<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

その他SS投稿掲示板


[広告]


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[18488] 恋姫†無双  外史の系図 ~董家伝~
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/01/08 14:12
初めまして、こんにちは。

この度、恋姫†無双をプレイするに至りまして、びびっときたので執筆をしようということになりました。

まぁ先達の方々の後追いということになりますが、頑張って上手な文章が書けるように頑張っていきたいと思います。

厨二病と石を投げつけないでください。
医師も投げつけないでください、大変危険です。


少しでも完結に近づけるように。
読むに値する文章が書けるように。
長く、また、生暖かい目で応援していただければ、嬉しい限りです。

それでは、どぞ。


 ~お知らせ2(2010/01/08)~

今更ですが、新年あけましておめでとうございます。
昨年もいろいろあったような気もしますが、本年もどうぞよろしくお願いします。

さて、寒い寒いと思いながらああだこうだと色々と書いてきましたが、『盾』に関して、お詫びを。

えーとですが、よい子の味方のウィキペディアで『盾』について色々と調べてみたんですが、その項目において、古代中国に関しての記述が少ないんです。
故に、色々と三国時代においての『盾』について調べてみた結果(とは言ってもインターネット関係だけですが)、古くにおいて『盾』とはジュンと読んだりであるとか、『盾』そのものがあってもはっきりしている形も明確でなく、水上戦で用いていたとしても一般的では無かったとありました。

そもそも、防御のために考えられた『盾』が、広大な大地での戦いにおいて騎馬などを用いた機動戦では想定していないのではないか、と独自に解釈した結果が、現状であります。
使ったのかどうか、活躍したのかどうか、というのが分からないのであれば、元々無かったことにしてしまえ、と思ってのことだったのですが。
感想でもご指摘にあった故事成語である『矛盾』と相反することになってしまい、面目ない次第です。

そこで、お願いというか言い訳というか、凄い身勝手なことだとは承知しているのですが、事実関係がどうであれ、本編に書いてあることを優先して読んでいただけるよう、お願い申し上げます。
「ご都合主義かよ」と言われるのは仕方がないと思いますが、そこを考えて先のことを構想、執筆しておりますので目を瞑っていただければ、と思います。

読者の皆様には大変不便で不都合ばかりをおかけしておりますが、此度のこと、どうかよろしくお願いします。


 ~お知らせ1~

えぇっと、以前感想を頂いた方から、タイトルで損をしていると思う、と言われまして。
何分、ネーミングセンスなどミジンコの如く些少なものですから、いい案が浮かびませんでした。
そこで、とりあえず何処の話をメインに書いているのかを分かりやすくするために、と董家伝という印だけ入れることにしました。
……えっ? やっぱりセンスない?
…………それについては、俺はもう諦めます。
という訳ですので、読んでいただいている方も、これから読んでくださる方も。
改めて、どうぞよろしくお願いします。



[18488] 一話~二十五話 オリジナルな人物設定 (華雄の真名追加)
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 10:47
 ここには、恋姫原作に登場していない人物や、正史において不明な点を抱える人物の簡単な紹介をしたいと思います。

 思いっきり、独自の設定ですので、この人物はこういうので呼ばれてたよ、とか、こいつ恋姫では男じゃ無かった?とかあれば、ご指摘をお願いします。


******

・華雄
  姓:華
  名:雄
  字:葉由(しょうゆう)
 真名:美麗(みれい)

  字は『三国志集解』での華雄の名を頂きました。
  誤って伝えられたとのことですが、華雄の方が格好いいですよねぇ。
  真名は、待て??話!ということで。

  4/3
  とういわけで、五十話という区切りのいい話で華雄の真名が決定しました。
  美しく麗しい、というおよそ武人の華雄から考えられないほどに可愛らしい真名になってしまいましたが、まあ、恥ずかしがる華雄が見たかったからこれでOK(マテ
  恥ずかしいから人前では華雄と呼べ、というので、みんな華雄と呼んでいるのだと勝手に思ってます。
  

・李確
  姓:李
  名:確
  字:稚然(ちぜん)

  確の字が違いますが、許してください、手書き入力でも出ないんです。
  字ですが、多分別号だと思いますが、それを用いさせていただきました。
  董卓の親からの臣として、中年から壮年な感じです。


・徐栄
  姓:徐
  名:栄
  字:玄菟(げんと)

  李確と共に古参の臣として、ちょっと武官風な中年親父です。
  この方、反董卓連合戦では董卓軍一の戦果を上げているのも関わらず、目立たないというちょっと可哀想な方だったりします。
  皆さんで応援してあげてください。


・徐晃
  姓:徐
  名:晃
  字:公明
 真名:琴音(ことね)

  金の長い髪を頭の後ろにてポニーテールにしている。
  後々に、魏の五将軍となるお方です。
  他の作品にも同じような設定があったのですが、これが一番しっくりくるため、このようなことと相成りました。
  董卓軍では珍しく鎧を着ている、とは言っても急所の辺りだけですが。


・牛輔
  姓:牛
  名:輔
  字:子夫(しぶ)

  短く揃えた黒髪に、切れ長の目をもつ、ちょっと熱血系の兄ちゃんです。
  大人より大きい剣(モン○ン風な)を片手で振り回したりします。
  元々董卓の娘婿なのですが、月には娘なぞおらん!ということで、出てきてもらいました。
  
 追加;燃える男、という意味を持たせようと焔煉という字にしていましたが、どうにも読みにくいかなと思いまして、変更してしまいました。
    うぅぅ、済みません。
    関連ある名前がいいかなとは思ったんですが、娘婿→子供の夫、ということで子夫さんです。
    


・李粛
  姓:李
  名:粛
  字:武禪(ぶぜん)
 真名:陽菜(ひな)

  腰まである長い真紅の髪に、豊満な身体を持つ女性……なんですが、どこを間違ったか、元気印となってしまいました。
  言うなれば、大きい鈴々とでも言いましょうか。
  胸と腰だけという、恋より身軽な服装をしています。
  このお方、正史では牛輔と争っていたりしますが、そこはそれ、幼なじみということで。
  ちなみに、姉が一人で、洛陽にいたりします。
  
 追加;牛輔と同じく優武とかどう読むんだよ、と思いまして変更と相成りました。
    あぁぁ、ごめんなさいぃぃ。
    武、という文字が入れたかっただけなんですが、こう書いてしまうと姉が誰だか分かる人には分かってしまいそうで、ちょっとだけドキワクです。
    牛輔さん共々、よろしくお願いします。


・王方
  姓:王
  名:方
  字:白儀(はくぎ)

  銀に近い髪を肩まで伸ばし、色白な肌と相まって切れ長の眦がどこか冷たい印象を与える青年です。
  ただ李粛と牛輔の古くからの知り合いなので、結構な苦労人ゆえにはっちゃけてたりしますが。
  正史では結構優秀な武将だったりするんですが『演義』においては初陣の馬超に討ち取られてしまってます。
  本来なら武官の筈なのに、何故か文官ですがw


・姜維
  姓:姜
  名:維
  字:伯約
 真名:赤瑠(せきる)

  蒼穹の髪をそれぞれサイドから流すようにテールにして(サイドテール?)身に纏う鎧も蒼のものを使う少女です。
  母親の発育がいつか自分にも、と健闘するであろう健気な少女ですので、皆さんで応援してあげて下さい(ホロリ
  三国志後期において、諸葛亮にその才を見込まれてその後継となる武将ですが、その信に応えようと空回りしすぎて蜀滅亡の一因ともなってしまった、悲劇の将だったりします。
  ちなみに、髪型は筆者の趣味です。
  決して、テイルズやっている弟を見て、とか、戦極姫をしたから、という訳ではありませんのであしからず。 


・姜明

  蒼穹色の髪を長く伸ばして、豊麗な肉体を持つ姜維の母親である。
  溢れる母性と知識で董卓軍の恋姫達の悩みを聞く、いわば蜀の黄忠のような存在です。
  将ではないので字等は出しませんが、彼女が一刀に身と心を委ねる時にでも真名を出したいと思います。


・馬騰

  姓:馬
  名:騰
  字:寿成(じゅせい)

  言わずと知れた馬三姉妹の母親。
  彼女達と同じ栗色の髪を三つ編みで一つに纏めながら、背中まで伸ばしている。
  体型はスレンダーで、娘の馬超が自分の胸を全て持っていってしまった、と常々酒の席で語っている。
  というわけで、無印では父のくせに、真では母となった馬騰さんです。
  こういうキャラを出すと人妻、もしくは未亡人率が上がるとというのに書くことを止められない俺は、きっと末期。
  真名は、姜明と同じくいつか出そうと思います。  
  べ、別に考えていないだけじゃないんだからねッ!?


・庖徳(正式には[广龍]徳)

  姓:庖(ほう)
  名:徳
  字:令明

  黒髪を一つに束ね、頬に十字傷のある少年。
  拐という後にトンファーの起源ともなる武具を用いる。
  黒髪でちびっこい某抜刀斎を思っていただければ、イメージ的にどうかな、と思います。
  正史で関羽とやり合うだけに、それに相応しい力を持ってもらいました。
  作者の筆力はそれに相応しくなかったりしますが。



[18488] 一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/04 14:40
「救急車を……っ! 救急車を喚べ!」

 しんと静まりかえった聖フランチェスカ学園武道場において、眼下に倒れる男を置きながらも己の呼吸だけが聞こえるその世界は、審判役を務めていた顧問によって唐突に終焉を迎えた。
 数人の大人が慌てふためきながら目の前の男へと殺到する。
 何事かを怒鳴りながら男の頬を叩いたり、その首に手を当て、さらに慌てふためくのをただただ呆然と眺めていた。



 不意に。



 名を呼ばれた気がして振り返る。
 こちらを見る剣道部の面々は、その瞳に驚愕と畏怖の感情を張り付かせ、俺が振り返るとその身をびくりと震わせた。
 中には、ただ起こった事柄に困惑しながらも、俺を心配する視線も少なくは無かったが、俺を見る殆どの視線は刃物を扱うかの如く恐れていた。
 若干冷静になった思考が、素足から送られてくる肌が張り付くほど冷えた武道場の冷たさを感知し、面から漏れ出る吐息が白く染まっているのを認識する。
 ああ、そう言えば今は冬休みなんだなと、不意に思い出し、今なお自室の机に積まれ聳え立つ宿題がふと脳裏に現れる。

「――」

 武道場に取られた小さな窓からは、白い結晶がちらちらと覗き見え、それが雪なのだと思い出すまでにそれほど時間はかからなかった。
 その間にも、大人達は声を荒げながら辺りを行ったり来たりしている。
 誰もがこちらを見ることはせず、ただ一人忘れ去られたのではないかと勘違いするほどの孤独。
 懐かしく、そして味わいたくはなかったその感情は、再び聞こえた気のする己の名に、緩やかに霧散した。

「か――、起き――! ――ずぴー!」

 徐々に大きくなっていく己の名を呼び声。
 それにかき消されるかのように武道場の景色は闇へと消え、肌から感じる寒さと、肉を抉った感触だけが手に残る。
 そして――

「かずぴー! ええ加減に起きいやっ!」

 後頭部を襲う鈍い痛みに、俺の意識は闇から引きずり出された。



  **


 
 甲高く、それでいてどこか抜けたようにその存在を知らしめるチャイムを背景に、授業が終了した教室がにわかに活気立つ。
 聖フランチェスカ学園。
 元超お嬢様学校であり、男女共学となった今なおそこに在学する生徒の大半は超お嬢様であり、俺こと北郷一刀や、叩いてきた及川佑は圧倒的少数な男子なのである。

 ……や、通ってた高校が少子化から廃校となって、編入させられただけだから、俺自身は至って普通な一般人だから。
 そんな誰にとも分からない弁解をしながら、痛む後頭部を押さえて目の前の及川を睨み付ける。
 
「うっ……そう睨むなやかずぴー。ほら、不動先輩が呼んでるで?」

 叩いたことに罪悪感があるのか、或いは俺の顔が怖いのか。
 後者は全力で否定したいところではあるが、それを追求することはなく及川が指し示した方向を見やる。
 開け放たれた扉から、こちらを伺うように教室を覗く姿。
 黒く、光沢のある絹のような髪を腰にまで達せ、引き締まりながらも自己主張する部位は制服の上からでも分かるほどで、その女子高校生としては高い身長によく映えていた。

 不動如耶。

 聖フランチェスカ学園剣道部主将。
 男子の人数不足から男子女子合同の剣道部を取り纏める少女が、そこにいた。





「不動先輩、何か用ですか?」

「単刀直入に言おう、剣道部に帰ってこい、北郷」

「本当に単刀直入ですね」

 恐らく、多分。
 言われることが大体予想できていたためか、言われる覚悟をしていた寸分違わぬ台詞に、くすりと苦笑し、心の奥底が軋む。
 ああ、そう言えば正々堂々を心がける人だったな、と思い出し、その声色が以前聞いていた厳しいものでも、意地の悪いものでも無く、ただただこちらを心配するものだったことに、感謝の念を浮かべながら頭を振る。

「すみません……、何度も誘っていただいて悪いとは思っていますが、戻ることは出来ません」

「しかし、部の者も先生方も、お前が咎を背負う必要はないと言っている。私自身も、あれは事故だと思っているんだ」

 謝罪を込めて下げた頭の上から、まるで触れたら壊れるかモノを扱うような声色が降り注ぐ。


 事故。


 一ヶ月ほど前に、ここ聖フランチェスカ学園内にて起きた、ある一つの事件。
 それを引き起こしたのが俺で、なおかつ剣道部に関わりがあることだから、こんなにも不動先輩は気にかけてくれている。


「俺は……戻ることは出来ません」 


 それでも。


 失礼します、と声をかけ、こちらを伺っていた及川を誘って帰宅の準備を済ませる。
 何か言い足そうな顔をしていたが、無理矢理に引っ張って足を進ませる。
 後ろから呼び止められる声を無視して――

 
 すみません、不動先輩。
 剣道部のみんなも、先生達も、あの事故を知るみんなが俺が悪い訳じゃないと言ってくれても。
 俺は、自分自身が許せないんです。



     ――言葉に出来ない答えを胸に、俺は駆け出していた。





「はぁ? デート?」

「そや。だからかずぴー、悪いんやけど博物館はまた明日ちゅうことで!」

「そりゃまあ……いいけど」

 頼む、と手を合わせる及川の勢いに押される形で、了承の言葉を発する。
 聖フランチェスカ学園に付随する博物館。
 元々、学園長が趣味で集めていた骨董品を展示し、生徒達に見てもらおうと建てられたものだが、その意図に反してその利用数は極端に少ないものだった。
 その事実を認めたくない学園長は、その権限を利用してある課題を全生徒に課す。
 すなわち、骨董品が展示されている博物館を展覧した感想文の提出。
 課題と言う名の強制的な権力によって、俺たち生徒は博物館へと足を運ばざるを得なかったのだ。
 数少ない男子同級生である及川と、その博物館を見に行こうと言っていたのが今日だったのだが、その及川がデートである。
 口を開けばフェチニズムを話し、女の子を見ればまず匂いを嗅ぐ及川が、である。
 及川だけは同類だと思っていたのに、と俺は空を仰ぐことしか出来なかった。

「かずぴー……匂い嗅ぐとかさすがにそれはないわ……。……絶対領域のは嗅ぎたいけど」

「おま、変態か!?」

「そや、変態や!」

 心からのツッコミを華麗に返され、あまつさえ断言された。
 まぁ、それでもこいつはいい奴、よく言えば親友、悪く言えば汚染源だから、特に気にすることもなかったが。
 とりあえず、思考を読まれたことはこの際スルーしておく、俺も変態に毒されかねん。
 この変態野郎と言いながら荒ぶる鷹のポーズを取る俺と、変態じゃない萌の求道師やと喚きながら獲物を狙う蟷螂のポーズを取る及川。
 どちらが毒されているのか、言うまでもないだろう。



「んじゃ、デート行ってくるわ!」

「さっさと行け、んでもって別れちまえコンチクショー!」

 街へ向かう交差点にて、そう言いながら満面の笑みで手を振ってくる及川に石を投げつける。
 及川が向かう方へ行けば、聖フランチェスカ学園男子寮もあるのだが、今現在俺は少し離れた祖父の家から通っている。
 まあ、歩いて一時間ほどだけど足腰の鍛錬にもなるし、バスとか電車は面倒くさい、あれ分かりにくいし。
 ……決して、彼女が出来たら一緒に登下校したいとか思ってるわけじゃないぞ、うん。


 
 そんなこんなで及川と別れ、一人寂しく家へと帰ってくる。
 寺兼道場兼住居というハチャメチャな家ではあるが、住んでいるのは俺と祖父の二人だけ。
 その祖父も、殆ど家に帰ることは無く、もっぱら俺一人で住んでいる状態だ。
 寂しい訳じゃないが、結構な階段を経て山の中にある家は静としており、そこだけ世界から切り離されたようで。
 少し背筋を震わせながら、返事が帰ってくるわけでもないのに、ただいまと声を上げていた。



 *



「げほっごほっ! どんだけ掃除してないんだよ、この倉庫……」

 帰宅早々、居間の机と同じぐらいでかい紙に書かれた文字を見つけ、その内容に絶望した。
 曰く、倉の掃除よろしく、とのこと。
 思い立ったが吉日、それ以外は凶日と声高に言う祖父の命令に、俺は知らず知らず溜息を吐く。
 
「思い立ったんなら、自分でしてくれりゃいいのに……。しかも、日も暮れようかってのに」

 そう言いながらも、蜘蛛の巣を木の棒でグルグルと剥がしていく。
 蜘蛛の巣、というよりも蟻塚ならぬ蜘蛛塚のような巣を、棒を取り替えながら掃除していく。
 夕暮れが開けた扉から入り込み、倉の中はある程度照らされているが、どうにも暗く見通しが悪い。
 しかも、いつから掃除していないのか、堆く積もった埃が足をずるずると滑らせて、危険極まりない。
 っていうか祖父よ、倉の掃除はほんの数時間じゃ出来ないと思うんだが如何だろう、まぁ笑って誤魔化されそうなんで話さないとは思うが。

「……今度の休みの日にするか、風も通さなきゃいけんし」

 うん、そうだそうしよう、決して面倒くさい訳じゃないぞー。
 吉日、要は天命は我には無かったのだ、と一人うんうん納得して、踵を返して倉を後にしようと中を見渡したその視線の先に。
 埃を積もらせながらも、陽光に煌めいた銅鏡が、そこにあった。


「うーん……結構古いな、これ」

 手のひらで埃を刮ぎ落として、銅鏡を見やる。
 装飾こそ教科書に載っているものと大差なく、特に特殊なものには見えない。
 ただ、刻まれた傷や罅からそれが古いものなのだと、無意識のうちにそう感じ、その触れる手つきも自然と怖々してしまう。

「何で銅鏡があるのか分からないけど……まあまた今度にしよう」

 銅鏡と言えば古代中国、紀元前の戦国時代が始まりではないかと言われている。
 使用されていた地域は広大であり、東南アジアから遠くは古代エジプトでも用いられた事例があるらしい。
 これ自体がそういったものではないのだろうが、それでもその佇まいは歴史を感じさせるものだった。

  ふと。

 鏡面部分がきらりと輝く。
 外を見れば、日も沈もうとしており、ビルや山の隙間から差し込む陽光がのぞく。
 おそらくそれが反射したのだろうと、鏡をのぞき込み――


――全身を覆うほどの目映い光に、俺は包み込まれていたのである


 




[18488] 二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/04 14:41


 黄巾の乱。



 中国後漢王朝末期の184年に、太平道の教祖張角が起こしたと言われる農民反乱である。
 中国全土を巻き込み、そして多くの英傑を生み出す切っ掛けとなったこの乱は、他方より比較的小規模ながらも彼の地、涼州においてもその戦火を燻らせていた。



  **


「ちっ、待ちやがれぇぇ!」

「待てやゴラァァァ!」

「ま、待つんだなぁぁ!」

 黄巾賊とは、目印として頭に黄色の布を巻かれていることからそう呼ばれるのだが、怒声を上げて走る三人の男達の頭にも、黄色の布が巻かれていた。
 その手には一様に片刃の剣が握られており、その雰囲気や声から殺気立っていることが見て取れた。

「待てと言われて待つ馬鹿がいるわけないでしょうが!」

 男達の視線の先。
 男達の怒声に反応するかのような言葉は、逃げるように走る二人の少女の一人から、発せられた。

 二つに纏められた三つ編みを走るままに靡かせ、髪の色と合わせられた服を映えらせており。
 眼鏡の奥から覗く眼光は、疲労の色を濃くしながらも、その切れ味を一欠片も失ってはいなかった。

「詠ちゃん、私はいいから詠ちゃんだけでもっ!」

「月、もう少しだから、もう少しだけ頑張って!」

 月と呼ばれた少女は、詠という少女よりは小柄だろうか。
 月光の如くの髪は、淡いベールに覆われており、走り続けて荒くなった吐息は、頬を染めさせていた。
 地に着くほどの長い裾は既に汚れており、所々はほつれ擦り切れていた。



 故に。
 ほつれ、それによって生じた布きれに月という少女は足を取られる。
 手を引いていた詠という少女もその動きを止められ、気付いた時には既に遅く、少女達は逃げ切れない位置にまで、男達を踏み込ませていた。



 時は古代中国、戦乱続くこの地において、既に日常と化してしまっていたその光景。
 賊が蔓延り、それを取り締まる官僚には賄賂が横行し、力持つ者は大志と野望を抱き、力無き者は嘆き苦しむ時代。
 その少女達もまた、力無き者として、陵辱され、蹂躙され、歴史という流れの中に散っていくのだろう。
 たとえそれが、後世に語り紡がれるべき歴史とは違う流れを刻んだとしても。
決して存在するべきではない異端が、その歴史に名を残すことになったとしても。
 

 俺が、その現実から目を逸らす原因となる訳でもなく――



 
          ――気付いた時には、少女達と男達の間に、その身を投げ出していた。





**



時は少し遡る。



 夕暮れの蔵の中で光に包まれたと思えば、気付いた時には荒野に放り出されていた現状。
 その光というのが、夕暮れの陽光なのか、はたまた銅鏡に反射された何かしらなのか。
 理解が追いつかず、置かれている状況が判断出来ない今を知り得るために、俺は村、あるいは人を探すのを第一とした。
 何をするにもまずは情報、大まかな場所さえ分かれば、家に帰る目処もつくと思ったからである。
 

「本当、一体どこなんだよ、ここは……」

 
 とりあえず、と遠方に見える森を目指して歩くことにした俺は、何度目になるか分からない台詞を口にしながらも周囲を見渡していた。
 とりあえず、森に行けば川ぐらいあるだろう、まずは水の確保と思い立っての行動なのだが、如何せん森までが意外に遠い。
 距離の目安になる対象物が無きに等しく、遙か彼方の山々は全く近づく気配なし。
 地平線が見渡せる程の広大な荒野を歩きながら、俺は先ほどよりは幾分か冷静になった頭で思考していた。

「これだけ広大な荒野は、日本では聞いたことがないなぁ。中国、あるいはモンゴル辺りならばありえるのかも知れないけど、それだと何故に、って言うことにもなるし」

 日本国内なら誘拐されて捨てられて、というのも有り得るかと思ったが、それが外国になるとその可能性も低くなる。
 さすがにそこまでするのはいないだろう、との思ってのことなのだが……いない、よね?
 そもそも、誘拐される心当たりが無い、祖父関係ならばありえない話でもないか。
 うーむ、うんうん唸りながらも一向に解の出ない思案に、頭を振ってそれを中断する。
 
「まぁ、とりあえずは人だな。水が確保出来れば言うことはないんだけど、入れ物も無いし」

 思えば、大分森に近づいただろうか、先ほどまでは視界に映るその形もかなり小さいものだったが、近づくにつれて元の大きさへと変貌していく。
 荒れ地だった地面には緑が徐々に含まれていき、乾燥していた空気は水気を帯び始める。
 人の手が入っている感じではないことから、人がいることは若干諦めながら水を探そうと足を踏み入れる。

「近づかないで!」


 その一歩を踏み込んだ矢先、唐突に聞こえた高い、女性特有の声。
 切羽詰まった、震えるように発せられたその声は、不安と緊張を含んでいて。

 俺は、知らずの内に声の方向へと駆けだしていた。



**



「何だ、てめえはっ!?」

 そして、今に至る訳なんだが、うむ、もしかしなくてもピンチっぽい。
 唐突に茂みの中から現れた俺に、三人の中でも引き締まった身躯を持つ男が怒声を上げる。
 手に持つ剣を油断無く持ち直し、目配せ一つで残りの二人を前へと押しやる所を見ると、そいつがリーダー格で、いかにも場慣れしてますってのが即座に理解できる。

 そんなことを考えて無理矢理冷静になろうとしても、心臓は痛いぐらいに動悸し、あまりの緊張に気持ち悪くなってくる。
 
 どんなに力を入れても膝は定まらず、逃げ出しそうになる身躯を必死に抑えるために、奥歯を噛みしめる。
 三人の男達が持つ、鈍く煌めく剣。
 現代日本であるならば銃刀法違反ものだが、ここが日本だという結論が得られない以上、最悪の可能性も考慮しておかなければならない。
 加えて、数としては三対三だが、俺の背後にいる少女達が戦えるという可能性も、最悪を考えれば外さなければならない。
 三対一、相手は凶器有りでこっちは無し、向こうが攻めでこっちは守り。
 うむ、絶体絶命のピンチである。

「アニキ、こいつの着てるもん、高く売れるんじゃないっすか?」

「ご、豪族みたいなんだな」

「豪族か……、こいつはいい。身包みは売っぱらって、こいつは人質で金が取れる。女共は楽しんだ後に売れる。おい、今日はついてるなぁ」

 ちび、でぶ、そしてアニキと呼ばれた男達が、皆一様に下卑た笑いを浮かべる。
 その頭の中では、これからの計画図でも描かれているのだろうか、ちびの男がにやにやと笑いながら俺へと剣を向ける。
 

「おい、身包み寄越せば今なら――」


「断る」


「助け……あぁん?」


 断られるとは思っていなかったのか、俺の拒否の言葉に先ほどまでの笑みは消え、その視線には怒気が含まれていた。
 っていうか、さっき人質にするって言ったじゃん、そのまま五体満足で解放されるとか思えないわけで。
 故に、俺は再び拒否の言葉を口にする。

「断る、と言った。人質にされる訳にもいかないし、目の前で女の子が襲われるのを見過ごす訳にはいかない」

「てめぇ……っ!」

 そう言われ、手に取るように怒気が男に満たされるのを、右足を引いて半身の形を取りつつ待ち構える。
 祖父から、ついでじゃ、とは名ばかりに武術を教え込まれてはきたが、ここ最近は稽古をつけて貰っていた訳でもなく、今なお以前と同じように動けるかどうかは、分かったもんじゃない。
 それでも、少女達が逃げるか隠れる時間ぐらいは稼げるだろうと、注意を男達に向けたまま背後の少女達へと声を掛ける。

「俺が時間を稼ぐ。今のうちに、速く逃げ――」

「さす訳がねえだろうがっ!」

 やはりというか、それを男達が見逃してくれる筈もなく。
 目の前の男から、唐突に剣が振り下ろされる。
 切られたら死ぬという、死そのものが振り下ろされる感覚を、感情の中から勇気と気合いを振り絞り、迫り来る死を睨み付けることで何とか追い払う。
 そのまま男の懐へ踏み込み、凶器となる剣ではなく、それを持つ拳を払ってその軌道を変えた。

「えっ……なっ!?」

 始め茫然、次いで驚愕に染まるその顔。
 腕で剣を振るう以上、人間の構造上、刃より内側は完全な安全地帯となる。
 まして、剣の軌道を無理矢理に変えられ、かつ切っ先が地へと刺さった状態ならば、その位置は暗器でも無い限りは死角と言ってもいいものであった。
 そんな顔の下に出来た空間へと更に身体を潜り込ませ、密着させた状態から、身体全体を捻転させて、鳩尾部分にある水月へと拳を打ち込む。
 脂肪を抉りこみ、筋肉の継ぎ目を引きちぎるように拳を捻り上げる。
 横隔膜に衝撃が伝わったのか、男の顔色が変わった。  

「ぐ、ぐぉぉぉ」

 口の端から涎を垂らし、潰れた蛙のような声を発する男。
 痛みを逃すために、倒れ伏そうとする男の顎を蹴り飛ばし、残心を持って距離を取る。



「チ、チビをよくもやったんだなっ!」

 身躯を丸めて苦しむ仲間の姿に怒りを覚えたのか、まるで地響きかの如く大地を揺らしながら、でぶの男が突進してくる。
 たわわに揺れるその脂肪が女性のものだったらとふと脳裏をかすめ、横凪に払われる剣を慌てて後ろへと飛んで避ける。
追撃として突き出された腕と剣をかいくぐると、脂肪の壁から打ち込みは無理として、重心のかかっている足を大外刈りの要領で刈り上げる。
 足を取られ、刹那宙に放り出される形となった男の頭を掴み、力の限り地面へと叩き付けた。

 鈍く音を響かせ、声にならない痛みに苦しむでぶの男から距離を取り、囲まれない位置へと陣取るように動く。
 震える手を握りしめ、気を抜けば崩れ落ちそうになる精神と身体を、唇を噛みしめ叱咤しながら、油断することなく再び構えさせた。
 鼓動が五月蠅いぐらいに喚き散らし、ともすれば、心臓が口から飛び出そうなほどの緊張。
 目の前の男達にも、後ろの少女達にも聞こえているのではないか、そう思えるほどの鼓動を隠すように、俺は口を開いた。






「……まだ来るのであらば、それ相応の覚悟を持ってこい。手加減は、出来んぞ」






 

 無論はったりです、はい。
 


 手加減も何も、三人が一斉に襲いかかれば俺に防ぐ術は無く、その場合は本当に時間を稼ぐだけになってしまう。
 それでもまあ、女の子を助けられればそれでいいかと思う辺り、及川のことを言えないなとふと思ってしまうが。
 結局は死ぬのはご免で、このまま退いてくれと、心から切に願うのだが。

 そして。
 実際にはごく短時間なのだろうが、俺には長いとも感じられた静寂は、ぽつりと、忌々しげに零された男の声に破られる。



「……ちっ、チビ、でぶ、ここは退くぞ」

「ぐぅぅ……あ、ま、待ってくださいよ、アニキ」

「ぬぅぅぉぉ……お? ま、待って欲しいんだな」

 そう言い残して踵を返して森の中へ消えていくアニキを、慌てて追いかけるチビとでぶ達。
 その足取りには、未だダメージが残っていたが、置いて行かれないようにと、痛む身体を押しているのが見て取れる。

 俺は、男達が裏へと回り込んで、いきなり襲いかかってくるのではないかと思い、残心を保ったまま消えていく先を見張っていたのだが、その姿が完全に消え、さらにはいつまで経っても襲われず、気配も感じなくなったことから、三人が本当に退いたのだとようやく肩の力を抜いたのであった。


 
「……はぁぁぁぁぁぁぁ、た、助かった……」

 張り詰めていた緊張も、切り詰めていた精神も、一気に弛緩してしまい、震える足に逆らうことなく地面へとへたり込む。
 拳を解けば目に見えて分かるほどに震えており、強く握りしめていた掌には血が滲んでいた。
 冷静になってみれば、身体全体が震えているのが分かる。
 死ななかった、生き残れた、……殺さなくてすんだ。
 緊張が解け、様々な思考に熱を持ち始めた脳に酸素を送るためにと、深く呼吸を繰り返す。

 弛緩し、崩れ落ちそうになる精神を何とか立て直そうと、冷静になろうとする。
 
 そこまで来て。
 
 あれ、俺なんで戦ってたんだっけと、ふと何かを忘れていることを思い出し。






 だからこそ。






「あ、あのぉ?」


「ひゃっ、ひゃいっ!?」






 唐突にかけられた言葉に、俺は驚きをもって答えるしか無かったのである。



 








「…………ぷ、ぷぷぷ、あーはっはっはっは! ひゃ、ひゃいとか、ひゃいとか何ソレっ!? 何ソレェ! ぷぷぷ」

「ちょ、ちょっと詠ちゃん、助けてもらったのに、ふふふ、悪いよぉ。ふふふふ」

 先ほどまでの緊迫した空気はどこへ行ったのか、いきなり爆笑し始めた少女と、それを戒めながらも笑いを堪えきれない少女に、俺は穴を掘ってでも埋まりたい気持ちで一杯だった。
 自分が笑われているという事実、しかも女の子に、ということに俺は羞恥で顔を熱くさせる。
 涙が出ちゃう、だって男の子だもん、グスン。
 
「助けたっていうのに、ここまで爆笑される俺って……」

「あ、あんたが悪いのよ、くくく! あんたがひゃいとか言わなければ、ひゃいとか……くく、はっはっはっは!」

「詠ちゃん、さすがに笑いすぎだよう……。こほん、先ほどは助けて頂いてありがとうございました」

 よほどツボに入ったのか、転げるように腹を抱え、笑いを堪えるかのように、地面に手を叩き付ける少女を置いて、もう一人の少女が咳払いをした後に、謝礼として頭を下げる。
 
 よくよく見れば、儚げながらも、ふわりとした印象を覚える彼女は、その穏和な笑みと、月が如くの髪がお互いに映えあい、衆人がいればその殆どが可愛いと言える少女であった。
 擦り切れ、砂や泥によって汚れた衣服はどこか高貴さを匂わせるが、彼女という存在がそれと相まって、守ってあげたくなるような庇護欲をも沸き立たせる。
 まあ、人によっては匂いに誘われた狼になるやもしれんが。

「くくく……ごほん、まぁ、助けて貰った礼はするわ。感謝してる、どうもありがとう」

 先ほどまで笑っていた少女も、笑い疲れたのか、一つ呼吸を置くと、素直に感謝の言葉を発した。
 眼鏡から覗く切れ長の瞳は、性格を表すかの如く強気を秘めており、その口調と相まって刃物という印象を抱かせる。
 彼女もまた所々に擦り傷や切り傷を作っており、先の少女とは違い、白くのぞく肌に残る赤い痕は、その印象と合わせてどことなく色気を漂わせていた。

 ……っていかんいかん、これじゃさっきの男達と同じじゃないか。 

 それに目を取られそうになるのを理性にて必死で堪え。
 美少女達を前にして緊張するのを見栄にて必死に抑え。
 深く息をすることで己自身を何とか誤魔化す。

「いやいや、礼を言われる程じゃないよ。困った人がいれば、それが女の子なら尚更だけど、助けるのは当たり前じゃないか」

 それでも、結局誤魔化しきることは出来ず、出てきた言葉には、本音が混じったものだったが。

「……女じゃなくて男だったらどうしたのよ?」

「ははは、助ける……と思うよ?」

「はぅ……ぎ、疑問系なんですか」
 
 当然、その部分には突っ込みを入れられ、さらには答えにも突っ込みを入れられた。
 動揺と緊張で、もはや何を言っているのかも、自分では分かっていなかったのかもしれない。
 何コイツやっぱり男ってサイテーっていう視線と、男じゃなくてよかったですと本気で安堵している少女。
 両極端な反応に、そういや猫ってこんな感じだよなぁって思ってしまう、別に他意は無いが。
 殺し合い一歩手前まで逝っていた精神が心安らぐには十分であり、そこまできて、ああそういえば、と人を探していた理由を思い出す。


「まぁ、その話は置いておいて。俺の名前は北郷一刀。ちょっと聞きたいんだけど……ここは何処?」


 迷子が問うような、何気なく、本当に何気なく発した問い。
 少女達の服装を見る限り、外国の辺境でもおかしくはないかと思い始めていた俺の期待は、大きく外れることとなり。
 小振りで、瑞々しい唇から発せられたその台詞は、現状が理解出来ていない俺の頭が、更におかしくなったのじゃないかと錯覚出来るほど、衝撃的なものであったのだ。










「私は姓は董、名は卓、字は仲頴と言います。ここは涼州が石城で、その太守をしています」

「同じく姓は賈、名は駆、字は文和。月、董仲頴の軍師をしているわ」

 

 

 



[18488] 三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/24 15:13
   
 董卓、字は仲頴。


 生まれは隴西郡臨洮として、青年期の頃から類い希なる武勇を持ってその名を近隣に馳せる。
 黄巾の乱の際には、時流に乗って行われた涼州での反乱鎮圧に向い、その討伐によって勲功を上げる。
 黄巾の乱鎮圧後、何進と十常持の争いから生じた宮廷の混乱に敏をもってこれを収め、時の皇帝である小帝弁を廃し、献帝協を擁立、権勢を欲しいままにした。
 しかし、その暴政を見かねた曹操や袁紹、袁術や孫堅などの有力者は橋瑁の呼びかけに応じ、反董卓連合を結成する。
 董卓と反董卓連合による汜水関や虎牢関での戦いは、後世まで語り継がれることになり、中でも董卓の養子となった中華最強として飛将軍とまで呼ばれた呂奉先の武勇は、無双の士として英傑達を震え上がらせた。

 

 賈駆、字は文和。


 始め董卓に仕え、董卓亡き後は主君を幾度も変えながら曹操に仕え、その知略を持って曹魏の筆頭重臣にまで上り詰める軍師である。
 自身の献策によって曹操の親衛隊である典韋を戦死させた賈駆は、曹操に降ると、降将という理由と、自身が知謀に長けているということから主君の疑心を恐れ、その軍務に身を砕いたという。
 


 これが、俺の知っている歴史上の董卓と賈駆……なんだけどなぁ。
 俺は、目の前で起こされている現実に、その知識を疑うことしか出来なかったのである。


「月、外に出るときには護衛を付けなさいって、何度言えば分かってくれるのよ?!」

「うぅ……、だって護衛さんたちがいたら、街の人たち怖がるし……」



 片や、妹を叱る姉のようで。
 片や、保護者に怒られて項垂れる子供のように。



 恩返しということと、護衛という名目で、董卓が収める都市、涼州の石城に赴いた俺。
 そんな俺を背後に置きながら、初めて会った荒野から街までの間を、ずっと賈駆は董卓を叱りつけている。
 とは言っても、それは自分の主君を心配するのもあるのだろうが、どちらかといえば家族を叱る感じであって。
 街の中を行きながらも続けられるそれに、人々は微笑みを持って見守っているのだ。
 元いた世界からこちらに来てすぐさま殺されそうになった俺だが、この世界にも暖かい場所があるのだと、ふと安心出来た。


 城までの道中話を聞いてみれば、時は後漢王朝皇帝として、霊帝が即位している時代。
 国の主たる霊帝は決して愚鈍な王ではなく、腐敗進む後漢王朝において数代ぶりのまともな皇帝だったらしい。
 しかし、人の身ゆえに高齢と病には勝つことは出来ず、ここ最近は床に伏せっているのだという。
 そんな折、心身ともに弱まった霊帝は一人の女性に寵愛を注ぐようになる。
 何太后、洛陽の街に住む屠殺屋の妹が、一躍霊帝の目に留まり、あまつさえ皇子を授かってしまう。
 霊帝との間に協君を授かっていた董太后は、それに危機感を覚え、宦官の中でも実質上の最高権力者である十常持と手を組むに至る。
 反対に、朝廷でも最高位に近い十常持と敵対することになった何太后は、霊帝に兄である何進を大将軍へと任命させる。
 公然と兵力を握るようになった何太后派と、権力にて応対する董太后派。
 そして、両派閥の対立は朝廷に混乱を生み出し、朝廷の混乱は民を軽んじる現状を招くこととなり。
 故に、それに我慢の限界を覚え、明日を生きるためにと、中華全土において農民の一斉蜂起が行われたのである。

 俺が撃退した三人組もそんな人たちであったらしく、彼ら、黄巾賊の目印でもある黄色の布を頭に巻いていたとのことだった。
 まぁ、命の危機でやりとりをしていたのに、そこまで冷静に状況は判断出来ていなかったのだが。
 ぶっちゃけ、気づいていませんでした。

 そして、いくらかの情報を聞き、冷静になったことで、俺は自分が時を越えたことを認識したのである。
 とは言っても、その前に殺される寸前という衝撃を受けていたためか、それほど驚くことは無かったのだが。
 しかも、明らかに時だけでなく、別次元にも飛んじゃいましたって感じがするし。

 ふと、リアル二次元という、全くもって意味不明な単語が頭を過ぎる。
 が、気のせいだということにしておいて、街並みへと視線を向ける。
 そうしないと、何となく駄目なような気がした、主に精神健康的な意味で。


「結構賑わってるんだなぁ」

 ぽつり、と己自信を誤魔化すかのように呟いた言葉に、賈駆が反応した。

「当たり前じゃない。月がいて、ボクがいるんだから当然の結果よ」

「はぅぅ、私は父様と母様の跡を継いだだけだし……。詠ちゃんや音々音ちゃんが指示を出してくれるからだし、恋さんや霞さん、華雄さんが治安を正してくれるからであって……」

 自信満々、と答える賈駆の言葉を正すように言う董卓、きっと恋や霞ってのも、後々に名を知られる英雄豪傑の類であって、信頼しているってのがよく分かる。
 まぁ、それが誰かなんてのは今の俺では分からないのだが。
 いや、董卓配下の武将って言ったら結構な数が絞れて、その中で後世にも名を知られる英雄豪傑っていえばおのずと定まってくるのだが、その人たちがこの世界でどうなっているのか、あまり考えたくないだけなだったりする。
 どうもこの世界の女性には真名と呼ばれる名があるらしく、それは己が認めた人物以外が気軽に呼べば、首が落ちるほどのものらしい。
 と、実践混じりで賈駆が教えてくれました、はい。
 そりゃ、確かに董卓の真名を呼んだ俺が悪いのだけれども、先に説明しとかない向こうも悪いんじゃないかと思う今日この頃。
首に突きつけられた冷たい感触は未だに脳裏にあり、あれも後には笑い話になるのかなとしみじみ思った。

「いやいや、それでもここまで賑やかなのは凄いのでは? 俺も、他を知らないから何とも言えないけど」

「まあ、涼州は華北と違って黄巾賊の活動も派手じゃないし、ここに至っては田舎過ぎて反乱軍も来やしないしね」

 その賈駆の言葉に、そこらへんは俺の知る歴史と大差ないらしい。
 華北の広大な地域を荒らし回っていた黄巾賊だが、西へは荊州あたりまでが主戦場だった筈だ。
 というよりは、涼州においては黄巾賊というよりも、後漢に仇なす異民族の方が活発であり、董卓はその抑えだった筈である。
 まぁ、その辺の差異はあれど、他地域から見れば比較的平穏であるために人が集まり、物資が集まり、活気が生まれているのだろうが。

「それでも、賊の人たちはやっぱりいるんです。本当は、そんな人が出ないように富ませるのが、私の役目なんでしょうけど……」

 不甲斐ないです、と項垂れる董卓を前に、何故か賈駆に睨まれる俺、ええ俺何かしたっけ、と不条理なものを覚えてしまう。
 そもそも、近代以前の賊と言えば、食うに困った人たちが仕方なく始めるものであり、それを抑えようとするのは事実難しいものだったりする。
 蝗害による収穫の不可、旱魃による森林火災に収穫物の減少と蝗害の被害拡大、水害による住居の損失と精神的不安など、ありとあらゆる災害への対策など不可能に近いのだ。
 郡の太守や州牧などはそれを防ごうと対策を講じても、被害地域に住む人々全ての食料や住居の提供は、物価の上昇や治安悪化などを招くこととなり、自分の首を絞めることにもなるため、積極的にはなれない。
 結果、あぶれてしまった人々は賊へと身を堕とし、彼らに襲われた人々は、食べるために賊へと身を堕としていく。



 負のスパイラル、悪循環。


 どうしようもない、と。
 仕方ない、と。
 上辺だけの慰めの言葉は、簡単に言えるのかもしれない――


 それらを本気で救おうと董卓が考えているのは、その口惜しそうな顔を見ればすぐに分かる。
 そんな董卓を見て、賈駆もそのトーンを下げる。
 平和な世から来た俺にとって、賊と呼ばれる人たちの考えなど、心にも思ったことは無かった。
 何が気に入らないのか、何が不満なのか。
 それさえ知ろうとせず、一方的に悪だと決めつけていた自分を恥じながら、俺は董卓の頭へと手を置いた。


  ――だからこそ、俺は敢えてその言葉を口にした。



「今は仕方ないでしょう。黄巾賊によって民衆は困窮に喘ぎ、不安に脅えています。今日を生きるにも心身を磨り減らし、明日の朝日を拝めるかも分からぬ時代です。……だからこそ、主たる董卓殿は項垂れず、前を向かなくてはなりません。全てを見、感じ、判断しなければ、救えるものも救えなくなります。幸い、良き家臣と、良き友に恵まれているようですので、董卓殿ならば、きっと成し遂げられるでしょう」

「あぅあぅ……」

 ね?と最後に付け足しながら、ぽんぽんと軽く頭を叩く。
 顔を覗き込むように付け足したためか、俺から逃げるように顔を俯かせる董卓から視線を外し、嫌がられるのもと思い、手をどける。
 良き友、の辺りで賈駆が呻き声を上げていたが、董卓が俯いた途端、それが呪詛らしきものに変わった気がするのは気のせい、だろう、だと思う、そうだったらいいなぁ。
 まっ、明らかに呪詛られてますけどね。
 ……賈駆さんよ、俺が一体何かしましたか?




 **




 呪詛の言葉を投げ続けられながら、なんだかんだで城へとたどり着く。
 そこに至るまでに、俺と賈駆との間では激しい攻防、主に賈駆からのみだが、が繰り広げられていた。
 人ってそこまで罵詈雑言が言えるんだって、新たに知ることが出来ました、出来れば一生知りたくはありませんでした。
 そして、案内された広間において、俺はそこである人達に会わされるのだが。










 まあ大体予想はついていましたが。
 ここまで的中するのも、如何なものかと。









「月っちと詠が世話になったなー。 ウチは張遼、字は文遠や」
 前布と後布の間が大きく開いた袴に、サラシを巻いただけの胸、上衣を外套のように羽織る女性は、後に張来来と呼び恐れられる張文遠の名を名乗る。
 端正な顔立ちながらも活発に笑う彼女に、俺は見惚れそうになりながら視線をずらす。
 主にサラシの辺りから。
 男なら仕方のないことだと思うのだが、賈駆にはばれているのか、その視線は冷ややかだった。


「董卓軍にその人有りと言われた武人筆頭の華雄、字は葉由だ」
 動きやすさを追求したのか、必要最低限の防具を着けた女性は華雄を名乗る。
 汜水関において、正史では孫堅に、演義では関羽に斬られる武将なのだが、己の言葉に自信を持つその瞳を見るに、近いうちにそれも事実になりそうである。
 後で賈駆にでも一言言っておくか、とまたしても視線をずらしながら考える。
 張遼もそうだが、この人も露出が多すぎて視線の置き場に困る。
 どうしても滑らかな肌や、たわわな……いや、これ以上は言うまい。


「姓は李、名は確、字は稚然と申す。この度は、月様を助けて頂いて、誠に感謝いたします」
 そして、ここに来て唯一の男性の登場に、内心安堵する。
 穏和そうな笑みは好々翁と呼ぶにふさわしい壮年の人だが、その視線はこちらを探るようなもので、値踏されている感じがする。
 なんて言うか、娘の交際相手を前にしたお父さんみたいに。
「ふむ。……まあ合格点、と言った所ですかな」
 上から下まで眺め尽くされ、不意に言われた言葉に理解が追いつかない。
 合格、何が?
 えっ、失格だったらどうなってたの、俺?



「とりあえず、今いるのはこれだけね。恋……呂布や徐栄なんかは、今はいないから、また会ったら、顔だけでも合わせといて」

 いったい何が合格なのか、と一人悩んでいると、賈駆から驚くべき名を告げられた気がする。
 
「もう呂布がいるのか……」

 丁原の養子で、洛陽に入った後に丁原を裏切り董卓の養子になるのが、俺の知っている知識だったのだが。
 この時点で呂布が董卓の元にいる、さらには恋というのが呂布の真名であるなら、女性ということになる。
 貂蝉の取り合いとかどうするんだろう、とか。
 王允との絡みはどうなるの、とか。
 最早俺の知識とはかけ離れた展開に、歴史なんてこんなものか、と心の隅にでも置いておくことにした。
 地球だって、多くの奇蹟によって生まれたのだから、歴史も様々な要因が重なり合って紡がれていくのだろう。
 そこに、俺のイメージとは全然違う女の子の董卓がいたりとか、もしかしたら絶世の美男子な貂蝉がいても、何ら不思議ではないのだ。
 と、いうことにしておこう、じゃないと心の安寧が得られん。
 そしてこの判断を、俺は後に後悔してしまうのだが、今この俺には、そんなことが分かりはしなかったのだ。


「俺は姓は北郷、名は一刀と申します。異国の生まれにて字はありません。此度のことは偶然に偶然を重ねた結果でして、俺は襲われていた女の子を助けただけです。董卓殿と賈駆殿だからと、助けた訳では無いのです」

 まあ、名乗られたのだから、こちらも名乗らない訳にはいかないだろうと、とりあえずは例に習って名乗ってみる。
 やはり違和感を抱えるが、それでも納得してくれたのか、皆変わった名だと答えてくれた。
 変わってるって言われると、ちょっと傷つくよね……。


「それでも、あなたが私たちを助けてくれたのは事実ですから。本当に、ありがとうございました」
 
 そう言って、玉座に座る董卓が頭を下げると、それに従うかのように、その場にいる全員が俺に向けて頭を下げる。
 名乗りを上げた人たち以外にも、女官や武官、文官にいたるまで全員である。
 見慣れない、一種異様な光景に背筋を振るわせながら、俺は慌てて止めに入った。

「ちょ、ちょっと頭を上げてください! そこまでされるほどじゃ……」

「それでも、あなたが、北郷様が助けて下さったから、私と詠ちゃんは怪我もなく無事に帰ってくることが出来たんです。本当に、感謝しています」

「それに、月様は我ら石城の臣と民にとって、姫君でございますから。北郷殿には、感謝してもしきれないのですよ」

 そう言いながら、再び頭を下げる李確に、それにつられて文官や武官達も頭を下げる。
 多く寄せられる感謝の念に背中をむず痒くしながら、仕方なく俺はそれを享受することにした。

「それで、北郷様は旅の方なのでしょうか? 見たこともない外套をみるに、西方からでしょうか?」

 頭を上げた李確からそう聞かれ、俺は、はたとあることに気付く。
 あれ、俺何の説明もしてなかったけ?
 そう言われれば、気付いた時には荒野で、声が聞こえたと思ったら黄巾賊で、殺されそうになったと思ったら追い返して、あれよあれよという間にここにいる。
 その間に、自分の説明は名前だけという事実に、俺は何やってんだと自己嫌悪してしまう。
 かと言って、俺北郷一刀未来からやってきました、なんて言った日には右も左も分からぬ土地で見捨てられてしまうかもしれない、多分賈駆はいの一番にそう進言しそうな気がする。
 どうしよう、と思った俺は、破れかぶれで誤魔化すことに決めた。


「それが……異国の生まれということは覚えているのですが、この地に来た理由や行程が全く思い出せないのです。気付いた時にはあの荒野にいまして、そこで董卓殿と賈駆殿を助けた次第で」

 と、まあ記憶喪失の殻を被ってみることにした、決して嘘を言っているわけではないし。
 そんな俺の言葉に、董卓少し考えた後、笑いながら賈駆に耳打ちをしている。
 その顔はいいこと考えちゃった、といった風でその考えを聞いた賈駆は、驚愕にその顔色を染まらせた。
 対照的な二人に、一体何を話しているのだろうと不安になっていた俺は、次いで董卓が発した言葉を理解するのに、幾ばくかの時を有したのである。
 
 

「でしたら、行き先など思い出すまでは、この地にて逗留されてはいかがですか? 住まいはこちらで提供させていただきます」



「…………………………へ?」







  ** 







「知らない天井だ……」




 ふと目が覚めて、ぽつりと呟く。




 まぁ、今日で三日目なんですけどね。
 行き先などどこにもなく、とりあえず帰る方法を探そうと思っていた俺にとって、拠点となりうる住居を提供してもらうという提案は、喉から手が出るほど欲しいものだったのである。
 恐らくは純粋な好意から提案してきたのだろうが、自分の案が俺の弱点を突いているなど、董卓は微塵も思ってはいないだろう、賈駆辺りなら、その辺も含めて嫌々許可したのだろうが。
 予期せず住居、というよりも石城の城に一室借りることとなった俺は、この時代の知識がアテには出来ないことから、とりあえず情報を集めることを優先した。

 とは言っても、パソコンや電話がある筈もないこの時代において、人々の情報源は基本口伝である。
 街のいろいろな人に話を聞いて廻っても、聞く地域や人によって内容が違うこともあれば、全く意味のない内容になっているなど、質の悪い伝言ゲームみたいな状況で、初っぱなから前途多難だったのだ。


「ううむ、やはり文書を調べてみるしかないのか……。だけど、読めないしなぁ」

 初め、董卓に頼んで保管されている文書を見せてもらおうかと思い、簡単な史書を見せてもらったのだが、書いてある文字こそ読めるものの、その内容は全く理解出来なかったのである。
 いや、漢文の成績はそこまで悪くは無かったのだが、わざわざレ点や一・二点などの返り点が打たれていなかったりするので、俺が訳すると意味不明になってしまうのだ。
 そのため、仕方なく文書からの情報収集を諦め、街の人々から情報を得ようとしたのだったが、ご覧の有様である。
 はや三日で惨敗ムード全開だった。



「おお、北郷やないか。どうや、有益なんはあったんか?」


 これからどうしようか、などと悩みながら廊下を歩いていると、既に出仕しているのか、難しい顔をした張遼と顔を合わせる。
 彼女の手には竹簡が握られており、おそらくは報告書なのだろうが、美人がぶつぶつと言っている姿は微妙に怖いものがあった。
 
「いや、特に進展はありませんね。今日はどうしようかと悩んでいた所ですが……。張、じゃなかった、文遠殿は難しい顔をされて、何かあったので?」

 俺が承諾すると、董卓から逗留するに至り、お願い、というよりもある指示が為された。
 曰く、他人行儀に呼ぶことはなく、親しく接して欲しいとのこと。
 優遇されることと、世話になるということから俺に否は無かったのだが、さすがに真名を預けられるのはお断りした。
 話を聞いた限りでも、簡単に預けられるものでもないし、預けられても困る。
 さらに、董卓の判断だけで、皆の真名を預かるには、俺の責任が大きすぎるのだ。
 俺自はこの世界にとって異端であり、そもそも、これから何が起きるか分からない状態で、ここの人たちを巻き込む可能性は出来る限り上げないでおきたい。
 故に、あれもだめこれもだめ、という俺に業を煮やした賈駆が、ならば字で呼ぶようにと半ば命令したのであった。
 

「いやなぁ、詠に新しい陣形を軍に覚えさせる時期言われて、どれがええか考えとんやけどな、どれもしっくりこんのや。あんま難しいのでも、覚えとれんし、ウチもぐだぐだ悩むよりは暴れたいしなぁ」

 はぁ、と溜息をこぼす張遼だったが、それでも、一応は上司である賈駆の指示を行おうとしているあたり、根は真面目なのだろう。
 それもこれも恋や華雄が脳筋やからや、と愚痴る張遼に、俺は今はどんな陣形があるのかを聞いてみた。

「横陣、魚鱗、方円、方陣やな。基本的には、大将である月っちを守る陣形が多いから、なんか攻める陣形があればええんやけど……」

 確かに、聞いた陣形と賈駆の考えでいけば、 総大将である董卓を危険にさらす陣形などは、絶対に認めはしないだろう。
 かと言って、張遼や華雄、さらには呂布などの豪傑を守りに回すのは、人材的にもったいない。
 賈駆ならいい案もあるのだろうが、成長を促しているのか、軍師として指示をするだけなのか。
 彼女の真意を掴めないながらも、とりあえず思いついたことを言ってみる。

「逆さ魚鱗、ってのは如何でしょう?」

「逆さ魚鱗? なんやそれ?」

「言葉の通り、逆さにした魚鱗の陣ですよ。通常であれば、一二三と隊を組み、三の部隊の真ん中に総大将を置くのですが、逆さ魚鱗は三二一と陣を組みます。先陣に文遠殿、葉由殿、奉先殿を置けば、攻めでは十分であり、二陣には徐栄殿でしたっけ、その方と稚然殿を置き、最後尾に仲頴殿と文和殿を置く。先陣にて敵を押しとどめ、二陣において後背を抑え、状況に応じ横撃へと移る。正面からの戦いにおいては、臨機応変に対応出来るかと」

 初め言葉で説明するが、いまいち納得出来てなさそうな張遼に分かりやすく説明するために、近くに落ちていた石を用い説明する。
 逆さ魚鱗と言うよりは、鶴翼の陣に近いものではあったが、一番の違いは陣の目的が包囲殲滅か正面突撃かである。
 英雄の指揮であれば、容易に弱点が露呈し、その隙を突かれるだろうが、賊程度が相手なら十分に機能するだろう。
 張遼の話からしても、すぐに決定という訳ではなさそうなので、その辺も踏まえて検討してくれればいいと思う。

 ほほうそんなもんがあるんかいな、と一人納得している張遼だったが、先ほど俺が言った内容を忘れないようにと、竹簡の隅にさらさらと文字を書き入れていく。
 まあ、何を書いているのか理解出来ない俺は、その軌跡を目で追いながら、他になんかあったかなと記憶を探る。


「よし、詠からの分はこれで丸っと。そや、北郷は武の方はどうなん? 賊を三人相手にして、それを叩きのしたって聞いたで」


 一通り書き終えたのか、するすると竹簡を終えた張遼は、背を伸ばしながら俺へと問いかける。
 まあ事実を言えば、不意を突いて急所を狙ったという、武人からすれば怒髪天ものなのだろうが。
 そんな俺に、張遼は爆弾を投げつけてきた。








「どうせ時間はあるやろ? ちょっと息抜きに仕合でもしようや」




[18488] 四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/10 10:48



 鋭く横薙ぎに払われる槍の一撃を、とっさの反応から両手で槍を構えることで、何とか耐え凌ぐ。
 がつんと、想像していたよりも重たく鋭い衝撃に、両手が鈍く痛み痺れるが、短く息を吐き、身体に喝を入れることで再び持ち直させる。

「おお、防がれるとは思わんかったわ。中々やるやないけ」

「張文遠に褒めて頂き恐悦至極だけど、少しは手加減ってものを……っ!」

「手加減? やぁっと面白なってきたとこやないか、……少し本気でいかさせてもらうで!」 

 迫り来る突きを首を捻ってかわしながら、槍で槍を押さえつけて、それを持つ手へと蹴りを放つ。
 しかし、読まれていたのか、蹴りを蹴りによって止められ、あまつさえ、その体勢から手刀を繰り出してくる。
 

