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[19733] 白銀の討ち手シリーズ (灼眼のシャナ/性転換・転生)
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2012/02/13 02:54
舞台となるのは、『灼眼のシャナ』のIfの世界。
零時迷子という特殊な宝具を体内に持つ主人公、坂井悠二。その宝具を狙って彼の暮らす街は度々襲撃を受ける。物語のヒロインであるシャナとその仲間のフレイムヘイズたちと奮戦して追い払うが、キリがない。そしてついに、少年は大きな決断を下す。

―――もしも、彼が「家族友人を守るために故郷を捨ててシャナと共に歩む」という道を歩んだなら。

―――もしも、彼が敗北し、零時迷子を失い、この世から消え去ってしまったら。

―――もしも、消えかけの彼の前に『贋作』の能力を持つ紅世の王が現れたら。

―――もしも、彼がシャナの体を手にして過去の世界に復活したら。

本作はそんな“もしも”尽くしのハチャメチャ二次創作SSです。これを書き始めた頃はちょうどFate/zeroが出版され始めてFateにハマっていた頃なので、虚淵玄先生や奈須きのこ先生の影響を受けまくっています。『贋作』の能力とかほとんどそのまんまです。しかも当時はまだ肝心の灼眼のシャナの小説をほとんど持っていませんでした。それでよくシャナの二次小説を書いたなと自分でも不思議に思います。元々は数年前にTSF支援図書館(※R-18)の方にうpさせて頂いていたSSなのですが、読み返すと修正すべき箇所、したい箇所が多々あったのでこの度加筆修正をしてこちらにうpさせて頂きました。続編も順次こちらにうpさせて頂こうと思います。

TSF(性転換)設定が嫌いな方、説明を読んで下さった時点で「ペロッ…この味は!…駄作の『味』だぜ…」「こいつはくせえッー!駄作以下のにおいがプンプンするぜッ―――ッ!!」と思った方はブラウザの戻るを「いいやッ限界だ!押すねッ!」とクリックして下さい。あなたの直感はきっと間違っていません。

それでも読んで下さるという物好きで素敵でイケメンな方は、どうぞ最後までお付き合い下さいませ。ディ・モールト グラッツェ(どうもありがとう)!


【更新記録】

10/3 ブログ作りました。『白銀の討ち手』で検索すると出てくる、かも?

10/12 2-8のタイトルを『驚愕』から『伏線』に変更。不完全だった2-8も完成させる。

10/13 2-9『激突』を更新。

10/12 3-4『苦戦』を少し更新。

10/14 3-4『苦戦』を完全更新。

10/18 3-5『希望』と0-0『胎動』を更新。これにて一先ずの完結を見る。

10/24 『キャラクター紹介』と『義足の騎士』1-1を更新。

10/25 1-2『急転』を更新。

10/27 1-3『触手』を更新。ブログにTSF支援図書館に掲載していた改訂前の白銀の討ち手をうp。

10/29 1-4『守護』を更新。

10/30 1-4『守護』を修正。1-5『学友』更新。

11/21 1-6『逢引』更新。12/4に修正。

2/13 1-7『悠司』更新。



[19733] 白銀の討ち手【改】 0-1 変貌
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/10/24 02:09

「―――!―――!!」

遠くでシャナが叫ぶ声。何を言っているのかは聴き取れなかったけど、それが悲痛の叫びだということは理解出来た。

背中につめたい地面の感触を感じながら、ぼんやりと上を見上げる。僕の胸に突き立つ柱のような剛槍『神鉄如意』と、それを握る、何百もの紅世の大群を背後に侍らせる猛将―――紅世の王、『千変』シュドナイ。先までの死闘によってあらゆる部位に裂傷を刻まれ片腕は肩ごとゴッソリと失われているが、その彫りの深い顔面に張り付いた余裕の形相が崩れることはない。
ニィと残忍で誇らしげな笑みを浮かべると、シュドナイは『神鉄如意』を僕の胸からずるりと引き抜く。痛みはない。血も出ない。ただ、煌めく砂のようなものが飛散するだけ。ふと視線を自分の四肢に向ければ、指先や足先からも砂が散り始めていた。淡く儚い粒子が宙に広がり、感覚を道連れにして虚空へと消えてゆく。それが己のカケラなのだと気づくのにそれほど時間はかからなかった。
胸にポッカリと空いた穴にシュドナイが強引に手を突っ込む。バキリ、とくっついたものを無理やり引き剥がすような、悲鳴のような嫌な響きが全身を震わせる。途端に怖気と絶望感が体内を走り狂い、今まで味わったことのない吐き気を感じさせる。
一秒と経たずに、シュドナイによって何かが掴み出される。複雑な機構と奇妙な紋様の刻み込まれた金色の懐中時計━━━━“零時迷子”。
「■■■■―――!!」
僕の上で、シュドナイが零時迷子を高く掲げて歓喜に満ちた声で吼える。それに応えんと、幾百もの紅世の王や徒が腹の底から雄叫びを上げる。零時迷子を護り覆う自在法『戒禁』によってその手は痛々しく焼け爛れているが、勝利の興奮に酔いしれるシュドナイにそれを気にする気配はない。
零時迷子という支えを失った僕の体は、より一層崩壊のスピードを速める。もう下半身の感覚が返ってこない。視界も暗転し、全てが夜闇に溶けていく。存在の力も一滴も残されてはいない。死の淵に引きずり込まれるような恐怖はなく、息苦しさも感じない。それとは真逆、むしろ開放感や浮遊感すら覚えた。これは『死』ではない。これは――――

僕は、消えるのか。

消える。僕という存在が消滅する。坂井悠二は“最初からなかったモノ”とされ、世界から切り離され、人々の記憶から完全に忘れ去られる。
それが代替物(トーチ)の宿命。
だから、わかってはいたし、覚悟もしていたつもりだった。
だけど、その時がこんなに早く訪れるとは思ってもいなかった。自分の力と周りのみんなの力を過信しすぎていたのだろう。
今さら後悔しても遅いけど、やはり悔いてしまう。
どうしてもっと強くなろうとしなかったのか
どうしてもっと知ろうとしなかったのか
どうして…


唐突に、視界が真っ赤な炎に埋め尽くされる。地上に現出した太陽を思わせる灼熱の輝き。何度も見てきた、贄殿遮那(にえとのしゃな)の炎の一閃。歓喜のあまり油断をしていたシュドナイが一挙動遅れて飛びのくが、遅い。回避する寸前で零時迷子を掴んでいた腕ごと爆炎が燃え包む。炎に投げ込まれた胡桃が弾けるようなか細い音を立てて、零時迷子が小さく爆ぜた。琥珀色の炎と共にこの世で唯一無二の宝具を成していた破片が飛散し、その内の幾つかが僕の体にも突き刺さる。
「―――ッ■■■―――!!」
先までの高揚一転、一瞬の忘我を経た後、シュドナイが背からコウモリのそれに似た巨大な翼を拡げて憎悪に満ちた怒声を張り上げる。しかし、間髪いれずにシャナが放った炎のカマイタチが禍々しい怒声を空間ごと薙ぎ散らす。限界まで消耗しているはずの炎髪灼眼の討ち手から放たれる一撃必殺の業火に、両腕と零時迷子という目的を失ったシュドナイがたまらず空高く飛び去っていく。幾百といた部下たちもそれに続き、彼らは呆気無く夜の彼方へと消えていった。

大事な贄殿遮那すら放り捨てて、シャナが必死の形相でこちらに駆け寄ってくる。服は原型を留めないほどに破損し、体中にひどい傷を負い、咳き込む度に唇から血が伝い落ちる。それなのに、足をもつれさせながらももがくように駆ける。僕のために、駆けてくれる。
ありがとうと伝えたかったけど、口をパクパクさせるだけで声は出てくれなかった。
もどかしくて手を使って何か伝えようと考えたが、肩から先がすでになくなっていることに気づいて諦めた。
見る見るうちに体が光る粒子と化して霧散し、ついには僕の首から下は塵となってしまった。
見るもの全ての色彩が急激に薄れていく。もう、時間がない。お別れの言葉くらい交わしたかったけど、それは許されないらしい。もっとも、消えゆくトーチとなっても今まで仲間たちと過ごせたことを考えれば、それだけで僥倖なのかもしれないけど。
紅蓮の髪がシャンデリアのように視界を覆う。輪郭すらぼやけてほとんど見えなかったが、それがシャナだということはすぐにわかった。
「――!!―――!!―――!!」
絹を裂くような悲痛な叫びが耳朶を打つが、もはや脳まで伝わってこない。
ごめん、シャナ。何も聴こえないんだよ。何も。
顔に次々と熱い雫が落ちてきて、撫でるように頬を伝い落ちる。僕のために泣いてくれているんだ、嬉しいな。
精一杯の力を振り絞り、なんとか微笑を形作る。自信はないけど、たぶんできているはずだ。変な顔になってなければいいな。
目に映るもの全てが真っ白に染まっていく。
さようなら、シャナ。それと…ごめん。一緒にいられなくて、ごめん。

僕が消えていく。もう何も聴こえない。見えない。感じ、ない――

「嫌だ、行かないで悠二!お前に伝えたいことがいっぱいあるの!してほしいことも、してあげたいことも、一緒にしたいことも、まだまだたくさんある!悠二、悠二ぃ―――!!」

バカな僕は、最後の最後まで、彼女の思いに応えることができなかった。



―――本当に、僕はバカだ。大馬鹿者だ。結局僕は、シャナに出会って、彼女に護られ始めてから、何も成長していなかった。シャナという城壁に護られながら、己の非力さを垣間見ることを忘れて安寧を貪っていた。修練を重ね、共に死地を乗り越えて闘いながらも、どこか彼女の庇護に甘えていた。こんな結末になって当然だ……って、あれ?僕今、“考えて”る?思考してる?つまり…生きてる!?いったいどうして!?

「“生きている”んじゃない。かろうじて“存在している”んだ」

っ!?だ、誰だ!?

「紅世の王、『贋作師』テイレシアス」

紅世の王?なんでここに・・・いや、それは今はどうでもいいや。僕が生きているわけじゃないというのは、どういうこと?僕はたしかに消えたはずなのに・・・。

「お前は確かに消えたらしいが、どうやらお前の存在の力はゴキブリなみにしぶといようだな。まさか紅世と現世の狭間に張り付いているとは。よほど未練があるのか、特殊中の特殊なのか。なかなかに珍しい奴だ」

ご、ゴキブリはひどいな・・・。ともかく、僕がこんな風になっているのはたぶん僕がミステスだったからなんだと思う。

「ミステスのことを知っているということは、お前、紅世や徒(ともがら)のことも知っているのか?これはさらに珍しい」

まあ、ね。僕が持っていた宝具が原因で、いろいろワケの分からない目に遭ってきたし。紅世と関わり続けた人生の最後の最後に遭遇するのが紅世の王なんて、それこそ有り得ない。それももう終わりだけど・・・。ところで、あなたはここへ何をしに?

「さっきも言ったが、俺は『贋作師』だ。現世にあるという、ミステスに宿ったとびっきり珍しい宝具を見分してその贋作を作ってみたいと思ってやってきたんだが・・・すんでのところで破壊されたらしい。あの胡散臭い連中のおかげで全てが台無しだ。あれほどの宝具はもう二度と拝めないだろうに。クソッタレどもめ」

ご、ご愁傷さまです。でもどこかで聞いた話だな…。

「ふん、済んでしまったものは仕方がない。で、お前が宿していた宝具というのはいったい何なんだ?まだその辺にあるのか?せっかく現世まで足を運んだんだ。土産くらい持って帰らんと腹の虫が収まらん」

ああ、僕の中に入っていたのは零時迷子って宝具だよ。零時になったら持ち主の存在の力を完全に回復させるっていう宝具で―――

「零時迷子だと!?おまえ、零時迷子を宿していたミステスなのか!?」

わっ!?い、いきなりなんだよ?それがどうかしたの?

「お前、『炎髪灼眼の討ち手』と数々の紅世の王たちとの戦闘を目撃したか?」

は?まあ、ばっちりと。その場にいたし、一緒に戦ったりもしたから。

「宝具も見たな?多くの宝具を。よく覚えているか?」

記憶力は人並みだけど、危機的状況だったから宝具の形状や特徴はよく覚えてるつもりだ。・・・でも、それがいったいどうしたんだ?

「・・・契約ができれば、多くの宝具の記憶を手にしたフレイムヘイズに・・・いや、トーチのカケラでは不可能・・・しかし、力の質は類を見ないほどに強力。戦闘経験もある。体さえあれば、あるいは・・・?」

もしもーし?あのー、テイレシアスさん?

「お前、名をなんと言う?」

突然だなぁ・・・。名前は坂井悠二だよ。さかいゆうじ。

「サカイユウジ、お前はもうすぐ消える。その意識すら虚無に溶けて自分にも誰にも認識できなくなる。跡形もなく、だ」

・・・言われなくても、わかってるさ。

「現世に遣り残したことは?未練はないか?」

・・・あるに決まっている。伝えたいことが、したいことが、してほしいことが、一緒にしたかったことが、たくさんある。

「もう一度やり直せるとしたら?」

――――なんだって?

「俺と契約を結ぶことでもう一度現世に戻ることができるとしたら?ユウジ、お前はどうする?」

そんなの、決まってる!戻る!戻って今度こそシャナを護ってみせる!!

「よくぞ言った、ユウジ。しかし、お前はトーチ、しかも消えかけのカケラだ。つまり、」

普通の契約はできない。つまり、フレイムヘイズにはなれない。

「その通りだ、お前は頭がよく回る。だが、俺の真名を理解してはいなかったようだ」

『贋作師』…。まさか、僕の体を“贋作”できる?

「お前は本当に頭が回るな。お前のような奴は嫌いじゃない」

僕は何をすれば?

「まず、もっとも鮮明に記憶に残っている人間を思い浮かべろ。フレイムヘイズでもいい。とにかく、出来る限り細部にまで徹底的に思い浮かべろ。その対象が強力であればあるほど、お前の新しい体も強力になろう」

決まっている。

―――シャナ。

炎髪灼眼の討ち手、紅世に関わる全ての者が畏怖の念を抱く、最強のフレイムヘイズ。そして―――僕のもっとも近くにいてくれた、一番記憶に残っている少女。

「よし、いいぞ。次は、」

次は?

「覚悟しろ」

は?あ、あれ?なんか周りが白く燃えているんだけど・・・あちちち!熱い、熱いって!!



[19733] 1-1 無毛
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/04 09:09
「だから熱いって―――ひぎいッ!?」
あまりの熱さに思わず女の子のような高い悲鳴を上げて飛び起きてしまい、さらにちょうど頭の上にあった送風用らしきパイプに思いっきり頭突きをしてしまった。衝撃が頭蓋の中をクワンクワンと響かせる。思わぬ激痛に、悶絶して額を押さえながらしばらくゴロゴロと床を這い回るしかなかった。
「―――・・・?」
なぜか体がやけに軽く小さく感じる。髪の毛もえらく長いらしく、背中に擦れる長髪は腰の辺りまで伸びているようだ。絹のような見事な肌触りに、それが自分の髪であることを忘れそうになる。
「何をやっている。せっかく作ってやった体をいきなりぶっ壊す気か?」
唐突に、胸の辺りから地鳴りのような低い声が聴こえる。その声は、さっきまで会話していた紅世の王の声だった。
「テイレシアス・・・さん?なんでそんなところに?・・・あれ?」
声が変だ。声変わりを遂げた自分の声の面影はまったく見られず、鈴音のようなソプラノの声となっている。僕の声というより、シャナの声に近かった。新しい体だからなのだろうか。だとしたら、とてもかっこ悪いのだが・・・治るのだろうか。
「お前がイメージしたフレイムヘイズの紅世の王の神器がペンダントの形態だったから、俺もこうなったんだ。あの頑固ジジイと一緒なのは腑に落ちんが・・・」
ブツブツと何やら呟くテイレシアスさんは、確かにアラストールとそっくりの形をしていた。僕がシャナの姿をイメージしたから、テイレシアスさんもアラストールのようにペンダント状(シャナはコキュートスと呼んでいた)になったらしい。するとこの声質の変化もその影響を受けているのかもしれない。喉仏を確かめようと首に触れる。が、そこにあるはずの固い肉の突起はなく、細い首だけがあった。うなじの辺りにまで指を滑らせると、明らかに今までの自分のそれとは違う、靭やかでそれでいて線のしっかりした柔肉の感触が返ってくる。指の腹で首筋をなぞれば、極限まで無駄を廃した雌獅子のような強靭な筋肉までもハッキリと感じ取れる。自身の変貌ぶりに、自分が紅世の王と契約したことを改めて実感させられる。これが、『フレイムヘイズになる』ということなのか。
しばし手の平を握ったり閉じたりして指先の感覚を確かめてから、胸の内から生まれた疑問を僕と契約した紅世の王にぶつける。
「それでここはどこなんだ?現世だということはわかるんだけど・・・」
言いながら周りを見渡す。薄暗く、よどんで湿った空気が漂う空間。感覚だからたしかではないが、どこかのビルの中のようだ。周囲を見渡して観察すると、窓らしきところが木板で封印されていた。そこら中には共通点のない多種多様な物品が埃を被って放置されている。もう使われなくなって久しいようだ。しかし、この部屋はどこかで見たことがある。忘れたくても忘れられない、僕が初めて戦った紅世の王が根城にしていたデパートの造りに似ているような・・・?
「さあな、知らん」
「そんな無責任な・・・」
「喜ぶべきだろう。そんな姿で一般人に見られると今後の行動にも影響が・・・っと、誰か来たようだぞ」
「そんな姿って――― へ?」
反射的に意識を聴覚に集中する。鼓膜が僅かな空気の振動―――足音を捉える。今までの僕では絶対に聞き取れないような微かな音だ。
それだけではなく、その足音がどこから来ているのか、こちらからどのくらいの距離にいるのか、どこへ向かっているのか、どんな体系の人間なのかまで感覚で理解できる。
「す、凄い・・・!」
思わず感動してしまう。それくらい、新しい体の性能は最高だった。これでシャナたちを護れる。一緒に戦える。もしかしたら、いつもノされてばかりだったヴィルヘルミナさんも見返すことができるかもしれない。
「出来栄えに感動してくれているところを悪いが、誰かさんがすぐそこまで来ているぞ。いいのか?」
テイレシアスさんの声にハッとして立ち上がる。驚くほど軽い体は、わずか一挙動で立ち上がることができた。床の冷たさが直に足裏に伝わり、背筋がひやっとする。裸足のようだ。僕は消える時に靴を履いていなかっただろうか?
不思議に思って足元を確認しようとしたところで、バタンと目の前の暗闇が四角に切り取られた。眩しい光が目を刺す。
片手で光を遮り、眼を細めてそこにいる人間を見る。光で眼が眩んでハッキリと見えないが、その人間はなぜかじっとその場に立ち尽くしているようだ。かかしのように硬直し、動きの気配がない。敵ではないようだ。
「あ、あ、あ・・・!!」
勝手に声が出てしまった。今度こそ正真正銘、僕の声だ。でもおかしい。僕は声を出した覚えなどいないし、その声は目の前の人間が発しているように聴こえる。
「・・・?」
虹彩が瞳孔を瞬く間に調節し、超人的なスピードで視界を光に馴染ませる。相手の顔がハッキリとしてくる。さっそく眼前の人間が何者なのかを確かめようとして―――
「は・・・?」

そこには、“僕”がいた。
顔を真っ赤にして目を真ん丸くした坂井悠二が、空気を貪る金魚みたく口をパックンパックンさせながらこちらを凝視していたのだ。
「これはどういう―――?」
小首を傾げて胸元の紅世の王に尋ねる。が、彼が答えるより先に目の前の坂井悠二が上擦った声で叫んだ。

「それはこっちの台詞だよ!な、な、なんで裸なんだ、“シャナ”!?」

開口一番、ワケの分からないことを言い出す僕ではない坂井悠二。
裸?シャナ?さっぱり意味が分からない。こいつは本当に僕なのだろうか?いや、そもそも僕がここにいるのだから、こいつは僕の偽者だ。だとしたら何の目的で・・・。
「あー、とりあえず自分の姿を見てみろ」
「へ?」
首元から掛けられた呆れ声に、首を曲げて自身を見下ろす。何の障害もなく目線がストンと足先に落ちる。
「別に何もないじゃ・・・何もない?」
言いかけて、もう一度自分を見る。胸の辺りが申し訳程度に膨らんで柔らかな曲線を描いていた。少しはついていたはずの筋肉は姿を消し、肌は驚くほど真っ白に、お腹の辺りは滑らかな陶器のようになっている。首を傾げながらもその下にある男の象徴に目を向けて――目を、向けて・・・目を・・・・・
「な、な、ない!?ってか、そもそも僕服着てない!?」
「今さら気づいたの!?いいから早く何かで隠してよ、シャナ!」
僕そっくりの目の前の人間が体を翻して後ろを向く。さっきからシャナシャナって、いったいなんのつもりなんだ?でも今はそんなことを気にしている場合ではない。応急処置として手で股間を押さえて陰部を隠しておく。やはりナニもない。あったものがないということがこれほど不安だとは思わなかった。まるで大事な恋人をなくしてしまったような喪失感に泣きそうになる。
「ちょ、ちょっと!これっていったいどういうことなんだ!?」
「覚悟しろ、と言ったろう。なぜ目の前に坂井悠二がいるのかは俺にもよくわからんが。お前、双子だったのか?」
僕の質問にテイレシアスさんがさも平然とズレた答えを返す。
「違う!だいたい覚悟って言ったって、だ、大事なところがなくなっちゃうなんて誰が想像できるか!」
僕のほとんど慟哭のような問いかけにテイレシアスさんはあっさりと、
「その程度の変化なものか。ほれ、そこの鏡を見てみろ」
なんてのたまった。言われるままに、壁に立て掛けてある欠けた姿見を覗き込む。そこには、
「・・・シャナ?」
艶やかに濡れ光るストレートの黒髪。派手な主張はせず、しかし流麗なラインを描くしなやかで小柄な肢体。見る者全てに強く清冽な印象を与える、稚気と美貌が共存する容姿。紛れもない、炎髪灼眼の討ち手の姿だった。最後の別れの記憶が鮮烈に沸き上がり、弾かれるようにシャナの元に駆ける。
「シャナ!いたのなら早く言ってくれればいいのに―――あ、あれ?」
彼女の肩に手を伸ばそうとして、その指先がこつんと“姿見”に当たった。目の前のシャナも同じように手を突き出して呆然とこちらを見つめている。シャナの微笑みかけた顔が凍りつき、頬がピクピクと痙攣する。
「―――はは、は。まさか、」
乾いた笑いを漏らしながら自分の頬や腕を触る。目の前のシャナも、引き攣った笑いを浮かべて僕と同じ場所を触る。僕が左を向くとシャナが右を見る。シャナの顔から下を見るとシャナもこちらの顔から下に目をやり、
「・・・ッ!!」
“つるつる”だった。誰がなんと言おうと、“つるつる”という表現しか例えようがない。これ以上はR-18指定だ。
一気に体中の血液という血液が脳天に昇る。あまりのショックに髪の毛がぶわっと逆立ち、体もビシリと硬直してしまうが、視線は“そこ”に釘付けになってしまって離せない。一糸纏わぬ少女の穢れのない無垢な“それ”に張り付いた視線はまるでアロンアルファで接着されてしまったかのようだ。
しゅごー、しゅごー、と濁流のように血管を行き来する血液の流音が聴こえる。
「おい、大丈夫か?」
胸元から響いてくるテイレシアスさんの心配そうな声に、僕はハハハと笑いながら、
「もう無理DEATH」
バッタリとその場に倒れこんでしまったのであった。
うろたえて必死にわめき散らす僕の声が聴こえる。僕ってこんなに情けなかっただろうか・・・。



[19733] 1-2 膝枕
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/04 09:09
「―――ストール、なんで何も言わないのさ?今のシャナは明らかにおかしいよ。ていうか、アラストールの声も何だかおかしいような・・・」
「――るな、これはアレだ。仕様だ」
「――がわからないよ。二人揃って頭でも打ったの?」
頭の上から話し声が聴こえる。一方は僕の声だ。知らずに寝言を言ってしまっていたのか。
うっすらと目を開ける。貧血を起こしたように頭がクラクラする。えーっと、何があったんだっけ?たしかテイレシアスさんに新しい体を作ってもらって、それから、それから・・・
「あ、シャナ。気がついた?」
「ひゃい!?」
ずい、と視界を僕の顔が覆い隠す。自分自身に顔を覗き込まれるという心臓に悪い出来事にびっくりして思わず変な悲鳴をあげてしまった。少しでも距離を開けようと頭を反らせると、頭の下に硬くもあり柔らかくもあるゴムみたいな変な感触を感じた。これはまさか・・・!?
「ああ、ここには枕になるようなものがなかったから、膝枕をするしかなくて―――って、立ち上がっちゃダメだって!!」
「へ?うわわわわっ!?」
男に膝枕をされるという気色の悪いシチュエーションから一刻も早く脱しようと半身を起こそうとして、狼狽した坂井悠二にぐいと押さえつけられる。そこでようやく、自分がシャナの姿になってしまっていることと、何も身に纏っていないことを思い出した。体の上には学生服のブレザーがかけられている。服の裾から伸びるスラリとした白い太ももに、それが自分の足であるにも関わらず頬が熱くなっていく。
「ちょ、ちょっとあっちを向いてろ!今すぐ!!」
「わ、わかったよ」
僕―――なんかややこしいからこれからは暫定的に「悠二」と呼ぶ―――に後ろを向かせてから、急いでブレザーを羽織って前のボタンを留める。シャナの体は小さいから、それほど背が高いわけではない悠二の上着でも膝上まで隠れる。なぜ僕がシャナの体になっているのかわからないが、シャナの裸を安易に見せびらかすわけにはいかない。それが悠二であっても、だ。
「一体全体これはどういうことなんだ?」
ペンダントを掴んで小声でテイレシアスさんを問い詰める。
「お前、俺が『誰かを思い浮かべろ』と言った時、シャナというフレイムヘイズを思い浮かべたろう」
その通りだ。『思い浮かべた対象が強ければ強いほど新しい体も強くなる』。だから、シャナを思い浮かべた。コクコクと頭を上下に振って肯定を示す。
「そのせいだ。誰しも自分自身の姿を鮮明に思い浮かべることはできない。なぜなら客観的に自身を見ることはほとんどないからだ。それゆえにお前の肉体をお前の記憶に従って作ろうとしても、不安定で壊れやすく脆い体しかできなかったろう。元々ミステスだということもあるしな。しかし、他人の姿なら鮮明に思い浮かべることができる。それが自分より強い人間なら、新しい体には打って付けだ」
「そういうことは早く言ってくれよ!」
ぼろぼろと涙を流しながら抗議する。こんなことなら、少し気に食わないがカムシンの姿でも思い浮かべるべきだった。
「聞かれなかったからな。しかし、なぜ坂井悠二がもう一人存在するのかが腑に落ちん。嘘をついているようには見えんし、人形というわけでもない。それに・・・」
「・・・ああ、間違いない」
少し意識を集中すれば感じとることが出来る。背後の坂井悠二の内から小さく響く、秒針が時を刻むような存在の力の揺らぎ。間違いなく、僕がかつて蔵していた零時迷子の鼓動だ。
「零時迷子を蔵しているということは、この坂井悠二は間違いなくお前だろう。これはいったい・・・」

「ねえ、シャナ?まだ?」
こちらに背を向けて正座している悠二が気まずそうに話しかけてくる。その声は狼狽しきっていた。僕も背後でシャナとアラストールが小声で相談していたらかなり不安になると思う。とりあえず敵意はまったくないようだし、さすがにこの状況が続くのは可哀想だ。
「その話はまた後で。今はこの坂井悠二から話を聞き出そう」
「うむ」
短い作戦会議を終えると、僕は長い髪の毛をブレザーの後ろに払ってから悠二の前に回りこみ、見下ろす形で悠二と目を合わせる。
「えーっと、さっきのことは忘れてくれないかな」
「へ?」
僕の願いに、悠二がぽかんと口を開ける。瞬間、イラッとした感情が湧いてくる。僕はこんなに飲み込みが遅かったろうか?
笑顔を崩さないように努めつつ、僕はもう一度同じことを繰り返す。
「だから、さっき見たこと、聴いたことは全部まるごとまるっとごりっときれいさっっっぱり!忘れてほしいんだ」
「で、でも―――」
ビキリとこめかみに青筋が走る。シャナは僕を見ていつもこんな気持ちになっていたのか。
怒りに身を任せて手を背中に回す。カチャ、と冷たい何かを掴む感触。そのままそれを引き抜くと、悠二の首にピタリと押し付けた。
それは、圧倒的な存在感を放つ、この小さな体に有り余る大太刀。見まごう事なき贄殿遮那だった。なぜそれを使えたのかはわからないが、それも後で考えることにした。ないよりもあった方がいいし。
「ひい!?」
悠二がマヌケな悲鳴をあげる。自分の情けないところを見せ付けられている気がして、さらに機嫌が悪くなる。
「忘れて、くれるかな?」
顔を近づけてニッコリと微笑む。涙目でガクガクと壊れたオモチャみたいに頷く自分を見て、僕は深い深いため息をついた。



[19733] 1-3 擬態
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/04 09:09
「まだお願いがあるんだけど、いいかな?」
「う、うん、別にいいけど・・・。シャナ、今日はいつもと口調が違うね」
そんな悠二の疑問に、僕はギクリと表情筋を引き攣らせる。『実は僕はシャナの姿をしているけどシャナではなく君と同じ坂井悠二なんだ』と答えようものなら事態がさらにややこしくなりそうだ。とりあえず、今はシャナのふりをしておいた方がいいだろう。いそいで対策を導き出すと、僕はシャナの口調を思い出してそれを再現する。
「う、うるさいうるさいうるさい!この変態悠二!!」
「えええええ!?なんでそうなるの!?」
少し不自然だったかもしれないが・・・まあ、シャナはいつも無茶苦茶だし、いいよね。
ふんっと眉をあげてムッツリ顔を作ると、シャナがいつもそうするように腕を組んで偉そうにふんぞり返ってみせる。こうすると、ももや股がスースーしてとても心許ない。
「しゃしゃしゃ、シャナ!!今はそのポーズはダメぇええええええ!!!!!」
突然、悠二が慌てふためいてブレザーの前の裾を引っ張った。僕の小さな体が簡単に前のめりにされてしまう。
「みみみ、見えちゃうよ!その―――し、下が!穿いてないんだから!」
見える?僕がふんぞり返ると見えちゃうものっていったいなんだ?穿いてないって・・・
「・・・っ!!」
膝から力が抜けてその場にぺたりとへたり込む。恥ずかしい。見られたのはシャナの姿をした体であって僕の体ではないのだが、それでも“そこ”を見られるのはかなりの抵抗がある。
「ごめん。浅はかだった」
「気づいてくれたのならいいよ。あははは・・・」
横を向いて頬をぽりぽりと掻く悠二。頼むからニマニマした顔をするのはやめてくれ。情けなくなるから。
ゴホン、と咳をついて話を切り替える。悠二も居住まいを正してきりっと表面上はマジメな顔をする。皮一枚下は相変わらずニヤニヤしているのがバレバレだけど。
「ゆ、悠二、ちょっと変なことを聞くけど・・・現時点、この世界はどうなってる?例えば、襲撃してくる敵とか、零時迷子のこととか」
悠二は不思議そうな顔をしたが、何かのテストだとでも思ったのか、マジメに応えてくれる。
「つい先週に『探耽求究』ダンタリオンっていうおかしな紅世の王が街を襲ってきた。街はめちゃくちゃにされちゃったけど、カムシンとかが派手に暴れまわってなんとか敵は撃退した。零時迷子は無事。・・・それがどうかしたの?」
―――なんだって?
「すると今は、高校一年の夏?」
「そうだけど・・・。シャナ、今日はホントにどうしたの?おかしいよ?」
いよいよ悠二が本気で心配してこちらの顔を覗き込んでくるが、その声は耳に届かない。目まぐるしく渦を巻いて思考が繰り返される。悠二の言うことが本当なら、今この世界は、僕が消えた時よりずっと前だということになる。たしかに今が過去だというのなら、僕以外に坂井悠二が存在することにも納得がいく。でも、どうして過去なんかへ?テイレシアスさんにはそんな能力もあるのか?
「シャナ?黙りこくっちゃってどうかし、」
「悠二!」
「ぅわ!?ななななに!?」
いきなり立ち上がった僕に悠二が驚いて尻餅をつく。可哀想なまでに不様に見えるのは、僕がシャナの体を手にしたからか、それともシャナの感情を勝手にトレースしているからか。
板で封印された窓に近づくと、それを一息にハイキックで蹴り破る。宙に見事な弧を描く蹴りが自然にできたことに自分でも驚く。シャナの体に染み付いた動きは僕にもある程度再現ができるのかもしれない。
差し込んでくる熱い太陽の光を背に、悠二に向かって人差し指を突き出して釘を刺しておく。
「今ここであったことは絶対に忘れるのよ!誰にも話しちゃダメ!たとえそれが私でも!!いい!?」
「なんでシャナにも・・・?」
「わかったかと聞いているの!どぅーゆーあんだすたん!?」
「イエス、マム!」
過去に飛ばされた可能性が出てきた以上、歴史に無暗に影響を与えることは避けるべきだ。タイムパラドックスが起こると時間の流れが崩壊する、なんて話を聞いたことがあるし。
ハートマン軍曹じみたの僕の怒声にびしりと敬礼の姿勢をとった悠二を背に、僕は窓枠に片足を乗せる。
「シャナ、どこに行くの?ゆっくり休んだ方がいいんじゃ・・・」
「お前には関係ない。変態悠二」
背後の声に振り返らずに応える。変態と言われたことに反論できないのか、悠二はぐうと変な声をあげて押し黙った。故意ではないとはいえシャナの大事なところをバッチリ見たのだから反論できないのは当然だ。自分に言うのもなんだけど、いい気味だ。
顔を出して窓の下を見る。どうやらここはビルの上階だったらしく、地上の人間がミニチュアのように小さく見える。周囲を見渡して、このビルに既視感を覚えた理由を悟る。かつて『狩人』フリアグネが根城にしていた廃ビルの依田デパートだ。
ゴウゴウと耳元を唸りを上げて強風が吹いた。かなり高い。落下死を想像して思わずゴクリと息を呑む。贄殿遮那が出せたのだから、きっとこれも出せるはずだ。その証拠に、シャナの体は『できる』と僕に伝えてくる。あんまり長くこの状態でいると悠二が余計に怪しむ。自分で言うのも何だが、坂井悠二には妙に鋭いところがある。詮索されるとボロが出てしまいかねない。のんびりと覚悟を決める時間はない。
「一か八か!うぉりゃあぁああぁああ!!」
シャナが絶対に口に出しそうにない掛け声を上げると、僕は窓から身を乗り出して空中へと舞い降りた。

「い、いったいなんだったんだ・・・あ、シャナ、服は!?」
悠二が急いで窓へ走り寄り、身を乗り出して階下を見下ろす。そこには、真っ逆さまに地面へと墜落していく少女の姿があった。


「ひゃああああああああ!!落ちるううううううう!!」
ジェットコースターなど比較にもならない、内臓全体を震わせる浮遊感覚に手足をばたばたさせて戸惑う。ブレザーがめくれて恥部が丸見えになってしまうのを手で押さえて防ごうとするが、そうすると今度はお尻が丸見えになってしまう。悠二からズボンも奪っておけばよかった。
「当たり前だろうが。なぜ飛び降りたんだ?」
今までだんまりを決め込んでいたテイレシアスさんがようやく口を開いた。契約相手が今にも地面と激しくキスしそうだというのに、その声はひどく落ち着き払っている。まるで僕がこの状況を乗り越えることができると確信しているかのようだ。
「シャナみたいに炎の翼を出して飛ぼうと思ったんだけど、ちっとも出てくれなくて!どうすればいいんだ!?」
「そんなことだろうと思ったぞ。いいか、自分の感覚と体の感覚を同調させろ。その体のモデルに出来ることはお前にも再現出来る」
感覚を同調させろと言われても、どうすればいいかわからない。でも地面は一秒ごとに恐ろしいスピードで迫って来る。人形のようだった眼下の人間はもはや輪郭も判別出来るほどに迫っている。出来るかどうかは関係ない。やるしかない!
すう、と息を吸って精神を落ち着かせ、全身の神経に感覚を行き渡らせる。ざわざわと震えていた心が静けさを取り戻し、意識が内面へと向かう。精神が、波一つない湖面と化す。シャナとの訓練で精神制御の術は身についていた。
シャナが翼を広げるイメージを脳裏に思い浮かべる。真っ赤な紅蓮の炎が左右に大きく拡がり、猛々しく凛々しいシャナの姿を炎色に彩る。炎の翼が力強く大気を叩きつけ、強大な揚力を生み出す。そんなイメージを自分に重ねて―――

ちり、と火の粉が背中から溢れ出る。

「ッッ出ろ!!」
カッと目を見開いた瞬間、背後で激しい燃焼音を弾けさせて爆炎が顕現する。荒れ狂う炎は一瞬で左右に別れ、羽ばたき一つで揚力を掴む。間一髪で鼻先をアスファルトが掠める。炎の疾風と化して通行人の間隙をすり抜け、驚愕の声を遥か後方に置き去りにして地面すれすれを滑るように飛翔する。気がつけば、暴風に弄ばれていた長い黒髪も燃え立つ焔色に染まっていた。まるで雄々しい獅子の鬣のようだ。翼を羽ばたかせようと意識すると、翼もそれに従って揚力を掴む。どうやら僕は本当に『炎髪灼眼の討ち手』シャナになってしまったらしい。
「上出来だ。お前は筋がいい」
テイレシアスさんの褒めの言葉に照れを含んだ笑みを返して翼を一際大きく羽ばたかせ、僕はなだらかな曲線を描きながら蒼穹の空へと舞い上がった。


突如吹き荒れた疾風に人々が悲鳴と悪態をつく中、一人の男が呆然と宙を仰ぎ見ながら呟く。
「 見 え た 」



[19733] 1-4 超人
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/04 09:09
 空を自由に飛べるということがこんなに素晴らしいことだとは思いもしなかった。水圧に匹敵する空気圧を物ともせず、僕は太陽を目指して飛行速度を増し続ける。フレイムヘイズの身体は常人と比べ物にならないほど強靭だと知ってはいたがまさかここまでとは思わなかった。シャナに吊り下げられて凧のように空輸されていた昔とは比べ物にならない、自身の身体で風を切り裂く爽快感に、僕は興奮を抑えられなかった。
「それで、これからどうする気だ?」
「――え?何か言った?」
「これからどうする気だ、と聞いたんだ!少し興奮しすぎだ!」
テイレシアスさんの怒鳴り声に、しぶしぶ翼を正面に強く羽ばたかせて速度を相殺する。ジェット機もかくやという速度にまで至っていた身体はたったそれだけでピタリと空中に静止した。
「わ…!」
もう少し飛んでいたかったが、足元に広がる光景にその名残惜しさはすぐに吹っ飛ばされた。
どこまでも続く純白の雲の大地と、その切れ目から垣間見える色とりどりの街の景観。人工物が有機的に配置され、街全体が一体の生物の体表のように忙しなく扇動している。見慣れていたはずの生まれ故郷を上空から一目で見渡せる壮観に、僕は神の目線を得たかのような全能感すら覚えてしばらく絶句していた。
「人の話を聞かん奴だな、お前は」
と、呆れ果てた様子のテイレシアスさんの嘆息交じりの声に、僕は慌てて意識を胸元のペンダントに向ける。
今さら気づいたのだが、テイレシアスさんの神器はアラストールの「コキュートス」とまったく同じデザインではなかった。黒い宝石の周りを金色のリングが囲うコキュートスとは違い、こちらは黒を貴重とした卵形のペンダントに金色の装飾が施され、その中心に眼下に広がる雲海のような純白の宝石が埋め込まれている。贋作者も自分自身の姿(デザイン)にはある程度のオリジナリティを求めるのかもしれない。
「自分で空を飛ぶのは初めてだったものだから、つい」
笑いながら頬を掻く。まだ出会って一時間ほどしか経っていないが、テイレシアスさんはアラストールよりも遥かにフレンドリーだ。だから、多少のお茶目は許容してくれる。趣味が贋作作りなのだから、堅物のアラストールより自由人であるのは当然と言えば当然だが。
「まったく・・・浮かれすぎだ、坂井悠二」
こんな具合だ。アラストールとマルコシアスを足して二で割ったらこんな感じになるのかもしれない。
「あはは、ゴメン。『これからどうするのか』だったよね?」
「ちゃんと聴いているんじゃないか」
正直、自分でも驚いているのだが、聴覚を始めとするこの身体の能力は常人とは恐ろしく桁違いだ。見聞きした情報を瞬時に記憶し、僕が意識するより早くフィルタリングして必要な音だけを探り出してくれる。さらに、激しい気流と気圧差が支配する雲の上に浮いているという常人なら即死確実な環境にあっても、地上に足をつけている時となんら変わりなく呼吸し、瞬きができる頑強さ。これが『フレイムヘイズ』。異能の力を振るい、あり得ない事象を意のままに操る紅世の王と契約した、この世のバランスを保つ超常の戦士。その肉体(ハード)は、僕が想像していたものより遥かに格上だった。両手をぎりぎりと力強く握り締め、自分が手にした身体の優秀さを確かめる。
(・・・とは言え、せっかく手に入れた新しい体が女の子の、しかもよりによってシャナの体であるということは非常にいただけないんだけどね・・・。)
これ以上思考を深めると頭が痛くなりそうだったので、軽く頭を振ってテイレシアスさんとの会話に集中することにした。
「とりあえず、悠二の言質の裏をとろうと思う」
「ほう、あの坂井悠二の言葉は嘘だというのか?」
その声に僕を咎める意志はなく、むしろ感心したような雰囲気を含んでいた。慎重を期す僕の姿勢に好感を抱いたらしい。
「まだ完全にあれが僕だと信じたわけじゃないからね。十中八九、僕みたいだけど・・・」
「たしかに、あのヘタレっぷりはお前そのものだったな」
見事に的をついた笑いを含んだ言葉にぐうと息詰まる。反論できない。たしかにあれは坂井悠二だった。零時迷子の存在も、たしかにあの悠二の体内から感じ取ることができた。
「でも、僕を欺く何者かの仕業だという可能性がなくなったわけじゃないし、何よりも情報が少なすぎる。とりあえず今は情報収集が先決だと思うんだ」
シャナの声でまったくシャナらしかぬことを言う自分に言いようのない違和感を覚えながら、今後の方針を告げる。テイレシアスさんは黙ってそれを聴く。彼はアラストールのように命令はしてこない。もちろん、アラストールの命令が不快だったわけではない。アラストールの命令はいつも適確だった。僕がシャナとよく接するようになってからは時々無茶も言ってきていたが。
その反面、テイレシアスさんは僕の意見に耳を傾け、たまに助言をしてくれるタイプのようだ。僕にはこういう紅世の王との方が相性が良いかもしれない。
僕が黙っている中、テイレシアスさんも、ふむと何かを考えあぐねている。何を悩んでいるのかは想像がついた。彼は最初に「現世に現界した」と言っていた。つまり、僕らを過去に飛ばしたのは彼の意思や能力によるものではない。その原因を探っているのだろう。
「・・・俺もお前に賛同しよう。お前の言う通り、今俺たちが持っている情報はあまりに少ない。こうして空に浮かんでいるより、この世界を探索してみた方が有益だろうな」
どうやらテイレシアスさんも同じ結論に達したらしい。空を見上げると、太陽はちょうど真上にある。じりじりと照りつけて来る熱線は、今の僕には『生』の実感を与えてくれるようで心地良かった。
「太陽の位置から考えて、今はピッタリ正午だ。とりあえず、夕方までは情報収集に励もう。この体ならそれまでに市内をある程度は回れる。それから身の振り方を考えよう」
「適確な状況判断かつ素早いプランニングだ。お前はいい師に鍛えられたらしい。だがその前にやるべきことがあるんじゃないか?」
「へ?」
再び速度を得ようと滑空の姿勢に入ったところで、突然の不可思議な質問が投げかけられる。「やるべきこと」の見当が皆目つかない。何か忘れていただろうか?
まったく要領を得られずに首を傾げる僕にテイレシアスさんは無い鼻を鳴らして、
「そんな格好で人ごみを出歩くつもりか?お前は優れているように見えて愚鈍だな、このとんちんかんめ」
「・・・あ」
その言葉でようやく、自分が素肌の上にブレザー一枚というあられもない姿をしていることに気づいた。まずやるべきことは、
「服を手に入れなくちゃ・・・」
「そうだ。女物の服を、な」
自分の未熟さとこれからしなければならないことの情けなさを思い知らされて、ガックリと頭を垂れながら僕は夏の御崎市へとゆらゆらと降りて行った。



[19733] 1-5 犠牲
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/04 09:10
 僕こと坂井悠二は、もしかしたら生まれて初めて幻覚というものを見たのかもしれない。
御崎市の中心にそびえる廃ビル、依田デパートの上階。そこの、さっきまで木板で封印されていた窓から白い雲を眺め上げながら、僕は先ほどのにわかには信じられない出来事を思い出していた。
数ヶ月前に倒した紅世の王――――『狩人』フリアグネが根城にしていたここには、あいつの遺した収集物が文字通り山のように残されていた。フリアグネは世に知れた珍品の収集家で、とにかく珍しいものを集めまくっていた。当然、その中には宝具も多く混じっている。それらはこれからの戦いを優位に進める切り札になるかもしれない。そんな情報を『弔詩の詠み手』マージョリーさんから聞かされた僕らは、数日かけて使えそうな宝具を探し出すことにした。しかし、フリアグネは整理整頓がうまい方ではなかったのか、手元に置けばそれで満足する性格だったのか、何もかもがぐちゃぐちゃに積み上げられていた。膨大な量の珍品を一つ一つ手にとっては宝具かそうでないかを見分ける作業は非常に難航し、現在まで収穫はない。そして今日も、あるかないかわからない宝具の捜索を進める予定だった。今日は現地集合とのことだったので、早めに来てシャナよりも早く宝具を発見しようと張り切っていたのだが―――

張り切ってドアを開け放ったそこには、裸のシャナがいたわけで。

「・・・なんで裸だったんだろう・・・?」
「悠二、なにをぼーっとしているの?」
「あ、シャナ!?」
呆然と窓の外を見ていた僕の背後から、つい10分ほど前にこの窓から飛び立ったばかりはずのシャナが声をかけてきた。
その服装はレモン色の半そでブラウスと同じ色の薄手のミニスカートだった。その姿に思わずさっき目撃したシャナの裸体を重ねてしまい、鼻血が出そうになるのを汗ばんだ手の平で顔面をバチリと押し潰すことで防いだ。
「・・・どうかしたの?」
「この暑さで溶けるほどもない脳みそが溶けたのか、坂井悠二」
綺麗な形をした眉毛を片方だけ吊り上げて訝しげな表情を浮かべるシャナと、彼女の胸元から聴こえる地鳴りのような重く低い声。いつものシャナたちそのものだった。さっきまではいったい何がどうしたのだろうか?もしかしたら、僕より早めに来たシャナはここで何かおかしな宝具を見つけてしまい、その作用で服が消えてしまったのかもしれない。それが恥ずかしくて飛び出していったのか。ならば、今のシャナたちの態度は「なかったことにしろ」という暗黙の訴えなんだろう。
自分をそう納得させると、僕は苦笑いを浮かべながら「なんでもないよ」と言っておく。シャナが首を傾げて不思議そうな顔をするが、それも演技に違いない。誰にだって失敗はある。例えそれがシャナやアラストールでも。僕にできるのは、シャナの名誉を護るために何もなかったかのように接するだけだ。
「さ、さーて!じゃあ、使えるものを探そうか!?」
「むりやりテンションを高くしているように見えるのだけど・・・まあ、やる気になっているのは悪いことじゃない。それじゃあ、悠二はそっちのガラクタを探して。私はこっちを探すから」
「イエッサー!」
「?」
今日のことは、シャナのためにも胸のうちに仕舞い込んでおこう。そうしよう。
でも・・・“つるつる”だったなぁ・・・。

「ねえ、アラストール。悠二がニヤニヤしてて気持ち悪い」
「もしや、本当に脳みそが溶けたのではあるまいな?」
「千草は、『壊れたものは斜め45度の角度から思いっ切り叩けばいい』って言ってた」
「うむ。あれの母親の千草殿が言っているのなら、間違いは無いだろう」


依田デパートの上階から、鈍い音と少年の悲鳴が聞こえた。




[19733] 1-6 着替
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/04 09:10
「あれ?」
「どうした、坂井悠二」
「いえ、今『ぎにゃぁー!』っていう猫が潰されたみたいな悲鳴が耳に入ったんですが・・・。気のせいだったみたいです」
「わけがわからん」
「はは、僕もそう思う」
苦笑しながら、僕は服を探す作業を再開する。ここは、市内で一番大きなホームセンターの屋上倉庫だ。コンテナほどの倉庫の中に整然と積み上げられた段ボールの中には売れ残った在庫処分待ちの商品がぎっちりと詰められている。
「よくこんな場所を知っているな。お前、コソ泥でもしていたのか?」
「違う!前に学校の行事で、このホームセンターを調べたことがあったんだ!」
それはすまなかったな、と悪気に思っている様子なんてまるで無いように笑うテイレシアスさんを放って、ブレザーの袖で額の汗を拭う。上空からの太陽の熱波を容赦なく浴びる倉庫の中はひどく暑くて、サウナのようだった。そういえば、池たちと同じグループでここを調べた時も、たしかこのくらい暑かったっけ。あの時はさすがのクールキャラの池も暑さでメガネを曇らせてフラフラしていた。それを田中や佐藤がからかって、吉田さんは心配して、池が照れてさらに顔を真っ赤にしていた。
楽しかった昔を思い出して、思わず笑いがこみ上げてきて―――そして、涙が溢れてきた。
ここに僕の居場所はない。この時間にはこの時間の「坂井悠二」がいて、僕が知る大切な人たちは、僕を知らない。彼らが慕うのは「坂井悠二」であって僕ではない。僕がどんなにみんなを想っても、その想いは決して届きはしない。
「・・・坂井悠二。俺から助言をするならば・・・お前はこの地を放れた方がいい」
テイレシアスさんの助言も、アラストールと同じくらい適確だった。僕は本来ならここにいてはいけない存在だ。無用な混乱を生じさせるだけだ。何より、一度捨てた故郷に再び腰を据える気には到底なれない。いるべきではないし、いる必要もない。ここには強力なフレイムヘイズが何人もいて、敵から零時迷子を護っている。
「僕も、そう思う。街を見て回って僕の記憶と合致したなら、この街を離れる」
淡々と、それだけ告げた。テイレシアスさんの返事は、「そうか」だけだった。それは、今の僕にとっては最高にありがたい気遣いだった。
薄暗い倉庫の中に、黙々と服を探す音だけが響いた。


「うう・・・」
泣く。ひたすら泣く。鈍く光を反射する倉庫の扉に映り込む自分の情けない様相を目にして目の幅いっぱいの涙が流れる。
そこに映っているのは、薄水色のチャイナドレスとその上に学生服のブレザーを着たシャナだった。身体を包む薄手の生地に余裕はなく、ピッタリとフィットして身体の曲線を際立たせる。側面を見れば、ももの付け根辺りまでスリットが入っていてかなりきわどい。見ただけで張りのある肌だとわかる白い太ももに、思わず生唾を飲み込んでしまう。もちろん着たくてこんな服を着たわけではない。何の意志が働いたのか、何十という着衣がありながら、この矮躯で着れるちょうどいい服がこれしか無かったのだ。これなら売れ残るのも頷ける。チャイナドレスだけではあまりに恥ずかしいのでとりあえず上にブレザーを着てはいるが、後々悠二に返さなければならなくなる。そうなると、チャイナドレスだけで行動しなければならなくなるわけで。
「ぶはははは!よく似合っているぞ!」
「黙っててくれ!」
テイレシアスさんの喜悦極まる爆笑に一喝して、人差し指でペンダントをぺちりと弾く。こんな服を着る羽目になったら誰でも泣きたくなる。母さんには息子のこんな恥ずかしい姿は絶対に見せられない。
靴はミリタリーチックなカーキ色のブーツしかサイズが合致するものがなかった。ブーツを履いたチャイナドレス少女って、それなんてエロゲ?
しかも、しかもだ。どんなに探しても、段ボール全てをひっくり返しても・・・男性用の下着は発見できなかった代わりに、女の子用の下着なら段ボール二つ分もあって選び放題だった。何者かの意志が働いているとしか思えない。どの道、チャイナドレスで男物の下着なんか穿けるはずもなく・・・僕は今まで感じたことのない背徳感と罪悪感を感じながら、一番生地が多くて肌が隠れる白いショーツを選んで慣れない手つきで穿いたのであった。
「唯一の救いは、ブラジャーが必要なかったことかな」
「それを本人の前で言ってみろ。おもしろいことになるぞ」
「ははは。そうなったら僕らはナマス斬りのうえに丸焦げにされちゃうだろうけどね」
はっはっは、と笑っていたテイレシアスさんは、僕が冗談を言っているのではないと気づいて黙った。シャナなら本気でやりかねないからなぁ。
さっき見つけておいた白いリボンを手に取ると、長い髪をまとめておさげにする。髪を結った経験はなかったので多少手間取ったものの、なんとか後ろでまとめることができた。本当は切ってしまいたかったが、それはなんだかシャナに申し訳ない気がしたのでやめておいた。
扉を覗き込むと、おさげ髪のチャイナドレスを着た美少女がこちらを覗き込んで来る。
「紅世の王の俺がこんなことを言うのもなんだが、けっこういい感じだぞ。完璧な美少女だ」
「嬉しくない」
「お前は本当におもしろいな。俄然、お前に興味が湧いてきたぞ!」
まったく褒められている気がしないお褒めの言葉にうな垂れながら倉庫の扉を閉めて、僕は硬いブーツで地面を蹴った。途端に背に炎の翼が顕現する。超常の力の塊である炎の翼は重力を簡単にねじ伏せ、僕の体を一瞬のうちに天高く舞い上がらせた。茹だるような生暖かかった空気が疾風と化して体中の汗を吹き飛ばす。
ブレザー一枚で出歩くのもチャイナドレスで出歩くのも、感じる恥の大きさに違いは無いと思う。ずっと空を飛んで探索したいところだけれど、零時迷子を失った僕の存在の力には限界がある。むしろ贋作の身体である分、限界値が下がっている可能性もある。
御崎市に人に出会わない道なんかあっただろうかと、僕は人ごみだらけでわいわいと活気付く眼下の街の賑やかさを呪った。



[19733] 1-7 過信
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/04 09:10
 知り合いに会うことは避けねばならなかったし、何よりこの格好で人ごみを歩く度胸はなかったので、比較的人通りの少ない裏通りを記憶から呼び出してそこを移動することにした。夜間に営業を行う“そういうお店”が立ち並ぶ裏通りは夜にはネオンの光で昼間のように輝いているが、今はそびえるビルの影で薄暗く、通行人も少なく閑散としている。人知れず移動するには絶好の通路だ。
だけど、こういうところには僕とは違った理由で堂々と表通りを歩けないような人たちも集まるわけで。
「なあ、よかったら今から俺たちと一緒に―――」
「お断りします」
もう何度目かもわからない怪しげなお誘いを速攻で拒否する。ただでさえ暑いのに、わけのわからない男たちと一緒に歩けるわけがない。見た目はこんな露出狂一歩手前の女の子だけど、中身は立派な男なんだ。
暑苦しさから一刻も早く逃げ出そうと歩幅を広げて歩む速度を上げる。と、茶色や紫色と彩色豊かに髪の毛を染めた若い男たちの顔から笑顔が消え、代わりに下卑た別の笑顔に変わった。仲間同士で目配せして何かを確認するとハイエナのように素早く僕の周囲を取り囲む。その目は僕の顔ではなく身体を舐め回すように縦横に蠢く。その視線にだいぶ慣れてしまった自分の順応力の高さに心の中で拍手した。
「・・・なんのつもり?」
一応聞いておく。こういう輩が裏通りで女の子を囲んでやることと言えばたいてい決まっているのだが。
「別にヤラしいことしようってわけじゃない。ただ、こんな危ないところを女の子一人が出歩くのはよくないからお兄さんたちが保護してあげようと思ってさ。なあ?」
茂みのようなアフロヘアーを頭に載せたリーダーらしき正面の男が仲間に同意を求める。示し合わせたように、全員がヘラヘラと笑いながら相槌を打つ。チラと横目で周囲を観察すれば、もう30歳を過ぎでいるであろうリーダーを除きほとんど全員が20代前半だ。その内の一人はかなり若く、まだ中学生のようだ。少し目を凝らせば、孔を開けたばかりらしい耳のピアスホール周辺が充血しているのが痛々しい。どうやら初めて集団で少女を襲う行為に参加するらしく、強がって笑顔を作りながらも全身に緊張が見て取れる。
(僕は、こんな奴らを守るために故郷を捨てたのか?)
頭の芯が急激に熱くなるのを感じる。元の身体より一回り以上小さいサイズの肢体のせいでしばらく違和感が絶えなかったが、移動している間にほぼ完璧に馴染むことができた。今なら、こいつらを懲らしめてやることだって容易い。
「他はともかくアンタはもうお兄さんって歳じゃない。子どもをくだらないことに引き込む前にちゃんと仕事したら?」
「・・・あ?」
気にしていたのだろうか、男は頭の茂みをガサガサと震えさせる。その顔にもはや笑みはない。威嚇するようにこちらを睨み据えながら、僕を挟んで男の正面、つまり僕の後ろにいる男たちにじろりと目配せをする。そんな微かな動作すら見逃さず、僕は思わず口元に余裕の笑みを浮かべる。
(やめたほうがいいのに)
小さく嘆息をする。それに重なるように背後から二人が一歩踏み出す足音が聴こえた。その一歩がこちらに飛び掛るための踏み込みであると理解した瞬間、ブレザーを翻させて死神の鎌のような廻蹴を放つ。まるで背後の目で見ていたかのように、つま先は狙い通りに紫色のロングヘアーとスキンヘッドの男の鼻をかすった。一瞬後、眼前を切り裂いた突風に目を白黒させる二人の鼻に一筋の赤い線が走る。鼻にぶら下がっていたはずのピアスが遥か遠くのマンホールに跳ね、場違いに澄んだ音を響かせる。数秒の沈黙。
「な・・・なんだ?コイツなにした?」
「え?鼻が・・・え?」
慌てふためく男たち。僕の動きが速すぎて何が起きたか理解できていないようだ。再び、今度は大きく溜息をつく。
「――はッ!」
視線がこちらに集中した瞬間、ブーツの踵で地面を思い切り踏み叩く。アスファルトコンクリートの舗装がクッキーのように粉砕され、バラバラになって粉末を飛び散らせる。底が堅いブーツを選んで正解だった。
ひぃ、という息を呑む微かな音すらこの身体の聴覚は逃さなかった。脅しは成功したようだ。唖然と立ち尽くす男たちにトドメの言葉を投げつけてやろうと口を開きかけて、
「次は貴様らの頭蓋だ。踏み潰してやるから跪いて頭を差し出せ」
胸元からドスの効いた凶悪な声が発せられた。その声を僕のだと勘違いしたのか、男たちは一気に顔面蒼白となって後退る。そして、
「ば、化け物―――!!」
と、逃げ去っていった。失礼な奴らだ。シャナがアラストールの声で喋っていたって僕のシャナへの思いは何も変わらないというのに。

「うるさいうるさいうるさぁーい!(CV:アラストール)」
「悠二ぃ!(CV:アラストール)」
「強く、なってよぉ・・・!(CV:アラストール)」

おぇえええ!前言撤回!これは絶対にダメだ!混ぜるな危険!!

「ひ、ひ・・・」
「?」
振り返ると、そこには腰を抜かした先ほどの中学生がいた。凹んだ道路と僕の顔を交互に見比べては凍えているように上下の歯をガチガチとぶつける。爆炎が吹き荒れ全てが紙くずのように吹き飛ぶ戦いを見慣れた僕と違い、少女がアスファルトを易々と踏み砕く光景はかなりショッキングだったようだ。
「お前、今いくつだ?」
「じ、15歳・・・」
やはり。15の夏休みに悪い大人たちとつるんでうろちょろするとは、こいつのためにも周りのためにもよくない。僕はシャナが説教するように射抜くような鋭い視線で少年を睨みつけ、靴底でもう一度路面をズダンと踏み鳴らす。
「こんなとこでウロチョロしてる暇があったら、学校行け!」
「はいいっ!!」
手足をバタバタさせながらすたこらさっさと退散する少年。シャナの眼光は普通にしてても鋭いから、睨みつけられた人間は蛇に睨まれた蛙状態となる。僕もそうだった。シャナに凄まれて一喝されたら教師でさえ思わず後ずさりしてしまうのだから、それが少年ならなおさらだ。これであの少年が道を外れずに生きていけばいいのだが。
良いことをしたという満足感と圧倒的な力を得た優越感に、僕はうんうんと何度も頷く。
(今の僕には力がある。常人とは比べ物にならない、常識を超えた極上の力が。この力があれば、元の時間に―――シャナの隣に帰る方法だって、きっと探し出せる)
希望が見えてきた。そう思えるくらい、フレイムヘイズへと進化した僕は力に満ち溢れていた。
「テイレシアスさん、さっきはありがとう。おかげで、あいつらを懲らしめることができた」
「俺もああいう人生の間違った楽しみ方をしている奴らは好かん。俺のように高尚で有意義な趣味を持つべきだ」
(本当に自由人な紅世の王だなぁ)
苦笑しながら、ようやく見いだせた希望に向かうように歩みを再開する。
御崎市は、僕が過去に過ごした御崎市となんら変わりなかった。ダンタリオンやその配下の“燐子”ドミノのせいで崩壊しかけた街は、人々の手によって順調に復興を遂げている。このまま異常を発見できなければ、ここを離れよう。寂しくないと言えば嘘になるが、ここに僕がいるときっとおかしなことになってしまう。
一目でいいからシャナに会っておきたかったが、そんなことをしたら間違いなくおかしな事態が起きてしまう。時間の流れが狂って取り返しの付かないことになりかねない。未来が変わって僕が消えてしまう、なんてことになったらシャレにならない。
(それに・・・)
消滅寸前に心に焼き付いたシャナの泣き顔が瞳の裏に浮かび、無意識に胸元を抑える。僕が愛したシャナとこの時間のシャナは同じではない。同じシャナで、だけどまったく異なるシャナ。
(どんな顔で会えばいいんだよ)
感情の整理がつかない。シャナを目の前にした自分がどんな行動を起こすのか、自分自身でもわからない。何より、この姿で顔を合わせればさらに複雑なことになってしまうことは眼に見えている。諦めるしかなかった。
後ろ髪を引かれる思いで御崎市を振り返る。気づけば時刻はもう夕刻に差し掛かっていた。異常は発見できなかった。もう、この街にいる必要はない。
湿り気を帯びそうになった目尻を誤魔化すようにゴシゴシと拭い、力強く顔を上げる。
大丈夫だ。必ずシャナの元に戻れる。余裕が出来れば、この時間のシャナたちをこっそり支援することも出来るかもしれない。だって僕には、誰よりも信頼していたフレイムヘイズの、シャナの身体があるんだから―――
「それはそうと、坂井悠二」
「ん、なに?」
唐突にテイレシアスさんが話しかけてきた。僕は何事かと上機嫌に返事をして、


「お前、まさか紅世の王や燐子どもと戦える気でいるわけではないな?」


その一言に、絶句した。



[19733] 1-8 敗北
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/24 01:10
テイレシアスさんの言っていることが理解できずに、僕はその場に凍りついて立ち尽くしていた。
(紅世の王たちと戦えない・・・?)
僕の根底を揺さぶった紅世の王の言葉を心の中で何度も反芻する。しかし、思い当たる節はない。そんなバカな、と笑い飛ばしたかった。だが、テイレシアスさんの口調はとても冗談を言っているようには思えなかった。シャナの振るう神通無比の大業物、贄殿遮那も持っているし、炎の翼も難なく出せる。さっきだって、この細身の脚でなんの苦もなくアスファルトを粉砕した。この身は人の何倍もの速さと膂力で敵を圧倒するだろう。そこらの燐子ならば、簡単に返り討ちにできるという自信に満ちている。だというのに・・・戦えないというのは何故なのか?
僕が理解できずに黙っているのを見て、テイレシアスさんは「やはりな」とため息をつく。
「やはりわかってはいなかったようだな。お前はその身体を過信している。いいか、坂井悠二。“お前はシャナなのか?”」
「え……?」
僕がシャナ?たしかにこの体はシャナそのものだ。それがいったいどうしたというのか?
「テイレシアスさん、それはいったい」

どういうことだ、と続けようとした瞬間―――“それ”は起こった。

ズン、という腹の底に響く重低音と、それに続いてやってくる震動。空気が氷結し、あれほど凶悪だった熱い日差しが突如降りた夜の帳に遮断される。街が暗黒の天に包まれる。驚愕のうちに見上げれば、ドームのように街の一部を囲った闇空には見たことも無い紋様が星座のように刻まれ、“灰色”に燃える炎がその紋様を怪しく照らしていた。
賑やかだった街の喧騒が途絶え、陰鬱な静謐が広がる。道行く老若男女は完全に静止してマネキンと化す。まるで時が止まったかのような、世界から“隔離された”という直感。これは間違いなく、
「封絶!?」
「そのようだな」
封絶――――結界の内部を世界の流れから切り離すことで外部から隔離、隠蔽する因果孤立空間を作り上げる、紅世の住人の自在法。これが展開されたということは即ち、フレイムヘイズが戦闘を始めるか、あるいは徒が人間を襲って存在の力を喰らい始めるということに他ならない。この状況に理性がありえないと叫ぶ。悠二は確かにダンタリオンらによる襲撃から一週間程度しか経っていないと告げていた。この街の様子も、破壊から立ち直り始めてわずかしか経っていない。僕の記憶には、この日に街に堂々と封絶が張られたという記憶は無かった。
さらに、封絶は使い手によってそれぞれ紋様や炎に特徴がある。この封絶は僕の知っている誰のそれとも一致しなかった。つまりこれは、僕の全く知らない何者かによる封絶。
僕の知っている過去とは違う。未来への時間の流れが変わってしまったのか。
封絶から降り注ぐ檻のような凶悪なプレッシャーが飽和状態になりつつある思考をさらに焦らせ、こめかみが痛む。
「この封絶……まさか!?」
周囲を見渡せば、この封絶の目的は嫌でも察しが着いた。休日の街には大勢の人間が千単位でひしめき合っている。存在の力を効率よく奪うのなら最適のタイミングだ。
この場所に偶然居合わせただけで人々は外の世界の住人に喰われてしまう。家族が、恋人が、友人が、理不尽によって亡き者にされる。平井ゆかりのように。―――僕のように。
(止めなきゃならない!)
封絶を外から発見するのはフレイムヘイズでも難しい。自在法に秀でているマージョリーさんなら見つけられるだろうが、「こんな暑い日にわざわざ外に出るなんてアホらしい」なんてボヤいて今ごろは佐藤の家で呑み潰れているだろう。なら、僕以外に駆けつけられる者はいない。
体中の筋肉が火照り、引き絞られた弓のようにざわめく。敵の存在を察知して戦闘態勢へ移行しようとしているのだろう。総身に力がみなぎって来る。
心配ない。戦える。
そう確信すると、僕は封絶の中心へと駆け出した。踏み込んだ一歩目は道路の舗装を踏み砕き、二歩目は店舗の屋根を穿つ。速く走ろうと意識すればするほど姿勢は足下の屋根に触れるほどに低くなっていく。この身はまさに疾風と化し、人々に害を為す悪食を倒さんと猛獣の如く疾駆する。絶大の信頼を寄せていたフレイムヘイズと同じ力を手にして、僕は武者震いに似た感覚を覚えた。
「……いいだろう。戦うというのなら、好きにするが良い。だがな、坂井悠二。お前に忠告しておこう。俺はお前を気に入っている。しかし、お前がヘマをすれば俺は即座にお前を見限る」
「なっ!?」
慄然として屋根から脚を踏み外しそうになるのをなんとか堪える。初めて聴く冷たい声で、紅世の王はなおも続ける。
「俺には大儀も使命もない。己の欲が満たされるのなら、人喰いにもなる。俺がお前と契約したのは、そうすることで俺の欲が満たされると踏んだからだ。それをゆめゆめ忘れるな」
「……わかりました」
その忠告は、僕に対する最終警告を孕んでいるように思えてならなかった。当然だ。彼もまた、今から戦おうとしている理不尽の権化の一人、紛れもない『紅世の王』なのだ。アラストールのように悪道に落ちた紅世の王たちを討滅することを目的としているわけでもなく、マルコシアスのようにひたすら戦うことを目的としているわけでもない。彼の目的は、多くの宝具の贋作を創ること。僕はそのために利用されているに過ぎないし、フレイムヘイズとは本来そういうものなのだ。フレイムヘイズの復讐心を利用し、世界のバランスを保つ。だから、フレイムヘイズが役に立たないと分かれば簡単に切り捨てて、別の復讐に燃える人間を見つける。
改めて自分が外なる世界の『王』と契約したことを思い知らされ、頬を汗が伝い落ちた。

「あれだな、この封絶の主は」
その声に、正面に目を凝らす。優れた視力は500メートルほど離れた空中に浮かぶ“異変”を容易に発見する。立ち並ぶビルを背景に、灰色の衣を幾重にも纏った女性が宙に縫いとめられたかのように静止していた。スラリとした美貌の白人女性。その両手はまるで巫女が天からの祝福を望んでいるかのように優雅に拡げられている。しかし、彼女が見上げているのは暗黒の空であり、彼女の上空に描かれた自在式には次々に人魂のような光が吸い込まれていく。それが街の人たちの存在の力だと気づいた瞬間、
「やめろぉおおおおお!!」
半身を捻るように背に手を回し、短い柄を掴んで一気に引き抜く。身の丈ほどもある分厚い刀身を持った大太刀『贄殿遮那』が稲妻のような鋭い輝きを放つ。
贄殿遮那を上段に構え、眼前の敵へと一跳びで斬りかかる。僕に気づいていないのか、灰色の巫女は身じろぎ一つしない。刀身が彼女の細身を袈裟斬りにせんと翻り、

       クスッ

「ッ!?」
刹那、女の顔に浮かんだ亀裂のような微笑みに背筋を悪寒が走った。本能が警戒を呼びかけ、第六感が背後からの攻撃を察知する。後方へ向き直れば敵に背後を見せることになる。回避の余裕はない。こんな時、シャナならどうしたか。―――答えはすぐに出た。
存在の力を自分の肉体ではなく衣服に浸透させて、変異させる。瞬間的にブレザーが紺色から漆黒に染まり、膝上までだった裾が全身を隠すほどに広がる。ブレザーを基礎にすることで再現した『夜笠』だ。「ほう」と感嘆の息がペンダントから聞こえたが今は笑顔を返す余裕はなかった。
シャナが使う本来の夜笠はアラストールの翼の皮膜を部分的に召喚して外套にしているものだ。テイレシアスさんに翼があるかどうかは知らないがそれを尋ねる余裕がなかったので咄嗟の判断で作ったのだ。
夜笠に意識を集中させ、ギリギリまで強化する。直後、衝撃が総身を揺らす。背中で爆弾が爆発したかのような激震。押し負けそうになるが、歯を食いしばってなんとか堪える。
「くッ…だぁあッ!!」
倍返しの威力で夜笠を叩きつけ、背後からの強襲者を弾き飛ばす。視界の端に吹き飛ぶ“灰色”を捉えつつ、勢いを殺さず身体を回転させて贄殿遮那を横に一閃。存在の力を集めていた女を斬り付ける――――が、優美な刀身は何もない空間を横薙ぎにするだけだった。女も自在式も姿を消している。
「くそっ!」
ぜえ、と大きく息を吐く。周囲を油断なく警戒しながら呼吸を必死に整える。
おかしい。シャナなら、さっきの襲撃なんて軽々と跳ね返して息も乱さずに一瞬で二人とも切り伏せることができたはずだ。こんなはずでは・・・!

――――当たり前じゃないか。

ふと、心のどこかで別の自分があざ笑った気がした。その声を頭を振って否定する。
(まだこの身体を上手く使いこなせてないだけだ。大丈夫だ、すぐに慣れる。慣れてみせる!)

『ふ、ふふふ……あははははははは!!』

女性特有の甲高い笑い声がビル群の間で反響する。しまった、これではどこから攻撃が来るかわからない!一旦態勢を立て直そうと翼を拡げて、

「―――させないわ」

「ぅあッ!?」
自分の身に何が起こったのか理解できなかった。視界の隅に雷のような光を視認した瞬間、横腹を強烈な衝撃が走った。重く鋭い爆発音が鼓膜をつんざき、身体をくの字にひん曲げる。一拍置いて襲いかかるあまりの激痛と息苦しさに炎の翼を維持できなり、身体が急激に浮力を失う。くるくると錐揉みしながら落下し、そのまま頭から眼下の家屋に墜落した。瓦屋根をぶち破り、基礎の柱を破壊してフローリングに叩きつけられる。
「――――…ッ!」
鉄槌を食らったかのようなダメージに目眩がする。苛烈な刻苦に意識が溶融しそうになるのを歯を食いしばってなんとか踏み止まる。夜笠に目をやると、横腹の部分が完全に溶けてなくなっていた。坂井悠二だった頃の肉体なら今の攻撃だけでバラバラに吹き飛んでいただろう。想像してゾッとする。
「ぐぅ、ぁ、ぇううっ……!」
立ち上がろうと四つん這いになって四肢に力を入れるが、口から嗚咽と涎が漏れるばかりで立ち上がることができない。涙と涎がフローリングを汚していく。呼吸すらままならず意識が朦朧とする中で、僕は自分の弱さに歯噛みする。まだシャナの力を少しも引き出せていない。シャナがこんな不様にやられるはずがないのだから!
「――――――」
テイレシアスさんはずっと沈黙したままだ。もうすでに僕を見限り始めているのかもしれない。焦りが募る。
(まだ、まだぁ……!)
贄殿遮那を支えにして緩慢な動きで立ち上がる。シャナの身体は回復能力も高いはずなのに、まるで追いつかない。

「なぁにぃ?『炎髪灼眼の討ち手』がこんなに弱かったなんて拍子抜けだわ。せっかくここまでお膳立てしてあげたのに。これなら私一人でも出来たじゃない」
ぎくりとするほど近くから発せられた声に、反射的にそちらを睨み上げる。そこには、さっきの灰色の巫女が衣を揺らめかせながら悠然と浮かんでいた。その張り付いたような笑顔が無機質な能面のようで、思わず背筋がぞっとする。
(僕をシャナと勘違いしてる。この封絶は、シャナを誘き出すためのものだった。そして敵はこいつだけじゃない。ならば目的は、)
「零時迷子か!」
「正解よ、可愛い『炎髪灼眼の討ち手』さん。あなたが都合よく一人で行動していたからわざわざこうやって誘い込んだのよ。時間稼ぎくらいの計画だったんだけど、どうやら楽しめそうね。ふふ、なんて素敵なボーナスなのかしら・・・」
袖を口元に当ててクスクスと愉悦に微笑む。人間離れした艶を宿す肌が、この女が紛れもない紅世から来た化物だということを表している。
零時迷子を狙っているということは、こいつも『仮装舞踏会』の一人の可能性が高い。だとしたら―――
僕の胸に槍を突き刺す『千変』シュドナイの姿を思い浮かべ、唇を噛む。
(『仮装舞踏会』の幹部であるあいつも来ているかもしれない。ここにいないということは、シュドナイは零時迷子を直接狙う気か!)
「お前なんかに構っている暇はない、そこをどけ!さもないと……!!」
姿勢を低くして、爆発的なまでの力を脚部に溜める。紅蓮の髪が一層灼熱の輝きを増し、周囲に散乱していた木製品を火だるまにして瞬く間に炭と化す。この距離で全力の一撃を与えれば、どんな紅世の王とて無傷では済まない。敵はもう一人いるようだが、この間合いなら邪魔が入る前にこいつを真っ二つにできる。一人を片付けることさえ出来ればきっと勝機は見えてくる。
常人なら聞いただけで震え上がるような怒気を孕んだ僕の警告に、しかし、目の前に浮かぶ女は「おお、こわい」とそよ風に吹かれたかのような笑みを浮かべる。柄をガチャリと握り直し、贄殿遮那を最適な構えに整える。顔面に貼り付いた笑顔のまま女が大きく首を傾げる。
「さもないと、どうするのかしらぁ?」
そんなこと―――決まっている!!
「斬るッ!!」
脚部の力を解放する。地面がクレーター状にえぐれ、火薬に押し出された弾丸のように僕の小さな体躯が“射出”された。炎の翼を逆Vの字にしてさらに加速し、突き出した贄殿遮那の先端が轟音と共に音速の壁を突き破る。自在法を含めたあらゆる力の干渉を受け付けない特性、いかなる攻撃であろうと絶対に破壊されることがない耐久性を併せ持つ最強の法具、贄殿遮那に殺せないモノはない!

