様が好きな服は?」
「好きな服?」
「そう、女の子の着る服で!」
「メイド服」
『『『『『『メイド服』』』』』』
「……えっとぉ……?」
「どうしたの?」
「めいど服って、なに?」
「実はもう注文してあるんだ。 桃香の分もあるよ」
「え?」

良く分からないが、既に注文したというメイド服という物はちゃんと着るようにしようと誓った桃香である。
打てば響くような即答っぷりだった。
余程好きに違いない。
このメイド服、誰よりも先に着て一刀の前で見せなければ。
何事も最初の一撃が重要なのだ。
奇襲において、もっとも重要なのは初撃でどれだけの混乱を敵部隊へと叩き込むか、だ。
桃香の、日々培っている勉学の効果も発揮して、手に入れた情報から一刀に対しての戦略を練り始める。
朱里や雛里がこの事実を知ったら、なんという無駄遣いかと嘆くことだろう。
もしかしたら、便乗して更に大きな策を張り巡らすかも知れないが。
やがて辿りついた練兵場の裏庭。
そこで話は一区切りとなり、一刀は桃香の質問攻めから解放されてほっと一息をついた。


―――


一刀は公孫瓚に会いに行くという桃香と別れて、金獅を預けている厩舎へ向かって歩き始めた。
最初こそ、恋も一緒に一刀達に付いて来ることが多かったのだが、夏候惇や華雄を筆頭に
血の気の多い武将達から引っ切り無しに来る仕合いの勧誘が鬱陶しいのか。
ここ最近ではあまり来ることも無くなった。
勿論、気が向いた時は一緒に来てくれるのだが。

そんな恋に突っかかる者達の中でも、孫堅のことは残念だった。
今日聞いた話ではあるが、彼女の腕は傷こそ治ったものの肩より上に上がらなくなってしまったようなのだ。
利き腕でもあったので、武人としては大きなハンデを背負ってしまった事になったのだろう。
孫堅が泣き真似をしながら一刀にそう言った時に、隣に居た黄蓋に歳のせいだと茶化され
再びじゃれあいというには危険そうなコミュニケーションが発生したのだが。
巻き込まれないように、桃香と一緒に汗を流した。
一刀と桃香の剣の稽古が終わってもまだ戦い続けていたので、そのまま放って置いて来たが
それに呆れるよりも、孫堅と黄蓋の異常な体力の方が驚いてしまう。
一度だけ、一刀も脳内を動かした後の影響が無いか確認するために
まだ怪我が治っていない孫堅と手合わせをして貰った事があったが、随分と手加減されていたのだと改めて判ってしまう。
“馬の”や“白の”は悔しがっていたが、きっと元々が旧ザクとガンダムくらいの性能差があるに違いない。
今しがたの出来事を思い返していると、目的地にいつの間にか着いていた。

「こんにちは」
「ああ、天代様。 久しいですね」
「久しぶりに様子を見に来たんだ。 どう?」
「ええ、奥に居ますよ」

厩舎の管理をしている者と二、三声をかけて、一刀は改めて中に入る。
一応、この場所では馬の管理もしっかりと行われており、馬房も分けられていた。
金獅の扱いはその中でもトップクラスである。
言わずとも分かるだろうが、一刀の役職のせいだった。
この場所で金獅は、帝に献上される名馬達と遜色ない扱いをされている。
一応軍馬ではあるので、運動はしっかりとしているだろうし、食事も贅沢で
そこいらの馬と比べれば、良い暮らしを満喫している筈だった。
その筈なのだが。

「ブルルッ! ブルッ、ブルッシャアオラッ!」
「め、めっちゃ興奮していらっしゃる……」

一刀はその豪快な嘶きに、入り口で足を止める事になった。
原因は、今来たばかりの一刀には不明だ。
しかし辿りついた馬房の奥で、前足をしきりに掻きながら鼻息を荒くして、うろうろと落ち着かない様子で徘徊していた。
これでも一応、何度も何度も顔を合わせに来て、時にはその背に跨ることもある一刀である。
金獅も一刀のことは覚えているし、今まで嫌われている様子など微塵もなかった。
とにかく、このままでは暴れだしそうなほど興奮しているので、止めようと一刀が一歩前に歩き出した時であった。
鈍い、木柵の折れる音が響いて、木の片が一刀の顔の真横を通り過ぎる。
一拍遅れて、地を伝って足に響く震え。
金獅が馬房柵を蹴り上げて一部を破壊していた。
自分よりも体重も大きさもでかい金獅が興奮していると、一刀も流石に怖かったのだが
これ以上はまずいと感じて勇気を出して声を出して近づいた。

「おまっ……何してんのっ!」
「ブフーッ……」

そこで初めて一刀に気がついたのだろう。
金獅は一瞬だけ動きを止めて、声をかけた一刀へ短く嘶き視線をギロリと向けた。
その形相は凄まじいの一言に尽きた。
額には血管らしき物が浮かび上がり、眼は見開いている。
耳を後ろに伏せて、ピンっと張っていた。
上唇からチラリと覗ける白い歯が、今では凶暴な虎のように見えてしまう。
慄いた一刀であるが、ここで負けられないという妙な感情が奥底から沸いて来て、キッと睨み返す。
そして、硬い声と共に一刀は言った。

『あ、本体、これは―――』
『ちょっと待った!』
「こんなことしちゃ駄目でしょー!」
「ブヒヒヒィーン!」

一刀が脳内の制止を振り切って、折れた木柵に指を向けて叱り飛ばした直後、金獅は知るかボケ、と言った様子で
再び興奮したように嘶いて前足を強い調子で掻き始める。
しかも、一刀からふっと視線を横にずらして、そっぽを向いてである。
動物のすることとはいえ、ちょっと頭に来てしまった。
この木柵も、ただじゃない。
これを直す為に余計な経費がかかることも含めて、二度としないようにしっかり躾けなくてはならない。
一刀は強い調子で馬房の中に踏み込んで、金獅の轡をぐいっと引っ張る。
眼は口ほどに物を言う、と言われている。
それは動物でも変わらないだろうと、一刀は真正面に金獅を向けさせるつもりだった。
体重差があるので、思い切り引っ張らないとこちらを向かなかったが
何とか真正面に金獅の顔を持ってこさせる事に成功する。
そして叱り飛ばそうと口を開いた瞬間、金獅の口がガバっと空いて一刀の額と顎を挟んだ。

「おま、っほわぁぁああぁぁぁああっ!?」
『本体!?』
『馬に食われた!』
『クロスカウンターだ!』
『やめろ馬鹿っ!』

金獅の口の中から発せられた、一刀の叫びが馬房に響いた。
幸い、そのまま噛み続けることなくすぐに離れたが、ガッツリ噛まれて額から血が滲んだ。
そのいきなりの凶行と痛みに蹈鞴を踏んで、尻餅を付く一刀。
何か嫌な感触が尻に感じる。
余り考えたくないが、鼻腔を付く匂いからして馬糞の上に着地した臭い。
そう、臭い。
そんな一刀を一瞥し、くっちゃくっちゃと口を動かし、ブフフッと鼻の息を吐き出して再び首を背けて前足を掻き始める金獅。
せっかく、せっかく楽しく世話をしてあげようと思ったのにこれは何だろうか。
無視されて噛まれて痛い上に臭い。
踏んだり蹴ったりもいい所である。
怒るよりも、悲しみの感情のほうが強くなってきて、一刀はヨロヨロと馬房から出る。
勝手な感傷なのかも知れないが、一刀は何か、大切な物に裏切られた気持ちを抱いた。
そんな暗い顔をした一刀に向けて、金獅の一際高い嘶きが響いた。
まるで一刀に何かを訴えるかのように。
恨めしそうに視線を投げかけた一刀を確認してから、口をくちゃりと動かして再び前足を掻き始める。

「ヒーンッ!」
「何が言いたいの……俺に何を求めてるのお前は……あぁ、頭と顎が痛い……」
『本体、あのな、これは馬の感情表現の一つで―――』

情けない事に、泣きそうな声になってしまっている一刀は金獅を一つ見て頭を抑えて跪く。
しばし痛みに耐えて、脳内の講釈を聞いているとようやく金獅の行動に納得が行く。
前足を掻く動作というのは、馬にとっての感情表現であり何かを欲しがってたりすると地面を掻くそうだ。
この場合、正面に回った一刀の顔を餌と勘違いしたのだろう。
馬の視野は広いが、真正面は見づらく、真後ろは死角になっている。
恐らく、正面に回った一刀の顔はモザイクが掛かったかのようにぼやけていたに違いない。
つまり、金獅の行動は最初から一貫して、飯をくれと要求していたのだ。

「あぁっ!? これは……って天代様っ!?」

ようやく合点がいった一刀は、脳内の講釈が終わると同時に響く声に振り向いた。
そこに立っていたのはセルフモザイクが掛かっているせいで一瞬誰だか分からなかったが
声から公孫瓚だと理解した。
恐らく、先ほどあげた一刀の情けない悲鳴に様子を見に来たとかそんな感じだろう。
公孫瓚が見た場面は、荒れた馬房の中で血を垂れ流し、馬糞に塗れながら蹲る天代と
そんな一刀の前で必死に前足を掻いてHEY! 飯カモン! 飯カモン! と要求する金獅の姿であった。
概ねその様子から、公孫瓚は理解する。
一刀が、馬に関して素人であることと、この行動の意味が分からず無茶な事をしたのだと。
とりあえず怪我をしているのだ、大事になっていないか確認をしようと近寄って、額を抑えて涙目になっている一刀の手に触れる。

「天代様、怪我は大丈夫……えっ、あれっ!?」
「だ、大丈夫だよ、一瞬だったから……痛いけど」
「……いや、え……へ?」

一刀の手を取って、覗き込むように額へと視線を向けたまま
公孫瓚は流れ込む不可思議な感情に、頬を紅く染めてそのまま混乱し始めた。
俯いていた一刀は、公孫瓚のその様子には気付かなかった。
額と顎に走る疼くような痛みもあったが、丁度しゃがみ込んだ公孫瓚のスカートの中身が
チラリチラリと微妙に動いてるせいで、隠れたり見えたり出たり入ったりしていたせいで
意識が脳内含めてそっちに向かった一刀は、徐々に悲しみが中和されて精神が回復していく。
手当てしに近づいた事も忘れて一刀の手を握り続け、一人で慌てて挙動不審になった公孫瓚。
頭も上下させはじめ、前足を掻く速度がいよいよトップスピードになって藁の無くなった地面をコツコツ叩く金獅。

手詰まり感溢れる馬房の空気を切り裂いたのは、公孫瓚を探しにやってきた桃香の声だった。

「あぁー! 仲良しぃーっ!」

瞬間、公孫瓚は震えさっと一刀の手を離してその場から飛びのく。
そこでようやく、一刀も額に手を当てて呻き始める。
微妙に事の次第を見ていた桃香は、そんな一刀にジロリと恨めしそうな顔を向けていた。

「と、と、桃香!?」
「一刀様って、気が多いんですね! たった数刻見ないだけで!」
「あ、桃香……あのな、私は手当てをしていただけで……」
「白蓮ちゃん、見つめてるだけじゃ手当てにならないよ?」
「うっ、そ、それはそうなんだけど」
「それに、顔が赤いし、怪しい!」
「んなっ!? こ、これは暑かったんだ、そう、そうほら、久しぶりに晴れたし」
「ぶー……お暑いですね、確かにぃー」

何故かしどろもどろに弁解を始めた公孫瓚のおかげというべきか、せいでと言うべきか。
見事に矛先は一刀から公孫瓚へと移り、放置されてしまった。
自分も関わっていそうな話でもあるので、話の輪の中に飛び込む勇気はない。
一刀はとりあえず、甘えることは止めて自分で手当てをしようと立ち上がり、動き出す。
ついでに、金獅の食事もあれば持って来るべきだろう。
桃香と公孫瓚の喧騒の横で、疲れてきたのか若干ペースを落とした金獅の高速前足掻きを見つつ一刀は馬房を後にした。

「ちょっと待て、いくら何でも絡みすぎだ、もしかして桃香って天代様のこと好き―――」
「わぁぁっ! わぁぁーーっ!」
「っ! や、やっぱり!」
「やめてよ白蓮ちゃん! そんな大声で言わないでよっ!」

『なんか聞こえてるぞ、本体』
『むふっ』
『“蜀の”、変な笑い声を出すなよ……気持ちは分かるけど、うふっ』
『“袁の”も“蜀の”もうぜぇから』

そんな二人の喧騒をしっかりと聞きながら、脳内の雑談を無視して。


―――


「それで、あの場合を考えると金獅が飼葉を欲しがっている、ということになるんです」
「あ、うん……」

ここは洛陽から少し離れた場所。
荒野の中を気持ち良さそうに歩く金獅の背に跨って、一刀は町から離れたこの場所で
突然に始まった公孫瓚の授業を聞くことになってしまった。
あの後、しっかりと自分で怪我の手当てをした後に金獅の食事を持っていくと
流石に桃香も公孫瓚も平静を取り戻していた。
やっと来たかと食事を物凄い勢いで取り始めた金獅の横で、公孫瓚と桃香から今日の予定を聞かれた。
素直に、金獅に構ってやるつもりだと告げると、公孫瓚から愛馬のストレス発散の為の遠乗りに誘われた。
少し前に文醜から、一人でふらついているのを咎められ、それを頭の片隅に残していた一刀は躊躇したが
公孫瓚が護衛も兼ねて付いていくと言ってくれたので、それならまぁ良いかと頷く。
桃香も同じように来ると言ったのだが、彼女には馬が無かった。
紆余曲折を経て一刀の背に乗ってついてくる事になったのだが、洛陽を出る最中に音々音に捕まっている。
今日はきっと、一刀と同じように自主的な休みということにしていたのだろう。
肩を落として離宮に連れ戻される桃香は、ねねよりも幼いのでは無いかと思うほど情けない声を残しながら去って言った。

「それと~これは知っておいた方が良いと思うんだけど、馬は感情を耳や眼でよく表すんだ」

『さっき聞いた内容と同じ話なんだけど』
『そりゃ、俺だって白蓮からの受け売りだし』
『俺も翠や蒲公英の受け売りだしな』

そんな訳で、一刀にとっては二度目となる馬の習性についての授業を受けているのだ。
まぁ、それを知らずして怪我をした一刀なのだから嫌だとは言えない。
こうして話してくれているのも、純粋に公孫瓚からの好意だろうことも分かっていた。
しばし熱心に話してくれる公孫瓚の言葉に耳を傾け、相槌を打っていた一刀であったが
何もしてないのに金獅が速度を上げて駆け足をし始めた。

「あっ、っと……おい、どうした」
「ははは、馬は走る生き物だからね。 気分が良くて走り始めたんですよ、きっと」
「そっか……よし、ちょっと走ろうか」
「お付き合いしますよ」

そんな突然の走り始めた金獅に、さくっと対応して後をついてくる公孫瓚の声が後ろから飛んでくる。
彼女が跨ってる馬は白馬ではなく、立派な鹿毛を持った、顔に流星が一本走る凛々しい顔つきの馬であった。
それに一刀は白馬では無いのかと尋ねたところ、確かに白馬の愛馬は居たようである。
その白馬は客将として公孫瓚の元に居る趙雲に、譲ったという話だ。
実は、公孫瓚にとっては実に身を切るような思いで手放したらしい。

「本当は、譲りたくなかったんだけど頑張ってくれてるから、しょうがないかなって」
「そう……苦労してるね」
「ふふ、その慰めだけでもありがたいです」

実際、頑張っているからというよりは、趙雲に出て行って欲しくないというのが本音のところだった。
自らが生まれた頃から育てた白馬を譲ることで、趙雲は大きな恩義を感じることだろうという
打算も勿論、公孫瓚は含めて手渡したのだ。
まぁ、未だに客将のままでもあるので趙雲が出て行ってしまう可能性もある。
そうした場合に未練が残らないかどうかは、正直言って怪しいところであった。

そんな話を馬上でしていると、徐々にだが金獅の速度が上がっていく。
次第に会話をするには辛くなり、一刀も公孫瓚も、ただ馬を走らせる作業に没頭していった。
馬に乗ることは、何度かあったとは言え、決して一刀は上手い訳ではない。
脳内の自分達は別としても、全速力で走る馬の上など、馬上で手綱を握るだけで精一杯だ。
集中しないとすぐに落馬しそうになる。
ただ、金獅は図体も大きく走り方も人を乗せるのに慣れているのか、多少の揺れでバランスを崩しても意外と落ちないで済むのだが。
そんな金獅も、やがて全速力で走る事には飽きたのか、徐々に速度も落ちてようやく一刀は景色を見回すことが出来た。
流れる景色は、荒野から次第に岩肌の見える丘へと移り変わっていった。
遠くに見える大きな岩山の頭に、雲がゆっくりとかかっていく。
一刀が周囲を見回せるほどゆっくりと走るこの金獅の背中は、結構気持ちよかった。
思わず、一刀は眼を瞑って進路を金獅に任せる。
ぶつかる風が気持ちよく、やにわに震う振動が心地良い。
耳を打つ軽快な蹄の音が、真下とそのすぐ後ろから聞こえてくる。
身体にかかる負荷から、今は坂を登っているところなのだろう。
そんな時だった。
後ろから、切迫した様子で公孫瓚の声が飛んできたのは。

「天代様!」
「っ!?」

眼を開いた一刀の視界に広がったのは、ちょうど坂の頂上に居て死角となっていた人馬であった。
思わず手綱を引いて、その動きにしっかりと反応して無軌道に動く金獅。
グリンっといきなり反転した金獅の動きに、一刀の方がついていけなかった。
一瞬の浮遊感。
自分が落馬したことにいち早く気がついた一刀は、ついで来るだろう衝撃に硬く眼を瞑る。
そして、感じた衝撃は随分と柔らかく受け止められた。

「大丈夫ですか、天代様」

おそるおそる眼を開けた一刀は、すぐ後ろを走っていた公孫瓚に受け止められた事に気がつく。
器用に足だけで進行方向を操った彼女は、その両手で一刀を引き寄せていた。
縺れた体勢に、公孫瓚の愛馬も走りづらいのか、自然と動きを止めていく。

「ごめん、ありがとう、助かった」
「いえ、その、気にしないで下さい。 一応、護衛もかねておりますから」

公孫瓚に捕まっていた一刀は、彼女が下馬すると同時に手を離す。
一瞬の出来事とはいえ、こんなただっ広い荒野の真ん中ですっ転ぶことになりそうであった。
しばし距離の離れたところに居た人馬も、一刀と公孫瓚に向かって近寄ってくる。
金獅はどこか明後日の方向に向かって走っていた。

「平気なんー?」
「ああ、ビックリさせてごめん、こっちは平気だよ」

そう言って、改めて一刀は荒野の真ん中で衝突しそうになるという、在り得ない確率を達成しかけた人を見る。
一番最初に向かった視線は、胸部だった。
サラシという奴だろうか。
豊かな胸をそれだけで隠し、羽織るように着ているマントと袴。
露出度だけならば呉の皆様に引けを取らない、豪快な衣装に身を包んだ女性だった。
そこでようやく、一刀は視線を顔に向ける。
紫がかかった髪を縛って、垂らした前髪から覗く翠色の目が一刀に強く印象を残した。

『霞だ……』
(知ってる人か……)

脳内から漏れた呟きに、なんとなく身構えて一刀は口を開いた。

「そっちは平気だった?」
「ウチは別に。 器用に避けてくれよったしな」
「ああ、良かった。 後ろからだと交錯したように見えたから」

そんな女性の声に、安堵する一刀と公孫瓚。
特に、公孫瓚にとっては肝を冷やした時であっただろう。

「ところでー……さっき天代様とかなんとか言ってへんかった?」
「あ、ああ。 俺は北郷一刀。 こっちは護衛で付いてきてくれた公孫瓚さん」
「公孫瓚だ」
「北郷って……確か、えぇー! 本物!?」

軽く会釈した公孫瓚と紹介した一刀に、女性の目がまん丸に見開かれる。
随分と驚いたようだ。
まぁ、そりゃあそうだろう。
普通の人から見れば、公孫瓚は幽州の太守であり、一刀は言わずもがな。
指を差して驚く彼女には悪いが、せっかくなのだから名前くらいは教えて欲しい。
いや、脳内の皆様は知ってらっしゃるようではあるが。

「あっ……これは失礼しました。 うちは姓は張、名を遼。 字を文遠いいます。 こんな場所でお偉いさんに会うとは思わず」
「硬くならなくていいよ。 気にしないから……張遼さん」
「あ、ほんま? 良かったー、堅苦しいの苦手だったんよ」
「って、変わり身早すぎないか!?」

これが張遼。
そんな事を心で思いながら一刀が言うと、すぐさま言葉遣いが変化した張遼に公孫瓚の鋭い突込みが入る。
とりあえず悪いのはぶつかりそうになった一刀なので、それは謝っておく。
この場に天代と諸侯が二人だけで居るというのも気になるだろうから、経緯を添えて。
当然、それを説明すれば馬上で目を瞑っていた一刀の事も分かる。

「えぇぇ……失礼かも知らんけど、あほやん、自分」
「うっ……否定できん」
「張遼、ちょっと不敬じゃないか?」
「ああ、いいって別に、俺は気にしないから」

呆れられるのも突っ込まれるのも、一刀は覚悟の上だったのでムッとした様子の公孫瓚を抑える。
それに良く見れば、彼女の顔はちょっと赤い。
腰にはまだ、中身が入ってそうな徳利らしき物がぶら下げられていた。
つまりはまぁ、そういうことなのだろう。

「で、張遼さんは一人酒だったのかな?」
「うん、せやでー! 洛陽に寄った際に奮発して、たっかい老酒を買うたんや。
 これがまー、美味いったらっ!」

酒の話になった途端、パッと顔に花が咲く。
なんでも彼女は洛陽へ寄った後に長安を目指して向かう最中であったそうだ。
この先に見えた岩山に立つ桃の木の下で、景色と酒を楽しむ予定だったらしい。
ところが、我慢できずに老酒を空けてしまい、あの場で一人酒をはじめてしまったという訳だ。
その酒の味と景色に文字通り酔っていたところに、一刀が突っ込んできたようである。

「そやぁー! なんだったら、これから出会った縁っちゅうことで酒盛りでもせぇへん?」

如何にも良いことを思いつきましたと言った様子で両の手を叩き、明るい調子で誘われた。
確かに、一刀はこれからの予定は何もない。
というか、今日は休みだ。
本当は休みじゃないんだけど。
しかし、音々音や段珪達が働いている筈であるこの昼間っから酒盛りというのも気が引けた。

「う、う~ん……」
「ええやん、ちょっとだけ。 な? 一人酒も寂しいんよ」
「けどなぁ……どうしようか?」
「え、そこで私に振るの? ……まぁ、私はこの後は用事もないし、天代様が行くって言うなら護衛を兼ねて付き合うけど」
「う、うぅーむ……」

断る理由はない。
強いてあるとすれば、一刀が感じるちょっとした罪悪感だけだ。
それに、彼女はあの張遼である。
知り合いになっておくのは、悪い選択肢では無いはずだ。

「ああ、もしかしてこの後忙しい?」
「……分かった、じゃあ少し付き合うよ」
「おーっ! ほんまか、絶対無理と思ったけど、言うてみるもんやなー」

結局、一刀は出会ったばかりの張遼の提案に付き合うことにした。
公孫瓚の馬に二人で乗って、金獅を探してから。
暫し探すと、雑草を黙々と食い始めながら糞を垂らしている金獅を捕まえることが出来た。
久しぶりに外を思う存分駆けずり回ったせいだろうか。
やけに機嫌が良さそうな金獅の背に跨って、一刀達は桃の木が生えそろうという丘へ向かった。
流石に三人で飲むんじゃ酒が足らないということで、金獅を探している間に買ってくると言い残した張遼なのだが
一刀達が到着する頃には既に先に着いており、酒盛りを始めていた。
神速の無駄遣いとは、一刀の言だ。

「綺麗だなぁ……」

公孫瓚から漏れた言葉に、一刀は言葉無く頷いて同意した。
残念ながら、花はつけていなかったが実を成し始めようとしているのか。
白い薄皮に包まれつつある桃の木達は一刀達を陽射しの中で迎えてくれていた。
桃園というには少し寂しいが、それでも十分、美しい景色といえた。
そんな桃の木達が出迎えてくれている足元で、張遼は酒を片手に料理を並べている。
その姿は、一刀から見ても言い知れない温かみを感じた。
簡単に言えば、絵になっている、という所か。
一足先を歩いていた公孫瓚が、そんな張遼を手伝い始めるのを見ながら
一刀はしばし、張遼と公孫瓚が桃の木の下で料理を並べるのを見届けていた。
酒だけかと思ったら異常な量の食事もあるというのだから驚きだ。

「遅かったやん、二人共」
「ごめん、急いでたんだけど」

一刀と公孫瓚に気がついた張遼から声が掛かる。
もしかしたら、案外と金獅を探していた時間は長かったのかも知れない。
時計の無いこの世界では、感覚だけが頼りだ。
最近では少し、その感覚も掴めて来たと思ったがまだまだのようである。
実際のところは、一刀が速く馬を走らせることが出来ないので時間がかかっただけであった。

張遼が持ってきた酒は、どれも舌滑りが良く癖が無くて飲み易い。
最初こそ、当たり障りの無い話に終始したものの、酒が回ると元々の性格のせいもあってか
張遼の竹を割ったような快活さに引きづられるように、一刀達は次第に打ち解け始めた。
楽しくなれば、酒が進むもの。
おかげさまで、酔っ払いが3人出来上がることになってしまった。
かくして、一刀が言うちょっとだけの酒盛りは異様に盛り上がりを見せ始めた。

「ほな! うちの一発芸、見せたるでぇー!」
「おーやれやれ!」
「やんや、やんや!」
「この何の変哲もない桃の木が、薪に化けよります!」

言うなり、彼女は自らの獲物を振って硬いと言われる桃の木を切り刻む。
丁度、彼女の身長くらいの木が倒れこみ、危ないと思った瞬間には上空に蹴り上げられていた。
それを追いかけて、ぶれる張遼の身体。
瞬間、小気味良い木の音が連続して、一刀達の背後に響く。
振り返った先には、確かに桃の木が薪に化けていた。
形はヨレヨレだし、長かったり短かったりするのだが、そんなことは関係ない。

「SUGEEEEEEEEE!」
「おぉぉぉぉ!」
「おおきにー! おおきにー!」

諸手を上げて絶賛する一刀達に、張遼は照れるように両手を振って答えていた。
それは確かに、凄いことではあるので絶賛するのは間違いではない。

「さすが未来の遼来々なだけはある! 遼来々! 遼来々!」
「遼来々! 遼来々! 私の陣営に遼来々しないか遼来々!」
「にゃはははー! そんなに褒められると照れるやんかー!」

興奮したように囃し立て、地味に未来知識を披露した一刀の言葉尻を捉えて
公孫瓚が武の片鱗を見せ付けた張遼を仕切りに陣営に来ないか、さり気無く誘い始める。
彼女も随分とお酒が回っているようだ。
勿論、同じように酒が回っててそんな事に気付かない張遼は、高いテンションのまま薪に火を点ける芸を見せ付けて
夕刻に差し掛かったことも相まって、そのままキャンプファイヤーへと突入し始めた。
その最中、公孫瓚は突然、真剣な顔を一刀に向けてその肩を両手で叩く。
触れるのではないかと言うほど一刀の顔に近づいて、そして口を開いた。

「天代様あ! 私は白蓮ですう!」
「そうか! 白蓮か! はっはっはっは!」

突然、自らの真名を告げる彼女に、一刀は馬鹿受けした。
何故かよく分からないが、公孫瓚の真面目な顔と繰りでた声がツボに入ったのである。
そんな自分の真名を告げて、思い切り笑い飛ばされた公孫瓚も、ニヤァと不気味に笑っていた。
失礼極まりない一刀の態度に腹は立たない。
むしろ、こうして触れ合っていると異様なほど落ち着く温かい気持ちになるのだから怒りなど沸き様が無かった。
無視されたような形の張遼は二人の間に体を割り込ませると、座って爆笑している一刀の肩膝にぴったりとくっ付くように座る。

「ずるいー、うちも混ぜてーなー」
「張遼ぉー! 私のところに来てくれぇぇぇー」
「あっはっはっはっは! はっはっは、はひぃ」

笑いすぎて息苦しく、飲んだ物が吐き出そうになった一刀は、身を捩って二人から逃げるように動き出す。
ところが、一刀の上に乗っている張遼が白蓮に押し倒されて覆いかぶさっていた。
おかげさまで逃げることが出来ない。
一刀は苦しいし、柔らかいし、気持ち良くて気持ち悪いという妙な感覚に現を抜かしかける。

「天代様触ってると、良い気分になってなんか気持ちえーなぁ……」
「あー、私も触るー」
「ひひひぃ、おま、やめ、あぁ」

張遼と白蓮の手が、一刀の身体にぺたりと、時にもみもみと触れ始める。
情けない悲鳴のような、喘ぎ声のような物を上げながら一刀はモゾモゾと蠢くことしか出来なかった。

「天代さまぁ、うちに名前呼ばせて!」
「良い、良いよ、良いからちょっとどいて、どけて」
「ほんまかぁー! うちは霞や! 霞って呼んでな一刀ー♪」
「私は白蓮だー!」
「うちは霞やー!」

立ち上がって火の着いた松明を持って振り回し、自分の真名を連呼し始めた彼女達に、一刀はようやく解放されて一息つく。
一刀も立ち上がって、よろめきながら視界に映った徳利を見やると口を開いた。
真名の無い一刀は、彼女達の話に参加できなかった。
こうなったら飲むしかない。
酒の回った朦朧とする頭で、謎の結論を導き出して一刀は徳利を引っつかんで飲み始める。

三人だけの宴は、この様に留まることを知らなかった。


―――


次に一刀が意識を取り戻した時は、金獅の背に跨っている時だった。
まだ薄暗く、今が明け方であることを知る。
明け方。
ハッとしたように、一刀は起き上がって周囲を見回した。
見える景色は、洛陽の街の大通りであった。
当然、隣には同じように馬に乗る公孫瓚が、フラフラと頭を揺らしている。

「……うっ」
「あー……起きましたか、天代様」
「ここは……俺は……?」
「今は宮内に戻っている途中で……酔いつぶれた天代様を送っている最中です」

それは分かる。
それは分かるのだが、回りがやたらと薄暗いではないか。
それに、張遼はどうしたのだろう。
公孫瓚から話を聞くと、張遼は既に別れて長安に向かったらしい。
酒の席がやたらと盛り上がって、一刀達は一晩あの場で越したということだ。
薪に火を点けたあたりまでは一刀も覚えているが、そこから先がどうにも曖昧だった。
真名を預けられた気もするが、定かではない。
公孫瓚も同じようで、天代から一刀という名前を呼んでも良いと許可を貰った気がするようなしないようなと話していた。
口ぶりから察するに、記憶が飛ぶまで飲んでしまったようである。
公孫瓚も、飲みすぎたせいで二日酔いらしく、言葉には力が無かった。
まぁ、それもいい。
それも良いのだが、明け方である。

「な、なんたることだ」

思わず時代劇の役者のように、一刀は深刻に呟いた。
心なしか、一刀の顔に深い陰影が刻まれる。
大通りを抜けて、金獅と共に宮内に入ると、公孫瓚に礼を言って彼女とはそこで別れた。
ゆらゆら揺れる頭を見て、公孫瓚の宿酔いは随分と激しそうである。
途中でぶっ倒れないか心配しつつも、自分の心配もしなくてはならなかった。
一刀は覚醒した意識で離宮へと向かう前にみんなに何と弁明しようか、金獅に跨ったまま
馬上で言い訳を考え始めた。
幸い、先に酔い潰れただろう一刀は二日酔いにはなっていない。
別に悪いことをした訳では無いのだが、自分の身分を考えると素直に経緯を説明するのは憚られた。
なんか、妙な罪悪感もあるし。
正常に回る頭で、上手い言い訳は無いものかと頭を捻る。

「一番良い言い訳を頼む」
『①金獅に跨った』
『②虎に襲われた』
『③酔拳で倒した』
『完璧だな』
「いや、真面目に聞いてるんだ、ほんとう」
『俺は至福を感じたから、何でも良いよ』
『“白の”や“魏の”や“董の”はな……地味に入れ替わってたしな』
『羨ましい』
『妬ましい』
『で、本体は誰に知られたくないんだ?』
「それはその……」

図星をつかれて、本体は狼狽する。
本音で言ってしまうと、一刀は朝帰りしたという事実を問い詰められたくなかった。
公孫瓚と共に出かけたことは、桃香が見ている。
つまり、離宮に居る者は全員その事実を知っているはずだ。
そして、一刀は鈍い方ではあるが脳内のおかげで自覚できている。
音々音を初めとして、離宮では自分を好いてくれている子が多いという事実に、気付いてはいた。
それは、一刀が触れた事によって彼女達の何かの感情のスイッチが入ったせいだ。
脳内の大切な人との記憶なのではないかと本体は推測しているのだが、直接聞くわけにも行かないので
実際のところは謎である。
ただ、何かしら感情に働きかけていることは確かだ。
その事実があるからこそ、一刀は他人の感情を弄くるような気がして出来るだけ触れないように心がけている。
勿論、咄嗟に触ってしまうことはあるけれども、それでも一応は気をつけているのだ。
話は逸れたが、とにかく一刀は公孫瓚と朝帰りした事実を知られたくなかった。
誰かと言われれば、それは、そんな借り物の感情ではないだろう自分を見てくれる人になる。

「……自分に隠しててもしょうがないよな」
『そうだ、言ってしまえ』
『ネタは上がってるんだ!』
『カツ丼は出ないが』
『カツ丼かぁ、食べたいね』
『『『うん、随分食べてないなぁ』』』
『で、誰なんだ』

恐らく、これは脳内の皆も気になっていることなのだろう。
何せ、彼らの大事な人と本体の想い人が被っていたら大事だ。
培ってきた自分への信頼関係が崩れ去る可能性すらある。

「誰かって言えば、それはまぁ―――」


―――


そんな一刀が呟く姿を、一人の少女が見ていた。
正確には、宮内に入る門で見かけて覗いていた。
彼女の名は陳宮。 真名を音々音という。
一刀が予想したとおり、桃香から公孫瓚と出かけたという事実を聞いていた。
夜になっても帰ってこない一刀に心配したが、それでも諸侯との付き合いもあるのだろうと
半ば無理やりに忘れて眠った。
そして先ほど起きて、一刀の部屋を確認しても姿が無い事から彼女は遂にいてもたっても居られなくなり離宮から飛び出した。
何処へ向かったのかも分からないので、仕方なく門の前で網を張っていたのである。
そして掛かった。
一刀は公孫瓚と共に、袁紹から貰った金獅という馬に跨って彼女と別れるところだった。
一体、一晩かけて一刀は何をしていたのだろう。
公孫瓚と共に、何をしていたのか。
何故、こんな時間まで帰ってこなかったのか。
彼女の明晰な頭脳は、ある一つの結論をババーンと提示していたのだが
それは首を振ったり手を振ったりして結論の枠組みから必死に外す。
とはいえ、気の多い部分がある一刀である。
ひょっとしたら、一刀は公孫瓚のような地味な感じの女性が好きなのかもしれない。
一刀だって男だ。
男は、そう、なんというか、女を見ると隠された獣が剥き出しになると言う話をどこかで聞いた。
桃香の胸だって見るし、恋の胸だって見てるし、この前は食事会の店員を見て鼻血出してたし。
だがしかし。
いや、しかし。
そんな考えがグルグルと回り、一人芝居をしていた音々音だったが、ふと独語をし始めた一刀に気付いて
ずずいっと隠れている建物を伝って一刀の声が聞こえる場所まで身を移し神経を耳に、聴覚に傾ける。

「―――その、ねねが一番だけど」

途中の独語は聞こえなかったが、それだけはハッキリと音々音の耳朶を打った。
微妙に何か照れていたような気もするが、とにかく間違いなく自分の真名を呼んでそう言ったのが聞こえた。
瞬間、彼女の顔は緩んだ。
なんとなく、朝帰りした一刀にモヤモヤする感情が何処かに消えてしまった気がした。
ねねが一番だと言った。
その後も暫く、一刀がブツブツと一人呟いている言葉を聞いていたが
なんでも何処かで飲んでそのまま意識を失い、朝帰りとなった事は言葉の断片から予測がついた。
金獅に跨った一刀が、うんうん唸る姿が途端に可愛く見えてくる。
そしてまた、音々音の顔は緩んで不気味な笑みを浮かべ始めた。

「……ていっ!」

短く呟いて、一刀の頭にチョップする振りをした音々音。
そんな届くはずの無い手刀は、もちろん何も無い空を打つ。

「ねねを心配させた罰は、これで許してあげるのです、一刀殿」
「ブルッ……」

まったく怒ってない、柔らかい声をあげて、そして踵を返す。
そんな彼女の耳に最後に聞こえたのは、やれやれと言いたそうな金獅の短い嘶きだった。
軽い足取りで離宮へと戻った音々音に遅れること、約30分。
一刀は離宮へと戻ってきた。

「ただいまぁ……」
「一刀様、白蓮ちゃんと朝帰って来たの?!」
「はわわ! な、なんか疲れた顔してます……雛里ちゃん、やっぱり昨日は……」
「そ、そうだよ……あわわわ、一刀様、大人だよぉ~」
「一刀、立場を分かっているのかお前は」
「心配した……」

短く告げた一刀に、おかえりの挨拶が返ってくることもなく集中砲火が打たれていく。
誰も居なければ、もう少し考えを纏める時間が取れたのだが
朝も早いというのに皆起きているし、勢ぞろいだ。
恋の小さな呟きが、地味に心を抉る。
きっと、彼女達は一刀を心配していた。
そして、一刀は脳内と共に練り上げた言い訳を繰り出した。

「すまん! 気がついたら金獅がいきなり渡河し始めて帰れなくなったんだ!」
「嘘ですっ!」
「それは嘘です……渡河できたのなら」 
「うん、嘘だよぉ……戻れるもん」
「嘘だ!」
「……嘘?」

全員から異口同音に、マッハで看破される。
朱里と雛里からは、具体的に指摘もされて。
確かに図星なのだが、一刀も嘘をついた手前、後にはもう引けなかった。
即座に脳内からのフォローが入る。

『本体、下手な嘘は即座に看破されるな』
『ああ、ここは一つ、真実を交えた嘘をつこうじゃないか』
『落馬が使えそうだね』
『いいな、落馬して意識を失ってた……だけじゃちょっと弱いか?』
『頭を打ったから、念のため一日様子を見たとか』
『それだっ!』
(それはいいんだけど、さっきからねねの反応が無いんだけど)
『生きろ』
『頑張れ』
『諦めるな』
『死ぬな』
「いや、お前ら頼むよマジで! あ……」

思わず声を荒げ、室内に響く一刀の声。
こちらを突き刺す視線は、やたら厳しいものだった。
一人、それまで黙して卓の前で茶を飲んで、一刀を見ていた音々音が仕草を交えて呟くように言った。

「えいっ」

そんな空を打つ手刀と声に、音々音に全員が不思議そうな顔を向ける。
注目を集めた音々音は、もう一度空に向かって手を縦に振ると

「ねねはこれで終わりなのです」

とだけ言って、ずずっと目の前にある茶を啜る。
しばし全員が―――一刀を含めて―――首を傾げていたが、桃香が得心したかのように握った片手を掌に乗せた。
音々音は実際に、これで終わりにしたのだが桃香にはハッキリと伝わらなかったせいで意図が曲解される。

「分かった! ねねちゃんの下した刑は、手刀一発だね!」
「な、なるほど……」
「そうか……よし、一刀、こっちに来い!」
「いやその……実は落馬して頭を打って……」
「それも嘘?」
「うっ……」
「まったく、良いから早く頭を出せ」

追い詰められた一刀は、仕方なく劉協の前まで歩く。
そのまま立っていると無理だと言われて、しょうがないのでしゃがみ込んだ。
ベシリと頭を叩かれて、一刀は許された。
どうやらもう、何を言っても嘘だと思われそうだし下手な弁明をするのは止めた方が良さそうだ。
何より、音々音が怒った様子もないし、これで済むなら御の字だろうか。

「……心配かけてごめん」
「次は私の番!」

同じように桃香や朱里達に叩かれて、そして……

「心配した……」
「れ、恋……そうか、恋が居たのか……」
「最初から、居た」
「あ、いや、うん……その、頼む……手加減してくれ」
「ん、分かった。 手加減は練習した」

鈍い音が室内に響いて、一刀は白目を剥いて昏倒することになったという。


      ■ ヒャクエンダマの裏


やにわに宮内で、天代が諸侯である公孫瓚と一日外出したという噂が流れた。
それに纏わる動きが、色々と動いていたが今のところ自分には全く関係が無い。
良く分からない鼻歌を歌いながら、曹騰は竹簡を開きながら茶を楽しんでいた。

「天代に関わっちゃあ、公孫瓚も大変だろうに」

曲がった口で一つ啜り、竹簡を読み終わると隣に置いて筆を持つ。
今、曹騰が取り組んでいる問題の一つ。
曹操が陳留の禁令を断行し、蹇碩の叔父を殺してしまったという物についてだ。
曹操からは余計なことはしなくても良いとは言われているが、可愛い孫娘のことだ。
動くなと言われても動いてしまうのも、分かる話だろう。
曹操の行動は、間違った物ではないが十常侍を蔑ろにしていると思われて仕方ない行動でもある。
蹇碩は、帝に所縁ある者を動かして、同じように処罰をさせようと考えているそうだが
張譲にも何か考えがあるらしく、下手を打てば自分の行動が曹操を追い詰める可能性もある。
誰に言われた訳でもないが、曹騰とて長く宮内に身を置いた宦官である。
そうした策謀が動けば、肌でも匂いでも、宮内の様子からでも感じることが出来た。
こと、曹操に関わる話であれば尚更気がつくというものだ。

「蹇碩の方はこれでどうにかなるとして、問題は張譲よなぁ」

軽快に動いていた筆を置いて、腕を組み天井を見上げる。
天代に協力的な姿勢を見せているのも然ることながら、ここ最近の張譲の動きはどうにも胡散臭い。
何よりも、天代が現れてからの張譲の動きは、余りにも静かにすぎた。
一つ頭を掻いて、曹騰は窓の外を見やる。
雨季であるから仕方ないのだが、晴れ間が覗いたのは約3日だけ。
昨日から、また鬱陶しい雨が降り始めている。
何となしに、そんな風景を眺めていた曹騰だったが、ふと視線に動く人影を見つけた。

「うん? ありゃあ張譲か」

雨に濡れない様にだろう。
建物の屋根を伝って、目立たないように移動している。

「……」

曹騰は無言で立ち上がり、張譲が向かうであろう方向を確認してから後を追った。
追いかけて数分経たず、足を止めて誰かと話合う張譲の声が聞こえてくる。
隠れているために、張譲の姿は見えないが話をしている者は市井の者だった。
仕切り張譲へと頭をさげて、ニヤニヤと笑っている。
やがて話は終わったのか、張譲は別れ、市井だろう人間が曹騰の方へと近寄ってきた。

「……おい」
「うわっ!」
「驚かせてわりぃなぁ。 今の人と何を話していたんだい?」
「これはこれは、えっと……」
「わしは曹騰よ。 今の話、ちょっと聞かせてもらっていいかねぇ?」

そう軽い調子で聞く曹騰の眼は、笑っていなかった。
突然現れた曹騰に対して緊張しているのか、その男は得心したかのように頷いた。

「ええ、構いませんよ。 張譲様にはこれを届けに来たのです」

言って腕の裾から取り出されたのは、サクラの彫刻が施された木の円盤であった。
この彫刻には見覚えがある。
天代が持っている天の硬貨、ヒャクエンダマと言う物に施されたものだ。
洛陽へ天代が現れてから凝り始めたという、張譲の趣味から頼まれていた物なのだろう。
素人が片手間で彫り込むには、些か難しい彫刻であることは曹騰にも分かる。

「分かった、ありがとな」
「へぇ……ああ、もし曹騰様もご興味がおありでしたら声をかけてくださいませ」
「ああ、彫り物を頼むときはお前さんにお願いするとしよう」
「ありがとうございます、それでは……」

お近づきの印として、そのヒャクエンダマの贋作を手で転がしながら
曹騰は男の立ち去った方角に目を向け続けていた。

「……彫師か。 何かあるかもしれねぇな」

天代が来てから始めたという彫り物の趣味。
そして、直接面識のある彫刻の職人。
根拠など何も無い。
しかし、長年培ってきた曹騰の勘は、そんな一連の流れに不自然さを感じ取っていた。
親指で木で作られたヒャクエンダマの硬貨を弾き飛ばして、空中でその手に掴む。
開いた手の中のヒャクエンダマは、彫られていない裏面が出ていた。

「探ってみるか」

言い残して曹騰は立ち去った。


洛陽の雨季が、もうそろそろ終わろうかという頃であった……


      ■ 外史終了 ■

脳内恋姫絵巻

・桃の木の下の宴前(張遼・公孫瓚)




[22225] あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編8
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/02/06 22:33
clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編6~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編7~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編8~☆☆☆



      ■ 向かう道を思う


空を見上げれば快晴が広がる。
雲ひとつ無い青空に、暑く照らす太陽の日差しが差し込んでくる。
このまま降り続け、晴れることは無いのではないかと思うほどの雨雲もようやくなりを潜め。
もう完全に長袖では暑くて居られないほどだ。
傷の具合はそろそろかと言うくらいには良くなっているが、それでもまだ夜中は疼いていた。
この長袖を着ないで済む頃には、日本で言うところの本格的な夏を迎えることだろう。
洛陽の夏は暑いのだろうか。
一刀がこの大陸に落ちたのは、約9ヶ月前のことだ。
日本と季節の巡りが変わらなければ、初秋の頃にこちらへ来た事になる。
まぁ、一言に暑いと言っても大陸は広いので、場所によっては寒いところもあるのかも知れないが。

「……ふぅむ」

政務の傍ら、一刀はそんな事を考えながら落ち着かない様子で椅子の上に座っていた。
ここ最近、一刀は宮内の中でもしっかりと、その立ち位置を自分の中で把握でき始めていた。
天代としての自分にも馴染んできたと言えるだろう。
政に関して、本体は自分の脳内の話を聞くだけに終始していたのだが
ここ最近では自分の考えも、拙いながら述べる事ができる様になって来ている。
調教先生として教鞭を奮うことは、一刀にとっても勉強になる良い出来事と言えた。
まぁ、役職名を気にしなければだが。
そして、実際に洛陽の街では、一刀の提案から行われている政策がちらほらと散見された。
始まったばかりで、評判が上がるほどの声は届いていないけれど
いずれ目に見える形で結果は分かることだろう。
今日の一刀の大きな課題、それはつい最近までの降雨で
治水に関しての不安が大きく、その対策に頭を捻っていた。

『治水かぁ』
『治水ねぇ』
(良い案はあるかなー……)

一人机の前で腕を組み、首を傾げる一刀だが大きな方針は決まっている。
治水のことではなく、一刀のことだ。
頻繁に交わされる自分との会議に、今後の方針は定まった。
今頃、と思われるかも知れないが、本体が天代としての生活に慣れて落ち着くまで
この位の期間が必要不可欠だったとも言えよう。
脳内に住む一刀達は、一度この大陸で大きな事を為し遂げて来た。
しかし本体はさ迷い、巻き込まれ、その上で今の地位と役職が転がり込んできている。
その上、この地位に立ってからは多くの問題が山積みだった。
主に戦の後始末が。
それらもひと段落し、ようやく生活の流れを掴んで落ち着きを見せて
そこで初めて、一刀はゆっくりと自分の事だけを考える時間ができたのだ。
そんな一刀が定めた自分の道。
まずは劉協との約束、そして桃香達にも自らが宣言したように危難の位置に居る漢王朝を何とか立て直す。
劉協と約束した時から、自然とそれを目指してきたが、今一度振り返った時に実際に立て直せるのか。
立て直すとして、どうすればいいのかを相談した。
歴史の流れに逆らうことは、不味いのではないかと脳内からの忠告が何人かからあった。
しかし、これが成功した時のメリットはとてつもなく魅力的だ。
本体、脳内共に一刀にとっての一番は、戦争が起こらない―――乱世の時代に突入しない事である。
各人、各陣営に強く想う人が居る。
乱世に突入すれば、戦争が起これば、そこには勝敗以上の怨嗟と悲しみが溢れ出す。
それを止めるには、今の王朝を存続させるのが最も効率的であり、幸いにも政に口を出せる立ち位置についていた。
多くの一刀は、大陸に落ちた際に学んだことがある。
言葉は悪いが、多くの場合にとって利用できるものを放棄するという選択肢は下策なのだ。
それが道具であれ、人であれ、お金だろうと権力、名声だろうと使えそうな物は使うべきである。
故に、一刀は選ぶ。
漢王朝を存続させるという道を。

問題はその方法だ。
今の漢王朝の現状を知る事が出来たのは、張譲や何進が見せる様々な資料が無ければ不可能だったろう。
それらを一つ一つ、纏めていくと、やはり問題は官僚の腐敗と重税による不満が一番に上がる。
この問題、手っ取り早く解決するには国の頭を挿げ替えるのが最も早い。
何度かの顔合わせから信頼できそうな竇武や陳蕃と結託し、地方を彼らに中央を一刀が押さえる。
民の目線で事を見れば、税の取立てを緩くして農民の不満を抑える為にも農地の安定が最優先だろう。
また、教義においても触れを出す必要がある。
民衆が儒教から離れる動きが張角―――もちろん、張角自身が発したものではないが―――の大平道などの新興宗教が台等することで
そこかしこに散見されるようになったからだ。
実際に見たわけではなく、調教先生として教壇に立った際に諸侯から漏れた話から得た情報だ。
あの場所で嘘をつく必要がある者は居ないだろうから、信じて良い情報だった。
教義を縛らず、民が好きな物を選んで良いと大々的に喧伝すべきだ。
それを相談した際に、何進や盧植から黄巾党の勢いが増してしまうのでは無いかという危惧が上がっている。
大平道に関しては、少なくとも黄巾の乱が終わるまでは認めてはならないという意見が大半だ。
そんな感じで、一刀も突っ込んだり突っ込まれたりしながら
何とか漢とか立て直せない物かと今の日々を送っている。
とりあえず、焦ってしまえば一刀の目的も目標も約束も、守れない。
目先の事を一つずつこなしていくしかない。
つまり、今は治水の事を考えねばならないのだ。
治水は重要だ。
先に挙げた農地の安定にも繋がる重要な部分。
洛陽の北を走る黄河、それはこの時代に多くの恵みと災害を齎している。
既に分流の措置を取っている現状、即効的かつ有用な対策は無いと思われた。
ダムのように貯水地点を作ることも考えたが、実行するには大規模すぎるし知識も乏しい。
今の漢王朝にはそれを支えるだけのお金も、平和も足りないので頭の痛い問題ではあった。
お金の問題はもう、本当、どうすればいいのだ、何とかしてくれと丸投げしたくなる位に苦しい。
何を行うにもお金は必要であり、戦が起きれば国庫は飛ぶ。
漢に属さない異民族との付き合い、要するに外交でも必要になってくるだろうし
民の不満が爆発している現状で、税も引き下げなければならない。
今まさに考えている治水に関しても、金はかかる。
出るばかりで収入が少なく、それでも多くの問題には金が必要と来たもんだ。
いっそ南蛮やヨーロッパ、中東目指して貿易に手を出そうかとも一瞬、考えが飛躍したこともある。
それをするには、一刀自身に知識が少なすぎて、実行に移す以前の問題だった。
脳内も経験こそあるが、その段取りは丸投げしていたので自信がいまひとつ無い様子である。
この世界の大陸では問題なかったが、言葉の壁もあるかもしれないし、難しいのは難しいだろう。

頭の中で二転三転する話に、一刀の筆は完全に止まっていた。
次第に、一刀の身近な問題の話に思考は切り替わっていった。
というか、金の問題から眼を遠ざけた。
身近なところを言えば、宦官や官僚からの贈り物攻勢も、ようやく勢いを落としてきている。
張譲や曹騰との関係も良好だ。
逆に、蹇碩を筆頭にした宦官達とは仲が悪いし、話しかけてもそっけなく対応されてしまうが。
邪険にされているとは感じても、国政に纏わる話ならば対応してくれている。
完全に無視されている訳では無いので、その内認めてくれるだろうとは思っているが、何時になるだろうか。
漢王朝を支える人の選別という物を、一刀はしたくない。
出来れば彼らとも、仲良く盛り立てていければ良いのだが。
とはいえ、そうした宦官や官僚も、やにわに混迷している気配があるのだ。
十常侍筆頭である張譲が、一刀を認めているからであろう。
曹騰や脳内の自分達には、気を許すなと口を酸っぱくして言われているが、少なくとも傍から見れば認められていると言って良い。
ここ、洛陽の宮内での一刀の地位は、確固たるものとして確立し始めている。
張譲本人の口から、一緒に漢王朝を支えようと言ってくれたのは一刀にとっても嬉しい言葉であり
感情では疑うことをしたく無いという本音も混じっているかもしれない。
まぁ、なんにせよ。
現状は概ね、良い関係を築けているし漢王朝も少し元気を取り戻し始めている様に感じる。
そんな手応えが、一刀には有った。

「むむぅ」

そして、それは歓迎すべきことだ。
脳内に居る自分達には大切な人達が居て、その多くは諸侯を代表する袁紹や董卓などの著名人だ。
仮に一刀が漢王朝を立て直すことに失敗すれば、多くの人が死ぬことになる。
それは脳内しか知らない大切な人もそうだし、本体が知っている桃香や恋、そして音々音も巻き込まれないとは言えない。
この世界が自分の知る三国志の歴史を辿るのかどうかは、正直言って自信は無い。
自分が天代という身分に着いたことを踏まえても、同じような歴史になるとは思えない。
だが、不安や恐怖はある。
こと、自分の大切だと思う人たちの生死に関わる未来だ。
手応えがあるからといって、慢心してはいけない。
今後も現状と同じように、順調に王朝の舵を取っていければきっと、皆が笑い会えることになる。
その為の努力を怠ってはいけないし、忘れるつもりも無い。

「……」

難しい事を考えて落ち着かせようという目的は、失敗に終わった。
一刀の両足はついに、そわそわと揺れ始めた。
心なしか目の前の机にとんとんと指を叩き始めて、室内に響かせる。
一刀が落ち着かない理由。
それは、劉協のことであった。
つい先日の話だが、劉協は13の頃を迎えた。
一刀は実年齢をその時初めて知ったのだが、容姿も含めて言われれば納得できる歳の頃である。
その13歳になった劉協であるが、今日、帝に呼び出されている。
呼び出された理由は、もちろん一刀も知っている。
帝である劉宏は最近になってまた、体調も崩れ始めているせいか後継者について考え始めたそうなのだ。
宦官が帝に対してそっけない態度をとる為、そうした相談が一刀の元に舞い込んできた。
既に、一刀は後継者が劉弁であることを告げられて知っている。
ただ、劉弁は話や噂を聞くに、あまり聡明では無いらしい。
実際、帝である劉宏がそう言うくらいなのだ、事実なのだろう。
そんな劉弁も、来年の始めあたりに17歳を迎えようかという若さだった。
それだけならば、劉協が呼ばれる理由は無いように思うかもしれないが、帝位を継承するのは意外と大変なことだ。
次の皇帝はお前だ! と言われ、了承すれば終わりという訳ではない。
本人の意思もさることながら、帝位を移した際に生じる人事において
様々な事を細心の注意を払って行われなければならない筈で、今後の漢王朝の為にも大きな大きな一事となることは疑い様が無い。
何かの間違いがあっては、大変な事になる。
或いは、大変な事になる可能性が生まれてしまう。
恐らく今日は下話だけで終わるだろうし、劉協も劉弁のことを兄として慕っては居るので
早々妙な話にはならないだろうが、心配なのは心配だった。


      ■ 劉備立つ


「一刀様、居ますか?」
「うん? ああ、開いてるよ」

半ば上の空で机に向かっていた一刀も、朱里の声で現実に戻ってくる。
中に入ってきた朱里の手には、竹簡がいくつか握られていた。
それを見て、そういえば治水の事に関してはまったく進んでいない事に気がつく。
慌てて筆を取りながら、一刀は尋ねた。

「どうしたの?」
「えっと、段珪様に頼まれて、持って来ました」

朱里から竹簡を受け取って、一刀は飲みかけの茶を含みながら中身を覗いた。
そして内容を追っていく内に、飲み込みかけていた茶が逆流して吹き出た。
そこには金額らしき数字と商品名が羅列されていたのだが、とてつもない額である。
商品は料理や酒が中心だったが、これだけ飲み食いして無駄遣いした覚えは全く無かった。

「な、なんだこれっ!?」
「はぁ、何でも張遼という方からお店の方に、天代様の名で請求してくれと言う話でしたけど」
「……」
「張遼さんって誰なんですか?」
「……ううん、いや、うん。 まぁいいや」

なるほど、と一刀は内心で得心しながら流すことにした。
あの時、やたらと上手い酒で食も進むし飲みまくった原因の一端が、ここに転がっている気がした。
確認しなかった一刀も悪い。
段珪がこちらにお鉢を回してきたということは、この料金は一刀が払えということなのだろう。
一度のお小遣いで支払える額ではないので、暫くツケにしなくてはならない。
突然訪れたお寒い情報に、一刀はやや肩を落とした。
そんな彼に不思議そうな顔を向けつつ、朱里はもう一つある竹簡を渡してくる。

「これは?」
「一刀様が注文なされた服が、届いたそうですよ」
「! 来たかっ!」

瞬間、ガタッっと椅子から立ち上がり、覇気に満ちる一刀。
先ほどまで頭を捻っていたり、肩を落としていたりした一刀の背後に、大蛇が見えゆる。
心なしか、彼の顔に微笑が張り付いて。
その突然の変化に、朱里は驚いて一歩後ずさった。
そんな彼女に近づいて、竹簡を仕草で要求する一刀に手渡すと
先ほどまでとは打って変わってバサリと勢い良く、豪快に竹簡を広げる。

「……あの」
「なんだ、請求額か……で、服は何処に届いたの?」
「はぁ、桃香様が持って行きましたけど……」
「桃香が?」

丁度、一刀の注文していた服を受け取る場面に、桃香と朱里の二人は居合わせたそうだ。
何かに気がついたように品物を受け取ると、桃香はパッと顔を輝かせて自室へ戻っていったらしい。
桃香も、今日は用事があるということで街に出ていたそうだが
もう終わったのか、随分と早く戻ってきたようだ。

「俺のなんだけどな……まぁ、でも、いいか」
「良いんですか? もし必要なら預かって来ますけど」
「うん、大丈夫。 俺が着る服でもないしね」
「……?」

謎かけのような言葉に、朱里は顎に手を当てて考え始める。
やがて理解に至ったのか、そうでないのかは定かでは無いが、考えることを止めた様で
一刀の執務机に椅子を引き寄せると、手近にある竹簡を手に取って、崩す作業を手伝ってくれると申し出てくれた。
一瞬悩んだ一刀ではあるが、目の前に居る少女が諸葛孔明であることを思い出して受け入れる。
一刀も良く、彼女がはわはわ言ってる場面に出くわすのでうっかりすると忘れてしまうのだが
この子は大陸有数の稀有な頭脳の持ち主であるのだ。
何より、治水に関して妙案が全く思い浮かばないので渡りに船でもあった。

「今日は少ないんですね」
「ああ、思ったよりもね。 朱里が手伝ってくれるなら早く終わりそうで助かるよ」
「本当は、あんまり手伝うなって言われてるんですよ?」
「え? そうなの? 誰に?」
「ねねちゃんです」

クスリと笑って朱里は硯に墨を垂らし、すり始める。
自分の手伝う分が無くなってしまうから、と止められているんですと笑う朱里。
そんな彼女を見て、一刀も笑みを浮かべながら椅子に座りなおし、手近な書簡を一つ掴む。
先ほど、メイド服が届いた事に我を忘れて脱走しかけたが、考えてみれば今は仕事中である。
午後には張譲や何進、蹇碩との話合いがあるので自分の趣味に走るのは夜になるまでお預けだ。
それに、劉協もまだ帝の元へ出たきり戻ってきていない。
地味に全員分の衣装を用意してある一刀である。
夜に思う存分に楽しむことが出来れば、まったく問題はないのだ。
今、焦る必要は何処にも無かった。
墨を作る音や、筆が撫でる音が室内に響く。
しばし机に向かい合った一刀と朱里だが、ふと筆を置いた一刀は口を開いて尋ねた。

「みんなは何してるの?」
「雛里ちゃんは、ねねちゃんと軍盤を囲んでます。 桃香様はさっき言った通りです。
 恋さんはちょっと分からないんですけど……」
「多分お昼寝?」
「はい、多分」

書簡や竹簡に眼を落として、一刀の方を見ずに取り組んでいる朱里を眺める。
速い。
何が早いって、読むのも然ることながら、殆ど思考する時間もなく案件を処理していく。
ちゃんと一刀の質問に対応しながらだ。
一刀がこうして筆を置いて手を止めたのは考える為である。
どんな演算能力をしていれば、このように案件をさっさと処理できるのだろう。

「朱里って、頭良いよなぁ」
「はわ、どうしたんですか突然……」
「だってほら、俺がこうして筆を置いてる時間の間にも、一つ二つ、処理が終わってるし」
「これは、その、ただの案だけですから」

言って一つの竹簡を渡されて眺める。
朱里がしていることは、そんな一刀への提案を書きとめ纏めているに過ぎなかった。
当然と言えば当然だろう。
これは国政に関わる物なのだ。
採決を下すのは、一刀が認めてからということだ。
一刀預かりの桃香、その桃香の預かりになっている朱里と雛里が勝手に判断して良い物では無かった。
とはいえ、一刀から見れば朱里の残してくれた提案は、丸々採用しても良いくらいに纏まっている物だった。

「一刀様の参考になるような事を、ちょっと書いてるだけなんです」
「いやその……俺はこのままでもいいんだけど」
「え?」

驚くように、朱里は首を傾げて一刀を見た。
まさか、これ以上の案を出せと暗に迫っているのだろうか。
自慢じゃないが、天下の諸葛孔明の案よりも妙案が出てくるとは思えない一刀である。
微妙に室内を包み始める沈黙に、何となく気まずくなった。

「あー、何と言うか、別にさぼりたいから言ってる訳じゃなくて。
 こういう国政を扱う問題って朱里と違って俺はどうしても躊躇っちゃうというか」

ベラベラ言い繕い始めた一刀を、朱里は見ていた。
そんな視線と沈黙が、ますます一刀を無駄に饒舌にさせているのだが。
政には慎重にならざるを得ないとか、激流に身を任せられないとか同情するなら金を出せとか言い出し始めた一刀に、朱里は俯いた。
その顔には微笑が浮かんでいたが、一刀の視点からは顔が見えなかった。
おかげさまで、一刀はうっと呻くことになる。

「はは、呆れたかな……本当は分からない事が多くて机に向かってても悩む時間の方が長いんだ」
「呆れませんよ、一刀様」
「そう? そう言ってくれると助かるけれど」
「悩んで、当然ですから」

言って朱里は、一刀へと顔を向けた。
きょとんとした顔をする一刀の視線にしっかりと合わせて、朱里は口を開いた。

「国という大きな物に、どう動いていこうか悩むのは当然なんです。
 むしろ、私欲な考えや我の強い政策を押し出したりする方が怖いですから。
 一つ一つ、じっくりと考えて答えを導き出すべき物。
 それが、人の上に立って民を導いていく方に一番求められるものだと私は思います」
「うん……そうだね」
「一刀様は、筆を置く時間が長くても、しっかり考えて答えを出しています。
 そんな一刀様がやり易い様に、考え易いように働くのがねねちゃんや桃香様の役目なんだと思いますよ」

そこで朱里は、一刀から視線を外して乾き始めた筆の先に墨をつける。
竹簡の山から一つ手に取って開く彼女を見て、一刀は頭を掻きながら今しがた眼を通していた自分の竹簡に視線を落とした。
そんな時だった。
朱里の声が、もう一度一刀の耳朶を打ったのだ。

「その役目は、私がしたかったです……」

彼女の声は小さかった。
もしかしたら、一刀に聞こえないようにと呟いた物かも知れない。
実際、黄巾党の事が……波才と居たあの邑に立ち寄る事がなければと朱里は何度思ったか分からない。
過ぎたる事を言い募るのは見苦しいし、下を向くよりも前を向きたい彼女は
今まで誰にもその気持ちを漏らした事は無かった。
当然、自分の親友である雛里も同じような感情を抱えていることだろう。
確認はしていないが、手に取るように分かる。
同じ立場に立たされているのだから。

最初はただの興味本位だった。
戦の最中では波才に捕らわれた切っ掛けとも言える天の御使いを、北郷一刀を身勝手な理由で恨んだ事もあった。
ただ、実際こうして共に暮らしていく中で分かる。
一刀は間違いなく、王の器を持っている。
雛里と共に水鏡先生の下を飛び出したのは、確かに一刀を見てみたかったからという野次馬的な軽挙が一番にある。
しかし、その奥底に志が根付いていたのは間違いない。
混乱極まる大陸の情勢に、自らが心から仕える主を探していた。
生まれてからこれまで、毎日のように勉学に励んだのは平和を齎してくれる主が現れる事を期待してだ。
今となっては、その大望も叶わぬ事になるかも知れないが、しかし。
天代、北郷一刀を支える者になってみたかった。
それは今までも、これからも、決して朱里が口にする事は無いだろう。
黄巾党の波才に捕らわれていなければ、もしかしたら一刀の隣に立っていたのは音々音ではなく。

「……朱里」
「あ、はい?」
「前に、志を知ってるって言っただろ」

一瞬考えて、即座に思い出す。
洛陽での戦が終わって、賊将として捕らわれた翌日の明け方の話だと。
あの時、確かに一刀は牢の中に居る朱里と雛里に向けて、志を知っていると言っていた。
思い出して、朱里は一刀へと顔を上げた。
そんな一刀は、先ほどまで見ていたような竹簡ではなく、机の中から本のような物を取り出して眺めていた。
この本は全ての頁が白紙であった。
いわば、自由帳に近いノートの様な役割をしている。
ちょっとした考えを纏める時や、今後の方針を書き出して確認する為に使う、個人的な物だった。

「今のままじゃ、朱里や雛里の志を貫くことは出来ない」
「はい……」
「けど、君達は功を挙げる機会に恵まれる筈だろ」
「……あ」

それだけで概ね、一刀の描いた絵図を朱里は把握した。
つまり、一刀はこう言っている。
賊将として敗れ、あつ眼の刑罰を受けた事になっている朱里と雛里。
対外的には、黄巾党の暴れる最前線へと送り込み、死罪よりも苦しい生を与えるという刑罰になっている。
しかし、彼女達が活躍し、その黄巾党を駆逐する働きを見せればどうだろうか。
歴史に置いて、功を挙げた者がそれまでの罪を許されて迎え入れてくれる事は枚挙に暇が無い。
それは言いすぎかもしれないが、許されることは多々あるのだ。
そして、彼女達にとって救われる事はその事実だけではなかった。

「俺は天の御使いで、天代なんだ。 功を挙げて帰って来た朱里と雛里を迎え入れることだってきっと出来る」

そうだ。
朱里と雛里が黄巾党に参加した本当の真実を知る一刀が、天代という身分なのだ。
先に述べたように、一刀は天代という今の自分を利用し尽くす事を考えている。
それは実際に一刀の行動や話から感じ取れるものでもあった。
まぁ、偉ぶったりなどという分かりやすい事は性格からする事はないけれど。
とにかく、一刀の声を聞いて自然と朱里の身体は震えた、無意識に。
牢の中で聞いた、何とかしてみせるという言葉。
最初から最後まで、目の前に居る人は本当になんとかしてしまった。
勿論、それは最前線に出て功を立てなければならないし、自分達の言葉を受け入れてくれる官軍に恵まれなければ
頓挫することになるかも知れない、皮算用でもある。
しかし、確かに朱里と雛里の大望へと歩ける道は一本、繋がっていた。
その再起の道を繋げてくれた一刀の為にも、朱里と雛里は官軍の信頼を得て奮起しなければならないだろう。

「……一刀様、ありがとうございましゅ……」
「戻ってきたら、きっと未だに筆を置いて唸っている俺を助けてくれよ」
「うぅ、私、一刀様に会ってから涙もろくなっちゃった……」
「はは、その嬉し涙は戻ってきた時に取って置いてくれよ……約束するから」
「はい……」

声を殺して涙する朱里の頭に優しく手を置いて、一刀は笑った。
その笑いには、どこか安堵めいた物も混じって。
正直なところ、閃いた時は一刀も上手く行くかどうか分からなかったのだ。
あの頃はまだ、自分も天代としての立ち位置がふらついていて、自らを振り返る余裕など全く無く、張譲などの宦官との面識もほとんど無かった。
宮内での暮らしの中、自分なりに頑張ってきたこの数ヶ月。
ようやく手応えを掴めた今だからこそ、朱里に話せたことである。
そして、一刀は本に視線を落とす。
閃きから繋がったこの話も、そろそろするべきである、と。

そんな二人の耳に突然、ドタドタっという慌しい足音が聞こえた。
かと思えば、いきなり一刀の部屋の扉が開かれる。

「じゃぁーんっ♪ 一刀様! ほらぁ、めいど服ですよぉー!」

そして飛び込んできた桃香は、興奮したような高いテンションで一刀に見せびらかすように
メイド服姿でスカートの部分を摘んでくるりと華麗に一回転。
頭に載せたレース付きのようなカチューシャに抑えられて、流麗に桃香の長い髪が流れていく。
再び真正面を向くと同時に人差し指を頬の近くに持っていき、首は斜め45度で見事なポーズを決めて

「めいどの桃香ちゃんですっ!」

場違いな程の明るい声が、一刀の部屋に響いた。

そして無言の時が過ぎていく。

桃香の額から、やんわりと汗が滲んでくる。
正直、一刀も朱里も、突然すぎて桃香のテンションについていけなかった。
むしろ、いきなり何やってるんだろう、という感情の方が先立った。
所謂ひとつの、滑った、という奴である。
これが平時であったならば、一刀も桃香の愛らしいメイド姿に胸をトキめかして居たかも知れない。
だが、事ここに至ってはタイミングが悪かった。

『うわぁあ”あぁあぁ”あーーー!』
『“蜀の”!?』
『“蜀の”の気が……消えた……!?』

脳内の一人は、見事に轟沈したようだが。
そんな事はともかく、遂に空気に居た堪れなくなった桃香は、こみ上げる恥ずかしさも重なって
一刀に感情をぶつけた。

「ひっどい! 一刀様がまた嘘ついたー!」
「え、えええ? ちょっと待ってくれ、桃香。 どうしてそうなる」
「めいど服が好きって言ったのに!」
「いや、メイド服は好きだけど……」
「練習もしたのに!」
「あぁ……うん、バッチリ決まってたよ」
「うぅぅぅ、なんか疑わしいよぅ」

顔を真っ赤にしてポカポカと一刀の胸板を叩く。
一刀は困った。
桃香が持って行ったということから、彼女が着るつもりだろう事は知っていたが
メイド服の楽しみは夜中に回すと、先ほど決定していた一刀である。
こんなサプライズを空気を読まずに起こされても、素直に楽しめない。
そんな桃香の様子にようやく再起動を果たした朱里が、やにわにフォローする。

「あ、こ、これが一刀様の言ってた服なんですね、可愛いです、桃香様も」
「朱里ちゃん! 奇襲は初撃でどれだけ混乱させられるかって教えてくれたよね!」
「え? ええ、えーっと」
「失敗した時はどうすればいいの!?」
「それはその、状況を見て戦略的撤退を―――」
「一刀様っ! 失礼しましたっ!」
「あ、桃香待って―――」

引き止める間も無く、鮮やかに一刀の部屋を物凄い勢いで飛び出していく桃香。
残された二人は、一体どうすればいいのかと暫し固まった。

「一刀様……」
「なに?」
「ああいう服が、好きなんですか?」
「うん……まぁ」

結局、一刀と朱里の二人は今の一連の出来事を華麗に流すことにした。
というか、扉の外から妙な唸り声も聞こえてくるし、余り刺激しない方が良いだろうと
一刀と朱里は視線だけで理解しあったのだ。
落ち着きを取り戻した桃香が、再び一刀の部屋に訪れるまでには
実に約20分もの時間をかけた後の事だった。


―――


落ち着いた桃香が、相変わらずメイド服を着たまま一刀の部屋に入ってくる。
自然を装いつつ、一刀は密かに愛らしい桃香の姿を楽しんでいた。
入れ替わるようにお茶を淹れて来ると席を立った朱里が、部屋の外で短い悲鳴をあげる。
外ではわわ、と口走ってるあたり、余程驚くことがあったようだ。
一刀は視線だけで桃香に何かと尋ねると、思い出すよう口を開く。

「あー、そうだ。 愛紗ちゃん達が来たことを話すのが本題だったの忘れてたよー」
「え、関羽さんが来たの?」
「うん、そうだよ。 鈴々ちゃんも一緒」
「そんな大切な事を……」

思わず一刀は呟いて、桃香のジト眼に晒されることになった。
しかし、しょうがないではないか。
メイド服よりも、関羽や張飛が来たことを告げる方が普通は先だろう。
まぁ、一刀が桃香にそれを突っ込む勇気は無かったので、甘んじて視線を受け入れてはいたが。
そんなやり取りをしていると、入り口の喧騒も止んで関羽と張飛がひそひそと何やら話ながら入ってくる。
一刀を見て、しっかりと礼をとりながら。

「きっと愛紗の顔が怖かったのだ」
「そ、そんな筈は……」

何故かショックを受けている関羽に、桃香が近づいた。
一刀も、正式な紹介をされるだろうと思い、立ち上がる。

「愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、こっち座って」
「は、はい……」
「分かったのだ」

桃香に促されて、桃香、関羽、張飛の三人が一つの長椅子に座り込んだ。
立っているのは一刀だけである。
ちょうど面向かいになるようにして座り込んでいるので、自然の三人の視線は一刀に突き刺さった。
一刀は微妙に身じろいだ。

「……」
「……」
「……」
「……」

全員の沈黙がしばし続き、我慢比べに負けたのは一刀の方だった。

「あの、桃香。 紹介してくれないかな……」
「あっ! そういえば愛紗ちゃんと鈴々ちゃんは初めて!?」
「ハッ、そういえば……確かに店先では出会っていますが」
「でもお兄ちゃんの名前は、鈴々知っているのだ」

初っ端から微妙にすれ違ってしまったが、桃香が先導して自己紹介を無事に終えることが出来た。
実は、こうして関羽や張飛が訪れた時に会わせてくれと頼んでいたのは一刀の方からである。
ここでしっかりと確認しておかなければならない事があるからだ。

「それで、話とはなんでしょうか」

お茶を淹れて来た朱里に、雛里を呼んでくるように頼んで、それを待ってから話は始まった。
再び全員の自己紹介をし、暫しの歓談を楽しんだところで関羽が切り出した。
桃香が仕える天代様ならば、と既に関羽と張飛から真名は預かっている。
それを聞かれて、一刀はふぅっと一つ息を吐いた。
手の中には、本が見開きで開かれている。

「……愛紗と鈴々が洛陽まで桃香を追いかけた理由は、聞いた」
「はぁ」
「そこから考えた勝手な推論だけど、愛紗と鈴々は目に見える人を救いたい」
「はい、そうです」
「でも二人だけじゃ無理だから、こうして洛陽まで来たのだ」

そんな鈴々の言葉尻を掴んで、愛紗が説明を続けた。
平和な世を作るために、自分が出来ることは武を奮うことくらいであったと。
それだけでは、最早苦しむ人々を救うことが出来なくなってしまったのを感じ
国そのものを立て直すという桃香の志に感じ入り、臣下の礼を取ったこと。
そして、今。
こうして天代の居る宮内にまで足を運んだ事を、順序だてて分かり易く説明してくれた。
一刀はしばし聞き役に徹していたが、愛紗の言葉が切れたところに口を開いた。

「分かった。 じゃあ愛紗と鈴々には桃香の元で思う存分に武を奮ってもらおう」

この発言によって、愛紗と鈴々の二人は天代に仕える桃香の部下という事になった。
一刀は朱里と雛里に首を向けた。
雛里はその視線の意味が分からずに、首だけを傾げたが朱里は理解した。

「あ、もしかして……」
「愛紗と鈴々は、朱里と雛里を見たことはあるかい?」
「……はい。 賊将として市中を引き回された者だったかと」
「そういえば、どうして眼があるのだ?」
「あわ、そ、それはその」

鈴々が無邪気に尋ねたその疑問は、愛紗も同じく感じていたことだった。
もちろん、その疑問は予想され得る事だったので今度は一刀が朱里と雛里の事を、順序立てて説明した。
途中、朱里達本人や桃香からの証言も交えて。
その話を全て聞いた鈴々は、波才に対して憤慨していたが、愛紗の方は何処か疑わし気な眼で朱里と雛里を見ていた。
その視線に、彼女達は居ずらそうに顔を伏せた。
この愛紗の厳しい視線にフォローを入れることは出来ない。
二人の境遇を聞かされても、今までは散々、黄巾党に与した賊将と認識しているのだ。
一刀の言葉を妄信して受け取る愛紗ではなかった。
そんな彼女からの信頼を朱里と雛里が勝ち取るのは、二人のこれからの頑張り次第であるから。
何より、ここで一刀が口を出しても真の信頼を得ることは難しいだろう。

「……それを踏まえてね、桃香」
「は、はい」

一つ言葉を区切って、一刀は続けた。
真面目な話であるので、流石に桃香の声も堅くなっている。
次の言葉を言うには、一刀も少し躊躇してしまう。
それは、この暖かい日々を自ら捨てる事になるかも知れないから。
けれど、一刀は思いついてからこっち、この日が来る可能性を知っていた。
覚悟は足りなかったかも知れないが、どちらにしろ近い内に切り出すつもりではあった。
こうして手札が揃ったからには、切らなくてはならない。
朱里と雛里との約束もあるし、全員が納得してくれるならこれが最善の道だと思っていることもある。
一刀のそんな雰囲気を感じ取っているのか。
この場に居る者は誰もが次に続く一刀の言葉を待ち……そして、彼の口は動く。

「……朱里と雛里の二人を預けるのは桃香だ。
 一軍を率いて最前線へ赴き、武功を上げてくる様に、天代として命ずるよ」
「っ!」
「ま、まさか!」

もちろん、今すぐにという話ではない。
まだ正式な書類も整っていないし、官軍を動かすことになる話だ。
この後に何進や蹇碩とも会う予定なので、今日訪れてくれたのはタイミング的にはベストでは無いだろうか。
しかし、黄巾党も長らく反乱を起こし続けて息切れしたのか、ここ最近は落ち着きを見せている。
勿論、至るところで略奪や乱は小規模ながら続いてはいるだろうが。
そんな黄巾党の動きを、終息したと捉える者も居る。
仮に黄巾党に今後大規模な乱が無くとも、再び決起してこないとは限らない。
涼州で不穏な動きを見せているという報告が入っている『韓遂』の事もある。
戦が起こる可能性は決して低くない。
もしも起これば、桃香が立つのは、その時になるだろう。
勿論、乱が起こらなくても黄巾残党を駆逐するための出兵の予定はある。
その時もいち早く桃香に立ってもらい、朱里と雛里に功をあげる機を授けるつもりだ。
少なくとも、そうすれば桃香に一刀の意思は伝わるはずだった。

「朱里と雛里の二人は、確実に何処かの戦場に送らなくてはならないだろ。
 そんな時、二人を預ける人は信頼できる人、使ってくれる人じゃないと功をあげるのは難しいはずだ。
 桃香が率いてくれれば、二人も安心して戦場を俯瞰できるだろうし、俺も安心できる」
「……う、うん」
「やってくれるかい?」

一刀の言葉に、少しだけ逡巡した後に桃香は頷いた。
二人の為に何かを考えていることは、刑罰執行の前後から薄々と感じていたが、自分が官軍の一軍を預けられて
戦場に飛び出すことになるとは思っても居なかったからこその逡巡だった。
しかし、迷う必要は無かった。
勿論、朱里と雛里を助けるためにという物があったが何よりも。
乱を起こしている賊と戦う力が無くて、どうすればいいのかと一刀に泣きついたのは桃香の方だ。
戦う力を与えてくれる。
その代価に、人助けをして欲しいと、桃香は単純に捉えることでストンと自分の気持ちに納得できたのだ。
そして、そんな桃香の意思の篭った視線に頷いた一刀は、愛紗と鈴々に眼を向けた。

「今の話を全部聞いても、二人とも桃香に付いて行く気はあるかい?」
「勿論なのだ!」

問われた愛紗と鈴々は、双方共に即座に了承を返していた。
愛紗は力強く頷き、鈴々は声に出して。

「本当に良いんだね? 朱里と雛里のことを知られたからと言っても、俺は君たちが断るならそれで良いと思ってる。
 桃香を支える武人に当てはあるから、決して二人の歩く道の邪魔をしない事も誓うよ」
「そうなんですか?」
「ああ」

嘘だった。
諸侯から武将を貸してなどとは言えない。
言ったところで断られるのが関の山だろう。
そもそも、軍として行動する以上、武のある将が必須という訳ではない。
皇甫嵩や朱儁のように、用兵に優れていれば十分戦うだけの力はあるのだ。
まぁ、10倍の戦力差を野戦で追い払ったという恋は別としてもだ。
そんな一刀の嘘は、愛紗と鈴々の意志を強制させない為の嘘である。
それは、先ごろあった朝帰りの言い訳のような嘘ではなく、まさに渾身の一撃。
この場に居る誰に嘘であると気付かれることもなく、しかし愛紗と鈴々はそんな一刀にくどいと言う様に首を振った。

「天代様。 私は桃香様に臣下の礼を取りました。
 たとえ何があろうとも、桃香様が志を忘れぬ限りは、共に歩む道から外れることは在り得ません」
「鈴々は、愛紗と桃香に付いて行くって決めてるのだ」

その答えを聞いて、ようやく一刀は微笑んだ。
急に笑みを浮かべた一刀に、怪訝な顔を向ける愛紗達であったが、そのまま一刀の頭が垂れたことで驚きに変わる。
深く深く、頭を下げた一刀に愛紗は狼狽した。

「桃香、それと朱里と雛里をよろしく頼む」
「なっ、頭を上げてくださいませ! 天代様ともあろうお方が、私のような者に頭を下げてはなりません!」
「それでも、人として誠意を見せなければならない時に、頭の一つも下げられないようじゃ駄目だと思うから」
「う……」

頭を上げた一刀にそう言われて、今度こそ愛紗は二の句を告げずに黙ってしまい
そして、いつか桃香に礼を取った時と同じように息を吐いて口を開く。

「かないませんね、天代様にも……」
「愛紗の負けっ! お兄ちゃんの想いはちゃんと伝わってきたのだ!
 孔明と士元の事は、鈴々にどーんとお任せなのだ」
「ああ、鈴々、頼むよ」
「にゃははは!」

鈴々の笑い声を切っ掛けに、桃香も明るい声を出して一緒に頑張ろうと盛り上げ始める。
先ほど、朱里が流したように雛里も感じ入ったのか、声を殺して涙していた。
そんな雛里を、一刀が自身にしてくれたように優しく撫でる朱里は、少しお姉さんっぷりを発揮していて
一刀を含めて微笑ましい気分にさせていた。

昼食の時間が近いということで呼びに来た音々音に、自然、一刀の部屋から人の波が引く。
最後に退室した愛紗が、一刀へ向けて一つ頭を下げると、一刀は笑って手を振り答える。
そうして、自分だけが残された部屋。
酷くさびしく見えた気がしたが、一刀が自分で考えて決めた事なのだ。
そんな自分の想いに、全員が納得して頷いてくれた。
これ以上、何を望むか。

「……それでも、寂しくなるのは間違いない、けど」

机の上に乗った竹簡の山は、結局半分も崩せなかったし治水の事も放りっぱなしだ。
しかも、この竹簡の山は殆ど朱里が崩した物である。
既に眼を通し終わった竹簡の一つを手に取って、開いて見る。
多少マシになったとはいえ、宮内では下手な一刀の字とは違う。
しっかりとした流麗な朱里の書いた文字が、提案として竹簡の端に書かれていた。

「次にこの字を見る時は、きっと」

そこで言葉を切って、一刀も先に昼食を取りに向かった皆に追いつくために
部屋の出口へ向かって歩き始めた。

そう。
きっと、皆が笑い合いながらこの部屋で竹簡の山を崩せると信じて。


      ■ 渦の中の人は気が付かず


それは、バッタリという表現が正しいだろうか。
この広い宮内の中で、その姿を見かけることはあっても、こうしてすれ違うことはそう無い。
そもそも、こうして会わない様にその姿が東へ向かえば西へ。
北へ向かえば南へと、彼女は足を向けていた。
それらが功を奏したか、今の今まで出会うことは無かったのに遂にと言うべきか。
その時が訪れてしまった。

「あ、荀彧」
「っ……」

そう、彼女が会ってしまったのは宮内を歩く一刀だった。
荀彧が一刀に会いたく無かった理由は個人的な物から世間的な物まで、実に多岐に及んでいた。
一つ。
北郷一刀は、数ヶ月見ない間に天代という高い身分になっており、話しかけられて無視するのは彼女の吟所に反する上に
曹操の顔に泥を塗ることになりかねない、世間的な意味で。
加えて自らの主である曹操が、調教先生という身の毛のよだつ役職を濫用して行っている目の前の男の卑猥な講義に
何故か出席することが多く、それなりに一刀を認めているという認め難い事実がある。
故に、主の為を思えば、荀彧は一刀に対して機嫌を損ねないように注意を払わなければならない。
一つ。
北郷一刀を見て、荀彧は野生の勘は働かなくても理性の警報が働く。
この男は噂を含めてとにかく危険だ。 勿論、全身精液的な意味だ。
一つ。
他人の真名を許可無く連呼するような無礼で傲慢で腐った人間に近寄りたくない。

概ね、荀彧が一刀に会いたくない理由はこの三つだ。
こうして顔を合わせてしまえば、一刀は間違いなく荀彧に絡んでくる。
現に、名を呼ばれてこちらを見ている。
おぞましい事実である。

「なんだか、宮内に居るのに全然会わなかったね」
「急いでますので」

大陸でも有数の知を持つ彼女の導き出した答えは、流すことであった。
やにわに慌ててる様子を見せて、一刀の横をすり抜けてそのまま去っていく。
それは上手くいったのか、一刀の声が追いかけてくることは無かった。


―――


それは、バッタリという表現が正しいだろうか。
何の因果か、本日二度目の邂逅である。
用事を済ませて曹操の元に報告の為に戻ろうと足を向けた先、宮内の中の廊下の曲がり角だった。
皇甫嵩と盧植を後ろに従え、竹簡を眺めていた視線が、その時になって何故か顔を上げて荀彧へと突き刺さる。
一刀が二人と出会っていたのは、黄巾党の動きを探っていた草から重大な情報が持ち帰られたという事があってだ。
上党を騒がしていた黄巾党に、波才のような賊を引っ張る人物が居るかも知れないという話だ。
皇甫嵩に持ち帰られたこの情報は、相談という形で盧植の元に訪れ
最終的には一刀にも知らせるべきとして、彼は呼ばれる形で二人の下に訪れていた。
そんな重大な情報が満載に乗っている竹簡を眺めているときのことであった。

「あ、荀彧」
「……」

もちろん、荀彧にとってそれは今はまだ知らぬ話。
ただ、そこには天代である北郷一刀がいたと言う事実だけ。
先ほど急いでいるという話をした直後だ。
ここでまた、急いでいるという理由を述べれば白々しい上に分かり易すぎる。
別の案を出さねばならない。
そうだ、自分はつい先ほど、主である曹操に報告しようと思っていた。
敬愛して止まない、女神のような主君を引き合いに出すのは憚られたが
この男から逃れる為だ、仕方ない。
一刀が荀彧の名を呼んだ次に口を開く数瞬の間で、驚くべき思考力を発揮した荀彧だった。

「あの―――」
「か……曹操様に呼ばれておりますので」

断腸の思いで首を僅かに一刀へと下げて、荀彧は早足で彼の横をすり抜けた。
一刀の挙げた手が、中空でさ迷う結果になったが、当然そんなことはどうでもいい荀彧である。
無事に切り抜けられた喜びの方が勝り、僅かに笑みを浮かべていた。

そんな笑顔を、後ろに居た皇甫嵩は見ていた。

「ふむ、あの子は確か荀家の荀彧殿でしたか」
「あー、ええ。 まぁ嫌われちゃってるみたいですけど」
「しかし、微笑んでおりましたぞ」

盧植と一刀の会話に滑り込むように、皇甫嵩が話の輪に入る。

「笑ってた?」
「間違いなく。 察するに、彼女は奥手なのでしょう」
「ふふっ、天代様は羨ましいほど女性から好意を戴きますね」
「そ、そんなこと無いですよ。 しかし、そうか……」

皇甫嵩の情報に、一刀は盧植の声を否定しながら安堵していた。
嫌われていると思っていたが、笑ってるということは悪い印象を抱かれていないかもしれない。
曹操にくっ付いて、荀彧も自分の講義に顔を出すことは多い。
そうした物が積み重なって、自分の事を認めてくれたのかも知れないと考えると
一刀もやにわに嬉しくなってくる。

「おや、満更でもなさそうだ」
「若くて宜しい、天代様」
「もうっ、二人とも茶化さないでくださいよ!」
「はっはっはっは、これは失礼した」
「そうだぞ、はっはっは、失礼ですぞ、盧植殿」
「皇甫嵩殿も」

そんな笑い声は、基本的に静かな宮内では良く響いた。
廊下の終わる先、階段を下り始めていた荀彧の元にまで届いて。

「ぷっ、私に無視されて周りの人に笑われてるのね、良い気味だわ」


―――


それは、バッタリという表現が正しいだろうか。
二度目の邂逅から暫し、曹操へ報告してお茶を楽しんだ後だった。
今度は厠の目の前である。
正確には、荀彧が催して入った厠から出るときに開いた扉に、一刀がぶち当たった。
鼻っ面を当てられて荀彧の前でしゃがみ込み、僅かに震えている一刀を一瞥。

「っ……精液は死ねばいいと思うの」
「は、まっ」

氷のように冷たい声をボソリと呟き、蛆虫を間近で見てしまった時のように顔を歪めた彼女は駆け足で一刀の横を通り過ぎた。
痛みに苦しんでいた一刀は、そんな素早く通り抜ける荀彧に声をかけることすら間々ならず。
しかして不名誉な事実に捻じ曲げられそうだった一刀は、思わず咄嗟に彼女の腕を引いた。

「きゃっ、ちょっと触らないでよ! 変態が伝染るでしょ!?」

鼻ッ柱をしこたま強打された一刀は、そこまでが限界であった。
腕を引かれて縺れるように、一刀と接触した荀彧は奇妙な感情が襲い掛かる前に逃れることに成功する。
パタパタと走って視界から消えていく彼女に弁明すら出来ず、見送ることしか出来ない一刀である。
これでまた嫌われたかもとか、変な噂が増えるかも知れないと恐れながら、とぼとぼと歩き始めた。
今日三度も出会っているのに、荀彧との会話は総計5秒に満たないだろう。
しかし、一刀も荀彧ばかりに構っている余裕は無い。
今日は一刀も忙しいのだ。
これから帝の元に赴いて劉協や劉弁に纏わる後継問題の相談があり
公孫瓚からの強い要請で時間を割くことになり、劉弁を支える宦官と初めての顔合わせも控えて
その上で劉協に渡す荷物を段珪の変わりに受け取りに行くなど、予定が詰まっている。
ちょっとだけ時間を割いて追いかけようかとも思ったが、厠の前でバッタリ出会った直後だ。
しかも、痛くて良く分からなかったが、強打された直後には冷たい声をかけられた気がする。

『変態は死ね』
『あ、要約するとこう言ってたって事ね』
『実際には、もう少し酷かった』
『まぁ、挨拶みたいなものだよ』
(……)
『“魏の”は重症だから気にするな』

どちらにしても今追いかけたところで、脈は無さそうだ。
むしろ彼女の誤解が加速しそうな気がするので、一刀は素直に諦めた。

……そんな様子を遠めから見ていたのは、孫策と周瑜の二人であった。
孫堅との話を終えて部屋から出てきた彼女達は、もつれ合う一刀と荀彧をしっかりと目撃していた。

「あの子、曹操のところの軍師じゃなかったっけ?」
「ああ、荀彧という名前だったはずだ」
「ふーん……こんな昼間から抱き合うなんて、見せ付けてくれるわね」
「噂も色々とある。 いずれかは真実なのかも知れんぞ」
「噂は噂でしょ? なんとなく殆ど当たってないような気がするわ」
「天代様が気になるから、そう思うだけじゃないのか雪蓮」
「あ、冥琳やきもちー?」
「さて、どうかな?」

力なく立ち去る一刀を眺めながら、そんな話をしながら二人は歩き出す。
軍師として、曹操の陣営の知者と天代が仲を深めていることに、当然ながら周瑜はその情報を頭の中に入れておく。
孫策も、別の意味で頭の中に入れているようだが。
諸侯との結びつきを深めている一刀に、おぼろげながら裏に意図があるように感じていた周瑜である。
まぁ、それを感じても話すことは無いだろう。
中央の泥臭い事情に首を突っ込むのは、主である孫堅に不利が被ってくる可能性もある。
内情を良く知らずにわざわざ首を突っ込むことなど無い。
ただ、練兵場に赴く黄蓋から華雄経由の情報で、董卓も天代へと係わりを深めているそうだ。
袁紹、そして曹操の動きも一刀との関係を深めてる。
そうした動きの裏には、宮内で確固な立場を確立しつつある一刀を見ての判断だろう。
そろそろ本格的に、孫策との関係から孫家も一刀との結びつきを強めた方が良いのかもしれない。
周瑜はそんな事を頭の中で考えながら、孫策の話に適当な相槌を返していた。


―――


もう夕刻に差し掛かった時である。
一刀はようやく全ての用事を消化して、公孫瓚が金獅にと一刀へ贈った鞍を付け替える為に、馬房へ向かった時だった。
そして、荀彧は曹騰から書簡を受け取って蹇碩に対する一手を練り上げ終わり
荀攸とお茶を楽しんだ帰りだった。
この、広い宮内。
曹操陣営がよく使う宮の入り口付近で、まさかの4度目だ。

「あ、荀彧」

いかにも、偶然だなぁ、という様子で話しかける一刀。
実際、全ての邂逅が偶然なので彼のこの感想は正しい。
しかし、流石に我慢強くて曹操の第一の家臣であり、聡明で知的と自称して憚らない荀彧も
この偶然の連続には我慢の限界だったようだ。

「あ、あんたね……あんたねぇ……私の事を尾けているでしょお!」
「なっ! なんだよ、人聞きの悪いことを言うなぁ」
「じゃあ何でこんな広い場所でこんな時間にこんな風に何度も会わなくちゃならないのよっ!」
「珍しいこともあるもんだよな」
「尾行でもしてなきゃ、在りえる訳無いでしょ!?」
「いやでも、実際起きてるし……」
「じゃあ何!? 私が間違ってるって言うの!?」
「そうだと思う」
「くあああっ、もうっ!」

言った瞬間、唸り声を上げて彼女の足が動き、庭師が丹念に刈り上げて綺麗にした草木が蹴り上げられた。
草木の悲鳴が聞こえてきそうな、実に良い前蹴りであった。
そんな事を考えていた一刀は、荀彧の蹴りが夕日で映し出される一刀の影の股間に突き刺さっていた事には気づかない。
荀彧の、せめてもの抵抗であるようだった。
大きく息を吸い込んで深呼吸。
不審な荀彧であったが、やがて落ち着いたのか素っ気無い声を出した。

「で、何の用ですか? これ以上に付き纏われても鬱陶しいから、ここで聞いてあげるわよ」
「別に俺は用なんて無いけど……?」
「はぁ? ……あ、分かったわ、別のところ……人目の付かない所というわけね。
 知らないみたいだから教えてあげるけど、いくら小さいからって、私はもう成人してるわよ」
「荀彧は何を言いたいんだ?」

あまりの話の繋がりの無さに、一刀は素で聞き返してしまった。

「そんな怪しげな物を抱えてるあんたの考えることなんて、分かりきってるの!」
「これ?」

そう言って一刀は手に抱えた馬鞍を少しだけ持ち上げた。
馬の鞍にしてはちょっと重いし、装飾として鉄で作られ色付けがされた輪や鎖などが金属的な音を立てて耳に響く。
馬鞍事態にも、鉄が中に入っているようで軍馬用に作られた物だろう。
抱え続けるには重いので、早いところ金獅の馬房に向かいたい一刀である。
怪しいと言われても、ちょっと派手な馬の鞍にしか見えないし。

「何に見えたの?」
「拘束具でしょ! 調教先生の異名を取るだけはあるわね、北郷一刀!」
「ブッっ! あほかーーーーっ!」
「なっ、阿呆ですって!?」
「これは馬の鞍だよっ! 何処をどう見れば馬鞍が拘束具に見えるんだ!」
「なっ、嘘よ! 知ってるんだから、その鎖や輪で縛って木馬の上にまたが―――」
「へ、変態だーーーー!」
「人の用を覗いて孕ませようとする全身精液変態趣味男に変態なんて言われたくないわよっ!」
「そんな事で孕む訳ないだろ!?」
「都合よく厠の前に立っている男なんて居ないでしょーがっ、覗く以外に考えられないわよっ煩悩頭っ!」
「馬の鞍見て拘束具と思い込む変態に煩悩がどうとかって言われたくねーよっ!」
「やっぱりねっ! 覗いてることを否定しないのは認めてるわけねっ!」
「それ以前に突っ込むところが多すぎるんだよっ!」

広い宮内、人足の途絶えかけた一角でぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。
一人は帝に認められて権力の最高位を掴んだ男、北郷一刀。
一人は英雄に認められて絶大な信頼を預けられている軍師、荀文若。
そんな市井の者とは一線を画す地位に居るはずの二人が互いに一歩も引かず
拘束具とか変態とか厠とか精液とか、宮内に轟かせるには少々配慮に欠けた言葉が飛び交う。

実際に、一刀にとって噂というのは結構重要だ。
この天代という立場は噂一つ流れるだけで、風評に繋がってしまうからである。
その辺は、音々音や朱里にも口を酸っぱくして変な噂が広がらないように気をつけてくださいと言われていた。
例えば、荀彧がこのまま真に受け取って、少女の用を足す風景を眺めるのが好きな男という風評が広がるとする。
或いは拘束具を常に持ち歩く男であるという噂だ。
それが原因の一役を担って、漢王朝が滅びる。
そして歴史に残るのだ。
もちろん、極端ではあるし仮の話だ。
一刀が居なくても漢王朝は勝手に立て直るかも知れないし、そんな風評が原因で失脚することも多分無いだろう。
しかし、どんなものにも可能性は転がっている。
そんな事で漢王朝が滅びるとしたら由々しき事態である。
一刀にとって。
だからこそ、荀彧との口論には熱が入ってしまった。

一方で、荀彧の方も止まることは出来なかった。
恥ずかしさのせいである。
確かに、一刀の持っていたのは馬の鞍であることを彼女は知っていた。
しかし、その、何と言うか、そういう時に使うように改造された馬鞍も見たことが在り、知っている。
今までの北郷一刀を見てきて、或いは一刀の周りで騒がれる噂を耳にすれば
荀彧が達した結論が拘束具として、頭に電球が光ってしまうのも無理は無い。
この場合の不幸は、荀彧が物知りであり拘束具として使われる同じような物を知っていたことであった。
荀家は名家であり、しっかりと教養を積んできた彼女は桃香や劉協と事情が違い
調教の二文字をしっかり認識していたせいでもある。
一刀の持ち歩いていた物が、ただの馬の鞍と知った瞬間から、彼女が止まることは許されなくなった。
なんせ、確信を持って言った言が、変態というオマケまでついて返されたのだ。
言い返されたら譲れない。
軍師として、女として。

「そもそも、そんなややこしい物を持ち歩くのがいけないのよ!」
「馬の鞍を持ってちゃ駄目なのか!?」
「自分につければいいじゃない、種馬なんだからっ!」
「たねっ、お前、こんな公衆の面前で堂々と恥ずかしい事をよくもまぁ……」
「あんたが言わせたんでしょうがぁー!」
「お前が勝手に言ったんだろっ」
「事実じゃないの!」
「捏造された物は事実とは言わねーからっ!」
「ふん、ムキになって否定してるところが怪しいわね」
「怪しいのはお前の方だろ、普通間違えないし……ん?」
「何よ」
「まさか、使ったことが……」
「きゃああ! やめてっ! 虫のような気持ち悪い視線で私を犯さないでよっ!」

どちらも公衆の面前でと言えば、低次元な争いに突入してること事態が恥ずかしい。
そんな騒ぎにいち早く気付いたのは、夏候惇である。
彼女もまた、練兵場で一汗流してきたばかりであり、宮内に戻ろうとしている所だった。
荀彧の特徴的な猫耳が揺れるのを見て、声をあげかけた彼女であったが即座に噤んだ。
隣で言い争うように声を挙げている男が眼に入ったからである。

「あれは、天代ではないか」

そんな夏候惇が、微妙に建物の影から覗きつつ二人の争いは未だに止む気配を見せなかった。

「くっ、いい加減にそれを使って私を狙っていた事を認めなさいよ!
 何度も何度も私と会って、今更に言い訳なんて見苦しいわよ!」
「その時点で話がおかしーの! 何回も会ったのは偶然だろ!」
「どこがおかしいのよっ、種馬の癖に!」
「どこもかしこも種馬ってのもおかしいだろっ」
「きゃああ、寄らないでよ! 妊娠しちゃうでしょ!?」
「……付き合ってられん」
「ああっ、図星を突かれて逃げる気ねっ!」
「ああああっ、もう、どうしろっていうんだよ!?」
「死ねば?」
「おい……不敬罪にすんぞ」

どうやら、荀彧が突っかかって天代の足を止めているようである。
夏候惇から自然にそう見える形、しかも会話の内容がちょっとアレな感じだ。
断片しか夏候惇は捉えることが出来なかったが、それでも十分に内容が予測できた。
すなわち。

「何と言う話か、華琳様に報告しなければなるまい」

夏候惇は再び歩き出し、速度を速めて宮内へと向かった。
自身の主の知恵袋が天代と逢引を繰り返している上に、胤とか妊娠とか言ってる。
これは余程、天代に懸想しているに違いない。
手紙とかもわざわざ書いて送ってたし。
夏候惇にとって、荀彧の残していく状況証拠は間違いない物として示されていた。
今も、立ち去ろうとした一刀を必死に引き止めている荀彧の姿が見えているのだ、確定しても良いだろう。
やや駆け足になりながら歩く夏候惇は、ちょうど入り口に彼女の武器である七星餓狼が引っかかって
金属のぶつかり合う音を響かせた。
その音は、近くで騒いでいた一刀と荀彧にもしっかりと聞こえていたようだ。
言い争いを止めて、音の出た方向、夏候惇へと視線が向く。
曹操へ今しがた手に入った情報を報告する事しか頭に無い彼女は、そんな一刀達の様子に全く気付いておらず
宮内の奥へとその姿をけして行く。

「春蘭……?」
「夏候惇さん……ああ、なぁ荀彧」
「何よ」
「もう止めないか」
「……そうね」

二人共、夏候惇の姿が見えたのを切っ掛けに熱が冷めたのか。
口撃の矛を降ろすことになった。
今立っているこの場所は宮中であり、こうして言い争う利が何処にも無いことに気がついた故だった。
一刀にとっては諸侯との関係が拗れているように見えるし、こんな人目のつきそうな場所では
よくない噂が会話の断片を聞いた者から、勝手に一人歩きしてしまう可能性もある。
荀彧も同じように、天代という身分にある一刀と争うのはまずいと思い出して同意した。
しかし、ただ一つ。
この話に決着をつけるためにも、お互いに確認しなければならない事がある。

「今日、出会ったことは忘れましょう。 全て無かった事に。
 異論はないでしょ?」
「うん……そうだな」

互いにこうして口裏を合わせることで、不名誉を受ける恐れを回避しなければならない。
一刀は風評に繋がる不穏な噂を。
荀彧も自分自身、そして曹操の風評に繋がりかねない噂を。
それだけを二人は確約し、何事も無かったかのように別れた。

この日、一日。
本人達の与り知らぬ所で、二人の仲は非常に良好である印象を周囲に振りまいていた。


      ■ 強風来る


「なんだと? もう一度言ってみろ、ああ、いや、待て」

それは、ある日の夕刻にさしかかった刻だった。
曹騰は、報告に上がってきた部下に向かって思わず確認を取ろうと口にしたが思いとどまる。
張譲に裏があるかも知れないと、つい最近に出会った彫師を探るように命じていた。
そして今、手元に転がり込んだ報告は穏やかな物では無かった。

彫師である男、そして、その彫師の家族が死んでいた。

家の中は争った様子も無く、首の無い死体となって。
殆ど血もついていないことから、外で殺されたのではないかという話である。
周囲に住む町の人々に聞いても、喧騒の様な物は聞こえてこなかったという。
曹騰は一つ被りを振って、明日にでも時間を作って現場を見に行く事を伝えた。

男の家に残されていた、遺品を手に取って眺める。
それは、上質な木に彫りかけの文字であるようだった。
どちらも同じような大きさで、「永」という文字と「天」という文字が彫りこまれている。
木には市井の物にしては些か分不相応な、高級そうな紐が括られていた。

「……やっぱ何かありやがる」

そう確信した。
恐らく、彫師は張譲の手によって葬り去られたのだ。
宮内で見かけたとき、彫師は何かを張譲に渡していた。
それはきっと、受け取った直後から張譲にとっては仕事が終わって用済みになったからだろう。
そうでなければ、彫師の男が殺される理由など無いはずだ。
この一事で、彫り物を趣味にしていると言う張譲の言が、嘘であることも間違いないと思われる。
そして、彫師は知っていてはまずい事を知らずに仕事をこなし、殺された。
死人に口なしだ。
すなわち、彫師が知っていて、他人に知られてはまずいことを張譲は隠したと言える。

逆に言えば。
今まで、沈黙を貫き通してきた張譲が遂に動きを見せた。
この事件を切っ掛けに、奴の裏を暴けないかと考えた曹騰は
危険かも知れないが、張譲との関係が疎遠になっている趙忠に宛てる為に筆を取った。
趙忠のここ最近は、天代や張譲に敵対している動きを見せていたからだ。
ならば蹇碩でも良いでは無いかと思われるが、蹇碩は天代に風向きが向かい偏っている。
蹇碩よりも都合のいい趙忠に動いてもらい、張譲の目をそちらに向けてから曹騰は事件を追うことにしたのである。
下手に食いつくのを狙った罠である可能性も否定できないからだ。
宛てる手紙の内容は簡単だ。
協力したい、と簡潔に声をかけるだけでいい。
性格から考えて、趙忠は動きを見せなかった曹騰に対して疑念と確認に接触する動きを見せる筈である。
それを張譲に確認してもらえば、それだけで趙忠に対して眼を配らせ始める筈だ。
勿論、自分自身が趙忠に会うつもりは無い。
会うのは、自身が信頼できる部下だけ。
あくまでも、張譲には趙忠が自ら自分へ接触しようと図っているように見せなければ
余計な疑念を自分に向けてしまうだけだからだ。

「天に、永か……」

筆をいったん置いて、横目だけで見るその彫られた文字の意味を考えていた曹騰であったが
部屋を叩くノック音に、首を向けた。
入ってきたのは陳留へと向かわせていた一人の男。

「曹騰様、蹇碩の手の者が動き出しました」
「間のわりぃ事だ」
「は?」
「いや、こっちの話だ、気にすんな」

手だけで分かったと合図して、曹騰は書いていた書簡を机の中に仕舞うと立ち上がる。
この件と殆ど同時に飛び込んでくるとは、間が悪いと言っても仕方が無いだろう。
急に忙しくなった、と思いつつ曹騰は準備を整えると曹操の居る宮に向かって歩き始めた。
宮内から外にでた曹騰に、強い風が吹き付けてきた。
顔を顰めて空を仰ぐ。
随分と強い風なのか、雲の動きは早い。
生暖かく強い風に、不快感を覚えながら歩き始めてしばし。
前に見知った男が、駆け足で通り過ぎるのを目撃した。

「天代っ!」
「え!? ああっ、曹騰さん!」
「どうした、急いでてよ」
「つい先ほど劉宏様が倒れられたそうなんだ! 曹騰さんも!?」
「いや、こっちは別件だが……帝がだとっ?」
「容態が分からないから、確認に向かうところなんです!」
「ちっ、分かった。 わしも付き合うぞ!」

一刀が頷いて走り出すと、その後ろを追いかけて曹騰も追従する。
流れる景色の中、良く見れば多くの人が落ち着かない様子で居るのを眼に映す。
確かに、ここ最近の帝の体調が優れていないことは聞いていたし、後継者問題に取り組み始めたことから
予感のような物は感じていたが、しかし。
急に倒れるとは何かあったのか。
今までの緩やかに流れていた時間が、慌しく動き始めたのを感じる。
前を走る一刀へ、曹騰は走って乱れる息のまま口を開く。

「なぁ、おい!」
「はい!?」
「ハッハッ、張譲が動いてるぞ! この先、奴の動きには十分に気をつけろよ! フッフッ……」
「……今は、帝の元に行くのが先です!」

そして一刀は帝の居る宮へと辿りつく。
いや、一刀達だけではない。
つい先ほどの事だからか、未だに多いとは言えないが集まった高官や宦官たちも大勢居る。
蹇碩は鼻息を荒くし落ち着かない様子で、趙忠も人形を抱えたまま動かない。
外戚の者では、何進が慌てた様子で入り込むのが見て取れる。
そして張譲は、彼らより数十分遅れて静々と入ってきていた。


洛陽に猛暑を知らせるように、強い陽射し風が差し込み始めた頃であった……


      ■ 外史終了 ■

・かずと は あらたな 称号を てにいれたぞ!

種馬
全身精液変態趣味男



[22225] あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編9
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/29 01:04
clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編7~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編8~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編9~☆☆☆




帝である劉宏が倒れてから3日が過ぎた。
息はしているものの、意識は無く、予断を許さない状況が続いている。
そんな中、宮内の空気は一変して一気に重苦しくなっていた。
24時間、どのように状況が変化しても良いように、帝が眠る寝室の傍で大勢の人が詰めている。
帝の居る場所に入室できる人物は、一刀、劉弁、劉協や一部の宦官を除けば医師だけだ。
帝の様子を見るために、ずっと詰めている訳にもいかない一刀は、滞った政務の為に宮内を歩く。
歩いて、いるのだが。

「ああ、もう、張譲さんは何処に行ったんだっ!」

そう、一刀の探し人が何処を探してみても視界に入らない。
すれ違う人に聞いても、誰もその行方を知っている者は居なかった。
ここ最近の疲労もあいまって、一刀は不機嫌な声をあげてしまった。
何人かの人が、訝しげな様子で一刀を見て、やがて視線を逸らす。
誰かが何処かで奇声を上げるのは、もう珍しくない。
一刀に限らず、忙しく動いている者ばかりであるから。
気まずさに首を振り、大きく肩で息を吸ってから一刀は再び歩き始めた。
ジリジリと、蝕むようなこの気分の悪さが早く無くなって欲しかった。
というのも、帝が倒れて意識を失っているこの状況は非常に危うい。
後継者問題も中途半端で、このまま没してしまえば混乱が起きる可能性が高いのだ。
劉協もこのまま父親が世を去ってしまうのは嫌だろうし、眠れない夜を過ごしたようで、深夜まで部屋の灯りが点いていたのを一刀は知っていた。
実際に見たわけではなく、聞いた話だが。
一応、落ち着きを取り戻し始めていると聞いているので、大丈夫だろうとは思っている。
勿論、そうした問題云々も含めて、親しく付き合ってきた劉宏個人の心配もしている。
王朝の帝という身分や、自分の立ち位置から色々なしがらみは在る物の
殆ど毎日、顔を突き合わせて来た人。
自分が天代としてではなく、北郷一刀としてみて欲しいと思っているように
劉宏にも帝としてではなく、一人の劉宏という人物と接するように心がけてきた。
そんな人が危篤の状態であるのだ。
心配にならない筈が無い。
加えて、帝が倒れたことによって一刀の忙しさは天井知らずに上がって行った。
帝の代わりという役職に付いている以上は仕方の無いことかも知れないが
ここ3日間、一刀は劉協の居る離宮に戻ってすらいない。
採決を求められる場面が多くなり、移動も激しく、書簡の波に埋もれている。
とてもじゃないが身体が一つでは足りなくなっている状態である。

「天使将軍!」
「どこに行ったかと思えば、ここにおりましたか」

声をかけられて―――微妙に引き攣りながら―――振り向いた先には、何進と蹇碩が並んで歩き、こちらへ向かって来ていた。
この二人が揃っているということは、西園三軍のことだろう。
正直、帝が倒れられてから軍部にはノータッチである。
大陸の情勢や、黄巾党の動き。
そして涼州の不穏な噂を報告から耳に聞いている程度であり、具体的な方針も特には定めていなかった。
まぁ、全ては突然に降りかかった殺人的な忙しさ故なのだが。

「どうしました?」
「ようやく我らの準備も整いました。 兵を募って、練兵を兼ねた行軍を一度行いたいと思っております」
「ああ、徴兵するって話だったね。 うん、いいよ」
「天使将軍の名で、どれだけ集まるか見物だな」
「そうですね、その辺は何進さんと蹇碩さんに全部任せます」
「承知しました」
「ふん」

というわけで、一刀は全てを二人に丸投げした。
この徴兵、練兵に宛てる一軍は将来的には桃香に預ける物になる予定である。
もちろん、予定に過ぎないし先ほど述べたように軍部のことは手を出す余裕がない。
何故か蹇碩が勝ち誇ったような笑みを残したのは気になったが、きっと天使と呼ばれて引き攣る一刀の顔を楽しんでるに違いない。
それよりも。
一刀は二人と別れて張譲を探す為に歩き出す。

「天代さまー!」

その矢先である。
何進達の真逆の方角から自分を呼ぶ声は、趙忠の物であった。
随分と急いでいるようで、いつも抱えている人形が左右に振られ、ブランブランと凄いことになっていた。
その内千切れるのではないだろうかと、余計な心配をしてしまう。

「なに? どうしたの?」
「主だった宦官のりすと、だっけ。 それ持ってきたの」
「ああ、頼んでた奴だね。 ありがとう……机に持ってってくれる?」
「いいよ。 それとこっちが譲爺からのだよ」
「張譲さんの?」

受け取って開くと、そこには屋敷の売却に赴くとの旨が書かれていた。
十常侍の筆頭でもある張譲が、一番に私財を吐き出して国庫に当てる姿勢を示す。
そうすれば、自ずと宦官達の間でも変化が起きうるのでは無いか。
そうした話を、確かに一刀は以前聞いていたのを思い出した。
断る理由も無いし、とても良い案だと思ったので受け入れたものであった。

「そうか、張譲さんが居ないのは今日これがあったからか」
「ううん、本当は今日じゃなかったらしいんだけど、ほら」

言って劉宏の寝室の方角に顎だけで指す趙忠。
それを見て、一刀はなるほど、と頷いた。
予定を前倒しにしたのだろう。
この案を実行するには、早ければ早い方が良いし後回しにすれば忙殺の最中で忘れてしまうかも知れない。
一刀は言うに及ばず、多かれ少なかれ高官の者や宦官達は仕事が増えている。
宙ぶらりんになった後継者問題のせいでもある。
趙忠が持ってきた宦官のリストは、その人事に関係するものでもあったのだ。
張譲が居ない事を知った一刀は趙忠と別れ、踵を返して暫定的に作られた王宮の執務机に向かい始めた。

「天代様! まったく、探しましたぞ!」
「……」

一刀は呼ばれて無言で振り返った。
名前は知らないが、官僚の中で顔を見たことがある気がする。
そんな男の後ろでは、こちらに駆け寄る桃香の姿も見えた。
桃香には離宮に戻れない一刀に、使う物を運んでもらったり離宮の様子を話してもらったりしていた。
時たま、彼女と一緒に劉協が顔を出す時もある。
今は誰も連れ立っていないし、脇に抱える荷物から着替えなども持ってきてくれたのだろう。
書簡だけでなく、人にも埋もれ始めた一刀であった。


      ■ 鉢合わせ三英雄

離宮の一室に、見慣れない姿が見えていた。
その部屋は椅子と卓がいくつか用意されているだけの、余り生活感を感じさせない場所であった。
言うなれば、人を待たせる為だけのスペースとも取れる。
そんな部屋に人並み外れた容姿を携えた美女が二人。
美女が、美女を諭すように何事かを話しかけて、水を向けられた美女が顔を顰めていた。

「やだ」
「雪蓮……」

むくれっ面にそっぽを向いて、全身で拒む姿は幼稚であるようにも見える。
何をそんなに拒否しているのかというと。

「孫堅様が江東に戻ると決めたのだぞ。 そんな子供のように……」
「嫌なものは嫌なの、別にいいじゃない、火急の用件って訳でもないじゃない」
「じゃあ、雪蓮は残るのか? 洛陽に?」
「う……」

つまりはこういうことだった。
孫堅が黄巾との戦以前から洛陽に滞在して、早くも一年が経とうとしている。
西園八校尉に正式に選ばれて、西園三軍も動き出そうかとしているこのタイミングで
どうして帰ることになったかと言えば、それは孫家が大きな勢力として治める江東の事情故に他ならない。
その事情を簡単に言えば、江東には多くの豪族が犇めき合って、それぞれヤクザのように縄張り争いをしていたり
無意味に武力で衝突し混乱を呼んだり、非常に自己主張の強い者達が血気盛んに暴れていた。
それを僅かな期間で武力により鎮圧したのが、江東の虎と畏怖される孫堅だったのだ。
要約すると、全員ぶっ飛ばして傘下に治めた。
一年もの間、顔を見せなければ何かしら悪巧みをする豪族達が現れても不思議ではない。
一見すれば結びつきが強く見える孫家の結束も、現時点ではその地盤が確かなものではなく、緩いことは否めない事実であった。
出かけている先で、留守にしている家で小火を起こされても馬鹿らしい、という事だ。

「分かるだろう」
「そりゃ分かるわよ。 でもそれなら母様一人で帰ればいいじゃないの」
「……蓮華様や小蓮様も、きっと待っていらっしゃるぞ」
「あの子達なら大丈夫よ」
「いやな……あのな?」

そういう話なのだが、一人納得していないのが孫策であった。
理由を尋ねられれば、良く分からないけど離れたくないという具体性のかけらも無い言葉が飛び出す始末。
もちろん孫策も馬鹿ではないので、事情の方はしっかりと把握している。
言わば、これは本能の拒絶であるかも知れない。
この場所に居なければならないような、漠然として不明瞭な強迫感。
既に、孫堅が劉協へ帰る旨を今まさに伝えている現状であるのに、どうしてもモヤモヤとした鬱陶しい気分が抜けなかった。
とはいえ、洛陽に居続けてどうするかと尋ねられれば答えには窮してしまう。
聡明な頭脳を持つ彼女は、理屈の上で周瑜の言っている事がまったくもって正しい事も理解していた。

「……だってさー」
「もういい、場所も場所だ。 愚痴は帰り道でゆっくり聞いてやるから」
「むぅ……」

口を尖らせるも、反論など出来るはずもない。
これがただの駄々であることは彼女も分かっているのだ。
確かに、帝の実子が居られる離宮で拗ねているのも大人気無いだろう。
孫策の唸り声を切っ掛けに、待たされている室内に沈黙が下りた。
その沈黙は、たった数分程度であったがヤケに長く感じられる一時であった。
そんな室内の沈黙を破ったのは、部屋の中からではなく扉の外から。

「うん、とてもじゃないけどお話する時間が無さそうで……」
「そうですか。 仕方ないかも知れませんが……」
「うん……」

話声と共に、扉が開く。
現れたのは珍妙なひらひらとした服を着込んだ桃香と、同じような服に身を包んだ愛紗であった。
中に先客が居るとは思わなかったのか、孫策と周瑜の二人を見て一瞬だけ動きを止める。

「あ、こ、こんにちわ孫策さん、周瑜さん」
「あ、かんかんちゃん」
「うっ、孫策どん、殿! その名を呼ぶのは止していただきたいのですがっ」
「……かんかんちゃん?」
「うん、かんかんちゃん」

見えない刃が愛紗の胸に突き刺さっていく。
黄蓋が愛紗に粉をかけたと聞いて、興味から店を覗いた際に知り合っていた。
当然、店内ではかんかんちゃんと呼ばれた愛紗。
孫策の脳内には、しっかりとその名が脳裏に刻み込まれていた。
首を逸らして、肩を震わせている桃香を一瞥してから、愛紗は一つ咳払いをかまして言った。

「我が名は関羽です。 そうお呼び下さい」
「うむ、しかし可愛い名だったが……」
「そうよ、その服にもぴったりだわ」
「くっ、うくく」
「と、桃香様まで……あまり茶化さないで下さい!」

ニヤニヤと笑みを浮かべる断金の二人は、からかいの種を見つけたかのように愛紗を見やった。
その様子がツボに入ったのか、ついに高い声が漏れて必死に顔を背ける桃香。
たまった物ではないのは愛紗である。
桃香は自らの主であり、孫策と周瑜も孫堅という大物にかかわりの深い者達であることを知っている。
どうにもやりにくい相手であるのは間違いなかった。

「それで、劉備だったわよね。 どうしてここに?」
「あ、劉協様に一刀様のことでお話しようと思ってたんです」
「天代に?」
「はい。 けど、孫堅さんのお話を遮るのも悪いと思って」
「何の話なの?」
「別に大した話じゃないですよ、だから邪魔せずにこっちで待とうと思ってたんです」
「なるほど」

頷く周瑜に、愛紗が孫堅についてきたのか尋ねると是を返してきた。
劉協の部屋の前で待たせる訳にもいかないだろうし、こうして適当な部屋を見繕って案内されたのだろう。

「一刀は居ないの?」
「……居ません」
「あら、急に素っ気無くなっちゃったわね……ん? ははぁーん」
「な、なんですか、その微妙な確信に満ちたニヤケ声は!」
「別になんでもないわよ?」
「まぁ雪蓮の冗談はともかく、関羽殿は天代様の元へ身を寄せたのか?」
「はい。 正確には桃香様の元に、ですが」
「へぇ」
「ほぉ」
「うわぁ……なんか二人の目が怖いよぅ」

孫策と周瑜がキラリと目を光らせ桃香を見たのは、黄蓋の話があったからに他ならない。
曹操の様子から、黄蓋が関羽の元に粉をかけに行ったのは、まだ記憶に新しい。
その時の会話がどういうものなのかを孫策と周瑜は当然ながら知らないのだが、黄蓋の話しぶりから察するに
大きな将器を感じさせる印象を抱かせたのは想像に難くなかった。
孫策の母、そして周瑜の師の一人でもある孫堅を、傍らでずっと支えている孫家の重鎮。
その黄蓋をして関羽なる者は大器であると認めさせたのである。
これは中々に珍しいことであると言えた。
何を隠そう、孫策も周瑜も、黄蓋に一人前であると認められたのはつい最近のこと。
それまでは小童呼ばわりされるのも日常茶飯事だった。
もちろん、身内故に見る目が厳しいという部分もあったのだろうが、それを差し引いて考えても
僅かな時間で太鼓判を押す黄蓋というのは、彼女達にも記憶に無いくらいである。

「天代様にも気に入られてるみたいだし、劉備殿って何かがあるのかもね」
「確かにな」
「愛とか?」
「ふふっ」
「いえ、そんな……その、私は別に―――」

そんな二人のやや無遠慮な視線に居ずらそうに手を合わせて、縋る様に愛紗へと視線を向けた。
桃香の隠しすらしない助けてのメッセージを視線で受け取った愛紗はどうするべきか悩んだ。
ある意味、この話は桃香が孫策や周瑜という人物から一定の評価を得たと言える。
貶されてるわけでも侮辱されてるわけでもないし、感心されていると言った感じである。
自らの主と決めた桃香が褒められている―――かは微妙だし、途中から目に見えてからかわれている気もするが―――それを止める必要があるのだろうか。
しかし、当の本人が止めて欲しいと言ってるのならば、やはり動くべきか。
数瞬時間を置いて、結論を導き出した愛紗は、主である桃香を救う為にわざとらしく一つ咳払い。

「……コホン、お茶でもいかがでしょう」
「あー、そうね、母様も随分と遅いし」
「劉協様との話が長引いていらっしゃるのかもしれんな」
「あ、じゃあ私が淹れて―――」
「いえ、桃香様の手を煩わせる訳にはいきません。 私が淹れてきましょう……あ」

言ってから気がついた愛紗である。
ここで自分が抜け出したら、二人の視線から逃れたかった桃香だけが残されてしまう。
かといって、手を煩わせる訳にはいかないと断って、やっぱり桃香に淹れに行ってもらうことなど今更出来るはずがない。
しばし、桃香のすがるような視線に惑い、手を上下させたり首を巡らしていた彼女だったが
結局、なるべく急いで帰って来ると桃香に目だけで真剣に語りかけ中座することになった。
そんな愛紗の込めた目の意志は、桃香にしっかり伝わった。

「あ、愛紗ちゃんが怒ってるっ、何でぇ!?」

間違った意味で。
結局、お茶を淹れてきた愛紗が戻るまでニヤニヤされながら桃香は随分とからかわれた様である。
劉協へ一刀のことを報告する為に留まる桃香と愛紗。
その劉協と話し合いが長引いている孫堅を待つ孫策と周瑜。
いつしか会話は途切れて、茶を啜る音や衣擦れの音だけが室内を奏でるだけとなる。
そんな部屋の静寂を二度突き破ることになったのは、扉を叩くノック音だった。

開けられた扉の先には、これまた離宮では初めて見る顔。
麗しい金髪をくるりくるりと纏めドリルにして威風堂々と室内を見回す小柄な少女。
その少女よりも小さい体躯で、静々と中に入ってくる猫耳頭巾。
曹操と、荀彧であった。
室内を見回した曹操は、孫策や周瑜を認めつつ最後に視線が愛紗へと突き刺さる。
当然、新たに現れた曹操達に自然と目を向けていた愛紗は、そんな彼女としっかり目があった。

「あら、かんかんちゃん」
「そ、それはもう結構です……曹操殿」
「なにが? まぁ、それはともかく……私は振られたのかしら?」

その問いと視線は、愛紗の隣で座っていた桃香へと突き刺さっていた。
突然と言っていいほど、曹操の視線と声が飛んできた桃香は一瞬驚き愛紗へと目を向ける。
その目に、愛紗はしっかりと頷いていた。
桃香は驚きに口を開く。

「ええ!?」
「?」
「曹操さんって愛紗ちゃんに求愛してたの!?」
「……いえ、その、違います桃香様。 曹操様からは陣営に誘われていました」
「いえ、別に間違っていないわよ」
「え?」
「へ?」
「諦めないわよ」

混乱した様子の桃香に、いやそれは愛紗にもだろう。
一言だけ残してから空いてる近くの椅子を引っ張って座り込む曹操。
無言で二人を見やってから、荀彧もまた曹操にならうように椅子を引っ張って席につく。
とりあえず桃香は視線を移して、愛紗に新たな来客となる曹操達へと茶を出すように促すことにした。
そんな二人に可愛いと褒められたメイド服姿で愛紗がお茶を注いでいる最中、水を向けたのは周瑜だった。

「二人はどうしてここに」
「陳留へ戻り、いろいろと準備を整えるためよ」
「そういえば、陳留は今も厳戒態勢なんだってね。 色々あるみたいだけど大丈夫なの?」
「孫策と、周瑜……だっけ? 心配される覚えはないわよ」

孫策の問いに不機嫌そうに答えるのは荀彧であった。
軽い調子で尋ねた孫策は、この答えを聞いて一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに元に戻り肩を竦める。
実際のところ、荀彧も陳留の様子を話すことに躊躇う理由は無かった。
ただ、曹操の目指す到着点のことを考えれば、彼女達の主である孫堅とはいずれ敵対する可能性も在り得るし
わざわざ世間話をするような間柄でもない。
何より、先の黄巾との一戦で名を上げた軍師として、周瑜の名を荀彧は知っていた。
実際に天代の講義の中で意見を交わしあい、不世出の知者であることも。
蹇碩との問題を彼女達に話して腹が痛いことなどは全く無いし、自らこの件で首を突っ込むことも無いだろう。
しかし、張梁の事に関しては別である。
故に、この場に現れた直後から、荀彧は一切の情報を漏らさないことを決めていた。
もちろん、孫策が素直に身を引いたのも少なからず彼女の態度から意志を察したからだった。
ただ透かされた形の彼女は、当然面白くない。

「……じゃあ話を変えるけど、天代様とは何処まで進んでるのかしら?」
「んなっ!? 何をとつぜん訳の分からないことを……」
「だって、抱き合ってたじゃない」
「はぁぁぁぁぁーーー!?」
「ええええぇぇぇーーー!?」

思わずガタリと椅子を引いて立ち上がる荀彧と桃香。
今まで澄ましたようにした荀彧のその豹変振りに、孫策は母の様に獰猛な威圧感のある笑みを浮かべる。
してやったり、と思い切り顔にでている。

「で、でたらめばっかり言ってるんじゃないわよ! どうして私が男と抱き合ったりしなくちゃいけないのよ!」
「だって、見たもの。 ねぇ冥琳」
「まぁ、確かに」
「う、嘘よ! そんなこと在りえるはずないでしょう!」
「あの、その話し詳しく聞かせてもらえますか!」
「詳しくも何も、そんな事実は無いのよ!」
「証人も居るのに往生際が悪いわね」
「そうです! 荀彧さん、一刀様と仲良ししてた時の事、お話してください!」
「やめて! あんな種馬の名前を私の前で出さないでっ!」
「種馬ですってぇ!?」
「種馬……そんなぁ、そこまで進んでるなんて……」
「違うって言ってるでしょーがっ!」

一方で、曹操も桃香の態度からおおよそを察した。
そして頭に過ぎるのは、天の御使いこと北郷一刀。
もしかして愛紗が桃香の下に居るのは……曹操の視線はそんな考えから、自然と荀彧達の騒ぎを無視して愛紗へと突き刺さっていた。
もちろん、視線にはしっかり気がついている愛紗は、短い溜息を吐き出して尋ねた。

「曹操様、なにか?」
「……関羽殿は北郷一刀にも仕えているの?」
「そうです」
「そう」

短い答えに曹操は得心した。
桃香の主は北郷一刀だ。
まず間違いなく、自分の考えと答えは一致しているだろう。
今は桃香に預けられているようだが、実際には天代である一刀へ忠誠を誓ったのだ。
自分の欲しい物を横から奪われるのは、これで二度目。
一人目は、陳公台。
二人目は目の前に居る関雲長。
最終的に決めたのは本人の意思なのだろうが、それでも曹操はどこか納得できない感情を抱いた。
先に目をつけて、粉をかけて、何度も誘ったというのに、彼女は此処を選んだ。
曹操という者よりも、一刀という男を選んで。
その事実はなんというか、そう。

「……悔しい」
「は?」
「なんでもないわ。 忘れてちょうだい」
「はぁ……しかし、曹操様には前もって断るべきだったかも知れません。 それについては謝意を」
「受け取るわ……」

溜息のような物を吐き出して肩を落とす曹操は、思いのほか自分が落ち込んでいることを自覚した。
それだけ関羽という人物を曹操は得がたい者だと思っていたし、実際にそれは正しいのだろう。
そんな人知れずショックを受けている曹操をよそに、孫策達のテンションはだだ上がりであった。
荀彧が抱き合ったことを認めたせいで。

「分かったわよ、埒もあかないし認めるわよ! けどね、勘違いしないでくれる?
 あれは抱き合ったんじゃなくて、襲われたんだからっ!」
「へぇー、一刀の方から襲うなんてやるじゃない」
「一刀様が襲うなんて、よっぽど……」
「そういえば、雪蓮も抱かれた時はいきなりだったという話だな」
「ええ!? 孫策さんも……私には何も手を出さないのにぃ」
「そうなの? おっぱい大きいのに」
「荀彧殿のことを考えると、胸は余り関係なさそうだな……」

周瑜の考え込むような声に、自然と視線が集まる。

「私の胸を見て話すなっ! おっぱいお化けどもっ!」
「失礼ね」
「失礼だな」
「失礼ですよ、荀彧さん」
「くっ、こいつら人の胸を見て話すことは失礼じゃないっていうの……っ、春蘭とは違った形で話がかみ合わないわ……」
「貴女たち、少しは落ち着いて話してもらえないかしら」

そんな会話に割り込むように、いつの間にか荀彧の卓に戻ってきていた曹操の声が飛んできた。
その諌める声には険が含まれているようにも聞こえる。
劉協という帝に連なる人物、そして天代という帝に近い権力を持つ人物が揃う離宮の中で
これだけ騒ぐのは流石に節操が無いと言えるだろう。
他にも余計な感情がいくつか混じっているようだったが、それは隠しつつ覇気溢れる声で言い放った。
そんな曹操の声に、自然と室内には沈黙が下りて視線を集める。
気まずい空気を壊したのは、両手を挙げた孫策であった。

「……悪かったわね」
「ごめんなさい」
「醜くならないくらいの節度は保ちましょう、孫策、劉備」
「そうね」
「はい……」
「桂花も」
「は、申し訳ありません……くっ、なんか納得がいかない……」

お互いに何度か顔を見合わせて、孫策が勢いよく腰を落としたのを切っ掛けに
荀彧や周瑜、桃香も自分の座っていた場所に戻って腰を降ろした。
三度訪れた静寂は、先ほどまでの空気から一変してやや重苦しいものに変わっていた。
それは、孫堅が孫策達を呼びにこの部屋に来るまで続いていたという。


―――


「ん?」
「あ、母様」
「お話は終わりましたか」

随分と長い話を終えて、孫堅は孫策が待つ室内に訪れた。
部屋の中を見回して曹操や劉備たちに気がつくと、短い声をあげる。
桃香にいたっては眠ってしまったようで、孫策と周瑜の声で今目が覚めたというように眼を擦っていた。
孫堅は一つ苦笑するように、曹操へと声をかけた。

「ふっ、随分待たせてしまったようだな」
「気にしなくていいわ。 時間はあるしね」
「ならば良いが。 雪蓮、冥琳。 先に出る準備を進めておけ」
「はいはい、分かったわ」
「承知しました」

元々、江東に帰る際の挨拶に付き合わされていただけだ。
まぁ、一刀に会えるかもしれないという打算は含んでいただろうが。
孫堅が言わなければ、この場に来ることもなかっただろう。
部屋を出る直前に、孫堅へ渡したのかどうかを確認してから孫策は周瑜を伴って退室した。

「さて、先に待っていたのは劉備よ」
「いへ、私達はいつでも会えますから曹操しゃんが先にどうぞ」
「そう? それなら甘えることにするわ」

「ああ、曹操殿」

視線で桂花を促した曹操は、立ち上がって部屋を出る直前に孫堅の声で振り返ることになった。
振り返った先には、顔を見せずに背を向ける孫堅の姿。
勘違いではなく、曹操は自分に向けられている威圧感に目を細めた。

「なにかしら、孫堅殿」
「曹操殿とは話す時間が欲しかったところ、丁度よい。
 回りくどい聞き方は性に合わぬ故、少々失礼かも知れんが許されよ」

ゆっくりと振り返る孫堅の顔は、射抜くように曹操へと注がれていた。
負けず曹操も、しっかりと孫堅を真正面から捉えて孫堅の言葉に頷いた。
突然の出来事に、先ほどまで眠りこけていた桃香も、暇を持て余していた愛紗も仕切りに顔を交互させ見守っていた。

「今、漢王朝が生きるか死ぬかの瀬戸際にあることは承知してるだろう」
「ええ、そうね」
「かろうじて首の皮一枚を許されている原因は、天代にあると私は考えている。 それは薄々感じていることだろう」
「……それで?」
「曹操殿、私は天代を盛り立てると決めた。 覇を望むお前は邪魔だ」

その言葉に、曹操の隣に居る荀彧が食いかかろうと口を開き、それを片手を挙げて曹操は制した。
今、孫堅が言った言を受け止めて曹操は瞬間、思考した。
孫堅が決めた道は、天代である北郷一刀に与すること。
それは、漢王朝につながりの深い一刀を支えるということであり、孫堅が決めたということは孫家の総意となる。
自分を指して邪魔だと言われたのは、自らの野望をしっかりと見抜かれた上での言葉であり
それは今すぐにどうこうという話しではないのだろう。
とはいえ、ここまで正面きって啖呵を切られては曹操も引けない。

「……孫堅殿、貴方が誰を支持しようと構わないし、関係のないこと。
 このように脅されて私が首を振ることは無いけれど、言葉遣いには気をつけて貰いたいわ。
 それは私にとっても、同じことが言えるのだから」
「曹操、吼える相手は選ぶことだ」
「猛獣も躾けることが出来るそうよ? 首輪と鞭でね」
「虎を躾けられると思うのか?」
「虎は虎、それ以上でも以下でも無い」
「……」
「……」
「くっ、はっはっは、面白いな曹孟徳」
「ふっ」

それまでの威圧感が嘘のように、孫堅は一つ笑い飛ばすと曹操を追い抜くように扉へと向かう。
すれ違う瞬間、荀彧の人を殺せるような視線をやんわりと受け流して。
扉に手をかけて、退室するかと思われた直前に、彼女の口は開いた。

「曹操、共に歩める道が在る事を願っている」
「……考えておくわ」

言いたいこと、確認したいことは終わったと言う様に、今度こそ孫堅は部屋を出て立ち去った。
力強い足取りで孫堅が消えた扉をしばし見つめ、曹操も一つ大きく息を吐くと劉協の元に向かって部屋を出る。
一拍遅れて、荀彧も慌てて背を追って部屋から立ち去ると、残された桃香から大きく息が吐き出された。
ただ、孫堅と曹操のやり取りを間近で見ていただけだというのに、胸の鼓動は早くなり
まるで全力疾走した後のように五月蝿い。
呼吸を忘れていたのに、その音に気がついてからようやく気がついた程だった。
荒く呼吸を繰り返す桃香の背中にそっと手を当てる愛紗。

「……あ、愛紗ちゃん。 私、当てられちゃった」
「桃香様……」
「忘れてたんだ、こんな大事なこと。 諸侯の人たちが大陸の情勢をどういう風に見ているかって。
 居心地が良すぎて、忘れてたんだ、私」
「……」

そう、余りにも離宮で過ごす世界が平和で、楽しくて。
桃香は曹操と孫堅の会話で、冷や水を頭から掛けられたかのように自覚してしまった。
気付ける種はあったのだ。
一刀が教鞭を奮う最中、諸侯達が集まって重ねる話の本質を見逃していた。
漢王朝は、確かに危うい場所に揺蕩っていることを。

「……桃香様」
「愛紗ちゃん……ありがとう、もう大丈夫だよ」

孫堅は、一刀と共に手を取り合うと決めた。
その方が漢王朝にとって良いと思い、孫家にとっても利すると判断した結果からだろう。
一方で覇を望むと言っていた……いや、言わされたのかも知れないが、少なくとも否定はしなかった曹操。
もしも、胸の内にあるものが、かつての桃香と同じように今の漢王朝は終わりだと感じ―――そして。
そして、彼女自身が立ち上がって大陸を治めようとする気概を持っていた事実に圧倒された。
曹操から立ち上る意思に揺らぎは無く、強い決意を眼から受け取れる。
相対した孫堅ばかりでなく、無関係である桃香にまで届いて。
言葉通りに受け取れば、曹操は漢王朝とは手を切ったかのように思えるが、最後の言葉も気になった。
孫堅が共に歩む道があると言って、曹操が躊躇ったあの時。
桃香の心身を僅かな時間の舌戦で憔悴させた、曹操と孫堅という二人の傑物が最後に見せた本音かもしれない。
それはもしかしたら。

「一刀様が、居ること……」
「え?」
「愛紗ちゃん、分かったよ、漢王朝を……国を立て直す道」
「と、桃香様……?」

ずっと見えそうで見えなかった答えが、桃香の前にようやく現れた心地であった。
考えてみれば、自分が此処に居るのもそうだった。
答えは本当に、最初から目の前にあった。
クスリと一つ、自嘲するように笑った桃香は晴れ晴れとした顔を愛紗へと向けて

「漢王朝を守ることが出来るのは、一刀様だけなんだよ」
「天代様がですか」
「うん、絶対にそう。 私達は、一刀様の為に精一杯がんばらなくっちゃならない」
「桃香様、私はまだ天代様がどれほどの者であるのか分かりません。
 しかし、仕えるに不足のある主でないことも確かです。
 ……私も桃香様と共に、できる事をやらせてもらいます」
「うん、頑張ろう、愛紗ちゃん!」
「はい」


―――


「待たせたな」
「母様、遅いわよ」
「……」

一足先に離宮から飛び出した孫策と周瑜は、時間をかけて戻る孫堅を迎えて早速ブー垂れていた。
まぁ、周瑜はまったくそんな素振りを見せていないのだが。

「先に準備しておけと言っただろうに。 無意味に油を売っていたのは雪蓮の方だろう」
「……帰るときにちょっと聞こえたわよ。 劉協様と話が長くなったのは、一刀に付くことを話す為だったのね」
「せめて一言、私達にも話して欲しかったです」
「なんだ、聞こえてたのね。 良いのよ、二人には関係の無い話なのだから」

その言葉に、周瑜は眉を顰めた。
孫堅がはっきりと天代についた事を言ったのだ。
それはすなわち、孫家が天代と共に歩むことを決めたということである。
その筈なのに、娘である孫策や自分に関係の無いことと言うのはどういう事か。
周瑜の疑問は、追う様に口を開いた孫堅の言葉で答えを得た。

「孫家は関係ない、私個人だけが忠誠を誓う……その辺で揉めて話が長引いたの」
「なっ、でもそうは言っても母様は孫家の長なのよ」
「分かっている。 だが、こうして取り決めて納得して貰わなければ……」
「……逃げ道、ですか」
「そうだ、冥琳。 どのような最悪の事態に巻き込まれても、私さえ捨ててしまえば孫家は生きる。
 逆に、ここを落としどころに出来なければ劉協様につくことは出来ない」
「随分と大きな賭けに出ましたね。 正直、賛成できません」
「……」

この孫堅の決断を今ここで初めて知った孫策と周瑜は、何とも言えない表情で彼女を見やった。
曹操に啖呵を切って見せた理由が、この一点にあることも周瑜は理解した。
言葉で賛成できないと言ったが、孫家のことを考えれば悪くないとも思えた。
ハッキリと孫家を挙げて協力することを伝えれば、政争の影がチラつく北郷一刀と共に歩む事は上策と言えない。
しかし、あくまでも孫堅個人の事であるとなれば話は変わってくる。
たとえ妙な噂が出ようとも、『現時点で』孫家の舵を取っているとしても、だ。
孫家を取り纏める孫堅には、実子の孫策が居る。
親子であろうと対立することは珍しくない。
天代が政争に敗れたその時、孫策は孫堅を糾弾し勝手に決めた事実を槍玉に挙げて孫家を牛耳ることで面目と体裁を整えることができるのだ。
それは理解できる話だったが、感情はそうはいかなかった。
特に孫策は、自らの親のことである。

「……さて、雪蓮、冥琳。 遅れた準備を始めるぞ」
「はっ……」

踵を返して歩き始めた孫堅に遅れて、その背を追うために一歩踏み出した周瑜の耳朶に
孫策の小さな呟きが、耳を打った。

「洛陽に」
「……どうした、雪蓮」
「洛陽に留まりたかったのは、これのことだったのかしら?」
「雪蓮……」

そうだ。
確かに、妙な胸騒ぎを感じていたのは自分の親が知らず決断を下したこの事なのかも知れない。
そもそも、勘の鋭い孫策があそこまでギリギリになって駄々を捏ねているのも珍しいことだった。
周瑜はそんな孫策の思いを理解して、同時に彼女が洛陽に留まることは
何があっても許されないということにも気付いてしまった。
孫堅がこう決断してしまった以上、孫策が天代である北郷一刀の近くをうろつく事は
孫家の行く末を左右するかもしれない、妙な疑念を残すことになってしまう。
だから、駄目だ。
何よりも、そんな風に動いてしまったら孫堅の決意を無駄にしてしまうことになる。

「……」
「大丈夫よ、冥琳。 私だって分かってるわ」
「雪蓮、行こう。 蓮華様も待っているはずだ」
「ええ」

ようやく顔を上げて、孫策は周瑜の隣まで駆け寄って歩調を合わせる。
しばし歩き、しかし、再び孫策の足は止まった。
ふと視線を戻した先に居ないことに気がついて、周瑜は振り返る。
孫策は、遠くなった離宮に視線を向けていた。
沈み始めた西日が、離宮の影になって優しく照らしている。

「……負けちゃ駄目よ、一刀」

声量を落としていた孫策の声は、周瑜には何を言ったのか分からなかった。
ただ、それが天代に向けた声であることだけは理解できた。
口ではお互いに文句ばかりの孫堅と孫策。
もっぱら孫策から親の愚痴を聞かされることが多いが、孫堅からも孫策に対して何にも聞かされない訳ではない。
そんな表面上では不満ばかり聞かされる二人の心の奥底で、確かな絆があることを周瑜は知っている。
だからこそ。
やがて立ち止まる二人に業を煮やしたか、孫堅の声が響いて二人は慌てて背中を追いかけた。
最後に、孫策が離宮に向けて視線を向けて。


―――そんな、孫策の視線を受けた離宮の足元では、曹操と荀彧が丁度入り口から出たところであった。
彼女達がこの離宮に訪れた理由は、当然ながら陳留へと戻ることと西園八校尉として選ばれたことに対しての天代への挨拶。
そして、北郷一刀に張三姉妹に関わる真意を聞くことであった。
残念ながら、一刀が戻って来そうも無いために張三姉妹の事は伏せることになり
この一件に関して言えば自分達の判断で決めていくしか無い。
これが解消されれば、陳留の警備体制を緩めることも出来たかもしれないし負担も軽くなったかも知れなかった故に未練は残ったが
一刀が戻るまでの時間を浪費することを嫌った曹操が、スパっと会うことを諦めたのである。
他にも、荀彧の証言と夏候惇の証言の食い違いに言及したかったりも曹操は思っていたのだが。
もしも可能ならば、一刀と話せる時間が来るまで洛陽に留まりたかったのは事実だ。
しかし、待つには少し陳留を空けすぎてしまっている。
先に挙げた張三姉妹の問題は勿論のこと、蹇碩の動きに応対するための一手には曹操が戻る必要があったからだ。
帝に所縁在る人物を言葉で惑わし、禁令を破らせる腹積もりであることは分かっている。
この蹇碩の罠の為に、曹操自身が相対して説き伏せるのが最も手っ取り早く問題が少ない。
手伝いは要らないと伝えたはずなのに、裏で曹騰が動いていたせいで説き伏せる準備は既に終わっていた。
それならば曹操は必要ないかもしれないが、陳留を預かっている曹操自身でなければ納得いかないだろう。
蹇碩の手はこれで良いとしても、黄巾党の心臓である張三姉妹の事は引っかかる。
そして……

「……孫堅、それに劉備」
「華琳様?」
「共に歩める道か」
「華琳様……」

立ち止まり、自らの手を開いて視線を注ぐ曹操に、荀彧は訝しげな視線を向ける。
ややあって、曹操は先ほどの孫策と同じように離宮を振り返った。
離宮の影に隠れていた日が顔を出して、赤くなり始めた空の光に曹操は僅かに眼を細めた。
孫家の者は、天代についた。
直接聞いたわけでも、言われた訳でもないが、袁紹も遠からず同じ結論に達するだろう。
いや、今の諸侯同士の関係は悪くないと思える。
その原因は、間違いなく天代の下で集まっているからだと言えそうだった。
もしかしたら、一刀の開く如何わしい調教先生という肩書きも、これを見越した物だったのかもしれない。
天の知識という餌でまんまと釣りだされた様にも思える。
実際に天の知識は断片しか聞けず、諸侯同士の話し合いに誘導していることは薄々と感づいていた。
だからといってそれが曹操にとって実の無いことであるとは思っていない。
一刀の断片の知識が切っ掛けとなって思いついた自身の政策もさることながら
諸侯との討論の中で見え隠れする本音や漏れる情勢の数々は、実際に足を運ぶことが出来ない地を想像させるに十分な収穫があった。
政、軍、市場、民。
彼らの議論が真剣になればなるほど把握できるし、また陳留のことも少なからず理解されただろう。
孫堅が最後に声をかけたことも、きっと本音だ。
その切っ掛けを作ったのは、間違いなく……

「ふふ、やるじゃない」

自然、曹操の顔には笑みが浮かんだ。
それは荀彧にとって、今までに見たこともない柔らかい笑みであった。
つい先ほどの離宮の一室で見た顔ぶれを脳裏に過ぎらせて。
もしも、天代である一刀が成し遂げるというのならば。

「轡を並べるのも、悪くないかもしれないわね」
「……」

まるで、その場に荀彧が居ないかのように呟いて、曹操は踵を返した。
一度も離宮に振り向くことなく。
荀彧は、呆気にとられたかのように曹操の背中を見送って立ち尽くしていた。
言葉は僅か。
しかし、伝わるものは多かった。
王として大きく見えた背中が、一瞬とはいえ小さく見えてしまっていた事に、荀彧はただならぬ衝撃を受けたのである。

「そんな、あんな男にそんな事が出来るわけ……」

曹操の描いた未来を、荀彧は敏感に感じ取っていた。
あの曹操が、この僅かな時とはいえ、柔らかく笑みをたたえて……
一部の隙すら見せない筈の彼女が確かに、その素顔を曝け出したのだ。
しかも、だ。
しかも、使われることを是とするかのように言い残して。
曹操が見ていた離宮を、今度は荀彧も見やる。

「できっこないわよ」

出来るはずがない。
自分の脳みそをどれだけ捻って答えを求めても、それは不可能であると結論を下した。
だからこそ、自分は王を求めて大陸を歩いた。
そして、それを為すことが出来ると確信できる相手に出会えたのだ。
間違いない、絶対に在り得ない。
どんな妖術を使えば生き返ることが出来るのだ。
宮廷の中を子供の頃とは言え見つめてきた荀彧に見えない道が、あの男には見えるとでも言うのか。
どんな知者に聞いたところで、濁った返答が帰ってきたというのに。
自分に今の疑問を尋ねて返ってくる答えは、やはり分からない。
それは、どうしようもなく荀彧を腹立たせた。
見捨てたはずの物が戻ってくるかもしれないと、僅かとはいえ期待してしまっているからかもしれない。
それは許せないことだ。
自分の志を真っ向から否定することになってしまう上に、何よりも王を求めた自分が馬鹿みたいでは無いか。
だというのに。

「……北郷一刀、やっぱり貴方なんて大ッ嫌いよ! 死んじゃえ、馬鹿っ!」

忌々しいことに、主の一瞬見せた顔を支えるのも悪くないと思ってしまうのだ。
ほんの少し前まで、まったく考えに上らなかったというのに。
この先、主である曹操の決断は慎重にしなければならない。
どちらを選ぶにせよ、洛陽を去り、帝の意識が無い今では手を出すことの無い様に進言せねばいけないだろう。
これだけは、何があっても早まってはいけないのだ。
例え曹操の持つ“絶”がその身を裂くことになろうとも。


その場に居ない一刀の姿が、何時の間にか英雄たちの胸を打たせて影響を及ぼしていた。
そう遠くない未来、洛陽を発つ曹操と孫堅。
董卓と同じように、曹操からは具足と宝石が、孫堅からは篭手が贈られていたという。


      ■ 女の“らしさ”


「あわわ……」
「や、やっぱ怖いね……」
「しゅ、朱里ちゃんどこー?」

今、朱里と雛里は大いなる闇の中、まるで五里霧中に居るかのようにその両腕を虚空に突き出して
ふらりふらりと右へ左へさ迷わせていた。
原因は彼女達の目を隠すように覆われた赤い布と青い布が巻かれて、その視界を隠していたからである。
平たく言えば、目隠しだ。
この目隠しに至る理由は、二人の目が刳り貫かれているという嘘を突き通すために行われている練習である。
劉備と共に官軍を率いて戦場に出ることが決まってから、たびたび二人はこうして目を隠し
慣らしておく練習をしようと考えていたようで、遂に今日、その練習が始まったということになる。
外に出ればおのずと行軍中は眼があることを隠さなければならない。
馬車や天幕―――勿論、その天幕の中では愛紗や鈴々が二人の監視をすることになるだろう―――も用意されるそうなので
移動の最中や陣地の設営が終わった時などは、余り気にしなくても良いかもしれないが
普段の生活の中で眼を隠すことになるのは間違いない。
この暗闇しか見えない世界の中での立ち振る舞い方を、今から身に着けておくことで
出来るだけ桃香達の負担を減らそう、という結論に至ってから朱里と雛里の目隠し特訓は始まったのだが。
実際に効果があるかと言えば首を傾げざるを得ないだろう。
その証拠に

「はうっ!」

朱里の声を頼りにふらりふらりと見当違いの方向へ歩いていった雛里が、部屋の机に額から突っ込み悲鳴をあげて

「ひ、雛里ちゃん大丈夫……? はわっ!」

雛里の身を案じた朱里も、頭を抱えて蹲る彼女に足をひっかけて頭から床へと落っこちる。
ビタンッ! という大きな音がプルプルと震える小鹿のように痛みに耐えていた雛里の耳朶を打つ。
上半身だけ手を床について浮かした状態で、朱里も同じように震えることになってしばし。
ようやく回復を果たした雛里から、涙声のような上ずった声が朱里の身を案じた。

「あわ、朱里ちゃん平気……?」
「はわわぅ、い、へ、平気だよこのくらい」
「あぶっ!」
「はぶっ!」

勢いよく体勢を立て直しながら振り向いた朱里と、見当違いの方向に手を向けて身を案じた雛里の
二人の頭の上に星が舞い上がった。
朱里の顔面パチキが雛里の側頭部に豪快にヒット。
跳ねるように頭を揺らして、声にならない声をあげながら強打した場所を両手で覆う。
と、このように練習を始めてから何度も見られる光景が減らないことを考えると
痛いだけで余り効率の良い練習とは言えないだろう。
すごく、根本的なことを見落としているのではと、目尻に涙を溜めて痛みを堪えながら脳裏に過ぎった二人の状況に
一番最初に気がついたのは、室内から迸る妙な擬音と声を聞きつけて覗いていた音々音だった。

「……お二人とも」
「あ、ねねちゃっ、きゃあ!」
「しゅ、朱里ちゃん重いっ……」
「そ、そんなに太ってないもん!」
「そうじゃなくてあわわわっ」

虚空に向かって反論をし始めた朱里と、起き上がった拍子にスカートが朱里の膝で踏まれて体勢を崩す雛里。
よれた体勢から焦ったのだろう。
暴れた腕が、朱里の腰を抱くようにして引っかかると、そのまま二人揃って転倒した。
絡まるようにして一回転。
放りだれた雛里のふくらはぎが柱に当たって、小さな悲鳴をあげたかと思えば
その反動で帰って来た雛里の足が、朱里の太腿の裏を強打し、再び小鹿の時間が始まった。
ちょっと面白いかもと思い始めた音々音であったが、そのまま見続けたい好奇心を何とか押し殺し
唸りを上げて眼を回している二人の目隠しを解いてあげた。

「はぁ、一体お二人は何をしているのです」
「うう、暗闇に慣れる練習を……」
「痛いです……」
「……二人一緒にではなく、片方ずつ慣れれば良いだけでは?」
「あ」
「あ」
「あー……朱里殿も雛里殿も、賢いのに馬鹿なのです」

多分に失礼な見解を述べた音々音であったが、考えに上らなかったせいか朱里も雛里も顔を真っ赤にして俯くしかなかった。
二人一緒に練習することを決めていたところで、同時にやる必要はまったくない。
一応、いろいろと打ったり倒れたりしてしまったので、手当てを兼ねた休憩を取ることになった。
自然な流れで。

「あ、この前の甘味処のお菓子ですか?」
「本当はお昼に取っておこうと思ったのですが……」
「ねねちゃんも、食べたくなった?」
「う、ま、まぁ食べたくないと言えば嘘になるのですぞ」
「うんうん、ここのお菓子美味しいからね」
「一刀様が見つけてきたんだよね」
「なんでも、文醜殿が最初に見つけたそうですぞ」
「へー」
「へー」

先ほどまで転げまわっていた二人も、今はひと心地ついて落ち着いたのか
音々音の持ってきたお茶とお菓子を囲んで笑顔を見せ、和やかな雰囲気が流れた。
音々音も会話の輪に加わって、楽しいお茶の時間を過ごす。
三人とも、お互いの距離は随分と近くなっており、また隠し事をするような事も無いので
素直な気持ちを吐露できる、貴重な友人となりつつあった。
この三人の話題に上るのは、結構限られている。
口頭だけで聞かされる最近の出来事や、自分達の主である桃香や、帝の娘であられる劉協様のこと。
他にも最近になって離宮へ住み始めた愛紗や鈴々。
恋と、その動物達。
そして、三人ともに著しく興味を惹く天代の北郷一刀。

勿論、一刀の軍師を自称して止まない音々音は諸侯の動きや官僚達の周りを探ったり
段珪との話し合いから、離宮の雑用も手伝ったりしているので外の話題がまったく無いということはない。
ただ基本的に話題にあがるのは、やはり身近な人になるわけで。

「そういえば桃香様から聞いたのだけど、一刀様がその……襲うように抱きついているって噂が」
「あ、言ってたよね……桃香様、ずいぶんと取り乱していたけれど、ほ、本当なのかなぁ?」
「根拠の無い噂話に過ぎないのです。 正直、一刀殿の周りにはそうした噂が多すぎて、気にするだけ無駄な労力ですぞ」
「うん……やっぱり、天代という身分になると色んな噂が飛び交うのかも」
「そうだよね、実際に私達が虐待されることもなかったし……」
「むしろ、一刀殿はその噂すら突き破って色んな女性を口説くのだから困るのです」
「えぇ、そ、そうなんだ」
「しゅごいなぁ」
「袁紹殿、桃香殿を初めとしてそれはもう次々に噂が……荀彧殿や公孫瓚殿……挙げれば切りがないのです」

そうした話で朱里と雛里の胸に思い出されるのは、いつかの朝帰りをなした一刀である。
あの時のことを後に聞いた時、しっかりと誤解は解けたのだが
公孫瓚と共に何をしていたかは、ぼやかされてしまっていた。
音々音はその真実を知っていたわけだが、それを皆に言いふらすつもりも無い。
あの『一番』発言は、音々音にとっても秘密にしておきたい事でもある。
ちなみに、音々音が荀彧との関係を知ったのは夏候惇からである。
たまたま桃香が練兵場へ向かう際に出会い、聞きかじったものだった。
くだらない噂だと一笑に付したが、微妙に引っかかるのは何が原因だろうか。
話を戻すと、結果として朱里と雛里の手元には、何をしていたか教えてくれないけど昼間に出かけて翌日の朝まで
公孫瓚と何かをしていて朝帰りになったという情報しか無かった。
他にも、桃香からの話では主に練兵場の方から孫家の皆様などと友好を深めているそうだ。
本当かどうかは分からないが、孫策にも襲い掛かって抱きついたという話もあがった。

「……ああ、あの時の」
「ん? なぁに、ねねちゃん」
「何でもないのです」
「あわ……なんだか眼が据わり始めてるのですが……」

そして、この三人が集まって話し合うと、次第に一刀のことに話題が集中するのが常であった。
音々音は言うに及ばず、朱里も雛里にとって一刀という者が、自分にどれだけ苦心していたのかを知っており
また、自分達に道を示してくれた恩人だ。
異性という点からも、著しい興味を抱いてしまうのは、彼女達の年頃である乙女心を鑑みるに仕方がない。
なんだかんだ言っても、一刀に対して何かしらの噂が流れればこの場に居る少女達は耳をピンと立てるのだ。
どちらの意味でも。
そしてまぁ、立場故だろうが一刀の噂はあることないこと放って置いても沸いてくる。
確かに、音々音が言うように気にしていても疲れるだけだろう。

「はぁ……」
「どうしたの朱里ちゃん」
「ううん、なんでも……はっ!」
「どうしたのですか? 朱里殿」
「……そ、そ、そうだ! 良いことを閃いちゃいみゃしたよ!」

ガタッと椅子を引いて、溜息から一転して興奮した様子を見せて立ち上がった朱里に、音々音と雛里は顔を見合わせた。
二人の様子に気がついた朱里は、一つわざとらしく咳をして視線を集めると
人差し指を立てて瞑目し……そして口を開いた。

「私、一刀様にずっとお礼をしたかったんです。
 此処に来てから……ううん、来る前から一刀様には言葉に出来ない程の恩を貰いました。
 それのお返しを、少しでもしたいって」

そこで一つ言葉を区切って、割と真面目な話が飛び出したことで真剣に朱里の顔を見やる雛里と音々音。
ゆっくりと眼を開けて、朱里は決意したかのように握りこぶしを一つ作って

「今の話をしていて閃きました! 一刀様は今、離宮に戻ることが出来ないほどの忙しさの中に身を置いて
 その、官僚様や宦官様の間に囲まれて、心身共に疲労が蓄積されているはずですっ!」
「それは確かに、ねねもそう思うのです」
「だから! 料理を作りたいと思いますっ!」

「「え?」」

雛里と音々音の声が、バッチシ重なって朱里に返って来た。
一瞬呆れたかのような眼を向ける音々音と、朱里の言葉の真意が掴めずにキョドる雛里。
二人の冷めた様子に、卓に両手をついて身を乗り出した彼女の主張はこうだった。
事実として、一刀が日々忙殺される勢いで働いていることは、桃香や劉協からの話からも把握している。
とはいえ、離宮に戻らない日が皆無というわけではない。
寝食を離宮で取ることは稀になったとはいえ、仮眠の為に戻ってくることもあれば
ちょっとした空いた時間に顔を見せること、皆と食事を取ることもある。
顔を見せるのは僅かな時間なのだが、一刀も離宮に居る者たちを気に掛けてくれているのか
ちょくちょくと顔を見せにくるのだ。
そんな一刀の顔色は、日に日に疲れを増しているように思えた。
実際、一刀は疲れているのだが。
そこで、朱里の提案である。
この朱里の考えには利がいくつかあるのだ。

基本的に、この宮内で食べる物というのは宮内の料理人が―――大陸屈指といってもいい―――作っている。
少し前にあった『毒』事件から料理長は変わっているが。
市井の人々からすれば手が出ない高級な食材も、珍しい一品も良く見かけるし
味だって料理人の腕が良いのだ。
そこいらで売っている物と比べれば天と地ほどの差がある。
だが、ここに来てからの食事の中で真心を感じたものは無かったと言える。
誰かの為というわけでもなく、宮廷に振る舞う料理をいっぺんに、かつ大量に作っているのだから仕方ないのだが。

「ふむ、朱里殿の言いたいことが分かってきたのです」
「うん、これは良いかも……朱里ちゃん」

朱里が二つ目にあげたのは、“らしさ”だ。
正直いって、朱里が一刀に対して抱く感情は異性の友人というレベルを超えていた。
女として一刀に気に入られたい、見て欲しいという欲求が無いと言えば嘘だ。
しかし明らかに好意を寄せて攻勢を仕掛け始めた桃香と、立場からか面には出さないが
一方ならぬ興味を抱かれている様子の劉協様のことを考えると、言葉にするのは躊躇われた。
なにより、一刀と自分ではつりあわない。
それは体格差とか立場とか体格差とか容姿とか体格差とか、あと体格差とか恩人だとか抜きにしてもだ。 あと体格差も。
とにかく、そうした状況下で出来る、女としてのアピールは何があるかと考えた場合は
“らしさ”を見せることであると、朱里は力説した。
これに雛里は大きく衝撃を受けたようで、朱里を手放しで絶賛した。
まるで伝播するかのように朱里の興奮を引き継いだ雛里が、鼻息を荒くして“らしさ”の内容に言及しはじめた。

いささか乗り遅れた形の音々音は、やはりと確信した。
朱里も雛里も、恐らく同様の経緯をへて今の答えに辿りついたのだろう。
言葉にせずとも、二人の真剣な様子から考えれば容易に察しはついた。
懸想していると。
そして、朱里と雛里の置かれている立場に思い至れば、彼女達が想いを告げる方法が如何に少ないかがわかってしまう。

「……まぁ、一刀殿の一番はねねですし……ここは器量を見せる時なのです」
「え? なぁに、ねねちゃん」
「なんでもないですぞ、そのお話、ねねもお手伝いしてあげるのです」
「うん、三人で心の篭った料理、作ってあげよう」

かくして、彼女達の真心作戦~料理で“らしさ”をアピールよ~は画策されたのである。


―――


この真心作戦を行うに当たって、大陸屈指の頭脳を存分に働かせた結果
最初の一手は一刀の部屋から行われることになった。
1時間に及ぶ協議により、“らしさ”には三つの重要な要素があると分かったのだ。
その三つは“料理”、“整理(掃除)”、“夜伽”である。
“らしさ”の第一手は、話し合いの中で自然と整理(掃除)から始まることになった。
現在、一刀は戻ってくることが少ないし、それほど汚れているという訳でもないのだが
それでも埃は溜まるし、机の上は悲惨なことにもなっている。
小物類も散らばって、見た目が悪いといえば悪い。
一刀がちょっとした用事の時でも戻ってきた際に、しっかりと片付いていれば心象が良いのは間違いないだろう。
それが食事を取れる時であれば、なお良い。
整理と料理によって、“らしさ”を存分に見せ付けることが出来る。
“夜伽”に関しては恐ろしく難しい問題であったので、とりあえず棚上げの状態だった。

「とはいえ、一刀様の部屋だけ掃除するのは……」
「確かに、劉協様や桃香様のお部屋も掃除するべきかも知れません……」
「うーん、ねねが思うに一刀殿にだけという特別感を醸し出した方が上策と思うのです」

割烹着のように汚れても良いような服を頭から被って、手にはバケツと雑巾。
頭には三角帽のようなものを巻いた三人組が、顔を突き合わせて一刀の部屋の前でひそひそと話し込む。
そもそも、一刀は自ら断っているから良いとしても、桃香や劉協は離宮で働く使用人が
定期的に清掃を行っているので、掃除をしなくても問題ない。
仕える主が三人もいるような現状で、誰かを贔屓にしたくはないと考える朱里と雛里の気持ちも音々音は分かっている。
実際に劉協と一刀に仕えているような形の音々音も、何度か経験したジレンマであるからだ。
そんな時、ひそりと囲んで話している三人に気が付く者が居た。

「……おはよう」
「はわ、恋さんっ……」
「れ、恋殿、いきなり現れるのは心臓に悪いのですっ」
「……?」

話しこんでいる様子が気になったのだろう。
明らかに寝巻と思われる軽装に、両手で長い枕を抱いて現れたのは恋であった。
またぞろ昼寝をするための場所を探していたに違いない。
帝の意識が無くなってから5日、まったく普段と変わらない日々を過ごしているのは
もしかしたら彼女だけかもしれなかった。

「ねね、なにしてるの?」
「あ、えっと、それはですね、ちょっと一刀様のお部屋のお掃除を―――もがっ」

恋の尋ねに素直に答えようとした雛里の口に、高速で飛来した音々音の手で遮られた。
呆気にとられる朱里と、目だけで何なのかを訴える雛里を無視して
音々音の視線はゆっくりと恋へ向けられた。
その視線を受けて訝しげにしながらも、恋は首を一つ縦に振ると一体どこから取り出したのか。
金属特有の音を響かせ、方天画戟を中空で揺らした。
まるで、何かを主張するかのように。

「掃除……掃除は得意」
「だだだだだ、駄目ですぞ! 此処は絶対だめなのです!」
「恋も、てつだう」

その後、数十分に渡って恋と音々音で熾烈な交渉が繰り広げられ、料理の時に手伝ってもらうことを条件に、何とか事なきを得る。
今の一連のやり取りから連想したのか、あるいは音々音の必死さから何かを感じたのか。
恋が立ち去ると、驚くべき速度で掃除を終えた三人の姿があった。
余計な邪魔が入らないうちに終わらせてしまおうと、休むことなく続けて、終了までの所要時間が僅か1時間である。
少し汚いと思われた一刀の部屋は、物品を壊されることなく無事に清掃された。


―――


「厨房を貸してくれ?」
「はい、あの、使う食材はこちらに明記してありますので……」
「構わないが、何に使うのだ?」

真心作戦は、第2の段階に入った。
この作戦の肝である“らしさ”を見せつける重要な部分である。
まぁ、言ってしまえばただの料理なのだが、それをするには離宮にある厨房を借りる必要があった。
先ほどの交渉のこともあるので、恋もこの場には居る。
4人集まって厨房を貸してくれとお願いされた劉協は、眉をひそめて何をするのか尋ねたのだ。
特に、朱里と雛里の二人は目のこともある。
不用意に許可を出して、誰かに見られれば一刀のあれだけの苦労が水の泡だ。
更に言えば、厨房を借りるとなると、そこまで行くための道を立ち入り禁止にしなくてはならなくなる。
生半可な理由で許可が出せるような話じゃなかった。

「料理を作るだけの間で構いませんから……」
「しかし、駄目だ。 確かに離宮を使う人は少ないが、少なからず居るし迷惑にもなる……何より、料理人を追い出すのは可哀そうだ」
「お、お願いです、少しだけっ! 一刀様の為なんです」
「だから、言っているだろう。 茶を一杯楽しんでいる間に終わらせておいてやる。 段珪ーーーーっ!」
「ええっっ!?」

割とあっさりと劉協の説得に成功した一行は、段珪の苦慮の結果、二時間ほど貸し切ることに成功すると
与えられた時間を最大限有効に使おうと、昼食を兼ねた調理に汗を流した。
その中には、劉協の姿も混じって見られた。
厨房から生まれる香ばしい匂いに釣られてか、桃香と鈴々も顔を出し
練兵場から戻った愛紗も、厨房から運び出される料理の数々を見て後を追う事になった。
その日の昼食は、一刀を除く離宮に住まう者達で、和気あいあいと取ることになったのである。

ちなみに、その夜に開かれた音々音、朱里、雛里、劉協で開かれた“らしさ”の追求は
愛紗が現れたことにより、酷く中途パンパな形で有耶無耶な終わりを迎えた、らしい。


―――


そうして、思い立ってから早くも3日。
遂に時は熟した。
真心作戦の最終段階は、一刀が離宮へ顔を出すことによって完了するのだ。
途中から隠しきれなくなった、離宮一の権力者である劉協を仲間に加えた彼女達は
数日の―――主に料理に興味を抱いた愛紗を中心に繰り広げられていた―――地獄の特訓を乗り越えて
出来あがった至高の一品、その名も劉協様特別杯。
どこかの競馬レースのような名を付けられたその一品は、あくまでも素朴で心を打つような素材で作られている。
愛紗の天文学的失敗から偶然生みだされた謎の残骸、その有効利用法を思いついた雛里の手により
未知のペーストを下地にしたスープを中心に組み立てられ、朱里の閃きから酒を少々混ぜて美味しさを引き出すことに成功すると
音々音が試しに入れてみた芋が、風味と甘みを醸し出すことに気が付いて採用される。
劉協の一声で集められた、最高級の素朴な素材がふんだんに使われたこの料理。
まさに、劉協の離宮に住む者が総力を挙げて作り出した至高の一品となって
試食係に抜擢された鈴々や恋にも太鼓判を押されている。
確かな自信と確信を持った、この劉協様特別杯が完成したその日。
一刀が離宮に戻る予定があることを聞きつけたのだ。
今、朱里と雛里、音々音の三人は熱々のスープを提供するために厨房で鍋をかきまわしている。
この料理は、熱い方が美味しいのだ。

「……やっと、やっと来たんだね」
「正直、ねねはこの料理が完成に至る前に、死ぬかと思ったのです……」
「え、何のことねねちゃん、私覚えてないよ」
「朱里殿、現実逃避したくなる気持ちは分かりますが、あれは現実のことなのですぞ……」

そこまで言い切った時、廊下から響くようにくしゃみの声が聞こえてきた。
三人共に顔を見合わせて、クスリと笑う。

「もう、朱里ちゃんもねねちゃんもひどいよぉ」
「くくっ、そうですな。 愛紗殿が居なければ、劉協様特別杯も出来なかったですから」
「あはははっ、本当だね」

考えてみれば、この料理は離宮の全員の協力があって出来あがっている。
最初の発想はちょっと、不純だったのかも知れないが、確かに全員の真心が入っているような気がした。
段珪が厨房を手配してくれて、劉協が素材を提供してくれた。
愛紗が作り出した料理の残滓が元となり、桃香がその直撃を受けて倒れると三人で力を合わせて改良を重ねていく。
鈴々と恋には、まだ美味しいと呼べる前の物もしっかりと食して評され。
きっと誰が抜けても完成に至らなかっただろう、この料理は自信を持って一刀に贈ることができる。

「速く、こないかな」
「うん」

大きい鍋で作っているこの料理は、かきまわすのも大変だ。
三人で交代しながらかき混ぜ棒を奮い、一刀が戻って来るのを待っていた。


―――


手に竹簡を抱えながら、仮眠をする為に一刀は離宮へと向かっていた。
今日、何進と蹇碩が予てから進めていた新兵の演習、これを兵5000でもって洛陽の郊外へ飛び出していった。
それらを見送った後、ここ最近やたらと懐かれている趙忠と汚職を繰り返していることが確定した宦官への対応を話し合い
西園三軍絡みから、袁紹と顔を合わせて今に至る。
帝が倒れて早くも10日。
あの衝撃の日から徐々に落ち着きを取り戻しつつある宮内をぐるりと一つ見回す。
その間、顕著に感じるのは自分に向かう風当たりの変化だ。
張譲が自分の私財を吐き出した一件から、官僚や宦官の間には強い戸惑いが見受けられた。
切っ掛けの一つに過ぎないのかもしれないが、張譲の影響力を確かに感じる出来ごとだった。
息つく間もなく忙殺された一刀でも感じ取れたのだ。
宦官筆頭の十常侍、張譲の名は伊達ではないと言う事だろう。
もうすっかり帳の降りた夜空を見上げて、今日は雲がなく晴れているのに、いつもより暗いことに気が付く。
きっと新月なのだろう。
ゆっくりと離宮に向かいながら一刀は歩く。
恒例となってしまった、脳内との会議を繰り広げながら。

『そういえば、聞こえてた?』
「なに?」
『何が?』
『何進さんが天代の名で募った数が、八千人を超えてたらしいよ』
『え、あれで全部じゃなかったのか?』
『演習で行くのはあれで全部なんだって』
『誰が言ってた?』
『分からない。 何進さんの近くに居た人だと思うけど』
『へぇ……』
『俺が気付いたことはようやく流れた噂くらいかなぁ』
『『『 ま た 噂 か 』』』
「どんなの?」
『天代は不眠不休で10日以上働ける』
『『あぁ……まぁ予想の範囲内か』』
『だな』
『事実だしね』

この噂はむしろ、出るのが遅かったくらいだった。
それだけ、帝の意識が無くなったことに衝撃を受けていたのかもしれないが。
聞けば、戦の最中も快方に向かった帝を盛大に祝う宴が開かれていたらしい。
黄巾党と必死に戦っていた一刀からすれば、ちょっとそれはどうなんだ、と思わないでも無かったが
それほど、この宮内……いや、漢王朝にとって帝の存在は大きいものなのかも知れないと、最近では思うようになっている。
実際のところ、脳内の一刀達がフル回転で回っている現状の中で、この噂が出ることは分かっていたし
余り気にするようなことでもないと結論が出ている。
それよりも、何よりも。

『いい加減、落ちついて欲しいけどな』
『確かに』
「……うん」
『疲れた……』

ちょくちょく顔を出しているとはいえ、長くて1時間居るかどうか。
今こうして離宮に戻るのも久しぶりだ。
劉宏様が倒れる前と後で、これほど忙しくなることは予想もしていなかった。
本体はもとより、脳内の一刀達も疲れているのは否めなかった。

「あ、一刀殿ー!」
「ん、ああ、ねね……」

離宮の入り口で手を上げて迎える音々音に、片手を挙げて返す。
こちらへ向かってくると思ったが、何故か踵を返して離宮の中へと戻って行った。
その行動を怪訝に思いつつ、音々音の入って行った扉を開くと、鼻の奥を付く良い匂いが漂ってきた。
いつか何処かで嗅いだ覚えのある匂いだった。

「うん……?」
「一刀様、おかえりなさい!」
「あの、お食事出来てます!」
「あ、ああ、ただいま朱里、雛里……」

パタパタと走ってきて、興奮した様子で迎え入れられた一刀は戸惑いながらも答えを返す。
恐らく、朱里と雛里を呼びに行ったことで若干遅れてやってきた音々音の姿を認めて
一刀は頬をかきながらはにかんだ。

「一刀殿、おかえりなのです」
「ああ、ただいま、ねね……ああ、それで、食事だけど俺はいらないから食べちゃってて良いよ」
「なんですとー!」
「ええっ!?」
「いや、その、さっき食べたばっかりで……」

一刀と同じように、笑みを浮かべながら迎えてくれた音々音の大声に驚くと共に
何かまずいことを言ってしまっただろうかと、一刀は動揺した。
ふと見れば、朱里や雛里も目を見開いて一刀に視線を突き刺している。
一歩、朱里の足が後ろに下がった。
追随して雛里も同じように。
かと思えば、ぐらりと身体がよろめいて 「ああ……」 などと呻きながら一刀から離れていく。
その一部始終を見送った一刀をよそに、朱里と雛里は、やや離れた音々音の側によって
ひそりひそりと隠れて話し始めた。

「ままま、まずいですよ……外で食べてくるかもしれないと言う根本的な問題を忘れて……」
「ううう、うん、確かに、というか気付こうよ、私達軍師なのに」
「ししし、仕方ないのです、殆ど料理を完成させることだけしか頭になかったのですから」

一刀が戻って1分と立たずに崩壊の危機を迎えた真心作戦。
半ば完成が見えていただけに、一刀の料理いらないよ発言は大きなダメージを彼女達に与えていた。
彼女達が輪を作って慌てふためいているのを見ていた一刀は、しばらく放っておくかと結論づける。
なんだか下手に触ると危険なような気もしたので、少し迂回する形で歩き出した。
朱里たちの輪を追い越すと、厨房から顔だけを出した劉協が声をかけてきた。

「一刀」
「ああ、劉協様、ただいま」
「おかえり。 それより、食事をいらないというのは本当か?」
「うん、袁紹さんのところで食べてきちゃったんだ」
「そうか……それは、残念だが仕方ないな」
「ああ、もしかして劉協様……って、まさか、これ?」

自然、話しながら厨房に近付く形になった一刀は、おそらく匂いの元だろう鍋に気が付いた。
中身を除けば、離宮に入った直後、どこかで嗅いだ覚えがあると感じた理由がハッキリする。

「……豚汁だ」
「……一刀、今なんと言った」
「豚汁だよ! まさか此処で豚汁を見ることが出来るなんて!」
「と、豚……だと……」

些か興奮した様子で豚の汁と連呼する一刀。
劉協様特別杯=豚の汁と称されて、劉協は大いなる衝撃に一言漏らすのが精いっぱいだった。
一方で、この世界で豚汁を見ることになるとは思わなかった一刀は、腹が一杯であることを差し引いても
一杯、貰おうかという気になり始めていた。
隣に積まれているお椀を一つ手に取って、鍋におたまの様な形をした物を突っ込んだところで
精神的ショックから回復した音々音達が迎えた時と同じようにパタパタと走って来る。
その顔は、やたらと紅潮していた。

「あの、か、一刀様!」
「その……えと……」
「も、もしもお腹が一杯なら……べ、別の物をた、食べるのは」
「え?」

何がどういう経緯を辿ってその結論に落ち着いたのか分からないが
あの三人の輪の中で真心作戦の失敗を知った彼女達が導きだした答えは、これだった。
ただ、不幸なことに彼女達の作戦の転換ぶりに、一体何を言っているのか一刀は分理解できなかった。
余りにもそわそわして落ち着かない彼女達は、目線も一刀に会っておらず中空を彷徨っている。
ふと劉協の方を見てみれば、卓に突っ伏すようにして手を拱いており、一刀の第6感から第8感が触るなと告げていた。

『あれは、危険だ』
『うん、なんか分からないけど、ヤバい感じがするね』
『触らない方がいいな』

「えーっと……とりあえず、ねね―――」
「はっ! わ、ね、ねねですか!?」
「え? いや、その……朱里、これは一体―――」
「はわわわっ、わ、私もですかっ! あのその、はいっ!」
「あー……雛里?」
「あわわわ、あわわわ、あわわ」

一刀はもう、何が何だか分からなかった。
劉協に尋ねるのは危険だと言われ、仕方なく音々音達に物を尋ねようとすればテンパった答えが返って来るだけ。
どうしようも無いので、お椀に豚汁を注いでいると、声を合わせて飛んできた。

「「「 ど、どうぞ! 」」」
「……いただきます?」
「ッ―――!」

三者三様に、一刀の宣言に目をつむり、身をすくませて身構えた。
そんな三人を一瞥して、一刀は首を捻りながらも速く豚汁を食べたい一心でその横を華麗に通過する。
コトリと置いたお椀の音が、やたらと静まり返った厨房に大きく響いた。
その音を切っ掛けに、音々音と朱里、雛里の目が僅かに開いて顔を見合わせる。
なんだか妙な雰囲気の中、一刀は全てを無視して豚汁を食べる事に集中し、一つ掬いあげて口に放り込んだ。

「お、うまい」

素直に感想が口から滑り出た。
なんだか女として重大な勝負を透かされた形になったものの、その一言は苦心して作り上げた物だけに嬉しい一言だった。
互いに顔を見合わせて、やや冷静になると自分達も豚汁をよそって一刀の座る卓に腰を下ろす。
危険な雰囲気が遠のいたことを肌で実感した一刀は、一つ安堵の息を吐くと音々音に顔を向けて尋ねた。

「でも、良くこんな物を作れたね」
「ふふ、これはねね達の自信作なのですぞ」
「名付けて、劉協様特―――」
「豚汁!」

朱里が得意げに声をあげようとしたその刹那。
別の卓に突っ伏していた劉協の両手が翻って卓を強打し、大きな音を響かせた。
当然、突然の出来ごとに劉協へと視線が集まる。

「豚汁だそうだ、なぁ一刀……」
「あ、ああ……これはその、俺の居た世界にもある料理で、豚汁っていうんだ……」
「ふふふ、だ、そうだぞ」
「はわわ……」
「あわわ……」

やたわ低い声で乾いた笑いを放ちつつ、彼女は席を立って自らも豚汁を一杯注ぐ。
何故、劉協が引き攣った笑みを浮かべていたのか、その原因に辿りついた雛里はじとりと汗を滲ませた。
まだ事態の把握が出来ていない一刀は、つつっと音々音の耳元に口を寄せて尋ねた。

「なぁ……これ、なんて名付けたんだ?」
「……劉協様特別杯と、名付けたのです……」
「なんでそんな名前を?」
「それはその、劉協様のおかげで厨房を借りて作ることが出来たから……」

理解に至った瞬間、一刀は肩を震わすのをあきらめたように、咽返りながら笑い声を挙げた。
確かに一刀以外に豚汁だと知る者は居ないだろうし、作る過程も違っているのかもしれない。
ただ、その擦違いが妙におかしくて、一刀はここ最近で一番ツボにはまって爆笑した。
何が可笑しいのか! と割と真面目に怒っている劉協に両手を挙げて降参するように
手を振る一刀は散々笑い飛ばした。
陰鬱とした気分や考え、身体の底に淀んでいた疲労感も吹き飛んでいくように感じて。
ようやく落ち着いた頃、随分と煮込んでいたのだろう。
未だに冷めぬ豚汁を食べながら一つ漏らした。
それはもう隠す事なく一刀の本心であった。

「ああ、暖かいよ、本当に」

全てが予定通りとはいかなかったが、しかし。
彼女達の想いを乗せた真心作戦は、確かに一刀に届いて成功したのかも知れない。


      ■ 二日無し


深夜。
月の出ていない夜は、酷く暗かった。
器に灯る蝋の火だけが、人に空間を認識させている。
そして今。
見えない月を見上げるように、窓の外を眺める宦官の一人が帝の元に詰めていた。

「うう……」

短い呻き声が室内に響く。
その声に、宦官は驚くように帝の元に駆け寄った。

「み……水を……」
「おおっ……劉宏様」

言われ、宦官は慌てて水を用意して差し出した。
覚束ない動きで器を手に取り、僅かに起こした身体を宦官に支えられながら水を飲み込んでいく。
力が入らないのか。
飲んでいる最中に器ごと水をこぼし、それすら気付いていない様子で重い身体を転がした。
そんな劉宏のかすれた声が、宦官の耳朶をもう一度打つ。

「か、一刀を呼んでくれ……」
「はっ」

言われて宦官は急いで部屋の出口へと向かうと、一直線に隣の部屋へ駆け込む。
室内を見回して誰が居て誰が居ないのかをしっかりと確認し、そして口を開いた。

「劉宏様の意識が戻りました、張譲様」
「起きられたか」
「はい。 しかし、正直言いまして私の感じたところでは……その……」
「よい、天医の華佗も言っておった。 次に倒れれば劉宏様はもう長くは無いだろうと。 このまま崩御なさる可能性もあったのだろう」
「は……それと、帝が天代を呼べと言われております」
「うん……? 呼ぶのか?」

問われた宦官は、張譲の自然な尋ねに唾を飲んだ。
別に威圧した訳ではない、凄んだ訳でもない。
ただ淡々と、呼ぶのかどうかを問われただけだ。
ただ一つ、張譲の手の中で転がった宝玉の音だけが、その会話の中で異質だった。

「いや……その……」
「なに、呼んでも私はいっこうに構わんが……」

そこで言葉を切って、張譲はようやく立ち上がった。
続く言葉はなく、帝の元に向かっただろう張譲を見送った宦官は大きく息を吐き出して
じんわりと染み出た脂汗を布で拭き取った。
僅か20歩。
その距離が、帝の寝室までの距離であった。
器に載せて運ぶ蝋の火を抱え、張譲は静かに扉を開けて中に入る。

「おお……張譲か……」
「意識が戻られまして、何よりです、劉宏様」
「張譲……一刀を呼んでくれたか……」

その声には答えず、身じろいで寝転がる劉宏に静かに近寄ると張譲は短く首を振った。
時は、来たのだろう。
顔色を伺えば、うすら寒さを覚えるほどに青白い。
ここから快方に向かうのかどうか、医者ではない張譲には分からなかったが
それはもうどちらでも良かった。
仮に、帝である劉宏がこれから立ち上がろうとも手遅れなのだ。
どちらの意味でも。
だからこそ、もう迷うことなく手を打つだけになった。
天の御使いを名乗った北郷一刀が現れてから、時間は随分と立つ。
その間、ずっと動向を伺って来た張譲は今、この瞬間に腹を決めたのだろう。

「劉宏様、天代はお呼びしません……いえ、できません」
「……張、譲?」
「劉宏様、お覚悟をしてお聞きください」

無表情を貼り付けた張譲を見やり、劉宏は幽鬼を彼に見た気がした。
しばし呆然と見上げ、口を開く張譲の言葉に耳を傾けるだけであった劉宏は
やがてその身体を震わせ、顔を歪め始めた。
それは身体を蝕む病だけが原因では無かったのだろう。
険しい顔で眉間に皺を寄せて、張譲の一言が胸を突き刺すようにかき抱いた。

「劉宏様、これを見てくださいませ」
「おお……おおお、こ、これは……」

やがて言葉を区切り、張譲は懐から上質な巾着に入れられた木で造られた拳大の物を取りだした。
それは、劉宏その側から消えて久しい物であった。
良く見れば気がついただろうソレは、暗さのせいかハッキリと劉宏に認識することは出来なかった。
ただ、分かる。
そう遠くない過去に自分が使っていた物であるからだ。

「それは……まさか、玉璽か……っ!」
「はい、その通りでございます」
「ば、馬鹿な……そんな筈が無い……こんなことは」
「これが現実でございます」
「し、しかし……!」
「劉宏様……天に二日は無いのです」
「……おぉ……」

短く呻いて顔を伏した劉宏を一瞥し限界かと悟ると、張譲は一つ断りを入れて一度退室した。
側に控える宦官に向かって趙忠を呼ぶよう声をかけ、ついでに先ほど張譲を呼びに来た宦官を見つけて帝の側に付けると
自身も劉宏の側に控え夜を明かすことにした。
陽が出るまでの間、張譲の掌で休むことなく宝玉が転がり続けていた。



明けて翌日。
帝の快方を知った一刀と劉協は、朝の一番に駆けつけた。
当然のように帝の伏せる部屋へ入ろうと、手をかけたところで宦官の一人に止められる。
咄嗟に手をかけられて、入ることを邪魔された一刀は訝しげに宦官を見て口を開いた。

「……なんですか?」
「どうした」
「いえ、その、天代様……劉協様も。 今は入らないで欲しいのです」
「何故だ、父に会いに行ってはいけないのか」
「いや、その……劉宏様が会いたくないと……」
『“会いたくない”?』

その宦官から出た言葉に反応を返したのは、一刀の脳内が一番早かった。
劉協が食ってかかるのを見ながら、一刀はわずかに扉から離れて脳内へと尋ねた。
どうしたのか、と。

『“白の”?』
『ああ、いや……なんか引っ掛かって……』
『うん、嫌がらせにしては直球すぎるね』

確かに、目覚めたばかりである劉宏へ多くの人に合わせることは躊躇いがあるだろう。
しかし、自分はとにかくとして実の娘である劉協も入室を断るとは、些か神経質なのではと思わずに居られない。
医者から断られるのならば納得できるかも知れないが。
こう言っては権威を振りかざすようで嫌ではあるが、実際のところ身の回りを世話するだけの宦官に
天代である一刀を押し止める力は無い。
まぁ、例えそう思っても、一刀が無理やりに入ることは無いのだが。

「……あの、俺はともかく、劉協様だけでも入れないかな」

そう一刀が口を開いたときだった。
帝の居られる部屋の扉が開いて、中から張譲が顔を出す。
押し問答を繰り広げていた―――若干、青い顔をした―――宦官と劉協も、同じように視線を向ける。
自分達を見回して、張譲はとつぜんに頭を下げた。

「これは……劉協様。 そして天代様、どうかなされたか」
「意識が戻ったと聞いて予定を投げて来たのです。 父に会わせてください」
「この方が、帝が我々に会いたくないと」
「いえ、それはその……」

一刀達の言い分を聞いて、チラリと宦官に顔を向けた張譲の視線を受けて口ごもる。
それらを無視して、張譲は溜息のようなものを吐き出しながら説明した。
なんでも、意識は戻ったものの、容態は余り良くないらしく、食欲も無いそうである。
何より、10日近くも昏倒していたために痩せ細り、力が出ないらしい。
起き上がることも難しく、身体を起こすだけでも精一杯。

「今は出来るだけ、そっと安静にしておいた方が良いでしょう」
「つまり、会って話すことも出来ないと?」
「いかにも、出来れば心身に負担になるような話も避けて戴きたい……我々宦官の者も、折りを見て退室し医者だけを残すつもりです」

ゆっくりと頷いて言う張譲の目には、何を言っても中には入れさせないという決意が見え隠れした。
劉宏の様子を実際にみた訳ではないが、意識を取り戻しただけで未だに予断の許さない状況が続いているかも知れないと
一刀に限らず劉協にも思わせた。
しばし、張譲を真っ直ぐに見つめていた劉協であったが、やがてかぶりを振って息を吐く。
ここで意地を張って父と会っても、危険性の方が高いのならば会わないほうが良い。
そう考えての事だった。

「……分かった、一刀、出直そう」
「……天医殿とは、連絡がつきましたか」
「いえ、残念ながら……」
「そうですか……申し訳ありませんが劉協様、天代様、今日のところはお引取り下さい」
「……はい、また、来ます」

一刀は軽く張譲へと会釈し、劉協は振り返らずに踵を返す。
しばし無言で歩き、出口へ向かうところで人影が見えた。
この場所に訪れることが出来るのは限られた者達だけだ。
一刀も何度かその顔を見たことがあり、ここ最近ではその人物の周囲の人々とも関わりを持っている。
劉弁であった。
最後に見た時よりもやや長く伸びた黒い髪を、後ろで一つにまとめて
少しだけ太った顔を覗かせていた。
長いコートのような外套―――夏なので、もちろん袖は短いが―――を掛けて、控えめに見ても派手と言えるいでたちであった。
その劉弁に一早く気がついた一刀は、そっと劉協の肩に手を置いて指し示す。

「あ……弁兄様」
「ん、協? 父のところに向かっていたのか?」
「はい……残念ながら会うことは出来ませんでしたが」
「ふうん、じゃあ僕も行っても無駄かな」
「弁兄様も?」

尋ねた劉協にコクリと頷き、どうしようかと考え込む劉弁に周りの者から戻るように促されていた。
一刀自身、周りに流されることが多い為に言える事では無いかもしれないが
劉弁には自主性が欠けているように見える。
誰かの指示を待っているような、そんな素振りが行動から見え隠れするのだ。
一方で劉協は、挨拶を交わして去っていく劉弁の背中を見えなくなるまで追っていた。
恐らく、久しぶりの邂逅になったはずの二人の関係は、傍目から見ても淡白な様子に映る。
それは、劉弁のせいなのか、それとも。
どちらにしろ、この件に関して口を出すのは控えるべきだろう。
家族の問題でもあり、立場の問題でもある。

「……一刀、行こうか」

一刀は答えなかった。
ただ、歩き出した劉協の背を追って、口に出たのは気を取り直すように吐き出した息だけであった。
いつか笑い会って家族で過ごす日を、彼女は迎えられるだろうか。
それを可能にするのは、もしかしたら自分だけなのかも知れない。
そう思うのは、自惚れだろうか。

「……頑張ろう」

ついて出た言葉は、たった一つ単語だけ。
前を歩く劉協にも聞こえないような、小さな呟きだった。
外に出た途端、真夏を迎えた洛陽に強い陽射しが差し込んでくる。
虫達の特徴的な声が、宮内に響いて。
言葉をかわすこともなく、一刀と劉協は離宮へと戻っていった。


夏を迎えた洛陽の、虫達の声が強く響く朝の頃であった……


      ■ 外史終了 ■




[22225] 「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編1
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/29 01:05

clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編8~



clear!!         ~あの宮の内側がズクリと疼きだし空騒ぎの日々を送るよ編9~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編1~☆☆☆





その日は、とても暑い日であった。
今年は猛暑となっているのか、強い陽射しが洛陽を照らして雲の無い空を覗ける日が常となっている。
ついこの間まで、長い雨季を迎えていたとは思えない程に晴れ渡っている。
そんな暑い日々を迎えた洛陽の街中の一角に、曹騰は居た。
もう間もなく、曹操も陳留を離れることを知って蹇碩への一手がひと段落した為
兼ねてより気になっていた彫師の事を調べ始めたのである。
何かの果物だろうか、水気のある食物を丸かじりしながら、まるで一市民であるかのように町並みを眺めながら歩いていた。
着ている服も、宦官を示すような物ではなく何処でも見られそうな質素な物であった。
実際、曹騰は街中の雰囲気から浮いていない。
何人かの共も同じような服装に身を包み、彼の回りを一緒になって歩いていた。

「ここかい? ずいぶん遠かったな」
「は、ここです」

そんな彼らが目指した目的地は、洛陽の街の中でも裕福とは言えそうに無い区画の一部。
あばら屋のような、お世辞にも良い家とは言えない家屋が並ぶ一角であった。
例の殺害された彫師が見つかった場所は、仕事を行う為だけの様な場所であったという。
実際に寝食していたのも向こうだったのだろうし、彫師本人の私物もあちらで殆ど確認された。
ただ、あの場所で同じように殺害された家族は住んでいる訳ではなく、今訪れた家で暮らしていたようなのだ。
そんな情報を得て、曹騰は足を運んだのである。
周囲の住人は、この家に人が居なくなったことに気がついているのか居ないのか。
その辺の事実関係を含めて調査するように共の者に言い渡すと、曹騰自身は家の中へと入り込んだ。

見えた景色は最低限、暮らしが成立するような家具や調度類ばかり。
一見するだけで、あまり裕福ではない家庭であったことが分かる。
水瓶を覗き込むと、その水から立ち上る臭気はやや臭い。
少なくとも雨季の頃には、この家で水を使うようなことは無かったのだろう。
顔を顰めて、水瓶の蓋を閉じる。
その一動作だけでも埃が舞い上がり、所々に開く壁の間から差し込む陽射しに照らされていた。

「……随分、居なかったみてぇだな」
「曹騰様」
「おう、どうだった」
「それが、近所の者は全く気付かなかったと」
「全員が言ってたか?」
「はい」
「……なるほど」

この近辺、何処までが範囲か知らないが、口裏を合わせるように金を渡された可能性がある。
懐に手を突っ込んで、袋のようなものから金銭を取り出して共の者に押し付けた。
貧しい一帯であることは、町を歩く時に確認している。
金を差し出せば、口裏を合わせていても容易く割ることだろう。

「早くな」
「分かりました」

家から飛び出す男を見送り、曹騰は再びぐるりと周囲を見渡した。
僅かに引き出しが開いた箪笥に近づいて手をかけると、一気に中身を引き出す。
いつか見た、ヒャクエンダマのような大きさ、円形になっている木片が大量に現れた。
何個か手に取って、裏表を鑑定士のように眺める。
そして、曹騰は動きを止めることになった。
無作為に手に取った幾つもの円形の木片、そこには一文字ずつ彫られている。
見つけた文字は『受』『命』『晶』。
曹騰の手元にあった同じように彫られた文字は『天』と『永』。
その幾つかの文字に、ある関連性を見出してしまった曹騰はしばしの硬直の後
引き出しの中身を全てぶちまけるように箪笥から出して、床にばら撒いた。
けたたましい音が響き、外に居た何人かの男達が家の中に入ってくる。
そして、散らばった木片はちょうど陽光が差し込んだ場所に転がって停止した。
於、受、既の文字を示して。

「そ、曹騰様、いかがなされましたか」
「……玉璽」
「は?」

呆ける男を無視して、曹騰は思考した。
これらの文字、見つけた順序こそ違えど一度だけ見たことのある玉璽に刻まれた文字と同じであった。
記憶違いなどではない。
確かに、玉璽には 「受命於天 既寿永昌」 と刻印されていたのを覚えている。
その玉璽に刻まれた文字を、一つ一つ彫る意味はなんだ。
思い出されるのは、雨が続く雨季の頃、偶然見かけた張譲と彫師の接触。
あの時渡していたのが、もしかして完成された玉璽なのではないか。
ヒャクエンダマは確かに素晴らしい造詣であったし、嗜好品として楽しむには十分な出来栄えだっただろう。
受け渡しの際に差し出したのは玉璽であり、ヒャクエンダマは単なる隠れ蓑だったのではないか。
張譲が隠したかったのは、この玉璽を作ったことと見て間違いないかも知れない。
曹騰が記憶している限りでは、帝の元から紛失して久しい。
どういう経緯で失ったのか、何故玉璽が無くなったのかを彼は知らない。
そして、何故今更に彫師に命じて作らせたのかも分からなかった。
ただ、あるとすれば……それはきっと、必要になったからに他ならない。
なんにせよ、曹騰はこの事実を胸に隠すことにした。
玉璽を作り出したことは、間違いなく張譲の独断であろう。
ともすれば、張譲の致命を握りこむ可能性があり得る事実は、手札として残しておくべきだろうと考えたのだ。

「曹騰様、口を割りました」
「……ああ、それで、どうなんだい」
「いつかは忘れてしまったそうですが、何人かに案内されて何処かへ向かってから帰ってきてないそうです。
 その中には、彫師の男も居たようで」
「口封じだな。 犯人の足取りを追うのは無理だろう」
「でしょう」
「……これだけじゃ、何を考えているのかは分からんな」

そう言って曹騰は踵を返して家から立ち去った。
これ以上、この場に留まる理由は無かったから。
ただ、ここに来て一つだけ確信できたことがある。
『彫り物に凝り始めた』というのは、玉璽であろう物を作るための方便に過ぎず
少なくとも、天代の前でそう公言している事実は、彼に協力的でないことを示しているに他ならない。
天代に対しての顔は、そう。

嘘なのだろう。


―――


劉宏が意識を取り戻し、孫家が洛陽から出立してから三日が経つ。
この三日間で変わったことは、劇的に仕事量が減ったことだ。
回復したと言っても、床に伏せているのは変わらないというのに、あの仕事量の差は一体何だったのかと首を傾げてしまう。
落ち着きを見せ始めた宮内を汗だくで歩きながら、一刀は荷物を纏めていた。
離宮へ、戻るためだ。
僅か半月程度とはいえ、押し込められて使っていた部屋の荷物は中々に多かった。
桃香や恋のお手伝いの申し出を断った一刀だったが、些か早まったかと半ば後悔する。
周りを見る余裕が戻ったせいか、一刀の脳内もいっそう騒がしくなっており、後悔は加速した。
きっかけは、“白の”と“董の”の『やっぱりおかしい』の声だった。
劉協と共に訪れた際に宦官の一人が言った会いたくないという言葉。
帝が伏せていた時と今の仕事量が劇的に変わっていること。
“白の”“董の”の二人はこの2点において、非常に疑念を抱いていた。
確信に至らないのは、これら二点が偶然である可能性を捨てきれないせいだった。
あくまでも、ちょっと怪しいというレベルであり言及するのも難しい。

『でもさ、“白の”や“董の”が言う事が正しいとすると、張譲さんもって事だろ』
『というか、奴が一番怪しい気がするんだけどな……』
『……帝が倒れた日、遅れてきたのも気になるね』
『あれは所用で出先だったから劉宏様が倒れた事を知るのに遅れたらしいけど』
『信じられる?』
『あー……いや。 でもさ、足取り追うの?』

とまぁ、何か落ち着かない雰囲気を感じているのか、或いは忙しさから解放されて議論することしか
やる事が無いからか、同じような、答えの出ない話を重ねていた。
終始黙して、その話を聞きながら荷造りをしていた本体の手がハタと止まる。
ここ最近の忙しさからすっかり忘れていた、ある事に気がついたから。

「……そういや、董卓さんってもう長安の方に戻っちゃったっけ?」
『うん? どうだったかな?』
『月達は近々出るって挨拶に来てから、話を聞いてないね』
『なにかあったの?』
「墓参り忘れてた」
『『『ああ……』』』

言われて全員が思い出す。
董卓、そして恋と丁原の墓参りに向かうことを約していたことを。
まだ居るのかな、と思いつつ荷造りをようやく終えた一刀は一つ息を吐く。
左腕の怪我は痛むことも少なくなり、忙しさのせいか気がついたら治ってたという感じにまで落ち着いたが
それでも痛々しく残る傷を隠すために、長袖を着ている。
おかげさまで、滅茶苦茶暑い。
もちろん、冷房のような便利な現代の利器があるはずも無く。
この大陸に来てから初めて迎える夏の暑さに、一刀はやや辟易していた。

『なぁ、そろそろ言及しておこうぜ』
『そうだな』
『豚汁食ったの本体だけだよな』
『ああ、そういえばそうだ。 ずるいぞ』
『俺も食いたかったなー』
「……」

真面目な話から如何でも良いような話題にシフトした、脳内が本体を責める声を無視して
一刀は作ったばかりの荷物を抱えて離宮を目指す。
脳内の言う、怪しさと言う物を考えながら。
黙って聞いていたのは、別に無視していた訳ではない。
基本的に行動の指針は本体に委ねられており、フォローするような形で脳内の皆が動いてくれることを知っている。
こうして折り合いをつけて居られるのも、今の状態が如何にベストであるのかハッキリと分かっているからだ。
脳内の自分達が見せる想いの発露を、当然ながら本体も見てきている。
『天代』として成れたのは、運が良かったと言えよう。
自分も、脳内の自分達も、満足がいく役職というのは、今になって考えてみると此処しか無かったような気もするのだ。
劉協との関係を築き、諸侯と手を取り合えて、帝を支えることが出来る、この役職が。

三国志という物を一刀達の中でも一番詳しい本体は、漢王朝を牛耳る官僚や宦官達に人一倍警戒を払ってきたと言っても良い。
何か妖しいのではと感じれば、信頼できる音々音へと相談したことも頻りだ。
まぁ、脳内の何人かは、その歴史の中の出来事よりも自身の積み重ねてきた経験から判断している節がある。
そこはやはり、一度目があったという奇天烈な経緯からだろう。
帝が言ったかもしれない『会いたくない』という言葉の引っかかり。
伏した時、爆発的に膨れ上がった仕事量の違和感。
先人の教えは馬鹿に出来ない、とも言えるし、少し様子を探ってみるべきだろうか。
幸いにも、そろそろ竇武や陳蕃から紹介のあった書士を紹介してもらう段取りがつき始めている。
何度かの話し合いの場を持った一刀は、竇武達に一定の信頼を置けるようになっていた。
漢王朝の官僚として働いてもらう際、何人かを一刀の手元に残して裏を探ってもらうのは、良い考えであるように思える。
ただ、張譲や趙忠などの宦官達と良好な関係を築き始めてる一刀には、多少躊躇いが生まれてしまうのだが。

「あんまり、人を疑うような事はしたくないなぁ」
『うん? 大丈夫だよ、ちゃんと本体の豚汁の分は残しとくから』
『俺達、信用ないな……』
『卑しいぞ、本体』
「いや、そうじゃなくて……」

「天代様」

そんな独り言をして―――るように見える―――一刀が外へ出た時、聞きなれない声がかかった。
振り向いた先には、つい先ほど約束を思い出したばかりの董卓の姿。
どうやらまだ、洛陽を出ておらず内心で安堵の息を吐きながら一刀は口を開いた。

「どうも、董卓さん」
「お久しぶりです」

ペコリと頭を下げた彼女の後ろには、軍師である賈駆の姿も見えた。
二人とも夏であるからだろう、涼しげな軽装であり白い肌が陽光に反射して眩しい。
ある意味で夏を楽しむ要素の一つだと思いつつ、一刀はどうしたのか尋ねると
今日、ついに長安へと出立するのだそうだ。

「天代様にも、挨拶をしておこうと思いまして」
「そうなんだ……ああ、董卓さん、出立までの時間はあるのかな?」
「え? ええ、えーと……」

ここで一刀は、時間があるのならば恋を誘って墓参りに行ってしまおうと考えた。
もしも駄目ならば、約束した手前、いつか必ずと再度約するためにも。
そうして尋ねた結果、董卓は僅かに悩んで賈駆へと視線を向けた。
両肩を挙げて手をやや持ち上げる動作をして、賈駆はコクリと頷く。
一刀から見て後姿だから気付かなかったが、董卓は嬉しそうに微笑んで振り向いた。
今の所作だけで意志の疎通が通っていることを見ても、彼女達の信頼や仲の良さが窺えた一刀である。

「その表情を見るに、OKってことでいいのかな?」
「おーけー?」
「ああ、いや……大丈夫かなってことだよ。 じゃあ墓参りに行こうか?」
「あ、はい。 大丈夫です。 少しは時間がありますから」

お誘いをかけたところ、董卓は一も二も無く頷いた。
賈駆からの待ったも入らず、実にスムーズに。
荷物を離宮に預けて、恋を呼び出す必要がある一刀は少しだけ待って貰うように頼み
急ぎ足で離宮へと急いだ。
出迎えてくれたのは、音々音であった。

「一刀殿、お疲れ様なのです!」
「ああ、ねね。 ちょっと用事が出来ちゃって出かける事になったんだ」
「あ、そうなのですか?」
「うん。 みんなは?」

入り口で出迎えてくれた音々音に、軽い荷物だけを預けると歩調を合わせて一刀の部屋に向かう。
桃香、愛紗、鈴々の三人は、目隠しをしている朱里と雛里を連れて、盧植と皇甫嵩の元に向かっているそうだ。
帝が伏せてから、軍の云々に関しては投げっぱなしにしていた一刀は、そこで初めて
話が大分進んでいるなと気がついた。
劉協も、段珪と共に劉弁の元に向かっているらしい。
その話は一刀も知っていたので、驚くようなことではなかった。

「じゃあ、ねねだけになっちゃうのか」
「? 恋殿も一緒に連れて行くのですか?」
「ああ、董卓さんと約束したんだよ」
「あ……丁原殿の……」

一刀は部屋に荷物を置きながら音々音の呟きに頷いた。

「ねねも一緒に行くかい?」
「うーん……ねねは、遠慮するのです」

元々、約束を交わしていたのは一刀であるし、丁原と直接の面識を持ったのは僅かな時間だけ。
その人と成りを見ることも、会話を重ねた回数も少ない。
故人を偲ぶには、知り合ってからの期間が余りにも短かった。
それを言えば、一刀も似たような物ではあるが、彼には恋を預けられたという事実がある。
加えて、約束をしていることは前々から聞いていた。

「そう……じゃあ、行ってくるよ」
「恋殿が居るから大丈夫だとは思いますが、気をつけるのですぞ」
「はは、分かったよ、恋は何処に?」
「多分、下で眠ってると思うのです」
「う、寝てるのか……うん、ありがと、ねね」

恐らく、董卓を待たせているのだろう。
慌しい様子で恋を呼ぶ声をあげながら、部屋を飛び出して階段を下りていく。
墓が何処にあるのかは分からないが、洛陽の郊外にあると聞いた事はあった。
一刀が洛陽の外へ出て、早く戻ってくることは稀だ。
夕食会の時しかり、公孫瓚の時しかり……
離宮へと帰ってくる一刀と、久しぶりに一緒に居られるかもと思っていた音々音は肩を透かされた形になってしまった。
昨夜のうちに仕事も片付けて待っていたが、一刀の予定が変わったことで本人を目の前に嘆くのも見苦しい。
自分にそれを言い聞かせるようにして、一刀の後を追うように階段を下りると
背中を向けてある部屋―――段珪の使う執務部屋であった―――恐らく恋の眠っているだろう部屋の中を覗き込むようにして様子を窺う主の姿。
微妙に開いた扉から覗こうとしているせいか、その後姿はいやに不審であった。

「何をしているのですか?」
「……いや、不用意に近づいて斬られない様に、ここから起こそうと」
「そういうことなら、ねねに任せるのです」
「あ、おい……危ないぞ……」

一刀の制止もなんやかや。
ズカズカと部屋の中に入り込んで、恋の眠る場所まで近づいたかと思えば
恋殿~、と可愛い声を挙げながら頬を右手でペシリペシリとたたき始める。
ついでに左手は、恋の頭からぴょっこりと跳ねている髪の毛を強く引っ張っていた。
その様子を見ていた一刀の、狼狽する声が響いてくる。

「ね、ねねねね、ねねね、ゆ、勇気は凄いけど止めた方がー」
「ん……ねね?」
「おはようなのです。 恋殿」
「って起きた!? 寝起きの悪い恋がたったあれだけで!?」
「……一刀?」
「恋殿、丁原殿の墓参りに、一刀殿が連れて行ってくださるそうですぞ」
「あ……すぐ行く」

寝起きからか眠そうに眼を擦っていた恋が、音々音の言葉を受けて覚醒する。
満足そうに頷いて、出かける準備からだろうが突拍子もないことに、なんとその場でいそいそと服を脱ぎ始めた。
起こしに行った音々音の安否を気遣っていた一刀が、上着を脱ぐために手をかけた恋を見てやや前傾姿勢になったところで
部屋の扉がパタリと閉まった。
最後に見えた、音々音の微妙な視線を受けながら。

「……」


―――


恋に引き摺られるようにして歩く一刀を段珪の執務部屋の窓から見送りながら、クスリと微笑む。
恋の残した寝巻きを拾い上げて、それを畳みながら。
ちょっとした仕返しであったのだが、思った以上に上手くいってしまった。
実際、恋を起こすことが多い音々音にとって、彼女を起こすという行為に殆ど危険性は感じない。
まぁ、一番最初に起こしたときが飛び蹴りを叩き込むという、考えられないような暴挙が在ったせいかもしれないが。
恋も音々音の一撃程度ではどうこうなる筈も無く、たとえ全力で体当たりをしても問題の無い
ある意味で安全に起こせる人の一人であった。
この離宮で恋を安全に起こせるのは、後二人居る。
言わなくても分かるかもしれないが、朱里と雛里である。

董卓の元に向かったのか、或いは先に馬を取りに行くのか。
完全に建物の影に隠れて見えなくなってから、ようやく音々音は視線を外した。
昨日の内に仕事を終えてしまった為に、時間が空いてしまった。
誰かとお茶をしようにも、相手が居ない。
これは離宮に長らく住み着き始めてからも、余り覚えの無いことだった。
暇であることを自覚すると、途端に後悔の念が湧き出てくる。
一刀と共に墓参りに向かうのも良かったのではないか、と。
少なくとも、離宮で一人お留守番しているよりはマシだったかも知れない。

「……今から追いかけるのも、微妙なのです」

ついでに言えば、離宮に誰も居なくなることもちょっと気が引けた。
一つかぶりを振って、今日はゆっくり休む日だと気分を変えて部屋を出ようとした際に
音々音の視界にハタと過ぎる物が映った。
其処に在ったのは幾つかの書籍だ。

「劉協様のお勉強ですか……」

なんとなしに手に取って、パラパラと捲る。
どうやらこの本は、経済についての仕組みを商家の視点から書き出した物であるようだ。
音々音も知識には人一倍興味があるだけに、本の中身についつい眼を落として読み耽る。
幾つかの頁をめくり、ふと指が引っかかった場所を開いて音々音の動きは止まった。

本に挟み込むようにして、小さな紙が入っているのに気がついて。

その紙を本から引き抜いて、音々音は視線を落とした。
大きさは本そのものよりも少し小さい程度。
そこに書かれて文面をなぞるのに、大した時間はいらなかった。
文字の形は流麗としか形容できないほど達筆である。
以前に送られてきた、一刀への贈り物や招待状のように、間違いなく普段から文字というものに触れている者の字だった。
その内容は―――

誰も居ないことが分かっているのに、音々音は室内をぐるりと見回した。
元の場所に戻すように、本を畳んで置くと書類だけを懐に納めて部屋を飛び出す。
張り付いた表情は何か信じられない物を見てしまったかのように、焦燥が刻まれていた。

「一刀殿に、知らせなくては―――」

階段を駆け下りて離宮から飛び出したところに、こちらへ向かう一人の宦官が見えた。
視界に収めた瞬間に思わず身構える音々音であったが、その人物は音々音も会って話したことがある者だった。
あの曹操の祖父であり、宦官の中でも一刀との付き合いがある曹騰であった。

「おう、天代のところのちみっこいの」
「曹騰殿……」
「うん? やおら深刻な顔してるじゃないか。 何かあったか」
「それは……」

問われ、音々音は言葉を濁した。
たった今見つけたばかりである懐におさめた紙片を抱くように、胸元へと無意識に手が伸びる。
この仕草を見て、曹騰の眉がピクリと動いていた。
無意識であったことを差し引いても、今の音々音の行動は明らかに何かがあったと暗に言っている。
それを自分でも分かったのだろう。
曹騰から受ける視線を逸らすようにして俯く彼女に、曹騰は口を開く。

「……陳宮殿、だったか。 わしがここに来たのは天代と話があったからだ」
「か、一刀殿はここには居ないのです」
「その様子じゃそうだろうな。 出直してきても良いんだが、それじゃ遅いかも知れん。
 お互いに胸の内にあるもん吐き出してみるのはどうだ?」

この言葉に、音々音はゆっくりと顔を上げて曹騰を見た。
ジリジリと焦りを生む心中を落ち着かせ、曹騰の言葉を噛み砕く。
音々音が一番に気になった言葉は、遅いかも知れないという物だった。
その一言だけで、彼が何かを掴んで此処に来たということがハッキリと分かる。
一方で、音々音は自身の胸の内に尋ねた。
目の前の宦官は、一刀と友好な関係を築いているけれども信用できるのかと。
音々音が持つ紙片の中身の内容は、離宮の状況を“誰へと”は分からないが、確かに『知られてしまった』ことを確信させる。
この離宮には、一刀が絶対に隠さなければならに火種が隠されているからだ。
一つは恐らく、知られては居ないだろう波才が率いる黄巾との戦の前に一刀が記した“張三姉妹”のこと。
天代という役職に就任して、曹操を除けば音々音にしか“張三姉妹”の事は知られていない。
或いは、曹操の近しい側近の者には知られてしまっているかもしれないが、彼女達からそれが語られることはまず無い。
何故ならば三姉妹のうちの誰かを捕らえたという事実があるからだ。
勿論、一刀や音々音の口から飛び出すこともありえない。
これについては、一刀の机の中にある物をすべて見られない限りは知り得る手段は無いはずだ。
ただ、もう一つ。
諸葛孔明、並びに鳳士元の“あつ眼”を執行したという虚偽がある。
彼女達は離宮の中では目隠しなどしていない―――普段の生活に支障が生じるから。
離宮に居る全員を説得して、理解を得た一刀の出た、朱里と雛里の眼を生かす賭け。
最後の最後まで、劉協が首を縦に振ることを躊躇わせた一刀の唯一と言って良い急所。
もしも、音々音が胸に抱く紙片の通り、段珪が行動に出ていたのならばそれは“知られているのだ”

何よりも気になるのは、劉協と一刀が何度か足を運んでも決して顔を見せることを由としなかった帝のこと。

「……」
「……うう」

音々音の口は動き、止まり、小さな呻きを持ってまた閉じる。
まるで無言の曹騰から上る視線の圧力に押されるかのように、この状況で何を言葉にすればいいのか、躊躇いが生まれていた。
一方で、曹騰の方も音々音が掴んだ何かを知りたかった。
この小さな軍師が天代の傍に在り、もっとも近い存在の一人として過ごしていたのは
今のこの宮内を過ごす人間からすれば、もはや常識となっている。
自分が手に入れた“玉璽”の情報だけでは張譲の狙いは透けない。
まるで情報の連鎖のように、後を追って芽吹いた天代の傍付きである陳宮の持つ手札が、一つの断片を拾ってきた可能性があるのを知ってしまった。
自分の持つ手札だけで分からないのならば、その手札に関連する情報が一つでも欲しかったのだ。
こうして積極的に張譲の裏を探る曹騰にも、当然ながら心に一つ持っている物がある。
蹇碩の一手は事なきを得るとしても、それを防ぐだけで十常侍に『舐めた態度』を取った曹操を都合よく忘れてくれる筈が無い。
それは、十常侍成ってからの張譲を自らの目で見続けた、曹騰の直感であった。
自らの孫娘からすれば、過保護に映るだろう行為。
しかし、誰に何を言われようとも、曹騰は曹操の器を認めたその日から宮内で巻き起こる闇の露払いをすること。
それだけは必ず成し遂げようと決心していたのだ。
全ては大器を守る為。
故に、曹騰が十常侍筆頭であり謀略に優れる張譲の急所を握りたいと考えるのは当然のことだった。

どちらも、お互いに“何か”を握りこんでいることで切り出せない。
特に、面識はあれども信用、信頼という面で欠けている両者にとって。
お互いにどれだけ相対したか。
根負けしたように顔を伏して溜息を漏らしたのは、曹騰の方だった。

「黙って視線を交わしててもしゃあねぇわな」
「曹騰殿、一刀殿ならばともかく、ねねは……その、まだ信を預けられないのです」
「そうか……それは残念だが、陳宮殿の様子じゃあ天代が関わっているんだろうな」
「曹騰殿も」
「そりゃ最初に言ったからな、勿論天代にも関係があるかも知れない事だ。
 ああ、それとな。 わしが漏らしたくない相手は濁流派のみよ。 
 天代個人は好ましく思っているが、別にいらないなら、いらないで構わん。
 勿論、それはお主にも言えることだが」

ピクリと、音々音は肩を震わせた。
宦官という繋がりから、目の前の男を信じきることが出来なかった音々音の出した答えは黙秘。
そんな音々音に返って来たのは、別に拘らないと言う答えだった。
そうだ。
目の前の人は今、確かに一刀に関わる事であるかも知れないのに、知りたい理由は別の方向に向いている。
わざわざその相手を指差すように言って。
勿論、これが曹騰の演技である可能性は十分にある。
音々音が接してきた中でも、最も係り合いの深い段珪が、隠すように所持していた紙片が
宦官という役職にある者の狡猾さというのを表して居るではないか。
ここで音々音が持つ紙片の中身を見せるのは、曹騰が真実を知った“誰か”と繋がっていれば
音々音から一刀へと話が渡る事までも知られてしまう。
更に言えば、知らぬだろう曹騰へ朱里と雛里に関しての情報を曝け出すことになる。
危険だ、どう考えても。