「ぬわっ!? くっ、このぉぉ!」

「おおっ! ええで、もっとや、もっと来いィ!」


 すんでの所で身体を捻ることで回避に成功し、反撃とばかりに槍から手を離し、繰り出された手刀の手首を掴む。
 一瞬だけ拮抗するが、ぴくりと動いた足に急かされるように、一本背負いの要領で投げ飛ばす。
 だが、張遼は途中くるりと手を返したかと思うと、その拘束から抜け出し、あまつさえ投げ出された勢いのままに、器用に地面へと降り立つ。
 その光景に、猫か獣かっての、と心の中で愚痴り、着地した足のバネから滑るかのように跳ねた張遼を、横っ飛びで何とか躱すことに成功し、偶然手元にあった礫を投げつける。
 二度、三度、手元にあった礫と、時には砂だけを投げつけながら、徐々にその位置をずらしながら、槍を落とした地点へと移動していく。

 向こうもその思惑に気付いたのか、態とらしく距離を開けられ、余裕を向けられながら槍を拾いなおし、再び構える。
 右足を開いた上体から、槍を引いた状態で、石突にも横薙ぎにも移れる体勢へと構え直す。
 俺の構えに反応するかのように、張遼は槍の切っ先をこちらへと向け、前方に対しての攻撃範囲を重視した構えとなりながら、じりじりと再び距離を詰め始める。


「まさか、ここまでとは思わんかったわ。そろそろ時間もないし……本気でいかせてもらうでぇ!」

「くっ! おおおぉっ!」


 ぶん、と一度槍を鳴らし、その全身に闘気を漲らせながら、張遼は地面を蹴る。
 先ほどまでとは段違いの速度、これが張文遠の本気かと、完全に虚を突かれることになりながらも、微かに見えた腕の振りにあわせるようにそちらへと槍を構え――






――その反対からの衝撃に、俺は吹き飛ばされていた。









「おーい、大丈夫かぁ?」

 荒く呼吸を繰り返し、痛む身体に問題がないかを確認する。
 まぁ、とりあえずは問題だらけだが。
 握力は落ちて、節々は痛み、打たれた横腹や顎は折れてるんじゃないかと思えるほど、痛みに響く。
 身体は疲労で重く、身じろぎする度にぎしりと揺れる、


「……大丈夫に見えるんですか?」

「うんにゃ」


 そんな俺とは対照的に、特に息を乱すでもなく、常時と変わらず軽やかに歩く張遼。
 ええと、化け物ですかあんたは。
 痛みに悶える俺へなははと特に悪びれた様子もなく笑う張遼を前に、痛みを耐えながら何とか起き上がる。

 なんだかんだで、実に六仕合。
 最初のうちはすぐに叩きのめされていたのだが、慣れてきたのか、四仕合目ほどからそれなりに動け始め、最後にはなんとか健闘は出来た。
 とは言っても、結局は一度たりとも、直撃どころか掠ることさえなく、六仕合とも全敗してしまったのだが。
 俺が弱い訳ではないのだと、そう思いたい、男子の面子として。


「あんがとさん、北郷のおかげですっきりしたわ。……さぁて、うちは詠に報告書持ってくかなー」


 ひらり、と。
 こちらを伺うように顔を覗いていた張遼だったが、身を翻したかと思うと、ひらひらと手を振りながらその場を後にしていった。
 その足取りにはまったくもって疲れの色は見えず、確かな実力差を感じさせた。

「俺はずたぼろなんですが……って、気にしてるかどうかも怪しいな」

 それでも、久しぶりにくたくたになるまで動いたためか、先ほどまでこれからの見通しについて悩んでいたのも馬鹿らしくなってくる。
 とりあえずは、もう少し情報を集めてみようか、賈駆に文字の読み方を教えてもらうのもいいな。
 まぁ、今の目的は身体が求めている朝食を取ることだと己を納得させて、痛みに呻きながら廊下を歩き出した。





  **





 廊下を曲がったところで、竹簡を見ながらぶつぶつと呟いていた詠に出会う。

「おおっ詠、ええところにおった! ほい、陣形についての報告書や」

「あら、霞じゃない。報告書……結構早かったわね。……其れで、どうだった?」


 手渡した報告書に軽く目を通し、再びそれを巻いて持ち運んでいた竹簡の束にうずめた詠は、声を潜めて先日に頼まれていた案件の結果を聞いてきた。
 北郷一刀について、情報を得ること。
 月によって北郷が城に寝泊りするようになった翌日、霞は詠からそのことについて頼まれていたのだ。
 本当を言えば李確か、賊討伐にて遠征している徐栄あたりが適任なのだが、二人は先代石城太守である月の両親からの家臣であり、その立場は非常に重要な位置にいる。
 本人達は、後進である恋や霞、華雄に跡を託し、援護に回ろうとしているのだが。
 ともかく、そのような立場にある徐栄が留守にしている以上、残された李確の負担は大きいものであり、今また無理をさせるわけにはいかない。
 北郷の力量が測れていない以上、どんな可能性も考慮しておかなければいけないからだ。
 ゆえに、武と智を兼ね備える霞に、その役目が廻ってきたのだ。
 
 詠にそう問われ、先ほどまでのやりとりを思い出す。
 陣形について相談したのも、息抜きと称して仕合をしたのも、全てはそのため。
 霞自身、賊を追い払うほどの武を持ち、そして見たことのない外套を着る北郷に、興味を引かれていたのだから、その力量を測ることにも、興味があった。


「智の方は報告書の陣形が即座に出てくるくらいや、それなりの書物を読んで、それを力にしとるんやろ。文字が読めんのはちときついが、それも教えてやれば十分使えるくらいにはなるはずや」

「……そう。行き先が決まらないのであれば、文字を教えることと、なにかしらの条件を付けて引き込むことも検討しとかなきゃね。……それで、武の方は? 使いものになりそう?」

「そうやな、兵より少し上ちゅうとこやけど、下地は十分に出来とる。なんか鍛錬しとったんやろな、結構ええ動きしとった。ただ……少し違和感があんねん」

「違和感……?」

「なんちゅうか、よう言葉には出来んのやけどな……」

 そう言いながら、霞は自身の手を見つめる。
 顔と態度に出すことは無かったが、北郷との仕合で感じた違和感。
 言葉では上手く表現することは出来ず、実際に対峙した者こそ感じるそれ。
 恋にこそ及ばぬものの、己の武において自信を持つ霞でさえ、この時にはその違和感の正体には気づくことはなかったのである。

「……ふぅん、まぁとりあえずその件は保留にしておきましょう。そうそう、早朝に、賊討伐が成功したって早馬が来たから、ぼちぼち徐栄殿たちが帰ってくる頃ね」

 
 石城周辺地域において、掠奪強奪行為を繰り返す賊の討伐。
 黄巾賊の行動が活発になるにつれ、山賊盗賊の類の行動も、目立つようになってきており、石城や周辺での治安は悪化してきていた。
 常に警邏をさせられるだけの兵がいればいいのだが、内実ではその殆どが農民兵であり、通常時は田畑を切り盛りしなければならない。
 常備兵がいないこともないが、その数はごく少数であり、街の全てに目を光らせることは不可能に近いのだ。
 北郷は街が賑わっていると言っていたが、それも減税政策と、ある程度の保証を認めた効果であり、財政面ではそれなりに厳しい状態が続いている。

 今回の討伐でも、街の運営に支障のないギリギリの範囲で募兵したのだが、その数は集められる最大の三割程度である。
 李確と同じ古参である百戦錬磨の徐栄と、武勇に優れた彼の娘、中華最強と名乗ってもおかしくはない飛将軍にその軍師が、討伐に赴いていた。
 騎馬隊を指揮する霞では、馬の補充や休息などの維持費が。
 董卓軍最強の部隊を指揮する華雄では、その装備の費用や戦死者への慰謝料などが、それぞれ財政を圧迫することを見れば、最小の犠牲で最大の利益を得ようとする軍師としては、出来うる限りの編成だったのだ。

 それでも、早馬からの報告によれば、被害は決して軽いものではなかった。
 山賊や盗賊などが合流して膨れあがった賊軍三千に対し、討伐軍は一千は兵を二部隊に分けた。
 陣形を取らず、有象無象の衆としてただ突撃してきた賊軍に対し、討伐軍は五百ずつの部隊で、散々にかき回したとのことだった。
 当然賊軍にそれを迎撃するほどの力はなく、策だけを聞けば討伐軍の圧勝だった筈だ。
 しかし、殺すことを慣れている賊軍に対し、農民兵は慣れているはずはない。
 幾度か矛を交じわすごとに、一人また一人と、殺し殺される恐怖に負け、陣形を脱していく。
 そうすれば、賊軍の餌食となるにもかかわらず、だ。
 結果、討伐軍は賊軍を散々に打ち払い、その半数を切り捨てることが出来たが、討伐軍自体の被害も甚大で、約三割の兵が討ち死、あるいは戦闘不能ということだった。
 
 月を軍師として補佐し進言する役務、全軍の状況を把握し必要な指示を行う役務、石城周囲又は周辺の街においての情報収集、そして戦の後の戦功論賞と戦死者への慰謝料の算出など、様々な役務を抱える詠にとって、少しでも役に立ちそうな人間は、何としても手放したくない存在なのだ。
 見たこともない外套を羽織り、それなりの智と、霞にそれなりと言わせる程の武を持つ北郷一刀は、まさしくそれである。
 加えて、異国の知識を持ち得るだろう彼は、董卓軍が飛翔するには欠かせない存在なのである。

 霞もまた、北郷一刀の武と、彼自身の行く末に興味があった。
 矛を交えた同士でしか理解しえないこの感情は、感じたことはなかったが、不思議と悪い気はしない。
 そしてなにより、あの未完の武が、一体どれほどのものになるのか。
 強い武人と戦いたい、武人なら誰もが抱くものを、霞も持っているのである。
 詠から、そして主君でもある月からの指示でもある、北郷一刀の引き留めは、霞にとって無関係ではないのだ。




 だからこそ。






「ほう……、なら徐英のおっちゃんやら恋達が帰ってきたら、北郷と顔合わせをさせて」



「ええ、その時にでも話をしましょう。……私たちに協力してくれるかどうかを」





 
 知らず、口端がつり上がるのは、楽しみからか、それとも――






  **






「はーくっしゅんっ! ううぅ、ぶるぶる」

「ちょ、ちょっと北郷の兄さんよ!? 風邪は移さんでおくれよ!」

 不意に感じた寒気、というか悪寒に、くしゃみが出てしまう。
 俺が風邪を引いたのかと思ったのか、先ほどまで話し込んでいた肉屋のおばちゃんが、慌てて俺との距離を取る。
 肉屋を営みながら、余った肉を用いて肉まんを作るこの店は、石城の大通りより一本外れた所にあるが、その品揃えとおばちゃんの人柄からか、多くの客で賑わっていた。
 かくいう俺もその客の一人で、張遼との仕合を始めたのが朝だったにも関わらず、いつの間にか昼前にまでなっていたので、朝昼兼用の飯を兼ねて街へと出てきたのだ。
 
「それで何だったっけ? ああそう、道術とか仙術の話だったね! まぁ、とは言っても役に立てる訳でもないんだけどねぇ」

「別に構いませんよ。俺自身、そう簡単に分かるとは思ってませんし。そもそも、それが求めているものなのかどうかさえ、分かってはいないんですから」

 申し訳なさそうにする肉屋のおばちゃんに、俺は苦笑混じりで答えた。


 元々、この時代の情報伝達と言えば、口頭か文書によるぐらいしか手段はないと言ってもいい。
 どちらの手段で情報を得るにしても、それを運び伝えるのは人であるため、どうしてもその内容と信頼度には不安が生じる。
 朝廷や権力者の文書であれば、その信頼度は高まるのだろうが、それも絶対ではない。
 良くてそれなのだから、一般の人々が取り扱う情報が、どれだけ内容が変化し、その信頼度を落としているのか、全く持って予想出来ずともおかしくはないのだ。
 その情報自体がない、という事実も、決してあり得ない話ではないのかもしれない。
 であるから、俺としてはこの情報収集はこの世界の情報を集めるついでと、顔を知り人脈を広めるためのものと割り切ることにした。

 そもそも冷静になって考えてみれば、あの名軍師として名高い賈駆がどんな些細な情報であれ耳に入れていないということは、この石城の街や周辺の村々では、そういった情報は流れていないということなのだろう。
 まぁ、余裕が無くて気づかなかったんですよ、うん。


「それじゃ、また何か情報があれば教えて下さい。その時は、たくさん肉まんを買わせてもらいますから」

「はははははっ! そりゃ楽しみにしてるよ」

 昼食にと肉まんを三つほど購入し、感謝を述べて肉屋を後にする。
 すぐさま次のお客が入ったのか、おばちゃんのいらっしゃいませの言葉を背に受けながら、俺はぶらりと周囲を巡ってみることにした。
 とりあえずは、そうだな、子供達が遊んでいそうな広場にでも行ってみるか。










 と、簡単に決めつけた俺に、後々の俺は一言言ってやりたい。
 お前の安易で簡単で愚直な思いつきで、今後俺は多大なダメージと精神的疲労を受けるのだと、主に財布への面で。








  **









 一つ目の肉まんをのんびりと食べ終え、二つ目を囓ろうかと口に運ぶ寸前、俺はそれを発見した、否、見つけられた。
 当初の目的通り、子供達が遊び、母親達が井戸端で会議と言う名の情報交換を行っている広場。
 そこにたどり着いた俺は近くの木に寄りかかりながら、先に肉まんを食べきろうかと思ったのだが、そんな俺の目の前に、一人の少女が現れたのだ。

 炎のように紅く染まる髪は短く揃えられており、浅黒く日に焼けた肌と相まって、健康的なイメージを受ける。
 短めのスカートから覗く太股もまた健康的で、そこから上に視線を移せば、胸元を隠した服から覗く腰に至るくびれが、対照的に酷く艶やかに見えた。
 華雄の服とよく似た印象を受けるそれらは、見る者に爽やかな色気を感じさせるものだが、それを着る本人と言えば、そんな感想を抱く俺の視線も気にすることは無く、ただある一点に集中していた。







 すなわち、俺の持つ肉まんへと。







 チラ見ではなく、視線を向けるでもなく、それに合う言葉はただ一言、ガン見。



 隠す気のなさそうな食欲の視線と、そうした訳でもないのに餌を目の前し許可を待つ犬のような視線、そしてそれに一石を投じるかのような、ぐるるると獣の鳴き声のような音。
 おそらく空腹からの腹の音なのだろうが、聞こえたその音は視線と相まって、完全に肉食獣の唸り声のようである。
 放っておけば手に持つ肉まんだけでなく、言葉通りの意味で骨まで食べられてしまいそうなその空気に、俺は恐怖を感じ、思わず口を開いていた。




「えと………………その、食うか?」










 もぎゅもぎゅ、もきゅもきゅ。
 広場の木に寄り添いながら、そんな擬音が聞こえてくるかのように肉まんを頬張る少女は、酷く幸せそうな顔で、その味を楽しんでいる。
 滑らかな肌が、肉まんを一口ずつ咀嚼する度に、蠢く様はどうしてか色気を醸し出すのだが。
 その肌を持つ彼女の、無垢に幸せそうな顔がどうしてもそれを霧散させてしまう。

 子供達の笑い声が響く広場、その片隅にある木の陰において、女の子と二人で食事を取る。
 デートと言っても間違いではない、元の世界の俺なら全くと言っていいほど無縁だった行為を、今俺は行っている……のだろうか?
 食べているのは肉まんで、女の子の名前は知らず、そんな空気は欠片もない。

 加えて。

 手に持った肉まんを食べ終えた彼女が、俺が囓ろうとしていた肉まんへと再び視線を向ける、ガン見しているのを見て、知らず苦笑が零れてしまう。

「………………?」

「ああ、別に君のことを笑った訳じゃないよ。……ほら、これもどうぞ」

 笑う俺を不思議に思ったのか、身体全体と雰囲気で疑問を表現する彼女。
 それでも尚、視線が肉まんに向いているのに苦笑しつつ、二個目の肉まんを彼女へと手渡す。
 初め、俺と肉まんを交互に見比べていたのだが、それを自分が食べていいのだと気付くと、一つ頭を下げてそれを受け取った。

 そして再び。

 もきゅもきゅ、もぎゅもぎゅ、と肉まんを頬張りだす彼女に、なんか小動物に餌をあげているみたいだ、といった感想を受けてしまう。
 昨今、元の世界では精神的疲労、ストレスが社会的要因として大々的に取り上げられていた。
 人々はそんな世界の中に癒しを求め、やれ癒し系だの、やれマイナスイオンだの、様々な解決策という名の商売が蔓延っていた。
 だが、今の俺ならば一つだけ言いたいことがある。
 癒しを求めるのならば、彼女に肉まんを与えればいいんじゃないか、と。



 ほわー、と一人癒されていると、不意に彼女が肉まんを半分にし、その片方をこちらへと差し出してきた。
 えっ分捕っておいて半分にするの、とか疑問に思っていたのだが。

「……半分。…………ご飯、一緒に食べた方が……おいしい」

 ん、と俺の手に肉まんの片割れを置いて彼女のその言葉に、まぁいいか、と何となく納得してしまう。
 可愛い女の子に、肉まんだけど、ご飯を手渡されて一緒に食べようと言われているのだ、男としてこれを断ってしまっては義に反するだろう。
 そう誰に対してもなく誤魔化して、肉まんを有り難く頂戴する。

「ありがとな」

「…………」

 素直に感謝の言葉を掛けるのだが、言われ慣れていないのか、少し俯きながらふるふると頭を振る彼女。
 そんな様子に親近感を抱きながら、昼下がりの木陰で、俺と彼女は半分にした肉まんを共に頬張りだしたのだ。




[18488] 五話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/16 07:37




「ハァァァァァァァッ!」

 裂帛の気迫と共に繰り出された一撃は、防御にと構えた槍に当たることなく俺の横腹へと打ち付けられたかと思うと、勢いそのままに俺の身躯を宙へと放り出してしまう、否、吹っ飛してしまう。
 幾度か地面を転がり、痛みにもんどり打ちながら声にならない絶叫を上げるが、俺を吹き飛ばした張本人は、さして気にすることもなく仁王立ちで言い放つ。

「北郷よ、これしきで音を上げられては、月や詠を任せる訳にはいかん! さぁ、続けるぞ、立てっ!」

「まぁまぁ、華雄。ちったぁ手加減ちゅうもんもせな、北郷が死んだら元も子もありゃせんのやで?」

 いきり立つ華雄へと、少し落ち着けとばかりに張遼が口を挟むのだが、一つだけ言わさせて貰いたい、お前が言うな。
 先日散々に打ちのめして置きながらそんなことを言うのか、と恨みを含んだ視線を張遼へと向けるのだが、気付いているのかいないのか、何処吹く風といった顔で知らぬ存ぜぬを押し通される。
 まあ、初めから期待などしてはいないのだが。

 不意に、後ろからくいくいと袖を引かれる。
 そちらへと顔を向ければ、先日広場で出会った肉まんの君、ではなく、中華最強の将である呂奉先と名乗った少女が、こちらへと視線を向けていた。

「…………次……恋とする。……手加減………………する?」
 
「うぉい、疑問系ッ?! 手加減してくださいよ、奉先殿!」

 張遼の言葉に手加減の必要性に気がついたのだろうが、華雄の言葉に別にいらないと思ったのか。
 既に一度手合わせはしているのだが、その時には手加減などしていなかったのだろうか、いや多分してなかったんだろう。
 開始、の言葉と共に吹き飛ばされていたのは、恐らくそういう意味なのだろうから。
 お願いしますよ、と懇願する俺の願いを聞き届けてくれたのか、一つ頷いた呂布は、俺を引っ張って立たせると、少し距離を取って構えた。

「ほほう、やはり若さはいいですな。呂将軍や華将軍の一撃を受けて、尚立ち上がれるとは」

「稚然よ、やはり北郷殿はこれからの成長が期待出来る中々の御仁。これで先代様夫婦にご報告が出来るな」

 そんな喧しい俺たちから距離を取りながら、李確と徐栄はのんびりと茶なぞを啜っていた。
 一体何の報告なのか、そもそも先日から合格だのと一体何のことなのか、こちらを見る二人に、俺はとりあえず一言言いたい。
 いい加減止めてください、助けてください。

「……余所見……危ない。…………いく」

「えっ!? ちょ、奉先殿、ちょ待ッ! ぎゃぁぁぁぁぁぁ!」
  
 そして、中々構えようとしない俺に業を煮やしたのか、一言断りを入れて、呂布が仕掛けてきた。
 断りとは言っても、殆ど言うと同時であったため、あまり意味など無かったが。
 さらには、少しの間に忘れてしまったのか、手加減という言葉などどこにも見あたらないその攻撃に、俺は再び吹き飛ばされ、地面を転がっていく。

「ぐぅ……ぁぁぁぁああぁぁ……」

 肺に衝撃が伝わったのか、数度咳き込みながら、打たれた箇所を手でさする。
 ずきりと痛みはするが、折れている風でも裂傷になっているわけでもない、さすがに全力ではなかったのだろうと、心の中でだけ感謝する。
 というか、あの呂奉先が本気で来れば、いくら訓練用に刃を潰した槍とはいっても、簡単に首ぐらいなら刎ねられそうで怖い。
 後に、出来ないことはない、と彼女自身の口から聞くことになるのだが、今は、とりあえず胴体が繋がっていることを喜ぶべきなのだろう。
 首に当たっていたら折れていたのかと思うと、背筋に冷や汗が流れ、下腹部が縮み上がる。

「大丈夫ですか、北郷殿?」

 有り難や有り難や、と一人命の大切さに喜んでいると、吹き飛んだ俺を心配してか、一人の少女が声を掛けてくる。

「あ、ああ。大丈夫……だと思いますよ、公明殿。少なくとも、胴が繋がっていますからね」

「……成る程、それだけの軽口が言えるのならば、さして問題は有りますまい。では、次は私がお相手をいたしましょう」

「ええぇぇっ!? 徐公明様の武はさすがに私では如何ともし難い……」

「問答無用です」

「ぎゃぁぁぁぁぁ!」

 そう言うやいなや、少女、徐晃は大斧の重さを似せた槍を事も無しげに軽く振るう。
 たったその一振りの風圧で風が生じるほどの威力に、俺はどうしてこうなった、と現実逃避をするほか無く。
 何故今こうして三国志が誇る豪傑達と手合わせをしているのか、と昨夜のことを振りかえることでしか、目の前に迫り来る、主に俺の命と精神の危機をやり過ごす策が浮かばなかったのだ。






  **

 



 ええと、何か数日前にも似たような感想を述べていたと思いますが、それでも言わせてもらいたいのです。
 大体予想はしていましたが、ここまでの現実は如何かと存じます。

 

「姓は徐、名は栄、字は玄菟と申す。稚然と共に先代様より董家に仕えておりますゆえ、此度の件、真に有り難く存じます」
 賊討伐から帰ってきたばかりだからか、所々傷のついた鎧を着込んだ中年の男性。
 俺の知る歴史の中で、反董卓連合軍との戦いの中、多くの戦功を上げた武人が恭しく頭を下げてくる。
 穏和そうな笑みだった李確とは違い、鎧以外にも顔や手足にいくつもの傷を持つその人は、歴戦の武人といった風であり、知らずその風貌に威圧される。
「ふむ、まぁ要検討、と言った所か、稚然」
「そうさな。幸い、これから時があればこそ、北郷殿の人となりというものも見えてくるしのぉ」
 先日は李確だけだったのが、今日はそれに徐栄までついて上から下まで眺められる。
 っていうか何要検討って?
 前回の合格点と言い、一体何がしたいんですかあなたたちは。


「姓は徐、名は晃、字は公明と言います。徐玄菟が一子にして、若輩ながらも副将軍職を務めさせて頂いております」
 灰色を基調とした鎧を、急所を守るように着込み、それに彩りを添えるかのような腰まである金髪の少女は、後に魏の五大将軍として名を馳せた徐公明と言う。
 すらりとした長身に、きめ細やかな金髪がよく映えており、目鼻立ちの整った容姿には見惚れるものがあった。
 今まで見てきた女性武将の中でも異質、いやいやこちらが正解なのだろうが、男性と対して変わりない鎧を着込んで尚、その華やかさは見て取れる。
 
「ねねは陳宮、字は公台なのです! 恋殿の軍師の座は渡さないのですぞ!」
 少し大きめの外套と帽子を整え、声高らかに宣言した少女は、その拍子にずれた帽子を慌てて押さえた。
 陳公台と言えば、初め曹操に仕えたが後に叛逆、当時曹操と敵対関係にあった呂布に従い、最後まで仕えたとされている。
 曹操も、裏切られながらもその知謀を評価しており、彼の死に涙し、その縁戚を厚遇したという。
 歴史的にはかなりのズレが生じているのだが、元々、男性武将が女性になっている世界である。
 それぐらいの差異もあるものと、一刀はそれに突っ込むことはしなかった。

「…………呂布。…………恋でいい」
 そして、つい先ほどに広場で出会った肉まんの君。
 彼女と肉まんを頬張っている時に陳宮に見つけられ、そのまま城へと連れてこられたのが今の状況の始まりなのだが、そんな空気もお構いなしに呂布は増量された肉まんを頬張っていた。
 相も変わらず、もきゅもきゅとか音をさせて。
 否、なんか呂布の周りにそういう字が見える気もするのだが、まぁ気にしないでおこう。


 とまあ、名だたる武将の殆どが女性というこの世界の事実に、俺はまたしても打ちのめされることになった。
 っていうかこの調子でいくと、ゲームや漫画でよく知る三国志の登場人物は、殆どが女性だと思っていたほうがよさそうだ。
 先日、曹操や劉備も女性では、と思ったことが、厭に現実味を帯びてしまったのである。
 とは言うものの、今の段階で未だ会ったこともない人物達のことを考えても、埒があかない。
 女性であってもおかしくはないと、前回と変わらぬ結論だけを、頭の片隅に残しておくだけにしておこう。



「さて……、これで全員と顔を合わせたことになるわね」
 
 やれどこから来たのだの、やれその服が綺麗だの。
 先日顔を合わせた李確や張遼、華雄も含めた董卓軍としても中枢である人物達がその場に集っている中で、質問攻めにされていた俺は、賈駆のその一言で解放された。
 というか、そもそも俺がこの場にいる理由が思いつかないのだが。
 
 まさか、今更滞在費として使用した金を働いてでも返せ、とは言うまい。
 なるべく使わないように、と節約したのだが、商人から情報を得るのに関して、一番手っ取り早いのは品物を買うことである。
 どれがどれぐらいの値段、なんてことはこの世界に来て間もない俺には分かるはずも無かったが、それでも肉まん一個の値段を元の世界の肉まんの値段で換算すれば、結構な額を使っていることになる。
 それも、対して使いそうにない品物ばっかり。
 大体のものは、宛がわれた部屋へと置いているのだが、一回も使ったことのないものばかりなのである。
 ……うん、返せと言われても、おかしくはないな。

「みんな色々あるでしょうけど、軍議の前に一つだけ。……月」

「……うん」

 そんな賈駆と董卓のやばいどうしよう、と今更ながらに慌てる俺だったが、返す当てがあるはずもない。
 肉屋のおばちゃんにバイトで雇ってもらおうか、などと本気で悩み出だした俺は、董卓がそれまで座っていた玉座から立ち上がったのを視界の端に見つけ、不意にそちらへと意識を取られる。
 そして、勢いよく頭を下げながら董卓が放った言葉は、俺にとって予想外な方向へと事態を動かした。


「北郷一刀様、どうかこの地に留まって、我々にお力をお貸し頂けませんか?」





「…………………………は? ええぇぇぇぇぇぇぇっ!? ちょ、えっ何でっ?!」

「うるさいわね、いいから少し落ち着けってのよ」

「ほれ、北郷、深呼吸や。吸ってー、吐いてー。吸ってー、吐いてー」

 ええ何がどうなってんの、と慌てふためく俺。
 つい先日にこの世界にわけも分からず放り込まれ、その世界が三国志、しかも武将の殆どが女性で、この世界に来た途端死にそうになったり、助けた女の子が董卓でイメージとは全く違って。
 そして今また、その董卓が自分達の仲間にならないかと誘ってくる。
 流れに流されっぱなしの急展開に、思考と理解が追いつくわけもなく、とりあえずは落ち着くためにもと、そんな俺を見かねた張遼の指示通り、深く呼吸をする。

「すー、はー。すー、はー。すー、はー」

「ひっ、ひっ、ふー。ひっ、ひっ、ふー」

「ひっ、ひっ、ふー。ひっ、ひっ……って、これ深呼吸じゃねえっ!? ちょっと文遠殿、何をさせるんですか!?」

「はっはっはっは! 北郷、自分おもろいやっちゃなぁ! くくくく」

 張遼の後を追うように始めた深呼吸だったが、釣られてした呼吸に、騙された、と思ったときにはすでに遅く。
 深呼吸から何故かラマーズ法へと移行していた俺を笑うかのように、腹を押さえ爆笑していた張遼を睨む。
 だが、その場にいたのは張遼だけではなく、当たり前ではあるが、その場にいた全員にそれを見られることとなってしまった。
 陳宮は何がそこまでおもしろいのか、地面を転げ回り、徐晃は必死で笑わないように顔を背けて。
 李確と徐栄は大声を上げないこそ、その肩は震えており。
 唯一、呂布と華雄が笑わずにいたが、華雄は何がおもしろいんだと頭をひねっていたし、呂布に至ってはただひたすらに肉まんを頬張っていて、話自体を聞いていたのかも怪しいものだった。
 端に控える武官や文官、侍女達にも笑われてしまい、もはや俺に残された手は、元凶となった張遼を睨む他しかなかったのである。



 それはともかくとして、董卓の提案は、現状を打破しえるものかもしれない。
 今みたいに自由に動くわけにはいかなくなるだろうが、組織の中にいなければ見えないことも出てくるだろう。
 また、このさき生きて行くにしても金銭は必要であり、さすがに全てを出してもらうわけにはいかない。
 となると、継続的に給金が与えられる職に就き、それを足場として情報を集めた方がいいのではないか。
 そもすれば、やはり董卓の提案は、首を縦に振るに値するものがあるのかもしれない。
 さらには、ここ数日見て分かったことだが、ここ石城には文官が足りない。
 今この広間にいる面々にしたって、軍師にしても賈駆と陳宮しかおらず、文官自体の数も武官の半分ほどしかいない。
 文字は読むことは出来なかったが、ようは古い漢文である、勉強すればどうにかなるかもしれない。
 
「どう、結論は出た?」

 張遼達と同じように笑っていた賈駆だったが、幾分落ち着いたのか、まだ少し口端をひくひくと震わせながら、問いかけてくる。
 それでも、そのまなざしは真剣さを含んでおり、その心中では俺が断った時に次の一手、或いは承諾した後の策略が、目まぐるしく構築されているのだろう。
 傍らに座る董卓も同様であり、こちらを伺う眼差しは至極真剣なものであり、俺の言葉を今かと待ち続けていた。

「……俺は、異国から来て、いつかは帰らないといけません」

 そんな董卓の視線に押されるかのように、自然と言葉が口から零れ落ちる。
 自分から発さなかったのは、おそらく、心のどこかで恐れてるのだろう。
 俺の知る歴史と違えど、今ここに時間が流れている以上、この瞬間も後に歴史として紡がれていくのかもしれない。
 この世界にとって異端である俺が歴史に登場する、それが如何に危うく、この時代にどんな流れを生み出すのかは、計り知れないのだ。
 歴史の特異点としてはじき出されるかもしれない、形を保てなくなった世界が崩壊するかもしれない。

 だが、俺という存在がこの世界に在る以上、もはやなるようにしかならないのも事実。
 異端である俺が死んでしまえば、それだけでこの世界にとって矛盾となるのだから。
 
 それに――

「故に、それまでの期間で宜しければ、若輩ながらもこの身、存分にお使い下さい」

 ――差し伸べられた手を払いのけるほど、俺は人間として腐っていないつもりである。
 そこ、腐男子とか言うな、それは違うぞ意味合い的に、俺は断じてそんなものではない。



  **



 その後、護衛兼伝令兼使いっ走り兼奴隷、とかいう訳の分からない、というよりは聞きたくはなかった役職を董卓と賈駆から任じられ、その翌朝に華雄に呼び出されたのが運の尽きだったのか。

 華雄曰く、護衛役の人間の武を計らないことには将軍として前線に行くのは不安である、との理由から開催されてしまった俺対豪傑との手合わせではあったが、悉く惨敗、むしろ生きているのが不思議なくらいである。
 
 呂布と三、華雄と四、張遼は先日のこともあって二、徐晃に三、李確と徐栄が一ずつと手合わせを行ったのだが、呂布と華雄に至っては手加減という文字を知っているのかどうかさえ怪しく、その全てが一撃で吹き飛ばされるという敗北だった。
 李確と数合打ち合えたのが最大で、張遼と徐晃は多くて三合、酷いときには初撃で破れ、徐栄に至っては明らかに手加減されながらも、その老練な技術に翻弄されたのだ。

 もはや獲物を持てない程に打ちのめされ、大の字に身躯を投げ出した俺はへとへとで、未だ動き足りないのか、華雄は呂布と戟を打ち合っていた。
 なんていうかあれだな、自分に向けられないのだったら見えるかと思ったけど、無理。
 視認する速度と体感速度には、その見方によって若干の違いが確認できる、なんて何かで読んだ気もするが、あそこまで行くと全くもって意味がない。
 打ち付け合う甲高い音だけが聞こえ、その動きには目が追いついていかない。
 突き、なぎ払い、打ち付け、突き上げ、と意識している間に、どんどんと展開は進んでいくのだ。

「ありえない……。何なんだ、アレ……?」

「そうかぁ? ウチからしてみりゃ、こんだけ喰らってまだ意識のある北郷の方が信じれんけどなぁ」

「そうですぞ、北郷殿。儂らなど、もはや手合わせをしようなどとも思わんのですからな」

「お前と一緒にするな、稚然。とは言うものの若い頃ならともかく、歳をくった今では、恋殿や華雄殿、張遼殿には敵いもしませんがな」

「……すると父上、私には勝てるとでもお言いになると?」

「うっ! むぅ……琴音にも勝てんのか……」

 華雄と呂布の剣戟音を聞きながら、娘に頭の上がらない徐栄に、笑い声が上がる。
 申し訳ないと思いつつも、俺も久方ぶりに笑ってしまい、じろりと徐栄に睨まれ慌てて抑えた。

「……朝から騒がしいと思ったら、あんた達だったのね」

「ああ、文和殿。おはようございます。それに公台殿も」

「おはようなのです……ふわぁぁぁぁ」

 顔を洗ってきたのだろう、眼鏡の位置を直しながら現れた賈駆に、眠たげな眼をこすりながら現れた陳宮だったが、その欠伸でずり落ちそうになった大きな帽子を支え、頭に乗せてやる。
 うぬ、とか未だ寝ぼけているために、何が起こったのかは分かっていないだろう。
 俺は苦笑しながら、賈駆へと視線を向ける。

「それにしても、二人とも眠たそうですね」

「……あんたが参加するに至って、文官や軍の編成について、いろいろと考慮しなければいけなかったのよ。指揮系統や伝令班のこともしないといけないし、頭が痛いわ」

「それは、まぁ……実に申し訳ない」

 そんな苦笑も、暗に俺のせいだ、と言外に責められ、引っ込めざるを得ない。
 昨夜、承諾の意を示した俺は、護衛兼伝令兼使いっ走り兼奴隷などという役を頂いた訳だが、その内容には様々なものがあった。
 
 一つ。
 戦場においては、本隊である董卓と賈駆の護衛を任とし、指示があるまではそれを遂行する。

 二つ。
 伝令班の統括、ようするに班長としてこれを指示し、前線の各隊へと軍師の指示を送る。

 三つ。
 多忙で身を空けることの出来ない董卓と賈駆に代わり、その欲するものを買い求める。

 四つ。
 平時において、指示が無ければ街の警邏を任とし、指示が入りしだいこれを優先とする。

 五つ。
 賈駆の奴隷として、彼女の指示に従い、これを崇める。

 まぁ他にも細かいものがたくさんあるが、概ねこんな感じである、一部意味不明なものもあったが。
 伝令班の班長と言うのも、何の実績も持たない俺が董卓や賈駆、他の将軍達と共にいるのはおかしいだろうということで、臨時に創設した役職である。
 ただ、伝令と言えば将の周囲にいる軍兵が偶々その任に就くのが一般的ということもあり、現時点では特にすることはないのだが。
 現時点で、というのはこれから勢力が大きくなっていき、戦の規模も大きくなるに伴って、伝令を専門とした部隊を作ることは賈駆や陳宮が元々考えていたことらしく、この世界に慣れたら部隊創設を手伝うということになっている。
 将来的には、偵察にもこの伝令部隊を用い、ある程度の戦闘も可能な部隊を作りたいとのことらしい。

 そんなこともあって、俺がいてもおかしく状況が作られた訳なのだが、こう叩きのめされてしまうと、それで本当に良かったのかと疑問に思えてくる。
 
「みなさん、おはようございます」

「おはようございます、仲頴殿、ではなかった仲頴様」

「…………」

「……あの、仲頴様?」

 そんなことを考えていると、不意に背後から声がかかる。
 とは言っても、春夜の月光が如く柔らかいその声の持ち主は、俺の知る限りでは董仲頴しかいないのだが。
 麾下になったということもあって、殿ではなく様呼びになったのに不服なのか、見上げられる形で睨まれてしまった。
 図らずも、美少女から、である。
 その破壊力は凄まじいものがあり、睨む、というよりは拗ねると言ったほうが近いその有様に、俺は押されてしまう。

「……仲頴様?」

「…………」

「……仲頴様…………はぁ、仲頴殿」

「はい、おはようございます。北郷さん」

 最早どうにもならん、と仕方なく、本当に仕方なく董卓の無言の圧力に屈してしまったのは。
 抵抗出来るか、いや出来るはずはなかろう、段々とまなじりに涙を溜め、その頬に紅が差していくのである。
 もはや、直視出来たものではない、しかし、視線をずらせば何故か負けた気もする。
 そんな俺に打てる策は既に無く、不承不承と呼び方を変えるしかなかったのである。
 
 呼び方を変えたところで、ぱぁぁっと変貌した董卓の笑顔である。
 反射的に俺は視線をずらしてしまっていた、だがこの場合は仕方がなことだろうと、声高らかに主張したい。
 とりあえず色々やばい、俺の精神状態が。

 そんな俺に気がついたのか、それとも呼び方を戻したのが気に入らなかったのか。
 ふと視線に気づくと、今度は賈駆が睨んでいた、否、蔑んでいた。
 明らかに両者であろうが、賈文和なら気づいて欲しい、あのような董仲頴には決して敵わないでしょうと。

 あっ、目を逸らした。

「………………恋、お腹すいた。…………ねね、一刀も」

「あっ、えっ……!? ちょっと、奉先殿?!」

「恋殿早く行こうなのですよ! 奴隷、仕方がないから貴様も来るのです!」

 何時の間に近寄っていたのか、不意に腕を拘束されて、半ば引きずられる形で食堂へと連れて行かれる。
 見れば、先ほどまで呂布と手合わせをしていた華雄は倒れており、その肩は大きく動いていながらも悪態をつく元気があるので、意識はあるらしい。
 とはいっても、あの呂奉先にぼこぼこにされたのなら、しばらくは動けないかもしれないなと思い、後でまた覗いてみることにした。
 それはさておき、奉先殿、腕を抱えて引っ張るせいで当たっています、。
 何が? それは言わぬが仏かと。

 そして、呂布を先頭に、みんな揃ってぞろぞろと食堂を目指すころには、朝食の香ばしい匂いが、俺の鼻腔へと届いていた。




 **




 涼州石城において、北郷一刀が叩きのめされる数刻前。
 その地より遠く離れた緑茂る山中において、暗闇の中に人がいた。

 色こそ闇夜に紛れて判別が難しいものの、そのゆったりとした服は動きを阻害しないように作られているのか、その佇まいにも隙がなく、周囲と同化するようであって一つの刃物のように張り詰めていた。
 
「ただいま戻りました」

 不意に、背後から声がかかる。
 凛としながらも透き通り、どこか甘さを漂わせるその声は年若き女子のものであり。
 その声を発したであろう女子は、頭垂れるかのよう片膝をついていた。
 それは、従者の主に対して礼のようであり、それ自体は間違っていないのだろう、その女子の言葉に、それは満足気に頷いた。

「ご苦労だった……。して、奴らはこちらの言うことを聞いたか?」

 そして、そう答えた声は力強くも耳に響く男のものであり、その雰囲気と相まって一層刃物らしくあった。
 
「はっ、ご指示の通りにしましたところ、思うところはあったのでしょうが、承知したとのことでした」

「そうか……。概ね、こちらの予定通りというところ、か」

「…………しかし、あのような者達などに頼らなくとも」

 しかし、男の言葉に不満を隠すことなく答える女へと、男は苦笑混じりに答える。

「仕方が無いだろう。少なくとも、俺が手を出すわけにはいかん」

「それは……承知しておりますが」

 徐々に小さくなっていく女の声。
 それを置き、男は闇に染まる前を見据え、そこにある何かを掴むかのように手を伸ばす。

「どちらにしろ、全ては動き始めた……。最早、止めることなど出来ん」

 そして。
 男はその両手を広げたかと思うと。
 衆に告する王のように。
 物語の開幕を、宣言した。

「全ての時は動き出したッ! 北郷一刀よ、この新たな外史で、貴様はもがき苦しみ、そして消えるのだッ!」

 全てが闇夜に染まる空間の中にその声は消えていき、後に残ったのは、虫も鳴かぬ静寂と、それを表現するかのように妖しく煌く、男の顔半分を覆う白い仮面であった。
 


  **


 
 俺が董卓配下となって、数日後。
 文字を学び、護衛として動けるようにと連日の如く叩きのめされていた俺は、何かに急かされるように駆け込んできた伝令によって、騒然の渦に巻き込まれることとなる。
 
 
 黄巾賊襲来、賊目指すは涼州が石城。



[18488] 六話 黄巾の乱 始
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 09:36
 黄巾賊襲来、その報は瞬く間に駆け巡り、石城は騒然の渦へと叩き込まれた。

 初めは後漢王朝の圧政から民を救うため、と蜂起した黄巾賊も、いまや略奪暴行殺人なんでも有りの、史上最大規模の賊徒である。
 それらの凄惨さを知っている民は、ある者は巻き込まれるのを恐れ逃げ出し、ある者は己の家を守るために兵となり、ある者は全てを諦めた。

 その数、およそ五千。

 全兵で二十万、信徒も含めれば百万は下らまいと言われる黄巾賊からしてみればその数は遥かに少ないが、それでも石城において即動が可能な兵力が二千ということを鑑みれば、二倍以上となる。
 
 篭城か、出撃か。

 どちらの策を取るにしても、勝利以外には安寧を再び得ることは叶わず、民としても己の命を優先として騒然とするのは、至極当然のことと言えた。





「打って出るッ! 賊徒なぞ、我が武にて叩きのめしてくれるわ!」

 そして、その対策を練るためにと集った城の広間において、華雄の第一声が軍議の開始を宣誓する。
 宣誓と共に槍の石突にて打たれた床は鈍く振るえ、生じた音からよほど力を込めて打ったものと推測された。

 陳宮に文字を教わり、呂布に鍛えられ、張遼に警邏に連れられていた俺は、城からの呼び出しに応じ、張遼と共に合議の間へと辿り着き、そこで華雄の声を聞いたのだが。
 華雄だけでなく、そこにいる全ての人が俺の知る皆ではなく、武人武将の顔へと変わっており、その空気までもが、引き抜かれた刃のように研ぎ澄まされていた。

「やっと来たわね。早速だけど、軍議を続けるわ。時間が惜しいの」

「すまん、ちょっと荒れとんのがおったんや! 状況はどないな?」

 張遼の緊張した声に、つい先ほどまで笑いあっていた彼女の面影はどこにもなく、俺は改めてここが三国志、戦乱渦巻く古代中華なのだと思い知らされる。
 そして、彼女たちが作り出す空気は真剣そのもので、状況が予断を許さないものだと、暗に示していた。
 俺自身も、黄巾賊が責めてきたという現実と、この広間の緊張感に押しつぶされそうになるのを、丹田に活を入れることでなんとか耐える。

「斥候の報告によれば、黄巾賊の総数は四千から五千。周囲に待機している部隊もないことから、即席に出来上がった部隊、というよりも自然に出来上がった群衆といったところかしら」

「それにしても、ちと数が多いぞ。如何にして対する?」

「決まっております、玄菟殿! 全兵にて出撃し、賊などは蹴散らしてしまえばいいッ!」

 徐栄の問いかけに、華雄が勇ましくそれに答える。
 とはいっても、少ない日数ながらも華雄がそう言うであろうというのは、浅い仲の俺でも予測出来ていたことだが、ここまで予想通りだというのも凄いものがある。
 どことなく、彼女は武、力を信じて疑わない節があるように思う。
 どの時代、世界にもこういった人物はいるもので、時には知識、時には金銭、と多種多様に妄信するのだ。
 そういった人達はえてして不安定なもので、信じる拠所を失ってしまえば簡単に崩壊してしまうのは、容易に考えれることなのだ。
 そんな危険性を感じる華雄を見やりながら、頭痛を抑えるかのように李確が呟いた。

「葉由よ、戦は打って出れば勝てるものではないと、常から言っておろう。敵を知り、己を知って、機に乗じることで、勝利を収めることが出来るのじゃと」

「うぐっ……。し、しかしこのまま篭城すれば、いずれは門を破られ、民にまで被害がッ!」

「じゃからこそ、安易に流れるなと言っておる。幸い、斥候の話ではここに至るにはまだ時間があるとのこと。群衆ゆえに、行軍は統制が取れておらんらしい」

 歴戦の将である李確に言い含められ、若干大人しくなる華雄。
 その様は噴火前の火山のようで、静かに怒りと憤りを溜め込んでいるかのようである。
 それでも、古参の臣である李確には強く出れないためか、その発散場所を求めて瞳を血走らせていた。
 そんな華雄に、溜息をついた李確は、軍師である賈駆へと視線を向ける。

「詠よ、何か良い策はあるか? 籠城にしろ出撃にしろ、策無しでは些か厳しいぞ」

「左様、このままいけば苦戦は必至。ねねも、何ぞ策は無いのか?」

「むむむ、うーむ……。ま、まあ恋殿がいれば、策など不要なのですぞ!」

「………………あるわ」

 徐栄の言葉に、呂布の武ならばと言い放つ陳宮だったが、それでは先ほどの華雄と同じである。
 案の定、徐栄は頭を抱えるのだが、そんな空気を切り裂くかのように、賈駆がぽつりと零した言葉に、その場の皆が反応する。

「本当、詠ちゃん?!」

「とは言っても、こちらの兵数が少ない以上、総力戦になるけどね。ただ、相手の統制が取れていないのなら勝機はこちらにあるわ」

「……詠、凄い」

「この若輩、如何様な命にでもお応えしましょう。して、その策とは?」

 董卓に誉められたからか、若干紅潮した頬を隠そうともせずに、賈駆は地図を指さした。
 その地点は、両横を山に挟まれながらも、軍が機動するには十分な広さを有している平原であり、黄巾賊が石城に至るには通らなければならない場所でもある。
 そこを覗き込む徐晃の問いに答えるかのように、何故か俺を見やりながら、賈駆は自身満々にと言い放った。




「逆さ魚鱗よ」





  **





 あと数里で石城の城壁が見えるだろうという地点、皆一様に黄色の布を身につけた集団の中に、一人だけ馬に乗る男がいた。

 馬元義。

 黄巾賊はその内実、二つに分けられる。
 結成初期の頃、教祖である張角を筆頭に、張宝と張梁を含めた三人を慕い敬愛し、そして今まで付いてきた黄巾賊。
 その初期の黄巾賊の勢いに便乗し、生きるためや己が欲望を果たすためにと合流した黄巾賊。
 今や賊徒暴徒と成り果てた黄巾賊の中で、馬元義は後者に分類される側だった。
 とは言っても、生きるため、という訳ではない。
 村と見ればこれを襲い、子供老人と見ればこれを殺戮し、女と見ればこれを陵辱する。
 先に襲った村でもこれを実践し、黄巾賊の手本とも言うべき男である。

 そんな彼だが、今はこの集団の指揮をしていた。
 というのも、先日ある女から指示されたものだ。
 涼州石城において、その地に住む白き衣を纏った男を殺す、他の者、太守である董卓やその軍師の賈駆などは、思う存分に陵辱して遊べばいい、とのことだった。
 白き衣を纏った男、などという曖昧な指示ではあったが、女の顔半分を覆う白い仮面に、馬元義は震えを覚えながら頷くしか無かったのである。
 
「……まあいい。石城は栄えていると聞くからな、女も金も選り取り見取りだぜ」

 石城の董卓の下には、優秀な将が多いと聞くが、先の情報ではこちらの半分以下の兵しかいないと聞く。
 いかに将が優れていようとも、戦いは数である、負ける要素など探す気になどならなかった。
 唯一警戒すべきは、洛陽か西涼からの援軍だったが、要請の早馬を出したという情報もない。
 どちらにしろ、明日には石城を指呼の距離にとらえれるのだから、今更では間に合わないというのもあるが。

 石城に踏み込んだ後のことを考え笑いが止まらない、そんな時だった。
 前衛から伝令が届いたのは。


「董卓軍、石城を出撃しこの先の地にて、布陣しております!」  
 





「魚鱗の陣か……。なるほど、官軍よりは頭のいいのがいるらしいが……無駄なことを」


 奉川から石城に至るまでの道程、その途中に董卓軍はこちらを待ち構えていた。
 見れば、董卓軍の両横には山が聳えており、側面からの攻撃に弱い魚鱗の陣であるからして、そこには兵が伏してあるに違いない。
 かといって、後方に回り込もうにも、層の厚い魚鱗の陣からならば、如何様にも部隊を出すことが出来、それは困難を極めるだろう。
 となれば正面攻撃しか手は残っておらず、それならば兵力の差はそれほど関係は無くなる。
 地の理を活かした見事な陣形に、馬元義は感嘆すると共に、しかしそこに勝機を見つける。

 前方に布陣する董卓軍は、見ればおおよそ千五百ほどか、山に潜む兵を加えても二千には届かまい。
 この地においてこちらを待ち構えていたのは、こちらの半分以下の戦力で最大限の戦果を上げる、つまりは勝つために、ここしか無かったのだと推測される。

 ならば、策を構えるこの道を外れ、他方から攻め寄せるも良策ではあったのだが、策を逃れれば策に捕まるということを、馬元義は理解していた。
 そして、このような策に頼る以上、どちらに向かってもそれが防衛線であり、拒むものはなにもないだろうとも。

 
「ならば、そのような愚策に付き合う理由もあるまい……。聞けぃ皆の者、これより我らは前方の董卓軍へと攻撃を仕掛けるッ! 数はこちらの方が上だ、恐れることは何もないッ! 強奪殺戮陵辱何でも有りだ、己が欲望を果たせ! 温まりながら享受するしかない軟弱者共に、地獄を見せてやれい! 全軍突撃!」

 ならば、全軍をもってそれを食い破ればいい。
 見れば、前衛たる部隊には真紅の呂と、黒淵の華の旗があるが、その総数は五百にも満たないだろう。
 それを全軍にて一呑みにし、そして後衛をも食い破れば、最早止めるものは誰もいないだろう。
 石城へと襲いかかり、そのまま石城太守として天下一統を目指してもいい。
 そのついでとして、白き衣を纏った男を殺し、報告のついでに白い仮面の女も襲ってしまえばいい。
 女などに使われる自分ではない、逆に自分が女を欲望の捌け口に使えばいい。
 
 最早、負ける要素などどこにもなく、ただただ勝利の二文字を待ち望むだけである。

「ふん、董卓軍恐るるに足らず! このまま石城まで突っ切ってくれるわッ!」



  **



「……とか何とか言ってそうね。簡単に想像出来るわ」

「へぅ……。詠ちゃん、いくら何でもそこまでは……」

「いいえ、仲頴殿。俺も文和殿に賛成です」

 視界の向こう、ほんの少し行けばそのただ中に身を置ける距離に黄巾賊を捉えたかと思うと、その全軍がこちらへと前進してきた。
 結構な余裕を持って布陣をしてるため、あり得ないことではあるのだが、その咆哮がここまで聞こえてきそうである。
 
 一里、日本では四キロメートルであるが、古代中国は五百メートルほどだったらしい。
 それだけの距離を、後衛に就く徐栄の部隊から離れ、俺の属する董卓の部隊はあった。
 とは言っても、総勢百ほどしかいないこの部隊は非常事態の護衛にしか過ぎず、軍としての兵力はほぼ全てが対黄巾賊へと当てられている。
 ほんの少しだけ高地になっているそこからは、その様がよく見えた。

「予想通り、全軍で恋と華雄の部隊に当たってくれたわね……。伝令、全軍に指示を。予定通り、少しずつ後退していってと伝えて」

「はっ!」

 賈駆が呼ぶやいなや、近くにいた兵が頭を垂れ、その指示を仰ぐ。
 かと思うと、すぐさまに近くに留めてあった馬へと乗り込み、前衛へと駆けていった。
 うぅむ、そのうち俺がこういったのを纏めるのか……まずは馬に乗れるようにしなければ。
 乗れなければ話にならないと言われ練習しているのだが、連敗続きの乗馬訓練を思い出し、心なしか尻と背中が痛んでくる。
 
「恋さんと華雄さん、大丈夫かな? 怪我とかしてなければ……」

「大丈夫でしょ、あいつらなら。ねねも付いてるんだし、指示通り動けているみたいだしね」

 言われてみれば、伝令が届いたのか徐々にと後退していくのが見える。
 呂布はともかくとして、猪突猛進を描いたかのような華雄が、よく指示を理解出来たなと思ったりもしたのだが、決して面と向かっては言えまい。
 冗談無く、首が宙を舞いそうで怖い。
 ともかく。
 魚鱗の形のままに後退していく様に、董卓軍がよく調練されているのが分かり、その将の指示も的確なことは理解出来た。
 いやそれにしても、今度陳宮に華雄の御し方を聞いておこう、仕合と言う名の虐待を止めてもらえるように、うんそうしよう。
 
 そんな董卓軍の動きとは対照的に、逃げていく餌を追いかける魚の如くの黄巾賊は、段々とその体勢をを細く長くと変形させていく。
 統制が取れていない故のその変化は、必然的に呂布と華雄が当たる黄巾賊の兵数が減ることを意味していた。
 統制が取れていないとは、何も軍としてのものだけでない。
 ここで、黄巾賊の成り立ちが関わってくるのだが、彼らは大まかに生きるためにという人々と、欲のためにという人々に分けられる。
 どちらにしても賊徒ということに変わりはないが、目の前にいるのは中華最強の武である呂奉先と、董卓軍最強の部隊を率いる華葉由である。
 生きるためにという人々はその命を惜しむために後退する董卓軍を追う速度を緩め、欲のためという人々は、将であっても美女美少女である呂布と華雄を得ようと、その速度を速める。

 結果、先ほどまで密集して呂布と華雄に当たっていた黄巾賊はその体勢を崩すこととなり、欲のためという人々が前衛、生きるためという人々と本体が後衛という形に分割された。
 
 そう、五千の兵が半分、二千五百ずつへと。

 それを待ち望んでいた賈駆は、その変化を見逃すはずもなく、すぐさまに伝令を呼び出す。
 

「両翼の張遼、徐晃へ伝令! 件の如し、とな!」

「ははっ!」

「月、時は今しかないわ、命令を!」

「うん……。全軍、反撃!」

 賈駆の指示と、董卓の反撃の声。
 それを待ち望んでいた董卓軍は、すぐさま行動を開始する。
 初め、こちらを飲み付くさんとした黄巾賊を、今度はこちらが飲み尽くすように動き始めたのだ。
 後曲両翼に位置していた張遼と徐晃の部隊は前進し、呂布と華雄の部隊を追い越す。
 そしてそのまま黄巾賊の両側へと出るやいなや、すぐさまにその側面へと攻撃を開始した。
 呂布と華雄は間を空け、その隙間には損傷していない徐栄の部隊が埋まり、そこを基点に反撃を開始する。
 空いた隙間から攻め寄せようとした黄巾賊は徐栄の部隊に蹴散らされることとなり、群衆から離れ出て突出した者達は、張遼と徐晃から横撃を喰らいて撃破されていった。


 魚鱗の陣を逆さにすることによって、瞬く間に鶴翼の陣へと変化させる。
 賈駆の指示によって、張遼が俺を試した際に答えた逆さ魚鱗の陣、それをさらに改良させた今回の策、逆さ魚鱗の計。
 鬼謀神算、賈文和が編み出したそれは、今まさに黄巾賊を食らいつくさんとしていた。




  **




「馬鹿な……っ! あり得ん、認められるかこんなことがァッ!?」

 先陣壊滅。
 董卓軍二千を覆い尽くすためにと突出していた黄巾賊二千五百は、魚鱗の陣から鶴翼の陣へとその姿を変えた董卓軍によって包囲され、その多くを討ち取られることとなった。
 賢明に奮戦した者もいるらしいが、生き残った多くは投降し、初め五千あったこちらの兵力も、いまや半数以下へと数を減らしてしまっていた。
 
「董卓軍、反撃と共に前進しておりますッ!」

「分かっておるわ、そんなことッ! 後退だ、後退せいッ!」

 嵌められた、そう嘆く前に馬元義は後退の指示を出す。
 その数を大きく減らしても、それでも董卓軍よりは多いのだ。
 その中からある程度を壁にすれば、この地を脱することも叶うだろう。
 しかる後に、再び兵を集め他方より攻め寄せるもよし、別の土地にて同胞に合流するのもいいだろう。
 そんな未来予想図は、しかして後方からの悲鳴に破られることとなる。

「ば、馬元義様! こ、後方に……」

「今度は何だっ!? 後方に何が……」

 混乱の最中、慌てるように駆けつけた伝令の言葉に、これから撤退するであろう後方を見やる馬元義。
 その視界の先、既に対陣した地点から大きく離れた見えたそこには、両横の山から下る軍勢が見られた。
 戦の初めに、兵を伏しているだろうとした山からである。
 その予想は的中したことになるのだが、失念していたことも含めて、この時ばかりはそれを恨んでしまう。


 飾ることのない、白地に李の文字。


 董卓軍最古参の将として徐玄菟と対を為す、李稚然の旗印。
 己を飾ることなく、主を支える忠を示すための白地の旗は、しかして黄巾賊にとっては黄泉送りのための使者にしか見えることはなく。
 ここに、黄巾賊は全方位を囲まれることとなったのである。

「ぐぬぬぬぅ。 全軍反転し、一気に駆け抜けるぞッ! 者ども、続――」

「させない」

「けぇぇ……ぇ?」

 そして、反転し後退しようと馬を返した馬元義は、そのままに駆けようとし。
 不意に後ろから聞こえた声に、違和感を感じてしまう、否、感じてしまった。

 動かそうとする体の感覚が消え、もどかしさを感じてしまう。
 気怠いような、それでいて睡魔に襲われたか如く朦朧とする意識の中で、視界に先ほどまで自分の身躯だったものが映り込み。
 