ふと、女の手にいつのまにか長大な弓が構えられていることに気づいた。でも遅い。あと1秒もせずに、その弓ごと斬り伏せられるのだから。
構えられた矢と贄殿遮那が寸分足らずの精確さで互いの切っ先を衝突させる。その瞬間、雷のような閃光が辺りを包み―――


「そん、な」


信じられなかった。信じたくなかった。
無限に思える一刹那の中、あってはならない光景に自分の目を疑った。


  どうして、吹き飛んでいるのが僕の方なのか
     どうして、相手は無傷で、笑っているのか
        どうして、この手に握る贄殿遮那が、砕けているのか―――


視界がぐるぐると回転してどこが上でどこが下なのかもわからない。頭に鈍痛が走る。何かにぶつかって跳ねたのか、回転がさらに不規則になる。神経が断線し、本格的に意識が遠のいていく。猛烈な勢いで迫る地面に、天に向けて突き立つ木柱を視認する。先の戦いの余波で破壊された家屋の残骸がこちらに矛先を向けている。引き伸ばされた知覚の中で、鋭いそれらがゆっくりと近づく。避けられない。
だから言ったのに、と心のどこかで誰かが蔑んだ気がした。
僕ではシャナのようには戦えないのか。しょせん、僕はこの程度なのか。
(ちくしょうっ)
目をぎゅっと瞑り、体に無数の槍が突き刺さる痛みから目を逸らし―――


「……?」
ふわりとした柔らかい感触を後頭部に感じた。暖かい。誰かに包まれているかのようだ。今度こそ本当に死んだのかと、ゆっくりと重い瞼を開く。

「なにやってんのよ、チビジャリ」

そこには、長身の美女、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーの姿があった。



[19733] 1-9 螺勢
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/04 09:10
「ったく。このクソ暑い日に派手にどんぱちやってると思ったら、ちびじゃりがこんなザマだもんね。偶然通りかかった私に感謝しなさいよ?」
ふん、と鼻を鳴らしながら、マージョリーさんは僕を優しく地面に横たえさせてくれる。その白い頬はなぜかほんのりと朱に染まっている。
「ひゃーっはっはっは!本当は封絶の中でお前がピンチっぽいことがわかったから大慌てで助けに来たんだけどな!我が愛しのゴブレット、マージョリーは今流行のツンデレってやつでイデデデデデ」
「おだまりバカマルコ!」
オシャベリなマルコシアスが口を滑らせ、怒り心頭のマージョリーさんにマルコシアスの入った本型の神器『グリモア』の表紙をガリガリと引っ掻かれる。いつもの、でも僕にとってはとても懐かしい光景だった。
「ありがとうございます、マージョリーさん」
息も絶え絶えにお礼を言った僕の顔を見て、二人がピタリと動きを止めた。マージョリーさんの手からマルコシアスがドサリと落ちる。
何かおかしなことを言っただろうか?
「ち、ちびじゃり!?あんた頭を強く打ちすぎたの!?落ちてたメロンパン拾い食いしたの!?」
マージョリーさんが目を白黒させながら心底心配そうな顔で僕の肩を掴んで揺らす。よく考えたら、マージョリーさんから見たらあの傲岸不遜なシャナが“さん”までつけて丁寧にお礼を言ったことになるのだから、驚かない方が無理だろう。僕だってシャナがそんなこと言ってきたら自分の正気を疑う。ガクガクと揺らされながらこんなことを考えられるということは、少し余裕が出てきたのかもしれない。
と、マージョリーさんの動きがピタリと静止する。言葉を失ったその視線は、僕の手元の贄殿遮那へと注がれて固定されていた。無残な姿と化した贄殿遮那を見て目を全開して混乱する。
「どういうこと?ちびじゃりがここまで追い込まれて、そのうえ贄殿遮那までこの有り様。アラストール、説明を―――」
かつて最悪のミステスとして紅世の王たちに恐れられた『天目一個』の核を成していた大太刀が無残に折れて醜い断面を晒していることが信じられないのだろう。僕自身も信じることができないのだから、当たり前だ。
「待ちな、我が早とちりな乙女、マージョリー・ドー」
足元からのマルコシアスの堅い声に、マージョリーさんが怪訝な顔をして「なによ?」と目を向ける。嫌な予感がした。
「こいつ、『炎髪灼眼の討ち手』じゃねぇ。契約している王もアラストールじゃねぇな」
「・・・なんですって?」
そう呟いてこちらを振り返ったマージョリーさんの目つきは、射殺すような鋭いものに変わっていた。空気が一気に剣呑なものへ変わり、重力となって圧し掛かってくる。
バレた。このまま正体を明かさずにいられればと思っていたけど、それは無理そうだ。
「アンタ、何者?見たところフレイムヘイズらしいけど、どうしてちびじゃりとそっくりな姿をしてるわけ?」
上から押し潰してくるような咎める視線に、僕は耐え切れずに俯く。どう説明すればいいのだろう。正直に言ったって信じてもらえるとは思えない。しかし、このままだともっとマズイことになりそうだ。
「ぼ、僕は・・・」
「僕ぅ!?」
マージョリーさんが素っ頓狂な声を上げる。その声にさえ僕はびくりと肩を震わせてしまう。その様子を見て、マージョリーさんは金細工のような美麗な金髪をくしゃくしゃと掻くと天を仰いで嘆息した。さっきまでの重圧はもう感じない。変わりに、剣呑な空気は“別の方向”に注がれる。
「まーいいわ。敵じゃないみたいだし、悪意もなさそうだし。ちびじゃりモドキ、あんたの正体の追求は後回し。今は、」
前髪を書き上げて人差し指でメガネを整えると、不敵な笑みを浮かべて空を睨み上げる。
「あのザコを片付けるのが先ね」
マージョリーさんの視線の先を仰ぎ見る。そして、絶句した。灰色の炎を侍らせて浮遊するそいつは、さきほど贄殿遮那を砕いた紅世の王だった。贄殿遮那が破壊されるほどの爆圧を至近で浴びたというのに傷一つすら負っていない。
マージョリーさんの挑発を受けてもまったく表情を変えないそいつが楽しみが増えたとばかりに三日月のような笑みを浮かべる。耳まで裂けた愉悦の笑みに底知れぬ恐怖を感じて身体が勝手に後退る。
「わざわざ『弔詞の詠み手』まで来てくれるなんて、今日は運が良いわぁ。でもね、“お楽しみ”を邪魔しないでほしいのよ」
雌狐のような妖艶な視線がこちらに向けられる。笑っているのに“笑っていない”ような無機質な笑顔を向けられて、僕は“お楽しみ”というものが何を意味するのか直感的にわかってしまった。
「気の強い可愛い女の子をじわじわと嬲って嬲って殺すのって、大好きなのよねぇ。特に、あなたみたいな生意気な娘を・・・」
「ひっ・・・」
それは脅しでもなんでもない本音だった。きっとあいつの頭の中で、僕は何度も恐ろしい殺され方をしている。残酷な言葉を紡ぐたびに蠢く真っ赤な口腔は、視界を逸らした瞬間に飲み込まれそうな錯覚を与えてくる。
「時間をかけて、丁寧にゆっくりゆっくりと殺される。陵辱の限りを尽くされ、肉体と精神のどちらが先に死ぬか観察されながら殺される。殺しては蘇生させ、殺しては蘇生させを繰り返して永遠に慰み者にされる・・・まだまだ考えてるのよ。ねえ、どれがいい?どれがいい!?」
それが己の生き甲斐だと言わんばかりに恍惚の表情で叫ぶ。感情の機微すら見せなかった顔に初めて浮かんだ生きた表情は、ひどく醜いものだった。初めて向けられる“欲望の対象”への眼差し。激しい嫌悪感が吐き気と共に胃から逆流し、喉を震わせる。
こいつは狂っている。本能が、こいつに関わってはいけないと警告してくる。
「聞いたことあるわ。“そういう危ない趣味”を持った紅世の王の名前」
「へぇ。『弔詞の詠み手』に知られているなんて、私も有名になったのねぇ」
端然な美貌を忌々しげに歪ませ、マージョリーさんが吐き捨てる。その冷ややかな視線に射抜かれながら、紅世の王が心底嬉しそうに手を合わせて笑う。が、その眼は僕から離れない。獲物を縛る蛇のように、ガラス玉のような目玉が僕を一瞬足りとも見逃すまいと見据えている。
「ええ、有名よ。少女のフレイムヘイズを惨殺することに執着する紅世の王なんて、アンタしかいないわ。『螺勢』キュレネー」
真名を呼ばれた紅世の王―――『螺勢』キュレネーが、不気味に、そして嫣然に微笑んだ。
生気を感じられない屍蝋のような肌をした手に、どこからともなく現れた長大な弓が握られる。蔦が絡み合ってできたような黒色の弓に光の矢が構えられ、マージョリーさんの眉間にその照準を当てる。マージョリーさんは眼を逸らそうとはせず、キュレネーを睨み続ける。まるで眼を逸らしたらそれで勝敗が決まるかのように。
「光栄だわ、『弔詞の詠み手』。でもごめんなさい。私、あなたみたいに熟れちゃった果実に興味はないの」
ギチギチ、と呪詛のような唸りを上げて矢が引き絞られる。キュレネーが矢を握る指を放せば、その瞬間に勝負はつく。だというのに、マージョリーさんの背中からは一切の怯えも気後れも感じられなかった。
「言ってくれるじゃない。いいわ、相手をしてあげる」
口端を歪めて獰猛な笑みを浮かべ、突き出した手先で「かかってこい」とジェスチャーをする。転瞬、三度目の雷光が全てを金色に染めた。僕を狙ったものとは段違いの破壊力を有した一撃がマージョリーさんに命中し、怒号と衝撃波が周囲のありとあらゆるものを吹き飛ばす。それなりの寿命を経た街路樹が瞬時に燃焼し、灰と帰していく。それでも、彼女の背後にいた僕には届かない。粉塵と黒煙が吹き荒れる中、眼前でゆっくりと“獣”が立ち上がる。着ぐるみじみた巨大な群青色の獣。『弔詞の詠み手』がその身に纏う、武器にして鎧―――『トーガ』だ。
爆撃にも匹敵する攻撃を物ともせず、トーガが片腕を振り上げる。キュレネーは避けられない。避けるには、あまりに近すぎた。
「熟れた女の良さ、その身で味わいな!この変態女ァ!!」
大気を切り裂き、空間をも切り裂く灼熱の爪が、唸りを上げてキュレネーを頭から股下へ一直線に切り裂いた。怨磋の叫びを上げて散り散りになりながら消滅していくキュレネー。奈落のようにぽっかりと空いた口からはたしかに絶命の悲鳴が聞こえるのに。

それなのに、どうして“嗤っているのか”―――

「なによ、ほんとにただのザコじゃない」
「ひーっはははははは!大人の女の魅力の勝利だな、我が無敵なる主、マージョリー・ドー!!」
マージョリーさんが拍子抜けしたと大きく吐気する。傍から見ていた僕にも、それはマージョリーさんの圧倒的な勝利に見えた。でも、違う。胸の奥、心臓の内側から這い上がってくるこの焦燥感が、“まだ終わっていない”と僕に告げる。最初に僕がキュレネーに斬りかかった時、もう一人の敵が背後から襲ってきた。アイツはなぜ現れないのか。
「マージョリーさん、まだです!もう一人いるんです!!」
大声を張り上げると肋骨が痛むが、気にして入られなかった。夜笠で弾き返した際に一瞬だけ視認した敵の姿を懸命に思い出す。
「それに―――封絶が解かれない!」
「―――なんですって?」
主を失いエネルギーの供給が途絶えた封絶はやがて結界を維持できずに消滅する。しかし、この封絶はその気配を一向に見せない。炎の獣がグルリと首を回して周囲を警戒する。マージョリーさんは零時迷子を欠いた今の僕より遥かに存在の力を鋭敏に察知できる。そして、紅世の王は強大になればなるほど僅かな動作でも察知されやすい。どうやって彼女の警戒を掻い潜っているのか。
(キュレネーがこの封絶の主だったことは間違いない。この封絶を維持していた力は討滅されたキュレネーのものだ。現に、今も封絶の中はアイツの力で溢れて・・・)
その瞬間、昔戦った紅世の王との戦いが脳裏に蘇る。
(―――『壊刃』、サブラク―――)
かつてあのヴィルヘルミナさんをも敗退させた、圧倒的な戦闘力と恐るべき耐久力を誇る最凶の殺し屋。どんな達人にも察知されることなく接近し、不意打ちの初撃で致命傷を負わせて嬲り殺す。希薄な存在の力しか持たない奇妙な身体はどんなに切り裂いても復活し、ジワジワとフレイムヘイズを追い詰める。その正体は、街全体に染み込むほどに巨大な化け物だった。自身を街と同化させ、チョウチンアンコウの触手のように、囮となり人形を使ってフレイムヘイズを消耗させる。
(あの時も封絶の中にサブラクの気配が満ちていた。まさか、)
脳裏に浮かんだ一つの可能性とキュレネーの真名がパズルのピースのようにピッタリと合致する。
背後から襲ってきた敵の色は―――“灰色”。『螺勢』の真名の意味は―――『螺旋の軍勢』。
その仮説に悪寒を感じた瞬間、僕は叫んでいた。
「気をつけてください、マージョリーさん!“キュレネーは一人じゃない”!!」
「な―――」

果たして、その先に続けようとした言葉はなんだったのか。マージョリーさんの言葉は、突如として全方位から浴びせられた超音速の矢の弾幕に遮られた。
何の前兆も見せずにトーガに着弾した矢の群れは爆音と同時に次々に爆裂し、天を焦がすほどの大火柱をあげる。作り出す衝撃波は相乗効果によって威力が倍増され、先のそれとは比べ物にならない爆炎の瀑布となって襲い掛かってくる。津波のように迫り来る炎の壁。逃げられないと悟ると、僕は頭から夜笠をかぶって身を小さくする。一瞬後にこの身を飲み込む灼熱の嵐。まったく成す術なく、僕の体は木の葉のように吹き飛んだ。夜笠の表面が溶け、炎熱が内側まで浸透してくる。オーブンに閉じ込められたように皮膚の表面をジリジリと焼かれ、鋭い痛みが神経を走り狂う。やはり、僕如きが作った即席の夜笠ではシャナのそれのように十全の機能は果たせない。それはこの体にも言えるかもしれない。僕如きがシャナの体を使ったところで、シャナの能力を十全に発揮させることなんて――――
「あぐッ!」
背中から堅い何かに衝突した。あまりの衝撃で体がその何かにめり込む。耐久値の限界を超えた夜笠がバチバチと音を立てて収縮し、ついに元のブレザーへと戻る。そのブレザーも、眼も当てられないほどに破れ、焦げ、大部分を消失している。
呼吸のたびに肺が痛み、心拍のたびに心臓が痛み、考えるたびに頭が割れるように痛む。額から流れ落ちる鮮血で視界が朱色に霞み、口の中は苦い鉄の味が満ちている。自分がめり込んでいる物体が何なのかと疑問に思って横目で確認する。それが白銀のメルセデスベンツだったことに、もったいないなとどうでもいいことを考えた。
地面を伝う微かな震動を感じて顔を上げる。視線を投げたその先で瓦礫がガツンと蹴り上げられ、スラリとしたメガネの美女―――マージョリーさんが姿を現す。着込んでいた上等そうなスーツはところどころが焼け焦げている。何を探しているのかマージョリーさんは慌てて惨状と化した周りを見渡し、こちらに気がつくと陸上選手も目を見張るスピードで走り寄ってきた。
「どうやら死ななかったみたいね、ちびじゃりモドキ」
心配してくれていた。マージョリーさんの優しさに触れて、痛みが少しだけ和らいだ気がした。お礼を言おうと口を開きかけたところで、空を見上げる彼女の表情が戦慄に染まっていることに気づく。
その瞠目の視線の先にあるものは何かと僕もまた空を大きく仰ぎ見て、


「「「「「「「―――ねえ、驚いてくれたかしら?」」」」」」」


自分は狂ってしまったのか。いや、むしろ狂ってしまっていた方がまだ何倍もマシだった。こんな絶望を味わうくらいなら、さっさと狂ってしまっていればよかったんだ。

頭上には、最初に見た姿となんら変わりのないキュレネー“たち”の姿。
数十、数百・・・そんなものじゃない。視界の隅から隅までを埋め尽くす、灰色の炎の軍勢。全員の手に掲げられているのは全て同じ形状をした長大な弓。これこそが、『螺勢』キュレネーの正体。
全員が同じタイミングで弓を構え、完璧に同調した動作で弓を引き絞る。ギチギチギチギチ、ギチギチギチギチ。その音は、地を這う悪鬼の呻き声に聴こえた。

「今日は派手な一日になりそうだな。我が不幸なる戦姫、マージョリー・ドー」
「このクソ暑い日に、冗談じゃないわよ・・・」

すぐそこに太陽が出現したかのような凄まじい雷光。一斉に弾かれた光の矢が避けようのない豪雨となり、僕たちに降り注ぐ―――



[19733] 1-10 覚醒
Name: 主◆548ec9f3 ID:69f2fcdc
Date: 2011/05/20 12:27
何度地面に叩き伏せられ、何度宙に吹き飛ばされたのか。もう覚えていない。荒波に翻弄される小船のように不様に叩きのめされ、地面に壁にと藁屑のように全身を打ち据えられる。映画で見た戦場のシーンそっくりの灼熱地獄となった故郷の街の惨状を前に、無力な僕はただ身を小さくして攻撃から逃れるしかなかった。贄殿遮那に残されていた刀身には蜘蛛の巣のように激しい亀裂が走り、美しかった刃は刃毀れし、出来の悪いのこぎりの様に惨めな姿を晒している。僕のような未熟者に振るわれたせいで。かつては美しかったその刀身が、シャナの身体を使っても満足に回避することすらできずに縮こまっている自分への皮肉に見えてひどく滑稽だった。
「伏せなさい、ちびじゃりモドキ!」
目の前で高速で飛来してきた矢の雨と群青の炎の爪が交差し、溶け合い、爆散した。衝撃波が音と共に押し寄せ、砂礫が視界を土色に染める。
僕がこうしてまだ生きていられるのは、僕を背後にしてひたすらキュレネーの攻撃に堪えているマージョリーさんのおかげだ。でも、防戦一方でそれもいつまでもつかわからない。現にマージョリーさんが打ち落とし損ねた矢が幾度となく僕を狙って飛来してくるようになってきた。
「ちぃっ!」
トーガの爪の間をすり抜けて矢が飛来してくる。蛇のように身をくねらせて獲物に襲いかかる、追尾弾。
身体がほとんど自動で防御のために贄殿遮那を正眼に構える。視界を占拠する眩い閃光と衝撃が着弾を報せ、痺れて感覚のない腕がビリビリと打ち震えて、
「――あ、」
ついに、贄殿遮那が砕け散った。痛みに霞む視界の中で亀裂が柄にまで達し、ばきりと音を立てて割れる。僕にとってシャナの強さの象徴だった無窮の大太刀が乾いた金属音を響かせて地に散逸する。なんて、呆気無い。
心身両方の支えを亡くした身体が崩れ落ちる。反射的に差し出された両手両膝が地面を打ち、辛うじて横たわることを防いだが、それだけだった。幾度も衝撃に晒された手足に感覚はなく、全身の神経を引き抜かれたような虚脱感が五体に重く伸し掛る。すぐ正面でマージョリーさんが必死に敵の攻撃を捌いているというのに、もはや戦う気力などなかった。身体中の傷から発せられる痛みが現実の質感を伝えていたが、それすら遠くの出来事のように感じて危機感すら湧いてこない。完全に、状況に屈していた。
疲労と絶望に忘我しながら、ふと足元に散らばる贄殿遮那の残骸を視界に入れる。砕けていても優美な曲線を魅せつける美しい造形が、どんな状況下にあっても諦めなかったシャナの横顔と重なる。しかし、カラリと音を立てて転がった刀身の中身は、空洞だった。外見だけそっくりに真似ても、中身が伴っていない出来損ない。
再びトーガの爪をすり抜けて獲物をいたぶる矢が着弾する。それは俯く僕の眼前の地面を抉り、転瞬、爆散した。炸裂した大音響に肌を泡立たせる暇すらなく、膨張した空気に跳ね飛ばされて後方に吹き飛ぶ。今までに倍する激痛が身体中をズタズタに切り裂き、呼吸が不可能になる。時間が弛緩し、流れる視界がスローモーションのようにゆっくりと過ぎ去る。ふと、それらの色彩が急激に精彩を失っていくのを知覚した。ボロ布のようになった肉体から意識が剥がれていく感覚。直後、ショートしたかのように瞳から光が失われる。耳が詰まったような静寂が五感を塗りつぶして、


(―――…この贄殿遮那は、お前自身だ。 )


這い登るような、零れ落ちるような、“声”がした。広い空洞を伝わってきたような反響を伴って、“坂井悠二の声”が響く。

(こんなものが贄殿遮那であるはずがない。名を語ることすらおこがましい駄作だ)

暗黒の意識の中で、“真っ黒な坂井悠二”の輪郭がゆらりと揺れ、叱りつけるように声を荒げる。吹きすさぶ風鳴りのような、掠れて虚ろな声音だった。大気が重油と化したような世界の中で、朧げな輪郭の脚がこちらに向かって踏み出される。
明らかに異常とも思える事態だったが、不思議と驚きはなかった。僕はまるでいつもそうしているように、その声の主に問いかける。

(なら、もっと精度の高い物を創ればいいのか?)

真っ黒な自分が、否!と世界を揺らす。暗闇を踏みしめ、一歩近づく。

(どんなに優れた贄殿遮那の贋作をもってしても、眼前の敵は淘汰できない。そも、坂井悠二にはこれを振るうスキルが足りない。経験値が足りない。才能が足りない)

(なら、どうすればいい?僕がシャナのように敵を駆逐するには、どうすればいい?)

漆黒に燃える坂井悠二が嘲笑する。周囲より一際濃い闇が、影を掻き分けて眼前まで近づく。

(それこそが間違いだ。驕りだ。坂井悠二はシャナか?否、僕は僕だ。シャナの戦い方を模倣する必要はない。シャナの肉体を持って、坂井悠二の戦いをせよ!)

張り上げられた胴間声に意識が弾かれる。暗黒の世界がモノクロへと変わり、色彩が復活する。その狭間に、この世の闇を凝縮したかのような黒い炎を見た気がして―――
「…ッ!」
頬に冷たいアスファルトを感じた瞬間、地面から身体を引き剥がす。その反動で五体余す所なく激痛が走り狂い、先ほどの黒い炎も幻覚も意識の外へと追いやった。しかし、その言葉だけは頭蓋の内にしっかりと焼き付いていた。
(シャナの肉体を持って、坂井悠二の戦いをせよ!)
その言葉を繰り返すたび、濁っていた思考が急激に冴えていく。より鋭く、より明晰に。精神が凍えた湖水のように冷え切り、鏡となって周囲一帯の全景を鋭敏に映す。
体勢を立て直し、キュレネーの姿を視界に捉える。敵は複数。すべて遠距離攻撃(ロングレンジ)タイプで狙撃能力も極めて秀逸。近接戦(インファイト)を挑むのは不利。
ならば!と一つの活路を導き出す。坂井悠二にしか思いつかない戦い方を。しかし。
臍を噛み、ぎりと両の拳を握り締める。この手には得物がない。敵を倒すための手段が足りない。手に入れなくてはならない。どうやって。
武器になるものはないかと必死で周りを見回す。遠心力に振られたペンダントが肋骨にあたって軽い金属音を立てた。

―――そこでようやく、僕はまだ一度たりとも、自分と契約した紅世の王の力を行使していないことに気づいた。

今までの僕はシャナの力を再現していたに過ぎない。この身を紅蓮に染める炎は、この紅世の王本来の色ではない。
腹の底に“熱”が灯るのを感じながら、口元の血を乱暴に拭い、勢いよく胸のペンダントを掴んで顔の前に掲げる。
「テイレシアス」
「なんだ、坂井悠二」
久方ぶりに聴く紅世の王の声は呼び捨てに対する憤怒や当惑など一切感じさせず、むしろそれを待ち望んでいたかのような力強さに満ちていた。それに応えるように、双肩に力をこめて声を張り上げて吼える。
「力を貸せ、テイレシアス!我が紅世の王!!」

「―――ははっ!遅いぞ、いつまで待たせるつもりだ!!我がフレイムヘイズ!!」

歓喜にわななく怒号とともに、轟、と白い爆炎の竜巻が僕の体を包み込んだ。長い夜の果ての暁光のように煌々と輝く白い炎が総身をくまなく包み、あらゆる負傷を癒していく。全身が爆発しそうなほどに熱くなり、この小さな体を構成する一分子に至るまで苛烈にして清浄な力が漲ってゆく。頭の芯まで熱に痺れ、不可能などないと錯覚するほどに自信が満ち溢れてくる。
この、自分まで炎と化したような灼熱の感覚を、シャナも味わったことがあるのだろうか。

繭のように“ボク”を包み込んでいた白炎が消える。視界に映るのは、トーガを失い生身となったマージョリーさんの姿と空を覆いつくすほどの矢の大群。
自分が成すべきことを瞬時に把握したボクは両の手に“一丁”ずつ握ったそれを矢の雲に突き出し、“引き金(トリガー)を引いた”。

 ‡ ‡ ‡

「こ、の―――!!」
群青の炎弾を横薙ぎに連射する。直撃すれば、雑魚なら一瞬で消滅しうる破壊力を持った炎弾は、しかし光の矢の群れと真正面から激突して盛大に爆ぜた。
爆音と衝撃が地を揺らし、飛び荒ぶ瓦礫が人工物も天然物も残らず粉砕する。だが眼を逸らすわけにはいかない。壁のように視界を覆っていた粉塵を突き破り、さらに数を増した光の矢が弾幕となって襲いかかかってくるのだから。
「こりゃあちょっくらやばいんじゃねえのか、我が戦場の花、マージョリー・ドー!」
バカマルコがわかりきったことを叫ぶ。こんな状況、どうみたって不利だ。前に進めず退却もできず、そのうえ満足な反撃ができないなんて、最悪だ。ジリ貧とも呼べない。
「わぁってるわよ!≪キツネの嫁入り天気雨!≫っは!」
「んなら俺が言いたいことも察してくれてるんだろうが―――≪この三秒でお陀仏よ≫っと!」
『屠殺の即興詩』を紡ぎ、目にも止まらぬ高速で自在式を組み上げる。当代でも五本の指に入ると称される自在師の達人によって10体のトーガの分身が宙空に生まれ、旋風となって舞い上がる。
「これでも―――食らっとけ!!!」
突如、トーガが高空で破裂したかと思うと、それらは無数の炎の豪雨となって矢群と敵群に降り注がれた。その比類なき破壊力はまさに高射砲による絨毯爆撃、もしくはクラスター爆弾そのものだ。先の爆音と衝撃を遥かに凌駕する圧倒的な大爆炎が地上に現出し、自然の摂理をねじ曲げんばかりに燃え上がる。さながらそれは核爆発のように、ビルほどもあるキノコ雲を空へ屹立させた。
「ッチクショウ!!」
これだけの威力を持った攻撃を用いても、手応えは感じられなかった。正確には、“本体を仕留めた”という手応えが。数分前から延々と繰り返される猛烈な攻め技の応酬は、自分の体力を確実に削り取っている。消耗戦では、数が多い向こうが圧倒的に有利だ。
「ったく、いったい何匹いやがるのよ…!」
「我が情深き守護者、マージョリー・ドー。わかってんだろ、あいつを守りながら戦ってたらやべぇってことは。今さら命の優劣がつけられねぇ歳でもなし、さっさと決めた方がいいんじゃねぇのか」
バカマルコに説教をくらうのは久しぶりだった。そのことに無意識に苦笑しながら、一度背後を振り返る。
そこにいるのは満身創痍でもはや立ち上がることすらままならない、『炎髪灼眼の討ち手』に酷似した少女。きめ細やかな肌は傷だらけで血に染まり、その瞳にはもう戦意は感じられない。おそらくは新人(ルーキー)のフレイムヘイズ。どんな所以があってちびじゃりにそっくりな少女がフレイムヘイズになったのかは知る由もないが、今回の戦闘が初戦だということは拙い戦い方を見れば分かる。
たまにいるのだ。まだ自身のフレイムヘイズとしての力に慣れぬまま戦いに望み、相手が悪く“脱落”してしまうフレイムヘイズが。あの少女もまた同じだ。武器は折れ、心も折れ、もはや死を待つばかり。自分が助けてやる意味なんてないかもしれない。
「だけどね、」
「あん?」
頭上から攻撃の気配。未来予測にも匹敵する第六感を駆使してそれを察知すると、瞬時に特大の炎弾を作り出して撃ちだす。
「ちびじゃりにそっくりな奴を見捨てたら、さすがに後味悪すぎんのよ!!今夜の酒が最悪に不味くなんのよ!!」
もう何度目かもわからない爆音に負けないくらいの怒鳴り声を張り上げる。間髪いれずに牙を剥かんと襲い来る矢の進行方向に灼熱の火球群を撒き散らして迎撃する。まさに百花繚乱の狂い咲きとも言うべき群青と灰の瀑布が、電柱を次々と基礎ごと地面からもぎ取って捻り切る。
あのちびじゃりモドキは、なぜか他人のようなしなかった。よく見知っている人間のような気がしたのだ。フレイムヘイズ屈指の殺し屋と謳われる自分にしては甘すぎる決断だったが、後でうじうじと後悔するよりマシだ。
「ヒー、ハー!そう言うと思ってたぜ、我が勇敢なる猛者、マージョリー・ドー!!」
バカマルコの軽薄で爽快な―――けれども契約者を心から誇りに思っている笑い声に叱咤されるように、トーガの両の爪をガシャンとかち鳴らせる。
死にかけたことなんて今まで数え切れないくらいあった。今よりもっとひどい状況に陥ったことも数知れない。でも、今もこうして生きている。今回だって、生き残る。
「あのちびじゃりモドキも今夜の酒に付き合ってもらうわよ!未成年だろうがなんだろうが知ったこっちゃないわ!!」
裂帛の気合を込めて再び屠殺の即興詩を紡ごうとして―――突如視野を染めた凶悪な雷光に瞠目した。間近で手榴弾が炸裂したような、全身を叩きつける激痛。その一撃で、身に纏っていたトーガは呆気なく散逸した。
「こんの…舐めんじゃないわよ!」
吹き飛ばされる瞬間、地面にハイヒールを突き刺してその場に踏みとどまる。間髪入れずに炎を操作して気圧差を作り、時間差で襲ってきた衝撃波を防ぐ。気化したアスファルトの悪臭とそれ以上に不快な気配に顔を歪め、飛来してきた矢の延長線上に佇む気配の主を射殺さんばかりに睨みつける。
「ねえ、『弔詞の詠み手』。あなたは十分に戦ったわ。もう諦めたら?大丈夫、あなたの頑張りに免じて、その娘はなるべく痛くない方法で殺してあげるから」
視線の先で余裕綽々と微笑むキュレネーの台詞に唾棄して中指を立てる。
「ふざけるんじゃないわよ、変態女!あんたの“裁縫針”なんて、いくら当たったってこっちは痛くも痒くもないのよ!」
ニチィ、とキュレネーが嗤う。それが伝播するように、空を埋め尽くすキュレネーたちの口が耳まで裂けていく。一斉に構えられる光の矢。歯軋りして防御の方法を考えるが、鍛えられた直感はそんなものはないと冷酷に告げていた。

「それじゃあ、御機嫌よう。『弔詞の詠み手』」

全てのキュレネーの指が矢羽から放される。全周囲どの方向に身をかわそうとも逃げ切ることはできない死の雨。言うまでもなく、絶体絶命だった。これまでかと臍を噛み、それでも最期まで眼は逸らすまいとキュレネーを睨みつけて―――


突如背後で巻き起こった竜巻に、愕然と眼を見開いた。轟々と周囲のあらゆるものを巻き上げて天を突く、白い炎の竜巻。
この唸りを上げて逆巻く爆炎があの少女から発せられたものだと理解するのに数秒の時間がかかった。今までの少女のそれとは比べ物にならない存在の力に、怯えるかのように大地がビリビリと震動する。
唐突に竜巻が音もなく消え失せる。轟風をあげて、傷が全て癒えた少女が姿を現す。刹那、その小さな両手から灼熱の絶叫が轟き、火線の雨が飛来してきた矢の全てを迎撃した。


その姿は、マージョリーの知る『炎髪灼眼の討ち手』とはまるでかけ離れたものだった。


――――力強く羽ばたく、雲海のように白い炎の翼。

――――艶やかに風に流れる、燦然と純白に燃えたつ長髪。

――――凛冽にして透明、しかし断固とした闘志を宿した雪色の双眸。


だが、それらよりもマージョリーを驚かせたのは、少女の両の手に握られているその武器だった。少女の手に余る巨大な“銃把(グリップ)”の上部で“回転弾倉(シリンダー)”は煙を上げ、熱を帯びた銀色の“銃身(バレル)”は大気を陽炎のように揺らめかせている。鞘に収められた短剣のような形状をした二匹の鉄の魔獣を、マージョリーは識(し)っていた。かつてマージョリーがまだ普通の人間だった頃に兵器として普及し始め、数百年を経て戦争の主兵器へと進化した、同じ人間を殺すためのヒトの知識の結晶の一つ。
紛れもない、『拳銃』だった。
「はははははっ!拳銃を使うフレイムヘイズときたか!お前は本当におもしろい奴だ!!」
少女の胸元から響く、大地を底から揺すり上げるような喜悦極まる笑い声。マージョリーが初めて聴いた、少女の紅世の王の声だった。その大声に返答するかのように、少女の口元に不適な微笑が浮かび、
「『贋作師』テイレシアスがフレイムヘイズ、『白銀の討ち手』―――推して参るッ!!」
覇気に満ちた宣言と共に、光の尾を引いて空へと舞い上がった。



[19733] 1-11 勝利
Name: 主◆9c67bf19 ID:8fbdaf6e
Date: 2011/10/23 02:30
決まりきっていた結末を覆し、満身創痍だったはずの少女が白銀の尾を引いて力強く飛翔する。その姿はその場にいる全員に等しく驚愕を与えた。わけても、対峙するキュレネーの驚きこそ最たるものだった。『炎髪灼眼の討ち手』がその身を純白に燃やし、近代兵器を握っているからだけではない。少女の持つ拳銃こそ、キュレネーがもっとも忌み嫌う武器だったからだ。

キュレネーは自他共に認める弓の名手である。古くは人類発祥の時代、キュレネーが紅世に生まれ出でる遥か昔に発明され、遠く地平線の彼方にある敵すら悉く射殺すこの兵器を、キュレネーは愛していた。その思い入れ様は、彼女が少女をいたぶることに捧げる熱意に負けずとも劣らぬものだった。だが、あの『銃』は、その栄光の歴史を薄汚い鉄錆と硝煙で瞬く間に塗り替え、一方的に弓の時代に終わりを突きつけた。たかが数百年の歴史しか持たない、火薬の唾を吐いて喚きたてる醜い鉄の塊に、数万年の歴史を持つ彼女の愛する弓の領域を汚された―――。
暗澹と蟠り沸騰していく怒りに、キュレネーの顔が鬼面のように歪み、憤怒に燃える。もはや、獲物を楽しみながら嬲り殺すという余裕など彼女の頭にはなかった。
許せない。眼前の“敵”が握るあの獣が、あの銃が!

「お、の、れぇえええええええええ!!」

もう『炎髪灼眼の討ち手』だとか『弔詞の詠み手』だとか、そんなことはどうでもよかった。あの憎き機械仕掛けの獣を一刻も早く自分の視界から消し去りたい。この弓で、この矢で、鉄屑にしてやりたい。ついに臨界点に達した怒りに、キュレネーの分身たちが眼を見開き牙を剥いて腹の底から湧き上がる激情に咆哮する。攻撃の狙いを『弔詞の詠み手』から外し、キュレネーたちは一斉に矢を放った。
憎悪と狂気を孕んだ魔の矢群が目覚めたばかりのフレイムヘイズ『白銀の討ち手』に四方から襲いかかる。
キュレネーは知っていた。銃には弾丸の制限があることを。装弾には時間がかかることを。少女が握る「リボルバータイプ」と呼ばれる回転式拳銃は、そんな制約の多い拳銃の中でも特に撃てる弾丸が少ないことを。

―――だからこそ、目の前の光景が信じられなかった。


 ‡ ‡ ‡


 二丁の拳銃を左右に構え、前方に突き出し、交差させ、縦横無尽に猛然と“連射”する。銃口から撃ち出された鋭い弾丸は人間の使用するそれの何倍もの初速で音速の壁を貫き、飛来してくる矢を精確に迎撃していく。回転式弾装(シリンダー)が空気をねじ切らんばかりに激しく回転し、光弾の豪雨を吐き出す。普通の拳銃ならばとっくに弾切れしているだろう。だが、シリンダーの中に無限に弾丸を生み出していくこの“贋作”は、通常のそれではない。
「無限の拳銃―――そうか、フリアグネの“トリガーハッピー”の贋作か!」
喜び驚くテイレシアスの呵呵大笑に肯定の笑みを返して高速で引き金を引く。
その通り。この拳銃は、ボクが初めて遭遇した紅世の王、『狩人』フリアグネの有していた対フレイムヘイズ用宝具トリガーハッピーの贋作だ。徒と討ち手への復讐に燃える人間によって作られたこの拳銃は、撃つ意思さえあれば無限に弾丸を放ち続けられるという破格の能力を有している。

テイレシアスの固有能力は、アラストールのような強力無比な断罪の炎でもなければ、マルコシアスのような高度な自在式支援でもない。“記憶にある宝具を再現して創り出す”という贋作の力だった。
敵が遠距離攻撃(ロングレンジアタック)に特化しているなら、こちらは中距離攻撃(ミドルレンジアタック)で距離を詰めつつ、相手がもっとも攻撃しにくくこちらがもっとも攻撃しやすい間合いに移動すればいい。その戦い方にもっとも相性のいい武器がこの二丁のトリガーハッピーだった。

拳銃など握ったことのないはずの身体は、舞い踊るように空中で身体を捻らせ、肉体の一部であるかのように自由自在の角度から弾丸を射出し続ける。トリガーハッピーから流れ込んでくる頭がショートしそうなほどの情報量。万華鏡を覗き込んだかのように、この拳銃を使っていた者たちの戦闘方法が視(み)える。
『贋作師』の能力は、単にそっくりな贋物を造るものではない。それに染み付いたかつての使い手たちの記憶さえも模倣し、共感し、再現する。さらに、
「まだまだァ!!」
気合に満ちた声で吼えると、存在の力をトリガーハッピーに流し込み、思い描くイメージを“押し付けていく”。途端、トリガーハッピーがメキメキと音を立てて生き物のように銃身(バレル)を巨大化させ、シリンダーを一回りも二回りも肥大化させる。鈍銀に輝く鉄の表面には自在式が刻み込まれ、存在の力が駆け巡る。トリガーハッピーの対フレイムヘイズ用の能力は切り捨てられ、破壊力のみを優先した宝具へと変化する。華奢だったトリガーハッピーはその形態を激変させ、次の瞬間には精緻にして繊細、かつ大胆で力強い魔銃へと生まれ変わった。
シャナの身体なら、この銃の反動にも堪えられる。力を出し惜しみして勝てる相手じゃない。“シャナの身体をもって、坂井悠二の戦いをせよ”!
再び引き金を引く。鉄槌の如き撃鉄(ハンマー)が弾丸の雷管を叩き潰し、超常の火薬が炸裂する。バレル内部で小爆発が起きたかのような威力に腕が折れんばかりに激震するが腕力で無理やりねじ伏せる。轟音と爆炎を従えて射出された砲弾とも言うべき巨大な弾丸が、虚空に鮮やかな火線をひいて光の矢の群れへと真っ向から突進する。
轟く爆音。爆発は他の矢の群れも巻き込み、誘爆し、空中で炎の大輪を狂い咲かせる。―――それでも、存在の力を凝縮された弾丸の猛進は止まらない。
音の壁を軽々と突き破った弾丸は、ついに一人のキュレネーの脳天に突き刺さり、抉り、粉砕した。灰色の絡まった肉片が派手に飛び散ったかと思うと、鈍色の炎となって塵と消える。一瞬の忘我を経て、キュレネーたちが怒りに任せて激昂する。千を超える怨念の叫び。常人ならその狂気にあてられただけで絶命しかねない呪詛を、それに負けない豪快な笑いが吹き飛ばす。
「はははははッ!ははははははッ!!お前を見つけて幸運だった!!お前を選んで正解だった!!生まれてこのかた、ここまで俺の力を使いこなせた者と出会ったことはなかったぞ!!我がフレイムヘイズよ!!」
渇望を満たす歓喜と感動に打ち震える声は、まるで僕を急かしているようだった。もっと踊れ、もっと戦え、もっと俺を魅せてみろ、と。
上等だ。もっと激しく踊り、もっと激しく戦い、もっと激しくお前を魅せてやる!
純白の翼を一際強く羽ばたかせる。超常の翼はフレアを迸らせて猛烈な推進力を生み出し、ボクに神速のスピードを賦与してキュレネーの軍勢へと肉薄させる。常人には視認すら出来ない戦慄の矢が群れを成して迫るが、“知ったことではない”。ボクはもう常人ではない。人型をした修羅、フレイムヘイズなのだから。
人間を遥かに超越した神業的な体捌きで矢を回避してゆく。土砂降りより激しい即死の矢群が鼻先を掠め、肩口をかすめるが、あたらなければどうということはない。キュレネーたちが一様に目を剥き、ありえないという困惑の表情を浮かべる。
矢群をすり抜けるように肉薄し、一気に必殺の間合いに突入する。遠距離用の長弓(ロングボウ)が苦手とし、拳銃がもっとも効果を発揮する中距離射程(ミドルレンジ)へ。瞬間的に思考を停止していたキュレネーたちには、ほんのコンマ秒単位の隙ができていた。ボクにはそれで十分だった。トリガーハッピーの銃口を突き出し、引き金(トリガー)。表面に刻み込まれた強化の自在式が紫電を散らして白く輝き、銃口が眩いばかりの光(マズルフラッシュ)を迸らせる。今までとは桁外れな反動に、総身が痙攣したかのように震える。
だけど、シャナの身体なら堪えられる!シャナがボクを支えてくれる!
胸中に叫び、その勢いを引き受けた銃口が立て続けに炎を爆ぜる。腕に伝わる反動と同時に、一発ごとに感じる確かな手応え。激しい爆炎と閃光がキュレネーたちを飲み込み、一瞬世界を白く染め上げた。鼓膜を破りかねない轟音が封絶内に木霊する。だが僕は攻撃の手を休めない。炎と煙と閃光が入り混じる周囲に次々と弾丸を撃ち込んでいく。観測が意味を失う領域の瀬戸際の戦闘。
気がつけば、あれほど苛烈だった反撃は返ってこなくなっていた。
「―――まだ、だな」
テイレシアスの低い声に頷き、油断なく銃を構え直す。銃身は白熱して大気を焼き、陽炎を揺らめかせている。自分の存在の力で作り上げた贋作だからか、トリガーハッピーの限界が近いことは感覚で理解できた。如何に強化を施した宝具とは言え、贋作は贋作だ。強度はオリジナルには遠く及ばない。それは贄殿遮那の崩壊で学習済みだった。
キュレネーの軍勢は倒したが、こちらに向けられる刺すような殺意はいまだ衰えず感じられる。まだ最後の一人が残っている。間違いなく、それが『螺旋の軍勢』キュレネーの本体だ。
はたと、自分に向けられていた殺意が逸れるのを感じた。なぜと頭で理由を考える暇もなく脊髄反射的な動きでキュレネーの狙いを察知すると、翼を捻り高速で飛翔する。まるで瞬間移動したかのように、ボクは呆然と空を見上げていたマージョリーさんの前にアスファルトを砕いて降り立つ。
「ちびじゃりモドキ、なにを…!?」
マージョリーさんの疑問に応えぬまま身を翻し、腰を落として身構え、トリガーハッピーを交差させて即席の盾とする。遥か彼方で輝く雷光。腕に走る衝撃。猛威に軋みを上げる魔銃。そして、
「ぐっ……!」
ほんの一瞬の間に、トリガーハッピーは跡形もなく砕け散った。バレルは折れ、シリンダーも跡形もなく弾け飛ぶ。

「あは、あはははは!やった、やったわ!ぶっ壊してやった、あはははははは!!」

キュレネーの哄笑が響き渡る。どうやら、マージョリーさんを囮にしてこちらの武器を壊すことが目的だったようだ。そして、その目論見は成功した。あの台詞から察するに、銃に何かの恨みでもあるらしい。
握っていたグリップの欠片を放り捨て、空になった両手にちらと視線を落とす。存在の力はもう限界だ。宝具を贋作できるのも、おそらくあと一回。
「なかなかに性根の腐った奴だな。で、どうする?」
楽しげに問うてくるテイレシアス。胸のペンダントに心配するなという視線を向け、不適に笑ってみせる。最後の一手もすでに考えてある。本当ならもっと近づいて“投擲”したかったが、この距離でもいけるはずだ。なんたって、今から作ろうとしている贋作は、他ならぬ奴の宝具なのだから。
「マージョリーさん、少し離れていてください」
「は?え、ええ…」
呆気にとられながらも数歩後ずさる。マージョリーさんが危険な圏内から出たことを確認して一度痺れた手を振ると、ボクは目を閉じて全身に残った存在の力をある宝具のイメージに収束させていく。この胸に突き立ったあの“槍”の感触は忘れていない。燃え盛る白銀の炎がイメージ通りに凝縮し、結合し、己を形作る。手を握ると、冷たい、しかし硬く確かな質感が返ってくる。完成だ。

「ちょっと、それってまさか――!?」
「おいおい、マジかよ嬢ちゃん!」

この槍を見たマージョリーさんとマルコシアスが驚愕の声を上げる。二人が驚くのも無理はない。これは、大命の遂行時にしか使われないとされる、仮装舞踏会が所有する最強の宝具の一角なのだから。
銃を破壊できたのがそんなに嬉しいのか、いまだ笑い続けるキュレネー。距離がかなり離れているからか、遠くからでもはっきり聞こえるヒステリックな哄笑は油断しきっていた。遥か遠方にいるその姿は、シャナの視力を持ってしても視界には映らない。だが、そんなことはこの槍には関係ない。姿が見えないなんてハンデはこの槍にはないにも等しい。
「さあ、締めを飾ろう。我がフレイムヘイズ!」
凱歌の如きその声に弾かれるかのように、この身を弓にして槍という名の巨大な矢を極限まで引き絞り、
「ああ、我が紅世の王!これで―――締め(ラスト)だッ!!!」
裂帛の気合と共に踏み出された極限の一歩が硬質のアスファルトを穿ち、ボクという弓から槍が放たれる。槍がこの手を離れる瞬間、槍に命じる。「命中せよ」、と。

それで、勝負はついた。


 ‡ ‡ ‡


しかと見た。この目で。あの銃が不様に砕け散り、鉄屑と化すさまを、この目で!!
嗤い声が聞こえる。それが自分のものだと気づいて、キュレネーはさらに大きく嗤った。
自分の分身である螺旋の軍勢は失われてしまったが、二度と作れないわけではない。人間どもから存在の力を集めれば、またすぐに軍勢は復活する。より多くの存在の力があれば、軍勢の数はさらに増える。
今回は時間稼ぎが目的だったからそれほど数を揃えていなかっただけだ。次は、今日より二桁は多い軍勢で攻めて、あのフレイムヘイズどもを絶望とともに蜂の巣にしてやる。
キュレネーは凄絶な笑みを浮かべて一際大きく高笑いすると、踵を返して退却の一歩を踏み出す。が、

「―――え゛?」

どす、と足元に突き刺さる大槍。思わず次に来る攻撃から身を遠ざけようとして、身体が動かないことに気づく。手で地面を掻くようにもがくが、一向に前に進めない。理由はわかっている。しかし、認めたくはなかった。
「あ゛、あ゛ぁ゛、が、ぁぎ…ッ!?」
槍を掴む。何の脈絡もなく自らの腹を貫通し、この場に縫いとめている槍を。
槍の竿を伝って地面に滴り落ちる紅蓮の花を呆然と言葉もなく凝視する。いくら信じたくなくても、それはキュレネー自身の血だった。
どうやって?どこから?どうして?多くの疑問が浮かんでは薄れていく意識とともに消えてゆく。暗転し、二度と這い上がってこられない消失の海へ沈んでいく意識の中、キュレネーはこの無骨で剛健なフォルムをした剛槍に見覚えがあることを思い出した。
持ち手の意思に従って変幻自在にその大きさを変え、持ち主が望まない限り折れも曲がりもせず、攻撃力・破壊力においては贄殿遮那をも超える類稀なる能力を持つ宝具―――

これは、『千変』シュドナイの宝具、“神鉄如意”ではなかったか、と。

そこに思い当たった次の瞬間、キュレネーの意識は舞い散る火の粉となって消滅した。


 ‡ ‡ ‡


はぁ、と深く大きな息を吐く。それと同時に、後光のように輝いていた純白に燃える髪が元の黒髪に戻る。存在の力を使い尽くしてしまったからだ。炎のように全身を駆け巡っていた力の源が断ち切れたことで、一気に負荷を受けた関節が悲鳴をあげる。指先を動かそうとするだけで思わず呻き声を漏らすほどの痛みが頭蓋を貫通して脳天を突き抜ける。
「初戦はまずまず、だな。なに、これから成長すればいい」
テイレシアスが偉そうに言う。自分だって楽しんでいたくせに、と苦笑して指先でペチリとペンダントを弾く。
「ち、ちびじゃりモドキ、あんたいったい何者なわけ?」
痛む身体に鞭を撃って振り返る。見ると、マージョリーさんが警戒と困惑の眼差しでこちらを睨んでいた。
ふと、マージョリーさんにならボクが坂井悠二であると伝えてもいいのではないかと思った。クールに見えて実は情の深い彼女なら、誰にも他言せず、ボクの身に起こった荒唐無稽な話も信じてくれるのではないかと。
「マージョリーさん、ボクは――――ぁぇ?」
突然、視界がぐにゃりと奇妙な形に歪み、切り替わった。頬に冷たい土の感触を感じる。倒れた、と知覚するのにそれほど時間は必要なかった。どうやら、とっくに身体は限界に達していたようだ。精神力だけで今までもっていたのだろう。
「はは……シャナみたいにかっこよくは、終われないもんだね……」
瞼が鉛のように重くて、とてもじゃないが支えきれない。もう一歩も動けない。疲労による眠気の波が押し寄せてくる。
「ここまで頑張ったんだから、もう眠っても、いいよ、ね……」
「ああ、ゆっくり眠るがいい。我がフレイムヘイズ、『白銀の討ち手』よ」
力強く優しい声を遠くに聴きながら、ボクはまどろみの中へ落ちていった。


 ‡ ‡ ‡


「結局、なんだったのよ、こいつは?」
疲れ果て、腕の中でスヤスヤと眠る少女を眺めながら、マージョリーが呆れたように呟いた。
たしかにフレイムヘイズは人間の常識など足蹴にし、ありえない事象を簡単に作り出す、人の世から逸脱した存在だ。しかし、この少女はフレイムヘイズの常識すら足蹴にしてみせた。何もないところから自身の力だけで宝具クラスの武器を創造し、ついにはシュドナイの宝具『神鉄如意』までも作り出し、その威力を存分に発揮してキュレネーにトドメを刺した。いくらなんでも無茶苦茶すぎる。
「ん……」
艶やかな黒髪を靡かせながら幼子のように寝返りを打つ少女に、マージョリーは自分の腿に肘をついて嘆息する。ちびじゃりにそっくりだが、こいつは根本的に違う。性格も、力の性質も、戦い方も、何もかも。
「んで、やっぱりあんたは何も話さないわけ?」
「俺の口から話すことは何もない。語るべきは我がフレイムヘイズだ」
少女の胸元にある王――――こいつの神器もアラストールのそれに酷似していてややこしい――――に声をかけるが、返ってくるのは最初と同じ返答で、マージョリーは再度嘆息する。アラストールほどではないが、妙に堅物な性格をしているようだ。おまけにこの少女をかなり気に入っているらしく、台詞の「我がフレイムヘイズ」が強調されている。
(このちびじゃりモドキは何を好んでこんな変な紅世の王と契約したのやら。って、私も人のことは言えないか)
肩からぶら下げた相棒にちらと視線を落とし、胸のうちに少女への暖かい親近感が浮かぶのを感じた。これからの行動は、この胸の暖かさに委ねればいい。
「私はちびじゃりモドキを助けて、ちびじゃりモドキも私を助けた。だから貸し借りなし。私はさっさとお暇させてもらうわ。……って言いたいんだけど、」
「こっちにもいろいろと聞きてえことがあるんだよなぁ」
マージョリーの言葉を引き継ぐ形でマルコシアスが声を荒げる。戦えれば他のことはどうでもいいというのがモットーの彼だが、今回のことはさすがに見過ごせなかった。紅世の王からしてみても、先の戦闘は常識から逸脱したものだったからだ。
返答も待たず、少女を抱き上げてひょいとマルコシアスに飛び乗ると、そのまま空中へ舞い上がる。
「ちょっとこの娘借りるわよ。悪いようにはしないわ」
「構わんさ、『弔詞の詠み手』、『蹂躙の爪牙』。お前たちが信用できるフレイムヘイズだということはよくわかっている」
ますます変な奴だった。普通、紅世の世界の住人は同胞を軽々しく信じたりしない。同じ目的の元に協力することはあっても、それは自己の欲望や目的を果たすために最短の道のりであると判断した結果である。数百年もずっと紅世の王や徒を狩っていた自分は、彼らと人間では思考や情念に決定的な差があることを誰よりも理解していた――と思っていたのだが。
(そういえば、このちびじゃりモドキも私のことを知っていた様子だったわね。どこかで会ったことがあるのかしら?)
しばし眠りこける少女の顔を覗き込んで記憶を探ってみるが、思い浮かんだのは生意気な本物のちびじゃりだけだった。やれやれと金色の髪を掻きながら、片手で自在式を組み上げて惨状と化した街を瞬く間に破壊される以前の状態に復元させる。並みのフレイムヘイズが足元にも及ばない芸当を指先ひとつでこなすと、マージョリーはそのまま街を飛び去った。


そして、何事もなかったかのように世界が活動を再開する。
直上から降り注ぐ熱い日差しがアスファルトに反射して人々を上下から照りつける。ある青年は友人と共に笑い転げ、ある女児はあまりの暑さに泣き叫ぶ。先ほどまでの凄惨極まる激戦の時間などなかったかのように、街は元の喧騒を取り戻した。

その裏通りで、坂井悠二に叱り付けられた学生が呆然と地面に仰向けになっていた。その鼻穴からは、だらりと血が流れている。
「……なんで?」
小柄な少女に化け物じみた膂力を見せ付けられ、当てもなく遁走していた彼の目の前に、唐突に地面に突き刺さる巨大な槍が現れたのだ。結果、彼は柱のような槍に顔面をぶつけて派手に転び、アスファルトに背を預けて空を見上げることとなったのだった。
じんじんと痛む鼻っ柱を押さえながら半身を起こすと、槍は彼の眼前で背景に溶けるように消えていった。たしかに現実の痛みに痺れる鼻を押さえ、少年は雲一つない真っ青な空を見上げて一言だけ呟いた。


「学校、行こうかな…」




[19733] 2-1 蛇神
Name: 主◆9c67bf19 ID:8fbdaf6e
Date: 2011/05/02 02:39


(ここは…?)
気がつけば、いつか見たことのある光景がそこにあった。
青々と生い茂る木々の間から陽光が降り注ぎ、無数に折り重なる葉葉を艶やかに煌めかせる。穏やかに吹く風がさわさわと葉擦れの音を鳴らし、鼓膜を優しく撫でてゆく。暖かく柔らかな日向の匂いを肺いっぱいに吸い込めば、何とも言えない安らぎが胸の内に満ちる。瞬間、嗅覚を通じて海馬が刺激されたのか、ここがどこなのかが明瞭に把握できた。
(思い出した。ここは、欧州の森だ)
御崎市を離れ、追っ手を振り切りながら国々を渡り歩き、途中で欧州の深い森に身を隠した。この光景はその森だ。
記憶が戻るに連れ、身体の感覚も取り戻す。動くようになったばかりの首を左右に巡らせてその姿を探し求める。
(シャナが隣にいたはずだ)
たった今まで触れ合うように寄り添っていたシャナの姿がなかった。
一歩踏み出し、見慣れた後ろ姿を探す。鬱蒼とした緑は大地を呑み込み、シャナの小さな身体を隠すように視界を遮っている。「もう会えないかもしれない」。その言葉がポツリと脳裏に浮かんだ途端、ゾクリと冷える絶望感が背筋を這い登った。そういえば、さっきまで夢を見ていた気がする。シャナと離れ離れになる、自分が自分でなくなる、世界から切り離される、奇妙で恐ろしい夢…。思い出そうと記憶の皮膜に手をかけた途端、総身がぶるりと痙攣する。
(しょせん夢だ。忘れてしまおう)
「思い出すべきではない」という直感ともつかぬ感触を胸に、不安を払うように頭を振ってから周囲に耳を澄ませる。

――― 悠二、どこなの?

「っ、シャナ!?」
いつも聴き馴れた少女の声―――けれども、今はなぜか堪らなく愛おしく感じるシャナの声。心細げに僕を呼ぶ声が心に響き、その度に切なさの波が押し寄せて胸を強く締め付ける。
早く会いたい!その瞳を見つめ、この腕で抱きしめたい!
きっと「いきなり何するの」と怒られるだろう。気持ち悪がられるかもしれない。それでも、今はシャナをこの手で感じたくて堪らないのだ。
シャナの姿を求めて声のする方に走る。生い茂る草木に腕を突っ込んで身体を食い込ませ、記憶に絡みつく獏とした不安を振り払うように一直線に駆け続ける。シャナを護るため、同じ道を歩むために鍛えてきた双腕が視界を確実に開いてゆく。ふとその視界に、燃えるような紅色が混じった。
「シャナ!」
茂みから飛び出すと――――そこには“剣”があった。
紅蓮に燃え立つ長髪は美しく飾り立てられた柄を連想させ、一切の無駄を排除した引き締った体躯は流麗な刀身を思わせる。木漏れ日を受けて凛々しく佇む後ろ姿は、まさしく伝説の地に突き立てられた秘剣であった。
その気位の高い美しさにしばし見蕩れた後、軽く頬を叩いて表情を引き締め歩を再開する。
彼女の立つ一帯だけ鬱蒼と地面を覆う茂みがない。まるで自然すら彼女に近づくことを躊躇っているかのようで、そんなシャナの傍らに立てる自分の幸せを再実感し、誇りに思う。
「悠二はどこ?どこにいるの?会いたいよ、悠二」
こんなにすぐ近くまで近付いているのに気がつけないなんて、シャナらしくない。どうしたんだろう?
一抹の疑念がこめかみを過ぎったが、ふわりと鼻先を掠めた香りに瞬く間に吹き散らされた。豊かな長髪が軽やかに風に舞い太陽のフレアのように視界を凪ぐ。人工的に合成されたものではない清廉な身の内から生じる甘い体臭が、身体を前に前にと突き動かす。
(やっと会えた。もう、絶対に離さない!)
手を伸ばせば触れることのできる距離まで一気に近づく。目と鼻の先まで迫れば、一度は絶望に染まりかけた心が癒され、熱い喜びで満たされる。失われた半身を取り戻した充足感を味わいながら、はやる心を抑えて驚かさないようにその華奢な肩にそっと手を伸ばす。あと、ほんの数センチ。

「シャ―――   「シャナ、僕はここだよ」   ――――え?」

唐突に、無遠慮に、頬を掠めてずいと横合いから突き出された逞しい腕が僕より先にシャナの肩を掴んだ。
突然の出来事に思考も感情も追いつかず、ただ呆然と腕の持ち主へ視線を流す。その腕にも、その横顔にも、嫌というほど見覚えがあった。シャナと戦うために鍛え、傷だらけになった腕。シャナを護るために経験を重ね、精悍になってきた顔貌。
ありえない。しかし見間違えるはずがない。だって、こいつは―――
「“悠二”!」
僕が口を開くより早く、シャナが嬉々として振り返る。しかし、その瞳に映っているのは、“もう一人の悠二”であって僕ではない。僕の存在など見えていないかのように、長髪を振り乱して僕ではない悠二の胸に顔を押し付けて抱きつく。その表情は恋焦がれる待ち人に会えた年頃の少女そのままだった。突き放されたような心許なさに襲われて呆然とする中、激しい抱擁を力強く受け止めた悠二が困ったような柔和な笑みを浮かべる。
「一人にしてごめん、シャナ」
あらゆる刻苦を癒す抱擁力を秘めた声がシャナの耳元で囁かれる。他人を慮れる余裕を手に入れた者だけが発せられる声は、もはや平凡な少年だった頃のそれではない。直向きに、実直に、健気に、シャナのために培ってきた力と知識と経験が少年を数年で“男”へと成長させたのだ。その過程を本人として見てきたはずの自分が、今は他人の視点で“悠二”を見ている。血の気が失せた四肢の感覚がなくなり、まるで幽霊にでもなったかのような気分に襲われる。
こんな馬鹿な、と反射的に掴みかかった手が悠二の身体を少しの抵抗もなく擦りぬけ、スクリーンに投影された映像を掴もうとしたかのように虚しく空を切った。虚を突かれて二人を見やるが、静かに抱き合っている二人はすぐ近くで滑稽に慌てふためいている人間などまるで眼中にないようだった。…否、二人は僕という存在を観測できていないのだ。意識的に無視しているのではなく、そもそも意識されていない。“世界そのものから拒絶されている”という直感にも似た疎外感が喚起され、自分が第三者ですらないことを思い知らしめてくる。「なぜ」という疑問が頭の内を支配するが、答えなどわかるはずがなかった。ただ、手を伸ばせば届きそうな、けれども完全に隔てられた二人の姿が目の前に突きつけられているだけだ。
あまりに理不尽な事態に混乱は極限に達し、声一つ身動ぎ一つできなくなる。地面が崩れていくような感覚に襲われながら、ただ皿のように見開かれた瞳だけが二人の逢瀬を映す。
幾年もの旅を経て浅黒くなった悠二の掌がシャナの頭を撫でる。喉を撫でられる猫のようにされるままがままの幸せそうな笑顔が心に刺さる。
(僕だけの笑顔なのに)
まるでわざと衒っているかのような二人のやりとりに、心を焦がす嫉妬の炎がじくじくと焼け付くような痛みを押し広げ、胸の内側を苛む。この世界は、この坂井悠二は、いったい何なのか。幻覚というにはあまりにリアルすぎるし、現実というにはあまりに現実離れし過ぎていた。
「さあ、行こう。シャナ」
少年の優しさと有無を言わさぬ男らしさを感じさせるその言葉にシャナが静かに頷き、二人が同時に歩み出す。腹の底に冷たい戦慄が満ちる。
(―――っ!待て!)
奪われる、という悪寒が電気ショックのように全身を震わせ、硬直した身体を引き剥がした。奥底から衝き上げてくる激情が神経を走り狂い、声に鳴らない制止の声を上げる。全身を軋ませながら一歩を踏み出し、
(!?)
それを嚆矢として世界に異変が広がった。
つい先ほどまで目の前にあったはずの二人の背中が急速に遠ざかり、背景の森林がノイズのように掻き消えてゆく。掻き消えた後には闇より昏い虚無しかない。夜陰とは根本的に違う底抜けに昏い“暗黒の炎”が本性を現し、穏やかだった世界を瞬く間に燃焼させて二人の姿をゆっくりと呑みこんでゆく。頭の片隅に残った理性がここが異常な世界であることを察知するが、沸騰する焦燥に圧殺された。激変する世界に本能的に後退りしそうになった一歩目を強く地面に押し付け、さらに強い二歩目を踏み出す。曙光に吹き散らされることを知らない暗黒の海原をもがくように突き進む。
(シャナが奪われる。僕のシャナが、消えてしまう!)
取り戻さなければ。世界を塗り潰していく暗黒の中、その一心だけが足を動かす動力だった。この世界が何なのか、あの坂井悠二が何者かなど関係ない。シャナさえいれば、そんなことはどうでもいいことだ。恐怖を恐怖と捉えてしまう前に、とにかく踏み出した。一歩一歩が意志の勝利だった。空回りをしているかのように一向に縮まらない距離を、それでも届いてみせると懸命に駆ける。ヘドロのように粘性をもった闇に足がもつれて何度も地面に顔を擦りつけそうになるが、シャナの姿から視線を外すことは一度もなかった。外せばもう二度と見つけられないと理解していたから。
音もなく燃え尽きてゆく世界の中、激しくなってゆく呼吸音だけを空間に響かせて崩れ落ちる地面を走り抜ける。
「シャナ―――!!」
小さな背中に叩きつけるように叫ぶ。手を伸ばし、膨大な暗黒の掌に塗り潰されてゆくシャナに全力で手を伸ばす。
しかして、その手に掴んだのは、

「まだ、駄目だ」

ズルリ、と眼前の闇から突き出てきた手が、僕の腕を掴み返した。
突然の不意打ちに自分の目を疑う間もなく、その手の異常さに総身が激しく粟立つ。超質量の暗黒物質が凝縮したような、光すら飲み込む底知れぬ闇の手。触れた箇所から感じるその絶望的な冷たさに、内心で激していた怒りや焦りは一瞬で吹き散らされた。いや、「冷たい」などという生半可な言葉では圧倒的に足りない。全身の活力を残らず圧搾してしまうような、満ち足りることを知らない虚無のカタマリが手の形をして僕の腕に張り付いている。閉じた口腔内に声にならない呻き声を響かせ、得体のしれないソレから逃れようと半狂乱になって腕を振る。だが、黒い手は吸い付いて一体化したかのように離れる気配がない。
「今のお前では、届かない」
なおももがき続ける僕に辟易したかのように、虚ろな声音(こわね)と共にやおら黒い腕の持ち主が姿を表す。暗黒の水面に静かな波紋を立てながら眼前に現れたソレは、底のない奈落のように黒い――――
「なんで、“僕”が…」
僕(坂井悠二)自身だった。
驚愕に目を見開く僕を睥睨しながら、“真っ黒な坂井悠二”の瞳が嘲笑うかのように愉悦に歪む。漆黒に塗り込められた顔面に鼻梁などの凹凸は一切なかった。闇を切り取ったように黒に映える銀色の角膜には一筋の血管すら認められない。作り物じみた無機質な眼球に、爬虫類を惹起させる瞳孔がぐりぐりと蠢いている。およそ同じ顔とは思えない異常さと不気味さに怖気を覚えるより先に、墨汁で描かれたような輪郭を揺らめかせて黒い坂井悠二がぐいと掴んだ腕を引き寄せた。反射的に両足に力を込めるが、たたらを踏んだだけに終わった。こちらの必死の抵抗など意にも介さず一方的に懐まで引き寄せられたことに当惑する。
身体の大きさも膂力も変わらないはずなのに、なぜ…!?
引き剥がそうと身を捩るが、努力は一向に実らない。どんなに力を振り絞って暴れても僅かな身動きしか許されず、ついには身体を逸らされて腕の中に抱え込まれる格好にされてしまう。再び愕然とする僕を見下ろす黒い双眼がさらに笑みに歪む。鼻先が触れるほどの距離で、縦に走る亀裂のような瞳孔がこちらの瞳を射貫いてくる。
「“そんな身体”では、シャナの元には永遠に辿りつけない」
鼓膜を通り抜けて脳髄に直接噴きかけるような声は何の感情も温度も帯びてはいなかった。すぐ耳元で発せられたはずなのに広い空洞を渡ったような反響を伴う声が説明しようのない違和感を増幅し、三半規管を乱して吐き気を催させる。精神を乱暴に掻き回される中、唯一“そんな身体”という科白だけが疑問となって脳裏にこびり付いた。比するも何も同じ身体を持っているのに、なぜそんなことを言うのか。黒い坂井悠二から濃密に発せられる異様な空気に押しひしげられながらも抗弁しようと必死に頭を回転させる。
「なにを言って―― ……え?」
走り始めた思考が、ようやく一つの疑念を掬い上げる。そうだ、なぜ今まで気がつかなかったのか。
感情のほんの小さな機微すら逃さず見抜く鋭い双眸が意のままの展開に冷笑を浮かべるのを見ながら、心中で呆然と呟く。
(なんで“見下ろされてるんだ”?)
同じ坂井悠二のはずなのに、どうして僕の方が一方的に見下ろされているのか。なぜ、膂力でいとも簡単に負けて組み伏せられようとしているのか。
全ての答えは、黒い坂井悠二の二つの奈落に映っていた。

どこまでも遠く深い闇を孕んだ瞳に映る僕の姿は――――シャナとそっくりの少女だった。
「ぁ、あ、あああああああ……!!」
刹那、記憶の皮膜が乱暴に剥がされ、記憶の奔流が破壊的な勢いを持って海馬に叩きつけられた。
ボクは敗北した。シュドナイに殺され、消滅し、シャナを残してこの世を去った。そして完全に消え去る寸前で紅世の王テイレシアスと契約し、フレイムヘイズとなり、シャナを模した身体を手にした。それから御崎市を襲っていた紅世の王キュレネーと戦闘になり、一度死にかけ、マージョリーさんに助けられ、白銀の討ち手として開眼し、そして……。
忘却のダムに堰き止められていた膨大な情報が脳裏に次々と浮かび、像を結んではあっという間に過ぎ去ってゆく。それらに頭皮ごと髪を引っ張られて後方に吸い込まれるような錯覚と目眩を覚えながら、ボクは吹き荒ぶ記憶の嵐の中に一人の少女の姿を幻視した。
焼け果てた地面に伏せ、長髪を振り乱して泣き叫ぶ一人の討ち手。虚空に向かっていなくなったボクの名を叫び続ける、炎髪灼眼の少女。この悪夢のような世界で、唯一輝きを放つ希望。如何なるものを犠牲にしてでも辿り着かねばならない終着点。
「シャ―――」
「シャナの元へ戻りたければ、“アレ”を手に入れなければならない」
無意識に伸ばしかけた手を記憶の渦ごと跳ね飛ばし、眼をカッと見開いた黒い坂井悠二がこちらの瞳を強く深く覗き込む。絶対的な啓示を与える“神”の声が魂を揺さぶるのを知覚し、ボクはゴクリと息を飲んだ。身のうちに生じた声が熱を持って呟く。「こいつは帰る方法を知っている」と。
「…“アレ”とは、なんだ?」
シャナの元に戻れる、という魅力的な言葉のせいだけではない。心の一部が、圧倒的な存在感を放ち、確信以上の響きを持って自分を導こうとするこの黒い坂井悠二を信用しかけていた。今のボクには、なぜだかこのおぞましい闇の獣が“願いを叶える神”にすら見えてきていた。
訝しげな、だが小さくない期待を孕んだボクの問いに、こちらを直視する蛇のような双眸がぬらと満足気に光を放つ。その眼に宿るのは怨念の光だけではない。容赦のない強力無比な意思の波動が漲り、見る者に畏敬と畏怖の念を抱かせる暗黒の炎が奥底で爛々と燃えていた。
目論見が上手くいったと言わんばかりの亀裂のような笑みが顔面を横一線に引き裂き、闇を凝集した暗い口腔が目の前でゆっくりと開いてゆく。
「お前がよく知っているものだ。常にお前と共にあった唯一無二の宝だ。お前を戦いに巻き込んだ根源だ」
「なっ…!?」
言いながら、掴んだボクの腕を自身の胸に押し当てる。タールに似た粘度の高い液体に挿し込むように、一瞬わずかな抵抗を感じさせて腕は黒い坂井悠二に吸い込まれた。溶け朽ちた肉をズブズブとかき分けて進むような不快な感触が肌を滑り、生理的な嫌悪感と拒絶感に身体が身も世もなく震え出す。歯の根が合わぬほどの震えは、しかし、指先が“それ”に触れた瞬間にピタリと止まった。
詳細な形状など覚えていない。触れたくらいでは判断できるはずもない。だが、“わかる”。長い間ボクの中にあったからこそ、身体が覚えているのだ。これこそ、ボクをシャナと引き合わせ、幾多の戦いの原因となり、ボクを死に誘った“宝具”なのだから。
「零時、迷子」
そう呟いた瞬間、眼前の黒い坂井悠二の気配が“膨張”した。その身体がぐぐっと膨れ上がるやまるで蛇が脱皮をするように表皮が裂け、隙間という隙間から凄まじい存在感が迸る。風船のように醜く膨れ歪んだ鬼面に禍々しい笑みが浮かんだのを最後に、“それ”は坂井悠二の姿をあっさりと脱ぎ捨てた。耳障りのする音を立てて千々に散逸する皮の内側に鱗のようなものが垣間見えたが、一瞬だった。目の前で爆裂したそれはあっという間に元の身長を通り過ぎ、とぐろを巻く度になおその大きさを倍加させる。気がつけば、それは数瞬のうちに見上げるほどの―――顕現したアラストールに匹敵するほどの―――巨大な黒蛇の姿となっていた。
「ぅ、ぁ…」
まさしく蛇に睨まれた蛙のように戦慄し絶句するボクを遥か高みから睨み据え、途方も無い巨躯を持った蛇が吠える。
「然り、然り、然り!!零時迷子を手に入れなければ、お前は元の世界に戻れない!!シャナに再び会いまみえることはできない!!」
鎧のように全身を隙なく覆う無数の鱗をカチ鳴らせ、闇よりさらに濃い漆黒を纏った大蛇がぐんと首を曲げて顔を近づける。
逃げ場のない恐怖に抗う間もなく伸し掛られ、全身に絡みつかれて、ようやくボクは悟った。こいつは正真正銘の魔物だ。天を裂き、地を飲み込む、凶悪な邪神なのだ。
「行け、往け、逝け、白銀の討ち手よ!存在してはならぬ忌み子よ!!今一度、零時迷子をその手に掴むのだ―――!!」
視界を埋め尽くす醜面がさらに近づく。喰われる、と直感した身体が凍りつき、ついに正気が失われる。膨れ上がる恐怖が声になってボクの喉を震わせ――――



「うわああああああッッッ! ぃたッ!?」
恐ろしい悪夢に魘されて飛び起き、ちょうど頭上にあった分厚い本に思い切り頭をぶつけた。あまりに頑丈な装丁のせいでぶつけた額が割れるように痛い。思わず額を抑えて転げまわり、そのままガクンと床に落下する。床より一段高いところに寝せられていたらしいと直感で悟るが、床は思いの外近かった。派手に背中を打ち付けた拍子に、ふぎゃ!という潰された猫のような情けない声が肺から吹き漏れた。衝撃に次ぐ衝撃によって目眩と涙でグニャグニャと歪む視界に、焦点が定まらなくても美人だとわかる金髪の女性がひょいと映り込む。
「なーにやってんのよ、ちびじゃりモドキ」
「ひーっひゃひゃひゃ!嬢ちゃん、なかなか石頭だな!」
聴きなれた呆れ声が降ってくる。痛む箇所を摩りながら何とか焦点を結ぶと、片眉をあげてこちらを見下ろすマージョリーさんの呆れ顔がくっきりと視野に浮かんだ。ゆるゆると動き出した頭が状況を飲み込もうと軋みながら回転を始める。
「マージョリー…さん?」
「この絶世の美女が、いったい他の誰に見えるわけ?ったく、ひどく魘されてたと思ったら今度は身体を張ったギャグをかましてくれるんだから…。ほら、いつまでも床に寝てるんじゃないわよ」
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、優しく抱き上げられて元々寝かせられていたソファに座らされる。まるで羽毛の山のようにふわりと全身を包み込む上質の座り心地に、硬直していた筋肉がゆったりとほぐされる。極限まで鞣された革の手触りが、このソファが最上級のものであることを教えてくれる。
「ほら、使いなさい」
マージョリーさんがボクの隣にどっかと腰を下ろし、タオルを放る。受け取って、ようやく全身が澎湃と汗で濡れていることに気づいた。下着はおろか、靴下すらグショグショに濡れて肌に張り付いている。おそらく先程まで見ていた夢のせいだろう。よほど恐ろしい夢を見たのだろうが、なぜかその内容を思い出すことはできなかった。さっき頭をぶつけたせいかもしれない。
洗いたてらしいふかふかのタオルで汗を拭うと、久しぶりに匂う洗剤の清潔な匂いが鼻腔をくすぐり、悪夢の余韻が徐々に鳴りを潜め始める。濡れて顔に張り付いた黒髪の房を払いのけて茫洋とした眼差しで見渡すと、そこは見慣れた友だちの家だった。まるで老舗のバーのような、決して広くはないけれど厳かで落ち着ける空間。かつてマージョリーさんの宿となっていた、離れの一室だ。
「佐藤の家…?」
「せーかい。って、どうしてあんたがケーサクの家まで知ってんのよ」
ぎくり、と思わず肩を震わせてしまう。しまった。見知った友人の家を目にしたことで、思わず口を滑らせてしまった。あはは、と苦笑して誤魔化そうとするが胸の内まで刺すような追求の眼差しは消えない。
「え、えーっと、さっきは頭ぶつけちゃってごめんね、マルコシアス」
「いいってことよ。もっとひでーこと毎日やられてるからな。それよりも、早く正体明かしちまった方が身のためだと思うぜぇ?」
「う…」
テイレシアスは相変わらず黙りこくったままだ。信頼して見守っているのか、積極的に手助けはしない主義なのか、こういう時のテイレシアスはちっとも役に立たない。
ボクは目を伏せてしばし逡巡する。マージョリーさんに事の成り行きを話して、果たして信じてもらえるのか。そもそも、話すことで未来を変えてしまわないのか、と。前者は未知数だ。ボクの身の上に起こったことは現実離れをしている紅世の者たちの戦いをして、さらに逸脱したものだ。後者に至っては、『螺勢』キュレネーの出現でもはや取り返しの付かないほどに変わってきていることは明白であった。蝶々の羽ばたきがやがて地球の裏側でハリケーンを引き起こすというバタフライ効果―――通常なら無視できると思われるような極めて小さな差が、やがては無視できない大きな差となる現象―――が発生したのかは定かではないが、少なくともボクが知っている時間軸とは別の支流に進みつつある。ボクが悩んでいる間も、マージョリーさんは相変わらずボクが応えるのをじっと待っている。……つま先がガツガツと引っ切り無しに床を叩いているが。
しばらく悩んだ後、僕はマージョリーさんに全てを話すことにした。こんな荒唐無稽な話を信じてくれる人は他にいないだろうし、数百年も戦いの世界に身をおき、さらに誰よりも自在法に詳しいマージョリーさんなら、もしかしたら僕たちが過去に来てしまった原因がわかるかもしれない。都合のいい期待だろうが、何もしないよりはマシだった。それに、イラついてハイヒールの踵が床に食い込んでいる様を見れば、何も話さないままでは解放する気がないのは火を見るより明らかだった。
「わかりました。全てを話します」
「ったく、待たせすぎよ!ほら、ちゃっちゃと話しなさい!」
「あと1秒遅かったら我が美しき女豹の餌食になってただろうぜぇ!さあ、早く話しな!」
がーっとまくし立てられる。ボクはまた苦笑する。どんな話でも、マージョリーさんとマルコシアスなら笑って受け止めてくれそうな気がした。ボクは一度軽く息を吐くと、嘘を言っていないとわかってもらうために無理やり笑顔を作って、静かに話し始めた。

「ボクは、坂井悠二なんです」


ボクとシャナが仮装舞踏会の軍勢と戦い、負けたこと。

ボクが『千変』シュドナイに殺され、零時迷子を奪われ、消えてしまったこと。

消えかけのボクを『贋作師』テイレシアスが助けてくれたこと。

目が覚めたら過去の世界に来てしまっていたこと。

この世界にはこの世界の坂井悠二がいるから、自分はこの街を去ろうと考えていたこと。

マージョリーさんは最初は信じてくれなかったらしく厳しい目つきで睨んできたが、だんだんと穏やかな顔になり、黙って聴いてくれた。呆れてもはや聞き流しているだけなのかもしれないと思ったが、最後まで話すことにした。
しかし、話が終わってもマージョリーさんは口を開こうとはしない。
やはり、信じてもらえるというのはボクの甘い幻想だった。ボクだっていきなりこんな話を聞かされても信じられない。当然だ。
「……やっぱり、信じてはもらえませんよね。すいませんでした、変な話を聞かせちゃって」
うな垂れて呟く。失意はあったが、誰かに話しておきたいという気持ちはあったから後悔はしていない。ボクはまだ痛む体に鞭を打ってゆっくりとソファから立ち上がると、懐かしい部屋を後にしようと扉へ歩く。

「どこ行くのよ、ユージ」

背後からかけられる、懐かしい声。もう二度と聴けないと思っていた、ボクの名前を呼ぶ声。振り返れば、マージョリーさんの微笑があった。胸が締め付けられ、熱くなる。
「信じて、くれるんですか?」
声が震えてしまう。男なんだから堂々としていなくちゃダメだと自分に言い聞かせるが、込み上げてくる感情は抑えられない。
マージョリーさんがやれやれと苦笑してボクに近づき頬をそっと撫でる。心からの、優しい手つきだった。
「これでも何百年も生きてきたんだから、人を見る眼には自信があるの。―――だから、嘘をついている人間がこんな涙を見せるはずがないってことも、わかんのよ」
マージョリーさんの言葉でようやく、ボクがいつのまにか涙を流していたことに気づいた。全身の熱が鼻の奥に集まり、ツンとするものが視界をじわりと滲ませた。悲しくもないのに、なんで…。
恥ずかしくなって手の平で拭うが、涙は止まってくれない。胸の内から沸き起こるこの気持ちと同じように、次々と溢れてくる。手の平では抑えられなくて袖で拭うが、それでも涙は止まらない。
「ユージ。今くらいは、泣くのを我慢しなくてもいいのよ」
頭を優しく撫でられる。もう限界だった。
マージョリーさんに抱きついて子供のように泣いた。溜まった澱が溶け流れていくのを感じる。情けなくて恥ずかしかったけど、嗚咽は止まってくれなかった。僕が泣き止むまで、マージョリーさんはずっと抱き締めてくれていた。


「…す、すいません。恥ずかしいところをお見せしちゃって」
泣きすぎて赤く腫れた目を隠すように俯いて頬をかく。
「こっちはちびじゃりがわんわん泣いてる姿を見れて新鮮だったけどねぇ」
そんな僕の髪の毛をマージョリーさんはワシワシと掻き乱して笑った。本当に気持ちのいい人だ。
「ううっ、泣けるじゃねぇか!ちくしょう!」
マルコシアスが分厚い表紙を震わせて咽び泣く。アラストールに戦闘狂と誹議される彼だが、実は涙脆いところもあるのだ。
はたと、自分の胸元からも微かな啜り上げる音が聞こえた。
「テイレシアス、もしかして泣いてる?」
テイレシアスは無言だったが、小刻みに鼻から息を吸い込む小さな音が返ってきた。その珍しい一面を見てマージョリーさんと顔を見合わせて笑う。
「しっかし、あんたも凄い力を身につけたもんだね。シュドナイの神鉄如意まで作るんだから、さすがの私も驚いたわ」
ばしばしと肩を叩かれる。褒められているような気がして、なんだか背筋がくすぐったくなる。照れ笑いを浮かべて、

―――そうだ、シュドナイ!!