頭の中は、強く警鐘を鳴り響かせているのに拭いきれないもう一つの可能性が怖かった。
一度振り切った物が、曹騰の言葉で強くぶり返してしまう。
段珪と繋がっているかもしれない誰かが、曹騰にとって関係の無い者である可能性。
もしそうならば、“誰か”の意図を掴むことが出来るかも知れない。
いや、誰なのかすら暴ける情報かも知れなかった。

「……分かった、出直す。 急いでいるところを邪魔したな、陳宮殿」
「あ……」

その逡巡の間、曹騰は踵を返して言い残し、音々音を無視するように歩き出す。
目まぐるしく否定と肯定、逡巡と迷いが交錯する音々音の瞳に、その姿は驚くほどゆっくりと映し出されていた。
音々音が見つけた紙片とて、段珪が必ずしも裏切ったと決め付けられる物では無い。
ただ、限りなく黒に近いだけであり、ともすれば自爆してしまうかも知れない。
鳴り響く警鐘と焦燥の中で、去り行く曹騰の姿を視線で追っていた音々音はしかし。

「ま、待つのです!」
「……」
「……曹騰殿、ねねは一刀殿の目であり口なのです。 話を聞かせて戴きたい」
「そりゃ、対価を貰えるのかい?」

そう尋ねた曹騰にしっかりと頷いて、音々音は選んだ。
疑わしいのは承知の上だ。
この自分の判断が、間違いだったと後悔する事になるかもしれない。
しかし、曹騰は言ったのだ、手遅れになるかもしれないと。

「……分かった、離宮に入る許可を戴けるか」
「構わないのです。 今離宮に居るのはねねだけですから」

ここで音々音と曹騰は互いの持った手札を明かした。
曹騰が持つ彫師と張譲の関係から見つけるに至った“玉璽”のこと。
音々音の持つ、段珪から漏れただろう紙片に書かれていた全て。
曹騰は、直接的に張譲の急所を握り込めない情報に嘆息を漏らしたが、音々音の方は別であった。
玉璽、それは一刀が既に返還したはずのものだ。
そこに繋がる張譲であろう者の描く陰。
俄かに段珪が“誰か”と繋がっていた線が、朧気ながらも見えてくる。
玉璽を新たに作り出す必要性など、ひとっかけらも見出せない。
それは劉協を通じて帝に返還し、既に終わったことだからだ。
だが、劉協は確かに返還したと口にしたが、それは誰の手から返還されたものだろうか。
傍付きである段珪に違いない筈で、その段珪は―――
ここにもまた、不穏な影が一つ見えてくる。
最後まで焦燥の最中、思考が縺れまくった末の音々音の賭け事は、成功を見せたと言えるだろう。
大きく肩で息を吐き出しながら、乾ききった喉を水で潤す。
コトリ、と沈黙した音々音の部屋の中、一つ溜息を吐いたのは曹騰であった。

「はぁ、わしの方は残念だったが、そんな危険な橋を渡っていたとはな。 迂闊だぞ」
「滅多にない一刀殿の我侭だったのです……それよりも、張譲殿ですか」
「宦官の中でも一際目立って小賢しいぞ、あれは。 上っ面で読んだ物は悉く外れると思って良い」
「……曹騰殿、もしもこの紙片での情報交換が頻繁に交わされていたのなら
 これを行うのに何処が適するですか?」
「そりゃあおめぇ……ああ、木を隠すなら書庫か。 なるほど、もしもそうならば―――」
「曹騰殿の欲しい情報も、もしかしたら森の中にあるのかも知れないですぞ」

もちろん、音々音が欲しい情報も。
二人はその可能性に思い至るや、書庫へ向かうことになった。
一口に書庫と言っても、この洛陽の宮内では多くの書が保管されており、また幾つかの場所に別れている。
張譲が情報交換の紙片を混ぜている書庫が一体何処で在るのかは、当然知らない。
唯一の手がかりになりそうなのは、段珪の部屋で見つけた本の表題だけだ。
劉協の勉学の為に選ばれたいくつかの本を手に取って、音々音と張譲は離宮の入り口で分かれて
白み潰しで探すように書庫を目指した。

「ん……? あれは陳宮殿ではないか」

そんな音々音の姿を見かけたのは、皇甫嵩であった。
隣には盧植の姿も見える。
遠目で見ても、いくつかの本を抱えて慌てている様子が良く分かった。

「随分慌てているな。 何かあったのだろうか」
「……それよりも義真」
「ああ、こっちにも話は来ている。 子幹の方にも届いているなら放っておくわけにはいくまい」

音々音と曹騰が、天代に関わるだろう情報を掴んでいた時を同じくして
この二人の下にも、大きな情報が舞い込んできていた。
兼ねてより警戒をしていた上党の黄巾党残党の動きが激しくなっていると。
何よりも、大量の糧食が運び込まれていることが分かり、近々大規模な行動にでるのでは無いかと報告があった。
実質、西園三軍を率いることになるだろう大将軍である何進と、蹇碩は演習の為、外へ出てしまっている。
この二人の下に居る袁紹は、もとより余りやる気を見せていなかった。

「孫堅殿は江東に、曹操や董卓も領地に一度戻ることを優先している。
 牽制の意味を込めても誰かが行かねばなるまい」
「分かっている……ああ、子幹。 お前が行って見るか?」
「……まぁ、お前は上司だしな。 行けと言われれば行くが」
「冗談だ。 つむじを曲げるなよ」
「曲げてなどおらぬぞ」

肩を竦めて、皇甫嵩は踵を返した。
どちらにしろ官軍を動かすにしても正式な手続きを踏まなければならない。
お伺いを立てるならば、一番手っ取り早い相手が居る。
背を向けて離宮の方向へ歩き出した皇甫嵩の後を付いて行くように、盧植も追う。
前を歩く皇甫嵩を見失わない程度に、ゆっくりと。
彼女は普段よりも静かな宮内であることに、しっかりと気付いていた。
一見すれば何時もと変わらない。
暑い日射しが差し込む、夏の一日であったが明らかに人の―――宦官と、官僚の―――通りが少なかった。
何かあるような雰囲気を気色ばんで、その足を進めていた。


―――


かっぽかっぽと、軽快な蹄の音を荒野に響かせて歩く。
ひりつくような暑さの中、金獅を初めとして馬のほうは思いのほか疲れを見せていない。
障害物の無い、広い荒野で余計なストレスを感じないせいだろう。

「董卓さんは、丁原さんと面識があったんだってね」
「はい、子供の頃、両親に連れられて会ってからの付き合いになります」
「そうね……」

一刀の問いに懐かしむように答えた董卓の言葉を認めるように、賈駆も同意を示して頷いていた。
並ぶように歩く一刀と董卓を先頭に、賈駆と恋が続く。
建てられた墓は、荒野から森、森から川へと続くように作られた道に沿って在るらしい。
気がつけば荒野から段々と生い茂ってきた緑の景色に踏み入れていた。

「原爺は、最初あまり良い人じゃなかった」

今まで沈黙を保っていた恋が、墓が近いことを直感的に感じているのか。
少しトーンを落とした声でそう言った。

「恋ちゃん……」
「まぁ、呂布殿が言っていることは正しいわ。 病を患って屋敷に篭るまでは、結構あくどい事をしてたみたいよ」
「人を脅したり、殺したりしてた」
「へぇ……」
「と言っても、悪い事をしていたという訳ではないけれど……諸侯の一人として厳しいところは厳しかったわ
 時にやり過ぎてしまうことも在った様ね」

恋の端的な言葉を補足するように、賈駆が口を開く。
戦の凱旋の前の天幕の中、そして恋を預けられた日を除けば丁原の過去を知らない。
歴史の中を掘り起こしても、恋に殺されたという情報しか出てこない。
その短い触れ合いの中で抱いた印象は、どうも穏やかになった丁原の人となりのようだ。
ただ、今際に残した恋への想いは、確かな物であると一刀は感じている。
もしかしたら、丁原の心が穏やかになったのは恋が原因ではないだろうか。

「……一刀、なに?」
「ううん……」

向けた視線に気がついたのか、首を傾げる恋に一つ笑顔を向けて首を振る。
勝手な憶測だが、そう思うことにした一刀であった。

「もともと、持病持ちだったのかい?」
「確か山賊か何かの討伐行がきっかけで、よく伏せるようになったって聞きましたけど……」
「怪我したって言ってたわ。 大きい怪我では無かったらしいけど、それが逆にいけなかったのね」
「碌に治療もせず、討伐を進めたそうなんです……その怪我が切っ掛けになって病を患ったって」

尋ねる一刀に董卓と賈駆が中心になって、時に恋の声が飛んできて故人を偲ぶ。
そんな、やや独特の空気は目的地付近に至るまで、途切れることなく続いていた。
川につきあたり、先頭を入れ替わって馬を歩かせていた賈駆が懐から地図を取り出す。
しばし地図と周囲を交互に見やって、手だけで方向を指し示し馬を歩かせ始めた。

「大分近づいたみたいだね」
「そうですね」

木々が適度に影を作ってくれているせいか、荒野を歩いてた時と比べて随分と涼しい。
差し込んでくる木漏れ日と、時に吹いてくる風が運んでくる木々の音色。
沈黙が支配した一刀達には、金獅を初めとする馬の闊歩する蹄の音しか聞こえない。
ふと、一刀が視線を向けたすぐ近くに流れている川の水がパシャリと跳ねた。

「ここから……1里ほど先に、開けた場所があるそうよ」
「そこに?」
「ええ」
「……静か」
「うん、恋ちゃんの言う通り、ここなら丁原殿もゆっくり出来そうですね」

董卓の声に、恋と同じく一刀も頷いた。
自然豊かで、それで鬱蒼と草木が生えている訳でもない。
適度に開けた空間が覗けて、とても良い場所だと思えた。
一刀はそう言おうかと口を開こうとして、止めた。
隣で馬を合わせている恋も、地を見るように顔を伏せて前を行く賈駆も。
そして、見えぬ墓を見るように、遠くを見つめている董卓の顔に気がついて。
みな、一刀とは違い少なからず思い出のある人の墓参だ。
もちろん一刀も、丁原との思い出が無いとは言わないが、此処に居る者達の中では一番付き合いが浅いのは事実だ。
更に言えば、こうして遅れて参ることになったのも一刀が原因の一つにある。
恋と董卓だけならば、もう少し早く来ることが出来たかも知れないから。

「……」

そっと、一刀は恋の顔を覗き見た。
何か物思いに耽っている様子だった彼女も、そんな一刀に気がついて視線を返す。
泣いているのではないかと不安になった一刀の行動だったが、恋には確かに、小さな微笑が称えられていた。

「ん?」
「ううん……何でもないよ」

ちょうど木々の切れ目に在る、草木が程よく生い茂った小高い丘の中央に、積み上げられた石が見えてくる。
前を歩く賈駆が気がついたのだろう。
僅かに一刀や董卓を肩ごしに見て、一つ頷いた。

「あそこのようね」
「……行こうか」

そして……そして、墓の全てが見えたところで、一刀達は凍りつくことになった。

「ちょっと! 何よこれ!」
「ああっ……ひどいっ!」

丘を登る前、見上げるような形になっていたせいか全く気付かなかった。
墓石だろう、積み上げられた石は特に弄られた様子は全く無い。
それは雨季の頃にこびり付いたと思われる、苔が見えることから想像がつく。
ただ、その墓石の周囲に約1メートルあるか無いかの縦穴が四辺2Mくらいの範囲で掘られていた。

「墓荒らしか?」
「……遺体はあるわ。 月……ちょっと離れてた方が」
「大丈夫だよ詠ちゃん……何か取られてるのかな……?」
「それは今から調べるから、待ってて」
「俺も手伝うよ」

金獅から下馬して、ザックリと掘られた穴の中でも一番緩い傾斜の場所に足をかける。
この場所から見たところ、墓の中には丁原本人と思われる遺体―――すでに皮膚は溶け始めているようで識別は出来ない―――と
埋葬する時に一緒に入れられただろう供物が多く見受けられる。

『しかし、パッと見たところ金や銀も取られてないようだな』
『この供物は一体どこから?』
『普通に考えれば、丁原さんの軍の上層部の人達が入れたと思うけど』
『私物も混じってるね……』

掘り方はずいぶんと適当だったようで、深いところでは2メートルにも及びそうであった。
その為、一刀は足を滑らせて落ちないように、ゆっくりと足元に注意して降りていく。

「天代様」

一刀とは反対の場所から降りてきていたのだろう。
ようやく地に足をつけた一刀に向かい合うようにして、賈駆が声をかけてくる。
その声に一つ頷いて、一刀は丁原の遺体の周りを調べ始めた。
一つ顔を顰めてから、賈駆も同じように身の回りに在る供物を手に取る。
こうした墓荒らしは、少なくないことを一刀は聞き及んでいる。
飢えた人や、盗賊が、美味しい物が転がっていないかと墓を荒らすことは珍しくないのだ。
ところが、この中は驚くほど供物が多い。
普通、墓荒らしにあった時は根こそぎ売れそうな物を持ってかれてしまうのだ。

『“白の”?』
『すまん、ちょっと変わってくれ』
(え、おい……)

「董卓さん、周囲に掘り起こした土がありますか?」
「え……? いえ……草木の少ない小高い山はありますけど……」

突然入れ替わった“白の”は、穴の上で待つ董卓へと声をかけた。
やや戸惑ったように返って来たのは、そんな答え。

『そうか……本体、草木が生い茂るくらいには掘り起こされてから時間が経ってるみたいだな』
(なるほど……)
『なぁ……』
『どうした、“呉の”』
『恋を呼んで私物があるか聞いてくれ』
「分かった……恋! ちょっと来てくれないか!」

一刀に呼ばれた恋は、その表情に険を携えて顔を見せた。
相当に怒っていることを一刀達は理解しつつ、確認するために降りてきて貰うよう頼むと
そのまま飛び降りて、一刀の真横にしっかりと着地する。

「っと、危ないわね、もうっ」
「一刀……これやった奴、判った?」
「恋、落ち着いて―――っ」

そこで“白の”の時間切れとなった。
本体が戻るよりも先に、入れ替わるようにして“呉の”が入り込むとやや俯いた姿勢から口を開く。
この中に、丁原の私物は全て入っているのかと。
しばし一刀の声に何の反応も示さなかった恋であったが、やがて自分を落ち着かせるかのように大きく一つ息を吐くと
周囲をキョロキョロと見回し始めた。
その間、“呉の”は一刀達に向けて幾つかの言葉を投げかけて意識を落とす。
それらは意識を保てる時間の制限があるせいか、殆ど単語だけになってしまったが
簡潔に要点を示していたので、一刀達は“呉の”が何を言いたいのかすぐに分かった。

『……あの時の手紙だ』
『ああ、俺達が丁原さんに援軍を頼む時に渡した奴か』
『けど、それが盗まれてたと考えて、何かまずいことってある?』
『うーん……“呉の”は何か気付いたのかな?』
(……手紙だけ盗んだ?)
『っつ、どうなった?』
『おかえり、“白の”』
『ああ、“呉の”が丁原さんに送った手紙を探せって』
『手紙? 手紙……あっ、玉璽印……か?』
『玉璽?』
『駄目だ、意味わかんないや』

援軍を請う時に出した手紙に玉璽印を押したのは、確かにそうだ。
ただ、一緒に埋葬されただろう玉璽を用いた手紙が無いことの、何を気にかけているのかが一刀達は分からなかった。
一方で、しばしの間を空けて返って来た“白の”は疑わしげに幾つか唸った後に自信無さそうに告げた。

『返した玉璽が、返ってない可能性だ』
『……え?』
『そ、そうか、分かった気がする』
『“董の”……』
『本体が劉協様に返した玉璽は、帝に返っている物だと思い込んでたけど違うかも知れない』
『ああ、劉協様のとこでストップしているのは考えられない。 段珪さんも同じだ』
『段珪さんが、誰に玉璽を返したのかが問題ってこと?』
『そう、もしも段珪さんが“誰かに”手渡したところで玉璽の行方が止まっていたら、俺達は無断で玉璽を使用して諸侯を動かしたって事になっちまう』
『って、でもあの時は……』
『そうだよ、しょうがなく使おうって言ってたじゃないか』
『あの時は、時間が惜しかったし最初から帝へ返すことを視野に入れてただろ』
『そうだけど……』
『玉璽を返還したのは随分前だ。 もしかしたら只の勘違いかも知れないけど、この墓荒らされたのは結構前だろ?』
『時期が合うってこと?』
『ちょっと待ってくれ、それじゃ帝の会いたくないって言うのってそれが分かったからか?』
『それは分からないけど……』
『そもそも、手紙もこの中に入れていたのか分からないじゃないか』
『丁原さんがちゃんと燃やして処理してるかも』
『まぁ、それなら杞憂に終わるんだけどさ……』

途中から“呉の”も混じって加わった話を聞きつつ、身体の制御権の戻った本体は
供物の中から一刀の送った手紙が出てこないか注意して探す。
あの中に書かれた内容は、今となっては周知の事実となった呂布の天下無双の武について言及している。
一刀との短い邂逅の中、一刀が未来を知ることを察した様子である丁原が、あの手紙を放って置く事は考えずらい。
火にかけたりして、手紙そのものを処理しているのならば一刀達が言う可能性は
脳内のみんなが話していた通り杞憂に終わるが、しかし。

「全部、ある」

供物を手に取り眺めていた動きを止めて言った恋のこの言葉と
手紙が何処を探しても墓の中から見つからない事実は、一刀に言い様の無い焦燥を与えた。


―――


掘り起こされてしまっていた土を、手持ちの道具で出来る限り埋め戻し
墓石をもう一度しっかりと並べ直して、ようやく一心地つく。
せっかく気分の良い墓参であったのに、大きなケチがついてしまった。
明らかに不機嫌な様子を見せる恋に、俯いてしまう事の方が多くなってしまった董卓を
賈駆と共に見る。
隣に立って深く溜息を吐きながら、賈駆は一刀へと尋ねた。

「……で、一所懸命何かを探していたみたいだけど?」
「ああ……」
「最近会ってなかったから状況は良く分からないけど、何かまずいことでもあったの?」
「やっぱ分かるかな?」
「顔に出てる」
「はは、そっか……分からないんだ、まずいのかどうか」

実際、手紙と玉璽の一件を突っ込まれることよりも朱里や雛里の件を突っ込まれた方が一気に立場は悪くなる。
それに黄巾党が一気果敢に攻め上っていた時期が時期だ。
仮に玉璽の無断使用という一件で問い詰められても、最悪は認めてしまって良い。
この墓荒らしの一件。
加えて、墓参前に話し合っていた『会いたくない』という言葉と、露骨に増えた仕事の量。
竇武や陳蕃に協力してもらおうかと悩んでいた一刀だったが、この時に腹は決まった。

『ついでに言えば、帝の周りに居るやつは全員怪しい』

誰だったか、脳内の声がそう言っていたことを考えると張譲や趙忠の笑顔も
途端に胡散臭く見えてくる。
それらを踏まえて、帝の元に強引にでも押しかけて顔を見せるべきだろう。
現時点で、一刀は天代として漢王朝の中でも最も地位の高い場所に在る。
しかし、漢王朝の帝は劉宏なのだ。
それはこの大陸に住む全ての人間が、不満があろうとも認めざるを得ない、頂点。
元を辿れば、一刀が劉宏を救ったのは人道的な面も多分にあるが自分が救われたいという
保身的な面も少なからずある。
結果的には毒の魔手から華佗が救いあげて、“天の御使い”となったあの日から
その目論見は成功していると言っていい。
そうした事実を見つめなおせば、一刀はあくまでも帝が居るから天代として在れた。
そして、今を見れば。
劉協が泣きながら真名を預けてくれたあの日の約束。
そして、朱里や雛里が正しい道に戻るためにも。
天代で在り続ける必要が、一刀にはある。

「可能性は潰しておかないと」
「え?」
「賈駆さん、俺と恋は、このままの足で洛陽へ戻ります」
「ちょ、ちょっと」
「詠ちゃん!」
「うっ……そ、そうね。 私達も長安に向かわないといけないし……」

実際、賈駆は一刀の態度から少しどころか大いに気を揉んでいた。
それは余り認めたくはないのだが、彼女が仕える主、董卓が少なからず天代を気にしてることに加えて
『天代』の名を持つ彼が、宮内にあるだろう水面下でのイザコザに巻き込まれていることが容易に想像がついたからだ。
自身の主が高官でもあるせいで、何度か巻き込まれた覚えの在る宮内の―――言ってしまえば面倒なこと。
もちろん、董卓を巻き込むつもりは賈駆には無いし、天代が何に巻き込まれているのかを知りたいのは
単なる興味に過ぎないことも承知していた。

「……月に迷惑かけないでよ?」
「ああ、もちろん誰にも迷惑なんてかけたくない」
「……はぁ、ま、頑張りなさい。 応援してあげるから」
「天代様……」
「董卓さん、ごめん。 俺が付き合えるのはここまでだ」
「いえ、その……ありがとうございました」

頭を下げて礼を言う董卓に苦笑するように微笑んで、一刀は恋に仕草で行くと伝えてから金獅に跨った。
来る時とは違い、その腹を蹴って速度を上げて戻っていく。

「月、またね」
「うん……恋ちゃん、またね」
「大丈夫。 ちゃんと、犯人は見つける」
「うん、気をつけて」

短く交わした言葉に、多くの想いを込めて頷くと、恋は軽快に馬上に戻って一刀の背を追った。
慌しく去っていった一刀と恋の後姿を、最後まで見送っていた董卓は
やがて丁原の墓に一つ視線を向けると口を開く。

「詠ちゃん……帰ろう?」
「うん……」

なんとも後味の悪い別れになってしまった。
胸の内で納得のいかない物を何とか噛み砕いて董卓は、その肩を大きく落として洛陽を去ることとなったのである。


―――


ある書庫の一室。
洛陽を射していた陽もようやく陰りを見せて、夜の帳が落ち始めていた頃。
薄暗くなった室内の一角、本棚が多く立ち並ぶその隅っこで大きく息を乱しながら音々音は新たな紙片を見つけていた。
見つけていたが、視線を落としたまま動くことが出来なかった。
余りにも端的に書かれたその内容に、俄かに思考が追いつかなかったせいだ。
曹騰と手分けして探し始めてから、書庫から書庫へと飲まず食わずで駆けずり回った。
結局、見つけたのは離宮から最も遠い場所である最後に訪れたこの書庫だけ。
そこには、音々音が最初に見つけた紙片の文面とは違い、端的に短く書かれているに過ぎなかった。
段珪の部屋から音々音が見つけた紙片には、恐らく張譲だろう者と繋がるよう強制を求める文面であった。
すなわち、段珪に関わる“誰か”を示唆するような名前や居場所が連ねてあり
その生活に関する詳細までハッキリと書かれていた。
それが誰なのかは音々音にも分からないし、それだけならば親しい人の住所を控えたとか、個人的な暮らしの支援をする為とか
色々と思い当たるだろう。
こうして危機感を煽られるようなことは無かった。
問題は、直後に書かれていた『天代の身の回りにある変化の報告』という一文だ。
音々音が最初に見つけた紙片に書かれていた事は、これが全てだ。
これだけで、段珪が見てきた全てが、この手紙で段珪を脅迫し“誰か”、恐らく張譲へと伝わっている可能性がある。
当然、朱里や雛里のことも知られているだろう。

一日中駆けずり回り、書庫にある本を片っ端から開き見た音々音がようやく掴んだ紙片の一つ。
そこに書かれた物を見て、それの意味する所を信じられず、彼女は固まってしまっていたのだ。
ようやく思考が追いついたのか。
一つ、喉を鳴らして震える手で、何度見直したか分からない新たな手がかり。
その紙片に書かれている文字を、その眼に映す。
間違いなく、何度見返しても、そこに書かれている文字が変わることはない。

―――帝の元にお呼びして最後だ、と。

「―――っ一刀殿!」

その一文が伝えるのは、相手の準備が終わったことを示していた。
最後と書くのだ。
まず間違いなく、これで終わると相手は確信に抱くほどの一刀の急所を見極めたに違いない。
そして、帝に会おうとしていた一刀は、誰かに呼ばれれば嬉々として会いに行ってしまうことだろう。
新たに見つけた紙片も、音々音は懐に入れて、それまで時が止まったかのように動きを止めていたのが
嘘であったかのように弾丸の如く書庫を飛び出した。
気が急いて、ともすれば縺れて転びそうになりながらも離宮へ一直線に目指す。
そんな音々音の視界に、見覚えのある顔が見えたのは離宮へと戻るところであった恋だった。
眉根を寄せて顔を顰める彼女を見て、音々音は一刀が洛陽へと戻ってきたことを知る。

「恋殿ぉーーー!」
「……あ」
「けほっ……ハァッ……恋っ殿! 一刀殿はっ!」
「ねね……一刀は、劉宏様に会いに―――」
「―――まずいのですっ!」

最後まで聞き終えることなく、酸素を求めるように大きく息を吸い込むと
音々音は帝の伏せていた宮を目指して再び走り出した。
その足取りは重い。
肩で息を繰り返し、重い足を必死に動かして走る音々音は、恋から見ても異常に思えた。
思わず、彼女は音々音へ向かって駆け出して、その身を抱える。

「あっ! 恋、殿っ、はぁっ、は、離すのです!」
「一刀、追いかける?」
「あ……」
「抱える。 喋らないほうが良い」

それだけだった。
ただ一刀を目指して向かう音々音の異常に、敏感に反応して、両者の目線が合った時には恋は理解していた。
とても、急がなければならない、重要な事だと。
恋に抱かれて、一刀の後ろを追う速度は一変した。
音々音を抱えているというのに、まるでその場に居ないかのように走る。
地を踏みしめて強く蹴りだし、ストライドも大きく、まるで一匹の獣が野に放たれたかのように。
やや人とは思えない速度で劉宏の伏せた宮の建物へ辿りついた時、音々音の探していた人は建物の中へと入り込んだところであった。
瞬間、自らでも経験したことの無いような叫びが宮内に木霊する。

「一刀殿ぉぉぉぉぉーーーーーーーっ!」

この音々音の声が、一刀へ届くことは無かった。

まるで一刀を待ち受けるかのように、顔をそろえていた多くの官僚と宦官が取り囲み
一斉に声をあげたせいで。
その異様な光景と、押し入ることも辞さない覚悟で乗り込んだ一刀を驚かせる内容に
一刀は戸惑ってしまった。

「天代様、帝がお呼びで御座います」


      ■ 外史終了 ■




[22225] 「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編2
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/02/06 22:47



      ■ 好(はお)


消えた一刀を叫ぶように呼んだ音々音は、ひりつく様な喉の痛みに激しく咽た。
幼さすら見える体躯で、昼から今に至るまで何も口にせず走り回っていたのだ。
特に、書庫から此処に至るまでは全力疾走。
途中から恋に抱えられていたとはいえ、音々音の体力は限界に近かった。
元より体力に自信があるわけではない。
胸を抱くように咳き込んだ音々音の様子を見て、彼女を抱えたまま恋は水のある場所を目指した。
一刀を追っていたのは間違いないが、恋は何故、音々音がここまで焦って彼を追うのかを知らなかった。
故に、優先したのは急変したように思えた音々音の容態の為に行動することだった。
荒く息を吐き出す音々音が水を飲み込めたのは、ようやく息が整ってきたばかりの時。
差し出された容器を、差し出した恋から奪うようにして飲み干す。

「ねね、へいき?」
「はぁっ……れ、恋殿……一刀殿を追わねば」
「分かった」

言われずとも、彼女の容態が悪化しなければそのまま突っ込むつもりだった恋は
再び音々音を抱くように片手で持ち上げると、もう一方の手で振り落とされないよう固定しながら
先ほど一刀が中に入った建物めがけて、一直線に走った。
その足は、一歩遅かった。
けたたましい音を立てながら扉を破るように開き、視界に捉えるはまたも一刀が通路の奥へと消える瞬間。
彼の特徴的な白い、この時期では暑いだけである長袖の服が、一瞬だけ垣間見えて過ぎ去っていく。
パっと見ただけでも十数人の官僚と宦官を伴って。
夜の帳が落ちたこの時間帯、そしてこの場所に集うには些か多すぎる。
姿が見えないまでも、声は届く筈―――そう判断するや、音々音の肺から声が迸り

「かず―――」
「おいっ! なんだ貴様らはっ!」
「待て、こいつら天代様の……」

入り口付近に居る、男達の声の険しい声に遮られた。
そこで初めて、目の前に官僚の男が居ることに気がついた音々音はトン、と恋の肩を一つ叩き
それを合図にするかのように頷くと、恋の腕の中から滑り降りて官僚の男と相対した。
その顔は、見覚えのあるものだった。
直接の面識は無いが、一刀と共に居るところを良く見かけた者達だった。

「火急故、帝との面会を求めるのです!」
「今日は帝から、天代様以外はお通しするなと言われている。 即立ち去られよ」
「勅が出ているのだ、すまんが、例え天代様の傍付きであろうと入れることは出来ぬ」
「勅……?」

音々音は、この僅かな会話一つで躊躇いが生まれた。
ぐるり顔ぶれを見回せば、どの人物も一度や二度、どこかで見覚えの在る顔ばかりだった。
それは宮内で劉協の居る離宮で暮らしていれば、おかしくない事かもしれないが
基本的に音々音が見る官僚や宦官の顔というのは、一刀と共に居るところを目撃した場面が多い。
一刀からの信頼が厚い音々音には都度、信頼できそうな人だ、とか、何か腹にありそうだ、とか
そんな所感を彼から聞く事も多かった。
それは勿論、一刀個人からの主観的な物から判断される。
だから、鵜呑みにしているわけでもないし、今この時に置いて考えるような事ではない。
しかし。
全てを覚えている訳ではないにしろ、印象に残った顔は音々音の記憶の中にも在ったのだ。
ああ、あの人か……というように、一刀の話から思い出される顔も多かった。
そして、今在る顔の中に、一刀が信頼できそうだと言った者の姿も在る。
音々音が躊躇った原因に、これが在った。
彼らが陰謀そのものに関連していないという可能性があるのではないか、と。
つまり、張譲だろう者の謀り―――そのものを知らないという事は、彼らにとって勅で動いていることに他ならず
ここで押し入ってしまっては、味方かも知れない者達を自ら捨ててしまう行為なのではと思い至ったからだった。

時間にしては僅かな時だ。
だが、言葉を僅かな時間失った音々音に顔を見合わせて、男達は一歩彼女へと近づいた。

「み、帝の勅令だという証拠はあるのですか」
「……在るとも」
「国家を左右する、重要な案件だという話だ。 慎重に慎重を期するつもりであろう」

一番近くに居る官僚の男が一つ仕草で促すと、その隣に居た者が懐から書状を取り出して
音々音や恋にハッキリと見えるように広げてみせる。
そこには確かに帝の勅を示す玉璽の印が押され、外からの立ち入りを禁じるように書かれていた。
しかし、玉璽印が押されていることに何の意味があるだろうか。
既に、一刀が返還した玉璽とは違う、新たな玉璽が生まれている可能性を知った音々音にとって
甚だ疑わしい代物以外の何物でもない。
とはいえ、それを示す目の前の彼らにとっては唯一の物と捉えているかも知れないし、その可能性は高い。
この建物には一刀や音々音が入ってきた正面以外にも入り口はあるが、何処から向かっても同じように対応されるだろう。
何より、何処から入るにしても今は一刻の猶予すらないのだ。
時間が惜しい。

ここでも、音々音は今日何度目かになるか分からない、答えの見えない最初で最後の選択を迫られることになった。

目の前の男達が共謀しているか、或いは何も知らないかで取るべき応手が変わってくる。
共謀しているのなら、悩む事はない。
このまま突き進んで一刀の元に一直線へ向かえば良い。
音々音一人ならばともかく、今は隣に大陸を揺るがした武勇を誇る恋が居るのだ。
だが、逆に何も知らないのならば一刀と連絡を取る別の手段を取らねばならないだろう。
もしくは、謀りと知った彼らに協力を仰ぐのも良いだろう。
どちらにしても、音々音は彼らが“どちらなのか”を引き出す為、会話を仕掛ける瞬間は此処しかないのだ。
しかし、その瞬間の判断に音々音が動いたのは無意識だろう、一歩前に足を踏み出すことだった。
それは思考とは別の、一刀へと向かう想いが胸を突く感情からか。
或いは紙片に書かれた『最後』という文字に突き動かされたのかもしれない。
理由は分からないが、彼女の一歩はこの場で変化を迎えるに当たって十分な働きを示したのだ。

「書が見えなかったのか! 行ってはならぬぞ!」
「っ!」

音々音が気がついた時には、目の前の男が彼女の腕を掴んで声を挙げていた。
その剣幕か、或いは無意識の自身の行動に驚いたのか、音々音には分からないことではあったが
掴まれた拍子に短く声を詰まらせると、他の誰よりもいち早く行動を起こした者が居た。
一連の流れから険しい顔で周囲を警戒するように、音々音の隣で佇んでいた恋が閃光のように
音々音と男の間に割り込んで、一呼吸あったか分からぬ次の瞬間には腕を捻りあげていたのだ。

「ぐっ、ぐあああぁっ」
「なっ、貴様ら! 何をしているのか分かっているのか!」
「ここを押し入るつもりか! どういうことになるのか分かっているのだろうな!」
「誰か兵を呼んでこいっ!」
「ねねっ、行く!」

身構えて叫ぶ周囲をまるで無視して、音々音へと顔を向けて力強く言い放った。
きっと、恋は全てを理解しているわけではないだろう。
それでも、音々音の様子と一刀にまつわる事であることだけは分かっている。
それだけで、恋が動くにはきっと十分すぎる理由だった。
一方、恋に水を向けられた音々音はその視線を受けて走り出す―――ことは無かった。
目の前の男達の緊迫が、余りにも迫真に過ぎてどちらとも判断が付かなかったせいだ。
謀り故の緊迫か、知らぬせいか。
なんにせよ、恋の行動は彼らに敵意を抱かせるのに十分な行為であるのは間違いない。
無意識で動いてしまった足は、最後の選択肢すらも潰してしまった。
文字通り、自らの一歩で。
故に、音々音は声をあげることしか出来なかった。
この宮内に、部屋の隅々、どこまでも、天辺まで届けと割れんばかりに。

「一刀殿ーーーーーーーーーーーーっ!」

「うっ、口を押さえろ!」
「恋殿! 手をあげては駄目むっ―――」
「ねねっ!」

そこからの展開は速かった。
やや掠れた高い声が、この場に居る全員の耳朶を強く響かせると、一番近くに居た男が何かを喋る音々音の口を塞ぎ
その塞いだ男の足が高速で飛来した何かに払われて瞬間宙に浮くと、解放された音々音を恋が抱き上げる。
誰かが呼んできた兵であろう、足音が宮内の入り口を響かせ始めると同時。
恋に何事かを囁いた音々音に従うように、二人は逃げるように宮内を飛び出して行った。
あまりに早く流動する場面に、取り残されるようにオロオロと眺めるだけの者や
興奮したかのように来たばかりで何も分からない兵に、音々音達を捕らえるように指示する者。
或いは、天代の傍付きである彼女達を追わせないよう、止めるように声を張り上げる者など、一瞬にして喧騒に包まれた。

そして―――

「ねね、どうする?」
「恋殿、お願いがあるのです。 ねねをここで降ろして、一刀殿の机を“掃除”してくだされ!」
「……?」
「徹底的に! 見せる急所は一つだけで十分なのです!」
「それが今、恋がやること?」

走り続けていた恋は、そこでようやく立ち止まって音々音を降ろし、真正面から相対して尋ねた。
未だ大きく呼吸を繰り返す音々音の、思いのほか力強い頷きに恋はしばし考えるかのように音々音を見据えて
やがて口を開いた。

「分かった」

短く了の声を返し、振り返ることなく踵を返して走り出す。
それを見送って、音々音は来た道を引き返すように歩き出した。
頭の中でぐるぐると、今日一日で掴んだ事実と情報を繰り返し描きながら。
これで最後になるはずがない、最後になるような問題にはならない筈なのだ。
立場は悪くなろう、不信感も募るかも知れない。
しかし、最後になる材料は音々音の眼に見えないのだ。
謀りの裏に、活路は必ずある筈だと自分を叱咤して、彼女は唯一と言って良い―――少なくとも、互いの胸の内を知っている―――曹騰と
会う為に、すっかり暗くなった夜の宮内の中、足を急がせた。


―――


「……ねね?」

声は確かに、一刀の元へと届いていた。
篭るように、遠くに聞こえる掠れた高い声は、しかし、一刀の耳には確かに音々音の声として聞こえていたのだ。
それは一刀の胸の内に強い警鐘を確かに齎して、声の聞こえた方向へ首を巡らし、一刀の歩みは止まった。
今、この時間、この場所で音々音の切迫したような声が聞こえてくるとは、ただごとでは無い。
帝に会いに来たのは自分の意思だというのに、待ち構えていた周囲の宦官や官僚達の不気味さも
一刀に大きな戸惑いを抱かせる要因の一つであった。

「どうしましたか」
「……」
『なぁ……』
『なんだ』
『なんか……』
『分かってる。 しかし、戻るわけにも行かないだろ』
『……』
「天代様?」
「……なんでも、ないです」

かぶりを振って、それだけを搾り出すように言うと歩を進める。
同調するように、周囲の足音が静かな廊下に響いて、それがまた一刀の感じる妙な圧迫感を加速させた。
脳内の自分達が言うように、自らの足でここまで進んで来た以上、戻る事はできない。
既に待たせている帝を置いて、戻るとなれば非難だけでは済まないだろう。
なにより、一刀には玉璽に関する件も含めて劉宏との話し合いをしなければならない理由がある。
それは、天代として自分が此処に立つ為に、絶対に必要な一手だ。
不審な動きが見え始めた宮内の薄くらい影に、唯一、権力で上に立つ帝との連携をここで深めなければ
思わぬ足を掬われかねないからだ。
音々音の声に後ろ髪引かれながらも、一刀は帝に会うことを優先した。
それはきっと、間違いでは無いはず。
間違いではない筈なのに、どうしてこんなにも心が騒ぐのだろうか。
脳内の影響かとも考えたが、漏れる意識の声に全員がそうなのかも知れないと思いなおす。
何か、そう。
自分の考えが根本から間違っているような、言い様の無い焦燥感が一刀の中に渦巻いていた。
そしてそれは。

「天代様、こちらでございます」
「え……?」
「帝は、こちらでお待ちしております」
「そっちは……玉座ですが」
「はい」
「……」

階段から寝室へ向かう足を止めるように、促された宦官の声で大きく確信に近づいた。

『なんで、伏せていて人に会えなかったはずの劉宏様が玉座に居るんだ、おかしいだろ!』
『おい、マジで行くの!?』
『けど、ここで引き返すのは……』
『ちょっと、ちょっと待って。 本体……』
「……」

ほとんど自分の声を代弁されるような形になりつつ、一刀は黙して促された宦官の後ろを歩いて玉座へ向かった。
二つに分かれる道の一つ、玉座に続く回廊がヤケに長く感じた。
玉座の間、正面扉の前に、やや開けた空間に差し当たると、響く足音の数が減ったことに一刀は気付いて振り返る。
14~5人は居ただろう官の数が半分ほど立ち止まり、頭を下げていた。
玉座の間に入る扉の前、僅か数メートルを残して、一刀は耐え切れぬよう沈黙を破って尋ねていた。

「……彼らはどうして来ないんですか?」
「入室を許可されていない者達でございます」
「……なんだって?」
「勅令により、玉座に入ることが出来るものは限られておりますので」
「何のために!」

思いのほか、一刀の声は強く響いて廊下に響いた。
前を歩いていた宦官の一人が、ゆっくりとその声に反応するかのように振り向く。
その顔は、無表情を貼り付けたかのように能面であった。
そして、感情を感じさせない、無機質な低い声で告げたのだ。

「それは、私に聞かれましても。 帝に直接聞いてくださいませ」
「……っ」

答えをはぐらかされた形になった一刀は、強い声を出しそうになるのを寸での所で抑えた。
周りに居る者たちが、その真実を知っているのか知らないのかは分からない。
実際のところ、知っているに違いないとは思うが、こうした態度を取る以上、答えを得る事は期待できないだろう。
しばし……一枚の扉を前に一刀は立ち往生するようにその場に留まり続けた。
この扉を開いた先に、会って話さねばならない帝が居るというのに。
それをしてはならないという、強い強迫観念が頭の中を渦巻いて止まない。
ただ一枚の扉を開くのに、一刀はなかなか覚悟が決まらなかった。
焦れたかのように、前に居る『入ることを許された者』が視線を投げかける。
伝播するかのように、周囲からも視線が一刀に集まって。

『本体……先に言っておく』
「何……?」
『明らかに謀りがある、と思う。 丁原さんから見える玉璽の一件から雲行きが怪しい。 先手を打て』
『“白の”に賛成だ。 発言を許可された時点で先手を打った方が良い』
『きっと、帝の周りに居る人が首謀者だよね』
『“呉の”、断定できるのか?』
『伏せていたはずの帝が玉座に居る時点で、ただごとじゃ無いし……』
『やっぱ、そう……なのかな?』
『……覚悟が決まってからでいい。 冷静になったら入るんだ』
『そうそう、爺ちゃんの言葉は便利だ』
『“南の”の言う事はともかく、冷静にはなった方が良いね』
「……分かった」
「天代様、帝がお待ちですぞ」
「少し……待ってくれ」

それから、周囲に誰も居ないかのように一刀はたっぷりと時間をかけて呼吸を整えた。
焦燥感からやや高鳴っていた心も、しっかりと平常心に戻して。
眼を瞑り、自らの集中を高める一刀の姿を見た宦達は、俄かに顔を見合わせていた。
そして、覚悟は決まる。

「……お待たせしました。 行きましょう」

玉座の間は、開かれた。


―――


玉座。
そこに至るまでに歩む一刀は、まるでこの場で西園八校尉の件で上奏した時のようにゆっくりとした物だった。
一刀の視界に映るは、玉座に座る青白い顔をして遠くでも分かるほど憔悴した劉宏の姿。
その帝の左に控えるは趙忠。
彼の後ろには、この宮内で見たことの無い細身の男が控えていた。
髭がある―――宦官でないことに、一刀は僅かに眦を下げてそれを認める。
視線を右に逸らせば張譲が裾の中で腕を組み、眼を閉じて佇んでいた。
その張譲の後ろ。
影になってやや見ずらい物の、ハッキリと見覚えの在るそのいでたちに、一刀の口は一瞬だけ戦慄く。

『……段珪さん』
『ど、どうして……』

この事実は、覚悟を決めて玉座に入った一刀の心を、脳内含めて僅かに揺らがせた。
一刀が天代になったこと、そして劉協へと仕官した事を含めて、段珪は確かに言った。
関与しない、と。
しかしこの場に居るという事実に、その言葉が経緯はどうあれ嘘であったことに動揺したのである。
何より、宦官の中では最も信頼していたと言って良い男だ。
この時点で、一刀は宦官全てが敵かもしれないと心中で認める。
そして、この場においては孤立無援であることも、まず間違いないと思われた。
更に視線を移せば、確かに玉座に入られる者は制限されているのだろう。
劉弁の元につめる宦官の内4人。
政に携わる高官が数人。
十常侍は当然のように左右に居並び、一刀の後を追うように室内に入った、いずれも重要な役職の幹部職である官僚達の姿だけ。
玉座の前に置かれている、高級そうな台座は上奏した時には見たことが無い物だ。
新しく据え付けられたのだろうか。
この場に居る全員が、一刀が天代の仕事に携わる中で顔を突き合わせ話したことのある者達だった。

そして、時間をかけて一刀が玉座、そこに至るまでの階段の前で傅くと沈黙は破られた。
手を震わせ、その貌を徐々に怒りへと変化させた―――帝の声で。

「一刀……何故……」
「……」
「何故……何故、何故! 何故っ、再三呼んだにも関わらず、姿を見せなかったのだ!」
「なっ! 劉宏様は伏せられていると―――」
「確かに、伏せては居たっ……! その間、余が……何度呼びだしたことかっ……うぐぐっ!」

遠目からでも分かるほど、辛い表情をしていた劉宏は苦しそうに胸を押さえ呻く。
帝のすぐ横に控える趙忠と張譲が、支えるようにして一歩前に出る。
とても話すことなど出来そうもない状態であった。

「劉宏様、大丈夫?」
「お熱くなられますな、身体を労わってください……続きは」

趙忠に任せるように身振りで示すと、張譲はその言葉尻を強調するように切って、続けた。

「私が引き継ぎましょう」

劉宏へと一度頭を下げて、顔を上げた時。
張譲の視線は壇上を見上げていた一刀の視線と交錯した。
眉根に深く皺が寄り、かつて見たことの無い剣幕で睨む一刀とゆっくりと相対する。
唇が吐き出される呼吸から僅かに開かれて交錯した視線はどちらも互いに外す事無く。
超然と何時ものように表情変え揺ることなく、帝の真横で見下ろす張譲と、壇下で傅く一刀。
一拍の呼吸を置いて、先に口を開いたのは一刀の―――いや、“董の”―――方であった。

「……この場に呼ばれたのは、漢王朝を左右する重大な案件の為と聞きました」
「如何にもその通りです」
「劉宏様の具合がこれでは、話し合うことも難しいでしょう」

そこで言いながらに一刀は合わしていた両の手を解き、立ち上がった。
それまで、安否を気遣う趙忠の声と帝の苦悶の呻き声がほとんどであった玉座に
ざわりと、周囲の者が狼狽するようなざわめきが室内に広がる。

「劉宏様がこのような状態の今に、国の一大事である物事の決議を取るのは無理です。
 帰らせて頂きます」

今の一刀の言葉も聞いているのか聞いていないのか、その判断すら出来ないほど玉座で荒い息を吐き出す帝。
確かに、一刀が言うように漢王朝を左右するとまで言われる重大事に、皇である帝を蔑ろにするように
意見を交換することは在り得ないし、在ってはならない事である。
この一刀の口上にはまったく、正当性ばかりが認められ、事実として暫しの時間誰に止められることなく
玉座へ視線を向けて佇んでいた一刀である。
“董の”の土壇場での閃きは、まさしく会心の初手となって、玉座の空気を支配していた。

引き止める時間は、十分に与えた筈だ。
もしも止められても、一刀がこの場に留まるだけの納得の出来る答えが返ってくる確率は相当に低いという手応えがある。
僅かに安堵の息を胸の内で吐き出して、一刀は入ってきた時と打って変わり
素早く踵を返すと来た道を戻り始めた。

「47」
「……?」

玉座から離れて歩き出した矢先、壇上から一際高い声が一刀の耳朶を響かせた。
肩越しに振り返って視線を向けると、劉宏の居る玉座に肩膝をつき支えながらに一刀を睨む趙忠の姿。
“董の”が立ち消えて、変わったのは“仲の”―――

「劉宏様が、天代様を呼んだ回数。 47回なんだ。 どうして来なかったの?」
「それはこちらの台詞だよ。 どうして追い返したのか? 天代である俺だけじゃない。 劉協様を含めてだ」
「そうやって何人騙してきたのかな? 賢しいね」
「言いがかりは辞めてくれ―――」
『うっ……』
『どうした、“魏の”』
『あの、張譲の後ろにいる男、笑った……』
『え?』
『あれは誰なんだ?』
『分からない……宮内で見かけたことの無い男だ』
『うっ……どうなった?』

脳内の言葉が区切りとなったか、“董の”が呻き声を上げながら戻ってくる。

「……落ち着け、趙忠。 天代様……趙忠の言うことはまさしく事実。
 帝が天代様をお呼びし、趙忠から何度も使者が送られている筈で御座います。
 これに応じなかったのは天代であり、帝への心労となっていたのです」
「……俺のところには誰も来なかったのです。 何よりも、容態を見ようと通いつめて追い出されたのは俺達の方なんですよ!」
「……なるほど。 私自身は断ったとはいえ、一度その現場を見ております。 信じましょう」
「ならっ!」
「譲爺っ!」

一刀と趙忠の声が重なった。
その二人の呼びかけるような声を無視するかのように、張譲の口が止まることはなかった。

「―――然しながら、この場に居る者たちは趙忠が使者を出していたのを全員が見ております。
 帝が勅を出し、さらには病状を押してまでお呼びしたという此度の場で天代様が帰られますと
 不本意ながら劉宏様に対して何かを隠している、と周囲に思われるでしょう」

馬鹿な話であった。
ほぼ謀りであると確信している一刀にとって、この場に居る者たちが趙忠の証人であることが
信用という面でどれだけ意味を持つのだろうか。
それを恐らく、承知の上だろう。
張譲自身は一刀の言い分を認め信じるが、周りの者が納得するかどうかは別の話であると語りかけている。
馬鹿な話としか、言いようが無い。
無いが……“董の”の一手を覆された瞬間でもあった。
いや、まだ一刀の自主性に問いかけている分だけイーブンまで持ち込まれたと言った方が正しい。
ここで帰るも帰らぬも自由だが、帰ることを選べばどうなるか。
張譲の言葉から生まれた迷いと躊躇いが、僅かな思考の空白を生んでしまい
その合間に滑り込んできた趙忠の声から、一刀は選択肢を失うことになってしまった。

「もういいよ、帰っちゃえば。 こんな奴が漢に在る天の御使いだなんて、終わりだね」
「おい、言葉が過ぎるぞ趙忠殿」
「そうだ、帝の前であらせられるぞ」

吐き出すように言い捨てた趙忠の言葉を諌めるように、周囲の者達が騒ぎ始めるが
この場から逃げたい一刀にとっては痛恨打となった。
それは聞けば、ただの皮肉にしか過ぎないというのに、天の御使いであることを否定されることになれば
天代である理由を失うに等しかった。
なにより、この場には帝が居る。
経緯を確認するまでもなく、一刀は天の御使いを名乗ることによって『帝の代わり』などという
在り得ない筈の役職を戴いているのだ。
例えソレが、絶対的な要素でなくとも一刀が拘る『天代』である為に、“天の御使い”を否定されてはならない物だった。
この時点で、一刀が帰る決断を下すには難しくなった。
その上で、やや容態が落ち着いたのか。
劉宏の声が響くと、それがトドメとなる。

「……よい、騒ぐのはよせ……一刀、この場に呼んだのは余だ。
 話をする為に呼んだのだ……こんな状態ではあるが、それは許せ」
「……劉宏様が、そう言うなら」
『寝ててくれりゃ良かったのに』
『おい、不謹慎だろ』
『……でも、俺もちょっと思ったよ』

帝にこう言われてしまえば、一刀はぐうの音も出せない。
最初に相対した時のように、再び傅く。
もはや玉座の間から一刀が逃れる術は失われてしまった。


―――


「いざこざが在りましたが……劉宏様。 私が代っても」
「そうだな……余の身体は悪い。 聞き役に徹するとしよう」
「では……」

言葉を区切る張譲は、最初と同じように帝の前で一度礼を取ると
同じように一刀へと相対する。
一刀もまた、座ったままでは在るが繰り返すように張譲へと険しい顔を向けていた。

「天代様、まずは―――」
「張譲殿。 漢王朝を左右する話とはなんですか」
「その前に、先ほどの趙忠の呼び出しについてお聞かせ戴こう」
「この場は俺を詰問する場所では無かったと思うけれど」
「これは異な事を。 私は帝の最初の問いを反芻しているだけで御座います」
「……趙忠さんからの使者は現れませんでした。 その逆に、何度かの訪問を断られる形で追い出されております。
 故に、この件に関しては不幸な入れ違いが在ったと思われ、自分の本意ではないということを断言します」
「……」

確認するかのように、張譲は玉座へ座る劉宏へと首を向けた。
ゆっくりと頷く劉宏に、張譲もまたゆっくりと頷いて、視線を一刀に移す。

「次に、これもまた聞かなければなりませぬ」
「……」
『段珪さんが居る、朱里と雛里の事に突っ込まれるかも知れない』
『それは避けられないかも、どっちにしろ玉璽か雛里達の件か、どっちかだ』
「玉璽に関して、天代様には覚えがありますかな」

眼を瞑って、左右に歩き出した張譲の声に一刀はやはり―――と密かに呟いた。

「黄巾党がここ、洛陽へと攻め上った際に火急故、使用しました。
 その時、発見に至ったのは洛陽の街中であり、宮中へ上がる前に偶然発見したものです」
「なるほど、虚偽ではないですな」
「疑われること事態が心外です。 また、玉璽は劉協様から言われて返還したことも併せて言わせてもらいます」
「うむ……天代の申したことは理解した。
 では、私がこの質問を天代にした意図を話すと致します。
 ここに、段珪殿より戻ってきた玉璽がございます」

言いながら懐から取り出して、良く見えるように近くに在る台座へと玉璽をコトリ、と置く。
それは確かに玉璽であった。
一刀も実際に二度、三度、策の実行の為に手を取って押捺したのだから記憶に新しい。
段珪の手から、という言葉から考えて、一刀が劉協に預けた元から戻ったことは間違いない。
それらを見届けた一刀は、同じように張譲の懐から取り出された物に驚愕し眼を見開くことになった。
形や大きさ、意匠はかなり似せられているそれ。
色合いが妙に新しく、張譲の手によって台座に並べられた玉璽と“何か”はともすれば
新しい物と古い物が並べられた、そう言って良い景色であった。

「そして、おかしな事にこちらにも玉璽が」
『馬鹿な! 玉璽が二つだって!?』
『―――あっ……まさか……』
『“呉の”、何がだよ!?』
「玉璽が二つ在るのは一体どういうことなのか、皆に良く聞いて貰いたい。
 まず、先に取り出したこちらは、帝である劉宏様自身に確認を済ませており
 長年、劉宏様以前の帝もご使用されていた物であるのは間違いない。
 これは、先の通り段珪殿の手から戻ってきた。
 そして、新しく作られたとしか思えない玉璽は―――先ごろ、天代からという触れで同じように、段珪殿から返還された物だ」
「違う! 嘘だそれは―――っ!」
「天代様、発言は今しばらく控えてくれないか!」
「張譲殿! 続きを!」

一刀が感情のまま叫ぶのを遮るかのように、十常侍である男の大きな声が飛んでくる。
躊躇いの無いその大声は、まるで打ち合わせしたかのように滑らかだ。
決定的だ。
証拠なんて必要ない。
今この瞬間、一刀は張譲の謀略の最中に居る。

「……この一件に気がついたのは、諸侯の声からで御座いました。
 漢王朝に尽くして長い、亡くなられた丁原殿から私の元に手紙が送られてきたのです。
 この、新たに作り出されただろう玉璽印を用いた書状と共に」
「馬鹿なことを! 俺が使った玉璽は―――」
『本体! 待ってくれ! 今、麗羽の、斗詩の事を言うつもりだったんじゃないか!』
『“袁の”、やめろよ!』
「なんですかな?」
(良いだろ! 俺は事実を言うだけだ!)
『麗羽を巻き込むないでくれ! 頼むよっ!』
『けど、けど、ここで否定しないと―――帝も居るんだぞ!』
『分かってるけど、判るだろ! お前らなら!』
『それは我がままだ!』
『冷静になれよ! 俺は“袁の”の意見に付く。 同情心じゃなく、どう転ぶか判らない以上……いや、悪転するだろう今、誰かを不用意に巻き込むべきじゃないだろ』
『それこそ同情のような物だろ! 今の立場を失ったらどうなるか知っている筈だ!』
『それは―――、けどっ』
(お前ら好き勝手言いやがって! 言わないでどうしろっていうんだよ!)
「続けますぞ。 この一事を知った私は、これが何処で作られたのかを調べました。
 その結果、これを彫っただろう人物と所縁のある者と接触に成功し、その者をこの場に呼んでおります」

一刀が誰に悟られることなく心中で口論をしている間にも、話は進んでいき
張譲の言葉尻に反応するように前へ出たのは、趙忠の後ろに控えた見覚えの無い男。
目つき鋭く、もともとが縮れているのだろうか、細かなウェーブを描きながら一見すれば不潔にも見える荒い黒髪。
その相貌に似合わぬ豪華な意匠が施された帽子を被り、口元に生えた髭は顎まで生えて長かった。
男は張譲に習うよう、発言前に玉座の前に出て一礼すると口を開いた。

「一介の庶民であった私がこの場での発言を許されますよう。 私は洛陽で彫師をして生計を営む李儒と申します。
 私の師である彫師が、この玉璽を手がけたことを、この場でハッキリと証言致します」
『李儒……!? か、髪と髭が……まさか!』
「り、李儒……だって?」
「おや? 天代様。 知己でございますか?」
『名前は知ってるけど、誰なんだ、“董の”!』
「し、知らない……」

知っていた。
知らないのに、知っていた―――知識が在るから。
その本体から漏れた言葉は、しかしこの場では漏らしてはいけないことだった。
僅かにでも、この張譲と共謀しているだろう李儒に対して反応を示せば
“玉璽を生んだ彫師”との繋がりを仄めかしてしまうからだ。
しかし、時はさかしまには還らない。
一刀が驚くように李儒の名を呟いたことは、この玉座に居る全員へと聞こえたのである。
それを切っ掛けに、大きなどよめきが玉座に巻き起こる。
同時に、劉宏の眉間に苦悶とは無縁の皺が刻まれたが、それは誰一人として気がついた者は居なかった。
この一刀の失態を見逃す張譲では無かった。

さかしまに還らぬ時は進む。

「……この新しい玉璽には、何度か押印された形跡が見られます。
 丁原殿の遺書とも言えそうなこの手紙には、玉璽に従い戦へ赴いたと確かな筆跡が残っておられます。
 帝への無断での使用。 天代という名で浮かれておられたか、諸侯を勝手に動かし軍権を濫用した事実。
 なによりも、今の反応から李儒殿を知っておられる様子の天代様には言わずとも判るでしょう」
(言うぞ! もう待てない!)
『待てよっ!』
『“袁の”っ!』
『本体、俺は―――っ』
「っっ待ってくれ! 黄巾党の対処には丁原さんを初めとする諸侯の援軍がなければ洛陽は攻め込まれていたかも知れない!
 玉璽も古い物を使った! 長らく使って草臥れた紋印を確認すれば、俺が本物の玉璽を―――っ」
(おい、ふざけんなっ! 勝手なことをしないでくれよっ! 黙ってろよっ!)
『―――っ!』
『あ……』

一刀の反論は、口論を繰り返す誰よりも先に咄嗟に入れ替わった“白の”の意識が途切れるその瞬間までだった。
主導権を取り戻した一刀は、一つ大きく息を吐き出した。
急に室内の気温が上がったように思える。
じんわりと額から汗が滲み出て、息苦しく、感覚が身体の奥底から沸いてくるように何時かにある頭痛がぶり返した。
口の中の唾液が乾き、視界に居並ぶ周囲の者達の視線が居心地の悪さに拍車がかかる。
それはこの玉座に訪れてから、一刀が常に感じていた物ではあった。
ここに来て、その感覚が増大し自身を大きく圧迫して始めていることに気が付くと同時に悟る。
声が無い。
今の今まで、この場で騒ぎ続けていた頭の中が、忘れて久しいほどクリアだ。
頭を鈍器で打つような、痛みを除けば。
不自然に論を止めた一刀に確認するように、張譲の声が飛んできたのは脳内の声が止んだことに気が付いた直後であった。

「天代様、どうなされた」
「う……あ、紋印の、その……手紙と、玉璽の紋印を確認すれば……」

大きな動揺を抱えつつ、一刀は“白の”の言葉を引き継ぐように震える声で言った。
その言葉を受けて、しばし一刀の様子を観察するように見やった張譲は、李儒と呼ばれる男に視線を向けて頷いた。
李儒は一刀と張譲を一瞥してから懐に手を伸ばして、やや草臥れた様子の書を取り出す。
それは壇下に居る一刀の目にも装丁から大きさまで、一刀が丁原へと出した物と一致しているように見える。
静々と歩き出し、張譲へと手渡すと礼を一つ、頭を下げて李儒は止まった。
その、いやに緩慢な動きが一刀の精神を圧迫していく。
何故、たかが書物を受け渡す為だけにこれだけの時間をかけるのだ。
丁原の手紙をこの場に用意していたのなら、こんな時間をかける必要は無いのではないか。
今までの流れから確実に張譲と李儒は共謀していると言える。
あれは似ているだけで―――丁原の手紙ではないのでは?

「……み、みんな……」

口が僅かに開かれただけにしか見えない程の小さな呟き。
一刀の声に、誰かの答えが返ってくることは無かった。
書を受け取った張譲は、一刀に確認させる為だろう。
何時もと代わらぬ歩調で階段を降りはじめ、その度に僅かなどよめきだけを残す玉座に
コツリ、コツリと足音を響かせて近づいてくる。
知らず喉を鳴らし、見上げる一刀の視界の端で、未だ頭を下げたままの李儒の口元に弧が描かれるのを見た気がした。
刹那、感情が迸る。

「ま……待てっ!」
「……?」

その制止の声は、思いのほか大きく玉座に響き渡った。
自身の声に押されるように一刀は立ち上がり、階段の途中で歩みを止めた張譲へと手を向ける。

「そ、それは本当に俺が出した物か!?」
「天代様、それこそご自身で確認されては如何でしょう」
「だ、だけど……」

それが罠なんじゃないか。
喚きたくてたまらない感情を押し殺して、一刀は口ごもった。
相手が堂々と、お前の出した物ならば自分で確認しろと言っているのに、一刀が渋っていては矛盾した話になる。
判っていても、歪んだ口元が脳裏に走り、張譲が持つ一枚の紙が一刀に久しく忘れた強い恐怖を与えていた。
一つ首を振って、張譲は階段を一つ降りる。
その一歩に気圧されるように一刀の身体が、僅かに身を引くように下がる。

「……よい」

互いの距離は、それ以上に近づくことは無かった。
張譲の声から始まった一連の流れに、黙していた玉座の主、劉宏の声が一つ飛んできて。

「もう、よい。 互いの様子を見れば余にも判る……張譲。 話を先に進めよ」
「ち、違う、劉宏様……これは……」
「だ、黙れ! これだけでは、これだけでは無いのだろうっ! 張譲から、全て、全て、聞いておるっ、話してやれ!」

吐き捨てるように言い終わる直後、激しく咳き込みながらも帝は立ち上がった。
つれて、趙忠が肩を貸して支えながら。
張譲はその場から動かず、顔を巡らして段珪を一瞥すると、帝の声に命ぜられるまま口を開く。

「……段珪殿から、天代の虚偽が発覚しております。
 先の黄巾の反乱に加わった諸葛孔明、鳳士元の二人に対して与えられた刑罰が完全に履行されていないこと。
 劉協様の居られる離宮にて、二人の罪人の眼が存在すると」
「……」
「これに対して、天代様から何か申し開きはあられるか」
「……そ……それ……それは…………」

申し開くことなどない。
これだけは一刀の―――脳内共に併せた願いからとはいえ、自身も認めている―――我侭から、行ったことである。
意味の無い言葉を繰り返すことしかできない。
それを見ながら張譲は丁原からの手紙かも知れない書を懐に収めつつ、帝の横に戻るように階段を上がりながら声を響かせる。

「―――、あの刑罰の内容は全て天代が独断で決められたことを、大将軍である何進殿から聞きだしております。
 加えて、今では天医として名高い華佗殿と懇意である天代は、彼にもこの話を通していたことと思われまする。
 ここで一つ、私にはまさかと思いながらも捨てきれぬ考えが思い浮かんでしまった」

言葉を区切り

「天代様は―――」

片手を一刀へと指し示し

「漢王朝、その帝位を簒奪する気ではないかと!」

今までに無いくらい、語気を強めて凛とした声を響かせた。
この暴論とも思える張譲の言葉に、一刀の感情は爆発した。
圧されるように身を引いていた身体が前に、身を震わせて声を荒げる。
ガンガンと響く頭が痛い。

「妄言を言うな! 俺は一度もそんな事を考えたことは無いっ!」
「西園三軍! 
 帝、ひいては漢王朝を守る為の盾として作られた筈の軍権はいずれも天代との繋がりの強い諸侯だけで構成されておりますな!
 頂点に劉宏様の名はあれど、事実上、軍として機能するのは天代の下まで!
 どう考えても軍権を牛耳る為に名を連ねたようにしか思えぬ有様だ!」
「さ、先の黄巾の乱で信頼できる人物を選んだに過ぎない! そんなつもりは欠片も―――」
「加えて!」

一刀の大声を遮るように、張譲の険しい声が覆いかぶさる。

「段珪殿から、そして私自身も天代様から聞かされたもので、言い逃れ出来ぬものが在る!
 天代は個人的理由から劉協様の下に外戚を集め、これに一軍を与えるという挙に出ようとしているのだ!
 “死ぬことよりも苦しい罰”という名目で先ほどの諸葛孔明、鳳士元を放り出し自分の部下に一軍を与えて
 虚偽の報告を見破られぬよう逃がそうとしているのではないか!?
 更に言えば、自身の保身の他に『黄巾党の幹部』であった両名を外へ泳がすことによって、何かしらの陰謀がある
 可能性すら浮かんでくる。 
 玉璽を無断で使用し、軍権を牛耳り、帝を蔑ろにするばかりか虚偽を連ねる天代に、帝位を簒奪する気が無いと誰がいえるか!
 違う―――そう言うのならば、納得できるだけの反論をこの場で聞かせて戴こう!」

「張譲―――貴様っ……っ!」

揺ぎ無い眼で、見下ろす張譲を一刀は射殺すように睨んで、言葉が出たのは怨嗟の声だけだった。

一刀が張譲に詰められた問いは、真実が紛れ込んでいる分だけ反論が出来なかった。
たとえ否定を返したところで、朱里や雛里の件にかこつけて突きこまれるのは明白であり
そうなれば、彼女達は今度こそ生きていられなくなる。
このまま黙っていても同じことかもしれないが。
どちらにしろ、一刀は張譲の言葉を覆すだけの弁を持ち得なかった。
自然、視線は泳ぎ顔を玉座から逸らして黙する一刀に―――決定打となる声は響き渡る。

「協は……協も全て知っているのか」
「……劉宏様。 劉協様は知っておられても、全てを天代から話されている訳ではございません。
 この段珪、身命を賭して劉協様は天代に、その賢しい言で誑かされていたと証言致します」
「っ……よくも、余を裏切ってくれたものだ……天代として……いや、天の御使いと聞いて、余はどれだけお前に……一刀っ……!」

その劉宏の声もまた、大きく震えていた。
病を押して、この場に居ることだけが原因ではない―――明らかな失望と怒りが覗ける声色であった。


「こ、殺せ……」

「りゅ、劉宏様……っ!」


頭痛が止まない一刀に、その声は大きく響いて心身に衝撃を与えた。

「殺せ! 貌も見たくないわっ!」

一刀へ手を振り上げて、ハッキリと断言して病に犯されているとは思えない程、大きな声が玉座に響く。
官僚の一人が、帝の声に反応し、慌てた様子で室内に設置された銅鑼を鳴り響かせた。
詰めていたのだろう。
殆ど間を置かずして玉座にある幾つかの入り口から、槍や刀剣を持った兵達が扉を開け放ち、走りこんでくる。
おそらく理由や経緯は知らぬであろう、帝の近衛として控えていた兵達は、玉座の間に居る人物を
慌しげに見回しながら何事かと尋ねてきた。

「一体何が!」
「どうされましたか!」
「天代様、いや北郷一刀をこの場で殺せと、帝の命だ!」
「早く殺せ!」

何人かの声が切っ掛けに、部屋の中央に居る一刀を取り囲むようにして銀の刃が向けられる。
その間も、一刀はずっと張譲を睨み続けていた。
金属と金属が打ち鳴らされ、響いた高い音にようやく、一刀は自分が周囲を刃に取り囲まれていることに気が付く。
怒りからか、それとも恐れからか。
一刀は歯の根を震わして周囲の兵達をぐるり見回した。

「なんでだ、早く何か言えよ」
「……?」
「……だ、誰か、居るだろ……」
「なんだ?」
「て、天代様?」
「誰か、居るだろ! 答えろよっ!」

自分自身に問う一刀の声は、徐々に語気を強めて周囲を動揺させた。
また、兵の者達に、今の今まで天代として敬われていた一刀へと刃を向けること。
その事実そのものに抵抗のある者が多かったのも原因の一つだった。
そんな周囲を他所に、一刀は自身へ向けて声を荒げた。
今の一刀に出来るのは、窮地にあって自分自身に縋ることであった。
その声に、反応する者は居ない。

「殺せっ!」

命ずる声に、兵の全員が一瞬だけ顔を合わせて、そして―――

「何で誰も居なくなるんだぁぁぁあーーーーーー!」
「お待ちくだされっ!」


一刀の叫びに負けぬくらいに、劉宏の、そして兵の動きを制止するよう大きな声を発したのは張譲であった。


―――


槍の穂先が炎に照らされ赤い光を反射し、一刀に刃が突きつけられている最中。
張譲が言ったことは、ここで天代を亡き者にすることは、大きな失態となることを指摘していた。
一刀がこの漢王朝に現れ、天の御使いを名乗り始めてからおおよそ半年以上。
その間、一刀は黄巾党の目に見える侵略を戦で叩き潰し、新たな政策―――天の政策として―――王朝に深く関わってきていた。
その築き上げてきた民達からの信頼と、風評はとてつもなく大きな物である。
多くの出来事は偶然の流れかも知れないが、民から信望される一刀を外様から見て無意味に処断することは
漢王朝、或いは帝である劉宏に非難が集まることに繋がりかねない。
故に、張譲が帝へ進言したのは、身分役職全てを取り上げた上での一刀の追放であった。
興奮していた帝は、これに最初首を振っていたが、周りの官僚や十常侍たちも張譲の言が理に適っている為か
強行しようとする帝を諌めるようにして、最終的には縦に頷くこととなった。
帝は、これに頷いてすぐに部屋へ戻ることを告げて、いきり立つように趙忠に支えながらも自らの足で歩き、玉座から立ち去った……

結局、一刀に言い渡された追放の処分には皮肉にも朱里や雛里に告げた物と同種の物だった。
帝の代わりでもある“天代”になってからの積み重なる虚偽は許されざることであり
外とは違う形で、内から漢王朝に大きな危機を齎したとされ、未だ不安定な大陸の情勢を治めるよう
僅か兵3000を伴って黄巾党残党を狩るよう言い渡されたのである。
当然ながら、漢王朝からの補給は見込めない。
この3000という数字に、一刀は思い当たる節がある。
洛陽郊外へ演習をしに行った何進と蹇碩の二人が、“天の御使い”の名で集った人数。
その中で、演習の関係上、洛陽に留まっているはずの数字と一緒であった。
これは、一刀を慕って集まった民を、同時に放り出すことを意味していたのだと
処分を俯きながら聞かされた一刀が思い至ったことである。
信者、という訳ではないが、天代を慕う者はいらないという事なのだろう。
自棄になってその兵を用い、漢王朝に刃を向ければ張譲達から言えばしめたものだ。
そういう考えが透けて見えてしまった。

「劉協様の居られる離宮には近づかないで貰いたい」
「段珪殿がおっしゃる不安も良くわかる。 牢に入れてしまうか」
「ばか者が。 牢に入れれば何事かと周囲が騒ぐわ」
「天代という者の厄介さが、改めて分かるな……ふんっ」 
「どちらにしろ、この宮内の一室に閉じ込めて置くほうが良い」

終始無言で、一刀はそうした話し合いを聞き流して、やがて意見が纏まったのか。
一人の男が刃を向ける兵の垣根を割って、現れる。
段珪であった。

「北郷一刀」
「……」

顔を上げた一刀は、胡乱な眼を向けて段珪と相対した。
その貌には、常では在り得ないほど、無感動な表情を張り付かせて。

「ついて参られよ。 漢王朝を出るまで過ごす部屋へ、案内しよう」
「……」

幾人かの兵を連れ立って、一刀は段珪の後を追うように退室した。
この宮内の中には、一刀が一時的に忙殺された為に誂えた緊急の執務室がある。
その場所が、事実上軟禁されることになる場所と決まったようであった。
短い期間に何度も何度も往復した道を辿って、段珪の後を追う。
途中、汗をかいて大きな息を吐き出す曹騰とすれ違ったが、両者とも何を話すわけでもなく
僅かに視線を交わしただけであった。

一刀の使っていた執務室の扉に手をかけて、段珪はそこで初めて一刀に対して口を開いた。

「恨まれますか」
「……」
「覚悟の上でございます。 劉協様にとって、一刀様は居ない方が良い」
「……何故」
「あなたが甘いからだ。 諸葛亮と鳳統は、生かすべきでは無かった」
「本当に……それだけなのか……あなたは……」
「……入りなさい。 明日か、明後日か。 出立がいつかは判らぬが、覚悟を決めることだ」


今朝、荷物を纏めたばかりの部屋の中は、幾つかの大きな家具や元からこの場所に在った小道具だけ。
がらんどうとした室内は、夏だというのにうすら寒く感じた。
一刀が中に入ったことを確認して、段珪が扉をパタリと閉める。
やがて、外で何事かを話し合い、離れていく多くの足音。
足音が消えれば衣擦れ一つしないシンとした静寂が包むことから、見張りすらつけなかったようだ。
確かに、逃げてしまえば自分の非を認めるような形になり、大手を振って天代の目論みは帝位の簒奪だったと言える口実を与える。
逃げたいのならばご自由に、という所なのだろう。
部屋の中央で、何をするでもなく立ち尽くす一刀の心中は、酷く荒んでいた。
たった今起きた、玉座の出来事を反芻して、後悔の念ばかりが心に刻まれていく。
何よりも。

『……っ』
『おい……此処は何処だ』

響く頭痛の中、謀ったかのように帰ってきた自分の声に深い苛立ちを感じて。

『なぁ……本体、どうしてこんな所に居るんだよ』
『玉座の間に居たはずだろ……』
『説明してくれ!』

喚くように、一刀の中で声が吹き荒れる。
勝手じゃないか。
自分があれだけ呼んでいたのに、どうして今更になって戻ってくるのだ。
誰もかれも、一番苦しい時に黙り込んで、まるで見捨てられたような気持ちだった。

『本体―――』
「黙れよっ!」

一喝するような鋭い声が、一刀の口から吐き出された。
ああ、確かに願ったかもしれない。
袁紹の事を槍玉に挙げて、矛を逸らそうとしたのは認めよう。
その後にフォローすれば、あの場を切り抜ければ、袁紹も自分が守ってあげられると思ったからだ。
だが、自分の中に住んでいる意識が、自分のことでもあるというのに
まるで人事であるかのように呼びかけても答えず、勝手に口を動かすとはどういう了見なのだ。

『……な、なんだよ』
『本体……まさか、殺されるのか?』
「五月蝿いって言っているだろ! 見てきたお前らなら、判っているくせに!」
『何を熱くなってるんだよ!』
『俺、気がついたら玉座の間からこの部屋に居たんだ! 教えてくれ、どう―――』
「ふざけんなぁぁぁぁあ―ーーー!」

一刀は、手近にあった椅子を蹴飛ばしながら怒りに任せて叫び散らした。
木材の硬い音が、壁に跳ね返って響く。
突然の凶行と、否定するように声を荒げる本体に、脳内の声も調子が強くなる。

『おい! やめろよ!』
『何してるんだ!』
「何で! 何で! 何で俺がこんな目にあわなくちゃならないんだ!
 俺が何度呼びかけたって、何にも言わなかったくせに! どうして! 何でだよ! 畜生! くそっ、クソぉぉお!」

壁に跳ね返り戻ってきた椅子の足を持ち、叩き付けるように机とぶつける。
4つ在る足の一本と背もたれが砕け散って、周囲に僅かな埃を巻き上げて散らばった。
そのまま、机の上に在る道具も凪ぎ飛ばすように水平に叩き付け、その衝撃でグラリと一刀に向かって
倒れこんできた机を足で押し出すように蹴り出す。

『おい! 代わっちまえ!』
『やめろよ! 訳わかんねーよ!』
『早く誰か止めろよ!』
『―――なんで! 本体が動かせない!』
『やってるよ! でも本体が―――』
「うわああああああああっ!」

結局、脳内の誰もが本体と入れ替わることは出来なかった。
引き出しは割れ、机の表面には無数の細かい傷がついて、上に乗っていた道具は全て床へと散らばった。
唯一、取り付けられた窓にも皹が入って、ようやく荒い息を吐き出しながら一刀の動きは止まった。
こうなってしまっては、一刀が天代で在ることは難しい。
天代でなければ、一刀は何も出来なくなる。
劉協と真名を預けられるほどの信頼と共に交わした約束も。
朱里と雛里にあれだけ偉そうに道を示して、交わした約束も。
劉協に仕えている音々音も、一刀を追う事は、出来ないし、漢王朝から追放される自分に付いてこさせてはいけない。
まるで、今まで築き上げて見えゆる視界が薄く翳るように。
すべて、全部、何もかも、泡沫の夢となって失ったのだ。

頭が痛い。

「ははっ……自分に裏切られるって、こういうことなんだな」
『お前、俺達は何もわからないのに一人で結論付けるなよ!』
『はっ……なるほど』
『なんだよ、“白の”』
『簡単な話じゃないか。 確かに俺達は本体を動かせるんだろう。
 じゃあ、俺達が出来て本体に出来ないって話があるか?
 今、必死に止めようと入ろうとして拒否されたのが何よりも明確に示してるじゃないか』
「何が言いたいんだよ、お前!」
『本体自身が、俺達のことを追い出したんだろ? 自分自身に裏切られた? そんなの俺にだって言える』
『“白の”! いいすぎだ!』
『悪い、俺も“白の”の言うことが言いすぎだとは思えない。 自分で追い出しておきながら、今更泣き言を言うなんてみっともないね』
『おい! “無の”!』
「好き勝手に言いやがって……っ、誰が苦労してると思ってるんだ!」

頭が痛い。

『苦労してるのはお互い様だろ! 熱くなるなよ皆!』
『俺達が居なかったら、お前どうしてたんだよ!』
『やめろよっ! 本体、玉座の間での出来事を話してくれ!』
『“蜀の”も“董の”もいい加減に判れよ! 俺達が、どういう思いで本体の中に居るのかを知っているだろうがっ!』
『本体の外史になんで付き合わなくちゃならないんだって話だ!』
『今更それを言ってどうするんだよ! みんなで協力してやってきたじゃないかっ!』
『皆我慢してんだ! 勝手な理屈で切れられて、居場所まで否定されるなら、俺はこんなところ御免だね!』 
「なんだ! 今まで嫌々に付き合ってきたのかよお前ら! は、ハハハッ、笑えない冗談だ!
 俺は、お前達の為にも、って、ずっと思ってきたのに、お前らはそうだったんだな! 最低だ!」
『それを言ったら俺達だってそうだったんだよ!』
『てめぇら五月蝿ぇんだよ! ゴチャゴチャと、少しくらい落ち着いて話せ!』
『“馬の”、お前にそっくりそのまま返すわ。 正直言って話し合いにもならないね、こんな状態じゃ』
『一番に我侭を言い始めた“袁の”に言われたくないけどな』
『なんだよ!?』
『何が!』
「……もういい、五月蝿い……消えろよお前ら―――ぐ!?」

頭が、痛かった。
周囲の音や声が、何も聞こえないくらいに―――酷く。

「あ"あ"あ"あああ"ああ"ああ"ぁぁ"ぁ"ぁあ"あ"ぁぁあ"あぁ"ああ"あ"ああ"あ"あ!!!!!!」

激烈な痛みに、一刀は獣のような呻き声をあげて蹲る。
世界がひっくり返ったかのように、自分の立って居る場所が覚束ない。
グルリグルリと回る視界に耐えかねて、頭と目頭を押さえて倒れこむ。
頭が割れそうだった。
このまま、死んでしまうかも―――いや、いっその事死んでしまった方が楽になれるのではないか。
そう思ってしまうほどに、一刀はどうしようもない痛みに耐えかねて、地ベタを這いずっていた。

そんな一刀の異常にいち早く気が付いて駆けつけるのは、何時だって彼女であった。


―――


「か……一刀殿」

呻き声をあげることだけしか出来なかった一刀は、滑り込むように飛んできたその声に
俯いた身体を起こして生気の欠ける目で見やる。
扉を開いて、一刀の異常な状態を呆然と見ていたのは、音々音。
呆けるように周囲を見回して、惨状となった室内に一歩踏み入れた足元から、ガラスのような物を踏みしめて
パキリと軽い音が鳴った。
誰かが暴れたとしか思えない部屋。
音々音はもう一度一刀へと視線を向けて、口を開いた。

「こ、これは……」
「……ねね」

明かりも無い室内は、扉から差し込む光と、僅かな月の光だけが光源であり
呟きと共に、頭を抑えて立ち上がる一刀は、その貌も相まって幽鬼染みていた。

「うっ……」
「一刀殿!」

鳴り止まぬ鈍痛に、一刀は一つ呻くと扉を閉めて一刀へと駆け寄り、蹲った彼の様子を窺うように覗き込む。
音々音の気配が真横に近づいて、一刀は隠れるように顔を俯かせた。

「……嫌われなきゃ」

背中に触れた音々音の手の体温に、一刀は小さく何かを呟いた。
その声は、やはり誰にも聞こえず、一刀以外に判るはずもない声量であった。

「一刀殿……あっ!?」

声なく、一刀が音々音の腕を引き込むように手繰り寄せると、まるで互いの頭がぶつかるようにして抱き寄せられる。
突然の一刀の行為に、抵抗する間も無く音々音は抱き上げられた。
感じる重力と、引っ張られる空気に、自分が抱えられて移動していることが判る。
瞬間、衝撃。
背中を打つような衝撃は、地面にしては事のほか柔らかく受け止められた。
軋みを上げて揺れる床。
そこは、一刀の為に誂えられた仮眠用の寝床であった。
飛び込むようにして床へ押し付けられた衝撃から、音々音の被る帽子はコロリと転がって、地に落ちた。
連れられるように抱き上げられたせいか、紐で止めていた赤い宝石を誂えた髪留めも、何時の間にか解けて
翡翠に近い色合いの髪が揺れて、広がる。

「か、一刀殿、何を―――」
「……っ……うっ……」
「か……一刀殿」

見上げる音々音の視界に広がるのは、歯を食いしばって苦痛に耐える一刀の姿であった。
驚き、呆けた音々音はそれだけを呟くことしか出来なかった。
一刀と出会ってから、きっと今まで一番長く傍に在った彼女でも、こうした顔を見るのは初めてだった。
まるで今にも泣きながら消えていきそうな、辛く重い貌。
何に巻き込まれても、弱音を吐いても、決して見せなかった歪な表情。
何が在って、どういう経緯でこうなったか等、話を聞くまでも無く理解できる。
だって、苦しくても辛くても駆け続けたのは、目の前の男の為なのだ。
その余りに痛々しい一刀の様子に、音々音は思わず顔に手を伸ばし―――その手を一刀に叩かれる。

「痛っ―――!」

打ち据えられた痛みに短く苦悶の声をあげると、外套として常に身を纏う黒色のマントが翻った。
糸が張力に耐え切れぬよう、ブツリという音と共にかけられたボタンは弾け飛び
薄い、白色の上着とカットジーンズのような短いパンツだけになる。

「か―――んむっ!?」

何事かを話そうと口を開いた音々音の口内を蹂躙するように、一刀は唇を合わせた。
一刀の口の中は果たして、切れていたのか。
鈍い鉄の味がじわりと舌を伝わせ音々音の中に入ってくる。
もともと、息の荒かった一刀の鼻から吹き付けられる空気が、耳朶を響かせて。
自身の身に纏う物が、衣を力任せに引き裂かれる音だけで剥ぎ取られていくのが良くわかる。
もともとが暑さから薄着である。
時間かけず、胸部は晒されて、その白い肢体を暗闇の中で映えさせていた。
一刀の腰と太腿に抱えられるようにして飛び出した足がピクリと、跳ねる。
口内を舐る一刀の舌は、悲しいくらいに強く、音々音の唇の端を切る程に強くて。
他の誰でもない。
強姦そのものの突然の行為の裏に、吹き荒れる熱情を確かに、彼女は感じていた。

長く続いた強いキスは、やがて離れ、赤と白の線を描いて垂れる。
ようやく離れた時、目端に涙を浮かべていたのは一刀ではなく、音々音の方であった。
一刀からの声は、行為を通じて確かに胸を打って届いていた。
きっと、もう会えなくなるから。
そんな確信が、音々音の中でストンと落ちてきた時には、もうどうにも出来なかった。
鼻の頭がツンとするような、熱を持って目端に零れる涙を止めることは出来なかったのだ。

「……あぁ」

身を引いて、音々音の涙を見た一刀の漏らすように出た声と共に動きが止まる。
月明かりに照らされて、赤い線が至るところに見える白い肌と、横向き流れる雫に
鳴り止まない激烈な頭痛すらも忘れて、その姿に見入ってしまった。
乱れた髪の端を伝って、結わえていた赤い宝玉が音々音の髪から滑り落ちるように晒された胸元に落ちていく。
コロリと転がって、それは腹部から逸れて寝床に落ちた。

宝玉に映り込む、自身の貌に一刀の表情は歪む。
なんという憔悴した貌か。
まるで、病状に伏せていた劉宏のように、生気の無い顔であった。

「……あああ……」

目を瞑り、僅かに奮え、耐えるように涙を流す音々音に、一刀は泣き声のような声しか出せなかった。
一緒に入れないから、嫌われなくちゃいけないから、あとくされの無い一番の方法だと思うことを実行しただけなのに
たった一粒の涙で、もう音々音に対して何かをするなんてことは出来なくなってしまった。
同時、こんなにも中途半端で終わらせようとする自身が酷く醜かった。
未練がましく、服を引き千切り、犯そうとした自分をまだ、庇おうとしていると。
その上で、自分を好いて貰えるのでは無いかと。
情けなさと醜さに、自棄になってまた、醜態を晒して強く想う人を泣かせている。

目を強く瞑って、一刀は続けるかどうかを自問した。
声は上がらない。
強い頭痛がまた、ぶり返して、ともすればこのまま全てを忘れて倒れてしまいたい誘惑に駆られてしまう。
音々音の太腿の間から、僅かに鳴動する呼吸の音を感じて、うっすらと瞼を上げれば交叉する視線。
目端に浮かべた涙を拭うこともせず、ただ、ただ一刀を見上げ両の手を一刀の腕に置く音々音の顔。
その目には、諦めも、絶望も無く。
強く称えられた紅を思わせる瞳が真っ直ぐ一刀に向けられて、揺らぐだけであった。
この自分の愚かな行為を、彼女は何を思って受け入れたのか。

ああ。
愛しい。

こんなにも誰かを想うことなど、在り得ないと思っていた。
ほんの数時間前まで、芽吹いていた感情の花はこの瞬間に開ききった。
離れたくない。
目の前の女(ひと)と、片時も。
そう思える、初めての彼女に、これ以上に我を通して悲しませることなんてしたくない。
なんて、馬鹿なのだろう……後悔に押しつぶされそうになりながらも、絞るように一刀はねねへと口を開いた。

「……ねね、ごめん」
「……あ」

身を引いて、彼女の手をほどきながら起き上がろうとした一刀だが、離れることは叶わなかった。
それどころか、一刀の拘束が緩んで、身体を引いた瞬間。
逆に、一刀を押し倒すように身を起こして音々音は被さった。
一刀の背に柔らかい弾力が感じられて、ぐるり回った視界に驚きながらも、その眼は音々音を捉えていた。
そして額に走る衝撃に、一瞬だけ目を瞑る。

再び開けた視界には、音々音が手を広げて、一刀の頭へと突き出すようにしている姿。
音々音に軽く殴打され、呆けた視線を向けてしまう。

「……今回は、これだけじゃ許さないのです」
「……ねね」
「一刀殿……一刀殿が墓参に行ってから、ねねの方では大事件があったのですぞ」
「……ああ、俺も……あったよ……」
「それはきっと、もしかしたら、一刀殿が危なくて、死んじゃうかも知れなくて……」

涙声の音々音の声は、鈍く走る痛みを忘れるくらいにしっかりと、一刀の頭の中へ入ってくる。
宮内に響いた音々音の声は、幻聴なんかじゃない。
きっと最後の瞬間まで、一刀を追って来たのだ。
詳しい経緯など聞くまでもなく、それだけはこの場に音々音が居ることで確信できた。

「いっぱい、いっぱい走ったのです。 もう、疲れて死んじゃうくらいに―――」
「ああ……」
「ねねの事件は、これで……一刀殿の方は、後で聞かせてもらうのです」
「ねね……俺は……俺―――」

ベシリッ、と額に走る衝撃を感じて、一刀の声は詰まった。

「一刀殿、後にしないとねねは許さないのです」
「今日は厳しいな……」

視界に映る音々音は泣いている。
泣いているのに、笑顔であった。

「一刀……お慕いしてるのです」
「あぁ……っ」
「だから……だから、ねねを優しく愛してくだされ」
「ねね……っ!」

もう言葉は要らなかった。
強く抱きとめる腕の中、互いの息遣いと優しく包む体温に身を委ねて。

お互いに、何があったのかすら話していないというのに、結果を知っている。
それだけで十分だった。
今はただ。
この腕の中に居る愛しい人に、好である感情をぶつけるだけ。

惨状と化した部屋の隅、差し込む月明かりに照らされて。
薄影の果てぬ夢の中、一刀と音々音は「ひとよ」の交叉に互いの身を委ねた……


―――


幾度、二人で紡いだだろう。
この時間を何時までも共有したい。
そんな想いを抱えて、一刀はゆっくりと起き上がった。
まだ、朝日が昇る前の暁の頃、空は白染んで、星と月が天を彩っていた。
一刀がこの大陸に訪れてから抱える、殆どの柵は音々音の胸の内に息づくことだろう。
自分の中に自分が在ること。
そんな自分達が、何度も別の大陸で天の御使いとなったこと。
大きな歴史と、漢王朝そのものの行く末。
同じように、音々音からも段珪が裏切るようにしてあの場に玉座に居た理由が判る。
勝手な憶測だが、音々音が持っていた紙片に書かれていた人物は、段珪の子なのだろうと一刀は思った。
いつか、劉協の元を離れて共に暮らすのだと、笑って話したあの時。
彼の笑顔に、一刀は理不尽な物を感じながらも劉協へと仕えることに承諾したような気がする。
劉協にとって自分が居ない方が良いと言ったのも、一刀自身がこうなってしまっては本音であったのだろう。
彼は、劉協のことも我が子のように想っていると話していた。
言うなれば、愛しい子を想う親心を利用されたにすぎないのだ。
音々音に置き換えてしまえば、今の一刀には十分に過ぎる理由だった。
許せることではないが、判ってしまう。
皮肉な話だな、と一刀は一人ごちた。

もう、洛陽に居ることのできる時間は無い。
この場で出来ないことを、追い出されることになった自分が何を出来るのか。
きっとまたゼロからのスタートだ。
この大陸に落ちた時と違うのは、自らの胸に吹き荒れる確かな決意。
なにが在っても、いつか必ずこの場所に戻ってくる―――自分を含めた、愛する人の為に。

ああ、そうか。
一刀は一人納得した。
驚くほど痛みの残っていない頭痛の原因は、自分の心の弱さが原因であったのか。
あの絶望感に立ち向かう勇気を、自分以外の北郷一刀は持っていたという事、だろう。
普段のように、脳内の自分達が居ることを、何時もよりも強く実感できた。
自然、口を開いて問いかける。

「みんな、居るのか?」
『……昨夜はお楽しみでしたね』
『ぶっ、言いやがった!』
『言わせろ言わせろ、俺達追い出して一人でハッスルダンスしやがって』
『どんだけ引っ張るんだよっ!』
『ハハハハッ』
「ははっ……みんな、ごめん。 昨日はどうかしてたみたいだ」
『まったくだ……まぁ、俺達もだけど……』
『……本体、すまなかった』
『ごめん』
「いいんだ……それより、全部話すよ。 これからどうすれば良いのか、みんなの意見を聞きたい」
『『『『『『ああ』』』』』』
「一刀殿……?」

一刀が自分との会話をしている声からか、寝床からムクリと起き上がる音々音。
目の端を手で拭い、眠たいだろう瞼を持ち上げて一刀を呼んだ。
そんな声に振り返って、一刀は笑顔を向けて

「ねね、おはよう」
「……お、おひょうなのでう」
「あははっ、まだ眠いのかい?」
「うっ、ち、違うのですぞ。 今のは、その……」

音々音は一つ言葉を切って、恥ずかしそうに俯くとモゴモゴと口ごもった。
そんな彼女の仕草が一刀の強い決意を塗り固めていく。
ずっと向けられた視線に耐えかねたか、やがて彼女は諦めるかのように声をあげた。

「その、昨日よりもずっと、一刀殿が格好良く見えたから……」
「……ああ、当たり前だろう。 こんなにも良い女が、傍に居るんだから格好よくもなるさ」
「なぁっ―――……まったく、一刀殿はそうやってすぐ口説くのですから……」

クスリと茶化すように浮かべた音々音の笑顔は、朝日に照らされて良く映えた。
そんな音々音が引き裂かれた服の中でも、唯一と言って良い無事な外套を羽織るように身に纏い
不器用に立ち上がると、コロリコロリと赤い宝玉が一刀の足元まで転がってきた。
音々音の髪留めに誂えた物であった。
一刀も音々音も、互いに音の鳴る宝玉を眺めて、口を開いたのは一刀であった。

「……ねね、これ、貰ってもいいかい?」
「え? 別にいいですけど……」
「紐も」

一刀の足に当たり、ようやく止まった宝玉を拾い上げて、一刀は僅かに空いた穴に紐を通した。
それを手近にあった紐に繋げて、しっかりと結束して首にぶら下げる。
一刀の行動を見て音々音も、もう片方ある髪留めを見やって暫し考え込んでから
同じように髪留めを首飾りに変えて身に着けた。

「……ねね、必ずまた」
「……ねねは、今は劉協様にお仕えしております。 だから一刀殿」
「ああ」
「ねねは厳しいですから、覚悟するのです」
「判ってる。 絶対、なんとかしてみるさ」
「一刀殿ならば、きっと……信じているのです」

やがて迎えた朝日が洛陽を照らした頃。
音々音は劉協の居る離宮へと帰り、一刀はそれを見送った。

窓から覗ける宮内と、洛陽の街の姿は今まで見ていた物とは少し違う印象を与えて、一刀の視界に広がっていた……


      ■ 外史終了 ■





[22225] 「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編3
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/29 01:05


      ■ 有待之身を伝え知らせて


洛陽の北にある黄河を覗ける荒野に、官軍を示す鎧を来た者達が設営された天幕の傍で輪になって食事を取る。
配給された糧食は、乾燥した肉と一つまみの塩、水と変わらぬような味の薄いスープだけであった。
この地に来てから何度見たか判らない、配膳の者に群がる兵の光景を一つ息を吐いて見やり
いの一番に配給を受け取って天幕の中へと姿を消したのは、漢王朝の大将軍こと何進であった。
天幕を潜ると、そこには一人の男が待ち構えるようにして座っていた。

「なんだ、朱儁将軍か。 珍しいな」
「失礼かとは思ったが、中で待たせて貰った」
「ああ、構わない。 戦時でもないしな」

どうやら配給一番槍は、目の前の男であったようだ。
朱儁の隣にも、しっかりと配膳の為の盆受けがあるのを目にして何進は苦笑した。
この演習に来てから、そろそろ10日は経とうかと言うところだ。
自身の天幕に訪れることはもちろん初めて。
言葉にしなくても、朱儁が何を言いに来たのか何進は憶測がついたが、あえてそこには言及せずに彼の口が開くのを待った。

「……それにしても、この演習に大将軍が居られるとは聞いていませんでした」
「ああ、私も蹇碩殿に頼まれて仕方なくな。 帝が倒れられてから忙しくてかなわん、休みが欲しいものだ」
「はっはっは、まったくです」
「まぁ、助かっているのは天代様の名で集った此度の兵は、文句も言わずに良くやってくれることだが」
「そうですな、ここまで素直な兵を調練するのは初めての経験です」
「……ところで、このような世間話をしに来たのではないのだろう。
 朱儁殿は何か用事でもあるのか?」

一向に核心へ迫らない朱儁に対して、何進は焦れたかのように切り出した。
もともと、会話が転がり出してからじっと待っていられない性格である。
白湯のようなスープを口に含んでいた朱儁は、その状態のまま何進の問いに向けて視線を投げると
一拍置いてから卓に容器を置いて切り出した。

「蹇碩殿の天幕に、官僚が出入りしていたのを見ました」
「うん? それが何かおかしいのか?」
「真夜中なのです」
「真夜中? ふぅむ……」

確かにおかしい。
官僚達ともなれば、大陸を移動するに徒歩であることは殆ど無い。
何より、馬を用いて走らせれば都を朝から出て夕刻にはこの近辺には辿りつく。
余程ゆっくりと……それこそ、どこかで時間を遊ばせない限りは深夜になることなど在り得ない。
勿論、急病を患ったり、何かの事故が起きれば別ではある。

「しかし、色々な原因が考えられるからな。 おかしい事はおかしいが、悩むほどでは無いのではないか?」
「確かに、そうでしょう。 ただ、彼らの会話の内容にやや、思うところがありまして」
「ほう、朱儁殿はその場に居合わせておったのか」
「は。 正確には、天幕の外から覗き聞いたにすぎませぬ。 聞き間違いということもあるかも知れません」

ここで、何進は顔を盛大に顰めた。
朱儁の口ぶりと、まるでこの天幕の外を窺うように潜めた声に、あまり良くない話であることなのが分かったからだ。
声を大きくして話せないという件で、真っ先に思い浮かぶのが帝の崩御である。
これならば目立たぬ深夜、隠れるように官僚が蹇碩の下へと訪れるのは自然であるし
内密にしなくてはならない事だろう。
同じように声を潜め、何進が崩御したのかと問うと、朱儁は自らの髭を撫でり首を振った。
そして、告げる。

「あぁん?」

言った朱儁本人も、自身が無さそうな様子で告げた内容は、予想だにしない物であった。
素っ頓狂な何進の声が天幕の中に響くと同時、突風だろうか。
強い風に煽られて、布がはためく音に二人して周囲を見回す。
次に互いの視線が合った時には、風は止んでいた。
何進が手振りだけで人払いをするように指示すると、朱儁は一つ頷いて天幕から顔を出す。
傍に居る兵士だろう、何事かを話しかけている間に何進は椅子に深く座りなおし、腕を組んで考え込んだ。

仮に朱儁の聞いた物が事実だとすると、都で何かしらの政変があったのは間違いない。
出立する前の天代の忙しさは並では無かった。
それは、軍部の事を全て丸投げされた自分が一番良く分かっている。
その間に何者かが天の御使いを陥れたのだろうか?

「……何進殿」
「ん、ああ。 すまない。 突然のことに驚いてしまった……その―――は事実なのか?」
「いえ、驚くのは当然でしょう。 私も正直、何かの間違いなのではないかと……」

難しい顔をして言葉尻を濁す朱儁。
その表情は、確かに聞いたその会話をどこかで事実だと認めているように思える。
何進も、半信半疑ながらこれが真実なのではないかと思えてしまう。
そのような心当たりが、何進も朱儁もあるのだ。
宮内に身を置いていると、多くの謀略に消えた者を知ることができる。
それは普段の生活の中、気がつけば居なかったという事が多い。
こうした事実の裏に十常侍を初めとした宦官達が居る事は、宮内で仕事をしていれば嫌でも気がつくし珍しくないことでもあった。
例えそれが、謀略とは程遠い場所に居ても多かれ少なかれ目にし耳に聞こえるのだ。

「……大将軍」
「ああ、なんだ」
「……私を洛陽へ戻らせてくれまいか」

朱儁の声に、何進は考え込むのを止めて彼を真っ直ぐに捉えて見つめた。
事実を確かめたいのだろう。
それは、何進も同様にそうであるから察しがついた。
その思いの根底にあるのは、何時だったか。 
天代と張譲が手を取り合って漢王朝の良い未来をと語り合ったのを見てからだ。
この二人が固く握手した時、何進は確かに漢王朝の未来は明るいものだと感じていた。
自身の身分が天代の下に付くことを、素直に受け入れることができた瞬間でもあった。
宦官の頂点である張譲の目は、真剣であったことを考えると彼が陥れたとは考えにくい。
少なくとも、何進にとっては一刀、そして張譲に敵意を抱く者が嵌めたのではと考えてしまう。

「……分かった、許可しよう。 朱儁殿の担当は私が受け持つ」
「ありがとうございます!」
「しかし、朱儁殿。 早まってはならぬぞ」
「それは事実確認だけで満足せよということですか」
「そうだ。 この件、間違いでなければ政争が原因なのは明白だ。
 下手に足を突っ込んで優秀な部下を失う事になるのは我慢ならん」
「……分かりました。 それでは急ぎ都へ戻らせて戴きます」

一つ礼をすると、朱儁は早足で天幕を飛び出して洛陽へと向かった。
天幕から出て行った朱儁を見送り、何進はしばし黙して考えたが
とりあえずは明日の朝、何時もの一人朝議の時に考えを纏めることに決めると
立ち上がり、調練のために天幕を潜った。
荒野へ出た何進は、その見える風景にふと違和感を感じる。

「うん?」

人が居ない。
確かに人払いするように朱儁を通して命じてはいたが、見張りの兵くらいは付けているはずだ。
その人払いを命じた兵すら居ないとは一体どういうことだろうか。
或いは、朱儁が前もって、もう人払いはしなくてもいいと伝えたのか。
恐らくそうだろう。
一人納得して、何進は兵の調練を消化するために剣を取り、馬を預けている即席の馬房へと向かった。

結局、この日の調練は蹇碩の声で中止することになり、部隊は西を目指して移動することになる―――


―――


帝の寝室、絢爛な天蓋の下にある贅沢を尽くした寝具に、身を預けて横たわる劉宏の背を擦りながら
趙忠は熊の人形をその腕に抱いていた。
ときおり聞こえる苦しげな劉宏の呻き以外、耳朶を震わせる音は何も無い。
天代との邂逅からあれだけいきり立っていた晩、それを越えると見る影も無く呼吸は弱弱しくなっていった。
このまま、いつ崩御してもおかしくない有様だ。
朝日を迎えて、随分と立った。
いい加減、自分の食事を取らないと身が持たない。
趙忠は撫でやる手を止め、スクリとその場で立ち上がると恭しく一礼してから帝の寝室を後にした。

「……医者は?」
「は、私が控えております」
「見てて」
「かしこまりました」

寝室の外で待機していた幾人かの医者と宦官に後を任せて、軽食を取るために隣室へと向かう。
開いた先には、自身の親とも言える張譲と、この宮内で見慣れぬ髭を生やした李儒という男であった。
扉が開かれた音で気がついたのか、双方共に趙忠へと視線を送りやがて逸らした。
いくつか卓に置かれた果物を見つけると、趙忠は座り皮も剥かず頭から齧る。
水気のある、甘い風味が口の中に広がった。
しばし咀嚼する音が響いて、ふいに止まる。
そして、まるで世間話するかのように口を開いた。

「譲爺、劉宏様は死ぬよ」
「……」

趙忠は決して医の知識が高い方ではない。
この時代からか、簡単な応急処置は理解しているものの、病となればとんと分からなくなる。
素人目からみても、劉宏は、帝は死ぬ。
もう、そのくらいまで病状は悪化してしまったと趙忠も感じていた。
次に意識を落とせば、今度こそ崩御することだろう。

「今度は誰がなるのかな。 劉弁様かなやっぱ」
「……趙忠」
「なに?」
「聞きたいことが、あるのだろう」

何時の間にか、趙忠の座る卓へと椅子を寄せて近づいた張譲がそう言った。
手に取った果物を卓に置いて、趙忠はしっかりと用意された布で手を拭くと熊の人形を抱えあげて尋ねる。

「なんで動くの遅かったの? 途中まで、本気で寝返ったかと思っちゃった」
「……うむ。 理由か」

此度の張譲の描いた策謀に、趙忠がハッキリと気付いたのは帝が倒れられた直後だ。
天代を追い返す旨を告げる書状が、帝の元から戻った自室に置いてあった。
それは、一冊の本であり、その本の合間に挟まれた紙片に書かれた文字は、張譲の筆跡だ。
帝が倒れ、遅れてきた数刻の間に張譲は根回しを全て終えていたという事になる。
蹇碩の下に、同様の書状が届いたことも確認が取れている。
恐らく、天代の下で北郷一刀に対して知らぬ顔をし過ごしていた、段珪の下にも送られたのだろう。
そうした経緯から、確かに『天代』が決めねばならぬ案件から、誰にでも出来るような簡単な案件まで
全て直通で一刀に通し、思考をそちらに向けさせた。
一刀が忙殺された理由はここにある。
正直、趙忠が一刀の立場であっても逃げ出したくなる量であった。
それをしっかりと―――なんせ殆ど睡眠時間が無い―――こなしている当たり、天代の有能さは趙忠自身も認めざるを得ない。
間近で見ている分、その感情はひとしおであった。
企みを、忙しさで逸らした結果に出来上がったのが玉座の間での出来事だ。
ただ、玉璽の一件から段珪の裏切りが、今になるまで時間をかけずに実行できた筈でもあると、趙忠は分析している。
何故、帝が倒れたのを契機に実行したのか。
趙忠はそれが分からなかったのだ。

「天に在る陽は、一つで良い。 二つになれば大陸は焼かれ、人は住めぬのだ」
「もう、また回りくどいことを言ってさ。 もっと簡単に話してよ」
「やれやれ、もう少し会話を楽しめ」
「面白い話ならね。 譲爺のはくどいだけ」
「……ふぅ」

そこで首を振り、張譲は一つ頷くと、趙忠の疑問に答えるようにして口を開いていった。
天代は、その権力と政策、風評、評判から民の信望を集めた。
これは洛陽に居る者に限らず、噂を通じて大きな戦功も含めて大陸に広がっている。
そう、一刀は民から人気になりすぎたのだ。
これが一刀を殺さない原因となっているように、漢王朝にとって北郷一刀の名は激烈に輝いてしまった。
政策もまた、金のかかる物ばかりではあるが実現するとなれば未来の見通しは明るい物に思える。
張譲をして思いつかぬ発想や発着点に目を剥くこともしばしば。
涼州や黄巾党が不穏な動きを見せつつも、本格的に武力化しないのは、記憶に新しい黄巾の乱を
劣勢の状態から僅か7日という期間で叩き潰した風評があるからに他ならない。
ああ、漢王朝に降りた天の御使いだというのは最早、この大陸に住む全ての民にとって覆せない物となっただろう。

「だからこそ、劉宏様が動かねばならなかったのだ」

一刀がこの大陸に現れる前、いや、この漢王朝で天の御使いを名乗るまでの情勢はどうであったか。
それを省みれば、言うまでもないことだろう。
実質、漢王朝という国を左右してきた張譲や趙忠達は、決して民達の声が聞こえていないわけではない。
無視をしていた部分も在るという方が正しかった。
実際に、宮廷内でも現状を憂う声が増してきたことから、頭の片隅で好転させる舵を取ろうと考えていたのだ。
そんな折、自ら飛び込むように天の御使いを名乗る青年が現れた。
自らの地位を一足飛びで跳び越していった一刀に、趙忠は大きな不満を抱いた訳だが
張譲は、これを好機と捉えた。

「北郷一刀、あれは偶然であろうとも、王になる資格を兼ね備えたのだ」

そこからの一刀の経緯は今更説明しなくても分かるだろう。
乱を鎮め、諸侯との結びつきを強くし、民の目線に立って政策を施し、宮内の膿を吐き出そうとした。
少なくとも、これだけは確かに日々共に過ごすことで間違いなく言える。
文句の無い清廉な青年だ、人気が出るのも理解できる。
故に、張譲は一刀が『天代』となったその時から、劉宏がどう動くかを静かに観察してきた。
劉宏が一刀をしっかりと御する動きを見せなければ、漢王朝は帝の元ではなく
天の御使いの下で、その国の趨勢を決めることになるだろう。
そうなれば、天に二日をいただけない以上、天代を排除するしかなかったのだ。

「分かるか」
「……分かった。 劉宏様次第だったってことは」
「うむ。 仮にこのまま、北郷一刀が帝を支え続けたとしても漢王朝は消えることになる。
 民意によって押し上げられた……そう、押し上げられる素養を培った北郷一刀自身の手によってだ。
 アレは漢王朝を立て直すと言っていたが、間違いなく漢王朝を滅ぼし新たな王朝に向かう未来となるだろうよ」
「……殺さないのは、やっぱり風評のためなんだ」
「……いいや、殺すとも。 こうして追放した以上、あの男を生かす道理は無い」

とはいえ、宮内で殺すことは不可能であった。
この洛陽の宮内で殺せば、噂はたちまち広がって一刀が築いたと言って良い漢王朝の風評は元に戻るだろう。
いや、元に戻るだけならばまだ良い。
最悪、そのまま形を変えて、洛陽に第二の黄巾の乱が起きないとも限らなかった。
では、どう殺せばいいのか。

「これには随分悩んだが……天代を追い出す準備をしている途中で掘り出し物を拾ってな」
「……」

張譲の視線が、一人の男に突き刺さると、釣られて趙忠も首を向ける。
そこにはニヤリと口を歪ませて弧を描き、笑う男。
李儒だ。
水を向けられる形になった李儒は、首をやにわに振って肩を竦めると短く声を発した。

「天代を、西へ」
「……そうだ、言ってなかったな。 天代は3千の兵と共に西へ向かわせる……大々的に喧伝し、盛り上げる形でな」
「え?」
「そう……丁度良い軍勢が、天代を滅してくれるのだ」
「あ……蹇碩さんか、ふーん……討てるの?」
「さてな。 どちらでも良いのだ。 討てようと討てまいと。 
 仮に生き延びたとしても表舞台に出てきた時には朝敵となっているだろう。
 それだけの理由や証拠を作る時間はたっぷりとあるのだ」

何よりも、李儒が示した方策は都合が良い。
出立の時には、未だ荒れる大陸を治める為に、立ち向かう天の尖兵として大いに称えられ
向かう先は不穏な動きを見せる涼州となれば、軍備を勧める涼州の連中に、天代という名を用いた牽制ともなる。
謀略に気付いて蹇碩の手を躱せば、漢王朝を見捨てたと罵り民の思考を恨ませることで、“天の御使い”の風評は落ちていく。
蹇碩に討たれれば良し。
漏らしても先の通り表舞台に出た瞬間にトドメを刺せる。
そうなるよう、情報の操作をするのは容易い地位に、張譲や趙忠は居るのだ。
何よりも―――

「北郷一刀は我々を恨んでいよう。 逃げ延びれば朝敵として軍を起こし、或いは混ざり、反乱を企てる可能性は高い」

ということだ。
むしろ、李儒としてはそれを期待している節があった。

「ふーん……ちぇ、悔しいな。 全然思いつかなかった。 どうすれば良いのか分からなかったもん」
「お前達は良く動いてくれていた。 目を逸らすのにな」
「囮に使ったってこと? しかもちゃっかり西園三軍も利用してさ、気分よくないな」
「お互い様だ、早まれば私が死んでいたかも知れないのだからな」
「そーだね。 まぁ、勉強になったよ」
「これからの漢王朝は、天代の残した清涼な資産を食い潰す間にどれだけ清い空気を形成することが出来るかだ。
 濁っているだけではいかん。 清すぎても、またいかんのだ。
 どちらも合わせ、初めて王朝というものは成り立つ事を知れただろう。
 趙忠、分かっているか?」

これに趙忠はぬいぐるみを抱えたまま頷いた。
馬鹿でもない限り、今の話を聞けば漢王朝の息を吹き返す為の時期に差しかかったのだと気付く。
と、なれば帝の死期が近い以上、皇帝として推挙するのは若い頃からチョロチョロと
漢王朝の膿を吐き出そうと動き回っていた少女の方か。

「遺言残さないで死んでくれればいいね、譲爺」
「……うむ、そうだな。 漢王朝の為には、もはや劉宏様はこのまま死んでくれるのが望ましい」
「ふっ……」

二人の声に、それまで黙って話を聞いて空気に徹していた李儒が漏れ出すように声をあげた。
それは、嘲笑のような、自嘲のような、含みのある笑い声であった。

「何?」
「いえ……しかし、天代の居ない期間が出来るのは不都合になりませんか、張譲様、趙忠様」
「何が言いたいのだ、李儒」
「不都合があるのなら、私が天代となっても良いのですが……?」

それを言った瞬間、室内の空気はやにわに下がった気がした。
張譲と、趙忠の厳しい視線が李儒へと突き刺さり、互いに牽制しあう様に交錯する。
その沈黙は、僅かな時であったがこの場に居る全員、長く感じられた時であった。

「冗談ですよ……お戯れをしましたが、お気に召さなかったようで」
「笑えない冗談だね。 長生きしたいなら黙ってた方が良いよ、君」
「これは……申し訳御座いません」

そうして頭を下げる李儒の口元は、やはり弧を描いていた。
張譲も、趙忠も伏せられているために分からなかったが、確かに彼は笑っていた。
一つ息を吐くようにして、張譲は立ち上がると出口へ向かう。
彼がこの場に留まっていたのは、ずっと劉宏へと付き添っていた趙忠に天代の扱いについて話す為であったのだ。
もはや、此処に留まる理由は無かった。

部屋を離れ、しばし歩いた先。
バルコニーのように作られた、洛陽を一望できるその場所に、張譲は見知った顔を見つけて歩みを止める。

「おう、張譲か」
「曹騰……」

木柵に背を預けるようにして、寛いでいた曹騰の手には何かの書が握られていた。
その書に見覚えの在る張譲は、認めると曹騰へ視線を流した。
彼の視線に気付くと、曹騰は書を丸めて肩を叩き始める。

「一手遅れたようだな、曹騰」
「まったくだ。 天代の面を見たか? ありゃもう再起することは出来ないだろうなぁ」
「……」
「おい、良いのかよ。 アレが居なけりゃ漢王朝は滅ぶぞ」
「逆だ、曹騰。 アレが居るから漢王朝は滅ぶのだ」
「……曇ったな、引退した方がいいぜ」
「おお、今日のような陽の出ている日は、走り回るに健康に良かっただろう?」
「わしよりも老いぼれに言われたくねぇよ」

言いながら、曹騰は自らの持つ書を両の手で力任せに引き千切った。
何度も、何度も。
細切れになった書を、天に返すように突き出して、流れる風と共に消え行く。
張譲はその曹騰の行動に笑みを浮かべた。
天代を陥れた、唯一の物証が今この瞬間に消えたのだ。
曹騰が持っていたのは劉宏を通さずに押した玉璽の印をもって、何も知らぬ官僚へと手渡した物。
帝が呼び出したのは事実でも、実際に玉璽を用いて勅とし、動かしたのは張譲であったのだ。
これの回収は、どうしても玉座の間に居る間は出来ない。
後で無いことに気がついたときは、どうしたものかと悩んだ物だが。
今。
その証拠は風と共に流れこの世から消え去った。

「嬉しそうだな。 わしは降りるぜ」
「うん? 降りるだと?」
「ああ、隠居する」
「そうか……長年、よく勤めてくれたな」
「……じゃあな、精々楽しく生きろや」
「……」

胸の内で、互いに、とだけ返して踵を返す。
天代は消え、劉宏は死ぬ。
これからまた、忙しくなるだろう。
自分の時代も、そろそろ終わる。
趙忠には、多くを学んで仕込まねばならない。

頭の中で、幾つかの事案を優先すると、張譲は掌でコロリ、コロリと玉を転がし廊下の闇に消えた。


―――


一方で、一刀と別れた音々音は、時刻としては昼になってようやく、離宮へ進む道を歩き始めていた。
昨夜の愛しい人との紡ぎ合い故か、若干その歩調は頼りない物になってはいたが。
朝出てからすぐに離宮へ戻らなかったのは、当然ながら理由がある。
それは、ひとよの交叉の中で定めた、自らの道のため。
その瞳に宿る炎は、今までの彼女から感じられないほどの決意が宿っていた。
愛される中で、聞いていた一刀の懊悩。
一人で苦しんで、答えが出せずに、それでも前へ向かっていた一刀の声を共有した時から。

彼は、自らを“天の御使い”と称していた。

まさしく、そうである。
何故かは分からないが、北郷一刀という一人の青年が“天の御使い”と呼ばれて遜色ない知識を持って大陸に落ちた。
何のためなのか。
離宮へ暮らし始めてから、彼が行ってきたことを紐解けば答えは出ている。
漢王朝、それを生かすこと。
始まりがたとえ、偶然からとはいえ、一刀が行ってきたことはソレに集約されている。
張譲の謀略に飲み込まれてしまったせいで、その道は随分と遠のいてしまったが。
しかし、あの夜。
音々音へと、確かに諦めない、諦めたくないと告げた。

「……一刀殿。 ねねが、一刀殿の道を繋いで見せるのです……」

周囲に誰も居ない中、一人呟いて上唇を噛み、造ったばかりの首にぶら下げた髪留めの紅玉を握り締める。
それはきっと、事実を知る誰かが聞いていれば、この状況になって何を思い上がった事をと笑われるかも知れない決意であった。
だが、その認識は間違いになるだろう。
一刀の軍師である音々音は、いつかも思うように無敵なのだ。
愛する彼の為ならば、自らの脳漿は無限に策を引き出せる気がした。
昨日、あれほど慌てふためいていた張譲の謀略が、酷く小さな物に思えてくる。
今、軍盤を指しあえば誰であろうと負ける気がしない。
そんな音々音が一刀と共に描いた策は、とても、とても辛い物だった。
繋がる道は、これが一番早く、そして苦しい。
自らの覚悟を後押しするように、一つ頬を叩いて音を鳴らすと、音々音は離宮の中へと扉を開けて入った。

入り口から伸びる廊下を抜けて、劉協の下に繋がる階段を登り開けた扉に広がる空間――朝食を取っていた団欒の――場所へ出ると
そこには音々音の主である劉協と、隣には桃香が座っていた。
その随分後ろ……壁際に立つようにして恋と、誰であろうか。
刀剣の類を腰にさした見知らぬ男達が数人、居心地が悪そうに顰め面をして佇んでいた。
劉協と桃香は、どちらも卓に置いた自らの手に視線を落として、音々音には気付いていない。
わずかに立ち止まったが、短く息を吐くと音々音は足音を立てるようにして歩き二人の座る卓を目指した。

「ねね……」
「あ……」

当然ながら、音に反応するように二人は顔をあげた。
覗けた顔は、心配するような、それでいて何処か疑うような揺らぎの見える表情であった。
劉協は音々音をじっと見据え、桃香は僅かに顔を俯かせる。
様子からして、一刀が陥れられたことは既に知っているようだった。

「どこに、行ってたのねねちゃん……大変だったんだよ。 昨日から、色々あって……」

桃香の声には答えず、音々音はチラリと奥を見やった。
帯刀している男達は、“あちら側”であろう。

「恋ちゃんが、いきなり暴れるし……官僚の人達が、朱里ちゃん達を連れて行っちゃって……」
「愛紗殿達もですか」
「……」

ようやく言葉を発した音々音に、桃香はコクリと頷いた。
おそらくは昨夜の内の出来事に違いない。
一刀が張譲の謀略に嵌ったその後に、離宮へ張譲の言の証拠を示す為にも、朱里と雛里の二人の下に誰かしかを送るのは目に見えている。
心の中で密かに、恋に一刀の机を“掃除”してもらったのは正解だったと安堵する。
同時に、この場に控える男達が居る時点で桃香の納得行くような説明は出来なくなることを理解した。
何故なら、彼女が音々音に対して求めるのは、一刀の潔白を示して欲しいことだからだ。

「ねね、何があったか教えてくれないか」
「勿論です、劉協様。 ねねはその為に此処に来ましたから……」

そこで一つ言葉を切って、音々音は椅子から立ち上がると口を開く。

「もう聞いていると思いますが、一刀殿は天代の身分を追われました」
「それはっ! それは……朱里ちゃん達の事で?」
「……勿論、それも含まれるのです」

劉協と桃香は、既に聞いていただろう『天代の追放』を音々音の口からも聞かされ、それが疑いようのない事実であることを知る。
音々音は、二人の暗く翳る表情を一瞥してから事の顛末を話し始めた。
その内容は、多くの事実を混ぜながらもやにわに一刀を批判するものであった。
劉協が再三注意したにも関わらず、朱里や雛里の刑について私情を優先したことを批判した。
西園八校尉の選考に偏りが見られたのも確かであるし、それまでの軍権勢をガラリと変える物であった。
それらを含めて、一刀の顛末を知った劉協は、視線を逸らさずに音々音へ相対し続けた。
しばしの沈黙を破り、問いかける。

「……ねねも、一刀が権威を得る為にしたことと、そう思うのか」
「思います」
「ねねちゃんっ!」

そこで初めて、桃香は椅子を引いて立ち上がって音々音を睨むようにして視線をぶつけた。
隣に居る劉協は、落ち着かせるように片手を挙げて声を出す。

「桃香、口を挟むでない!」
「劉協様、ごめんなさい! でも、ねねちゃんが本心でこんなこと言うはずありませんっ!」
「桃香殿、それは見当違いですぞ。 ねねは劉協様に仕えてから本心以外を申したことは無いのです」
「そんな……嘘でしょ!? どうしてそんな事を言うの?」
「どうしてもなにも……一刀殿が文字通り、天である劉宏様を無視して天に代わろうとしたことに失望したに過ぎないのです」
「―――本当に、本当に一刀様のことをそう思っているの!?」
「くどいのです。 逆に聞きますが、桃香殿はどうして此処までの状況証拠が出来上がって一刀殿を妄信できるのですか」
「座れ! 感情的に話すことではない!」

肩を震わせて、やや前のめりになりながら口を走らせる桃香と睨み返すようにして相対する音々音の声に
劉協は手を卓に叩いて声を荒げ制止した。
しかし、彼女の声に従って席についたのは音々音だけで、桃香は聞こえている筈なのに立ち続けて音々音を睨んでいた。
実際、桃香は自分の感情を御するのに精一杯であった。
一刀の一番近くに居た音々音が、どうして一番に信用してあげないのか。
何よりも、曹操と孫堅の会話を耳にして、天代が居なくてはならないと自分自身の中で
漢王朝―――ともすればこの大陸を憂いた自分にとっての答えが出た直後であるだけに認められない。
認めてはならないことだった。
ここで音々音に感情をぶつけても、過ぎた事は巻き戻せない。
そんな事は、桃香も分かっている。
しかし―――

「一刀様のことを一番見てきた、ねねちゃんが分からないでどうするの!」
「一番に見てきたからこそ、そう判断を下したと言えば納得するですか!」

しかし、何よりも納得できないのは、隣に居た音々音の口から、一刀を悪し様に言う言葉が出ることだ。
おかしいではないか。
あれほど傍目から見ても、一緒に居ることで笑顔を零していた彼女の急変した様子は
何かしらの妖術をかけられたかのように不自然に見える。
見えてしまうのだ。

「―――っ、一刀様に裏表を感じたことがある!?
 人間だから、間違いだってするよ! 勘違いだってするし、思い違いもあるよ!
 ねねちゃん、きっと騙されてるんだよ! 一刀様を追い出した人たちに―――」
「……はぁ」
「ねねちゃんっ!」
「もう良いのです。 桃香殿との話は後にするのです……劉協様」
「……なんだ」

劉協へと水を向けた音々音になおも声を上げる桃香を無視して、彼女は口を開いた。

「納得する、しないはともかく、もはや朝敵となった一刀殿と培った関係は忘れてほしいのです」
「―――っ」
「むしろ、突き放すべきで―――」

言い切らぬ内に、桃香の掌が翻り乾いた音を室内に響かせた。
瞬間の衝撃に、音々音は転ぶようにして椅子に身を預ける。
頬にじんわりと広がる熱さと、途中で遮られたせいか鈍い鉄の味が口内に広がるのを自覚して―――

―――音々音は、喜んだ。

ようやく、手を出してくれた。
帯刀した男達がこの場に居る以上、劉協や桃香には全てを話すことは出来なかったから。
だから、音々音は悪し様に一刀を扱って、好意を抱く彼女の怒りを引き出した。
小さく声を漏らして、手を上げたこと事態に驚いているのか。
自分の手を見つめて動かない桃香に、何時の間にやらそっと恋が近づいていた。

「桃香! 落ち着け! 恋、桃香を抑えていろ」
「―――劉協様、桃香殿は一刀殿と繋がっているかも知れないのです。 いっそ、朱里殿や雛里殿の居られる場所へ
 頭を冷やしに行って貰いましょう」
「ねねちゃん……っ」
「……お前達、ねねは劉協様に事のあらましを説明しなくてはならないのです。
 桃香殿を丁重に、送ってやるのです」

突然と言って良いだろう。
それまで顔を見合わせて様子を見守っていた“あちら側”であろう男達は、音々音の言葉に一つ頷くと
桃香の腕を引っ張り、踏みとどまろうとする桃香を強引に歩かせる。
短い声をあげながら抵抗するも、数人がかりとなれば留まることも出来なかった。

「私っ! 私は、ねねちゃんの言うこと信じないからっ! 絶対、絶対おかしいよっ!」

喚くように声を上げて去る桃香に、顔を向けることもなく。
音々音は完全に男達と桃香の足音が消えるまで、劉協へと顔を向けていた。
その劉協も、桃香が去るまで口を開くことは無かった。
左の頬を赤く染めて上唇を噛む音々音の目の端に、僅かに浮かぶ水滴を見つけたせいだった。
それが桃香に叩かれた痛みからくるもので無いことは、表情から察しがつく。
決して彼女の本意ではないことも。
官僚達や、帯刀した男達が居るせいで、煽るように言わなくてはならなかったのだろう。
自分に、本意を伝えるために。

「……それで、ねね」
「はい……」
「何があったんだ」
「……概ね、昨日の出来事は先ほど述べたとおりなのです。
 劉協様に、一刀殿との関係を否定してもらうことも、ねねの望むことです」

そう、一刀はもう朝敵ということになってしまった。
その一刀に誑かされ続けた事になっている劉協には、ここで下手に擁護をされてしまえば
劉協にとって大きなマイナス点となってしまうのだ。
騙され続けていることに気がつかない無能であるとか、弱みを握られているのではないかとか、男として惚れてしまったのではないかとか
おおよそ、皇位を継承するかも知れない者にとって大きなマイナス点だ。

「劉協様、一刀殿は漢王朝にとって無ければならぬ人なのです」
「……ああ」
「今、この時に張譲の謀略を覆す術はございません。 一刀殿の身の潔白を証明できるかもわかりません。
 けれど、道は繋げていかなくちゃいけないのです」

故に、音々音は劉協に立って貰わなくてはならない。
一刀から、帝である劉宏の状態を聞いた音々音は、劉協を皇帝にすることが一番の近道であることに気がついたからだ。
勿論、劉協が皇帝になってすぐに一刀を呼び戻せば、それはまた政争の火種になってしまう。
一刀を漢王朝に戻すには、劉協が皇帝となった上で此度の件が謀りであったことを証明し
潔白を示した上で呼び戻さなくてはならないのだ。
劉弁では無理だ。
彼は劉宏帝と同じように周囲の者の言葉、その裏表を鑑みれずに鵜呑みにしてしまうだろう。

「残酷なことを言うな。 我が兄を差し置いて帝となれというのか」
「漢王朝にとって、一刀殿が不要だというのならば劉協様が玉座に座らなくても構わないのです」
「―――」
「そちらを選んだ場合……」
「言わなくて良い。 話は分かった……」

選んだ場合、自分の下には残らずに一刀を追う。
そういうことなのだろう。
劉協は複雑な感情を抱えて、しかし、喚くこともせずに黙り込んで考えた。
一刀を失い、おそらく一刀が外戚として連れてきた桃香達も手元に置く事は難しい。
この斜陽を迎えた漢王朝に於いて、最も良い方法を目の前の音々音は提示してくれている。
一刀が居たことで、ギリギリの均衡を保っていたのは劉協にも分かることであった。
民の信望が、漢王朝の何処に向いているのかなど、挨拶に参った諸侯の声からも明らかだ。
何より、自分が真名を託した初めての人。
この宮内で誰の言葉を一番に信じられるかと言えば、一刀の物だった。

「……帝、か」
「劉協様、どちらへ?」

呟いてスクリと立ち上がり、歩き出した劉協に音々音は尋ねた。
劉協はその声に僅かに立ち止まると

「……父の元へ。 別れを済ませてくる……私を支えてくれ。 もう、ねねしか頼れぬのだ」
「……はっ」

言って音々音と恋も、劉協の後を追うように一歩踏み出して、それを手だけで遮られた。
誰もついてくるな、ということだろう。
一人だけでは危険だ、とすらも言わせぬ無言の圧力が、そこには存在した。
ついて来ないのをしっかりと確認してから、劉協は一人、帝の元に向かって歩きはじめた。
その後姿が消えるまで見つめて、音々音は恋へと視線を向ける。

「恋殿」
「ねね、桃香たちは、どうなる?」
「……かばう事は、立場上できないのです。 介入すれば、それは劉協様の弱みになってしまうですから」
「……それは、やだ」
「恋殿、劉協様を守ってくだされ。 劉協様に何かあれば、本当の意味で終わりを迎えるのです。
 お願い、するのです……」

言いながら、音々音は恋へと頭を下げた。
そんな音々音の行為に、恋は無言で握り締めていた拳を開き、大きく息を吐く。

「寝る」
「……」

思うところは多くあるだろう。
吐き出した溜息が、言葉無くとも音々音にそれを伝えていた。
全てを飲み込んで、恋はただ一言、昼寝すると音々音に伝えて一刀の使っていた部屋に向かって歩き出した。
音々音はそんな恋を見送り、一人きりになった室内で彼女もまた大きく息を吐く。
それは溜息とは違う物であった。

静寂を思わすこの部屋に、もう一度笑顔を取り戻して見せる。
その為に、下手な芝居まで打ったのだ。
ようやく痛みの引いて来た頬を片手で押さえる。
痛かった。
まっすぐに一刀だけを思って放たれた桃香の平手は、きっと幾百の名刀が身を突き刺すよりも痛かったに違いない。
音々音は自らの使う部屋へ戻ると、墨を取り出して竹簡を広げた。

この場に昼まで戻らなかったのは、劉協を帝に押し上げる決意を伝える為の覚悟が決まらなかったからじゃない。
一刀から聞いた“天の知識”を下に、音々音が描いた未来の為の準備から遅れたのだ。
曹騰は、上手く偽の証拠を張譲の目の前で破いているだろうか。
袁紹は、自分の手紙を読んでくれただろうか。
劉協の覚悟は、自分の声で決まってくれただろうか。
分からないが、それでも一刀を取り戻す道を繋げるためだ。
もう無様に迷うことなどしない。

ああ、そうだ。
覚悟するといい、張譲。
一刀殿に関して謀略を打った相手が誰なのかを思い知らせてやろうではないか。

「……我が名は陳公台! 一刀殿“一”の家臣にして、頭脳! 策謀全てを押し流してみせるのです!」

竹簡の上に、墨は走った。


――――


「なー」
「なんだ、また来たのかお前」

昨日、謀略の渦中にあって心中穏やかならぬ時を過ごした一刀は、軟禁されるように
宮内の一室で時を過ごし、夜を迎えて至って平常心となっていた。
器用に飛ぶようにして、僅かな縁を伝って一刀の下へ訪れた猫が、夜になって再び顔を出したのである。
昼間に余りに暇すぎて小一時間ほど遊び、ついでに配給された残飯のような食事を分け与えたせいで
懐かれてしまったのだろうか。
とっくに夕食の時間は過ぎてしまったし、また来るなどとは思いもよらなかったので
取り置いても居ない。
しばし、一刀を警戒するように窺いながら、鳴き声をあげていた。

「飯はないんだよな。 暇だし、一緒に遊ぶかい?」

チッチッチと舌を転がして指先を床に置き、トントントンと細かに叩く。
昼間、遊んだのだから今回も、という一刀の目論みはあっさり交わされることになった。

「チッ、ペッ」

気のせいだろうか。
舌打ちされ唾を吐きかけるような声を出すと、猫はぷいっと顔を逸らして来た時と同じように
器用に僅かな屋外の縁を伝って一刀の視界から消えてしまった。
舌打ちまではいいが、猫に唾を吐きかけられるとは。

「……」
『なぁ、今の猫すげぇ渋い顔して去って行ったな』
『餌がなければこんなものだよ』
『“南の”が言うなら間違いないけど』
『基本的に、獣は正直なんだ……ああー、美以に会いたいなぁー』

一刀がこうして、気持ちに余裕が持てているのは脳内と徹底的に話し合ったおかげでもある。
人間、やるべきことが決まっていると安心するものだ。
それが例え、厳しい道だとしても自分の道が見えずに右往左往していると
くだらないことで迷ってしまう。
身を持って体験したばかりに、教訓となって一刀の胸に刻まれたことでもある。
未だ玉座の間での後悔はあるが、後ろを見ている場合でも、下を向いてる場合でもない。
今は、ちゃんと前を見据えなくてはならないのだ。
一人だけでは、そんな簡単なことも気付けなかったかも知れないが一刀は一人ではなかった。

あの頭が割れそうな程の痛みの中で吐き出した口論が、結果的には幸いとなって
遠慮せずに物を言い合える土壌を作っていた。
時に、ぶーぶー文句を垂れる脳内、或いは本体も会話の途中で垂れていたが結束力は随分と上がった気がする。

「しかし、決まったらすぐに動きたいんだけどな」
『まー、こればっかりは待つしかない』
『放り出されるのを待つっていうのも、おかしな話だけど』

この言葉にいつしか、今日だけで何度繰り返したか分からない考えを、一刀は振り返っていた。
ぶっちゃけると、これだけしかする事が無い、というのもある。

一刀が音々音に託したことは幾つかある。
まず、歴史の流れから反董卓連合についてのことに触れていた。
黄巾の乱が終わったかどうかは定かではないが、蜂起はこの歴史の中でも起きた事だ。
終わっていようと終わってなかろうと、どんな形であれ歴史をなぞる事に成るのであれば、次の大きな事件は反董卓連合だ。
これのタイミングを知る事件は幾つかあるが、宮内に身を置けない一刀にとっては難しい部分となる。
この難しい部分を解消する為に思いついたのが、竇武や陳蕃を通じた外戚の者たちを通じ、洛陽の事情を知ることであった。
近く宮内に参内する予定であったが、こうなれば一刀を通じて官僚の枠に入ることは難しい。
そうなれば、彼らも元が宦官に追い出された身。
宮内へ現れる可能性は低いだろうし、竇武や陳蕃も慎重になって身を隠そうとするだろう。
音々音に頼み、連絡を取ってもらい、一刀を見かけた時にあちらから接触してもらいたい旨を伝えれば
ある程度の情報は入手できるのでは無いだろうか。

タイミングを知る問題はこれで良いとして、次は董卓達の行動である。
勿論、天代として居た一刀にとって、脳内の一刀達の経験は当てに出来ない。
歴史の流れだって相当に歪んでいるだろうし、本体の知識も同様だ。
実際に会えれば別だろうが、それこそ賈駆を初めとした者達が一刀と董卓が接触することを拒むだろう。
漢王朝から追放された一個人と仕える主を天秤にかけることは在り得ないから。
そもそも、一刀が向かう先が西とは限らないし、反董卓連合が在るのかどうかも分からない。
その場合は、董卓でなくても何とか連合を起こして貰うしか無いだろう。
これについて、音々音が候補としてあげたのは袁紹だった。
先にも述べたことがあるが、袁紹は諸侯の中において、絶大な権勢を誇っている。
三公を何代にも渡って排出し、統べる領土は広く、放っておいても豪族が集ってくるし民だってそうだ。
袁紹はその袁家を束ねる長だ。
現段階で、董卓以外で連合を組ませるのに適しているのは彼女しか居ない。
納得してもらえるかどうか、それは分からない。
最悪、土下座してでも頼み込まなくてはならないだろう。

『麗羽に土下座するとか、ワクワクがムネムネするよ』
『メーディーックッ!』
「ちょっと、今まとめてるんだから待っててよ」
『無視しとけ、本体』
『そうそう、病気だし』
『全員な』
『ふっ、まぁな』
『……くそ、否定できないっ』
「……えーっと」

思考を遮られた本体は、一つ誤魔化すように呟くと再び考えに没頭した。
そう、連合を作らねばならないということだ。
なぜならば、乱世へと突入するに当たって、諸侯が一同に介する最後の時だから。
この、諸侯が一同に介するという部分が重要だ。
恐らく、帝である劉宏が倒れることで宮内はバタつく筈だ。
既に劉弁を持ち上げて、後継者としての体勢を造りかけている今になり。
一刀が復帰するために音々音が劉協を持ち上げてしまえば、劉弁の周囲に居る宦官達が納得しない。
その中には一刀とは余り関わりの無かった十常侍も当然居るし、王朝に戻るために劉協を押すことにした一刀と音々音は
漢王朝に後継者争いを巻き起こす、その遠因となるだろう。
後になって結果論となるだろうが、一刀が内から混乱を齎す形になるのは間違いない。
元が張譲の謀略だとしても、漢王朝にしがみつきたいと願った自分の我侭で政争が在るだろう事を考えれば
確かに、張譲の言う通り内からの脅威を起こしたとして裁かれておかしくはない。
が。
まぁ、正直に言えば、今更になって張譲や趙忠に遠慮する義理も無い。
こちらも十分、腸は煮えくり返っているのだ。
綺麗ごとを言えば、双方共に矛を収めて漢王朝に対しての今後を憂うべきなのだろう。
それが適わず、どちらも拳を治めるつもりが無い以上は覚悟しなければならない。

とにかく、それらを自覚しつつも一刀―――脳内を含めて―――が願うのは、乱世となる未来を防ぐことだ。
諸侯同士が争うのは、最悪の未来なのだ。
一刀にとっても、劉協にとっても、諸侯の皆にとっても。
なによりも、この大陸で苦しい思いを抱えながら暮らす民にとって。
その為には漢王朝を一刻も早く立て直さなければならない。

ベストは一刀が洛陽を追い出された時に、諸侯との関わりを積極的に増やして関係を強める。
それに加え、地方に居る官僚の中で清廉な人との協力関係が築ければなお良い。
その間、劉協と音々音に頼ることになってしまうが、自分が戻る素地を造ってもらうこと。
外から、その援護が出来れば良いが、こればかりは一刀も手伝えるかどうか自信が無かった。
いざ、この洛陽へと戻って来た時、“天の御使い”という風評がどこまで維持できているかも分からない。
ただ、一つ。
漢王朝を存続させるには、劉協を帝として認め、諸侯や民達が漢王朝と共に歩むことを納得させるだけ。
これだけで、漢王朝の存続は成る。
この一刀の考えを知らずとも、張譲達が何がしかの手を打ってくる可能性だって高い。
漢王朝存続がどれだけ難しいことなのか、もちろん理解はしているが、一刀の望む未来はこれだけしかもう来る事は無いのだ。
難しい、出来ない、やりたくないでは、望む未来など掴めないし、諦めるつもりも毛頭無かった。

「……出来る。 ねねが俺なら出来るって言ってくれたんだ」

ただ、この洛陽を離れる当たって唯一の不安は、朱里と雛里のことである。
この二人を預かる桃香もそうだ。
これだけは、一刀も音々音もいくら頭を捻ったところで良案が出てこなかった。
洛陽に居る間、彼女達に会える可能性も零に近い。

『大丈夫だ、本体』
『そうそう、桃香も愛紗も、皆強い子だ。 俺達は信じられる、な? “無の”』
『そうだな……不安だけど、きっと』
『ああ……きっと……だ、大丈夫かなぁぁぁぁ!? 桃香、頑張ってくれ、頼む!』
『うおおおお、情けない声をあげんな“蜀の”! 怖くなってくるだろ!?』
『……なんとかしてやりたいが』
『誰か一人くらい、北郷一刀以外の頭の良い人が居れば良かったんだ』
「これ以上俺の頭がおかしくなるのは御免なんだけど」
『後一人くらい、本体なら、本体ならなんとかしてくれる!』
「いや、そもそもお前らならともかく、他人は嫌だぞ!?」
『ねねでも?』
『なるほど、本体の中に美羽が居ればいいのか……』
『あんまりまともに考えるなよ“仲の”』
「……ねねかぁ……ずっと傍に居てくれているという意味では……いやでも、触れられなくなるし」
『本体もな』

心配から一転、そんな妄想に身を委ね始めた一刀であったが、戸を叩く音に気付いて視線を投げる。
やや間を置いて開かれた扉から現れたのは、張譲と、それに付き添うようにして歩く李儒であった。

「……」
「……」
「! ……」

互いに視線を交わし、室内は沈黙に包まれた。
一瞬、李儒は驚くような顔を一刀へと向けたが、すぐに無表情へと戻る。

「たかが一日で、随分と覇気を取り戻したものだな」
「そうそう落ち込んでもいられないからね、張譲さん」
「……明日の朝、出立だ。 目的地は涼州、指定した進路を取ってもらう。 用意するべき物があれば李儒へ言いなさい」
「分かった。 悪いけど、用意してくれるなら遠慮はしない。 裸で放り出されると思ってたから在り難いよ」
「天代をそのまま送り出すことなど出来まい」

最初こそ、虚勢ではないかと疑った張譲だが、言葉に陰りの無い一刀の声に
宝玉が乗る掌がじんわりと汗が滲むのを自覚した。
長い宮内に身を置いている中、策謀に陥れられてここまで早く自分を取り戻した者はついぞ記憶に無かった。
それは張譲にとって驚愕といっていい。 驚きに心臓が跳ねる思いであった。
それを李儒とは違い、顔に出さないのは流石に歳を重ねているのか。
心中で動揺しながらも、態度には全く出さなかった張譲である。

後事を李儒へと託して退室した張譲は、喉を鳴らしてから一つ呟いた。
出来れば、自分の描いた絵図で決着を着けたかったが……

「蹇碩は敗れるかも知れん……李儒の策に頼ることになるとはな……」


―――結局、一刀が突きつけた要求は自分の部屋に置いてある武具全てと、金獅を初めとした軍馬を兵士全員分。
更に行軍に必要な膨大な糧食と水、官軍水準の装備を兵士全員に与え、一人一人に槍と弓を用意することであった。
流石に全ての要求には答えられないと突っぱねた李儒であったが、一刀はしつこく要求した。
最終的には唸るようにして出した李儒の妥協案で一刀も頷くことになる。

自分の武具と金獅。
軍馬を500に2ヶ月は持つだろう糧食と水。
槍隊、弓隊と分けて武具を全員に配給することで決着をつけたのである。


―――


翌日。
一刀が出立の為に出ることを聞いた離宮の室内で、段珪が姿を見せていた。
劉協の傍には音々音が控える中、静々と入り恭しく頭を下げて入り込む。
彼女達の鋭い視線に臆する事無く、しかして下げ続ける頭を上げることはしなかった。
短い息を吐き出すと共に、劉協は口を開いた。

「……よくも私の前に顔を出せたものだな」
「私は、劉協様の世話役の為に仕えております」
「その役目、今後はねねも混ぜて戴くのです。 異論はないですね?」
「勿論。 劉協様を支える手が増えるのは、喜ばしいことでございます」

ゆっくりと顔を上げた段珪に、ギリっと音が鳴る。
傍に居た劉協には、それが音々音の歯を噛む音であることが分かった。
気持ちは分かる。
目の前の男は一刀を追い出した謀略に加担しているのだ。
立場が無ければ、劉協はきっと罵詈雑言を目の前に男にぶつけているに違いない。
こみ上げる、音々音と同様の感情を噛み砕いて、劉協は口を開いた。

「段珪、父は近く亡くなるだろう。 その間、父の元で経過を見て、変異があれば教えよ。
 ……しばらく、この離宮には姿を見せなくて良い」
「……それは、ここへ戻るなということですか」
「勘違いをするな。 あくまでも父が亡くなるだろうまでの間だ。
 段珪、お前が居なくては困るのだから」

この立場に立っている故、段珪を離宮から追い出すことは出来ない。
感情に任せて追い出せば、対外的には一刀の謀略から劉協を救った男を追い出す風に見えてしまうからだ。
劉協の傍に、段珪は居なくては困る。
それはもう、前とは違う理由になってしまったが。

「承りました。 帝の元で勤めを果たして参ります」
「頼んだ……」

入る時と同じように、恭しく頭を下げ、過度とも思えるほど礼儀正しく部屋を出て行く段珪を見送って
劉協は両の手で瞼を押さえるように揉み解しながら、荒い息を吐き出した。
理性で感情を押さえつけるのも、一苦労であった。
この吹き荒れる胸のいらつきは、どうにもならない。
ともすれば、吐き気を催すほどだ。

「劉協様、我慢するのですぞ」
「分かっている! 父が亡くなるまでには、感情に整理をつけなければな……」
「……吐き出されたい時は、ねねにぶつけると良いのです」
「馬鹿を言うな、苦しみを背負うのはねねも同じだ。 そんな甘えたことを言えようか。
 私は帝となるのだから、なおさらだ……」
「……」

意識を落としてはいたが、父との別れは済ませてきた。
劉弁とすれ違う形で。
兄は酷く動揺しており、その眼には涙すら垣間見えた。
あの、情深い兄を蹴落として帝となる決意を、意識の無い父に人知れず報告した劉協の覚悟は、出来ている。
もしかしたら、劉弁には恨まれてしまうかも知れない。
それでも……自らの代で漢王朝を終わらせることは出来ない。
精々、あるとすれば―――

「いや、ねね。 一つだけ甘えていいか」
「え?」
「最後にするから……民の用いる服を用意してくれ。 地味な物を」
「……あっ、まさか!」


―――


出立の時を迎えた一刀は、金獅の顔をしばし叩いた。

「これから頼むよ、金獅」
「ブルルッ」

一つ声を掛け合って、その背に公孫瓚から貰った金獅用の馬具の上に跨る。
腰には波才との一騎打ちに用いた剣が2本。
これは後に、装飾が施されていたようで、幾分か見た目が良くなっていた。
元が同じような剣であるせいで、一対となっているように見えてくる。
その剣に加え、袁紹から渡された『†十二刃音鳴・改†』が一本ぶら下がっている。
戦の前に送られた袁術の金ぴか鎧に身を包み、懐には董卓から貰っているペンダントを。
両の腕には帝から賜った銀色の篭手ではなく、孫堅から送られた赤い篭手が嵌められていた。
金獅の腹を、その足で一つ軽く叩くとゆっくりと歩み出す。
その両足、膝から踝までを守るように、曹操から送られている蒼い具足を身に着けていた。
気負いの無い様子で金獅を歩かせる一刀の胸元で、赤い紅玉がキラリと陽に照らされて光る。
一刀が武具として選んだのは、全て諸侯から天代―――北郷一刀個人へと送られた物だった。

そんな一刀は、既に集っているという3000人の兵の下に向かう途中。
馬に乗って待ち構えているようにしていた曹操、荀彧と夏候惇に鉢合わせた。
荷物を馬具に取り付けていることから、陳留へと戻るのだろう。
少し前、桃香からそんな話を聞いた覚えがあった。

「……祖父から終わった顔をしていたと聞いたけれど」
「心配してくれたのかい?」
「そんなわけないでしょ!? 憔悴した顔を拝んでやろうとしたのよ!
 それに何なの、目に悪い配色の武具を身に着けて―――」
「桂花」
「うぐっ……」
「うぷっ」

ギロリという効果音がなったかのように、睨みつける荀彧。
口元を押さえてそっぽを向きつつ、結局肩が震えているせいで笑っているのが丸分かりな夏候惇を無視して
曹操は口を開いた。

「その顔なら、大丈夫そうね」
「……ああ」
「春蘭、兵にそろそろ出る準備を始めさせなさい」
「はっ……、くふふっ」
「くぅっ……!」

最早、隠しきれて居ない笑い声を堪えながら、曹操の声に応えて遠ざかる夏候惇。
こめかみに青筋を浮かべながら、持ち上げた拳を震わす荀彧を、やはり無視して曹操は語りかける。
もちろん、余り関わりたくなかった一刀も曹操に調子を合わせた。

「えーっと……さて。 私が見送ってあげるのは、一つ聞こうと思っていたからよ」
「何だろう?」

そこで曹操は、一つぐるりと周囲を見回した。
一刀は、何が聞きたいのかをぼうっと考えて、張梁の件に思い当たる。
が、周囲を一度確認した曹操から飛び出したのは、一刀の予想とは別のものであった。

「北郷、私の下に来ないかしら?」
「え?」
「貴方を迎え入れる準備は出来ているわ。 勿論、関羽も一緒にどうかしら?」
「……なんだ、俺はオマケなのかい?」
「さぁ、どっちかしらね? どっちか知りたいなら、私の下に来れば分かるわよ?
 それと、貴方と私は対等……客将として持成すことにするわ。 どうかしら……悪い提案ではないでしょう」
『うおっ……マジか……』

悪いというよりも、曹操からすれば破格の提案であると言って良い。
“魏の”が漏らした感嘆の声が、如実にそれを表していた。
彼女の誘いを受ければ、桃香達を救う目処が立つだろう。
それだけの繋がりを宮内に持っているし、関羽も一緒に、という誘い自体がそれを仄めかしている。
しかし、一刀はこの選択に悩むことは無かった。
いつだったか。
音々音が誘いを請われた時とは違う、認められた上でのお誘いに一刀は嬉しさを覚えつつ
同時に一刀にとって大きなハードルになったな、と思いながら口を開く。

「誘ってくれて嬉しいよ……でも、俺にはやることがあるんだ、ごめん」

それは、何時かの断りと被ったような気がした。
そもそも、今の一刀を抱え込むことは曹操にとっても大きなマイナスとなる。
この誘いをかけること事態、曹操は漢王朝を見捨てて自らが立つ決意をしたのだと思って良いだろう。
漢王朝存続を志に掲げる一刀にとって、彼女は説得する相手になる者となったのだ。
曹操を説得する。
これが如何に大きな壁となるのか、なまじ歴史を知っている分、尻込みしそうな課題である。
とはいえ、一刀の心は揺らがない。
ねねに誓った、想いがあるから。

「そう……今度こそはと思ったけれど、残念だわ」

言いながら、一刀に投げられた小さな包み。
曹操から渡されたそれを受け取って、一刀は怪訝な顔をする。

「紅茶よ。 我が陣営に来たくなったらそれを持って来なさい。 一緒に飲みましょう」
「ああ、それは楽しみだよ、曹操……それじゃ、俺は行くから。 荀彧も、元気で」
「……華琳様の誘いを二度も蹴るなんて、頭にウジでも沸いてるんじゃないの?」
「ははっ」
「笑うとこなんて無いでしょうがっ! ああ、ムカつく! 精々苦しんで、華琳様に誘われたことを後悔して死にかけのまま生きてればいいのよっ!」
「桂花、ちょっと黙りなさい」
「うっ、す、すみません……」

『皆! 桂花が心配してくれたよっ!』
『『『『『『わかんねーよっ!?』』』』』』』
「あっはっはっはっは、あー、笑わせるなよっ!」
「むぎぎぎぎ、コイツ……っ」
「……はぁ、北郷。 あまり私の可愛い軍師を虐めないでちょうだい」
「違うんだ、悪かったよ、あぁ……うん、ありがと、元気でた。 それじゃ行くから」

言って、金獅の足を進ませる。
振り返る必要はない。
どうせ、またいつか出会うのだから。

遠くなる一刀の背を見つめて、曹操は一人胸の内で呟いた。
共に、道を歩んでみることも夢見ていたと。
一つ目を瞑り、次に開いた時には曹操の顔に覇気が戻る。
彼女は今この瞬間、薄影に見た夢を見捨て、覇道の道を歩む決意をしたのだ。

そんな曹操が固い決意を見せる中、遠くなる一刀の背を見送っていた荀彧は、ボソリ曹操へと呟くように言った。

「華琳様、あの男は罵られると元気が出るんですか……?」
「……いや、そうとは思えないけど……え? つまり何?」
「だって、異常ですよ。 普通怒ります……え、やだ、こわい」
「……そうね、可能性の一つとして考えておきましょう…………いくわよ、桂花」

一体、なんの可能性なのか分からないが、ついつい口走ってしまった曹操は言葉を濁して
兵を纏める夏候惇の下へと馬を走らせた。
一拍遅れ、荀彧もその背を追う。 やや青い顔をして。
こうして、ほんのりと北郷一刀ドM疑惑が持ち上がり、曹操との別れとなるのであった。


―――


曹操との別れを済ませた一刀は、自分の名で集った兵3000を連れ立って、洛陽の大通りを金獅に跨り歩く。
周囲には一刀の見張りだろう、宦官が一人と数人の官僚が取り囲み
その後ろを、盛大な民の見送りの下、誇らしげに歩く兵達の姿が見える。
中には家族もこの場に来ているのだろう。
隊列を乱して手を振ったり、別れを惜しんだりする姿も覗けた。
そんな見送る家族だろう人々も、笑みを浮かべて拳を振り、応援するように声をあげていた。
何も知らされていない彼らは、一刀が天使将軍として不穏な大陸を治める為に出兵すると信じ込んでいるだろう。
実際を知らせず、天代としての名を最後まで有用に使おうという意図が感じ取れた。
この辺は、さすがである。
一刀も、半ば放り出される形を想像していただけに予想外のことであった。

まるで、洛陽を波才から守り通した時のように、官軍が大通りの通行を規制するまで集ったこの民の数。
もしも、この出兵が自分を追い出すための物であり、漢王朝の言葉に騙されていると知れば一気に暴動を起こしてもおかしくない。
今、この時において一刀はようやく自分の持つ“天の御使い”という名の絶大さを目の当たりにした。
それは、大陸に住む者達にとって大きな希望となっていたのだろう。
天代故に、宮内の暮らしの中で完結して、本当の意味で民の目線には立っていなかったこともハッキリと分かった。
この風評は、漢王朝から離れれば離れる程、大きく落ちていくことになる。
本当のタイムリミットは、盛大に見送りをしてくれる彼らの声を失う時だ。

『……甘く見積もってた。 俺は怖いよ』
『“白の”……』
『気持ちは分かる。 俺も怖い』
『なまじ頭が働くから、そう思うんだな……“呉の”も“白の”も』
『まぁ、考え込んだって変わるわけじゃないんだ。 頑張ろうぜ』
『そうだな、それしかないだろ?』
『“仲の”や“南の”が居るからバランスは取れてるだろ』
『フヒヒ、“馬の”さん虐めないでくださいよ』
『微妙に笑いながら言うのを辞めろ! 本体だってそういうの嫌いなんだから!』
「え? いや別にいいけど」
『『『フヒヒ、サーセン』』』
「ごめん、やっぱ辞めてくれ」

脳内の声に調子を合わせながらも、様々な想いが一刀の胸に去来していた。
陳留から逃げるようにして踏みしめた洛陽の地。
そういえば、玉璽を拾ったことも大きな転換点だったのだろうなと、苦笑するような笑みを浮かべ頭を振る。
もう一度戻る時は、一体何時になるだろうか。

「一刀ぉぉぉぉぉぉーーーーっ!」

ぼんやりと洛陽の街を見ていた一刀であったが、ふいに聞き覚えのある声に首を巡らした。
聞こえるはずが無い。
だって、彼女は―――この洛陽の街に出たことなんて一度も無かった。
しかし、確かに捉えたその声は、見送る民の喧騒の中で一刀の耳朶を震わせたのだ。
一体どこから。
しきりに周囲を見回すが、彼女の姿は見えない。
幻聴か? と疑問を抱いた頃、再度震わす声に、確信する。

「待ってる! 戻ってくるまで! 私は! ずっと、待ってるからっ!」

姿は見えない。
洛陽の街に、彼女が来れるはずもない。
しかし、確かに聞こえた声は、劉協の物だ。
天代として宮内に居たころ、何度となく聞いた彼女の声を自分が聞き間違えるはずが無かった。
だから。

「ああっ! 必ず戻る! 約束だっ!」

洛陽のどこまでも届けと言わんばかりに叫んだ声と同時に、腕を天に突き上げる。
劉協の声が聞こえたのだ。
自分の想いの詰まった声だって、きっと聞こえた。
一刀の声と、振り上げた手は、金獅に跨るせいで兵の全員に見えた。
一刀が何を言っているのかなど、聞こえた者はどれだけ居るだろう。

しかし。

未だ天代であり、天使将軍である北郷一刀が叫び手を突き上げたことは。

多くの者にとって、意気を上げるに足る所作であったのだ。


「オオオオォオォォォオオオォオォォオォオォオオオオオオ!!!!」


こうして天の御使い、北郷一刀率いる天兵は、洛陽を出でて涼州を目指すことになったのである。


      ■ 外史終了 ■




[22225] 「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編4
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/31 21:48
      ■ 折れぬ十二の刀


走った。
天幕の外で、自らを鍛える将軍の口から出た瞬間に、走り続けた。
今になって思えば、何故馬を用いなかったと自分の馬鹿さ加減に後悔していた。
どだい、人間の足が馬に追いつくはずが無いのだ。
何をしているのだろうと自問自答しながらも、それでも無い頭が微妙に働いた結果持ってくることに成功した水を
最後の一滴まで飲み干し、重荷になる竹の筒を捨ててアニキは走っていた。
睡眠と一度の休憩を除いて走りっぱなしだ。
こんな距離を踏破できるとは、だるいと思いながらも槍を奮って鍛えた結果だろうか。
ならば、厳しい訓練もやっていて良かったと思える。
そもそも、こうして未だに目的地を見据えて走り続ける根性が自分にあるとは思えなかったのだから
兵士の調練という物の効果は抜群なのだろう。

あの天幕。
何進と朱儁の人払いの為にアニキが呼ばれたのは間違いなく偶然の産物であった。
その会話の中で聞こえてし0まってから、アニキは一刀の下へ一刻も早く辿りつくために走っていたのだ。
反芻すれば、その時の言葉は良く思い出せる。

『天代は朝敵となった。 これを西方で待ち構え討て、と』

何進の間抜けな声を聞いたのを最後に、それ以降の会話は聞いていない。
実際、これが正しい情報なのかだってアニキは知らなかった。
ただ、もう勝手に身体が動いてしまった。

「はぁっ……はっ……はぁっ……ふぁっ…………はっ……」

この照りつける太陽の中、僅かに草木が生える荒野の中をただ走る。
槍は捨てた。
鎧も捨てた。
具足も篭手も、兜も捨てた。
着ているのは股間を隠す今で言うところのパンツのみだ。
殆どの身に着けるものを捨てて走り続け、見れば醜いと罵られるだろうほど顔を歪ませ
胸を打つ鼓動しか聞こえなくなった頃、ようやくアニキは荒野の中に変化を見つける。
金色の馬に跨って、金色の鎧を身に纏った一人の青年の姿。
後ろに多くの官軍の兵を揃え、従えるのは自らの世界を変えてくれた“天の御使い”だ。

「うぉぉおおおおぉぉぉおぉっっっ!」

獣の唸りのような声をあげて、アニキは一直線に一刀の下に走った。
この声に反応したか。
一刀の周りを守るように囲み、兵の動きが活発になるとアニキに向けて槍の穂先が向けられる。
彼らからすれば半裸の男が汗だくになって走りこんできているのだ。
警戒もするだろう。

「おい、止まれ!」
「何者だ貴様!」
「はぁっ……はぁっ……っ」

制止の声に応えもせず、アニキはそのまま荒ぶる息を整えながらも座り込む。
これだけ走ったのは、ついぞ記憶になかった。
強いて言えば、憲兵に追われて逃げた時であったか。
あの時とは違い休憩も、途中歩くこともしたがそれでも、一昼夜を通して走り続けたことなど無いし
正直言えばもうこのまま寝たかった。

「待ってくれ」
「天代様、しかし……」
「いいんだ、知り合いだ」

しかし、ここまで来たのだ。
寝るのは全部終わってからで良い。
一刀がアニキの顔を見つけると、そのまま兵の垣根を割くように金獅に跨って前に出る。
彼から見て、アニキの様子は尋常な物では無かった。
当然だ、身に着けている物なく荒い息を吐き出してへたり込む知人を見れば、一刀でなくとも何事かと思うことだろう。
一刀はアニキへ水や衣服、とりあえずの鎧等を手渡すと、しばし息を整えるのを待った。
ようやく一心地ついたのだろう。
口を腕で拭い、重そうな身体を引き摺って着替え、立ち上がると口を開く。

「っ御使い様、俺ぁ蹇碩と何進の調練に参加してたんですが―――」

そこでアニキの声は詰まった。
一刀が何事かを口元で呟きながら手を上げて制止したからだ。
一つ二つ呼吸を置いて、少し待つように言われると、一刀は周囲に居る兵を下げさせた。
よほど大きな声でなければ分からないだろう距離まで、兵達が移動したのを確認してから一刀はアニキへと首を向けた。
人払いをしたのだろう。

「……アニキさん、聞かせてください」
「あ、ああ……その、何進と朱儁の話にあったんすけど、その……」

一刀はアニキの話を聞くにつれて、徐々にその表情が険しくなる。
真夜中に蹇碩の下に訪れた官僚。
その会話の中に在っただろう『討つ』という言葉。
間違いなく、先行して演習に赴いた部隊が一刀の指定されたルート上に配置されていることだろう。

中で殺せないのならば、外で殺せばいい。
天代が死んだという情報を流すのは、何も期間が決まっている訳では無いのだ。
ほとぼりが冷めて頃合の良いころに、適当に賊に敗れたとか何とか理由をでっちあげて言えば良い。
そういうことだろう。
ここに居る一刀が率いる3000の兵は、徴兵されたばかり。
意気や士気はともかくとして調練などしていない。
勿論、洛陽にも練兵場はあるから、そこでの訓練はしているだろうが、追い出すことを目的としているのに
まともな調練を彼らに施しているだろうか。
その期待はあまり出来ないだろう。
何より、一刀自身の気持ちが折れていればまず間違いなく死んでしまっていたかも知れない。
蹇碩と何進が率いる兵数は5000余であったはずだ。
先立って演習を行っていると言う、この5000の兵は自分に従う兵よりも精強のはずだ。

『多分、先に舌戦で意気を挫き一飲みに打倒することを考えてるな』
『相対した時、天兵と持て囃された自軍がいきなり朝敵扱いだ、動揺は止められないだろう』
『どうする?』
『このまま付き合えば負けると思うよ』
「かといって、逃げる訳にはいかない」
「え?」

一刀の脳内に応える声に、アニキは不審な顔で言葉を漏らした。
逃げる事はできない。
一刀に付けている見張りだろう官僚は洛陽を出る際に別れてはいる。
しかし、それは問題ではないのだ。
きっと、蹇碩と接触しなければ彼らと合流する予定だったなどと虚偽の報告をされて
天代は逃げたしたに違いない、などと密やかに噂を流し、いずれ事実に仕立て上げるつもりだ。
西園三軍設立からこのシナリオを考えていたとすると、何進も共謀している可能性も出てくる。

『本体……提案がある』
『俺も』
「……うん、俺もあるんだ。 言ってみてくれ」

一刀はそれぞれ、その場で意見を出し合って、驚くことに全員の意見は同様の物だった。
北郷一刀の意思が、一つに集約されていた。
それは……

「アニキさん、ありがとう。 おかげで意見が纏まったよ」
「あ、ああ……?」
「胸を張ってください。 貴方は3000の兵の命を救った英雄ですから」

ニコリと笑って、一刀はアニキを称えると、金獅の腹を蹴って馬首を兵達へと向けて声をあげる。
その声の内容は、行軍していた兵達を動揺させる内容であった。
一刀はその場で、兵達を解散させて散り散りになって涼州へと向かう旨を伝えたのだ。
涼州で不穏な動きをする者達が、一刀の兵団を見て討伐に来たのでは、という余計な疑惑を持たせない為だ。
数百人を居残らせて兵糧や水、装備をこの場に置いて、目立たない格好でそれぞれ涼州、安定を目的地として目指す。
残った者は黄河から川沿いに装備を運搬し、合流する。
そんな風に、ありもしない作戦を咄嗟に考えて。

天の御使いの下に集った天兵である彼らは、一刀の言う作戦の内容を理解すると、殆どの者が礼を取って解散し始めた。
すぐに数十、数百のグループを組あって、鎧や具足を脱ぎ始める。
一人、一刀の後ろでそれらの光景と作戦の内容を聞いていたアニキも、理解に至ると安堵するように息を吐いた。

「……あ? そうか。 これで御使い様も逃げれるってことだな。 頭いいぜやっぱ、ハハハ」
「……」
「なぁ、御使い様……」

黙して振り向いた一刀の顔は、僅かな笑みを浮かべていた。
一刀がこの場で兵を解散させたのは、後ろの敵を作らない為だった。
先ほども考えたように蹇碩に朝敵であると舌戦を仕掛けられれば、それを突っぱねたところで動揺は抑えられない。
最悪、一刀を背後から襲う槍が現れる可能性すらある。
しかし、そんな在るのかどうか分からない可能性を心配よりも何よりも、一刀がどうしても許せないのは
何も知らずに自らに従う兵達が、一緒くたに朝敵と看做されて討たれることだ。
洛陽を出立する時に見たものが、付き合わせる事が出来ない最大の理由だった。

親だろう、年配の方に誇らしげに胸を張る者が居た。
家族だろう、妻や夫に声を掛け合い抱き合っていた者が居た。
子供だろう、駆け寄ってくる少年少女の頭を撫でる者が居た。

そんな光景を見て、一刀は彼らを自らの死地に付きあわせる事など出来なかった。
ぞろぞろと明後日の方向に向かって歩きはじめた集団を一つ見やって、一刀は金獅の手綱を引いて西へと向かい始めた。
ただ、一人で。

「おいおい、御使い様!?」
「アニキさんも、洛陽にもどってください」

その背を追いかけて、アニキは確認するように一刀へと声を荒げたが、返ってくる返事はにべもない。
心中、どう思っているのかはアニキも分からなかったが、一刀の様子はおかしい。
それだけは、アニキも分かった。
そもそも、兵を解散させることなどしなくて良い筈だ。
逃げるだけならば、このまま蹇碩の待ち構えるだろう場所から遠ざかればいいだけで、話は全然早い。
金獅の歩調に合わせるように、駆け足をしながらアニキは一刀の横について声を荒げた。

「ちょっと待ってくれよっ! 命を救った英雄だって? それは御使い様も含まれてるんだろ、なぁ!?」
「俺は、逃げられないんだ」
「はぁ!? 待てマテマテ! 待ってくれ! 一人か!? 馬鹿言うな! 死ににいくようなもんじゃねぇっすか!」
「死ぬつもりは無いよ、やることがあるから」
「―――っ! いやいやいや、待てよオイ! いくら天の御使いだっていっても死んぢまうだろ、無理だろ!?」

アニキの声の調子は、ドンドン強くなっていった。
それでも、一刀の、金獅の歩みが止まることは無かった。
何度声をかけても、大丈夫、死なない、会敵したら駆け抜ける、と取り付く島も無い。
それは、アニキから見て一刀が意固地になっているようにしか見えなかった。
何も事情を知らぬからか、そんな一刀の態度には次第に怒りが沸いて来て声を荒げて叫ぶ。

「ざけんなっ! 止まれって! わざわざ死にに行くことねーじゃねぇかよ! なあっ!?」
「……アニキさん」
「なんだよ!? 命あっての物種じゃねーかっ、おかしいか俺は!? ええ!?」
「俺には守りたい人が、守りたい人達が居るんだ。 その為には、行かなくちゃいけないんだ」
「っ……」

喚き散らしたアニキへと、初めて視線を向けて見せた一刀の表情に、気おされて言葉に詰まる。
一度止まった金獅の腹を叩いて、また一刀は西へと向かう。
駆け足をしていた回転が、徐々に緩んで金獅との距離が離れていく。
そうして遠ざかる一刀の背を、アニキはただ見守ることしか出来なかった。
やがて、荒野の丘陵の谷間に姿を消していく、金色の人馬。

「……くそっ! もう知るかっ!」

地を蹴りつけて僅かに舞い上がる砂埃。
怒気を孕んだ表情に、いきりたつ肩を震わせてアニキは踵を返した。

一体誰の為にこれだけ疲れて走ってきたというのだ。
必死こいて頑張ってみれば、その本人が嬉々として死に場所へと向かっていくのだ。
冗談ではない。
頑張った分だけ無意味であった。
考えてみれば、波才の下で軍師として働いていたあの少女達もそうだ。
自分の命が終わるかも知れないのに、頼んでも居ないのに自分から死地に向かって行ったではないか。
頭は良いかも知れないが、そんな奴は馬鹿だと心で嘲笑していた。
結局、天の御使いも彼女達と同じように頭が良くても馬鹿なのだ。
死んだら全部が終わりだという、そんな根本的な問題すら分かっていない。
自らの命が何よりもこの世の中では大切で、失くしちゃいけないもの。
それを分かってない。
まったく、偉い奴は何も判ってない。
馬鹿ばかりの世の中に、本物の馬鹿が居るとすれば、それは嬉々として死のうとする偉い奴だ。
雲の上にある偉い偉い天の御使い様、北郷一刀だって、ただの馬鹿であるとハッキリした!

気がつけば、アニキの足は再び駈足を始めていた。
どうしようも無く荒れた心中と、沸騰するような熱い頭に我慢が出来ない。
仕方ないじゃないか。
死んだら終わりなのだ。

「俺は死にたくねぇ! 死んでたまるか! 死んだら夢も見れなくなる! 間違いじゃねぇ!
 これだけは俺は誰になんと言われようと、間違ってねぇーんだっ!」

熱くなって、どうしようもない感情を声に発して荒野にぶつけて立ち止まる。
そんな馬鹿に夢を描いていたのは、自分である。
振り返った視界に、自らが夢描いた人馬は見えない。
歯を食いしばって、震えるアニキは荒野に立ち尽くし、それは随分と長い間に渡って続いた。

そう、彼が動く事は無かった。
今は、まだ―――


―――


一刀は金獅の上で流れる風景に、懐かしい想いを抱いた。
何時だったか。
公孫瓚と共に遠乗りに来て、そのまま張遼と出会って宴会にもつれこんだあの日。
あの日に見た薄皮に包まれた皮は開ききり、見事な桃の実をつけている。
荒野を抜けて山岳に差し掛かった道を上げたところで、一刀の視界に徐々に広がる人の波。
もぎとった桃を齧り、口内に広がる甘みを噛み締め、種を吐く。

『おー、居るなー』
『ご苦労なことだね』

山岳の合間を縫って広がる狭い道の頂上。
そこで、一刀は金獅の手綱を引いて立ち止まった。
蹇碩の旗と何進の旗が翻り、まるで待ち構えるようにしてこの山岳に開けた場所で布陣している。
抜ける道は一つきり。
狭所となった場所を塞ぐように、陣取られている事を考えると蟻一匹すら逃さないという意思が見える。

そんな一刀はすぐに見つかることになる。
もとより隠れることなど考えていない。
ここに北郷一刀は現れた―――どちらにしても、それを知ってもらわねばならないのだから。

そして、一刀を見つけた蹇碩の方でもやにわに動揺が広がる。

「なにぃ? 一騎だとぉ?」
「蹇碩殿!」
「何進か、なんだ!」
「天代の部隊と合流する予定では無かったのか。 なぜ天代様が一人でこの場に現れるのだ!」

それを聞きたいのはこちらの方だ。
蹇碩は怒鳴り散らしたいのを我慢して、手を振り上げてこちらへ向かう何進に渋い顔をした。
予定では、一刀は3000の新兵を率いてこの地に現れるはずであった。
その場で合流するということを、何進に伝えても居る。
ところが、この場に現れたのは天代ただ一人。
趣味の悪い色合いの装備に身を包み、山岳の頂上付近でこちらを見下ろしていた。
この3000の兵と、何進大将軍を自らの舌で言い包めて天代を駆逐する。
これが張譲の描いた謀略であり、協力を求められた蹇碩が為すことであった。
とにかく、予定通りに北郷一刀が現れたことには違いないのだ。
むしろ、たった一人で現れたことは、天代を討つ好機以外の何ものでもないでは無いか。
何より、これは小賢しい天代の描いた罠かも知れない。
勇んで突撃すれば、周囲に伏兵が居て手痛いしっぺ返しを食らう可能性は、ある。
自らの持つ兵に、蹇碩が天代の周囲に兵が居るかどうかの斥候を出すと、何進はようやく蹇碩の前に現れた。

何かを言う前に、蹇碩は身振りで何進へと天幕を指し示して、自らも中に入る。
豪快にバサリと天幕を開くと同時に、何進の声が響く。

「蹇碩殿、これはどういうことか聞かせてくれ」
「私は知らんぞ、聞かれても困る」
「そうかな? 朱儁将軍から、話は聞いているぞ。 誰かは知らぬが、真夜中に官僚が蹇碩殿の天幕に訪れたそうですな」
「なに? 盗み聞いていたのか貴様?」
「なるほど、やはり天代を討つ為だというのは本当であったか」

この場所に、天代が現れた事実をもって、何進は政変が在ったことを確信した。
そして、前から天代と対立することを隠そうともしなかった蹇碩が、この場に居るということは
天代を追い出した者達に加担していることも同時に理解する。

「随分、私も上手く利用されたものだな」
「勘違いをして憤られても困るぞ、何進大将軍。 天代は理由あって追放されたのだ」
「追放? 天代ともあろうお方を追放するとは、余程の理由があるのか」
「その通り、天代は劉宏様を誑かし、帝位の簒奪を謀ろうとしていたのだ」
「ふっ、はっはっはっは。 面白いことを言う」

蹇碩から理由を端的に聞いた何進は、思わず口から笑いが漏れた。
なるほど、西園三軍の創設から既にこの絵図を思い描いていたのだろう。
確かに、一刀の任命した者達は今までの軍権をガラリと変える物であり、一刀本人と強い繋がりを持っている。
それは、調教先生として教壇に立つ場に何度か居合わせた何進も認めるところだ。
と、なると天代と協力的な姿勢を見せていた張譲も怪しい。
西園八校尉の設立を持ちかけた、趙忠も然り。
いわば、最初から漢王朝に在る天代を追い出す方向で物事は動いていたと考えて良いだろう。
この事実は、何進を酷く腹立たせる物であった。
利用されたことも然ることながら、成り上がりだと影で囁かれて、ヤッカミに身を焦がした何進にとって
一刀は自らの境遇と重ね合わせて共感の出来る青年であった。
高い地位に身を置いてから、漢王朝の為を思って身を砕いた苦労も同様に。
自らの地位を跳び越した、まだ若い天代に嫉妬はあったかもしれない。
それでも認められたのは、乱れに乱れた宮内を、漢王朝という巨大な龍の毒を吐き出そうと身を削る姿を見てきたからだ。
黄巾の乱から始まって、宮内での政に精を出す姿を。
漢王朝を憂いて働く者が、どうして帝位の簒奪などと言う突拍子も無い疑いをかけられるのか。
それこそ、波才と共謀して洛陽を陥れた方が話は早いではないか。

「何を笑うか、何進!」
「蹇碩殿こそ、何を真顔で冗談を言うか! 簒奪するなどありえんわ」
「貴様も天代に誑かされた口なのか? 帝の傍に在って苦しみを感じ取れぬのか」
「苦しみ? 帝は天代との会話を楽しんでいたように思えたがな」
「阿呆がっ! 事実を知ってなお、その様な事を言えるとは! 漢王朝の敵となるつもりか!」
「余りふざけた事を言わないで貰おうか! 何をどう捉えれば漢王朝に刃を向けたことになる!?」

この二人のすれ違いは、事実を知っていると勘違いしている蹇碩にあった。
張譲の謀りを知っているものとして話す蹇碩と、端的にしか事情を知らない何進のすれ違いだ。
だからこそ、何進は蹇碩の言葉が余りに過程をすっ飛ばした妄言と思えてしまい
蹇碩は何進が天代側にあると断じることになる。
ただ、代わらないのはこの場に天代が現れたこと。
それが示すのは、政変があった洛陽で一刀が追い出されたことを意味している。
つまり、この場合には中身はどうあれ、何進が天代を庇う事は許されない事実だけが確認できる真実なのだ。

「……蹇碩殿は宦官の中にあって、帝を憂うことが出来る数少ない者だと思っていた。
 好感すらも覚えたことがある」
「黙れ、逆賊め! もはや語ることもない。 とっとと去れ!」
「しかし、最早ここに至ってそれが全て、私の勘違いだと言う事が分かったわ!
 追放されたという天代には加担はしない。 帝を蔑ろにし、漢王朝を本当の意味で見捨てている者を残し
 大将軍に在る私が、軽挙で持って身を滅ぼすことは出来ぬからなっ!」
「貴様! この俺が帝を蔑ろにしているだとっ!」

何進のこの言葉は、蹇碩の頭を沸騰させるのに容易であった。
十常侍に召し上げられて、今まで一度も帝の言に沿わぬ事をした覚えが無い蹇碩にとって
それは自身の名誉を踏みにじられたことに等しいからだ。
腰に下げる刀剣に手をかけた蹇碩を無視して、何進は踵を返す。
斬られることは無いと、わかっていたから。
ここで何進を殺害することは、謂れの無い大将軍を無闇に滅することであり
それは蹇碩にとって言い逃れの出来ない罪となるからだ。

「こんな茶番に、私は付き合うつもりは無い! 洛陽へ戻らせてもらうぞ!」
「覚えていろよ! 何進! 貴様に未来は無いぞ!」
「ほざいてろ」

捨て台詞一つ、天幕を飛び出した何進が蹇碩の声を後ろにして馬を引くと
兵を全て無視して天代の下へと向けて馬を走らせた。

こちらへと単騎で向かう何進の姿は、一刀もしっかりと捉えていた。
近づくに連れて、一刀の緊張は高まっていく。
何進が“どちら側”であるかを知らなかったから。
10メートル前後開いた距離で、走らせた馬を止めて何進は眉間に寄せた顔を一刀へ向けた。

「……」
「……」

お互いに黙し、美しい実をつけた桃の木の下で相対する。
自然、一刀は腰にぶら下げた刀剣の柄を一つ撫でる。
所作を見やり、その沈黙を最初に破ったのは、何進の方であった。

「天代殿。 洛陽へ戻られよ。 漢王朝に貴殿は必要だ」
「……何進さん」
「細かいことは知らん。 しかし、今、天代を失うのは漢王朝にとって明るくない
 それだけは、この私でも分かることだ」
「……無理です、追放に足る理由は作り上げられてしまっている。 覆すには難しいんだ」

武力以外では。
そして、武力を用いればそれは、簒奪したと言って過言ではなくなる。
この会話から、何進の状況をおぼろげに把握した“無の”が代わるよう要求した。
ほんの僅かの一拍を置いて、何進の口が動く。

「……分かった、ならばもう語る術を持たん」
「何進さん、お願いがある。 軍部を纏める貴方に、劉備を放り出して欲しい」
「なに? 天代の部下であるあの子か?」

ゆっくりと頷いて、一刀は何進を真っ直ぐに見つめた。

「頼んでも、良いかな……この剣を一緒に渡して欲しいんです」
「……遺言のようなものだ。 その話、承る」

「っ―――ありがとう、恩に着る」

一瞬、言葉を詰まらせた一刀とすれ違う時、一刀が腰から引き抜いた二本の刀剣を何進に突き出した。
礼を言われて差し出された剣を受け取り、何進は振り返らずに馬を走らせた。
この剣を、一刀は詫びと想いを乗せて差し出したのだ。


―――・


蹇碩は、何とか怒りを噛み砕いて天幕の外に飛び出ると、先に走らせた兵から
天代の周囲に兵の影は形も見えないことを知る。
腰に差した刀剣を抜き、もう片方の手で玉璽の押された書状を取り出して蹇碩は叫んだ。

「帝位の簒奪を目論んだ天代、北郷一刀をこの場で討つ!
 全ては洛陽から届けられた、この玉璽が押印された書状に書かれている通りである!
 天代、北郷一刀は自らを漢王朝に降りた“天の御使い”と自称しながらも
 その腹の内に醜悪な野望を秘めて帝位の簒奪を目論んだのだ!」

叫ぶ言葉は、この広い山岳が響き、返すようにして広がっていく。
その声は、山岳の頂上に居た一刀の下に伝え聞こえていた。
集る兵達は、この声に示す反応が鈍かった。
確かに、玉璽の圧された書状を掲げて天代を糾弾するものの、それは彼らにとって余りに唐突に過ぎたのだ。
一刀の後ろに兵が居ればまた、違った威圧感と印象を与えたかもしれない。
しかし、丘の上で佇むは、ただの一騎。
そんな大それた野望を秘めているのならば、何故、この場に死にに来るかのように一騎で現れたというのだ。

なおも続く蹇碩の声は、もはや聞くことすら無駄だ。
一刀は一つ目を瞑り、袁紹から貰った刀剣に手を伸ばして柄を掴む。

『……駆け抜けるだけなら行けるよね』
『覚悟は決まったか?』
『当たり前だ、翠に会うまで死ねるか』
『美以をちゃんともふもふしなくちゃねぇ』
『あの遠乗りだけじゃ、満足できないしな』
『土下座もしなきゃいけないしね』
『美羽に蜂蜜を上げる約束してるんだ、守らないと』
『もう一度、桃香と会う。 その為には仕方ないしね』
『愛紗も忘れるなよ』
『連合のことが在るんだ、月を放っておけない』
『孫堅さんの事もある。 彼女達に会わないままってのは無いだろ』
『華琳が紅茶を飲むのに誘ってるんだ、覇王様を待たせると、後が怖いからね』
「……ねねと劉協様が待ってるんだ。 こんなところで立ち止まれないさ」
「ブルルッ!」

金獅の忘れるなとも言っているような嘶き、一刀は目を瞑ったまま苦笑する。
そうだった。
金獅だけは、この死地に付き合わせてしまう唯一の者だ。

「頼りにしてるよ」

丘の上。
金の鬣と尻尾を持つ、この時代の軍馬でも一際大きな体躯を持つ金獅。
背に跨る意思に引っ張られるかのように、吐き出す息は荒ぶりツル首となって馬具を噛み締めていた。
そして。
金獅の馬上でゆっくりと開かれた一刀の目は鋼の意思を見せて、眦は自然下がった。
眉間に皺が三本寄り、頬は震えて真一文字に口は閉じられた。
視界を埋め尽くす、味方だったはずの人と刃の群れ。
開けた世界に、ぶるりと一刀の身体は震えた。
その全身から立ち上る気炎はゆらりと空気を歪ませていた。

そう、揶揄でも何でもなく、一度震わした身体から湯気が出ていた。
気温の高い、この熱い洛陽の猛暑の中で大気を歪ませるほど。
驚くほど、自分の感覚が鋭敏になっていくのを一刀は自覚していた。

「―――行くぞっ皆っ!」
『『『『『『『『『『おう!』』』』』』』』』』

一刀の、或いは脳内の呼応に答えるように。
金獅は手綱を引かれた訳でも、身体を叩かれた訳でもないのに大きく一つ嘶いて駆け出す。
坂を駆け下りる一刀の背後に、一本の線が引かれるように粉塵が舞う。

腰から引き抜いた、“†十二刃音鳴・改†”が、金獅の駆け抜ける先の風に煽られて
甲高い音をその刀身から響かせていた。

一直線に駆け抜ける一刀と金獅に、蹇碩の荒い声が飛ぶ。
官軍の兵にとって、たったの一人、たったの一騎で数千を越える兵の群れに駆ける人馬は、想像の外の出来事であった。
金獅が間近に近づくその時まで、ただただ駆け下りる一刀を呆然と見ているだけだった。
敵が居ると聞かされて槍を、刀を、武器を持った。
その武器を向ける相手はどこにも居らず、目の前には天代・北郷一刀のみ。
何も知らされずに賊の討伐に来た官軍の兵は、一刀のたった一人の突撃を見ることだけしかしなかったのだ。

この目の前に居る、天代が敵であろうか―――

迷いは伝播し、向けた槍は僅かに後退する。
壁となる場所を器用に避けて、走る金獅の上で、一刀は声を出す。
この迷いが、迷いのまま終わるように。
己が運命に立ち向かうように。

「道をあけろぉぉぉぉぉっ!」

ついにただ駆け抜けるだけでは難しい、兵の密集地帯に入り込んだ一刀は
邪魔になる槍に目掛けて剣を奮う。
一際甲高い音が山岳に弾け飛んで、この地に居る全ての人の耳朶を奮わせた。
接触した槍が勢いに押されて仰け反ると同時に、一刀の顔の真横を通り過ぎて行く破片。
振りぬいて引き戻した一刀の手の中にあるは、“†十二刃音鳴・改†”の刀身が音を奏でる部位を残して消えている姿だった。
代わっていた“馬の”、素っ頓狂な声が響く。

「折れたぁーっ!?」
『『『うぉぉぉぃ、袁紹ーーーーー!』』』
『麗羽、ごめん、流石に擁護できないよっ!』

「がっ……!?」

その声は誰から漏れたか。
一刀の真横を通り過ぎた刃の刀身が、不幸にも兵の首めがけて突っ込んで行き、その喉をかき切った。
溢れ出す鮮血が、経緯はどうであれ兵に一つの答えを導いていた。

「ひぃっ!」

なにも分からない、どうしてそうなったのか。
理由などどうでもいい、問題は今だ。
今、この時に天代が奮った剣が、味方を―――自分達に奮われたという事実だけで、理解してしまったのだ。

天代は―――あれは、敵だと。

「うわあああっ!」
「こ、殺せぇっ!」
「なんでだああっ!」

恐慌染みた叫びは流れ、ここで初めて兵の、自分自身の意思を持った穂先が一刀に迫る。
迷いが消えれば、後ろ盾は無くなってしまった。
中央を真っ直ぐに切り開いた道は固く槍の穂先で閉ざされて、金獅が駆ける空間は一気に狭く細くなる。

『“呉の”! 右だ!』

誰かの声に、咄嗟に反応して頭をかばう。
瞬間鈍い音を立てて、槍の閃刃が一刀の右腕を叩いた。
甲高い音が響いて、孫家から貰った手甲は割れ落ちていく。
反撃する間も無く、通り過ぎた視界に残すのは黄巾党と相対した時に一刀が敷いた槍衾。
とてもただの一騎が貫くことは出来そうに無い。
瞬時の判断で、“蜀の”の声が頭を打つ。

『“馬の”!』
『あっ、代われ、こっちだ!』

斬り飛ばした槍の木片が宙を泳ぎ、一刀の身体は泳いだ。
瞬間、進路を右方に取り、兵の波をなぞる様に平行して走らせる。
群がる人と槍の隙間を縫って、金の人馬は徐々に、徐々に前へと進んでいった。
強引に手綱を操って引き戻した身体の残影を射抜くように、弓矢が飛び込んでくる。
その避けた矢が奥の兵士に突き刺さり、悲鳴と共に恐慌が包む。
塊となった人の群れを“馬の”は勢いを殺さずに突っ込んで行き金獅はそれに応えるように地を蹴って天に向かい飛んだ。

そして空で視界に捉える、見える唯一の駆け抜ける道。

そこまでには、まだ遠かった。


―――・


洛陽へ急ぐ何進は、途中で官軍の兵装に身を包んだ一団を視界に収める。
その数、おおよそ三百。
全てが馬に乗って荒野に砂塵を巻き上げて駆け抜けていた。
ちょうど何進に向かって進める軍馬は、方角からして天代と出合った場所と直線状に結ばれていた。

その集団の先頭を走るのは、アニキであった。

「待て! 止まれ! 貴様ら何処へ行く!」

明らかに将軍と思える装備に身を包む何進に止められて、数百の天兵は自然足が止まった。
何進の顔を認めて、吼えるのはアニキだ。
馬鹿な人に、馬鹿がつくのは当然だろう。
馬鹿な夢を見るために、馬鹿がついていくのだ。
止めた足を二度、動かしたときにはアニキは一刀に騙されて装備を纏めていた居残りのグループに叫びを上げたのだ。

「何進か!」
「貴様、なんだその態度は! お前達、まさか天代の下に向かっているのではなかろうな!」
「何を当たり前の事を言ってやがる!」
「いかんぞ! 貴様らは漢王朝の兵、漢王朝の盾だ! 朝敵として在る天代の下に向かえば、逆賊になるのだ! 分かるだろう!」

何進の怒気をはらむ声は尤もであった。
しかし、そんな正論に頷けるような者ならば、この場で馬を走らせて天代を追いかけては居ない。
それは、アニキ以外の天兵も同様だ。
あの時、アニキの叫んだ言葉のほうが、何進の正論よりも魂を奮わせたのだから。

「御使い様が居なかったら、俺が官軍に居る意味なんかねぇんだ!
 黄天より、どこの天よりも!
 俺ぁ御使い様の見る“天”が見てぇんだよっ! 
 大将軍だろうとなんだろうと、邪魔すんじゃねぇぞっ!」

引き抜かれた剣を水平に凪ぐように奮われたアニキの腕は
何進によって引き止められた天兵を動かすに足る十分な啖呵であった。

「おいっ!」

何進の制止など何処吹く風か。
軍馬は一つの意志を持って動き出し、天代の下目指して荒野を一直線に割いていく。

「逆賊にでも何でもしやがれっ! 俺ぁ賊暮らしは慣れてんだよっ!」

捨て台詞一つ。
残してアニキもまた、天兵の砂塵の跡に消えていく。
舞う砂煙に目を細めて、何進は叫んだ。

「くそっ! もう知らぬぞ! この砂煙で何も見えなかったわっ!」


―――・


未だ疾風となってこの地を駆け抜ける一騎の人馬の姿に、蹇碩はその顔を歪めて憤慨した。
自らが弓矢を抱いて馬をもって駆け出し、いくら人数をかけても天代を囲むことは出来れど討つことの出来ない兵を役立たずと罵りながら
恐慌に震える兵士達を吹き飛ばすように馬を飛ばし、一刀を射程内に納める為に真っ直ぐに駆けていた。

馬上での騎射は、尋常ならざる技術を持ちえてなければ難しい。
それは何度も何度も練習を繰り返して、ようやく手に入れる職人芸に等しいのだ。
その難度高い術を、蹇碩は持ち得ていた。
この技を手に入れることが出来たのは、全ては帝の期待に応える為。
上下に揺れる視界の中。
自軍の兵から奪っただろう槍を馬上で奮う一刀を捕らえて。

キリキリと甲高い音を奏でて撓る弓に、支えるように添えた左手に伝わる筈の感覚を感じる。
限界まで引き絞った弓が、ただ殺害するという意志を持って撓んで弾けた。

「ふおっ!」

吐き荒れる声と共に放たれた矢が、空気を切り裂いて音を鳴らし、一刀へと迫る。
その一矢。
取り囲む兵の道を切り開くことだけで精一杯であった一刀を確かに突き刺した。
金色の鎧を貫き、その肉体まで僅か数センチのところで、何かガラスが割れるような音を響かせて身体を泳がせる。

「ぐぁっ……!」

砕かれたのは、胸元に潜ませた董卓から貰ったペンダント。
翡翠の塵と欠片が、一刀の中で弾けて肉に刺さる。
その一撃は、現状に変化を齎すに十分な威力を誇っていた。
悲鳴を無理やりに抑えて揺れた一刀の身体が馬上に戻る頃には、今までに無い速度を持って突かれる槍が迫っていた。
咄嗟に片足を上げて、具足を犠牲に砕かれながらもその一撃を捌くと、横合いから伸びた刀剣が首筋に迫る。
最早、判断の余地なく“無の”はその手に持つ槍を振り上げた。
自らの腕を伝い、人肉を突き破る音が響いて、自らの手に赤い斑点を描かせる。
この所作に、足を止めずに走り続けた金獅の速度が、僅かに緩んだ。
その間隙を縫って、一刀の足に向かって突き入れられた槍は、公孫瓚から贈られた金獅の馬具に当たって弾かれた。

『駄目だっ! 一度抜けろ!』
『戻れるかよっ!』
『“馬の”が戻ってこない!』
『矢が邪魔だ! 死角に逃げろ!』
『来たっ避けろっ!』

脳内に響く声に上体そらした瞬間、頬を横切る風切り音。
蹇碩の第二の矢は僅かに逸れて、直後に迫る槍兵の胸を突き刺した。
そのせいで空くことになった空間を見つけ、“董の”が無理やりに手綱を引いて金獅を飛び込ませる。
この戦場に変化が訪れたのは、その瞬間だった。

「オオォオォオォオォオオォオォオォォォォォオ!」

金獅の馬蹄の音だけが鳴っていたこの地において、地震を思わせる地の奮えと共に意気を上げる声が響き
一刀が駆け下りた後をなぞるように、数にして約300の軍馬が一直線に戦場へと向かっていた。

「ああっ! なんだっ!?」
「まさかっ!」

蹇碩の声と、一刀の声が同時に上がったその瞬間。
人の群れに軍馬の槍は雄叫びと共に突き刺さった。
人の壁となっていた一刀の居る場所にまで、その衝撃は伝わって、遮られていた道が再び開く。

「おのれ! やはり伏兵を配置していたな! 奴らも逆賊だ、殺してしまえ!」
「くそっ、馬鹿なことしてっ! 俺は謝らないからなっ!」

一刀の言葉を無視して、突撃してきた一団を無視するように先へと進む。
その動揺から見えた道は、確かに後僅かな場所へと近づいていた。
金獅の足ならば、10秒足らずで抜けられるその場所へ。

もう、あと少しだった。

あと少しであったのに、一刀の死角から伸びてきた槍は、金獅の足を確かに絡め取っていた。

『―――“南の”っ!』

倒れこむ金獅の動きに、瞬時の判断からの声で“南の”が曲芸のように空で体勢を整えて
持つ槍を地に差すと、勢いを殺して直立することに成功する。
が、遂に金獅から引き摺り下ろされた一刀の目の前には、数十の刃が一斉に向かってきていた。

「誰か―――俺じゃ無理だっ!」

“南の”はその刃の群れから飛び退るように走って逃げ出すと、叫びを上げた。
代わる者は居なかった。
代わって、どうにか出来る者など此処には居なかった。
自然、時間を迎えたかのように意識を落とす“南の”から身体の主導権を奪い返したのは、本体だった。

「うおぉぉぉおおぉお!」
「ち、ちくしょぉっ! 誰の約束も、守れないのかよっっ!」

取り囲まれ、迫り来る一撃を捌く術を“北郷一刀”の誰もが持ち得なかった。
時間が引き延ばされたかのようにすら感じるほど、長い時をかけて幾刃もの刃が一刀へ向かう。
そして、先陣を切る刃は確かに、一刀の胸部を突き刺した。
瞬間、遅れて腹部と大腿部の肉を裂く音が一刀の耳朶を響かせる。

「ふ、ふははっ、やったぞっ! たかが一騎で駆け抜けることなど出来る物かっ!」

誰かの声が遠くに聞こえ、猛烈な痛みにのたうち、一刀が叫び声を上げる―――ことは無かった。


「ああ、なんて痛い目ざましだ……」


貫かれ体勢のまま、やにわに腕が閃いて、兵の持つ槍に手をかけると
衝撃から俯いていた一刀の顔は上がって、酷く落ち着いた声が響いた。

(う……あ、なんだ!?)
『“肉の”……か……?』
「ごめん、遅れたよ……後は任せてくれ」
(え……?)