 まるで滑るかの如く、己が何をされたのかさえ理解出来ぬまま、馬元義の首は地へと転がり落ちることとなった。
 
「……敵将、討ち取った」

 それをなした赤毛の少女、呂奉先は再び無造作に戟を振るう。
 力でもなく、技でもなく、ただそれが当然かのように振るわれた戟は、その軌道上にあった悉くを切り伏せることとなり、周囲には首と鮮血が舞った。

 そして事ここに至って、黄巾賊は自分達が最早攻めることも退くことも出来ないのだと気づくに至り、逃散する者、投降する者、反撃する者とそれぞれが動くこととなった。
 そうなってしまえば、先ほどまで群衆だった黄巾賊は最早烏合の衆と成り下がる。
 そんな黄巾賊が組織的な行動を行える筈もなく、董卓軍の徹底した攻撃によって、実に二千余名が討ち取られ、千五百名ほどが投降することとなった。


 
 こうして、石城周辺における黄巾賊との戦いは、董卓軍の電撃的な勝利という形で幕を閉じ、董卓軍は周辺地域においてその武名を知られることとなる。
 それは都である洛陽を始めとして、西涼、荊州、揚州、幽州、豫州と各地において広められ、各地にて割拠する数多の群雄にも知られることとなる。
 そしてその情報には、ある一つの噂が付き従うことになる。
 北郷一刀が、そして董卓軍の面々がそれを知るのは、黄巾賊との決戦を目前に控えた時だったりするのだが、この時の彼らには想像だに出来る筈もなかったのだ。




  **




 そんなこんなで、倍以上の黄巾賊を打ち破った董卓軍は、石城の民の熱狂にて迎えられることとなる。
 十倍以上もの黄巾賊を押しとどめた呂布に華雄、その部隊を巧みに操った陳宮。
 神速を以て黄巾賊に痛撃を与えた張遼に徐晃、そして徐栄。
 そして最後の止めとばかりの李確の軍勢。
 それらを束ねた董卓に、策を投じた賈駆もまた熱狂の渦に巻き込まれる形となり、彼女達に従う俺もまた、済し崩し的にそれを余儀なくされた。
 いや、凄いね人の波って、乗車率四百パーセントの電車に乗るインド人の気持ち、よく分かった気がします。


 人の波に飲み込まれた兵を置いて、首脳陣だけでなんとかこうにか城にまで辿り付くことが出来た俺たちは、早速広間へと集まり軍議を起こす。

「此度の勝利、皆さんの頑張りのおかげです。本当に、お疲れ様でした」

「いやいや、月様だからこそ皆従い戦ったのです」

「父上の言う通りです、月様。この徐公明、月様と石城が民のため、これからも励みたいと存じます」

 その場にいる全員の気持ちを代弁した徐親子の言葉に、董卓はもう一度頭を下げて慰労の言葉を残す。
 その言葉に、人それぞれに応えているのだが、俺としては特に何かを成した訳でもないため、それに応えることはなかった。

「それで、捕らえた黄巾賊は如何なさいますか? ちと、数が多いですが」

「それについては、軍役を望むものは兵に、それ以外は希望を聞いて必要な物資を配給することにするわ。特に何も無ければ畑を耕してもらおうかしら」

「なるほどな、軍備増強と働き手の確保、両方やろうちゅーわけか。新兵の訓練は華雄か?」

「ええそう。ここもそれほど裕福という訳ではないし、いつまた黄巾賊が襲ってくるかは分からないからね。頼める、華雄?」

「任されたッ! 早速草案を練ってくるゆえ、先に失礼する!」

 本当に今日一戦してきたのだろうか、そんな疑問を有するほどの勢いで広間を出て行った華雄の背中を見送って、再び広間へと視線を向ける。
 戦場では鬼神の如くな呂布が舟を漕ぎ始めた以外は通常であり、そんな彼女にしょうがないといった顔をしながらも賈駆は続けた。

「明日からは各部隊の被害状況を纏めて、必要な物資や兵があれば早めに申告すること。霞は周辺地域に偵察を派遣するのも忘れないで。……他に何かある? 無ければ、今日の所は解散ということで」

 賈駆も疲れているのだろうか、よくよく見てみれば疲労の色が見て取れる。
 まぁ、確かに出撃が決まって不眠不休で働いていたのは知っているのだが、元が元気そうなだけにすっかり失念していた。
 急かすように周囲を見渡す賈駆から視線を外せば、皆同じように疲労を感じさせていた。
 ……なぜ、華雄だけがあれほどまでに元気なのか、謎なところではあるが。
 そして、誰からともなく頷いたかと思うと、いつの間にか暮れていた日に従うが如く、その場は解散となったのだ。





「だからと言って、眠れるわけでは無いんだよなぁ……」

 と呟きながら、城壁に至る階段を上っていく。
 俺がしたことと言えば、逆さ魚鱗の計の元案となった陣形の提案と、戦の最中に周囲に気を配っていたことぐらいだ。
 戦闘に関わったわけでもないし、かといって走り回ったわけでもない。
 何にもしていない、それこそ口を出しただけである。

「うーむ、酒でも飲めればいい感じなんだけど……」

 敢えて言おう、俺は下戸です、一杯呑めればいい方です。
 祖父は根っからの酒飲みで、それこそ水の如く飲んでいたのだが、俺は母親に似たのか殆ど呑めない。
 父親はそれなりに呑めたらしいのだが、今更言っても始まらない。
 仕方なく、夜の海に沈む街並みでも眺めるか、とらしくなく詩人のように考えた俺だったが、城壁の上に見知った顔を見つける。

 向こうも俺に気づいたみたいで、こちらに近づいてくるのだが、その髪と雰囲気が薄く輝く月に映えて、一つの芸術のようであった。


「どうされたんですか、北郷さん?」



 董仲頴、董卓軍の長たる少女が、そこにいた。
 



[18488] 七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/24 15:17


「……月?」

 喉の渇きにふと目が覚めて、水を飲んだついでに、主君であり幼なじみでもある月の寝室を覗いてみる。
 普段からよく出入りをしているから、様子を見るというだけだったのだが。
 覗いたその部屋の中に、探し人は見つからなかった。

 一瞬嫌な予感が頭を過ぎるが、ふと城壁の上に月光に光るものを見た気がして。
 そこでやっと、探し人がいつもの如く部屋を抜け出して、夜風に当たっているのだと気づく。

「……おじ様とおば様も、よく抜け出していたものね」
 
 初め、若くして石城太守となった月の父は、政務の途中でも息抜きと称してよく抜け出していた。
 多くの者がそれを戒め、そのときはそれを聞くのだが、少しすればまた抜け出すのだ。
 押し問答のような日々が続くにつれ、周囲も段々とそれを許容して、収束していったのだが、最後までそれを良しとしない武官がいた。

 それが月の母。

 男にひけを取らない武に、柔軟な発想は石城において無くてはならない将だったのだが、ただ一つ、月の父の脱走癖だけには厳しく当たっていたのだ。
 他の者が諦めようとも、そう言いながら雷を落とす月の母と、それから逃れる父は、石城において名物と言っても過言では無かった。
 
 元々、洛陽の官僚として勤めていた月の父だったのだが、優秀過ぎるが故に周囲に疎まれ、若さも相まって僻地である石城へと、名目上は栄転として赴任してきた。
 そんなものだから、猜疑と見栄に塗れた生活に嫌気が差した彼は、必要最低限の仕事をするに止まるのだが、そんな中に物事をはっきりと言い、感情さえも真っ直ぐにぶつけてくる月の母が現れたのである。

 月の母もまた、女だてらに石城一の武を誇り、文官に負けず劣らずに働くものだから、周囲からは疎んじられていた。
 この時代、男より優れた女など、数え切れないほどいる。
 そんなものだから、下らない自尊心ばかり尊大な男は優れた女に劣等感を抱き、質が悪いのになるとそれを公然と表すのまでいる。
 中には力ずく、という男もいるのだが、そういったのは大抵身を滅ぼすことになった。
 月の母もまさにそれで、本心では争いを好まないながらも身を守るためにと強くなっていったらしい。
 そんな中、自分という存在を知ってなお態度を変えず、また自分自身をぶつけることが出来、さらには面倒そうながらもそんな将達の関係を改善させようとする、月の父が現れたのである。
 後に、配下の将同士が仲違いしてたら仕事が滞ってさぼれないから、と本人から聞くはめになるのだが。
 共に聞いた、否聞いてしまった月の母に感じた恐怖は、未だに忘れられるものではない。

 そんな二人の仲が零になるのは、さして時がかからなかった。
 が、人間恋をすると変わると言いますか、結果として脱走癖を持つ者が一人から二人に増えたのである。
 それは、月が生まれてからも変わることはなく、古くからの臣である徐栄や李確が苦言しても変わることは無かった。
 ボクも、月と共にその背中を見て育ったのだが。
 そんな両親に似てしまったのか、月もたまに抜け出すようになってしまったのである。
 月自身は、民の生活を近くでみて実感する、という理由ではあるのだが、こればかりは、月の両親でも恨み言を言いたいかもしれない。

 あの男、北郷一刀に助け……を拾った日も、街の外に抜け出ようとしていた子供が黄巾賊に襲われそうになっているのを、抜け出した月を見つけた時に偶々助けたのだ。

 脳裏に浮かんだ北郷一刀を頭を振って消し去ると、目指す城壁の上からふと声が聞こえた。
 儚げながらもよく聞こえる声は月のものだが、話をしているもう一人は誰のものだったか。
 
 近づくにつれそれが男のものだと気づくのだが、聞き慣れない声に李確でも徐栄でもない男の存在を探して。
 先ほどまで浮かんでいた人物像をはたと思いだし――


 ――あああいつか、とふと気づいた。




  **




 涼州石城、その城壁の上。
 戦勝の名残は、そこかしこで未だ続けられる宴に見られ、石城の街全体がそれを祝っているかのように、街は活気の中だった。
 肉を食べ、酒を呑み、皆で笑い、生を実感する。
 そうすることで、民達は明日を生きる希望とし、明日を望む欲にするのだと、俺は後々に聞くことになるのだが。
 そんな喧噪が、夜が帳を下ろしても尚続けられるのを、俺と董卓は見下ろしていた。

 普段のベールをかけた服装ではなく、至ってシンプルな、それこそ民の女の子が着ているような服に上衣を羽織っただけの董卓は、いつもとは違う雰囲気を纏っていた。
 いつもは豪華な服に隠れる形で、どちらかと言えば儚げな印象だったが。
 今の彼女は、どこか芯が通っているような、そんな印象を受けた。

「……騒がしかったですか?」
 
 そんな風に考えて、はっきり言えば見とれていたのだが、不意にかけられた言葉に邪念を追い払って答える。
 申し訳なさそうに話す董卓は、ここで知り得た董卓ではあったが、それでも街を眺めるその横顔は普段とは違うように見えた。

「いいえ。みんなと違って俺は働いていないから、疲れていないんですよ、眠ろうにも眠れないんです」

「くす、私もです。眠られないから、こっそり抜け出して来ちゃいました」

 苦笑する俺に、頬笑みで返す董卓。
 女性の、というよりも悪戯が見つかった子供みたいなそれは、彼女の新たな一面を俺に見せてくれて。
 ついつい、俺の口調も悪戯小僧のようになってしまう。

「それはそれは、文和殿に露見すればさぞご立腹のことでしょうね」

「そうなんです。ですから、北郷さんには、口止めをお願いしたいんですけど」

「ふむ、あの文和殿を誤魔化す……。勝算はおありで?」

「ふふ、そこは北郷さんの手腕に頼る、ということで」

「これは大変、仲頴殿の期待を裏切るわけにはいきませんな」

「ええ、期待していますよ」

 そこまで言って、お互いにくすくすと笑い始める。
 それは段々と大きくなっていき、そしてどちらからともなく声を上げたものになっていた。
 ここ最近、こちらの世界に来る前も含めてだが、声を上げて笑うことなど無かったかもしれない。
 苦笑ばかりだったかな、と久方ぶりの笑いを堪能しながら思考して、不足してきた酸素を深呼吸で取り入れる。
 見れば、董卓は未だに笑いから帰ってきてはなく、そんな彼女に石城の人々はよく笑うのか、と考えてしまう。
 ……賈駆にいたっては、初対面で爆笑されたしなぁ。
 眼下の街から聞こえる笑い声に混ざるかのように上げられたそれだったが、ふと呟かれた董卓によって遮られる。

「…………黄巾賊の人達とは、本当に戦わなくてはいけなかったのか? もしかしたら、共に笑いあえる方法があったかもしれない。……そう悩んでいたら、眠れなかったんです」

 先ほどとは違う、苦笑混じりに言う董卓に、俺は何も言えなかった。
 この時代において、民を含め多くの人はいつ死ぬとも知れない生活を送っている。
 運が良ければ、争いに関わることもなく、安寧平穏に過ごして寿命を全うすることも出来るかもしれない。
 だが、いつ争いに巻き込まれるか分からない情勢の中、やはり己の命を守るためには戦うしかない。
 たとえそれが、食う生きるに困窮している人々が相手でも、である。
 元々は同じ民であったのに、今を生きる人々は互いに殺し合う。
 それを救える方法があったかもしれない、戦わずに分かり合える方法があったかもしれない。
 そう董卓は、涙を流すことなく慟哭していた。

「私にもう少し力があれば……黄巾賊の人達も救えたかもしれない。もっと頑張っていれば、涙を流す人もいなかったかもしれない……。そう思うと、本当に私が太守をしててもいいのかって、どうしても悩むんです」

 詠ちゃんには心配しすぎってよく怒られるんですけど。
 そう言ってはにかむ董卓だが、その笑顔もどこかぎこちない。
 太守、その仕事がどういったものかは、俺は理解出来ていないのだが、それでも、混迷するこの時代の中で、どれだけの太守が董卓と同じ悩みを抱えているのか。
 否、抱えている者が少ないからこそ、今の現状があるのかもしれない。
 賈駆や街の人々から聞いた話だけでも、それは容易に想像出来ることである。
 これから先、俺の知る歴史では多くの群雄がしのぎを削り、大陸の覇権を争っていくのだが、そんな中で董卓が悩むことがない世が出来ればいいと、この時の俺は思い始めていた。
 それは即ち、董卓が力を持ちそれを大陸中に行き渡らせる、大陸統一ということ。
 争いを好まない董卓ではあるが、そんな彼女だからこそ、この時代には必要なのかもしれない。

 とまあ考えた所で、不意に強く風が吹いた。
 聞いた話では、今は初夏にかかろうかという春ではあるのだが、やはり夜はそれなりに冷え込む。
 冷たい風に身を縮まらせて震える董卓に、小動物みたいと決して言えないであろう感想を抱きながら、俺は着ていた上衣、といか聖フランチェスカの制服を手渡す。
 そこ、なんで制服着てるのとか言うな。
 寝間着以外にこれしか羽織るものが無かったんだよ。

「……えっと、北郷さん?」

「夏は目前とはいえ、やはり夜は冷え込むでしょう? それに、ここで風邪を引かれては、事がばれたときに文和殿からの叱責が怖いですからね」

「くす、あんまり悪口を言っていると、詠ちゃんに言っちゃいますよ? ……でも、ありがとうございます」

 そう言って、おずおずと聖フランチェスカの制服に袖を通した董卓だったが、うんズドンと何かが打ち込まれたね。
 やはり体格差からどうしても大きいのだが、股までになる裾に、手の甲を覆い隠すほどの袖と何かを連想してしまう。
 ああそう言えばワイシャツをはだ……ゲフンッゲフンッ、何故だか殺気やら何やらを感じたので、慌てて妄想を頭から追い出す。
 自分で渡しておいて何だが、ちょっと直視出来そうにないので、少し視線をずらすのだが、分かっているのかいないのか、小首をかしげるように董卓が不思議そうにする。
 ……汚れていてごめんなさい。

「……その、悩んでもいいんじゃないでしょうか?」

「えっ……?」

 お願いですから、暖かいです、なんて言いながら頬を染めないで頂きたい頼みます董仲頴様。
 いろいろと、主に精神的に大変ダメージがでかいんです。
 そんな己を誤魔化すか如く、視線を外したまま熱くなった頬をかきながら言葉を放つ。
 そんな俺の言葉が意外だったのか、不思議そうに董卓が答えた。

「人も時代も、時と共に流れ落ちる水のように、その形は変化に富んだものです。安寧に満ちれば穏やかに形取り、戦乱が満ちれば荒んだ形となるでしょう。ならばこそ、その理想とするものに正解などはありません。型など意味を成しはしないでしょう。であるからこそ、悩み藻掻くことによってその理想に近づける、そう俺は思います」

「………………えと、その……あ、ありがとうございます」

 平和な世界でたかだか十数年しか生きていない俺だが、それでも人としての在り方や考えを間違えることは無いと思う。
 自慢出来るものではないが、これでも色々な出来事を経験してきたのだから、そこまで間違えてしまうと、亡き父母にどやされてしまうのが目に見えていた。
 
 何故だか俯いてしまった董卓から視線を逸らすと、至るところで行われていた宴も、ぼちぼち終了みていで、その喧噪が少しばかり小さくなっていた。
 月が大分傾いているのを見ると、結構な時間話し込んでいたのだろう。
 冷え込み始めた風に身を震わせながら、そろそろ寝所に戻る旨を伝えようとしたのだが。

「仲頴殿……仲頴殿?」

「……」

「もしもーし、仲頴殿? ……姫君様?」

「へぅっ! な、なんでせうかっ?!」

 呼びかけても反応のない董卓に、李確や徐栄が言っていた姫君という単語で呼びかける。
 すると、まるで電流を流したかのようにビクリと反応した董卓は、驚きを隠すことも出来ずにわたわたと手を振りながら、舌を噛まないだろうかと心配になるほどの口調で答える。

「いや……そろそろ俺は寝所に戻りますが、仲頴殿は如何されますか?」

「えっ、ああ……私は、もう少ししてから戻ります」

「そうですか……護衛は――」

「大丈夫ですよ、すぐそこに警備の者もいますし。それに、こう見えてそれなりに強いんですよ、私」

 そう言われ、城壁の下を覗いてみれば、確かに城門前に四人ほどの兵士がいるのが見えた。
 それに、城門の端にも見張り台みたいなものがあることから、そこにも数人の兵士がいるのだろう。
 加えて、若干胸を張りながら答える董卓に、心配も杞憂だったかと安心する。

「それでしたら、俺はここで。明日寝坊しないように、早く寝てくださいよ」

「わ、分かってますっ! もう、北郷さんは意地悪なんですね」

「ええ、そうなんです。では、意地悪な俺はこれで。……おやすみなさい、仲頴殿」

 服は明日で構いませんので、とだけ告げて、城壁を下る階段を下りてゆく。
 途中、怨嗟というか恨みというか呪いというか、なんだかよく分からないものの気配がしたが、董卓も気付いたのか、大丈夫です、と言われたのでそのまま下った。

 階段を下りきった後に、一度だけ城壁を仰ぎ見るが、そんな俺に気付いた董卓に、一度だけ頭を下げて城へと戻る道を行く。
 階段の上り下りをしたからか、身体が睡眠を求め始めたので、ぐっすり眠れることだろう。
 さて、明日は何をしようか。



 などと考えている俺の後方、城壁の上。
 そこにいる董卓の、ぽつりと、それでいて恥ずかしそうに紡がれた言葉が俺の耳に入るはずもなく。
 風に舞いながら、闇夜の街中へと消えていった。



「おやすみなさい…………一刀さん」







  **





 
 明くる朝、賈駆からの呼び出しに広間へ赴くと、何故だか顔合わせ一番に賈駆に睨まれた。
 昨夜のことがばれたのか、それとも董卓が言ってしまったのか。
 それともあるいは、と考えそうになるが、ひとまずは呼び出された用件を聞かなければ成り立たない。

「文和殿、お呼びとのことでしたが、一体いかなるご用で?」

「……はぁ、文字の方は大体覚えられた?」

「? ええ、まあ。俺の知っている文字と元々似ているので、大まかなものは大体」

 睨まれ、挙げ句には顔を見られながら溜息をつかれたのだが、昨夜のこと以外には思い当たりのない俺は、首をかしげるしかない。
 いや、昨夜のことを知られれば、これぐらいでは済まない、それこそ罵詈雑言を並べられても文句は言えないからと思っているのだから、本当に謎である。

 そんな俺の言葉に、一つ頷いた賈駆は、何故だか張遼と華雄の方を向くと、これまた一つ頷く。
 それに答えるように二人も頷くのだが、華雄はいざ知らず、張遼の顔は歪んでいた。
 こう、どうやって弄ってやろう、ってな具合に。

 そんな俺の不安に答えるかのように、半ば予想通りの言葉が、賈駆の口から飛び出した。

「それならば、今日一日は霞と華雄の仕事を手伝うこと。二人も、出来そうな範囲で仕事を割り振って頂戴。警邏や調練の方は、こちらから通達しておくから」




 それでまあ、特に断る理由もないので承諾したまでは良かったのだが。

「……この目の前に聳え立つ竹簡の山は、一体何なんでしょうか?」

「んなもん決まっとるやんか」

「うむ、今日の北郷の仕事だ」

「……えぇー、何でこんなに量が……」

 とも愚痴りたくなるほどの量。
 学校の教室の半分ほどの政務室に、会議を行うような机が三つほどあり、その上に山盛りの竹簡という、ある意味蔵書室にも見える部屋に案内された俺は、目眩を押さえながらその山を見やる。
 一つ手に取ってみれば、中にはずらりと漢字が書かれており、いくら勉強したからといっても、殆ど読めそうにない。
 一体どうすれば、と泣きそうになる俺に、あっけらかんと張遼が言い放つ。

「とは言うても、背表紙の題目の上に書いてある種類別に分けるだけやけどな。農とか練とか。さすがに中身の確認はうちらでせなあかんから、出来る範囲でええで?」

「はあ……そう言えば、文遠殿と葉由殿はどちらに?」

 種類別にするだけでも、かなりの量なんですが、とはさすがに言えなかったが、これほどの仕事を俺に任せて二人は何をするのかとふと疑問に思った。
 これで、うちら食い倒れに行ってくるわ、とか言われたら本気でどうしようかと思ったのだが。
 
「ああ、うちらは街の周辺の探索や」

「うむ、小規模ながらでも黄巾賊が確認された以上、周辺を警戒するに越したことはない。それに、他方においても黄巾賊は劣勢らしい、敗残兵がこちらに来ないとも限らんしな」

 そう言って、己が武器を確認する二人、そこに三国志の英傑たる姿を見て、俺は自然と微笑んでいた。

「分かりました。こちらのことは心配せずに、どうか石城のこと、お願いいたします」

 古代中華での敬礼といったものが分からない俺は、文官や武官がしているのを見よう見まねでしてみる。
 片膝ついて、とかじゃないだろうから、両手を合わせて前に出す、みたいな形で。
 
「では頼んだ。張遼、行くぞ」

「あっ、ちょっと待ちーな華雄。ほな北郷、行ってくるで!」

「はい、行ってらっしゃいませ」

 俺の言葉に満足げに頷いて、華雄が張遼を急かすように扉を開ける。
 それにつられていく張遼と華雄を見送るために、扉の外まで出て言葉を掛ける。
 何故だか満面の笑みで手を振っていく張遼を送り出して、俺は再び政務室へと入る、、足を踏み入れてしまう。
 まあなんだ、やれるだけやってみるか、と俺は一つ目の竹簡を手に取った。



**



「それで、お前はいつまでニヤニヤしている?」

「んー、ちょっと嬉しいんやから、別にええやんか」

 石城を出発した二百の騎馬隊にて構成された偵察隊の先頭、巧みに馬を操りながら華雄は張遼へと問いかけた。
 議題としては、北郷一刀に見送られてからの変にニヤニヤする張遼について。
 とりあえずうっとしいことこの上ないのだが、それも聞くのも何だか嫌な予感がしたのだが、それでもこのままでいい分けもないので、意を決したのだ。

「なんつーか、今まで見送られることってあんま無かったから、新鮮でな。……家族みたいで、嬉しかったんよ」

 元々、自分は幼い頃に先代である月の両親に拾われ、そのまま世話になっている身である。
 産みの親こそ覚えていないが、拾われてからの記憶には、見送られたことはそれなりにある。
 しかし、張遼は元は馬賊の出と聞いたことがある。
 記憶の始まりの頃には一人で馬に乗っていたのだと酒の席で聞いたことも踏まえて、彼女は家族というものを知らないらしい。
 それから様々な経歴を得て、董卓軍に拾われる形となったのだが、どこか心の奥底でそういったものを求めているのかもしれないと思った。

「そー言う華雄こそ、悪い気はしてないんちゃう?」

「…………むぅ」

 そしてそう言われ、張遼の言う通り悪い気はしていなかったのだと、自分自身でも驚いてしまう。
 考えてみれば、先代が生きていたころは当たり前だったものが、亡くなった後はあまりの忙しさにすっかり忘れていたのだ。
 先ほどの北郷の一言で思い出したと言ってもいい。
 
 家族。

 久しぶりに感じることとなったその感情に、知らず口端がつり上がってしまう。

「ほらな、結局華雄かて笑っとるやんか」

「ふん、否定はせん。……さっさと行くぞ」

 にしし、と笑う張遼から顔を隠すように、馬の速度を上げる。
 後ろから何か言われる声が聞こえるが、それを無視してさらにその速度を上げる。
 だが、奴かて神速の名を得た将である、自分が追いつかれるのも時間の問題ではあるのだが。
 若干熱を持った身体に、風が心地よかった。





 昼食を抜き、殆ど缶詰になって何とか分別を終わらせることが出来た俺は、帰ってきた張遼と華雄を出迎えた。
 特に収穫は無かったとのことだったのだが、何故だか機嫌のいい張遼と、それを戒めながらもこちらの機嫌のよさそうな華雄に、俺は首を傾げるしかなかったのである。
 
 




[18488] 八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/05/29 10:41


「大豆に胡麻、とな……?」

「はい。現在大豆は搾油用、胡麻は漢方薬として栽培されていますが、どちらも食用として人が生きるために必要な力が多く含まれています。また、大豆は様々な用途が可能であり、胡麻も搾油用としても期待出来るのです」

「ふぅむ……。どう思う、玄菟?」

「そうさな……異国の知識なら、間違ってはおらんやもしれん。検討の価値は十分じゃな」

 石城の一角に設けられている田畑に、俺は早朝から徐晃に呼び出されて赴いた。
 と言うのも、先日は張遼と華雄の手伝いをしたと思ったら、今日は徐栄や李確、徐晃の手伝いをしろと言われたのだが。
 またも書類の分別かと思った俺の期待を裏切って、田畑に連れてこられた俺は、唐突に切り出された言葉に頭をひねることになった。


 食用のもの以外で、何か栽培するに値するものはないか。


 この時代の主食としては主に米や麦などが栽培されているが、何故だか唐辛子やピーマンなども栽培されていたりするのだが、そこら辺はまあ追求はしないでおこう。
 16世紀の大航海時代ぐらいに伝わってきたものなんだけどなぁ。
 そこで、異国出身ということにしてある俺の知識から何かないかと問われて、一番に思いついたのは油である。

 現在流通している多くの油は、魚を搾って取る魚油か、先の大豆から取る大豆油、少数ではあるが菜種油などがある。
 主なものとしては魚油なのだが、用いられた魚の量からでは酷く効率が悪く、また動物性のためか時間が経てば生臭くなる。
 そのため、専ら料理に使われるのは大豆油などの植物性のものなのだが、大々的に生産していないためにどうしても量が少なく、それによって高価なものとなってしまうのだ。
 
 それならばと、比較的効率がよく、また大量に仕入れることが出来るものと言えば大豆や胡麻であり、またその二つは様々な用途で使用することが出来る。
 そう思って、これだ、と勧めたのだが。

「……北郷殿の言うことが本当ならば、我が軍だけでなく、この大陸にとって非常に有益なものとなる。その情報は、如何なさるのですか、父上?」

「大量に栽培し、食料とすることで多くの飢えた民を救うことが出来る。月様という人を鑑みるに、恐らくは広めようとするじゃろうな」

「左様、目に浮かぶようじゃ。だが、かといって無償と言うわけにもいくまい。何かしらの益が我らに入らねば、敵を富ませるだけとなってしまう」

 ううむ、と考え込み始めた三人から視線を逸らし、田畑を耕す民達に向ける。
 比較的寒く乾燥した石城ではあるが、それでも作物の実はなるらしく一生懸命に豊作を祈って耕している。
 旱魃や蝗害がほぼ毎年各地で発生している時代の中で、それでも逞しく生きる人々に、俺は少しでも役に立ちたいと、思ってしまう。
 それは平和で、食料が飽和する世界で生きてきたエゴなのかもしれない。
 それでも、その気持ちは本物だった。

「……それでは、特産として売り出す、というのはどうでしょう?」

 結構な時間を思案していたのだが、それでもいい案が浮かびそうにない三人に、俺は漏らす。
 というかですね、どんだけ悩んでんだよ。

「胡麻や大豆が食用に出来るというのはある程度有償の情報として広め、それから作り出せる加工品はその方法を明かすことなく、安く売り出す。これならば、各地に流通させつつ財を得ることが可能かと」

「……なるほど、恩を売りながら財を得る、か。異国の知というのは、中々に興味深いものばかりです。この若輩、勉強させてもらいました」

「琴音の言う通り、異国とはまこと面白き所みたいですな。これは一度、よく話を聞く席を設けねば」

「その時は儂もじゃぞ、稚然。この歳になっても、己の知への欲があることには驚きじゃが、北郷殿からはさらに驚きが得られそうじゃ」

 作り方占有して、加工品売り出せばいいんじゃね?
 と軽い気持ちで言葉にしたのだが、思いの外良策だったらしく、また知らない知識という興味に、三者三様に瞳を輝かせる。
 いつの時代にもこういった学知を求める人はいるものなのだと知り得たのだが、それを追い求める人もいるということを、俺は後に知ることになる。

 俺としてもこの時代の飯は嫌いではないが、どうしても食べ慣れたものを食べたいと思っていたのだから、これ幸いである。
 豆腐などは既に存在しているのだが、その前の豆乳などは無いらしい。
 また、大豆を熟す前に採取する枝豆などはもの凄く不思議な顔をされたので、今度試してみることにした。
 ごま油などは中国料理には不可欠だったため、製造に成功すれば安定した需要を得るはずである。

 次々と浮かび上がる未来予想図を前に、遅くまで俺は三人といろいろ話し合ったのだ。




  **




 とまあそこまでは良かったのだが。
 徐栄ら三人と存分に話し合った俺は、翌朝にまたもや賈駆に呼び出された。
 しかも、今度は広間ではなく彼女の政務室になのだが、何故かその場には賈駆以外にも三人の人物がいたのだ。

「やっと来たのです! ほら、さっさと座るがいいのですぞ!」

「一刀……隣」

 その内の一人である陳宮に急かされ、空き椅子が用意されてあった呂布の隣へと腰を落とす。
 楕円形の机に、陳宮と呂布が隣り合って座っており、その横に俺。
 その反対側には、俺を呼び出した張本人である賈駆と、三人目の董卓がいた。

「皆さん、おはようございます。……何で俺は呼ばれたのでしょう?」

 その顔ぶれを見て思ったことだが、今いち呼び出された理由が不明である。
 董卓と賈駆と陳宮ならば、当主と軍師が集って軍事関係について聞かれるとは思うのだが、そこに呂布がいるのがよく分からない。
 妥当にいけば、陳宮がここにいるから、というのはあるが、わざわざいる必要があるのか。
 うーん、と悩む俺の心中を察してか、いつもの口調で呂布が口を開く。

「ご飯……おいしい。…………いろいろある」


 うむ、全くもって意味不明である。


 さらに頭を悩ませることになるのだが、そんな俺を見かねてか、溜息混じりに賈駆が説明してくれる。

「稚然殿から上がってきた昨日の報告書をねねと確認してたら、恋に見つかっちゃって。そこであんたが異国の料理の話をしていたって書いてあるもんだから、付いて来ちゃったのよ」

「ああ……なるほど」

 要は食い気か。
 呂布らしいと言えばそれまでだが、当の本人は至って気にする風でもなく大あくびをかましていた。
 そんな俺と賈駆の視線に気づいてか、頭にハテナを出しながら首をかしげるのだが、そんな彼女になんかどうでもよくなってくる。
 さらには、お腹空いた、なんて言うものだから、脱力してしまって最早どうにもならない。

「……あとで食べに行きましょう? それまで、少し我慢してくださいね」

「…………………………ん」

 今すぐ食べに行きたいのか、俺の言葉にすっごい悩んだ末に、承諾と頷く。
 それと同時に、ぐー、と可愛らしい音が鳴るのだが、音の持ち主は気にもせずに、机の上にある菓子をぱくつく。
 なんて言うか、すげー和むわぁ。

「まあ恋は置いておいて……この報告書のここなんだけど」

「何です……衛生について? これが何か?」

「その……そこに書かれている石鹸、というものなんですが、作ることは出来ますか?」

「はぁ?」

 賈駆に見せられた報告書の中に、確かに衛生関係の項目に石鹸という文字が見える。
 そう言えば、風呂の話をした時にそんなことを話したっけ、と今いちよく覚えていなかったりするのだが、そこに書いてあるので確かに言ったのだろう。
 そして、董卓はそれを衛生管理に使えないかと言ってきたのだ。
 
 この時代において、死者の多くは餓死と疫病が理由とされているらしい。
 特に食料を用意すればいい餓死と違い、疫病においてはその対策法が確立されておらず、そもそも疫病とはどういったものなのかも知られていなかったらしい。
 そこで、俺が病気なんかの菌、元を石鹸で洗い流すとか言ったものだから、それを使うことが出来ないか、という話になったみたいである。

 確かに、石鹸が作れれば多くの病気にかかることは減るだろう。
 また、その石鹸自体も特産として売り出すことが出来れば、董卓軍としても損にはならない。
 ゆえに、俺のその作り方を教えて欲しいということなのだろうが。

「……食べ物、違う?」

 うんごめん食べ物じゃないんだ、と心中で心底がっかりしている呂布に謝りながら、俺はどうしたものかと悩む。
 石鹸を作る上で一番簡単なのは水酸化ナトリウムを使うことだが、この時代ではそれを作り出すことは難しい。
 海水を電気分解すれば作れるのだが、そもそもその電気を作ろうにも知識も設備もないのだ。
 となると、残るは古い製法である炭を使ったものなのだが、悲しいことに俺はその製法で作ったことがない。
 一度、何の因果か及川が自由研究と称してしていたことがあったのだが、この時ばかりはそれを真面目に聞いていなかった自分を悔やんだ。
 何で女の子にモテるために石鹸を作ろうとした及川を信じられなかったのか、まあ意味不明だったからだが。
 
 とりあえず、炭と油で作れるとは思うということを伝えてみることにした。

「ほぉー、異国にはそんなものがあるのですか。 むぅ、知らないことばっかりなのです」

「とは言っても、実際に作れるかどうかは分かりませんよ。作り方の話を聞いたことがある、というぐらいですから」

「それでも何にも知らないよりはマシよ。……材料自体はすぐ手に入るから、後は作り方ってことね。月、後で職人達と相談してみるわね」

 すると、意外にも悪くはなかったのか、その場にいる俺以外がやる気らしく、俺としては失敗されると非常に悪い気がする。
 一言ことわっておいたのだが、それでもいいと言ってくれた賈駆を、どうしても疑ってしまう。
 っていうか、その瞳が嘘だったら許さないと暗に言ってるので、ぶっちゃけ石鹸のことを話したのを後悔しました。
 女の子がいい匂いしたらいいなと思っただけ、とはさすがに言えなかった。

「うん、お願い詠ちゃん。 ねねさんも、詠ちゃんを手伝ってあげて下さい」

「任されるのですよ!」

 勢いよく自分の胸を叩いて軽く咳き込む陳宮が面白いながらも、ふとこちらを見る董卓に気づく。 
 ニコニコしたと思いきや、何故か顔を赤くしながら見続ける董卓に頭を傾げながら、次の言葉を待つのだが。

「か、一刀さんは、他に何か使えるものがありましたら、また報告をお願いしますね」

「はい、承知しました。…………えと、まだ何かありますか?」

「…………はぁ、いえ何もありません。……………………一刀さんの馬鹿」

 何故だか溜息つかれた?!
 後半は声が小さくて何て言っていたのかよく分からなかったのだが、賈駆と陳宮は聞こえたみたいで、何故だか睨まれた。
 ええと、俺何かしたのかな、泣いちゃうぞ。


 

 そんなこんなで奴隷という肩書きに相応しく、その日その時によって様々な将について仕事をこなすようになった俺は、あっちに行ったり向こうに使いっ走りになったりと、色々な方面にて顔を広めることになった。
 元々それが目的だったのか、と思わないこともないのだが、明らかに張遼や華雄、陳宮は俺に任せっきりという感じがする。


 朝、政務室に行けば聳える竹簡が俺を待ち構え。
 昼、親睦を深めるという名目で飯を奢らされ。
 夜、仕事が終わったのを見計らって酒を呑まされる。

 
 俺未成年なんですが、なんて文句が聞いてもらえる筈もなく、慣れない酒を翌日に残しながらも仕事を続ければ慣れるもので、三日もすれば酒を翌日に残すことは無くなってきた。
 えっ、仕事には慣れないのかって? 無理に決まってるだろ。
 
 始めのうちは、というか始めだけ簡単なものだったに段々と難しいものが回ってくるようになって、仕舞いには部隊の兵全員と手合わせとか、石城の農耕人口から取れる作物食料の目安の算出とか、乗馬訓練のついでに偵察任務とか、とりあえず無茶言うなというレベルばかり回されるのである。
 朝から晩まで働いて、翌日にはまた同じことをして。
 サラリーマンのお父さんもびっくりと言えるほどの仕事量に、もはや元の世界に戻る方法とか探す元気さえ無かったのだ。
 その心中を、察してほしい。

 まあ華雄の乗馬訓練のは、俺としても有り難かった。
 それでも乗り慣れないものだから、次の日には尻がやばいことになっていたけど。




 そんな慌ただしくも平穏な日々に、俺は忘れかけていた。

 時は後漢王朝末期、三国時代という歴史の扉の前。

 困窮した民が黄巾として乱を起こし、群雄が幸いとばかりに力を蓄えるそんな時の流れの中で。

 多くの命が散っているということに。

 

そんな中、俺はある一つの決断を迫られることになる。






 涼州石城の隣県に位置する都市、安定からの急使。

 その者から発せられた言葉は、否応なしにそれを俺に強いたのだ。

 
「安定、黄巾賊の襲撃を受け陥落寸前ッ! 至急援軍をお願いしたいッ!」












~補完物語・とある日の夕食~

 
 仕事が一段落したその日、俺は張遼に誘われて、城の食堂へと向かった。
 彼女から食事、というか酒に誘われることはよくあるのだが、城の食堂にというのも珍しい。
 大抵は街に出て、飯を食べた後に酒屋をハシゴするというおっさんルートだったのに。

 そうして、食堂の扉を開いた俺の視界に、張遼以外に、というか董卓を筆頭に首脳陣が集っていた。

「え……っと、これは一体?」

「ふふ。なに、月様の発案でお主の歓迎会をしようとなったまでよ」

「そうじゃ、ほれ主賓が座らねば儂らも食べられん。早く座るがいい」

 徐栄と李確にそう勧められ、言われるがままに空いた席へと座る。
 丁度上座になる所で、隣にはそれぞれ董卓と張遼が座っていた。

「遅かったやんか、先に始めるとこやったで」

「お疲れさまです、まずはお茶でもどうぞ」

「あーっ! ちょっと何月にお茶汲みさせてんのよッ!? あんたなんかコレでも呑んでればいいのよ!」

 腹ぺこや、と喚く張遼の頭を抑えながら席に着くと、反対側の董卓が近くにあった急須でお茶をついでくれる。
 かと思えば、それはすぐさま賈駆によって奪い取られ、代わりに彼女の手元にあったお茶を渡される。
 俺が来る前に淹れていたのか、既に冷め切ったものだったが、喉が渇いていたのでまあいいやと一口飲む。

 冷えたお茶独特の苦みが口の中に広がるが、それでもほっとすると、身体が食物を求め始める。

「むぅー…………詠ちゃん」

「うぅ、だって……えと……その……ええぃ、あんたが悪いんだからねッ!」

 何でっ、理不尽だ!
 そう思って視線を賈駆に向けるのだが、ギロリと睨まれてすぐさま視線を逸らす。
 隣の張遼に視線を移せば……既に呑み始めていた。

「おいしい。……一刀も食べる」

「あ、ああ。ありがとうございます、奉先殿」

 そして例の如く肉まんを頬張っていた呂布が差し出した肉まんを受け取ると、やはりと言うかなんと言うか、その隣にいる陳宮が呂布にもの申した。

「恋殿、わ、わたしも肉まんが欲しいのですぞ!」

「まだ、一杯ある。……はい」

「ほぉぉぉ、恋殿からの肉まん! この陳公台、感激ですぞッ!」

「……ん」

 まあいたっていつもの光景であるので、特には気にしない。
 見れば、李確と徐栄はそれぞれ少し離れたところで酒を呑みながら何かを話し合っている。

「最近はどうだ?」

「うむ、中々の働きぶり。聞けば、女中や侍女の中にも好感を抱いている者もおるらしい」

「なんと、やはり人柄としては合格であったか」

「近頃は恋や葉由に鍛えられ、武においても成長しとるしな。いずれ董家に相応しい将となるだろう」

「ふむ、楽しみじゃのう」

 相も変わらず、何を話しているのかはよく分からないのだが、とりあえず身の危険を感じるものでは無いはずだ、多分。

 さらに視線を移せば、華雄と徐晃も何やら話し合っている。
 こちらは至極真面目な顔なのだが、話していることは物騒極まりない。

「華雄殿、武とは一体何なのでしょう?」

「公明か……。武とは力、いかに早く戟を振るい、いかに強く叩き伏せれるかが、武にとって精進すべき課題だ」

「なるほど、若輩の身には勉強になります」

「うむ、最近は北郷がいい動きをしている。やつを叩きのめせるか、それが一つの目安となる」

 …………そこから先は聞かないでおこう、眠れなくなりそうだ。

 とまあ普段通りのその食卓を囲んでいると、不意に董卓に袖を引かれる。

「一刀さん、これ私が作ったんですけど、お味は如何ですか?」

 そう言って差し出されたのは餃子。
 パリパリに焼かれた少しだけ焦げた皮の中に、細かく、しかし濃厚な味を示すそれに、俺は素直な感想を口にしていた。

「美味しいですよ、仲頴殿。料理上手いんですね」

「はい、こういうの好きなんですけど、詠ちゃんが許してくれなくって……」

「えぅ……だ、だって月が料理したら侍女が仕事無くなるんだよっ?!」

「もぅ、いっつもそう言って誤魔化す」

 若干ふて腐れた董卓に賈駆が狼狽するのが面白くて、ついつい口がにやけてしまう。
 そのいつもとは逆の力関係ににやにやしていると、不意に視線を感じて、その発信源である張遼へと向く。
 すると、そこには董卓と同じようにむくれる張遼がいた。

「えっと……文遠殿?」

「…………月、いつの間にや?」

「えっと……霞さん、何がですか?」

 ええっと、何がなんだかよく分からないのだが。
 俺と同じようにハテナを出す董卓に、そっかそういうやつやった、と意味ありげに呟いた張遼は、空いてあったお猪口を俺へと押しつけて、それに酒を注ぎだした。

「ほれ、一刀! ウチの酒も呑めやッ!」

「ちょ、ちょっと文遠殿、溢れてますって!? ありがたく頂きますが……」

 酒塗れになった手を布巾で拭いて、注がれた酒をちろりと舐める。
 そんな俺を見ながら、何やら上機嫌で一気に杯をあおる張遼に、今度は俺が酒を注ぐ。

「では、今度は俺が文遠殿に注ぎますよ。どうぞ?」

「おおっ、ありがとな。……………………なんや、気づかんのかい」

 何がでしょう、と視線を張遼に向けるのだが、何故だか彼女は再びむくれてその顔を背けてしまう。
 頬を少し膨らませて、まるで子供がその感情を表現するような顔に、思わずくらりとしてしまうのだが、不穏な空気に視線を移せば、今度は董卓がむくれていた。

 否、むくれていると言うよりは睨まれていた。
 そしてそれに反応するかのように賈駆にも睨まれ、こちらは若干怒気もこもっていたが、その空気に触発されたためか、李確と徐栄はいつの間にか席を外していた。

 逃げられた、そう思った時には既に遅く。
 

 董卓からは、何故だか執拗に食事を勧められ。
 張遼からは、執拗に酒を注がれ、注げと言われ。


 俺の歓迎会だった筈の席は、いつの間にか俺を四面楚歌へと誘っていたらしい。
 

 結局、張遼を大量の酒で酔い潰し、董卓を誘って酒で酔い潰すまで、それは続けられた。


 
 余談ではあるが、董卓を賈駆が、張遼を俺が寝室にまで運んでいく際に、一言釘を刺されたのだが、本当にそれだけでよかったと心底安堵した。
 漫画にすればとげとげの吹き出しで言われたであろうそれは、実剣で刺されなくてよかったと思わせるものだったのである。
 
 
 





[18488] 九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/02 16:18

 


 豫州、洛陽から涼州に入る手前を、数百ほどの騎馬が駆け抜けていた。
 男ばかりのそれは、皆一様に急かすように馬を手繰り、その器用さをもって彼らの目指す処へと駆けていた。
 
 その一団の先頭、一際巨大な剣を背負う男が傍らに従う副官へと問いかける。

「安定までの道のりは、あとどれぐらいある?!」

「どんなに急いでも、あと三刻は下らないかと! 隊長、少し落ち着かれては……」

 三刻。
 古代中国において、一刻は一日を十二等分した時間であり、現代で訳せば二時間になる。
 つまりは、どんなに馬を急がせても六時間はかかるということになるのだが、それは馬が保てばである。
 休息を入れれば、もう一刻は増えるであろう。

 そしてそれは、脅威にさらされている安定の街が、それだけ危機を享受しなければならないということでもあった。
 自分が生まれ、育てられてきた安定がそのようになっている状況で、男はさらに馬の速度を上げる。
 それを戒める副官の言葉に耳をかすこともなく、である。

 仕方なく、副官も馬の速度を上げるのだが、それに残りの数百の者も従う。
 
 彼ら、涼州安定軍の中でも最精鋭を誇る騎馬隊は、皆一様に安定で生まれ、育ってきたのだ。
 その隊長である男が急かさなくても、駆けつけたいのは彼らも同じであった。

 そして、そんな彼らが何故洛陽から安定を目指さなければならないのか。
 その理由を思い出して、男は忌々しげに吐き捨てる。

「あのくそ太守、これで壊滅などしてみろ! あの脂肪に埋まった首、叩き斬ってやるッ!」

「それには全く同意ですが……馬に無理をさせすぎれば、間に合うものも間に合わなくなります。ここはひとまず落ち着かれてください」

「ぐぅ……。ちっ、分かったよ! これより四半刻の小休止を入れる、後は休まんぞ! 今のうちに腹でも満たしておけ!」

 副官のまったくの意見に、男は仕方なしに休息の指示を出す。
 確かに、馬を潰してしまえば本末転倒である。
 即座に馬の状態と安定までの距離、必要な時間を計算して指示を出す男に、副官は人知れず息を吐いていた。

 皆思い思いに洛陽から、と言うよりは援軍要請という名目で洛陽に一人だけ避難した太守から分捕ってきた兵量を腹に入れていた。
 その護衛に安定のほぼ全兵力を持ち出すなど馬鹿げた太守だったのだが、事もあろうに洛陽に戻ったとあって奴は喜んだのだ。
 結果、あっ虫が、と嘯きながら一発ぶん殴った後に、名乗り出た数百人で安定の救出へと向かっているのだ。

 しかし、安定に押し寄せていた黄巾賊は、当初の情報では数千、下手をすれば万に届こうかという数だと聞いていた。
 安定に残してきた兵力はたったの三百であり、指揮官たる人物もいない。
 普通に考えれば、間に合う筈もないのだが。
 男、牛輔は、安定を出る前に後を託した人物へと思いを馳せる。


「…………頼むぞ、陽菜」


 牛輔の言葉は距離を埋めることは無かったが。
 その言葉から、彼の者への信頼が見て取れた。
 




 
  **






「さて……此度の安定への救援、これに依存ある者はおるまいな?」

 安定からの使者を別室にて休ませた後、俺達は広間へと集っていた。
 議題はもちろん、安定を襲撃する黄巾賊の対処についてである。
 襲撃する、というのは使者の話によるのだが。
 安定は地理的に安定の南西に黄巾賊を確認したということに他ならないのだが、その総数が一万を超えるほどのものであるという。
 洛陽と西涼を結ぶ交通の要所であり、また西涼が異民族に落とされた時の最終防衛線という意味合いもあってか、後漢軍の一部が駐留していた。
 一部とは言ってもその数は二千は下らなく、その数があれば籠城の末の援軍によって勝利も容易いだろうというのではあったが。
 使者の口から放たれた言葉は、俺達の予想を遙かに上回るものだったのだ。


 
 曰く、朝廷から派遣されていた安定の太守は、援軍要請の名目をもってして洛陽へと逃げた。



 その際に安定に駐留していた後漢軍の実に九割を自身の護衛にと当てたために、現在安定にいる兵は三百ほどだと言うのだ。
 また明確な指揮官もなく、最高指揮官であった男もその護衛に連れ出されてしまったために、安定は滅亡必至の目前へと叩き込まれている。

「北郷殿……安定救援に兵を出す理由、分かりますかな?」

「……安定はここ石城からも近く、また洛陽と涼州を結ぶ要所でもあります。また、以前黄巾賊を撃退したが故に石城には食料財貨があると勘違いさせてしまい、安定が落ちた後はこちらへとその矛先を向けてくるでしょう。ならば、注意が安定に向いている今、安定と協力して黄巾賊を打ち払うが上策。そういう意味ではないでしょうか」

「北郷の言うとおりよ。安定が落ちれば、次はこっち。さらにはその勢いに乗って、各地に潜む不穏分子まで動きかねない。そうなれば、如何にこちらに優れた将がいても、持ちこたえることは不可能に近いわ」

「さらには、西涼において馬太守が異民族に押されている、という情報もあるのです。もし詠殿の言う通りになってしまえば、そちらにも勢いを渡すことになり、ねね達は文字通り四面楚歌となってしまうのです」

 故に、残された手は援軍に赴きそれを討つしかない、それは誰も口に出すことは無かったが、誰もが理解していること。
 かと言って、言うほど簡単なものではなかった。

「前回とは違い、今回の戦は所謂攻めになる。恐らく、黄巾賊は安定を囲んでおる、見方を変えれば布陣しているとも言う。となればこれを攻めるになるが、相手はまたしてもこちらの数倍、簡単にいく相手でもあるまい」

 徐栄の言うとおり、以前攻めてきた黄巾賊には、地の利を活かした待ちの戦法を用いることが出来たが、今回はそんな悠長なことを言っている場合でもなく、さらにはこちらから進まなければならないため、黄巾賊に準備する時間を与えることになる。

 周囲の情報を得、策を練り、罠を用いて、万全の体勢を整えることが出来るのだ。
 いかに賊軍とはいえ、それぐらいに考えられる人物はいるだろう。
 なばらこそ、それに当たるにはこちらも万全を期さなければならないのだ。

「今回、稚然殿は石城に残って、もしもの場合の防衛準備。残りは出撃するにあたり、恋と華雄と霞を先陣にした鋒矢の陣でまずは安定の北東を目指す。長期戦になることも考えて、本陣をそこにある山裾にて構築し、指示はそこから出すわ」

「詠殿、私と父上は如何しましょうか?」

「琴音と玄菟殿は、鋒矢にて安定に近づいた後は別働隊となって、迫るであろう黄巾賊の足を止めてちょうだい。こっちを狙う数は少ないだろうけど、もし全軍動けば私達が踏みつぶされるのは目に見えているもの」

「なるほど……その隙に本陣築いて、腰を構えようちゅーわけやな」

 こちらに来て学んだことだが、防衛側の救援は、まず城門前を確保することから始まるらしい。
 これは、救援側と防衛側によって攻め手を挟撃するために、とのことらしいのだが、今回のように防衛側の兵力が低い場合、それはあまり意味を持たさない。
 少数の防衛側が城門を開いた場合、多数の攻め手にそれを突破される恐れがあるからだ。

 黄巾賊を追い払い、ある程度の治安が約束され、そして俺がもたらした知識によって、少しずつではあるが石城は富んでいった。
 それによって人口は増加し、伴って兵に志願してくる人々も増えて、今や石城の兵力は五千にも及ぶ。
 太守である董卓が争いを好まないために、兵の徴募は大々的に行われることは無いのだが、それでも石城を守るという志で志願する人は多かった。

 よって、いざという場合の防衛兵力である千を残しても、四千によって救援へと駆けつけることが出来るのだが、安定の兵力が三百ほどしかない状態では、挟撃を行うことは難しいと言えた。
 だがしかし、賈駆はそれでもなお城門前の確保を第一目標と掲げたのである。

「三百では万の黄巾賊は防げないわ。そこで、城門前が開けたら玄菟殿と琴音は千を率いて安定に入城して。そこで指示を出している人と話をして、協力して当たれるように」

「はっ、この徐公明、承知致しました」

「華雄達は、琴音達が入城した後に安定を囲む黄巾賊を各個撃破すること。城壁に取り付いているということは、その方向は塞がれているということ。三隊にて三方向を囲めば包囲となって、戦いやすくなるでしょう。霞は、足の速いのも探しておいて」

「そんなもん、どうするんや?」

「黄色の布を付けて、賊の中を走り回らせて。安定はもうすぐ陥落する、っていうのと、援軍が来た、って叫ばせてちょうだい。逃げるのと固執するのとに分けられれば、こちらの負担もかなり減る筈だから」

 要するに、分裂させることが出来ればいい、ということだ。
 確かに、黄巾賊の最大の驚異はその数にある。
 如何に訓練を積んで、それこそ一騎当千の域にまで及んでも、一度に対処できる人数はたかが知れている。
 それを超えた人数を相手にすれば無事では済まず、もしそれを凌いでも次が来ればまたそれを相手にし、負傷する。
 それを繰り返していけばどんなに精鋭でも、たちまち徒花として戦場に散ることとなるだろう。
 だからこそ賈駆は、黄巾賊を逃げる者となお戦おうとする者に分けることによって分裂させ、一度に戦わなければならない人数を減らすという策を用いることにしたのだ。

「……それでは、詠ちゃんの策でいきましょう。兵四千にて安定に接近後、本陣を構築。しかる後に、安定の城門を確保して各個撃破。それでいいですか?」

 それまで黙って軍議の行く末を見ていた董卓の言葉に、皆一様に彼女へと視線を向ける。
 そこには、先日戦うことを悩んでいた少女の姿は無く。
 民を守り、地を守り、兵を守らんとする君主たる董卓の姿があった。

「徐玄菟、月様の指示のままに」

「同じく徐公明、父と同じく月様の命に従います」

「……恋、頑張る」

「ねねも恋殿と共に頑張るのですぞー!」

「この華葉由の武、存分に使うがいい」

「張文遠、出来る限りやったるわ」

「老いぼれながら、この李稚然、励まさせてもらいましょう」

 思い思いに頷くみんなを見ながら、ふと視線を感じそちらへと視線を向ける。
 董卓と、賈駆がこちらを見ていた。
 さらには、いつの間にか他の面々もこちらへと視線を移しており、その場にいる全員に見られていることになっていた。
 
 それらの視線に若干押されてしまうが、ここで退くわけにはいかないのだ。
 月夜の城壁で董卓の理想を聞き。
 張遼や華雄、呂布らには厳しいながらも、互いに武を話し合い。
 賈駆や陳宮と俺の知識について語って。
 李確や徐栄、徐晃とともに石城の街を富ませて。
 石城の街では、色々な人と触れ合って。
 俺は、なによりもそれらを守りたいと思い始めていたのだ。

 だからこそ、自分の口からすらりと出た言葉にさして驚くことはなかった。



「……北郷一刀、及ばずながら、尽力させてもらいましょう」





  **





「でぇぇぇぇやぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」

 怒号と喧噪の最中、城壁の出っ張りを用いて上り切った黄巾賊を、一刀のもとに切り捨てる。
 頭部を失った身体を城壁から蹴り落とすと、さらに上ってきていた黄巾賊に当たって、被害を拡大しながら悲鳴と共に地へと落ちていった。

「もう一丁!」

 背後から斬りかかってきた黄巾賊を、下から上へと斬り上げる。
 己に血がかかるを厭わず、股間から頭部へと切り裂かれたそれには目もくれず、兵の一人に襲いかかっていた黄巾賊へと獲物、中国刀を突き出す。
 意識を兵に向けていた黄巾賊は、その喉を貫かれたと気づく前に絶命した。

「あ、ありがとうございます李粛様!」

「いいっていいって、困った時はお互い様。今度、僕が大変だった時に助けてくれれば」

「は、はいっ!」

 血に染まりながら、それよりなお濃い真紅によって色づいている髪。
 それに映えるかのように豊満で、それでいて成熟した身体に、その兵士は見とれていた。
 美女、というのは全体の容姿をさして言うものだが、戦場の緊張状態にあってそれは目にとって毒とも言えるものだった。
 時が時、その男がもし賊なら放ってはおかないであろうその身体の持ち主は、その容姿も整ってはいるのだが。

「あー、それにしても多すぎだよぅ。まあ、一杯戦えるからいいんだけど、にしし」

 こともあろうに、動きやすいという理由から胸と腰回りしかない服装の合間を縫って少女、李武禪は腹をぼりぼりと掻いたのである。
 その反動から胸がたゆやかに揺れるのだが、その行動と、色気を感じさせることのない満面の笑みに、兵士はふと現実に戻った。

 涼州安定。
 今現在、黄巾賊の大軍にて包囲、攻撃されている城壁の上に、自分がいるということに。

「それそれそれぇぇぇぇぇ! この李粛、黄巾賊相手には負けないんだからー!」

 そしてそんな悲鳴轟く中、安定において名家とされる李家において、知謀に優れる姉と双璧を成す妹、李武禪は、感情の高ぶりを抑えることなく破顔した。

「だから早く帰ってこないと無くなっちゃうよ、子夫!」

 そうして、彼女は己に安定の後を託した青年へと叫ぶ。
 愚図太守を洛陽に連れた後に必ず帰ってくる、そういって安定を離れていった青年へと。
 普通であれば、圧倒的不利で助かる見込みもないことは決定的なのだが、彼女はそれでも諦めることはしない。
 それは、青年の信頼を裏切ること。
 彼女自身として、そして名家である李家の代表として、それだけは許されるものでは無かった。
 