「ま、マージョリーさん!シャナが危ない!キュレネーは時間稼ぎで、本当は零時迷子が目的だったんです!シュドナイが…!!」
くそっ、今までどうして忘れていたんだ!?自分の不甲斐なさに腹が立つ!
今すぐ駆けつけたいけど、もう僕に力は残されていない。おそらくマージョリーさんも同じだろう。いったいどうすれば…!?
しかし、マージョリーさんは目を丸くして不思議そうにマルコシアスと目を合わせる。マルコシアスのどこが目なのかはわからないが。
「『螺勢』が、シュドナイが来るって言ったの?」
「え?い、いえ…」
そういえば、キュレネーは零時迷子を狙っていると言ったがシュドナイが来るとは言っていなかった。
「『螺勢』は自由を信条とする紅世の王よ。誰かと組むことは少なからずあったけど、組織とつるむことはないわ。大方、零時迷子を狙う他の奴と組んだんでしょ。『螺勢』がちびじゃりを足止めして、その間に他の奴が、えっと、“この時間のユージ”を襲うって寸法だったんでしょうね」
マージョリーさんも、ボクが二人いることに多少混乱しているらしい。それは仕方ない。自身、自分が二人いることにはまだ混乱している。
シュドナイが出てこないことがわかって少し安心する。でも、シャナたちが襲われることに変わりはない。そんな不安を隠そうとしないボクにマージョリーさんは相好を崩して、
「ちびじゃりの分、あんたが戦った。足止めされているはずのちびじゃりっていう計算外の戦力がいれば、零時迷子は奪えない。それに…」
一度言葉を区切ったマージョリーさんが静かに眼を閉じて意識をここではないどこかへ飛ばす。キィン、と普通の人間には捉えられない波長の音が鼓膜を小さく揺らめかせた。自在法……この感じは一種のレーダーのようなものだろうか。ただし、並大抵の自在師では到底真似できないような超広範囲かつ超精密な索敵自在法であるということは今まで蓄えた経験から理解できた。
おそらく御崎市全域を探ったであろう大規模な自在法は、ものの1秒で完了した。次の瞬間すっと開けられたマージョリーさんの瞳は安堵の色に満ちていた。
「ちびじゃりも、この時間のユージも、無事だったわ。襲ってきた敵はついさっき倒された。あんたがちびじゃりたちを救ったのよ」
「……ボクが、救った?」
呆然と発した言葉にマージョリーさんが頷く。今までずっと誰かに守られてばっかりだったボクが、シャナたちを救った。マージョリーさんはそう言ってくれた。


 ―――ああ、そうか。ようやくボクは、誰かを救えるほどに強くなれたのか―――


シャナとそっくりの小さな体を抱き締めて、もう一度静かに涙した。



[19733] 2-2 察知
Name: 主◆548ec9f3 ID:8fbdaf6e
Date: 2011/05/16 01:57
話は数分前に遡る。

稀代の自在師マージョリーの索敵による分析は悉く的中していた。
『螺勢』キュレネーは仮装舞踏会に所属しておらず、先の戦闘は仮装舞踏会とは何の関係もないものだった。紅世に数多ある宝具の中でも秘宝中の秘宝、持ち主の存在の力を回復し続ける超常の永久機関『零時迷子』を求める者は仮装舞踏会だけに限らない。“彼”もまた、零時迷子を狙う紅世の王の一人だった。

「―――なぜ、こうなった?」
一見すれば、線の細い中東風の美青年―――紅世の王が一人、『風雲(ふううん)』ヘリベが呆然と呟いた。彼がその虚ろな眼を向ける遠く先では、次々と火達磨と成り果て落ちてゆく配下の燐子たちの雨が降り注いでいた。
作戦はごく単純で、だからこそ完璧なはずだった。強力な助っ人として雇った『螺勢』キュレネーが炎髪灼眼の討ち手を誘き寄せ、時間を稼ぐ。その間に一人になった零時迷子を宿すミステスを自分の燐子たちが襲撃し、混乱に乗じて零時迷子を奪う。遠距離からの圧倒的な物量攻撃を得意とするキュレネーならば、自在法を苦手とし近接戦を得意とする炎髪灼眼の討ち手相手に十分な時間稼ぎができる。
それを見越してからか、監視を続けたこの数日間、炎髪灼眼の討ち手はほとんどミステスの傍から離れなかった。だからこそ、キュレネーからの「作戦通り、炎髪灼眼の討ち手を封絶内に誘い込んだ」という報せが入った時は激しく心が躍った。そのすぐ後にあの弔詞の詠み手までも倒せそうだと聴いた時など、あの唾棄すべき少女虐待趣味の変態女を抱擁してキスしてやりたいとさえ思った。その時、天はまさにこのヘリベを味方したのだ。
零時迷子を手に入れるべきはこの自分であり、断じて仮装舞踏会のような得体の知れない薄汚い連中ではあってはならない。零時迷子はこのヘリベのためだけに存在する。永遠の命と力を持って、紅世も人の世も余さず手中に収めてみせる。
この世に生を受けた瞬間から征服欲の塊であったヘリベは、ただそれだけを胸にいざ零時迷子を宿すミステスへと自慢の軍勢を侍らせて襲い掛かったのだ。

だが……結果はどうだ?ここより遥かに離れた場所でキュレネーが足止めをしているはずの炎髪灼眼の討ち手は、キュレネーとの戦闘による疲労も負傷もまったく見えず、まるで無傷の状態で自分の前に立ちはだかった。
無論、そこまで頭が回っていなかったヘリベではない。万が一、キュレネーが下手を打って瞬殺されたり、他のフレイムヘイズが加勢に来ても目的が達成できるように今までに集めたありったけの存在の力を注ぎこみ、優に二百を超える燐子の大群を作っておいたのだ。燐子一体一体にも、『狩人』フリアグネには及ばずともかなりの強化が施されている。並のフレイムヘイズなら一溜まりもないだろう。さらに、彼はその真名が示すとおり風のように俊敏に動き雲のように瞬時に姿を消す能力に長けていた。戦いを有利に進めるのは力ではなくスピードであると確信する彼にとってこの力はまさに天からの授かり物だ。燐子たちにフレイムヘイズの相手をさせ、巧みにミステスから離し、その隙に自慢の俊足でミステスを掻っ攫うなりその場で殺して宝具を奪ってしまえばいい。誰よりも戦術に長けているとも自負していた彼は、つい先程まで自信に充溢していた。

「シャナ、左翼に全力攻撃!」

ミステスが指示を出し、それに背中で応えた炎髪灼眼の討ち手が空中で大太刀をぶんと振り回して巨大な炎刃を一閃する。伏兵だった虎の子の燐子たちが、行動を起こす前に潜んでいた街の一角ごと焼き払われる。断罪の爆炎は断末魔の叫びすらこの世に残すことを許さず、彼らを原子の塵までも殺しきった。30体の燐子を焼殺して余りある熱波と衝撃波の爪が、そのまま伏兵の後方のビルで今か今かと出番を待っていた“本命の伏兵”に襲いかかる。一瞬の出来事に、自分たちは奇襲を仕掛ける側だと盲信していた燐子たちが対処出来るはずもなかった。突然己を包んだ炎と、何が起こったのかわからないとぽかんと口を開ける仲間の表情を文字通り目に焼き付け、そして完全に消滅した。この瞬間、ヘリべが有する精鋭の燐子は全て失われた。
(そんな、馬鹿な)
フレイムヘイズがミステスの指示に従っていることがすでにヘリベの理解の範疇を超えていたが、それより彼を驚愕させたのはミステスの恐るべき戦術能力であった。ヘリベが気の遠くなるような時間をかけ頭を捻って導き出した必勝の陣形を悉く看破し、逆にこちらの手駒を次々と奪っていく。伏兵を用意すればすぐさま暴かれ、囮を使えば容易に見抜かれた。気がつけば、燐子の数は当初の10分の1になり、彼にはもはや打つ手は残されていなかった。まるでチェスで赤子に手玉にとられたような当惑と焦燥、何よりも屈辱に心を支配され、親指の爪をヒステリックにがりがりと噛み千切る。
(あのミステスはいったい…!?)
「ヘリべ様!」
思考の接ぎ穂をなぎ倒し、キュレネーの動向を監視させていた想像上の獣を模した燐子が血相を変えて傍らに降り立った。その青ざめた顔にぞっとする予感が背筋を走り、肌を泡立たせる。
「キュ、キュレネーが敗れました!」
「なんだとぉッ!?」
聞きたくなかった報告の中でも最悪のものを突きつけられ、ついに平静の箍が外れたヘリべが血走った眼を剥いて叫ぶ。役立たずのキュレネーは炎髪灼眼を無傷のまま逃がし、あまつさえ弔詞の詠み手に敗北したのだ(白銀の討ち手の出現を知らないヘリべにはそう思えた)。
(キュレネーめ、どこまで私の期待を裏切れば気が済むのだ!やはり奴など頼ったのが間違いだった。もっと優秀な紅世の王を加勢にすればよかったのだ!)
今となっては悔やむことしかできない。全力の炎髪灼眼を相手にするには今の手駒では分が悪すぎる。正面きっての戦いには自分は不向きだ。その相手がかの炎髪灼眼の討ち手ならなおさらだ。もはや零時迷子を奪うどころか、己の身の安全すら危うくなった。
戦いでは攻め際以上に引き際が肝心だと心得ている彼は、どんなに怒り狂っても理性でそれがわかっていた。
「ヘリベ様、我々はどうすれば…!?」
「うるさい役立たずどもめッ!!いいから貴様らは特攻よろしく炎髪灼眼と戦って死ねばいいんだよ!!」
端正な顔を直視できないほど醜く歪め、怒鳴りつけた燐子の腹を激情に任せて蹴り飛ばす。曲がりなりにも紅世の王の一撃をまともに受けた燐子は獣の悲鳴をあげて絶命した。
(こうなったら燐子どもに時間稼ぎをさせて逃げるしかない。まだ私の居場所までは見抜かれていない。堪えられない屈辱だが、撤退は致し方ない)
燐子たちだけに聞こえる念声で足止めを命じ、未だ炎を荒れ狂わせる炎髪灼眼から目を離して踵を返す。その背中に、苦杯を喫したことによる憤りは見えなかった。燐子を蹴り殺したことで鬱憤を晴らしたヘリベの頭の中では、すでに次の作戦の案が幾つも構築され始めていた。
「次こそは必ず零時迷子を奪ってみせる」
幾つかの案を優先案に絞り込み、彫りの深い顔に不敵な笑みを浮かべたヘリベは逸走せんと背の翼を大きく展開する。

―――翼の感覚が返ってこない。

大気を掴む感覚の代わりに神経を伝わって返ってきたのは、極太の火箸を背中に突き刺されたかのような凄まじい激痛だった。白目を向いて歪んだ視界の両隅に自分の翼だったものが音を立てて落ちる。肉の焼けた臭いが鼻を突く。生物の焼けたソレではなく、紅世に属する者の肉が焼ける臭い。
「ぃいぎっ!?うが、ああぁあああ!?」
何の前触れもなく襲ってきた堪えようのない激痛にもんどり打って地面に倒れる。上下左右とぐるぐると回る視界に、圧倒的な迫力と熱気を放つ大太刀が見えた。刀身を滑るように視線を上げれば、紅蓮に燃える髪と瞳を持つ少女と目が合う。
「炎髪、灼眼」
呆然と呟いたヘリベは、知らぬ間に炎髪灼眼の討ち手が背後に現れたことをようやく悟った。なぜ自分が隠れていた場所がわかったのか、痛みにもだえるヘリベには想像もつかなかったが、炎髪灼眼の背後からミステスの少年が姿を現したことで理解に至った。
「そ、そうか、ミステス貴様が…ッ」
「陣形が次々に変化していたからね。その度に誰かが命令を与えてるって気づいたんだ。パターンを見切れば、命令をしている親玉の位置も絞り込める。最後に燐子たちが何かを逃がそうとするように一斉に襲いかかってきたから、必然的に、燐子たちがもっとも厚い壁を形成したその後ろ……逃がすべき親玉であるアンタの位置がわかったんだ」
自信に満ちて告げたミステスの洞察力にヘリベは唖然とした。極短時間でここまで的確に戦況を読み当てるなど、人間業とは思えない。このミステスは、百幾年の時を生きた紅世の王である自分を一枚も二枚も上回る稀代の戦術家だったのだ。一縷の望みをかけて念声で燐子を呼ぶが反応は一つもない。二百を超える燐子の軍団はたった数分の間に全滅させられたのだ。
「シャナ、長居は無用だ」
遠雷のように低い声―――『天壌の劫火』アラストールの無慈悲な科白に、炎髪灼眼の討ち手が無言で大太刀を上段に振りかざす。痛みというものに慣れていなかったヘリベに、冷静な思考も即座の行動もできるはずがなかった。頼みの綱の燐子は全て灰と化し、切り札だったキュレネーは死んだ。絶望と諦観に囚われ痛みに明滅する視野を炎の太刀が一閃する。
そして、ヘリベの夢は潰えた。


 ‡ ‡ ‡


「なんだったのよ、こいつ」
「ヘリベめ。最期まで身の程を知らん奴だ」
まったくね、とアラストールに相槌を打ったシャナが、たった今敵を袈裟斬りにした大太刀――――贄殿遮那を外套状の夜笠に突き入れる。質量的に絶対に収まりそうにない大太刀を、アラストールの皮膜であり底無しの許容量を持つ夜笠はマジックのように吸込み、すっぽりと収納した。それと同時に燃え盛る業火のような長髪は平常時の黒髪に、輝く紅蓮の瞳も黒真珠のように冴える瞳に戻る。最後に夜笠から買ってきたばかりのメロンパンをひょいと取り出して夜笠を消すと、パチンと指を鳴らして封絶を解く。途端、行き交う人々の活気と夏の熱気がわっと押し寄せる。自分がよく知る日常に戻ってきた安心感に、悠二はふうと安堵の息を漏らした。
「いきなりの襲撃だったね。シャナが駆けつけてくれなかったら今頃危なかったよ。ありがとう、シャナ」
諸用(と言ってもただのメロンパンの調達だが)があったシャナと少しだけ別行動を行っていた悠二は、突然紅世の王と彼に付き従う燐子の大群に襲われたのだった。そこへ元々すぐに合流する予定だったシャナが駆けつけ、ものの数分でこれを撃退したのだ。一応自分も手伝いはしたが、シャナであれば自分がとやかく口出しをせずともあっという間に討滅していたに違いない。結局はシャナのおかげで助かったのだ。
本心からそう思っている悠二がにこやかに礼を言う。シャナに絶大の信頼を寄せているが故の無防備で柔らかな笑顔だ。本人は気づいていないが、その爽やかな笑顔はシャナにとって拳の一撃に匹敵する威力を有している。ボディーブローに匹敵する微笑みをいきなり向けられ、シャナの白い頬が朱色に染まる。
(こ、ここで何か気の利いたことを言わないと、吉田一美に悠二をとられるかも…!)
「あ、え、えと、さっきの勝利は、悠二がいてくれたから、その、こ、こんなに簡単に勝てたわけで、だから、だから…」
「これからも一緒に戦ってね」という肝心の台詞は言葉にならず言外に虚しく霧散した。勇気を振り絞って悠二の功績を褒めてみたが、やっぱり恥ずかしくて声がだんだんと小さくなっていく。言葉尻を濁らせて言いよどむシャナの少女らしい恥ずかしげな仕草は、しかし人類史上稀に見るほど恋愛情事に疎い悠二の目にはただの異常にしか映らなかった。頬を赤らめて俯くシャナの小さな顔を不思議そうに覗き込み、
「シャナ?聴こえないよ、なんて言ったの?もしかしてメロンパンの食べ過ぎでお腹の調子が悪くなった?えーっと、一番近いトイレは……」
それはシャナに対する最大の屈辱と言っても過言ではなかった。大事なことを伝えられない臆病な自分への恥ずかしさ、こちらの気持ちに気づいてくれない鈍すぎる悠二への怒り。爆発するそれらが小さな体躯をブルブルと奮わせる。
「うるさいうるさいうるさい!!悠二のバカァッ!!」
激情に身を任せて悠二の懐に飛び込み胸元を掴むと、足を払うと同時に背負い投げの要領で思いっきりぶん投げる。シャナの身体能力の足元にも及ばない悠二の体は簡単に宙を舞う。
「えええええ!?なんでぇえええええ!?」
周りの好奇の視線も気にせずにぎゃあぎゃあといつも通りのケンカを繰り広げる二人を眺め、アラストールもいつもの如くため息をつく。そのため息にはすっかり保護者然とした貫禄が垣間見えている。
(やれやれ。この娘はもっと素直になれないものか。とは言え坂井悠二が鈍すぎるのも考えもの……いや待て!我はなぜ二人の仲が良くいくことを望んでいるのだ!?)
うぬぬ、とアラストールが自問しかけた時、
「ん?」
微かに、いつか感じたことがあるような紅世の王の気配を察知した。先のヘリベとの戦闘のせいで気づくのに時間がかかり、その間にかなり微弱になってしまっていたが、なぜかアラストールの胸に強く引っ掛かって離れなかった。普段なら気付くことすら出来ないほどの希薄な気配に、この時はひどく心を刺激された。
(この感じは、フレイムヘイズと契約した王か?この街はフレイムヘイズが多い。馴れ合いを好まず多くの敵を討滅することを生き甲斐とするフレイムヘイズなら、この街に用はないだろう。早々に立ち去るやもしれぬ。しかし、この気配は……?)
まるで忘れかけていた記憶が掘り返されていくような言い知れぬ感覚。この気配は、ずっと昔―――そう、まだシャナではなく“彼女”がフレイムヘイズだった頃に会ったことがあるような―――。

「どうしたの、アラストール?」
ハッと意識を急浮上させれば、シャナと悠二が怪訝そうな表情で自分を見つめていた。教えるべきかどうか逡巡してもう一度気配を探ったがすでに空気に溶けてしまった後だった。強力な紅世の王や彼らと契約したフレイムヘイズは、それぞれの炎や性質の違いから、激しい動作を行う際には決まって特有の気配を放つ。経験豊富で力の強い王は、それだけ生じさせる圧迫感(オーラ)も比例する。紅世において神の位置にあるアラストールは敵性のある紅世の者の気配を全て諳んじていたが、今感じたものはどれにも当てはまるものではなかったので焦って二人に報せることではないと判断した。それにフレイムヘイズ側であれば、『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーの際のように利害不一致で争うことにでもならない限り問題はない。
「いや、なんでもない」
杞憂に過ぎないとアラストールは新たなフレイムヘイズのことを頭から切り捨てた。

そのフレイムヘイズが、他でもない『白銀の討ち手』だとも気づかずに――――。



[19733] 2-3 入浴
Name: 主◆548ec9f3 ID:8fbdaf6e
Date: 2011/05/16 23:41
「しゃわー……ですか?」
「そう、シャワー。ほら、こっち来なさい」
唐突にバスタオルを押し付けてきたマージョリーさんが、猫にするようにボクの襟首を掴んでソファから引っ張りあげる。男だった頃よりずっと軽くなった矮躯は簡単に宙に浮いた。そのままされるがままの形でどこかへ誘導されながら、先ほど告げられた「シャワーヲアビナサイ」という台詞を理解しようと頭の中で反芻する。
(しゃわー……ああ、シャワーのことか。確かにボロボロだし、さっぱりした方が精神的にもいいかも――――ってちょっと待った!!今のボクの身体はシャナじゃないか!!)
「いいです!遠慮します!」
気づいてじたばたと抵抗するが、蓄積した疲労で満足に動かないような身体では長身のマージョリーさんに逆えるはずもなかった。力の入らない手足をパタパタとばたつかせながら、ずるずると浴室へ引っ張られていく。傍目から見れば風呂に入るのを嫌がる猫そのものに見えただろう。
「まあ、アンタの気持ちもわからなくもないけどね。中身は男のままなわけだし。でも汚いカッコで私の部屋にいられると迷惑なの」
「その通りだ、我がフレイムヘイズ。俺の贋作した肉体が汚れたままなのは、俺の精神衛生的にもよくない」
「テイレシアスは黙ってて――― うひゃっ!」
ちらりと視線を下げると、チャイナスカートのスリットに覗くスラリとした白い太ももがいきなり目に飛び込んできた。しなやかな筋肉の張りと適度な肉のふくよかさが理想のバランスで共存し、細身ながらむちむちとした絶妙の質感を見せ付けている。未成熟でありながら同時に完成された艶めかしさを放つ脚がボクの緊張を感じ取ってピクリと震える。興奮の熱が腰のあたりからむらと立ち昇り、頬がかっと火照るのを感じる。
(うわわっ。ま、まずい)
理性の危機を感じて慌てて視線を逸らせば、今度はところどころ破れた衣服の隙間から清純な生命力に満ちた純白の肌が垣間見えてしまった。その中に小振りな膨らみが混じるのを見て、思わずゴクリと喉が鳴る。
(見えた!!……って、バカ!自分の身体に興奮してどうするんだ!)
なんとか己を律しようと叱りつけるが、脳裏に焼き付いた映像は勝手に脳内の永久保存フォルダに保存された。
シャナと旅をした数年間、互いに好き合っていることを認めるところまではいったが、肉体的な進展は結局なかった(ヘタレなどと言わないで欲しい。彼女の胸元に常に父親が居座っている状態でどうしろというんだ)。転生した直後に鏡でシャナの身体を見てしまった時でさえ興奮のあまり気絶してしまったのだから、身体に直接触れて洗うなんてしたらどうなるのか……。もしかしたら暴走してしまいかねない。だって、洗うためにはいろいろ触らないといけないし。その、いろいろなトコロを!
「男なら覚悟決めなさい。大丈夫、アンタがその身体でナニしても私は気にしないから。ほら、着いたわよ」
「なななななな、ナニもしませんヨ!?」
「声が上擦ってるわよ」
ああ、ついに着いてしまった。
佐藤の家は御崎市でもかなり裕福な層に入るので、脱衣所からしてスケールがでかい。ボクの部屋がすっぽり入ってしまいそうだ。無駄に広いだけでなく、部屋の各所や、壁に据え付けられた姿見や大きな洗面台にも下品にならない程度の装飾が施されている。その脱衣所の奥にはあからさまに豪華そうな風呂場へと続く大きな檜製の引き戸が見える。
再び喉が鳴る。あそこに入ったら、ボクはいったいどうなってしまうんだ…!?
勘弁して下さいという懇願を載せた涙目の視線をマージョリーさんにぶつけるが、返ってきた返事はタオル、シャンプー、石鹸その他一式が入ったプラスチックの籠だった。
「可愛い顔したってダメなものはダメ。ちびじゃりの身体を汚いまま放っておいてもいいっての?」
「そ、それは……。あ、そうだ!テイレシアス、清めの炎を使えばいいんじゃないか!?」
『清めの炎』とは、フレイムヘイズのための解毒・洗浄用の自在法のことだ(主導権は王が持っている)。以前、シャナはアラストールにこの自在法を使ってもらって衣服と身体の不浄を消していると言っていた。マージョリーさんもひどい二日酔いはマルコシアスに回復してもらっていたはずだ。だったら、同じ紅世の王のテイレシアスにもできるはずだ。
最大級の期待の視線をペンダントに向ける。頼む、テイレシアス。ボクはお前を信じてるぞ!
「はっはっは。俺は贋作に特化した紅世の王だからして、そういうどうでもいい自在法は使えんのだ」
「この役立たず~~!!」
胸をはるようにたまったペンダントをぎりぎりと握り締める。この偏屈な人外を信じたボクがバカだった。
目の前で行われるコントに見切りをつけたマージョリーさんがやれやれと鼻を鳴らしてぱんぱんと手を叩く。
「はい、そこまで。無駄な抵抗しないの。さっさと入んのよ。着替えは用意しといてあげるから」
「ちょ、ちょっと待っ―――

ぴしゃん

って―――」
……行ってしまった……。
ふと壁にはめ込まれた姿見を見る。埃と煤にまみれた布切れ寸前のチャイナドレスと原型をとどめていないブレザーを着たシャナが、複雑そうな顔をこちらに向けていた。たしかに傷は全部癒えたけど、さんざん地面に転がったせいで身体中が土に汚れ、血の痕も肌にこびり付いている。顔にはさっきの涙が隈みたいに残っていてパンダみたいでマヌケだ。このままにしておくのはシャナに悪いし、何より不潔なのはボクも好きじゃない。テイレシアスが清めの炎を使えない以上、これから元の身体に戻るまでの間をこの身体で生活していくのなら入浴は必ず通らなければならない道だ。
(それに、自分の身体を洗うことに負い目に感じる必要なんて、ないじゃないか!)
気合を込めて内心に叫ぶと、心の平穏を保つべく大きく深呼吸をして、着ていた服を破らんばかりに一気に脱ぎ捨てる。そして姿見が視界に入らないようにして浴室へと足を踏み入れる。下を見ないようにして身体を洗えば、なんとかなるさ。
――――そんな風に考えていた時期がボクにもありました。

「……ちくしょー」
目の前にお湯を吐き出すシャワーヘッドがぶら下がっている。その向こう側には、湯気で四隅が曇っている正方形の鏡。佐藤の家にはこんなところにまで鏡があるのか。しかも、よりによって身体が良く見える目の前に!
嫌がらせのようにピカピカに磨きぬかれている鏡を前に自分の思慮の浅はかさに涙していると、
「どうした、洗わんのか?」
地鳴りのように低い声が胸元から聴こえてきた。思わず俯こうとして、つるりとしたビードロのように白く輝く小ぶりの双丘が眼に入って、慌てて顔を上げる。テイレシアスを首にかけたまま入ってきてしまった。もともとこの身体を創ったのはテイレシアスだから見せるのは恥ずかしくないはずなのだが、誰かに見られながらの洗身はやはり恥ずかしいものがある。
「あ、洗うともさ。えいっ!」
バルブを一気に開いて頭から湯を浴びる。腰まで伸びる長髪が水分を吸ってじわじわと重さを増してゆく感覚に戸惑いつつ、シャンプーを大量に手の平にぶちまけて髪の毛にべちゃりとつける。そしてそのまま一気にガシガシと洗い始めた。自分で身体を洗い始めてこの方ずっと続けてきたやり方なのだが、テイレシアスは気に入らなかったようでこらこらと呆れたような声を上げた。
「そんな乱暴にしたら髪の毛が痛むだろうが。髪は女の命と言うだろう。もっと丁寧にやるんだ。せっかく作ってやったんだ。戦いで拵える傷は致し方ないが手入れくらいはきちんとしろ」
(何が女の命だ!早く済ましてしまいたいのに、こっちの気もしらずにこの偏屈な紅世の王は…!)
だけど、その言には一理ある。例え贋作であってもシャナの身体を粗末に扱って見窄らしい姿を晒す真似はボクもしたくない。苦々しげに唇を尖らせながら渋々とテイレシアスの指示に従う。テイレシアスはこと贋作の手入れにかけては非常に凝り性で、それはこの時も十全に発揮された。
「この身体は元がいいから手入れのし甲斐がある。お前も女の端くれになったのなら、それを喜ぶべきだ」
「元がいいのは認めるけど、このまま女の子になる気はさらさらないよ。で、どうすればいいの?」
「まあ、いいさ。まずは頭頂部から始めるんだ。ゆっくりと丁寧にな」
何が面白いのか愉快そうにほくそ笑む(そのように見える)テイレシアスに指示されるまま、指先で優しく揉むように地肌から毛先へと洗髪を始める。根気と時間をかけてじっくりと丹念に撫で洗い、一度お湯で綺麗に洗い落とす。これが終わると次はトリートメントなのだが、背の長髪を肩にかけて指先で梳くようにすり込むのはさすがに抵抗があった。しかも、時々鏡に映り込むシャナの裸身が視界に入るのでさらにやりにくい。目のやり場に困りながらも行程を一段落させ、今度は温めのシャワーで泡を軽く洗い流す。
「ふう、やっと髪が終わったぁ」
「仕上げに蒸しタオルで包むのを忘れるなよ」
「う゛」
言われた通り、一度お湯に浸した後よく絞ったタオルを用意して、まだトリートメントが染みたままの長髪を頭の上でお団子を作るように包み込む。蒸しタオルで包むことで毛髪の内部まで栄養が行き届き、さらに頭皮の血行も増して髪艶が増すらしい。こういう知識を覚えるくらいなら自在法の一つや二つを覚える努力をしたらどうなんだ。
「よし。頭はまだそのままでいい。次は身体だな。どうもお前に任せるのは頼りないから今回は俺が教えてやろう」
「う、うん。頼んだ」
ついにこの時が来た。度を超えた緊張に三度目の唾を呑み込みつつ、タオルに石鹸をこすりつける。
(この身体はボクの身体なわけだからどうしようがボクの自由のはず……変に負い目を感じる必要はない……。洗うためにいろいろ触るのだって不可抗力なんだし、じろじろと見なければ罪悪感だって感じる必要もない。シャナに負い目に感じることもない。大丈夫だ、問題ない。さあ、気合いを入れろ坂井悠二!お前の精神力が試されているぞ!)
熱に浮かされたようにぐるぐると回る思考を無理やり収束させ、とっくに泡だらけになっていたタオルをグシャリと握り締める。
「お願いします!テイレシアス先生!」
「うむ。まずは――――」

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

「そこはデリケートなところだからタオルではなく指で洗え」
「わかった――――ふぁあっ!?」
「言い忘れていたが敏感なところだから気を付けろよ」
「遅いよ!」


「……ッ!……んっ…ぅくっ!……」
「声を押し殺している方が色っぽいぞ」
「やかましい!」

・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・

目を瞑ったまま手探りでシャワーのバルブを探す。指先に感触を見つけてえいやと捻れば、熱いお湯が頭上から滝のように流れ落ちて頭や肩を打ち据え、タオルを外した髪と全身を勢い良く伝い落ちてゆく。
「ああ、ようやく終わった……」
まるで長く激しい戦いに勝利した戦士のように腹腔の奥底から息を吐く。いや、たしかにボクは戦いに勝利したのだ。自分という最大の敵に。
戦いを制した己の強靭な精神力を讃えながら何気なく横目で鏡を見やると、頬と耳たぶを桜色に染めた少女の顔が映った。
戦闘中のアクシデントによって白い肌はほんのりと朱色に染まり、憂いを帯びたように見える瞳はとろんと恍惚に溶けている。そぼ濡れた髪が火照った頬に張り付いていて、やけに扇情的だ。
(これ、本当にボクか……?)
気の強いシャナなら絶対にしない異性を誘うような表情に、自分の顔だというのも忘れて思わず目が釘付けになる。
(な、なんて顔をしてるんだボクは!これじゃ本物の女の子じゃないか!)
ハッと理性を取り戻すと、バシバシと頬を叩いて緩んだ表情を引き締める。
これ以上この空間にいてはいけない!ボクのアイデンティティがピンチだ!危険が危ない!
いそいで全身を拭くと早足で脱衣所へと飛び出す。
慌てていたボクに、脱衣所に誰かがいるなんて気づけるはずもなかった。


 ‡ ‡ ‡


「……なあ、なんで俺たちがこんなの買わされなくちゃいけないんだ?」
「さあなぁ。でも、姐さんが買って来いって言ったんだから、きっと必要なものなんだろ」
佐藤家の幅広な廊下を、この家の実質的な主である佐藤啓作とその親友である田中栄太が何ともいえない表情をしながらとぼとぼと脱衣所まで歩いていた。啓作の手には大きな無地の紙袋が、栄太の手には小さなピンクの紙袋が握られている。英太の袋には近所の女性用下着専門店のロゴがでかでかと記されている。
夕刻頃、マージョリーの一の子分を自負する彼らは、例によってマージョリーの手助けをするために、テニスコート二つ分は優に超える庭園で大剣型の宝具『吸血鬼 (ブルートザオガー)』を振り回す特訓中であった。そこへ、いつのまに帰ってきていたのかマージョリーが現れ、労いの言葉でもかけてくれるのかと思いきやとんでもないことをのたまったのだ。

「あんたら、ちょっと女の子用の下着を買ってきてくれない?」

何の冗談かと思ったが、あいにくとそうではなかった。尊敬するマージョリーの頼みを無碍にできるはずもなく、陽が傾いて世界を赤く染める中を二人は泣く泣く閉店間近の下着専門店へと走ったのである。
栄太だけだったならば「女の子用の下着をください」と口にした途端に追い出されていたかもしれないが、口達者な啓作が共にいたため、変質者を見る視線を向けられながらもなんとか買うことができた。啓作はしきりにこの下着は妹のものであって決して悪用はしないと女性店員に弁解していたが、店員の貼り付いたような苦笑いは最後まで消えることはなく、彼らの記憶には重大なトラウマが刻み込まれることとなった。
「俺、しばらく近所を出歩けないぜ」
「ああ、俺もだ」
言って、二人して身体が萎みそうなほど深く息を吐く。夕日が差し込む廊下をぐったりとした表情で歩く彼らの背中は、本当に萎んだかのようにとても小さく哀れに見えた。

「あれ、誰か入ってる」
脱衣所に入ると、浴室の中からシャワーを浴びる水音が聴こえてきた。マージョリーかとも思ったが、彼女はさきほど風呂場に紙袋と下着を持って行けと指示したら離れでそのまま何か考え事を始めた。ああなった彼女はしばらくは動かないから、今シャワーを浴びているのは間違いなく別の人間だ。
床を見ると、派手に損傷したブレザーやチャイナドレス、そして女用の下着が乱暴に脱ぎ捨てられて散乱している。ボロボロになっているがブレザーは御崎高校の男子生徒用のものだ。しかし、他の衣類は女用のものだ。
放り捨てられた下着から気まずそうに視線を逸らし、二人は顔を見合わせる。
思えば、この下着のサイズの指定もおかしなものだった。マージョリーは「中学生用でいいわよ」と言っていた。そのサイズの下着を身につけ、かつ彼らと面識のある人物といったら一人しか思いつかない。
「……シャナちゃん?」
「まっさかぁ。なんでシャナちゃんがうちでシャワー浴びるんだよ」
啓作の即座の否定に、思い付きを言ってみた栄太も「そうだよな」と首を傾げる。シャナとマージョリーの関係が良い方ではないことは二人もよく知っていた。
「まあ、後で姐さんに聞けばわかるし、今は戻ろうぜ」
「そうだな。今日は心身ともに疲れたし」
疑問は募るばかりだったが、とりあえずトラウマを負った心を癒したかった二人は渡された紙袋と下着をその場に置いていそいそと退散することにした。

がちゃ。

背後で浴室の扉が開かれる音。一日中、戦うための特訓を繰り返していた二人はつい条件反射的に振り返って身構えてしまい、
「――――あ」
こちらを見て呆然とするシャナの一糸まとわぬ裸身を前に、死を覚悟した。


 ‡ ‡ ‡


「――――あ」
飛び出した脱衣所には、佐藤と田中がいた。こうやって顔を見るのは何年ぶりだろうか。ボクが御崎市を旅立つ際、二人が盛大に悲しみ、涙ながらにエールを送ってくれたことを思い出す。その応援に、旅で疲れたボクの心は何度も救われたのだ。懐かしさがこみ上げてきて目尻が熱くなる。久しぶりに会う友人たちに思わず声をかけようとして、はたと二人が顔面蒼白になって戦慄の表情に固まっていることに気づいた。
なぜと思考を巡らせ、それがシャナの姿をしたボクの裸を見てしまったからだという答えに行き着く。
たしかに、シャナの着替えを見てしまったボクは半殺しにされたことが何度もある(誓って言うが故意に覗いたわけではない)。怒りに燃えたシャナに贄殿遮那を鼻先に突きつけられたことなど数知れない。二人が恐怖に怯えるのは当然だ。もちろんボクはそんなことはしないが。
無言のシャナ(ボク)がよほど恐ろしいのか、二人は彫像のように凍りついて動かない。このまま寿命を削り続けるのは気の毒なので、なるべく恐怖を与えないようにゆっくりと後ずさりして浴室へと戻る。
扉を半分ほど閉めて、その隙間から顔を出し、
「あの、できれば少しの間、部屋の外に出てもらえるとありがたいんだけど……」
ボクの頼みに二人は首が外れるのではと思うほど頭を上下に揺らし、ドタドタとどこかへ走り去っていった。友人からシャナがどう思われているのかがよくわかってボクは少し苦笑する。
脱衣所に出てみると、二人が置いていった大小二つの紙袋が目に入った。これがマージョリーさんの言っていた着替えだろう。ありがたい。チャイナドレスはもう修繕のしようがないし、もしできたとしても着たくなかった。代わりの服が手に入るのは大助かりだ。小さい方の紙袋を拾ってみると、それには買ったばかりの女の子用のショーツやキャミソールが入っていた。佐藤の家に女の子用の下着が常備されているわけはなく、基本的にめんどくさがり屋のマージョリーさんが買ってくるはずもない。とすると、
「二人には悪いことをしちゃったな」
きっとマージョリーさんに買って来いと言われたのだろう。男二人で女の子用の下着を買わされる羽目になった二人の心境は想像もつかないが、おそらくは多大な精神的被害を受けたに違いない。
(後でお礼を言っておこう)
ビニール袋を破ってショーツを取り出す。「12~15歳用」と書かれたパッケージには苦笑いをするしかなかった。
片足を入れ、ふくら脛まで持ち上げたところでもう一方の足も入れて引き上げる。服一式を失敬した時に一度経験したはずなのだが、やはり馴れない。穿いてみても、どうも面積が少なくて心細い感じがする。ゴムがきゅっと恥骨を締め付けてくるのに違和感を感じて、姿見の前で何度も位置を整える。
「こうしていると立派な少女にしか見えんな」
「うぐっ!?」
テイレシアスの容赦のない突っ込みが心に突き刺さる。自尊心とか男の矜持とかそういったものをざっくりと抉られた気がした。
ショーツを整えるのをやめ、さっさとキャミソールを頭からかぶる。シルクなのだろうか肌触りはとても気持ちいいが、生地がかなり薄い。一ミリもないんじゃないだろうか。夏とは言え、これでは風邪を引いてしまいそうだ。
「前後ろ逆だぞ」
「……わ、わかってるよ!」
す、少し手間取ったが、無事に下着類は攻略した。これから延々とこれを繰り返すことになるのかと思うと頭が痛くなったが、精神衛生を考えてこれ以上は考えないことにした。後回し後回し!
「さて、次は服か。でもずいぶん大きいなぁ」
無地の紙袋を持ち上げる。服にしてはかなり重みがある。生地が多いのだろうか。ガサガサと中を漁り、袖の部分を見つけるとよいしょと引っ張り上げる。

・・・・

しばしの思考停止後、どこかで見たような服を静かに袋の中に戻して目頭をぐいぐいと揉む。きっと疲れているんだろう。うん、きっとそうだ。そうに違いない。
もう一度、今度はえいやっと一気に引っ張り上げて目の前に掲げる。
「………」
どこかで見たような紺色の給仕服の上に、やっぱりどこかで見たような白いフリフリのエプロン。袋の底には、白いフリフリのヘッドドレスまである。
紛れもなく、『万条の仕手』ヴィルヘルミナさんの普段着のメイド服だった。なんでこの服が、このサイズで、ここにあるんだ。って、マージョリーさん、ボクにこれを着ろというんですか!?
「て、テイレシアスさん、服の贋作を作るなんてことは……?」
「諦めてメイド少女になることだな」
無情な返事に、ボクはがっくりとうな垂れるしかなかった。



[19733] 2-4 昵懇
Name: 主◆548ec9f3 ID:8fbdaf6e
Date: 2011/05/31 00:47
「どうしてこんなことに……」
友人の家の廊下をメイド服を着て歩きながら、釈然としない面持ちで呟く。ボクに非はないはずなのに、一歩進むたびに得も言われぬ罪悪感ばかりがズシズシと背中にのしかかってくる。
(なんで、こんな後ろめたい気持ちにならなけきゃいけないんだ……。でも、ヴィルヘルミナさんの服がこんなに重かったなんて知らなかったな)
歩く度に大事なものを失っていくような喪失感から意識を逸らし、着ている給仕服を見下ろす。見た目はシンプルだが、触れてみれば特殊な素材を複合させて厚く作られていることがわかる。この手触りからして、おそらくアラミド繊維(強化繊維のこと。耐熱・防刃・防弾性能に優れている)を幾重にも編みこんでいるようだ(シャナとの旅の間に、こうした戦いに必要な知識や経験を散々叩き込まれた)。そのため、この服は見た目以上に重みを帯びている。脛まで伸びるロングスカートも足の動きを邪魔してとても歩きにくい。一歩一歩を慎重に踏み出さないと足がもつれて転んでしまいそうだ。唯一の救いは、寸法がシャナの身体に完全にフィットしていることだ。サイズが合っていなければ満足に歩けもしなかっただろう。
(ヴィルヘルミナさんはよくこれで戦いまでこなせるな。それにしても、どうしてここにこの服が?)
偶然、そっくり同じメイド服が佐藤家にあったということはないだろう。佐藤家の維持管理を行っている世話係の人たちはこんな仰々しい服は着ていない。仮にそうだとしても、サイズが小さすぎる。少女メイドを侍らせるような趣味は佐藤にはなかったはずだ(たぶん)。
とすると、やはりヴィルヘルミナさん当人が持ち込んだ物だと考えるほうが自然だ。記憶を掘り返してみれば、ヴィルヘルミナさんがこの地に来た当初の理由は、『探耽求究』ダンタリオンによって破壊された御崎市の事後処理のためだった。時期的には、すでにこの地に彼女が訪れていてもおかしくはない。
(シャナと合流する前に、ここにも寄ったんだろうか?マージョリーさんとは仲が良かったし、ダンタリオンに襲撃された御崎市の事後処理をヴィルヘルミナさんに要請したのもマージョリーさんだったはずだから、そう考えても不思議はない)
では、なんのためにシャナにぴったりの給仕服をここに置いていったのか?もしかしたら、お揃いの服をシャナに着てもらいたくて持ってきたはいいが、恥ずかしくなってマージョリーさんに預けたのかもしれない。特注仕様のシャナ専用メイド服がその証左だ。
(あの『万条の仕手』が、ねえ)
そこまで考えて、彼女の鉄面皮という表現がぴったりの無表情な顔が思い浮かぶ。
とむらいの鐘(トーテム・グラッケ)とフレイムヘイズ兵団による史上最大の戦争―――『大戦(おおいくさ)』において、初代炎髪灼眼の討ち手の背中を護り、兵団を勝利へ導いた勳を誇る古強者。それが『夢幻の冠帯』ティアマトーのフレイムヘイズ、ヴィルヘルミナ・カルメルという女性だ。
口数の少ないティアマトーがそうであるように、彼女は必要と不必要を極めて冷静に取捨選択できる。時にはボク(坂井悠二)という零時迷子を宿したミステスを「今後に支障を来す可能性がある」と容赦もせず簡単に破壊しようとしたこともある。
そんな彼女が、まるで子煩悩の母親のような可愛げのあることをするだろうか?
顔を赤くしてマージョリーさんに給仕服を押し付けるヴィルヘルミナさんの姿を想像しようとして失敗する。
「あはは、まさかね」
「どうした、何の話だ?」
よろよろとして危なっかしいボクの歩調に合わせて振り子のように揺れるテイレシアスが不思議そうな声を上げる。スカートに足を取られそうになるたびに左右に激しく振れるテイレシアスが少し気の毒に思えた。ティアマトーが頭頂部のヘッドドレスの神器にいるのはヴィルヘルミナさんなりの心遣いなのかも知れない。二人とも寡黙だが、互いに信頼しあっているのはよくわかるし。
「ちょっと、ある人のことを思い出して―――」
言いかけて、はたと思う。
共に戦ったことで信頼関係は構築したものの、ボクはこの紅世の王のことを実はほとんど何も知らないのだ(契約してまだ一日も経っていないのだから当たり前と言えばそうだが)。趣味が贋作だということ以外、彼の過去も信条もまだ掴めてはいない。それに、

『俺には大儀も使命もない。己の欲が満たされるのなら、人喰いにもなる。俺がお前と契約したのは、そうすることで俺の欲が満たされると踏んだからだ』

かつて放たれた冷酷な台詞が脳裏に響き、腹底をじわりと冷やす。
探りを入れるというわけではないが、一度テイレシアスの『在り方』を確かめておくべきかもしれない。彼が本当に、目的のためなら人間の存在の力を奪うことも是とする紅世の王なら……ボクはこれから何度もこの王と衝突することになる。これでは、連携どころの話ではない。契約する紅世の王の力を引き出せないフレイムヘイズが敵と渡り合えるかどうかは、すでに己の身で体験済みだ。キュレネーに負わせられたダメージの記憶が蘇り、身体中にズキズキとした疼痛が走る。
(もし、ボクの説得を聞いてくれなかったら……どうすればいいんだ)
忘れていた懸念が風を受けた炭火のように盛り返し、全身をさざ波のようにざわりと震わせる。

「どうした。まだ、疲れが抜けないのか」
「―――えっ」
不意にかけられた訝う声にハッとして顔を上げる。上げて、先ほどから周りの景色が変化していないことに気付く。思考が深まるうちに、その場に縫い付けられたように俯いて歩みを止めてしまっていた。だが、無意識のうちに立ち止まっていたことよりも驚くことがある。
(今の言葉……すごく温かかった)
こちらの状態を心配する、不安げに曇った声音。その根底に、背を優しく摩する掌のような柔らかな体温が宿っているのをはっきりと感じる。遠かった存在がぐぐっと手の届く位置まで近寄ったような印象を胸に感じつつ、緊張を押し隠して口を開く。遠まわしに問うても仕方がない。真っ直ぐに、思いをぶつける。
「テイレシアス、お前は―――人を食べたこと、あるのか?」
その問いだけでボクが抱いている疑念を察したのだろう。「ああ、そのことか」と軽く応えるテイレシアスの口調は、不思議とこちらを気遣うような苦笑を孕んでいた。まるで幼子の無邪気な質問に応える親のような、とてもたおやかな微笑み。人外とは思えない予想外の人間っぽさに胸を打たれ、みぞおちの奥で心臓がとくんと震える。
「心配するな。人間の存在の力を食ったことは、ない」
「――――だ、だったら、『目的のためなら人喰いも厭わない』って言ったのは?」
意外な――――そして望んでいた答えに驚いて、思わずさらに確かめる。胸中に滞留していた不安が霧散し、代わりに安堵感が満ちてゆく。
「あれは、お前を炊きつけるための方便だ。宝具は、人間と紅世の者が共同制作することで初めて誕生する。俺はモノ造りに長けた人間という種族には一目置いているつもりだ。世話になってたガヴィダのオヤジも人喰いにはうるさかったし、俺の高尚な趣味を理解できるのは人間の方が多かった。そもそも、肝心の宝具を創る人間がいなくなっては俺の生甲斐に支障をきたす。……それに、紅世の連中よりも人間といた方が……その、楽しいんだ。だから俺は、人喰いはしない」
一息に言った後、「損な役回りだ」と鼻を鳴らして嘆息する。それがテイレシアスなりの照れ隠しなのだと気付いて、ボクは自然に相好を崩していた。
この王は要するに、偏屈で自由で、どうしようもなく人間が好きなのだ。
「うん、わかった。答えてくれて、ありがとう。テイレシアス」
もう、テイレシアスへの恐れは跡形もなく払拭されていた。人食いを止めるように釘を差したらしい『ガヴィダ』という人物(?)に感謝しながら、ボクはこの必要以上に人間じみた気性をした紅世の王に大きな親しみを感じてクスリと微笑んだ。
胸に下がる美しいペンダントの輪郭を指先でそっとなぞる。
「ボクは、お前のフレイムヘイズになれて、よかったよ」
「……ふん、当たり前のことを言うな」
それきり黙ってしまったペンダントは、夕日を反射して紅潮しているかのように見えた。



ここで終わっておけば、いい話だったのだが。

―――ゾクゾクッ

「ふひひゃっ?」
暖かな夕日の下で互いに昵懇の仲を確信している中、やにわに奇妙な痺れが背筋を走ったのだ。
「今のは悲鳴なのか?」
「う、うるさいな。ていうか、なんか、身体が変なんだけど……」
お尻の辺りから腰部まで何かが急に這い登ったような、ざわざわとしたむず痒さを覚える。下腹の内側が膨張しているかのようにざわざわと疼く。下腹部の筋肉が恥骨を圧迫するようにぎゅうっと強く収縮し、意識してもいないのに太ももの内側がくっついて内股になってしまう。こんな情けない格好はしたくないのに、引き剥がそうとしても内ももの肉がふるふると波打つばかりで離せない。離してしまえば取り返しがつかないことになるぞ、と訴えているかのようだ。
(な、なんなんだこれ?力が抜けていくみたいだ)
足に力が入らない。奇妙な疼きは止まる気配を見せるどころかさらに強くなり、膝が震えてまともに立つことすら危うくなってくる。心臓が早鐘を打つ。全身が上気し、吐く呼気は荒くなり、額には玉のような汗が浮かんでくる。ヘソの裏に爆発寸前の熱溜りが生まれたようだ。
マグマのように膨張するそれを身体全体で抑制するように腰をくの字に折り、下腹を両手でぎゅっと押さえ付ける。
「テ、イレシアス?こ、これは、いった、い……?」
こんな感覚は生まれて初めてだ。まさか、テイレシアスの創ってくれたこの贋作の身体に問題があるのか?
ずくずくと下腹部で暴れ回る熱流に翻弄されるボクに対し、テイレシアスはなぜか合点がいった様子で至って冷静だった。
「たしか、さっき水不浄の前を通り過ぎたな」
「と、トイレのこと?あったけど、なんで?」
テイレシアスが何を言おうとしているのかを理解するのに数秒の時間を有した。そしてその時間は、事態を深刻化させるのには十分な時間だった。さらに増した圧迫感に全身がぶるぶると痙攣する。
「まさか、これって、」
「悪いことは言わん。ここで粗相をしたくなければ、さっさと戻って駆け込め」
顔の筋肉がひくひくと引き攣る。道理で、この感覚の検討がつかないはずだ。ボクはまだ、この身体で“した”ことがないのだから。
もはや重心すら整えられずにフラフラと身体を揺らめかせながら、踵を返して来た道を再び戻る。普段は羨望の眼差しで見ていた佐藤家の無駄に長い廊下が、今は憎らしくて仕方がなかった。体力のほとんどを“堪えること”に費やしながら意志の力を振り絞って一歩を踏み出し、
「ああ、それから、馴れないメイド服に気を付け  「ふぎゃっ!」  ……るべきだったと思うぞ」
裾を踏みつけたせいで、思いっ切りずっこけてしまった。
(い、痛い……。でも、なんとか大丈夫だった)
セーフ。よくやった、ボクの下腹神経。
痛む額を抑えて廊下の奥を見れば、トイレはまだ見えない。
解放までの距離は、果てしなく遠い。



[19733] 2-5 命名
Name: 主◆548ec9f3 ID:8fbdaf6e
Date: 2011/08/09 12:21
「やっと着いた……」
マージョリーさんの待つ離れに辿りついた頃には、すでに精根尽き果てていた。ぐったりと力なく扉にもたれ掛かる。ボクの胸と扉に挟まれたテイレシアスがくぐもった声で呆れる。
「水不浄で長いこと手間取るからだ。もう日が暮れてしまったぞ」
「し、仕方ないじゃないか。初めてだったんだから」
慌てて駆け込んだトイレで、ボクは多くのものを失った。尿意とともに男として大事な色々なものを一緒にトイレに流してしまった気がする。
(シャナ、ごめん)
心の中でシャナに謝っておく。罪悪感に苛まれるようないかがわしいことをしたわけではないのだが、そうしなければいけない気がしたのだ。
疲れた視線を窓の外に向ければ、夕日は半分ほど地平線にその身を隠し、空は深い濃紺に染まりつつある。
長かった一日も、もうすぐ終わる。
この一日で、ボクの状況は天地がひっくり返るほどに変化した。シャナの姿になり、フレイムヘイズとして戦い、『白銀の討ち手』として辛くも勝利した。その後は浴室とトイレで……いや、ここからはやめよう。精神衛生的によくない。
ふるふると頭を振って余計なことを意識の外に飛ばし、離れのドアノブに手をかける。年季の入ったそれを回す直前、悲鳴に似た懇願の声がドアを震わせて手を止めさせた。

『マージョリーさん!どうか穏便に事が済むようにシャナちゃんを説得してください!』
『俺たちまだ死にたくないッス!』

佐藤と田中の声だ。声と内容からして、かなり焦っているだ。
何事かと思い、ドアを開けて足を踏み入れる。途端に、バーカウンターに座るマージョリーさんに必死に嘆願していた二人が、怯えた犬のような悲鳴を上げてマージョリーさんの背後に回りこんだ。
「ごめんシャナちゃん!わざと覗いたんじゃないんだ!!」
「あれは故意じゃない!事故なんだ!」
呆気にとられるボクに、マージョリーさんはくつくつと忍び笑いを浮かべる。どうやら、マージョリーさんはボクがシャナではなく坂井悠二であることを二人に教えていないらしい。ボクもその方が助かる。なるべくなら、ボクが坂井悠二であることは言わないでおきたい。二人はいい奴だから、きっと心からボクの境遇を悲しんでくれるだろう。だからこそ、一生懸命に頑張る二人の心に影を落とすようなことはしたくなかった。
「別に怒ってないよ。気にしないで」
二人に笑顔を向ける。これは本心だった。男同士で裸を見られても大して恥ずかしくないし。シャナの裸を他人に見られるのは少し癪な気もするが、そこは自分の不覚だと割りきろう。
今度は二人が呆気にとられる。目が飛び出すのではないかと思うくらい目を見開いて顔を見合わせる。その様子があまりに滑稽なので、思わずボクもクスクスと忍び笑いをしてしまった。
「お二人さん、その嬢ちゃんは『炎髪灼眼の討ち手』じゃないぜ」
マルコシアスが大笑しながら二人に告げる。目を点にして混乱する二人に、ついに我慢の限界になったマージョリーさんがスラリとした美脚をバタつかせて派手に笑い転げた。
もしかして、ボクのために黙っていたのではなく、二人の反応を見て楽しむためだったのかもしれない……。
とりあえず二人に近づき、下着を買ってきてくれたお礼をしておく。
「ボクのためにいろいろ買ってきてくれて、ありがとう。それと、混乱させちゃってゴメン」
はあどうも、と心ここにあらずといった感じで返事をする二人。ボクの態度と口調から、シャナではないことを理解できてきたみたいだ。まだ少し混乱気味の田中が太い首を傾げていると、佐藤がボクの顔を食い入るように凝視する。切れ長の目が疑問符を浮かべていた。嫌な予感がする。
「じゃあ……君は、誰?」
「え゛」
し、しまった!大事なことを考えてなかった!!
なんと言えばいいのだろう。こんな時こそ自慢の頭脳を働かせて妙案を導き出すのだ、坂井悠二!
………………
…………
……
だめだ思いつかない!
だらだらと汗が流れる。えーと、その、と言い淀みながら何かいいアイデアはないかときょろきょろと視線を彷徨わせると、やれやれと呆れ顔のマージョリーさんと目が合った。
「お願いします助けてくださいお願いします」という哀願をこれでもかと込めた視線を向けると、彼女は「仕方ないわね」と言うように小さく息を吐いて二人に振り返り、

「紹介が遅れたわね。この娘の名前は“サユ”よ。新米のフレイムヘイズ。ほら、挨拶しなさい。サユ」

と一息にまくし立てた。
お膳立てしてやったんだから早くしなさいという視線に背を押され、ボクは田中と佐藤に向かって咄嗟に頭を下げる。
「よ、よろしくお願いします。サユです」
深々と頭を下げたところで、自然に両手が下腹の前で重ねられていることに気付いた。これでは、本当にメイド少女のようじゃないか。
自分がどんどん元の『坂井悠二』から離れていっているような気がして激しく後悔する。
苦い感情を飲み込んで頭を上げると、一応は納得した様子の二人が顔を赤くしてで気まずそうに頬をかいていた。初対面の女の子に情けない姿を見せてしまった、というわかりやすい表情だった。
「えっと、よろしくサユちゃん」
「にしても、シャナちゃんとそっくりだね。姉妹……ってわけじゃないだろうし、何か理由があるの?」
いきなり核心を突いてくるとは、さすが佐藤。親友の池速人ほどではないが、こいつも変に鋭いところがある。こんな時は、すべてが許される切り札を使うしかない。
「し、仕様です!」
ぽかんとする二人。当然の反応だろうが、今のところ都合のいい言い訳はこれしか思いつかない。後でもっとマシなものを考えておこう。

そういえば、なんでマージョリーさんはボクの名前を“サユ”にしたんだろうか。
もしかして、『坂井悠二→さかいゆうじ→さ  ゆ  →サユ』!?
実に単純な命名方式が頭に浮かんで、マージョリーさんをじとっとした視線で見つめる。マージョリーさんが手をプラプラと振り、いいじゃないの考えてあげただけありがたいと思いなさいと視線で応えた。
もう少しひねってくれてもよかったと思う。

こうして、ボクの“サユ”としての日々が始まった。


 ‡ ‡ ‡


 この手にある丸みを帯びたグラスになみなみと注がれた液体を呆然と眺める。透明感のある薄紫色の液体―――『ワイン』からは、鼻孔を圧倒するほどの芳醇な葡萄の香りが漂ってくる。
「あの……これを飲めと?」
ひくひくと頬を引き攣らせる。隣では、マージョリーさんがボクのグラスより一回りは大きなものに注がれたワインをがぶがぶと飲み干している。そのスタイルのいい身体のどこに入っているのかと不思議に思ってしまうほどの飲みっぷりだ。

『宛がないのなら、今日はここに泊まって行きなさい』というマージョリーさんの提案によって、今日は佐藤家に泊まらせてもらうことになったのだが(家主である佐藤も了承してくれた)、夕食の代わりに出てきたのはチーズやピーナッツなどの簡単なおつまみと大量のワインボトルだった。
なんでも、マージョリーさんは毎晩のようにこんな生活を繰り返しているらしく、佐藤と田中も時々付き合わされているんだとか(栄養バランスが心配だ)。部屋の隅に置かれた空のオーク製のワイン樽はすでに飲み干してしまったものの残骸というから末恐ろしい。
肝臓が壊死を超えてついに進化したんじゃないかと思えるくらいかっぱかっぱとワインを胃に流し込み始める三人を横目に、僕はワインに映る自分の引き攣った顔を眺めることしかできなかった。
自慢じゃないが、ボクはアルコールにとことん弱い。チューハイ一缶でひっくり返った苦い経験が頭をよぎり、頬を汗が伝った。
「そうよ、飲むのよ。あんたのせいで今日は散々な目に遭ったんだから、晩酌くらい付き合いなさいよ」
「ひゃーっひゃっひゃっひゃっ!こうなったら覚悟を決めるしかねーぜ、嬢ちゃん!」
すでに酔いが回っているらしいマージョリーさんの据わった目とマルコシアスの追い討ちにたじろぐ。
この身体は、以前のボク(坂井悠二)とはスペックが月とすっぽんのように違うわけだし、ボクの経験は当てはまらないのかもしれないが……そもそも、この華奢な体躯ではアルコールに強い弱い以前の問題だと思う。
それは佐藤と田中もわかるのか、グラスのワインを飲み干した佐藤が笑いながら、
「マージョリーさん、さすがにサユちゃんは飲めないんじゃないですか?未成年だし」
と早々に赤くなった顔でフォローしてくれる。ありがとう佐藤。
「そうそう。カクテル用のオレンジジュースならありますし、無理させて飲ませるとフレイムヘイズでも身体壊しちゃいますよ。未成年なんだから」
上に同じく、ワインを呷りながらフォローしてくれる田中。こちらは大柄な体格のせいかまだ顔色は普通だ。感謝するよ田中。だけど、お前らも未成年だろ!!
しかし、二人の言などマージョリーさんは意に介す様子も見せず首を振る。
「フレイムヘイズなんだから、酒くらい飲めるわよ。ほら、ぐいーっといきなさい、ぐいーっと」
などと無茶苦茶なことを言いながら自分のグラスいっぱいに注いだワインをぐいーっと呷る。見れば、彼女の前に置かれたワインボトルはすでに空と化していた。その呑みっぷりに絶句して、ボクは再びまだ一口もつけていないワイングラスを覗き見る。シャナそっくりの少女が不安そうな顔を浮かべ、薄紫の水面を介してこちらを見つめていた。

シャナそっくりの少女―――『白銀の討ち手』サユとして改めて佐藤と田中に自己紹介をして納得してもらった後、ボクはひたすらマージョリーさんからの質問攻めにあっていた。
二人の手前、ボクがこの姿になったこと、過去に戻ってきたことには触れなかった。代わりに、ボクの討ち手としての能力について多くのことを問い質された。能力の概要、行使の原理・方法、同時に行使した際の最大限界数、贋作された宝具の維持限界時間、などなど。
『白銀の討ち手』に付与される特殊能力―――“一度目にした武具・宝具を自身の存在の力を消費して創る”―――即ち、『贋作』は、長い年月を討ち手として過ごしてきたマージョリーさんの目にも破格の能力に映ったらしい。
度重なる質問に、まだ開眼して間もないボクはしどろもどろになりながらも、先の戦闘で得た経験を思い出しながら拙い言葉で何とか答えた。ボク自身、未だ『贋作』について完全に理解しているわけではなかったのでいい学習になった。スペックを把握出来れば、戦術も自ずと見えてくる。これも、シャナとの旅の間で学んだことの一つだ。

もちろん、契約している紅世の王、『贋作師』テイレシアスについても質された。彼の過去、思想信条、これからの行動方針など。これらの質問にはテイレシアス自身が答えた。
ボクも初めて知ることなのだが、テイレシアスは紅世に誕生してからまだ2000年足らずしか経っていない、比較的“若い”紅世の王なのだそうだ(それでも人間からしてみたら遥かに年長だが)。
さらに、テイレシアス曰く、「周りの連中が生まれた瞬間から生きるために戦いを始める中、自分だけはなぜか贋作にしか興味がなかった」らしく、戦いにも身を投じることはなかったそうだ。そのため、老練の紅世の王にはテイレシアスとの面識どころかその名前を知らない者も珍しくないという。
宝具を贋作するうちに、宝具を生み出す人間という存在に興味を持ち、彼らを殺す人喰いを嫌うようになり、一時は同族殺しも厭わないと決意をしたが、テイレシアスの能力を使いこなせる人間がまったく現れなかったのでほぼ諦めかけていた。そこへ、何の因果かボクという“多くの宝具を見てきた人間”が現れたので、消滅寸前だったにも関わらず喜び勇んで契約したらしい。

ちなみに、テイレシアスは今何をしてるのかというと、
「おい、もう少しワインをくれ」
「はいはい、わかったよ」
バーカウンターの上に置かれたペンダントの上に、指で掬ったワインを一滴垂らす。ゆっくりゆっくりと目には見えない速度でワインがペンダントの宝石に染み込んでいく。
「……その状態でも飲めるんだね」
「飲もうと思えばな。しかし、この酒はなかなかに美味だな。お前も飲んだ方がいいぞ。この芳醇としていてそれでいて爽快な味わいは……」
ぺらぺらとえらく饒舌になって語りだすテイレシアスと、それに「おお、わかりますかテイレシアスさん!」と意気投合して共に語りだす佐藤と田中。みんな酔ってきているようだ。なんだかカオスと化してきている気がする。
(き、きっと大丈夫さ。お酒くらい、大丈夫)
フレイムヘイズとなった人間は肉体が強化されるのだし、もしかしたらアルコールにも強くなっているかもしれない。ボクだけがシラフのまま取り残されても酔っぱらいから面倒なことを押し付けられそうだし、こうなったら覚悟を決めて飲むしかない!
「よし!」
短い掛け声をあげて、一気にワインを呷る。マージョリーさんがにんまりと破顔して頷き、二人も歓声を上げてパチパチと拍手をする。
舌の上にまろやかなワインが流れこみ、喉へと向かう。
刹那、強烈な味覚に舌が痺れる。たしかに芳醇でありながら爽快で清浄な味だった。これでもかと言うほど手間をかけられて醸造されたことが容易に想像がつく。不純物の香りも風味も一切感じさせない清純な口当たりは奇跡と呼ぶに相応しい。これは、かなり美味しいワインなのだろう。

―――お酒が飲める人にとっては。

「ッッッ!!??」
頭蓋の中身が倍に膨れあがったかのような錯覚に打ちのめされ、声にならない悲鳴を上げる。喉が焼け付くように熱い。味覚が強烈過ぎて、まるで舌の上で爆弾が爆発したみたいに、嗅覚も視覚も触覚も散り散りに霞んでしまう。
ああもうダメだこれ以上はqあwせdrftgyふじこlp……!!