まるで世間話するかのように、呟いた“肉の”の声に驚愕の反応を示したのは、一刀を取り囲む兵の全員だった。
一つ息を吐きだすと共に片手の握力だけで圧し折って、胸部を確かに刺していたはずの槍の穂先が地に落ちる。
ありえない物を見たかのように自らの手と、一刀を見比べて。
胎に力をこめて突き入れた槍が、大腿部の筋肉の盛り上がりに防がれていた。
それは天代に殺されるかも知れないという事実を、目の当たりにした恐慌の度合いすら完全に上回り
彼らは恐れから、悲鳴を上げて逃げるようにして走り出す。

「うわああああああああああっ!」
「ば、化け物だぁぁぁあ!」
「ひぃぃぃぃ!」
「誰が化け物だってぇぇぇーっ!」

無残にも、足を縺れさせて逃げ遅れた兵の一人の足首を持ち上げて、後退さる兵達に向けて、投げるように叩き付ける。
その際、叩きつけられた兵士も軽く数メートルは吹き飛んで、撓んだ包囲の合間から目ざとく驚きに固まる、蹇碩を目撃した“肉の”は
手近に在る槍を手に取ると、まるで人が居ないかのように助走を付けて投げつけた。
物理法則に反するように、水平のまま迫る一槍に目を剥く暇も無く。
蹇碩はその飛来した槍を左腕で受け取ることになり、そのまま馬上から転げ落ちた。

「ガアッっ!?」
『『『『『惜しいっ!!!』』』』』
『『いいぞ! もっとやれっ!!』』
「あれ、しばらく見ない間に攻撃的になってないか皆!?」
(いいから、金獅を拾って逃げてくれ! この場所から離れないと―――)

確かに、“肉の”が入れ替わったことで太腿と胸部を貫かれることは免れた。
しかし、じんわりと広がる腹部の鮮血は、隠しきれるものでもなく。
その突出した個人の武で―――とはいえ、異常性から兵が慄いたせいでもあるが―――金獅の下まで兵をなぎ倒しながら近づくと
捕らえられる様に押さえつけられていた金獅を立たせ、その上に跨る。
今切り開いた道に、近づく兵は居なかった。

「ぐううぅぅっ、な、何をしているっ! 早く道を塞いで殺さぬかっ!」
「邪魔をすれば命はないぞっ!」

同時に飛び出した声は、しかし。
“肉の”が発した一刀の威圧が勝った。

誰も近寄らないその西へ抜ける道を、一刀は金獅と共に駆け抜ける。

「おのれ! おのれ! おのれぇっ! 呆然と見送りおって! 後を追ってでも殺せっ、誰か奴を、殺せぇっ!」

蹇碩の、怨嗟の声をその背に受けながら。


―――・


後世“天の御使い”が、ただの一騎で5千の兵を突き破って西方に駆け抜けた事が記された。
その際、“天の御使い”を追いかける天兵が在り、その悉くを討ち取られたと言う説があるが真偽の程は定かではない。
そして、この一騎駆けから暫しの間、歴史の中から北郷一刀の名は消えることになったという。


      ■ 外史終了 ■




[22225] 見据えた道は桃仙から西へ伸び、大陸は揺られ始めたよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/31 21:48
clear!!         ~「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編3~



clear!!         ~「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編4~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~見据えた道は桃仙から西へ伸び、大陸は揺られ始めたよ編~☆☆☆




      ■ 『これから』


一刀が出立してから、ずいぶんと時間が経つ。
陽の傾きが、東側から西側になるくらいだ。
もう、後数時間もすれば夕刻を迎えるだろう。
離宮の入り口で劉協の帰りを待つ音々音は、一刀の事も然ることながら劉協の心配もしていた。
内心では、自分一人だけ一刀を見送りに行ってずるいとも思っていた音々音だった。
そんな、ちょっとヤッカミ染みた物を胸の内に浮かべていたが
時間の経過が経つにつれて、それは劉協への心配へと変わっていったのだ。
チラリと隣に視線を向ければ、劉協に目立つからという理由で置いてかれた護衛役の恋が
手持ち無沙汰なのだろう、例の手加減の練習というものを行っていた。
あの目視できない速度で振り下ろされる戟の、何処に手加減の要素があるのか音々音には分からない。
しばしぼんやりと眺めてしまった音々音だったが、別に恋の手加減の練習が成功に至っているかどうかは些細な問題である。

「……もう暫く待っても来なければ、こちらから迎えに行くべきでは」

視線を外しながら呟く。
今や劉協は、言葉は悪いかも知れないが一刀に戻ってもらう為に必要な手札の内、もっとも重要な者になった。
熱意に圧し負けて頷いてしまった音々音が言うのもアレだが、単独行動は控えて欲しいものである。
ただでさえ帝の体調が思わしくないのだ。
彼女に何事か起こる事は歓迎できない。
未だに風を切って鳴らしている恋の素振り音を耳朶に響かせながら、膝の上に載せた人差し指を
トントンと叩き待っていると、いきり立つ様子を見せ早足で歩く何進の姿を見つける。

明らかに常とは違う、興奮した何進を見て音々音は首を捻った。
確か何進は洛陽郊外へと兵を引き連れて演習を行うことになっていた筈である。
いつだったか、おおよそ10日前くらいに徴兵したばかりの兵達を率いて出立していた。
この都の政変を知って、一人戻ってきたのだろうか。
そこまで座りながら視線だけで何進を追いかけていた音々音は、何かに打たれたかのように飛び上がった。
そうだ。
何進が洛陽から出立したときに一緒に演習へ参加した者は誰だったか。
十常侍であり、劉宏帝の信頼の厚い蹇碩も共にしていたではないか。
この事を思い出した音々音は、視界から建物の影に消えそうな何進の進行方向だけをしっかりと記憶に残し
素振りを続ける恋へと駆け寄った。

「恋殿! 何進殿の下まで行きたいのです」

流石にこの暑さだ。
じんわりと汗を滲ませる恋は、一瞬きょとんと音々音を見つめたが、やがて理解に至ると腰を降ろして彼女を持ち上げる。
肩を借りる音々音が声を出す前に、恋は走り始めていた。
咄嗟に舌を噛まぬよう口を閉じ、恋の肩口を掴んで振り落とされないように力を込める。
どうやら、恋もしっかりと何進の姿を捉えていたようであった。
大した時間もかけずに何進の下まで辿りつく。

やや驚いた様子で振り返った何進は、音々音と恋の姿を認めると僅かに顔を伏せた。
恋の懐から飛び降りながら、音々音は口を開く。

「何進殿、お聞きしたいことがあるのです」
「天代殿の事か」

言われ、頷いた音々音を見て、何進は頭を掻きながらかぶりを振った。
そして、しばしの沈黙を破って口を開く。

「追放されたという話は聞いている。 
 私は知らなかったが、蹇碩が宮内の者と示し合わせて天代を討つ為に謀ったのだろう」
「では、天代は既に討たれたと」
「さてな……しかし、たった一人の人間が5千の兵の壁を抜くのは不可能だ」
「ひ、一人……? そ、それは確かなのですか?」

馬鹿な、と音々音は心中で叫んだ。
一刀を見送ってこそ居ないものの、遠目から3千の兵を率いて洛陽の大通りへ向かう勇姿を音々音は見ている。
そうしてこの場所を去った一刀が、どうしてただの一人となって蹇碩の前に立ち
待ち構えていただろう蹇碩の軍勢と相対したというのだ。
驚愕を顔に出さないよう、顔を伏せた音々音の耳朶を打ったのは、怒鳴るような何進の声だった。

「おい、何処へ行く!」

何進の怒鳴り声に釣られて振り返れば、戟をその手に持ったまま背を向ける恋の姿。
その恋の背中を見たとき、音々音は理解してしまった。
彼女が、一刀を追いかけることを。
きっと誰の声でも止まらないだろう。
ゆっくりと何進の声に答えるように振り向く恋の表情を見て、自分の推測は確信に変わる。

「……行く」

恋が答えたのは、何進にではなく音々音だった。
劉協の傍に居てくれと願った音々音も、今度は彼女を引き止めることは無かった。
だって、一刀が死んだら何にもならないのだ。
こうして自分が立ちあがり、劉協を支える決意を胸に宿したのも、一刀が還って来る場所を用意する為なのだ。
もちろん、劉協を道具のように考えてる訳じゃない。
一刀がいれば、漢王朝がどうなろうと構わないという思いでいるわけでもない。
自らが生まれ、育ったこの国を愛していない訳では、決してないのだから。
劉協を立て、この国の膿を吐き出し、一刀を迎え入れる。
これが漢王朝存続が成る最初の一歩であると、音々音は考えている。
だから、恋の声に音々音は答えた。

「恋殿、此処に戻ってきては駄目ですぞ……その覚悟があるならば」

今、朝敵になった一刀を追うのならば恋も戻ってきてはいけない。
最初の一歩で躓く訳にはいかないから。
お互いに見詰め合ってしばし、恋が力強く頷くと同時、音々音は僅かに頭を下げた。

「っ、陳宮殿。 何を言ってるか! 何故止めぬのだ!」
「止まれば止めてるのです」
「しかしだな……くそっ、あいつらと同じではないか……」
「……? っ、恋殿、またいつか」
「ん、ねねも頑張って」

後はもう言葉は要らないとでも言う様に、恋は踵を返して走り去っていく。
見る間に小さくなる恋を見送る音々音を見て、何進は顔を顰めた。
何進は一刀と分かれてから真っ直ぐに洛陽へと向かい、戻ってきたばかりであった。
詳しい事情を聞くために先行して戻った朱儁に会おうと考えていたところ、音々音に呼び止められたのである。
何進としては、詳しい経緯を知っているのならば誰でも構わなかった。
お互いの様子から、事実関係を把握していると判断すると彼は口を開く。

「陳宮殿は、天代が追放に至った理由を知っておられるのか?」
「知ってるのです」
「ならば、詳しい事情をお聞かせ願いたい。 こちらへ戻ったばかりで、詳細は知らぬのだ」
「構わないですが、お話は劉協様の離宮の方でさせて貰うのです」

宮内の中とはいえ、こんな所でするような話ではないし、何より劉協のことが心配だ。
何進は音々音の声に頷いて、二人して離宮を目指した。


―――・


話を聞いた何進は離宮から離れて一人、顎鬚を擦り考えながら歩いていた。
途中、劉協様が戻られて話が途切れた時にも思ったことだが、天代側は張譲に嵌められたことが分かる。
何より、天代を追った兵達の事情を知った何進は、胸中穏やかではなかった。
ただ、諸葛亮と鳳統の処遇だけは言い逃れできぬ物ではあったが。
それも天代の人柄を鑑みれば、少女達への同情というのは理解できる話であったし
諸葛亮と鳳統の二人が、波才に強制されて止むを得ず敵対していたことも知るに至った。
陳宮と、劉協が一刀と仲が良いことも何進は知っている。
故に、一刀を庇うための嘘が混じっているのではないかとも思ったが、それを言うには無粋なのだろう。
張譲と一刀が手を取り合って、漢王朝が続く未来を確かに見た。
自分の心がどうにも纏まらないのは、その光景を目の当たりにしたからかも知れない。

「……約束は果たさねばならぬな」

そう呟いて一拍を置くと、何進はある部屋の中へと扉を開けて入った。
彼が入ると同時に、何人かの視線が何進へと集まる。
この部屋は、天代の部下であった者達が集められていた。
何進が来たことによって僅かに顔を上げたものの、再び膝に手を当てて地を見つめる劉備。
その劉備の後ろに腕を組んで佇むのは、確か名を関羽と言った。
更にその奥。
まだ子供ではないかと思うほど幼い容姿をした三人の少女が、寄り添うようにして何進へと顔を向けていた。

「……何進殿」

一度ぐるりと室内を見渡して、何進は声をかけられた皇甫嵩へと首を向けた。

「その様子では、話は聞いているようだな」
「何進殿も、聞かれましたか」

短く会話を交わした皇甫嵩の隣で瞑目しているのは盧植であった。

「……それで、皇甫嵩殿はどう考えている」
「どうも何も。 詳しい事情を聞くにも劉備たちは答えぬのだ。 判断など出来ないですよ」
「そうか」
「ただ一つだけ分かることもある……天代は我々に隠し事をしていたということです」

そうして流した目線は、諸葛亮と鳳統の方へ向いていた。
皇甫嵩の視線に重圧を感じたのか、それとも別の感情からか。
こちらを黙して見つめていた二人の少女は、自然顔を下げた。
諸葛亮、鳳統の二人はともかくとして、恐らくは劉備達も天代と同じように、気が付けば今の立場に貶められていたのだろう。
そうでなければ、わざわざ一刀が何進に遺言のようなものを託すわけが無い。
何が在ったのかなど、想像することはできても事実を確認することは出来なかったに違いないのだ。
何進はそっと、腰にぶらさげた二本の刀剣の柄を撫でた。

「……劉備とかいったな」
「……」
「そのまま黙してても良いが、私の話は聞いてもらおう」

言って何進は、劉協と音々音から聞いた事のあらましを、劉備へと語り始めた。
実際に何処まで知っているのか分からないので、一番最初から順序だてて。
皇甫嵩や盧植も、全てを知っていた訳ではなかったのか。
時に尋ね、時に頷いた。
何進自身も確認するように、ゆっくりと全て話し終える頃には窓から差し込む陽射しが赤く染まり始めていた。

何進の声が止まり、沈黙が訪れた室内の中。
一つ、理解に至ったことがある。
何進は、蹇碩と共に一刀を待ち構えていたが付き従う兵は一人も居らず、たった一騎であの場に現れた。
後を追いかけた官軍の兵達は、先に徴兵されたばかりの者達だと聞いている。
その兵達は、何も知らなかった。
ただ、一刀が出兵する際に集められ、未だに天代は在ることを民に騙り、彼らごと天代を追放したのだ。
ただの一人で放り出された訳ではない。
本当ならば、蹇碩と利用した自分とで、天代率いる3千の兵を迎え撃つことになっていたのだろう。

「……一刀様は、どうなったんですか」

室内の沈黙を破ったのは、これまで黙秘を続けてきた劉備の声だった。

「知らず利用された私が付き合う道理はなかろう。 結果は知らん」
「……」
「決着は、もうついているだろうがな」

そう言って、何進は話は終わったとばかりに、腰にぶら下げた二本の刀剣を劉備の座る卓の前に置いた。
金属の音が室内に響いて視線を向けた劉備は、その意匠に思い当たると驚くように眼を見開いた。
見覚えのある二本の刀剣は、一刀が黄巾の乱から使っていた物だった。
もともとは飾りも何も無い、無骨な剣であった二振りの刀は身分を考えて鍛えなおしていたのだ。
生まれ変わったただの剣は、まるで一対になった意匠となり代わり、夕日に照らされて陽光を反射していた。

「天代……いや、北郷一刀からお前に渡してくれと頼まれたものだ」
「一刀様が……」

置かれた刀剣に手を伸ばして、劉備は柄を握る。
たった一人、罠と知りながらも現れたという一刀が劉備へと託した物。
天代が消え、大陸の未来に暗雲が降りたかのように思えた劉備にとって
それは言葉の無い励ましであるように思えた。
そうだ。
何故一刀は追放されなければならなかったのだろう。
追放されてしまったという事実が、自分の思考を停止していた。
漢王朝にとって邪魔な人間だったとはとても思えない。

「……そっか、間違えていたんだ」
「うん?」
「何進さん……お話してくれてありがとうございます。 分かっちゃいました」
「何がだ」

怪訝な顔を向ける何進に―――いや、何進だけではない。 皇甫嵩や朱儁も同じように眉を顰めて
おもむろに立ち上がる劉備の様子を見つめていた。
二振りの刀剣を両の手で掴むと、劉備は何進を真っ直ぐに見つめて口を開く。

「一刀様が間違っていないってことが。
 それが今、何進さんの話で分かっちゃいました」
「桃香様……」
「愛紗ちゃん、黙ってて」
「し、しかし……」

関羽が止めたのは、この宣言は既に洛陽の民を含めた何も知らない者達にはともかく
事情を知る者達の前で、朝敵となった一刀のことを認める発言であったからだ。
心の中でなら構わないが、この場で言ってしまえば朝廷側である何進や皇甫嵩がどの様な行動にでるのか分からない。
だからこそ、関羽は諌めるように声をかけたのだが。

「ごめんね。 でも、これは曲げちゃいけないことなんだよ、絶対。
 これを認めなくちゃいけないなら、本当に漢王朝はその歴史を閉じることになると思うから」

間違っていることを是とする。
劉備は、そんなことは認められなかった。
だってそうではないか。
身内の贔屓目はあるにしても、一刀が腹の内で漢王朝の簒奪を目論んでいたことなんて在りえないと断言できる。

「それは、正気で言っているのか、劉備」
「はい、盧先生」
「そうか……不器用な奴だ……」

力強く、盧植の問いに答えた劉備に、薄い笑みを浮かべて彼女はかぶりを振った。
学び舎で教わっていた時とまったく変わらない少女は、この状況下にあっても同じであった。
もとより腹の内を探るばかりの官僚や宦官達に嫌気をさして、宮中から一度遠ざかっている盧植にとって
劉備が選択したものは好ましくもあり、愚かしくもあった。
この好ましい不器用さは、きっと死ぬまで治らないだろう。

「そう断言したからには、この洛陽には居られんぞ。 なぁ、大将軍殿」
「……劉備、貴様は追放だ。 後ろにいる者達も、劉備と同様なら出て行け」
「分かりました、出て行きます」

この決定に、即答すると劉備は振り返った。
自らを主としてくれた関羽が、大事にならなかったことを安堵するかのように大きく息を吐いていた。
一刀から託された朱里と雛里は、ここに劉備が来てから変わらない揺れる瞳を向けている。
ただ一人、眠たそうにしている張飛の顔を見て、劉備は僅かに笑みを浮かべた。

「みんな、行こう」


―――・


「大将軍。 諸葛亮と鳳統まで放り出すとは」
「……言うな。 あの二人は刑罰を受けるべきだろうな。 経緯や事情があったようだが
 それでも黄巾党に与して、漢王朝に刃向かったのは事実だからな」
「それが分かっていて何故です。 彼女達は罪を清算しなければいけないでしょう?」
「非難や批判は甘んじて受ける、決定に文句があるのなら正式な書を用意してくれ」
「……」

盧植が追放した劉備を見送りに行った為に、この部屋には今、皇甫嵩と何進の二人だけだ。
諸葛亮と鳳統の二人に関して下した決断に異論があれば、どんなものでも受ける。
そう言った何進に対して皇甫嵩は何も言わなかった。
3000の兵を率いて洛陽を出立したはずの一刀が、ただの一騎で現れたことを直接その眼で見た何進の内心を、察してしまったからだ。
謀略を行った宦官や官僚達に対して利用されたこと、その憤りをぶつけている側面もあるのかもしれない。
彼らに迫られたら、知らなかったなどと法螺を吹くのだろうか。
皇甫嵩自身、今回の一刀の追放には些か納得がいかないものはある。
諸葛亮と鳳統の二人に関しては言うまでも無く黒だが、それ以外は首を傾げてしまうからだ。
ただ、皇甫嵩は当事者ではなく第三者に過ぎない。
天代が居なくなったことには大きな衝撃を受けたが、しょせんは他人事でもある。
故にどちらかを糾弾するのではなく、今後の自分の身の振り方に思考を割くべきだ。
どちらにしても、この決定は大将軍にとって難しいものになるのは間違いない。

「……つくづく惜しい。 天代は在るべきだったのでしょう」
「まったくだ」
「大将軍、あなたはこれからどうするのです」
「これからか……」

それきり黙りこんでしまった何進を、しばしの間見やった皇甫嵩だが
もしかしたら、何進自身も分からないのかもしれないと思いつつ、椅子を引いて座り込む。
ぼんやりと窓の外を眺める何進の視線を追って、皇甫嵩も首を向けた。
遂に夕日も沈もうかという所だ。
宮内の建物の影は長く伸びて、夜を告げる蒼黒い天が広がっている。
天代が消え、帝の容態は上向かず、上党にある黄巾残党は動きを見せ始めた。
これからの漢王朝は、そして自分は一体何処へ向かっていくのか。

「……」

そんな未来に想いを馳せていた皇甫嵩と、恐らく何進もだろう。
二人の沈黙は、けたたましく開かれた扉から現れた朱儁によって終わりを告げる。
鼻息荒く飛び込んで来た彼は、相当に頭にきているのだろう。
怒気を孕んだ大声をあげて、朱儁は何進を睨んだ。

「大将軍、これはどういうことかっ!」
「朱儁将軍……」
「諸葛亮と鳳統は、置いて行って貰わねば筋が通らない!」

誰に聞いたのか、劉備を何進の独断で追放したことを聞いたのだろう。
何進自身も認める諸葛亮と鳳統の罪に対して、言及に来た朱儁は明らかな怒りを見せていた。
それは彼女達の目が、今、存在しているということが何よりも朱儁を腹立たせた原因だ。
正直言えば、朱儁にとって一刀が追放されたことは、最早どうでもよかった。
諸葛亮と、鳳統の刑罰が実行されていない。
これを知った瞬間から、朱儁にとって一刀に関する諸々の事情は些事と化したのである。
なぜならば。

「あの夜の事を、私は忘れたことがない!
 理由があろうと無かろうと、あの二人が私を―――いや、私の部下を屠ったのだ!
 それは戦場でも同じこと!
 何よりもあの二人は大将軍が独断で処遇を決めることではないでしょう!?
 ここは都の宮内で、戦場ではないのです!」

身を乗り出して目の前にある卓を叩きながら、朱儁は声を荒げた。
波才の隣に立つ二人の少女を、あの日から忘れたことなど無いのだ。
なるほど、刑罰は実行されたのだろう。
しかし、蓋を開けてみればどうだ。
少女はまったく、その眼を傷つける事無く日々を過ごしていたのだ。
許せるものか、そんなことは許してはならない。
少なくとも、あの場で死んでいった者達が余りにも報われないではないか。

「私の決定に、納得が行かないか」
「当たり前です! 今すぐ諸葛亮と鳳統を捕らえに行くべきだ!
 それが、正しいことでしょう!?」
「朱儁殿、落ち着いてくれ」
「これが落ち着けるか! 皇甫嵩殿は黙っててくれないか!」
「……朱儁将軍、私は決定を覆すつもりはない」
「大将軍、何を言ってるんだ貴方は……」

信じられないと言う様子で、朱儁は首を左右に振りながら身を引いた。
普通に考えて在りえない答えだ。
何をどうすれば、彼女達をただ追放するだけという答えになるのだ。
そもそも、本来ならば朝敵として死罪が妥当だ。
その死罪を天代が『死よりも辛い生を』という言葉で捻じ曲げて生かしたこと、それに朱儁は胸中のモヤモヤを納得させて頷いた。
それを信じたというのに覆され、その上で何も罰を与えないまま追放など在りえない。
いや、在ってはならないではないか!
朱儁は、その眼に涙を浮かべて何進へと詰め寄った。

「ふざけるのは止してくれ! じゃあ俺はあの場で逝った部下達に、どう詫びれば良いんだ!
 あの戦場で散ってしまった多くの人々に、大将軍はなんて頭を下げるんだ!?
 頭がおかしくなってしまったのではないか!?」
「ええい、耳元で怒鳴るなっ! それに勘違いするんじゃないぞ。
 大将軍である者がおいそれと、兵卒に頭を下げはしないし出来ないのだ。
 戦場で逝ってしまった彼らの勇姿や心意気を称えることは良い!
 しかし、戦場で散って逝った命に自らの想いを抱えこんで、卑屈になってはいかんのだ!
 私情を切り離して泰然と構えているのが将軍というものだ、違うか!」
「話を交ぜ返すなっ、聞いているのは処遇の件だ!」
「先に戦場を持ち上げたのは朱儁殿だろうが。
 納得できぬのなら、正式な手続きを踏んでから糾弾しろ!
 私が自身の理で決めた物だ。 決定は覆さんぞ」
「お前……っ! くっ、皇甫嵩殿! 貴方も何で止めなかったんだっ!」
「……どちらの理も判ろう。 しかし、私には分からない。
 ただ、諸葛亮と鳳統の処遇はあまりに甘かったのではないかと思うが」
「甘い? 甘いだと!? 死罪で妥当な罪なのだぞ……あんたら、狂ってるんじゃないか……」

歯を剥いて血管を浮かばせる朱儁は、ともすれば今にも何進へと矛を向けるのではとさえ思われた。
皇甫嵩は、その可能性に思い至ると自然、腰にぶらさげた刀剣へ手が向く。
険しい顔で見詰め合う二人の均衡を打ち破ったのは、一人の兵であった。

「何進大将軍! 大将軍はおられますかっ!」
「……」
「……」
「大将軍! どこに居られますかっ!」
「ここだっ! どうした!」

朱儁と睨み合うのをやめて、声の方向に首を向けた何進が怒鳴るように尋ねると
兵は慌てた様子で室内に入って礼を取る。
そして、声を荒げた。

「じょ、上党に動きがありました! 黄巾の残党が、黄河を一斉に渡河しているようです―――っ!」
「何だと!?」
「黄巾党が? 何処へ向かっている」
「それが、その場で留まる者や下流に向かう者など、何処へ向かっているのかさっぱりで……
 この件で、すぐに来るようにと張譲様から―――」
「分かった、すぐに向かう!」

慌てた様子で部屋を飛び出した何進と、皇甫嵩。
遠ざかる慌しい足音に耳朶を響かせ、一人室内に残った朱儁は手近にある椅子へと
力抜けたように座り込むと、顔を歪ませて卓へ手を重ねる。

「……ぐっ……ううぅ、うおおぉぉおぉおおっ!」

朱儁の唸るような泣き声だけが、部屋に響いた。


―――・


幽州から都へ、足を向けたのがもう随分昔のことのようだ。
自らの志と共感し、義姉妹を誓い合った妹と共に目指した人に出会えて。
その出会えた人は、自分よりも確かに先を見据えて笑っていた。
そんな彼女は、ここへと歩いてくる最中に何度立ち止まりそうになったか。
その足を東へ向けて進める劉備を視界に映しながら後に続く。
言葉は無い。
ただ、天代から託されたという雌雄一対の二本の刀剣をぶら下げて、歩いている。
もともと持っていた靖王伝家は、洛陽に残したままだ。

関羽が振り返れば、見えるのは小さくなりつつある洛陽の街。
曹操と孫堅の会話から、自らの道と天代の道が重なった。
決意を聞いたあの時の劉備の顔は、関羽の感情を奮わせるに十分だった。
だというのに、支える暇もなく洛陽から一人去った天代に、どうしてこうなったのかを問いたい感情が膨れる。
勝手な言い分かもしれないが、対処のしようがあったのではないかと。
劉協や陳宮からも捨てられるようにして放り出されたのだ。
彼女達は、天代も同じように切り捨てた。
其処に、今も漢王朝の存続という志を掲げているのだろうか。
怪しいものだ。
少なくとも、関羽にとってはそう思うに足りる掌の返しようであった。

洛陽の都から視線を僅かに外した先に、張飛と歩調を合わせて歩く二人の少女に向ける。
天代が追い詰められた物の一つに、二人の刑罰が虚偽であったことが挙げられていた。
何故、彼女達は生かされているのだろう。
天代にとって、彼女達の生は必要だったのだろうか。
殺せ、という訳ではない。
性根が好ましいことは、付き合いから分かっているし事情も聞いた。
しかし、罪を誤魔化していたのは、やはり良くないことではないのかとも感じていたのだ。

「……あのさ」

背を向けて立ち止まっていた関羽に、劉備の声がかかる。
いや、それは彼女だけにかけられたのでは無いだろう。
振り返った関羽の視界に、一人ひとりを確認するように眺める劉備が、はるか先に見える邑のようなものを指差した。
今日の宿、ということだろうか。

「とりあえず、あそこに行こう」
「……はい」
「お腹すいたのだー」
「うん、食事もなんとかしないとね。 それで……そしたら、話があるんだ」
「……桃香様」
「ちゃんと、話さないと……その、これからの事とか」

そう言ったきり、踵を返して再び歩みを進める劉備に、関羽を含めた少女達は顔を見合わせた。
そして、誰もが『これから』に想いを馳せて。
結局、劉備が指し示した場所に辿りつくまで地を踏みしめる音だけが彼女達の間に流れていた。
すっかり陽が落ちて、夜風が出てきた頃。
しっかりと目視できる場所に来て、ようやく目指していた場所が邑ではなく屋敷であることに気付く。
いくつかの建物が並び、立派な石で出来た門と壁がそそり立ち、僅かに覗かせる木々が風に吹かれて揺れていた。
わざわざ洛陽を一望にできる、見下ろせるような場所に屋敷を立てているのだ。
官僚や宦官、或いは豪商などが用いている屋敷の可能性は高い。
声をかければ屋敷の中で働いている使用人だろうか。
妙齢の女性が一人現れて、劉備たちを見て首を傾げた。

「すみません、一夜で良いので宿を貸してもらえないでしょうか」

この要求に、女性は戸惑うように顔を顰めた。
暫く待ってもらうように言い渡されると、戸を閉めて誰かを呼びながら奥へと消えていく。

「……突然だし、だめかな?」
「食べられるなら何でもいいのだ……」
「飢えてるな」
「ほとんど何も食べてないんだもん、仕方ないよ……私も、実はちょっとね」
「白状すると……その、私もです」
「愛紗は良い格好しいなのだ」
「……鈴々」

お互いに空腹を暴露して苦笑ひとつ。
丁度、話が切れたところで先ほどの女性が、青年を伴って現れた。

「えーっと、劉備さんでしたか。
 今日戻られるとの話だったのですが、まだお館様が戻っていないんですよ。
 お優しい方なので、一夜くらいなら何とかなると思いますが」
「勝手に入れちゃったら、まずいですよね?」
「う、うーん」

腕を組んで首を捻り始めた時だった。
唸るような音が響いて、その場に静寂が訪れた。

「……」
「……」

全員が顔を見合わせる。

「誰?」
「私ではありません」
「鈴々でもないよ?」
「はわ、違いますよ……」
「あ、わ、私も違います……」

誰かの音が鳴ったのは間違いないが、誰も認めなかった。
それら一連の流れを見守っていた青年と女性は顔を見合わせてから、申し出た。
ちょっと言いづらそうに。

「あー……その、中に入れるのは難しいですが、俺達の賄いで良ければ差し上げますよ」

好意に甘えることになった劉備たちは、戻られるかも知れないという『お館様』を待つか
このまま野宿する場所を探すかで迷ったが、どっちにしろ駄目なら野宿になるということで
屋敷の主を、食事を取りながら待つことにした。
5人、輪になって豪勢とは間違っても言えない食事を囲む。
ちょっとした会話はあるものの、終始空気は重かった。
やがて、食べ終わろうかという時になって、洛陽方面から御者を乗せた馬車が姿を見せる。

「あ、あれかな?」
「おそらく」

鶏の肉が僅かに入った受け皿をちゃっかりと手に持って立ち上がった劉備と関羽。
その二人の視線と、御者に何事かを話されて馬車の中からひょっこりと顔を出す『お館様』
関羽はともかく、劉備にはその顔に見覚えがあった。

「そ、曹騰様?」
「あぁ? 人の屋敷の前で何やってんだお前?」


―――・


この屋敷は曹騰が個人的に所有しているものだったらしい。
洛陽を一望できるこの場所に、館を立てたのは随分と前。
別邸として利用していたようで、基本的に宦官として勤めていた為に利用する事は少なかったが
余生を過ごすのに、丁度良いと思っていたそうだ。
劉備が案内に従って部屋へ入ると、彼女の目に何本もの桃の木が飛び込んでくる。
昼間に見れば、きっと壮観な景色なのだろう。
そんな風情ある庭が見える室内に通された劉備たちが事情を説明すると、一夜くらいなら構わないと快諾してくれた。

「一宿一飯の恩、絶対に忘れません! ありがとうございます、曹騰様……本当に助かりました」
「あぁ、別に何日居ようとかまやしねぇさ。 金には困ってねぇから」
「感謝します」
「お爺ちゃんありがとなのだ」
「「あ、ありがとうございます……」」
「っ……わぁーったから、鸚鵡みたいに繰り返すんじゃねぇよ」
「あー、照れてるのだ!」
「馬鹿野朗、照れてねぇよ、呆れてんだ」
「鈴々は野朗じゃないのだ」
「あー、そりゃ悪かったなお嬢様」

ぶすっと引きつった顔で―――実際、半身引いていた―――手を振りながら、曹騰は言い放つと立ち上がり
床を用意する間、この部屋を自由に使って良い旨を残して中座した。
劉備は、戸を閉めて見えなくなった曹騰にもう一度頭を下げてから
全員が見渡せるような場所まで、座ったまま移動した。

「みんなに、話があるの」

そうして上げた劉備の顔は、陰りの無い精悍なものだった。
怪訝な顔を向ける関羽と鈴々。
対照的に、諸葛亮と鳳統はその劉備の顔を見てお互いに視線を合わせる。
恐らく、何がしかの予想がついているのだろうか。
自分の勉強を見守ってくれた二人の聡明な少女には、自分が何を考えているのか分かっているのかもしれない。
劉備はしばしの間を置いてから切り出した。

「私、一刀様を取り返したい」
「本気で、言ってるんですか桃香様」
「うん、本気だよ。 洛陽に戻って、一刀様を捨てた人たちを追い出して、漢王朝を守りたい」
「桃香様……その、それは……」

彼女の意思に、返したのは朱里であった。
彼女の宣言は実に至難だ。
まず、劉備の今の立場は天代の部下であったと、何進に問い詰められた場でそれを認めた。
それも、強要されてなどではなく、自ら言葉にしてしまったことだ。
朱里と雛里は、張譲たちが貶めた一刀をあの場で殺さなかったのは、風評であることを知っていた。
人知れずに排除し、後に在ること無いことを並べ立てて天代の風評を地に落とすことは眼に見えている。
その時に、一刀側に付いて洛陽を飛び出した劉備のことも触れられるだろう。
そもそも、一刀を支えるように宮内のあちらこちらに顔を見せた劉備では、証言できる人間が多すぎて
仕立てられるだろう悪意を覆すことは出来ない。
ついでに言えば、劉備の傍には賊将とされている諸葛亮と鳳統も、今は居る。
決して不可能とは言わないが、可能と言うには妄言に等しかった。

何よりも、劉備が言ったことは一刀が生きていることが前提である。

「桃香様、お考え直しをして下さい。 もはや天代を支えることは無意味です」
「愛紗ちゃん、無意味じゃないよ……今の漢王朝が在るのは一刀様が居たから。
 追い出されちゃったこれからは、少し乱れるかもしれない。
 このまま一刀様が亡くなったら、音々音ちゃんや朱里ちゃん達が言ってたように乱世を迎えるのかも知れない。
 でも、まだ時間はあるでしょ?
 漢王朝が亡くなるその時が来るまで、私は諦めたくない」
「あ、あのっ!」

言葉尻を捕らえて、声をあげたのは雛里だった。

「し、失礼を承知で申し上げます……桃香様は、一刀様が……その、一刀様に、恋心を抱いていたはずです。
 そ、それで視界が曇っていると思います……余りに、現実を見て、いま……せん」
「……はわわ……雛里ちゃん、あ」

途中、言葉を切れさせながらも突き放すように言い切った鳳統は、帽子を目深に被りなおして俯いた。
そんな鳳統の心理を、諸葛亮は察してしまう。
今言ったことは劉備に至難であることを、釘を刺すように言うと共に
付いていけないと考えを述べることで、『劉備』の下から去る土壌を築いた。
劉備が諦めないと断じたことで、負い目や急所になる『賊将』となった自分を遠ざける為の
もっともな理由を作り出したのである。

「……と、桃香様。 私も雛里ちゃんの言うことが正しいと思います……」
「うん……そうだね」

察した故に追随した諸葛亮だが、劉備は反論することなく認めて頷いた。
それは、意外なことであった。
無理だから現実を見ろ、などと人に言われれば、反論をしたくなるのが人間というものだ。
少しでも負けん気の強い人ならば、間髪要れずに怒ってもおかしくない。
それが、目下の人間となれば尚更だ。
だというのに、劉備は自らが現実を見ていないことを認めた。

「だから、これは私の決意だよ。 誰にも強要なんてしない。
 今、自分の立場が何処に在るのかってことは、ちゃんと分かってる。
 よく、見失っちゃうけど……」

言いながら、劉備は自らの腰にぶら下げた雌雄一対の二振りの剣に手を当てた。

「今の私が何をできるのか、洛陽から歩いてここに来るまでずっと考えていたの。
 一刀様のことを認めて追放された私。 本当は違うのに、朱里ちゃんと雛里ちゃんは罪人のまま。
 何が、できるかな?」
「……そ、それは」
「うん、分からないよね。 私も色んなこと頭に浮かんできたけど、全部無理だと思ったの。
 こんな考え方じゃ駄目だって。 せっかく託してくれた一刀様の想いが果たせなくなるって。
 それでね、難しいの考えるのはやめて、もっと簡単に考えようって」

劉備のあまりに繋がらない言葉に、関羽達は顔を見合わせて困惑していた。
もともと興味なさそうにしていた張飛も、雰囲気に合わせているのか全員の顔を見回している。

「ここで曹騰様に会えたのは、私にとっての天運かも知れない」
「桃香様、その、仰ることがよく……」
「あ、ごめんね、順序だてて説明するよ」

つまり、桃香の考えはこうであった。
一刀が生きていることは、前提である。
その一刀が洛陽に戻るにはどうすればいいのかを、まず考えたのだ。
それはすぐに答えが出た、追い出した者達よりも権力のある者に戻ることを認めてもらえば良い。
認めてもらうにはどうすればいいのか。

「さっきね、一刀様が居なくなったら乱が起きるかもしれないって言ったけど……
 あのまま居ても結局起きるかもしれないんだよね?」

尋ねられた関羽は曖昧に頷いた。
同じように、雛里も同意の意を返す。
大陸の情勢を一刀や目の前の劉備から小耳に挟んでいるので、この劉備の予測は余り間違っていないと言えた。
先に在った洛陽の戦は、主に農民達の鬱憤が爆発した形となって乱に至った。
それに呼応するように蜂起した黄巾党は、今でこそ鳴りを潜めているものの、何時、また爆発するのか分かったものではない。
完全蜂起に至らない理由は、一刀の功績からだ。
とはいえ、それが何時まで抑止力として働くかは分からない。
激烈な志に動かされれば、抑止力にもならない可能性すらあるのだ。

「だから……本当は、絶対駄目なんだけど……けど、漢王朝を本当に立て直す為なら」

そして、劉備は言った。

「この乱が、漢王朝を存続させる為に必要だと割り切る」
「―――なっ!」
「桃香おねえちゃん!?」
「そんな、桃香様! 何を言ってるんです!」
「だって! 私達が手っ取り早く成り上がるにはこれしかないものっ!」

思わず立ち上がって声を荒げた関羽に負けないくらいに大声をあげて、劉備は静かに立った。

「桃香様! 嘘だと言って下さい! 乱を歓迎するなんて、貴女を見誤っただなんて、私は思いたくない!」
「愛紗ちゃん、私は大真面目だよ。
 私や朱里ちゃん、雛里ちゃん……罪人になってる私達が漢王朝に戻る方法は、現状に於いて武功をあげること。
 それ以外では不可能だと思うの」
「それは、桃香様や朱里達の事情です! 民を巻き込んで良い道理がありません!」
「じゃあ愛紗ちゃんは、結局起きてしまうかも知れない戦乱を見ているだけで我慢できる!?」
「っ、そ、それは……」

それは出来るはずもない。
まさに、乱れる大陸に否を掲げて郷里を飛び出してきたのだ。
関羽にとって、劉備が起こりうるかも知れない戦乱を受け入れたことも
劉備が戦を利用して立ちあがると決意したのを非ずと断じ、苦しむことになるだろう民達を見ているだけなのも嫌だった。
個人の武だけでは、どうにもならないと嘆いて劉備に縋ったのは自分だ。

「愛紗ちゃん、私って出来の悪い生徒だったんだ……」
「……っ」
「だから、これくらいしか思いつかなかったの」
「あ、あの……」
「なに? 朱里ちゃん」
「あの、桃香様は成り上がると仰いましたが……」
「うん……今の私は成りあがる為の武器がないよね……」

そう、劉備が持つのは今この場に居る全員。
それが彼女の全てだ。
しかも、関羽や鳳統には愛想を尽かされている節さえ見える。
いや……愛想を尽かされているというよりも、酷い戸惑いの中に感情を揺さぶられているのだろう。
洛陽を出てすぐに東を向いて歩き出した劉備と同じように。

「だからね、曹騰さんに会えたのは天運かもって思ったの」

この屋敷の規模から見ても、宦官である曹騰はかなりのお金持ちであることが分かる。
彼は曹操の祖父だというから、孫堅との会話で判断する限り、これから漢王朝を切り捨てて立ち上がるだろう曹操の支援をすることになるのだろう。
漢王朝存続を掲げる劉備が、曹騰に直接頼ることは出来ない。
こうして自分達を暖かく受け入れてくれた曹騰に、妙な疑いやシコリを残す訳にはいかないからだ。
しかし、宦官である曹騰ともなれば、豪商の一人や二人に知り合いは居るはずである。

「と、桃香様の考えが読めました……義勇兵ですね」
「うん、雛里ちゃんさすがだね。 簡単に読まれちゃった」
「いえ……でも、なるほど……」

豪商に自分達を買ってもらい、糧食と武器、そして兵を揃えてもらうのだ。
この義勇兵で持って、戦乱の中に飛び込むと劉備は言っている。
もちろん、朝廷側に属してである。
武功というのは、眼に見える分だけ上げてしまえば誤魔化しが効かない。
勿論、横取りされることも考えられるが官軍の中には信頼できそうな将に何人か心当たりが在る。
目覚しい戦功をあげれば、罪を覆して返り咲く可能性は、ある。

「……それに、起きてしまう乱ならば、見ているだけなんて私も嫌。
 苦しむ人が居るのに、手を差し伸べられないなんて悔しすぎるもん。
 それがね、私が乱を受け入れる理由だよ、愛紗ちゃん」
「乱が……乱が起きなければどうするのです」
「それは、うーん……どうしよっか?」
「……っ、考えていませんでしたか」
「うん……その時は困っちゃうね……どうやって洛陽に罪を清算して戻ればいいのか、分からないの」

皮肉な話だと、関羽は歯噛みした。
最も乱を嫌う劉備や自分が、その乱を利用しなければ清廉であることを証明できないとは。
胸中に、悔しさと情けなさが渦巻いて関羽は震えた。
その震えて、握り締められた関羽の手に劉備の手が重なった。

「愛紗ちゃん。 それに、みんなも……私が目指す道は、今話したものが全部。
 たとえ一刀様が死んじゃったとしても、次に繋がる道……そう思うから。
 でも、だからこそ、この道は剣山の上を綱渡りするように厳しくて、一度進んだら引き返せない道だと思う。
 最初に言った様にみんなに強要なんてしないし、出来ないよ」
「桃香様……」
「愛紗ちゃんも鈴々ちゃんも……もちろん朱里ちゃんも雛里ちゃんもね。 
 もし、私に付いていけないなら、それはそれで良い。
 曹操様や、孫堅様なら、みんなの武才や知略に惹かれて受け入れて貰えると思う。
 肩身は、狭いかもしれないけど……でも、そうなったら私も手伝うし応援する。
 だから、明日……」

言って、劉備は歩いて戸を開いた。
そこには、来たばかりに感じ入った桃の木が林立している。
その中でも一番大きな桃の木を指差して、劉備は全員をぐるり見回してから口を開いた。

「明日までに、自分の道に答えを出して。
 私に付いてきてくれるなら……明日の夕方までに、あの桃の木の下へ」
「……」
「……」

「私の話は……それだけ」

沈黙が降りた室内、話を閉めるように言って劉備はその場に座り込んだ。
そんな劉備にしばし視線を向けた関羽は、逸らすように首を振ると部屋の隅へと移動した。
その関羽の後をついていくのは張飛だ。

自分の道を選んで欲しい。
劉備に問われた全員が、床の準備が終わって曹騰に案内されるまで。
無言の時を過ごすことになった。


―――・


雲の隙間から顔を出して、地に葉の影を形作る。
すっかりと実をつけた桃の香りが漂う林木の中、劉備は木漏れ日に身を預けて立っていた。
地に刺さる、雌雄一対の剣を眺めて。
夜が明けても眠れなかった劉備は、朝からこの場所に居る。
全員の前で指し示した、いっとう大きな桃の木の下に。
一刀が生きているかどうかさえも分からない。
劉協や音々音が、自分達のことを完全に見捨てていないとも限らない。
曹騰が協力してくれるのも、果たしてどうだろうか。
昨日は関羽の荒げる声に負けないようにと、些か熱が篭って話してしまったのも認めている。
改めて考えてみれば、深く思い起こさなくても、前提からして劉備の言うことは希望的観測の方が多い。

地に足をつけていなければ、理想は語れない。
それを聞いたのは一刀からだったか、それとも諸侯の方だったか。
教鞭に立つ一刀達と諸侯の間で響いたその言葉は、誰の者であったか分からないが
劉備の心に大きく衝撃を与えたものであった。
現状を見つめ、なおかつ劉備の理想を目指す道を昨日は関羽達の前で感情交えて曝け出した。
不安だ。
ともすれば、その不安に押しつぶされそうなくらい怖い。
誰もが勝手にしろと、劉備を放り出しておかしくない道だ。

「……」

目の前に刺さる、一刀から託されたという剣を見る。
一刀は何を想って劉備へとこれを託したのだろうか。
劉備の勝手な想像かもしれないし、全然違うことなのかもしれない。
しかし、自分が自棄にならずにもう一度立ち上がれた切っ掛けになったこの剣には
一刀の想いが詰まっていると勝手に解釈した。
そう。
自らが倒れた時には、劉備に後事を託すと。
一刀が目指していた道を隣で一緒に見つめてきた。
いつも彼は、自分が理想に向かって出来ることを一つ、一つ積み重ねていたように思える。
きっと簡単に見える一つの積み重ねに、多くの苦労を背負って。
例え、一刀が倒れても、志を積み重ね続けられる自分がいる。
そう思うのは、自惚れかも知れないし一刀が聞けば笑われてしまうかも知れないが……

ろくに眠らずに、今まで何度となく思考の渦に捉えられては沈み込み、立ち上がりを繰り返していた劉備は
いつしか木漏れ日の中で、膝を抱え込んだままうたた寝を始めた。
徐々に傾きを変える陽に差され。
踏みしめた落葉の音に起こされたのは、浅き夢を見ている時であった。
こちらへ向かう地を蹴る音に、ハッと首を挙げると視界には、手を背で組んで歩く曹騰の姿が映る。

「おう、桃の木の下で昼寝とはまぁ、優雅じゃねぇか」
「曹騰……さん……」
「わしの顔を見てがっかりするない、傷つくわ」
「あ、いえっ……その、すみません」
「はっはっは、冗談だ。 飯も食わずに居るからな、様子を見に来たのよ」

言われて、劉備は自身の空腹に思いだして、自然と手が腹に向かう。
朝も昼も抜いてこの場に居たのだ。
言われると急に、食事を取りたくなってしまった。

「ほれ、飯よ」
「あ」

後ろで手を組んでいたのではなく、盆に載せられた食事を運んできてくれていたのだろう。
劉備の前にしゃがみ込んで、煮込み料理のようなものが入った器を差し出され手で受け取る。
同時に、盆に載せられた酒瓶を曹騰は手に取って持ち上げた。

「こいつはわしのだ」
「……ありがとうございます」
「まぁ、もう無いんだがな」
「へ?」

劉備の膝元に置かれた盆へと、酒瓶をコトリと音を立てて置いて曹騰は立ち上がった。

「ま、頑張れ。 夜になったら戻って来いよ」
「あ、はい……あのっ!」

背を向けて歩き出した曹騰を呼び止めて、劉備は立ち上がった。
彼はただの散歩だったのだろうか。
ついでに劉備の食事のことを思い出して、わざわざ届けに来たのだろうか。
そうとは思えなかった。

「あの、昨日の夜の話、聞いてましたか?」
「あぁ? なんの話だ?」
「それは……私とか、愛紗ちゃんのこととか……」
「さぁてな、それより早く食わんと冷めるぞ」

言って踵を返すと、桃の木につけた実りを眺めながらゆっくりと遠ざかる。
自らの手に乗った食事を見つめ、しばしの間を置いてから盆に載せられた食器を手に取り食べ始めた。
暖かく、塩の入ったスープが口の中に広がって染み入る。
季節は夏だが、不思議とこの温かみは嫌ではなかった。
思っていたよりも、肉体は正直なのだろう。
ほとんど時間を要さずに平らげると、曹騰の置いていった酒瓶が目に入る。

「喉渇いちゃった……本当にもう無いのかな」

手に取って、蓋を開けるとやはり飲み干してしまった後のようで
酒瓶を逆さにして振っても、一滴すら地に落ちずに劉備は肩を落とした。
飲み水も一緒に用意して欲しかったな、と勝手な事を思いながら盆に戻そうと伸ばした手に
酒瓶から飛び出す白い物を見つけて、きょとんとする。
一体何が入っているのか。
白い物を掴んで引き出すと、そこには曹騰の字であろう。
綺麗に整った文体に顔に似合わぬ美しい文字が躍り、誰かへ宛てた手紙のような物は、劉備を紹介するものであった。
奇しくも、宛てた人物の居場所は劉備の故郷でもある幽州。
最初の一歩は、郷里から始まることになりそうである。

「……っ」

理解に至ると同時に曹騰が去っていった方角へと慌てて首を向ける。
何時の間にか、桃を眺めていら曹騰の姿は消えていた。
昨日のことを、彼は聞いていた……いや、聞こえていたのだろう。
そういえば、途中から大声で関羽と話していた気がする。

「あ、ありがとうございます……っ」

きっといつか、この恩を返しに来る。
そう胸中で礼を言いながら、誰も居ない場所へと劉備は頭を下げ続けた。




細く細く伸びた木の陰が、やがて黒い染みとなって広がり、ついにその姿を溶け込ませる。
林立する桃の木の中、劉備は天を仰いで空を見上げていた。
すっかりと沈んだ陽を見つめ、見上げた空には星が彩りを加え天を賑わしている。

「陽、暮れちゃったな……」

考えられたことだ。
誰が好んで、至難の道に入ることを是としようか。
少なくとも、曹騰から次に繋がる道を用意されたのだ。
泣き言は言えない。
地に足をつけて考えて、導き出した道に劉備だけしかできると思えなかった。
その事実だけを認めなくてはならない。
そう、だからこそ、尋常ならざる事を成そうとしている自分が落ち込んでなどいられないのだ。
もはや、地を見て俯いている暇など無いのだから。

雌雄一対の剣を引き抜いて、鞘へと収めて腰にぶらさげると
曹騰の持ってきてくれたお盆を持って、劉備は今日一日、軒先を貸してくれた桃の木の下に礼を一つ。
意趣返しに、酒瓶の中には感謝を込めた紙片を入れておいた。
今日の夜、気がつくかどうかは分からないが、いつかはきっと気付いて驚くことだろう。

ああ。
気合を入れねば。
母に渡された、靖王伝家も洛陽に預けっぱなしなのだから。

「負けるなっ! 劉玄徳っ!」

自らを叱咤するように踵を返して歩き始める。
そうして、庭の桃園を抜けた彼女はしかし。
すぐにその歩みを止めることになった。

桃園から屋敷へと戻る道に、4人の少女が一列に並び、両の手を合わせて劉備へと礼を取っていたからだ。

「え……」
「桃香様、この場に遅れたことを代表して詫びさせてもらいます」
「な、なんで……」
「鈴々は、難しいことはよく分からないけど、付いて行くことは決めてたのだ」
「で、でも…」
「一刀様に示された道、それと重なる道に至った桃香様を私は支えたいです」
「朱里ちゃん……」
「きっと、死んでなんかいません……桃香様と一緒に……一刀様を、取り戻したい、です……」
「うん……うんっ!」

一人ひとり、自らの声を挙げて、劉備へと意志を伝えていく。

「桃香様、私は貴女を支えたい。 一刀様が居なくなったことを受けて誰を放り出すでもなく
 誰に言われるでもなく、現状を見据えて立ち上がった桃香様の志に、我が全てを賭けたいと思います」
「いいの……? 愛紗ちゃん」
「はい、桃香様の立ち上げる義勇軍ではなく諸侯の下に付いても、民を守れることはきっと変わりません。
 しかし、私は桃香様も朱里も雛里も、守ってあげたい。
 そう思ってしまったのです……桃香様」
「う、うん……」
「天代が描いた天に重なる貴女の見る天を、私にも見せてください」

関羽からのこの言葉を受けて、劉備はついにその顔を歪めて天を仰いだ。
自分一人でも一刀の志を受け継いで見せる、そう気を入れたばかりにいっそう堪えてしまった。
視界に映る星のきらめきは、先ほどと違ってぼやけているのにやたらと明るい。

「我が名は関雲長! 真名は愛紗。 桃香様、お受け取り下さい」
「鈴々は鈴々なのだ!」
「我が名は諸葛亮。 真名は朱里。 桃香様、よろしくお願いします」
「我が名は鳳統です。 真名は雛里です。 受け取ってください」

「……我が名は劉備……劉、玄徳ですっ。 真名は桃香……お願い、みんなの、みんなの力を貸してくださいっ!」
「「「「はっ!」」」」

改めて交換した真名を預けあったその夜。
たった五人だけでの勇躍を望む宴が桃園で開かれた。
劉備、関羽、張飛の三人は、この時に義姉妹の誓いを交わしたと言われている。

そして、翌日。
出立する劉備を見送った曹騰は、劉備を見てこう残していた。

「意気は天に昇る勢いで、その相貌は精悍。 ただ居るだけで胸の高鳴りを感じたのは曹操以来である」 と。


      ■ 西へ


小高い山岳を抜けた先には、草木が目立つようになり、さらに進めば木々が視界を覆う森の中へと変わっていく。
実に二日もの間、一刀はひたすらに西へと進路を取っていた。
こうして足を止めずに金獅と共に走り続けるのも、全ては背後から迫る蹇碩からの追っ手が故だった。
もちろん、途中で隙を見ては休憩を入れているが、長くても2時間は越えていないだろう。
こうして、草原から森に地形が変わっていったのは幸いだ。
開けた場所では、休憩を取るにしても隠れるに不便であった。

「黄河が近いな」
『水ももう無い』
(そうだね……川沿いの方が良いかも)
『ああ』

食事も洛陽を出た時に持ってきた乾燥食が僅かにあるだけだった。
休息もそうだが、エネルギーの補給も考えなければならない。
その点でも、森に入れたの嬉しい一刀である。
本体の知識だけではどうにもらないが、サバイバルに関して“南の”の知識は豊富であった。
もともと、南蛮に落とされた彼は自給自足しなければ生きていける環境に無かった。
森は、生きるに足る多くの恵みが在るとは彼の言葉だ。

本体の身体を“肉の”が動かし水の音を頼りに金獅を走らせる。
腹部に大きな裂傷がある為、“肉の”以外ではまともに身体を動かせられなかったせいだ。
彼の意識が落ちている間は、全員が交代で痛みに耐えている。

森が連なって、ついに山林へと姿を変えた時だった。
周囲を警戒するように、しかしスピードを緩める事無く木々を避けながら傾斜を上りきったところで馬上が揺れる。
突然の変化に、一刀は驚きながらも手綱を引っ張るが、その手応えの無さに異変を感じ取った。
絞り、足を止めようとするもそのまま転がるように荒い息を吐いて金獅が倒れこむ。

『ああっ』
『金獅っ』

中空に放り出された“肉の”は、器用に姿勢を整えると、木々の一本を掴んで勢いを殺して着地した。
すぐさま倒れこんだまま荒い息を吐き出す金獅を覗き込む。

「どう?」
『心肺か?』
『違う、口唇の粘膜が渇いてる。 脱水症状だ』
『この暑さだ。 俺達だって意識はともかく、身体は疲労している』
(どっちにしろ金獅をこのままになんてしておけない。 水を持ってこよう)
『竹があれば、水筒になるから』
『後、日陰に連れて行かないと。 馬も人間も、対処は変わらないそうだし』
『なるほど』
「わかった」

一刀は金獅を抱え上げて、雷か何かで打たれたのだろうか。
大きな倒木を見つけると、その陰に金獅を横たわらせる。
二度、三度、その顔を撫でて立ち上がり、水を得る為の水筒を作るために竹を探し始めた。
途中、“肉の”の意識が何度か落ちて、強制的に休憩を数回取るはめになったが
ほどなく竹は手に入った。
後は、水を汲むだけであったのだが。

『日照り続きのせいか、雨水がないな』
『黄河から手に入れるしか……』
『降りるしかないか』

そう、降りるしかないのだが、丁度この山からも山水が川へと流れているのか
黄河の水を汲むには崖のような場所を降りていかなくてはならなかった。
これが、もう少し下流であれば生身で降りれたかもしれないが、周囲を見渡しても足場になりそうな所が
ちらほらと散見できるくらいで、とても人の足では降りれそうにない。
都合よく獣道があるわけでもなく、一刀は周囲をぐるりと見回した。
使えそうな物は、木々の上から垂れ下がるツルくらいだった。

『強度は足りるよね』
『うん、細すぎなければ大丈夫』

折れた“†十二刃音鳴・改†”を腰から引き抜いて、一刀は刀身の柄でツルを鋸の要領で切り始める。
ちなみに、この刀身の柄に空いた穴は布で塞いでいる。
馬にのって走ると、ぴーひゃららと情けない音を奏でて追っ手に存在を知らせてしまっていたからだ。
正直、捨ててしまおうかとも思ったのだが、今や持っている武器と呼べそうな物はこれだけである。
こうして役に立ったことを考えれば、捨てずに正解だったのだろう。
長く切り取ったツルを結び合わせ、しっかりと腰に巻きつけて見える木々の中でも胴回りが一番太い樹木に固定すると
一刀は崖から飛び出して、時に切り立った壁面を蹴り、20メートルはあろうかという谷を降った。
慣れない動作だからか、一度手を滑らせて、背中を打ってしまったが痛みは特にない。
用意した竹の水筒5本、全てに水を満たすと、“肉の”を休ませて交代した。

「う……っ」
『これで水の確保はでき―――』
『おい、どうした』
『“白の”』

入れ替わった“白の”は、一つ呻くと一刀の身体がぐらりと揺れて
勢いあまり、川の中へ身を投げ出しそうになる。
丸みを帯びた川石に手をついて、ダイブするのは防げたが、声をかけられた“白の”から返答は無い。
そのかわりに、腹部からの傷が開いたか赤い斑点を描き出していた。
身体の方にも随分、ガタが来ている。
“肉の”が普通に動いてるせいで、気付くのが遅れたのもあるが
そろそろ本格的な睡眠や食事を取らないと、動けなくなるかもしれなかった。
ただ、不安ではある。
ここしばらくは官軍に気付かれてはいないものの、一刀の方から姿を確認する場面が何度かあった。

『気付かれないかな』
『……2時間くらいなら、多分』
(官軍を見ていない時間がそのくらいだから、2時間なら大丈夫かな)
『金獅が動けるようにならないと、どっちにしろ無理だしね……』
「とりあえず、戻って寝ようか」
『……っ、さ、賛成だ』

戻ってきた“白の”声に全員が頷いて、金獅の下にまで戻ると顎を持ち上げさせて無理やり水分を取らせる。
更に、自らの口に水を含み、霧状に吐き出すように吹き付けて馬体を冷やした。
軽度の脱水症状なら、これで暫し安静にしていれば復活するはずだ。
どちらにしろ、金獅が走れなければ一刀も蹇碩が出しただろう追っ手を撒けない。
追っ手が負けなければ、人が居る邑に入ることも出来ない。
金獅の症状が軽いことを願うしかない。

一刀自身も、作った水筒の中身を一本丸々飲み干すと、金獅の腹を枕にして身体を休めた。
考えることは山ほどあるが、自然に思考は白くなってほどなく睡眠に至った。
そしてそれは、限界を迎えつつある身体の悲鳴ゆえか。
他の原因か、分からないが一刀全員の意識を落とすことになった。


―――・


一匹の猫が、森の中から顔を出した。
金獅に身を預けて眠る一刀をしばらく刺すように見て、観察を済ませると
“意識”が落ちているのを確認したのか、地に赤い色を滲ませ、一定の呼吸を刻む一刀の目の前へと向かって歩く。
どういうことか。
その姿は次第に一匹の猫から、一刀へ近づくに連れて人の形りを為していく。
目の前に立つ頃には、完全に人の姿を取り戻していた。

木漏れ日の中で生える明るいベージュの髪は短く切り揃えられ、額には赤く何かの印紋が刻まれていた。
夏であるというのに黒白の外套を身に纏い、見える肌は手だけという格好であった。
吹いても居ないのに風は靡き、“彼”の足元に旋風を形成している。
その男の表情は険しく、その背から立ち上る鬼気には殺意が激しく渦巻いていた。

「北郷一刀……」

一つ呟くと、拳を開き、握る。
その両の手から、大気を震わせて骨の音が鳴り響いた。
彼の名は左慈。
数多の外史を渡り歩いて来た彼は、基点となって無限に広がりを見せた一刀に尋常ならざる怨恨を抱いていた。
ある時、彼は北郷一刀を外史から抹消することに成功した。
ある時、彼は北郷一刀を前に、苦渋を味わうことになった。
そして今、目の前に外史を無限に広げた憎き男が、無防備とも言える状態でその身を晒している。

「……この外史でなければ、その首を刈り取ってやったものを……」
「居たぞ!」
「こっちだ!」
「……」

馬に跨って左慈の立つ前に居る一刀へ声をあげたのは、蹇碩の追っ手である官軍であった。
慌しく馬蹄の音を響かせて、一直線にこちらへ向かってくる。
やがて、眼を覚まさぬ一刀と、呆然と立ち尽くしているように見える左慈の前で下馬すると彼らは声をあげた。

「貴様は何者だ。 そいつから離れろ」
「一緒に殺されたくなかったら、三歩下がるんだ」
「……干吉め、使えん」

忠告が聞こえているのか、聞こえていないのか。
無視して一つ呟くと、左慈は官軍の兵に向き直った。
兵達は顔を見合わせて左慈を何度か見返すと、おもむろに左慈が上へ挙げた手に視線を向ける。
次の瞬間には、彼らの頬の当たりから上が中空へ浮かび、視線だけが左慈の手の高度に追いついた。

「……」
「……」

ドサリ、と無言で二人の兵の身体は倒れこみ、やや遅れて鼻から上だけになった二つの顔が地に落ちて転げた。

「目的を成せねば、この俺が縊り殺してやる」

肩越しに振り向いて、左慈は意識の無いだろう一刀に告げると地に唾を吐きかけて踵を返した。
近づいた時と同様に、一刀から離れるごとにその身を猫の姿へと変えていく。

左慈が森の中から消えると時を同じくして、官軍の兵と馬はまるで最初から居なかったかのように
その姿を消失させて、一刀と金獅の呼吸だけがこの場を奏でる音となった。



一刀に放たれた追っ手は、これを最後に潰えることになる。
北郷一刀を追うことに躍起になっていた蹇碩は、呂布に討たれてその命を落としたという。
その翌日、黄巾党が上党から動きを見せて、何進が呼ばれると時を同じくして
中国後漢、第12代皇帝 劉宏が崩御した。

この帝の崩御は、瞬く間に大陸全土へと知られることになり
直後、韓遂と辺章を中心にした漢王朝への反乱が、涼州で立ち上がる。
これに呼応するように、黄河から渡河をし始めて激しい動きを見せていた黄巾残党が
一気に蜂起を重ねて洛陽ではなく陳留へとその兵馬を向かわせて殺到した。


大陸に、再び動乱の時が訪れようとしていた。



      ■ 外史終了……



左慈が森を出てすぐに、一匹のしなやかな肢体を持つ黒い猫が彼の隣へと、木から滑り落ちた。
白と黒の斑点模様を描く左慈の顔が、僅かに歪む。

「干吉、人形の邪魔が入ったぞ」
「それは申し訳ない。 左慈が余りにも素早く北郷の下に向かうものですから」
「チッ……で、なんだ」

黒猫の顔が、ニンマリと笑みを作った。

「左慈。 洛陽では随分と楽しんで喘ぎ声をあげていたようで」
「やはり貴様かっ! 奴から逃れようとして妙な強制力に離れられなかったのは!
 あの一時間余りの屈辱は、もはや誰にも分かるまい!」
「おや、なんのことですか。 ふっふ、まったく、妬けますねぇ」
「っ、殺してやるっ!」
「おおっと、こわいこわい」

それは、殺伐とした雰囲気であったが
傍から見れば猫同士が木漏れ日の中でじゃれあう和やかな雰囲気であったという。


      ■ 外史終了 ■





[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編1
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/31 21:49
clear!!         ~「ひとよ」の交叉に薄影の果てぬ夢を見て、種馬は駆け抜けるよ編4~



clear!!         ~見据えた道は桃仙から西へ伸び、大陸は揺られ始めたよ編~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編1~☆☆☆







      ■ 無意識下の夢


いつか見た景色だった。
荒野の中で馬に跨って前を歩く一人の少女。
ただ漫然と見ていた風景を捨てて、いつしか必死にその背を見つめて追いかけた。
その後姿は今まで出会ったどんな物よりも大切で、どんな物よりも価値があって。
そして、何時しか、愛しさに溢れた。
自らの境遇が大きな変遍を迎えた時、事情や経緯はどうであれ迎え入れてくれたこと。
命と等しいくらいに、大切な名を預けてくれたこと。
隣に居ることを許してくれたこと。
生き方を、教えてくれたこと……
思い出そうとしなくたって脳裏に浮かぶ、多くの思い出と大切な記憶。
もはや、彼女の存在は自分にとって失えば立ち直れない物となっていたと思う。

追っている少女が振り返って、一刀はその足を止めた。
そして、何事か囁くように。
その口を僅かに動かして、こちらへと向かってその手と顔を伸ばしてくる。
なんということだろう。
彼女の方から求めてくれることが、こんなにも嬉しいとは。
愛してる……いや、このような言葉すら無用な物に思えてくる。
今、確かに一刀と彼女は心で繋がっていた。
一刀は自分を求めるように差し出された手を払うことなく、そして、愛しい人の名を呼んだのだ。

『―――華琳
 ―――雪蓮
 ―――桃香
 ―――愛紗
 ―――美羽
 ―――麗羽
 ―――月
 ―――美以
 ―――翠
 ―――白蓮』


『―――貂蝉』
『『『『『『『『『「うわぁ"あぁぁ"ぁ"あぁぁあ"ぁああ"ぁ」』』』』』』』』』


愛しい人の名を呼んで、一刀は泣き叫びながら彼女を受け入れていた。
気が付けば、彼女は一糸纏う事無くその身を晒している。
美しい。
まるで女神、もしくは汚物だ。
一刀は引きつった笑みを浮かべつつ、自分の持つあらぬ限りの賛美と罵倒を彼女達へ贈っていた。
彼女は語彙が少ないと一刀を責めて。
彼女は純粋に喜色満面の笑みを浮かべて。
そして、彼女は怒り狂っていた。

何とか宥めることに成功し、じゃれあいもそこそこに、彼女はついに一刀へと向けて目を瞑った。
そして、差し出すようにその顎を上げたのである。
こんな幸せがあろうか。
自らが最も大好きで、愛していると恥ずかしげなく言える彼女と重なる一時。

そんな至福な一時だというのに、洞窟の中でクリーチャーと相対した時のように一刀は身構えて必死に抵抗していた。
自らの唇を奪われまいと、片手を前に出して彼女の顔をグリグリと押さえつけつつ
抱き締めようとしてもう一方の手を背中へと回す。
愛しい彼女の顔が押し付けられた一刀の手によって歪んだ。
その上、腰を前後に動かしながら、両足を前に突き出して必死に接近しながらを接触を防いでいた。
当然、そんなことをされれば自分を愛してくれている筈の彼女も怒る。
というか、誰でも怒る。
弁解を重ねつつ、一刀は泣きながら笑って愛し合うのを認めて彼女の手を、虫を触るかのように優しく手に取り
その状態のままグルグルと彼女を基点とした衛星のように、或いは罠が待っている餌の前をうろつく獣のように荒い鼻息を出して回っていた。

そしてついに、観念したのか、それとも我慢出来なかったのか、良く分からない中途半端な一足飛びで彼女の中に飛び込んだ一刀。
二人の影は荒野の中で重なって、爆発するような歓喜の中、酷い嫌悪の嵐にむせび泣いた。


      ■ 俺の嫁


「うわー! うわっ、うわぁあああっ!」

よく分からない恐ろしいプレッシャーに押し潰されそうになって、一刀は安眠すること適わずに悲鳴を上げて飛び起きた。
なんか凄い心が暖かくてたまらない夢だった気がするのに、涙が出てきて止まらない。
嬉し涙だろうか。
いや、なんだか良く分からないが絶対に違うという確信がある。
そういえば、過去に何度かこうした謎の夢を見ることがあった気がする。
決まって、曖昧なままな夢であるのに、今回に限っては本体も僅かに夢の断片を覚えていた。

そう、あれは……ぼんやりとしていたが、確かに曹操や桃香が居た。
そんな少女達に混じって、場違いなほど肉体をテカらせた、くどい顔とボディービルダーよりも噎せ返りそうになる肉体に
変態さを加味した輩が居たような気がする。

「……あれ、まてよ」

寝起きにふらつく頭を抑えるように、一刀は額に手を当てて何かに気付いたように唸った。
仮定。
そう、仮定の話だ。
曹操や桃香が居たのは、自分自身も会っているし夢の中に出てくるのは不自然ではない。
しかし、何の因果か分からないが、自分の中には“俺”が何人も居るのだ。
桃香も曹操も、“俺”にとっての大切な人である事は話に聞いて知っている。
何となく、確認しなくても分かるのだが、今のような夢は自分以外の北郷一刀が見ている夢なのではないか。
つまりそれは……

「……えーっと、ここは何処だろう」

一刀はこの問題に対する全てを約数秒にわたる熟考の結果、忘れることにした。
下手に考えると再び昏倒する予感がしたのである。
一つ頭を振って、気を取り直すかのように周囲を見渡す。
起きて眼に飛び込んで来た景色からも分かっていたように、この場所は眠る前の記憶とは似ても似つかなかった。
ひたすら西を目指して逃げ続けた一刀は、途中で限界を迎えて山中で休息を取った。
そこから先の記憶は無い。
少なくとも、屋根のある家屋の中で麻布の布団に横たわっていた記憶などまったく無い。
ただ、珍しく壁も何も無い室内は家具の少なさも手伝ってか、少し寂しい雰囲気がある。

「……」

傍に置かれている水桶や水に濡れた布にそっと触れる。
治療の為だろうか、上半身を起こし怪我をしていた患部を見れば包帯のように布が巻かれており
誰かが看てくれたことが一目で分かる。

『……あぁ』
『……』
「あ、みんな……」
『おう……』
『あー……此処は何処だ』
「なんか元気ないね」

やたら気落ちしている脳内に声をかけつつ、一刀は立ち上がると同時に気が付いた。
痛みが無い。
激痛に動くことすら出来なかったというのに、自然に動くことが出来ていた。
一瞬この謎の治癒力に疑問を抱いたが、いつか華佗が言っていた事を思い出して納得する。
脳内の自分が複数同居しているせいで、回復力が常人離れしているという話だ。
本体が、そんなことを考えている間に脳内の一刀達も調子を取り戻していた。
話を頭の中で聞いていると、どうやら誰もが森の中で眠ってからの記憶がないようである。

「全員分からないって、なんだろう。 急に不安になってきたなぁ」
『とりあえず、外に出てみるか』
『邑かな?』
『静かだからね。 人里とは限らないかも』
『どっちにしろ服が無いと動けないよね』
「え?」

そこで初めて、一刀は自らが傷口を覆う布以外に一糸纏わぬ姿であることを自認した。
もしここが集落のような場所で人目があるのならば、このまま外へ出た瞬間に社会的に終わるだろう。
失礼かとも思ったが、背に腹は変えられない。
ちょうど、一刀と同じくらいの高さにある箪笥を物色して着る物を探すことにした。
たてつけが悪いのか、構造上の欠陥なのか、やたらと苦労して一番上の引き出しを空けると
一刀の視界に白い布地が飛び込んで来た。
つまんで持ち上げれば、そこには“浪漫”という文字が。

「……」
『一応、下着だな』
『え? 着るの?』
『ていうかサイズからして女性物か子供物じゃない?』
『何もないよりはマシだろ』
『誰か浪漫に突っ込もうよ』
『突っ込んで何かが変わるなら突っ込むけど』
『いやいや、でもさ……』
『他の探そう』

とりあえず、最終的に何もなければ仕方が無いからコレを拝借しよう。
そんな結論の一つとしてパンツを箪笥の上に置いたときだった。
薄暗かった室内に光が差し込んで、部屋を照らす。
同時に、入り口らしき場所の扉が開いて何かを背負っている者が入ってくる。

「あっ!?」
「あ」

あまりにも前触れなく、咄嗟の出来事に一刀は声を挙げながら凍った。
下着を物色しながら申し訳程度の布を腹部に纏い、ズキューンを丸出しにしている一刀は
今入ってきたばかりの人物を見て驚くように眼を丸くした。

フードのような物を被っていて、その体躯は小柄だ。
茶色い髪は肩口あたりまで伸びており、それを左右に分けて前髪をピンのような物で止めている。
翡翠色の目が眠たそうに一刀を見つめていた。
少女……とも言えそうだが、身体のおうとつが少ないために断定するのは微妙だ。

多少印象は違うものの、記憶の中にある少女の姿と共通点が多く見られる目の前の人物は荀彧に似ていた。
とにかく話しかけなければ、気まずい沈黙をやぶれない。
思わず、一刀は何も考えずに口を開いて

『なんかどっかで見たことが……』
『そうなの?』
「じゅっんぅふっ」
「え?」
「いや、違うんだ」
「はぁ」

脳内の声からマッハで口を噤むと共に、取り繕ったように手を振って曖昧にぼやかした。
ちょっと息が漏れて変な声が出てしまったが、それはこの際どうでもいい。
今の問題は、布切れ一枚を腹に巻いて生まれたままの姿で居ることだ。
こういう時、人はどのような選択が生まれるだろう。
逃げるか。
既に、見られて恥ずかしい部分は完全にガン見されてしまっている。
もちろん、真正面から堂々と見せびらかしている訳ではない。
名も知らぬ目の前の荀彧に似た人から見て、ちょっと半身になって微妙なチラリズムをかもし出すような感じだろうか。
しかし逃げたところでこの家屋には部屋が一つ―――すなわち、広い間取りではあるものの室内が壁で区切られていないので
外へ出るしか無いわけだ。
このまま外に出てみれば、先ほども言ったように邑や集落であれば御免被りたい。

逃げれないのならばいっそ開き直ってしまおうか。
しかし、それは今後目の前の人とのコミュニケーションに重大なエラーが発生するかもしれない。
何より自分を看てくれただろう人だ、変な印象を与えたくは無い。
手遅れかも知れないが。

そこで一刀は閃いた。

「ああ、礼を言うのが遅くなりました……ありがとうございます。 あなたが看病してくれたんですね」
「……」

言いながら、一刀は上半身だけで真正面で相対し、大陸の習慣に習って両の手を合わせて頭を僅かに下げた。
微妙に内股になりながら。
荀彧に似ている風貌を持つこの目の前の人が、恐らく自分を拾って看病してくれたのだろう事は間違いない。
助けられたのならば礼を言うのが筋であり、一刀のこの行動はまったくもって正しい、と彼は思った。
当然のことに対して礼を言うことで誠実さをアピールすると共に、まともな思考をする人だという印象を与えようとし
ついでに、完全に開き直っては失礼なのでズキューンは見えないように片足を上げて対処した。
一刀の中では先ほどの選択肢を組み合わせた、まったく新しい答えとして開き直った振りをする、という結論に達したが故だった。

そうして、一刀がある種の賭けに出た結果返って来たものは、実に冷静な対応であった。

「あの」
「はい」
「着る物を用意しますから、とりあえず床に居てくだされば羞恥も感じないかと思います」
「……はい」

一刀は素直に従った。


―――・


今思えば、自分は混乱していたのだろう。
そもそもが裸で妙なポーズをつけつつ礼を言われても、やだ何この人……としか思えない筈だ。
変に絶叫されたりゴミ虫のように罵られたり、或いは物を投げつけられたりされなかったのは
ひとえに目の前の少女が、こちらの混乱を察して落ち着いた対応を心がけてくれたおかげだろう。
着替えを用意してもらい、暖かいお茶を戴いて、ようやくまともな思考回路が戻ってきた一刀は
脳内が思い出してくれたおかげで、彼女が何者なのかを知ることができた。

「申し遅れました。 我が名は荀攸。 字を公達と言います」
「こちらこそ。 俺は北郷一刀。 字はないから好きに呼んでくれて構わないよ」
「はい、存じてます」
「そうか……」

彼女から、ここが何処であるか知る事が出来た。
ここは長安よりももっと西、天水に程近い邑であるようだった。
追っ手から逃げている時は、今どんな場所に居るかなど欠片も気にしていなかったが
こうして話を聞くと、予想よりも随分と距離を稼いでいるような気がする。

「とにかく、改めて礼をさせてください」
「ええ、それは良いのですが……実際に私が看病したのは3日ほどですので」
「3日ですか……」
『そんなに寝てたのか……』
『あれ、3日で内臓まで達してたと思う傷って塞がるの?』
「いえ、そうではなく……私が看るのを手伝っていた期間が3日ほどです。
 実際に天代様が倒れられていた期間は3ヶ月程だと聞いております」
「あ、そうでしたかぁっ!?」

言葉尻が跳ね上がり、一刀は愕然とした。
感覚としては、確かにちょっと眠りすぎたような気はしていたが3ヶ月も経っているとは。

「寝たきりでしたから、驚かれるのも分かります」
「いや……しかし、3ヶ月も寝ていたら身体だってもっと痩せ細って……普通に歩けたし」

言いながら一刀は自らを手でペタペタ触りながら見回した。
確かに、多少肉付きが減っている感じはする。
しかし、ずっと寝たきりでいると歩けなくなるような話を一刀は聞いた事があった。

「精力があるのでしょう。 細っていないのは、定期的に食事をしていたからですね」
「食事って……どうやって?」
「口からですが」
「……口」

何を当たり前のことを、と言う様に荀攸は首を傾げた。
そうだろう。
食事は普通、口から食物を摂取してエネルギーへと変換する。
それは一刀も分かっているが、当然ながら一刀に食事を摂った記憶は無い。
自然、一刀の視線は荀攸の口元へと向かった。
そんな彼女はクスリと微笑んで何も答えずに茶を含む。
荀彧と似た容姿を持つ少女から、なんだか艶かしい物を感じてしまって一刀は戸惑った。
一人で勝手にドキドキしてきた一刀の思考を逸らすように、荀攸は一つ茶を卓に置くと口を開いた。

「……そういえば、そろそろ帰ってこられる頃でしょう」

誰が? とは聞かなかった。
自分が三ヶ月もの間寝たきりであったという荀攸の言葉を信じれば、彼女とは別に怪我の手当てをしてくれた人が居るということだ。
口ぶりから、たまたま看病に付き合ったのだろうと思考していた一刀に荀攸の声が重なる。

「私への礼、それはそれで受け取ります。 しかし、真に礼をしなければならないのは―――」
「その、帰って来る人なんだね」
「はい」

その後、戻ってくるまで荀攸が何故ここに居るのか、とか、荀彧とそっくりだとか世間話に終始し
逆に天代が追放されたのは本当のことなのかと聞かれたりした。
問われたとき、どう答えたものかと一瞬悩んだ一刀であるが、結局は素直に荀攸へと経緯を話すことになった。
もしも朝敵として滅ぼすつもりがあるのならば、寝たきりの一刀を彼女は容易く殺せたはずだ。
それをしないのは、少なくとも一刀に対して敵意がある訳ではないとの判断からだった。
事実、荀攸は一刀の証言に何度か尋ね返した物の、概ね納得したように頷いて
話はそれで終わったのだ。
是も非も返さず、ただ事実を事実として受け入れた様子である。

逆に、一刀の経緯をどうして知らなかったのかを尋ねてみると。

「成都の方に出張っていました。 都に戻る最中、この邑で宿を借りたら北郷殿が寝ておられたのです」
「なるほど、たまたまだったんだ」
「ええ、たまたま……」

一瞬、そこで荀攸は言葉を区切って、口元に手を当てて眼を瞑った。
訝しげに一刀が視線を送ると、それに気が付いたのか。
左右に首を振って、たまたまだったんです、と口にした。
謎だった。

「あ、そういえば、俺を看病してくれた人って―――」

一刀が聞くのを待っていたかのように、この家にある一つだけの出入り口が音を立てて開かれた。
首だけ巡らして見ると、一人の男が頭を掻きながら中へと入ってくる。
ちょっと寂しい頭髪に、無精ひげをさらしている。
腰にぶら下げたのは水筒と、いくつかの工具が入っている袋だった。
何かしらの作業を行ってきた帰りなのか、男の服は随分と黒ずんでいた。

「帰ったぜー」
「おかえりなさい、維奉殿」
「おう、荀攸居たのか。 ただいあぁんっ!?」

先ほどの一刀が挙げた素っ頓狂の声を思い出させる、甲高い声が一刀を見た男の口から飛び出した。
維奉(いほう)と呼ばれた男と一刀の視線が絡む。

「ああ!?」
「御使い様っ! おきたのかっ!」
「アニキさん!?」
「うおおおおっ、起きてんぜぇ、イ"ェアアアアア!」
「つい先ごろ起きたようです」

道具をその場で捨てて、維奉と呼ばれた男ことアニキは大仰な仕草を交えて一刀の快方に喜んだ。
一方で一刀の方も思いがけぬ再会に立ち上がると、アニキへ向かって手を差し出す。

「ありがとう、俺の事を看てくれたって荀攸さんから聞いたよ」
「ハッハッハ、御使い様に礼を言われるなら、苦労した甲斐があるってもんですぜ」

一刀が差し出した手に自らの左手を重ねて、アニキは柔和な笑みを浮かべていた。
礼をしているのは一刀の方なのに、彼の方が深く頭を下げている。
そして、聞いてもいないのに経緯を話し始めた。
一刀は困った笑みを浮かべながらも、興奮した様子で喋り始めたアニキに調子を合わせる。
追っ手から逃げながら、一刀が消えていった方向を目指して進むと、森の中で休息を取る一刀を発見したという。
ただ、その時にはアニキ一人と馬が一頭いるだけで、一刀だけならば運ぶ事は可能だったのだが
金獅を置いていくのは無理であった。
そもそも、そこでアニキ自身も倒れることになったという。

「まぁ、結局それは、その後なんとかなったんですがね。 あー、やべぇ、嬉しくなってきた」
「ははは、本当……感謝することしか出来ないよ」
「いえ、俺の方こそ天に感謝したいくらいですよ」

アニキは言いながら右側に置いてある瓶を取ろうと左手を伸ばす。
その仕草に軽い違和感を覚えて、一刀は維奉の右手を見た。
既に季節は巡って冬に近いのか、長袖を着ていたせいで気付くのが遅れたが、アニキの右腕が無い。
正確には、肘から先が無くなっていた。
思わず声にしようとして、一刀は口を開きかけたが止める。
おそらく、自分の無茶無謀に付き合った代償ということだろう。

「こんなに目出度い日に飲まないなんて、もったいねぇ。 一等良い酒を持ってこさせましょう」
「伏せていた方に酒を勧めるのは如何なものでしょうか、維奉殿」
「馬鹿を言うな、酒は万病に効くんだよ。 美味いのをすぐ用意させるんで、とりあえず御使い様これでも」
「ははっ、お酒も良いけど、用意させるって荀攸さんにかい? それは悪い気がするよ」
「いえ、俺の嫁です」
「え? アニキさん、結婚してたんですか?」
「ああっ、そうだった! そうなんすよ! この前、ちょうど嫁を迎えたばかりなんすよ!
 いやぁ、あの時もしこたま飲んだが、今日はそれ以上に飲めそうだぜ!」
「凄い目出度いことじゃないですか、アニキさん、おめでとうございます」

勢い、出てきた明るい話に一刀は心の限りの祝いを述べた。
照れるように頬をかいて、アニキが礼を言うと外の方から駆けるような足音が響いてくる。

「お、ちょうど戻ってきたみたいです! 紹介させてください」
「ええ、うわ、なんかわくわくしてきたなぁ」
「綺麗な方ですよ」
「はは、ますます楽しみだよ」
「御使い様、取らないでくださいよ?」
「そんなことしないって」

そして、視線が出入り口に集まって、外の気配を窺うように全員の口が閉ざされた。
やがて足音は扉の前で止まり、外で何かを置くような音が響く。
アニキは僅かに前に出て、嫁が入ってくるタイミングを図るように口を開いた。

「紹介します」

そして、たった一つの出入り口が開かれた。

「俺の嫁です」

ガラッと音がなって扉は開かれ、現れたのは一人の少女。
最初に一刀の視線が向かったのは、胸部だった。
サラシのようなものを巻き付けて、豊満な果実を包んでいる。
羽織るようなマントに、側面が露出してふとももまの一部が見える袴を着ていた。

視界に飛び込んで来た人影はすごく見覚えがあった。

『『霞ぁ!?』』
『『『『『『『張遼!?』』』』』』』
「えええええええ!?」
「うわっ、なんや!? あぁああっ、一刀ぉー! やっと起きたんかぁ」
「北郷殿は顔が広いですね」

互いに驚くように声を挙げて、指を差しあう。
ボソリと呟く荀攸を無視するように、一刀は驚愕の視線をアニキへと向けた。
すると、彼の顔は酷く歪んでいた。
その顔を見て、再び一刀は驚いたが、それはまあ良い。

あの張遼がアニキと夫婦になるとは。
脳内は今もなんか良く分からないけど凄い叫んでたり恐慌している。
一刀はそんな脳内をシカトしつつ、張遼と出会った時に想いを馳せていた。
酷い二日酔いによって、別れをしっかりとすることは出来なかったが西へ向かうことは聞いていた。
彼女がこうしてこの場にいるのは、おかしい事ではないのだろう。
凄い偶然だとは思うが、こうして知り合いに会えるのは嬉しい。
それが、夫婦になったばかりという場面であるのは何かの縁があるような気がしてならない。
とりあえず、やたら喧しい脳内の声のせいで、響き始めた頭痛を無視しながら一刀は祝いを述べた。

「張遼さん、結婚おめでとう。 幸せそうで何よりだよ」
「へ? 何言ってん? 一刀。 結婚って?」
「え?」
「うん?」
「……えーっと、だから結婚してってことでしょ?」
「あ、一刀まさかうちに求婚してるんか?」
「なんつー時に限って現れやがるんだてめぇー! ふざけんなっ! 求婚するわけねーだろボケじゃねーの? ナスっ!」
「あぁ? なんや? いきなり興奮しよってからに」
「おま、お前がー!」

激昂した様子を見せてアニキが張遼へと飛び掛る。
と、見せかけて華麗にバックステップした。
明らかに変な様子であることから、何か酷い違和感を感じる一刀である。
ていうか、自分が求婚したと勘違いしているのは訂正しなければならない。
アニキが興奮したのも、そのせいかもしれないし。

「あのさ、俺が結婚したいって言ってる訳じゃなくて」
「ばーか! 死ね! ばーかっ!」
「維奉の奴、どうしたん?」
「いや、俺に聞かれても何がなんだか」
「……」
「とりあえず維奉の奴をド突き回してもええかな?」
「はぁ!? 何いきなりそういう結論になるわけ?!」
「ま、まぁまぁ、二人共落ち着いてくれよ」
「……あの」
「アンタが喧嘩売ってるんやないか」
「売ってねぇ! 霞がすっ呆けた事ぬかすからじゃねーかっ!」
「よぉし、買ったでアホンダラ!」
「不謹慎な売買してないで落ち着いてくれって、夫婦喧嘩なんか見たくないぞ俺」
「いや、だからちげぇんすよっ!」
「誰が夫婦やって?」

張遼に尋ねられた一刀は、自信なさ気に張遼とアニキを交互に指差した。
一拍遅れて、張遼が笑うように息を吐き出すと、何処に在ったのか。
自らの獲物を取り出して室内でグルリと一つ回す。
そして、宣言するように掌を一刀とアニキに向けてクイクイ傾けた。

「うん、まとめて買うてやる! かかってきぃ!」
「ええええ!? ちょ、アニキさん、これって如何いうことなの!?」
「知らねぇっす! コイツが馬鹿なんすよ!」
「言うやんか! 命知らずやな」
「俺は言って無いよ張遼さん」
「ああっ! 御使い様ともあろうお方が保身に入りやがってやがりますじゃねーか!」
「面倒やん、一緒にシバき倒したる」
「巻き添えかよっ!?」
「てめー! やっぱおめぇは最低だっ、くそっ、くそっ!」
「ごちゃごちゃ言うてるだけで来ないならうちから行ったるで!」
「あー、皆様?」
「なんやっ!?」
「なんだよっ!?」
「何かなっ!? 助けて荀攸さんっ!」
「助かるかどうかはともかく、盛り上がってるところ無粋かと思いますが姜瑚殿が帰られましたよ」

これが天使か。
一刀はそんな荀攸の声が耳朶を打った瞬間、目頭を思わず指で押さえて感謝した。
荀彧とは天と地ほどの差があると、失礼なことを思い浮かべながら。


      ■ 脳●ブラザー


一刀を救った女神の一人、改めて紹介されたアニキの妻は姜瑚(きょうこ)と呼ばれる可愛らしい人だった。
長い青い髪を一つにまとめてお下げにして、どこか素朴な雰囲気をかもし出し、大きな目がクリっとしているのが
印象に強く残る小柄な子であった。
どうしてアニキと結ばれたのか、それを尋ねると恥ずかしそうに男らしさを感じたからと答えた姜瑚である。

なんにせよ、張遼とアニキが結婚したという勘違いから、ぶっ飛ばされそうになったことを知った一刀は
深く反省しつつも今は維奉と名乗るアニキに祝意を述べた。
そのまま一刀の快方を祝う宴に突入して、起きたばっかりだというのにさんざんっぱら飲まされるハメになりそうだったので
維奉に自然な流れで酒を押し付けつける事にした一刀である。
その試みは果たして、成功した。
酒によって身体が熱くはあるが、そこまでフラフラでもない。
維奉に酒を押し付けたのも、一刀は出来る限り自分の今の状況を把握しておきたかったからだ。
宴の中、自然と近況を話し合う彼らから、一刀は貴重な情報をいくつか手にいれていた。
歳月人を待たずとはいうが、三ヶ月もの長期にわたって意識を失っていれば世情から取り残されてしまうもの。
一刀はふらつく頭を意思で押さえ込んで、家の外に出てあたりを見回した。
酔いを醒ましてくるとは断っているが、すでに張遼も維奉もグダングダンだったので荀攸くらいしか分かっていないだろう。
まぁ、維奉は一刀に押し付けられたせいでへべれけになっている訳だが。

「この辺でいいかな……っと」
『まずは大きなところから纏めてみようか』
『そうだな』
『今回は誰だっけ?』
『“仲の”かな?』
『あれ、俺?』
『進行よろしく』
『よろしくー』
『うーい』

適当な切り株を見つけて座り込むと、脳内の声を口火に、北郷一刀一人会議が始まった。
一刀達が最初に目を向けたのは、大陸の情勢からだった。
宮廷から追放された直後、帝である劉宏が崩御した。
話しぶりから察するに、一刀が追い出された翌日か翌々日である可能性が高いだろう。
それが、張譲たちの行われたことか、それとも単に病状が悪化して逝かれたのかは分からない。
どちらにしろ重要なのは、帝が亡くなったことである。
これを受けて、黄巾党残党が前もって計画していたかのように、陳留へと殺到した。
その数、噂だけではあるが実に8万を越えていたという。
官軍は、何故陳留へ黄巾党が集ったのか分からないだろうが、一刀には心当たりがある。

曹操軍に捕らわれたという張梁の為、だろう。

本体自身は知らぬ少女であるが、何人かの自分が確信を持って伝えていた。
それだけの求心力を持つ少女というのは、本体にはちょっと想像できない。
肝心の陳留の安否であるが、結果から言えば健在だ。
しかし、健在ではあるが大きな傷跡を残しているようで、特に開戦から数日は激しい戦闘が繰り広げられたようである。
曹操や夏候惇といった主力が帰還するのが少し遅れたせいか、あわや城壁を抜かれかけたと言う。
そんな曹操は陳留に辿りつくと、一刀が使った包囲する黄巾党を後ろからチクチクと攻める嫌がらせのような攻勢を行った。
無用な出血を嫌ったのか、それとも他の要因か定かではないが数日後、曹操は夏候惇だけを外に残して包囲を突き破り陳留の城中に戻ることに成功する。
その後、外の夏候惇と連動した篭城戦に突入したものの、ほどなく洛陽から朱儁将軍が率いる官軍が現れて
黄巾党の完全包囲を切り抜けたようである。

一方で、この黄巾党の動きに連動するかのように蜂起したのが、一刀自身も懸念を示していた
韓遂が中心人物となって涼州で反乱を起こしていた。
その軍勢は6万を越える規模だそうだ。
殆ど障害もなく突き進んだ反乱軍は、長安付近で董卓軍と激突。
こちらも数に劣る董卓軍が奮闘し、野戦で拮抗したのか今は膠着状態になっているそうだ。

『たった三ヶ月なのにな』
「韓遂は、史実からしてアレだし……仕方ないと思うけど」
『黄巾の乱も、その後が予想できない状態だった』
『まぁ、何時起こってもおかしくは無かったと思う』
『でも、俺は桃香が生きてるっぽいことが分かって安心したよ』
『何進さんに感謝しないとね』

桃香が一刀と同じように、洛陽を追放されたことを知る事が出来たのは荀攸からの話だった。
蜀領で勤めていた時節に、荀彧からの手紙が届いて知ったそうだ。
同時に、黄巾の抵抗が落ち着いたら曹操の下に来るようにとのお誘いもかけられていたようだが。
こうして荀彧が手紙を宛てたことを考えると、曹操軍も黄巾残党相手に余裕ができている、ということだろう。
今後、陳留が陥落することはないかも知れない。
そんな手紙を受け取った荀攸へ、さり気無くどうするのかを尋ねると、一刀よりも酒が入っているはずの彼女はクスリと笑って何も答えて貰えなかった。
隙の無い少女である。
何を考えているのかイマイチ分からないが、彼女の道は彼女の道だ。
そう納得して、一刀は話題を逸らすことにした。

そんなつい先ほどの出来事を振り返りながら、一刀は懐から酒瓶を取り出した。
とりあえず、この場で大陸の情勢を憂いていても何ができるわけでもない。
微妙な無力感を感じながら、手のひらに収まるくらいの盃を酒で満たす。

「それにしても、アニキさんの腕を斬ったのが張遼さんだったとはね」
『ああ……ビックリしたね』
『本人達が和解しているなら、それはそれで良いと思うけど』

そう、最初に眠る一刀を森の中で見つけたのは張遼だったそうだ。
人馬が倒れている所を目撃し、近づいてみると一刀であった。
思いがけない遭遇に、彼女は驚いたそうだが偉い人だったのでとりあえず応急手当をしようと屈んだところ
草葉の陰から飛び出したアニキに強襲されて、ついつい腕を斬り飛ばしてしまったらしい。
ほどなく勘違いであることに気が付いた張遼は、出血と疲労からか。
うつ伏せに倒れ伏したアニキから、一刀の事を託されるハメになったという。
ところが、金獅は倒れているは、勘違いで腕を斬り飛ばしたおっさんが居るは、偉い人が居るはで
とても張遼一人で全員を運ぶ事はできなかった。
途方に暮れかけた彼女の元に現れたのが、一刀の要請を受け取って洛陽を目指していた華佗だった。

華佗は、一刀から帝を看て欲しい旨の書状を受け取ると、まっすぐに洛陽を目指し始めたという。
徒歩であるため洛陽へ向かうのに時間がかかってしまったそうだが、今回はそれが幸いした。
張遼と華佗が、二人を―――そして華佗の手により自然治癒力を増して復活した金獅と―――共に、安静に出来る近くの邑まで運び込み
何日か、看病をしていたが一向に一刀の意識が戻らなかった。
やがて、意識を取り戻したアニキが韓遂の蜂起により、戦乱に巻き込まれることを嫌って
この場所まで移り住み始めたという訳だ。

多くの偶然と人の輪が、今の一刀の命を繋いでいるのだろう。
満たされた盃に月が映りこんでいた。
それを暫く眺めた一刀は、それを一気に飲み干して一つ頭を振った。
チビチビと手酌で月と酒を楽しみながら、次に考えるのはこれからの事。
現状を知った今、自分がどう動くべきかを考えなければならない。
が、何をすれば良いのかは分からなかった。
漢王朝を復活させる。
洛陽に返り咲く。
劉協との約束を守る。
音々音と再会する。
成し遂げるべき目的はパッと思いつくのに、どう動けば全てを成す事ができるのかがわからない。

『幾つか考えはあるけど……』
『あるのかよ』
『すげぇな』
『いや、あるけど、無いみたいな』
『俺も』
『どっちさ』
「俺、なんで天代になれたんだっけ?」
『そりゃお前、華佗とちゅ……』
『……』
「……」
『て、天代を身分を失ったのは痛恨だったね』
『あ、うん、そうだな』
『いや、あれは治療行為みたいな物だから』
「うん、治療行為だ。 間接的な」
『北郷一刀の中じゃノーカンだよね』
『そもそも“肉の”が全ての、その、元凶だろ?』

とは言うものの、一刀達もうまい具合に“天代”になれたことは彼のおかげだと知っている。
今となっては元凶というにはちょっと遠慮が含まれてしまう。

『あ、呼んだ?』
『参加しろってー』
『だって、何か皆が何時の間にか凄い仲良くなってるからさ』
『あれ?』
『どうした“南の”?』
『“肉の”は黄巾の乱も知らないんじゃなかったっけ』
『『『あ』』』
『なんとなく察しはつくけどね』
『とりあえず、“肉の”に説明するところからか』

一刀達は、夜明けまで今までのことを思い出を振り返りながら“肉の”に言って聞かせた。
途中、何度か尋ねられることはあったが、概ね順調に。
時にわき道に逸れながら、月見酒を交えた一人会議は明け方まで及んだ。

眠気から切り上げて家に戻った一刀は、その後復活してた維奉と張遼、そして看病してくれていたという姜瑚にまで、しこたま説教されることになった。
三ヶ月も意識失ってた人間が、酒をかっくらって朝方まで何処ぞに出かけるとは何事か、と酒気漂う息を吹きかけられながら。
酒を飲ませたのは張遼と維奉だし、ちゃんと出てくると断ったと言っているのに超展開理論を繰り広げられて一刀の意見は却下される。
藁に縋る思いで荀攸に視線を向ければ、中身の入った盃を持ち上げたまま卓に突っ伏して昏倒していた。

「……」

勝手に最後の砦として期待していた彼女が崩れ去っているのを見て、一刀は諦めの境地に至り説教を受け入れた。
最終的には張遼と維奉の喧嘩に巻き込まれて、一刀も昏倒することになったのだが。


―――・


この邑で意識を取り戻してから一刀は特に何をするわけでもなく、日々散歩をする毎日である。
これには勿論、ずっと寝ていたことによる身体の感覚を取り戻すための物でもあった。
今まで陳留や洛陽といった大都市に身を置いていたせいか、この邑の規模は酷く小さく感じる一刀だった。
集落と呼べるギリギリの機能だけを兼ね備えている、有り体に言えば過疎っているように思える場所だ。
ただ、これでも邑の中ではそこそこの規模であるらしい。
ここに居る人達はおおらかさがあるのか。
よそ者の一刀でも、話しかければ普通に会話をしてくれるし最近では顔も覚えてくれたのか
ちょっとしたことで家に招かれることも少なく無い。
概ね、住民たちとの関係は良好と言えるだろう。

どうも一刀のイメージから、過疎というと若者がまったく居ないように感じられたのだが
全然そんなことは無かった。
むしろ、若い者達はこの邑を愛しているのか。
常にみすぼらしい槍のようなものを携帯して、自治を行っていたりもした。
賊に眼をつけられれば、あれを手に取って戦うのだろう。
今まで官軍の装備に見慣れていた一刀は、驚いたものである。

「……うーん、なんというべきか」

そして今日。
天水の都で治療をしていた華佗が戻ってきたという話を聞いて、待ち合わせた場所へと向かっている。
その歩みは実にゆっくりであった。
急ぎではないから、とか、歩くのが辛いからという理由ではなく、維奉から聞かされたある話が原因だった。

「気が重いなー」
『かといって、会わない訳にもいかないしね』
「だよなぁ」

聞いた話では、華佗はゴットヴェイドーから破門を言い渡されたという。
まだ漢王朝から天代が追放されたという事実は知らされていないようだが、噂には上がっている。
その噂とは、端的に言ってしまえば天代が帝を暗殺したという物だった。

先ごろ崩御した帝が黄巾党の策謀に嵌り、毒殺されかけたというのは記憶に新しい。
これを漢王朝に降りた天の御使いが、天医を連れて治療したと民間には伝わっている。
しかし劉宏の愚鈍さを知った天の御使いは、救ったのは間違いであったとして
天医、華佗の協力の下で毒を盛り、殺してしまった。

そんな噂が広まっているのだそうだ。
根も葉もない噂ではあるが、こうした噂が天水付近にも流れていることを考えると
誰かが何かしらの目的で広めたか、或いは自然に流れた噂が複雑怪奇な経緯でもって伝わったかのどちらかだろう。
とにかく、この広まった噂から華佗が所属するゴットヴェイドーは漢王朝に何かしら詰問される前に
事実を確認するわけでもなく、在籍させる訳には行かないと華佗に言い渡して追放したそうなのだ。
黄巾党が唱える大平道の件から、宗教的なものとして認められているわけではないゴッドヴェイドーは
自分達の不利益になりそうな要素を、片っ端から切り捨てることにしたのだろう。
それは、黄巾の乱から来る儒教とは違う新興宗教のイメージを、悪化させるのを嫌った為なのかもしれない。
その辺の話はまた随分と横道に逸れてしまうが、一刀と華佗の関係は有名になりすぎたのだろう。
自ら喧伝したわけでもないが、だからといって違うと言っても今更だ。
だから、一刀は華佗に謝るためにここまで足を運んだ。

「……まだ居ないか」

華佗と待ち合わせた場所は邑の中央は丁度広場のような造りになっている。
隣近所が大抵1里以上離れているこの邑でも、いっとう民家が集中していて栄えている場所だ。
何人かの子供たちが遊びまわり、数人の男達が茶を楽しみながら団欒をしていて。
そんなのどかな風景が見える場所へと辿りついた一刀は、手ごろな段差を見つけて座り込む。
胸元にぶらさげた赤い紅玉を片手で弄りながら、空を見上げて。

結局のところ、一刀自身の甘さが多くの人の迷惑になって返ってきている。
決して天代という身分に胡坐を掻いていた訳では無かったが
天代として居た場所が、どういう所であったのかを正しく理解していなかったのだ。
後悔しても仕方が無いと思っても、どうにも割り切れない。
燻る胸中を押し隠して、一刀は大きく息を吐いて気分を切り替えることにした。

しばらく、脳内と軽い雑談に興じて時間を潰していたが一向に姿を見せる気配がなかった。
待ち合わせ場所を間違っていたのか不安になってきた一刀の耳朶に、数人の砂利を噛む足音が聞こえたのはそんな時だった。

のどかな風景に溶け込むように、一刀の隣で異様な男二人が道具を広げ始めていた。

「……え?」

一刀は思わず呟いて、その一角を凝視した。
一人は黒い髪を逆立てて、パンダのように片方の目の辺りが黒かった。
浅黒い肉体に、ふんどし一枚で腕を組んで立っており、腰には『脳殺』と書かれた看板をぶらさげている。
もう一方の男も、やはり黒い長髪を後ろに流して角ばった輪郭を顰め
肉々しい肉体をふんどし一枚で大事な部分を覆い、腰に手を当てて『悩殺』という看板を手に持っていた。
道具を広げて彼らの前に出てきたのは、一個の折りたたみ式のような卓。
それだけを目の前に置いて、彼らは厳しい顔つきで立っていた。

その光景は、この緩やかな雰囲気を持つ邑のイメージを著しく破壊していた。
今まで何回もこの広場に顔を出したが、こんな店を開いている男達は今日初めて見る。
あまりの異質さに、しばし呆然と見送っていた一刀であったが
一瞬、彼らの視線と交錯すると慌てて首をそむけた。
少なくとも、半裸の男達―――しかも妙な看板をぶらさげている奴―――には余り関わりたくない。
あれは、看板とかあるしやはり店なのだろうか。
その割には商品が何も陳列されていなかった。
仮に露店商と考えても、看板に書かれている物を読んで何を売るというのか。
意味が判らない。
むしろ、一刀からすればあの看板の文字は無意識の嫌がらせに他ならない。
すぐにでも立ち去りたいのが本音だが、華佗を待っているので逃げるわけに行かないのが辛いところである。

「……」
「……」
「……」

何か、家屋の修繕でもしているのか。
杭をハンマーで打ちつけるようなコーンとした音が何処かから響き、鳥の鳴き声がたまに聞こえるこの場所で
一刀と半裸の男達は、ただただ立ち尽くしていた。
もちろん、この場所に近寄るような村民は居なかった。

「……」
「……」
「……」

背後に突き刺さる妙な感覚に、一刀は謎の圧迫感に負けて肩越しからチラリとのぞき見る。
思いっきり一刀をガン見していて、やはり視線が絡み合う。
一つわざとらしく咳払いをして眼を地に向けて、居住まいを正して呟く。

「華佗、頼む、早く来てくれ」

先ほどまで気落ちしていたはずの一刀の心情は、良く分からない感覚に重圧を感じて落ち着かなくなっていた。
それが良いか悪いかは別として、とっとと用件を済ませて帰りたい一刀である。
そんな彼は、気が付くと鼻から出血していた。
唇を伝う違和感に気が付いて、思わず鼻頭を押さえる。

「あれぇ?」
『鼻血か?』
『あ、ごめん』
『『『お前かよっ!?』』』
「一刀……」

掛かった声に振り向くと、ようやく現れて待ち望んでた華佗と再会する。
華佗は一瞬だけ、一刀の背後に佇む半裸の男達を一瞥して動きが止まり、それから一刀の方へと首を向けた。
適当な布で鼻の辺りを押さえて出血している一刀に眉を顰めて一つ頷く。

「あ、華佗……」
「一刀……久しぶりだな」
「ああ……」
「その……なんだ、邪魔……だったのかな」
「いや! 全然そんなことない!」
「……そうか」
「うん、そうなんだよ……」

微妙に距離を保って、歯切れの悪い再会の言葉を交わす。
華佗も気になるのか、しきりに一刀の背後へと視線を泳がせていた。
ちなみに一刀は全力でシカトしている。

「……色々聞きたいことがあったんだが」
「俺もだよ」
「とりあえず、一刀、用事が済んでるなら場所を移したい」
「すまん、華佗。 ちょっと誤解を訂正してからでもいいかな」
「いや、駄目なら後でも良いんだ」
「良いから、今で良いから」
「……良いのか?」
「くどいぞ」

何故か謝る立場であったはずの一刀がふて腐れ始めて、お互いにじんわりと半裸の男達から遠ざかる。
結局、華佗と合流を果たした一刀はそのままゆっくりと立ち去って、二人の男達は何の店でどんな人間なのか、今は謎のままに終わった。


―――・


山岳の半ばに作ったような、そんな邑の奥に柵をした広場が広がっている。
この場所には、何頭かの馬が遊牧されており、一刀と共に駆け抜けた金獅もまた自由気ままに草を食んでいた。
華佗と再会した一刀は、紅く染まった夕日を背に柵へと寄りかかってそんな風景を眺めていた。
頬には痛々しいと思える跡が残っている。
散々、鼻血の件で茶化された一刀は遂に華佗へと一発拳をぶち当てることになった。
そこで勢いにのったか、怒りながら謝罪するというなかなか普通には出来ないことをした一刀は
直後に華佗から一発お返しされたのだ。
気すら使っていない拳が、とてつもなく痛かった。

「あぁ、痛い」
「はは、悪いがそれは治療しないぞ」
「医者がそれで良いのか」
「悪いか?」

問われて、一刀は首を振った。
この一発に込められているのは、一刀へと聞きたかった色々な何かが詰まっていたのだろう。
少なくとも、華佗にとってはそのはずだ。
こうして落ち着いて話し合う中で、華佗から詰問されることは一切なかった。
ただ一言、どうするのかと聞かれて。
いつか戻るよ、とだけ答えた。

「……ゴッドヴェイドーは」
「うん」
「儒教の陰に隠れているが、大きな教門だ。
 郷里では若者がこぞって、その門戸を叩く。
 気を扱える人も多いが、まったく使えない人も少なくない」
「……」
「俺がゴットヴェイドーの門戸を潜ったのは、10を過ぎてからだった。
 きっかけは……まぁ、これは良いか。
 とにかく、医者として多くの人を救いたいと飛び出してくるまではずっと過ごした場所だ」
「ああ」
「正直、破門を言い渡された時は何かの間違いではないかと思ったが」

言って、華佗は一刀に殴打された頬に手を当てた。

「痛いなら治せばいいのに」
「良いんだ」
「……良いのか」

草を食むことに飽きたのか、馬蹄を響かせて一刀の下に金獅が駆けてくる。
2ヶ月ほど、しっかりとこの場所で休養を取っていたためか、随分馬体がでっぷりとしていた。
一刀と同じく、金獅にも軍馬としてのリハビリが必要になるだろう。
目の前に立ち止まり、その顔を一刀へ向けてぬーんと伸ばす。

「はは、なんだお前」

近づいた顔に手を当てて、何度か撫でてやると、金獅の舌が伸びてきて一刀の頬を唾液で濡らした。

「うわっ、った」
「良かったな、金獅が治してくれるそうだぞ、一刀」
「これ、絶対偶然だろ」
「はっはっは」

数ヶ月も会っていなかったというのに、金獅は自分を覚えてくれているのだろうか。
そう考えると、一刀も気持ちが嬉しくなって、その背に跨りたい衝動に襲われる。
華佗は、一刀がそう漏らすと少し駆けるか、と頷いて厩舎の中へと入っていった。
なんの事なのか首を捻っていた一刀だったが、馬具を抱えて戻ってきた華佗を見て納得する。

「借りられるんだ」
「ああ、何人か遠乗りする人や都へ向かう人の為にも貸し出しているらしい。
 ここに住む人たちで共有している馬だそうだから」
「お金は?」
「払ってきた」

華佗は適当な馬を見つけてその背に馬具を取り付け始める。
一刀はもちろん、金獅を捕まえて。
お互いに準備が整って、その背に跨るとゆっくりと走らせ始めた。
沈みかけた陽の中、寒いとすら感じる空気を割って。
東へ向けて進路を取ると、標高の高い場所にあるここからは、地平まで広がる荒野が見渡せた。
待たせている人が居ることを、忘れてはならない。
3ヶ月も動き出しが遅れてしまったのだ。
徐々に早まって、ついには全力で金獅が駆け抜け始めた頃、やや遅れた背後から華佗の叫ぶような声が耳朶を打つ。

「一刀!」
「ああ!」
「形は変わったが、お前に付き合うぞ!」

それは、きっと洛陽で怪我を見てもらった時の話だろうか。
あの時は、患者として自分の旅に同行するといってくれていたが。

「看板は無くても、治療は出来る! 苦しんでいる人は救える! そうだろう!」
「ああ、その通りだ!」
「一刀は戻るまで、どうするんだ!?」
「……」

その華佗の声に、一刀は答えなかった。
どこで何をすれば良いのか、未だに答えは出ていなかったから。
やがて金獅のペースは落ちていき、その足は止まっていく。
合わせる様に華佗も隣に立って。
一刀も金獅も、同じように荒い息を吐き出していた。
距離にすれば余りに短い全速力だ、ただ捕まっているだけの一刀もこの有様である。
三ヶ月の休養は、ちょっと長すぎたようだ。

「はぁ……はぁっ、ま、まずは体力作りからかな」
「……そうか、滋養強壮剤でも作っておくか」
「ああ、うん、効く奴を頼むよ……」
「分かった、用意しておこう」

この日から、一刀は邑の厩舎へ毎日顔を出すことになった。
とりあえずは体力を取り戻すこと。
そんな自分に出来ることから始めることにしたのである。


      ■ 再出発、家から


「で、出来たっ……!」
『俺の家……』
『俺達の家……っ!』

意識を取り戻した一刀がこの邑で過ごし始めてから幾ばくかの時が過ぎていた。
季節は冬。
水溜りには薄い氷が張り付いて、吐く息は白く水場での作業が辛くなる頃だった。
妻を迎え入れた維奉の家に、何時までも居候している訳にはいかない、ということで
維奉の家の近くにある空き地を利用して、あばら家のような物を建て始めていた。
もともと、住まいの無い華佗や張遼も似たような物を適当に立てて暮らしている。
一刀は先達の協力を請い、邑人から知識を蓄え、約1ヶ月間。
精力的に取り組んでたった今、初建築となるマイホーム完成に至ったのである。

見てくれは、予想通りというかなんというか。
とにかくみすぼらしかった。
台風が来れば一夜にして根こそぎ吹き飛んでしまいそうな、そんな頼りないあばら家が、やけに大きく見える。
達成感に満足気な笑顔を浮かべて、一刀は喜んだ。
これで、維奉たちの家から離れられる、と。
維奉や姜瑚は、このまま一刀を住まわせていても問題ないと言ってくれているのだが
一刀からすれば新婚さんの家にお邪魔している形になっているわけだ。
普通に居づらかった。

「かーずとー!」
「ああ、霞! 良いところに!」
「おー! 家できたんかー」
「そうなんだよ! 霞の家より全然かっこ悪いけどさ」
「そういうことなら、祝い酒に持って来いやなっ」
「おおおお、ありがとう!」

そうしてズズイッと手を差し出して掲げたのは、一升瓶くらいの容量を誇る酒瓶であった。
一刀も気分が盛り上がっていたので、彼女の差し出した酒は飲む気満々である。

「なんや、せっかくだし外やなくて中で飲もか?」
「お、良いね!」

この誘いに一も二も無く頷くと、一刀は小走りに張遼の先にたって出入り口である扉を開け放つ。
たてつけが悪いのか、途中で止まったが。
何度か力を込めて引いたり圧したりしていると、木が割れる音が響いてようやく全開となる。
更に扉を開ききった衝撃か。
思い出すように設置した、雨水を流す半筒状の樋が頭上からボタリと落ちてきた。

「はぁッ……はぁっ……さぁ、入ってくれ」
「一刀、こんな天気の良い日に中で飲むのも野暮やん?」
「え、いや、大丈夫だよ。 ちょっと今のは力を入れすぎただけだから」
「えー……」

渋る張遼を押し込んで、早速一刀は部屋へと上がる。
一瞬床が抜けることを期待した張遼は、何事もなく上がりこめて微妙に肩を落としていた。
酒のつまみ、からかいの種になることを望んでいたのだろう。
広さとしては、6畳くらいだろうか。
何も無い殺風景な床と、陽を差し込むための大きめな窓。
3メートルくらいの高さがある天井に、道具を仕舞いこめるようにと設置した棚が固定されている。
もちろん、持ち物は何も無い。
強いて言えば、意識を取り戻してから借りている維奉の服だけか。

「なんもないなー」
「出来たばかりだからね。 長居するわけでもないし」
「そうなん? その割には、一所懸命作ってたやんか」
「うん……力仕事みたいなものだから、身体を作るのに有意義でもあったしね」
「ふーん」

倒壊するのを予想するのに飽きたのか、張遼は持ってきた酒を盃に満たす。
一刀は、金獅との体力作りの中で彼女から時たま、気が向いた時に指導を受けていた。
後世、神速の張文遠と呼ばれるだけあって、その手綱捌きは見事の一言。
長く付き合ってる一刀よりも、手足のように金獅を動かす張遼を見て自ら鍛えてくれるように願ったのだ。
その甲斐あってか、一刀にも幾分か上達の後は見られている。
二人で雑談をしながら、チビリちびりと酒を楽しんでいると頬を紅く染め始めた張遼がふいに尋ねた。

「なー、一刀ー」
「なに?」
「うち、そろそろ行こうかと思ってる」
「そうなんだ」

何処へ? とは聞かなかった。
張遼がこの邑に逗留していたのは、勘違いから維奉の腕を切り飛ばしてしまった負い目からだという。
もともと、立ち寄って長居するつもりもなく、そろそろ何処かへと身を寄せるために仕官先を求めていたところ
維奉の件が重なって足止めを食っていたらしい。
ポツリ、ポツリと酒の勢いからか。
話し始めた張遼の言葉に頷いて、或いは同意を返して一刀は酒を飲んでいた。

「ついこの間、維奉にも改めてしっかり詫び入れてきたんや。
 そしたらな、一刀がええっちゅーたら納得する言うてくれてな」
「ええ? 俺が決めろって?」
「うん」
「なんでやねん」
「知らんがな」

どうして自分が張遼に許しを出さねばならないのだろうか。
維奉が腕を切り飛ばされて、それを許すか許さないか、維奉自身が決めなければいけない話なはずだ。
それを張遼に言えば

「うちもそう思うんやけど、維奉にとっての筋っちゅうもんがあるんやろ、多分やけどな」

と真面目な顔で返された。
なんだか腑に落ちないものを感じつつ、一刀はあっさりと許可を出そうとした。
が、それは脳に響く声から口を開いたままとまることになる。
不自然に止まった口を、隠すように盃を仰いで。

『あのさ、どうせ俺達に決定権があるなら董卓さんの所に行ってもらえないかな』
『あ、なるほど』
『なんで? 別に良いんじゃない?』
『いや“南の”、反董卓連合のことじゃないかな?』
『あ、そうか』
『もともと、何処へ行くつもりなのか聞いた方が良くないか?』

「……で、仕官したいって言ってたけど、何処に行くの?」
「ん? この辺だと、馬騰のとこか董卓のとこか……実際どこに行くかは自分の目で見て決めるつもりや」

『それなら、少し待ってもらってさ』
『うん、ちょっと考えを纏めてからお願いしたいよね』

脳内の声と、張遼の考えを纏めて、一刀は一つ頷くと口を開いた。
我侭と認めつつ、一刀はもうしばらく金獅と自分の訓練に付き合ってほしいと頭を下げたのだ。
これに張遼は、腕を組んでしばし唸ったものの、了承の意を返す。
一刀は再度頭を下げて、今後の事を思った。
張遼から自分へと直接とは言わず、間接的にも貴重な情報が得られるなら有効利用しない手はない。
仮に董卓の下に仕官すれば、張遼の主は董卓ということになる。
しかし、一刀が願い出ることは董卓軍の内情に直結しかねない。
これを考えると、このお願いは難しい申し出になることは間違いなかった。
否だと返されるなら、それはそれで納得するしかないが、是と答えてくれる可能性が無いわけじゃない。
自分の事情をしっかりと話して、ちゃんと協力してもらえるならコレほど心強い仲間も居ないではないか。
なんにせよ、答えを出すのは酒の席ではなく、改めて話し合う機会を設けるべきだろう。
打算たっぷりの考えを酒を流し込みながら捻りつつ、一刀は張遼へと首を向けた。

「さて、真面目な話は終いやな。 一刀、飲も飲もっ!」
「ああ、でも飲みすぎて前みたいに暴れるのは無しだぞ。 維奉さんが泣くし、家が壊れる」
「そんな暴れ馬みたいな扱いせんでもええやんっ」

怒ったふりをして腹を突つかれ、冗談交じりに盃を渡されて、一刀は笑いながら受け取った。
付き合っていて気持ちの良い張遼は、個人的にも好感を持っている。
もともと、振って沸いたような考えだ。
彼女も自分も、納得できる別れ方にしたい。
張遼から差し出された盃に、一刀も酒を返して注いだ時、たてつけの悪い入り口がガタガタと動いて家がグラグラと揺れる。
瞬間、見事な瞬発力で取り付けられた窓から身を投げ出して、文字通り家から飛び出した張遼と
入り口からけたたましい何かが落ちる音が鳴り響いて、声があがる。

「あああっ、壊しちゃった!?」
「こんにちは」

一刀の家に新たに姿を見せたのは、盆を手にして焼き魚を持っている荀攸と維奉の妻、姜瑚であった。
何処からか聞いたのか、二人とも一刀の家の完成祝いに食事を持ってきてくれたようだ。

「二人共こんにちは。 どうぞ、中に入って」
「お邪魔します」
「あのー……すみません、柱が一本倒れてしまったのですが……」
「うん、まだ大丈夫だろうし、後で治すから良いよ」

「あー、びっくりしたー。 倒壊すると思ったわー」

ぐるり回ってきたのだろう。
荀攸と姜瑚が部屋へ上がると、入り口の方から張遼が顔を再度出して戻ってきた。
同時に、一刀は“肉の”に変わって扉を凄い勢いで閉める。
バタンっ! と大きな音がなって、再び家が揺れた。

「ああっ、酷いやんか! かずとー! 中に入れてー!」
「家が揺れてますね」
「あの、やっぱり柱が……」
「大丈夫、例え崩れても窓から飛び出せば平気だと思うから」
「かーずーとー! おーさーけぇー!」
「私にそれは無理ですね」
「私にも無理です」
「……俺も無理かも」

結局、危険だということで一刀達は維奉の家に移って、そのまま帰ってきた維奉と共に宴会となった。
日々の生活があるからか、一刀が今までに経験してきた宴の規模に比べれば
それはもう、質素なものではあったが、心の底から笑いあえて楽しい一時となったのである。

宴会が終わったその夜、荀攸から書と筆を借りた一刀は自分の家の中で、これからの事に想いを馳せて墨を滑らせた。
一刀の再出発の芽が、冬を迎えた邑の中で芽吹き始めていた。


      ■ 外史終了 ■




[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編2
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/04/01 22:59
clear!!         ~見据えた道は桃仙から西へ伸び、大陸は揺られ始めたよ編~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編1~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編2~☆☆☆







      ■ 文


「むむむ……」

朝。
一刀は一人、朝食を抜いて即席で作られた引き出し付きの机の前で唸っていた。
手には筆と墨。
ここ最近、一刀は張遼との訓練と食事の時間以外は自分の家に篭っている。
昼頃から張遼との訓練が予定が入っているので、それまでの時間を無駄にしないために。
生活環境が落ち着いてからというもの、一刀はこうして机の前で座して、物思いに耽ることが常になっていた。

一体何をしているのかと問われれば、簡単だ。
洛陽の宮内で、音々音によって廃棄された『歴史』をまとめた物を、もう一度書き起こしているのある。
それだけならば、こうして机の前で唸ることなど無かった。
実際に一度書いているのだ。
細部は違いが出てきてしまうかもしれないが、思い出しながら書いていけば、ほぼ誤差の無い物が出来上がるはずである。
今後の自分の行動を纏めるためにも、指針となる為の『歴史』をもう一度書き起こそうと思ったのだが

「……うーん」

しかし、どうにも筆が止まってしまうのである。
と、いうのも何故か頭の中に浮かぶ『歴史』がおかしいからであった。
例えばそれは、定軍山で夏候淵が黄忠によって討ち取られる話が赤壁の前であり、しかも夏候淵は助かっていることだったり
諸葛亮の計略を逆手にとって蜀に逆撃をかました上に、魏延を捕獲して如何わしいアレコレをする南蛮軍だったり
時代を擦り合わせて近いところでは、反董卓連合を計略、野戦どちらも真っ向から打ち破っていたりしていた。
そんなおかしいはずの『歴史』が、正しいことだと認識でき、すんなりと納得をしてしまう。
一方で、呂布が下邳で捕縛されて処断されることや、曹操が袁紹と激突したことなども正しい物として認識できる。
そんなおかしいと思う歴史と正しいと思う歴史が、絵の具の色を混ぜ合わせたようにぐちゃぐちゃで
何が本当に正しい物なのかの判断が出来ない。
書いてる内から、やっぱりこっちが本当だったかな? などと文字を打ち消したり
紙を破り捨てたり、一枚まるまる捨ててしまったり、どうにもこうにも先に進まないのだ。
もちろん、前に書いただけあって覚えているところはしっかりと、これが正しい歴史であると思えるわけだが。
中でも、陳宮については、その生死に関して思い悩んだこともあるせいか、しっかりと正史が認識できている。

『思うに……』

腕を組んで天を仰ぐ一刀の頭に響く声。

『これも俺達の影響、なんだろうな』
『そうだろうね』
「……」

確かに、それは本体も思い当たっていた。
何時から“北郷一刀”と覚えている歴史が混ざり合い始めたのか、それは定かではない。
意識を失う前と、取り戻した後で身体の異変も見られないし、脳内の自分達が出来ることも本体である自分が出来ることも
特別な変化はまったくない。
ただ、知っている歴史が混ざりあっただけだ。
慣れてしまっていたが、こうした変化を受けるに当たって、一刀はなんとも言えない感情を抱いた。
自分の中に何人もの自分が居ることがまずおかしいのだ。
しかも、自分ではない自分達は、一度この大陸に落ちてそれぞれの歴史を紡いできた。
結果はそれぞれに違うけれども、途中で終わりを迎えて。

「……外史か」
『どうした?』
「いや……」

そこで一刀は頭を振って立つと、唯一設置されている窓を開けた。
狭い室内、机から一歩分の距離であるこの窓は、張遼が脱出した際に少しだけ広がっていた。
寒気が部屋の中に入り込み、白くなった吐息が部屋の中に昇って立ち消えた。
窓から覗ける風景は、林立する樹木の中でちょうど一軒家の庭くらいの、僅かに草木が生えたスペースが広がっている。
とりたてて、何か面白い物があるわけでもない。
時折、雀か何かの鳥や犬のような獣が日向に当たりに来るくらいである。
後、一刀の洗濯物。

「なんか……別のことでもしようかな」

ここ最近、ずっと同じところをグルグル回っているようで気が滅入ってきている。
何か気分転換を図るのも良いかもしれない。
一刀は一人呟くと、脳内から声がかかる。

『何するの?』
『せっかく墨作ったんだし、勿体無いよね』
『何か書く?』
『絵とかか?』
『墨も紙もただじゃ無いもんね』
「荀攸さんにお金払った方がいいのかな?」
『まぁ、がめつい人じゃないし大丈夫じゃない?』
『話を戻すとして、えーっと、じゃあ恋文とか?』
『いいんじゃない? 詰まってたしね』
『俺も書こうかな』
『あ、俺も書こうかな』
『え、皆書くの?』
『恥ずかしくないか』
『でもさ、俺達が想いを告げられるのって限られてるし』
『まして、こんな状況ならね』
『みんなに読まれるの?』
『読まない取り決めにすれば?』
「恋文かぁ……音々音に書こうかな」
『書いたことある人居る?』

この質問に、誰もが首を横に、或いは否を声にして返した。
恋文など書いたことはもちろんの事、貰ったことも無い。
これは本体に限った話しではなく、少なくとも一刀達にとって経験したことの無いものだった。
恋文を宛てるよりも確実に、直接気持ちを確かめられる距離に彼女達が居たせいでもある。
一刀は再び机に座すと、乾き始めた墨を作って筆を走らせた。

「最初はえーっと、愛するちんk……あれ?」

最初の一行目で早くも一刀の筆は止まった。

『どうしたの?』
「これって、真名の方がいいの?」
『どうなんだ?』
『わかんない』
『俺も』
『えーっと星が何か書き方云々で話してたような』
『その書き方って恋文だったの?』
『あれ? 手紙だったかな?』
『一応恋文なら真名の方がそれっぽいんじゃない? 許されてるし』
『あれ、俺は美以に会ってないよ?』
『おい、俺も翠に会ってないぞ』
『華琳なんて書いたら本体の首が飛ぶぞ、春蘭あたりのせいで』
『俺はセーフだな……』
『“呉の”とか“袁の”は良いよね』
『仕方ないよね』
『えー、不公平じゃねぇ?』
『そうだ、不公平だぞ。 本体はもっと真名を許されるべき』
「おい、無茶言うな」
『でも同姓同名の人も何処かにいるだろうし、やっぱ真名の方がいいんじゃないの?』
『真名許されてない俺はどうすればいいんだよ』
『うーん』
『とりあえず、本体は真名にすれば?』
「そっかな? じゃあ、真名にしとこうかな」

最初に中途半端な形で残っている文は、消しゴムなどの便利な道具がないので、とりあえずそのままに。
どっちにしろ、最初の一枚目だ。
失敗しても良いくらいの勢いで、一刀は一枚、書いてみることにしたのである。

『ほう……』
『うむ……』
『え……?』

が、一刀は全然集中できなかった。
何か一語を書き込むたびに、脳内から妙な頷きや吐息や疑問が漏れる。
それらは時に強く、或いは密やかに脳の中がざわめきたって、本体も気になるのか、会話に意識を割く事になってしまう。

『いや、それはちょっと』
『おいおい、恥ずかしすぎるだろ』
『いや、いっそこのくらい過大な方がいいのかも?』
『今ので麗羽が喜びそうな物なら思いついた』
「……ちょっと見ないでくれないかな」
『いや、参考にしたい』
『そうそう』
「こういうのは自分で考えろって!」
『おれ、ほんごうかずと』
『お、偶然だね、俺も北郷一刀だよ』
『奇遇だな、俺もなんだ』
「ああっ、もうっ、うるさいって」
『ていうかさ、本体の筆が進まないなら、とりあえず思いついた“袁の”が書いてみてよ』
『いいけど、本体いい?』
「……いいよ」

“仲の”の提案に本体は微妙な感情を押さえ込んで了承すると“袁の”に変わって恋文の続きを書き始める。
こうして一刀達は時に絶賛され、時にドン引きされながら、練習用の白紙が墨で黒くなっていった。
思い思いにそれぞれの感情をぶつけて、慣れない手紙を書いていた。
途中、誰もが後から見たときに顔から火が吹くのでは? と思い当たったが
場の空気を読んで誰もが言わなかった。
そして気がつけば、太陽は空の真上に差し掛かって昼食も取らずに執筆していたのである。
流石に空腹と疲れを感じた一刀は、何か食べるものが無いかと家を出る。
そういえば、霞との約束もあるのだった。

コリを解すように腕を空へと伸ばして、大きな欠伸を一つ。
結局、起きてからすぐに取り組んだ、本来の目的であるところの『歴史』については何一つ進んでいない。
そう思うと焦れてしまうが、この混乱極まる頭の中の歴史を綴るのも気がひける。
いっそ、もう『正史』を当てにするのは止めてしまった方がいいのかも知れない。
なんにせよ。

「焦ってもしょうがない、か」
「何を焦ってるのですか?」
「わっ」

自分を納得させるように呟くと、独り言のはずなのに答えが帰ってきた。
首を巡らせば何時の間に居たのか、荀攸が姿を見せていた。
一つ挨拶を交わして、どうしたのか尋ねれば一刀に話があるという。
一瞬、聞いてから食べに行こうか悩んだ一刀だったが

「話長くなる?」
「なるかもしれません」
「あ、じゃあ昼食取ってからでもいいかな? 荀攸さんはもう食べた?」
「頂きましたが」
「残念、一緒に食べれたら寂しくなかったんだけどな」
「そういうのは彧ちゃんにどうぞ」

一瞬、荀攸の声に一刀は首を傾げて、良く分からなかったので華麗に流した。

「あー、とりあえず先に食べに行ってもいいかな?」
「急ぎではありませんから、待っていても構いませんよ」
「そう? じゃあすぐに戻るから待っててよ」
「分かりました」

それだけ伝えると、一刀は手早く済ませてしまおうと足早に家から立ち去った。


―――・


一刀の言葉に頷いて、彼が立ち去ってからしばし。
荀攸はグルリと一刀の家を一周してみたり、少し開いている場所に腰を降ろして日向でボーっとしてみたりしたが
真冬となっている外は日向に出ても寒いものは寒い。 
しかも暇だった。
僅かな逡巡を経て、彼女は外よりはマシだと思える一刀の家の中で待たせてもらうことにしたのである。
一度倒れた柱も、やたら立て付けの悪い扉も修繕が終わっており、今のところ倒壊の心配もしなくてよさそうだった。
一刀の家はこの辺では珍しい家の作りであった。
倒れそうだとかみすぼらしいとかはともかくとして、扉を開けるとすぐに段差がある。
この周辺では、床を作らずに地面を均し、そのまま絨毯の役割を果たす布が敷かれているのが一般的だった。
冬のこの時期では、地面を掘って暖を取る手っ取り早い造りになっている。
が、一刀の家では床がある。
火を燃やすところも煙を吐き出すところも無いこの家で暖を取るとすれば、一刀が眠るときに使う掛け布団か、服を重ね着するしかないだろう。
事実、一刀は厳しい寒さの中を重ね着してやり過ごしている。
おかげさまで、結構室内には服が散乱しているのだが。

「……」

ぐるり室内を見回しても、目に付くのは机と寝床と服くらい。
それに僅かばかりの食器や水桶など、本当に暮らしの最低限の物しか置かれていない。
一刀がこの地にずっと留まるつもりが無い事が、室内の様子からハッキリと分かる。
そして、この場に留まるつもりが無いということは―――
そんな事を思いながら、荀攸は床に直接座るのも嫌だったのか。
一つ手で払うと服の上に正座で座り込み、一刀を待つ。
両手を合わせて息を吐き、寒さに耐えるようにしていた荀攸が、置きっぱなしにされた手紙へ視線が向くのは
そう長い時間を要さなかった。
筆や墨、机の上に置かれている道具は、自分が貸し出した物である。
見つけてから時間が凍ったように、荀攸はやや距離を置いて呆然と眺めていたが
やがてどういう心理が働いたのか、好奇心に負けただけなのか。
服を器用に前へと引っ張って、座りながらズザザザっと移動し紙を手に取った。
彼女が手に取ってから視線が流れていく速度は速かった。


―――『愛する陳k  愛する音々音へ。
洛陽を出てからはやく■も半年くらいになるのだろうか。
3ヶ月も昏倒することになったけど、俺は■■なんとか元気でやっているよ。
ふとした時、■華のの 華のように可憐な君が脳裏に浮かぶ。
早くまた、洛楊 揚 陽 洛陽でみんなと笑いあ ■■■ 麗羽 華麗な君を想うと会いたい気持ちが城壁を爆発させて大破したいくらいに膨れ上がるよ
盛極める今の時分、きっと持ち前の超新星爆発■■■ 天にある陽が爆発するような明るさと我侭で斗詩達を困らせてるのかな。 羨ましい。
また会えると信じてる。■■■■ 馬超、まだ見ぬ君と―――』

荒唐無稽に広がる文面をつらつらと読み進め、意味が分からない単語を心の中でメモしつつ
最後に曹操の名が出て節が切れているところ―――要するに最後―――までしっかり読んだ荀攸は
自然に手を額に当てて被りを振った。
まず、最初に襲い掛かった感情は自己嫌悪だった。
まさか真剣な表情で紙と筆を貸し出した一刀が書いたものが、恋文だったとは思わなかったのである。
恋文にしては何人もの真名が飛び交ってるし、一部では真名ではなく姓名で書いてあるし
文章の構成も、なんか軸がぶれてて良く分からない状態だった。
荀攸の感性からすれば、これを恋文として見るには意味不明な代物だ。
それでも愛を詠っているだろうこれを読む事は、明らかに個人の領域に触れてしまっている。
しかも、最後までしっかりと読んでしまった。
実際、最初の数行を読んだ時点で見るのをやめればよかったのだ。
勝手に恋文を読まれて良い気分がする人は居ない、少なくとも自分はそうだ。
溜息と共に机へと手紙を置いて、荀攸は一つ呟いた。

「桂花ちゃんかわいそう」

自己嫌悪の中に紛れて浮かび上がった素直な気持ちであった。
従姉妹である少女の顔を思い浮かべながら、荀攸自身も少しがっかりしている事に気が付いた。
曹操へと仕官することを勧める手紙の中に、何度も書かれた天代への愚痴。
男に対しては難攻不落極悪非道七転八倒荀文若とまで呼ばれた桂花が、一刀に対して内容はどうであれ
異常に気にかけていることは間違いないのだ。
これはもしかしたら、と荀彧を知っている者が見れば期待せずにはいられない。
そんな期待も、一刀が荀彧を気にかけていないのならば全ては淡い夢となることだろう。
とはいえ、荀彧の方から積極的に動けば一刀も一人の若い男である。
実際に数人の女性を囲い、妻として迎えている者も多いし、どう転ぶかは分からないかも知れない。
こうして荀攸は思考を年頃の少女らしく回転させ始めて、時間を潰すことに成功していた。

それは一刀が帰宅するまで続いた、らしい。


―――・


一刀が昼食をチョッパヤで終えてケツカッチンにならない内に戻ろうとしていたところ
見事に先約の霞に捕まってしまっていた。
霞自身もこの邑では暇であるからという側面があるが、一刀から日時を指定してお願いしている約束だ。
しかも迎えに来てもらっている。
流石に待たせるのも悪いので、素直に荀攸を待たせていることを伝えると

「ほな、うちも付き合おか?」

と、一緒についてくることになった。
寒い日ではあるが、柔らかな陽光が枯れた木々の隙間から差し込んで
落葉を踏みしめる独特の音が耳朶を震わす維奉の家から向かう帰り道。
両手を頭の後ろで組んで、気持ち良さそうに鼻歌をかましながら前を歩く霞を見ながら
一刀はぐるり周囲を見回した。
時折吹く風を覗けば、音の無いこの場所は静謐な雰囲気を持っている。
季節が冬であるのも、それを手伝っているのだろう。
昏倒してから三ヶ月。
意識を取り戻してから、おおよそで2ヶ月。
言ってしまえば、こんなに静かな場所で羽休めしていても良いのだろうかと首を傾げたくなる。
“天代”であった時の忙しさが懐かしいくらいだ。
この場所でもやらなければならないことは、きっと山ほどあるというのに。
歩き出す一歩は思いのほか重く、進展の兆しすら見えない。
自然、歩は淀み、そのうちに足を止めることになった。

「ん? どしたん?」
「ううん、なんかさ」
「うん?」
「なんか、こんなにゆっくりしていても良いのかなってね」
「……」

振り返った彼女にはにかみながら一刀は頬を掻いてそう言ったが、霞から答えは帰ってこなかった。
何か想うところがあるのだろうか。
一つ天を見上げてぼんやりと眺めてから、霞は再び前を歩く。
もしかしたら、前を行く彼女も同じ感情を抱いていたのかもしれないと一刀は思った。
気持ちは既に、この安穏としている邑から飛び出して勇躍することを望んでいる、と。
その気概を押さえつけているのは。

「……ねぇ、霞」
「なんや?」
「俺の我侭に付き合ってもらって、ごめんね」
「一刀、ウチは嫌なことはやらへんよ」

張遼からの返答はいやに早かった。
まるで、一刀の声を予期していたかのようだ。
もしそうだとするのならば、きっと一刀の予想は当たっていた。
歩くことを止めずに前へ進む張遼の背を見やりながら、一刀も追随してその背を追う。
落葉を踏みしめる音に混じって、そのまま張遼の声は続いた。

「一刀は付き合ってて楽しいし、一緒に訓練するのも身体を鈍らせすことない良い運動や。
 維奉もまぁ、おもろい馬鹿やし姜瑚の飯は美味いし。 この邑で過ごす日々は悪ぅない。
 ちぃっとばかし、美味い酒が足らない事と刺激に欠けることを除けばやけどな」

一刀の家にたどり着く、最後の角を曲がる。
やや急な勾配となっている坂を登りきれば、視界に入るだろう。
張遼の声に黙して、聞き役に徹していた一刀であったが立ち止まって言った彼女の言葉に顔を上げることになった。

「でも、なんかなー」
「不満かい? ……やっぱり、仕官できないこととか?」
「うんにゃ、それは別に。 ウチとしてはいつ仕官したって構わへんもん。
 そうやなくて、んー……今の一刀やね」
「今?」
「うん、時々見せるそういうところが嫌いや」

マジマジと顔を見られて、ハッキリと嫌いだと口にした霞のその言葉に、一刀は僅かに眼を見開いて驚いた。
自身の手を思わず自分の顔に当てて、張遼を見る。
彼女は一つ肩を竦めて自嘲するような笑みを浮かべていた。

「色々あるんやろうし、色々あったんやと思う。
 それはきっと、一刀もウチも変わらないやろうし、言いとうないことを聞きだすつもりもあらへんよ。
 けど、何時までもそれを引き摺ってたら悲しいやんか」
「……そうか」
「そうやで」

張遼は彼の言葉を反芻するようにして答えると、背に携えていた飛龍偃月刀を掴んで
一刀にその刀身が見えるように突き出した。
照らされた鈍い光に映り込む自身の顔。
僅かに視界をずらせば、獲物をしっかりと握り締めて立つ凛々しい顔つきの張遼が映った。

「こうしてウチも良く自分の顔、見てるんや」
「……ああ?」
「一刀も見えたやろ? その顔が治ったら、ウチは一刀のこと嫌いなとこが無くなるで」
「え?」
「そしたら、ウチの真名預けたる」

それきり、張遼は踵を返して一刀の家へと足を向けてしまった。
やや置いてけぼりにされた感のある一刀は、遠ざかる張遼の背を眺めながらしばし。
今の話に想いを馳せていたが徐々に右側の唇だけグニャリと曲がり、奇妙な顔を形成し始めた。

『なんか“魏の”とか“董の”の感情が微妙に伝わってきてキモイ』
『おい、キモイとか言うなよ』
『そうだぞ、傷つくぞ』
「……え? 今のってそういう意味なの?」
『『いや、それは分からない』』
『ていうか、霞、あの宴会の時に真名預けてたの忘れてたんだな』
『ああ、そういえば貰ってたっけ』
「ええ!? そうなのか?」
『全員ベロンベロンだったからねぇ』
『ふふ、まぁ、またもらえば良いじゃないか』
『そのニヤついた声を早く何とかしてくれ』
『恋文書ける相手が増えるからじゃ―――あ』
『『『『あっ』』』』
「ああっ!?」

自然と脳内の会話から、今の話の真意に思考を割いていた一刀達の意識が一気に現実へと戻ってくる。
書いたきりですっかり忘れていたが、机の上には剥きだしのまま練習用の恋文が放置されている。
その事に思い至った直後、一刀は物凄い勢いで坂を駆け出した。
感情の発露を思うままに書き綴ったアレは、誰かに見せられるような物では無い。
例え見られるとしても、許せるのは維奉とか華佗とか、同姓までだ。
たった今、自分よりも先を歩いていった張遼や、先に待たせている荀攸といった異性に見られるのは
きっと恥ずかしくて死ねる。

もう手遅れであることを知らずに、一刀は自宅前の坂登りタイムアタックを自己ベストで駆け上がると
後に神速と謳われる張遼が驚くほどの速度で追い越して、自らの家の扉の前に立つ。

「な、なんや!? いきなりどうしたん?」
「はぁ……はぁ……す、少し待ってて貰えないかな……」
「おかえりなさ―――どうしたんですか」

興奮したように肩を弾ませて扉を守るようにしていた一刀の背から、落ち着いた声がかかった。
瞬間、必死の形相のまま振り返った一刀の顔に驚いたのか。
一歩身を引いた荀攸は、当然のことながら家の中に居た。
凍りついた表情のまま、片方の手を広げもう片方の手を扉に手をかける一刀見て。
なんのこっちゃと眉を顰めて首を傾げる張遼を見て。
荀攸は一刀の心情と状況、そして自らの行いと反省から、一刀へ死の宣告を浴びせた。

「ごめんなさい、一刀様」
「えぇ……」
『嘘ぉ!?』
『あああああああっ』
『いやあああっ!』
『なんでだぁぁぁ!』
『ちょまっっ、ちょ』
『救いは無いんですかっ!?』
『もう終わりだぁ!』

歪んだ一刀の顔は、いつか玉座で張譲に追い出された時に酷似していた。

そんな絶望に染められた一刀へ更に無常な追撃が振りかかる。
今の不自然な行動と一連の流れを見せられて、張遼が気にしない訳が無かったのだ。
問い詰める彼女に荀攸は困った顔を一刀へと向けたが、呆然と立ち尽くす彼に助けを求めるのはすぐさま諦めた。
一刀がこうして茫然自失しているのも、原因は荀攸なのだ。
黙すること、そう彼女が決意するのに時間はかからなかった。

「すみません、秘密です」
「えー? いいやん、減るもんやないし。 ん? 減るもんなん?」
「減りませんが、秘密」
「ちょっとだけなら?」
「駄目ですね」
「えー! ずっこいで自分! じゃあ何かちょっと示唆を得るような……」
「残念ですが」

にべもなく断り続ける荀攸に、流石の張遼も目が無い事を認めたか。
矛先を一刀へ向けることにした。
ブツブツとうわ言を呟いて、壁に手をかけて頭を垂れている一刀を見て一瞬だけ躊躇した張遼だったが
湧き上がる好奇心を抑えきれずに口を開く。

「なーなー、一刀ー、ウチに何のことか教えてくれへん?」
「みんなー、おーい、俺に変わってどうするのさー」
「へ? 一刀?」
「おーい? だめだ、引きこもっちゃった、あはは、しょうがないなぁ本当に」
「あー……あかん、脳がやられとる」
「はぁぁ……」

奇しくも正しい意味で使われた張遼の呟きに続いて、荀攸の自己嫌悪を帯びた深い溜息が、寒空の下で吐き出された。


      ■ 立つ位置


“肉の”を除く全員が、一斉に動揺してしまった影響からか、随分とその復活には時間がかかったが
ようやく精神を持ち直した一刀は、差し出されたお茶を一つ口に含んで大きく息を吐き出した。
アレを机の上に置きっぱなしだったのも、この寒空の下に外で待たせることになる荀攸への配慮が足りなかったのも
だいたい自分自身の失態である。
素直に謝られてしまえば、彼女を責めるのも酷だろう。
隣で神妙な顔をしながらニヤついている張遼は別として。
残念ながら、荀攸の必死の防衛は実らずに張遼へと恋文の件はばれてしまっている。
行頭だけ読んで察したのか、すぐに読むのを辞めてくれてはいたが想像は付いたのだろう。

しかしながら、もはやこの程度の精神的苦痛で崩れ落ちる一刀ではなかった。
追い詰めたのも自分だけど。

「えーっと、とりあえずもう大丈夫、落ちついたよ」
「それならば良いのですが」
「……」
「それで……荀攸さんの話って?」
「はい、それでは……コホン」

そこで一つ咳払いをし、荀攸は一刀へ切り込んだ。
これからどうするのだ、と。
その問いに僅かではあるが、眦を下げて真正面に座る荀攸を見る。
てっきり一刀は荀攸が洛陽へ戻ると言い出すのではないかと考えていたため
まさか自分の今後に対して問われるとは思いもしなかった。
一刀は机の上にお茶を置きながら、質問の意図を噛み砕く。

良く考えてみなくても、荀攸という少女はこの邑に逗留する理由など一欠けらも無い。
蜀での勤めを果たして洛陽へ戻る最中に、たまたま一刀を発見した官吏に過ぎないのだ。
漢王朝に仕えている荀攸からすれば、王朝簒奪を企てた極悪人を見つけたと言っても良い。
意識の無い合間に通報されて、そのまま獄門に入れられたり或いは首を斬られていたりしても可笑しくはないだろう。
まぁ、今に至るまで全くその事について触れてこなかったのだから今更警戒する必要はないと思われる。

「……これからか」

一瞬、興味なさそうで居て耳をピンと張っていた張遼が呟くような声に薄っすらと眼をあけた。
一刀へ視線を一瞥し、肩を少しだけ上下させると再び瞑目する。
それに気付くこともなく、一刀は幾度と無く自問自答した質問を人に尋ねられて、改めて考える。
これから。
反董卓連合のことや、天代の風評などのことを考えれば行動を起こすのは早ければ早い方が良い。
客将として諸侯の下に身を寄せるのも難しい、自分の顔は漢王朝に於いて知られすぎている。
そうなると、一刀の選択肢は狭い。

「だいたい察しました」
「……そう?」

沈黙をどう捉えたのか分からないが、納得したように頷く荀攸に一刀は首を傾げた。
今の一連の問答で一体何が分かったのか疑問である。
怪訝な表情でお茶を飲み始めた一刀の視線に荀攸は気付いて、一つ息を吐くと口を開いた。

「これからに置いて、ある程度の指針があれば今のような顔は成されないでしょう」
「顔? ああ……そういうことか」
「私から筆を借りたように、何かお考えがあるのは分かりますが」
「そうだね」
「……私は幸運にもこの邑で一刀様に出合ったことで、幾つか選択肢が生まれました」

そう言って荀攸は自らの懐から一枚の書を取り出して机の上に置く。
思わずその書を視線で追いかければ、丁寧に封がされているし、痛みも無さそうだ。
余りに綺麗なので、届いたばかりなのかと尋ねれば一ヶ月前の物だと返された。
大事に保管されていたのだろう。
差出人は荀彧。
顔をあげれば、真面目な顔で頷く荀攸の姿があった。
その様子を見て、一刀は何はともあれ読んでみることにした。

そこに書かれている内容に一刀は眼を剥くことになる。

この書、荀彧本人が書いた物かどうかは定かでは無いが、今の朝廷に関することがビッシリと書かれていた。
天代の追放から始まった帝の突然の崩御。
謀ったかのように起きた黄巾党の反乱と西涼の蜂起。
そして、やはり劉弁と劉協の後継者争いは水面下で始まっていた。
重なった事象は全て偶然であるのかどうか、或いは何者かの手が入っていたのではないか。
そういった調査の結果の一つなのだろう。
知らず一刀は空白の知識を埋めるために、周囲を忘れて読み始めていた。

途中、一度だけ手を震わした一刀であったが、一つ息を吐き出して呼吸を整えると
そのまま最後まで読み終えた。
見計らっていたのだろう、荀攸の声が重なる。

「一刀様を邑で見つけてから、桂花ちゃんにお願いしていました」
「ひどいね」
「はい」

混乱に継ぐ混乱が、時をおかずして宮内を震わせた結果でもあるのだろう。
書かれていることが全て真実とするならば、漢王朝は宮内からボロボロに崩れ始めている。
宮内は見えないだけで酷いことになっている。
そう断じても良いだろう。

軍を統括する何進を初めとして、唐突と言っても良いほど激化した大陸の情勢に
軍部は宮内の中まで眼を配る余裕はとても無さそうであり、連続した事象に関わっている者は居ても極僅かだろう。
ただし、帝の死に関わっている可能性はあるそうだ。
崩御した後、張譲、趙忠を初めとした宦官が劉弁即位に難色を示し劉協を押すことになる。
勿論、準備を進めていた劉弁派はこれに憤慨した。
考えの足りない宦官の一人が、劉協の暗殺を企て実行に移した事例もあったそうだ。
先ほどの一刀の震えは、これにある。
今回は一人の馬鹿が暴走した結果ではあるし情勢からか、まだ宮内で血を見るような事態には至っていないが
時間の問題であると書かれていて、一刀もそれは容易に想像できた。
また玉璽に関して、新しく作られた方は処分されたそうである。
更に、宮内で片付けたはずの不自然な人事異動が始まり出し、頻繁に普段では見ないような不審な人影が
ちらほらと朝廷内で散見するようにもなっているらしい。
最後に宮内に戻らずに、曹操の下へ来いと勧誘の文にて締められていた。

手紙の内容から思わず呟いた酷いという言葉に、荀攸は同意した。
このことから、彼女の話とは一刀へコレを見せることが目的なのかも知れない。
その目的から何を見出そうとしているのか、それは分からなかったが。
書を机の上に戻して、一刀は唸るように吐き出した。

「……荀攸さんは、洛陽へ戻るか悩んでいたんだね」
「一つですね。 大規模な反乱である黄巾残党と西涼の騒動が治まるまでは、表面的にはこのまま平和を保つと思います。
 ですから、洛陽に戻る事で私自身の安全を心配するような事態には陥らないと考えてます。
 もともと皇室とは繋がりが薄いですし、首を突っ込まなければ問題もないでしょう」
「なるほど」
「次に今見てもらった書の末尾にあるように、曹操様の元へ赴くことも一つです。
 桂花ちゃんのお呼びですから心配は皆無ですし」
「それで、俺にこれを見せたのは?」
「一刀様が漢王朝に対して、どのように出るのか知りたかったのです」

ここで一刀は眉を上げて荀攸を見据えた。
なんとなく彼女の言葉の裏にある物が見えてくる。
これは、試されている。
そんな根拠の無い確信が心中に広がるのを自覚する。

「漢王朝に対して、か」
「失礼ですが、天代の身分を失って後ろ盾が何も無くなった一刀様が今出来ることは、限られています。
 このまま漢王朝に関わらず隠居して生きていくか、今の一刀様を受け入れてくれる諸侯に身を寄せるか
 自分の足で道を切り開くか、異民族の住まう地へ向かうかです」

先ほどまでの、どこか無気力を感じさせる佇まいから一変して
前髪を手で弄り、もう片方の手で選択を指折りながらゆっくりと話し始める。
一刀はこれが荀攸の軍師の顔であると、初めて知った。

「諸侯に身を寄せる、これはかなり難しいと思われます。
 漢王朝が健在な今では、一刀様を迎え入れるに当たって条件が悪すぎますので。
 次に異民族へ向かう可能性も、この邑へと逗留を続けていることから除外できます。
 残る二つですが、お顔を拝見して察しました。 立つおつもりですね」
「……ああ、そうだね」
「その場合、一刀様を追放した者の罠に嵌る事になります」
「え?」

ここで何故、宮廷の思惑が一刀にかかってくるのか分からずに素っ頓狂な声を出した一刀だが
一つ一つ、丁寧に荀攸の口から疑問に思ったことを話されて納得する。
漢王朝にとって一刀を追放すると断じた時点で、一刀そのものが汚点となった。
これを滅さずに居る事は後顧の憂いとなる事が明白で、その事に何も手を打たない筈が無い。
蹇碩の襲撃までが天代追放の一連の流れで、それに失敗した時の事を考えていないと思うのは危険だ。
簡単に推測できるのは、一刀が立ち上がったその時に、漢王朝に叛意を抱いたとして叩くこと。
その為に時間をかけて風評を操作する手間も人員も時間も、一刀を追放した首謀者にはある。

「そう、なのか」
「あくまで私の推測ですが」
「荀攸さんは、確信しているんだよね」
「はい。 それで、もう一度尋ねますが漢王朝に対して、どう出るのですか?」
「どう……」

言葉使いに乱れは無い。
ただ純粋に、本当に自分がどう立ち上がるのかを知りたい。
そんな様子が言葉の中に確かに混じっている熱で伝わってくる。
ややあって、一刀は苦笑した。
何とかして立ち上がる、その方策すら未だに思いつかない一刀ではあったが
その意気込みは何としてでも成し遂げるという決意があった。
しかし、その行動を起こせば罠が待っているという始末である。
無いかも知れないが、そんな淡い期待を抱くと痛い目を見ると経験したばかりだ。
何より、目の前で丁寧に説明してくれた荀攸の推測は、やたらと説得力があった。

「ああ……うーん、どう出るも何も、分からない、分からなくなってきたなぁ」
「……」
「うん、今さ、立ったところで罠に陥ると聞かされて、分からなくなったよ」
「怖気づきましたか?」
「ああ、うん。 そうかも知れない。 約束を守れなくなるのは、嫌だからね」
「約束、ですか?」

一刀は首を傾げる荀攸と、視線に気付いて顔を上げた張遼を一瞥して頭を掻いた。

洛陽には、少しばかり荷物を忘れすぎている。
それを取りに行けなくなる事は、怖い。
気が付けば一刀はそんな気持ちを目の前に居る二人に曝け出していた。
淡々と、一つ一つ。
荀攸も張遼も口を挟むことなく、独白に近い一刀の言葉に耳を寄せて。

「漢王朝に対して、どう立つのか。 そういうのは言ってしまえばどう立っても良い。
 俺が立つ位置が何処であろうと、天代なんて物じゃなくて一庶民でも良いんだ。
 ただ俺は……」

―――ただ俺は、あの子が家族と一緒に笑いあって、世の中が平和で回っていればそれだけで。
そんな何処にでも在りそうな優しい願いを捨てて、愛する家族と対立することになった少女を支えてあげたい。
自分を見失うほどに壊れそうな中、たった一人で駆けつけて救ってくれた。
確かな情熱を感じた音々音と、共に歩んで生きたい。

これらは言葉にこそ出なかったが、目の前の少女達にはその想いの断片がしっかりと聞こえていたようだ。
先ほど、顔から火が出る程に恥を掻いた恋文を見ていたから、それを分からせたのだろう。
 
「どっちにしろ、俺は漢王朝を立て直さなくちゃいけない。
 困難でも、辛くても、指を加えて見てるだけは出来ないから」
「……まるで、一刀様が何もしなければ漢王朝が無くなると言ってる様に聞こえますが」
「足掻かないと無くなる。 荀攸さんなら分かってる筈だよ」
「それは……」
「だから、罠でも立ち上がらなくちゃいけない。 時間がないから」

そう、時間は限られている。
たった今気が付いたことだが、荀攸がこの話をする『今』。
それが時間的猶予がなくなってきた証拠なのでは無いだろうか。
荀攸はもっと早く、一刀に仕掛けられた罠に気付いていた筈で、もっと早く邑を出ることも出来たはずだ。
少なくとも、この手紙が届いた一ヶ月前から話せた事を、今日になって話すというのは不自然である。
彼女が何を思って伏せていたのか、その理由は分からない。
それこそ、荀攸の心の整理を付けるための期間だったのかも知れない。

「荀攸さん」
「はい」
「なんで俺に話したのか分かったよ。 漢王朝に対してどう考えているのかを尋ねたのも」
「そうですか」
「一緒に救えるかな?」
「少し予想外の答えでした」
「そう?」

尋ねると、荀攸は一つ頷いてから一刀に対して片手を差し出した。
一刀はその手を取って、しっかりと握る。

「一刀様らしい答え、かも知れません」
「ありがとう」
「我が智が役立てるよう頑張ります」
「うん、頼りにしてる」

「……あかん、全然分からへん」

やや置いてけぼりを食らった張遼が、硬く手を握る二人に胡乱な視線を注いでいた。


―――・


荀攸との会話を終えて、一刀と霞は一番最初の目的。
つまるところ一刀の訓練を行うために厩舎へと向かっていた。
やたらと嬉しそうに、心なしか晴れた顔をして歩く元、偉い人が一人。
その元・偉い人の後ろを歩く霞は、顎に手を添えながら首を頻りに左右へ傾けて
気持ち良さそうに前を歩く一刀を眺めていた。
傾ける原因はもちろん、一刀と荀攸が手を握り合うまでの流れである。

もちろん、二人の間で交わされたやり取りから協力関係のような物を気付いたことは理解できる。
荀攸の立場は漢王朝の元で確立されているので、握手を交わしただけに過ぎないが
傍から見ていた張遼でも、彼女が勢いあまって臣下の礼を取るのではないかと思うほど一刀を上に立てていた。
過程も見ているのに、あの結果に落ち着いたことは霞にとって正に謎の出来事であった。

「うあーーーー!」
「うわっ、どうしたの霞?」
「一刀! なんで荀攸が一刀についたん!?」

奇声を挙げて両手で頭を掻き毟った彼女は、考えるのが面倒になったのか。
半ばヤケクソのような声をあげて一刀に詰め寄った。

「え? ああー……いやほら、分かるだろ?」
「分からへんから聞いてるんや!」
「うーん、ほら、だって、言うのは恥ずかしいじゃないか」
「恥ずかしい!? どういう意味や!」
「いや、そのままだけど」

不思議そうに張遼を見やる一刀に、彼女はしばし黙考した。
言うのが恥ずかしい。
それはどういうことか、あの場で交わされた会話に恥ずかしいところ等一つも無かった、ような気がする。
思い当たるとすれば、荀攸が差し出して一刀が読んだ書くらいである。
書と恥ずかしい。
この二つの符号が示す物は―――

「恥ずかしい……まさか、恋文っ!?」
「うっ、そうズバリと言われると照れるな」

そう、一刀が恥ずかしかったのは恋文だった、自分の。
あの恋文を見たから、自分が洛陽に残した愛しい人が居ることを荀攸は悟ったのだ。
漢王朝の為ではなく、愛する女性と大切な人の為に、自分は漢王朝を存続させると一刀は言った。

これが一刀と荀攸が手を組む決め手になったことは明白。
もしも漢王朝を滅ぼすとか、そこまで極端でなくとも敵意を持っていれば
荀攸は一刀を見捨てて去っていたことだろう。
そこから導き出される荀攸の志もまた、漢王朝の存続ということになる。
だから、二人は同じ目的の為に手を取り合ったのだ。

荀彧から齎された情報から王朝の惨状を知り、荀攸は漢王朝の存続を成し遂げることは困難を飛び越えて、至難であることに気が付いた。
その時点で荀攸は『元・天代』という職に在った一刀に期待をしたのだろう。
身内である荀彧からの信頼できる宮内の情報と、一刀から聞かされた追放までの経緯、残して来た劉協との関係を加味して考えて
一刀が漢王朝に返り咲く可能性に賭けた。

本人の口からハッキリと聞かされた訳でもないし、一刀の勝手な推測でしかないが
脳内からも曖昧な同意を頂戴したので、そう的外れな考えでは無いのだろう。
とにかく、宮内でも活動できる官吏を一人、味方につけることに成功したと言える。
しかも歴史に名が残るほど有名な知者だ。
一刀が嬉しいのは、その事実だった。
意識を取り戻してから2ヶ月余り、ようやく再起の為の最初の一歩が踏み出せた気がしたのだ。

嬉しさに笑顔を見せる一刀に、ようやく合点が行った霞は左右に揺れていた首を、今度は上下に揺さぶっていた。
恋文。
それが荀攸が一刀に付く決定打となるのならば、非常に単純で明快な答えであったから。

「なるほどな~、うんうん、そういうことなんやな~、一刀も男やし、嬉しいのも分かるわ~」
「うん、まぁ、そういうことなんだよ」
「ああ見えても大胆やなぁ、目の前にウチが居たのに……愛は偉大ってことなんかな」
「ははっ、そうハッキリと言われると余計に恥ずかしいな」
「せやけどな、一刀」

わざわざ一刀の前まで飛び出して、ガッシリ彼の肩を掴んで見据える。
張遼の表情はいやに真剣実を帯びていて、一刀は驚きながらも口を開いた。

「張遼さん?」
「一刀が心に決めた女性、居るんやろうけど、荀攸も乙女や! ウチの友人でもある。 大切にせぇへんとあかんで!」
「そう、だね? 荀攸さんも、もちろん俺の大切な人だよ」
「おおっ、格好ええ事言うやんかー!」

力強い答えに満足するように、張遼も笑顔を見せて一刀の肩を叩いた。
何故かいきなり上機嫌になった張遼を訝かむ一刀だったが、一刀も気分が高揚しており
一緒になって喜んでくれるのは、とても心が弾むことだった。
故に、一刀も深くは気にせずに肩を並べて機嫌の良い張遼と厩舎へ向かう。

「うっしゃ! 気合入って来たで! 一刀、ちゃんと力を付けてしっかり(荀攸を)守れるように気ぃ張り!」
「はは……ああ、そうだな! (音々音や劉協との約束を)守れるようになる為に、頑張らないとな!」

その日から張遼の訓練は、通常の三倍で行われて地獄を見ることになる一刀の姿が見られるようになった。


余談だが、荀攸と張遼に見られたからか。
開き直ったように荀攸へと恋文の書き方を尋ねた一刀は、あれやこれやと口を出されて愛を謳う一枚の手紙を作成する。
こうして一刀の指導に付き合って深い愛を目の当たりにした荀攸から、荀彧へと手紙が送られたそうだ。
その手紙は一刀の事を除いた近況報告と、曹操への誘いに断りを入れて、末尾に荀彧を励ます文で締められていた。

「側室なら多分なんとか、応援します」 と。

荀彧はしばし末尾の内容に首を捻ったが、やがて曹操との関係であろうと当たりをつけて

「側室? 本命以外ありえないわ、安心しなさい」

そう返信したそうな。


      ■ “頭”が


季節は冬を越えて、多種多様の花が野に咲き始めた。
相変わらず一刀の生活に大きな変化はない。
が、懐に入ってくる情報は激変していた。

協力関係を結んですぐに、洛陽へと足を向けた荀攸は実に様々な情報を仕入れてきた。

帰ってきてすぐに一刀の家へと訪れて、洛陽に出向いていた間に増えた座椅子とちゃぶ台で向かい合う。
彼女が持ってきた情報の中で一刀が一番に食いついたのは、呂布の行方であった。

「あー、それで董卓さんの所に行ったんだ」
「天下無双も人の子という事でしょう」

恋は一刀を追いかけて蹇碩を討ち取った後、右往左往した挙句に長安付近で保護されたそうだ。
保護、という言葉を使ったのは、恐らく食べ物に困ってぶっ倒れたと想像できたからである。
何にせよ恋が董卓の元に身を寄せたのは間違いがない。
恐らく、墓参りに行ったことも素直に身を寄せる一端を担ったのだろう。

「そっか……反乱を抑えたのも、彼女の加入が大きいんだろうな」
「でしょうね。 噂にもなっていますし」
「反乱軍5万人を一人で撃退だっけ?」
「ええ、噂を利用して牽制する為に、随分と誇張しているとは思いますけど」

また、宮内では何進が宦官に甚く腹立てているという話も聞いた。
元より進めていた劉弁の話が、宦官の気紛れによって妙な形に変わったことで声を荒げているそうだ。
特に、張譲と趙忠を初めとした十常侍が、真っ二つに劉弁と劉協に分かれたようで
この問題は何時まで長引くか予想が付かない。
何より、いつ何進が行動を起こすか分からないほど切れているそうなのだ。
理由は―――

「一刀様を追い出した経緯を、知っているからでしょうね。
 宦官の行動が勝手に過ぎるように見えて、余計に腹立たしい思いを抱いているのでしょう」
「そう……」

この話を聞くに一刀は複雑な想いを抱かずには居られなかった。
とはいえ、この場所で気を揉んでいても何が出来るわけでもない。
雌伏の時を待つと決めたからには、一刀も下手に動くことはしないつもりである。

「……えーっと、他にですね」
「ああ、いや。 ねねや劉協様の事が分かっただけで、とりあえずは良いよ。
 戻ってきたばかりで疲れているだろうし、細かい事は後でも構わない」
「そうですか? じゃあお言葉に甘えます……あ、金獅さんは戻しておきましたので」
「ありがとう」

洛陽へ戻る際に、一刀は荀攸へ金獅を貸していた。
下手な馬よりもよっぽど速いし、体力もあるので、洛陽までの道は随分と短くなった事だろう。
この地で遊ばせているよりは、マシだろうとも考えての判断だ。
頭を下げて踵を返した荀攸を見送って、一刀は邑の中心部へ足を向ける。

家の目の前にある坂を下って見える雑木林を抜けて、“訓練”を行うために目的地を目指す。
その目的地に、もう快活なあの子が居ることはない。

「今頃、仕官できてるのかな」

そう、張遼は既にこの邑を離れて旅立った。
自らの夢と志を胸に。
荀攸が戻る10日ほど前に、一刀の下に来て報告されたのだ。
そろそろ行く、と。

一刀は維奉に相談し、送別会という名の宴を開いた。
彼女の大好きな酒を、浴びせるほど飲ませて盛大に見送ったのである。
何処へ行くのかも聞かなかったが、荀攸の話を聞くに放って置いても董卓の下へ向かいそうだ。
なんてたって、彼女は武将だ。
天下無双の噂を聞けば、霞は我慢できずに大陸一の武を体感しに出向くことだろう。

荀攸から貰った情報を加味して、近況をまとめていると何時の間にか広場へ辿りつく。
そろそろこの邑に身を寄せてから半年を迎えているので、流石に見慣れた景色になってしまった。
のどかな風景。
平和を享受する邑の人々。
駆け回る幼い子供たち。
工具片手に、梯子を上る青年。

そして、中央に陣取るふんどし一丁な筋骨隆々な男が二人。

「ブハッ! げほっ、えほっ!」

いつかも見た、邑にとって異様な光景を眼にして、一刀は思わず咳き込んだ。
相変わらずフンドシと『悩殺』と書かれた看板以外は何も身に付けていない。
そのまま眼を背けて知らぬ振りをしたかった一刀だが、男達の目の前に居る一人の少女がそれをさせなかった。
維奉の妻となった、姜瑚が半裸、いや、ほぼ全裸の男達の前でなにやら会話をかわしていたのだ。

『……一応、見ておいた方がいいよね』
『そうだな』

前に現れた時も、別段何事もなく去っていったようなので記憶の彼方に置いてきたのだが
悩殺ブラザー(仮)が今回も同じように何もしないで居るとは限らない。
脳内の声に同意を返して、一刀は姜瑚を視界に捉えつつ、会話の聞こえる距離に移動した。
近づけば近づくほど、彼らはなんというか、男らしい。
いや、男臭い。
存在感だけならば竇武と陳蕃に引けを取らないだろう。

適当な石段を見つけて座り込むと、一刀はそわそわと落ち着かない様子で耳を欹てた。

「それで追い出されたんですかー」
「おうとも。 まったく、母者も姉者もケツの穴が小さくて困る!」
「事故だったのだから仕方ないと何度言っても怒るのだっ! 怖い」
「怖い」
「あはは、馬鉄さんも馬休さんもそんなに厳ついのに怖いなんておかしいです」

ハッキリと聞こえた二人の男の名前に、一刀が脳内へと問いかけようとした瞬間だった。
逆に脳内から怒声のような叫び声が、頭痛を伴って響く。

『ふざけんなぁぁぁぁ!』
『おいっ!?』
『“馬の”!』

「うがああああああ」

その慟哭は、本体の意志を無視して“馬の”に入れ替わった。
突然の奇声と共に、勢い良く立ち上がった一刀は何も眼に入らずと言った様相で、馬鉄と馬休の下に向かう。
当然、彼らは一刀の存在に気が付いて、姜瑚は驚いた様子で声を掛けた。

「み、御使い様?」

そんな彼女の声をしっかりと無視して、二人の男達へと詰め寄る。
もう一歩踏み込めば、身体が接触しそうな程の距離に至るまで、瞬きする間に。
“肉の”影響もあってか、鼻息も荒く、一刀の表情には明らかな怒気も含まれており
さしもの馬鉄と馬休も戸惑いを抱いて声を荒げた。

「な、なんだお前!」
「やる気か!?」
「おま、おま、お前ら本当に鉄っちゃんと休ちゃんか!」
「ああ? おう、確かに俺は鉄だ!」
「そして、俺が休だ!」
「……馬……鹿な」

二人が猛烈な勢いで近づいた一刀に、胸を張って親指を差しながら名乗ると
一刀は顔を歪め、突き出した両手を投げるように前方へ突き出し、そのまま頭から地に伏した。
鈍い音を響かせて倒れ伏した一刀を囲んで、周囲は凍りついたかのように時が止まった。
先ほどまでの猛烈な勢いは幻だったのでは、と思えるほどの見事な脱力である。
果たして、一番に声を挙げたのは馬休であった。

「こ、これは……猛虎落地勢っ!」
「見事すぎて言葉を失ったぞ……」
「……あの、御使い様大丈夫ですか? 頭」

『おい、どうすんだコレ』
『“馬の”がおかしくなった』

ピクリと動かない一刀の中で、人知れず本体に主導権が戻ってくる。
自分の妙な体勢になにやら盛り上がる男達はともかくとして、心配させてしまった姜瑚には声をかけるべきだろう。
心の中で今の出来事を整理しながら、ゆっくりと身を起こす。
口を開きかけた本体はしかし、声をかけることは出来なかった。
脳内に戻ってきた“馬の”から衝撃的な発言が飛び出して。

『……女の子だったんだよ』
『うん?』
『何がさ?』
『鉄っちゃんも……休ちゃんも……女の子、だったんだよ……』
『え?』

搾り出すように震えた声で、“馬の”は告白した。
本体含めて『だった』という言葉を正確に理解すると同時、余りの残酷さから黙してしまう。
外史の歪みということだろうか。
余りに無慈悲な現実に、“一刀達”ですら、どう声を掛ければ良いのか分からない。

「……」
『……』
『あぁ……えーっと』
『サイドポニーとツインテール……メイド服のさ……あ、はは、そうか、これは夢だ』
『落ち着け! これは夢じゃない!』
『うわあああああっ!』
『馬鹿っ、錯乱させてどうする!』

再び吹き上げる激情から本体と入れ替わった“馬の”は、一瞬だけ馬鉄と馬休を一瞥すると
近くに聳え立つ木々に頭から突っ込んでいった。
流石にこれには全員が唖然とし、同時に一刀が狂乱していると判断する出来事であった。
慌てて二人の男が一刀を取り押さえ、姜瑚は天医である華佗を呼びに走り始めた。

「ハッ! そうか、これは夢だ」
『落ち着け! これ、あ、夢だよ!』
(俺の身体がーっ!)
『そうだ! 夢だから安心しろ!』
「夢なら覚めろ! 夢なら醒めれば良いっ!」

左右に挟まれ、両腕をガッチリとホールドされる一刀は引き倒されながらも
今度は喚きながら地面に自らの頭を叩き付け始める。
身体の制御権も、とても奪い返せそうにない。

『おいやめろばか! 夢じゃないぞこれは!』
『本体が死ぬっ!』
(あああああああー!)
「ええい、思ったよりも力が在るぞ! 押さえつけろ!」
「ふぬぬぬぬぬ!」
『こうなったら馬鉄さんと馬休さんを応援するしかない!』
『頑張れ鉄っちゃん! 頑張れ休ちゃん!』
「うわああああああ」

一刀がまともに落ち着くまで―――“馬の”が“肉の”に意識を落とされるまで―――この騒ぎは続いた。
それは、二人の大の成人男性が汗だくになって必死に抑え、ようやく引き止められた惨状であった。
頭からダラダラと流れ頬を伝う血を一つ触って、本体は呻いた。

「痛ぇ……」
『なんですぐに殺らなかったんだ! “肉の”!』
『ごめん、触れ合いが……いや、じゃなくて、つい遅れた』

見上げた空は、真昼間だというのに赤く染まって一刀の視界に映していた。


―――・


一方、姜瑚は頭が大変な事になっている一刀の為に華佗の住む家に駆け込んだ。
荒い息を吐き出して現れた姜瑚に、華佗の視線と一人の少女の視線が向けられる。

姜瑚が一瞥すれば、幼い体躯に似合わぬ槍を、その背にぶら下げていた。
布の頭環で掻き揚げた茶色い髪が後ろで一つに纏められ、馬の尻尾のように揺れている。
明るい橙色の上服を身に纏い、太腿のあたりまで伸びた白い布地から、瑞々しい白い肌を見せていた。
活発な印象を与える少女は、この邑に住む姜瑚にも見覚えはない。
すぐに華佗と相対する彼女が、よそ者であることを知った。

なんにせよ、今は一刀の頭の危機である。
顔を上げて華佗を見れば、姜瑚の様子から何かを察していたのか、落ち着いた頃を見計らって口を開いた。

「どうした、急患か」
「うん、頭がおかしい感じで!」
「頭が? 良く分からんが、急ぐんだな」
「はい、お願いします!」
「分かった。 馬岱殿、すぐに戻るのでここで待っていてくれないか」
「あ、はい、分かりました」

少女に断りを入れた華佗は、ほどなく一刀の下に駆けつけて治療はすぐさま行われた。
これが、一刀と馬一族との波乱の出会いとなるのであった。


      ■ 馬家へ


その場所は夥しい数の人影で埋め尽くされていた。
地平線が見える荒野に柵が立てられ、その内側を覆いつくすように槍と弓を持って立つ人馬の群れ。
漢王朝に反乱を企てた、西涼の雄。
辺章と、韓遂の陣内であった。

「糞、赤毛の女、邪魔だ」
「まったくさね、困ったもんだよ」

天幕の中で苛立ちを隠しもせず、卓を叩くのは辺章だった。
一つ首を振るたびに、モヒカン頭からぶら下げた後ろ髪が揺れる。
その手に抱いた杯が軋むほど力を込めて、呪詛のように吐き捨てていた。

「……赤毛女、排除したい」
「まぁ落ち着きな、辺章。 それに、赤毛女ってのは辞めてくれないかい?
 私も赤い髪なんだから……あっちの赤い髪に関しては、我に策ありってやつだ」
「何をすれば良い」
「だから落ち着きなって、せっかちは嫌われるよ」
「分かった、我慢する」

一つ荒い息を吐いて、辺章はどっかりと椅子に腰掛けて瞑目した。
そんな彼を生暖かい眼で見やりながら、妖艶に微笑むのは酒で満たした杯を無意味に揺すりながら話す韓遂である。
天幕に備え付けられた、この陣の中でも一等高価な寝台に寝転がり
揺れる酒の水面を見つめながら、韓遂は自身の中で思考する。

それは辺章からすれば、長い一時であったが、我慢に我慢を重ねた彼が口を開くことはなく
彼にとってようやくと言える時間をかけて、韓遂は身を起こし口を開いた。

「まぁ、まずは失った戦力を取り戻すことから始めるとするか」
「どうやってだ?」
「この西の大地で、未だに傍観を決め込んでる野朗が居るだろ?」

口の端を曲げて、韓遂が答える。
しばしお互いに見つめあい、やがて理解に至ったか辺章は頷いた。
理解に至ったのを把握して、韓遂は辺章に合わせる様に口を開いた。

「「馬家」」

「可能か?」
「馬家が漢王朝に仕えてることが心配かい?」
「……いや、お前、頭が良い。 頭が良い女、俺は好きだ」
「頭の悪いあんたに言われても嬉しくないね。 はっ、まぁ見てな」

そこで韓遂は杯に満たした酒を仰いで、一気に飲み干すと空になった器を投げ捨てた。
陶器で作られた杯は、甲高い音を響かせて粉々にくだける。
口の端を拭いながら、妖しい瞳を燦爛とさせて、韓遂は辺章に言った。

「我に策あり、だ」


季節は春を迎え、いよいよ彼女達の動きは本格化しようとしていた。


      ■ 外史終了 ■






[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編3
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/31 21:49
clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編1~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編2~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編3~☆☆☆








      ■ 結末のひとつ


ああ、そうだった。
ぼんやりとしたイメージが明確な輪郭を帯びて、一刀はようやく理解に至る。
風に流れて靡く纏められた長い髪が、快活さを見せて破顔する笑顔が、ハッキリと映し出されていく。
健康的なその肢体も、一刀にとっては既に見慣れた物であるはずで。
自分が降り立ってからずっと傍に居て、当たり前のように存在していた彼女の姿。
そうだ。
こんなところで這い蹲っている場合ではなかった。

意識を取り戻した一刀が薄く眼を開ければ、飛び込んでくるのは粉塵を上げる戦場だった。
けたたましい馬蹄が、剣を交える甲高い音が、誰かの怒声や悲鳴が折り重なって轟音となっている。
一刀の周囲には人の気配はしなかった。

「……っ」

反射的に身体を起こせば、背中や足に大きな痛みが走る。
視界も赤く染まり、随分と狭い。
ともすれば、グラリと世界が歪んでそのまま倒れこみそうになってしまう身体を、一刀は必死になって片手をついて支えた。
鋭い痛みが全身に走ったせいかは分からないが、ようやく経緯と状況を思い出せた。

この一戦は、大陸の趨勢を決定付ける物であると誰もが理解している大きな物であり
当然、馬騰軍に所属する一刀も覚悟を決めて、相手―――袁紹を下した曹操軍―――に対して準備を進めてきた。
そして、必ずとは言わないまでも勝算はあったし、自信もあった。
華北を制した曹操軍と、中原を支配した馬騰軍。
気炎を上げて激突した両軍がぶつかりあったのは、戦前の予想通り官渡。
川上から攻めあがる曹操軍を受ける形で始まった戦いは、激突してから3日という短い期間で急変した。

『―――ば、馬超将軍が討ち取られました!』

勢いを増して攻め立てる曹操軍、その鼻っ柱を圧し折る為に馬騰軍が砦を出て迎え撃った日であった。
一部隊を率いて、野戦の指揮を執り行っていた一刀に齎された報告。
それは一進一退の攻防を繰り返していた両陣営の勢いが、一方に傾いた瞬間となる。
突然の凶報に混乱して、自らの動揺が部隊全体に広がっていった。
指揮官としてはあまりに不甲斐ない失態を毒づく暇も無く、一刀の部隊は夏候惇の部隊によって、瞬く間に貫かれたのである。

結果として、一刀の今の状態がある。

「くそっ、ちくしょう……」

考えてみれば、その報告は余りにも突然で偽の報告であることも十分ありえた。
確かに相手には猛将も多く、この戦の規模は余りに大きい。
互角の攻防を繰り広げていたせいで、不安が募っていなかったといえば嘘になる。
何よりも、戦場に出ていればどんなに強くても討ち取られる可能性はある。
それを、覚悟していなかった。
いや、していたつもりだったのだ。

意識がハッキリと浮上するにあたって、一刀は痛みよりも自らに対する怒りの感情が激しく浮かび上がっていく。
怪我をしているのを忘れているのかと思う程に、自分への悪態を交えながら立ち上がる。
今、自分がすべきことは拠点へ一刻も早く帰ることと、翠の安否の確認だ。
傍目からは覚束ない足取りで、動けそうな馬を捕まえると一刀は不器用に跨って走らせる。
帰ること。
他のことには一切眼もくれずに、ただただ真っ直ぐに自らの戻るべき場所へ。
自分の部隊を貫かれ、その戻るべき場所には敵が居ると言うことすら失念し、一刀は手綱を振ってただひたすらに駆けた。

内から発する身体の熱が鬱陶しい。
汗だろうか、背中にこびりついた布が風に煽られて寒気すら覚える。
流れて行く歪んだ視界、ぼんやりと霞んで働かない頭。
そうして走らせた一刀が、馬から零れ落ちるのにそう長い時間はかからなかった。

一瞬の浮遊感を経て、気付いた時には一刀は天を仰いでいた。
憎らしいほどに晴れた青い空が、漂う粉塵を切り払って、歪んでいた視界の中でハッキリと映し出される。
太陽から迸る光すら、眼を細めることなく一刀の瞳に刻まれていた。

―――次があれば。

次があるのならば。
それが一刀の胸の内に走った、刹那の感情であった。

一瞬であるはずの空中への停滞が途轍もなく間延びして。
視界は白い光で溢れていて。
嵐のように荒れ狂った感情が、口から突き上がり―――

「二度と―――ッ」

そして、一刀の身体は地面へと激突した。


―――・


「うわあっ!?」
「わああっ!?」

金獅の馬上で身体を震わせて、切迫したような、驚くような一刀の声が荒野に響く。
突然の大声に驚いたのは、一刀の前で馬を歩かせている馬岱だ。
何事かと振り返れば、目頭に手を当てて頻りに首を左右へ振っている一刀が見える。
別段、彼の隣に在る荷物が崩れているとか、落馬したとか、彼女が思い描いていた光景が繰り広げられている訳でもなく
馬上に跨る一刀の様子以外は、至って普通だった。
手綱を引いて速度を落とし、馬岱は今もまだ空を仰いだり、自らの胸に手を当てて深呼吸する一刀の隣に付くと
窺うように覗き込む。

「お兄さんどうしたの、急に」
「ああ、あ、いや、何でも……ごめん、なんでもないんだ」
「そうなの? あんな大声あげたのに?」

訝かむように片眉を上げた彼女だが、一刀が言った事は事実だった。
ごく普通に馬を歩かせていただけで、どうして急に寒気のような、身を焦がすような感情に捕らわれたのか全く分からない。
ただ、ハッキリしているのは外に聞こえるのではないかと思えるほど波打っている心臓の音と
まるで高山に放り出されたかのように息苦しくなった呼吸が、自分の中で何かが起きたと確信させていた。

「ああ、気を使わせたみたいでごめん、本当になんでもないんだ」

僅かに震えているその言葉は、客観的に一刀の様子を見ている馬岱にも明らかに様子がおかしいし
額に張り付いた多量の汗も相まって、全然大丈夫そうには見えないが本人が大丈夫だと言っているのだ。
彼女は無理やり納得して放っておくことにした。
覗き込むことをやめた馬岱は、懐から黄色い布を取り出して口を開いた。

「まぁ、何もないなら良いんだけど、ほら。 汗拭いたほうがいいよ」
「え、あ、ありがとう」
「なんだかお兄さんって不思議な人だよね。 会った時は頭をカチ割ってたし、今も変な声をあげていたし」
「う、それは、えーっと」

差し出された布を戸惑いながらも受け取った一刀は、続く馬岱の声に思わず否定しようとして出来なかった。
彼女と会ったのは、“馬の”が凄惨な事実を目の当たりにし発狂した直後であり、華佗の治療を受けている最中であったからだ。
馬岱、という名前から分かるとおりに、自分達よりも先を歩く馬鉄と馬休の従姉妹にあたる。
自分が怪我をした理由は、バッチリ彼女にも伝わっているせいで狂ったように頭を打ち付けていたという事実は誤魔化せない。
こうして邑を出るまで話す機会が無かったせいで、今の奇声が出るまで大した会話も出来なかった。

ファーストコンタクトは頭を打ち付けて自傷する男。
セカンドインパクトは突然奇声を上げて脂汗を流す男。

一つでも十分なのに、狂った人間と判断されておかしくない行為をニ度続けて披露してしまったわけだ。
本音がどうなのかは分かる術も無いが、この二つの行動に対して“不思議な人”で済んでいるのは
ひとえに馬岱という少女の優しさだろうか、それとも慎みだろうか。

二の句を告げずに黙り込んだ一刀に、馬岱は肩を竦めて話題を変えた。

「あのさ、天医様とは知り合いだったの?」
「あ、うん。 華佗とは友達なんだ」
「じゃあお兄さんは漢中……ごっとべいどーの人?」
「違うよ。 俺は天……」

そこまで言って、一刀は口を噤んだ。
自分は一体どこの人間かと言われたことは、天代であった時に良く聞かれた質問の一つだ。
この時、“天代”たる自分が返答に用いたのが天から来たという物であった。
風評にも関わっていたので、対外的には基本的にこう返していたのだ。
が、今それを言うとまずいことになる。
天から来た者など、“天の御使い”以外には畏れ多くて言えたものではないからだ。

そもそも、天という単語事態、皇帝を指す言葉の一つとして捉えられている。
迂闊に言って良いものではない。
それこそ、“天の御使い”でなければ不可能なことだった。

「えーっと、その、俺は陳留のあたりからかな」
「そこで天医様とも会ったんだ?」
「うん、たまたまって感じでね」
「病気だったんだ?」
「うーんと、まぁ、そうだね」

思い出すように一刀は腕を組んで頷いた。
確かに彼との関係は、自分が大怪我をして助けて貰ったのが始まりだ。
そうして頷いた一刀に、馬岱は身体を寄せて彼の肩を励ますように二度、三度叩いて。

「っと、どうしたの?」
「大丈夫、きっと治るよ。 ごっとべいどーの天医様っていったら何でも治せる名医って聞いてるもん。
 頭でも、おば様の病気も……きっと。 うん、頑張ってねお兄さんっ!」

凄く明るい声でそう言い放った。

「え?」

やたらと優しい眼を向けて励まされて、一人頷きながら元の場所へと戻るように馬岱は馬の速度を上げた。
唐突な彼女の行動に、一刀は最初こそ理解が出来なかったが、ふと気付く。
要するに、さきほどの『不思議な人』は優しさと慎みを兼ね備えた彼女の配慮だったという事らしい。
ようやく一刀の口が、力ない呟きを交えて開かれた。

「……違うんだ」
『いや、ある意味、完全に当たってるよ』
『うん、頭おかしいよね俺ら』
『馬岱さん、鋭いね』
「なんか、すっげぇ理不尽だけど否定できないのが辛い」
『とりあえず、今の会話は“馬の”には内緒な』
『おk』
『把握した』

ちなみに彼女の誤解を招いた原因を作った“馬の”は、精神的ショックから引き篭もりの状態が続いており
“肉の”を筆頭にして声をかけあい、精神の安定を図っているところである。
経過は順調で、もうそろそろ復活するだろう。
復帰直後に馬岱の言葉を今の“馬の”にぶつけることは危険だと思えた。
また意識の闇に引き篭もられても手間なだけである。

『まぁ、馬岱さんの誤解はその内といてあげれば良いよ』
『そうだね。 時間はあるし』
「他人事のようで、自分のことだから困るんだよなぁ」
『ていうか、解けるの?』
『誰かなんとかするだろ』
『他力本願すぎ、本体頑張れ』
「また俺か!?」
『本体なら……北郷一刀ならやれる……っ!』
『お前が言うな』
『お前が言うな』
『お前が言うな』
『お前が言うな』
「いや、もう、俺が悪かったから、ばよえーんの連鎖みたいなのはやめてくれ」

無限ループに突入しかけた突っ込みに、慌てて制止して一刀は溜息を吐き出した。
不毛な争いに入る前に、先ほどの身体の変調に対して意見を聞こうと口を開いたが
本体よりも前に彼らが振ってくれた。

『で、どうしたんだ突然』
「ああ、いや……それが本当に良く分からなくて」
『白昼夢とか?』
『もしかしたら、維奉さんの電波とか……』
『ああー、そうだった。 あれはマジなのかな?』
『目が本気だったよな』
『本気だったね』
「本気だろうなぁ……」

流れるように変化した話題に、本体は僅かに眉を顰めたが彼らの話に乗っかることにした。
そう、邑を出る前に一刀は残ることになった維奉に見送られたのだが
その時の彼の言葉が、実に想像の埒外の物だったのだ。
維奉、曰く。

「御使い様、俺ぁ手も失っちまって何が出来るのか考えて考えて、ハゲちまいそうなほど考え抜いて
 ようやく分かっちまった。 まぁ、もともと頭は薄かったんですがね。
 とにかく俺がこの世に生まれて、この先御使い様の役に立てれるとしたら、何が出来るのか。
 そう! “天の御使い”の“道”をみなに教えることっす!
 俺ぁ天道教を啓く為に、生まれてきたんすよっ!」

と、握りこぶしを作って物凄い笑顔を向けながら力説されたのである。
もちろん、下話も何にも無い。
突然の決意表明だった。
結局、許可を求められて有耶無耶のうちに飛び出してきてしまい―――止めてくれとは言っておいた―――訳だが
邑に戻ったら自分の銅像が立っていたりしそうで怖かった。
現状でそんな宗教を興したら、黄巾のことも重なってマッハで潰されることだろう。
そうなれば無関係の宗徒や邑の人々に無用な危険を呼び込んでしまうはずだ。
そうした説明も、もちろん維奉にはしてあるし頷いてくれてもいたのだが不安は募る。
意気込みが半端でないことを、維奉の全身から感じ取ってしまったからだ。

「……もし大々的に広まったらどうしよう」
『その時は……』
『その時は?』
『誰よりも先に荀攸さんからぶっ飛ばされるな、きっと』

同意するように、金獅の短い嘶きが荒野に響いた。


―――・



まだ春を迎えたばかり、朝と夜は随分と冷え込む季節だ。
こうして昼に吹き付ける風は、生ぬるい。
陽が出ていればそれはそれは、昼寝するに丁度良い気候になってきたと言える。
今日もまた、目的地を目指して荒野を歩いていた。
一刀の隣ではガラリガラリと、地面を踏みしめる車輪の音が響く。
思いのほか、大人数での移動となってしまった為に馬を用いて荷物を運んでいるのだ。

既にこの地に降り立ってから1年以上。
馬の扱いも随分と手馴れてきたとはいえ、何日も馬上の上で過ごすことにはやっぱり慣れない。
我慢出来ないほどではないが、数日も馬上で日々を過ごせば疲れもたまる。
手綱を緩めて、コリを解すように自らの肩に手を当てるとゆっくり揉みしだく。
先導するように前を行くのは、つい先ごろ知り合った馬鉄と馬休。
その後ろに華佗がついていっている。
自分を挟んで、後ろからゆっくりと付いてくるのは馬岱と荀攸だった。

こうして荒野を歩くことになった経緯は簡単だ。
容態の優れない馬家の主、馬騰の治療をして欲しいと馬岱から要求されて華佗が頷いた。
言ってしまえば、一刀と荀攸は華佗のオマケみたいなものである。
もちろん、華佗と共に馬家に向かうのには一刀にも理由がある。
これが諸侯の一人でなければ、向かう事は無かっただろう。
表舞台、つまり自分が立ち上がることはなくとも、周辺諸侯との繋がりを持っておくに越した事はない。
いずれ明確に自分が行動を起こすであろうその時、諸侯との友誼を結んでおくこと。
プラス面にもマイナス面にも転がる可能性はあるが、それは畏れることではない。
分からない未来に怯えて飛び込んで来たチャンスをふいにすること程、馬鹿らしいことは無いのだから。

打算とは無関係のところでも、華佗に付いて行くことにしたのは当然ながら“馬の”の為でもある。
馬鉄と馬休のこと―――外史の影響だろう変化―――で生きる意味を失いかけた“馬の”も
昨日、ようやく再起動を果たして馬岱の姿を認めて感涙していた。
その際、本体にも激情から影響が出ており人知れず涙と鼻水を流すことになったのだが、それは余談だ。
とにかく“馬の”に関わらず脳内に居る自分達の想いがそれだけ……そう、自分にとって音々音との想いと代わらないほどの物だと理解はしている。
だからこそ、“馬の”を変に慰めることもしないし、茶々を入れることもしなかった。

「そろそろ飯にするか」

眠たい眼を擦り、おおきな欠伸を一つかましたところで、前を行く馬鉄から声が上がる。
誰とも無く頷いて、馬から下りると、一刀達はいそいそと昼食の準備をし始めた。
ふと気が付くと、馬を下りた直後には居た筈の華佗と、荀攸の姿が見えなかった。

「あれ?」
「おい、一刀。 炊き出しをするから木材を運んでくれ」
「え、ああ……分かったよ」

水か何かを汲みにいってるのかも知れない、と思いつつ一刀が馬鉄の声に頷く。
ほどなく炊き出しが終わろうかという時になって、華佗達は戻ってきていた。
自分の準備を終えた一刀は、それとなく近づいて尋ねる。

「華佗、どこに行ってたんだ?」
「ん、ああ。 荀攸殿から馬騰殿の容態について確認していたんだ」

言われて一刀は納得する。
先ほど、荀攸は馬岱と談笑するようにして馬を並べて歩いていたのを見ていたからだ。
一刀は自身の疑問が氷解すると、華佗へと食器を手渡した。

「そんなに悪そうなのか、馬騰さん」
「まぁ診てみなければ何とも言えないが、話を聞いた限りでは良くは無さそうだな」
「うん……そうか」
「まぁ、話はそれだけじゃなかったんだが」
「?」
「いや、まぁ気にしないでくれ」

僅かに顔を顰め自分の見つめる華佗に、一刀は首を捻ったがとりあえず言われたとおり気にしない事にした。
それよりも、気になるのは馬騰の方である。
諸侯との繋がりを持つために、付き添いという形で向かっている一刀からすれば
馬騰の容態は良いに越したことはない。
華佗の診断次第ではあるが、こうして向かったは良い物の、会話することすら出来ないというのも可能性として在り得るからだ。
もちろん、馬岱や馬鉄たちと知己になれたことは無意味ではない。
しかし、彼女達も親族であり主と仰ぐ馬騰の判断で動くことになるのだ。
そんな事を思いながら華佗と話していると、ふいに水を向けられた。

「馬騰殿の事は俺に任せてくれれば良い。 それよりも、一刀は平気なのか?」
「なにが?」
「一刀は罪人だろう」
「あぁー……確かにそうなんだけど」

ぶっちゃけるとこの辺は曖昧である。
何が曖昧であるかといえば、一刀が中央から追放されて、王朝簒奪の罪に問われた犯罪者であること。
それが何処まで世間に広まっているのかの判断がつかないのだ。 
宮内の中に居た者たちには知れ渡っているかも知れない。
しかし、言ってしまえば辺境と言って差し支えない馬一族が、引いては涼州に居を構える諸人が
一刀の罪を知って居るかどうかは謎だ。
馬岱達も自分が天代であった事に気が付いた様子はないし、宮内で『馬家』に関わる人物と出会った記憶もない。

「だから、大丈夫だと思うよ」
「何が大丈夫なんだ?」
「随分と口が忙しいな、飯を食わんのか」

話を遮ったのは、さきほどの一刀と同じように、器を抱えて近づいてきたのは馬鉄と馬休だった。
押し付けられるように食事を手渡され、一刀は苦笑した。
彼らにも同じように空の容器と、大きな鍋のような物が抱えられている。

「ありがとうございます」
「礼などいい。 こうして旅を共にする以上は仲間だからな」
「我らの下に来るというのならば、客でもあるしな」
「はは……そうだ、お二人は馬騰殿の容態をご存知ですよね」

自然、座り込んだ馬休の隣に腰を降ろして、一刀は聞いてみた。
二人が座り込んだからか、馬鉄も華佗も同じようにして男四人、中央に置かれた鍋を中心に輪を描くように座る。
馬休がフタを開けると、薄茶に色づいたスープと、鶏であろう肉が放り込まれていた。
一瞬、彼らはそこで動きを止めた。
肉である。

「それが、我らはずっと外に出ていたせいで知らんかった」
「邑から邑へ渡り歩いていたからな」
「え、そうなんだ?」
「馬岱殿の話では、今から3ヶ月前には症状が出ていたと聞いているが」
「うむ、まったく同じ事を聞いて知るに至ったぞ」

この馬鉄の同意に一刀は首を傾げた。
いくらなんでも3ヶ月以上も自陣営に戻らないとはおかしいのではないか。
例えば、先に激突した董卓と反乱軍の戦に関して調べているとしても、彼らは二人だけで行動していると聞いていた。
報告を怠れば、情報を調べていても意味がないし、一度も戻らないのも不自然だ。

おもむろに伸びた馬鉄の串が、馬休の左手によって防がれる。
その隙をついて鶏肉に向かう黒い影。
北郷一刀の串が忍び寄るように鶏肉に伸びたが、それは馬鉄の持つさえバシによって掴まれた。

「どうしてお二人はずっと外に?」
「うん?」
「ああ……それはな」
「鉄」
「いや、良いじゃねぇか。 隠すようなことでもあるまい」
「あ、言えないことならば別に無理して言わなくても」
「そうじゃねぇ。 ただ、これを話すと気が重くなるだけだ」

言うが早いか、大きく息を吐き出す馬鉄と難しい顔をして黙り込む馬休。
これは聞かないほうが良かったのかと、一刀と華佗は顔を見合わせた。 いや、一刀の目線だけは器用なことに肉に向いている。
僅かな間を置いて、今度は馬休の方から声が上がった。

間、三人の間では、その武威を証明するかのように、しなやかな動きで鍋の上を踊る。
どういう力が加わったのか。
鶏肉は鍋の底を離れ、空に躍り出た。

「っ……我らの目的は、資金の調達だった」
「集めなければならない金が、途轍もない額でな。 っと、おおよそ軍馬にして500頭」
「ご、500頭……」
「それはまた、随分と大きな金額ですね」
「うむ。 無理だと言ったのだが、必ず集めろと言ってな」
「そうして已む無く、裸で周辺の邑をうろついていたのだ」

色々経緯が省かれたせいで誤解してしまいそうだが、きっと彼らの服も資金の肥やしとなったのだろう。
それよりも気になるのは、どうして金集めにそこまで躍起になっているかという事だ。
軍馬500頭というのは、口で言ってもすぐにはピンと来ないが途轍もない値段となる。
細かい事は省くが、馬を戦場で使えるようにするには多くのコストがかかるのだ。
それこそ、軍で運用することが出来る馬齢に成長するまでの餌や世話をする人の人件費など、多くの事が重なって。
農耕馬一頭だけでも多くの金はかかってしまうし、軍で運用する物となれば相応の訓練も必要となる。
一刀が跨る金獅のように屋敷が建てられる程の値段は稀だが、無い訳ではない。

鶏肉は未だに空に浮いている。
一刀と馬鉄、馬休の串が空気を切り裂いて甲高い音を奏でていた。
時折ぶつかり合い、弾きあう。

「そのお金、何に使うかは聞いても?」
「分からん。 俺と休には母と岱以外にもう一人肉親が居るが、集めているのはその人だ。
 聞いてみないことにはな……ふんっ!」
「薬か?」
「いや、華佗。 馬騰さんが体調を崩したのは三ヶ月前って言ってただろ、くそっ」
「ああ、そういえば」

『翠……のことだよな』
『ああ、多分……いや、翠だよ』
『なんで馬超にそんな金が必要なんだ?』
『いや、聞かれてもなぁ』
『まぁお金が無いと何にも出来ないのはどこでも同じだね』
『ああ、こんな醜い争いを見たくはないしね』
「五月蝿いっ、気が散るだろ」

一度鍋の中に生還した鶏の肉は、やや細かく千切れつつもその存在を明確に示している。
とうぜん、彼らの腕は休むことなく右へ左へ、牽制を踏まえた本命を叩き込むことに真剣だ。
馬鹿らしいかもしれないが、馬鉄、馬休の懐具合は今の会話の通りほぼゼロに等しかった。
そんな事情が在る中で、鶏肉のような高価な食事を取る事はできなかったのだ。

同様に、一刀の方もほとんど荀攸や華佗からの支援と、邑の中での生活の中で
大工仕事や土木作業などで手に入れた日銭ばかりのなか、贅沢な食事は自制していたのだ。
ポンっと出されたせいでもあるだろうが、この肉はなんとしても手に入れたかった。

単純に、彼らは貴重なたんぱく質の摂取に、飢えていた。

「我らの放浪の理由はそんなところだ。 岱から母者の容態を聞かなければ今も金集めに奔走していたことだろう」
「うむ、母の事は気になるし、戻るのに丁度良い理由が出来た。 ちょっと離せ鉄こら」
「なるほど……ところで、お金はどのくらい集ったので―――あぶなっ」
「一刀、休、ここは俺に譲るべきじゃないか? 時間も押してるぞ」
「何を言うか、兄者が器を見せるべきだ」
「大人げない」
「可愛げない」
「いや、この場合は意地汚いが適していると思う」

華佗の最もな突っ込みは当然の如く三人にスルーされた。
この熾烈な争いは、一刀と馬鉄の串が交錯してはじき出された肉が、地面に落ちかけたその時。
鋭敏な動きで放物線を描く肉に、馬休が漁夫の利を狙う形で突き出したさえバシが僅かに狙いをそれて
鶏肉を弾き飛ばし、その先に在った一刀の口に飛び込んで終了を迎えた。

なぜか食事後、誰かの殴打により昏倒した一刀を放って慌しく食事の片付けを始めた馬休と馬鉄の二人に
華佗は気を用いての治療を施して一刀を起こすと、彼は痛む頭部を手で押さえながらニヤけていた。
離れた場所で談笑に耽っている馬岱と荀攸に、叫ぶように声を上げて出立を告げている。
頬を掻いた一刀は、漏らすように呟いた。

「肉うめぇ……いや、じゃなくて、お金か……」
「鉄殿も休殿も出会った時は裸だったし、服も質に入れたのだろう」
「それには同意……気が重いっていうのはお金のことだったんだろうね」

結局この会話は、金を集めている馬超の目的は聞けず、鉄と休の商売下手が発覚し
久しい鶏肉の味に頬を落として終わりとなった。


      ■ 虎の行方


今、洛陽は春の麗らかな日差しが宮殿を照らそうかという、暁の時であった。
そんな宮殿に設けられた部屋の一つで、一人の男が腕を組み傍らに灯した一本のろうそくの前で眼を閉じている。
彼の名は何進。
毎朝、飽きる事無く続けている一人朝議とも言える習慣は、どれだけ忙しくても欠かしていない。
しかし。
ここ最近はまったく同じ事で思い悩み、そして未だ決断することが出来ない大きな問題を前にしていた。

その問題とは、劉宏が崩御してから空のままである王位にある。

何進はこの問題は早期に片付くものだろうと思い込んでいた。
帝が崩御する前、いや、天代がまだこの宮内に姿を見せていた頃から、後継者は劉弁になると約束されていたからだ。
そしてこの考えは、何進を含めて大多数の人間の総意であったと言える。
なぜならば、後継者問題は半ば天代の手で進められ、劉弁が皇帝になる為の準備が整い始めていたからだ。
ところが、だ。
天代が理由はどうあれ追放されて、追うようにして帝が崩れたときになり張譲を初めとした宦官らは言い出した。

この天代の手で進められた後継者問題が、問題になるのだと。
更に、彼らは天代を住まわせた劉協を後継者に押し出したのだから劉弁の下に勤めている十常侍どもは激昂した。
追って言わせて貰えば、劉協自身も皇帝になる気だというのだから始末に終えない。
何進の目から見て、彼女にそんな気があったとは思えなかったのだが、これも宦官に惑わされて良い様に使われていると見るべきか。
だが、断定することは彼には出来なかった。

そこからは泥沼と言える水掛け論の投げ合いだ。
劉弁には謂れの無い、天代と結託して皇帝になるつもりだったのではないかと言う不遜極まりない言葉が投げかけられ
対して劉弁側からは天代の下に居た劉協を支えることこそ愚かだと言い捨てられ。
とにかく、双方ともに在る事無いこと、よくもそこまで口が回るものだと何進を呆れさせた。
これが自分が呆れるだけならばいい。
後継者、特に一諸侯などではなく漢王朝の未来に繫がる問題なのだから、話し合いは重要だ。

「……だが、これでは先が見えぬ」

そうなのだ。
もう帝が崩御されてから随分と立つ。
この宮内の混乱は、軍部を総括する何進にも大きな影響を及ぼしているのだ。
劉協、劉弁、どちらの宦官共も私兵を持っており、これだけ長引いた論争の果てには必ず武力の行使が行われることが
容易に想像できてしまうからだ。
当然これらは何進の憶測に過ぎず、洛陽を空けたからと言ってすぐに血生臭い抗争が始まるとは限らない。
しかし、もしもそうなった時、何進を含めて武力を用いてでも止める第三者が居なければ、宮内は血に彩られることになる。
それはまずい。
漢王朝は未だ在るということを、庶人に認識されていなければ今の状況は本当にまずいのだ。
勿論、これは宮内の人間ならば全員が理解しているのだろう。
未だに表向きの平穏が保たれているのがその証拠だ。

涼州の反乱、黄巾の抵抗。
どちらの切っ掛けも漢王朝そのものへの不満が爆発したせいだ。
少なくとも、表向きの理由ではそう叫ばれている。
そして、この理由に頷けてしまうだけの醜態を、今この瞬間にも漢王朝は晒していた。
平時ならば違ったかも知れない。
しかし今は、戦乱の只中な上に王朝側が不利であると言ってもいい。

大将軍という地位に居る何進は、宮内の問題が―――宦官の暴走を抑える意味でも―――片付くまで戦場には出れないだろう。
誰か他の人間を当てるにしても、西園八校尉に選ばれた者は、それぞれの場所で奮闘していて中央には誰も居ない。
袁紹は上党に居を構える大規模な黄巾残党を抑える為に動けない。
蹇碩は死んだ。
董卓も、涼州の反乱軍とぶつかり合い、小康状態を保っている今、呼ぶことは不可能だ。
曹操も動けないだろう。
黄巾残党が一大攻勢を仕掛けた陳留を預かっているのだ、動くに動けない。

そして、この動けない……いや、動かない漢軍を庶人はしっかりと見ている。
天代は、涼州の反乱軍とぶつかっているだろうと信じきっている民衆は、動かない漢王朝をどう思っているだろうか。
この何進を、どう批判しているだろうか。

「このままではまずい」

分かっていたことだ。
この一人朝議を毎朝続けてきて、何度も同じ事を考えて、同じ結論に達している。
結局のところ、この問題の要点はただの一つだ。
劉弁、劉協、どちらでもいい。
どちらかが、とっとと皇帝の座に居座って、宮内を安定させてくれれば、それだけで劇的に変わる。
もしかしたら、それだけで黄巾か涼州か。
二つの内一つの乱は片がついていたかも知れない。
そこまで行かなくても、事態は好転したはずで、胃を暴れまわる不快感など催さなかったはずだ。

「……」

何進は徐に立ち上がり、洛陽を照らし始めた朝日を窓から眺めた。
問題の要点は分かりきっていた。
誰も動けないのならば、動けるようにするしか無いではないか。
このままでは遠からず、漢王朝は自滅するのだ。
漢王朝の大将軍である自分も、その時は同様に天へ還ることにもなるだろう。
もう十分待ったはずだ。
誰もが出ている答えから眼を背けて、都合の良い未来に思い更ける時間は終わりにしなければならない。

「眼を覚まさなければな……自身を含めて」

何進は言い聞かせるように呟くと、踵を返して外套を纏った。
扉を開け放ち、幾つかの目的地を思い浮かべながら足を進める。
何進とすれ違った多くの人間が、その形相に驚いた眼を向けることにも気付かず、彼は早足で宮内を飛び出した。
漢王朝にもう、天の御使いは居ない。
いや、今はその天すらも居ない。
漢王朝という巨龍は、頭をもがれてしまっているのだ。

「そうだ、まずはそこからだ。 誰か居るか!」
「は、はぁ、どうしましたか何進様」
「劉協様に面会を求める。 その旨を離宮に申し付けておけ」
「わ、分かりました」
「昼過ぎに向かう。 その前に私は会わねばならん」
「は? あ、何進様!」

呼び止める男の声を無視して、何進は踵を返した。

「漢王朝は終わらん。 この何進が此処に在る限りは終わらせなどしないぞ」

そして彼は、ある一室の扉を開いて中に飛び込むと、驚いた様子で振り向く女性に詰め寄った。

―――・


「なるほど、それで私の下に鼻息も荒く訪れたというわけか」
「……その通りだ」
「最初は何事かと思ったぞ。 あいにく私は夫以外の男に抱かれる趣味はないからな。
 だから、その顔面の腫れと噴出した鼻血は不可抗力だということを、先に言っておこう」
「良い、些か興奮していたからな、逆に頭が冷えた。 ありがたい」
「ほう、ならば良かったぞ。 流石に大将軍を殴打してしまったのはまずいと思っていたところだ」

何進が息も荒く詰め寄ったのは、江東の虎と呼ばれる一人の女性の下だった。
彼女の居る部屋に飛び込むなり、肩を両手で掴み、鼻息も荒く目が血走っていては
この仕打ちも仕様がない……というよりも、当然なのだろう。
毎日少しずつ、一人で悶々と悩んでいるうちに蓄積された物が、決意とともに吹き荒れたのも原因だろう。
普段ならこんな性急な行動は避けていた筈である。
何進は一つ頭を下げて、肩を竦める孫堅に進められたお茶を口に含む。

「それにしても、大将軍」
「ああ、なんだ」
「話は分かった。 このままではダメだというのも同様の認識だ」
「そうか、いや、やはり孫堅殿ならば分かっていると思っていた」

落ち着いた何進が自分の考えを述べたところ、孫堅からは同意の旨が帰って来る。
どうして彼が、孫堅の下に訪れたのかを言えば簡単だ。
孫家の長として行動していた彼女は、天代に協力していることをハッキリと公言してしまった為
孫家の次代、孫策により糾弾されて爪弾きにされたのだ。
まるで示し合わされたかのように、流れるようにして彼女は孫策の言葉を受け入れて追放されている。
そして、そんな事を言ってしまった為に中央からも疎まれて、現在はこの宮内に監視を兼ねて軟禁されている。
もちろん、其処に至るまでに多くの経緯はあったのだが、簡単に言えばそういうことだった。
西園八校尉の役も、当然ながら取り上げられている。
動くはずの物が動けず、動かすことすら出来ない西園八校尉は、もはや形だけの役に成り下がりつつあった。

とにかく、何進にとって彼女は都合が良い存在なのだ。
名もある。
実力もある。
そして、彼女の問題は自分の権力で解決することが可能だ。
そんな自分の意思で動くことが許されない状態の孫堅は何進の目的と照らし合わせると
駒として最高の存在であり、仮に断ろうとも権力を嵩に無視することが出来る。
この場ではお願いとして話しているが、その気になれば強制することは容易い。
それは孫堅も理解しているのだろう。

「ようするに、大将軍は我が身を都合よく使いたい、ということだな」
「隠すこともせん、その通りだ」

理解しているから、確認するように何進の意思を問う。
彼は素直に頷いた。
彼女を涼州、あるいは黄巾残党へと差し向ければ少なくとも王朝が鎮圧する意志を持っている。
庶人の者はそう思うはずだ。
何より孫堅は大陸に武名を轟かせ、江東の虎の異名を持つ猛者である。
効果はそれなりに見込めるはずだった。

「その間に、大将軍はこの場の問題を片付けると」
「うむ、まずは今日の昼間、劉協様と顔を合わせる」
「行動を起こすには遅い、かといって今すぐ動くには性急だ。
 あまり言いたくは無いが、言わせてもらうぞ何進殿。 焦りすぎて目が曇っていないか」
「そうかもしれん。 しかし、これ以上待てないのも事実だ」

何進の焦燥も、まったくの的外れでないことは孫堅も分かっていた。
この問題は、先延ばしにしても良いことなど一つもありはしない。
少なくとも、漢王朝を生きながらえさせるのにおいて、メリットなど皆無だ。

「……良かろう。 ここの生活も飽いていた。 話に乗らせてもらう」
「持ちかけておいて筋違いだとは思うが、良いのか。 一日くらいなら待っても構わんぞ」
「どうせ答えは決まっている。 精々、漢王朝の為に身を砕くとしよう」
「……ありがたい」

この問答からも、孫堅は何進の考えの全てを見抜いていると考えても良い。
ここで頷かず、断ったとしても結局のところ何進の意思が全てである。
これは最早、孫堅と少しでも気持ちよい関係を築くための心遣いに近い。

と、いうよりも何進が孫堅を動かす為には『漢王朝の為に働く』という一点を約束させなければならない。
もはや諸侯としての権力もなく、野に放す訳にもいかない孫堅という人間は
これを頷いてしまえば、何進の部下という立ち位置に自然落ち着いてしまうだろう。
そんな彼女に求められるのは、死と隣り合う戦場だけ。
少なくとも、戦乱を終えるまでは孫堅は常に戦場へ向かうことになる。
彼女が否と答えようと、あるいは曖昧な返事を返そうとも結果は決まりきっているのだ。

「……」
「……それでは、朝からすまなかったな、孫堅殿」
「ああ」
「では、また会おう」
「ああそうだ。 一つ聞くが、どちらが皇帝になる」

腕を組んで思い出したかのように、話は終わりだと背を向けた何進に投げかける。
そんな孫堅の言葉に何進は背中越しに苦笑した。

「決まっている。 劉弁様だ
 もはや賢しいだけの宦官共の好きなようにはさせん」

崩御した劉宏、そして消えた天代が推し進めた後継者の名を口にし、何進は退室した。
この答えは、半ば分かりきっていたものだった。
最初から劉協側が騒ぎ立てなければ、劉弁になっていたのだ。
元から在る話をそのまま進めるつもりなのだろう。
この後、劉協と面会し何をして、何を話すのかは検討もつかないが、恐らく何進の思いは叶うことだろう。
今まで黙して動かなかった漢王朝の重鎮の一人、何進の決断だ。
武という分かりやすい権力を扱う彼の決断は、何進自身が思っている以上に大きな影響力を持っている。
劉協側も追い縋るだろうが、まぁまずは無理な話になることだろう。

残された孫堅は、一度深く椅子に座りなおすと、大きく息を吐き出した。
実際のところ、この話は孫堅にとって悪い物ではない。
漢王朝の一員だという自負は元から持っていたし、劉協と天代に申し出たあの日に口にしたことは嘘ではない。
漢、その存続の為に命を賭ける。
その部分に於いて、何進の申し出た物はぶれていなかった。
故に、天代追放、孫家追放という状況に身を置いて、自らの意志で動くことが容易でなくなった孫堅にとって
この話は渡りに船と言えたのだ。
ただ、仕える相手が変わるだけのことだ。

劉協から、劉弁へ。

ここまで考えて、孫堅は気が付いたかのようにフッ、と自嘲した。

「何進殿、その道は天代が歩もうとした道だと気付いているか?」

この問いに答える者は当然おらず、彼女の声は中空に浮かんでそして消えた。

数日後、孫堅は5千の兵を率いて洛陽を発つ事になる。
軍馬を進める足は、洛陽から西へと伸びていた……


      ■ 集う役者達


漢王朝を示す旗をたなびかせて、馬車は荒野を走っていた。
数十の供回りだけを連れ立って走るそれは、少なくとも王朝に役を頂く官吏であることを予想させる。

孫堅が西へと足を向けるその2日前のことであった。
漢王朝に弓を引いた反乱軍、辺章の軍勢に対抗するために兵を集めている一人の者が居た。
現在の涼州の刺史で、名を耿鄙(こうひ)と呼ぶ。
前の激突ではこの地位に着任して間もなく、援軍にすら駆けることが出来なかった。
膠着している状況の中、耿鄙は次こそは武勲を立てようと黙々と兵を集めている最中にある。
そんな耿鄙の下に王朝から一枚の書が届いていた。
差出人は、今の今まで動く気配すら見せなかった中央の大将軍、何進。
既に長安付近にて辺章の軍勢と激突した当事者、皇甫嵩と董卓を飛び越えてこの書が耿鄙の下に届けられたのは
小康状態となっている現状を覆すための一手を差すため、なのだろう。

その何進からの書には、簡潔に馬騰と結託して反乱軍を鎮圧せよと書かれていたのだ。
これに耿鄙は、漢王朝と激突した賊軍、それを見ても中立を貫く馬家に不信感を抱いて一度拒否の姿勢を見せたのだが
玉璽と思われる印と、勅であるという一文から無視することは出来なかった。

「耿鄙様、見えてきました」
「……あれか」

幌に取り付けられた覗き穴を手で広げると、耿鄙の視界には今まで散々見せられた砂埃舞う荒野ではなく
都、それも都市と言っても過言では無さそうな街並が飛び込んで来た。
現在、馬家の長である馬騰が拠点としている場所である。

「涼州の刺史、耿鄙が使者として訪れたことを馬騰殿に知らせ。
 準備が出来次第、こちらから窺わせて貰うとな」
「はっ」

供回りの者に言伝を終えると、耿鄙は馬車から顔を出してその足を地に着けた。
姿を見せて、まず眼を引いたのは顔の右半身を覆うようにして巻かれている布である。
髪は黒く、耳を隠す程度に切り揃えられて随分と短い。
ごく一般的な文官が着用する袖の長い服装であり、特筆するような特徴は無かったが
唯一、襟足付近から二つに別れた長い鉄の鎖が異様であった。

そんな、馬騰の下に訪れた耿鄙の一団を眺めるように見つめる視線が合った。

「あの馬車は……」
「探したよ、荀攸さん……どうしたの?」
「いえ。 辺境にしては珍しい物があると思いまして」

荀攸が人差し指をついっと向けた先に、耿鄙の一団が留まっているのを見て一刀は眉を顰めた。
馬車の4隅にはためく、王朝を示す印を認めたからである。
そんな一刀を、荀攸が優しく手を取って諌めた。

「一刀様、顔が……」
「え、ああ……」

一刀は、漢王朝から朝敵として認識されているせいか、本人が思っている以上に渋い顔をしてしまっていたようだ。
降り立ち、忙しく声を発して指示を与えている耿鄙を見て、一刀は小さく首を振って息を吐き出した。
相手はともかく、一刀は宮内で見たことも無い人物であった。
顔半分を布で隠す、そんな特徴的な人物が居れば関わりが無くとも覚えていておかしくはない。
この吐き出した息は、安堵の溜息か。
人知れず一刀は自嘲し、耿鄙から視線を外して荀攸へと用件を伝えた。

一刀達はこの地に着くと、目的となる馬騰との顔合わせのための段取りを馬岱に頼み
それまでに空いた時間を、長旅で疲れた身体を癒すことにしていたのだ。
実のところ、この場所に来てから3日は経っている。
十分に休養は取れたが、もうそろそろ会えない物かと気を揉んでいたところだった。
そして。

「ついさっき馬岱さんが戻ってきたんだ。 面会できるって」
「ようやくですか。 随分待たされましたね」
「まぁ色々事情があるんだろうけどね。 もう皆集ってるそうだから、後は荀攸さんだけ」
「分かりました。 一度荷物を預けてから向かいます」
「分かった、それじゃあ俺は先に行ってるから」

お互いに頷き会って、一刀は踵を返すと振り向く事無く歩き去っていく。
それらを見届けてから、荀攸は視線をもう一度、耿鄙のもとへと向けた。
距離こそ近くはないが、この時代の将の視力は耿鄙の姿形を確認するのに容易であった。
背を向けて立つ耿鄙をしばらく見つめ、その首筋に妙な痣が走っている事を荀攸は気付いた。
丁度耳の裏の当たり。
斬り傷や刺し傷、刺青などとも違うそれに微かな違和感を抱く。
そんな違和感を拭い去る前に、耿鄙は体勢を変えて荀攸はハッと気が付いたように首を振った。
そうだった。
皆、自分を待っているのだった。
その事実に気が付いて、彼女は観察を止めて一刀の後ろを追うように踵を返した。

一刀がそうであったように、荀攸もまた耿鄙を見たことが無かったのだ。
少なくとも、中央から訪れたわけではなさそうである。
何処から来た官吏なのか、それを知りたい欲求を押し殺して荀攸は思考を切り替えた。


―――・


武威と呼ばれるこの地で、最も栄えている場所と聞かれれば大勢の人間が同じ場所を指す。
漢王朝の末席に所属し、この西の地で最も精強な兵を持つ馬騰の領地だと口を揃えて言うことだろう。
一刀はそんな涼州の雄、馬騰との対面を控えて詰まる息を吐き出すように大きく深呼吸を繰り返した。

どちらかと言えば、一刀はおまけである。
この面会は、馬岱が叔母である馬騰の容態を見てくれと、華佗に依頼したのが切っ掛けで成ったものだ。
それは理解しているし、そのつもりで一刀もこの場に居る訳だが
それでも、緊張を自覚して口を乾かしているのは馬騰が漢王朝側に立っているからに他ならない。
蹇碩からの追撃を振り切って、眼を覚ましてから動くに動けない日々を過ごしていた。
一刀はそんな日々に焦りを覚えつつも、自分を諌めて雌伏の時を待ち暮らしていたのだ。
事、ここに来てようやく動き始めた。
いや、まだ動いてもいないが動くかも知れないところまで来ているのだ。

「……良い関係が作れれば」
「? 何か言ったか一刀」
「なんでもないよ」

隣を歩く馬鉄に苦笑を一つ交えて、一刀は肩を竦めた。
時間は確かに有限だ。
漢王朝を存続させるのに、天代として築き上げた名声が朽ち果てるまでに残されている時間は多くないだろう。
だが、事を急いても意味はない。
荀攸が言う、張譲達の用意した罠というものが何なのか、それは分からないが
性急に動いてしまえばその毒牙にかかってしまうだけだ。

「つきました。 どうぞ馬岱様」

何にせよ、治療に赴いた華佗を切っ掛けにして、何か得る物があれば言うことはない。
ベストは馬家に漢王朝を支える為の友として約束をすることだ。
案内を終えた兵が引くと、一度だけ振り返って、馬岱は全員の顔を見回してから口を開く。

「ありがとう。 それじゃ皆いこーか」

開けた視界に、壇上にて王座に座り構える馬騰だろう者の姿。
そして、その真横で凛々しい顔つきで腰に手を当てている少女の姿が見える。
あれが、馬超なのだろう。

『翠……あぁ、俺の翠だ……』
『その、なんだ……』
『“馬の”、良かったな……』
『ああ、生きてて良かった……』
『いや、意識だけだけどな俺ら』
『茶化すなよ……』
『あ、ああ、ごめん……うん、良かったな』
『う′ん′』
『俺もなんかホッとしたよ……』

脳内のやり取りに―――若干涙声も混じっていたが―――気が抜けそうになりながらも
一刀は前を行く華佗達に習い、腰を落として頭を下げた。

「顔をあげてください」

馬騰の声にあわせ、一刀達は一斉に顔を上げる。
改めて近くで見ると、馬騰という妙齢の女性の姿が明確に一刀の視界に映し出される。
髪は馬岱や、馬超と同じく茶。
長い頭髪を頭の天辺で一括りにしており、やはり馬の尻尾のように纏め上げている。
切れ長の大きな瞳をこちらに向けて、凛々しい顔を貼り付けているが、物腰はどこか柔らかい。
紺色を基調にした外套に、橙の色の線が袖口に走っていた。
その手に持っているのは銅色の棒。 何時か見たコンサートの指揮者が持っているような、細長い棒であった。
有り体に言って、美女だといえる。
とても子持ちとは思えないスタイルと美貌の持ち主だった。

チラリと視線を逸らせば、母と同じように射抜くような眼でこちらを見つめる馬超の姿。
そんな一刀の視線に気が付いたのか、馬超は僅かに眉を顰めた。

「ようこそ、我が馬家の下へ。 お会いするまで些か待たせてしまって悪かった、華佗殿」
「お気になさらずに」
「うむ。 我が事は岱から聞いているのだろう。 
 天医とまで呼ばれる華佗殿に診てもらえることは、僥倖だな。
 岱には感謝せねばならん」

そう言って、何時の間にか馬超の隣まで足を運んでいた馬岱に、彼女は柔和に微笑んだ。
馬岱はクスリと笑って、肩をすくめる。

「これからしばらく、華佗殿には世話をかけることになるが、宜しく頼もう」
「病に冒された人を治すのが、俺の使命です。 精一杯努めましょう」
「ありがとう。 この地に逗留している間、衣食住はこちらで全て用意しよう。
 超、後で華佗殿を連れて案内しておけ」
「分かったぜ。 母さん」
「それと、共の者にも同じように部屋を用意しよう」

そろそろか、と一刀は話が一段落したことを見据えて、前で跪く華佗の背を目立たないように突いた。
背中越しに僅かに首を巡らせて、華佗が頷く。
診察の前でも後でも良い。
馬騰と会話する切っ掛けを、華佗に作ってもらおうと予め華佗に頼み込んでおいたのだ。
が、華佗がそんな一刀のお願いを叶えようと馬騰に顔を向けて口を開いた時だ。

馬騰の視線が、一刀に向いていたのは。

「ところで……華佗殿。 一つ聞きたいが」
「……はい、なんでしょう?」

手の上で弄んでいた、彼女の銅色の棒が一刀に向く。

「そこに居るのは、天の御使い殿ではないか?」

この馬騰の声は喧騒の無い玉座の間に大きく響いた。
少なくとも、一刀自身はその声が此処に居る全員に届いたことが不思議と確信できた。
同時、馬騰のこちらを射抜くような鋭い眼差しに、一刀は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
指し示していた銅棒が、一刀から僅かに逸れて馬鉄と馬休に向く。

「私が耄碌したので無ければ、確か天の御使いは宮内を乱し、王朝を簒奪しようと画策した極悪人だったはず……」
「なっ、本当か!?」
「嘘ぉ……」
『本体、やばくないか?』
「待って―――うっ!?」

馬超と馬岱の声が響く中、脳内の声が早いか、一刀は声をあげようと身を起こした瞬間だった。
左右から腕を捻りあげられ、体重をかけられてぐしゃりとつぶれる。
一瞬の衝撃に、息を詰まらせながらも一刀が首を巡らせば、上に乗っているのは馬鉄と馬休であった。

「馬鉄さん……馬休さんっ……」
「お前、そんな奴だったのか。 良い奴だと思ったが」
「我らの肉を掠め取るような奴だ、兄者」
「そういやそうだった」
「ま、まだ……根に持って、ですか……っ!」

鶏肉の一件のことなど、記憶の彼方だった一刀にとってその理由はなんだか理不尽であった。
いや、それはとにかくこのままではまずい。
現状は考えていた最悪の形に近い。
何か言葉を口に開こうとしても、上に乗る馬鉄と馬休の加える力が存外に強く、まともに喋れそうもなかった。
そんなに食いたかったのか、肉。

「……それで、華佗殿、それと―――」
「我が名は荀攸です」
「うん? 荀? ……荀家の者がどうして此処に居るのかは判らないが、二人は天の御使いと知っていたのか?」

水を向けられた華佗と荀攸の二人。
共に一刀よりも前に位置する為に、その表情は読み取れないがどちらとも顔も見合わせずに
同時にはもった。

「ああ、知っている」
「私は知りませんでした」

華佗は首肯し、荀攸は無表情で首を振った。
この答えはどちらも予想通り。
華佗はもともと、天代との繋がりを強調されるようにして天医として祭り上げられたし
荀攸はあくまで一刀と手を組んでいるだけに過ぎない一人の官吏。
どちらかといえば彼女の立場は馬騰側であるのだ。
白を切るほうが利口というものだろう。
この返答に馬騰は何度か思い返すように頷くと、ゆっくりと玉座から立ち上がって口を開く。

「どちらにせよ、私の立場では罪人である天の御使いをこのまま見逃す訳には行かない。
 華佗殿、申し訳ないが彼は拘束させてもらう」
「それならば仕方ない。 一緒に捕らわれないだけ……いや、処刑しないだけマシだと思いましょう」
「……北郷一刀を兵に預けろ。 枷を嵌めて牢に転がしておけ」
「はっ!」
「くっ……」

抵抗することは出来ず、一刀は強引に首襟を持たれて立たされると、後ろ手に枷をはめられる。
木と鉄で作られた頑丈な手枷に鍵がかけられて、両脇を持たれて強引に歩かされた。
脇腹から走る痛みに僅かに顔を歪ませて、身を捩る。
遠くなる華佗達を見ながら、一刀は下唇を噛んで、続く玉座に響くの声を耳朶に響かせていた。

「超! 鉄と休のことはお前に任せる―――」
「失礼します、馬騰様」
「どうした?」

一刀の耳に届いた声は、ここまでだった。
玉座と通路を隔てる分厚い扉が開かれて、伝令と思われる男の声が、一刀に届いた最後のものだった。

「韓遂という者が、馬騰様にお会いしたいと―――」

瞬間、扉は重い音を響かせて玉座の光景を閉じた。

「韓遂……? 今、韓遂って言ったのか?」
『ああ、俺も聞いた、間違いない』
『反乱軍として率いている内の一人なんだろ?』
『そうだ、辺章ってやつと、韓遂が涼州の反乱を起こしてるとされてる』
『その韓遂がなんだって、曲りなりにも漢王朝に属している馬騰さんの下に来るんだよ』
『わかんないよ、ただ……』
『ああ、思ったよりも複雑そうだ』

「おい、何を立ち止まっている、とっとと歩け」
「っ、分かってます、押さないで下さいよ……」

立ち止まった一刀の足を叩くように、剣の鞘で打たれて短く声をあげる。
4人の兵に囲まれて、一刀が足を進めると前方から見覚えのある、印象に残る集団を捉えた。
この場に来る前、荀攸を呼びに行った先で目撃した、漢王朝の馬車。
その前で指示を出していた、顔の右半分を布で覆い隠している小柄な人影。

すれ違う直前、一刀と耿鄙の視線は一瞬交錯した。

顔を向けることも出来ず、連れ立たされて遠のく一刀に、耿鄙は首を巡らして振り返った。
そして、周囲に居る人間に気付かれないくらいに、僅かに口元が震えた。

「あれは……?」
「耿鄙様? どうなされましたか」
「……いや、まさかな」

しばらく、一刀の去って言った方向へと立ち止まっていた耿鄙だったが、やがて踵を返す。

響く牢の鉄の音を聞くものは、この場に誰も居なかった。


      ■ 外史終了 ■  



[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編4
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2011/08/08 01:06
clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編2~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編3~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編4~☆☆☆




      ■ 牢中騒乱


窓から差し込んでくる光に照らされて、一刀はやにわに眼を覚ます。
牢中に入れられて、暫くの間は落ち着かなかったのだが考えに没頭している内に眠気に襲われて
そのまま眠ってしまったのだ。
この世界―――外史という物に落とされてから、三回も捕らわれの身となっている。
だから慣れたという訳でもないが、無闇に暴れたところで何にもならないということは経験から知っているのだ。
できれば、こんな経験は積みたくなかったが。
何よりも大きく一刀を支えていたのは、牢中で独り身であるはずなのに、孤独ではなかったと言うのが大きい。

「あぁ……朝か」
『おはよう』

寝ぼけ眼を擦り、むくりと起き上がって周囲を見回す。
分厚い壁と、鉄の格子が付けられた窓に、鍵のかかった扉。
窓の外は、視界に収められる範囲で変わった物は無かったが、大きめの樹が一本。
手が届きそうな距離で樹立しているのだけは分かった。
部屋の中に存在するのは、寝具とも呼べなさそうな僅かな藁と異臭のするツボのみ。
まだ牢屋の中での生活の一日目を迎えたばかりなので、ツボには近づいていないが
そのうちアレを利用しなくてはならない時があるのだろう。
せめて蓋くらいあればまだマシなのだが。
ちなみに連行されたときに使われた手枷は外されている。
抵抗することも無かったので、危険度が低いとみなされたのだろうか。
そういえば、初めて荀彧にハメられて入った牢屋も、洛陽のような本格的な地下牢ではなく
必要最低限のものだけが置かれた牢であった。

「俺が寝てる間、なにかあった?」
『いいや、特に進展は無いね』
「そう……じゃあお隣さんが増えたくらいか」
『そうなるな』
『金集めの原因がわかって、それは収穫だったけどな』
「はは、そうだね」

肩をすくめて一刀は苦笑した。
一刀が牢に入れられてからほどなくして、隣の部屋へと連行された者が居た。
声から察することが出来たが、馬超に連れられて親族であるはずの馬休と馬鉄が放り込まれたのだ。
視認できない扉越し、くぐもって反響する声から全てを把握できた訳ではないが
大方の事情を察することができたのだ。

確かに、馬鉄と馬休の言う通りに馬超は集金を命じていた。
ただ、それは馬超が私情から率先して集めていたわけでなく、必要に駆られてのものだった。
簡単に言うと、馬鉄と馬休の二人が軍馬500頭を演習中に失ったのである。
どうして500頭もの軍馬を失ったのか。
その理由は流石に聞き取れなかったが、捉えた単語の中に、崖とか水没とかあったので
恐らく、何処かに落ちたのだろうと思われた。
損失した影響の規模を考えれば、牢行きも納得できる……まぁ、やっちゃったぜミ☆ では済まないことは確かである。
むしろ牢行きにしてくれた事を感謝するべきではないだろうか?
馬家は身内に将兵が多いのも牢屋行きで住んだ理由の一つなのかもしれない。
罰を与えなくては身内びいきに見られるし、その風評は将や兵へ妙な軋轢を生む切っ掛けになるだろう。
かといって、将を二人も失うのは避けたい。
身内ならば尚更だ。
そんな思いが混ざり合い、補償をさせるという手段に図ったのではないかと一刀は考えた。
断片的な会話から拾った推測ではあるが、的外れという訳でもないだろう。

「ぬぅ……」
「起きたか、兄者」
「む、ここは……ああ、そういえば」

壁に寄り添うように腰を落としていた一刀が“おとなりさん”の声を耳朶に捕らえる。
昨日さんざん喚いて眠りに付いた彼らも、ようやく目が覚めたようだ。

「しかし、この扱いは酷いと思わぬか」
「まったくだ。 しっかり反省しているというのに」

未だにその口からは不平不満が漏れ出ているようである。
一刀はやる事も無いので、しばし”おとなりさん”の会話に耳を傾けていたが
やがて愚痴を零すことにも飽きたのか、会話は途切れたようで聞こえてくるのは木々のざわめきと
鳥であろう獣の鳴き声。
登ってきた朝日が鉄格子の付けられた窓を正面に捉え、牢の中が日に一番の陽に照らされる。
座したまましばし、一刀は窓の外を眺めていた。

「どーなるんだろう……早く牢を出たいな……」

思わず、呟いてしまった一刀。
思い返せば、馬騰との接触は華佗の面会を済ませ、診察を行い、彼が一定の信用を得てからでも
遅くは無かったのではないだろうか。
いずれ、自分が天代であったことを知られるにしても、問答無用で牢に入れられることは無かったかもしれない。
なにより、廊下ですれ違った王朝の官吏。
何故か現れた、反乱軍の首魁であろう韓遂が同時に訪問した日に、わざわざ会いに行かなくても良かったのではないか。
勿論、これは結果論に過ぎず、あの時はすぐに面会することが最善であると思っていた。
事前に王朝の官吏が訪れていたことを知った一刀は、先に馬騰との繋がりを手に入れて安全を確保したかったのだ。

外を眺めながら、一刀が物思いに耽っているとお隣さんから一際大きな音が響いてくる。
何をしているのだろうか。
暇すぎて組み手を始めたのかもしれない。

『……とりあえず、今は何も出来ない事は確かだな』
『華佗や荀攸さんに期待するか』
『まぁ平気でしょ、後2,3日なにも無ければ命は助かるだろうしね』
「みんな気楽だなぁ」
『“南の”だし。 象並のおおらかさなんだ、仕方ない』
『象関係ないだろ』
『あるよ』
『股間とか言うなよ』
『これはひどい』
『前に言ってたじゃん』
『そうだっけ?』
『言ってたよ』
『嘘、全然覚えてないよ俺』
『あれ?』
「あれ?」

脳内の会話が不毛な言い争いに発展しようとした矢先であった。
外を眺めていた一刀の視界に、見覚えのある人影が過ぎったのである。
パンダのように片目が黒い、特徴的な容姿を持つ男の姿。
お隣に居たはずの馬鉄……かと思われた。

『……え?』
『いやまさか。 そんな筈は無い』

そうだ、そんな筈はない。
隣の牢屋の様子は実際に見ていないので分からないが、感覚的に一刀が居る部屋と同じ間取りであろう。
正面の扉は鍵がつけられ、固く閉ざされている。
他に出入り口になる様な物は、鉄格子が付けられた窓だけ。
いかに筋肉モリモリマッチョマンであろうと、2cmは在りそうな格子状の鉄筋を力任せに捻じ曲げるのは、道具を使わなければ不可能だ。
それも成人男性が通れるようにならば、道具を使っても多大な労力を強いられるはずである。

しかし、驚きのあまり固まっていた一刀をあざ笑うように、黒い髪を後ろに流して縛っている男が通り過ぎる。
今度は最初から集中して見ていたせいか、確実に視界に捉え明確に顔まで判明できた。

馬休だった。

「……脱走?」
『じゃないか?』
『あ、こっちに来るよ』

脳内の誰かが言ったとほぼ同時。
ぬっ、っと窓から様子を窺う一刀を覗き返す馬鉄の顔が現れた。
やや遅れて、下の方から馬休も顔を覗かせる。
一刀は自身の常識と照らし合わせても意味不明な光景に、僅かに身を引いて頬を引きつらせていた。

「おう、一刀。 牢の中で一晩居たのに思ったよりも元気そうだな」
「何故、という顔をしているな、予想通りだ」
「ふっはっはっはっは」

悪戯が成功したような、呆気に取られて呆けている一刀にわざとらしく口角を崩し
ついには二人とも愉快に爆笑し始める。
非常識に過ぎる行動に、混乱していた一刀は何とか言葉を搾り出す。

「な、な……何をやってるんですか……?」
「なんだ? 分からないのか? 鈍いやつめ」
「こんなしけた処に居られるか、脱走しているのだ」
「いや、それは見れば分かるけど……じゃなくて、逃げたらまずいでしょう!?」
「勿論、相当まずい」
「ああ、かなりやばい」

なら逃げるなよ。
突っ込みたい気持ちを全精力を持って自制し、どうすれば良いのかを考えることにした。
別に彼らが逃げ出したところで一刀にはまったく罪にならない。
ならないが、短い期間とはいえ旅の道中を共に過ごし、同じ釜の飯を食った友人と言えそうな二人を
見捨てるように無視する事は一刀には出来なかった。
どうやって外に出たのかは知らないが、中に戻るように説得しようと、その頭脳を回転させ始めた時だった。

ガンッと石を叩くような音。
続いて、妙な回転音と竹が犇めき合って回転しているようなけたたましい轟音が室内に響く。
音に続いて地を僅かに震わす振動が、一刀の足から伝う。

「なんだっ!?」

轟音と共に埃だろう、白い粉塵が室内に立ちこめ、腕を交叉し身を縮める一刀。
僅かに片目を開き、衝撃の元であろう場所に視線を向けると、部屋の壁の一部が水平になっていた。
その光景は驚くことではあるが、一刀は知識としてこれを知っている。
バラエティの番組とか、忍者屋敷とか、そういう場所にあるだろう隠し扉、からくり扉という類の物。
濛濛と立ちこめる埃を照らし出す、陽の光が一刀に確信させた。

『馬鹿なッッッ! これじゃあ牢屋じゃない! 壁の付いた扉だ!』
『普通、扉は壁に付いてるんじゃないかな』
『言いたい事は伝わったぞ、“呉の”』

「おっし、まだ仕掛けは生きていたな」
「それじゃ一刀、行こうぜ!」

もはや呆れる他ないが、現実として受け止めるとこの部屋には隠し扉があったらしい。
拘束具である筈の手枷も外されており、外に繋がる隠し扉が設置されている牢屋。
一体、馬家の牢はどんなコンセプトで作られているのか、製作者に聞きだしたいところである。
最早突っ込むのも馬鹿らしい。
馬鹿らしいが、事実は事実として認めなければならないだろう。

「……で、どこに行くんです?」

色々な感情を―――大半が呆れで占められているが―――押し込んで、一応ではあるが、一刀は尋ねた。

「そうだな、まずは酒だな」
「飯だ。 どうせ外に出るなら美味い飯がいい」
「酒だ、昨日は休もそう言ってたではないか」
「……俺は行きませんよ」
「なんだと、困るぞそれは」
「そうだ、一刀が来ないと罪を押し付けられんではないか」
「それが本音かよっ!?」
「いや、本音は一刀は犯罪者だから矛先がそっちに行くかなと思ってる」
「期待してるぞ、鉄がどうしてもと言うから付き合ってるだけだしな俺は」
「なんだと、お前も納得していただろうが」
「いや、仕方なくだ」
「じゃあ俺もそうだ」
「ずるいぞ兄者」
「あんたら最低だ……もう”さん”は付けないからな」

二人の行動は無策で脱走するほど愚かではなかったらしい。
一刀を巻き込んだところで、二人が難を逃れられるかどうかは別として。

「という訳で行くぞ! 一刀! 美味い飯と酒が待っているっ」
「なおさら行けるかぁー!」
「まぁまぁ、嫌もぐるりと回って好きでしたと言うではないか!」
「嫌に決まってるだろっ! ああ、もうっ! 手を放せっ!」

結局、激しい抵抗が功を奏したか。
一刀は小一時間に渡る、時に肉体言語を交えた説得により牢屋の中に居る権利を勝ち取った。
つい先刻まで、速く牢を出たかったのに、今はこの牢屋の中が途轍もない安心感を与えてくれる。
牢屋に感謝すらしたい程だ。
何時でもその気になれば脱走できる部屋を牢屋と呼ぶかどうかは、この際置いておく。
(笑)をつけても良いかもしれない。

『鉄っちゃんも休ちゃんも、中身はあんまり変わらないんだな……』
『“馬の”……お前、苦労していたんだな』
『俺とは少し、違う苦労をしてそうだけど、頑張ったな“馬の”』
『へっ、よせよ“仲の”、“袁の”』
『同情できそうで出来ないところが可哀想だ』
「ハァ……ハァ……つ、疲れた」

ちなみに、一刀を諦めた馬鉄と馬休の二人は悠々と脱走し、しばらく牢屋に戻ってこなかった。
牢屋となれば看守が居るはずで、看守が巡回すれば牢に誰も居ない事に気付かれるはずだ。
そうなれば騒ぎが起こる。
騒ぎが起これば、将といわずとも、誰かが馬鉄と馬休を糾弾するだろう。
罪は重くなり、死罪にされても可笑しくない。
豪胆と言えばそうだが、これで死罪になればただの馬鹿だ。

が、一刀の予想は見事に裏切られる結果となった。

外を十分に満喫したのか、馬鉄と馬休は陽が赤く染まった頃に戻ってきた。
鉄格子の間から、お土産であろう肉まんなどを一刀の牢屋に放り込みながら。
そして、再び“おとなりさん”となったのである。

「……おかしいだろ」
『確かに、看守が一度も巡回に来ないとはおかしいな』
『“白の”?』
『まぁ、間違いなく賄賂だろ』
『あ』
『そうか……』

“白の”の推理を聞いて、一刀達は得心が行く。
不自然なまでに訪れない看守、余裕のある馬鉄と馬休。
ここから考えられるのは、金銭か、それとも他の何かで看守を抱きこんだ可能性が高い。
脱走直後はともかく、心配していた一刀からすれば些か納得の行かない展開である。

「なんか……まぁ、もういいや……」

全てが馬鹿らしくなってきた一刀は、その身を倒して床に仰向けで突っ伏した。
これが牢の中での日々の序章であることに、考えることを放棄した一刀はまったく気付かなかったのである。


―――・


「んで、今日も行かないのか?」
「行かないです」

この牢屋(笑)での生活は異常極まりない。
一刀が牢屋の中で日々、やつれていく。
原因はもう、言うまでもないだろう。
看守に賄賂を贈っているという推測はドンピシャであった。
“おとなりさん”だった二人が、一刀の牢屋の中に居るというのに、看守は目の前を通り過ぎても存在しないかのようにスルーしたのである。
異常なし、と呟きながらだ。
まぁ、異常在りと喚かれても非常に困るので助かっていると言えば助かっているのだが
そうした危機感を煽るのは目の前に居る脱走常習犯のせいである。

こんな日々が毎日続いている。
そう、毎日である。
一刀の牢屋の中にもお土産がどんどんと溜まっていくのだ。
定期的に窓から投げ捨てているが、掃除された気配も無いので外は中々にカオスな事になっている事だろう。
食品ならば、その場で消化してしまえば証拠は残らないが、本などは食べる訳にも行かない。
たまに用途の分からない物体を放り投げてくるので、暇つぶしにはなるし、実際脳内の誰かが懐にいれとけと
妙な形をした被り物を持たされたりもした。
とにかく、いくら何でもフリーダム過ぎた。
馬鉄も馬休も、初日を除いて毎日外に遊びに出歩いて疲れては牢の中に戻り眠るというイミフな生活をしていたのだ。
常識という言葉に、日々自信を失っていく一刀である。