「それにー、どこか知らないけど、助けも来てくれたみたいだしね!」

 それゆえに、李粛は視界の先に移った旗印を、さしたる驚きもなく受け入れた。
 どことなく、予想していたのかも知れない。


 安定に近い石城において、数倍に至る黄巾賊を追い払い。
 治安も良く、笑顔に満ちているとされる石城を収め。


 そして。
 
 天下において見たこともない衣を纏い、その智は天上のものとも思える深さを有し。
 乱世を収めるために天より降り立った御遣い、民の間では天の御遣いと呼ばれているらしいが、その男がいる。


 涼州石城が太守、董仲頴。
 その御旗が、確認された。



[18488] 十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/09/09 15:56


「さて……予定通りに陣を構えることは出来たわね」

 そう言って胸を張る賈駆に連れられ、視線を前方、安定の方へと向ける。
 高く聳え立つ城壁に群がる黄巾賊は、遠目から見ると大きな虫へと群がる蟻に見えた。
 それと違う点と言えば、その動きには統一性が無いことか。
 まるで生き物ように動き、蠢くそれを見て、不意に背筋が震えた。
 
 偵察からの報告によれば、安定を襲う黄巾賊には明確な指揮官がいないらしい。
 どうも、小規模な集団が合流して出来た群衆らしく、組織だった行動はしていないのだ。
 董卓軍が陣を構える前でもそうで、大多数は安定を囲み続けたが、一部は董卓軍へと標的を変え襲いかかってきたのである。
 もっとも、それらの殆どは天下無双の呂布を始めとした豪傑に討たれることになったのだが。

 そんな彼女達の働きにより、董卓軍は大して損害も無く本陣を構えることが出来た。
 その指揮を執ったのは賈駆であり、攻め込みにくく守りやすい、と手本のような陣が出来上がったのだが。
 そんな彼女達の傍らで、それを手伝った俺は疲労困憊だった。
 否、手伝わされたと言ったほうが正しいか。
 その指示を出したのは、もちろん賈駆である。

「大丈夫ですか、一刀さん?」

「はは、大丈夫……だと思いますよ仲頴殿? 二の腕が震えて物が持てなかったり、立ち上がる時に膝が笑ったりするのが大丈夫と言うのならば、ですが」

「……何よ、何か文句でもあんの?」

 心癒される董卓にほんわかしながら、ぎろりと賈駆に睨まれて慌てて首を振る、もちろん横に。
 そんな俺にふんと鼻を鳴らして再び前を見据える賈駆の横顔を眺めながら、生まれたての子鹿のように足を振るわせながら、なんとかこうにか立ち上がる。
 
「大体、あんた貧弱すぎんのよ。同じ仕事した兵がぴんぴんしてんのに、へばってるのあんただけよ」

「いやー、これでも少しは鍛えてたんですが……。大変面目ない次第で」

 確かに、見れば兵糧を確認する兵や、武具の予備を確認する兵などは共に木を運んだ仲なのだが、その歩きや佇まいには疲労の色は少ししかなく、それは賈駆の言葉を正当化するだけのものがあった。
 しかも、二人とも女性だったりするのだから、なお質が悪い。
 なんて言うか、泣きたくなってくる。

 女尊男卑ではないが、膂力にしろ権力にしろ、やはり女性が力を得る時代なのだと改めて実感する。
 男からすれば、ちっぽけな自尊心でも悲しいものではあるのだが。
 もしかしたら、遙か未来の先には女性主導による国際連合なんかがあったりするのかな、とふと思ったり。

 そんな暢気なことを考えていると、賈駆の視線の先、前衛から一騎の騎馬が駆けつけてくる。
 俺の提案で実現した、とは言っても部隊を色ごとに分けただけのものだが、袖口に縫われた紺の布から張遼の部隊からだというのが分かる。
  
「伝令! 張文遠様、呂奉先様、華葉由様、部隊の再編成終了とのこと! 加えて、徐玄菟様、徐公明様の両名とも出撃準備が整ったとのことです!」

「そう、ご苦労様」

 伝令に労いの言葉をかけ、賈駆は厳しい顔で董卓へと向く。
 董卓もまた真剣な表情で賈駆を見据え、ただ一つだけ頷く。



「……行こう、詠ちゃん。安定の人達を、救うために」



 安定救援戦の、開幕である。






  **






「およ、向こうさんも動き出したみたいだね」

 突き出された槍を蹴飛ばすことによって矛先を変えた後に、それをなした黄巾賊の目線を切り裂く。
 痛みと、己の視界を奪われたことによって暴れる黄巾賊の胸ぐらを掴んだかと思うと、李粛はそれを城壁の外へと放り投げた。
 数人か巻き込んだのか、幾重にも重なった悲鳴を聞きながら、援軍に駆けつけたのであろう董卓軍を見やる。

 先頭にそびえる張、呂、華の旗から見るに、董卓配下でも豪傑として名を馳せる張文遠、呂奉先、華葉由だろう。
 陣を構える先に黄巾賊を蹴散らしたその戦いぶりから、音に聞こえる噂に違いは無いらしい。

 その後ろに並ぶ異なる徐の旗は、おそらく古参の徐栄に、その娘となる徐晃のものだろう。
 戦巧者の徐栄に、これまた豪傑と知られる徐晃とあっては、董卓軍がいかにこの安定救援に力を入れているのかが手に取るように理解出来る。
 その心意気に感謝しつつ、それでもなお攻めを緩めようとしない黄巾賊に焦りを抱く。

 今回、安定防衛のための兵力は三百と、それこそ董卓軍にて確認されていた数と同じものだったのだが、その援護として数百人の街の人々が名乗りを上げていた。
 これは、古くから街の有力者として李家が名を知られており、今回の防衛戦において安定指揮官である牛輔に後を託され、その李家の代表として李粛が指揮を執るためでもあった。
 
 防衛戦に用いられる兵力とは、何も城壁の上にいるだけが全てではない。
 矢を揃え、油を煮炊き、食事を作り、武具を磨く。
 投石用の岩を砕く者もいれば、街で不安に怯える人達を宥める者もいるのだ。
 それらに従事する者達も兵力とするのであらば、この時の安定の兵力は実に千を超えていることになる。
 李粛は、それこそが安定が未だ陥落しない理由だと思っていた。

「それでも大変なのには変わりないんだけどねー」

 振り向きさまに黄巾賊の顎を断ち切ろうとするが、半ばで刃が止まってしまう。
 見れば、人の血と脂によって切れ味を落とした剣が、それでもなお斬ろうとして幾箇所か欠けていた。
 仕方なく、黄巾賊の男が持っていた剣を奪い取り、その胸を蹴飛ばす。
 
 手に持った剣だけで既に六本目で、それ以前のはどれもが切れ味を失い、刃こぼれによって切れ味を失ったために破棄したのだ。
 愛用、と言うほどでもないが日頃から使い慣れてきた剣などは、既に半ばから折れて使い物にはならなくなっている。
 名家にあって贅沢をせず、一般の兵と同じ剣を使っていたためか。
 唯一、李家に伝わる家宝の中国刀『虎狼剣』は、その切れ味を落とすことは無かったが、それでも幾人をも斬ったために、その刀身には陰りが見えていた。
 しかし、それでもなお攻めを緩める気配の無い黄巾賊に、心底うんざりしてしまう。

 戦うことは好きだけど、こう続くと面倒なんだよね。

「お姉ちゃんがいれば、もう少し楽だったかも……」

 智に優れ、李家の麒麟児として名を知られる姉ならば、この劣勢の中でも勝機を作り出せるかもしれない。
 そう愚痴りながら、剣を投擲する。
 一人の兵を斬ろうとしていた黄巾賊に向けられたそれは、見事に後頭部に刺さった後に口から剣を生やすこととなった。
 胸が揺れるのを気にすることなく駆け寄ると、それから剣を抜いて血を払う。

「あ、ありがとうございます李粛様!」

「ほらほら、もう少し頑張れば援軍が来るんだから。頑張れ頑張れ」

 ばしばしと背中を叩いて次に向かおうとすると、ふと城壁の上の黄巾賊が少ないことに気付く。
 ここ安定は古くからこの地にあり、その太守は概ね朝廷から派遣された者がしてきた。
 しかし、そういった者達の大体は朝廷から左遷された者ばかりであり、彼らは再び朝廷に返り咲くためにと金銭を民から搾り取って、賄賂をすることにしか興味は無かった。

 そして、もちろん城壁が老朽化しているからと補修をする筈もなく、安定の城壁はそれこそ指をかけられる隙間が出来るほどまで荒れていたのである。
 故に、防衛戦が開始した直後から黄巾賊は城壁を伝って上ってきていたのだが。
 李粛は不思議に思い、城壁の下を覗くと、そこには――


「どけどけぇぇぇぇぇ! この徐公明の大斧、貴様ら賊如きに止められるものではないわァァァ!」



 ――蒼銀の長い髪を振り乱させて、両手に構えた大斧を振りかざす鬼がいた。



「……いやいや、鬼じゃないって」

 一瞬、そのあまりにも的確な表現に意識を持って行かれそうになるが、寸でのところでなんとか留まる。
 木を切る斧よりも刃を巨大にさせて、かつその武器自体をも大きくさせた大斧を両手に構える。
 見た感じ、大の大人が両手でようやく振れそうなそれを、その徐公明と名乗った少女は片手ずつに持って事も無げに振り回しているのだ。
 安定において、指揮官である牛輔にこそ負けるが、一般の兵に負けたことのない李粛にとって、己の武は自慢出来る類のものであったのだが。
 さすがに、あれに敵うとは微塵にも思わなかった。

「いやはや……大陸は広いよ、子夫、お姉ちゃん」

 安定に生まれ、安定で育ち、安定で学んだ李粛にとって、武と智の頂きはそれまで牛輔と姉だった。
 兵となり、めきめきと頭角を現して将となった牛輔と。
 書物を読み、古き叡智と新しき知識を得ることによって朝廷の文官にまで上り詰めた姉と。
 その二人に学んだ李粛だったが、眼下で繰り広げられる徐公明の舞とも呼べる武は、全く知り得ないものであったのだ。

 だからこそ、惹かれた。
 董卓軍の布陣を見るに、恐らくはあの徐公明でさえ頂では無いのだろう。
 あの先陣を駆けた張、呂、華の旗を持つ者こそが。
 徐公明でさえ敵わぬと感じるのに、さらに上がいる。
そして、そんな人物を纏め使いこなす董仲頴という人物がいることに。
 その事実に背筋が震え、心臓の鼓動が跳ね上がる。
 

 故に。


「安定の指揮を執る者よ! 我が名は徐晃! 我が主、董仲頴様の命により馳せ参じた! 開門を願う!」


 徐公明からの呼びかけに、李粛は疑うことなく諾、と答えていた。





  **





「……琴音達は、無事に安定に入れたみたいね」

「琴音さんと玄菟は無事なのかな?」

「大丈夫でしょう、あの二人なら。玄菟殿も公明殿も、賊程度に遅れを取りはしないでしょうし」

 視界の向こう、安定の城門が開かれ、その合間を縫って徐栄と徐晃の部隊が入城するのを確認して、俺を含めた三人は大きく息を吐く。
 先に城門前の黄巾賊を払ってはいたのだが、それでも城門が開くとなると殺到するもので、周囲に展開していた黄巾賊は城門を目指した。
 その大半は呂布達の部隊に阻まれることになるのだが、ある程度はそれをすり抜けてしまった。
 そのまま城門から中へと入られる、そう思ったのも束の間、城門から飛び出してきた赤い髪の人物がそれを叩き伏せてしまったのだ。

 遠くからでよく見えなかったのだが、何か揺れていたと思うのだが、きっと気のせいだろう。
 うん、胸の辺りで揺れるのが見えただなんて、ありえないってそんなこと。

「第一段階は完了、ってところね。……よし、退き銅鑼を鳴らせ!」

「はっ!」

 じゃーん、と銅鑼特有の音を三回鳴らす。
 待機は一回、突撃は二回、撤退は三回と前日に教わったのだが、この音の大きさまでは学んでおらず。
 近い、それこそ目と鼻の先で鳴らされたそれを、耳を塞ぎながら睨む。

 とは言っても鳴らされたものは最早どうしようもないので、仕方なく撤退してくる張遼達の方へと視線を向ける。
 三部隊が一列に並んで撤退してくるのだが、その後ろには黄巾賊が迫ってきている。
 もっとも、少しだけ高位置にあるここからならよく見えるが、撤退してくる進路の先には既に賈駆の指示によって兵が伏せられており、その旨は張遼達には伝えてある。
 
 文字通り、本当に伏せているんだけれども。

 土の色に合わせた服を纏って、土色に塗られた鎧を着込んだ兵が、今か今かとその時を、文字通り伏せて待っているのだ。
 なんて単純な、とはそれを聞いた俺の言葉だが、それを聞いて賈駆は自信満々に言い切った。

 曰く、単純なほど効果は高い、と。

 それでもなお、俺はその効果を疑ってしまうのだが。
 
「あそこまで近づいて、気付かないなんて……」

「人間、目の前に意識を集中させれば、大きく動かない限り気になんてしないわよ。恐らく、大きめの岩でもあると思ってんじゃない?」

 今度は俺の目を疑うことになってしまった。

 予定地点として撤退経路の両脇に伏せていた伏兵部隊の間を、黄巾賊は特に意識することもなく移動していくのだ。
 確かに距離があるって言っても、それでも五十メートル程か。
 賈駆の言ったとおり、黄巾賊は目の前で逃げる董卓軍しか見えていないらしく、その先に罠や策が待っているなどとは、微塵も疑っていないみたいである。
 視線を移せば、人がいることぐらいは分かってもおかしくはなさそうな距離ではあるのだが、結局黄巾賊は気付くことなく、千五百にも及ぶほどの人員をそこに割くことになった。


 追撃してきた黄巾賊の後ろを伏兵によって襲い。
 撤退と見せかけていた張遼達の部隊が反転した後に反撃を行い。
 結果、大した損害もなく瞬く間に追撃してきた黄巾賊の大半を生け捕りにしてしまったのである。








「という訳で霞達には悪いけど、すぐに行動するわよ」

 とりあえず、捕らえた黄巾賊達をそのままにしておくには兵力がもったいなく、またそれだけの余裕もないため全員を逃がすこととなった。
 その際に、次刃向かえば命はない、と華雄が脅したために包囲している黄巾賊に合流することはなかったが。
 さらには嬉しい誤算として、数十人が董卓軍に協力してくれることとなった。
 そして、彼らに聞く話によると、黄巾賊の内部では慢性的な食料不足が目立っており、最早安定に至った時のことで士気を保つしかないと言うのだ。
 
 そこで賈駆は決意する。
 安定を救援するには、今しかないと。

「それはええけど、さっきので大分兵力は減ってもうたで? 死んだんは少ないけど」

「私たちが鍛えた兵が賊などに負ける筈がないだろう。皆一騎当千の強者ばかりだ」

「…………お腹空いた」

「予定とは大分、それこそ陣が殆ど無駄になった感じだけど、黄巾賊を打ち払うには今が好機なの。大変だとは思うけど、頼んだわよ」

 負傷した兵を本陣へと下がらせ、その減った分を本隊から捻出して前衛の兵力を整える。
 信用に足るかどうかは分からないため、元黄巾賊の面々も本陣ということになるが、思ったよりも負傷していたのか、その数は大きく減ってしまう。
 結局、本陣の中でも董卓と賈駆の周りには俺を含めて十人ほどだけを残し、負傷兵や元黄巾賊で本隊を形成しなければならない有様だった。

「しゃーないな、ほな華雄、恋行くで」

「ふん、お前に言われなくても分かっている」

「……ご飯」

 若干一名士気が上がりきらないのがいるが、それでも張遼と華雄についていく辺り、己のするべきことは理解している……のだと思う。
 隊の再編成を行っている陳宮に、期待しよう。


 そんなこんなで第二回戦、とも言える戦いに赴くために前衛に再び向かう張遼達を見送って、賈駆はてきぱきと指示を出し始める。
 負傷兵の治療だとか、元黄巾賊を偵察に出したりとか、戦闘可能な兵数の確認だとか。
 手伝えることがあればいいんだけど、やられても邪魔だから、と言われてしまえば何にも言えない訳で。
 結局のところ、董卓と賈駆の傍にいながら戦局を見ることしか、その時の俺には出来なかったのである。

 とは言っても、賈駆が慌ただしく指示を出し、周りの護衛を兼ねた人達も伝令に動く中、董卓はいいにしても俺まで動かないってのは、何となく居心地が悪い。
 
「少しその辺りを見てきます。……って誰も聞いてないな」

 ゆえに、暇つぶしというか、いたたまれない空気から逃げ出すというか、そういったこともあって声をかけるのだが。
 董卓と俺以外は皆慌ただしく、董卓もまた時々賈駆に問われるものだから誰も返事をしてくれるわけでもない。
 仕方なく、本陣の中でも軍幕をかけるそこから抜けだし、山の方へと言ってみるか、と一人呟く。
 木々が生えるでもなく、岩肌に覆われたそこに誰かが伏せていないとも限らないし、と先ほどの伏兵の如き兵がいるかもと、そちらの方へと足を運ぼうとし――



「きゃぁっ! あ、あなた達は一体ッ!?」

「くっ、ボク達から手を離しなさいよッ!」



 ――軍幕の向こうからの叫び声に、思わず来た道を逆走していた。



 軍幕をくぐり抜けた向こう。

 倒れ伏し、ぴくりとも動かない護衛達と。
 黄色の布を頭に巻く男達と。
 彼らに捕らわれた董卓と賈駆が、そこにいた。



[18488] 十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/06/12 11:53






 199X年、某日。
 
 何かが爆発する、電子レンジで間違えて卵を温めてしまった時よりも一際大きな音が、闇に沈んでいた俺の意識を表へと引きずり出す。
 それと共に周囲の音も耳から脳へと送り込まれるのだが、初め、俺はそれを理解出来なかった。

 否、信じたくなかったのかもしれない。

 人の怒号と、叫びが辺りを覆い尽くし、それにアクセントを加えるかのように辺りでは爆発音が混ざり合い、揺らめく炎が彩りを与えていた。
 油と、血と、ゴムの焦げる匂いが混ざり合い、お互いが強調して不協和音を奏でる。
 その中に隠れるかのように匂うそれは、台所でよく母親が匂わすものに似ていて。
 それが、人の焼ける匂いだということには、その時の幼い俺が気づくことは無かった。

 ガコンッ、と大きな音がしたそちらを見れば、炎の熱からか、それとも上に乗るそれの重みからか。
 一台の自動車が、その天上を崩壊させていた。

 そこまできて、ようやく自分がいるその現状、惨状に目がいく。
 
 自動車による事故。
 幾重にも自動車が連なり、それぞれがへこみ、欠け、原型と留めていないものもあるが、幼いながらにもそれは理解出来た。
 一生懸命何かを引きずりだそうとしている者。
 己の失った腕を探し求める者。
 もはや人かどうかも識別出来ないモノを抱きしめる者。
 その現状が、どういったことかも。

 そして、ふとどうして自分がここにいるのかを考える。
 自分の手足はある、探すためではない。
 周りにいる人達の顔は知らない、助けるためではない。
 
 惨状のその最中で、俺は首を傾げるのだが。
 その自動車、それこそ一つの紐のように連なっている自動車の列を、順番に見やっていく。
 黒、白、赤、青など様々な色があり。
 大きいの、小さいの、中ぐらいの、レースに出るような自動車があって。
 その先頭、自分がそれまで見ていた反対方向に視線を向けて、その動きを止めた。


「…………あ」


 ぱちぱち、と炎に包まれるソレ。


「…………あ、あァ」


 おじいちゃんを連れて旅行に行こう。
 そう言って、以前のものよりも大きいソレを買ったのはいつ頃だっただろう。
 思い切って買った、と言うと怒られていたのを覚えている。


「……あ、あぁアア」


 もはや原型を留めず、その前半分は大きなトラックによって下敷きにされており。
 かすかに見える人の手らしきものは、ピクリとも動く気配はない。
 その日の朝、俺の頭を撫でた大きな手も。
 はしゃぎ疲れて眠る俺の頭を撫でた優しい手も。


 
 決して、動くことはなく。



「……ア゛ア゛ァァァアあああアァアああぁあアアァぁあ゛あ゛あ゛!」



 県境高速道路多重玉突き事故。
 高速道路が出来てから後の世、史上最悪の事故と呼ばれたその事故で。


 俺は六歳にして、父親と母親を失った。






  **





 涼州安定を望む董卓軍本陣の中。

 軍幕をくぐり抜けた向こうで、董卓と賈駆が黄巾賊によって捕らえられているのを見つけた俺は、彼らの手に剣が握られているのを見つけ、その動きを止める。
 血錆によって鈍く煌めくそれは、俺が動けばすぐさま董卓達の柔肌へ食い込み、その喉を斬り裂くだろう。
 動きを止めてその隙を窺うのだが、ふと董卓と賈駆を捕らえる黄巾賊の顔に見覚えを感じ――
 ――不意に後ろから衝撃がかかり、強かに胸を打ち付けながら俺は倒れ込んだ。

「背後ががら空きなんだな! い、一度言ってみたかったんだな」

「ぐぁぁっ!」

 ミシリッ、と骨が軋む音が響き、背中から伝わるその重量に肺の空気が押し出される。
 ぼきりと聞こえなかっただけマシではあるのだが、こいつ一体どれだけ重いんだよ、とそんな状況ながらふと思ってしまう。
 かといって、このまま下敷きにされている訳にもいかまい。
 俺は、搾れるだけの力を総動員して身体を浮かせようとするのだが、そんな努力も空しくぴくりとも動かない。

「おいおい、そりゃ無理だぜ。デブの重さは、大人三人分を優に超えてるんだ。一人で持ち上がる訳がねえ」

「俺の場合は五人分になりやすけどね、アニキ。ん、んん? あっ、アニキこいつあの時の奴ですよッ!」

「この! う、動くななんだな!」 
 
 とりあえず、このままでは呼吸でさえ困難になってしまう。
 ひとまず胸の辺りだけでも隙間を作ろうと腕を動かすのだが。
 そんな俺の動きに、俺の上で座り込んでいるデブは持っていた剣の柄で殴りかかってきたのだ。
 後頭部を強かに打ち付けられ、緩んだ力は再び俺に重量の衝撃を与えたることとなった。

「ぐぅっ!」

「一刀さんッ!?」

「くっ、ちょっとあんた達、この手を離しなさいよ!」

 そんな俺を見て、黄巾賊の束縛から逃れようと暴れる董卓と賈駆だったが、元の世界ではどれだけ膂力に優れていても、この世界では非力な少女である。
 大の男に捕らえられては、それから抜け出すほどの力もないのだ。
 これが呂布や華雄や張遼ならば話は別なのだろうが。
 結局、黄巾賊から逃れることは出来ず、逆にその喉元に剣を突きつけられてしまう。

「確かに、あの時の小僧だな。ということは、こいつらはあの時の女ってことか? ハハッ、こいつぁ運がいい!」

「へい、アニキ! あの時は逃げられやしたが、今日は最高の日ですぜ!」

「さ、最高なんだなっ!」

 そして、そんな俺達を見て笑い声を上げる黄巾賊の男達が、俺がこの世界に来た直後に董卓と賈駆を襲っていた三人組ということに気づく。 
 董卓と賈駆も気づいたのか、驚愕の表情を浮かべながら、賈駆は悔しそうに吐く。

「くっ、あの時に手配しとけばこんなことには……っ!」

 しかし賈駆のことは俺にも言えない。
 あの時は彼女達を救うことと、自分が殺されるかもしれないということで気が動転していて、彼らが黄色の布を付けていたということにさえ気づかなかったのだ。
 その顔を思い出すのにも時間がかかった手前、さらには手配をするということにさえ気が回らなかったのだから、俺としても賈駆にしても、もはや後の祭りである。
 

「気味悪ぃ白い仮面を付けた奴の言うことなぞ信用出来んと思ってたが……中々どうして、あの女が持ってきたのはいい話だったわけだなオイ!」

「へぇ、董仲頴と賈文和を思う存分に痛めつけろ、邪魔する者は殺せってのは無茶かとは思いやしたが。護衛だけは叩きのめす、ってので疑わしいとは思ってやしたが、結果としては上々ですね」

「月とボクが狙い……? 一体誰が?」

「わ、私達が狙いなら、一刀さんは離して下さい! な、何でもしますからっ!」

 下卑た笑みを浮かべて笑う黄巾賊の男達の言葉に、賈駆はその狙いを考察し、董卓は俺の命は救えと言うが、その言葉に黄巾賊の男達はまたも笑い声を上げる。
 その笑い声は気に障る類のものであったが、それよりも俺はある一つの事実に意識を取られていた。


 白い仮面を付けた、おそらくは女性であろうその人のことを。


 董卓の下に呂布がいて、その彼女もまた黄巾賊と戦うなど、俺の知る歴史とはてんで違うものではある。
 おそらく、その女性の存在もまた俺の知る歴史とは全く違うものではあるのだろうが。
 白い仮面、という単語に意味も無く背筋が震えた。


「董卓様よぉ、何でもするってのは大変嬉しい言葉だがな……こいつを助けるってのは出来ん相談だなぁ」

「俺とデブを叩きのめしたこと、忘れたとは言わせんぜ。こいつだけは、殺させてもらうかんな」

 叩きのめしたという事実は忘れてはいないが、それが誰だったかは覚えていない。
 なんて言ったら即座に殺されるんだろうな、頭上で煌めく剣で首を斬られて。

そう言って俺を見るチビの視線には恨みが籠もっており、その言葉が本気だということをいやがおうにも感じさせる。
 
 とは言われても、あの時董卓と賈駆を助けなければ俺の今は無かった。
 恐らく、何処かの荒野で腹ぺこで息絶えるか、山賊盗賊に襲われて息絶えるか、という結末しか待っていなかったのなら、あそこで彼らを見逃すという選択はあり得なかったのだ。
 それを恨まれても困る、と声を大にして叫びたい。

「という訳だ。デブ、さっさとそいつを殺せ!」

「わ、分かったんだな!」

 チビに殺せと言われ、デブはその手に持った剣を高く振り上げる。
 何とか顔を動かせば、その切っ先は鈍く光るのが見え、それが偽物ではなく正真正銘の人を殺せるものだと認識してしまう。
 かと言って、その男の下から抜け出せる筈もなく、どんなに力を入れたとしても僅かに隙間が出来るぐらいである。
 っていうか、大人三人分って二百キロ近いってことか。
 ベンチプレス二百三十キロとか出来る人なら抜け出せるだろうが、俺にそんな筋力があるはずもない。
 そう考えてみれば凄えなベンチプレス上げる人達、と素直に感心してしまう。

 何て考えてみても冷静になれる筈も、事態が好転する筈もなく。
 
 デブが振り下ろした剣によって、俺の首は切り落とされ――



「ちょっと待て」



 ――ることはなかった。
 アニキと呼ばれた男の一声により、俺の首直前で剣は止められたのだ。
 そのことに心から安堵するのだが、続いて発せられた言葉に、安堵した心は冷え固まった。

「どうせなら、そいつの目の前でこいつらを犯しちまおうぜ。好きにしていいって言われたんだ、こいつらが喘ぐのを見せて、その後に殺せばいいだろう」

「なっ!」

「へぅっ!」

「さっすがアニキ! 絶望を与えてから殺すんすね! 俺達には思いも付かないことをしてのける、そこに痺れる憧れるゥゥゥゥ!」 
 
「ア、 アニキはやっぱり凄いんだな」

 鬼の首を取ったかのように騒ぐ黄巾賊達だったが、その腕の中で董卓と賈駆は震えているのが見えた。
 その瞳には涙を溜め、賈駆は男達を睨むように目をつり上げる。
 しかし、それは男達の加虐心をくすぐるだけにしかならず。



「おら、最初はテメェからだ!」



 賈駆を捕らえていたアニキは、その服を掴んだかと思うと一息に破り裂いた。






  **






 両親を亡くした俺は、父方の祖父に預けられた。
 母親は元華族の家の生まれらしく、そんな生まれの者が通う高校に通っている時に父親と出会い、愛を育んだらしい。
 どこぞの家とも知らない父親と結ばれたものだから、母方の親戚は俺の父親を憎んでいるらしく、その影響を受けないようにと父方の親戚は俺を引き取ることを拒否したのだ。
 故に、俺は祖父の住む寺兼道場兼住居へと移ることとなった。
 言い方を変えれば、祖父しか俺を引き取ろうとはしなかったのだ。

 とは言っても、引き取られてはい終わり、というわけにもいく筈もなく。
 俺は、魂が抜けたように生きていた。


「……一刀よ、儂に子育ては出来ん。あいつ、お前の父の時もばあさんに任せっきりだったからのう」


 何で俺だけ生き延びたのだろうと、当時の俺は常に考えていた。

 後に救助のために駆けつけた一人のレスキューに聞いたのだが、俺の両親は事故の時にはまだ息があったらしく、逃げようと思えば逃げることも可能だったらしい。
 助けを呼ぶ両親の声を聞いた、という人もいたらしい。
 事故の際、その列の先頭にあった自動車に乗っていた俺達は、居眠りによって突っ込んできたトラックによって多重衝突の事故へと巻き込まれた。
 そして、正面からぶつかり、後ろから追突された自動車は運悪くトラックの下へと潜り込んだという。
 
 両親の座る前半分が。

 少し意識を失っていた両親は、すぐに事故を起こしたことに気づく。
 すぐさまそこから逃げ出せば生き延びることも出来たのかもしれないが、不運なことが起きていた。

 後ろの座席で寝ていた俺が、彼らの足下へと飛んでいたのだ。

 今でこそ、その事故によって後部座席でのシートベルト着用を義務づけるようになったが、当時はシートベルトが付いている自動車すら珍しかった。
 結果、俺のように事故の時に飛んだ人は少なくなかったのだ。
 そして、両親はそんな俺を助けるのを第一としてくれた。
 トラックの重さに軋み、段々とその天上が下がり始めていた車内で、父親はその天上を支え、母親は俺を助けたというのだ。
 
 そして、トラックによって自動車が押しつぶされる瞬間、母親は俺を投げ飛ばした。

 トラック、とはいっても様々あるが、その時のそれは大型トラックとも言えるもので、総重量が十トンを超えるそれを支えることは、乗用車には不可能であったのだ。
 
 両親は、俺を守るために死んだと言えよう。
 言い換えれば、俺が両親を殺したのだ。


「だからと言って、お前を甘やかすことは出来ん。親が死んで可哀想などと、思ってはやらん」


 だというのに、自分の息子と嫁を殺した俺を、祖父は厳しくも確かに育てた。
 決していい親代わりでは無かった。
 優しさを学び、尊さを学び、厳しさを学んでいく年頃において、俺は剣を持たされ武を鍛えられた。
 無論刃は潰されていたのだが、後に真剣を渡すべきか悩んだという話を祖父から聞いて、本当に助かったと思ったのは高校に入ろうかという頃か。
 齢六つにして銃刀法所持違反という犯罪者にならなくて済んだと、ほっとしたのだ。


「よいか、一刀よ。北郷流タイ捨剣術は、おおきいと書く大を捨て、からだと書く体を捨てる。この意味が分かるか?」


 それでも六歳児、これから成長していくだろう子供にはそれはあまりに重く、俺はいつもそれに振られる毎日だった。
 それでも、幾万回数振ればそのための筋力もつき、それに用いた年月は俺の身体を大きくした。
 次第に剣を自由自在、とまではいかなくとも振れるようになる頃には、俺は武を鍛えることを楽しみとし始めていたのだ。
 

「大とは流れ、体とは形。つまりは、形式張った枠組みといったものを作らず、状況に応じて相対する。元来の意味とは違うが、その目指す処は同じよ」


 そして、両親を殺したことに悔やみながらも、俺は成長していった。
 幼いころから剣を振るってきたために、周囲の子供達とは一線を画していたが、それでも友達と呼べる存在も出来た。
 祖父を剣の道で超えたいという願いも出来た。
 

「守るための力。しかし、守るためとはいえ、それは人を傷つける力じゃ。そして、使う者を傷つける力でもある。表裏一体、力とは持つこと、振るうことに覚悟が無ければどうにも出来ん。じゃがな一刀、力が無ければ何も守ることは出来んのだ」


 高校に入学して、友達も出来て、守りたいと思える居場所が出来た。
 守りたいと思える、時があった。
 それを守るために過ちを犯してしまった。

 そのためにこの手を血に濡らしてしまったとしても、後悔はしていない。
 それでも、けじめをつけるために俺は剣を置いていた。

 

「お前の父は、お前の母を守りたいがために強くあろうとした。くっくっく、あの洟垂れが指導を頼み込んできた時には、一体何事かと思ったものだが……。あやつが守る力を得たために、お前は生まれた」


 幼いころには周囲の子供に不気味だと言われ。
 過ちを犯したこともあってか、何故祖父は俺を鍛えてくれたのか、なんて疑問に思うこともあったし、幼いころにはその感情をぶつけたこともあった。
 その度に怒られたり、一緒に泣いたり、怒られたり、笑ったり、怒られた……あれ、怒られてばっかり?
 

「よいか、一刀。力を得たから守るのではない。守りたい、という半端な軟弱な気持ちで力を得られる筈がない」


 でも、爺ちゃん。
 引き取られてから色々なことがあって、怒られて迷惑ばっかりかけてた弟子だったかもしれないけどさ。
 両親を亡くして、後悔して生きていくだけだったろう人生を救ってもらえて、俺は本当に感謝しているよ。


「よいか一刀よ、男なら――」





  **





「きゃ……きゃあぁぁぁぁぁ!」

「え、詠ちゃんッ!?」

 黒を基調とした服を、喉元から一気に破り裂かれて、その合間からシンプルながらも確かに主張する白の下着が覗く。
 裂かれた本人と言えば、腕でそれを隠そうとするのだが、その腕を捕まれているのであればそれも成らず、そこに男達の視線を受けることとなる。
 成せぬゆえに暴れる賈駆に、黄巾賊の男達は下卑た笑みを隠すことは無かった。

「ひ、久しぶりの女なんだなっ! おでも犯りたいんだな!」

「あぁ? オメェのだとガバガバになっちまうじゃねえか! 最後だ最後、今は大人しくそいつを抑えとけ!」

「うぅぅ……や、約束だかんなっ!」

「悪いな、デブ。さぁってと、それじゃ頂きますかね」

「さ、触るなこの! くっ!」

 自身の胸へと伸びていくその手を、身をよじるようにして逃れようとする賈駆だが、大人の男に少女が叶うはずもなく。
 それ以上動けない賈駆へと、手を触れようとする。
 その抵抗をも興奮へと変えているのか、欲情した獣の顔へと変わった男の下――


 ――こちらを見つめる賈駆、と視線が合った。


 恐怖で、不安で泣き叫びたいのに、彼女の誇りがそれをさせないのか。
 これから己を襲う絶望に震え、諦めの色が濃くなったそれが――



 ――闇夜の中、覆面の男に襲われる少女と同じ視線で――

 ――あいつと同じ学校の、あいつを見る少女達と同じ視線で――

 ――両親を殺し、全てがどうでもいいと思っていた頃の俺と同じもので――



  ――そんな視線に、俺は知らずのうちにその身に力を入れていた。


 それに気づいたのか、デブが俺を潰そうと躍起になる。
 だが、祖父に教え込まれたのは何も剣術だけではないのだ。

「お、お前諦めないんだな。でも、おでを退かすことなんか出来ない……ん……だ、な」

 丹田に力を込め、心身医学を元に己の芯へと活力を与える。
 
 それによって生じた力で、身体構造によって腕と脚を外から捻るように内側へと綴じ込む。

 それ以上開くことのない手足は俺の身体の下へと潜り、これを浮かせ。

 祖父に鍛えられた己の肉体によって、押さえつけてたデブごと持ち上げる。

「な、な、ナァァァァァ! この、大人しくしとくんだなッ!」


 九州肥後を生まれの地として、示現流や真貫流の元ともなったタイ捨流剣術。
 それに、温故知新を表したかの如く新時代の様々な技術を取り入れたのが、祖父が作り出した北郷流タイ捨剣術だった。
 それこそ柔術に体術などの古武道に始まり、物理学や人体力学、精神医学などの学問の分野も取り入れたのだ。
 剣を以て剣とせず、体を以て体とせず、智を以て智とせず、それ全てが教えであった。

  自らを持ち上げる者などいないと思っていたのか、唐突に持ち上げられたことに驚きながらも、デブは己の仕事をしようと更に体重を乗せようとして。


 俺は不意に右手側だけ、力を抜いた。


「なぁぁっ?! ゴフゥ!」

 そしてその教えの中には、抑えられた状態からの応対も含まれている。
 意識を用いて活力を得、活力によって剛となし、剛をもって術となす。
 押さえつけようとしたところに不意に抵抗が無くなったために、デブはその体勢を崩されて地面へと腰を打ち付けた。
 そして、それは俺を抑えるものは無くなったということであり。
 解放された俺は、デブが持っていた剣を奪い――



 
 覚悟を決めろ北郷一刀。

 傷つけ、傷つくことを恐れるな。

 過ちを犯した俺でも、再び守りたいと思うモノが出来たんだ。

 ならば力を振るうを戸惑うな、臆病な自分から抜け出せ。

 


 *



「よいか、一刀よ。男なら誰かのために強くなれ。女子であろうが、己の子供であろうが、大切な者達であろうが。己が決めたとあらば、どれだけ辛かろうが、どれだけ苦しもうが、歯を食いしばってでも守り抜け」 

  


 *




「えっ?! ちょ、待っ」

 ――俺は一息にその脂肪に埋もれた喉元を切り裂いた。











[18488] 十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/06/15 16:38


 
 涼州安定、その城壁の外。

 崩れかけた城壁は苔と堆く積もれた汚れによって緑と黒に彩られているのだが、そこへ新たに鮮血による朱が混じる。
 その朱の持ち主であった男はその下顎から上を失った身体を城壁へと叩き付けられながら、今また新たな朱をまき散らした。

「はぁぁぁぁぁぁッ!」

 そしてまた一人。
 その腸を斬り裂かれながら、その中身を城壁へとぶちまけていく。
 気づいていなかったのだろうか、己の腹を見たその男は、気を失うかのように倒れたかと思うと、二度と動く気配は無かった。

 それを成した人物、華雄は次の獲物を探して周囲を見極め。
 同僚の背中を襲おうとしていた黄巾賊の首を、大斧の一降りにして刎ねる。
 徐晃のように片手で振るうことを想定している手斧とは違い、華雄のそれは両手で振るうためにかなり大きなものとなっている。
 戦斧(せんぷ)やハルバードみたい、とは北郷一刀の談だが、言うなればそれだけ自身の武が異国の者が知っているほど有名なのだと華雄は捉えていた――春婆度というものはよく分からなかったが。

「貴様ら匪賊如きの武で、私が討ち取れると思うなよッ! 我が名は華葉由、董仲頴の臣下なり!」

 そんな華雄の裂帛の気迫に、彼女の周囲にいた黄巾賊はたじろいだ。
 その大斧で、幾人もの同志が城壁に朱を散らしていったのだ。
 その仇を取ろうと思いつつも、元は農民という出自からか、己の命を優先とするものは我先にと逃げ始める者が出始め、それでもと挑みかかってくる者は新たに城壁の色彩となった。

「……来るなら、容赦しない」

「オラァァァァ! うちの偃月刀の血錆になりたい奴は、名乗りでぇ! この張文遠、逃げも隠れもせんでぇ!」

 そして、そんな華雄の周りでも多くの黄巾賊がその命を散らしていた。
 天下無双の士、呂奉先。
 神速の将軍、張文遠。
 ある時は突き、ある時は薙ぎ、ある時は柄で数人まとめて吹き飛ばし。
 そんな彼女達の前に、命を賭けて挑む者は減っていった。

 元々、生きるにも食うにも困った人々が多い黄巾賊である。
 安定を襲撃したのもそのためであり、命を捨ててまでという志はないのである。
 これが、黄巾賊首領である張角の教えに感銘した者達ならば別ではあろうが、華雄達が蹴散らした黄巾賊の殆どはそういった者達であった。

 故に、安定を包囲する一角を撃滅した時、その他の黄巾賊が逃散を始めたのは当然だったのかもしれない。
 総数の上でいけば、未だ安定を包囲する黄巾賊の方が多いのだが、それを解放しに来た董卓軍の強さは、その優位を忘れさせるほどのものがあった。
 陣を構える前の前哨戦、そして城壁外での戦闘で黄巾賊の多くは討ち取られた。
 その事実が己の死という恐怖となって全体に廻るころには、安定を包囲していた黄巾賊はその殆どが逃げ出していたのだ。

「……なんや、張り合いの無い。まあええわ、思ったよりもはよー済んだしな。損害は軽微、戦果は上々。うちらの勝ち、ちゅうわけやな」

「上々? お腹一杯食べられる?」

「んあ? ああ、恋はそればっかやなぁ。まあ宴はするやろうし、いざなったら一刀にでもたかれば飯奢ってくれるやろ」

「……ん、たかる」

 城壁と地が血に濡れ、周囲に転がる骸が付ける黄巾を朱へと染める中で、呂布のお腹から可愛らしい音が鳴り響く。
 見る者が見れば異質なそれは、この戦乱の世では至極ありふれたものであり、他家であっても当然のものであった。
 この時、遙か幽州涿県では、義兄弟の契りを結んだ末妹がくしゃみをしたとかしないとか。
 
「……文遠、妙だとは思わんか?」

「なんや華雄、何か気になることでもあるんか?」

「勝敗がほぼ決し、追撃するか否かという時に、文和からの伝令が来ない。いつものあいつならば、有り得まい」

「……そいや確かにそうやな」

 華雄の言葉に、そう言われれば、と張遼は思い当たる。
 普段は偉そうに口を聞いても、それでもその智は華雄は当然として、張遼自身も到底及ぶものではない。
 唯一、呂布付きの軍師である陳宮ならば、その足下ぐらいには辿り着くであろうが、そんな彼女がここに至って指示を出さない筈がないのだ。
 董卓を信奉していても、己がするべき任を忘れるような人物ではない筈なのだ。
 ならば、何故ということになるのだが――


 そこまで思い至って、張遼は馬へと飛び乗る。

「ちょっと様子を見てくるわ! 華雄はうちの部隊も使って残敵を潰しといて!」

「……ああ、そっちは任せるぞ」

 恐らく華雄も同じ考えに至ったのか、同じように馬へと乗るその雰囲気はそれを物語っていた。
 

 ――本陣において、何か問題が起こったのではないか。

 元黄巾賊の反乱か、あるいはもっと別の、他のことか。
 何にせよ、伝令が送られてこない状態であるのは間違いないのだ。
 信用に足らない兵や、怪我人ばかりではそれに対処するのは難しいのかもしれない。
 ならばこそ、神速をもって駆けつけなければならないのだ。



 かくして、張遼は本陣へと馬を走らせた。

 丁度同じ頃、一人の男が覚悟を決めた頃に。






  **





 ゾリッ、とも、ゴリッとも取れる音とともに剣を振り抜いた後に、俺は倒れゆくデブの前から身体をずらす。
 数瞬後、忘れていたとでも言うかのようにその喉元から大量の血が噴き出される。
 噴水のように噴き出された血は、いくらかの後にその勢いを弱めた後でも止まることはなく。
 あの冬の日にも聞いた空気と血が混じった呼吸は、既に聞こえなくなっていた。


 呆然。


 董卓も、賈駆も。
 黄巾賊の男達でさえ何が起こったのか理解出来ていないのか、賈駆の服を破り割き、彼女にのし掛かろうとしていた男は、震える声で呟いた。

「…………デブ……?」

 しかし、その言葉に応えるべきである男は既に物言わぬ骸と化しており、その言葉が耳に届いた途端に俺は剣を握る拳を振るわせた。


 俺が殺した。
 俺が断った。
 俺が斬り割いた。

 
 その感触は未だ手に残っており、食肉でも、魚を切ったものでもなく、命を斬ったそれに、知らず俺は震えていた。

 だからと言って、それに震え続けている訳にもいくはずもない。
 男の拘束から抜け出せたとはいえ、未だ董卓と賈駆は捕らわれており、危険なことには変わりないのだ。
 加えて、彼らの仲間を殺したのだから、逆上されて董卓と賈駆が害される恐れもあった。
 そんな心配もあって、彼らの注意をこちらに向けるために剣を向けようとするのだが。

「……あ、ああああアアアアァァァァッ!」

 しかし、そんな心配も虚しく、董卓を押さえつけていた男がその剣を振りかぶりながら斬りかかってきたのだ。
 小柄な体型を活かして切り込んでくるその男は、縦に横にと剣を振るう。
 そのどれもに殺気が籠もっており、男が本気で俺を殺してきているのだと嫌でも理解出来た。
 
 殺されるかもしれない。

 その事実に、剣を避けながらでも背筋が震えてしまう。
 避けきれない剣戟は剣で叩き落とすも、器用に突きを混じえるために突破口が見つからないのだから、それも時間の問題かもしれないのだが、だからといって殺されたいわけでもない。
 ならばどうするか。

 殺すしか、それでしか俺も董卓達も救うことが出来ないならば、俺はそれをしなければならないのだろう。

 俺が一歩後退して距離を取るのを図ってか、男が突きを繰り出してくる。
 正確に俺の眉間を狙ったそれを最小限の身体の動きと頭を動かすことによってギリギリに避ける、少しばかり左目の下を斬られたが。
 そして、がら空きになった胴部へと潜り込みながら、俺は抜き胴の要領で剣を振り切った。


 皮を。
 肉を。
 そして臓物を。


 振り抜かれた剣は腹から背までを斬り割いており、その剣には血と脂と汚物がこびり付いていた。
 その濃厚な臭いに気が遠くまで飛ばしそうになるが、唇を噛みしめることで何とか耐える。

 そして、胴を切り裂かれた男は、自身の傷口から溢れ出る血と臓物を押さえようとして――
 ――そのまま息絶えて、地へと倒れ伏した。

 
「チ、チビッ!? この野郎、よくもデブとチビを殺り――ヒッ?!」


 自身の部下を二人とも殺され頭にきたのか、捉えていた賈駆を放り投げで斬りかかってきた男へと、俺は剣の切っ先を向けた。
 その喉へと刺さる直前男はなんとか踏みとどまるが、それ以上動こうとはしなかった。
 恐らくではあるが、その喉元に突きつけられた剣で殺されてしまうとでも思っているのだろう。
 
 しかし、そのまま一歩でも前に進めば男の喉へと突き刺さるであろう剣を、俺は下ろした。
 そして、董卓と賈駆に出会った時と同じ言葉を、口にする。





「まだ来るのであらば、それ相応の覚悟を持ってこい。手加減は、出来んぞ」




  
「ッ?! く、くそぉぉぉぉ!」

 その俺の言葉に、男は剣を投げ捨てたかと思うと、一目散に軍幕をくぐりその場から姿を消した。
 その足音が消え去り、気配さえもが感じ取れなくなるのを確認して、俺は剣から手を離した。
 自分の掌が強張っているのを無理矢理に開くと、カラン、という音とともに地へと落ちた剣はその切っ先に付いた血脂を地面へと染みこませる。
 
 一つ深呼吸をして董卓と賈駆の方を見やると、未だ呆然としながらも確かに生きている彼女達が、そこにはいた。
 守れた、守ることが出来たという想いが自分を覆うのを感じ、知らず緊張していたのだと理解する。
 俺は、聖フランチェスカの制服を脱ぐと、それを賈駆へと羽織らせた。

「申し訳ありませんでした、文和殿。仲頴殿も、危険に晒してしまい――」

「いえ、一刀さんがいなければ、今の私達はありませんでした。本当にありがとうございます」

 俺の謝罪の言葉を遮るようにして董卓が発した言葉に、幾分か救われた気がした。
 一つ深呼吸をして賈駆に視線を移せば、何処か申し訳なさそうにする彼女がそこにはいて、俺は我が目を疑った。
 かと思えば、その胸元に白く輝く下着が見えて慌ててあさっての方へと顔を向けたが。

「あ、あの……あんたのおかげで助かったから……。あ、ありがと」

 そんな俺の視線に気付いたのか、俺が羽織らせた聖フランチェスカの制服の前を隠すように合わせて、賈駆はぽつりと感謝の言葉を口にした。
 俺としては、どこ見てんのよ、と怒られるかもと思っていたのだが、いやはや助かった。
 深呼吸しながらそんなことを思っていると、勢いよく軍幕が開けられ俺は再び黄巾賊が来たのかと身構えながら賈駆を背中へと回す。
 董卓を手招きでこちらへと寄せて、不意の事態にも備えたのだが。

「月、詠、ついでに一刀、無事かッ?!」

「俺ついでッ!?」

 慌てて駆け込んできたのは張遼であった。
 その目は獲物を狙う肉食動物のように研ぎ澄まされており、放つ気はまさしくそれのものであった。
 その気に当てられてビクリと身を震わせてしまうが、こちらの無事を確認出来たからか張遼はそれを解いて普段の彼女へと変わっていた。
 一つ呼吸をして、何があったんや、と悩む張遼に事の顛末を教えた。

「つまり、黄巾賊のが護衛を倒して月と詠を襲った、ちゅうわけやな?」

「多分そうだと思います、文遠殿。あいつらは仲頴殿と文和殿が目的だったみたいで、一人は逃げました」

「ふーむ、黄巾賊のが奇襲はあっても本陣を狙うっちゅうのは聞いたことはないけどなぁ」

「……そうね、ボクの知る限りだと無いと思うわ。恐らくは、そう指示を出した人物がいるはずだけど……今からじゃ追いつくのは無理だろうし」

 こちらの情報を教えれば、向こうの情報を得るのは当然のこと。
 安定を包囲する黄巾賊と相手をしているはずの張遼が何故ここに、という疑問を解消すべくどうなっているのか、と問いかけたのだが。
 一方向の黄巾賊を撃退したら他のまで逃げ始めた、とは思わなかった。

「なら、とりあえずは安定に入りましょう。指揮をしていた人と話をしなくちゃ駄目でしょうし、琴音さん達とも合流しないといけないし」

「そう、ね。ここで考えても仕方がないわ。霞は華雄達を一旦読んできてちょうだい。一軍として入る以上、系統を纏めておかないと甘く見られちゃ困るからね。ええっと、あんたは――」

「すみませんが、少し外れます。安定に入る前には帰りますので」

 どうする、と賈駆が聞き終わる前に一言断りを入れ軍幕をくぐってその場を後にする。
 一つ呼吸を入れて周囲を見渡せば、少し歩いた所に森が見えたので、出来るだけ早足でそこへと向かう。
 向かう途中、元黄巾賊や怪我人の合間を縫っていくのだが、その周囲には血と脂の臭いが立ちこめていた。



 


 そして、森へと入った俺は、丁度いいところに小川を見つけ――



 ――そこが、我慢の限界だった。



「ぐぶぅっ! おえっ、おえぇぇ……げぇぇ、ガハッゴホッ」

 ビチャビチャ、と胃の中から食物やら水分やらよく分からないものを逆流させて、俺は派手にぶちまけた。
 内容物が全て出た後も胃酸らしきものが逆流して、喉が焼けるかのように熱い。
 鼻水と涙が嘔吐に連鎖するように零れ落ち、俺の顔をぐしゃぐしゃにしていった。

 どれだけ覚悟を決めても、俺の手で人を殺したことには変わりない。
 どれだけ立派な理由を持っても、俺が人を殺したことに変わりはないのだ。

 深呼吸すれば意外と吐き気も楽になる、とは何かで読んだ気がするのだが、それが事実だったかどうかは今いち立証出来なかった。
 とりあえず董卓や賈駆の前で吐くことは我慢出来たのだから、あまり求めてもいけないのだが。
 董卓とか絶対気にするしな、自分のせいで人を殺したからとか言って。

 
 収まったわけでもないが、胃の中も空っぽになって幾分か落ち着くことが出来た。
 そうすると周囲の音や気配も感じ取れるようになってくるのだが、ふと背中をさすられていることに気付く。
 優しく、それでいて気遣うかのようなそれは暖かく、安心出来るものではあるのだが。
 一体誰が、と疑問に思ってしまう。
 よもや、熊とかパンダとは言わないだろうな。
 川の妖精だとか言って、筋骨隆々のビキニ一丁の男だとかだったらどうしよう……何となく逃げなきゃいけない気がした。

「ちょっとあんた大丈夫!? 医者を呼んだ方がいい?!」

 まだ見ぬ、というよりは決して見たくはない人物像を頭から追い出していると、不意に耳元で覚えのある声を聞く。
 いつもの強気なものでも、先ほどの弱々しいものでもないその声は、純粋に俺を心配してくれているもので、しかし俺はその声の持ち主が何故そこにいるのかということしか聞け無かったのだ。





「文和殿、どうしてここへ?」






  **






「聞いてねぇ、聞いてねぇぞあんなのがいるなんてッ!?」

 涼州安定から少し外れた山奥。
 彼の地にて構築されていた董卓軍本陣から逃げ出したアニキと呼ばれていた男は、生い茂る木々を払いのけながら疾走していた。
 
 思えば、最初から何処か怪しかったのかもしれない。
 白く光る衣を纏った男に邪魔をされた後、特に行く宛もなく黄巾賊の集団に紛れていた時に誘われた一つの依頼。
 石城太守である董卓とその軍師である賈駆の暗殺。
 偶々黄巾賊に襲われる安定救援のために出撃し、偶々長期戦を辞さない構えから本陣を構築し、偶々本陣周辺にいるのが元黄巾賊や怪我人だからという理由で、行われたその依頼は結果から言えば失敗となった。
 直属の護衛は引き受ける、しかし董卓と賈駆、騒ぎを聞きつけた者の相手は任せると当初は言われたのだが、どうにもおかしいことだらけだったのだ。


 何故、護衛のみで董卓と賈駆に手を下すことは無かったのか。
 何故、あの男が本陣にいる時に引き受けなかったのか。
 そもそも、何故自分達だったのだろうか。


 他にも武に優れている同志がいる中で、何故自分達が声を掛けられたのか、理解出来ないのである。

 自分達があいつらを知っているから。
 否、それが何か意味をなすのか。

 自分達が適任だった。
 否、武智に優れる同志、それこそ将軍でもそれはなせる。

 自分達三人のうち誰かがいなければならなかった。
 否、自分もチビもデブも天涯孤独から黄巾賊に身をやつしたのである、そういった関係は全くと言っていいほど無いと言い切れる。

 ならば何故、ということになるのだが、自分が上げた考察の一つが正鵠の射ているとは、男はその命果てる時まで思うことは無かった。


 そして木々を抜けた先、少し開けた広場にて男は目当ての人物を見つける。


 その辺りだけ木々が生い茂っていないのか、夜が訪れる前の夕暮れに男は染められていた。
 先ほどのあいつとは違う病的なまでに白い衣を纏い、所々には紋様が見える。
 その立ち振る舞いには一分の隙もなく、ほんの少しの武を持つ自分にさえその実力は図れた。
 そして、顔の右半分を覆うその白い仮面は、それ単体で見れば無表情ながらも、夕暮れに染まる様は血に濡れているようであり、口元は微笑んでいるようにも見えた。

 ぞくり、と背筋が震えるが特に構うことはないと足を踏み出そうとして――

「おい、あんたッ! あんたが言ったから俺達は――って……え?」

 ――違和感を感じたかと思うと、自分の左胸に刃物が刺さっていた。
 その刃物から視線を移せば、それを手に持っているのは自分達に話を持ってきた女がいた。
 ひらひらとした腰布を巻き、その胸部は深蒼の鎧の上からでも分かるほど膨らんでおり、彼女がれっきとした女性であることを知らせていた。
 蒼銀の髪は後頭部で纏められており、その輝きをもってその肉体に映えていた。
 ただ、惜しむらくは目鼻整った端正な顔立ちの左半分を白い仮面で覆われていることか。
 そこまで考えて、自分の意識がだんだんと闇に呑まれていくのを認識して。

 意識を失う直前、自身の血に濡れた無表情な仮面が、嗤った気がした。









[18488] 十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/06/20 16:04



「……」

「……」

 賈駆を手近な岩へと座らせた俺は、その傍らに立ちながら必死に思考を回転させていた。
 自分の意志で人を殺し、その精神的苦痛から一人外れて吐いているところを背中をさすってもらった。
 そこまでであれば俺を心配してくれて、とも取れるのだが。
 どうしてここに、と問いかけてみれば無言の返答が返ってくるのみで、さらにはギロリと睨まれてしまえば口の挟みようもない。
 結果、小川のせせらぎと葉擦れの音だけがその場を満たしていた。

 どうしたものかと視線を賈駆に移せば、いまだ聖フランチェスカの制服を羽織っており、その前は手によって閉ざされている。
 そのことからその下は先ほどのまま、と気づくことは出来るのだが、同時になんて危険なとも思ってしまう。

 生死をかけた戦いは、人の生存本能を刺激すると聞いたことがある。
 命を失う可能性がある場合、己のDNAを後世に残すための行動、ということらしいのだが。
 俺が歩いた場所、言い換えれば賈駆が歩いた場所はそんな戦いを済ませた兵達の真っ直中であり、その論からすれば、彼女は生存本能に餓えた男達の間を抜けてきたことになる。
 加えて、董卓の評に隠れがちであるが、賈駆自信もその厳しい部分を省けば所謂美少女に分類されるのだ。
 民の間でもそれは噂されており、彼女に好意を抱く兵や民もいると聞く。
 もう少し自分のことを考えればいいのに、と知らず溜息をついてしまうのだが、どうやら別の意図として思われてしまったらしい。

「……何よ、人の顔を見て溜息なんて吐いて。さっきの質問といい、ボクがここにいちゃいけないわけ?」

「いや、そういうわけではないんですが……」

「じゃあ、どういうわけよ?」

 と言われましても。
 まさか、文和殿は可愛らしく兵からも人気がありますのでそのような劣情を抱かれても文句の言えない格好で歩かないで下さい、とは言える筈もない。
 その白く艶めかしい首筋とか、ちらりと覗く鎖骨とか少しは気にして下さい、などと言えるわけがないのだ。
 なんとなくだが、言った瞬間に首が飛びそうな気がした……今この瞬間にも飛びそうな感じではあるが。

 何故だか不機嫌な顔で問われれば、それに答えられる筈もなく口を閉ざし。
 そんな問答が、先ほどと同じ沈黙を作り出していた。


 しかし、そんな沈黙は意外にも賈駆によって破られる。


「その……本当に大丈夫なの?」

 途端に先ほどまでの雰囲気はなく、こちらを心配する視線と共に吐き出された言葉は、本当に俺を思ってのものだった。
 下から眼鏡越しの上目遣いとか、上から見えそうになるその胸元とか、その他諸々に意識がいくのを必至で引き留めている俺を、である。
 なんだか申し訳ない気持ちで一杯なのだが、そんな俺に気づくはずもなく、賈駆は続けた。

「引きつった顔で笑われても、説得力は無いわね。月も霞も、心配してたわよ」

「……心配かけて申し訳ありません。でも、本当に俺は大丈夫ですよ」
 
 引きつった顔、と言われても俺に自覚はないのだが、そう言われたのならと精一杯に笑えるように顔を動かすのだが。

「……はぁ」

 溜息つかれました。

 言っても分からないのかこの馬鹿は、みたいな顔されて、何故だか唐突に手を引かれた。
 視線でその理由を尋ねても、いいからそこに座れと視線で脅さ――促されてはそれに断る理由も無く、賈駆が座るその対面に座ることになった。
 先ほどまで俺が上から見下ろす形だったのが逆になったのであるが、俺を上から見下ろす賈駆の視線には何故だか威圧感が備わっていた。
 
「……引きつった顔で何言われても大丈夫には見えないって、何度言えば分かるの? それとも何、みんなが心配してくれるのは無用の長物とか言いたいわけ?」

「い、いや、決してそういうわけでは……」

 威圧感を備えながら上から怒られる、そのけがある人ならば大喜びの状況であろうが、あいにくと俺にはそのような属性は備わっていない。
 加えて口ではなんと言おうが俺自身、自分が大丈夫だとは思っていないのだから、心配してくれているという申し訳なさも含めて、反論の余地さえ無かった。
 
 怒られてはそういうわけでは、とはぐらかしていると、不意に賈駆からのお叱りという名の罵倒がぴたりと止んだ。
 これはもしかしてアレか噴火前の火山の沈黙みたいなものか、とその噴火に備えて心中を正し身構えるのだが、予想に反してぽつりと零された言葉には、涙声が混じっていた。
 ……って、涙声ッ?!