「あちゃー。だからやめたほうがいいって言ったのに……」
「あーあ、ぶっ倒れちゃいましたよ」
「なによ、つまんないわねぇ」
「ひゃーひゃっひゃっひゃっ!飲みっぷりだけはなかなかだったぜ!」
「情けないぞ、我がフレイムヘイズ」
きゅう、と机に轟沈したボクの頭の上から落ちてくる呆れ声の数々。反論したかったが、こめかみがガンガンと痛んでそれどころではなかった。フレイムヘイズになったからといってアルコールへの耐性は強くはならないようだ。
そういえば、シャナの身体の成長は12歳で止まっていると聞いたような気がする。いくらなんでも、12歳にお酒を飲ませちゃダメでしょ……。



[19733] 2-6 絶望
Name: 主◆548ec9f3 ID:8fbdaf6e
Date: 2011/06/29 02:38
フライパンに料理酒をぶちまける。強火で熱したフライパンにボウと青い炎が浮かび、チーズを包んだ豚バラ肉と刻みニンニクを包む。途端、蒸発する肉汁と焦げたニンニク特有の芳ばしい香りが匂い立ち、小さな厨房を満たした。
焼き過ぎないように気をつけながら、ニンニクの香りを染み込ませるように肉の全面をフライパンの底面に軽く押し付けていく。厚いばら肉に巻かれたカマンベールチーズがとろりと溶け出し、ジュウと食欲をそそる音を立てた。もうそろそろだろう。
味見のために、一番小さい肉巻きを菜箸で摘んで口に入れる。予想以上の熱さに思わず小さな悲鳴をあげる。
「あちちっ。でも、いい感じに出来たな」
奥歯で噛めば、熱い肉汁が染み出して焼けた肉の味が口腔内に膨れ上がる。しっかり染み込んだニンニクの香ばしさとジューシーな脂が上手く互いを引き立てている。さらに強く噛めば、中のカマンベールチーズが溶け出してチーズのまろやかな味を楽しませてくれる。次々に味覚を刺激された脳が歓喜に打ち震えるのを感じる。うん、上出来だ。
表面に適度に焦げ目をつけたところで火を止めて、あらかじめ用意しておいた大皿にひっくり返す。
ピピピッ
「ん、グッドタイミング」
タイミングよく、背後でレンジの加熱終了を告げる音が呼ぶ。古そうだが性能は良いレンジを開ければ、しっかり加熱された冷凍食品のジャガイモたちがホクホクと美味しそうな湯気を立てていた。それらを手早く一口サイズに切り揃えた後にバターをたっぷり塗りつけ、先ほど完成したばかりのチーズ肉巻きの隣に盛り付ければ完成だ。
皿を持ち上げる直前、どうせなら綺麗に装うべきかとも考えたが、あの三人はそういうことに拘らないから別にいいかとそのまま持っていくことにした。皿を持って厨房から出ると、カウンターでマージョリーさんと佐藤と田中が目をキラキラと輝かせていた。料理を見た田中がけたたましい喝采を上げる。
「うおっ、うまそう!サユちゃん、それなんて料理!?」
「見たまんま、豚バラ肉のカマンベール焼きとバタージャガイモですよ。どうぞ、召し上がれ」
でん、とカウンターに皿を載せる。酒の肴用として冷蔵庫の中に放り込まれていた食材から作った有り合わせの料理なのだが、おつまみを調理するという習慣がなかった三人にはご馳走に見えるらしい。肉でカマンベールチーズを巻いて焼くだけなんだけどなぁ。

なぜ、ボクが三人のおつまみを料理する羽目になっているのかというと、「酒が飲めないのなら何か食べるものでも作りなさい」というマージョリーさんのお達しで、ほとんど使われた形跡のない厨房に追いやられたからである。予想通り、面倒なことを押し付けられたわけだ。
(こっちはまださっきのお酒のダメージが残ってるんだけどなぁ)
「うー! まー! いー! ぞぉぉぉぉっっっ!!」
「もぐもぐ、はふはふ、むしゃむしゃ。うおォン! 俺はまるで人間火力発電所だ!」
こっそり肩を落とすボクの前で次々と料理が消えていく。お酒そっち退けで口に頬張っているのを見る限り、けっこう気に入ってもらえたようだ。美味しそうに食べてくれる三人の表情を見ていると、ボクも満腹時に似た満ち足りた充足感を胸に感じた。悪酔いのせいで重石を飲み込んだように重かった身体がふっと軽くなる。自分が作った料理で誰かが喜んでくれることがこんなに嬉しいとは知らなかった。新しい発見だ。
「なかなか良い腕してるじゃない。きっと良いお嫁さんになれるわ」
ニヤニヤとこちらをからかう笑みを見せるマージョリーさん。
一瞬、シャナそっくりの自分が新妻のように家事に勤しむ姿を想像してゾッと鳥肌がたつ。嬉しくない、ちっとも嬉しくない。
「ハハハ、アリガトウゴザイマスソシテサヨウナラ」
ここにいてもマージョリーさんにイジられるだけのような気がするので、厨房に戻って使った食器類を洗うことにする。佐藤家の使用人たちによって常に清潔に保たれている設備だが、自分で汚した物はきちんと綺麗にしておくべきだ。
今のボクの背丈では足が床に届かない椅子からひょいと飛び降り、軽やかに着地する。お尻に敷いて乱れてしまったスカートの皺を丁寧に伸ばす。借り物なのだし、ヴィルヘルミナさんそっくりのメイド服ということもあるので杜撰な扱いはできない。
去り際に、物欲しそうにしている(ように見える)ペンダントにワインを一滴落としてやるのも忘れない。紅世の王にも二日酔いがあったりするんだろうか。テイレシアスは人間臭い奴だし、少し心配だ……って、なんだこの生温かい視線は。
「な、なんです?その顔は」
ふと自分に向けられた視線の源に目をやれば、マージョリーさんがいかにも愉快そうなニマニマとした赤ら顔でこちらを見ていた。もう完全に酔っ払いと化している。
「その格好が板についてきたみたいね。よく似合ってるわよ?」
「うぐ」
ぐさり。
頬を膨らませてモグモグと口を動かしながらマージョリーさんが心を抉ってくる。給仕服を着て料理をしていれば嫌でもそう見えるのだろうが、直に指摘されるとやはりつらいものがある。
身体という入れ物が変わったことで、人格という中身まで変質してきているのかも知れない。心当たりは……片手では数えきれない。
「その件については、放っておいてください。そういえば、この服はヴィルヘルミナさんの服ですよね。なんでこれをマージョリーさんが?」
話を逸らす意図が半分、純粋に興味があったのが半分の質問を投げかける。
「ああ、それね。あいつ、ちびじゃりに着てほしかったみたいだけど恥ずかしくて渡せないからってここに置いていったのよ。あの時は迷惑だと思ってたけど、ちょうどよかったわね」
顔を赤くしてマージョリーさんに給仕服を押し付けるヴィルヘルミナさんの姿を想像しようとして、やっぱり失敗する。ヴィルヘルミナさんにもそういう可愛いところがあるのか。意外だ。すこぶる意外だ。
「ヴィルヘルミナはちびじゃりの育ての親みたいなものらしいじゃない。あんた、その姿でその服着て、あいつに会ったら、たっぷり可愛がって貰えるかもよ?」
たしかに可愛がってもらえそうだ。主に拳を使って、だが。
よりによって、シャナの恋の対象であるボクがシャナそっくりになって現れて、しかもシャナに着て欲しかったお揃いの服を着ているとなれば、いくらヴィルヘルミナさんの鉄面皮と言えど大魔神の如く憤怒の顔に激変するだろう。想像するだけで震えだしそうになる。
「お、お断りです。って、聞いてないし」
酔っ払い特有のスルースキルを発揮して再びワイングラスを呷っていたマージョリーさんに「呑み過ぎないようにしてくださいね」と確実に無駄に終わりそうな注意をして、ボクは厨房へと戻った。


 ‡ ‡ ‡


カウンターテーブルの上を一頻り片付けた後、テーブルに突っ伏してイビキをあげながら寝ている三人にタオルケットを被せる。マージョリーさんの肩にタオルケットをかけると、彼女の傍らに鎮座する丈夫な装丁の巨本―――マルコシアスが代わりに礼を言う。
「すまねえな、白銀の嬢ちゃん」
「いいよ。これも恩返しだから。でも……よく呑んだね、ホントに」
飲み始めてから2時間は経っただろう。空のワインボトルの山を眺めてぽりぽりと頬を掻く。この三人の胃はどうなっているのだろうか。

マルコシアスに一言断って、テーブルにあったペンダントを首にかけて庭に出る。夏の夜独特の蒸し暑さと涼しさが入り混じった風にしばし目を閉じて酔う。
懐かしい、御崎市の夏の空気だ。
地面を叩いて一息に屋根の上に飛び上がり、段差の部分に腰を下ろす。空を見上げれば、満天の星空と見事な満月が夜空を彩っている。それを膝を抱えてぼうっと眺める。屋根の上は風が少し強かったが、生地が厚い服のおかげで寒くはなかった。
視界の隅で、常以上の艶やかさを見せて月明かりに光る長髪に、「蒸しタオルの話は本当だったんだ」とどうでもいいことを考える。

「坂井悠二。俺はこれからお前のことをなんと呼べばいい?」
声を発した微かにワインの香りをさせるペンダントを手に取り、掌に広げる。律儀に聞いてくれたテイレシアスにボクは微笑む。
「サユ、でいいよ。今日からボクの名前はサユだ」
「わかった。我がフレイムヘイズ、サユ」
短く静かな応答。でも、ぎこちなさはない。

この時間には、この時間の『坂井悠二』がいる。後からやってきたのはボクの方なのだから、名前くらい変えるべきだ。だけど、慣れ親しんだ自分の名前を捨てるのはやはり辛いものがある。ボクがボクでなくなってしまうような空虚感に苛まれ、膝の間に顔をうずめる
どうにかして、元の時間に戻れないだろうか。
ボクが消えて涙を流すシャナを思い出して、どうしようもない切なさが込み上げてくる。
シャナともう一度会いたい。今なら胸を張って言える。ボクはシャナのことが好きだ。ずっと一緒にいたい。ずっと一緒に背を預け合って戦いたい。
―――だけど、もう遅い。ボクが恋をしたシャナは、ここにはいない。

悔恨と慙愧に歯噛みする。どうしてあの時、という後悔ばかりが胸を締め付ける。

「――――戻れるとしたら、お前はどうする?」

不意に、契約の際と同じ台詞が手元から聞こえた。その質問の意味がわからずにしばらく呆然とする。
「戻れる、って……まさか、元の時間に?」
ああ、という押し殺したような短い返答。停滞していた思考がだんだんと追いついてくる。
戻れる。
元の時間に戻れる。

シャナの元へ、帰ることができる。

認識した途端、ざわと肌が粟立つ。胸のうちから湧き溢れてくる歓喜に総身がガクガクと震える。顔をあげ、テイレシアスをぎゅっと握り締める。
「どうすればいい?教えてくれ、テイレシアス!」
元の時間に戻れるのなら、ボクはなんでもしよう。どんな苦労も試練も厭わない。どんな犠牲も払ってみせる。フレイムヘイズとなったこの身は不老だ。やらなければならないことにどれほど長い時間がかかろうとも、またシャナの隣に立てるのなら幾十年、幾百年かかろうと構わない。
「………」
「テイレシアス?」
期待に目を光らせるボクとは対照的に、テイレシアスはなぜか話すか否かと思案しているようだった。それほどに難しいことなのだろうか。
数秒して、テイレシアスが重い口を開く。
「お前の身体を調べ直していて、わかった。俺たちがこの時間に飛ばされたのは、零時迷子の影響だ。消えかけのお前の中に、零時迷子の断片が混ざっていたらしい。時の事象に干渉し、所有者の存在の力を完全回復させる永久機関である零時迷子なら、断片だけでも俺たちをタイムスリップさせることが可能だろう。こちらの世界に現界する際に時空をねじ曲げられたと考えれば、辻褄が合う」
零時迷子はボクの目の前で壊された。そのカケラがボクにくっついてきたらしい。
零時迷子がシャナの炎弾で破壊された様子を思い出す。零時迷子が炎に包まれ爆発する。そしてそのカケラが幾つか、ボクの消えかけの身体に突き刺さった。
「そうか、あの時の……!」
ボクの中に偶然混ざってしまった零時迷子のカケラの作用でこの時間に来てしまった、ということか。
原因がわかるなら、対処の仕方も自ずと見えてくる。要は、ボクの中にある零時迷子のカケラを利用して、元の時間に戻ればいいわけだ。来れたのだから、帰ることもできるはずだ。

突如射してきた一縷の光明に引っ張られるように立ち上がり、自然に空を仰ぎ見る。
「テイレシアス、ボクの中の零時迷子を使うにはどうすればいい?」
できるならば、今すぐにでも取り掛かろう。希望に打ち震える肉体は、目的を達するための手段さえわかればすぐに実行できるほど熱を帯びていた。理性で抑えておかなければ今にも走り出してしまいそうだ。

だが、テイレシアスの様子はおかしかった。まるで余命間もない病人にその事実を伝えなければならない医者のような、陰鬱な雰囲気に満ちている。
とてつもなく嫌な予感がした。聞くな、聞いてはならないと直感が叫ぶ。だが、聞かなければ前には進めない。
ボクは息を飲んで、テイレシアスに先を続けるように視線で促す。
それが絶望の幕開けになるとは知らずに。

「お前の中に、すでに零時迷子はない」

「……え?」
「いかに奇跡の永久機関と言えど、断片と化した状態での稼動は無理があったのだ。俺たちをこの時間に飛ばした際、零時迷子は全ての力を失って消失した。元の時間に戻るには“別の零時迷子”を使用しなければならない。つまり、」
“別の零時迷子”……?
次に来るであろう言葉を予感し、跳ね上がった心臓がドクドクと早鐘を打つ。言いようのない悪寒が肺もろとも胸を貫き、呼吸が凍りつく。
問うてはならなかったのだ。聞くべきではなかったのだ。
「待ってくれ、テイレシアス。そんな、まさか、」
ガクガクと膝が震える。芽生えたばかりの希望を重い絶望が塗りつぶしていく。そこへさらに追い討ちをかけるように、テイレシアスが一切の感情を欠いた声で告げる。

それはあまりにも残酷で、あまりにも過酷な試練―――


「この時間の坂井悠二を殺し、零時迷子を奪うしかない」


美しかった双眸から光が消える。
精神(こころ)が砕け散り、四肢から力が抜け、絶望に忘我して屋根に膝をつく。
指から滑り落ちたペンダントが屋根に当たって小さな金属音を立てた。

“自分殺し”をしなければ目的が達成されないと告げられたサユの、心が折れた瞬間だった。


 ‡ ‡ ‡


夏だというのに、空気が沈鬱に冷え切っているように感じる。凍えたように震える歯がガチガチと音を立て、内奥から鼓膜を叩く。

なんて、皮肉。
大切な人のところへ帰るために、彼女の大切なものを奪わなければならないなんて。
“自分”を殺さなければならないなんて―――

(そんなこと、冗談じゃない!)
軋みを上げ始めた心を叱咤して、認められない、認めてはいけないことを真っ向から否定する。
「坂井悠二を殺したら、未来の坂井悠二であるボクも消える!このまま坂井悠二がボクと同じ末路を辿るまで待てば、結果的に元の時間に戻り、シャナと会えるはずだ!」
「違うな。今日(こんにち)の戦闘も、『白銀の討ち手』の存在も、お前の記憶にはないはずだ。この時間は俺たちが元々存在していた時間とは繋がらない、枝分かれした別の時間―――平行世界(パラレルワールド)における“過去”なのだ。だから、この時間の坂井悠二を殺しても、お前に影響は出ない。異なる時間軸に属する坂井悠二がお前と同じ末路を辿るという保証も、ない」
「……ッ」
ボクの言葉は呆気なく否まれた。
なんとか反論しようと歯噛みして思考を巡らせるが、導き出される答えはテイレシアスのものとまったく同じだった。とりとめなく渦巻く頭の冷静な部分が、テイレシアスの話を肯定する。反駁しかけた口が無為に閉じられ、形にならず体内に閉じ込められた動揺が汗となって全身から噴き出す。
人工音声のような抑揚のないテイレシアスの声が頭の中で繰り返され、冷たい霜のように軋む心に染み通ってくる。

『この時間の坂井悠二を殺しても、お前に影響は出ない』

それはできない、やってはならないと理性が訴える。
この時間の坂井悠二にも生きる権利がある。何かを護るために戦い、共に歩みたい誰かを選び、その人と生きる権利がある。自分の目的のために他でもないボク(坂井悠二)がそれを奪っていいはずがない。
そう必死に心に叫び、言葉の鎖で縛り付けるように自分に言い聞かせる。

だというのに、胸に沸き起こるのはシャナの笑顔だけだった。
数年にわたりシャナと築き上げてきた記憶が、大切な思い出の数々が、胸のうちを瞬く間に埋め尽くしていく。


“―――今のボク/お前なら、シャナを退けて坂井悠二から零時迷子を奪うことができる。”


(な、)
いつのまにかシャナを倒すための戦術を考え始めようとしていた自分に、他でもない自分自身が怯えた。自分の冷静さが信じられなかった。
たしかに迷い、心は涙を流して葛藤しているのに、一切斟酌することなくそれとまったく同時進行で“いかに戦うか、いかに殺すか”を思考し始めている。
感情がどんなに拒否しようと、別のドライブが目的を達しようとシステムを稼動させ続ける。
勝手に頭の中で戦闘のシミュレーションが開始され、試行錯誤が繰り返されていく。やめろ、とまれと念じても、大切な人を確実に行動不能にする算段は着々と滞りなく完成に近づいてゆく。

数え切れないほど繰り返されたシミュレーションで、ついに手に握る銃が高速で飛翔するシャナを捉える。
細められた視界の中、速やかに引き金を引き、放たれた銃弾が彼女の細い四肢を穿つ―――


「はは、は、あはははははは…」
ひどく乾いた、空虚な嘲笑が漏れる。それが何に対しての嘲りなのかは自分でもわからなかった。顔の表皮に罅割れたような笑みを貼りつけ、己の有り様をただ嘲笑う。

ボクは、なんなんだ?シャナを想いながら、シャナを傷つけて坂井悠二を殺そうと考えているボクは、いったいなんなんだ?ボクという人間の精神構造は、正常なのだろうか?

底抜けに虚ろな喪失感に押し潰されそうになる。
これは何を失った喪失感なのだろうかとしばらく自問した末、ああ、そうかと理解する。

きっと、『感情』だ。悲しいとか、そういった『感情』をボクはなくしてしまったんだ。

ぷっつりと、何かが吹っ切れてしまった気がした。汗も、気づかぬうちに溢れ出していた涙も、ピタリと止まった。
「……これからどうする?我がフレイムヘイズ」
黙然としていたテイレシアスが相変わらずの低い声で問う。その声音には後悔の色が混じっていた。酒を呑んでいたのは、悩み苦しむ契約者に無情な選択肢を与える勇気を得るためだったのか。
足元に落ちているペンダントを枯れきった眼差しで一瞥する。枯れた笑みはすでに霧散し、後には乾いた涙の筋を見せる無表情が残るのみ。
「……ああ、そうだね」
気づけば、夜空の星は黎明の青灰色に掻き消され始めていた。
それは美しい景色のはずなのに、ボクの目にはただの自然現象にしか映らなかった。周囲の世界から自分が遠のいていく感覚。視界に映るもの全てが、虚しい。

心はこんなに重いはずなのに―――しかし、身体は驚くほど軽い。

さあ、零時迷子を手に入れろ。

すぐ耳元で、あの声がした。戦いの最中に―――そして、悪夢の中に出てきた“黒い坂井悠二”の吹き荒ぶ風鳴りのような声が、意識の空白に強く響く。

己が為したいことを、為せ。その力が、今のお前にはある。

その声が持っていた違和感―――広い空洞を渡るような“距離”を感じる響きはなくなり、間近にまで迫った気配が蛇のようにじわじわと絡みつき、締め付ける。
息を吹きかけるような至近から、全てを見透かす暗黒の気配が怪しく囁く。

お前の望みを、叶えろ。“お前だからこその望み”を。それこそ、余の望み―――

「ボクの、望みは―――」


 ‡ ‡ ‡


「ん、ぬぁあ~」
窓から差し込んできた眩い朝日に、田中栄太がだらしない呻き声を上げながら目を醒ました。その気配につられたのか、隣で寝ていた佐藤栄太とマージョリーも苦しげに呻きながらゆっくりと上体を起こし始める。肩に暖かい布を感じる。いつのまにか、全員の背にはタオルケットがかけられていた。
靄がかかったようにはっきりしない頭で状況を把握しようとして、途端に万力で締め付けられるような二日酔いの激痛に襲われて顔を顰める。栄太も同じように顔を歪めて額を抑えている。
しかし、マージョリーだけは、あふと健やかな欠伸を漏らして背伸びをしていた。
「いつも思うんスけど、姐さん、あんなに飲んでよく平気っスね」
ズキズキと刺すような痛みに堪える二人にマージョリーは「鍛え方が違うのよ」と平然と言い放つ。実はマルコシアスに清めの炎で体内のアルコールを消して貰っていたのだが、体面を保つために二人には黙っている。
「見栄っ張りな女はモテないぜ―――ひでぶッ!」
「うるさいのよ、バカマルコ。……あら?」
ふと周りを見渡し、この場に一人足りないことに気づいた。
「サユは?」
「ったく……。嬢ちゃんなら、夜中に出てったぜ。そこの手紙を残してな」
マルコシアスの即答。紅世の王である彼は人間である契約者と違い、睡眠による休息を必要としない。
驚く少年二人をよそに、こうなることをある程度予想していたマージョリーは落ち着いてテーブルに置かれた手紙を手に取った。
あの坂井悠二のことだ。これ以上迷惑は掛けられないとこっそりと立ち去ったのだろう。

手紙の内容は、いかにもマージョリーの知る坂井悠二らしい内容だった。
戦闘でマージョリーが悠二を何度も助けたこと、倒れた悠二を運んだこと、荒唐無稽とも言える話を信じたこと、世話を焼き、名前を与えたこと。それらに対する感謝の言葉がこれでもかというほど並べられていた。佐藤啓作への一宿一飯の恩や、恥を忍んで下着を買ってきた田中栄太への感謝の言葉も忘れられていない。おまけに、「お酒の飲みすぎはやめた方がいいと思います。未成年に呑ませるのも控えた方がなおいいと思います」という忠告まで添えられていて、マージョリーは思わず噴き出してしまった。外見はどんなに変わっても中身は変わらないな、と。

だが、文章の最後に何の脈絡もなく綴られていた短い言葉を目にすると、マージョリーは途端に眉を顰めた。
たった6文字のその言葉に冷淡で虚ろな様子が感じられ、しかしその正体に皆目見当がつかずに無性に不安を煽られる。
「姐さん、どうかしたんですか?」
「あの、サユちゃんが何か……?」
二人が不思議そうに問うが、マージョリーの耳には入らなかった。何の推察も根拠もない。だが、長い年月を掛けて練磨された第六感が言い知れぬ不安に怯え、叫んでいた。
何かが起きる、と。

その、手紙の最後に書かれていた言葉は




   ごめんなさい



[19733] 3-1 亡者
Name: 主◆9c67bf19 ID:0e7b132c
Date: 2012/03/18 21:20
肌に粘っこくまとわりつく夏独特の大気が、御崎市全体を満たしていた。
熱線のように照りつける日差しはじりじりと影の角度を変え、時刻は午前から午後へと変わろうとしている。
「きゃっ!?」
そんな中、公園で日課の飼い犬の散歩をしていた吉田一美は、突如重く響き渡った破砕音に驚いて身を竦めた。
慌てて音の根源に視線を転じれば、炎天下だというのに真っ黒な外套を羽織った給仕服姿の少女が、白銀の棒をアスファルトに突き立てていた。

不可解な紋様の刻み込まれたそれは、ほんの一週間ほど前にカムシン―――フレイムヘイズ『儀装の駆り手』が、この世の歪みを調整・修復する『調律』の際に使用した宝具『メケスト』に酷似していた。

少女が、その華奢な腕では到底持ち上げられそうにない長大な棒を片腕だけで軽々と引き抜く。地面に穿たれた深い穴に一瞥を向けた後、周囲の奇異の目も気にせずに緩慢な動作で踵を返す。
「あ、」
その可憐な横顔に、一美は見覚えがあった。見紛う事なき、尊敬する人間でもあり、恋の仇敵でもある少女だった。かつて校舎裏で「あなたには絶対に負けない」と宣言したことを思い出す。さらについ先日、恋する少年に告白し、完全に対等な関係―――ライバルになったことを思い出す。
(ここで逃げたら、ダメ)
意地の炎が燃え上がるのを感じる。燃焼するそれをそのままエネルギーに変えて腹底に気合を込めると、一美は挨拶でも交そうと一歩踏み出し、
「シャナちゃ―――」
そして、異変に気づいた。


一言で言えば、亡者であった。


成長すれば絶世の美女となることを約束された幼くも凛々しい容姿は、紛れもなく一美の記憶どおりの少女だ。
しかし、その瞳が、まるで別人のものだった。
枯れきり、陰鬱に凍りついた瞳は死人のそれを連想させ、一美の歩を強制的に止めさせた。少女が纏う底冷えするような冷気に、全身の熱が瞬時に吹き消された。一美に忠実な大型犬の飼い犬でさえも、怯えて身を縮こまらせている。
(違う。アレ・・はシャナちゃんじゃない)
途端に背筋を走った緊張に息を飲みながらも、喉元までこみ上げた得体の知れない恐怖を押し戻し、正体を探ろうと少女を必死に凝視する。カムシンと出会い、微力ながらも戦いに“参加”し、想い人への気持ちを確固たるものにしたことで、一美の精神力は以前の何倍にも強くなっていた。

視線に気づいたのか、少女の双眸がぐりとこちらへ向けられる。
そのたった一瞬の一瞥は、一美には永遠に感じられた。

(なんて、悲しい瞳)

奈落のように昏い眼球は何も映してはおらず、光すら飲み込んでしまいそうな闇色に染まりきっていた。

その瞳に感情の機微が過ぎったように見えたのは、果たして一美の気のせいであったのか。

一対の洞穴にほんの一刹那だけ宿った優しい光は、まるで“あの人”のようで―――

「あっ!?ま、待って!」
瞬き一つにも満たない一瞬だけ視線を交わし、少女は一美から逃げるように去っていく。幽鬼のような少女の奇行を咎められる者は誰一人としておらず、一美がはっとして少女を追いかけた時にはその小さな姿は人ごみの中へと消えていた。
(今のは、いったい)
あまりに突飛な光景を目の当たりにして、一美は混乱の極みに陥っていた。果たして今の出来事が幻覚だったのか、それすら判別がつかない。どうしようもない胸騒ぎに総身を凍えさせられ、一美はただただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。


だから、彼女の足元に穿たれた穴が小さな紫電を発しても、気付けなかった。


 ‡ ‡ ‡


「悠二、これお前にやるよ」
田中がなにやら大きな皮製の袋を渡してくる。長さは一メートルほどで、幅は30センチ程度。厚さはそれほどなく、扁平な形をしている。
「なんだよ、これ―――うわっ!?」
長大なそれは持つとかなり重く、思わずひっくり返って尻餅をつきそうになるのを脚に力を入れてなんとか堪らえた。
厚い布で何重にも包み込んでいるようだが、手触りでそれが大剣であるとわかる。持ち手は片手ほどの短さしかなく、バーベルを持っているかのような錯覚をさせる重量はおよそ“人間用”ではない。
「これ、『吸血鬼(ブルートザオガー)』じゃないか」
ブルートザオガーとは、かつて御崎市を襲った紅世の王の一人、『愛染自』ソラトが所持していた剣型の宝具だ。存在の力を込めれば、この剣に触れている相手に多大なダメージを与えることができるという接近戦において波外れた特性を持つ。ソラトを倒した後は、田中と佐藤が訓練に使っていたはずだ。

昼過ぎに二人に呼び出されて何事かと佐藤の家まで出向くと、豪勢な佐藤家の門前で待っていた田中と佐藤に突然ブルートザオガーを渡されたので、僕は戸惑いを隠さずに二人を交互に見る。

「やっぱり、俺たちじゃこれを使うのは無理だ。存在の力ってのも全然使えないし、これはお前かシャナちゃんが使うべきだと思ってさ」
「姉さんに頼み込んで訓練に使わせてもらってたけど、さすがの俺も振るうだけで精一杯だしさ。武器として使うのは、諦める」
と、それぞれ後ろ頭と頬をボリボリと掻きながら苦笑する佐藤と田中。一見照れ笑いのように見える表情には、剣を扱うことが出来なかった無念と恥が見え隠れしている。

佐藤は、かつて大いに荒れていた時期があり、派手なケンカも何度となく経験し、常に相手を屈服させてきた。一見ヤサ男のような細身ながら、腕っ節の強さは同年代でも上位に位置する。田中もまた、ドッジボールでシャナと渡り合えるほどの筋力と俊敏さを兼ね備えた、誰もが認める天才スポーツマンだ。
今まで積み上げてきた体力と経験がまったく通用しない事態は、二人にとっては悔しいことこの上ないのだろう。
だからこそ、その事実を潔く認めて、この剣を満足に扱うことができる人物に譲るという合理的な行動を実行できた二人が、僕には眩しく見えた。

(とは言え、僕もこれを使えるかと言われればまったく自信はないんだけど)
この剣はそもそも人間が振るうことを想定して造られていないし、特性を発揮するには存在の力を流しこむ必要がある。シャナとの訓練で、存在の力を操る練習もしてはいるが、成果といえばシャナの呆れ顔のバリエーションが増えたくらいだ。持ち上げただけで全身の骨を軋ませるこの重量も克服しなければならない。
条件の不利具合で言えば、僕の置かれているそれも二人と大して変わらない。
(まあ、これからじっくり鍛えていこう)
だというのに、僕の心には余裕があった。
毎朝、毎晩と行われるキツイ鍛錬の繰り返しは、確実に自分の力を高めている。シャナには遙か遠く及ばないとはいえ、実戦で鍛えられたシャナの指導によって筋力や反射神経や剣術の腕も、緩やかだが上達の一歩を辿っている(と思いたい)。
これを続けていけば、いつかはブルートザオガーも扱えるようになるだろう。
心の何処かで「それは油断ではないのか」と叱咤する声が聞こえたが、杞憂だと切り捨てられた。
事実、『愛染他』ティリエルと『愛染自』ソラトを撃破し、ついこの間は『探耽求究』ダンタリオンの野望を看破し、打ち砕き、追い払った。そして昨日も、襲ってきた紅世の王をシャナと協力してものの数十分で見事に撃破して見せた。
(シャナといれば、何も恐れることはない。そう、シャナといれば・・・・・・・
数々の勝利の経験に裏打ちされた余裕は、未だ尾を引いて僕の心にこびりつくように滞留していた。

大事なことを見落としている、という直感に似た蟠りを残して。

「当分は僕も使えないと思うけど……。でも、もらっておくよ。ありがとう、二人とも」
何はともあれ、手元に強力な武器が増えるのはいいことだ。二人の想いも一緒に貰い受けたのだと思うと、剣の重みがさらに増した気がした。不快ではない、力強い重みだ。

「……?」
はたと、僕の顔を見る二人が眼を丸くしていることに気づいた。何かついているのだろうか?
「な、なんだよ?」
「あ、いや、なんかサユちゃんに似てるなって思ってさ」
「俺も同じことを思ってた。顔は全然似てないけど、どこか似てるんだよな」
初めて聞く名前に、首を傾げる。
「サユって、誰のこと?」
「悠二は会ったことないのか?この街に来た新しいフレイムヘイズの女の子だよ。シャナちゃんそっくりなんだ」
「えっ!?」
まるで初耳だった。そういえば、昨日の襲撃の後、アラストールが何かを察知したような様子を見せていたが、それと何か関係があるのだろうか?

それにしても、シャナにそっくりというのは驚きだ。フレイムヘイズとして育てられたが故の特殊な人格はともかく、容姿だけならシャナは超をつけても足りないほどの美少女だ。気高い精神そのものが形を持ったかのような整った精悍な顔立ち、流れるように流麗で靭やかな体躯は、並大抵のアイドルなど鎧袖一触してしまう。それほどの美少女が同じ御崎市にもう一人存在するなど、奇跡としか言いようがない。
「そのフレイムヘイズの女の子、まだ御崎市にいるの?」
「いや、もう立ち去ったみたいだぜ。控えめで大人しいし、料理も上手いし、姐さんも気に入ってたみたいだし、すっげえ良い娘だったんだけどなぁ」
田中が心底残念そうに肩を落とす。その肩に手を乗せながら、
「また食べたかったよな、サユちゃんのチーズ肉巻き。くそ、思い出したら腹減ってきた」
と、名残惜しそうに中空に遠い目を向ける佐藤。先ほどまでの取り繕ったような表情はどこへやら、その口端からはだらしなく涎が落ちそうになっている。とりあえず美をつけてもいい美顔が台無しだ。逆を言えば、それくらい美味い料理だったのだろう。

チーズ肉巻きというと、カマンベールチーズを肉で巻いて焼いた簡単な料理のことだろうか。まだ父さんが海外へ単身赴任する前に、家族で行ったキャンプでチーズ巻肉と蒸かし芋の夕食を一緒に作ったことがある。
作り方はとても簡単なので、「それなら僕も作れるけど」と言おうと思ったが、十中八九、「男の手料理なんざ誰が食うか」と拒否されるので口に出さず飲み込んでおいた。

(二人の話を聞く限り、性格はシャナと全然違うみたいだな。一先ず、安心だ。シャナみたいなメチャクチャな女の子が増えたりなんかしたら――――)

「ふっ!」

「っ!? うぉわっ!?」
心中で独りごちていた中、出し抜けに背中に密着感と鋭い呼気を感じて反射的に振り返る――――が、時すでに遅し。
視界の隅に艶やかな黒髪が舞ったことを視認した次の瞬間には、僕の身体は鮮やかな二撃を浴びて宙で一回転していた。流れる視界に映り込んだのは予想通りの人物だったので、いきなりの攻撃に少し混乱しながらも落ち着いて受身を取る。背中が地面に叩きつけられる寸前で顎を胸に押し付けながら両手を振り下ろし、地面を叩いた反作用で衝撃を殺す。剣山を掌で思い切り叩いたような激痛と鈍い衝撃が神経をびりびりと引き攣らせる。
「いっつつ……!い、いきなりぶん殴るなんてひどいじゃないか、シャナ」
噂をすればなんとやら。痛みに顔を顰めながら見上げると、そこには小振りな唇をへの字に曲げたシャナが憮然とした表情で突っ立っていた。

その後ろには、昨夜この街に到着した、シャナの古い知り合いというヴィルヘルミナさんの姿もある。
フリルのような装飾など見られない濃紺一色の丈長ワンピース、シミ一つない純白のヘッドドレスとエプロン、清楚な編み上げの長靴。それらを『メイド服』と呼ぶには、メイドに関してぶっ飛んだイメージが定着してしまった日本では質素すぎた。しかし、ヴィルヘルミナさんが身に纏えば、まるで由緒正しい貴族の家令のように気品に満ち溢れて見える。つまり、そのくらい美人なのだ。
もちろんのこと彼女もフレイムヘイズであり、『万条の仕手』という二つ名で紅世の徒や王たちに怖れられている指折りの猛者なのだという。

「ど、どうも……」
「………」
黙っていても周囲を圧倒する強者の風格に気圧されるように会釈するが、返ってくるのは刺すような視線のみ。僕のことが気に食わないという意思があからさまに感じられる。
(昨日の会議で、何かあったのかな)
昨夜、突如来訪したヴィルヘルミナさんに僕が追い払われた後、シャナとヴィルヘルミナさん、そしてアラストールとティアマト―によるフレイムヘイズ同士の会議が行われた。その中で何が話し合われたのかは見当もつかないが、立ち去る前の雰囲気から、シャナがヴィルヘルミナさんに強く物を言えないということは察することが出来た。
また、シャナがヴィルヘルミナさんに向ける表情が“家族”に向けるそれに似ていることから、彼女がシャナと強い信頼で結ばれていることもわかった。
(親子のようなものなのかもな。だとすると、ヴィルヘルミナさんにとって僕は“娘についた悪い虫”ってことになるのか!?)
このままだと「未熟者はこの娘に近づくな」と言われかねないので、痛みを押して急いで立ち上がる。

「悠二が嫌なことを考えていそうな気がしたから。それに、今のは打撃じゃなくて摔法(しゅっぽう)よ。いい加減、この程度の套路(とうろ)くらい受け流せるようになりなさい」
「うぐっ」
『考えていそうな気がした』という理由で攻撃してくるなんて理不尽だ。……まあ、事実なんだけど。

ちなみに『摔法』というのは、八極拳における投げ技の呼び名らしい。柔道のように相手を華麗に投げ飛ばすのではなく、素早く突き倒すような攻撃だ。
先ほど背後に感じた密着感と呼気は、相手の身体に肩と上腕を密着させて攻撃を打ち込む八極拳独特の構えだったようだ。一撃目に背中に強烈な掌底を喰らい、浮き上がったところで瞬時に二撃目の摔法で投げられたのだ(こうして二つ以上の技を繋いだ連撃を『套路』という)。
シャナは中国拳法にも精通しているので、たまに剣術以外の鍛錬として体術も教えてくれる。しかし、格闘技の経験などほとんどない僕は、攻撃を受けた後にようやく自分が何をされたのか理解できる程度のレベルなのだ。況や、受け流すなどという高度な芸当など到底出来るはずもない。
(まだまだ、精進が必要だなぁ)
シャナの足手纏いにならないように努力は続けているつもりだが、先はまだまだ長いようだ。唐突なタイミングでその事実を突きつけられて肩を落としていると、

「ヴィルヘルミナの前なんだから、悠二ももう少し良い格好見せてくれてもいいのに……」

針先のように小さな声で、シャナが何事か呟いた。小さすぎてよく聞き取れなかったが、僕の名前を言ったらしい。
「何か言った、シャナ?」
「―――ッ!?な、なんでもない!バカ悠二!!」
「な、なんでそうなるんだよ!?」
「うるさいうるさいうるさい!悠二が弱すぎるのがいけないのよ!」
「うぐぐっ」
怒り心頭なのか、顔を真っ赤にして言下に吠えるシャナの形相に思わずたじろぐ。それを言われては反論どころかぐうの音も出ない。
僕はシャナをここまで怒らせてしまうような醜態を晒してしまったのだろうか。
いや、考えようによっては僕はシャナの弟子のようなものだし、よりによってシャナの恩師の前で僕がシャナの顔を潰すような情けない姿を晒したことに憤慨しているのかもしれない。

ちらりとヴィルヘルミナさんの様子を覗えば、感情のなかった硬質の目に怒りの色がメラメラと浮かんでいるのが見て取れた。
(や、やっぱり僕が未熟だから怒ってるのかな)
ちりちりと肌を刺す険を含んだ視線に全身から汗が噴き出す。
ふと、その視線の中に面白くないものが二人分混じった。

「……なにがおかしいんだよ」
こちらをニヤケ顔で見物していた佐藤と田中をじろっと睨むと、二人は慌てて逃げ出す。
「俺たちは玻璃壇のとこに行くから!じゃあな!」
「さよなら、シャナちゃん、ヴィルヘルミナさん!」
そう言い残すと二人は足早に路地角へと消えた。さすが鍛えてるだけあって速い。
最近は、マージョリーさんに『玻璃壇(御崎市全体をリアルタイムで監視できるミニチュアシティのような巨大宝具)』の詳細な使い方を教わっているらしい。戦闘や異常事態が発生した場合はそれを使い、現場にいるマージョリーさんを間接的にサポートする役割を担うのだそうだ。
(直接戦いに参加できなくても、他の方法で役立とうとしてる。僕も負けられないな)

「ねえ、悠二。それはなに?」
シャナが、肩に背負ったブルートザオガーの皮袋を顎で指す。見れば、シャナの両手には洗剤などの日用消耗品が詰まった袋がぶら下がっていた。どうやら買い物の帰りだったようだ。
(こ、この状態でさっきの套路をやったのか)
逆を言えば、両手が塞がった状態でも簡単に吹っ飛ばせるのが今の僕の実力ということだ。再度突きつけられた“差”に内心で歯噛みしつつ、これ以上醜態を晒さないように平然を装って答える。
「ブルートザオガーだよ。二人から譲って貰ったんだ。僕も、早くこれを使えるようになって、シャナと一緒に戦えるくらい強くならないとね」

「―――ふぇぇっ!?」
「……!!」

後半は決意が半分と見栄が半分だったが、言った途端にシャナの頭がボンッ!と爆発した―――ように見えたので思わずビクリと後ずさる。同時に、今までピクリとも動かなかったヴィルヘルミナさんの眉根にビキリと稲妻のように皺が走り、剣呑なオーラが殺気のレベルにまで一気に跳ね上がる。
(え、なんだこの反応!?ま、マズイこと言っちゃったか!?)
小さな声で「馬鹿者め」と呆れたように呟かれたアラストールの声が聞こえた気がした。
「ゆ、悠二のくせに大口叩きすぎ!私と共闘なんて、百年早い!!」
頬を紅潮させたシャナにぷいっとそっぽを向かれてしまう。

たしかに、未だ存在の力すら使いこなせていないのに、シャナと刃を揃えるなんて大言壮語に過ぎる。これは怒られても仕方がない。……殺気を向けられるほどではないと思うけど。
「ご、ごめん、シャナ。……ところで、ヴィルヘルミナさんの後ろにあるそれはいったい……?」

ヴィルヘルミナさんの背後に鎮座している小山のような背嚢を指差す。
高山登頂用らしき丈夫そうな厚手の背嚢は明らかに許容量をオーバーして膨らんで、今にも音を立ててはち切れそうだ。時折通りすがる通行人も、拷問のように酷使される背嚢とメイド服の西洋美人の不思議なコラボに奇異の目を向けている。

しかし、シャナは「ああ、これ?」となんでもないかのように流し目で一瞥するだけで済ませた。その仕草はそれがシャナにとって見慣れた光景なのだということを物語る。
「ヴィルヘルミナも私と一緒に住むことになったの。だから、二人分の生活必需品を買い揃えておくことにしたのよ」
「だからっていっぺんに買い込まなくても……」
フレイムヘイズとは言え、この巨大な背嚢はさすがに一人では持てないのではないだろうか。ヴィルヘルミナさんのシルエットを完全に隠すほどに膨らんだ背嚢は彼女の体重の優に3倍はありそうだ。

僕が不安げに見る中、ふんと鼻を鳴らしたヴィルヘルミナさんが慣れた動作で背嚢を背に担ぐと、まるで重さなど感じていないかのようにひょいと立ち上がって、スタスタと進み出す。歩みに合わせてガチャガチャと騒々しい音が耳朶を叩く。彼女の後ろ姿を一般人が見たなら、巨大なリュックサックに足が生えていると錯視するに違いない。

「ミステスが、フレイムヘイズを舐めるものではないであります」
「心配無用」

呆気にとられる僕に、刺すら感じる硬い声質の女の声が“二人分”投げかけられる。もう一人の声は、純白のヘッドドレスから発せられていた。
ヘッドドレス―――神器『ペルソナ』に意思を表出させる紅世の王、『夢幻の冠帯』ティアマトーはいつも短い台詞しか口にしないらしい。二人とも寡黙なのに、これでよく意思疎通が成立するなと感心してしまう。

足の生えた背嚢のお化けと並んでメロンパンを齧りながら去っていくシャナが、不意にこちらを振り返り、不機嫌そうな目に睨んでくる。
「悠二、なにしてるの」
「へ?」
「悠二も手伝うに決まってるでしょ。ついでに掃除も済ませるんだから」
「まさか、一人でのんびりと過ごすつもりであったわけではあるまいな?坂井悠二」
咎めるようなアラストールのドスの効いた声に図星を突かれ、思わず息を飲んで押し黙る。言外に、「昨日の襲撃を忘れたのか」という叱責を感じとったからだ。

昨日の、燐子の大群を引き連れた紅世の王による襲撃は、明らかに僕とシャナが離れたタイミングを狙ってのものだった。
僕の零時迷子のミステスとしての鋭敏な感知能力によって気配をすぐに察知し、連絡用の付箋(マージョリーさんから譲ってもらった、自在式を用いて作られた一種の携帯電話)によってシャナに伝えることで即座の反撃・討滅に成功した。
(今は敵の気配は感じないけど、きっとそういうことじゃないんだろうな)
敵の気配がないことはアラストールもわかっているだろう。
カムシンが調律を行ったことで御崎市内のトーチはほぼ0となったため、徒や王が人食いを隠蔽するためにトーチを作ればすぐに露呈して、討滅される。そも、シャナとマージョリーさんに加え、ヴィルヘルミナさんという強力なフレイムヘイズたちが待ち受けるこの街にノコノコとやってくる敵がいるとは思えない。

要するに、アラストールは「差し迫った脅威はないが、用心を怠るべきではない」と忠告してくれているのだ。

(……でも、僕がシャナの家に上がりこんでも大丈夫なのか?)
間違って下着が仕舞ってある棚を開けてしまってシャナに袋叩きにされる、なんて展開が待っていそうで激しく不安だ。それでなくとも、ヴィルヘルミナさんからの風当たりが強くなっていく一方だと言うのに。
「悠二、早くして」
「わ、わかったよ。今行く」
このまま迷っていても仕方がない。名誉挽回の機会を貰ったんだとポジティブに考えよう。
ブルートザオガーの袋を担ぎ直して、シャナの後を追おうと足を踏み出し、



「―――え?」



視界の隅に映る違和感に、歩を止めた。

両脇を高い堀に挟まれた狭小な暗闇に、“その影”は佇立していた。

―――そう、まさに“影”としか形容できない風体だった。

外套を頭からかぶったような異様な風体は浮浪者のようであったが、それが総身にまとわりつかせる闇はこの世のものとは思えない負の波動を感じさせた。
背丈はシャナとちょうど同じくらいだが、凛と強い輝きを放つシャナとはまるで正反対の空気を孕んでいる。

何者なのかと眼を細めて凝視するが、見れば見るほどにその影は細部がぼやけ、ますます不鮮明になっていく。いくら眼を凝らしてもその容姿は正確に捉えられない。
輪郭はぼやけ、霞み、時には二重にも三重にもぶれて見える。普段なら何キロも離れた敵の気配すら生々しく察知できる感覚も、今は目の前の異常の塊を捉えられない。見えているのに、そこにいるという実感が得られない。まるで霞を必死に掴もうとしているかのような錯覚に目眩すら覚える。


だが、その眼だけは――――外套の隙間からこちらを見据える暗黒の双眸だけは、爛々と不気味に燃えていた。


人が人を見たとは思えない、禍々しい意思を漲らせる二つの眼球。それに睨まれているだけで、喉元に刃を当てられているような怖気と危機感が去来する。

改めてその異様さを痛感し、悠二は息を飲んだ。

(こいつは“違う”。人間じゃない)

経験ではなく直感で悟る。
しかし、影からは紅世の住人の気配も、フレイムヘイズの気配も感じられなかった。
もしそうであれば、すぐそこにいるシャナたちが黙っていないはずだ。

これは悪い幻覚なのではないかと目頭をぎゅっとつまんでからもう一度影を見ると、



「あ、あれ?」

影は、最初から存在していなかったかのように、忽然と姿を消していた。
「そんな、たしかに……」
影の正体を確かめようと暗がりを覗こうとして、

「悠二ィ!」

「え―――あだァッ!?」
甲高い怒鳴り声と共に飛んできたヤカンが頭にあたって跳ねた。くわんくわんと頭蓋の中で反響音が鳴り響き、三半規管がしっちゃかめっちゃかになって情けなくその場に倒れこむ。
再び地面に這い蹲りながら、もう一度暗がりに目をやる。
そこは、何の変哲もない薄暗く狭い、ただの路地だった。
あれほど感じていた張り詰めた冷たい空気は跡形もなく霧散し、周囲には重く暑い夏の大気が満ちている。いや、そんなものは最初からなかったのか。
(気のせい、だよな)
どうやら、本当に幻覚だったようだ。天井の染みを長時間見ていたら顔の形に見えてくるようなものだろうか。だとしたら、そんなものにビクビクしていた自分は物凄く恥ずかしい奴なのでは……。
「なにしてるの、置いてくわよ!」
まだ耳鳴りが収まらない頭を抑えて立ち上がると、シャナが今度は鍋を投げようと振りかぶっていた。しかも土鍋だ。そんなものを投げられては、今度はコブどころではすまない。
「行くよ、行くってば!」
慌てて転がっていたヤカンとブルートザオガーを拾って走る。異様な影の存在は、すぐに頭から忘れ去られた。


 ‡ ‡ ‡


悠二たちが立ち去ったのを見計らったかのように、突如裏路地の暗闇が揺らぐ。闇が表面を波立たせたかと思うと、しゅるりと布の擦れる音と共に“翻った”。

そこから、じわりと滲み出るように、少女が現われる。

給仕服を着込んだ年端も行かぬ少女は、しばし悠二たちが立ち去った方向を何の感情も見出せない表情で見つめていたが、すぐに眼を逸らして白銀の棒をアスファルトに突きたてた。長大なそれは、一美が公園で目撃した宝具『メケスト』の忠実な贋作だ。
そして、少女が身を隠していた外套は、紅世の徒『吼号呀』ビフロンスの持つ隠密用の宝具『タルンカッペ』であった。その紅世の徒は、やがてシャナと坂井悠二が対決することとなる敵であったが、もちろん“この時間の坂井悠二”はそんなことは知る由もない。知っているのは、少女だけだ。

ゴリッと鈍い音と共にメケストが引き抜かれる。アスファルトに穿たれた深い穴に、微かな紫電が走る。機能をし始めた証拠だ。
「まだ、足りない」
少女が掠れた暗い声で呟く。

目的を確実に達成する算段は、着々と滞りなく実行されていた。仕上げももうすぐ完了するだろう。後は、時間を待つのみだ。

ずるずると身体を引きずるように、少女は再び暗闇へと戻っていく。再び布の擦れる音。
次の瞬間には、少女の姿は闇に溶け完全にその姿を消していた。


 ‡ ‡ ‡


「姐さん、これってなんですかね?」
マージョリーから玻璃壇の使用方法を教わっていた佐藤啓作は、ふと今までそこに存在しなかったはずの光が点滅していることに気づいた。マージョリーが「あん?」とさも面倒くさそうに眉を顰めながらその光点を一瞥する。
御崎市の全景をミニチュアのようにして投影する監視用の宝具『玻璃壇』。その玻璃壇に映る中央公園の辺りで、目を凝らさなければ見過ごしてしまいそうな小さな光が点滅していた。
「ああ、カムシンの『調律』の跡でしょ。『探耽求究』がいじって台無しにしちゃったやつの残骸がいくつか残ってるのよ。気にしなくても、すぐに消えるわ」
「でも、これついさっきまでなかったんですよ。変ですよね?」
そう言われるとたしかにそうである。歪められた現世の姿を正しく修正するために、カムシンによって地脈に手が加えられて作られた自在式は、ほとんどがすでに自然消滅している。それが再び勝手に活性化するなどありえない。誰かが再び操作したのならありえるだろうが、そんな技術を持ったフレイムヘイズは限りなく少ない。
「あんたが見過ごしてたんじゃないのぉ?」
「ひーっはっはっはぁっ!酒の飲みすぎで脳みそまでアルコール漬けになっちまったのかもな!?」
それを言われると啓作は反論できない。事実、まだ二日酔いの痛みは抜けきっておらず、時折こめかみに刺すような痛みが走る。ううむと唸りながら、啓作は自分の不甲斐なさを情けなく思った。
「でも、姐さん。その、俺も同じような光を見つけちゃったんすけど……」
気まずそうな栄太の声に、二人がぎょっと振り返る。
栄太の指差す場所、ちょうど啓作の家の近くで、弱々しいけれどもたしかに光が点滅していた。
これにはさすがの楽観的なマージョリーも不可解に思った。よく見渡せば、そこらじゅうで小さな光がチカチカと同調して点滅している。

調律の影響が抜けきってないのかもしれない。カムシンがしくじることなどありえないだろうが、今回は『探耽求究』に調律に使用した自在式を勝手に改造されて悪用されたため、なんらかの影響が残っているのだろう。だが、あまりに弱々しい光は消えかけの蝋燭の炎のようで、この世に与える影響など皆無に等しい微弱なものだ。

フレイムヘイズの中でも一際自在式に秀でているマージョリーは、そう判断した。
「一応見張っときなさい」と二人に告げて、マージョリーはふと『白銀の討ち手』サユのことを思い出す。
サユの気配はもう感じられない。すでにこの街を旅立ったのだろう。本人もそうすると言っていた。

では、この体の芯から沸き起こる不安感はいったいなんなのか?
サユが残した手紙の最後の一文を思い出す。
(あれはいったい……?ああ、もう!イライラするわね!)
考えれば考えるほどに頭が痛くなる。すっきりとしないモヤモヤした感情に、ガリガリと髪の毛をかき乱した。


マージョリーは気づけなかった。

光点は、たしかに一つだけでは限りなく微弱な力しか持たない。

だが、明確な意思を持って操作されたそれらは、地脈を通じて根を張るように互いを繋ぎあい、地下に巨大な紋様を描き始めていたのだ。

また一つ、啓作と栄太の死角で光が増える。そして、玻璃壇には映されない地下で、ゆっくりゆっくりと根を繋いでいく。

その時・・・が訪れるのを、じっと待ちながら―――――――



[19733] 3-2 伏線
Name: 主◆9c67bf19 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/31 01:56
「このッッ、ヘンタイ悠二ィイイ―――ッッ!!」

「やっぱりこうなると思ってあわびゅ―――!!」

ブーメランのように回転する鍋の蓋が腹部を直撃し、僕は世紀末じみた悲鳴を発しながら後方へ吹っ飛んだ。

「デリカシーのないミステスなのであります」
「汚物消毒」

「僕は、無実だ……げふっ」

なぜこんなヒャッハーな事態になったのかというと、シャナとヴィルヘルミナさんが購入してきた生活用品を仕舞おうと何気なく押入れを開いたら、無造作に放り込まれていたシャナの下着が頭の上に降ってきて、それをシャナにバッチリ目撃されたからである。
完全に不可抗力だし、元はと言えばシャナが丁寧に仕舞っておかなかったことが原因だと反論したが、シャナお得意の「うるさいうるさいうるさい」と鉄拳のアンハッピーセットで黙らされた。

シャナの家(元は平井ゆかりさんの家だが)に着いて早々、ヴィルヘルミナさんは本来の来訪目的―――『御崎市から紅世の痕跡を消し去る工作活動』の労務に追われることになり、シャナはその補助を担当した。結果、猫の手にもなれない僕は部屋の掃除や荷物の整理、ヴィルヘルミナさんが持ち込んだ資料の大まかな分別などの雑務一切をすることとなった。
シャナは掃除が苦手らしく(というか、根本的に掃除の必要性を理解していないように思えた)、シャナが使用している箇所以外は全て埃がうず高く積まれているという、およそ女の子の部屋とは思えない惨状だった。さしものヴィルヘルミナさんもこれには頭を抱えていた。シャナの教育を行ったのは彼女らしいが、もしかしたら掃除については教えていなかったのかも知れない。

そんなこんなで、全てが粗方完了した時にはいつのまにか日を越えるまであと数時間という時間になってしまっていた。

母さんには予め連絡しておいたから心配はされないと思うが、あまり夜遅く帰宅するとさすがに怒られてしまう。夜中まで女の子の家にいるのも気恥ずかしいし、ヴィルヘルミナさんの視線もなぜか怖いままのでそろそろ帰ることにした。

「それじゃあ、また明日。お休み、シャナ」
「うん。今日は自主鍛錬ってことにしてあげるから、忘れずやっておいて」
「わかってるよ。ちゃんとやっておく」
(腕立て伏せと腹筋の回数を増やそうかな)
帰ってからの筋トレの内容を考えながら、靴ひもを結んで立ち上がる。

今夜のシャナとの鍛錬は休みだ。
昨日の襲撃もあって襲撃を危惧していたアラストールも、半日様子を見た結果、警戒度を下げても問題無しと判断したのだ。それに、ヴィルヘルミナさんを加えた三人の豪傑が集結した今、僕を襲いに来ることは敵にとって自殺行為になるのだそうだ。

アラストール曰く、

『坂井悠二は囮のようなものだ。囮に噛み付いたが最後、我ら炎髪灼眼、万条の仕手、そして弔詞の詠み手の三者から袋叩きに合う。また、この三者を抑えた上で坂井悠二を襲おうとするなら、相当の強者を揃えなければならない。この場合、強者を集結させる動きがあれば、たちまち外界宿(アウトロー)の情報網に察知され、復讐に燃えるフレイムヘイズたちの攻撃が集中するリスクを負う。どちらにしろ、自殺に等しい犠牲を払わなければならない。昨日の“風雲”が良い見本だ』

……だとか。

(殺されるのがわかっていて襲いに来る奴はよほどのバカで、対策を講じて襲いに来る強い奴らは必ず尻尾を掴ませる、ということかな)
アラストールの分析に感心しつつ、悠二は自分なりに噛み砕いて納得する。『他人から与えられた情報は自分で納得できるまで信用に値しない』。これは数々の戦いをくぐり抜けて悠二が自力で学んだことだ。

「ん。それじゃあ、また明日」
シャナが頷く。淡白な返答だけど、別れるのが残念そうに唇を小さく尖らせる顔を見られれば十分だ。その初々しい仕草に微笑を返すと、ブルートザオガーの皮袋を肩に担ぐ。

そして、この大剣を譲ってくれた佐藤と田中の話を思い出す。


(―――なんかサユちゃんに似てるなって思ってさ)

(―――この街に来た新しいフレイムヘイズの女の子だよ。シャナちゃんそっくりなんだ)


「あ、」
「どうかした、悠二?」
八極拳で投げられたり、変な幻覚を見たり、ヤカンが頭に命中したりと相次いで衝撃を受けたため、新しいフレイムヘイズのことが頭からすっぽ抜けてしまっていた。フレイムヘイズが増える分には問題はないだろうと心のどこかでタカをくくっていたのも否定できない。
(一応、聞いてみるか)
新しいフレイムヘイズの来訪をシャナたちが知らないはずはないと思うが、念のためにそのフレイムヘイズについて尋ねてみる。
「そういえば、シャナとアラストールは“サユ”ってフレイムヘイズを知ってる?」
こちらの唐突な質問にも戸惑うことなく、シャナは小首を傾げて記憶を探る仕草をする。しかし、その首は僕の予想に反して横に振られた。
「私は知らないわ。サユって器となった人間の名前でしょ?称号や契約している王の名前はわからないの?」
「うむ。我ら討ち手は基本的に称号を使う。人間だった頃の名前に関しては周知してはいない」
まさか、シャナたちが気づいていなかったとは。
目を見張り、そういえばそのフレイムヘイズについての情報をほとんど持っていないことに今更になって気付く。シャナたちなら知っているだろう、という思い込みからくる上辺だけの安心感が、情報への探求心を押し潰していたのだ。
なんでいつも大事なことを聞きそびれるんだ、と過去の己の不甲斐なさに悔恨を感じて臍を噛む。これが、もしもフレイムヘイズではなく徒や王だったら取り返しの付かないことになっていたかもしれない。
「いや……。佐藤たちからは名前以外は聞いてないんだ。ごめん。ただ、シャナによく似てるらしいってことしか」
「えっ?私に?」
これにはさすがに戸惑ったのか、目を丸くして驚く。
「そんなフレイムヘイズがいるのなら聞いたことがあると思うんだけど……。アラストールは知らない?」
シャナが胸元のペンダントに問う。紅世に関するあらゆることを知悉している魔神なら、その討ち手に関して何か思い当たることがあるかもしれない。シャナはすぐに返ってくるであろう答えを信じて待つ。

「――――――――――」

「アラストール?」
しかし、魔神は答えない。答えあぐねているのでも、答えるのを面倒臭がっているわけでもない。その息が詰まったような切羽詰まった無言に、僕は背筋が冷えるものを感じた。

紅世最強の破壊神が、認めることを拒んでいる・・・・・・・・・・・

なにを、という主語を欠いたまま、冷たい不安だけがじわじわと心を侵食していく。
かつて、これほどまでにアラストールが動揺したことがあっただろうか。僕の記憶にある限り、この魔神が言葉も出ないほど驚愕したことなど一度足りともない。
それはシャナにとっても同じだった。絶大な信頼をよせる、師であり父親であるアラストールが見せる“知らない顔”に目を見開く。

「アラストール、いったい  「天壌の劫火と、話があるのであります」  ッ!?」

不意に割って入ってきた声に、二人の心臓が同時に跳ね上がった。
(い、いつの間に!?)
正面にいる悠二すら気づけなかった。驚愕に肩を跳ね上げて振り返るシャナの背後に、まるで最初からそこにいたかのようにヴィルヘルミナが静かに佇立していたのだ。音も気配も伴わずにシャナほどの手練の背後に移動するという、幾多の戦いをくぐり抜けた者だけが到達する至高の粋に達した所作に改めて畏怖を覚える。

しかし、余人では到底真似できない動作を平然と見せつけた猛者の表情は、今は目に見えて曇っている。
親を見失った幼子のような顔で彼女を見上げる、シャナのせいだ。
「ヴィルヘルミナ、今、なんて、」
そう、ヴィルヘルミナさんは“天壌の劫火と話がしたい”と言ったのだ。それはシャナに対して暗に「席を外せ」と告げている。恩師からのその言葉は、シャナには戦力外通告に聞こえただろう。

衝撃を受け、いつになく不安気な声を発したシャナを前に、表情のないヴィルヘルミナさんの双眸が微かに揺れ、苦渋の色をうっすらと宿す。
「あなたに不備はないのであります。これはひとえに、我らと天壌の劫火が抱えるべき問題なのです。しかし、いつか必ず、全てを打ち明けるのであります」
「理解、懇願」
一息に言って、一人と一体はじっとシャナと正体する。これ以上は言えない、と態度で示している。
「でも……!」
会話すら拒否し、取り付く島を一切見せない自らの養育者に、なおも納得が行かず子どものように食い下がるシャナを押し留まらせたのは、思わぬ“謝罪”だった。
「すまぬ、シャナ」
「アラストール!?」
「今はまだ、話せぬだけなのだ。これは我らの覚悟の問題だ。時が来れば、必ず話そう。我が真名に誓う」
「―――っ―――」
天壌の劫火の真名を担保にかけるとまで言われれば、さしものシャナもそれ以上踏み込むことはできない。傍から見ても卑怯な物言いだと思った。つまり、そういう物言いをしなければならないような案件が発生したということだ。
眼前で繰り広げられる急展開についていくのがやっとの悠二の前で、シャナが再びヴィルヘルミナに疑念の視線を戻す。何か言いたげなシャナと、頑として不回答を貫くヴィルヘルミナ。互いに目の底を覗き合う時間が数秒すぎ、

「……10分で戻る」

折れたのはやはりシャナの方だった。小さく呟かれた言葉と共に、その背で燃えていた不条理への怒りや疑問が見る間に萎えていき、諦念へと移ろいでいく。強張った背中が、常よりさらに縮んで見えて痛々しかった。
「……話してくれるまで、待ってるから」
そう言うと、アラストールの意思を表出させる首飾り――――コキュートスを首から外してヴィルヘルミナに預ける。
除け者にされた、などとは思っていないだろう。こういう時、理性的なシャナは何よりもまず己の力不足を責める。だが、もっとも認めて欲しい相手に拒絶される痛みは、理屈を飛び越えて心に堪えるものだ。
下唇をきゅっと噛むシャナの表情にヴィルヘルミナの鉄面皮に一瞬ヒビが走るが、悠二の訝しむ視線に気づくと同時に修復される。この妙に鋭いミステスが、すでに眼前の展開に理解が追いつき、事態を見極めようと思案していることがわかったからだ。
「道中、お気をつけて」
「注意喚起」
「……うん」
お互いに平静を装った声を重ねると、シャナがさっと踵を返して悠二の脇を通り抜け外に出てゆく。俯く顔は影に塗り込められて見えないが、間違いなく困惑と悲哀で染まってしまっているだろう。
支えてあげなくては、という義務感が衝動となって背中を叩き、悠二は慌てて後を追いかける。
「さようなら、ヴィルヘルミナさん、ティアマト―さん、アラストール。……僕が言えたことではないかもしれないけど、」
小さく振り返り、ヴィルヘルミナを見つめる。

「必ず、話してあげてください」

「言われるまでもないのであります」

即答してこちらを見つめ返すヴィルヘルミナさんの赤い瞳は、内奥に煩悶を湛えながらもそれを圧倒する強い決心の光を放っていた。
その光に一先ずの安堵を得ると、僕はシャナを追いかけて駆けた。



「ああいうことは、たまにあった」
合流して少し経ち、並歩していたシャナがぽつりと呟く。シャナらしかぬか細い声だったが、人通りのないおかげで聞き取りにくくはなかった。
「私がフレイムヘイズになる前に、アラストールとヴィルヘルミナとティアマト―が三人だけの内緒話をすることは、時々あった。それは私が完璧な炎髪灼眼の討ち手になるための会議だったし、私も未熟なままその話し合いに立ち入るべきじゃないと思ってた。でも、フレイムヘイズになってから隠し事をされたのは、これが初めて」
その声にも、表情にも、いつものような可憐な張りはない。
シャナは、彼女を育てたアラストールやヴィルヘルミナさんから、一人前の戦士―――『完璧なフレイムヘイズ』と認められたと自負していた。時には頼り、また頼られる対等な存在になれたと確信していた。それが他でもない育ての親たちによって覆されたことに、心の水面がひどく揺れているのだ。
寂しそうなシャナの独白を聞きながら、慰める言葉のない僕は黙って隣を寄り添い歩く。「そんなことはない」などという上辺だけの慰めをシャナが好かないことはよくわかっていたし、何より僕自身も困惑していたのだ。
フレイムヘイズは紅世の王と人間が文字通り一心同体になったものだ。隠し事は互いの関係を大きく悪化させるし、特に公明正大な性格のアラストールはそういうことはしないと思っていた。
(アラストールがシャナに隠すほどのこと、か)
それはいったい何なのかと考え、直前にアラストールが絶句したことが頭を過ぎる。
「もしかして、佐藤たちから聞いた“シャナにそっくりなフレイムヘイズ”と何か関係が?」
「私も同じことを考えた。でも、わからない」
「そっか……」
どのみち、ヒントが少なすぎる。先ほど何か掴めないかとヴィルヘルミナさんの表情を探ってみたが、歴戦の猛者相手には通じなかった。これ以上考えても詮のないことだ。それに、僕が関与してはいけないことかもしれない。踏み込んではいけない領域は誰にでもある。
それからは、お互い口を開くことはなく、静かに共に歩き続けた。誇り高い獅子は、傷を舐められることを望まないのだから。

「じゃあ、私はここで戻る」
5分ほど歩いたところで、シャナが立ち止まる。ここが折り返し地点だ。
こちらを見上げる清廉な瞳が、もう大丈夫だと告げている。下手な慰めの言葉は、この美しい戦士には不要だ。
「うん、わかった。おやすみ、シャナ」
「おっ、おやすみ、悠二!」
安心したこともあって、僕は満面の笑みを浮かべてシャナに別れの挨拶をすると、その場を後にする。
後には、唐突に満面の笑みを向けられて顔を赤熱させるシャナが残った。何時の時代も傷心の女心を癒すのは恋人の屈託の無い笑顔なのだ。


その様子を、漆黒の少女が食い入るように見つめている。


 ‡ ‡ ‡


「言われるまでもないのであります」
反射的に飛び出した言葉に自分でも驚いている内に、ミステス―――“いや、坂井悠二”は満足そうな表情であの方を追いかけていった。
(必ず話す。しかし、どのように話せば?)
愛する少女を傷つけてしまったことを自覚するヴィルヘルミナは、心中で激しく自問自答する。
具体案もないのに坂井悠二に言明してしまったのは、彼女の悪いクセ―――“意地”が働いたせいだ。感情を無理やり抑える術しか心を統べる方法を知らないヴィルヘルミナは、一度感情が制御の手から離れたら持て余してしまうことがしばしばある。
今回の場合は、“悪い虫”から思わず確信を突かれたことが癇に障り、お前に言われるまでもないとこみ上げた感情を声にしたのだ。

ヴィルヘルミナは、坂井悠二を少女についた悪い虫だと思っていた。しかし、当初抱いていた“ミステスに過ぎない単なるモノ”という認識はすでになく、今は坂井悠二という人格を持ったヒトであると不本意ではあるが容受していた。それは、つい昨日に坂井悠二のサポートによって極めて迅速に紅世の王を討滅したという事実と、“フレイムヘイズによる背後からの攻撃を鋭敏に察知し、吹き飛ばされながらも瞬時に受身をとった”という戦闘練度の高さを目にしたことに起因する。シャナが手心を加えたことを差し引いても、流れるような摔法は修練を施したヴィルヘルミナも唸るほどの達人級の冴えを見せていた。悠二はそれに見事に対応してみせたのだ。
シャナと悠二は、ヴィルヘルミナに無様な姿を見せてしまったと後悔していたが、彼女にとっては驚愕に値する成長結果であったのだ。

(……無能なミステスであったなら、すぐさま一刀の元に切り伏せられたのであります)
零時迷子に封印された恋人を探す友人―――『彩飄』フィレスの件もある。何の価値もない存在ならさっさと破壊して中身の零時迷子を無差別転移させるつもりだった。
だが、“人材”となれば無闇に破壊することはできない。昨晩のフレイムヘイズのみによって行われた会議の場でも、不愉快にも悪い虫に恋々とした想いを抱いているらしい少女だけならともかく、ヴィルヘルミナが大きな信頼を置く数少ない戦友の一人、アラストールすらも「破壊するには惜しい」と擁護した。決して凡愚市井などではなく、敵の謀りを見抜き、反撃の手管を描いてみせる才能は天賦のものであると。
(あの方が変容していく様子をもっとも長く近くで見ているくせに、どうして)
事実、こうして心中で八つ当たりをしているヴィルヘルミナ自身も、“葛藤による怒りの矛先を逸らす対象”にするほどに坂井悠二のことを無意識に認めていた。

この世界では、『風雲』ヘリベといったイレギュラーの襲撃者の存在や、坂井悠二の成長速度が若干速いという誤差によって、ヴィルヘルミナが坂井悠二の存在を是認する時期が非常に早くなっていた。
それでも、“かつて恋に敗れた女”としての感情が彼女を素直にはしなかった。

(何も知らないくせに、必ず話せだなんて一端の口を聞くなんて―――)

「ヴィルヘルミナ・カルメル」
「主題集中」

「……む、」

玄関で黙りこくった戦友の思考が逸れ始めたことを察した二人の王が短く戒める。ヴィルヘルミナ自身も、無自覚ながら坂井悠二を出しにして心の紛擾から目を逸らそうとしていた自分に気付いて己の精神の未熟を恥じた。

気を取り直すためにも、話し合いの場をリビングへ移す。
初見した際には廃墟の如き惨状だったリビングが、今ではなんとか普通の家庭並みの生活環境程度には回復した。机に床に埃がうず高く降り積もり、天井角には蜘蛛の巣が引っ掛かっているような目を覆う状況には、綺麗好きを自負するヴィルヘルミナもさすがに失神しかけたが、ヴィルヘルミナとシャナ、そして坂井悠二が協力したことで体裁は整った。
(……一応、感謝はするのであります。あくまでも心の中で、でありますが)
ここでも坂井悠二の存在を思い出すことになるとは、と鉄面皮の下で苦々しい表情をしながらも、悠二の助力がなければほぼリフォームといってもいい大改装を一日で成し遂げることは難しかったことを認め、不本意ながら感謝の念を浮かべる。
初めて平井家を訪れたらしい悠二が、「はは、女の子の部屋って凄いっていうもんね、はは」と引き攣った笑顔を見せなければ、赤面するシャナが掃除の必要性を痛感して本気で取り組むことはしなかっただろう。基本的に不老不死であるフレイムヘイズに生活環境の劣悪さは関係ないとはいえ、掃除くらいは教育しておくべきだった。ヴィルヘルミナが怠ってしまった教育を補ったのが坂井悠二の一言となった事実は、結果論だったとしても非常に不快なことではあったが。
“役には立つだろうが、色々と不安も残る。”
ヴィルヘルミナは坂井悠二をとりあえずこう評し、位置づけることにした。

(―――そういえば、)

不意に、既視感が額を走った。
そういえば、かつて“あの討ち手”にも同じような評価を下したことがあった、と。

劣勢に立たされた兵団の前に突如として現れた、異能の討ち手。
討ち手としての張り詰めた緊張感を湛えながら、討ち手らしくない他者への思いやりを忘れない優しい瞳をした少女―――。

唐突に、その瞳が坂井悠二の瞳に重なった。

(何を、埒も無いことを考えているのでありますか、私は)
あまりにも馬鹿馬鹿しい妄想に足を踏み込みかけたことを瞬時に後悔し、今度こそ坂井悠二のことを頭から切り離す。今はそれよりも話しあうべき重大な案件があるのだ。あの方を傷つけてでも話し合わなければならない、三人にとってとても大事な“仲間”の話が。

自らの契約者の心中に区切りがついたことを確認したティアマト―が端緒を開く。
「相談必須」
「うむ」

「では、協議を始めるのであります。


我らが戦友・・・・・白銀の討ち手・・・・・・について―――――」





[19733] 3-3 激突
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/14 00:26
「なんだか、寒いな」
人気のない寂寞とした一本道を歩きながら、悠二が肩を擦って呟いた。

夏真っ盛りだというのに、吹いてくる風は夜気に冷え切っていてやけに肌寒い。空気は重く澱み、身体に纏わりついてくるようだ。空を見上げると、夜の闇には星一つなかった。頼れるのは、心細い街灯だけだ。
「―――?」
唐突に、頭上からブツンという耳障りな何かが千切れるような音がした。同時に足元を照らしていた街灯の灯りが消え失せる。
街灯の電球が潰える瞬間に立ち会った経験は初めてだった悠二は、珍しい体験をしたと街灯を感慨深げに眺め上げた。別に帰り道の街灯すべてが消えてしまったわけではないし、怖がる必要もない。もとより、紅世の存在などを知ってしまった悠二は幽霊や妖怪などの類のものは怖いと感じなくなっていた。
さて、早く帰らなければ母さんに怒られる。母さんは怒鳴って口やかましく怒ることはないが、怒る時は静かに強く怒る。けっこう怖い。
早足で帰ろうと、街灯が白々しく照らし出すアスファルトに強く一歩目を踏み込み、


――――――ブツン、ブツン、ブツン


「え?」
背後で立て続けに街灯が消える音。振り返ると、自分が歩いてきた路地は暗黒と化していた。押し潰してくるような闇の壁に思わず後ずさり、


―――――ブツン、ブツン、ブツン、ブツン、ブツン、ブツン―――――


一本道の街灯すべてが、次々と灯りを失う。
気づけば、視界すべてが濃密な黒一色に塗りつぶされていた。

停電でも起きたのかと慌てて周りを見渡す。だが、それにしては様子がおかしい。周囲をどれだけ見渡そうとも、指先一つほどの光すら見つけることができない。それどころか突然の停電に狼狽して焦る人々の喧騒すら聴こえてはこない。
封絶が張られた気配は感じなかった。ならば、この静寂はなんなのか。
時が止まったかのような不気味な静けさに、悠二はごくりと息を飲む。

その静謐を、がりがりと硬質な何かを引きずる金属音が破った。ぞっとするほど冷ややかに耳に忍び込んでくるその音は、だんだんとこちらへ近づいてきている。

「……誰?」
言いようのない悪寒に貫かれながら、それでも問う。応えは返ってこない。
ついに音源がすぐ目の前まで迫る。五歩ほどの距離をおいて、何かが地を這う音はぴたりと止まった。闇の中に同じ闇色をした輪郭がぼんやりと見え、じっと目を凝らす。だが、見れば見るほどにその影は細部がぼやけ、ますます不鮮明になっていく・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それはまさに、昼間に見た異様な風体の影そのものだった。

「お前は、誰だ」
意を決し、今度は声を張って呼びかける。

「―――『白銀の討ち手』」

返ってきた声に、悠二は驚く。
初めて耳にしたはずのその声は、聴きなれた少女の声――― つい今しがたまで会話していたシャナにそっくりだったからだ。

影が揺らぎ始める。霧が晴れるように、声の主を塗り潰していた闇が薄れてゆく。暗闇に馴れていく視界で、ついに声の主の姿が露わになった。
黒い外套を羽織り、顔を俯けてはいるが、悠二にはそれが“シャナそっくりの姿をした何か”だということがすぐにわかった。昼間に佐藤と田中に聞いた、シャナによく似たフレイムヘイズの話を思い出す。
「もしかして……君が、サユさん?」
返事はない。それは肯定の意味だと悠二は受け取った。

一歩後ずさり、身構える。楽しく会話をしに来たようには到底見えなかった。少女の身体から発せられる研ぎ澄まされた負の波動は、触れると切れる鋭利な刃物を連想させる。
フレイムヘイズが僕に何の用があるのかと疑問に思うが、答えは一つしか思いつかない。胸を守るように押さえ、サユを睨みつける。フレイムヘイズに零時迷子を狙われるのは初めてだった。理由を聞きたかったが、そんな押し問答をする意思があるようには思えなかった。
自分がフレイムヘイズ相手にどこまで戦えるか―――はっきり言って絶望的だ。だけど、ここはシャナの家からさほど離れていない。戦闘が始まり、その気配を察知したシャナが駆けつけてくれるまで抵抗し続ければ、勝機は自ずと見えてくる。

「―――シャナが助けに来てくれるまで堪える、か?」

背筋を掻き毟られるような、押し殺した声。思考を簡単に読み取られ、悠二は驚愕を露わにして目を見張る。しかもこのフレイムヘイズは、シャナという親しい者たちしか口にしない名前まで知っている。
小さな嘲笑が静寂に満ちた空間に響く。シャナと同じ声のはずなのに、それはやつれ果てた亡霊の呻り声のようだった。

「残念だけど、それは叶わない」

吐き捨てると、引きずっていた白銀の鉄柱を勢いよく振りかぶり、アスファルトに突き下ろす。アスファルトの表面を砕き、鉄柱はその三分の二ほどを地中に埋めた。


そして、それは“発動”した。


突き立つ鉄柱を起点に、葉脈のような光の筋が蜘蛛の巣状に広がる。それは悠二の足元を一瞬で通り過ぎ、街中に拡大していく。
地上にいる悠二には見えないが、上空からこの様子を見ていた者がいれば愕然となったであろう。光の筋は街のありとあらゆる場所に伝播し、そこを中間点としてさらに稲妻のように拡がり、ついには地表に幾重にも重なった巨大な五芒星を描き出した。
光が中間点としたのは、宝具メケストの贋作によって地面に穿たれた自在式である。カムシンの作った自在式の残骸を利用して作られたこの五芒星は、作り主の目的を達するために必要な舞台を形成する。
五芒星が、白日の如き銀色の光輝を屹立させる。人造の光を嘲笑うかのように圧倒的に輝く明光が天を突き、光の壁を造って内部の空間を隔離した。
それは封絶に似ていて、しかし封絶ではない。封絶の数段上を行く、地脈を利用した強力で容赦のない“隔絶結界”だった。
「な……!?」
威圧的にそびえる光の壁を見上げ、絶句する。理解したくなくても、せざるを得ない。
今、この瞬間、悠二はシャナから隔離されたのだ。

「坂井、悠二」

耳元で囁くような少女の声。反射的に振り返ると、いつの間に近づいたのか、すぐ目の前にサユのかおがあった。
端然たる美貌は死人のように凍りつき、見る影もない。悲しみと嘆きにやつれた無表情の中で、ただ昏い光を放つ双眸だけが爛々と燃えている。

見下ろすほどに低いはずの矮躯の少女に、悠二は例えようもないプレッシャーを感じて動けなかった。焦燥の汗が額から滲み、顎を伝い落ちる。

「零時迷子―――貰い受けるぞ」

地の底から湧いたような声。怯えて一切の動きが取れない悠二の胸に、サユの手が迫る。


 ‡ ‡ ‡


「あ、姐さん、これって、」
「で、でけぇ……」

「なによ、これ……」
玻璃壇に映し出された巨大な五芒星の結界に、マージョリーは呆然と呟いた。封絶など足元にも及ばない、その土地に流れる地脈の力場を応用した強固な隔絶結界。並みのフレイムヘイズはおろか、自分ですら破ることは難しい。
誰がどうやってこんなものを。よほどの知識と専用の宝具がなければこの結界は成し得ないはずだ。

思い当たる人物は、一人しかいなかった。
記憶にある宝具を贋作し、その宝具の過去の使い手の知識を吸収できるフレイムヘイズ。

「サユ……!」
臍を噛み、駆け出す。
マルコシアスを勢いよく窓から放り投げると自らも身を投げ出し、マルコシアスに飛び乗って飛翔した。背後から説明を求める佐藤と田中の声が聴えたが、後回しだ。

マージョリーの直感は当たった。サユは、何かとんでもないことを仕出かすつもりだ。
手紙の最後の『ごめんなさい』が脳内で反響し、マージョリーをどうしようもなく焦らせる。
間違いなく、サユはこの結界の中にいる。穴を開ける方法を考えるが、“自分ひとり”では数時間はかかるだろう。ならば。

群青色の光芒が虚空に弧を描き、高速で空を駆けて行った。


 ‡ ‡ ‡


間一髪で、恐怖に竦む身に鞭を打ちもんどり打って地面に倒れこみ、受身の要領で瞬時に立ち上がる。たった数歩分だが、間合いを開けることができた。

『白銀の討ち手』サユが、背から刀を抜き放つ。白銀のそれはサユの身の丈ほどもあり、芸術的なまでの優美な反りを見せる。贄殿遮那に酷似した、白銀の大太刀だった。

一切の無駄のない動きで大太刀が大上段に構えられる。このまま振り下ろされれば、自分は間違いなく真っ二つにされる。
「くっ!」
背のブルートザオガーを渾身の力を込めて振りぬくのと大太刀が脳天に向かって振り下ろされるタイミングはまったく同じだった。
まるで重機による鉄槌の一撃を喰らったかのような凄まじい圧力が剣を圧迫し、全身を軋ませる。分厚い皮袋も、刀身に何重にも巻かれていた布も、たった一度の一合でバラバラに散逸した。鎬を削る剣と刀が火花を散らせる。
歯を食いしばって鍔迫り合いに堪えるが、すでにこの身は至るところから悲鳴をあげている。関節がミシミシと鈍い音を上げ、膝がガクガクと震える。
やはり、フレイムヘイズを相手にするには僕ではあまりに未熟すぎる。何もかもが圧倒的に不足している。勝敗を競うことすら愚かしい。それでも―――!!