「もういい加減やめてほしいんだけど……」
「一刀こそ、いい加減大丈夫だってことが分かっただろう」
「それは……そうだけどさぁ」

流石にこれだけ目の前で成功例を見せられては止めるのも馬鹿らしくなってくる。
が、忘れてはいけないのだ。
いかに目の前の男達がまるで自分の部屋であるように出入りをしていても、ここは牢の中。
未だ将や文官など、要職についている人間が見回りに来なくても牢屋なのだ。

「ここまで強情ならば、仕方ない!」
『っ! 本体っ!』
「え?」

一瞬であった。
口では何度も誘ってきたし、時に引っ張り出そうとじゃれ合いのような取っ組み合いはしていたが
本気で打ち込まれた事は一度も無かった。
それが、油断であったのだろう。
常とは違う、鋭い一撃に一刀は脳内の声から察する事は出来たが、反応することができずに顎を打ち抜かれた。
ぐらりとその身を揺らして、その場で尻餅をつくように倒れこむ。

「牢の中にずっと居ては、気が参るぞ一刀」

そんな馬鉄の優しくもありがた迷惑な言葉は、朦朧とした意識の一刀には当然届かなかった。
股座に腕を滑り込ませ、担ぎ上げるように一刀を抱えると、隠し扉をグルリと回して外に出る。

「どうだ! 気持ちいいだろう!」
「うぅ……?」

いい天気だ。
さわさわと風に揺られて木の葉は音を奏で、白い雲が青い空を彩っている。
草原に転がれば、気持ちよく昼寝ができそうな、文句の無い晴れっぷりだ。
一刀はまったくそんな陽気を感じることができないが。

「よし、まずは飯と酒だ。 休も待ってるぞ一刀」

そんな鉄の宣言に、ついに本体は意識を落とした。
足掻くのも限界だったようである。

『あー、どうするよ』
『いつかこうなる気はしてた』
『牢に戻らないと、後で本体が泣くぞ、多分』
『でも、確かに外は良いね……』
『おいおい』
『何言ってるんだよ、“南の”』
『はは、ごめん、でも牢の中は確かに気が滅入るよ』
『朱里と雛里に笑われる。 こんなところ牢屋じゃない、部屋だ』
『いやまぁ、それはそうだな、うん』
『それとこれとは話は別だろ』
『で、どうすんだよ』
『まぁ、戻るべきだよね。 ちょっと馬鉄さんを煙に巻いてくるよ』
『頼んだ』

声と同時、“蜀の”は担がれている本体の主導権を奪いその身を地に向けて翻した。

「馬鉄さん、どうしても俺を外に出したいなら、条件が一つある」

しっかりと両の足で地面を踏みしめると同時、手を馬鉄へと向けて人差し指を一本立てる“蜀の”
振り向いた馬鉄は、覚醒した一刀に驚いたのか、それとも頑なに外出を拒んでいた一刀の突然の条件に驚いたのか。
口を空けて呆けたように一刀へ視線を送った。

いや、違う。
確かに驚いた表情ではあるが、僅かに頬が紅潮している。
心なしか、目尻も潤んでいるではないか。
指を突きつけたまま、嫌な予感に身を強張らせた一刀に対し、ついに馬鉄は黒ずんだ片目を見開いて、震える唇から言葉を紡いだ。

「……か、一刀様……?」
「うわああああああああああああああーーーーッッッッッッッ」
『『『『『『『『『あああああああああああああーーーーーッッッッッッ』』』』』』』』』
『じゅるり』

一刀は逃げた。
戦場で呂布に襲われたかのように、一目散に脳内一刀ローテーションを駆使して逃げた。
今、一刀は風になった。
“肉の”に変わった瞬間、一度風向きが反転することになったが、それでも逃げ続けた。
その甲斐あってか、一刀は馬鉄から逃れる事に成功する。
ある意味で、脱走を果たしたと言えるだろう。


      ■ バタフライ


「……なぁ、これ何?」

しばらくして、本体は眼を覚ました。
『狭まった視界』に広がる光景に呆然としつつも、現状把握のために頼れる11人の相棒へと声をかける。
今、一刀は街の広場だろう場所で、階段に腰をかけている状態だったのだ。

『あぁ……本体』
『これには深くて浅くて濃い事実があって……』
『とても牢屋には戻れなかった』

なるほど、と本体は頷いた。
牢屋を出る前から意識のなかった本体に、理由は分からない。
分からないが、自分自身とも言える脳内の意識が、口を揃えて牢屋に戻れない状況だったと言うのならば
それは、本当にそういう事態が起きたのだろう。
それはいい。
いや、正直勘弁して欲しいのだが馬鉄の一撃に昏倒してしまった自分にも責任はある。
一番悪いのは馬鉄だが。

「わかった、うん。 それはもうこの際しょうがないって事で納得する。
 納得するけど、これは何?」

そう言って、一刀は自身の顔半分を覆っている違和感に触れた。
表面はざらざらとしている。
それは丁度、一刀の鼻の頭からコメカミの辺りまで広がっているようで形状的には眼鏡に近い。
顔幅を越す程の大胆なデザインをした眼鏡を本体は知らなかった。
だから、これは眼鏡ではない。

『それは、華蝶になれる仮面だ』
「華蝶? 仮面?」
『自身を謎のベールに包み込む、正体不明の英雄になれる物で、一部では神器とか言われてた、いや言ってた……』
「ごめん、意味が判らない」

本体は装着しているせいで、視界には収めていないがこの仮面には黒と白で刻まれた文様があるはずだ。
形も色も、まるで蝶を連想させるようなデザインであった。
なにより、見る者が見れば眼を惹き付けて止まない、作成者の魂の一魂が篭った物であるのが分かる。
馬鉄と馬休がお土産に持ってきてくれた物品の一つだった覚えがある。
が、そんなことはどうでも良かった。
どうして自分が神器とかいう胡散臭い、脱走犯のお土産だった仮面を知らぬ間に装着しているのか。
脱走も大いに問題だが、こっちも大きな問題だ。

「なぁ、外していいか?」
『だめだ、周囲に天代だとばれるぞ』
『牢屋に戻れない以上は、とりあえず装着しててくれ』
『今のところ、誰も本体には注目していない』
「時間の問題だと思うのは俺だけか?」

この本体の声に返事は無かった。
つまり、そういうことなのだろう。

しばし悩んだ一刀であるが、このまま広場に座り込んでいても目立つだけである。
謎の仮面を装着しているとなれば更に目立つことだろう。
立ち上がり、周囲をぐるりと見回す。
閑散としているわけでも、人通りが多いわけでもない、まったりとした空気が流れていた。

「あ」
『やばい……』

広場から大通りに繋がるいくつかの道、その一つに見覚えのある顔を見つけて、一刀は声を漏らす。
短い邂逅ではあったが、印象に残っていた凛々しい顔付き。
茶色の長いポニーテールを左右に揺らして、荀攸や文官風の男達と町を練り歩いていた。
一刀はそっと視線をはずし、階段の隅に移動すると顔を伏せた。

「馬超さんだよね、あれ」
『ああ』
「どうか気付かずに通りすぎてくれますように……」

恐らく、馬超は文官と共に巡察をしているのだろう。
天代として努めて居た時に、実際に見回りをすることは無かったが、犯罪が起きていないかどうか
何か見落としている、或いは発見に繋がる物は無いか、常に巡察をする者を置いていたのは
書類を通して知っていたことである。
文官を連れて歩いているのも、街そのものに手を加えようという思惑が在るのだろう。
一刀が顔を伏せたのも、仮面を装着している自分が不審者に見られないようにする為だ。
この仮面を見れば、間違いなく不審者だと思われる今、一刀に出来た対策は地を見つめることだけだった。
もちろん、仮面を外す度胸など全く無い。
脱走がバレてしまえば、なし崩し的に死罪を言い渡されるかもしれない。
いや、王朝からの使者に首を渡されても可笑しくないだろう。
こんな間抜けな捕まり方は御免である。

「牢屋に戻りたい……」
『我慢するんだ本体』
「こっちの方が苦痛なんだけど……」
『いや、あっちも相当怖いことになってる』
『こっちの方が幾分平和だな』
「何やらかしたんだお前ら」

一体馬鉄に襲われたあの時、何が在ったというのだろうか。
黄巾の戦でも、張譲に追い詰められた時でも平然と―――というのは大げさだが―――本体より遥かに強い
胆力を持っていた彼らが、ここまで恐れる事態とは何だというのか。
意識をそちらに割いた本体は、直後聞こえてきた会話に身を強張らせた。

「……?」
「ん? どうしたんだ荀攸」
「あ……―――。 なんでも……せん」
「うん? ああ、アレか?」
「あー……えーっと……」

僅かに戸惑いを含ませて言い淀む荀攸、それに対して得心したかのような馬超の声。
近い訳でもないのに、荀攸の声と違って馬超の声は良く広場に通った。
俯いているから、一刀から見える景色は砂利と石だけ。
だというのに、何故か馬超がこちらに真っ直ぐ歩いてくるのが手に取るように分かる。
逃げ出したい気持ちを必死に堪えつつ、一刀はひたすらに地面を見つめ続ける。
馬超がそのまま横を通り過ぎるように願って。

「なぁ、あんた。 具合が悪いのか?」

違う、これは俺に話しかけたのではない。
視界に瑞々しい太腿、それを包むように白い清楚なニーソックスが地面の砂利石との美しいコラボレーションを見せ付けてくるが
断じて北郷一刀に語りかけては居ない。 絶対違う。
必死に自己暗示をかける一刀だったが、その願いは空しく敗れた。

「平気か? 医者でも呼ぶか?」
「―――ッッ!」
『『『『『『おおっ!』』』』』』

心配する声と共に、太腿が、いや、馬超が屈んで様子を伺って来る。
それに伴い、けしからんふともも……じゃなくてスカートの奥の……でもなくて、とにかく刺激的な光景が目の前に広がる。
ここで不自然に体勢を崩すことも出来ず、一刀は思わず目頭を手で押さえようとして、仮面に指がぶつかった。
そこでハッと気がつく。
今、馬超は医者を呼ぶと言った。
医者と言えば、馬超の元には確かな腕を持つ医者が居る。
彼が見れば、長い付き合いである彼のことだ。
こんな仮面をつけただけの変装など、即座に見破ることだろう。
慌てて一刀は拒否の言葉を連ねた。

「だ、大丈夫だ」
「いや、傍から見ていても発汗が凄いし体調が悪そうに見えるぜ」
「いや、全然平気だ!」
『うん、これ脂汗だからね』
『ちょっと“南の”は黙ってろ』
「じゃあ、顔あげて顔色を見せてくれよ」

この発言に、ビシリ、と一刀は石のように固まった。
なんでここまで関わるんだとも思ったが、馬超が心配して声をかけてくれているのも分かっている。
とにかく、嘆く前になんとかしなければならない。
華佗は100%と言えるが、馬超だって一度顔を合わせているのだ。
いかに仮面をしているとはいえ、一刀だとばれない保証はない。
だが、最悪な事にこのままふとももや地面やスカートの中身を覗こ、見つめていても医者=華佗を呼ばれてばれるだろう。
暫く、一刀は俯いたまま固まっていたが、意を決して顔を上げることを選択した。

「なっ! お前……っ!」
(くっ、やっぱり駄目だったか!)
「うわぁ……」

馬超は一刀が顔を上げて、その全貌を認識すると共に驚きの声を上げて一歩後ずさる。
対して、その後ろに控えていた荀攸は一刀を見るなり顔を引きつらせていた。
その虫を見るような眼が、まるで荀彧のようだ。
なんにしろ、一刀は諦観の思いで二人を見つめた。
ふらふらと腕が上がり、一刀に馬超の人差し指が向けられる。

「お前……お前は何者だっ! 妙な仮面つけやがってっ! 怪しいやつめ!」
『『『セーーーーーフッ!』』』
「「うわぁ……」」

最後の声は一刀と荀攸の声である。
まさか仮面を付けただけで欺けるとは思わなかった。
それも、荀攸に即看破されたであろう、ドン引きした声を聞いた後では尚更だ。
確かに、一刀は馬超とは短い、本当に短い間しか顔を合わせていない。
それでも、これは無い。

だが、助かっているのも事実である。

「答えろっ!」
「っ!?」

何時の間にか、馬超のその手には愛用の武器である十文字槍(銀閃)が握られており
一刀の喉元に突きつけられていた。
武器を向けるほど、禍々しい姿なのだろうか。
何にせよ、触れているのか、それとも触れていないのか一刀自身が分からぬ程の薄皮一枚で止められた銀の刃先があるのは事実。
この一瞬、僅かに思考を逸らした瞬間には既にこの状態になっていた。
少しでも馬超の手が押し込まれれば、容易に皮膚を貫き一刀の喉を抉るであろう。
先ほどまでの気の抜けた空気は完全に一掃され、睨みつける鋭い馬超の眼光に、一刀は自然身体が後ろに泳いだ。
頬を伝う汗を無視して、一刀が馬超を見上げる。

「今は余計な問題を起こされたくないんだ、あたしは。 その仮面を取ってもらおうか」
「……それは、できない……」

この一刀の返答に、馬超は僅かに眦を上げると刃を一刀の喉に押し付けた。
プツリ、と薄皮を剥ぐ音が聞こえ、赤い血が伝うのを実感する。
その間、一刀は視線を逸らさずに馬超を見つめていた。
僅かに、僅かに馬超の目元に出来ていた黒ずみに気がついたせいだった。
そこに気がつくと、馬超の顔色そのものが余り良くないことを知るに至る。
目の前で槍を突きつけ、威圧をしてくる馬超には鬼気迫る物があったが、一刀はその事よりも彼女が体調を崩している事実の方が気になった。

「……分かった、話すよ」
「最初から素直に話せば良いんだ。 顔を見せてもらおうか」
「いや、この仮面は外せない」
「何でだよ!?」

バレルからである。

「実は、この仮面は光に作用している。 太陽の光だ。
 俺は生まれつき強い光がある環境では視界がぼやけてしまう、障害を負っている。
 だから、この仮面を外すと失明してしまう可能性があるんだ」
「な……」
「ここで地面を見ていたのも、太陽が傾き始めて眩しくなってしまったからなんだ」
「……」

一刀は、この今のハッタリが多少効いたことを、喉元に突きつけられた槍から敏感に感じ取った。
本人以外では絶対に気付かない程だが、確かに槍の穂先を下げたのである。
ここが勝負所と、一刀は判断した。
真っ直ぐに馬超の目を真正面から見据えて、対面する。
その顔は、演技で造られたとはとても思えない程の真剣な表情だった。
もしもこの場に天代であった一刀を見ていた者が居れば、その胆力はかつての一刀と違うことを知ったであろう。
まぁ、全て嘘で塗り固めた話な上、仮面のせいでその表情の効果は半減していたが。

「……本当か?」
「こればっかりは信じて貰うしかない。 目が見えなくなるかも知れないのに、仮面を外したくないんです」
「分かった……信じる」

言ってから、やや間を置いて一刀の喉元から十字槍が引いていく。
大きな安堵の溜息を吐くと、馬超は言いづらそうにそっぽを向きながら

「すまなかった。 悪気はなかったんだ」

そう言って、巡察の続きに戻るのだろう。
踵を返し、背を向けて歩き去っていく。
その馬超の背に、声をかけたのは荀攸だった。

「馬超殿。 少し用事を思い出しましたので、私はここでお別れしても良いですか」
「あ、ああ。 分かった。 ありがとう荀攸殿」
「いえ。 有意義な時間を過ごせました」
「それと……えーっと、その仮面、意匠を何とかした方が良いと思うよ。
 余計なお節介かもしれないけどさ」

言い残して去っていく馬超は、今度こそ振り返らずに広場から姿を消した。
馬超が見えなくなるまで見送った一刀と荀攸は、声をかけることもせずに、どちらともなく視線を交し合った。

「……はぁ」
「うっ……」

盛大な溜息を突かれ、一刀は呻いた。
しばし、首を逸らして溜息を漏らしていた荀攸は、一刀をもう一度見て仮面を凝視する。
何も言えず―――そもそもこの場に居る時点で言い返す術は無い―――固まっている一刀に近づいて
ペタリペタリと、二度三度仮面に手を触れてから、今日一番の溜息を荀攸は吐き出した。

「はぁぁぁ…………」
「ごめん。 俺が悪かった」

もはや一刀には謝ることしか出来なかったのである。


―――・


適当な店に入り、一刀と荀攸は軽食を頼んで向かい合って座り込んだ。
万が一を考えて、仮面は装着してある。
チラチラと一刀と荀攸を伺うような視線が飛んでくるが、それは荀攸の
「やっぱり北さんにその仮面は似合いますね///」
の一言で、興味を失ったかのように視線は消え去っていった。
正直助かった。
偶然とはいえ、荀攸とこうして話す機会を得たのだ。
一刀としては、聞きたいことが山ほどあったので注目されるのは宜しくなかった。

「貸しですよ」
「はは、分かったよ」

人差し指を立てて静かに宣言。
一刀は苦笑しながら、彼女の言葉を認めた。

「……えっと、早速いいかな」

一刀の言葉に、首肯すると荀攸は一刀の聞きたいことを淀みなく話してくれた。
まず、馬騰の治療。
一刀が牢屋に入れられてから3日後から治療は始まったそうだ。
どうしてそんなにも遅れたかと言うと、馬騰が華佗を待たせて韓遂と引き篭もったせいである。

「引き篭もった?」
「なんでも馬騰殿と韓遂殿は旧知の仲だったそうで。
 重要な話がある事を察した馬騰殿が、人払いをした結果です」
「なるほど、韓遂が尋ねてきたのは友人だったからか……」
「北さん、今は韓遂殿に反乱の疑いは持たれていません」
「なんだって?」

一刀は耳を疑った。
馬家に訪れる前、いや牢屋に入れられる直前まで、韓遂は反乱の中心人物ではないかと噂されてきたのだ。
中央では、まず間違いなく韓遂と辺章が首魁だと思われている。
それが、中央よりもよっぽど戦場に近いこの場所で、逆賊ではないと言われているとは思えなかった。

「何故かは分かりません。 本当にただの噂だとしたら、韓遂殿は被害者ですね。
 韓遂殿自身にも直接聞いてみましたが、辺章に利用されたせいで、信頼できる友を訪ねてきたと」
「そうなのか……しかし、もう手遅れだろう?」
「ええ。 王朝からは逆賊の徒として見られているでしょうし、これは覆らないでしょうね」

もし韓遂の言っていることが事実ならば、憎むべきは辺章だ。
利用されて蹴落とされたというのならば、一刀も同じような物だ。
ただ、立場が王朝側に在ったか、もともとが反乱側に在ったかの違いがあるだけで。
まだ見たことも、会ったこともないのに、一刀は韓遂へ奇妙な共感を覚えた。

「北さん、あくまでも韓遂殿自身の発言であることを忘れないで下さい」
「……そうだね、荀攸さんから見て、韓遂殿はどんな人だったんだ?」
「そうですね……食えない人でした」
「君のように?」
「心外ですね……」
「ごめん、冗談だよ。 だから筆を置いて何かを書くのは止めてくれ」

どこからか取り出した筆で、これまた何処かから取り出した紙を見て、一刀は慌てて謝った。
ついでに墨や顕も無いのにどうして文字が書けたかも謎だったが、触れないでおくことにした一刀である。

「続けますが、仮に嘘であったとして中々尻尾は見せないでしょう。
 変に詮索しようと近づけば、手痛いしっぺ返しがあるかも知れません。
 様子見に止めておくのが懸命ですね」
「うん、そうだね……それで、馬騰さんは治った?」
「いえ、倒れて意識不明です」
「え!?」

先ほどまで、韓遂と馬騰がどうのこうのという話をしていたせいで、これにも一刀は驚いて声を上げてしまう。
詳しく経緯を聞くと、倒れたのは韓遂との密会が終わった翌日に自室にて昏倒したのだという。

「倒れた直後は、馬超殿が韓遂殿に詰め寄っていました。
 こっそり隠れて盗み聞きしていたので、内容はだいたい把握してます」
「こっそりか……」
「そこを突っ込むのですね」
「いや、むしろそこが突っ込みたかった」

一刀からすれば、文官一直線の彼女がどうやって馬超と韓遂の話を盗み聞き出来たのか。
そっちの方が不思議だったのだが(盗み聞きしたことは別段不思議には思えなかった)、確かに内容を聞くべきだろう。
肩を竦めて一刀の戯言を流すと、荀攸は様子を説明した。
馬騰と韓遂は密室で過ごしていたこともあり――もちろん、食事などは外に出て取っていた――真っ先に問い詰められたのは韓遂であった。
病態が悪化したのは何故か、と。
これに韓遂は、馬騰におかしな様子は見られず、まったく気付かなかったと心配そうな声を上げていたと言う。
後に華佗の診断で、1日2日で進むような病魔ではない、といわれた事もあって
馬超は韓遂に詰め寄ったことを謝罪し、難しい顔をして立ち去ったそうである。

「現在は、馬騰殿には華佗殿が毎日、診ているようです。
 病巣は深いが、この位なら救える筈だ、とも仰ってましたので回復の見込みはあるかと思います」
「……馬超さんの目に隈が出来ていたのはそれか」
「でしょうね。 当主が倒れた今、馬家を引っ張っているのは彼女ですから」
「そうか……それで、牢屋に誰も顔を見せなかったのは」
「あ、忘れてました」
「え? マジで!?」
「嘘ですが」
「……」
「おあいこですね」
「……そうだね」

一刀は参ったというように手を挙げてから、机に置かれた急須を取って荀攸の容器へと茶を注ぐ。
ついでに自分のコップにも注ぎながら、一刀は質問した。

「漢王朝の使者は?」
「耿鄙殿ですか? あの方も、まだこの地に留まっております」

「耿鄙さん……か」
『知ってる?』
『いや、本体は?』
(知らないな……どんな事をした人なのか、まったく分からない)
『“馬の”』
『わるいが……』
『本体が知らないんじゃ、誰も分からないと思うけど』
『だな……』

「私の推測ですが、耿鄙殿は馬家の監視をしているのではないかと」
「監視か……西涼の大きな組織で反乱の軍を出していないのは馬家だけだから、当然かもね」
「ええ、耿鄙殿は涼州の刺史の任を戴いているそうです。
 私も始めて見る人でしたので、つい最近になって拝命したのかと思います」

もちろん、一刀にも耿鄙という人物に見覚えは無かった。
顔を半分隠しているという特徴的な容姿をしていたのだ。
見かけていれば思い出す。
西園八校尉、そこから軍権のトップだった一刀が抜けたことも相まって大きな人事の異動があったのは想像に難くない。
どういう思惑が絡んだのか、左遷したのか、昇進したのかは分からないが
耿鄙もそういった人事の波に浚われて涼州の刺史に就任することになったのだろう。

「耿鄙殿も、おそらく長い間逗留することになるでしょう」
「そうか……なぁ、荀攸さん。 俺はどうすればいいかな」
「牢屋で寝ててください」
「……できれば外に出たいんだけど」
『頑張れ本体!』
『お前に全てがかかっている』
「どうしたの突然!?」
「は?」
「あ、いや、なんでもないよ」
「良く分かりませんが、そうですね。 一つだけ、北さんに助言をしておきます」
「あ、ああ。 何かな」

「脱走しちゃ、いけません」

この助言に、一刀はもっともだと深く頷いた。
逆に脳内は訳の分からない悲鳴を挙げていたが。

『ぬっふ♪』

いや、一人だけは喜色ばんだ声をあげていたが。
この時に、かずかに荀攸の口元が動いていたのを、脳内の悲鳴に気を取られていた一刀は知ることは無かった。

「どうせ、すぐに出れますから」
と。


      ■ 牢中勧誘・多岐亡羊


ある程度のまとまった情報を手に入れて、一刀は仮面を取り外しながら、からくり扉を掻い潜った。
荀攸と別れた頃には陽は傾いて、紅くなった街並をこっそりと移動しつつ、城中へと潜り込んだ。
数人の衛兵にその姿を見られたが、誰も天代の脱走だと騒ぐ物は居なかった。
逆に親しげに話しかけられるくらいであったのだ。

「あんた、その華? 蝶? みたいな仮面格好良いな!」
「何処で手に入れたんだい!?」

と言った具合である。
何故、変装にもならないただの仮面を―――確かに奇抜なデザインではあるが―――装着しただけで
誰にも気付かれないのか不思議でならない。
脳内の誰かが言う様に、これは神器なのだろうか。

「……いや、ないな。 うん」

言いながら、一刀は仮面を懐に仕舞い込んだ。
なんにせよ、この仮面のおかげで助かったのは事実であり、この牢屋では唯一の一刀の物である。
手に入れることが出来たのは馬鉄と馬休のおかげであったが、感謝する気にはなれなかった。
脳内の話から、馬鉄が原因で牢屋に戻れなかったことを本体が知ったからである。
そもそも、いきなり容赦のない一撃で昏倒させた馬鉄には言いたいことが山ほどある。
あるが、不思議と憎めない。
きっと謝ってくれれば許してしまうだろう。
それもこれも、馬超と相対したときに難を逃れたから言えることでもあるが。
そんな未来が見えて、一刀は一人苦笑を零した。

冷たい床に、大の字になって寝転がる。
紅くなった世界は、闇に彩られて、その漆黒を切り裂くように天に浮かんだ月明かりが鉄格子から差し込んでいた。
その身を横たえてから程なく、一刀は眠気に襲われた。
考える事は沢山あるかも知れないが、今はこのまどろみが気持ち良い。
馬鉄の言葉ではないが、しばらくぶりに外に出たことで見えない疲れが抜けていたのだろう。
気が付けば、一刀は眼を閉じて規則正しい呼吸の中に沈んでいた。

「……ん」

ふと眼を覚ます。
牢の中で、時間の感覚を計るのは難しい。
“おとなりさん”から物音がしないことを考えると、もう夜も更けているのだろうか。
中途半端に寝てしまった。
そう思いながら、一刀が上半身を持ち上げた時である。

カタン。

と、この牢屋と本宮を繋ぐ扉から鍵の外れる音がした。
この牢は、鉄格子の窓以外は密室だ。
誰が扉を開けて中に入って来たのか、それを確認することは出来なかった。
地を踏みしめる音が、牢の中を駆け抜ける。
その音は、一歩一歩、確かめるように踏みしめられて、やがて止まった。

一刀の牢の、扉の前で。

「誰だ?」

誰にも聞こえないだろう。
口の中だけで転がした一刀の尋ねに、答える声は無い。
やがて、一刀の牢の扉の鍵が外れる音が響いて、一刀を訪れた人影を月明かりが映し出す。
短く黒い髪を僅かに揺らし、右半分を布で覆っていた。
時折響く金属音は、服に装飾されている鎖がぶつかりあって響いているようだ。
一刀は、その姿を認めた瞬間、顔を顰めて眦がやにわに持ち上がった。
唇も、少しばかり震えて。

「夜分に失礼する。 まだ起きていられたようで、安心しました」
「……あなたは?」
「我が名は耿鄙。 お初にお目にかかります、天の御使い様」

そう言って、耿鄙は驚くことに恭しく一刀の目の前で頭を下げた。
王朝側の、それも涼州の刺史である官吏にいきなり頭を下げられるとは一刀も思わなかったのである。
一刀の立場は今更言うこともない。
今、牢屋の中に放り込まれているように、漢王朝の敵となっているのだ。
もちろん、民草にまではまだ浸透していないみたいだが、漢王朝の役人や官吏。
それも中央に近ければ近いほど、天代敵対の事実は知られているはずだった。

「耿鄙さん、俺に何か?」
「否定しないということは、やはり天の御使いで間違いないですね」

薄く笑って顔を上げた耿鄙に、一刀は舌が乾いていくのを感じた。
別に威圧されているわけでもない。
いや、どちらかといえば柔らかい雰囲気を感じる耿鄙という人物に、一刀は確かに緊張をしていた。

耿鄙と、いや、漢王朝の官吏と直接出会って一刀は、一刀達は初めて知った。

『……そっか』
『なんだよ、“董の”』
『本体だけじゃない。 俺達も一緒だってことだ』
『何が?』
『自覚も無かったけど、トラウマになってるんだ』
『え?』
『張譲に……追い詰められた時のこと』

瞬間、蘇るのは壇上で見下ろす張譲の眼光。 李儒の薄い笑み。
そして、劉宏の失望を映した瞳。
意識である自分達が拒否された。
意識である自分達を拒絶した。
あの日、確かに一刀達はバラバラに引き裂かれてしまった。
繋ぎとめることが出来たのは、涙でくしゃくしゃにして笑顔を振りまいた小さな天使のおかげだ。

『本当に俺達が何にも思ってないんだったら、本体が何にも思ってないんだったら』
『王朝側の人間を見て、顔を歪めたりなんかしないってことか』
『そうだな……』

脳内の会話に耳を傾けながら、本体は耿鄙の顔へと視線を向けた。

「ああ、耿鄙殿の言う様に……俺は天の御使いで、天代だった。
 それと、君が此処へ訪れたのは天代としての自分に会いに来た、ということで良いのかな」
「はい」
「そう……」

一刀は、耿鄙が頷くと、即座に立ち上がった。
王朝側の人間が、追放された天代と知って接触を図るのならば、答えは単純だ。
捕らえ直す。
或いは、この場での殺害。
別の用件かもしれないが、どちらかと見て良い。
そのくらいに疑って、警戒したほうが正しい。
一刀は耿鄙の動きを見逃さないよう、しっかりと見据えながら後退する。
目指すはからくり扉。
危険を感じたら、なりふり構わず逃げる算段である。

「天……いや、北郷様」

完全に警戒された。
その様を感じ取った耿鄙は、現れた時のように再び頭を下げて敵対の意志を見せないように言葉を紡いだ。
天代という言葉を隠し、一刀の名前で呼びかけて。
さすがに、一刀は耿鄙の恭しい態度に疑問を抱く。
後ろに下がる足を止めて、頭を下げ続ける耿鄙へと視線を注ぐ。

「私は、北郷様に害意を持って会いに来たわけではありません」
「じゃあ、何のために? 漢王朝の敵だと言われている俺に会いに来たの?」
「それは、北郷様が天代であったからです」
「どういうことだ?」

『本体、この人は……』

何かに気付いた脳内の一人。
その声よりも先に、耿鄙の声が速く届いて理由は氷解する。

「天代を失ってからの漢王朝は見るに耐えません。 私は、北郷様」

一度言葉を区切って、耿鄙は顔を上げて一刀を直視する。
その眼には強い決意のような、志のような者が宿っていた。

「あなたに、天代として漢王朝へ戻ってくださるようお願いに参ったのです」

それは誘いであった。
そこから、耿鄙は一刀に質問の隙間を挟ませぬように、一刀が戻らなければ行けない理由を捲くし立てた。
耿鄙の話は、一刀が如何に天代として在った事で繋ぎとめられていた物が在ったのかを力説したものだった。

天代が追放された直後、まるで天から見放されたかのように帝は崩御した。
人事は一刀が予想していたかのように、大きく動き始めた。
西園八校尉に天代から選ばれた諸侯の権限は大きく制限されて、実質その役目を果たす事無く形骸化した。
その混乱を加速させるように、劉協が皇帝へなることを宣言し、劉弁派と激突。
この劉協の傍に十常侍筆頭である張譲や趙忠が加わって、宮内の中は乱れに乱れ、それは今もなお続いている。
その混乱に巻き込まれるのを嫌ったのか、偶然かは分からない。
だが、諸侯は漢王朝を見捨てるかのように、一人、また一人と宮中を去っていく。
演習に赴いた蹇碩の死と、その部隊の兵の様子は、漢王朝を守る盾である兵卒に大きな衝撃を与えていた。
感の良い物は、既に天代が漢王朝から去り、戻ってくる事がないのを感づいている。
軍部で言えば、大将軍である何進、それに続く名将・皇甫嵩、朱儁の仲は一変し、特に何進と朱儁の溝は深刻になった。

諸侯同士も……特に一家の大黒柱が抜けた孫家は江東一帯で起きた乱に手を焼いており
これの援軍を申し出た劉表は、孫策によって断られた。
耿鄙はその理由を知る事は出来なかったが、母である孫堅に関係するらしい噂を聞いた。
一方で、好意を無碍にされた形である劉表は、大事に小事を拘る孫策を、虎の娘は虎ではなかったと罵り、仲は険悪となる。
諸侯の中では最大兵力を保有する袁紹は自身の領地である南皮から動かなかった。
これに、逆賊を討つ意志無しと強く糾弾したのが同じ袁家である袁術であった。
袁術は本拠地である寿春で黄巾との消耗戦を繰り広げて疲弊したところ、同じ袁家である袁紹へと兵の出兵を願ったのである。
これを受けて、袁紹は確かに了を返したが、戦況が完全に膠着するまで遂に寿春に援軍は来なかった。
激怒した袁術が、袁紹を指差して糾弾するのは当然だろう。
袁紹もまた、朱儁や盧植が攻め立てた上党の黄巾残党の頭を押さえる為に、援軍を出す事が適わなかったのだが
約束をした以上はそれも言い訳となる。
謝罪の貢物を袁術へと送ったそうだが、袁家同士の間に僅かながら亀裂が走ったのは間違いない。

これらの事は一例に過ぎず、諸侯同士が日々緊迫していく様子が感じられたという。

やがて時は経ち、耿鄙は涼州の刺史の命を宦官の一人、段珪という物から拝命する。
その前の涼州の刺史は、張譲に召し上げられて中央で勤めることになった。
張譲が自身の派閥を増やそうとしていることは、耿鄙にも理解できた。
劉弁との後継者争いに、劉協側は発言力の確保に躍起になっていたと思われる。
帝の遺言では、劉協を皇帝にするようにとの触れだったが、聞いたのは十常侍のみ。
どこまで本当の話なのかがそもそも疑わしい。
実際、劉弁を皇帝にするようにとの遺言もあるそうなのだ。
もはや言った者勝ちみたいな幼稚な次元にまで落ちているというのが、本当のところである。

「天代様が洛陽を出られてから、漢は滅茶苦茶です。
 これが天の御使いと名乗る前も平穏ならば、切っ掛けになっただけと割り切る事が出来たでしょう。
 しかし! 北郷様が天代を名乗られた瞬間から、漢王朝は腐敗から息を継ぐ事ができた!
 直接関係する事の少なかった私は、だからこそ気付く事が出来たと思うのです!」
「……」
「あ……、失礼。 少し熱が篭ってしまいました」
「いや、いいよ。 それに、少し安心した。 俺を認めてくれる人が少しでも居てくれて」
「北郷様は、漢王朝に降りた天の御使いなのでしょう? 
 戻るために、私は協力を惜しみません。
 いや、天代であった北郷様ならば全権を……もちろん、表に立つのは私ですが、委ねても良いと思っています。
 涼州を治めてから、僅かではありますが私にも力が……
 次に反乱軍と董卓軍がぶつかった際に援軍として駆けつけれるだけの力が在ります。
 天代様の持つ軍略があれば、武功を立てて舞い戻ることだって不可能ではない」

一刀は、揺らいでいた。
追放され、諸侯が抱えるには危険すぎる爆弾としての自覚があったからこそ
誰かの下で再起を図る事を選択肢から取り除いたのである。
荀攸の言う、罠に陥るという言葉もあって。
それを承知で、抱え込んでくれると眼の前に居る耿鄙はそう言っているのだ。
耿鄙の持つ権力は、言ってしまえば同じ刺史に任命されている曹操と同程度の物だ。
言い方は悪いが、耿鄙という隠れ蓑が手に入り、なおかつ一刀は自分の陣営を持つ事が出来る。
また、自分が洛陽へ戻れるまでひたすらに機を待ち、耿鄙の庇護下で雌伏の時を待つことも可能だろう。

掛け値なしの破格の条件。
耿鄙が求めてることは、一刀が洛陽へ舞い戻り漢王朝を立て直す事。
利害も文句なしに一致した。

「北郷様……私は思うのです」
「耿鄙殿……」
「私のように、漢王朝を想う者はまだ多いはずで、腐敗を止めようという想いの中、各々の志を掲げてしまって
 その志同士がぶつかりあってしまっている」
「そういう物は、あるかも知れないな……」
「きっと私もその一人でしょう。 此処に来た事も、私の勝手な想いを実現させようとしているに過ぎない」
「……」
「しかし、宮中でも同じ、志のぶつかり合いがある、そんな中で天代は諸侯を纏めきりました。
 様々な志を束ねて、大きな力のうねりに変えることが出来ていた。
 他の誰もができぬ事を、確かに成し遂げようとしたんじゃないか、そう思えるのです」

それきり、耿鄙は言いたい事は全て言ったのだろうか。
口を噤み、それ以上一刀へ思いの丈をぶちまけることをしなかった。
耿鄙から視線を切って、一刀は窓の外を見た。
光源は月明かりだけだというのに、この時代はよく光が差し込む。
無意識に、一刀は胸元に下げた小さな紅い宝玉をその手で弄っていた。
鈍い光を反射して、一刀の顔を照らし出す。
黙した一刀は、胸中で尋ねた。

(……みんな)
『おう』
『どうした』
(俺、迷ってる)
『みたいだね』
『諸侯への接触は、危険も大きいみたいだしな』

この危険とは、今の一刀の状態を指しての事だ。
馬騰とは入り方を間違えたのか、或いは初めから芽が無かったのか。
会話することすら出来ずに牢屋の中で、気がつけば馬騰は倒れて同じ卓に立つことすら可能かどうか疑わしい。
同じ雌伏の時を過ごすのならば、耿鄙の下でも良いのでは無いか?
現状、一刀がこう考えてしまうのは仕方が無いだろう。

『疑っている訳じゃないし、様子から見ると平気だろうが、それでも耿鄙は漢王朝の官吏だ』
『裏切るってこと?』
『止むを得ず、どうにもできない事態になる可能性はある』
『それを言ったら“白の”、今の状況はなんなんだよ』
『少なくとも、今は安全だろうね、耿鄙さんのところは』
『そんな事分かってる。 俺が言いたいのは刺史である限り宮内の人間の出入りは少なからず在るってことだ』
『そうか、“白の”が怖いのは、耿鄙さんよりもその部下か』
『“呉の”の言う通りだ、言っちゃなんだが、本体は有名人過ぎる。 末端から何時こっちの存在がバレるか分からない』
『宮内に俺達の潜伏場所が割れれば、幾らでも相手に手ができる。 しかもこっちからは耿鄙さんだけしか情報の窓口が無い』
『だから、当ても無くさ迷うのか? そんなことで、洛陽に戻れるのかよ俺達』
『それは……しかし、耿鄙さんの下では諸侯との関係が作れない』
『諸侯への協力を申し出て、この場に居ることは忘れてないだろ』
『それも分かってる、ただ、俺ならきっと断る。 リスクの大きさは良く考えればトントン……いや、それ以上かもしれないんだぞ』
『俺なら付いてく。 どっちにしろ見えない危険に怯えるのは一緒なんだ。 最悪、兵という力を得ることが出来る選択肢を逃すことは勿体無くないか?』
(そう、だよな……簡単に決められることじゃないんだ、これは)

今も続く脳内の会話に、本体は耿鄙へと身体を向けた。
その空気を察してか。
耿鄙もまた、一刀に視線を合わせる。

「耿鄙殿、最初に言わせてください」
「はい……?」
「ありがとう。 少し大げさな表現だったし、俺がそこまで高く評価されてるのは、純粋に凄く嬉しかったよ」
「いえ……少なくとも私はそう感じた、感じましたから」
「それで、この話は少し考えさせてくれないか。 簡単に決められないから。
 自分の立場を、良く理解しているから、すぐに決断が下せない」
「……いえ、十分です。 私の想いが天代に伝わって、真剣に受け止めてくれたこと事態に価値があります。
 もし、もしも私の志を受け止めてくれるのならば、北郷様。
 この牢から正式な手続きを踏んで、出すことにいたします」

馬騰の判断で牢に入れられた一刀だが、耿鄙が一刀の身柄を預かって中央に連行するといえばすぐにでも出れることだろう。
馬家にとって一刀を拘束し続けることに、メリットは余り無いからだ。
むしろ、下手に周囲に知られれば、それこそ天代を匿っていると言われて可笑しくない。
言うなれば、厄介物である一刀は何処に行っても煙たがられる可能性がある。
受け入れてくれる場所が在る事のほうが稀と言っても良いかもしれない。

二、三、耿鄙は一刀へ挨拶を交わすと、扉を閉めて牢から出て行った。
来た時と同じように、心なしか軽い足取りで靴音を響かせて、扉の開閉の音が聞こえてくる。
その直後だった。
この場に存在しないはずの、一刀以外の声が聞こえたのは。

「そう、あの官吏の目的は私と同じだったか……」
「っ!?」

それは鉄格子の外から聞こえた。
声の方向に首を巡らした一刀の目に飛び込んで来たのは、厚ぼったい唇を三日月に歪めて
一刀へと視線を送る赤い髪をした妖艶な女性であった。

「誰だお前!」
「そういきり立たないで欲しいな、曲りなりにも立場は同じだろう。 天の御使い様」
「立場?」
『まさか……』
『“呉の”、知ってるのか』
『いや、知らない。 けど、本体、こいつ韓遂じゃないか?』

“呉の”の予感に、本体はハッと気がついた。
今日、荀攸との会話で似ていると感じて同情心が芽生えた相手を。
顔も声も知らない。
性別さえ分からなかった人に共感めいた感情が生じたのを。

「……韓遂、か?」
「あら、嬉しい。 私の名を知っていたとは。 天代様程じゃなくとも私も有名になったものだよ」
「何時から居たんだ」
「最初からさ。 気がつかなかったかい?」

そう言って口元に手を当てると、何が可笑しいのか。
クスクスと楽しそうに笑う。
茶化されてる気がして怒気を孕むより、一刀はまずいことになったと歯噛みした。
耿鄙の一連のやり取りは誰かにバレて言い物では無い。
いわば密約の類であり、本質を隠されたまま実行されるのが最善だった。
牢から出して貰って、何時までも耿鄙が中央に行かなければ疑われるかもしれない。
しかしそれは、一刀を中央に送る振りをして、道中賊に襲われる振りをすれば適当に解決できる問題でもあったのだ。
他にも様々な手立てが考えられただろうが、しかし。

「そう邪険にするな。 言わば私と同じなんだよ、天の御使い様は。
 中央から排されて、腐敗しきった漢王朝に切り捨てられた、哀れな子羊だ」
「……それで、何用ですか」
「耿鄙殿と同じ事だ。 分かるだろう? 私と共に来ないかと誘いに来たのさ」
「何―――、えっ!?」
「うん?」

この時、韓遂の言葉の裏に最初に気がついたのは“仲の”であった。
根拠は無い。
殆ど直感めいた確信に、本体の主導権を奪って“仲の”は韓遂へ向けて言った。

「天の御使いの名を巻き込んで、どうするつもりなんだ?」
「聡いね。 さすが大陸に響く天代の名は伊達じゃない」
「馬騰さんを、友人として頼ったのも怪しいね。 本当の目的は涼―――」
「……なんだい? 途中で言葉を切るなんて、言いたいことがあるなら言ったらどう?」

この時やや強引に入れ替わったのは“董の”である。
恐らく、“仲の”の直感が正しい。
だからといって、今この場で分かったことを全て韓遂に教える必要は無い。
何より、韓遂は“最初から居た”と言っていたが、それが事実かどうかも疑わしい。
あれだけ物音の無かった静かな時。
扉の鍵を開けた音があれだけ明確に響いていた時。
鉄格子だけついて窓の無い外からの雑音が耳に入らぬことなどあるだろうか?
“董の”は“仲の”が紡いだ言葉尻を引き継いで、適当なことを韓遂へと尋ねることにした。

「本当の目的は、馬騰さんを利用することだったのかい?」
「これは異な事を言うもんだ。 私はこう見えても情に厚いんだぞ。 見くびらないで欲しいな」
「それは……すまなかった。 もしかしてと思ってしまって」
「男が簡単に謝るもんじゃないさね。 まぁだが……そうだね」
「?」
「御使い様が望むなら、すぐにでも牢から出して誘い出した目的を話すとしよう。
 心配はいらない、私は馬家と親しい。 私が預かれば“余計な”心配もしなくて済む」

それは、先ほど耿鄙の下に居た場合を考えていた時の話だろう。
末端から、或いは耿鄙の領地に訪れた諸侯や官吏から漏れ出る心配など無用だと、韓遂は言っている。

「……まぁ、誘いに来た日がまずかったね。 あの官吏もどうしてこの地に逗留を続けるのかと不思議だったが。
 御使い様、答えは今日で無くても構わない。 ゆっくりと考えて、御使い様にとって賢い選択をすると良いさ」
「……お礼を言えばいいのかな?」
「言いたいのならば受け取るが、言うのかい?」
「はは、ありがとう。 今の俺を誘うこと事態、礼を言うべきことだろうから」
「受け取っとくよ……それじゃあ、良い返事を期待して待つことにしよう」

最後に韓遂はそう言って、笑顔で手を振って鉄格子から姿を消した。
思いのほか、気が抜ける無邪気な笑顔だった。
荀攸が韓遂を評した言葉が、今更ながら一刀の脳裏に過ぎる。
食えない人。
なるほど、と一刀は頷くと共に、大きな溜息を吐き出した。

「……やれやれ」
『本体、ゆっくり考えよう……』
『ああ、俺達が出来るのは、考えることだしな』
『二度と無様を晒さないように、ね』
「ありがとう……よろしく頼むよ」

この日、停滞してじれったい日々を過ごしていた一刀は、数多の選択肢を手に入れた。
同時に、余りに多く振って沸いた道の多さに、混乱することになったのである。

明けて翌日。
一刀は、牢屋の中での日々に脱走ではない終焉を迎えることになるのだった……


      ■ 外史終了 ■



[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編5
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/31 21:51
clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編3~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編4~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編5~☆☆☆





      ■ シャバへ


(どうなってるんだこれ……)
『さぁ?』

眼をさましたら、荀攸に近況を聞いた時に彼女が言っていた事が現実となっていた。
一刀本人は聞き逃してしまった為、まったく気付いていなかったが
とにかく、あのからくり牢屋から抜け出すことには成功していたのである。
経緯は実に単純だ。
朝陽に照らされている鳥の営みを観察していたら、馬超と荀攸の二人に連れ出された。
それだけである。
何処へ連れて行かれるのか。
何をするのかの説明もまったくない。
一目散に向かった場所は、ある一室であった。

目の前には、うず高く積まれた竹簡の山。
左手には大量の墨が用意されていた。
右手には筆を握らされて、一刀は幅広い机の前で座ることを強要されている。
部屋の片隅には、眼に隈を作ってこちらを睨むバ・モーキさん。
その近くには、自分が牢から出れるように働きかけてくれたであろう荀攸が、スラスラと何かを書いていた。
牢から出ろと高圧的に言われた時には、想像出来ないような空間が出来上がっている。

「つまり、これをやれと言うことで良いのかな……?」
「むぅ……」

一刀は意を決して、馬超へと首を向けて尋ねてみたが、帰ってきたのは疲労の色が濃い眼光と唸り声だけ。
馬超から説明を聞く事は、難しいようだ。
一刀は眉を顰めて竹簡に文字を綴る荀攸へと視線を移した。
しばらく助け舟を期待して見つめていた一刀だが、視線に気付いているはずの彼女は華麗にスルーを続けていた。

「……分かったよ、やればいいんだよな?」

帰ってくるのは静寂だけだった。
一刀は一つ大きな息を吐き出して、竹簡を一枚広げると、内容に眼を走らせる。
中身の方はかろうじて一刀がその内容を把握できる程度に、乱雑に書かれていた。
数分の格闘の末、ようやく読解に成功すると、周辺地理の名と共に収穫高などの数字が書かれている物だった。
何も教えてくれないので意味が判らないが、とても罪人に見せるような物でないことは確かである。
近くの山からもう一つ、一刀は竹簡を取り出すと、これまた崩しの激しい文字と格闘することになり
こちらは軍馬に関わる出費、経費の概算書であった。
ここに積まれている竹簡。
馬家で管理している多くの事柄が集中しているのだろう。
洛陽に居た頃の一刀の机の上と、酷似した風景が広がっていることからも明らかである。

ここで一刀は、馬超を見やった。
その視線は、やや呆れの混じった物になってしまったが一刀に他意はない。
こちらをじっと見つめていた馬超も、様子から一刀の視線の意味に気が付いたのか。
バツの悪そうな顔をしてそっぽを向いてしまった。

「……えーっと」

状況から察する限りでは、この竹簡の山を崩す事が一刀の任務なのだろう。
しかし、一刀の立場的に馬家の内情に深く食い込む、いわば内政の類に手をつけて良いのかという疑問が浮かんでしまう。
どうするべきか悩む一刀に、今まで黙り込んで居た馬超の声が飛んできた。

「何見てんだ、し、しょうがないだろ、こっち見んなっ」
「あ、ああ……うん」
「ったく、母様が倒れなければこんな面倒なことには……」

最後の言葉尻はすぼんでいき、一刀は良く聞くことが出来なかったが
止むを得ず、というのは態度や口調で実に伝わってきた。
一刀はなんだかんだ言っても、漢王朝の中央その心臓で内政に携わり、時に忙殺されたこともある。
目の前に積まれた竹簡の山は、内容にもよるのだが、さして強敵ではないと言える。
一日、二日もあれば十分だろう。
もちろん、これは本体の中に居る一刀達のおかげでもあるのだが。

「とにかく、私達には人手が足りないし、使えるだろう人間を遊ばせておくのも勿体無いって言う話になったんだ」
「なるほど」
「それから、終わった物は私がちゃんと眼を通す。 下手な嘘をつくとすぐにバレるからな」
「ああ……それは分かったけど。 ひとつ良いかな?」
「なんだ?」
「この竹簡の山は、内政に携わる様々なことが書かれているみたいだけど
 それらを処理している間に、この部屋だけで判断することが難しくなる時が必ず来ると思う」

一刀が言ったこれは、半分ホントで半分ウソだ。
実際に自分の目で確認することはとても重要な事だし、現状を把握するには自分の足で歩いて見て回るのが一番早い。
あの曹操や孫策も、貴重な時間を割いて街を歩く事があるのは、こういう側面もある。
気分転換や休息も兼ねているのだろうが。
一方で、信頼できる部下からの連絡や報告があれば自らが出歩く必要が無いのも事実だ。
特に、その内容が自分が見た時と同じような評価を出せる、知者であると知っていれば尚更だ。
だから、一刀はこの一件を牢を出れるチャンスと見たのである。
つい先日、馬超が街を巡察していたのを知っていたから思いついたと言っても良い。

「馬超さんも、巡察を行うことで多くの実情が分かるのは、知っていると思うけど」
「う、それは確かに……」
「何より、俺はこの地に来て日が浅い。 実際に見て判断したいことが多くなると予想できるし……」
「牢屋に入れておくのは、非効率的でしょうね」

一刀の台詞に追従して、今まで黙々と筆を動かしていた荀攸の声が飛んできた。

「もしも俺が出歩くことに不安があるなら、監視をつけてもらっても構わないよ」
「はぁ……分かったよ。 この部屋の近くに客間を用意させる、監視もつける。
 とりあえず、その竹簡を早く片付けとけよ」
「え、あ、ああ。 約束してくれるのなら直ぐにでも取り掛かるよ」

馬超はしばし一刀を見つめると、小さく息を吐き出して頷いた。
思いのほかあっさりと要求が通ってしまったことに戸惑った一刀だが、先ほど手に持った竹簡へ目を落とすと
意識を切り替えて筆を取った。
時に筆を置いて腕を組み、久しく動かしていない脳が回転しだすと筆も軽快に動き始める。
一刀が集中を始めた頃、馬超は部屋の手配や調練に行って来ると荀攸へ告げて、立ち去った。
彼女が立ち去ると、竹の上を走る筆のなびく音だけが室内に響く。
時間にして小一時間は経っただろうか。
顔を上げて一息ついた一刀は、先ほどの出来事を振り返ってポツリと零した。

「なんか、あっさりしすぎだよな、やっぱ」

打算を含んでいたために、即座に作業へと没頭した一刀であるが
やはり頭の片隅には小さな違和感が拭えずに残っていた。
人手が足りない、という言葉を疑う訳ではないが、ただそれだけで罪人として捕らえた男を
牢から出して内政を手伝わせるだろうか。
こんな形で牢を出る事に成るとは、昨日までは思いもよらなかった。
そこで一刀は思い出す。
韓遂と、耿鄙から自陣に来ないかと勧誘された事実に。

「……一刀様」
「そうだ……荀攸さん」
「あ、お先にどうぞ」
「あ、ごめん、実は……」

一刀は、荀攸の言葉に甘えて先に相談を持ちかけることにした。
昨夜の出来事を思い出すように振り返って、言葉を選びながら一つ一つ説明していく。
同時に、自分の気持ちが耿鄙の申し出を受け取りたい旨を伝えた。
韓遂の声には、考えてしまったが脳内の自分―――“仲の”とのやり取りを思い出すと
どうにも裏がありそうで不信感が拭えないのである。
何より、彼女は立場がまずい。
漢王朝と敵対していることが間違いない相手の仲間になることは、自分の志とは正反対の位置に居る。
全てを話し終えた一刀に、荀攸は一つ頷くと真っ直ぐと一刀へと視線を送った。
その真剣な表情は、嘘を言う事を許さない雰囲気をかもし出している。

「それで、一刀殿はどうお答えになりましたか」
「……考える時間が欲しいといって、即決しなかったよ」
「そうですか、安心しました……耿鄙殿に付いて行きたくなる心情も理解できますが」
「荀攸さんは、反対かな?」
「はい、反対です」

理由は3つあった。
一つは耿鄙の望む、西涼反乱軍と官軍の戦が何時起こるのか分からないこと。
加えて、戦がすぐに始まらなければ、時間の経過と共に危険が増大していくこと。
最後に、一刀も不安視したように、官吏による告げ口があれば耿鄙ともども逃げ道を失う事であった。
もちろん、韓遂の下に行く事も論外だ。

「一刀様が牢から出れたのは、天運というものに恵まれたからでしょうね」
「運?」
「こうして一刀様が隣に居る事がまず在りえないのですから、そうとしか言いようが無いですよ」

この疑問に答えをくれたのは荀攸であった。
一番大きいのは、馬家を取り仕切る長であった馬騰の昏倒である。
内政事情を纏めて執り行っていた彼女が倒れた事により、早急である筈の事案も滞ってしまったのだそうだ。
荀攸がこの場に居るのも、馬騰の不在から頼まれて協力しているからであった。
家長が倒れたことによって、馬家を取り仕切ることになった馬超は寝る間も惜しんで働いているそうである。
馬騰が優秀すぎて、文官が彼女を頼りきり、その質が頼りなかった事。
一刀の元天代としての能力。
辺境ともいえる武威の、中央の干渉が少ない立地。

「他にも、一刀様が宦官の罠に陥れられたと王朝側に立つ耿鄙殿が仰ったことや
 母親である馬騰様の友人、韓遂殿が一刀様と同じような境遇であることを知っていたこと。
 この武威の民が、未だ天代追放の事実を知らないこともそうでしょう」
「捕らえただけで処刑をしなかったのは……」
『馬騰さんも、天代を斬ることのメリットが何も無いと判断したからなんだろうな』
『ここの民が知らないんじゃ、混乱を誘発させるだけだしね……』
「じゃあ、俺が牢から出れたのは偶然ってことか」
「いえ、一番大事なことを言い忘れてました」
「なに?」
「馬超殿の内政の手腕が、壊滅的だったこと」
「は、はは……そうなんだ」

一刀はバッサリと斬られた馬超に、乾いた笑いを零した。
荀攸は筆を置いて、苦笑する一刀へと視線だけを向けた。

「まぁ、それは冗談ですが……言ってしまえば中央の事に関心も薄いのでしょう。
 馬超殿や馬岱殿と話をしましたが、一刀様には無関心に近かったですよ」
「そう……まぁ、そうかもね」

遠い地で偉い人の噂が在っても、面識がなければ日々を過ごす中で忘れていく。
生きていくことに必死なのは辺境に居ようが、中央に居ようが、人間である以上は変わらないのだ。
関心ごとの多くは、身の回りに居る自分の近くのことで
遠く離れた、知らない人の話など取るに足らない日常会話の一つに過ぎない。
荀攸が言う関心が薄いことも一つの要因であるのは、そういうことなのだろう。
好意も悪意も無い。
フラットな状態だから、生理的な嫌悪がなければ嫌いになることなんて無いだろう。
悪人だと言われている人間を捕まえたが、民すらその悪事が何なのかを知らないのだ。

『それでも、最後の最後まで牢から出すことを渋っていたんだろうな、翠は』
『だろうね……正義感が強い娘だからね』
「性格、状況……色々あって、出れたんだな」
「疑問と悩みが氷解したところで、そろそろ手を動かした方が良いかと」
「そうだね、さぼってて牢に戻されちゃ、笑い話にもならないもんな」
「はい、その時はもう見捨てますので耿鄙殿を頼りにしてください」
「そりゃ大変だ。 頑張らないとね」

冗談を交えて、一刀は竹簡の山に手を伸ばした。
瞬間、馬超が巡察に出向いた時に荀攸も同行していたことを思い出す。
もしかしなくても、一刀が交渉する材料をこの日の為に作ってくれていたのかも知れない。

『本体、見捨てられたら大変だな』
(そうだね……心強いよ、ほんと)

王朝の為にという共闘関係を結んでいるが、今のところ足を引っ張ってばかりだ。
今からでも、彼女の期待に応えるのは遅くはないはずである。
大げさに声を一つかけて、一刀は腕を捲くると先ほど以上に身を入れて竹簡の処理を始めたのだった。


      ■ 監視対象が視てる


牢を出て幾ばくかの夜を過ごし。
ようやく全ての竹簡を片付け終えた、深夜を迎えたこの日。
上半身を晒して、満足気な笑みを浮かべ、一刀が部屋の中央で仁王立ちしていた。
その場で大きく深呼吸。
鼻腔の奥に、独特の異臭が漂って、それがとても懐かしい。
人によっては、この匂いが苦手で気分を悪くしてしまう者も居るのだが
一刀はむしろ、この場所に立ってから気分が高揚していた。
鼻を擽るのは、ツンとした濃い硫黄の匂い。
そう、一刀は竹簡の山を崩して得られた物のひとつに、風呂を使えるという現代人にとって非常に嬉しい報酬を得ていた。
考えてみれば、一刀も風呂に入る事が出来るのは久しぶりだ。
ほぼ毎日、水浴びや濡れた布で身体を拭くことだけで身を清めていたのだ。
最近では牢暮らしであった為、それも毎日は出来なかった。
硫黄の匂いよりも、自分の体臭の方がきついかも知れない。
正直いって、ここ最近に限っては自分自身の匂いに顔を顰める時の方が多かった。
衛生的にも、精神的にも、風呂に入る事が出来るというのはとても嬉しいものだ。

洛陽に居た頃が、どれほど恵まれていたのかを嫌でも実感してしまう。
馬家では、地下から湧き出た天然の温泉を利用して風呂を作っているようだが
洛陽ではそんな物は無く、燃料を使用してお湯を沸かしていた為、多くのコストがかかっていた。
それでも、皇室が利用するからだろうか。
毎日清掃されて、お湯を張り替えて、何時でも利用できる様になっていたのである。
ここ、馬家で使われている風呂も毎日使えるが、それは温泉を利用しているからであって
そうでなければ毎日入ることなど、財政の関係上不可能だろう。

とにかく、久しぶりの風呂である。
一刀は自然と緩む頬を隠しもせずに、最後のパンツを脱ぎ捨てて籠の中に入れた。

と、同時に聞こえてくる。

「―――でしょ? この前計った時よりも少し―――」
「まだまだ―――、それに、大きくたって邪魔なだけ―――」
「大きいから言える―――贅沢かと」
「そういえば――――なんだとさ。 揉んで―――」
「やーん! 卑猥ーーー!」
「な、何言ってるんだよっ、そんな―――」

複数の女性の声だった。

『蒲公英と翠だ』
『荀攸さんも』
『あとは誰だ?』

本体が女性の声だと認識するかどうかの、一瞬の合間に脳内から分析の声が上がる。
一方で、本体は冷静に周囲を見回した。
この温泉へと続く道は、一つの入り口しか見当たらない。
脱衣所であるこの場所を除いて、男女で別れている様な表示も無かった。
利用時間が男女で別れている可能性もあるが、それならば前もって話しがあるはずだ。

「くそっ……」

一刀は悪態をついて、頭を掻いた。
久しぶりの温泉―――入浴を前に、お預けである。
混浴であったとしても、現代人の感覚を持つ一刀にとって女性が使っている温泉に一人で突撃する勇気は無い。
仮にそんな肝が据わっていたとして、実行するかどうかは立場を考えると別である。
籠に投げ入れたパンツを手に取って、履き直す。
万が一、こちらへ戻ってきた時の事を考えての処置であった。
どちらにせよ、このまま温泉に入る事は出来そうもない。
また時間を改めるか、余り考えたくは無いが長いこと彼女達が利用するようならば、日を改める必要もあるだろう。
あまり遅くまで起きていれば、明日の仕事に支障を来たすかも知れないからだ。

「そういえば、北郷―――」

匂い立つ自らの服を、顔を顰めながら着なおした一刀の耳朶に響く少女の声。
脳内の誰かが、ハッと思い出したかのように韓遂の声だと分析する。
自身の話題が出たからか。
一刀はその場で硬直し、入り口の扉へと視線を向けた。

「―――けど、―――」
「―――なの?」

意識して耳を傾けても、くぐもった声と声量がそこまで強くないのか、途切れ途切れにしか聞こえなかった。
間取りの関係なのだろうか。
部屋の壁は衝立のように、足元が外と繋がっているのに中にまで声が響かないのは。

『気になるな……何を話してるんだろう』
『確かに……』
「そうだね……って、おいっ」

脳内の声に相槌を打った瞬間であった。
気が付けば一刀の身体が一歩、僅かに足元の床を軋ませて、扉に向かって前進していた。
誰もが驚き、息を呑むような妙な声が脳内に響く。

『……だれ?』
『俺じゃない』
『俺じゃないな』
『少し聞くだけだ、覗くわけじゃない』
『おい、今の誰だ?』
『いやでも、今後の事を考えると得られる情報は得られた方がいいな』
『キリッ』
『言ってることに信憑性が皆無な件』
『うるせぇ』
『ははは、まぁでも、あながち間違ってる訳でもないかな』
『扉の横の壁に少し隙間が空いてるね』
『目ざといじゃないか』
『まさか常習犯じゃ……』
『違うって、なんかたまたま視線がそっちに―――』
『『『ダウト』』』
「ちょっと待て、マジで行くのか!?」

言い合っている間にも、一刀の身体はゆっくりと、着実に扉のほうへ向かっていた。
脳内が身体を動かせる条件を考えると、彼らも妙な高揚感に包まれているのだろう。
その歩みにあわせて、温泉から聞こえる少女達の声量が大きくなっていく。
先ほどこの脱衣所で感じた本体の胸の高鳴りは、なんか別の胸の高鳴りに代わっているような気がしてくる。
先ほど誰かが囁いた、壁の隙間に視線が泳ぎ―――

「くっ……いかんっ、身体が勝手に風呂場の方へ……っ」
『本体、本当に嫌なら止まれよ』
『そうだ、嫌なら見るな』
『そうだそうだ、覗きはいけない』

自分勝手なことをのたまいつつ、誰もが本体の歩みを止める者は現れなかった。
いや、そもそもこれは本体以外の誰かが歩かせているのか?
もしかして、本体が自らの意思で歩いているのでは?
だが、誰もが申告せず、全員がやんややんやと脳内の中で騒いでるのを見ると
誰がどうしたという世界ではなく、北郷一刀の総意とも受け取れるだろう。

『もうだめだ、このまま流れに任せていくか』
『いや、止めたほうがいい、きっと、多分、恐らく、メイビー』
「はぁ……はぁ……」

まるで天使と悪魔の囁きである。
天使と悪魔の実態は自分自身の意識だと考えると、自作自演と取れなくも無いかもしれない。
なんだかんだ言っているうちに、一刀の身体は荒い息を吐き出しながらも目的の壁の隙間にたどり着くと
躊躇いもせずに、ゆっくりと腰を落として覗き見た。
僅かな隙間ではあったが、幸い遮蔽物も無く、視界には話し込んでいる少女達の姿が映し出される。
実ったメロン……いや、韓遂と、美味しそう桃……いや、馬超が隣り合って酒を呑んでいた。
うまい具合に白い靄を作り出す男の敵、湯気というリーサルウェポン4に阻まれて全体像は見えない。
自然、一刀は眼に力が篭り、見開いてその光景を見届けようと、体勢が前のめりになったところで
一応ではあるが、今回のスニーキングミッションの目的である、彼女達の会話が耳朶に飛び込んで来た。

「ああ、街でも噂になっているよ」
「ふぅん。 そんな大それた事が出来るような奴に見えないけどな、あたしは」
「真偽はともかく、そういう噂が流れているというのは事実さね。
 それに……見た目は青びょうたんでも、中身は飢えた狼かもしれない。
 そうでなきゃ、中央で天代になることなんて出来ないさ」
「確かに、韓遂殿の言葉に一理あるな」

なにやら自身に纏わる、街の噂があるようである。
どのような噂かは分からないが、単語を端折って掻い摘むと、天代時代にさんざん流布した
幼女虐待の趣味とか変態とかなんとか、碌な物ではないだろう。
今まで培った一刀の直感が、そう判断したのである。
今の自分の姿を客観視すれば、半裸で衝立の向こうから女性の入浴を覗き見るという
飢えた狼であることは間違いないのだが、残念ながら一刀がそれに気付く事は出来なかった。
飢狼の見つめている視界の中に、声だけは聞こえていた新たな少女の姿が入り込む。
馬岱である。
小柄な体系に似合わず、なかなか立派な尻……ではなく桃を左右に振って、会話に混ざっていった。
僅かに見切れているのは、見覚えのありすぎる荀攸だろう。

「ねぇおねーさま。 そんな男を牢から出したの、おば様にバレたらまずくない?」
「お前も賛成してただろ。 全部あたしのせいにする気か?」
「だって、今の馬家を仕切ってるのおねーさまじゃん」
「むぐぐ……それは、そうだけど……」
「何にせよ噂は噂ですね」
「そうだねぇ。 けれど、そういう噂があること事態がまずいんじゃないのかい?」
「そうですね。 一体、どこの誰が流したのでしょうね?」
「ううん? なんだい? 私の顔を見て」
「お気になさらずに」

一体、なんの噂なのだろう。
思い当たる節が多すぎて、絞りきれない一刀である。
馬騰に知られたら、馬超が怒られる……すなわち、文字通り獣を牢から出したという意味なのだろうか。
もう少し近くで視たい―――ではなく、聞きたい思いに駆られて一刀の身体が一歩前に泳ぐ。
両手をついて、壁ににじり寄る体勢になった一刀の指先が穴の一部に触れて、小さな軋みの音を上げた。
それは、僅かな。
本当に僅かな音であったはずなのに、視線の先の少女達は一斉に視線を一刀の居る壁へと向けた。
まるでホラー体験をしているようである。
全身の血が一瞬で引き、ついでに体の一部の出っ張ったナニかも一瞬で引き、一刀は反射的に壁から離れた。

「誰か居るの!?」
「覗きか!?」

「ヤバッ!」『しまった!』『“肉の”!』『Roger!』『服の回収を忘れるな』『オーバ!』『プランBだ!』『あ?』『ねぇよそんなの!』

直後の一連の流れは、筆舌にしがたい。
一刀は実に流麗な動きで浴室からの撤退に移行し、時間にして僅か数秒。
それも殆ど物音を立てず、時代が時代ならばNINJAと賞賛されていたかもしれない。
一部の隙すら見せない一刀の逃走は、確認に走ってきた馬超と馬岱の視界からタッチの差で逃れることに成功する。

「あれ? おかしいな……確かに気配を感じたんだけど」
「あっ、穴が空いてるよココ! きっとここから私達のこと覗いてたんだよ!」
「穴が空いてるとは、感心しませんね」
「ふふっ、覗かれるってことは私達に魅力があるって事の裏返しじゃないか? 私も捨てたもんじゃないねぇ」
「あー、なるほどぉ~。 それじゃあしょうがないかもだね?」
「何言ってんだ蒲公英! あたしは許せないぞ、こんな卑怯で卑屈な事をする変態ヤローは!」
「あ、馬超殿。 その穴の周りは踏まないで下さい」
「へ?」

激昂する馬超を諌めつつ、荀攸は馬超の足をゆっくりと掴んで放す。
彼女の足元には、誰かの靴の足跡が、へばりつく様にして残されていた。

「これは随分特徴的な足跡ですね。 まだら模様のように、複雑……」
「そうか、これと同じ足跡を付ける奴が犯人ってことだな!」
「うわー、荀攸さん頭良いー」
「そうですね……足元を掬われるとは、こういう事なんでしょうか?」
「……なんで私を見るんだい? 荀攸殿?」
「いえ、お気になさらずに、韓遂殿」
「とにかく、手がかりは見つかったんだ! とっ捕まえるぞ、蒲公英!」
「あ、待ってお姉さまっ! 服っ、服!」
「っ! ば、馬鹿、先に言え! 危ないところだったじゃないか!」
「あいたっ! あーん、お姉さまがぶったー!」

馬家の宮内を巻き込んで大きな騒ぎとなった『温泉覗き間変態ヤロー捜索事件』は、しばらくして沈静化する。
なぜならば。


      ■ エロエロ魔人


「で、申し開きはあるのかエロエロ魔人」
「……お兄さんってほんっっっとに天代だったの?」
「牢に戻すべきかもな、蒲公英」
「う~~~~~~~~~~~~~~ん………」
「反省してるよ……」

不名誉な称号を得た男が、とっ捕まったからである。


      ■ 管仲随馬の“一刀”


エロエロ魔人という名で呼ばれることを強要されて三日。
一刀は何百枚にも及ぶ反省文を書かされ、その上書いた作文の音読まで強要されてようやく部屋から出る許しを得た。
これは内政も同時に行う事を脅迫―――という名の約束をさせられた上での事だったので、中々に苦行な日々であった。
脳内の自分のおかげで睡眠不足にはならないものの、軟禁された部屋の中で只管に筆を動かす作業を行うのは
肉体的に大きな負担がかかっている。
主に手首が。
しばらく、墨を摺ることはしたくないと思えた。
自業自得といえばそうなのかもしれないが、ちょっと不幸な事故で覗いた代償としては過大な罰なのではなかろうか。
まぁ、非は自分にあるのでそんな事は心で思っても、決して口には出せないが。
重くなった手首を、上下にふってブラブラさせる。
しばらく部屋を出てから当ても無く歩いていた一刀だが、せっかくの外出許可を貰ったのだ。
なんだかんだで町の様子を落ち着いて見れなかったこともあって、一刀は街に遊びに行く事に決めた。
来た道をくるり。
反転したところで、ある一室の扉が開いて最近ようやく打ち明け始めた少女の姿が飛び出てくる。

「あ、一刀」
「やぁ、蒲公英」
「何処行くの? 反省文は終わった?」
「ああ。 ようやくね。 外出許可を貰ったから、街に出てみようかと思ったんだ」
「あ、じゃあ蒲公英も行くよ。 一応一刀は、監視しなくちゃいけないしねっ!」
「とかいって、仕事をサボる口実にしてるんじゃないか?」
「分かってないなぁ。 一刀と一緒に居る事が仕事になるじゃん」
「で、本当のところは?」
「えへへ、ほんとはこの後のお姉さまとの模擬戦があって。
 手加減って言葉をおねえさまは覚えるべきよねー」

頬を掻いてはにかむ蒲公英に一刀は苦笑しつつ頷いた。
一人で街を観光するのもつまらないと思っていたところだ。
この蒲公英の申し出は、むしろ一刀にとって有益なもので、彼としても断る理由など無かった。
一応、一刀はどちらの意味でも監視対象であることは間違いないので、蒲公英のいう事ももっともであるのだが。

ちなみに、馬家において真っ先に真名を許してくれたのは馬岱こと蒲公英であった。
一刀としては何故、彼女が自分に真名を預けてくれたのかは分からない。
じっくりと話をしたことは、食事の際に何度か顔を合わせた時くらいだろうか。
他には、仕事の絡みで話をしただけ。
真名を貰うにはちょっと、簡単すぎなのではないかと一刀が心配するほどである。
ただ預けてくれたからには、その信を、信頼で返すべきだろうと一刀は心に決めてはいた。

「で、何処に行くの?」
「んー、そうだなぁ……」

この街を回ったのは、不本意ながら脱走した時と馬騰との面会に及ぶ前が全てだ。
“馬の”に聞けば参考にはなるかもしれないが、彼の知っている街並とは違うところも多いようだ。
実際、“馬の”の外史においては彼が内政の根幹に居たのも含めて、本体の居るココとは違った形になっているという。
それは、本体が今までに訪れた洛陽や陳留も同じだ。

「特には決めてないんだけどさ」
「それじゃあ蒲公英が案内人になってあげるよ」
「そう? 助かるな」
「お風呂とか、お風呂とか、あとね、お風呂とか」
「……」
「あはははっ、冗談だってば~」

蒲公英にからかわれながら、城内から街に出る。
途中、誰かに会うこともなく門兵と二、三簡単なやりとりをして蒲公英の先導でゆっくりと景色を見回した。
こんな単純なことで、一刀はふと気付いてしまう。
それは、馬騰に捕らわれる前までは意識に上っても自覚が足りなかった事を痛感させる。
『天代』
洛陽では宮内の中でも、町の中でも歩けば多くの人が自分をそう認識して、畏まったり敬ったりしてくれていた。
視線一つにも、多くの思惑が含まれて自分を見つめる人々が居た。
それが此処にはかけらも無い。

「……あんな強烈な想いがあるのに、忘れてしまうものだなぁ」
「何? どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
「うーん……」

振り向いた蒲公英が一刀に身体ごと向けて値踏みをするように見つめる。

「なに?」
「いや、ほらさ。 頭打ち付けたりする発作があるから油断できないじゃん?」
「忘れてくれ」
「あんな強烈な印象、忘れられないよ」
「……ところで、蒲公英は何処に向かってるんだい?」

なんだか言い繕っても薮蛇になりそうだったので、一刀は話題そのものを転換させることにした。
肩を竦めてこの話題に乗ってくれた蒲公英は、顎に指を当てながらやや黙し
決まったのか、一つ納得するように頷くと、一刀へ向けて良い笑顔で宣言した。

「えっとね、一刀は阿蘇阿蘇って知ってる?」
「なんだっけ、何処かで聞いた覚えがあるけど」


蒲公英の先導で訪れたのは、一軒の店先であった。
看板に小さく『阿蘇阿蘇印』と書かれている。
残念ながら外から覗けるような構造にはなっておらず、外観は木製の壁になっていて店内の様子は窺えない。
どうも心に引っかかりを覚えながらも、一刀は『阿蘇阿蘇』という単語が何を意味するのか思い出せなかった。

「お店のようだけど、何の店なんだ?」
「まぁまぁ~、入って入って」
「怪しいお店じゃないだろうな……」

脳裏を過ぎるのは、文醜と共に散策した洛陽で発見した『おとめかん』だ。
あの時は店内に汚物……ではなく、竇武達が半裸でバンプアップしており、そのまま文醜にヘッドロックをかけられた。
流石に一刀も、あのような事がそうそう起こるはずは無いと知っているが
二度あることは三度有るという格言もある。 
いや、一度しか経験はしてないが、一度あることだって二度があるから前述した格言が出来るというものだ。
油断は出来ない。
扉の前に立った一刀は、後ろからニコニコと、若干不気味な笑みを浮かべた蒲公英を肩越しに見やった。
彼女に任せたのは自分なのだ。
今更止めようと言っても、顰蹙を買うだけだろう。
一つ、溜息のような物を吐き出して、一刀は覚悟を決めてドアノブを捻った。

「いらっしゃいませー!」
「お二人様ですね」

いたって普通の店員の声が耳朶に響き、一刀の視界に飛び込んだのは数え切れない程の衣類だった。
扱って居る物は殆どが女性ものの服のようで、派手な物から地味なものまで、色々だ。
蓋を開けてみれば、一刀の心配など何処吹く風。
まともな服屋である。

「あー、思い出した。 阿蘇阿蘇ってファッション誌だったなぁ」
「ふぁっしょんし? 何それ?」
「服の情報誌だってことを思い出したんだよ」
「あー? もしかしてぇ、一刀、変なお店だと思ったんでしょー?」
「確かに、変なお店かと……いや、違うっ、蒲公英の言うようないかがわしい店じゃないぞ! 断じて違うからな」
「えー? イカガワシイ店ってなにー蒲公英わかんなーい」
「だから違うって!」

ぎゃあぎゃあと喚く一刀に、悪戯が成功したような笑みを貼り付ける蒲公英。
笑顔で出迎えた店員さんの額に、青筋が浮かび上がった頃、一刀は落ち着きを取り戻す事に成功する。

「ったく、それで、阿蘇阿蘇を見て来たっていうことは、欲しい服があるのかい?」
「うん、おば様が倒れられて、少し遅れちゃったけど前からまとめて買おうと思ってたの」
「ふーん……」
「あ、なんか気のない返事~。 せっかく一刀が一緒だから来たのに~」
「そう言われてもなぁ……蒲公英は何を買うの?」
「下着」
「なるほど」

一刀は頷き、その場で反転した。
会話の途中から不穏な空気は察していたが、半ば予想どおりの回答に一刀の行動は早かった。
躊躇い無く踵を返した一刀に、蒲公英が慌てて追いすがる。

「わわわ、待ってよ。 何処行くの一刀」
「俺はエロエロ魔人じゃない、俺はエロエロ魔人じゃない」
「うわ、二回も言った。 男の人の意見も聞きたいんだってば」
「ほんっとうに、他意はないんだな?」
「ちょっとあるかも」
「帰る」
「うそ、ないないっ! ないから、感想聞かせてよ―――っ?」

必死に引きとめようと、蒲公英が掴んでいた左腕が急に離れた。
抵抗するために踏ん張っていた一刀の身体がつんのめって、あわや転倒しかけてしまう。
急に離されると危ない、と一刀は文句の一つでも言ってやろうと振り向くと、蒲公英は手を中途半端に差し伸べたまま
頬を紅潮させ、妙な体勢のまま静止していた。
何度か、同じような体験をしている一刀は彼女の状態に心当たりがあった。
洛陽に居た頃、或いはそれ以前に、“一刀”へ接触した際に何らかの感情のスイッチが入る現象。
それは、本体がどうすることもできない、彼らと彼女達の繋がりの証明に似た何かだ。
他人の感情を弄くるような形になってしまう事実があることから、本体はこの現象には少々複雑な思いを抱えている。
ただ、気をつけてどうにかなる物でもないことだけは確かであり、対策という対策も取っていない。
だから、一刀は蒲公英に短く声をかけた。

「だいじょうぶかい?」
「え? あれ? なな、なんでもないよご主人様!」
『ほう……』
『『『ご主人様か……』』』
『『『五月蝿いぞ皆、静かにするんだ』』』
『落ち着けよご主人様』
『やめろ、気持ち悪い』
「……蒲公英、落ち着くんだ」
「え!? へ、平気、落ち着いてるけど、なんだろう。 やっぱ落ち着いてないや、ご主人様見てると変になる……」
「え……変になるって……」

思わず、ぼんやりとした視線を一刀に向けている蒲公英の言った言葉を反芻する。
今まで、脳内と繋がりがあるだろう少女達が反応したところを見かけていたが、実際どのような感情を抱いているのかは謎のままだった。
お互い、視線を絡め合わせてからどの位経ったのだろうか。
眼を潤ませて見つめる蒲公英が、やにわに顔を下げた時だった。
一刀と蒲公英の間に、恰幅の良い溌剌なおば様が割り込んだのは。

「ちょっと、お兄さん。 酷い男ね」
「え?」
「他人事だし、お節介かもしれないから黙っていたけど、女を泣かせるとあっちゃ黙って居られないわ
 この子は下着をあなたに選んで欲しいから、勇気を振り絞ったんでしょうが」
「あ、いや、別に泣かせているわけでは……」
「そ、そそ、そうそう。 別に泣いてもないし、選んでもらうつもりも―――」
「大丈夫っ、おばさん全部分かってるから! 一度失敗すると諦めたくなっちゃうのよね。 でも平気、安心して。
 男なら、きっと付き合ってくれるわよ。 そうでない奴は玉無し野朗よ」

言葉尻に挑発染みた一言を乗せて、おばさまは蒲公英の援護に回る。
一刀も蒲公英も、この時は確かに他人事の上に見当違いのおせっかいだと、言葉にしていないのに心で通じ合ってしまった。
まるで、乗りかかった船だというように一刀達に勢い込んで話す彼女を止める術は無く。
気がつけば、店内でも奥の方にある下着売り場と、更衣室近くまで移動するハメになってしまった。
一刀が隙を見て動こうにも、おばさんの視線が纏わり着いていて、どうにも逃げれそうに無い。
気まずそうに一刀が蒲公英を見やると、当の彼女は困ったような笑みを浮かべつつも本来の目的を忘れた訳ではないのか
棚に並べられた色とりどりの衣類を物色し始めていた。
一度商品を手に取って眺めれば、蒲公英の顔も先とは全く違う、楽しそうな顔に変化する。
こういうところは、流石に女性ということなのだろう。
気持ちの切り替えが早いというか、割りきりが素早いというか。
女性物の下着売り場という、男ならば誰でも気後れしそうなこの場所で
一刀は妙な居心地の悪さを覚えながらも蒲公英の後ろを付いて行く。

「あ、これかわい~」
「……そうだね、良いんじゃないかな……?」
「んー、もうちょっと他のも見たいな」
「あ、うん……」
「あ、これお姉さまに似合いそう。 どう思う?」
「ああ……そうだね……良いんじゃないかな」
「一刀、ちゃんと見てる?」
「一応見てるけど……」
「お、ここの意匠なんて秀逸~。 ほら、見て。 似合うかな?」

商品の一つを手に取って一刀に向き合い、蒲公英は自らの胸にブラジャーらしき衣類を当てて首を傾げて聞いてくる。
そう言われても、ファッションに特にこだわりもない一刀としては男物ならばまだしも女性物、しかもインナーとなるとまったく持って理解できない領分となってしまう。
女性が着飾るのは世の常とはいえ、インナーまで拘るのは理解に苦しむと言う他ない。
一刀自身、他の人には有り得ないような奇天烈な体験をしてきたと自負はしていても
年頃の少女の下着を一緒に買いに来るという経験は初めてのことだ。
当然、うまく口など回るわけも無く。

「えっ? い、いいんじゃない……かな?」
「……それじゃ、これ一刀そこの籠に入れて」
「あ、ああ……」

手渡された衣服を足元に転がっていた籠に入れて、一刀は抱え上げる。
その後も同じようなやり取りを何度か行い、籠に入れたり入れなかったり。
蒲公英がこの店に来た目的は着々と達成されようとしていた。
にもかかわらず、段々と彼女の顔から笑みが消えていくのに一刀は気付いていた。
何故かは分からない。
分からないが、多くの女性と付き合ってきた経験が一刀にはあった。
この蒲公英の表情の変化は、女性にとって共通する危険を伴うシグナルであることに感づいてしまう。

『本体、さっきから良いんじゃないか? しか言って無いぞ』
『それじゃ駄目だぞ』
(そう言われても、何を言えば良いかなんて分からないよ)
『仕方ない、俺に任せろ、見てられん』
(あ、ああ……)
『“魏の”、平気なのか』
『駄目そうなら俺が変わってやるから』
『任せろ、俺だって鍛えられてきたんだ、見てろよ』

「えーっと……」
「お、これはどうかな? 触った感じ肌触りも良さそうだし生地の質も良い。
 透明感のある青色も、これから夏になるし、涼しげな印象になるかも」
「あ、ほんとだ。 滑らかだね。 でもちょっと地味すぎなくない?」
「この位が丁度いいよ。 変に凝った装飾がついているよりは、よっぽど良いさ。
 まぁ、あくまでも俺の意見に過ぎないけど、蒲公英には似合うと思うよ」
「一刀……」
「なに?」
「……ううん、なんでも……って、それならさっき選んだのは派手だったけど、良いって言ってたじゃん」
『俺の出番のようだな』
『“袁の”か、任せた』

先ほど本体が投げやりに―――本体はいたって真面目に良いんじゃないかな? と答えていたが―――返答して
籠の中に放り込まれていた様々な下着を、“一刀”はまるで口の回る店員のようにスラスラと答えていく。
しかも、どの様な部分が魅力的であるのかを答えた上で、自分の所感まで述べていた。
装飾の多い物も、デザイン的に優れていて職人の魂を感じるとか、うまく言葉を捻りつつ。
おばさんの視線も、合格ラインに達したようで満足そうな笑みを浮かべて気がつけば途中からは掻き消えていた。
結局、購入に至った枚数は計4枚。
手に取った数こそ多かったものの、最終的に蒲公英が絞り込んだ物に厳選されて
まとめ買いというには些か少ない数に落ち着いた。
殆ど脳内の自分達に任せてしまったが、蒲公英の顔色はすこぶる良い。
会計を済ませて店を出てから、一刀は脳内の自分達にひっそりと感謝を告げた。

『そうか……あの曹操に鍛えられたのなら、納得だな』
『でも、俺なんて恵まれてた方だよ。 “袁の”や“仲の”みたいに命がけじゃなかったんだから』
『うまく褒めないと文字通り首が飛ぶからな、必死だった』
『ははは、まぁ本体の助けになってるからまったく無駄って訳でもなかったのかな?』

同じ北郷一刀とはいえ、先人の経験は決して馬鹿に出来ないものである。
一刀は脳内の彼らが居ることの心強さを改めて知ったのだった。


      ■ 大渦の中


蒲公英との買い物に付き合わされた帰り道、奇妙な仮面を着けて窮地を脱した広場の外縁。
広場全体の様子が伺える場所に、カフェのような外で食事を楽しめる飲食店に訪れていた。
前に来た時は―――脱走時だった為、ほとんど初見ではあるが―――このようなお店は無かったはずだ。
真新しい建物に、中古ではあるだろうが良く磨かれた椅子と卓があることから
つい最近に開かれたのは間違いないだろう。
案内したのは、もちろん蒲公英である。

「あ、美味しい」
「ほんとだ」

一刀が頼んだのは軽食として選んだ手羽先のような物だ。
スープに浸された鶏肉は塩が使われているのか、しょっぱくて薄味が中心であるこの場所では珍しく味が濃い。

「洛陽でも、これだけ調味料をふんだんに使っている場所は少ないよ」
「だろうね~、あのね。 ここって実は、私達が援助して建てられたお店なんだ」
「そうなのかい?」
「だから開店したばかりのお店に、案内できたんだよ?」
「へぇ……」

内政にはお手伝いとして携わっているが、一刀はこのような案件を見たことは無かった。
おそらく、担当しているのは荀攸なのだろう。
彼女は一刀が捕まってから、ずーっと馬家の内政を手伝っているような気がする。
多分、一刀の気のせいではないだろう。
馬騰という一家の大黒柱が倒れた今、馬家の内情は確かに厳しい。
こういっては何だか、一刀から見ても文官のレベルは低いと言わざるを得なかった。
丼勘定、誤った報告の多発、不審な金銭の移動、中には何の報告をしているのかすら分からない竹簡があったり
民間の要望書が混ざっていたり、存在しない案件すら挙がってきてたりしていた。
これは文官の個人の質云々よりも、管理に問題があるとしか言いようが無いだろう。

馬騰が一家の長として、軍部、内政、他もろもろ全てを背負っていたというのだ。
これは馬騰が文官を育てていないのではなく、育てる余裕が無かったのだと一刀は思う。
自分がやるべき仕事が重なりすぎて、とても育成にまで時間を捌くことが出来なかったのだろうと。
洛陽に居た頃、一刀は脳内含めて総出勤していた事があったが、馬騰の労力はその頃の一刀に匹敵するのでは無かろうか。
12人でひぃひぃ言いながら何とか回っていた物を、一人で全てやれというのは無茶な話である。

「文官を育てるのは急務だよなあ」
「お姉さまも、そう言ってたよ。 荀攸さんもね」
「まぁ、誰が見てもそう言うんじゃないかな……」
「あはは、確かにね。 私達、ずっと叔母様に頼ってたから」
「蒲公英も頑張らないと」
「あ、一刀。 私もちゃんとやってるんだから」
「今、遊んでるじゃん」
「違いますー、今は一刀の監視が仕事だもーん」
「ははっ、そういえばそうか」

蒲公英が膨れっ面を作ってそっぽを向く。
一刀は苦笑しながら、この店を作ることになったのは荀攸の差し金なのだろうと半ば確信した。
良く見れば、この店の隣には警邏が留まる派出所の様な物が一緒に建てられている。
人の通行が多いこの広場を見渡せる場所に、警邏を置くのは理に適うだろう。
一刀が仮面を着けて狼狽していた頃、こんな案件を進めていたのだと思うと、思わず苦い笑みがこぼれてしまう。

「それにねー……噂、気になってるんでしょ?」
「噂? なんの?」
「一刀がエロエロ魔人になっちゃった時の噂」
「うっ、それ止めてくれないかなぁ」

しばらくエロエロ魔人は自分に付いて回る称号になりそうな事実に、一刀は頭を抱えたが
一方で彼女の言う噂について考えを巡らせてもいた。
そう、確かあの時、一刀は自分の話題が昇って思わずエロエロ魔人になってしまったのだ。
それは根の葉も無い、洛陽に居た頃に聞こえてきた自分の噂と大差ない物だと思っていたが……
なるほど、噂とは人の集る場所でされるものだ。
人通りの多い広場に開店したばかりのカフェのような、この辺では見ない店など噂話が飛び交うに違いない。
蒲公英が自分を此処へ連れてきたのは、噂を聞かせる為だったのだろうか。

「でも、それなら蒲公英が教えてくれても良いんじゃないか?」
「そうだけど……でもそれじゃあ一刀はきっと納得しないと思ったからさ」
「どういう事?」
「自分で聞かないと、信じられないって思うんじゃないかな……私だったら、そうだから」

要領を得ない蒲公英の回答に、一刀は首を傾げた。
が、答えはすぐに返ってきた。
目の前で茶を啜る、小悪魔っ子な少女の口からではなく―――街の人々の声で。

「なぁ、天代様が中央に反旗を翻したのって本当なのかなぁ?」

すぐ傍で聞こえた訳ではない、やや離れた場所で酒盛りをしている男の一人の声が、一刀の耳朶に強く響く。

「……え?」

「さぁなぁ。 でも、ほらよぉ、天水や安定の方じゃ反乱軍に参加してるってもっぱら噂じゃないか」

「中央から追い出されたって言うのも何だか眉唾だよな」

「でも本当だったら、中央の乱れは相当酷いんだろう」

「まぁどっちだろうと、俺達にゃ関係のねーお上の話だが」

「はっはっは、違いねぇ」

―――何を言っているんだ。
一体、彼らは何を話していたのだろうか。
一刀は男達の話が他愛の無い女性の胸の話になったところで、目の前で真っ直ぐと真剣な眼を向ける蒲公英の姿に気がついた。

「あ……」
「ね、私が言っても、きっと否定したと思うよ」
「……」

肩をすくめて視線を落とした彼女に、一刀は何も言う事が出来なかった。
噂は噂だ。
彼らが話していたことも、根の葉も無い事実には違いはない。
洛陽の頃にも自分の身分が高かったせいで、普段ならくだらないと言える噂など売るほど余っていた。
だが、今の一刀にとっては笑えない冗談となる。
民衆はそうだ。
今のようにまだ何も知らないから、そう問題ではない。
だが、諸侯の受け取り方はどうだろうか。
恐らく、今後の一刀の行動に大幅な枷が嵌められる事になる噂になることだろう。
いや、違う。
問題はもっと違うところにある。
男達が話しているのは所詮は噂でしかなく、一刀はこの場所で地に足をつけているのだ。
問題は―――

『噂が広い範囲に拡散していること、だな』
『天水、安定……朝廷に反乱した軍の主力が居るところだね』
『そうなると……』
『うん、きっと朝廷が涼州の反乱を頭で抑えてる長安にも……』
『それなんだけどさ、“天代”は涼州の反乱の頭を押さえる為に洛陽を出た事になっているんだよね』
『それが皆……大陸の人たちが認識している事実だね』
『此処に来て涼州の反乱に加わった噂が流れるのは、誰かの意図があると見て間違いない、偶然出た噂にしては出来すぎだ』
『俺達が追い出された事を知っているのは、まだ中央の官吏や諸侯の有力者だけのはず……ってことは』
『―――洛陽からか? 張譲達の罠なんじゃ』
『涼州に反乱を先導しているって噂されてる韓遂が此処に居ることも忘れるなって』
『あ……そうか』
『怪しいね』
『洛陽の濁流派から出たんじゃなければ、この噂、利用されるかも?』
『ああ……その可能性は高いかも知れない』

「……蒲公英」
「なぁに?」
「ごめん、俺ちょっと先に戻るよ」

脳内の声を聞いて、うまく考えが纏まらなかった本体は焦燥も露に席を立つ。
そう、噂は噂だ。
だが、この噂の出所はとてつもなく“きな臭い”
蒲公英が口を開こうとする前に、踵を返した一刀だが、それよりも早く聞き覚えの野太い声が二人の耳朶を打った。

「岱! ああ、一刀も一緒だったか!」

振り返れば、やにわに息を切らして馬休が広場の中央から手を振って走ってきていた。

「休ちゃん? 出れたの?」
「どうしたんですか?」
「ああ、姉者がようやく出してくれた……っと、言いたい事はそれじゃないんだ」
「何よ?」
「毒だ! 夕飯に、毒が混ざってて韓遂殿やその供回りが倒れちまったんだよ」
『『『え?』』』
「え? 韓遂さんが?」
「それで、お姉ちゃんや鉄っちゃんは無事だったの?」
「それが……鉄は……朝廷の使者の耿鄙殿は無事だったが……巻き込んでいたら一大事だったぞ!」
「分かった、一刀、城に戻ろうっ!」
「ああ、すぐ行こう!」

蒲公英は懐から巾着を取り出して、卓の上に乱雑に硬貨を置くと、確認もせずに城へ向かって走り始める。
一刀も“肉の”に入れ替わり、彼女に劣らず速度を上げて城へ向かった。


―――・


城内に駆け戻り、向かった先は一刀も何度か使ったことのある食堂だ。
先に入った蒲公英が、入り口で急に止まったせいで一刀はあわや追突しそうになったが
“肉の”の驚異的な膂力で扉の縁を掴み、静止することに成功する。
一刀が顔を上げると飛び込んで来たのは、この馬家にて出会った全員の面子が揃っていた。
馬超が中央に、その隣には荀攸が。
彼らの後ろには、馬騰の治療に専念していたはずの華佗が馬鉄を診ているようで
特徴的な短髪が椅子の隙間から見え隠れしていた。
垣間見えた光景から、馬鉄の胸が上下していることから、命は助かったのだろう。
一刀は知らず小さく吐息を零して安堵した。

一刀から見て右方には耿鄙とそのお供だろう。
文官らしき男達が居心地悪そうにして立っている。
一瞬、室内に入り込んだ一刀へと耿鄙が首を動かして視線を送ってきたものの、すぐに真正面へと顔が向く。
その反対側。
一刀から見て左方に、この部屋で唯一椅子に座り込んだ赤い髪をした妖艶な女性、韓遂が顔色を真っ青にしていた。
その後ろには調理人だろうか。
前掛けを着ている数人の男女が固まって難しい顔をしていた。

「蒲公英、どこほっつき歩いてたんだ。 訓練も無視して」
「ごめんお姉さま。 一刀が強引に私を拉致して……下着とか」
「ちょっと待て、それは違うから!」
「……お前……」
「それより、お姉さま。 どうしたのよこれ……」
「っ、休から聞かなかったのか?」
「聞いたけど……」
「見てのとおりだ。 食事に毒が盛られてた、それだけさ」

蒲公英の性質の悪い冗談に反論する隙間すらなく、一刀の声は空しく響いて遮られてしまった。
こんな時に頼むから止めてくれ、と一刀は思ったが、馬超の鋭い声に意識を切り替える。
蒲公英の事は後にして、今はこの状況の方が先である。

「ちょっといいかな。 ここに集められているってことは、目処がついてるってこと?」
「はい、ついてます」

荀攸の声に、全員の視線が向く。
現在はまだ夕陽も出ておらず、これからの時間帯となっていて夕食を取るには些か早い時間帯である。
厨房で作られたばかりの料理も数は多くなく、配膳された者はこの場所に居る者で全てだそうだ。
韓遂やその供回りが食事を行ったのはつい先ほどである。
つまり、料理に毒を盛るには作られた時か作った後でしか有り得ない筈で、厨房と食堂に居ない人間は
犯行を行えない、という話であった。
このことから、食堂と厨房に顔を出していない一刀と馬家は対象から外れることになる。
華佗も、急患で倒れた韓遂達の手当ての為に呼ばれたので、犯人ではない。

「残るは厨房に居た調理人の方数名、食事を取っていた韓遂殿とそのお供。 食堂に訪れた耿鄙殿達。
 そして、私……荀公達が料理に毒を盛った犯人の候補となりますね」
「……笑えないね……私もかい……?」

若干喉に引っかかるような掠れた声で抗議したのは、服毒しただろう韓遂であった。
彼女の言い分も尤もだろう。
華佗のおかげか、それとも料理に含まれた毒が致死量でなかったのかは分からないが
被害者である彼女の言い分は最もである。
誰が好き好んで毒入りの食事をしようというのか。
一刀は韓遂から視線を調理人の方へと向けた。
或いは彼らが、とも思ったが動機がないはずである。
少なくとも、自身が仕える身内を手に掛けることは早々無いはずだ。

「それで、どうするのお姉さま?」
「荀攸殿……これは家の信用問題にも関わる。 力を貸してくれないか?」
「そうですね……持ち物を洗ってみましょうか。 誰も外には出ていませんから、使用した毒物を持っているかもしれません」
「……よし、それでいこう。 皆、異論はねぇよな」

馬超の声に、全員がゆっくりと頷く。
いや、体調故だろうが韓遂だけはその場で小さく呼吸を繰り返して俯いていた。
また、候補からは外されていたが一応ということで一刀や馬岱も持ち物の検査を受けることになった。
調理人達の持ち物を馬超が確認し終わると、一刀の元に近づいた。
馬超の手が伸びてボディチェックのように全身をまさぐり、異物がないかを確かめる。
一瞬、一刀は彼女に感情のスイッチが入ってしまわないか心配したが、特に表情に変化は見当たらず
別の意味でほっとしてしまった。

それはともかく、一刀がもともと持っている物など殆どない。
買い物して蒲公英に持たされている下着が4着だけである。
後は胃の中に入っているので、簡単に一刀の持ち物検査は終わった。
下着が出てきた時だけは、馬超に思い切りガンを飛ばされたが、とりあえず今は無視である。

「耿鄙殿、よろしいか」
「構わない」

未だ辛そうな様子を見せる韓遂を後にして、馬超は耿鄙に声を掛ける。
立場上、中央からの使者である耿鄙は馬家の客人である。
本来ならばこれで耿鄙やその供回りから物証が出なければ、失礼千万と侮辱されてもおかしくない。
何度か馬超が耿鄙の身体や持ち物を調べていく。
二度、持ち物と耿鄙の衣服を往復したところで馬超の手が止まった。

「……」
「何か?」
「耿鄙殿、これは何でしょう」
「……何だ、それは?」

布袋だろうか。
使者が持ち運ぶのに良く使われる桐で出来た箱の中から、小さな布袋を取り出して馬超が耿鄙へ振り向いた。
帰ってきたのは耿鄙の疑問の声。
馬超はそんな耿鄙の声には答えず、布袋の中身を取り出すと、赤黒い粉末が入った小さな瓶が現れる。

「私はそんなものは知らない……」
「耿鄙殿の持ち物から出てきたのだが……華佗殿、確かめてくれ」
「……ああ」

呼ばれた華佗が手当てを中断して、馬超から瓶を受け取ると中身を手のひらに乗せて取り出した。
すると、彼は信じられないことに取り出した粉末を舌で舐め取った。
一刀はおろか、隣に居る蒲公英や馬超も驚いて息を呑む。
華佗は検分が終わったのか、瓶に蓋をして顔をあげた。
周囲を見回して、小さく息を吐いてから呟くように口を開いた。

「毒だ」
「馬鹿なっ!」
「……こ、耿鄙様……」
「耿鄙さん……」
「どういうつもりだ」

華佗の声に衝撃を受けたのは、耿鄙本人や供回りの文官達もそうであったが一刀も同様だった。
あの夜、自分を誘ってくれた耿鄙が、毒を盛るなどという後先の無い行為をするとは思えなかったのである。
だが、事実は耿鄙が完全に犯人だと物証を持って証明している。
華佗が人体に無害な物を有害だと見誤ることはありえない。
それは、一刀が華佗の腕を信頼しているだけではなく、今までに見て来た毒の治療や怪我の治療
そして、華佗の医者としての有能さを誰よりも知っているからだ。

「耿鄙殿、これは、どういうつもりか」

馬超の冷たい声が室内に響く。
未だ呆然としている様子で、口を半開きにしながら視線を迷わせる耿鄙から声は無かった。
一刀は沈黙が続く中、馬超の拳が強く握られて震えているのに気がついた。

『やばいっ!』
『なんだ!?』
「え?」

瞬間、一刀の身体は泳いだ。
いや、泳いだというよりも、弾けたという方が正しい。
壁に立てかけられた装飾品だろう、槍のような戟のような木製の棒を手に取って一刀は馬超と耿鄙の間に割って入っていた。
腕に、重たい衝撃が走って肘の辺りから痺れるような痛みが一刀に走る。
あまりに突飛な“自分自身”の行動に気がついた時には、一刀の目の前に己の武器を振り落としていた馬超の姿が視界に映った。

「ぐっ……」
「邪魔をするなっ! ぶっ飛ばしてやるっ!」
「お、落ち着けっ! 姉者!」
「ね、お姉さま待ってっ!」
「どけぇぇっ! よくも鉄を―――っ!」

一刀の行動が切っ掛けとなったか、馬超の暴挙に馬休と馬岱が飛び込んで彼女の体を押さえつけた。
が、馬超の憤怒は収まらないのか、馬休と馬岱を引き摺るように、一刀と耿鄙の方へ近づいてくる。
その勢いは、まさに怒髪天を突くと言ったところか。
目の前で怒りに顔を歪ませ、鬼気迫る表情を見せる馬超に、一刀は思わず腰を引いた。
一歩引いた一刀の横を滑る様に、耿鄙へと馬超の戟が伸びてくる。
一刀がしまった、と思った時にはもう、手遅れであった。


そして、室内に金属の残響音が響いた。


打ち鳴らされたのは馬超の戟と、金属製の鍋であった。
その轟音が、若干馬超の理性を取り戻す事に成功したのだろう。
間近で聞いたせいか、僅かに顔を顰めて鍋が飛んできた方向へ馬超が視線を送ると、其処には華佗の姿があった。

「医者の目の前で怪我人を作らないで欲しい、馬超殿。 それに、ここには患者も居る。 静かにしてくれ」
「っ……華佗、殿…」
「俺は医者だ。 まだその戟を振り回すなら、相応の対応をすることになる」
「馬超さん……華佗の言う通りだ、少し頭を冷やした方が良い」
「くそっ!」

恐らく納得はしていないだろう。
この激情が、今の言葉で収まるはずがないのだ。
それでも、彼女は矛を収めて床に八つ当たりするだけに留まった。
きっと、華佗の言葉は、そして一刀の言葉は彼女には届かなかったが、少しだけ冷静にさせることには成功したのだ。
耿鄙は中央から正式な手続きを踏んで、馬家へと訪れた。
漢王朝からの使者なのだ。
その使者をどんな理由であれ、問答無用に切り捨てたとなれば流石に王朝も黙っては居られないはずだ。
馬家そのものが漢王朝から朝敵扱いされることも十分に有りえる。
それを思い出したのだ。
馬超はやり場の無くなった怒りからか、周囲を見回してから悪態を一つつくと、大きな足取りで食堂から出て行ってしまった。

一刀はそれを見届けて、ようやく即席の武器を下ろすと忘れていた呼吸を繰り返す。
両手で握っていた武器は、半ばまで圧し折られていた事にその時になって気付く。

「……はぁっ……はぁっ」
「一刀……」
「はぁっ……っ、馬休さん……」
「すまぬ、礼を言う。 よく姉者を止めてくれた」
「いや……それは……それより、耿鄙さんの……」
「ああ……耿鄙殿、すまないが部屋には監視を付けさせてもらう。
 許可があるまで、自室から出る事は辞めてもらおう」
「そうだね、休ちゃんの言うところが妥当かな」

耿鄙は一連の流れから―――特に、馬超の戟が自身の身に迫った事から―――荒く息を吐き出していたが
蒲公英と馬休の話は聞こえていたようで、力弱く頷くと供回りの文官と馬休に連れられる形で食堂を退室した。
やや、呆然とした面持ちでそれを見送った一刀に、一人の少女が傍による。
荀攸だった。

「一刀様、夜に私の部屋に来てもらえますか」
「え……あ、ああ……」
「確信に至りましたので」

荀攸の声に、一刀は身を震わせて体ごと彼女に振り向いた。
人差し指を立てて、自分の顔の前に持ってきている荀攸に、寸でのところで一刀は口を噤む事に成功する。

その後、一刀は華佗と共に介抱を手伝い、食事を済ませると自室をひっそりと出た。
残念ながら、服毒したうち、数名の者は致死量を越えて摂取したせいか命を落とすことになってしまった。


      ■ 先を見据えての覚悟


「ごめん、失礼するよ」
「あ、案外早かったですね。 ……どうぞ」
「ありがとう」

木製の扉を二度叩いて、一刀が声を掛けると殆ど間を置かずに扉が開かれる。
風呂に入ったのだろうか。
出迎えてくれた荀攸は濡れそぼった髪降ろして、布を肩にかけていた。
女性特有の、甘い香りが一刀の鼻腔をくすぐる。

「お茶でよろしいですか?」
「あ、うん。 お願いするよ」
「はい」

荀攸の部屋、と言っても馬家に用意された客室ではあるが、中に入って眼を惹くのは執務用の机や竹簡が散らばっているところだった。
普段から馬家の内政に携わっているのは知っていたし、一刀も一緒にお手伝いをしているのだが
まさか自室にまで持ち込んでいるとは思っても居なかった。
他にはプライベートの物だろうか。
寝具の隣に取り付けられた小さな卓に、照明用の燭台、紙や硯が置かれていた。
そして寝具にばら撒かれているのは衣類だろうか。
箪笥のような家具はあるのだが、乱雑に―――まるで脱いだばかりのような―――服や下着がほっぽってある。
一刀が持っている彼女のイメージとはややかけ離れた光景に、思わず凝視してしまった。

「あの、すみません、余り見ないで頂きたいのですが……」
「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど」
「ちょっと片付ける時間が無かったんです……こちらにどうぞ」
「別に気にしてないから、あ、お茶ありがとう」

一刀は薦められた椅子に腰を落ち着けると、淹れたばかりのお盆に載せられたお茶を手に取って
視線を部屋の風景から荀攸へと移した。
同じように対面に座り込むと、一つ息を吐いてから口を開く。

「今日お呼びしたのは―――」
「あ、荀攸さん。 その前に、俺も少し考えてみたんだけど……」

一刀は荀攸の声を遮った。
食堂で部屋に呼ばれた時は直前に聞いた自身の噂の事や、馬超の凶行に動揺が激しく
とても冷静ではいられなかったが、時間が経つにつれて今回起きた件について疑問が沸いてきたのだ。
それは脳内との相談の上ではっきりと自覚できて、ちょうど良いので荀攸にも意見を尋ねることにしたのである。
涼州の反乱に加担しているという噂のこと。
反乱の首魁とされている韓遂が行ったのではないかということ。
そして、先の毒の一件。

「ただ……不可解なのは、韓遂さんがどうして被害者になったのかと言うところなんだけど」

この事から、本体と脳内が導き出した答えは、毒の一件は韓遂の仕業ではないという結論だ。
実際に彼女の供回りは毒を摂取して死に至っている。
あの後に華佗を手伝って救護していた一刀は、苦しげに呻く韓遂の容態も見ていた。
正直、演技だとはとても思えない。
かといって、毒を盛った犯人が耿鄙だというのもどうにも胡散臭い。
そもそも中央から馬家に使者として訪れた耿鄙が、あの場で毒を盛ることに何のメリットがあろうか。
自分の立場を悪くするだけだ。
ならば犯人は誰なのかと言われても、一刀も分からないのだが。
まぁ何にせよ、一刀自身にとって重要なのは『毒』の事ではなく『うわさ』をどう扱うかの一点だ。
自分の考えを一頻り喋って、一刀は意見を求めた。
黙って聞いていた荀攸は卓上に視線を落として、口を開いた。

「……今日、一刀様を呼んだのは、その事を含めてこれから先の事をお話し出来るのが今しかないと思ったからです」
「ああ……そういえば、確信に至ったって、何がなんだ?」

彼女は視線を落としたまま、一刀に表情を見せず無機質な声を響かせる。

「これから先、恐らく涼州の反乱軍が動きます」
「え?」
「そして、そこには居ないはずの一刀様の部隊が、朝廷軍と激突するでしょう」
「は? な、何を……」
「噂は布石に過ぎません。 近く、決定打となる事実を用意すると、そう言っているんです」

この噂が広がっている現状で、無い筈の一刀の部隊が用意されてしまい、反乱軍に参加するということ。
それは、表舞台に立つことの出来ない一刀にとっては最悪のシナリオの一つであった。
狼狽も露に、僅かに腰を浮かせた一刀に荀攸がなおも告げる。

「それと、噂を広めたのは一刀様が言う様に韓遂殿に違いないでしょう。
 天代が洛陽から追い出されたという事実を、馬騰殿の友人である韓遂殿はこの武威の地で知った筈ですから。
 中立の馬家を巻き込むついでに、一刀様の名声も利用しようと考えるのは不自然ではないです」
「そ、そんな……また知らない間にこんな事……」
「韓遂殿は大きな局面で絵図を書いていますよ、一刀様。 先の毒の一件も含めて」
「……じゃあ、あれは……」
「馬騰殿が倒れたのはもともとの症状が原因なのか、それとも一計を案じたのかは分かりません。
 しかし、馬家を率いることになった馬超殿は利用されたのは間違いありません。
 今、彼女は“朝廷の使者”の耿鄙殿に怒りの矛先が向いています」

淡々と確信している推測を告げる荀攸の声に、浮かした腰を降ろして手を口元に寄せる一刀。
一刀の胸中は、今日一日で何度目かになるざわつきを見せていた。
目の前の、三国志という舞台の中でも有名な知者である少女の言っている事が、間違っている可能性もあるだろう。
三国志という歴史の中に立って、大体の事件や経緯を大まかにとはいえ知っている一刀でも
この大陸で過ごす日々は、予測のつかない体験の連続であった。

「……荀攸さん、教えてくれ。 この先、俺はどうすればいいんだ」
「これから先―――」


―――・


―――月明かりが中空に浮いて、荒野を優しく照らしていた。
その荒野に、整然と並ぶ人馬の列。
それは、夜であることを差し引いても先の見えぬ軍勢となって、容易に万を越える人数であることが分かるだろう。
中央に翻る旗の色は橙。
文字は『辺』と『韓』

二つの旗のやや前方に、月明かりだけでも目立つ一つの赤い部隊が異彩を放っていた。
まるで橙色の軍勢に迷い込んだように、ぽっつりとそこだけが異色を放っている。
騎馬と歩兵で編成されたソレは、真っ白な旗を立てて存在していた。

旗印は『天』

最上の者であるという意味を持つ、この旗は漢王朝に籍を置く将兵達に大きな衝撃を与えることだろう。
彼らが見れば、怒り狂って突撃してきてもおかしくはない。
漢王朝打倒を掲げる反乱軍の、大きな大きな挑発である。

「―――辺章様、準備が整いました」
「よし……良いか」
「はっ!」
「出るぞ!」

そして、この挑発にはもう一つの意図が隠されている。
この場に居ない盟友が伝えてくれた、間接的な援護が先ほど述べた部隊の存在であった。
辺章はどういう意図があって、あのような特殊な部隊を用意するように頼んできたのかは分からない。
しかし、彼が一つ確実に分かっていることは、盟友の韓遂は自分よりも遥かに頭が良い知者であるということだ。
何の意味もなく、余計な手間隙をかけて頼みごとをするような女ではないのだ。
あの部隊の存在が、漢王朝の軍に大きな混乱を齎すだろうと、彼女は言った。
その混乱を利用して、この涼州に立ち上がった反乱軍が勝ち鬨を挙げるだろうと教えてくれた。

「長安、ぶち抜く!」

短く、しかし力強く宣言した辺章の声に反乱軍がゆっくりと、まるで何かの生き物かのようにゆっくりと
その足を長安に向けて動き始める。

ここから長安までは徒歩でも3日。
ここまでの行軍で長安に接近していることは既に知れ渡っているだろう。
はっきりと近づく戦の時に、辺章は大きく息をついて胸の高鳴りを吐き出していた。


―――・


「―――これから先、私が今から言う通りに動いてください、一刀様」
「言う通りに?」
「韓遂殿の描いた絵図は読み切りました。 手の内を読みきった盤の戦いほど、簡単な物はありません」
「荀攸さん……」

常とは違う、覇気のような物にあてられて、一刀は思わず彼女の名を呟いた。
それまで俯いていた荀攸の顔が上がり、一刀を見据える。
そして、彼女は一刀が怯むほど綺麗な笑みを浮かべて笑った。

「韓遂殿に感謝しましょう、一刀様。 せっかく用意してくれたこの陰謀。
 一刀様が漢に戻る一助としてちゃんと利用しなくてはなりません」

一刀が荀攸に呼ばれたのは、韓遂が自ら服毒して動けないこの夜だからこそであった。
読み切ったと断言した彼女の言葉を、一刀は胸に刻みつけて。
先を見据えた覚悟を、一刀は決める事になった。
それは今までの知識に頼ったおぼろげな物ではなく、本当の意味で先を知らされて覚悟を決める日となったのである。

撹乱と騒乱の日々が『これから先』に待ち受けることを、知ったのだった。


      ■ 外史終了 ■




[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編6
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/31 21:53
      ■ 華佗は見た


大きな部屋の中央に、煌びやかとまでは行かないまでも、立派な天蓋を備え付けた寝具の前で
華佗は椅子と座卓の上に置いた道具を、腕を組んで眺めていた。
その表情は非常に堅い。
華佗の目の前で、ゆっくりと呼吸を繰り返し胸を上下させるのは、妙齢の女性―――馬騰だ。
意識不明になってからしばらく立つ彼女の容態を、華佗は付っきりで診ていた。
巷で天医と呼ばれることに、慢心をしているつもりは無い。
自ら処置を施した患者が亡くなってしまうことも、数多くある。
亡くなった者の大半は取り返しの付かない程の重篤な病を患った、いわゆる末期症状の患者や
致命傷を負ってしまい、臓物そのものが欠損してしまった重傷者がほとんどだ。
だが、だからこそ華佗は自分が万人を救える医者であるとは妄信していない。
その境地に至ることこそが理想とはいえ、人たる身である自分の限界も分かっていた。
何より、その地、その場所に居る者を診る事しか華佗には出来ないことも。

ただ、そういった華佗が診ても亡くなってしまう者と比べるには馬騰の容態は些か特殊だった。
蔓延る病魔には同調した気を直接あてて流し込み、適した薬を調合し水に含ませて飲ませていた。
その処置で、馬騰の病は回復に向かったはずだった。
昏倒した直後に診ることが出来たこともあり、華佗も自信を持って回復すると宣言できた。
が、実のところはどうだ。
馬騰は眼を覚ます様子もなく、それどころか治療を施した患部とはまったく別の場所に新たな病魔が蔓延る始末。
挙句、数日に一度呼吸が荒くなり、多量の発汗が見られるようになった。
華佗が治療を行うと、確かに症状は軽くなるのだが、馬騰の容態は日を置かず悪化していくのである。
そうした現実が、華佗の胸中に鬱憤を溜めさせていた。
知らず、手の内にある針が握り締められ、僅かに軋みの音を室内に響かせた。

「くそっ……」

一つ悪態をついた華佗の耳朶に、木の擦れあう音が響いてくる。
この扉を開けることが出来る者は指で数えるに足りる。
華佗が振り向いた先には、馬超が居た。

「華佗殿……母上の容態は?」
「……手は尽くしている」
「そうか……」

短い会話を交わして、馬超は華佗の隣まで来ると寝台に腰掛けて馬騰の顔を眺め始めた。
そんな馬超から視線を外し、華佗は天井を見上げて思う。
思い返すのは夕刻、馬超に呼ばれて検分に向かった毒の一件。
毒の種類としては即効性で多量に身体に含んだ際に致死に至る物であった。
この一件では2名の死亡者が出て、どちらも韓遂の供回りの者だった。
もし、もう少し速ければ―――もう少し自分に力があれば―――救えたかも知れない二人の男性の顔が脳裏に過ぎる。

「……」
「……」

栓の無いこととはいえ、もし、たら、ればが心の中を締めてしまう。
このまま目の前で寝息を立てる馬騰も、もしかしたら。
そこまで考えて、すくりと立ち上がる。
華佗は自分の考えが沈んでいることに気が付き、二度首を振った。
ここ最近、思うように治療が進まずに気持ちが前を向いていない。
そんな華佗に、馬超が口を開いた。

「華佗殿、母上は良くなるのか?」
「……この前説明したとおりだ。 病魔を取り払っても、新たな病巣が生み出されて馬騰殿の身体を冒している。
 根源と為る病魔を探し出さない限り、この病は治らないと俺は考えている」
「……華佗殿の正義はぶれないんだな」
「?」
「なんでもない、忘れてくれ……出来れば母上と二人になりたいのだが、許可はおりるだろうか?」

華佗は馬騰から眼を逸らさずに要求してきた馬超を見やった。
彼女が倒れてから、馬超は身を粉にして馬家を取り仕切っていたのを華佗は知っている。
強壮剤を作るように頼まれて、彼女に手渡した事はまだ記憶に新しい。
疲労が濃くなっていく顔色に、心配したのも何度か在った。
ただ、今の馬超の横顔は確かに疲労も見えるが、それ以上に踏み込みがたい何かの意志が感じ取れた。
馬騰の治療は夜を徹して行う予定だったが、華佗は馬超の様子を見て静かに息を吐いて口を開いた。

「少し、散歩でもしようと思っていたんだ」

呟くと、華佗はそのまま馬騰の寝室を後にして城中の中でも一際大きな広間に向かう。
ここからはちょっとした中庭へと繋がっており、城内で働く者の憩いの場としても利用されていた。
中庭に出ると、華佗は空を見上げた。
残念ながら月は雲にかかりおぼろげで、霞んでいた。
その時だった。
華佗から見てちょうど真正面。
客人を迎える為に用意された部屋の中から、今日一日は必ず安静を取るように言い付けた韓遂の姿が現れたのは。
目ざとく韓遂を発見した華佗は、一つ注意をしておこうと一歩踏み出して、止まった。
その原因は、彼女の声が華佗の耳朶に響いたからである。

「いいかい、自分の身の振り方を良く考えておくんだね」
「……」

常とは違う、底冷えのする声に華佗は思わず息を殺して韓遂の姿を追う。
扉越しに会話を交わしているのは、顔の半分を布で覆った小柄な者だった。

「……あれは、耿鄙殿か……それに見張っている者が……」

華佗は韓遂と耿鄙の会話そのものよりも、別の事が気になった。
毒の一件で馬家から軟禁されている耿鄙は、部屋から妄りに出ない様、監視しているはずの兵士が付けられている。
その兵の顔が、華佗には見覚えのあるものであった。
夕刻、服毒した為に治療を行った韓遂の傍付きだったのだ。
馬家の兵は一体何処に行ってしまったのだろうか。
やがて二人の会話は終わったのか、扉を閉めて室内に戻る耿鄙と、宛がわれただろう自身の部屋に戻る韓遂を見送って
華佗は殺した息を吐き出した。
しばし、今の一連の流れについて考えに耽っていたが、華佗は自らの本分を優先した。
すなわち、考える事は後にして、韓遂へ安静にしていろと注意をしに行くことにしたのである。
姿を消した韓遂の部屋に歩を進め、ある一室を通過した直後だった。
まるでおぞましい者に出会ったかのような悲鳴が、通り過ぎた部屋の中から響き渡ったのである。

「ぅわああああああああっっっっ!」

華佗は振り返り、気が付けば飛び込むように悲鳴の聞こえた室内に踏み込んでいた。
悲鳴を挙げた人物が、華佗の良く知る者だったからである。

「一刀っ、どうした―――」


      ■ 抉られた闇


荀攸の部屋を出た一刀は、まっすぐに自身の部屋へ戻ると聞かされたばかりの今後について
何時もどおりと言えば何時もどおりの自分会議を行っていた。
馬岱との慣れない女性下着の買い物、突然の毒の一件に馬超の一撃。
そして、最後の最後に荀攸の話である。
よほど疲れていたのだろう。
脳内の一刀達が話をしている最中にも、時折首を揺らして船を漕ぐほどだった。
ただ、要所ではしっかりと反応を返していたので、適当に返事をしていたわけでは無さそうだった。
こうした部分でしか脳内の一刀達は手を出す事が出来ないことを、本体もしっかり分かっているというの在るのだろう。
限界を迎えて、寝具に飛び込んだ本体は、間を置かず寝息を立てることになった。
本体が眠ることになってからも、脳内の一刀達はしばらく今後について予測や推測、意見交換を交わしていたが
やがて一人、また一人と自分の考えに耽り始めたのか、或いは自らも休憩として意識を落とし始めたのか。
会話は徐々に少なくなって、やがて黙した。

そうしてどれほど時間が経ったか分からぬ頃。
“無の”は口を開いた。

『居るか、“肉の”』
『……どうしたの?』
『少し聞きたいことがあってな』

“無の”は確認するようにそこで一つ、会話を切った。
誰かがこの話に参加するような気配は無く、誰もが沈黙を保っていた。
十分な間を置いて、“無の”は尋ねる。

『“肉の”、誰か聞いているか?』
『秘密の話?』
『出来ればな』
『多分、皆落ちてるんじゃないかな。 それより、どうしたのさ』
『率直に聞くよ。 なぁ“肉の”。 お前は“北郷一刀”なのか?』
『……どういう意味?』
『そのまんまの意味だよ……最初は気にしてなかったけど、最近になって思う事があるんだ。
 本体含めて、俺達は全員がそれぞれの外史を歩んできた“北郷一刀”なことは、今まで付き合ってきて認めてる。
 俺以外の俺も、きっとそうだ』
『……疑ってるのか?』
『……うん、疑ってる。 “肉の”。 この際だから聞いておくけど、お前は……お前は、貂蝉なんじゃないか?』

この疑いは、実際のところ“無の”は当初から抱いていた。
“無の”自身もそうであるように、現代人として過ごしてきた北郷一刀にとって、迷い込んでしまった“外史”の中で
生き残っていく事は、尋常ならざる苦労をしてきたのである。
“無の”も、愛紗や鈴々と言った愛する人を初めとして、どれだけ多くの人に教わり、助けられて命を繋いできたのか。
話を聞けば、同じ北郷一刀である全員が多かれ少なかれ、似たような苦労を背負って駆け抜けていた。

脳内の自分自身が敵対した時全員が、その圧倒的な存在に苦悩を抱いた覇王のもとで、自らを認めさせた“魏の”
身内に信頼を向ける傾向にある江南の地で、努力を続けて信を勝ち取った“呉の”
“無の”自身、似たような経緯を辿って多くの共通点を見出せる“蜀の”
スタートラインから、頼るものがまったく無かった中で生き抜いた“南の”
支えられてきたから分かる、優れた知と勇を持つ趙雲が出奔した後に白蓮に拾われた“白の”

『そして……俺達が本体の中に居るこの外史の中で、“肉の”……お前だけ、北郷一刀からかけ離れすぎてるじゃないか』
『……』
『生き残る為に、死なないために、自ら武器を持って馬に跨って、戦いに明け暮れた“馬の”や“白の”だって
 武将としてみれば愛紗や鈴々とは比べるべくもない。
 いくら気の扱いに長けてるからって、俺は“肉の”のように強くなれる自分が想像できないよ』
『……“無の”』
『もし!』

“無の”は、短く言葉を発した“肉の”を遮って強い言葉を投げかけた。
それは、強い力が篭っているのが“肉の”にはしっかりと感じ取れた。
この話の中で、“無の”が伝えたかった物。
それを感じ取れてしまい、“肉の”は口を噤む。

『もし……なぁ、もし、お前が貂蝉なら教えてくれ!
 俺は―――いや、俺達はどうして本体の外史の中に紛れ込んだんだ?
 俺達は、いつまでこの場所に居なくちゃいけないんだ?』

それは本当にただ、何故なのかを問う物であった。
この“無の”の言葉は同じ北郷一刀とはいえ、“無の”はもとより脳内の誰もが本体の中で抱いた根本的な疑問である。
別に本体の中に居る事が不満なわけではない。
いや、まったく無いという訳ではないが、この外史に降りてから長い間、自分自身と付き合ってきた事で
自分の心中に納得できる形にはなってきている。
何よりも、自分はもう自身の駆け抜けた外史に戻れない。
そんな予感は殆ど確信となって“無の”の内心にこびり付いているのだ。
きっと、脳内に居る全員が同じことを思っている。
だからこそだ。
本体の中に居れば、本体を通して自分の愛する人をその目で見て触ることが。
本体を通じて自分を感じることが出来てしまうから。

“北郷一刀”は本体の中にしがみついているのでは無いのか。

そう考えが及ぶと“無の”は今の本体に罪悪感を抱かずには居られない。
可能性の話になってしまうが、本体にはもっと望まれた外史があったんじゃないかと思ってしまうのである。

『……そう問い詰めるなよ、“無の”』
『“白の”……起きていたのか』
『考え事をしていたら聞こえてきたんだ……混ざるつもりは無かったんだが』
『そっか。 それで“白の”も“無の”と同じなのかな?』
『……可能性はあると思っているよ。 こんな特殊な状況、奴が関わっていないと言われる方が信じられない』
『“白の”は貂蝉と……?』
『ああ、知り合い……というか、まぁ良くしてくれたよ。 貂蝉が居なかったら、もっと速く俺は脱落していたと思う』
『……そうなんだ』
『二人共、俺は“北郷一刀”だ。 信じてもらえないかもしれないけど……いや、最初からきっと信じていなかったかもしれないけど。
 それでも、俺は君たちと変わらずに外史に落ちた“北郷一刀”なのは間違いない』
『……そう、か……』
『そうか』

気落ちした様子で口を開く“無の”と、対照的に一つ頷くだけに留めた“白の”
それは“無の”が期待していた答えでは無かった。
貂蝉であると、言って欲しかった―――それが本音だ。
外史について彼……いや、彼女ほど詳しい人物を一刀は知らない。
現状。
特に、黄巾の乱が一応とはいえ落ち着き始めてこれから先。
激動する乱世の時代を迎えることを身を持って体験しているからこそ、自分の状況をハッキリとさせたかったのだ。

『そう落ち込むなよ、“無の”。 確かに俺達が本体に居る事になった理由は分からない。
 でも、本体を支えたくないって訳じゃないんだろ』
『ああ、それは……そうさ。 本体だって俺だし、“白の”も俺も、皆俺だ。
 愛紗とも会えた。 そう……まるで夢の続きを見せて貰っている本体の力になることは吝かじゃない』
『同感だよ。 そして俺達とは明らかに違う道を辿っている。
 そう確信できる奴が居たら、そりゃ聞かずにはいられないって話だよな』
『遠からず聞かれるんじゃないかって思ってはいたけどね……』
『疑ってるわけじゃないさ。 でも、それでもやっぱり“肉の”自身が認めてるように、俺達とはちょっと違う北郷一刀だ。
 だから、ハッキリさせよう』

“白の”は“肉の”が北郷一刀だと認めた上で提案した。
このわだかまりが、今後の本体の事に影響を与えないようにという配慮も当然あったが
これから先、何よりも“無の”がしっかりと納得できなくてはしこりが残るかも知れなかったからだ。

『俺達は三国志を舞台にする外史に落ちて来た。 それまで、高校生として普通に過ごしてきた訳だが……』
『……“白の”、まさか。 そうか……貂蝉でも俺の過ごしてきた世界の全部を知っているとは限らないよな……』
『何でも良い、“肉の”自身が北郷一刀である思い出を教えてくれ』

“白の”が提案したものは、北郷一刀の過ごしてきた人生の中でも自分だけしか知らぬ物を教えて欲しいという物だった。
その容姿からして規格外である化け物……貂蝉であろうとも、現代で暮らす一刀の人生全てを把握できているとは思えない。
現代生活の中での秘密を“肉の”が知っているのならば、北郷一刀だと納得せざるを得ないのだ。

しばしの間、沈黙が流れていた。
まるで話すことを躊躇うかのように。
ある種、もったいぶっている様にも見え、“無の”が業を煮やして口を開きかけた頃。
“肉の”は覚悟が決まったのか、溜息を吐き出すように言葉を発した。

『螺旋の中で踊れ』
『なっ!』
『うっ!?』

この何でもないような、意味の無い文脈に“白の”と“無の”は盛大に顔を引きつらせて呻いた。
知っているからだ。
誰にでもない、自分自身の中の苦い記憶として脳裏にこびり付いていたから。
それはまだ、中学に上がって間もない頃の話。

『無慈悲なる白銀に降り注ぐ流星の抱擁を右手に抱き』
『ぐわあああっ!』

“無の”が何かに耐えかねたかのように、苦しみの悲鳴をあげた。
次に続いた一文も、良く覚えている。
部活を始めたばかりで、一刀は後輩としての勤めとして早朝の誰も居ない剣道場で竹刀を取り出して……あの一件が脳裏を過ぎる。

『な、なんだ!?』
『どうした!』
『今の悲鳴は!?』
『昏倒の中で燃ゆる闇を我が左手に収め、シ・ツ・コ・ク・ノエンコンを飲み込め』
『うわあああああっ!?』
『な、な、何を、何を!?』
『お、おい、何言ってんだやめろっ!』

“無の”の悲鳴から、北郷一刀は次々に意識を立ち上げ、速攻で撃沈していく。
誰も居ないからと、その時に嵌っていたゲームの影響で適当な詠唱をでっちあげて
竹刀を振り回した、かつての自分が完全にイメージできている。
振り切った平凡なる突打。
それを密やかに覗く―――いや、見守ってくれていたこれからお世話になるだろう男女の集団。
いわゆる、諸先輩方。
部活の中でさんざんからかわれるネタとされ、そのおかげか部活内の空気にいち早く馴染むことが出来た一件だ。
ヒュカッ、と情けない音が剣道場に鳴り響いて、一刀は打突した。

一刀達がのた打ち回る中、“白の”の声が“肉の”に聞こえてきた気がした。

『もういいっ“肉の”! 十分だっ! 分かっ―――』
『魂魄に刻め―――闇光螺旋突(ダークライト・オブ・ドライブ・ストラッシュ)ッッ!』
『うわああああああああああああああッッッッ』
『ワアアアアアアアアアアアアアアアッッッッ』
『URYYYYYYYYYYYYYYyyyyyyyy』


―――・


「うわああああああっっっ!?」

本体は、常では考えられない尋常さのカケラも無い寒気に襲われて体を跳ね上げ飛び起きた。
蹲るようにして身を倒し、自分の身体をその両腕で抱く。
体の震えが止まらない。
何事が起きたのかと思って、切羽詰って室内に目線を飛ばすが視界にはまったく異常が無い。
脳内は今も、声にならない悲鳴を挙げている。
本体は突然の体の変調、脳内の異変に一気に混乱した。

意味が判らないまま混乱した一刀の視界に飛び込んで来たのは、音々音を除けば一番長い付き合いになる友人の姿だった。

「な、なにがっ!? なんだよっ、これっ!?」
「一刀、どうしたっ―――っ!? こ、これはっ!」

華佗が部屋に踏み込んで、身体を震わせて蹲る一刀を見たときの表情は驚愕という言葉が当てはまるだろう。
眼を見開いて立ち止まり、そのまま凍り付いてしまった。
見えるのだ。
一刀の体の中でのた打ち回る、幾つもの気がまるで荒れ狂う黄河のように暴れまわっているのを。

そもそも、気とは一人につき一つの気質を持つのが常識だ。
これは大陸全ての人間に当てはまる事を、華佗は一刀と出会う前の旅の中で学んだ。
複数の気を持ち、安定した状態を保つ一刀の存在は、華佗に少なからず衝撃を与えた物である。
そう。
華佗にとって一刀の存在とは、自身の常識をあっさりぶち壊した数少ない人間の一人であったのだ。
当然、このように複数の気が暴れ狂う現象に立ち会った事など無い。

「くそっ! 一刀、待っていろ! 今すぐ治療を行うからな!」
「か、華佗……俺、わかんないけど、死にたいっ!」
「馬鹿を言うな! 落ち着けっ!」

華佗は焦った様子で一刀の眠る寝台に近づくと、すぐさま気を用いる治療に使う針を取り出して一刀に触れた。
一刀の額にはびっしりと汗が張り付いて、震えが止まらない様子であった。
触れた指先から、酷く体温が低下していることを華佗は知る。
語りかける内容も要領を得ない。
体内を荒れ狂う気は、まるで螺旋状に渦を巻いて一刀の内部を食い散らかしている。
正確な数を把握することは出来ないが、少なくとも10に近い。
まるで龍が龍の尾を追うように、一刀の中で気が渦を巻いて吹き荒れている。
診断結果は言うまでも無い。
即刻、この荒ぶる気を鎮めなければ命に関わる。
華佗はそう判断した。

この武威に来てから、馬騰も、韓遂の供回りも、救えない、救えていない。
一刀まで可笑しな事になってしまった。
友人を、人を救えずして何が医者か。 何がゴットヴェイドーかっ!
助けてみせる! 必ず!

華佗は溜まっていた鬱憤を吐き出すように、全神経を両腕に集中させた。

「負けるっ……ものかぁぁっっ! うぉぉぉぉおおおおおぉぉぉぉっっっ!」
「華佗っ、え? おおおぁぁぁぁぁっ、わああああぁぁぁぁっ!」

一刀の肩を掴んで押し倒し、華佗は自身の限界まで気を練り上げて両手で針を持って振り上げた。
その表情の、なんと鬼気迫ることかっ!
あの温厚な華佗の顔が、まるで憎しみで人を殺せたらという羅刹の顔に染まっている!
死ぬ……殺されるっ!
一刀はこのとき、正常な判断が出来なかった。
脳内を含めた自身の身に激流となって遅い掛かる震えと寒気、そして混乱に継ぐ混乱。
動きを封じられ、太い針を天高く掲げて、今にも全力で振り落とそうとする華佗を見て
完全に恐慌したのだ。
なにより、視界に映った物がまずかった。
眼を剥いて歯を食いしばる華佗の両手で握り締める針が、一刀にさえハッキリと視認できるほど金色に輝いていた。

「元 気 に な ぁぁぁ れ ぇぇぇぇーーーーーーーっっっっ!」
「ねねぇぇぇぇーーーーーーーーーーーっっっっっっっ!!」

華佗の魂の一撃と言うべき一発は、愛する人の名を力の限り咆哮し、華佗から逃れようと身を捩った一刀の行動により
目的の腹部を逸れて睾丸を直撃した。
そして広がる、視界を埋め尽くす金色の光。

一刀は埋め尽くされた金色の光の中、安らぎと悶絶を同時に感じて意識を落とした。
華佗の気を限界まで練り上げて発生した光が徐々に薄れていく。
当然、治療どころか人が生きる為に必要である気を全てを出し尽くした華佗も、一刀に折り重なるようにして倒れた。
幸いというべきか。
寝台の上で横たわる複雑な寝顔を浮かべる一刀と、何かをやり遂げた誇らしい表情で昏倒する華佗の姿を見るものは居なかった。

―――室内に残るは、一人、華佗に打ち込まれた気を跳ね除ける事が出来た“肉の”だけ。

『―――『突端』を開いたのは“無の”だったんだな。 すまない、俺は確かに隠し事をしているよ』

波才と劇を合わせ、激突したあの時。
張譲に追い詰められたその時。
“肉の”が本体の身体を借りることは出来た。
蹇碩の軍勢を一騎で駆け抜けた際には、“北郷一刀”の無謀さに出ざるを得なかったが。

『貂蝉、俺はまだ諦めない……必ず繋げてみせるから』

“肉の”は独白をそう締めくくって、意識を落とした。
自分自身の闇を抉るのは、諸刃の剣だと考えながら。


      ■ 知っている


「ようやく起きたか、エロエロ魔人」
「起き抜けに随分な挨拶だね……」
「忙しい中、随分と待ったんだぞ。 これくらい言わないと割に合わないじゃないか」

妙に吹っ切れた様子の顔をした華佗が目覚め、何故か礼を言われて馬騰の部屋に向かった頃。
一刀も同様に、華佗から夜の出来事を大まかに教えてもらってふらつく頭を抑えて部屋を出ていた。
何時もどおり起き抜けに水瓶で顔を洗い、ようやく覚醒して働き始めた脳を引っさげて内政のお手伝いをしようと
執務室に入った直後、馬超から声がかかったのである。

あの死にたくなるほどの寒気の原因はハッキリした。
脳内の誰かが何故か自殺用の詠唱を始めたからである。
なんだか、“白の”が珍しくおろおろした様子で説明のようなそうでない様な話を皆にしており、彼が第一容疑者に上がっていたけれど。
何にせよ脳内の自分達も、本体である俺に影響がある事を忘れないで欲しいと強く願った。
この願いは聞き入れられて、とりあえず再び己の闇は封印することになったが
久しぶりに思い出してしまったせいか、今も胸中に妙な虚無感が広がっていた。

「……北郷、少しこれから付き合ってくれないか」
「あ、うん。 え?」
「聞いてなかったのか。 ちょっと時間をくれって言ったんだ」
「ああ、別に構わないけど。 何処に行くんだい?」
「練兵場だ」

馬超はそれだけ言うと、執務室から強い足取りで出て行った。
一刀はそんな馬超に首を傾げたが、日々の内政から一時でも解放されることも含めて
軽い気持ちで執務室を出て、馬超の足取りを追ったのであった。

……

練兵場について周囲をひとつ見回し、一刀は不信感を抱いた。
誰も居ない。
いや、馬超が奥の方でなにやら物騒な武器を携えて腕を組んでいるのは見えるが
肝心の兵が何処にも見当たらなかった。
練兵場の名に偽り有りである。

「何入り口でぼうっとしてるんだ?」
「あ、いや、想像していた光景と少し違ったから……今行くよ」

この会話を経て、一刀は不信感に妙な確信を得た。
あまり嬉しくない類の確信である。
馬超との距離にして約5メートル程だろうか。
それまで腕を組み動かなかった馬超が、手を前に翳して一刀を制止した。
手には訓練に使っているのだろう、簡素な木剣が柄を一刀側に向けて差し出されている。
一刀は悟った。

「……母上に代わり馬家を取り仕切るようになってから、北郷の事は調べさせてもらった。
 天代としての噂は知っていたけど、事実がどうなのかをな」
「あ、ああ……」
「洛陽に押し寄せた賊を策にて打ち破り、黄巾の大将をその手で下し、追放された際にはただの一騎で一万の兵の中を駆け抜けた……」

なんだか兵数が水増しされていた気がしたが、どれも本当の事なので一刀は素直に頷いた。
蒲公英のような―――例えば洛陽に居た頃に流れた幼女趣味云々の―――からかいが無い事はありがたいのだが
勇猛で知られる西涼の雄、馬超からはただならぬ気迫を感じてしまう。
別の意味で一刀は落ち着くことが出来なかった。

「これを知った時、それほどの猛者ならば私は是非手合わせをしたいと思ったんだ」

いや、結構。
口に出して言えれば……いや、この言葉を受け入れてくれればどれだけ救われるか。
馬超と同じように、三国志において所謂『強い武将』というものを一刀はこの世界で見て来た。
夏候惇、華雄、孫堅、雪蓮、愛紗、鈴々、張遼、恋。
実際にその武を目の前で見せ付けられると、ただただ感嘆の息を漏らすことしか出来ない。
要するに何が言いたいかというと、彼女達とは武において次元が違うのを一刀は知っていた。
目の前で試合したいと願った馬超も、先に並べた武将達と遜色の無い実力を持っていることだろう。
このままではタコ殴りの憂き目にあってしまう。

(誰か変わってください)
『いや、まだだ。 “肉の”が居る』
『まぁ、確かに“肉の”はおかしいからもしかしたら』
『ごめん、俺はパス』
『だ、そうだ。 本体頑張れ』
(は、薄情者-っ!)

一向に受け取らない一刀に焦れたのか、馬超は手首を返して木剣を揺らし受け取るよう催促する。
朝っぱらからこんな事をお願いされるとは思ってもいなかった一刀である。
覚悟の決まらない表情で恐る恐る木剣を受け取った。
そんな一刀の様子からか、馬超はそこでふっと笑みを零した。

「急だったのは悪いと思ってる。 それに、北郷はやっぱりあんまり強くなさそうだ」
「はは、察してくれて嬉しいよ」
「普通は侮辱だって怒るところだ、ちょっと情けないぞ」
「まぁ退屈しないように頑張ってはみるさ」

剣を持って相対すれば、相手の大まかな実力が分かる。
強者になればなるほどそれは、実際の一騎打ちでの戦いにおいても重要なウエイトを占める物になるし実感できる物であった。
今こうして相対している馬超は、調べた情報が全て嘘なのでは無いかと疑いたくなるほど
一刀から強者であるとは感じ取れなかったのである。
仮に全てが本当だとしても、それは“運”というものが絡んでいたのだろう。
運も実力の内である。
まぁ、こうして相対すると目の前の男はどれだけ幸運なのだろうかと、それすら馬超は疑ってしまいたくなったのだが。

「……じゃあ、少し付き合ってくれ」
「ああ、よろしく」

訓練用の木剣が僅かに重なって、乾いた木の音を練兵場に響かせた。

―――・


どれだけ腕を振るっただろうか。
もう時間の感覚も無い。
最初の内は、馬超の鋭い攻撃に為すすべも無く防戦一方だった。
手加減してくれているからこそ、何とか倒れずに踏ん張っていられたのが一刀自身良く分かった。
が、何時の頃だろうか。
馬超の剣閃に鋭さや怖さが無くなったのは。
もちろん彼女が本気になれば瞬く間に冷たい床にキスをすることになるのだろう。
しかし、手加減しているとはいえ馬超の攻撃がハッキリと捕らえられるようになった頃、一刀は思い切って反撃に出てみた。
散発的な攻撃しかせず、守勢に回っていた一刀のこの反撃には、馬超も驚いた様子で蹈鞴を踏む。
奇襲に近い反撃が急所どころか、しっかり木剣で一刀の攻勢を弾き返す当たりは流石であった。
長期戦となりはじめ、もともとの体力が違うせいか体の重さを感じた一刀はローテーションを使い始めて対抗した。

振るい、弾く。
かわし、突く。

休憩すら取らずに二人はまるで、予め決めておいたかのように剣戟を交わし続けていたが
“馬の”の声が飛んできて、僅かに一刀は集中を逸らした。

『……なぁ』
(なに?)
『もう終わりにしよう』
「え?」
「―――あっ!」

突如として動きの変わった一刀の一撃に、馬超は咄嗟に反応したが遂に弾く事適わず。
一刀が素早く突き入れた打突が、馬超の腹部……鳩尾近くを強打して彼女は持っていた木剣を落とし蹲った。
両手で腹を押さえ、短く咳き込みながら恨めしそうな視線を一刀へ向ける。
そんな無言の抗議を視線で受けた“馬の”は、手に持っていた木剣を床へと放り投げた。
カラリと、乾いた音を立てて馬超の近くまで転がっていく。

「……俺の勝ちだね」
「ケホッ―――っ、ず、ずるいぞ!」
「試合中に上の空だったすぃー……馬超が悪い」

慌てて言い直した“馬の”であったが、馬超から向けられる視線は恨めしそうな物から更に危険な角度へと眦が上がっていた。
冷や汗を垂らし、言い繕おうと口を開きかけた処で“馬の”の意識が堕ちる。
身体に返ってきたのは本体である。

「今、お前、私の真名を……」
「イッテナイヨ」
「いいや、確かに聞こえた!」
「上の空だったしぃーって言ったんだよ」
「北郷、お前、私の事を馬鹿にしてるだろ?」

ようやく腹部の痛みも和らいだのか。
馬超は木剣を握り締めながら立ち上がって一刀へと近づいていく。。
なんかミシミシと手に握られていた木剣から音が出ていた。
どんどん危険な角度に眉が釣りあがっていく馬超を見て、一刀は観念したように両手を挙げて頭を下げた。

「悪い……つい出ちゃったんだ、ごめん」
「やっぱり言ったんだな。 他人の真名を勝手に呼ぶなんて、最低だ」
「う……すまない」
「そう思うなら、一発くらいは覚悟してるんだろうな」

威圧するような馬超の声に、一刀は半歩後退しながらも頷いた。
言ってしまったのは“馬の”であるが、彼がついつい真名を呼んでしまったのは事故に近い。
それはそう、この世界に降り立ったばかりに失敗してしまった“魏の”の様に
普段から呼び慣れた名を呼んでしまうのは仕方の無い物があるのだ。
例えば、昔飼っていた犬の名前を、ついつい今飼っている犬の名前と呼び間違えてしまうものに通じる物があるだろう。
まぁ、呼ぶ相手は人なので、犬と比べる事は出来ないが。
とにかく“馬の”の失敗は北郷一刀の失敗である。
少なくとも、目の前の馬超からすればそうだ。
一刀は目を瞑り、背筋を伸ばして馬超の前に潔く立った。

「言い繕った割には素直だな」
「全面的に俺が悪い事は認めてる。 これで許してくれるなら安いもんさ」
「本気でいくからな、この、馬鹿ッッ!」

練兵場に肌を叩く乾いた音が残響を残すほど響き渡った。
左頬を打ち抜いた馬超の平手が、倒れこむ一刀の視界に一瞬だけ映り込む。
尻餅をついて倒れた一刀は、明滅する視界とじんわりと熱を持ち始めた頬に手を当てて短く呻いた。
めちゃくちゃ痛い。
そんな無様な一刀の姿を見やり、馬超は小さく息を吐いた。

「今回だけはこれで許す、次やったら承知しないぞ」
「っ~~、分かってるよ」
「ふんっ……付きあわせて悪かったな。 あたしはもう行くから、ありがと」

床に転がっている木剣を拾い道具を片付けながら、一刀の横を抜けて入り口へと向かう。
一刀はへたりこんだまま、左頬を押さえて床を見つめていた。
“馬の”が戻ってきた時は、そんな時だった。

「……少しくらいは気は晴れたのか?」

ぴたり、と一刀の声に足を止める。

「自分を卑下するわけじゃないけど、俺なんかの一撃が入るくらいだ。
 何を悩んでるのか分からないけど俺の知ってる馬孟起らしくないんじゃないか」
「っ……お、お前に何が分かるんだ。 知った風な口を利くなよ」

言葉当たりは厳しいものだったが、声からは動揺の色が窺い知れた。
大きな足音を響かせて、やがて遠ざかる。
練兵場に残されて座っていた一刀は、ごろりと寝転がり天井を見上げ呟いた。

「知ってるさ。 知らないわけ無いだろ……」
『もう行っちゃったぞ“馬の”』
「分かってるよ。 翠に聞こえたらもう一発いただくことになっちゃうからさ……ああ、一発と言えば、すまなかった本体」
(いや、いいよ……気にしてないから)
「ありがとう、恩に着る」

やがて主導権が戻った本体は、大の字に寝転がる事を止めなかった。
長時間の運動の後ということもあるのだろうが、なんとなく立つ気分になれなかったのである。
一刀には“馬の”が思っているもどかしさの様な物がうっすらと理解できた。
想っている人がすぐ手に届く距離に居るのに、触れられないもどかしさ。
一方的に知っているだけで、相手にとったら馬家の逼迫する状況から牢を出すことになっただけの男である。
この地で過ごす日々の中で、馬超の態度は一貫して冷たい物になっている。
幸いなのは彼女の性格から、陰湿な物言いや部下を含めてのイジメなどが無いということだ。
本体としては何とかしてあげたいとも思う。
思うが、どうにもこうにもうまい切っ掛けが見つからないのも事実だ。
しばし冷たい床の上で一刀は天井を見上げて、ぼんやりと考えに耽っていると聞こえてくる足音。
首だけを持ち上げると、ひっくり返った視界の中で見覚えのある特徴的な顔が練兵場に入って来たことを認めた。

「耿鄙さん……」
「すいません、北郷様。 時間を戴いてもよろしいでしょうか」

自然、見下ろす形になる耿鄙の顔が一刀の視界に映る。
相変わらず布で右半分覆われているが、一刀は耿鄙の口元に薄っすらと色が付いているのに其処で初めて気がついた。
あえて尋ねる必要も無かったので問わなかったが、もしかしたら耿鄙は女性なのかもしれない。
声色が中性的であるため、判断がつかなかったのである。

「ああ、良いよ……」
「ありがとう御座います……本当は早く会って話したかったんですが、その……」
「ああ、馬超さんとは顔を合わせづらいよな」
「はい……」
「とりあえず……場所を変えようか」


―――・


場所を中庭の庭園に移した一刀は、お天道様が空の真上に陣取っているのを見て、昼が近いことを察した。
空を見上げてゆっくりと歩く一刀の背を、耿鄙は静かに後ろから付いてきていた。
やがて、一際大きめな岩の前にさしかかり一刀は立ち止まった。
耿鄙が自分の下を尋ねてきたのは、大体想像がつく。
いや、想像というよりも荀攸の推測から“来るだろう”と知っていたからだが。
昨日の今日だとは彼女も、もちろん一刀も思ってはいなかったが。

「それで、話ってこの前の事でいいのかな?」
「はい、本当はもっと時間を置いて、性急に決めてもらいたくは無かったのですが」
「……監視の人は?」
「すぐに戻ることを伝え、金銀でご納得して戴きました」

確認するように尋ねた一刀は、返ってきた答えに小さく息を吐き出した。
ゆっくりと一刀の考えを待つと言っていた耿鄙が、賄賂に頼ってまでこうして会いに来た。
答えは決まっている。
耿鄙を利用して王朝に害意を抱かせる韓遂の思惑に、どっぷり漬かってしまった耿鄙に着いて行く事は
一刀の意志を無視して出来なくなってしまったのだ。
荀攸からの推測が、こうして当たってしまったからには余計にそうであった。
一刀の答えは、決まっていたがこれを口に出して言うには覚悟が決まっていない。
何故ならば、この答えを返してしまえば、自分は耿鄙を―――

『本体……』
(ああ、昨日みんなで話した通りにだろ……でも)

「こうして急になってしまった事は、申し訳ないと思います。
 しかし、私にはもう、時間が無いのです……」
「時間……どうしてそう思うんだ?」
「それは……その……」

一刀は見上げていた空から視線を落とし、耿鄙の顔を真正面に捉えて尋ねた。
両の目で見つめられて、耿鄙はやや俯きながら心情を吐露した。

「……この地を、早急に去りたいからです」
「……身の危険を感じているんだね?」
「はい」

例の毒の一件があっても、事実を認めておらず馬家の中の立場として微妙な場所に居る耿鄙は
この武威の地に居る限り、昨夜の馬超のように暴走する者が居なければ100%とは言えないまでも安全であると言える。
なにより、毒の一件があってなお、すぐに去ろうというのは馬家の疑いを余計に深める事に繋がりかねない。
立場的に疎外感を感じようとも、彼女の取るべき選択肢は武威の地に留まって本来の目的を遂行するべきだ。
中立である馬家を、朝廷に味方するように。
韓遂の謀略によって、その任務を果たすことは―――特に現状馬家を取り仕切っている馬超の印象が悪い今では―――至難となったが
それでも耿鄙はこの場で役目を果たさなくてはならないはず。
が、その任務を覆して武威の地を去るつもりでいる。
一刀に、耿鄙の下に来るのかどうかの答えをせっついている時点で耿鄙は武威を去ろうとしているのが透けて見えた。
馬家の印象が劣悪であり、朝廷の不信を深めることも厭わず、命の保証があっても尚、耿鄙が逃げ出そうとする理由。
韓遂のせいに違いない。

「要するに……命がかかっている」
「っ! ……さ、さすがは天代であったお方。 昨夜……服毒して倒れた韓遂殿が、私の部屋に来ました」
「……それで?」
「韓遂は、私を殺そうとしております」
「仮に……そうだとしても、韓遂とて耿鄙殿と同じ客人。 馬家の人間が耿鄙殿を害そうとしても、馬家の立場からは
 耿鄙殿に手を出させはしないはずですよ」

この一刀の考えに、耿鄙は首を振って否定した。
昨夜の内に訪ねてきた韓遂は、耿鄙に恨みの言葉を吐き捨てながら、近く真剣を用いた死合いを行いたい旨を伝えに来たそうなのだ。
復讐ということなのだろう。

「義に篤いと言われる馬家が、この韓遂の申し出を拒否することはないでしょう。 必ず私に死合うかどうかを尋ねてきます。
 これを突っぱねる事は、現状の私では難しいですし、私は自分の武に自信がありません」
「それでも、貴方は朝廷の正式な使者だ。 突っぱねる事は可能だと思うけど」
「その場合、彼女は私がこの地を離れた時に、韓遂殿自身が襲撃すると脅迫しました。 
 私の連れてきた供回りは文官ばかり。 襲撃されれば勝てる見込みがありませんし、何より部下を巻き込みたくない」
「……個人的に復讐するということなら、馬家は韓遂の勝手を見逃すだろう、そういうことか」

その場合は、韓遂も朝廷の者を襲ったという事実から馬家に戻ろうとすることは無いだろう。
自分よりも背の低い耿鄙は、確かに小柄だ。
武に自信が無いというのは本当の事だろう。
一刀も、韓遂や耿鄙の実力を知っている訳ではないが、目の前の人よりも韓遂の方が武に長けている気はする。

「……だから、今すぐ答えが欲しいんだね」
「はい……」
「分かったよ……それで、俺が行かないと言ったら、耿鄙さんはどうするんだ?」
「……残念ではありますが、死ななければまた北郷様を誘う機会もありましょう。 すぐに立ち去ります」

一刀は岩に背を預けて地面を見つめる。
働きアリがせっせと自分の巣に小さな物を運び入れている姿が目に飛び込んでくる。
僅かに目を細め、それを見ながら思う。
荀攸から聞かされた韓遂の思惑。
それは、耿鄙の排除と馬超の正義感の強い性格を利用した馬家との結託にあるという。
毒を利用して巻き込み、馬家と耿鄙の間を割き、自身も服毒して同情心を馬超から得るのが今回の一件の目的だという。
事実、耿鄙は武威の地から容易に離れることはできなくなった。
一刀は、耿鄙が立ち去る事を選ぶ可能性を荀攸から聞いて知っていたのだ。

今のタイミングで耿鄙が立ち去れば、韓遂は西涼の反乱軍を用いて殺害するだろうと予測していた。
朝廷と敵対している今、使者の馬車が襲撃されることは自然であるし、韓遂からすれば
自分の居場所を知っている危険な人物の排除に成功する。
残るのであれば手出しはせず、時期が来るまで飼い殺しにする。
そう、一刀は聞かされていたが、まさか韓遂が耿鄙を追い出すように仕向けてくるとは思っていなかった。
もしかしたら荀攸は知っていたかもしれないが、彼女の口からは説明はされなかった。
どちらにせよ、韓遂は耿鄙を排除しようとしていたと見るべきだろう。


『話に乗れば、耿鄙さんは死ぬ。 俺も含めてな』
『北郷一刀が生き残るには、耿鄙さんに着いて行くことは出来ない……か』
(死ぬわけにはいかない……)


昨夜、脳内の全員で荀攸の話を纏めて方針を固めた。
この話を蹴る事は自身が生き残る為に、蹴ることになっている。
だが、蹴ってしまえば目の前の人は死ぬ。
それを伝えてやれば、耿鄙は思いとどまるだろうか……それとも。

黙して地を見つめ続ける一刀に、視線を合わせた耿鄙は一つ呟いた。

「亜麻の華ですね」
「え?」
「今時分に種を巻けば、夏には華を付けますよ」

全然関係の無い事を言われ一刀は戸惑ったが、一刀の視線の先には確かに働きアリの他にも植物が映っている。
一刀はなんと返すか思い浮かばずに、そのまま首を振った。
耿鄙が一つ息を吐いたのはそんな時だった。

「今日の夕刻……立ち去ることに致します。 もしも私と共に来て下さるならば、その時で結構ですので」
「……」
「お手間を取らせました。 失礼します」

踵を返し、耿鄙の足が視界から消える。
良いのか。
これで本当に。
ここを飛び出していけば、耿鄙は死ぬかも知れない。
この地に留まれば、もしかしたら違う生きる道が見えてくるかもしれない。
何か、手立てがあるかもしれないのに、見捨ててしまったも良いのか。

「っ!」

一刀は焦燥に狩られ、顔を上げればそこにはもう耿鄙の姿が見えなかった。
追うようにして踏み出した一歩が、制止の声で止まる。

『本体、待てよ』
(けど……知っているのに見捨てるなんて俺は……確かに付き合いは浅いけど、耿鄙さんは……)
『気持ちは分かるし、何か別の手があるかもしれないけど、具体案も無しに提案なんてしても蹴られるだけだ』
『韓遂の目を欺く為にも、嵌っている振りをするって約束したじゃないか』
(……)

韓遂の描いた絵図を利用し、荀攸が画策した洛陽へ戻る為の一歩。
一刀が聞いても自分にメリットしか齎さない、ようやく見つかった自身の復活に光が見えた一手。
劉協との約束と、音々音との再会を誓い立てた一刀は、一時の感情で全てを不意には出来ない。
だが、目の前で救えるかもしれない人を見捨てるのは、どうにも納得がいきそうになかった。
知らず、掌が拳を作り、強く握られる。

「くそ……嫌になるよ……」
『……』
『……』

一刀は、巨大な岩の下に座り込んで、はき捨てるように呟いた。
座り込んだ一刀は何をするでもなく、空や地面を見つめていた。

夕刻。
蒲公英が彼を見つけて声をかけるまで。


      ■ 追撃

長安周辺、郿城(びじょう)と呼ばれる場所。
辺章が反乱軍を率いて攻め立てた地は此処であった。
長安を拠点として活動する諸侯の一人、董卓軍が此度の反乱に際して作られた要塞だ。
黄河を渡った先に作られたこの城砦は、反乱軍を押し返すのに重要な役割を担っていた。
野戦で敗北を喫しても、この中に戻れば安全を確保できることは勿論、糧食、軍馬の運搬の容易さ、渡河の必要性の排除。
相手の機動力を削ぐ攻城を強いても良い。
だが最も大きいのは、大軍として襲い掛かる西涼の反乱軍の攻勢に、堅固な盾として立ち塞がってくれて
将兵に大きな安心感を与えてくれている、精神的な部分で役に立ってくれているところだろう。

そんな郿城に攻め立てた辺章軍は今、敗走の時を迎えていた。
迎え撃った董卓軍と王朝から増援として送られた孫堅・皇甫嵩の官軍相手に長期戦を強いられて劣勢となり
糧食が心もとない事から撤退に移ろうとしていたのだ。
この事実にいち早く気がついたのは、董卓を隣で支え続ける才女、賈駆であった。
撤退の準備を進める辺章軍が、戦意を失い始めてる事に気がついて最低限の防衛だけを残し郿城から打って出たのだ。
孫堅、呂布、張遼を先頭に、奇襲のような形で持って攻め上がり決着はついた。
此度の侵攻は防げたと言って良いだろう。

「張遼殿! 張遼殿はどこかっ!」
「おっ、皇甫嵩のおっちゃん、こっちにおるでー! てやっ!」

余裕を持って会話をしながら、雑兵をひとなでに吹き飛ばす。
周囲に敵が―――といっても、ほとんど逃げ出しているが―――居ない事を確認し、張遼は馬首を皇甫嵩へと向けた。

「賈駆殿から追撃に移るように指示が出ている」
「なんや、官軍の将軍様を顎で使うなんて、詠も怖いもん知らずやな」
「手が空いていたから伝えに来ただけだ。 それに、今回は相手も本気では無さそうだった」
「そやな」

愛用の武器、飛龍偃月刀を肩で担ぐようにして張遼は同意を返した。
確かに、大軍を用いて攻め上り、一気に郿城へと迫った反乱軍だが勢いはここで一気に落ちた。
確かに堅牢な郿城が相手の進軍を鈍らせたのは事実であるし、大規模な侵攻のせいで事前に董卓軍は準備を出来たのもある。
しかし、昨年の勢いでぶつかってくると確信していた張遼は今回の戦の手応えの無さに訝しかんだのも事実。
皇甫嵩も同様に感じ取ってることから『本気でない』という言葉に素直に頷く事が出来た。
戦に勝った以上、追撃するという命令には賛成だが、罠という可能性も張遼の頭の片隅に浮かんでいた。
警戒するに越した事はないだろう。

「とりあえず、追撃の件は了解や。 皇甫嵩殿は?」
「私は一旦郿城へと戻る。 ああ、そうだ。 張遼殿は『天』の旗を掲げた一団とぶつかったか?」
「いんや、遠目から確認はしたんやけどな」
「そうか……分かった。 追撃には張遼殿と呂布殿で向かってくれ。 それではな、武運を」

それだけ確認すると、皇甫嵩は馬首を返して郿城へと向かった。
最後に形だけとはいえ応援してくれたことから、皇甫嵩も罠の可能性があることに感づいているのだろう。
勿論、追撃の命令を出した軍師の詠も。
自分の持っている頭脳とは比較にならない―――無論、馬鹿だとは思ってはいないが―――軍師様が追撃を指示しているのだ。
相方が天下無双の彼女であるならば、心配しなくていいのは確かである。

「ま、ええか。 あれこれ考えるのはうちの役目やないしな。 部隊をまとめぇ! 逃げ出す臆病者のケツをひっ叩きに行くで!」

張遼は3千ほどの兵をまとめて、先発した呂布2千と合流し追撃に移った。


      ■ 正義の槍の矛先


それは、辺章が官軍に敗れて敗走した日の翌日。
なんとも言えない感情を抱え込み、眠りについた一刀を起こしたのは外から聞こえる喧騒であった。
起き抜けに騒ぐ人の声に、一刀は寝台から動かずに聞き入る。

「休ちゃん、おねぇさまは!?」
「駄目だ、聞く耳をもっちゃいねぇよ。 どうすんだ?」
「どうするって、そんなの蒲公英に聞かれても……」

『何かあったな』
『見に行こう』
「ああ……」

一刀は寝巻きを脱ぎ捨てて、すぐに着替えると部屋を出る。
焦った様子で会話を交わす蒲公英と馬休は、一刀が部屋を出たのに気付かないで話し合っていた。
夢中になって話し込む二人には悪いが、一刀は二人の背に声をかける。

「どうしたんだ? 二人共」
「あ、一刀……」
「一刀か。 いやな……その、今朝耿鄙殿が死んだ」
「え?」
「監視の兵が気付いたの。 朝見に行ったら、自害していたって……それで」

一刀は二人の言葉に違和感を覚えずには居られなかった。
昨日の内に出立したはずである耿鄙が、何故この馬家の中で死んでいるのか。
確かに、馬家で朝廷の使者が死んでいれば焦るかもしれないが、ここまで動揺しているのも可笑しい。

「……それで?」
「遺書みたいなのが見つかって……っていうか、早くお姉さまを止めないと大変な事になるって!」
「分かってるっつの! でもよ、どうするんだよ? 正直言ってよ、このままぶつかっても良いんじゃねぇかって気分にはなってるぜ俺も」
「馬鹿なんじゃないの休ちゃん!? 何が敵になるのかってのを理解してよ! 敵は羌の連中じゃないんだよ!?」
「誰が馬鹿だっ!」
「……」

一刀への説明する時間も惜しいのか、蒲公英は途中で話の矛先を休へと向ける。
喧嘩腰になりつつある会話に、一刀はこのままでは要領を得られないと判断し耿鄙の部屋へと向かうことにした。
耿鄙に用意された部屋は一刀の部屋から程近い。
走り始めてすぐに、人だかりの出来た目的地へと到着する。
人ごみを掻き分けて、見えたのは布で隠されていただろうか顔の半分が晒された耿鄙。
やはり女性であったのか、と一刀はその整った顔を見て思い、僅かに胸が軋んだ。
そして、医者である華佗がその身を診ていた。
一刀は華佗の下まで近づくと、そっと耳元に口を寄せた。

「華佗、この人が……?」
「ああ……例の毒を多量に含んで死んでいた。 時間も経っている……」
「そんな……耿鄙さんが自殺するなんて……」
「くそっ、こんな事になるのなら、あの夜に俺が声をかけていればっ……」
「華佗……ん?」

そこで一刀は耿鄙の遺体の傍に、一枚の紙が落ちていることに気がついた。
自然と手が伸びて、用紙を裏返すと綺麗な字で何事か文面が書かれている。
読み始めると同時、一刀を呼ぶ声が聞こえて振り返った。
人の垣根からその身を跳躍して声をかけたのは、荀攸であった。
小柄で小さな腕を持ち上げて、必死に来るように身振りをしている。
一刀は嘆く華佗に一言声をかけその場を離れて、荀攸の呼ぶ方へ足を向けた。

「荀攸さん、耿鄙さんが……」
「ええ、先ほど知りました。 それよりもまずいです、予想外の事件が起きてしまいました」
「ああ、まさか耿鄙さんが自殺するなんて」
「違います、一刀様。 耿鄙殿ではありません」
「は?」

荀攸の言葉に、一刀は間の抜けた声を返してしまう。
着ている服は朝廷の身分を示す礼服の類の物であるし、ずっと顔を半分覆っていた布も見覚えのある布だ。
身長や髪型も、一刀が見て来た耿鄙の物と差異はない様に思える。

「耿鄙殿は顔の半分……恐らく火傷でしょう。 皮膚が爛れており、それを隠す為に布を宛がっていました」
「え? そうなのか?」
「此処に初めて来た時に、遠目から見たことがあります。 あの遺体は耿鄙殿ではありません」
「そうなのか……しかし、予想外ということは、何か他にあったのか?」
「それは馬超殿が……一刀様、その手に持っているのは?」

言われ、一刀は初めて自分が読もうと思っていた紙を持って荀攸と話していた事に気がついた。
荀攸に首を振って内容を見ていないことを告げて、改めて紙面を広げる。
飛び込んで来たのは端に押印された朝廷の命令を刺す印と朝廷の臣である董卓の名。
文面を追って読み終えると、一刀は額に手を当てて唸った。

「こ、これはまずい」
「あの、私にも貸して下さい」
「あ、ごめん……しかし、これは……」

一刀は荀攸へと紙を手渡す。
速読した荀攸も、読み終えると同時に口を手元に寄せて顔を若干青くさせた。
内容は、董卓から耿鄙へと命令の形で書き綴られているものだった。
要約すると、馬家を朝廷側に引き入れる事。
それが不可能ならば。

「っ、これは、いけませんね……」
「俺は董卓さんを知っている。 こんな謀略が出来るような人じゃない」
「しかし、押印された朝廷の印は本物です。 馬超殿はこれを?」
「見たようだよ。 俺の部屋の前で蒲公英……馬岱さんと馬休さんが焦って話をしていたんだ!」

不可能とあらば、使者殿自身の判断にて馬家の者を害し、脅威となり得る要因を排除せよ。
馬騰の倒れている今は、馬家を取り纏めている馬超の判断で馬家が動くということだ。
そこに個人的な想いの是非は存在しない。
馬超の行動一つが、どう言い繕おうとも覆せない馬家の方針になるということだ。
無論、馬騰が目を覚ませばまた違う話になってくるのだが、華佗の診断から考えればその可能性は低い。
当然、韓遂も彼女の容態は華佗から聞いていることだろう。
荀攸は寄せた手の爪を噛んで、小さな……
一刀が聞こえたのが偶然だと思えるほど、小さな舌打ちを一つした。

「荀攸さん、前に言ったこと……」
「待ってください、今考えてますから」
「い、今考えるって……」

邪険に扱われて、一刀は若干身を引いて再び紙面に視線を落とした。
馬岱と馬休の焦りが、今なら分かる。
こんな謀略、しかも自身の身内を害され、臆面もなく罠に陥れようと指示する物を見せ付けられて
正義感に篤いと言われる馬超が黙って居られるはずがない。
耿鄙を追い出したのも、全ては耿鄙の身代わりを立てて馬家を動かす為。
馬超が軍を起こせば、馬家には大きな波紋を呼ぶだろうが、この時勢に際して反旗を翻す事はそれほど変な事ではない。
少なくとも武威の地に住む民は馬家の方針に首を傾げることはそう無いだろう。

『……あれ、韓遂は何処だ?』
『そういえば、姿が見えないな』
『翠……くそっ、なんとかならないのかっ!?』
『なんとかと……言われても』

一刀は脳内の言葉に周囲を見回したが、確かに韓遂の姿は見えなかった。
偽者かと思われる耿鄙の遺体に一度だけ視線を向けて、一刀は顔を顰めた。
彼女の偽者にされたあの女性も、きっと韓遂の手にかかって死んだのだろう。
ふつふつと、一刀の腹の底に良い様の無い怒りが生まれてくるのを感じる。

この地は平和だった。
黄巾の乱の被害も多少はあるし、辺境故の異民族の問題もある。
内政のお手伝いをしていた一刀には内部にも多少問題があることが書類上から分かったが、それでも平和だったと言えよう。
何より、友人だと互いに認め合っている筈の馬騰の家……馬家まで巻き込むことに躊躇いが無い。
悪戯に乱に巻き込むだけ巻き込んで、実際に起これば彼女の姿は消えている。

「……むかつく」

彼女は言った。
牢の中で、自分は友情には篤いのだと。
馬騰を利用することを疑われる事が、心外であると。
今となっては薄っぺらいその言葉に、一刀は謝罪をした。
その謝った自分にすらいらつきを覚えずには居られない。
一時は王朝から利用されるだけ利用され、追い出されたという部分で共通する韓遂に共感を覚えた。
しかし、どれだけの無念が在ったとしても、多くの人間の命を天秤に復讐することなど許される訳が無い。
そうだ。
確かに一刀は韓遂の思惑を知らない。
王朝への復讐という推測すら、一刀自身の勝手な思い込みに過ぎないし、これが一番韓遂の行動に納得が行くだけである。
一つ言えることは、韓遂と自分は違うという事だけ。
漢王朝の息を吹き返す為に生きる一刀と悪戯に騒乱を巻き起こす彼女は、北郷一刀の敵だ。

「聞けっ! 我が馬家と共に在る者達よ!」

未だ騒乱止まぬ耿鄙の部屋の前にまで、馬超の物だろう声が聞こえてきた。
一刀は顔をあげて、声のする方向へ足を向ける。
殆どの人間が、馬超の声に気がつき、振り向き、足を止めた。

「我が母が倒れ、苦慮する中、卑劣な謀略に我が親族の鉄は倒れた!
 それは、王朝を信じて仕えてきた私達をあざ笑うかのような朝廷の裏切りによってだ!
 度重なる異民族との戦いに、大きな血を流してきた我らに中央は何をしてくれた!
 黄巾の乱を押さえ、涙を抑えて民を斬った我らに、何をしてくれたのだ!
 この期に及んで、泣き寝入る事なんて私には出来ない!」

中庭で、馬超が十文字槍「銀閃」をその手に持ち、城内で働く全ての人間に語りかける。
この場に居る全ての人間は、馬超の決意とも言える内容に察しがついたことだろう。
中庭で武器を掲げ、覚悟の決まった表情で熱演する馬超の意思は固い。
一刀は最後まで聞くこともせず、馬超のすぐ横に控え口元を袖で隠す韓遂を尻目に踵を返した。
馬超の宣言を、その背に受けながら。

「聞けば朝廷は帝が倒れ、その内部は混乱し、何進大将軍を初めとして権力者が好き勝手に行動していると言うではないか!
 そんな権力だけを傘に勝手な行動を起こす輩に、我々が付き合う必要は無い!
 更に! 我が領内に董卓軍が今! 進軍しているという報告が上がっている! 
 武器を取れ! 槍を掲げよ! 中央が蔑ろにし、我らに突き立てようとする牙がどれほど高い物になるかを思い知らせるのだ!」

その一刀が立ち去る姿を荀攸は気付いて見送った。

「皆よ、真の正義の為に立ち上がれ! 我が槍こそが正義だっ!」

馬超の天に向けて掲げた十文字槍「銀閃」が、陽に反射して煌いた。


      ■


翌日夕刻。
気炎の上がる馬軍は、異民族との戦闘を繰り返し精強な兵を迅速に纏め、反乱軍の増援として出陣。
反乱を率いる辺章へと韓遂を使者として送り出し、その陣容には馬超、馬岱、馬休の姿があり、約2万の兵を率いての出兵であった。
向う先は領内に進軍する敵―――辺章を追撃する官軍・董卓軍だ。
その堂々たる“賊軍”の出陣に拍手を送る。

「格好良いねぇ。 精強なる馬超軍の誕生だ。 はっははぁ、めでたいじゃあないかっ」

その威容を見て、馬上で手を叩く“使者”の韓遂は満足そうに笑った。
余計な要素であった天代の頭は抑えた。
馬家を引き込む事にも成功した。
辺章の率いる反乱軍そのものを囮にした、誘引をうまく行っているようだ。
追撃を行う官軍への奇襲に馬超軍は都合が良い。
そのまま官軍へ西涼反乱に馬家が参軍したことを喧伝してもらおうではないか。

「さぁて、これからが本番だね。 辺章に頑張ってもらうかね」

馬首を返し、韓遂は荒野を走った。
自身の目的に大きな前進を見せたことに、上機嫌となりながら。


―――・


そして、静かに韓遂へ怒りを見せる一刀はその頃、馬房に居た。
その馬格は雄大。
鬣は金色。
付けられた価値は、袁家換算で大きめの屋敷5つ分の一刀の相棒。

「金獅……久しぶりだな」
「ブルルッ」

首筋に手をかけて、嘶く金獅を優しく撫でる。

『本体、良いのか』
「何を今更……追撃しているのが張遼さんと恋だろ?」
『追撃の兵数よりも、将が問題だよね』
『まったくだ』

幸いというか。
韓遂が戦の準備に腐心してくれたおかげで、荀攸とはみっちり話が出来た。
賭けが過ぎる、と荀攸は予想外の馬超の出陣も合わせて不満を抱いていたが
とりあえずは馬超が反乱に加わったのも踏まえて韓遂の思惑を逆手に取る策は練りあがった。
まぁ、彼女が不満を抱くくらいに分の悪い賭け事になったのは、馬超を韓遂の描いた謀略の手から救い出したいという
一刀の―――特に“馬の”と悪役に仕立てられた董卓の為“董の”がわがままを言ったせいでもあるのだが。
何にせよ、一刀はすでに一枚の手紙というサイコロを振ってしまっている。
本体が言うように、良いのかどうかなど聞くには今更過ぎたし何よりも。

「耿鄙さんのような人は出したくない……彼女はただの被害者だ」
『……本体』
『そう、だな』

一刀は金獅を馬房から出し、腰に修繕を施した†十二刃音鳴・改†を差してその背に跨った。
一刀の意思が伝わっているのか。
背に跨った瞬間から、金獅の顔つきも心なしか変化する。

「笑ってるだろうな、今頃」
『だろうな』
『全部うまく行ってて愉快だろうしね』
「はは……良し、金獅行こう」

トン、と足で金獅の腹を叩く。
馬房からゆっくりと出て、一刀は金獅と共にたった一人で武威の街を出て荒野に飛び出した。

「笑ってればいいさ」

砂煙をあげて走る金獅の背で、そう呟いて。


      ■ 外史終了 ■



[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編7
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/01/31 22:06

clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編5~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編6~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編7~☆☆☆





      ■ はためく旗は

郿城での防衛に成功した官軍はその勢いのまま、反乱軍への追撃に移った。
平野部の多いこの土地では、視界が広く、追撃を受ける部隊が大きければ大きいほど将兵の目を避けて逃げ切ることは難しくなる。
事実、張遼は一昼夜を過ぎても反乱軍の尻尾を掴まえ続けていた。
ここで張遼は追撃を続けるか否か頭を悩ませる。
既に部隊は安定(アンテイ)を過ぎて武威に入ろうかというところまで進めている。
これ以上奥に向えば、漢王朝に席を置く諸侯の一人―――西涼反乱に加担していない馬騰の領内に入ってしまう。
そもそも、此処に来るまでに追撃としての役割はすでに十分以上に果たしていると言えた。
 
「そろそろ引き上げ時なんやけどな」

張遼は馬上で武器を肩で担ぎ、面倒そうに呟いた。
敵の機動力に追いつく為に馬を使用しているとはいえ、郿城の防衛から続く追撃戦で、将兵は少なからず疲労しているのは間違いない。
糧食にも限りはあるし、敵部隊の戦力もしっかりと削いでいる。
張遼が言う様に、撤退するべきであろう。
ただ、何故撤退しないかと言うと、部隊の先陣を進む天下無双のせいであった。
その背中を張遼はじっと見つめる。

呂奉先。
洛陽で起きた黄巾の戦の折に、兵3000を従えて潼関で立ち上がった黄巾兵3万余を一夜で壊滅に追い込んだと言われ
個人の持つ武においては他の追随を許さない、まさしく天に愛された武を誇る。
張遼が董卓の下に仕官を申し出たのは、彼女の存在が大きかった。
自らの武勇に自信が在ったからこそ、天武と呼ばれる呂布に挑戦をしたかったのだ。
結果は、完膚なきまでの敗北だった。
研鑽を積んできた武技は悉く躱され、呂布の一撃を受け止めるたびに手足は痺れた。
一撃を当てる事も無く空を見上げることになるとは、世界は広い物だと敗北の後に笑いまで突いて出た。
自身は砕かれ、慢心は消え、そして憧れた。
強くなりたい。
子供の頃に強く願ったこの想いを年を経てもう一度抱く事になるとは。

「ま、いつか追いついて見せるで。 まずは一撃当てるとこからやな」

偉く低い、そしてやたらと高い目標だと馬上で一人苦笑していると、斥候の一人が戻ってきたようで張遼の耳元に口を寄せた。

「張将軍」
「ん? どした」
「反乱軍の姿が消えました」
「あ?」

思考が脱線していたことを、張遼はその報告を受け取って気がついた。
間の抜けた相槌を返して、張遼は先を行く呂布の下へと馬を走らせる。
人の垣根に埋もれた荒野が、その視界に広がると確かに報告の通りだ。
張遼は片手を挙げて全軍の停止を命令すると、首だけで振り向いて呂布へと問う。

「なぁ恋、敵はどこいった?」
「わからない。 気配も無くなった」
「ん……そうみたいやな」

呂布の感覚も、自分の感覚も周囲に敵の気配が無い事をしっかりと告げている。
それほど熱心に追っていたという訳でもないが、さりとて見落とすほど不真面目であった訳でもない。
と、なれば夜の間に距離を離されたと見るのが妥当なところであろう。
こうして呂布が先陣を切っていたのは圧倒的な武を持っていることもあるが
常人とは比較にならない程、視野が広く気配の探知に長けていたからでもある。
そんな彼女が居なくなったというのなら、張遼もその事実は素直に受け入れられた。
まぁ、呂布が先陣を切っていたのは他にも理由はあるのだが。

「完全に見失ってもうたな~、恋。 しゃあない、郿城に戻ろか」
「……残念、一刀居なかった」

そう、"天"の旗を郿城の防衛時に目撃したせいで、呂布はこの追撃に積極的だったのである。
呂布もまた、あの旗印には興味を抱いたが実際にぶつかってはおらず、一刀が居るのかどうかは判らなかった。

「せやけど、恋。 もしも一刀が居たらどうするんや」
「ん……?」
「あの天の旗に一刀がおったとして、恋はどうするのか聞いとんの」

そうだ。
あの旗の下に一刀が居るとなれば、それは官軍の敵として反乱軍に参加したということになる。
大まかな事情を知る張遼は、一刀が漢王朝への反乱に加担しても不思議なことではないと思っている。
だから、覚悟が出来ている。
反乱軍の将を斬る覚悟が。
だが、目の前で首を傾げる少女はどうだ。
董卓軍に身を寄せた経緯を直接聞いた張遼は、彼女が一刀を追って洛陽を飛び出したことも知っている。

「一刀が……居たら?」
「……」

個人の事情も、その想いも断片的に知ってはいる。
が、寝返るのならば話は別だ。
敵とあらば斬り結ぶ。
そんな意志を込めて、張遼は呂布に真剣な表情と感情を向けていた。
敵意と勘違いしそうなくらい、鋭い視線を受けた呂布はいたって平然と答えを返した。

「一刀に聞く」

その返答に、張遼は馬上ですっ転びそうになった。
この問答の根底は、呂布の歩む道を聞いているに近い物である。
そんな人生に於いて大きく今後を左右するような選択肢を、呂布は北郷一刀という人間に丸投げしてしまっているのだ。

「霞、へいき?」
「いや……うん、まぁ恋らしくてええんちゃうかな」
「……?」
「あ~、気にせんといて忘れてええよ。 とりあえず、追撃しようにも敵がおらへんなら仕様がないやろ」
「分かった」

張遼の言葉に頷くなり、呂布は馬首を180度返して帰路へ向かう。
突然、方向を変えたことで周囲で待機をしていた騎馬兵が慌てて道をあけて微妙に混乱を巻き起こしていた。
張遼は部下に手振りだけで混乱を収めるよう指示してから、一つ大きな溜息を吐き出した。
行動が迅速なのは結構だが、勝手に動かれるのも困り物である。
呂布に着いて行くことが出来る兵は、限られることだろう。
戦場であるならば尚更だ。
張遼もまた、呂布へと続いて馬首を返そうとした時。
首筋に走る寒気のような感覚に動きを止めた。
視線を返して広がる荒野へと振り返る。

ちょうど、傾斜の関係で隠れていたのだろう。
小高い丘のような場所に、行軍をする部隊を張遼はハッキリと見ることになった。
部隊の規模は少なくても万を越え、統率の取れた動きから賊の類でないことが見て取れる。
はためく旗には"馬"の文字。
武威国境に差し掛かっているとはいえ、こんな場所にまで一体なんの用事で軍を進めているのか。
このままかち合えば、董卓の軍がどうして武威にまで姿を見せているのか問われる事だろう。
立場上、中立である馬騰の軍が攻撃をしてくるとは思えないが、馬家の心象は悪くなる可能性はある。
そうなると、失態を働いたとして董卓……というよりは賈駆に怒られるかも知れない。

「あちゃー……反乱軍に一杯食わされた?」
「霞」
「おわっ、恋、いきなり話かけんといて、って……恋?」
「……」

先に向かったはずの呂布が、何時の間にか隣に馬を合わせて馬騰軍を厳しい目で見つめていた。
その横顔に、張遼は僅かに眉を寄せて呂布の見る馬騰軍へと視線を移す。
呂布の部隊、張遼の部隊を合わせて5000の兵がこの場所には存在する。
これだけの規模になれば、将でなくとも気付くことになるだろう。
馬騰軍は進路を僅かに変えて、こちらへと向かってきていた。

「……警戒だけはしとこか」

先ほど、攻撃するとは思えないと考えたが、馬騰がトチ狂って反乱軍に加担する可能性はあるかも知れないと改め直す。
張遼も涼州の出身だ。
血の気の多さは何処よりも高いと、胸を張って言えるほど涼州の人間は喧嘩っ早い。
例外は当然あるが、概ねそうだと言えてしまうのが実情である。
なにより、隣に佇む呂布の天性の勘が、張遼への警戒を引き上げさせるに至った。
部隊に指示を出して、迎撃陣を整えると張遼と呂布の二人だけで陣頭に立つ。
約3里ほどの距離で行軍を停止させ、同じように陣頭へと躍り出たのは頭をてっぺんで結び、長い茶色の髪を揺らす馬超。
その後ろを複雑な表情で付き従う馬岱の姿であった。


      ■ 『馬』旗


ちょうどその頃。
郿城の戦後処理に追われていた賈駆は、武威にまで足を伸ばしそうだと言う張遼の送った兵を下がらせて
追撃中止の命を出し、誤解の無いように馬家へと事の経緯を書き添えた書簡を持たせて、使者を出していた。
長安から安定を一直線に突っ切って逃げた反乱軍の、薄っぺらい思惑が透けて見えるというものだ。
ここ涼州において王朝に反乱を起こしていない馬家を、なし崩し的に巻き込もうというつもりなのだろう。
だが、反乱軍の目論みは甘いと言わざるを得ないだろう。
そんな間違いを起こすほど耄碌していると思われているのだろうか。
賈駆は指を眉間に当てて、僅かに眼鏡の位置を直しながら溜息染みた物を吐き出した。

「だとすれば、これは私への侮蔑だわ」

そもそも、馬家には中央からの正式な使者が赴いているはずである。
よほど馬騰が狂った判断をしない限り、官軍に矛を向けることなど在りえない。
確かに、中央は混乱している。
天代である一刀の追放から始まって、帝の死、決まらぬ後継、各地の反乱。
あれも、これも、物事一つを決めるのに間誤付く有様だ。
漢王朝が抱える問題は多く、解決を迎えるには数年、下手を打てば数十年に渡って向き合わなければならないが
何も手を打たずに見ているだけではないのだ。
出来ることから手をつけている人たちが、大勢いる。
その中には、反乱軍の侵攻を堅牢な郿城にて打ち破る董卓軍も含まれているし、馬騰へ使者を送った何進も入るだろう。

「ご報告いたします!」

武威に勤める文官が見れば、見惚れて眺めてしまうような手さばきで竹簡の山を崩していた賈駆の下に
一人の兵があわくって走りこんできた。
俯きながら視線だけで賈駆は兵の様子を流し見て、兵を落ち着かせるように一拍置いてから問い質した。
見て分かったが、見慣れぬ兵装をしている者が一人、報告に来た兵の中に混ざっていた。

「なに?」
「は! この者から教えられたのですが……」
「その、失礼致します。 私は張魯様の命によって天水付近を斥候していた者です」
「それで?」
「馬の旗と、天の旗を翻す軍勢が、長安に向けて進路を取っているのを確認したのです」
「……」

そこでようやく、賈駆は書簡に落としていた視線を上げて報告の兵に鋭い目を向けた。
一瞬、ビクリと震えた張魯の兵は、他軍に混じって緊張しているのか目を泳がせた。
驚かせるつもりはなかったが、予想以上に表情が険しくなっていたらしい。
若干、罪悪感を抱きつつ視線を外し、賈駆は一つ頷いた。
涼州の大規模な軍勢から長安を守る為に、董卓軍は郿城の防衛に全力を傾けている。
中央から応援として派遣された皇甫嵩も同様だ。
その兵数は、反乱軍の数には劣るものの5万という大きな規模である。
郿城を主戦場として選び、防衛に力を割いているのも理由がある。
ここを抜かれれば、自然の要害として機能する黄河の恩恵が失われるからだ。
黄河が敵の主力である騎馬の機動力を削いでくれる事実は大きい。
架かる数多の橋を落とし、郿城に繋がる橋だけを残してあるのもそういった理由からである。

この堅牢な郿城を迂回するには、陸続きとはいえ険しい山間を越えなければならない天水か
黄河に繋がる支流を渡河し、より洛陽に近い潼関付近に兵を寄せるしかない。
そして、このどちらかを選ぶのならば、まともな頭を持つ人間なら天水しかないのだ。
洛陽に兵を寄せるのは渡河の危険もさることながら、洛陽と長安の軍勢に挟撃されること。
洛陽・長安のどちらを落とすにしても関所が多く、短期決戦に持ち込めないことが挙げられる。
ヤケッパチになった死兵ならばこちらを取るかもしれないが、まず無いと言って良いだろう。

董卓軍として不安となる場所は天水だけだ。
中央から皇甫嵩を筆頭に援軍が送られてきたとはいえ、多方面に展開できるほど董卓軍に兵は居ない。
予備兵まで入れて3万。 官軍合わせてようやく5万を超えるくらいだ。
一方で、相手は7万を越す軍勢であり山越えのリスクが在っても天水から攻め上る可能性は高いと言える。
官軍が打った手は、ゴットヴェイドーの祖と呼ばれ善政を敷く漢中の張魯に兵を出してもらう事であった。

「旗印は馬ということだけど、それは間違いないのね?」
「はい。 自分のほかにも10数名同じ証言をしております」
「追撃を行わせたのはこれが狙い? なんだか違和感が残るわね……距離は?」
「この郿城までならば約3日……長安ならば急いで5日と言ったところでございます」
「3日ですって!?」

兵の報告に賈駆は顎に手をやって立ち上がった。
裏で馬騰が反乱軍と結託していたのならば、この話には筋が通る。
だが、それならば武威にまで張遼と呂布を誘引したのは何故だ。
3日という近距離にまで詰められたのも驚愕の一言だが、旗の中に"馬"の文字が翻っているのも引っかかる。

「ちっ、やられたわね」
「考えているところすまんな、邪魔をするぞ」
「皇甫嵩殿」

新たな来客者は数人の兵を連れた皇甫嵩であった。
何時もながら気難しい顔をしている。
今は賈駆も、皇甫嵩に負けず劣らず気難しい顔をしているのだが、そんな場違いな感想を想いつつ、肩を竦めて尋ねた。

「それで、そっちはどんな報告を受け取ったのです?」
「たった今、斥候から辺章軍が取って返してきたという報告を受け取った。
 追撃を受けているはずの辺章が、何故か近辺に潜んでいたようでな」
「……なんですって? 霞達が追っていたのは別の部隊だったってこと?」
「呂布殿や張遼殿が釣られたとも思いにくいが、実際に居るのだからそうなのだろう」
「規模は?」
「約4万前後。 今までに比べれば数は少ない。
 それとな、余り嬉しくない話になるが旗の中には"馬"旗と例の"天"旗が翻っていたそうだ」

はぁ?
そんな声を大声で皇甫嵩に返しそうになって、賈駆は慌てて言葉を飲み込んだ。
自身の胸を叩いて、衝動を押さえ込む賈駆に皇甫嵩は怪訝な視線を向けてきたが
今は奇異の視線に晒されることよりも、旗の意味を考えるべきだった。

「こっちは天水を見張っていた張魯殿の兵からの報告を今受け取っていたのよ。 
 反乱軍と思わしき軍勢が"馬"旗と"天"旗を翻して攻め上がって来ているって」
「なんだと? ふむ……」
「妙でしょ?」
「確かに、旗はこちらを混乱させる為の虚偽かもしれんな」
「可能性としては一つよね。 中立……いえ、むしろ漢王朝側に立っていた馬家が加わることは、兵にも与える動揺が大きいわ。
 それに……」

言葉こそ発さなかったが、皇甫嵩は賈駆の言いたい事を把握できた。
陣中に虚仮の旗を借りるとなれば、馬家は黙っていられないはずである。
天代に関しても同様だ。
未だ民の間では、天の御使いは漢王朝に立っていると認識されている。
中央から兵馬を連れてきた皇甫嵩の部隊は勿論の事、董卓軍の兵も例外ではない。
そして、黙っていられないはずの馬家に動きが無いのは未だこの事実を知らないせいか、それとも。

「……」
「……」

賈駆も皇甫嵩も、どちらもそのまま黙してしまった。
周囲に居た兵達は、いきなり黙り込んでしまった両将に困惑を隠しきれず互いに顔を見合わせる。
追撃を受けていた辺章が何故か郿城にとって返してきている。
張遼も呂布も、安定の端……馬家の収める武威にまで辺章を追って足を伸ばしたというのにだ。
そして天水から山を越えて現れた"馬"の旗。

二人が黙ってしまったのは、決まった訳ではないといえ、馬家と天代が反乱軍に加わったか、或いは大いに巻き込まれた事実に気が付いたからである。
巻き込まれたのならばまだ良い。
事実を教えて馬家に、反乱軍鎮圧の手伝いをして貰えるのだから、防衛に成功すれば勝つ未来が見えてくる。
しかし、馬家が反乱軍と結託したのならば。
賈駆も皇甫嵩も、この件には迂闊に口を挟めなくなったのだ。
この場でその事実を話してしまえば、兵達の間に伝わり、動揺を巻き起こす可能性がある。
お互いに視線を合わせて僅かに頷く。
ただでさえ兵数で劣っているのに、士気まで下げる訳にはいかないのだ。

「どちらにせよ、敵の狙いは長安だな」
「ええ、郿城に篭るようなら天水からの敵部隊が長安に直接向かうつもりなんでしょうね。
 でも、恐らくこれは見せかけ……本命は郿城のはず。
 引っ張り出したいのは此処で防衛している兵に違いないわ」
「しかし、長安に2万の兵を迎え撃てるだけの準備はないぞ」
「かといって郿城を捨てれば、追撃に出た将兵は孤立することになる」

そうだ。
郿城を落とされれば長安と安定を繋ぐ道はなくなってしまう。
涼州反乱の大規模な軍勢に対抗するために、自ら道を捨てたのだ。
先に挙げた天水へ迂回するか、渡河をして潼関に出るか、その二つの道しか無くなるのだ。
郿城に篭れば長安が、郿城を捨てれば将兵を失う可能性と今後の戦が厳しくなる。

「郿城は捨てられないわよ。 コイツを敵に与えれば、今度は黄河が私たちの敵になる」
「張魯殿の軍は当てに出来ないか?」
「敵の距離が近すぎるわ。 打診はするけど当てには出来ないわね」
「くそ、長安も当然捨てることは出来ん。 寡兵で守るしかないのか」

皇甫嵩は唸り、賈駆の使っていた机を掌で叩いた。
洛陽で起きた黄巾の乱からこっち、常に大軍を相手にしてきた皇甫嵩である。
どうせ戦う事になるなら、たまには兵法の基本である兵数で上回る戦をしたい。
そんな愚痴が口をついて出てしまいそうだった。

そんな皇甫嵩に、賈駆は振り上げた手を途中で引っ込めることになった。
彼が叩かなければ、彼女が机を叩いていたところであったのだ。
白状すれば、見事に嵌められたと言う外無い。
前回と同様に、力押しだけで郿城を攻めた辺章にしてやられた。
挟撃の可能性は当然考慮していたし、張魯という保険も打ってあった。
実際、この件について賈駆はミスらしいミスなどしていない。
兵法にもある『天を欺いて海を渡りにくる』可能性も考慮した上での布陣だったはずだ。
挟撃をされるとしても、もっと早い段階で気付けたはずであったのだ。
ここで賈駆はふと気付く。
振り上げたまま行き場の無かった手は、一人の兵へと向かった。

「ちょっといい? 質問するけど、天水から攻め上った反乱軍の規模は大きいのよね」
「え? は、はい。 大よそ2万程の規模でございました」

この答えに賈駆は確信に至る。

「そう。 2万の規模ね。 それだけの大軍ならば道中はそれなりに時間がかかるわ。 
 陳倉を超える山越えならば、余計にね。
 報告の兵は貴方一人みたいだけど、それで得られた時間が3日間というのはどういうことかしら」
「そ、それは……」
「っ、反乱軍の偽兵か!」

皇甫嵩の声に、周囲の兵の視線が張魯の兵装に身を包む男に注がれる。
賈駆の言う通り、山を越える2万の兵馬を目撃し、報告に一人だけで馬を走らせるだけならば
稼げた距離が3日という数字にはならないはずだった。
規模が大きければ大きいほど、その動きは鈍重になるのだから。
一気に顔を青くさせた男は、殆ど時を置かずして踵を返し、手近に居た兵を突き飛ばして逃げ出した。
皇甫嵩が拿捕するように叫び、兵士が室内から飛び出していく喧騒の中で、賈駆は目を閉じて天井を見上げた。
張魯軍はおそらく、天水から来た反乱軍の部隊と交戦し敗れたのだろう。
恐らく、郿城が妙にやる気の無い辺章軍とぶち当たっている時だ。
辺章や韓遂に軍師は居ない。
前回の戦の時に、力押しばかりであった事も重なってそう思っていたが、何処かで知者を手に入れていたらしい。

「天代かもしれぬな……」

何時の間にか隣に立っていた皇甫嵩の声に、賈駆は僅かに頷いた。
長安で待つ主、董卓が天代に心を開いていることを知る賈駆は、胸にこみ上げるイラつきを振り払うように頭を振る。
天代に関してはまだ、確定的な報告は上がっていない。
今は、存在の知れぬ天代よりも現状に対処する方が先決だ。
賈駆は自分に言い聞かせるように胸中で呟くと、ドカリと椅子へと座り思考を切り替えた。
皇甫嵩は長安には防衛の準備が出来ていないと言ったが、兵がまったく残っていない訳ではない。
5千ほどの兵は残されている。
が、長安の安全の為には、郿城から出兵させざるを得ないだろう。
2万の兵馬、その上盾のない野戦となれば一万以上は割かねばなるまい。

「仕方ないわね。 皇甫嵩殿」
「分かった、長安の防衛に向かおう。 郿城は任せる」
「……相手は騎馬が主力よ。 木や杭をこっちで作って運ばせるから」
「ありがたい。 なに、即席で作る陣の敷設は洛陽で慣れた。 長安は任せてくれ」
「頼もしいわね」

そうして踵を返した皇甫嵩は、走りこむ兵の姿を視界に収めることになる。
息を荒げる兵に皇甫嵩は眉根を寄せて皺を作り、賈駆は腰に手を当てて溜息を吐き出した。
悪いことは積み重なるものである事を、残念な事に二人は良く知っていたのだ。

「ほ、報告いたします!」
「今度はなんだ?」
「あまり聞きたくはないけど、そういうわけにもいかないでしょ」
「確かに。 良し、話せ」

手首を返して皇甫嵩が促すと、兵は息を整えてよく聞こえる声で話した。

「ら、洛陽から孫堅様の援軍が長安に到着いたしました!」

その報告は、賈駆と皇甫嵩の顔色を明るくするのに十分足りえた。
何進の思惑は、偶然とはいえ郿城を救い得る光になった瞬間だった。


      ■ 免れない激突


視界に広がるのは数多の兵。
そして、董卓軍を示す軍旗と二人の女性だった。

「董卓軍の者だな」
「そういうあんたは、馬騰軍やね」
「あたしは馬超」
「……うちは張遼。 隣のは呂布や」
「えっと、あたしは……えーっと……馬岱」

名乗り合い―――半ば蒲公英は無視をされていたが―――馬超は僅かに視線をそらして呂布を見た。
こちらをじっとりと見つめる視線が鬱陶しかった。
この出兵。
馬超は自身の気持ちに素直になった結果だ。
確かに、漢王朝に属し涼州で起きた反乱に対して馬家は中立として動かなかった。
それは事実だ。
官軍からしてみれば、反乱という大事に動かぬ馬家は何を考えているのか不気味に映ったことだろう。
だが、馬家からしてみればそれは勝手な言い分だった。
洛陽から起きた黄巾の乱は、遠く僻地である武威の地にも波紋は広がっていたのだ。
同時、漢王朝へと相次ぐ異民族からの侵攻を防いできたのも、馬家である。
とうぜん、馬家だけで全てを防いできたわけではないが、涼州の豪族や氏族、商人の協力で異民族からの侵攻を防いできた。
対して、漢王朝は何をしてくれたかというと、稀に寄越す使者から『有難い御言葉』を頂戴するだけである。
少なくとも、戦に関して有り難味を感じるような事は一切してくれなかった。
その上で税収は上がるわ、中央の厄介ごとを武威の地にまで広げるわ、感謝をすることなど皆無と言って良い。

馬上で握る武器が、軋みを挙げた。

そんな事情を抱える中、母である馬騰が倒れた。
これは、まぁ良い。
良くはないが、実際に馬騰が倒れてから馬家の舵を取った馬超には、母の苦労が身に染みて分かった。
倒れてしまったのは間違いなく、自身も余り気にしていなかった内政のツケであり
馬騰が病に倒れてしまったのは馬超を含めた部下の者全員に少なからず責任がある。
しかし、同じ親族である馬鉄は違う!
これだ!
馬超がどうしても……そう、一刀を誘って気晴らしに武を奮ったのも、全ては鉄が中央の!
それも寄りによって、今まで漢王朝に尽くしてきた馬家を切り捨てるかのように使者を持って毒殺を企んだ事なのだ!