「……何よ、ボク達の心配なんか、やっぱりいらないんじゃない。何を言っても大丈夫って……助けてくれた人を心配するのがそんなにお節介なわけ? これじゃあ、感謝したくっても出来ないじゃない……」

「えぇっ?! ちょ、そんなつもりじゃないんですってば! ぶ、文和殿、泣かないでくださいよ……」

 あれだな、女の涙は武器、とか言われているけど、された方からすれば破壊兵器だな。
 
 俯き、溢れる涙と嗚咽を堪えるように肩を振るわす賈駆の前で、俺はわたわたと慌てるしかなかった。
 常に自身と勝気に溢れ、董卓軍の頭脳とも言える賈駆が泣いているということもあるし、彼女自身も先ほどまで襲われそうになっていたのだ。
 男に押さえつけられ乱暴される寸前だったとはいえ、衣服を剥ぎ取られた賈駆の不安は如何ほどのものだったのか。
 女性にしか分からないその恐怖と不安を抱えながら、それでも俺を心配してくれた彼女は一人でここまで来てくれた。
 そのことに有り難さと申し訳なさを感じながら、俺は自身を恥じた。
 

 だからこそ、そんな賈駆に少しでも報いるために、俺は決意したのかもしれない。


「……文和殿、俺はね――」 


 この世界に来て、忘れることが出来るかもしれないと思った。
 この世界で、その罪を抱いたまま死んでいくのもいいのかもしれないと思った。
 だけど今、目の前の少女が俺を心配してくれるのであらば、今の俺自身を構成するその罪をも話さなければいけないのだろう。
 それを聞いた彼女はどう思うだろう。

 軽蔑する?
 気持ち悪がる?
 恐れる?
 
 そういった感情を向けられれば、俺はまた傷つくのだろう、それを表に出すことはなく、決して癒えることのない傷を抱えるのだろう。
 だけど今、目の前で俺を心配してくれる少女ならば、俺は信頼出来るのかもしれない。



 だからこそ、俺はあの冬の日のことを話すことにした。





「……文和殿、俺はね――人を殺したことがあるんです」







  **







 事故で両親を亡くした俺だったが、祖父の稽古という名の血反吐を吐くような修行と、親しくしていた近所の人達の助けもあり、無事に高校へ入学しようかという歳まで成長した。
 そして、入学する高校を厳選しようかという頃に、俺は当時の担任からある情報を聞くことになったのだ。
 亡き母親が通っていた女子校の聖フランチェスカ学園が、翌年度から共学になると言うのだ。
 元々想定していたお嬢様などの生徒数減少による門戸開放、ということらしいのだが、俺はそれを聞いてすぐさまに第一志望をそこへと決めた。
 幼い頃に亡くなった両親は写真こそ大量に残してあったものの、俺自身そこまで彼ら達のことを覚えているわけではなかった。
 極限状態下での一種の記憶喪失、と医者に言われた俺は、両親との思い出が欠如していたのだ。
 
 そんなこともあって、祖父は俺が母親の母校である聖フランチェスカ学園に入学することを渋々了承してくれた。
 渋々、というのはそこに至るまでが山有り谷有りの決して平坦な道ではなかった、ということなのだが……内容は察してくれたまえ。
 儂の屍を超えて行け、と言われた時には本当にどうしてやろうかと思うものである、とだけ知らせておこう。


 ……何、父親の母校?
 市町村の合併の余波で、影も形も跡地も無かったよ。


 そんなこんなで聖フランチェスカ学園に入学した俺は、剣道部に入部した。
 男子の第一期生ということで同級生には数えるほどしか男子がおらず、そのうちの一人である及川などはハーレムだ、と喜んでいたのだが……まぁ現実はそれほど甘くはなかった、とだけあいつの名誉のためにしておこう。
 とまあ、同級生の男子と仲良くなったり、そのうちの一人が何故か主人公属性でフラグを立てまくって、それを及川が悔しんだり。
 剣道部の主将である不動先輩を超えたい壁としながらも、そんな彼女も友人によってフラグを立てられたり。
 

 そんな毎日を過ごしながら迎えた高校初めての冬。
 数日後に控えた近隣の剣道強豪校との練習試合を控えたある日の夜、部活動の帰りで遅くなった俺は、その暗闇の中で声を聞いた。

 少し高めの、近づけば女性のもとだと分かるそれはどこか助けを求めているようであり、さらに近づけば別にくぐもった声も聞こえた。
 近くにあった公園、その茂みの中から聞こえたその二つの声に、俺は部活動で使っていた竹刀を取り出して近づいていった。
 暗闇で若干目が慣れていなかったが、茂みを抜けた先には、フルフェイスのヘルメットを被った黒ずくめの人物と、その衣服を破り取られてそのヘルメットの人物にのし掛かられている女性の姿があった。
 
「あ……た、助けてくださッ!?」

「おい、あんた! 何をしているんだッ?!」

 ヘルメットの人物越しに俺を確認したその女性は、すぐさま助けを呼ぼうと声を上げるのだが、それをその人物が見過ごすはずもなくに口を塞ぐ。
 だが、助けを呼ぼうとした事実のみでいえば、目の前の二人は恋人などと甘いものではなく、襲い襲われる二人なのだと理解する。
 そう理解した俺は、すぐさまに竹刀を構えてヘルメットの人物へと詰問した。

 ビクリ、と肩を振るわせたヘルメットの人物は背後の俺を確認すると、周囲をきょろきょろとしたかと思うと、一度だけこちらへと視線を向け、そのまま逃げ出したのだ。
 襲いかかってくると思っていた俺は意表を突かれそいつを追いかけることは出来なかったが、女性、着ていた制服から今度練習試合に来る学校の女生徒ということが分かり、警察に事情を説明してその日は終わった。



 数日後、俺を含めた一年生の実力試しも兼ねた練習試合を行うために、前日に助けた少女も通う高校の一団が聖フランチェスカ学園の門を潜る。
 一年生唯一、というよりは剣道部唯一の男子生徒として出迎えにかり出された俺は、一人の男子生徒と視線を合わせた。
 茶色に染められた髪は適度に揃えられており、きつめ、というよりかはどこか肉食系とでも呼べそうな雰囲気を持つ少年は、何故だか俺を睨み付けていた。
 他校の生徒に目を付けられる覚えのない俺は、その時には既にそれを忘れて練習試合へと思いを移していたのだが。
 その男の視線が、頭から離れなかった。


「胴ォォォォォ!」

「一本!」

 不動先輩の抜き胴が相手の胴を叩いて音を立てる。
 ……通常ならばパシーンとかバシッとか聞こえるはずなのに、ドゴンッとか聞こえるのは何故なんだろう。
 何か崩れ落ちるように床へとへたる相手が、気を失っているのではないかと思えてしまう。

「大丈夫だ、峰打ちでござる」

 とは当の本人である不動先輩の談ではあるのだが……先輩、一つだけ言いたい。
 竹刀に峰はありません。
 そもそも、剣道であろうと峰打ちであろうと、あんな音が出るはずはないんですけど。
 
「ふっ、私が強かった。ただそれだけでござる」

 いや、それで済ませるにはあまりにも相手が不憫なんですが、と続ける暇もなく、不動先輩は後ろに控える女生徒軍団の中へと埋もれていった。
 この女子校時代はお嬢様が集う聖フランチェスカ学園の中で、不動先輩はお嬢様の中のお嬢様でありながら、他の女生徒からはお姉様と呼ばれたりもしているらしい。
 あれだけ綺麗で強くて、お家柄も優秀とあればそれも分かるものである――語尾のござるは意味不明だが。
 
 ともあれ、順調に勝ち星を重ねていく部活仲間を前に、俺も興奮していることが分かる。
 なんでも、俺の相手は相手校で一番強い男子であり、それがあの時視線を合わせたやつだということらしい。
 そんなやつを対面に礼をして身構えれば、確かに、その動作に隙は無く、強いということがよく分かる。
 もっとも、不動先輩には及ばないが。
 しかし、そんな中でふと気づいたことがある。
 目の前の男を見る、相手校の女生徒の視線が異常なことに。
 憎悪、嫌悪、恍惚、様々な色が含まれているのだ。

「始めっ!」
 
 その正体が何なのか、と考える暇もなく審判のかけ声をかけられる。
 それと共に脚を動かして距離を乱す俺に特に気にすることもなく、その男はどっしりと構えていた。
 さながら山のようではあるのだが、その面の奥から感じる視線は威圧したものであり、大型の肉食獣を前にしているようでもある。
 動き回ることの無意味と体力の消耗を考えた俺はそれを止め、相手と同じようにどっしりと構える。
 中段、至って普通の構えからなるそれは攻撃防御ともに展開が早く次へと繋げやすい。
 祖父の北郷流タイ捨剣術ではあまり用いられないが、剣道とならば別である。
 それを表すかの如く面を打ち込もうとした矢先、一瞬早く相手が動く。

「くぅっ!」

 喉元を狙って突きを繰り出してくるのを、竹刀を滑らすことでなんとか防ぎそのまま鍔迫り合いへと持ち込む。
 とはいっても、体格で言えば相手の方が上であり、このままでは不利となってしまう。
 北郷流を用いれば抜け出し、なおかつその頭部に一刀を叩き入れることは可能であるが、それは祖父から止められている。
 曰く、守るものがないのに力を用いる無かれ。
 仕方なく、剣道という競技の中で勝つことを模索するのだが、不意に声がかけられる。

「……やっぱり、テメエはあん時の奴か」

「……あの時? 一体何を……?」

「ああ、俺はヘルメットしてたから分からねえか。あの夜にテメエに邪魔された暴漢魔とでも言えば分かるか?」

 面の奥からにやりと歪められた顔から発せられた言葉に、俺は知らずのうちに距離を取っていた。
 ヘルメット、夜、俺が邪魔した、暴漢魔。
 それらの単語が俺の頭へ染みこんでいくと、一つの過去を思い出した。
 あの日のヘルメットの人物が、目の前のこいつなのか。
 そう思った矢先、再び突きを繰り出してくるのを何とか防ぐ。

「くく、こいつは運がいい。俺に楯突いた女を犯す邪魔したやつがこの学校にいるとはな。おいテメエ、この勝負、俺が勝ったらあの不動とかいう女を人気のない所へ呼び出せ。ああいう気の強え女には跪かせるに限る」

「なっ! あんた、巫山戯てんのかッ!?」

「巫山戯てなんかいないさ。ああ、あいつが無理なら別の女でもいいぜ? 元お嬢様学校なだけあって、随分とレベルが高えしな。お嬢様がどんな声で鳴くのか、興味がある」

 俺を無理矢理にはじき飛ばした男は、俺の体勢が整わないうちに竹刀を振り下ろす。
 このまま反応出来ずに一本を取られれば、言葉少なではあるが、こいつなら言ったことをするだろう。
 その視線、その口調、その雰囲気はそれを黙に表していた。

 だから、俺は即座に男との距離を詰める。
 その空いている胴へと打ち込もうとするが、即座に判断して防御へと回された竹刀によって、三度鍔迫り合いとなる。

「へえ、意外とやるじゃねえか。やっぱり自分のペットは守ろうとするんだな」

「お前と一緒にするんじゃねえ。俺は誰ともそんなんじゃねえんだよ」

「なるほど。だが、テメエがそうでも、誰かしらそういう奴がいてもおかしくはねえな。AVでもよくあるだろ、愛玩動物にされたお嬢様ってなぁ」

「ッ! みんながそんなことをする筈がないだろう、巫山戯るな!」

「いい子ちゃんぶってんじゃねえよっ! 所詮女、つっこんじまえばヒィヒィ言う雌豚に過ぎねえんだ。お嬢様という皮を被ったな!」



 ――その一言に、俺の思考は先ほどまで逆上していたにも関わらず冷静になる。

 ――つまりそれは俺の母親もそうだったと言いたいのか、と。

 ――文字通り命をかけて救ってくれた母親を、お前は雌豚と言うのか。

 ――俺という人を理解して、迎えてくれた不動先輩や同級生のみんなを、雌豚と言うのか。

 ――そんな居心地のいい場所を、お前の欲望のみで怖そうとするのか。



 ならば、負けるわけにはいかないんだよ。



 爺ちゃん、言いつけ守るけどゴメン。
 心の中で一言祖父へと謝罪した後に、俺は男を押しのける。

「はっ! ようやくやる気になっ――ブフゥッ!」

 かと思うと、すぐさまにその頭上へと竹刀を振り落とす。

 通常、身体を正面へと向けて手で竹刀を動かす剣道では、その振りの早さは身体の使い方や腕の筋力に因るところが大きい。
 それは剣術にも言えることであるが、ならば、と祖父は身体を引くことを考えついた。
 即ち、振り落とすと同時に身体を左に引くのである。
 右利きなれば左手が下、右手が上になるその構造を利用することによって、身体を左に引けば必然的に左手も引かれることになり、身体全体を使った振りは従来よりも速度が増すのである。
 もちろん練習は不可欠であるが、北郷流タイ捨剣術じゃ、とか言われながら祖父に叩き込まれてきた俺にとっては、造作もないことである。
 不動先輩と同じような音がなった面はその勢いにて若干ずれ、勢いよく振り落とした竹刀は勢い余って床へと叩き付けてしまう。

 そのためか、バキリ、と竹刀が割れてしまったのだが、俺は気にするわけでもなく次の動作へと移る。
 否、都合がいいと思っていた自分がいた。

 横に割れた竹刀は多くのささくれを造りながら、一つの刃物でもあった。
 その柔軟性を見いだして竹刀に用いられる竹ではあるが、折れた時の断面は人を刺すには十分なものである。
 古来から竹で造られた罠だったり、竹槍などその実績は十分なのだ。
 

 面がずれて防具に隙間が出来た男の喉元。

 叩き付けて折れた、十分な殺傷能力を持つであろう竹刀。

 そして、油断したところを叩かれて呆けてしまっている男。


 それらの好条件が重なってしまった時、俺は思ってはいけないことを思ってしまったのだ――



 ――俺の今を壊すのであらば先に壊してしまえ、と。




「なっ! テメエ、それは……ッ!」




 だから、男の喉元へとその竹刀を突き出すことに、その時の俺はなんの抵抗も感じなかったのである。
 





[18488] 十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/01/09 09:38


 喉という急所を貫かれた男は、雪が降る日だったことも相まって救急車が遅れ、そのまま死亡した。
 当然、俺は罪を問われるものと思っていたのだが、男が剣道部のみならず多くの女生徒を陵辱していたこと、特待生である男を守るために学校側がそれをひた隠しにしていたこと、部活動中だったことと聖フランチェスカ学園という名から、俺はお咎め無しということになった。
 結果的に、俺は守りたかったものを守ったのだ。

 しかし、それは音を立てて崩壊した。
 事故として処理されたとは言え、俺が人を殺したという事実に変わりはなく、そんな俺から多くの生徒や教師達は次第に近づかなくなっていった。
 及川や一部の男子生徒、不動先輩なんかは以前と変わりなく接してくれたのだが、守りたかった居場所は俺がいることで壊れ始め、俺がいることで剣道部は機能しなくなり始めていた。
 ならば、と俺は剣道部から去った。

 人を殺すという重罪を犯してまで守ろうとしたものを、俺自身がこの手で壊してしまったのだ。
 それまで育んできたものも、それから育むものも。
 両親の過去と未来を奪ってまで生き永らえたのに、俺はまたしても過ちを犯してしまった。


 だからこそ俺は剣を置いた――守れぬ力は過ぎたものだから。

 だからこそ俺は力を捨てた――力があればまた傷つくだけだから。

 だからこそ俺は――こんなにも恐れているのだ、この世界で得た居場所を失うことを。


 警邏に廻ると飯を奢らされた。
 書類仕事をしていると仕合に駆り出された。
 飯を食べると酒を呑まされた。
 何もしていないのに跳び蹴りを喰らった。
 
 大変な日々だったけど、そこには確かに笑顔があって、俺がいた。
 両親を亡くして失い、人を殺めて失った日々が、確かにそこにはあったのだ。
 だからこそ、その日々を守りたくて、俺は三度この手を血に染めた。


「だからと言って、後悔してるわけじゃないんです。確かに、あの場所は俺が壊してしまいましたけど、守りたかった人達は守ることが出来たんです。だから、そんなに心配して頂かなくても結構ですよ」


 あの日々を失うことになっても、俺は満足です。
 文和殿と、仲頴殿を守ることが出来たんですから。


 守りたかったモノは、大切な居場所か、大切な人達か。
 自分が笑える居場所があった、自分が自分でいられる日々があった、それは確かにとても尊いものだと思う。
 だけど、戦乱渦巻くこの世界で、それに負けず笑う人達に出会って――俺はその笑顔を守りたいと思ったんだ。
 きっとそれは、他の誰でもない董卓だからこそ生み出せるもの。
 彼女だからこそ、みんな自然に笑いあえるのだと思う。

 だから、そんな董卓と彼女を補佐する賈駆を助けたことに、何の悔いもないのだ。
 自分がいてもいいのだと思える居場所を失ったとしても、きっと後悔はしない。


 例えそれが、無理矢理に固めた決心だとしても。


 だがしかし、目の前の彼女はそれを許してはくれないらしい。




「あんた……馬鹿でしょ?」

 さて、とその場を立とうとした俺へ、その頭上から、というよりは目の前からの何故だか呆れたかのような声がかかる。
 否、正確に表現するのであれば、あんた、の部分は呆れて、馬鹿でしょ、の部分は若干怒りが込められている感じである。
 気のせいであって欲しいけど、きっと気のせいではないんだろうな、と視線を前へ移せば、眦をつり上げた賈駆の表情に、気のせいではないのだと理解してしまう。
 
 また泣かせてしまうだろうか、などと考えてみるのだが、賈駆の雰囲気はそんな感じではなさそうである。
 言うなれば静かな怒りとでも言おうか、噴火前の火山、という表現が厭に似合う。
 ふと、そういやポンペイってこの時代には火山灰で既に埋まってるんだよな、とか思ってしまう。
 現実逃避? その通りだ。

「あんたが過去に人を殺してしまって、それで周囲が変わって、あんたの立ち位置までもが変わってしまったっていうのは分かるわ」

 賈駆の言葉に一つ頷く。
 自分の罪を人に言われ心中動揺してしまうが、それを顔へと出さないように努めて平静を装う。
 とは言っても、賈駆ほどになればそれでもばれてしまいそうではあるが、気づいてか気づかずか、彼女はそのまま続けた。

「そして、今またボク達を守るため、黄巾賊とはいえ人を殺めてしまい、同じように居場所がなくなると思っている。……大体そんなとこね」

 その言葉にさらに頷く俺に、賈駆はついっと俺から視線を外すと、意味有り気に溜息を吐く。
 あれかな、さっき吐いたのが顔で凄いことになっちゃってたりするのかな……顔洗いたくなってきたな。
 そう思って、もぞりと動いてみれば、何故だか強烈に睨み付けられて。
 一体俺はいつまでこうしていればいいのだろう、なんてことを考えていると、賈駆から再びぽつりと、それでいて先ほどよりも大きく感情を込められているであろう言葉を投げつけられる。

「あんた……馬鹿でしょ?」

「二度も馬鹿って言われた!?」

 親父にも言われたことない――と思う、覚えがないだけかもしれないけど。
 そんな俺を見ながら、やれやれといった風に頭を振った賈駆にギロリと睨み付けられて、内心気圧されてしまう。

「そもそもが、どうして過去と今を同じこととして扱っているのかが、理解に苦しむわ。あんたのいた場所ってのがこことは違うとはいえ、人を殺めることが罪っていうことは分かる。この大陸でもそう、平時で人を殺めるのは罪に当たるわ。――だけど、それが何? それと居場所をなくすことが、どんな関係が在るって言うの?」

「えっ、いやでも……、罪人が近くにいるのは気分がいいものでは――」

「そうね、いいものではないと思う。でもそれは、あんたの周囲であって、あんた本人が決めるものではないのよ。過去に、あんたから周囲が遠ざかっていったのはそいつらがそう思ったから。――だからと言って、過去と今は違うのよ。一緒にしないでもらいたいわ」

 こんなことも分からないの、と言われては口を慎むしかないのだが、賈駆の言いたいことは何となく理解出来る。
 結局は怒っているのだ、俺が過去のみんなと賈駆達を同じだと決めつけているから。
 過去がこうだったから今でもきっとそうなる、そうなる前に、傷付く前に。
 そうやって逃げている俺にも、彼女は怒っているのだ。


「それに、そんな顔で悔いは無いって言われても信じられる訳ないでしょう――今にも泣きそうな、そんな顔で」

 そんな訳はない、違う。
 そう口にするのは簡単なことなのに、何故だかこの時ばかりはそれが出来なくて。
 ぽろり、と。
 溢れ出たものは言葉を紡ぐことはなく、一筋の軌跡を俺の頬に残した。


 いつからだろう、人との関わりあいを諦めるようになったのは。
 いつからだろう、再び居場所を失うのを恐れて人と関わるのを求めなくなったのは。
 いつからだろう、俺が悪いのだから仕方がないと自分を騙してきたのは。

 いつからだろう――きっと、両親を死なせてしまった、あの幼き日から――




 ――俺は、自分自身が許せなかったんだ。




 両親の命の上に座り込み、人の命を犠牲にしてまで守ろうとしていながら、全てを諦めていた自分を。
 居場所を求めているのに、結局はすぐ失うとそこにいる人達を信じようとはしなかった自分を。
 心配してくれる人達に、俺のことなんか分かるはずもないと決めつけていた自分を。

「間違ってもいい、失敗してもいい。悩み藻掻いて、理想に近づいていけばそれでいい。そう言ったのは、他でもないあんたじゃない。だから――」

 ぽつりぽつり、と。
 自分の中で答えを結んでいく度に増えていく、頬を伝う雫。
 止めることも、堪えることも出来ないその涙は、たちまち地面へと吸い込まれていき、小さくない湿った点を作っていく。
 溢れ出る感情のままの涙を流すというのは、いつぶりだろうか。
 だからこそだろう、いつの間にか賈駆に抱きしめられていたのに気付かなかったのは。
 ふわりと香る女性特有の匂いが、古い記憶にある母親のものと似ていて――


 ――俺は、両親が死んでから初めて声を上げて泣いたのだ。



「――今は泣いてもいい。自分を許して、また笑える時が来れば、それでいいわよ」









 と、一通り泣いて感情を流し終えた俺は、ふと冷静になった。
 今現在賈駆は俺を腕の中に抱いたままであり、どうして、とその理由は不明ながらもとってもいい匂いの中に俺は包まれている。
 女性特有の甘い匂いとか、少しだけ混ざる汗の匂いとか、ちょっと心拍数を上げるものではあったのだが。
 途端、先ほどまでの彼女の状況が脳裏をかすめた。

 えーと、黄巾賊に服をはぎ取られて、その上から俺の制服を掛けてあげたんだよな。
 俺と話しをしているときは前を手で押さえていたのだけど、その手は今や俺を覆うように抱きしめられている。
 ああだからか、と達観、言い換えれば諦めてしまった。
 

 目の前に、きめ細かく煌めく肌が描く緩やかな曲線と、それを覆う白い下着が見えるのは。


 ふむ、これはあれですな、いわゆる女性のバストですかな。
 はっはっはー……賈駆の性格を考えれば、ぶん殴られるパターンですよねー。

 俺が泣きやんで自分の現状に気づいたのか、わなわなと俺を覆う腕が震えだし、視界に入る肌が段々と赤みを帯びていく。
 いる場所が違えば色気があるであろうその変化も、陥っている危機では些かも嬉しくない。
 
 我慢出来なくなったのか、唐突に離れた賈駆から、平手が来ると読んだ俺は歯を食いしばってその時を待つのだが――

「……? えーと、文和……殿?」

「…………何よ?」

「い、いえっ! 何でもありませんです、ハイッ!」

 ギロリ、とも、じろり、とも違う、それこそギョロリ、と表現してもいいんじゃないかと言える視線に、俺は反射的に背筋を正してしまう。
 悩んで悔やんで泣いて、と精神的に落ち込んでいるためにどうしても弱気になってしまうんではあるが、その賈駆の視線はそれを抜きにしても、十分に怖かった。

 賈駆のほうも何か悩んでいるらしく、あれは違うあれは違う、とか、泣いてるのが可愛いだなんて思ってなんかないんだから、って言っているのか、今いち聞き取りにくい声でぶつぶつと呟いていた。
 突いたら藪蛇な気がした。

「その……ありがとうございました、文和殿。大変ご迷惑をかけた次第で――」

「……詠よ」

 だからと言って俺を心配してくれて、あまつさえ俺の答えまで導いてくれたのだから、そこは感謝をしなければならない。
 賈駆に自覚があろうとなかろうと、俺は彼女のおかげで先へ進むことが出来たのだ。
 そうしたら、何故だか賈駆の真名が返ってきた。

「え、えーと、文和殿? 一体どういう理由で――」

「詠でいいって言ってるのよ。二度も助けてもらって、それで信頼しないほど狭量な人間じゃないわ。け、けど勘違いしないで! あんたって人間を信じたのであって、男としては信頼してないんだからねっ! 月に手出したら、ただじゃおかないんだからっ!」

 ふん、と鼻を鳴らしながらそっぽを向く賈駆の顔が赤いことには触れないでおいた。
 今となっては俺が信じられなかったから、という理由も理解出来るのだが、元々初めて会った時に真名を許すと言った董卓や張遼などの中で、賈駆が自分のは許すことは出来ない、と言ったことが今まで字で呼んできたもう一つの理由である。
 確かに、黄巾賊とはいえ男に襲われそうになっておいて、男に真名を許すのには抵抗があるだろうなとは思っていたのだが、当然の如く当初は酷いものだったのだ。
 それが、今や真名を許してくれるというのだから凄い変化である。
 俺自身も自分を偽ることはもう止めた、とそれを甘んじて受け取ることにした。

「分かったよ……ありがとう、詠」

「ふん……どういたしまして」

 敬語も禁止、あんたの敬語気味悪いもの、と先に釘をさされたので友達に話す感覚だったのだが、それほど気にはならなかったのか、至って普通に返されてしまった。
 
 それでも、ここからまた始めていこう。

 そう思った俺は、安定の街へ向かおうと腰を上げた――



 ――もちろん、ここで終わらないのがお約束ではあるのだが。

「へぅ、詠ちゃんばっかりずるい。一刀さん、私のことも月って呼んでください」

「一刀、うちのことも霞って呼んでーな」

「ふむ、お二方が許されるのであれば、私のことも琴音、とお呼びください」

 がさがさ、と背後の茂みが鳴ると、何故だか董卓と張遼がむくれた顔で現れて、その後ろにやれやれといった徐晃がいた。
 黄巾賊が返ってきたか、と一瞬強ばってしまうが、唐突に現れた三人に俺は開いた口が塞がらず、賈駆に至っては董卓に言われたことを反覆して一人動転していた。

「え…………と、もしかして聞いてた?」

「大丈夫やて、詠が泣いたへんからしか知らんから」

 めっちゃ最初のへんじゃんか。
 賈駆が泣いて、俺が泣いて、抱きしめられて、あわわとしているのを見られて。
 ……なるほど、穴があったら入りたいとはこういう心境を言うのか。

「なッ! ちょっと霞、誰も泣いてなんかいないわよ!?」

「へぅ、泣いてた詠ちゃん可愛かったよ。一刀さんも、そう思いますよね?」

「えっ? あ、ああ、可愛かった……かな」

「ひぅ! あ、あんたまで何言ってんのよッ?! ッ……ああもう、先に安定に行ってるからねッ!」

 董卓に問いかけられて、ふと賈駆の泣き顔を思い出してみる。
 眼鏡の奥で潤む瞳、頬には紅が差し、常の賈駆からは想像出来ない崩れ落ちそうな儚い印象の少女。
 うん、十分に可愛いよね。
 と思った時には本音が漏れており、それを聞いた賈駆は瞬間的に湯を沸かしたかのように真っ赤になった。
 それがまた可愛くて、にこにこと笑みを浮かべる董卓の無言のプレッシャーに負けて、賈駆は一人安定への道を走っていった。

「さて……俺達も行かないと。……ああ、そうだ。月、霞、琴音、心配かけてごめん。ありがとうな」

 いくら黄巾賊に勝って安全を手に入れたとはいえ、賈駆一人で行かせるのは些か危険である。
 服に付いた土を払って歩く直前、そういえばと董卓達三人の真名を呼ぶ。
 許されるのならば、出来るだけその信頼に応えたい。
 真名を呼ばれて、さらには先ほどの俺の話を聞いていた三人は、みな笑みを浮かべて頷いてくれた。

「はい。一刀さん、これからもよろしくお願いしますね」

「そやで、一刀。うちらも頼るさかい、一刀もうちらを頼ってや」

「ふっ、気になさらないでください。私達は同志であり、仲間であり、家族ですから。心配するのは当然です」

「……うん、これからもよろしくな」

 だから俺も、出来うる限りの笑顔でそれに答えたかった。
 今はまだ自然に笑うのは難しいかもしれないけど、賈駆が言ってくれたように、いつか自分を許して笑えると時が来ると信じて。

「……へぅ」

「……反則や、そんな笑顔」

「……なるほど、これは中々破壊力が高いですね。あの詠様がおちたのも、無理は無いかもしれません」

 小さく呟かれた三人の言葉を聞き取ることは出来なかったが、とりあえず追求はせずに、俺は安定への道を歩き出した。
 三人とも顔が赤いから疲れたのかもしれないな、そんなことを考えながら。





  **




 安定より少し離れた山奥。
 先ほどまで痙攣していた黄巾の男は既に動くことはなく、その傍らに立つ男の後ろには一人の少女が跪いていた。
 その両者ともに白い仮面を顔半分へと付け、男は右半分を、少女は左半分をそれによって覆い隠している。
 ひとつを半分にしたほどの対照的なそれは、闇夜へと移り変わっていく時の中で、笑みを増していくかのようであった。

「……これで予定通り、北郷は董卓の下を離れることはないだろう。このままいけば、戦火を免れることは出来まい」

「しかし仲達様、北郷が董仲頴の下を離れないなどと、確信はあるのですか? わたしからすれば、些かあり得ないと思うのですが……」

「なるほど、確かに儁乂がそう危惧するのも無理はない。しかしな、北郷ならば間違いはあるまいよ」

 遙か視線の先、小さな森から数名の一団が安定を目指すのを見やりながら、仲達と呼ばれた男は口端を歪めた。

「……儁乂、貴様は予定通りに袁紹の元へと赴け。指示はおって下す」

「はっ! ……仲達様、いつになったら真名で呼んで下さるのですか?」

「……外史の定めた名など、俺が呼ぶはずがなかろう。疾くいけ」

 刹那、項垂れた儁乂と呼ばれた少女だったが、己が主と定めた男の命に逆らうはずもなく、一度だけ頭を下げたかと思うと、暗闇が広がり始めた森に溶けるようにその場から姿を消した。
 その場には仲達と呼ばれた男のみとなったのだが、不意に、その場に響くように声が現れた。

『……なるほど、それがあなたの策ですか。……今は司馬懿、と名乗っているのでしたね』

「……何が言いたい、于吉。他の外史で手一杯なお前と左慈を手伝ってやろうとしてるんじゃないか。感謝こそすれ、口を出される謂われは無い筈だが?」

『ふふ、あなたがそう言うのであればその通りなのでしょうが……。私も左慈が怖いのでね、余計な詮索をしなければならないのですよ』

 ああ、でも怒った左慈に感情をぶつけられるのならば、それはそれでいいですね。
 恍惚とした声が自分の周囲を覆おうのに顔を歪めながら、仲達と呼ばれた男、司馬懿は舌打ちした。

「ふん、話がそれだけならば俺も行くぞ。生憎と、暇じゃないんでな」

『それは申し訳ない。それで、参考までにどちらへと行かれるのですか?』

「……お前なら気づいているんだろう? まあ、別に構わないがな――」

 そう言って、儁乂と呼ばれた少女――張恰(ちょうこう)と同じように暗闇に溶ける直前。
 司馬懿は、己の行き先をぽつりとだけ呟いた。



「――何進だ」






[18488] 十五話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/02 16:07



 
「これは一体どういうことだ……?」

 洛陽に元太守を送り届け、返す足で故郷を守りたいという勇士にて結成された三百人の軍勢を、牛輔が率いて安定に辿り着けば、そこにいるであろう黄巾賊の姿は無く、黄巾の切れ端が舞い散るだけだった。
 万はくだらまいと思われていた賊徒はどこにも見えず、安定の城壁には戦いの痕こそ残されているものの、城壁が賊徒に破られたとは考えにくい。
 ならば城門からか、とも思ったのだが、あの幼馴染みがそう簡単にそれを許すはずもないと一蹴する。
 
 周囲の勇士に視線を配ってみても、同じように動揺しているのか、行動を決めかねている様子がよく分かる。
 元々戦の無い地方だった安定では、満足な経験を得る機会など賊討伐ぐらいしか無かった。
 訓練はある程度こなしてはいたのだが、無能な元太守がその必要性を感じ得なかったために、それもたかがしれていた。
 故に、簡単に動揺してしまう兵が出来上がってしまったのだが、この勇士にしても数十倍になろうかという黄巾賊に相対する勇気は持っていても、その他の兵と同じであるのだ。
 かく言う牛輔も、その人並み以上の膂力とある程度の智があったからこその隊長ではあったのだが、経験不足は否めなかった。

 数十倍の黄巾賊相手に激戦、下手をすれば、それこそ下手をしなくても全滅の可能性があっただけに、覚悟を決めてきた側からすれば、些か拍子抜けではあった。
 既に黄巾賊が安定を占領し、周囲に伏兵を配しているのかと偵察を放ってみても、特に異常は無かった。
 
「……埒があかんな。これより安定に接近する! 者ども、気を抜くなよッ!」

 周囲に問題は無い以上、現在の状況からすれば中に問題があるのやもしれぬ。
 そう考えた牛輔は、安定に接近する部隊と、いざというときの場合にそれを援護する部隊とに、二つに分ける。
 もし中から黄巾賊が襲ってくれば、接近した部隊が盾となりて、残りの部隊で周囲の諸侯へ援軍を呼びにいくためだったのだが。
 城門を確認出来る位置にまで移動した牛輔達は、そこでさらに驚くことになる。


 城門が開けられているのだ。


 夜間は賊の突然の襲撃を防ぐために閉じられる城門だが、攻められた時も当然それは閉じられることになる。
 万に及ぶ黄巾賊を数百の新兵しかいない現状で守るのであれば、それは頑なに閉じられているのだろうと思っていたのだが、それを裏切られる形で、牛輔の目の前で城門は開かれていた。
 
 一体どういうことだ、と再び小声に出した牛輔だが、その問いに答えられる者はその場にはいるはずもなく、その場にいても仕方がないと警戒しながら城門へと近づいていく。
 
 そして城門を眼前にしようかという手前、一人の少年が牛輔の前へと歩み出た。



「牛輔様ですね? 私の名は北郷一刀、李粛様と我が主、董仲頴の命によりお出迎えに馳せ参じました」
 




  **





 牛輔が安定に入城する数刻前に、話は遡る。


 森を抜け出た俺達は、城門前で待機していた呂布と陳宮を連れて、当初の予定通りに安定へと入城した。
 徐栄の言で、董卓軍の首脳たる人物達が入城するのに、天下無双の呂布を連れていないのはおかしいだろうと言うことで待機していたらしいのだが、彼女達も董卓と賈駆が襲われたのを知っているのか、何処か心配した風であった。
 だから、何故守らなかったですかー何のための護衛なのですかー、と某仮面のヒーロー的な跳び蹴りを俺にみまう陳宮には何も言うまい。
 元々軍師である筈なのだが、何故だかそんな所だけ運動神経のいい陳宮の蹴りを受けつつ、今度その跳び蹴りの技名でも教えてあげよう、などと考えていた。

 華雄は既に軍を連れて先に入城しているらしいのだが、天下無双の士を連れて入る、という案によく賛同したものだと思っていたのだが。
 そんな俺に、徐晃がくすりと笑いながら教えてくれた。 

「私があなた方のお迎えに上がる際に、父上が声を掛けられまして。董卓軍最強の将が軍を率いておらねば安定の民が不安に思うのは必定、ならばこの任は貴殿にしか出来ぬこと、と言い含められておいででしたね」

「ああ……なんとなく想像出来る」

 徐栄に言い含められて、ならば自分が行くしかあるまい、と意気揚々と軍を率いて安定に入っていく華雄――想像に難くない。
 実際、華雄もそうとうに綺麗な女性であるためにそういう体裁でも見栄えはいいのだから、それも正解ではある。
 あの猪突ささえなければ勇将として名を馳せるだけの人物ではあるのだが――

「まあ……そこが華雄殿らしいと言いますか」

 ――無理だろうな。

 くすくすとポニーテールに纏められた金髪を揺らしながら笑う徐晃から視線を移せば、安定の民から熱烈に歓迎されている董卓がいた。
 馬は一通り華雄が連れて行ったので徒歩での入城となったのだが、董卓の姿を見つけるやいなや、街からは声が爆発したと言えるほどの歓声が鳴り始めたのだ。
 そして、城門から城へと続く道を歩けば出てくる出てくる、多くの民が董卓へと声を掛けているのである。
 
 ありがとう、助かりました、命の恩人です、お姉ちゃんキレー、という感謝の言葉のみならず、うちの倅の嫁に、いやいやうちの甥の嫁に、てやんでぃ俺の嫁に、などなど。
 それらの言葉に、董卓は笑いながら応えていた――後半部分は賈駆に怒鳴り散らされていたが。
 それでもなお掛けられる感謝の言葉に、渋々ながらも賈駆も応えていくのである。

「さて……そろそろ先を急がねば、華雄殿が突進しかねませんね。月様達を急がせますので、北郷殿もお急ぎなされよ」

「ああ、分かったよ、琴音」

 そう言われて気付いてみれば城への道程は遠く、今のペースでは日が暮れてしまいかねない。
 俺の了解の意を受け取った徐晃は、その歩調を速めて董卓と賈駆の元へと急いだ。
 そして彼女が俺より離れると、何故だか唐突に視線を感じた。
 ふと気になって周囲を見渡しても、何故かいじける張遼以外には特に変わったことはない。
 そうかと思えば、先ほどよりも多くなった視線を感じた気がして、ふっと後ろを振り向く。

「……?」

 しかし、それでも誰が見ているのか分かることはなく、まあいいか、と隣を歩いていた張遼へと声を掛ける。

「……んで? 何で霞は拗ねてんの?」

「……拗ねとらんわ。誰も、折角真名教えたのに何で琴音とばっかり話すねん、とか思ってへんわ」

「……それは世間一般で言えば、拗ねてるって言うんだよ」

 ふん、と。
 まるで、私は怒っていませんよプーンだ、と子供のように拗ねて頬を膨らませる張遼に苦笑しつつ、先で俺達を待つ徐晃へと視線を向ける――のだが、董卓と賈駆に言い寄る男達を千切っては投げを繰り返しながら、饅頭や肉まんの匂いに誘われてあっちへふらふら、こっちへふらふらする呂布を陳宮と二人がかりで押さえようと奮闘する彼女が見えた。

 ちらり、とこちらを見た視線が、早くしろよ、と語っていたのは決して気のせいではないのだろう。

「…………霞、今度酒奢るから早く行こう?」

 じゃないとヤバイ、俺の首が。
 未だ徐晃の人となりがどんななのかは掴みきれていないが、董卓軍の他の面々からみるに、一度噴火したら手も付けられなさそうなのは目に見えている。
 その噴火したのが俺に降りかかるというのも、既に承知している。
 だからこそ、出来るだけそれは未然に防がないといけないのだ。

 隣にいる霞もそれを分かってくれたのか、渋々といった形で頷いてくれた。

「……しゃーないなぁ。……琴音怒らすと後怖いし」

 それを見た俺は、よし、と徐晃を手伝うために走り出したので、張遼が呟いた言葉を聞き取ることは出来なかったのだが。
 首筋がひんやりとしたのは気のせいだったということにしておこうと思う。









 そして、やっとこさ安定の城へとたどり着くことが出来た俺達は、そこの文官に案内されるままに付いていくのだが、その目的地が中庭であるということを聞いて、首を傾げる。
 この時代の人間ではない俺が知るはずもないのだが、こういう場合って広間で顔合わせて感謝の言葉を贈ったりするんじゃななかろうか、と。
 そのことを案内してくれる文官に尋ねてみるのだが、返ってくるのは苦笑と曖昧な言葉ばかり。
 含みをもたせるでもなく、ただただ申し訳なさそうなその雰囲気に、俺はさらに首を傾げることになるのだが。



 開けた中庭が視界に入った時、その謎は氷解した。


 
「でやぁぁぁぁぁぁッ!」

「甘いわッ! おらおらおらぁぁぁぁッ!」


 二人の女性が、勢いよく戟を交わし合っていました。

 

 一人はよく知る華雄だというのは分かる。
 普段使っている大斧ほどではないが、それでも重量のある大斧を模した模擬刀を、軽そうに振るい回している。
 対する少女も、一般の兵が使うような模擬刀で上手く華雄の攻撃を捌いていく。
 胸と腰回りだけという、ある意味華雄よりも危険と評せる服装から覗く健康的な肢体を元気良く振り回して、右へ左へと攻撃を避けながら華雄へと反撃していく。
 その際に、その胸が縦へ横へと激しく動いているのは、きっと俺が疲れているのだということにしておいた。

「李粛様! 董卓様が来られ――ああもう、聞いてないし」

 申し訳ありませんが少し待っていただけますか、そう言ってその場を去っていった文官の背を見送りながら、ああだからばつが悪そうだったのかと理解した。
 徐晃から、安定の指揮を執っていたのは李粛という少女であり、安定でも名門で知られる李家の代表であると聞いていた俺は、粗相がないように気をつけなければいけないと思っていたのだが、華雄と相対する少女はそんな人物には見えない。
 
 だがしかし、三合、四合と華雄と戟を重ねる少女が安定の指揮を執った李粛ということは分かったのだが、何故に華雄と打ち合っているのかが理解出来ない。
 ならば、と俺はその理由を知っているだろう人物へ話しかけることにした。

「……それで玄菟殿、これは一体どういうことでしょうか?」

「いやなに、そなたたちが来るまでの間、暇だと李粛殿が言われてな。それに華雄がならば、と答えたまでよ」

 ああなるほど華雄なら言いそうだな、と納得してしまうのがどうなんだろうとは思ったのだが。
 ふと気になって、徐栄へと尋ねてみる。

「……ちなみに、防衛の指揮を執った者と、援軍に来た一将軍が会談もせずに戟を合わせるって、いいんですかね?」

「…………」

 中庭を望む石の上に腰を下ろして華雄と李粛の仕合を見ていた徐栄へと声をかけるのだが、俺の追求に額から汗を流しながら視線を俺からずらした。
 ようするには、駄目だと思う、ってことですよね。
 はてさてどんな問題が湧くことやら、と溜息が出てしまうが、そんな俺達に気づくことなく華雄と李粛の仕合は佳境を迎える。

 とはいえ、祖父が溜め込んでいた兵法書やらの中に埋もれていた三国志に関する書物は読んだものの、あまりに膨大な内容だったためにいまいち覚えていない俺の知識の中でも、李粛という武将がそれほど有能だったとはない。
 華雄といえば、反董卓連合を組まれた際に汜水関という要所の守将を務めるだけあって優秀だったのだろうから、その結末はだいたい読めたものだった。

 華雄の横撃を屈んで回避した李粛は、そのバネを利用して一気に華雄の懐へと攻め入った。
 そのままの勢いで華雄へと斬りつけようとする李粛だったが、不意に華雄がその顎を狙って蹴り上げたこともあって脚を無理矢理に止めてしまう。
 そこを、一度振り切っていた模擬刀を切り返すことによって、華雄は李粛の模擬刀をはじき飛ばしたのだった。

「……ふっ、これで私の三連勝だな」

「三戦も?! やり過ぎでしょう、葉由殿!」

 どんだけやってるんだよ、どんだけ戦うの好きなの、何で徐栄止めないの、等々色々言いたいことがあったのだが、ぱたぱたと手に何かを持って駆けてきた文官にそれを止める。

「ああ、ようやく終わってくださいましたか、李粛様。いよいよ水をかけねばならないかと思ってましたよ」

「え~、だって面白かったんだもん。まあいいや、それで、誰が董卓さん?」

「へぅ、わ、私が董卓です。董仲頴と申します」

「ふぅん……董卓さんって綺麗だね」

「へぅっ! そ、そんな私なんかより詠ちゃんや霞さん達の方が!」
 
 ちっかけ損ねたか、とぼそぼそと呟いた文官に背筋を冷やしながらいると、中庭ではあるがようやっと会談が始まった。
 まあ、会談というよりも顔合わせ的なものなのだが、ぐるりと俺達を見渡すと、李粛は頭を深々と下げた後に笑みを浮かべた。

「僕は李武禪。今日は助けに来てくれてありがと、兵と民もとっても感謝してるよ!」

 もちろん僕もね、と付け足した彼女は、とりあえずこんなところではなんだから、と広間へ移動しようと持ちかけるのだが。
 溜息をついたその時の文官の気持ちをが手に取るように理解出来る。

 なら初めからいてくれよ、と。

 出会って少ししか経っていないが、あの李粛の性格から言えば相当苦労してるんだろうな、ってのがよく分かる。
 董卓軍にも全く考えずに動く人達がいるしな。
 妙な親近感を抱きながら移動を始めた俺達だったが、そんな時だ、安定の兵から一つの報告が入ったのは。



 洛陽へと行った軍の一部隊が帰ってきた、と。



  **



「――という訳でして、恐らく暇であろう俺が僭越ながらお迎えに来た次第でございますよ」

「それは、何というか……感謝いたします、北郷殿」

 董卓と賈駆は当たり前として、他の面々も戦功論賞などの関係から手が離せないとあって、特に功を上げるでも無かった俺がその部隊と相対することになった。
 洛陽へ行った軍の装備をした黄巾賊ではないか、という危険性もあっていざというときには城門を閉ざし兵を動かすことも構わない、ということではあったのだが、向かい際に李粛から伝えられた牛輔の人物像が見事に一致していたために、それも杞憂であった。

『黒くて短い髪で、こーんな目してでっかい剣持ってるから、すぐ分かると思うよ』

 指でつり目をしながら牛輔のことを教えてくれる李粛に、どんだけでっかい剣なんだよ、と苦笑していたのだが、いざ目にしてみれば確かにでっかい。
 でかい、でかいにはでっかいんだが――まさか人並みにでかいとは思わなんだ。
 刃の全長だけで人並みにでかく、持ち手を入れれば優に頭一つ分はでかい。
 横に並んで歩くだけでその威圧感に気圧されそうになるのだが、それを持つ本人は何処吹く風で易々とそれを持ってのけていた。

「……常であれば、客人と言っても過言ではない貴殿に出迎えさせるなど言語道断なのでしょうが。何分、今は人手が足りておらず……面目ない次第です」

「いえいえ。こちらこそ、俺なんかの身分で差し出がましいことをしてやいないかと、心配していたところです。それを許してもらえるのであれば、全然構いませんよ」

 でも、いえいえ、ですが、ですから。
 そんなことを言い合いながら、ふと気づけばいつのまにか城へとたどり着いていた俺達は、歩いていた文官に董卓と李粛がどこにいるのかと問いかけ、示された部屋へとまた進んだ。
 その時に、とは言わず安定に入った直後から様々な人が牛輔に声をかけるあたり、彼が慕われているというのがよく分かる。
 まあ確かに男の俺から見ても格好いいんだけどさ。

 短く切りそろえられた髪は浅黒く焼けた肌によく合っており、その巨大な剣を振るう二の腕は引き締まっていながらも十分に太い。
 歴戦の戦士といった精悍な顔立ちは、貫禄さえ感じさせた。

「……牛輔様をお連れいたしました。…………?」

 そうこうしてる内に示された広間の扉へとたどり着いたので、俺はノックをして入る旨を確認したのだが、一向に返事がない。
 もう一度してみても同じであるから、背後にいる牛輔を振り返ってみるのだが、彼も分からない顔をしていた。
 
 まさか城まで黄巾賊が襲ってくることはないだろう、と思ってはいたのだが、もしやと思い扉を開ける。
 が、そこには董卓含め全員がいたのでそれも杞憂だったか、と安堵するのだが。
 ならば何故誰も返事をしないのだろうか、とふと疑問に思う。
 そして視線を移してみれば、皆が一様に驚いた顔をしており、その視線はニコニコと笑う李粛へと向けられていた。

 いよいよよく分からないな。
 かと言って、俺が李粛に問いかけるのもあれかと思ったので、一番近くにいた陳宮へと声をかけてみた。

「公台殿、これは一体どうされたのですか?」

「……」

 だがスルー。
 仕方なくその横の呂布へと視線を移してみるのだが、難しい話が続いていたのか、くー、と可愛い音を立てて寝ていた。

「……おい、陽菜。これは一体どういうことだ?」

 がっくし、と肩を落とした俺から視線を外した牛輔が李粛へと問いかけると、今気づいたのか、笑みをいっそう深めて李粛が笑った。

「あっ、子夫、帰ってきたんだ! お疲れさま!」

「ああ、ありがとう。……それで、質問に答えろよ」

 陽菜、というのは李粛の真名なのだろう、彼女を表す最良の言葉じゃないだろうかと思ってしまった。
 そして、子夫、というのが牛輔の字なのか、とも。
 前漢に衛子夫という皇后がいたのだが、それとは何か関係があるのだろうかなどと思っていたら、李粛の口からとんでもない言葉が飛び出してしまった。

「どういうことと言われても、僕は普通のことを言っただけだよ? 安定を董卓さんの下に付かせてくださいって」

「…………は?」

 と、ついつい変な声が出てしまったのだが、続く牛輔の言葉にさらに驚いてしまう。

「あ、それは俺も賛成。……ああ、だからこうなってるのか」

「えぇぇぇっ!? 何でそんなにあっさりと?! 簡単に決められることでは無いでしょう!?」

 ちょっと冷静に考えてみよう。
 
 元々、太守という役職は後漢王朝によって任じられるものである。
 ある者は力で、ある者は金で、ある者は徳で得るものではあるのだが、根本的にはそういうものであり、それ即ち後漢王朝からの管理代行という形となる。
 だから、どんなに地方であろうとそれを勝手に決めるのは後漢王朝への叛意に他ならず、勅命を受けた軍勢が襲いかかってくる可能性も否定は出来ないのだ。

「そんなに難しく考えるものでもありますまい。太守兼任、代行、どうにでもなります。さらには、いつ黄巾賊に襲われるやもしれない街の太守など、野心無くばいらないものでしょう。すんなり収まりますよ」

「…………確かに、今の状況であれば上手くいくかもね。石城だけではどうしても物資や情報の交流が閉塞してしまうから、受け入れてもいいのかもしれない」

「……ですが、それをすれば片方ばかりに注力する訳にはいかないのですぞ。石城を富ませ、安定をも富ませる。資金物資には限りがあるため、難しいとは思うのですが……」

 牛輔の言葉に段々と思考が落ち着いてきたのか、董卓軍が誇る軍師、賈駆と陳宮が善手を打つために模索を始めていく。
 確かに、石城は彼女達のみならず、張遼や華雄の働きもあって治安もよく、発展していると言える。
 だが、十分というわけではない。
 こんなご時世であるためか、噂を聞きつけた難民は後を絶たず押し寄せて来るのだが、受け入れられる数には限りがある。
 元々それほど大きくない石城であるからして、その限界値は小さいのだ。
 かといって、規模を拡大しようにもそれだけの人員も資金も物資すらない。
 そのため、現状手詰まりであった状態なのだ。

 さらには、牛輔も言っていたが人員不足というのもある。
 安定の主たる文官は後漢から派遣されていた太守と同じであり、彼が洛陽に帰るということもあって大多数が付いていったらしい。
 先ほどの文官などは安定の生まれのために残ったらしいのだが、数人だけで街を動かせるわけもなかった。
 だからこそ、安定は董卓の名の下に下ると言うのだ。
 加えて、董卓軍には文官たる人物があまりにも少ないのだ。
 賈駆と陳宮、本職ではないが経験から李確と徐栄も出来るのではあるが、それではあまりにも少なすぎる。
 一応、最近では俺が手伝ってはいるのだが、何分今いち読み切れないためか、そこまで役に立っているとは言い難い。
 
 とまあ、色々模索はしてみるのだが、結局のところ董卓が決断しなければ話にはならない。
 賈駆も陳宮も、他の面々もそれを分かっているために董卓へと視線を移すのだが、そんな視線に答えるかのように柔らかくほほえんだ彼女は口を開いた。

「詠ちゃん、困ってる人達が頼ってくれてる……。私は、それを救いたい」

「……分かったわよ。ボクは月を補佐するからさ、思ったことをすればいいと思うよ」

 それに、手伝ってくれるのはボクだけじゃないしね。
 そう言って周囲を見渡す賈駆に、そこにいた殆どの人が頷く。
 若干一名、未だお休み中ではあるのだが。
 もちろん、俺へと向いた視線がにやりと笑うのを、俺もにやりと笑いながら頷いて返した。


 あの日の夜に聞いた董卓の言葉。
 力があれば守れたかもしれない、救えたかもしれない。
 でも、それはきっと儚い願い。
 どんなに力を得ても、守りきることは出来ないことは俺がよく知っている。
 どれだけ力を得ても、全てを救うことは出来ないことは俺が体験している。
 
 それでも、俺はその願いを守りたいと思った。
 彼女が作る笑顔を、守りたいと願った。
 きっと、これからも人を殺めなければならないだろう、それは大変な苦痛だと思う。
 でも、この時代でそうすることでしか守れないというのなら、俺はどんな思いをしてでもそれを守ろうと思う。
 辛くても、苦しんでも、傷付いても。
 帰れる居場所がある、守りたい笑顔がある、だから俺は―― 


「うん、皆さん、ありがとう。……李粛さん、牛輔さん、これからよろしくお願いします」

「うん! こっちこそよろしくだよ!」

「戦うしか能のない私と陽菜ですが、どうぞこき使って下さいませ」

「ちょっと、子夫と違って僕は頭良いんだからね! 一緒にしないでよ!」

 もー失礼しちゃうなー、とぷんすかと怒る辺りどうにも子供っぽい李粛に、その場に笑いがおこる。
 一番笑っているのは牛輔なのだが、それを見た李粛が、むー、と怒るのだから分かってやっている風である。
 それでも、李粛がみんなの笑いにつられて笑い始める頃にはその怒りも収まっているのか――ビシビシ叩いている辺り、そうでもないらしい。
 痛い痛いという牛輔の必至さが、李粛が本気だということを理解させた。


 ――歯を食いしばってでも、守り抜きたいと思う。




 董仲頴、安定を得て勢力を広げる。
 その報は、瞬く間に各地へと散っていった。



[18488] 十六話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/10 14:41







 小鳥さえずる朝焼けの中、俺は手に持った木刀を正眼に構えた。
 木刀、とはいっても手頃な重さと長さを兼ね備えた木を削りだしたものなので、俺のよく知る木刀よりは些か形が悪い。
 持ち手の部分こそヤスリの代用として砂で削ったのだが、完全には慣らせなかった。
 それでも、この木刀を用いて数日もすればそのボコボコも手に馴染むものではあったのだが。

 一度木刀を振るえば空気を切り裂く音が聞こえるのだが、その感触は俺が求めたものとは違った――それも当然ではあるのだが。
 あの冬の一件以来、俺は剣を置き力を持とうとはしなかった。
 それまで日課としていた鍛錬も止め、必要最低限の体力維持しかしてこなかったのだ。
 半年近く剣を振るい技を磨いていないのだから、鈍っているのも無理はないのだ。

「かと言って……これはちょっと予想外だな」

 振り落とした木刀を、見せ付けるかのように右足を引きながら下段へと構える。
 タイ捨剣術は右半開を始として左半開で終とする、それは北郷流でも変わることはなかった。
 その構えこそ様々にあるが、その根底は揺るぐことはない。

 下段に構えた木刀を、右足を踏み込みながら上へと切り上げる。
 仮想敵を作り出すことはせず、ただひたすらに疾く鋭く振るう。
 振り上げた木刀をそのままに振り下ろせば、左半開にして袈裟斬りというタイ捨剣術の基本となる。
 そこから振り下ろしたバネで前方に突きを繰り出す、日本刀での刃の部分を上にして。
 突き出した木刀を刃の方に、すなわち上へとさらに切り上げると、伸びた体を縮めるかのように身体を回転させて左足で蹴りを放つ。
 誰にも、何にも当たることはないその蹴りはそのまま空気を切り裂いたが、俺は特に気にすることなくそのままの勢いでさらに身体を回転させる。
 そして、右足を軸にして回転させた身体は左半開になるように足を付き、右手に持っていた木刀を、俺は目線の高さで一気に振り切った。
 あたかもそれは、居合いで抜き終わった形となっていて、俺は木刀を鞘に納めるかのように腰へと移した。
 そして、呼吸とも、溜息とも取れるものを吐き出す。

 木刀を作って数日、鍛錬の時間を取ることが出来なかった俺としては、今日久しぶりに本気で剣を振るったのだが。
 そのあまりの衰えぶりに、少しばかり肩を落とした。

 傷ついてでも、苦しんででも守ると決めたのだからまずは己の身を守れるだけの力を付けねば、と思い立って始めた早朝鍛錬だが、思いの外、前途は多難である。
 筋力と体力のトレーニング、そうして作られた身体に北郷流の技を思い出させる鍛錬、そしてそれを実用可能な段階まで鍛え上げる実施、と数え上げればきりがなかった。
 実施を行うための相手が不足しないのが幸いなのだが、何よりも必要なものが今は不足がちであるからいつになれば元に戻すことが出来るのか、と俺は溜息をついた。
 