「あああああッ!!」

裂帛の気合を込めて吼える。存在の力が全身を荒れ狂い、腕を伝い、手を介してブルートザオガーに流れ込む。大剣の刀身が唸りをあげて震動し、大太刀とその持ち手を弾き飛ばした。その反動で僕自身も後方へ弾かれるが、間合いが開けて逆に好都合だ。

痺れる腕を叱咤して、ブルートザオガーを正眼に構える。
剣術はシャナから毎朝毎晩の鍛錬でみっちり教え込まれたが、まだまだシャナに傷ひとつつけられていない。素人に毛が生えたようなものだ。でも、やるしかない!

弾き飛ばされたサユは何事もなかったかのように地表に着地を決めていた。
だが、羽織っていた外套もその中に着ていた濃紺の給仕服もところどころが無残に裂けている。俯くその顔から弱い粘性を帯びた赤い液体が次々と滴り落ちる。
この剣と触れた敵は、たとえ武器を介した間接的な接触でもダメージを負うことになる。シャナもブルートザオガーを縦横無尽に振り回して戦う『愛染自』ソラトとの戦いで苦戦していた。接近戦を得意とする者相手に戦うのなら、この剣ほど最適なものはない。
この剣を今日渡してくれた田中と佐藤に感謝する。
乱れた呼吸を鎮め、眼前の相手の一挙動一投足まで見逃さないように意識を集中し――――かたかたと乾いた金属音が鼓膜を突きぬけ、脳を冷ややかに貫いた。

サユの双肩が漣のように震えている。それは、大太刀が細かく震えて発せられる音だった。軋るような、啜り泣くような声が俯く顔から漏れる。サユが総身を痙攣させながら、抑えきれなくなった情念を漏らしている。
その情念とは、


―――なんで、笑ってるんだ・・・・・・


悠二の背筋を悪寒が奔り抜ける。
思考ではなく本能の域で、恐怖が湧き上がってくる。身が竦むのを理性でなんとか防ぐが、内心の震えは止まらない。

ゆっくりと俯いていた顔が持ち上がる。頬に真一文字の傷を走らせおびただしく流血させながら、だというのにその艶やかな貌には獰猛でひきつった笑みが浮かんでいた。

「そうか、お前はもう存在の力を使いこなせてきてるのか……」

何が嬉しいのか、シャナの声で楽しげに低く呟く。

「だったら、こちらも遠慮はしない!」

冷厳な殺意が解き放たれる。歓喜か狂喜か見分けがつかない凄然とした破顔に、悠二は背筋を固くした。

獣じみた眼光に見据えられ身を固くする悠二の前で、サユの衣服に変化が生じる。
じわじわと内側から染み出てくるように、サユの濃紺の給仕服が白銀に染まってゆく。存在の力を鋭敏に察知することのできる悠二は、その変化の正体を見破ることができた。サユの体内で沸々と湧き出る存在の力が衣服を侵食し、支配し、強化を施しているのだ。
白銀が強化繊維で編まれた給仕服の全てを飲み込んで、メリメリと音を立てて変化させ、ついにその全容を明らかにさせる。

華奢に走らず、無骨に落ちず、それは機能美と豪奢さを紙一重のバランスで両立させた戦装束だった。磨き上げられたかのように銀色に輝く鎧を各部に備え、その下に華美でありながら決して動きを阻害しない純白のドレスを纏っている。
猛々しくも流麗なその戦装束はシャナそっくりの可憐な容姿に見事に叶っていた。

しかし、決定的に足りないものがある。シャナの持つ華やかさと輝きを、目の前の少女は一切持ってはいなかった。見る見るうちに治癒されてゆく頬の傷の上で、冷然とした愉悦を浮かべた双眸が燃えている。

衣服をこれほどまでに変化させてなお余りある存在の力が轟然と唸る竜巻を引き起こし、サユを包む。竜巻の中心で、サユの絹のような長髪が、奈落のような瞳が、純白に染まる。それは清浄な色彩というより、あまりに純粋な闘志の塊に見えた。

その肩に轟と漆黒の外套が翻り、旋風に激しく靡く。


これが、『白銀の討ち手』の完全兵装だった。


度外れた圧倒的なプレッシャーに打ちのめされ絶句する悠二に、サユが大太刀の切っ先を真っ直ぐに突きつける。
その瞳は、限りなく獰猛で残忍な、全てを塗りつぶす“白”。


「さあ、坂井悠二―――力の限り、足掻いてみせろ」


 ‡ ‡ ‡


「――――見つけた」
封絶の気配を探していたマージョリーが地表を見下ろすと、そこには見慣れたフレイムヘイズが二人、封絶の中で常人には見えない銀色の光の壁を前に苦戦していた。

紅蓮の炎を纏った少女が大太刀の一閃を結界に叩き込むが、光の壁にはわずかな亀裂が走っただけだ。すでにその行為は何度も繰り返されているらしく、攻撃のたびに亀裂は少しずつ広がっているものの、少女の頭一つ分の隙間すら開いてはいない。しかも、その隙間は少しずつ修復されている。地脈のエネルギーが常に循環するこの結界は驚異的な自己修復機能を備えているため、力業でこじ開けるのは極めて難しい。だが、それで諦めるような少女ではないことはマージョリーも十分すぎるほどに承知していた。
これだけ必死になっているということは、この隔絶結界の中には十中八九坂井悠二が閉じ込められているに違いない。
その健気さに微笑を浮かべ、マージョリーは封絶に穴を開けると少女の元へ急降下し、金の髪を翻して降り立つ。
「ちびじゃり、そんなことしてもこの結界は破れないわよ」
「『弔詞の詠み手』!?」
少女―――『炎髪灼眼の討ち手』シャナが驚いて振り返る。必死すぎてマージョリーの接近すら察知できていなかったようだ。少女の隣では、『万条の仕手』ヴィルヘルミナ・カルメルが佇んでる。彼女はマージョリーの接近に気づいていたらしく、この事態に多少の戸惑いはあるようだが、視線を交わすとすべて把握していると頷きを返してくる。

「『弔詞の詠み手』、これがいったい何なのか、知っているようだな」
シャナの神器から聴こえる、アラストールの訝しげな声。これが隔絶結界であることは彼にも理解できているだろう。彼が聞きたいのは、“この事態が何者によって引き起こされたか”である。
もちろんマージョリーは知っている。が、答えるのは少し憚られた。まさか、この場で『未来の坂井悠二がフレイムヘイズになって過去に来ている』と説明するわけにもいくまい。あまりに突飛過ぎてこの堅物たちには理解できないだろうし、そもそもそんな時間もないだろう。

おそらくサユは、坂井悠二を閉じ込め、フレイムヘイズたちから切り離す目的でこの結界を作ったのだろう。その真意はわからないが、みすみす放っておくわけにはいかない。
「ええ、知ってるわ。だけどそれは後回し。今はこいつに何とかして穴を開けなくちゃね―――ヴィルヘルミナ」
「我々なら、この結界に数秒だけ亀裂を開けることができるのであります」
マージョリーの言葉をヴィルヘルミナが正確に引き継ぐ。シャナはそれだけですべてを把握した。
「その亀裂に私が飛び込めばいいのね」
相変わらず頭のいいちびじゃりだ、とマージョリーは不適に微笑む。ヴィルヘルミナも一見無表情ながら、満足げな微笑を浮かべる。二人の視線が交差し、タイミングを示し合わせる。次の瞬間、群青色の炎と桜色の炎が二人の総身を包み込んだ。
「ちびじゃり、言っとくけど穴はあんた一人が入るのが精一杯だろうし、その穴もすぐに閉じるわ!」
「つまり、我々はすぐに加勢にいけないのであります」
世界に名を馳せる古兵(ふるつわもの)のフレイムヘイズ二人でさえ、この結界にはシャナ一人が通るだけの隙間しか開くことはできない。だが、シャナにはそれで十分だった。力強く頷き、炎の翼を拡げて身構える。
それを確認したマージョリーとヴィルヘルミナが身に纏う炎の勢いをより一層激しく燃え立たせる。
「ヒィーハーッ!派手にかまそうぜ、『夢幻の冠帯』ィ!!」
「委細承知」
マルコシアスとティアマトーの力強い応酬に弾かれるように、二人のフレイムヘイズが渾身の力を込めて、貫通力を極限まで高めた一撃を放つ。桜色のリボンの一撃と群青の爆炎が混ざり合い、巨大な炎の砲弾となって結界の壁に激突する。
さすがの結界も大破壊力を帯びた二人の攻撃には数秒も持たず、ガラスが割れるような音を立てて一メートル四方の穴を開けた。その向こうには、空恐ろしいほどに虚ろな闇が立ち込めている。

紅蓮の双翼が大気を叩き、背後で爆発が起きたかのような速度をシャナに付加する。神速の速度で開いた穴を擦り抜ける瞬間、

「ちびじゃり、気をつけんのよ!相手はあんたにとって最悪の敵よ!!」

マージョリーの台詞が耳に入った。
最悪の敵、それがどうしたというのか。零時迷子を、悠二を脅かす存在ならば、それが何であっても問答無用で切り捨ててみせる。
「待ってて、悠二―――!!」
炎の稲妻と化した少女は大切な少年の元へ駆けつけるべく、暗闇の中へと飛翔した。


 ‡ ‡ ‡


なんという膂力、なんという速度。

受身をとることすらできずに地面に叩きつけられ、身体をバネのように跳ねさせながら、悠二は相手の力に畏怖を覚えた。
あまりに強烈な衝撃に手足が全て外れ落ちてしまったかのような錯覚に陥る。だが、痛みになら今までの数々の訓練や戦いで馴れている。常人なら気絶しかねない意識を焼けつくす激痛にも、悠二は懸命に堪えた。

足元に転がっているブルートザオガーを自分でも驚くほど機敏な動作で掴み、痛みを押して滑るような動きで立ち上がるとその勢いを殺さぬままに猛然とサユに斬りかかる。力任せの攻撃ながら、ブルートザオガーの重さも加わったその渾身の斬撃は分厚いコンクリートですら切り裂く威力を孕んでいた。
衝撃が腕に奔る。バットで鋼を猛打したような鈍い衝撃だった。
「ぐぅ……ッ!?」
果たして、悠二が力の限りを込めて繰り出した一撃は、サユの片腕の手甲だけで防がれていた。白い双眸が再び愉悦に歪む。
「お前、ボクより成長が早いな」
サユが何を言っているのか、悠二には理解できなかった。理解する余裕もなかった。存在の力を込めてブルートザオガーの本領を発揮しようと柄を握る力を強めるが、むざむざそれを許してくれる相手ではなかった。
サユがまるで羽虫を払うかのように無造作に腕を振る。それだけで、悠二の身体は大きくよろめいた。一回りも二回りも体格に差がある矮躯の少女に赤子のように翻弄され、悠二は歯噛みした。たとえ相手が物事の条理など簡単に覆す超常の存在だったとしても、悠二のプライドはズタズタに切り裂かれそうだった。
「あああッ!」
悔しさや怒りを剣に乗せ、もう何度目かもわからない一閃を放つ。
しかし、沸騰する心とは反比例するように剣の冴えは瞬く間に上がっていく。坂井悠二は危機的状況になればなるほど本領を発揮するという稀な特性を持っている。それが今、発揮されているのだ。
シャナとの鍛錬を思い出す。
地を踏む両脚の力に、腰の回転、肩の捻りを相乗させ、全身の瞬発力を総動員してこの一撃に集積させる―――!!

朗々たる金属の打撃音が鳴り渡る。
今度はさすがのサユも手甲だけでは防ぎきれないと判断したのか、大太刀を盾にして防御する。瞬時に弾き返そうと大太刀が動くが、それよりも悠二が剣に存在の力を装填する方が早かった。

バァン、と耳を聾さんばかりの凄まじい轟音がブルートザオガーと大太刀の接点から響く。銀の大太刀が真ん中から破断し、咄嗟に防御に回されたサユの手甲が砕け散る。たまらずサユが後方へ跳び退く。
剣を振りながら強い存在の力を剣に込めることに初めて成功した悠二は自身の成長に驚いた。しかし、それで油断などできるはずもなかった。今までのサユの攻撃に手心が加えられていたのは明らかだったからだ。

まるで自分を鍛えているようだ、と悠二は思った。事実、悠二は一合を交えるごとに自分が強くなっていると確信している。だが、そんなことをしてもサユには何のメリットもないはずだ。

何を考えているのか、と疑問に満ちた目でサユを睨み―――その姿がノイズのように掻き消えた。
白い輝きが視界を埋め尽くす。反射的に持ち上げた剣の刃に、いつのまに取り出されたのか新たな大太刀の刃が激しく重なり、拮抗状態に突入する。メキメキと不快な音を立てて刀身から火花が散る。これまでの攻撃とは段違いの圧力に人間の筋力しか持たない悠二が対抗しうるはずもなく。
「―――がッ!?」
後方に吸い寄せられているような錯覚に戸惑う暇もなく、石垣に背を思い切り叩きつけられる。耐え切れずに漏らした悲鳴も掠れた呻きにしかならなかった。激痛は喉の奥につかえたまま外に出て行かず、体内を激しく蠢く。
軋みを上げる身体に鞭を打ち、立つことすらおぼつかない身体を壁にしがみついてかろうじて支えて立ち上がる。
全身から血が滲んでいた。酷使しすぎた筋肉は限界をとうに超え、感覚すらない。気を抜けばこのまま昏倒してしまいそうな疲労感によろめきながら、それでも悠二は立ち上がった。

自分の弱さは嫌というほど痛感させられた。シャナがいなければどうしようもなく自分は無力だ。だけど―――だけど、諦めるわけにはいかないんだ……!

残されたわずかな力を振り絞り、腰を落としていつでも切り返せるように剣を構える。その見開かれた双眸には、不屈の精神が、戦士の魂が宿っていた。
その視線を真っ向から受けたサユの顔に、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、何かに安堵したような微笑みが浮かんだことに、悠二は気づけなかった。踏みしめる足が路面を穿つ轟音に、今度こそ自らの最期を覚悟したからだ。
それでも悠二は眼を逸らさない。捨て身の勢いで悠二も猛然と剣を振るう。

高速で交わる剣戟。一度だけ大太刀の攻撃を受けとめたブルートザオガーが悠二の手から遥か空中に弾き飛ばされる。返す刀で翻った銀色の剣閃が悠二の首に迫り、



空振った一閃の風圧が何もない空間を吹き荒れた。



風圧は間合いの遥か外の家屋の外壁を切り裂く。その家屋の屋根に、紅蓮の火の粉が桜の花のように美しく乱れ散る。


――― 力強く羽ばたく、激しく紅蓮に燃え盛る炎の翼。

――― 地獄から溢れ出したかのような業火に彩られる長髪。

――― 灼熱の闘志を宿し、眼前の敵を射殺さんばかりに怒りに燃える双眸。


見紛う事なき、最強のフレイムヘイズと謳われる『炎髪灼眼の討ち手』であった。

その足元には、力尽き倒れ付している悠二の姿があった。サユの大太刀が一閃するコンマ数秒の間に、超高速で飛来したシャナが悠二を助け出したのだ。
改めて悲惨な姿になった悠二を見て、シャナの双眸に猛々しい怒りの炎が宿る。

「なぜ、今になって……」
呻くようなアラストールの声。彼は、眼前のフレイムヘイズに対して覚えがあるようだった。だが、シャナにとってはそんなことは関係なかった。たとえ自分そっくりの姿をしていたとしても、悠二をここまで傷つけたことは絶対に許せない。

かける言葉などない。シャナの背に広がる双翼が、彼女の怒りを顕すように大きく羽ばたく。
怒りに燃える紅蓮の視線と冷ややかに凍った純白の視線が交錯する。


ここに、『炎髪灼眼の討ち手』と『白銀の討ち手』の熾烈極まる戦いの火蓋が斬って落とされた。



[19733] 3-4 苦戦
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/31 09:56
「久しいな、頑固ジジイ」

張り詰めていく空気の中、唐突に、地鳴りのように低い声が響いた。それに応えるのは遠雷のように低い声。
「『贋作師』……。貴様、今までどこで何をしていた」
「おかげ様で、1000年ほど前にあんたに大目玉を食らってから、ほとんど紅世に引きこもってたさ。だが先日、俺もようやく、相応しい契約者を見つけた」
「先日だと?いったい何を言っている、『贋作師』!貴様、500年間もいったいどうして―――」
「そっちこそ何を言っていやがる、ついに耄碌したか?こっちは早く零時迷子の贋作を創りたくて仕方が無いんだ。さっさとそこをどけ」
「なに……!?」
両者の互いへの認識には決定的な誤差が生じていたが、“零時迷子の贋作”という容認できない科白によってアラストールの意識は憤怒へと向けられた。
「あのような常軌を逸した宝具が増えれば世界のバランスがどうなるか、わからぬ貴様ではあるまい!何を考えている!?」
アラストールはかつて、テイレシアスによる無秩序な宝具の贋作を危惧し、雷を落としたことがあった。それは今回のような暴挙を未然に防止するためであった。
轟々と怒りに燃える少女の胸元にあっても、圧倒的な怒気で大地を震わせる迫力は魔神そのものだ。だが、それに飄々と応える紅世の王もまた、それで臆する者ではなかった。
「俺は贋作を創ることができれば、他のことなどどうなろうが知ったことではない。それに、我がフレイムヘイズも零時迷子を欲している。やっと手に入れた、俺の力を十全に引き出すことのできるフレイムヘイズだ。“些細なこと”で仲違いをしたくはないのでな」
「些細なこと、だと!?」

語気を荒げていく二人と同様に、対峙する紅蓮と純白の闘気が二人のフレイムヘイズの間で衝突し、緊張感は否応なく高められてゆく。
互いが互いを油断なく見据えながら、同時に大太刀の柄を握り締める。

「貴様ら……堕ちるところまで堕ちたか」
途端、地を底から揺るがすような豪笑が辺りに鳴り響く。
「何がおかしい、『贋作師』」
「いや、なに。“同胞殺し”を根っからの生業にする者が“堕ちる”などと平然と口にできるとは思わなくてな。それより堕ちる外道など、元よりありはしないというのに」

相対する自分と同じ姿をした敵から放たれる、身体を串刺しにする殺気。
互いが放出する高密度の闘気が周囲の光景を陽炎のように揺らめかせる。
必滅の大太刀の切っ先が対峙する敵を見据える。

「―――口で言ってもわからんようだな、偏屈者の小僧」
「ならどうする?頑固ジジイ」

会話が途切れた瞬間、放たれた闘気が大気を燃やし、互いの闘気の衝突点にある地面に巨大な亀裂を走らせる。

それを合図に、二人が同時に地を踏み砕いた。

大太刀が月を描く。
紅蓮の大太刀は炎の軌跡を上弦の月に、白銀の大太刀は氷の軌跡を下弦の月に。切り裂かれる大気の悲鳴が鼓膜を穿ち、地面を這うように煌く刃が地を両断する。極限まで鍛え上げられた鋼と鋼が爆発的な速度で激しく合間見えた。

その余波で、互いの胸の神器が激しく衝突する。恫喝の如き衝撃音に負けない怒声で、魔神と王が情念に身を任せて吼える。

「身体でわからせてやろう、『贋作師』!!」

「臨むところだ、『天壌の劫火』!!」


 ‡ ‡ ‡


紅蓮と白銀が拮抗する。火花を散らし、互いに押し潰さんと全力で鎬を削る。

その紅蓮を纏った少女、シャナは心のどこかで落胆に似た感情を覚えていた。
『弔詞の詠み手』に“最悪の敵”と言わしめたほどの相手だ。どれほどのものかと覚悟をして挑んだが、こうして刀を合わせていれば相手の実力が手に取るようにわかる。
この鍔迫り合いは互角に見えて、実はシャナの方が勝っていた。全力を出してこの拮抗を崩せば、すぐにでも大太刀を弾き飛ばして目の前の敵を斬り伏せられる。

そう、剣技だけならシャナの方が一枚も二枚も上手だということは明白だ。シャナの身体と贄殿遮那に蓄積された情報を得たとは言え、サユの剣技の実力はシャナに劣る。―――剣技だけなら・・・・・・

『白銀の討ち手』の漆黒の外套が一際激しく靡くのを視界の端で視認した瞬間、そこから一枚、銀色のトランプカードが滑り落ちた。スペードのA。シャナはその“宝具”に見覚えがあった。それは、『狩人』フリアグネが持っていた―――
「な―――!?」
見開かれたシャナの視線の先で、カードは無数に分裂していく。人知を超えたスピードで幾百幾千と増殖し、魚群のように高速で宙を舞う。
それは、フリアグネの有していたトランプ型の宝具、レギュラーシャープに他ならなかった。
レギュラーシャープは一枚一枚がまるで意思を持っているかのように華麗に宙を飛び回り、一斉にシャナに向かって襲い掛かる。鍔迫り合いの状態では防御ができない。回避行動に移ろうと慌てて大きく後ろに跳び退る。
「いかん、シャナ!」
悲鳴じみたアラストールの叫びに驚き、そして贄殿遮那に喰らいついた白銀の鎖にさらに驚愕した。これは、敵の宝具に巻き絡まり使用不可能にする、フリアグネの宝具―――バブルルート!
突然重量を増した贄殿遮那に、シャナの動きが一挙に鈍る。
「うっ!?」
「強引に断ち切れ!」
頭上からはレギュラーシャープの雨が降り注いでくる。迷う暇はない。
「はぁあああああっ!!」
全身全霊の力を込めて贄殿遮那を振るう。人間の域を遙かに超えた怪力と熱量が迸り、バブルルートはバターのように一瞬で融解する。刀身にへばり付いた残骸を一振りで吹き飛ばし、返す刀で頭上のレギュラーシャープに斬りつける。炎を付加された斬撃は破壊的な力の本流を生み出し、レギュラーシャープの群れを粉微塵と化した。
豪雨のような粉塵が辺り一帯を覆い隠し、視界を濃灰色に埋める。
「アラストール、今のは!?」
「『白銀の討ち手』の能力は『贋作』だ。一度目にした宝具をコピーし、使用者の経験も抽出できる。強敵だ、油断するな」
「……わかった」
アラストールと『贋作師』テイレシアス、そして自分にそっくりな契約者には、何か因縁があるようだった。しかし、今はそれについて追求をしている場合ではない。思考を逸したまま勝てる相手でないことはすでに悟っていた。
「自分の能力を完全に使いこなしてる。あいつ、強い」
どんなに精巧な贋物を造り、使い手の経験を抽出しても、必ずや技に劣化が生じ、齟齬が生じるのが道理だ。いかに経験を手にしようと、使い手がその身に刻んだ研鑽までは手に入れられない。だというのに、『白銀の討ち手』は繰り出す宝具をまるで四肢の延長のように何不自由なく操っていた。
「奴の贋作はオリジナルよりも強度が弱い。そこを攻めれば、勝てる」
頷き、周囲の気配を探りながら脳裏でパズルピースを組み合わせるように敵の一連の攻撃を冷静に分析し、対抗策を導き出す。
相手の強みは、多くの贋宝具によって多種多様かつ臨機応変な連続攻撃ができること。弱みは、贋宝具一つ一つの強度が低いために強力な一撃に踏み出せないこと。こちらが力技で押し切れば先のバブルルートのように簡単に破壊できる。先攻の出鼻を挫いて攻撃を連続させなければ、勝機は見える。力押しなら、負けない。

戦術は決まった。粉塵から抜け出そうと身体を前のめりにして駆け出し―――痛みに先んじた直感が、シャナを死地から救った。
「ッ!?」
直感に従い、全身の筋肉を使って半身を仰け反らせる。その鼻先を、粉塵を穿ち唸りを上げて白銀の剛槍が貫いた。肩口を浅く抉られ、風圧に前髪が幾房か千切れる。
槍を切断せんと贄殿遮那を振りかぶるが、持ち手の姿を見せない槍は瞬く間に刃圏から粉塵の闇へと姿を消す。
持ち前の高度な体捌きで瞬時に体勢を立て直し、夜笠を身体を包むように展開させて防御力を上げる。気休め程度だが、ないよりはマシだ。シャナの額にじわりと汗が滲む。
(気配は感じなかったはずなのに、どうして!?)
シャナは肉弾戦に特化している。相対する相手の動きを読み、気配を掴むことは彼女の得意とするものだ。どんな敵にでも動作の直前に気配が生じる。それさえ読めれば、シャナは相手の考えている戦術すらいとも容易く読み解いて見せるだろう。しかし、今の攻撃にはその気配がなかった。粉塵で全周囲の視覚を遮られ気配も察知できないのでは、対処の仕様がない。

臍を噛むシャナの背後から再び槍の穂先が姿を現す。常軌を逸した刺突の連撃は数え切れないほどの槍の残像を作り出す。それはまさに槍の弾幕だった。この世界の物理法則にあるまじき狼藉に、大気がヒステリーを起こして絶叫する。
対するシャナもそれら全てを贄殿遮那で迎撃する。あらゆる方向に瞬時に対応し、襲い来る必殺の猛攻を一つ残らず切り払う。翻る手さえ見えぬ剣舞は数秒と続かなかった。あまりに苛烈な衝撃の連続に、槍の強度が持たずに砕け散ったのだ。
砕け散っていくその槍にも、シャナには見覚えがあった。『千変』シュドナイの持つ宝具、神鉄如意だ。
「次から次に……!」
気配を探ってみるが、やはり察知できない。代わりに、鋭敏な聴覚が側方で轟と風を斬る音を捉える。如何な達人であっても対処不可能の攻撃に神業と言うべき体捌きで贄殿遮那が防御に繰り出される。
金属音の大音響。
受け止めた銀色の大剣を見て、シャナの背筋が凍る。

(――――ブルートザオガー!?)

咄嗟に夜笠に意識を回し、身体の前面に即席の盾を作る。一瞬遅れて全身を叩きつけてくる衝撃。衣服が裂け、白い肌に幾筋も裂傷が刻まれる。無我夢中で夜笠を振り払い、反撃を叩き込もうと刺突の構えを取るが、敵の姿はすでにない。今度はすぐ背後で地を蹴る音。人の規格を超越した動作で転身し、再び斬撃を迎撃するが、横腹と太腿に激痛が走る。その余波を受けたアスファルトに無残な破壊の傷跡が刻まれる。
「くぅ……ッ!」
シャナが戦慄に歯噛みする。反撃に転じようにも、相手の姿も気配もわからない状態ではそれすら不可能だ。せめて粉塵が消えて姿が見えれば―――。
「だったら、吹き飛ばせばいいまで!」
迫るブルートザオガーを渾身の力で弾き飛ばし、硬化させた夜笠を刃のように左右に突きたてて大きく身体を捻ると猛然と回転する。それはまるでブレードのついたコマだった。荒れ狂うハリケーンが出現したかのように、瞬く間に立ち込めていた粉塵が吹き飛ばされる。

敵の姿がはっきりとする。『白銀の討ち手』は大きく間を開けて前方に佇んでいた。
外套を総身を包むように被るという奇妙な格好をした彼女からは、姿は見えるのに気配がまったく感じられない。回転に巻き込まれ傷だらけになった外套を背に払う。途端に、シャナは相手の気配を察知する。あの外套は気配を遮断する宝具のようだった。
(……あいつ、私の戦い方を知ってる)
そっくりな身体を持っているから、という理由では説明できないほどに敵はシャナの苦手とする攻撃を行なってきた。その持ち前の俊敏さを活かした接近戦闘を得意とするシャナの俊足を封じ、視界と気配を隠して、かつてシャナを大いに苦戦させたブルートザオガーによる攻撃を行なってきた。そして奇妙なことに、その太刀筋はどこかシャナに似ていた。
(どこかで会ったことがある?)
シャナはまるで、対峙する敵が自分の戦いをずっと間近で見ていたかのような奇妙な感覚を覚えた。
執拗に自分の弱点を突いてくる強敵に冷や汗をかき、

「なッ!?」
突然、『白銀の討ち手』がブルートザオガーを振り投げた。戸惑いながらも、迫るそれを贄殿遮那で横薙ぎに斬り裂く。たったそれだけでブルートザオガーは呆気なく両断された。二つに分割された剣が視界を覆う。
「シャナ!!」
アラストールの叫びと世界を包み込むような轟音が重なる。
シャナの動体視力でさえ視認できない小さな何かの大群が、両断され宙を舞うブルートザオガーを粉砕し、音速を超えて迫る。ほとんど勘だけでシャナはその全てを迎撃する。叩きつけてくるような重い衝撃がシャナの小柄な身体を容赦なく打ち振るわせる。
(なに、これ……!?)
苦痛に顔を歪ませながら必死に敵の持つ武器を見据える。二つの明滅する閃光(マズルフラッシュ)。その後ろで回転弾倉が激しく回転している。
それがフリアグネのトリガーハッピーだとシャナは瞬時に把握する。形は似ているが、威力はオリジナルを優に超えている。強化が施されているようだった。
「シャナ、このままでは不味い!距離を詰めろ!」
「わ、かってる……!ううっ!!」
銃撃による激震に腕が痺れてくる。絶対に折れることはないという並外れた特性を持つ贄殿遮那でも、持ち手が折れれば意味がない。迎撃できなかった銃弾が夜笠を次々と穿ち、蜂の巣にしていく。

自在式を苦手とするシャナは、遠距離から攻撃をしかけてくる敵に対する攻撃手段をほとんど持っていない。唯一の手段は炎弾だが、これは存在の力を込めるのに時間がかかる。今の状況はシャナにとって最悪のものだった。
いつもは洗練された優美な輝きを放つ贄殿遮那も、今はその繊細さが心細い。
(せめてこの銃撃が一瞬だけでも止めば、状況を覆せるのに……!)

「やあああああッ!!!」

思わぬところから閃いた斬撃が『白銀の討ち手』を襲った。風を切り裂いて振り下ろされた大剣がトリガーハッピーを両断する。復活した悠二が力を振り絞り、果敢に立ち向かっていったのだ。即座に放たれた反撃の拳に悠二の身体が吹き飛ぶ。

突然の事態に、しかしシャナは動じずに悠二の作ったチャンスを生かすために地を這う稲妻となって肉薄する。10歩以上はある間隙を何の脚裁きも見せないままに滑走し、極限まで高めた力を両腕に集中させる。
達人の域を超越する走法から繰り出される、持ち得る剣術の粋を結集させた斬撃。これなら――――!!




金属音と衝撃音の多重奏に悠二は意識を取り戻す。
だが、その光景が目に入ってきた瞬間、坂井悠二はこれが夢ではないかと思った。
それくらい馬鹿げていたのだ。
贄殿遮那を受け止めた、その武器の形状が。
「な―――」
炎の飛沫を飛び散らせ、金属を擦り合わせる甲高い異音の多重奏を立てながら贄殿遮那を受け止めたその異形の大剣に、さしものアラストールも唖然とするほかなかった。

たしかにそれには柄があり、鍔もある。だが肝心の刀身にあたる部分が、あまりに常軌を逸していた。円錐状の刀身は螺旋状に捻くれて深い溝が刻まれ、先端は鋭く尖っている。そして、その刀身全体が轟々と唸りをあげて回転しているのだ。

それは即ち―――“ドリル”だった。


 ‡ ‡ ‡


その剣のオリジナルは、紅世の王『壊刃』サブラクが有していたヒュストリクスという西洋大剣型の宝具である。それは、この時間軸ではない未来において『探耽求究』ダンタリオンによって勝手に改造が施され、無骨で実用的な造形は見る影もないほどに異形なものになってしまった。
しかし、それでヒュストリクスの誇る攻撃力が低下したわけではない。むしろ、曲がりなりにも“改造”が施されたことで、その性能は飛躍的に向上している。


轟然と風を逆巻きながら、刺突というにはあまりに巨大な一撃が放たれた。紙一重の差で飛び退いてそれを回避したシャナの脇腹を擦過する。途端、突風に身体を煽られて危うく体勢を崩しそうになる。
剣の旋転は刀身が回転するたびにその速度を増していく。一転ごとに速く、なお疾く―――気づけばドリル状の刀身はスクリューのように大気を激しく掻き乱し、周囲のあらゆるものを巻き上げるハリケーンの中心と化していた。やおら頭上高々に掲げられたヒュストリクスが己の力を示さんと囂々と咆哮する。破壊の嵐は蹂躙され粉砕されたアスファルトや建築物の残骸を軽々と上空へ吸い上げ、周囲の全てを吹き飛ばしていく。
「ぐッ!?」
身体が吸い寄せられ、シャナの姿勢が傾ぐ。ヒュストリクスは贋作の強度限界に達して紫電を撒き散らしながら、さらに回転速度を増して捻れ狂う。風の唸りが鼓膜を突き刺し、叩きつけるような大気が身体を打ち据える。
(あんなもの、一撃でも喰らったら……!)
想像しただけでも恐ろしい。シャナの小さな身体では、ただ掠るだけの攻撃であっても致命傷は免れない。触れればそこは肉片と化すだろう。直撃すれば結果など言うまでもなく、そこには死しか待ってはいない。
『白銀の討ち手』が駆ける。傲然と唸りを上げて迫り来るヒュストリクスに、シャナは一歩も引かずに贄殿遮那を構える。
あれほど巨大な剣なら、連撃の合間には必ず大きな隙を見せる。その虚を衝いて懐に飛び込み斬り伏せれば、勝機はある。いかに強大な攻撃も、見切ってしまえば怖れることはない。

瞬間、シャナの体内に炎が宿る。燃え盛る業火ではない。極限にまで高められた炎は青白く、波紋一つない湖面の如き静けさを持つ。体感時間が何倍にも引き伸ばされたような感覚。
「―――ふッ!」
眼前まで迫ったドリルの切っ先を最小限の動作で回避する。耳元を激しい閃光が掠めすぎ、烈風の音が鼓膜を叩く。これで詰め(チェックメイト)だ。振りかざした贄殿遮那はカウンターで『白銀の討ち手』を袈裟斬りにするだろう。


この時点でもまだ、シャナは改造を施されたヒュストリクスの埒外の威力を見誤っていた。


シャナの傍らを通り過ぎる刹那、ヒュストリクスが絶叫した。
限界点をとうに超えて刀身の至るところに亀裂が走り、断裂し、その身を砕く激痛に苛まれながら、今までの回転など序の口だと言わんばかりにヒュストリクスが破滅の猛威を撒き散らす。
爆発的な空気の渦に横殴りにされ、容赦のない衝撃が総身を蹂躙する。身体が捻れ、骨がメキメキと音を立てて軋む。当惑する暇すら与えられず、轟風に今度こそ体勢を大きく崩される。
甘かった。敵はこちらの思考を一歩先も二歩先も読んでいる。紙一重で避けてカウンターで斬りかかることも予測されていたのだろう。
間断なく、刀身のほとんどを砕き散らしたヒュストリクスが襲い掛かってくる。その姿はもはや残骸と言うべき様相だったが、絶大な破壊力を孕む刀身は依然として唸りを上げて駆動している。
咄嗟に贄殿遮那を防御に繰り出す。凄烈な火花を散らして大破壊力を受け止めるが、不安定な体勢のまま出された防御で封殺できるような攻撃ではなかった。
肩が砕けそうなほどの衝撃。
音を立ててヒュストリクスが跡形もなく砕け、反動で贄殿遮那が弾き飛ぶ。
遥か後方の地面に突き立った贄殿遮那に、しかし、シャナは見向きもせずに即座に反撃に移行する。
贄殿遮那がなくなった―――それがどうしたというのか。
手刀を形作り、紅蓮の大太刀を出現させるべく存在の力を集中させる。過去にソラトを一刀の元に切り伏せてみせた、超光熱の炎刃を顕現させる自在法だ。
振り上げた手刀から刃状になった紅蓮の炎が生まれ――――そして、音もなく消え失せた。

「――――――な、」
何が起こったのかを理解するのに2秒ほどかかった。
『白銀の討ち手』が突き出した左手の人差し指で光る、銀の指輪。その“宝具”は、かつてフリアグネが所持し、炎系の直接攻撃型自在法を消去する結界を展開して所持者を守る効果を持つ。

「“アズュール”……!」

その戦慄の呟きに応えるように、『白銀の討ち手』の顔に鋭い笑みが浮かぶ。こうもたやすく先手をとられ続けるなど、どう考えても異常な事態だ。

思考を巡らせながらも身体は流れる水のように次の攻撃に移る。贄殿遮那を失い、炎を封じられても、シャナにはまだ武器がある。鍛え上げた己の肉体という武器が。
地を這うように疾走し、電光石火の如き早業で敵の内懐に滑り込む。それは八極拳にて極意とされる走法、活歩である。
この超至近距離こそ、八極拳が最大効果を発揮する間合いだ。シャナは物心がついた時から中国武術を学び、その身に積み上げてきていた。その技の冴えは、すでに達人の域すら超えている。
踏み込んだ脚が轟音を立てて地面を抉り、全身の瞬発力を集積させた掌底が『白銀の討ち手』の胸板を穿つ。肋骨を残らず叩き割り内臓を粗挽き肉に変えるほどの威力を持った一撃。だがそれは、直撃すれば・・・・・の話だ。

シャナが舌打ちをして、手首を掴まれ胸の寸前で止められた掌底を蛇のようなしなやかな動きで引き戻す。
繰り出されてきた反撃の拳打を化勁(かけい)を使い巻き取って受け流し、すかさず突き手を鳩尾に叩き込む。―――半身を逸らされ虚空を穿つ。
ならばと足を敵の軸足に内側から絡ませ刈り払い、体勢を崩す。―――即座に足が踏み換えられ逆にこちらの足に絡み付いてくる。
脚を柱のように地に押し付け重心がぶれるのを防ぐ。がら空きになった敵の腹部に掌を押し付け寸勁を放つ。―――すんでのところで罠だと気づき身を捻るようにして間合いをとる。
勢いを腰の捻りに変えて槍のような肘撃を放つ。―――膝が地に着くほどのダッキングで回避される。
しかと大地を踏みしめ、高々と脚を振り上げ会心の連環腿を放つ。―――ほとんど同時に放たれた天空を打ち抜くかのような鋭い膝蹴りに迎撃される。

鋭くかつ鈍重な衝撃が脚に走り、骨が砕かれそうな激痛に顔を顰める。
「ぐ、ぅ……ッ!!」
さながら、同じ師の元で修行した門徒と戦っているような心地だった。同じ身体だから、という理由では説明しきれない。間違いなく、自分と行動を共にしたことのある人間だ。―――では、こいつは誰だ?
二歩分の間合いを置いて、再び活歩を駆使して肉薄する。腕の力だけではなく全身の筋肉の伸縮を最大限に生かして重心を掌面に移動させ、一気に敵の首に叩き込む。稲妻じみた残像を残して叩き込まれた掌底は、交差させた腕の手甲に阻まれる。手甲が砕け、その奥にある猛禽類の如く鋭い瞳が覗く。
そのぎらつく双眸を真正面から睨みつけ、シャナが叫ぶ。

「答えろ、『白銀の討ち手』! お前は―――誰なの!?」


 ‡ ‡ ‡


『行こう、悠二。―――私と、一緒に』


はっきりと思い出せる。そう言って手を差し伸べてくれたシャナの笑顔も、その背景の雲から草一本に至るまで、明確に脳裏に思い浮かべることができる。

葛藤の末、ボクはシャナとともに生きる道を選んだ。大切な仲間たちと涙を流して別れ、二人で御崎市を後にした。零時迷子を狙う紅世の王や徒から人々を守るには、ボクがとにかく移動し続けるしかなかったのだ。
ほんの数年間の短い旅だったけど、ボクにとっては人生で一番充溢した時間だった。笑って、怒って、泣いて、苦しんで、また笑って。二人ですべてを分かち合った。ボクは、そんな日々が限りなく永遠に近い時間、続くのだと思い込んでいた。ボクがシャナの前から消える、あの日まで。

「答えろ、『白銀の討ち手』! お前は―――誰なの!?」

シャナが叫んでいる。お前は誰だと問うてくる。
ダメだ、シャナ。それは言えない。言えば、きっと君は悲嘆して膝を屈してしまう。それではダメなんだ。
ボクと共に歩んだシャナは、君じゃない。だけど、それでも、君はシャナだ。かつてボクが恋した少女だ。君を悲しませたくはない。ボクたちの辿った結末を繰り返させたくはない。だから―――戦ってくれ、シャナ。

そして、ボクを―――


 ‡ ‡ ‡


「…………」
痛みに地に伏している悠二は、一刻も早くその場を離れなければならないというのに動けずにいた。否、たとえ痛みがなかったとしても動けなかっただろう。
果たしてそれは、本当に人間の戦いなのだろうか?少女のカタチをした“ヒトガタ”たちの、なんと凄烈なことか。
静かに、しかし迅速に交差する紅蓮と白銀の人影。抉られ破砕された足場においても、弾けるような二人の動きに一切の無駄はない。互いに必殺の一撃を繰り出し、それを紙一重で見切って躱し、二人の戦いはさらに激化の一歩を辿っていく。
命の駆け引きをしているにも関わらず、それはまるで完成された一つの芸術作品のようだ。ひどく典雅で思わず見蕩れてしまいそうになるその演舞は、あまりに完璧すぎるがゆえに完成度の高い殺陣を連想させる。
張り詰めた死線の気配はこちらまで押し寄せてきて、全身が強張り、呼吸することすら忘れそうになる。
シャナがここまで苦戦したことなど果たしてあっただろうか?常に戦いの中で勝機を導き出し敵を一刀の元に斬り捨ててきたシャナをここまで圧倒するとは……。

「ッ!」

唐突な自身の変質の気配に、悠二は目を見開き手首の腕時計を凝視する。戦火に晒された遺品のように傷だらけになった腕時計が、それでも懸命に針を動かしている。その長針と短針が、同時に頂点を指そうとしていた。もう零時が近い・・・・・
「シャナッ!!」
激しい格闘戦の最中、一度だけこちらを振り返った視線に腕時計を掲げて見せる。それだけでシャナには十分だ。
シャナが突然低く身を屈め、サユの突き出された右腕の下を鋭い動作でくぐる。次の瞬間、まるで怪我人に肩を貸すかのような姿勢でシャナが右腕を肩の後ろに背負い込んでいた。左肘と左脚が同時に動き、鳩尾と軸足を狙う。悠二は知る由もないことだが、これは八極拳の極意の一つ『六大開・頂肘』と呼ばれる套路であった。
それは成功すれば確実に相手に致命傷を与えられるはずの攻防一体の絶技だったが、それすら流れるような体捌きで間合いを開けられ受け流される。だが、シャナは牽制のためにその攻撃を使ったまでだ。間合いが開くや否や、鮮やかな動きで高く背転して敵の攻撃範囲から一気に離脱する。着地の瞬間、傍らの地に突き立っていた贄殿遮那を抜き放ち、足の裏から這い上がってくる衝撃を強靭なバネで殺してさらに流れるようにバックステップを踏んで悠二の元へ駆ける。
追い討ちをかけんと夜走獣のように低く疾駆してくるサユに向かい、残されたありったけの存在の力を使って炎弾を連射する。立て続けに撃ち出されたそれは弾幕と化し、サユの追撃を阻めてたたらを踏ませる。

ついに、時刻が零時となった。

零時迷子が時の事象に干渉し、時間を歪め、毎夜の奇跡をここに再現する。身体が熱くなり、悠二の中に力が漲ってくる。十全に動くようになった身体で立ち上がり、炎弾を放つシャナの肩を掴む。

防戦一方では埒が明かない。ならば、零時迷子で存在の力を回復させて全力全開の一撃を叩き込み一気に勝負をつける。シャナが全ての存在の力を一撃に乗せて放てば、その力は鏖殺の威力にして余りある。
紅蓮の長髪が輝きを増し、体から溢れ出る火の粉が渦を巻いて舞い上がる。
「離れてて、悠二!」
力強い頷きを返して安全圏まで退避する。直後、背後で紅蓮の爆炎が顕現し、辛うじて原形を保っていたビルを蹂躙する。振り返らなくてもわかる。存在の力を完全回復させたシャナの背から巨大な炎の翼が生まれ、大きく羽ばたいたのだ。
振り返れば、サユは中央に立つシャナを挟んで悠二と反対側に悠然と佇んでいた。目を眇め、轟々と燃えるシャナを無表情で見つめている。

ふと、サユと目が合った。刹那にも満たない時間の視線の交錯の中、その表情が緩み、安堵と諦観に似た微笑が向けられるのを見た。

何を安心しているのか、何を諦めているのか―――。
悠二が疑問を思い浮かべるのとシャナが踏み込むのは、果たしてどちらが先だったのだろうか。
巨大な翼は常時の数十倍もの初速をシャナに与え、音速の壁を轟音と共に楽々と突破する。衝撃波によって瀑布のカーテンを左右に巻き上げながら地上すれすれを猛滑走するシャナが贄殿遮那を突き出す。
だというのに、サユは動かず、迫り来るシャナをじっと見つめている。

時間にして、その滑走は数秒にすら満たないものだった。20メートルを超える距離を一瞬で0にして、シャナとサユが交差する。そして、



贄殿遮那の切っ先が、白銀の少女に突き立った。





[19733] 3-5 希望
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/18 11:17
さあ、零時迷子を手に入れろ。

すぐ耳元で、あの声がした。戦いの最中に―――そして、悪夢の中に出てきた“黒い坂井悠二”の吹き荒ぶ風鳴りのような声が、意識の空白に強く響く。

己が為したいことを、為せ。その力が、今のお前にはある。

その声が持っていた違和感―――広い空洞を渡るような“距離”を感じる響きはなくなり、間近にまで迫った気配が蛇のようにじわじわと絡みつき、締め付ける。
息を吹きかけるような至近から、全てを見透かす暗黒の気配が怪しく囁く。

お前の望みを、叶えろ。“お前だからこその望み”を。それこそ、余の望み―――

「ボクの、望みは―――」


シャナの笑顔が胸の中いっぱいに広がる。目を瞑り、輝きを放つその全てを心の中で大切に抱き締める。

悠二を殺してでも彼女の元に帰りたいと心の奥底の闇で獣が呻る。漆黒の獣が、何としてでも取り戻すと爪を立てて血の涙を散らせながらシャナの笑顔に必死に手を伸ばす。
この獣の声に従ってしまえば、どんなに楽だろうか。己を律する心を捨て、剥き出しの欲望のままにこの双腕を振り乱し、シャナの元に帰れるというのなら。

獣の爪が、ついに笑顔に届く。決して放すまいと輝きに爪を深く食い込ませて強く激しく狂おしく抱擁する。そして獣は気づく。腕の中の輝きはすでに失せ、笑顔も失せていることに。

そこにあるのは、悲しませたくないと願ったはずの人の泣き顔だけ―――

瞼をゆっくりと開く。
そうだ。すべきことなんて決まっているじゃないか。迷うことなんて、ない。

『ボクは、シャナを悲しませたくはない。だから、シャナと悠二に戦いを挑む』
『それは矛盾してはいないか?』
『していないさ。二人を極限状態に追い込み、鍛え、弱点を責める。そうすれば、二人がボクと同じ結末を辿ることはなくなる』
ボクとシャナが敗れた原因は、互いの弱点を補強しきれていなかったという力不足に他ならない。シャナは接近戦に特化しすぎ、坂井悠二は単独でも敵と渡り合える力を持てなかった。徹底的にそこを衝けば、二人は確実に成長する。シャナも悠二も実戦を経て成長するタイプだ。口で伝えるよりもこの方がよっぽど効率がいい。
テイレシアスが豪胆に笑う。
『最強のフレイムヘイズと謳われる、あの天下の炎髪灼眼の討ち手を相手に手加減をしつつ鍛えてみせると、お前は言うのか?フレイムヘイズになって一度しか戦いを経験していないお前が?』
『まさか。シャナ相手に手加減なんてできるわけない。ボクが全力で挑んでも最後にはシャナに敗北し、殺されるだろう。―――それでいいんだ』
悠二を殺して元の時間に帰っても、シャナはきっと喜んではくれない。シャナを悲しませなければ元の時間に帰れないというのなら、この時間のシャナのためにボクは命を差し出そう。
それに―――この胸の奥で蠢く獣をずっと抑え込んでいられる自信はボクにはない。だから今は、心に蓋をしよう。獣が暴れださないように。決心がぶれないように。
笑い声がぴたりと止まる。地鳴りのような声がさらに低くなる。
『再び手に入れた生を他人のために使い捨て、自ら進んで悪役を買って出るというのか。白銀の討ち手サユとして別の道を歩むこともできるというのに』
『ボクにチャンスをくれたテイレシアスには悪いと思ってる。でも、ボクはやらないといけないんだ』
しばしの沈黙。テイレシアスにとっては迷惑この上ない話だろう。でも、ボクは意思を曲げるつもりはなかった。
『やっと相性のいい契約者を得たと、思っていたんだがな』
深いため息とともに憮然とした声が漏れる。
テイレシアスの力を使いこなせたフレイムヘイズはボクが初めてだと聞かされた。つい数刻前まで、契約をしたことで現界に長く留まり様々な宝具を見て回れると声を弾ませて喜んでいた。テイレシアスにとって、ボクは待ち望んだ存在だったのだろう。そのフレイムヘイズが自分から死にたいと願うのは、テイレシアスからしてみれば不本意極まることだ。
そっとペンダントを拾い上げて首にかける。
途端に、胸元からくつくつと楽しそうな忍び笑いが聴こえてきた。
『テイレシアス?』
『すまんな。自分のフレイムヘイズそっくりの敵が現われた時の天壌の劫火の反応を想像したらつい笑ってしまった。その紅世の王が俺だと知ったら、あの頑固ジジイ、大層怒るだろうな。今から楽しみだ』
『―――許してくれるの?』
テイレシアスが楽しそうにふん、と鼻を鳴らす。
『言ったはずだ、俺はお前を気に入っている。お前が決めたことなら心置きなくやるがいい。それに、炎髪灼眼の討ち手に喧嘩を売れる契約者を得られる機会など、お前が最初で最後に違いない。あのジジイに弓を引ける絶好のチャンスをむざむざ逃す手はあるまい?』
『……ありがとう、テイレシアス』
万感の思いを胸にもう一度夜空を見上げる。過去の自分とシャナを相手に剣を振るうことに抵抗がないわけではない。本当なら、胸が張り裂けそうなほどに悲しいと感じるのだろう。だけど、ボクは悲しいなんて感情は忘れてしまった。シャナのために手に入れたチャンスをシャナのために使えるのなら、それはきっと本望だ。
これから始まる戦いのために、心に重い鉄蓋をする。鈍重なそれをゆっくりと獣の上に被せてゆく。


―――それがお前の望みと言うのなら、それもまた是だ。


それと同時に、“黒い坂井悠二”の声も静かに薄らいでゆく。期待を裏切られたことに戸惑いも焦りも感じない、待つことに馴れた・・・・・・・・者の風格と衰えを知らぬ覇気を感じる。その声は、鉄蓋の影に隠れてゆく獣の口から発せられていた。


だが、お前は必ずを解放する。お前が真に望むものは、余に他ならぬのだから―――


鉄蓋を被せ終わると、しかと耳に届いてはずの声はまるで幻だったかのように跡形もなく消え失せた。……いや、本当に幻だったのだろう。ボクの弱い心が幻聴となって心のどこかから囁きかけていたのだ。もう、そんなものには惑わされない。


『さあ、行こう、我が紅世の王。これからボクたちは悪役だ。零時迷子のミステスと炎髪灼眼の討ち手をとことんまで苦しめる怨敵だ』
『いいだろう、我がフレイムヘイズ。お前がどこまで戦えるか、俺が見届けてやる』

太陽が昇り始める。これが見納めになる、最後の日の出だ。
それを一瞬だけ目に焼きつけて、ボクはその場を後にした。




「シャナッ!」
悠二が叫び、腕時計をシャナに見せる。それを一瞬で視認したシャナが牽制の技で間合いを取り、細くしなやかな身体を疾駆させて悠二の元へ駆ける。悠二の存在の力が溢れんばかりに回復していくのがわかる。
その見事な連携を見ながら、もう零時になるのかと何の感慨もなく思った。

悠二をシャナから隔離して、とことんまで追い詰めた。思った通り、悠二は剣を交わらせるごとに強くなっていった。元々ボクよりも素質があるようだったし、これでシャナがいなくても戦えるほどに成長できただろう。
シャナの弱点を衝いて、圧倒して、苦しめた。合理的なシャナなら、きっと自分のネックを冷静に分析できたはずだ。

シャナの柔らかな質感を持つ紅蓮の長髪が、存在の力の回復に併せて輝きを増し、炎に靡く。最大の力をのせた一撃を放ってくるつもりだ。
何度もシミュレーションを重ねた結果なだけに、達成感は感じられなかった。
「最後までお前の読み通りになったな。まったく、つくづく失うのが惜しいフレイムヘイズだよ、お前は」
胸元から呆れたような感心したような声がした。テイレシアスと話すのも、これが最後になる。
「短い間だったけど、テイレシアスには感謝してる。それこそ、言葉で言い表せないくらいに」
「よせ、俺は人に感謝されるのには馴れていない。だが……俺も、お前には感謝している。なかなかにおもしろかったぞ、我がフレイムヘイズ」
テイレシアスと契約できて本当によかった。ボクの一番の幸運は、テイレシアスと出会えたことだ。
シャナの背から巨大な炎の翼が顕現し、両脇にあった建築物を飲み込んで羽撃く。零時迷子の効果によって存在の力を全開まで回復させたのだろう。
ボクにはもうこれっぽっちも存在の力なんて残ってはいない。使える宝具は全部使った。こうして余裕を装って立っているだけで精一杯だ。最初から全力投球だったから、こうなるのは予測していた。

ふと、悠二と目が合った。悠二は、ボクと同じ結末は辿らない。絶対に諦めず、何度でも剣を握って立ち向かってきた悠二なら、どんな窮地でも必ず勝利を掴んで前に進める。他でもないボクが言うのだから、間違いない。その視線に微笑みを返す。変な笑顔にならなかったか、ちょっと不安だった。
シャナの紅蓮の翼が一際大きく羽ばたいたかと思うと、渾身の力で大気を叩きつける。衝撃波を引き連れて、贄殿遮那を構えたシャナがまっすぐに驀進してくる。
その姿は僕にとっては死神と同じはずなのに、なぜかとても美しいと思った。こんな感情を、前にも感じたことがある気がする。―――ああ、シャナと最初に会った時だったっけ。
瞬き一つせずにシャナを見つめる。数年にわたり積み重ねてきたシャナとの思い出が脳裏に浮かんでは虚無へと還っていく。

ずぶ、と鋭い異物が腹部を抉る感覚。焼けるような激痛が全身を貫く。喉から鉄の味が溢れてくる。

これでいい。ボクのすべきことはこれで終わった。
意識が遠退いていく。ゆっくりと底なし沼に沈んでいくような、自分が薄れてゆく奇妙な感覚。
シャナの手で始末をつけてもらえて、ボクは幸せ者だと思う。最後に、君をこの名で呼ばせてほしい。ボクが考えて、つけた名前だ。


「シャナ、ありがとう」



―――そして、ボクの思考は途切れた。


 ‡ ‡ ‡


波一つない久遠の海に仰向けになって浮かんでいる不思議な感覚。音など聞こえず静穏としているが、決して寂しさは感じない。
自分はどうなったのかと考えるが、意識もはっきりとせず、思考もうまくまとまらない。……ああ、きっとこれが死の世界だ。もっと凍えていて寂しい場所だと思ってたけど、やけに温かくて穏やかな場所だ。誰かが手を握ってくれているような、そんな錯覚までしてしまう。

「―――ぅじ、悠二」

シャナの声が聴こえる。悠二、とボクの名を呼んでいる。なぜ聴こえるのだろう?ボクは死んだはずなのに。これが死ぬ間際に見る幻聴なのだろうか?だとしたら、ずいぶんとサービスがいい。
「本当に悠二なの?ねえ、答えてよ……!」
グラグラと肩が揺すられる。ゴリゴリと後ろ頭が地面に擦れてとても痛い。幻聴でも、もう少しボクを気遣ってくれてもいいと思う。
「……うう。シャナ、お願いだから起こすならもっと優しく起こしてよ……」
揺れがぴたりと止まる。でもまだ後頭部がひりひりする。痛い―――痛い?痛みを感じているのか、ボクは?なら、もしかしてボクは、
「―――生きてる?」
鉛のように重い瞼をなんとか持ち上げて、茫洋とした目で辺りを見回す。ずいぶんと荒れたところに寝かされている。そこら中の道路や建築物がまるで空爆にでもあったかのように業火に燃えて消し屑と化している。灰燼と呼ぶに相応しい惨状だ。どうしてこんなことになったのかと疑問に思って、自分がやったんだと思い出す。
とすると、ここはボクが『白銀の討ち手』サユとしてシャナたちと戦った場所……?

「ああ、お前は生きている」
もう聴くことはないと思っていた、地鳴りのような低い声。その声はどこか満足気だ。
「テイレシアス?どうして、ボクはたしか……」
靄がかかったような視界に、人影が映る。ボクを囲むようにして四人の人影が膝を突いてボクを見下ろしている。目を凝らしてそれが誰かを探る。ヴィルヘルミナさんと、マージョリーさんと、悠二と―――シャナ。皆が心配そうな瞳でボクを見ている。なぜだろう?ボクは彼女らにひどいことを……。
「お前は過去の悠二に救われた。お前が機知に富んでいたように、過去のお前もまた才知に長けていたのだ」
「悠二に……?」
悠二の方に目をやると、朗らかに破顔して微笑を返してくる。ボクが悠二に救われたとはどういうことだろう?ボクの腹部にはたしかに贄殿遮那が突き立ったはずなのに。
痺れる手で腹を擦って傷を確かめようとして、違和感に気づいた。そこにはなんの傷もない。ただ痛みの残滓があるだけで、かすり傷一つ見当たらなかった。

状況をまったく飲み込めないボクが混乱していると、テイレシアスが苦笑しながら一部始終を話してくれた。


 ‡ ‡ ‡


シャナが驀進し、サユとの距離を一瞬で縮める。その瞬き一つにすら満たない刹那の時間の中で、悠二の思考は目まぐるしく回転していた。

最初は疑問からだった。
サユの力を持ってすれば自分を一瞬で切り裂いて零時迷子を奪うこともできたはずだ。なぜそれをしなかったのか?
サユとの一対一での戦いで、悠二は思った。まるで自分を鍛えているようだと。もしも、その直感が正しければ?
そう仮定すれば、戦いの中でサユが見せた安堵の微笑にも説明がつく。シャナの弱点を突き、常に圧倒していた。しかし、決してトドメは刺そうとはしなかった。本当にシャナを殺すつもりだったのなら、最初からアズュールを使ってシャナの意表を衝くなりして、そこを攻撃すればよかったはずだ。でもしなかった。

とどのつまり、サユはシャナと自分に強くなってほしかったのだ。

炎の翼からフレアを放出させて敵に迫るシャナの背中越しに、サユの表情が目に入る。一向に防御や回避に移る気配を見せない彼女の表情は、まるで小走りで駆けてくる愛おしい人を抱き締めようとしているかのような柔和な微笑みだった。
そこでようやく、察知能力に長けた悠二はサユに存在の力がまったく残されていないことに気がついた。

(まさか、あの娘は最初から殺されるつもりで―――!?)

気づけば、声を張り上げて叫んでいた。
「シャナ、殺すな!!」
悠二の思考はたしかに常軌を逸して速かった。しかし、撃ち出された弾丸と化したシャナは自らにブレーキをかけることなどできない。



悠二が叫んだ、殺してはならないと。それにはなにか理由があるに違いない。
シャナが瞬時の判断で急速に後方へ流れいく地面に足先を突きたてて減速を試みるが、自らの全力の一撃を相殺するには至らない。こちらが躊躇いを見せたのに、『白銀の討ち手』は回避も防御も行おうとしなかった。減速も虚しく、贄殿遮那の切っ先が無防備な少女の腹に深々と突き刺さる。生身の人間の肉を抉る嫌な感触が手に伝わる。
ふと、囁くような小さな声が聴こえた。

「シャナ、ありがとう」
「え―――?」

自分と同じ声質のはずなのに。だというのに、その優しい声はなぜこんなにも“彼”に似ているのか。

贄殿遮那はその威力を微塵も衰えさせることなく、着実にサユの身体を抉っていく。皮膚を破り、筋肉を裂き、内臓を破裂させ、骨を砕く。それはいつもなら勝利を確信させる手応えなのに、今はどうしようもない悪寒を背筋に奔らせる。
お願い、誰か止めて、とシャナが強く願う。

その願いは、どこからともなく現われた桜色のリボンによって叶えられた。

シャナの胴体に巻きついた力強いリボンが一瞬にしてスピードを相殺する。それが誰のリボンなのか、シャナには考えるまでもなく理解できた。
「ヴィルヘルミナ!」
振り返れば、いつになく表情を強張らせたヴィルヘルミナがリボンを手にして上空から軽やかにに着地していた。見上げれば、神器グリモアに乗って闇夜に群青色の弧を描くマージョリーの姿もあった。結界を突破してきたのだ。

戦闘機の曲芸飛行のように急旋回して地上に滑空するグリモアからマージョリーが飛び降りる。重力を感じさせない動きで華麗に降り立ったマージョリーだったが、贄殿遮那が突き刺さったサユを見て顔を青くする。いかに頑強な肉体を持つフレイムヘイズでも、贄殿遮那の直撃を食らえば致命傷は免れない。
シャナが焦り、ヴィルヘルミナに助けを求める視線を送る。今、サユから贄殿遮那を抜けば間違いなく鮮血が噴き出して数秒と持たずに失血死してしまうだろう。だがこのままでもいずれ失血して死ぬのは明らかだ。シャナには誰かを回復させる能力はないし、治療の手段も持っていない。
シャナの視線に先んじて、ヴィルヘルミナがリボンでサユの腹部を締め付けて失血を防ぎ、贄殿遮那をゆっくりと引き抜いて横たえさせる。リボンがどす黒い血色に染まり、血の気の失せた小さな口からごぼりと大量の血が溢れ出す。それを見たヴィルヘルミナの唇がわなわなと震える様子に、駆けつけてきた悠二も顔を蒼白に染める。

「『贋作師』、貴様、なぜフレイムヘイズを回復させない。見殺しにする気か」
アラストールが強烈な怒気を孕んだ怒声で咎める。それに、テイレシアスは静かに応える。
「もう我らに力は残されてはいない。それに、我がフレイムヘイズは最初からこうするつもりだったのだ」
それは、戦いの前にアラストールと激しい言葉の応酬を重ねた者とは思えない、まるで死者を追悼するような厳かな声だった。
「お前たちをより強くする。そのために自分が殺されることも厭わない。それがサユの願いであり、決意だった。俺はそれを尊重すると誓った。まさか、最後に“他ならぬ坂井悠二”に看破されるとは思ってもみなかったが……」
テイレシアスの告白に、シャナもアラストールも愕然とした。自分たちが手の平の上で踊らされていたということよりも、この強敵が殺されることを受け入れていたということに。
その理由を問い質そうと口を開こうとして、マージョリーの怒声に遮られる。
「ふざけんじゃないわよ!それでアンタらが納得できても、私はちっとも納得できないのよ!」
声を荒げるマージョリーの姿を見慣れていない他の者たちが唖然とする中、マージョリーがテイレシアスに詰め寄る。冷たくなってゆくサユの頬をそっと撫でる。時間がない。
「それに……あんたも、本当はこの娘を失いたくはないんでしょ?」
静かな、しかし強い問い掛け。本心を突かれたテイレシアスが息を飲む。

そうだ。俺は常に、俺がやりたいと思うことをやってきた。ならば、今も同じように、やりたいようにやればいいではないか……!