「……そうか、董卓軍か」
「なんや?」
「一つ聞く。 畜生にも似た行為を平然と行い、戦うのが董卓軍のやり方か!」
「畜生? ややこしぃ事にならへん内に言っておくけどな、うちらは涼州の反乱軍を追撃しとったんや。
 これから長安に戻るとこなん、他意があって武威に進入した訳や無い」
「どうだか。 使者に毒を持たして将兵を殺そうとするくらいだ。 言い訳を並べ立てて襲ってきても不思議じゃない」
「あんな。 自分さっきから何言ってるかさっぱりやで?」
「ふん、本当に知らないみたいだな。 董卓は部下にも知らせず謀略を仕掛ける外道か」

馬超の、攻撃的な言葉に反応をしたのは呂布であった。
一歩だけ馬を前に歩かせて、方天画戟を馬超へと向ける。

「月は良い子」
「? 真名か? あたしに取ったら董卓は敵だ」

言い切った馬超に、今度は張遼が呂布を抑えるように飛龍偃月刀を振った。
自らの仕える主を敵と断言されたのだ。
馬超は今、張遼の敵となったに等しい。
それは漢王朝に仕えているとか、使者がどうだとかは関係がなくなった瞬間でもある。

「つまり、なんや。 万を超える規模の軍勢を引き連れて、武威から出るっちゅうのは、うちらと戦るからかい」
「馬鹿なのかお前は。 今言ったばかりだろう」
「どっちが馬鹿やねん。 うちらと現状で敵対するってことが如何いう事なのか分かっておらんのはそっちやろ」

その通りなのだ。
馬超がどういう思惑で『董卓軍』に敵対するのか、何かしらの事情はありそうだが
現時点でぶつかればそれは、反乱軍に加担することを意味している。
どんな理由かは知らない。
知らないが、軍勢でぶつかり合うということは民を巻き込む事に直結するのだ。
張遼としては反乱軍との戦を抱えてる現状で、馬家とまで敵対するのは避けたかった。
仕える主君を馬鹿にされても、それだけの冷静さは何とか保っていたのである。

一方、馬超も母が倒れて政務を執っていたのだから、自身のこの決定が武威に住む多くの民を巻き込むことは承知していた。
あの時、城中でぶちまけた不満は、馬家の中だけの問題ではないのだ。
何もしてくれない中央を武威に住む民たちはしっかりと見ている。
誰のおかげで生きる事ができたのか。
誰のおかげで守られているのか。
誰が、安寧を与えてくれるのか。
武威に住む民はそれが漢王朝ではなく、馬家であることに気がついていた。
だから、この決定には多くの衝撃はあれど、馬超に従軍しているのである。

「蒲公英」

馬超の声に、蒲公英は一度顔を見返してから、懐に手を突っ込んだ。
そして広がる、一枚の紙片。
耿鄙の持っていた董卓からの命令で毒殺を指示していた、公文書であった。

そしてその内容は、相対する張遼と呂布の目にもしっかりと把握できた。
彼女達に見えるということは、後ろに控える兵もまた然りだ。

「―――あほかっ! こんなん月が指示するはず無いやろ!」
「字が違う」

ざわり、と董卓軍兵士にどよめきが広がった直後、張遼は舌打ちを一つ。
共に繰り出した否定にしかし、馬超は笑った。
確かに目の前の二人が言う様に違うかもしれない。
本当は董卓ではなく、もっと上……そう、大将軍の何進などが董卓に指示を出した結果、耿鄙に役目が与えられたのかもしれない。
だが、そうだとして、何だ?
漢王朝に仕えて来た馬家が、反乱軍との争いを母が倒れ静観していただけで、戦わないのならば毒殺しろと指示したのは変わらないのだ。

「分かったか、あたしは、あたし達は正義の為に槍を取った。
 言い方を変えれば、中央の身勝手にはこれ以上は付き合いきれないって奴だ」
「ああ、良く分かったで。 涼州の雄馬超は、救いようの無いアホンダラって事が」
「はっ、やっぱ話すだけ無駄だってんだ、槍を!」

馬超は、自らの十文字槍を天高く掲げた。
それは合図だ。
避けられぬ激突の時が、来たことを告げる明確な合図。
馬超と馬岱の背後に控える、2万余に及ぶ精強な軍が一糸乱れぬ動きで矛先を張遼達に向けた。

一部始終を見守っていた董卓軍5千は、敵軍となった馬超軍の動きに敏感に反応し、動揺しながらも穂先を馬超達に向ける。

「我が馬の旗に集う精強なる軍よ! 私の槍について来い! 蒲公英!」
「ん~~~もぉぉぉぉぉ~~~、分かったよぉ! 熱血なんて柄じゃないのに!」

「撤退や! 数が違う、とっとと反転しぃ!」

疲れを知らず、度重なる異民族との激突を経て精強な馬超軍2万。
対して、郿城の防衛に参加し、そのまま追撃をして安定を突っ切ってきた董卓軍5千。
将の実力として云々以前に、戦として成立しない数差と士気。
特に、馬岱に見せられた公文書を広げられたのは致命的だ。
董卓軍とて、黄巾の乱と涼州の反乱での戦の経験がある。
戦いに明け暮れていたというのならば、相手が違うだけで大差などないだろう。
しかし、物証として公文書を見せ付けられ、非は董卓軍にあるのではないかという思いを少なからず抱いた影響は大きい。

張遼は、全滅したくなければ逃げるより他、取れる選択肢がなくなったのである。

「逃がすかぁ!」
「っ!」

『神速』と謳われる張遼の馬捌きに、しかし、馬超は追いついた。
馬の差でも、馬上の手綱捌きの差でもない。
ここは馬超の住む土地で、馬超の馬はこの武威の地を走りなれていた。
ただ、それだけの差だった。
馬同士の腿が接触し、袷馬のように顔を付き合わせる。
体ごと打ち当てるように接近した馬超に、張遼の速度はガクリと下がった。

「ぅだらっしゃあぁぁぁぁっっ!」
「舐めんなや、ボケがっ!」

掬い上げるような馬超の銀閃。
振り落とした飛龍偃月刀。
硬い金属の音が馬蹄の響く中、甲高く鳴り響き、刃先に青と赤の火花を散らした。

「霞っ」
「恋、先行きぃ! 兵を逃がせぇ!」
「余所見する余裕があんのかよっ!」
「ちぃっ!」
「っ……分かったっ」

馬首を僅かに下げて、致死の一閃を皮一枚で避ける。
鋭い。
土地勘も向こうが良い。
これを相手取って逃げるのはしんどいと言う他無いだろう。
それでも、張遼は馬超を必死にあしらって長安へ向けて進路を取った。

そうするより、他に無かった。


---・


先行して兵の道を切り開き、その背を守る殿として走る呂布を追うのは馬岱と馬休だ。
張遼の兵まで抱え込むことになった呂布の速度は、馬岱も馬休も容易に追いつけるほど遅かった。
時間をかけずして、呂布の背に追いつく。
馬休も馬岱も、すぐ後ろに信頼する武威の兵士の馬蹄の響きを感知した。
ちらりと後ろを振り向けば、万を越える兵馬が列を乱さずに付いてきていた。

「よし、休ちゃん! 呂布ぶっとばしてきて!」
「おっしゃあああ! 任せろこらぁ! ぶちのめしてやらぁ!」

馬休は両腕を振り上げて獲物である槍を回転させた。
でかい。
一般的な槍の2倍はあろうかと言うほどの長尺な槍だ。
両端に、厳つい銀の煌きが閃くことから、どちらにも槍の穂先が付いているのだろう。
一歩。
また一歩と、馬休は呂布の背後に迫った。

「―――っ」
「オラオラオラっ! どうだこらっ! おらっ! どうだっ!」

ついに呂布を完全に射程に捕らえる。
激しく回転する長尺の槍は、馬上であることを考えても尋常でない風を切る甲高い音が
まるで多重奏のように喧しく響く。
そして、馬休はついに呂布と横に並んだ。
回転数は更に加速し、そのまま振り落とせば牛馬の首とて切り落とせるほどの勢いである。

「呂布ぅぅぅぅぅ! おらぁぁぁぁ! どうだっ! おらぁぁぁ! おっしゃあああ! ああぁ? どうよ!?」
「……っ」

回る! 回る! 回る!
槍は回転し続け、やがてその回転速度が落ちていき、ついでに呂布からも徐々に離れていく。
遂に回転は止まって、馬休は馬岱の下へと戻ってきた。
兵を守りながら前を走る呂布から、馬休へと賞賛の声が上がる。

「すごく回ってた。 凄い」
「くそっ! 化け物め! 全然びびってないじゃねーかっ、俺の必勝戦法が!」
「休ちゃん! 馬鹿じゃないの? 馬鹿じゃないの? 馬鹿!」
「うるせぇ! じゃあどうすんだ! 俺の必殺技が破られたんだぞ! 鉄と一緒に考えたのによぉ!」
「そのまま振り落とせばいいじゃん、休ちゃんホント馬鹿っ!」
「五月蝿ぇってぇの! そこはまだ未完成なんだよ! 練習時間が足らんかった!」
「もぉぉぉぉぉ! 休ちゃんの役立たず!」

途轍もなく酷い言葉を残し、今度は馬岱が呂布へと迫る。
『影閃』をくるりと一つ回して、馬上でもっとも捕らえ難い、斜め後方から真っ直ぐに突き入れる。
瞬間、三つの火花を散らして呂布の背後に『影閃』は弾き飛んだ。
右手に持つ方天画戟を僅かに動かし、石突きで穂先を弾いたのである。
たったの三合。
しかも向き合わず、背後からの一撃に対して肩越しに覗かれての打ち合いだ。
それだけで実力の大きな差を明確に感じ取った馬岱は、馬首を挙げて速度を落とし、馬休の下に戻った。

「だめ、無理、あれは変態染みてる、絶対勝てない」
「ちっ、岱の役立たず」
「……回さないの?」
「回さないよっ! 何!? 私、突いたのに!? 馬上で槍を振り回してるだけの奴よりがっかりされてない!?」
「はっ! さすがだな呂布! 見る目が違うぜ!」
「うあーっ、むっっかつくぅぅぅぅっ、けどアレは無理だよ休ちゃん! どうすんの!」
「どうするっても、どうしろってんだ! 俺に聞くんじゃねーよ!」

軽口を叩いて緊張感はまったくなくなったが、呂布も、もちろん後ろを追いかける馬岱や馬休も必死である。
こうなってしまっては、馬超が董卓を討つまで止まる事は無い。
そういう性格であることを、馬岱も馬休もしっかりと把握していた。
だからこそ、その初戦となる董卓軍への虐めのような戦いに負けることは許されず
士気を大いに上げる為にも勝たねばならないのだ。

「ちっ、こりゃあ仕方ねぇ! 雑魚から片付けるかっ!」
「~~~っ」
「最近晴れてたろ! あれで行くぜ!」
「分かったよ! 分かった! アレしかないんだから、蒲公英のせいじゃないもんねっ! あぁもうっ!」
「行くぜ岱! 賽は投げちまってんだ!」
「もぅ! お姉さまのせいなんだからぁーーーーっ!」

勝つには何も、化け物を相手する必要はないのだ。
だからこその仕方ないであり、だからこその躊躇いだった。
将を討つことで勝つことが出来れば最善。
出来なければ次善の策となる。
すなわち―――

馬岱は唇に指先を当てると、大きく息を吸い込んだ。
それに合わせて馬休の長尺の槍が再び回転し、右方向へと差し向けられる。
吹き込んだ馬岱の息は、鳥の鳴くような高い音を響かせた。

「っ!」

瞬間、後ろをひた走り従軍していた馬岱の軍勢と馬休の軍勢が二つに割れる。
馬岱はそのまま呂布の後ろに。
そして、馬休の部隊は右方に逸れて董卓軍兵士の下へと流れていく。

「させないっ!」

動きの変化を敏感に感じ取った呂布は、馬休の進路を塞ごうと右方に馬首を返すが、それを見越したかのように馬岱が左方に流れた。
そんな急激な動きに、一糸すら乱れぬ統率を見せて馬岱に従軍していた部隊も流れていく。
右も左も、どちらを追ってもどちらかで自軍の兵士が蹂躙される。
身一つしかない呂布には、どちらかを切り捨てることでしか対応できない状況になってしまったのだ。
咄嗟に、呂布は後方で剣戟を交える張遼に視線を向ける。
馬超と張遼。
どちらも拮抗した実力なのだろう。
殿を走っていた呂布よりも鈍重な動きに、張遼を呼び戻すことも、引き連れてくる時間もない事を知る。
呂布は選択を迫られた。

「右から倒す―――」

犠牲が免れないのならば、最小限に抑えるしかない。
シンプルな答えをはじき出し、呂布は馬休の背を追った。

「こっちかよっ! 畜生、蒲公英貸しだかんなっ! 早くしやがれ!」

呂布が追いかけてくるのをしっかりと確認し、馬休は槍手を持ち替えて空の右手を空に向けた。
その右手を空で振り落とすと同時、呂布は目を剥き僅かに馬の速度を落とすことになった。
騎馬兵で構成された馬休の大部隊が、まるで見えない障害物を跳び越すように一斉に跳ねたのだ。
地を蹴るとは思えない、地響きのような物が部隊の着地と共に響き渡った。

「もう一度行くぞ! おらっ!」

数歩の助走をつけて、再び跳ねて、地に落ちる。
馬蹄の巻き上げる粉塵が、呂布の眼前に立ち込め、白煙は視界を覆った。
同時、呂布の耳朶に董卓軍の者だろう遠い悲鳴が届く。

「呂将軍が抜かれたっのかっ!」
「うわあああっっ!」
「ひぃいいぃっ!」

馬休か、馬岱か。
馬軍の部隊が前を行く自軍の兵を捕らえたのだろう。
犠牲は出せない。
見えぬ視界の中に、呂布はためらいも無く最高速度で突っ込んだ。

「っ! 邪魔っ!」

現れたのは、その場で足を止めた数十の騎馬の群れ。
穂先を呂布に向けて何十の槍が視界を覆う。
僅かに離れた場所で、また同じような地を鳴らす馬蹄の音。
この留まる兵は要するに、捨て駒だ。
呂布という天下無双の武を持つ将に対して、命を賭した時間稼ぎ。
躊躇無く実行できるだけの、度胸と忠誠が彼らにはあるという事になる。

「死にたくなかったら、どくっ!」

恐らく、何十回と繰り返したところで聞き入れてはもらえないだろう忠告と同時
方天画戟は中空に奮われ、4つの首が白煙に紛れて飛び消えた。


―――・+


激突し、火花を散らしあう両雄。
馬超と張遼は時に距離を離され、近づき、戟を振るい、弾かれて遥か先に向かった董卓の軍を追いかけていた。
周囲に兵は居ない。
馬超の部隊は馬岱に預けてあるのだ。
その理由に、馬超はこの一騎打ちに負けるつもりなどさらさら無い事。
部隊はむしろ、邪魔になる事が挙げられる。
そして、馬超に付き従う部隊は彼女のそんな想いは理解している。
例え破れ、命を散らそうとも潔く受け止める。
むしろ、邪魔をした方が馬超は怒るという事実を知っているからであった。

そんなある意味、覚悟の決まりきった馬超と刃を交わす張遼はいい加減に限界を迎えていた。
馬超と同じく、張遼の周りにも兵は居ない。
呂布へと預け、今ごろ必死に守ってくれていることだろう。
馬超の目標が自分に向いたことで自然と張遼が一騎打ちを行うことになってしまったが
本来ならば逆であるべきだった。
その方が速く決着はつく。
しかし、張遼はそんな論理的な結論にならなかった事に感謝をしていた。
馬超は強い。
馬上での槍の扱い方は、張遼の知る名だたる武将の中でも随一と断言できるほどだ。
実際、逃げに徹してようやく大きな傷を作らずに済んでいると言えた。
最初から倒すつもりで打ち合っていたら、もしかしたら致命傷を貰い敗北していたかもしれない。
馬上で『神速』の二つ名を持つ張遼をしてこの評価であった。

「いい加減、しつこいんだよ!」
「そりゃこっちの台詞や!」

そう、張遼はもう、限界だった。
兵は居ない。
呂布が何とか、逃がすはずだ。
この場には、戟を奮い合う敵と己のみしか居ないのだ。

「やめや」
「あ!?」
「止めたっちゅうんや! 逃げるのはもう止めやっ! ぶちのめしたらぁ!」

手綱を引く。
馬の首が持ち上がり、前足は浮いた。
釣られるように馬超の乗る馬も、体を預けて立ち止まる。

「だらぁぁっ!!」
「ッ、しゃおらぁ!」

今、初めて張遼の全精力を傾けた一撃が、馬超の槍と重なった。
防から攻へ。
意識の違いが生み出した一閃は、馬超額当てを砕いた。
舞う額当ての青銅のカケラが、陽光に反射して、まるでガラス片のように舞い落ちる。
馬超の視界に、赤い線が落ちてきたのはそんな、時間が緩やかになった時だった。

開かれた胸のあたり。
張遼の皮一枚を剥ぎ取った馬超の一撃は、赤い線を引いて荒野の地に落ちた。
どちらも軽症。
たったの一撃の応手で、敏感に感じ取る。
今まで感じる事のなかった、寒気が張遼と馬超の背中を走り相対する空気が変質する。
死と隣り合う、世界に入ったのだ。

「―――」
「―――」

声。
どちらの声だ。
視界に煌く銀の線と、相手の呼吸。
揺れる馬上で動く、敵の肢体。
時間が際限なく引き延ばされる。
白昼夢でも見ているような、勝手に身体が動き、応え、迸る。
馬超は、右腕に走る衝撃に夢から覚めたかのようにハッとした。

張遼の左肩を、十文字槍が貫いていた。

「っ! くくっ、馬超言うたな」
「くっ!」

張遼は笑った。 その瞳によどみは無く。
貫いた十文字槍が動かない。
怪我をした肩、左手で馬超の十文字槍を掴み、その穂先を引き抜いた。
馬超は両の腕で槍を持っているというのにだ。

「てめぇっ! 離せ!」
「高うつくで! しっかり買うてや!」

ようやく馬超は槍を手元に戻す事が出来たが、同時奮われた張遼の掬い上げるような一撃は
無理な体勢で受けざるを得ず、致命的な隙を作り出す。
左方で受け、衝撃に仰け反った馬超は人体の急所中の急所。
心の臓を晒していたのである。

「貰ったでっ!」

まるで獣のような動き。
衝撃で打ち弾かれた飛龍偃月刀は、慣性の法則を無視するかのように馬超の急所に差し迫る。
馬超は悟った。
張遼はまだ、夢の中だ。

「くっっっそっ!」

完全不可避の一撃であった。
馬上であれば。
馬超の生き残る道は、馬上ではなく地上にしか残されていなかった。
転げ落ちるように、第三者が見れば無様と罵られるような格好で馬を捨て地を転がる。

「なめんなぁぁぁぁ!」

大上段からの一撃を僅かに身をそらす事で避けて、馬超は槍を突くように走らせた。
その刹那の攻防の直後、馬超は身を折って後方に飛び跳ねた。
焼けるような熱さだ。
分かる。
斬られたのだ。
誰にだ。
目の前の、張遼に。
躱した筈の一撃が、軌道を変えて脇腹を裂いたのである。

「っ!」

馬超と同様、そこで張遼も夢から覚めることになった。
そして張遼も、馬超も聞く。
一騎。
馬蹄を響かせる物がこちらへ向かう音を。

同時に張遼は右方へ、馬超は左方へ顔を向ける。
馬超の視界が捉えたのは見えるのは赤い髪に血塗れた服。
長く伸びた二本の阿呆毛。
馬上で持つは方天画戟。

呂布だ。
馬休と馬岱を追った呂布は、どうしても使い捨てにされる兵馬の垣根を越える事が出来ず
自身の判断で馬家の総大将となる馬超へと標的を変えたのだ。
実際、馬超を討ちとることが一番被害が少なくなる。
張遼からの頼みで、兵を預かった呂布であったが、最善が取れない以上次善を取る事に変えた。
それは、奇しくも先の馬岱や馬休と同じ結論に達し、方法はまったくの逆となった。

馬超を討ち取る。

「終わらせる」

馬超へ一直線に向かう呂布。
咄嗟に十文字槍を構えたが、目の前に相対していた敵をその瞬間、彼女は確かに忘れていた。
真横で動く、死の銀閃。
あと一足で飛び込んでくる、天下無双の武。

「余所見してる余裕が、あるんかいボケェ!」
「―――っ、ちくしょっ!」

十文字槍の矛は、飛龍偃月刀を弾き飛ばした。

「くそぉぉぉぉぉーーーーっ!」

振るわれた方天画戟が馬超の視界を完全に覆った。


      ■ もう二度と


高い。
場違いなほど高い音色が馬超の耳朶を響かせた。
首を刎ね飛ばされる時になる音は、こんな耳鳴りのするものなのか。
硬くした身の中、心中でそんな感想を抱いた馬超は音が止むと同時に目を開ける。

「翠、遅れた」

見上げた視界に、雄大な馬格と金の鬣を持つ馬が立っていた。
跨るは目に悪そうな配色を身に着けた、黒髪の男。
張遼の向けた視線の先で、一直線にこちらに向かっていた男―――北郷一刀。
両手で歯を食いしばり、馬超の首を飛ばすはずだった、呂布の方天画戟を受け止めていた。
半ばまで折れた、穴の開いた刀剣。
その片割れが、僅かに離れた荒野の地に突き刺さる重い音が響く。

「か、一刀……」
「一刀、なんでや……」
「北郷、お前……」

「行くぞ! 乗れ!」

三人とも、呆けたように一刀を見上げて口の中で名を転がしていた。
それは、戦場に身を置く武将としては失格といえるほど、多大な隙を晒していたと言えるだろう。
馬上から、馬超の肩を蹴飛ばして催促すると、いち早く放心状態から復活した馬超は一刀を見返す。

「乗れよっ!」
「っ、くっ!」

身を翻し、金獅の背に跨る。
背に馬超が乗った事を確認することもなく、一刀は金獅の腹を叩いて走り出した。
乗り込んだ馬超に、張遼と呂布も同時に動く。

「待ちぃ! 一刀! 何やってんねん、こんなとこでっ!」
「一刀……一刀っ!」
「ああ、そうだよ」
「あほぉ! 何でやねん! なんでそっちに一刀がおるんや! 戻るんやろ、洛陽に、戻るって言うた!」
「……っ!」

金獅は、決して遅くはない。
いや、どちらかと言えば速い。
曹操の持つ名馬、月影とまでは行かなくとも、そこいらの軍馬はごぼう抜きに出来るほどの速度を持つ。
身の上に二人も乗せていなければ、張遼や呂布を一気に引き離していても可笑しくはなかった。
そんな金獅も、二人を乗せれば容易く追いつかれることになる。
すぐに真横まで張遼が、その背を追うように呂布が肉薄していた。

「答えぇ! なんで其処に居るんや! だまっとったら何も分からんでっ!」
「守りたいからだよ」

ぼそり、と一刀は口の中で転がした。
馬上、しかも走っている最中に口の中で呟いた言葉は、当然彼女たちの誰にも聞こえない。
納得が行かないのだろう。
今はもう『反乱軍』に身を置いた馬超をその背に乗せる一刀は、敵。
そう、敵だ。
敵でなければなんだというのか。

「一刀ぉぉ! 言わんかいっ! 敵なんやなっ! そっちに、ついたんやな!」
「霞っ! だめっ!」

稀……いや、ほぼ皆無だろう。
呂布の悲鳴のような制止の声は、しかし、張遼には届いているにも関わらず聞き入れてはくれなかった。
例え董卓の制止であろうと無視していたかもしれない。
自身と肉薄する武を持つ馬超と、命を削る一戦を終えたばかりというのもあったが
維奉達が居る邑でしばし生活を共にし、荀攸と自分の目の前で漢王朝を立て直すと宣言したはずの一刀に、どうしようもない憤りを覚えていた。
洛陽に戻ると、約束したはずだ。
郿城で見かけた"天"の旗も、兵はともかく張遼はさほど衝撃を受けていなかった。
何故ならば、一刀の決してぶれない意志を目の前で見ていたから。
だが、今はどうだ。
北郷一刀はここに居る。
漢王朝に起きた反乱軍を抑える為に出た、董卓軍と敵対した、馬超をその背に守って。

「あほったれ……っ!」

張遼の後背に差し迫る、空気を切り裂く重い音。
呂布の方天画戟が一刀と張遼の間に割って入ろうとしているのが、張遼にははっきりと認識できた。
しかし、張遼の腕は止まることなく振り落とされた。
振るわれた飛龍偃月刀は馬超に負わされた怪我のせいか、鋭さは失っていたが気迫に覆われて呂布の方天画戟をすり抜ける。

「あほったれぇーーーー!」

折れた剣の柄近くで、一刀は手の甲を切り裂かれつつもしっかりと受け止める。
衝撃に、金獅の馬体がやにわに動き、赤い飛沫が舞い上がった。

「守りたいからだっ! 翠は"俺"が守る! もう二度と―――」

一刀の背にくっつくように手を回していた馬超の、時間が引き延ばされた。

      ■ "馬の"

―――何言ってるんだよ。 そりゃ、俺は確かに弱いけど……
―――見てくれよ、翠。 鉄っちゃんに教えてもらったんだ。 回せるようになった!
―――違う、不可抗力だ! 馬騰さんが覗いてみろっていうからっ! え、エロエロ魔人!?
―――迷ったら俺に聞けよ。 一応、軍師なんだし……って翠、その目やめてくれよっ
―――気? 良く分からないけど、便利そうだなぁとは想うけど……教えてくれるの?
―――好きな女の子を守りたいって、男は皆思ってると思うんだけどな。 ああ、いや、なんでもないよ。
―――翠、服を作ってみたんだけど……
                    
「……あ、あのさ」
「ん?」

荒野に遠く広がる地平線の彼方。
沈み込む夕陽が、星を連れて闇の帳を落とす頃だ。
一刀は馬超と共に横に並んで座っていた。

「今まで、あたしはずっと守る側だったんだなって」
そうだなぁ
「なんか、そう、その、あのさ……か、一刀の前では……」
うん
「一刀の前では……お、女の子で居て……ぅぅぅ……くああああっ、言えるかこんな恥ずかしいことっ!」

「な、なにだよ!?」

翠は俺が守ってやる。 俺が絶対に守ってやるから、俺の大好きな女の子で居てよ
「っ…・・・うぁ……あぁーーー」
愛してる
「☆□△○×!?」


『―――ば、馬超将軍が討ち取られました!』


---・


引き伸ばされた時間が戻る。

「―――二度とっ、失って、たまるかぁぁ!」

啖呵を切って、一刀は張遼の獲物を押し出すように弾き飛ばした。
直後、馬超の身体が泳いで一刀の背に体重を預ける形で寄りかかる。
弾かれ、小さく仰け反った張遼の隙を逃さず、呂布が二人の間に割って入った。

「恋っ! そこどきぃ!」
「……」
「二人共、引いてくれ! 頼む!」
「聞けるか、そんなこと!」

無言で首を左右に振る。
武器こそ振るっていないものの、呂布が間に居なければ再び振るわれていただろう。
一刀、張遼、呂布の三人はにらみ合う様にして平行して移動していたが、しばし走ると正面が窪地のように抉れた場所に
人馬一緒に投げ出され、慌てて手綱を引くことになった。
落馬こそする者は居なかったが、着地後、金獅を除いた馬のほうが潰れてしまった。
金獅もその背に一刀と馬超を乗せているせいか、吐く息は相当に荒くなっていた。

「一刀」

お互い立ち止まって、妙な間が空いてからの第一声は呂布……真名を呼ぶことが許された恋だった。
恋が洛陽を飛び出して董卓に世話になることになった経緯は、目の前の男のせいでもある。
音々音との約束もある。
故に、董卓の陣営に拾われてからも一刀の事を捜し歩き、賈駆をいらつかせたのも数度ではない。
馬超の首を落とすはずだった一撃を防がれた時、その相手を確認した時、恋の胸中に浮かんだのは一刀が無事で生きていて良かった。
そんな一念だった。
そして、そんな彼女が次に思った事はこうだ。
蹇碩の魔の手から守ることは出来なかったが、音々音との約束はまだ生きている。
またいつか、一刀と共に音々音の居る洛陽へと戻ること。

「一刀、一緒に―――」
「恋、そこに居て良いから」
「……」
「信じろよ、俺……あぁ、"俺"は必ず戻る」
「わかった。 信じる」

一緒に行くと言葉にする前に、それを予期していただろう一刀の声がかぶさってくる。
呂布はこれもまた、無言で首を振ろうとしたが、続けて開かれた一刀の言葉に頷く事になった。
その恋の頷いた様子をしっかり確認してから、一刀は手綱を引いて馬首を返す。
足の無くなった張遼達が、金獅に追いつく事は不可能だろう。

「一刀、覚悟しぃ。 報告しないなんて、甘ったれた事はせんで。 友人でも敵は敵や」
「ああ、しっかり報告してくれ。 じゃないと困る」
「……っ、見損なったで! とっととうちの前から消え失せぇ!」
「……もちろん、そうするよ」

腹を蹴り、走る金獅を呂布は見送っていたが、その視界に赤みを帯びた銀の光が遮ることになった。
ゆっくりと首を曲げれば、飛龍偃月刀を差し伸ばす張遼の姿。

「恋、どうしてこっちに来たんや。 うちらの兵はどないした」
「一人じゃ守れなかった。 大将を取った方が早いからこっちに来た」
「うちは恋に預けたんやで。 将を失って孤立した兵は、壊走しとるやろな」

言い終わるが早いか、張遼の振るわれた拳が呂布の頬を打ちぬいた。
もちろん、飛び込んでくる拳には気がついていたが呂布は避けることなく張遼の一撃を受け取った。
兵を任せると頼まれ、応と返したのは他ならぬ自分だ。
任された兵を捨て、大将の首を取り損ねたのも自分だ。
この拳を受け取らなければならないことを、しっかりと分かっていたからこそだった。
蹈鞴を踏んで身体が泳ぎ、唇の端が切れて血が滲んだ。
打ちぬかれた右の頬を手で触れる。

「次の戦、恋は留守番や。 相手見て態度変えるような将とは一緒に戦場で戦えへん」
「……」
「恋」
「ん」
「うちにも一発や。 馬超の挑発染みた一騎打ちに応じたのも、我を忘れて一刀を追いかけたのも兵を見捨てたと同じや」
「分かった」

しっかりと握りこんだ拳が振るわれて、張遼は大地に寝転がる事になった。
倒れて開けた張遼の視界には、ムカつくほど真っ青な青空が広がっていた。

「みんなアホばっかやな……」

明らかに偽の公文書によって誰かに踊らされているだろう馬超も。
そんな馬超を守ると言い張った一刀も。
一刀を、今もなお追いかけ続けている呂布も。
こうして仲間に殴られて大の字になって空を見上げる張遼も。
頭の奥まで響く鈍痛に、顔を顰めながら張遼は一人呟いた。


---・


一刀は金獅を休ませることなく、陽が傾き出した太陽を背にしてひたすらと荒野を走っていた。
董卓の軍勢がどの程度の規模か、一刀には判らなかったからだ。
一刀が姿を見せた時、周囲に兵の姿は無く、張遼と激しく削りあう馬超の姿だけであった。
金獅の手綱を引いて、全速力で向かった時に恋の姿が垣間見えた。
間に合うかどうか、と言ったところだった。
もしも跨っている馬が黄巾の乱からのパートナーである金獅でなければ、恐らく間に合わずに馬超は死んでしまったかもしれない。

これだけ離れれば平気だろうと、一刀はようやく手綱を緩めて金獅の速度を落とし始めた。
袁紹から貰った剣は、今度こそ使い物にならなくなってしまったが、それ以上に大きな相棒を授けてくれた。
今度会った時には、改めて金獅の事で礼をしよう。
まずは、頑張ってくれた今に感謝をするべきだろう。
一刀は微笑み、首筋をポンポンと叩いて囁いた。

「ありがとう、金獅……」
「ブルルッ」
「わあああああああっっっっ!」

直後だった。
一刀はその背を突き飛ばされて、荒野に転がる事になった。
突然に喚き出し、一刀を突き飛ばしたのは金獅の背に一緒に乗っていた馬超。
予想外の衝撃に、一刀は地面に倒れこむと同時、短く肺の中の息を吐き出した。

「くっっふ!」
「なんだよ! なんなんだよお前!」
「す、翠……っ」

そのまま組み敷いて、一刀の上に馬乗りになると、馬超は一刀の顔のすぐ真横に拳を振り落とした。
お互いの顔が触れるほどに接近し、顔を歪めて押し迫る。
一刀は小さく咳き込みながらも、馬超から目を逸らさなかった。
いや、逸らせなかった。
何故ならば、彼女の両目は赤く腫れており、涙の後が頬にくっきりと残っていたからだ。
愛しい……そう、愛して止まない女が目の前に居てどうして目を逸らせようか。

「ふざけんなっ! あたしはお前なんか知らないっ! 知ってる筈無いのに、こんな気持ちっ!」
「お、落ち着けよ! 翠、痛いっ!」
「真名も許した覚えなんかないっ! 女の子だとか、可愛いとか、愛してるとか、そんな事言われた事もねぇよ!」
「す……お前……」

襟首を持たれて一刀は息苦しさを覚えながらも、彼女の言葉に一つの心当たりを覚えた。
アレだ。
自分以外の脳内の人間が思う人々に本体が触れた時に起こる、なんらかの感情の働きかけが馬超に影響を及ぼしたのだ。
確かに、一刀は金獅の上で馬超と接触をしていた。
あの、感情を揺さぶる現象が起きていても不思議ではないし、金獅に乗せた際にそうなる可能性は高いと踏んではいた。
しかし、何時もとは明らかに違う。
性格による応対の変化では済まされない。
明らかに、激情に動かされて馬超は一刀に歪んだ顔を見せている。

「ば、馬超……さん」
「今更、今更っ名で呼ぶなよっ! そんなのは嫌だ! それも嫌なんだけど、うあああああっ、もう、なんなんだ、訳が分からないっ!」
「へ、平気か!?」

一刀へと詰め寄って襟首を掴んでいた手は離されて、馬超はその顔を両の手で覆った。
かと思えば、一刀の上から転がって地面に倒れると、嗚咽を漏らし始めたのである。
訳が分からないのは一刀も一緒だった。
いや、恐らくだが何故か本体から主導権を奪い続けている"馬の"の影響が大きく響いていることは間違いない。
しかし、本体に触れた大切な人たちが、実際にどのような感情に襲われているのかなど、一刀には皆目検討が付かないのだ。
もしかしたら自分でも分かっていない感情なのかもしれないという予測もあった。

「お、おい……」
「触るなっ!」
「あ……ああ、すまん……」

名を呼ぶことも出来ず、触れることすら許されず、一刀は困ってしまった。
強く息を吐き出す目の前の愛した人。
自分よりも、誰よりも大切な女。
目の前に居ても何も出来ない。
一緒に歩んだ翠は、本体の歩んでいる外史の翠ではない。
一刀は本体の中に居て、久しく忘れた感情が爆発しそうになった。
俺は一体、なんなんだ、と。

「北郷一刀―――」
「あ、ああ」
「じゃない……」
「え?」

震える声で、そう馬超は言った。

「お前はあたしの知る北郷じゃない……絶対そうだ。 そうじゃなきゃ、こんなこと無い……誰なんだよ」
「……俺は」
「誰なんだよっ……」

翠は俺に気付いたのか。
"馬の"はそう思わずに居られなかった。
だって、現実としてこの場に居るのは北郷一刀以外の何者でもない。
過去の想い出も、性格も、好きな物や気に入らない話だって北郷一刀と一緒だ。

『"馬の"』
『おい、"魏の"。 よせよ』
『黙ってろ"呉の"。 この際だから全部言っちゃえよ』
『良いのかよ……本体?』
(……)

―――もしも、俺が脳内の俺と同じ存在で。
―――俺が音々音とこうして出会うことしか出来なくなったら。

(いいよ。 俺の外史っていうけど、皆だって俺だ。 少しくらい我がまま言っても何にも言わないよ。
 だってそうだろ。 俺だって皆が居なくちゃ馬元義に殺されてたかもしれない。 もっと早くに野垂れ死んでたかもしれない。
 ねねに……会えなかったかもしれない)
『……本体が、そう言うなら良いが』

「すまない」
「……っ?」

謝罪の言葉に、馬超は顔を隠していた両手を挙げて前髪を掻き揚げるようにして一刀を見返した。
真面目な顔をして目を瞑った一刀が再び目を開けた時、馬超と視線が交わる。
突き上げてくる感情が槍となって、心臓を突き刺してきたかのようにドクンと跳ねる。
ゆっくりとこちらへ身体を起こす一刀に、馬超も身を起こそうとしたが、片腕を取られて引き倒された。

「っっ! な、何をっ!」
「翠」
「や、やめろ。 なんだよ? 顔が近いっ―――あっ!」

制御の効かない感情のせいであったのだろうが、先ほどは自分からくっつく程顔を近づけたというのに
慌てている馬超に、一刀は苦笑した。
腕を後ろに回し、緩すぎず、また力みすぎない程度に身体を抱く。
確かに感じる、鼓動と匂い。
自分の腕の中で確かに、息づいている。

「訳がわからなくたって良い。 気付いてくれなくても良い。
 声をかけてくれるのが、俺じゃなく本体でも構わない……」
「い、おい、ほ、ほ、ほんごー?」

自分の前で、女の子として居てくれると、恥ずかしがり屋な翠が言ってくれたこと。
そんな彼女を守ると、絶対に守ると言った。
しかし、それは叶わなかった。
そこで一刀は思った。
次があれば必ず守ってみせる。
青抜けた空の下、投げ出されて反転する世界の中で、一刀はそう誓った。
その誓いは、本体やみんなの力を借りて為す事が出来たのだ。

ああ、そうか。
謝るんじゃない。
俺が本当に目の前の愛する人に告げたいのは、こんな事じゃないんだ。

「翠、愛してる」
「なっ、なな、何、言って……」
「服一つ着るのにも恥らうところも、純情過ぎて自分の容姿に自信の無いとこも、誰かの為に本気になって怒れるところも、全部好きだ」
「う、あ、あたしはっ、嫌いだっ……あたし、第一、お前のことなんか、知らない、全然知らないっ……それに、許してもいない真名をポンポン呼びやがって……っ」
「馬超って呼ぶなって、翠が言ったんじゃないか」
「うぐっ、そ、それは」
「それに、知らなくたっていいさ。 俺が言いたいだけなんだ」

―――君と、歩いてきた北郷一刀が。
一刀は身を引くと、真っ直ぐに馬超へと視線を合わせる。
お互いに前髪が触れるほどの距離。
馬超は胸の鼓動が直接耳朶に響いているような錯覚を抱いた。
まるで心臓だけ、別の生き物になってしまったかのように激しく動いている。
一刀の唇がやにわに開かれ始めたのを、馬超はしっかりと見て、そして硬く目を瞑った。

「や、やめろよぉ……」

顔を真っ赤にして目を瞑る目の前の愛する人の姿は、一刀が知る翠とまったく一緒だ。
妙に押されると弱いところも、そうだと言えよう。
翠は、やはり翠だ。
世界が違うとか、一緒に居た人とか、そういう違いなんてまったく無い。

「……守る事が出来て、良かった」

ついに陽が沈みこもうかという頃。
金獅の足元で一刀と翠の影が荒野で重なった。


―――・


主導権を取り戻した本体は、一夜を荒野の中で過ごし、凝った身体を解すように左右に首を振りながら肩を一つまわす。
"馬の"は張遼と馬超の一騎打ちを見かけてから、今に至るまでずっと主導権を奪っていた反動か
何度呼びかけても返答は無かった。
以前の"肉の"のように、しばらく復活は無いかも知れない。

「とりあえず、すげぇ痛いわけだが」
『まぁ仕方ないな』
『好きな様にしろって本体が言ったんだし』

押しに押された馬超の唇を―――恐らくファーストキスだろうか―――"馬の"であったが
その接吻が切っ掛けになったのか。
本気になった"馬の"は調子に乗ったのか、それとも自然の流れからか。
馬超の唇を塞ぎながら、脇腹や背中に手を這わせ始めたのだ。
いわゆる愛撫をし始めたのである。
口を挟めそうに無い空間が広がり始め、脳内の一刀達は映画でも見るかのようにポップコーン片手に座りこむようなイメージでソワソワとし始めたのだが
しばらく続いた蠢く一刀の手の存在に気が付いたのか。
馬超は慌てるようにして一刀の顔面を両手で突き飛ばしたのである。
その際、運悪く馬超の指が一刀の鼻の穴に入り込み、尋常でない量の鼻血が噴出したが、昨夜の内になんとか止まった処であった。
とにかく、突き飛ばされたのを切っ掛けに本体に体の主導権が戻ってきた。
"馬の"の満足そうな『ありがとう……みんな……』という声を最後に聞いて。
ちなみに、その後馬超は脱兎の如く金獅を盗んで走り去ってしまった為、一刀は荒野に置き去りにされていた。

「しかし、どうするかな」
『思いっきり愛してる言っちゃったもんな』
『どうするんだよ、本体」
「いやぁ……まぁ、それはどうするって言われてもなぁ」
『例えばだ、本体。 音々音にバレるとしよう』

一刀は脳内の声に、背に氷嚢を突っ込まれたような気分に陥った。
なんという恐ろしい仮定だろうか。
どうするか、と本体が呟いたのは今後の行動についてだったのだが。

『修羅場ってやつは怖いよな……』
『ああ……』
『男じゃ勝てないよね……』
『うん……』

急にしみじみし始めた脳内の声を他所に、一刀は仕方ないので徒歩で荀攸との待ち合わせ場所に向かう事にした。
本当ならば、馬超を連れてそこで出会うはずだったのだが、予想外の連続が起きてこうなったのだ。
仕方が無いだろう。
半ば諦観の想いで歩きはじめた一刀であったが、時間も無い事だし少しでも近くに行かなくてはならなかった故である。
昼ごろまで、とぼとぼと変わらない風景に辟易しながら歩いていた一刀だったが
やがて視界に見覚えのある人馬が一騎でこちらに向かってくるのを捕らえた。

「あ……」
「……こんなとこに居たのか」

馬超だった。
逃げ出した後に、戻ってきたのだろうか。
一刀としては嬉しい反面気まずかった。
行為を致そうと半ばまで暴走し、拒絶された女性とあらば男として気まずく無い筈が無いのだ。
一刀は頭を掻いて馬上の馬超を見やる。
昨日の錯乱っぷりが嘘のように、落ち着いた彼女は胡乱気な顔で一刀を見下ろしていた。

「あー、戻ってきてくれてありがとう、馬超さん」
「……」

金獅から飛び降りて、馬超はそっぽを向いた。
今、彼女はどのような感情を抱いているのだろうか。
昨日の様子では、まるで"馬の"の事に気がついているかのようであったが、事実として見ると一刀の身体は一つしかないわけで
それはつまり、一刀が行為を迫ったと見ても間違いではない。
まぁ、全員一刀なことは一刀なのだが。
なんにせよ、明らかに今までに無い程の感情の発露を見せた馬超がどういう思いをしているのか、というのは
"馬の"に限らず、脳内の一刀全員が興味を惹く事柄でもあった。

「あの……さ、真名でいいから」
「え?」
「だからっ……その、真名で呼んで良いって言ってるんだ」
「……翠」
「うわああああっ! なななななん、なに、何だ!?」

まるで敵と相対した時のように、翠は身構えつつ一刀へ向かって呂律の回ってない言葉を投げかけてきた。
一刀もそんな翠に驚き、無意味手を前に出して、まるで頭を守るように身構える。

「いや、真名で良いっていうから呼んでみただけなんだけどっ!」
「わ、分かってるよ! ちょっと急に呼ぶから驚いたんだ!」
「う、うん……」

お互いに不恰好な姿勢を崩して、顔を背ける。
なんというのだろうか。
一刀は昨日の出来事があるせいで、非常に気まずく、同じように翠も気まずいのだろう。
何と声をかければいいのか分からなかった。

「あの、翠」
「な、なぬ?」
「なぬ? いや、あのさ、真名ありがとう」
「……それはだって、どうせ一刀は勝手に真名を呼ぶじゃないか」
「……いや、ちょっと違う、俺じゃない俺が勝手に言うんだ」

言い訳にすらならない台詞が一刀の口から飛び出したが、翠はきょとんとした顔を向けてクスリと笑った。

「そうか……それならしょうがないかもな」

この翠の反応に一刀はどちらの意味で捉えるか悩んだ。
一つは本当に真名を口走る男だと思われており、呆れつつ真名を呼ぶことを許したのか
それとも、一刀の中にいる"馬の"の存在に気が付いているからなのか。
そこまで考えて、ふと翠が自分の事を下の名前で呼んでいることに気が付いた。
その事を聞こうかと口を開いた一刀であったが、その前に翠の声が飛んでくる。

「あのさ……その……えーっと、昨日のことだけど……」
「うん、何?」
「あ、ありがとう」
「……礼は受け取る。 それとさ、翠」
「なんだよ?」

一刀は意を決したかのように翠へと向き直った。
急に真面目な顔を作って振り向いた一刀に、翠は頬を僅かに紅潮させて視線を向ける。
今ここで、一刀はハッキリさせようと考えたのだ。
翠は一刀の中に居る"馬の"の存在に気が付いたのか。
あの爆発するような感情には、どういう物が含まれているのか。
もしかしたら、この話を聞いた翠は、一刀のことを本当に狂人であると思ってしまうかもしれない。
自分の秘密を話したことがあるのは、音々音だけだ。
しかし、それでも。
今後、同じような状況に陥った時の為に、知っておく事は重要であろう。

「俺は、本当に俺じゃない自分が何人も俺の中に居るんだ」
「どういうことだ?」
「言葉の通りだよ。 同じ人間が何人も、一つの身体に在る。 それが俺なんだ」
「……良く分からないけど、一刀が何人も居るって話は分かったよ。
 昨日の……その……あの、あれも今の一刀じゃない一刀って事だろ」
「翠、やっぱり気付いてたのか」
「信じられないけど、でも……分かるよ。 一刀のことなんて何にも知らなかったんだ、エロいってことくらいしか」

言葉の末尾には色々と物言いたい処もあったが、一刀は黙って翠の話に耳を傾けた。
最初はまるで、夢の中に居るようだったという。
様々な場面での一刀―――恐らく、“馬の”の外史の中―――との触れ合いが、夢の中で再現されて在る筈の無い思い出が蘇ってきたのだという。
交わした会話。
触れ合った身体。
そして、重なる心。
体験していないはずの体験を夢の中を通して経験した。
虫食いのように断片的ではあったが、それは確かに自分であり、一刀との思い出であったという。

翠の話を聞くに当たって、一刀は得心したように頷いた。
一刀の脳内の出来る事の一つに、洛陽で編み出したイメージを送る事で映し出す能力がある。
"肉の"から発覚したこの事実に、脳内の一刀達はそれこそ、血を見るような努力によって同じ能力を手に入れることに成功したのだ。
まぁ、それは本体が目撃した少女である必要があったのだが。
要は、それの強化版とでもいうのだろうか。
他者へ、自分の想いの丈を映し出した、とでも言うのか。

『なるほど……それは、困惑するわけだな』
『ていうか、性質悪いな俺達……』
『洗脳、みたいなもんだよな。 証拠の無い……』

洗脳……そうだろうか。
何も知らない状態で感情に影響を与えてきた本体ならば、一も二もなく脳内に頷いたところだろうが
落ち込む脳内の声に、本体はふと思った。
外史を跨いでいるとはいえ、確かに"俺達"は愛する人と一緒に苦難を共にして、駆けてきていたはずだ。
今までは彼女達の豹変振りの理由を聞けず、脳内達の言う洗脳という言葉がピッタリ当てはまる事から
他人の信頼を借りて親愛を得ている、という風に本体は感じてきた。
だが、実際に影響された翠の言葉を聞いてふと違う面から考える事ができたのである。

それは、愛する人をこの外史で取り戻す事。

"馬の"が想いの丈を翠に告白する前に、自分と音々音が"もしそうだったら"と考えた。
本体が脳内と同じ立場であったのなら、音々音に振り向いて欲しいと思うだろう。
そもそも。
多くの外史を駆け巡った自分達と、まったく違うスタート、条件であった本体だ。
"無の"が言う様に、外史という存在が誰かの願いで作られた物だと言うのならば

"北郷一刀が別れた女(ひと)ともう一度再会して愛し合いたい"

そんな願いで作られた外史だという可能性もあるのではないか。

「まぁ、だから。 なんていうか、知っちゃったから。 その、一刀のこと」
「ああ……」
「あああ、あ、ああ、愛とか、そういうのは、その……分からないけど……」

一刀は口の中でモゴモゴと喋る翠を見て、だんだんと笑いがこみ上げてくるのを感じた。
自分の事だというのに、野次馬的な楽しさというのだろうか。
要するに、今の翠の状態は一刀の中の"馬の"に照れているという感じだろうか。
脳内が良く本体のことで茶々を入れてくる気持ちが、なんとなく分かってしまった。

「くっ、あっはははははは」
「な、なんだよ! 何笑ってるんだっ!」
「くくっ、ごめん、でも良いよ。 そんな難しい事考えないで。 俺だって本当のところは良く分かってないんだ」

一刀は堪える事を忘れ、盛大に噴出した。
翠の抗議を手で押さえ、収まった頃に金獅の手綱を引いてその上に乗る。
実際のところ、"馬の"が翠に送ったイメージというのも推測でしかない。
外史の事だって、本当に分かるだろう脳内で噂の"貂蝉"という方とかが現れない限り真相が分かることはないだろう。

「さ、そろそろ行こう。
 俺は俺で、翠は翠だ。 出合ったのもつい最近だし、俺は翠と仲良くなれただけでも嬉しいよ。
 ごちゃごちゃ考えるよりは気楽に付き合おう。 その方が良いだろ?」

金獅に乗った一刀が、翠へと手を差し伸べて乗るように催促しながら言った。
そんな一刀に翠はむくれて、ブツブツと何かを呟く。

「な、なんだよそれ。 お前が愛してるとかいきなり言うから、あたしはこうやってずっと……」
「金獅、悪いけどまた頼むよ」
「……」

それは一刀には聞こえなかった。
諦めたように溜息をついて、翠はしばしジットリと金獅に声をかける一刀へ恨めしい視線を送っていたが
やがて一つ頭を掻いて一刀の後ろに乗り込んだ。

「行こう、とりあえず蒲公英や荀攸さんたちと合流だね」
「……」

手綱を引いて、一刀は金獅を走らせる。
その背にコツリと翠は額を当てて、自分以外に聞こえないような声量でひっそりと呟いた。

「……守ってくれて、ありがとう」

良く晴れ渡った荒野。
一刀と相乗りで馬上に跨る翠の感謝の言葉は金獅の巻き上げる砂煙に、紛れて消えていった。
果たして"馬の"に、届いたかどうかは分からなかったが。


      ■ 擾乱は騒乱へ


「なるほど、まったく分からん」

一刀が馬軍と董卓軍の中に飛び込みに行った頃だった。
武威の城中から飛び出した、ある一団が居た。
荷馬車には行商用の商品だろうか。
重そうに二頭の馬がゆっくりと歩いて運んでおり、その少し先を荀攸と馬鉄が並んで歩いていた。

「はぁ……余り期待はしていませんでしたが、やはり分かりませんか」
「うむ、あまり俺は頭が良く無くてな」
「でしょうね」
「なんだと、侮辱するか!」
「だって、馬鉄さん。 自分で今言ったじゃないですか」
「なに? ああ、そういえばそうか」

こうして商人に化けているのは、もちろん理由がある。
移動をするだけならば、馬だけ居れば十分なのだ。
荷台に積んでいるのも商品ではなく、棺だ。
荀攸と馬鉄がどうして、わざわざ商人に化けて棺を運んでいるのか。
それを彼女は馬鉄に先ほどから説明していたのだが、返ってきたのは分かりませんという返答だったのである。

「俺に毒を食らわした筈だけど、実は違って韓遂の野郎が犯人で無実だった耿鄙の遺体を捜すってのは分かった」
「ではもう一度」
「なんでだよ」
「良いからお願いしますね」
「……俺に毒を食らわした筈だけど、実は違って韓遂の野郎が犯人で無実だった耿鄙の遺体を捜すってのは分かった」
「そうです。 忘れても二度は言いませんから」
「なんだか妙に不機嫌だな。 どうしたよ」
「別に、不愉快なだけです」

それは不機嫌とどう違うのか。
馬鉄は問い質したくもあったが、小難しいことを言われても分からないので結局聞き出すのはやめる事にした。
もともと、こうして商人に化けて耿鄙の遺体を捜すことは荀攸の役目であった。
ただ幸か不幸か。
華佗の腕が良すぎるのが返って災いし、出かけようかという段になって馬鉄が動けるくらいに復活した。
華佗からは安静にしておくように強く言い聞かされていたが、耿鄙に毒を盛られたという話を聞くとすぐに激昂。
そのまま城中を飛び出して愛馬に乗り込み、怒涛の勢いで馬超の向かった荒野に走り出すところを
寸でのところで荀攸が止めに入った。
武将とはいえ、病み上がりでは首を取られるかもしれない。
そんな心配と、今から飛び出して一刀の迷惑になっては困るからというのもあった。

一刀。
そう、一刀だ。
荀攸はいきなり馬上で、両手を同時に振り上げて、自分の太腿をバンバンと叩き出した。

「おいおい」
「お気になさらずに」
「しっかし、まぁ韓遂の罠を破る策っての一刀と荀攸が考え付いたんだろ? すげぇよな」

本心では在るが、馬鉄としては何だか不機嫌さを加速させている荀攸が怖かったというのもあった。
その為、この会話は話の矛先を変える為にしたものであったが、それは逆効果だったようで
無表情のまま荀攸は馬鉄へと首だけ向けた。
トコトコと馬に跨って歩いているので、無表情の荀攸が平行移動しているのが、逆に恐怖をかもし出す。
武威を出てからこっち。
ずっと荀攸はこの調子だ。
馬鉄は疲れた顔をして馬上で体勢を崩した。

「言っておきますが、これは策でも何でもありません。 これを策だと言い張るのなら私は自殺します」
「自殺って……おまえ」
「良いですか。 策というのは現実に即して考えなければならないのです。
 例えば、今回で言えば"説得"です。
 まず一刀様の思いついた策を成功させるには漢王朝に叛意を抱いた馬超殿を説得しなければなりません。
 よしんば、彼女の説得に成功したと仮定して、次は既に襲ってしまっただろう董卓軍を説き伏せねばなりません。
 はっきり言って無理でしょう? 無理なんです。 でもやる気なんです一刀様は馬鹿ですから」
「……?」
「問題はまだあります。 仮に全ての説得が成功したとしてもですよ?
 涼州での反乱軍と官軍の衝突は大規模な物になるのです。 何故ならば、策がほぼ的中したと言って良い韓遂殿が決戦を仕掛けるはずですから。
 そんな大決戦に一刀様が参加するのは利点よりも欠点の方が大きいんです。 死ぬ可能性の方が高いです。 つまり、馬鹿です。
 ていうか、常人なら此度の件はもう無視して次善の策を練るべきなんですよ?
 何よりですね、董卓軍と接触することは"追放"された"天代"が表舞台に立つという事に他ならず
 この前忠告したばかりの、宦官が仕掛ける筈の罠に嵌る可能性と言う物に一刀様は気付いている。 にも関わらず正面から立ち向かおうとしてる他に類を見ない馬鹿なんです。
 危険でしょう? 馬鹿ですよね。 ちょっと聞いてるんですか馬鹿さん」
「ああ? 聞いてるよ……ん? 今最後変じゃなかったかおい?」
「気のせいです。 つまり、この件に於いての一刀様の行動は無謀以外の何物でもありません。
 現実に何一つ即していないじゃないですか、第一ですね―――」

馬鉄は大部隊の一斉連弩が打ち放たれたかのように、止まらない荀攸の不満を適当に聞き流しながら理解した。
いや、話の大半は―――策そのものは聞いたが、あまり覚えていない為―――意味不明ではあったが
一刀に対して大きな不満を抱いていることはハッキリと分かった。
時折、思い出したかのように荀攸は両手を振って自分の身体ではなく、遂に乗っている馬にまでバシバシと叩き始めたりしていた。
見た目だけで言わせて貰えば、馬鉄には子供が癇癪を起こして拗ねているようにしか見えない。

そんな荀攸を見て、馬鉄はふと気が付いた。
一刀の命が危険であることに、これだけ不愉快になっているということはつまり、アレだ。

「ああ、そうか。 荀攸は一刀が心配だってことだな? いやぁ、あの野郎も中々にモテるな」
「何言ってるんです? 私が好きな方はもっとでっぷりしててお腹が出てて、犯罪を起こさないような優しい人です。
 ああ、この人は私が居ないと駄目なんだなって思える人が良いです。 馬鉄さん、誰か良い人知りませんか」
「うーむ……よぉし、じゃあ俺とかどうよ」
「ふっ」

荀攸は明らかに蔑んだ眼差しを馬鉄に送り、向けていた首を前方に戻した。

「うわ、うぜぇ! 冗談で言ったけどうぜぇものはうぜぇ!」

そんなやり取りをしつつ、一応は真面目に耿鄙の遺体を捜してはいる。
荀攸としてはほぼ、芽の無い一刀の考えに頷いて、こうしてお手伝いをしているのにも理由はある。
漢王朝は既に死に体に近いことは間違いない。
馬超が実際に漢王朝に反旗を翻した際、躊躇いを残しつつも武威の民が付き従ったことから、荀攸はその片鱗を垣間見たのだ。
黄巾の乱が農民主体として立ち上がった反乱であることは既に知っている。
これは漢王朝が持つ民への求心力の低下が伺える出来事だった。
そして馬超が立ち上がった側面には、間違いなく漢王朝に不満を抱く諸侯という構図があるはずであり、そんな馬超の感情も馬家の内政を手がけた荀攸には理解が出来てしまった。
武威は放置されている、という言葉が似合うほどだ。
漢王朝にとっては確かに、中央からも離れて工業、生産力が少なく、漢王朝を脅かす異民族と隣接した武威の地は扱い難い。
だが、蔑ろにするには些か度が過ぎているとも受け取れる。
黄巾の乱からこっち、収めるのに躍起になって周りが見えなくなっているのも多少は関係しているのだろうが
それで新たな敵を増やしてしまうほど憎まれては元も子も無いではないか。
そんな漢王朝の実情、実際に諸侯を纏め上げた北郷一刀という者は眩しい光になる可能性が大きい。
大陸に轟いた噂『天の御使い』の名は、漢王朝を生き長らえさせるのに確かに大きな効果を発揮していた。
荀攸から見て例え0に等しい一刀の考えでも、成功するならば手を組み続けるに相応しい者が一刀しか居ない。
そんな理由があるから、一刀の考えに一応は賛成し手伝いをしているのだ。

有り体にいって、荀攸は一刀をほぼ切ったと言って良かった。

「ここで一刀様を止める事が出来なかったのを、私は死ぬまで悔やむ事になるんでしょうか」
「ああ? なんだって!?」
「少し、優しすぎるというのが欠点ですね」
「あ? そうか……俺は優しすぎたのか……」
「馬鹿というのも追加で」
「おっし、やっぱお前一発殴る」
「……」

一刀へと向けた言葉が、何故か馬鉄の反応を呼んでいた。
荀攸は馬の腹を蹴って無言で加速し、馬鉄もまた拳を振り上げて加速した。
重たい荷物を乗せた荷馬車を、あわや置いていこうかという勢いで走りこんで、すぐに取って返したのは二人だけの秘密となった。


―――・


―――洛陽。
丁度大通りの中央に設けられた庶民たちが休憩に使う広場の中、一刀が袁家の二人の間で大怪我をした場所にほど近く造られた椅子に寝そべる翁が一人。
春らしい、日中のうららかな陽光に照らされて、大きな欠伸をかましていた。
後退した髪を後ろに掻き揚げて、特徴的なひん曲がった口を窄め、口で笛を吹いていた。
名を曹騰。
陳留で覇気も露に活動する曹操の祖父であった。

「おう、来たか」
「爺さん、今日は何くれんの?」
「あたしにも頂戴。 貰えるって聞いたの」
「おうおう、こんな粗末な菓子で良ければくれてやるわ。 それより、前の話の続きをしてくれんか?」
「いいよ。 ちゃんと覚えてるからね」

過去、宮内で宦官として勤めを果たしていた曹騰は、眠たい目を擦りつつ待ち人が来たことに気付いて懐に手を伸ばした。
その相手は、洛陽に住む子供たちだった。
子供たちを相手に顔を綻ばせ、菓子を与える曹騰は誰が見ても洛陽に住む平和な一時を楽しむ爺に見えたことだろう。

「なるほどぅ、袁紹って奴が入ったのかい」
「そう言ってたよ。 それで、えーっとね」
「まって、あたしも言う~。 お菓子貰うのにずっと黙ってるのも悪いもん」
「ほっほ、偉いなお嬢ちゃん。 名は何ちゅーんだ?」
「あたしは郭淮(かくわい)っていいます」
「俺は鄧艾(とうがい)だぜ」
「お主のは知っておるわ。 で?」
「何進大将軍が、袁紹様をお呼びしたんだよ。 だからね、監視の目っていうのが柔らかくなるかも知れないって言ってたんだ」
「……なるほど?」

その言葉に、曹騰は目を細めた。
周囲からは笑っているようにも見える薄目の奥には、宦官時代に張譲を初めとした多くの陰謀家達と凌ぎを削った鷹の様な鋭い目が隠されていた。
ゆっくりと立ち上がり、曹騰は子供達にお菓子を与えて首を回した。
伝言を子供達に託して。
見上げた空に、鳥の群れがクルクルと回っている。

「飛ぶ鳥はすぐに叩かれるたぁ、世知辛い世の中ってな。
 鳥に隠れて地を這う虫も滑稽と言やぁ滑稽なもんだ」

片手で抑えるように肩に手を置いて、曹騰はゆっくりと屋敷に戻る帰路へとついた。

「滑稽な物の方が、見て楽しめる分好きではあるがなぁ」

謳うようにそう嘯いて。


―――・


宮内の一室。
大将軍として政務と軍部の統括に励み日々忙しない日常を送る何進の姿が在った。
覚悟を決めて劉協の下に訪れた何進は、あの一件を振り返るに大きく進んだ後継者問題にようやく一区切りが付いたと感じた。
次に当たるべきは、漢王朝に広がる乱の平定。
それと同時に進めるべき、漢王朝の膿の排除であった。

あの黄巾の乱で波才率いる大部隊が洛陽へ攻めあがった時。
天代と初めて出会った、軍議で使われた部屋の中。
何進は一人、共もつけずに上座に胡坐を掻いて人を待っていた。
その人の名は、袁紹。
後漢4代に渡って三公を輩出した、名門中の名門―――今の漢王朝に多大な影響を及ぼしうる諸侯の一人であった。
孫堅を身内に引き込む事に成功した何進は、自分が出兵するべき物を孫堅に任せて
出来た貴重な時間を、現状で浮かび得る問題の解決に乗り出すことにしたのだ。
後継者問題、天代の追放、勝手な人事を横行し、やりたい放題と言って良い宦官。
漢王朝の、毒。

「身体の毒を吐き出さぬ限りはどうにもならん」

この考えは間違っていない。
まともに漢王朝の今後を憂えば、10人に聞いて必ずこの答えに辿りつくはずだ。
宦官の持つ権力が大きすぎて、そうしたまともな答えを出せないのが現状なのだ。

「何進様!」
「ああ」
「袁紹様が、ご到着なされました」
「うむ、入れてくれ。 それと人払いを頼む」
「はっ」

しばし待つこと、果たして袁紹は扉を開けて威風堂々と入って来た。

「お久しぶりですわね、何進大将軍。 このわたくしの力を借りたいと聞きましたけれど」
「うむ。 座ってくれ。 誰の眼があるかも分からんので手早く済ませたいのだ」
「そうですの? ならばとっとと本題に入ってくださいな?」
「……うむ」


―――・


「段珪様、お待ちしておりました」
「うむ、人払いは済んだか?」
「は。 今は私と建物の反対側に居る兵しかおりませぬ」
「そうか。 では約束の物だ」

それは何進へ袁紹が到着した事を知らせた兵であった。
段珪が懐から取り出した巾着袋を笑顔で受け取って、頭を下げて立ち去っていく。

段珪は肩にかかる邪魔な長髪を一度掻き揚げて、扉へと擦り寄った。


―――・


「宦官を、排除するですって?」

何進はやや大きな声を出した袁紹に、慌てて人差し指を鼻の前に当てた。
袁紹は、何進の大げさな行動に眉を顰めて小声で話しかける。

「大将軍、宦官は確かに気味の悪い奴らばかりですけれど、中央の政治に無くてはならない物でもあるのは事実ですわ」
「分かっている。 宦官を排除するに当たって大きな混乱が訪れることは目に見えていよう」

その口ぶりからは、確かに何進は宦官を排除した後のことまで考えているように感じられるが
実際のところ、皇帝が死に、後継者も大きく劉弁側に傾いたとはいえ決着は終えていない現状だ。
この時点で政務を取り仕切ってるのは宦官が中心であると言って良い。
袁紹からすれば、今宦官を放逐することが原状回復に向かうとはとても思えなかった。

愛の力か。
天代の調教に皆勤賞で出席した袁紹は、勉強する事に意欲を出していた。
そんな億分の一の確率であろうやる気を見せた袁紹に、袁紹軍に所属する軍師連中が黙って見逃すはずが無かった。
今こそ攻め入る時! とばかりに竹簡の山を抱えて袁紹の執務室に毎日突撃し、煽て、煽り続けた結果
本質こそ変わらぬものの、数多の外史に比較して賢くなっていると評価できた。
そんな袁紹自身、求めるのは天代が王朝に帰属することである。

話を戻せば、袁紹はこの何進が呼び出した用件を推測することが出来ていた。
十回に一度、当たるかもしれないと田豊に評された本領を発揮したのである。

「ちょっとお待ちになって大将軍。 宦官は私も早急に駆逐いたしたい存在ですわ」
「ならば、協力してくれるか、袁紹殿」
「方法は?」
「下手に小細工を打っても利用されるばかりだ。 悔しいが、奴らは謀略に長けている事だけは確かでな」
「真正面からぶっ潰すってことですわね。 あぁ、嫌ですわ。 あまり優雅ではございませんわね。 猪々子さんは喜びそうですけれど」

予測通り、とはいかないまでも、概ね想像通りの話に袁紹は小さく息を吐き出した。
宦官は確かに、物理的に―――要するに武力を用いて―――排除するのが一番早く確実だろう。
下手な謀略を打てば、何倍にも増幅されて返って来る可能性が高い。
何より、天代であった北郷一刀が碌な抵抗すら出来ずに追放された実例が、記憶に残っているほど近くに行われたばかりである。
なるほど、漢王朝の膿は宦官であり、これを排除するに袁紹の持つ武力を借りたいという話になるわけだ。

ゆっくり、そう。
時間にして半刻は何進の話を聞きながらゆっくりと自分の考えを巡らして袁紹は一つの答えをはじき出した。

「大将軍は、天代の事をどうお考えですの?」
「"元"天代か。 惜しい人物だった。 彼が居ればここまで王朝が荒れることは無かったかもしれん」
「それは私も同じ考えですわね。 でも今聞いてるのは宦官の排除後ですわ」
「……袁紹殿」
「なんですの?」

何進は、険しい表情を作った。
口ぶりから、袁紹が天代をいたく気にしているし、また期待をしていることに気が付いたのだ。
ここで色好い返事を返せば袁紹は何進の元に容易に転がり落ちてくるだろう。
諸侯の間でも特に強大な兵力と金を持つ、名家の袁紹が。
しかし、何進の手元には長安に応援へ向かった皇甫嵩からの報告で"天"の旗が反乱軍に立っている旨の情報が転がり込んできていた。
そこに居るのが天代かどうかの確認は取れなかったそうだが、可能性としては十分に在りえる話だと何進は感じていた。

もし、袁紹欲しさに天代を呼び込もうとした時に、本当に漢王朝の反乱軍に参加していたらどうなる?
袁紹は怒るだろう。
嘘をついたと、何進に向けて矛を向けるかもしれない。
こうして宦官の排除に袁紹を頼りにしているのは、各地で治めるべき乱が頻発したせいで正規の兵士が洛陽に少ないからである。
下手をすれば、正規兵の中にも宦官と深い繋がりを持つ者が居て、こちらの思惑が兵から露見するかもしれないのだ。
だからこそ、数多ある考えの中から、諸侯の力を頼ることにしたのである。
袁紹を選んだのは、比較的大規模な軍を持つことから乱の平定に追われていないこと。
形骸化したとはいえ、西園八校尉に選ばれ何進が軍部の話を持ちかけるのに不自然にはならないことが挙げられる。

先ほどの袁紹のように、じっくりと自分の考えを纏めた何進は深い溜息を吐き出した。

「天代は一度追い出された身。 漢王朝を恨んでいてもおかしくはないのだ。 迎え入れることは出来ない」
「なるほど、大将軍の考えは分かりましたわ」
「だが、袁紹殿。 貴方も宦官には煮え湯を飲まされてきただろう。
 漢王朝に乱を齎すのは、宦官であるとも言える!
 中央……つまり、漢王朝の心臓である洛陽の根幹が揺るがなければ、各地の諸問題も一気に解決を見せるはずだ!」
「ちょっと大将軍? お熱くなるのは構いませんけど、声が漏れてしまうのではなくて?」
「むっ」
「それと、その話は正式にこの袁本初は突っぱねさせて戴きますわ」
「何故だ!」

机を叩いて食ってかかる何進に、袁紹は暑苦しいと一言零して理由を述べた。
宦官が膿であることは何進の言う通り。
首都である洛陽の根幹を押さえるのも、袁紹には預かり知らない事だが理解はできる。

「ですけどね、事を起こすにしてもせめて、宦官よりも先に今起こっている黄巾の乱の後片付けと涼州の乱を鎮めるべきですわ。
 田豊ちゃんは逆でしたけど、郭図ちゃんが言ってましたし。
 それと天代様は戻すべきという点で、何進大将軍とは意見が合いませんわね」

袁紹の言う事はもっともな部分でもある。
現状でも、一応漢王朝の政務は回っているのだ。
ここを先に手を付けることで混乱が起こるは必定。
宦官を排除した場合、下手をすれば洛陽にかかりきりになってしまって乱の平定は諸侯を頼りにしてしまうことに為りかねない。
既に、諸侯の力があってようやく反乱の相手を出来ている現状もある。
諸侯に民の求心力が集れば、それこそ反乱などでは済まされない、漢王朝存亡の危機を迎え入れる事に成るだろう。

しかし。

「だがな、これはどちらを先に取るかという問題に過ぎないのだ。
 このまま宦官共の中央権力の専横を許してしまえば、確実に漢王朝は死に滅ぶ!」
「大将軍、私言いませんでしたこと? この話は乱を終えてからと」

話は全て終わった。
そう言わんばかりに立ち上がった袁紹を見て、何進は怒鳴りつけたいのを必死に我慢しつつ口を開いた。
ここで袁紹の機嫌を損ねた大事に立ち上がってもらえないのは困るからだ。

「分かった……! まずは乱を治めることに腐心しよう。
 だが、もしもその時が来たのならば」
「そうですわね……もう一度しっかり、話を致しましょう」
「頼む……急に呼びつけてすまないな。 宦官共の目を欺くために、後2~3回はこういう話の機会を設けるから
 しばらく洛陽に留まっていてくれ」
「そう? 面倒ですわねぇ……まぁ良いですわ。 それではさよなら、さよなら、さよなら、ですわ。 おーっほっほっほっほっほっほ」
「っ、その高笑いは耳に障るからやめろっ」

こうして何進と袁紹の談合は、今の時点では決裂した。


―――・


「よっし」
「ぬっ」

離宮の一角で、天代が教えた一つの遊戯。
"将棋"というものを指しあう者が二人。
十常侍筆頭としても名が挙がるしかめっ面を浮かばせる張譲と、熊のぬいぐるみを手の中で弄び楽しげに笑う趙忠の姿であった。
最近は謀略を働かせる場面もなく、政務に問題があるわけでもない二人は、簡潔に言うと暇であった。
そんな訳で娯楽に興じている訳だが、この将棋という遊びに二人は今夢中なのである。
まぁ、張譲は将棋の才能に乏しかったのか、趙忠に勝つ事は稀だった。

「譲爺弱いな~」
「未熟者が、勝負はまだついとらんわ」
「いやでも多分もう無理だよ? 席交換しても勝てる気がしないもん」
「孫子には無中生有と言う言葉があるのを知らんのか」
「意地っ張りなんだから、早くしてよねー」

ほぼ勝ちを確信した趙忠が剥げ堕ちた熊のぬいぐるみの頭部を撫でながら椅子を前後にユラユラと揺らす。
厳しい顔つきで盤を眺めていた張譲だったが、やがて目線だけを趙忠に向けて口を開いた。

「趙忠、残念ながら劉協様を皇帝にするのは難しくなったのう」
「そうだねぇ。 何進のおっさん邪魔すぎ」
「まさか離宮に直接乗り込んでくるとはな。 これもまた、天代の影響ということなのだろうな」

盤から目を逸らさずにそう言った張譲に、趙忠は肩を竦めた。
何進が離宮に来ることは稀だ。
時たま、黄巾の乱で共闘したからか、陳宮という外戚に話をしに訪れる事はあったが
裏を返せば何進が離宮に訪れる理由などその程度でしかなかった。
だからだろう。
張譲達も後継者問題で揉めていた最中、何進が訪れたのも大した用事ではないと考えて深くは調べなかったのだ。

そうして離宮に訪れた何進は、劉協へと直接面会し後継者問題について言及した。

「今、漢王朝は洛陽中枢が乱れ、これが収まらないせいで大きな危機を迎えております。
 劉協様、天代が薦めておられた劉弁様の即位を認めてくださいませ。
 宦官に何を言われたのかは問いませぬ。 しかし、漢王朝の未来を憂うならばいち早く皇帝を即位させねばなりません。
 こうして皇族たる劉協様の前で、後継者問題に首を突っ込む事をお許し賜れ。
 もしも、即位を認めてくださらないならば、この大将軍何進。 漢王朝のために死を賭して願う所存でございます」

大将軍であり、軍部を統括する何進が、話を蹴れば命を捨てるとまで言い出した。
そのせいで、劉協はこれを認めざるを得なくなったのだ。
事実、何進の気迫は本物であり、傍に居た陳宮すらも認めるべきだと劉協に囁いたほどである。
大将軍何進の死は、活気付く乱を後押しする可能性を秘め、宦官のより強い専横を許す事態になりかねないからだ。
劉協は何進に、自身の兄の劉弁をよく支えるように言い渡し、皇帝は兄に譲るとはっきり言ってしまった。
これは決定的だった。
滞っていた後継者問題が一気に推し進められ、もう一月、速ければその前に劉弁は漢王朝の第13代皇帝として君臨するだろう。

何進のこの行動を、後から聞いた張譲は天代の影響が何進に及んだと思わざるを得なかった。
もともと、何進は商家からの出。
こうまで自分の命を盾に要求を通すような豪胆さは持ちえていなかったはずである。
それは、張譲の人物眼から見てもそうだった。
だというのに、宦官同士が争う後継者問題に首を突っ込んできたのだ。

「まぁ仕方があるまいな。 どんな知者でも、人の流れを完全に読む事は不可能だ」
「そうだよね。 でも劉弁様で漢王朝を立て直すことも出来るんでしょ?」
「無理だな。 宦官も以前ほど結束していない。 これは天代の差し挟んだ人事と後継者問題の争いでしこりが残ったせいだ。
 劉弁様はもとより自分の意見を持ちえぬ、言わば霊帝のように流される帝よ。
 右へ左へ意見を変える宦官に振り回されて、良いように扱われるだろうな」

張譲の断定した声に、趙忠はぽりぽりと頭を掻いた。

「まぁ、劉弁様におべっかを使い、漢王朝から去る準備を進めて資産を肥やすのが一番だ」
「ふーん。 時期を見て逃げ出すってことね。
 あ、じゃあさ大きな屋敷建てるよボク! 河南の方でさ。 一回商人をやってみたかったんだよね」
「それもよかろうよ」

自分も、そろそろ引退か。
張譲は長く仕えた漢王朝の中枢を去る未来に想いを馳せたが、だいたい人を殺す事しか考えてなかった事に気が付くと頭を振って盤上を見つめる作業に戻った。
そんなときだった。
部屋に、新たな人物が加わったのは。

「あ、段珪のじっちゃんじゃん」
「趙忠殿、張譲殿……」
「なんじゃ?」
「報告したいことが御座います」

ただならぬ段珪の物言いに、趙忠は段珪へと不審な視線を向けた。
張譲は盤上を険しく見つめて動かない。

「何進大将軍が、宦官の排除を目論んでいるそうです。 動きには注意をされた方がよろしいかと」
「うわー、なにアイツ、むかつくなー」
「ふん……それで、袁紹か?」
「そうですな。 話は決裂した模様ですが、袁紹殿以外の諸侯を頼る可能性は高いでしょう」
「どうする、やっぱり殺しとく? ていうか死んだ方がボク達の為だよね」
「ふむ……」

張譲は顎鬚に手をやって、もう片方の手で懐から宝玉を二つ取り出した。
コロリ、コロリと掌の中で回し始める。
長く漢王朝で謀略を糧に生きてきた張譲が、考え事を始めたときにまわす二つの玉。
趙忠も、段珪もやにわに掌が汗ばんだのを感じた。
鋭い視線で張譲は、コロリコロリとまわす宝玉を持つ手とは逆の顎鬚を触っていた手がはたと落ちて、王手目前の王将を一歩横にずらした。

妙な沈黙が支配する中、盤上に眼を移した趙忠によって謀略が露見し、その日のうちに宦官の企みがまとまる事は無くなったという。

そして―――


―――・


「って言ってた。 そんなところかなぁ?」
「うん、ぜんぶ言ったはずだよ」
「そうなのですか。 何時もありがとなのですよ」
「じゃあもう帰るね、陳先生!」
「また明日来るね
「気をつけて帰るのですぞ。 陽は伸びたとはいえ、遅くなると親御が心配されるのですから」

陳先生こと音々音は手を振り、子供達の姿が消えるまで見送った。
曹騰との連絡を、音々音は子供達を通じて取ることに成功していたのである。
そして、曹騰から齎される情報は非常に貴重であった。
子供を通して、という部分に若干の不安は残るものの、自分が教育を買って出た中でも彼らは特に優秀であった。
子供でも、情報という一点のみでならば有用に扱える。
音々音が此処に目を付けたのは、桃香が洛陽の子供達と親しげに遊んでいたことが発端だった。

曹騰からは、宮中、しかも離宮に篭っていては中々聞こえてこない民の声と商人達の噂話を中心に話を聞いてもらっていた。
これにより、宮内で劉協を支えながら市井の最新情報を得られるというのものだ。
噂話は噂話。
根も葉もない下らない物も多いが、重要な情報を民草の中に落として安全を図ろうという者もいる。
そして、一刀の噂が捉えられる可能性があるのは、こうした噂話の中にあると音々音は踏んだ。
張譲達が劉協を皇帝にしようと動いた事で、監視の眼が自然と強くなった離宮では碌に連絡を取る事ができない。
その為に打った手がこれだ。

「何進殿は袁紹殿を呼んだ……袁紹殿には手紙で言い含めてるけど、ちょっと不安ではあるのです」

とんとん、と踵で地面を叩いている少女が、音々音の後ろでコクリと頷いた。
その服は皇位を現すものであり、今、漢王朝が抱える大問題の後継者の一人である劉協だった。
勉強の合間として宮内を散策をするようになったのは、音々音が子供達の勉強を教え始めた時期と一致する。
つまりは、そういうことだった。

「袁紹には思いとどまってもらわねば困るな、ねね」
「ですな。 袁紹殿も一刀殿には懸想していたはずなのです。 恋愛の心理を突いてやれば大丈夫だとは思いますが」
「そうだな……ふぅ、そういえばねね」
「なんでしょう?」
「今朝、一刀の使っていた茶器が割れた」

音々音は劉協はクスリと笑いながらそう報告したことに、肩を竦めた。
劉協様の持っていた一刀の茶器が割れたのか、と。

「実は、ねねが持っていた一刀殿の茶器も割れてたのです」
「そうか……」
「そうなのです」
「では、女だな」
「はい、恐らく一刀殿が毒牙を振るっているのだと思うのですぞ」
「なるほど、ふふ」
「くくく……」

それは、何の根拠も無い推測であった。
しかし何故か分からないが、その割れた茶器を見た時に二人とも直感のような物が働いたのである。
それはそう、もしかしたら女性が持つ絶対感覚、女の勘という奴なのかも知れなかった。
洛陽の宮内、その広場に顔を見合わせて不気味に微笑んでいる二人の姿が稀に垣間見られたという。


      ■ 弔いの種


「お疲れ様」
「お疲れ様です、一刀様」
「おう、一刀、久しぶりだな……」

安定付近で軍を逗留させて、一刀達は荀攸の到着を待っていた。
なんか馬鉄がヤケに穏やかな顔をして感慨深げに呟いているのが印象的だったが、一刀はとりあえず気にしない事にした。
何よりも、今は翠の説得に必要な耿鄙の遺体が重要なのだ。

「それで、耿鄙さんは見つかった?」
「はい。 まぁ余り見るには偲び無いほど惨殺されておりましたが」
「そうか……」

そうして一刀が一歩に馬車へと向かった時、馬鉄が一刀の肩を叩いて引き止めた。
何時に無く真剣な顔に、一刀は眼を瞬かせた。

「耿鄙殿は女だったせいか、最後に弄ばれたんだろう。 酷い事になってんだ。 見るなら覚悟がいるぞ、一刀」
「……予想はしてましたから」

一刀は手伝いをしてくれた荀攸と馬鉄に手厚く礼を言って、一人で見に行くと告げて二人は旅の疲れを癒してもらうことにした。
荷馬車へと近づいて、一刀は中を覗き込むと若干立ち込める、腐った肉の匂いと閉じられた赤黒い棺が視界に飛び込んでくる。
棺に手をかけて、一刀は力を入れてその戸を開けた。

「っ……」

人として。
同じ人間に対して、ここまで物理的に身体を欠損させることなど出来るだろうか。
少なくとも一刀には無理だ。
両足は裂かれて、眼球も一つだけ。
腹部からは内臓が中途半端に飛び出しており、性器は言うに及ばずだ。
何よりも、凄惨さを増すのは頭部だろう。
頭頂部は何も無く、あるはずの脳は空だ。

「……耿鄙さん。 すまない……俺のせいだ」

見捨てたのは間違いない。
自分の保身の為に、荀攸に言われるまま正しいと思った判断をした結果、彼女は死んだ。
何もしていないのに、犯罪者に仕立て上げられ、志を目指す半ばに無念の内に。
その胸中はどうだったのだろうか。
首を縦に振らない自分へ、怨嗟の声を挙げたのだろうか。

「……そして俺は、まだ貴方を利用する」
『本体……』
「大丈夫だよ。 大丈夫だ。 利用できる物はなんだって利用するんだ。 そこだけは韓遂を見習ってもいいさ。
 俺は洛陽に戻るんだ……だから」

だから、金獅に乗せた馬超の感情が、自分に向いたことは喜ばしい。
それは“馬の”が北郷一刀の主導権を完全に奪い去るほどの激情が齎した、一刀の成果であった。

「翠はきっと何とかなる。 月は……」
『俺、だね』
『“董の”が二番乗りか、いいな』
「……そうだ。 先に言っておくけど、これは洗脳なんかじゃないと思うよ」
『ん……まぁ、気にするなよ本体』
『ああ、想いをぶちまけて良いって事の方が、俺には重要だ』
『なんだろう、俺ってもしかして、凄い自己中だったのかな』
『あー……そうだな』
「……いいじゃないか、自分の為に何かを出来ない奴が、人に何かを出来る訳が無いって」
『良いこと言うようになったな、本体』
『ははは、じゃあ、本体の言う通り自分勝手な北郷一刀って感じて行くか』
『おう』
『あ、“肉の”だけ自重な』
『賛成だ』
『マジか……ひでぇ、イジメだ』

一刀は苦笑を零した。
余りにも自然に出たせいで、一刀はこれが脳内の総意として現れた感情なのではないかと疑った。
今まで、一刀が自ら脳内の想う人の感情に働きかけようとしたのは、朱里と雛里を救う為に桃香へ触れたのが最初で最後だ。
だが、今はもうそうも言ってられない。
時間も、金も、権力も、何も無いのだ。
持たない物を得る為には、自分の力だけでは限界があり、それを補うための能力がある。
だから、それを使うだけの話だ。

「まずは翠の説得だな。 行こうか」

そうして一刀は、翠が休む天幕に向かって踵を返した。
とうぜん、棺の蓋をしっかりと閉めてから。


―――・


「翠、みんなを集めてくれないか」
「一刀? どうしたんだ」
「話があるんだ」

常為らぬ、気軽な雰囲気は立ち消えて真剣な眼差しを贈る一刀に、翠は頷いた。
一刻もたたずに集められた将兵は皆、馬家の者。
馬超、馬岱、馬鉄、馬休の姉弟が勢揃いし、天幕の中心には一刀と荀攸が立っていた。
他にも、軍の副隊長を務める者達が数人集っている。

「呼びつけてすまない。 これから韓遂の策の全てをみんなに話す」
「韓遂?」
「韓遂殿は、反乱軍と馬家を繋ぐ使者として立たれた筈ですが」
「そうですね。 それもまた、韓遂殿の狙いです」

翠、蒲公英を含めた全員が一刀と荀攸の声に不思議な顔を浮かべて顔を見合わせていた。
馬家の敵は謀略を仕掛けてきた董卓だけではあるが、その結果として漢王朝に叛意を翻すことになるのも分かっていた。
その為、一軍だけでは対抗するのは難しいと助け舟を出したのが韓遂だった。

「そもそも、まず知って貰いたいのは韓遂が武威へ訪れた目的は、馬家を涼州叛乱軍に引き込む為、という事です」
「こうして皆様が完全に巻き込まれた事を、彼女は裏でほくそ笑んでる事でしょう」
「ちょっと待て、この出兵は私達が自分自身で決めた物だ。 韓遂殿は偶然居合わせただけだろう?」
「その辺も含めて、ご説明いたします」

そして、話の舵取りは一刀から荀攸に引き継がれ、策の全貌が語られる事になった。

韓遂の目的、それ自体は不明ではあるが一つだけ確実なことがある。
それは中立を保っていた馬家を煽って反乱軍に参加させること。
その為、韓遂はまず馬家の信頼を集めることに腐心し馬騰と旧知であることを利用して逗留した。
そこに予想外の駒が現れることになる。
耿鄙と、一刀だ。
韓遂が馬家を涼州反乱軍に引っ張ってくるのに一番の問題は涼州で名高く、異民族にまでその名を知られている英雄の馬騰だ。
彼女の部屋に入り浸った数日間、韓遂は彼女の説得ないし、病の進行を手伝ったはずであった。
何故ならば、馬騰よりも馬超を動かせた方が韓遂にとって御しやすいからである。

「……っ」
「お、おねーさま、とりあえず最後まで聞こう、ね?」
「分かってる。 怒鳴ったりなんかするかっ!」
「わっ、怒鳴ってるじゃん」
「怒鳴ってるな」
「怒鳴ってるわ」
「喧しいぞ! お前らっ!」

身内に囃し立てられていきる翠に、一刀は苦笑し、荀攸は話の腰を折られて一つ不愉快そうに咳払いをかました。
とにかく、馬超が慣れない内政に振り回され始めた頃、韓遂の行動は激化したことだろう。
天代であった北郷一刀の名声、それを利用する為に部下へ噂話を忍ばせて民草に広がらせた。
一刀本人には、勧誘という名目で近づいて自身を餌にし、一刀に天代の噂が流れていることを気付かせない処置を取っている。
なにしろ、天代の名は大陸全土に轟き響いている。
荀攸が蜀の地に訪れた際にも、噂話が上ってきた程だ。
韓遂としては、一刀本人が勧誘に応じるかどうかなど、どうでも良かったのだろう。
結果として大事なのは、『反乱軍に参加した天代』という噂と『天代が居ると思わせる軍勢の準備』の二つだ。
これで、直接敵対し戟を交わす官軍には動揺を与えることが出来るし、一刀が応じればそのまま利用してやるだけのことを考えていた筈だ。

そして肝心の、馬家を攻める手立ての構築には、同じく一刀を匿うつもりで居た事を知った耿鄙を使う事にした。
こちらも韓遂がした事は酷く単純である。
偽の公文書の用意と、被害者を演じる為の服毒だ。

「そんな馬鹿な! じゃあ、鉄に毒を盛ったってのも韓遂殿のせいだっていうのか!」
「それは偶然でしょう。 身内を巻き込めれば重畳。 そうでなくても正義に篤い馬超殿なら問題ないと考えたのでしょう。
 毒は、自分の分以外は無差別にばら撒かれたはずです。
 馬鉄殿が服毒したのは偶然に過ぎません」
「けど、公文書は……」
「公式の印そのものの入手は、韓遂が過去に中央で勤めていた時に手に入れた物かと思われます。
 何度も使われたのか、いささか押印された紋は草臥れていましたから。
 そして、馬超殿。 あなたが見た耿鄙殿は本物の耿鄙殿ではありません」
「なっ!」
「本当かよ!?」

コクリと頷いた荀攸に、一刀が引き継いで口を開いた。
耿鄙の顔が右半分を布で覆っていたことの意味。
それは使者として赴くには少々ふさわしくない、火傷の爛れたあとが残っていたからだった。
実際に遺体を確認した一刀と、生前から目撃していた荀攸の証言に場は騒然となった。
確かに、武威で死亡した者は耿鄙の服と特徴的な布、似たような髪形をしていた。
何より、布で顔を覆うほどの理由など無いほど顔に傷痕は無かった。
しかし、他に遺体が発見されてなおかつ証言があるのは無視できない。

「その遺体は?」
「……こっちに」

一刀は遺体を見せるように催促され、翠達を天幕の外に案内した。
天幕の中に残ったのは、既に遺体を見ている馬鉄と荀攸だけ。

「……そういうことか。 だから、荀攸は耿鄙を探していたんだな」
「そういうことです。 というか、馬鉄さんには出立時にしっかり説明している筈なんですが」
「わりぃ、正直途中で意味判らなくなって聞いてなかったんだ」

話し込んでいると、一刀を先頭にして将達が天幕の中に戻ってくる。
皆、凄惨な死体に顔を青ざめさせていたが、中でも馬岱は相当に取り乱した様子であった。
そんな中、一刀は再び説明に戻る。
こうして馬家を引っ張り出す事に成功した韓遂は、既に成功することを見越して動いていた事を一刀達はあの日に知った。
それは翠の演説の中に在ったのだ。

『更に! 我が領内に董卓軍が今! 進軍しているという報告が上がっている!』

これだ。
この韓遂にとって都合の良い、良すぎる侵攻の知らせ。
恐らく、韓遂は涼州の反乱を主導する辺章とは結託しており、必要な時に動いてもらうよう連絡体制を作っていたはずだ。
そうでなければ、ここまで都合の良い状況を作り出すことは神でもなければ不可能だろう。

そして、この話に裏付けできる事実を、翠の声から聞くことになる。

「そういえばアイツ……知らなかった」
「……字が違うとか、後、救いようの無いアホンダラ~とかって言ってたよね」
「じゃあ……でも、そうだったらあたし達は、何の罪も無い董卓軍のケツを叩いていたってことなのか!?」
「ま、まさか……」
「そ、そんな……我々は既に、董卓軍の追撃隊を完膚なきまでに叩きのめしてしまったのですぞ!?」
「これでは、反乱軍に嵌められて暴れただけの、能無しと思われてしまう」

一気に天幕の中が騒がしくなる。
当然だ。
正義の為に矛を取った彼らの敵が、実は正義を示す相手では無いと言われれば動揺を隠し切れなくて無理はない。
確かに、馬家に漢王朝は何もしてくれなかったかも知れない。
しかし、裏を返せばそれは、馬家に全てを任していたとも取れなくも無いのだ。
こうして剣を振るい、人命を奪った以上、馬家の取る道はただの一つ。
漢王朝に敵対しなければならない事実。
いかに大陸の中で乱が巻き起こり、求心力を失っているとはいえ漢王朝の存在は一諸侯が敵対するには余りに巨大すぎる壁だ。

「一刀、どうすればいいんだ。 私達は」

そんな動揺の広がる天幕内、現状で馬家を引っ張る立場に居る翠が一刀に尋ねた。
その視線に、一刀は笑みを作った。
縋るような。
そう、まるで一刀に話の続きがあるのだろうと懇願するような眼。
もし、“馬の”との一件が無ければここまでスムーズに話は出来なかっただろう。
心の中で未だに眠る“馬の”に感謝をしながら、一刀は口を開いた。

「これをひっくり返すには、官軍に付く。 それだけです」
「おいおい、一刀。 簡単に言ってくれるがな、実際に董卓軍をぶっ潰した今、そんなすぐに立場を換えられるかよ!」
「鉄の言う通りだ。 俺が董卓軍なら、面子の問題もある。 絶対に許さん」
「ああ、確かにそうだね。 でも韓遂に利用されている俺も居るんだ。 ひっくり返す手は此処にある」
「……つまり、どういうこと?」

蒲公英の声に、一刀は頷いていった。
そう、天代を利用した韓遂と同じように、自分も天代の虚名を利用するのだ。
こうして一刀が中央から西送られた原因は何だ?
どうして、洛陽を追放された時に5000もの兵と装備を張譲が差し出した?

今、巻き込まれている涼州の反乱軍を叩き潰す、そういう名目で追い出されたのだ。

「これはね、策なんだ」
「……?」
「天代が描いた、涼州の反乱軍に潜む埋伏の毒だよ。
 規模の大きい涼州反乱軍に直接当たることを良しとせず、天代は馬家を頼った。
 それに馬家は頷き、反乱鎮圧の為に動き出すことになる」

一刀は天幕に集る諸将を落ち着かせるように、ゆっくりと語るように話し始めた。

「しかし、馬家には反乱軍の将の韓遂が監視の目を光らせていたため、止むを得ず適当な部隊を見つけて戦った。
 それが不幸な事に反乱軍に誘引されて誘き出された董卓軍だったんだ。
 これを明るく捉えて、敵を騙すには味方からという事で通すつもりだよ」

一刀の提案に近いこの言葉に、しかし、馬家の将達の顔色は戸惑いを含んでいた。
仮にそう言われたとしても、馬家の者が董卓軍の立場で物を考えた時に納得できる自信などなかった。
いや、むしろ激昂してそう言った使者の首を刎ねる事も在りうるだろう。
ふざけた事を抜かすな! それだけの為に我が民を斬ったのか! と。
そんな反応は半ば一刀の予想通りだ。
一刀が董卓軍を説き伏せるために使うカードは、脳内の自分と天代として関わりあった董卓の良心が全てだ。
普通に考えればまず、説得できるはずがない。
そんなことは一刀だって承知の上だ。
しかし、韓遂の描いた図をひっくり返す手立てはこれしか無かった。
荀攸が看破した時点で、董卓軍に一刀が向かえば、旧知ということもあって董卓もすぐに信じたことだろう。
だが、韓遂の一手が僅かに早く、自軍に被害を及ぼしてしまった董卓軍が問題であった。
その為、荀攸はこの策を却下にしたのだが、一刀は使うことにしたのだ。

誰も……いや、この場では翠だけが知っている、自分の事。

そして、董卓を説き伏せることが出来れば、後は実際に涼州の反乱軍とぶつかって勝てば良い。
そうすれば、『天代・北郷一刀』は涼州の反乱を収めた漢王朝にとっても大きな武功を手に入れることができ
なおかつ民達からは信望がいっそう集まる事になる。
少なくとも、乱を一つ平定することで漢王朝そのものを存続させるのに一役買うことは間違いない。
出来れば、完勝がベスト。
最低でも、短期決戦で決着をつけるべきだ。
董卓軍を利用してまで、埋伏の毒を演じたという話にもっていくのだから、それが出来ずに長期戦となれば
天代の名声は逆に落ちることになるだろう。

洛陽へ戻る為の大事な一歩。
絶対に負けられない、戦いであった。
そんな熱意に押されたのか、翠は諦めたように一つ息を吐き出すと、一刀の案に賛成の意を返した。

「分かった。 どうせ他に何とかなる方法なんてあたし達じゃ思いつかない。 一刀」
「ああ、翠。 必ず説き伏せる。 翠も一緒に来てくれ」
「そう……だな、馬家を率いるあたしも一緒に行くべき、だな」
「荀攸さん」
「はい」
「馬軍を反乱軍が攻め立ててるっていう郿城ってとこに布陣を頼めるかな。
 こちらが完全に董卓軍と決裂し、反乱軍についた振りをして欲しいんだ。
 それが出来て、なおかつ韓遂の応手に対抗できるのは荀攸さんだけだ」
「……」

分かりました。
そんな返事を期待した一刀だったが、荀攸は黙して顔を僅かに一刀から逸らした。
疑問を抱いた一刀だったが、脳内の声にハッと気が付く。

『なぁ、荀攸さんは成功する可能性が無いと思っているんじゃないか?』

確かにそうだ。
この策の根幹は荀攸に聞かされて、成功した時の多大なメリットに心を引かれて採用したものだ。
そして、耿鄙を見捨てたのもこの荀攸の策が決まると、信じて疑わなかったからだ。
そんな策の発案者である荀攸は、馬家が董卓軍とぶつかった直後に別の策を練るべきだと
今しがた、一刀が話した策を未練なくスッパリと切ったのである。

一刀が漢王朝を生き長らえさせるのに必要だと思った。
だからこそ荀攸は自分の知を一刀の為に振るうと約束し、手を取り合っていたのだ。
確実に成功する事のない策に乗った愚者である。
そう判断されて見捨てられても可笑しくはない。
何より、一刀が今まで荀攸の前で取った行動は、彼女が自分に信を預けるに足るかどうか甚だ疑問が残る。

だが、今は。
この一戦だけでもいい。
荀攸の、大陸でも有数の知を持って韓遂に当たってもらいたかった。

「……とりあえず、話は以上です。 荀攸さん」
「はい」
「後で、話がしたい」
「……分かりました。 後ほど一刀様の天幕に参ります」
「……耿鄙さんの埋葬をしたいんだ。 明日の一番で頼むよ」
「はい。 了承です」

こうして、一刀は韓遂の目論見と、馬家を味方に引き込むことに成功した。
が、その代償として一刀の下で知を奮う少女を失いかけていた。


―――・


天幕を去った一刀は、棺を馬に運ばせて適当な荒野に穴を掘り始めた。
たった一人で、深夜を越えてようやく棺が入る穴倉を作ることが出来た。

「……耿鄙さん。 ごめん、でも俺が……貴女の志もきっと運んでみせるから」

一刀はそんな別れの言葉を向けて、棺を穴倉に放り込んだ。
掻きだした土を今度は穴の中に放り込む。
月明かりの荒野で、黙々と一刀は土を放り投げていた。
途中、耿鄙と生前に別れた際に見かけた亜麻の種を周辺にばら撒いて。
そんな、一刀に近づく人影。

「土弄りとは、まぁた妙な事始めてるんすね」
「……ああ、泥臭く生きてる俺にぴったりだろ」
「へへっ、俺の口からぁ天代様に、んな大それた事は言えやしねぇや」

その人影は、そんな軽口を叩いてニヤリと一刀に笑った。
一刀が埋める手を止めて、首を巡らせば、そこには月の明かりに照らされた数十の人馬の群れ。
一体、何時の間にここまで来ていたのだろう。

「天道教、総員56名。 全員連れて来やした!」
「ありがとう。 アニキさん。 手紙が届いてよかったよ」
「ちぃと離れてた奴も居たんで手間どっちまいましたが、間に合ったようで何よりっす」

一刀はアニキこと維奉に向き合い、身体ごと『天道教』の信者だろう人たちに向き会った。
維奉のすぐ後背には、姜瑚が手をヒラリと挙げて声には出さす口の形だけでお久しぶりですっ、と一刀へ存在をアピールしていた。
その更に後ろでは、洛陽を共に出立した兵の中、家族と別れて付いて来た見覚えのある男の姿も。
董卓軍を……いや、その前に荀攸を説き伏せ、反乱軍とぶつかるに当たって、一刀が頼りにしたのは唯一といっていい。
一刀に対して疑いの無い忠誠を誓う維奉と、その維奉が啓いた『天道教』の存在であった。
この僅か50余名の軍を率い、一刀は反乱軍の首謀者でこの擾乱を企てた“韓遂”の首を取るつもりだった。

そうだ。
利用できる物は利用してやろう。
これだけは韓遂を手本にさせてもらうべきだ。
音々音と劉協の下に早く戻るためにも、その覚悟は必要だ。
違うのは、信義がそこに在るかどうか。
ただ、それだけ。

集ったアニキ達に一刀は右手を上げて声を放った。

「ありがとう。 まずは礼を言わせてくれ。
 たった一人で、誰かを養うことすら出来ない俺の為に集ってくれた皆には、本当に感謝の言葉しかでない!
 皆もアニキさんから聞いて知っているだろう!
 俺は、宦官の謀略に嵌められて、中央を追い出された野良犬に過ぎない!」

だが、未来は違う。
それだけの決意と意志は、何時だってこの身を駆け巡っているのだ!

「けれど、俺には洛陽に戻るためにも力が必要なんだ!
 その力に、俺を支える力になってくれることを、皆に願いたい。
 そして……そして、何時かは皆に強いる苦労を幸福という形で返すことを約束する!」

答える声は無い。
一刀と向き合う50人に届くか届かないか。
そんな僅かな、しかし真実『天兵』と呼べる者達が一刀の次の言葉をひたすらに、ただ待っていた。
そう、彼ら"天兵"が望むのは、一刀の次の一言だけだ!

「俺に、力を貸してくれ!」
「「「「応オォォォォォッ!」」」」

爆発したかのように、天兵たちは武器を空に掲げて咆哮した。
休んでいる馬軍の天幕の中から、数名に兵が何事かとこちらに視線を向ける。
矛を向ける先が、ようやく見つかった。
そんな晴れ晴れしい顔に満ち溢れ、“天兵”達は力強く地を踏み音を鳴らした。
一緒になって一刀の横で“天兵”達と鼓舞していたアニキは、やがて振り返り一刀へと破顔する。
アニキが掲げた片方だけの手に、一刀は同じように手を掲げた。

「アニキさん、本当にありがとう。 俺、さっきまで少し落ち込んでたんだ。 マジで嬉しかった」
「へっへへ、俺の方こそって奴っすよ。 もう二度と、御使い様……一刀様の下で暴れることなんてねぇと思ってた」
「頼りにしてるからっ!」
「オォッ! 任せろ! 死んでも守るぜっ!」

パァン。

快活な手を叩く音が、武威の夜空に響き渡った。


      ■ 外史終了 ■



[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編8
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/02/24 00:34



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編6~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編7~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編8~☆☆☆





      ■ 頭垂れ



朝を迎えた。
そんな事実を入り口の隙間から差し込む陽光で知る。
一刀は用意された天幕の中で一人、ぼんやりと入り口を見つめて何をするでもなく座っていた。
人を待っていたのだ。
一刀が知っている三国志の知識においても曹操からの信頼厚く、幾たびの戦場でその英知から勝利を手繰り寄せた才気溢れる人。
荀公達。
この世界に降り立ってから、何かと荀家の人たちには縁がある一刀だ。
実際に彼女と初めて会ってから今に至るまで、一刀は身を持って荀攸の才能に助けられてきた。
記憶に新しい自分で建てた家の中で、崩れゆく漢王朝を共に支えようと手を取り合ってから、そう遠くない。
季節が三回回ったか否か。
されどそれ位には短くも長い期間、一刀は知らず荀攸に寄りかかることが多かった。
ショックは隠せない。 というよりも、一刀にとっては想像の埒外であったというのが本音だ。
誰かに見限られるかも知れないという事態に直面したことが、初めてだったのもある。
瞑目して一刀は組んでいた腕を下ろすと、背もたれに首を預けて顔を上げた。
ゆっくりと目を開き、木々の影を映す天幕の天井を見る。

「……」

韓遂の謀略を先んじて読み通し、その上で覆す手を誰よりも早くに構築した。
荀攸と同じ場所に居たはずなのに、一刀はまったくと言って良いほど気付かなかったというのにだ。
此度、韓遂を欺くに当たって荀攸の力は間違いなく必要だった。
見上げた天井をじっと見つめて動かない一刀の耳朶に、砂利を踏む音が響いてきたのはそんな時だった。
待っている人がやってきたのだろう。
居住まいを正して、一刀は用意しておいた急須のような物に湯を張った。

「おはようございます。 起きていらっしゃいますか」
「ああ、起きてるよ。 ごめんね、朝早くに呼んでしまって」

一刀へ構わない旨を告げながら入って来たのは一人の少女。
やや伸び始めて肩甲骨の先あたりまで伸びた栗色に近い髪に前髪をピンで留めた、見慣れた容姿。
翡翠色の眠たそうな眼が一刀へと向けられていた。

「とりあえず朝の一杯でも」
「ええ、ご馳走になります」

座るように身振りで指し示し、一刀は自身も茶器を取って器に注いで口へと含む。
荀攸も座り、同じように一口含む天幕の中には沈黙が降りた。
何時ものような軽い雰囲気は何処にも無い。
お互い、これから何を話し合うのか分かりきっているからだ。
この先、自分にとっても相手に取っても志を成す為に選ぶ分かれ道に立たされているのだ。
一刀は唇を一つ舐めて、口を開いた。
夜通し考えて、決めている。
翠達が一緒に居た天幕の中で、あの軍議の場で、荀攸は言葉を濁したのだ。

「荀攸さん」
「はい」
「頼む、今回だけ力を貸して欲しい」
「……」

一刀はそう言って、荀攸に対して頭を下げた。
それは余りに率直で、単純なお願いであった。 だからこそ、その言葉にはシンプルながらも誠意が篭っている物となっていた。
面食らったかのように僅かに身を捩って荀攸は頭垂れた一刀へ視線を向けた。
そしてやはり、室内は沈黙が降りた。
下げたまま戻らない一刀の頭をじっと見つめる荀攸も、下げたまま戻さない一刀も何も喋らなかった。
朝特有の静謐な空気と、鼻を擽るような緑色濃い匂いが漂っていた。
ようやく、と形容できそうなほどの時間が経過して、沈黙を破ったのは荀攸の高い声であった。



      ■ 忠



軍馬が地を蹴って鳴らす蹄の音が、軽快に森の中に響く。
郿城に向けて進める兵馬の数はおおよそ2万。
辺境の地で幾度と無く異民族と矛を交え、精兵と呼んで差し支えない領域にある2万の軍列は
決して近くはない郿城への行進を着実に進めていた。
そんな馬超軍を見ながら付いて行く一人の少女は、煮え切らない心中を追い出すように、小さく息を吐き出した。
彼女は、一刀と同様に一晩かけて答えを出していた。 決別する、と。
だというのに、今朝あの場所で荀攸の出した答え、それは一刀の提案を受け入れる事で決着を迎えた。

何故か、その答えは正直に言うと荀攸は良く分からなかった。
一刀と手を組んだ事は、あの時点では漢王朝に息を吹き返す大事な一手だと確信していた。
天の御使いであるという風評、天代という名声、実績。
文句などつけようがないほど輝かしい栄光だ。
他の誰がこのように成り上がれるというのか、ましてや何処の馬の骨とも分からぬ年若い男が。
多くの偶然も勿論あっただろう。
天運に背を支えられたのも間違いないだろう。
宦官、特に一部悪臭の酷い膿を知っている者に洛陽を追われ、挽回することは難しいが不可能ではないとも思えた。
荀攸は少なくとも、そう思っていたからこそ一刀の手を取った。

そこまで考えて、荀攸はああ、と小さく呟いた。
同時に今、自分が胸の内に抱えていて喉の奥に突っかかっていた言葉がするりと心中に木霊する。

「自滅したということですか」

一刀が漢王朝を存続させるに足る鍵であること、或いは大事な要素であることは荀攸の見立てでは間違いが無いのだ。
多くの人間が、天代ならば、と期待を抱いたはずである。
涼州で起こった叛乱の中で選んだ、一刀の選択は自らの提示した策であり、それは結果として贅沢な物になってしまったのである。
漢王朝も守る、馬家も守る、董家も守る、郿城も守る。
それは韓遂という謀将が居なければ可能だったかもしれない。
実際に、そういう夢想を抱かせて決断させてしまったのは、紛れも無く荀攸の口から出た『策』であった。
これを自滅と言わずなんと言うか。
荀攸はもう一つ、大きな溜息を吐き出してしまった。

やはり今、郿城へ向かうこの行軍の中に自分が居るのは間違いである。
今朝、一刀との会話で出すべき答えは、やはり決別以外にありえなかったのだ。
たとえ彼から、百万の呪詛を吐かれたとしてもだ。
そうすれば、一刀は『策』を諦めるより他はない。 仮にも一刀の知となると手を取ったのならば、絶対の決別の意志を持ってあそこで断るべきだった。
自然、行軍からやや離れ、荀攸は僅かに進路を逸らせた。
徐々に、乗った馬の歩みが緩み、やがて行進する兵馬のなかでただ一人、動きを止める。
若干、馬超軍の兵が不審な面持ちで見やるが、特に止められることもない。

だが荀攸は分かっている。
こんな事をしても意味が無いことを。
今朝、一刀の嘆願に頷いた時点でもう覆らないことは。
一度した約束を反故にするほど義に疎くはないし、やり直す機は当に過ぎ去っていたことも。
そうして悲観的に物思いに耽る―――馬上で呆けて立ち止まった様に見えた―――荀攸の背に声が掛かったのはその時だった。

「おう、何か問題でもあったのかよ」
「維奉殿……」
「ああ、いや、まぁお前さんにとっちゃ問題だらけか」

そう言ってアニキは荀攸の傍まで馬首を近づけて、後続の私兵達に手首を返し先を促した。
彼は荀攸が、自分の仰いだ主君から今朝、何事かを任されたことを知っていた。
その内容までは分からなかったし、頭の出来が悪い自分が聞いても分からないと考えている。
ただ、この戦の事で先の黄巾の乱で自分がしたように、重大な事を託されたのは間違いないと思っていたのである。

「今朝の事を聞きましたか」
「あ? いや聞いてないけど、まぁ何となく分かるっつーか」
「そうですか」

荀攸は一つ頷いて、さくっと勘違いした。
自分がこれ以降、一刀を見限って漢の生きる術を探す事、或いは捨て去って新たな道を行くこと……それを話した、と。
維奉ことアニキという存在は、一刀にとって信頼たる人物なのだ。
今朝の出来事が強く心象に残っている荀攸にとって、アニキの言動をそう受け取るには容易だったのである。

「なんだか、少し気まずいですね」
「何がよ?」
「いえ……」
「とりあえず行こうぜ、俺らだけ置いてかれちまう」
「そうですね」

小さく馬の腹を蹴って、また進む。
同時、荀攸は心中でアニキという人物を褒めた。
決別するにしても、機というのは存在し、この戦の顛末に関わらず別れることになるというのは天代を見限るに等しいのだ。
まるで崇拝するかのように天代を敬う彼にして、この反応を返すことは荀攸から見て意外と言う他なかったのである。
まぁ、アニキはそんな事は露も知らないのだが。

「なんとなくだけどよ」

微妙に重苦しい空気を切り裂いて、口を開いたのはアニキであった。

「荀攸が思ってることも分かるぜ。 御使い様はよぉ、結構馬鹿だからな」
「痛感しているところです」
「だろ? 難しいことなんか分からねぇけどよ、今回の話だって普通じゃねぇって事くらいは分かるぜ」

アニキからすれば本心であった。
一刀は現在、お尋ね者である。
それは勿論、現状の世間では未だに『天代』であることは間違いないのだが、馬超軍と一緒に行動しているのは不可解だ。
馬家は漢王朝の諸侯の一つで、どうして追われる身の一刀が一緒に行動することになるのか。
自分の頭の悪さをしっかりと認識しているアニキは、天文学的速度で考えるのはやめていた。
まぁ、仲間なんだろう、多分。 これで済ましたのである。
一刀が持ち前の馬鹿さ加減を発揮して、戦をすることになったということも、そうなっちまったんだなとだけ考えていた。
アニキからすればそれだけ判れば十分であり、他のややこしい細事は一刀が考えればそれでよかった。

「本当、危なっかしい人だと思うぜ。 マジで。 もしかしたら死にに行くのが趣味かもしんねぇ」
「ふふ、アニキさんが居るせいかも知れないですね」
「いや、そりゃねぇな、元からそうなんだよ。 つまり、死ななきゃ治らねぇってことだ」
「じゃあもう治らないね。 奉ちゃんが死んでも守るって言ってたし」
「うおっ、居たのかよ姜瑚……いや、まぁあれはよ、その場の乗りっつーか……」
「えぇ、そうだったの? あの時は格好良かったのに」
「お、はは、そうだろぉ? でも、俺は死にたくねぇぞ」

ひょっこりと馬の背から顔を出した姜瑚といきなり惚気て顔面をゆがめたアニキを見て
なるほど、良き理解者だ、と荀攸は自然に顔を綻ばせて頷いた。
そして気がつけば、彼女は口を開いて尋ねていた。
それは荀攸にしてみれば珍しくといった言葉がつくだろう。 考えるよりも先に口を付いて出た言葉だった。

「維奉殿は、どうして天代を支えているのです?」

姜瑚とじゃれあっていたアニキは、その言葉に思わず荀攸を見返した。
そして、僅かに口を曲げて空を仰ぐと、あー、と気の抜けた声を出して続けた。

「正直よぉ、俺は御使い様の言う漢がどうとか褒章がどうとか、どうでも良いんだよな」
「え?」
「いや、出来たらそりゃすげぇし、金貰えりゃ嬉しいぜ? 頭の良い奴ぁ他にも色々、あるのかもしれねぇけどよぉ。
 まぁ、どうでもいいぜ実際のところは。
 そもそも俺はその漢王朝に嫌気がさして黄巾になったんだしな。
 俺から言わせりゃ、今の王朝を立て直すなんて無理だと思うぜ……波才のヤローとかもそうだがよ。
 今のまま暮らしてて、座してお上に殺されたくねぇってのだけは同意できるぜ」

アニキは頭を掻いてそこで言葉を切った。
次いで、隣に並ぶ姜瑚へと視線を向けた。
そんな彼の横顔を、荀攸は何故か目から離せなかった。
荀攸とて民の現状、そして王朝としては敵対する賊の現状を知っている。
だが、事象として認識し、知っていた物の根本をアニキから聞かされているような気がしたのだ。
知っていた知識を、改めて新鮮な気持ちで聞かせてくれたというところか。

「金はねぇし、飯もねぇ。 噂が流れりゃろくでもない話ばっかりでよ。
 気がつきゃ隣の家がなくなってたり、道端に首が転がってたりな。
 何時から賊を始めたのか、それももう曖昧になっちまってたな」

賊になったクズが、嘆くことじゃねぇかも知れねぇが。
そう自嘲気味に話して、アニキは淡々と荀攸へと語りかけた。
ある意味、それはざんげに近い物だったのかも知れない。
或いは天代という存在に拾われたアニキが感じていた、賊に身を落とした仲間(同類)への罪悪感だったのか。

「……俺が御使い様の為に働くのは、命を救ってもらったとか、賊の俺を信じてくれたとか、そういう色んな物あるっちゃあるが
 どっちかてぇと、もっと別のところだな」

そう言ってアニキは天に顔を向けて、陽光に目を細めた。
荀攸は続きを促した。
アニキは少し恥ずかしそうに笑って、警告した。

「笑うんじゃねぇぞ」
「ええ」
「大きな夢をよ、見れるんだ」

夢。
確かに大きな夢を見れる。
漢王朝をまだ、続ける夢を実際に荀攸は見た。
しかし何故だろうか、アニキが言う夢と荀攸の頭がはじき出した夢は、少し種類が違うように感じたのは。

「上手く言えねぇけど、俺達とは違う人なんだな、御使い様ぁよ。  
 俺らみてぇに間違ったり、悩んだりする同じ人間のはずなのによ、見てる場所が違うっつーか。
 あー、やっぱ良くわからねぇが、まぁそういう理由だな」
「……そうですか」

荀攸は彼が言わんとしていることをなんとなく理解した気がした。
北郷一刀という男はきっと、目の前の男を惚れさせたのだ。
理由はもう、なんでも良いところまで来ているのだろう。
維奉という男はもう、一刀という存在に対して"忠"を持っているのだ。
どんな夢を一刀が持とうとそれは些事であり、彼の形作る夢が彼にとって正しい世界になるのだろう。
決して依存をしている訳でもなく、かといって突き放す訳でもない。
一刀ならば、新しい世界を切り開いて道を作ってくれると信じているのだ。

自分もそうだろうか。
理屈で分かっていたはずの彼の叶わない嘆願に、是と答えたのは自身の"忠"を捧げるに値する者だったからかもしれない。
きっと目の前の者とは違う、もっと打算的で、もっと大きな望みを持っての忠誠ではあるのだろうが。
多分だが……いや、曖昧な言い訳はいらないだろう。
ここまで深く思考を捏ね繰り回すだけで、立派に証明しているではないか。

「私は……漢王朝に仕えているのですから、一刀様との関係は今回限りです」
「あ?」
「いえ、なんでも。 大いに参考になりました、維奉殿」
「んだよ、気になるじゃねぇか。 まぁいいけどよ」
「この戦が終わったら、一刀様の元を離れるという事ですよ」

そう言うとアニキは納得したのか、大げさに相槌を打った。
彼は忘れていたのである。
荀攸が、王朝に身を置く官吏であることを。
アニキは先ほど、さんざんに漢王朝を罵倒したことに気が付いて困ったような顔をしたが
それも数瞬、頬を掻いて曖昧な笑顔を浮かべ、荀攸へといった。

「そうか、そういやそうか、余りに自然に御使い様の隣に居たから忘れてたぜ。
 いっその事、御使い様に鞍替えするってのはどうだ?」
「ええ、機会があれば」
「そりゃ残念だ」
「……維奉殿、少し提案があるのですが」

この会話を終えたとき、荀攸は自身の胸の内に住んでいた靄が晴れていた事に気が付いた。
そして案外、前向きに……軍師としては少し反省が必要なのではと思うくらいには楽観的な結論に達していた。
成功するはずのない『策』が成ったその時は、一刀の根拠のない自信を信じてあげても良いかもしれないと思うくらいには。
仕える場所の候補の一つに、彼女が良く見かけた苦笑を漏らす青年の顔が描かれた日でもあった。

馬超軍はこの日、荀攸からの提案を受け入れて2日、出発を遅らせることになる。
2日、それ以上取れば馬超軍が郿城へ来ない理由を、韓遂に悟られる危険が増す。
韓遂の疑問が確信に変わりズルズルと長期戦に持ち込まれる可能性があるのだ。 引き伸ばす事は無理だろう。
この期日が一刀に与えられた猶予になる。
一刀が長安で官軍と董家を説得できなければ意味はない物になるが、ここまで来てしまった以上、足掻けるのならば足掻いた方が良いと判断したのだ。
この戦で荀攸の放った、最初の一手だった。



      ■ 正面突破



そして、今や官軍、反乱軍、馬超軍といった十万を越える人命を背負っていると言って過言でない男。
歴史の鍵を握る北郷一刀と言う名の青年は、げっそりしていた。
この二日を一刀が振り返るならば、ただの一言で足りる。

エロ苦しい、と。

一刀からすれば苦行となった原因は理不尽以外の何物でもないが、しかし、確かに自分にも非があることを認識していた。
こういうのは何と言っただろうか、ラッキースケベと呼ぶのか。
悪意も無いし、下心も無かった。
詳しい経緯を省くまでもなく、事は単純かつ複雑だった。
強いて挙げるとするならば、翠のおっぱいはプルンプルンで太腿がムチムチで、お尻がボンボーンだったということか。
加えてそれらの結果、『KENZEN』な青年である彼の下腹部に存在したラストサムライが『鎧化(アムド)』を引き起こしたくらいだ。
あえて言えば、そう。 圧倒的なまでの謎の力が働いていたのだ。
いや、脳内ではない。 
確かに謎の力という言葉は脳内に当てはまるかもしれないが、そこまで自分達が野獣でないことも一刀は分かっている。
馬家の温泉の一件など無かった。

「そろそろ長安に入るんだけど……今のままじゃ不味いと思うんだ」
『そうだな』
『ああ、深刻だな』
『翠が口を聞いてくれないもんな……』

頬に見事な紅葉を咲かせている一刀は神妙な顔で頷いた。
当然のことながら、約10メートル先を前に行く金獅を一刀から奪ってポニーテールをたなびかせる少女がつけてくれた紅葉である。
彼女の機嫌は当然だが、相当悪い。
一度や二度なら彼女もかろうじて許してくれていた。
だが5回を越えた辺りから眼が据わり、10回目にして張り手が飛んできたのである。
繰り返すが、決して故意ではない。 むしろ翠はよく耐えた方だろう。
そんなわけで、長安へ向かう二人の距離は次第に離れ、見えない防音の壁が出現したかのように会話は無くなった。

そうして気まずい二人旅になってしまったが、それも終わりにしなければならなかった。
なにせ、これから行う董家との話は、失敗すれば終わりと言っても差し支えないほどのもの。
近く行われるだろう郿城での戦よりも、一刀にとっては重要な決戦の場なのである。
一刀は意を決し謝罪をして、今後の話を彼女としたいのだ。
もちろん、翠だってそれは理解しているだろうし、何よりも自分の家が懸かっているのだから話は出来るはずだ。
しかし腰が引ける。 
下腹部的な意味ではない。
数十回以上に及ぶプルンプルンやボンボーンと引き換えに、一刀は少女へ声をかける勇気を失っていた。

『まぁ、起こった物はしょうがない。 とにかく謝り倒して話をしよう』
『もう時間もないしね』
「分かっている、分かっているんだが……」

約十万にも及ぶ人間が命をぶつける決戦の鍵が、少女の柔肌の責め苦に喘いで独り言を繰り返す様を、翠はちらりと肩越しに覗き見た。
この男は本当に大丈夫なのだろうか、と。
彼女も現状を理解できないほど馬鹿ではない。
そりゃあ、難しい事を考えるよりは槍を振るっていた方が万倍も良いと思っているが、母の馬騰が倒れて馬家の手綱を握る事になった少女は
出来が悪いと知りつつも、家の事を考えてきた。
その結果、韓遂に嵌められたという取り返しの付かない愚を冒してしまったし、言い訳すら出来ない程に董卓軍と『やって』しまった。
そんな彼女に救いの手を差し伸べてくれたのは、エロエロ魔人だった。
いや、感謝はしているのだ。
仮に一刀の思惑が翠自身を対価に求めていたとしても。
自分の身体と引き換えに馬家を救ってくれるのならば、これほど安い取引はないだろう。
何より卑猥な身体的接触は翠から見ても偶然としか思えず、邪な感情は含まれていないと思えた。
しかも、だ。
不思議な事に、一刀がエロエロ魔人として接触する度に『女』として扱うその一連の出来事が―――

「何故か嫌じゃないってのが……って違う違う、何言ってるんだあたしはっ、馬鹿だほんとにっ!」

「……」
『本体、怯むな、今のは間が悪かっただけだ!』
「いや、でもちょっと興奮してるみたいだし、少し時間を置いたほうが」
『せっかく勇気を出したんだろ、声をかけるんだ!』
『たかがシールドをやられただけだ!』
『まだやれる!』
「楽しんでるだろお前らっ!?」

人間、会話が無い退屈な時間が生まれれば自然と思考に走るものである。
そうなると、必然となって独り言は増える。
意を決した一刀が声をかけれない、或いは声をかけようとしてやめてしまうのも、時たま思い出したかのように興奮する翠の独り言が主な原因でもあった。

ようやく、と言って良いだろう。
一刀が何とか声をかけることが出来たのは、見慣れた荒野を切り裂いて長安の城壁が目視できる距離に到達してからだった。
 
 
―――・
 
 
参った、と一刀と翠は互いに頬を赤らめて、視界に捕らえた長安の城壁を見ながら歩いていた。
お互いに顔を直視できない。
一刀はもちろん、先に述べた事象のせいでもあったが、同時に胸を突く鼓動には別の物も感じていた。
そう、音々音を見て感じるような甘くて苦しい感情が沸きあがるのだ。
心当たりは―――ある。
未だに目の覚める様子の無い"馬の"の想いが強く本体に作用していると一刀は思えた。
ぶっちゃけると、翠を見ていると顔が熱くなって鼓動が高まり、鼻息が荒くなる。
こうして大きな未来を賭けた重要な話をしていても、何となく声が上ずるし、集中が出来ない。
まるで、病に冒されたかのようである。

隣の翠は、そんな一刀を不審に思うどころか同調して頬を染めていた。
症状はほぼ似たような物である。
一刀の中に居る一刀に愛を囁かれた影響かどうかは分からない。
正直、一刀の中とかそう言ってる事は殆ど理解できないし、どういう状況なのか想像もつかないでいる翠だが
目の前の男に"愛してる"と言われたことは間違いがなく、また、異性に愛を囁かれたのも当然ながら初めてだ。
肌に触れられたことも一役買っているのは間違いないが、本質はそこで在ると翠はぼんやり把握していた。

首を振って、一刀は雑談をやめて本題に入った。

「え!? そ、それで本当に平気なのか?」
「あ、ああ。 俺達は不幸なすれ違いをしただけだろ、少なくとも俺達はそうだった。 大丈夫だよ」
「う、う~ん……それで、えーっと、本当に平気なのか?」
「あ、っと、そうやって悩むと、態度に出るよ? そっちの方が逆に疑われると思うんだ、うん」

翠はそこで顔を顰めた。
今出ている態度の原因は、隣で長安を見据える男のせいなのである。
なんとなく頼りがいがあるように見えて、逆に悔しい。

「わかった、どうせあたしは良い案なんて思いつかないし……一刀を信じる」
「ああ、信じてくれ」

今は敵地であると言って良い長安に入るに当たって、一刀の出した案は真っ直ぐ城内へ向かう事だった。
それはどちらかというと、一刀にしては積極的な案であった。
特に、馬家では考えなしと言って良いほどあっさり捕まったこともある。
不安がないと言えない。
だが、最後の助言として荀攸から授かった"時間を無駄には使えない"という言葉が、頭の中に強く残っているからでもあった。

長安へ向かう途上、一刀と翠は官軍が郿城へ向かっているのを見かけている。
見間違いでないのならば、孫旗が翻っていることから孫堅であると思われた。
一刀は耿鄙から、孫堅が謹慎のような形で宮中に居ることを聞いている。
そんな彼女が一軍を率いて来たという事実は、乱が激化した事で官軍が切羽詰っている事を容易に想像させた。
或いは天代が参加しているという噂から、張譲達が一刀を滅殺する為に放った牙であろうか。
何にせよ、時間をかければかけるほど『反乱軍側についた馬超軍』という構図を延ばす事になり
その時間が長ければ馬超軍も官軍も大きな出血を強いることになる。

理由はまだある。
馬家で捕らえられたように、長安で同じことが繰り返されないとは限らない。
呂布や張遼は追撃に出た事から、生きていれば郿城へと向かうはずである。
指揮は恐らく、董卓の知恵であり軍師の賈駆が振るっていることだろう。
前述の通り、官軍から援軍としてきただろう孫堅は郿城に向かっている。
つまり、長安に居るのは董卓と、韓遂や辺章が郿城を無視して長安を強襲する際に備えた華雄将軍のみ。
時間をかければ戦況によっては新たに中央からの援軍が来るかもしれない。
郿城から長安へ、将が戻るかもしれない。
官吏の人間は少なからず居るだろうし、一刀が知らなくても相手が知っている事などザラであろう。
で、あれば時間をかけるメリットは少ない。
董卓と会う事、その時点でリスクは多大で、自ら危険を増やす為に滞在する利点は何処にもないのだ。

「何処も見学できそうにないのがちょっと残念だな」
『まぁ、成功したらゆっくり見学できる時も来るさ』
『そうそう』
「はは……そうだね」

ふう、と一刀は気を引き締めるように一度、息を吐き出した。

「董卓さん、か……」

丁原との関係から親しくなった、洛陽で出会った少女を思い出す。
出来れば、彼女と二人きりで話がしたかった。


―――・


一刀達がもうすぐ長安に入り二人きりでの謁見を望んでいたころ、窓から陽が差し込む城中の長い廊下に
長安では見慣れぬ官吏の姿が在った。
何進から一枚の書を預けられたその人物は、孫堅と共に入城し、今しがた何進のおつかいを済ませたところだ。

「おや、お早いですな、李儒殿。 董卓殿にはお会いしなかったのですか」
「ああ」
「それでは、すぐにお帰りに?」

官吏の一人に声をかけられた李儒は、仕草だけで洛陽に戻る事に難色を示すと、顎鬚に手を伸ばして一つ擦った。
李儒の真後ろを付き添うように官吏は背を追う。
彼が自ら何進のおつかいで長安へ赴いたのは、彼なりの理由があった。
今の李儒の立場は宦官ありきなのだ。
その中でも権力を持つ張譲に取り入って地位を手に入れた。
張譲から何進の胸に秘めている、宦官の排除の計画を聞き及び、袁紹からそれとなく真実を確認した李儒は
何進の企てが本気であることを知ったのだ。
張譲との間を取り持つ形で何度か何進と顔を突き合わせて話をした事もある李儒は、巻き込まれる前に距離を起きたかった。
大将軍の思惑は袁紹には突っぱねられたが、大陸の混乱は長引くだろうと李儒は見ている。
かつての官軍の威容を取り戻す事が出来るのは、果たして何時になろうか。
恐らく、大将軍は待てないだろう。
今は後援を手に持たない―――出来る事ならば一人で決着を着けたい―――何進も、王朝の膿と言える宦官の排除において
諸侯を頼らざるを得ない。
その白羽の矢に発ったのが、肥沃な領土を持ち、漢王朝に於いて権威も力もある袁家だ。
この目論見は失敗に終わったが、何進は諦めていまい。
長く考えていた様子の李儒は唐突に口を開いた。

「先ほど届けた書がそうだろう。 袁家が駄目となれば、高官でもあり軍事力もある董卓殿を頼る事は十分ありえるしな」
「なるほど」
「それに、聞いた話では董卓殿はまだ小娘だという。 何進にとっては袁紹よりも御しやすい存在かもしれん」
「では、牽制の為に長安に残るということですかな」

官吏の声に、李儒は顔を見られぬようそっぽを向いてから眉を顰めた。
目の前の官吏は張譲の用意した人間で、彼の言う通り張譲の目論みはそこであろう。
もしかしたら、董卓へと出した書を偽造することも期待されていたのかもしれない。

しかし、李儒には別の思惑があった。
それに気になる話も出ている。
追放された北郷一刀が反乱軍に加担したという噂だ。
市井に出回っているこの噂、現状は一笑に付されているが、内情を知る者からすれば十分にありえる話である。
仮に真実だとすれば、何進の暴走と相まってゆったりと腐り落ちていた漢王朝が早死にするかもしれない。
張譲たちも、こうして自分を長安に送り込んだ事から酷く危うい立ち位置にいることを理解しているはずだった。

そこまで考えて、李儒は一つニヤリと笑った。

一介の書生であった身分の李儒が、天代追放の思惑を知るに当たり宦官の庇護の下で権力を奮えた事は
今までの人生に無い快感であった。
一度味を占めてしまったら、二度と忘れられない。
近く、漢王朝は潰える可能性が高いのだ。
この機にじっくりと腰を据えて、権力者の選定をするのも悪くは無い。

「洛陽には戻らない。 暫く長安に腰を落ち着けるとしよう」

背後で頷いた官吏を尻目に、李儒は長い廊下を渡り城の中央へと出た。
そう、李儒には思惑があった。
強い権力下の元で、自身の知を持って謀ることが出来る環境を構築すること。
今、自分を雨から守る傘は穴が開き始めて役に立たなくなりつつある。
強い雨から濡らさずに、覆ってくれる強い強い傘を彼は求めていた。
ここへ来る前に会った袁紹はどうだ?
諸侯の中でも、一際強く光り輝く袁家は上手く立ち回れば覇者にもなれよう。
天代の追放という一助を成した事は、李儒に強い自信を与えていた。

そんな彼の思考を遮るように、大きな声が長安の城中に響いたのはその時だった。

「ん? 騒がしいですな」
「うん?」

官吏の一人が、城の門前で起こった騒ぎに顔を向けて、不審げに李儒へと声をかけた。
釣られるように、李儒もまた顔を向ける。
声は大きく、それに惹かれるよう門の前で人の環が出来始めていた。
李儒の場所から当事者はここからは良く見えなかった。

その人の波の中を掻き分けるように、戦斧を背に担いだ少女が入っていく。

「どけ! 何を騒ぎ立てておるか! 何事か!」
「はっ、華雄将軍! それが……」
「華雄将軍、天代様と、その、馬超と名乗る将が現れました」
「なに!?」

城兵と、数人居合わせた文官が華雄の道を開ける様に脇へと寄せる。
一刀と翠を視界に収めた華雄は、眉根を顰めて腕を組んだ。

「何用だ」
「華雄殿。 董卓殿に会いに来た。 謁見を求める」
「敵将を連れて、我が主に会いに来ただと?」

敵将という率直な物言いに、一刀の横に居た翠がやにわに視線を地に落とす。
それに気が付いた一刀は、周囲に悟られぬよう翠の服の裾を引っ張った。
ハッとしたように、顔を上げて、華雄へと目を合わせる。
僅かに一刀が顎を引いたのを、翠は見えた気がした。

「不幸なすれ違いからぶつかる事になってしまった。 その詫びを兼ねて董卓殿と話がしたい」

真っ直ぐに見返されてそう言った翠に、華雄は姿勢を変えず目線だけを隣に立つ一刀へと向けた。

「天代殿には妙な噂も立ち上っているが、叛徒と手を組んだというのは真か」
「それも含めて、董卓さんに話がある。 勿論、華雄将軍にも聞いていただきたい」
「当然だ、月を一人になど出来るわけがない」

今、この場の話の流れの決定権を持つのは間違いなく華雄にあった。
敵将と断じた華雄だが、実際のところ涼州の雄と呼ばれる馬家が寝返った事には懐疑的だった。
と、いうのも、董卓軍が馬超軍に蹴散らされたという話は来たものの、彼女の主である董卓がその事実を疑ったからである。
董卓という少女の慎重性が大いに発揮された結果ではあったが、華雄が即座に斬りかからない理由にもなっていた。
馬家の寝返りと襲撃の話の出所は自軍の兵からだ。
そこに疑いなどは持たない。 馬超と名乗った少女が言った『詫び』という言葉からも伺えた。
しかし、馬超だけならばともかく、一刀の存在が彼女の思考の天秤を揺らしていた。
華雄は先の洛陽を襲った、波才率いる黄巾の軍と矛を交えており、その戦の指揮を執っている天代・北郷一刀を知っていた。
この乱の流れに一石を投じに来たのではないか。
あの時と同じように、自分では及びもつかない策を持って我が主に会いに来たのでは?

腕を組み、難しい顔をして黙ってしまった華雄に、押し所だと脳内に促されて一刀が口を開こうとした時だ。
華雄がしたように、人を分けて現れた顔に、一刀は開いた口を開けたまま喉を詰まらせた。

「御久しい顔が見えますな」
「っ、李儒……殿」
「……顔見知りなのか?」
「ええ、将軍。 先ほど手渡した書はどうなされました」
「しっかりと渡した。 読んでいるかは知らん」
「そうですか」

華雄の隣に立ち、そんなやり取りをしている一刀は、この場に現れた李儒という男に冷や汗を流さずには居られなかった。
自然、握った拳はぬめり、喉の奥がひりつくように熱くなって一気に乾く。
脳裏に走った緊張が胸を打ち、高まる鼓動に息を荒げた。

急変といっていい、一刀の様子に気が付いたのは隣で立つ翠だけだった。

「将軍、失礼ですが先の話、私も聞こえてしまいました」
「む……何が言いたい」
「いえ、どうなされるのか興味があるだけでございます。 将軍も知っておられるでしょう、天代のことは」

李儒の言葉に、華雄は首を縦に振った。
直接見たわけではないし、聞いたのも人伝ではあるが、一刀が洛陽を追放されたことは華雄も信頼を置く賈駆から聞かされたものだ。
先ほど、彼の黄巾での一戦を思い出して考えていた事が今度は逆に作用する。
噂にあるように天代が叛徒と手を組んだのならば、我々を打ち倒すための一手がこの謁見ではないか?
ありえない話ではない。
調教先生として、諸侯に教鞭を取り、賈駆という少女を唸らせる程の策謀と軍略に秀でた男。
そういう認識が華雄にはあった。

この華雄の逡巡の最中、翠は先ほど自分がされたように、一刀の服の背をそっと掴んだ。
一刀は傍目にも分かるほど、ピクリと肩を跳ね上げた。
この話は董卓という少女と会って話すことが心臓部である。
翠のさり気無い援護が、一刀の鼓動をゆっくりと平坦に押し戻していた。

華雄の思考が複雑に絡まり始め、面倒くさいから斬ろうかなと思い始めたと同時、一刀もようやく立ち直る事が出来た。

「華雄将軍、董卓殿と話をする機会を下さい。 で、あれば叛乱軍をなぎ払う機も得ましょう」
「なっ―――!?」

一刀の言葉に、周囲がざわりと動揺した。
華雄も一刀が今しがた放った言葉には、思わず短い呻きが出てしまった。
ただ一人、李儒を除いて。

「なるほど……興味深い話です」
「この地に参った事、お分かり戴けたでしょうか李儒殿。 残念ながらこの場で全てを話す訳にはいきません」

一刀が言った言葉は、董卓軍の力を得れば大軍を擁する叛乱軍など敵ではないと言い切ったに等しい。
実際のところは成功してもなぎ払えるかは、郿城での戦の行方如何である。
とはいえ、この釣餌はしっかりと全員が美味しいものだと理解したはずだ。

「……良いだろう、月に会わせる。 真正面から乗り込んできたのも肝が太くて気に入った」
「よろしいので? 噂にも上っているでしょう、ここに居る全員の顔から判るでしょう、疑念の塊を抱え込むと?」
「構わん、もし天代の胸の内に何かあるならば、その瞬間に斬り捨てるだけだ」
「華雄将軍がそう思ったなら、斬り捨てて良い。 馬超殿も当然そのくらいの覚悟は決めている」
「ああ」
「付いて来い。 案内しよう」

踵を返し、華雄は振り返る事無く歩きはじめた。
慌てて傍に居る兵が駆け寄って、一刀と翠は武器を預けその背を追う。
李儒の真横を通り過ぎるとき、一刀の耳朶に彼の声が飛び込んで来た。

「自分の立場は弁えているだろう、説き伏せることが出来ねば分かっておろうな」

僅かに立ち止まり、一刀は横目で李儒を見た。
同じように目だけでこちらを窺う横顔に、一刀が頷くと、そのまま追い去るようにして華雄の後を追う李儒の背が見えた。
董卓との話には同席させてもらう、そういうことだろう。
しかし、今の言葉を逆に捉えれば、だ。
一刀が董卓と、李儒を説き伏せれば彼は干渉しないと言ったに等しい。

『……ま、月との会話に支障は無い』
『だな、長安は董卓の管轄で涼州の乱は軍部の話だ。 直接的な障害にはならないだろう』
「それでも、可能性は下がった」
『そうだな……』
『とりあえず行こう、華雄が不審がる』

中央からの官吏が居ることはともかく、それも張譲に近しいだろう李儒が会席することは一刀にとっては予想の外の事だった。
何より、董卓も官吏の目があることから一刀に対して立場的な問題もあって、本音を晒すことは難しくなるはずだ。

「一刀」
「ああ」
「信じてる」
「……行こう」

李儒から遅れること数歩。
その背を追って一刀は翠の力強い目に勇気を貰い、董卓との謁見の場に向かった。



---・



謁見の間。
その奥の部屋から現れた董卓は洛陽で見た姿とは少し違う、華美な装飾が多く施された儀礼的な服装であった。
ゆったりと座り込むと、武器を携えた華雄がやや後ろ、副官よろしくピッタリと直立した。
それを確認してから一刀は、馬超と調子を合わせて礼を取る。
うっすらと目を開けて、普段から要人との謁見に用いられているだろう場所を見回す。
恐らく此処、長安に勤める文官と華雄の兵が幾人か、左右に立ち並んでいた。
一刀に程近い場所には、先ほど出会った李儒の姿も在った。
そこそこに儀礼的な挨拶を交わすと、董卓は一瞬、ふっと優しげな笑みを見せる。
僅かに目を見開いた一刀だが、その表情は一瞬の出来事で気がつけば真面目な顔をして見据える董卓の姿が在った。
一つ間を置いて、彼女は静かに口を開く。

「大まかなところは、華雄将軍からお聞き致しました」
「あ……はい。 しかし、その話の前に謝罪をしなければなりません」
「馬家との件、聞き及んでおります」
「……不幸にも、その一件は董家への痛打となってしまいました。
 馬家には貴家はもちろん、王朝への反逆の意志はありません」

そこで一刀は口上を切り、馬超を促す。
馬超はそれを受けて、一歩前に出ると頭を垂れた。

「お目見え光栄です、董卓殿。 我が名は馬超。 馬家の代表として謝意をする為に参りました」

声を出す代わりに、董卓が一つ頷く。

「涼州の乱は我ら馬家の者にも憂慮する物であります。 官軍、そして諸侯の軍と手を取り合うことあれど
 叛徒共に加担する意志は一切ありません。
 此度の一件は、全て叛乱の賊徒共が仕組んだものでございます」
「仕組む? そうは言うが、報告を聞く限りでは我が董家の受けた痛打は見過ごせないものですぞ」
「我が軍は叛徒共を追撃していた最中であったはずだ。 馬超殿の横槍があったせいでみすみす賊を逃したばかりか
 軍としての機能を奪われたとあっては、納得できるものも出来ますまい」

文官達だろう、左右に並ぶ者から声があがる。
一刀はこの時、李儒の顔色を窺った。
心なしか目を細め椅子に座る董卓を見つめつつ、僅かに口を開いて傍観している。
ふと気がつけば、董卓も彼の視線に気がついているのか、チラリチラリと李儒へと目線を向けていた。
自分達の話を聞き終えてから口を出すつもりだろうか。
少なくとも、今の時点では邪魔をする気は無さそうだった。
確認を終えた一刀は、文官達の声を遮り続きを引き受けた。

「追撃していた董卓殿の軍と、馬超殿の軍が当たったのは敵の誘引が原因でした」
「それがどうしたというのだ。 そのまま馬軍と一緒に賊を追えばよかろう」
「いえ、それは出来なかったのです」

一刀はここで、一枚の書を取り出した。
丁寧に折りたたまれた書に視線が集まる。
一刀は全員の視線がしっかりと集まったのを確認すると、口を開きながら董卓の下へゆっくりと歩きはじめた。

「今回の董家と馬家の不幸な一戦が、何故行われてしまったのかはコレを見ればわかります」
「そこで止まれ。 受け取ろう」

一刀は華雄に言われた通りに立ち止まり、恭しくその手に書簡を渡した。
綴じていた紐を解き、華雄は書の内容を確認すると、僅かに眉を顰め一刀を一瞥し董卓へと渡す。
董卓も同じように書簡に書かれた文と印を見て、眉をひそめた。

「その印は、朝廷の勅を示す印であります。 私は天代として洛陽で政務を行っていましたので見間違えることはありません。
 押印された印の横には、大将軍である何進殿と、董卓殿の名が入っております」
「何!?」
「それは真でございますか、董卓様!」
「天代様が言われた通りです……この書簡は、誰の下に届けられたのですか?」
「涼州の刺史であった耿鄙殿です。 耿鄙殿は、この書簡を持ち馬家……武威の地へと赴いておりました」

涼州の乱の激化を見て、何進大将軍から馬家に協力を仰ぎ、叛乱軍に当たる事。
もしそれが出来なければ中立を貫く馬家に警戒し、謀反の意在れば要人の暗殺を含む妨害を行うこと。
大雑把に書簡の内容に触れれば、こうある。
董卓には当然、この書簡に心当たりは無い。

「敵軍の、謀略ですね……」
「その通りです。 耿鄙殿にこの謀略を看破することは出来ませんでした。
 筆跡はともかく、使われた印は間違いなく本物です。 "二つと無い"物ですから」

少しばかりの皮肉を込めて、一刀は董卓から僅かに顎を引いて、李儒へと視線を向ける。
顎髭を擦り、李儒はそのくどい顔を歪めてニヤリと笑っていた。
胸中で深呼吸し、一つ小さな息を吐き出して一刀は続けた。

「耿鄙殿は忠実に、これを実行に移しました。 敵の思惑通りに動いた耿鄙殿に合わせる様にして
 同時期に涼州の叛乱軍でも中心人物と噂される韓遂が武威に訪れたのです。
 当時、馬家を引っ張る名声高い、馬騰殿は病により伏しておりました。
 それによって少なからず混乱をしていた馬家は、耿鄙殿の協力要請に応じるには時間が掛かると即答していなかったのです」

一刀のこの言葉には若干の嘘が混じっている。
最終的には、耿鄙は看破したとまで行かなくても、きな臭い物を感じ取って書簡の内容を忘れて馬家からは去ろうとしていた。
あの毒の一件が、彼女を武威の地に縫い付ける韓遂の一手であったのは間違いなかった。
また、馬家が協力要請に応じなかったのも真実だが、否、と即答していた。
耿鄙が亡き者となり、口を出せない今となっては誰もその真実にたどり着けないだろう。

「事情は分かりました、しかし今の話と我が軍との一戦が、どう関係するのか分かりません」
「董卓殿、耿鄙殿は書簡の命令に忠実でした」
「それは?」
「食事に猛毒を仕込んだのです」

ざわり、と周囲が騒がしくなった。
特に、董卓を主として仰ぐ者達の顔色は変わった。
敵対しているかも知れない馬家とはいえ、現在はあくまで漢王朝を支える諸侯の一つだ。
叛乱軍の謀略であることが分かっていても、書簡という物証なりえる物が存在し、なおかつ署名がされている。
洛陽で動きを見せない大将軍の何進が、黄巾の乱で揺れる今、涼州での乱を潰しに焦るのは客観的に見ても説得力がある。
漢王朝へと弓引こうと思えば、たった今、一刀から董卓に手渡された書簡一つで大事に成りかねない。
仕えた主が利用された事、その一点に華雄が怒気を露にし、馬超へと問う。

「本当のことなのか」
「……身内も巻き込まれ、賊将の韓遂も重態となった」
「毒に犯された者はみな死んだのか?」
「居合わせた医者の処置が的確で、死者は少なかった。 韓遂も助かっている」

喧騒の止まない謁見の間の中、李儒は一人茫洋とたたずんでいた。
手を組んで、ゆらりと左右に動いて。
一刀と董卓に向けて、胡乱な視線を向けていた。

『なんか、不気味だな……』
『ああ、突っ込むならそろそろ来てもおかしくないが……』
『確かに静か過ぎるね』

踊らされるでない。 書簡は本物かも知れぬが、その書簡こそ天代が作った物かも知れんぞ。
それこそ"二つと無い"物を何度もその手で使ってきたのだから、ありえぬ話ではあるまい?
などと突っ込むなら今が好機だろう。
まぁ、李儒の内心はともかく、突込みが無ければ無いで嬉しいチャンスである。
一刀は喧騒収まらない今、畳み掛ける事にした。

「毒の件は馬超殿の尽力もあって、すぐに納まりはしました。
 耿鄙殿はここで馬家の者に処され、書簡もこの時に発見しました」
「つまり、書簡から我らを敵だと断じ、一軍を持って当たったというのか」
「結果的にはそうです。 この書簡を発見したものの、馬家は慎重を持って真偽を確認するべきだと判断しました。
 同時期に出立をしていた官軍への援軍を控えるよう、将兵の下に直接伝えるべく馬超殿が赴いたのですが
 折り悪く、貴軍と接触してしまい、馬家の内情を知らない董卓軍将兵と、疑いの晴れない馬超軍で口論から始まったのが
 一戦交える事になってしまった全容でございます」

言い切って、一刀は一拍置いて馬超へと目だけで訴えた。
事前に打ち合わせたとおりに、馬超はその場で傅いた。

「董卓様、我が家に敵対の意志は無い。 謀略に巻き込まれたとはいえ、同じく王朝を支える諸侯の一人として
 董家の大切な民、兵を奪った我らを憎むのは当然! 浅はかにも挑発に乗って戦ってしまったのは地に頭をつけて謝るより他は無い!」
「……馬超殿」
「董卓殿、馬家には謝意を示す為の軍馬3千を初めとした貢物をすることを私に確約してくれました。
 どうか今の時勢の状況を鑑み、寛大な心を持って赦して戴けませんか?」

結局のところは、此処に居並ぶ人間がどれだけ納得できようと出来まいと、董卓の決断一つで決まる。
自然と喧騒は消失し、謁見の間に静寂が戻ってくる。
董卓はこの場に集った全員をゆっくりと眺めた。
まるでその静謐の瞬間を待っていたかのように、彼女は静かに口を開いた。
決して大きな声ではない、董卓の声が部屋の隅々にまで響く。

「馬超殿」
「はい」
「今回、私はどのような理由であろうとも、王朝に弓を引いた形になり、黄巾から続く我が民の苦しみの一助となった貴軍の話は
 突っぱねるべきだと……漢に仕える諸侯の一人として、心を鬼にして接するつもりでいました」
「それでは!」
「貴女の……馬家の謝罪を受け入れます。 貢物も此度の乱が鎮まるまでは結構です。 今は一刻も早く、元凶たる叛乱を協力して抑えましょう」

董卓の声に、馬超はもう一度深く、頭を下げた。



      ■ ささやかな復讐



謁見が終わると、一刀は翠とその場で別れることになった。
と、いうのも翠の用件は董家との和解が終われば、この地に留まる必要は無く
郿城へ向かう馬超軍の下に駆けつける必要があったからである。
つい先ほど謁見の間で、董卓へと直接に一刀が策を話したことから容易く受け入れられ、挨拶と感謝もそこそこに
颯爽と馬を駆って翠は長安から離れた。
一刀が翠と共に行動しない理由はもちろんある。
謁見の間で一刀も叛乱軍に付いたという噂は払拭され―――あくまでも洛陽を追放された件は別としてだが―――叛乱を鎮める為に
協力することになった。
ある程度、董家に信用はされた一刀は、馬超からは遅れて出立することにしたのである。
一つの大きな戦いを終えて、一刀は無意識に安堵の息を吐き出した。
結果だけ見れば完璧だ。
悔いが残るとすれば、董卓個人と話が出来なかったことだろう。
これ以上は望むべくもない……こんな落ちが無ければだが。

「ふんっ、城中に残ったのが賈文和でなくて良かったな、北郷一刀」
「……そうですね」

一刀は別の意味で溜息を吐きたくてたまらなかった。
翠と別れ、彼女を見送った直後の事だ。
あの場ではユラユラと口を開けたり顎を擦ったり、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていた李儒が、一刀を食事に誘ったのである。
市井で出ている店について、カウンターの様な場所に陣取り、自分を追い出した者の悪人顔と一緒に酒や杏仁豆腐を突いていた。
なんなのだろうかコレは。
どちらかと言うと、こんなチョビ髭の親父よりも董卓と杏仁豆腐を突つきたい。
この場所を選んだのは、こっそりと話すよりも堂々と話した方がバレにくいという定説から来るものと想像は出来るのだが。

「いいか、ハッキリ言わせて貰うが戦況を覆す一手になるとは、良くも豪語できたものだと言わざるを得ぬわ」
「はぁ……いやまぁ……」
「こう見えて私も書生であった時代から、色々と勉強した身だ。 突っ込もうと思えば幾らでも突っ込める」
「まぁその……戦は水物ですし」
「例えば、皮肉交じりに良い放った、勅印のある書簡の事も貴様が作った可能性があるとな!」

ブハッと一気に飲み干した容器とカウンターに叩くように置いて、李儒は顔を顰めて一刀へと顔を向けた。
吐き出した酒の匂いが鼻に付く息が、一刀の顔面に吹きつけられる。
思わず口をひん曲げて、顔を歪ませた。

「なんだ、その顔は。 貴様、己の立場を良く分かっていないようだな。 密告すればどうなる? うんぅ?」
「いや、それは助かってますけど……」
『うぜぇ……』
『なんか、むかむかするな……特に顔』
『本体の強い思いが俺達を捕らえてるんだな』
『本体じゃなくてもうざいだろ、これは』
『結論が出たな』
『顔はうざいってことだな』

好き勝手に言い合う脳内の言葉も、面と向かって相対する本体には何の慰めにもならなかった。
同情するような声に、脳内に交代を望むがマッハで却下される。

「ふん。 まぁいいだろう。 ところでだ、北郷一刀。 話は別にある」
「なんスか……」
「ナンスカ? 天の言葉という奴か? 貴様、私を罵倒しているんじゃなかろうな」
「そんな事は無いです」

杏仁豆腐を掬い上げて口の中に放り込む。
目の前の男と一緒でなければ、舌鼓を打ちたくなるほど美味しかっただろう。
呼び出された直後の張り詰めた空気は、李儒の予想外な―――言うなれば親父臭い―――態度に霧散していた。
とはいえ、ようやく一刀への言葉攻めを止めて本題に入るようでもある。
酒を仰ぐ李儒に、一刀は食器を置いて口を開いた。

「で、李儒殿。 謁見の場で言及を避けた理由をそろそろ聞かせてください。 その為に呼び出したのでしょう」
「警戒する貴様にわざわざ合わせて話しやすい空気を作ったというのに、せっかちだな。 良いだろう、お前と飲む酒も美味くはない」

酔いどれた姿から一転、皮肉をかましつつ李儒は真面目な顔を作った。
勢い良く飲んでいたせいか、若干頬に赤みが差している。
張譲の下に付くこの男が、ノコノコと現れた殺すべき人間を見逃す理由が、一刀には分からなかった。
頼りにしている脳内達も揃って首を傾げたのだ。
及びも付かない何かが在ることだけは確か。

「よく聞け。 二度は言わぬ」
「……分かった」

細まった視線に射抜かれ、一刀は重々しく頷いた。
ありえるとすれば、張譲との絡みで宦官に関わる話か。
そうであれば、何時爆発しても可笑しくないと聞かされていた何進の、宦官の静粛が始まろうとしているのかもしれない。
それとも、予想以上にこの地の叛乱に大きな裏があるのか。
一刀は一言一句、聞き逃さぬように李儒の言葉に耳を傾けた。
その李儒は、顎鬚に手をやって落ち着かない様子で息を吐き出した。
たっぷり、おおよそ30秒はかけて、ようやく薄暗い笑みを浮かべながら口を開く。

「董卓様を見た瞬間、この女(ひと)しか居ないと確信したのだ!」
「……え?」

李儒の放った力強い宣言に一刀は混乱した。
目の前の男が何を言っているのか、言葉を理解できてもその内容が理解できなかった。
最初に理解できたのは"一刀"だった。

『おい、殺していいかコイツ』
『落ち着け"董の"』
「今までの生で、あれほどの衝撃を受けた事は一度たりとて無かった。 いや、これから先の余生でもありえぬだろう!」
「……」
「貴様が心配しているだろう張譲など宦官は最早どうでも良い。 あんな奴等はあの少女に比べればゴミクズ同然だ。
 柔らかな表情に愛らしい瞳、潤った唇、瑞々しい肌にきめ細かい毛髪。
 ぬっふっふ、貴様には分かるまい、至高とは、ああいう物だと言うのが」
「……」
『ふざけやがって! 大体同意できるのがムカつくっ!』
『落ち着け"董の"』
「おっと、思わず熱くなってしまったようだ。 仕方あるまい、あれだけ可憐な生き物は見たこと無いのだからな……それでだな、北郷」
『落ち着け"董の"』
『まだ何も言ってねぇよっ!?』

一刀はただ、杏仁豆腐を食する事にだけ注力することにした。
なるほど。
今はもう記憶が混ざり合ってあやふやではあるが、李儒は董卓の下に居るという歴史があったはずだ、多分。
何かが巡り巡って、きっとこの男は董卓の下に辿り着くようになっていたのだ、恐らく。
どちらにせよ、一刀はこの時点で深く考えるのをやめていた。
ひたすら手を動かし、プルンプルンの食物を口の中に投げ込む作業に没頭する。
音々音と一緒に食べてみたいなぁ、などと思いつつ、興奮する隣の中年男性の声に適当に相槌を打った。

「貴様のことを見逃したのはつまり、これだ!」
「これですか」
「そうだ! ここ、長安に来るに当たって董卓様という人物の情報は集めていた!
 西園八校尉の件で、貴様には董卓様と接触しているはずだな? 良いか、勘違いするんじゃないぞ。
 私の思いというのは好意から出る忠誠というものだ、分かるか?」
「なるほど……で、何を仰りたいのです」
「貴様を見逃す対価として、董卓様の事を教えろ。 どんな些細な情報でも良い。 趣味嗜好、好物、何でも良い。
 これから私は張譲から貰った官職を捨て彼女に仕えるのだ。 初手から下手は打てまい」

顔を上気し、片膝を立てて酒を食らう李儒に、一刀は胡乱気な視線を向けた。
仮に、この話を蹴ったらどうなるのだろうか。
気持ちとしては彼の想いに負けないくらい、いや越えているだろうほどの愛しい人と引き裂かれた一刀は
目の前の男に協力しようなどと思う気持ちは欠片もわかない。
沸かないのだが、しかし、これを断ったら見逃してくれないという言葉。
荀攸が指摘し、一刀がずっと警戒していた張譲達が用意したであろう『罠』という奴にずっぽりと嵌るかもしれない。
そもそも、酒に酔った男の言葉を信じていいものか。
これが演技である可能性だって……いや、どうだろうか。
一刀は分からなかった。
今、彼は混乱の中でものすっごい複雑な気分であった。

『本体、俺に任せてくれないか』
『"董の"、お前平気なんだろうな』
『非常に気の抜ける話だが、生殺与奪を握って居るのも李儒なんだってことを―――』
『分かっているよ。 本体、俺を信じてくれ』
『なんか、凄くカッコいい台詞なだけにこの状況だと浮くな……どんまい"董の"』
『五月蝿いって! 俺はマジだぞ!』
(……任せるよ)

既に考えるのをやめていた本体は、渡りに船とばかりに"董の"へと主導権を任せた。

「聞いているのか、北郷」
「聞いてる。 一ついいかな、李儒殿」
「なんだ?」
「これはさ、本人から聞いたとても貴重な証言なんだけど……見逃してくれるなら教えるよ」
「ふへ、当然だろう、貴様が物分りの良い男で少し安心したぞ」

細まった目をたらし、気味の悪い笑みを浮かべる李儒に、一刀は言った。

「彼女は実は、李儒殿のようなチョビ髭と、李儒殿のような薄い髪が大嫌いらしい」
「……なん……だと?」

驚きに目を剥いて、李儒は顎鬚をやんわりと擦った。
実は"董の"は知っていた。
かつて自身が駆け抜けた乱世の最中、反董卓連合の直前だ。
李儒という男と出会い、大きなミスを犯して賈駆から丸ハゲに髭剃することを強要されたという事実。
これを受けて、李儒は賈駆へと深い恨みを抱いたのである。
その後、確執から李儒は董卓の下を離れて色々と問題が起きたのだが―――今、重要なのは彼の大事な髭と髪の事だった。

「偶然、洛陽で話している時に哀れな毛髪とチョビの髭の人を見て、董卓殿が呟いたんだ。
 ああいうのは、見ていて可哀想ですし、いっそさっぱりと切って貰った方が良いですね、キャピってね。
 今のままじゃ、ゆ、董卓殿には良い印象を持たれない」

李儒は、先ほどまで赤みを差していたとは思えない真剣な面持ちで重く尋ねた。
いや、少し顔が青くなっている。

「……切らねばならぬのか?」

これまた一刀は深刻そうに、コクリと頷く。
周囲の客が、先ほどまで騒がしかったはずの一刀達の変化に、居づらそうに視線を向けていた。
一刀も李儒も、当然そんな視線は眼中に無かった。
というのも、李儒はショックを受けていたからだが、一刀……いや"董の"はこの機をチャンスと見たのである。
故に、月に会う為に真剣なのだ。

「それと、他の件は、幸い俺と董卓殿は面識があるからね」
「ほう……間を持つ積もりか?」
「双方に取って重要なことじゃないかな? 正直、口約束だけじゃ俺も安心ができないんでね。
 李儒殿には董卓殿に関しての望む情報を。 上手くいけば李儒殿が仕える前に俺を追い出した能力の高さを前もって紹介できる。
 それに、李儒殿がこのまま彼女の前に行くよりも段階を置くことで、髭や髪を切ることを決断する時間も出来る」
「むぅ、なるほど、悪くは無いな。 宦官共の"網"から守るのが要求か? それより髭と髪はやはり切らねばならぬか」
「ああ、切らなくちゃ駄目だ、間違いない。 一つ付け加えるなら、李儒殿が持ち込んだという大将軍の書というのも見てみたい」
「強欲だな。 だが良いだろう。 あれはもう、なんの意味も為さない書簡だ」

一刀と李儒は、そこで話を打ち切った。
周囲は完全に、高官であることを示す衣服を纏った李儒と、長安で知らぬ者のない領主様の名を口にした一刀の
きな臭さ全開の会話に黙り込んで居た。
喧騒の中での会話作戦は見事に失敗していると言えるだろう。
二人共、店内の妙な静けさに気がつくと隠すように注ぎあって酒を飲み干し。

「信じて良いんだな」
「愛おしい董卓という少女の為ならば、裏切らないと誓おう。 血で誓約してもいい」
「っ……分かった、親指で」
「よかろう」

立ち上がり、一刀と李儒はお互いの親指を小さく切って、李儒の懐から取り出された筆と紙面に押印し署名する。
その紙面を李儒は一刀へと手渡した。

「ああ、そうだ。 一つ有益な情報を教えてやろう」
「なんです?」
「近く劉弁様が即位する、10日もかからんだろう」
「……そうですか、随分と突然ですね」

李儒の説明では、今まで難航していた後継者の問題が一気に進んだのは、ここ数日であったという。
中心となったのは大将軍何進の行動だ。
何進が劉協の下に直接出向いた一件で、流れは劉弁に傾いていたが、宦官の排除の目論見を掴んだことによって
劉協を仰いでいた張譲達が、一気に劉弁派に傾倒したのだ。
劉弁の即位が決まれば、帝となった劉弁は宦官を重用するだろう。
当然、何進の思惑は達成できなくなる可能性が増す。

「大将軍の思惑……」
「賢しい貴様なら大体分かるだろう、だから意味のない書簡だと言ったのだ」
「……それでも、一度拝見させてもらいますよ」
「ふん、好きにしろ」
「ええ、好きにします」

そう言って席を立った一刀は、素早く店を後にした。
李儒へ酒と杏仁豆腐の料金を押し付ける為に。



---・



『上手く利用したな、"董の"』
『月に会いたいって思ったら自然にね。 話してて李儒が月に本気だってことも分かったから』
『形だけの約束ではあるが、信頼して良いってことか』
『まぁ、本気そうではあったな……ある意味、俺達にとっては在りがたい話だが……』
『まぁ、良かったな。 月に会えそうで』
『ありがと』
「大将軍の思惑は、宦官のことかな? やっぱり……」
『だろうな』

劉弁の即位は本当の事だろう。
彼が今、王朝の後継者の件で嘘をつくメリットはどこにもない。
物思いに耽る本体を他所に、“仲の”が口を挟む。

『なぁ、董卓の言う、髪と髭ってのはマジなのか?』
『ああ、あれ? あははっ、嘘に決まってるじゃん』
『大事にしてたのか、あいつ?』
『そうだよ。 髪と髭に関しては、本体のちょっとした仇って奴かな?』

そう愉快そうに笑って、"董の"は李儒を嵌めていた。
今は何も手が出せない、本体の為のささやかな敵討ちだった事にツルッパゲの李儒が気付くのは、少し後の話になる。



       ■ 外史終了 ■



[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編9
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/02/24 01:00




clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編7~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編8~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編9~☆☆☆





      ■ 郿城の戦い



 翠が長安から離れ、一刀が李儒に連れ去られて会食をしていた頃。
 郿城に篭る官軍・董卓軍は辺章を中心とした叛乱軍とぶつかり合った。
 また、天水方面から押し寄せる敵軍には細逕にて、蓋をするように急造の陣を構築した官軍が防衛に当たった。
 気炎の昇る叛乱軍の攻勢は激しく、どちらの戦場も接敵からそう時間を経たずに官軍は押され始める。
 兵数の差も大きかったが、一番の理由としては馬家が叛乱軍に加わったかも知れないという疑念と
 張遼、呂布といった董卓軍の主力を担う将が、未だに戻ってこない事が影響を及ぼしていた。
 それでも、郿城は堅牢な防衛力を遺憾なく発揮し、蝗のように攻め寄せる叛乱軍を押し返していた。

 陽が空の天辺に昇るころ、戦況に新たな動きが加わる。
 皇甫嵩の守る陣に孫堅の援軍約5000の兵が到着したのだ。
 孫堅は押されつつある友軍を見て兵を二つに分けた。
 一方を郿城の援軍に向かわせ、残った半分の兵で奇襲を行う事を決断。
 小路からか大軍を持て余す叛乱軍の布陣を見て、蹴散らすに容易と考えたが故だった。

 そして、それは見事に成功を収める。

 長蛇となった叛乱軍の胴体を引き裂くように横断すると、突然の奇襲で混乱の激しい中央部が崩れ出した。
 俯瞰した視点を持っていれば、それは蛇の腹が膨らみ引き裂かれた様に見えただろう。
 動揺は伝播し、陣の外を攻め立てる最前線の攻勢が、僅かに淀んだ。
 戦場の流れを把握することに長けている皇甫嵩は、友軍の生み出した好機を逃さなかった。
 火の玉の如く攻めあがっていた叛乱軍の前線部隊は、狭道で官軍の兵に挟まれてほぼ壊滅。
 孫堅と皇甫嵩が合流を果たす頃には、陽が沈みこんでお互いに部隊を引く事となった。

 その翌日。
 夜襲、朝駆けを警戒していた郿城に篭る物見が、郿城近くに布陣する叛乱軍の中に立ち上がった旗を発見する。
 翻った旗に描かれる文字は馬の一字。
 椅子に座って浅い眠りに入っていた賈駆が、その報告に叩き起こされると舌打ちを一つ。
 賈駆は無理だろうと内心で考えながら皇甫嵩と、長安を守る華雄へ応援の要請として、兵を送り出した。
 その後に自らの目で布陣を確認するべく、見晴らしの良い場所へ向かうと、周囲の兵卒に悟られないよう僅かに顔を顰めた。
 報告から分かっていた事だが、こうして実際に目の当たりにすると、どうしても気分は辟易してしまった。
 ただでさえ寡兵であるのに、戦場を二方面に抱えてしまって辛い現状に加え敵の増援。
 その数は布陣を見て、軽く見積もっても1万5千を越えているだろう。
 元から居る辺章の軍勢と合わせれば大凡5万から6万に昇る。
 幾ら堅牢な城砦での篭城戦とはいえ、3倍近くまで膨れ上がった数の差。
 あげく、中立から翻って敵に与したと断じて良い馬家の参戦は、士気にも影響するだろう。
 今のところ、この戦で良い報告は孫堅の援軍が来た事と、参戦した馬家の兵が殆ど騎兵であることだろうか。
 賈駆は本格的にぶつかる前に、士気の高揚を目的とした演説を行う事を決めると
 皇甫嵩や孫堅が得た昨日の勝利を、存分に担ぎ出して鼓舞した。
 効果の程はともかく、戦力差が開いた今は士気の維持がなによりも必要であった。

「随分と活気づいたな」
「ええ」

 小さく同意を返したのは、馬家の陣内でも大きな天幕の中で腕を組んだ荀攸だった。
 馬鉄が叛乱軍へと加わる旨を辺章に伝えてから程なく、目に見えて士気が高揚したのが此処からでも分かった。
 それもそうだろう。
 推測ではあるが、韓遂を中心にした扇動に近い形で王朝への乱に参加しているとはいえ、勝利が転がり込む可能性が高まれば、気分が高揚するのは誰だって同じ だ。 
 どんな人間でも、負けるよりは勝つ方が良いに決まっている。
 ましてや、どう転ぼうと正義を声高に叫んでいる他人が責任を取るとなれば尚更だ。 

 荀攸は組んだ手を口元に寄せて、爪を一つ噛むと黙考した。
 分かってはいたがこの戦、難しい。
 馬家としては、長安に赴いた一刀が説得を終えて戻ってくるまでは賊軍に扮して矛を交える必要がある。
 郿城を本気で抜く訳にはいかず、かといって手を抜いて自軍の損失を増やすわけにも行かない。
 何処かで戦況を見守っている筈の韓遂にも、怪しまれてはいけない。
 友軍を演じて欺くのも、敵軍に扮して争うのもどちらも上手くこなさなければならない。
 しかも、これらの話は前提として一刀の策が成功しなければ朝敵となってしまうのだ。
 だからといって部隊を纏めて帰りましょう、等と言える段階は過ぎ去ったのだ。
 そうなると分かっていて、一刀の嘆願に頷いたのも自分だ。
 やるしかない。
 閉じていた目をうっすらとあけて、荀攸は落ち着かせるように一つ息を吐くと天幕に集った馬家の将兵を見回した。
 誰もが彼女に意志の篭った目を向けて、頷き返す。
 馬家の将達も、自分の今の立場は良く分かっている。
 これから参加する戦が、今までの様に単純な勝敗だけで終わる物では無いと。
 韓遂の思惑に嵌った事を知ったあの時から、一刀と荀攸の策に賭けている彼らに、迷いは無かった。

「馬鉄殿と馬休殿には、叛乱軍と共に郿城に攻め立ててもらいます。
 数は騎兵で1万。 お二人は辺章に疑われない程度に、叛乱軍に協力して下さい。」
「分かった」

 同意の声と、深い頷きを持って答えるのを確認して、視線を馬岱へ向ける。

「馬岱殿はこの場で残りの馬軍の指揮を。 こちらも怪しまれない程度に郿城へ攻め込みます。
 機を見て篭る官軍へ斉射と共に文を投げ込もうと思っているので。 騎射を得手とする射手の選別もお願いします」
「了解、任せて」
「叛乱軍からの情報では、先にぶつかった張将軍や呂将軍の姿を見かけていないそうです。
 何時かは分かりませんが今後、戻ってくる可能性は非常に高いと思われます。 維奉殿にはそちらの警戒をお任せします」

 この情報が叛乱軍から聞きだせた事は、馬家にとって僥倖であった。
 音に聞こえた呂布の武名は、例え誇張が混じっているとしても無視できない物である。
 特に、洛陽の激戦に於いて潼関から押し寄せた3万の黄巾兵を、寡兵の一軍で薙ぎ払った話は有名だ。
 敵の振りをして攻め立てている馬軍の横っ面を、強烈に叩きに来られても困るのだ。
 その警戒に多くの兵を割くことも、叛乱軍からすれば不審な動きに見えることだろう。
 どうしても少数で呂布と張遼の動きを知る必要があった。

 残った将兵にもそれぞれに役割を告げ終えると、外から大きく銅鑼の音が響き渡る。
 その音に釣られるかのようにして、次々に天幕を飛び出して行く馬家の面々を見送って、荀攸は喋り始める前と同じように大きく息を吐き出して胸を擦る。
 戦場に出て軍師の立場で指示を出すのは、彼女もこれが初めてだった。
 自分の言葉一つ一つが、多くの人の命に繋がっている。
 どこか浮き足立っている自分を自覚して、飲みたくもない水を口に含んで深呼吸を繰り返した。


 馬家の参戦によって、郿城での攻防はより一層激しい物となった。
 数に任せて攻め立てる賊軍と、郿城の堅固な守りに助けられる董卓軍。
 戦火を見越して豊富に蓄えられた郿城の食料、弓矢などの資材も、驚異的な速度で目減りしていった。
 休む間も無く飛び込んでくる報告とその対応に、賈駆は声を張り上げて汗だくとなっていた。

「油を持つ部隊が突っ込んでくるわよ! 弓矢で応対! 合図を待って間引くように斉射しなさい!
 失火があっても取り乱さず、水と土で処理してっ」
「報告! 馬軍に動きがあります! 弓を持って騎馬で突撃してきます!」
「報告です! 西の森から敵歩兵の影が多数見えました、突入するかと思われます!」
「でぇいっ! 騎射には竹盾で対応っ、反撃は出来うる程度でいいわっ! 火矢かも知れないから水も用意! 西にはボクが直接行く!」

 矢継ぎ早に対応を求められ、郿城の中を西へ東へ駆けずり回る。
 今回の戦が終わったら、もう少し体力をつけて走り込みでも始めるべきか。
 目まぐるしく変化する状況に追われ荒い息を吐き出す中、そんな思考が滑り込む。
 決して楽観できない防衛の最中、賈駆は自分でも驚くほど頭の中が冷静であることに気がついた。
 戦の指揮を重ねて、少しは場慣れしたのかもしれない。

「全然嬉しくないけどっ!」

 西の城壁に登る梯子を大声を出しながら上りきって、賈駆は荒い息を整えながら眼鏡の居住まいを正して敵の部隊を見据えた。
 翻る旗の中に馬の文字を見かけてから、自軍の状態を確認する。
 郿城の中は何処もかしこも同じような物だが、床に散らばった多数の矢、消化した焼け跡が散見された。
 ついでに、増えていく怪我人も。
 視界の隅に、投げ込まれたのであろう油の壺が大量に積み重なっているのを見つけて、賈駆は手近の兵の肩を叩いた。
 兵士は驚いたように振り向いて、賈駆であると分かると不思議そうに何かと尋ねた。

「ちょっと、アレはなに?」
「はっ、先ほど敵が投げ込んだ油の陶器です。 割れていない物は通行の邪魔になるので一箇所に纏めました」

 賈駆はその声に無意識に笑みを浮かべた。
 相手の突撃に合わせて退路を塞ぐように火の海にしてやれば、混乱させることが出来るかもしれない。
 即断すると、賈駆は再び声を張り上げるために大きく息を吸い込んだ。

 裏返った大声で命令を発しながら、体力作りよりも先に拡声器が欲しいと考え始めていた。


―――・


 孫堅と皇甫嵩は、初日の戦勝に勢いづいた自軍を見て、野戦を挑んでいた。
 かつての戦で負った右腕の不利、肩より上に持ち上がらないというハンデを背負いながらも、孫堅の武勇は翳らず
 最前線に立って矛を振るい『江東の虎』の異名を叛乱軍に轟かせる。
 この飢えた獣を止められる者は誰もおらず、数に勝っているという事実を敵軍に忘れさせた。
 虎の食い残した獲物は援護に回った皇甫嵩によって狩り取られ、初日に見せた叛乱軍の意気は一気に失われていった。
 賈駆の守る郿城への援軍を請われたのは、そんな時だった。

「馬家が敵にまわったか!」

 汗で蒸れた鞮瞀(ていぼう)を脱ぐようにしてずらし、報告を受けた皇甫嵩は声を荒げた。
 それは余りに無意識に口から飛び出して、皇甫嵩はしまったと咄嗟に口を押さえたが幸い周囲の喧騒に紛れ、彼の言葉に注視されることはなかった。
 一つ息を吐いて、皇甫嵩は唸った。
 在り得ると予想はしていても、避けたかった物が現実になると心中はざわつく。
 そんな彼の変貌に気がついたのか、前線から戻ってきていた孫堅が全身を返り血に染めながら尋ねる。

「何を騒いでいる」
「うおっ、あ、いや、郿城に援軍を頼まれてな」
「なるほど、あちらは劣勢か。 ならば私が向かおうか? こっちは数は多くても歯ごたえが無くていかん」
「そうだな……」

 噎せ返る血の匂いを撒き散らす孫堅から、僅かに後ずさって皇甫嵩は顎に手をやって考えた。
 正直言って、この場は孫堅の機転に助けられて戦況は圧倒的に優位と言えた。
 とはいえ、幾ら優勢であると言ってもまだまだ兵数に差があるのは間違いなく、油断はできない。
 郿城では3倍に迫る兵数差になっていると報告があることから、篭城をするしかない事が予測できる。
 抜かれた時点で長安へ王手のかかる今、郿城は絶対に守りぬかなければならない。
 当然だが、天水から攻め上っている狭道にした蓋も開くことは出来ない。
 援軍は必要だが、問題となるのは皇甫嵩と孫堅、どちらがこの場に残るかだ。

 しばし黙考し、皇甫嵩は口を開いた。

「いや、援軍には私が赴こう。 孫堅殿の武に彼奴等は怯んでおるし、名も売れている。 篭城戦には個の武勇もそう必要はない」
「順当か。 仕方ない、我慢するとしよう」
「すまぬ」

 皇甫嵩の謝意に孫堅は肩を竦めて答えた。
 実際のところ、彼女もどちらが残った方が効率が良いのかは分かっている。
 思いのほか奇襲が上手くいき、軍勢を率いている者が『江東の虎』だと知ると笑えるくらいに及び腰になったのだ。
 第三者が居れば、この場は敵兵に恐れられている孫堅が残った方が良い、そう口を揃えて言ったことだろう。
 部隊の運用には非の打ち所が無い皇甫嵩だが、何故かあちらこちらの戦場で戦っているというのに勇名が広がっていない。
 轡を並べて戦った者は、彼の隙の無い戦い方を絶賛する声も多かった。
 だが、何と言うか彼は地味なのだ。
 華々しく敵を打ち破る訳でもなく、選択する戦術や策は手堅く、功名にはそれ程興味も無いのか自己主張もしない。
 かといって敵軍を打ち破ってきた誇りが彼にまったく無い訳でも無いだろうが。

 孫堅は、自分の立場が"天代の追放"の一件から変わってしまったのをハッキリ自覚しているせいか、今はもうそれほど功に焦ってはいない。
 功を立てるのに躍起になるのは、彼女の娘の役割に取って代わったからだ。
 だが、そうでなければ、孫堅も武人。 戦で功を立てて力と名誉を欲することだろう。
 皇甫嵩の考え方、それは現状の孫堅だからこそ多少は理解できるものの、やはり本当のところは何を考えて居るのか分からない。

「なるほど、皇甫嵩という人物はつまり、変人か」

 非常に失礼で簡潔な答えに辿り付いた孫堅は、獲物を一つ振って血を払うと戦場に馬首を返した。


―――・


 この日、兵数差に勝る辺章は昼夜を問わずに郿城へと攻め続けた。
 どれほど堅牢であろうと、壊せない壁は無いとばかりに攻撃の準備を終えた先から部隊を逐次投入し、矛を、矢を、槌を叩きつける。
 ひたすら力で押してくる戦術は決して効率的とは言い難かったが、これによって城壁の一部に侵入口をぶち開ける事にも成功した。
 結果、郿城からの激しい抵抗を僅かに緩めさせる事になり、好機と見た辺章は自らも最前線に飛び出して突撃を敢行。
 死兵の如く攻め立てられ、城壁の上に敵兵が登り始めた姿を視界の端に捕らえた賈駆は、これは駄目かと胸中で唸りを上げたが
 この窮地に皇甫嵩の部隊が戻ってきた事によって崩壊しかけていた指揮系統は正常に戻り、寸での所で郿城は守られる。

 一夜明けてると押し戻された辺章は、押し所であると判断し全軍の突撃を指示。
 ところが、この突撃を前に再び戦況を変える動きが現れた。
 辺章の軍が正に今、飛び出そうとした所に真紅の呂旗が後方から立ち上がったのである。
 ほとんど時を置かず、馬軍の布陣した近くからは張旗があがった。
 その旗の下に居た官の兵数は、叛乱軍のそれと比べて大河に放り込まれた小石と大差は無かったが
 郿城まで一直線に駆け抜ける呂布と張遼の突撃は、大攻勢を前にした叛乱軍の動きを止め混乱に陥れる事には成功した。

「よく戻ったわ、霞、恋!」
「詠もよう持ちこたえてくれたで」
「頑張った」
「そやな、酷い顔やで」
「うっさいわね、あんた達みたいな体力お化けと一緒にしないでよ」

 郿城に戻った彼女達が此処まで駆けつけるのに遅れたのは、馬超軍に蹴散らされた自軍の兵を纏めるのに手間取ったからであった。
 ほぼ壊滅と言って良い先の一戦での負傷兵を抱え、追撃に用いた軍馬も殆ど失ったこと。
 単純に敵に誘引されて深く追いかけたせいで、郿城から距離が離れすぎたというのもある。

 張遼としては、戻ってくる前にせめて一当てしたかったのだが、戦場を見渡して予想以上の兵数差があると知ると諦めざるを得なかった。
 もちろん、敵軍を突き破る際に見えた敵兵は斬り捨ててはいたが、呂布と比べても数は少なかった。
 どちらかといえば、馬軍の連中がどうぞ通ってくれ、と道を開けてくれたようにも思える。

「兵数差もそうやけど、馬家は厄介やな」
「そうね、同感だわ……騎兵での攻城が向かないのも良く分かってる。 
 叛乱軍との連携がいまいち取れてないのが幸いね」
「出る?」
「篭城に徹するわよ。 悔しいけど今はそれしか無いわ。 何にせよ貴方達が来たからにはもう大丈夫よ、援軍もすぐに来る」

 呂布の声に、賈駆は疲れた様子で首を振り、しかし自信に満ちた声でそう答えた。
 この太鼓判に絶対の自信があるわけではない。
 いかに人並みはずれた武を持ち、神速とか飛将軍とか称えられる張遼や呂布でも、戦場においては一人の人間。
 どこまでもその手が届くわけではない。
 仮に単騎で突撃させても普通に五体満足で帰って来て結果を出しそうな気がしないでもないが、そんな非人道的な命令をする訳にもいかないだろう。
 何よりも張遼と呂布が戻ってきたことは、郿城で粘り強く防衛を続けた兵達を勇気づけている。
 これだけでも賈駆は随分と助かっていた。

 正直、この兵数差での戦いは、篭城戦であることを差し引いても、賈駆にとって辛い物であった。
 しかし軍師として、郿城を守る大将として、自分を信じ命を張って付いて来る将兵に弱音は吐けないのである。
 少なくとも、総大将だったあの男は、数で勝る敵兵に毅然して対応し策を練り上げ、劣勢にあって勝利を掴んだ。

 洛陽で軍師として働いた経験は、この郿城の戦いにおいても精神的に賈駆を支えていた。

 こまごまとした今後の行動方針を賈駆が考え伝えていると、慌てた様子で皇甫嵩が飛び込んで来た。
 その手には、血に塗れ丸められた一枚の書が握られていた―――


―――昨日は辺章の攻勢が予想を超えて激しかったことから、荀攸は矢と一緒に括りつけて投げ入れた書がしっかりと官軍側に届いたのかどうかが気になっていた。

「―――馬岱殿、被害は?」
「大丈夫、報告が早かったからそんなに大きくないよ!」
「それは良かった。 相手が突っ切るだけだったのも幸いでしたね」

 呂布と張遼の二人が先ほど郿城に帰還した事、それは馬家にとっても嬉しさ半分といった処か。
 攻め立てた郿城が抜かれると困るのだ。
 実際のところ、肝を冷やしていたのは官軍だけではなく馬軍も同様であった。
 もしも郿城の守将が荀攸自身であったら守ることができたか、などと益体もない考えを抱いてしまったくらいである。
 もう半分は、今まで以上に自軍の損害が増えることを覚悟しなくてはならないという物か。
 荀攸は爪を一つ噛んで、口を開く。
 投げ入れた書は郿城を防衛に当たっている将に届いている、そうと考えて手を打っておかなくてはいけない。

「馬岱殿、疲労の分散を理由に馬鉄殿と役割を交代してください」
「分かったよ、予定通りでいいの? お姉さまがまだ戻ってきて無いけど―――」
「はい、予定通りでお願いします。 心配しなくてもそろそろ戻られらるでしょう。 それと維奉殿にも頼みたい事があるので呼んでもらえますか?」
「そっか、了解。 そっちは任すから上手くやってね!」
 
 戦場には似合わない明るい声を出して、馬岱は自分の愛馬に駆け寄りそこで一度足を止めた。
 何か思い出したかのようにくるりと振り向くと、司馬懿がかった仕草で荀攸の下に戻ってくる。

「あのさ」
「なんです?」
「顔かたいよ、顔」
「は?」

 自分の両の頬を指で突っついて荀攸へそう言った馬岱の声に、彼女は思わず間抜けた声を返して自分の頬に手を当てた。
 まったく覚えは無かったが、どうも強張っているように見えるらしい。
 馬岱は戸惑ったように自分の顔を揉みしだく荀攸にくすりと笑って

「そんなに緊張してたら、こっちまで移っちゃうってば」

 うりうりと肘で脇腹を突きながら、冗談めかしてそう言う馬岱に、荀攸は眉を顰めた。
 反論しようと口を開いたところで踵を返して、何かを言う前に馬上に跨ると親指を立てて

「もっと力抜いて指示よろしくねっ!」

 そのまま駆け去った馬岱を呆然と見送って、口を半分開けたまま荀攸は首を振った。

「そんなに難しい顔をしていたつもりは……それに……」

 そうだ。
 実際のところ不安はあるし、そろそろ長安に向かった一刀と馬超が戻ってこなければ本当に困ってしまう。
 一刀が官軍側を説得できていなければ今荀攸が打っている手は全て機能しないのだから。

 書に記載したのは一刀が説き伏せることを前提にした策の全容だ。
 合図を機に、叛乱軍の味方であるはずの馬家がこの戦場で寝返ること。
 馬家の兵が馬超や馬岱を初めとした将に熱く信望を寄せている事は分かっている。
 突如として敵が代わっても、彼等は将の言葉に自身の矛を預けると思われた。
 それに乗じて郿城から、飛将軍を筆頭に敵軍を侵してもらい、内部と外部から攻め立てるのだ。
 万を越えるの味方の兵が突如として敵になり、守りに徹していた敵が突然の攻勢を見せたとなれば
 どれだけ優秀な将であろうと混乱を収めるのには時間がかかる。
 不利を悟り、敗北という文字が頭を掠めれば逃げる者が必ず現れる。
 一人が逃げ出せば、また一人、芋づる式に武器を手放して逃亡することだろう。
 そうした恐怖心を煽る為にとなれば、この時代に用いられる物は火であった。

 馬岱に呼ばれて顔を出した維奉に、荀攸は火を点ける為の準備を行うように指示を出す。
 先ほど、好意からだろう馬岱の指摘に従い、搾り出すように笑みを作って。

「ふ、ふっふっふぅ~(↑) 維奉殿よく来てくれました! 今から私が指し示す場所に火を点ける準備ですよ! 手早くちゃっちゃとお願いしますねっ、いえい!」
「うおっ、びっくりした! なんだそれ気持ちわりぃ、変なものでも食ったか? 大丈夫かよ」
「……わかりましたか?」
「あ、お、おう。 任せろよ、ちゃんとやるからよ、いえい!」
「……」
「……あー、なんだ……」
「……なんです?」
「いや……はは、すぐ準備してくるわ、うん……」

 維奉が荀攸の鋭い視線から逃げるように天幕から飛び出して行くと、荀攸は何かに締め付けられるような痛みに胃の辺りに手を添えた。
 彼女からすれば、多分なんとかなるのでやっておいてください、きっと如何にかなります、そんな言葉を絶対だと信じて将兵に伝えなければならなかった。 
 軍師。
 そう呼ばれる者は必ず出来ると思った策だけを実行に移して、出来るだけ最良の結果を引き出さなくてはならない。
 そんな信念を持つ彼女にとって、この場で軍師として振舞うのは何とも心労が重なる物だった。
 馬岱に言われてちょっと頑張ってみたものの、上手くいかずに馬鹿にされた。

 唯一、ありがたいと思えるのは、馬家を巻き込んでから未だに韓遂が戦場に姿を見せないことだ。
 辺章は単純に戦力が増えた事を喜んでいる。 アレは放っておいても裏切る直前まで気付かないであろう。
 しかし、彼女が現れれば何処まで誤魔化しきれるかわからない。
 武威に居た頃、荀攸はあくまで漢王朝側に立って過ごしてきたのだ。 韓遂はそれを知っている。
 もちろん、この場で追求されても苦しい言い訳を用意してはいるのだが、荀攸もこの手だけは出来れば使いたくなかった。
 
 違う意味でも、彼女は軍師であることの難しさを痛感し、運動して疲れてる訳でもないのに呼吸があらぶった。

「早く、早く来てください……どっちでもいいから」

 脂汗を額から垂れ流しながら、一刀と馬超を切実に求めて荀攸は机に突っ伏した。



      ■ 掌から伝うもの


 
 時は少しまき戻り。
 
 目まぐるしく戦況が転々とする郿城の戦いから離れた長安の地。
 荀攸からの熱烈なラブコールが送られる前日、一刀は案内された城内の一室に落ち着かない様子で書簡に目を通していた。
 同じように対面に座る、董卓という少女も紅潮した頬を抑えて座っている。
 謁見の場でしていた冠に介幘をつけたものではなく、シンプルな赤いリボンで髪をまとめていた。
 一刀はそんな董卓に困ったように頬をかいて、大将軍の書を読み終えると先ほどの出来事を思い返した。

 この部屋に通されて、董卓の用事が終えるのを待っていた一刀は手持ち無沙汰から室内を見回しうろつき始めた。
 洛陽の離宮で見てきたような、特に目新しく興味を引く物は何処にもなく、暇を持て余した一刀が董卓はまだかなと出入り口の扉を開けた時、謀ったかのように少女とぶつかって転倒してしまった。 
 その際、一緒になって倒れた董卓を庇うようにして抱えあげたのがまずかったのか。
 気がつけば少女は、潤んだ瞳で顔を真っ赤にして一刀を見上げていたのである。 

 例の感情に影響を与える、不思議な力が働いたのかどうかは定かではない―――彼女が人よりも照れ屋であることを一刀は知っていた―――が、個人的に大切な話をする前には避けたかったアクシデントである。

 急いで身を離したところで後の祭り、へぅへぅ言いながら頬を赤らめる少女に可愛らしさを感じつつ、一刀は何とも言えない気分になった。
 接触したことで彼女の感情を揺り動かした事ではない。
 もちろん、それも在ったのだが、自分の身に起きた事に動揺していたというのが正しいだろうか。

 触れ合った時、時間にして一瞬だったろう僅かな時間に、一刀は記憶にない思い出が蘇った。
 それは愛する月(ひと)を残して"自分"が死んでいく悲しい思い出。
 一瞬の内に過ぎったかつての苦い思いに、本体は顔を顰めたのである。
 脳内に住む、"自分"の思いと無念を、確かに本体は共有した。
 そんな本体の変化には気付いていないのか、何進から董卓に送られた招聘状について熱い議論が交わされていた。

『反董卓連合の取っ掛かり、かもしれない』
『そうだとしたら、余り時間がないな』
『うん、この戦が片付いたら速く洛陽に戻ったほうが』
『……宦官が居る、すぐには戻れないよ』
『洛陽のねねに一度連絡を取って確認した方が良いかも』
『そもそも、今は"天代"って世間にはどう思われてるのかな?』

 直接的に書かれているわけではないが、劉弁即位の後に宦官の排除を窺わせる文面を見つけたのだ。
 すなわち、手厚く遇される宦官の暴走へ牽制する為に力を借りたいと。

 この問題に自分の考えを交換する脳内に話に耳を傾けて数分、ようやく落ち着いた董卓へ、一刀は口を開いた。

 郿城の将兵に自分が受け入れて貰える様に、彼女の印を打った書を作ってくれと頼むと、了の返事が帰って来る。
 卓の上に置かれた道具を持って、一刀は墨を作りながらも気になっている質問をぶつけた。
 何進大将軍からの話をどう捉えているのか、そう彼女の胸中を尋ねると、個人として招聘には応じるつもりだが今はまだ分からないとの事だった。
 郿城での戦の事もあって、どちらにしても、すぐに動く事は難しいとの返書を既に返しているらしい。
 そこは何進も織り込み済みであろう。 戦後の処理は時間がかかる。
 それでもこの時期にあえて書簡を出した何進の思惑、それを董卓もまた何となくは察しているようで、信頼する賈駆と相談して決めたいと答えが返ってきた。

「……では、これを」
「ああ、ありがとう」

 董卓から、郿城に向けての書簡を受け取って中身を確認する。
 賈駆を納得させるのに、もっとも手っ取り早いのは彼女が一刀を送り出したという証拠だ。
 最悪、一刀はこの書簡だけでゴリ押しするつもりである。

「あの、私からも聞いて良いですか?」
「ああ、もちろん。 何でも聞いて」
「天代様がこうして私の下に訪れた理由は、それだけなのでしょうか?」

 彼女の問いに、一刀は首を左右に振った。
 何進から董卓へと送られた招聘状の事も、理由の一つではあるし、李儒と交わした約束の事もある。 "董の"にとっては個人的な理由もあるだろう。
 ただ、一番大きな理由として、一刀が董卓と二人で話したかったのは……そう。
 洛陽を追い出された時に考えていた"反董卓連合"のこと。 諸侯が一同に介する最後の時。
 かつての一刀は、諸侯との関係を個人的に深め、話し合いの場を設ける事が出来ればと思っていた。
 それが無理でも、権力を持つ人との繋がりがあるというのは、この時代大きなアドバンテージになる。
 馬家では、にべもなく投獄されてしまったが、董卓とは出来れば協力関係を結びたい。
 なんせ歴史の中では風雲の中心となる候の一人だ。
 答えを待つ董卓に目を合わせて、一刀はゆっくりと言葉を選んでかけた。

「俺が来たのは……うん、本当は招聘状の事や李儒殿の事はついでに過ぎない。
 馬家の事は俺にとっても大切だった話だけど、実際のところ、もっと別の考えが在って……簡単に言えば、俺はただ君に会いたかったんだ」

 傍から見て、どうにも口説き落としているようにしか見えない台詞が、真面目な顔をした一刀の口から飛び出した。
 董卓は混乱した。
 彼女が尋ねた本当のところは、宦官に追い出された天代が、わざわざ自分の所に個人的に会いに来た理由が何であるのかを知りたかったからだ。
 つい先日の謁見した場で、一刀はまだ漢王朝に与えられた役目―――郿城砦での戦いを鎮めること―――を全うしようと考えている事を知った。
 もしかしたら、洛陽に戻る為に此度の叛乱を鎮めた功を持って、自分に協力を求めて居るのかもしれない。
 そう考えていた董卓は、その辺の答えが返って来ると思っていたのだが、一刀の答えは自分に会いたかったという端的な物だった。
 他の話はついでの用件であり、自分と会う為だけに来たなど言われると思っていなかったのだ。

「え、あ、その、急にそう言われても……」
「こうやって二人きりで何とか話せないか、長安に来る前からずっと考えてたんだ。 とても大事な話をしたかったから」
「へぅ……だ、大事な話……」
「? えっと……大丈夫?」

 何故か顔を真っ赤にして俯いてしまった董卓に、一刀は首を傾げた。
 何かまずい事を言っただろうかと今の会話を振り返ったが、何処も可笑しい所は見当たらない。
 まして、照れたように少女に頬を紅潮させ、顔を伏せさせるような部分は何処にもない。
 やはり、先ほどの接触で感情が揺り動かされて、影響しているのだろうか。
 心配そうな視線を送る一刀に気がついたのか、董卓は居住まいを正して大きく息を吐き出しながら恥ずかしそうに口を開いた。

「は、はい、大丈夫です。 突然のことだったので……すみません」
「えっと、うん。 良く分からないけど……董卓さん。 俺は貴女と良い関係を結びたいんだ。
 あ、もちろん今すぐ何かしろとかするだとか、そう言うことじゃないから……賈駆さんにも相談したいだろうし」
「へぅぅ……そ、それはその、私との将来、つまりえっと、未来の話ということでしょうか……」
「ああ。 その通りだ」

 重々しく頷いた一刀に、董卓の胸が弾んだ。
 唐突と言えば、余りに唐突に過ぎる一刀の告白に、まともに思考をすることが出来ない。
 調教先生として教鞭に立っていた頃から、董卓は一刀のことを少なからず意識してきた。
 切っ掛けは、部屋の後片付けを手伝っていた時、何か尊い思い出が心の奥底から湧き上がってきた瞬間だった。
 ふとした時に、彼女は一刀の事を思いだしては、胸の奥にもんやりした物を抱えていたものである。
 その感情にはハッキリとした答えが出なかった―――恋心、そんな風にも思えたがどうも実感がわかなかった。

 だが、こうして一刀と向き合って彼の口から飛び出した言葉を反芻すればするほど、董卓の胸は何度も高鳴った。
 あの日、あの時に抱いた自分の感情を、一刀と共有していたのではないか、と。
 持て余す感情は、言葉にならずとも仕草に出た。
 途端に目の前の男と、どう接すれば良いのか分からなくなって、口を閉じては開け、頬を押さえ左右にブンブン頭を振り始める。 

 この少女の様子に焦りを覚えたのは一刀である。
 確かに今のお互いの立場や置かれている現状は、色々と難しい壁がある。
 西涼の叛乱を上手く鎮め、武功を得たとしても宦官が根を張っている現状で一刀はすぐに洛陽へ戻ることは出来ない。
 例え戻ったとしても『天代の出陣』という民への機嫌取りと共に、何処か別の戦場に厄介払いされるだけになるのは目に見えている。
 或いは扱いずらいと思われて暗殺され、どこかの誰かを別の天代に仕立てるだけになるかもしれない。
 今挙げたものですら、一刀の抱える問題のごくごく一例に過ぎず、未来など知る由もない董卓の立場で考えれば、一刀に協力するメリットなど何処にもないのだ。
 北郷一刀という個人を信頼してもらうには、彼女との接点が少ないとも思う。

 だが、このまま董卓との関係を諦めるには実に勿体無い。
 彼女の協力を得ることが出来れば、たとえ一刀本人が事件の中心に立っていなくても"反董卓連合"の実情や情報を得ることが出来るだろう。
 そうでなくても、諸侯の中でも袁紹に次ぐと言っても良いくらい、地位は彼女は持っている。
 それは大きな発言力、政治的な影響力を持っていると言い換えられるのだ。
 この歴史の中で"反董卓連合"がどのように推移するのか、神でもない限りは分からないが、本格的な激突を前に話し合いの場を作り上げたい一刀にとって
 目の前の少女は非常に大きな要素を持ち合わせている。

 自分を落ち着かせるかのように胸に手を当てて、息を吐き出す董卓に、一刀は焦りから立ち上がると、ずいっと一歩近づいて肩を掴む。
 ビクリと掴まれた肩を震わせて、董卓は一刀の真剣な顔を見返した。

「董卓さん、とにかく俺の話を聞いてほしい。 大事なことだから……聞いても無理だと思うなら此処で断ってくれても構わないんだ」
「は、はぅ……えっと、あの、天代様、顔が近くてあの―――」
「あ、ごめん……」

 ぱっと離れて、わざとらしく咳を一つ。
 そのまま一刀の言葉を待つ董卓に、自分の思いを伝える。

「今、大陸は乱が頻発して大きく揺れ動いているのは分かっていると思う。 それが長く続けば続くほど、此処に住む人達は―――」

 住む人達は、自分達を守ってくれる諸侯に信望を募らせていく。
 それは韓遂の謀略に巻き込まれた馬超とそれに付き従う武威の民を見て、皮肉にも一刀はその事実を痛感してしまったのだ。
 官軍ではなく、諸侯の率いる将兵に民がついていく。
 それが高じた時、漢王朝の権威は加速度的に失われていく事を意味する。
 近い将来、漢王朝が影響力を失って諸侯同士の権力の闘争が始まるかも知れないのだ。
 その前に、一刀は自分が中央に戻って未然に乱世を防ぎたい。
 董卓だけに限らず、これからもなるべく諸侯と接触して関係を深めていきたいと願っているのだ。

「そうですか……」

 一刀のそうした熱弁に、董卓は気の無い様子で相槌を返した。
 心なしか、眼が死んでいる。
 これは駄目か……そう諦めかけた時だった。
 本体の主導権を"董の"が有無を言わさずに奪ったのは。

(お、おい……)

 わざと、そうした訳ではない。
 むしろ、"董の"は今の今まで、目の前でテレテレしている愛しい少女を見せつけられて、感情を押さえ我慢していた方だった。
 出会い頭に董卓の肌に触れて、胸の奥を焦がされたのは彼女だけではなかったのである。
 制止するような本体の声は、流れ込む"董の"の強く、激しい思いに途中で止まった。
 会話の流れから、自分の望む董卓との関係を得る事は、直に感じた手応えから難しいと判断したのだ。
 残された時間を、この世界に堕ちてきてから今まで、自分を何時も支えてくれた"董の"に譲るのもやぶさかではない。

 未練を残しつつ、身を引く形になった本体が抵抗を止めると、"董の"は小さく本体に礼を返して、愛する少女と向き合った。

「……話を聞いてくれてありがとう。 答えは今すぐじゃなくても良いんだ」
「あ、はい……天代様のお考えは分かりました。 それは、詠ちゃんとも相談して、じっくり考えたいと思います……」
「ありがとう。 それと……"俺"が君に会いたかったのは本当だ。 もう二度とこうして話をすることなんて無いと思ってた」

 "董の"は万感の思いを込めて彼女に言うと優しく手を取ると同時、部屋に一人の少女が飛び込んで来た。
 慌しく入り込んだのは、華雄であった。

「月、郿城砦を守る詠から報せがあった! 応援の要請だ、すぐに行きたい!」
「っ、詠ちゃんが……」

 そして"董の"は背筋から脳の天辺に、電流が走ったかのように身を震わせた。

―――彼方の面影が、目の前の少女達に重なる。

  "董の"が本体の中に入る直前のこと。
  彼は一つの可能性を聞かされていた。
  袁紹・曹操という巨雄との戦において、気をつけるべき他の存在は劉備であることを、詠から聞かされていた。
  
 「良い、一刀。 もし劉備の侵攻に気がついてもこっちは私に任せて、月を支えて頂戴」
 「そんな、詠だけを危険に晒すことなんて出来ないよ」
 「あのね、アンタだって分かってるでしょ。 この戦で袁紹と曹操を下せば、後は何もしなくたって天下は成るってことを。
  悔しいけど、月はアンタを信頼してる……一刀なら、月を任せられる。
  第一、ボクはこんな所で死ぬつもりなんか無い。 頭を抑えて長期戦に持ち込むから、一刀、頼むわよ」

  実際に攻め込まれる可能性は分からない。
  それでも、小勢となる劉備や他の諸侯が横槍を入れるには、この機を逃せば他に無いことも確か。
  その牽制として詠は、月の率いる本隊から離れる事を決断した。
  軍師として、それが最善であると詠の知は弾き出したが故だった。

  詠一人だけが予見していた、劉備軍の強襲。
  その報告が本隊に届いたのは、詠が飛び出してから僅か数日後。
  袁紹・曹操との決戦の火蓋が切られた直後の事だった。

 「詠ちゃんを助けて!」

  事前に詠の覚悟を聞かされていた"董の"は月の懇願に選択を迫られた。
  そして、一刀が選んだのは詠の言葉に従う事だった。
  何時だって詠の言葉は正しかった。 何より、一刀は彼女に頼まれていた。
  月の傍で、この決戦への勝利を掴む事を。 

  だが。

  一刀は大事な詠(ひと)を失い、自分も亡くした。

  
―――まるで世界を超えたように、視界に部屋を飛び出していく華雄が映る。
 
 董卓と折り重なった掌を見つめていた一刀は弾かれるように立ち上がって、華雄を呼び止めた。

「華雄さん、俺も一緒に行くよ!」 
「何? よし、すぐに準備しろ! 一刻後には郿城砦に向かうぞ! ようやく出番だっ!」

 ぶんぶんと肩に手を掛けて腕を振り回し、尻尾があればバタバタ振り回しそうなほど意気揚々と部屋を飛び出して行った華雄を見送って
 一刀は名残惜しそうに結んだ手を離し、董卓へと口を開いた。

「ゆ……っ、董卓さん、話を聞いてくれてありがとう。 忙しい中すまなかった……」
「あ、あの……っ」

 董卓は踵を返して華雄の背を追う一刀を呼び止めた。
 二度、三度。
 口を開いては閉じ、ようやくと言った様で出てきた言葉は、一刀への嘆願だった。

「詠ちゃんを……みんなを、助けてあげてください。 よろしくお願いします……」
「ああ。 任せてくれ、絶対に勝つ……今度こそ」

 今度こそ、月も、月の大切な人も守ってみせる。
 自信満々に言い切って、一刀は今度こそ部屋を飛びだして言った。

 残された董卓は、華雄と一刀の飛び出して行った扉をしばし茫洋と見つめて、一刀に触れられた手に視線を移すと抱くように空いた手を添えた。
 フラリと身体を揺らし、床にへたり込む。
 握られた手から脳裏に走った記憶は、生まれてから今までを振り返って一度も体験も、経験もしたことない物が確かに思い出として存在していた。
 笑いあって、泣きあって。
 苦楽を共にして一緒に歩いた彼方の面影を、董卓は確かに見た。

「……私……」

 頭の奥に残る記憶の正体は分からない。
 分からないが、判ったことも在る。
 かつて一刀という男と触れた際に思い出そうとしていた、尊い感情。 確かに結んだ絆のこと。
 "今度こそ"と去り際に残した力強い言葉の意味と、離す前に躊躇った辛そうな顔。

 確かに、子供の頃から一緒に過ごした詠や、自分を支えてくれる皆の無事を董卓は一刀に口にした。
 だが、あの時に本当に言いたかった言葉はもっと別の物だった。
 一刀自身の無事と、掌から伝わった自分と一刀を繋ぐ覚えの無い思い出のこと。

 もっとハッキリとさせたい。
 一刀と繋がった自分が居た事を思い出したこれは、何なのかを彼に問いたい。
 その為にも―――

「一刀……様、ご無事で……」

 董卓は自らの零れそうになる感情を必死に押さえつけ、飛び出した一刀の無事を願った。



      ■ 掌から伝うあやしいもの



 華雄が呼びに来たことは、本体にとっても助かっていた。
 あのままあの場所に居たら、"董の"の強く輝く想いに惹かれて間違いを犯してしまいそうだったからだ。
 この焦がれた感情は、音々音を想う気持ち、翠に抱く気持ちと酷似する。
 知らず胸に手を当てて、一刀は辛そうに息を吐き出した。

 そんな様子に気付いたのか、脳内から声がかけられる。

『本体、どうした?』
「いや……なんでもない」

 そう、なんでもない筈だ。
 かつて、自分が触れた特定の人に感情の変化を齎すと知った時、借り物の感情だと感じた思い。
 それが今、きっと自分にも巻き起こっている。
 ただ、それだけ。

 一刀の思考を打ち切るように、唐突に彼の耳朶に大きな声が響いた。

「よし、準備は出来たな!」

 華雄の声。
 一刻足らずという超スピードで、華雄は2000の兵の出陣の準備を整えていた。
 一刀も思考を打ち払い、個人的な準備を終えて金獅と共に合流すると、その華雄の陣容を見て目を剥いた。
 
「か、華雄さん、俺の眼がおかしくないなら、荷駄隊が見えないみたいなんだけど……」
「時は一刻を争う! 飯など、郿城に着けば問題なく配膳されるだろう! 食を抜いても一昼夜くらいならば何とかなる!」
「えぇ……? いやしかし、皆ヘトヘトになってしまうと思うんだ……」

 確かに彼女の言葉は通り、なるべく速く郿城には辿り付いた方が良い。 それは間違いない。
 馬家が叛乱軍に付けば、兵数差に開きが出て官軍が苦しくなるのは、一刀自身がそう仕向けたのだから当然判っている。
 郿城に豊富に糧食が蓄えられているのも、この自信満々な彼女を見れば疑いはない。
 しかし、まさか長安から郿城砦まで、食事すら挟まずに強行させては辿り付いた頃に元気な兵は居ないだろう。
 居たとしても、ローテーションで無理の効く一刀と、華雄くらいか。
 
「ふん! 強行軍に着いてこれない弱卒は、我が董卓軍にはいらぬ!」

 どこかで聞いたような言葉に、一刀はふと思い出す。
 よく、洛陽の練兵場で夏候惇と打ち合っていなかっただろうか。
 
「まさか、夏候惇さんに影響されたのかい?」
「む……まぁ……うむ! それもある。 一度やってみたかった」
「やっぱり……でも」
「ふん、貴様が言いたい事だって判っている、春蘭の時とは勝手が違うからな。 軍を進めながら調練はしない。 兵には皆、腰袋に食事も持たして在る。 そこまで馬鹿ではない」

 なるほど、と頷きかけた一刀だが、多少到着は遅れてもやっぱり休憩は必要だ。
 応援に駆けつけた味方が、いの一番に休憩を取ることになるのを見れば、賈駆あたりが華雄の尻を蹴っ飛ばす事になるだろう。
 下手をすれば、自分もだ。
 一刀は馬に乗り込もうとする華雄の腕を取って、物陰に引っ張り込んで説得を試みた。
 結局、足を鈍くする荷駄隊は組む時間も勿体無いということで、基本的には個々人に糧食を多く持たせて郿城に向かう方針で一致した。
 食事のほかにも、数刻置きに休ませる事も華雄は頷き、それ以外では一直線に目的地に突き進むことになった。
 説得に成功した一刀は、安堵したように息を吐き出すと華雄が顔を顰めて一刀に尋ねた。
 
「ところで、この手……これはなんだ?」
「え? 手?」
「貴様に腕を掴まれていると、妙な感覚がする……いや、感情がざわめくと言う感じか」

 そこで、初めて一刀は彼女の頬に赤みがさしている―――かどうかも、注視しなければ判らなかったが―――事に気がついた。
 まるで態度を崩さなかったせいか、一刀は華雄の感情を揺さぶっていた事に気がつかなかったのだ。
 慌てて、一刀は謝りながら手を離す。 

「す、すまないっ」 
「なぜ謝る?」
「何故って……いや、なんでもないんだ」

 この煮え切らない一刀の態度に、華雄の不信感は募った。
 一刀に手を掴まれて、郿城へ向かう段取りを話し合っていた途中に湧き上がった不思議な感覚。
 華雄に何か、誇らしいような、大切な物のような感情を抱かせていた。
 やはり、彼女も何かは分からなかったが、目の前の男の不審な態度に一つの可能性が思い浮かんだ。

 北郷一刀は、天の御使いと呼ばれ、天から来た男だ。
 
 そこまで思い浮かべば、この感情が揺れる可笑しな現象を華雄は理解した。
 これは"妖術"だ。
 間違いない。

「きっさまぁーっ! 何の目的か判らぬが、私に妖しげな術をかけるとは良い度胸だ!」
「え!? いや、事故だっ! 俺は別にそんな―――」

 ある意味間違っていない華雄の憤慨に、一刀は思いっきり動揺した。
 その態度は、華雄の怒りを引き出すのに実に容易だったのだ。

「問答無用!」
「ちょっ、うわああああっ!」

 懐に飛び込んで来たと一刀が認識した瞬間に、地と足が離れ、一刀は担がれるようにして華雄に持ち上げられた。
 ぐるりと世界が回って、視界が180度回転する。
 やばいっ、と危機感を感じた瞬間、引っ張られるようにして地面と激突。
 現代で言うところのバックドロップに似た投げ技を、受身すら取れず、見事に一刀へと炸裂した。

「次にやったら容赦せんぞ!」

 どうやら手加減はしてくれていたらしい。
 一刀は意識を飛ばす前に聞いた華雄の声に、優しいんだな、と柔らかい笑みを浮かべ闇に落ちた。

 次に目を覚ました時、一刀は金獅の上でうつ伏せにされて運ばれていた。
 どうやら、華雄に乗せられて、郿城に向かう途上らしい。
 最後に投げ飛ばされて打っただろう、後頭部に鈍い痛みを覚えて手を伸ばせば、白い包帯が巻かれていた。
 もう少し、優しく投げ飛ばしてくれればとも思ったが、恋の手加減も痛かったことを思いだし、手加減の基準が違うのだろうと納得することにした。

 一刀は器用に体勢を馬上で変え、金獅の背に尻を落とす。
 前を歩く華雄は気がついたのか、首だけを巡らして一刀を見た。

「ようやく起きたか。 これで少しは飛ばせそうだな」
「ごめん、迷惑をかけたよ」
「ふん……」

 鼻で笑うようにそう言って、華雄は手綱を振って速度を速めた。

『本体、勿体無かったな』
「何が?」
『はは、あの後、頭から血が出てさ』
『そうそう。 華雄さんが手当てしたんだよ』
『膝に頭を乗っけてくれてな』
「そうだったのか……って、もしかして」
『ん……まぁな』
『良かったよ』
『ああ、良かった』
「そうか……良かったね……」
『うん、良かった』

「何をチンタラしている! 置いていくぞ!」
「あ、すまないっ!」

 一刀は脳内がほっこりしている声を聞きながら、金獅の腹を叩いて速度を上げた。
 前を走る華雄に轡を並べると、風に舞った包帯代わりの布に手を当てる。
 怪我をした原因は、ある意味で自業自得なのだ。
 一刀は素直に礼を言うべきだと判断し、華雄へ誠意を込めて頭を下げた。

 落とした視線の先に、華雄の服の裾のあたりに血を拭ったような痕跡を見つける。

「華雄さん、手当てしてくれてありがとう……それと、服汚しちゃってごめん」
「む? ああ……別……に……」

 そうして顔を上げた一刀のキリリとした表情に、華雄は何となく胸の奥がざわめいた。
 それは長安を出陣する直前の、感情の発露に似ていた。
 "妖術"だ。
 間違いない。

 華雄は背負っていた長大な戦斧、金剛爆斧(こんごうばくふ)を引っつかんで抜くと、一刀と金獅に向かって口上と共に振り下ろした。

「貴様、また妖しげな術を私に……ふざけるのもいい加減にしろぉっ!」
『本体やばいっ! 逃げろっ!』
「うわっ! な、何でだっ!? 誤解だっ! 待ってくれっ!」

 切迫した"白の"の声が脳内に響いた。
 本気としか思えない形相で豪快に獲物を振り下ろす華雄に、一刀は脳内の声から咄嗟に金獅の手綱を握りこむと、抗弁しながら懸命にしごいた。
 金獅もまた数々の戦場を駆けた経験から、襲いかかる殺気に敏感に反応し、力強い嘶きを一つかますと、持ち前の俊敏性を発揮して素晴らしい速度で逃げ出した。
 華雄も一刀が脱兎の如く逃げた事から、"妖術"をかけられたと確信し、本気になって追い回し始める。
 そして、兵は呼吸を荒ぶらせ、速度を速めた二人を追って、強行軍に乗り遅れまいと命を懸けて走っていた。

 おそらく、一番不幸だったのは騎乗していない歩兵に違いなかった。



      ■ 擾乱の将



 韓遂は馬家と董家がぶつかり合ったのを確認した後、彼女の根拠地。 漢の治める地の端に位置する西平にまで戻っていた。
 すぐに辺章と合流しなかったのには、彼女なりの理由があった。
 韓遂には野望がある。
 
 巨龍である漢王朝を、堕とすという野望が。
 
 羌族とも結びつきの強い辺章を、此度の叛乱軍総大将に祭り上げることが出来たのは幸運だった。
 当初に考えていた軍容は一変し、ともすれば長安を打ちぬき洛陽にまで攻め上れても、おかしくない兵の数が揃ったのだ。
 かつての盟友であった馬騰が、病に伏していた事もそうだ。
 その娘、馬超は実に御しやすい真っ直ぐな性格をしており、"天の御使い"すら転がり込んできた。
 そう、まるで韓遂の描いた理想を後押しするように、運がついてきた。
 不確定要素が増えれば増えるほど、韓遂の思惑にカチリと嵌っていく様は、ある種の恐れを彼女に抱かせた。

 耿鄙という、意図しないタイミングで表れた官吏の排除。
 馬家を叛乱軍に参加させること。
 "天の御使い"すら無理やりに巻き込むこと。
 
 うまくいった。 それは喜ばしい。
 だが、うまく行き過ぎた。 これには恐れを覚える。
 韓遂はそういう人間であった。
 
「こうも上手くいくと、どうにもねぇ……」

 そう、彼女が根拠地へ戻ったのは万が一に備え、雲隠れする準備を整える為であった。
 確かに、辺章と馬家が協力すれば、郿城でぶつかる戦は勝利の二文字が踊るであろう。
 ここ西涼だけではない、大陸の至る場所で乱の起きている今、勝てる可能性はかなり大きい。
 だが、戦は水物であることを韓遂は知っている。
 少なくとも、絶対に勝てるという戦争など無いということを彼女は理解していた。
 それは漢という巨龍を築くまでの歴史においても、証明されている。
 逃げる備えを整えてから、韓遂は戦の中心、郿城へ足を向けた。
 

 
―――・



 そうした備えをしたことは、やはり正解であったのだろう。
 郿城での戦いに布陣している、叛乱軍の天幕に入り込んだ韓遂は自分の用心深さに感謝した。
 どちらかといえば、戦況は未だに叛乱軍の方が有利。
 味方となった馬家も、郿城に攻勢をしかけている。 兵数差もあるようだ。
 だが、まだ"勝って"いない。
 天幕の中に設置された、動物の毛皮のようなものが被さった長椅子に腰をかけ、足を伸ばす。
 戦場に居るというより、自室で寛いでいるかのような体勢で韓遂は物思いに耽っていた。
 
 何時までそうしていたか、やがて天幕の中に一人の大柄な男が姿を表した。 

「韓遂……」
「辺章、まだ終わってねぇのか」
「っむ……だが勝てる。 官軍は亀のように、びびっている」
「そうみたいだな」
「今度こそ、俺の勝ちだ」

 辺章は韓遂から
 相槌ひとつ、辺章が座れるようにと居住まいを正すと、辺章はドカリと尻を下ろした。
 前線に立って戦っていたのか、血の匂いが韓遂の鼻腔を擽って僅かに顔を顰める。
 そんな彼女に気付いていないのか、辺章は韓遂の側頭部に手を添えると、力を込めて引っ張った。

「なんだい? 盛ってるのか?」
「韓遂、もうすぐ長安が、手に入る。 良い酒を呑もう。 羌には無い、旨い酒を」
「……男は野蛮だねぇ」

 韓遂の腕が伸びて、辺章の頬に当てられた。
 お互い、抱き合うように絡み合い、韓遂はそっと辺章の耳元に口を寄せて囁いた。

「アンタなら手に入れられるさ。 アタシが見初めた男だよ」
「ああ、一緒に、呑もう。 金も、飯もだ」
「子供みたいだね……」

 二人の唇が合わさって、ギシリと長い椅子が揺れた。

 長い抱擁を終えると、辺章は上半身だけ身を起こし、韓遂の額に手を当てて長い赤い髪を掻き揚げる。

「良い女だ、お前は」

 天幕の布が揺れて、外からの風が入り込んだのはその時だった。
 韓遂が下になって組み敷かれている姿勢のまま、入り込んできた兵を見上げる。
 辺章は仕方なく立ち上がり、報告を促した。 

「馬家の馬岱という将から、疲労の少ない兵を率いてこちらに合流すると」
「分かった」

 韓遂も同じように、一つ乱れた髪を手で梳くと、腰を上げて飛び出して行った兵を追うように天幕の外に向かう。
 彼女の様子に気がついた辺章は、思わず手を伸ばして引きとめようとしたものの、その手は届かなかった。
 興が削がれた、と呟いて外に出る韓遂に、辺章は不機嫌そうな顔を隠さずに舌打ちひとつ。
 卓の上に乗せられた酒をヤケクソ気味に煽り、長椅子へと音を立てて座り込んだ。
 口から零れた酒を腕で拭いながら、辺章は荒く息を吐き出した。
 
 辺章も韓遂が何をしようとしているのか、その目的は知らなかった。
 作戦そのものも、彼女に言われたままに従って、兵を動かしている。
 馬家がどういう経緯で王朝に楯突く事になったかも、興味は無い。
 辺章にとって重要なことは、郿城を抜き、長安を獲る。 韓遂が自分に望んだ"それ"だけだ。
 いつからか分からないが、傍に居る事が当たり前になった女。
 日々を過ごしていく中で自分の心情を、言葉にする前から理解してくれる、理解者になっていた。
 
 自らの大事な人となった韓遂を頭の中で思い描いていると、先ほどの身体の火照りが再度沸き立った。

「くそ……あの雑兵め」

 悪態一つ。
 辺章は椅子の上で横になると、振り払うように首を振って目を閉じた。



 天幕を潜って外に出た韓遂は、辺章と同じように口元を腕で拭った。
 ついでとばかりに口内の唾液を吐き出して、陣から戦場となっている郿城を睥睨する。
 数えるのも馬鹿らしい程、無数にある叛乱軍の天幕。
 この時代、この場所で、これだけの人数が集う戦はそうそう無い。
 大半が自軍であることを鑑みれば、負けを考慮することが馬鹿らしく思えてくる。
 韓遂は首を一つ振る。
 決め付けてはいけない。 信じてはいけない。 結果はまだ何も出ていないのだ。
 順繰りに視線を巡らして、韓遂は目的の場所を目に留める。
 東端に、馬家を示す旗が風に煽られて揺らめいていた。

「ふっ、顔でも見に行くか」

 巻き込んだ事に、彼等が気付いているか居ないのか。
 それもまた、彼女にとって確認すべき重要なものである。
 この乱がどう決着を迎えようと、自分はこの先を生きて見届けなければならないのだ。

 韓遂は手近な馬を捕まえると、東端を目指して走り出した。



      ■ 嘘言に踊る



 馬超が天幕を潜ると、上半身を突っ伏して卓をバッシバッシと叩く少女が唸っていた。
 自軍の兵から簡単な戦況は聞いていたが、長安から戻ってきたばかりの為に詳細を聞こうと思っていたのだが。
 明らかに様子の可笑しい荀攸は、若干近寄りがたかった。
 
「お、おい。 平気か?」
「……ば、馬超殿……? やっと来ましたねっ!」

 顔を引きつらせながら安否を確認した馬超の顔を、荀攸は真っ赤な顔で見上げつつ声をあげる。
 その余りの顔色の悪さと想像していなかった大きな声に、馬超は思わず身を引いてしまう。
 目つきも、だいぶ据わっていた。

「酷い顔だぞ、少し寝た方が―――」
「いえ……大丈夫ですよ。 ちょっと胸とお腹と頭が痛くて、血が顔面に集っただけですから」
「いや、それ大丈夫じゃないだろ」
「問題ありません、私は健常です、ふふっふ……」

 無理して笑おうとしたのだろう。
 幽鬼染みた顔に空虚な笑みを浮かべて上半身を起こす荀攸に、馬超は本気で彼女の容態が心配になった。
 寝る事を薦めたが、あっさりと断られる。
 荀攸と馬超は、寝た方が良い、問題ない、何度か同じようなやり取りを交わしていたが、先に折れたのは馬超であった。
 後で寝かしつけようと心に決めて、気分を切り替えると本題に入る。



「それで、馬超殿。 長安の方はどうなりましたか」
「ああ、一刀が上手くやってくれた。 長安の方はあたし達の事、分かってくれたよ」

 馬超がそう言うと、荀攸は思わず椅子から腰を上げそうになった。
 この場についてきてしまったからには、一刀と馬超の説得の成功に全てを託していた。
 だが、失敗する可能性のほうが遥かに高いと思っていた荀攸にとっては何よりも欲していた言葉であった。
 荀攸は知らず笑みを浮かべ、馬超も釣られて表情を崩す。
 大きな厄介ごとが一つ片付いたのだ。
 
「こっちはどうなんだ?」
「こちらも順調です。 多少、馬軍にも被害はありますが大半は叛乱軍へと受け流してます」
「じゃあ、後は……」
「ええ、後は」

 一刀が郿城に到着するのを待つばかりとなる。
  この戦場で馬家が『叛乱軍を裏切る』合図を待つだけだ。
 
「ただ、一つ気がかりな事が」
「何かあるのか?」
「ええ、韓遂がこの戦場に姿を見せていないのです」
「何!? まさか、逃げやがったっていうのか!」

 馬超は蹴倒すような勢いで椅子から飛び上がって激昂した。
 彼女からしてみれば、韓遂がこの場に居ない事は不快極まりないだろう。
 戦力の足しになるようにと裏で画策され、非の無い董卓軍を打ち破ったばかりか、巻き込むだけ巻き込んで逃げ去ったのかもしれない。
 余りにも不義理なその行動、馬超には許せるものではなかった。
 荀攸に宥められ、深呼吸をして腰を降ろす。
 どこまで、何処まで人を馬鹿にすれば気が済むのか。
 煮え立った頭はどんなに落ち着けようと頑張っても、できなかった。

「気持ちは分かりますが、居ない相手に激昂していても疲れるだけです。 目の前の事から手をつけましょう」
「ああ……」

 唸るような低い声で相槌を打った馬超に、荀攸は少し時間を置くべきかと口を閉ざした。
 天幕の外の喧騒だけが、しばし彼女達の耳朶に響く。
 荀攸は、ふと韓遂の目的が何であるのかを脳裏に過ぎらせた。
 郿城での戦い、それが彼女に明確な目的があるのならば、この場に居ないのはおかしい。
 目的が無いのならば、それはまるでこの戦いを引き起こす事そのものが望みの狂人のようだ。
 
「荀攸―――」
「邪魔をするよ」

 馬超が何かを問おうとした時だった。
 覆いかぶさるように、天幕の入り口から声が降って首を巡らす。
 先ほどまでの話題の中心だった、韓遂が不敵に笑みを浮かべて立っていた。
 韓遂を視界に収めた瞬間、荀攸は誰にも聞こえないように舌打ちを一つ打っていた―――同時、馬超は叫んでいた。
 
「韓遂!」
「……うるさいねぇ。 そう叫ばなくても聞こえるよ」
「っ……」

 何かを言いたげに押し黙る馬超。
 ここで自分の感情を優先させて、一刀や荀攸のくれた希望を砕くわけにはいかなかった。
 目の前に諸悪の根源が居るのに、それを糾弾することが出来ない。
 馬超にはかぁっ、と熱くなった顔が自覚できた。
 その表情に明らかな怒気を感じ、笑みを崩さないまま立つ韓遂は、馬超が自分の謀略を知ったのを察した。
 
「何しにきましたか?」
「いや、少し"準備"があってね。 つい先ほど着陣したのさ。 ついでに"味方"になってくれた馬超殿の様子を見にきたのさ」
「そうですか」
「っ……」

 煽るように味方という部分を強調した言葉に、馬超の歯噛みする音が天幕に響く。
 淡々と応対する荀攸と、視線を逸らして黙る馬超に、韓遂は張りつけていた笑みを深める。
 油断せずに馬家の天幕に訪れた自分を褒めたかった。
 馬超の自分への応対から、叛乱軍と手を組むのが不本意であることは確実。
 更に、予想外ではあったが、この場に居ないはずの人物が居ることも判った。
 顔を背けて不機嫌な顔を隠そうとして失敗している馬超から目を離し、荀攸へと向けた。
 
「ところで」
「何でしょう?」

 漢王朝の官吏として武威に訪れた。
 居るはずの無い人物へ。
 韓遂は口を開く。

「あんた、何を考えているんだい?」

 王朝に牙を突き立てた筈の馬家に、未だに居るのは何故か。
 あまつさえ、従軍し大将の天幕の中に居るのは。
 韓遂は、ある程度の予測を持って荀攸へと尋ねていた。
 この年若いと言える少女が、武威に居た頃から韓遂の行動を怪しんでいたのは分かっていたのだ。
 馬超が謀略に気付いたのも、恐らく荀攸が報せたものだろう。
 つまり、彼女が馬家に従軍しているのは真実を知って馬家を救おうと足掻いているからかも知れない。
 或いは―――

「……秘密にしておきたかったのですが、味方に疑われては仕方ありません」
「納得できるものだと良いんだけどねえ」
「信じるのは貴女次第でしょう、私にとっては真実の理由です」
 
 或いは、謀略を察した賢しいその知を持って、現況を覆す自信があるのか。
 頭の中で真意を探ろうと腕を組んだ韓遂は、しかし、荀攸の言葉に耳を疑うことになった。

「私が馬家に手を貸したのは―――」
「……?」
「……荀攸?」

 何故か頬を赤く染め始め、言いづらそうに口を開閉し、両手を合わせて指先を捏ねる。
 突然の不審な態度に、韓遂は思考を打ち切り、馬超は怪訝な様子で彼女を見やった。
 そして、意を決したかのように口を開く。

「―――貸したのは、その……一刀様がそう望んで、その望みに付き従うと決めたから、です」

 嘘は言っていない、それは確かである。
 だが、態度には問題があった。
 恥ずかしげにそう言い切って、荀攸は赤くなった顔を隠すように俯いたのだ。
 二人共、何を聞かされたのか、何を言ったのか、頭の中で整理するのに時間がかかったのだろう。
 天幕の中に一種、不気味な沈黙が舞い降りる。
 荀攸の言葉の中に在った真意、それを理解するに連れて釣られた様に顔を赤くする馬超。
 誰かの喉を鳴らす音が、天幕に響いて、それが契機になった。
 
「な、な、な、何、何を―――」
「……つまり、アンタはアレに惚れたってことかい?」
「っ、はい。 私は一刀様に身も心も捧げましたんです」
「みみみみ身ぃっ!?」
「え、ええ、武威の地で、その、つまり、一刀様を受け入れ、一刀様の為に尽くそうと……その、あ、愛ですね」
「ああああい、愛!?」

 俯いた表情を上げて、荀攸は陶酔しているかのように言葉を連ねた。
 覚悟を決めたからか、彼女の口から甘い言葉や爛れた言葉が連弩のように放たれる。
 腕の中で女の幸せを得た、だとか、唇を重ねた時に頭の天辺まで稲妻が走ったようだ、とか。
 具体例のようなものを挙げ、顔を真っ赤に染めながら告白する荀攸を見て、韓遂は計りかねた。

 というか、何だコイツ、と引きそうだった。

「そ、それで、その、あの、肉……いや、えっと」

 何故かテンパっている馬超が、なおも詳細を聞こうと意味不明の言葉を投げかけ

「え、ええ、はい。 想像通り、な、舐めました、その、ねっとり」
「ねっとっっっ!?」

 そろそろ顔で茶が沸きそうなほど紅潮した荀攸が、律儀に馬超の問いを察してそれに答え

「ああ……うん、まぁ分かったさ。 同じ女だ、そういうこともあるだろうさねえ」

 韓遂は目の前の賢しい少女が色ボケしたのだろうと、投げやりに断じた。
 事実、遥か昔、まだ少女であった自分が異性に陶酔したことがあるのも、荀攸の言に納得できる物を生ませていた。
 そうした時、女は道を違える事も稀にある。
 理屈とは関係なしに、世界が想う人と自分だけになってしまう事が。
 それに、そう。
 "天の御使い"には色々な噂があったが、艶かしい話も多くあったと韓遂は思い出した。
 
「ご納得いただけましたか!」

 卓を強く叩いて、これ以上ないくらいに必死な様子な荀攸に、韓遂は薄く笑いながら頷きつつ、後ろに一歩。
 先ほどまで怒気を露に顔を赤くしていた馬超が、違う意味で顔を赤くして荀攸に問い質そうとしている姿を納め、更に後ろに一歩。
 まるで問い詰めるように詳細を求める少女を一瞥し、聞くつもりもないのに勝手に口が開いた。

「……まさかとは思うんだが、アンタもそうかい?」
「は、はハァ!? ばばば、馬鹿なこと言うなっ! ななん、何であたしがっ!」
「いや、大体分かった、うん、もういいさ」

 口で否定しても、態度から当たりはつく。
 疲れたように手を振って、韓遂は初々しい桃色空間が広がる現在地から、自分の天幕に一刻も早く戻って寝たくなった。
 つまりこうだ。
 馬超は、自分が仕掛けた謀略そのものは許せないが、共に巻き込まれて懸想した"天の御使い"はこの乱を受け入れたのである。
 惚れた男が追放された漢王朝に刃向かう決意を固めてしまったのだ。
 情愛と義理とか、そんな感じのアレがぶつかりあって、自分を見ても襲い掛からずに顔を歪めて直視できなかったのだろう。
 多分。
 それでもういい、と韓遂は納得することにした。

「まぁ、その。 ここだけの秘密でお願いします」
「む、むむむ―――っいや、分かった……」
「秘密は守るから、帰っていいかい?」
「どうぞどうぞ」

 やたらと疲れた表情を残し、韓遂は天幕をくぐって立ち去った。
 残されたのは、息を荒くして頬を染めた少女が二人。
 チラチラと視線を投げかけては地面に落とす馬超と、その場で拳を握って卓の前で立ち尽くす荀攸。
 
 しばらく続いた何とも言えない空間を切り裂いたのは、声を震わせた荀攸の口からだった。

「馬超殿……」
「は、ひゃい!?」
「韓遂殿の気配は消えましたか?」

 言われ、馬超は素直に従って気配を探った。
 動揺はしていても戦士として、将として優秀な馬超にそれらしき気配は見当たらなかった。
 おずおずと荀攸へと視線を返し、首を振る。
 荀攸は馬超をしっかりと見返して、乾いた笑いを吐き出した。

「ふ、ふっふふ……」
「じゅ、荀攸……」
「なんで、私が、こんな恥ずかしい事を言わねばならないのですかぅ!」

 天幕が揺れたかと思うほどの大声で、馬超へと向かって叫ぶ。
 卓をばっしばっしと音が鳴るほど叩き捲くり、狂乱した彼女に馬超が慌てて―――
 
「な、それはだな、えーっと、か、韓遂が聞いたから!?」
「そうです! あああ、何で私が真意を隠す為に嘘をベラベラ喋ららららぁっ!(↑) この時に備えて練習はしていましたが、っ、それすら気に入りませんがっ!
 下手に知恵の回るオバンのせいで、煙に巻きつつ、なおかつ説得するにはあの方法しか選べなかったんですよ!?
 他にありますか! あったとしても、時間が必要でした、ええ、わかっていると思いますけど私にはアレしかなかったんです!
 一刀様は異性として嫌いじゃないですが、いえ、確かに自分が今回の一件だけは引き受けると頷きましたが、それとこれとは話が別! 一緒ですけど!
 じゃなくてですね、そうです! 馬超殿がアレコレ聞くのが悪いのです! なんでですか! 彼女がこの場に居る限りこちゃえるしか無いでっしょう? 分かってるんですかっ!?」
「なな、な、あたしが悪いのかっ!?」
「そうです! そうです! そうですよっ! げほっ、まだ私だってそういう経験っ、そりゃ読んでは居ましたが、いえ、っていうかですね、そもそも、なんでいきなり馬超殿が一刀様に懸想してるんですかっ!?」
「んぁっ!? ばばばば、馬鹿言うなっ! 何であたしが一刀に惚れ、ほ、惚れてりゅなんてっ!? 何を根拠にっ!」
「顔です! それと態度!」
「☆□△○×!?」

 まるで迷宮入りしそうな事件の真犯人を指すように、擬音が鳴り響きそうな勢いで人差し指を突きつける。
 指し示された馬超が、あんぐりと口を開けて意味不明の言葉を投げた―――のも束の間、何かを閃いたのか同じように、物凄い勢いで指を荀攸に向けて

「違う違う違う違うっ! あたしが変な顔で態度なのはっ、荀攸がちちち、チンコ舐めたとかっ―――」
「わああああああっ、なな、何を仰ってるんですか馬鹿ですか何考えてチンコなんて、卑猥なこと言わないで下さいっっ!
 それにそう誘導したのはです、ば、馬超殿です私じゃないですから勘違いしないで欲しいですね!」
「そんな訳、あたしは普通に聞いてただけだしっていうか荀攸が、そうだっ! アタシは悪くないし先に言ったのは荀攸だし、このっエロエロ軍師!」
「えろっ!? っ、ええ、分かりました、いいでしょう、認めましょう。 確かに私は艶本も読みますし房中術の本も持ってますけど、桂花ちゃんが渡してくるだけで、後学のために知識は詰め込みますが、それは認め―――」
「そ、そらみろっ! へへへーん、あたしのせいじゃない! 認めたって言った!」
「れれれ、冷静に話を聞いたらどうです馬鹿超どのっ! 
 それにそう! 
 論点がずれてます、ふ、軍師である私に舌戦を仕掛けるなど愚かです一刀殿に恋慕を抱いた馬超殿にか、っ、勝ち目はありませんのです!」
「んっ、なぁっ、ずず、図星を突かれたからってそういう、馬鹿って言った方が馬鹿だし一刀の事だって荀攸がねっちょり舐めたって事に関係な―――」
「ねっちょりなんて舐めてませんがっ!?」
「舐めたって言ったしアタシは聞いたっ!」

 もはや止まりそうもない二人の口論に、天幕の外にいた将兵は華麗にスルーした。
 時たま外にまで響く天代のナニがどうとか、そういうアレな話が聞こえてきたのが大きい。
 いや、そうでなくても女性の修羅場に下手に顔を突っ込むほど、彼等は愚かではなかったのである。

 馬岱と交代し、自陣の天幕に戻ってきた馬鉄もまた同様である。
 報告を任された兵が、困った顔で彼に尋ねた。

「馬鉄様、放っておいてもよいのでしょうか?」
「ふざけろ、あんなのに突っ込んでいられるか。 お前が行きたいなら―――」
「結構です」
「正しい判断だな、それよりもお前、蒲公英には何も言うなよ」
「は、はぁ……」

 小一時間ほどの待機の末、馬鉄はようやく帰陣の報告に向かった。
 この程度で済んだのは僥倖であろう。
 馬岱と自分が交代しなければ、おそらく三倍、いや、下手をすれば明日にまで持ち越しかねない勢いだった。
 何故、戦場でこんな溜息をつかねばならないのだろうか。
 馬鉄はそんな疑問を、必死に押し込めて天幕を潜った。

 結局、二人が出した結論は下世話な噂を持つ一刀の存在と、韓遂のオバンのせい、という物で纏まったそうだ。



      ■ 天からの兆



 騒然としたその日の夜。
 闇夜を切り裂いて、夜天が涙を流すように、大きな一つの流星が滑り落ちた。
 
 本隊が郿城に攻め入っていると確信した孫堅は、糧食を絶つ事で早期に決着をつけようと目論んでいた。
 その彼女の頭上を追い越すようにして流れた流星に、孫堅は立ち上がる。
 吉兆であると、兵を鼓舞する為に。

 主戦場となった郿城においても、その大きな流星は確認された。
 賈駆も皇甫嵩も、飛び起きて互いに顔を合わせると、夜中であるにも関わらず大声を張り上げた。

「星を見よ! 天が我等を勝者と定めた! 天の御使いが郿城に向かっている!」
「天の御使いが増援に来るぞ! 見よ、あの大きな流星を! あれこそまさに、天が我等についたという証ぞ!」

 投げ入れられた、馬家を示す押印がされた書簡の内容に賭けた瞬間だった。
 書き綴られた内容を信じた……というよりは、手っ取り早く疲労しきった自軍にとって精神的な支えが緊急に要されたが故であった。
 “天の御使い”が描いたという、埋伏の毒の計。
 兵数差からジリ貧であることに違いない現状、これを受け入れ鼓舞することが最も長く防衛を続ける事が出来るという判断だった。

 そして―――

「馬超殿」
「ああ」
「今の流星、使えます。 すぐに賊軍の鼓舞に向かってください」

 てっきり自軍の鼓舞であると思った馬超は、眉を顰めた。
 荀攸は笑みを深め、ゆっくりと説明する。

 一刀も馬超も、もちろん荀攸も、韓遂を逃すつもりなど全く無い。
 兵が勝てると信じて戦っている限り、将は逃げられないのだ。
 将が逃げてしまえば、どれだけ精兵が揃おうと、戦意を挫かれてしまうのだから。
 辺章はもとより、保身に余念の無い韓遂も自分を守る為に撤退を躊躇うはずだ。
 なにより、わざわざ馬家の天幕を訪れたという事実があることが、韓遂は自身の安全を優先するという事を知らせていた。

 そして、一番大事なのは、賊軍の知恵となる韓遂は今の流星を利用するか否か必ず迷うことにある。
 韓遂自身が言い放った"準備"という言葉を、荀攸は聞いていた。
 保身から来る準備は何か。
 深く考えなくても、逃げるための準備であるに違いない。
 その思考を裏返せば、韓遂はこの郿城の戦いは必ず勝てるとは思っていないという事になる。
 下手に流星を見て自軍を鼓舞することは、自らの逃げ時を戦の趨勢に委ねることを意味するのだ。

 自分が生きる事を優先する彼女に、この流星は利用できないと荀攸は確信した。
 
「これこそまさに、天からの贈り物。 この戦、勝てます」
 
 続く荀攸の断言に得心すると、その身体能力から弾かれたように辺章の陣へと飛び出していく。

―――・

 闇夜を切り裂いた流星は、光の尾を残して地平線の彼方に消え去った。
 郿城に突き進む一刀と華雄は、食事の手を休めて流星が流れ落ちるのを見送ってから顔を見合わせる。

「貴様の肩書きは"天の御使い"だったな」
「ああ!」
「いくぞ! 食事は止めだ! すぐに出発するぞ!」

『なぁ、郿城の手前で演説をかますのはどうだ?』
『採用』
『本体、火を焚いて儀式みたいなのしろ、なるべく目立つ場所のが良いよね?』
『良いね! "天の御使いが呼び寄せた勝利の流星が郿城に向かった"って思わせるんだな』
『じゃあ俺に任せて! その辺の集めてすぐに道具を作るよ!』
『"南の"は得意そうだな、任せた』
『諸葛亮に習って、羽扇があれば良かったんだが……』
『形はそれっぽいので良いんじゃないか? 夜だし、シルエットで十分だろ』
「よし……」

 馬に乗り込み、周囲の兵へと口を開こうとした華雄を慌てて一刀は追った。
 
 流星が流れ、兵が気付かない距離まで金獅で移動した一刀は、"勝戦の儀"の準備を半刻と経たずに終える。
 そうして目立つ場所で火を盛大に焚くと、十分に兵の目をひきつけてから、儀式を執り行った"振り"をやめたのである。

「休憩を終えたな! 聞け! 今"天の御使い"が我等の勝利を願う儀を終えた!
 先ほどの流星が、その答えだ!
 我が精兵なる董卓軍の者よ! 郿城で勝利を待つ友の為に、天が定めた勝利の為に! 一刻も早く郿城へ向かうぞ!」




「オオオォォォオォォォォオォォオォォォォオオオォォォオオオオオォォォオォオォォオォォォオオォォォ!」


―――郿城に布陣した辺章軍が

―――郿城に篭る官軍が

―――狭道を押さえる孫堅の軍が

―――援軍に突き進む董卓軍が

 気炎を上げた軍勢は咆哮した。
 "天"が定めた勝利に向けて。

 闇夜を切り裂いた明光の流星はこのとき確かに、天を分けた。
 
  
  
      ■ 外史終了 ■
  
 
 



[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編10
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/03/03 00:18




clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編8~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編9~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編10~☆☆☆






      ■ あまつ空へと



 夜中に走った天からの流星は、この地に居る全軍の意気を高めた。
 中には、興奮から冷めずに一睡も出来なかった者すら居た。
 誰もが勝利を掴み取れると信じ、肉体を精神が凌駕したのか、これまでの戦の疲労すら感じさせないほど動きが鋭敏だった。
 辺章も、天の旗を掲げたことから流星によって鼓舞されていると、敏感に自軍の様相を感じ取って、決戦の決意を固めた。
 
「韓遂、これを好機、と見るか」
「どうだかね。 だが、ここまで兵が盛り上がっちゃ水を差すのは逆効果さ。 いっそ煽り立てて一気にぶち抜いてもらった方が賢い選択ではあると思うね」
「やはり、そうか」
「こうなりゃ利用するだけ利用するっきゃないさね。 1万ほど兵を貸しな」
「今からか?」
「ああ、ちょいとばかし小細工をしに出かける」

 そうして、韓遂は一万ほどの兵を引き連れて、荒野へと向かった。

 郿城に篭る官軍もまた、叛乱軍と同じような反応であった。
 まだ記憶に新しい洛陽の決戦。
 全兵といわずとも、その戦に顔を出した兵卒の数は多かった。
 天に虹を架け、黄巾の賊兵のこと如く、意気を挫いた天代が味方となってやってくる。
 まして、天の御使いが敵方に付いたという噂が昇っていただけに、自らの将が断言した"天我らに在り"という報せに、色めき立つ者は多かった。

「賈駆殿、今のうちに兵を分けて休息と修繕の役割を当てよう」
「ええ、相手の陣内も騒がしくなっている。 明日、何か仕掛けてくるとも限らないわ。 その対策も打つわよ」

 叛乱軍にも物資に余裕はそれほどないのか。
 兵数差に物を言わせ、粗末な攻城兵器と歩兵の突撃、ときおり思い出したかのように火矢を討ちこむ攻撃が主であった。
 この事実は脅威であったのも、幸運であったのも確かである。
 何せ、郿城に篭る者達は力に任せて群がる敵兵を追い返すので精一杯だ。
 考えられる城攻めに当たっての対応策は何一つとしてしていない、というよりもさせて貰えなかった。
 そして、篭城戦において最も忌避しなくてはならないのが、攻め手を城内へと侵入させてしまうことだ。
 
「皇甫嵩殿、この場の修繕は任せるわ」
「賈駆殿はどこに?」
「私は―――」

 賈駆もまた、韓遂と同様に五千程の兵を率いて深夜に郿城を飛び出した。
 
 そして、激突の時間は訪れた。
 陽の光が郿城を照らそうと、大地の突端から顔を覗かせた。
 朝焼けの真っ赤な光が黒の闇を打ち払い、郿城と荒野の間に一陣の風が吹く。

 山沿いに面した郿城の西、黄河へと続く東から陽が照らし出されると、戦火の幕が上がった。
 
 辺章が、戟を天に届けとばかりに突き上げ、『天』と『辺』、そして『馬』の軍旗が翻る。

「夜天の流星、勝利を見たり! 我に、続け!」
 
 皇甫嵩もまた、時を同じくして郿城の中央、決して破られてはならない門上に立つと腰から剣を引き抜いて垂直に掲げた。

「胎から声を出せ! "天"が来るまで、一歩も通すな! 死守するぞ!」

 水平に薙ぎ払われた一閃、それを契機に両軍から空を劈く雄叫びが上がった。


―――・


 激戦区となったのは、中央門付近。
 東西はどちらも散発的で、相手が取る戦法も、やはり兵数差を生かし多少の犠牲を厭わない力押しであった。
 が、皇甫嵩と賈駆が詰める中央は、攻撃が止む事無く、常に動き回らなければいけない状態だ。
 中央での弾き合いも、相手が力押しなのは変わらない。
 ただ、集中する戦力と投入される兵数が群を抜いて突出していただけだ。

「矢が切れただと? 届くまで少し待て! そこらへんにある物でも投げつけていろ!」
「槌が来ますっ!」
「まだ遠いぞ! ひきつけてからだっ!
「門の守りは味方に任しておきなさい! こっちは斉射の用意、急げっ!」
「賈駆様!」
「なに!?」

 兵の声に、賈駆は視線を正門の前に向けた。
 捉えた視界には、僅かに間隔を空けて騎馬隊が。
 その少し奥には歩兵が、それを追う形で追っていた。
 考えなくても、何度も何度も何度も何度も受け続けた敵の攻撃手段の一つであった。
 繰り返された、言わば馬鹿の一つ覚えのような攻勢に、賈駆も皇甫嵩も視界に捉えた瞬間に声を張り上げていた。
 
「騎馬隊は弓を持っているぞ! 火矢に備えろ!」
「水は皇甫嵩殿が用意しているっ! こっちは竹筒を用意! 斉射に備えるわよ!」

 号令一過。

「今ぁぁぁっ!」

 郿城に篭る槍を持つ者と竹盾を持つ兵が、隊列を組んで入れ替わる。
 何処か遠くで、火矢は無いとの声が張りあがった。
 敵騎馬隊の弓が軋みを上げて、郿城の空を覆う数多の矢が発射された。
 青い空を埋める黒い針の群れ。
 その間隙を縫うように、火達磨となった壷が飛び込んでくる。
 誰かの伏せろと叫ぶ声が郿城の中央門に響いた。
 竹筒の盾を貫く、小気味の良い音と、陶器が割れる音が耳朶に届くと同時、賈駆はここ数日ですっかり枯れ果てた喉元を押さえて口を開いた。

「使える矢は回収急げ! 歩兵が突っ込んでくるわよ、弓と槍っ! 投げ込まれた火の消化ぁっ!」
「入れ替わりだ! 急げ!」
「箱の中の水を使え!」
「周囲を濡らして火災を広げるなっ!」
「敵兵来ます!」
「来るぞぉっ―――!」
「槍兵ぇぇぇっ!」

 本格的に崩れかけたのは昨日の最後の突撃のみ。
 この戦の中、防衛に徹していた機敏に富んだ官軍の行動は、しかし、大量の人の台を築いた叛乱軍の侵入を許すことになる。
 駆け上り、あるいはよじ登る敵軍の侵入は今日だけで何度目になるか。
 敵の攻城戦の錬度が増した、それも確かにあるだろう。
 だが、賈駆自身が感じていたのは下から攻め上る敵軍の、突き上げるような意志。
 勝利の二文字を確信し、戦うことのみに集中できている、その精神性が今までと比べて段違いに高かった。
 あの流星を敵も利用したのがはっきりと分かる。
 
 この時点で、賈駆は援軍の到着まで、この大攻勢を凌ぎきれるか如何かが大きな分かれ目であると確信した。
 凌いだ後はもう、"天"がこちらにつくか、あちらにつくかだけの話となる。
 昨夜の内に自力での撃退を目指し、幾人かの斥候を放って、叛乱軍の兵糧庫を探したものの成果はなしだった。
 戦の趨勢を、自身の思考以外の所で決められる。
 すなわち、文字通り主導権を"天"に委ねたという事実は、賈駆にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
 
 兵に守られるように囲まれた中で僅かに逸れた思考は、すぐ傍で発生した怒声の渦に巻き込まれて立ち消えた。
 城砦の塀の上で指揮を奮っていた賈駆の下にも、数十人の敵兵が形相を確認できるほどまで近づいて来たのである。
 自軍の兵が刀剣を持って迎え撃つその刹那、賈駆の視界の端に弓を引き絞る敵が飛び込んで来た。
 周囲の喧騒に掻き消えている筈の、番われた矢の軋みが聞こえた気がした。

「っっ!」

 飛んでくる矢から、身を屈め―――半ば倒れるようにして必死に躱す。
 背の数センチ上を掠めるように飛んでいった矢の先は、踵に引っかかって中空で弾かれた。
 まるで中空で小石に蹴躓いたかのように体勢を崩して、冷たい石の上に身を沈める。
 短い呻きを一つ。

「賈駆様っ!」
「囲んで守れっ!」
「弓だ! あっちに―――」
「お怪我は!?」

 安否を確かめられた賈駆は、大丈夫だと声をあげる代わりにずれた眼鏡を手で押さえ、口を開いた。

「ボクに構わないでっ!! 侵入された数は少ないわよ! 三人で取り囲んで屠れっ!」

 叫んで立ち上がり、一歩進もうと足を踏み出したところで針を踏み抜いたような鈍い痛みに身体が泳いだ。
 城壁の縁を掴んで、痛みを顔に出すまいと歯を食いしばる。
 矢が刺さった訳ではないし、踵を打った衝撃が残っているだけである。
 今は多少の怪我を覚悟しても、押してするべき事が賈駆にはあった。

 誰でも構わないとばかりに、乗り込んで内部から突き崩そうと躍起になって襲いかかってくる敵兵はもとより、門自体を破壊しようと槌を叩きつけてくる部隊も数多。
 これの対処は主に皇甫嵩が当たっているが、予想以上に攻勢が集中したせいか物資のやりくりに苦心をしていた。
 余りの激しさに、東西の守りを固めている張遼・呂布の両将に兵を走らせたものの、未だに戻ってはこない。
 兵の貸し借りも期待できず、ギリギリと言って良いほど瀬戸際の攻防を繰り返す現状を見て、危険を承知でこの場に立つことを決めたのだ。
 それに、城壁の上に立って指示しようと門前で指示を出そうと、危険な事には変わりはない。
 泣き言は吐けない。

「弓隊が来ました!」
「火です!」
「竹盾を前! そこのアンタは門下に居る皇甫嵩殿に火の喚起、走りなさいっ!」

 言い切ると同時に、青空に赤色が混じった矢が覆い、正門へと迫った槌が叩きつけられて郿城が揺れた。


―――・


 城攻めというのはどれだけ兵数差があっても攻め手である自軍の損失は防げない。
 そして攻め手に取れる戦法というのは限られている。
 降伏を勧告する、敵将を調略する、相手の準備が整わない内に奇襲、電撃戦を挑む。
 今挙げたこれらは、張遼や呂布といった勇名轟く将を釣り出す為に、叛乱軍側としては失くした攻めの手段であった。
 もちろん、現況からでも降伏を促すことは出来るが、するつもりもないし、しても官軍に時間を与えるだけに終わるだろう。
 そうなると、辺章や韓遂の立場からすれば、強攻で敵兵の意気を挫くか、城を破壊して突撃するしかない。

「おっしゃ、そろそろだ。 辺章に次はあたしの部隊が前に行くって伝えな。 斉射後に突っ込むってね」
「はっ!」

 韓遂はこの戦闘が始まってから、馬上で戦況を眺めながら予想通りの推移にほくそ笑む。
 城攻めにおいて邪魔なのは、高く聳える城壁である。
 人間が最も守りにくいのは、頭上から降ってくる攻撃であり、出入り口となる門は一番守りが堅くなる。
 城内に侵入しようと登っている最中は動きの制限も大きいし、何よりどれだけ人数をかけようと城壁をよじ登りきれる者は少ない。
 この城壁という厄介な物を役立たずにしてしまえば、三倍の兵力差などなくても城を攻めきる事は出来るのだ。
 それは、正しいものの見方だ。
 城壁を無意味にするには破壊槌を用いて破壊するか、或いは地面を掘っても良い。
 壁としての役割を失うような一撃を叩き込めば、この戦いは容易に勝つことができるのだ。
 
 ひたすら機を窺っていた韓遂は、昼を過ぎた頃。
 朝からひたすら兵数差で押しこみ、あからさまに動きが緩慢になったのが目立ち始めた官軍を見て決断した。
 一気に押し込むしかないのなら、今が絶好。
 
「用意が出来ました!」
「おうさ、合図をまちな。 辺章の部隊が下がると同時に行くよ」

 一抱えするくらいの大きな麻の袋を抱えた部隊が並び立って、韓遂へと報告する。
 彼女はその部隊を一瞥し、満足そうに頷いた。
 昨夜の内に一隊を借りて準備した計画は、そんな大掛かりな考えではない。
 長期戦を避けたいのは郿城で耐えている官軍もそうだが、叛乱軍も同じだ。
 掘る時間が無く、城壁を壊せるような大掛かりな兵器も無い。
 となれば、城壁を失くすには高低の差を埋めるしかないだろう。

 辺章の攻め立てる部隊から、一際大きな怒声のようなものと、銅鑼の音が響き渡る。

「合図が鳴った! 行くよっ!」
「オオオオオォォォォ!」

 腰から引き抜いた鉄の扇を振りかぶり、馬上で身を振って合図を出すと麻袋を抱えた一団は
 攻め手を引いた辺章の部隊を目指して突撃する。
 両手で抱えた袋の裾から、土が零れ落ちて地に落ちた。
 
――――――・

 来たか!
 屈みこんで弓矢の斉射を竹盾で防いだその隙間から、相手の行動を覗き見ていた賈駆は、隣の兵の肩を支えに立ち上がる。
 城壁の上、火の玉のように攻め寄せていた敵が僅かに引いたその直後。
 その後背を追い越すようにして武器も持たずに走りこんでくる部隊に、賈駆は確信した。
 
「水を運ぶわよ! 城壁に向かって梯をかけなさい! 皇甫嵩殿!」

 踵を返して身を乗り出し、叫んだ賈駆に向かって皇甫嵩は振り向く。
 彼女の大きな身振りで腕を振って指し示した方角に、皇甫嵩は即座に外の状況を理解した。
 
「梯を運べ! 用意していた箱を上げるぞっ! モタモタするなっ!」

 手近に居た兵が走りこんで箱の端っこに縛られた綱を投げる。
 長く伸びたそれを城壁の上で待つ部隊が手に取ると、次々に木の板が張られた梯が斜めに立てかけられていった。
 土煙が上がって、皇甫嵩は思わず目を細めて咳を一つ。
 
「引けっ!!」

 号令と共に箱を押す物、綱を引っ張り上げる者、全員が声を出して梯を昇り始める。
 傾斜の勾配と、引っ張り上げる力によって箱の中に入れられた水が波打って零れた。
 特に後ろから押し上げていた兵は、頭から被る格好になり、土のついた木板は滑りやすく
 上に荷物を引っ張り上げるまでに滑り落ちるものも続出した。

「積み上げろっ!」
「援護だ!」

 背後からの敵将と思わしき声に、賈駆は一瞬だけ視界を向ける。
 
「盾ぇぇ!」

 一度引いたはずの辺章の部隊が、舞い戻って弓矢を構えていた。
 真下では走りこんできた韓遂の部隊が、袋を小刀で引き裂き、あるいはその袋を投げ捨てるようにして積み上げ、凄まじい勢いで土砂の道が築かれようとしている。
 その間も、城壁をよじ登ろうとする者が当然居た。
 手の開いている官軍の兵が、綱を引く者を守るように矢が多量に突き刺さっている竹筒の盾を構え並べた。

 打ち放たれた矢の群が、構えた盾に、城の城壁に、兵に突き刺さり、最前線で踏ん張る官軍が僅かに衝撃に押される。
 皇甫嵩の守る門に、郿城を揺らす衝撃音が鳴り響く。
 まだ完成に至らない土砂の道を、叛乱軍の兵が我先にと城壁の上を目指し走り始める。

「うぉおあぁっ!」
「あああぁぁっ!」
「ぶっ殺せ!」
「守れぇっ!」

 盾を構えていた官軍が、盾を捨てて腰の剣を引き抜き、叫び飛び込んで来た敵と矛を交える甲高い金属の音が郿城に響いた。



 ―――やった!
 韓遂は自軍の兵が城壁を半ばよじ登って突入していく様を見て、両手を握って身体を振った。
 城攻めにおいて最も大きな障害を城壁だと考える韓遂は、これで勝ったと喜んだ。
 今もなお、土は積み上げられていき、城壁との高低差を埋めていく。
 たとえ、一人が抱えて来れるのが一袋分だけの土量であろうと、万人で積み上げれば高く広く道は作られる。
 土を掘り返す事も出来ない。
 壁を壊すことも時間がかかる。
 梯を作っても、官軍に燃やされてしまう。
 と、なれば後は土の道を作るしか方法は無かった。

「いけっ! ここが勝負所だ、一気に押しちまえ!」

 そして、奴等の息の根を止める道となれ!
 韓遂は自覚しないうちに、前のめりになって鉄扇を振り上げて張り叫んだ。

 その時だ。
 郿城の城壁の上にのっそりと木の箱が立ち並び始めたのは。
 韓遂がそれに気付くと同時に、その謎の箱は城壁の上から落とされた。

 大量の水を、撒き散らして。

―――・

 真横で剣戟を交える音を聞きながら、賈駆は引き上げきった水の箱を、順繰りに落とすように手を振った。
 官軍の兵が、敵の積み上げた土を踏みしめて郿城に侵入させまいと、外で剣を振り上げているのも目端に捉えながら。
 戦場の喧騒の中、鼻を突く血の匂いも厭わず、大きく息を吸い込んで、声を張り上げた。

「落とせっ!」

 声と共に、夜の内に兵を率いて黄河から組み上げた多量の水が、乾いた土に流し込まれる。
 一気に水分を含み、粘り気を生み出した土は、城壁に向かう叛乱軍の、勝利への道筋を崩し始めた。
 半ばまで昇った叛乱軍の兵の足を泥で絡め取り、中にはその身を泥の中に沈めるものも居た。
 無論、侵入を防ごうとその身を盾に剣を振っていた友兵を巻き込んで。
 梯や土砂を用意する可能性を予見し、読み勝ったのは良いものの、喜んでなどいられなかった。
 今も郿城を守る門に打ち響く槌の音は止まない。
 城壁を伝う振動が足を震わし、傍で耳朶を打つ叫び声が鼓膜を揺らす。
 
 賈駆の真横で乗り込んでいた敵兵の呻き声が走り、飛び散った血潮が顔を濡らした。
 肩だけを持ち上げて生暖かい液体を拭うと同時。

「弓隊前! 足を取られた敵を射て!」

 手を、敵に突き出すようにして叫ばれた賈駆の声は、城壁を揺らして劈く閂が圧し折れた轟音に掻き消された。
 真下から、天を焦がすほどの軍勢の雄叫びが巻き上がる。

 郿城砦の正門がこじ開けられた。

「全員抜刀! 一歩も侵入を許すな! 半円で入り口を封鎖しろっ!」 
「うろたえるな! 仲間を信じなさい! よじ登る敵に集中っ! てぇっ!」

 皇甫嵩の檄が飛ぶ。
 賈駆が最前線で命じた。
 
 引き絞られて放たれた鈍い光を放つ矢が、郿城の空を再び覆う。
 叛乱軍の多くにその死槍は突き刺さり、死体を盾に、官軍に落とされた箱を盾にしてやり過ごし――― 

「―――突撃っ! 踏み潰せ!」

 競いあう様に、軋みを上げて耐える穴の開いた門を目指して叛乱軍が走り出す。
 破壊の音が聞こえた直後、辺章は自らが突端となって武器を抱えて走り出した。
 半ばまで圧し折れた門の様相を視界に収め、上唇をなぞるように舐め上げる。
 亀の殻が破れたならば、あとは中身を喰らい尽くすのみ。
 戦場の喧騒を切り裂く唸りを上げて、辺章は自軍の兵を追い越して門を目指した。

 城壁を追い越す動きから、突如として半開きで耐えている、破壊間近の門を目指す動きに変わった叛乱軍。
 それに気がついたのは、郿城へと吶喊する敵将・辺章を見つけた賈駆だった。
 彼女は先頭に立って防衛している皇甫嵩に喚起すると、聞こえているかを確かめる事も無く
 弓隊として働いていていた部隊を皇甫嵩の増援に当てた。
 ついでとばかりに運搬に使った梯を、即席のバリケードとして使うように指示を出す。

 常では聞く事の無い、皇甫嵩の獣のような低い声が下から響いた。
 
「ウおおおぉぉおぉぉぉっっっ!」
「雑魚が! 邪魔だっ!」
「越えさせん!」

 将同士でぶつかりあったか。
 賈駆は振り返る事無くその場を動じず、手近の兵が居ないかと首を巡らす。
 端に映った自軍を見つけ、指示を出そうと口を開き

「あっ……!」

 その声は驚きとなり変わって発された。
 外から飛んできた矢に見つけた兵の首は貫かれ、声すら挙げずにその身を折る。
 城壁の上、後方へ振り返れば、乗り込んできた叛乱軍が友軍の身を斬り落としていた。
 開かれた門には目もくれず、あくまで城壁の上を目指していた敵兵に乗り込まれ始めたのである。
 無論、最低限の守りに残した官軍の兵は阻もうと、自身を盾にして矛を重ねていたが、それは数差から終わりの無い戦いであった。 
 
 舌打ち一つ、心の中で弾く。
 厳しい。
 上も下も限界に近く、中を抑えるだけで精一杯だ。
 これ以上は―――

 賈駆の心中を言葉にするように、走りこんできた兵が叫ぶ。
 ゆっくりと流れる賈駆の視界の中の景色が、敵兵の存在を捕らえた。
 その場から動かず、賈駆は叫んだ。
 
「横っ! っっ!」
「これ以上はもうっ、なっ――ガッ」

 乗り込んできた敵が突っ込んできて、抱き合うように縺れあい、そのまま郿城の中に城壁の上から落ちていく。
 兵を助けようと踏み出した足が、一歩目で止まって体重を掛けた方か賈駆の身体が崩れ落ちた。
 踵の奥から突き上げる鈍痛が、足の甲を釘で刺し貫いたかのように賈駆をその場に足を止めさせていた。

 痛みに堪え前を向く。
 新たに乗り込んだ敵兵が、殺気立った視線で賈駆を貫いた。
 城壁の縁を掴み、立ち上がって背後へと振り向く。
 ぐるりと回る視界の中で、戟を打ち合う男達を捉えた。
 後ろには、友軍を切り倒した敵が勝利の雄叫びを上げている。
 怪我をしていない足が、一歩後ろに退がる。
 
 突撃してくる男が、ゆっくりと刀を振り上げて、刀身に陽の光が煌いた。
 その鈍い煌きの中に浮かぶ、青い空と白い雲が、賈駆の視界に広がった。
 
 天つ空の中から。
 
 耳朶を打つ声。


―――飛べ!