「まあ……焦らずに一歩ずつしていくしかないんだし、やるしかないんだけど」

 分かりやすい目標としては張遼や呂布、華雄に勝つことだが、この腕の錆びっぷりでは打ち合うことさえ難しいかもしれない。
 剣術だけが北郷流ではないのだが、一武人としては正々堂々勝ちたいものではあるのだが――無理だろうか。
 仕方がない、と諦めることは簡単なのだが、それを認めるのは少し早い気がした――いつまでもつかは分からないが。
 とりあえずは、と汗をかく程度に柔軟だけした俺は、手ぬぐいで汗を拭いながら食堂へ行くことにした。



 安定で寝泊まりを始めて数日ではあるが、ここの厨房の人達は朗らかに笑う人達ばかりで好感がもてる。
 今日もまた、互いに笑顔を交えながら、やれ麻婆豆腐が上手いだの、青椒牛肉絲が辛いだの言い合いながら朝食を終えた俺は、食堂を出て廊下を歩くのだが。
 朝の出仕を控えて、侍女や文官達が竹簡やら書類やらを携えて歩く姿を見て、先ほどとは違う溜息をつく。

「……きっと今日もなんだろうなぁ」

 遠い視線で遙か彼方の故郷を思う俺を、ある者は訝しげに、ある者は気の毒そうに見ては廊下を歩いていく。
 訝しげに見られるのは別段構わないのだが、気の毒そうに見ていく人達の多くはその目的地はきっと一緒なのだと思う。
 気の毒そうに、申し訳なさそうに大量の竹簡を運んでいく文官達からの視線に、なら運ぶなよ、と言いたいところではあるのだが、それをすれば多くの人に迷惑がかかると思えばそれも出来ない。

 仕方なく、とここだけは諦めて自室へと脚を進めるのだが、どうにもここ数日で見覚えた光景が待ち構えていそうで憂鬱になってくる――自室に所狭しと詰まれた竹簡やら書類が待っているであろう、俺の自室へ。


 そうして廊下を曲がればその先に自室があるのだが、そこから出てきた侍女と視線が合えば、ふい、と申し訳なさそうに視線を逸らされてしまい、否が応にも覚悟を決めねばならなかった。
 そして、動悸する鼓動に手は震え、頭の中が真っ白になる程の緊張感を携えながら部屋の扉を開けてみれば。


 机には書類が積まれ、部屋の壁には竹簡が堆く詰まれた想像通りの部屋が視界に映った――しかも昨日より多いし。


「やっぱりかぁぁぁ……」

  
 がっくし、と肩を落とした俺は、その惨状に今一度視線を向けると本日三度目の溜息をついた。
 あれだな、もっと文官欲しいな、じゃないと死ねるぞマジで。




  **




 安定を麾下にすることとなった董卓軍は、本拠をそれまでの石城から安定へ移すこととなった。
 それには諸々の理由があるのだが、大きなものとしては董家軍としての機能の拡充と、対外交渉に関する世間体というものが上げられる。
 
 小さい勢力ながらも五千もの兵力を持った董卓軍ではあったが、石城は少し手狭であったのだ。
 というのも、董卓と賈駆の指示の元に涼州でも比類無きほどに栄えた石城ではあるが、元々大きな都市では無かった。
 しかし、治安もよく黄巾賊にも勝った、という情報から人口数は上昇を続けそこに元黄巾賊の兵が加えられたのである。
 そして多くの人は自分の領域に足を踏み込まれると不快感を抱くといいますか、民衆は黄巾賊への嫌悪から、元黄巾賊はそれへの反発から大小様々ないざこざは後を絶たなかった。
 そこで今回、安定を麾下にしたこともあって、大多数の兵力は安定へと移されることになった。
 元々石城にいた兵二千を残し、新しく参入した元黄巾賊を加えた五千の兵が安定へ入ることになったのだ。
 石城より大きい安定ならば、五千の兵が入っても十分な広さがあった。
 石城と同じように元黄巾賊という身柄からいざこざは起きるであろうが、とりあえずの所は解決出来たと言えよう。

 もう一つの理由は案外簡単なもので、本拠よりも麾下の都市の方が大きいのは如何なものだろう、という理由である。
 正直なところを言えば、石城はそれほど綺麗という程ではない。
 以前に李確から聞いた話だが、石城は地方都市ということもあって後漢王朝からあまり気にとめられていないらしい。
 治世支援金という名目での王朝からの資金も、石城には殆ど入ってこないらしい――もっとも、その実態の多くは賄賂や贈賄などである、とのことだが。
 そんなこともあって、常に慢性的な資金不足に陥っていた石城は、董卓の代になって賈駆が軍師になっても解消されることはなく、半ば自転車操業な運営となっていたのだ。
 それでも、元黄巾賊を参入させて人口を増やして、と着実に成果は上げているのだが。
 だが、そんな石城も安定の大きさには敵わず、これから朝廷や諸侯と相対するにあって安定の方が何かと便利、ということで本拠を移すことになったのだ。

 となると、石城に誰を残すかということになるのだが、これは防衛指揮に残った李確がそのまま残ることになった。
 先代からの忠臣でもある李確は石城のことをよく知り、また民も李確のことをよく知っている。
 これ以上の適任はおらず、満場一致で李確に使者を出すことになったのだが、そこで一つ問題が起きた。
 もし黄巾賊が襲来した際に、李確一人では迎撃から防衛に至るまでの指揮が執れないということだ。
 なら数人が戻れば、ということになるのだが、安定の兵はその殆どを元黄巾賊で構成されており、その訓練のためには武官文官ともに数がいる。
 かといって、石城に文官たる仕事が出来る人間が李確だけという訳にもいかない。
 そこで出た結論が、徐栄であった。

 李確と共に先代より仕えてきた徐栄ならば彼と共に石城を任せられる、という話になったのだが、それで終わりというわけにもいかなかった。
 智勇兼備の将が二人ともいなくなるということは、その武官と文官の間に立つ人間がいなくなるということでもある。
 いちいち董卓や賈駆伝いに指示を仰ぐわけにもいかないのだから、その重要性は言わずともしれた。
 そのため、彼らの後任となる人物が早急に必要だったわけであるが――ここまでくれば分かるだろう、お察しの通り俺が任命されたのである。

 理由は至極単純――俺だけが暇だった、ただそれだけ。
 張遼と華雄は軍兵の訓練を、徐晃は城壁の修復箇所の確認、呂布と陳宮と李粛は警邏で、牛輔は安定の民衆の混乱を治める、董卓と賈駆は当たり前のように忙しい。
 結果、それまで賈駆の手伝いをしていただけの俺が、急遽として文官と武官の橋渡しをするはめになったのだ。
 とは言っても、それほど難解な事象が待っているわけでもない。
 それぞれに対する指示や不満、要求などを分類ごとに分別し、それを担当の場所へ送ったり返事をしたり、といった仕事である。
 ただ唯一、新任の武官や文官が増えたことによってその数が膨大な量に及ぶことを抜きにすれば、であるが。
 そのため、ある人物が俺の補佐となった――安定に残った唯一の文官である王方、字は白儀、その人である。


 王方といえば、董卓配下として名を上げて、後に李確らと共に挙兵して長安を占拠する将だったと覚えている。
 それだけであれば武官だと思っていたのだが、俺が向き合う机の端に積み重なる竹簡を片っ端から読んでいくその王方は、とてもそうは見えなかった。
 竹簡を開く指は白く細く、それを見つめる眦は切れ長で少し冷たい印象を受ける。
 少し色の抜けた髪は異民族の血が混じっているのか――と、そういえば俺の知る限りでも色んな人がいるんだった、気にしないでおこう。 

 文字を書き終えた竹簡を脇へと避けて一つ伸びをする、体中の骨が盛大な音を立てて軋んだ――おおぅ、いい音。
 それこそ鳴らない箇所は無いぐらいに体中が鳴ると、傍らで竹簡を纏めていた王方がくすりと笑った。

「お疲れ様です、北郷殿。少し休憩されては如何ですか?」

「お心遣い感謝します、白儀殿。けど、まだまだ残ってますから」

 そう言って視線を移せば、未だ開くこともされていない手付かずの竹簡が目に入る。
 量? はははは……はぁ。
 俺の視線の先にあるものを見て俺の心配していることが理解出来たのか、再びくすりと笑って王方は口を開いた。

「ああ、それなら大丈夫ですよ。とりあえず先ほど纏めたものをあるべき所へと返して、残りは分別しなければいけませんので。そうですね……半刻ほどなら時間もありますから」

 そう言う王方につられて部屋に視線を走らせれば、なるほど、確かに分別さえしていないものが多い。
 ですからどうぞ、と促されては断る理由もない。
 俺としても、ずっと座りっぱなしで尻が痛いので少し歩きたい、と思っていたので丁度良かった。
 
「……それでは済みません、少し出来てきます。何か食べるものでも買ってきますので」

「ああ、それなら龍泉庵の肉まんがいいですねぇ。まあ、期待して待っておりますので」

 ……普通そこは期待しないで、ではなかろうか。
 そんなこと言われたら買ってこないと何か怖い気がしたので、俺は慌てて無言で頷いた後に部屋を飛び出していった。
 出際に、そういえば今日の警邏は華雄と牛輔だったか、と確認して、道中見つけることが出来れば誘おうか、とも考えていた。





 それではいってらっしゃいませ、と背中に声を受けて送り出されたが、ふと思い至ることがあった――龍泉庵って何処にあるのだろう?
 ……まあ何とかなるか、などと冷や汗を流しながら、とりあえずは飯が食えるところを探そうと街を歩く。
 石城ほどではないが、それなりに賑わう街を歩けばそこら中からいい匂いが漂ってくるので、ついつい腹が鳴ってしまう。
 幸い、賑やかな街並みに埋もれて衆人に聞かれることは無かったが、それでも小っ恥ずかしくなった俺は慌てて近くにあった店へ入ろうとしたところで――視界の端にあるざわめきを見つけた。

「なんだ、あれ?」

 安定の中心、城門から城へと伸びる主要道の外れ、一本裏道へと入ろうかとする場所で騒然としている人垣を見つけた俺は、そこへと近づいてみた。
 野次馬根性発揮である。
 
「あーあー、あの子も可哀想に……」

「ちょっとすみません、何かあったんですか?」

 とは言っても、見えるのは人の頭で出来た山だけである。
 何か言い争っているのは聞こえるのだが、何分野次馬の数が多すぎて、ざわめきで今いち聞き取れない。
 仕方なく、人垣に近づいた俺は近くにいた男性へと何があったのかを問いかけた。
 
「ん? いやなに、あの子の母親が兵士達にぶつかっちまったらしくてね。それだけならいいんだけど、兵士の奴ら、何を思ったかあの子達を黄巾賊の密偵だと言って取り調べるとか言いやがったのよ」

「黄巾賊の密偵って……。証拠はあるんですか?」

「そんなもん、あるわけないよ。ありゃああれだね、詰め所につれて帰っておいしく頂かれちゃうね」

 ここは昔から行商人なんかが多いからね、ああやって難癖つけてはってのが多いんだよ。
 それだけ言って居心地悪げにその場を離れていく男性から視線を外し、人並みの中心へと視線を向ければ――見えた。


 長く伸ばした蒼穹の髪を頭の斜め横で二つに束ね、土埃で汚れた面差しは幼いながらもしっかりと芯があるように見える。
 体型こそ小柄ではあるが、それでも武芸に関しては素人ではないだろう、その立ち振る舞いがそう感じさせた。

 対して母親であるが、同じ色の髪を腰まで伸ばしており、その豊満な肢体を覆う服に沿うかのように艶やかに流れている。
 病でも抱えているのか、上気した頬に潤んだ瞳、と色気を感じさせるセットに、なるほど、先ほどの男性の言が当たっていると確信した。



「母上に触らないでッ!」

 

 だからこそ、少女の叫びに反応してしまい気付いたときには人垣を掻き分けていた俺は、少女の母親に手を伸ばす兵士の手を掴んでいた。

「誰だ、貴様はッ!? 邪魔だてするなら容赦はせんぞッ!」

「まあまあ、この方達が何かしたという訳でもないんでしょう? ここは一度引かれた方がよろしいのではないですかね?」

 己の母親に手を伸ばす兵士に対して、今にも噛み付かんとばかりにいきり立っていた少女を背中へと回し、兵士の前へと躍り出る。
 三人、兵士の数ではあるが、いざ揉め事となったときにギリギリ相手出来る数ではあるか。
 服を調えるふりをして懐にあるモノを確認した俺は、こちらを睨み付ける兵士達に視線を向けた。

「民如きが我らに諫言すると言うのかッ!? 我らはこのたび安定を支配することとなった董卓軍だぞ、領主の子息如きが口を聞ける立場ではないのだッ!」

 だからそこを退け、と三者三様に怒鳴る兵士達に、こめかみに痛みを覚えてしまう。
 董卓軍だ、と名乗る彼らに見覚えがないことから、今回の件で新たに参入した元黄巾賊か安定の兵士だということが分かる。
 少なくとも、石城のころからの兵士達とは調練や警邏で一度顔を合わせているのだから、何かしら見覚えがあってもいいはずである。

「そも、黄巾賊の密偵と疑わしきだけで取調べとは、些か早急ではありませんか? まずは指揮を執る将に確認をとって、指示を仰ぐべきでしょう」

「ふん、我らは既に指示を仰いでおるわッ、疑わしきは罰せよ、とな」

「……指示を出した将を聞いても?」

「貴様如きがそれを聞いたところでどうなる訳でもなかろうが、特別に教えてやろうッ! 董卓軍にその人在りと謳われた華将軍よ!」

 その言葉を聞いて、俺の中ではああなるほど、という理解と、そんなわけがないだろう、という確信が生まれていた。

 華雄は、そりゃ確かに猪のところはあるし人の話は聞かないしちょっとばかり考えるのが苦手だったりするが、それでも疑わしいというだけで罰することはないと言い切れる。
 まずは己で確かめ、それから動くということぐらいは俺にだって分かるのだから、華雄にだって分かる筈だ――と言い切れるかどうかは人それぞれだけども。
 だけれでも、華雄がそう言わないことだけは確信出来る。

 それと同時に、目の前の兵士達がどういった人物なのかも理解出来た。
 ようするには――

「――なるほど、虎の威を借る狐、ではなく小者と言ったところか」

「なッ!? き、貴様ァァッ!」

「おや、お気に召さなかった? ならば言い直しましょうか、下郎、とでも」

 故事成語である虎の威を借る狐であるが、そのエピソードは戦国時代、楚の宣王とされる。
 この時代では学を得ることは難しいため知らない人の方が多いとも思ったのだが、俺の言に頭にきたのを見る限りでは目の前の兵士も知っていたらしい。
 真っ赤に染めた顔で怒りを表した兵士は、こともあろうにその腰に構えた剣を抜いた。

 途端、それまでざわめきが支配していた空間は、絶叫と悲鳴が塗りつぶした。 
 ある者は慌てて逃げ出し、ある者はとばっちりを避けて知らぬ顔をし、ある者は助けを呼びために兵士を呼びに行った。
 そんな周囲の変化を気にする風でもなく、一人につられて他の兵士も慌てて剣を抜いた。

「小僧ォ、貴様も同罪だッ! 今ここで、その首刎ねてくれるわァァァッ!」

 なるほど、どうにも俺が丸腰と思って強気なのか、その切っ先を俺へと向けて兵士が怒鳴りつけてくる。
 後ろの二人が剣を抜いたという事実に愕然としているのにも気づかず、兵士は俺の首を刎ねるために剣を振るった。


 だが。


「なっ?!」

「悪いけど、簡単にやるわけにはいかないんだよ、この首は。守らなきゃいけないものもあるしな」

 それも、俺が懐から出したモノによって受け止められてしまう――甲高い音を響かせながら。

 木刀を作るとき、俺は何も最初から自作しようとは思ってはいなかった。
 まず初めに武具を扱う店や鍛冶屋に行ってみたのだが、木刀という概念がないのか、どこにもありはしなかった。
 仕方なく自作しようということになったのだが、そう決めた鍛冶屋にて俺はあることを聞いてみたのだ。
 木刀――木の中に鉄を流し込むことはできるのか、と。
 鉛を仕込んだ木刀というのは、意外のほか重たいのだが、鉛が精製出来るか怪しいこの時代でそれに代わるものとして鉄ではどうか、と尋ねてみたのだ。
 結果としては不明ということではあったが、その発想が面白いと言ってくれた鍛冶屋のおっちゃんに、俺はさらに頼み込んであるモノを貰い受けた。
 

 それが今まさに俺の手の中にあるモノ――兵士の剣戟を止めた、鉄の棒である。


 ただの鉄の棒であるのだが侮ることなかれ、チャッチャッチャーンと土曜日夜九時から始まる番組で多くの凶器となったそれは、十分に実用可能なことを証明しているのだ――脚色が含まれてはいるが。
 こんなもので良かったら、と結構な量をもらった内の一本をいざという時のために懐に忍ばせておいたのだが、まさしく想定した通りに用いてしまった。 

「ぐゥッ! 刃向かうというのなら容赦はせんぞ、おい、こいつを囲めッ!」

「あ、ああ!」

 俺が防ぐとは思ってもみなかったのか、呆然として力が緩んだところで押し返された兵士は、後ろの二人へも声をかけて前と横の三方から俺を囲んだ。
 そのどれもが剣を抜いており、普通に考えれば剣と鉄の棒では相手にならないのは当然であるのだが、俺は至って冷静の内にいた。

 二人の女性を背に、三人の男と相対する。
 それはこの世界に来て初めての時と同じで、それがもう遥か昔のことのように思えながら、顔に出さないように笑う。
 懐かしさを感じるという、その場にそぐわない異質な感情を抱きながら、俺は鉄の棒を兵士へと差し向けた。

「虎の威を借り、それが通じぬ相手とみるや武威を見せ付ける、か。小者ここに極まり、だな」

 やれやれ、と肩を竦めた俺に、兵士はさらに顔を朱に染めていく。
 それは羞恥か、それとも怒りか、あるいは両方か。
 どれとも取れる色に染まった顔を見やりながら、自分でも驚くほどに淡々と言葉が口から出てくる。

「数多の血を散らし、多くの犠牲の上に成し得た勝利の中で、貴様らがしようとしていることがどれだけ影響を及ぼすのか――思い至らぬようなら、少しでも考えろ」

 そこまで発して、ああ俺は怒っているのか、と理解した。
 安定を支配する――李粛と牛輔は自ら下ってくれた、それを侮辱する言葉。
 華雄が指示をした――それは彼女という存在を貶し、侮辱する言葉。
 そして何より――その行いは、生きるために、勝利のために命を散らしていった多くの兵を侮辱するもの。

「人心未だ収まらず、何れ再び崩れる束の間の平穏とはいえ、それを先んじて壊そうとするなど――恥を知れ、下郎」

 ちょっと前まではその下郎の中に俺もいたけどな、と心の中で付け足す。
 だらだらと引きずりたいわけではないが、それでもこうやって引き出すあたり、今いち覚悟が足りていないのか。

「ぐっ……貴様ァァァァァッ!」

 人知れず苦笑した俺だったが、その笑みが自分達を小馬鹿にでもしたと思ったのか、兵士達が一斉に剣を振りかざして襲い掛かってくる。
 前、左右の三方からの襲撃に、後ろへ控える少女とその母親が息を呑んだ気配がしたが、俺はさして気にすることもなく油断無く構えた。


 時間稼ぎは十分、それは段々と大きくなるざわめきが教えてくれた。
 来る役者は十二分、それはざわめきに混じるその名が教えてくれた。
 
 それを知らしめるように、いつもの武芸に励むものとは違う、己の職務を全うする声が響き渡る。


「――ふん、よくぞ言った北郷」


 董卓軍にその人在りと言われた華将軍その人が、その場へと現れたのである。




  **




 そこからはあっという間だったので、割愛しておく。
 ただ一つだけ、お前らは特別調練だ、と言われた兵士達に向けられた警邏の兵士達の哀れそうな視線だけが、脳裏にこびりついていた。
 未だに聞こえる叫びだけが、その内容を物語っていると言えよう。


「ありがとうございました、葉由殿。お陰で俺も彼女達も怪我はありません」

「なに、警邏の任であれば当然のことだ。私としても、兵が徒に騒ぎを起こさなくて助かった。礼を言おう、北郷」

 どうも安定に残っていた兵が弛んでいるみたいでな、と頭を上げた華雄の言葉に、それも無理らしかぬことかと思ってしまう。
 安定を守り、その立役者である董卓軍に参入が決まったのだから、己が大きく見えてしまうのも仕方がないのかもしれない。
 特に、安定に残っていたのは新兵ばかりだからこそ、その現実に酔っていてもおかしくはないのだ。
 此度の件にしても、華雄が出した指示は疑わしい者がいれば逐一報告するように、とだけだったのだ。
 一体何がどうやってあのような勘違いをしたものになるのか、一度じっくり聞いてみたい気もした。

「今回の件でまだまだしごきようが足りないことが良く分かった。悪さが出来ないようにしてしまうのも、悪くはないな」

 どうやって、と言及するには余りにも憚られる雰囲気の華雄に、背筋に冷たいものが通り過ぎると同時に、周囲で騒ぎを鎮める兵士達に同情の念を拭えない。
 連帯責任、いい言葉ではあるが無情の言葉でもある、そう思わないだろうか。

「……ふむ、いい顔をするようになったな北郷。武人のものだ」

「葉由殿に言ってもらえれば、嬉しいものですね。……心配をお掛けしました」

「べ、別に心配などしてはいないッ! 未だぐじぐじ言っているようなら、叩きのめしてやろうとは思っていたが、それも杞憂だったな。…………ちっ、仕損じたか」

 ありがとう、の感謝を笑顔と共に送る。
 未だぎこちないものではあったが、自分では意外と上手く笑えたと思ったのだが、それを見て不意に逸らされた華雄の視線に、もしかして俺の笑顔って気持ち悪いのかな、なんて思ってしまう。
 そう言えば張遼達も逸らしてたし、賈駆に至っては敬語使いが気持ち悪いとさえ言われたのだから、それも間違いではないのかもしれない。
 ズーン、と落ち込んでしまい華雄が最後に呟いた言葉を聞くことは無かったが、不意に引かれた服に、後ろを振り向く。

「はぅっ! はわはわ……」
 
 ああそういえば、と出来る限り怖がらせないように、と笑顔で振り向いたのだが――即効で視線を逸らされてしまった。
 はわはわ、と可愛い慌て方に一瞬和みかけるが、その事実が俺をさらにどん底に陥れてしまう。
 そか、気持ち悪いか俺の顔……ははは、俺もう疲れたよ。

 ああ、でも、はわはわと慌てる少女の横で、ズーン、とも、どよーん、とも取れる落ち込みをしている俺。
 傍から見ればどれだけシュールなことか、と思っていると、睨まれるように少女に見つめられた俺は、些か慌ててしまう。
 あれかな、俺もはわはわと言った方がいいのかな、なんて思いながら。



 そして、少女の小さな口から名乗りが出た時、この世界に来て何度目かは知らない驚きによって、俺は開いた口が塞がらなかった。






「せ、姓は姜、名は維、字は伯約と申します! わ、わたしを董卓様の軍に参加しゃせてくだしゃにゅッ! はわはわ……また噛んじゃったよぅ」






 ――カミカミである。




 






[18488] ~補完物語・とある日の不幸~
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/11 16:23

 ~補完物語・とある日の不幸~



「きゃぁぁぁ!」

 董卓軍が安定に入城し、そこを本拠としてから数日後のこと。
 膨大な量の書類と竹簡を片付けた俺は、草木も眠る、夜も更けきったころにやっとこさ就寝出来ていたのだが。
 起床の時間となって目を覚ましてみれば、耳に届いたのは女性特有の高い叫び声で、俺はそれが聞こえたと同時に飛び出していた。
 誰の声かなどと確かめる必要もない、それこそ守ると誓った一人のものだからこそ俺は慌てていた。
 
 まさか、という思いが胸を締め付ける。
 安定を本拠にした後に、一番にしたことと言えば治安の改善である。
 降伏したとはいえ元黄巾賊という肩書きを持つ兵士達に、街の民衆は厳しい目を向けていた。
 確かに、董卓軍が救援に来なければ蹂躙されていた、というのだからそれも当然の反応だとは思うのだが。
 多くの兵士達は心を入れ替えて働く者ばかりだったが、一部の者達はそうはいかなかった。
 民衆に反発し、悪さをする者もいれば、安定を離れて再び賊と成り下がる者もいた。
 もしやそういった輩が、と危惧していた俺は、声を発したであろう人物の部屋へと辿り着いた。

 人の気配はするが、争っている風ではない。
 だが、もし口を押さえられているとしたら、などと考えて、そんな猶予はなのかもしれない、と意を決して俺は扉を開けた。

「詠、大丈夫――」

「ちょ、入ってくるなぁッ!」

「――かッ……って、え?」

 そこで見たものとは。

 半ば想像してた通りに寝間着を大きくはだけさせ――先に言っておくが、決して見たいと思った訳ではないぞ、たまたまだ――その胸元がギリギリのところまで露わにされており、乱れた裾から覗く白い太腿はやけに色っぽく濡れていた。
 ――傍らで割れていた、花瓶の水によって。

 なんていうか、大人のビデオ――及川所有物である、断じて俺ではない――にあるような着物が水に濡れている状態とでも言うのか、まさしくそんな感じで賈駆がそこで座り込んでいた。

「み……み……み……ッ!」

 艶やかでありながらどこか神秘的で、薄紫の寝間着と白い肌がさらにそれを助長させているのだが。
 ぷるぷる震える身体に不似合いな固くにぎしめられた右腕と、涙を溜めながらもこちらを睨み付けるその瞳が、どこか庇護欲を感じさせながら、恐怖をも感じさせた。


 敢えて言おう――俺ピンチじゃね?


「み……見るなぁぁぁぁぁぁ!」

「ぐっふぅぅぅぅぅぅ!」

 そう思った刹那、目にも止まらぬ速さで繰り出された右腕は俺の顎を的確に捉え、下からの軌道に沿って俺は宙へと浮いた――否、飛んでいた。
 後に、あの張遼をもってして、呂布の剣戟と同じかそれ以上かもしれない、と言わしめた拳を受けた俺は、飛んだ衝撃そのままに地面へと落ちて転がった。
 ああなんで俺がこんな目に、と脳裏に浮かんだ時には、俺の意識は闇へと埋もれていた。




  **




「――と言うわけで、今日一日ボクは不幸の固まりだから。出来るだけ近づかないほうがいいわよ」

 朝起きて、水を飲もうと思ったら水瓶を置いてきた机の脚が折れて、水瓶が割れたのを片付けようとしたらたまたま前日に位置を変えていた花瓶が落ちてきて水に濡れた。
 その状態で呆然としてしまい、慌ててその場を片付けようとするのだが、水に濡れた寝間着は意外にも重たく、悪戦苦闘している間に乱れてしまい、そこに俺が来た――これが一連の内容であるらしい。
 どんな漫才かコントか、とも思ってしまうのだが、月に一度ほど超絶に不幸な一日があると話してくれた賈駆の顔色から、それが意外にも切羽詰まったことなのだと理解する。

 未だ痛む顎をさすりながら集められた広間にて、賈駆の口から発せられた一言は意外にも大きな影響力を持つらしい。
 張遼や華雄、呂布や陳宮、徐晃は言うに及ばず、常なら常時並んでいるはずの董卓でさえ賈駆から距離を取ったのだ。
 その威力を知らない俺や牛輔、李粛や王方だけはその場を動くことは無かったが。

「ですが賈駆殿、近づかなければ仕事にも支障があるの――」

「お茶をお持ちしまし――キャッ!」

 董卓の軍師として、また文官の纏め役としての賈駆に近づかなければ仕事にはならない、そう進言しようとした王方のタイミングに重なって侍女がお茶を運んでくる。
 まさかそこまでベタじゃないだろう、と考えた俺が浅はかだったのか、たまたま顔の前を飛んでいった蝶に視界を奪われた侍女は、何も無いところで躓いてしまった。
 ――ご丁寧にも、王方にお茶をぶちまけて。

「…………」

 ぽたぽた、とお茶も滴るいい男となってしまった王方は、頭を下げて謝る侍女を宥めて無言のままに張遼達と同じ距離まで下がってしまった。

 ごくり、と喉を鳴らしたのは誰だったか。
 自然に目配せをしあった牛輔と李粛が、立ち上がる。

「あ、あー! そういえば僕急ぎの仕事があったんだー! さ、先に行くか――キャウンッ!」

「……そういえば、俺も急ぎの件があったな。先に朝食に行かせて――ブグフゥッ!」

 だが。
 足早にその場を去ろうとした李粛は零れていたお茶によって足を滑らせてしまい、強かに腰を打ち付けて。
 李粛につられるように朝食を取りに行こうとした牛輔は、割れた茶器を片付けにきた侍女が開けた扉によって顔を打ち付けられた。

 となると当然、残りの一人である俺へと視線が集まる。
 またまた謝る侍女を宥めて張遼達の場所へと下がった牛輔と起き上がった李粛までもが、俺の一挙一足を見つめている。

 背後からの無言のプレッシャーに、ガタリ、と席を立つ――何も起こらない。
 一歩、席から離れて賈駆を見る――何も起こらない。
 一歩、賈駆に近づくか離れるか悩むが、近づいてみる――賈駆が息を呑むが、何も起こらない。
 一歩、二歩、三歩と賈駆に近づいていく――が何も起こることはなく、さして何もないままに俺は賈駆の元へと辿り着いた。

「…………何にも起こらないじゃないか、むっちゃ緊張したのに。大体、どれもこれも偶々だよ、偶々。運が悪かっただけなんだって」

 俺に何も起こらなかったことで驚愕の色に染まる賈駆や董卓達に視線を向けながら、やれやれ、と賈駆から離れていく。
 たまたま偶然が重なっただけじゃないか、俺が吹っ飛んだのだって人災と言っても間違いではないし。
 そう考えながら先ほどまで座っていた椅子まで離れた時、それは飛んできた。

「あ、危なぁぁぁぁいッ!」

 牛輔が顔を打ち付けた扉、侍女が顔を冷やすものを持ってくる、ということで開けられたままのそれから、唐突に一つの陰が飛来する。
 それは空気を切り裂き、その先にいる陳宮目掛けて飛んでいた。

「ヒィッ!」

 その先にいる陳宮にはそれが何かが分かったのか、驚き、怯えた声を上げたのだが。

「……フッ!」

 その横にいた呂布によって、ソレは蹴り上げられたかと思うと、広間の天井へと深々と突き刺さった――刃は潰されているとはいえ、あの軌道でいけば人へ突き刺さってもおかしくはないであろう、剣が。
 広間の扉から見える庭にて、早朝鍛錬をしていた武官の手が滑って飛んできたということなのだが、その軌道は明らかにおかしかった。
 あれかな、不思議な世界だから万有引力とかないのかなここは、と思えるぐらいに。

 へなへな、と腰を抜かした陳宮だったが、己を持ち直したのか、何故だか俺を睨み付けてきた。
 何だ何だと思ってみれば、陳宮以外にもみんなして俺を見ていた。
 いやもしかしたら俺の後ろにいる賈駆かも、とも思って振り返ってみれば、どことなく頭痛を抑えるような、嫌そうな表情で俺を見ていた。

 えっ、マジで俺何かした?
 と再び振り返って董卓達を見やれば、歯がゆそうな董卓と張遼を押さえて、呂布が前へと進み出た。
 そして、その可愛らしい唇から零れ出た言葉は、俺の今日を幸せなのか不幸なのかよく分からない境地に叩き落とすものだった。



「……詠が、一刀といれば、解決?」



 かくして俺、北郷一刀はアンチ不幸のスキルと、不幸キャンセラーの称号を手に入れたのだった。




  **




「なんであんたなんかと一緒に……月、ボクに恨みでもあるの?」

「その不幸体質に関して言えば、恨みの一つ二つあるんじゃないか? 今朝の件で陳宮にも一つ出来ただろうし」

 今日一日、北郷一刀と賈文和は離れずに仕事をすること。

 我らが主である董卓がそう任じたからには、それは守り行わなければいけないことではあるのだが。
 その任を不服としてか、それともただ単に俺が近くにいるのが気にくわないのか、広間で解散した後にとりあえず部屋に行こうと廊下を歩いていると、隣を歩く賈駆からの愚痴攻撃に早くも心が折れそうだった。
 
 あの後、賈駆からある一定の距離でアンチスキルが発動することが判明した結果、まず始めに俺の取り合いとなった。
 張遼と華雄が俺を調練に連れ出そうとすれば、董卓と王方がそれを引き留め、酷い目にあった陳宮と呂布が俺と散歩したいと言えば、牛輔と李粛がそれをさせじと動いた。
 もてもてである――もてもてではあるのだが、何だか嬉しくないぞー。
 そして、結論が出ぬまま出仕の時間となった時、本当に珍しく閃いたかのように放たれた呂布の一言によって、董卓が決断したものであった。

「うぅ……そりゃ確かに、お茶掛けちゃったり服汚したりしたのは一度や二度じゃないけどさ。ボクだって、好きでしてるんじゃないし……」

 あの董卓であるからして、恐らくではあるがそれぐらいで怒るようなことはしないだろうというのは、よく分かる。
 かといって、それで全てが我慢出来る、というわけでもないのもよく分かる。
 あれだよね、顔はニッコリ笑っても心で怒るって結構出来るよね。

 とまあ考えてみても、賈駆の不幸体質が消えるわけではないのでここで止めておく。
 目下として、まず解決しなければならない問題があった。

「それで……どっちの部屋で仕事する?」

「……仕方がないけど、あんたの部屋にしましょう。多分、ボクの部屋はまだ片付けられてないでしょうから。…………一つ言っておくけど、変なことしようとしたらただじゃおかないわよ」

 じろり、と睨み付けられながら言われた言葉に反射的に、出さないよ、と口を開こうとしたのだが。
 何故だかさっきより鋭く睨み付けられてしまえば、その気も無くなってしまった。
 結局、文官や侍女の協力もあって俺の部屋に机と椅子、賈駆の仕事を運んできて両者共に仕事を行うこととなったのである。




 いつもなら俺の補佐という形でいてくれる王方も、先ほどのことがよっぽど応えたのか部屋に立ち入ることはなく、ある程度の量を纏め終わったら侍女に持っていってもらう、という形で仕事は進行していった。
 先に分類等はしてくれていたらしく、予想していたよりも苦労することなく進んでいくのだが、先ほどよりどうにも不可解な視線を感じていた。

 視線を感じて顔を上げてみれば、そこには竹簡に向き合う賈駆がいて誰かが見ている訳でもなく。
 気のせいか、と竹簡を見れば再び視線を感じて顔を上げる。
 だが、そこにはまたしても竹簡を見る賈駆しかおらず、俺はただただ首を傾げるばかりであった。

 不幸スキル大が発動中の賈駆の恐ろしさを身を以てしっているのか、アンチ不幸を持つ俺が近くにいるとはいえ侍女と文官以外誰も近づこうとしない部屋は静かで、カロカロ、と竹簡を纏める音と筆を走らせる音以外には何も聞こえはしなかった。

 いつからか、そこに雨の音が混じっていることに気付いた時には既に日が暮れる時間帯であり、どうやらいつもより集中して仕事をしていたらしい。
 視線の先にいる賈駆も同じらしく、俺が背中を伸ばすと同時にパキポキと鳴る骨の音に導かれて、俺達は視線を交わしあった。

「……昼飯食べ損ねた」

「大体片付けられたわね。月に判を貰わないといけないのもあるから全部ではないけど、いつものこの日なら全然仕事は進まないのに」

 腹減ってる時って、自覚すると凄いお腹が減るよね、今の俺がまさにそれ。
 ぐぎゅるるる、と盛大な音を立てて飯を寄越せと訴える腹をさすりながら、大体の仕事が終わったので、と片付けを始めていく。
 王方も、今日はこれぐらいでいいだろう、なんて言ってくれたから大手を振って片付けることが出来たのは、とっても嬉しいことであった。



 だから、気が緩むというのは仕方がないということである。
 アンチスキルが緩んでしまったのも仕方がないのだ――どうやって使い分けるとか知らんけどさ。



「さあさあ、賈駆様も北郷様も一息ついてお茶にしませんか? 美味しいお饅頭もありますよ」

 なんて言いながら、ニコニコとお茶とお菓子を持ってくる侍女を見やりながら、ふと彼女に見覚えを感じてしまう。
 ええとどこで見たことが……ああ、王方にお茶を…掛け…た……侍女?
 そこまで思い至って、疑問を感じてしまう。
 何であの人またお茶運んでんの、と。

 そりゃ確かに、最初にお茶を零したのは彼女で、それは賈駆の不幸スキルのせいだと言っても過言ではないかもしれないけども。
 それでアンチスキルを持つ俺が近くにいることで不幸スキルの心配をしなくてもいいかも、なんて思うのも無理はないかもしれないけども。
 何となく嫌な予感がしてしまうのは、人としての本能か、はたまたこの世界で培った勘なのか。
 
 これから待ち受けていそうな光景を不意に想像してしまい、背筋が冷えてしまう。
 慌てて止めようと口を開けようとするのだが、ちょっと待て、と考えてしまう。
 ここで声を荒げれば驚いて転けてお茶をひっくり返すパターンではなかろうか。
 ならば、と静かに声を掛けようと思い口を開くのだが。

「あっ! ちょっと、あんたが運んだらまたお茶が零れるじゃないッ!」

 どこまで不幸なんですか、少し考えたら分かるじゃないですか、そもそも俺のアンチスキルは既にオーバーフローして一杯一杯なんですか、などなど突っ込みたいことは山ほどあったが、とりあえずやることはただ一つ――被害を受けないように机の上の書類を抱えて机の下に避難する、ただそれだけである。

「えっ! あ、申し訳ありませ――あぁぁっ! お饅頭が!」

 賈駆に怒鳴りつけられた侍女がビクリと反応し、それによって詰まれた饅頭がこぼれ落ちそうになるのを必死で止めようとして――までを確認した俺は、慌てて机の下へと非難した。
 だから、そこから先の展開は視界に入れることは出来なかったのだが、その光景は容易に想像出来てしまったのだ。

「え? なっ! こ、こっちに来るんじゃないわよッ!? って、きゃぁぁぁぁ!」

「うわわわわぁっ! 賈駆様、避けてぇぇぇ!」

 ドンガラビシャァゴンガッション、という謎の音を響かせて、恐らくは転けてしまったであろう侍女とその被害を受けたであろう賈駆を思いながら、静かになった部屋を見渡すために机の下から顔を覗かせる。

 先ほどまで綺麗に積み重ねられていた書類は無惨にも崩れ落ち、しとしと降る雨の湿気によってゴミなどを吸い付けながらぐちゃぐちゃになっていた。
 そこから視線を進ませれば、これまた綺麗に詰まれていた竹簡は崩れており、どんな不幸だよと言わせたいのか、竹を纏めていた紐が切れてばらばらになっていた。
 そこから先、机に頭をぶつけたのか侍女が目を回して気を失っており、その足下には一つの潰れた饅頭が散らばった書類を汚していた。
 そして極めつけといえば、机の傍でお茶塗れになった賈駆と、同じようにお茶をぶちまけられた机の周りにあった書類と竹簡だろうか。
 何をどうすれば、と言いたくなるように見事にお茶によるシミを作りだしている書類の上で、饅頭がこれまた何故か割れて中のアンコが絶妙なアシストをしていた。

 目を覆いたくなるような惨状、だけどそれは憚られて。
 ぷるぷると震える賈駆に、俺は何と言っていいのか、と言葉を探した。

「…………んた………よ」

 そこでふと、震えながらも賈駆の口がぶつぶつと何かを紡いでいることに気付く。
 それは、初めは聞き取りにくいほど小さなものだったのだが、段々と大きくなるにつれて形取っていく。

「あんたの…………あんたのせいよぉぉぉぉッ!」

 だから、その声が形となって俺へと降り注いでくると、俺は反射的に口を開いていた。

「ええぇぇッ! り、理不尽だッ!?」

「ボクはあんたのせいで不幸なのよッ! あんたがいなければッ!?」

「俺悪くないよッ!? 俺いなかったらみんなが酷い目に――」

「やっぱりあんたのせいだぁぁぁ!」

「何でだよッ?!」

 ジャイアンでももう少しマシ……だったような、じゃなかったような、と思えるほどの持論を展開していく賈駆から逃げつつ――もちろん書類と竹簡は被害の及ばない位置にまで避難させた――どたばたと部屋の中を走り回る。

 やり直しがほぼ決定しているからか、丸められた竹簡を惜しげもなく投擲する賈駆には恐れ入るが、お茶に濡れたまま走られるのには遠慮願いたい――ここ俺の部屋だぞ。
 もちろんそんなことに賈駆が気付く筈もなく――気付いててわざとな気もするが、俺達の狭い追いかけっこは侍女と同じようにお茶を運んできた王方が来るまで続けられた。

 

 ちなみに。
 ドロドロのグチョグチョのヌメヌメのゲロゲロという成れの果てとなった竹簡と書類はすぐさまに破棄され。
 賈駆と、何故だか俺の二人は翌日の日が昇るまでその再生に尽力したのであった。

 一言だけ言わせてもらいたい。
 ――今回一番不幸だったのって、俺じゃね? 





 




[18488] 十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/13 16:00




「きょ、姜維と申しましゅ! わ、わ、私を董卓様の軍に入れて頂きぇましぇんきゃッ!? はわはわ……また噛んじゃった」

「へぅ……だ、大丈夫ですか?」

 姜維とその母親を助けた俺は、騒ぎで目立った彼女達を城へと連れて行った。
 姜維が望んだ董卓軍参入、という話とも関係はあるのだが、ひとまずとして、彼女の母親の状態を気にしてのことだった。
 城へと帰った後に残って仕事を片付けていた王方へと話を通し、夕方の董卓達への面会と医者の手配を取り付けてもらった。
 というのも、安定に董卓軍が本拠を移すとなって石城で董卓を慕う豪族や民、また安定に住んでいた豪族などがこぞって董卓へ面会を求めていたのだ。

 これは、戦国時代にもよく見られた光景らしく、その地の領主や大名が変わる度に己の権利を主張したり確認したりするため、ということらしいのだが。
 そんなこともあって董卓への面会までの時間、俺は姜維とその母親を客室へと案内していた。

 医者の話では、姜維の母親は病ではなくただの疲労ということもあり、とりあえず昼時だったということもあってか食事を取らせた。
 消化によさそうなものを、ということで食堂のおばちゃん達に作ってもらった食事は意外と好評だったみたいで、そのことにおばちゃん達も喜んでいた。

 一休みした姜維の母親は顔色もよくなり、面会の時間となって広間へと彼女達を案内したのだが。

「なんだ、この空間は……?」

 未だ仕事から帰ってこない人物をのぞいて、この広間には董卓と賈駆、俺を含む三人と姜維とその母親の計五人がそこにいた。
 一応面会という形ということで、俺の位置としては連れてきた推挙人というよりも、董卓軍の一員としてその場にいることになったのだが。
 目の前で繰り広げられるカミカミの姜維と、ほわほわの董卓の応酬に、俺は知らず視線を逸らしていた。

「ちょっと、あんたがあれ連れてきたんだから、目逸らすんじゃないわよ。……そもそも、あれ使えるんでしょうね?」

「あ、それは大丈夫だと思う。見る目は確かな方だと思うから」

 見る目、というよりも持っている知識か。

 姜維といえば、初め魏に仕えていながらもあの諸葛亮にその才を見出され、蜀に下った後にはその後継となって蜀を支えた武将なのだから。
 老いたとはいえ五虎将軍の一人であった趙雲と互角以上に戦い、あの諸葛亮の策を逆手にとって彼を危機に陥らせたりと、才覚溢れる将であったという。
 惜しむらくは諸葛亮ほど内政を重視しなかったことか、度重なる北伐は蜀の国力を疲弊させていき、内外に問わず不信感を募らせてしまう結果となったのだから。
 全てという訳ではないが、後に蜀漢が滅亡した一因とも言えよう。
 だからと言って、それが目の前にいる姜維の評になるかと言われれば否であるのだが。
 
「……」

「な、なんだよ?」

「別になんでもないわよ」

 恐らくは董卓軍の助けとなるであろう人物、と姜維を評してみれば何故だか賈駆から睨まれてしまった。
 姜維の評に何か問題でもあったのか、と問いかけてみても特に何かを言われるふうでもなく、一つ鼻を鳴らした後は顔を逸らされてしまった。

「……ふふ、賈駆様は拗ねておいでなのですよ、北郷様」

 一体なんなんだ、と頭を抱えてみても答えが浮かぶはずもなく――それで答えが浮けば、元の世界でもう少し見える世界が違ったかもしれないのに、主に赤ペンで書かれる数字が。
 何だ何だと悩んでみれば、答えが飛んできたのは思わぬ方向からであった。

「拗ねているとは…………えーと、お名前何でしたっけ?」

「ああ、これは申し遅れました。亡き姜冏が妻、姜維が母で姜明と申します。赤瑠――娘がお世話になれば、北郷様とも末永いお付き合いとなりそうですね」

 くすくす、と。
 たよやかに笑うその表情は女性特有のもので、不意にドキリとしてしまうほどに綺麗だった。
 そんな俺を見てますます笑みを浮かべる姜明に恐縮しながらも、いつの間にか董卓の隣へと進んでいた賈駆へと視線を促す彼女を見ていた。

「赤瑠――他の娘ばかり褒められては、殿方の近くにいる女子からすれば拗ねるのも当然ですよ。見れば、賈駆様を一度も褒めたことがないのでは?」

「む……まぁ、その通りですが」

 貶されることはしょっちゅうあるんですけど、なんてここで言おうものなら、もし聞こえたなら、と考えてしまい慌てて口を塞ぐ。
 それを見られればまた笑われてしまい、俺はどうにも居心地が悪い思いだった。

「女子は殿方には褒められたいもの、それが気になる方とあれば特に、ね。……あら、お話が終わったようですね」

 そう言われて見れば、なるほど確かに。
 視線を移してみれば、お願いしぇまひゅ、とどうやったら出来るのか聞きたいぐらいに噛みながら頭を下げる姜維がいて、それをまた心配している董卓がいた。
 俺連れてきただけなんだけど、将を加えるのってこんなに簡単でいいのかなぁなんて考えてしまう――でも牛輔と李粛もいつの間にか参入しているのを見ると、案外そんなものなのかもしれない。

「それに――褒めておけば、貶されることも少なくなるかもしれませんよ?」

 となると、今の俺の仕事量を減らすために文官をどこかから捜してきてもいいなあ、とついつい考えてしまう。
 いやだって、王方だけじゃ足りないのよ圧倒的に。
 いくら俺が慣れてないとは言っても、さすがに連日深夜まで仕事をすれば身も心もすり減ってしまうのよ。
 やっぱり文官、或いは軍師とか欲しいよね、この時期なら徐庶とか荊州にいそうだし、探してみれば諸葛亮とか龐統とかいないだろうか。
 そんなことをちょっとワクワクしながら考えていると、姜維の元へと行こうとしていた姜明がすれ違い様に囁いていった言葉に、俺はピタリと動きを止めてしまう。

 そんな俺を訝しげに見る董卓と賈駆、姜維の視線の裏腹で、くすくすと笑う姜明に敵わないと思うと同時に感謝した。
 そう、この時をもって俺の行動思考の順位は文官を捜すことから董卓軍の姫達を褒めることへと変わったのだから。
 賈駆は当然として、陳宮も褒めたほうがいいのかな、主に俺の心身共の安寧を得るために。



 でもやっぱり文官も欲しいよな、と思う今日この頃であった。





  **





 それでも、少しでも気遣ってくれていることに感謝して、打算抜きで褒めるべきであろうか。
 ううむ、悩むところである。

 
「北郷様ー! 持って行ってきました!」
 
「ありがとう、伯約。ちゃんと詠に渡してくれたか?」

「はい! 相変わらず汚い字って言われてました!」

「ぐふっ! そ、そう……そんなに字汚いかな」

 董卓軍に参入した姜維であったが、彼女が初め上司と仰いだのが、何を隠そう俺ということになった。
 そこに至るまでに様々な問題――主に、張遼が俺に女の部下を付けることを反対したり、董卓もそれに倣ったり――があったが、概ね大きな混乱もなく姜維は董卓軍へと馴染んでいった。
 まあその理由は少々複雑ではあったりするのだが、根本的なものとしては俺を将軍へと押し上げようというものであった。

 功として評価されることは無かったとはいえ、董卓と賈駆を二度も守り、その武は並の兵士では及ばぬが如し、文官の仕事をさせればなんだかんだでやりこなす。
 極めつけが先の姜維と兵士との一件であり、それを治めた俺に対して民の評価が上がったということもあり、また兵士の失陥から不信感を抱かれないように、という理由があった。
 ようするには、安定支配のための御輿、という肩書きである。
 そして、そういった俺の下に姜維が付く、という事実がそれを堅固にした。
  
「伯約を北郷殿の下に付かせることで、董卓様の度量の深さを民に知らしめる。……賈駆様も、中々に厭らしい策を考えるものです」

「はは、詠らしいと言えばらしいけどね。むしろ月の名を落とさないという点に関していえば、詠以上の適役はいないと思うよ」

 結果として、姜維を従えた俺が董卓の下で働けば働くほど董卓の名が上がって民心が定まる、という好循環が生まれることとなり、安定の街は董卓軍が入って早二週間ほどで現状に馴染むかたちとなったのである。

「まあ、こういったのは詠や公台殿のほうが得意だし、俺は自分に出来ることをしないとな」

「その意気ですよ、北郷殿。……そういえば、伯約?」

「はい、何でしょう?」

「お願いしていた昼食は、如何なさいました?」

「…………は、はわはわはわッ! わ、忘れてましたぁぁ! 取ってきまじゅ!」

「はぁ……」

 そして、結論から言えば姜維は優秀だった。
 一を聞いて十を知る、とまではいかないが、それでもその働きは十分に感嘆するものであり、このままいけば俺が抜かれるのもそう遠い未来ではなかった。
 ただ、彼女の一点だけが、それに霞をかけているのだが。

「またですか……。どうにも、伯約は一つの事しか見えないみたいですね。将になろうかという人間があれでは、先が思いやられると言いますか……」

「は、ははは。まあでも、見えている一つの事に関して言えば優秀なんだしさ、白儀殿もそう言わないであげて下さい」

 ぱたぱたと慌てて廊下を駆けていく姜維を見送れば、それを見計らって王方の口から零れ出た評に、俺も内心同意してしまう。
 集中する、といえば聞こえがいいが、どうにも彼女は一つのことにかかると気がいかなくなるらしい。
 以前も、竹簡を陳宮の所に持っていって、ついでに先日の警邏の際に発生した問題の詳細を聞いてきてくれ、と頼んだものなのだが。
 何故か詳細を聞いて帰ってきた姜維の腕の中には渡すべき竹簡が残ったままで、急ぎだったそれは王方が慌てて持っていったのである。
 今回もそう、賈駆へと竹簡を持っていたついでに、昼食を三人前持ってくる、それが出来なければ姜維が先に食べた後に俺と王方の分を持ってきてくれと頼んでいたのだが。
 結果は先の通りである。

 そして今また。
 ドンガラガッシャン、とお約束的な音が廊下から伝わってきて、それを誰が起こしたかも知れぬというのに王方は天を仰いだ。

「姜維様ッ! またあなたですかッ!?」

「はわはわはわーッ! ご、ごめんなしゃいでしゅぶッ!」

 しかししてその後に、食堂で厨房を仕切っているおばちゃんの怒声と、姜維の慌てた謝罪が聞こえてくれば誰が起こしたかは明白なのだが。
 がっくり、と肩を落とした王方は、一言俺に謝るととぼとぼと食堂への道を歩いていった。

 ……なんで王方が姜維の世話を焼くのかって?
 それはね、彼が姜維の一応の教育係に任命されたからだよ。
 彼のこれからに、俺は祈りを捧げたかった。
 




  **





 司隷河南省に位置する都、洛陽。
 雒陽とも、洛邑とも呼ばれるこの都は古来からの王朝にとって政治経済の中心とも言える場所であり、兵家必争の地でもあった。
 前漢王朝の皇族でもあった光武帝によって後漢王朝が立てられると、洛陽はその都とされ歴代皇帝の治める地としてきた。

 しかし、叛乱を防ぐために光武帝によって権力が皇帝へと集められると皇帝に取り入るための権力争いが起き始め、結果として外威と宦官によって政治は混乱していくこととなる。
 そんな混乱の最中、時の皇帝である幽帝が寵愛を注ぐことによって権力を得た人物が、洛陽の城を闊歩していた。

「仲達! 仲達はおらんのかッ!?」

「……御呼びでしょうか、何大将軍様?」

 何進、字は遂高。
 妹である何皇太后が霊帝に見初められたことが彼女の栄達に繋がると、黄巾の乱以前に大将軍となった人物である。
 月光の如くの銀髪を艶やかに流しており、それを映えさせるかのように豪華な簪が挿されていた。
 着物をはだけさせ、豊満な肉体は局所を隠すだけに留めた彼女は、己が呼びつけた男へと怒鳴り散らした。

「お主は言った筈だ、宦官を害することによってわらわへの忠誠を誓うとな?!」

「確かに。何大将軍様の言うとおりにございます」

「ならばなぜ、いつになっても動こうとはせんのだッ!? 張譲を始め、宦官共は皆わらわを害そうとしておる! このままでは、やつらの前にわらわが殺されてしまうではないかッ?!」

 その美貌を怒りによって歪める何進に慌てる風でもなく、仲達と呼ばれた男――司馬懿は一つ呼吸を置いた。

「何大将軍様、物事を成すには成すべき時――すなわち、天運というものがあります。今はまだその時ではないのですよ」
 
「そんなことは分かっておるわッ! だが、このままではわらわは……ッ!」

「私をお信じ下さい、何進様。このような風体の私を、あなたは重用して下さった。その信に報いるために、私はこの命、何進様のために用いる所存です」

 初め、司馬懿が洛陽に赴いたとき、朝廷の者達は彼を用いようとはしなかった。
 寒気さえ感じさせる白い衣、顔半分を覆う白き仮面からは怜悧な瞳が覗き、自分達の裏側を見られているようだという。
 その才には目をむくものがあったが、そういった風体からか誰にも用いられなかったところを、たまたま通りかかった何進が気まぐれに拾ってみたのが始まりだった。
 
 自分の身体を目当てにする者、自分の権力に縋り付こうとする者、大将軍となって多くの者を見てきた何進にとって、己の命を投げ出してでも自分に尽くしてくれようとする司馬懿の存在は、存外に大きなものであった。
 
 例えそこに、女としての気持ちが混ざろうとも、自分を慕い信ずる司馬懿を傍から外すことなど、この時の何進には到底考えられなかった。

「仲達……ならば信じよう、お主のその言を。……わらわを、裏切るではないぞ」

「御意にございます」

 だからこそ、何進は自分を信ずる司馬懿ならば、と背中を向けてその場を後にする。
 宦官相手ならば、背中から刺されるやもしれぬ、と常に護衛に囲まれていないといけないものだが。
 自分を信じ、自分が信じられる者がいるということはこれだけ心地いいものかと、何進は幾許かの暖かい気持ちを抱き始めていた。










「――ふん、ああも騒ぐことが出来るとは。やはり、元は肉屋の娘というところか」

「これは張譲殿。何用で私めに声をかけられたのですか?」

 不意に、何進が去ったのを見てか曲がり角から一人の人物が出てくる。
 霊帝の寵愛を受け、十常侍と呼ばれる十二人の宦官の一人としてその実力者でもある張譲、その人であり、また何進の最大の敵対者でもあった。

「あの何進がお前の前では女の顔をするとはな……。なるほど、殺す前にお前の目の前で兵に犯させるのも、存外悪くはないのかもしれぬ」

 くくく、と喉を鳴らして笑う張譲だったが、それもすぐに飽きたのか鼻を鳴らして司馬懿の顔を見た。

「何進に仕えながら、我ら宦官に通ずる。まさか、朝廷に仕えたいと申していたお前を放り出した我らに、何進の暗殺を持ちかけるとは……」

「あのお方の下では天下は収まりません。力を持つ物、宦官の皆様でしたらそれも可能と思ったまでです」

「……なるほど、お前の言はまこと理に適っておる。だが、さきほどまで何進に甘い言葉を吐いていたお前を、はいそうですか、などと信ずることは出来ん」

 ――だから問おう、お前が求めるモノは何だ?