「―――坂井悠二、お前の存在の力を寄越せ!俺ならこの傷を治せる!」
「あ、ああ!わかった!」
安堵に頷くマージョリーの傍らで、悠二がサユの手を握る。ひやりと冷たい小さな手に焦燥を感じながら、意識を集中して循環する存在の力をイメージし、その流れをサユに向ける。存在の力はまるで自分の身体のように驚くほどすんなりとサユの身体に馴染み、吸収されていく。
途端、白い炎がサユを包み込んだ。澄んだ金属の音色を立てて、白銀の戦装束が飛沫の如く飛散する。テイレシアスがそれらの維持に使われていた存在の力も根こそぎ傷の修復に回したのだ。見事な拵えだった戦装束がなくなると、そこには見るも無残な状態になった紺色の給仕服を着た少女がいた。悠二にはその姿がどうしようもなく儚げに見えた。

握る手の平に温かみが戻ってくる。血の気を失っていた青白い肌は元の健康そうな白い柔肌に戻っていく。腹の傷も見る見るうちに癒えて、皆の顔に安堵の表情が浮かんだ。
傷が癒えるのを確認したシャナがヴィルヘルミナとマージョリーに目をやる。それは説明を要求する視線だった。それに、ヴィルヘルミナは珍しく目を背け、マージョリーは困惑したような苦い顔をした。だが、話さなければならないと意を決したマージョリーは、小さくため息をついてゆっくりと口を開く。

「その娘はね、」

一呼吸だけ置いてシャナの目をまっすぐに見据える。

「―――未来の坂井悠二なの」


 ‡ ‡ ‡


「……そっか。ばれちゃったのか」
テイレシアスの説明を聴いてようやく把握できた。ボクが坂井悠二で、どんな最後を迎えて、どうしてこの姿になってここにいるのかも、全てばれてしまった。ボクが二人を襲った理由も、テイレシアスが話したという。
重たい半身をどうにか起こして、シャナをまっすぐに見つめる。その瞳は明らかに戸惑いの色に染まっていた。ボクが坂井悠二だと聴かされれば、当然だと思う。なんと言えばいいのかわからないけど……とりあえず謝っておくべきだと思った。
「ごめん、シャナ」
シャナの肩がびくりと震える。それに思わず苦笑してしまいそうになるのをなんとか我慢して、言葉を続ける。
「ホントは知られたくなかったんだ。シャナはきっと悲しむと思ったから」
「……本当に、悠二、なの?」
震える声とともに小さな繊手がボクの顔に伸ばされ、優しく頬を触れられる。ああ、シャナの手だ。二度とこうして触れることはできないと思っていたのに。
シャナの瞳をしっかりと見つけて返事をしようとしているのに、視界が涙でぼやけてシャナの顔が見えない。熱い感情が胸の内から込み上げてきて、声が震えてしまいそうになる。笑顔を作ろうとしているのに、うまく作れない。くそ、かっこ悪いな。
言葉が途切れてしまわないように、一文字一文字ゆっくりと紡いでいく。

「うん、そうだよ、シャナ。ボクは―――坂井悠二だ」

シャナの綺麗な目から流れ出た一筋の涙が頬を伝う。その頬に手を伸ばして、そっと撫でた。とても温かい涙だった。迷いからも苦悩からも解放され、胸の内のすべての疵が癒されていくのを感じる。
ああ、きっとこれでよかったんだと、唐突に悟ったような気がした。手の平に伝わるこの温かさを噛み締めながら、ボクはずっとシャナを見つめていた。


 ‡ ‡ ‡


御崎市でも群を抜いて高い高層ビル、依田デパートの屋上階で、ボクは一人で地平線をぼうっと眺めていた。
ここで、シャナと一緒に戦ってフリアグネを倒した。完全に修復されたここにはその戦闘の名残は少しも残ってはいないけれど、目を閉じれば昨日のことのように思い出せる。
地平線の彼方から、もう見ることはないと思っていたはずの夜明けの光が差してくる。それは、この星ができてから毎日飽きることなく続けられてきた自然現象だというのに、ボクにはとても美しいものに感じられた。白い光が夜空を優しく包み込んでいく様子は巨大なタペストリーのようだ。
「悠二」
背後から小さな声が聴こえた。
「なに、シャナ?」
ゆっくりと振り返ると、そこには悲しげな表情をしたシャナがいた。ボクはそれに笑顔で応える。シャナが何を伝えたいかは察しがついていた。
シャナは幾度か視線を泳がせて言い淀んでいたが、やがてシャナらしい強い意志を秘めた瞳で真っ直ぐとボクを見据えて、
「私は悠二が好き」
「うん、わかってる」
「でも、私が好きな悠二はお前じゃない。お前が想ってくれたシャナも、私じゃない」
「……うん、わかってる」
悲しくはない。シャナははっきりと悠二が好きだと言ってくれた。それだけで、ボクは幸せだ。
「ボクは大丈夫だよ。ありがとう、シャナ。それに、ボクが君を好きになっちゃったら、“ボクのシャナ”に浮気だって怒られちゃうからね」
それを聴いて、シャナも満面の笑みを浮かべてくれる。心が至福に満ち溢れる。
朗らかな微笑みを返すと、ボクは朝日に向かって歩む。防護フェンスがなくなった屋上の縁まで歩み寄ったところで、もう一度だけ振り返る。
「それじゃあシャナ、“またどこかで”」
「うん。またどこかで。“サユ”」
最後にそれだけ言葉を交わして、ボクは怖じることなくそっと地面を蹴って空中へと身を躍らせた。完全な垂直を維持したまま直線軌道を描いて落下する。
「さあ、どこへ行く?我がフレイムヘイズ」
胸元から響く、地鳴りのような低い声。
「そうだね。とりあえず、」
背に意識を回し、自分の背で炎の翼が羽ばたく様子をイメージする。途端、夜気に冷えた大気を燃やして白銀の炎が背に顕現する。それを大きく羽ばたかせて揚力を掴み、一気に空へと舞い上がる。

「飛びながら考えよう!」
「ははっ!それはいい考えだ!!」




純白の雲を突き破って遥か高空へと舞い上がっていく白銀のフレイムヘイズを、シャナは何の憂いもない笑顔で見送っていた。
あれほどに悠二を夢中にさせられたのだから、きっと未来の自分は悠二に告白することができたのだろう。それはシャナにとって素晴らしい未来だ。後は、サユが示してくれたように、二人でもっと強くなればいいだけだ。
「私も、早く悠二に告白しないと―――」
「え?僕がなんだって?シャナ」
「ひゃっ!?」
いつのまにか隣にいた悠二に、シャナが驚いて跳び上がる。意表を突かれた心臓が破れんばかりにばくばくと収縮する。
「シャナ?」
「あ、えと、その、だから……!」
「シャナ?炎髪灼“顔”になってるよ。風邪でもひいたの?」
そっと額に当てられた手の平に、ぼん!とシャナの頭が爆発した。気がつけば悠二の内懐に滑り込んで、胴体に思いっきり寸勁を叩き込んでいた。「ちにゃ!」と潰れた悲鳴と共に悠二の身体が木の葉のように軽々と吹き飛び、防護フェンスを突き破って宙を舞う。
「うるさいうるさいうるさーい!!悠二のくせに―――って、あれ?悠二は?」
「たった今お前が吹き飛ばしたぞ」
遠雷のように低い呆れ声。さあっとシャナの顔が青くなる。慌てて炎の翼を顕現させ、シャナも悠二の後を追って宙へと身を躍らせた。




その様子を遥か高空から見ていたサユが、ぽりぽりと頬を掻きながら苦笑してぽつりと呟いた。

「……もう少し、ここにいた方がいいかもね」




[19733] 0-0 胎動
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/19 01:26
世の空を人知れず彷徨う、『仮装舞踏会(パル・マスケ)』の本拠地たる移動要塞『星黎殿』。
その中心部、静謐に満ちた厳かな回廊を、ガチャガチャと騒々しい足音を立てながら一体の燐子が駆けていた。目的の部屋に着くと、助走の勢いもそのままに扉を激しく開け放つ。

「きょ、きょ、教授―――――!!!!」
「ドォ――――ミノォ―――!!ドアを開ける前にはノォオ――――ックをしなさァ――――い!!研究の邪魔に―――」

蝶番をはじき飛ばして現れた己の『我学の結晶』ドミノに奇妙に間延びした怒声を叩きつけたのは、ひょろ長いメガネの“教授”―――紅世の王、『探耽求究』ダンタリオンだ。慌てふためきながら駆け寄るドミノの頬をいつもの如く抓ろうと腕をマジックハンドに変化させ、

「ぼ、ぼ、『暴君Ⅰ』の反応がもう一つ増えました!!」

その台詞に、動きを強制的に停止させられた。引き攣った笑みを浮かべたまま、ドミノを押しのけて彼の背後のコンソールに抱きつく。古いのか新しいのかわからないその装置をガチャガチャといじり回すと、小さな電子音を立ててブラウン管にレーダーのような画像が浮かんだ。
その中心部には、以前変りない『暴君Ⅰ』の反応があった。ただし、寄り添うように二つ・・に増えて。
石像のようにピタリと静止したダンタリオンの脳内で激しい疑問と応答の螺旋が捻れ狂うが、解答への道には至らない。
アレは“盟主”が千年単位で構築した唯一無二の自在式によって創られた、この世に一つしかないものだ。複雑精緻極まる『大命詩篇』の複製など、自分にも『屍拾い』にも出来ない。断じて不可能だ。ありえない。
「こぉ―――れはいったい―――?」


「“いと暗きにある我らが盟主”より、おじさまに言付けがございます」


「わぁっ!?大御巫様いつの間に!?」
出し抜けに己の傍らで発せられた少女の細い声にドミノが大袈裟に飛び上がる。それを無視して、ダンタリオンは“盟主”との交信を許されたただ一人の少女―――紅世の王『頂の座』ヘカテーを肩越しに見る。

「……盟主は―――なぁ―――んと言っていぃ―――ましたかぁ?」

彼にしては珍しいトーンの抑えられた声に、ヘカテーは粛然と己の神の言葉を応える。

「静観せよ、と」

………
……


「……ふっ、ふふふふふふふドォ――――ミノォ―――!!」

「は、はひひ!?ひょうぎゅにゃにひゅりゅんでひゅか!?(教授なにをするんですか!?)」

何が起こっているのかまったく理解の追いついていない己の燐子の鉄の両頬をマジックハンドでギリギリと抓りあげ、天才であり天災でもある紅世の王が絶叫する。その声は新たな興味の対象が増えたことへの喜悦がこれ以上ないほどに満ち溢れていた。

「こぉれからおぉ―――もしろくなりそうですね――――!!!」

「ひひゃいでひゅひょうぎゅうううう!!(痛いです教授ぅうう!!)」


嬉々としてじゃれ合う紅世の王と燐子を視界の隅に入れながら、ヘカテーはブラウン管に表示された二つの反応を静かに見つめる。

「……」

一瞬、その瞳に苦しげな感情が宿ったが、誰にも―――本人にすら悟られることはなかった。その感情の意味を知るのは、しばらく先のことになるだろう。





                                『白銀の討ち手【改】 完』



[19733] キャラクター紹介
Name: 主◆9c67bf19 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/24 01:29
「白銀の討ち手」サユ

身長141センチ 体重38キロ
元・坂井悠二。
シャナと共にあることを選び、家族や友人を零時迷子を巡る被害から遠ざけるために故郷である御崎市を離れて旅を続けていたが、シュドナイ率いる「仮装舞踏会(パル・マスケ)」の追跡軍の前に力尽き、消滅する。その際、シャナの放った強力な炎弾(=エネルギーの塊)を浴びたことによってその能力を起動・暴走させた零時迷子の破片が身体に突き刺さり、紅世と現界の狭間に落ち込んでしまう。そこに偶然通りかかった紅世の王「贋作師」テイレシアスと契約を結び、彼に新しい身体を贋作してもらい、フレイムヘイズとなる。

その後、零時迷子の暴走によって意図せず過去の御崎市に逆行し、その時間において強力な紅世の王と戦闘を繰り広げ、「白銀の討ち手」として覚醒する(この戦闘の折、共戦した「弔詞の詠み手」マージョリー・ドーと親しくなる。サユという名前もマージョリーが命名した)。
元の時間に帰り、再びシャナと会うことを切に願うが、そのためには過去の坂井悠二から零時迷子を奪うしかないことをテイレシアスから伝えられ、断念。死を覚悟して過去の坂井悠二とシャナに戦いを挑み、自分と同じ結末を辿らないように鍛えあげる。この戦闘で一度は死にかけるが、坂井悠二の機転によって一命をとりとめ、全てを告白。零時迷子を使う以外の方法を模索するために現在はマージョリーが拠点とする佐藤啓太の家に下宿させてもらっている。

とっくに肉体は滅び、存在の力の器もないトーチ(しかもほとんど消滅しかけの状態)だったため、テイレシアスが新しい肉体を贋作して与えている。この身体を作る際、テイレシアスが「強い人間の姿を思い浮かべろ」と言ったためにシャナを思い浮かべた結果、新しい肉体はシャナを模倣したものとなっている。そのため、サユにもシャナの格闘センスや五感・嗜好のクセなどが受け継がれている(メロンパンに無意識に反応するetc……)。シャナには一歩及ばないが、類まれなる格闘能力を有している。

元がトーチであり、しかも前述したように肉体が贋作物であるため、並のフレイムヘイズよりも存在の力の限界保有能力が低いというウィークポイントを持っている。また、贋作に特化した紅世の王と契約したため、普通のフレイムヘイズなら簡単に習得できる自在法の習得ができない、または非常に困難となっている(AppleコンピューターでWindows用ソフトが使えない、ようなもの?)。

一人称は「ボク」。性格は温厚であり、かつ鈍感。元が男だったため、自分に向けられる男からの思惟には察しが悪い。人格も男のままなため、内面と外面にギャップが生じており、それに無防備な仕草が合わさって不思議な魅力を醸し出している。しかし、有事の際は自らの特殊能力とシャナとの旅で培った戦闘経験を存分に活かし、類まれなる戦闘能力を発揮する。また、自分が存在の力を喰われてトーチとなった過去により、紅世の者による人喰いを何より嫌い、防ごうとする傾向がある。大半のフレイムヘイズは復讐を動機としていることを踏まえると、フレイムヘイズとしてはイリーガルな存在と言える。

<特殊能力>

「白銀の討ち手」はテイレシアスの能力の一部を使うことが出来る。一度目にした宝具や武具を存在の力を消費して再現できる。また、強化したり能力を付随することもできる(その結果、能力の一部が制限されることもある。例を上げれば、トリガーハッピーの威力を強化した際、対フレイムヘイズ用の特殊能力が失われている)。強力な宝具になればなるほど、強化をすればするほど、多くの存在の力を消費する。宝具でない通常の武具を贋作する場合は消費を抑えられる。ただし、攻撃力や特殊能力は宝具に及ばない。

贋作した宝具は常に存在の力を消費しながら形状・能力を保っているため、特殊能力を使用したり、力の供給がカットされてしばらく放置されると自然消滅してしまう。サユの保有する以上の存在の力を注ぎ込まなければ再現できないもの、あまりに複雑精緻な構造をしたもの、または規模が大きすぎるものは贋作することが出来ないという欠点を持つ。

余談だが、もしも最高クラスの宝具を同時に複数贋作できるレベルに至ったとしても、その限界数は最大9つまでという制限がある。これはテイレシアスの限界と合致している。



「贋作師」テイレシアス

人間と紅世の者が生み出す奇跡の産物である宝具に魅せられて、その贋作を創ることを至上の喜びとする若い紅世の王。シャナのコキュートスに似たペンダント型の神器に意志のみを表出させる(シャナの姿をモデルにした影響)。その正体は白銀に燃える巨大な九尾の狐である。

2000年ほど前に紅世に生まれた時から、すでに『己の存在の力を消費してモノの贋作を創る』という特殊能力を有していた。そのため、戦うことよりも気に入った宝具を贋作することの方にベクトルが向き、今ではライフワークとなっている。
あくまで贋作を創ること自体が目的のために、創った後の贋作には興味がなくなる。放置された贋作が悪用されることを危険視したアラストールに一度雷を落とされたことがある。それが原因で、アラストールとは仲があまりよくない。例えるなら『口うるさく恐ろしい体育教師』のように思っている。

性格はマイペースかつ気分屋。冷静沈着でもなければ豪放磊落でもない。しかし、偏屈者の表皮の下に他者への深い配慮も隠し持っている。贋作を作ることに罪の意識などまったく感じておらず、趣味に生きることを何より尊ぶ。宝具を創ることのできる人間という種族を認めており、人喰いを良しとしない。しかし、人の存在の力を喰わないために現界に降りても存在の力がすぐに不足して長く滞在することができず、長年フレイムヘイズと契約することを念願していた(契約すれば長期間現界に滞在することができる)。世界のバランスを護るという使命はオマケ程度にしか認識しておらず、人食いは自分の趣味の妨げになるという消極的な理由でフレイムヘイズ側に属している。

最近契約したサユのことをいたく気に入っており、大抵の場合はサユの意志を尊重するなどもはや愛娘の如く可愛がっている節がある。ちなみに、彼が自らの称号に「炎髪灼眼の討ち手」と同じ「討ち手」を使っているのは、アラストールへの当て付けのためである。

 実は「髄の楼閣」ガヴィダと交友があり、意見の衝突は多々あれど何だかんだで仲が良かった。唯一の友人だったガヴィダが消滅した後は、ほとんどを紅世に引き篭って過ごしていた。

<特殊能力>
フレイムヘイズ「白銀の討ち手」に付与される能力とは違い、テイレシアスが創った贋作は存在の力の供給がカットされても自然消滅はしない。また、フレイムヘイズでは手に余る巨大・精密な宝具も再現が可能である。自身の存在の力の塊であるため贋作に自由に手を加えることができるが、当人はしたがらない。
最高ランクの宝具を贋作する場合、同時に創ることが出来る限界数は最大9つまでという制限がある。

<元ネタ>

名前の由来はギリシャ神話に登場する元祖TSFキャラのテイレシアースさん。蛇の交尾を偶然目撃してしまい、「その時不思議なことが起こった!」というノリで女体化してしまった不幸な人物。世界広しといえどこのような奇天烈な経験をした人間は彼だけだろう。



「螺勢」キュレネー

4000年前以上前に紅世に生を受けた、灰色の炎を持つ紅世の王。灰色の衣を幾重にも纏った白人の美女の姿をしている。
遠く離れた場所から獲物をいたぶり殺すことのできる「弓矢」に陶酔しており、弓を使わせれば数ある紅世の王においても彼女の右にでる者はいない。また、紅世生粋のリョナラーでもあり、特に少女のフレイムヘイズを苦しめ殺すことが趣味のスーパーサディストでもある。

特定の勢力に属すのではなく、傭兵として名高い「壊刃」サブラクのようにフリーランスで活動している。
その能力は「分身」だが、彼女のそれは桁が違う。存在の力があればあるだけ己の分身を作ることができるため、上限は存在しない。「白銀の討ち手」「弔詞の詠み手」との交戦の際には数千もの分身を作っていた。遠距離からの圧倒的な物量攻撃を得意とし、狙撃の腕も非常に秀でている。その手で幾多ものフレイムヘイズたちの命を刈り取った。
近代で五指とまではいかなくとも十指には入る実力を備えているため彼女を味方に引き入れたいと思う者は多いが、少女のフレイムヘイズを見つけると勝手にそちらに集中してしまうので肝心な時に頼りにならないという不評も多い。逆に、少女のフレイムヘイズを餌に使うと簡単に協力するため扱いやすいという好評もある。

人間を脅して作らせた宝具「カイニス」を愛用している。蔦が絡み合ってできたような黒色の弓の形をしており、存在の力を矢状に収束させ、指向性を持たせて射出できる。また、キュレネーの分身に合わせて宝具も分裂するという特性も持っている。

前述したように非常に強大な紅世の王ではあったが、相手に合わせて武器と戦い方をオールマイティに選択できる「白銀の討ち手」とは相性が悪かった。また、「白銀の討ち手」が選択した宝具は偶然にもキュレネーが心から忌み嫌う拳銃の形状をしていたため、普段の冷静さを欠いてしまったも大きな敗因となった。


<元ネタ>

元ネタの方のテイレシアースさんが蛇の交尾を目撃した山の名前「キュレネー(またはキタイロン)」と、紀元前4世紀に設立された極端な肉体快楽主義哲学の学派「キュレネ派」が元ネタ。容姿はfate stay nightのキャスターさんがモデル。でも耳は尖ってない。

宝具の元ネタはこちらもギリシャ神話のTSFキャラ「カイニス」さん。元は女性として生を受けたが、神々の恩寵により男性カイネイウスへと性転換され、そのまま一生を遂げた。息を引き取った瞬間、彼は元の女性の姿に戻ったという。それを目撃した家族友人はとても驚いたに違いない。


「風雲」ヘリベ

シャナと悠二を襲撃した紅世の王。中東風の美青年の容姿をしている。炎の色は不明。「愛染自」ソラトや「愛染他」ティリエルのように若い紅世の王。

多くの燐子を従え、自らも俊敏性と頭脳の優秀性に富んでいる。本文中では呆気なく討滅されてしまったが、高度な意思を持った燐子を数多く生み出したり、高度な戦術を用いていたことを考えれば彼がそれなりに有能な紅世の王だったことが伺える。しかし、シャナを引き止めるはずであったキュレネーが間違って「白銀の討ち手」を引き止めたこと、獲物としか見ていなかったミステス(坂井悠二)が実はヘリベを越える戦術家であったことが災いし、ものの数分で贄殿遮那のサビにされてしまった。

作者が鼻くそほじりながら考えたためほとんど設定らしい設定もないくらいの噛ませ犬キャラクターだったが、ヴィルヘルミナに坂井悠二の有用性を知らしめた点については役立ったと言える。もちろん元ネタなんてない。



[19733] 白銀の討ち手 『義足の騎士』 1-1 遭逢
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/24 02:18
「俺がフレイムヘイズになったのは、一人の女の子と出会ったからなんだ」
                       ―――――フレイムヘイズ『義足の騎士』


 ‡ ‡ ‡


暗く朧げな、どこか奇妙な部屋。石壁で構成されたその部屋には窓はなく、照明は壁に備えられた蝋燭しかない。中世風の趣のある部屋だ。壁に張られた日本語のカレンダーがなければ、西洋にある教会の一室と間違えてしまいそうだ。
そこに、一人の男がいた。堀の深い顔つきをした三十後半の白人の男だが、分厚いメガネの奥に隠されたその灰色の瞳はどこか疲れた哲学者のような空気を漂わせ、彼をさらに十歳は年老いて見せた。椅子に深く腰掛け、男はたった一人で何かの作業をしている。――――否、二人に“なった”。

「Schreitet die Arbeit glatt fort? Denis.
(調子はどうだね、デニス)」

背後の壁から“染み出してきた”人間が、撫でるような声―――流暢だが、どこか違和感を感じるドイツ語―――で問う。暗くて判然としないが、上等な燕尾服に身を包むその姿は一昔前の西洋の紳士のようだ。その異常な訪問者に振り返りもせずに、黙々と手を動かす男はフラスコの中で青白く光る炎を顎で差して平然と応える。どうやら、彼の名はデニスというようだ。
「Die Arbeit schreitet sehr glatt fort. “Macht des Existenz” ist ein wenig notwendiger. Es wird sofort vervollständigt, wenn ich mache, damit es.
(至って順調だとも。あともう少し、君がこの“存在の力”を持って来てくれれば、すぐに完成する)」
「Ich sehe! Es ist sehr gute Nachrichten!
(おお、そうか!それはよかった!)」
デニスの返事に、紳士は声を弾ませた。ステッキを鳴らしながらゆったりとした歩みでデニスの元へ近寄り、その手元を蛇のような動きで覗く。
デニスはポットほどの大きさに削られた木塊をひたすらノミで削っていた。象形文字のような得体の知らない言語や奇怪な紋様を器用な手つきで表面に余すところなく刻み込んでいく。

ふと、デニスの手が止まった。紳士を振り返り、その満足そうな笑顔を凝視する。ゴムのような質感をした肌の奇妙さが蝋燭の乏しい明かりで際立つ。
相変わらず気味の悪い笑顔だ、と彼は思った。
「……Salmaci, Wir machten Zusammenarbeit die ganze Zeit. Würdest du heute meine Frage beantworten? Was ist das “Macht des Existenz”?
(なあ、サルマキス。私たちはずっと共同作業をしてきた。今日こそは答えてくれてもいいんじゃないか?この『存在の力』とは一体何なのかを)」
デニスは、突然自分の元に現われたこの得体の知れない紳士から、“存在の力”という不思議な炎のことをほとんど知らされていなかった。少し前までは、彼自身も知ろうとも思わなかった。紳士から与えられる今まで見たこともないような未知のエネルギーと異世界の技術は非常に魅力的で、彼を盲目にさせるのには十分だった。

しかし、デニスは存在の力にだけは畏怖を覚えていた。時々、炎の中から大勢の人間の断末魔の悲鳴が聴こえる気がして、最近ではろくに眠ることすらできなくなっていたのだ。
紳士――――サルマキスが、ふむと顎に手を当てた。言うか言うまいか悩んでから、答えを待ってじっとこちらを見ているデニスに小さなため息をついた。優雅な動きで体を翻してデニスに背を向けると、そのまま去ろうとする。
「Salmaci.
(サルマキス)」
「Ich verstehe es. Ich verstehe es gut! Höre es sich ergießen, Mein Freund. “Macht des Existenz” ist―――
(わかっている、わかっているとも。いいかね友よ、存在の力というものは―――)」
サルマキスはそこで一旦止めると、首だけでデニスを振り返る。その顔には、同じ人間とは思えない口元を引き攣らせた凄絶な笑みが貼りついていた。いや、事実、彼は“人間ではない”のだ。
「Menschliche Energie. In Kürze ist es eine Seele.
(人間の生命力、つまり魂そのものなのだよ)」
「Warum ….. atme es ein?
(―――なん、だと?)」
デニスの手から木塊が滑り落ちた。
サルマキスが嘘を言っているとは思えなかった。戦慄に全身から汗が噴き出る。では、あの悲鳴は―――?
「Nicht, du verstehst? Aber es gibt keinen Weg. Das “Macht des Existenz” ist Macht für einen Menschen, dem Ruf zufolge in der Welt zu existieren. Es ist die beste Macht, die nicht erhalten wird, wenn ich es nicht aus Ein Mensch herausziehe!
(理解できないかね?まあ、無理はない。存在の力とはその名の通り、人間がこの世界に存在するために持っている力だよ。人間から“抽出”することでしか得られない、至高の力さ)」
物覚えの悪い教え子に諭すように説明すると、サルマキスは来た時と同じように壁の中にその体を染み込ませて行く。去っていく人外の存在に、デニスは椅子を蹴り飛ばしてすがるように掴みかかる。
「Wartezeit Salmaci!Wie über dem Menschen, der “Macht des Existenz” verlor!?Ist es tatsächlich anders!?
(待ってくれ、サルマキス!存在の力を抽出された人間はどうなる!?まさか……!?)」
半狂乱のデニスの手からするりと逃れたサルマキスは、首だけでぐるりとデニスに振り返ると、邪悪な嗜虐の笑みを浮かべた。
「Natürlich stirbt der Mensch. Ich verschwinde vollständig. Aber es kann nicht die Sache geben, die du darüber zusetzt. Du benutztest schon unzähliges Ein Mensch….. Bis morgen. Auf Wiedersehen.
(もちろん、死ぬ。この世から何の痕跡も残さず消えるのだ。だがそれで君が気負うことはない。君はもう数えきれないほどの人間を“消費”してきたんだからねぇ。では、御機嫌よう。友よ)」
嘲笑うかのようにそう言い残すと、サルマキスの姿も気配も完全に壁の中へと消え失せた。デニスが呆然として地に膝を突く。
なんということだ。自分が今まで作ってきた作品(サルマキスは宝具と呼んでいた)には、数え切れないほどの人間の命が使われていたのだ。サルマキスの甘言にまんまと騙された。……いや、知ろうとしなかった自分も共犯だろう。自分の罪は許されるものではない。

デニスはおもむろに立ち上がると、足元に転がっていた製作途中の宝具を拾い上げた。
これを作るにあたって、大量の存在の力を使った。しかも、これの効果を発揮させるためにはより多くの存在の力を必要とする。これをサルマキスに渡せば今までよりもっと多くの人間が犠牲になる。これ以上、あの非情な男に人間を殺させるわけにはいかない。
「…Nine…
(……駄目だ……!)」
破壊してしまおう手斧を振りかざす。が、そうしたところでまた造らされるだけだという考えが頭をもたげ、振り下ろす力を削ぎ落した。それに、この宝具に大勢の人間の命が詰まっていると知ってしまった今では、破壊することなどできない。
行き場のなくなった怒りと無念とともに手斧を床に突き刺す。ドカッと鈍い音が狭い部屋に響き、すぐに消えた。
自分はどうすればいいのか。サルマキスは恐ろしい力を持った悪魔だ。自分が抵抗したところであの男には傷一つつけることすらできまい。それに、自分には妻子がいる。一人息子は先日、事故に遭って右足を失い、満足に動くことすらできない。今ではその事故すらもサルマキスの仕業ではないのかと疑ってしまう。“下手なことをすれば家族がどうなっても知らないぞ”という警告だったのではないか、と。
「Was will Gott, ich mache? Unterrichte es bitte, Gott…...
(おお、神よ…。私はいったいどうすればいいのです?お教え下さい、神よ……)」

虚しく響いたその声に、返事はなかった。


 ‡ ‡ ‡


全身で風を切り裂く。ライバルたちを遥か後方に追い抜き、追随を許さない走りでトラックを駆ける。周囲の光景も何千人という観客たちのざわめきさえも流星にして背後へと吹き飛ばしていく。
その勢いを殺さぬまま、胴体でフィニッシュテープを破る。一瞬の沈黙が会場を包み――――雷鳴のような大歓声が空間を轟かせた。観客席から、街中から、世界中から、フリッツと俺の名を何度も叫ぶ声が聴こえる。
巨大な電光掲示板には『世界新記録』の文字が表示されている。それを仰ぎ見て、俺は高く腕を振り上げて歓喜に叫ぶ。

ああ、これは夢じゃないのか?こんなことが本当にあるのだろうか!?

ふと、自分をこの栄光の瞬間に導いてくれた足に目を落として、


――――足がなかった。


「……ッ!」
突っ伏していた机から顔を起こす。慌てて辺りを見回して、今まで見ていたものが夢なんだと理解した。どうやら居眠りをしてしまっていたらしい。なんて嫌な夢を見てしまったんだ。

『Dies ist die Zeit für neuen neuen Weltrekord. Ich wurde überrascht.Er kann!sehr früh laufen!
(これが、更新された世界新記録です。なるほど、たしかに速い!)』

点けっぱなしにしていたテレビで、今開催されているロンドンオリンピックを中継するアナウンサーが興奮して声を荒げている。そのうるさい声に顔を顰めてテレビを振り返ると、『100メートル短距離走:世界新記録:9秒70』というテロップがでかでかと強調されていた。なるほど、たしかに速い。
――――だが、はっきり言って俺ほどじゃない。俺なら9秒68は出せる自信がある。事実、出したこともある。だけど、俺は決してオリンピックという舞台で華々しく活躍することはできない。たとえどれほど驚異的なタイムを叩きだしたとしてもだ。
(“足”さえあれば、俺だって)
右のジーンズの裾をあげて脛にあたる部分を撫でる。ザラザラとしていて冷たい肌触りは、人間の肌のものではない。当然だ、“木製”なんだから。
「Scheiße!
(くそっ!)」
持っていたシャープペンを壁に投げつける。
俺の右足は、膝から下の部分が存在しない。事故で激しく傷つき、切断してしまった。この義足は、4年前に死んだ義足職人だった父さんが造ってくれたものだ。父さんが死ぬ間際に精魂を込めて完成させたこの義足のおかげで、俺は自前の足を持っている奴らよりも早く走れるようになった。

突然日本国籍からドイツ国籍へと変更させられて、何かから逃げるように俺たち家族を父さんの母国であるドイツに連れて来たことは今でも少し恨んでいる。急激な変化への適応を迫られて、俺と母さんは大きな負担を負うことになった。引っ越してすぐに父さんが死んだせいで生活は苦しくなり、俺のために必死に働いてくれた母さんは身体を壊して入院している。
こんな結果になってしまうことは聡明だった父さんなら想像ができたはずだろうに、なぜ突然ドイツへと渡ったのか……。当人がこの世を去った今では知る由もないことだ。
この義足のおかげで生き甲斐を見つけられた。誰にも負けない特技を手に入れることができた。苦学生としてただ生きるために勉強するだけの退屈な日々に色を添えてくれている。それは、心から感謝している。
でも……偽の足じゃ、オリンピックには出られない。障害者のためのオリンピック―――パラリンピックに出たって、世間からの注目はほとんど浴びない。賞金も名誉も栄光も、本物のオリンピックに比べれば微々たる物だ。
(本物の足があれば、今頃、世界新記録を掴んでいたのは俺だったんだ)
テレビ画面の中で観客の拍手に大きく手を振って応えている、世界新記録を打ち立てた選手の笑顔を冷えた眼差しでしばし見つめる。その喜びに満ちた満面の笑みとは対照的な暗く深い諦観の思いに苛まれ、選手の感動と反比例してズブズブと気が沈んでいく。
「Halten wir an, daß ich denke.
(やめやめ、なにやってんだ俺は)」
頭(かぶり)を振って気を取り直す。ない物ねだりをしたって仕方がない。
テレビを消して傍にある簡素なベッドへ倒れこむ。頭上にある時計を見れば0時をとっくに過ぎていた。明日も朝から部活がある。もう寝よう。
簡単な点検を済ませてから慣れた手つきで義足を外し、枕元にある照明のスイッチを切る。途端、心地よい眠気に襲われる。勉強で疲れていたのだろう。まるで日が暮れるようにゆっくりと瞼が閉じていく。
意識せず狭まっていく視界に、街の夜景を透かさせる窓が映る。毎日嫌でも視界に入る、埃だらけの小さな窓。

そこに、目を疑うような光景があった。

「…Ein Engel…?
(……“天使”……?)」
向かいの教会の屋根に、天使が佇んでいた。純白に輝く長髪と大きな翼を背ではためかせて華麗な白銀のドレスを着ていれば、それは天使としか言いようがないだろう。
俺の視線に気づいたのか、天使がこちらを振り向く。さらりと風を孕んで流れた銀髪が自ら光を放っているかのように輝いた。
「―――――」
あまりの可憐さに、絶句した。
東洋人らしい顔立ちをしているが、その端麗な容貌はどこの国の人間も思わずため息を漏らさずにはいられないだろう。
透き通るような白い肌、洗練されているのにどこか少年のようなあどけなさが宿る細面、そして黄金比を体現するような引き締まった細身の体躯――――。
究極と言うべき造形をしたその少女は、“そういう趣味”を持っていない俺にも魅力的に見えた。見飽きて、もはや嫌気すら感じていた光景が、この瞬間はどんなに神々しい宗教画にも勝る至宝の名画と化していた。
歳は、まだ10代前半だろう。だというのに、薄い紅唇が月の光を反射して艶々と濡れ光る様は、年齢という枠を超えた妖艶さを持って俺の目を釘付けにした。ゴクリ、と喉が鳴る音がひどく遠くに聞こえる。

(これは現実か?夢か?)
自分の正気を疑いながら目を擦ってもう一度教会の屋根を見ると、
「……was?
(……あ、れ?)」
果たして、天使の姿なんてどこにもなかった。窓の外には、いつも通りの見飽きた世界がただ茫漠と広がっているだけだ。

寝ぼけて変な幻覚を見たことは何度かあるが、ロリ天使なんてのを見るのは初めてだ。さっき見た夢のせいで、よほど精神がまいっているのだろう。こういう時はさっさと寝て疲れを取るべきだ。
あれは幻覚だったと強引に結論づけ、寝返りを打って頭から毛布を被る。

一週間後には大事な試験がある。良い成績がとれなければ奨学金のランクが下がってしまう。こんなことで失敗するわけにはいかない。
試合前に行う精神統一の要領で必死に頭を真っ白にすれば、途端に睡魔の波が訪れる。その心地良い波に身を任せながら、ゆっくりと眠りに落ちてゆく。

(でも、あの娘、)

意識の緞帳が落ちる直前、瞼の裏に焼き付いた天使の純白の瞳が目の前をよぎる。

(可愛かった、な……―――)

これは重症だな、という自嘲じみた感想を最後に、俺は深い眠りについた。


 ‡ ‡ ‡


「……あれ?反応が消えた?」
天使――――『白銀の討ち手』サユが眉を顰める。
「どうやら、宝具への存在の力の供給がカットされたようだな」
その胸元から地鳴りのような低い声をあげて、サユが契約する紅世の王、『贋作師』テイレシアスがうぬと唸る。
サユが目を閉じて意識を広範囲に拡散させ、もう一度周辺の探査を行う。しかし、先ほどまで感じていた宝具の反応はやはりまったく感じられなかった。
「?」
はたと、食い入るような視線を感じて背後を振り返る。少し離れた家の二階の窓から誰かがこちらを見ていた。
ベッドに仰向けに寝転んでほとんど眠りかけている少年。黄金色に輝くブロンドの短髪に翡翠色の瞳をしているが、年齢不相応な野性味のある顔つきをしている。背丈からして僕より年下のようだ。もっとも、西洋人らしいがっしりとした体格は、僕がまだ坂井悠二だった時の体格より二回りは大きいのだが。

少年がごしごしと目を擦る。きっとボクの姿が信じられないのだろう。
背中から羽を生やした人間がいたら誰だって目を疑う。このゴスラーという街では魔女伝説が有名だそうだから、魔女なんかに間違われたかもしれない。騒ぎになることは避けたいので今のうちに地面に降りることにした。
音を鳴らさないように柔らかに足を踏み出し、とんと軽やかに地面に降り立つ。最初は元の身体とまるで違う体格や性能に戸惑いもあったが、もうすっかり順応できた。今ではこの身体をなんの齟齬もなく完璧に動かすことができる。
そこまで考えたところで、いつのまにか手が勝手にスカートの乱れを直していることに気づいた。馴れてしまうのも考えものだ。
「少女が身だしなみに気をつけることはいいことだぞ?」
笑いを含んだテイレシアスのからかい声にふんと鼻を鳴らし、指先でペンダントをぺちりと弾く。テイレシアスに抗議する時はいつもこのようにする癖がついてしまった。
「放っといてくれ。それより、本当にここにあの宝具があると思う?」

サユとテイレシアスがドイツのゴスラーという田舎まで来た理由は、他でもない、“時の事象に干渉できる宝具”を手に入れるためであった。『外界宿(アウトロー)』を経由してその宝具の存在を知った二人は伝えられた微かな情報を頼りに、日本から遠く離れたこの街まで辿り着いたのだ。

「それらしい反応があったのだから間違いないだろう。少なくともこの周辺にあるということまではわかったんだ。しばらく休息を取っていなかったんだから、今日はもう休め。あの宝具を狙う徒もいる。突然、戦闘になる可能性もある」
そういえば、最近宝具の反応を追ってずっと動き回っていたから疲労が蓄積している。いかに超人のフレイムヘイズと言えど、疲れるものは疲れる。この状態で戦闘を行うのはたしかに不安だ。テイレシアスの言う通り、今は休むことにした。

運良く教会の二階の窓が開けっ放しになっていたのでひょいとそこから侵入する。どうやらそこは倉庫のようだった。
(不法侵入だけど、ちょっと風を凌ぐ場所として借りるだけだし、いいよね?)
中に誰もいないことを確認して、無造作に置かれていたマットに横になると背に展開した外套(タルンカッペ)を幾重にも身体に巻きつけて眠りにつく。
「うう、寒い。やっぱりフレイムヘイズでもヨーロッパの冬は堪えるね。暖かいお風呂に入りたいよ」
「風呂と言えば、お前がその身体で最初に風呂に入った時は―――」
「アーアー聞こえなーい!お休み!」



少年も、サユも、気づかなかった。
暗闇の中で、少年の義足が淡い水色の光を放っていることに。

その光が、やがて二人の運命を大きく変えるということに―――――




[19733] 1-2 急転
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/30 11:24
「Fritz・Y・Lichtheim, Der nächste ist deine Drehung.
(フリッツ・Y・ルヒトハイム。次は君の番だ」

部長を務める男――――日本の基準で言えば高校3年生―――に名を呼ばれ、俺は悠然と立ち上がった。わざわざフルネームで呼ぶのは、俺を仲間とは見なしていないという意思表示だ。
俺よりも拳ひとつ分は背の低いそいつを冷ややかに一瞥して、スタートラインへ立つ。
前足側の膝を立てて義足の膝を地面に押し付け、足裏をスターティングブロックに乗せる。両手の指で全体重を支えて前傾姿勢をとり、太腿の大腿四頭筋に力を集中させて暴発寸前まで高める。地を這う獣のように、姿勢を限界まで低くする。
精神を統一し、すべての雑音をシャットアウト。
耳が痛くなるほどの静謐に満ちた世界に、『Bereit…(用意)』という合図が響いた。身体に染み付いた滑らかな動きで腰を上げて静止する。自分が限界まで引き絞られた弓になったという“確信”。

空砲の音が耳に入ったと自分が理解するよりも速く、身体は動き始めていた。
アッパーカットのように激しく腕を振り上げ、ピッチ(足の回転)を一瞬にして限界値まで上げる。車輪のように間断なくコースを蹴って、風よりも速く疾駆する。
一瞬だけ瞼を閉じて、この静寂を味わう。この短い時間だけは、何からも束縛されない心からの自由を味わえる。何者も、今の俺には手出しできない。

景色が瞬く間に後方へ流れ、100メートル先にあったはずのゴールラインを飛び越える。そのまま10メートルほど余韻を楽しみながら速度を漸減させ、心臓と筋肉の収縮を平常時の状態に戻す。
「Deine Aufzeichnung ist ….09.74 Sekunden.
(タイムは……えっと、9秒74、です……)」
ストップウォッチを手にした女子部員が呆然としながらタイムを告げる。見ない顔の女だ。最近入ったマネージャーだろう。細かく観察せずとも、その白すぎるほど白い肌を見れば、男子部員の誰かを好いて入部したことは容易に想像がつく。
この部はそういう手合いが多い。誰を好んで入部したのかは知らないが、迷惑な話だ。
「Nun, Entschuldigen Sie…….
(あの……)」
「Dank.
(悪いな)」
俺は突き放すように短答すると、何か言いたげだったマネージャーを押し退けるように待機場所へ突き進む。
オリンピック選手も顔負けのタイムを叩き出したにも関わらず息も切らしていない俺に、小さなマネージャーは怯えたように身を竦めて道を譲った。伸ばした前髪越しに上目遣いにこちらを仰ぎ見る視線が、涙を溜めているように見えた。きっと化け物を見ている気分なんだろう。

待機場所に戻ると、同じ視線が部員たちから浴びせられる。それを無視して俺はどっかとベンチの隅の指定席に腰を下ろした。
不快には思わない。こいつらがどんなに全力を出しても、俺のタイムには届かない。しかも、今のはほんのウォーミングアップに過ぎない。俺が本気を出せば、こいつらの自尊心は粉々に砕け散るだろう。『義足の走者に負けた』と。

憐憫にも嘲笑にも似た感情を覚えて口端を歪ませながら、義足の接続を外して生身の足と義足の間の緩衝用フェルトを調節する。走る時も、義足は変わらず父さんが作ってくれたものを使っている。元は日常用に設計されたものだが、職人の技術の粋を凝らした丈夫でしなやかな木製の義足は、短距離走にも十分対応できる。以前に顧問から貰った短距離走専用の形状記憶合金製の義足を使って走ったことがあるが、タイムは散々なものだった。父さんがどれだけ優れた技術者だったかが身に染みてわかって誇らしく思う。

そうこうしているうちに、最後の走者が走り終えた。案の定、俺のタイムを越える者は今日も出なかった。部長が苦々しい表情をしてこちらに目を向けたので、それにひらひらと手を振って応える。ざまあみろだ。
いつものように、ぎりと歯を噛み締めて殺意すら込められた視線を俺に送った後、笛を鳴らして部員全員を傾注させる。
「Training von heute wird beendet. Weil die Aufrechterhaltung des Schulgrundes ausgeführt wird, mache ich Klubaktivitäts-Absage von heute. Trainiere bitte durch jede Person. Bis morgen.
(よし、今日はここまでだ。大規模トラック整備のため、放課後の部活は中止だ。だが、各自で訓練はやっておくように。以上、解散)」
蜘蛛の子を散らすように部員が解散し、汗の染みた服を着替えるためにそれぞれ学年ごとに割り当てられた更衣室へ歩む。そんな中、俺は一人自分のクラスへと歩を進める。汗をかいていないのだから、着替える必要もない。ジャージの上にセーターを着てそれで終わりだ。
背後で『Ein Monster……(化け物め)』と呟く声が聴こえたので、鼻で笑って嘲笑を返してやった。

射るような憎悪の視線を背中に感じながら、ふと思う。

最後に心から笑ったのは、いつだっただろうか。



クラスの俺の立場も、部活のそれと大して変わらない。
俺は溶け込もうとはしないし、クラスメイトたちもわざわざ迎え入れるつもりもない。比較的裕福な家庭の子どもが通うこのハイスクールの空気には馴染むことは出来なかったし、馴染む努力をする余裕も気力もなかった。それに、むしろこの状況は俺にとって好都合だ。ひたすらすべきことに集中できる。

ただ――― 一つ、気になることがある。
同じクラスに日系の女がいるのだが、そいつの様子が明らかにおかしい。まるで“消えかけの蝋燭”のように、存在感が目に見えて薄れていっている。だというのに、他の奴らは誰もそれに気づかないのだ。イジメを受けているわけでもない。ほんの数日前までは、ベラベラとくだらないことを仲間内で語っていた。

俺が横目で観察する中、そいつはフラフラと教室へ入ってきてストンと自分の机に座る。そしてそのまま、人形のように固まって動かない。向こう側が透けて見えそうなほどに存在感が希薄だ。幽霊だと言われれば納得してしまいそうなくらいだ。誰にも話しかけないし、誰もそいつに話しかけない。完全に背景と同化してしまっている。
(親しい間ってわけでもないし、俺が気にかけることでもないな)
それ以上思い煩うこともなくすっぱりと忘却して、俺は今後の自主トレーニングの改良点について没頭し始めた。


必要不可欠な会話以外はしないいつもの学校生活が終わり、俺はまっすぐに帰路に着いた。道草をする金もないし、奨学金獲得に必要な成績に達するためにそれなりに勉強もしなければならない。国や地方からの学生支援金はあることにはあるが、それらは今の学費と生活費、そして母さんの治療費で全部消えている。病院で長期入院しているため、重病ではないとはいえそれなりに金はかかる。保険だけでは賄い切れないし、そもそもドイツ国籍を取得してからまだ5年しか経っていないので医療保険も満額は支給されない。ハイスクールでの最高ランクの奨学金の条件は「常に好成績を維持すること」だし、それだけでは足りないだろうからそのうちアルバイトも始めなければならないだろう。
自然とため息が漏れる。正直、金の工面に関しては頭が痛いが、進学は自分で選んだことなのだから仕方がない―――。
そうやって自分を納得させなければ、この粘つくような息が詰まる日々を繰り返すことは出来なかった。昨日と同じ今日を過ごし、今日と同じ明日が来て、またその次も同じ日を繰り返す。一年先、十年先も繰り返される一日のために、明日に繋がる今日をただ漠然と生きるだけの生活……。そのうち、それが当たり前になって、走ることの楽しさも歳を重ねるごとに薄らいで、日々労働の汗にまみれ、仕事帰りの一杯やたまの贅沢を宝にして、誰かを好きになり、結婚して子どもを作り、そして僅かばかりの何かを残して老いさらばえ、安らかに死んでいく―――。
それが人並みの幸せなのだと理性が諭す一方で、本能がそれを明確に拒否していた。
「そんなつまらない人生は嫌だ。俺の“器”はこんなものじゃない。もっと輝ける」と。

出し抜けに、唐突な考えが思い浮かぶ。かつて日本で読んだ漫画のように、無為に続くだけの人生を木っ端微塵に破壊して心おどる世界に連れ出してくれる何かが現れてくれないかと。
「Es ist eine lächerliche Geschichte.
(なんて、都合のいい話だよな)」
自嘲を孕んだ息を無意味な期待と共に体外に吐き出して腹腔を空にすれば、後にはいつもと同じ空虚な感覚だけが残された。
(これでいい。期待なんて持つだけ無駄なんだ)

見慣れた道を歩き、見慣れた店の前を通り過ぎ、見慣れた角を曲がって、

ゴォッ、と火の粉が舞った。

「――――Was?
(な、なんだ?)」
見慣れない世界がそこに広がっていた。
でかい炎の壁が俺を中心にして一帯をドーム状に囲んでいる。地面や炎の壁には、文字だか絵だかもわからないおかしな紋様が刻まれている。火事かと思って辺りを見回せば慌てふためく人々の姿は見えない。いつもは賑やかなはずの路地にもカフェにも人気はまったくない。
悪趣味な夢か、はたまた大掛かりなドッキリか。
理性がそう思い込んで平静を保とうとするが、本能がこれは“あってはならない事態だ”と命の危機を報せてくる。見てはいけない禁忌の世界の皮膜が唐突に目の前で破れてしまったような感覚に、知らずに握りしめた拳が粘っこい汗で不快にベタつく。心臓がドクドクと激しく脈動して暴れまわり、「ここにいると死ぬ。早く立ち去れ」とヒステリックに体内から警告する。
確かに無為な人生からの脱出を願ってはいたが、この展開はあまりに空恐ろしすぎる。訳の分からないままにとりあえずこの場を離れようと後退りをして、

「Es gibt nicht deine Flucht.
(どこへ行くのかね?)」

すぐ耳元で男の声が囁いた。声は間近でしたはずのに、吐息をまったく感じない。咽喉を通った空気すら感じられない、違和感の塊の音声だった。
耳の穴にずるりと侵入してくる最悪に気味の悪いその声に、思考より先に防衛本能が働いて反射的に腕を振るう。しかし、振り返ったそこには誰もいなかった。何もない空間を振り切った腕がぶんと虚しい風切り音を立てる。
「Ein Junge, Es gibt mich hier.
(君、私はこっちだよ)」
「Was denn!
(なっ!?)」
再び背後から不気味な声。移動する音どころか気配すら感じられなかった。どうやって後ろに……!?
今度は転がるようにして間合いをとって振り返る。見上げたそこには、英国紳士を思わせる服装をしたチョビ髭の男が突っ立っていた。
高級感のある漆黒の燕尾服 (スワローズテールコート)で細身を包み、同じ色のブリティッシュスクエアハットで頭を飾っている。白い手袋をつけた手には、頂上に光沢を帯びた琥珀が埋め込まれ全体に稠密な紋様が刻み込まれた黒いステッキを握っている。
外見だけ見れば披露宴にいてもおかしくない格好の中年の男だったが――――“中身”が、絶望的なまでに異常だった。
まるでこの世界の悪意をたっぷりと吸い込んだような淀んだ眼球に見据えられただけで、骨に直接冷水を浴びせられたかのような悪寒が全身を駆け巡り、産毛が総毛立つ。“それ”は明らかに人間ではなかった。額に次々と汗が浮かび、全身が小刻みに震える。

そいつが細長の目で俺の体を上から下まで舐めるようにくまなく観察していく。その視線に吐き気を催すほどの不快感を感じながら、しかし蛇に睨まれた蛙のように身体はその場に固定されて動いてくれない。
気色の悪い視線が俺の右足に到達する。瞬間、紳士の皮を被っていたそいつの顔に亀裂が走る。それが“笑顔”だと気づくのに数秒の時間を要した。
「Ich entdeckte Schatz, Denis! Er versteckte meinen Schatz dort….
(ああ、やっと見つけたよ、ルヒトハイム!そこに隠したんだね、私の宝具を……)」
「Warum…..Warum weißt du meinen Namen….!?
(な、なんで俺の名を―――!?)」
そいつが虚を突かれたというように小首を傾げて俺の顔を凝視する。そして合点がいったというようにぽんと手を叩いた。わざとらしい動作がまるで“人間を真似している”ようで余計に違和感が募っていく。
「Nun….. Du bist tatsächlich sein Sohn. Du ähnelst deinem Vater.
(ああ、君はルヒトハイムの息子だね!そうかそうか、たしかに彼によく似ている)」
「Warum kennst du meinen Vater!?Wer sind Sie!?
(父さんを知っているのか!?あんたいったい…!?)」
精一杯の精神力(ちから)を振り絞ってそいつを睨みつけながら疑問をぶつける。その間に、じりじりと少しずつ後退して距離を稼ぐ。
そいつは、肩を竦めて顔面に走る亀裂を歪ませる。
「Du verstehst es vielleicht nicht. Es ist nicht notwendig für dich, es zu verstehen. Der Charakter deines Vaters ähnelt dir.
(君には言ってもわからないだろうし、わかる必要もないよ。それにしても、君は父上にとてもよく似ているねぇ」」
やおらステッキを掲げ上げ、勢いよく地面に突き下ろす。ガツン、という道路を打ち付ける音。
その意図がわからずに眉を顰め、次の瞬間、目を見開いた。
建物の陰、ポストの陰、車の陰、ありとあらゆる陰の中から生まれ出るように巨大な生き物が這い出て来た。ずるずる地面を這うそれらは、芋虫のような――――いや、そんな生易しいものではない。深海に生息する異形の生物に通じるものがある、限りなく不気味で悪意に満ちた化け物だった。
あまりにも人外すぎる光景に立ち尽くすしかない俺に、紳士の姿をしたそれが蛇のような薄気味悪い笑顔を向ける。
「Du bist gut für das Entkommen. Aber ―――
(父上と同じく、逃げることにかけては人一倍優れているようだね。まあ――――)」
ガツン、とステッキが再び地面を突く。
「Ich ließ dich nie gehen.
(もう逃がさないけどね)」
ぞる、と音を立てて無数の化け物が襲い掛かってきた。怖気と絶望に打ちのめされて身体がまったく動かない。動こうともしない。
化け物どもが乱杭歯を見せ付けるように大口を開けて迫り来る。やばいやばいやばいやばいやばい……!

「―――ッ!?」

突然、右足が燃えるように熱くなった。否、本当に燃えていた。
清々しい水色の炎を纏わせて、義足が囂々と燃えている。しかし、脚が焼ける痛みは感じない。それどころか力が湧いてくるような感覚すら覚えた。気づけば、身体が思い通りに動くようになっていた。
なぜ燃えているのか知らないが、そんなことはどうでもいい。今はとにかく、この化け物どもから逃げるのが先決だ!
自由になった身体を翻してクラッチスタートの体勢をとる。化け物の雄叫びが耳の後ろで聴こえると同時に、踏み出された右足が地面を思い切り蹴り飛ばし――――その瞬間、俺は物理法則を超えた。
「―――――ッッッ!?」
比喩でもなんでもなく、この瞬間、俺の身体はこの世界の物理法則を裏切っていた。大気が気圧の塊となって行く手を阻もうとするが、俺はそれをぶち破って壊れたマシンのように疾駆する。
(なんなんだよ、これは……!?)
強烈なGが全身を叩きつけてくるが、加速は弱まることを知らない。それは疾走という名の暴虐だった。遥か後方で化け物どもの唸り声が聴こえたが、何を言っているかなんて聞き取れなかった。
周囲の光景が引き伸ばされ、俺の動体視力ではただの横線の群れにしか映らなくなってきた。急激に増加していくGの圧迫で眼球が押し潰され視界がブラックアウトとレッドアウトを繰り返す。もう何も見えないし、聞こえない。息もできない。踏みしめる足底の感触のみが感覚の全てとなった。


不意に何かに足をとられて転倒する。目が見えない俺が体勢を整えることなどできるはずもなく、当然のように俺の身体はコマのように猛烈にスピンしながら放物線を描いて虚空を舞った。数秒の滞空時間を経て背中から地面に激突し、二、三回、跳ねてどこかの建物にぶつかってやっと動きが止まる。
巨大な鉄球の一撃のような鈍重な衝撃に全身を余すところなく打ち据えられて、もはや痛覚さえ麻痺していた。ただ身体が痺れて動かない。指一本たりともまともに動かせない。痺れる眼球だけがなんとか自分の意思で動かすことができた。
明滅する視界で辺りを見回し、そこが自分の家の近くだということがわかる。この位置関係からして、背中を接している建物は教会だろう。

義足を見てみると、水色の炎はとっくに燃え尽きて普通の義足に戻っていた。あれだけの衝撃を受けたのに、傷一つついていない。

「Mein Gott. Störe mich nicht bitte.
(やれやれ。手間をかけさせないでくれるかな?)」

今もっとも聴きたくなかった声。ずるずると化け物どもが重い体を引きずる音も聴こえる。逃げなければと脳が体に指令を送るが、体はぴくりとも反応しない。
「Es ist nur dein Schatz, mich zu wollen.―――Aber du siehst auch köstlich aus. Hege keinen Groll gegen mich bitte. Hege bitte einen Groll gegen deinen Vater. Ein Junge.
(私がほしいのは、君のその素晴らしい性能を持った宝具だけ――――と、言いたいところだが、君はかなりの存在の力を持っている特異な人間のようだ。悪いけど、食べさせてもらうよ。恨むなら父上を恨むんだね、少年)」
こいつの言っていることがどれ一つとして理解できなかった。父さんとこいつがどんな関係だったのかもわからないままだ。水色の炎を纏った義足のこともさっぱりわからない。俺は、何もわからないまま、こんな理不尽な化け物どもに殺されるのか?

化け物の群れから、車ほどはある巨大なナメクジのような化け物が一匹、あんぐりとでかい口を開けてゆっくりと迫る。胴もなければ四肢もない。あるのは口だけだ。その口にも、歯茎はなく、舌もなく、喉すらない。そこには口腔内を埋め尽くしてギチギチと煽動する鮫のような牙だけが無数にある。これに食われたら、生きながらにミキサーにかけられてグチャグチャに殺されてしまうだろう。
「Damned, Verdammt…….!
(チクショウ、ふざけんじゃねえぞ……!)」
飛びそうな意識を悪態をついて必死に繋ぎとめ、持ち前の精神力を総動員して強引に身体を引き起こす。それを見て化け物の親玉がほうと感嘆のため息を吐く。
「Deine geistige Stärke ist höher als Vater. Du würdest bestimmt in der Zukunft, als du “Flamme Dunst” wurdest, ein ausgezeichneter Soldat. Es ist bedauerlich, daß die talentierte Person, die ausgezeichnet ist, auch wenn es war, wird ein Feind verloren.
(ふむ。精神力は父上を上回るようだね。フレイムヘイズにでもなったなら、君はよほど優秀な戦士となっただろう。たとえ敵勢力であろうとも、貴重な人材が失われることは惜しいよ)」
芝居がかった大仰な仕草でさも残念がってはいるが、内心は正反対のことを考えていることがよくわかった。
鼻先まで迫った化け物が、目の前の絶好の餌に興奮して吐息を吐いて激しく身悶えする。下水道の臭いを千倍に凝縮したような吐き気を催す汚臭に嗅覚が一瞬で麻痺する。思わず口を押さえて嘔吐を防いだ目の前で、牙が擦れあってギチギチと軋みをあげる。その牙にどす黒く変色した血痕が数え切れないほどこびり付いているのを見て戦慄する。いったい何十人、いや何百人の人間がこいつの餌食になったのか…。
「Du mußt nicht essen, um zu schätzen. Harihara.
(こらこら。宝具まで食べてしまうんじゃないぞ、ハリハラ?)」
微笑を浮かべてステッキでこつんと化け物の尻尾を小突く様子は、まるで愛犬を躾けているかのようだ。

宝具、存在の力、フレイムヘイズ、父さん、義足――――
自分が殺される理由すらわからないまま死ぬなんて、冗談じゃない。なんとしてでもこの窮地を脱出しなければならない。なのに、身体は今にも崩れ落ちそうな状態だ。精神力も限界に達して、今にも意識が消えそうだ。
ハリハラと呼ばれた化け物が俺を噛み砕こうとより一層顎門を開けた。嬉々として迫り来る化け物の裁断機が俺の身体を包む。
自分を取り巻く謎を聞かされながら、それをろくに理解もできないままに醜い化け物に押し潰される。こんなの、あまりにも理不尽じゃないか―――!
ついに恐怖が沸点に達し、喉の奥から悲鳴が漏れ出る。


その絶望の叫びが、絶望の沈黙に取って代わろうとする瞬間――――


轟音が耳朶に響いた。頭の真横から、教会の壁を突き破って“それ”が姿を現す。
轟然と回転駆動する銀色のそれは、ハリハラの牙を残らず破砕して口腔に破壊の猛威を叩き込む。巨体に食い込んだそれは内臓を引っ掻き回し、グロテスクな中身をあたりに撒き散らした。

俺が狂ってないのだとしたら―――それは、紛れもなく“ドリル”だった。
ハリハラがドリルをその身に突き刺したまま断末魔の悲鳴を上げて息絶える。それと同時に、亀裂から光を明滅させる教会の壁が内側から爆砕した。

顔の前で腕を交差させて襲い来る石礫を防ぎ、教会から現われたソレを凝視する。

「―――Ein Engel?
(―――天、使?)」

純白の長髪が後光のような強烈な炎を放ち、白銀の戦装束が美しく輝く。全てを塗り潰す白い光に彩られた少女は、昨夜にこの教会の屋根で見た幻覚そのものだった。
だが、腕を組んで威風堂々と仁王立ちをしている様子は“天使”というより“戦士”だった。
俺を視界に入れた少女の純白の瞳に怒りの炎が宿る。仁王像のような絶対的な怒りを孕んだ瞳。それは俺に向けられたものではなく、俺を殺そうとした“敵”に対しての怒りだった。囂々と発せられる怒気に、チリチリと肌が焦げるような痛みすら感じる。

俺より遥かに小さい矮躯の少女が、圧倒的な“鬼迫”を放って化け物どもと対峙する。


その瞬間、俺は直感した。

“外れた”、と。

もう日常には戻れない。ここから、今までとは絶望的なまでに乖離した“日常”が始まる――――




[19733] 1-3 触手
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/28 01:11
「あああああっ!ハリハラ!?」
今までの冷静な態度をかなぐり捨てた紳士服の男が、手足をばたつかせてナメクジの化け物に走り寄り、汚物のような内臓にまみれるのも構わずに抱き締める。ビクビクと激しくのたうち回っていたハリハラは、主人の腕に抱かれた途端に濃緑色の火の粉を散らして音もなく消え失せた。
「ハリハラァアアアアア!!」
上等な服が汚れるのも構わず、惜しみなく涙と鼻水を流して慟哭する。見るに忍びないほど哀れを誘うその悲嘆ぶりは、事情を知らない人間なら同情して思わず抱き締めてやりたくなるほどのものだった。
「……許さんぞ、下賎なフレイムヘイズめ」
ぽつりと、項垂れ、両肩を悄然と下げていた男が静かに呟いた。その背中から邪悪な怨念と瘴気がゆらりと立ち昇る。たったそれだけで、俺の身体がガクガクと震えだす。情けないと悔しがる余裕すらない。動物としての本能が発する警鐘は、意志の力ではどうにもならないのだから。

男が胸元のポケットからハンカチを取り出して、自身の体液で汚れた顔を丁寧に拭う。だが、ハンカチが拭ったのは涙だけではなかった。

―――ズルリ、と白い肌が剥がれた。

拭うたびにブチブチと薄布をちぎるような音を立てて剥がれ落ちていく。ホラー映画の特殊メイクじみたグロテスクな様子を見せ付けられて、俺は目を逸らせない。
拭い終わると、そこには到底人間とは思えない異形の顔面があった。湿り気を帯びた肌は濁った濃緑色で染まり、濃紺がマーブル模様のように見える。よく見るとそこにはウロコのようなものまであった。目鼻立ちというものが欠如したのっぺりとした顔は、ある生き物を連想させた。
「ト、トカゲ……!?」

「お前は……紅世の徒、『魔使い』サルマキスか」

「えっ?」
思わず呆けた声を漏らして声のした方を見るが、そこには白銀の美少女しかいない。少女の声は、イメージしていた声と全然違う、地鳴りのような低い男の声だった。心のどこかで抱いていた幻想が音をたてて崩れる音がする。
だが、驚愕の追撃は留まらない。少女が突然発した日本語(ヤパーニッシュ)に対し、
「私を知っているのか……ああ、その炎!さては貴様、『贋作師』だな!?この薄汚い“キツネ”めが、よくも私の可愛いハリハラを殺してくれたな!?」
男―――サルマキスが総身を震わせて顔をグニャグニャと歪ませながら、憎々しげに声を荒げて、“日本語で”吼えた。その地獄の呪詛のような声は怒りに満ち満ちている。
(な、なんだ?どうしていきなり日本語の会話に切り替わったんだ?)
相変わらず違和感を内包したサルマキスの台詞が、急に日本語として知覚されるようになった。いつ切り替わったのかも察知できないほどの自然な言語の移行に目眩を起こしそうになる。
「ふん、やかましいわトカゲめ。人間に宝具を持ち逃げされた阿呆がこんなところで何をしている?」
「おのれぇ、私を侮辱するか!!」
少女が低い声でサルマキスの怒りを一蹴する。しかし、閉じられたその口はぴくりとも動かなかった。よく聴くとその声は、少女の口より下から聴こえてきているようだ。無線機か何かかと思ったが、その声質は紛れもない肉声だ。

俺がわけがわからないという表情で少女の胸元を凝視していると、少女と目が合った。俺の視線が胸に向けられていると気づいた少女が胸を隠すように押さえ、柳眉を逆立てて睨んでくる。その咎めるような視線が何を意味するのかわかって慌てて手と首を振る。
「ち、違う!お、俺は別にあんたをいやらしい目で見ていたわけじゃない!それに見るだけの胸もなさそうだし……!」
俺の釈明に、少女のこめかみにぴきりと青筋が走り、頬をぴくぴくと引き攣らせて変な笑みが浮かんだ。今のは失言だった。
さらに弁解を重ねようとして、サルマキスのケタケタとした笑い声があたりに響いた。振り返ると、さっきまでの悲嘆ぶりはどこへ行ったのか、サルマキスはステッキをガツガツと地面に打ち付け、腹を抱えてオーバーに爆笑していた。
「ひはははっ!契約した王も王なら、フレイムヘイズもフレイムヘイズだな!どちらも貧相だ!ひははははっ!!」
それがトドメになった。少女の総身を包み込むように純白の炎が轟と燃え立ち、背後の教会の壁を焼き尽くした。熱波がこちらまで押し寄せてきて慌ててその場から後ずさる。
「誰が――――貧相だって?」
初めて聴いた少女の声。凛として澄んだ声は、今は唸るような低いものになっている。操る言葉が日本語(ヤパーニッシュ)のところからして、彼女も日本人のようだ。

ゆらりと緩慢な動きで少女が背に手を回す。軽い金属音がしたかと思うと、どこに収まっていたのかというほど長大な日本刀が抜き放たれた。刀身も柄も全てが銀色に光るその刀は、凡人の俺にも芸術品の域に入る代物だということがわかる見事なものだった。
俺でもなんとか振り回すのが精一杯であろうその日本刀を、矮躯の少女が軽やかに舞わせて正眼に構える。
「なに、貧相な体でも私のしもべたちにはいい栄養になるだろう。下賎な王ともども、大人しく食べられたまえ!」
サルマキスは静かな怒りに燃える少女の台詞など意にも介さず、ステッキの先端を少女に突きつける。それを合図にして、サルマキスが侍らせていた化け物どもが仲間の仇をとらんと一斉に襲い掛かってくる。

化け物という言葉を体現する恐ろしい醜悪な生物が群れを成して襲い掛かってくる、どんな悪夢にも劣らない光景。
だが不思議と、さっきまで感じていた“殺される”という恐怖感は湧いてこなかった。化け物の群れの突撃に一歩も引かずに対峙する白銀の少女から放たれる存在感は、それほどまでに圧倒的だった。

果たして、俺の直感は見事に的中した。

一瞬の出来事だった。
俺には、微動だにしない少女の前で光が宙に弧を描いたようにしか見えなかった。それから一秒遅れて、押し寄せる化け物の波が少女の眼前でぴたりと止まる。毛虫のような化け物どもの巨体に一筋の線が走ったかと思うと、ずるりと上半分が水平にスライドして地に落ちた。

そこでやっと、少女が人間には認識できない速度で化け物全てを切り裂いたことに――――この少女もまた“人外の存在”なのだということに気づいた。
俺がへたり込んで呆然としている中、少女がごく自然な動きで足を踏み出す。その足が地面を砕いたと俺の脳が認識した瞬間には、すでに少女の姿はそこになかった。激しい旋風が巻き起こり、化け物の死骸とむせ返るほどの臓物臭を跡形もなく吹き飛ばす。人知を超えた速度で一陣の疾風と化した少女がソニックブームを引き連れてサルマキスに肉薄したのだ。
次の瞬間、動物の金切り声のようなおぞましい悲鳴が木霊し、神聖な神の家を震わせる。何が起こったのか理解が追いつかない俺の目の前に、飛んできた何かがぼとりと落下した。それがもぞもぞと蠢いたと思った瞬間、俺の足首を“掴んだ”。
「うわっ!?」
それは“腕”だった。肩から先の部分だけになっているにも関わらず、それは意思を持っているかのように足にしがみついて離そうとしない。慌てて義足の硬い踵で何度も踏みつけて蹴り飛ばす。蹴られた腕は宙で濃緑色の炎となって消滅した。その上品そうな服を着た腕には見覚えがあった。
「おのれっ おのれっ おのれぇえええええええ!!」
ぞっとするような奇声じみた叫びに振り向くと、そこには肩の断面を押さえて地に膝を突き、目の前の少女を睨みあげているサルマキスの姿があった。その喉元には刀の切っ先が突きつけられている。

少女は、1秒にも満たない時間で5メートルはあったはずのサルマキスとの距離を0にし、抵抗できないように腕を切り落とし、その首に刀を突きつけて動きを封じたのだ。文字通り、目にも留まらぬ早業だった。
(いったい、どんな走法をすればこんな人間離れした芸当ができるんだ)
走法の研究は我流で行なっていた。だからこそ、眼前の神速技が人間の身では明らかに不可能なものだと身に染みて理解できた。

濡れ光る戦慄の美を流す刀が澄んだ金属音を立てて翻り、サルマキスの喉に刃先をわずかに食い込ませる。それだけで、激昂して喚き散らしていたサルマキスは表情を硬直させて押し黙る。その顔を真正面から見据えて、少女が諭すように静かに呟く。
「貧相なのは、事実だ。潔く認めよう。事実を言われたから殺す、なんてことはしない」
それを聴いたサルマキスの顔にほっとした安堵の表情が浮かぶ。
ふと、純白の視線がちらりとこちらに流された。そして再びサルマキスへと向けられたその瞳は、絶大な怒りに燃え盛っていた。
「だけど、人喰いをする徒は問答無用で討滅する」
直後、何の抵抗も感じさせない滑らかな動きで少女の刀を持つ腕が上がった。刀身にはベトベトとした濃緑色の油のような液体がへばり付いている。それを一振りで払い落とすのと同時に、サルマキスの頭部が首から音もなく外れて地を転がった。凍りついた安堵の表情は、自分に何があったのかすら理解できずに絶命したことを示している。
「た、助かった、のか……?」
地獄を生き抜いたことで緊張が抜けて、無意識に膝が折れてその場に尻餅をつく。

たった数分間の間に今までの人生で培ってきた全ての知識や常識が跡形もなく破壊された。明日も今日と変わらない日になるという確信が、本当は何の根拠もない都合のいい思い込みに過ぎないのだと思い知らされ、まるで地面がなくなったような空虚な不安に襲われる。

異常極まる戦いに巻き込まれたことに悲しむべきなのか、命拾いしたことに喜ぶべきなのかの判断がつかずに呆然としていると、いつのまにか目の前に白銀の少女が佇んでいた。人間を圧倒する力を持った化け物を、さらに圧倒的な力でもって簡単に斬り伏せた少女。

彼女もまた、俺の日常を破壊する人外の一人なのだろうか。

「Ist es sicher?(大丈夫?)」

不意に、白くしなやかな繊手が目の前に差し伸べられた。
驚いて見上げれば、にっこりと微笑んだ少女の愛らしい容貌が視界に飛びこんでくる。
先ほどの戦闘時とは打って変わって温厚な雰囲気を漂わせる少女は、やはり昨夜見た天使に違いなかった。

間近で見れば、そのルックスがどれほど際立っているのかをさらに強く思い知らされる。透明かと見誤うほどに白い肌、端麗で可憐な顔立ちは、歳相応の幼い造形だというのにこれが完成形だと言われれば迷わず納得してしまいそうな美貌を放っている。この年代でこれなら、成長したらいったいどれほどの絶世の美女になってしまうのか想像もつかない。さらに、少女が纏う柔らかな空気には他人を包み込む余裕と気品も感じられる。
まるで童女の中に成熟した女が共存しているようなアンバランスな印象に、クラクラとした目眩を覚える。生命の危機に瀕して動揺していなければ、今頃本能のままに抱きしめてしまっていただろう。
(まさか、俺はこの子に見惚れているのか?こんな、小さな女の子に?)
自分を軽蔑したい気持ちに狩られるが、心臓の高鳴りにすぐに掻き消された。思わず見惚れてしまうのも仕方ないと思えるぐらい、少女の形貌は見目麗しかったのだ。

釘付けになった視界の中、清楚なつぼみのような唇が苦笑の形をとって開かれる。
「……もしかして、ボクのドイツ語通じてないかな?」
「ち、違う!そうじゃない!」
「そっか。よかった」
たしかに御世辞にも上手いとは言えないカタコトのドイツ語だったが、その涼風のような声音に込められた優しさはよく理解できたので、慌てて否定する。
ホッと胸をなで下ろす少女の微笑ましい仕草が再び心を打つ。
(味方、なんだよな)
控えめな物言いに、この少女が自分に害を及ぼすものではないと確信する。危機一髪の状況に昂ぶっていた警戒感が溶け、深く息を吐いて脱力する。
少女は、ドイツ語は苦手のようだ。日本語が主言語のようだし、このままだと会話がやりにくいから日本語で会話した方がいいだろう。母さんと話す時以外に使わなくなって久しいが、普通の会話をする分にはまだ支障はないはずだ。
差し出された小さな手を握って立ち上がる。予想以上に滑らかな感触に思わず息を呑む。
「Da、Danke(ありがとう)。でも、俺は日本語を話せるからよかったらこっちで話さないか?その方が意思疎通もしやすいだろうしさ」
「えっ、ホントに!?ああ、よかった!」
長い期間をおいても違和感なく発せられた日本語に自身でも驚いていると、いきなり少女が満面の笑みを咲かせた。夏に咲く向日葵のような、朗らかで暖かい笑み。
(う、)
戦いの最中に見せていた鬼神の形相とは正反対の無防備な表情を向けられて、油断していた心臓がドックンと派手に跳ね上がる。
(俺の好みはむしろグラマーな女であって、ロリコンなんかじゃないはずなのに!)
こちらの内心の葛藤など露とて知らず、少女は手を合わせて表情を綻ばせる。嬉しさのあまり忘れてしまっているのか、俺より一回りは小さなその手には俺の手が握られたままだ。握れば砕けてしまいそうな飴細工のように繊細な指なのに、感触はふかふかとして柔らかい。これが女の子の感触なのか、とどうでもいい感慨が頭に浮かんだ。
「ドイツ語って難しいから、ボクはまだあんまり喋れないんだ。達意の言も使えないし、正直通じなかったらどうしようかと不安だったんだ」
(ぼ、ボク?)
ボクッ娘というのは初めて見た。そんな女の子は漫画のキャラクターだけだと思っていた。そこら辺の女が一人称として使っても、不自然すぎて気持ち悪い。だが、少年のように無邪気に喜ぶ目の前の少女の笑顔には、不思議とよく似合っていた。まるで元は少年だったかのような自然さがあって、それは俺に親近感を感じさせてくれた。
「まあ、その、いい線は行ってたよ。よく勉強してると思う」
「ホントに?ありがとう。それにしても君は日本語が上手だね」
「ああ、俺は、少し前まで日本人だったから、な。だから、本来は日本語が主言語だけど、父親がドイツ人だったからドイツ語も話せるんだ。だから……いや、それだけ。以上」
緊張してしどろもどろな俺の説明に、少女は感心したようになるほどと小さく頷いた。
たしかにドイツ語は難しい。単語や数字は用途ごとに異なった使い方があるし、その使い分けを習得するのにはかなりの労力を要した。だがそれを言うなら日本語の方が遥かに難しいと思うのだが―――って、こんな話をしている場合じゃない!
「違う違う違う!そうじゃなくて!!」
「?」
少女の持つほんわかとした空気に飲み込まれてしまったが、聞きたいことは山ほどある。どれから聞くべきなのかと悩んで――――


べちゃっ


「へ?」「ぬ?」「は?」
同時に漏れる声。
粘性を帯びた何かが蠢く音が足元から聴こえた。二人して同時に足元を見下ろすと、どこから現われたのか、烏賊の足のような太い触手が少女の足首に巻きついていた。
「まずい、奴は不死性を有していたのか!!サユ、気をつけろ!!」
少女の胸元から男の大声が聴こえた。その意味はわからなかったが、危機が迫っているということはわかった。
戦慄して辺りを見回して身構えるが、ただの人間の俺にできることなんてないのも同じだ。だから、“それ”が目に入った時も、反応すらできなかった。

足の触手を切り裂こうと刀を振りかざした少女の腕に襲来した数本の触手が絡みつく。青黒くうねくる触手は見ているだけで胸が悪くなりそうだ。もう一方の手でそれを振りほどこうとして、そこにさらに触手の群れが襲い掛かってくる。折らんばかりに締め付けてくる触手にたまらず刀が地面に落ちる。俺の腕と変わらない太さのそれらは瞬く間に細い身体に巻きつくや、彼女の両手両脚を外れんばかりに引っ張り宙に持ち上げた。
「この――――ぅああッ!?」
少女が苦悶の表情を浮かべながら手足を暴れさせて抵抗するが、万力のような力で腹を締め上げられてそれも無駄に終わる。臓腑をぎりぎりと圧迫され、少女の顔色が一気に青く染まっていく。なんとか助けようと触手を掴んで引き離そうとしてみるが、表面が粘性の強いゼリー状のぬめりに塗れていてぬるぬると滑るばかりで意味を成さなかった。