 確かに聞こえたその声は、何処か覚えがあった。
 引き伸ばされた時間が戻って、時が加速すると、突撃する敵を前に身体の硬直は一気にとけた。
 城壁の縁を掴んでいた手に、力を込めてその場を跳ぶ。
 痛みの無い足で着地。
 
「―――!」

 後ろから何かの叫び声が耳を震わす中、そのまま片足だけで中空へと両手を広げて身を投げ出した。
 落ちる世界の中で、黄色に広がる地面に向かって、重力に引かれていく。
 被っていた軍帽が宙に投げ出されて、お下げの二本の三つ編みが空に残された。
 下から突き上げる風が全身をうって、黒いスカートが捲れ上がる。

「詠ぃぃぃ-------っ!」

 迫り来る地に"天"が走りこむ。

 正門に飛び込んで来た金の鬣を揺らす馬が、速度を落とさずに突っ込むと、衝突するように馬上の男とぶつかった。
 何かが胴周りを覆うような違和と、短い衝撃が身体を揺らす。
 間を置かずに新たな、何かが間に入ったかのように振動が走る。
 土埃が眼鏡の隙間を覆って、賈駆の視界を奪ったままグルリグルリと身体が回った。
 たった数秒の出来事。
 だが、彼女にとって何分にも感じた衝撃と回転であった。
 体感でようやく終わったその衝撃に、無意識下で声が漏れる。

「うっ……っはっ……」
「大丈夫か! 良かった! 間に合った!」
「あ……アンタっ……?」
「怪我は!? どこも痛まないか!?」

 背に回された手で起こされて、賈駆はその時初めて、自分を飛び込んで来た男の姿を認めた。
 ぶれた視界の中に必死な顔をした一刀が居た。
 一刻の猶予も無い、魔の手から逃れた以上、戦況を確認し自分の成すべきことをしなければならない。
 そんな立場であるはずの賈駆は、このとき、ただ呆然と自分を力強く抱いた一刀を、見上げるばかりだった。

「敵が入り込んでいる! とっとと追い出すぞ!」
「はっ!」
「華雄将軍に続けっ!」
「続けぇ! 一人たりとも逃さずに蹂躙しろぉっ!」

 一刀から遅れること数秒。
 金獅の足に追いついた華雄の勇ましい声が、郿城砦に轟く。
 華雄の視線が周囲を一瞥した。
 賈駆と一刀が倒れこんでいる姿を目視、視界が移り皇甫嵩と辺章のつばぜり合いを見つけて。
 華雄は唇を上げてニヤリと笑った。

「そこをどけっ! 董卓軍一の"猛将"華雄が相手だ、肉だるまっ!」
「華雄殿かっ!」
「何!? ぐっおっ!?」

「華雄将軍だ!」
「援軍だっ!」

 横槍に近い形で辺章は皇甫嵩から離れ、華雄の斧を紙一重で躱す。
 構えた左腕の皮一枚を削いで、血飛沫が華雄の頬をうった。
 門を破り、飛び込んで来た兵も、その華雄の剣気に押されて蹈鞴を踏む。

 その光景に、賈駆の思考が戻ってくる。
 戦意に熱くなった感情からか、紅潮した頬を一つ叩いて首を振った。
 一刀を突き飛ばすように立ち上がると、現状を把握しようと一歩踏み出して止まる。
 短い呻き、忘れていた痛みを思い出して眉間に刻まれた皺が、普段の数十倍深く刻まれた。

「え、詠っ!」

 揺れる体を支えるように一刀が腕を伸ばしたが、それは振り向いた賈駆の鋭い視線に防がれた。
 いや、振り返ったまま左手で打ち払われ、真っ赤にした顔を向けて、そのまま右手が閃く。

 バチンっ、と周囲の剣戟の音に負けないくらいに、平手の音が響いた。

「ボクの真名を勝手に呼ぶなっ!」
「っ! すまないっ…・・・」

 一刀は打たれた左の頬を押さえ、謝罪と共に目を見開く。
 賈駆の目尻から、ハッキリと涙の粒が零れ落ちていた。
 目元を腕でぐいっと拭うと、一刀には目もくれずに援軍として次々と入城する兵に檄を飛ばす。
 ふらつきながら、それでも賈駆は誰の手も借りずに歩いて。
 城壁を登って乗り込む叛乱軍兵士が、華雄と共に乗り込んだ兵に徐々に押し出されて外に吐き出されていく。

 首を巡らせば、敵兵が放ったのか、城内の一部に火の手が上がり始めていた。

『"董の"、ミスったな』
『はは、まぁ文句は言えないだろ? 無事だったんだから』
「ああ……怪我、してるみたいだけど……」
『だいぶ攻め込まれている、とっとと準備をした方が良い』
(人員を借りられないかな、急がないと。 一人じゃ――)
「分かってる……行こう!」

 "董の"は軍帽を拾って被りなおす賈駆に視線を送り、一つ拳を握って微笑むと、所在無さげに突っ立っていた金獅を掴まえて跨った。
 肩を痛めたのか、呻いて倒れる兵を捕まえて、一刀は声をかけた。

「すまない! 俺に力を貸してくれ! 伝令と準備、それと董卓からの書状を―――!」

 今は、言葉はいらない。
 郿城に入り込んだ敵兵の排除をしなければいけなかった。



      ■ 掴みとれ!



 辺章は華雄に受けた一撃、それだけで武では叶わぬと判断し、自軍の兵を裂いて外に飛び出していた。
 それもそうだ、名乗りに"董卓軍一の猛将"と断言した女だ。
 董卓軍には呂布という赤い髪の、絶対に武では届かないだろう女が居たことを、辺章は知っている。
 それよりも勝ると豪語したのだ。
 生半可な腕ではない、少なくとも赤い髪の女と同等かそれ以上の武を持っていることになる。

「糞! もう少し、手が届いた物を!」

 荒い息を吐き出して怪我の具合を確かめるように腕を押さえる。
 肉の外の皮がずるりと剥け、外気が槍となったかのように刺激を与えていた。
 僅かに顔を顰めて、しかし、辺章は手当てをすることなく泰然とその場で戟を持ち直し、天に振るった。
 如何に敵将が万当であろうと、それ以上の戦力で攻め入れば勝てるは必然。
 自身が怪我をしたように、からくりでもない限りは人間である以上、体力も気力も限界値があるのだ。
 長い闘争の歴史が、それを証明している。
 辺章も勿論、それは存じており、勝利を得るにはこの機を逃して他にないと確信していた。
 
 この一戦だけに留まらず、郿城砦へと何度も攻め立てた叛乱軍は、常にこの硬い守りに跳ね返されてきた。
 愚直に矢を、槌を叩きつけて、ようやくこじ開けた門は、まさしく勝利へと繋がる空間である。
 郿城に入り込んだ敵援軍の規模が、どれほどの物なのかは分からない。
 しかし!
 
「総力を持って、漢を殲滅する! 全軍、中央へ寄れっ!」

 辺章の手は正しかった。
 今、この時、この場においての兵力の差は歴然である。
 その彼の意を、周囲の兵卒は完璧に理解した。
 辺章の檄に槍を構えて突撃し、或いは弓を取って矢を番えた。
 武器を持たない者は、地に落ちた武器を拾って駆け出した。
  
  
 
 力で強引に引き裂かれ、悲鳴を上げて抉じ開けられた門を見た荀攸は即座に動き出した。
 自ら馬に乗り込んで、仕掛けの準備をしていた維奉の下へと向かう。

「維奉殿っ!」
「おおっ! ここに居るぜ!」
「すぐに馬超殿や馬岱殿と合流し、叛乱軍と共に郿城の中央を攻めてください! 合図があればその場で逆撃を! こちらは私が引き継ぎます!」

 郿城に篭る官軍はもとより、叛乱軍もまた大きな精神的抑圧を感じていたのを彼女は知っていた。
 倍以上の兵数差で持って攻め立てた郿城は、やはり堅牢で犠牲は増えていく。
 友人が死んだ者もいるだろう。
 仲間を失って、激怒した人間の数は日増しに増えたはず。
 この場に居る戦をしている者は全て人……感情があるのだ。
 彼等は望んでいたのだ、武器を持って突き刺さした獲物が、悲鳴を上げて口を開けるのを、ひたすらに。
 
 その口が開いた今、死力を持って全軍が突撃することは容易に想像がつく。
 それは『叛乱軍に加担した馬家』もまた、同じことでならなければいけない。
 了の叫びを返して、駆け出した維奉を見送って荀攸は門に向かって走り出す"友軍"へと視線を向けた。
 重い痛みが胎の底からにじみ出て、そっと手を当てる。

「時間が無い……」

 漏れ出た言葉は、戦火の中に消えていった。
 
―――・
 
 まるで吸い込まれいくように郿城の中に消えていく自軍の様相に、韓遂は舌を打った。
 西からも東からも、全軍が中央に寄っていく姿は滑稽とも思えた。
 辺章や馬家が中央への突撃を叫んだ思考は手に取るように分かる。
 戦いとは敵の弱点を攻める事が常道だ。
 
「っても、呂布や張遼も集ってくるだろうが」

 何のために郿城に篭る将を釣りだしたのか、韓遂は辺章に文句をぶつけたくなった。
 理想は最も厄介な呂布という将が戻る前に、郿城を攻め落とす事だった。
 あの二人が戻った今、戦場を広げて武将の手が届かない様に戦線を広げる手を韓遂は打ったのだ。
 門を抉じ開けた今では、この場に居る自分達だけでも十分に突破する事が可能なはずだと、韓遂は思っていた。
 もちろん、辺章の考えも間違っているとは言えない。
 貫ける機を逃さず、全軍でそこを狙い打つのは決して悪手ではない。
 なまじ理解できるからこそ、韓遂はイラつきを抑える事が出来なかった。

「韓遂様、我等も突撃しましょう!」
「……」

 預かった兵の声に、韓遂は鋭い視線を投げるように振り向いた。
 気圧されたように、兵の足が後ろに下がる。
 
「か、韓遂様?」

 戸惑うような兵の声に、韓遂は口元を歪めた。

 中央に群がる自軍の兵。
 官軍の立場になってみれば、これは恐ろしい事ではないか?
 軽く万を越える規模の悪意の塊が、殺意を持って突撃するのだ。
 黄巾の3万を一人で薙ぎ払ったと言われる呂布が居るとしても、一撃で兵が消し飛ぶ訳でも在るまい。
 自分が郿城に篭っているならば、間違いなく中央以外は手が回らなくなる自信がある。
 では、その間に命令を待つ兵力をもった自分が遊撃すればどうだろうか。
 そう、中央ではなく、別の場所――― 
 
 それは殆ど、思いつきのような策であったが不思議と韓遂は成功すると確信した。
 左右に首を巡らして、聳え立つ郿城の全容を一瞥。
 雪崩のように正門に突き進む中央の自軍と、東から中央に寄るように走りこんでくる"馬"の旗。
 
「馬家は先の釣り出した戦で勝利していたはずだ……官軍はやつらを放っておけねぇ」
「は?」
「ついてきな! アタシ等は西から行くよ! 目の前の餌に釣られてる阿呆の背後を襲う役目さっ!」
「は、ははっ!」
「ふふ、ふはっ、あっはっはっはっはっは!」

 大声で鉄扇を振りながら馬の腹を蹴って駆け出した韓遂は笑った。
 勝った。
 戦の始まる前から敵味方の総意を巧みに操り、敵味方の意識を逆手に取って、石橋を叩いて叩いて遂に捥ぎ取った。
 圧倒的な兵数差、仲間と言って良いはずの馬軍の反旗、いかに優秀な軍師だろうと覆しようの無い正門の崩壊、舞い降り閃いた戦術。
 "天"は選んだのだ。
 あの夜空を切り裂いて堕ちた星は、漢王朝の命運そのものだった。

 この時、韓遂は郿城の戦いにおいて初めて驕った。
 自軍の兵を置き去りに、突き上げる笑いを抑える事無く。
 戦場で高らかに響く狂笑は、天を突き抜けるような轟音に掻き消された。

 血走った無数の視線が、爆音の正体を確かめようと空を見上げた。
 韓遂もまた、同じように。

 そこは郿城の城壁の天辺。  皇甫嵩が鼓舞の為に立ったその場所、防護に使われる全ての資材、木材を取っ払って開かれていた。

 翻るは"天"の旗。
 鳴るは陽に照らされて輝く、巨大な銅鑼。
 金色の鬣を揺らす金獅の背に跨り、北郷一刀は†十二刃音鳴・改†を掲げた。
 刃を返し、煌きが地を走る。

「天の御使い、北郷一刀! これより愚かにも漢王朝に刃を向ける賊軍を討つ!
 天空から堕つ流星を見たか! あれぞ"天"の定めた星の趨勢! 
 夜天の星の声を聞いたか! 我が敵の堕とすべき者だと報せた、天命の声を!」
「戯言をっ!」

 誰かの叫び声と、風を切って唸る矢が一刀の顔の横を通り抜ける。
 頬の皮膚を凪いだその一撃が、赤い線を残して通り過ぎた。

 掲げた†十二刃音鳴・改†が振り下ろされて、戦場に似つかわしくない甲高い空気を揺らす音が奏でられた。
 指し示された刃を伝って陽の閃光が、辺章に突きつけられる。
 
「叛乱軍総大将、辺章! その首、天の意に従い貰い受ける!」

「オオォオオォォォオォオォォォオォオォオオォオオォオオオオ!」

「笑わせるなっ! 天を獲るのは、俺だっ! 殺せっ!」

 一刀の宣言が終えると同時、郿城砦の正門は揺れた。
 歯を食いしばり、目を剥いた辺章が怒号を発して、叛乱軍の左翼が悲鳴をあげる。
 天上に立つ一刀の刃が、東方に薙がれた。
 辺章の顔が、東に向く。
 渾身の銅鑼を叩く一撃が、空気を伝い戦場の轟音となって響きあがる。

 その残響の最中、一刀が叫んだ。

「翠っ!」 
「うぉおおぉっっしゃっあぁらぁっ!」
「いくでっ! 今までの鬱憤、晴らしぃっ!」

 馬と張の旗が、叛乱軍の横腹に突き刺さっていた。
 楔陣形となって突き進む兵馬の群れの中、先頭を立って血線を描いて槍を振り上げたのは、馬超。
 城壁から無数の梯が掛けられて、流れ落ちるように張遼が滑り落ちてくる。
 雪崩れ込んだ東陣を抉るように、一直線に辺章の下に向かって突き進んでいた。

 悲鳴が伝播するように、辺章の耳朶に西から大きなどよめきがあがって視界が流れる。
 銅鑼が鳴り響く。
 刃がひらめく。

「恋っ!」
「行くっ……!」

 真紅の呂旗が郿城の西に翻り、その旗に影を作るように人馬が中空に飛び出した。
 首下から伸びる赤黒い衣を空に残して、二本の触覚が風に流れて尾を引いていた。
 郿城の外、長大な獲物の方天画戟が振り落とされて大地を揺らす。

 辺章の視程と足が、その場に留まって口は止まった。
 
「敵はうろたえたぞ! 天命に従い、賊を屠る!」
「華雄っ! 暴れるなら今よ! 行きなさいっ!」

 一刀の名乗りに便乗したかのように、皇甫嵩が剣を突き出して叫び命じた。
 賈駆の声に華雄の戦斧が翻り、人馬が飛ぶ。
 銅鑼が鳴る。
 一刀の刀が空を切り裂いた。

 甲高い音が刀から響き、辺章の背後から叫び声が上がった。
 何も無い筈の自軍の後ろに、真っ赤に燃える炎の揺らめきが、熱風と共に肌を打つ。

「勝利を掴みとれっ! 行くぞぉぉっ!」

「オオォオォォオォオォォォオォオオォオオォオオ!」

 一刀の剣が空に鳴いて、二度の叫喚と共に官軍が矛を振った。
 辛苦の防衛線が終わった事を、彼等は自然に理解した。
 "天命"を得た官軍は、この大号令を持って反撃に出たのだ。

 
 
      ■ 命炎




 一刀の大号令の後、陽が傾く頃に戦況は瞬く間に一変した。

 昨夜の流星によって鼓舞された叛乱軍は自軍の勝利を信じていた。
 "天"が我等と共に在ると、自らの総大将の言葉を信じていた。
 大儀と言えるそれは、明確な野心を持たない兵等にとって、命を賭けて槍を持つ理由となる。
 当然ながら、友を失った、自分の手足を失った者には私怨もあろう。
 だが、大勢に影響するのは自分が立つ位置に在るはずの正当性なのだ。

 流星を通じ総大将自身が宣言した"天"
 それを失ったのだと叛乱軍に知らしめるのに、一刀の大号令は十分であった。
 
 漢という巨龍に刃向かった事実を受け入れた彼等にとって、この戦に於いて矛を持つ正当性を失う事は、意気を挫くに足りた。
 同時、先刻まで確かに在った、勝利という文字が塗り替えられた事を悟ってしまったのだ。
 濃厚な敗北の未来が見えた彼等は、何を持って戦い、何に勝つのかを見失っていた。

 今まで終始、攻めてた筈なのだ。
 守るのは敵で、殺すのが自分達のはずだった。
 なのに、今は違う。
 燃え盛る大地へ追い詰めるように、真紅の死神が迫っていた。
 一緒に槍を、弓を持って戦っていたはずの馬家(仲間)が、獰猛な叫びを挙げて襲い掛かってくる。
 抉じ開けて突き進むはずの門から、"天命"を受けて正義の兵となった敵が飛び出してくる。
 なによりも。
 "天の御使い"がその手に持つ刀で空を斬っただけで、地が燃え盛って彼等を囲んでしまった。

「うあ……あぁぁ、ひぃぃいいいっ!」
「わああああっっっ、ああぁぁぁあぁああ!」

 叛乱軍兵士にとっての"事実"が恐怖と共に伝播していくのに、時間は掛からなかった。
 身を縛り上げていた恐怖が、本能の叫びとなって足を動かし始めたのだ。
 叫ぶ声がまた、誰かの叫び声を返して郿城に反響していく。

 四方を囲まれて、逃げ出し始めた自軍の様相に、辺章はその場で動く事すら出来ずに眺めるしかなかった。
 どれだけ鼓舞をして檄を飛ばしても、間近に居た兵ですら耳を失ったかのように恐怖の音を奏でるだけであった。
 足は縺れて転びこみ、腰を震わせて大地にまろび、武器を手放し郿城から後退する。
 決した人の流れにしかし、逆らうかのように足を止めて、辺章は微動だにしなかった。
 理屈ではなく、肌で敗北を悟ったのは彼も同じだ。
 現況に於いて彼の取るべき道は、檄を飛ばして平常心を取り戻させ、兵を纏めて逃げることであろう。
 
 だが、そうはしない。
 そうは出来ない理由があった。
 最早、軍としての統制が取れない辺章は、群よりも個の我を貫き通す事を決めていた。
 胸中に覚悟という二文字が自然に滑り落ちる。
 狂騒の中で、瞼を閉じれば何時からか自分に全てを託す笑みを浮かべる姿が舞い降りる。
 この敗走する自軍の中に、西へ敵陣深くに突っ込んだ女が居る。
 この敗北の前に、理想を描いて自分の勝利を信じた女が居る。
 そして、守り、逃げる道を切り開く兵を失った女が居る。

 ゆっくりと瞼を開いて、世界を覗く。
 世界で最も強くなったような力の漲りを感じた。
 逃げ惑う兵馬の群れの中から、殺意の槍が懐に伸びてきたのを、辺章は捉えた。
 彼の体躯が、一回り大きくなったかのように全身の筋肉が隆起する。

「うおぉぉおぉぉおおぁぁあっ!!」

 怒号一閃。
 戟を振るう銀の閃光は、槍そのものを断ち切って相手の頭蓋を叩き割った。
 その余りの豪腕に、官軍の槍を持つ手が、足が止まる。
 怯んだ敵軍に怒鳴りつけるように、辺章は馬上で雄叫びを上げた。

「どうしたぁっ! 辺章は俺だ! この俺の首を獲りに来たのだろうっ!」

 囲む敵兵の輪が、怒声に押されるように僅かに退く。
 
「来い! この先、俺を滅せねば、通ることは叶わんっ!」
「ならば! 貴様の首、この華雄が戴く!」

 辺章の放った豪語に答えるように、兵を割って馬に乗り込んだ華雄が金剛爆斧を振り上げた。
 戟と斧がぶつかり合う。
 金属が打ち合ったとは思えない轟音が響き、両者の跨る馬が沈む。
 衝撃が武具から伝うように全身を震わし、華雄と辺章の体が僅かに泳ぐ。

 先に体勢を戻したのは、馬の足の力が先に戻った辺章であった。
 未だ下方に沈み込む華雄に向けて、両の手を握り締めて掴んだ戟を真上から振り落とす。

「オオオォォォォッ!」
「ちいぃっ!」

 華雄の短い舌打ちが耳朶を震わす。
 片手だけを翻し、半円を描くように頭上へと振り込んだ戦斧が、辺章の渾身の一撃を膂力のみで押し返した。
 その頭上からの一撃を逸らされて、辺章は唇を曲げた。
 圧倒的とまでは言わないが、武の差は歴然。
 技を持たぬ己が膂力で負けていれば、目の前の豪傑に叶う道理は無かった。
 だが。

「ふはっ、ふははははははっ! 董卓軍一の猛将が俺の首を獲るかっ!」
「何を笑う!」
「容易くは無いぞっ!」
「ほざくなぁっ!」

 だが、一角の将で在ると自負する辺章は、己の命を武技に乗せていた。
 最初の一撃と同じような轟音が戦場に木霊する。
 切り結んだ数は3。
 武器そのものが軋みを挙げて打ち震え、流れた身体同士が磁石で引き合うように接近する。
 4度の激突。
 水平に薙がれた戦斧が、辺章の左手首から先を斬り飛ばした。

 そこで辺章は馬首を返した。
 斬り飛ばされた自身の手首に構わず、馬上で揺らめいた視界の中で捉えた影を追って。
 多量の出血を地に撒き散らし、一直線に駆け出した。

「逃げるかっ、辺章っ!」

 後ろで叫ぶ華雄の声を置き去りに、辺章は右手一本で戟を持ち直して馬の首を掴むと、強引に馬首を返し、金色の馬を追跡した。
 今や、敵軍の総大将と言って良い"天の御使い"が、逃げる自軍の背を追っていたのだ。
 倒そうとした訳ではない。
 万が一倒せたとしても、自分も死ぬ。
 戦況は膠着しても、決して覆らない事はもう分かっている。

 辺章が華雄に背を向けたのは、一刀が赤い髪を揺らして敗走する韓遂を追っていたからであった。
 手首を斬られ、視界に入ったのはまさに僥倖。
 むしろ華雄には感謝の念すら抱いていた。
 辺章は唸りを上げて猛然と突き進み、一刀の横合いから飛び出してきた。
 
「うおおおおぉぉぉぉぉっっっっ!」
「金獅っ!」

 右方から飛び出した辺章を、一刀は速度を緩めて回避する。
 左の手首から先を失った男が、右手のみで手綱を引っ張り挙げ、馬首を再び返して背中を追った。
 金獅と辺章の馬が勢いを殺し、再び加速した。
 戦場に二つの土煙が上がる。
 僅かに体勢を速く戻した辺章が、一刀の横ばいに追いついた。

「追わせんっ!」
「邪魔をするなっ! そんな怪我でっ!」

 戟が進路を塞ぐように一刀の前方に突き出され、そのまま薙ぎ払われた。
 一刀は眼前に迫り来る銀の刃を、盾にするように剣を構えて防いだ。
 辺章の剛打に、前に行く身体が押し戻されて、金獅が一刀を振り落とさせまいと蹈鞴を踏んだ。
 笑みを浮かべて雄叫びを上げる辺章。
 腕の痺れを押して、振り上げた†十二刃音鳴・改†が奇音を鳴らして辺章の戟と交錯する。
 弾かれ、戟を持つ右手が泳いで、辺章の胴に隙を作り出した。
 一刀の刀が翻り、辺章は左腕を苦し紛れに振るう。
 中空に散った血の滴が礫のように迫って、一刀の片目を塗りつぶした。

「ぐっ!?」
「貰ったぁっ!」

 視界を失った一刀が中途半端に刀を振り落として、馬上に突っ伏した。
 その隙は、辺章にとって金獅ごと首を刈り取るに十分であった。
 天から地に落すように、戟閃が振り落とされた。
 風を切る武具の音が、辺章の耳朶に響く。

 右手に走る衝撃。
 それは、人肉を切り裂く物ではなく、岩へ振り落としたような衝撃であった。
 狩り獲るはずの一刀の首も金獅の首も、唸りを上げて存命を誇示していた。
 視線を落せば握りこんでいたはずの右手に戟は失く、手の甲が赤く腫れあがっているだけ。

「一刀っ!」
「っ……れ、恋っ!」

 声の方向に、一刀も辺章も首を巡らした。
 辺章は即座に現状を察知、腰から短刀を右手で引き抜くと、一刀の首を斬り落そうとした時に鳴った風の音を捉える。
 真っ直ぐに顔面へと向かってくる黒い何かを咄嗟に弾き返し、衝撃からか盾にした刀身が真ん中で圧し折れた。
 のけぞった辺章の目に、拳大の石が地に落ちるのが見えていた。

 一刀は石を投擲した恋の姿を確認すると、この場は十分であると判断し韓遂を追跡するべく金獅の腹を叩く。
 辺章はもう、助からないと断じたのだ。
 手首を失い、そこからの多量な失血は命に関わる物だ。
 今から手当てをしても、間に合わない。 致命傷だ。
 なにより、恋がこちらを見据えて突っ込んでくる。

『韓遂が逃げるぞ!』
『この場は任せよう!』
「っ、分かったっ!」
「ガアアッッ!」
「っっしゃおらぁぁっ!」

 踵を返して韓遂を追いかけ始めた一刀に、辺章は獣のように叫びその背へと飛び出した。
 馬を足場に跳躍した直後、辺章の真横から鈍い光が走りこむ。
 十字に象られた銀の槍が、首筋を刺し貫いて中空に浮いた辺章が、地に転げ落ちた。
 もんどりうって倒れこんだ辺章の瞳に、青い空と飛び上がった人の影が映りこむ。

 飛龍偃月刀が煌いた。

「終いやっ!」
「がっ―――」

 何かを言いかけた辺章の首が飛んだ。
 最後に映った光景は、天が土煙を上げて愛する者を追う姿であった。

 血飛沫を上げて浮かせようと上げていた身体が、頭を失って倒れこみ、数瞬の間を置いて地に首が転がる。
 隣り合って息を弾ませる張遼と馬超。
 お互いに僅かに視線を交わし、自らの獲物を掲げると同時に声を上げる。

「叛乱軍総大将・辺章! 西涼の錦、馬孟起が討ち取ったっ!」
「叛乱軍総大将・辺章! 神速の張遼が討ち獲ったでっ!」

 言い終わるが早いか、お互いに睨むように顔を突き合わせる。
 
「ちょっと待ちぃ! どう考えてもウチが首獲ったで!」
「ふざけんなっ! 横からいきなり現れて何言ってやがる! アタシが殺ったっ!」
「あほかぁっ! 討ち漏らしてたんのを刈り取ってやったんやっ! 寝言は寝てから言えやっ!」
「眼が腐ってんのかお前っ、首を抉ったんだ! あれで死んだっ!」

 二人がこうして争ったのは、様々な事情があった。
 翠は一つでも多く、この場で戦功を重ねて『埋伏の毒』となった事を証明し、馬家の正当性を上げたかった。
 もちろん、流れの中でとはいえ韓遂を一刀に譲った手前、共謀者と考えており、この叛乱軍の実質的な総大将である辺章で溜飲を下げたいという思いも存在した。
 
 一方で張遼も辺章を討つというのは特別な意味を持っていた。
 釣られたとはいえ、自分の率いる一隊を失ったのは叛乱軍、すなわち辺章のせいであり、失った自分の兵への仇となるのだ。
 同じ董卓軍の華雄や呂布に手柄を譲るのは構わないが、その仇の一端と言っても良い馬超に戦功を奪われるのは気に入らない。
 たとえ、一刀が描いた策の一部であったと理解しても、仕える主君・董卓が認めたとしても、だ。

 戦場のど真ん中でお互いに顔を突き合わせ、ぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた二人を尻目に、ようやく追いついた華雄が辺章の転がった首をチラリと見て

「ちょっと待て! ずるいぞお前ら! 私が首を貰うはずだったんだぞっ!」
「乗り遅れは引っ込んでろっ!」
「そやっ! 華雄はすっこんどきっ!」
「なにぃっ!? 誰が乗り遅れだとっ!」

 その喧騒に加わったそうだ。



      ■ 濁を呑む



 韓遂は呂布が郿城から飛び出した瞬間から、この戦における全ての戦いを放棄し馬首を返して逃げ出した。
 大地から火の手が昇り、呂布の方天画戟が人馬を中空に吹き飛ばした時、何処へ逃げればと周囲を見回し
 そして、呼び止める大声に足を止めた。
 
「韓遂様ぁっ!」
「貴様はっ!?」
「僅かですが兵を纏めております! 火の手が薄い場所も! こちらへっ!」

 焦り促し示す青年の兵の声に韓遂は首を向けた。
 火と兵の包囲の中にぽっかりと開かれた空間。
 呂布、張遼と言った猛将から逃げてくれと言わんばかり不自然な安全地帯。
 
「待ちな! あそこは罠だ!」
「しかしっ、何もおりません!」
「馬鹿がっ、誰にだって分かる兵法の基本だ! 死兵にならないよう包囲の一箇所を開ける! 逃げ出した兵を刈り取る場所に選ばれた空白地帯さ!
 死にたいならそっちにいきな! アタシは火を突っ切るよ!」

 そう言って韓遂は近場の瓶をひっくり返し、水で全身を濡らすと兵を置き去りに走り始める。
 纏められた兵は、僅かの逡巡のうち、大半が韓遂の後を追うことをやめて視認可能な安全地帯へと走り始めた。
 誰もそれは責められない。
 目の前に広がる猛火を突っ切ることなど、死にに行くようなものとしか思えなかった。
 それでも、韓遂の、将の言葉を信じた者達は飲料の水を身体に被ると、馬を駆って火の中に飛び込もうと先を行く韓遂を追った。

 自分に付き従い背を追う兵を肩越しに覗き、韓遂は舌を打った。
 期待こそしていなかったものの、その数は数秒で数え終わるほどの小勢。
 自らの盾となるには余りに小ない。
 
 逃げる韓遂と西涼の兵の後ろから怒声が上がったのはその時だった。
 
「韓遂―――っ!」
「っ、アイツっ!」

 金色の鬣を揺らし、猛然と走りこむ一騎の影。
 それを認めた直後、韓遂は目前の火中に向かって躊躇なく飛び込んだ。
 その姿に何を見たか。
 西涼兵もまた、恐怖を振り払うように雄叫びを上げて彼女の背を追って突っ込んでいく。
 数人の悲鳴が火中に響いて、火達磨となった人影が地面に転げ出た。
 
「逃がすかよっ!」
『変われッ!』

 まったく速度を緩める事無く、韓遂が飛び込んだ場所へと一刀は突っ込んだ。
 木片を足場に、機微に手綱を操って金獅が跳躍する。
 真っ赤になった一刀の視界は一瞬で裂かれ、青と緑の景色が開かれた。
 中空で韓遂の姿を認め、人馬が引き連れた火の粉を背に着地と同時に腕を振る。

 緋の壁を飛び越えた韓遂と一刀に、いち早く気が付いたのは叛乱軍との乱戦を演じていた維奉であった。
 荀攸の指示で彼の束ねている50余名を率い、郿城へと突撃を仕掛ける最中に逆撃の合図が上がったのだ。
 馬家と合流する間も無く、維奉達は後背に取り残されその場で乱戦となったのである。
 火の手と共に後背を脅かし、謀らずとも最後方で彼は戦っていた。
 
「また無茶してやがるっ! これだからあの人はよぉ!」

 部隊に大声で指示を出して、維奉もまた一刀の背を追った。

―――・

 郿城の西から先は、険しい山間の道となっていた。
 獣道に近い藪と木々の隙間を縫って、矢のように走る韓遂。
 彼女が切り開く道を追うことこそが、助かる道と信じて必死に走る叛乱の徒。
 大乱を招いた黒幕を逃すまいと、金色の背に捕まる一刀と、それを追う維奉達。
 上下に揺れる山間のあぜ道に、突き出た枝やその棘に肌を裂かれ大小の切り傷を刻みながら、長蛇となって追走撃は続いた。
 
 韓遂は徐々に疲労が濃くなった自らの乗る馬の状態を敏感に察知していた。
 手綱を振る腕に手応えがなく、馬のハミを噛む力が失われていき、急な勾配に差し掛かれば左右に身体が振られていく。
 条件は同じでも、追っ手から逃げ切るのは至難だと思えた。
 
 山の中に開かれた平地、左右に広がる山の谷間。
 そんな少し開けた場所に辿り着くと、その場で速度を緩めて韓遂は空を見上げるようにして山間を覗いた。
 雑林の隙間から赤く染まり始めた山中に、当初の逃走経路から離れていることを認めざるを得なかった。

「くそっ、最初から後方で構えてりゃ……」

 愚痴を零しながら、周辺の地理を頭の中で描く。
 この地から逃げるにしても、正確な地形は判らなかった。
 馬を休ませ、自分の大まかな位置の確認を終えた頃、韓遂の下に敗走した兵等が追いついた。
 
「かっ、はっ、韓遂様っ!」
「随分減ったな」
「う、馬が潰れて足を失った者が……それと、我等を追っている者は100に満たない数です」
「そりゃ嬉しい報告だね、だが、時間が経てばもっと増えるだろうさ。 この辺に詳しい者は?」
「郿城の周辺を探らせていた斥候の兵が居たはずです」
「来てるのか?」
「はい、しかしまだ追いついてません」
「それに、韓遂様…・・・我等の馬も限界です、地理を把握してもこの山道では……」
「っ、人馬が通れる場所も限られております。 このままでは」

 一人、また一人と韓遂を追って逃げ出した兵が合流する。
 中には追いついた矢先から力尽き、倒れる馬の姿もあった。
 ようやく韓遂の欲した現地に詳しい兵が現れると、頷いて話し始めた。
 ここからそう遠くない場所に黄河に向かう川を挟んで、山を繋ぐ橋と渓谷があるらしい。
 山間の隙間を縫った谷間、綱と木板で繋がれた簡素な橋、それは地元の人間が使っているそうだ。
 上手く金子などを渡して交渉すれば、地元の人間の住む軒先を借りて。追っ手から身を隠す事も不可能ではないかも知れない、と兵はそう締めた。
 韓遂はその話に頷き、馬の背に跨った。
 
「よし、すぐに向かうぞ!」
「お待ちを!」
「なんだ?」
「韓遂様はお一人でお逃げください、我等がこの場で足止めをします」
「大勢で行っては見つかってしまう道です。 単騎で向かった方が確実でしょう」
「敵の数が多ければ、装備と馬を捨てて山の中に我等は潜みますよ」
「はははっ、それは良い。 官軍の無能どもに西涼の夜の山は酷だ、見つかりっこないぞ」
「此処で騒ぎ立てれば、韓遂様に目は向かなくなるな!」
「それに陳倉から向かった者達もいる。 山を越えて彼等に合流するっていうのはどうだ」
「ハハハ! 妙案じゃないか!」
「どうせ我等は天に嫌われて、賊軍となったのだ! こうなったら悪名を大陸に轟かせてやろうぜ!」

 何か覚悟を決めたかのように、彼等は笑みすら浮かべ、途中からは韓遂がその場に居ないかのように肩を叩きあって話し合う。
 ある意味、ここに来て彼等は平常心を取り戻したといえよう。
 大儀を失った兵達がこの土壇場に来て、目上の人間を生かす事を思い出したのだ。
 軍兵において、自らが命を預ける将を失うことこそが敗北となる、そんな誰もが知っている事実を。

 彼等の声に、韓遂は呆けたようにその場で見やっていた。
 韓遂にとって、この郿城での戦は成功すれば儲け物であり、もしかして届くのではとも期待したものであった。
 失敗をしても、何度でも決起して、漢王朝という巨龍に牙を突きたてるつもりなのだ。
 その為には、自身が畜生に堕ちようとも構わなかった。
 使える者を使い倒し、好きでもない人間を煽て、宥め、時には己の身体で垂らしこみ、利用した。
 "奴等"を滅する為だけに、今の自分が在る、そうなろうと決めていた。
 ならば、彼等の申し出は渡りに船である。
 とっとと踵を返し、教えてもらった間道を抜けて、橋を渡り、荒野の雲の中に隠れてしまえば良い。
 そう頭の中で弾き出した彼女は、しかし、何故か必要も無いのに口が開いていた。

「アンタ、名前は……?」

 韓遂に橋の在りかを教えた青年は、唐突に投げかけられた彼女の声に僅かに驚きつつ口を開いた。
 周囲の喧騒も、韓遂の問いかけに自然と止み、夕焼けの山中に虫の声のみが音となって反響する。
 視線が絡み、初めて韓遂は目の前の兵がまだ、年若く成人もしていないような人間であったことに気がついた。

「姓を閻、名を行と申します!」

 閻行と名を告げた青年から視線が外され、韓遂は馬上に乗ったまま隣の壮年の兵に目線は移った。
 男は自然に両手を顔の前に合わせ笑みを浮かべて答礼し、声をあげた。

「我が名は郭堆でございます!」

 この男の名乗りから先は早かった。
 誰もが礼の形を取り、次々に我が名を叫び、山中に反響する。
 五十に満たない人馬が、礼をして韓遂へと名を告げ終えると、韓遂もまた両手を合わせて頭垂れた。

 この答礼を最後にしたのは、果たして何時だったかと彼女は胸中で呟いた。

 数秒に満たないその答礼は、この場に居る敗走した西涼兵の心を一つに纏めるのに足りていた。
 言葉も無く、韓遂は踵を返して山の中に消えていく。
 直後、まるで山の中で居場所を報せるかのような、雄叫びが彼女の背後から沸きあがった。


―――・


 まるで勝ち鬨を上げるような歓呼が山の中に響いた。

「な、なんだ!?」
『歓声……か?』

 その声の正体と、韓遂の姿を一刀が見つけたのは疑問を吐き出した直後であった。
 山の中では珍しく開けた平地の空間に、数十人の西涼兵が腕を振って沸き立っていた。
 同時、山の中にただ一人消えていく韓遂の後姿も。
 西涼兵の様相は先ほどまで追走していた顔と比べて、明らかに精悍であった。
 目はぎらつき、全身が戦意に溢れていた。
 過去、そして今に至るまで、数多の戦場での経験が、一刀に大きな警鐘を鳴らしていた。

 もはや本能と言っても良い、その警告に従って一刀は金獅の手綱を緩めた。
 
「来たぞ! 敵の追っ手だ!」
「"天の御使い"だっ!」

 呆然とした一瞬、それが悪手となった。
 敵兵の誰かがそう叫び、一刀は雷に打たれたかのように手綱を引っ張った。
 命を懸けて、覚悟を決めて、そうして難事に立ち向かう人間は実力以上に力を発揮する。
 ましてや、それが逃げた韓遂の―――誰かの為に想うものとならば、その精神から来る底力は一刀だけではどうにも出来ない人の壁の完成であった。
 金獅が獣道となったあぜ道を飛び出して、木々の立ち並ぶ斜面に進路を変えた。
 途端、木々に突き刺さる矢と、投擲された石が一刀の背を追うように音を鳴らす。
 
 首を巡らす。
 夕陽の照らす勾配道の木々の隙間から、数人の男達が武器を構えて一刀の視界に入り込んできた。

『本体っ、前だっ!』
「うっ――!?」

 脳内の警告に、咄嗟に視線を向ければ進路を塞ぐように枝木が伸びて、咄嗟に頭を下げる。
 潜り抜けた瞬間、目の前に現れた別の枝木が投擲された石に砕かれ、木っ端が舞った。
 それが金獅の視界を塞いだのか、急制動をかけられて、一刀の体が前方につんのめって、空に投げ出された。
 頭を抱えて山の中を転がる。
 草と葉が一刀の顔の直ぐ横で舞い上がった。 

 好機とみたのだろう。
 徒歩で、或いは騎馬で、西涼軍の兵達が夕陽を背に一刀目掛けて走り出した。
 藪を突っ切り、茨を掻い潜り、殺到してくる人馬の群れ。
 咆哮するような怒声が一刀の頭上に降ってくる。
 
「抜刀! 突撃!」
「天の御使いの首を獲れっ!」
『やばい!』
『やられるっ!』

 脳内の切迫した金きり声が頭の中に響く。
 打ち消したのは、一刀の背後、叛乱軍に負けないくらいの怒声だった。

「……―――ォォオォォオオオオッッ!」

 上から降り落ちてくる人馬の横腹に、叫びと共に一直線に突き刺さった。
 官軍でも董卓軍でも馬超軍でもない。
 持っている獲物もバラバラ、鎧すら着ていない物も居た。

 沸いて出たような横撃に、駆け下りた勢いのまま吹き飛ばされて木々に胴を圧し折られる。
 或いは、中空に飛び出して山の底へと跳び出して転がっていく。
 馬も、人も、突然の敵に山の森の中腹で蹈鞴を踏んだ。
 途端に乱戦となり、槍と戟が打ち合い、馬が走った。
 
「速く行っちまえっ! どうせ止めても行くんだろーがっ!」
「片腕がよくも邪魔をっ! "天の御使い"を殺せ!」
「させねぇぞ!」
「アニキさんっ!」
「行けよっ! こんな奴等っ、片手で十分だってんだっ!!」

 剣戟を交えて叫ぶ維奉の声に、一刀は立ちあがって金獅の下へと走る。
 ほぼ同数の争いはどちらに転ぶか分からないが、確かに一刀には追うべき人間が居た。
 傾斜の激しい山間の木々の中、走る剣戟音と叫喚を残して一刀は走った。

―――・


「はっ……はっ……はぁっ……っ!」

 荒く息を吐き出して、視界に流れる木々の隙間をひたすら走って橋を目指す。
 途中、力尽きた馬を捨てて荷物も持たずに山道を駆け上がっていた。

「くそっ!」
『どっちだ!?』
『馬を捨てたかっ!』
『真新しい足跡だ、こっちに続いてる!』
『ナイス"南の"』

 まるで死んでしまったかのように倒れ伏し、過呼吸に陥ってる馬を見つけた一刀も、総力を挙げて韓遂を追う。
 赤い髪を振り乱して走る韓遂の姿を捉えたのは、夕陽が沈もうとし、夕闇が空を覆うとしていた頃であった。
 
「韓遂ぃぃーーーーっ!」

 一刀の声に、韓遂は振り向くことなく走り、山間を抜けた。
 はるか眼下に広がる谷、その底を流れる黄河へと続く川。
 一つの山を裂いて、二つに別れたかのような深い渓谷となっていた。
 崖淵に突き当たり、数十メートル離れた場所に、今にも崩れそうな橋がかけられ対岸に繋がっていた。
 一も二も無く視界に収めた直後、重い足を叱咤して走り出す。
 突っ張った橋木の際に手を掛けて強引に姿勢を制動し、転びそうなほど足を縺れさせて橋の最中で膝を付く。
 それでも韓遂は地に滑り込むように対岸に辿り付いた。

 同時、一刀も崖の淵にて金獅の馬首を強引に返して橋に向かっていた。

 逃げ切れた。
 肩で息を吐き出しながら、韓遂は確信した。
 どれだけの駿馬であろうと、数十メートルの距離を一瞬にして詰め寄ることなどできない。
 まして、人の何倍も重量のある馬が綱と風雨に晒されて脆い木材だけで作られた橋を渡ることも。
 韓遂は最後まで手放さなかった鉄扇を腰から引き抜いて、橋の綱目掛けて振り落とした。
 
「は……はっ、……っ、あ、はっはっははは、残念だったねぇっ!」

 いと切れた人形のように、刃を当てただけで橋はその役目を終えた。
 ブツッと音を立てて、重力に引かれ綱と木々が中空に舞う。

 それでも。
 それを見ても、一刀は速度を落とさなかった。
 いや、むしろ上げていた。
 手綱を両手で必死にしごき、山道を休みも無く走り続けた金獅に全てを託し。
 そして地を蹴った。
 肺に溜め込んだ息が、一気に押し出され、口から声が突いて出る。

「ッッハッアッ!」

 堕ちゆく夕陽に、人馬の影が中空に重なった。
 
 韓遂はその姿を見ることしかできなかった。
 踵を返して逃げ出すことも、先のように笑いを浮かべる事もできずに。
 深く底を流れている渓谷など、無かったかのように空を追い越して、一刀と金獅は韓遂の真横を通り過ぎた。

 慣性に逆らわず、徐々に速度落としてようやく立ち止まると、金獅が大きく嘶いた。
 
「……」

 一つ首筋を叩くと、一刀はゆっくりと金獅の背から降り立ち、韓遂へと視線を向ける。
 蛇に睨まれた蛙のように、振り返った韓遂はその場で硬直し、顔を逸らした。

 ピーッと甲高い音が鳴る。
 弾かれたように、韓遂は一刀へと視線を戻す。
 一刀が†十二刃音鳴・改†を正眼にして構えていた。

―――・


「待てよ……」

 一刀の耳朶に、韓遂の掠れた声が聞こえてきた。
 未だに武器を構えない韓遂をしっかりと見据えて、じりじりと間合いを計るように、徐々に足を摺り寄せる。
 お互いの武器が一歩踏み込めば届く場所までゆっくりと近づいた。
 一刀の刀と韓遂の鉄扇、腕を伸ばせば触れ合うほどの距離で初めて、背後に崖を背負った韓遂は構えた。
 馬を捨てて自らの足で走ったからか、その足元が震えていた。

 かつて牢屋越しに突きつけられた鋭い気は完全に失われている。
 だが、一刀は知っていた。
 いや、教えてもらった。
 この世界において武とは、見た目で全てを判断することなどできないのだ。
 たとえ自分よりも小柄であろうと、膂力は数倍も持ちえている可能性だってある。
 女性だから、小柄だから。
 そういう見た目ほど当てにならない事を一刀は知っていた。
 目の前の韓遂が、どれだけ体力を削られていようと、どれだけ己の本来の実力を発揮できなくても、北郷一刀の武を凌駕している可能性はある。

 油断無く、一刀は韓遂の隙が生まれるのを見定めよとしていた。
 
「ま、待て……」

 この言葉が契機となった。
 韓遂が片手で構えた鉄扇が、山間を抜ける強風に煽られて僅かに揺れた。
 
「うおおおおおーーーっ!」
「きゃあああああっ!」

 真っ直ぐに突き入れられた刀が、韓遂の篭手を打った。
 まるで後ろに下がるように腰を引いたせいで、浅かったその一撃はしかし、韓遂の手から鉄扇を落す事に成功した。

 いや、違う。
 むしろ韓遂が自ら手放したかのようだ。
 緊迫した一瞬の交錯のせいか、一刀は息を荒く吐き出し、倒れこんで片腕を抑える韓遂を見下ろした。
 尻餅をついて、頭を守るように丸まって顔を伏せる韓遂に、一刀は刀を振り上げた。

 風を切って、甲高い音が鳴る。

 その状態で、一刀は両腕に力を込めて歯を食いしばった。

「なんでだ!」
「っ……!」
「なんでこんな事をしたんだっ!」

 何時でも振り下ろせる、何時でも首を獲れる、その状態のまま一刀は叫んだ。
 この西に芽吹いた大乱の全ては、目の前の韓遂から始まった。
 彼女は言った。
 武威の地で牢屋で過ごす日々の最中、一刀の下を訪れて彼女は言ったのだ。
 中央から排されて、腐敗しきった漢王朝に切り捨てられた、哀れな子羊だと。
 自分と同じだから、あの日一刀へと接触したのだと。

 両手で刀を持ち上げたままの状態で問われ、韓遂は視線を上げて一刀を見た。
 怪我をした腕を押さえながら、唇を震わせて声をあげる。

「わか……分かるだろうがっ、あんたと同じさ! "奴等"に追い出された、利用されるだけされて、馬鹿をみたんだよっ!」
「ふざけんなぁぁぁっーーー!」
「キャアアアアアアッッ!」

 まるで激情を叩き付けるように、一刀は刀を振り下ろした。
 硬い地面に獲物がぶつかり、鈍く低い音が一刀の掌の中に反響した。
 再び頭を抱えて金きり声を上げた韓遂の胸倉を掴み、一刀は引き倒すようにして左腕を振り抜いた。

 一刀の握りこんだ拳に、肉塊を打ち抜く衝撃が走る。
 うめきを上げて転げた韓遂を追いかけて、一刀は襟首を引っ張り上げた。

「ふざけるのも大概にしろよっ! 一緒!? 同じだって!? 一緒にするなよっ! 俺とお前を一緒にするなっ! なんなんだよ、お前っ!」
「っ……ふざけてるだ……!? あたしゃ、アタシは大真面目さっ! ああそうだよ、アタシはね、見ての通り弱いんだよ!
 お偉い天の御使い様みたいに剣を振るうことなんて無理なのさ!
 良かったじゃないか、あんたの勝ちさ! さぁ、殺しなっ!」
「っ……お前ぇぇぇっ!」

 煽るような言葉に、一刀は腰から引き抜いて短刀を振り上げる。
 だが、振り下ろさなかった。 目を硬く瞑っていた韓遂は僅かに開き、一刀を詰る。

「やらないのかっ、ハッ、お笑いだねっ! あんただって心の奥底じゃ分かってるのさ! 同じなんだよ! アタシとあんたはね!
 さんざん利用されて、勝手に祭り上げられて挙句の果てに追い出されっ―――」
「うおおおおおおおおおおっ!」

 まるで開き直ったかのように罵る彼女の声を打ち消すように、一刀は握りこんだ拳を叩きつけた。
 腰を身体に乗せて、馬乗りになって彼女の顔へと、二度、三度と歯を食いしばって殴りつける。
 鈍い音が何度も鳴って、韓遂の鼻や口から赤い飛沫が舞った。

「ぅあっ……」
「一緒にするなぁっ!」

 一刀はもう一度叫んだ。
 韓遂を殴打する腕を止めて、彼女の顔を睨みつけながら。

「俺を、お前達と一緒になんかするんじゃねぇよっ!
 酷い仕打ちを受けて宦官のやつらに追い出されたのは俺だってそうだ!
 自棄になるのもムカつくのも、共感できるさ!
 武威の牢屋で、アンタに誘われた時は正直言って心も揺らいだっ!
 "奴等"に仕返しが出来るなら、ねねを置いて洛陽を追い出されるならっっ!
 ああ、仕返しをするなとは言わないっ! でもっ、でもなっ!」

 でも、違うのだ。
 このやり方は間違っているのだ。
 今だからこそ、一刀は韓遂の内心が手に取るように理解できる。
 宦官に、いや漢王朝の人間にかつて韓遂は一刀と同じような酷い裏切りを受けたのだろう。
 それが何かは分からないし、分かりたくもない。
 だが、それが契機で韓遂という女は漢王朝を見限ったのだ。
 それだけは間違いないと一刀は確信していた。

 そして、失意の中で彼女が選んだ道は、漢王朝を滅ぼし、利用し騙した"奴等"への復讐だ。
 "奴等"の存在が、そのまま漢王朝という国と繋がってしまったのだ。
 それは、逃げだ。
 そうじゃないのだ。
 漢王朝は"奴等"だけで成り立っているわけではないし、帝だけで成るわけでもない。
 数千人に及ぶ官吏でもない、まして、民だけでもない。

 それら全てを含めて、初めて漢王朝は成っているのだ。
 国というものの成り立ちも、かつて官吏として名を連ねた彼女は知っているはずだった。
 虚言を弄し、国を捨てて、他人を巻き込んで大乱の華を咲かせ、全部、全て、何もかも自分を捨てたヤケッパチの行動だ。
 そうでなければ、まともな人間では、こんな大それた事などできやしないのだ。

 犯した罪は、人心を失わねば出来ないことだ。 それこそ、一刀や韓遂自身が憎む、"奴等"のように!
 
「信用してくれた人を平気で裏切って、裏でほくそ笑んで、あいつらと何処が違うんだ! そうだろ!? 間違ってるか俺が!? 
 "奴等"に同じ事をされたなら、分かっていたはずなのにっ! 何で同じ事をしてアンタが笑ってるんだよっ!」
「っ! 勝手なことを! アンタにあたしの何がっっ、何をっ、分かったつもりで怒鳴るんじゃねぇっっ!
 信じる方が馬鹿なんだよ! 裏切られてから気付いたって、全部遅いんだ、そういう時代がっ……っ!」
「だから漢王朝を潰すのか! 奴らと同じところまで堕ちて、今を必死に生き抜こうとしてる皆を裏切って! 時代のせいだって、言い訳をして、お前それで良いのかよっ!」
「……っ!」
「答えろ韓遂っっ!」

 韓遂は言葉に詰まった。
 一刀の声は、確かに彼女の心中を穿っていた。
 脳裏に閃くは、命を賭して名を預けて身体を張って逃がしてくれた彼等の姿。
 そして、自らが捨てたはずの、答礼であった。
 
「平気じゃないんだなっ!」
「―――それ、はっぅ!」
「平気じゃないんだろっ! 言えよっ!」

 首を絞められるかのように、襟を持ち上げられて、韓遂は呻く。
 じわり、と目尻に涙が浮かんだ。
 目の前の男の叫びが、彼女の心を騒がせていた。
 "天の御使い"はなんと言う愚者なのかと、声を大にして叫びたかった。
 時代のせいに決まっているのに、どうして言い訳などと断じるのか意義を唱えたくて仕方なかった。
 漢王朝は死ぬ。
 それは"奴等"を前にして得た手痛い教訓なのだ。
 自分が立ち上がったのは決して私怨だけではない。
 これ以上自分と同じような人間を産ませない為の、そう、彼女なりの覚悟でもあった。

「こんな、こんな国なんて早々に亡くなった方が良いんだ! とっとと新しい国を作ったほうが、皆幸せになるんだっ! そうさ!
 その手伝いを、私は復讐がてらにしてあげてるんだ! いけないのかい! それを志に掲げちゃ……覚悟を決めたんだ! あたしはっ……アンタにそんな覚悟っ……」

 一刀の強い意志の篭る視線は、そんな事は無いと彼女に語りかけていた。
 その視線に溶かされるように、韓遂の言葉尻は消えていった。
 まるで太陽が、眼前に現れたかのように直視できなくなってしまったのである。
 自分の覚悟が、目の前の相手に比べてどれだけ卑屈な覚悟なのか。
 このとき、韓遂の心に掲げたものの壊れていく音が、彼女には聞こえた。

「……殺せよ」

 そう呟いたのはどれだけ時間が経ってからか。
 韓遂の声が、陽が落ちて薄闇の降りた山中に響いた。

「俺の覚悟が不足なのか」

 そして、絞り出すように殺せという韓遂の声に答えたのは、そんな一刀の呟きだった。
 今までのような叫びではないはずの、小さな声は何処までも響き渡るようであった。
 絡み合う一刀の瞳に、陰は何処にも差していなかった。

「韓遂、俺に賭けろ」
「……賭っ、け?」
「賭けだ、俺が中央に戻ってアンタを認めて馬車馬のように"漢王朝"で働かせてやる。 出来なかったら、好きなだけ暴れろよ」
「―――それで……アンタ、な、何を?」
「俺に手を貸せ、出来ないなんて言わせないからな。 俺は貴女が裏切らない限り約束は守る、信じてくれて良い」

 韓遂は真正面から見据える一刀の視線に押された。
 まともに顔を合わせて話をしたのが牢の中、つい今しがた、それだけだというのに、この男。
 自分を信じろと言っている。
 許さない、敵だと断じた相手に何を期待する。
 吹っ切ったはずの中央への未練は、目の前の眩しい男のせいで火がついてしまった。
 自分は裏切らない。
 "漢"も取り戻す。
 そんな自信がどこからくる。
 根拠の無い未来をどうして信じられる。
 さんざん利用されて、お人よしかつ優しすぎるこの男の目指す道は漢王朝の復興だ。
 今回の仕打ちは何回自分を殺しても気がすまない出来事のはずなのだ。
 なのに、北郷一刀という男は飲み込んだ。
 韓遂の濁った非を、自分の力に取り込み、一刀の正道を敷き均すため、私心を殺して生かすことを決断した。
 それが分かった。

 そこで彼女は思いだす。
 ああ、そうだった、と。
 コイツは間抜けだったのだ、と。
 私と同じで、間抜けだから"奴等"に良いように利用されたのだ。
 太陽のように眩しいと感じたのは、立っている場所が違うからだ。
 陽の当たれる場所に帰れる……いや、帰る為に努力しているから。
 そんな努力をせずに、自分は闇の中に立ち止まって彼をみているから、眩しかった。

 今更だ。
 そう思うのに、また期待をしてしまう。
 覚悟が足りないのは、どちらかなど言うまでも無かった。

 思考を打ち切らすように、ダンっ、と大きな音が韓遂のすぐ横で響く。
 一刀が地に拳を打ち付けて、山中に木霊するように叫んだ。

「逃げるなよ韓遂っ! 俺がお前を呼び出して扱き使ってやる、それまで大人しく待ってろっ!」
「……………………わかっらわ……」

 大きな逡巡の後、韓遂は血で詰まる鼻柱を押さえて答えた。
 しかりと、一刀に目を合わせて。
 
 お互いに荒い息を吐き出しながら、一刀は韓遂の上から腰を浮かした。
 ふらつきながら、地に手を付いて起き上がる韓遂は、力なく鼻から流れる血を拭う。
 一刀はそんな韓遂から視線を外して、荒い呼吸を落ち着かせようと必死だった。
 握り締めた拳から、赤い流線が滑り落ちるのを、彼女は見た。

 木々を支えに山道を歩き、立ち去ろうと進めていた歩を止めて、韓遂は一刀へと口を開いた。
 
「韓約……」
「……?」
「宮中に勤めていら時のアタシの名。 今日からまた、それを名乗るよ……」
「……行けよ」

 それは韓遂が、一刀の約束を守ると言ったに等しかった。
 一刀はそんな韓遂の姿が山の奥に消えていくのを見送り、所在無さ気に草土を食んでいた金獅へ視線を投げた。
 踏み出した足が、すぐに止まる。
 一刀は頬が揺れた。
 口が自然に開き、鼻の奥に熱い刺激が走る。
 目尻からはもう、止めようも無い程の涙が突き出て、頭の奥が痺れていた。

「ウオオオオオオオオオオォォォォォォォォォッッッ!」

 †十二刃音鳴・改†を掴み上げると、一刀はすぐ傍の木々に力任せに振るった。
 発狂したかのように木へと剣を打ちつける。
 何度も、何度も、体力の続く限り。

「ちくしょう! ちくしょう!ちくしょう! ちくしょう!ちくしょう! ちくしょう!ちくしょう! ちくしょう! ちくしょぉぉぉーーーーーーー!」

 無念が口を突いた。
 何度も叩きつけていた剣が半ばで折れて、中空に投げ出され、放物線を描いて落下する。
 一刀の背後、数メートルのところで地に突き刺さった。

 一刀は折れた刀剣を地面に突き刺し、その柄を杖のようにして身体を支えて、慟哭した。
 韓遂のせいで、見殺しにした彼女の志が夕闇に消えてしまったかのようだった。
 自分の大志の為に彼女の志を、今は蔑ろにしたことへの懺悔であった。

「ごめん……ごめん、耿鄙さん……俺はっ」

 何時か来る、未来への大乱。
 反連合の為には力が必要だった。
 韓遂を得ることは、一刀にとって決してマイナスではない。
 西涼の大乱を起こし、人の、そして組織を相手取って成功させた謀略、その知は本物だ。

「俺、頑張るから……俺……頑張るからっ……!」

 連合が結成されれば、話し合いに持ち込む事は生半可な事では難しい。
 一刀の目指すところは話し合いに持ち込むことだが、だからこそ目的を達成する為には力が……すなわち、軍事力が必要なのだ。
 董家、馬家の二家が協力をしてくれても足りない。
 この両家が、必ず一刀の側に立つとも限らない。
 未来を見据えた西平の軍というメリットを獲って、一刀は私心を押し殺したのである。

 一刀の嗚咽が、西涼の山間に響いていた。
 脳内の誰もが、本体に声をかけることは出来なかった。


―――・


「ごめん……金獅、待たせたね」

 こんなに泣きはらしたのは何時振りだろうか。
 待ちくたびれた様子で地に伏せて欠伸をかましていた金獅の下に近づいた。
 そんな暢気な愛馬の姿に、一刀はふっと笑みを浮かべた。
 まるで一刀のことなど気にしていない様子が、逆に気分を落ちつかせたのである。
 韓遂に、いや韓約にあれだけの大言を吐いたのだ。
 落ち込んでいる暇は、確かに無い。

「郿城に戻ろうか……」
『そうだな』
『姿がないと、まずいもんね』
『ああ、早く戻らないと怒られそうだ』

 あの大号令は、一刀の立ち居地を決定付けるものだった。
 あの瞬間、確実に官軍にとっての御旗となった、すなわち総大将になったのだ。
 脳内のみんなが言うように、早く戻らねば命の危険すらある。
 例えばそれは、心配をかけた呂布の手加減の一撃とかだ。

 金獅の口輪を掴んで立ち上げると、その背に跨る。
 馬首を返して、手綱を握りこんだところで、藪の中から葉を揺らす音が響いた。
 敗走した敵兵か、と腰の短刀を引き抜く。
 だが、闇夜に紛れて現れたのは維奉であった。

「アニキさんっ!」
「おうっ! 無事だったかよ!」

 跨ったばかりの金獅の上から飛び降りて、一刀は維奉へと駆け寄った。
 すると、奥の方から数人の男女が維奉の後ろから顔を出す。

「まさか対岸に居るとは思って無くてよ、迂回して来るのが遅れちまった。 すまねぇ」
「そんな……構わないよ、姜瑚さんも無事で良かった」
「無事で良かった……って、あんた、そりゃ俺らの台詞っすよ」
「あはははっ、そうそう、一人でバーッと走ってっちゃうから、追いかけるの大変だったんですよー!」
「はは、それは……うん、ごめん」
  
 維奉と姜瑚の明るい声に、一刀は苦笑して頭を下げた。
 そうして、一刀はその場で維奉達の状況の報せを受け取った。
 あの後、一人の青年兵を残して西涼軍の兵を全滅させたものの、逃した青年兵によって維奉の部隊を大きな損害を受けたそうだ。
 生き残った維奉の部隊は、今、一刀の目の前に居る7名のみ。
 40名近い者が、敗残兵を追いかける際に逆撃を受けて全滅したという。

 その話が終わると、今度は一刀が彼等に韓遂との決着を伝えた。
 自分を支えてくれる維奉に対しては、隠し事など無いのでそのまま全てを。
 一刀の赤く腫らした目元の原因に得心すると、維奉は自分の太腿を手で打って威勢よく言った。
 
「おしっ、おう、任せろっ! 韓遂、あぁ、今は韓約だっけか? あの野郎は俺がちゃんと見ててやらぁ! 約束を破らねぇようによ!」
「……そうだね、俺も彼女を信頼しているわけじゃない。 でも、危険かもしれない」
「大丈夫だって! 俺等が見ててやるからよ、なぁ!?」
「うぃっす!」
「おっす!」

 維奉の声に答えるように、生き残った全員が不敵に応を返した。
 
「ありがとう。 じゃあ頼んで良いかな?」

 控えめに問う一刀に、維奉は声を出して笑った。
 腰掛ける一刀の前に一歩出ると、恥ずかしそうに鼻を啜って、そっと一刀の肩に右手を置いた。

「俺はよ、天代っつか、北郷一刀って人を支えるって決めたんだ。 ずっとよ、プラプラしてたクズだったし、頭の良いアンタの悩みなんか一つも解決できねぇかもしれねぇけどな」
「維……奉さん」
「でもよ! 俺ぁ最後の最後まで、アンタに付き合うぜ! いや、つき合わせて貰う! 俺の全てを賭けるっ! 役立たずかもしれねぇけど……そう決めたんだ!」

 宣言のような声に、一刀はそっと肩を掴まれた維奉の手に自らの手を重ねた。

「ありがとう、アニキさんのおかげで、俺はまた立ち上がれるよ……韓約の事、全面的に頼む」
「お……おうよ! 任せろよっ! へへっ、あんな女、ちょちょちょい、だぜ!」
「ははっ、心強いな!」
「それじゃ、俺達はこのまま韓遂の野郎を追うって事っすね」
「だな、御使い様、こっちは任せてくだせぇ」
「よし、話は決まったぜ」

 維奉が自分の部隊の人間に振り返って頷くと、一刀の前に全員が歩み寄って、一人ずつ両手を重ねて礼をする。
 一刀もまた、彼等に感謝を込めて答礼した。
 最後に残った維奉が、片腕だけで手を振り、肩を竦めてから頭を下げた。
 横柄とも言えそうな態度であったが、一刀はしっかりと維奉にも返礼し、彼等の駆け去っていく姿を見送った。

「……行くかっ!」

 掛け声一つ。
 一刀は金獅に跨ると、必要以上に大きな掛け声を出して、郿城へと走りだした。


―――・

「ああは言ったもののよぉ、姜瑚ぉ……野郎は頭良さそうだよなぁ。 俺じゃあ口で騙されちまいそうじゃあねぇか。 どうすりゃいいんだ?」
「ねぇ奉ちゃん~、いい加減、言い出してから考えるのやめなよぉ~」
「だってよぉ」
「あはは、まぁそういう所が格好良いんだけどさ! 元気だして奉ちゃん?」
「姜瑚……ありがとよぉ。 なぁなぁ、どうすりゃいいかな俺はよぉ? 御使い様を騙した狡いアマだろぉ? 今から勉強しても果てしなく無意味じゃねぇかと思うんだよな」
「そだね。 奉ちゃんじゃ無理かもなぁ……頭、悪いもんねぇ……」
「だよなぁ」

 しみじみと呟いた姜瑚の声に、維奉は顔を歪めて同意した。
 自分の事ながら、少々情けない気分を抱きながら。

「あ。 そうだ、私の親戚にね、まだ小さいんだけど、頭の良い子だーって噂の子が居るの!」
「いや、姜瑚、だから俺ぁ勉強なんてよぉ」
「違うってばっ、手伝って貰うのさ。 その子ならもしかしたら……えっと、麒麟児って呼ばれててね? ほら、奉ちゃんにも一回話したけど―――」



      ■ 郿城の勝ち鬨



 郿城に戻った一刀は、戦禍の残る城内に入ると大きな歓呼を持って迎え入れられた。
 この盛大な歓声が、郿城の戦の激しさを物語っていた。
 盛大に火が焚かれ、まるで昼のような赤い光の中、正門を金獅と共に潜り抜ける。
 勝利の勝ち鬨がそこかしこで上がり、郿城は戦とは違う意味で喧騒が鳴り響いていた。
 
「あ~ん~た~はぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 一刀が城内に入って僅か三秒。
 眦が危険すぎる角度にまで下がった少女が、憤慨を隠さずに杖を付いて歩き詰め寄ってきた。
 董卓軍きっての鬼謀を持つ少女、賈文和であった。

 怒られる理由が全て理解できる一刀は、少女が突撃しきる前に両手を合わせて頭を下げた。

「す、すまない!」
「謝るなっ!」

 下げた頭に、竹簡の束が振り落とされた。
 パチンっ、と小気味の良い音が室内に響く。
 中々に痛い。

「総大将でしょうがっ!」
「で、でもっ」
「でもぉ!? 総大将が戦場に飛び出す!? 血気盛んなのは良いけど、それでアンタが討ち死にしたらどうなるの!?」
「け、けどっ」
「けどぉ!? 敵将を刀振り回して追うのは何の真似よっ!? 挙句の果てに、敵将を追って森に突っ込むなんて猪の方がまだマシだわっ!」
「だ、だが……」
「だが……じゃあなぁぁぁーーーい! ボクの真名まで勝手に呼んだ! それも忘れてるんじゃないでしょうねっ!」
「そ、それはゴメ―――っ!」
「謝るならするなぁっ!」
「っっ、いってぇぇぇ!?」
「痛くしてんのよっ!」

 今度は左右から竹簡が迫り、一刀の頬を打った。
 明らかに威力を増した竹簡サンドで、一刀は両頬を押さえてかぶりを振った。
 悪いのは自分だと分かっていても、一刀からすれば自分が総大将との実感は限りなく薄かったのだ。
 流れの中で"天の御使い"を名乗っていた虚名が、副次的な要素を産んで担がれたに過ぎない。
 いや、どちらかと言うと自分から担がれていた神輿にジャンプして乗り込んだのは否めないが、それも偶然の産物である。

 痛みを堪えて目を開けば、喉下を押さえる賈駆が柱を支えに呻いていた。

「う'ぁ'ー……言いたこ事は山ほどあるのに、喉が痛い……っ」
「あ、あの……すまなかったよ」
「良いわよ、ボクの真名のことも、月の書状を受け取る前に策を走らせたことも、みんな全部、文句は後回しにする」
「そうしてくれると、うん……」
「分かったら、とっとと行って!」

 そう言って賈駆は一刀にズビシと突きつけた指を、大げさに振って階上を指し示した。

「やるべき事を終わらせてきてっ!」
「……?」

 彼女の指に釣られて視線を巡らした一刀の首が、斜め四十五度にひん曲がる。
 示された場所は何処かの部屋のようだった。
 今、自分がすべき事があの部屋にあるのだろうか。

 理解していないような一刀の表情に、賈駆の額の血管がじわりと浮き出る。
 先ほど言われた言葉が、理解できないのだろう。
 振り上げた腕が、一刀の後頭部に再度走った。

 素晴らしい快音が、一刀の頭から奏でられた。

「っっ、痛いんですけどっ!?」
「そぉぉたいしょぉぉぉでしょうがぁぁ! アンタが勝利の鬨を挙げないでどうすんの!? あんな大号令ぶちあげたせいで、ボク達じゃ格好がつかないのよっ!」
「あ、ああっ、そうかっ、分かった! すぐにするよ! だから叩くなってっ!」
「誰のせいっよぉぉっ!」

 一刀は風を切って唸る竹簡を必死に避けた。
 竹のささくれが、一刀の頬の肌を薄く切り裂き、黄色に赤の線が走る。
 しかも、獲物が軽いからか、振りが素早く避けづらかった。
 韓遂よりも数倍手ごわい。

 必死に避ける一刀を救ったのは、皇甫嵩であった。
 ブンブンと振り回す少女の腕を取って、わざとらしく二度、三度と咳き込む。

「あー、若い者のじゃれあいを邪魔するのは性分ではないが、先に締めていただけないか、賈駆殿もそのへんで」
「誰がじゃれてるのよっ!」
「す、すみません、助かりました皇甫嵩さん、俺には勝てそうもなかった!」
「くあぁぁぁぁぁっ!」

 捨て台詞を残し、その気も無いのに賈駆の感情を軽く逆撫でして、階段を上る一刀。
 昇っていく一刀の姿を納めて、賈駆は両手で頭を掻き毟り、痛まない足で器用に地団太を踏んだ。
 その際に取り落とした竹簡が、地団駄の蹴りこみの嵐に巻き込まれ、敢え無く分解の憂き目に合う。
 やがて、深呼吸を繰り返し、賈駆は腰に手を当てて大きな溜息を吐いた。

 気に喰わない。
 一刀が来た事で戦況が覆ったのも、親愛する月と二人っきりで会っていたのも、馬家を止められなかったのも。
 遡れば、韓遂の計略が馬家に及んでいたことに気付かなかった事、追撃の命令を安易に出した自分の不明。
 他にも怪我をしたこと、救われた事、真名を勝手に呼んだ挙句、それが不思議と嫌ではない自分の感情。
 その全てが、北郷一刀という人間と接して気に喰わないが、しかし。

―――"天の御使い"が宣言する! ここに居る全員で掴み取った、万金に値する勝利であるとっ!

 建物そのものが地震で震えたかのように、城外の歓呼が郿城の地を包み込んだ。
 一刀が儀礼用の剣を持って高く夜天に掲げていた。

 賈駆は城壁に続く、一刀の入っていった扉の前で背を預けると、小さく呟いた。
 その隣に居た皇甫嵩も、扉の奥へと視線を送って頷く。

「天の御使いっていうの、本当かも知れないわね」
「うむ……確かに、北郷殿が真に天からの御使いかはともかく、天は彼を愛しているようだ」
「虹が描かれたのも、星が流れたのも、まるで天が英雄を作り上げていくようだわ」
「……偶然というには出来すぎている気はするな、天の生んだ英雄か……漢王朝にとっては皮肉な物だ」

 皇甫嵩の渋面と苦笑。
 共に吐き出さた言葉に、賈駆は押し黙った。
 天の生んだ英雄。
 その通りだと、客観的に見てそう思えた。
 英雄の作る軍は、その英雄が消えた時に潰える。
 それは北郷一刀という個人の英雄を漢王朝が失った時、巨龍はくずれ落ちるのでは無いかと連想させた。

 だが、同時に勢いを感じさせる。
 まさしく、龍が天に昇るが如く、一刀の功績を積み上げていくように。
  
 それは賈駆にとって、大きな悩みを抱えさせる事になっていた。
 北郷一刀という"天代"が追放された時、彼女は漢王朝から距離を取るべき、と断じた。
 全て、仕え愛する主君、董卓の事を思った結果である。
 漢王朝に関わるいざこざに、月を巻き込みたくはない。
 沈むと分かっている泥舟にわざわざ乗り込む必要は無いのだ。

 そして、来るべき乱世において、董卓という少女が持つ"優しさ"という美徳は致命的な欠点となり得る。
 判断一つで未来が閉ざされるかもしれない時代に、甘えは許されない。
 なまじ先を見据える力を持った賈駆だからこそ、北郷一刀という存在をどう受け止めれば良いのか悩んでいた。

 気に喰わない。
 気に喰わないが、何とかしてしまう。
 天運なのか、それとも実力なのかも分からない。
 泥の船が、外側だけで中身は黄金で建造されているようにも思える。
 賈駆にとって推し量る事のできない男、それだけは確かだった。

 それと一つ。
 間違っていない、疑いようの無い事実がある。
 覆しようの無い、既に起こった出来事。

「……北郷、一刀」

 呟いて、賈駆は肩越しに振り返って官軍、董卓軍、馬超軍の全員の歓呼に手を振って答える一刀を見やった。
 時折笑顔で、時に恥ずかしそうに"天の御使い"として振舞う男の背中。
 
 そう、北郷一刀は賈文和を助けたのだ。
 郿城で必死になって防衛していた官軍だけではない。

 自分自身も。

「助けてくれて、ありがとう……」

 口に出してから、賈駆は頬を掻いて首を振った。
 これはちゃんと、本人に伝えるべきで、今、こんな場所で口にすることじゃないと。
 溜息を吐いた自分へと突き刺さる視線をふと感じて、顔をあげる。

 皇甫嵩がニヤついていた。

「……っ! 先に戦後処理に戻るからっ!」
「そうですな、私もそう致すとしよう」
「言っとくけどっ! 良い!? 勘違いしないでよっ!」
「大丈夫だ、私は恋沙汰に首を突っ込まないことにしている」
「っから、それが勘違いだって言ってんのよっ! いたったたたっ!」

 足の痛みに蹲った賈駆に、皇甫嵩は優しく手を差し伸べたが、生き残った竹簡で追い払って、赤い顔のまま一室に消えていく賈駆。
 皇甫嵩は苦笑を一つ。
 自ら口に出したように、戦後の処理を行うべく階下へと身を翻した。


      ■ お返し


 勝利に沸いた郿城の熱も、深夜となって冷えてきていた。
 翌朝まで続くのではという喧騒も、激しい闘争の残した疲労を拭い去る事はできなかったのだろう。
 もちろん、まだまだ騒がしさも残り、警戒をする兵馬も居るのだが心配はもうさほど無い。
 一年近く悩まされた西涼の乱は、終わりを告げたのだ。

 一刀はそんな静けさを取り戻しつつある郿城の中を、ゆっくりと歩いていた。
 
「……」

 勝利。
 そうだ、確かに勝った。
 韓遂の描いた策を覆し、叛乱軍の総大将を討ち取って、郿城に迫る万の兵馬を追い返した。
 これ以上は無いといえる戦功であろう。
 絶対に勝たねばならない、短期決戦で、なおかつ信頼する荀攸の言葉に抗って。
 そうした戦をこの手で掴み取った。
 これは一刀にとって喜ばしいものに、違いないのだ。

 だが、一刀の胸中は喜びに満ちてはいなかった。
 維奉に託した今でも、韓遂を殺めなかった事が本当に正しかったのか判らなかった。
 自分を信じてバックアップに全力を尽くしてくれた維奉達は、一刀が韓遂を逃がしても文句の一つも言わなかった。
 それどころか、一刀の意を汲むように、彼等は戦の後だというのに韓遂を追いかけていった。
 一刀の為に、多くの仲間の犠牲を出したというのにだ。
 彼等こそ、一刀の中では英雄であった。

 そうした色々な事実が、一刀の心中を曇らせていた
 こんな気分ではいけないと思っても、どうしても考えずにはいられない。
 勝ち鬨を上げたあの場を離れ、誰にも会わずに郿城の中を歩いてきたのは、そんな一刀の心情故だった。
 もっと上手くできなかったのか。
 韓遂が馬家を動かす前に、自分は防げなかったのか。
 何故、荀攸からも注意するように促されていたのに、彼女の動向に気付く事が出来なかった。
 自分を支持すると言って、力になると声を掛けてくれた耿鄙を、見殺しにする事の無い道があったのでは。

「馬鹿っ、こんなんじゃだめだっ」
「……ん?」

 一際開かれた中庭のような場所に差し掛かると、一刀は声を上げて首を振った。
 その一刀の声に、気の抜けた声が返って来た。
 人が居るとは思わなかった一刀は、騒ぎ立てて邪魔をしてしまったかと誤ろうとして、口を噤んだ。

 首を巡らした先に居たのは、恋であった。
 寝ていたのだろうか。
 柱に背を預けて、頭を揺らしていた恋は、呆然と立つ一刀に気が付いてゆっくりと眼を合わせて言った。
 
「……一刀?」
「恋……」

 月明かりが差し込む中庭で、一刀と恋はお互いにぼんやりと見詰め合った。
 時間にしては数秒。
 それでも、やたらと長く続くような錯覚。
 視線が絡み合って、離れずに、沈黙が長く降りた。

 引き裂いたのは、恋の声だった。

「一刀、泣いてる?」
「え……?」

 ぼうっと見上げていた恋は立ち上がり、僅かに首を傾けてそう言った。
 一刀は恋の声に、すぐに答えを返せなかった。
 泣いたといえば泣いた。
 泣いたし、叫んだし、せっかく治してもらった刀も再び圧し折った。

 でも今は、泣いていなかった。

「……ん、こっち」
「っ、ちょ、恋っ!?」

 逡巡している間に、恋は一刀の頭を掴んで自分の胸元に引き寄せていた。
 柔らかな胸と、肢体の感触に一刀は咄嗟に離れようとしたが、それは叶わなかった。
 圧倒的な力で抱き込まれ、胸元に顔を埋めるしか無かったのだ。

「な、なぁ、恋。 どうしたんだ、いきなり」
「……お返し」
「え?」
「恋が泣きたい時、一刀が居てくれた。 だから、お返し……」

 優しい声が、一刀の耳朶を打っていた。
 脳裏にかつての思い出が蘇る。
 今際の際の丁原に彼女を託されて、華佗の介抱虚しく天寿を迎えて彼は旅立った。
 その彼の遺言に従って、恋は一刀の下にやってきたのだ。

 その時、一刀は言った。
 泣きたい時は、泣いても良いと。
 そう言って、恋に胸を貸したのだ。

「……恋」
「やだ?」
「そんなこと、ないんだ……全然っ、そんな……ことっ」

 託された丁原の声が一刀の中に渦巻いた。
 
―――「漢王朝の未来は、明るいですか?」

「俺、不甲斐なくてさっ……駄目なんだ…っ」
「ん……恋も悲しかった」
「ああ」
「ねねも居なくて、一刀も居なくて」
「ああ、っごめん……」
「でも会えた。 これで少し、お返しできる。 それは……恋は嬉しい」
「ああ……俺も、嬉しい。 ありがとう」
「……一刀」
「うん……」
「分かった。 恋は一刀が好き……こうしてると、安心する」
「俺もだ、こうして泣けるのは、恋やねねだけなんだ……」
「うん」
「恋…・・・」
「ん」

 今日はもう駄目だ。
 一刀は心の底からそう思って、この暖かな胸を盛大に借りることを良しとした。
 目尻から零れる涙を拭くこともせず、抱える恋の胸の中に頭を埋めて、口を震わせた。

 体重を掛けて本格的に甘え出した一刀に、恋はゆっくりと先ほどまで眠っていた場所に腰を降ろした。
 もちろん、一刀は抱いたまま、彼女は離す事をしなかった。

 優しい恋のお返しは、確かに一刀のささくれ立った心を溶かした。
 気が付けば、月の光も雲に包まれ、郿城の片隅で二人して寝息を立てていた。


 韓遂の謀略から生まれた郿城の戦いはこうして幕を閉じた。
 
 未来を目指す一刀の羽を休めるように、恋の腕が優しく包んでいた。




      ■ とって返し



 その姿を最初に認めたのは、荀攸と張遼であった。
 一眠りから目を覚ました張遼は、一刀が帰還していることを知って彼の姿を探していた。

 また、同じように荀攸も一刀を探していた。
 郿城での戦いを前に、この一戦限りとの約束を果たした、荀攸は別れの挨拶をしたいと思っていた。
 このまま一刀の背を支える事も考えた。
 あの日の朝に出した決断にしたがって、一刀との縁をこれまでとする事も考えた。
 そうして彼女の出した結論は決別だった。
 
 そうして一刀を探そうと郿城を歩く荀攸を見つけて、張遼は彼女の肩を強引に引っ張ってきていたのだ。

 理由は単純。
 主君である月の書状がある限り、彼女も心情ではともかく事態の推移は理解している。
 とはいえ、理性では分かっていても、感情はそう上手く収まりはしなかった。
 馬家に対してのわだかまりは、ある。
 その馬家に軍師として従軍していた荀攸は、韓遂の謀略の正確な情報を持っていると踏んだのだ。
 掴まえた荀攸は、張遼の言葉に得心し、それならば謀略に巻き込まれ中心ともなった一刀とも一緒に説明した方が良いだろうと答え
 張遼はその案に納得し、こうして一刀を探してきたのだ。

 きたのだが。

「恋……」
「ん」

 あろうことか、その一刀は董卓軍に身を寄せる天下に名高い飛将軍といちゃこらしていた。
 胸に顔を埋め、時折甘い言葉を囁いて、たまに胸元に寄せた頭を動かす。
 その度に、飛将軍の恋から甘い吐息のような声が漏れ出ている。
 背後から窺っているせいで、張遼と荀攸の視点からは胸部に吸い付いているようにしか見えなかった。

「あっちゃ……お取り込み中かいな……」
「あ、あ、あの人は……な、な、な、何を……」
「荀攸?」
「何をしてるんですかっ!?」

 小さな声で怒鳴るという実に器用な技術を用いて、荀攸は憤った。
 その顔は真っ赤に染まっている。
 いや、確かに在り得る話ではある。
 戦は血を滾らせて、誰もが非日常の世界に高揚する。
 その結果、男性も女性も、戦の後は性に対して開放的になるという統計が出ているのだ。
 知識を手当たり次第に吸収してきた荀攸にとっても、その情報は知っていた。
 つまり、これは戦の後ではありえる光景なのだろう。
 
 一方、豹変した荀攸の様子に張遼は思い出したかのように頷いた。
 そうだったのだ、彼女は一刀へと 『愛の手紙』 を渡していた。
 それも張遼の目の前で手渡すという、ちょっと彼女からすれば大胆だと思える告白をしたのが荀攸だった。
 愛してる男が、目の前でよその女とキャッキャウフフしてるのを見せられて胸の内が騒がない奴は居ない。
 少なくとも、張遼自身がそんな状況に陥れば、気分がモヤっとすることは間違いないだろう。

 これは、時機を見誤ったか、と張遼は後悔した。
 それと同時に、荀攸への申し訳なさも募った。
 自分が強引に引っ張らなければ、行為に至る前に一刀を呼び止める事が彼女には出来たのかもしれないのだから。

「あー……そやったな。 うん、荀攸の怒りも分かるで」
「別に怒っていません」
「いや、無理しなくてもええで。 ウチは一から十までまるっと分かっとる」
「別に無理してませんし、絶対わかってません」
「怒っとるやん」
「怒ってませんよっ!」
「あ、ちょっ……まぁええか……」

 踵を返した荀攸に、張遼は小さく溜息を吐いてその背を追った。
 別に今すぐ、話を聞かなくても困りはしない。
 それに、そう。
 あの数ヶ月を過ごした邑の中で友誼を結んだ友人を、少しばかり、からかって過ごすのも悪くないだろう。

 馬家に加担していた荀攸への、文句も兼ねて。

「んでも、荀攸も難儀な男に惚れたもんやな」
「霞、待って下さい……なんでそうなるんですか?」
「ありゃ色男やでぇ。 種馬に近いもんがあるし」
「そうですね……ええ、種馬っていうのは言い得てますね。 想い人を洛陽に残しているのに、あの節操の無さは彼の特徴の中でも特筆すべき部分でしょう。 桂花ちゃんも悪い男に引っかかった物です」
「嫉妬してるやん」
「してませんよっ! さっきから何ですかっ、第一ですね良く考えてください―――」

 いちゃこらしている一刀に一瞥もくれることなく、二人は小声で言い争うという高等技術を用いて、来た道をとって返した。



―――・



 同様にその姿を見た者は、賈駆であった。
 些事な指示を夜間を警備する兵等に出し終えると、すぐに取りかかるべき仕事が一通り終わって、手が空いたのである。
 中途半端に時間が出来たせいで、疲労が酷いことを自認し、足の痛みも疼き始めた。
 少し仮眠を取ろうかと、落ち着いてきた郿城の様子を観察しながら自室に向かっていた時だった。

 幸か不幸か、賈駆は二階から中庭の様子が一望できる場所を通りかかった。
 そこで一刀がフラリと歩いてくるのを目撃する。

「あ……」

 表情の欠けた一刀の様子に、つい言葉が漏れ出る。
 
 先ほど、自分と出会った時。
 彼に勝ち鬨をするように促した時とは、まるで別人のような無表情であった。
 まるで、騒ぎ立てる兵に笑顔を振りまいていたのが嘘であるかのように。

 賈駆はふと思い出す。
 郿城での戦いは確かに、黄巾の時の決戦以来の激しいものであった。
 下手をすれば、あの時よりも。
 少なくとも、賈駆にとっては黄巾の決戦よりも激しく、辛い戦いだったのは間違いない。

 正直に言えば、何度も泣き言を漏らしたくなった。
 当り散らして、叫びたかった。

「……あの時も、支えてもらってた、か」

 辛い時、彼女を心を支えたのは。
 月を絶対に守ると決意した事もそうだが、黄巾の決戦で官軍の総大将として檄を飛ばし続けた一刀の背中もそうであった。
 
 無表情を貼り付けてたった一人で歩く"天の御使い"を見て、彼女は英雄の本質を見た気がした。
 賈駆と同じ人間なのだ。
 味方に疑われて自棄にもならず歯を食いしばって戦う事が、苦しくない訳が無い。
 そういえば、黄巾と当たる前の彼も、郿城での戦いの前の彼も、内部からその在り方を疑われていた。
 敵になるのではないか、と。

 結果としては、そうで無い事が証明されたが、果たして北郷一刀の内心はどうなのだろう。
 あの時から今まで、彼はずっと疑いの最中に放り込まれ、疑念の道を歩んでいる気がした。

「……っ、たくっ! 何でボクがあんな奴の事を気にしなくちゃいけないのさっ!」

 面倒くさそうに頭を掻いて、しかし、賈駆は階下に下りる階段を目指した。
 これは、そうだ。
 英雄となった、自分達を勝利へ導いたと言って良い男の、精神的な一助に過ぎない。
 それに、自分の大好きな月も、彼とは仲良くしてやれと書状にして送ってきたほど気にかけている。
 主君が気にかけているのだ、そう、これはつまり、命令だ。
 主君の命ならば仕方ない。
 その命令を遂行するついでに、助けてもらったお礼をすればいい。
 
 なんだ、完璧ではないか。

 心の整理が終わった賈駆は、改めて階下を覗き見た。
 何故か、自軍の飛将軍と名高い恋が、一刀に抱かれていた。

「……あ?」

 疲労だろうか。
 どうも幻覚が見えたような気がして、賈駆は一度自分の目元を指で擦った。
 改めて覗き見る。

「恋……」
「ん」

 やはり押し倒している。
 胸に顔を押し付けて、左右に首を振る一刀に合わせて甘い言葉を囁き、吐息を漏らしている。
 
 なるほど。
 それはそれは、無表情になるはずだ。
 まさか、自軍の将兵と逢引の約束をしていたとは。

「ふっ…ははは……」

 短く漏れた笑いは中空に消えた。
 なんだか足の痛みが消え去っている。
 それが脳内物質の分泌と親密な関係を持っている事を、彼女は知らなかった。

「寝よ」

 こうして賈駆もまた、呆れた表情を隠しもせずにスタスタと歩き、その場をとって返した。



―――・



「ん」

 甘い声が聞こえていた。
 それはもう、間違う事なき、つまり、その、あれだ。
 丁度、恋の視界の正面、柱の陰に隠れた二つの馬の尾が揺れていた。

「ねぇ」
「だまってろ蒲公英」

 一刀の頭が揺れる。
 甘い声が漏れ出る。
 男のくぐもった、恐らく真名を呼んだであろう甘い声。
 
「ねぇ」
「だまってろ蒲公英」

 柱の死角で気配を完全に殺して息を潜める翠が、ガン見していた。
 蒲公英から見てもそれは、かつて無い程に完璧な穏行であった。
 時代が時代ならば、『西涼のNINJA』と絶賛されたことだろう。
 或いは、まだ見ぬ周泰という武将から敬意を表されたかもしれない。

 彼女達がこうして息を潜める事になった経緯は簡単だ。
 馬家の疑いが完全に晴れたと言っても良い今、一刀へ改めて礼をするために探していたのである。
 ところが、一刀を見つけた時には、既に二人は行為に及んでいた。
 流石に翠も、一瞬―――というには多大な時間―――呆然としていたが、頭が現況を理解すると素晴らしい身のこなしで
 蒲公英を物陰に引きずり込んだという訳だ。

「ねぇっ!」
「なんだっ! 今良いところ……って、蒲公英っ!? お前何やってんだっ!?」

 流石に喧しくなったのか。
 視線を一刀達から蒲公英に向けると、服を肌蹴させて胸部を手で押さえた妹が恨めしげに翠を見上げていた。

「何って、お姉さまが強引に引っ張るからじゃん! もうっ、これ一刀と一緒に買った奴なのにひっどい! びりびりーっって破いちゃうんだから!」
「一刀と一緒に!? そんなの、何時買って来たんだお前っ!」
「論点そこ!?」
「いやっ、て、ていうか蒲公英! どうする、一刀がほらっ!」
「どうするって……じゃあ呼ぼうか?」

 柱の陰から頭を出して覗き込んだ蒲公英。
 視界に飛び込むは、ついに恋を押し倒して寝技を仕掛け始めた天の御使いの姿であった。
 呼び止めようと口を開き、手を振ろうと突き出したところで翠の左手は神速で舞った。
 半ばまで舌を噛みかけて、曝け出した胸元を隠すこともせず呻く蒲公英。

「いっっっ、たいよっ!?」
「馬鹿っ、そんな顔を出して覗き込む奴がいるかっ!」
「もうっ! じゃあお姉さまはどうするのさ。 このまま出場亀するつもり?」
「でばば、そんな破廉恥な事するかっ!」
「じゃあとっとと用件済ませようよ~」
「あ、あ、あほっ、それじゃその……なんていうか、悪いだろ」
「ん~……分かった! 一緒に混ざるってこと―――っったぁぁぁぁいっ!」
「そんなことするかっ! 何考えてんだ蒲公英っ!」
「ちょっとした冗談じゃん! 殴ること無いのに酷いよっ! もう蒲公英知らないもんっ!」
「あ、おいっ!」

 本気で怒りました、と顔に出して憤慨した蒲公英が柱の陰から飛び出す。
 翠はこの場に一人で取り残される事を嫌って、ほぼ条件反射で蒲公英の服を引っ掴んだ。
 そう、破いた服を、膂力のある武将の馬孟起が再度引っ掴んだのである。

 背中から尻にかけて、盛大な布の引き千切れる音が郿城の中庭に反響した。

「っっっあ~~!」
「あ」

 月明かりだけでも十分に、蒲公英のたんぽぽが露になるのが分かった。
 
 瞬間、何故か一刀が顔を上げて周囲を探り始めた。

「……」
「一刀?」
「ごめん、なんでもない…・・・でも、不思議だ、何かすごく気になるんだ」
「……?」

 注がれた視線の中、柱が作り出す深い陰影が二人の姿を隠していた。
 一刀の瞳が闇の中を見据える。
 何か居るような気がするが、どうにも判らなかった。
 一刀にはまったく見えていないものの、二人の場所からは一刀の顔すらハッキリと見る事が出来た。
 それはある意味で、非常に少女の羞恥を刺激するものであった。
 蒲公英は顔を赤くし、むき出しになった身体を隠すように身を捩る。
 布が摺れる音が、中庭に響いた。

「ば、ばか、動くな蒲公英。 一刀と呂布に見つかるぞっ」
「だって見てるもん、一刀が見てるっ、恥ずかしいよっ!」
「見えてないっ! 見ろ、エロエロ魔人に見えてたらもっと目を剥くはずだ。 一刀は細めてるだろっ、大丈夫だっ!」
「見えてて細めてるかもしれないじゃん、もうやだ! 逃げていい!? いいよね!?」
「ばばば、オチケツっ! 今逃げたら丸見えだ、丸見えっ!」
「ケツとか言わないでよっ! お姉さまのせいでしょー!?」
「言って無いっ!」

 もはや半分涙目になって小声で言い争う翠と蒲公英。
 それでも暗闇の中で身動き一つせず、二人の姉妹が抱き合うようにして穏行を続行するその姿は天晴れであった。
 遂に一刀の視線が恋の元に逸れると、蒲公英は音も無く立ち上がり、与えられた居室に向かって走り出した。
 速い
 中庭につむじ風を巻き起こすほどの疾走であった。
 流石に蒲公英に悪い事をしたと、やや平常心を取り戻した翠も、一刀に気付かれない内に『とって』返すことにした。
 これも早い。
 二つ目のつむじ風は、中庭に吹いた強風となったやや甘い匂いを、一刀の鼻腔に届けていた。

 
 韓遂の謀略から生まれた郿城の戦いはこうして幕を閉じた。
 
 未来を目指す一刀を取り巻く少女達に、少々ふしだらな印象を添えて。



      ■ 外史終了 ■




[22225] 西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編11
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/03/08 21:46




clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編9~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編10~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編11~☆☆☆





      ■ 月に酒 友と名よ



 郿城の戦いが終わりを告げて、三日が経った。
 その日、敵の糧道を絶って寡兵での勝利を収めた江東の虎が、郿城に凱旋を果たした。
 大いに称えられたその戦功に、郿城に集う者達は戦勝の宴を開き、主な将兵達は心行くまで酒と踊りを楽しんだ。

 そんな、勝利の美酒に酔った郿城の夜。
 主役である筈の孫堅が一足先に戦勝の宴の席を辞し、城壁の縁に腰を掛けて空を仰いでいた。 
 雲ひとつ無い、美しい満月であった。

「……」

 夜を徹して、城砦の修復に取り掛かる兵の声と、新たな門を打ち付ける槌の音が風に乗って聞こえてくる。
 右手で酒の入った盃を円を描くように転がして、酒の水面に映りこんだ黄色い満月が左右に揺れた。
 目を細くして、孫堅は一つ盃を煽る。
 スッと水のように入って行き、喉を通るとほのかに熱が染み渡った。
 郿城の中でも一等の美酒であろう。
 しかし、不思議と美味しくは感じなかった。
 溜息のように息を吐き出して、酒瓶を傾けて盃に満たす。
 孫堅の鋭敏な感覚が、人の気配を感じ取って目線だけを投げると、頬を赤く染めた皇甫嵩が酒を片手に歩いていた。
 
「主役がこんなところで一人酒とはな」
「……なんだ、皇甫嵩殿か。 何か用か?」
「天の御使い殿が気付いて探しておりましたぞ」
「月を見たくなったんだ。 それに、あの場は少し私には居づらい」
「ほほう、孫堅殿も苦手な空気というものが在ったのですな。 これは新たな発見だ」
「茶化すな」

 そう言って皇甫嵩は孫堅と対面するように、城壁に背を預けた。
 片手に持っていた酒を一人で注ぎ、先の孫堅と同じように小さな盃を掌で回す。
 そこで初めて、皇甫嵩は気付いたかのように空を見上げた。

 煌く星々の中、天に浮かぶ満月が夜の郿城を優しく照らしていた。

「なるほど、見事だ……」

 見入るように酒も呑まず、天空を見上げる皇甫嵩を孫堅はじっと見つめた。
 戦の最中にも思ったことだが、この男はやはり変だ。
 この郿城の戦に大将軍からの命を受けて、孫堅はもとより、皇甫嵩もまた董家を助けるための援軍という形で入り込んでいる。
 洛陽で黄巾との決戦以前から、常に最前線に出て指揮を続けてきた目の前の男は、挙げた戦功と地位が両立していない。
 勿論、褒章を受け取っていない訳では無いのだが、他人に譲っているような振る舞いをしていると言えた。

 其処に突っ込む事は野暮なのだろう。
 様々な思惑や思考が彼の中にも在るだろうし、朝廷にもあるだろう。
 だが、本来、人は欲が深い物であることを孫堅は知っている。 
 どうせ酒の席だ。
 そう心中で呟いて、苦笑のような笑みを浮かべて彼女は未だに月から目を離さない皇甫嵩へ尋ねた。

「尋ねてよいか」
「うん?」
「皇甫嵩殿には出世欲が無いのか」
「……」

 尋ねられた皇甫嵩は、そこで初めてこの場に来てから盃に口をつけた。
 酒を飲み干し、空いた器に注ぎ足す事はせず、掌で廻してぼんやりと見やる。
 黙した皇甫嵩に構わず、孫堅はぼやくようにそう呟いた。

「実を言うと、私は此度の戦で余り大きな戦功は欲しくなかったのだ」

 突き刺さる視線に構わず、彼女は続けた。

「今の私は他人がどう思っていても、実の娘から孫家を追い出されて大将軍に拾われた者となっている。
 孫家の未来は我が娘に託されているのだ。
 だが、アレは自分の立ち方をまだ知らない雛なのだよ」
「孫策殿ですか」
「ああ……私を捨てたというのに我が娘は、何故か私の背を追うことをやめていないのだ。
 聞けば江東はやにわに乱れ、その平定に苦心し、劉表殿がちょっかいを掛けているそうではないか」

 皇甫嵩は黙って彼女の言葉に頷いた。
 その話は、耳に齧ったことがあるからだ。
 孫堅という一家の大黒柱を失った孫家は、江東一帯で起きた豪族の反乱に手を焼いていた。
 孫家が予想していたよりも、心から伏していた者は少なかったという事実が垣間見えていた。

 そして、劉表は江東の乱れは漢王朝の未来を憂う物と見て援軍を申し出たという。
 だが、孫策はこれを突っぱねた。

「あそこで差し出された手を払うのは、劉表の腹に何かあろうとも下策だった。 
 一気に乱を畳んで江東に我在りと叫べなければ、虎と呼ばれた私に比べ甘く見られる。
 家の舵取りに必死で、大局を見失っているのだ。 公瑾ならば分かっていたはずだが、伯符にはとんと甘いからな。
 この郿城の戦で私の挙げた功は、すぐに風の噂になろう。
 伯符は江東の人間に舐められる、虎は功を上げたがその娘は虎ほど強くは無いぞ、とな」

 江東には荒くれ者が多いのだ。
 半ば実力でねじ伏せていたところもあり、弱みを見せればすぐに反旗を翻そうとする豪族も多い。
 こうして孫堅が戦功を手に入れた分だけ、孫策に重圧と焦りを与えてしまう事になる。
 酒の力も手伝ってか、皇甫嵩の相槌すら待たずに口上が乗る孫堅。
 盃に酒を満たしては飲み込み、舌が乾かぬ内から言葉が突き出た。
 こうした戦で自分の勇名が轟くほど、孫家を委ねた娘には苦労をかける事になる。
 武人であるはずの孫堅が、戦功を挙げたくなかった理由はこれだ。

「本心を申せば、北郷一刀には少しは恨みもある」
「子は幾つになっても可愛いものだからな」
「ああ、何も劉協様に忠礼に赴き、曹操を挑発した直後に追い出されなくても良いだろう、と笑ってしまったわ」
「孫堅殿は、我が家に心を砕いておる」
「……そうだな、認める」
「たらればはともかく、孫家が今の王朝に尽くす事は難しくなったという事か。 少なくとも江東が落ち着かない現時点ではそうなのだろう」

 酒瓶をひっくり返し、無くなった酒を横に置いて、孫堅は苦笑した。
 美酒が旨くないのは、大将軍に、いや孫家の人間として漢王朝に仕えていないことに満足していないからだ。
 大雑把に見えて、孫堅も人の子だ。
 悩みもするし、不安にもなる。
 一家の長として、最善を選んだつもりであった。
 一刀の下で諸侯が団結を見せることに漢の生きる道を見た彼女が聞いた天代追放の報せ。
 それは、あまりにあっけない夢の幕切れであったのだ。

 皇甫嵩は今、孫堅にその事実を突きつけた。
 彼女としてはズバリと切り込んできた彼の言葉に、笑うしかなかった。
 だが、次に彼が言ったのは、孫堅の予想外のものであった。

「実を言うとな、北郷一刀には私も思うところがある」
「意外だな……そうなのか?」
「私は天子に忠を誓った。 帝こそ、主上であり、私の信念だ。
 凡人である私にとって、それは掛け替えの無い物。
 今、反賊と成った者達の大半は、もともと我等の仕える漢王朝の民であった。
 信念が無ければこうして賊と、かつての民と向き合って戦えないというのも在る。
 物事に自分の掲げた信念を持ち込まねば、何も出来なかったのだ。
 その信念もまた、借り物。 迷う私の背を押し、在り方を教えてくれたのは、私の伯父であったのだ」

 皇甫嵩はそこで言葉を切った。
 孫堅の盃に、持って来た酒瓶を傾けて満たしながら、自然に隣に腰掛けていた。

「家を想うそなたと、そう変わりは無い。 立ち位置が違うだけだろう。 
 孫堅殿が漢王朝に於いての孫家を想うように、私は帝と天下の人心のために身を粉にしている。
 知って居るか? 孫堅殿と同じような立場に立たされた、劉備という少女が居た」
「聞いた事が在る、天代の傍仕えであったとか」
「いかにも。 正確には劉協様の下であったようだし、交わした言葉も少ないが、彼女もまた天代を通して漢へ、天子へ忠を尽くしている。
 天代追放のおり、その場には劉備と黄巾の乱で朱儁殿を陥れた軍師の少女達が、まったくの無事で姿を見せた。
 何進大将軍はその場で彼等を見逃し、そして朱儁殿と言い争った」

 孫堅は得心したように頷いた。
 何進と朱儁が仲違いをした事は知っていたが、細部までは知らなかったのだ。
 天代追放の件で、どちらかが食ってかかり喧嘩になったのではと予測はしていたが、真相は一刀を取り巻く者が原因であったか、と。

「その時、私はどうすればよいのか判らなかった」

 月を遠い目で見やって、皇甫嵩はそう言った。
 諸葛亮の罪、鳳統の罪。 それは決して白紙には出来ないことだが、彼女達をそうさせたのは、漢に、すなわち天子に在ると皇甫嵩は考えている。
 あの時、何進は天代が話した彼女達の事情、一刀自身から頼まれた事情、蹇碩と溝が出来た事情。
 己の立場、宦官への不信感、王朝での地位、そして劉備の意志。
 そこから搾り出した答えが、見なかった事にして放逐することだった。
 朱儁も同様、知らなかった様々なこと、知っていた情報、立場と義理、人情や自分に与えた屈辱。
 葛藤が混ざり合い、激昂となってあの場に噴出した。

 それを横で見ていた皇甫嵩は、どうすれば良いのか判らなかった。
 漢王朝の為に天代を失うべきではないと思っていたが、天子はそれを良しとせずに捨て去った。
 一刀が追放された後、帝は倒れ、諸侯の輪は乱れ、各地で黄巾の乱の余波が広がった。
 皇甫嵩は諸侯の人心が漢王朝から離れる中、その中心に立って戦場を駆け巡ることになる。
 
「武辺者に過ぎない私が、漢王朝に出来る事は何であるかを考えれば、武器を持って乱に当たる事だけ……それだけの話だ。
 戦功は後からくっ付いてきただけに過ぎず、それは私の信念にとっては在っても無くても変わらぬ物。
 出世をしてもしなくても、私は何も変わらないだろう。
 己に掲げた心に従って天子の意を汲み、これからも矛を持つときは持ち、声に出すべきところは言葉にし、何もしない時は何もせぬ」

 それが凡人である自分に出来る、精一杯の帝への忠義である。
 皇甫嵩はそう言ってグイっと酒を飲み干し、空になった酒瓶を叩くように真横に置いた。
 彼にしては珍しく、酒が回り興奮をしているようであった。
 大きく溜息のように息を吐き出す。

「ふぅ……孫堅殿、私は望まずに英雄になった男を知っている。
 その人物は敬意に値する青年だ。 個人的に謙虚な姿勢も好感が持てる。 だが、この戦では天子でも無いのに天命を騙った。
 今までもそうであったが、越えてはならぬ一線を越え、天命であると高らかに豪語したのだ。
 それが虚名を利用した策だと、どれだけの兵や民が気付けるか。
 天の御使いは漢王朝に必要だと思っているが、もしもあの青年が戻ってくれば、民は近く即位する劉弁様と見比べるのだ。 
 民がどう言う反応が帰ってくるのか、その光景が浮かぶ。 それが私には歯がゆい。
 宦官共が追い出した理由が、今になってようやく分かった。 良くも悪くも、漢にとって北郷一刀という男は劇物なのだと」

 落ち着きを取り戻すように大げさに息を吸い込んでは吐き、膝に肘掛けて座る皇甫嵩に孫堅は恥じた。
 嬉々として戦場を駆け巡る者は、戦功を、勇名を求める者だけだと思っていた。
 だが違った。
 戦の最中で何を考えて居るか判らない男の本心を聞いて、孫堅は皇甫嵩の在り方に純粋に敬意を抱いた。
 同時に、心に淀んでいた物が晴れていく。
 信念によって軸がぶれる事無く先を見据える姿は、現状の自分の感情を吹っ切る契機となっていた。

「出世の欲は無いかなど、そなたには愚かな質問だったな。 許してほしい」
「はっはっは……いかんぞ、酒が巡っている。 大した話ではない、凡人の独り言だから忘れてくれ」
「よく言う。 そんな話は誰も信じないだろうに。 それに、今のは、お主の本心だ、違うか?」
「だから酒が入ったと言ったのだ」

 苦笑いを浮かべて手をぞんざいに振って首を振る皇甫嵩に、孫堅は肩を竦めた。
 劉備と自分を重ねた下りで、彼は判らなかったと言ったが、当然だ。
 分かるはずが無い。
 根本的な考え方が違う上に、その人間の抱えている信念など、相手から聞かされなくては分かる事などできないのだ。

「礼も言わせてもらおう。 私もまた、己の信念に基づいてこれから行動することにしようと思う」
「残念だ、孫堅殿なら凡人だと信じてくれると思ったのだがな。 それで、孫堅殿の信念とは?」
「そうだな、まずは娘のケツを蹴っ飛ばす事にした。 ついでに公瑾もぶっ飛ばそう。 後は……一度、劉表の下に顔を出そうかと思う」
「なるほど」

 皇甫嵩は苦笑ひとつ、空になった酒瓶を手に取って、そのまま戻した。
 酒も無くなった。
 お互いに思いの丈を吐き出して、楽になったような気分であった。

 孫堅はその皇甫嵩の仕草を見て、胸の谷間から新たな酒瓶をスポッと出した。
 顔を顰めて皇甫嵩は唸った。

「何処から出しておるのだ、破廉恥な」
「いいじゃない。 固い事は無しで。 それより皇甫嵩殿、私の真名を受け取らない?」
「真名を? それは光栄だが、突然だな」
「友と認めた相手に、堅苦しい言葉は使いたくないのよ。 それが今後、漢王朝の名の下に戦友になる友人なら、尚更ね」
「漢王朝の?」
「疑わないでよ。 私の胎は、あなたのおかげで決まったわ」
「……分かった、受け取ろう」

 お互いの真名を交換し、新たに取り出した盃に酒を満たすと、皇甫嵩は一気に煽った。
 飲み干すと同時、盃を返し、今度は酒瓶を受け取って注ぎ返す。
 孫堅が同じように飲み干すと、階下から小気味の良い肌を打つような乾いた音が響いてきた。
 二人して、音の鳴った方角へ首を向ければ、一刀が膝を突いてうな垂れる姿が視界に入り込む。

 ふっと、孫堅の隣の空気が揺らいだ。

「あらら、どうしたのかしらね……って、ちょっと、もう行っちゃうの? もう少し呑んでいかない?」
「そうしたいが、若い者の恋沙汰を覗く趣味は無いのだ。 昔、酷い目にあってな」
「色恋の話ほど面白い物は無いのに、枯れてるわねぇ。 今度聞かせてもらえる? それ」
「酒の肴くらいにはなると思うが、気に入るかは分からんよ」
「むぅ、動じない……つまらないわ」

 手首を返して皇甫嵩を追い払うと、孫堅はこの場に来た時と同じように盃を持つ掌を廻して酒を揺らがせた。
 相変わらず雲の無い空は、綺麗な満月を夜天に浮かべて。
 孫堅は一人ごちた。

「ねぇ祭……白状するとね、たまに貴女と呑みたくなっていたのよ。
 このまま腐るだけかもしれなかったし、周りに相談できる相手が誰も居なかったから、少し寂しかったのね。
 横にずっと居た祭が居なくなって、実感したわ。 貴女もそうでないと良いけれど……」

 酒をぐいぐいと煽る。
 新たに取り出した酒瓶は、すぐに底をついて無くなった。
 水のようだった酒の味が、今ではしっかりと舌で感じ取れた。
 うむ。
 美酒である。

「久しぶりね……今日の御酒は美味しいわ。
 ちょっとね、やる気出てきたかも。
 やっぱり、持つべきものは酒を飲んで愚痴りあえる友人よね」

 今後、漢王朝が潰えたとき。
 或いは漢室に変わる皇帝が立ち上がった時。
 彼はどうするのだろうか。
 酒を仰いで、喉を鳴らして満月を見る。

「その時は孫家に行くよう薦めてみようかしら」
 
 言って、それは在りえない未来であると孫堅自身が認めていた。
 友人としては、死なせたくないが、あの忠義を見るに王朝が潰えた瞬間、自分を簀巻きにして川へと身投げしそうである。  
 誰とも無く呟いて、月に盃を伸ばした腕を落す。
 酒で火照った身体を覚ますように、両腕をつっかえ棒に目を閉じて空を仰ぎ見る。
 やがて首だけが肩に向かって曲がり、薄目を開けて別の少女に慰められている一刀を見た。

「に、しても。 あの子ってホント……」

 呆れるように呟いて、孫堅は相好を崩した。

「よくよく女子に囲まれるわねぇ。 噂だと種馬ってか……ブハッ! あっはっはっはっはっはもぉやだぁーはっはっはっはっはひーーっ」

 ぐでんぐでんとなっている孫堅の口から、割と身も蓋もない言葉が一刀に掛けられ、何故か彼女は爆笑した。
 アルコールが駄目な部分に回ったのだろう。
 翌日、かつてない頭痛にうめきを上げて、軍部においての仕事を完全放棄した彼女に対して
 何処から取り出したのか、皇甫嵩の手に持つ竹のハリセンが小気味良い音を立てて炸裂した。



      ■ 天国と地獄



 一刀は、酒宴の最中に荀攸に呼び出され、彼女を探しにそっと酒宴の会場を辞した。
 孫堅が消えていたのも気がついていたので、見かけたら声でもかけようと思いながら。
 少し早めに宴席から出ていた為、部屋や会場の付近をゆっくりと散策しながら時間を潰して足を伸ばした。
 中庭に差し掛かり、綺麗な満月に目を奪われてしばし。
 一刀を呼ぶ声に彼は振り向いた。

 声の主は、待ち合わせをしていた荀攸ではなく賈駆だった。
 あれからずっと、一刀も賈駆も戦後の処理に追われて、終ぞ会う機会が無かったのだ。
 勿論、酒宴の席では顔を合わせてもいたし、仕事でも声を交わすことはあった。
 しかしそれは、怪我をした兵の具合はどうだとか、郿城の修繕に関しての話し合いだとか、プライベートの物とはかけ離れていた。

「どうしたの?」
「はぁ……」

 呼び止められた一刀が尋ねると、賈駆の盛大な溜息に思わず眉を顰めた。
 一体何事だろうか。

「ねぇ、アンタ」
「ああ……」
「極めて重大な話があるわ」
「え、ああ……何かな?」

 賈駆は何度か眼鏡の居住まいを正すように、指で弄くり、腰に手を当てたり、腕を組んだり忙しかった。
 言おうか言うまいか、悩んでいるような様子だ。
 どうやら、自分に何かの悪意がある訳ではないように、一刀は密かに安堵する。
 手持ち無沙汰になって、一刀が徐に本来の目的である孫堅と荀攸の捜索に戻り、周囲を見回し始めた頃、ようやく賈駆の口から声が発された。

「あの!」
「あ、うん。 どうしたの?」
「つまり……あー、その……ゴホッ……」
「うん?」
「メイド服って何!?」
「ぶっ!」
『うはっ』
『何故!?』
「っ、知らないのよ! どうしても用意しなくちゃならないから、恥を忍んでアンタに聞いてるのっ!」

 予想しようの無い彼女の言葉に、一刀は思わず噴出した。
 その噴出した一刀の様子に、賈駆の眦が僅かに釣りあがり、頬に赤みが差す。

 馬鹿にしている。
 そう賈駆は感じてしまった。
 同時に、やはりこの男はメイド服が何たるかを知っていると。
 実は、戦の顛末を書いた竹簡が届くと、董卓は自ら郿城に赴いて視察をしたいと申し出ていたのだ。
 更に、戦に於いて勝利を決定付けた天の御使いと話をしたいとも。
 賈駆は複雑な気分でしかし、主の意志を尊重し受け入れる事にした。

 問題はここからだ。
 書状の最後に 『メイド服』 を用意せよと書いてあった。
 賈駆は必死に知恵を絞り、董卓が言う 『メイド服』 という物が何なのかを調べた。
 だが分からない。
 まったく分からないのだ。
 恥を押して董卓軍の文官武官で会議を開き、『メイド服とは何か?』を議題にして、2刻に渡って話し合っても謎だった。
 だが、誰に聞いても、冥土の土産的な答えが返って来る。
 つまり喪服みたいな物なのだろうと。

 一時は賈駆もそれで納得した。
 そこから連想し、大罪人となっている北郷一刀を亡き者にするつもりかと考え
 途中で冷静になってそんな訳ねぇだろ、と一人で突っ込みを中空に繰り出していた。

 そんな経緯があって、賈駆は一刀が宴会を抜け出す姿を見つけ、これ幸いと後を追いかけたのである。
 
「正直言って、もうお手上げよ。 知ってるなら教えてちょうだい。 メイド服って何!?」
「賈駆、落ち着いて良く聞いて欲しい。 凄く良い質問だよそれは……例えばそうだな……言うなれば、奉仕の為の覚悟の鎧だ」
「鎧?」
「いや、違う、そうじゃないんだ。 何ていうか説明が難しいけど……」

『待て、本体!』
『どうした"仲の"』
『いっそ俺達で作るというのはどうだ』
『なるほど、実物を用意すれば一目瞭然だな!』
『咄嗟に閃くとは……やはり天才か』
『桃香……可愛かったなぁ……糞っ、何故あの時俺は意識を失って―――』
『今度は俺にデザインを任せてくれないか』
『待て、俺もずっと考えてた案がある』
『落ち着け、本体の判断を仰ごう』
(ああ……やってみる価値はある!)

 忘れかけていた情熱が燃え上がっていた。
 久しぶりと言って良いほど、若干一名を覗いて一刀達が団結した。
 微妙に両手を広げて、口が止まった一刀に、賈駆は不審気な視線を送った。
 
 そもそも、賈駆はメイド服という物が何なのかは知らないが、月の事に関しては誰にも負けない自信が在る。
 わざわざ書状に書いて、メイド服という者を用意せよと言うのだ。
 これは、彼女にしてはもう、それはもう珍しいくらいの命令であった。
 基本的に控えめな性格のせいか、率先して誰かに命令を下そうとはしない。
 だから、この一文を目にした時から、賈駆はある危惧を抱いている。

 一刀が郿城に向かう前に、月と二人きりで密会していたという事実。
 そこがどうしても引っかかるのだ。
 メイド服というものが天の言葉であるのなら、その時に月が知っても可笑しくはない。

 思考に耽っていた賈駆の目の前に、一刀は真剣な表情で相対した。
 思わず、その力強い目に押されて賈駆は仰け反った。
 
「賈駆……そのメイド服、俺に作らせてくれないかっ!」
「っ……ちょ、何いきなり!? それにこの重圧はっ!」

 一刀の視線が、獰猛な猛禽類のようにぎらつき、賈駆の体の全身を舐め回した。
 バスト、腰のくびれ、ヒップ、太腿。
 順繰りに目線は足の踵まで下り、ねっとりとした視線は再び上に昇っていく。
 表情は真剣そのもの。
 一箇所も見逃すまいと、気炎が一刀の背から立ち上っていた。

「ちょっとっ! 厭らしい目で見ないでよっ!」
「いっっ!」
「ちょっ―――!」

 怪我のために拵えた移動用の杖が、一刀の足の甲を打ち抜いた。
 前のめりになっていた一刀は、釘を踏んだかのように足を跳ね上げて、賈駆に向かって倒れこんだ。
 杖を使って移動している脚の踏ん張りが利かない彼女に、成人男性を抱えるような力は無く、抵抗空しく地に転がった。

 衝撃にうめき、文句を言おうと顔を上げた時、一刀の顔がドアップで映りこむ。
 瞬間、息が止まる。
 異性の顔が少しでも動けば触れ合うような距離は、賈駆にとって初めての経験だった。
 むっと立ち上る雄の匂いが、鼻腔を擽る。
 重力に引かれて少し伸びた一刀の前髪が、賈駆の額と触れ合い、吐き出す吐息が耳にそっとかかる。

 背筋を走るような寒気が、賈駆に走った。
 良く分からないけどこれはまずい!

「っ……」
「任せてくれ、完璧に把握した、メイド服はちゃんと作ってくるよ!」
「いやっ! 駄目っ!」
「そんな! メイド服には定評があるんだ! 桃香も喜んでくれた、俺に任せてくれ!」
「やっ、やめてっ!」
「なぜだっ!」

 怒鳴り声に近い大声を出した一刀の叫びが郿城に響いた。

 周囲には修繕のために土を穿ったり、槌を振るったりする兵達が居たが、男女の濡れ場に突入するほど野暮ではなかった。
 むしろ、一瞥をくれただけで、僅かに嫉妬と羨望の混じった視線を一刀に投げただけで、ガン無視である。
 混乱する賈駆に一刀の声は通じず、組み伏せられている事実のみが彼女の思考を支配していく。
 拒絶の言葉を繰り返す彼女に、一刀も必死になって嘆願する。
 更に最悪なのは、脳内の一刀達は若干客観視できるため、悪循環に陥っている原因に思い当たっていたが
 自分達に負けず劣らずな、本体のメイド服に賭ける激情が、彼等の交代を押し留めていた事実があることだった。

 そんな二人の浪漫の欠片もない、取っ組み合いに近い言い争いは唐突に中断された。
 横合いから突き飛ばされて、一刀が地面を転がることによって。
 数多の戦場を駆け抜けた経験が、一刀を咄嗟に立たせることに成功した。

 見上げた一刀の視界に、腰に手を当ててふんぞり返る猫耳娘が怒気も露に立っていた。

「てて……」
「度し難い……度し難いです! まったくもって度し難いです! 何で目撃する度に別の女性を襲い掛かっているんですか貴方は!」
「違う! 誤解だっ! ただ俺はメイドが欲しくてっ」
「誤解? ふっふふ、な、なるほど誤解ですかこの状況で? ふふ……」

 一刀に肩を掴まれて揺られる中で、荀攸は今に至るまでの経緯を思い描いていた。
 郿城の戦いの最中、韓遂相手に根も葉も無い恥ずかしい事を、目の前で言い訳を並べてる相手でくっちゃべる羽目になり
 戦の後も一刀は見かける度に、荀攸の目の前で他の女性とイチャイチャとしていた。
 その度に、別れを告げるのを引き伸ばして来たのだ。

 ようやく良い機会が訪れたのは今夜。
 満月となって雲ひとつ無い綺麗な星空を見た時、彼女は今日こそ告げようと決断した。
 酔い覚ましと称して、宴席の場を抜け出すことも不自然ではない。
 時間を置いた事によって、一刀を見ただけで赤くなった羞恥も収まり、冷静に呼び出す事に成功すると
 喧騒の少ないこの時間、この場所を選んで雰囲気良く別れることが出来ると満足気に頷いたものである。

 完全に離縁するならば、挨拶など必要ない。 とっととやる事を終えて郿城から去れば良い。
 こうして一刀に挨拶を残すのは、彼が洛陽に残してきた大切な人へと伝言したいこともあるだろうと考えたからだ。
 想い人とまともに連絡すら取れないのでは、可哀想だ、という彼女なりの心遣いであった。
 そして中央に戻ったとき、朝廷の様子を窺って、此度の叛乱を鎮めた功を持って、洛陽に帰ってこれるかどうかを見定めてあげようとした。
 そうでなくても、外部で得た味方が出来ることは一刀にとって大きな利益であり、その一助となってあげるのも、荀攸としては吝かではなかった。

 維奉とは少し違う、夢を、彼に見ていたからだ。
 荀攸にとってその夢はまだ、捨て去るには惜しい物。
 大事な話になると考えたからこそ、彼女は我慢を重ねて機を窺っていたのである。

 だというのに。
 この目の前の男は、郿城の戦いを終えてから何をしていたのだろう。
 呂布を押し倒していた。
 わざわざ荀攸が雰囲気の良い場所を選び、指定した場所で、明らかに嫌がっている賈駆を組み伏せていた。
 それは全て誤解だと言う。

 荀攸はもはや我慢の限界であった。
 せっかく良い別れにしようとわざわざ気を使ったのに、一刀がこれでは。
 忸怩たる思いであった。
 ここまで僅か1秒で思考した彼女は、鼻の奥が急激に染みた。
 全身の血液が顔に集ったかのように暑くなり、頼んでも居ないのに目尻が潤む。

「っ!」

 ここに来て一刀は荀攸の変化に顔を青ざめさせた。
 一刀の手は荀攸の肩にかけられていた。
 頬が赤くなり、肩は震え、目尻が潤んでいるのをハッキリと目撃してしまった。

 彼女の感情を大きく揺さぶってしまったのだ。

 ある意味で正解である答えを導き出して、一刀はうろたえる様に荀攸から手を離した。
 鼻を啜る音が響き、ガチ泣きしそうな荀攸を前に、一刀は搾り出すように口を開く。

「ご、ごめん……そんなつもりじゃなかったんだ……」

 この謝罪に、荀攸は歯を食いしばって手を振り上げた。
 それをしっかりと視界に収めていたが、彼女の感情を弄くったと思いこんだ負い目があった一刀は、敢えてそれを受け入れた。
 肌を打つ音が郿城の中に響き渡る。

 耳の奥に甲高い残響を残し、一刀は謝ろうと頭を下げて。

「大っ嫌いです! あなたなんて、大っ嫌いっ! この変態色欲魔っ!」

 力の限りと言わんばかりに怒鳴りつけて、荀攸は踵を返し猫耳を揺らしながら走り去った。
 一刀はその言葉に大きな衝撃を受けた。
 面と向かって嫌いだと言われることは、たまにあったが、荀攸という少女と付き合ってきて、あそこまでの激情を見たことが一刀は無かった。
 そうなのだ、一刀から見て、荀攸というのは常に落ち着いた少女であった。
 だというのに、彼女に触れて感情を揺さぶった瞬間、荀彧の罵詈雑言を連想させるような、豹変振りである。

『おい、誰だ、あそこまで怒らせるような事をしたのは』
『俺は、曹魏には関わってなかったぞ』
『"魏の"?』
『違うよっ! 俺、この世界で初めて見たよ!?』
『他に関係ありそうなのは、"袁の"とか?』
『いや、確かに荀攸は居たけど男だったはずだが……』
『おい、誰か名乗り出ろよ』
『知らないし』
『俺も』
『本当に?』
『待て、落ち着け、これは冷静になる必要がある』
『"白の"、まさかお前か?』
『そうじゃない、推測だが、男でも嫌われたらこうなる可能性はあるんじゃないかと……』
『おいちょっと待て"袁の"お前まさか―――』
『違う! 断じて否だ! 変な事言わないでくれよっ!?』

 脳内の喧喧囂囂とした会話を聞きながら、一刀は失意に膝を折った。
 今まで助けてくれた彼女が、こうまで嫌々に付き合ってくれていたとは知らなかったのだ。
 しかも、自分の醜態を振り返るとまったくもって言い訳ができない。
 荀彧、荀攸。
 性格は違っても、旬家の二人にこれだけ嫌われるとは。
 この世界に降り立ってから旬家とは少なからず関係を結んできた一刀だったが、圧倒的に相性が悪かったのだろう。
 
 膝を折ってうな垂れる一刀の頭に、コツリと木の杖が当たった。
 へこみ、見上げる一刀に賈駆のジト眼が突き刺さる。

「あんた、さいてーね」
「うぐっ……」
「もしかしなくても、馬鹿?」
「……そうかもしれない」

 一刀と荀攸の修羅場らしきものの一部始終を目撃していた賈駆は、逆に冷静さを取り戻し明察な思考が回復していた。
 様子から察するに、一刀は元々彼女を此処で待っていたのだろうと推察できたのだ。
 わざわざ夜中に、こうして逢引するくらいだ。
 恋仲のようなものなのだろう。
 洛陽では陳宮との仲が邪推されていた事を賈駆は思い出していた。
 目の前で荀攸との修羅場を見せ付けられ、少し前には元々は天代と共に在った呂布の抱擁を目撃している。 
 噂にあった 『異性にふしだらである』 と言うのは、どうやら間違いないようだ。
 
 目の前の男の女性関係を問い詰めるには、賈駆もまた多少は自分のせいでもあるという罪悪感から出来なかった。
 思えば『メイド服』という単語を発してから、一刀の顔は一変していた。
 きっと、本当にあるというのならば、彼にとって深い思い出のある品なのだろう。
 とはいえ、あのように不躾に身体を覗かれて、不快感を催さない女性は居ない。
 少し、いやかなり、一刀という男は馬鹿なのではないかと思ってしまうのだった。

「はぁ……」

 大きな溜息を吐いて、一刀の目の前にしゃがみ込む。
 顔を伏して落ち込む一刀の肩に、そっと手をかけた。
 自分が足を痛打したことで一刀と荀攸の仲を引き裂いたとあっては目覚めが悪い。
 何より、落ち込んだこの男が何故だか放っておけなかった。
 可笑しいとは思う。
 月以外に、こんなに気になる他人など居なかったのに。
 こうして触れても嫌悪が無いとは。

「荀攸殿にはボクから説明しとく。 メイド服は、分からないからアンタに任せるわ。 説明するのも難しいみたいだし」
「賈駆……」
「動揺してるからだろうけど、さっきから敬称が抜けてるわよ」
「……そう、だね。 すまない」
「ったく、世話の焼けるっ。 とっとと立ちなさいよ! "天"の御使いなんでしょうがっ、地に伏せてみっともない! っ!」

 強引に肩の下に手を滑り込ませ、持ち上げるように一刀を抱く。
 その際、怪我が響いてバランスを崩し、立ち上がった一刀の胸で身体を支えられた。
 受け止められて、咄嗟に見上げた一刀の驚いた顔が視界に入る。

「っ、ご、ごめん、まだ足が痛いのよ」
「いや……」

 短く息を漏らし、一刀は首を振った。
 絶対に竹簡で頭を叩かれたり、頬を叩かれたりすると思っていただけに、賈駆が励ましてくれたのは予想外であった。
 離れようと身を引こうとした一刀だったが、賈駆が袖を引いた事に気がついて、その場で立ち止まる。
 伏せていた顔が上がり、至近距離で視線が交錯した。

「……助けてくれて、ありがとう」
「え?」

 言い終わるが早いか、器用に片腕で杖を持つと、サッと離れる。
 呆けた顔をして、一刀は賈駆を見た。
 照れてそっぽを向きながら、彼女は口を開いた。

「ずっと伝えたかったけど、会えなくて言えなかったから、メイド服の件と一緒に言おうと思ってたのよ」
「あ……ああ、良いんだ。 俺がしたくて、やったことだから」
「それでも、恩を受けたのに礼を返さなくちゃ仁義に欠けるわ」
「……賈駆さん、いや、良―――」
「それとっ!」

 賈駆はわざとらしく、大きな声を上げて一刀の声に重ねた。
 今でないと、言えそうに無かったというのが彼女の心情の大半を占めていた。

「それと、ボクの事は詠でいい。 どうせその内、勝手に真名を呼ばれそうだし……」
「い、良いのかい?」
「その代わり、ボクも一刀って呼ぶから」
「あ、ああ!」
「じゃ、私は行くわ。 荀攸の事はボクに任せて、メイド服の件は頼んだわよ」
「あ、待ってくれ、賈駆っ、じゃなくて、詠!」

 踵を返した賈駆を一刀は呼び止めた。
 流石に、怪我を押して郿城の戦後処理に奔走している彼女に、このような細事を任せるのは一刀の気が引けた。
 なにより、直接的には関係ないはずの彼女は、一刀の暴走に巻き込まれたと言って良い。
 しっかりと面と向かって、彼女には今までの苦労も含めて謝らなくてはならない。
 そんな一刀の足を止めるように、賈駆は手を振って制止した。

「荀攸さんには俺が行かないと!」
「分かってないわね、一刀が行くと拗れるから間に私が入るって言ってるの!
 それとも、ボクのことは信頼できない?」

 口を尖らせて目を細めて指を突き刺され、一刀は自然と口元が緩んだ。
 静かに首を左右に振って、感謝の言葉が突いてでた。

「そんなことない、ありがとう。 荀攸さんのことは……うん、詠に任せるよ」
「ボクも、まぁ、一応原因の一端だしね……」
「……じゃあ、俺も行くよ。 メイド服、楽しみにしててくれ!」

 気を取り戻した一刀は、詠の姿を納めながらゆっくりと後退していき、やがて踵を返して走り出した。
 その姿を最後まで見送って、詠は腰に手を当てて頭を掻き毟った。
 なんというか、そう。
 これは、あれだ。

「これじゃボクも、月に何も言えないわね……むしろ、笑われそうだわ。ったく」
「―――……ブハッ! あっはっはっはっはっはもぉやだぁーはっはっはっはっはひーーっ」

 直後、階上から響く爆笑に詠は驚いて、その場で盛大にすっ転んだ。



      ■ いつかの逸話



 終戦から4日。
 郿城の中にはまだ、この地で戦った全ての軍勢が逗留していた。
 皇甫嵩と孫堅は、既に引き上げの準備に入っており、馬超軍も同様だ。
 董卓軍は下より、郿城に兵を置いていた。
 こうして、多くの勢力が集った軍勢は、問題が起きないようにと、大まかに居場所を振り分けられるのが常であった。
 特に、董卓軍と馬超軍の二つは、官軍を挟んで置かれるなどの緊急処置がとられている。
 これは禍根の残りうる両者に、無駄な諍いをさせない為のものだ。

 そうした『上の配慮』も、時には効果を失くす時はある。

 それは朝に起こった。
 給水場として使われた広場で、董卓軍と馬超軍の兵等がすれ違った。
 普段ならば、なんら気を使う場面でもない。
 お互いに道を左右に開けて、通り過ぎればそれで終わりだった。
 だが、気の荒い面子の集った双方の兵等は、お互いに道を譲らずに、肩同士がぶつかった。

「っちっ!」
「あ?」

 まるでチンピラのような掛け合いを経て、両端に居た両軍の兵が睨み合う。
 その声と、ぶつかった鎧の金属音に、周囲の兵までもがガンを付け合う始末。
 
「おい、何ぶつかって来てるんだ、道を譲る知能すらないのか」
「ふざけるなよ、辺境の蛮族が。 裏切り者のお前らが道を開ければいいんだ」
「はっはっはっは……おい、聴いたか。 俺達に助けられた軟弱者が、何か喚いていやがる」
「はっ、馬家の兵はまるで、鹿の集りのようだ。 馬ばかりでなく、鹿も集めているとは」

 僅かに沈黙が走り、給水場から持って来た器が地に弾けて割れた。
 途端、周囲の兵が食いかかるようにぶつかりあった。

「なんだとっ!」
「やるかっ!」
「ぶっ飛ばしてやるぞ!」
「おぉ~おぉ~、やれるならやってみろっ!」

 次第にその喧騒は広がって、ついには激昂した兵が口だけでなく手まで出すことになった。
 振りぬいた一撃が顎を打ち抜き、脳を揺らされて一人の兵士が地面に倒れ伏す。
 
「うおおぉぉぉっ! 隊長がやってくれたぞ!」
「やろぉ! よくも手を出しやがったな!」
「強い相手にフラフラ擦り寄る蝙蝠野郎どもがッ!

 その喧騒に最初に気がついたのは一刀だった。
 やけに大きな巻物を抱えて、郿城の廊を走っていたところ、騒ぎに気付いたのだ。

「ま、待て! 落ち着け皆! どうしたんだ一体!」
「っ! 天の御使い様!」
「おい、待て! やめろっ!」
「それで、何があった!? 教えてくれないか」
「こやつらが! 我等を侮辱したのです!」
「いえっ! やつらが先に我等を辱めたのです!」
「あ、ああ……まぁ、大体分かった。 とりあえずこの場は俺が預かる! 解散しろ!」
「はっ! 命拾いしたな、辺境の田舎者が!」
「ケッ! 死に損なったな、軟派野郎ども!」

 一刀が駆け寄って声をかけると、殺し合いにまで発展しそうな集団はピタリと争いを止めたのだった。
 "天の御使い"の名声は非常に大きな影響を与えるようになっていた事が分かる一幕であった。

『うわぁ……根深い』
『だなぁ』
「はぁ……メイド服なんか作ってる場合じゃないかもなぁ……」
『本体、お前にはがっかりだよ』
『一応、詠に頼まれた事だからな、これも』
『大義名分はこちらにあるぞ、本体』
「……作るけどさ」

 本人は、わりと暢気であったが。



―――・



「あー、つまりなんや。 道開けなかったんが争いの原因なん?」

「はい! 馬家の奴等、なめくさっております!」
「俺達は、あの賊が我等の領地である郿城の土を踏みしめて居るのが、我慢なりませんっ!」
「そうだ!」
「張遼将軍! 我々は仲間を殺されているのですぞ!」
「やつらは天の御使い様が郿城に来たから、急に立場を変えて叛乱軍を攻撃したのですぞ! 蝙蝠のような奴等です!」

「そんなん言われへんでも分かっとるっ! ウチかて、仇を取れるなら取ったるわ!
 せやけど我慢しぃ! あんな阿呆ったれ共でも、一応は仲間っちゅう事になっとんねん!」

 ――― 

「あー、つまりなんだ? 道を塞いでたのが原因なのか?」

「そうです! あの瓢箪野郎共、我等を賊軍と詰ったのですぞ!」
「誰のおかげで郿城を守り通せたのか、やつらは分かってないのです!」
「馬超将軍と御使い様は義に篤いお方! それを蝙蝠野郎などとっ!」
「我等は我慢がなりません! 何故こうも侮辱されなければならないのですかっ!」
「辺境に住んでいるからって、馬鹿にしやがってぇ!」

「分かってる! お前らの気持ちは、アタシだって同じだ!
 でも駄目だ! こうやって喧嘩していたら、馬家の顔が潰れるんだ! 悔しいだろうがもう少しだけ我慢してくれ!」

 ―――


「と、まぁ、こんな感じだったんだよ」
「そう、深刻ね……」

 一刀は長い巻物を机の上に広げながら報告し、疲れたような声で彼女は答えた。。
 一刀がメイド服のデザインを不眠不休で執筆し、詠が何故かその確認を強要されている最中であった。
 黒と白、アクセントとして茶色を混ぜた洋服の図が卓の上に広がる。
 
「で、本題に入るけど……
 ここは多分、既存の技術じゃ再現が難しいと思うんだ。 最悪、截ち切ってしまっても良い。
 あと、ヘッドドレスと呼ばれるこれは絶対に作ってくれ。 エプロンもだ。
 あ、エプロンってのは此処……レースっていうのはこの部分だ。
 特にエプロンには力を入れて欲しいんだよな、これが無いとやばい」

 一体何がやばいのか。
 詠はぼんやりと肩肘を付いて、しゃかしゃかと筆を持って図に大小さまざまな部分に注文が入る様を見つめていた。
 胡乱気な視線を向けて一刀の様子を見、欠伸を一つ。
 力説している一刀の言葉を聞き流しながら、一刀の持って来た報告について考えていた。

 詠の立場から見ても、正直言って馬家の兵がこの郿城に居るのは心地の良い物では無い。
 今となっては敵の韓遂の謀略に巻き込まれたと知っていてもだ。
 だが、詠は軍師だ。
 人を、軍を駒に見立てて計算し、動かすこともある。
 人情を斬り捨てて合理的な判断を優先する、必要があればそうする覚悟を持っている。
 だから、恐らく、詠は董家において馬超軍をもっとも憎んでいない人間なのだ。

 しかし、実際に剣を結び合った兵卒には詠と比べ物にもならない無念が、胸中に渦巻いているはずだ。
 これも、全ては韓遂に手玉を取られた不明が原因。
 郿城から撤退する敵軍を追撃する事に、僅かな違和はあったのだ。
 あの時、もっと深く考えていれば、自軍の兵を損失することもなく、馬家との協力が容易になったはずだ。

 とはいえ、今はもう過ぎた事でもある。
 後悔を引き摺るよりも、現状の改善に努めるべきだろう。
 今は小競り合いに過ぎない諍いも、何かあれば殺し合いに発展しかねない可能性を秘めている。
 仲間割れで貴重な兵、引いては民という人的資源に損害を被るのは馬鹿馬鹿しい。
 準備を急がせて、馬家にはとっとと武威に帰ってもらうのが最良だろう。

「よし、だいたいこんなもんだけど、メイド服の事は分かった?」
「一刀、アンタやっぱ馬鹿だわ」
「ちょ、いきなり酷くないか!?」

 気楽に服の解説に精を出している天の御使いを見て、詠は確信した。
 見ていると、これが本当の郿城の戦いで大号令を発した男と同一人物なのか、自信がなくなってくる。
 無造作に机の上に広がっている一枚の紙を持って口を窄める。
 別の人間では無いのか、と。

 当たってはいる。

「メイド服の事は全部任せるって言ったでしょ。 一刀の好きにしても良いわよ。
 そもそも、月はどうしてこんな服を作れだなんて急に……」
「あ、そっちの紙にあるのは詠の分だから」
「は?」
「大丈夫、丈は完璧なはずだし」
「ハァっ!? なんで一刀がボクの服の丈を知ってるのよっ!」
「い、いや、昨日見ただろ!? それで、だ、大体の丈を計算したんだよ!」
「っ、それも天の御使いの御力だーなんて言うんじゃないでしょうね」

『確かにあってるなぁ』
『俺も月と詠のは作ったし』
『まぁ大体把握してるもんな』
「あー……ははは」

 結局一刀は笑って誤魔化した。
 詠も一刀の曖昧な笑顔に透かされるだけだと思ったのか、深く突っ込むことはせずに、盛大な溜息を吐き出すと
 懐から一枚の書を一刀へと投げた。
 机の上を滑って一刀の手元に届いた書状を見て、一刀は不思議そうに詠に顔を向ける。
 彼女は肩を竦めただけで、声を出そうとはしなかった。
 封を切って、中身を覗くと、一刀は差出人の名に僅かに目を開いて、文面を視線で追った。

「……そうか」
「荀攸から預かったわ。 誤解はもともと、そんなに気にしていなかったみたいよ」
「もう、行ったのか」
「朝にね。 心配はしなくても長安までの護衛に兵を数人つけたわ」

 荀攸は洛陽に戻った。
 その際、洛陽の状況を詳しく調べ、武威の馬超の元に送ると書かれていた。
 更に、定期的に一刀に情報が届くように、彼女の伝手で人を雇ってみるとも。
 聞かされていた劉協様や音々音とも実際に会ってみたいと書かれて手紙は締められていた。

 完全に見限られた訳ではないと知った一刀は、喜色を隠さずはにかんだ。
 丁寧に書状を畳んで、胸の内に抱えて一礼をする。
 
「良かったわね。 寄りを戻せて」
「? ああ、結局、荀攸さんには最後まで良い所を見せられなかったな」
「……さて、一刀。 そろそろ出てって」
「え? あ、ああ。 ごめん、邪魔だったよな」
「そうよ、ボクにはやる事が沢山あるんだから!」

 机の上にある無数の紙を一つに纏めながら、一刀は腕の良い職人の居場所を聞くと
 礼を言って詠の部屋から退室した。

 一刀は詠から聞き出した職人の下に足を運ぶ途中、視線を巻物に移した。
 メイド服のことを知っているのは、桃香や劉協など、離宮で一緒に過ごした者達だけだ。
 先ほど詠が呟いたように、どうして月はメイド服の事を知っていたのだろう。
 恐らく、長安で出会った折に触れた際、思い出したのだろうと思えるが、それだけではわざわざ詠に命じて作らせる理由が無い。

『もしかして、さ』
『うん』

 予感めいた物はある。
 脳内の声に、本体はその場で歩みを止めて頭を掻いた。

『本体、どうした?』
「いや……情けないけどさ」

 窓から差しこむ光が郿城の二階の廊を照らしていた。
 そこから見える景色に、一刀は目を細めて小さく呟く。

「少しみんなが羨ましいんだ。 ねねに……会いたい」
『会えるさ』
『そうだって、俺達だって楽しみにしてるんだ』
『本体には頑張ってもらわないとな』
「……ははっ、前も、こんな話してたような気がするな」
『そうだったか?』
『ま、まずは月と詠のメイド服だな!』
『最重要事項だな』
『ああ』
「よし、先輩の言葉に従って頑張るか!」

 自らに気合を入れるように、声を出して歩きはじめた一刀の視界の端に、馬が飛び込んだ。
 ここは二階である。
 馬が鳥のように飛ぶような事でもなければ、ここから見えるはずが無かった。

 思わず二度見して、馬の嘶き―――というよりは、悲鳴だった―――が一声上がり、窓に駆け寄る。
 土煙を上げて地に落ちた馬は、奇跡的に生きているようで、よろよろと立ちあがっていた。
 思わず一刀は安堵の息を吐き出して、馬が射出されただろう場所に視界を移す。
 
 朝と同じように董卓軍と馬超軍がにらみ合っていた。

「や、やばい!」

 全力疾走で現場に急ぐ。
 何がやばいか、それはあの場に馬を飛ばせるような力を持った人間が居るという事実だ。
 しかも、凄く良く見知った顔だった。
 兵達が円を描いて囲んだ中央に、馬超と張遼がにらみ合っていたのだ。
 今までとは比べ物にならない、未曾有の大災害の予兆を一刀に感じさせて焦っていた。

「どぉぉしてくれんねん! ウチの偃月刀の"角"が折れたやんかっ!」
「角がなんだってんだ! よくも苦心して育てた西涼馬をぶっ飛ばしてくれやがったなっ!」
「強引に柄を引っ掴むから制御を誤ってぶつかっただけやっ! 余計な事して、己で被害を増やしてたら世話ないで!」
「はっ! 自分の獲物もロクに扱えないで人のせいにするなんて、大した事ねぇな!」
「……そうかい、よぉ分かったで」

 ピシリ、と音を立てて中空を待っていた葉が割れた。
 一刀が息を荒げて走りこんで、額に血管を浮かばせた張遼と馬超がにらみ合う。
 一瞬の呼吸を置いて、二人の武具が翻った。

「一騎打ちや!」
「上等だぁっ!」
「ちょっと待ったぁあぁぁっ!」

 一刀の静止は若干遅かった。
 お互いに獲物を振り上げており、一刀の声に気がついても、途中で止める事は出来なかった。
 強引に二人の間に滑り込んだ一刀もまた、急には止まれなかった。
 結果、張遼の『飛龍偃月刀』と馬超の『銀閃』の最中に、一刀が一夜を当てて作り上げたメイド服の図版が引き裂かれることになった。
 とうぜん、手の中に持っていた一刀も柄の部分に顔を挟まれた。 
 途轍もない衝撃が、頭を揺らす。

「っ! か、一刀! おまっ、大丈夫かよ!?」
「あー…すまん、止まらんかったわ」
「い、良いんだ……二人が争っちゃ、だ……」

 ここで本体の意識は限界を迎えた。
 ガクリと人形のように体が沈み、張遼と馬超が二人して一刀の身体を抱え上げようと近寄って
 本体が倒れないようにと交代した"魏の"が身を起こすと、後頭部に強烈な衝撃が走った。
 三人共に、ぐらりと身体が泳いだ。
 
 まさかの一撃に、"魏の"はどうすることも出来ずに気を失う。
 馬超も張遼も、勢い良く起き上がった一刀の一撃を避けることは出来ず、顎と鼻っ柱をひったたかれて蹈鞴を踏む。
 急遽、代打となって"袁の"が、痛みを感じさせない様子でさっと立ち上がる。

 周囲に何とも言えない沈黙が降りていた。
 一刀は一つ咳き込み、顔を手で押さえて呻く馬超と張遼の二人を見回すと、苦笑を零して告げた。

「……えっと、喧嘩両成敗、ってことで」
「お……おお……! 一瞬で両将軍の喧嘩を止めちまった!」
「流石、天の御使いだ! 俺達に出来ない事を軽々とやってくれるぜ!」
「あの後頭部には鉄が入ってるに違いないぞ!」
「それよりも、馬を飛ばす張将軍の攻撃を、身体で防いでたぞ! なんてタフなんだ!」
「馬超様の一撃に耐えるなんざ、普通じゃねぇぜ!」

「えーっと、いいから、解散っ! これ以上騒ぐと厳罰に処すぞ!」
「はっ!」
「了解でありますっ!」

 この一件は後世、天の御使いの逸話の一つに数えられた。
 左右から迫る豪傑の一撃を身体一つで受け止め、なおかつ頭突き一発で両将軍を怯ませ、喧嘩を裁いたという話だ。
 険悪であった兵達は、天に裁かれては溜まらない、と喧嘩をすることがなくなったという。

 そんなことはともかく、兵が一刀の命に驚くほど素直に従って解散する中、馬超と張遼は居づらそうにそっぽを向き合っていた。
 喧嘩の原因を聞くと、馬の足の様子を心配した馬家の兵に、一度乗って具合を確かめていたところ
 急に現れた張遼が、驚いて武器を構えてしまったそうだ。
 馬超もまた、人にぶつかると思い、強引に馬首を曲げて接触事故を防ごうとした。

 そこで不幸が起こった。
 張遼の飛龍偃月刀は馬具に絡め取られ、武器を取られまいと力を込めたときに、引っかかっていた"角"がポッキリ逝ったのだ。
 馬超は突然現れた張遼を罵って、飛龍偃月刀を掴んだ。
 "角"が折れたことで激昂した彼女は、強引に馬超の腕を振り払い、運悪く近くに居た馬を吹き飛ばしてしまったという話だった。

 一刀は、運悪く馬を吹き飛ばしたという下りに少し突っ込みたかったが、我慢した。

「話は分かった、でも、ここは二人とも我慢してくれ。 将同士が争ったら、兵が止められなくなるよ」
「分かった、分かってる……一刀に頼まれたんじゃ、アタシは断れないし」
「ありがとう、翠、先行ってて良いから」
「ああ……その、悪かったよ」
「ええ、しゃあない。 事故やったんや、わかっとる」

 罰が悪そうに頬を掻いて、踵を返す馬超。
 ようやく気絶から回復した一刀は、手元にある引き裂かれた巻物を見て顔を引きつらせた。
 そして残った一刀と張遼は二人して顔を見合わせると、お互いに盛大に溜息を吐き出した。

「はぁぁ……ウチの角ぉ……」
「渾身の……一作が……」

 情けない声を二人で出して、張遼も一刀も自然に力の無い笑みを浮かべあった。
 騒ぎを起こした事に謝罪を一つ。
 ついでに一刀の持っていた巻物を刻んでしまったことに謝罪を述べて、一刀は首を振って大丈夫だと答えた。

 どちらともなく、廊の柵になっている木の上に座り、ポツリと張遼が口を開く。

「自分、やるやん。 武器も持たずに突っ込んでくるなんて、大した胆力やで」
「必死だっただけさ。 怖がる暇も無かったってのが本当のところだよ」
「せや。 そいでも、馬超とウチの間に飛び込めるような気ぃ入った奴はそう居ない」
「はは、それなら、稽古をつけてくれた君のおかげだな」

 一刀は張遼の言葉に薄く笑って頷いた。
 なんだか、改めて褒められるのがむず痒かったのもあったが、もっと他のところに彼女の真意がある気がした。
 どこか、一刀を認めるような声色。
 武威の地で出会ってから、まともに会話をしていない筈の彼女が、どうしてこうも柔らかい態度なのか。
 その理由に、一刀はなんとなく察しがついていた。

「……聞いたのかい?」
「ん、荀攸に全部聞いた。 馬超を助けた理由も、一刀があの場で逃げた理由も、全部」
「……すまなかった。 俺がもっと早く気付いていれば」
「ええ、過ぎた事を何時までもボヤくほど、ウチはしつこい女や無い。
 そりゅ悔しいし、腹の底じゃ納得してない部分もあるんやけど……今は乱世や」

 結局、最後の最後まで荀攸には世話をかけっ放しであった。
 ここまでくると、もう見返そうだとか気張る方が馬鹿らしくなってしまう。
 今はまだ、そこまでの男ではないのだ。
 最初から分かっていたことだが、本当にこの世界の人達には頭が下がる思いだった。
 辛いときに頑張れるのは、自分を支えてくれる人が少なからず居るからだ。

 もしかしたら、韓遂の周りにはそんな人が誰も居なくて、孤独だったのかもしれない。
 自分と重ねて、音々音が居なかったらと思うとぞっとする考えであった。

 一刀の思考を打ち消すように、飛龍偃月刀が刃を返して、かすかな金属音が郿城の廊に響いた。
 視線が自然と張遼の偃月刀に向かった。

「その角さ、直せるかも」
「え、ほんま!?」
「腕の良い職人の場所を詠から聞いたんだ、絶対とは言えないけど、もしかしたら」
「かずとぉー! 金なら惜しまんでっ! 頼んでもええの!?」

 一転、張遼の眼がキラキラと輝いて、一刀の腕に絡みつくように抱きついた。
 甘い香りが一刀の鼻腔を擽って、腕から柔らかい感触が伝わり、思わず鼻の下を伸ばしそうになる。
 一刀は鉄の意志で煩悩を吹き飛ばし、精神力を総動員した。
 若干引きつった笑みを浮かべて、一刀は張遼に答えた。 
 
「はははっ、当たり前だろ。 でも、直せないって言われても職人さんに文句を言うなよ」
「あったりまえやんっ! ほな一緒に行こ! 今すぐ!」
「ああ、ところで腕を離してくれると嬉しいんだけど」
「ええって、ウチの感謝の気持ちってことで。 一刀も嫌やないやろ?」

 一刀も男だ。
 喜ばしく無い筈がない。
 口には出さなかったが、身体が勝手に頷いてしまったことで、結局腕を離さずに並んで歩くことになった。
 目的地へと向かう最中、無言であったが、郿城の正門近くまで近づくと、ふいに張遼が口を開いた。

「一刀ー」
「ん?」
「んー……ようやっと思い出したっちゅうか」
「なんだよ?」
「うんにゃ……一刀ー」
「ああ」
「ええ顔になったやん」
「別に俺は変わってないと思うけど」
「そやね」
「何なんだか……」
「これで気付かないんかい」

 くっついた腕の中で、張遼は一刀に聞こえないように愚痴った。
 もう随分前の事、一刀が天代として権威を得ていた時。
 公孫瓚と共に酒宴を開いた時にも、こうして気の抜けた話をしていたような気がした。
 正直なところ、張遼はあの頃の記憶は酒のせいか、盛大にぶっ飛んでいて余り覚えてない。
 ただ、三人で馬鹿みたいに笑い合い、酒を呑んでいた。
 その時に言った自分の言葉を思い出したのである。

 それが分かった。

 それまで離そうとしなかった張遼が、パッと離れて一刀の前に立った。
 不思議な顔をして首を傾げる一刀に、彼女は頭を一つ掻き、口を開いた。

「なぁ、一刀。 これからどうするんや?」
「これから? うーん……とりあえずは、武威に戻るかな。 それから先は、荀攸さんの連絡を待ってから決めると思う」
「そか、長安には寄らんの?」
「ああ……洛陽に近いし、官吏の往来も多い。 気分が落ち着かないだろうからね」
「月や詠が心配っちゅうことか?」
「そんな事無いよ、二人は信用している。 信じられないのは、周りのほうさ」

 長安に居る李儒は、もう董卓と接触を試みているはずだった。
 書状をしたため、約束にも応じたが、一刀は自分を洛陽から追い出した李儒を信用はしていなかった。
 異民族と隣接している武威の地の方が、同じ諸侯でも静かに暮らしやすいと一刀は思っている。
 "天の御使い"の名は大陸中に広がっており、その影響も大きくなった。
 西涼の叛乱軍決起に利用されたように、漢王朝に対して私怨を抱えた連中の出汁にされることも、ありえないとは言い切れない。

 一刀の置かれている立場は傍目には大陸の乱れを鎮める命を受けた、大将軍の上に立つ将と言える。
 その実、中央政権から排された男に過ぎない。
 こうして西涼の敵軍を打倒し、叛乱を鎮めた事は戦功として広く知られるだろう。
 しかし得たのは勇名だけで、それは都合の良いように朝廷を牛耳る宦官に利用されるだけだと確信できる。
 兵や民にとっての英雄として扱われる今はまだ良い。
 しかし、その声望を失った時、下手に実績を積み上げてきた"天の御使い"という英雄は扱いずらい物となる。
 排される時はいつか必ず来る。
 それまでに、一刀は洛陽に戻り力を手に入れる必要があるのだ。
 
 先ほどのあげたように、一刀は名声以外には何一つとして得た物は無い。
 かろうじて、韓遂には協力をするよう約束したが、信じられるかどうかは別問題である。
 だが、今はそれで十分であるとも思っている。
 "天の御使い"の名声は、自分を生かしてくれる大事な物だからだ。
 そもそも郿城の戦いに負けてしまっていれば、一刀に未来など無かった。
 今は自分を支えてくれる人たちの為にも、我欲を伏して時機を待たねばならないのだ。

 一刀は快活な性格である張遼に、自分の考えを告げてそう締めくくった。
 すると、彼女は何度か頷いて、一刀の腕を取って再びくっついてきた。

「そっか……分かった。 そんなら、ウチはもう少し一刀に甘える!」
「ちょっ、何でいきなりそうなるの!?」
「何で? 嫌なん?」
「嫌じゃないけどっ、でも、ほらっ! 兵が見てるしっ」
「そんなんもう手遅れやん。 噂も上ってるもん」
「ええ?」
「噂や噂。 昨日の夜、詠を押し倒して組み伏せたーって皆言ってたで」
「あー……」

 確かに真実に近い誤解であった。
 下手な言い訳は余計に首を絞めそうな辺り、この噂を否定するのは難しそうだ。
 
「それに一刀、さっきからずっとウチの名前呼んでくれへんもん」

 口を窄めて拗ねたように言う張遼に、一刀は頭を掻いた。
 意識していた訳ではないが、名を呼ばなかったことに不満があったとは思わなかった。
 ただ、あの邑から彼女が出て董家に仕官しに行った時の言葉は覚えている。
 彼女の嫌いな顔が治ったら、真名を預けると。
 かつて、公孫瓚と共に開いた酒宴の席で彼女の真名を受け取っていた一刀であったが
 それを忘れているようであった張遼に真名を呼ぶことを避けていた。 

「張遼さん?」
「ちゃう」
「霞?」
「ん、それでええ」
「最初から言ってくれれば良いのに……」
「だってなんか、改めて預けるのも恥ずかしかったんやもん」
「改めてって……もしかして」
「うん、思い出した。 酒の席で預けてたの。 アホみたいやん」
「ああ……そっか」
「……羅馬の事も」
「は?」
『え?』
「なぁーんもない。 さ、とっととウチの"角"を直してくれる職人さんを探すでっ!」

 一刀に覚えの無い言葉に、脳内の自分が反応した。
 霞に腕を引っ張られて歩き出そうとする中、一刀は何のことかを問おうと開いた口は、しかし、兵の一人に遮られた。
 茶化すように笑みを浮かべて、詠の指示を受けて一刀を探していたと頭を下げる。

「申し訳ございません、服のことでご相談があるとか」
「あ、ああ……えっと……それと別に、急で申し訳ないんだけど、張将軍の武器の修繕もして欲しいんだ。
 鍛冶に明るい職人さんは居るかな?」
「鍛冶ですか。 ええ、一人心当たりがありますよ、邪気眼-終焉工作室-という店をご存知ですかな?」
「いや? 初めて聞くけど何だそれ」

 一刀は何とも言えない表情となって尋ねた。
 そんな強烈すぎる名を付ける店が、この時代にあるだろうかと。

「元々は洛陽に店を置いていたそうなんですが、ここのところ売り上げが順調のようで。 長安にも店を開かれました。
 知る人ぞ知る鍛冶職人の集りなので、そちらに持ち込めば将軍の武器も必ずや修理できましょう」
「ほんまかっ! 良かったー! 一時はどうなる事かと思ったで!」

 その言葉に、霞は指を鳴らして喜んだ。
 くっついて離れなかった腕を離して、兵の背中をバシバシと叩き心の底から安堵している様を見て
 一刀は問いかけを噤み、苦笑のような物を浮かべて言った。

「はは、良かったね、霞」
「うんうん、一刀のおかげやっ!」

 そうして兵は地図のような物をさっと書くと、張遼にそれを渡して一刀を促した。
 霞もまた、飛龍偃月刀の"角"が治ると聞いて、貰った紙片を懐に入れて満足気に踵を返していく。
 脳内の言葉が兵に背を押されて歩く本体に聞こえてくる。

『良かったのか"魏の"』
『ああ、良いさ……』
『それなら良いけどな』
『後悔するなよ?』
『う、そう言われると悩むだろ』
『はは』

「……」
「あー……その、御使い様?」

 戸惑いながらも声をかけてくる兵に、一刀は首を振って答えた。

「ああ、ごめん、なんでもない。 実は不幸な事故で設計図とも言うべき物が亡くなってしまったんだけど―――」

 結局、口頭とその場で書き出した、ちょっとしたイメージ図のみでメイド服の作成は行われた。
 この服は董卓からの命令であったのも幸いし、職人達が集って僅か二日で完成に至るという離れ業を見せる。
 実物を見た詠が、頭を抱えて机に突っ伏す事になったが、対照的に一刀は何かをやり遂げたかのよう
 誇らしげな笑みを浮かべたそうである。
 


      ■ 西からの騒乱



 洛陽、離宮。
 劉弁の即位が終わって6日目の、少し宮中が落ち着いた頃であった。
 荀攸は長旅を終えて宮中に戻ると、さっそく墨を作って筆を走らせ、信頼できる人物を呼び寄せるとコレを託した。
 チビという、自分の名を捨てたその男を使えば、劉協様やそれに仕える陳宮という者と接触できる。
 そう一刀に聞いていたのだ。
 が、荀攸の内心は穏やかでは無かった。
 その信頼できるというチビという人物の風体はなんというか、その辺の山河を調べればすぐに見つかりそうなほど粗悪な物だった。
 彼の働く運搬業者は、ここ洛陽では知らぬ者が居ないと言えるほど有名だそうだが。
 
 そんな荀攸の心配は、僅か5刻後に解消され、彼女は驚き戸惑う事になる。
 しっかりと手紙が届いた事もそうであったが、返書が5刻後に返って来たのだ。
 いくら洛陽の宮中であろうとも、この速度は異常であった。
 一刀から事前にチビの存在を聞いていなければ、疑いを持つだろう速さだったのだ。
 
「感心しますね」
「へっへっへ、心づけがあれば、今後も最優先にさせてもらいますぜ」
「はぁ、見事です……」
「あ、いやっ、もちろん、アニキや御使い様の物なら、言われなくても最優先ですけどね、ヘッヘッヘッヘ」
「では、これを」

 両手を捏ねて、笑みを浮かべる姿は明らかに下品だ。
 下品だが、この速度と正確さは荀攸から見ても優秀と言えた。
 市井の中にも、これだけの者が居るのだなと感心露に、懐から金子を取り出して手渡す。
 想像していた以上に使えると思えたからか、少し色を増して。
 中身を確認すると目を剥いて、更にへらへらとした笑みを深めてチビは言った。

「そうだ、荀攸殿でしたか。 実は最近、妙な噂があるので、お教えしますよ」
「妙な噂ですか?」
「へへへ、ええ。 最近、壷や陶器や窓などが、宮中で急に割れることがあるんですわ。
 大陸が乱れて、漢室の嘆きが引き起こしてるんだそうで。 怪我人も出ているので気をつけてくだせぇ」
「なるほど、不思議な現象ですね」 
「それじゃ、まだお得意様への仕事が残ってますんで……今後も贔屓にお願いしやす、へっへ」

 颯爽と去っていくチビの後姿を見送る。
 また使わして貰おうと考えながら、荀攸は手渡された書をペラリと捲った。

「っ! これは大変です!」

 受け取った書を即座に暖炉の中に放り込んで書を燃やすと、外套を引っつかんで飛び出した。
 劉協の名の下、指定された場所へと散歩を装って、今日中に速やかに来るようにと書かれていた。
 要約すると、待ってるからちょっと離宮裏までとっとと来いや、という物だ。
 相手は皇族である。
 荀攸はやにわに緊張しながら、周囲から目立たぬようにと細心の注意で散歩しながら目的地へ向った。


―――・


 そうして荀攸が劉協との接触を持とうとした頃、宮中では何進が平伏していた。
 玉座に座る劉弁帝の前で跪き、地に伏す事三回。
 何進は顔を上げると、立て膝を突いて手元の書簡を百官に手渡した。
 恭しく官から書簡を受け取ったのを確認して、口を開く。

「陛下。 徒に騒がれていた西涼の大乱は、天の御使いと董卓が見事に指揮を取り、鎮めたとの報せが参りました」
「なるほど……これは良い報せだ」
「即位直後にこのような吉報が参るとは、これも帝の威光の賜物でございます」
「まさしく。 変事を収めた董卓には恩典を与えるべきでございましょう」
「はっはっは、そうか。 確かに大乱を治めた王朝への忠義に報いねばならない。 董卓を前将軍とし漦郷侯(たいきょうこう)に封じよう」
「は、そのように致します」

 百官の一人が礼をし、玉座の間からいそいそと離れていくのを見ながら、劉弁は呟いた。
 張譲がその声に応じるように、一歩前へと踏み出した。

「しかし、天の御使いとな。 あの者は大罪を犯して放逐されたはずだが」
「先帝が崩御なさる前に、任じられていたのです。 小人が機嫌取りをしている様なものでございましょう。 帝が案じることはありますまい」
「うむ……そうかも知れぬが、父を侮辱したのだ。 許せぬぞ」
「ご安心を。 今は名声が高く手が出せませぬが、いずれ排すれば良いでしょう。 それに、野で果てる可能性もございます」
「おそれながら、帝が気になさるような者ではございませぬ」

 その言葉に納得し、劉弁は何度か頷いた。
 話が落ち着いた頃を見計らって、何進は一歩前に出ると、頭を下げて口を開いた。

「……畏れながら陛下。 申奏したき事がございます」
「うむ、申せ」 
「西涼の乱は治まれど、未だ災禍は過ぎておりません。  私は大将軍として軍部を司っておりますが、大陸の禍を取り除くに一つ考えがございます。
 倍以上の敵を滅し、弾き返した董卓軍はまさに大陸有数の精兵でしょう。 これを遊ばせるには勿体無いものです。
 そこで都に呼び、帝が沙汰を下されば、一気に乱を鎮めて大平を得ることができます」
「おお……素晴らしい案だっ!」
「畏れながら」

 何進の言葉を聞き終えた劉弁は、笑みを浮かべて腰を浮かしたが、すぐに落すことになった。
 張譲が止めるように手を挙げて制止を促したのだ。
 劉弁の前で立つ何進の周囲を巡るようにしてゆっくりと歩きながら、口を開く。

「陛下……大将軍の申されたことは、はっはっは……少々性急ではないかと思われます。 
 いかに董将軍の将兵が精強であろうと人でありますれば、大戦の直後に慌しく命を下す事は配慮に欠けております。
 そも帝は今、漢の皇帝に即位なされたましたが、先帝が崩御されてから長く政が滞っておりますれば。
 劉弁帝が此処に座られるまでに、朝廷は混乱をしておりました。 内憂を抱えていてどうして外憂に対処できましょうか。
 何より、備わるを一人に求むるなかれと言うように、董将軍のみに頼るというのも情けない話ではございませんか」

 張譲は何進の目の前に立つと、そこで言葉を切ってから続けた。
 まるで、強調するように。

「まるで大将軍は今の漢に人は無しとでも仰られたいと、私には聞こえましたが如何ですかな?
 私の目の前に立つ何進という者は漢室への忠義に篤く、その豪胆さで帝の即位を後押しし、数々の大乱を治めてきたお方。
 他にも、四世三公と賞賛される袁家は兵も多くこれも忠に足りており、漢を支えた優秀な名家も多く、外憂を鎮める力もありますれば……
 確かに、漢には外患いがございますが、大将軍の憂慮は些か過大ではないかと。
 劉弁様。 戦は莫大な資源を消費するものです。 董卓にはしばし休まれるよう心配りをされた方が良いかと」

 そこで言葉を止め、歩む足も止めると何進の隣に並び立つようにして張譲もまた、頭を深く下げた。
 何進は張譲へと向けていた視線を、劉弁へと戻す。
 表情は戸惑いを含み、目線の泳ぐ劉弁に、何進は背を押すように言葉を投げかけた。

「劉弁様が帝となられた今、内憂は治まりを見せて来ております。 これも帝の威光があれば。 今こそ長引く乱に終止符を打ち、漢の尊厳を取り戻す時かと」
「即位された今こそ、内憂を完全に取り払うべきです。 根幹がしっかりと根を張っていれば、強風にも揺られる事はあれど、倒れることはございませぬ」

 二人に頭を下げられた劉弁は、落ち着かない様子で視線を惑わした。

 そして張譲は、頭を垂れながら、隣で同じように頭を下げる何進に目を流して見やった。
 思惑は見て取れる。
 宦官を悪としている何進は、その排除を目論んでいた事を張譲は知っていた。
 何進の言に否やを唱えたのは当然ながら、その思惑を潰す事が一つ。
 論語に一文を引っ張り出し漢に人在りと答えてやることで、今後の牽制として一つ。
 先帝崩御から政が停滞したという、皇帝としてと言うよりは劉弁個人の良心に訴えたのが一つだ。
 何より、最初に言った通り何進は時機というものが見えていない。
 張譲から見ても明確に、焦りという物が見て取れた。
 この男は判って居るのだろうか。
 宦官が居なくなれば、今より更に朝廷が荒れることになるというのを。

 永きに渡る権謀の経験から、張譲は確信に及ぶ。

「畏れながら。 私も張譲様が仰られた通り、内をしっかりと固めるべきかと思います」
「大将軍の言葉はもっともですが、帝は即位なされたばかり。 今は張譲殿の言葉が正鵠を得ているかと」

 そんな彼の思惑を後押しするように、何人かの宦官と高官が劉弁へと頭を下げる。
 それを見ると、やがて、何度か頷いて劉弁は口を開いた。

「その通りだ。 大将軍、朕も長引く大乱には心を痛めておるが、今はまだ動くべきではないと思うぞ」
「……はっ! 過ぎた事を申しました」
「良い! 漢は歴史を長く歩み疲弊している。 焦りは目を曇らせるという。 朕もそなたのおかげで心が焦れているのが分かった。 今後も忠を尽くしてくれ」
「はっ。 ありがたき御言葉。 至言でございます」

 何進は口を一文字に結び、頭を下げて踵を返した。
 静々と退室し、宮殿を出ると何進は深呼吸するように深く息を吸い込んで、陽光に目を細めた。
 肺に溜め込んだ息を吐き出して、目を瞑る。

「焦りは目を曇らせるか」

 あの場では表情にこそ出さなかったが、劉弁の言葉は何進に衝撃を与えていた。
 劉弁が即位した今だからこそ、宦官という膿を吐き出して朝廷に清涼を齎す機であると断じていたが、そうでは無いかも知れない。
 張譲の言葉には一理あり、内外が騒がしい今、片付けるべき問題は山ほどある。
 後継者の問題が何進の行動で解決を見せ、一時の緊張から解き放たれている今。
 宦官の排除を急ぎ、自ら内を乱すことも無いのではなかろうか。
 たとえ、何時かは排さねばならなくとも急いて事を仕損じては元も子もない。
 それに、自分の企みは上手くいっていない。
 袁紹に断られ、董卓に声をかけたものの、大きな戦の後だ。 色好い返事は期待できまい。
 それならば、今は時期を待ち、宦官を討つ機を得るまで待つのが得策かも知れない。

「帝は聡明であらせられるな……」

 何進は肩越しに後ろを振り返って、宮殿を見返す。
 やがて自分を納得させるように頷いて、視線を外すと、宮内を後にした。

 その足は、袁紹の下に向かっていた。



 また、張譲と趙忠の二人も、劉弁の下から辞し宮中の廊を歩いていた。
 そろそろ初夏となるからか、実をつけ始めた木々が美しい景観を演出している。
 美しい景色の中で舞う、くまの人形は、片腕が取れていた。
 話題は先ほど何進が申奏した内容であった。
 もっぱら、張譲は黙って聞いており、時に頷くだけで喋り手は殆ど趙忠であった。
 
「むっつりした顔見た? 袁紹に蹴られたからって焦りすぎだよ。 あんな方法でボクらを殺そうなんて笑えるね」
「うむ……」
「袁紹も言うほど天の御使いに懸想してなかったのかもね。 もっと恨んでると思ったけど、乙女心ってやつ? 良く分からないや」
「……うむ」
「譲爺~、さっきからうんうんって、それだけなんだけど」
「……趙忠、よくこの爺の耄碌を止めてくれた、礼を言うぞ」
「へ? なに?」
「曇っておったのだ、ワシとしたことが、とんだ失態だ」

 考え込むように立ち止まった張譲を不審気に覗き込む。
 何時の間にか張譲の掌の上に二つの玉が乗って居るのを見て、彼は肩を竦めた。
 そんな趙忠に、声が降る。

「何進は何故、ああも焦っておった?」
「そりゃ、袁紹に断られて切れちゃったんじゃないの? 変なところは無かったけど」
「うむ、そうだ、確かに。 何進は絡んでおらぬな……奴は我等の目を引く為の餌となったのか」

 その通りだと、張譲は頷いた。
 彼から見ても、なんらおかしい所は無い。
 宦官の排除をするに、見込んだ袁紹に断られて、今度は董卓に頼ろうとした。
 ここまでで可笑しな所は一箇所も無い。
 何進の心内は透けて見えるのだ、よもや演技が出来るほどの腹芸を身につけたわけでは無いだろう。

 ころり、ころりと掌の玉が回された。
 おかしなところは無い。

―――あるとすればそれは何進ではなく。
 
「……そうか、袁紹かっ!」

 袁紹が洛陽に入り、何進と密通していたのを段珪から聞かされた。
 その場で袁紹が何進の提案を蹴ったという話だが、あの時引っかかっていた物が見えた気がした。
 何故、袁紹は何進の話を蹴ったのか。
 どちらにしろ宦官を排除しようと目論んでいると分かれば、視線は否応にも何進に向けられる。
 事実、張譲も含めこの話を知っている者は、何進の動向ばかりに眼が向いており他人を気にしなかった。

 袁紹が自身の判断で何進の誘いを断ったことも考えられるが、趙忠の言うように追放された北郷一刀との仲は良好だった。
 程度の差はあれど、一刀を追い出した事実は、彼を慕っていた諸侯に怨嗟を残した。
 例を挙げれば、勇名を馳せる孫堅が孫家と切り離された事。
 孫堅にとっては面白くない物であり、宦官を恨んでも可笑しくない話である。
 究極的には宦官さえ居なければ何進は帝に頼られる。
 権力を握ることができ、一刀を呼び寄せるも放逐するも自由だ。
 後継者争いが長きに渡ったのは、一刀を抱えていた劉協が、その権力を欲したからだ。
 袁紹があっさりと切って捨てたのは、胡散臭さが漂っていた。

 少なくとも、張譲にはそう思わせるに足りたのだ。

「趙忠よ、確か袁紹はまだ、洛陽に留まっているな」
「うん。 何進のおっさんが引き止めてるみたいだけどね」
「そうか、よし、裏で通じている誰かが、まだ分かるかもしれんぞ。 おう、急げ、背後を調べなければならん」
「放って置いても良いんじゃないかな? ボクらを生かしたい人かも知れないよ?」
「違うっ! 何進に死んでほしくない者が居るのだ……趙忠、思い出せ。 何進は劉協様を説得したこともあって帝との仲が非常に良い。
 下手をすれば妹を失っていたと、何進に涙して礼を言ったのだぞ。 こうして宮中に現れて上奏することもできる……まるで先帝と天代の関係のようではないか。
 そうだ、何進はむしろ消えてしまった方が我等に都合が良いのだ……ええい、見誤った! なんと狡猾な! 袁紹の影に大魚が悠々と泳いでおったとは!」

 枯れた腕を忙しげに動かして、張譲は早足に歩きはじめた。
 その背を追う趙忠は一度頬を掻いて息を吐くと、張譲の前に回りこんでその足を止める。
 常の数倍、眉間に皺を寄せた張譲が、焦れた様子で趙忠に口を開き、その機先を制して彼は口を開いた。

「譲爺、別にもう出てくって決めたんだから、時期だけ選んで雲隠れしちゃえば?」
「趙忠、何故止める。 分からんのか? 劉弁様が即位されたばかりの今は、我等も簡単には動けん」
「動かない方が良いと思う。 "誰か"が要じゃなくて、"誰が"動くかが要でしょ。 何進を抑えておいて、いざならば殺せば良い話、違う?」
「それでは足らぬっ! お主には分からぬかも知れぬが、ワシには分かるのだっ!」

 取り付く島も無いと言った様子で、興奮を抑えきれないように張譲は趙忠の脇を抜けて今度こそ廊を駆けていく。
 張譲がこうまで焦りを見せたのは、何進を警戒しすぎたが為に皇帝の即位を早まらせ、自身の首を絞めた事にある。
 そう、皇帝を支える十常侍であるのだ。
 それも、張譲は長年に渡って漢に仕えて来た。
 数ヶ月は政と人事に追われ、例え彼が願い出ても、辞する事は叶わず引きとめられる事だろう。
 つまり、動けないのだ。
 宦官を兵馬で排すると見せかけて、その裏で謀りの刃を突きつけていた。

 残された趙忠は、つまらなそうに口をすぼめ、柵に人形を叩きつけた。
 糸が切れる、嫌な音が耳朶を打つ。

「いつもボクの話を無視するんだからさ……」

 不満そうな声が、瑞々しい緑葉と実をつけた木々の隙間に消えていった。
 


―――・



「荀攸とは、そなたか」
「は。 性は荀、名を攸、字は公達と申します。 劉協様にご拝謁できるとは、この身に余る光栄でございます」
「我が名は陳宮です。 荀家の高名はかねがね聞いておりますぞ」
「こちらこそ、陳宮殿の活躍は耳に良くしております……と、ところで、一つ質問を許して戴ければ……」

 荀攸は流れる汗を一つ拭き、周囲を見渡した。
 というよりも、この部屋は非常に狭いので左右にさっと首を振ればそれで見終わった。
 散歩をしながら目的地へと辿り着くと、たった今紹介された陳宮に手を引かれてこの場に来たのだ。
 その場所を示されたとき、荀攸は冷や汗を掻かずにはいられなかった。
 まさか、殺されるのでは? とも思ったが、その理由が見当たらない。
 促されて開いた扉を現れた顔に、血の気が引いて汗が吹き出たのである。
 
「その、何故、このような場所で……」
「ああ、そのことか……仕方ないのだ。 人通りも無く、誰に聞かれる心配も無い場所は宮中に少ない。
 狭いかも知れぬが厠の中では広い場所を選んだつもりだ、我慢してくれ」
「は、はい、劉協様がそう言うのならば勿論……」
「まぁ、でも確かにこの匂いはねねも答えるのです」
「それは、私も同じだ。 仕方あるまい」
「……古今、暗殺や密談は確かに厠の中で致すのが多い物です。 それを思えば、納得できます」
「うむ、それより早速本題に入ろう。 一刀と共に過ごしていたらしいな?」

 何故か一段、声が低くなった劉協の声に荀攸は頷いた。
 その頷いた様子を見て、劉協と陳宮は、お互いに顔を見合わせて視線で話し合っていた。
 二人の様子に違和を覚える荀攸であったが、何がおかしいのかは判らなかった。
 ただ、真剣な眼差しを荀攸に送っているのだけは確かで、厠を選んで会話をするという事実を考慮すれば
 "天の御使い"が漢王朝に戻る為に、重要な話があるというのだけは分かる。
 荀攸は、まず二人の質問に嘘を交えず答える事を、心がけることにした。

「一刀は元気であったか」
「はい、病も無く、賊を打ち倒し、それはもう、盛んでございました」
「盛んだと?」
「やはり、ねねの言った通りですぞ劉協様」
「……それで、誰と、そなたの他には誰と共にしていたのだ」

 荀攸は質問されるごとに、時に滑らかに、時に思い出すようにして答えていく。
 邑での出会い、韓遂の謀略、郿城での戦い……質問は時に何度も繰り返され、細部にわたって報告していった。
 だいたい一通りの質問を終えたのは一刻後。
 劉協と音々音は、あらかた一刀の辿った経緯を聞き終えると、二人して頭を下げた。

 荀攸はこの行為に狼狽した。
 皇族である劉協が一臣下である自分に頭を下げるなど、あってはならない過ぎた事であるのだ。
 だが、止めてくれと頼む荀攸の声を劉協は首を振って遮った。

「感謝とは、言葉と態度で伝え、誠意を示して意味を成すもの。 一刀は漢にとって稀有な者なのだ。
 荀攸、そなたは一刀を守り、引いては漢王朝を守ったと言えよう。 私が感謝をするのは当然だろう」
「劉協様のお言葉は、礼節において真と理なるもの。 荀公達、感服いたしました」
「そうですぞ。 荀攸殿が居なければどうなっていたか。 一刀殿はああ見えても案外とお馬鹿なのです」
「あ、馬鹿というのはそうですね……確かに目を離すとすぐに女性と戯れて―――ひゃいっ!?」

 バキンっ! と物凄い音が厠の隣の中から響いた。
 その余りの大きな音に、荀攸は両手を合わせて跳ね飛んだ。
 宮中では"天の御使い"が追放された事を知らない者は少ない。
 むしろ、扱いは逆賊だ。
 劉協や陳宮がこうして、誰も通らず使っていない厠を選んだのも納得できるほどに。
 もしや、誰かが隣で聞き耳を立てて居るのではと、今の物音に不安になってしまったのだ。

「あ、あの、今……」
「気にせずに。 最近身の回りの物が突然に壊れるのです」
「早く続きを申せ」
「し、しかし……調べた方が」
「劉協様は、荀攸殿に一刀殿の事を一切合財、聞いておかねばならないと仰っておりますぞ」
「ねねの言う通りだ」
「は、はい」

 隣に誰か居るのではと思うと、心中穏やかではいられない。
 荀攸は、胃の辺りが何かこう、締め付けられるような痛みを感じていた。
 だが、目の前の二人は物音に気付かなかったかのように冷静だった。

「ゴホンッ、荀攸。 私はそなたのような漢に忠高い者を知り、嬉しく思っている」
「は、はっ。 ありがたき幸せです」
「それで、その……一刀はふしだらであったか?」
「は? そ、そうですね、私が知る限り……」
「知る限り、どうなのです?」
「馬家では入浴を覗きましたねぇぃ!?」

 パリィン! と玉が地に落ちて割れるような音が外から響いた。
 荀攸の声は上ずり、猫のように背筋を震わす。
 
「離宮の窓がまた割れたぞ!」
「これで何枚目だっ!」
「どうなってやがる!」
「おい! 怪我しているぞ! 医者を呼べっ!」

 外から聞こえた怒声に―――恐らく、離宮にて働く存在だろう―――劉協様や陳宮が居ないことに気付かれるのでは無いかと気が気ではなかった。
 この厠は人通りが少ないかもしれないし、まさか劉協様が居るとは思われないだろうが、不安なのは不安だ。
 加えて、心の片隅で宮中の窓や壷が突然ぶっ壊れるという話は、チビから聞いていたがこうも頻繁に起こるとは思ってもいなかった。
 所詮は噂と流していたが、これは駄目だ。 
 心臓に悪い。
 漢室の嘆きと無念の宮中を震わしているとの噂が流れ、人々が恐怖を覚えるのも分かる気がした荀攸だった。

 ある意味で、その噂は当たっていたが。

「それで、他には?」
「えっと、その、劉協様。 顔が近いのですがっ」
「仕方あるまい、狭いのだ。 ねね、狭いゆえそちらに詰めよ!」
「それよりも早く続きを聞くほうがよいかと存じます!」
「その通りだな、他には何があった。 荀攸、包み隠さずに答えよ!」
「は,はぁ、えっと、他には、そのっ」
「早く申せっ!」

 額がくっつくほど、いや、くっついて怒鳴られた荀攸は勢いに押されて一歩退いていた。
 背中が厠の出口の扉を叩いて、ミシリと蝶番が悲鳴を上げた。
 荀攸は何故こうも怒鳴られ、問い詰められているのかが判らなかった。
 皇族に大声で詰問されているのだ。
 混乱の一つもしよう。
 声は上ずり、半分涙目となった荀攸に、劉協はおろか音々音も混乱しているのに気付かない。
 いや、むしろ三人揃って混乱していたと言ってもよかった。

「は、はっ! 申し訳ございません、董家の呂布殿や軍師の賈駆殿に……馬超殿も、そ、そうです確か名言がございます!」
「名言だと!?」
「一刀様を指してその、え、えろっ、ろ、エロエロ魔人と!」
「なんですとっ!?」
「他には!? 荀攸っ!」
「は、はいっ!? 申し訳っ」

 劉協の超至近距離での怒声に晒され、荀攸は腹部の痛みを押して両手を重ねて喚くように返し、勢いに押されたせいか謝罪が口を突いて出た。
 
「そなたは魔人に何もされなかったのか!」
「は、はっ! 劉協様! 私は止むを得ず卑猥な行為を連想させ―――っ!?」

 押されに押され、悲鳴をあげていた蝶番が弾けとんだ。
 押していた劉協も、押されていた荀攸も、蝶番にせき止められていた自重で堕ちていく扉と一緒に転げ出る。
 離宮の裏手に盛大な音と土煙が舞い、咳き込む劉協を見て、音々音はようやく自我を取り戻した。

 同時、劉協たちが使っていた厠の隣の扉がスパァンと開かれる。
 金髪ドリルが何故か居た。

「劉協様、大丈夫ですかっ!?」
「げほっ、荀攸が下になったおかげで大丈夫だったっ」
「お怪我はしておりませんのっ?」
「ない、平気だ……?」
「袁紹殿っ!? 何故こちらに!?」
「あらっ? おーほっほっほっほっほ、奇遇ですわ、劉協様!」 

 突然の珍客に、劉協も音々音も揃って唖然とする。
 話は全て聞かしてもらった、と豪語し、劉協を支えるようにして笑顔を振りまく。
 何故居たのかと問われれば、高笑いをかましつつ、チビに聞いたと堂々と言い放った。
 普段から基本的な連絡の手段に陳宮はチビを用いている。
 曹騰とは子供たちを利用していたりと、連絡の方法も一本化せずに絞られないようにと気を使っていたのだ。
 チビとも、直接会って利用するのではなく、定期的に送られる離宮への生活用品を隠れ蓑に書簡を混ぜている。
 一刀が残した絆の一つを、有効に使っているのだ。

 袁紹にチビを紹介したのも音々音からである。
 宦官の排除を何進から求められて洛陽に入った際、勝手に暴走しないようにと釘を刺すために連絡を取り合う必要があった。
 彼女が此処に居るのは、そのチビが荀攸へと書簡を届けた後、袁紹にも知らせていたからである。
 もちろん、チビは袁紹が金払いの良いお客であるから最優先で色々と得た情報を回しているに過ぎない。

「むぅ、少し口止めを考える必要が……少し利用するのを控えた方が良いかもです……」
「おーほっほっほっほ、それはともかく、荀攸さんでしたっけ? その方の話はまるっと聞かせて戴きましたわ」
「袁紹殿で幸いだったというべきか」
「うぅ……」

 下から聞こえる呻き声に、三者の視線が荀攸へ向かった。
 劉協と一緒にもつれ合って外に飛び出した時、彼女は混乱に陥りながらも劉協を怪我させまいと身体を張っていた。
 話し合いの半ばから痛む腹。
 下敷きになって衝撃を全て請け負ったせいで、頭を打ち、脳は揺れて立ち上がることもままならない。
 青い顔をして腹部を押さえ、舞う土埃に咽そうな口を覆う。

「荀攸、大丈夫か? いかん、私のせいだ……」
「頭を打ってるかもなのです……みだりに揺らしてはいけませんぞ」

 至極真っ当な心配をする劉協と音々音に、袁紹は斜め上の反応をした。

「まさかっ!」
「な、なんなのですか袁紹殿っ! いきなり大声を出してっ!」
「陳宮殿っ! 荀攸殿は最後に仰いましたわ! 卑猥な行為をなんたらかんたらと!」
「そ、それが何なので―――」
「まさかっ!」

 袁紹の必死な形相に陳宮は意味が判らず首を傾げたか、何かに気付いた劉協が手を上げて彼女の声を遮った。
 そして、劉協はまるで幼子に聞かせるように分かりやすく、淡々と語った。
 いきなり現れた金髪ドリルが言う様に、目の前で倒れる少女は言った。
 一刀とは卑猥な行為をしたと。
 更に、荀攸は何故か謝っていた。
 そして、心なしか顔色を悪くし、腹部を押さえて呻いているのだ。

「つまり、これは妊娠悪阻と袁紹殿は言いたいのか」
「は?」
「その通りっ! ああっ、なんということ……これは一大事、たたた、大変な事になりましたわ! 早急に対策を取らねばっ! 申し訳ありません、袁本初これにて失礼させていただきますっ!」
「ち……ちがっ……」

 未知なる恐怖から逃げるかのように、大声を上げながら踵を返して走り去っていく名族。
 勝手に勘違いして膝から地にくず折れる皇族。
 事態の推移に置いてけぼりにされた音々音は、困ったように頬を掻いて呆然とし……
 そして、荀攸はそのまま意識を手放して気絶することにした。

 色々と、心の中で諦めて。



 そんなひと悶着を経て、荀攸を介抱した劉協達は、場所を離宮の中に移して話し合いを続けた。
 厠の前で大声で喚いていれば、誰だって気付く。
 少女達の姦しく甲高い声であれば尚更だ。
 周囲に気づかれ、密談という体を成さなくなった為、劉協達は開き直って意識を取り戻した荀攸を離宮に運び込んだのである。
 確かに、この場に招かれてからは一刀の名前を出していないのだ。
 密談はあの場で終了した、そう自分を納得させて部屋で茶を啜っていた。

「それにしても、荀攸のような知者が手を貸してくれるとはありがたい。 "アレ"もそなたが居て心強かったであろう」
「いえ、私は微力を尽くしただけです」
「お待たせしたのです。 荀攸殿、薬は呑まれましたか」
「ええ、先ほど戴きました」
「ふ、"アレ"の扱いには苦労をしたのだろうな」
「劉協様、お口が過ぎますぞ。 まぁ、あちらこちらで手を出しているのが"アレ"らしいとは、ねねも思うのですが……」
「劉協様や陳宮殿もそうでしたか」

 話題は"アレ"扱いされている一刀の事に終始されていたが。
 もちろん、妊娠などという不名誉な誤解は解いている。
 戻ってきた音々音の腕の中に、勅書のような物が抱えられているのに気付いた荀攸は、居住まいを正す。
 彼女の様子から、自然と劉協も音々音を見やって少し真面目な顔になった。

「ねね、持って来たのか?」
「はい。 荀攸殿は信頼できるお方でしょう。 我々の事も話しておくべきかと思うのです」
「そうだな……荀攸」
「はっ」
「これを見てくれ」

 音々音に手渡された書簡を、荀攸は恭しく受け取るとその場で開いて中身を覗く。
 それは、勅書であった。
 玉璽の印が押されており、今はもう亡くなった先帝の名が記されていた。
 内容は、宮中への立ち入りを禁ずる物。

「……これは?」
「かつて"アレ"が追い出される際に先帝が出したものと仕組まれた、偽の勅書なのです。
 宦官を辞した曹騰殿が抑えて、協力して手にいれました。
 宦官の謀略を示す証拠の一つとなります」

 音々音の声に、荀攸は喉を鳴らして勅書を見ていた。
 張譲の目の前で破るように頼みこみ、曹騰が隠し持っていた偽の勅書。
 音々音は子供たちを通じて手に入れていたのである。
 そう頻繁に連絡を取り合うことはしていない為、随分と時間がかかってしまったが、動かぬ証拠の一つを得た事は大きい。

 劉協は勅書を見る荀攸を見据えたまま、音々音から小さな欠片を受け取って卓に置く。
 木が木とぶつかりあう、乾いた音が室内に響いた。
 勅書から視線を外せば、焼け焦げた炭が残る何かの残骸であった。
 劉協は、その何かの破片を指で転がすと口を開いた。

「これも同様に、焼却処分をしていたところを抑えて手に入れた証拠の一つだ」
「……まさか」
「張譲によって作られた玉璽の破片だ。 原型は保っていないし、ただの残骸に過ぎないから使えるかどうかは微妙だがな」
「そちらは?」
「ヒャクエンダマというそうなのです。 玉璽を作った職人の家から出ましたぞ。
 そこから使われた木材を卸している業者に当たりをつけて、彫職人の名も判明しているのです」

 が、その者は既に洛陽には無かったどころか、一家揃って消えたという。
 順当に考えれば、証拠を隠滅するために皆殺しにされたのだろう。
 だが、生きている可能性はあるし、その親族となればこの広い大陸の中の何処かに居るかも知れなかった。

 ここまで話されれば、荀攸は予想がついた。
 維奉がそうであったように。
 自分が垣間見たように。
 二人もまた、一刀に漢王朝存続の夢を……いや、一刀と共に歩いているのだろう。
 こうして追放に当たって謀略が仕組まれた証拠を集めているのであれば、狙いは明白。
 帝へと上奏し、宦官の中でも膿となっている者達を排する為に違いない。

「チビ殿を通じて袁紹殿と連絡を取り合っていると言ってましたね……」
「つい先頃、何進は袁紹を呼び出した。 表向きは軍事の物とされているが、実体は違う」
「何進殿はこの離宮に来られて、劉協様の兄である劉弁様に帝位を譲るよう、命を賭けて嘆願しに参ったのです」
「内憂外患を抱えていながら、権力を手に入れようとする争いは王室を腐らせます。 大将軍は権力を巡って右往左往する宦官を見限ったということですね」
「如何にもです……そして、大将軍は袁紹殿を洛陽に呼び、力で宦官を排そうと企んだ」

 なるほど、と荀攸は頷いた。
 劉弁と劉協、この二人の間で権力争いが長引いた事に得心できたのだ。
 張譲などが劉協を皇帝に推したのは、二人にとっては怨嗟を抱える相手であり、監視をされている事を踏まえても好都合だったのだろう。
 一刀を戻すには、権力が在った方が都合が良いに決まっている。
 隠れて張譲の謀略に加担した職人らを探す必要もなくなる。 少なくとも、帝となれば遠慮をする必要が無い。

 外が荒れ、内が荒れれば漢王朝は衰退を早める。
 実際にそのような状況下でも、彼女達は何進が言に及ぶまで皇帝になる為に引かなかった。
 承知の上だったのだろう。
 陳宮ほどの知を持つ少女が、そんな簡単な事に気がつかないはずが無い。
 荀攸は茶を口に含み喉を潤すと、静かに問いた。

「……宦官は狡猾です。 謀に長けて、宮中を支配しております。 成功するとは限りません。 何進殿と袁紹殿が武を持って俳する事は、お二人にとって好都合であるはずです」
「それは我等にとっては不都合なのです、荀攸殿」
「何故です?」
「この離宮で過ごす我等でも、何進殿の思惑に感づいているのです。 宮中を牛耳し、長年権謀で腹の探りあいをしていた宦官が何進殿の目論みに気付いていないと思うですか?」
「……」
「それに、我等のこうした動きにも気付いていて、泳がしているだけに過ぎない可能性もあります。
 荀攸殿とこうして会った話はいずれ伝わる事になると思われるのです」
「ねね、言うな。 もともとこの密談はばれても良いと話したではないか」

 劉協に諌められ、音々音は身振りを交えて話していた口を噤み、腰を落とした。
 荀攸からの手紙を受けて、二人は厠へ来るように指定したが、それは劉協の悪あがきのような物であった。
 直接会えば、宮中の中を歩くのだ。 誰かしらの目に触れるのは道理。
 チビを用いての連絡を絶たれるよりも、一刀が外で築いた荀攸という羽を得る事を選んだのである。
 荀攸は二人の会話を見て、察する事が出来た。
 恐らく、チビを用いる機は今後は激減ないし、使うことを止めるのだろう。

 やにわに降りた沈黙に、彼女は疑問を呈する事で打ち破る。

「生かしたいはずの何進殿を囮に、袁紹殿へと密を得る。 大胆でありながら効果的かと。 卓見でございます」
「私が考えた訳ではない。 ねねにその辺は任せているのだ」
「僅かな時でそれを察する荀攸殿こそ、得がたい知者だとねねは思うです」

 卓の上で拱いていた指を離し、劉協は溜息を突くようにして息を吐き出した。
 つまり、宦官を力で排除する前に何進は殺されると二人は見ている、あるいはその可能性が高いと思っている。
 荀攸は爪を一つ噛んで、椅子に深く腰掛けた。
 大将軍を生かしたいという言葉に、彼女達は何も言わなかった。
 それはつまり、荀攸の推測が正しいことを意味していた。
 しばし黙した後、言葉にする。

「何進殿に生きていて欲しいという事は、謀略を暴き確かな証を用意し、それをもって宦官の排除を大将軍に上奏させるおつもりだったと」

 無言で頷く音々音に、荀攸は小さく何度も頷いた。
 袁紹と連絡を取り合っているのは、何進の軽挙に付き合わないようにさせる為だったのだ。
 彼女は四世三公の名門であり、諸侯の中でも抜き出た金、地、そして人を持っている。
 賛同すれば大きな力を得る事になる何進は勢いに乗って、宦官を排する動きを見せただろう。
 だが、何進の申し出を断らせるようにと劉協達は動いていた。
 
 全て、何進を生かす為と言ってもいいかもしれない。
 今の帝である劉弁と、軍部を司る大将軍は近しい間柄だ。
 宦官や付き従ってきた一部の高官を除いて、帝が信頼する人間である。
 彼女達が宦官の行ってきた謀略の確実な証拠を揃えて、先帝を唆したのが誰であるのかを何進が知れば
 彼は上奏し、帝はこれを許さぬであろう。
 もしも帝が上奏を認れば、その瞬間に一刀の罪は虚偽の物であったとして覆る。

「ねね達は、これを持って"アレ"の仇として宦官の膿を一掃し、漢王朝復古の一歩を成そうと考えて居るのです」
「しかし、宦官の全てが悪では無く、政を牛耳る彼等は皮肉にも、排する事で漢の命を縮める扱いにくい存在です」
「今は"アレ"の名声に隠れています、もともと民の恨みは宦官、その十常侍に集っていた―――つまり、ここです」
「十常侍を排する。 実に清廉な考え、私も賛成です。 ですが、証拠は集りますか?」
「実のところ……張譲は掃除も得意なようなので、真っ当なやり方では限界があるのです。 荀攸殿、劉協様とねねが貴殿をお呼びしたのは、一刀殿の繋がりから外へ向かう羽が欲しかったからなのです」

 室内に沈黙が下りる。
 荀攸の目の前に座る劉協は、深く座し、両手を組んで目を瞑っていた。
 音々音も、荀攸を呼び出した本音を打ち明け、これが賭けであることを露にした。
 腕を伸ばし、荀攸の手を求めている。

 彼女達の本音を前に、荀攸が口を開こうとした時。
 劉協はその先を制し、眼を瞑ったまま口を開いた。

「ねね」
「なんです?」
「"アレ"を声に出してるぞ」
「あ……」

 ずずっと劉協の茶を啜る音が響き、手を荀攸へと突き出したまま固まった音々音の頬に赤が差す。
 その声に、荀攸は薄く笑みを浮かべた。
 一刀が彼女達に信頼を置いた理由が分かったからであった。
 忸怩たる思いであっただろう。
 屈辱も受けただろう。
 それでも耐え、漢王朝の為の最善が何かを追い、監視が強く動けなかったこの場所で、ずっと戦っていたのだ。
 それは、荀攸の感を動かすのに足りていた。

「劉協様」
「ん、ああ」
「こうして全てお話戴けたことは、この身に余る信頼でございます。 劉協様には敬念を抱かずに居られません。 荀公達、身を粉にして仕えたいと思います」
「私に仕えるだなどと、不遜であろう。 漢のため、我が兄……帝のために良く働くといい」
「はっ」
 
 水面下でしか動けなかった劉協と陳宮。
 この日、二人の背に荀攸という外を飛ぶ羽が生えたのであった。 


―――・


「はぁ~妊娠ですか」
「そうです! 英雄色を好むとは言いますけど、余りにかような仕打ちですわっ」

 目の前で気の無い返事をしたのは郭図という名の少女である。
 色素の薄い青髪を短く刈り上げて、頭頂部をボンボンで縛っており、そこから阿呆毛が一本飛び出している。
 切れ長の目の下に黒いぽっちのほくろが特徴的といえた。
 体躯は非常に小柄で、成人しているのかと問われても可笑しくない容姿であった。

 この少女は何進に呼び出され袁紹が南皮を出る際に、田豊が全てを託して彼女をお守りにと送り出したのである。。
 顔良や文醜といった将軍たちは、冀州に詰める黄巾残党と戦っているせいだった。

 それはともかく。
 こんなにお慕いしているのにと、卓の上でのの字を書きながら頬に手を当てて身をくねらせる袁紹をぼんやりと見上げる。
 実際にその場を見た訳でもないので断言など出来ないが、勘違いであるような気がしてならなかった。
 なぜなら、袁紹という人物は郭図から見ても北郷一刀という男の事になると見境が無くなる。
 それは、彼の為にと猛勉強を始めて、軍師連中が大騒ぎし、家中を揺らし、牛が暴れ、馬が逃げ出した実績が示している。
 洛陽決戦の凱旋の時に見かけた、優男の顔を思い出しながら、ポツリと漏らした。

「うんうん。 確かに子を授かる可能性が無いとは言い切れませんよねぇ、うん」
「郭図さん……」
「なんですか?」
「い・ま・す・ぐっ! 私が天の子を授かるための策を練るのですっ!」
「えぇ……策ですかぁ……」
「なんですの、その気の無い返事は」

 いやだって、無理だ。
 いくら主を支える為に知能を振り絞るのが軍師の役目だと言っても、出来ることと出来ないことがある。
 出来る事なら、主君の為だ。
 火の中にだって飛び込んでやって見せようと思いはするものの、男の子種を得ることなど出来ない。
 もしも自分が男ならば、色々言い包めて差し出すのもやぶさかでは無いが。
 その辺の所を袁紹に懇切丁寧に説明したのだが、途中まで聞いていた彼女は卓を強打して立ち上がった。
 が、叩きつけた手首を押さえて蹲った。
 
「何を弱気っ……くぅ……っ」
「わっ、袁紹様、大丈夫ですか?」
「っ、大丈夫ですっ! 分かりましたわ、こうなったら直接会いに行くしかありませんわね!」
「なっ、待って待って! そんなことを許したら出たとこ軍師の郭図ちゃんが身内に殺されますよっ!?」
「なんですの、その出たとこ軍師というのは! 離しなさいなっ!」
「田豊殿に名付けられましたです! それはどうでも良いので私の為に止まってくださいっ!」

 少々涙目になりながら長い金髪を手で凪いで、決意の篭った目で郭図にそう告げ、ドカドカと床を踏み鳴らして歩く。
 その真剣な目を見て、郭図はタックルを仕掛けるように袁紹の腰へと抱きついて制止した。
 顔良や文醜ほどでは無いとはいえ、彼女と付き合ってきた郭図には分かった。
 袁紹はガチだ。
 放っておけば涼州に向かって漢王朝簒奪を目論んだ大罪人に向かって馬を飛ばすだろう。
 郭図の明察な頭脳に恐ろしい想念が舞い降りてくる。
 名門中の名門、袁家の長が罪を犯した犯罪者に直々に会いに行くのだ。
 そして逃げ惑う男を捕まえて言うのである。

『ちょっと、子種を貰えませんですこと?』

 そんなことをさせる訳には行かなかった。

「わ、分かりましたよっ! 策を練りますからっ! 私の言うこと聞くって田豊殿にも言いつけられたじゃないですかっ!」
「郭図さん!」
「は、はいはいっ!」
「では十秒です! その間に策を授けなさい! それ以上は待ちませんわっ!」

 十秒、という単位が聞こえた瞬間から郭図の頭脳はフルに回転された。
 秒読みが進む声がまず消えた。
 次に目の前の袁紹ですら脳内から追い出すと、彼女が止まる手段だけを何度も想定する。
 問題には原因がある。
 これは万物に置ける真理だ。
 その原因の根絶が最初の候補に挙がった。
 すなわち、北郷一刀の暗殺だ。
 しかし、これは距離的に10秒じゃ無理。 
 くそったれ、涼州の乱で死んでいれば良かった物を、さすれば自分はこんな窮地に立っていない。 そう毒付きながら次案を選択。
 原因その二である袁紹。
 これを殺す。
 いやまて、おかしい。
 自分の主を殺そうとする軍師が何処に居る。 ここに居たけど郭図は過去を顧みない主義の少女だった。 次案を選択する。
 原因その三、袁紹と一刀の仲を引き裂いた宦官を殺す。
 来た! 
 これだ!
 個人的に恨みはまったく無いが、歴史は常に誰かの犠牲から動きだす。 それは天意だ、よしっ! いける!
 躊躇う事無く郭図は第三案を採用した。
 
「二ぃー! 一ぃー!」
「袁紹様っ! 宦官でございます! 玉無し共ですっ! 奴等を滅せば郭図ちゃんが助かり、大功を立てた北郷一刀も洛陽に戻って来れて、思う存分、袁紹様は精液塗れにっ!」
「なるほどっ! さすが私の軍師ですっ! 実に見事で華麗な案ですわね!」
「よし殺しましょう! すぐ殺しましょう! 今殺しましょう! 即断速攻は兵家の常! 機を見るに敏、突撃です袁紹様っ!」
「おーっほっほっほっほっほ! 流石は郭図さんっ! すぐに殲滅しに行きますわよっ!」

 まさに怒涛の如く。
 武器を装着し、郭図に急かされながら外へと飛び出した袁紹は、しかし、すぐに止められる事になった。
 つい先ほど、帝と相対していた何進によって。

「おお、袁紹ぉっ!? お、おいっ! 抜き身の剣を振って何処へ行くのだ!?」
「あら大将軍、奇遇ですわね!」
「ちょっと急いでいるので早くどいて貰えますかっ!」
「マテマテ! 宮中で帯剣するのはおろか、剣を振りかざす奴があるかっ! 急いでいるとは!? 一体、何をしに行くのだ!」
「おーっほっほっほっほ、少しそこまで宦官を殺しに行こうかと。 あ、大将軍もご一緒します?」
「おおっ、名案です! イケイケな大将軍も一緒なら玉無しなんてだいたい殺せますよっ」
「こ……あ……!?」

 あまりに斜め上の言動に、あんぐりと口を開けて何進は唖然とした。
 外。 外である。
 誰が聞いているかも分からないまっ昼間の宮内で、そうだ、一緒に宦官ぶっ殺しに行かね? と誘われたのである。
 確実にこの瞬間、何進の時は止まった。
 獣のように口を開け広げて固まった何進に、袁紹と郭図は首を傾げたが、本来の目的を思い出して

「では失礼致しますわ! 行きますわよ郭図さんっ!」
「はいーっ! この郭図、己と袁紹様の為に火の中水の中、血飛沫の中っどこまでもぉ!」

 走り去ろうとした瞬間、グイッと引っ張られてそのまま倒れ伏した。
 当然、何進がなりふり構わず倒したのである。
 むしろ何進からすれば優しい応対であった。
 自身の腹の内を宮中の外で思いっきり暴露されて、暴挙に出ようと剣を振る女を。斬ることなく押し倒すに留めたのだ。
 もちろん、斬ってしまえば袁家が黙っておらず、己の身も絶望的になるのだが。

「いかん! いかんぞ! 袁紹、お前は何を考えている! いや、何も考えていないのか!?」
「ちょっ、大将軍! いきなり何をするのですかっ!? この袁本初を押し倒すなどっ!」
「いやぁー! 髭がじょりじょり当たりますーっ! そういう趣味は郭図ちゃんには無いですーっ!」
「えぇい黙らんかっ! それを聞きたいのは私の方だ! 何故私がお前等を押し倒さねばならん、いやっ、そうじゃなくてこっちに来い!」
「ちょっと大将軍っ! 私には子を授かるという義務がっ! 離しなさいなっ!」
「浚われる!? 追放された大罪人の前に、大将軍がペロリと味見ですかっ!? 袁紹様はともかく郭図ちゃんまで精液塗れにっ!」
「そんなことせんわぁぁぁぁっっっっ!!」

 戦場で怒鳴るからのように発せられた何進の大声で、洛陽が揺れた。
 袁紹も郭図も、鼓膜を大きく揺さぶられて、ぎゃあぎゃあと騒いでた口がぴたりと止まった。
 まさに一喝という言葉が相応しいだろう。
 
 そうして引き摺られていく袁紹と、引き摺っていく何進を、離宮から離れた荀攸は遠目から目撃した。
 袁紹と何進。
 つい今しがたまで話し合っていた二人の接触を目撃したのだ。
 その、ちょっと様子が変ではあったが、確かに二人は通じ合っている。
 それも、なかなかに仲が良さそうであった。
 
 もしかしたら、袁紹と何進の結託はありえるかも知れない。
 真剣な顔で思案しながら、荀攸は宮中を離れて洛陽の街中に消えていった。

 この一連の話は、不思議と他に漏れることが無かった。
 何故だか、真昼間の宮中であるにも関わらず、荀攸以外に目撃者が居なかったからである。
 何進と袁紹にとっては、心中ではともかく、運の良い出来事であったと言えた。


―――・

 
「……」

 陳留の一室。
 猫耳帽子を揺らして、少女が一枚の書面と向き合っていた。
 差出人は彼女の親族である荀攸だった。
 つい先ほど、この陳留に届いた書状を前にして、荀彧は封を切るのを躊躇っていた。

 その理由は、つい最近になって流れはじめた噂が原因だった。
 荀家の子女が"天の御使い"の子種を授かったというものである。
 これを荀彧が耳にしたのは昨日。 
 この醜悪で吐き気を催すような噂を、しかし、彼女は馬鹿なと一笑に付すことができなかった。
 なぜなら知っているからだ。
 彼女が"天の御使い"と一緒に行動していた事実を、随分前に送られてきた手紙を見て知っている。
 新たに報せが来るたびに、荀彧は全身精液男に気をつけろと彼女へ何度も喚起していた。
 まさかと思いながらも震える手で筆を取り、荀攸へと真実を問う手紙を送ったばかりである。

 入れ違いのように舞い込んできた、そんな荀攸の手紙に目を落す。
 まさか、とは思う。
 しかし、もしも。 もしもだ!
 在り得ないことだが、万が一、強引に組み伏せられ野獣の如き勢い腰を打ち付けられ、子種を注入された結果、天から子を授かる可能性はある!
 失礼極まりないあの男の事だ。 気が狂って色欲に溺れて襲いかかることなど十二分にありえる。
 それはすなわち、恐ろしい未来が見えてしまう。
 荀攸は親族であるという事実を差し引いても、自分と容姿が似ているのだ。
 つまり、それは、もしかしなくても、"アレ"が自分を見て腐った劣情を抱く可能性を秘めているのであるっ!
 