 そう張譲から問われた司馬懿は、その右半面を仮面に覆われた顔を俯かせた。
 その行動に張譲は訝しみながらも身構えた、その懐から懐剣が飛んでこないとも限らないのだ。
 司馬懿を信じその背中を預けた何進と、その策略に乗りながらも司馬懿を信じ得ない張譲。
 対極にある二人がいがみ合い、そして対立することは当然のことなのかもしれないが、その場にはそれを指摘する者がいる筈も無く。
 ただただ、司馬懿の口から問いの答えが出てくるのを待つばかりだった。

 そして、その口から答えが発せられた時、張譲はその意味を得ることはなく、ただ頭を掲げるばかりであったのだ。



「私が望むモノ――それは、この世界のあるべき姿ですよ」





  **





 かくして。
 緩やかに、そして着実に進められていく時の針は、たった一人によって定められた点へと歩み進んでいく。

 この段階で誰が気づけるわけでも無く、それを変える術を持つ者がいるわけでもない。
 抗う者こそいれど、その力は余りにも無力であった――外史の系図を作り得し者と出会うまでは。

 そんな彼らは今はまだ廻り逢うことは叶わず。
 外史は、新たな段階へと進むこととなる。





  **





 豫州、荊州、冀州、青州、そして涼州。

 小規模な叛乱を収め、黄巾賊を防ぎ、己が牙を研磨する領主や太守達。
 それらの人のみならず、その地に住まう人々に取って、その光景は次代の夜明けか、はたまた絶望の深淵か。
 中原を覆い、まるでそれ自体が一個の生き物であるかのように蠢く黄色の塊が確認された。


 各地を治める領主、または太守達がおざす城に各々の軍兵が駆け込んできたのもそんな時である。
 そして、彼らは一様に驚愕をもってしてその報を伝えた。





「こ、黄巾賊が各地にて一斉に蜂起ッ! そ、その数五十万とも百万ともの賊兵によって、各地の郡県が襲撃されておりますッ!」






 後漢王朝の腐敗に始まり、中華全土を巻き込みながら燃え上がった黄巾の乱。

 その乱において最大の激戦が、各地において繰り広げられようとしていた。
 



[18488] 十八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/20 19:20




 初めに気づいたのは、早朝から朝餉の用意のために薪を取りに行った少年だった。

 小鳥の声や、人々が営みを始めていく音が響く中、家から出た少年は少し外れた倉庫にまで薪を取りに行った。
 少し外れたとは言っても村から出ているわけでもなく、周囲はそれなりに視界が開けているために特に危ないということもないのだが。
 朝霧に包まれたその時もまた、少年はさして危機感を抱いているわけでもなかった。

 薪を三本、自分の親から言われた分だけを脇に抱えた少年は、不意に視線を感じて朝霧へと視線を移す。
 だがそこに何かが見えるはずもなく――少年はそう思って振り向こうとしてが、ふと視界の端に何かを捉えた。
 それは空気の流れだったのかもしれない、一瞬だけ朝霧の中に陽光が差したのかもしれない。
 それが何であれ、それに意識を引っ張られた少年は再び朝霧へと視線を移して――朝霧を切り裂いて飛来した矢が少年の額に突き刺さった時には、既にその意識は闇の中であった。


 少年が絶命する際に落とした薪は、村中へ賊の襲撃を知らせる鐘の役割を果たしていたのだが、それは事態に間に合うことはなく村には既に黄巾賊が入り込んでいたのだ。


 かくして、この村は歴史と人の記憶から消えることとなる――傷を負い、瀕死の重体となりながらも、黄巾賊襲来を知らせるために一人の青年がその命を賭して駆けた安定の街を除いては。



 黄巾賊総勢六万。
 今まさに、それらが安定に牙を剥こうとしていた。




  **




 安定の城にある広間。
 そこで談義される議題と言えば、もちろん今まさにここを狙い進軍してくる黄巾賊のことである。
 それはもちろん大事な議題ではあるし、俺としてもそれをすることには賛成ではあるのだが。

「はぁぁ……」

 目の前で現在進行形で起こっている事象について、俺は溜息しか出なかった。
 李確と徐栄って凄かったんだな、なんて思いながら。
 
「ええかげんせえよ、華雄ッ! 相手はこっちの十倍以上おんねんぞ、打って出るだけじゃ勝てんゆうのが分からんのかッ!?」

「ならば城に篭って戦えば勝てるとでも言うのか、文遠!? 今こうしている間にも力無き民が賊徒に襲われているのだ、早急に出陣せねば救えんではないかッ!」

「だからそれを話すっちゅうねんッ! そんなんやから、稚然のおっさんに敵知って自分知って、機に乗じんと勝てん言われたんやないかッ! ええ加減に学べや、ボケェ!」

「ぐぅ……ぐぬぬぬ」

 この世界に来て初めて参加したものと同じ展開で始まった軍議だったが、李確と徐栄がいないだけでこうも違うのか、となんとなく感心してしまった。
 武官と文官の橋渡し、なんてことを言われて後を任されてみたものだが、武官と武官の橋渡しをしろなんて一言も言われてはいないと声を高くして叫びたい。
 出陣を主張する華雄と、策を考えるのが先決と張遼。
 どっちがより重要か、というのは何となく分かるものだが、かといってそれが正解という訳でもない。
 今こうしている間にも、黄巾賊の進路上にある村が襲われているのかもしれない、という点から考えれば華雄の主張も理解は出来るのだ。
 だからといって、どちらにしてもこのままで言い争っているのが正解という訳ではないのだが。
 
 背後ではわはわ慌てる姜維で和んでいるわけにもいかず、俺は視線を賈駆へと向けた。
 後を任せられたのだから、いつまでも目を逸らしているわけにはいかないのだ――決して睨み合うあの二人が怖いわけじゃないぞー。

「何か策はあるか詠、公台殿? このままだと堂々巡りだぞ」

「むむむ、恋殿の武とねねの智があれば賊徒など赤子も同然なのですが……。十倍以上とはさすがに多すぎですぞ」

「それに、今回は安定だけを守るわけにはいかないしね。ここでボク達が負ければ、石城、引いては涼州に黄巾賊が流れることになる。……それだけは、なんとしても阻止しないと」

「うん……詠ちゃんの言う通りだよ。それだけは、絶対に防がないと」

 賈駆の一言をしっかりと確認するかのように、董卓が深く頷く。
 洛陽から涼州へと続く道程において、安定はその入り口といっても過言ではない。
 洛陽側には古くは帝都として栄えた長安があるが、それを抜けてしまえばあとは涼州までは大きな都市は無いのだ。
 故に、ここで黄巾賊に敗れるということは、長安、涼州問わずにその侵入を許してしまうということになるのだ。
 だからこそ、ここは絶対に負けられる筈がないのだ――歴戦の将ならすぐに思い立つぐらいに、それはすごく単純なことなのだ。

 その覚悟を改めて認識した俺は、兵から報告を受けていた牛輔へと視線を移した。
 元々安定にいた牛輔はその上に董卓軍が入った今、その地の利を生かして斥候部隊を率いてもらっている。
 これは元々俺が就く予定であった役職ではあったが、色々な思惑から俺が将見習いになるに当たって牛輔へと譲渡されたらしい。
 かくして、主に騎馬によって編成された斥候部隊の隊長である牛輔は、その報告を口にした。

「斥候からの報告によれば、賊は手近にある村を襲いながらこちらをまっすぐに目指しているとのことだ。その数は初めの通りに六万。これまでの賊とは違い明確な指揮官がいるらしく、指揮系統とその装備も統一されているらしい。生半可な策では、太刀打ちすら出来んだろうな」

 ちらり、と睨み合う張遼と華雄へと視線を向けた牛輔だったが、その視線の意図に気づく二人ではなく、今なお言い争い睨み合いが続いていた。
 こういうことをしている場合じゃない、って言わなきゃ分かんないだろうな、あの二人は。
 牛輔も同じ考えに至ったのか、同じタイミングで溜息をつけば、それも容易に推測できた。

 こういった殺伐とし始めた空気を破るのは李粛の十八番なのだが、生憎と彼女はその名家の名を活かして民心の安定にために街へと入ってもらっている。
 あの朗らかな笑顔は安心感を与え、あの豊潤な身体は恐怖以外のものを思い描か――ゲフンゲフン、恐怖を払ってくれることだろう。
 彼女こそが適役なのだ。

 そしてこういった馬鹿をする人間に平気で冷気を帯びた言葉を浴びせる――時には冷水を本当に浴びせる――のは王方であるが、残念ながら彼もまたこの場にはいなかった。
 どんな策を取るにしろ出陣は絶対であり、いざその時のために必要な物資や武器防具を揃えるために走り回っているのだ。
 牛輔と同じで彼もまた暗愚な太守の元で政務に励んでいたお陰か、王方は平均的な文官より遥かに仕事の効率が良いのだ。
 時に飴で、時に鞭で、時に冷水で、はたまた最後に冷水で。
 こんなことは王方の前では言えないのだが、彼に睨まれてしまえばそれだけで机に向かわなければと俺だって思ってしまうものだ――勿論、冷水をかけられたくない、というのもあることは否定しない。


 そんなこんなで、その場を強引にでも収める人物は此処にはおらず、俺はただただ頭を痛めるばかりであった。
 なんでこの歳で中間管理職ばりに悩んでるんだ、と涙しながら。



  **



 同時刻、安定の城の一角にて数人の人物がその廊下を歩いていた。

「母様、いくらなんでも兵をぶっ飛ばすのはやり過ぎじゃあ……」

「別に気にする必要はないさ、死なない程度にしておいたしね。そもそも、こっちを見ればやれ黄巾賊の刺客だ密偵だ、と騒ぎ立てる向こうが悪いのさ」

「そうだよ、お姉様。おば様の言うとおりだと蒲公英は思うな」

「そりゃ、わたしだってそう思うけどさ……。なぁ、二人だってやり過ぎだと――って、あれ?」

 先頭を歩く人物――引き締まっていながらも、その粛々に主張する胸部から女性ということが分かるが、その後ろに二人の人物が続く。
 先頭の女性とは違い、こちらの二人はその服装と豊満な胸部、雰囲気から女性――と言うよりも少女と呼べた。
 その少女の一人、短めの腰布を纏い、栗色の長い髪を後頭部で一つにまとめている少女が辺りを見渡した。
 何かを探すようなその動きに残りの二人もその意図に気づいたのか、少女と同じように辺りを見渡した。

「……やれやれ、またあの二人は逸れたのかい。まったく、いったい誰に似たんだろうね」

 その女性の言葉に、二人の少女は一様に女性へと視線を向けるのだが。
 それを全く気にする風でもなく、溜息混じりに女性は言葉を発した。

「翠、蒲公英、二人を探しておいで。私は先に行ってるよ」

「ちょ、ちょっと母様!」

 端的に用件だけを伝えた女性は、後は任せたと言わんばかりに手を振ったかと思うと、困惑する二人の少女を置いて先へと歩き出した。
 少女がそれを止めようとするもそれを気にすることはなく歩いていく女性に、そんな女性をよく知っているのか、少女は肩を落としながら息を吐いた。

「あはは、こんな状況にあってもおば様はおば様らしいね。仕方ないよお姉様、右瑠ちゃんと左璃ちゃんを探しに行こう?」

「うぅぅ……分かったよ、蒲公英の言うとおりだな。よし、とりあえずは来た道を戻ってみるか」

「蒲公英も賛成!」

 仕方ない、とだけ呟いた少女は、ニコニコと笑うもう一人の少女に促されて、来た道を戻り始めた。
 その少女を追うように、もう一人の少女も後を付いていくのだが、ふと足を止めた少女は天を仰いだ。

「……何か面白そうなことが起こりそうな予感」

「おーい、蒲公英! さっさと行こうぜ!」

「あっ、待ってよお姉様!」

 その呟きが誰に聞こえるわけでもなく、ただ風に乗って散ったそれはどこへ吹いていくのか。
 何の確信もない予感である己のそれがよほど楽しみなのか、少女はくすり、とだけ笑うと自分を呼ぶ少女の元へと駆けていった。




  **




「はぁ……一体全体どうしたものやら。改めて稚然殿と玄菟殿の凄さが身にしみるなぁ」

 一向に進もうとはしない軍議から姜維を伴って抜け出した俺は、彼女にお茶の手配を任せると少しぶらつきたくなって、廊下を歩いていた。
 董卓軍が本拠を安定に移して結構な時間が経ったが、その間書類やら竹簡によって部屋を出ることが出来なかった俺にとって、その廊下の光景でさえ見覚えのあるものではなかった。
 その見覚えのない新鮮な光景を眩しく見ながら、とりあえず手持ちぶたなのもあれなので、トイレ――厠へと行こうとしたところで、ふと人声が聞こえた。

「はぁ……どうする左璃? 私達、迷子だよ?」

「ええ、迷子ですね。ちなみに、その要因として十三の行動が挙がりますが、そのうちの十二が右瑠が主なものとなります」 

 片や明るく、片や静かに。
 その対照的な声はどことなく幼い感じがするもので、黄巾賊襲撃を控えピリピリとした雰囲気のこの安定の中で、声の持ち主である二人――少女達という存在は、どこか異質に思えた。
 否、異質に見えた、と言ったほうが正しいのか。

 服で言えば、明るい少女はこの世界に来て俺が始めて見たであろう、お洒落を意識したものであるのに対して、静かな少女といえば文官調の大人しめな服であった。
 それだけであればどうと言うことはないのだが、ただ一つだけ、それらを異質たらしめる要因があったのだ――すなわち、その顔が全くの同じということに。


 一卵性双生児。
 詳しいことは知らないが、古来よりそれなりの確立で生まれる双生児において、まったくの偶然として生まれると聞いたことがある。
 双生児自体見たことがなかった俺にとって、それがどれだけそっくりなのか想像の中でしかなかったのだが、なるほど、いざ目の前にしてみればその類似性はまるで鏡で映しているかのようであった。


 栗色の髪は両者共に肩までで切り揃えられており、髪留めらしき布の色がそれぞれ赤と青であるということぐらいか。
 その白く陶磁のような肌も、滑らかな曲線の先にある薄く咲く桃色の唇までもが同じであった。
 唯一、それぞれの性格を現すかのように少しだけ垂れた目と釣り上がった目だけが、彼女達を彼女達本人として分けているようであった。
 それでも、遠くから見ればそれも判別することは能わず、普通であれば彼女達が誰であれ、判別が可能な距離にまで近づくことは無かったのであろうが――と、そこまで自分で考えて、はて、と首を傾げる。

 俺としては、彼女達が誰か、それこそ黄巾賊の刺客か密偵かも分からぬ状況で安易に近づくことはしなかった。
 ただ、迷子になっているとはいえ、城の入り口に立つ兵士が入れたのであれば、城の関係者の子供か、あるいは陳情を持ってきた子供のお遣いか。
 どちらにしても、もし泣き出すようなら連れて行こうか、などと考えていたのだが。

 その容姿が確認出来て、あまつさえその見分け方まで気づくなんてどうしてだろう、と思った俺は、無意識に思考の海に沈んでいた意識を表へ引っ張り出した。

「道が分からなければ、この覗き見をしていたお兄さんに聞けばいいと思うの。これで私のせいだ、っていうのは無しだからね」

「右瑠のせいも何も、この方に気づいたのは私の方が早かったと思いますが? そもそも、この方に道を聞いたからと言って、正たる道が分かるかどうかは現時点では予測不明でしょう。もしそうだった場合はどうしますか?」

「うぅぅ……お兄さん、左璃がいじめるよぅ」

「……………………はい?」


 そしたらね、いたんですよ――目の前に。
 意識を引っ張り挙げた俺の視界目の前に、涙を目に浮かばせながら何故か俺へと手を広げている少女と、その首根っこを無表情で押さえてそれを引っ張る少女がいた。
 同じ顔でそれをするものだから何か一人でコントをしているみたいだ、とは心の中だが、それが表へ出てしまったのか、幾分か気の抜けた返事を右瑠と呼ばれた少女に返してしまっていた。

「ほらみなさい、この方も困惑しているではないですか。そもそも、右瑠はむやみやたらと人に抱きつかないように、と翠姉様に言われたばかりではないですか。……すみません、ご迷惑をお掛けして」

「い、いや……別に何かあった訳でもないし。えーと、道に迷ってる……でいいんだよね?」

 ぶーぶー、と悪態をつく少女を置いて、左璃と呼ばれた少女が静かにこくり、と頷く。
 双生児は双生児だけど、こうやって近くで相対すれば、その性格の違いに驚いてしまう。
 董卓軍で言えば性格的に李粛と呂布みたいなものか、とも思ったのだが、その中身は全然違うか、とそれを振り払った。




 頭を振ったその動きは、途中で止まることとなる。




「恥ずかしながら、母と姉達に連れられて来たのは良いのですが、途中で逸れてしまいまして。途方に暮れていたところにあなた様が通りかかったので、お声を掛けさせていただきました。申し遅れました、私は西涼太守馬騰が娘、姓は馬、名は休、字は草元と申します」

「あっ、左璃だけずるいよ! 私は姓は馬、名は鉄、字は元遷って言います。よろしくね、お兄さん」

 
 馬休、そして馬鉄と言えば、馬騰の息子としてよく父を補佐し、正史、三国志演義、どちらを問わずとも、父と共に曹操に討たれた人物でもある。
 そして、かの猛将の弟達でもあるのだが。


「あ、こちらこそ。ええと、俺の名前は――」

「――そこの男ッ! 私の妹達に、手を出すなぁぁぁぁぁ!」

「北郷か――って、ええええぇぇぇぇぇぇ!?」


 自分の名を名乗ると同時にその猛将の名前を頭に思い浮かべたとき、聞こえてきたのは俺が名乗った自分の名――ではなく、馬休と馬鉄を妹達と呼ぶ声であった。
 そして声の方を見てみれば、まるでその距離など元から零であったかのように一足で駆ける少女がいて、嫌な予感が脳裏を駆けた時には、それが正解だと言うかのように少女は名乗りを上げた。


「この馬孟起の銀閃は悪を貫く白銀の槍! 悪人らしく大人しくくらいやがれ、このやろぉぉぉぉぉ!」

「だ、誰が悪人かッ!? って、うわぁぁぁぁぁぁ!」


 ふと、両親がまだ生きていたころのことを思い出した。
 テレビを見ていた時、画面では逃げる犯人と追いかける刑事という構図では必ずと言っていいほどよく聞く台詞があった。
 大人しくしろ、待て、諦めろ、などなど。
 幼い頃にはそれらの台詞を守ろうとしない犯人に憤っていたのもだったが、今の俺ならその犯人達に謝罪しつつその気持ちに同情出来る。
 自分がどうなるかって時に、その言葉に従う理由などないのだと。
 だから俺も、目の前で槍を振りかざす少女の言葉に頷く必要などはなく、それに抗ってもいいのだと――両親のことを思い出したのが、決して走馬灯ではないのだと願いつつ、懐に潜ませていた鉄棒を取り出した。


「なッ?! 私の一撃を受け止めた……ッ! 右瑠、左璃、その男から離れるんだッ! こいつ、只者じゃないぞ……」

「痛っつ……なんて力――って、て、鉄の棒が曲がってらっしゃるぅぅぅ! 鉄を曲げるとか、どんな馬鹿力してんだよッ!?」


 ガギンッ、と。
 先日の兵士より明らかに重たそうな一撃を受けるために両手で構えた鉄棒へ、少女――馬超はその武を振るった。
 まるで腕を直接殴られたかのような衝撃を受け鉄棒を握る両手が痺れるが、それをなんとか耐えて見せると、それに驚いたのか馬超が後ろへと飛びのいた。

 俺としては、その戟の鋭さと馬鹿力加減に驚くほかしかないのだが。
 上に振りかぶっていたから頭に落としてくるだろう、と半ば博打的に構えた鉄棒だったが、その勘が当たってくれて本当に良かったと、心の底から安堵できる。
 これがきっと横薙ぎだったり、頭ではなく肩などへ落としていれば、今ここにいる俺が五体満足でいられるとは到底思えなかった。
 それこそ、首がそこら辺に転がっていた可能性もあったのかもしれない――そう思うと、首筋がヒヤリとした。

「その武、見たことの無い服……あんたが兵が言っていた黄巾賊の刺客だなッ! その首取って、共闘の手土産にしてやるッ!」

 そう言って槍を鳴らして構えた馬超は、有難くもなく俺の武を認めたのか、今度こそ本気とでも言うように俺へと殺気を放つ。
 纏わり付くようで、心臓を摑まれたと錯覚しそうなほど濃厚な死の予感に、俺は知らず鉄棒を硬く握り締めていた。
 黄巾賊の刺客、というのはいくらなんでも誤解ではあるが、そう言って聞いてくれそうなほど穏やかな雰囲気でもない。
 ならば、取れる道は一つしかなかった。

 

 覚悟を決める。
 鉄棒を、使いやすい形に持ち直す。
 おそらく、保ってあと数撃ほどか。
 一撃で止めて、馬超を無力化するしか、道はない。
 どれだけ無謀なことか、考えなくても分かる。
 これは呂布や張遼達とやるような仕合じゃあない。
 勝たなければ殺される、将同士の一騎打ちなのだ。
 三国志を代表するような豪傑の本気の一撃が俺に止められるかどうかも怪しいものだが、成せねば死ぬのだと、自分に言い聞かせた。



 一つ深呼吸をして、その中にある意識を迎撃へと切り替える。
 それを馬超も感じ取ったのか、殺気がさらに濃厚になるのを感じ取りながら、その一挙一足を凝視した。


「いっくぜぇぇぇぇぇぇ――」


 そして、馬超が一気に駆け出した――








「いい加減にしないか、馬鹿娘が」








「――あいだァッ?!」

 ――直前、その頭を叩いた人物によって、その殺気は霧散した。
 否、その殺伐とした空気はぶち壊された。



「……こんな忙しい時に軍議を放り出して、何やってんのあんたは?」

「……あれ? 何で詠がここに……月と霞までいるし」

「一刀さん……」

「一刀……どんだけやねん」

 俺といえば、先ほどまでの覚悟は何だったのか、と思えるぐらいに拍子抜けしてしまい、不意に叩かれた後頭部の痛みもそこそこに、どうしてこの場に董卓達がいるのかと疑問だった。
 いや、いること自体はさしたる問題ではない。
 ここは安定の城で、俺も先ほどまでその一室にて軍議に参加していたのだし、騒ぎを聞きつけてここに来た、ということでも別に不思議ではない。
 ただ唯一、馬超を止めた人物と一緒だった、ということだけが理解出来ないでいたのだが。

 その人物が放った、娘、という単語に、冷静になり始めていた思考は、その正体を大まかに予想していた。

 

 そして、その予想は当たることとなる。




 何やら荒ぶる馬超へともう一発拳骨を落としたその人物は、俺へ視線を向けると共に、こちらへと歩いてきた。
 そして、その口から予想通りの言葉が出るのを若干期待して――







「馬鹿娘達が迷惑を掛けたみたいだね、私は西涼太守にして、西涼連合が盟主、馬騰、字は寿成と言うもんだ。お初にお目に掛かれて光栄だよ、天の御遣い、北郷一刀殿――いや、最近では天将殿、と呼んだほうがよろしいのかな?」







 ――全く想像だにしていなかった言葉に、大きく裏切られることとなった。






 天の御遣い?
 天将?
 何それ、である。



[18488] 十九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/06/24 13:08


 渭水。
 
 中華において長江の次点に位置する黄河の支流であり、その流域の盆地は関中と呼ばれ、その土壌によって黄河下流域における中原に次ぐ生産力を誇っていた。
 古くには秦や前漢がこの地を支配し、その生産力と、四方を険しい山々で囲まれた天然の利によって、その支配力を高めていった。
 この地を支配したことが、彼の国が天下を統一出来た要因とも言える程に、戦略上において渭水は大変重要な河川だったと言える。
 王城の地、百の敵に対して一の兵で戦える、との評がそれを物語っていよう。




 ううむ、もしかしたらこの光景を始皇帝も見たのだろうか、とも思ってみれば、そんなわけでもないのに何だか偉くなった気がした――無論、しただけである。
 断じて今現在の俺の役割を勘違いしたわけではないのだと、先に言い切っておく。
 それでも、三国志の歴史を、中華の歴史を囓った者からしてみれば、数多の戦場となり歴史を刻んできた地を望むのはいかにも感慨深い。
 このまま渭水を下って長安、果ては洛陽にまで行ってみたい気もするが、今現在の状況と役割からして、それは無理かと思い直した。

「出陣の準備が済んだよ、お兄様」

「い、いつでも出られるぞ、ご、ご、ご主、ご……」

 きっと今それを成そうとすれば、次こそ本気で斬られそうな気がする――そう確信させるに至る、それを成すであろう人物である馬超は、顔を真っ赤にして盛大に狼狽していた。
 その光景を見る馬岱の笑顔がやたら爽やか過ぎて、それに馬超が反応して睨んできて――一体全体、俺にどうしろと言うのだろう。

 とは言うものの、馬超がそこまで狼狽するのに、俺が全く関係が無いのかと言えば嘘になる。
 むしろ、盛大に関係していた。

「ありがとうございます、伯瞻(はくせん、馬岱の字)殿。後は指示があるまで待機、と兵達に伝えておいてください。……孟起殿は、少し落ち着かれてください。言いたく無ければ無理をしなくてもいいと思いますし」

「ぐっ……あ、あんたのせいでこうなったって言うのに……」

「あれはお姉様が悪いと蒲公英は思うんだけどなー。おば様もそう言ってたし」

 ぐぬぬぅ、と馬岱によって攻められた馬超のなんと可愛いこと――と言えば、すぐさまその槍が飛んできそうなので口には出さないが、それと同時に同情を抱くのを禁じ得ない。
 あの叔母あってこの従妹ありか、とは一部始終を見ていた牛輔の談ではあるが、なるほど、こうして近くでその様を見ていれば、あながち間違ってもいないと思えてくるから不思議だ。

「ほらほらー、お兄様のこと何て呼ぶんだったけー? ちゃんと言わないとおば様に言いつけちゃうよー?」

「ぐぅ……そ、そしたらこいつと……ま、毎晩…………駄目だ駄目だ、それだけは駄目だッ!」

 勢いよく頭を振る馬超に、一体どんな想像をしたのか、と意地悪な気持ちで問いかけてもみたいのだが、そんなことをすれば今度こそ首が飛びそうな気がしてそれを諦める。
 だが、馬岱はそんなことを気にすることもなく、一体何が駄目なのかなー、なんて聞くものだから、いよいよもって馬超の顔が真っ赤へと染まる。
 そしてその皺寄せは俺に来るのか、と出来れば認めたくないその事実から目を背けつつ、何でこんなことになっているんだろう、とふと思い至ることとなった。
 まあ、全ては馬騰の一言から始まったんだけどね。

「くっ…………ええい、ご主人様ッ! これでいいんだろう、蒲公英ッ?!」

「きゃは、お姉様ったら顔真っ赤にしちゃって可愛いんだから、もう。ほらほら、お兄様もお姉様に何か言わなきゃ!」

 そして、その姪はどうあっても俺を巻き込みたいらしい。
 片や期待と好奇心に瞳踊らせ、片や呪いやら恨みやらが籠もった視線をそれぞれ向けられつつ、最近多くなったなぁ、と思える溜息を俺はついた。
 いやはや、本当、いったい何でこんなことになったのだろう

 


 ただ、言葉にするのは簡単なのである。
 馬騰が発したのは実に単純明快なものであった。



 馬超と俺が夫婦になれ、たったそれだけである。





  **





「……共闘、やて?」

「はい。此度の来訪、我々馬家は黄巾賊への対応策として、共闘の意を伝える使者としてまかりこしました」



 安定の城の一室。
 様々な騒動――主に馬騰に始まり、馬三姉妹に関することばかりなのだが、それらを経て俺を含む董卓軍の面々と、馬騰達はそこへと集うこととなった。
 先ほどまで軍議をしていた部屋よりは広めに間取られたその部屋は、馬騰達に加え、先ほどまで軍議に参加していなかった王方や徐晃などが入ってなお十分な広さがあった。
 
 そして、その部屋の中央で董卓軍と馬騰達を隔てる机を挟んだ俺達であったのだが、何故かチラチラと感じ取れる視線にくすぐったさを感じながら、どうしてだろうと首を傾げる。
 とりあえず、馬超に睨まれるのは無理もないと思う――彼女の誤解だということは既に説明済みであるが、そうすぐに思考を切り替えられる筈もないだろうし、そもそもそれが出来る人なら誤解などしないだろう。
 だからその分には目を瞑る。
 もちろん董卓や賈駆、張遼の視線にも耐えてみせよう。
 姜維がお茶を運んで来た後に、いつまでたっても帰ってこない俺を心配し、なおかつ金属音が響いたと思ったら俺が危うく斬られそうになっていた、となれば心配して損したばかりか、この火急の時に何をしているんだ、と思われても仕方がないものだと思う――張遼のはどことなく違う感じもするが。
 こう、玩具を見つけた子供か猫か、みたいな感じ。

 ならば誰の視線か、ということになるのだが。
 考えるまでもない、俺の目の前に座る馬家の面々のものだった。
 無表情の馬休は他として、何故かニヤニヤと笑いながらのものではあったが。

 そんな視線を感じつついると、ふと馬休と視線が合う。
 その無表情さに、今なお本当に馬鉄と双子なのかと疑心してしまうのだが、隣の馬岱と何か楽しそうに密談する馬鉄を見れば、いよいよもって疑心が確信へと変化しそうである。
 性格が違うとか問題ではなく、全くの別人ではないのだろうかとも思えるその表情を眺めていれば、ふいに俺から視線を逸らした馬休が口を開く。

 そして、その唇から漏れ出た言葉こそ、董卓軍に対する共闘の要請――すなわち、同盟の言葉であったのだ。


「なるほど。西涼を治めるそちらにとって、ボク達が破れることになれば、黄巾賊が西涼に雪崩れ込む可能性は捨てきれない。ならば、先に共闘して事に当たることによって、その可能性を少しでも減らしたい――そんなところかしら?」

「……さすがは董仲頴が鬼謀、賈文和殿です。その見解に相違ありません。万に満たない董家の軍が、六万にも及ぶ黄巾賊に当たるにはあまりにも脆弱です。そして、もし董家が破れた場合、その勢いに乗って黄巾賊が石城はおろか、益州ならびに涼州へ雪崩れ込むであろうことは必定と言えましょう。ならば――そう思い至ることは、自明の理でありましょう」

  
 外に異民族を迎え、内に火種を抱える我々にとって、両者を共に相手すること、それだけは避けねばならないことなのです。

 そう続けた馬休は、ちらり、と俺を見やった後に、その視線と馬騰へと移した。
 その視線に込められた意味が理解出来るはずもなく、首を傾げる俺をちらりと見た馬騰は口を開いた。


 ――と言うより、さっきからなんでこんなに見られているんだ、と俺は内心更に首を傾げるのだが、その理由が判明するのはもう少し後だったりする。


「ぶっちゃけて言えば、こちらの兵を貸すから黄巾賊を倒してくださいってことさ。騎馬千、弓兵千、歩兵三千の計五千。こちらも色々と事情があるからこれ以上は出せないが、それでもこれだけの兵力がいれば十倍以上の戦力差が五倍近くにまで減るんだ。……まぁ、受ける受けないは董太守の決断次第だろうけどね」

 そう言う馬騰に促されて董卓へと視線を移せば、なにやら考えているようで。
 おそらく、ではあるが結論がほぼ決まっているであろう董卓の思考をわざわざ邪魔する必要もなかろう、と声をかけることはしなかった。
 と言うよりも、それしか道がなければそれをしなければならないことは明白であり、董卓が否と言っても説得するしか他にないのだが。

 そして、みんなもそれを知っているからこそ董卓の思考に口を挟むことはしない――それよりも、皆一様に疑問を抱えているからでもあった。
 華雄だけは、馬家の兵力など無くても、といつも通りではあったが。

「手ぇ組んで、黄巾賊をぶちのめそう、そう言うのは分かるんやけど、それにわざわざ西涼の太守様が出張るっちゅー理由が分からん。その辺きちんとしとかんと、信頼せぇちゅう方が難しい話や」

「……さらに解せんこともある。馬太守のみならず、その娘達まで来る必要があるのかどうか、とな。事情があるならば、文官一人、来ても馬家の一人で十分事足りるだろうに。それが馬家の面々総出で来た――その理由は一体何だ?」

 その疑問を問いかける張遼と牛輔の声に、知らず緊張が場を支配する。
 思考していた董卓もそれが気になっていたのか、それを中断してまでその理由を知るであろう人物――馬騰へと視線を向ける。
 そしてその理由は馬家の面々も知らなかったのか、馬超のみならず馬岱や馬休までもがその視線に加わる。
 唯一、馬鉄だけがそれに加わらなかった――どころか、何故か俺へと視線を向けているのである。
 一体何故に?


 その疑問は、直後氷解することとなる。
 馬騰が放った、その一言で。



「んー、まあ隠してても意味が無いんで言っておくけど、元々はそこの天の御遣い殿――天将殿だったっけ? まあどっちでもいいけど、彼を見たかった、っていうのが一番の理由ね」



「……俺?」

「……そもそも何、その御遣いとか天将って? こいつにそんな価値があるとか思えないんだけど?」

 そう言って指を差された後に、他にも治安とか市の繁盛具合とかまあいろいろあるけど、と言う馬騰の言葉に、むしろそっちが本命ではなかろか、などと勘ぐりたくなってくる――というかしてしまう。
 それは賈駆も同じだったらしく、それを疑問に思う声に同意を隠せないのだが。
 だが、その疑問は予想していた馬家の面々ではなく、意外な人物――牛輔が解いてくれた、というかさらに驚いてしまったとも言えるが。

「……知らなかったのですか? 安定の民の間で噂されているのですよ――石城、董仲頴の下に一人の青年現る、天下にて能わぬ衣を纏いし彼の者、天下に比類無き智を以て涼州の地を富ませる天からの御遣い也、と。最近では姜維殿を配下に加え将となった、ということから天将とも呼ばれているそうですが……。馬騰殿の言をみるに、恐らく涼州中に広まっているのでしょうな」

「む……だが兵からも民からも、そのような北郷が御遣いなどという噂は聞いたことがないぞ? 確かに武はそれなりかもしれぬが、天将などと……」

「……恐らくですが、ここ安定には漢王朝から派遣されていた太守がいました。龍と言われる皇帝にとって、天とはその拠り所、そのものでもあります。その名が一個人に付けられる――それがどれだけ危険なことか、民は理解していたのでしょう」


 馬休は言う。
 後漢王朝の皇帝が龍であり天であるならば、その名で民に慕われる俺が後漢王朝にとって邪魔になるのは目に見えている――それこそ、民にも理解出来るぐらいに。
 だから、民は知られず知らせず、密かにその名に縋っていたのだろう。
 だがそれも終わりを告げた――安定を董卓が有することによって。


「だからこそ、天の御遣い、天将の名は堰を切ったかのように密かに、そして確かに広がり始めた。西涼の民が知っているぐらいですから、恐らくは長安はもとより洛陽、遠くは徐州、揚州まで広がっていたとしても不思議ではありません。となればこそ、その人物に興味を抱くのは無理らしかぬことなのですよ」

 そう言って俺に視線を移す馬休を見れば、馬騰と馬鉄、それにそれまで興味の無さそうだった馬超までもが俺へと視線を注いでいた。
 その視線の裏に、この時代に生きる民やまだ見ぬ英雄豪傑の視線を見つけ、知らず身体を震わせていた。
 恐怖でもなく、武者震いでもなく、自分を見極めようとするその視線。
 決して気持ちのいいものではなく、だが知らず手を握りしめるその感覚は不思議と気分を落ち着かせた。

 となると同時に、ふとその名についてに思考が及ぶ。
 天の御遣い、その名が持つ意味がどうであれ、自分がそう呼ばれているということは事実なのである――多少恥ずかしいものはあるが、それでもその名は民の拠り所になろうとしている。
 自分にそれだけの価値と魅力があるとは思えないし、思うこともないが、それでもこの名を求める人々がいるのであれば、それを利用することも視野に入れなければいけないのかもしれない――丁度、黄巾賊が襲来しようかという今みたいな状況ならばこそ、である。

 俺の思考と同じ考えに至ったのか、ふと視線が賈駆と合う。
 それは覚悟を求める類のもの、それこそ、初めて自分から強くなりたいと願った時の祖父のものと似ていた。
 見渡してみれば、賈駆以外にも、張遼や牛輔、華雄に至るまでが同じ視線であった――姜維だけが、俺を心配してくれるものではあったが。
 そして視線を移してみれば、董卓もまた、俺へと視線を向けていて。
 俺は、その視線に答えるように深く頷いた。

 そして、俺の覚悟を飲み込むかのように、董卓が口を開いた。


「……分かりました。共闘――同盟の件、お願いします」


 と。
 









「さて……じゃあ共闘の件はそれで終い。実は、境界まで兵を連れてきてるんだよ。右瑠、ちょいと早馬になっておくれ」

「了解だよー、母様。それじゃお兄さん、またねー」

 そうと決まれば、と手を鳴らした馬騰は、傍らにいた馬鉄へ早馬として指示を出す。
 境界にまで兵を連れてきている辺り、もしかしたら拒否された場合攻め入ろうとも、なんて思ったものだが、馬休から違うと言われればそうですかと答えるしかなかった。
 というか、拒否と答えていればどうなっていたのだろう、とふと疑問に思ったのだが。
 無表情を崩して、くす、と笑った馬休に恐怖しか感じ得ないのは、俺がただ臆病なだけなのだろうか?

「とりあえず、馬鹿娘――馬超と馬岱は置いていくから、扱き使ってやってくれ。生半可な鍛えはしてないから、役立たずではないと思う」

 すぐに無表情になった馬休に、どんな思惑があって笑ったのだろうと怖いもの見たさで考えてみれば、馬騰の声に驚くほかなかった。
 錦馬超が援軍とか、どんだけ豪勢なんだよ、としたところでふと思い至る。
 呂布に始まり、張遼や華雄や徐晃などの豪傑、賈駆や陳宮の軍師に、脇を固める李粛に牛輔。
 王方と老いてなお盛んな李確と徐栄は後方支援とし、止めに馬超と馬岱の援軍。
 あれだな、ゲームで言えば天下統一出来る戦力だなこれ。
 
 などなど、そんなどうでもいいことで俺が感嘆してみれば、指示を出し終えたのか再び手を鳴らした馬騰が、瞳を爛々と輝かせた。
 どう考えても、厭な予感しかしない色である。

「最後になったけど、この馬鹿娘の処遇についてだが、そちらの要望は何かあるかい?」

「ちょ、母様ッ!? 処遇って何だよ、処遇ってッ?!」

「処遇は処遇さ。……それとも何かい? あんたは他所様の将を殺そうとしておいて、何の罪もなく許してくれると思ってんのかい?」

「うぐっ……」

 馬騰の言葉に己のことが含まれていたからか、それまで終始不機嫌な顔で黙っていた馬超が、そこで久しぶりに声を上げた。
 慌てるように己の母に問いただす馬超ではあったが、母から返されたその解に自分も思い至っているのか、うぐ、と声を詰まらせたかと思うと、何故だか俺を睨んできた。
 その頭をパカンと馬騰が叩けば、その視線はそちらへと移ったのだが。

「へぅ……処遇と言われても、これから共闘する方々に罰を与えるというのはちょっと……」

「……それに、それで恨まれて策自体が崩れでもしたら、本末転倒だしね」

「ふぅむ、そう言われてもねぇ……天将殿はどうだい、何かあるかい?」

 共闘することになって話し合ったことではあるが、馬家の軍師である馬休と董家の軍師である賈駆と陳宮で考えついた策で、ということになった。
 何やら話し込んでいる内容自体は今いち理解しずらいものであったのだが、その顔がいやに悪そうだったことだけ表現しておこうと思う。
 お主も悪よの、いえいえお代官様こそ、というレベルだった。

 そして、董卓と賈駆が危惧することは、もし馬超を罰した時に起きる誰彼が悪いという恨みによって、その策が機能しないかもしれないというものである。
 馬家の軍兵五千が増えたとはいえ、その戦力比こそ減りはしたが絶対的な戦力差が覆ることはない。
 黄巾賊の総数が六万なのに対し、こちらが動かせる最大限の兵力は当初より五千増えただけなのである。
 石城と安定の防衛戦力を残したとしても、董卓軍が捻り出せるのは五千まで、馬家と併せれば一万ほどでしかない。
 戦いは数だ、とは誰かの言葉ではあったが、それからしてみれば実に頼りない数である。
 それでも当初の絶望的な状況よりは多少ましになったのであるから、ここでそれに亀裂を入れるわけにはいかないのだ。

「うーん、何もありませんね。そもそも、特に怪我があるわけでもないですし」

 だからこそ、俺も当たり障りのない答えに留めておいた。
 死にそうになった以外特に実害も無かったので、それでもいいか、と思ったのである。
 一応被害者だからということか俺にまで意見を求める辺り、馬騰もその辺は真面目な人らしい――そう思っていた時が、俺にもありました。


「そうか、何もないのか。それは残念だ実に残念だなー」

 全然残念そうには聞こえない棒読みの声に、先ほどの厭な予感がふつふつと蘇る。
 それは馬超も同じだったのか、或いはそういう時の馬騰がどんな人物なのかを熟知しているからなのか、その額に汗を流しながら怯えたように己が母親へと問いかけた。

「え、えっと母様? そ、そろそろ帰ったら――」

「よし、ならうちの馬鹿娘の罰はうちで片付けさせてもらうよ」

 だがしかし、その問いも虚しく――というよりは思いっきり無視した馬騰は、口を開いた。
 俺の視界で、馬休がもの凄く申し訳なさそうに頭を下げる辺り、彼女は何を言うのかを知っているのかと思うと同時に、とてつもなく厭な予感が的中してしまったのを知ってしまった――否、理解してしまった。



 つまりである、西涼太守であり西涼連合盟主でもある馬寿成は、己の娘に対してこう言ったのだ。







 馬孟起に命ずる、天将、北郷一刀と夫婦となりてその子を成せ、と。





 

  **






 は?

 馬騰の言葉の後、無言の室内に響いた戸惑いの言葉は一体誰のものだったのか。
 俺自身も何を言われたのかが全く理解出来ずに、ただただこちらに申し訳なさそうにする馬鉄と、何やらニコニコと笑う馬騰の視線を受けて困惑していた。
 それが刹那のことだったのか、それとも一瞬のことだったのか、あるいは光陰のことだったのか、と全然落ち着けていない思考で考えてみれば、ようやくその意味を理解するに至ったのだ。



 古来より、婚姻関係を結んでの同盟強化というものは決して少なくはなかった。
 中華の歴史ではよく知らないのだが、日本の戦国時代には極当たり前のようにそれが行われており、有名なとことでは甲駿遠三国同盟や織田と浅井の同盟などがあり、数え上げればきりがない。
 家臣団強化というのであればこの時代にもあったのであろうが、まさか共闘が決まったばかりの相手に、しかもその一臣に対してというのは、いくら俺が天の御遣いなどと呼ばれててもありえないだろうとは思ったのだが。

 馬騰からしてみれば、それほど荒唐無稽なことではないらしい。
 天の血が馬家に入れば、それに縋ろうとする民を治めるには好都合であるし、後漢が続こうと乱世になろうと、どちらにしても意味がある、ということらしいのである。
 のであるのだが、こちらにしてみれば全然旨みがない。
 そう言った馬騰は、馬超を人質ということにしたのである。

 この状況、古今東西でも同じ表現をするのだろうか。
 嫁に出す、とはこのことを言うのだろうな、と何故か人ごとのようにそう思っていた。

 
 結局、夫婦となって子を成すなんて、と顔を真っ赤にした馬超の猛抗議によってその馬騰の案は潰えることとなる。
 必死になって嫌だと言われてみれば、そんなに嫌われているのかと少し鬱になってしまうのだが、馬超とは別に反応した董卓軍の面々に、それも止めて慌ててフォローすることとなった。
  
 董卓は、夫婦とは恋人の延長であり恋人ということはそういうことをするということでありそういうことをして初めて子が成せて、とぶつぶつ言っていたかと思うと、へぅ、と顔を真っ赤にして煮えたぎり。
 賈駆は、しばらくの無言の後に最低、と呟いたきりその不機嫌さを隠すことはなく。
 呂布はその意味が分かっていないのか頭を傾げ、陳宮は董卓と同じく顔を真っ赤にさせていた。
 姜維も同じく顔を真っ赤にさせている横で、先越されたけどまだ手はあるで、と何やら不穏なことを口走る張遼がいて。
 牛輔は我関せずを貫き、華雄だけが空気を読んだのか読んでいないのか、それは目出度いと祝ってくれた――祝われているのにあんまり嬉しくないとはこれ如何に。

 
 馬超の抗議と俺の説得によってお流れとなった案にぶーぶー言いつつも、ならば、と馬騰は代替え案を出してきたのだが。 
 それが、ご主人様と呼んで俺を慕うこと、とはあまりにも不憫である――誰が? 馬超の感情をぶつけられる俺がに決まっているだろ。


 
「ま、まぁその……悪かったよ、巻き込んじゃって」

「いやまあ、孟起殿というよりも寿成殿に巻き込まれた感が強いんですけど……」

「その、母様はいつもあんな感じなんだ。周りを巻き込んでは被害を大きくしていく、まるで竜巻だ」

 ああなるほど、言い得て妙である。
 今回の布陣にしてもそう、騒ぐ馬超を放っておいて馬鉄と共に淡々と布陣を決めていた時には、何故だか馬超、馬岱と共に俺が西涼部隊へと編入されていたのだから。
 賈駆には勝手にすれば、と放り出され、放心していた董卓が助けてくれることも叶わず、しかも唯一の味方である姜維まで取られてしまった。
 馬寿成、裏心丸見えである。

 そこまでして天の血が欲しいのか、と問いただそうとも思ったのだが、その時はその時で孫の顔が見たい、とか言われそうだ。
 結局、その指示通りにするしかなかったのである。

「それになんだ……ご、ご主人様もあたしなんかより、蒲公英とか右瑠や左璃の方が可愛くていいだろ? あたしみたいな可愛くなんか無いのよりさ……」

「うーん、伯瞻殿や草元殿達も可愛らしいですけど、孟起殿も可愛いと俺は思いますよ? あ、だからと言って子が欲しいという訳では無くてですねッ!? その、孟起殿も可愛いんですから何時かいい人がいたら、そんなこと言わずに女の子としてですね――」

 自分で自分を可愛くないと言ってシュン、と項垂れる馬超。
 こんな武器使ってるしさ、等と乾いた笑いで笑う馬超が痛々しくて、そしてふと可愛いとか思っちゃって、俺は柄にもなく本音を話してみた。
 とは言っても、子が欲しいという訳じゃないぞ。
 そりゃ俺も健全な男子ではあるからそういったことに興味がないわけじゃないが、それでもそういったのは本当に好きな人とするものだと俺は信じている――そこ、妄想言うな。

 だけども本音をこうやって零すのは非常に恥ずかしい。
 それに負けて後ろへと振りかえってみれば、何故だかカチャリと音がした。
 …………カチャリ?

「あ、あんた――いや、ご主人様は、そうやって女を口説いてるんだな……ッ! 右瑠と左璃もそうやってッ!?」

「い゛い゛ッ!? な、なんでそんなことに――って、銀閃を構えるなぁぁぁッ!」

 その音を不審に振り返ってみれば、何かのオーラをまき散らす馬超がいて。
 彼女が己の武器を構えた音が、背筋に氷を差し込んだかのように恐怖を倍増させていた。

「あたしが可愛いって嘘ついて……みんなにも可愛いって言って騙して……そんなご主人様、修正してやるー!」

「い、いや嘘じゃないって――ってうわぁぁあぁぁああ! 擦った、ほらパラリって髪が! 下手したら首落ちてたってッ!?」

「…………それもいいな」

「いいわけあるかッ!?」  

  軽々と空気を切り裂いて振るわれた銀閃を、慌てて後退して何とか避けた。
 見極めが甘かったのか、避けきれなかった前髪数本がひらひらと地面へと落ちていったが、首が落ちなかっただけ良しとしておきたい。
 ご主人様がいなくなれば、とか不吉なことを呟きながら迫る馬超から、じりじりと距離を離していく。
 熊と会ったときは背中を向けず視線を合わせて後退する、だっただろうか、等と一つも関係なさそうで実に今の現状と関係しているその知識に、俺は縋り付いた。
 ていうかだ、そんな理由で首落とされてたまるか。

「……あたしの目が黒いうちは、右瑠と左璃に手を出すことは駄目だかんなッ!? もちろん蒲公英にもだッ! あたしのことをか、か、可愛いって言うのも禁止だぁぁぁぁ!」
 
「真っ赤になるぐらい恥ずかしいなら言うなよッ?!」

 とは怒鳴ってみたものの、下手なことを言えば本気で首を落とされかねないと思った俺は、慌てて振り向いて走り出す。
 それを逃亡と取ったのか、はたまた自分の命令への拒否だと受け取ったのか。
 まるで猛る牛馬の如くで俺を追いかけ始める馬超から逃げ出すために、慌てて足腰に力を入れる。
 速度を上げた俺に追いつくために、同じように速度を上げた馬超から本気で逃げ回りつつ――それは、馬岱が出陣の指示が来たと告げに来るまで続けられた。



 やっぱり不憫だった。


 



[18488] 二十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/07/28 15:57

 渭水から安定に至る道すがら、六万もの群衆となった黄巾賊の中心。
 白いものが混ざり始めた髭をさすりながら、趙弘は上機嫌だった。

 
 元々趙弘は、荊州南陽において黄巾賊を指揮する張曼成の配下の将であった。
 今回の各地同時蜂起においても、張曼成が指揮する本隊が南陽を攻めるにあって、別働隊を率いて南郡を攻める予定であった。
 事実、南陽を攻める本隊九万のうち二万を率い、いざ、という時ではあったのだが。
 急遽、華北にて各地を攻める黄巾賊本軍からの使者を名乗る青年――半分に割れた白い仮面を付けた于吉という青年は口を開いた。


 曰く、兵を率いて涼州へと攻め入れとの指示でございます、と。


 口元は緩めて笑いながらも、その瞳が一つとして笑みを浮かべていないことなど、趙弘としては気付かない筈はなかった。
 それを知られながらも尚している気がある辺り、どうにもその青年を信用することは出来なかったのだが、本隊からの指示とあっては、と慌てた張曼成は涼州方面の指揮を趙弘へと受け渡したのだ。

 涼州方面の指揮権を得たのは幸運ではあった、だが趙弘はすぐに涼州に攻め入ろうとは思わなかった。
 南郡を攻める予定であった二万の兵をそのまま用いる、ということになったのはいいが、それで涼州へ攻め入るには些か少ないと考えてのことだった。
 華北では数十万という兵が動いて各地にて官軍を討ち攻めてはいるようだが、華南ではそれほど兵が集まっている訳ではないのだ。
 これは黄巾賊の教えがどうとかいう以前の問題で、ただ単純にその地に住まう人が少ないだけなのだが。
 だからこそ、華南に位置する荊州では、黄巾賊本軍の半分ほどでしかない九万しか集めることが能わなかったのだ。

 だが、そんな趙弘の考えを看破してか、心配はありません、と青年は口を開いた。
 渭水周辺、古来より戦地となりながらも人の営みの絶えぬ彼の地であれば、黄巾の教えに賛同する者は多いことでしょう。
 趙弘様の教えによっては華北の本隊よりも大きな兵力と成り得るやもしれませぬ、そう青年が口を開けば、張曼成はその考えに同意し、趙弘へとそれを成すようにと指示を下してきた。
 無論、趙弘としてもその可能性を否定するには情報が足りず、その指示に否と答えればどのような末路が待ってるやもしれぬとあれば、嫌応無しにそれを成さねばならなかったのだが。
 しかして、彼の地にて趙弘を待っていたのは、被害を受け怨嗟を黄巾賊へと向ける民ではなく、圧政からの解放者として多くの信徒が待つ渭水周辺の人々だったのだ。
 兵に、と志願する者も後を絶たず、結果として趙弘が指揮する黄巾賊は二万から六万へと膨れあがったのである。
 
 さらには、涼州方面にはさほど大きな勢力を持つ郡はない。
 中華一とも言われる西涼騎馬隊を有する西涼太守である馬騰ぐらいなら障害となるかもしれないが、その馬騰も、異民族の侵入を警戒してすぐに行動へ移ることは難しかろう。
 石城と安定を勢力とする董卓が涼州の入口ではあるが、先の襲撃からさほど時間が経っていないために、そこにいる戦力も少ないものだと趙弘は考えていた。
 そして、その地がここ最近になって富める地となっている、そんな噂を聞きつけてしまえばそれを目指さぬわけにもいかないだろう。
 六万もの兵を食わるには、富める街を襲わねばならず、さらには亡き同志への仇討ちもしなければならないだろう。
 天の御遣いとか天将だとか、民の希望となる男がいるとあって人の数も結構多いらしい。
 実に現状において都合が良かった。


 故に、趙弘はその進路を安定へと向ける。
 食料、人、そして希望。
 それら全てを奪い尽くすために。




 **




 安定まであと数理、馬を飛ばせばあと半日といった所まで軍勢を進ませた趙弘は、その軍中においてこれからの行軍針路を思考していた。
 時刻は昼前、今の行軍速度であれば明日には安定を指呼の距離へ捉えることは可能である。
 だがしかし、兵とて人であり疲労を生む、このまま突き進んでみても疲労困憊の状態で安定に攻めかからねばならないのでは、速度を重視したとて意味はない。
 かといって、現状この地に詳しい者がいるわけでもなく、地の利が完全に無い状態であれば、いつどこで安定から出立した軍に襲われぬとも限らないのだ。
 近くに村でもあればそこを襲い拠点とすることで、安定周辺の情報や地利を集めることが出来る――そう考えた趙弘が先んじて斥候を放とうとしたそんな時である。
 一騎の騎馬が、接近しているとの報を受けたのは。





「お目通りに叶い光栄です。我が名は旺景(おうけい)と申します」

「ご苦労、黄巾党涼州方面軍を率いる趙弘という。……して、この先にある村を制圧したというそなたの話は真か?」

 黄色の布を頭に巻いて現れたその騎馬は、誰彼と尋ねた群衆の先頭に立つ兵に対して、指揮官に会わせろと声を放った。
 これが常時であるならばそれも否として、はたまた密偵だとして私刑なり死刑なりで処罰されるのであるが。
 事実、それを聞いた兵の一人は密偵だと訝しんで腰元の剣へと手を伸ばしたのである。
 だが、それは抜かれることはなく、それ以前に止められることとなった。
 彼が放った言葉によって。

「はい。この度、趙弘様が兵を率いて涼州を王朝の腐敗から救ってくださると聞き、黄巾の教えに従う同志にてここから二里ほどにある村、そしてその周辺に位置する村々を制圧しております。財貨はそれぞれ村ごとに中心に集め、村人達も同じ所に集めておりますれば、お手を煩わせることもないでしょう」

 見れば未だ幼さを残した少年ではあったが、その佇まいと雰囲気には凜としたものがあり、少年がどれだけ憂国の志を抱えてきたのかを言葉少なに趙弘へと知らしめた。
 武装らしい武装はなく、ただあるのは背中で斜め十字にされた二本の長い鉄棒ではあったが、その雰囲気も相まって少年が中々の腕前を持つことが分かる。
 民衆の群衆であって有能な副官がいないこともあってか、趙弘は状況が落ち着けば少年を副官に、と思い始めていた。

「……現状、我らの中にこの地に詳しい者はおらん。旺景よ、地元民であるそなたの言、信用させてもらうぞ」

「御意にございます」

 だからこそ、趙弘は少年を信じることに決めた。
 それに周囲にいた護衛の兵から反対の声が上がったが、民の協力無くば漢王朝打倒などと無理な話ぞ、と言えばすぐに折れた。
 腐敗したとはいえ一時は栄華を誇った国を相手にしているのである、兵力差で勝っているとはいえ本職の兵相手ならばそれでも危うい。
 それこそ、大将軍である何進や州牧が動けばたちまち鎮圧されてしまうことなど、目に見えているのだ。
 だからこそ、例え状況を見計らったかのように現れた少年でも信じざるを得ない、その現状に趙弘は知らず溜息をついていた。

「……よし、軍を五つに分けるぞ。お主らはそれぞれの指揮官となりて村へと入れ。これからはそこを拠点として、周囲へと勢力を伸ばす。旺景は儂の傍にいてもらおう」

「……はっ!」

 はてさて、信用が果たして信頼となるかどうか、見極めさせてもらおうか。


 趙弘は、黄巾の教え、というものにさしたる興味はなかった。
 人より優れた体躯を持ち、生きるために剣を振るい始めた頃から、主義主張など持ちはしなかった。
 ただ唯一、知りたかったことはある。
 己が、どれだけ強いのかということだ。
 人として、武人として、将として。
 己の上役であった張曼成も愚鈍では無かったが、それでも自分より強いと思ったことはない。
 官軍にさしたる強者がいない以上、自分がどれだけ強いのかなど知りようも無かったのではあるが、涼州の馬騰ならばそれを知りうることが出来るやも知れないと思っていた。
 彼の者ならば、自分がどれだけ強いのかを知ることが出来る、と趙弘は知らず口端を歪めていた。
 安定など、その前座でしかない――この時の趙弘は、そう思っていた。




  **




「兵士さんや、私達は一体どうなってしまうのかのぅ?」

「ご老体よ、心配は無い。賊徒どもを打ち倒すために董卓殿が兵を率いているゆえ、じきに村へも帰れるだろう。今は安心して避難するがよい」

「おぉ、有り難や有り難や」

「ほら行こう、お婆ちゃん?」


 安定の城門、そこで各村々から避難してきた民を見守る牛輔は、孫であろう少女に連れられていく老婆から視線を外して、遙か先、渭水の方面へと向けた。
 城門へ流れ込む、まるで川のように連なったそれは人のもので、元々安定に住んでいた牛輔でさえ、知らなかった程の数であった。
 遠く、所々で川の縁を蠢くのは護衛の騎馬であろうか。
 まるで、川で幼子が遊び回っているようだと思うと同時に、牛輔は知らず感嘆していた。

「まさか……賊の進路上にある村から民を全て避難させるとはな。民にとって家――住まう地は財産ともなれば、それも難しいだとうとは思っていたのだが……」

 民にとって、財産とは人であり地である。
 その地に住まいて根を張り、その地に住まう者同士で集団を作ることで、そこは村となるのだ。
 村を生み、村を育んできた民達にとって、村から離れるということはそこにあるそれまでの自分というものを捨てるということでもあるのだ。
 故に、牛輔は黄巾賊から逃れるためと言っても、それが容易に進むとは思っても見なかったのだが。
 いざ蓋を開けてみれば、さしたる混乱もなく、ここ安定に民達が集いつつある。
 この調子でいくのなら、明日までには村々の全ての民が安定に収納出来ることだろう。


 驚くべきは、それを即決した董仲頴か。
 結果的に、それが善と判断した賈文和と馬草元か。
 或いは。
 その策を論じ、さらには逃れる民の希望である天の御遣い――北郷一刀か。


 馬家と共闘することが決まった後、では黄巾賊への策を考えるとなった時に彼が漏らした策。
 それは、両家の軍師である賈文和と馬草元の目に止まったのか、或いは同じ事を考えていたのか。
 少なくとも、現状において取れる最大限の策だと両者が思ったからこそ、その策を煮詰め此度の策となったのだが。
 まさか自分の策が採用されるとも思っていなかったのか、半ば呆然とした北郷は中々見物であった。
 安定に来てから、何処か張り詰めていた彼のそんな顔が見られるとは思いもしなかったのもある。

「北郷一刀、か……。はてさて、どんな時代を見せてくれるのやら」

「はうはうぅぅぅッ!? い、一体どうすれば……?」


 北郷一刀が描いた策で紡がれる時代とは、そう思いを馳せていた牛輔の耳に、ここ数日でよく聞くようになった――というよりは、殆ど毎日聞いている声が届く。
 何処か慌てたような、それでいて途方に暮れている声を辿れば、その声の発生源である人物へと至った。

「どうなされた、姜維殿? ……そこで泣く子と何か関係があるのか?」

「あっ! ぎゅ、牛輔様ぁぁぁ! はわはわ、た、大変なんでしゅぶッ!」

 いつものように不思議な慌て方でカミカミな姜維に、牛輔は視線を向けるのだが。
 その傍らで泣きわめく六つ七つほどの少年に、自然を視線が向く。
 その少年をあやすようにしていた姜維は牛輔の姿を確認するや、慌てて言葉を放つ。

「あ、あのッ! この子が人形でお姉さんが村なんでしゅッ!」

「……すまん、言いたいことがよく分からない。どうした、少年? 何かあったか?」

 カミカミで、なおかつ言いたいことが分からないことを理解したのか、はわはわ、と言いながら項垂れる姜維に構うことなく、牛輔は傍らの少年へと語りかけた。
 姜維の大声にビクリッと反応した少年は再びその眼に涙を溜め始め、それを見た姜維が再び慌てようとするのだが。
 それを無視して、牛輔はなるべく少年が落ち着けるようにと静かに問いかけた。