「よくモやッてくレタな、コむスメぇ…」

ノイズのような不快極まる声。その声は、全方位から聴こえてきた。正確には、“全方位の陰の中”から。見れば、触手もその陰から生えてきているものだった。切り貼りしたような声だったが、その声はまさしくサルマキスのものだった。さっきまでそこに転がっていたはずの死体に目をやるが、そこには死体どころか血の跡すらなかった。奴は死んでなどいなかったのだ。
「宝具ハ後回シだ。まズは貴様ヲ始末シテやル……!!」
「くぅッ!ぃ、ぎッ、あぁあああッ!!」
少女を緊縛する触手が目に見えて張り詰め、締め付けを増していく。ミシミシという骨が軋む音が聴こえ、耐え切れず漏らした甲高い悲鳴が耳を穿つ。見ているだけしかできないちっぽけな自分が耐え切れないほどに悔しかった。爪を立てて必死で触手を剥がそうとするが、粘性を持った皮膚には考えられない硬い表皮にはまるで効果がない。
それでも鬱陶しいことに変わりはなかったのか、一本の触手がその身をしならせて飛来し、俺の胴を思い切り殴りつけた。たまらず吹き飛んで頭から街頭に衝突する。衝撃で脳が頭蓋の中でシェイクされる。朦朧として動けない俺の体を触手が縛りつけ、街灯に固定させる。
「オ前は、そこデ大人しクしテイロ。後デちゃんト食ッてヤる……」
そう告げると、まるで弱った獲物にハイエナが襲い掛かるかのように、声の気配が一斉に触手と化して少女に群がっていく。不定形な動きでうねる触手の群れがべたべたと少女の柔肌を味わうように這い回る。事実、味わっているのだろう。陰から響いてくるくつくつと喉の奥で嗤う狂笑がそれを物語っている。

少女がいやいやと子供のように首を振ってそれを拒否するが、捕縛され宙に縫いとめられた彼女はされるがままだった。それを見て勝利を確信したのか、それとも眦に涙を浮かべる少女の姿に興奮を覚えたのか、凄絶な狂笑がさらに大きいものになる。
「ひハハはッ!存分二甚振っテ辱メテかラ、ジッくり殺シてやル!」
「ッッ―――ァアアアアアアアアアッッッ!!」
めきめき、ごりごり、とあらゆる関節が軋みを上げる。強引におかしな方向に捻じ曲げられた腕や脚が苦痛に小刻みに震え、多量の汗が伝い落ちた。
美脚に絡まった触手が細い足首から螺旋を描き、脹脛、膝、太ももまで登り、スカートの中へ潜り込んでいく。別の触手が戦装束のスカートを膝上まで押し上げて内部の様子を顕わにしていく。
サルマキスが少女に“何”をしようとしているのかわかってしまい、背筋が凍りつく。
「わあっ!?ど、どこ触ってんだコラァッ!ッぅああっ!」
少女が抗議に声を荒げるが、スカートの中で触手が嬉しそうに暴れた途端に背筋をぴんと伸ばして小さな悲鳴をあげた。もじもじと腰を捻らせて健気に抵抗する様子は触手をさらに興奮させるだけだった。

スカートが完全に捲り上げられると、そこには付け根から健康的に伸びた陶器のように白い脚と、少ない布で秘部を隠す白いショーツがあった。ショーツは噴き出した汗でぴったりと肌に張り付いていて肌色が透けている。少女もこれから何をされるのか理解できたのか、最初とは打って変わって明らかに動揺して叫ぶ。
「やめろ、やめろってばぁ……!」
あまりの恥ずかしさに上気して少女の耳たぶが真っ赤に染まる。しかし、触手はそんなことはお構い無しに相争うように次々と太ももの付け根に絡みつく。
「や、やめて……!」
ついに触手の先端がショーツを脱がしにかかった。汗と粘液の染みた布がぐいぐいと下に引っ張られ、形のいい臍の下の窪みが顕わになる。

目の前で、想像するだに胸が悪くなるような酸鼻な悪事が行われようとしている。自分は命の恩人すら―――あんな小さな女の子すら助けられないのかと血が滲むのも構わず臍を強く噛む。自分に力があればと激しく後悔する。これほどまでに力がほしいと思ったことはない。
何でもいい。あの娘を助ける力がほしかった。死に物狂いで全身を暴れさせて体と触手の間に隙間を作ろうともがくが、そんな隙は見せてくれない。
ぎりぎりと締め付けられる少女の抵抗が次第に弱くなり、それに反比例するように触手が動きを増して少女の秘部を己の領土にしようと蠢く。力尽きたかのように俯く少女の頬を涙が伝った。

「チクショウ、チクショウ、チクショウッ!ちくしょぅおおお――――ッ!!」

じたばたと不様に脚をばたつかせながら自分の非力さを嘆いて吼える。それに呼応したかのように義足が再び燃えるように熱くなったが、今さらそんなもの何の役にも立ちはしない。
どんなに俊足であっても、女の子一人を危機から助け出してやることすらできない。偉そうに孤独に浸っていて、他人を見下していても、実はこんなにも役立たずだった。今まで自分が誇りに思ってきた全てが悉くちっぽけなものに過ぎなかったのだ。

途方も無い無力感と自己嫌悪が脳髄を焼き尽くし、俺は怒りに身を任せて水色に燃える義足を地面に叩きつけ、


「なッ、ナんダトぉオおオオおッ!?」


轟く大破砕音。サルマキスの悲鳴。急激に傾いていく景色。崩壊していく教会。足元に突然穿たれた巨大なクレーター。そのクレーターの中心は――――義足の踵だった。

何が起こったのかはさっぱりわからなかったが、一つだけ確かなことがあった。
それは、

「“今だ!!”」

精一杯声を張り上げて叫ぶ。俺が叫んだ先にいるのは、触手の拘束が緩んで自由になった少女。慌てて触手の群れが少女を再び縛り付けようとするが、時すでに遅しだ。
少女が腹腔に蟠っていた激情を解き放つ。触手がたじろぐかのようにビクリとのたうちなんとか少女を押え込もうと圧力を強めた瞬間――――少女が“爆ぜた”。怒りに沸騰した雄叫びとともに白銀の炎を全身から迸らせたのだ。炎の超炸裂に、少女の矮躯を圧し包んでいた触手の束はただの一瞬とて持ち堪えることなく破断し、細切れの肉片と化して周囲に四散して消滅した。
朗らかな微笑が似合っていたその表情は、轟々と灼熱に燃えて悪鬼の如く怒りに歪み、美しかったその双眸は獲物を狙う獰猛な猛禽類のそれになっていた。目尻に浮かんでいた涙が音を立てて蒸発する。その迫力に怖じたのか、どこかからサルマキスの小さな悲鳴が聴こえた。俺でさえもその威圧感に気圧されて思わずたじろぐ。
純白の炎に焼かれてアスファルトが表面を泡立たせながら融解し、白銀の鎧にこびりついていた粘液の一片までもが残さず燃え尽きて曇り一つない輝きを放つ。その様は、軍神もかくやという恐るべきものだった。異常極まるこの世界すら霞ませてただの背景に変えてしまう威圧感に世界そのものが恐怖して大気がビリビリと震える。

少女が両手を高く振り上げる。銀色の炎が少女の手に収束し、何かを形作っていく。それはリボルバー式の拳銃だった。凶悪な光を放つ大型銃だったが、そこへさらに爆炎が重なり覆いかぶさっていく。より巨大に、より強大に――――。
「んな、アホな……」

剣呑な光を放つ五つの銃口、長大で剛健な回転銃身、無骨で角ばった射出ユニット、純白に燃える給弾ベルト。あまりにも巨大でこちらの感覚が狂ってしまいそうなそれは――――どこからどう見ても、“ガトリング機関銃”にしか見えなかった。

自分の身体ほどもある白銀の巨銃を構えて引き金に指をかけると、そのまま躊躇なく発砲する。明らかに通常のそれではない燃える給弾ベルトが射出ユニットに次々に吸い込まれ、銃身が風を捻じ切らんばかりに回転して轟音と共に超常の弾丸の雨をそこらじゅうに叩き込む。音速を遥かに超過した魔の弾丸が硬く舗装されているはずの路面を見るも無残に無茶苦茶に耕していく。
狙いをつけているのではなく、サルマキスがいると思われるところに手当たり次第に攻撃しているようだ。

「ブッッッ殺ォオ――――ッッッす!!!」

どうやら怒りで完全に忘我しているらしい。俺の頭上を弾丸の雨が通り過ぎ、その余波で危うく吹き飛びそうになる。背後で何かが盛大に吹き飛ぶ音がしたが、振り返る余裕なんてない。頭を押さえて姿勢を低くしてその場を逃げ回るが、弾丸の嵐はまるで俺を追いかけてくるかのように辺りを灰燼と化していく。かろうじて形を留めていたレンガ造りのカフェが積み木のように崩れ去り、落下してきた教会の鐘が最期の音色を披露する間もなく一瞬で木っ端微塵に粉砕されて鉄片の雨を頭上に降らせた。天を衝くような轟音に鼓膜を叩かれ、三半規管に穴が開きそうだ。
(もうメチャクチャだ!化け物を倒す前に、この街が跡形もなくなくなっちまう!)
「落ち着け、頼むから落ち着いてくれ!!」
「これが落ち着いていられるかァ!あの野郎ォ、よくもよくもよくもよくもぉおおおおおお!!」
俊足を駆使して破壊の嵐から逃れて少女の背後に回りこみ、その腕を羽交い絞めにする。しかし、その矮躯からは考えられない怪力に俺の身体は縦横無尽に振り回される。白熱した回転銃身が大気を燃やして陽炎を揺らめかせ、さらにその速度を増して街を破壊していく。建物は根元から薙ぎ倒され、街灯は残らず吹き飛んでいく。これではどっちが悪役なのかわからない。

ふと、どこからかやれやれという低い男の呆れ声が聴こえた。
「落ち着け、サユ。奴ならとっくに逃げたぞ」
「へ……?」
呆けた声と共に唐突に銃撃がぴたりと止んだ。それ一つで戦車一台分に相当する威力を有した白銀のガトリング機関銃が少女の手の中で音もなく消え失せる。気づけば、サルマキスの気配はどこにもなかった。

今度こそ本当に安心して脱力し、その場に座り込む。
少女は目の前の惨状を見てしばし呆然としていた。乾いた風が吹いてひゅうと土煙を舞わせる。
「えっと……もしかしてこれ、ボクがやったの?」
気まずそうな顔をしてこちらを振り返った少女に俺は頬を引き攣らせて無言で頷くしかなかった。
「まったく……少々やりすぎだ、サユ」
「ご、ごめん。でも、あ、あんなことされたらさすがのボクでも怒るよ」
爆撃の直撃でも食らったようなこの凄惨な光景のどこが“少々”なのか理解できなかったが、きっとこの少女と“声”はこういうことを何度も繰り返しているのだろう。
いろいろと聞きたいことがあるのだが、それより気になることがある。
「なあ、この街はこのままなのか?どうして人間は誰もいないんだ?みんなあの化け物に……?」
まさか、あの恐ろしい化け物は街一つ分の人間を食い殺してしまったのか……。
俺の不安を察したのか、少女――――サユが微笑んでゆっくりと首を振る。
「それは大丈夫だよ。これは封絶っていう自在法―――要するに結界なんだ」
「フウ、ゼツ?」
またもや知らない言葉を聴かされて眉を顰める。俺の知らないことが多すぎる。そんな俺に、サユは実際に見ればわかるよと言って指をぱちんと鳴らした。
途端、サユを中心として白炎が舞い上がった。それらは高空まで達すると花が開くように展開し、雪のような白い火の粉を降らせる。世界が乳白色に包まれた。崩れた建物や荒れ果てた路地に火の粉がはらはらと降り注ぐと、逆再生をするかのように元の町並みへと再生させていく。
まるで一つの絵画のようなそれは、“奇跡”と呼ぶに相応しい幻想的な光景だった。
だから、思わず口が滑ってしまった。
「――――天使みたいだ」
それを聴いたサユが目をしばたかせて、ありがとうと気恥ずかしそうに頬を朱色に染める。

今日はたしかに散々な目に遭ったが、この娘に会えたのだからそれもよかったのではないか。

そう思ってしまうほどに、その微笑みは可憐で、美しかった。



[19733] 1-4 守護
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/30 01:56
「つまり―――君みたいな“フレイムヘイズ”って呼ばれる奴らは、人間の味方って解釈していいんだな?」
「そう思ってくれて問題ないよ、フリッツ君」
辿々しい俺の確認に、目の前で椅子に腰掛けているサユは微笑を浮かべたまま頷いた。
サユが街の修復を終えた後、俺たちはすぐ近くにあった俺の自宅に移動していた。窓からすっかり暗くなった外の景色を見れば、いつも通りの賑やかな町並みが広がっている。向かいでは教会の鐘が鳴り、皆に本格的な夜の訪れを報せる。その長閑な光景には先の人外同士の戦いの爪痕など微塵も見て取れなかった。
(その人外の片方がこんな女の子だなんて、未だに信じられないな)
正面へと目を戻せば、長い説明を終えて喉を潤そうとホットミルクをこくこくと喉に流し込むサユの姿がある。その姿は先までの彼女とはまるで違っていた。純白に燃えていた双眸も長髪も今は黒真珠のような鮮やかな黒色に染まり、白銀の戦装束はなぜか濃紺の給仕服になっていた(彼女の説明によると、フレイムヘイズには今のサユのような『通常形態』と炎を纏って戦う『戦闘形態』があるらしい)。
簡単な自己紹介をした後、俺はサユに多くの質問をした。過去に同じ質問を受けた経験でもあるのか、サユは嫌な顔一つせずに丁寧に答えてくれた。
『紅世』という、“この世の歩いていけない隣の世界”があること。そして、この世界は遥か昔から紅世の住人による侵入と暴虐を受けていること。それを撃退し、紅世と現世のバランスを保つためにサユのようなフレイムヘイズが日夜戦っていること……。
簡単に信じられる話ではなかったが、実際に経験をしてしまった後では信じる他なかった。

自分が当たり前のように過ごしていた日常とまったく相容れない非日常。それと接してしまった時点で、俺が送ってきた暮らしは終焉を告げた。――――いや、もっと前からすでに、俺は非日常の住人に付け狙われていたのだ。
あれだけの戦いに巻き込まれながら無傷のままの義足に一度目を落とし、再びサユを見る。視線に気づいたのか、サユがその小さな手には大きいカップをテーブルに置いて居住まいを正す。
「『宝具』ってのが、人間と紅世の住人が協力して造る特殊な道具や武器だってことはわかった。でも、それと俺と何の関係が?」
この質問にサユは答えられないようで、彼女はカップの傍らに置かれたペンダントに促す視線を向けた。ペンダント―――この中にいるテイレシアスという男は、俺を襲ったサルマキスと同じ種族であり、その中でも上位種に位置する『紅世の王』と呼ばれる者だという。同種だが、目的が正反対なので同類ではないそうだ。彼のような『王』が人間の強い意思(憎しみなど)に呼応し、その人間と契約することで紅世の脅威に対抗できる戦士―――フレイムヘイズになるのだという。

テイレシアスが渡された視線に応える。
「小僧。お前のセカンドネームは『ルヒトハイム』で間違いないな?」
「ああ、そうだけど……」
この名はサルマキスも知っていた。紅世の住人には有名なのだろうか?
「では、デニス・ルヒトハイムはお前の親族か?」
「それは死んだ父さんの名だ。この義足を造ってくれた」
俺の即答に、テイレシアスは「なるほどな」と低い納得の声を漏らした。俺には何がなるほどなのかまったくわからない。困惑した表情を浮かべていると、サユが助け舟を出すようにテイレシアスに問う。
「テイレシアス、どういうことなの?」
「……小僧、お前の父デニス・ルヒトハイムはかつてあのサルマキスとともに宝具を造っていた。腕の良い技術者だったと聴いている」
「父さんが!?」
あの気味の悪い男と誇りにしていた父親が手を組んでいたと聴かされ、激しく動揺する。テイレシアスの淡々とした言葉がさらに追い打ちをかける。
「今から4年前、お前の父は“時の事象に干渉できる”力を持った宝具を完成させると、それを渡すはずだったサルマキスの前から姿を消した。理由は知らんが、大方あの下衆なトカゲと組んでいるのが嫌になったんだろう。その後、サルマキスは怒り狂ってデニスの消息を追ったが足取りすら掴めていなかった。だが、今日見つけたのだ。デニスが隠した宝具を」
サユが驚愕の瞳で俺を見る。そこでやっと理解できた。サルマキスに渡さなかった宝具を父さんがどこに隠したのかを。
俺に人の規格を超えた速度と地面を抉る脚力を与えた水色に燃える義足を思い出す。
「そうか、この義足が……」
そこまで言って、全身を悪寒が駆け巡った。
(“時の事象に干渉する”、だって?)
俺が速く走れるようになったのは、事故で足を失い、4年前にこの義足を父さんから貰ってからだ。普通に考えれば不自然なことだ。際立った体力を有していたわけでもないガキが偽の足をつけた途端に早く動けるようになるなんて、冗談みたいな話だ。そして極めつけに、この義足には人知を超えた力を持つ宝具が仕込まれている。

要するに――――俺の自慢の俊足は、純粋な実力によるものではなく、父さんの迷惑な遺産によるものだったわけだ。

「なんだ、そりゃ……」
思わず自嘲が漏れてしまう。自分の俊足の正体を疑うこともせずに今まで調子に乗っていた自分が情けなくて、ひどく滑稽だった。
「大丈夫、フリッツ君?」
心配そうな声に振り向けば、その声そのままに不安げにこちらを気遣う表情をしたサユが、身を乗り出してこちらの顔を覗き込んでいた。その優しさは、絶望に沈みかけていた心を浮上させてくれた。
「……ああ、大丈夫だ」
本当は大丈夫な精神状態じゃなかった。脳天を殴りつけられたようなショックに喉がからからになる。
だが、救いはある。別に二度と走れなくなったわけじゃない。宝具は今も俺が持っているのだ。問題なのは、この宝具を奪おうとしている奴がいることだ。
「サルマキスはまた来ると思うか?」
「間違いなくな。奴は宝具を盗まれたことで顔に泥を塗られた。あの通り、自尊心だけは高い卑屈な奴だ。何としてでもその宝具を奪うだろう。そして憎むべきデニスの息子であるお前の命もまた然りだ」
低い男の声で淡々と告げられた台詞は、最後通告のようにも思えた。あんな化け物に襲われれば、俺なんか一溜りもない。一瞬で殺されるだろう。それならまだいい方だ。ハリハラのような化け物に喰われながらじわじわと嬲り殺しにされるかもしれないし、むしろそうなる可能性の方が高い。俺に非なんてないのに、だ。
死と苦痛の恐怖に肩が震え、歯がガチガチと音を立てる。汗が背筋を伝い落ちる感触が軟体生物が這っているようで気持ち悪かった。

俺ではサルマキスには太刀打ちできない。――――だが、それができる存在ならすぐそこにいる。

震える声をなんとか押し殺して、静かに義足を見つめていたサユを見据える。
「頼みが、ある」
「なに?」
俺は一度目を瞑り、この少女がさっきまでと変わらない天使のような優しさを次の瞬間も発揮してくれることを神に願った。エホバでもアラーでも仏陀でもいい。俺の頼みを聞き入れてくれさえすれば、どいつでもよかった。目を開いて睨むように目の前の“戦士”を見つめ、
「俺を護って、サルマキスを倒してくれ」
しばしの沈黙。沈鬱な空気は圧倒的な重さを持って俺の双肩に圧し掛かり、その重さに押し潰されそうになる。俯く顔でサユを見上げれば、その表情は感情を押し殺しているような暗い無表情だった。何を考えているのか判然としないその視線から逃げるように、俺は視線を落として手元をじっと見下ろす。
調子がいい願いだということはわかっている。フレイムヘイズは群れて行動したり誰かを護ったりすることはほとんどないと聞いた。だが、俺は願うしかなかった。NOという返答が下されれば、俺は死んだも同じだ。抵抗する術を持たない俺が生き延びるには病気で弱った母さんを放ってでも世界中を逃げ惑うしかない。それでも、今日見つかったようにいつかは発見されて殺されることは目に見えている。
それに、宝具を狙う奴らはサルマキスだけじゃない。圧倒的な力を持つ紅世の化け物どもから逃げ続けられる自信はなかった。

神に祈るように顔の前で拳を握り締める。そして、俺の懇願に対するサユの短い返答。
「わかった。君を護って、サルマキスを倒そう」
「……っ!」
押し寄せる安堵に全身から一気に力が抜けた。頭頂まで上り詰めていた血がどっと降りて、そのまま気絶しそうな眩暈まで覚える。いつのまに止まっていたのか、肺が収縮活動を再開して呼吸が再び行われ始める。ひゅう、と喉から空気が漏れた。
「ありが―――」
「でも、条件がある」
俺の台詞を固い声が遮った。可憐な見た目に不相応な、鋭い声だった。また嫌な予感がした。
「サルマキスはボクが討滅しよう。その代わり、」
その白い指が俺の義足を指す。その確固たる意思を宿した双眸は、神の命ずるままに天罰を下す天使そのものだった。そこには何の邪悪もなく、何の救いもなく、ただの“決定”しか存在しない。
「全てが終わった後、その宝具をボクに渡してもらう。これが条件だ」
「な……!」
生き延びたいと考えるのなら、母さんのことを考えるのなら、その取引は喜んで受けるべきだ。サユがサルマキスを倒し、俺がこの宝具を手放せば、俺は普通の人間として暮らしていける。それはどうしようもなく正しい判断だった。

しかし――――この宝具がなくなれば、きっと、俺はもう走れなくなる。他人より秀でた優越感を、あの得もいわれぬ風を切る爽快感を二度と味わえなくなる。
この足のおかげで待遇のいいハイスクールへの進学も決まった。走ることは俺のたった一つの取り柄だ。この4年間の生き甲斐はそれだけだったと言ってもいい。走れなくなったら今までの時間は全て無駄になってしまう。
失いたくない、と思ってしまった。例えこの義足が化け物どもを呼び寄せる宝具だったとしても……。

自分の置かれた現実を突きつけられ、しかし受け入れることが出来ずに閉口してしまった俺に、サユは小さく嘆息してゆっくりと椅子を立つ。
「今すぐ渡せとは言わないよ。サルマキスにはかなりのダメージを負わせたから、しばらくは身を潜めているはずだ。すぐに報復に来ることはない。君は“その時”までに覚悟を決めておいて」
「覚悟……?」
聞き返した俺の目をまっすぐに見返して、サユが容赦なく告げる。まるで、かつて自分が言われた言葉をなぞるように。

「これを現実だと認め、未練を断ち切る覚悟だよ」

俺の考えを見透かしてその思いを断ち切るように告げると、サユがおもむろに今まで羽織ってなかったはずの黒い外套の裾を翻した。何事かとそれを目で追って――――次の瞬間、サユの姿はどこにもなかった。後には、まだ熱を持った空のカップがあるだけ。

驚きはしなかった。彼女は異能を有する超常の戦士だ。これくらいの芸当ができても何ら不思議はない。
立ち上がり、ふらふらと自室のベッドの元まで歩むと、そのまま靴も脱がずに倒れこんだ。義足の関節がぎしりと軋みを上げるが、いちいち外す気にもなれなかった。
「これが現実だ、って言われても……」
今この瞬間にも、誰かが紅世の住人に理不尽に殺され、世界の記憶から消されている。自分が平然と暮らしていたこの世界が実はそんなに物騒だったなんて―――その世界に俺も属しているだなんて、信じたくなかった。
でも事実なのだ。サユが言ったように、認めなければならない。認めて、判断を下さなければならない。
苦悩の重さに耐えかねるように、身体をベッドに沈みこませる。くたくたになった頭にどっと疲れが押し寄せて眠りへと誘う。今日はたくさんのことがありすぎた。もう何も考えたくなかった俺は、その誘いに乗って深い眠りについた。


 ‡ ‡ ‡


憔悴しきった顔のフリッツがベッドに倒れこんで動かなくなるのを、サユは隣の教会の窓からそっと覗いていた。
「あれほどの戦いを体験してもまだ現実を認められんとは、人間の心理はよくわからん」
狭い倉庫に地鳴りのように低い声が響いた。そこへサユの声が重なる。その声は幾分か沈んでいた。
「仕方ないよ。ボクもそうだったから」
自分も、フリアグネの燐子に襲われて最初にシャナと会った時、彼女に自分が坂井悠二の代替物(トーチ)だと告げられても信じることはできなかった。自分が世界から零れ落ちたような圧倒的な失調感に打ち据えられ、その絶望から逃れようと現実から目を逸らして必死に仮初の日常にすがり付こうとしていた。きっとそれが、普通の人間の正常な反応なのだ。
「しかし、よりによって俺たちの目当ての宝具があの小僧の義足とはな。何やら思い入れもあるようだし、これは無碍に強奪するわけにもいくまい」
サユの表情が目に見えて曇る。膝を抱えて座り込み、冷たい石の壁に背を預ける。
「でも……宝具を持っていれば不幸になる。彼も、彼の身の回りの人間も……」
テイレシアスは、サユがフリッツと昔の自分を重ねていることに気づいた。零時迷子をその身に宿し、常に紅世の脅威に晒されていた坂井悠二だった頃の自分に。
「彼を戦いに引きずり込んでしまうことは避けたい。きっと不幸になってしまうから」
「だから、あの小僧から宝具を取り上げる。それは正しい判断だ」
テイレシアスは一際“正しい”を強調して言った。それは彼なりに自分のフレイムヘイズを気遣った言葉だったが、言った直後にしまったと口を閉じた。サユが唇を噛んで目を伏せる。努めて平静を装おうとしているようだったが、その瞳は明らかに暗く沈んでいた。
そう、サユが行おうとしていることは“正しいこと”なのだ。危険な宝具を奪うことでリスクを取り除く、現実的な処置だ。――――かつて、ヴィルヘルミナが坂井悠二というミステスを破壊して零時迷子の及ぼす危険を排除しようとしたように。
それに、サルマキスを倒せてフリッツが宝具を手放しても、人間の存在の力を狙う紅世の住人からの危険は変わらずフリッツに付き纏う。フリッツは抜きん出て存在の力を保有する稀な人間だった。悪道に落ちた紅世の徒には絶好の餌だ。フリッツから宝具を奪うということは、紅世の暴挙に抗する手段を奪うことにもなる。

今のサユの頭からは『時の事象に干渉する宝具』を使って元の時間に帰ると考えは消えていた。かつての己のように紅世との戦いに理不尽に巻き込まれてしまった不幸な少年を、最も良い未来に導いてやりたいという願いだけだった。
そのためには、宝具を取り上げるしかないのだろうか?
「うん、きっと正しいことだ。だけど、正しいことは必ずしも“良いこと”と同じじゃないんだ」
静かなその台詞に、テイレシアスは無言を返した。サユも何も言わない。密度を持った沈鬱な空気の中、少女の形をした少年は膝を抱えて身動ぎ一つせず、自分のすべきことは何かをひたすら模索し続けた。

――――その脳裏に、一人の少女が浮かんだ。

紅蓮に燃える炎を身に纏ったその背中は圧倒的な存在感を放ち、まるで巨大な城壁のようにあらゆる脅威から自分を護ってくれていた。少女が漆黒の黒衣を大きく靡かせて振り返る。闘志溢れる赤い双眸を輝かせ、精悍な笑みを浮かべ、神代に向かって宣言するように高らかに言い放つ。
『悠二、お前は私が護る』、と。

気づけば、立ち上がって窓枠に足をかけていた。
ボクはボクにできることをしよう。かつて、シャナがボクを導いてくれたように!
「どうするか決まったようだな、我がフレイムヘイズ」
満足げなテイレシアスの声に強い頷きを返し、その強い決意を現すように純白の炎の翼を大きく羽ばたかせ、サユは夜空へと飛び立った。


 ‡ ‡ ‡


すっかり身体に染み付いた習慣に従って、自動的に半身が持ち上がる。まだはっきりとしない目を細めて枕元の時計を見ると、時刻はまだ6時前だ。朝の部活に遅れないように、いつもこの時間に起きるようにしているのだ。
昨日のことは全部悪い夢だったんじゃないかと都合のいい希望を抱いてベッドから起き上がるが、途端に怪我と疲労で全身の至るところから悲鳴が上がった。痛みに顔を顰めて呻き声を漏らす。その痛みに儚い希望は簡単に突き崩された。
思わず仰け反りそうになるのを堪えて、鉛のように重い身体を引きずるように歩む。眠ったはずなのにちっとも回復できていない。唯一の救いは、あまりに疲れていて夢すら見なかったことだろうか。
毎日やっているように簡単な屈伸運動をして意識を覚醒させつつ、硬直した筋肉を解していく。関節を動かすたびに痛みが走ったせいで、いつもの倍の時間がかかってしまった。軽くシャワーを浴びてから、疲労回復と心臓強化のために毎朝飲んでいるグレープフルーツジュースを一気に呷る。
ふと、テーブルに置かれたままのカップが目に入った。それに注がれていたホットミルクを可愛らしい仕草で飲んでいた少女の姿を思い出す。
サユは今頃何をしているのだろうか。サルマキスを捜しているのか、それともどこかから非力な俺を見守ってくれているのか。
サユは、フレイムヘイズという超常の戦士でありながら、日常に住む普通の人間のような自然さと他者への深い配慮を持っていた。さらに、その仕草一つ一つがどこかぎこちなくて、接する者にまるで小動物のような印象を与える。見ているだけでこちらまでなんだかほんわかとした幸せな気持ちになって―――って、自分の命が危ないってのに何を考えてるんだ俺は?正気に戻れ俺――――
「……何やってんだ、俺は?」
そこまで考えたところで、毎日の習慣に従って通学用のボストンバックを背負おうとしていた自分に気づいて深いため息を吐いた。化け物に命を狙われる身だというのに、何を考えているのか。
「……でも、一箇所に留まっているよりは移動した方がいいよな……」
誰に言うでもなく呟く。いや、これは自分への暗示だ。日常から引き剥がされたくないという足掻きが勝手に口から漏れ出てしまったのだ。ほんの昨日まで、この退屈な日常からの脱出を望んでいたというのに、なんて卑怯な人間なんだ。
(でも、サユは『サルマキスはすぐに襲ってこない』と言っていた。学校に行っても平気なんじゃないか?それに仮に学校で戦いが起きたとしても――――巻き込んで気の毒に思う奴はいない。俺には何の関係もない)
今はただ、無我夢中で走りたかった。誰よりも早く風を切る快感に浸って、全てを一度忘れたかった。そうやって頭の中をリセットすれば、何かが変わるような気がした。それが周りの人間を危険に晒すことだとしても、構わない。
ふっと小さく嘆息して体内を空虚にすれば、自分でも驚くほど冷たい冷笑が浮かんだ。我ながら最低な奴だ。バックを担ぎなおせば、後は毎日の習慣に従って身体が自動的に動いてくれる。
ふと、サユの悲しむ顔が脳裏に浮かんで、胸がぎりりと痛んだ。


走る。迷いや悩みを吹っ切るように、身体中の激痛も周囲の視線も気にせずにただがむしゃらに疾駆する。
重力など物ともせず、遠心力を振り解き、空気抵抗を引き裂いて、トラックをひたすら高速で駆け続ける。この爽快感に浸って悩みやしがらみを振り切りたいのに、一度存在の力というものを認識してしまった身体は嫌でも義足から流れてくる“力”を感じ取ってしまう。
昨日まではまったくわからなかったが、今では感覚で明確に理解(わか)る。この宝具は、“俺の時間を速めている”のだ。俺の肉体や精神を世界の時間から切り離して加速させている。テイレシアスはこれを時の流れに干渉する宝具と言っていたが、それも頷ける。

なぜ、父さんはこんな宝具を俺に託したのだろう。サルマキスから逃れたいのなら破壊するべきだったはずだ。記憶の住人となって久しいが、むざむざ自分の子供を危険に晒すような真似をする人ではなかった。サユたちもこの宝具がいったい何を目的として造られたのかは知らなかった。
この宝具には、まだ何か謎があるのか―――?

「フリッツ!フリッツ・Y・ルヒトハイム、終わりだ、止まれ!」

唐突に耳に滑りこんできた叫び声に、思考を中止して身体に急制動をかける。踵のスパイクが地面をえぐって部員待機所前に長い爪痕を残した。ペース配分を無視していたため若干肩を上下させながら声のした方を見ると、いけ好かない部長が目を丸くしてこちらを凝視していた。丸くした目をそのままに、しばし逡巡し、躊躇いがちに口を開く。
「その……今日はどうしたんだ?いつもと様子が違うみたいだが」
「―――は?」
今度は俺が驚く番だった。こいつが俺を心配することなんて今まで一度もなかったのに。見れば、周りの部員も気遣わしげな目付きで俺を注視している。自分の目と耳を疑う俺に、部長は気まずそうな顔をする。いつもの苦々しい面持ちの端に配慮の色が覗いている。
「お前の独尊的な態度には部長として不満を持ってるが、ハンデを抱えながらも誰よりも速く走るお前のことは認めてるつもりだ。だから、お前が普段の調子でないのはやっぱり気になる。何かあったのか?」
認めてる、だって?こいつが俺を?いつも鋭い視線を送ってくるだけで、そんな素振りは一度も見せたことなかったじゃないか。
(いや、俺が見ようとしていなかったのか?)
唐突に脳裏に浮かんだ直感めいた考えに息を呑む俺の背中に、誰かが柔らかく触れた。
「あの、大丈夫ですか?」
振り返れば、新しく入部した小柄なマネージャーが心底心配そうな表情を浮かべてこちらを見上げていた。なんなんだ、いったい。お前だって昨日はあんなに怯えていたじゃないか。どうしてそんな優しそうな顔をして俺を見るんだ。俺は、お前らを巻き込もうとしてるんだぞ。
「だ、大丈夫だ。少しコンディションが悪いだけだ、気にしないでくれ」
急に居心地が悪くなった俺は、突き放すように言い放つと荷物を掴んで校舎へと走った。怪訝そうな視線が背中に突き刺さる。調子が狂う。いつものように俺を睨んでくれた方がよっぽどマシだ。
(俺は、お前たちのことなんて何とも思っていないんだ。お前たちも、俺のことなんて何とも思ってないんじゃなかったのか?それとも……何とも思っていなかったのは俺だけなのか?)
自分が取り返しのつかないことをしているような後ろめたさが背筋を冷やす。じくじくと疼き始めた罪悪感から意識的に目を逸らし、逃げるように急ぎ足で教室へ向かう。このまま考え続けていると気が滅入りそうだった。
慌しく登校してくる生徒たちを掻き分けながら馴れた動きでスパイクシューズをスニーカーに履き替え、一限目の授業が行われる教室に入ろうと扉に手をかけ、


「Dies ist Ein Stil!(仕様です!)」


カタコトのドイツ語だったが、たしかにそう聴こえた。一度聞いたら忘れられない、透き通るように凛として、だけど幼さを多分に残した少女の声。その声は間違えようもなく、俺の日常の破壊者の声だった。
「おい、マジかよ?」
呟いてドアを乱暴に開け放つ。円陣を組んで何かに群がっていたクラスメイトたちの視線が一斉に俺に集中する。
その中心に、中学生すら怪しい背丈の少女がいた。
濡烏のような長髪と濃紺の給仕服の裾を翻し、他の者たちより遅れて少女がこちらを振り返る。俺を見つけると、なぜか当惑していたその表情が花が咲いたような可憐な笑顔に変わった。

「おはよう、フリッツ君」

『なんで』とか『どうやって』とかいろいろ言いたいことがあったはずなのに、その笑顔で全て吹き飛んでしまった。気負いも苦悩も晴らして癒すタンポポのような微笑みに、頬が火照り、胸が締め付けられ、心臓が高鳴り、全身が沸騰したようにカッと熱くなる。認めたくないが、俺には本当に特殊な嗜好があるようだ。そんな確信と諦めを覚えながら、クラスメイトが注視する中、俺は愛くるしい少女にただただ見蕩れていた。

どうやら俺は――――この人外の戦士のことを、好きになってしまったらしい。



[19733] 1-5 学友
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/10/31 09:35
どこかで大人たちが語り合い、どこかで子供たちがはしゃぎ合う。大小あらゆる車両が道路やそれ以外の場所を走り回り、けたたましい騒音を辺りに轟かせる。
その喧騒に賑わう街の地下深くに、暗黒が立ち込める空間があった。

狭いのか広いのか、そもそもその概念が存在するのかすらわからない異界の一室。
上下四方すべてを隙間なく石壁で囲まれた完璧な密室は、生物どころか空気すら侵入することを許さない。――――その部屋の主を除いて。

「おのれぇ、フレイムヘイズめ……!」

耳朶を掻き毟るような不気味な声音でサルマキスの声が響いた。それと同時に、濃緑色に濁った炎が四方の至る所から粘性を帯びた液体のように染み出してくる。それらはずるずると不定形の体を引きずりながら中央に集まり、交わり合わさる。全ての炎が融け合った時には、その炎は爬虫類の顔をした紳士を形作っていた。

サルマキスは“不死性”を有する数少ない紅世の〝徒〟の一人である。
『千征令』オルゴンが彼の兵隊『レギオン』をすべて滅ぼさなければ殺せないのと同様に、サルマキスもまた彼の飼う化け物をすべて滅ぼさない限り、殺せない。それは限りなく不死に近い特性である。そのため、“不死性”と呼ばれているのだ。

サルマキスが怒りに任せてステッキを壁に叩きつける。頑健な作りをした両者はどちらも疵一つ入らず、それはサルマキスをさらに苛立たせた。
(私をここまで虚仮にするとは、薄汚い討滅の道具め、ルヒトハイムの子め……!)
サルマキスは膨大な存在の力の許容量を持った〝王〟ではなかったが、凡庸な〝徒〟でもなかった。彼は現世に来て三世紀余りが経過する間、数多の同胞殺しを屠り、勝利を勝ち取ってきた。アラストールなどの使命感を持った者たちとそのベクトルを違えども、彼もまた歴戦の猛者なのだ。
その勝利の数に相応しいプライドを持っていた彼にとって、捕食対象に過ぎない人間に戦況を覆されたことは不愉快極まりないことであった。押し寄せる強烈な憤怒に全身が身震いする。
(あと少しで“あの宝具”を奪い返すことができたというのに!)
自らの不死性を生かしてフレイムヘイズの不意を衝いて手に入れかけた勝利を、ただの人間が宝具を使うことで打ち砕いた。よりによって、サルマキスが血眼になって捜していた宝具で。

のっぺりとした顔を憤怒に歪ませ、怒りに震える拳を握り締める。そうやって自分を抑えなければ、今にも激昂して再びあの人間を襲おうと飛び出してしまいそうだった。無論、そこにはあのフレイムヘイズが待ち構えているであろうことを彼は予測していた。今の傷ついた状態で戦いを挑むことは得策ではない。そうやって理屈で自分を抑え、血の昇った頭を時間をかけて冷却していく。
(あの宝具さえあれば、討滅の道具も、いかなる紅世の王も徒も怖れるに足らない力を手に入れることができる)
冷えてきた頭で、念願の宝具を手に入れた自分の姿を夢想する。
どんなに強大なフレイムヘイズや王が挑んできても一撃を放つ時間すら与えずに屠る力を有し、この世界でこそこそと隠れることなく自由に振舞える自分――――。それはまさに“この世の王”と呼ぶに相応しい。
途端にトカゲ顔がぐにゃりと緩んで気味の悪い恍惚の表情に変わる。それだけで怒りは消え失せた。
(宝具自体はすでに完成していたな。そこはさすがルヒトハイムと言ったところか)
水色の炎を纏って人間に力を与えていた義足を思い出す。自分があれを最後に見た時はまだ未完成の木塊だったが、ルヒトハイムは存在の力の正体を知らされても一応は完成させたらしい。
それが技術者としての意地によるものか、存在の力を吸われた人間へのせめてものケジメだったのかは、人間を低俗なモノとしか認識していない彼には判別できなかったが。
最大の懸念はルヒトハイムが宝具を完成させないまま死んでいるかもしれないということだったが、その心配はしなくてよさそうだ。
(もう一つの懸念は、フレイムヘイズがあの宝具の“真の能力”に気付くか否かだが……)
ステッキの琥珀に淡い濃緑の光が灯り、宝具の反応を探る。数秒と経たずにそれは強い水色の輝きを放ち始める。その光は、サルマキスの目当ての宝具が未だに健在で、まだ近くにあることを示していた。その輝きを見て、サルマキスはにんまりと満足そうに笑う。
あの宝具の本当の能力を知れば、フレイムヘイズは間違いなく破壊するか遠くへ持ち去っただろう。それがされていないということは、まだ気付いていないということだ。贋作師の頭の悪さも同胞殺しの愚鈍さも相変わらずだ、とサルマキスはくつくつと嘲笑した。
あの宝具の力は、持ち主の時間を改変させることではない。それは人間の微量な存在の力に反応して宝具がその能力のほんの一部を起動させただけのものに過ぎない。そしてそのことは、自分しか知らない……。

身体の内側から言いようのない優越感が湧き出してくる。この世にあまねく全てを支配していると錯覚する優越感だ。否、それはもうすぐ現実になる。
今頃、あの贋作師のフレイムヘイズは安心して油断しきっているだろう。ダメージを与えたのだから、敵はしばらく襲ってこないだろうと。その油断を衝けば、あの愚かな紅世の王と道具はどんなに驚愕し、ショックを受けるだろう?

どろりと淀んだ空気――――彼にとっては心地のいい風――――が鱗で埋め尽くされた頬をなでる。
(そうだ、何も問題はない。全て順調に進んでいる。それこそ運命のように)
すっかり気が晴れたサルマキスが両の掌で顔を覆い、粘土細工を弄るように揉む。作業が終わると、そこには優雅な微笑を浮かべる人間の紳士の顔ができていた。その濃緑色の瞳はやがて訪れる栄光の未来に輝いている。

部屋の隅に置かれてあった革椅子に深く腰掛け、回復に専念する。一日ほどしてある程度回復したら、人間を大量に喰らってより多くの力を蓄えておかねばならない。あの宝具の力を最大限に引き出すには多くの存在の力が必要になる。
(そうだな、手始めは病院がいいだろう。老い先短い人間どもの物置とはいえ、存在の力はたんまり蓄えられている)
餌場の当てをつけて、サルマキスは目を瞑った。喉を鳴らすようにしてくつくつと低い笑い声を漏らす。

彼の頭の中では、すでに自分の顔に泥を塗ったフレイムヘイズと人間を思う存分に痛めつけて惨殺する算段が作られ始めていた。
身体中を血に染めて慈悲を乞い悲鳴を上げる哀れなフレイムヘイズと人間を笑いながら踏みつけて命を刈り取る様子を想像して、身体がびくりと震えた。

極まる満悦に絶頂を覚えたのだった。


 ‡ ‡ ‡


周りから浴びせられる好奇の視線に耐え切れないほどの居心地の悪さを感じて頭を抱える。クラスで孤立することには馴れているのだが、こういう空気にはなれていない。こうなった原因は、俺が何かやらかしたからではない。俺の隣の席にちょこんと座っている、ばかみたいに可愛いこの少女のせいだ。

頭を抱えたままサユの方を見やる。
「どうかした?」
視線に気づいたサユがきょとんと小首を傾げる。動きに合わせて艶やかな長髪がふわりと舞い煌めく。その仕草に心臓を握り潰されそうな愛おしさをひしひしと感じながら、周りにわからないように日本語で問う。
「なんで君がここにいるんだ?」
「もちろん、フリッツ君を守るためだよ」
こちらの意図を察して同じく日本語で即答する。
「できれば、少し離れたところから守ってくれていてほしかったんだけどな」
俺の反論に、サユは「たしかにそうだね」と苦笑して一度頷く。頷いて、「だけど」と否定した。
「君がより良い未来を選択するための手伝いが出来るかもしれないと思ったんだ」
「それは、つまり……?」
俺の心に希望の光が差す。じゃあ、義足を渡さなくてもいい…?
俺の淡い期待を見抜いたサユが申し訳なさそうに苦笑いを浮かべてゆっくりと首を振るう。
「それは君次第だよ。ボクはただ、君の選択肢を増やしたいだけ」
がっくりと肩を落として落胆する。そんな都合のいい展開になるはずはない、か。これはサユなりに俺のことを考えた上での行動なんだろう。突然降り掛かってきた不幸に一方的に振り回されるのは気の毒だから、少しでも俺の意思を尊重させてやろうということだ。ずいぶんお人よしな娘だ。フレイムヘイズって奴らはみんなこうなんだろうか?それとも、サユが特殊なだけなのか。きっと後者に違いない。
「ああ、そうかい。んで、気になってることがあるんだけど……その席は俺の記憶によれば別の人間のものだったはずなんだが、そいつはどこへ行っちまったんだ?」
サユの座る席を指差し、少しおどけた感じで質す。その席には、昨日まで印象の薄い幽霊みたいな女がいたはずだった。名前は……たしか由美子とかいったか?
あいつの代わりにサユが居座っていても、他の奴らはまるで“最初からそんな奴いなかった”とでも言うように平然としている。元々存在感も希薄な女だったし、フレイムヘイズの力を使えば少し入れ替わるくらい簡単なんだろう。なんたって街一つ簡単にぶっ飛ばすような力を持っているんだから。
顔を真っ赤にして大砲を振り回していたサユの姿が脳裏に浮かんで苦笑しかけ、
「……?」
サユから返事が返ってこなかった。怪訝に思って窺い見れば、サユは苦しげに眉根を寄せて俯いていた。その表情で、俺が何かひどい思い違いをしていたこと、先の質問がサユをひどく傷つけたことを悟った。悲しみに沈む横顔に心臓が震える。理由はわからない。だが、俺がこんな顔にさせたのだということは直感でわかった。
「……ごめん」
「な、なんで君が謝るんだよ?別に誰かが犠牲になったってわけでも――――」
言った瞬間、昨日のサユの説明が脳裏にフラッシュバックして絶句する。

『紅世の〝徒〟に存在を喰われ、世界に与える影響を少なくするためにその場に残された“代替物”は、存在が薄れてやがて完全に死ぬ。誰からも覚えてもらえずに、この世界から消えてしまう。それは、“トーチ”と呼ばれる』

つまり、昨日まで俺の隣にいたあいつは、もういない。この世から―――おそらく俺とサユの記憶以外から―――完全に、消え失せたのだ。

知らなかったとは言え、自分のすぐ隣の人間がすでに人間ではなくなっていたという事実に背筋がぞっとする。
「……あ、あいつもサルマキスにやられたのか?」
サユが「間違いなく」と小さく頷く。
「じゃあ、まさか他の奴らも……!?」
「それは、大丈夫。ここにいた人だけが、あいつに喰われたんだ。ただそこにいたという理由だけで。ボクは、彼女を利用させて貰ってここにいるんだ」
慌ててクラスを見渡そうとした俺に、サユが沈んだ声で応える。護れなかった自分を責めているとのが透けて見えるような、か細い声だった。華奢な肩が怒りと悲しみに震えている。過去に、俺と同じように自分に近い人間を喰われたことがあったのかもしれない。
「君のせいじゃない。悪いのはサルマキスだ」
人を慰めることは得意ではなかったからうまく慰めることができたか不安だった。それでも、慰めなくちゃいけないと思った。それができるのは、唯一事情を知っている俺だけだと思うから。
サユが弱々しく顔を上げる。
「……ありがとう」
夏の花が風にそよいだような、柔らかく強い微笑みだった。
こんな女の子が、そのか細い双肩に大勢の命を背負い込み、自身を削って人知れず戦っている。助けた人々に感謝されることもなく、英雄として褒め讃えられることもないのに―――。
急に胸が切なさで締め付けられ、同時に、今まで安寧を貪り、あまつさえ都合のいい“新しい世界”を夢見ていた自分が無性に恥ずかしくなった。胸中を埋め尽くす切なさと申し訳なさに突き動かされてサユを元気づける言葉をかけようと口を開くが、肝心の言葉が出てくれない。いったい何と言えばいいのだろうか?護ってもらうしかない非力な俺が。

中途半端に口を開けたまま悩んでいると、唐突に教室の扉が開いた。このクラスの生徒を管理する教師だ。いかつい顔をした妙齢の男性教師の登場に、今まで俺たちを遠巻きに眺めていた生徒たちが一斉に自分の席に着きだす。
「なあ、この話は今はやめにしないか?学校って久しぶりなんだろ?せっかくなんだし、楽しめよ。それに……授業に着いていくことに集中しないと、さすがに周りから怪しまれるだろうし」
なんとか話題をすり替えようとする。これ以上、サユの悲しむ顔は見たくなかったから。それに後半の台詞は本気の心配だった。本人に言ったら怒るだろうが、サユの見た目の年齢は中学生すら怪しい。だがそれが良―――違ッ、そうじゃなくて!
フレイムヘイズは不老らしいが、その初々しい言動を見るにサユの年齢は見た目とそれほど変わらないように思えた。自慢じゃないが、この学校の偏差値はけっこう高い。ついていけるのか不安だった。一瞬、黒板に記された難解な板書を目を真ん丸くしてぽかんと見つめているサユの様子を思い浮かべて吹き出しそうになる。

そんな俺の心配をよそに、サユが困ったような複雑な表情をして頬をぽりぽりと掻く。
「えっと、心配してくれるのは嬉しいんだけど……」
言いながら、手元の数学の教科書をパラパラと開いて見せてくる。そこにはびっしりと計算式と解答が書き込まれていた。見たところ、今日勉強するはずの範囲の予習のようだった。
「あー……まさかこれ、君が全部解いたの?」
困ったように苦笑してこくりと頷くサユ。少しだけだが、元気が戻ったようだ。呆然としている俺に、とどめの一言が放たれる。

「ボク、これでももうすぐ成人なんだよ?」

俺の中の何かが、派手に砕け散った。


 ‡ ‡ ‡


「由美子さん、その服はどうしたの?なぜ給仕服を……?」
「仕様なんです!気になさらないで下さい!」
「そうそう、由美子ちゃんのファッションなんですよ!制服なんてないんだし、いいじゃないですか!」
「教室に花は必要ですよ!」
「カワイイは正義!」
歴史学の女性教師の質問に、サユが胸を張って堂々と応えた(『由美子』というのは、サユが成り代わっている元同級生の名だ)。半ば自棄になっているような気もしないでもなかったが、言わないでおいた。
堂々と言い切られた上にクラスメイトからの支援もあればそれ以上追求する気にもならないのか、教師も呆けた顔をしながらも無理やり自分を納得させて授業に戻る。一時限目からこのやり取りが続いたので、最初は必死に笑いを堪えていた周りの生徒たちもすっかり馴れて、今ではどいつもこいつも積極的にフォローまでするようになった。
フォローをした後にこっそりと振り返ってウインクをしてくる奴らに、サユはぺこぺこと忙しく頭を下げて礼をする。その子犬のような微笑ましい仕草に頬が緩みそうになるのを頬の筋肉を引きつらせて堪える。クラスメイトが保護欲を掻き立てられるのも無理はない。これで俺より年上だというのだから不思議なものだ。
(ん?)
ふと、ついさっきサユにウインクを終えた男と目が合った。今までほとんど接したことがない奴だ(クラスメイト全員が同じようなものだが)。どうせすぐに目を逸らすだろうと思っていると、不意にそいつの片目が開け閉めされた。そいつが前に向き直り、しばらくしてそれが俺に対するウインクだったのだと理解する。なんの意味が込められているのかまではわからなかったが、少なくとも悪意はなかったように見えた。
(……おい、まさか、“うまくやれよ”とかいう変なお節介じゃないだろうな)

「ねえ、フリッツ君。ここなんだけど」
「え?ああ、それはな、」
サユがテキストのドイツ語の一文を差して質問してくる。先ほど聞いた話しによると、サユは過去にドイツに滞在していた経験があるらしい。道理で会話が出来るはずだ。しかし、読み書きに関しては苦手だということで、難解な言い回しなどのサユが独学でわからない箇所については俺が教えてやっている。サユは頭の回転も飲み込みも早いので教える側としては楽でいい。楽でいいのだが……。
(どうして、どいつもこいつもニヤニヤしながらこっちを見てくるんだ)
うんざりしながら視線の送り主たちにじろりと一瞥を向けると、数人の男女が慌てた様子で顔を正面に戻す。俺がサユの手伝いをする度に周囲からからかうような視線が突き刺さる。このやり取りもすでに何度となく繰り返されていたから、最初は戸惑っていた俺もだいぶ馴れてきた。クラスメイトたちも単なる物珍しい物への様子見から冷やかしへと目的をシフトさせているように見える。周囲からはいたいけな女の子を甲斐甲斐しく世話してやっているようにでも見えるのだろうか。
(実際は、俺のほうが世話になってるんだけどな)
この少女が俺のボディガードだと気付く奴は絶対にいないだろう。少なくとも俺なら、現在進行形でノートの片隅にメロンパンの落書をつらつらと描いている女の子が実はボディガードだと言われても絶対に信じない。
自分の落書きを見つめて口端に涎を浮かべるサユに、俺は小声で問う。
「メロンパンが好きなのか?」
落書きを書き始めた辺りから無意識だったらしいサユがビクリと肩を震わせて慌てて口元を拭う。一瞬、本当に昨日サルマキスと死闘を繰り広げたフレイムヘイズと同一人物なのか疑ってしまった。
「う、うん。元々は好きじゃなかったんだけどでも無性に食べたくなるというか、もはや身体が勝手に求めるというか……。とにかく、ボクにとっては欠かせないエネルギー源なんだよ」
何やら麻薬のようにも聞こえる支離滅裂な説明だが、要するに好物ということなんだろう。ドイツに渡って初めて知ったのだが、メロンパンは日本限定のものでドイツではまったく一般的ではない。一部のマニアックな店に置いてあるくらいだ。あまり菓子パンに興味がなかったので大して気にしていなかったが、もしかしたらサユにとっては非常に重要な問題なのかもしれない。
(あ、そういえば)
ボディガードがエネルギー切れを起こしているのは俺にとっても非常に不安なので、薄い記憶を探って目的のパン屋の場所を思い出す。たしか、隣町だったはずだ。
「なあ、メロンパンを置いてる店が隣町にあるんだけど―――ぉおっ!?」
ガタン、とけたたましい音を立てて吹き飛んだ椅子に教室中の視線が集まる。急に両肩を掴まれて目を白黒させる俺に、肉食獣のように表情を豹変させたサユがにっこりと満面の笑みを浮かべて告げる。

「フリッツ君、ちょっとデートをしない?」


――――マジっすか。



[19733] 1-6 逢引
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2011/12/13 22:40
さあ行こう今行こうすぐ行こうと目を爛々と輝かせながら服の裾を引っ張るサユをなだめつつ、俺は陸上部の部室へと歩を進める。サユにとってメロンパンとは理性を失わせるほどに魅力的なものらしい。小さなお尻の後ろに、パタパタと左右に揺れる犬の尻尾が見えてきそうだ。
「すまんな、小僧」
すっかり落ち着きをなくした自らのフレイムヘイズに代わって礼を言うテイレシアスの呆れ半分諦め半分の声に「いいってことさ」と微苦笑を返す。こいつもけっこう苦労してるのかもしれない。サルマキスと同種だというからなんとなく苦手意識を持っていたが、たしかに同類ではないようだ。

「サユ、ちょっとここで待っててくれ。欠席届けを出すだけだからすぐに済む」
幸いなことに今日は午後からの授業はなかったので、部活を休めば隣町まで足を伸ばす時間は十分ある。犬に「待て」をするようにサユを制し、部室の扉をノックする。朝の会話を思い出して入室に一瞬躊躇うが、「なるべく早くね!」と背後で急かす声に逡巡を掻き消され、忍び笑いを我慢しつつドアノブを回した。
「ああ、お前か。……もう調子は戻ったのか?」
「あ、ああ。そのことなんだが……」
互いに気まずさを感じていることを自覚しながら口を開く。
その日の出来事をネタに会話に花を咲かせるような同好がいない俺は、部室の鍵を預かる部長の次に早く部活に参加するのが常だった。今日も授業が終わると即行で(サユに押されながら)クラスを出たため、部室には机で事務処理をしているらしい部長と例の小柄なマネージャーしかいなかった。衆目が少ない幸運を噛み締めつつ、二人に欠席届けを提出したい旨を告げる。
「や、休む?お前がか?いったいどうして―――ああ、なるほど」
「―――!!」
これまで部活を生き甲斐にして一度も休んだことのなかった俺が自分から欠席を告げたことに部長とマネージャーは目を見開いて驚いていたが、背後の扉の隙間からまだかまだかとこちらの様子を覗くサユの姿を目にした途端に合点がいったと言わんばかりに眉を跳ね上げた。その隣のマネージャーは大人しそうな顔に似合わない表情でサユに厳しい目を向け出す。
「な、なんだよ」
「いやなに、お前は他人に興味のない奴だとばかり思っていたんだが、なかなか隅に置けないじゃないか」
「だから朝から変な調子だったのか」とやけにさっぱりした顔を破顔させ、部長はテキパキと欠席届を引き出しから取り出して必要な欄に記入をしていく。後は本人のサインと欠席理由を入れるだけの状態にしてこちらに寄越すと、「だがな?」と不意に怪訝そうな目付きになって顔を近づけてくる。
「なんというか、あの娘はちょっと、その、小さすぎるんじゃないか?お前の趣味嗜好に文句をつけるつもりはないんだが、体格差的に兄妹にしか見えな―――」
「うるせえ!余計なお世話だっ!!」
体格差について図星を突かれた俺は乱暴に届出書にサインをして欠席理由欄に「私用だ文句あるか」と書き殴るとバシンと机に叩きつける。サユが何歳でフレイムヘイズとなって成長がストップしたのかは知らないが、彼女の背丈はあまりに小さい。180を越える俺と並んだらそれこそ妹にしか見えない。そんな小さな女の子を好きになってしまったことに誰よりも当惑しているのは俺自身なのだ。
普段なら先輩に対しての不遜な態度に怒りを露にする部長は未だにニヤニヤと破顔したままで、それがこちらの心境を見透かしているように見えて無性に腹が立ち、またその何倍も恥ずかしかった。
「じゃ、じゃあな、ビューロー部長!」
「ああ、しっかりエスコートしてやれよ」
「うるせえ!」
上擦った声で吠えると、紅潮した顔を悟られないようにさっと翻してさっさと退室する。他人に対してこんなに感情をむき出しにしたのは本当に久しぶりだった。怒りを抱いているのに不思議と不快なものには感じない。むしろ本心で触れ合う心地よさすら覚えている。
馴れない心の揺れに戸惑いながらさっさとサユを連れて校舎を出ようとして、

「君、陸上部のマネージャー希望?最近可愛い娘が増えて僕、満足!」
「いえ、ちょっと人を待ってます」

「君、中学生だろ?誰だよこんな可愛い妹さんを待たせてる不届き者は!」
「ボクはここの生徒です。一応」

「ねえ、よかったらこのチョコ食べる?それともキャンディーの方がいい?」
「お気持ちだけ頂きます。この後にとてもとても大切な用事があるので」

「これがJAPANISCH MOEというやつか。悪くないな、萌えってやつも」
「たぶん違います」

ズルリと盛大にずっこけた。正面にあったロッカーにド派手な体当たりをかまし、そのまま脱力してズルズルと床に突っ伏す。サユが目立つということをすっかり忘れていた。どこかに隠れていてもらうべきだった。
「あ、フリッツ君。やっと出てきた。待ちくたびれたよ」
地に伏して頭を抱える俺に気付いたサユがとことこと駆け寄ってくる。まるで主人を待ちわびた飼い犬のような仕草に身悶えしたくなるような愛おしさを感じたが、サユに追随して屈強な部員たちがスクラムを組んで歩み寄ってくる様を見てその興奮は急激に冷めた。立ち上がれば俺よりガタイがでかい奴はいないとは言え、どうしてだか遙か頭上から見下ろされるようなプレッシャーを肌で感じる。こいつらもサユの放つ“守ってあげたくなるオーラ”にやられてしまったらしい。
「……待ち合わせてるのって、フリッツだったのか」
「はい、そうですよ。フリッツ君とは同じクラスでお世話になってます」
「ほお~、フリッツがねえ……」
四方八方から突き刺さる追求の目に射止められ、身動きがとれなくなる。たちの悪い警察の取り調べを受けたらこんな感じなんだろうか。無意識に私がやりましたと口走りそうになる。
「ところで、フリッツとのとても大切な用事って、なに?」
先ほどとは別の男がこちらを射貫く視線をそのままにサユに優しく問いかける。急にとてつもなく嫌な予感が膨れ上がり、全身から汗がぶわっと吹き出す。頼むから空気を読んでくれよ、サユ!

「ええ、ちょっとデートに―――「すまん今日は欠席するじゃあなお前ら!!」

空気と俺の期待を真っ二つに切り捨てたサユの腰を片腕で抱きかかえ、俊足を駆使してその場から遁走する。一拍遅れて待てやゴルァアという怒声と複数の靴音が廊下に響き渡る。待てと言われて誰が待つか!
追走する部員たちから逃れようと校門に向かって一直線に突っ走る俺の腕の中で、出し抜けにクスクスと愛嬌を感じる忍び笑いが発せられた。見下ろせば、相変わらず俺に抱きかかえられたままのサユがイタズラっぽい微笑を浮かべていた。まさか、さっきのは……。
「ごめん、ちょっとイジワルだったかな?でも、ボクを待たせるのがいけないんだよ」
「やれやれ、お前もいい性格になってきたな、サユ。これでは小僧がぷっくく、気の毒ではないかぶははは!いいぞもっとやれ!」
「お前らいい性格してるよまったく!!」
やっぱりワザとだったのか!前言撤回、この娘は天使じゃなくて小悪魔だ!!



一切の乱れのないストライド走法の軽快な足音が校門に向かってフェードアウトしていくのを聞きながら、陸上部部長を務めるリヒャルト・ビューローはつい先ほど提出されたばかりの欠席届に晴れやかな顔で受認サインを記していた。その笑顔の理由は、調和を乱す問題児とようやく打ち解けるキッカケを掴めたことだけではない。

欠席届を然るべき棚に仕舞うと、先ほどから一向に手が動く気配のない新人マネージャーに苦笑を浮かべて話しかける。
「さっきの、聞いてたか?」
「聞いてました。あの娘、デートだって。フリッツ先輩とデートだって!」
「違う違う。そっちじゃなくてだな」
よほど“お目当ての先輩”をとられたのが悔しいのか、小さい頃から気弱で自分の影に隠れてばかりだった彼女が珍しく声を荒らげている。その変化も好ましいものだと感じながら、リヒャルトはニヤリと満足気に笑う。
「あいつ、初めて俺のことを“ビューロー部長”って呼んだんだ。今まで素っ気なく“部長”だけだったのにな。俺の前で表情をころころ変えたことも今までなかった。こんなことは初めてだ」
「た、たしかに……」
「良い傾向に変わってきたと思わないか?あの黒髪の娘が良い影響を与えたのかも知れないな」
「ううっ」
容姿は優れているのに昔から病弱だったせいで自分に自信を持てない、根っからの引っ込み思案な“妹”にハッパをかけるために、少しトーンを落とした深刻そうな声で耳元で囁く。
「これは大変な強敵が現れたんじゃないか、エリザ」
「―――ッッちょっと用事を思い出したので帰ります!後は部長がやっておいてください!!」
「ああ、行け行け。『Heute ist die beste Zeit.(思い立ったが吉日)』とも言うし―――って、もういないか。あいつ、実は短距離走の才能があるんじゃないか?」
処理途中の書類もそのままに弾丸と化して部室を飛び出していった妹、エリーザベト・ビューローの慌てっぷりに口元を綻ばせ、リヒャルトは彼女の残していった書類にも目を通し始める。フリッツの人柄を信用していなかったため妹の恋路には拒否感を抱いていたが、その心配もしなくて済みそうだ。ライバルが現れたことであの娘がより活発的になれば、兄としてはさらに嬉しい限りである。

「ういっす、お疲れ様です、部長。すいません、フリッツの野郎を取り逃がしました。マーカスが足が遅いせいですよ」
「うるせえよ、ドム。ったく、あの野郎、体調でも悪くなったのかと思ってたらあんな可愛い女の子と付き合い始めたのか。心配して損したぜ。なあ、コール」
「ああ、その通りだぜ。愛想も感情もない冷徹野郎かと思ってたが案外侮れないもんだな、チクショウ」
「まあ、我が部にはアイドルのエリーザベトちゃんがいるわけだし、ベアード様は気にしな―――あれ?エリザちゃんは?」
「さっき出ていったぞ」
「「「「……俺らも今日は欠席します」」」」
「よしお前ら全員表に出ろ!!」


 ‡ ‡ ‡


「サユ、落ち着いて食べろよ。メロンパンは逃げないだろ。……聞いてないな、これは」
隣で一心不乱にメロンパンをぱくつくサユの目の前で手を振るが、反応はない。文字通り無心になって齧り付いている。目尻にはうっすらと感動の涙すら浮かんでいる。時々ハムスターのように頬を膨らませてモグモグと咀嚼して嚥下したかと思えば、休む暇もなく新たなメロンパンに小さな口でかぶり付く。さっきからずっとこの繰り返しだ。見ているこっちの方が腹一杯になりそうだ。
パン屋前の野外カフェは人通りの多い並木通りに接しているので、この微笑ましい小動物を見た大勢の人間がにっこりと顔を綻ばせて次から次へと通りすぎていく。それを気恥ずかしく思うのもすっかり馴れてしまって、まるで本当に幼い妹を見守る兄になった気分だ。部長に兄妹みたいだと言われても仕方がない。
「……この隙をサルマキスに狙われたら一巻の終わりだな」
「まあ、そう言うな小僧。ここ一週間ほどメロンパンを食っていなかったのだから、こういうことにもなる」
「ははは、一週間なら仕方がないな」
紅世の王の言葉に薄ら笑いを浮かべて軽く冗談を返せるようになった自分は、実はかなり順応力が高いのかもしれない。
「んぐぐっ」
「言わんこっちゃない。ほら、口開けて」
メロンパンの詰め込みすぎで喉を詰まらせそうになるサユの口にホットミルクのカップをあてがう手際も手馴れたものだ。こくりこくりと小さく震える細い喉首に目を奪われつつ、ぐっと平静を装って白いヒゲを拭ってやる。ふにゅっとした滑らかな朱唇の弾力を指先に感じる。
「んむ。ありがとう」
赤ん坊のようにされるがままに口周りを拭かれたサユが照れ笑いを見せる。
(ほら、また。そういう無邪気な笑みを簡単に見せるから、皆放っておかないんだ)
無垢な微笑を向けられて思わず火照った顔を見られないように視線を下に逸らせば、袋に詰め込まれていたはずの大量のメロンパンは全て彼女の胃袋へと収まった後だった。なだらかな起伏を描く細身に変化は見つけられない。その身体のどこに入っているのやら。女の子にとって甘いモノは別腹というが、彼女の別腹は異次元にでも繋がっているのか。
サユが腹を撫でて、はふぅと満足そうに息をつく。
「おかげで生き返ったよ。まさかドイツでメロンパンを食べられるとは思っていなかったから、本当に助かった。味も良かったし、大満足!」
「偶然、この店の前を通りかかったことがあっただけさ。喜んで貰えたならよかった」
隣町にはある用事のために週一で訪れている。メロンパンを置いてあるパン屋は珍しいから印象に残っていたのだが、覚えていて本当によかった。好きな女の子の幸せそうな顔を見れたことをただ純粋に嬉しく感じ、その笑顔を独占したいと思う。誰にでも向けるのではなく、自分だけに向けて欲しいと願う。傲慢で不純な感情という自覚はあるものの、“そういうものなのだ”と心が許容している。これは、間違いなく恋をしている証拠に違いない。
ゆったりと幸せの余韻に浸るサユの横顔を眺める中、今まで明確に仕分けできず明文化できなかった、俺がサユに心を奪われた理由をようやく認識し始めていた。

(サユは、無防備すぎるんだよ)

サユは、女なら当然備わっているはずの無意識下での異性への警戒心がごっそりと欠如している。あたかも同性に接するような自然な感情を剥き出しにして晒してしまう。それを目の当たりにした人間は、その純真さに穢してはならない透明な美しさを覚え、同時に危なっかしさを感じて保護欲を掻き立てられる。
(でも、サユの秘密を知っているのは俺だけだ)
心中にそう呟けば、たしかな優越感が胸の鼓動と共に全身に拡がる。普段儚げに見える美少女が影で人々を守るために超然と戦っているというその大きなギャップに、俺はすっかり魅了されてしまっていた。誰よりも彼女のことを知っているという事実に知らずに頬が弛む。

だけど、戦闘時の凛々しい戦乙女の姿を知っているからこそ―――俺とサユの間に決して越えることのできない壁があることもわかってしまう。

『“フレイムヘイズ”、それがボクたちの呼び名だよ。紅世の王と契約して、己の過去の軌跡と未来の可能性を代償に、誰彼からも忘れ去られる不老の戦士になった元人間さ』

昨夜のサユの説明が脳裏を過ぎる。寂寥と自嘲が入り混じった言葉だった。
そう、サユはフレイムヘイズなのだ。どんなに近しく思えても、俺たち人間とは一線を画す超常の存在。死ぬまで永遠に戦い続ける、決して老いない狂戦士―――。
(こんなに近くにいるのに、遠い)
手を伸ばせばすぐに抱き締められる距離なのに、彼女との間に硬い壁を感じて切なさで胸が張り裂けそうになる。この邪魔な壁を踏破して、サユの元へ行きたい。サユの力になりたい。サユとずっと一緒にいたい。サユと共に歩みたい!
心からの欲求を思い浮かべるたびに独占欲が惹起され、愛おしさが爆発的に高まっていく。

(せめてこの瞬間だけでも、サユを身近に感じたい)

胸中で渦巻いていた情感が燃え上がり、熱を放ちながら身体を突き動かす。熱に浮かされてボウっと揺らめく意識の中で、太ももの上に置かれたサユの白い繊手にそっと手を伸ばす。未だメロンパンの余韻から醒めやらぬサユは隣で少年が男になろうと邪な勇気を振り絞っていることにも気付かない。そのうっとりととろけた愛くるしい横顔にさらに愛念が漲る。

突然手を握ったりなんかしたら、サユはどんな反応をするだろうか。顔を真っ赤にして怒るだろうか、それとも恥ずかしがるだろうか、もしかしたら―――受け入れてくれるかもしれない?

緊張で鼓膜が突っ張り、喉がカラカラに乾く。唾を飲み下そうとするが、肝心の唾が出てこない。身体中の筋肉が強張って思うように動かない。眼球の筋肉も痙攣し、遠近感が狂いだす。細いうなじから立ち昇るふわりとした女の子の柔らかな匂いに目眩がして、薄い光が目の前で花火のようにパチパチと閃く。ブルブルと震える指先が触れるか触れないかというところまで近づく。
(あと、少し……!)

―――ニヤニヤ

不意に、サユのペンダントから視線を感じて・・・・・・・・・・・・・・・・指が止まった。
源に目を向けると、ペンダントと視線が交差する。ペンダントと目が合うなど気でも狂ったのかと自問するが、愉快そうにこちらを眺める視線はたしかにサユの胸元のペンダントから発せられていた。雲海のような純白の宝石の内部に、ニンマリと狐のような笑みを浮かべる巨大な何者かの存在を生々しく感じる。
いつの間にか、人外の気配を察知できるほどに裏の世界に染まってしまった自分に思考を停止させた俺に、ニヤついていた視線の源がボソリと呟く。「時間切れだ、臆病者」と。

「フリッツ君?どうしたの?」

「え、―――ッ!?」
ハッと眼の前の景色に意識を戻せば、知らぬ間に覚醒したサユのくりくりとした大きな瞳が視界を埋め尽くしていた。露を含んだ花びらのように珊瑚色に艷めく小ぶりの唇が、吐息を感じさせるほど近くにある。俺はサユに顔を近づけたまま硬直してしまっていたのだ。
「サユ、ごめ、ち、近」
「フリッツ君、顔が赤いよ?もしかして体調悪いの?」
こてんと小首を傾げたサユがそっと額に触れてくる。冬風に冷えてひんやりとした肌合いの下に人肌の温もりを感じる。やんわりと触れられた額から温もりと共に媚びのない無垢な思いやりが染みこんできて、脳髄を優しくとろけさせる。
「うわ、耳たぶまで真っ赤だよ。やっぱり熱があるんじゃない?」
「ぇ、ぃ、ぃゃ、」
こちらを気遣う色を見せた黒真珠の瞳がぐっと近づく。額同士を合わせようとしている。ほんのちょっと唇を突き出せばキスできてしまう距離まで近づく。鼻孔をくすぐる吐息がまるで春花のように甘かった。もっと匂いたい、近づきたいという欲求が腹の中をグルグルと駆けずり回る。檻から出ようとする猛獣のように心臓が肋骨を内側からばくんばくんと叩きつける。まるで焦れったい主人を急かしているかのように動悸音が高鳴る。
なにしてる、行け、行け、行け、と。

(やめろ急かすなこういうのは自分のタイミングで―――いやいやいや、これ以上はまずい。理性がぶっ飛びかけてる。頭の中からリビドーがアドレナリンがががががが――――!!!!)