「っ……」

 脳からの信号が全身にいきわたり、ぶるりと震えて荀彧は喉を鳴らした。
 しかし。
 しかしである。
 読まない訳にはいかない。
 最新の手紙では、"天の御使い"と別れて洛陽に向かい、身の振り方を考えるという話であった。
 敬愛する主、曹操の下に参ずるとは書いていなかったが、無礼千万不倶戴天、女の敵である男から離れた事に荀彧は喜んだものだ。
 思わず、市井に飛び出して一等高い酒を買って来て、一人で呑んでしまったほど。
 心配事が一つ消えたと歓喜に咽び泣いた。
 そして天が祝福したかのように素晴らしい我が敬愛する曹孟徳は、荀攸を得るようにと自分に命じていた。
 まとめると、読まなくては彼女の胸の内が分からない。
 どちらの意味でも。
 
「っ、読むわよ!」

 言い聞かせるようにしてひとつ叫んで、彼女は意を決すると封を切った。
 文面を速読で追う荀彧の手が震えた。
 僅か十数秒。
 荀攸から届いた紙が、くしゃりと曲がった。

 大事なところだけを抜粋すれば、荀攸の手紙にはこう書かれていた。
 曹操の下には行かない事にしたの、メンゴミ☆
 それと最近ぽんぽんが痛いんだけど、良い薬はある? と。

「……は……」

 漏れでた息と共にでた声は掠れていた。
 そして次の瞬間、荀彧の部屋に絶叫が響き渡った。

「いやぁぁぁっぁぁああぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーっ!」

「この悲鳴は!?」
「桂花かっ! どうしたっ!」
 
 その悲鳴は部屋を突き抜けて廊下にまで響き渡っていた。
 聞きつけたのは春蘭と秋蘭であった。
 警備の厳しい曹操がつめる府内に、賊が侵入しないとは言い切れない。
 よほどの馬鹿が居れば、財貨を求めて侵入する可能性はあるだろう。
 
 素晴らしい身体能力を発揮して桂花の部屋の前にたどり着くと、春蘭も秋蘭も一度顔を見合わせてお互いに頷く。
 華麗な連携を見せて、春蘭が扉を蹴破ると、その隙を防ぐように秋蘭が弓を構えて室内の安全を確かめる。
 勢いよく入り込んだ春蘭は、背を震わせて蹲る桂花に近寄った。

「どうした! 何があったのだ!」
「うううっ、いやっ……やだぁ……」
「おい! しっかりしろっ! 秋蘭、華琳様をっ!」
「しかしっ……いや、分かった」

 明らかに異常な震えを見せ、泣きじゃくる桂花に春蘭は華琳へと伝えるよう簡潔に指示を出した。
 秋蘭は、事情を確かめるまで手を煩わせるべきではないと考えたが、かつて無い程取り乱す曹軍の知者を見て考えを改めた。
 一度決めれば後は早い。
 春蘭が秋蘭を見送り、室内の様子を鋭く探る。
 異常は見当たらなかった。

「どうしたんだ、一体! 何をそんなに取り乱している!」
「しゅんらぁぁん……うっ、うぇぇぇぇぇ」
「お、おい馬鹿っ、泣くなっ! 私が泣かしているみたいではないかっ!」
「うっ、えっぐ……びえぇぇぇ」

 恥も体面も無く、醜態をさらして泣き止まない桂花に、流石の春蘭も困ったように表情を和らげた。
 幼子をあやすように、背に手を回して優しく語り掛ける。
 もはや涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔へ、手ぬぐいを取り出して拭いてあげたりしていた。

 正直に言えば、春蘭は目の前の少女の弱々しい姿を扱いかねていた。
 だってそうだ。
 口を開けば罵詈雑言、猪並みの知能だと馬鹿にされ、華琳に対してだけは媚び諂い、あげく華琳はそんな桂花を気に入っている。
 前は週に何度も閨に呼ばれていたのに、最近は随分とその回数も減った。
 代わりを務めて居るのは目の前の口悪な女で、それを自慢さえしている恋の仇のような存在だった。
 それがどうだ。
 子供のように泣きじゃくって、春蘭の胸の中でときおり痛くも無い拳を振り下ろし、駄々を捏ねるように顔を振っているのだ。
 そもそも、泣く生物だと思っていなかった。
 こんなものは、春蘭にとって未知の体験であった。

 春蘭がそろそろ慰める言葉のバリエーションが尽きてきた頃、秋蘭は戻ってきた。

「姉者、すまない。 華琳様が見当たらなかった」
「秋蘭! 待ちかねていたぞ! もうどうすれば良いのかわからんのだ! えぇい、もう良いから泣くな! 何があったか話したくないのなら聞かぬ。 少しは落ち着け!」
「春蘭……っ、ひ、っ、ひっく……」
「分かった! 分かったから、な? えーっと……その、ほら、な? 私はお前のアレがその、判ってる、な?」

 言葉は意味を成さなかったが、引きつった―――それでもあやす様に暖かな―――笑みを浮かべて、優しく肩を叩く。
 すると、ようやく落ち着いてきたのか。
 伏せていた顔を上げて、ギッと春蘭を睨み、桂花は口を開いた。

「うっさいっ! 脳に猪が住んでる様な人間に私の何が分かるっていうのよっ! 馬に蹴られて死んじゃえ、馬鹿ぁぁぁーーーーー!」

 確かに、落ち着きを取り戻していたが、言動まで何時もどおりに戻っていた。
 泣きながら罵詈雑言を残し、秋蘭の横を駆け抜けて走り去った桂花を、しばし呆然と見送って。

「あ、姉者……」

 春蘭の浮かべていた柔らかな笑顔がぐるりと回転した。

「な、ん、だとぉぉぉぉぉうっ! 桂花の奴ぅぅぅぅっ、許さぁぁんっ!」
「般若っ!?」

 一瞬にして変化した顔に、普段から冷静な秋蘭の顔もまた変化した。
 部屋に突入した際に床に落としていた七星飢狼を、爪先を弾いて中空に上げ、器用に引っつかむ。
 春蘭は流れるような動きで桂花の後を、猛然と追い始めた。
 秋蘭はその様子を呆然と見送っていたが、はっとしたように気が付いて焦ったように声をあげる。

「い、いかん! 桂花が死ぬぞ! 誰か姉者を止めろぉ!」

 その声に最初に気が付いたのは凪であった。
 真桜と沙和と談笑している所、桂花が目尻を拭いながら横を駆け抜けて、春蘭が鬼の形相で後を追っている所に出くわしたのである。
 何がなんだか分からないものの、命令とあっては聞かずにいられないのが凪という少女であった。

「ぬがあああああっっっ!」
「春蘭様! お待ちを! 一体何がへぶぅっ!?」
「凪ちゃんー!?」
「おおおっ! 閃いたでっ! 次はからくり夏候惇やっ! これは来た、これは来たでっ!」
「……い、痛い……」

 人に当たったはずなのに、全く速度を緩めずに突き進む春蘭。
 弾き飛ばされた凪は、沙和をして泣き言を久しぶりに聞いたと言わしめるほどの反応を見せていた。
 鼻の頭を抑えてぷるぷると震えて呻いているところを見ると、顔面から地面に落ちたようである。

 何処かに旅立った真桜と、轢かれた凪、混乱している沙和を一瞥し、秋蘭は急いで二人を追った。
 一応、無事であるようなので問題は無いと判断したのだ。
  
 涙を流して感情を露にする桂花と、怒気を露に追いかける春蘭の追いかけっこは彼女の登場で終息を迎えた。

「これは一体何の騒ぎっ!?」
「華琳さまぁぁぁあっ!」
「ちょ、きゃあっ!?」
「華琳様っ!?」

 桂花がそのまま胸に飛び込んで来たのが予想外だったのか、華琳は受け止めつつも、体勢を崩した。
 その様子に、春蘭の動きも止まる。
 びしり、と米神に血管を浮かばせた華琳は、倒れたまま震える声で尋ねた。
 その視線は胸の中で泣きじゃくる桂花でも、主の前で武器を構えたまま動かない春蘭でもなく、茫洋と肩を弾ませて立ち尽くす秋蘭に向かっていた。

「で。 どういうことなのかしら……?」
「はっ……はい、それが皆目見当も付かず……」
「華琳様っ、見てくださいっ! これですっ!」
「っ、何これ? 手紙……みたいね」

 桂花に差し出された手紙を条件反射で受け取って、華琳は眉を顰めた。
 と、いうのもすっごい濡れているからだ。
 おそらく桂花の涙で濡れそぼったのだろうが、ふやふやで文字も滲んでいる。
 華琳は鬱陶しそうに桂花を離すと、なんとか文面を読み進めていった。
 そこでようやく、春蘭は武器を持っていたのに気が付いてしまい始めた。

「ふむ……ほう、なるほどね」
「噂では奴が私の姪にぃっ! もう終わりです! 呪われましたっ!」
「分かったわ、桂花。 こっちに来なさい」

 言われるがまま近づいて、華琳に何事かを囁かれると、そのまま糸が切れたかのように膝を突いた。
 春蘭も秋蘭も、一体何がとばかりに顔を見合わせる。

 そして華琳は、腸が煮えくり返りそうであった。
 心なしか頭痛もする。
 この手紙に書かれていたのは、プライベートな事を除けば二つの事実。
 華琳にとってその二つのみが重要で、桂花が泣きじゃくっているもう一つの話はどうでも良かったのだ。
 それは、桂花の姪である珠玉の才媛を逃した事。 関連して、北郷一刀が関わっていることであった。

 思い返すに、これで自分が横から奪われた人材は三人だ。
 陳宮!
 関羽!
 そして荀攸!
 誰もが才に溢れて未来の勇躍を華琳に予想させた。
 もはやここまで来ると笑えてくる位であった。
 曹操という人間は奪う側だった筈なのだが、北郷一刀に関わった途端、愛すべき人材は潮が引くように離れていく。
 確かに、桂花の言うように呪いなのではないかと、信じたくなるほどに。
 
 華琳は一つ、落ち着かせるように盛大に息を吐くと、口を開いた。
 八つ当たりをするために。

「桂花! 今日は寝かせないわよ!」
「は、はぁい……華琳さまぁ」
「今からよ! 覚悟することね! 来なさい!」

 振り返って返事をした桂花の声が、やたらと甘かった。
 だらしくなく笑い、恍惚な泣き顔で微笑んでいた。
 引き摺られるようにして、襟首を持たれて寝室に消えていく華琳と一転、笑みを浮かべる桂花を見送る。
 秋蘭は、結局最後まで何が何だか判らなかったが、主が言わなかったのなら、それは言う必要がないから伏せたのだと察して無理やり納得した。
 とりあえず、原因は不明であったが騒動はこれで収まるな、と。
 此処に居ても仕方が無い、と姉に話しかけようとしてその口が噤まれた。

 春蘭の長い黒髪が、溢れんばかりの闘気によって中空に浮かびあがっていた。

「あぁぁぁいぃぃぃつぅぅぅぅ! 華琳様に取り入りやがってぇぇぇぇぇーーーーー! なんと卑怯なぁぁぁぁ! むぉぉぉぉぉぅっ!」
「あ、姉者っ―――」

 怒髪天を突く。
 その言葉の意味を、秋蘭は初めて知った。
 まさに、今の姉者の事を差すのだと。
 身を持って至言を証明するとは、凡人には不可能な事である。
 もはや暫くは収まりそうも無い姉の怒りを見て、秋蘭は笑みを浮かべて言った。

「姉者……それ、格好良いぞ……!」

 曹魏、最後の砦が破られて騒動の幕は閉じた。

 少なくとも、今日に限ってはどうしようもなかったと、後に秋蘭は語ったそうだ。



―――・


 
「あの、愛紗さん」
「なんだ」
「お目通りを願いたいのですが」
「駄目だ」
「何故です?」
「今の桃香様に会わせるわけには行かない」
「……はい?」

 劉家軍は、曹騰から幽州の豪商を紹介されると、その伝手から義勇軍を発足。
 公孫瓚の下に寄り添って、賊の討伐に精を出していた。
 桃香にとって、数少ない信頼できる諸侯の一人が公孫瓚であり、彼女が幽州に拠点を置いていたのは幸いであった。
 戦功を立てて身を起こそうとする彼女達にとって、誤魔化すことをしない白蓮の一本通る性格は"利用"できたのだ。
 朱里からその話を聞いた時、桃香はふにゃりと泣きそうな顔を浮かべたものの、その案を採用。
 こうして賊を討ち、名を上げるために戦へ出ずっぱりであった。

 そんな彼女達が西涼の大乱を、"天の御使い"が鎮めることに成功したとの噂が届くと、大いに盛り上がった。
 桃香や朱里、雛里達はもちろんのこと、白蓮や星までもが一緒になって、そのまま宴に突入したほどである。
 愛紗もまた、主の笑顔に喜ばしく思う反面、心の奥底で羨望が渦巻いていた。
 北郷一刀は、英雄として大陸に名を轟かせた。
 一人の武人として、その英名は正直に言って羨ましかった。
 そんな内心を、わりとあっさり星に見破られて、酒の席でさんざんからかわれてしまったのも、今では笑い話であろう。

 そして、宴が終わっても桃香は非常に機嫌が宜しかった。
 まるで自分の功績のように、伝え聞く噂に小躍りしながら皆に話をする様子は、微笑ましいものであった。
 だが。

「あの、噂ですか……」

 目の前の朱里は沈んだ表情で呟いた。
 愛紗は桃香の天幕の前で、来訪する人々を全員おっ返している最中である。
 今の桃香は、朱里や雛里のような気の弱い者が見たら卒倒する可能性があった。
 そのくらいの、凄味があるのを身を持って体験したのだ。
 そう、愛紗の胆を持ってして、押されたのである。

「やはり……最初から話していれば」
「言うな朱里。 我々で決めた事ではないか」
「ですが、やっぱり判断を誤りました」
「それは……そうかもしれんが」

 二人して溜息を吐き出して省みる。
 そう、噂が流れていた。
 "天の御使い"が、名家の子女を孕ませたという物だ。
 根も葉も無い噂だったが、事実は確認できない。
 その情報を最初に手に入れた朱里は、動揺しパニックに陥って愛紗へとしどろもどろに説明したのである。
 その時、劉家軍は賊の征伐を前にしていた。
 要するに、臨戦態勢だったのだ。
 目の前の少女の動揺ぶりに、恋慕を抱く我等が総大将の士気に関わると感じた愛紗は、朱里を説得し、その話を隠す事にした。
 だが、賊を倒し終えると、桃香に噂を隠していたのがバレた。
 
 そして、愛紗の予想の通り動揺―――することなく、一つ、声を出しただけだった。

「ふぅん……」

 これだけである。
 表情は普段と変わらず、ニコニコと人好きのする愛らしい笑みを浮かべているのだが、違った。 威圧感が。
 噂を知っていたのか尋ねられ、愛紗は理由と共に頷くと、やはり一言だけ言った。

「私ってそんなに弱く見えるかな?」

 惚けたように笑いを交えながらそう語ったものだ。
 その時、愛紗は一歩、自然に足が下がった。
 関羽とも在ろう物が、その鬼気に引いたのである。
 愛紗は誓った。
 絶対に、桃香を怒らせないようにしようと。
 いずれ、この静かで恐ろしい怒りが、将来になって身を滅ぼす事になるかもしれないと感じたのだ。
 それは五感ではない、まさしく、第六感と言えるものだっただろう。

「そういうわけで、少なくとも今は駄目だ」
「分かりました……では、出直しっ!?」
「なに、話してるのかな?」
「と、桃香様っ!?」
「また私に隠れて内緒話してるんだ?」
「いえ、違います! 決してその様な……っ朱里!」
「は、ひゃいっ! あの、ご報告したお目どおり桃香しゃまにお願いがっ!」

 この静かな重圧は、劉家軍に3日間舞い降りていたという。

 西方からの華の芽吹きは、波紋となって大陸に広がっていた。



      ■ ありがとう



 その日の郿城の動きは慌しかった。
 朝の一番で、董卓が郿城へと入り、詠は郿城の中を駆けずり回る事になった。
 その詠の悩みの種だった馬超軍は、太陽が空の真上に上がった頃、武威に出立。
 翠と董卓の面会を終えて、謝罪を受け取り、食事を済ませて、ようやく一息をついたと言ったところであった。

 そして、そろそろ夕刻を迎えようかという時に、一刀は郿城の一室でそわそわとしていた。

「ついに来たか」

 翠と共に武威に戻るかも検討していたが、董卓の到着を知ると郿城に残る事を決めていた。
 彼女本人から、一刀に会って話がしたいとの旨を、詠から聞かされたからである。
 だが、それは一刀にとっては体の良い建前に過ぎなかった。
 董卓の申し出は、ある意味で一刀にとっては渡りの船である提案だったのだ。
 せっかく董卓の為に作ったメイド服。
 これを見ずして郿城を離れることは、無念としか言い様がない。
 両手を組んで座り、どこぞの最高司令官のように口元を押さえ、ゆらりと上下に揺れて座る一刀。
 落ち着かない様子ながらも、彼の視線は扉に向かっていた。

 待つことしばし、文官が扉を開けて中に入ると、恭しく礼してから口を開いた。
 
「御使い様、董卓様がお呼びで御座います」
「分かった、すぐに行く」

 静々と退室した男を見送って、一刀はさっと上着を羽織ると足早に文官を追った。
 ところが、彼の予想を覆し、文官の案内した場所は、何時かに涙を流した中庭への道であった。
 そろそろ春も終えて、初夏を迎えようかという季節。
 中庭に生え揃う草木は丁寧に刈られて、木々には緑葉と蕾が夕暮れに照らされて赤く染まっていた。
 その中央に、見慣れぬ傘の付いた席が設けられていた。

「あそこにございます」
「ああ、どうも……」

 頭を下げようとする文官を手で制し、一刀はゆっくりと中央に歩く。
 出迎えたのは、正装をではなく、自身が手がけたメイド服を着て一刀へと笑む董卓であった。


「あぁ……」


 茜色に染まり、設けられた宴席の中央で佇む少女に"董の"の息が漏れる。
 一刀は暫し見惚れるように呆然と立ち尽くし、ゆっくりと歩き出して董卓の前に立った。
 彼女の目の前で、視線を絡める。
 董卓もまた、たっぷりと数十秒をかけて一刀を見返し、やがて両手を合わせて頭を下げた。

「御使い様、ようこそ。 宴席の用意を致しました。 付き合ってもらえますか?」
「……もちろん。 董卓様も」

 返礼を返し、一刀は礼儀に乗っ取って董卓へと席を勧めるように両手を広げた。
 彼女また、同じようにして両手を広げる。
 二人して並び、席へと向かう足を止めて、董卓はヘッドドレスにかかる髪を揺らして口を開いた。

「月です。 私の真名を受け取って貰えますか」
「良いのかい?」
「この郿城を守り、私の大切な人も救って下さった。 是非、受け取って欲しいのです」

 一刀は小さく何度か頷いて、月への視線を外さずに真名を受け取った。
 同時、自分の名も預けると宴席の前で視線を離すことなく、二人の距離が近づく。

「月」
「はい……」

 受け取ったばかりの真名を呼び、そっと肩に触れた。
 時に俯き、時に上目の視線を送られて、一刀の相好はまるで泣きそうなほどに崩れていく。
 眼は細まり、唇は震え、何度も口が開いては閉じ、鼻の穴が広がった。
 月もまた、彼の胸に片手を置いて、そんな一刀に閏う視線を送っている。

「ゴホっ、ッンン"ッ!」

 そのまま放っておいたら、抱擁してしまうのではないか。
 そんな空気を引き裂く咳払いが、中庭の何処かから響いてきた。
 我に返ったかのように、一刀は周囲を見回すと、隣からクスクスと口元を押さえて笑う月が居た。
 一刀も得心する。
 何処かで詠が、監視をしているのだろう。
 そう思うと何だかバレバレなのに見張っている軍師の姿が脳裏に過ぎって、おかしくなる。
 互いに顔を見合わせて肩を震わせると、先に回復した月が促すように口を開いた。

「一刀様、どうぞお席に」
「ああ、座らせてもらうよ……それにしても、見慣れた景色なのにまるで風情が違う。 君が居るからかな」
「一刀様はお召し物に感激されたのでしょう。 詠ちゃんから聞いてます」
「そんな、この庭は素晴らしい景色だけど、月はそれに勝っている。 その服、似合っているよ」
「ふふ、詠ちゃんに頼んだ甲斐がありました」

「ゲフンッ! ゲフンッ!」
『傍から見て、こんな恥ずかしい事言ってたっけ、俺?』
『"董の"だけだろ』
『いや、俺もかなり浮ついてたことを口走ってるよ、自覚あるもん』
『あー……"仲の"や"袁の"は仕方ないだろ、アレだし』
『お前ら、現実を見ろ。 これが"俺"だ』

 "董の"と月が作り出す空間に、遂に詠だけでなく一刀達も口々に言葉を発した。
 この郿城の庭に月の姿を認めて、流れるように主導権を奪っていった"董の"が顔を出してから
 事態を黙って見送っていたのだが、遂にと言うべきか。
 
 図らずも脳内会議でお互いの邪魔をしないという約定を破ってしまったが
 聞こえているはずの一刀達の声を"董の"は見事にスルーしていた。
 いや、月しか見えていないのかも知れない。

「本当は長安にお呼びしたかったのですが。 季節を外れながら大きな桜が、見事に咲き誇って綺麗です」
「月、君が酌をすることは……」

 会話をしながら席についた一刀の卓に、月自身が酒を注ごうとするのを慌てて止める。
 確かに、一刀はかつて天代という役職につき、権力を手に入れていたが、今はただの浪人である。
 その制止の手に、月は自身の手を重ね、絡ませた。
 驚きつつも、一刀は離さずに月へと視線を向けると、微笑を称えていた彼女の口がゆっくりと開いた。
 
「一刀様は、ご主人様でした」
「……月、君は……」
「在るんです。 ご主人様にこうして酒を注ぐことも、一刀様に背を支えてもらった事も」
「……」
「手を握られた時に、それが分かりました」

 コポコポと杯に音を立てて満たされていく酒を見ながら、一刀は何も言えなかった。
 北郷一刀、という存在と共に過ごした記憶がある。
 蘇ったと言っても良いだろう。
 翠と同じように、本体以外が持っている共有した外史の記憶が。

 満たされた杯に手を触れて、一刀の方へ器の口を向ける。
 それを受け取って、一刀は無言のままグイッと煽り、耳朶に優しい声が同時に響いてくる。

「とても不可思議でした。 私にはそんな経験、一度も覚えがなかったのですから」
「っ……はぁ、美味しいな……」
「長安の良酒を持ち込みました。 喜んで貰えて何よりです」
「月」
「はい?」
「正直言うと、分からないんだ。 どうして"俺"が君と過ごしてきた事が伝わるのか、"北郷一刀"にも分かっていないんだ。
 今まで似たような事は何度も在った。 それこそ俺が洛陽に居た頃から、何度も」

 疑問を覚えたのは波才と向き合って、泥だらけの戦場で見せた麗羽から。
 はっきりと確信を抱き始めたのは桃香と触れ合ってからであった。
 目の前の月のように、一刀へと言及したのは、つい最近に翠と"馬の"が激情を交わした時以来だ。
 ぽつり、ぽつりと振り返るように言葉にして、風に揺られてざわめく葉の音と共に、月の耳朶を震わせていた。
 赤が黒に塗り替えられようと、星のきらめきが主張を露に天を覆い始めた時。
 月は一刀の言葉に耳を傾けながら、そっと立ちあがって歩く。
 その様子に、一刀は話を止めた。

「一刀様」
「月……?」
「私と、一刀様と、ずっと燻る胸の奥で、想いというのが共生していることだけは確かです。
 それはまるで、夢のようにあやふやで、そして確かに在る」
「ああ。 夢想のようだ」
「でも、私はこの記憶にある思い出はいりません。 確かに尊い物でした。 経験していないはずの事が自分の中に在り、それは甘く美しくて、どんな美酒よりも酔えそうなほど。
 本当の事かもしれない。 未来への予見か、それとも別の何かか。 一刀様が分からないように、私にも答えが出ないものでした。
 分かった事は……一つだけ」
「……」

 月はそこで言葉を切って、くるりとその場で回った。
 きめの細かい髪が空を泳ぎ、一刀が作らせたメイド服がひらりと流れ、夕闇に染まる郿城の中庭で華美な蝶が舞う。
 揺らめき舞った月の顔に、笑顔が咲き、一刀は時の流れがゆっくりになったような錯覚を覚えて見惚れていた。
 両手は慎ましく重ねられ、真っ直ぐに一刀を見据えると、色合いのよい唇が開かれていく。

「貴方との関係を、私はここから育みたいという強い思いだけです。 一刀様」
「……月」
「月ぇぇ~~」

 告白とも言えそうな、いや、まこと告白した少女の背後から情けない声を挙げて、泣きそうな顔を覗きこませた詠が居た。
 柱の影に隠れ、ひょっこりと覗かせる頭の上には、月と対をなすようなヘッドドレスが。
 
「詠ちゃん。 おいで」
「うぅぅっ……月ぇ、本気なのぉ?」
「うん。 ちゃんと言わないと」
「うーっ……こんな羞恥をボクが受けるなんてっ……女官じゃないのよ……っ」

 月が苦笑しながら詠の下に歩き、引っ張り出すように手を引く。
 一刀も落ち着けていた腰を浮かし、立ち上がると、誰かに引かれてもいないのに月と詠の下に歩き出した。
 ようやく観念したのか、ブツブツと誰にも聞き取れないような小声で頬を染めた詠が、その姿を曝け出した。
 落ち着かない様子で胸元のリボンを弄くり、そっぽを向いてメイド服に包まれた少女の姿が視界に入る。
 一刀もやにわ相好を崩して、思うよりも先に声が突いて出た。

「かわいいよ、詠」
「っさい! 月が着るっていうからボクはしょうがなくねぇっ!」
「詠ちゃん、駄目だよ。 これからお礼をする相手に怒鳴るなんて」
「月ぇ、ボクはもうちゃんとお礼はし―――」
「詠ちゃん?」

 にっこりと笑む月を見て、詠はたじろいだように身を引いた。
 そんなやり取りの何処が面白かったのか。
 一刀は隠しもせずに思いきり声をあげて吹き出していた。
 そんな態度が癪に障ったのか、詠が詰め寄ろうと口を開いて、それを月に止められる。
 "董の"はもちろんのこと、一刀達が何度も見て来たその様子は、実にほっこりさせる流れであった。

 二人並び、一刀を前にしてようやく詠を落ち着かせた月が、彼に視線を送る。
 続けて、恨めしそうな、そうでもないような微妙な表情を浮かべた詠も、月に習った。
 
「一刀様、詠ちゃんを、みんなを助けてくれて、ありがとうございます」
「董家を代表して礼を言うわ。 えっと……改めて、その、ありがとう」

「……ありがとう」

 一刀は二人の少女から礼を受け取って、噛み締めるように返礼すると、表情がスッと消えていった。

 ありがとう。
 "董の"は月と詠の言葉が、胸に染み渡ると分かってしまった。
 口を突いて出た感謝の気持ち。
 それは目の前に居る二人の少女にではなく、自分自身へと向けたものだった。

 ありがとう。
 経緯は分からずとも、彼女を救う機を得ることが出来たことに。
 本体に、脳裏に住む自分達に。
 万感の思いが沸き起こり、自然と滑り出た口走っていた。

 ありがとう。
 その言葉を聞いた時に、一つだけ理解した。
 経緯は分からない、しかし。
 本体に自分達が此処に宿った意味だけは判ったのだ。

 一刀は消えていた表情を取り戻し、その顔には戸惑いが宿っていた。

「……あ、あれ?」
「一刀様?」
「なによ、急に呆けた顔をして」 

 何時の間にか、主導権が本体に戻っていた。
 不審な顔を向ける月と、詠に戸惑いを含んだまま曖昧に笑顔を浮かべて何でもないと首を振る。
 この夜の宴は人払いを澄まし、三人だけで静かに進んでいった。
 時折、少女の笑う声と唸る声を交えて。

 この日から三日後。
 一刀は金獅に乗り込むと郿城を出て武威へと向かった。



      ■ 咲き乱れるよ


 
 武威に戻って数日、一刀は懐かしい顔ぶれと会うことになった。
 名を捨て、黄巾を巻き、賊として暴れまわっていた男の一人。
 今では一刀の数少ない、信頼を寄せるアニキと共に跋扈していた。
 チビと呼ばれており、洛陽での決戦後、一刀が働いていた運搬の職を紹介した者だった。

「お久しぶりっすね。 噂はかねがね!」
「ああ、こんなところで会うとは思わなかったよ。 元気そうで良かった」
「へっへっへ、御使い様のおかげで。 女に恵まれないのが唯一の不満ですが」
「ははは。 こっちに来てくれ。 酒と食事を用意させるよ」
「こりゃどうも、へへ」

 人によって卑下たものだと揶揄されそうな、余り人受けの良いとは言えない笑みを浮かべてチビは迎えいれられた。
 再会の話もそこそこに、食事を取る一刀の前に傅くと、チビは懐から一枚の書を取り出す。

「荀攸ってお方から預かりやした」
「待っていた。 ありがとう」
「どうぞ」

 竹で作られた箱から丁寧に折りたたまれている書を取り出して、一刀は食事も止めて中身を覗く。
 文面を時に指で追いながら。
 
 洛陽に戻った荀攸は、劉協と接触し、その卓見に心を動かされ信服することを誓った。
 曹操と荀彧の誘いを蹴り、陳宮が水面下に進める宦官排除の謀略に手を貸すそうだ。
 彼女達が推し進めている謀りの内約。
 遠い都の噂や現状。
 そして、一刀自身の身の振り方に言及した文面に至ると、一層顔を引き締めて読み耽る。

 曰く、北郷一刀は洛陽で進む劉協達の謀りにおいて、失くなれば意味を無くす要人。
 裏の謀りに気が付けば、源を絶ち禍根を除く動きが必ずある。
 すなわち、勅による兵が差し向けられる可能性が高い。
 武威は馬家の庇護の下、一刀は手厚く迎え入れられるが漢の臣であり、安住とはならない。
 保身を第一に考し、これに処するを進言。
 武威を離れ益州へと逃れるが最上。  次善は冀州。
 逗留することなく流れ、機を待つべし。

「……」

 読み終えても、一刀はその文面から視線を外さなかった。
 一言一句、逃さぬように何度も暗唱し、手持ち無沙汰になったチビを前にして一刻以上もかけて暗記した。
 ようやく、書を箱の中に戻すと、一刀は立ち上がった。

「チビさん、どうもありがとう。 これからどうするんだい?」
「いえ、これからは一度郷里に戻ろうかと思ってやす。 眼を付けられてる可能性があるってんで……へへへ、死にたくないっすから」
「そうした方が良い。 ついでに、この書も一緒に持って行って、道中燃やしてくれ」

 チビは差し出された箱を受け取って、数度小さく頷く。
 一泊を終えてチビが武威を立ち去ると、一刀は馬房に預けていた金獅を撫で、その背に跨って土埃にくしゃみを一つ放ちながら城へと向かった。
 宮内に辿り着くと、近くの官に翠を呼ぶように頼み、一刀もまた馬から下りて中に入る。
 わき目も振らずに向かったのは、華佗の下だった。
 華佗は、戦中戦後も馬騰に付きっ切りで介抱を続けていた。
 医者としてずっと難病に立ち向かっていた。

 一刀は何も言わなかったが、華佗から愚痴られるように聞かされた馬騰の病状は、不治かもしれないと思っていた。
 体内の気を乱し、悪さをする病巣が治っても、別の場所にまた巣くう。
 まるで癌である。
 華佗に宛がわれている部屋を訪れて、一刀は何度か扉を叩いて来訪を報せたが、出てこなかった。

「……華佗、入るよ」

 扉が軋みを挙げてゆっくりと一刀に押し出されて開かれた。
 そこには椅子に座り、眼を瞑っている華佗の姿が在った。
 髪は伸び、背で一つに纏められている。
 最後に見た時は髭も剃られ整えられていたが、今は伸びっぱなしになって首下を隠すように生えていた。
 
「……華佗」
「一刀か」

 静かに問いかけたが、どうやら眠っていた訳ではないようだ。
 一刀はそんな華佗の近くに腰掛けて、未だに眼を瞑り深く息を吐き出す彼を見やった。

「悪いのか?」
「……ああ。 だが希望が無いわけじゃない。 治る見込みはある」
「そうか」

 眼を閉じたまま呟く言葉には、力があった。
 一刀は俯くようにして華佗を見て、膝に肘かけ彼の声を聞いていた。

「少なくとも、俺の気は馬騰殿に巣くう病巣を殺せる。 何度か意識も取り戻した。 もしかしたら、眼に見える病巣を生み出す根源が、身体に巣くっているのかもしれない。
 今はそこに着目して、身体を中から変えることが出来ないかを試みている。
 漢方と食、後は人体の陰陽と気を探っている。 現状を維持することには成功しているんだ。
 きっと、快方に向かう手立てがある」

 一刀はそんな華佗の言葉を沈痛な面持ちで聞いていたが、ふと気付く。
 いや、気付いてしまった。
 華佗の口元の髭の当たりに、妙な異物が張り付いていた。
 妙に長く伸びて、くすんだ色合いのそれは、何処からどう見ても鼻糞だった。

 眼を瞑り淡々と語る華佗は、その一刀の珍妙な視線に気付く事も無く。

「……」
「実はな、恥を忍んで書簡を漢中に送ったんだ。 一刀に話したけど、漢中は俺の郷里でな。
 症例が無いかを調べてもらうんだ。 破門された身であっても、ゴットヴェイドーは病人に平等だ。 手がかりは得られるかもしれない」
「そ、そうか」
「後、噂もある。 万病に効くという神胆。 龍の肝というのを知って居るか?」
「……いや」
「筋肉隆々なオトメと名乗る者が、その場所に心当たりがあるというのだ。 馬騰殿の状態がある程度安定したら、それを手に入れる方法も考えている。
 俺は絶対に諦めない、必ず馬騰殿の病は治すと誓った」

 一刀は華佗の宣言に、力強く頷いたが視線は鼻の下に向かっていた。
 華佗は大真面目に話している。
 それは一刀だって分かるし、茶化すつもりなど全く無い。
 しかし、しかしだ。
 華佗とて一人の人間であり、男である。
 このまま黙っていては、恥をかかせるのではないかと一刀は心配していた。
 華佗、鼻くそが出てるぞ。
 そう言いたい。
 言いたいのだが、そんな事を口走る空気ではなかった。
 
 華佗はようやくそこで、眼を開き、一刀へと向かい合った。
 振り向いた時、その風に煽られて髭が揺れる。
 鼻くそも揺れる。

「それで、一刀。 何か話があるのか?」
「あ、ああ……その、実は」
『あれ?』
『どうした?』
『華佗、鼻くそがついてるぞ』
『え?』
『ホントだ、今気付いた』
『本体、鼻くそについてるぞ』
『教えてあげようよ』

 どうやら気付いていたのは本体だけだったらしい。
 真正面を向いたことにより、気が付いた脳内達がいっせいに『鼻くそ』と色めき立つ。
 本体はなまじ先に気が付いていただけあって、その合唱に笑いのツボが刺激されていた。

「か、華佗、実は俺、武威を」
「一刀! お前……」
「え?」

 突如として一刀の話を遮って、華佗は眼を見開いた。
 その勢いに口を噤んで、眉を顰める。
 真剣な顔をして、華佗は言おうか言うまいか悩みながら、口を開いた。
 
「一刀、言いにくいんだが……その」
「どうしたんだ、俺と華佗の仲じゃないか」
「……よし、なら言うが、一刀」
「ああ」
「お前、鼻くそがついてるぞ」

 華佗の声に、一刀は何を言われたのか一瞬理解が出来なかった。
 台詞を頭の中で繰り返し、理解に至ると鼻の近くに指を寄せて、異物が当たる場所で止まる。
 指を離し、土埃の混じった茶色い鼻くそがニョイーンと伸びる。
 華佗がゆっくりと頷いた。

 一刀は限界を迎えた。

「ブハッ! アーーーーハッハッハッハッハッハッハッハハ!」
「は、ははっ、ははは、一刀、そんな顔で恥ずかしくないのか」
「あっはっはっはっはっは!」

 もはや華佗の声にも手を振り、突き上げる笑いを抑える事もできず、腰を浮かして立ち上がる。
 腹を抱え、指を差す。
 一刀の笑いに釣られ、華佗もまた胸を上下に動かして笑みを浮かべた。

「華佗っっはっはっは! おま、お前にも鼻くそがついてるんだよっ!」
「はっはっは、ははっ、なんだって?」
「だから、鼻…ひゃっひゃっひゃっはっはっは!」

 華佗は一刀の指が示す場所に徐に手を伸ばし、先ほどの一刀と同じように自分の髭を触り
 その異物に気が付いた。
 一刀の爆笑と既に刺激された笑いのツボを、華佗もまた貫かれる。

「ブバッ! だァーーーッハッハッハッハッハッハッハ!」
「やめろぉぉーーー! ハッハッハッハッハ、鼻水がっ!」
「ヒャッハッハッハッハッハッハッハ! ひぃー! はぁー!」
「華佗ぁぁぁっはっはっはっは、治してくれぇぇひっ」
「はははははははっ、アーヒッヒッヒ、かっ、いって……一刀ぉぉおっほっほっひっひっひ!」

 もう何を言っても笑いしか出てこない。
 遂には一刀は床に転がって、腹を抱えたまま頬を引きつらせて笑った。
 その際、椅子に躓いたかのように前のめりに倒れ、華佗はその一刀を見て更に笑いを刺激された。
 仰け反って腹筋が引きつるように伸び、そのまま数歩後ろに下がって爆笑したまま部屋の壁に激突。
 一瞬の痛みに笑顔も曇るが、それがまた自分でも可笑しく、一刀に至っては転がったまま爆笑し、卓上の足を無意味に掴んで揺らしていた。

 丁度その頃、爆笑していた一刀の部屋に呼ばれた翠が顔を出したが、部屋の中から聞こえてくる二人の男の奇声に踵を返した。
 仲が良くて良い事だ、と頷きながら何も見なかったことにしたのである。
 恐怖したと言い換えても良い。
 
「はぁ……はぁ……華佗、……へ」
「は……はっ、一刀ぉ」
「いや、やべぇ、マジやべぇよ……死ぬほど笑った」
「で、話しって何だったっけ、くふっ……」
「おい、もう笑うなよ……っ」
「っ……一刀こそ、もう笑うなよ……」

 ニヤニヤとしたままお互いに声をかけあい、何度も漏れそうな笑みを必死に抑え
 ようやく落ち着いた二人は咳払いをかましつつ、倒れた椅子や卓を起こした。
 荒ぶる息を深呼吸することで落ち着かせ、水を飲む。
 そして、何事も無かったかのように冷静になって、一刀は口を開いた。
 
「それで、華佗。 俺、武威を出る事にしたんだ。 その別れを言いにきた」
「そうか……」
「華佗は、馬騰さんを診るんだろ?」
「ああ。 ここで投げ出したら、俺はもう二度と立てない」
「……」

 一刀は頷き、華佗もまた頷いた。
 互いに手を伸ばし、肩を掴んで抱擁する。
 
「元気で」
「達者で」

 お互いに数秒見つめあい、一刀は踵を返した。
 その背を見つめる華佗は、ふと気付く。
 扉に手をかけて開いたところで一刀を咄嗟に呼び止めた。
 
「一刀」
「ああ、どうしたの?」
「お前、何かあったか?」
「え? いや……鼻くそはついてたけど」
「鼻くそはもういいさ。 そうじゃなくて……身体に異変は? 悪いところは?」
「いや? 特にないけど」

 立ち上がって一刀に近づいた華佗が、手を握る。
 脈を計るように空いた手で一刀の手首を握った。

「なんだよ?」
「一刀……初めて会った時と比べて"気"が減っているぞ」
「気が?」

 もう随分前。
 華佗から複数の気が身体を漲っており、怪我の回復も早いという言葉を聞かされた。
 その時、気の一つ一つが、脳内の自分達のことだったのではと知ったのである。
 華佗の言葉を理解した一刀からさっと血の気が引いた。

『……そういや、"馬の"は?』
『眼が覚めてない』
『待てよ』
『"肉の"みたいに、休んでるんじゃないのか?』
『そうだよ、きっと』
『"董の"も起きてこないよね』
『確かに』
『……』

 本体は脳内の声を聞きながら、思い出す。
 翠の顔を見るたびに、愛しい気持ちを抱く自分。
 月が相手でもそうであった。
 この本体が抱く変調はまだ誰にも話していないが、もしかして関係しているのだろうか。
 気は、無くなると人が死ぬという。
 在りうるのでは、という思いが本体の心中を騒がせていた。
 顔を俯かせて不安そうな表情を見せる一刀に、華佗は掴んでいた手を何度か叩き

「いや……すまない、妙な事を言った。 一刀、何か変があればすぐに便りをくれ。 俺が診る」
「……分かった、ありがとう。 じゃあ、俺はこれで」
「ああ」

 何かを深く考えている一刀はそのまま扉を開き、華佗の部屋から立ち去った。
 残された華佗は、自分の手を一度たたく。
 かつて一刀にも説明した通り、本来、身体の中を巡る"気"とは一人に一つだけなのだ。
 それが、一刀には複数の気が巡って構成されている。
 明らかに特異な身体構造。
 華佗は、最初何か大きな病の前触れではと一刀を心配し、彼に付いて行く事にした。

 だが、よくよく考えてみれば、一刀は普通の人間と変わらない生活をしている、
 食べ、働き、遊び、寝る。
 複数の気が一刀の身体に在るのではなく、一刀の身体が複数の気で在るのではないか?
 
「ははっ、馬鹿な……そんなことは」

 在り得ないとは言えない。
 人体の神秘の全てを、華佗は知っている訳じゃない。
 もしも知っているなら、馬騰の病もたちどころに治せて然るべきだ。
 気が減るということは、その人が弱ることを意味し、気を亡くすとは、死ぬ事を意味する。
 一刀は数多に在る気の幾つかを確実に亡くしている。
 
 そこまで考えて華佗は首を振った。
 一刀は何でもないと言ったのだ、身体の変調が来るまでは、心配することも無い。
 何より、そうした結論を随分前に華佗は出していた。
 それこそが、武威に残って馬騰を診ることにした理由の一つでもある。

 華佗はとりあえず考えをおいて、顔を洗うと、髭を剃るためにむき出しのナイフを取り出した。
 

―――・


 
 一刀が武威の地を離れたのは、その3日後。
 路銀として個人で持つには些か大金過ぎる金子を受け取り、金獅と共にたったの一騎で城を後にした。
 その姿を見送った翠は、朝議を終えると馬騰の容態を覗く。
 華佗に礼を取り、母を託すと今度は政務に向かうために文官を伴って廟を歩く。

 一刀が武威に逗留する前と、変わらない生活であった。

 政務が一段落し、昼食を取ろうと食堂に足を運んだ時であった。
 ひょっこりと草葉の陰から小さなポニーテールが揺れていた。

「蒲公英、何してるんだ?」
「お姉さま、いいの?」
「何がだ? 調練は終わったのか?」

 跳ぶように、柵を乗り越えて廊に躍り出る。
 飛び越した柵を背もたれにし、流すように翠を見やると蒲公英は不満気な表情で唇を尖らせた。
 そんな妹に、翠は頭を掻く。

「なんだよ」
「一刀、行っちゃうよ」
「……しょうがないだろ。 そうするのが一番だって一刀が言ったんだ」
「そうだけどさ」
「蒲公英、別れなら三日前に宴を開いて済ませた。 あたし達には母さんが治るまで、武威を守る責任がある」
「それは分かってるってば。 でもさ、お姉さまは一刀が好きなんでしょ?」

 翠はそこでぐっと言葉に詰まった。
 今までも、その話は何度もからかいの種にされている。
 だが、真摯に向き合う蒲公英の表情に、常のように怒鳴り散らす事もせず視線を外す。
 ああ、認めよう。
 この期に及んで、否定をすることも格好が悪い。
 確かに、一刀は初めてと言って良いほど気になる異性だった。
 一緒に居て楽しいし、話がしたくなる時も、ふいに会いたくなる時も多々ある。
 それらは翠に取ってはじめての経験であり、きっと恋心と呼ばれる物でもあるのだろう。

「けど、此処を離れる訳にはいかないんだ」
「だからっ! 今日は別れの日なんだよ!」
「また会える。 一刀は、頭も良いし武だってそこら辺の奴よりは使える。 生きていればまた―――」
「むぅー! じゃあ、蒲公英だけでも見送りに行くっ! 蒲公英だって、一刀の事は好きなんだからっ」
「あっ、おい!」
 
 踵を返して駆け去っていく妹に、大声をあげて制止するものの、止まらずに視界から消えていった。
 あいつっ、と憤る声を隠さず、翠は柵の上に拳を振り落とした。
 確かに、蒲公英の言う通り別れを言いたい。
 三日前のように、文武官吏を集めて開いたような宴を別れにせず、個人的に一刀の旅の無事を祈りたかった。
 けれど、今の自分は馬家の大黒柱として母の変わりに立っているのだ。
 決して出来が良いとは言えなくとも、政を疎かにして、私情を優先するわけには行かなかった。

 蒲公英が帰ってきたら、厳罰だ。
 八つ当たりの感情も多分に含んで踵を返した翠は、その背を兄弟に押されることとなる。

「おい、何やってるんだ、鉄! 休!」
「何って、竹簡を読んでるんだ姉者」
「おい休。 これはなんて読む」
「これか、市場の警備に関してだな!」

 普段は決して見せる事の無い政務の場。
 筆を取って竹簡とにらみ合いながら、己の兄弟が顔を突き合わせて唸っていた。

「お前ら、それは私の仕事だぞ」
「ああ、そうだ。 姉者。 今日は俺達は夢を見たのよ」
「夢だってぇ?」
「そうそう、漢の高祖劉邦に仕えたなんとかのような物が、姉の政務を手伝い考に尽くせってな」
「漢の高祖劉邦に仕えたのは張良だ鉄兄」
「そう、そいつだ」

 翠は鬱陶しそうに、手で頭を掻く。
 なんとまぁ、分かりやすいことだろうか。

「で、下手な三文芝居を打って、お前らも一刀を追えって言うのか?」
「そんな事は一言も言って無いぜ。 とにかく、今日は姉者は休むと良い」
「そうだ、夢を見て考を尽くすと決めたのだ。 姉者もそうだが、これは母者に考を尽くす事にもなる、なぁ?」
「その通りだ」
「二人揃って同じ夢を見たってか? ……はぁ、分かったよ……分かった」

 大きな溜息をひとつ。
 なんだか、意地を張っている自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 そんなに行かせたいのなら、行ってやろうじゃないかとも。
 未だに説得しようと、下手な言い訳を重ねる愚弟を手で制し、翠は踵を返して馬房に走った。
 
 もう半日を過ぎている。
 今から追って、一刀の背に追いつけるかは分からない。
 
「馬超様、どちらに?」
「馬を引いて来い。 少し出かける」
「お一人でございますか?」
「二人! でしょ?」
「蒲公英、お前……」

 馬を二騎引き連れて、舌を出した蒲公英が翠の横から現れる。
 いやはや、なんとも。
 恐らく鉄と休も、目の前の悪戯娘に協力して仕組んでいたに違いない。
 帰ってきたら、文句を言わねば気が済まない。

「蒲公英も一緒だ! 何かあったら弟達に言え!」
「は、はい」
「かしこまりました」

 昼。
 空の真上に陽が昇ると、武威の城から二騎の駿馬が荒野に飛び出した。
 黄色の大地に一本の白線を描くように、土埃を舞い上げて。
 
 

―――・



「ああ……」

 一刀が"そこ"に差し掛かると、思わず感嘆の声をあげてしまった。
 荒涼の大地に根ざし、まるで蒼い絨毯を敷いている、その姿は正に自然に愛された地であるかのようだった。
 朝露に濡れていたのか、陽の煌きを返して眩く光っていた。
 金獅の足を止めて、その背から一望する。
 ふいに強い一陣の風が吹き込んで、一刀の目の前で蒼い華が咲き乱れる。

 荒涼の空に蒼い華が乱れ咲き、一刀の鼻腔を甘く擽った。

 一刀はその光景にしばし見惚れて、やがて金獅から降りると地に咲く華を一つ毟り取った。

「綺麗だ……」

 初夏の荒野を彩る華。
 それは不自然なほどに、この周辺にだけ生えていた。
 
「……華をつけているよ。 見事に、咲き誇っている」

 弔いの時。
 一刀はせめてと周辺に亜麻の種を撒いていた。
 それが彼女への手向けとなると信じて。
 ゆっくりと華の絨毯を踏みしめて、一刀は耿鄙が眠る墓を訪ねていた。
 
 墓と言っても、あの場で用意できたのは石くらいな物である。
 小さく、しかし確かに一刀が立てた墓はその存在を示していた。
 目の前で座り、毟ったばかりの亜麻の華を捧げる。

「……」

 一刀が来なかったのは単純な忙しさもあったが、本当のところは罪悪感が在ったからだった。
 韓遂を見逃し、仇を討てなかったこと。
 そして未だに助ける方法が、あったかも知れないと悔やんでいたこと。
 脳裏に耿鄙の顔が過ぎる。
 
「未熟かも知れないけど……耿鄙さんの志も俺の旅の共にさせてください」

 黙祷し、語りかけるように言葉を投げかけて顔を上げると、一刀の耳朶に少女の声が降って来た。
 金獅の下に戻って、その背に跨れば、稜線の向こうから騎馬に跨った二人の少女の姿が視界に移る。
 両手を振って、馬上で跳ねるかのように声をあげているのは蒲公英だ。

「一刀ぉーっ!」

 薄く笑みを浮かべ、一刀は手をゆっくりと挙げた。

「一刀っ!」

 翠の声が蒼天に響き渡る。
 
「頑張れよっ! 応援してるからなっ!」

 その凜とした声に、一刀は上げた手を握り、強く二度三度と中空で振った。
 わざわざ時間を割いて見送りに来てくれたのだろう。
 遠目で手を振る少女達の応援は、一刀の気持ちを明るくさせていた。
 応援してくれているのだ。
 二人の気持ちを無駄にするわけには行かない。

「そうだよな、金獅」

 愛馬は一つ嘶いた。
 一刀も何かを吹っ切ったかのように微笑む。
 芽吹き咲き乱れた華の中、一刀は金獅の手綱をゆっくりと手繰り寄せて馬首を返した。

「……よし、行こう! 長旅になるけど頼むぞっ」
 
 愛馬の首を叩いて、ゆっくりと駈足で去っていく一刀の背を、翠もまた笑顔で見送っていた。
 ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる蒲公英とは、比べるべくもない快活な笑みだった。

「ねぇねぇ、いいの? 好きだーっ! って言わなくってさ」
「……」
「お姉さま?」
「良いんだよ、これで」
「そっか……」
「よし! 蒲公英、戻るぞ! アタシより遅れたら、夕飯抜きだからなっ! ハァッ!」
「え!? ちょっと何それ!? どうしてそうなるのっ? 待ってよお姉さまっ!」

 
 蒼天は突き抜けるように晴れ。
 大地は照らされて黄色に輝いていた。
 その場を離れる三つの騎影を見送るように。
 蒼の花弁は根ざし、力強く咲き誇っていた。


      ■ 外史終了 ■



[22225] 険難の地に自らの赤い“モノ”を図に撒き散らすよ編 1
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2018/09/04 02:48


clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編10~



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編11~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~険難の地に自らの白い物を図に撒き散らしているよ編1~☆☆☆





      ■ 血溜まりの君を拾う




 今、一刀は現実逃避をしていた。
一刀が向かった先は漢中、その先に在る要害に恵まれ沃野千里と言われる蜀を目指していた。
荀攸から手紙で促されたように、第一に益州、という言葉に従ったのである。
一刀は金獅の横に立って一人の少女へと視線を向けつつ、蹄の音を鳴らし深い山谷の道を歩いていた。
夏の強い陽射しに隠れるように、木々の緑葉を影にして、水筒を煽って水を飲む。
ただ単純に喉が渇いているだけでなく、水そのものが美味しい。
空気も健やかで、息を深く吸い込めば、鼻の奥を擽る自然の匂い。
ともすれば、一刀は遠い目をしながら口を開いて

「気持ちいいなぁ……」

 などと呟いた。
自然に囲まれて開放的な気分になっていたのだ。
この世界に降りて、本体は久しく景色を楽しむという余裕を持つ事が出来ていたのだ。
まして、此処は一刀が住んでいた現代からは遠い歴史の1800年前の大地。
今まで見て来たのは陳留や洛陽といった、言わば首都と言える場所や荒涼とした土砂の広がる場所であった。
森や山が無かったわけではないが、夏を迎えてことさら、山の景色は新鮮な物に映っていた。
理由の一つにこうまで、落ち着いて周囲の景観を見る事が出来たのは久しいというのもあるだろう。
ただの山の景色である。
山道を歩くことそのものを楽しむように、一刀はゆっくりと金獅の口輪を引きながら歩いていた。
段差を昇った際、金獅の背に乗った少女がぐらりと揺れる。
そこから滴が地面を濡らし、赤い斑点を描いた。

『本体、そろそろ下り坂に入るぞ』
『ああ、聞いた話じゃ邑まで遠そうだからな』
『はやく、屋根のある場所で寝たいね』
『同感だな』
『この子も居るしねぇ』

 本体の現実逃避の時間は、脳内の皆の言葉で掻き消されて、仕方なく頷いた。
彼は腰を落ち着けることが出来る場所を探して歩いていたのである。
それはつい先ほどの事だった。

―――・

 道中に拾った少女。
本体は当然ながら見たことが無く、血溜まりに沈む彼女を見た瞬間に、驚き戸惑った。
どう見ても致死量としか思えない出血量に、絶命していると確信してしまった程である。
ところが、いざ近づいてみれば小さく胸が上下に動き、存命を誇示しているではないか。
ある種のホラー現象を見せられたと言ってもいい。
慄いて一歩下がる足を、脳内の誰かの言葉が押しとどめた。

『稟だ』
『郭嘉か』
「か、郭嘉?」
『ああ、早くとんとんしないと』
『とんとん?』
『夏候惇?』
『いや、春蘭じゃ気絶スパイラルになるな』
「ごめん、意味が判らない」
『とりあえず"魏の"に任せてみよう』

 言われるがまま、主導権を"魏の"に託し、一刀は少女の首筋にチョップを連打した。
血の溜まりに沈む、顔を青くした少女へと、割と情け容赦なくベシベシ叩く姿は異様であった。
ほどなく、少女は眼を覚ま―――すこともなく、一刀の一撃に息の根を止められたかのように、ガクリと首を落とし身を横たえて昏倒する。
止めを刺したのか、と脳内の喧騒を他所に、"魏の"は首を振った。

「これは重症だ。 手の施しようが無い……」
『"魏の"、特殊な性癖が……』
『いやまぁ、そりゃこれだけ血を流してて追い討ちをかければ誰でもそうなると思うんだが』
「違うんだ、こうしないと稟は現世に戻って来れないんだ」
『現世って……』
『郭嘉の首を叩くのは、突っ込みだと思っていたが』
「そうなんだ、一度旅立つとなかなか戻ってこなくて、風がこの打開策を教えてくれたんだが……どうやら遅かったようだ」
『……なるほど?』
『つまり、どういうことだ?』

 あんまり納得してないような脳内の声が響いていた。

―――・

 そうした事情から、一刀は金獅の上に死体のような少女を乗せて自らは徒歩で目的地を目指しているわけだ。
今もまだ、完全に止まらぬ流血を横目に、休める場所を求めて。
馬上で血を垂らしながら昏倒する彼女の名は郭奉孝、らしい。
すでにもうあやふやになってしまった歴史知識でも、名高い叡智を持ち曹操を支えた賢者の一人であることを覚えている。
さらに、脳内の証言では郭嘉は現在、名君を求めて流離う在野の士であるという。
人道的な部分でも、打算的な部分でも彼女を拾う事は利するものとなろう。
本体としては、このまま絶命しないか心配である。
何故か、大丈夫だと脳内に太鼓判を押されているが。

山間に一陣の風が吹き込んだ。
夏の熱地を涼ませ、木々の葉を揺らし、一刀は歩く。
それはこの世界に降りて久しい、余裕を持てる旅路の一幕であり、現実逃避に耽る一幕でもあった。



      ■ 歓待



「見ろ、こっちだ」
「ああ」

 そんな一刀が歩む山道を覗く人影が居た。
小高い崖っぷち、葦の茂る草葉の影からひっそりと揃って顔を覗かせる。
弓矢を持ち、粗末な服に身を包む三人の男だ。
指し示すは一刀ではなく、その横の血塗れの少女……を乗せている金獅に向かっている。
一人の男が指し示すと、その周囲の二人の男も感嘆の息を吐き出した。

「おお、なんと見事な姿。 かように雄大な馬体はそうそう見ないぞ」
「そうだろう。 どうだ、手に入れないか?」
「あの少女は何故、血に塗れておる?」
「何かあったんだろう。 従者が口を引いておる。 大方どこかの御偉いさんが逃げているに違いないぞ」
「なるほど、確かに血に塗れておるが身なりは綺麗だったろう」
「どうだ、やらぬか?」

 カチャリと、男の背負った矢筒が揺れて音を鳴らした。
その男の真剣さを間近で見て、横の男性は頷いた。
どちらも若い。
まだ二十を迎えて間もないだろう。
一方、すぐには頷かなかった男は壮年であった。
難しい顔をして黙りこくり、食い入るように金獅と一刀を見据えていた。

「しかし……こんな事をしても良いものか」
「叔父貴も分かっているだろう。 昨年は不作、その前も。 野山に出ても弓ではなく鍬を手に取ってきた我等は狩りなど上手く出来ぬ」
「こうして弓を持って外に出ても、捕らえたのは蛇一匹のみだ。 このままでは飢えるのだ」
「分かっている……だが、人様の物を悪し様に盗むなどと……」

 そう言われ、男達は揃って口を締めて俯いた。
とはいえ、若者を諌めた男もこのままでは邑に飢餓が訪れる事になるのは理解していた。
蜀の地は黄巾の乱が始まると、劉焉という男が中央から牧に任じられて赴任してきた。
この当時、既に郤倹(げきけん)という男が蜀を統治しており、黄巾賊の討伐に当たっていたが、その戦ぶりは連戦連敗であった。
遂には賊の頭領に命を奪われ、蜀の民は次に略奪の憂き目となるのは自分達ではと、不安に苛まされた。
が、郤倹が死ぬと、それまで沈黙を保っていた劉焉が一気に賊を討ちとることに成功した。
まさに雷鳴の如く一瞬で全ての片を付けてしまったのである。

 それが丁度、一年前。
劉焉は租税を緩め、この時勢の蜀の民心を得ていた。
この邑は漢中との境に近く、劉焉の行いを間近で見て来たことから、お上である劉焉を称えていた。
だが、天は見捨てたか。
田畑は乾き、凶作に見舞われた。
それが去年だけであればまだしも、その前も、今年もである。
蓄えは底を尽き、今食う物にも不足している有様。
租税は緩むと言っても、献上する物す無い現状、もはや野山に出て生き残る糧を得なければならなかった。
ところが、これにも先立つ物が無いと来た。
山に入って大物を狩ろうとも、矢を作る技術も金も無い。
やっとこ拵えた弓矢では、精々うさぎを狩れるかどうか。 狼や熊、虎などが現れれば逃げ出すより他にないだろう。
冬に入れば動物達はおらず、よしんば蓄えようと考えても肉は腐りおちるのだ。
食べる物がなくなってしまう。
窮状は既に伝えているものの、山間に住む彼等は険難の蜀の地でも一際ド田舎である。
そういう場所は対応が疎かになる事を、彼等は過ごす日々の中で知っていたのだ。
 
「一人は怪我人。 一人はとても強そうに見えぬ従者だ。 三人ならば」
「そうだ、叔父貴。 これぞ飢える我等に与えてくれた天からの贈り物ではないか」

 若者二人が両の腕を取って揺らす。
眉を曲げて、二人の男を交互に見やり、男は伏せていた顔を何度か上下に揺らした。
叔父と呼んだ二人の若者は、お互いに顔を合わせて頷く。
飛び出そうとした男達を留めるように、叔父貴と呼ばれた男性は口を開いた。

 旅装を見れば、馬に乗る少女は血に塗れているとはいえ非常に綺麗だ。
遠目からとはいえ、器量も良さそうであり、乗る馬はこの辺では見かけない雄馬である。
恐らく、名のある家の子女に違いない。
このような場所をうろつくとは、何事か起きたに違いは無く、怪我を負っていることから面白い話では無いであろう。
そんな者を殺したとなれば、何処でどのような恨みを抱かれるか分からない。

「だが、待て。 かように襲う事はない。 人を殺めては不吉を呼ぶ、邑は小さい」
「叔父貴……では、どうしろと?」
「そうだな……幸いにして陽ももうじき沈む。 我等の邑に逗留してもらうのだ」
「……それで、どうするのです?」
「身なりを見ただろう。 邑の困窮を知れば、きっと助けていただける。 襲うのではなく、頼むか、そうでなければ盗むのだ。 どうだろうか」
「頼むなどと……いっそ盗んでしまいましょう」
「そうだな……あのような立派な馬、手放すことはせぬか……」

 二人の若者は再び顔を見せあった。
確かに、叔父の言う事は理に沿っていると頷きあう。
そもそも、できれば彼等も人を殺したくなどない。
蜀を乱を治めた劉焉は民には優しいが、略奪を行ってきた賊には酷く厳しい。
邑に住む子供達や女が生き残れるならば、自分達が罰されて死のうとも構わないが、己のせいで邑に災禍があれば死んでも死に切れない。
盗むくらいならば、人情に訴えて許してくれるかも知れない。

「分かりました、叔父貴の言う通りにします」
「よし、私は一足先に戻って長に話す。 そなたらは狩りの最中に出会った振りをして、お招きするのだ」
「分かりました……そうと決まれば、やりましょう」
「ああ」

 かくして、一刀の前に一本の弓矢が飛んで行き、彼等は森を下りていった。

「申し訳ない。 まさかこの様な山道に人がおられるとは」
「いえ、気になさらず。 害はありませんでした」
「こちらの方は? 怪我をされておられるようですが」
「ああ……いや、実は道行きに拾った者なんです」

 目の前に弓矢が飛んできて、一刀は腰から剣を引き抜いたが、二人の男は謝罪の声を大きく山中に響かせながら駆け下った。
そこで一刀も、どうやら狩りをしていたらしいと気付き、珍しいことも在るものだと一刀は笑った。
長い黒髪を揺らして、わざとらしく弓矢を目の前で仕舞うと、男達は声をかけあう。
基本的に人の良い一刀と打算があるとは言え友好的な男達の話は弾んだ。

「なるほど、そのような事態であったのか。 ならば、驚かせてしまった謝罪も含めて、我等の邑にお招きしよう」
「おお、それは良い考えだな、先に戻って報せるか」
「嬉しい申し出、渡りに船です。 実は、今日は野宿になるかも知れないと思っていました」
「ははは、夏の野宿は虫が煩わしい。 今日、会えたのも何かの縁だ!」
「よし、すぐに長に報せよう。 さぁさぁ、私が道案内をするぞ」
「ありがとう。 お言葉に甘えます。 感謝を」
「何を、長旅でお疲れでしょう。 そこの雄馬にも、邑で一等の馬房を用意しとくぞ、遠慮はなさらず」

 男の笑顔に釣られるように、一刀も笑みを浮かべて頷いた。
案内に従って、一刀は山間に潜むように作られた寒村に辿り付いた。
家屋の数は僅かに七つ。
松明がいくつか灯されている以外には、特に目を引くような物が何も無かった。
金獅を引いて、思わず一刀は立ち止まってしまった。
天水に逗留していた邑と比べて、遜色が無いくらいである。
そういえば、と一刀は思う。
自分の家を建て、そこに住んでいた時に書いていた手紙を忘れてきてしまったのだ。
物思いに耽った一刀に苦笑のような物を浮かべて、男は手を取って言った。

「ははは、見た通り、何も無い邑です。 墾をしながら細々と暮らしているのだ……貧相でがっかりさせてしまったか」
「いえ、私もこのような邑に住んでいた事が。 その時の事を思いだしていました」
「そうか、それならいいのだが」

 気分を害したかと一刀は謝った。
せっかく屋根のある寝床と食事を用意してくれるという者に、少々失礼な振る舞いではないかと思ったのだ。
改めて夜の帳が落ちた邑を一望した一刀は、口を開く。

「あの広場は何でしょう?」
「あそこは大切な田畑で我等の大事な糧となる。 収穫はまだ先だけどな、ははっ……そうだ、敬語など申すな。 我等は年も近そうだし、こうして会ったのも縁だ。 友になろう」
「ははは、ありがとう。 そう言ってくれるなら、是非」
「よし! 今日は良き日だ! 新しい友人が出来た、酒を飲もう!」

 そんな雑談を交わしながら、邑の中に入ると、一軒の家の奥から白い髭を蓄えた老人が現れ礼を取った。
壮年の男性に支えられた笑みを浮かべる老人を、一刀はすぐに長であると判断した。
返礼し、近づいてくる老人を待つ。

「これは。 旅の方が邑に立ち寄るのは久しぶりの事です。 ゆるりと逗留されるがよい」
「ありがとうございます。 軒先を貸してもらい、食事まで面倒を見てもらえるとは思ってもいませんでした。 感謝します」
「はっはっは、お連れの方は怪我をされているそうで」
「父上、彼女は怪我は無いそうです。 ただ、血は失っているので元気が無いようで」
「それはそれは。 妻らに介抱させると致しましょう。 どうぞ、こちらに」
「ありがとうございます」
「父上、友の為に羊を捌いて来ます。 今日は宴にしましょう」
「おお、友か……よい、それはよいぞ。 宴にしよう!」

 一刀は長の家に招かれ、金獅は馬房に。
そして、郭嘉は邑の女達に連れて行かれ、しばらくしてささやかに過ぎる宴が開かれた。
一刀は、暖かく迎えてくれた邑の者に接待され、その歓迎振りにちょっとした遠慮も抱きつつ、その歓待を大いに楽しんでいた。



      ■ 産地直送 from ド田舎


 
一刀が歓待に良い気分になっている頃であった。
馬房へと口輪を引っ張っていた男は、突如として立ち止まった。

「叔父貴。 うまくいきました。 最後の羊の肉を、叔父貴も無くならない内に食べてください」
「ああ……しかし、なんとも胸が痛む。 あの青年は礼を欠かさずにお主の友になったと……」
「叔父貴……」
「そうだな……仕方ないのだ。 高く売れよ」
「はい……このまま漢中に、この雄馬を売り捌きにいきます。 金の鬣に金色の尾、馬格は大きく性格も素直だ。 きっと高く売れますよ」
「うむ、そうだな」

 下から皺の多い顔を歪ませて、男は頷いた。
それを見て、若者も金獅に乗り込むと、蹄の音を立てぬように歩く。
一度、馬上に乗ったのが自身の主でないからか、宴の開かれる家を覗くようにすると金獅は嘶いた。

「大丈夫、少し離れるだけだ」

 その言葉が通じたかどうかは分からないが、金獅は馬首を返すと徐々に速度を上げて漢中へと向かう足を速めた。
騎乗し、手綱を振るうと尻の先から痺れるような振動が帰って来る。
その素晴らしい手応えに男は目を剥いた。
今までに彼が乗ったどの馬よりも速く、普段見慣れている山の景色がまるで違った。
馬首を返そうと手綱を引けば、鋭敏に騎乗の主の意思を感じ取り、抜群の反応で脚の手前を変える。
頬を打ちつける生ぬるい風に、男の表情は笑顔で満面となった。

「すごい! すごい良馬だ! これは西涼の物と比べても遜色は無い! いや、さらにすごいぞっ! はっはっは!」

 笑いと共に目尻から零れたのは、涙であった。
これほどの馬ならば如何ほどまで高く売れようか。
漢中を納める張魯の将軍達も、喉から手が出るほど欲するに違いない。
この馬を売り、金を手に入れ、それを元手に冬を越す準備がきっと始められる。
邑は助かるのだ。 まさしく天の思し召しだ。

一夜を駆け、そのまま休憩すら挟まずに昼には漢中の都へと辿り付いた。
速度も去る事ながら、その体力も並外れていた。
稀代の名馬であると、男は確信したのだ。
男は自身も徹夜で駆けながらも、意気揚々と市井に出て声高に叫んだ。
かの"天の御使い"の名馬に負けず劣らず、駆ければ千里、疲れは知らず、大陸一と大いに謳いながら。

喧伝してから一刻も経たず、男の前に気品の漂う女性が人垣を越えて現れた。
稟として気品あるその女性の佇まいに、男の直感が働いた。
これは艶かしい体だ―――とも思ったが、もっと別のところ。
言うなれば、貧民だからこそ分かる裕福層の貴女であると確信できたのである。

「本当に素晴らしい馬ね。 ちょっと、良いかしら?」
「ええ! 失礼ですがご婦人は?」
「黄忠と言いますわ」

 頬に手を当ててにっこりと笑うその仕草に、男も釣られて笑みを浮かべた。
自分の名もさり気無く伝え、馬に見蕩れる黄忠に手を拱いて口を開く。

「この馬はまことに天が与えた名馬でございます。 屋敷と引き換えでも後悔はしないでしょう。
 この漢中の都まで走らせた匹夫の私ですら、感涙に至りました。 黄忠殿のような者に乗ってもらえればこれ以上の幸せには馬にも無いでしょう!」
「そうねぇ。 ……うん、多分、貴方の言う事は正しいわ。 太腿の肉付きがとても良い、軍馬として鍛えれば千金に値するかも知れないわね」
「千金! まことでございますか!」

 黄忠は興奮するように声を高くあげる男に頷いて、考え込むように顎に手をやりながら天を仰いだ。
これまでも良質な馬を見て来たが、トモの強さや利発そうな目つき、早々見られないような馬体の雄大さに名馬の素質は十分であると判断できた。
馬というのはどれだけ在っても困る事は無いが、名馬と呼ばれる馬を持つ事は将にとっても自身の誇示の一つとなる。
例えば、陳留で賊の討伐に名を上げる曹操には駿馬と名高い『絶影』という馬がある。
"天の御使い"は名こそ知らぬものの"天馬"と噂され、金色の鬣と尾を揺らし勇名を馳せているという。

「あら?」

 そこまで考えて、目の前の馬を見る。
これは"天馬"の噂に重なり合うように、立派な金色の鬣と尾を持っている。
その発見に黄忠はにんまりと笑顔を作った。
良いではないか。
"天馬"と似ている名馬となれれば、それはきっと噂に乗って称えられる事だろう。
一目見た時から、馬の素質は見抜いていた。
これに乗る自分を想像すると、初めて馬を貰った時のようなわくわくとするような気持ちが、むくりと黄忠の胸中に起き上がった。

「よろしい、買いましょう。 千金を出します」
「おおおおおおっ! 本当でございますかっ!」

 商談は即座にまとまった。
漢中まで乗ってきた馬を売り払い、さらには羽織っていた絹織まで捨てて不足の金を満たす。
金獅を得た黄忠は馬上に乗り込んで走らせると、売り込みの文句が偽りの無い物だとすぐに気がついた。
速度は抜群。 力強く大地を蹴る蹄は大きく、少し飛ばしたところで体力に翳りも見せなかった。
試しにとわざわざ小さな池のほとりを飛び越えれば、物怖じもせずに騎乗の主の意思を感じ取って跳躍する。
度胸も並大抵ではない。

「すごい! すごいわ! これはまたと無い名馬になるに違いない!」
 
 張魯への使者として漢中に赴いた事は、幸運であった。
このような名馬と出会う事が出来るとは。
黄忠はどちらの意味でも胸を弾ませて、上機嫌で蜀へと戻っていった。



      ■ 慈雨



 しこたま呑んだ。
それが一刀が目を覚まして最初の感想だった。
こんなに酒を勧められて飲んだのは久しぶりだった。
この時代の酒がどれだけアルコール濃度が低かろうと、浴びるように飲めば酔いもする。
酷いとは言えないものの、頭に残る鈍痛は一刀に二日酔いであることを報せていた。

「くぅ……」
「おお、眼が覚めましたか」
「っ、すみません」

 皺の多い壮年の男性から用意されていた水を受け取って、一刀はぐいっと煽る。
飲み干した後も息をつき、揺れる頭を抱えて短く呻く。
ちなみに、一刀は歓待された最中も実情は伏せていた。
自分が"天の御使い"という者だと分かれば、この気の良い邑の人々を恐縮させてしまうと考えたからだ。
自然に接してくれる人物というのは、一刀の中でも貴重な存在だった。

「こんなに良くしてくれて、何てお礼を言っていいか」
「……は、はっはっは。 お気になさらずに……それより、お連れの方が目を覚ましております」
「あぁ……ああ、本当ですか? それなら、会わないと」
「連れて来ましょうか。 どうやらまだ酔っておられるようだ」
「いえ、こちらから行きますよ。 ははは、甘えてばかりいられません」
「では、その、私が案内しましょう」

 両の瞼を押さえるように、一刀は手で揉むと立ち上がった。
手を引かれて歩く一刀は一軒の家に向かう最中に、荒れた田畑を目にした。
はて、と一刀は目を細めた。
昨日の話では、収穫がまだだと聞いたはずなのに、どうしたのだろうと。
そんな一刀の視線を隠すように、壮年の男性が袖を引っ張った。

「あちらの家です」
「ああ、わざわざありがとう御座います」
「茶とも呼べませんが、後で白湯をお持ちしましょう」

 そう言って鍬を取りに行く男を見て、一刀は首を振った。
天気予報など無いこの時代、田畑が荒れることもあるだろうし、余所者の自分に話をしなかったのだ。
大した問題では無いのだろう。
心の中で一刀は納得すると、声をかけて軒先を潜った。
飛び込んで来たのは白い肌と頬を染める少女の姿。
着替えでもしていたのか、はたと帯を手に取る少女の手が落ちる。
一刀は自らの手で視線を隠し、慌てたようにもう片方の手を突き出して口を開いた。

「す、すまないっ! まさか着替え中だったとは!」

 上ずった一刀の声が響く。
瞬間、激昂しているかどうか確かめるために自らの指の隙間から、一刀はチラリと様子を窺った。
視界に飛び込んで来たのは肌色の何かである。
いや、飛び込んで来たというよりは刺さった。
たまらず、一刀は悲鳴を上げて目頭を押さえた。
見事な、そして地味に危険な一撃を一刀に見舞ったのは、昨日から郭嘉を診ていた村の女性であった。

「おなごの着替えを覗くたぁ、なんたる匹夫か! でてけ、でてけっ!」
「あ、いえ、大丈夫です、多少覗かれたくらいで……え、覗いたということは身体に興味が……まさか、昏倒していた私を助ける恩を着せて無理やり……力及ばず引き倒されて毛むくじゃらの胸板を押し付け、そのまま性行の剣で貫こうとぉ……ブバッ!」
「ぎゃああああああっ!?」
「わああああああああっ!?」
『いかん、とんとんしなければ!』

 まるで口から吹き出したかのように、少女の鼻から赤い物が飛散した。



―――・



「申し訳ない、落ち着きました……」
「こちらこそ……」

 "魏の"のファインプレーで気絶スパイラルを回避した一刀と郭嘉は、ようやく腰を落ち着けて向かいあった。
その隣、寝所であろう床には生々しい血痕が残っているが、気にしない事にした。
引きつった笑みを浮かべていたものの、村の人達もなんだか遠慮するように納得していたので、深く突っ込まない事にした一刀である。
最初の口火を切ったのは郭嘉の方であった。
頭を下げて礼をする。

「貴方が助けてくれたと聞いて、本来ならこちらから赴いて礼をせねばならぬところを、申し訳御座いません」
「いや、道中に行き倒れを見かければ誰でも手を差し伸べました」
「どうでしょう、性質の悪い山賊であれば、私は慰み者に……慰み者―――」
「ちょっと待った!」
「はっ、そうでした!」

 コホンっとわざとらしい咳払いを一つして、郭嘉は居住まいを正した。
脳内からの忠告が無ければ、再び旅立ってしまうところであった。
余計な考えを起こさぬように、今度は一刀の方から口を開く。
世話になった邑の家に、これ以上流血沙汰を起こすのは酷く気が引けたのだ。

「それで、どうしてあの様な場所で?」
「ええ、私は大陸を広く回って仕える主を探している途上なのです」
「それは……素晴らしい志かと。 今は大陸の各地に乱が起こっています。 一人でそのような旅をするのは危険だというのに」

 一刀は笑みを貼り付けて彼女の実情を探ろうと言葉を投げかけた。
既に、脳内からの情報提供で趙雲、程昱と行った名将達と行動を共にしているはずだと聞いていたのである。
趙雲と言えば、公孫瓚の下で客将をしているはずだった。
張遼と共に飲み明かした時に聞いているのだ、同姓同名などの間違いはあるまい。
そんな一刀の言葉に郭嘉は小さく頷く。

「ええ、実は私には旅の供がいました。 一人は白馬義従と名高い公孫瓚の下に身を寄せています。
 そして、もう一人は陳留にて別れたのです」
「おお、陳留といえば噂に名高い曹操殿ですか」
「はい、仕官しているのかは知りませんけれど、恐らくは」
「素晴らしい友人を持っているようで、貴女様も只者では無いかと」
「いえ、そのようなことは」

 一刀の言葉がこそばゆい様に郭嘉は微笑んで居住まいを正すように座りなおす。
どうやら、彼女以外は身の置き場所を得たと言ってしまっても良いだろう。
だが、不思議なのは脳内からの情報提供とは違って、曹操の下に彼女が残らなかった事だ。
曹操は英雄だ。
実際に会って話をすれば誰だって彼女の持つ覇気に押されることだろう。
押されないとすれば、麗羽や雪蓮あたりの同じ英雄の気質を持つ者だけだと、一刀は思っている。
目の前の少女は知者であり、曹操を見れば彼女を主として支える自分を想像するに違いない。
一刀が口を閉ざしたのを見て、郭嘉が尋ねた。

「貴方も志のある一角のお方だとお見受けしました」
「はは、そんなことは」
「私のように、蒼天の下で旅をしておられると。 かような時代に大陸を巡るのは、志が無ければ出来る物ではないでしょう」
「やはり、貴女は只者ではないようで。 白状すれば、私も志はあります」
「……実は、一度だけ見かけた事があります。 陳留のすぐ近くでした。 あの時は大地に転げて叫ぶだけの狂人だったと思っていましたが……賢人とは己を隠す者ですね」
「……はは」

 一刀は乾いた笑みを浮かべ、苦い思い出を突かれた表情を画す為に、卓に置かれた白湯に口をつけた。
彼女が言って居るのは、この世界に降り立ったばかりの頃の話なのだろう。

「ああ……そういえば名乗る事を忘れていました。 無礼をお許しくだされば。 私は戯志才と申します」
「これは光栄です。 私は……陳寿と」
「陳寿殿と縁が出来たのは、とても喜ばしいです」
「狂人でもですか?」
「ふふ、賢人だからです」

 お互いに偽名を名乗り合い、笑い会う。
一刀は目の前の少女の本当の名を知っている。
教えられたのだから当然だ。
それでも偽名を名乗りあったのは、彼女が偽名を使ったときはそうしようと決めていたからだ。

「戯志才殿、どうして陳留を離れたのですか? 曹操殿は稀代と英雄だともっぱらの噂ですが」
「そうですね。 少し思うところが在ってのことです」
「なるほど」
「陳寿殿も、曹操殿をお見かけしたのでしょう。 志あるのならば何故仕官をしなかったのでしょう」
「そうですね。 少し思うところがありました」

 ふっとお互いに苦笑を零す。
両者の問いかけは同じ答えであり、そこには共通点が存在している。
曹操という者の器量を認めて、仕えるに足る主だとお互い認めていた。

「陳寿殿も人が悪い。 こうなっては私から話すしか無いでしょう」
「まさか、言いたくない事を言わせるつもりなど」
「いえ、行き倒れていた私には陳寿殿に恩があります。 志とは無闇にひけらかす物では無いとはいえ、恩人に尋ねられて答えないのは人道に悖ります」
「分かりました、では……聞かせてください」
「曹操殿は私の理想に近い君子でございました。 もしも一点、世を騒がしている噂が無ければその場で仕官を申し出たことでしょう」
「噂ですか」
「"天の御使い"です」

 一刀は郭嘉の言葉に驚いたかのように身を引いた。
その驚きように郭嘉は眉を顰める。
こうして話していても、陳寿と名乗った男は見識が高く映っていた。
大陸を騒がせる"天の御使い"は、この場で出しても驚くに値しないものである。
いや、どちらかと言うとかつての黄巾の決戦、つい近頃の西涼叛乱を鎮めた勇名を考えれば、当然の答えだろう。
間違いなく、漢の英雄の一人に数えられるはずだった。
まして、郭嘉の立場では今の宮中の真実は知らない。
そうした情報を得る伝手を持っていなかったのだから。

「随分と驚いたようですが、私の言葉に引っかかりても?」
「いえ、ただ曹操殿と比べる相手が"天の御使い"とは意外でした」
「確かに、天代として絶大な権力を持つ将軍です。 曹操殿とは比較できない権力を持ち、誰にも追随を許さない地位をお持ちの御方です」
「そうですね。 しかし、そんなお方に仕官できるとお考えなのですか?」
「無理でしょう。 一介の在野の士が会って話を出来る御方だとは思っていません」
「ならば、何ゆえ」
「知りませんか、陳寿殿。 天の御使いは西涼の叛乱を鎮めてから都には戻っておらず武威に留まっているとか。
 何故、天代ともあろう御方が都に戻らず辺境に留まる必要がありますか。
 今や劉弁様は即位し、憂うべき問題の一つは解決しましたが、此処には複雑な内情が隠されていると私は見てます。
 天の代わり、すなわち天子の代わりを務めるべき者が傍に居ないというのは明らかに可笑しい措置です」
「あー……戯志才殿は何が言いたいのでしょう」
「朝廷は天代を疎んでおられ遠ざけている。 或いは、既に天代は追放されていると見ています」

 一刀は口を噤んで頷く。
郭嘉が卓に容器を置く音が室内に響いた。
意味深な表情で頷きを繰り返す一刀を見て、郭嘉も確信する。
目の前の男が、自分の意見に同意を示していると。
広く知られるものとして、朝廷が宦官の私物化とされている噂がある。
巧みに情報を広げぬように隠蔽しているが、人の口に戸は立たない。
とりわけ、十常侍を含めて権力争いは今までの歴史を振り返っても幾たび繰り返されてきた。
突然現れた天代の絶大な権威に、彼等が納得して付き従うはずが無いのだ。
その線から考えれば、都に戻らぬ事実と合わせて想像は容易である。
流布する各地の乱の平定の為に、天代は都に戻らないなど、劉弁即位の事実から掻き消せるのだから。

「卓見ですね」
「ご謙遜を、陳寿殿も同じ答えに至っていたでしょう」

 頷く一刀。
本人だから当然知っている。

「もしも、私の予測が真実を突いているのならば、会って話をすることが出来ると考えます」
「では……"天の御使い"と会えたら、何を話すのでしょう」
「それは……すみません」
「いえ……」

 申し訳無さそうに顔を伏せて笑みを浮かべる郭嘉に、一刀は苦笑した。
それこそ、彼女が一緒に旅をしていた程昱と別れ、曹操の居る陳留を離れた理由なのだろう。
彼女の大志に根ざす大事な物なのだと、気付いた。
一刀はゆっくりと立ちあがって窓の傍に近寄ると、見える景色を眺める。
西涼では荀攸の知に幾度も助けられてきた。
それこそ、一刀が頭を垂れて感謝しても足りないほどだ。
一刀にとって足を向けて眠れない、とは荀攸の事を指すだろう。
そして偶然とは言え、自分は"天の御使い"であり、彼女が捜し求める人間だ。
打ち明け、自分を支えてくれるかもしれない。

『信じられないな、郭嘉が曹操を置いて俺に会いに来るなんて』
『それだけ、"天の御使い"の影響が大きいってことか……』
『そうだね、稟よりは風の方が在り得ることじゃないかなと俺も思うよ』
『程昱だっけ』
『うん』
『打ち明けるべきだ』
『俺も賛成』
『俺達だけじゃ限界もあるもんね』
『それに、"馬の"と"董の"はまだ戻ってこない』
『ああ……』

「陳寿殿? どうされました?」

 一刀が外を眺めて動かない様子に、郭嘉は黙って待っていたが、ついに焦れて尋ねた。
一刀達が胸の内で考えを述べ合うように、彼女もまた、陳寿の様子に深く考え込んでしまった。
郭嘉は彼の前で志の為に旅をしていると言った。
曹操に大器を感じ、また"天の御使い"と会いたいと、そして会えるだろうとも。
彼女は半ば"天の御使い"が中央から遠ざけられたと確信しているし、陳寿もまた同意を示した。
そこで郭嘉は思ったのだ。
自分と同じ考えをしている人物を前にして、心が揺れたのではないかと。
例えば、既に彼が主と認めた者が居るとすれば。
自分がそのまま曹操の下に仕官をするかどうか、悩んでいた時と同じような板ばさみに在って居るのかもしれない。

 陳留を飛び出す前。
旅を供にしていた友人と"天の御使い"について話し合った。
今、一刀に話したように、郭嘉と程昱は同じ答えにたどり着いていた。
天代は中央から官の恨みを買い、政権から追放された、と。
それをお互いに確かめあった上で、郭嘉は"天の御使い"を追った。
何故ならば、曹操と比べる必要があったからだ。
大陸の大半と諸侯の顔を見て巡った郭嘉の出した答えの一つは確実に曹操を導き出した。
だが、まだ一人。
大陸を揺らす稀代の英雄を見ていない。
程昱も、稟の意見に賛同し、"天の御使い"と会ってからでも遅くは無いと同意した。
が、程昱はそのまま陳留に残った。
太陽が昇り、それを支えるのを夢で見たと言って名を改めると、曹操に仕官すると急に意見を転換したのである。
それが故、一人旅となりトントンしてくれる共が消えて行き倒れてしまった訳だが。

「戯志才殿」
「はい?」

 二人して長い沈黙と思考を重ねていたが、一刀が破った。

「実は……」

 自分が"天の御使い"だと打ち明けようとしていた一刀は、しかし、その言葉を途中で噤む事になった。
窓から邑を見ていた景色の中、風に煽られて馬房にかかっていた布が地に落ちたのである。
居なくてはならない場所に、何も無かったのだ。
思わず、一刀は前のめりになって目を凝らす。
邑の人間が、慌てて馬房を覆っていた布を拾い上げて賭け直す姿を目撃する。

「……」
「陳寿殿?」
「ちょっと……待ってくれ……」

 首を傾げ、いよいよ不審な眼差しを灯した郭嘉に、緊迫した声が聞こえた。
一刀の目には落ち着かない様子で周囲を見回す男が映っている。
金獅が居ない。

「話の腰を折ってすまない、少し用事ができた」
「あっ、陳寿殿!?」

 言うなり、一刀は走って馬房に向かった。
僅か数十メートルの距離。
すぐに馬房の布を引っぺがして、中を確認する。
ここまで近ければ流石に見間違いなどと言う事は無い。
そもそも、馬房である筈なのに水桶も無ければ藁も無く、柵すら無いではないか。

「……何処に行ったんだ?」

 一刀は呆然と馬房を見ていたが、しばしして周囲に顔を巡らした。

「金獅っ!」

 名を呼んでも答える物は無かった。
一刀は邑の中を金獅の名を呼びながら探し回った。
さほど大きくない邑の中、一刀の叫び声は何処の家屋にも行き届いている。
にもかかわらず、家の中に居るはずの邑人は誰一人として現れることが無い。
一刀は走る足を止めて、ある場所で立ち止まった。
昨日の夜、田畑だと話されて、つい先ほど荒れように口を挟むまいと言い聞かせた場所の前だ。

「……収穫は秋? これでか?」

 広がって居るのはひび割れて作物の実りを否定する土色の景色。
一刀は下唇を噛んで大きな息を吐くと、踵を返して邑の中に戻っていく。
この邑の中心近く、一際高い建物につくと、門の閂を投げ捨てるように外して扉を開いた。
かつて、一刀も維奉に助けられて逗留した邑で過ごした経験がある。
そこでは、倉に収穫された食物を入れて冬を乗り越していた。
外れていてくれと内心で思いながらも、扉を開けて入って来たのは僅かな藁と草木。
そして、一刀が一気に開け放った光に照らされて、蜘蛛の子を散らすようにして鳴き声をあげて逃げる鼠のみ。

「……くそっ!」

 一刀は悪態をついて拳を門の柱に叩きつけた。
金獅は、あの馬は一刀にとっての相棒だった。
付き合いは短いかも知れないし、袁紹からの貰い物でもある。
だが、一刀は金獅を大事にしていた。
蹇碩の魔手から逃れてからは、より一層と。
己の手で世話を焼き、毛を繕い、暇があれば遠乗りに出かけ、戦で何度も助けられた。
身体を震わすほどの怒りが駆け巡る。
そうだ。
よくよく振り返れば昨日は旅人を歓待するにしても、大げさな物では無かったか。
村に住んでいた者は全員が人の良い笑みを浮かべていたが、その頬はこけていた。
何故気付かなかったのか。
肩を震わせて唇を噛む一刀の肩に、手が触れた。

「陳寿殿……馬が居なくなったのですか?」
「っ!」

 郭嘉の声に、一刀は飛ぶようにして離れた。
その大げさとも言える行動に、郭嘉は驚いたように身を引いたが、やがて首を振る。

「突然肩に手を置いたことは謝ります」
「いえ……それより村長に会います。 話はまた今度で」
「……わかりました」

 一刀が横を通り抜けて駆け去るのを、郭嘉は見送った。
一軒の門を潜るその背を見送って、郭嘉は呟いた。

「……まさか彼が……しかし、確か"天の御使い"の愛馬の名は、金獅。 "天馬"と呼ばれる名馬……」

 郭嘉の目の奥に、鋭さが灯った。


―――・


「村長……村長、なんで頭を下げているんだ……」
「どうかお許し下さい、旅のお方」
「金獅はどこです? 何故ここに居ないのです」
「どうが慈悲を……見ての通り、作物は育たず食うものに困り申した。 家畜を殺し食い凌いでおりましたが、それは諸刃です。
 このように田畑を肥す小さな邑で家畜を食らうのは、自らの首を絞めているのと同じこと。
 冬を越せず、飢え死に行くほかありませんでした」

 頭を床に突けて許しを請う村長の姿に、一刀の気勢は僅かに削がれた。
状況から考えれば、売り飛ばされたか、血肉にするため斬り殺されたかだ。
一刀は目を瞑り、苦労して深呼吸をすると拳を握って口を開いた。

「馬は何処に」
「……」
「答えてください。 私と……っ、ずっと旅をしてきた仲なのです」
「馬は……漢中へ売り飛ばしに……」

 歯を噛む音が室内に響いた。
興奮を抑えるように激しく呼気を繰り返す一刀の息づかいだけが、この場に在る音であった。

「陳寿殿……この通りっ! お怒りはご尤もです、どうしても収まらぬと言うのならば、私を斬り捨ててくだされ。
 私は齢を六十まで重ねました、ここで死んでも邑の皆が生き残れるのならば悔いはありませぬ。
 何より、躯となれば私も貴重な糧となりましょうっ」
「そんなことっ!」

 語気を荒げて一刀は地を蹴った。
最早、状況は言われなくても分かっていた。
倉に穀が無く、田畑は枯れ、家畜すら居ないのだ。
昨日の歓待に肉を持ち出したのは残りの僅かを一刀に振舞った結果だと断言できる。
一刀に察せられないようにする為でもあろうが、邑ぐるみで決断した結果でもあったのだ。
金獅を黙って売り飛ばしに行かれたのは一刀にとっては許し難い話ではある。
だが、だからと言って目の前の困窮に喘ぐ老人を殺すことなど出来る訳が無い。
金獅は確かに、傍目から見ても雄大な馬格を持ち、一刀が手入れをしているからか艶も良い。
見栄えも明るく、何より屋敷が五つは建つ金でわざわざ袁紹が買った馬である。
見る人が見れば、高く売り飛ばせることだろう。
ともすれば、邑の一季節を養う事すらできるかも知れない。
しかし。

「……」

 黙して地に頭を擦り付ける事をやめず、震える老人を一瞥する。
そして、一刀は震える自分を抑えることが出来ず、目を閉じて視界から追い出した。
どれだけの時間が経ったか。
一刀はゆっくりと踵を返して家を出た。
金獅がおらず、邑の人間に出来る事は無いとなれば、この場に居る必要は無い。
この手に愛馬を取り戻す為に、急がなければならない。

「お許しくださいませっ! お許しくださいませ!」
「どうか、我等の為にお許しを!」

 そうして家を出た一刀を出迎えたのは、村長と同じように頭を下げる数十人の男女であった。
砂利が額を打つことすら躊躇わず、嘆願するその姿に一刀は思わず見入る。
一刀が出た扉から、転げるようにして村長も一刀の前に来ると、同じようにして頭を下げた。
口から出るのは許しを請う言葉だけ。
その姿に、一刀は一歩、足を後ろに下げた。
昨日笑い会って酒を飲み、友だと肩を叩きあった男が居た。
それが、一転して自分の大切な相棒を盗み出し、泣き顔に目を腫らしているのである。
目の前の事が、一刀は受け入れがたかった。

「……頭を」

 震える口は、小さな言葉をかけて噤まれた。
顔を伏せ、一刀は一つ唇を舌で湿らせると、大きく息を吸い込んで開いた。

「……頭をっ、あげてください」
「いいえ、それはなりません。 "天の御使い"殿」
「っ、か、戯志才殿、何故ここに」
「……い、今……な、なんと?」
「て、"天の御使い"?」
「何を、俺は陳寿だ」
「申し訳ありませんが、馬の名を金獅と叫んでおりました。 私は知っています、巷で噂される"天馬"の名が 『金獅』 という名であると。
 考えてみれば、武威に留まっているという話も腑に落ちない事です。 偽名を使っていることも納得できます。
 もしも"天の御使い"が中央―――」
「よせっ! 喋るな郭嘉っ!」

 声を荒げ、一刀は少女の口を止めた。
今までに無い強い口調で、一刀は鋭く命令のように発したのだ。
その姿は邑の人間に少女の言う事が本当なのではと信じさせるに足りた。
全員の表情が強張り、口は半分ほど開けられて歯の根を振るわせる。

「申し訳御座いません、過ぎた真似でした」

 これ見るようにと、郭嘉は恭しく両手を組んで頭を下げる。
まるで、王侯に仕えるかのように、その仕草は堂に入っており凜としたものだった。
邑の者は彼女のこの行いを見て、ついには確信に至る。
目の前の者は大陸を救うべく西へ東へ駆け、腐敗した漢を見かね天より降りた御使いだと。
自分達がそのような、帝と同じ権威を持ち天上のような頂に居る者へ何をしたのか。
天に逆らい、天馬を盗み、大変な無礼を働いてしまった。
それはもう、動かしようの無い事実として露見され、怒りに震える"天の御使い"が居るのだ。

「……て、天よ」
「お許しを! 浅はかでございましたっ!」
「どうかっ! どうか邑の者だけはっ……どうかっ!」
「我等にお慈悲をくださいませ!」

 口々に叫ぶ老若男女の声に、一刀は鋭い視線で郭嘉を射抜いた。
ところが、少女は頭を下げたまま一刀の強い視線には気付かない様子で、そのまま口を開く。
助けてくれ、と叫ぶ声の中、静かであるはずの郭嘉の声は一刀の耳朶を確実に震わせていた。

「帝から天代という、天に代わる役職を戴いた者が、かように不義を働く者を生かしてはなりません。
 ここで許されれば、今後も天が理由さえ在れば悪道を許す事だと世間に知られることでしょう。
 そうなれば、馬だけでなく田畑を耕して得た穀物や家畜のみならず、いずれは人を殺める者すら現れます」
「郭嘉さん、やめてくれ」
「この者達は、飢えを理由に天子の馬を盗む大罪人です。 法に照らし合わせ親、子、親族全てを捕らえて斬り捨てましょう。
 もしも許すとなれば付け上がります。 少なくとも邑の人間は全員、処するべきです」
「っ」

 一刀が我慢ならず、声を荒げようと口を開いたが、不自然に身体が揺れてその口は噤まれた。
頭を下げたままの郭嘉が、チラリと様子を窺えば、感情を完全に押し殺したかのように無表情であった。

(何で止めるんだっ!)
『本体、落ち着け、分かった』
『彼女は試してるんだ、天の御使いだと知って、俺がどう出るのかを観察してる』
『ここで怒ったら、みすみす逃すぞ』
(じゃあどうするんだ!)
『それは……待て、考えよう』

「……」

 郭嘉の袖から覗く鋭い視線に、本体の主導権を奪った"無の"が暫し茫洋と立っていたが、ふっと天を見上げると、暫しして笑った。
思わずと言った様子で、下げていた彼女の顔が上がる。
身体を震わせ、顔をしわくちゃにして裁可を待つ邑の人間が、その笑顔に惹き付けられるように視線が集まった。
一刀はわざと視線が集まるのを待ってから、腰にさした刀を抜く。

 甲高い音が響いて、その刀身は天に向かった。
深く吸い込んだ息を爆発的な勢いで吐き出す。
それは、戦の号令のように山間に響かせていた。 

「この地の作物が育たたず、飢えを抱えるのは天意であった!
 その天の意において、天の御使いである私がこの場に現れたのもそうだと言えよう!
 では、そなた達の罪は人によって裁かれるべきか!」

 そこで一刀は郭嘉を見る。
視線を向けられた郭嘉は、驚きに目を開き、一つ唾を飲み込んだ。

「天によって罪を犯さば天によって裁かれるべきだろう!
 これから三日以内に一滴でも慈雨が地を濡らせば私は天意に沿って皆を許すことにする!
 もしも! 三日経って一滴でも降らねば全員の首を獲る!」

 宣言とともに、一刀は天に向けた刀を地向けて突き刺した。
金属が地面を打つ音と、甲高い笛のような音を響かせて、一刀の手に地を打った痺れるような衝撃を残す。

「あ、ありがとう……ございます……」
「己に疚しい事無く、やむを得ずにしたことならば顔を上げて天命を待ってくれ」

 その声を最後に、一刀は踵を返して村長の家の前にドカリと座った。
郭嘉は、そんな一刀の姿を呆けたように見ていた。
彼女の予想では、仁君ならば斬らず彼等の窮状に情けをかけるだろうと考えていたからだった。
まさか、天に任せて待ち呆けることを選ぶとは思ってもいなかったのである。
それに、あの怒りは並大抵の物では無かった。
誰が見ても、一目で歯を食いしばり怒りを封じ込めようとしていたのが分かったはずだ。
だというのに、急に表情を消したかと思えば笑みを見せた。
郭嘉の言葉は、民に流れる噂と照らしあわせば、邑の人間にとって真実であった。
天代への不遜は帝への不遜。 天代に罪を犯さば帝に罪を犯したのと同義なのだ。
そして―――一刀の言葉も噂に照らせばまた真実だった。
一刀は天の人であり、帝も天の人である。
であれば、裁可を下すのは天に任せるべきであり、その理屈は郭嘉の言葉と代わりは無い。
天が許したのならば、それはすなわち天の子が許すことであり、御使いが許すことになる。
この場に居る人間は僅か数十人。
それでも、掛け替えの無い人の命には違いないのだ。
天に預け人の生死を決めるなど、普通の人間では出来ない。

「……」

 乾いてもいないのに郭嘉は唇を湿らせて目を閉じた。
これが、"天の御使い"の道なのかと。

 そして、この日から一刀はその場を全く動かず空を見上げ続けていた。
誰が家の中に入るように促しても、まるで石になってしまったかのように。
村長の家の前の段々に陣取って、胡坐を掻いて座っていたのである。


―――・


 早くも二晩が過ぎて、三日目の朝日が昇り始めていた。
置かれた食事に手をつけて、空になった器を横にどかす。
それから、もう見飽きたと言っていい場所から邑の中を見回した。
まだ朝日が出たばかりの時間だというのに、邑の人間は全員が起きており、数刻過ぎれば空を見上げていた。
金獅を売り飛ばしたという男も既に戻ってきている。
謝罪の言葉と涙を前に、一刀はただの一言すら発さずに黙っていた。

 太陽が真上に昇る。
雲はあるものの、雨の降る気配はまったくなかった。
微動だにしない一刀の下に、郭嘉が前に立つ。
歩いてくるのを眼を開けて見ていた一刀は当然気付いていたが、やはり口を開く事は無かった。

「……御使い様、隣に座ることをお許し下さい」

 郭嘉は歩みを止める事無く、一刀の横に腰を降ろして空を見上げた。
郭嘉が失礼します、と口を開いたのも、それが最後であった。
隣に座り、空を見上げて膝を抱えて、それだけだった。
一刀もまた、時に目を閉じ、空を見上げては開き、また閉じるだけであった。

 沈黙は長く続いた。
赤く染まり始めた頃、郭嘉はついに空を見上げることを止めていた。
鳥の鳴き声が響く、夕焼けの陽射しを正面に捉えて、この場に現れてから三回目の言葉を一刀へ投げかけた。

「雲ひとつありません。 御使い様……雨は、降りません」

 一刀の体がゆらりと上下に揺れた。
ゆっくりと瞼を上げる。
開けた視界に、郭嘉が跪き頭を下げる姿が飛び込んで来た。

「御使い様、お許し下さい」
「郭嘉さん、貴女は俺を試していた」

 三日ぶりと言っていい声質が郭嘉の耳朶を震わせていた。
そうなのだ。
天の御使いと知り、どのような判断を下すのか、邑人達の企みを出汁に煽ったのは自分であった。
許せば口では甘いと罵りながらも、その懐の広さを良しとしただろう。
許さねば、口では同意しながらも、濁を飲み込む芯を持って良しとしたはずだ。
怒鳴り散らせば、或いは答えを出さぬようならば、見切りをつけて曹操の下に走るつもりだった。
だが、委ねたのは天。
答えを出さないという回答に一番近いが、"天の御使い"の名声が虚名でない彼でなければ出来ない采配だった。

「天に委ねたのは俺だ。 郭嘉さんが何を言っても変わらないよ」

 それだけ言って、一刀は再び目を閉じた。
一人、また一人と邑人は家から出てきて、一刀の前に集ってくる。
郭嘉は跪いたまま、邑人達の視線を背中に受け止めて頭を下げながら続けた。
彼女の凜とした声を聞きながら、一刀は顔を地に落とす。

「此度は私の浅はかさが原因です。 御使い様を試すような不遜が―――」
「郭嘉殿……」
「村長、しかし……っ」
「もうよいのです。 我等は天に―――」

 村長の言葉も言い終わらぬ内に、一刀が突然立ち上がった。
今まで、その場をまったく動かなかった一刀が、何の前触れも無く。
郭嘉も邑の人間も、こぞって空を見上げていた視線を落とし、一刀へと向かっていた。
一刀は無言のまま歩き三日間、地面に刺さりっ放しであった刀を引き抜いた。
山間に響く高い音。

―――これで、終わりか。

 一刀が刀を引き抜く光景に、邑の人間の全員が諦念めいた顔で頷いた。
数十人の頭が上下に揺れ動き、嗚咽が響く。
郭嘉が口を開こうと、足を一歩、踏みしめて。

一刀は大げさに刀を振って音を鳴らすと、そのまま腰に仕舞った。
懐から預かっていた、束になっている銅銭を出すと長に向かって投げ渡しながら口を開いた。

「慈雨は来た。 天は赦し、私も赦す。 羊の肉は美味しかったよ、ありがとう」

 それだけ残し、一刀は踵を返した。
この場に集る全員が、何を言われたのか判らなかった。
郭嘉ですら、空を見上げて呆然としてしまった。

 雲ひとつ無い晴天。
雨が何故、何処に、どうして降ってきた。
まるで性質の悪い冗談を聞かされたかのように、全員が困惑していた。

 そんな時だ。

 一人の邑人の声が聞こえてきたのは。

「おおっ! 天よ! ありがとうごじぁい……うあ、あああああああっ!」

 途中から言葉にならぬように、悲鳴なような物を上げて邑の男はその顔を両手覆っていた。
郭嘉はその男の様子に表情を変えて近づいた。
そこは、先ほどまで一刀が座り込んでまったく動かない場所であった。
地面には一滴の滴が確かに地を濡らしていたのである。

「……まさかっ」

 邑人が肩を抱き合い、顔を顰めて号泣する姿すら無視して、郭嘉は一刀を追った。
思い出せ。
一刀はなんと言ったのだ。
邑の人間が集り、謝罪に咽び泣いていた中、郭嘉の詰め寄る声を笑顔で掻き消し、宣言した事を。

―――3日たって、"一滴"でも地を濡らせば赦す。

 そう言った。
間違いない、郭嘉自身もこの身で確かに聞いたのである。
雨は降らなかった。
だが、地を濡らすのに雨は必要ない。
それこそ、ただの一滴であれば。

 郭嘉は久しく走りこみ、肩を上下に振って荒い息を吐き出しながら追っていた。
一人の男を視界に捉え、呼気の荒い息を吐き出す。
最後に、深く口から息を吸い込むと、その背に向かって叫んだ。

「お待ちをっ!」

 一刀の足が止まる。
振り向いた一刀は、郭嘉が必死の形相で追う姿が。

「はは……」
「御使い様っ! もしや、涙を流されましたね!」
「ぶっ、あっはっはっはっはっはっはっはっはははははっ!」
「っ……」

 一刀は笑った。
それは、馬鹿にするようなものではなく、快活な笑いであった。
夕陽で赤く染まる山間の中。
一刀の爆笑は山中に響いていた。

「酷いお方です……人だけでなく天まで騙そうだなんて」

 釣られたように笑みを浮かべ、不満そうに尋ねる郭嘉に一刀は目尻を拭った。

 そして、底意地の悪い笑みを浮かべて言ったのである。

「天の涙には、違いないだろ?」

 その言葉に、郭嘉は溜息のような物を吐き出し、降参だと両手を挙げた。
一刀は楽しそうに笑いながら、郭嘉へと声をかけた。

「なぁ、郭嘉さん。 俺と一緒に来ないか? 暫くは、見聞の旅って奴さ」
「っ……そう、ですね。 分かりました。 見事に一本取られましたので、仕返しするまでは供をしましょう」
「それで"天の御使い"はどうだったかな」

 一刀は歩きながら、意地の悪い笑みを浮かべていた。
郭嘉はそんな一刀の横顔に一瞬言葉に詰まり、足を止めると、両手を振って大声で言った。
山彦が返ってきそうなほどの声量であった。

「意地悪な人ですっ!」
「はは、酷いな」
「でも……優しい意地悪ですね」
「……ありがとう」
「ふふ、目下は何処に向かうのですか?」
「金獅を取り戻す。 買ったという黄忠を探そう。 漢中から南に向かったらしい」
「蜀ですね」
「ああ、そうだ。 俺の事は一刀って呼んでくれ」
「分かりました……ところで、何故私の本名を知って居るのです?」
「……えーっと、はは」
「着いて行く理由が一つ増えました。 一刀殿は隠し事が得意ですね」

 この日の出来事は後世にまで逸話となった残った。
天の御使いは、天馬を盗まれ激怒したが、慈雨の一滴によって罪を許したというものだ。

一刀の足は、肥沃な大地と険難の要害を抱える蜀へと向かった。
少女を一人、供に加えて。



      ■ 外史終了 ■ 





[22225] 険難の地に自らの赤い“モノ”を図に撒き散らすよ編 2
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2018/09/04 02:47



clear!!         ~西方の華が芽吹いて擾乱と騒乱が荒野で咲き乱れるよ編11~



clear!!         ~険難の地に自らの白い物を図に撒き散らしているよ編1~



今回の種馬 ⇒      ☆☆☆~険難の地に自らの白い物を図に撒き散らしているよ編2~☆☆☆





      ■ 天険突破



 いくら何でも、少し考えが甘すぎたか。
そう後悔するのはそう遅くなかった。
金獅を売り飛ばされて、一刻も早く取り戻そうと蜀へと向かう足を早めたが、険難峡谷をすぐに乗り越える事は難しかった。
天から鉈を振り落とされて山が割れたかのように深い谷。
一歩踏み外せば、そのまま谷の底まで落ちていきそうなほど高い場所。
だというのに、通れそうな道は自分の体躯の横幅よりも狭く細い間道しか無い。

「くっ、これなら近道なんかしない方が早かった……」
「だから、忠告したのです……」
『だから言ったのに』

 息を切らせて歩く郭嘉と脳内の声を意図的に無視して、一刀は頭を掻いて後悔した。
分かれ道に差し掛かった頃、山を登る道と迂回して大回りする道に別れていた。
脳内の自分達と郭嘉、あわせて九人中、七人が迂回する道を支持したが一刀はより都に近い横断の道を選んだのだ。
使う人間が少ないとはいえ、通る人が居るのならば通れない筈は無いと考えたからだ。
ちなみに、無回答どころか話にも参加しなかったのは"肉の"で、通れるんじゃないかと支持したのは"南の"と、初めて蜀の地を踏む"白の"であった。
どちらも楽観的に見た結果である。
で。

『本体、いい格言を教えよう。 急がば回れだ』
『"白の"が言うと説得力があるな』
『文末に(笑)をつけてあげよう』
『……"俺"はともかく、郭嘉さんが居るんだ、性急すぎたんだ』
『もう何も言わないよ……』

 好き勝手語りかける脳内の声を追い出して、一刀は一歩間道に踏み出した。
向かって右側はほぼ九十度の断崖がそそり立っている。
左側はもちろん谷の底だ。
踏み出した一歩目、一刀の足が接地すると同時に細い通路から小石が弾かれて谷の底にパラパラと落ちていった。
乾いた音がいやに耳朶に響く。
後ろで、ゴクリと唾を飲み込む音がはっきりと聞こえてきた。

「一刀殿、本当にここを渡るんですか?」
「う、うん。 今更引き返せないし……」
「ですが、これは……っ」

 姿は見えないが、谷底をおそるおそる覗いているのだろう。
小さく息を飲み込む声が聞こえてくる。

「下を見ちゃ駄目だ。 なるべく早く焦らず急いで正確に行こう」
「は、はぁ……」

 一刀もチラチラと視界の端に映る崖下の光景を無理やり追い出して、二歩目を踏み出す。
その背を追いかけるように、腰を引かせつつ郭嘉も後を追った。
前を見据える一刀は、ぎこちなく、時に地面から離さずにすり足で着実に歩いていく。
足場の細い険難峡谷の道は僅か数百メートル。
慎重にならざるを得ない場所だからか、一刀と郭嘉の掌にはじっとりと汗が滲んでいた。
お互いに歩き始めてからは一言も喋らなかった。
全神経を集中して足を踏み出し、右手の断崖に手をかけ、時に腰を落とし、前だけを見て進んでいた。

そんな二人の精神を揺さぶるように、強い風が土埃を伴って吹いてくる。

耳の奥を揺さぶる風の音、その風圧。
二人共、進めていた足を留めて右手の崖に背を預けて、突き出た岩地を力を込めて握っていた。
すぐ隣の少女の荒い息づかいが聞こえてくる。
チラリと様子を窺えば、今の風のあおりを受けて、崖下を捉えてしまったのか。
顎を持ち上げて呼吸を落ち着けるように胸元を手で押さえながら、目線だけは下を向いていた。
一刀も郭嘉の視線に釣られるように、崖下をあおぐ。

背筋を震えが走っていった。

『郭嘉さん、なんか……』
『ああ、なんかエロイな……』
『確かに』
『おい、やめろ』
『はは、まぁ、この調子なら渡れそうだね』
『一度渡れれば、次も大丈夫だろうし』
(つ、次……?)
『あと4箇所くらいかな。 ここ以外に後一箇所だけ長い崖道があるんだ。 そこから下り道になるよ』

 一刀は脳内ナビゲートには常に助けられてきたが、今の情報は出来れば聞きたく無かった。

「か、一刀殿、早く、早く進んでください」
「ご、ごめん、分かった」

 それから一刻半ほどの時間をかけて、本体は脳内に励まされ、郭嘉は一刀に励まされて無事に広い道へと足を付けることが出来た。
情けない話しだが、一刀の膝は震えていた。
このまま腰を落ち着けて、一心地つきたいところであったが、今のような道がまだ続くのかと思うと憂鬱となる。
もしも足を休めてしまったら、今日はもうこのまま動けなくなってしまいそうだった。
郭嘉もまた、思わずと言った様子でへたり込み、顔を伏せて安堵の溜息を漏らしていた。
それを見て、一刀は思う。
この先も同じような場所が後3箇所あるんだよ、と教えるべきか。
だが、そんな事を口走れば地勢を知っているのに、どうして迂回しなかったのですか? と問われるかも知れない。
一刀だってこんな場所だと知っていれば、避けていた。

一刀はしばし悩んだ末、脳内に相談することにした。

『やめた方がいいね』
『だな』
『なんで?』
『郭嘉さんはほら、俺に会う為にわざわざ曹操の下を離れて来たんだろ?』
『そう言ってるね』
『彼女の事だから、"天の御使い"の噂はほとんど拾っていると言っていい』
『あー、稟ならそうだろうなぁ』
『で、つまり、何が言いたいんだ?』
『ドS疑惑が……』
(……)

 そんな噂もあった。
いたいけな少女を虐めて下卑な笑みを浮かべているという、一刀からすれば噴飯物の苦い思い出が。
すっかり一刀も忘れていた話だったが、"天の御使い"の噂話は、良し悪し問わずに天下を駆け巡っている。
金獅の馬を盗んだ、あの小さな邑でも伝わっているほど。
後世に名を残すほどの智謀の士が、その噂を知らないはずがない。
この険隘(けんあい)の道を選んだのが、反応を見て楽しむ為などと思われては溜まった物ではなかった。

「ふぅ、すみません……お待たせしました」

 汗を掻いたのか、胸元のあたりの服をパタパタと引っ張りながら立ち上がる郭嘉が言った。
口元に僅かに達成感を得たような笑みを浮かべ、泰然と佇む一刀の下に歩み寄ってくる。

「はは……行こうか」
「はい、行きましょう」

 結局、一刀は何も言わなかった。


―――・


「ほ、ほら、郭嘉さん」
「……」

 都合四度目の渓谷の細道。
一刀が身振りで促すも、郭嘉の足はビタっと大地に根を張ったかのように動かなくなってしまった。
それも仕方が無いことだろう。
一刀自身、"南の"に飛んで渡ってもらったのだ。
崖の道は非常にも、半ばで崩れており約一メートルほどとはいえ、道が無くなっていたのだ。
一刀が大股で一歩踏み出して、ギリギリ届くか届かないか。
深い谷底へと落ちるかもしれないという恐怖が、その一メートルの溝を長大な物にさせていた。

「っ、あはっ……」

 人間、感情が膨れあがると、最終的には笑うものだ。 郭嘉は崖道の途上でそんな風に思った。
ぬか喜びも二度、三度と続けば、四度目もあると覚悟は決まる。
そうだ、崖の道を歩く覚悟は決まった。 
だが、道が無いとは聞いていない。
何度か風で揺られつつ、崖の道の上で虚しく響く、くぐもった郭嘉の笑いが中空に消えていった。

 確かに、一刀が大切にしていた馬を盗まれたのは自分が行き倒れたせいもある。
それは分かるし、一刀を間近で見極めようと決めたのは自分である。
"天の御使い"であることを差し引いても、何処か惹き付けるお方だとも。
しかし、何故自分はこんな場所で強風に煽られ、崖道に立ち竦み、地味に命の危険に晒されているのだろうかと。
素直に迂回していれば、こんな目に会わずに済んだはずだ。
急いでいたのは理解できるが、馬と人間の足では速度に天地の差があるではないか。
どうせ追いつけないのなら、回り道をした方が安全だし結果効率は良かっただろう。

 目の前で自分を安心させるように笑顔で手を差し伸べる一刀を見て、やにわに顎を引いて崖下へと視線を落す。
おかしい。
こんなに深い谷の上、人の足二つ入るかどうかの細道で、どうしてそんな風に笑っていられるのだろうか。
堕ちたら終わりではないか。
天文学的な確率でよしんば命が助かったとしても、寝たきりになるに違いないのである。
もしかして、自分を虐めて楽しんで居るのだろうか。
邪推だと頭の中では分かっていても、感情はそう思わずにはいられなかった。
"天の御使い"だというのなら、いっそ自分の身体を抱えて空を飛んでくれれば良いのに。
いや、やっぱ怖そうだからそれは断ろう。
郭嘉の思考が彼女らしからぬ益体の無い考えに及んだ時、一刀は口を開いて提案を持ちかけた。

「分かった、じゃあ手を掴んで。 たとえ踏み外しても、俺が絶対に引っ張り上げるから」

 今日何度か分からない、恐怖に身を縮ませる郭嘉の耳に一刀の力強い声が入ってくる。
そんな彼に恨めしそうな視線を送る一方で、頼もしい声に期待を送る。
ゆっくりと差し伸べらた手を掴まれた。

「合図を送ったら跳んでくれ」
「は……」

 震えた声は、言葉にならなかった。
しっかりと肯定を返そうとしたのに、脳の命令を体が上手く実行してくれない。
ぐっと掴まれた腕が痛むほど、一刀の手に力が篭る。
一刀もまた、突き出した岩肌で身体を支えるように腕に力をこめていた。
どちらにしろ、このまま一生を過ごすわけには行かない。
郭嘉は覚悟を決めたのか、目を硬く瞑りながら宣言した。

「分かりましたっ、い、行きますっ!」
「来い!」

 動かない足を叱咤して、深い谷底へと繋がる溝を飛び越える。
腕を伝って一刀が引っ張りあげる力が強くなったのに気がついた。
身体は空を舞って、地面に着地―――できずに異様な浮遊感を感じて数瞬、重力に引っ張られて堕ちていく。
目を瞑りながら飛び出したのだから、着地などできるはずが無かった。

「ぎゃああああああっ!」
「か、郭嘉っ!」

 少々、はしたない悲鳴を上げながら体が中空をさ迷った。
一刀に腕を捕まれて、堕ちていく身体が止まった。
勢いがついていたから、ぶらりと足が揺れていく。
恐怖にたまらず郭嘉の閉じた瞼が上がった。

視界に広がるは険難峡谷。
岩肌と太陽。
耳の奥を揺らす風と木々。
そして、中空で重力に引っ張られている己。

郭嘉の思考能力はぶっ飛び、真っ白に塗り替えられた。

「かかかかかか、一刀っ殿、落ちっ、しにしにっしに死にますっ! 九分九厘死にますっ! 空を飛んでっ、飛んでくださいっ一刀殿っ」
「無理だって! 飛んだらそれこそ死ぬからっ! 落ち着いてっ掴んでるから暴れないでくれっ!」
「そら、空がっ、堕ちてっわわわ」

 途中からはもう、言葉にならない悲鳴をあげて、とにかく身体を振り回した。
丈の短いスカートが断崖に引っ張られ捲りあがり、眩しい白い肌を曝け出す。
一刀はたまらずバランスを崩しそうなところ、"南の"に支えられて必死で郭嘉の腕を掴む。
言葉はもはや通じなかった。
なんとか無理やり引っ張りあげて、包み込むようにして郭嘉の背に手を回す。
震えて目尻を潤ませる彼女を落ち着かせるように、耳元で大丈夫だと囁く。

「ハッ……ハァッ……ヒッ、はっ……か、一刀殿……」
「大丈夫だ、もう平気だから。 もう少しだ」

 郭嘉は背中から胸の下にかけて回された一刀の腕を掴み、痛いほどの抱擁を受けて冷静さを徐々に取り戻すと同時。
じんわりと感情を揺さぶられて、眦をとろんと下げた。
胸板に体重を預けて顔を寄せると、力ない拳をペシペシと当てる。
一刀は片腕だけでも抱え込めるほど華奢な郭嘉の身体に抱きつつ頭を振った。

「ひ、酷いです、こんな道……死んだら終わりなんですよ、う、恨みますから」
「ごめん、でも大丈夫。 もうすぐ終わるから……」

 ようやくその身の震えが収まり始めた頃、郭嘉は冷静さを取り戻し始めていた。
これほど焦燥したのは郭嘉自身すぐには思いだせ無い程、久しぶりの事であり、それがなんとも恥ずかしい。
顔を赤くした彼女は、一刀に抱かれている事実も相まって照れを隠すようにまくし立てた。

「い、意地悪な人ですっ、変態です……こうやって、どうしようもない状況から頼らせるだなんて、あまつさえ抱き込みどさくさに紛れて胸を揉みしだいて…そのまま一気に行こうと―――」
「あ、いや、これは事故で、別にそんなこと……」
『やばいっ、止めろっ!』
「え?」
「押し倒されて文字通り後の無い崖の上、身動きをすることすら許されず……はっ! 既に服の裾まで捲ってっ何と言う手の早さっ、まさか前戯もなしに貫通して破瓜を楽しもうと―――ぶはぁっ!?」
「うわあああああっ」

 吹きすさぶ峡谷の空に、赤い花が舞った。
狭い険難の道。
不安定すぎる足場から、抱えられたまま昏倒した郭嘉を支えようと一刀の身体が泳ぐ。
ゆらりと二人の身体が空に投げ出された。

 ああ、西陽が綺麗だ。

そんな思いを抱く一刀の状況に気付いた"肉"のは、無言で主導権を奪うと郭嘉を器用に手繰り寄せて抱えると
垂直に立つ崖を地面にしたかのように力強い足取りで、絶壁を伝うように"駆け"抜けた。
物理法則に従って谷底に落ちていたかと思えば、ぐるりと視界が回って物理法則を捻じ曲げて中空で方向転換する。
しかも速い。
レールの無いジェットコースターに乗り込んだようにも思える。
崖には一刀の足跡がクッキリと残され、踏み込んだ形跡を残すように、砕けた岩石が音を立てて谷底に吸い込まれていった。
第三者が目撃していれば、一刀が空を走っているかのようにも見えただろう。
郭嘉が持病の発作を噴出してから僅か二十秒足らず。
ついに、二人は険難の崖を踏破することに成功したのである。

―――・

 渡りきって一刀は一様に押し黙り、主導権を奪っていた"肉の"は言いづらそうに頬を掻いてぼそりと呟いた。

「ごめん、寝てたんだ」

 申したいところは其処ではなかったが、改めて聞くのも怖かった。

『……ハハハ、こやつめ』
『ハハハ……』
(……)

 乾いた笑いで誤魔化す脳内の声に、本体は今度こそ腰を落としてへたりこんだ。
誰かが、もうお前一人で良いんじゃないかな、などと呟いていた。
本体は心中で同意して、そのまま大の字に寝転んだ。
その日、郭嘉の血にまみれた一刀がそこから動く事はまったくなかったという。
 


      ■ 血の防波堤

 

 自然の要害を抜けた一刀達は、一人分だけ道ができている細い間道を縫って峡谷を抜けた。
気兼ねなく歩くことが出来る大地がこれほどありがたいとは、と感動しながら歩く。
まだ陽はあるものの、道中で小川を見つけた一刀は、振り返って後を歩く郭嘉に声をかけた。

「今日はこの辺で休もうか」
「……」

 郭嘉は無言で了を返した。
あの渓谷を越えてから目に見えて口数が減った事に、少し心配になってしまう。
川のほとりまで降りると真夏の厳しい暑さが嘘のように、涼やかな風を運んでくる。
さっそく野営の準備に取り掛かり、獣避けの焚き火を囲い、粗末な食事を取る。
大陸の各地を巡って慣れているはずの郭嘉が、食事を取り終わるやいなや、船を漕ぎ始めたのを目にして一刀は小さく息を吐いた。
言ってしまえば、金獅を盗まれてしまったのは歓待を受け入れ油断してしまった自分にもあるのだ。
道行拾ってしまった彼女に無理をさせていると、罪悪感のようなものが擡げてくる。
一刀は物音を立てないように立ち上がり、流水の音を奏でる川辺の流木に歩み、腰を降ろした。

「蜀の都はどのくらい先かな」
『徒歩だと四、五日くらいかな』
『南蛮が近づいてきたなぁ~』
『はは、"南の"は嬉しそうだな』
『だねぇ』

 こうした旅路の中で、戻ってこない"董の"や"馬の"の事。
そして本体が翠や月に音々音の想いと重なるような、情愛の念が溢れている変調。
これらは脳内でも話し合いが既に成されており、一刀達の結論としては華佗の忠告もあって『消えた』と判断していた。
一刀達は"董の"や"馬の"が辿った外史を聞いている。
どちらも死を迎えたことによって終わりを告げ、本体の中で眼が覚めた。
彼等だけでなく、それぞれ差異はあれど本体の中で眼が覚めた経緯は同様だった。
誰かが言った―――

『案外、幽霊になって本体に憑いたのかもね』

 ―――なんて話は、オカルト染みてはいたが、既に超常現象と言って良い自分の状態に、一刀達にとって納得できそうな論であった。
長きに渡って考えていた自分達の状況は、"董の"や"馬の"が消えてしまった以上、答えの一つが出来たと言っていいだろう。
本体が自分達の影響を受けて、自分の愛する者を愛するというのは、ちょっと思うところが無いではない。
だが、どちらかというと迷惑をかけて居るのは脳に住んでいる自分なのである。
もしも本体だけでこの外史に落ちてきたのであれば、どうなっていただろうか。
たらればを考えても詮の無い事ではあるのだが。

 本体はそっと円形の小石を選んで拾い、川に向かって投げ入れた。
水しぶきを幾つかあげて、転々と水上を歩いて、やがて落ちていく。
空は赤く焦げて、今にも夕闇に染まりそうであった。

 本体は投げた体勢のまま、動かなかった。
自分が土地勘も常識も持ち合わせていないこの場所で生きてこれたのは、脳内の自分達が支えてくれたからだと思っている。
同じ北郷一刀であっても、経験のない自分を引っ張り上げて導いてくれた先輩みたいなものだ。
感謝している。
その感謝に報いるためにも、ねねを愛した自分のように、彼等の愛した物。
いわば、恋姫と言える彼女達へ会わせてあげたい思いを持っている。

それは今も変わらないが、しかしと思うところもある。

(みんなの想いが流れ込んできたら、俺の本当に大切な人を忘れてしまうかもしれない)

 一刀が触れ合うことで恋姫達の感情を揺さぶるように、自分にも影響が出てしまっている。
それは、すごく漠然としていて明瞭に出来ない心の奥底から沸く感情だ。
正直、扱いがたく、怖い。
心底、一刀はそう思っていた。
それだけで翠や月を含め、一刀が触れ合った人たちの強さを見た気がした。
二人共、こんな不可思議な現象を受け入れるだけじゃなく、前を見て歩いているのだ。

『……それ、なんだけどな』

 ふと、脳内の誰かが呟いた。

『俺達は良い、ただ、物凄い重要な問題があると思うんだ』
『……ああ、そうだな』

 しみじみと、他の誰かが頷いた。

『頼むから"肉の"は本体から最後まで消えないでくれないか』
『消えるとしても本当に、最後にしてくれ』
『ああ、最重要事項だ』
『もしも俺達より先にお前が消えたら、本体が大変な事になる』
『乗じて、俺達まで大変な事になる』
『そうなると頭がおかしくなって死ぬ』
『つまり、本体が詰む』
『詰んでるというか、詰んでた、になる』
『みんな酷いな。 貂蝉は見た目はともかく良い奴なんだよ』
「俺は見たこと無いから、なんとも言えないけど……そこまで言われると会ってみたくなるなぁ」
『本体ェ……』

 なんだか万感の思いが篭る声色で、自分を哀れんでいるのか羨んでいるのか本体は判らなかった。

『いや、分かってるんだ、俺と同じお前が言うなら信じるよ』
『俺も"肉の"は信じるよ、でもそれとこれとは話が別だよね』
『そうだね、身体能力がおかしいとかそういう問題は細事だよ』
『ああ、別だな』
『次元が違う』
『……』
『いや、俺も貂蝉が嫌いな訳じゃないんだぞ?』
『ただ、その、荷が重いというか、なんというかだな』

 全員が声を揃えて言うものだからか、"肉の"はやがて押し黙り、なんか気まずい雰囲気が立ち込め始めた。
怒っているのか、それとも聞く耳を持たない話だと断じたのか。
結局、"肉の"を慰めるのもそこそこに、本体が会わなければ良し。
会っても逃げれば良しという事で決着はついた。
少なくとも、最後の最後までは、そのスタンスを貫いてくれという嘆願に、本体は曖昧に頷いたのである。

「まぁ、まずは金獅を取り戻さないとね」
『そうだな、ただ―――』
「ただ、問題はありますね」

 まるで脳内との会話を聞いていたかのように、水面を見つめる一刀の背に声がかかる。
振り向けば、眠っていたはずの郭嘉が眼鏡の居住まいを正しながらこちらに歩いてきていた。

「おはよ」
「ええ、うとうとしてました……不覚です」
「はは、疲れてたんだ、仕方ないよ。 それで問題って?」
「気付いているとは思いますけど、黄忠は金を出して馬を買い取っていますから。
 ただ会いに行って返してくれでは納得はできないでしょう。 名馬とあれば尚更、手元に残したい欲はあるはずです」
「そうだね、俺もそう思うよ……郭嘉さんは良案でもある?」
「ありません、と言いたい所ですが、一刀殿は"天の御使い"ですから、そこから光明は見出せますよ」

 そこで言葉を区切ると、一刀の腰掛けている隣に座り込む。
流木がバランスを欠いて、僅かに揺れ動いた。
わざとらしく、拳を作った手を口元に寄せて咳払いを一つ。
郭嘉はそのまま握った拳から指をピョンと一本伸ばして口を開いた。

「黄忠は益州牧の劉焉に仕えていると聞きます。 "天の御使い"の噂も知っているでしょう。
 清廉な者なら、事情を知れば返してもらえる事も可能だと考えます。
 ただ、一刀殿は王朝からは追放されていますから、馬を欲せば見逃す代わりに譲ってくれと言うことも考えられますね」
「ああ、その辺は黄忠さんや劉焉さんが俺の事をどれだけ知っているのかで変わってくると思う」

 一刀も勿論、急いで金獅の背を追う一方で、取り返す方法を考えていた。
金を払って手に入れたという、れっきとした大儀が向こうにはある。
加えて"天の御使い"は中央から追放されていることも一刀の弱みだ。
買った金獅をどう扱うつもりなのかも分からない。
主である劉焉へ献上したとなれば、非常に難しい問題になるだろう。
最悪、諦めることも視野に入れるつもりだった。
いかに戦場を供にした相棒だとはいえ、馬一頭で自身の夢を捨てるわけには行かないからだ。

「まずは黄忠と直接会えるように窓口を築くのが常套かと思われます」
「うん」
「それと、一刀殿は付けられた値段に納得はいきますか?」
「値段?」

 郭嘉の言葉に、一刀は一瞬視線を交わして自問するように口を開き、両手を併せて考え込んだ。
千金で即決されたという話である。
寒村ひとつからすれば破格の値段と言えるが、一刀は金獅を金銭で考えたことなど一度も無かった。
いや、屋敷がどうのこうのという部分にはぶったまげはしたが。
金に代えられない大切な相棒であると考えているのだ。
同じ金額を一刀に差し出されても、金獅を譲ることは無かっただろう。
黙った一刀に、彼女はなおも言葉を続けた。

「相手が買ったのだと主張したら、強気にふっかけるのが良いかと思います」
「そんなことしたら、怒らないかな。 それが切っ掛けで捕らえられるのは困るんだけど」

 武威の地でやらかした失敗、何度も繰り返すわけにはいかない。

「対外的には追放を知らない民草から見れば、一刀殿は無二に英雄です。
 殺すことは風評を気にして劉焉は避けるでしょうし、手元に於いておくのも王朝の目を気にして忌避するはず。
 馬一頭諦めることで問題がなくなるのなら、よほどの馬鹿でない限り躊躇はしないでしょう」
「馬鹿だったら?」
「その場合は逃げましょう。 愚者の相手は疲れるだけです、諦めてください」
「……」
「ふふ、でも私は劉焉は馬鹿ではないと思ってますよ。 この地に足を運んだのは初めてですが、風聞は聞き及んでいますから」
「なるほど……でもさ、馬騰さんのように捕らえる事はありえるだろ?」
「それでも、拘束が長引くことは無いでしょう。 一刀殿をどんな形であれ抱え込む事。
 王朝の者にとって、現状は不吉の始まりと考えるはずですから、臣下の反対も多いと思います。
 それでも、わざわざ捕らえるとなれば、腹の底に別の企みが眠っていると推測できますね」
「うーん」

 つまり、捕まりそうになったら何が狙いなのかを問い質せば良いと郭嘉は言っていた。
一刀の命は名声が守ってくれるから心配ないとも。
最後に、一刀ならば及んでいた考えではあると思いますがと謙虚に締めくくって。
一刀は頷いた。
馬騰に不用意に近づいて投獄された経験もあって、最悪の事態を考えていたのである。
黄忠と接触し、その主の益州牧の劉焉と会うことになる可能性はあるかもしれないと。
そうなれば、追放された一刀にとっては困った事態になるわけだ。
脳内から、黄忠の人となりを聞いている一刀は彼女とだけ話を進めたいし、それがベストだと思っている。

「ありがとう、もしもそうなったら試してみるよ」
「あくまでも今手元にある情報だけでの最良ですから、都で内情が探れればもっと良い方策はあるかもしれません。
 不測の事態を考えて、一応話しておこうと思ったまでです」

 一刀は郭嘉の言葉に喜色を含みつつ頷いた。
最悪の展開を思い浮かべることは出来ても、具体的にどうすれば良いのかまでは思い浮かんでは居なかった。
売れている名を持って強気に出れば良いと背を押してくれる声は、一刀にとって頼もしい物であった。

ふいに、隣に座る郭嘉の体が揺れた。
すっかり暗くなった星空を見上げて、両手をつっかえ、息を吐いていた。
雲はあるものの、満天と言って良い星空だった。
今では流石に見慣れた物の、この世界に降り立って圧倒された星が降りそうな夜空には感動したものである。

「一刀殿」
「ああ」
「曹操殿のように立つことは考えないのですか?」
「……封殺されるから止めろって教えられたよ」

『超必殺技・ミコトノリがあるからなぁ』
『3ゲージぶっぱされちゃうもんな』
『ガー不だし』
『しかもぴよる』
『立った瞬間、賊に向かう矛先が逆賊になる俺達に向けられるんだよねぇ……』

「えっと……それに、俺の志は現王朝の存続に拠っているんだ」

 そう言う一刀に、空に向けた視線を落として郭嘉はその横顔を見つめた。

「……なるほど、曹操殿とは相容れぬ訳ですね」
「はは、やっぱり郭嘉さんの目から見ても、そうなるのか」
「正直言いますと、曹操殿を見た時は背から龍が生まれてくるような錯覚を覚えました」

 国を龍と例えることはこの時代の常である。
郭嘉は言外に曹操の背に新たな国の兆しを見たと言っていた。
なまじ三国志という知識を持っていた一刀には、郭嘉の言葉は胸に刺さった。
誰に聞いても、一刀が知っている知者は口を揃えて言うのだ。
漢王朝はもう駄目だ。
乱世になる。
それは正しいのだと一刀だって思える。
それでも諦めないのは、同じように漢王朝を支えようとする志を持つ人が居るからだ。
劉協、音々音、桃香や何進だってそうだ。

「郭嘉さんは、どうするんだ?」
「私は……」

 一刀の問いかけに郭嘉は目を閉じて、小さく溜め息のような物を吐いた。
曹操も一刀も主と仰げば龍の産声を見る事ができると感じた。
間違いなく言えることは、一刀も曹操も志は違えど傑物だと言って良い。
あの邑の一件だけではない。
黄巾決戦、西涼平定、どちらも天運だけでは決して成し得なかった実績が一刀にはある。
数多の噂に上るように、大陸の人間は一刀を見て歓声を上げている。
英雄だ、と。
しかし、民が本来見上げて敬い、歓呼して迎えなくてはならないのは帝なのだ。
郭嘉はこの事から、龍の産声となれども、古龍の息を吹き返すには足らぬと判断している。

「一刀殿の志は立派だと思います」
「そうか」

 それは漢王朝の存続を目指す一刀にとっては皮肉を含む返答に他ならなかったが、郭嘉の言葉は続いた。

「ですが、一刀殿が立ち上がるのならば私は……」

 郭嘉はそこまで言って口を噤むと、首を振って俯いた。
そうなる事は無いだろうと気付いてしまったからだ。
惜しい、と思わずに居られなかった。
まだ間に合うだけに、もしも立っていれば曹操よりも一刀に仕えてみるのも面白いのではないかと思えたからだ。
郭嘉も勿論、仕えるからには支えがいの在る者を主君に仰ぎたい。
曹操の下には既に荀彧や風が居るのだ。
自分の認めた数少ない一人"天の御使い"の下で、天下を賭けて知を競うのもそそられる話である。
例えば、一刀が今立つとすれば、自分なら―――
そんな眉間に皺を寄せて押し黙った彼女を見て、一刀は笑った。

「ははっ、そんな顔するなよ。 悩むのはいいけど、顔を歪ませて選ぶような事でもないさ。
 郭嘉さんの思う心根に従って出した答えが、君にとっての自然な回答だと思うよ」
「はぁ……意地悪な人ですね、相変わらず」
「え? なんでそうなるんだ……」
「分かりました、もう少し悩むことにします」

 郭嘉はふっと笑って、膝に手を置く一刀に掌を重ねた。
突然触れられて、一刀はビクリと肩を震わす。

「峡谷ではありがとうございました」
「……いや、俺の方こそ、つき合わせてごめんよ」
「いえ……でも、これで二度目です、ありがとうございます」
「郭嘉さん……」

 そっと触れられている手に、一刀を真っ直ぐに見つめる瞳。
一刀の胸中が騒ぎ始めた。
なんというか、良い雰囲気である。
小川の流れる森の中、満点の星空の下で志を語らい、触れ合う男女の掌。
一刀の脳裏に音々音の顔がふっと過ぎった。
ダーイ、とか言いながら親指を首下に当てて切り裂いている。
浮かび上がった映像を掻き消すように首を強く振った。

「あ、すみません……」
「いや、ごめん……嫌じゃないんだけど、急にその、どうしたの?」
「えっと……自分でも良く分からないんですけど、一刀殿に触っていると何だか落ち着くんです」
「……そうなの?」

『あー、心当たりあるかも……』
『"魏の"?』
『いや、持病の歯止めの一助としてさ……鼻血と生涯を添い遂げるとか言うから』
『あー、なるほど』
『"魏の"、やはり特殊な性癖が……』
『鼻血プレイとか……引くわ』
『違うって、だからその鼻血を抑えるためにしょうがなくというかだな、華琳の事もあったし』
『でも、確かにあれだけの出血量ではいずれ命に関わるだろうし。 鼻血の心配が無くなるなら、手伝うのは吝かではないけど』
『え?』
『え?』
『これだから"無の"は……』
『とはいえ、俺もあの出血量は心配だけどね』
『まぁ、それは確かに』
『おいおい……』
『ここは一皮剥くのも手ではあるよね……』
「一肌脱ぐじゃないのか」

 思わず突っ込んだ本体の声に、郭嘉はパッと身を離した。
ついでに腰ごと引いて後退り、両手を交叉させて頬を赤らめていた。
脳内から溜息半分、茶化すような笑みが半分響き渡ってくる。
ともすれば、すっかり脳内の会話で毒気を抜かれた一刀は、素晴らしく冷静であった。

「か、一刀殿、いきなり何をっ何処を脱ぐっていうんですかっ、逸物自慢でも始めるおつもりじゃ……脳がおかしいんじゃないですかっ」
「ああ、うん、脳はおかしいかも知れないけど、何でもないから落ち着いてくれ、血が出るよ?」
「っ、突然そんな事を一刀殿が言うからですっ、からかわないで下さい!」
「ほら、最近水浴びもしてないから、身を清めようかなって」
「……まさか、そう甘言をして覗く気では、それを機に劣情を一気に―――」
「そんなことはしないよ、血が出るよ?」
「っ、くぅっ、まるで風のように私をからかって、やっぱり一刀殿は意地悪な人ですっ」

 もう付き合ってはいられないとばかりに立ちあがって、パタパタと駆けて去っていく。
その顔が真っ赤だったことから、なんというか申し訳ない気持ちが沸き起こる。
確かに雰囲気は良かった。
一刀も実際に事を起こすつもりなんて無いとは言わないが、いや、勿体無かった。
じゃなくて、無かった。
ただ、あれだけ脳内が騒がしいと冷める。
ナニがとは言わないが。

『……作戦成功だな、うん、音々音が怒るもんな、うん』
『ああ……危ないところだったな本体、"魏の"の機転がなければ即死だった』
『さすが郭嘉だな、稀代の賢者だと言える』
『などと、脳内が意味不明の供述をしており……』
『うわ、ずっこいぞ"無の"!』
『落ち着け"仲の"』

 馬鹿らしい話に突入した脳内を無視して、一刀はとりあえず郭嘉に疑われぬように水浴びをすることにした。
嘘ではあったが、水に浸した布だけで身体を拭いていただけなのも確かだ。
都に入る前に川で水浴びするのも悪くないだろう。

明朝、一刀達は金獅を取り戻す為に蜀に向かい始めた。
この道中、ある事実が判明する。

「なぁ」
「……なんですか」
「そろそろ治まりそうかい?」
「もう少しお願いします……」

 一刀の腕をとって寄り添うように歩くのは郭嘉だ。
ペタペタと肌に触れて、赤い顔を俯かせながら歩いている。
微妙に当たる胸の柔らかい感触に、一刀の鼻の穴が僅かに広がった。
これだけ触っているのだ。
感情を揺さぶる素振りこそ見せなかったが、郭嘉は例の感情の揺らぎを抱いている事だろう。
其れはいい。
そもそも、崖の道を通る時には致し方なかった部分も大きかった。
だが、こうしてペタペタとさわりに来る未来の軍師殿には、もっと別の理由があったのである。

 一刀に触ると鼻血が止まるのだ。

これが、この道中最大の発見と言っていいものだった。
もはやトントンを越えた止血方法および、暴発防止装置として一刀は郭嘉に触られていた。
そこに甘い空気は勿論ない。
無いのだが。
一刀にとってはこうして肌を合わせようと付き添う彼女の姿は、言うまでも無いだろう。
若い、男なのだ。
つまり、生き地獄である。

「……もういいかい?」
「まだちょっと……」

 離れようと腕を振る一刀に、郭嘉は足を早めその腕に縋った。
傍から見れば彼女が一刀に甘えてるようにしか見えない。

「……そろそろいいかな……」
「だめです、まだもうちょっと……」

 郭嘉の縋るような声に、一刀は妙に荒い息を押し隠し唾を飲み込む。
実は、郭嘉にとっても生き地獄ではあるのだ。
確かに、良く分からないが一刀と触れ合うと鼻血は出ない。
なるほど、それは喜ばしい事だ。
この体質は幾度となく改善しようと対策を並べてきたが、どれも効果は薄かった。
一刀に触れると止まること、出ないことに気がつけたのは素晴らしい発見だとは思う。
少なくとも、年中撒き散らす事がなくなるのは良い事だろう。
だが、異性に自分からぺたぺた触りに行き、逃れようとする一刀を追いかけて触り続けようなどとする自分には羞恥しか沸いてこなかった。
当然、そんな事をしている事実から妙な妄想が鎌首を擡げてくる。
つまり、鼻血は止まるがすぐに出そうになるのだ。
もう鼻から血が出たり入ったりしてるような物である。
腕を離した途端に血飛沫を上げる己の姿が、容易に想像できた。
だから、一刀を離せない。
でも、恥ずかしいから早く離れたい。
これを生き地獄と言わずなんと言おうか。

四日後、二人は乳繰り合っているとしか思えない様な形で、蜀の入り口に当たる梓潼の都に辿り付いた。

一応、どちらの意味でも無事に。



      ■ 煩悩転じて



 宿を取って、郭嘉からようやく解放されると、一刀はぼんやり都の住人を道の片隅に座ってみていた。
ジリジリと照りつける太陽が眩しい。
頼んでも居ないのに体からは代謝に従って、じんわりと汗が滲んでくる。
唯一マシだと言えそうなのは、割と乾燥していて纏わりつくような暑さでない事だろうか。
ここ最近、雨が降っていないことを考えると、日照りが続いているのだろう。

「あー……」

 腰にかかげた竹の水筒をあおいで、街行く人々を観察する。
別に目的があるわけではない。
ただ、これ以上宿に残してきた少女と接触していると一刀の頭が爆発しそうだったのだ。
理性の警鐘が野生の本能に飲み込まれそうだったのである。
四六時中腕や背中に張り付く少女が横に居れば興奮しない筈が無い。
ましてや、美少女と言える整った顔立ちを赤らめていれば。
決して、この夏の日差しだけが体の熱を生み出している要因ではなかった。

 やがて、一刀はおもむろに立ち上がると街の中を当ても無くぶらつき始めた。
前を歩く女性が、夏の日差しからか少々刺激的な格好で歩いていた。
濁った視線が臀部の辺りに注がれていく。

「……」

 無言で方向転換。
煩悩が鎌首を擡げ、じっとりと心中を犯していくのが自覚できていた。
これはもう、何処かで一発いっとかないと駄目だろうか。
男性特有のどうしようもない催しに、一刀が地味に苦しんでいたときに、それは現れた。
曲がり角を過ぎた直後、視界を埋め尽くす紅碧色の髪と巨乳。 
掻き揚げられて簪で止められている壷惑的なうなじであった、あと巨乳。
艶かしい体躯に不釣合いとも言えそうな肩当と巨乳。 腰に徳利のような巨乳を携えた巨乳。
そして巨乳が、目の前にあった。

「……oh...」
『あー、桔梗かぁ……まずいなぁ』
『ああ、まずいなぁ……』

 一刀の口から見事だと褒めるような感嘆の息が漏れる。
道に突っ立ってボーっと妙齢の女性を眺めていると、視線に気付いたのか、彼女は企むような笑みを浮かべて一刀に声をかけた。

「おう、そこの儒子(こぞう)。 わるいが手伝ってくれんか」

 一刀は茫洋と頷くが、すぐには近寄れなかった。
子象とは遺憾である。
いや、そうではなく。
顔を二度三度振って、終いには水筒を頭から被り、気合を入れるように顔を叩く。
気合を入れなければ、煩悩に流されそうだったのだ。
下手すれば、顔ではなく胸と会話しそうである。
女性に指で指し示されたのは、まだ十にも満たない小さな子供であった。
どうやら家屋の尾根に遊具が飛んでしまったらしい。
それを取るのを手伝え、という事なのだろう。
一刀は察すると、何処に道具を飛ばしたのかを教えてもらい、その場で屈みこむ。
女性は暖かな目で子供を安心させるように声をかけると、一刀に声をかけた。

「では、失礼する」

 肩に圧し掛かる重みに小さく呻く。
白い太腿が服の裾から飛び出し、一刀の顔の横から突き出てきた。
後頭部に何か柔らかい物が押し付けられている。
甘い匂いが鼻腔をついた。
一刀の喉が鳴った。

「……」
「おい、はやく立ち上がらんか」
「あ……ああ、すみません……」

 僅かに蹈鞴を踏みながら、女性を肩車のようにして歩き始める。
顔を太腿で挟まれ、時に女性の腰が上下し、手を伸ばして居るのを視界にぼんやり収める。
どうも絶妙な高さのようで、なかなか取れないようだった。
焦れたのか、一刀の頭が手で押さえつけられたかと想うと、彼女の太腿が視界を通り過ぎて肩に足をかけた。
急な加重に、一刀も流石にバランスを崩す。

「しっかり立て、男だろう! もう少し右じゃ」
「っ……」

 上から叱咤する声に、気合で踏みとどまる。
女性が落ちないようにと足首に手を回し、ガッチリと固定した。
煩悩が僅かに吹き飛び、一刀は意識して足に力を込めて歩き始める。
人を肩に乗せて歩くことは、鍛えている一刀であっても中々に辛い物があった。
早く終わらないかと、胸の内で密かに願って顔を上に上げた。

視界を埋め尽くしたのは、手を伸ばす女性の姿ではなく壷関であった。

「wow...」
『本体、わざとじゃないよな』
『いやまぁ、眼福ではあるが』

 脳内の声が終わるか否か。
目的の遊具は取ることができたようで、飛び降りるように彼女は地に降りた。
一刀を無視するように横を通り過ぎて、子供の下に向かっていく。
快活な笑みを見せて頭を撫でる女性を一瞥して、一刀はその場を颯爽と去っていった。
礼を言おうと女性が当たりを見渡した時には、彼の姿が消えていたのである。
しばし首を傾げたが、彼女はまぁ良いかと肩を竦めて踵を返した。


―――・


 翌日、一刀は眼が覚めると朝一番に町に繰り出て、女性の下を訪れていた。
彼女は一刀を見ると、すぐに昨日会った男であると気がついたが、それよりもまず驚きに眼を剥いた。
その顔(かんばせ)はとても凜とした物であった。
淀んでいた目は光を取り戻し、キラキラと輝いているようにも見える。
真っ直ぐに延ばした背中が、精悍さを増していた。
爽やかな笑みを浮かべる目の前の男が、昨日手伝ってくれた男の表情と打って変わって、まるで別人のように感じたのだ。

「昨日は用事があって話もせずに辞した事を謝ります」
「お、おう。 それにしても、随分と男前になったではないか」
「はは、まぁ一つ悩みが解決したと言ったところです」

 そんな前置きを挟んで、お互いに名乗りあう。
一刀は目の前の女(ひと)が厳顔であることを知っていたが、勿論そ知らぬふりである。

「陳寿殿、わざわざ会いに来たということは、何か用があるのだろう」
「ええ、実は厳顔殿が黄忠殿と知己であることを聞きまして」
「いかにも。 なんじゃ、そんなことか」

 本題はもちろん、金獅のことだった。
邑での出来事を隠さず、馬を盗まれて勝手に売りに出されたこと。
その大事な馬を黄忠が買って行ったこと。
なんとか話し合いの場を作りたいことを、若干大げさな演技を交えて厳顔に伝えると、彼女は抑揚に頷いた。
全面的に一刀の言葉を信じた訳ではないが、豹変と言っていい一刀の様子から八割がた事実だろうと感じていた。

「よかろう! わしと紫苑は友人だ……そうじゃな、今から時間はあるか?」
「ええ、ありますよ」
「では今すぐ行くか。 お主も大事な馬ならば早く会いたいだろう」

 最後に豪快に笑い、一刀の肩をベッシベッシと音が鳴るほど叩く。
ふっと厳顔の鼻腔を付く匂いに、彼女は眉を顰めた。
一刀は苦笑を浮かべつつも、心の内で第一関門は突破したとほくそ笑んでいた。
先を進む厳顔の背を追うように、追随する。
街の中心に向かっていく中、突然一刀の背を衝撃が襲った。

「っ、と、郭嘉さん!?」
「す、すみません、一刀殿……危ないところでした……ふがっ」
「なんだ? 連れか?」
「え、ええ」
「ふはっはっはっはっは! なるほど、儒子の豹変振りに納得がいったわ! 隅が置けぬな、このこのっ」

 茶化すように背の郭嘉を見据えて、厳顔は肘を一刀の腹にぶつけていた。
一刀は誤魔化すように笑いながら、郭嘉の耳元にそっと口を寄せる。
厳顔から黄忠を尋ねる窓口が出来たことは彼女も知っていた。

「あのさ、鼻血、出そうなんでしょ?」
「は、はい……申し訳ないです」
「どうせだから、一緒に行こうか?」
「え、ええ。 しかし、この体質だけは本当に侭なりません……っ」

 耳打ちする一刀と頬を染めて頷く郭嘉へ、暖かい眼差しを送りながら厳顔が口を開いた。

「ふふっ、中々のスケコマシじゃな。 一緒に行くのは構わんぞ。 儒子は運が良い、政務の関係で劉焉様と同じく黄忠もこっちに顔を出していたのだから」
「な、なるほど、それは確かに運がいいですね」
「す、すけこま……むむむっ……」

 出たり入ったりして唸る郭嘉と、そんな彼女に苦笑する一刀を見て肩を震わせながら、厳顔は屋敷を過ぎ、官舎の集る府内に足を向けた。
厳顔の背を追いながら、一刀は少し不安になった。
蜀と一言に言っても、その範囲は広い。
最悪、厳顔と会えなければ一周巡ることになっただろう。
それは幸運だと言える。
だが、まさか、このまま府内へ行って直接に会わせるつもりなのだろうか。
身分を隠している一刀は、できれば官吏の立ち寄るような場所は避けたい。
黄忠と会うのも、今すぐではなく夜になって個人的に会えればそれでよかった。
何でも無い様に黄忠へ会わせると言ったので、わざわざ職務に当たっている最中に突撃するとは思ってもいなかったのである。
今から断ろうにも、一般市民を装う一刀から言い出せば、厳顔への侮辱となる。
彼女は好意から案内を申し出ているのだ。
身分を考えれば、一刀の方からやっぱり止めます等とは言えなかった。

そうして辿り付いたのは、その不安を証左するかのように、益州牧が身を置いた官舎の前となる。

「奥に紫苑……儒子が探しておる黄忠がおるはずだ。 ふふっ、そう不安そうな顔をするな、誰も取って喰おうなどとは思っておらんよ」
「は、はは、そうですね。 行きましょう」

 引きつった笑みを無理やり引っ込めて、郭嘉に腕を取られながら一刀は官舎をくぐって行った。
同時、今更引き返せないと考え、腹を括ったのである。
金獅を取り戻しに来たのだ。
"天の御使い"であることは今のところバレてはいないようだし、例え気付いても隣に郭嘉が居る今、そう畏れる事もあるまい。
少々予想とは違った形になったが、対応策は授かっているのだから。
官舎に辿り着くまでの腰を引いたような歩き方が、目に見えて変わった。

そんな一刀を横目で見ながら、面白い儒子である、と案内を買って出た彼女の顔に笑みが浮かんでいた。
ちょっとだけ、強気になったり弱きになったり、色を好んだりと、短時間で妙な変貌を繰り返す一刀に興味が出てきた厳顔であった。



      ■ 退却



 一刀が不可抗力で官舎に案内されていた頃、上党に一つの報告が届いていた。

「官軍が退いていきます」

 その報告を聞くやいなや、裴元紹は燃え盛る家屋から飛び出すように走り出した。

 洛陽での決戦で敗れた波才と馬元義の下から、張角や張宝を救えたものの、三女の張梁だけは曹操軍に捕まってしまった。
この情報は、もちろん雑兵には塞いでいるが姉である二人には隠しとおせなかった。
致し方なく裴元紹は張梁が拿捕されたことを伝えた。

本来、彼は波才の失敗した直後から北に逃げる準備を進めてきたのだが、張梁が捕まった事によって水泡と帰したのだ。
決起に利用したとはいえ、彼女達が居なければ黄巾が立ち上がることは不可能だった。
まして、軍として働く兵のほとんどが、元は鍬を持つ農民で構成されているのだ。
電撃戦以外に取る道は無かったと言っていい。
負ければ逃げるだけしか道は残っていないのだ。
だが、もともと大道芸人であった少女達にその道理を理解しろというのも無理だった。
三人揃わない限り、逃げたくない。
裴元紹は諦念めいた息を吐きつつ、頷いたものだ。

決起に利用されたと言っても、いや、だからこそ彼女達は黄巾の首謀で、主旗なのだ。
逃げないと言ったからには、戦うしかないのである。
ではどうするか。
裴元紹は悩みに悩んだ。
彼女達を生かす為に上党に集った大量の軍勢は、皮肉にも官軍の大きな膿として注目が集る。
賊徒の討伐を掲げて精鋭が差し向けられるのは時間の問題だ。
これをまず、何とかする必要があった。

その対処は、西に眼が向けられた。
裴元紹は洛陽に潜む官吏との連絡を取り、印をくすねると、軍備を整えている西涼の者へと書簡を届けさせた。
それも一度や二度ではない。
必要があれば、金や糧食も送りこんだ。
それが功を奏したのかは分からないが、西涼に大規模な叛乱が巻き起こる。
この時に上党の包囲が緩む事を期待していた。
ところが、包囲は緩むどころか西から袁紹の軍勢が討伐を名目に攻め入ってきたのである。
加えて、あまりに速すぎる西涼の叛乱鎮圧の報告。
"天の御使い"はどうも黄色い天は嫌いらしい。
こりゃだめか、と舌打ち一つ。
官軍はともかく、諸侯の軍閥は手ごわい。
袁紹と言えば大陸に轟く名家であり、財力も飛びぬけている。
裴元紹はこの報告を持って決定的な敗北となることを悟った。

「敗軍にもやりようはあるってもんさ、なぁ? 周倉」
「……」
「幽州の奴等じゃ公孫瓚にやりこめられちまって期待はできねぇな。 西の奴等も囮にもなってくれんとはふがいねぇって。
 袁紹はどうにもならねぇから、やっぱ官軍ってとこだねぇ、まったくもって上手くいかないもんだって、なぁ」

 周倉は頷いた。
何にせよ、無駄に大軍となった上党の黄巾は兵糧の問題もあって限界が来ている。
西の動乱が長引けばいいが、駆逐されれば後が無くなるのだ。
動くにはこの時機しかなかった。
裴元紹は大げさに髪の無い頭を掻いてから、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって声をあげた。

「おい」
「はいっ、ここに」
「兵糧なぁ、あるだけこっちに全部持って来い」
「は? いやしかし、袁紹とぶつかってる我が軍の―――」
「おーいっ、いやあっはっはっは、二度も言わせんなって、なぁ? あるだけ全部持って来いって言っただろうが」
「……は、はい……」
「行け」

 手を振って追い出すと、周倉は無言で立ち上がった。
裴元紹は両手を開いておどけたように肩を竦める。

「行ってくる」
「おう、達者でな」

 何処かへと物凄い速さで走っていく周倉を見送り、裴元紹は張角の下に向かった。
三女を取り戻して逃げる。
それが出来れば上等、出来なければ……まぁ、仕方ない。
我が子とそう変わらず、気がつけば首謀者に祭り上げられた少女達は出来れば助けてあげたかったが、世の中にはどうにもならない事も在る。
例えば、そう。
漢王朝のような腐りきった国の趨勢のように。
一応、保険として青洲に周倉を走らせたが、そもそも逃げ切れる保証は何処にも無い。
少女達が過ごす上等な部屋の前に立つと、彼は懐から異様に長い帽子を被って扉を開いた。

「裴元紹さん……」
「ちょっと、急に開けないでよっ!」
「いやぁ、申し訳ねぇですって。 けれども、情勢が動きそうなんで、報告に来たんです。
 近く張梁様の救出の目処が立ったんですわ。 ええ、ええ、もうそろそろ三人で逃げれますよって」
「本当に!?」
「わぁっ、良かった! ありがとう、裴元紹さん」
「いいってことです。 皆で移動するんで、ええ、ええ、荷物は最低限にして逃げましょうや」
「……う、うん、でも」
「天和姉さん、ちぃ達、もう逃げるしかないんだよ」
「そうだよね……しょうがないよね」
「曹操から人和取り戻したら、南にでも逃げよ、ね?」
「うん、分かったよ地和ちゃん」
「そいじゃ、準備に行きますんで。 ええ」

 こうなったからには忙しい。
張角達に構ってる時間も多くは取れない。
裴元紹は急ぎ次の仕掛けに入った。
書簡をしたため、すぐさま洛陽へと数人の囮と共に人を放つ。
後は―――

「果報は寝て待てって、なぁ」

―――・

 上党へ向けて官軍が徐々に北へ押し上げていた。
この軍勢を率いる将軍は盧植と朱儁である。
西を朱儁が、中央を盧植が抑え、袁紹が東から黄巾を叩いていた。
こうして抑えとして甘んじているのは、単純に兵力が少なく弱卒だったからであった。
西の大規模な決起から、何進は敗残となっている黄巾よりも危険であると判断、皇甫嵩と孫堅を援軍に差し向け、大多数の官兵を任せていた。
盧植の手元には残らなかったため、徴発も已む無しとして、現地で徴用したのである。
このような兵は発奮する材料に乏しく、士気は低い。
その上装備は貧弱で寡兵と来た。
もはや三重苦を背負っていると言ってもいい。
それでも、黄巾は洛陽の敗北を知ってから士気が落ち込んでいるせいか、戦術を用いて跳ね除ける事は容易ではなかったが出来ていた。
袁紹が動くまではひたすら我慢が続いていたのである。

ようやく袁紹が動き始めると、盧植は朱儁と共に天幕で話し合い、主街道を抑えるだけという消極的な案でまとまった。
本拠地から遠く布陣し、盧植と朱儁の天幕を開けすぎず閉じすぎず、絶妙な距離を保ちどっしりと掎角とした。
大軍が攻め入ってくれば即座に撤退。
少数で来れば、双方で援護を。
後は袁紹軍の奮起に期待という奴である。
そうして二十日が過ぎた頃。
動きがあった。
朝廷からの使者が、盧植の天幕に入って来たのである。

「盧将軍はおられるか」
「はっ」
「ただちに兵を引けとの勅である。 洛陽に戻られよ」
「は?」

 盧植は黒髪を揺らして、猜疑の目を傾けた。
形式上、上座に立つ官吏は頭を下げる盧植の手に、書は手渡された。
中身を確認すれば、確かに兵を引けとの旨が書かれている。
それも、玉璽印つきと来た。

「……拝命いたします」
「よろしい。 では疾くそのように」

 こうして後退を余儀なくされたが、それに納得しなかった者が一人居た。
朱儁である。
陣を引き払う準備を進める盧植の天幕に、噴飯やる方無い足取りで朱儁は入り込んだ。
怒気も隠さず、盧植に近づくと、外に聞こえるまでの声量で詰問する。

「盧将軍! すぐに兵を引けとはどういう事だ!」
「勅命が出たのだ、逆らえぬ」

 この朱儁の様子を予見していた盧植は、溜息と共に卓に置かれた巻物を指し示した。
朱儁は剛直な男である。
道理に反する事であれば徹底して糾弾する、一本気の入った者だった。
それだけに、嘘やおべっかを嫌い、武人肌の男でもある。
勅書を読み終えた朱儁は、地団駄を踏んで悔しがった。

「もう少しだというのにっ、何故このような命を帝は出したのだっ!」
「はっ、大方思い当たるだろう?」

 嘲笑を含む嘲りに、朱儁は音が鳴るほど自身の手で額を叩いた。
戦況は有利であると報告している。
このような命が出るのは不自然を通り越して明らかに作為を感じた。
つまり、そういうことなのだ。

「くそったれっ!」

 怒りに任せて、朱儁は卓を蹴飛ばした。
天幕の名からに筆や書簡が乱れ飛び、墨が大地を濡らし黒く染めた。
即位したという話を聞いてから、朱儁には漢王朝が力を取り戻す兆しを見ていた。
いや、見たというよりは、望んだと言った方が正しい。
漢という国に住む一人の男として、その禄を食む武官として、仕える王朝の未来を憂いて。
だというのに、目の前で賊との癒着を証左されて朱儁は歯を剥いて怒りを露にしていた。
帝の近くに在る大将軍は何をしているのか、と。
周囲はこの勅を止めなかったのか。
肩で息を吐く朱儁の疑問には、盧植が腕を組んで答えを聞かせていた。

「おそらく、我等の出した報告は届いておるまい」
「なに!?」
「何処かで差し押さえられたのだろう。 或いは、偽造されたかだ。 そうでなければこの命令は出せない」
「……っ、盧将軍っ! 気付けなかったか……っ!」
「ああ」
 
 盧植の握りこんだ拳からは、赤い物が伝って地に落ちていた。
よく見れば、彼女の目は赤く腫れている。
朱儁がここに来るまでに、同じような感情を抱いて憤っていたのだろう。

「陣を引き払ってくれ、朱儁殿」
「……っ分かった」
「自分の無能が恨めしいよ……まったく、急に郷里が懐かしくなった」

 朱儁は盧植の、半ば独白のような言葉に同意を示すようにして頷き、目尻からは涙が零れた。
蹴倒した卓を自ら建てて、散らばった書簡を戻しながら、鼻をすする。
本当に恨めしいのは、漢を売る汚職に塗れた者達だ。
目の前の盧植は官職を辞すかもしれない。
朱儁は声こそ上げなかったものの、その頬を濡らす滴を途切れさす事は無かった。
無念であった。




 盧植の天幕を後にし、退陣の準備に入った折、朱儁の顔は精悍だった。
ただ、悔やむだけで終わるなら誰にでも出来る。
そうしないのは、ひとえに自分が将軍であることと、漢を憂う一人の士である事を自負しているからだ。
出来ることはしなくてはならない。
最悪の中でも最良を手に入れなければ、徴用されて戦っていた者の御霊が浮かばれないだろう。
慌しく陣払いを始めている喧騒の中で、朱儁は一人の若い兵を呼び寄せた。
鋭い視線を向けられて、青年は思わず目を泳がした。

「来たか」
「はい!」

 この若者は徴用された者の中でも一等士気の高い民の一人だった。
若さからか、その溌剌さと誠実さは朱儁の好むところである。
天幕の中に現れたその青年に、朱儁は卓の上に置いてあった紐でまとまった銅銭を掴むと、そのまま手渡した。

「将軍様、これはいったい……?」
「お前はこの軍中において一際精力的であった。 憂国の士だと言える。 そんなお前に、私から頼みがある」

 官軍においても皇甫嵩に並び勇名を馳せる朱儁に、真正面から見つめられて青年はゴクリと唾を飲み込んだ。
金を渡し、そのような前置きを本題におくからには、よほど重要な話に違いないと気付いたのだ。
だが、その本題に入る前に、朱儁は外の兵に某かを呼びかけた。
入って来たのは兵に連れられた一頭の雄馬であった。
口を受け取ると、朱儁は兵を外に出し、それを確認してから口を開いた。

「お前が馬に乗れることは分かっている。 こいつは軍の中では一番の駿馬で俺が乗っていた」
「将軍の馬……私は、私は一体何をすればよろしいのですか」
「この戦いには何の意味があったと思う?」
「……意味、ですか?」
「そうだ」

 青年はしばし黙考し、朱儁に賊徒を討つ為だと答えた。
考えている間に朱儁は筆を手に取って竹簡を広げると、手馴れた様子で書き込んでいた。

「目的はそうだ。 だが、ここで撤退するという事実はな、我々が戦った意味という物を失わせたのだ」
「……そんな」

 朱儁の答えは青年にとっては無情の物であった。
命を賭けて戦ってきたというのに、意味の無い物だと言われれば、その衝撃は凄まじい。
徴用された者達の中で、何もしてくれない国の為に働く事は無いと汗を垂らす若者を馬鹿にしたことがある。
その人は、翌日居なくなった。
嘲りを受けた直後は憤ったものだが、居なくなってしまうとなんとも言えない虚無感を抱いたものだった。
そうした事は数多くあった。
その全てが無意味だと言われたのである。

朱儁は書簡を作る手を止めずに、青年が理解するのを待ってから口を開いた。

「この戦いを意味のあるものにしたくはないか」
「……将軍、分かりました、命を賭けて成し遂げます」
「良し! 良く言った! これを持て!」

 書き上げたばかりの書簡を、若者の腕を取って強引に握らせた。
青年は渡された書簡を一瞥し、朱儁の顔を見上げる。
真っ直ぐに見据えられて、しかし、今度は目を泳がせる事無く朱儁と合わせて下知を待つ。


瞳の色に覚悟を認めた朱儁は、一気にまくし立てた。

「我等が撤退した後、賊徒共はその後を追うようにして南下するはずだ。
 これを持って奴等が向かう先に居る者に知らせろ。 信用できそうな名は書簡に書いてある、それ以外の人間は無視しろ。
 できることなら仲間を装って向かう場所と軍勢の目論見を暴くのだ。 信憑性が増す。
 私の印と血で証明された物だ、誰に憚ること無く事を自信を持って進め。 道中は他人に声をかけられても全て無視しろ。 責任は全て俺が取る。
 良いか、それが出来れば俺とお前の勝ちだ。 出来なければ負けだ、命を賭けろ!」
「は! お任せ下さい、必ず全うします!」
「夜になってからこの駿馬に乗って走れ。 馬を休ませる以外に休憩も挟むな。 行け!」

 朱儁の言葉が終わると、両手を重ね深く礼を一つ。
青年は馬の口を引っ張って朱儁の言葉を忘れないように、呟きを繰り返しながら陣を後にした。
朱儁はそれを最後まで見送って、椅子に座ると深く背を預けてから、天井を見上げて大きな息を吐き出していた。

―――・

「官軍が退いていきます」

 裴元紹は伝令の言葉に嘘が無かったことを自身の目で確かめると、ニヤリと笑みを浮かべた。
劉宏帝が崩御され、劉弁が即位したという話だったが、いやはや。
何にせよまだ、中央にも繋がりが保てた事は僥倖としか良い様が無かった。

「金ってのは他人を動かす為にあるもんだってな。 元から自分の物じゃあねぇんだから、懐も痛まねぇって。 嬉しい事実があったもんだ、なぁ」
「伝令です! 袁紹とぶつかっている者達から、援軍と糧食の催促が来ています!」
「あぁ、そりゃほっとけ。 俺達には張梁様を取り返す使命があるんだってば、な?」
「は、はい……」

 周囲に居た兵の一人に朗らかな笑みを浮かべて肩を叩く。
兵は曖昧な笑みを浮かべて、裴元紹に同意した。
帽子を仕舞いこんだ懐に手を伸ばして、裴元紹はその場から立ち去る。
まるで、歌でも歌っているかのように首を揺らして。

「曹軍は精鋭だろうなぁ。 一当てして駄目なら、後は天運に任せろってところかい」

 ほぼ、敗北は見えているような物だ。
用意できる糧食は二万の規模と考えても二十日が限度だろう。
上党から陳留の距離では、強行軍でギリギリだ。
他は残念だが、帯同は叶わない。
精々、袁紹相手に頑張ってくれる事を願うだけだ。
それに、帯同するのも良し悪しと言うものだ。
行けば戻って来れないだろうし、既に袁紹に敗北を喫するこちらに戻る必要もまた無い上、向かう先は乱世の奸雄と名高い曹操である。
始まる前から諦めるのも難ではあるが、張角と張宝は曹軍に捕まるだろうと裴元紹は想定していた。
考えようによっては、"三人一緒"になる事は出来るので、その意味で違いは無い。
この辺が自分の限界であることも自覚できて、裴元紹は上手く立ち回った方だと自賛した。
彼女達の希望には答えることは出来たと言って良い。
自分自身も逃げることが出来るかは、敵とぶち当たった時に分かるだろう。
黄巾決起を決めた時から、最悪は常に考えてきた。
やるだけの事はやったし、負けを自覚できたのも周囲より客観的な視点を持って来たからだ。
国家が転覆するまでは不退転に挑む、その途中で投げ出すくらいなら初めからそのまま野垂れ死んだ方が心根に沿う。
そういう気概で取り組んできた大事は今、歴史の露に消えようとしているが、裴元紹はまたそれも良いだろうと考えていた。
人事を尽くした。
後は、まさしく天命を待つだけなのだ。

 そこまで考え、酒の入った徳利を手に取ると、ここ上党で知り合ってから意気の合う友人が脳裏に浮かんだ。
気を許すまでは無言、気を許した相手にも殊更無口だが、表情豊かで義侠心を持つ男であり裴元紹そんな周倉を気に入っている。
足の速い奴は、こういう時に得をするものだ。
周倉が無事に逃げ果せる場面がありありと想像できて、裴元紹は酒の力も相まって豪気に笑い飛ばした。


数日後、黄巾党は裴元紹の予想より遥かに超えて、総勢6万余の軍勢となった。
裴元紹の思惑が見透かされ、袁紹と矛を交えていた部隊の多くが勝手に合流した為だった。
それは兵糧の問題から、勝機は確実に潰えて行く予兆だと裴元紹は認めた。
それでも、時期は来たのだ。
この瞬間から、陳留だけを目指して一挙に進発することとなる。



      ■ 覇



 朱儁からの書簡が届けられたのは陳留、そこに治むる曹操であった。
正確には汗だくになって走り込んで来た、不審な男性を夏候惇が警邏中に目撃した事から事態を知るに至った。
若者が馬を潰し、昼夜を駆けて届けさせた書簡の出した名に目を剥くと一つ褒め、共の兵に若者を休ませるように沙汰を出し
夏候惇自らは曹操の下へと一直線に駆けて行った。
曹操が夏候惇から貰った書簡を一瞥すると、すぐに主だった諸将を集めて突発的な軍議の様相となる。
荀彧の声から始まったこの軍議に駆けつけたのは凪を除く全員であった。
彼女だけは調練で出ていた為、すぐに戻る事が出来なかったのである。

「黄巾の賊徒が向かっているわ、総数は6万ちょっとよ。 でも、実際に戦えるのはその五分の一と行ったところだと思われるわ」
「華琳様、すぐに編成して討伐に向かいましょう」

 両手を鼻頭と顎で支えるようにして目を瞑る曹操は、夏候惇のその声には無反応であった。
その余りの無反応っぷりに、また、何か妙な事を言ったのかと不安に陥って周囲を見回した。
が、周りはいたって平静で、むしろ曹操の様子を怪訝に思っているようであった。
自信を取り戻した夏候惇は、アホ毛を揺らして力説した。

「昼夜を駆けて報せてくれた者は、徴用された者で、戦っていた意味を取り戻したいと言っておりました。
 私は彼の義心に答えてあげたいと思ってます。 どうか私に先鋒を! 一挙に食い破って見せます!」

 それでも曹操は上下に揺れてるだけで、体勢を崩す事も目を開くことも無かった。
どうやら再び不安に陥ったのか、夏候惇が周囲を見回し始めたのを見て曹操の隣に控える荀彧が口を開いた。

「昨年は豊作に恵まれ、今年も問題は無さそうです。 相手と同数の兵でぶつかっても兵站は余裕があります」
「敵を打ち破り投降した者を食わすくらいは問題無いでしょう」

 補足するように夏候淵が口を開く。
そこでようやく曹操が目を開いた。

「黄巾の残党とぶつかり会うのはこれで三度目。 しかも此度は相手の方から来たわ。 これはどういうことかしら?」

 諸将がお互いに顔を見回した。
その様子を一瞥した曹操は、再び目を閉じてやはり動じなかった。
偶然だ、と言うことも出来そうだが、曹操の問いかけには別の意味が含まれていると推察できよう。
夏候淵は一度息をついて、腕を組みなおして考えた。
荀彧もまた、曹操の真意を探るような視線を向ける。
夏候惇は即答気味に答えた。

「はっはっは、偶然でしょう! まるで猪のようなやつらです! 何も考えず精兵揃いの我が曹軍に向かって来たに違いありません!」
「……」
「姉者……」
「あ、あれ……?」
「そうね、春蘭の言う事は的を得ているわ。 奴等には脇目も振らずに此処に来る目的があると言うことね」

 周囲が呆れた視線を向ける中、曹操だけは夏候惇の言葉に頷いていた。
そこで荀彧はやはりか、と曹操の懸念に思いあたる。
北郷一刀から張梁を生かせとの奇妙な書簡が届いていた。
ご丁寧に、玉璽印まで押された物だ。
黄巾の余波が続く大陸の事情から、曹操からは将以外に口に出す事を禁じられていた話であった。
そこから推察できるのは、曹操が 『張梁は黄巾の首魁の一人』 であると認めたことにある。

まだ獄中にある張梁が自決できないように見張られ、首を斬り落としていないのは扱いを決めかねたからである。
天代が中央から排された今、この玉璽の印がどれほどの意味を持つのかは分からないが、少なくともこれが在れば生かして居るのに名文が立つのだ。
生かす利点は順当に考えれば、黄巾から恨みを買わないことにある。
黄巾の乱は民の不満から噴出したものであり、民の恨みを買うということは風評に繋がっていく。
さらに、三人もの首魁が居ると言う話を信じれば、張梁を斬ったことにより残った二人に目の仇にされかねない。
大陸全土の黄巾が一斉に襲い掛かってくることは無いだろうが、余計な敵を増やす必要は無いのだ。
逆説的に、彼女達を懐柔できれば労せず"民望"を増やす事に繋がる。
恐らく、爆発的に人口は増えよう。
富国強兵の基本である、人口の増加というものが目の前にぶら下がっている訳でもあるのだ。

「桂花、持ってきなさい」
「分かりました」

 書簡を取りに行く間、荀彧はその頭脳を回転させる。
上党の包囲を形はどうあれ突き破った黄巾賊が、陳留へ一直線に向かっている事実。
張梁の存在が黄巾の目標であるのも明白だ。
飛び込んで来た朱儁の便りからも裏が取れている。
一度目は洛陽からの余波と見て疑いなく、これは偶然であった。
二度目は上党に向かう黄巾党の人の流れの中で、偶然を装いつつも作為的な侵攻の意図が見えていた。
そして、三度目となる此度はなりふり構わずと言った様相である。
疑う理由はもう無いと言っていい。
北郷一刀がそう言ったように、張梁は敵の首魁の一人だ。 
それがハッキリとした今、曹操の立場からすれば張梁は火種に過ぎない。

 自室に入って目的の竹簡を持ったところで、荀彧は曹操の奥にある懊悩に気がついた。
重要なのは黄巾との戦ではない、と。
当然、敵意を持って突っ込んでくる火の粉は振り払う必要がある。
ここまで来たら戦は必ず起きるし、当然負ける訳にはいかない。
重要なのは、その中に他の二人の首魁が居るのかどうかだ。
もし居れば、大きな判断を迫られる事になる。
殺すか否かといった単純な物だが、目に見える情報よりも黄巾首魁の事実は余波が広がるだろう。
黄巾、すなわち農を中心とした民から絶大な支持を集める張角、張宝、張梁の三人を斬ることは民の恨みを買うことになる。
温情を与え生かすことは、黄巾の者達から感謝を―――すなわち、民からの民望が集うことを意味した。
これは、曹操にとって最後の判断を下す転換点と定めているのだろう。
漢に拠るか、己が立つか。
そうだ、其処が曹操の胸中で鬩ぎあっているのだろう。
荀彧は一人きりになったことで、曹操の頭の中を直線文字にして読んだかのように確信した。

「……」

 そんな荀彧の視線が、手に持った書簡に吸い込まれていた。

―――・

 書簡一つを捜すには些か時間をかけすぎている。
曹操は荀彧が自分の悩みに気がついた事を察していた。
一刀が洛陽を追放されてからも、漢復興の手を何度か考えることはあった。
が、彼女の出した答えは付き合い切れないという物だった。
何より、朱儁が徴発した兵を用いて報せた中央の腐敗が如実に分かる此度の経緯は、曹操を心底呆れさせるに足りた。
これまでも我慢を重ねていた方であると自負するが、いい加減に限界である。
荀彧に命じたとは言え、本音ではそのまま書簡を持ってこないで欲しかった。
曹操の心中を察することが出来る彼女には、それを期待していた。

―――果たして、戻ってきた荀彧の手に書簡は無かった。

「おい、どうしたのだ」
「まさか見つからなかったのか」
「それは……」

 周囲の声に、状況を察した曹操の腹は決まった。
気がつけば、荀彧に向かって口を開いていた。

「三回目となる黄巾の中に首魁が居る可能性は?」
「は、十中八九は居るかと思います」
「何故?」
「官軍と袁紹に挟まれた賊が中央との関係を利用して作り出した好機、これを陳留に向けた事から、奇襲を持って張梁を救出する腹積もりだと思います。
 そもそも、情勢から考えれば黄巾党に勝利はありえません。 自棄になって一か八かの勝負に出るなら、天子の居られる洛陽を急襲するべきです。
 そのことを考えられないほど、馬鹿ではないでしょう。 そして首魁の張角・張宝が居ると断じれるのは、袁紹軍の規模です。
 上党には数十万の兵が居ますが、決して錬度が高いと言えない袁紹軍六万五千の軍勢に成す術無く総崩れになっているそうです。
 それと、まだ確かな情報ではないですが上党に残された兵糧が全く無いとの話も出回っています」

 すらすらと諳んじる荀彧の声に、曹操は頷いた。
目は開かれ、両手も下ろされる。
全員が居住まいを正して曹操に注視した。

「春蘭、真桜」
「ここに」
「はいな」

 夏候惇と李典が一歩前に出て礼を取る。

「前軍先鋒として六千の兵を率いなさい。 副将に真桜をつける。 陣を敷いて相手を威圧せよ。 攻撃は私が着くまで控えなさい」
「御意」
「了解」
「沙和」

 踵を返す夏候惇とすれ違うように、于禁が前に出た。

「はいなの」
「凪が戻り次第、五千の兵を束ねて後軍となりなさい」
「了解!」
「桂花、兵站を整えてちょうだい。 "民"が腹をすかせているはずよ、身に染みるでしょう」
「首はどうしますか」
「適当に用意しなさい、現地でも構わないわ」
「御意です」

 中軍には自分が着き、四千の兵を連れて行く事を宣言する。
荀彧の言った首とは、張角達三人の偽者を用意することを意味していた。
黄巾党に守られずっと秘匿されている首謀者の顔を見た者は居なかった。
つまり、そういうことだ。

「此度の戦は撃退や殲滅ではなく、懐柔よ。 相手は碌に食事も取れずに疲弊した賊、鎧袖一触にすることは容易でしょう。
 一当てした後、投降を呼びかけるわ。 逃げた者は追わなくて結構、追撃するくらいなら残った敵兵を一人でも多く降らせなさい」
 
 黄巾の決着は、恐らく今回で迎えるだろうと予感させている。
絶大な支持を得ている頭が消えれば烏合の衆になるのは見えているからだ。
迅速に命を遂行するべく、諸将が散って行く中で一人、軍議に参加しながらも発言することなかった少女が居残った。
姓を程、名を昱。
ぼんやりとした少女が今、曹操の視線に気付いたかのように顔を上げた。
荀彧の推挙から文官として取り立てたのだが、果たして如何なる物か。
わざわざこの場に一人残ったのだから、提案があるのだろう。

「風、此度の件で何かあるのかしら?」
「いえいえ~、大した事はないのですよ~」
「ふふ、わざわざ残って言うという事は、重大な事のようね」
「そですねー、まぁ、それなりにはー」
「聞かせて欲しいわ」

 不敵に笑む曹操の視線を真っ向からぼんやり見返して、程昱は口元に手を寄せて笑った。

「張梁さんは敵首魁の一人のようですから、戦場で見れば皆さん驚くかも知れませんねぇ。 牢中で暮らしていたのに、綺麗な姿を見れば尚更ですねー」
「なるほど、面白いわね」

 彼女の言葉から考えをほぼ知った曹操は良い手だと素直に心の中で賞賛した。
荀彧の推挙は間違い無さそうだ。
不倶戴天の敵に牢に繋がれていたはずの頭領格が、身綺麗にして現れたとなれば混乱するだろう。
少なくとも、敵は遮二無二突っ込んでくる事を控えるはずだ。
助ける筈の相手を乱戦で殺めたと在っては笑えない。

「採用しましょう。 気をつける点はあるかしら」
「相手の士気が一時的に高揚する可能性はありますが、大勢に影響は無いと思うのですよ。 上党から脇目も振らずに突っ込んでくる無茶な行軍ですから疲れているかと思うです。
 それと、張梁さんに逃げられてしまったら本末転倒なところですかね」
「そうね……どうせなら馬車も用意して春蘭の前軍に配置しましょうか」
「華琳様」
「なにかしら?」
「転じて懐柔という事は―――」

 程昱は途中で言葉を噤んで、礼をした。
曹操が言い終える前に頷いたからである。
大陸を震撼させた黄巾党の首魁が十中八九居ると聞いて、斬り捨てる名よりも懐柔という実を取った事は、言外に曹操の決意を表していた。
程昱が退室した後、曹操は椅子に座って考えに耽るように足を組んだ。
椅子の横に並べられた幾つかの武具に手を掛け、ゆっくりと鞘から剣を引き抜く。
刀身が燭台に灯る炎に照らし出され、赤く鈍い光が曹操の瞳を焦がした。

「北郷、交わることは無かったわね」

 完全に引き抜けば、甲高い抜刀の音が響く。
勢いを殺さぬまま、曹操は床にその刀身を突き立てた。
見えない何かを、断ち切るように。

「残念だわ」

 その反動を利用するようにして立ち上がり、一言だけ残すと曹操もまた部屋を去っていく。
残された剣だけが、静謐となった玉座の椅子の前で、鈍い光を返していた。

―――・

この十日後、曹操は兗州。
その陳留と濮陽の間にある草野にて迫る黄巾党と相対する。
先鋒の夏候の蒼旗の前に、これみよがしに相対した自軍の目的である少女が立たされていた事に、動揺が広がると後は速かった。
攻撃を控えるように張角が叫び、まるで呼応するかのように曹操軍の先頭で張梁も叫べば、もう成す術は無くなった。
裴元紹ですら、彼女の口を塞ぐのを止めれないほど、思考に空白が生まれていたのである。

「オォオォォオォオォォォオオオォォォォォオオオ!」

こちらの動揺が伝わっていたのか、曹操の軍勢が威圧するように鼓を鳴らし、銅鑼の音を響かせて雄叫びを挙げる。
まだ戦っても居ないのに、総勢6万の黄巾党が相対する約2万の曹操軍相手に、その足が退き始めたのである。
完全に隙だらけになった黄巾党の前曲へと、その盛大な雄叫びを続けたまま突っ込んでくる曹操軍の一撃。
それは戦意すら消し去る死神の鎌であった。
武器を落す者まで現れたのだ、勝負にすらなっていない。
敵将の裴元紹は、無茶な行軍と疲労、加えて糧食が持たずにすきっ腹である自軍の瓦解を一瞬で悟ると、高らかに笑った。
騎兵を豊かに持つ夏候の軍を見れば、逃げ切る事も叶わぬだろう。
彼は張角に全面的に投降することを促して、裴元紹は自らを縄で絞めると曹軍に向かって視線を見つめた。

「裴元紹さん……」
「はっは、いやまぁ、こうなっちまったなら腹を括るだけですって。 一応考えはあるから、ええ、ええ、まぁ見ててくれってな」

心配そうに見やる張角に笑みを浮かべつつ、そう答えて両の足で歩き出す。
既に曹操軍の攻撃は止まっているようだった。
戦意を持たないと判断したのか、それとも命令が下ったのかは分からないが、裴元紹には都合が良かった。
そんな彼の、縄で自らを縛った神妙ないでたちに、曹操が飛び出すと、夏候惇は彼女の隣を守るように並び立った。

「貴様が張角か!」

曹操の大きな声に、裴元紹は目を剥いて驚いた。
彼女の言葉を脳が理解すると共に、裴元紹の喉奥から爆発的に笑いが蒼天に響き渡った。
初めから、曹操は張角を手札に残すつもりだったのだ。
助けようと考えていた自分が滑稽にすら思えてくる。
ああ、天下の英雄の一人と言われる曹操と、同じ考えが出来たのだから、まぁ悪くは無いか。
そんな事をぼんやりと頭の片隅で考えながら、腹の底から笑いが突き上げてくるのを、裴元紹は止める事が出来なかった。
礼を失すると感じたのか、夏候惇は腰の獲物に手をかけたが、曹操はそれを手だけで制す。
一頻り笑った裴元紹は、真っ直ぐに曹操を見つめ、笑みを浮かべたまま首を伸ばした。
まるで、首を献上しているかのようであった。

「いかにも! 我こそ張角、黄巾の首魁ぞ!」
「良くぞ名乗った! 苦しまぬように一撃で首を刎ねてやろう!」

裴元紹のしゃがれた特徴的な声は、まるで全軍に聞こえるように大きな物だった。
それは、意図して自分が首魁であると公言しているようだ。
曹操は裴元紹の言葉に深い笑みを浮かべて、兵に仕草で示した。

そのそっ首が刎ねられる瞬間まで、張角を名乗った男は爆笑し続けた。

類を見ない手応えの無さ、ともすれば、茶番と思えてしまうほど呆気なく戦は幕を閉じた。
夏候惇には欲求不満な様相が窺えたが、裴元紹の潔さには大いに感服していた。
まぁ、彼女だけは裴元紹が張角だと本気で思いこんでいたのだが。

ほぼ無傷で手に入れた6万の"民"と、張梁が見つけたことによって合流を果たした張三姉妹は、曹操に手厚く保護されることになったのである。



      ■ 外史終了 ■




[22225] 険難の地に自らの赤い“モノ”を図に撒き散らすよ編 3
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64e381cc
Date: 2018/09/04 02:47



       ■ うたわれてるもの



 漢中から蜀の地の入り口である梓潼。 
そしてその地を含めて益州を治めている劉焉の元に降って沸いた一組の男女。
あまりに唐突、それでいて予想のできない、まさしく奇々怪々な者が現れた。
そう、彼らは招かれざる珍客である。
その事実を認めると劉焉は口元に白い手をあて目を瞑る。
急激に渇いた唇を湿らすように舌でなぞると、小さく息を吐いて思考に耽った。
この地へ訪れた男。 それは長く続く漢の時代において、それこそ数多の英雄と比べて遜色ないほどに突如として輝かしい光を放った妖星だ。
性を北郷。 名を一刀と言う。
劉焉は溜息を漏らし、片手で揺らす杯の中身をしばし見つめてから、瞼に手を当てて当時を振り返る。
帝である劉宏様がいきなりぶっ倒れたと思ったら"天の気"などという意味不明な接吻行為によって即時回復させたかと思えばだ。
全ての過程をすっ飛ばし、清流派と呼ばれる官吏達を巧みに追い出したあの悪名高い"濁流"どもを牛蒡抜きにして『天代』などという謎の役職に就任したのである。
それだけでも歴史に名を残すだろう未曾有の出世。 
劉焉にはとてもじゃないが理解が出来そうに無い手練手管である。
しかも、だ。
北郷一刀が出世を果した直後に起きた、洛陽での黄巾動乱では何時の間にか大将軍の何進を差し置いて総大将としての地位で出陣。
敵大将と一騎で槍を合わせて討ちとめ、賊軍を敗北させたらしい。
総大将同士による槍矛の交え、天に虹を描くなどと、伝え聞く英雄同士の会話でしか聞いたことが無い所業を、その場でやってのけたのだと言う。
いかにも上手く出来すぎた話である。
間違いなく黄巾の本隊と北郷一刀は繋がっていたに違いない。
狡猾なケモノ、北郷のことだ。 黄巾という賊徒は出世のための捨て駒とし、北郷一刀という人物が最大限利用されたのだろう。
その後、諸侯との繋がりを調教などという如何わしい名の講義を用いて、多くの少女達を帝の娘の離宮へと囲い―――『閉じ込めた』

 劉焉は不幸にも、"調教先生"一刀に出会う前と後で、豹変してしまった少女達が居るという事実を知る数少ない一人であった。
たった数刻の短い時間に何があったのか、それは判らない。
いずれも英雄足りえる精悍な少女達の一刀へと向ける眼、それは急速に変貌していったのを知っていた。
数日から数週間後にはとろろ~んとしていて、ゆがみ、淀んでしまっていたのだ。
筆頭たるはその場に居るだけで悪目立ちする袁紹だったろう。
あの傲慢で目に優しくない色合いの装飾品を馬鹿ほど身に着け、知性のかけらも見られないアッパラパーだった筈の女性。
それが北郷一刀と黄巾討伐に赴いた何十日か後に目撃した時は逞しさすら覚える気炎を纏う有様である。
そしてそんな豹変した袁紹も、天代がその場に現れれば一瞬でその相貌は雌の匂いを撒き散らす"ナニカ"に早代わりだ。
あの天代の毒牙(暗喩)が奮われたのは、劉焉が知る限り袁家である彼女だけではない。
劉焉がそれとなく宮中でスレ違うだけでも、市井から拾った平民……劉性を名乗っていた為思わず観察した桃色な少女や、有名な方の孫家の桃色な少女も。
普通に優秀であると評価され幽州を治むる公孫瓚、後は色々と騒ぎを起こして覚えのある曹操の部下もか。
もちろん、一見すれば何か変わっているようには見えない。
しかし劉焉には判ったのだ。 
普段から他者を観察し、その者の性格や仕草、特徴を頭の中に叩き込んで、この乱世を生き抜こうとする劉焉には。
北郷一刀は権力者たちの最も弱い部分を突いたに違いない。
何せ、あの男には"男たる証"(比喩)が付いている。
付いているから突いてしまう。
それは自然の発想・摂理であり、周囲に不思議を抱かせることはないだろう……なんてことだ―――自然じゃないか。 
劉焉は顔を天井に向けて零れ落ちそうになる涙を留めた。

 常識で考えて、僅かな期間で何人もの女性達を次々とトロ顔にして落としていく手腕はおかしい。
ありえないとは言わないが……いや、やっぱり在り得ない。
劉焉には天の御使いが妖術か何か―――劉焉が考え得る一番有力な妖術の候補はちんこ(直喩)―――で女諸侯達を陥れ、背後で操っているようにしか見えなかった。

 そういう理由で北郷一刀を意図的に避けていた劉焉であったが、天代であった頃の一刀は精力的に動いていて嫌でも目に触れる機会が多かったのだ。 そう、劉焉は一刀のことを一方的に知っていて、勘違いもしていた。 悪い方向で。
劉焉の額から嫌な汗が一つ流れる。
ここまで考えただけで、劉焉が治めるこの梓潼の地に"北郷一刀が在る"という事実を放り出して逃げ出したくなる。
時間にして数秒。 瞬きを一度、二度終えるかどうかという短い時間で劉焉は逃げる算段を立てるが、すぐに肩を落とした。
世の中には逃避することが出来るものと、出来ないものがあるのだ。
残念なことに今は後者の事態に陥っている。
現状を切り抜ける為に、そして今後の自身と領地の安寧を得る為にも劉焉は考えなくてはならない。
超"ド"級国家指定の超危険人物、そして個人的に最大級の要警戒人物として劉焉が脳裏に深く刻みこんだ野獣の男 『北郷一刀』 の魔の手から逃れるために。

「くっ……あ、あの男の目的は一体……まさか噂を聞きつけて私を狙って一発コマそうと……」
「いや、じゃから、馬を返して欲しいそうじゃと言ったではないか、御館様」

 思考が暴走し一人でうんうん唸り始めた劉焉の背後から桔梗の呆れた声が降ってくる。
首だけ器用にめぐらせて、劉焉は桔梗―――厳顔へと厳しい目線を一つ内心で毒を吐いた。
豪胆な性格の彼女は、彼を……あの北郷一刀を『天代』と知らずに案内してくれやがったのである。
こんなことになるのならば、出会って間もない桔梗と紫苑にも天代は漢王朝から追放されている、と伝えておくべきだったと劉焉は舌打ちする。
いや、もちろん北郷一刀はどうやら 『陳寿』 などという偽名を名乗っていた。
実際に中央との縁が薄い桔梗が、彼の風貌を知らなかったのは判るのだが。
だがしかし、知らなかったからとはいえ、どうして安易に一般人だと認識している者をわざわざ庁舎に連れてくるのだ。
自分達はこれでも役人であり、目立たないように立ち回っているとはいえ劉焉は曹操や袁紹と同じように諸侯の一人でもある。
身分的にはかなり偉い。 
州牧というのはそれこそ簡単に庶民―――しかも友人でも知り合いでも無い個人と顔を合わせることなどない。
今在る軍権を振りかざしてこのまま北郷一刀を『陳寿』として亡き者にしてしまおうか。
劉焉の握り締めた拳が震えた。
対面で桔梗が暢気に茶を啜り、息を吐く音が室内に響いた。

「桔梗っ! あんな危険な輩を連れて来ておいてよくもまぁ、のほほーんッとっ!」
「そう言われてもの。 普通の男じゃったが……いや、普通ではなかったか、劉焉様にはのぅ」
「ええいっ、笑うなっ! 違うんだっ、アレは―――"アレ"が彼の手口! 普通そうな一般人っていうのを武器にスッと権力者に精えk……じゃなくて近づいて伸し上がった逸般人! なんてことだっ、もう既に桔梗にも魔の手が伸びているなんてっ……」
「まぁまぁ、落ち着いてください劉焉様。 桔梗も悪気があって連れて来たわけでは無いんですから」
「悪気もなにも、紫苑が此処に居るのじゃから仕方なかろう」
「私が此処に居るのが悪いように言わないでよ、お仕事なんですもの。 居なくて困るのはあなた達でしょう?」

 困ったように頬に手を添えて紫苑は、椅子に座って組んでいた足を組み変えながら事実だけを口にした。
桔梗も組んでいた腕を左右に広げて肩を竦める。
王朝から遠く離れた地で日々を過ごしている彼女達は北郷一刀を知らなかった。 
『天代』なる者の噂は勿論知っていたのだが、その容姿や性格などはあくまで噂だけでしか窺い知れないものだ。
つまり、一刀へのアレな噂を含めて全て。
信憑性などあったものではないので、そのような人物が帝の近くに居るとだけしか桔梗と紫苑は心に留めて居なかったのだ。
事実、賊軍黄巾の一斉決起によって中央の話に構っている場合では無かったのもある。

「まぁとにかく……それで、劉焉様。 本当に彼が天代様なんですか?」
「ああ、間違いない! あれを見てみろ! この様な厳粛なる政務の場において何とも爛れた情景を見せつけているではないかっ!」
「あの方が本当に天代様なら、劉焉様は……」
「うっ、そ、それはそうだけど今はその話は忘れていいから! いいね?」
「あ、はい……」

 保険として拵えた、応接室を覗ける丸い穴の前で、劉焉はそのつぶらな瞳を一心に一刀たちへ向けた。
彼女達が居るこの場所は本来、劉焉が取引相手や諸侯の官吏、中央から派遣されてきた使者などと接触する前に、人知れずその人となりを把握・観察する為だけに作られた場所だ。
ぶっちゃけただのデットスペースとなってしまった空き部屋に申し訳程度の役目を持たせたに過ぎない。
ガン見を続ける劉焉の両脇から、ぬっと腕が伸びてきて重力の楔から開放される。
簡単に言うと、抱え上げられて脇にどかされた。

「ちょ、こらっ桔梗っ」
「しかし覗き穴は一つだけ。 見ろと仰ってもこれでは儂らは見れませぬぞ……っと、ほほう。 確かに焉殿の言う通り、仲良くやっておるのぅ」
「桔梗、彼が本当に天代様だったとしたら、冗談じゃ済まないのよ。 覗くだなんて不敬になるわ……それに、私の買ったあの馬のことなんでしょう?」
「紫苑、お主は焉殿が仰った"爛れた情景"が見たいだけじゃろ?」
「からかうのはよしてよ」
「では見たくないのか?」
「そうは言ってないわ、私だって見れるなら見るわ」
「不敬はよいのか、紫苑」
「まだ天代様とは確定はしてないじゃないの」
「おい、お前ら真面目にやってるんだよな?」

 劉焉の鋭い突込みは、桔梗の次の言葉で一瞬にして流された。

「ふぅむ、一方的に少女の方から擦り寄ってるのぅ。 どちらかというと天代殿は困惑しておるようじゃが」
「おい、遊んでるんじゃないんだぞ」
「遊びとは心外! わしは真剣に覗いておりますぞっ!」

 劉焉の叱責に、厳顔は活を入れるような覇気のある声を小さく出すという器用な事をして、力強く断言した。
その勢いに押されたのか劉焉は一瞬呆けた顔を晒し、黄忠もその真剣さに一つ目を瞑り、不気味な沈黙が支配するこの場の口火を切った。

「……そうね、遊びじゃないんだもの。 一応、彼らの事は私も確認しておくべきよね……ちょっとどいて、桔梗」
「こら、急に押すでないわっ」

 黄忠は厳顔の顔を、自身の顔でどかすと覗き穴へグイっと近寄った。
黄忠と厳顔の二人は小さな覗き穴を交互に顔を突き合わせ、肢体をくねらせて腰を振る。
この覗き穴は劉焉の身長に合わせている為、彼女よりも身長の高い彼女達は中腰か、四つん這いになる必要があったのだ。
その純然たる事実は判っていても、劉焉が信頼する二人が尻を突き出し左右に振って室内を覗こうといった間抜けた行動に、口から本音がこぼれ出す。

「……遊んでなど居ないのだよな?」
「もちろんですぞ、焉殿」
「そもそも、この穴自体が出歯亀する為の物の筈でしょう?」
「ぐぬっ、ま、まぁ、確かにそうなんだが!」

 そんな三人の視線を一方的に受け止めている男は、何故か一人の少女と寄り添い合い、"乳繰り"合っていた。

「あのメガネの娘、とても綺麗ねぇ。 それに、なかなか積極的だわ」
「うむ、腕を引いて乳をそれとなく当てておるなぁ」
「でもあのやり方じゃ勿体無いわよねぇ、もうちょっとこう誘い方ってものが……」
「確かにもう少し色気が欲しいところじゃの、誘惑の仕方くらい機会があれば教えるのも吝かではないが……」
「おい、紫苑も桔梗も不思議に思わないのか、此処は私たち役人の官舎なんだぞ」
「そうですねぇ……ふふ、劉焉様が仰る通りですわね。 これが若さってやつかしら? ねぇ、桔梗」
「うむ、楽しそうで何よりじゃ!」
「その反応はおかしいだろっ! もうどいてくれっ、私に見せろっ、私専用の穴なんだぞっ!」

会話の内容がそれを感じさせなかったが、全力で覗く紫苑と桔梗は真剣だった。
劉焉は二人の突き出た尻を叩いたり押し込んだりして、ぐいっとその身を滑り込ませる。
一方で覗かれている二人の男女は真剣な表情で雰囲気もピリピリとしていた。
それもそのはずだ。
一刀は言わずもがなだが、微妙な立場に置かれている彼に付き添う郭嘉も大概に危険を背負っている。
彼女ほどの知恵者がその事に気がついていない筈はないのだが、それでも郭嘉はここに居た。
一刀は頼もしいと思う反面、小さな不安も芽生えていた。
もちろん、結果的に郭嘉が此処に居るのは"血の防波堤"として一刀が必要とされただけ、ではあるのだが。
もはや隣在って触れ合いながら会話を重ねて過ごすのが、当たり前になりつつある一刀と郭嘉ではあった。
だが、郭嘉がその気になれば一刀を見捨てて危険を犯すことなく、鼻血を市中にぶちまければ良いだけの話だ。 
いや、それはそれで非常に危険な事態ではあるが、一刀の状況に巻き込まれるよりは恐らくマシなのだ。
そう、一刀の抱える『天代』に纏わる爆弾の威力は比べることすらおこがましい、と言えるだろう。
とにかく、少しでも間違えれば王朝に弓を引いた反逆者とその協力者として、武威の地にて味わった屈辱を再び受けることになりかねないのだ。
ついでに劉焉の治める官舎の壁が凄惨な赤壁と成るか成らないかの瀬戸際でもある。

 ―――緊迫もするであろう。

「……しかし、遅いな。 厳顔様は……」
「そうですね、黄忠様を呼びに行っただけにしては……少し不自然です」
「最悪を想定した方が良いんだろうな……しかし」
「思考を遮るようで悪いのですが一刀殿、私から少しお話したい事が……」

 眼鏡をかけた少女が人差し指を眉間において、一刀の二の腕の辺りにしなだれ掛かかり、上目遣いをしつつ、そう言った。
彼は舌で上唇を一つ舐めると目を瞑り、息を吐き出して沈黙し、郭嘉の言葉に耳を傾け始めた。
第三者の抱く爛れた情景とは反して、まさしく緊張した空気が流れている。 
部屋に立ち込める真剣な空気からか、室内に唾を飲み込む音すら響かせるほどだ。

二人の緊張はさておき。
桔梗と紫苑の二人の間に、強引に割って入ってチラチラと覗き見を続行していた劉焉は思った。
姿は見えても、小声で話し合う彼らの声は余り聞こえず断片でしか会話を捉える事ができないが。
だが、不自然なのはお前らだ。
お前らの方だ。
なんで政務を司る官舎で眉間に皺を寄せて真面目な顔を作り、緊迫しながら綺麗な姉ちゃんとイチャコラしているんだ。
そして最悪なのはこの劉焉なのだ。
北郷一刀……"天代"が宮中から追放されたのは、先ごろ訪れた官吏から知らされている。
州牧となってから何度か、荀攸という少女が漢王朝との窓口をしてくれている為、容易にその内容を思い出せる。
劉焉は北郷一刀が政争に敗れた経緯は把握しているのだ。
お前らは分っているのか、ここは言わば、北郷一刀にとっては敵地と一緒なのだぞ。
なぜお前はここにいるんだ……北郷一刀よ……なにゆえ……劉焉は一刀たち二人を凝視しながら心の中で呟いた。

「ふあっ!」
「……あっ」
「か、一刀殿……その、手が胸に……」
「ご、ごめん、ははは」

 名も知らぬ眼鏡をかけた少女が急に唸った。
何事か、と思った瞬間には北郷一刀が薄く暗い、愉悦に満ちた暗い笑みを浮かべているのを目撃する。
一刀はただ苦笑を漏らしただけなのだが、劉焉にとってはその笑みは末恐ろしい悪魔の顔に映った。
ヤバイ、あのメガネの少女はもう手遅れだ。
おそらく妖術(ほぼ間違いなくチンコ)にかかって、完全に"墜とされた"に違いない。
数多の女性と同じく、頬を紅潮させて目がトロローンとなって鼻のあたりを必死に手で押さえ、啜りながら興奮している……
劉焉の脳裏に刻まれている記憶を探れば、北郷一刀に関わった女性達の症例と殆ど同じだ。
もはや間違いなかった。
胸がどうとかのたまいつつも、郭嘉自身は一刀の腕を決して放さないように、ぐいっと乳房に引っ張っていくその行動。
この一連の流れは劉焉にそう確信させるに足りた行動であった。
だんだんと劉焉は頭に血が昇ってくる事を自覚する。
今すぐ兵を呼びつけてぶっ殺したい、という欲求を必死に我慢して、拳を握る。
この官舎を血の大惨事にさせてはいけない。
血の大惨事は一刀のおかげで抑えられているのだが、そんな特殊すぎる事情は劉焉には理解しようもない。
もう少しで喉から声が迸りそうになったのを、必死で押さえたが、鼻の奥に迸る刺激は止まらなかった。
景色がぐにゃりと歪み始め、目尻からは水滴が溢れ始める。

「くぅっ……やはり、奴の狙いは私……っ……私たちの権力や兵馬……そして穴っ! 桔梗や紫苑が無駄に尻とか振って、エロエロ……だからっ……!」
「確かに尻の立派な馬だと思うが」
「あの馬の尻……というより、トモは本当にもう立派ですよ。 馬体が大きいから並べると余計に他の馬と比べて引き立つわねぇ」
「うむ、実際に駆けているのを見ていても、力強いしのぅ。
 それに見合うかのように立派な金色の鬣と尻尾じゃ……陽が照るとよく映える……ぐぬぬ、うらやましいぞ紫苑、このこのっ」
「絶対あげないわよ、桔梗、もう、わき腹を突つくのは痛っ! ちょ、やめなさいっ!」
「そうじゃないっ! もっと常識的に考えて、しっかり見てみろ! あれは危険な野獣なんだってばっ」

 厳顔と黄忠は劉焉の切迫した小声に、じゃれ合いを止めてお互い顔を見合わせた。
そして、僅かな間を置いて口を開く。

「……危険な野獣とは心外です、かなり利発な子ですよ。 えー、天代様の馬は世間では天馬とうたわれていたかしら」
「うむ。 ときおり民達も謡っておられるな。 名を"金獅"だったか」
「私が買った時、天代様は周囲に見当たらなかったわ」

 黄忠が気付かなかっただけ、という可能性も一応はあるかもしれないが。
しかし彼女はこの件の鍵となる"金獅"という馬を見せ付ける為に商人を装った男が口にした売り言葉は覚えていた。
間違いなく彼はこう言っていたのだ。
『天の御使いが持つ天馬に勝るとも劣らない』
厳顔も、黄忠から金獅を見せて試乗してみた際に、歯を合わせて悔しがりながら、その売り文句を耳にしていたので知っている。