「ッッッ大丈夫だ問題ない!!平気だ!!すこぶる元気だ!!ちょっとサユがかわぃっうごっ!じゃなくて考え事をしてただけだから!!」
「そ、そう?それならいいけど」

弾かれるようにサユから飛び離れ、思わずオカシナことを口走りそうになった自分の横顔を殴りつける。明らかに大丈夫じゃない奴の言動だが、崖っぷちの気迫に気圧されたのかサユは目を白黒させつつも引き下がってくれた。今だけはサユの鈍感さに心から感謝したい。
相変わらずこちらを黙して眺めているテイレシアスは、ニンマリと楽しそうな笑みの気配を浮かべている。こいつは俺の気持ちを知っている。知っている上で自分が面白がるために黙っているに違いない。
見透かされていたという事実に、先ほどまでの自分の醜態を思い返し、恥ずかしさと緊張が津波のようにぶり返してきて顔面に血液が集まるのを知覚する。顔から火が出そうなほどに熱い。
(お、俺はいったい何をしようとしていたんだ。手を握ってどうするつもりだったんだ?それよりなにより―――もしも嫌われたら、どうするつもりだったんだ!?)
考えもしなかった予想に今になって怯える。男にいきなり手を握られたら、いくら恋愛情事に鈍いサユでも恥ずかしがるより怒る確率のほうがよっぽど高い。欲に踊らされて都合の良い未来しか思い描けないのでは、そこらの思春期真っ盛りの男子と変わらないじゃないか。
自分の初々しさを突きつけられ、同年代より成熟していると思い込んでいた普段の自分がただの大人ぶったガキに思えて自己嫌悪に襲われる。叫びながら地面に転がりたくなる衝動を抑えるので精一杯だ。サユは、まるで澄んだ湖面のようだった。正体しているとどんどん鎧が剥がされ、湖面に映る本当の自分を直視することになる。
「ねえ、本当に大丈夫なの……?」
羞恥に身を捩る俺を気にかけて覗き込んでくるサユから慌てて視線を逸らす。そういう憂いを含んだ瞳で上目遣いをされると本当に大丈夫じゃなくなってしまう。喉元にはすでにサユへの思いの丈がこみ上げてきている。マグマのようなこれが噴き出してしまう前になんとか話題を逸らしてしまわなければならない。
己の理性の限界を目の前にして、切羽詰まった俺は差し当たり思いついたことを口にした。

「サユ、俺の親に会ってくれ!」

「え?」
「おおぅ」
「……あ、ち、ちがっ!?」
取り乱しながら急いで訂正する。日本語は使い方と状況によって深い意味を持つことがある。長い間使っていなかったせいでそのことをすっかり失念していた。
「小僧、臆病者などといってすまなかった。よくぞ言ってみせた。さしもの俺も感服したぞ」
「だから違うって!これはそのまんまの意味で、この近くに病院があって、だから、ああくそ、上手く言えない!つまりその、」

「―――もしかして、行きたいところがあるの?」

いつもと変わらない優しげな音色に、はたと口が止まる。今の言い訳じみた拙い説明で俺の要望を完全に把握できたらしいサユが、「だったら遠慮無くそう言ってくれればいいのに」と苦笑しながらひょいと椅子から立ち上がる。頭の回転は早いのに恋情には察しが悪いサユが俺の隣まで来ると、そのまま、いつもそうしているかのような極自然な動き―――まるで恋人にするかのように―――俺の手を握った。
「どこでも付き合うよ。だって、デートなんだから」
きゅっと握られた手が、純粋に温かかった。恥ずかしさと嬉しさに頭の中のアドレナリンたちがどんちゃん騒ぎを始める。手の平が汗ばんでサユに不快な思いをさせないように発汗神経の制御に細心の注意を払いながら、「手を握っても怒られなかったかもしれないな」と心中に独りごちた。

「……ぅ、自分で言っててちょっと恥ずかしくなっちゃった」
「ははは。―――惚れてまうやろぉおおおおおお!(小声」
「えっ?何か言った?」
「いや何も」
「……臆病者め(ボソリ」
「何か言ったか?」
「いや何も」





「焦れったいわね、あの二人。見てるこっちの方が恥ずかしいわよ!」
パン屋前のベンチで初々しいやり取りを見せるフリッツとサユを見ながら、物陰で少女が囁いた。サユの服装についてもっとも早く擁護したクラスメイトの一人だった。何にでも首を突っ込みたがる性分の彼女は、悪友と悩める後輩と共にサユとフリッツを尾行したのだった。
薄茶色のボブカットを振り乱し、勝ち気そうな双眸を琥珀色に染めた少女が「キスするなら早くしちゃいなさいよ」と髪をかき乱す。
「ていうか、会話がドイツ語じゃないから何言ってるかわかんないのよ!あれって日本語?なんでフリッツが日本語ペラペラ喋れんのよ!?エリザ、愛しの先輩のことなんだから何か知らないの!?」
フリッツとサユを追いかけて飛び出した陸上部のマネージャー、エリザベートは少女の問いかけに涙を浮かべる。
「わ、わかりません。そういえば私、先輩のことほとんど知らないんです。うう、先輩が振り向いてくれないのはああいう娘が好みだからなのでしょうか」
会話の内容が聞き取れずに歯がゆい思いをする少女と、実は想い人のことをまったく知らなかった自分にショックを受けている少女に、背後に控えていた悪友がはっはっはっと高笑いをしながら答える。
「何だお前ら、知らなかったのか」
「「知っているのかリーデン(先輩)!」」
雷電―――ではなくリーデンと呼ばれた少年がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。彼もまた同じクラスメイトであり、フリッツにウインクを飛ばした少年であった。洒落たデザインのメガネを中指で持ち上げ、情報通である彼らしい滑舌の良い饒舌で披露する。
「俺の調べによれば、フリッツはほんの数年前までは日本人だったんだ。日本とドイツのハーフで、ドイツ国籍を取得したのも少し前だ。だから日本語を話せるのは当たり前ってわけだ。ていうか、ケーテ。お前、同じクラスなのにあいつのミドルネームも知らなかったのか?」
ケーテ―――勝ち気そうな瞳の少女が怪訝そうに眉を潜めてエリザと顔を合わせる。
「あいつのミドルネーム?あー、たしかYだったわよね。それが何なのよ?」
「教えてください、リーデン先輩!」
「いいだろう。教えてしんぜよう、迷える子羊たちよ。Yっていうのは日本の名前で『悠―――あっ!二人が手を繋いでどこかへ行くぞ!追え!」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!Yって何なのよ!?」
「あわわ、ま、待って下さいぃい~~~!!」



[19733] 1-7 悠司
Name: 主◆548ec9f3 ID:0e7b132c
Date: 2012/02/29 00:43
風情のある路地を、俺がリードする形でサユと手を繋いで歩いている。
メロンパン効果で幸せいっぱいなサユは終始笑顔で、それを横目で眺める俺も終始ニヤケ顔を浮かべている。
周りから刺さる視線は、今の幸せに比べれば蚊に刺されるようなものだ。天使と見紛う美貌の少女は老若男女の恍惚とした視線を我が物にするが、その手を握っている俺には嫉妬と憎悪の視線の集中攻撃が向けられている。それにこそばゆさは感じれど、優越感の方が遙かに大きい。俺を睨む男どもに「どうだ、羨ましいだろ?」と嘲笑の流し目を送れば、途端に涙を浮かべて地団駄を踏み出す。宝物を自慢して回っているようで、とても良い気分だ。
本人はそれほど重要視していないようだが、サユは一生かけてもお目にかかれないような美貌の持ち主なのだ。もしもサユが「実は私は妖精なんです」と言っても、何の疑念もなく納得できるだろう。そんな美少女と親しげに手を繋いでいる男がいたら、俺だってそいつを恨めしく思う。

(サユと手を繋ぐ男、か……)

幸せに火照っていた頭に冷水が浴びせられる。もしもサユが俺以外の男と中睦まじく肌を触れ合わせていたら―――そんなことは考えることすら嫌だ。

(絶対に、他の男になんか渡すものか)

内心で決意すると繋いだ手を握る力を少し強める。これは同時に「君を離さない」という陰ながらの意思表示でもあるのだが、鈍いサユが気付くことはないだろう。自分にもっと度胸があれば面と向かって言えるのだが。
というか、自分はこんなに独占欲が強い人間だっただろうか。自分で言うのもなんだが、俺はもっとクールな性格をしていたと思っていた。相手がサユだからこそ、こんなに執着心を露わにしているのかもしれない。

「―――っ」

ふと、急にサユが立ち止まり、さっと後ろを振り返った。彼女の纏う雰囲気がピシリと引き締まるのを感じる。握る力を強めたことを不快に思ったのかとドキリとしたが、様子からして違うらしい。
サユの視線を追いかければ、数十メートル後方の路地角をじっと見つめているようだった。ちょうど人間が2~3人隠れられるくらいの狭い死角だ。遠くて俺にはよく見えないが、フレイムヘイズの視力を持つサユは何か視認できたのかもしれない。

「ど、どうしたんだ?もしかして……」

サルマキスが仕掛けてきたのかと、自分を食い殺そうと目の前まで迫った化け物の顎門を思い出してゾッと戦慄する。
しかし、再び正面に向けられた顔は満面の笑みを浮かべていた。喉を乾かすような闘気が萎むように立ち消えていく。

「ううん、なんでもない。ふふ、君ってけっこう人気者なんだね。やっぱりカッコイイからかな」
「え?あ、ありがとう」

よくわからなかったが、サユがカッコイイと言ってくれたことに舞い上がってしまい、それ以上は考えられなかった。好きな女の子に自分の容姿を認めてもらえれば誰でもこうなるに決まっている。
視界の隅で、路地角から何者かがこちらを覗き見ている気がしたが、そんな些細なことはどうでもよかった。見たければ見ればいいのだ。


そうこうしている内に、俺たちは母さんが入院している病院に着いた。デート気分が終わってしまうのが名残惜しかったので少し遠回りしたのはご愛嬌だ。ゴスラーの美しい風景や歴史的な建造物にはサユも目をキラキラさせて喜んでいたし、俺は悪くない。うん、悪くない。
ゴスラーは田舎ではあるが、世界遺産にも登録されているほどの歴史と趣きのある街だ。市街地に行けば、お伽話の世界のような旧市街の街並みがそのまま残っている。女の子はこういうメルヘンチックなものに憧れるらしい。道中で話を聞いてみると、以前にドイツに滞在した時は観光をしている暇などなかったから、じっくり景色を眺めるのは初めてなのだそうだ。夢うつつといった面持ちで街並みを目に焼き付けていくサユは歳相応の少女のようで、彼女を身近な存在に感じさせてくれた。ゴスラーに移住したことにこれほど感謝したことはない。これで隣町まで行かずとも長期療養できる病院が近くにあれば文句なしなんだが。
受付で面会届けに記載していると、サユがこちらを気遣う表情で見上げてきた。母さんの病状のことだろう。こういう細やかな仕草でも相手に配慮をするのは日本人独特の心遣いで、故郷の懐かしさを感じてとても落ち着く。

「フリッツ君のお母さんは何か重い病気なの?」
「いや、重病ってわけじゃない。過労で倒れてから体調崩したままでさ」
「そっか」

命に関わるような病気ではないと知ってサユはほっと息を吐く。
母さんの名は、チヅル・ルヒトハイムという。名前の通り、日本人だ。看護学校の学生時代、義肢の技術研修で日本を訪れた父さんと出会い、国際結婚をしたらしい。父さんが突然ドイツへ移住すると言い出した時にも何の文句も言わずに着いていったことを考えれば、二人の絆の深さがよくわかる。人外の脅威に脅かされているとは知らされていなかっただろうに。父さんが死んだ後も、父の故郷であるゴスラーに留まり続け、俺を一人で育ててくれた。馴れない土地で働きながら子どもを育てる苦労は並大抵のことではなかったはずなのに、母さんは俺に心配をかけまいと常に笑顔を浮かべていた。俺はそんな母さんを少しでも助けようと必死でドイツ語を覚え、奨学金を獲得するために勉強に集中したが、間に合わなかった。母さんは俺がハイスクールに進学すると同時に倒れた。医者から聞いた話では、臓器の至る箇所が限界を越えていて、長期の治療が必要なのだという。不調を顔に出さなかったのは母さんの気丈さ故だ。
思えば、俺の性格が異様に冷めてしまっていたのは母さんをこんな目に合わせてしまった負い目が起因しているのかもしれない。母さんは同年代の親と比べて歳若い。もしも俺が早々に独り立ちできれば、今とは違ったもっと恵まれた人生を歩めたかも知れない。
自分にもっと力があれば……という後悔が胸を締め付けてくる。

(おっと。暗い顔して会ったら余計に心配かけるだけだ。サユもいるんだし、明るくいかないとな)

一息ついて肺の空気と一緒に暗澹とした想念を吐き出すと、病室の扉を軽くノックする。

「Wer bist du?(はい、どなたですか?)」
「母さん、俺だよ」
「あら、今日は早いわね」

日本語で返し、ドアをそっと開ける。開けた先で、窓からの日光を浴びた線の細い女性が俺の顔を見て柔和に微笑んだ。
息子の目から見ても、母さんはまだ女としての色香を十分に残していると思う。艶っぽい色気ではなく、儚げな令嬢のような色気だ。色白の肌が余計に年齢を若く見せている。
母さんは俺の隣に人間がいるのを見とめると一瞬目を丸くし、それが愛らしい少女だとわかるとにっこりと満面の笑みを浮かべた。なんとなく、何を考えたかわかる。

「お帰りなさい、悠司・・。そちらの可愛らしい女の子は?」
「ああ、紹介するよ。この娘は同じクラスの由美―――」

サユという名前より、身分を借りているクラスメイトの名前で紹介したほうがいいだろう。
そう考えてサユを紹介しようと振り返り、

「……サユ?」

目を真ん丸くして俺を見つめているサユと目が合った。
信じられないものを見るかのように見開かれた瞳の理由がわからず、何か不機嫌にさせることでもしてしまったかと先ほどまでの自分の言動を思い返す。しかしまったく思い当たらない。
お、俺はいったい何を仕出かしてしまったんだ!?


‡ ‡ ‡


「“ユージ”、ですか?」
「そうだ。フリッツ・ユウジ・ルヒトハイム。それがアイツの名前だよ。日本の言葉で、『遙』かに『司』るって意味を表しているらしい。平たく言えば、『多くのことに手が届きますように』ってことだ」
「相変わらず物知りねぇ、アンタ。日本語なんて難しすぎて私にはさっぱりだわ。カンジなんてもう文字じゃないわよアレ。どちらかと言ったら絵の部類に入るんじゃない?」
「お前は興味がないことは全部さっぱりだろうが」

はふんと両肩を上げて鼻を鳴らすケーテにリーデンが呆れ顔で返す。
三人は病院のテラスで張り込みをしていた。本当は病室の前まで言って室内の会話を聞いてやろうと息巻いていたのだが(主にケーテが)、思わぬ問題が生じたために急遽、ここで待機となった。

「うっさいわね!私の今の興味は由美子に集中してるのよ。あの娘、間違いなく私たちに気付いてたわ」

問題とは、ケーテが「由美子が自分たちに気付いた」と主張していることだ。先ほど、路地角から二人の様子を覗きみている時、目があったのだと言い張っている。

「あの距離で気付くとは思えないんですけど……」
「俺もエリザと同意見だな。30メートルは離れてたし、俺たちは顔だけしか出してなかった。向こうから見えるはずがないだろ?」
「気付かれたったら気付かれたのよ!たしかに由美子と目があって、くすって笑ったのよ!あの娘、只者じゃないわ。ていうか、由美子って前からあんな娘だった!?」
「と、言われてもなあ?」

顔を見合わせて苦笑するエリザとリーデンを見て、ケーテは苛立ちを抑えられずギリギリと歯噛みをする。二人とも由美子の護ってあげたくなるような可愛らしい外見にすっかり騙されている。

(私は見たのよ。たしかにあの娘と目が合った。あんなに離れてたのに、私たちの居場所を正確に見抜いた。気のせいなんかじゃない!ああ、もう!なんでこいつらは分かんないのかしら!)

由美子と視線が交わった瞬間を思い出す。突然、気配を察したかのように振り返った由美子の双眸は、猛禽類のように鋭かった。その眼光はこちらの正体を見破るとすぐに和らいだが、喉元にナイフをあてがわれたようなあの怖気は忘れようがない。気の強いケーテすら射竦めさせたあのギラつく目は、普通の人間が出来るものではない。

(まるで、フリッツを護ってるボディガードみたいだった……)

ケーテは持ち前の鋭い勘で、クラスメイトの由美子が以前の彼女とはまったく違う印象を放っていることに薄々感付き始めていた。しかし、それを証明しようにもケーテは“以前の由美子”をなぜか明確に思い出せない。メイド服を着ていなかったような気もするし、着ていたような気もする。小学生も怪しい背丈だったような覚えもあるし、自分と同じくらいの身長だったような覚えもある。思い出そうとすればするほどに記憶はあやふやにボヤけてしまうので、ケーテは混乱していた。
だが、唯一決定的に違う点がある。それは『フリッツの変化』だ。変に大人びていて取っ付きにくいと思っていたフリッツが、由美子と接している時には歳相応の少年じみた表情を見せるようになったのだ。彼の変化と由美子の変化はきっと繋がっているに違いない。培われてきた第六感が何かを敏感に察知している。

(由美子には絶対何かあるわ。可愛いナリしてるけど、絶対に何かとんでもない秘密がある。きっといつか暴いてみせるわ。そう囁くのよ、私のゴーストが!)

リーデンに見せられたジャパニメーションの台詞を無意識に心中で呟くと、ケーテは双眸に炎を灯らせた。
長年付き添った幼馴染が探究心を燃え上がらせているのを横目に、リーデンは「また始まった」と深くため息を吐き出す。彼女は何事も追求せずにはいられない、傍迷惑なタチなのだ。そして、それに巻き込まれるのはいつだって自分なのだ。それも何時ものことなので、リーデンはもう馴れてしまっていた。きっと、いつまでもこうやって巻き込まれ続けるのだろう。

「ユージ、か……。いつか、私も先輩をそう呼べるようになりたいな」

エリザがチクチクと疼く胸を押さえて小さく呟いた。
自分はあの人のことを知らなすぎる。勝負を挑むのは分が悪いかも知れない。でも、今は別の女の子に夢中になっていても、それが永遠に続くとはわからない。あの娘よりも魅力的な女の子になることができれば、きっとあの人の視線を自分に釘付けにできる。いや、してみせる!


彼らは、信じている。
今日と変わらない平凡な明日がいつまでも繰り返されると無闇に盲信している。
その錯誤の糸がとても脆いことを知らずに、無邪気に日常を謳歌している。
たった今も、彼らを狙う悪しき“非日常”が忍び寄っていることも知らずに。



[19733] 1-8 自惚
Name: 主◆9c67bf19 ID:decff9ff
Date: 2012/04/02 20:36
理由はわからないがサユは俺を呆然と見つめていて、俺はその理由を探るべくサユの瞳を不安そうに見つめ返す。そんな奇妙な時間が数秒すぎて、

「あらあら。お母さんの前でいきなり見つめ合うなんて。もしかして悠司の彼女さん?」
「えっ!?ち、違う!……かな?」
「ふふ、そうやって肝心な時に女の子の顔色を窺うのは頼りなさげで印象悪くなっちゃうわよ?」
「ぐっ!?」

図星をドスリと突かれてよろめく俺をよそに、母さんがゆっくりと立ち上がってサユの元へ歩む。サユはまだ混乱しているのか、相変わらず目を丸くして立ち尽くしたままだ。母さんがサユの目線に合わせて中腰になり、にこりと穏やかな笑みを浮かべる。
仏像を思わせる温厚な微笑みが部屋全体の空気を暖める。

「サユちゃんって言うのね。悠司のこと、よろしくお願いします。変に大人ぶってて生意気なところがあるかもしれないけど、仲良くしてあげてね」
「……はい、もちろんです。きっと、彼を良い未来に導いてみせます」

一言一言、決心するように紡がれた言葉が印象的だった。「悠司も頼れる彼女さんを見つけたわね」と嬉しそうに白い歯をこぼす母を前に、サユの黒真珠の瞳に強い光が宿るのを見た。運命に抗う戦士の目―――フレイムヘイズの眼光だった。
不意に、彼女が今告げた“彼”が、俺のことを指していないように思えた。只ならぬ決意を秘めた瞳が、俺(悠司)ではない別の男ユウジを映しているように見えたのだ。それならば、サユが突然驚愕したことも説明がつく。彼女は“ユウジ”という名前に心当たりがあったのだ。それも並々ならぬ想いが。
自分以外の男がサユの心を釘付けにしていることに不快を覚え、密かに臍を噛む。

(サユ、君の過去に何があったんだ?その男とは―――ユウジとは、どういう関係だったんだ?)

こんなに可憐な美少女なのだ。放っておかれる道理はないし、俺より先に誰かが惚れたとしても不思議はない。それに、彼女にもフレイムヘイズになる前には人並みの人生があったはずだ。その時に恋人がいた可能性だってある。むしろ今までその考えに至らなかったことの方が不自然だ。
そこまで思い悩み、俺ははたと重要なことに気付いて目を剥いた。

(俺はサユの過去を何一つ知らないじゃないか……!)

今サユの隣にいるのは自分だという現状に自惚れ、全能感すら抱いていた。サユのことは何でも知っているような気さえしていた。しかし、思い返せば俺は彼女の過去を何も知らない。優しくて強い女の子だということはわかっていても、なぜこんなに優しくて、どうしてこれほど強くなったのか―――強くならなければいけなかったのかを知らない。彼女が辿ってきた人生も、味わってきた苦楽も、フレイムヘイズになった理由も知らない。自分の気持ちばかりにかまけていて、彼女を知る努力を怠っていた。サユも俺に積極的に過去の話をしない。それはつまり、俺が自分の過去を打ち明けるに足る男だと認められていない証左だ。
これでは、サユを振り返らせることはできない。古いユウジの上に俺を上書きすることはできない。
黙りこくった俺たちを見て面白そうに顔を綻ばせる母さんを視界の隅に入れながら、俺は急激に湧き上がった焦燥感に身を焼かれていた。
今のままでダメだ。俺という存在をサユの心に深く食い込ませないと、いずれ忘れ去られてしまう。ユウジという同じ名前の男に掻き消されてしまう。そうさせないためにも、俺はサユのことをもっと知らなければならない……。


‡ ‡ ‡


母さんとの話は他愛のないものだった。俺が初めて病室にクラスメイトを連れてきたことに喜んだ母さんがサユを質問攻めにして、サユは困りながらも一生懸命に応対してくれた。俺の普段の素行なんて聞いても、サユはまだ一日しか学校で一緒に過ごしていないのだから答えられるはずもない。答えに詰まって横目で助けを乞う視線を送ってくるサユに微笑ましさを覚えながら、俺たちは何とかその場をやり過ごした。
……別の男―――ユウジにも、その可愛い表情を許していたのだろうか。

母さんの体調を考えて、俺たちは一時間ほどで病室を後にすることにした。病室から出る間際、後ろから俺だけを引き止める声が投げかけられる。

「悠司、ちょっといいかしら」
「……?あ、ああ」

その声は、身内の者にしかわからない程度だが、有無を言わせぬ迫力のようなものを孕んでいるように聞こえた。戦士として気配の変化に敏感なサユはそれを察知できたのか、「先に行ってるよ」と気を使ってくれる。
残された俺に、母さんが静かに切り出す。

「あの娘、普通の女の子じゃないわね?」

今までの朗らかな表情とは打って変わって厳しい視線が俺を貫いた。経験に裏打ちされた人生の師としての親の目を向けられ、俺は咄嗟に否定することすら封じられて息を呑む。常に柔和な母さんがこんな風に厳しい感情を露わにすることなど滅多にない。
隠し事をしている子どもを無条件に凍りつかせる親の眼差しに、何とか言葉を搾り出す。

「……どうして?」
「女の勘、ってところかしら。あの娘は小さくて非力に見えて、実は誰よりも強い。そうなんでしょう?」

反駁しなければバレてしまうとわかっていても、あまりに的確な考察に無言しか返せない。
つい一時間ほどの会話で、どこまで見破ったのだろう。同じ女だからか。それとも、これが母親の力というものなのか。
見開いた視界の中で、母さんはなおも追求を続ける。

「あの娘の正体を詮索するつもりはないわ。でも、あなたは―――あの娘が好きで、あの娘と一緒に歩みたいんでしょう?」
「……!」

狂いなく正鵠を射られ、またも無言を返す。せめて驚愕の表情だけは悟られぬようにしようと俯いて拳を握りしめた。
俺は彼女が好きだ。例え今はまだ相応しい相手として認めてもらえなくとも、必ず相応しい男になってみせる。しかし、サユは普通の女の子ではなく、世界各国を渡り歩いて敵と戦うフレイムヘイズだ。彼女と共に歩むということは、病気の母さんを残して旅立つということに他ならない。もう今までの日常には戻れないだろう。また母さんのもとに帰ってこれる保証はない。それどころか、命を失わないという保証もない。そんなことを、どうして病身の母さんに打ち明けられるというのか。

「……ねえ、悠司。母さんを負担に思って踏み出せずにいるのなら、母さんはここで自殺するわ」
「なっ、なに言ってんだよ!?」

俯いていた頭を驚愕に持ちあげれば、母さんは過激な言葉とは正反対に穏やかな顔で佇んでいた。

「親のやってはいけないことは、子の道を阻むこと、子の重石になることよ。私はすでにその大罪を犯してしまってる。私はこれ以上、あなたを縛りたくないの。あの人もきっとそう思ってる」
「……母さん」
「フリッツ・悠司・ルヒトハイム。私とあの人の息子。あなたは誰よりも強く、気高いわ。あなたならどんな世界でも生きていける。私が保証する。だから、あなたはあなたが進みたい道を進みなさい。振り返らず、走り続けなさい」

言葉一つ一つが心に染み渡り、身体の芯を熱する。
俺に血肉を分け与え、俺以上に俺を信じ、理解してくれている肉親の証明。これ以上に説得力のある証明はない。
自身の全てを肯定されたことで、武者震いに似た震えが総身を走った。今まで積み重ねてきた父さんと母さんとの思い出が確かな圧力を伴って俺の背中を押すのを感じる。もう振り返る必要はない。母さんは、振り返られることを望んでいない。
決意を込めてグッと拳を握りしめた俺に母さんは一度頷き、そして微苦笑する。

「悠司、あの娘を支えてあげてね。あの娘はきっと、とても脆いわ」

サユが脆い?あんなに強い彼女に、俺が支える余地があるというのか。

「上手くは言えないけど、あの娘は自分の強さについて行けていない気がするの。たくさんの矛盾と悩みを抱えて、それでもあなたのためにと無理して頑張ってくれてるのよ。だから、少しでもいい、力になってあげなさい」
「……わかった。必ず、サユを護ってみせる」

今度は俺が力強く頷く番だった。
俺の知らないことに、母さんは気付いていた。俺はサユに無理をさせていた。彼女は俺のためだけに、俺に付き添って護衛をしてくれている。
だが、その好意に甘んじるのはもう終わりだ。これからは、母さんが言ったように俺が彼女を護れるようにならないといけない。そのためにはもっと強くなる必要がある。支え合い、共に戦うための力を自在に操れるようになる必要が。
瞳の奥で囂々と火の粉が舞うのを自覚する。そんな俺を見つめる母さんが危ういものを見るようなどこか不安そうな眼差しを向けてきたが、心配は無用だと強く見つめ返す。なぜなら、俺は父さんの形見を―――稀代の宝具製作者、デニス・ルヒトハイムが俺のために残した宝具を身につけているのだから。
サルマキスの触手に縛られたサユを助けだしたこの義足型宝具の強力な一撃を思い出す。

(そうだ、俺にはこの宝具があるじゃないか。ずっと俺を支えてくれた、父さんの宝具が!)

気分が熱く高揚し、自然に口端が釣り上がる。そもそも、これを使いこなせるようになってサマルキスを撃退できるほど強くなれば、この宝具をサユに渡す必要もない。いや、さらに俺がサユより強くなれれば―――彼女を俺の傍においておきながらこの日常を維持することだって、不可能ではないではないか。
サユを護れる力は、彼女と運命を共にする資格は、すでに俺の手中にあったのだ。

(見てるがいい、ユウジ!お前に出来なかったことを、俺がやってやる!この俺が、サユと共に歩むんだ!!)



目が醒めたような心持ちで病院を出る。視界が鮮明になったような、順風満帆な心持ちだ。今なら何でもできそうな全能感さえ感じる。ひやりとした空気が火照った頬を撫でて心地良い。
一段階成長した自分を早く好きな女の子に披露したいという子どもっぽい気持ちに後押しされ、顔を左右に振って目当ての美少女の姿を探す。特に何が強くなったとかいうわけではないが、自分の進むべき方向が目の前に明確に開けたことは十分成長したと言えるだろう。
そこらの女の子とは別格の見目麗しい彼女はすぐに見つけることが出来た。

(……なにしてるんだ?)

病院の前に設けられたテラスの一角で、ベンチにちょこんと座るサユの手元が淡く白い輝きを放っていた。近づきながら目を凝らせば、それは銀色のオルゴールだった。普通の人間には見えない輝きが凝縮してオルゴールの形状に固定されると、今度はそれを裏面が銀色をした黒い布で優しく包んでいく。その布はサユが戦闘時に纏う外套に似ていた。
サユのフレイムヘイズとしての固有能力は『贋作』で、彼女の記憶にある宝具を創ることが出来るという。テイレシアスの自慢気な紹介の仕方からして、とても凄い能力に違いない。事実、何もないところから自分の記憶と存在の力だけを頼りに宝具を創り出す彼女は、まるで女神のように神々しく俺の目に映った。
サユの力を目の当たりにして改めて感嘆していると、布に包まれたオルゴールがすうっと薄れるようにして姿を消した。

(……いや、違う。そこにあるのに見えなくなっただけだ)

フレイムヘイズの近くにいた影響か、それとも宝具を身に付けている効果かはわからないが、紅世の存在に触れたことで俺に芽生えた存在の力に対する察知能力が、サユの手元にまだオルゴールがあることを感覚で教えてくれる。まるで額のもう一つの目で見ているかのような不思議な第六感だ。あの黒い布はおそらく、内にあるものを隠匿する宝具の贋作なのだろう。

「サユ、そのオルゴールはいったい?」
「えっ!?フリッツ君、これが見えるの!?」
「ほお。タルンカッペを見破るとは、なかなか素質があるな。小僧」

サユの手元を指さして問うてみれば、サユが丸い目をさらに丸くして驚く。テイレシアスも賞賛の声を上げるくらいだから、俺はけっこう筋がいいのかもしれない。サユと俺とを隔てる垣根を一つ乗り越えることができた。これでまた一歩、彼女に近づけた。
「まあな」と胸を張る俺にクスリと微笑みを返し、サユが透明になったオルゴールを持ったまま立ち上がる。まるでパントマイムの真似事でもしているようで、少し滑稽だ。

「これは保険だよ。もしもの時のためのプランB」
「プランB、ねぇ」

それをそっと木陰に置くと、オルゴールは完全に認識できなくなった。きっともう誰も気付かないに違いない。何の宝具かはわからないが、この予防策が必要になる事態が起こらないことを願う。どこからか「ねぇよンなもん」という野太い声が聞こえた気がするがきっと気のせいだ。
不意に、サユがまたもや後ろをさっと振り返った。釣られて俺も背後を見やる。10メートルほど向こうで、複数の人影が物陰に慌てて飛び込むのがチラリと視界に映った。さっきもこんなことがあった。いったい何なんだ?
疑問の目でサユを伺えば、彼女はイタズラを思いついた少年のようなニヤとした笑みを浮かべていた。いたずら猫のようなお転婆な表情も似合うのだなと我知らず見蕩れていると、サユがきゅっと小さな手を絡ませてくる。

「ねえ、ちょっとこっち来て」
「え、うわっ!?サユ、何を――!?」

ぐい、と予想以上の力で引っ張られて言われるがままに傍らの茂みに突っ込む。昼間でも鬱蒼としていて適度な空間が開いているここは、“そういう行為”が横行している場所としても有名なだけに変な誤解を生みかねない。

(いや別に嫌というわけではないし将来的にはしたいと―――って違う!)

どぎまぎしながらも、ここにいると周りからの視線とか俺の理性とかが危ないと忠告しようと口を開きかけ、唇の前に立てられた指に一切を封じられる。サユがパチリとウインクをして待機を伝えてくる。ここで待っていればいいということか?

「二人が茂みに入ったぞ!」
「真昼間からだなんて、いくら何でも早すぎない!?時間的にも年齢的にも早いわよ!」
「こうなったら先輩とあの女を殺して私も―――!」

数秒と経たず、バタバタと慌ただしい足音と共に三人の声が近づいてきた。同年代特有の高い声音たちは、どこかで聞いたことがあるような気がした。記憶を探って思い当たる人間の顔を頭に思い浮かべていると、ちょうどそれと同じ顔が目の前の茂みからガサリと生えてきた。それは、ついさっき部室で会っていた後輩だった。

「……お前、陸上部のマネージャーじゃないか。なんでこんなところにいるんだ?」
「あ、あれ?先輩?」

小柄なマネージャーが釣り上がっていた目をきょとんとさせる。なぜこいつがここに?と首を捻ると同時に、再び目の前から顔が生える。しかも2つ。

「くぉらフリッツぅ!!あんた由美子を茂みに連れ込んで何しようと―――あれ?」
「ははは、ナニってナニに決まってゲフッ!!」

瞬く間に顔が一つ減った。茂みの向こうで「横腹はダメだろ……」という男の呻き声が地面でのた打ち回っている。一瞬だけだったが、さっきの男は同じクラスメイトだったように見えた。授業中に俺にウインクをしてきたメガネだ。
女の方が発した台詞で、こいつらがここにいる理由を何となく察する。

「お前ら、さては俺たちを尾行してたな?」
「ば、バレた!?なぜ!?」
「やっぱりな」
「しまった、誘導尋問だったのね!?この卑怯者!!」
「他人を付け回すような奴に言われたくはない」

なんてわかりやすい奴なんだ。そういえば、クラスメイトにこんなテンションの高い女がいたのを思い出す。最初はさんざん話しかけられたが、その破天荒さが鬱陶しくて無視していたら接してこなくなったので、すっかり忘れていたのだ。
なるほど、サユが俺を茂みに連れ込んだのはコイツらを誘き出すためだったというわけか。きっと俺よりもずっと早くにこいつらに気付いていたのだろう。隣を見れば、サユは目論見通りに事が運んだことを喜んで満足気に微笑んでいた。普段から受け身そのものの彼女は、自分が仕掛ける側になれる機会も少ないのだろう。その横顔をギリギリと歯噛みしながら睨みつけるマネージャーの変貌ぶりが妙に印象的だった。気弱な奴だとばかり思っていたが、いったい何がこいつをここまで感情的にさせているのか。

茂みから出れば、メガネの男が脇腹を摩りながらのそりと立ち上がるところだった。俺の顔を見るなり、気まずそうにひらひらと手を振ってくる。

「あー、すまんフリッツ。俺は尾行なんてやめようと言ったんだがケーテとエリザに無理やり誘われてな?」
「な、なによ!アンタだってけっこう乗り気だったじゃない!」
「リーデン先輩だけ逃れようったってそうは行きませんよ!?」

そうだ。この二人の名前はケーテとリーデンだった。マネージャーの名前はエリザというらしい。知らなかった。
ケーテがリーデンの胸ぐらを掴んでガクガクと激しく揺らし、エリザはまだダメージが残っているであろう脇腹にしつこくパンチをお見舞いしている。これを放置しているとリーデンまで病院行きになりかねないから、気を効かせてやることにする。こういうことはあまり馴れないのだが。

「で、お前らはなんで俺たちを尾けてたんだ?」
「えっ!?そ、それは―――」
「決まってるじゃない!由美子の正体を探るためよ!!」

ビクリと肩を跳ね上げて硬直したエリザの台詞をかき消して、リーデンを突き飛ばしたケーテがサユにビシリと指を突きつけて吠えた。その台詞に、思わず息を呑む。まさか、サユがフレイムヘイズだということがバレたのか?さっきの母さん然り、やはり同じ女同士だと何か感付くものなのだろうか。馴れない配慮なんかせずに逃げていればよかった。
狼狽を表に出さないように平静を装う俺をよそに、ケーテはなぜか切羽詰まった声でさらに捲し立てる。

「由美子、アンタって前からそんな性格だったかしら?そんなに小さくて可愛かった?メイド服なんか着てた?フリッツと仲良かった?気配に敏感だった?
私、前のアンタのことを全然思い出せないの。リーデンのバカは考え過ぎだっていうけど、本当にそうなの?間違ってるのは私なの?それともアンタ?」

一方的にそう言い放つと、ケーテはサユをじっと強い視線で射抜く。逃げは許さないという気迫に、場の空気がピシリと強張るのを肌で感じる。置いてきぼりにされたエリザの戸惑いの目が俺とケーテを行ったり来たりするが、相手をしてやる余裕はなかった。
こいつはきっと、特別勘のいい人間なんだろう。由美子の喪失とそこに割り込んだサユという異邦人に勘付いて、だけどその腑に落ちない異物感の理由を説明出来るだけの根拠が見つからずにモヤモヤした胸のつかえを感じて困惑しているのだ。だからと言って、違和感の主に直接「お前は何者だ」と問い質すのはこのイノシシのような女くらいのものだろうが。
とりあえず、サユがフレイムヘイズだという答えまでは至っていないとわかってひと安心する。紅世の存在は秘匿されるべきということはサユからの説明で聞いていたし、何よりそれは俺とサユだけの秘密にしておきたかった。
ケーテの追求をどうにかして有耶無耶にしてしまおうと考えを巡らせていると、ケーテの視線を真っ直ぐに受け止めたサユが先に口を開く。

「ノーコメント、ではダメですか?ケーテさん」
「さ、サユ!?」

ノーコメントというのは遠まわしにケーテの疑念を認めたことと同じだ。そんなことをしていいのだろうか?サユがチラリと横目で俺を見上げる。その瞳に「心配しないで」と頬を撫でられたような気がして、俺はケーテを丸め込むために開きかけた口を閉じる。
一瞬目を見張ったケーテが「ふぅん」と何かに納得したように意味ありげに口端を釣り上げる。

「なるほど、ね。ノーコメントか。じゃあ、アンタは本当の由美子かもしれないし、違うかもしれないってわけね。仮にアンタが偽物の由美子だったとして、本物の由美子はどこに行ったの?」
「……それも、ノーコメントです。ごめんなさい」
「な、なによ。そんな顔するなんて卑怯よ」

悄然と肩を落として頭を下げるサユに面食らったケーテがおろおろと狼狽する。本物の由美子はサルマキスに喰われてしまった。もう二度と会うことはないし、ケーテが思い出すこともできない。それを説明しても、こいつはきっと理解出来ないだろう。
これがサユなりの精一杯の譲歩だ。ケーテのわだかまりを解消してやりながら、隠された裏の世界に踏み込ませないために一線を引いたのだ。適当にあしらってやることも出来たのにそれをしなかったのは、ひとえにサユの底知れぬ優しさがあったからだ。
イノシシ女も、あえて全てを教えないことがサユの厚情故であると察したらしく、高い鼻梁をポリポリと掻いてバツが悪そうにそっぽを向く。

「まあ、いいわ。私が間違っていないということがわかれば、後は自分の力で探るのみよ。直接答えを聞くのはカンニングしてるみたいで性に合わないし」
「ありがとうございます、ケーテさん」
「ふん。別にアンタを信用したわけじゃないわ。でも、そうね。悪い人間じゃないってことくらいはわかるつもりよ。サユ・・

親しみを込めて名を呼ばれたことに、サユが顔を綻ばせた。何の衒いもない純真な笑顔に触れてケーテが照れくさそうに再び目を反らす。これで、またサユの魅力に取り憑かれた人間が増えたわけだ。
どうやらケーテは俺が口にした『サユ』をあだ名か何かだと勘違いしたらしい。俺以外に彼女を『サユ』と呼ぶ人間が増えるのは少し癪だが、そこまで嫉妬深くなるのは見苦しい気がした。ここは男の余裕を見せるべきだと、ムスッとしそうになる表情筋を力を込めて押し留める。

「と・こ・ろ・で、話は変わるんだけどね?」

唐突に攻めの勢いを取り戻したケーテがニタリと笑みを走らせる。そしてなぜか俺の顔を一瞥してふふんと鼻を鳴らした。な、なんだ?

「ちょーっと聞きたいことがあるのよね。女同士でお話ししたいことがあるのよ。ほら、エリザもこっち来て!アンタのことなんだから!」
「えっ?えっ?由美子さんが由美子さんじゃないって、え?あれ?」
「その話は一先ず終わったの!ほら、サユもこっちに来る!ただしフリッツ、てめーはダメだ」
「あ、あの、ケーテさん?」

まだ戸惑っているエリザとサユの首根っこを掴んで少し離れたベンチに引きずっていく。その間に俺を威嚇するのも忘れないことからして、女同士でしか話せないことがあるんだろう。そういうデリケートな問題には男が口出しすべきではない。サユを持って行かれるのは寂しいものの、たまには同性と和気あいあいと話をしたほうがサユの気分転換にもなるかもしれないと我慢することにした。その分、後でサユを我が家に誘って好きなだけ話をすればいいのだ。
一つ嘆息して振り返れば、リーデン本体と補助パーツが未だに地べたに転がっていた。とりあえず本体の方のメガネを拾ってその安否を確認する。

「おお、リーデン!よかったな、傷ひとつないぞ。無事で何よりだ」
「そっちはただのメガネだ!!」

ガバリと飛び起きた補助パーツが的確なツッコミを入れると同時に俺の手からメガネを奪取する。本体とドッキングすればリーデン完全体の完成だ。乱れのない見事な一連の動作に思わず「おお」と感嘆の声が漏れる。
服についた土汚れを払いながら、リーデンが呆れ顔を浮かべて話しかけてくる。

「お前はもっとクールだと思っていたが、意外に良い性格をしているんだな」
「俺も、今朝までは自分はもっと冷たい奴だとばかり思ってた」
「ふむ。変わったってわけか。然して、その変化はあの謎多き美少女のおかげか?」
「ノーコメント、ではダメか?」
「わかりやすい回答をどうも」

気絶したふりをしながら先ほどのサユとケーテのやり取りを聞いていたらしい。抜け目のない奴だ。あのイノシシ女に引きずり回される内にここまで達者になったのだろう。そう考えると何だか親しみが持ててくるのだから不思議なものだ。
ふと、こいつに聞いてみたいことを思いついた。背後の三人の会話に耳を傾ければ、「「ぶっちゃけ二人の関係は!?」」「へ?」などとよくわからない話題で盛り上がっている。この距離なら聞かれないだろう。
念のためにリーデンの肩を掴んで引き寄せる。俺のほうが数センチは上背があるから片腕で抱き込む形になる。

「な、なあ、リーデン。ちょっと尋ねたいんだがな?」
「なんだなんだ、藪から棒に。俺にはそっちの趣味はないぞ?」
「違う!」

リーデンとは親交はまったくなかったからこんなことを聞くのは気が引ける。気恥ずかしさに頬が紅潮するのを自覚するが、背に腹は変えられない。

「その……女の子を家に招待したら、いったい何をすればいいんだ?気を付けないといけないこととかあるのか?」
「はあ!?何をいきなり……」
「し、静かにしろバカ!俺は今までそんな浮ついたことを出来る余裕がなかったから、経験がないんだよ!仕方ないだろうが!」

不甲斐ない話だが、俺は今の今まで女の子を自宅に歓待したことがない。異性を意識しだす年頃になったと同時に事故に遭ったり国籍が変わったりしたから、女の子と付き合う余裕も捻出出来なかったし、する気力も生まれなかった。
恥を偲んで助言を求める俺に、リーデンはプークスクスと吹き出さんばかりに頬を膨らませる。む、ムカつく!

「女の子に人気あるからてっきり経験ありまくりだと思っていたら、実はウブなんだな。はは、またもや意外だ」
「うるせえよ!本体に指紋つけるぞ!」
「全世界のメガネユーザー全員を敵に回すつもりか!わかったよ、教える教える!
ったく。いいか、俺の知っている範囲で言うとだな。まず、自然体で接しろ。変に気取ったりするな。そういう猿芝居は得てしてすぐに勘付かれて逆に底の浅さが露見してしまう。かと言って全てを曝け出すのもNGだ。本音と建前を上手く使いわけろ。
何か話をする時は、話題は女の子の方から振らせろ。そしてそれを膨らませつつ、それとなく自分の意見を挟みこめ。途中で頭が痛くなるかもしれないが、我慢だ。女の子の喉が渇いた場合に備えて事前に飲み物も準備しておいた方がいい」
「お、おう……」

メガネをかけているから知識を蓄えていそうだと決めつけてなんとなく相談したのだが、予想以上に情報通だったので少し驚いた。嬉しい誤算だ。その講釈に耳を傾けていると、俺が考えていた以上に女の子の持て成し方は気を使うらしいことがわかる。それら全てを脳に刻みつけながら俺はこくこくとしきりに頷く。

「ああ、それと大事なことを忘れていた。女の子は男よりもずっと匂いに敏感なんだ。普段から清潔にしておくことはもちろん、部屋に迎え入れる時はニオイ対策は万全にしておくべきだ」
「そ、そうか。匂いか……」

そう言われても、自宅の匂いなんて気をつけて嗅いだことはない。自分の部屋は臭くなかったと思うが、嗅覚が馴れただけで本当は臭いのかも知れない。部活から帰って汗に塗れた服を脱ぎ散らかしたまま、そのままベッドで寝たこともあった。シーツは替えればいいだろうがそれだけで何とかなるものか。ふ、不安だ……。

「……つかぬ事を聞くが、お前は由美子ちゃんを自宅に招き入れるつもりなのか?」
「え?あ、ああ。それがどうかしたのか?」
「お前、一人暮らしだったよな」
「だからなんだよ?」
「一応釘を差しておくが、間違いを犯すんじゃないぞ。初めて部屋を訪れた女の子とイタしてしまおうなんてのは男が最もやってはならないタブーなんだからな。してしまえば間違いなく嫌われる。しかもあんな小さな女の子を組み伏せるなんてしてみろ、犯罪レベルだぞ」
「ああ、その通りだな。わかった。よく心に留めて―――って何言わせてんだこのメガネ!!!」
「ぎゃああ指紋がぁあああ!!」

フザけたことを吐かしやがったメガネにベタベタと親指で指紋をつけてやる。そんなことを言うメガネはこのメガネか!!俺がそんなことをするわけが―――するわけが―――な、ないだろうが!!

「ちょっと、騒がしいわね!こっちで大事な話をしてるんだから煩くしないで欲しいんだけど!特にリーデン!!」
「なんで特に俺なんだよ!俺が被害者なのは明白だろ!」
「口答えしない!ほら、エリザも何か言ってやりなさいよ!!」
「えっ!?えと、えと、口を閉じてろクソメガネ!!」
「予想以上にひでえ!おい、フリッツ!お前のせいなんだから少しはフォローしろよ!」
「口を閉じてろクソメガネ」
「アドバイスしてやったのになんだその扱い!?」

三人の愉快な掛け合いに、瞬く間に場がぎゃいぎゃいと賑やかになる。いつの間にかその騒ぎは俺を囲んで繰り広げられていた。俺も日本にいた頃は、こんな風に友人たちと輪になってくだらないことで笑いあい、頭を空っぽにして馬鹿騒ぎをしていた。あの頃の懐かしい感覚が胸を掠めて自然と相好が崩れる。今まで、ただ繰り返されるだけの日常が憂鬱で灰色に見えていたが、少し手を伸ばせばすぐ近くに色鮮やかな日々を見つけることが出来たのだ。
ふと、そのキッカケを与えてくれた少女の姿がこの輪の中にないことに気付いた。

(……サユ?)

サユは、まるで相入れぬ壁があるかのように一歩引いて俺たちを眺めていた。子供を見守る母親のような慈しむ微笑を浮かべるだけで、決して輪に混じろうとしない。懐かしい風景の写真を見ているような、もう戻れない世界を向こう側の世界から眺めるような追慕と羨望の眼差しが、とても寂しそうで痛々しかった。
俺の視線に気付いたサユが小さく手を振ってくる。自分が立ち入るべきではないと弁えてしまっているような態度に胸が締め付けられる。
サユのそんな顔は見たくなかった。普通の人間と人間をやめたフレイムヘイズの間に立ちはだかる忌々しい壁を否応なく意識させられるからだ。彼女には、純真で可憐な微笑みが一番似合う。
衝動に従い、サユの下まで駆けてその手を握る。戦士というにはあまりに華奢な繊手は、誰かが握って暖めてやらないときっと凍えて動かなくなってしまう。

「サユ、今の内にアイツらから逃げちまおう!」

俺がサユを護れるくらいに強くなれば、彼女はずっとこのまま、この街で一緒に色鮮やかな日常を過ごすことが出来る。寂しそうな顔を浮かべることもなく、いつまでも年頃の少女らしい微笑みを浮かべたままでいられる。

「―――うん、逃げちゃおう!」

ぐいと引っ張って駆け出せば、頬を赤らめたサユがぎゅっと俺の手を握り返してくる。その縋り付いてくるような手に、母さんが『サユは脆い』と言った理由がわかった気がした。サユは、自分と他者の間に線を引いてしまっている。だから彼女はこの世界で孤独なのだ。その孤独から彼女を助けだすのは、俺の使命だ。

「ああーっ!?こらサユ、まだ話は終わってないわよ!!」
「待て、フリッツ!早まるんじゃない!!」
「わ、私は諦めませんからねー!?」
「うわっ、追ってきた!サユ、もっと早く!」
「うん!」

追ってくる三人を振り切り、それでも俺たちは走り続けた。誰かの手をとって走るなんて初めてだったが、今までで一番楽しい走りだった。後ろを走るサユに笑いかければ、サユも楽しそうに満面の笑みを咲かせてくれる。その可憐な花を咲かせたのが自分だということがたまらなく嬉しくて、俺は握る力を強める。
この笑顔をずっと咲かせておくためにも、導かれる側ではなく導く側としてサユの手を取れるようにならなければならない。今はまだダメでも、きっとすぐに到達してみせる。俺にはテイレシアスが唸るほどの素質があるし、サユを助けだせるほど強力な父さんの宝具もある。
まずは手始めに、俺たち一家の運命を狂わせたサルマキスを倒す。あいつを殺し、植えつけられた恐怖を払拭することで、俺はサユに大きく近づくことが出来る。
不可能などないと錯覚させるほどに燃え上がる闘志を胸に秘め、内心に声高く吠える。

(待っていてくれ、サユ!すぐに君を、幸せにしてみせる!!)


‡ ‡ ‡


『んく、ふああっ!』

しゅる、という衣擦れの音がしてサユの裸身がぴくんと仰け反った。背筋に指をつうと這わせれば小振りな胸が小刻みに震える。雪のような柔肌は汗でしっとりと手のひらに吸い付いて、幾ら撫で回しても飽きることがない。
細い腰に手を回してビロードのように滑らかな下腹部から真っ白な太ももに舌を這わせれば、繊手が爪を立ててシーツを掴み、快感に打ち震える。とくんとくんという心臓の震えが触れ合う肌を伝って脳を揺らす。だめ、やめて、許して、と嬌声混じりの懇願が聞こえるが、くねくねと身悶えする絶世の美少女を腕の中に抱いていては止めることはできない。
10分ほど徹底的にイジメて一頻り反応を楽しんだら、そっとサユの顔を覗き込む。もう何度果てたのだろうか。汗と唾液に塗れた美貌は上気しきっていて、荒い息を吐いている。幼い容姿をしているのに、数筋の髪が張り付いた頬は淫魔かと見紛うほどに扇情的だった。

『あ、や、やだ。見ないで……』

俺が凝視していることに気付いたサユが恥ずかしげにシーツで顔を隠そうとする。その初心な仕草に嗜虐心をゾクゾクと刺激され、シーツを乱暴に剥ぎ取る。ビクリと怯え竦んだサユの上に四つん這いに覆い被されば、ベッドがギシリと一際大きな音を立てて軋んだ。
小動物のようにふるふると震える柔肌が、痛いことはしないでと訴えるように俺を見つめる瞳が、理性を容赦無く毟り取っていく。「荒っぽいやり方は嫌われる」と告げる自制の声を、「サユならきっと受け入れてくれる」という自分勝手な悪魔の囁きがかき消す。

『フリッツ、お願い、優しくして。ね……?』

それは完全な逆効果だ。おずおずと呟かれた懇願は、俺には誘惑にしか聞こえない。

『ごめん、無理だ』
『そ、そんな、ふああっ!』

火照った頬に頬ずりをして思い切り抱き締める。ほんの少し力を込めれば折れてしまいそうなほど華奢なうなじからは甘ったるい匂いがする。鼻を押し付けてすうと思い切り吸い込めば、ミルクに似た温かみのある匂いが鼻腔を満たした。男の脳を溶かして情欲を増進させる禁断のフェロモンの匂いだ。これを吸い込んでしまえば、もう自分を抑えることは出来ない。

『愛してるよ、サユ』

首筋や耳たぶに次々にキスの雨を落としながら、耳元で熱っぽく囁く。感度が限界まで高められたサユの身体はそれだけで快感に痙攣し、「はぅ」と弾むような息が小さな口から幾度も漏れる。
もう何度目かもわからない口付けを交わそうと頬に手をやる。赤みが差した色白の肌はまるで桃のようでとても美味しそうだ。この魅力的な果肉は、きっと永遠に味わい続けても飽きることはあるまい。
ゴクリと生唾を飲み込んでそのマシュマロのような朱唇に唇を重ねる直前、甘い吐息と共にサユが小さく囁く。

『うん、ボクも愛してる。―――ユウジ
『え゛っ』

そのとろんと切なげに蕩けた瞳に映るのは、俺ではない別の男ユウジで―――


‡ ‡ ‡


「うぉのれユウジぃいいいいいいいいいいいいい!!――――って、あ、あれ?」

絶叫しながらカッと目を見開けば、そこには電気の消えた見慣れた天井があった。
ぜえぜえと胸を上下させながら目線だけであたりを見渡せば、自分が横になっているのが我が家の小さなリビングのソファだということがわかる。
そういえば、俺は自分のベッドをサユに譲って、自分はソファで寝たのだ。そして、その夢の中で俺はサユと、あんなことやそんなことを……。

「……いい夢だったのか、悪い夢だったのか」

なんとも判断がつきかねる。自分と愛し合いながら他の男の名前を囁かれるなんて、拷問もいいところだ。だが前半部がすこぶる良い夢であったことは間違いないので、最後の屈辱的なシーンだけを記憶から消し去って残りを魂に刻みつけておく。一瞬、興奮のあまりトランクスに粗相をしてしまっていないかと背筋がゾッとしたが、感覚で探ったところによるとどうやら踏み留まったらしい。思春期の中学生じゃあるまいし、そんな失態を犯せばサユの顔をまともに見られなくなる。
ホッと安堵の息を吐いて額を拭うと、大量の汗が付着した。喉もカラカラだ。寝巻き替わりのトレーナーもぐっしょりと汗を吸って肌に張り付いてきて不快だ。一度着替えて、水でも飲もう。そして夢の内容を鮮明に記憶している内に日記に記すのだ。
そう思い立って半身を起こそうと力を込め、

「んん……」

胸元で囁かれた口気にギクリと硬直した。もぞり、と身体の上で何者かが寝返りを打つ。夢の中で嗅いだ匂いがふわりと鼻腔をくすぐる。
まさか、そんなマンガのようなベタな展開があるものだろうか。望んでいなかったと言えば嘘になるが、まさかこんなに呆気無く経験できるとは思ってもいなかった。神さまの気まぐれのご褒美なのか、それとも俺の理性の限界を試しているのか。
ゴックンと唾を大きく飲み込んで現実に向きあう覚悟を決め、身体の上の温もりに目を向ける。
そこには、狭いソファの上で俺に寄り添ってスヤスヤと寝息を立てるサユがいた。下着の上から俺のTシャツを着ただけの無防備な格好はまるで事後そのものだ。

「まさか……あの夢は正夢!?」

だとしたら、俺はリーデンが言っていたタブーを犯してしまったことになる。なんということだ。これでは嫌われてしまう。ああ、でも責任を取ると言えばわかってくれるだろうか。そうだ、責任をもって君と子どもの面倒を見るとはっきり告白しようそうしよう。だがフレイムヘイズは子どもが産めるのだろうか。というか、そもそもサユは妊娠が出来る年齢なのか―――

「そろそろ落ち着け、小僧」
「お、お父さん!?」
「お前にお父さんと言われる筋合いはない!―――って何を言わせとるんだこのマセガキめ。心配せんでも、お前が心配しているような間違いは起きていない。そんなことを俺が許すはずがないだろうが」

サユの胸元にぶら下がるテイレシアスの嘆息混じりの台詞に、俺はさらに混乱する。では、どうしてこんな事態になっているのか。それを思い出すために、俺は意識を回想の渦へと飛び込ませることにした―――。



[19733] 1-9 青春
Name: 主◆9c67bf19 ID:decff9ff
Date: 2013/05/07 02:00
「じゃあ、ボクはこっちで待機してるから」
「え? こっち・・・?」

サユが指さした方向を見上げる。白百合のような指の先を目で追えば、そこには教会の二階の窓があった。薄く曇ったステンドグラスが夕日を浴びて鈍く輝いている。狭くて薄暗い教会の倉庫の窓だ。人気の少ない地区の教会だから倉庫もろくに管理されてなくて、使わないソファなんかが詰め込まれいた。どうしてこんなに詳しいのかというと、その教会が俺の家の通りを挟んだ真向かいで、その窓は俺の部屋の窓の正面に位置してるからだ。
見るからに埃っぽい倉庫と“待機”という言葉が上手く噛み合わず、怪訝な目でサユを見る。俺の疑問を察したサユが「ああ、言ってなかったっけ」と何気なさげにポンと手を叩く。

「ボクはあそこにこっそり潜んでるんだ。罰当たりだけど、悪さしてるわけじゃないし、きっと神さまも許してくれるよ」
「潜んでるって、まさか……サユ、もしかして倉庫に住んでるのか!?」
「そ、その言い方は腑に落ちないっていうか、大声で言ってほしくはないんだけど、間違ってはないかな。近くのホテルを借りられるようなお金は持ってないし、追い剥ぎの真似をするわけにもいかないしね。知り合いは麻薬取引の現場を襲ったりしてお金を得てたらしいけど、ボクはそういう荒事は苦手だから」

あはは、と眉を潜めて苦笑する。細められた遠い目からして、色々と複雑な出来事があったらしい。
その知り合いとやらもかなり豪快な奴だが、サユもサユだ。ホームレスじゃあるまいし、年頃の女の子が倉庫に隠れ住むなんてどうかしてる。……いや、彼女を倉庫に押し込んでしまっているのは俺だ。サルマキスから俺を護るために、この世間知らずの箱入り娘のような少女は汚い倉庫に住まざるを得なくなってしまった。サユの性格を考えれば、他人を優先して自分の居住環境を二の次に考えてしまうことは簡単に想像できるだろうに、そこまで考えが至らなかった自分に心底嫌気が差す。
情けなさに目眩を覚える俺を見て、思いやりの塊の戦士が「ごめんね」と見当違いな謝罪を入れる。

「フレイムヘイズに近くにいられるのは鬱陶しいかもしれないけど、サルマキスを討滅するまでは我慢して欲しい。距離を置いたまま君を護る術をボクはまだ知らないんだ。ボクが知ってるフレイムヘイズならそれも出来たんだけど、そんな自信はボクにはない。力が及ばないボクを許してほしい」
「違うんだ、サユ。そういうことじゃなくて―――」
「でも、これでも気を使ったんだよ? その知り合いは屋根に登って監視し始めたんだ。部屋の真上からフレイムヘイズと紅世の王の話し声が聞こえるもんだからこっちは落ち着かなくってさ。懐かしいなあ」
「……?」

不意に、俺を見る目が、俺を見なくなった。何か思うところでもあったのか、朗らかな微笑みに霞が差す。かつての自分なのか、別の大事な人なのか、俺に誰かの姿を重ねてゆらと瞳を潤ませる。

「ずっと前のことだけど、今でもはっきり覚えてる。高校に入ったばかりだった。その日の夜はひどい雨で、まだ外は肌寒かった。差し入れのコーヒーを持って行ってやるとぶっきらぼうだけどちゃんと受け取ってくれた。見た目以上の甘党で驚いた。すごく強くて、得体が知れなくて、人外じみてたけど、どうしてもを怖いとは思えなかった」

俺の目をじっと見つめている。俺に語りかけているというよりは、俺の眼球に映り込む自分自身の姿に語りかけているようだった。小さな手を白くなるほど握りしめて俺の目を強く覗きこむ。

「さ、サユ?」
「もう会えないかもしれない―――いいや、会ってみせる。取り戻してみせる。奪い返してみせる。いつか必ず、この手で、ボクの世界を、シャナを―――」

「サユ、そこで止めておけ」

「―――ぁ、」

テイレシアスの低い諫言が、箍が外れたような長口上をせき止めた。ハッとして目を見開いたサユと唖然とする俺の視線が交わる。思いがけず心の底の声を吐露してしまったサユが、俺の目線から逃れるようにさっと顔を俯ける。

悲壮な決意に張り詰めた台詞は、まるで世界そのものと敵対しているような苛烈さと孤独に満ちていた。母さんの『サユは脆い』という台詞の意味が、今ようやく理解できた気がする。この矮躯の少女は、何か大きな宿命を抱えている。俺には想像もつかないような悩みと苦しみを押し隠している。
ヒトであることを捨てても覆したい運命があって、そのためにフレイムヘイズになることを選んだ。だけど、誰かの不幸から目を逸らす冷淡さも持てずに他人のために身を削っている。そんな生き方をしていれば何時かは限界が来るだろうに、他人の涙から目を逸らせないのだ。

「ご、ごめん。こんなことフリッツ君に話したって意味ないのに、ボクもまだまだ未熟者だね」
「まったくだ。言い換えれば、我がフレイムヘイズにはそれだけ伸びしろがあるということだ」
「はは、ありがと、テイレシアス」

紅世の王のさりげないフォローに少年のような仕草で頬を掻く。保護対象の手前、微笑みを貼り付けてはいるけれど、薄皮一枚のような仮面は寂しさに張り詰めていて今にも千切れてしまいそうだ。小柄な身体がさらに小さくなったような錯覚は、きっと気のせいじゃない。
計らずも掛け替えの無い思い出を掘り起こしてしまった悲しそうな表情に、胸に熱いものがこみ上げる。表情に陰りが滲んだことを自覚したサユが何でもないと言いたげに慌ててパタパタと手を振るが、痛々しさすら感じる不器用な誤魔化しは喉輪を強く締め付けるばかりだ。そんな今にも泣き出しそうな顔をされて、放っておけるはずがないじゃないか。

「そ、それじゃ、ボクはもう行くよ」
「おう、じゃあな小僧。ダメージを与えたとはいえ、あのトカゲが自棄にならないという保証はない。今のうちにしっかり休んでおけ」
「あ……!」

ジャリ、と足裏に力を込める。筋力や体重と一緒に“存在の力”がサユの細い脚に集中するのを直感で悟り、その動作が大きな跳躍の前の溜め・・だと陸上競技の経験で理解する。
この健気な少女は、このままひとっ飛びに二階まで跳ねて、そこで人知れず涙を流すのだろう。過去の無念も現在の苦悩も、何もかも一人で抱え込んで、暗くて狭い部屋の隅っこでうずくまって小さな背中を震えさせるのだろう。
いじらしい背中が脳裏に浮かんだ途端、内なる声が怒りに叫ぶ。「ここまま行かせていいのか?」と。

「おやすみ、フリッツ君―――」

見せたくない一面を見せてしまった気まずさに顔を背けながらトンと地面を蹴る。手の平ほどの白炎の翼が背で花開き、そのまま空に吸い込まれるようにサユの姿が宙に浮いていく。

おい、フリッツ。フリッツ・悠司・ルヒトハイム。この気取ってばかりの大馬鹿野郎。心身を削って皆のために戦う優しいフレイムヘイズを見て、お前は何とも思わないのか? 命の恩人を倉庫に押し込んで自分はベッドで安寧を貪って、それが男のすることか? 好きな女の子にする仕打ちなのか? 幸せにすると誓ったんなら、もう泣かせるような真似はするな―――!

「―――待ってくれ!」
「わわっ!?」

身体の内側からの爆風に身を任せ、気づけば俺はサユの足首を掴んでいた。突然空中で縫い止められたサユが一驚して俺を振り返る。その拍子に一筋の雫が頬を伝うのを俺は見逃さなかった。
紡ぐはずだった台詞は、宙を舞う悲しい飛沫を目にした瞬間に全て消えた。「何かしなければ」という使命感だけが腹底から燃え上がり、意味のない言葉を燃やし尽くした。どうせ、誰かを励ますことには馴れてない。不慣れな慰めをいくら積み重ねたって、上辺だけの薄っぺらなもので何の意味もない。俺に出来るのは、胸の内に渦巻く熱を解放させて、本当の気持ちだけを口から噴き出させることだけだ。
右の義足に―――サユを救う宝具に力を込める。己の想いと、サユへの想いを信じて、何のフィルターも通さずに俺は言葉を迸らせる!

「一緒に住もう!!」







自分が何を口走ったか理解するのに数秒。
現実を受け入れて全身から血の気が引くのにさらに数秒。
きょとんと目をまん丸くするサユに見惚れるのにさらにまた数秒。
今の立ち位置のままだとスカートの中を覗けることに気付いて慌ててその場を飛び退くのにまたもや数秒。

「おおぅ。さしもの俺も言葉を失ったぞ、小僧」
「ンはっ!? ち、ちがうちがうちがう! 今のはそういう意味じゃなくて――そういう想いはあるんだけど―――でもそういう下心はなくて―――!」

なに言ってんだ俺は!? 下手な慰めはやめようったって、すっ飛ばしすぎにも程がある! サユを家に招待できたらとは思っていたが、もっと順序立てて誘うつもりだったのに! ついさっき同じ失敗をしたばかりじゃないか!
あわあわと弁明のために口を動かすが、唇がグニャグニャと蠢くばかりで肝心の言葉が出てくれない。そうだ、さっき全部燃やしてしまったんだった。もっと後先考えろよ俺!

サユが花びらのようにふわりと降り立つ。ぱちくりと開かれた瞳の純真さに、なぜか罪悪感のようなものを感じて視線を左右へ泳がせる。

「ひ、ひ、一晩中、寒い倉庫に女の子を置いておくってのは、はっきり言って安眠妨害だと思うっていうか。俺から隠れる必要もないんだし、よ、よかったらうちに寝泊まりすればいいんじゃないかなって思って、」

しどろもどろになっている今の俺は、間違いなく世界で一番カッコ悪い。今まで自分はもっと大人びていると思い込んでクールに振舞っていた分、思春期のガキそのまんまの慌てっぷりは見るに耐えないだろう。顔面を真っ赤にして汗をダラダラ流しながら腕を振り乱す様子は道化みたいだ。演技でない分、道化より悪い。

「―――っく、ふふ、あはは」
「え?」

どうにかこうにか言葉を継いでいると、急にサユが肩を震わせ始めた。ふるふると撫で肩を波打たせて笑っている。無様な俺を嘲笑っているのかとドキリとしたが、嫌味を含まない楽しそうな笑い方はそうではないことをよく表している。そもそもサユはそんな意地の悪いことはしない。
カッコ悪さを笑われているのではなくて安心するも、どうして笑っているのかがわからない。首を傾げてポカンと口を開ける俺の前で、華奢なお腹をよじりながらくつくつと声を漏らし続ける。

「ご、ごめんね? おんなじ台詞をずっと昔に聞いたことがあって、それがおかしくって」
「同じ台詞を? 今の俺みたいな奴がいたのか?」
「うん、そうだよ。フリッツ君みたいな奴がいたんだ。考えてみたら、本当にそっくりだ。フリッツ君の方がずっと立派だけど、それでも似てる。あの時・・・とおんなじだ。そうか、あの時、ボクを見るはきっとこんな気持ちを抱いてたんだね、あはは」

そのまま一頻り笑って、目元の涙を拭う。まだ余韻が引かないのか喉をひくつかせる様子はいかにも愉快そうだ。どうやら、「一緒に住もう」という軽挙な言葉はサユに伝わらなかったらしい。そのことに臍を噛んでいる心の中の自分を無視して、ほっと胸を撫で下ろす。

「……ま、いいけどさ」

思いがけずも笑顔にしてあげられたことに喜んでいいのか悪いのか。少なくとも他の男の面影―――おそらくそいつが“ユウジ”なのだろう―――を自分に重ねられたことはちっとも喜べないが、俺の方がずっと立派と言ってもらえたし、良しとしよう。先は越されたが、勝機はあるということだ。
ふんと鼻を一息ついて、腕を組む。恥ずかしさの波も引いて、開き直る度胸くらいは回復してきた。

「で、サユ。その時・・・、君はその誘いに乗ったのか?」
「誘い?」
「だから―――その―――家に泊まらないかって誘いにだよ」
「ああ、なるほど」

んー、と唇に人差し指を当てて何事かを考える。何と言うべきか迷っているような仕草だ。貞操観念までも鈍感そうなサユでも、男の家に泊まることにはさすがに抵抗を覚える……はずだ。それなら少し安心なのだが。

「泊まったよ」
「泊まったのかよ!?」
「うん、二晩泊まった」
「二晩もォ!?」

平然と言い放ったサユに再び立ちくらみを覚えて後ずさる。自分がどれだけ人を惹きつける―――必要以上に惹きつけてしまう―――魅力を備えているのか、わかってないのか。……きっとわかっていないんだ、この天然娘は。そんな女の子を人気のない倉庫に置き去りにするなんて、絶対に出来ない。人外の戦士フレイムヘイズとはいえ危なっかしすぎる。

「あ、言っておくけど、ボクは何もしなかったからね?」
「サユから何かするとは思ってないって……」

両のコメカミを掴んで呻く。本当はしっかり部屋の掃除をして出迎えるつもりだったし、幾つかの自然な誘い文句も考えたりしていたのだが、やむを得ない。頭を数度振って目眩を振り払い、コホンと一つ咳払い。

「そいつの誘いに乗ったんだったら、当然、俺の誘いにも乗ってくれるよな?」

言って、手を差し伸べる。頬が熱いのはもう気にしないことにした。

「君を倉庫なんかに寝泊まりさせるわけにはいかない。ウチに泊まってくれ。ホテルには到底及ばないけど、倉庫よりはマシだ。……もちろん、何もしないから」

最後の台詞は聞こえるか聞こえないかくらいの小声になってしまった。
気恥ずかしさを必死に隠す俺の手に、一回り小さな手がそっと添えられる。触れられた肌にくすぐったさを覚えるような、最高級のシルクみたいな掌だ。
高鳴る脈拍に促されて視線を滑らせれば、小さくてふっくらとした唇がふっと優しく綻んだ。

「お言葉に、甘えさせてもらいます」

焼きたてのパンのような、こちらの心まで温かくしてくれる微笑み。いつものサユの微笑みだ。やっぱり、この可憐な少女には笑顔が一番似合う。
気恥ずかしそうに頬をほんのりと紅く染めながら、聖女のような少女が声を細めて告白する。

「ホントはね、ちょっとだけ心細くなってたんだ。だから、誘ってくれてとっても嬉しかった。ありがとう、フリッツ君」
「~~~ッ!」

どうして、そうやっていとも簡単に心臓を鷲掴みに出来るんだ。
肩を掴んでぎゅっと抱き寄せたくなるような愛おしさに一瞬意識が飛びかけるが、それを知ってか知らずか絶妙なタイミングで投げかけられた「うむ、世話になるぞ、小僧」という台詞が俺の早まった動きを制した。

「もちろん酒はあるんだろうな? 我がフレイムヘイズは酒を嗜めないから、しばらくありついていない。
おっ、そうだ! この国はビールが安くて美味いと聞いたぞ! ビール大国バンザイ!」
「……そんな嗜好品、苦学生が持てるわけないだろ。大体、俺はまだ未成年だ」
「なんだ、つまらん。デカいのは図体ばかりか。つまらん、つまらん」
「なあ、サユ。紅世の王ってのはみんなこんなに自由人なのか?」
「えーっと、テイレシアスはちょっと特殊かも」
特別 ・・と言え、特別 ・・と。俺は高尚な趣味人なんだ。わざわざ酒を呑めるような神器にしたというのに、これでは意味が無い。
あー、酒が呑みたい。贋作がしたい。尻尾の毛繕いもずっとしてないぞ。9本全部してない!」

サユの胸元の神器が風もないのにユラユラと揺れる。きっとこれがテイレシアスの最大限の抗議なのだろう。低い声に似合わない可愛げのある動きはワガママなペットのようだ。サユの困ったような苦笑に同じく苦笑を返し、記憶の中でキッチンの戸棚を探す。

「母さんの料理酒なら、ちょっとは残ってたはずだ。しばらく使ってないけど、それでよければ好きなだけ飲めよ」
「ちゃんとあるんじゃないか! でかしたぞ小僧!」

ルンルンと期待に胸を躍らせる紅世の王を二人して呆れた目で見る。頼り甲斐のある紅世の王なのか、手のかかる自由人なのか。無害で親しみやすいことに変わりはない。サルマキスの同じ異世界のバケモノだというのに、俺はテイレシアスのことも好きになり始めていた。保護者同伴のお泊り、というのは少し気に入らないが。
気を取り直し、お姫様の手を握り直す。

「じゃ、じゃあ、行こうか」
「はい、お邪魔します」

舞踏会で淑女をダンスに誘う紳士をイメージして、陶磁器を扱うように手を添え、ゆっくりと引っ張る。そちらとは別の手で素早く鍵を開け、執事のように慇懃な動作で扉を開け放つ。ギギ、と金属の軋む音に心臓が高鳴る。自宅の扉を開けているだけだというのに、まるで泥棒でもしているような緊張感だ。
通行人に見られていないかと横目で辺りを見渡す。大丈夫、いない。いやいや、どうして後ろめたさを覚える。目撃されていたらどうだっていうんだ。別にやましいことをしようとしているわけじゃない。あどけない少女を自宅に連れ込んでるだけだ。ダメだ、十分やましいことだ。

「あ、ちょっと待って」
「へ?」

玄関をくぐる直前、思い出したように黒髪がくるりと舞った。くりくりとした茶目っ気たっぷりの瞳が俺を振り返る。ふとした拍子にイタズラを思いついた無邪気な子どもが、乱暴な口調を装って唇を尖らせる。

「“中に入るのはいいけど、”」

何を言うのかと眉を顰める俺を見上げ、サユがきゅっと柳眉を指で持ち上げて無理やり目を吊り上げる。そのまま如何にも不機嫌そうに声を低めて、脅すように言う。

「“変なことしたら、ぶっとばすわよ”」

本気の脅しではなかったのだろうが、それにしたって愛嬌しか感じられない忠告だった。睨め上げる双眸は必死に相手を威嚇する子犬を彷彿とさせて、その微笑ましさに張り詰めていた緊張はきれいサッパリ洗い流されたほどだ。
さて、怖がって慌てる素振りをした方がいいのか。3秒ほど逡巡し、嘘はいけないと判断して、ムフフとドヤ顔で両目を引っ張り上げ続けるその頭にポンと手を置く。

「しないって言ったろ。ていうか、それ、誰の真似?」
「あ、あれっ? どうして真似だってわかったの?」
「サユが怖い顔をしようとしたって全然迫力がないからな。ちっとも怖くない」
「そ、そうですか」

言われ、ショボンと落胆する。戦闘時ならさて置き、平時のサユが他人を脅せる迫力を放つなんて想像できない。キツい顔をするよりも、今のように肩を落として「おかしいなあ。そっくりのはずなのになあ」と眉をハの字にしてる姿の方がよっぽど似合っている。

「……まあ、でも、」

勝気そうなその表情は、なぜだか顔のパーツと完璧にマッチしている気がしたのは事実だ。きっと、サユが今と正反対の負けん気が強くて自信に満ちた性格だったら、さっきの強腰な態度もサマになっていたのだろう。

「えっ、やっぱりちょっと怖かった!?」
「いいや、全然。ほら、遊んでないで、早く入った入った」
「そうだそうだ。遊んでないで早く俺に酒を呑ませろ。我がフレイムヘイズは強がっているよりも素直に虐げられている姿のほうがお似合いだぞ」
「ぅぅぅ~、二人してなんだよぉ。ボクをイジメてそんなに楽しいのかよぉ」
「「……」」
「なんで黙るの!」

―――だって、楽しいから。


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