「つまり、これ等から考えられることは経緯はどうあれ、天代の意思と反して売られたという訳になるな」
「ええ。 本当にあの馬が、"金獅"なのであれば間違いないでしょうね……放馬か盗難か、どちらかが原因でしょう」
「劉焉様、常識的に考えれば天代様は何とかあの名馬を手元に取り戻したくて、わざわざこんなド田舎までいらしゃった訳ですな」
「うう、あんな良い馬を手放したくないわ。 安くは無かったのよ?」
「馬のことはどうでもいいんだ、もうお前らは黙ってくれ」

 劉焉は二人の頼れる部下を切り捨てた。 
今、この非常時において、天代という存在を知らない二人はまったく頼りにならない。
とにかく、北郷一刀を抱え込むことやこの場で融通してやる事は精神的にはもとより物理的にも不可能だ。

「桔梗、紫苑……北郷一刀に会うぞ」

 そしてまことに残念なことに、北郷一刀を殺すことも劉焉には出来ない理由があったので覚悟を決めざるを得なかった。


――― ・


 これはまだ北郷一刀という異物が外史に混ざる前の話だ。
益州は元来、郤倹(げきけん)という刺史が収めていた場所である。
彼の者の統治が非常によろしくないとの噂を兼ねてから聞きつけていた劉焉は、自身の昇進が間近に迫っていた事も重なり、益州に地盤を築こうと密やかに中央で工作を始めた。
数年に渡る細々とした工作が実を結んだのか、郤倹への取調べを兼ねて劉焉は中央から派遣され、黄巾決起から続く騒乱を収めたのはつい先ごろの出来事であった。
前統治者の郤倹が亡き者にされたのは、黄巾の者達の襲撃よるとされているが、実態は違う。
何を隠そう、中央から派遣された劉焉が企図して黄巾という敵を利用し、上役であった郤倹を屠ったのである。
自らの野心の為か、と問われればそれも有る、と劉焉は答えるだろう。
ただ実際に郤倹は大層な悪人であった為、排除しないことには益州が賊徒にまみれてしまうと言う理由の方が大きい。
黄巾の幹部と郤倹が癒着していた事を劉焉が突き止めて、暫しの熟考を終えると劉焉は即座に郤倹の考え方に迎合し同調の意を表した。
自身を低く見せ謙り、郤倹に媚び諂うその裏で益州、交州、そして荊州南部にまで手を伸ばし、劉焉は独自に黄巾討伐の為の人を集めていく事にした。
ここで苦しんだのは、劉焉が益州という土地勘の無い場所でどうやって人材を得るかという問題だった。
中央と自身の持って居るコネを頼る事も考えた劉焉だが、それで無能の烙印を押されては密やかに朝廷工作し、益州までやって来た意味がなくなってしまう。
劉焉は手っ取り早く確実に、それでいて出来るだけ自身の利になるような方策は無いものか、と考えた。
そして自分自身のこと、時分の状況を改めて整理し頭脳に閃いたのは当時、急速に話題沸騰となった『天代』の存在だった。

おいそれと普通の人と会うことは無いと劉焉は言ったが、その人物が『天代』となれば話は違ってきてしまう。
この益州の騒乱を収め、良く統治される背景に『天代』の名を利用して成り立ってしまった実態があるからだ。
劉焉が勝手に『天代』の名声を使い、郤倹暗殺―――ひいては黄巾残党の殲滅―――を成したからである。
現在、益州はまさに"天代"の名声が轟きまくっていた。
一刀が黄巾決戦で波才を討ち取った直後の洛陽と匹敵する、そう言っても過言ではないくらいなのだ。
事あるごとに"天の御使い"が題材にされ、民たちに謡われている。
郤倹の不正暴露。
益州全域に及ぶ黄巾賊討伐が評され、劉焉は州牧という立場に至った。
しかしながら、劉焉本人が其処へ至る途上に天代・北郷一刀の名の方が滅茶苦茶に有名になってしまっていたのである。
劉焉が黄巾残党を領内から一掃した頃には、実績をほとんど知られていない『益州牧』よりも、既に大陸全土に名声を轟かせている『天代・北郷一刀』の方が救世主として担ぎ上げられていたのだ。
金獅を盗まれた一刀の村は、距離的に漢中の方が近いが劉焉が治めている場所に位置する。
邑の人々が死んで償う事にまったく反抗しなかったのは、一刀が"天の御使い"であるというのも大きかったが、劉焉が天代の名を大いに称えて利用していたのも関係があった。

「結果だけ見てしまえば劉焉殿は、益州牧へと成り上がる為に一刀殿を利用されたわけですね……些事加減は間違えてしまったようですが」
「なるほど、それは判ったけど……でも、どうしてそれだけで安全って言えるんだ?」

 ようやく落ち着きを取り戻した郭嘉から話を聞かされて、一刀は首を捻った。
一刀にとっては"天代"の名を利用されるというのは嫌というほど身に付きまとっている事である。
王朝から追放される際もそうだし、武威の地でも韓遂によって反乱軍で利用された。
もちろん、一刀自身も"天代"の名声を利用する事はある。
名声というものに大きな影響力があるということは、この大陸に落ちてからの経験から骨身に染みて判っていることだ。

「こちらに来てから一刀殿と別行動をした際に、市井の方々から出来る限り益州の内情を集めておりました。
 皆さんが言うには、どうやら劉焉殿は一刀殿と将来を今は亡き霊帝様から約束された仲なんだそうですが……本当ですか?」
「え? うーん……んん?」

 霊帝という言葉に僅かに顔を顰める一刀だったが、内容を理解すると混乱した。
『天代』として働いていた頃をゆっくりと思い返す。
劉焉という人物に心当たりは無く、当時の帝からもそのような浮いた話はされた事がない。
二度、三度と繰り返し当時の事を振り返ったが、記憶には全く掠らなかった。

「どういうことなんだろう?」
『本体……いつのまに……』
『なんで俺たちが知らないんだ? おかしいじゃないか本体』
『手が早いじゃないか』
「いやむしろ、本体の俺が疑うべきとこじゃ無いかな……」

 この突っ込みに一瞬だけ脳内は静まり返った。

『お前ら……』
『隠れてヤルのが上手すぎて引くわ……』
『ほんっと、手が早すぎじゃないですかねぇ』
『北郷一刀という存在が節操無いように見えるから困るんだよなぁ、そういうの』
『突っ込んで欲しいのか?』
『ああ、可哀想な本体……』
『で、誰がやったのかね?』
『まーた始まったよ』

 俺ではない、とリアルサラウンド合唱し始めた自分を無視。
本体の一刀は無言で首を振り顎に手を置く。
郭嘉はそんな一刀の様子を見ながら、そのまま口を開いて続けた。
一刀の偉大さ、功績を自ら大きく広めてしまったが故に、劉焉は"天代"を蔑ろにすることはできないのだ、と。
劉焉を取り巻く人々は"天代"の名によって周辺の豪族や武峡、将兵を説き伏せて集められたものであり、劉焉個人への忠や恩は不透明であろうこと。
まして恋仲であったなどという吹聴をしてばら撒いた噂が虚飾であった、となったら劉焉にとっては非常にまずい立場になる。
努力の末に集まってくれた優秀な人物はおろか、この地に暮らす人々、劉焉が手に入れた領地の民達にさえ不信を抱かせてしまう。
我らが州僕は、天の御使い様に嘘をつくような人物だ、と。
北郷一刀と言う男の悪い噂の排除に動いては方々を回り、郤倹を陥れ、ようやく手に入れた"人"と"民望"を失えば劉焉には何も残らないのだ。

 かといって実際には王朝を追放されている一刀を囲っておくわけにも行かないだろう。
辺境と言っても差し支えない益州とはいえ、漢王朝こそが母体であり、その中央から官吏は多くやって来る。
一刀がのうのうと劉焉の膝元で暗中飛躍している事が知られれば、あらぬ罪を着せられ劉焉にまで飛び火する事は十二分に在り得ることだ。
ならば一刀を無視して関わらずに居れば良いのではないか、というとこれも難しい。
"天代"に妙な活動を始められて巻き添えを食うのは劉焉としては忌避するものだ。
しかし、民たちから"天代"への人気は劉焉自身の行動のおかげで絶頂と言って良いほどである。
例え一刀がこのままぼんやりと蜀の地で過ごしていても、彼は有名人だ。
民たちが"天代"の存在に気がついて騒ぎを起こさないとも限らない。
そんな事が起これば当然、噂は大陸を駆け巡る事になるだろう。
そして洛陽の中心、宮勤めをしていた劉焉には一刀が居た事を知らぬ存ぜぬで逃れることは出来ないとわかっていた。

 以上の情報を纏めての郭嘉の結論。
中央から離れるに適した場所に挙げるならば、第一の候補として益州は浮かび上がる。
郭嘉はこの地で実情を知れば知るほど、追放された一刀がこの地を目指したのは間違っていないと確信した。
劉焉にとっては火中の栗としか言えないが、一刀にとっては安息の地になりうる可能性が最も高かったのである。

「……たしか益州に向かうが最上と進言したのは、荀攸様というお方でしたか?」
「ああ」
「そうですか……」
『確かに、統治の土台にあるものが本体に拠るんじゃ劉焉の立場は苦しいよな』
『なんだか実感が篭ってるなぁ……』
『はは、茶化さないでくれよ、"呉の"』

 "仲の"の言葉に同意を返す脳内に反応して、一刀も一つ頷く。
まだ記憶に新しい武威の地で、何度も何度も失態を繰り返し、至らぬ自分を支えてくれた優しい方の猫耳少女が脳裏によぎる。
死に体の漢王室を救うべく立ち上がってくれた彼女は、別れてからもこうして一刀の道の先々で導を点してくれていた。
気がつけば一刀はやにわに立ち上がり、室内に唯一拵えられている窓際へと立ち上がって遠くを眺める。
洛陽とも武威とも違う、一刀にとって見覚えの無い景色が広がっている。
荀攸から届いた手紙は、もう燃やしてしまって存在しないが、しかし。
未だに一刀を支える手となって背中を押してくれているのだ。

「……荀攸殿は益州僕が一刀殿に何もできない事を知ったのでしょう。 私の見解も一致します」
「あぁ、ありがたいよ、本当に……俺をこうして支えてくれて……」

 郭嘉の言葉に、一刀はそっと口の中で転がした感謝の言葉。
その声は実感を伴った一刀の本音を引き出していて、自然と一刀に隣り合う郭嘉の耳朶も震わした。

優しく微笑む一刀の横顔を見つめ、しばし。
郭嘉は少しばかり眉間に皺を寄せて、視線を外す。
そんな彼女の態度にまったく気付かなかった本体であったが、脳内の何人かは察するに至った。

『あ~そうだ、一つ提案があるんだけど』
『どうした"呉の"』
『なんだ?』
『試されっぱなしも癪だし、郭嘉さんに劉焉との交渉を手伝ってもらうのはどうかな?』

 "呉の"の提案に否定的な者も、肯定的な者もいる。
今の郭嘉は大陸有数の智者であるとは言え、ただの浪人であり一刀とはたまたま旅の連れ合いになっただけの者だ。
言ってしまえば、郭嘉とは邑での出来事はともかくとして、天代うんぬんとは無関係な人間なのである。
今、この官舎に居るのだって不可抗力に近い事情が存在するからであり、一刀が郭嘉を巻き込んで良い道理は無かった。
とはいえ、歴史に輝く将星である。
一刀が手中に収めたい欲求が無いと言えば嘘だろう。
現状で既に物理的に手中に在ると言えなくも無いが、それはともかく、益州の地をすぐに放り出されたりする訳にはいかない。
自分自身よりも遥かに知恵者と思われる郭嘉が交渉に当たってくれるのならば任せたくもなる。
"呉の"の提案に本体は少しばかり乗り気になった。

『あと俺からもいい? 一度、劉焉に触ってみるのはどうだろう』
『おっとぉ……?』
『おやまぁ……』
『どうやら犯人は"魏の"だと割れたようですな』
『いや違うって、郭嘉さんがこう言ってるし、荀攸さんからの手紙でも益州に向かえってあったから大丈夫だとは思うけど』
『なるほど、誰かが劉焉に関わっていれば何かしらの反応があるかもって事か』
『今回だけじゃなく、今後本体が色々な勢力や組織の要人に会う事は十分ある、逆の場合の反応だってあり得る』
『確かに、"俺"に良い感情を抱いている者ばかりなんて考えられないしな』
『まぁ……そりゃ確かに』

 触れ合う事で一刀と係わり合いの深い者たちに、何かしら感情を隆起させる現象。
では、仮に一刀自身との係わり合いは深く無くても"天の御使い"として憧憬や嫉妬、憤怒や希望などの感情を持っていた者はどうなるのか。
馬家で過ごした日々を鑑みると、無視できない仮説であった。
無反応であっても、反応が返ってきたとしても一度試しておく必要はあるかもしれない。
これにも本体は心中だけで賛同した。
機会があれば触ってみて確かめるのも良いだろう、と。
考えがまとまり始めた一刀は隣に侍る郭嘉へと向き直り、一つ頬を掻く。
先ほどの一刀と同じように、彼女は窓から遠くを見つめて静かに佇んでいた。

「よし、劉焉さんには悪いけど、ちょっと触ってみるか」
「はい?」

 僅かに郭嘉の腕が離れた。
一刀はそんな彼女の手を引いて、口を開く。

「えっと、郭嘉さん。 ちょっと良いかな?」
「……なんでしょうか一刀殿?」
「黄忠さんとの交渉はともかくとして、劉焉との話のことなんだけど、君にも手伝ってもらえないかなと思って」
「は? いや……しかし私は……」
「無理には言わないけど、そうしてくれると嬉しい」

 一刀は曖昧に微笑んで、郭嘉に少しだけ頭を下げた。

「一刀殿……」

 ややあって、悩むそぶりを見せていた郭嘉が苦笑ともつかぬ息を吐きながら頷くのと、女中の何人かが一刀たちの前に現れたのは殆ど同時であった。


   ■ 心から萌え出づる


 先ほど一刀の提案に了を返してしまった自分自身には、ほとほと呆れ果てたとしか表現できなかった。
"天代"である一刀への評価は、郭嘉の中では非常に高いものだ。
それは拾われた時の邑での一幕から、この梓潼の都に辿り着くまでを経て主君としても、一人の人間としても郭嘉の評価としては最上に近かった。
血の防波堤としても優秀であり、人柄は非常に良く、更にはマァマァ男前とくれば文句など付けようも無いだろう。
浅ましくも天の御使いを品定めしようとし、彼の"天道"に触れたその時から、きっと主の器足ると認めてしまったに違いない。
今の立場さえ無ければ―――"天代"でさえ無ければ、郭嘉自身が自らを捧げても良いと判断を下した曹操と比べて、彼と共に歩む道の方が魅力的に映るほどに。
だからこそ、郭嘉は悔いた。
北郷一刀という存在が郭嘉にとっての、そして漢という龍にとっての薬である事に彼女の頭脳は気がついてしまったからだ。
一刀という薬は触れ合い続けるほどに郭嘉を"その気"にさせてしまう。
荀攸という官吏の功績、そして積み重ねたであろう一刀との絆と信頼。
それを思い浮かべた一刀の表情を見て、郭嘉はハッキリと悔しさという物が胸中に滲んでしまったのを自覚してしまった。
もしも郭嘉がその場に居れば、きっと荀攸と同じように一刀にとっての最善を導き出せたはずだと。
そんな風に悔しさを抱いた直後に一刀に劉焉との交渉を頼られた時、郭嘉は曖昧に頷く最中にも隠すのが大変なほど喜色を孕んだのだ。
世間的に考えれば一介の流浪の士に、追放されたとはいえ位人臣を極めていた一刀が頼りにしてきたのだから、おかしい物でもない。
そういう言い訳を咄嗟に考えてしまうほど、一刀に頼られている自分と言う物に歓喜してしまっている。 
胸の奥底から熱い物がこみ上げてきてしまったのだ。
言い逃れ用の無い事実である。 
認めてしまいたくないが、認めなくてはならないのかも知れない。
この大陸の中でも一番、などと言うつもりは無いが、それでも多くの人よりかは客観的に主を見定められるという自信が郭嘉にはあった。
そんな自信があったのだが、ダメかもしれない。
幾ら考え直しても曹操と北郷一刀を比べてしまう。 
そして曹操の傍に控える己よりも、一刀の傍に侍る姿の方が鮮烈であり、脳裏からまったく消えてくれないのだ。
謁見の間に通されて、劉焉と厳顔、そして黄忠の姿が視界に入ってくる。
もやもやする気持ちを小さく吐き出して、郭嘉は気持ちを切り替える為に大きく息を吐いた。

「く……気持ちを切り替えねば……」

 一言誰にも聞かれないような声で呟くと、今度は入れ替わるようにして一刀が混乱して緊急脳内会議が唸りを挙げた。

「く……これは盲点だった……」
『懐かしいなぁ、紫苑……璃々も元気かな?』
『焔耶は居ないのかぁ』
『ああ、それに劉焉さんがまさかこんなにも雄雄しい姿をしているなんてな』
『なぜ現実に戻した、"白の"!』
『本体、頑張って触れよ、あの逞しい胸筋を』
『なにゆえ胸筋を指定するのか』
「よしわかった……誰か"肉の"を起こしてくれ」
『おいばかやめろ』
『また"肉の"かぁ……壊れるなぁ……』
『本体、そんな覚悟はしなくていいんだ!』

 一刀をこの庁舎まで案内してくれた厳顔が左に。
恐らく黄忠と思われる真名を呟いた脳内の一人、豊満な乳房を抱えるように腕を組んでいる淑女が右に。
そして劉焉だろう大柄な男性が中央に位置していた。
逞しく太い二の腕に、三国志本家の関羽を思い起こさせる立派な髭に大きな目玉は意外と愛嬌が在って一刀を見詰めていた。
肌は光を反射するほどテカテカと眩しく、さらに遠目からも判るほど発達した胸筋と腹筋が嫌にも純朴そうな顔を引き立てる。
座に座る男が、この場で一番の権力者であろうことは想像に難くなかった。
そんな劉焉の膝には小さな少女が乗っている。
あれは劉焉の子供だろう。 本体はぼんやりと残る三国志の知識を追っていき、確か劉焉には息子が居たはずだと辺りをつける。
有名な三国武将の悉くが女性となっているこの世界。
一刀は少女が劉焉の子供であることに確信を抱く。

「確認したいのだけれど」

 視線が少女に向かっていた頃、礼杯を続けていた一刀にその少女から声が降りてくる。
てっきり劉焉から口火を切るものだと思っていたので、僅かに返答が遅れた。

「……はい、なんでしょう」
「あなたはその……つまり、陳寿という者でよろしいのか? それとも―――"天代"……北郷一刀で良いのだろうか?」

 一刀は顔を上げ、劉焉を見た。
少女は腰を一瞬だけ浮かして再び彼の膝の上に納まった。 すわり心地が良く無かったのだろうか。
厳つい髭面の顔は、僅かに眉を上げて一刀を睨んでいる。
コホン、と一つ咳払いをし、一刀が声をあげようとした所で背後から耳朶に響いてくる。

「はい、その通りです」

 一刀が口火を切るよりも早く、隣の少女が礼杯を維持しながら口を開いていた。
確かに交渉の手伝いをとお願いしてはいたが、流石に一刀よりも先に口を開くのはどうなのだろうか。
しかし、誰よりも"北郷一刀"自身が口を揃えて知者と呼ぶ少女である。
この益州を目指せと助言をした荀攸が"天代"である一刀に標した地で、事前に情報を収集した郭嘉がこう言ったのだ。
動揺も一瞬、一刀は覚悟を決めて口を開いた。

「お主のような何処のものとも知れん馬の骨には聞いていな―――」
「ああ、俺は"天代"の北郷一刀です。 思いがけず劉焉殿に目通りが適って嬉しく思います」
「っ……そ、そうか。 間違いは無かったようだな」

 劉焉の膝元に収まる少女は郭嘉に厳しい言葉を放ったが、一刀が割り込むと手足をバタつかせながら落ち着き無くそう言った。
心なしか表情は崩れ、ともすれば泣いてしまいそうな雰囲気だが劉焉と思われる男を見上げながら胸元に手を置いて呼吸を整えていた。
その余りに子供っぽく微笑ましい動きに、一刀は思わず劉焉から視線を反らして彼女に注視してしまった。
脳内の誰かが、礼を失するぞ、と警告してくれているにも関わらずだ。
彼女の頭頂はボーラーハットのような物に過度な装飾が施されているせいでよく判らないが
もみあげの辺りから伸びる綺麗な黒髪は短く纏められて肩口くらいまで伸びている。
気弱な雰囲気とは裏腹に、眼には力が宿っており強い意思を感じられた。
胸元には鐘であろうか、それを象った物が揺れており、彼女が動くたびにカラリカラリと小さな音を立てている。
少女は一刀が自分を見詰めていたのに気がついたのか、引きつった笑みを浮かべて震え始め、しかも眼尻を潤わせはじめた。
怖がらせてしまったか、と一刀は心中で謝って、努めて優しい笑みを彼女へむけた。
少女は怯え、顔をゆがめた。
何故だ。
少女の様子に苦笑をしていた劉焉へと顔を向ける。 彼は眼をわずかに見開いて、一刀へと口を開いた。

「天代様……ですか」
「俺たちが此処に来た用件は厳顔さんに伝えた通りなんです」

 一刀はそのまま視線を厳顔へ、続いて黄忠と思われる女性に向ける。
彼女は一刀を見詰めてから一拍して頷き、彼に対して目上の者へ使う拝礼を行った。
その動作は優雅であり、美しさも兼ね備えた、中央でお披露目してもなんら問題の無い見事な礼であった。

「華々しい噂はかねがね聞いております。 お会いできて光栄ですわ、天代様。 私は姓を黄。 名を忠。 字は漢升と申します」
「わしからも改めて、厳顔じゃ」
「ありがとう、俺のことは……紹介はいらないですかね」
「うふふ、そうですね。 代わりといっては失礼かもしれないけれど、隣の人を紹介してもらっても宜しいですか?」

 柔らかな笑みをたたえ、黄忠は郭嘉へ水を向けた。 一刀はチラリと劉焉を覗き、郭嘉へと視線を合わせる。
一刀の視線に気がついたのであろう。 
郭嘉と一刀はお互いにだけ判るように僅かに頷き合った。
もはや自分の身が天代であることは話してしまっているのだ。 武威での失敗もある。
この場は郭嘉へ全てを託すことを脳内含めて全員が同意し、促すように手を振ると、郭嘉は下げている頭を挙げて口を開いた。

「初めまして、まずは自己紹介をさせて頂きます。 我が名は郭嘉。 字は奉孝です。
早速ですが、本題に入らせて頂こうかと思います。
この場に居る者たちは、お互いだいたいの立場を把握していらっしゃるという前提で話をさせて頂きますが……」

 言外に良いか、と尋ねるように部屋に居る全員を見渡し、全員が曖昧に頷くと郭嘉は人差し指を一つ立て口を開いた。

「では、劉焉様。 天代である一刀殿への対処ですが、彼を買うことを提案いたします」
「え?」
「え?」
「え?」
「なんじゃそれは?」
『『『ん?』』』
「双方にとって最も重要なのは、一刀殿の立ち居地でございます」

 全員が呆気に取られる提案をぶちまけた中、郭嘉の声は途切れることなく続いた。
理由を聞いていく内に、一刀も含めて全員がだんだんと頷き返すことが多くなった。
金獅という馬のことは、はっきり言ってしまえば細事に過ぎない。
無論、一刀にとっては相棒とも呼ぶべき存在になっているので大事なのだが、客観的に見てしまうと名馬であるとはいえ所詮は馬一頭。
天代の存在とは比べるべくも無い話である。
劉焉は馬を取り返しに来た『陳寿』を雇い、その働きに応じて給金を出し、それを金獅の代金に当てる。
一刀はこれで目的の馬を取り返すことになるだろう。
金獅そのものの譲渡、交渉は一刀の役目だ。 どれほどの金額となるのかはその折衝次第となる。
一刀の目的はこれで達成されるとして、問題は劉焉側の旨味がどこにあるかだ。
劉焉は彼女の話を遮って、慌てて口を開いた。
北郷一刀に留まってもらうのは困るのだ。
漢王朝に拠っているという意味でも、別のアレな意味でも。

「まてまて、言っておくがな、郭嘉殿。 前提として私は天代様をこの地で留まらせるつもりは無い。 
 天代様は、今はいろいろとその……難しい立場であらせられるし」

 この言葉に反応したのは黄忠と厳顔だ。
難しい立場、という部分に引っかかったのである。

「おや、劉焉様は是が非でも一刀殿と一緒に居たいと言うかと思われましたが……亡き帝が認めた恋仲であったとか」

 しれっと郭嘉は恋仲である、という噂に乗じて首を傾げながら訝かる。
劉焉はぐむっと、喉を詰まらせて仰け反った。
ついでに一刀も背筋を震わせて少女を抱く筋肉質な男から視線を逸らす。
二人の妖艶な女性達は眉根を寄せて考え込むように腕を組んだ。

「まぁそれはともかく、確かに天代様は難しい立場にあられるようです。 特に益州僕であられる劉焉様にはそうだとお察し致します」
「……はぁ。 うむ、わかった。 そうなのだ。 お主は全て知っている様だから話すが、実際のところ頭が痛い。
 私の立場からすると、天代様には今すぐ荊州なり南蛮なり、或いは"中央"にでも出て欲しいものだ。
 馬についてはすぐに天代様に返そう……紫苑、良いだろう?」
「え、ええ……天代様の馬ともなれば、私には過ぎたる物となってしまいますわね。 お返し致しますわ」
「それは大変嬉しい話なのですが、一刀殿は此処で働いて、金獅を自ら買い取りたいのですよ」
「え?」
『そうなのか?』
『いや、働きたくはないよな』
『うん』
「何故ならば、一刀殿は天の御使いで在りますから、清廉を旨としております」

 ここで郭嘉は金獅が盗まれ、黄忠に売られるまでのとある邑の話を始めた。
ところどころ端折っては居るが、具体的なその内容に劉焉は両手で頭を抱える。
邑の位置は劉州僕が治める領内である。
『天』によって許された邑は、すなわち金獅の盗難・売却に至るまで当然あって然るべき事となる。
一刀本人が、郭嘉に見せてくれた天の御使いの『道』の理屈。
『天』が許したのだから、今、正式な金獅の主は黄忠である。
ゆえ、買い取りたいというのが一刀の意思だ。

『ってことらしいぞ、一刀君……』
『なるほど、すぐに金獅を返してもらって益州から追い出されたら困るから、その為か……流石、すぐには思いつかなかったこんな方法』
『あんな険しい道を越えてきたしね』
『まぁ、実際少しくらいは休みたいよ。 めっちゃ暑いし、最近』
『いや、この話の流れだと休めなくなるんだが』
『たださぁ、すっごい屁理屈にしか聞こえないんだけど、これ』
『嘘は言ってないぞ、"南の"』
『いやそうだけど……にしても、仕事か……うーん』

「わかった、その邑の話はもういい。 我が民たちが迷惑をかけた様だ、本当にすまない」
「いえ、天代様が天の意思によって決められた事ですので、劉焉様が謝ることではありません。
 ただ、劉焉様も判っている事だとは思いますが、一刀殿も"天の御使い"で居続けなければなりません。
 これは天代様にとって譲れぬ一線でございます」
「天の御使いでなければならない、とは流石に聞き捨て……いや、なんでもない」
「ん? 天代様が御使いであることの何が問題なんじゃ? 焉殿」
「いや、なんでもないから」
「しかしながら、劉焉様。 一時、この地に天代様が留まるという事を良く考えてみてください。
 洛陽では黄巾本体の討伐を成し遂げ、政においては漢の中枢を担う十常侍と共に真新しい政策を幾つも打ち出し、つい先ごろ起こった涼州での大戦も大過なく征伐を果しました。
 この益州の地でもきっと大きな事を成し遂げるに違いありません」
『『『戦はやだなぁ……』』』
「……」

 郭嘉はそこでようやく、口を閉じ眼を瞑って劉焉へと一礼した。
大きな溜息をついて、劉焉は肩を落とす。
そして一刀は遅れて郭嘉の言葉を整理し終わって気付いた。
『あれ……』
『どうした』
『これ相当無茶振りされてるような……』

「決まりの様じゃの。 わしとしては、良い結末になったと言えるのぅ」
「桔梗、貴方がさぼっていいわけじゃ無いからね」
「判っておるわ。 んで、だ。 郭嘉殿……おぬしもどうじゃ、それだけ弁が立つのだから是非とも此処でその辣腕を振るって欲しいものだが」
「もちろん、受け入れてくださるのならば一刀殿の補佐として一緒に働ければと思っておりますよ、厳顔殿」
「わかった降参だ、私の負けだ。 ちなみに聞くが、益州で働くつもりはないだろうか……その、郭嘉殿ほど優秀ならば待遇の方は最大限の礼を尽くすつもりなんだが」
「それは……申し訳ありませんが」
「わかってる。 駄目もとで聞いてみたんだ」

 話を主導していた少女と厳顔の二人と雑談を始めた郭嘉の背を、一刀は驚きと共に見やった。
彼女に采を任せたからには、この場で余計な口を開く事はしまいと思っていたが、必ず自分が横槍を入れなくてはならない場面が来ると思っていたのだ。
だが、もはや劉焉側から舌を交える気勢はなく、一刀と郭嘉は此処で働きながら金獅を取り戻すことに落ち着いたようである。
仮に一刀だけでこの場に居たら、どういう話に転んだのであろうか。
少なくとも、ここまで鮮やかに話がまとまる事はないであろう。
最後の方でやたらと高いハードルをぶん投げられた気もするが、それは一刀の働きぶり次第の話である。

「す、凄すぎる……郭嘉さん、流石だなぁ……」

 おぼろげとなった三国志の知識の中でも未だ輝く知者の名を持つ少女は、疑いようの無い才覚を持っていることを一刀はしみじみと感じ入った。

『みんな、重大な事に気付いたんだけどさ』
『どうした、"袁の"』
『劉焉さんってもしかしてずっと話していた小さい女の子の方なんじゃない?』
『あ、"仲の"もそう思う? やっぱそうだよな』
『そういや、ずっと劉焉だと思ってた男の人は話さなかったな……』
『そっか、劉焉さんって女の子の方だったんだね』
『そっかぁ……』
『後でチャンスがあったら触ってみよう』
『そうだな』

 そして既に郭嘉の凄さなと知っていた"一刀達"も別の意味でしみじみと感じ入っていた。

―――・

 その後。
一刀と黄忠は、連れ立って官舎の中を歩いていた。
劉焉が一刀をこの地で留まらせることを認めたため、次は金獅のことについての交渉となったからだ。
せっかくだから、と黄忠は一刀に金獅を預けている厩舎で話さないかと提案され、一も二も無く一刀は頷いた。
いくつもの戦場を共に駆け抜けた金獅とは、一刻も早く顔を合わせたかったのが本音だった。
この黄忠の気遣いに一刀は感謝し、郭嘉に任せた流れの中とはいえ決まった話に、彼女たちの政務をしっかり手伝ってお金を稼ごうと決意した。
厩舎へ向かう道すがら、黄忠は一刀の横顔を見つめ、ややあって声をかけた。

「あの、天代様……」
「ん? どうしたんですか、黄忠さん」
「失礼なことかも知れませんが、お許しください。 もしかして天代様は……中央から、排されたのでは?」
「って、知らなかったんですか? っあっ」
『『『あ』』』
「そうだったんですね……」

 もしかして今のはカマカケと言う奴だったのではないかと一刀は疑ったが、言ってしまった事はどうしようもないと頬を掻いた。
観念して、察したとおりだと告げると、黄忠は天代云々という話ではなく、劉焉との関係に対しての話だからと何故か謝られた。
ほとんど厳顔と同じ答えに辿り着いた黄忠は、呆れたように薄く笑い、今頃は厳顔にこっぴどく叱られているだろうと話した。

「謝ったのは……天代様の名声、それを利用したという部分くらいでしょうか」
「はは……良く判らないですけど……そうですか。 でも俺の名声が益州での戦いに役に立ったのなら、それはそれで良いんだと思います。
 悪用されるのは、流石にもう勘弁してほしいですけどね」
「……きっと、私には及びもつかない出来事があったんでしょう。 その、なんと言っていいのか」
「あはは、ありがとうございます、黄忠さん。 その気持ちだけでも嬉しい―――」
「…ばぁーーー!」

 通りの角から聞こえてきた突然の大声に一刀の声は掻き消された。
何事かと首だけを出して覗きこむと、その瞬間一刀の目の前は真っ暗になった。

「ウゴッ!?」
「きゃ、て、天代様!?」

額の奥から強烈な打撃音が鳴って衝撃とともにもんどりを打つ。
尻餅をついた一刀が何事かと見上げれば、遠くに走り去る一頭の馬の姿が。
他の馬よりも一回りはでかい体躯に見覚えのありすぎる金色の鬣。
チラついた視界の中で捉えたのは、間違いなく一刀の相棒である金獅であった。

「す、すみません! あ、黄忠様! 申し訳ございません、引き運動の際に馬具が外れて放馬してしまいました!」
「天代様、お怪我は?」
「え、天代様?」
「あはははははっ、あーちくしょう! 服が砂だらけになっちまったよ、アイツめ」

 まだ痛むのだろう、鼻の頭あたりを押さえて、一刀は笑った。
勢いよく坂路を駆け上る金獅を見やる。
久しぶりに人を乗っけて走っていないからだろうか。 なんとも気持ち良さそうに疾駆している。
金の鬣と尻尾を揺らして。
もう少しまともに再会できないのか、とも黄忠のような美しい女性の前で格好がつかないとも、色んな思いが一気に沸き上がった。
だが何よりも、一刀に強くよぎった思いは、一つだけだった。

「……また遭えて良かった」

 座り込んだまま、そう漏らした一刀に黄忠は、人馬を交互に見てから少しだけ溜息を漏らした。
少なくとも、天代である一刀には金獅に対して強い思いがある。
あの馬を手放すのは非常に惜しいが、こんな絆を目の前で見せられては売る、売らないの話も無いではないか。

「それで天代様。 あの馬の値のことなんですけど」
「あ、ああ。 そうだね。 幾らぐらいに―――」
「この前、出かけた時に絹織の羽織を一つ無くしてしまったんです」
「え? 羽織?」
「とても気に入っていた羽織だったんですが……それを天代様に戴けたらと思います」
「それだけで良いんですか?」
「ええ、それだけで結構です」
「えーっと……うん、判りました。 バッチシお似合いになる羽織を選んできますよ、黄忠さん」
「期待してお待ちしておりますわ」

 やんわりと微笑む黄忠を尻目に、一刀は立ち上がると金獅の元へ向かった。

―――

 一刀は黄忠と金獅についての交渉に乗り出し、連れ立って部屋から出て行くと厳顔はふむ、と顎に手をやって息を吐いた。
ややあって、恐らく、というよりはほぼ確信に近い推測を口に出す。

「焉殿。 もしかしてじゃが、天代様の立場というのは」
「……」
「もちろん、中央から排されたという立場です」

 劉焉は答えなかったが、代わりに郭嘉が答えた。
なるほど、とようやく厳顔は天代を雇うという一連の流れが腑に落ちた。
劉焉の舌鋒がまったく冴えなかったのも、天代との噂も、邑の事も、天の御使いで居続けなければならない、という言葉に反論しかけたのに止めたのも全て、ようやく理解が追いついたのである。

「しかし、そうなると悲しいものじゃな。 焉殿にはこれでも忠を捧げていたんじゃが」
「……悪かったわ、桔梗……いえ、ごめんなさい」
「焉殿の立場では、まぁ仕方がなかったのかも知れぬが……いや、言っても詮無い話じゃな」

 劉焉は州僕として黄忠、そして厳顔という臣を得ている。
益州にて大規模な黄巾討伐の際に、天代の名声を後ろ盾にして立ち上がった劉焉の元に集まったのが切欠だった。
そして共に行動した事で劉焉は悟ったのだろう。
天代の名だからこそ、黄忠も厳顔も劉焉の元に集い、彼女を担いでくれているのだと。
確かに、そう言われてしまえばその通りだと厳顔は頷くしか出来ない。
もちろん、漢王朝の録を食む官僚でもあったから、純粋に匪賊から民を守ろうと言うのが根底にある。
例え劉焉が現れなくても、大規模な賊共の反乱には討伐に赴いた事だろう。
だが、益州から完全に騒乱の芽を詰みきる事は難しかった……いや、無理だったとも思うのだ。
厳顔からしてみれば、そこに打算があろうと無かろうと、賊を益州から完全に叩き出せたのは劉焉が天代の名声を利用してくれたからに違いなかったのである。
だから、厳顔は劉焉と天代の恋愛が上手く実るようになれば良いと密かに思っていたし、応援しようとしていた。

「でも、桔梗達を信頼していなかった訳じゃないんだ。 ただ、良かれと思って嘘をついたのがバレてしまった時に……桔梗や紫苑に嫌われるのが、怖かったんだ、私には求心力なんて無いから……うぅぅぅ」
「まったく、ウジウジとそんな事で悩むから郭嘉殿に足元を見られるんじゃ」

 劉焉は抱えられている男―――彼は賈龍という者で、劉焉の夫である―――の胸に顔を埋めて子供のように手足をばたつかせた。
そんな威厳というものを喪失している劉焉と厳顔から話を振られた郭嘉はクスリと笑い、上機嫌に応えた。

「ええ、話している途中で黄忠様と厳顔様の様子を見て、一刀殿の立場を詳しく存じていないと思いましたので」
「なんとも、たいした素振りは見せておらんと思ったが、それだけで気付くものか」
「劉焉様の様子からも察すことが出来ました。 推測が当たってホッとしているところですよ」
「うぅ、桔梗、すまぬ……私が悪かったぁー」
「やれやれ、焉殿。 わしはそこまで薄情な女ではない、紫苑もそうじゃ。 面倒のかかる主を持つと大変じゃ。 のぅ郭嘉?」
「主ですか……そう、ですね……」
「なんじゃ? ……まぁよいか、お主は天代様に仕えておるのではないのか?」
「……いえ、ただ、面倒が掛かる主の方が遣り甲斐はあると思いまして」
「ほう? 面白い話じゃな。 それで、面倒が片付いた今の気分はどうなんじゃ」

 厳顔の声に郭嘉はうっすらと微笑んだ。
一刀が最後に呟いた言葉は、郭嘉の耳朶を震わせていたのだ。
流石だ、郭嘉、と。
まったく、北郷一刀という存在は抗いがたい劇薬である。
もはや、自分を誤魔化すのも馬鹿らしくなってしまうほど薬は良く効いてしまったではないか。
あの言葉が聞こえてしまった時の、心から萌え出づる気持ちは、郭嘉の心の芯に刻まれてしまった。
だから。
窓辺から覗ける厩舎の近くで、自らが見定めた主と、金色の尻尾を揺らす馬が連れ立って歩いているのを眺めながら、郭嘉は言った。

「我が主である一刀殿の一助となる事ができて、ひとまず安心と言ったところです」

 彼女を知る物からは信じられないほど、穏やかな笑顔でそう言ったのである……



      ■ 古龍を識る者


 蝋燭の火が燭台の受け皿に広がる。 その量は満杯に近く、入れ替える頃合であった。
張譲はその事に気がついて、新しい蝋燭と受け皿の交換を慣れた手つきで行う。
僅かの間、部屋の中に闇が満ちて、火打石を叩いた時の火花が閃光のように広がる。

「……」

 長い時間を椅子の上で過ごしていた張譲は、その行動を境に一度ぐっと身体を伸ばし、燭台を手に持って立ち上がった。
考えているのは先ごろ発覚した謀のことである。
コロリ、コロリと反対の手の内の宝玉を回し無造作に歩く。
やがて立ち止まると、机の上に広がった物に視線を落とした。 スッと細ばる眼。 張譲の目の前に置かれているものは、この漢王朝の大陸―――地図だ。
心臓部である洛陽。 そこから張譲の視線は西に延びて長安、天水、そして武威。 そこから南方、漢中。 そして梓潼。
張譲が人脈とコネを使い、所在を追いかけている逆賊・北郷一刀の足取りであった。
 洛陽郊外での黄巾討伐。 西涼の反乱の鎮圧。 どちらの戦も並みの者ならば死んでいてもおかしくない戦い。
英雄と呼ばれる人物でさえ、戦の中では容易く死ぬ事が常の世である。
この二度の大乱の戦陣を経験した北郷一刀を、武を用いて殺めるのは容易ではないだろう。

「……もはや単純に戦の中で屠るのは不可能に近い。 天運に人は勝てぬ」

 そもそも北郷一刀は諸侯―――それも有力者、権力者との個人的な結びつきが強すぎる。
西涼の戦の顛末を聞くに、長安から西は北郷一刀という男の影響を強く受けたと考えるべきであった。 部下として利用している李儒という男、凡夫ではないが北郷一刀と比すれば将星の輝きで負けている。 そう張譲は見立てていた。
長安を牛耳る董卓は、漢に忠を尽くしてはいるが北郷の影響をどう受けたか。 信用はできない。
 一度視線を落とし、今度は地図の東側へ張譲は眼を向ける。
数多に上がる報告の中で、曹操は上党の黄巾勢力を手中に収めたという物がある。 これは牧である曹操からは直接聞かされていない物だ。
譴責の叔父は十常侍と強い繋がりがあったが、法令違反を犯したとして問答無用で処断されたという。
この鋭敏な判断と、権力を恐れぬ実行力。 そして曹操という器。 王朝の名はまだ彼女を縛るであろうが、その忠の向く先は漢には拠らぬ物となろう。

「南、そして黄河を挟んで北には両袁家」

 人材、金、豊かな土地、そこから来る威勢から既に漢王朝に比していてもおかしくない権能。
とりわけ袁紹の方は危険だ。 十常侍にとって最も邪魔な何進を守るように立ち回っている。 
これには確実に誰かの入れ知恵が入っている。
袁家ほどの勢力がそうそう何者かの言いなりになることは無い。
であれば形の上だけでもそれ以上の権能を持つ者、すなわち皇帝に繋がる血を持つ劉協が第一の候補に上がる。
第二は北郷一刀そのものだ。
劉協派は天代という役職を戴いていた『一刀派』と言い換えても良い。
霊帝の時代に離宮に隔離していた時期に育んだ絆は深いものに成ったことであろう。
この絆が思いのほか強く育まれていたのは、張譲にとっても誤算の一つであった。

 中央、その周囲、そして大陸全土で群雄の飛躍する準備が整い始めている。
さながら漢王朝に拠るのではなく、自らが立とうと大地が隆起しているようだ。

 張譲はようやくそこで地図から視線を外して、窓の外へと近づく。
内開きにひらく扉を開けて、人工的に作られた池に燭台の灯りを頼りに近づいていった。
月夜の灯りが差し込み、張譲の横顔を照らす。
彼の表情はまるで能面のように無表情。 筋を動かすことなく、池のほとりで暗闇の水面を見詰めていた。
前漢200年。 後漢200年弱……その長大な漢の歴史の中でも大きな転機にある時代の節目だということは、張譲も理解している。
肌で。
いや、五感で感じるのだ。 
大事の前の大きな潮流を掬い取ることくらいは、長き時を経て出来る様になったと張譲は思っている。
だからこそ慎重、臆病とも言えるくらいに徹底して情勢を見極めて対処したはずである。
"天代"などという前代未聞の未知の脅威ですら、退けたはずだ。
だが、この情勢。 この現状。

「違えたか? ……漢は終わるのか? ワシが……わしの判断が……」

 違う。
漢王朝の大きな歴史の河の終着点は此処では無い。 無いはずだ。
コロリ、コロリと宝玉が回る。 思考は巡る。
そうだ、違わない。
北郷一刀の残した清廉な空気は、腐りきった王朝内が空気を求め、息を吹き返すのには絶対に必要だった。
簒奪を捏造し、その場で北郷一刀を生かした判断は間違っていない。
漢王朝を生かすため、北郷一刀ではなく劉宏様を引き続き立てようという選択は、正道である。
大陸全土に及んだ粘りつく不満、黄巾含めて民の暴走を御するのに巨星となった北郷一刀の生存は必要だったのだ。
どちらにしろ零帝が"天代"というものを生み出した時点では、張譲の予定通りに全ては事が運んだはず。
いかに鮮烈な輝きであったとしても、『時』が感情を押し流す。
"天代"は中央から排された時点で、何者も立ち向かう事が叶わない『時間』という敵と相対することになった。
例え北郷一刀がどれだけ生き足掻こうと、"天代"を殺すには時間だけでも十分のはずだ。 それは自然の摂理であり、どんな人間であろうと生まれた時から持っている『忘れる』という本能には抗えないから。
月明かりが池のほとりに浮かぶ張譲の顔を反射した。 赤い光が手元に揺らめく。
そうか、これだ。
張譲は気付いた。
"天代"の名声が死ぬ、『時間』だ。
北郷一刀と同様に、十常侍にも『時間』という刃が喉元へと食い込んでいるのだ。
張譲は認めざるを得なかった。 
時間が無いのはどちらも一緒だったのだと。 "天代"の名が大きくなりすぎて居たのだ。
情勢を、現況を、予測を、追放する手前。 限界一杯まで牛歩で引き伸ばして検討してもまだ足りなかった。
認めなければ、それはもうただの意地でしかない。
大将軍何進。
皇帝の血筋である劉協。
諸侯との太い人脈。
北郷一刀という存在がこれらを繋ぎとめている。

 張譲は懐から小さな袋を取り出すと、そのまま腕を水平に薙いだ。
袋からは小さな粒が広がり、水面にまばらに漂着する。
途端に水面から大小さまざまな魚が顔を出して、群がっていった。

「このまま、座せば死のう。 醜くとも、餌であろうとも食いつかねば王朝が死ぬ。 ではどうするのだ、張譲」

 眼に見える現時点での圧倒的な邪魔者は、現皇帝の劉弁と懇意である大将軍・何進。
彼を邪険に思う者すべてだ。 十常侍に限らず、官僚・官吏を含めた全て。
何進という餌に食らいつけば死ぬことになる。
この漢王朝を過去から現在まで、全てを知り尽くした政治家……十常侍は終わる。
政が乱れるということは騒乱が燻るということである。
この情勢の中で洛陽に騒乱を生めば、地方はますます活気付く。
結果、権力と権能を手に入れる為に諸侯がぶつかり合うのだろう。
自ら騒乱のタネを撒いたことのある張譲には、そうなる未来が手に取るようにわかった。
5年後、10年後であればまだしも、今は弁帝が何進を排する事には真っ向から否定しよう。 皇帝を頼るのも難しい。
それに加えて何進を殺すと言う事は、何進を守りたい連中の思惑を外すということだ。
袁紹含めた連中の牙が十常侍に向かうことを意味する。
その方法が単純な武力であれば、大半の軍権をもてない宦官は死滅する。
弁帝の暗殺という単純かつ野蛮な方法を取ってくる可能性も十分にあるだろう。
これを防ぐ方策も早急に練らなければいけない。

 これら全てを……とは言わないが、もっとも効率的かつ簡単に思いつく対処の一つ。 
それは北郷一刀の暗殺だ。 十常侍にとって"天代"が死ぬまで待つことは命を張った我慢比べである事が判ってしまったのだ。
成功しようとしまいと、この手は打っておくべきであった。
第二は皇帝である劉弁、そしてその継承権を唯一持っている劉協を手中に収め続けること。
第三は逃げ道の確保だ。
北郷一刀であれ、曹操であれ、何進であれ、袁家であれ。
劉弁や劉協、だれであろうと動き始めれば情勢は一気に動くことになる。
その時に必要なのは皇帝と、その皇帝の逃避先。 候補は同じ劉性を持つ者。
すなわち荊北、荊州をおさむる劉表。
 
「……例えわしが死のうとも、我が天命を捧げてきた漢を滅ぼすわけにはいかん。
 この張譲の持ちうる全てを賭し、北郷一刀に挑戦しなければならぬようだな……」

 張譲は懐から宝玉を二つ、取り出した。
宦官として仕えた若い時分、自らの脳漿が捻り出した勲功から帝に直接下賜された、無二の家宝である。
コロリ、コロリと宝玉を回すと、漣立っていた心中がゆっくりと落ち着いてくるのが判る。
この宝玉が手元にあるからこそ、張譲は今までの謀り全てを退け、その刃を敵に突き返してこれたのだ。
やがて一際大きな魚が、水面を跳ねて餌をついばむ。
それきり、暗闇の池は静寂を取り戻し、落ち着きを見せた。

「最後にとんだ大物に当たってしまったが……負けぬ。 漢王朝はわしが必ず生かしてみせる」

 張譲は眼を細めて空を見上げる。
大きな赤い三日月が、満天の星空に浮かんで夜空を照らしていた。




      ■ 外史終了 ■





[22225] 険難の地に自らの赤い“モノ”を図に撒き散らすよ編 4
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64e381cc
Date: 2018/09/20 02:43


      ■ 二の宝玉が発す打音



 コロリ、コロリと掌で宝玉が回るたびに音が鳴る。


 おおよそ半年ぶりになるか。
ゆっくりと馬を走らせて、眺める景色に洛陽を視界に収めた李儒は心の中でそう呟いた。
月……まだ自らの主と仰いだ董卓に、真名を呼ぶことを許されては居ないが、元々文官が不足気味であったのだろう。
李儒自身が自負している能力を照らし合わせれば、董卓の勢力で重用される時はそう遠くあるまい。
今現在、こうして洛陽へ赴いている事も李儒が築き上げた人脈が無関係という訳ではなかった。
張譲に声を掛けられた―――といっても、直接ではなく間接的にだが―――のは、時の権勢の頂点に立っていた男を、中央の政権から排するためであった。
趣味であった彫り物が、ああいう形で利用されたのも天運であったのだろう。
官吏としては下級も下級。 一介の庶民とそう変わらない立場であった自分が、大きな出世を果している。
天代追放、という事件に関われたことで李儒の運命は変わったのだ。
北郷一刀が居なければ、せいぜい漢王朝の一地方を任される令になるくらいが精々だったのではないだろうか。

「ふん、まぁ柄ではないわ。 おい、返書を」
「はっ」

 李儒が数人の部下を引き連れて、洛陽へ向かっているのは当然ながら遊びにきたわけではない。
大将軍何進が董卓へと送った文書の返事。
それのお使いと、張譲からの呼び出しが重なったのである。

「さて、あの爺の腹の目論見だが……何進の事だろう。 うまく立ち回らねばな……」


―――・


 夕暮れが照らす宮中の裏通り。
昼の間でも人影がまばらとなる、人気の無い離宮へ続く道にカン、と高い音が鳴り響いて足を止める。
懐から滑り落ちて地面を叩いた物を拾い上げようと振り向けば、一人の中年男性がその書簡を拾い上げていた。
ハゲ頭に髭なしのくどい顔。 夕暮れの太陽の光が反射されてキラリと光る。
垂れた頬のせいか膨れっ面に見える不機嫌そうな顔立ち。
書簡を差し出してふんぞり返る男を見て、陳宮はぐいっと小さな眦をあげた。

「あなたは、確か……李儒どの」
「北郷一刀の天の軍師か。 いや、こんなにみみっちいとは思わなかったな」
「なるほど、李儒殿は確かに噂どおりの御方のようなのです」
「ほう、その噂とは?」

 一刀曰く、性悪ちょび髭オヤジ。
いや、今はもう毛髪は無いようだから、性悪ハゲオヤジと言ったところか。
李儒との直接の面識は持っていない陳宮であったが、彼女は愛する一刀から追放に至った経緯を全て聞いている。
風体からその正体。
荀攸から届けられた手紙や、直接あって聞いた話。
遠目からではあるが、陳宮も李儒の姿を収めていたこと。
李儒の言葉には答えず、陳宮は書簡を拾ってくれた礼に少しだけ頭を下げ、踵を返した。

「ふん、ま、気持ちは判るがな。 わしがお前さんに会いに来たという事をもう少し、その小さな頭で考えてくれんかな?」
「李儒殿。 お言葉ですが、一刀殿との関係をねねは知っております」
「そうかい。 そりゃ話が早くて助かる。 その北郷一刀の事で―――」
「良いですか、李儒殿」

 陳宮は両手に抱えた書簡を抱きながら振り向いて相対し、李儒の言葉を遮って帽子のつばを書簡で一度押し上げてから言葉を続けた。

「一刀殿は李儒殿と敵対しているのです。 一刀殿の敵はねねの敵」
「おうとも、それは認めよう。 しかしこの話は」
「話すことなど何もないですぞ」
「あ、おいこら、待て……ええい、くそう」

 陳宮に、もう会話を続けるつもりはさらさら無かったが、李儒は立ち去る彼女の背を追ってついてくる。
どうやら李儒にとっても引くに引けぬ類の話らしい。
一刀から届いた手紙や荀攸から齎された話を頭の中で反芻する。
特に、一刀の現況を知らせてくる便りは、その一字一句を完全に脳に刻みこむまで読み返している。
それは、董卓軍と馬超軍との諍いの経緯や、李儒とのささいな酒場での会話に至るものまで、全てである。
そう、血判を押し合ったという話も。
離宮の扉の前で忙しく巡らせていた頭脳を止め、陳宮はここまで背中を追っていた李儒へと振り返る。
李儒もまた、振り返った陳宮に鋭い目を向けていた。
なるほど。
陳宮は理解した。
どうやらお互いにとって、避ける事は適わない問題があるらしい。
この男とて、陳宮との接触など避けることが出来るのであれば避けたいのが本音だろう。
張譲との関わりを持っているのだ、政敵と言って良い音々音と密会なんて絶対にしたくないに違いない筈である。
わざわざ離宮の裏通りで、彼女が通りがかるまで待っていたのだ。 
間違いなく厄介な『報せ』を持ってきている。
ちらりと、陳宮は離宮の傍に建っている小さな木造の建物を見る。
李儒は極自然な陳宮の振る舞いを目敏く見抜くと、答礼ひとつ。
足早にその木造小屋に向かって踵を返した。

「一刀殿、ねねにもついに、戦いの時が来たみたいなのです。 ねねは負けませんぞ……一刀殿っ……!」

 離宮の扉をあけ、入り口で荷物を下ろすと陳宮はそう口の中で転がし瞼を閉じた。
燻っていた胸中の炉心に火が点る。
胸元に垂れる髪飾りに使っていた赤い宝玉がひとつ、ゆらりと揺れる。
一刀と分け合った髪飾りの宝玉を右手でグッと掴んで、ふぅぅぅっと大きく深呼吸。
陳宮は息を吐き出し切ると、眼を開いて李儒が待つ小屋へと足を運んだ。


――― コロリ、コロリと掌で宝玉が回る音が鳴る。


 弁帝との形式的な会合を終えて、張譲は宮中でも十常侍と皇帝以外の立ち入りが禁止されている一室に入った。
その部屋の中には、天代を追放した時に蹇碩を失った穴を埋めるかのように十常侍へと至った一人の宦官の姿。
幼少から劉協を支えてきた宦官の一人で、名を段珪。

「ご苦労さまです。 張譲殿」
「うむ」

 段珪の対面の椅子に、張譲は深く腰掛けて懐から宝玉を取り出す。
ころりころりと、手の内で回す。
段珪はまたぞろ謀を頭の中で働かせているであろう張譲を冷めた眼差しで見つめていた。

「段珪よ、お主も長いな。 幼少のみぎりから宦官として働き、漢王朝によくよく勤めてくれているのぅ」
「そうですな。 この宮中、宦官として生きぬく為の術を、多少ながら心得ていたのが幸いだったでしょう」
「くっくっく、なに。 純粋に賞賛しておるのだ。 途中から腫れ物のようにお主が離宮に押し込まれてしまったのは、運が無かったことよ」
「張譲殿、昔話をする為にわざわざ呼んだ訳ではありますまい」
「李儒は来たか?」

 段珪は端的に告げられたその言葉に、ややあってから頷く。
張譲もそれを確認すると、小さく頷いて宝玉をころりと回す。

「李儒の部下を買収しました。 何進大将軍の招聘に応える、董卓殿からの返書だそうです」
「ほう……ほうっ、何進の奴も本気じゃな。 くっぁはっはっは、結構じゃ! わしに挑む者は後を絶たぬのぅ、老骨を走らせる若者には参るというものだな、段珪よ」
「……」

 段珪は張譲の鬼気迫る笑みに、一つ喉を鳴らし。 しかし、そのまま何も言わずに張譲から一枚の紙片を受け取ると
険しく唇を噛み、しかしその次の瞬間には無貌へと一変させて、そのまま退室する。
その段珪の姿をギラつかせた眼で追いかけ、たっぷりと数分の間、閉じた扉を眺めてから張譲は立ち上がった。
『報せ』とはそれ一事が全て点である物事を線に繋げるもので、個人から国家に至るまで、全ての者にとって最重要に扱わなければならないものだ。
この『報せ』を知る事が、人々に『行動』を促す原動力で在るからだ。
段珪から洛陽にやってきた李儒の携えた書簡の内容。
この『報せ』もまた張譲を動かすものの一つであり、段珪へ与えた『報せ』もまた、彼を動かすものである。

 漢王朝を存続させるに、最早手段を選ぶ余裕は十常侍から消えうせた。
逆賊である天代・北郷一刀の足取りは、正確に追えているのだ。
天代追放の当時、西涼での大規模な混乱時こそ情報が錯綜して居場所は掴むことが出来なかったが、情勢が落ち着き始めてる今では張譲のもとにその居場所が数多くの人間から密告されている。
腐っても200年。
それに近く王朝を支えてきた政治的心臓部を牛耳る十常侍、それを取り纏めている張譲である。
その人脈は湯水のごとくと言う表現でも足りないであろう。 大海に匹敵と言っても過言では無い。
何時の世、どんな時代であろうとも清廉だけでは生きていけない。
そしてまた、濁りすぎているだけでも人は死ぬのだ。
数多の欲望を抱えて人は生きている。
いかに天代と言う名声が眩く輝く光であろうとも、その名声の裏に隠れる影は必ず現れ、そして動くのだ。
武威を発った北郷一刀は、漢中を抜けて巴蜀の地に向いた。
ここで張譲が取る最初の一手は最もシンプルかつ単純なもの。
公的な訪問とは別に、個人的に屋敷に招いて行われた李儒との密談の内容、それは。


―――それは、北郷一刀の暗殺。


「北郷一刀の暗殺は、わしにとっても防がねばならなくなった」
「 『天代』 は李儒殿にとっても邪魔なはずでは?」
「ところが、我が主にとっては居なくてはならなくなった訳だ」
「……董卓殿が?」

 李儒は顎に手を寄せてゆっくりと頷いた。
何故ならば、董卓は何進が望む招聘の言葉に了を返したからである。
陳宮は李儒からその話を聞くに至って、この密談の最中にまったく動かなかった表情筋がピクリと動く。
自然と眉根に皺がよった。 一刀殿と良好な関係を持つ董卓と、卓越した知を持つ事を戦場で知っている賈駆が、劉協を支えている自分の考えが読めないはずは無いのに、どうして何進に明確な武力を与えるのか、と。
一刀の暗殺もそうだが、董卓の行動は陳宮にとって想定外の事であり何進をその気にさせてしまう爆弾になり得る。
何よりも、まだこの洛陽には袁紹が留まっている。
諸侯を見渡しても1,2を争う規模で繁栄している袁紹と董卓が、この宮中で揃うことは十常侍排除をもくろむ何進にとっては好機だ。

そして李儒にとっても何進が董卓の協力の下、十常侍を排除することは断じて避けなければならない。
その後、一時の権力は手に入れられよう。
なんせ世情は十常侍を悪と見做す風聞が根強く残っている。 これには党錮の禁で清流派に属していた者の活動も大きく関係している。
しかしだ。
確かに中央に確かな権力を手に入れられる土壌は揃いつつあるが、武力に頼って十常侍を排除することは、劉弁帝が即位して間もない今、尚早に過ぎるというのが李儒の見解である。
十常侍が排除されるとなれば即位されたばかりの劉弁帝は、大きく混乱し宮中は乱れるだろう。
その時に、まるで天代・北郷一刀に成り代わるように弁帝の信頼が厚い大将軍何進が漢王朝の権能を手に入れるのは間違いなく。
そうなればどうなる。
確実な予想は難しいが、一つだけ判る。
どれほどの期間になるかは不明だが、かつて遭った様に劉協との帝位争いが起こる……確実に。
現帝の劉弁は十常侍の口誑かしによって北郷一刀は悪しき者と思っている。
劉協は北郷一刀を招き寄せる為に、帝位を迫るであろう。
理由はそれこそ、十常侍を失う事を御すことが出来無かった件を突くに違い無い。
十常侍を排除したのに、今度は帝である劉弁が多いに劉協と董卓の邪魔となってしまうわけだ。
そうなると劉弁ではなく、帝位に据えるのには劉協が最善となるが……李儒は唇を噛んで陳宮へと視線を向けた。
それは駄目だ。 
劉協を帝に戴いた場合、李儒は滅ぶ。
自らが陥れた北郷一刀と同じように、政権からは程遠い閑職に……いや、董卓の元からは確実に離されるだろう。
それだけは許容できないのだ。
董卓は優しすぎる。 賈駆もそうだ、頭は李儒よりも遥かに回転が速いが、しかし性根が甘い。
董卓を暗闇の刃から守れるのは、張譲の傍で謀略の鋭さを垣間見た自分しか居ない。
 
「だが……何進への招聘に頷いたのは我が主君となられた董卓様が決断されたものだ。 大将軍何進との接触は近く必ず在るだろう」
「賈駆殿の……いや、董卓殿の本意はどこなのです」
「忌々しいことに、北郷一刀だ。 中央で政治的な発言力を高める心積もりであろう。 天代をまた漢王朝の御使いにと最大限の努力をなさる、という所か」
「本人の口からは聞いていませんか」
「ああ、だが判る。 賈文和の言動や様子を身近で見ていれば、ある程度の推測も信憑性を持つというものだ」
「止める事は?」
「…………」

 押し黙った李儒を見て一つ、杯に注がれた水を一口含む。 渇いた唇を湿らせて、陳宮は腕を組んで唸った。
董卓が最も信頼しているであろう賈駆が、李儒に言われるまでもなく説得をした筈である。
つまり、董卓の意思は強固であるわけだ。
陳宮も董卓本人とは何度か顔を合わせたことがある。
過激な思想を抱くような人物には見えないが、巻き込まれると言う事は十分にありえるだろう。
そして董卓がそう決断したのはきっと、一刀がそうさせたのだろう。

十常侍の立場からすれば、何進を勢いづかせるこの出来事は忌避したいはず。
陳宮は十常侍の眼をなるべく一刀へ向かわせない為に、大将軍何進という御するに難しい人物を餌に据えた。
袁紹の説得には骨が折れたが、彼女も御するには非常に難しい人物である。
何進も袁紹も、いつ何時、感情が暴走して十常侍排除に動いてもおかしくない。
天代をこの漢王朝―――具体的にはより抑止力の働く、袁紹の元へ―――呼び戻す為に、という名目があるからこそ袁紹は我慢をしているのである。
何進の説得を何度も突っぱねているのは、ほぼこの一点に集約されている。
そうして陳宮が裏で手を回したからこそ、十常侍は何進の動向に夢中になっているのだ。

「一刀殿の暗殺については?」
「……わしが直接に張譲から頼まれたのは、伝言役だ。 交阯を治める士燮(ししょう)殿へと、何者も察せられないようにとな」

 一瞬、馴染みにない土地の名に陳宮は顎に手を置いて考えるが、やがて頷く。
巴蜀に居る一刀の位置から更に南方。 黄巾の乱のおり、異民族も活発に暴れていたという話を聞いている場所であった。

「張譲は士燮殿に少なくない援助と権限を与え、援助を送っていたらしい。 つまり、張譲の息が存分にかかっている。 交州の乱を治めたのは彼だ。
 係わり合いの無かった天代などという意味不明の存在を暗殺するのに、躊躇いは無いであろうな」
「天代の名声が届かぬ侯ですか。 異民族に近い辺境にも強いコネを持っている者を配置している辺り、十常侍は流石なのです」
「おい、おちび。 わしは直接張譲と相対したからわかる。 あの爺は本物の化け物で、今回もこの上なく本気だ。
 わしがこうして三日もかけて陳宮殿と顔を突き合わす決意をしたのは、あの爺には届かないと判ったからだ」
「気圧されたと」
「ああ、悔しいことだが実力では及ばんな。 だが、もう引き返せん。 わしも、主を戴いた臣としてな」

 漢王朝の臣ではない。 李儒という男は董卓を『君』として戴いた者。
利害が一致している、その一点だけで張譲への負けを認めたこの男は陳宮の元へ足を運んだ。
今は敵ではない。 しかしそれだけ。
漢王朝の臣ではないのならば、それは一刀にとっても劉協様にとってもある意味で敵だ。
手札を頭の中で反芻し、陳宮は続きを促した。

「暗殺の内容は伏せて、士燮殿には北郷一刀の足止めを命じるつもりだ。 怪しまれぬように北郷一刀には怪我の一つはさせるかもしれん。
 天代の事はコレで良いとしてもだ、この暗殺に踏み切った張譲の裏が読めぬ」
「一刀殿の件に関しては後でもう少し詰めるとして……確かに直接的でもあるし単純すぎるのです。 我々の視線を一刀殿へ集めるのが目的の一つではあると思うのですが」
「十常侍が何進の暴発を期待している線は無いのか?」
「……それは、十常侍に利がないですぞ……」
「……爺の裏を読めねば負けるぞ、おちび」

 陳宮は即答できなかった。
胸元にぶら下げた赤い宝玉を手繰り寄せて、瞼を閉じて……しかし、口は開く事ができなかった。


―――などとこのような話し合いをしているに違いない。

 コロリ、コロリと宝玉が回る。

張譲にとって貴重な 『時』 を存分に使って練り上げた謀り一つ。
十常侍が何進に夢中になっていると思わせている間しか、北郷一刀の暗殺は成らないのだから、慎重にもなろう。
北郷一刀が直接手を下すことの難しい巴蜀へ向かったのは、間違いなく賢しらな知者がその裏に存在している。
李儒は長安で北郷一刀のとの接触を一度持っている。
この繋がりを知ってしまえば、連中の思惑が天代暗殺の阻止に傾くのは道理となるであろう。
どこまでの繋がりがあるか不透明で、特に李儒は天代の追放に加担しているが、さて。 
可能性が挙がった以上、信用などと言う物に天命を託すという事を長く宦官を続けてきた張譲にとっては選択足り得ないものとなる。
この張譲の喉元には天代派筆頭とも言える、劉協たちが居るのだ。

 李儒は撒き餌だ。

 李儒の『報せ』に拘泥してくれれば儲け物。 
その『報せ』への対応に使う『時』が張譲に味方する。
北郷一刀と李儒が繋がっている場合、董卓の元に身を寄せている李儒は虚偽の命令を士燮へと伝えるだろう。
不自然にならない程度に、命令そのものは多少に過激なものになるかもしれないが。
なんにせよ此処で張譲の方へと天秤が動いた。
董卓が自らの意思で何進と繋がり、朝廷に政治力を高める意思を持っている、これは非常に好材料だ。
実際に自身を含めて十常侍が殺されてしまうのは張譲の敗北なので、何進の動向には注意が必要であろう。
が、それは張譲以外の十常侍が張り切って見張ってくれるはずである。
わざわざ向こうの謀りが此方の人手間を省いてくれたのだ、褒美に宝剣をくれてやるのも良いか。
判りやすい繋がりを示すのにも使えるし、十常侍が脅威であるかも知れない董卓を歓迎するとなれば、その『報せ』も敵を迷走させる一手となろう。

 張譲は段珪とのやり取りを終えて、一人、自らの持つ屋敷へと戻っていた。
木目の粗い廊下を軋んだ音を上げさせながら歩き、予め屋敷へと招いていた数人の運び屋へと小さな袋を投げ渡す。
袋の中身から金銀を取り出した運び屋たちは、卑下た笑みを浮かべつつ丁寧に腰を折って張譲へ頭を下げると、そそくさと出口へと向かっていく。
張譲が運ばせた荷物は大きな壷だった。
それが4つ。

「趙忠」
「はーい、ってもうさぁ……この呼び出し方やめてよ。 宦官から古く伝わる密談の仕方っていうけどさ、普通でいーじゃん」
「何事にもシキタリはある物だ。 約120年前から宦官が密談に用いる方法の一つに指定されておる。 仕方が無かろう」
「これは廃止して良い部類の決まりだと思うけどなぁー、っもう……で、譲爺」
「うむ」

 壷の中からぬるっと出てきたのは趙忠であった。
お気に入りのぬいぐるみの頭を毟りながら、詰まらなそうに口をすぼめる。
もちろん、趙忠も十常侍である。 
張譲の屋敷にわざわざ呼び出されて二人きりで密談を交わすこと。 



その意味に気付かないはずが無い。

「趙忠、お主は荊州へ今から行くのだ。 劉表の元に行って、この書簡を渡せ」
「……なんで十常侍である僕自身が直接行くの?」
「一度だけしか言わぬ。 聞き漏らすな趙忠よ。 これは重大な事なのじゃ」

 劉表は他の諸侯と比べて天代との繋がりは薄いこと。 仮に何進が暴走した際に最も安全で洛陽から近い場所は荊州であること。
治めている荊州は劉表の努力の結果、非常に安定しており肥沃な大地を擁していること。
他にも細々と、常人ではとても一度だけでは覚えられそうに無い話を懇々と説明する。
趙忠の貌から本格的に表情が消えていったことに、張譲は気付かなかった。

「おぬしに渡した書簡は、荊州に向かう道中に読み、内容を頭に叩き込んだら燃やすのじゃ、良いな」
「……譲爺、うん……わかったよ」
「うむ、頼んだぞ、趙忠。 少なくとも三日以内には此処から発つのだ。 細かい手続きはわしが済ませておこう。
 良いか、これは十常侍で最も若く、機微に富むお主にしか出来ぬ」
「うん、譲爺。 『漢王朝の為に』 だね」
「うむ、漢王朝の為に」

 趙忠が表情を無くして外に出る為に屋敷の地下へと向かうと、張譲もまた屋敷の奥へと向かう。
足早に移動して机の上に広げられた地図を一瞥。
椅子に腰掛けると引き出しから筆を取り出し、手馴れた手つきで墨をひく。

「逃げ道の確保と暗殺の依頼は終わった。 北郷一刀を首尾よく暗殺できる可能性は……まぁ、五分もあれば良かろう。 所詮は謀り一つじゃ」

 殺害する最大の機会が天代を追放したその日であった事は、張譲も認めるところである。
当時は天代の名声が高すぎる事を理由に追放となったわけだが、今となってはさっさと殺してしまった方が良かったのだろう。
とはいえ、それはもう結果論に過ぎない。
張譲の手ならずとも悉くの殺意を退いて来ている北郷一刀だ。
こんな単純な謀略で亡き者に出来るのならば、ここまで苦労する必要も警戒する必要も無い。
こうして張譲が派手に動いたことにより、劉協の元に集う天代派は暗殺の阻止に『時』と『人』を使うことになる。
これが一番重要であった。
李儒という餌に食らいつき、奴らが使う時間と人員。
この間に宮中を一気に掌握しなければならない。
北郷一刀が洛陽へと舞い戻る余地を全て潰し、劉弁帝の下で十常侍が結束しなければ。
十常侍が何進の排除を決断するまで、後どれほどの時間が残されているのか。

時間がない。
 
士燮へと当てる書を認めた後、劉弁帝の下に向かうため、着替えるべく宮中の奥へと向かった。
趙忠に与えた策謀を成功させる為に、弁帝には少しばかり動いてもらう必要がある。
掌には宝玉。
かつて、若かりし頃より下賜した宝。
漢の為に生涯を費やす事を決意した、その日。
苛烈な眼差しでじぃっと宝玉を見詰めて、張譲は吐き出した。

「どこの天かは知らぬが、たかが御使いごときにこの漢王朝を食われてなるものかよ……」
 
 コロリ、コロリと宝玉から音が鳴る―――



―――汗ばんでいた掌から、宝玉が滑り落ちて音が鳴る。


 押し黙っていた陳宮は握り締めていた赤い宝玉が落ちて机に当たった音で、意識を浮上させた。
判らない。 
自らの不利になることを敢えて行うその利点。
持ち得る情報を頭の中で組み合わせて繋げる作業は、必ず何処かで思考の渦の中で暈けて消え去ってしまう。

「……ち、まぁ仕方ねぇな。 もう少し張譲の様子を見て―――っておい、此処は誰か来るのか?」

 李儒の声に陳宮は首を振ったが、この離宮に程近い場所に立ち寄る人間は数限られている。
短い足音に衣擦れの音。
顰め面で動揺しているハゲ一人を置いて、陳宮は静かに立ち上がると彼女に失礼にならない程度にゆっくりと扉を開けた。
視界に水平線に沈み始めた夕陽を背に、一人の男を携えて現れたのは劉協であった。

「劉協様、勝手な判断でこの者と密会しておりました。 名は、李儒でございます」
「そうか」
「はっ! このような場にてご拝謁賜り、まこと恐縮の極みでございます。 陳宮殿に紹介されたとおり、李儒と申します」
「うん、わかった。 後で詳しく話せ。 ところでねね、この男がお前に話があるそうだ」

 劉協の後ろで地面に頭をこすりつけている背の低い男性に、音々音は首をかしげた。
頭を下げているため、風貌が判らないのである。
李儒は突然の皇帝の妹の登場に、得体の知れない小男と同じように跪いて額に汗を滲ませていた。

「貌を」
「へ、へい。 あの、俺みたいなのが急に、ほんとスイヤセン」
「ち、チビさんではないですか。 宮中は危険だからもう使わないと言い含めていたはずですぞ」
「いや、それがですね……」

 チビはそう言って唯でさえ賊っぽい顔を歪ませて困ったように頭を掻いた。
劉協はそんなチビの様子に、くすりと笑うと、その手を取って頭を上げさせる。

「大丈夫だ。 チビ殿。 ここまで危険を顧みずに来たということは、何か大きな『報せ』があるのだろう?」
「りゅ、劉協様! そのような小人の手をお取りになるなどッ―――」
「李儒と言ったな、何も問題は無い。 私の為に働いてくれる者の一人だ。 少なくとも、お主よりは何倍もな」
「ぐ……し、しかし、皇族が庶子に……」
「黙れ。 李儒よ、今はこの者の話の方が重要だ……さぁ、話してくれ、チビ殿。 ここまで来たのは何の話の為なのだ。 どうしてねねを探していた」

 それは『報せ』であった。
チビは一刀が昔働いていた伝手から紹介された、運び屋の仕事に従事していた。
その運びの仕事は宮中の中に入れるくらいには、この洛陽の都で信頼の厚い大手の業者であった。
一度は陳宮や荀攸の言葉に従い郷里へ戻ったチビであったが、生活の為に時たま無断で運び屋の仕事を手伝いにきていたのである。
そして今日、その仕事があったのも、こうして宮中の中に届けたのも、まったくの偶然だった。
しかし、チビは知っていた。
運んでいた壷。
その数4つ。

その中に、人が入ることがあり、密会することがあるという風習を知っていた。

チビの運命を大きく変えた、黄巾の乱の走りを彼は忘れた事がなかった。
毒を盛られ、生死の境を天医・華佗に助けられた。
黄巾の埋伏の毒として、天の御使いの為に働き、真っ当な道に戻れたこと。
あの時、馬元義の元でアニキとデクと共に雑兵として動いていたからこそ、天の御使い・北郷一刀との出会いは、チビにとって忘れられない事だった。

陳宮はチビから、張譲の屋敷へ届けられた壷と、その中に人が入っていたという事実を知ると同時に俯いていた顔を上げる。
沈んでゆく夕陽を眼に捉えて、その隣に泰然と佇んで拝聴している劉協の顔を見やる。

―――繋がった。

「餌ですぞ……私たちが……そう、私たちが何進をそうして十常侍に見せたように、李儒殿の報せ事態が罠なのです!
 本命は今、張譲の元で話を聞いている者ですぞ!」
「な、なにぃ? わしが餌だぁ?!」
「チビ殿! 今すぐ宮中から出て荀攸殿の下へ向かってくだされ。 彼女から郭淮(かくわい)と鄧艾(とうがい)という二人の小さな子供たちに、私の認める文を運んで欲しいのです。 危険を承知でお願いするのです! それが終わったら、すぐに雲隠れを! わかったですか!」
「え!? へ、へい! わかりやした!」
「劉協様。 ねねは少し忙しくなりまする! 今日は早めに離宮の自室でゆっくりとしてくだされ!」
「判った。 李儒……だったな。 お前はどうするのだ」
「で、でしたらば、私の方から陳宮殿の変わりに事のあらましを説明させて頂きます。 もし、宜しければですが……」
「む……そう……いや、今日は良い。 明日、改めて聞かせてもらう」
 
 劉協と李儒の話をおいて、陳宮は離宮の入り口に置いていた書簡の中から白紙のモノを選んで直ぐに自室の机へと向かった。
一刀の暗殺は行われる。 
しかし交阯に居るという士燮の手では無いだろう。
張譲は自分の屋敷に招いて密かに出会った者に、本当の一刀の暗殺を指示しているはずだ。
しかし、この宮中、その周辺を見ても一刀を暗殺できるほどの腕前の者は殆ど居ない。
居るとすれば何進が指揮を取る官軍の中や袁紹の私兵を纏める将であろうが、あの張譲がそんな者に頼るはずも無い。
自らの人脈から掬い上げた誰かに違いないのだ。
恐らく、屋敷で密会していた相手は趙忠。
名を呼ばせるほどの信頼を見せている彼ほど、今回の張譲の謀りに適任な者は居ないはずだ。

 チビには荀攸の元へ走ってもらう。
荀攸からは子供達に、子供たちには曹騰の元へ。
隠居したとはいえ、張譲と共に長く十常侍であった曹騰は宮中に未だに多大な影響力を持っている。
今まで張譲に隠し続けてきた手札を、暗躍し始めた今、切らねばならないだろう。
荀攸自身には一刀と繋がりがあり、自由に動ける者へ暗殺の件を知らせ、場合によってはその警護についてもらうように手配しなくてはならない。
しかしまだ、手が足りない。
チビがもう使えないのならば、アニキと呼ばれていた維奉はどうだ。 デクと呼ばれた大男も居る、彼はどうだ。
今は離れ離れになってしまった桃香への連絡も、盧植を頼れば可能なはずだ。
それでも足りないならば荀攸の伝手も借りるしかない。 彼女は宮中に詳しい友人を何人か知っているはずだ。
張譲は―――動き出せば早い。
今この瞬間にも、次の謀の剣を突き入れているに違いない。
一刀の暗殺という心臓が飛び跳ねそうになる謀略も、何度も何度も音々音は想定していた事である。
そうだ。
音々音は洛陽で蠢く張譲から目を離すわけには行かない。
それが出来るのは劉協という帝妹に仕えている自分にしか出来ないからだ。

張譲の突きつける刃の鋭さは、一刀を失ったときに痛感している。
負けない。
例え一人では適わなくとも、一刀が築き上げた人脈と絆は、張譲の刃を防ぐに足る鎧になれる。
しかし、自力で鎧を身に着ける事ができない一刀に、張譲の腕を見張る音々音はその鎧を着せてあげられないのだから、『人』に頼るしかないのだ。
何時かに誓った言葉を欺きには決してさせない。
一刀の道を阻む、策謀全てを押し流して見せる。

「一刀殿! 必ずねねが、道を作ってみせるのですぞ!」

 陳宮の奮った黒い墨の軌跡、胸元の赤い宝玉はそれを辿るように映しながら、中空へと跳ねた。


 
      ■ 胸に灯る志在の玉



 洛陽の水面下で大きな動きがあった頃、一刀は与えられた官舎の部屋のベットの上でぼんやりと胸元にぶら下げた赤い宝玉を眺めていた。
もう陽が落ちてからかなりの時間が経つ。
時刻にすれば、深夜の11時を過ぎた頃ではないだろうか。
久しぶりに、ゆっくりと休めたと欠伸をひとつ。
ペンダントにしている宝玉の紐を外して、テーブルの上に置くと体を横にして腕を伸ばす。
劉焉の元で働き始めてから、郭嘉から無茶振りをされていた一刀は、とりあえず不眠不休で働いてみた。
一日目は誰にも気取られることなく。
二日目には郭嘉が心配そうになり、三日目にはこの梓潼の官舎で働く全員が異常な働きぶりに眼を剥き始める。
四日が過ぎると流石のローテーション一刀戦法にも陰りが見え始め、劉焉はそのまま死ねッ! と熱い声援を送り始めた。
そして5日目、6日目と続いて丸一週間が経った頃だ。
不眠不休で働き続ける北郷一刀に恐れを抱き始めた全員が、今日は休んでくれと懇願し、今に至っている。 
劉焉の抱いた恐慌はかなりの物で、一刀が近づくと目に見えて逃げ始めるくらいであった。

『いやー、流石にきつかったね』
『寝なくて良いのは確かだが、ちょっときつかったな』
『"白の"はちょっとか……俺はへとへとだよ』
『劉焉さんに触れないな、どうも避けられているような……何とか触る方法あるかな?』
『"無の"、もういいんじゃないのソレ』
『いや俺は触りたいぞ』
『誰だ今の』
『いやもういいでしょ、俺はもう駄目だ、意識だけなのにクソ眠い』
『だいじょうぶ、本体よりはマシだ』
「ああ、もうやりたくないな……けど、洛陽に居た頃を思い出すよ」

 洛陽で努めた政務に忙殺された日々。
益州でも乱は収まったばかりだし、治安が落ち着かない日々は続いている。
長い日照りの影響から、作物が育たずに飢饉を迎えそうな邑からの嘆願書も日々届いていた。
益州南部は殆ど手がついていない有様だ。
実際に働いてみれば、劉焉の臣下だけではとても手が足りない状況である。
実際に一刀だけが働き続けても意味が無いと思えるくらいには、やるべき事は多岐に渡っていた。

それでも、敢えて一刀が働き続けた理由は郭嘉が無茶振りをしたというのあるのだが。
実はもう一つ。
益州全土と言っても過言では無いくらいに広がっている、『天代』に対しての評判ゆえにである。
せっかく、これほど異常な熱を孕んでくれているのなら、そのまま『天代』の名声を維持できるくらい長く続けてもらいたかった。
これは一刀が持つ武器である。
もちろん、涼州の武威に居た頃のように弱点にもなるものだが、それでもだ。
いつか洛陽へ戻れた時に、『天代』が死んでいてはどうにもならない。
望まずに得た二つ名ではあったが、今では一刀にとって無くてはならない物の一つだ。
その為に、真新しく『天代』としての逸話が増やせないかと話し合ったところ、寝ないで働いてみるか、という結論に至った。
どうせ一人の人間に出来ることなんて多寡が知れている。
一刀自身が自分の功績を振り返ったときに、幸運に恵まれていたと思うこと頻りである。
まずは無理に民衆受けする逸話をでっちあげるよりも、出来ることから始めようと考えたからである。

 ベットの上で何をするでもなく、右に左に体勢を変えてはうたた寝したりを繰り返して丸一日休んでいた一刀だが、流石に眠りすぎたせいか寝れそうにない。
こんなにも時が深更に及んでいるのに、と思わないでもないが、一刀はベットから降りて外へと向かった。

「そういや郭嘉さん、全然こっちに来なかったけど、鼻血は大丈夫なのかな」
『あれはまぁ、発作だからね。 こういう日々もあるさ。 来てくれると嬉しいんだけどな』
『うむ、暇も潰せて柔肌も感じられて、嬉しいな』
『うむ、血が出なければな』
『うむ』
『うむ』

 うむうむ、と全員から同意が返ってくる。
全くこいつ等、と思わないでもないが本体も少なからず思っていることなどで脳内の言葉にはしっかりと深い頷きを持って応えておく。

『さて、本体もたっぷり睡眠取ったところで皆、準備は良いかい?』
『よし、いいぞ』
『それなりに考えているぞ』
『じゃ、第107回・北郷一刀脳内会議を始めます』

 ぐだぐだと始まった今後についての会議に本体は耳を傾けつつ、とりあえずの目的地である厩舎の前にたどり着く。
金獅と再開してからは、なるべく時間の空いた時に構うようにしていたからだ。
この梓潼の地でも金獅にはまったり代わりがなかった。
環境が違う場所でも普段と変わらない食欲に、物怖じしない図太さ。
袁紹が屋敷をいくつも建てられる額で買い取ったという話に、最初こそ面食らってしまったが今ではそのくらいの価値は一刀もあると思っている。

『次に紫苑さんに送るプレゼントの羽織のデザインについての議題なんだが、俺に提案がある』
『いや駄目だ、却下だ』
『何故だ、"呉の"!』
『俺にも提案がある』
『いや駄目だ、却下だ』
『何故だ、"袁の"!』
『俺にも提案がある』
『いや駄目だ、却下だ―――』

 脳内が、そんな、ひどい……ループに陥っているようだが、一人そんな会議に上の空でいる者が居る。
一刀は厩舎の中をぐるりぐるりと廻っている金獅をぼんやりと眺めながら、ふと気付いた。
そうか、と納得もするし、先ほどまで洛陽に居た頃を思い出していたせいか共感もできた。

「南蛮物とかだったら、珍しくて黄忠さんも喜ぶんじゃないか? 羽織くらいはあるだろうし、こっちじゃ早々手に入らないだろうし」

 そもそも漢王朝は異民族からの貢ぎ物を受け取る事も多かった。
当時の皇帝であった劉宏は、異民族からの朝貢で気にいった香や薬を愛用していたし、諸侯の著名人も自らのステータスを高めるためか、或いは知識欲が刺激されたのか、珍しく質の良い品物には大金を気前よく払っていることも多かった。
もちろん、天代であった一刀にもそういった多くの珍品は送られてきていたのだが、それらは殆ど恋に"掃除"されてしまっている。

『南蛮か……成都からその先ってなると、未開拓地を進む事もあり得るけど』
『いや、そうか。 "南の"の事を考えればそうだよ』
『あ、そうだな』
『あはは、ごめん、何か気を使ってもらっちゃったな。 でも此処に来てからは確かにずっと考えていたよ……美以のことも』

 "南の"はそう言って、ここで俺たちが出来そうな仕事に関しても、と続けた。
益州南部は漢王朝が支配しているが、実際のところ支配というよりは放置に等しい扱いと呼ぶのが適当だろう。
地勢が厳しすぎることもそうだが、何より人口が少ない。
それに加えて虎や熊といった相対するに危険な大型獣も多く、益州南部よりも更に南方では漢王朝が蛮人と指定する異民族が数多く存在していた。
もちろん、明確な国境線の無いこの時代。 漢王朝が定める益州南部に、異民族が進出し集落を構えていることも少なくない。
益州を掌握しようと数多くの官吏が派遣されては、揉め事―――最終的には武力衝突―――となって有耶無耶のうちに撃退されてしまうことが常であった。
つまり、南蛮は秘境の地といっても過言では無いのである。

『けど、俺ってその南蛮に落ちたことで外史が始まったからね……つまり、その、ズルが出来るっていうか』

 "南の"の仕事に対しての提案。 
それは未だに混迷極めている益州南部においての『南蛮図』を作成することであった。
一刀が居た現代では当たり前のように地図は存在しており、市民が当然のように手にして使用されているものだ。
街角を歩けば周辺図が載っている看板もあるし、車に乗り込めば当然のようにカーナビが装備されている。
しかしながら、この漢の地では地図そのものの価値は黄金の塊に匹敵すると言っていい。
戦略上の要衝である場所が一目で判るし、地勢や地形を指導者が把握することは非常に重大だ。
権力者の大半は、自らが治める地に赴くに当たって出来るだけ精微な地図を用意することが当たり前になっている。
ところが、この地図の作成というのは非常に手間であった。
測量技術の発達していない時代、用いる器材の精度もあまり信用できるものではないとくれば、当然だった。
数ヶ月間、地図の作成に数千人規模での人員を費やして、出来上がった物が州の半分も埋まらないなどザラである。
金も時間も多大に消費して、間違いだらけの地図が出来上がる事も多い。

『でも俺はもう、大まかな地勢は頭の中に入っている。 諸葛孔明に振り回されたおかげでさ』
『そういや昔、少し聞いたね。 朱里とやりあったんだっけ、"南の"』
『知力100とか、無理ゲーだっただろうなぁ』
『いやもう、正直それは嫌な記憶しか……まぁそれはともかくだよ』

 "南の"の苦い記憶となっているそれを横において話を戻すと、その時に呉・蜀を相手取って東西奔走したおかげで益州南部から交州西部、その広い範囲に渡って地理を記憶していた。
何処に山があり、何処に川があり、そして道があるか。
また広く広がる自然の猛威に対しての知識を、蛮人とされている地元の人間から教授されている。
昆虫や動植物が持つ数多の毒や習性、それらを材料に使われる生活の必需品や薬。
大型の動物の毛皮の利用法など、南蛮の地で戦う為に―――なによりも"南の"自身が―――生き抜く為に懸命になって頭に叩き込んだ知識がある。

『劉焉さんはきっと、益州南部の地図が手に入るとなれば、その利に飛びつくと思う』
『確かに、劉焉が益州を掌握するためには絶対に必要になるな』
『劉焉さんもそうだけど、漢王朝にとっても利益になるよね』
『間違いない』

 本体は餌のなくなった飼葉の桶を鼻頭で突っつきながら嘶く金獅を撫でながら、頷く。
もしも正確な南蛮図を描く事ができたのならば、『天代』の偉業として黄巾の乱や涼州の平定に並んでも目劣りしない物となるであろう。
自分達に絶賛された""南の"は南蛮図の作成のメリットを挙げていく。
一箇所に留まっている事は、今の一刀の立場には危険が伴うことであった。
しかし、目立つ場所で大々的に活動するわけにも行かない。
もともと人口が少なく発展が遅れている未開の地での活動は、一刀自身が安全に身を隠せる場所とも言える。
また、有力な南蛮人の支配者との交友も築けるかもしれない。
音々音と、そして劉協と交わした約束を守るために一刀には力が必要だ。
もう一度、中央の政権に戻ったときに自らを支えてくれる諸侯の協力は絶対に必要であった。
そして最後に一つ。
本体が南蛮での権力者との繋がりを強める過程で、"南の"が大切な人と出会える事だ。

「そうなるとデメリットは……時間か、やっぱり」
『そうだな』
『でもさ、此処でじっとしていても同じように時間は過ぎていく訳だし』
『南蛮図、作ってみるのは良案かもね』

 脳内の一刀達は賛同を返した。
本体も否はない。

「よし、作ろう。 南蛮図」
『『『おう』』』
「金獅、またお前を散々歩かせるだろうけど、よろしくな」
『また……やっと会えるな……美以……』

 一刀の声に、金獅はちらりと顔を上げると、そのまま一刀の顔を舐めまわした。
一刀は笑いながら飼葉を取りに踵を返した。


―――・


「おう、まだ部屋におったか、北郷」

 今後の方針を固めた一刀たちは、朝日が上がった頃に寝なおすとそんな声に起こされる。
一刀はのっそりと起き出して顔をあげると、厳顔が苦笑のようなものを顔に貼り付けながら腕を組んで立っていた。

「ごめん、寝坊しちゃったかな?」
「馬鹿いえ、お主はちょっと働きすぎじゃ。 もう少しゆっくりしていても良い……と言いたいが」
「用事?」
「うむ。 しかし寝たいのなら寝ていても構わぬ」
「もう大丈夫、たっぷり休ませて貰ったから。 少し体のだるさはあるけど、問題ないですよ」
「そうか、それなら後でわしの仕事に付き合ってもらおうか」

 そう言って両腕を上に向けて伸びをぐいっと一つ。
厳顔が扉を閉めたのを確認してから、一刀は用意されている水瓶のもとに向かって手早く身支度を終えるとすぐに飛び出た。
彼女が一刀を呼んだのは、人材の発掘―――というよりは、人材不足の為に早急に文官武官を募集していた―――期限の日であり、その面接を行う手伝いをして欲しかったそうだ。
また『天代』として活躍した一刀の目利きにも期待をしていると言う。

「もう3回に分けて行われたが、そうそう優秀な者というのは見つからんな」
「はは、そりゃ厳顔さんや黄忠さんを基準にしたら、そうなりますよ」
「なんじゃ、煽てても何もでぬぞ北郷」
「別にそんなつもりじゃないですよ。 でも、厳顔さんや黄忠さんはやっぱり飛び切り優秀ですって」

 真顔で言い切った一刀に、厳顔は薄く笑う。
中央で『天代』であった一刀から、こう高く評価されていると思うと気分の悪い物ではなかった。
彼の近くには"飛び切り優秀"な者たちが、それこそ多く存在していたはずなのだ。
自らの能力には自信があるし、卑下するつもりも全く無いが、ほかならぬ『天代』が認めてくれるのならば少しくらいは己惚れても良いだろうか。
とはいえ、ここまで高い評価を受けるに足る仕事をしていただろうか、とも厳顔は思う。
確かに手を抜いて仕事をしている訳では無いが、肩肘張ってガンガン働いていたわけでもない。
一刀と共に仕事を手伝ってくれるようになった郭嘉の方が、よっぽど精を出しているのだ。
まぁ、なんにせよ。

「目利きには期待できそうじゃな。 おし、行くか!」
「ええ、行きましょう」

 そして辿り付いたのは官舎から少し離れた一軒の山小屋であった。
入り口の端に掲げられた看板のようなものに、大きく人材の募集を謳う文が書かれていたため、面接に訪れた者はここまで来ればすぐに判るだろう。
一刀は入り口で二つに分かれた場所を通り、そこで初めて一刀の頭の中に疑問符が踊る。
いや、まさかな、と思いつつも厳顔に教わった通りの場所を通って面接会場にたどり着くと、一刀は混乱した。
そこは少し視界が悪かった。
木柵と木板で囲われ、見上げれば開放的な作りのためか青空が広がる。
スズメが数匹、ゆっくりと流れる白い雲の上を泳いで鳴いていた。
そんな一刀の視界を遮る湯気。
鼻腔の奥を擽る、特徴的な硫黄の匂い。
足元を見下ろせば、確かに広がる湯の水面。

どっからどう見ても温泉である。

「……」
「なんじゃ、そんなところで服を着たまま立ち止まって。 早う入れば良いのに」
「いや、そんなところって、俺のセリフですよ。 どうして人材発掘の場が温泉なんですか」
「あら桔梗、ようやく来たのね。 一刀様も、いらっしゃ~い」
「うむ、少し遅れたの」
「……しかも浸かってるし」

 黄忠は既に湯の中にとっぷりと浸かっており、姿を見せた一刀と厳顔の二人にひらひらと手を振っている。
もちろん全裸だ。
お湯の中に入っているから全貌は覗くべくも無いが、湯の中に白く輝いて浮き出ている大きな双子丘がソレを主張していた。
同じように厳顔も当然服は着ていなかった。
彼女は堂々たる女性であった。
布で隠すこともなく、一刀の横を通り過ぎると湯加減を確かめるように手で掬っている。
背中や腰、そしてお尻のラインが眩すぎて、一刀は思わず目を手で覆った。

「ほれ、北郷。 良い具合じゃ。 早くおぬしも準備して入るといい」
「そうですよ、一刀様。 この梓潼の温泉は、益州でも自慢できる物の一つだと思いますわ」

 立ち尽くして天を仰ぐ一刀は、この状況に至るまでの過程を脳内で必死にまとめていた。
ちょっと回りが相当煩いが、何とか状況を整理すると一刀は口を開いた。

「つまり、ここで面接を行うと?」
「うふふ、実は今日は面談するのは一人だけなんですよ。 私の知り合いの県令さんから推薦を戴いた子で、後2刻後くらいに来る予定なんです」
「かっかっか、ここにお主を誘ったのはまぁ、労いという奴じゃな」
「相手の面子もありますし、雇用するのは決まっているんですよ」
「それなりに働ける者だとありがたいがの……まぁその目利きは、北郷を頼るとして。 まぁそういう訳じゃ」

 呆然としている一刀に、黄忠と厳顔はイタズラが成功した子供のように笑顔を向けてくる。

「なるほど、手の込んだ話です……」
「それにのぅ。 なんというか、七日も寝ずに働いてしまう姿を見てしまうと、言葉だけじゃ忍びなくてなぁ……」
「体と心の疲れを取って貰うのに、一肌脱ごうと紫苑と話していたのよ」
「うむ、しかし北郷はこんなおばさん達じゃ嫌かも知れんなぁ」
「なによぅ、私はまだまだ現役のつもりよ~」

 首を傾げてそう言う黄忠と、おどけた様に肩を竦める厳顔のキャイキャイとした会話が聞こえてくる。
二人の話を纏めると、一刀が働きすぎて少しばかり後ろ位気持ちを彼女達に与えてしまった、という事らしい。
つまり、これは簡単に言うと一刀への接待なのであろう。
脳内一刀の意見は割れた。 
彼女たちの好意を無駄にする訳にはいかないだろう、という意見。
何故か音々音を引き合いに出されて、突っぱねるように具申する一刀たち。
他にも黄忠や厳顔の湯の中で揺れる豊満な肢体について議論を重ね熱弁していたりしている。
本体は冷静であった。
多分、脳内の俺たちはこの状況で遊んでいる、と本体は確信を抱きつつ身体はすんなりと踵を返すことに成功する。
おや、と思う二人の淑女を置いて、一刀は建物の中に戻ると胸元へと手を置く。
そして上着のボタンを外して服を脱ぎ始めた。
途端に ヒューッ! 見ろよ本体の筋肉をっ とか言って黄色い歓声を上げる脳内。
やかましいわ。
僅かに走った頭痛を無視し、腰に布を巻きつけると着た道を取って返す。
自分でも驚くほど冷静で居られたのはきっと、まだ記憶に新しい武威の地で覗きをしてしまった事を思い出したからだ。
あの時、最初から堂々と事実を話してブッキングした事を判らせて居れば、"エロエロ魔神"などという不名誉な称号を受け取らずに済んでいた。
そう本体は思い込んでいる。
一刀は確かに黄忠と厳顔の好意を受け取るか迷った。
しかし、一刀が二人の女性の好意よりも何よりも先に服を脱ぐ判断に至ったのは。

久しぶりの風呂だ! という強い情念であった。

普段から布や水で体はしっかりと洗っているが、湯にどっぷりと浸かれる風呂となると話は別だ。
湯に体を沈めるという快感を、日本に居た頃から習慣として身に着けている一刀にとって、温泉に入れるチャンスを逃す手は無かった。
ついでに美しい女性が隣に居てくれるのだと言う。
これで文句を言う者が居たのならば、天罰が下るであろう。
腰布一丁で温泉へと戻った一刀は、最初に頭を下げた。

「少しびっくりしましたけど、俺の為にありがとうございます」
「むう、意外と肝が据わっておったのぅ。 もう少し悩むと思ったがなぁ」
「賭けは私の勝ちね桔梗。 うふふ、貰いますわ~」
「うむむ、まぁ……仕方あるまい……」

 そういってしぶしぶと徳利を渡す厳顔。 ホクホク顔で受け取る黄忠を交互に見やって一刀は降参するように手を挙げたのだった。
湯に浸かってしばし、久しく浸かる湯の中で、嬉しいやら恥ずかしいやらの歓待を受けていた一刀はふと口を開く。
昨日の夜に自分達と話し合って決めた、南蛮図に関しての意見を貰おうと思ったのだ。

「南蛮図、ですか……簡単には言っても、地図を作るのは一朝一夕できるものでは……」
「そうですね、でも地図があれば益州……劉焉さんにもそうだし、二人にもかなりの恩恵があると思うんだ」
「それは……そうですわね。 正確な地図があれば、益州にも相当な利がありますわ。 ちゃんとした道があるかどうか、判るだけでも相当楽になりますもの」

 真面目な話だからか、先ほどまでのにこやかな笑みはなりを潜め、腕を組んで黄忠は思案する。
岩場に腰掛けて杯を煽っていた厳顔も、顎に手をやって考え始めた。

「でも、一刀様……いえ、天代様は良いのですか?」
「え?」
「んっ……紫苑が言いたいのはこうじゃろう? その南蛮図を作っている余裕が『天代』にあるか、と」

 一刀の状況を郭嘉からも話を聞いているのだろう。

「それに金獅といったの。 あれも名馬とは言え所詮は馬一頭じゃ……なぁ北郷。 お主、少し暢気に過ぎるのではないのか?」
「ちょっと桔梗、失礼よ」
「紫苑、お主だって同じ思いじゃろう。 中央の事は遠すぎて良く判らないのは確かではあるがな。 
 それでも、中央政権から遠ざけられた者たちが、今までどうなって来たかを考えれば……」
「どうなったか……ですか?」
「まぁそうじゃな。 わしも漢王朝の禄を食んでいる官吏の一人。 それなりに物事は見てきておる」

 中央政権から排されて官職を追われた人の中には、進退窮まって匪賊にまで身を窶した者。
下された罪は何かの間違いであり、清廉に職務を果たしていれば返り咲けると信じていた者が急な病や事故で命を落とす。
最悪の場合、排斥された彼らの中には官匪となってしまう者すら現れたという。
そうした暗い影の部分も見ているからこそ、厳顔や黄忠から見て一刀の今の立場や状況はそれらと重なり映るものであった。
厳顔から改めて『時』を指摘されれば、一刀も言葉に詰まってしまう。
実際のところ、どれほどの猶予が自分に残されているのかなんて判らないからだ。
だからと言って、一刀が今の段階で中央に戻れば混乱を招くだけに終わり『漢王朝』にとって痛恨事となる。
劉協と交わした約束を思えば、それは出来ない。
難しい顔をして押し黙った一刀の背に、柔らかな掌の感触。
驚いて振り向けば、酒に当てられたのか。
ほんのりと顔を赤らめる黄忠が一刀の背に手を当てていた。
お湯が跳ねた音を一刀の耳朶に残し、その耳元で黄忠の唇がゆっくりと動く。

「あまり大きな声では言えませんけど、御立ちになるのでしたら、早い方がよろしいですわ」
「北郷、おぬしが立ち上がるに容易い環境は此処では揃っておる。 もし決断するのであれば、わしも協力は惜しまんぞ」
「ちょ、ちょっと待ってください。 二人ともどうしてそんないきなり……」

 唐突とも言っていい二人の提案。
其処にはもちろん理由があった。
何度も繰り返すように、益州で『天代』の名声は凄まじいことになっている。
洛陽での決戦から今に至るまで、天の御使いの偉大さを民謡で歌うほどなのだ。
大なり小なり、虚実を交えているであろう噂は日々飛び交っており、それは黄忠や厳顔の耳に届いていた。
漢王朝の降盛の翳りを黄巾の乱で如実に実感してしまった事もある。
民たちの見る天は、いまや漢王朝よりも天代に拠ってしまっている。 そう判断できてしまうのだ。 少なくとも、益州では。
そして、天代という名声は。

「桔梗や私にとっても同じく希望となる物だと言う事ですわ。 私たちは平和を望んでいるのです、一刀様」

 黄忠はそう言って空になった徳利を石の隙間に置くと、身体を起こして腰掛ける。
平和を望むという言葉、それは暗に漢王朝のままでは―――現政権のままでは乱を迎えるという確信があっての言葉だ。
田舎といって差し支えないこんな場所でも、時流を読んでいる聡い者達は今後の情勢に明るい見通しを持っていない。
濁った水面に視線を落としていた一刀も、火照りを治めるために岩に腰掛けると、胸元に揺れる赤い宝玉が視界の中に入った。
身体からも立ち上る湯煙の中、そっと宝玉を手に乗せる。

「……ねね」

漢を見限って立つというのであれば、黄忠と厳顔の誘いはきっと一つの魅力ある選択肢だった。
郭嘉も同じように、自分が立つのであれば、という話をしてくれていた。
国家が衰退に入り、亡くなろうとしている物を生かすというのは、誰が見ても難しいことなのだろう。
でも、それでも一刀には洛陽で待ってくれている人が居るのだ。
『天代』として戻る事が出来れば、洛陽で築き上げた諸侯との繋がりを保つ事が出来れば、それだけできっと事態は良い方向に動いてくれる。
”北郷一刀”にとっての最良は、そこなのだ。
その為に劉協が、そして音々音が必死になって洛陽へ戻る道を用意してくれる筈である。

「ありがとうございます。 でも俺は、やっぱり漢王朝の天の御使いなんです。 天代となったのも、その上で功績を積み上げてこれたのも、漢王朝あってのものだった。 俺が個人的に交わした約束を破る事にもなります。 だから、気持ちは嬉しいですけど、その話は受けることが出来ないです」

 一刀は黄忠と厳顔に向き合って、一つ頭を下げるとそう言った。
顔を合わせて意思の強い瞳を向けられて、黄忠は一つ息を吐くと微笑んだ。

「かっかっか、いやー、見事に振られてしまったのぅ紫苑」
「ふふ、そうねぇー……一刀様をご主人様と仰ぐのも悪くないと思ったのですけど」
「そうじゃな。 あの『天代』と轡を並べ、北郷をお館様と呼ぶのも悪くないものだったろうの」
「あはは、ありがとう……とにかく、今は俺も雌伏の時です。 洛陽に戻れるその時までは、仲間を信じて吉報を待っていますよ」
「うむ、負けるでないぞ、北郷」
「及ばずながら応援しておりますわ。 力になれる事があればご相談ください」

 一刀は心の中で感謝した。
こうして改めて他人の口から、今の自分の立場を再確認できたこと。
ともすれば時間と共に薄れがちな、一刀自身の立志を振り返らせてくれたことに。
漢を憂う者たちは、この大陸に住む者たち全てなのだ。
何処でも、誰もが、漢王朝の今後の動静を見守っている。
己が志を胸のうちに抱えながら。
その為に、一刀がしなければならない事。 今はそれがはっきりと見える。

「……必ず帰って、生かして見せるさ」

 自分の大切な人。 ”北郷一刀”が出会った恋姫たちの為に。
漢王朝を生かしてみせる。

湯気の立ち上る揺れる水面を、胸元に掲げた赤い宝玉は鈍くその光を反射させた。



      ■ 薄霧に響く鈴の音



 満天の星空となった月が明るく照らす。
川の流れの中で揺れ動く小船が立ち並ぶ中、その岸辺にて本来見ることの出来ない馬車が現れたのは、そんな日だった。
馬車は3台あり、それらを運用している人数は目視できるだけでも10人は越えている。
他の船より少しだけ大きい帆船の一室で、そんな光景を目にした少女は舌打ちを一つ打った。
月明かりが明るい為か、こんな真夜中でも場違いな場所に現れた馬車はハッキリと見える。
似つかわしくない美麗な装飾に、官吏であることを示す印が施されていた。

「姉御」

 窓から眺めていた少女は、扉の外から声を掛けられて小さく息を吐く。
彼女の名は甘寧。
この長江で錦帆賊と呼ばれる江賊の長であった。
それこそ甘寧が産まれてくる前から長く長江を根城にし、周辺の要衝である陸路と水路で活動をしていた賊である。
産まれた時から江賊として振る舞い、その環境に長年疑問を抱かなかった甘寧であったが、黄巾の乱が起こってからは今の自分達の在り方に悩むことが増えていた。
机に置いていた手紙をしまい、気が進まないながらも扉を開ける。
歓迎できそうもない来客は、江賊の長である自分が応対せざるを得ないのだから仕方が無い。

「何者だった?」
「へえ。 姉御の予想通り、官職の者でした。 ですが……」

 言葉少なに尋ね、部下が返した言葉は予想の通りでもあり、予想の埒外でもあった。

「三つの馬車のうち、一つ。 俺でも知っているような大物の使者でしたぜ。 十常侍・趙忠の使者が乗っていやす」
「なに、十常侍だと? ……わかった、何人か部下を呼んでこい。 使者殿に会う」
「へぇ、了解です」

 甘寧はそう言って、先ほど認めていた手紙に一瞬だけ視線を泳がした。
なんと間の悪い事か、と思わずには居られなかった。
それはつい最近の出来事である。
このまま賊徒として活動していても、先が明るくないであろう事を察した甘寧は、江賊を纏める者として権力者の下に身を寄せる事を考えていたのだ。
錦帆賊の根城である江湖に最も位置関係で近い権力者は、袁術。 そして孫家である。
袁家と孫家。 勢力としては比べるべくも無く袁術の方が権勢が強かったが、甘寧は孫家の方に狙いを定め、自らを売り込もうとしていた。
理由は二つ。
袁術の勢力は強大すぎて、賊徒であった錦帆賊の印象は激烈に悪い方へ傾くと判りきっていたからだ。
そこで働く者たちから忌避されやすく、多くの厄介事が増えるであろう。
そしてもう一つは、現在孫家を取りまとめる孫策、そしてその妹である孫権の二人を遠目から見かけたことが在ること。
ちょうど豪族との折衝であろう政事に彼女たちを見かけた甘寧は、人と成りを確認しようと身分を隠して近づいた。
それは偶然であったのだ。
甘寧が孫策と孫権の二人に接触しようと試みた時、黄巾の残党であった者たちが先に騒ぎを起こしたのである。
騒ぎを起こした原因は、豪族たちによる孫家への反発が理由であったが、その矛先となった孫権は賊徒の襲撃を許しただけでなく、行き場の無くなっていた黄巾の残党を一兵卒として召し上げた。
甘寧は己の目的を果たすことは出来なかったが、その時に賊である者たちへ投げかけた孫権の言葉と、その姿に惹かれている自分を自覚し、甘寧は賊の身分から足を洗って孫権に仕えることをそんな些細な出来事から夢見始めていたのであろう。
しかし、江賊として大きく名を馳せてしまった錦帆賊は、それなりの武名と共に賊として有名になりすぎてしまっていた。
少なくとも、長江に近い諸侯へ豪族は間違いなく知っている。
かつては討伐対象となって諸侯からも軍勢が押し寄せてきた事があるほどだ。
そんな歴史的な動きがあって、今なお存続している錦帆賊を彼らが知らぬ訳が無かった。
故に、甘寧個人が孫権と、孫家に惹かれていようと、話は簡単に纏まるはずも無い。 甘寧は錦帆賊の長であるのだから。
悶々とした日々を過ごしていた甘寧だが、近いうちに錦帆賊が進むべき船路を定めなければ、いずれ滅びてしまう。
自分でどうにもできないなら、何とか渡りだけでもつけたいと思いつき、甘寧は孫権への手紙を認める事を思いついた。
その矢先である。
宦官―――それも十常侍からの使者。
それが一体、甘寧……いや、江賊である自分達にどうして彼らが尋ねてきたのか。
浮かべている船の中でも、一等綺麗な応接室に使っている部屋へ使者を案内し、甘寧は宦官からの使者を迎え入れた。

「暗殺?」
「はい。 我が主の要求は、ある男の暗殺でございます」
「それを私に行えと?」
「この江湖周辺を鈴の音一つで震え上がらせている甘寧殿です。 その武名に信を託しての事でございます」

 甘寧は使者の話を聞くに連れて、その眉根を顰めさせることしか出来なかった。
どこの誰かは判らないが、この宦官の使者とやらは錦帆賊の現状と甘寧個人の事についても詳しく調べ上げている。
たった一人の人間を屠るだけで、甘寧が抱える問題全てを解決できるのだから、蜜としては甘すぎた。
かつては討伐の対象になった賊徒である錦帆賊の安全、少なくない人員のその後の身の振り方。
ただの賊徒の長でしかない甘寧に官職を与え、袁家、或いは孫家への窓口を作ってやる事を確約するということ。
今、甘寧が押さえている水路から揚がる物品や金銀は、中央が利権として甘寧に対して認めることなど。
甘寧個人にとっても、錦帆賊の全体にとっても不利な点がまったく見当たらないと言っても過言では無い条件であった。
元から無口であった甘寧が悩めるように顔を歪めていると、使者は密書を広げて、其処に書かれている暗殺対象の名を読み上げた。
甘寧の切れ長の目が限界まで広がり驚きを露にした。

「甘寧殿の立場を鑑みるに、この提案以上に全てが上手くいく方法はありますまい。 これは甘寧殿にとっても大きな機会となるでしょう」
「私が、殺すのか……こんな大物を……」

 その男の名、甘寧は自分の人生の中で係わり合いになることなど無いだろうと思っていた。
降って沸いたかのようなこの暗殺計画。
多大の利があろうとも、甘寧を躊躇わせるに足る名が告げられて、自らの心を律するのに数分の時を要した。

「甘寧殿に塞がる障害は、我々の手でできる限り全て排除することを約束しましょう。 手付けとして、馬車に積んでいる荷台の物をご自由にして下さって構いません。 暫く我々は、対岸の大邑で過ごしますので、答えが出たらご連絡下さいませ」
「…………」

 その場での返答は避けたものの、密談から五日後。
霧が薄く広がる長江のほとりで、悩みぬいた甘寧は趙忠の使者へと部下をやり、暗殺計画に是を返した。
孫権の元に身を寄せる自分を想像するだけでは、もはや足らず、彼女の手となり足となって支えたいという思い。
そして自らの知恵では、宦官の使者が提案した錦帆賊が生き残る道が見つからないと、認めたが故だった。
腹が決まった彼女の行動は敏速であった。
薄霧が広がる朝靄に、鈴の音が一つ―――リンッと鳴り響くと、江湖のほとりから江賊の長の姿が消えた。

その日、甘寧の鳴らす鈴の音は江湖の水路から消えたのである。



      ■ 外史終了 ■




[22225] 険難の地に自らの赤い“モノ”を図に撒き散らすよ編 5
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:64e381cc
Date: 2018/11/15 06:30


      ■ 騙って煽って


 何処にでもみかけるような、平々凡々とした邑の一つ。
山間を縫って東からの暖かな陽光が照らすその場所に、邑の住人達が揃って手を挙げている姿が見られた。
一人の少女の旅立ちに、邑ぐるみで送り出す。
そんな日。

いつまでも振り続けている手を降ろす事ができたのは、彼らの姿が消えて見えなくなってからだった。
邑の長を務める老の一人が、県令と古くから知り合いだったおかげだろう。
人材不足であることも手伝って、益州僕へ仕えることが殆ど決定している。
わざわざ邑で働いている者たちが総出で見送るなんてしなくても、きっと様子を見に来ようと思えば何時でも帰ってこれる。
それが、嬉しいか嬉しくないかと問われれば、まぁ嬉しいのだが。
ざんばらな黒髪に特徴的な白髪が混じった毛を弄りながら歩く。f
この日の為に誂えた一張羅は、かつて阿蘇阿蘇でも特集された服飾職人の者に頼んで作られた。
動きやすいように半そで揃い。 後ろで纏めた赤いひもが、二つ飛び出すのが特徴的である。
ひらひらとしたスカートは、やはり動きを阻害する為に半ズボンとなり、結果的に腕につけられた手甲だけが浮いて見えるようになってしまった。
邑から旅立つ少女の名は魏延、字は文長。
黄巾の大乱、自警団として邑を守る際に周辺で賊徒を相手に大立ち回りを演じた彼女は、この周辺の寒村では、ちょっとした英雄となっていた。

「やれやれ、叔父貴も子供たちもまったく。 すまなかったな、文長」
「いいんだ、一緒に暮らしてた皆と別れるのが寂しいのは私も一緒だから。 確かに少し大げさだって思うけどさ」
「ああ、まったくだよ。 今生の別れってわけでもないのにな。
 さて、荷物はこっちにまとめてある。 道中の水、食料と……それに一番大事な紹介状も一緒に馬にくくり付けておくから、失くさないように」

 生まれ過ごし、大災といえる黄巾の乱すら乗り越えた郷里を離れる。
いざ、この日を迎えると今まで毎日見てきた景色すら、はじめて見るからのように新鮮な気持ちになるのだから、不思議な物だと魏延は思った。
自警団として苦楽を共にした青年の一人が準備をおえて馬を引いてくると、慣れた手つきでそれに跨る。

「道中気をつけろよな、文長。 お前やっぱり、そそっかしいから」
「私より、お前たちの方が心配だ。 里帰りした時に、自警団もやられて家がなくなってるなんて事が無いようにしてくれよ」
「ははは、お前がこそこそと集めていた家宝だけは守ってやるさ」
「っ、う、うるさいな。 もういい、行くからなっ!」

 青年の茶化した言葉に、魏延は頬を染めて反論しそのまま足で馬の腹を蹴って遠ざかる。
もう少しちゃんとした別れ方をするつもりだったのに、なんて思いつつも、この方がお互いに『らしい』別れ方かと納得もできた。
馬を走らせ、流れる景色の中で魏延は薄く笑う。
邑の人達に背中を押されてようやくではあるが、最初の一歩が踏み出せたのだ。
本当にようやくだ。
魏延は振り返ると、間の悪い時期に起こってしまった黄巾の大乱を恨まずに入られない。
官僚候補を育てる『茂才』に推挙された頃、益州にて大規模な黄巾の乱が勃発。
魏延を推挙していてくれた人はその最中に戦死し、故郷は賊徒の襲撃に脅かされた。
幸い、紹介状だけは手元に残っていたので、落ち着きを見せ始めたこの頃に魏延は出仕することにしたのである。
長く郷里で燻ってしまったが、自らの胸に秘める野望に続く道が、やっと拓けた。
逸る気持ちを抑えて、馬の手綱を持つ手を緩める。
今はまだ、誰何の魏延ではない。
益州で、この寒村ばかりが集まる邑の一つで、がむしゃらに武を誇っていただけの一介の武峡に過ぎないのだ。

「でも……いつか、きっと」

 自らを律して誠実に仕事に取り組めば、彼女の夢は必ず叶う。
それを信じているし、それだけの能力が自分には在ると思っている。
まずは益州僕の下で、能力を示さなければならない。
そして、いつか。

「よぉぉぉし、気合が入ってきたっ! やるぞぉ、魏文長!」

 
―――・


 日々それぞれ生きている間、人は悩みを持つ。
大事であれ小事であれ、それは人が人として生きている以上逃れる事のできないものだ。
例えば、体質。
人はそれぞれ個性があり、それは人体にも如実に反映される。
例えを挙げればいくらでも挙げることができるだろう。 毛髪ひとつ取っても、硬い、柔らかい、縮れていたり真っ直ぐに伸びたり、老いるごとに失われる事や、白髪が余り目立たない者など様々である。
これは結局のところ、人によって個人差があり作為的に弄ったりしない限りは本人が産まれて来た時から元来持ちえる資質であるとも言えよう。
そして特異な体質は郭嘉にとっての大きな悩みの一つであった。
幼少の頃には現れなかったこの鼻血体質。
寝ずに働く一刀を遠巻きに見やりつつ、この場所では一度も放たれていない赤いモノに安堵をしつつも、気は抜けない。
僅かにずれた眼鏡を支え、位置を整えると郭嘉は座した机の前で体勢を崩し、持っていた筆を置いて頬杖をついた。
目の前には劉焉や黄忠から振られた仕事―――竹簡の山である―――が積みあがっている。

「ふう……いい加減、一刀殿としっかりと話す時間を設けなくてはいけないのですが」

この官舎で働き始めてから既に10日。
郭嘉は劉焉のもとで働き始めてからほとんど、与えられた執務室から外に出ていなかった。
それはつまり、一刀を主として認め、仕える意思をまだ彼女は伝える事が出来ていないという事である。
原因はしこたま働いていた一刀にある。
もちろん、暮らしの中で彼とすれ違うことはあったが、まとまった時間を過ごすことがこの10日はまったく無かった。
今までべったりとくっ付いてる時間が長すぎて、今の方が正常だと言うのは間違いない話なのだが。
郭嘉が長く大陸を渡り歩き、数多の権力者たちの器を見定め、そしてようやく支えるべき主を見つけたのだ。
理屈でいえば、中央から排された一刀の臣になるなど馬鹿げているのだろう。
いずれは倒れるであろう漢王朝も、今はまだどんな侯よりも力がある。
だが、果たしてそれは大した問題であろうか。
主君と仰ぐ意思を固めた郭嘉にとっては、むしろこの状況、現況こそ好機と捉えて物事を進めていくべきだ。
天の道を歩く北郷一刀と、それを支える自分の手があればこの位の逆境には負けないはずだ。
一刀自身にも天代として働いていた頃に築いた強い人脈がある。
郭嘉が出会う前に一刀を支えてきた彼ら、彼女らは一歩も二歩も先を行っているし、一刀自身も多いに頼っているに違いないが。
しかし、今は一刀の傍には居ない。
現況で彼を支えてあげられるのは、傍に居る自分だけなのだ。
決して他人に能力で引けを取ってはいないという自負はある。
そして、一刀に二番、三番とは言わない。 一番信頼される者として立ちたい。
そう自らの道に腹が決まった直後。
この体の奥底から滾る思いを我慢する、という事が負担になっているのを時を追うごとに自覚させた。

 郭嘉は考える。
もういっその事、かつては共に旅をして主君を求めていた仲間である風に、キツく禁じられてしまったエロエロな妄想でもしてしまおうか。
そうすれば一刀の傍に行けるし、鼻から赤いモノをぶち撒くことを知っている彼は自分を無視しないはずである。
一刀の背中や腕に抱きつきイチャイチャしながら非常に重大な事を話すことになるが、それでも彼は真剣に自分の話に耳を傾けてくれる。
仕えるべき主にべっとり張り付きながら申し出る、などというちょっと、いや、かなり礼を失することになるが手段を選ばなければ会話の時間は設けられるに違いない。
最悪、鼻血をぶっ放して一刀の気を引くのも一手であろう。
一時の恥くらい、自らの志の為に掻き捨てるくらいは構わないに違いない。

「くっ……いや、何を考えてるんですか、私は……」

 思考が淀んでいる。
郭嘉は指の腹で転がしていた筆を投げ出して、椅子から立ち上がると伸びを一つ。
鬱屈した感覚を振り払うために、少し身体を動かすことに決めた。
思えばずっとこの場所で缶詰だ。
一刀ほどではないが働き続けている。
たまには身体を動かさなければなまってしまうし、実際のところ窮屈だ。
そうして官舎の外にでた郭嘉は、馬の嘶きに足を止めることになった。

―――・

「紹介状を無くした? ふむぅ……」
「本当なんだ、信じてくれ! 街に入る前に旅の汚れを落とそうと思って、川に入ったんだ。
 たぶん、着替えを出したその時に一緒に落ちてしまったんだと思う!
 なんだったら、今からそこに戻って紹介状を探してくるから!」
「いや、ええーと、まぁその、信じる信じないはともかくとしてですね、魏延殿。 一旦落ち着きましょう」
「いえっ! 落ち着いてなんていられません! ああっ、もう、私は一体なんでこんなことにっ……!」

 頭を抱えてそのまま地面に転がりそうな勢いで蹲る相手に、官舎の目の前で遭遇した郭嘉は困ったように眼鏡のふちを指でなぞった。
劉焉や厳顔から、今日この時間に人が来る話は聞いていたので、きっと彼女がそうなのだろう。
面談を行うとの事だったが、それはほとんど形式的な事であり、推挙の話もあって雇うことになるのは確定していると郭嘉は話されていた。
本人だと証明するための物が、その紹介状ではある。
他人を騙るなどの虚偽が発覚した場合は、かなり厳しい刑罰が定められているのだ。
まともな人間は官職を得るのに、他人を騙って雇われようとはしないもの。
もちろん、まったく無いという訳でもないのだが。
とにかく一度落ち着かせてから、厳顔が待っている場所に案内すればいいか。
そう考えて、魏延の乗ってきた馬を厩舎へ案内しようと近づくと荷物の開口部からはみ出している物に気付く。

「む、これは……」

 木を掘って作られた人形であった。
荷物の中身を覗いてみれば、大小さまざまな大きさの木彫り人形が並んでいる。
郭嘉はじっと手に持っている人形を眺めて、ほう、と息をもらした。
人形はそれぞれ様々な格好をしており、多種多様なポージングを決めていた。
ハッキリ言えば、郭嘉にとって人形は興味の対象では無い。
だが、それほど人形の造詣に詳しくない郭嘉でも、素晴らしい、と言えそうな出来合いの物ばかりであった。
なにより、この人形は何となくだが、一刀に似ている。
きっとこの益州ではこのような人形は広く流通しているのであろう。
なんせこの地の天代の評判は大陸を旅して廻る郭嘉からしても、異常な熱気を帯びているのだから。

「あ、えっと。 それはその……個人的に蒐集しているもので……」
「なるほど、良い趣味かと。 これは確かに集めたくなるのも判る出来栄えですね」
「そ、そうですよね! 自慢じゃないけど、けっこう有名な作品を幅広く集めてるんですよ!」

 はじめて見た物が直感的に良いものだと思える。
郭嘉の正直な所感を述べてしまえば、自分も同じ物が欲しいと感じたのだ。
座ってくつろいでいるところ。 剣を掲げて雄雄しく表現されているもの。
きっと金獅がモチーフであろう、馬に乗って駆けている様を表しているもの。
どれも掌に収まるくらいに小さな人形ではあったが、だからこそ可愛く愛らしい所がある。
材料にされた木の型の底には、小さく 『文優』 と名が刻まれていた。
恐らく、この木彫り人形の作者であろう。

「えーっと、あの郭嘉殿……」
「あ、すいません。 つい見とれてしまっていました。 これは天代様を模した物ですよね?」
「あ、そうです、天代様の人形ですよ」
「やはり……これは、私も欲しいかも知れません」
「その気持ち、私も分かります! そうだ、もし良かったら一つ差し上げましょうか。 同じ物は二つ持っているので」
「え、良いのですか?」
「あはは、良いですよ。 同好の士ってヤツですか? この趣味を理解してくれる人が居るのは嬉しいですし、それにこれから一緒に働く仲間になるかも知れないから、あ、いや、知れませんからね!」

 快活に笑って魏延はそう提案した。
多少の打算を含んでいるところはあるかも知れないが、これだけ明け透けだと逆に好感が沸いた。
初対面ではあったが、彼女の人となりはとても真っ直ぐなのだと郭嘉は思う。
あれこれと考えるよりも、先に行動するタイプなのだろう。
手に持っている一刀を模した天代の木彫り人形の説明を、嬉々として郭嘉に語る様を見れば素直で明るい性格をしていると自然に思えた。
そんな彼女が旅路に必要の無い、木彫り人形を多く持ち歩いてるのだ。 

「魏延殿は、天代様が好きなのですね」
「え? 好き……ですか。 うーん……というか、憧れ? そんな感じです。 益州で天代様の噂を聞かない日は無いですしね。
 色んな話を伝え聞いていく内に、ぼんやり過ごしていた自分も何かしなくちゃ、って思って……とにかく、尊敬しているんです」
「なるほど、わかります。 私も天代様の噂が切欠で、この益州に足を運ぶ事になりましたから」
「へぇ、詳しく聞いてみたいですね。 郭嘉殿の話」
「ふふ、そうですね。 私も魏延殿のお話を聞いてみたいです……それと、きっと魏延殿にとってはとても嬉しい出来事が、きっとありますよ」

 木彫り人形を一つ撫でて、郭嘉は官舎の中へと魏延を招き入れた。
丁度そんな時だった。
この暑い日々の中、かすかに体から湯気を放ち渡り廊下を抜けて歩いてくる人物が一人。
帯を締めずに着崩した服装で歩いていた。
薄く赤みが差すほてった体がちらちらと見えて、首から布をぶら下げていれば風呂上りなのだと容易に想像がつく。
確かにこの渡り廊下は一般の人には開放されていないが、ほど近いこの場所では非常に悪目立ちした。
お互いに顔が合い、視線が交わる。

「か、一刀殿。 そ、その格好は一体」
「ん? ああごめん。 風呂から上がったばっかりで暑くってさ」
「……客人も居ますし、風呂場から出歩くのならもう少し身だしなみをキチンとしてください」
「それはごめん、謝るよ。 っと、それで後ろの人が客人かい?」

 郭嘉の後ろでなんだか固まっている女性を見て、本体は恒例となったざわめきが脳内を駆け巡る。
エンヤッ! エンヤッ! とわいわい始まって、まるで祭りのようだった。
とにかく彼女も三国志の歴史に輝く名声たかい有名な武将らしい、という情報だけを頭の片隅にとどめて、観察する。
なんだかエンヤさんの方も驚いているようで、口を半開きにしたまま茫洋と一刀の顔を眺めていた。

「あーっと、郭嘉さん?」
「ええ、なんでも推挙されて劉焉殿の下に出仕した方だそうで、魏延という者です」
「魏延? なるほど、魏延……これが魏延」
「一刀……? 今、一刀って……かずと……」

 一刀は魏延の名前を繰り返し、魏延は一刀の名をぼそぼそと呟いていた。
お互いに名前を囁きあう二人に、郭嘉は眉根を寄せて首をかしげた。

「か、かずと、一刀……北郷一刀!? もしかして、本当にあの天代の北郷一刀っ!?」
「あ、えーとまぁ、うん。 そうだけど、もう少し声を落として欲しいかな?」

話を進めようと一刀が口を開こうとすれば、突如として魏延が跪き一刀に対して答礼を行う。
少しばかり不恰好ではあったが、真正面から相対され、答礼されてしまったのである。
それを無視することは失礼になるので、一刀も戸惑いながら魏延の声の続きを待たざるを得なかった。

「わわわわわ、わわわ、わわ私はぎぎぎぎ、あああ、いや、性を魏、ななな名を延、字ななっは、ぶぶっぶぶっぶぶ、ぶぶぶんぶん、ぶんぶん」
「魏延殿、一旦落ち着きましょう」
「ぅいえっ! 落ち着いてなんていられません! こんなことが……信じられない! まさかこんな場所で天代様に直接拝謁することが出来る日が来るなんてっ!」
「いや、声が大きすぎます! お願いですから落ち着いてください!」
「天代様っ! 私は魏延です! 字は文長です! 真名は焔耶です! 天代様! ふつつつつつかものですが! よろしくお願いします!」
「魏延殿っ!!!」

 キラキラ、という表現すら生ぬるそうなほど光っている目で魏延は叫んだ。
官舎の中に響き渡り、偽名として名乗っている"陳寿"に対して天代様と連呼し始めた彼女に、郭嘉は焦燥も露にして止めようとした。
彼女に負けじと、郭嘉も必死に声を張り上げた。
だが、ここは真昼間の官舎の渡り廊下である。
立ち入りが禁止されているとはいえ、本館からは仕切りもなく丸見えだ。
なおかつ、人の往来が激しい正門の付近に程近いとくれば、気付かれない道理は無く。
ええ、天代様が来てるって? やら、 陳寿殿ではなかったのか!? やら騒ぎは瞬く間に伝播していった。
これはまずい、と一刀が逃げ出そうとするも人の垣根は恐ろしいほどの速さで作られていく。
流石に官吏の人間は遠巻きにひそひそと話し合っているだけだが、小間使いである者達は殆どが民と大差ない。
多かれ少なかれ色めきたった視線を投げつけ一刀を囲む輪に参加していった。

「この御方が天代様なのか!」
「おお……ありがたやありがたや」
「天代様! こちらに顔を見せてくだされ!」
「こんな辺境まで足を運んでくれるなんて、感動です!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! うわっ、押さないで!」
「ありがとうございます!」
「北郷様! ご活躍の噂は聞いております!」
「天代様!」 「天代様っ!」 「天代様!」

 もはやちょっとしたパニックとなっていた。
一刀は押し寄せる人の波に翻弄されながら身を捩って抜け出そうとするが、なかなか上手くいかず。
遂に人々は流行している天代の民謡すら謡いはじめる始末である。
そんな騒ぎが起これば、官舎の前を通りがかった人も何事かと顔を出し、それがまた加わって大きくなっていった。
収拾はもうつかない。
郭嘉も魏延も、人の波に押し流されていき、人々が騒ぎ出したせいで厩舎にいた馬たちが盛大に嘶きだし

「よおおおしっ、これはもう、祭事だ! 天代様が足を運んできてくれた時に、騒がない道理はないぜっ!」
「おぉぉぉおぉぉおぉぉぉ!!」

 まるで勝ち鬨のような雄たけびを人々が挙げたその瞬間、音が響き渡った。
戦場で使われる銅製の巨大な鐘である。
ガンガンと荒く打ち出された音は、その場で狂乱し始めた人々の耳朶を大きく震わして、多少の冷静さを呼びかけることに成功した。
その鐘を鳴らしたのは、劉焉の夫であるという賈龍であった。
彼の肩には妻であり益州僕である劉焉もちょこんと乗っており、相貌は怒気をこれでもかと孕んでいた。
自然と音が鳴る方向へ人々の視線が向いた。
それを確認した劉焉が全員を睥睨しながら口を開く。

「よくもまぁ! これだけの騒ぎを我が官舎の中で起こしてくれたものだな!
 良いか! これ以上騒げば、例え誰であろうと、それが帝であろうともっ! この劉焉が全員地下にある牢にぶち込んでやるぞ!
 納得がいかない者、不服者はおるか!? 居るなら、さぁ! 私の下まで前に出ろ! 前に出ろ! 前に出ろ!」

 両手を挙げて金切り声をあげる劉焉に、人々は互いに顔を見合わせてバツの悪そうな顔を向け合った。
実際、これはかなりまずい問題になり得た。
公官の働く官舎で大きな騒ぎを起こすことは、殆どの場所において法度である。
さらに祭事は基本的に漢王朝が定める朝廷からの許可と官の認可があって初めて許されることであった。
劉焉が叫んだように、全員が牢屋に入れられてもなんら可笑しくない事態になっていたかも知れないのだ。

「不服な者はおらぬ様だな! ならば、この劉焉の言葉を耳に刻め! 良いか!」

騒ぎが急速に沈静化したのを見計らって、劉焉は賈龍の肩を一つ叩き、彼から飛び降りると
人垣に押されまくって尻餅をついていた一刀のもとまで真っ直ぐに歩いていく。
劉焉が通ると、そこは見えない力に押されるようにして人が引いていった。

『……はは』
『"白の"、どうした?』
『いや、なんでもない。 ただ、苦労してるなって』
『人事みたいに言うなぁ……』

 一刀は自分の声を何処か遠くで話しているよう聞こえる。
一刀を見詰め、一直線に歩いてくる劉焉に驚きながらも、小さな身体から放たれる威を確かに感じられたからだ。
決して彼女を下に見ていたわけでは無い。
凡庸な者だと決め付けていたわけでもないが、それでも彼女は乱世の雄であることを一刀に再認識させたのである。
一刀の近くまで来ると、劉焉は眦をギンっ! と効果音が鳴りそうなほど曲げて睨んだ。
騒ぎの中心になってしまった一刀は引きつった笑みを浮かべて、一歩引こうとしたが、その肩を彼女の両手で押さえつけられる。

「………えっと……」
「……あー……コホン! 良いか! この男の名は陳寿だ! 例え誰かが天代と呼ぼうが、この男は陳寿!
 陳寿は天代かもしれん! だが天代ではない陳寿だから陳寿が天代だというのは違う!
 陳寿は陳寿だ! 天代っぽいが、陳寿だ! まさかコイツがもしもがあって天代だとしても陳寿!
 仮に万が一陳寿ではなく天代だとしても、この男はただ一人の陳寿だ! 分かったか! 分かったら言え! この男は陳寿! 陳寿だッ!!!」
「陳寿……?」
「天代ではない陳寿……?」
「ただ一人の陳寿……?」

 劉焉の怒声が響き渡り、その余りの形相にこの官舎に集った人々は曖昧に頷き、ざわりと声をあげた。
何時の間にか劉焉の横まで移動していた賈龍が、鐘を持ち上げて大きく鳴らし挙げた。

「つまり! ……つまり~~~~、つまり、あ! そう! こいつは天代騙りの糞野郎だ!」

 ガーンッと大きな鐘の音が鳴り響く。
絶妙のタイミングで視線を集め、尻餅をついたまま呆気に取られている一刀を賈龍は指差した。
そして劉焉は煽る。 とにかく煽った。
それはやはり、周りに伝播して徐々に大きな声になっていく。

「この男は陳寿!」
「陳寿!」
「陳寿!」
「陳寿!」

小柄な彼女からは想像もできないほどの一喝であった。

「そうだ! 天代では無い天代・陳寿! 騙りみたいな、いや、騙りをした糞野郎だ!」
「天代を騙った陳寿!」
「天代・陳寿!」
「糞野郎・陳寿!」
「そうだ! この男はほら吹き野郎のクソッタレだ! さぁ、声をあげろ! 皆のもの!」
「ほら吹き野郎!」
「クソッタレ!」
「騙り野郎!」
「そうだそうだ! さぁ、この劉焉に続け! 頭のイカレタ糞ったれのゴミ虫騙りクズ野郎!! その名は陳寿だ!」
「騙り糞野郎! 陳寿!」
「イカレポンチ野郎! 陳寿!」
「ゴミ虫野郎! 陳寿!」
「よぉぉぉし! いいぞぉっ! さぁさぁ! この男・陳寿を血祭りにしてぶち殺せっ―――いや待てっ! それは無しだ! 今のは無しだ! 
 北郷は殺せない、いや違うっ! そうだ! つまり天代は生きろ! 陳寿は死ね! さぁ! 繰り返せ! 天代は生きろ! 陳寿は死ね!
 さぁさぁさぁっ! はい! はい! はいッ!」

「天代は生きろ! 陳寿は死ね!」 
「天代は生きろッッ!」 
「陳寿は死ねッッ!」

「よぉぉぉおっし! 皆のもの! 解散だぁぁぁぁああーーーー!」
「うおおぉぉぉぉぉおおおぉぉぉおおぉ?!!??!????!?」
  
 こうして劉焉が多大に扇動し、煽りまくった口上によって人々は勝ち鬨のような大声を挙げた。
ガンガンと賈龍が鐘を打ち鳴らし、官舎は人々の踏み鳴らす足踏みに揺れ、厩舎の馬たちは興奮しながら嘶いた。

その後よく判らない盛り上がりを見せた騒ぎは有耶無耶のうちに終わり、官舎から首を傾げながらバラバラと大勢の人達は出て行く事になったのである……

後にこの騒動の噂は益州全域に広がりを見せていった。
名もなき男が『天代』を騙る。
とんでもない糞ペテン師野郎・陳寿が益州に出現し、即座に劉焉によって処刑されたと言う事実だけが、史書の端っこに残されたという。


      ■ 信じて送り出した……


「こんっの! 本当になんて事をしてくれるんだっ、北郷一刀!」

 場所を移して官舎の応接間。
騒ぎが騒ぎだっただけに、中心となった一刀と魏延が劉焉の叱責を受けていた。
もちろん、郭嘉や賈龍、そして騒動を聞きつけてやってきた黄忠、厳顔も勢ぞろいである。
もしもアレだけの騒ぎが祭事となってしまったら、これはもう劉焉にとっての政略において最悪の寸前である。
間違いなく他の州僕、王朝からの官吏には天代・北郷一刀が劉焉の膝元に居ることが知られてしまう。
そうなれば待っているのは糾弾だ。
それで済めばむしろ御の字かもしれない。 いや、人の口に戸は建てられないのだ。
既に天代・北郷一刀が益州に居るかもしれない事は確実に噂に上る。
この状況で劉焉が取れる手段は、根も葉もない天代に纏わる噂話などをまた工作する必要があるだろう。
益州の民は天代と劉焉の繋がりがあると信じているからこそ、そのまま劉焉の民望となっているのだ。
王朝から直接糾弾されれば彼女は立場を窮してしまう。

「ただでさえ忙しいのに、この騒動の為にまた人と金と時間がかかるっ! ああっ、もう! 私はな、お前が嫌いなんだぞ!
いっそのこと何処か遠くでのたれ死にして、くたばってくれれば良いのになーって私は毎日寝る前に夜天の星々に願っているんだぞっ!
それなのに、北郷、お前はなぁぁぁーーー」
「ちょっと待ってくれ! 劉焉様! 悪いのは私だっ」
「うるさい! 魏延だっけ!? 私とは付き合いの深い県令の推挙でなければ、お前も牢にぶち込みたいくらいなんだぞっ!」
「私はどうなったって良いんだ! 天代様はなにも悪くない!」
「まったく、落ち着かんか魏延、それに焉殿も」

 腰を挙げて主張を始めた魏延に、厳顔が足で音を鳴らして喚起する。
そっと魏延に近づいた黄忠が肩に手をおいて諌めると、黄忠は口を開いた。

「魏延さん? 形はどうあれ、貴女は劉焉様の下に出仕しに来たんですから、もう少し礼儀正しく行きましょう? ね」
「それは……っ、でも、私は天代様が、一刀様が悪く言われるのは我慢ならない。
 長く続い益州の黄巾の動乱を治めてくれたのは、天代様の名があってこそじゃないですかっ」
「うむ、それは認めざるを得ないのぅ」
「劉焉様にも色々と考えがあるのよ、魏延ちゃん。 噂を知らないわけでは無いでしょう?」
「それは……えっと、劉焉様と天代様が前帝に認められた仲で、誓いの接吻と特別な儀式を―――」
「うおおおぉォォッッ! そうだヨッ!! だけど今はそれは忘れて! 問題はそこじゃないっ! いいね!?」
「でも、劉焉様は今、天代様のことを嫌いって言ってたし、既に夫は居るし……ってことは……つまりそれは? どういうことなんだっ?!」
「いいから! とにかくそれはいいから! 魏延! 座って!」

 魏延は必死な劉焉に話を遮られ、不承ながらも一旦は頷いて腰を下す。
仕方が無いとはいえ、魏延は一刀の立場を知らない。
だからこそ、劉焉の叱責に魏延は納得できなかった。 
そして、一刀の事を正式に仕官していない魏延には話せない理由まで存在して、彼女たちの話は平行線となる。
まして魏延は紹介状を失くしている。
劉焉としても彼女が本当に推挙された者であるのかの確信が持てないのだ。

「一刀様は、どうお考えですか?」

 郭嘉の声に顔を上げる。
一刀は神妙な面持ちで彼女たちの話を聞いていたが、実際には脳内の声に耳を傾けていた。
劉焉だけではない、一刀の立場であっても中央に正確な場所を知られる事は避けていたい。
そうでなければ偽名など使わない。
今や糞ペテン師野郎などという風評被害にあってしまった陳寿殿には申し訳ないが、これからも偽名は使い続けるだろう。
劉焉や魏延がたっぷりと言い争いに近い話をしてくれた為に、一刀たちの考えは纏まった。

「分かった、騒ぎを起こした罰を受けようと思う、劉焉さん」
「なっ!? 天代様?」
「一刀殿……」
「俺は益州南部に行こうと思う。 もともとそのつもりだったし、それは黄忠さんにも、厳顔さんにも言ってある」
「益州南部? あそこは蛮夷の地に近いし……つまり、それは追放か?」

 一刀の言葉に魏延と郭嘉は驚き、劉焉はその提案に思案顔となる。
劉焉も一刀も、お互いにこの官舎で過ごし続ける事は避けたい。 ここは相互にwin-winの関係だろう。
ただ、郭嘉の言うように天代・北郷一刀は天の道を歩まねばならない。
金獅を取り戻す為には、劉焉の下で仕事をしなければいけないのだ。
『南蛮図』を作成し、献上することで金獅を買う。
つまり劉焉にとっても、一刀を益州南部に追放、そして同時に仕事をしてもらうことで此処も条件が揃う。

「ふむ、悪くないな。 私にもお前にも利があるし……いや、馬一頭に南蛮図となれば、むしろ私にとっては破格の条件か……」
「南蛮図は政事・戦略にも役立つと思うし、未来への投資にもなると思うよ。
 それを作成する間に朝廷から、天代についての詰問をされたら罪人の『陳寿』ということにすれば良いんじゃないかな?
 実際にその場に居ないわけだし、白を切ってしまえばそれで終わりになると思う」
「一刀殿の意見、私も問題ないと思います。 今回の件の尾が引く前に実行できれば最善かと」

 郭嘉の言葉に、劉焉は一度頷いて顎先で続きを促す。

「ただ、南蛮図を作成するのに必要な物資と人員、それと糧食は最低限でも用意して貰いたいかな」
「くっそ、やっぱり金はかかるよなっ! ……蛮夷の地となると、兵士もだろう? 
 正直言って苦しいが、わかったよ。 北郷に投資してやる、代わりに絶対成功させるんだぞ」
「ありがとう、劉焉さん」

 話の流れを静観していた魏延は、そこで顔をあげた。
騒ぎを起こしてしまった発端は、自分にあるのだ。
自分の罪を、このまま一刀に背負ってもらうのはまずい、と気がついたが故だった。

「劉焉様、私は一刀様についていきます。 私も南蛮図を作って、今回の一件の罪滅ぼしとしたいと思います」
「いや、ちょっと待て魏延。 理屈は分かるけど、それは危険だ。 その、お前は私の下に出仕したんだからな」
「え? はい……でも天代であらせられる一刀様に自分の罪を任せたままではいられませんし、畏れ多いんです!」
「いやそうだけど、わかるけど、そいつは、つまり北郷はだな……えっとだ……」

 劉焉の危惧、それは魏延がそのまま北郷一刀の手管に堕ちて自らの部下にはならずに離れてしまうことだった。
益州には有望な人材がまだまだ眠っているのは間違いないが、とにかく今は頭数が欲しい状況である。
大陸全土、何処を見回しても黄巾の乱の影響は大きい。
不安定な社会状況の中で、今は人手がいくら居ても足りないくらいだ。
特に推挙に値する有能な官僚・将兵ともなれば。
とはいえ、上手く魏延の提案を跳ねつける言葉が直ぐには出てこなかった。
まさか本人を前にして超危険人物の野獣の男だから、などという失礼きわまる侮言を放つわけにはいかない。
まぁ、さっき散々に『陳寿』を罵倒できたのは少しだけ気持ちよかった劉焉だったが。

「ああっ、もーー、わかった! 認める! でも絶対に無事で返ってくるんだぞ、魏延!」

 劉焉は決断した。
魏延を信じて送り出すことを。
もしも一刀に堕とされれば、推挙した県令、送り出した故郷の大邑、そして劉焉の面子に泥を塗ることになる。
そのくらいは、成人して人と付き合う事で常識として身につくのだ。
魏延だって承知しているに違いない。
彼女は必ず戻ってくる。
劉焉は力強く魏延の手を握って視線を合わせ、頷いた。
魏延もまた、劉焉の小さな手を握り、力強く頷く。

「安心してお任せください! 劉焉様の良人となられる天代様は、この魏延の命に代えても必ず守って見せます!」
「いや、そっちじゃないんだけど……まぁもういいかっ! んんっ、でだ、北郷」
「ああ」
「これでも私はな、見当もつかないけど、腐敗した中央の政の事情の中で天代にまで登りつめた手腕は評価してるんだ。
 南蛮図は将来の益州にとって最大の宝物になる可能性を秘めてる物だろうし、北郷に賭けてみる。
 いいか、絶対に正確な南蛮図は作るんだぞ! 出鱈目ばっかりだったら、えと、とにかく酷い事をするからなっ!」
「分かった、約束するよ」

差し伸ばした手に、劉焉は思わず自然に一刀の掌を握った。
彼女はハッとして手を放そうとしたが、背筋をぞわりと寒気が走り、頭の奥から天辺まで雷が走ったかのようにビクリと身体を震わせた。
ちなみにこの流れも、脳内一刀たちの思惑通りである。
実に数秒、お互い顔を見ながら握手をしていたが、劉焉は一刀の手を必死に振り払うと涙目になりながら叫んだ。

「し、しまったぁぁっ! 北郷一刀に触れてしまった! もうだめだっ! トロトロ顔になって呪われるっっ!」
『しかし騒がしいな、この子は』
『劉焉さんは何を言ってるんだろう?』
『もしかして、北郷一刀はこの子をトロ顔にしていた……?』
『いや、呪術の方かも知れない』
『一体何をやらかしたんだ?』
『俺じゃない』
『俺じゃない』
『いや、それもう長くなるから辞めとこうよ』
『でもさっきさぁ、肩に自分から触ってたよね?』
『言われて見れば……でも、一貫して同じ様子な気はするな』
『劉焉さんの反応は変わらないか』
『たぶん、ずっと嫌われてたとか、警戒されてたって感じなんだろうなぁ』
『やっぱ小さい子に嫌われてると、その、へこむね』
『見た目は子供っぽいもんな』
「……」

 劉焉は狼狽したまま夫の賈龍にダッシュで抱きつき、浄化するんだと呟き始めてしまった。
本体は周囲からの視線と、脳内の会話を受けて苦笑する。
魏延も呆気に取られた様子で口を開いた。

「劉焉様は急にどうしたんです?」
「まぁ、いろいろあるのよ。 劉焉様も、ふふふ」
「立場のある州僕であるのだから、そうすぐに狼狽を晒すものではないですぞ。 それに、北郷はこう見えて中々の硬派であったからな」

 黄忠と厳顔はお互いに深く頷いて、一刀をフォローした。

「一緒にお風呂に入ったのに、まさか触れてもくれないだなんて思わなかったわ」
「うむ、女としては少し、自信を失くしてしまうのぅ」
「清々しいほど相手にされなかったんですから~。 劉焉様も、一刀様をもう少し信用してもよろしいと思いますわ」
「もう少し、積極的に誘ってみても良かったかもしれんな、紫苑」
「でも桔梗、私は安い女とも見られたくはないから」
「ふむ」
「ちょっと待って! ちょっと待ってください!」

 だがそのフォローは爆弾だった。
郭嘉にとって。
余りにも突飛で予想できない方向から卑猥な話に移り変わって、脳が認識した瞬間に頭がフットーしてしまったのである。
鼻の奥から久方ぶりに突き上げるストリーム(噴流)
一刀と出会ってからは一度も爆発していない、最大まで充填が完全に終わっている血液が今こそ力を解き放たんとしていた。
突然の危地と焦燥が、狭い室内で郭嘉を走らせた。
それは非常に鋭い体当たりとなって一刀へと激突する。
普段とは比べるべくもない、予測できない郭嘉の突然の行動に一刀はそのまま押し倒されて椅子から転げ落ちた。

「ぐッッはッ!」

 転げ落ちた一刀はそのまま吹っ飛び、壁のへりに頭を打ち付けて本体は気絶した。
あまりにも突然だった為、受身もまったく取れずに吹っ飛んでしまったのである。
そして一刀を押し倒した郭嘉も、吹っ飛んで離れていく一刀を視界に収めたまま視界が赤く染まり、限界を迎えた。
頭部をぐらりと落とす一刀に向かって盛大に噴き出し、赤い霧の軌跡を残して一刀に直撃。
さながらそれは一条の光線。
壁は瞬時に赤く染まり、気絶した本体も真っ赤に染まり"魏の"が身を起こして―――

「ギャアアアアアアアアアアッ! 死んだぁぁぁっっ!」
「わああああああああっっっっ! 天代様ぁ! 郭嘉ぁぁ!」
「なんじゃ! 毒か!?」
「襲撃かしらっ!?」

『いかん! トントンしなくては!』

 応接室は再び喧騒に沸き立ち、赤壁に染まった。


      ■ 魏延が……


 翌日になってようやく梓潼の官舎は落ち着きを取り戻した。
あまりにも疲れる、それでいて余り実があることも出来なかった一連の出来事を振り返ってそっと溜息を漏らす。
南蛮図の勢作に取り掛かることが無事に出来そうなのが、唯一の収穫だろうか。
"南の"の意識からは喜びとも興奮ともつかない、浮ついた雰囲気が感じ取れる。
一刀は騒がしい事件を振り返りつつ、日課となっている金獅の餌やりに厩舎へと訪れていた。
馬の鞍を自分で金獅へと着けるのも、随分と懐かしい。
暇ができれば少しばかり遠乗りをしてみようか、と一刀はぼんやりと考えながら相棒の顔をやんわりと撫でた。

「ブルルッ」
「……」

 胸元にぶら下げた宝玉を触りながら、時折しっぽを振って飼い葉桶に首を突っ込み、楽しんでいる金獅をただ眺め続けていた。
しばらく食事に夢中だった金獅であったが、何が気になっているのか。
普段とは少し違う様子を見せていた。
一刀に向かって首を上下にフリフリとして、一方の厩舎の先を見る。
しばらくすると同じように首を振ってまた厩舎の先を見る、というのを繰り返していた。
時折思い出したかのように、飼い葉桶に首を突っ込んで食事をするが、また一刀の存在に気が付くと首を振って何かを示そうとしていた。

「どうしたんだ、金獅?」
『本体、あそこ』

 金獅が首を向けた方角には、一頭の馬が繋がれていた。
栗毛色の馬が、厩舎の外でうろうろとしており、時折地面に生えた草を食んでいる。

「あの馬のこと? なんだよ、気になってるのか?」
『魏延さんが乗ってきた馬かな?』
『手入れの行き届いた牝馬だったね、愛されてると思う』
『へぇ、流石に詳しいな』
『いやでも、どうやらそれだけじゃないみたいだ』

 "袁の"が目敏く、馬の足元で小さくなっている人影を見つけた。
一刀が細目で見やると、物陰にすっと隠れてしまったが、あの特徴的な衣服は魏延のものだった。
同じように自分の馬の面倒でも見ているのか、とも思ったがどうにも様子が違う。
一刀は金獅に視線を戻すと、鼻をふんふんと鳴らしながら一刀の顔を舐めまわした。

「うわっっぷ、わかったよ。 ありがとな、教えてくれて」
『ブルッ』
 
 ひとつ、ふたつと金獅の鼻面を撫で、一刀は魏延のもとに歩き出す。
一刀が近づくと、厩舎の壁で膝を抱えながら上目遣いに一刀を見上げる姿があった。
接近していたことには気付いていたのか、なんだか怒られた子犬のように目線を逸らす。

「魏延さん、どうしたんだ?」
「天代様……」

 盛大に肩を落として落ち込む魏延に、一刀は苦笑した。
深く考えなくても昨日の騒動のことだろうと当たりが付く。
大きな騒ぎになりかけた物だったが、非があるといえば一刀自身にもあるだろう。
この益州での『天代』の名声がどれだけ高まっているかは、郭嘉たちからしっかりと聞かされていたのだ。
最初から警戒心を抱いていた劉焉だけはともかく、厳顔や黄忠からも高まっていた名声からか非常に良くしてもらっている。
この外史、この大陸で北郷一刀は無二の有名人であるのだ。
官舎の中だからと無警戒に歩き回っていたのは、あまり宜しくないのは確かだった。
一刀とばったりと出会ってしまった魏延は、さながらアイドルを見かけてしまった熱狂的なファンと言ったようなものだ。
この世界で例えるならば、張三姉妹に出会った黄巾党といったところだろう。

「ん? そういえば黄巾の首魁にはまったく会わなかったけど……」
「え? 黄巾?」
「いや、なんでもないよ。 それより、何か用事があったんじゃないかな」

 曖昧に手を振って一刀は話を逸らした。
高さのある石段に、同じように座る彼女の隣へと腰を下す。
魏延は数度、一刀の顔を見ては逸らしを繰り返し、やがて意を決したかのように顔をあげて口を開く。

「一刀様、私は、天代様に憧れていたんです」

 ようやく、と言えそうなほど長い時間をかけて紡ぎだされた言葉を切欠に、訥々と魏延の話は続いていく。
それは彼女がこれまで歩んできた来歴を振り返るようなものであった。
一刀が天代として成り上がり、劉協と共に離宮で過ごしていた頃に黄巾の余波は魏延の郷里にまで波汲していた。
益州全体で争乱が起こったのも、同時期である。
劉焉が州僕として中央から派遣されるまで、その争乱は解決の兆しすら見えない闇の中であった。

「……恥ずかしい話ですけど、最初は賊徒の黄巾を翻すあいつらが怖くて、邑に篭ってたんです」

 邑の中で誰よりも力自慢であった魏延だったが、黄巾賊と初めて相対した時に真っ先に生じた感情は恐怖だった。
話を聞いている一刀達は同じように頷く者と、意外そうに感嘆する者とで反応が別れていた。
そして本来が共感を得たのは前者であった。
武装した組織としては一刀の知識の中で、古今東西を見渡しても最大級の規模である。
暴力的な人数と、それを突き動かす激烈な志。
ただ生まれ育った邑で平和に暮らしていただけの少女であった魏延が恐れるのは、理解できる話である。
本体だって、もしも頭の中に自分達が居なければ右往左往しているだけであったに違いないのだ。

 そして、そんな彼女が立ち上がる勇気をくれたのは益州に広がり始めた『天代』の名声である。
賊徒に怯えるだけであった邑々の人々が決起する事を決め、その規模は徐々に大きくなっていって、最終的には黄巾賊を討伐したのだ。
結局、賊徒を排する大事を成したのは、劉焉を含めてこの益州に住んでいる全ての人達の努力の結果である。

「でも、その力の切欠をくれたのは、間違いなく天代様……その、一刀様なんです」

 魏延は困ったように笑っている一刀に微笑んで、そう続けた。

「その……一刀様。 私は、いつか天代様に仕えることが夢だったんです」
「俺に仕えるって……でも、劉焉さんから事情は聞いたんだろう?」
「はい、そうなんです。 昨日の夜に聞かされて吃驚しました。 天代様が中央から排斥されていた、だなんて」

 劉焉は魏延に対しての引抜を防ぐ為なのか。
北郷一刀の現状が如何に魅力が無く、その下で働く事の無益さと乙女として傍に居ることの危険性を大いに語っていた、らしい。
らしい、というのは郭嘉から又聞きしたからであったが、魏延の反応からすると事実のようである。

「あはは、劉焉様からは色々とお話されました。 最後には私が天代様に仕えるのが夢だったっていう話も、真剣に聞いてくださって……」
「へぇ……」
「最後には自分の気持ち、心の根っこにある志に従え、と厳顔様に背中を押されました」
「それで、俺のところに来たんだ」
「はい……」
「それで、魏延さんの考えは決まったのかな?」
「本当は、まだ良く分からなくて、どうすればいいのか分からなくなっちゃって……! 
天代様に仕えたいのは、本当なんです。 劉焉様の下で覚えが目出度ければ、推薦されることもあるだろうって思っていたのに、天代様は目の前に居るし……でもだからって、劉焉様のところに押しかけたばかりで、すぐに他の誰かの下に仕えるだなんて不義理にしか思えなくって」
「それは……そうかもなぁ」
「そ、そうですよねぇ……」
「そうだなぁ……」

 曖昧に相槌を打って、一刀はなんとなしに周囲を見回す。
厩舎の馬房の中で、金獅がじっとり一刀達を見詰めており、次いで飼い葉桶を鼻先でガコガコと音を立てて何かを主張していた。
魏延の連れてきた馬も砂利の上で砂遊びに興じている。
太陽が雲に遮られて影を落とし、昼時を知らせる鐘の音が官舎の中に鳴り響いて―――なんともノンビリとした光景であった。
例のごとく頭の中で魏延に関する話題で盛り上がっていた脳内も、本体の眺める牧歌的な光景に毒気を抜かれたようである。
自然と脳内会議の勢いはトーンダウンしていった。

『まぁ、あれだ。 急いで決める話でもないんじゃないの』
『南蛮図を作っている間は、劉焉様の下で良いかもね』
『それもそうだな』
「その間に、魏延さん本人に見極めてもらうって形が自然かな?」
「はい?」
「ああ、いや……うん、魏延さん。 俺からちょっと提案があるんだけど―――」

 南蛮図の勢作期間中は、劉焉配下として。
その間に魏延は一刀の下へ仕えるかどうかを見定めてもらい、一刀も彼女を迎え入れるかどうかを判断する。
もちろん、この話は劉焉にも通して最終的には談合し決断を下す。
この一刀の提案には、悩んでいた魏延も顔を綻ばせて同意してくれた。

「分かりました、一刀様。 私はそれで構いません」
「ありがとう。 後で一緒に劉焉さんにも話にいこう。 だから、暫くの間は南蛮図の勢作の手伝いに注力して欲しい」
「はいっ! 任せてください! 出来うる限り、力になります!」

 一刀に差し出された手を、魏延はそれまでの落ち込んだ様子から想像できないくらいに溌剌として握り返して、ぶんぶんと大きく手を振るった。
憧れであったという天代から、直接頼りにされているからか。
まるで長い間留守にしていた主人を迎え入れたワンコのように、急激な活力の取り戻し方であった。
あまりの豹変振りに、一刀は思わず笑ってしまう。

「ははっ、魏延さん。 大げさだって―――」
「うわああぁっっ!」
「グハッ!?」

 瞬間、魏延の握っていた手がブレて、一刀の鳩尾を的確に打ち抜いた。
直後に魏延は一刀と握手を交わしていた手を、もう片方の手で押さえながら顔を青醒めさせる。
自分が何を仕出かしてしまったのか、理解できない表情であった。
魏延は何故か一刀と触れ合っていると、何とも言えない感情がこみ上げてきて無償にムシャクシャしてしまったのだ。
嫌悪とまではいかず、かといって無視できそうも無い苛々が心中を走り抜けていくのである。
まるで憧れていた人を横から攫われた様な、嫉妬とも羨望とも言えそうな不可思議な感情の乱れであった。
とにかく一刀に触れると不快になったのである。
だが、そんな筈は無い。
魏延は天代である一刀を尊敬しているし、敬愛もしている。
実際にこうして顔を合わせても好意こそ生まれても、嫌悪を抱いたことなど一瞬たりとて無かった。
なのに、何故。

そして鳩尾に武将の一撃を叩き込まれた一刀は、横隔膜が千切れそうなほどの痛みと苦しみに、呼気を荒くして地面を転げまわっていた。
とにかく呼吸ができなくて苦しい。

「ゲホッ……ハッ……ハァハァ」
「あっ! てんっ、いや、一刀様! ごめんなさいっ! わ、私はなんてことをぉっ!」
「ハァぅ……ウッ……とてもつらい……」
「だ、大丈夫ですかっ!?」
 
 魏延は慌てて苦しみ悶える一刀の上半身を抱き上げ

「うわあああっ!?」
「グッハッッッ!」

 迸る感情に任せて、そのまま地面へと一刀を放り投げてしまった。
凄まじい勢いで身体が泳ぎ、石段の角に頭蓋を打ち付け、そのまま危険な姿勢で崩れ落ち気絶してしまう本体。
すかさず”袁の”が入れ替わり、受身を取って地面に転がる。

「うわあああっ! 違うんです! これは違うんです! 天代様っ、本当にすみません! ああっ、こんなにも血が吹き出てっ」
「わ、分かった! 分かったからタイム! 魏延っ、俺は大丈夫だから! ね!?」
「せめて手当てをさせて下さいっ! こっちに―――いやああああっ!」
「グッフッっ!」

 一刀の手を取った魏延はそのまま腕を抱きこんで、そのまま見事な 『送り引き落とし』 を決めて一刀を地面に張り付けた。
もうもうと砂煙が上がり、近くにいた魏延の連れてきた牝馬が迷惑そうに首を揺らして嘶く。
ここに来て流れるように繰り出される魏延の連続攻撃に、一刀達はようやく危機感を覚えた。

「わああぁぁっ!」
「モルスァッ!」
「あああ、天代様ぁぁーー」

『おい”白の”も逝っちまったぞ』
『みんな、ごめん』
『おい、お前が犯人か”蜀の”』
『おい、彼女に一体何をした! 言えっ!』
『何をしたというか、何もしてなかったというか、桃香が遠因というか……だから、ごめん』
『あ、”無の”がやられた』
『次はやく行けよ』
『どうぞどうぞ』
『どうぞどうぞ』
『魏延さん、顔面蒼白の上に涙目になってるぞ、早く誰か行けってマジで』
『どうする、このままじゃ誰が行っても気絶するだけだぞ』
『”白の”や”南の”で駄目なんだから俺が行っても……って、そうだっ、”肉の”!』

 一刀達は”肉の”に全てを預けて、この一連の連続攻撃に何とか耐え凌ぐことに成功したが、何度も憧れの天代様を無意識に殴り飛ばしてしまったからか、魏延は混乱していて止める間もなく逃走してしまった。
額を切って盛大に血を流し、赤く染まった視界を手で遮り”肉の”は呟いた。

「とにかく、一度手当てかな……」
『それから焔耶のフォローに行かないと……』
『触らないように気をつけないと、また同じことになりそうだね』
『ああ、徒手空拳であっても武将の攻撃はやっぱとんでもないな……』
『俺が6人ほどヤられた様だな……』
『北郷一刀の面汚しよ……』

 しかし、どうやって慰めてあげればいいのだろうか。
一刀達は首を捻りながら官舎に戻って、宛がわれた自室へと向かった。

―――・

 そんな様子の一部始終を密かに見ていた者たちが居た。
外の厩舎が良く見える場所でお茶とお菓子を片手に、お互いに顔を合わせて口を開いた。

「ふむ。 なかなか見応えのある乱取り稽古じゃったな」
「手加減の無い格闘戦だったわねぇ。 でも焔耶ちゃんって一刀様に仕えるのかどうか、話をする為に向かったんじゃなかったの?」
「そういえば、そうだったの……」
「もう、桔梗が焚きつけといて忘れないでよ。 でも、泣いて逃げちゃったってことは一刀様には断られたのかしら?」
「いや、紫苑。 仕える相手に格闘戦を仕掛けるなんてことある訳ないであろう」
「それは、そうかもねぇ……」
「最後の方は焔耶の組み伏せを天代が上手く捌いておったからの、己の武が通じなくて悔し涙でも流したのではないか?」
「なんかその発想はズレてる気がするのよね」

 茶をふくみ、黄忠は顎に手を当てて考え込む。
厳顔は腕をあげて一つ伸びをすると、手を伸ばして菓子を口の中に放り込んだ。
そんな二人の気楽な様子を眺めつつ、机の中央に陣取った劉焉は顰め面をしたまま一刀が消えていった方角を見詰め続けていた。

「で、焉殿は今のをどう見られましたかのぅ?」

 厳顔に問われて、劉焉は上目で一つ彼女を見やる。
砂糖菓子を袋に詰め始めた黄忠にも一つ視線を送った。
彼女たちが此処に陣取っているのは、単純に仲間となった魏延がどうするのか気になったからである。
彼女の夢であった天代・北郷一刀に仕えるのか。
それとも義と人情を取って劉焉の下に拠るのか。
そんな彼女達にとっても重大な話であっただろう、この魏延と一刀の邂逅の一部始終を見た劉焉は
厳顔に尋ねられて率直な所感を端的に述べた。

「あいつら一体なんだったの!? 意味わかんないよっ!」

 同意するように厳顔と黄忠は胸を揺らして頷いた。



      ■ 友に誓う一対の剣



 黄巾の乱は洛陽から始まり、それは水が波紋を呼び起こしたかのように円状に広がって反乱の輪を描いていった。
まるで示し合わせたかのような広がり方だ。
各地で兵を纏める将が多く居たことの証左でもあり、漢王朝の死を如実に実感させるものである。
もともと黄巾を纏う者たち以外の山賊、江賊もこの大乱に乗じて漢王朝打倒の為に立ち上がった。
それは、大陸の最北東部。
漢王朝が治める幽州もまた、例外ではなかった。
公孫瓉と劉備は、幽州にて勃発した黄巾賊の討伐の最中、各地で決起した反乱軍が次々に合流した。
その中には、かつては漢王朝の官職を持つ者すら居たのである。
ただの賊討伐であったはずのものは、段々と激しい戦争へと移り変わっていった。
形としては、一刀が巻き込まれた涼州での大反乱に近い。
一刀が対峙したのは韓遂と辺章が率いた羌族の反乱であったが、幽州で劉備と公孫瓉が当たったのは烏桓であった。
もちろん、異民族にあたる烏桓と公孫瓉は黄巾大乱の以前から抜き差しなら無い関係である。
激しく争い、1000を超える死者を出すことも珍しくない、漢王朝の中でも最も異民族との戦闘が激しい場所の一つであった。
定期的に烏桓は漢王朝へと攻め入り、敗北や和睦を重ね、それを100年以上も続けてきたのである。

公孫瓉は幕舎の中で椅子に座って目を瞑っていた。
激化する異民族の烏桓、そして反乱軍との戦闘は半年以上にも及び、国庫も糧食にも、そして幽州そのものにも大きな負担が圧し掛かっている。
国力や経済体制を勘案すれば、この戦いに負けることは無い。
黄巾賊を筆頭に決起した賊も、丘力居(きょうりききょ)率いる烏桓も、略奪を繰り返さなければ軍威を維持できないほど消耗している。
それは諸葛孔明、鳳士元とも一致する見解であった。
これから先も戦い続けるとなれば、泥沼の消耗戦だ。
賊はともかく、烏桓とはここらが戦としてはお互いの終着点とすべき。
その為、公孫瓉は劉備と協議し、烏桓に対しては懐柔策を取る事にしたのである。

「……はぁ、頭が痛いな。 異民族との付き合いは」

 討滅できるか、と問われれば、その気になれば、と言ったところである。
漢民族は異民族に対してはあまり関心を寄せないのが常だ。
実際に矛を交える辺境の僕であるならば常に気を張って居なければならない存在には違いない。
だというのに、中央はまるで腫れ物を扱うかのように異民族に対しては消極的なのである。
実際、どこかの酋長を討ち、部族を丸ごと討ち滅ぼすと、異民族同士の力関係が崩れて混沌としてしまうだろう。
更に言えば、何処かの部族を滅ぼせば異民族の間でも警戒と疑心が生まれ、結託して漢王朝に対して一斉に反旗を翻し兼ねない。
一つ一つの部族が相手ならば打倒も容易いだろうが、そうなれば大乱の始まりである。
まぁ、五胡の脅威が強まれば漢王朝の諸侯たちは足並みを揃える事が出来るかもしれないのだが。
とにかく異民族は自らの領地で略奪を行う相手だ。
いかに懐が深いとはいえ、公孫瓉でも笑って見過ごすことなどできる筈が無かった。

「公孫瓉様! 砂煙が見えました!」
「っ!」

 幕舎から飛び出した公孫瓉は、すぐさま愛馬の白馬に乗り込んで視界が広い丘の上へと走らせた。
遠くに見える荒野から立ち上る噴煙は、砂塵だ。
馬蹄の音が響き、人が大地を揺らして歩く。
真っ赤に燃えるような焼けた陽を背にして、その一団の先頭を歩くのは劉備である。
真朱の髪を揺らし、腰からぶら下げた雌雄一対の剣の金属が触れ合う音が馬蹄の音と混じって小気味よく金音を奏でる。
その軍勢の威容は遠目から眺めている公孫瓉からも壮観であり、送り出した軍勢が自分の物なのだとはすぐには判らなかった。
劉備に貸し与えた兵馬の数は、どう見ても出発前より多かったのである。
騎馬兵の数も、どう考えても多い。
だが、先頭で馬を歩かせているのは間違いなく劉備であり、公孫瓉は砂塵に揺れる軍勢の姿を目を細めて追った。
劉備の隣には、美しいと呼べるほど綺麗な黒髪を揺らして彼女を守るように関羽が後をおっている。
目に見える範囲には二人の将しか居ないようである。
その先には公孫瓉が貸し与えた幽州の兵が、長蛇となって視界の奥まで続いていた。

「……」
「こ、公孫瓉様、お下がりください。 あれは危険かもしれません」
「ん? 何言ってるんだ。 劉備たちだぞ」
「良く目を凝らしてくださいませ。 我らの兵馬に囲まれているのは、私たちの兵ではありませんぞ」
「なに? 確かに少し兵が増えているようなとは思ったが……」

 いかにこの時代の将兵たちの目が良いとはいえ、距離の離れた人馬の識別は難しい。
あからさまに目立つ将ならばともかく、兵となると殆どの場合は旗印が標となる。
部下に言われて暫くじっと見詰めていた彼女が、その言葉が嘘では無いと分かるのは数分を経てからだった。

「弓騎兵、それにあの兵装は烏桓の……どういうことだ?」
「もしや、劉備様が裏切ったのでは……」
「馬鹿言うな、桃香が私のことを裏切る訳が無いだろう。 何かあったんだ」

 とは言うものの、どうして劉備が烏桓兵を伴っているのかは判然としない。
最悪の場合に備えるのは必要であった。
公孫瓉は部下から馬を一頭ひいてもらうと、すぐさま乗り込んで主だった将兵を集結させる。
瞬く間に公孫瓉が構えていた幕舎は慌しくなり、劉備たちの目にもその様子は飛び込んできた。

「愛紗ちゃん、白蓮ちゃんが気付いたみたいだから、先に行ってくるね」
「はい、桃香様。 余計な刺激をせぬよう、烏桓の兵馬はここで留めておきます」
「うん。 白蓮ちゃんから借りた兵だけはこっちが持っていくから、よろしくね」
「はっ」

 公孫瓉が兵馬の陣列を揃え終わると、劉備は兵馬を伴って彼女の元へと近づいた。
はっきりと顔が認識できる距離まで相対すると共に、公孫瓉の困惑はいよいよ大きくなり、顔にまで出てしまっていた。
劉備と共に歩調を合わせて近づいてくる人馬。
その顔を認めたせいである。
公孫瓉が奇妙な面持ちで劉備を待っていると、少しだけ先行していた劉備は馬を走らせ会話できる距離まで近づいてきた。

「桃香、一体これはどうなっているんだ?」
「白蓮ちゃん。 あはは、ごめんね、時間がかかっちゃって」
「いや、それはまぁいいんだ。 時間がかかっても桃香たちが無事な方が大事だし、それが分かってホッとしているよ。 でも……」
「うん、そうだよね。 ちょっと待って、すぐに準備しなくっちゃ」
「お、おい! 桃香!?」
「あ、そうだ! その前に顔合わせだよね、直ぐ呼んでくるよ!」
「はぁ!?」

 そして戸惑う公孫瓉を置いて、彼女をここまで困惑させている人物と共に駆けてくる。
一体何が起こっているのかを考えながら、公孫瓉はゆっくりと水を一口含んだ。
劉備が呼んできたのは、視線は頬傷がやたらと目立つハゲ頭の男である。
親友として付き合っている少女の横で、長く敵対してきた男が轡を並べて歩いてくる光景は、強い違和感を公孫瓉に与えていた。

「丘力居(きょうりききょ)……だよな!? 烏桓族の酋長であるお前が、何で此処にいるんだ」
「……公孫伯珪、だな。 俺は劉玄徳の説得に応じ、貴様に帰順する」
「なるほど、帰順だな……って、ええッ!? そんな馬鹿なっ! 私はお前にとって不倶戴天の敵だろう!?」
「それはお互い様だろう……」
「そうだけどっ! くっ、色々と行き成りすぎて頭が追いつかないぞっ」

 だが、しかしまぁ、使者である劉備が帰ってきて丘力居を連れ帰ったというのは事実なのだ。
公孫瓉への帰順は、丘力居にとっては不服に違いないが嘘ではないのだろう。
彼女からすれば、烏桓兵は好き放題に幽州を荒らしまくってくれたし、丘力居からすれば異民族の討伐に名を馳せ、幾度も矛を交えた公孫瓉は部族の敵だ。
それを自覚しているからこそ、公孫瓉は余計な軋轢を避ける為に劉備を使者にしたのだが。
だが、互いに戦線が膠着し、消耗戦に至るからこそ送った使者が、どうして敵大将の帰順などというミラクルCへと転じるのか。
公孫瓉には理解できなかったが、劉備が何かをしたのは間違いが無かった。
些か混乱が落ち着いてきて、肺に空気を満たしてから吐き出すと、幾分か冷静な自分が帰ってきたのを自覚する。
立ち上がっていた公孫瓉はようやく馬の背に座って、丘力居へと顔をあげた。
いかなる経緯があったにせよ、帰順を申し出たのならば断る理由はない。
幽州僕として取れる選択は是を返すことだけである。

「……わかった、丘力居殿。 帰順を受容れよう」
「ああ」

 そうして丘力居は一度だけ横でにこにこと笑っている劉備を見て、それからまっすぐに公孫瓉の顔を見ると、静かに頷いた。

―――・

「桃香」
「白蓮ちゃん」

 帰順した烏桓との細かな折衝も、ようやく一段落した公孫瓉は、本拠地である幽州へと戻ってしばらく。
雌雄一対の剣を腰にぶら下げ、旅装を整えた劉備が庁舎の前で待ち受けていた。
彼女の肩越しに視線を投げれば、遠くに同じように旅装を整え終えている関羽や諸葛亮、そして劉備を主と据えて付き従う兵士たちが見える。
この幽州からも、少なくない兵が劉備に惹かれて勇兵となっていることを公孫瓉は知っていた。
それだけではない。
もともと山賊であった者も、黄巾として活動していた者たちも。 そして異民族である烏桓からも。
彼らの武装は統一されておらず、騎馬を駆る者も歩兵も弓兵の防具も、すべてがバラバラであった。
唯一、彼らの間で統一されているものは、劉玄徳という旗印。 それ一つだけである。

「そうか……どこに行くんだ?」
「うん、今度は冀州常山の方だよ。 張燕って人が率いている山賊が横行してるみたいなの」
「む、袁紹殿のところと近いけど……大丈夫か?」
「大丈夫だと思う、ちょっと伝手もあるから」
「そっかぁ……異民族を帰順させて、休みもせずに山賊討伐か。 忙しいな、桃香」
「あはは、確かにちょっと大変だよ。 でも、私は止まれないからね、白蓮ちゃん」

 そう言って困ったような笑みを浮かべる劉備に公孫瓉は、彼女が烏桓への和平の使者を買って出た時を思い出す。
珍しく朝霧に包まれた寒い日であった。
風は無く、陽差しは強かった。
友人として深い付き合いを続けていた劉玄徳が、公孫瓉にだけ明かした誓いを宣言したその日。

「白蓮ちゃん。 お話があるんだ」
「桃香、そんな改まってどうしたんだ?」

 自室で寛いでいた公孫瓉の下に、上質な酒を片手に訪れた劉備に椅子を勧める。
劉備の境遇を公孫瓉は全て知っていた。
中央から訪れる官吏たちからはもとより、劉備本人からも詳細を聞いていたので当然である。

「私、白蓮ちゃんのこと……立場と権力を利用しようと思うの」

 だから、この言葉が飛び出したときには何を今更、と嘆息したものだった。
立場的に天代と同じように罪人であるとされる劉備たちが、こうして堂々と幽州で活動できているのは公孫瓉の力添え失くして出来ないものである。
もしもこれが曹操や袁紹の下で同じように劉備が活動しようとすれば、即座に断罪されて良くて義勇軍の解散。
悪ければ全員処刑されていることだろう。
だから、この言葉を劉備から聴かされるのは今更であったのだ。

「まぁ、苦労はしたけどさ。 大切な友人を助けるのに骨を折るくらいの事はやるさ」
「それも……なんだけどね。 えっと、その前に本当にありがとう。 白蓮ちゃんが居なかったら私―――」
「ああ、もう良いって。 こういうの、照れ臭いだろ?」
「う、うん……えっと、それでね。 私、これからやりたい事ができちゃったんだ」
「ああ、なんだ。 またなんか凄いことをやらかす積もりなんだな」

 突拍子もない発想を実現する為に無茶な提案をするのは、徒学であった頃から変わっていない。
諦めにも似た苦笑を一つ、公孫瓉は酒の中身を杯に満たしながら続きを促した。

劉備は最初に、洛陽を追放された日のことを語り始めた。
途方に暮れていたこと、そして今、烏桓への使者として辿り付いたこの時までのことを劉備は大雑把に振り返ったのである。
そして、本題に入った。

 一刀から託された一対の剣。 これは一体なんだったのか、と。
あの時の状況を考えれば、それは形見であった。 劉備も最初はそう考えた。
北郷一刀の志を知る桃香に、託されたものであったと。
だが、噂に上ってくる話で一刀が生きていることを知った。 それは嬉しい報せであった。
ただ単純に生存していること、そしてその中でも眉城の戦いで更なる名声を積み上げている姿に劉備は自らも発奮する気力を得ていた。 
喜んでばかりであった劉備だったが、この一対の剣のことに思いを寄せたときに、この剣の意味を深く考えるようになった。
しかし劉備は、この剣を託された意味が分からなかった。
最初はすぐに誰かに聞くべきだと思った。 何も分からないまま、この剣をぶら下げていてはいけないと思ったのだ。
しかしすぐにその考えは翻すことになった。
これは一刀から、劉備へと託された剣であることに気付いたのである。
この二本の剣。 
劉備自身が見出さなければ意味の無いものであると。

 かくして、劉備は烏桓との調和の使者として志願したこの日。 
例え一刀が意図したものでは無くとも、劉備はこの一対の剣に込められたであろう意味を悟ったのだ。
剣は武器である。
武器というものは、宝剣などの類を除けば、人の命を失わせる兵器だ。
だが、劉備には武が無い。
愛紗・鈴々という武はあっても、彼女自身が矛を振り回して敵を打倒できる武はないのだ。
しかし、それを言ってしまえば一刀もそうなのだ。
洛陽で彼と一緒に稽古をしていたから分かる。
愛紗や鈴々とは比べるべくも無く、一刀の武は突出しているわけではない。
知であってもそうだ。
朱里や雛里のように戦略や戦術には疎い。 音々音から散々罵倒されるくらいには、酷いものである。
比べて一刀も、彼女たちと同じように知に特別優れているわけでもないのだ。

 だが、一刀と劉備には深い隔たりがあった。
その差はなんであろうか。
劉備が気付いたのは、自分の持っている武器がないことであった。
この烏桓との和平にあたって、彼女自身もどう説得するべきかを悩みに悩んだ。
もともと己の立志は大乱を防ぐ事そのものであり、みなが仲良く平和に暮らしていける事を望んでいた。
紆余曲折あって、近づいていた夢はひどく遠退いてしまい、今では大陸全土に渡って争乱の余波は長く続いてしまっている。
その目的、目標、夢、そして志を満たすため、劉備は黄巾から続く乱を受容れることを是としたのだ。
それは天代を再び漢王室に、天の御使いを漢王朝に据えるために。

曹操であれば利と実、或いは虚飾や覇気でもって烏桓に対するだろう。
孫家であれば力と損得、或いは異民族であろうと囲って取り込むことすら見据え烏桓に対するだろう。
では劉備は。
なんの武器がある。
一刀と共に中央から排され、実のこと黄巾に組した軍師を抱え、諸侯の温情から下賜している兵馬を率いて戦場を渡り歩き、権力と立場を得ようと醜くもがき歩いている、この劉玄徳には一体どういった力があるのだと言うのだ。
勢力として発ちあがる為の軍資金ですら、他人に背負ってもらっている有様の自分に何があると言うのだ。

「一刀様が本当に伝えたかった事。 この烏桓との和平の使者として赴くことで、はっきり分かると思うの」
「桃香……でも、桃香自身が行くことなんて。 危険だ」
「うん……でも私が見つけないといけないの。 今のままだと、劉玄徳には、私には―――」

 武器がない。
劉備には、大陸の平安を安んじるために必要な、志を達す為に必要な、劉備だけが持つ武器がない。
腰に差した雌雄一対の剣に手を当てて、劉備は公孫瓉を真っ直ぐに見据えた。

「だから決めたんだ。 私は一刀様が託してくれたこの一対の剣は、私の、私だけが奮える武器を持つようにする為の標にしようって」

 劉備は一本の剣を引き抜いた。 銀色に鈍く光る、雲と陽を象った装飾があつらわれた剣。

「私が持つこの剣。 天を象ったこの剣は、仁義の為に奮う武器」

 もう一本の剣を引き抜いた。 薄く青く光る、大地と花を象った剣。

「そしてこの剣は、人心と天理の為に奮う剣」

 公孫瓉は息を呑んで二つの剣を掲げる少女を見詰めた。
仁と義。 
これを貫くことで自らの武器として振るうことを無二の友人である公孫瓉へ約束したのだ。
きっとこの仁と義の剣は、劉備の足元に血河を溜めてゆくのであろう。
天の御使いが漢王朝に返り咲く為に振りぬくこの剣は、結果的には一刀の敵を屠ることになるのだから。
それはすなわち、この漢王朝に大乱を招いている全ての賊、全ての反政府組織である。
一度この剣を抜き放てば、誰よりも信頼している義姉妹達を戦場に向かわせることになるだろう。
そしてもしも、もしも、北郷一刀が志半ばで倒れてしまったら。
彼の道の続きを拓くのは、自分だ。
北郷一刀が歩む道は、すなわち劉玄徳が歩いていく道なのだ。
劉備が心の奥底に閉まっている野望と言い換えてもいい。
この剣は、その道を進むための標である。
 
 そして、もう一本の人心の剣。
これを貫く事で天下を安んじると劉備は宣言した。
この剣は自らに深く刺され、劉備の血を干からびるまで吸い尽くすのだろう。
自らの立志を貫く為に、人心を手に入れようと決意したのだ。
いつかは人の心を利用しよう。
権力と立場を求める劉備には、決して避けることのできないその時が、何時か必ず来るはずである。
卓越した知見を持つ諸葛亮や鳳統ならば、劉備がこの剣を振るう機会を逃す事はないだろう。
その結果、いずれ押し潰されるような悔恨と恐怖を抱くに違いない。
この剣は劉備が描く夢想の為に振るわれる剣となったのだ。

これは誓いであった。
劉備の誓いの場であった。
愛紗や鈴々ではなく。 朱里や雛里ではなく。
公孫瓉へと誓いを立てたのは、誰にも知られたくないから。
無茶な道に付き合わせている誰にも自分の弱さを言葉で吐き出したくは無かったから。
そして、その弱さゆえに誰かに吐き出さなくては、心胆から決意を持って誓えそうに無かったから。
だから、友人である彼女の、公孫瓉白珪の下でしか誓えなかったのだ。

「ねぇ、白蓮ちゃん。 私は戦えないんだよ。 
 きっと戦場に立っても誰にも勝てない。 兵士さんを鼓舞をすることが出来れば上出来なくらいかな?
 私が構える陣内で乱戦になったら、せいぜい死んだふりをして脅威が去るまで生き延びることくらいしか出来ないと思う。
 私は考えられない。 どうすれば、そうなって、誰が誰を利用しているのか。 利用されるのか。
 その結果、戦が起きてしまうことを止められないし、止めようと思っても、争いをしている人に自分の声すらきっと届かせられないと思う。
 私は愚直に信じている道を歩く事しかできない。
 私は出来ない。 誰かの力を借りないと何も出来ないの」
「桃香……そんなことないさ。 桃香は立派になんでもやってるだろ?」 
「ふふ、ありがとう白蓮ちゃん。 でもそうなんだよ。 
 どんなに心の中で隠したって、皆が出来るのに私にはできなくて、嫉妬と悔しさがその度にこみ上げてきちゃうんだ。
 仕方ないとか天性の物だとか、諦めることは何時でも、今だって出来ちゃうんだよ。
 これでも、自分の 『ぺぇす』 で努力は続けてきているつもりなんだけどね」

 あっけらかんと笑う劉備に、公孫瓉は思わずは呆気にとられてしまった。

「でも、そんな私の無能を愛してくれて、ありがた過ぎちゃうんだよ」

 しみじみと音のない室内に響き渡ったその声は、公孫瓉に向けてのものでは無いとすぐに実感できた。
劉備はこの場に居ない、彼女に付き従う少女たちへと礼をしたのだ。
長い沈黙が続いた。
公孫瓉は友人が見せる秘めていた激烈な志士に黙し、劉備は自らの誓いを忘れぬように黙した。

 激烈な印象を残した日であった。
公孫瓉は振り返っても身震いするほど、劉備の強い意思に感嘆をしてしまっている。
烏桓に帰順を促す方法を聞いた時も仰天したものだが、この誓いの日こそが自分と劉玄徳という少女が新しい友誼を結びなおした日では無いかとさえ思えた。

―――・

「桃香」
「うん」
「話は聞いたけど、いくらなんでも、烏桓たちの蛮族の血を飲み干すのはやりすぎなんじゃないか?」
「そ、そこまで大げさな表現しなくても……私はただ、お話するために彼らのシキタリに従っただけですぅー」
「烏桓の族長たちの前で、おっぱい体操なんて妙なのも披露したって聞いたけど?」
「うん! けっこうウケタかなー、他の場所でもやってみたいかも。 あ、白蓮ちゃんにも教えてあげるねっ」
「いや、愛紗が泣いて止めるようにわざわざ私に頼んで来たから、それは程ほどにしておいた方が良いと思う」

 暴走しがちな友人を前に苦笑を一つ、公孫瓉は咳払いをかまして真面目な顔を作ると、腹を決めて話を切り出した。
劉備は友人だ。 きっと人生の中でも得難い、稀有な親友。
だが、それだけではない。
劉備の志士を認めこそすれ、ただ利用されるだけの間柄ならそれは友人足り得ないものである。
少なくとも、公孫瓉は対等な相手であるからこそ友人と呼べる関係であると信じている。
だから。
 
「……異民族を帰順させたのは、私の功だぞ」
「へ?」
「烏桓の心と兵は桃香が得る。 私は功を得る。 それでいいよな?」
「……白蓮ちゃん、うん。 それでいいよ!」

 お互いに利用し、旨みを分け合えなければ友では無い。
劉備と公孫瓉はスッキリとした面持ちで、手を交わす。
握りこんだ掌から、感謝を告げる様に甲に握り返される。
公孫瓉からも、逃れえぬ厄介事を拭い去ってくれた友人へ、あらん限りの感謝を込めて劉備の手を握りこんだ。

「親愛なる無能な友人よ、武運を祈るよ」
「うわわ、やめてよ! 白蓮ちゃんっ、それは格好つけすぎだよぉ~」
「っって、桃香、ここで梯子を外すなよなっ! ったくもぅ! 恥ずかしいだけじゃないかっ」
「あはははっ、ごめんね! じゃあ、私行くから! またね、白蓮ちゃんー!」
「ああ、またな、桃香」

見詰め合って一つ。
公孫瓉は大きく頷いて手を振り、劉備は満面の笑みを残して踵を返した。


      ■ 外史終了 ■



[22225] ぞくぞくと続く蛇足の如く、何時かの名残を置いとくよ編
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/03/16 00:49
誤字まとめや、メモ+一発ネタ名残まとめみたいな+極まった無駄話。
蛇足です、すみません。

※自分が忘れない為のメモみたいな。
※設定は、本編で描写した物のみ追加して行こうと思います。

2010/11/28 その他板に移動しますた。 よろしくお願いします。





      ■ THE・誤字

●誤 ~北郷 一刀 意識『郡』~
 正 ~北郷 一刀 意識『群』~ 
※\(^o^)/ ← 誤字修正完了マーク

●『脳内の自分からは、諸葛亮と孔明は波才によって選択の自由は無かったと言うが』
↑雛里ェ……ごめんなさい。 朱里の残像にしてしまった……
※\(^o^)/ 

●紅茶について
 当時世界に茶の産地は江南以南しかないので、中原の人が入手するなら南か東(水運を意識するなら)という認識になると思います。
 そもそも原作でも無視してますが緑茶の時点で超高級品なんですけどね。

茶は高級品だったそうですね。 紅茶はヨーロッパ原産ということで西の方でいいかと思ったのですが
なるほど、勉強になります。

●髭について
 宦官になった男性は髭が生えなくなります。
だにぃ!? チンコの重要性は高いのですね……
髭が抜けて寂しそうだったのでマフラーにしといた、うん。
※\(^o^)/ 

●ついでに、隅の方に小さく、荀彧は曹操に会いたいのでそっちに行きたいとも細かい字で追記されていた

文章ごと変えた方が分かりやすいかも知れないですね。
時間の出来たときに考えて見ます。
ちょっと加筆と修正しました。

※\(^o^)/ 

----------------------

●話そうとした劉備に手をかざして、一刀は精子した。⇒静止
●話そうとした劉備に手をかざして、一刀は精子した。
●>話そうとした劉備に手をかざして、一刀は精子した。
※\(^o^)/ 

霊帝以来の血の気の引き方だった。
書いてる時に気付いてたのだけど、筆が乗っててマッハだった時だから
修正で流れを止めずに後で推敲の時に治せばいいやと思ってた結果がコレだよ!

●正直な話、音々音は恋を邪険に思っていた。
邪険だとちょっと荒いですかね? どっちか迷ったんだけどw
※\(^o^)/ 

●「一刀は右腕の掌を乗せて」
右手ですね……右腕を掌にって体勢が凄いことになりそうです。
※\(^o^)/ 

●肉屋
言われて気がついた、確かにそうでした。
しかしこれを直すのは骨が折れそうです……ちょっと見送らせて下さい、すみません。

●代償で得るもの(一刀、朱里、雛里、音々音)
プロットの名残が残ってた、恥ずかしいwwww
※\(^o^)/


●>性は北郷
 >仕えるに足る太器を感じた
 >見張りは蜜にしていた
 >援軍に向かうとの胸の書状を送りなさい
 >意識郡*25個
※\(^o^)/
郡、一杯ありました……思い込みって怖いですね。

------------
2011年

●講義が抗議になってる箇所が多数ありますよ。
※\(^o^)/

●多数「切欠」→「切っ掛け」か平仮名で
興奮を抑えきれなくなるよ編7「呂布を語ろうというのだ」→「呂布を騙ろうというのだ」
空騒ぎの日々を送るよ編1「妙手ではあるが効果的」→効果的でなければ「妙手」と言わないので「奇手」あたり?
※\(^o^)/

●誤字 変態が移る→「伝染る」か平仮名で
※\(^o^)/

●該当→外套
※\(^o^)/

●孫権→孫堅
※\(^o^)/

●漢が存続しているうちは洛陽ではなく、雒陽なんですよね。
だにぃ!? そうだったのですか。
……今、洛陽で検索した結果、312件。
ご忠告通り、スルーします……すみません。

●に¥に→に 押し間違えってあるよね……
キーボードのせいにしても良いですよね……
※\(^o^)/

●適当賊に→適当に賊に にを入れたほうが良いかも
適当族……愉快そうですw
※\(^o^)/

●アニキがタイミングって言葉~
ああ、気をつけていたのにやってしまいました~。
※\(^o^)/

●>キリキリと甲高い音を奏でて〜
勉強になりました。 直しました、ご指摘サンクスです。
※\(^o^)/

●「なんや、せっかくだし外じゃなくて中で飲もか?」
→「なんや、せっかくやし外やなくて中で飲もか?」
ご指摘どおり修正完了っす!
※\(^o^)/

●>そして、私……荀文若
桂花桂花と叫んでばかりいる弊害が出た模様です
いや、普通に気付かなかったですw
※\(^o^)/

●蒲公英ちゃんのデザイン
意匠に変えました、最近多い、この手のミス……
※\(^o^)/


●荀攸の容姿が~

※重大なお知らせ※

荀攸の容姿が桂花と酷似していますが
作者の趣味ではありません。


●[424] \(^o^)/

●[431] \(^o^)/

●[432] \(^o^)/

●[437] oh...これは……
ちょっと大きく遡って修正が必要そうですね。
一旦、今回の指摘は忘れる事にして本編を先に進めたいと思っております。
また何か違和感の感じる箇所があれば、ご指摘下さい。

●これが演義である可能性だって \(^o^)/

●[495] / [503] / [487] \(^o^)/
修正・地文の追加で対応しました。
確かに、黙認はまずかった気がしますね。 仰る通りです。




推敲しても多いものです……



※誤字直した物と勘違いしている時も在るかもしれません。



      ■『真・』 と 『夢想』


頭に『真・』をつけました。
ええ、忘れていたでござる。

無双じゃないの?って突っ込まれるかと思ってたのですが、突っ込まれなかったです。
この外史は『夢想』でも間違いじゃないんじゃね?ってことで直しませんでした。


     ■ 【脳内一刀について】


武力順
肉の→(異次元の壁)→馬の→白の→南の→無の→(左慈の壁)→仲の=呉の→魏の=袁の=董の→蜀の

知力
白の→呉の(やや抜けてる感じ)
→他だいたい横一線(蜀の、無のは王としての知があるだろうし南のとかは特化した知があるだろうし)


      ■ 脳内一刀が出来ること、まとめ


・本体の身体を動かせる。
 本体が起きているときは約7秒間の制限があり、その後1分前後意識が落ちる。
 本体の意識が落ちている時は、20~30秒間動かすことが出来る。
 また、本体と同じ感情を抱いた時も、同じくらいの時間動かすことが可能。
 一騎打ちを行った時など、本体を使って多くの気を使ったりすると気絶する時間が長くなる。
・本体が恋姫武将に接触すると、一刀の経験や想い出の断片が恋姫たちに流入する。 
・本体が見た女性武将のイメージを保存できる(決めポーズ編参照)
・心底伝えたいイメージは、見ていなくても本体に伝わる
・脳内が激情にかられると、本体の感情も左右する(怒ったり悲しんだりする)
・“肉の”のみ気を他人に分け与える事やイメージを自在に送る事ができる。

      ■ 本体(まとめ)

・自らの強い意志による脳内の介入を拒否できることがわかる。
・気持ちが脳内一刀と逆の方向を向くと、激烈な頭痛を巻き起こすようだ。
・歴史知識が混ざり合い始める。
・脳内の想いを共有し始める。



      ■ 一刀の得た称号


天の御使い
天代
チンコ
幼女虐待趣味
調教先生
調教チンコの御使い様
種馬

      ■ 桂花枠 ■

全身精液野獣お下劣男
鬼畜変態非常識男
全身精液変態趣味男


※酒の勢いで桂花枠設置


      ■ “肉の”に寄せられた噂


つかあの人剣が刺さんねーんだけどマジで



      ■ 脳内恋姫絵巻(スーパー自己満足タイム)


北郷一刀
 天に虹を架けて(興奮編7)

音々音
 空を仰ぎ見て(決めポーズ1)
 膝の上に在る信頼(決めポーズ2)


 梳く胸の内を預けて(空騒ぎ編1)

音々音&恋
 天代の巫女(空騒ぎ編2)

雪蓮
 いつか大陸に轟く名(決めポーズ2)

桃香
 道を見た大徳(空騒ぎ編2)

朱里&雛里
 映した景色(空騒ぎ4)

愛紗&鈴々
 いらっしゃいませっミ☆~ほやりんッ給士かんかんちゃん~(空騒ぎ6)

―――――――――――――
【無駄話7】
2011/2/28

真・恋姫無双 魏√アフター(無印拠点・リリなのクロス)

りりかる・まじかる・るるるるるぅ~☆ キラキラステッキ大変身♪

魏√後の華琳様が荒野に落ちていた(三国会議とかで蜀とかに向かう途中で)日本語で書かれた書を手に入れて
興味を持ってセットアップした直後、跨っていたZETUEIと共にリリなの世界に飛ばされる。
バリアジャケットに身を包み、ZETUEIがペガサスになった。
突然の事に、呆然とする華琳だが、魔法少女が何人か混じっている犯罪場面を目撃した彼女は
とりあえずZETUEIに乗って性敗する。
管理局に在籍していた並行世界のHONGOUが、その場面を目撃して華琳を(性)犯罪者と勘違いして追いかける。
直後STSが始まって―――新感覚ツンデレ魔法少女・曹孟徳、はじまります。

寝ようと思ったらなんか振ってきた。
布団の中はカオスやでぇ……


【無駄話6】
2011/01/29

タイトルについて言われましたのでちょろっと。

色々とあるのですが、恐らく、今後もこのタイトルっぽい形で行くと思います。
一発ネタの名残からつけ始めたのですが、ぶっちゃけると私が気に入ってしまいまして。
今更改題するのも見苦しい気もしますしね。
作中で勘違いしてる人が多いのである意味でふさわしいかも? とか思ったり。

まぁ、迸るパトスに従った結果ということでお願いしますw

【無駄話5】
2011/01/09

新たな北郷一刀が外史を開いてくれたようです。
恋姫SSを書いてて、とても嬉しい感想でした。
是非、恋姫世界を楽しんでくれたらと思います。
一気読みの報告も凄く嬉しいです、皆さまの感想は本当に力になりますね。

おかげさまで、桂花の描写に力が入りすぎて丸々6千字ほどカットすることにwwwwwwおうふwwwwXXXwwwwwww
どんだけテンション上がってたんだ俺は。


【無駄話4】
2011/01/05 AM 4:30

感想欄の名前に、さり気無く恋姫武将を所望された気がしました。
ついさっき気がついたのですけどw
目標としては全員出せれば良いなぁとは思っておりますが
無理な人も居るかも知れません。
あくまでも、目標なので。
ただ、恋姫でSSを書いている以上、恋姫武将はちゃんと登場させたいとは思っております。
出来れば、無印で消えてしまったあの子達も……

物語次第ではありますが、それは続きを楽しみにして頂ければ幸いです。


【無駄話3】
2010/12/26

今年ももう終わりですね。
年内に一度更新できれば良いかなとおもうのですが間に合うかどうか。
来年は現場が遠いので厳しくなりそうですし
一応、週一くらいで出来れば良いなとは思っておりますがどうなることやら。
年末と年始で頑張って書くしかないだろうかw
実家で書き書きできる時間があればいいけど、ふぅーむ。

作業用BGMに恋姫BGMは凄い適してると思います。
おぬぬぬ!


【無駄話2】

2010/12/2 AM1時


こんな時間まで起きてしまったのは間違いなく【勇気凛凛】のせい
久しぶりに聞いたらまた洗脳されちまったぜ……




【無駄話1】

※桂花タン愛してる……んですが、実は筆者はまだ萌将伝を未プレイであったりします。
 噂だけで失血死しそうになってしまって怖くて……というのは冗談ですがw
 時間が無くて積んでおりまして、暇が出来たらやろうと思ってたんですよね。
 この外史を書き始めてしまったので、結局やってません。
 おのれ、えるしゃだい。

 ……おれ、この外史が書き終わったら孕んだ桂花に会いにいくんだ……


      ■ チラ裏の名残


―――

【第6話】2010/10/18だったと思う

※さっき作品見返してたらゴトヴェイドーになってた。
 ゴトって……おいおい、とんだヤブ医者じゃないかい、まったく。
 修正は後日しておきます。

―――


【第4話】2010/10/15

この外史は戦争しますん。 ← 余裕でしましたwwwこの頃悩んでたんですよね。

―――


【第3話】2010/10/9くらい?

嫁の出番が一旦、終わってしまって深い悲しみに包まれた。


―――


【第2話】2010/09/30


clear!!     ~種馬*N=XXXの計算式は成立すると強く思うよ編~

clear!? ⇒    ★★★~桂花の大罵倒祭が最終的に逆の意味に聞こえてきたよ編~★★★

         ☆☆☆~音々音の膝裏から足首にかけて白蟻が行進するよ編~☆☆☆

         ☆☆☆~都・名族・袁と仲、桃の割れ目でお稲荷が揺れるよ編~☆☆☆

         ☆☆☆~神速の張文遠の肢体が夕焼けに混ざって溶けあうよ編~☆☆☆

         ☆☆☆~蒲公英なら俺の横で黄金翠と一緒に寝ているよ編~☆☆☆

「話をしよう」

続いてしまったが大丈夫か?
降りてきたネタ衝動は堪え切れない物ですね。

これの続きも書くかも知れませんが、息抜きで書き始めたネタ作品で
疲れてしまって、今書いている物が滞っては本末転倒ですので
頭がおかしくなった時だけ書いていこうと思います。

こんなチラシに感想を下さった皆様、ありがとうございました。

―――

【第一話】2010/09/29

これは、12人の北郷一刀が合わさって最強になった、妖刀『黒光り』で外史を制する物語である。

「神は言っている……一発ネタで終われと……」

※  続ける気はありません。 ←余裕で続きました

※  華琳様の真名を間違えるという重大なミスが……
    これで桂花タンに罵られると思うと……下品な話ですが、フフ……
    勃起……しちゃいましてね……
    訳:(修正しました)


今回の種馬 ⇒ ★★★~種馬*N=XXXの計算式は成立すると強く思うよ編~★★★

以下検閲 ⇒  ☆☆☆~桂花の大罵倒祭が全部逆の意味に聞こえてくるよ編~☆☆☆

         ☆☆☆~音々音の膝裏から足首にかけて白蟻が行進するよ編~☆☆☆

         ☆☆☆~本体が我慢の限界を迎えて詠ちゃん、チャンプル編~☆☆☆

         ☆☆☆~桃香の素敵双子丘にデルタフォースが谷間から候編~☆☆☆

         ☆☆☆~董の子の宮は群がるおたまじゃくしが大胆包囲網編~☆☆☆

         ☆☆☆~愛紗の美髪が棒をこすって活火山が鳴動したよ編~☆☆☆


※諸注意
この作品は、シリアスが続く未公開作品に息抜きを求めて、頭がおかしくなった作品です。
ギャグ物ですので、見る時は鼻くそを穿りながらご覧下さい。
なお、鼻くそを穿る時はティッシュを使う事をお勧め致します。

↑のはずが、シリアスになってしまう病が治らなかったようです……うむぅ



[22225] とんでも将記(上)
Name: ジャミゴンズ◆c2cc66e9 ID:bbc9a752
Date: 2012/03/16 00:52

オリキャラも多くなってきたので、登場人物の整理を兼ね、今までのまとめと、解説を放り込んどきます。
個人的な状況整理の面が強いので、読む必要はまったくありません。



現在(咲き乱れるよ編)までの全登場人物の簡易紹介です。
オリジナルキャラは男性が■、女性が●をつけます。

当然ながら、未読の方にはネタバレとなると思われますご注意を。




      ■ 大丈夫! ジャミゴンズのまとめだよ!
                      

1:大陸に流星が落ち、それと共に北郷一刀(種馬)がたくさん現れた。

2:ヒロイン(迫真)の音々音と会い、華佗の目の前で怪我をして壷を運ぶと、何故か天代という謎の役職を手に入れる。

3:浮かれたのも束の間、波才率いる黄巾が決起して戦に巻き込まれるが、諸侯をマジパネェとか煽りたてて、興奮させて打倒する。

4:洛陽に戻ってヒロイン(迫真)の音々音や恋姫達とチュッチュしていたが、リア充は爆発しろとばかりに宦官に追い出された。

5:妬む玉無し共を許せない一刀は雌伏の時を西涼で過ごすが、我慢できずに恋姫達とチュッチュしたら、過ちを繰り返し戦に巻き込まれる。

6:チュッチュする為に面倒だが、仕方なしに韓遂をリョナって追っ払った一刀は、これからどうするか華佗と鼻水を垂らし合いながら考えていた……

7:
  



      ■ とんでも将記 (上)


オリキャラ含めた登場人物のまとめ。
簡易な説明と現状を記載。



      ★ "天の御使い"




北郷 一刀    : 主人公。 頭の中に11個の一刀が居る。 脳内の自分達からは本体と呼ばれる。
      現状 : 天代の地位を得るも、宦官に王朝を追放され、更に韓遂の策に巻き込まれたが切り抜けた。

 許可された真名 : 音々音・劉協・桃香・愛紗・鈴々・朱里・雛里・雪蓮・月・詠・恋・霞・翠・蒲公英・麗羽・斗詩・白蓮

†十二刃音鳴・改†: 何故か愛用している刀。 実践を行うたびに刀身の半ばからブチ折れる。 振ると甲高い音がして位置が丸分かりになる。

■脳内一刀     : 各√を辿った一刀達。 魏・呉・蜀・無・袁・仲・白・董・馬・南・漢(肉) 物語の根幹に深く関与。
      現状 : 馬と董の気配が……消えた……(ゴクリ)

■金獅      : 一刀の愛馬となった。 洛陽の戦で袁紹から譲り受けてからの相棒で、屋敷が5つ建てられる価値がつけられた。
      現状 : 一刀の勇名から、名馬として名が売れてきた。 価格が更に値上がりそうだ。

陳宮(音々音)  : 本体のヒロイン。 この外史の一刀のTINKOを受け入れた最初の娘。 曹操に仕官しようとしたところを一刀が横から誘拐した。
      現状 : 劉協と共に、一刀の帰りを宮中で待っている。 水面下で一刀を迎える準備を行っている。

華佗       : 医者。 一刀に沢山の気が渦巻いているせいか、明らかに異常な一刀の身体に興味あり。 アッーではない。
      現状 : 一刀の身体の異変に興味を持ち、一緒に行動していたが、馬騰の容態を診るために武威へと残った。

●劉協      : 第12代皇帝劉宏の娘。 一刀を洛陽へ戻す為、宦官の排除を目論む。 
           権威を得る為に帝も目指していたが何進によって劉弁が即位、その道は遠のいた。
      現状 : 洛陽にて一刀を待つ。

■曹騰      : 曹操の祖父。 宦官であったが、一刀の追放を契機に隠居を決める。 ちょっとした縁から劉備を援助した。
         : 陳宮とは定期的に連絡を取り合っている様だ。

■維奉(アニキ) : 華佗への恩から一刀を知り、その後の一刀に心酔した黄巾兵だった男。 名を勝手につけちゃいましたおっおっおっ
      現状 : 姜維という人物を探してつつ、韓遂を追う。

●姜瑚      : 維奉の嫁。 絡むのはもっぱら維奉となるので意図的に薄く描写してます。 オリキャラで出した理由は現状では暈しておきます。
      現状 : 維奉と共に行動中。 

●荀攸      : 桂花の親族で姪にあたる。 一刀と出会いぽんぽんが痛くなる。 韓遂の謀略を覆す策を献上し、その後も中央を探る役割を買って出た。
      現状 : 劉協と音々音に接触。 胃痛軍師という不名誉な称号を得る。

●韓遂      : 復讐心から漢王朝を滅ぼそうと画策。 馬家と一刀を盛大に巻き込み官軍を追い詰めるも、郿城の戦いで敗れた。
      現状 : 一刀に殴られて涙目になる。 見逃されて西平の地に雲隠れした。



      ▼ 朝廷・漢




■劉宏      : 服毒したことから、寿命を縮め、一刀が王朝の簒奪を企んでいると勘違いすると、病が一気に進行。 真相を知る事無く憤死した。
      現状 : 死亡。

■劉弁      : 劉宏の死後、水面下での後継者争いを経て第13代皇帝となる。
      現状 : 帝となった。 新体制に並ぶ行司に追われている。

■何進      : 漢王朝の大将軍として軍部を司っている。 命を賭けて劉弁即位を後押しし、宦官の排除を目論んでいる。
      現状 : 宦官排除のため、袁紹を呼び出したがバッサリ断られ、帝に上奏するも断られ、悩み始める。

■朱儁      : 官軍の将軍。 諸葛亮・鳳統の処遇を知り何進と仲違いした。 
      現状 : 盧植と共に上党の黄巾征伐の最中である。

■皇甫嵩     : 各地で転戦を続ける官軍の将軍。 郿城の戦いにてしぶとく防衛を果たした。 位は車騎將軍。
      現状 : 何故か孫堅の真名をゲットした。 プロットではそんな事微塵も書いていなかった=暴走である。

■張譲      : 劉弁の即位後、新体制を整えてる最中である。 時機を見て職を辞し、余生を過ごそうと画策している。
      現状 : 水面下の謀に気が付いて狼狽中。

■趙忠      : 劉弁即位後、宦官の一人として働いている。 商人として過ごそうと思ったのは、交渉を楽しみたいという願望からである。
      現状 : 張譲と々。

■蹇碩      : 宦官。 天代を追放する際、軍の演習を行う振りをして一刀を殺す為に待ち構えていたが、コレを逃し、更に一刀を追う恋の一撃に倒れた。
      現状 : 死亡。

■段珪      : 劉協の下に居るが、劉弁が帝となって何かを考えている。
      現状 : 劉協の下で世話役をしている。

●盧植      : 桃香と再会。 友人であった皇甫嵩の誘いを受けて官に戻る。 朱儁と協力して上党の黄巾を征伐中。
      現状 : 徐々に北に向かって軍の足を進めている。

●耿鄙      : 何進によって武威の地に派遣された涼州の刺史。 韓遂に利用されて死亡する。
      現状 : 死亡。

■劉表      : 荊州に身を置く諸侯の一人。 黄巾での決戦を経て、荊州の乱を鎮圧後、領地の安定に腐心。
      現状 : 江東の安定に苦慮する孫策に。援軍を申し出たものの突っぱねられ憤っている。



      ● 魏



荀彧(桂花)   : 一刀が大陸に落ちたばかりの頃に出会う。 不倶戴天の敵と定める。 俺の嫁。
      現状 : 曹操軍に所属。 荀攸を取り逃した上に不穏な噂に精神的苦痛を強いられた。

曹操(華琳)   : 陳留で一刀とであった。 一刀が未来を知っている可能性に気付いており、彼の追放を知ると漢王朝を切って捨てた。
         : 陳宮・関羽に続いて荀攸を寝取られ桂花を虐めた。

夏候惇(春蘭)  : 黄巾の乱で増援の先遣隊として一刀に出会う。 桂花と一刀の仲を勘違いしている。
      現状 : 怒髪天を突く。

夏候淵(秋蘭)  : 曹操の命で一刀の命を狙うものの、偶然が重なって逃げられた。 直接会ったことは一度も無い。 会わせてあげたい。
      現状 : 姉者かっこよすぎる。

楽進(凪)    : 義勇軍を立てて黄巾と争っていたが、曹操軍に誘われて仕官する。 "天の御使い"には興味を持つ。 
      現状 : 曹操軍に所属。

李典(真桜)   : 凪と同じ経緯で曹操軍に。 戦場に出ているよりも、兵器の開発に力を入れている。
      現状 : 曹操軍に所属。 からくり夏候惇一号の試作に突入。

于禁(沙和)   : 凪と同じ経緯で曹操軍に所属。 楽進と共に戦場に出る事が多い。 三人娘が本格的に絡むのは後々になりそう。
      現状 : 曹操軍に所属。



      ● 蜀



劉備(桃香)   : 洛陽から出た後、曹騰の伝手を頼って幽州にて旗揚げした。 公孫瓚と共に居る。
      現状 : 黄巾との戦を重ねて、義勇兵を立ち上げている。 朱里と雛里の策謀に助けられ、徐々に戦功を重ねている。

関羽(愛紗)   : 劉備に付き従う。 徐々に美髪公の名が広まっている。 "天の御使い"の勇名に、僅かな嫉妬心を抱いた。
      現状 : 劉備と同様。 不気味な桃香は苦手らしい。

鈴々(鈴々)   : 鈴々は鈴々なのだ。 ということで劉備・関羽と行動中。 
      現状 : かわいい

諸葛亮(朱里)  : 波才によって捕らわれ、軍師の働きを強要された。 洛陽で牢中生活をへて、一刀に救われる。 後に桃香に忠誠を誓う。
      現状 : 義勇軍を立ち上げた劉家軍で行動中。

鳳統(雛里)   : 諸葛亮と共に捕らわれた。 一刀に救われ、桃香への忠誠を捧げる。 
      現状 : 戦に出て類稀な策謀を発揮中。




      ● 呉


●孫堅      : 孫家を率いていた。 現在、何進の嘆願という脅迫の下、仕えている。 郿城で活躍するも、娘を思ってぞの功を憂慮していた。
      現状 : 皇甫嵩を友と認める。 少しやる気が出てきたらしい。

孫策(雪蓮)   : 洛陽の黄巾決戦で一刀と出会う。 天代追放後、孫家を率いて江東の乱を鎮めようと奔走中。
      現状 : 孫堅がケツをひっ叩こうとしている。

周瑜(冥琳)   : 洛陽の黄巾決戦で、一刀に取り立てられて軍師として活躍した。 追放後、孫策と共に奔走中。
      現状 : 孫堅が(ry

黄蓋(祭)    : 黄巾決戦で一刀を知る。 天代追放後、孫堅と離れ酒量が増えた。 冥琳に諌められている。
      現状 : 孫策を孫家の長として立てて、従軍している。




      ● 董



董卓(月)    : 一刀に触れられ、拠点イベント的な物を思い出した。 馬超に続いて二人目である。 
      現状 : メイド服を作るという暴挙に出た。

賈駆(詠)    : 黄巾決戦で一刀と会う。 郿城で命を助けられ、異性としても意識をし始めている。
      現状 : 董卓にメイド服で居るようにと羞恥プレイを強要される。

呂布(恋)    : 天下無双の武将。 恋姫最強の存在なのは『とんでも外史』でも適用中。 丁原に拾われ、死後一刀に預けられた。
      現状 : 董卓軍に身を置いている。

張遼(霞)    : 拠点イベント思い出した3人目。 公孫瓚との酒宴の時に一刀を知る。 その後、呂布の武に惹かれ董卓に仕官。
      現状 : 董卓軍に身を置いている。 馬超には複雑な思いを抱えているようだ。



      ● 馬



馬超(翠)    : 拠点イベント思い出した一番乗り。 韓遂の謀略に家ごと巻き込まれたが、一刀によって救われた。
      現状 : 馬騰が倒れ、馬家を牽引中。 董家とは協力体制を築く。

馬岱(蒲公英)  : 一刀と出会って服を一緒に買いに行ったりした。 韓遂の謀略を一刀が防ぎ、姉の恋心を知って応援しようとしている。
      現状 : 一刀の事で姉をからかってるようだ。

■馬鉄      : 邑で一刀と会い、馬家へと案内した。 韓遂の計略に毒を食らうも、華佗に命を救われる。
      現状 : 蒲公英と共に姉をからかっているようだ。

■馬休      : 馬鉄と々。 必殺技は馬上で槍をぶん回すこと。 ぶん回すだけで振り落とせない未完成の必殺技を所持している。
      現状 : 呂布に褒められたからか、必殺技の開発に余念が無い。


      ● 袁


袁紹(麗羽)   : 洛陽で一刀と会い、その後惚れこみ、猛勉強する。 何進に宦官の排除を迫られたがコレを突っぱねた。
      現状 : 陳宮とも連絡を取り合って宮中で水面下で動こうとしている。

顔良(斗詩)   : 一刀と会い、懸想するものの、主も同じ人に惚れたと知って悶々とする。 
      現状 : 現在は官軍と共に上党の黄巾を征伐中。

文醜(猪々子)  : 一刀と触れ合うものの、竇武と陳蕃が目の前におり、マッスル好きなのではと懸念する。 
      現状 : 斗詩と共に黄巾を征伐中。

●田豊      : 洛陽で軍師として働いた。 上党の叛乱征伐を行っており、南皮の守りを袁紹に託された。
      現状 : 何進に呼ばれた袁紹を心配している。

●郭図      : 袁紹に取り立てられて軍師となった。 出たとこ軍師。 
      現状 : 袁紹の補佐のため洛陽に居る。



      ● 仲


袁術(美羽)   : 一刀とは洛陽で出会う。 出番はまだ先。
      現状 ; 七乃と一緒に日々を過ごす。

張薫(七乃)   : 一刀と洛陽で会う。 適当に賊をあしらいつつ、美羽とチュッチュ中。
         : 同上。


      ● 黄


張角(天和)   : 波才から鼓舞を求められた後、洛陽から濮陽、そして上党で裴元紹に手引きされた。 途上、曹操軍に追われ妹と離れる。
      現状 : 上党に構える

張宝(地和)   : 天和と共に裴元紹の下に居る。
      現状 : 同上

張梁(人和)   : 上党に逃れる際に曹操軍に補足され、捕らわれた。 
      現状 : 曹軍にて牢中の身。




      ● 公



公孫瓚(白蓮)  : 一刀とは桃香を介して出会う。 遠乗りで親睦を深め、真名を預けた。
      現状 : 異民族、賊の問題に桃香と共に当たっている。




      ● 未登場(もしくはそれに近い)恋姫達。



郭嘉(稟)    : 一刀を陳留近くで目撃。 放浪を続けている。

程昱(風)    : 稟ちゃんと々。

黄忠(紫苑)   : 

厳顔(桔梗)   :

甘寧(思春)   : 

趙雲(星)    : 稟ちゃんと同じく一刀を目撃。 公孫瓚の下で客将となる。

呂蒙(亜莎)   :

許緒(季衣)   : 

典韋(流琉)   : 

孫権(蓮華)   : 

孫尚香(小蓮)  :

魏延(焔耶)   : 

陸遜(隠)    :

周泰(明命)   :

孟獲(美以)   :

貂蝉       : 漢女

卑弥呼      : 漢女




      ▲ モブ




左慈       : 猫になって登場。 外史の推移を見守っている。

于吉       : 左慈と共に、外史の推移を見守っている。

■馬元義     : "肉"のに殴られ昏倒、捕縛、処断の憂き目に在った。

■波才      : 洛陽で蜂起。 諸葛亮・鳳統を捕らえ利用するものの、天の御使いに破れた。

■徐奉      : 劉弁の宦官であった。 馬元義と内密に話し合おうとしたものの、一刀によって暴かれて謀略が暴露。 処断された。

■丁原      : 洛陽の決戦での最終局面で病に倒れる。 その後、華佗に介抱されるも一刀に恋を託し、天寿を全うした。

■辺章      : 羌族。 韓遂に惚れ、彼女の提案を受け入れて乱に揺れる漢王朝へ決起。 西涼の叛乱軍を率いるが、張遼に首を刎ねられる。

■竇武      : 洛陽で一刀と出会う。 貂蝉によって命を助けられたのを切っ掛けに、マッスルめざし日々訓練中。

■陳蕃      : 竇武と同じく貂蝉によって命を助けられる。 党固の禁の被害者であった。

■裴元紹     : 黄巾。 上党で張角と張宝を匿っていた。 涼州の叛乱を影から支援して、官軍の圧力を和らげようと画策した。

■周倉      : ジェバンニ。 一晩で陳留の様子を探って張梁の生存を確かめた。 





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