「ひくっ……ぐす……お、おれ……」

 それを姜維も理解したのか、いつものようにはわはわと言いそうになる口を両手で押さえると、少年の言葉に耳を傾ける。
 泣いた子は静かに語り先を促さず、安定を阿呆太守が収めている時代、警邏の途中に泣きわめく子と出会った牛輔が、李粛に教えられた言葉である。
 教えられた、というのはまあ当然の如く泣く子をさらに酷くしたからのではあるが。
 李粛に馬鹿じゃないの、なんて言われたのはあの時が生まれて初めてであったのだから、二度と同じ轍をを踏まないようにしようと固く決めた牛輔としては、今回は上手く出来たと言えるものである。
 
「おれ……人形、村に置いてきて……。そしたら……姉ちゃんが……姉ちゃんが……」

 そこまで言い切って再び泣き出す少年から視線を外し、牛輔は遙か彼方、民の列が連なる渭水の方面へと視線を移す。
 全てを言い切った訳ではなかったが、それでもその言いたいことが理解出来たのだ。
 そして、それがどれほど危険なことかも。
 子供の脚と鑑みても、それでも最初の避難民が来てからかなりの時間が経過している。
 この少年とその姉が先頭の避難民と同じ村だったとしても、既に追いつける距離ではないことを、牛輔は理解してしまった。
 馬を飛ばそうにも、知らせるにしても到底届かない距離にあって、牛輔は密かに願った。


 願い届き叶うならば天将へ、と。











 そして、一人の少女は村へと入る。

 己と弟が住んでいた家へと急ぎ、その中へと入る頃。

 その村を指呼の間に捉えた黄巾の群衆が、それを飲み込まんと接近していた。
   





[18488] 二十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/08/05 16:19
注:数カ所ほど、女性の身体の一部を表す言葉があります。
  一五禁というほどのものでもないですが、気にする方、不快に思われる方がおりますれば、戻られるか、気を付けてお読み下さい。






 広大な、どこまでも続くとも思われる平野。
 遙か地平に険しい山々が霞む中で、そこを駆ける集団の一人が彼方に影を見つけた。
 小さく、しかし確かにあったその影は、距離を駆けるにつれ徐々にその全貌を表し出す。
 
 寂れた小さな村。

 今にも崩れそうな木造の家々が立ち並び、その周囲には申し訳程度の柵が施されている。
 平時であれば、それは夜盗を防ぐ盾となり、獣を近づかせぬ壁となるものであった。
 そこに住む村人によって建てられ、用いられ、修繕されてきたそれは、彼らにとってどれだけ頼りになるものであったか。


 だが、駆ける集団――黄巾を纏いし者達にとって、それは如何ほどのものがあろうか。


 時には柵を、時には隊を、時には軍を、そして城壁を打ち破ってその財貨を求め奪ってきた彼らにとって、村を囲うほどでしかない柵などは、児戯程度でしかなかった。
 それを証明するかのように、黄巾を纏った一人が柵へと手を掛ける。
 木を削りだし、藁で編まれた縄によってそれを固定しただけのものであったが、さすがに一人の力ではそれを外すことは能わなかった。
 しかし、後ろから二人三人とその手が増えていけばそれもさしたる問題ではない。
 数は力である。
 小型の昆虫である蟻が、大型の昆虫を捕らえられるのがひとえにその数によるように、後ろから後ろから伸び出る手は柵を掴んでいく。
 そして、絹を割くかの如く引き剥がされた柵は、徐々にとその姿を残骸へと変えていった。
 一箇所だけではなく、その柵に隣接する者達によって行われたその行為によって、村を覆い守る柵はこじ開けられてしまったのである。




  **




「えと……この辺に――あ、あった!」

 ゴソゴソと、避難勧告を受けてから取るものだけを取って荒れていた家の中を、一人の少女が彷徨っていた。
 背中までに伸ばした髪は所々汚れて乾いているものの、その少女らしい精一杯のお洒落である髪型は、年相応のものであった。
 着ているものこそ平服ではあったが、汚れを落とし綺麗な服を着てみれば、という少女は、乱雑に散らばった衣類の中から一つの人形を取りだした。

 薄汚れたそれは人型のもので、長い髪らしき布と腰巻き、さらには女性特有の胸部を示すそれが、女性を形取ったものだというのが分かる。
 少女はそれをどこな懐かしげに見つめていたのだが、ふと遠くから響く乾いた音に意識を取られた。

「今の音は……警鐘?」

 村の中央に備えられた警鐘、それは非常時――外敵である夜盗や獣が柵を襲撃した時のみならず、村内で起きた事態を知らせるために、村を囲む柵に何かしらの衝撃を与えた時に、縄を伝って鳴らされるようにしているものである。
 それが鳴らされた、しかも誰もいない村であるならばそれが外からのものに鳴らされたとあって、少女は慌てて人形を手に家から出た。

「ひっ!」

 だが、その行動は正だったのか、はたまた邪だったのか。
 家から飛び出した少女を待っていたのは、極度の緊張がもたらした勘違いでも、村に誰かいないかと確認に来た安定の兵でもなく。
 少女を見つけそれを獲物と捉えた幾万もの野獣の眼光と、その喜びを示す幾重にも重なった雄叫びだった。

 




「あの女はどこへ行ったぁッ?!」

「ちっ! 女もめぼしいものもありゃしねえじゃ無えかっ!? 一体どういうことだッ!?」

「さっきの女を捜せッ! 情報を引き出してから犯してやらぁ!」

 震える身体を抱きしめるように押さえつけ、少女は口から悲鳴が飛び出るのをも押さえつけた。
 黄巾賊に見つかった時には終わりか、とも思ったが勝手知ったる村とあって、その姿を隠すことについては意外と簡単なものであった。
 だが、それも村の外から見る黄巾賊の視界から、ということである。
 家と家の間、幅も狭く水を溜める瓶やら何やらが置かれている所にその身を伏せる少女であっても、村中を闊歩する黄巾賊の目を盗んで村外に出ることは難しかった。
 これが十数人であれば逃げ切れるやもしれなかったが、それどころの数ではない――それこそ、万に届こうかという程の賊徒が、村のそこかしこに蔓延っているのだ。
 村を守る自警の手段こそ学んではいたが、それは村を、身を守るためのものであって、賊徒を討つためのものではない。
 そんな自分がこれだけの数を相手に出来る筈がない、と少女は震えることしか出来なかった。
 きっとここで隠れていれば助けがくる、賊達を追い払って村を守ってくれる――そう信じて。

 だが、数とは力であると同時に、情報でもある。
 一人が下を見なくても別の一人がそこを見て、一人が横を見なくても別の人間がそれを確認する。
 二つの目で見えなければ、別の目がそこを見ればいい――それが幾万にも及べば、一体どうなることか。
 その問いは、少女の視界を影が覆うことによって解となる。

 家と家の間、水を溜める瓶の影に潜んでいるとはいえそれまで視界にあった影が急に暗くなったことを、少女は不思議に――そして心の片隅で希望を抱きながら、賊が動き回る方へと視線を向ける。
 助けが来て、それで自分を探してくれているのだと。
 だが、そんな少女の希望は淡く、あまりにも儚いものであった。



「けけけ……見ーつけた」



 黄色の頭巾を巻いた男が、ニヤリ、と厭らしく獣のように笑んだ。





  **





「……見えた」

 小高い丘を駆け下りる馬蹄の音、その一つである馬に乗る呂布がぽつりと呟いた。
 大地を蹴り、砂煙を上げ、興奮やら緊張やらで溢れる咆哮の最中でありながら、その声は酷く静かに響いた。
 その声に促されてみれば、確かに村を覆いつくさんとする黄巾賊を華雄は確認した。

「見たところ七、八千ちゅうとこか? 大体一刀と詠の読み通りやな」

「あいつらは万程度と言っていたがな……。だが群衆というのは当たりのようだ、どうにも指揮が執れている様子ではない」

「……一刀と詠、凄い」

 横を走る張遼も確認したのか、彼女のおおよその予想に、その通りだと思うと同時に当初の予定より少々少ないことを華雄は危惧した。
 だが、今それを言ってどうなる、と意識を切り替えて己の獲物である大斧――金剛爆斧を握り直した。

「それにしても、中々に際どい策を取るもんやで――分断しての各個撃破やて。こっちが撃破されたらどうにもならんやろうに」

「ふん、そうならんようにすればいいのだろう? それに、我らは武人。軍師の策に従い、武を競って功を成せばいいだけだろうに。いらんことを考えれば穂先が鈍るぞ、文遠?」

「恋、詠と一刀が言うとおりに戦うだけ。……考えるの、苦手」

「……そうやな、恋と華雄の言うとおりや。……なんや、けったいに動き始めよったで」

 華雄はともかく恋にまで言われてもうた、と頭を掻いていた張遼だったが、不意に進行方向の村を睨んだかと思えば、緊張した声色で言葉を零す。
 それが警戒の色が濃いことを察した華雄は、己も村へと視線を移し、そこに黄巾賊の不思議な動きを見た。
 村を中と外から覆い尽くさんとしていた黄巾賊が、その拡大を止めて徐々に中央へと集中していくのだ。

 当初の予定では村の中央に董卓軍から財貨を残すという案が、北郷から掲げられた。
 これは、黄巾賊に潜む密偵からの案を確実にするためのもの、ということだったのだが、しかして安定に入って未だ収穫のない董卓軍では、それだけの物資がないということでお流れとなった。
 その案が成されていれば、現状目の前で起こっている不思議な動きも認めることが出来るのだが、それが成されていない以上どうにも不可解なものではあった。
 しかし、その疑問は呂布の一言によって氷解する。



 女の子がいる、と。





  **





「おぅら、こっちに出てきて一緒に遊ぼうぜ!」

「そうさ、何にも怖いことなどありゃしないからなぁ」

「へへっ、女なんて久しぶりだぜ」

 隠れていたのを見つけられた少女は、それを成した男によって村の中央――祭事や集会を行う広場へと連れ出された。
 この地で生まれ育ってきた少女にとって、そこは様々な思い出がある場所でもあった。
 隣の家に住んでいた女の子の生誕。
 村長の娘と商人の息子の結婚式。
 豊作を祝っての祭り。
 今は亡き両親の魂を送る祭り。
 それこそ殆どの祝い事や祭事を覚えている少女ではあったが、現在自分を取り巻くその光景は、そのどれもでも見たことはなかった。
 幾数もの視線、そのどれもが獣性の色を宿しており下卑たものを求めているのだ。
 それらの視線の行き先が自分の胸や腰、下腹部に向かっているのを、気づきたくもないのに気づいてしまう。
 ぶるり、と身体を震えてしまうのを、両手で抱きしめた。

「ふへへ……生まれたての馬みたいに震えてやがるぜ。可愛いなぁ、犯しがいがありそうだ」

「けけ、生まれたての馬は服なんか着てやしねーよぅ。さっさとひん剥いちまおうぜ」

 だが、それでも震えは止まらない。
 悪寒か、嫌悪か、恐怖か、はたまた絶望か。
 知らず涙が零れるが、それを気にする場合もなく後方へと後ずさる。
 それは、目前に迫り来る絶望の先から逃れるためか。
 その怯えた様子に、少女へと近づいていく黄巾賊の男達は一様に笑みを深める――獣の如く、本能を剥き出しにした、その笑みを。
 それを受けて、少女はますます後ろへと行くのだが、ふと後ろからの声に顔を向ければ、その方向にも黄巾賊がいて、少女は慌てて方向を変える。
 だが、そちらにも黄巾賊はいて――と、少女はいよいよ何処へも動けなくなった。
 徐々に狭まる包囲、いよいよ迫る絶望の時に、少女はぼろぼろと涙を流し始めた。
 
 だがそれも、賊徒を興奮させるものでしかなかった。
 目の前の男が手を伸ばしてくる直前、少女は知らず抱きしめていた人形に意識を取られる。
 それを作り出した経緯を思い出して、また、その姿形を思い出して、少女は儚い、本当に微かな希望を乗せてその名を浮かべた。



 助けてお母さん、と。




「へへ、ほうら脱ぎ脱ぎしましょうね」

 だが、その願いも悲しく少女は四肢を捕まれる。
 後ろから、横から、前から。
 そして、眼前に迫った男は、少女の服に手をかけたと思いきや、一息のままに一気に引き裂いた。

「きゃあぁぁぁぁ! や、止めて、許してッ! 弟が、弟が待ってるんですッ!」

 ここにきて初めて抵抗らしい抵抗として暴れる少女であったが、ある程度自警を学び力があるとはいえ、大の男の拘束から逃れるほどではなかった。
 引き裂かれた服の合間から覗く白く滑らかな肌と、少女から成熟していく途上の乳房に、黄巾賊の中から歓声――狂声が沸き上がる。
 
 羞恥からか、或いは恐怖からか――賊徒は興奮からと受け取ったようだが、少女の肌に紅がさすと、男達は一斉に舌なめずりをした。
 その様が異様で、異質で、恐怖であった少女は、いよいよ全てに絶望するしか無かったのである。

 そして、それは賊徒達にも知れたのか、或いは受け入れると思ったのか。
 いよいよ観念したと思った少女の目前の男は、その小降りな乳房へと手を伸ばして――





 ――その意識は首と共に宙を舞うこととなった。
 
 恐らくは、何が起こったのかも分からぬまま。




 **




 もし。
 黄巾賊が少女だけに気を取られていなかったら、遠く響く馬蹄の音に気づいたかもしれない。

 もし。
 少女がこの場におらず、黄巾賊が当初の予定通りに動いていれば、これだけ容易にはいかなかったかもしれない。

 もし。
 北郷一刀が考え掲げた策でなかったのならば、黄巾賊はこの村に来ることはなく、少女は穏やかに健やかに生きていたのかもしれない――それが正史と違うとしても。

 
 もし。
 この地に来たのが彼女達で無ければ、きっと少女の精神は狂態と恥辱の宴で壊れていたことだろう。




 **



「……え?」

 初めに零したのは少女だったか、黄巾賊の一人だったか。
 少女を押さえつけていた左右の男、そして少女に手を伸ばしていた男の首が宙を舞った時、零された言葉を意に介さぬままに、その三人は降り立った。


「……やれやれ、何とか間に合ったちゅう所か」

「ふん、覚悟は出来ているのだろうな、匪賊共よ? 民に危害を加えんとした罪、償ってもらうぞ」

 一人は、風になびく外套を肩に羽織り、その豊かな胸をサラシにて巻き付けた女性。
 一人は、最低限の部位だけを守るものを付け、巨大な斧らしきものを高く掲げる女性。
 そして最後の一人は、少女の前に降り立った赤い髪と所々解れた腰布を風にながれるままにした女性――そして、その手に持つ戟とその髪の色を持つ武将の名に、少女は心当たりがあった。
 以前、石城から洛陽に行く途上で村に立ち寄った商人の口から聞いたその人物の名に、商人が酷く興奮していたのを覚えていた。
 

 戟を振るえば十の首が宙を舞い、馬を駆れば放たれた矢の如し、その武、天下無双。


 自警のために武芸を学んだとはいえ、それほど才があった訳でもない少女であったが、それを聞いた時にはさすがに誇張しすぎだろうと思っていたのだが。
 いざその人物を目前にしてみれば、それも間違いでは無かったことに気づいた――間違いなどではなく、そう評するのが彼女を一番に表す言葉なのだと。
 そして、少女はぽつりとその名を発した。
 商人に聞き、遠い噂で天下の飛将軍とも呼ばれたその名を。


「……呂、奉先」


 そして、その少女の言葉に気づいたのか、首だけ向けたその人物――呂布は、その体勢で器用にも首を掲げた。



「……大丈夫?」







[18488] 二十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/01/28 14:05


 脳天目掛けて振り下ろされる剣を自身の剣で防いだ俺は、覆い被さるように力を入れていく黄巾を被った男の腹を力の限りに蹴飛ばす。
 腕に力を入れていた男にはその蹴りを受け止めることは出来ず、蹴られた勢いのままに地面を転がるのだが。
 そんな男から視線を外した俺は、右から斬りかかってきた黄巾を腕に巻いた男の斬撃を剣で弾いた後に、がら空きになった男の腹部へと剣を突き入れる。
 ぐじゅり、とまるで腐った果物に刃物を入れたような感触に知らず顔を顰めるが、それを堪えて崩れ落ちそうになる男の顎を殴りつけた。
 だが、殴りつけた腕をその男に掴まれて、男が崩れるままに俺の体勢も崩れてしまう。
 抜け出そうとしても力一杯――それこそ噛み付かれるのではないかと思えるほどに腕を捉えられれば、それも実に難しい。
 そして、それを好機と見た黄巾賊の数人が、一斉に俺へと斬りかかってくる。


 だが。


「でぇぇぇぇぇいッ!」

 その声と共に繰り出された横からの一撃によって、それらの黄巾賊の男達は一様に、近くにあった家の壁へと叩き付けられることとなった。
 それを見た俺は、腕を掴む男の腹から剣を抜き出すとその首元を斬りつけ、拘束が緩んだのを抜け出して、俺を助けた人物――馬岱と背中合わせとなって周囲を警戒する。

「助かりましたよ、伯瞻殿。恩に着ます」

「えへへ、どういたしまして、お兄様。それに、お姉様のお婿さんを死なせる訳にはいかないしね」

「……孟起殿は俺のことをご主人様と呼んでいる筈ですが?」

「あのおば様が、そんなことで諦める筈ないよ。からかいはしても、冗談は言わないんだから」

 俺より背も歳も低い女の子に背中を預けるというのは些か悲しい――いや、男の面子とか拘っている訳ではないのだけども、それでも生死が飛び交う戦場の中で軽口を言えるぐらいには、頼りになる。
 まあ、錦馬超に隠れがちだけど、蜀漢の成立から諸葛亮の死を経てあの魏延を討ち取る、と並べてみれば中々の武勇を誇る馬岱に対して、頼りになるだなんてどんだけ図々しいんだろうな俺。

 そして、そんな馬岱の言葉に、彼女が言うのだからそうなのだろうな、といやに簡単に諦めてしまう。
 からかうも冗談も同じ意味な気もするのだが、どうにも馬騰は違うらしい。
 うむ、あまり関わらないほうが身のためな気がしてきたよ――それでも巻き込まれる気がするのは、気のせいだと信じたい。

 
 渭水から安定の途上、数里ずつに点在する村々という、時を置けば次代の邑ともなるであろうその一つで、黄巾賊九千と涼州軍五千は激突した。
 数だけで見れば黄巾賊は涼州軍の倍近くあり、また勢いということをとっても涼州軍よりも優位であった。
 事実、黄巾賊涼州方面軍の趙弘から臨時の指揮官に任じられた将は、その理由から負けるはずがないと考え、涼州軍との戦端を開くに至ったのだが。
 その将の決断は非常に理に敵っていた――戦場が、村の中でさえなければ。
 いかに臨時の指揮官に任じられる将とはいえ、その一人で九千もの手綱を握れるはずはない。
 常の軍であれば、千人百人単位で隊長格がそれらを纏めるのだが、元農民が集い群衆となっただけの黄巾賊ではそれもままならなかった。
 故に、涼州軍に対して組織的な攻めをしようとも、村の中という狭い戦場の中で指揮が行き渡らない黄巾賊は討ち取られるままに任せ、それから逃れようと村を抜け出した賊徒もまた、村の周囲を囲う騎馬からの騎射によって、地に倒れ伏す者で溢れたのだった。


 騎馬隊を率いて村を囲う馬超に代わって村内部へと攻め寄せるのは、馬岱率いる涼州軍の歩兵三千ほどである――勿論、騎馬隊の指揮など出来るはずもない俺は、そちらの部隊へと組み込まれることとなった。
 トラウマとも呼べる自身の過去と向き合うと決めたとはいえ、理性では分かっていても本能の部分ではそれまでの感情を鮮明に引き起こす。
 人を傷つけるのが怖い、血を見るのが怖い、居場所を失うのが怖い――傷付くのが怖い。
 この世界に来るまでにいた現代日本では当たり前とも取れるそれらの感情が、戦乱起こり陰謀渦巻くこの世界では足枷となるなんて、予想だにしていなかった。
 まあ、俺の場合はちょっと違う気もするが。
 それでも、それらの感情に押しつぶされて後悔するなど――命を失うことなど出来るはずがないのだ。
 故に、今また一人、本能を理性で塗りつぶして、俺は黄巾の男の胸へと剣を突き入れた。
 
 一人殺し、一人追い払い、また一人殺め。
 俺が四苦八苦する中、馬岱が怒濤の如く黄巾賊を打ち払っていけばさすがに危機を感じたのか、指揮官たる将から退却、本隊との合流の指示が飛んだ。
 既に半ば壊走しかかっていた黄巾賊は、その指示の途端に一斉に逃散を始めるのだが、村の周囲を包囲していた馬超率いる騎馬隊が狭めた包囲網によって、黄巾賊はじりじりと村へと押し込まれていく。
 そして、その村の中では馬岱率いる歩兵がその黄巾賊を攻めていき、結果として、黄巾賊は内と外から同時に攻められる形となったのである。
 
「賊徒達に告ぐ! 降伏の意思あるならば、武具を捨てその場に伏せよ! 捨てぬ者は意思無しと見て、八つ裂きにさせてもらうッ! 返答や如何に!?」

 その形を好機と見てか、はたまた潮時と見てか、俺と隣り合って武器を振るっていた馬岱が口上を開く。
 降伏勧告。
 ちょっと小生意気な女の子、しかも悪戯好きという印象を抱いていた馬岱が開いたその口上に、やはり彼女も三国志の武将なのだと改めて知ることになった――後に、彼女にそう話すと悪戯が増えることなど、この時の俺は知る由も無いのだが。
 
 馬岱がそう口上を上げると、村の外からも同じような口上が聞こえ、それが馬超のものだと知る。
 村の外からも聞こえた降伏勧告に、それまでその殺気を沈めなかった黄巾賊の中から、一人、また一人と武具を手放していく者が現れ始める。
 これ以上の戦いは無意味としてか、はたまた自分の保身のためかは分からないが、その動きは瞬く間に波と化し、黄巾賊へと広がっていった。

 そして、唯一武具を手放さなかった指揮官である将が逃げ出していくが、それをわざわざ見逃すはずもない。
 村の外に待ち構えていた馬超の一矢によって、その将は額を貫かれて落馬したのだ。


 勝敗は、既に決していた。



 **



 敵軍襲来の報と、先行していた部隊が壊滅したとの報を趙弘が受けたのは、ほぼ同時であった。


 董卓・馬騰の連合軍が執った策は、後に考えてみれば至極簡単なものであった。
 兵力の大小を問わず、戦に勝つために一番に考え得るその策――各個撃破を執られることを、勿論趙弘は理解していたし、それを危惧して各指揮官へと伝えていた。
 既に占領してある村に軍を分けるというのも、それから考えれば愚策ではあったが、董卓軍の拠点である安定まで未だ距離があったこと、即席の連合軍では機敏な行動を起こせず各個撃破など無理であろうとのことであったのだが。
 現状を鑑みれば、その考え事態が愚かであったとしか言えないものであった。

「ぐぬぬぅ……何故だ、連合軍にこちらの行動を知られる筈が……」

 万全を期し、先に軍を分けた四隊のうち、兵数の少ない二隊を先行させていたのが幸いしたか、軍の被害からすれば六万の内の二万にも及ばない程度であり、戦闘にさして問題は無かった。
 趙弘はすぐさまに伝令の兵を発し、無事な部隊を合流させて連合軍へと備えるために動き出していた。
 三分の一の被害は壊滅的とも言えるものだが、渭水周辺で集まった一部であり、荊州から従う本隊には微塵の被害もないのだから、その趙弘の決断も間違ってはいなかった。


 ただそれも、指揮官たる趙弘が在れば、の話ではあったが。


「……そもそも、村を制圧しているとの貴様の言が真であれば、このような事態にはならなかったのだ。この責任、どう取るつもりだ、旺景よッ!?」

 それでもなお、責任の所在は明確にしておかねばならない。
 軍において、指揮官の失態は軍の全滅に繋がる。
 兵一人一人から見れば、それは己の命の損失であり、何にもまして防がねばならない事態であるのだ。
 訓練された兵でさえそれなのだから、命を繋ぐため欲を満たすために黄巾賊に参加している元農民にあって、それはさらに顕著になる。
 そして、軍の命運を、ひいては自分達の命を預けるに値しない指揮官であると判断した場合、彼らがどういった行動に移るのかというのも、趙弘は理解していた。
 古来より、無能な指揮官の末路は――死、である。

 故に、趙弘やその配下の将がどう思うにせよ、兵の憤りの行き先を定めておかねば、軍としての機能を失うばかりか、自分の命まで危ないのだ。
 如何に強者としてでも、数で攻め寄せられれば一溜まりもないとして、趙弘はその責任の所在を旺景へと定めることにしたのだ。
 なまじ優秀そうなだけに、その才をこんな所で潰すのも勿体ないものではあるが、現状からいけば仕方のないことなのだと自分に言い聞かせて。

 だが、そんな旺景から返ってきた言葉は、趙弘の思惑とは全く別のものであった。


「……旺景でござる」






「……? 貴様、何を言って――」

「旺景、追系――おうけい、でござったか? ううむ、旦那様の国の言葉は些か発音にしにくいでござるな……」

 自分の名を呟いたと思ったら、幾度か自分の名らしき音を呟いた旺景に違和感を覚えて問いかけようと口を開きかけるが、静かにこちらへと視線を移した旺景に慌てて閉じる。
 何故か、口を開けば自分は終わりのような気がしたのだ。

「旦那様の国では、おうけいとは了承の意を示す言葉らしいでござるよ。なに、趙弘殿が訝しげに思い、知らぬのも無理はござらん。拙者も初めて聞いた時には不思議に思ったでござるからな」

 見た目幼い少年ながら、その発する言葉の節々には落ち着いた雰囲気があった――むしろ、貫禄と言ってもいいものが。
 言葉遣いこそ聞き慣れぬものであったが、その意味を受けるのに難しいということはないのだが。
 旺景の――少年の雰囲気も相まって、いやに不明瞭に聞こえてくる。

「ですが、不思議と耳に馴染むでござる。おうけい、それを名として呼ばれればどんな思いをするかと思えば……拙者の慧眼は間違いでは無かったということでござる。実に心躍る一時を過ごせ、趙弘殿には感謝するでござる」

 気がつけば、少年の両手にはそれぞれ鉄棒が握られていた――腕に沿うように。
 少年の背中にで斜め十字に背負われていたものということに気づくが、その持ち方に少々の疑問を趙弘は覚えた。
 初め、それはただ鉄の棒を簡素な武具に見立てて、それこそ鞭のように用いるものばかりと思っていたのだが。
 鉄棒から出っ張る取っ手を握り、肘よりも若干長めのその武具に、趙弘は見覚えが無かった。

「拙者は拐(かい、旋棍の一種)と呼んでいるでござるよ。旦那様にはとんふぁあ、とも呼ばれ申したが……やはり、これが一番使いやすい」

 そう言いながら器用に取っ手の部分を回してみれば、手から伸びる角のようにも、腕を守る装具へともその姿を変えていく。
 さらには、その握る部分を変えてしまえば、獣の爪の如く刈り取るように取っ手が形取り、言葉の通りに変幻自在にとその用途を変えていった。
 
 その動きを見て、趙弘は気づいた。
 自分では、叶う力量ではないのだと。
 
 まるで水のようにくるくるとその姿を変えていく拐という武具と、それを自在に操る力量の少年に、自分では少年に叶うことはないのだ、と。
 親子、下手をすれば祖父と孫ほどの歳が離れているであろう少年の武の片鱗を垣間見た趙弘は、知らず震えていた手を握りしめて周囲に存在する筈の兵を呼ぼうとするのだが。
 そんな趙弘の動きに、少年は唇を歪めた。

「周囲に兵はいないでござるよ。少しばかり眠ってもらっていてござる。伝令の兵も、そこら辺にいるでござろう」

 そう言うやいなや、少年はその歩を趙弘へと向かって進め始める。
 そのあまりにも自然な動きに、趙弘は一瞬反応することが出来ずにいたが、ハッと我に返り腰の剣を抜き放った。
 だが、それでも少年はその歩を緩めない。
 それどころか、剣を抜き、殺気を放つ趙弘へとその手に持つ拐ごと、少年は構えた。

「なお立ち向かう姿勢は見事でござる、感服いたした。趙弘殿に降伏の言葉をかけるには、些か失礼でござるな」

 それまで強者と戦ってきたことは多々あれど、そのどれもに勝って今を築いた趙弘にとって、その少年はあまりにも異質であった。
 武才に溢れる若者はさして珍しくもない、黄巾賊として襲ってきた村々にもそういった者はいた。
 だが、そのどれもが経験不足であり、人を斬ったことなど皆無のような者達ばかりであった。
 実戦経験が伴わなければ、どれだけの才があろうとも無価値なものであった。
 だが、目の前の少年は違う、と趙弘は感じていた。
 その視線、その雰囲気、その言葉遣い、その立ち振る舞い。
 それらの全てを見た上で、本能が警告しているのだ――少年の才は、無価値なものではないのだと。

「我が姓は庖、名は徳、字は令明と言うでござる。趙弘殿の姿勢に応じて、全身全霊をかけてお相手仕るでござるよ」

 名を明かすのはその証と思って頂きたいでござる、と言い放って、少年――庖徳は一気に駆け出した。
 その速度は矢の如しではあったが、目で追いきれぬほどではないし、対処出来ぬほどでもないことに、趙弘は内心安堵した。
 そして、そうと分かればいつまでも臆している訳にもいかないと、趙弘は手に持つ剣を高々と掲げた。
 どれだけ雰囲気があっても、結局は経験が足りていないのだと。
 少年の才を価値あるものと判断した本能を、勝てるという理性にて無理矢理に押さえつけた趙弘は、近づく庖徳の脳天を叩き斬るために、一気呵成に剣を振り下ろした。


 それまでの相手であれば、その趙弘の一撃を避けきることは能わず、脳天でなくともその身体を引き裂かれて死んでいった。
 だが、今回もそうなるであろうとした趙弘の予想は、外れることとなる。


「安心するでござる。人は死ねばめいど、という所にたどり着くと旦那様は言ってござった。そこは薄く暗い、冷たい水の底のようであり、着飾った女子のように華やかで楽しげなものとも。一息に、送ってしんぜよう」

 両手に持つ拐を十字にして趙弘の剣戟を受けた庖徳は、一気のそれを押し返した。 
 それに押される形で体勢を崩された趙弘は、次撃に移ろうと剣を振りかぶって――衝撃と痛覚を感じた途端に、その意識を闇へと沈めていった。



 こすぷれ、だの、もえ、だの旦那様はよく分からん。
 意識が完全に墜ちる前、そう聞こえた庖徳の言葉と共に。





*ホウ徳ですが、正式に[广龍]徳としますと、PCは大丈夫ですがケータイでは認証されずに徳だけとなることが分かりました。
 ケータイでも読めるように、庖徳といたしましたので、そんなのホウ徳じゃねえ、という方もご了承をお願いいたします。



[18488] 二十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/08/24 11:06

 第一報。
 張遼を指揮官とした董卓軍奇襲部隊、若干の差違はあれど当初の予定通りに村に入った黄巾賊の壊滅に成功。
 討ち取った賊徒数千、捉えた賊徒三千なり、引き続き予定通りに本隊に合流しようとする黄巾賊の追撃に移る。

 第二報。
 馬超・北郷を指揮官とした涼州軍奇襲部隊、若干の遅れがありながらも予定通りに黄巾賊の壊滅に成功。
 降伏した賊徒二千、他数多の賊徒を討ち取りて、引き続き予定通りに追撃に移る。
 尚、北郷の指示にて数百名の兵に黄巾を纏わせて紛れ込ませる。

 第三報。
 黄巾賊指揮官の下に潜んでいた庖徳、敵指揮官を討ち取ったとのこと。
 予定通り、混乱に乗じて退却するまで身を潜めるとのこと。



 安定を出撃して数刻、黄巾賊と接敵してからひっきりなしに届いていた報告に、いよいよ黄巾賊を討つための準備が整ったとの報が届いたのを、賈駆は知らず口元を歪めて確認した。
 幾分かの差違はあれど、安定の広間にて話し合った当初の予定通りに事が進んでいるのを喜ぶと共に、この策の原案があの男――北郷一刀からもたらされたことが、どうにも腹立たしかった。
 賈駆自身はそう思って、口元を歪めていたと思っていたのだが、どうにも彼女の主であり幼馴染みでもある少女の見解は違うらしい。
 そんな賈駆を見ながらクスクスと笑う彼女――董卓に、知らず眉をひそめていた。

「ふふ、詠ちゃん嬉しそうだよ」

「そりゃそうよ、月。こっちが予測していた通りに敵は動いてくれて、且つ勝利が目の前にまで来ているんだから。でも油断はだめよ、ここから引っ繰り返された例なんか腐るほどに――」

「――ふふ、一刀さんの策だもんね、絶対失敗は出来ないよ」

「なッ!? あ、あいつの策だからって関係無いでしょ?! なななな何言ってんのよ、月ッ!?」

 ふふふ、と笑う董卓から熱くなった顔を背け、自然とうなり声が出るのを賈駆は止められなかった。
 董卓の言うように、嬉しいことには違いない。
 こちらの策がまんまと嵌り、そしてなお策の途中ながらにして最高の戦果を誇っているのだ。
 それは軍師としては得ようと思っていても得難いものであり、賈駆――だけでなく、陳宮や馬休もそうであるが、軍師としての才が十二分に発揮されているのだから、軍師冥利に尽きるものであるのだ。
 だからこそ嬉しいし、自分が軍師として主の役に立っていることも嬉しかった――決して、そこに策を思いついたのが北郷一刀だから、などという気持ちはないのだと思っていた。

 そりゃ確かに、役に立たないよりは立ってくれたほうが使えるし、嬉しいことはないけどなんだかホッとするし、ってボクは何考えてんのよ。
 ぶんぶん、と頭を振って熱くなった思考を無理矢理に中断し、賈駆は前方――董卓・馬騰連合と黄巾賊がぶつかっているであろう方向へと視線を向けた。
 

 黄巾賊涼州方面軍と董卓・馬騰連合軍が戦端を開く前日。
 董卓軍と馬騰軍が共同戦線を張るために同盟を結ぶという歴史が刻まれた後、ある一人の少年――まあ北郷一刀だが、彼がご主人様と呼ばれる原因となった談義の前、両軍の首脳によって行われる会話の内容は、その共通の敵となる黄巾賊への対応の話となった。

 対応、とは言っても、向こうからすれば安定の街は目的を行う場所に過ぎず、その地にて暴虐の限りを尽くして初めて目的は達成されたと言えるのだ。
 そんな彼らが大人しくこちらの言うことを聞くことなどなく、もし聞くのであれ、その場その場の対応によって十分と感じていた両軍の軍師は、それが成されなかった――つまりは、初めの通りに黄巾賊と如何にして戦うか、という話し合いへと内容を移していった。

 だが、話し合いの進行は困難を極めた。
 急遽構成された連合で綿密な連携が取れず足を引っ張り合うのではないかという意見もあれば、未だ脅威の少ない涼州から来た馬騰達が本気で戦わないのではないかと意見も出たのである。
 無論、馬騰達からしてみればそんなつもりがある筈も無いが、命を賭ける兵からすればその限りでもない。
 董卓とその周囲だけで軍を動かせるのであればそのような意見も出ることはないが、つい先日に安定に入った董家にあって、その実力やら何やらを疑う者は未だにいるのだ、そういった者達が次々に口を開いていけば、そのような事態になることは目に見えていた。
 だからといって、彼らを除け者とするなど出来ようはずもなく、その時の賈駆は戦術を話ながらも頭痛を抑えるので一杯だったのである。

 だからこそだろうか。
 紛糾し、困難を極め、各々が意見を出し合い思考が疲弊し始めた頃、それまで一言も発さず場の流れに流されるがままになっていたと思われる彼――北郷一刀が放った一言が、軍師としていやに惹かれるものとして聞こえたのは。


 曰く、村を餌にすればいいのではないか、と。


「渭水からこっち、ろくな休息もせず進軍してきた黄巾賊にとって、それが出来る場と現地の情報を与えてくれる協力者を得るということは喉から手が出るほど願うもの。こちらが用意した者によって村々へと分散させた黄巾賊を、うちの軍と涼州の軍でそれぞれ叩けば連携の心配もない。黄巾賊の強味はその数だけ、精兵と謳われた涼州の兵はもとより、うちの軍にも適いはしないでしょうね」

 六万、といわれていた黄巾賊のために、急遽ではあるが村人の協力と承諾を得て用意した誘い込む村の数は、八。
 黄巾賊の行軍路や状況にもよるが、そのうちの五つは使用されることを考えれば、分散される兵数は万前後となる。
 さすれば、涼州軍五千にとっても董卓軍五千にとっても、当初の十倍より遙かに落ちて倍程度である。
 元農民の黄巾賊では、如何に半分とはいえ専属の兵士に敵うはずもないだろう。
 事実、伝令から伝えられた報告によって、こちらも涼州軍もさしたる被害もなく黄巾賊の一隊を壊滅させているのだから。
 運が良ければ、他の隊が壊滅したことを知らない別の隊も捉えることが出来、指揮官が率いる兵数は激減することとなるのだ。
 戦場は、もはや策通りに動いていた。

「……それにしてもあの馬鹿、こっちの許可を取りなさいってのよ」

 唯一懸念があるとすれば、涼州軍の将である馬超のお目付役――ただ、これは周囲の目に対しての体裁であり、内実とすれば馬超がご主人様と呼ぶ北郷こそが指揮をする将であったりするのだが、その彼が独断で行った黄巾賊本隊への潜入であった。
 無論、その独断がどのようにして行われたものかなど、賈駆としてみれば十分に理解出来る。 
 恐らくではあるが、黄巾賊への協力者として潜り込んだ涼州軍の若者――確か、名を庖徳と言ったと思うが、彼の救出を行うと同時に、涼州軍と董卓軍が黄巾賊本隊を攻める時の攪乱をするつもりなのだろう。
 その案は賈駆としても考えついていたし、可能であれば取り入れる策でもあったのだが。
 だからといってである――だからといって、北郷一刀本人がその潜入部隊に組み込まれているのは、如何なものだろう。

「……本当にこっちの迷惑を考えないわね、あの馬鹿は」

「へ、へぅ……一刀さんも、庖徳さんと仲良いから自分で行きたかったんじゃないかな? 旦那様って呼ばれてたし」

 でも何でなんだろう、と小首を掲げる董卓に、賈駆は大体はその理由が読めていた。
 とはいっても考えてみれば至極簡単なことなのだ、恐らくではあるが、馬超が北郷と夫婦になれば涼州の兵にとって次期主の旦那なるから、とそんな理由であろう。
 その想像に内心いらつく自分を不思議に思いながらも、いつまでもこうしている訳にもいかない、と賈駆は頭を振って想像を追い払いつつ董卓を見やった。

 最後の一手。
 董卓軍も涼州軍も己の役割を十二分に果たし、そして今、黄巾賊内部はその指揮官を失い混乱の極みにいることだろう。
 このまま放っておいても、分散した軍が壊滅したこと、そして自分達を導く指揮官が死んだという報によって、自然のうちに瓦解していくことは目に見えていた。
 だからこそ、涼州における黄巾賊をここで壊滅させておかねばならぬのだ。
 その好機が今にあって、後々に遺恨を残さなければならない理由など、あるはずも無く。
 そんな賈駆の視線に応えるかのように、董卓は一度頷いた。



 そして、賈文和の指示の下、董仲頴率いる董卓軍本隊千二百は進軍を開始する――その姿を、黄巾賊の前方に映すようにと。
 黄巾賊の逃げ場を塞ぐように、楔が打ち込まれた。
  



  **



 
「さすが詠なのです。最高のた、た……たみんげ?」

「……たいみんぐ、ちゃうか?」

「そう、それ、たいみんぐなのですよ! こちらも涼州の軍も、いつでも行ける準備を終えた時。黄巾賊が逃げるか進むかを決めかねている時という、実にいいタイミングなのですぞ!」

 遙か視線の先に黄色の集団が蠢く様と、そちらの方向へと進んでいく見覚えのある紫を基調とした董卓軍の動きに、陳宮は知らず声を出していた。
 北郷が言っていた異国の言葉――涼州の面々が言うには天の言葉とも言うらしいが、最も適した時期、という意味を持つその言葉が出てこず、張遼に教えられて慌てて声を荒げていた。
 だが、陳宮の周囲にいる面々は、そんな陳宮を笑ったりすることはない。
 それは、そういう人達が集まっているということもあるし、何より董卓軍本隊が動いたという事実がそうさせた――終幕が、始まったのだ。
 
 軽口のように応えてくれた張遼でさえ、その視線は強張っている。
 無理もない、と陳宮は思う。
 初め、安定を、董家を狙う黄巾賊の総数は董卓軍の十倍以上にも及んでいたのだ。
 西涼の馬騰の軍が協力してくれることになったとはいえ、その数は未だ五倍以上となる。
 それを策によって分割し、さらにはその少数となった一隊を壊滅させたとはいえ、既に長里を駆け一戦、しかもこちらより数も多く、組織的に動けたとはその行動が制限される村の中で戦っているのだ。
 陳宮の周囲にいる呂布や張遼、華雄は連戦の疲れなど微塵も見せはしないが、彼女達に付き従い敵陣を切り開いていく一般の兵達はそういうわけにはいかなかった。
 見るからに疲労困憊という者も、ちらほらと見えた。
 こちらからは確認出来ないが、恐らくは涼州軍の中にもそういった者がいるであろうことは容易に想像出来た。
 しかも、涼州軍はその戦力の大半を騎馬隊で占めていれば、村の中で戦闘を行ったであろう歩兵の疲労は、こちらの比ではないのかもしれないのだ。
 その中には、きっとあの男――北郷も入っているのだと、陳宮は知らず予想していた。

 だからこそ、彼を意識している張遼のみならず華雄、果てには呂布までもが緊張しているのだとも。
 陳宮は呂布と共に伝え聞いただけだが、安定救援の戦いの後、北郷は人を殺した自責によって嘔吐したという。
 人を殺しなれない、または殺したことのない人間にとって、同じ人間である人を殺すというのは非常に苦痛が生じることは、知識としてだけならば知っていた。
 未だ人を殺したことのない――賈駆から言わせれば、軍師は策を考えた時点で殺しているともいうが、直接的に人を殺めたことのない陳宮にとって、その苦痛は計り知れなかった。
 そして、彼が自責の念だけでなく、それによって今ある居場所を失うのではないかと悩んでいたことも、後に賈駆から聞いた陳宮は彼への評価を変えてみようとも思ったものだ。
 一度だけ、思案してみたことがある。
 自分が何かしらの理由で人を殺め、今の居場所――呂布の隣を失うばかりか、彼女から嫌われ、疎遠になってしまう、ということを。
 酷く悲しく、絶望して、何となしに呂布に泣きついたことは、誰にも言えない秘密ではある――もっとも、呂布の口からその事実が漏れ出ていることは、陳公台と言えども予想は出来ていない。

 一度そんな経験をしてしまえば、二度と人を殺めることなど考えられないと陳宮は思っていたのだが、だが北郷は再び戦場に立って剣を振るうと言うのだから、正気を疑ってしまうほどだった。
 
「何か思うところがあったのかもしれんな……。男、というものはよく分からんが、武人としていえばそれは成長とも言える。何か吹っ切れたことがあったのかもしれんぞ」

「男が吹っ切るゆーたら、女を抱くことちゃうかなーとは思うけど、そんなようには見えんしなあ。まあ正直なところ、一刀が沈みっぱなしちゅうのも想像出来へんし、良かったんちゃうか」

「一刀……どんどん強くなる。……凄い」 


 だからこそ、三者三様なれど董卓軍が、中華が誇る三将に認め褒められる北郷を、陳宮は不覚にも羨ましいと思ってしまっていた。
 彼女達に認められるということもあるが、何よりにも、過去という事実があったにも関わらずに、それを飲み込み再び歩める、という北郷自身をも。
 

 だからこそ、挑んでみたいとも思ってしまった。
 呂布のみならず、その他の将にまで認められていく北郷一刀。
 肩書きも能力も自身の方が上だと陳宮は断言出来るが、そんな彼に認められたい、と。
 呂布には認められているが、賈駆はもとより張遼や華雄からは未だ軍師として認められていないと思う陳宮にとって、北郷に認められるということは、彼女達からも認められることだと認識していた。
 故に、このような戦場で倒れることなど罷り成らないのだ――自身も、北郷も。

 そのついでとして助けてやればいいのですよ、などと考えながら、陳宮は周囲の三将へと指示を飛ばした。

「先陣は三つに分かれ、それぞれ霞と華雄が左右から、恋殿が中央から切り込んで敵の勢いを削っていくのですよ。そうすれば、最精鋭の本隊が攻撃を仕掛け、涼州軍も切り込んでいくのです」

「ははっ、我が隊の精鋭達だ。あやつら達がいけば、勝利など後から付いてくるわ」

「よっしゃぁぁ、腕が鳴るわ! うちは左から行くでぇぇぇぇ!」

「恋……真っ直ぐ行く。…………ねね、女の子頼む」

 張遼が左、華雄が右から黄巾賊へと駆けていく中央を呂布が駆け抜けていくのを見送った陳宮は、ふと傍らに控える兵へと視線を向けた。

 軍というのは、何もその全兵力を戦いへと向けるわけではない。
 その割合の中には輜重隊や救急隊、軍楽隊や馬の控えを引く者など多様に及ぶ。
 今回の状況ではそういった者達は連れてはいないが、かと言って全ての兵力を一気に押し当てることなど、陳宮はしなかった。
 五千の兵を二つに訳、先の村の攻防では半分を、今では残りの半分を前線へと押し出していた。
 これは兵の疲労という面もあるし、いざという時の援軍にも成りうることが出来るのだ。
 さらには、戦場の周りに斥候を放ったりするなどの様々な雑事を行うことが出来るのだが、その兵のうちの一人――華雄隊に次ぐ精鋭を誇る呂布の隊の一人の馬へと視線を向けた。
 その兵――確か高順とかいう女性兵士だったが、その背中には一人の少女が括り付けられていた。
 常の戦場であれば負傷した者などが居座るその位置ではあるが、彼女はどこも怪我をしている訳ではなかった。

 村の攻防に入る直前、黄巾賊の面々によって陵辱と恥虐の限りを尽くされようとしていた、あの少女である。

 緊張の糸が切れたのか、呂布達が助けに入った後は急に意識を失ったのだが、命に別状は無く、しかしと言ってあの村に起きっぱなしと言うわけにもいかなかったので、呂布の別名を受けた彼の女性兵士に背負われる形でここまで運ばれて来たのだった。

「しかし……なんとも気の抜けた顔を……。これではあの男にそっくりではないですか」

 すやすや、と。
 まるで昼寝でもしているのではないかと思えるぐらいに穏やかな顔のその少女に、陳宮は知らず愚痴を零す。
 それを見てくすり、と笑う女性兵士を一度睨み付け――陳宮は知らぬことだが、彼女の周りにいる兵からすれば背も小さく威厳の無い彼女の睨みは非常に和むものなのだが、そういったことに気付くことなく、陳宮は再び戦場の方へと視線を移した。 

 騎馬隊が主力の涼州軍が共闘相手にあって、その機動力と均一にするために部隊の大半は張遼が率いている騎馬隊で構成されている。
 その機動力をもってしてか、先ほどまで周囲にいた三将は、既に戟を振り上げながら黄巾賊へと肉薄する前であった。
 まるで、作り上げた砂山を子供が削り倒すようにその姿を削られていく黄色の群衆に、当初危惧していただけの抵抗がないことを見抜いた陳宮は、勝利を確信した。


「勢いも天運もなく、今また指揮官もおらず……。敵ながら可哀想なのですな……」

 もはや軍としての機能どころではなく、その形を留めるのも難しいであろう黄巾賊にそんな感情を抱くが、だからといってここで見過ごすわけにもいかないのだ。
 陳宮はぐるりと周囲を見渡す。
 今近くに残っている兵は、先の村で戦闘した面々の中枢であり、その内実は負傷兵やら消耗の激しい兵であった。
 これ以上の無理を強いるには厳しいとあって残ることになったのだが。
 周囲を見渡していく陳宮の視線に、皆一様に頷いた。

「涼州の兵ばかりか、我らが将軍ばかりに戦わせては董卓軍の名折れです。なに、疲れや怪我など戦場では茶飯事、今更何を気にすることがありましょうや――何より、数倍の敵を打ち倒す、それを成すというこれだけ昂揚する戦で戦わぬなど、武人として我慢出来るはずがございませぬ。故に公台様、是非にご下知を」

 そういう女性兵士の言葉に、先ほどまでヘロヘロで立つのも難しいと思われていた者達までが、声を――獅子の如き咆哮を上げた。
 獣臭さも、欲も、そういったものを感じさせないその咆哮は、しかして自然へ、大地へ、風へと戦い挑まんとする獅子哮だった。
 普段であるならば、そのような願いなど聞き届けるはずは無かった――効率、死傷者への手当、女性兵士に背負われた少女を呂布から託されたことなど、普段の陳宮であるならば、そのような無茶な願いを聞くことは無かったのである。
 だが、挑む、と決めてしまった陳宮ではどうかと問われれば――震える感覚が、その答えであった。


「……死ぬことは許さないのですぞ?」


「応ッ!」


 だからほら。
 その獅子哮に答えるかのように強くなる震えによって、陳宮の決心は固まった。

「よろしい、いい返事なのです。……張遼、華雄両将軍の左右を固めつつ、黄巾賊を押すのです! 後方の包囲していない方へと押せば、勢いに劣る黄巾賊のこと、必ずやそちらへと敗走を始めるのです。その時が好機、一気に押しつぶすのですぞッ!」

「応ォォォォォォォォッ!」

 陳宮の指示を受けて、今や今やと解き放たれるのを待ち望んでいた獅子達は、その戦場へと解き放たれる喜びによって、一層高い咆哮を上げた。。
 一応は陳宮自身の護衛と少女を背負う女性兵士はそれには参加することは無いが、それでも陣を進めるということに、陳宮自身昂揚していることが自覚出来た。
 それでもなお、周囲への警戒は続けるが。
 


 遙か彼方にあった勝利は、今や目前にまで迫っていて。
 陳宮は、何かを――それこそ挑戦状を叩きつけるかのように、高く上げた腕を振り下ろした。



「突撃なのですッ!」


 

 



[18488] 二十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/08/28 12:43



 怒声、そして喚声。
 やれ董卓が来ただの、騎馬隊が来ただの、呂奉先や華葉由が来ただのと騒ぎ立てる黄巾賊の中にあって、俺は無意識に剣の所在を確認していた。
 敵の中にあって力の拠り所を探すなど心が弱い証拠じゃ、と祖父ならば言うだろうが、いざその状況に放り込まれればそれどころでは無かったりするので、許して貰いたいものである。

「……大丈夫でござるよ、旦那様。拙者達が付いているでござれば、何ら心配は無用に」

 そんな俺の心中を察してか、馬超様の婿を死なせる訳にもいかぬしな、とカラカラと笑う庖徳に、幾分か力が抜けていくと共に未だにその話を引きずるのか、ここが戦場であってもとついつい脱力してしまう。
 そういうわけではない、と反論しても良かったのだが、それをすれば噂を広めつつある馬岱、その先で彼女へと指示を出しているであろう馬騰が余計に噂を広めてしまったりして被害が増えるだけなのだが――これはあれか、本人達を置いておいて外堀から埋めていこうという作戦なのか、とつい疑ってしまう。
 それを庖徳に問えば、正にその通りでござる、と俺の知る限りでは武者やら侍やらが使っていそうな言葉遣いで断言されそうで、怖くて聞けないのだが。
 本当、何故にこんな歳で神経をすり減らしているのでしょうかね、俺は。

 
「そうだよお兄様、令明の言うとおり。蒲公英達がいれば大丈夫なんだから」

「……そもそも、その伯瞻殿が何故ここにいるのかが問題なのですが? いくら、その……男の格好をしている、とはいえ」


 そして、先ほどまで怖くて見ることが出来なかった方向から声が聞こえれば、いよいよに諦めてそちらへと視線を移す。
 普段頭頂部の横で纏められている栗色の髪は後頭部で止められており、彼女が敬愛する馬超の如き髪型で。
 橙を基調とした可愛らしい服装に身を纏うことなく、普通の男性の民が纏う平服のようなものを着ている。
 態とらしく汚された頬や服から見てみれば、村や町の中を元気に走り回る少年――磨けば光るとでも言えそうな少年が、そこにいた。
 とはいえ、その着替えの一部始終を――というよりは、その少年に扮した馬岱に無理矢理に同じ天幕で着替えさせられただけであり、見たというよりは見られたに近いのだが――共にした俺も、馬岱と同じような服を纏っていた。
 とは言っても、俺の場合は聖フランチェスカの制服を脱いでその上から平服を羽織っただけであるが。


「男の格好をしているとはいえ、伯瞻殿は女の子なんですよ? もしばれてしまえば、如何様な目に遭うかは理解しているでしょうに……」

「蒲公英が襲われちゃうって? んふふ、心配してくれてるんだー?」

「勿論、心配ですよ。伯瞻殿は可愛いんですから、自分の価値をもう少し認識して下さい」

 端から見れば美少年というほどではないが、悪戯っぽく笑うその表情やコロコロと笑う表情には妖しさはなく、一種清純な色気があった。
 砂泥に塗れたその頬や肌の上を汗が一筋つたっていく、その光景に不覚にもドキリとしてしまうのを、俺は周囲を警戒するように頭を巡らせて何とかこうとかに誤魔化した。
 そもそも、馬岱は女の子であると自分で言ったばかりなのだ。
 男の格好をしていても女の子であって決して男としての馬岱に見惚れたわけではなくてでもその馬岱は可愛い女の子で男の格好をしていて、と一体何が考えたかったのかと思考が茹で上がりそうになるまでに思考していた俺は、いよいよ苦しくなって周囲の警戒へと意識を移した。
 あのままであれば、頭に血が巡って倒れるか鼻血が出るか、どっちにしろ馬岱にからかわれそうな状態であるのだ。
 馬超との嫁婿の問題をだしにして、今また先ほどまでの俺の葛藤もネタにされては敵わないのだが、しかして一言もそういったことに言及してこない馬岱に気を取られれば、周囲の警戒など出来ようはずもなく、俺は馬岱へと視線を移したのだが。


「……」


「…………伯瞻殿?」


 何故だか遠くを――それこそ、ボーともポーとも表現出来そうな感じで見ていれば、段々と朱に染まっていく頬に首をかかげる。
 敵に囲まれているという状況で興奮でもして熱が出たか、と思って庖徳へと視線を移せば、面と向かって溜息をつかれてしまった。
 くそう、俺年上なのに、威厳なんか微塵も――まあ、初めから存在しないけどもさ。
 そうして、付き合いきれませんな、とばかりに肩を竦めた庖徳は、呆れた視線を俺から外すと、周囲で騒ぎ立てる黄巾賊を警戒していた涼州兵の元へと歩いていった。
 遠くを見れば、既に予定通りに董卓と賈駆がいる本隊がこちらからも見える位置にまで動いてきており、その動きに合わせるかのように馬超率いる涼州軍と一応華雄が将軍となっている董卓軍が、黄巾賊を挟撃するようにと動き始めていた。
 その動きはまるで生き物の如く脈動しているかのようで、食いついたら離れることのない獣のもののようにも見えた。
 なるほど、味方である俺でさえその動きに圧されるのだから、敵である黄巾賊の恐怖は計り知れないものだろう。
 よくよく聞いてみれば、周囲からも、降伏の言葉が聞こえ始めていた。


 タイミング的には今、か。
 兵と状況を確認していた庖徳もまたそう気付いたのか、つい、と動かした俺の視線に頷くことで応えてくれた。
 あとは馬岱だけなのだが……如何せん、未だ虚空を見つめていた。
 元に戻るのを待ってもいいのだが、どれだけの時間がかかるかも分からない――さらには、庖徳やら涼州の兵やらが、さっさと動かせよ、と視線で催促してくるものだから、そのままにするわけにもいかなかったりもする。
 かといってどうすれば――と思った俺は、とりあえずその頭を撫で回してみることに決めた。
 うん、砂泥に汚れていても、サラサラの髪って触ってみたくなるよね。
 きっと及川なら、髪フェチか、と突っ込むとこだと思う。


「きゃわっ!? お、お兄様一体何を……ッ?! にゃふん!?」

「ぐーるぐーるぐるぐる。……どうですか、伯瞻殿? 目は覚めましたか?」

「むー……起きてるよー」

 撫で回す、というか、どっちかというと頭を振り回すに近いことをしてみれば、くるくると目を回したという何となく珍しい馬岱を見ることが出来た。
 サラサラの髪は十分に堪能出来たし――って違う違う、虚空を見つめることを止めた馬岱は、目を回したという不快感に顔を顰めて、乱れた髪を整え始める。
 唇を尖らせて不満をぶつけてくるその様が年相応のようで――いやまあ、普段の悪戯をする様も年相応、もしくは若く見えるものではあるが、そんな馬岱に知らず頬が我慢出来ずに微笑んでしまえば、何故だか再び頬を朱くされてしまう。
 再び呆然とされては不味いと、俺は反射的に口を開いた。

「伯瞻殿、時は今、です。行動を今起こすことによって、この戦の最後の一手となります。……準備はよろしいですか?」

「……うん、お兄様に掻き回されちゃってガクガクだけど、蒲公英はいつでもいいよ」

 そう言う俺に、息を整えた馬岱が至極真面目な顔をして頷く――その言葉遣いがどことなく蠱惑的ではあるのだが、まああまり気にしないでおいた方がいいだろう、主に俺のために。
 それを証明するかのように、すぐに庖徳へと視線を移した俺の背後で面白くなさそうな呻き声が聞こえるあたり、先ほどの台詞回しが態とであると暗に示していたのだが、とりあえず今はそれに構っている場合ではないので無視しておく。
 俺の意図と同じであった庖徳が頷くのに俺も頷きで返すと、俺は勢いよく剣を引き抜いて空へと掲げた。



「生を求め、糧を求め、彼方から付き従ってきたがそれもままならぬとあれば、未だ黄巾の教えに縋り付く理由は無し! かくなる上は、黄巾の教えを捨て敗兵なれど降伏し、この命救う他にしか道はない! 我と共に来る者は、黄巾を捨てて我に続けぇぇ!」


 
 似合わない口上――賈駆と陳宮が俺でも様になるようにと考えられたそれを、覚えた通りに声へと出すのだが、なんというかあれである、自分でも似合わないと思うよ。
 まあ元々は降伏勧告のための口上なのであって、降伏の同志を増やすためのものではないのだから、それも当たり前なのかもしれないが。
 天の御遣いという俺の肩書きを最大限に利用して、降伏する数を増やすのが最大の目的ではあったのに、外からよりは内からの声の方が降伏の勧めが効くだろうという俺の独断によって、それも泡へと消えた――きっと本隊では賈駆が烈火の如く怒っているのだろうと思うと、ゾクリと視線で射抜かれた気がして、背筋を振るわせた。


「なッ!? き、貴様、大賢良師様の教えに逆らうと――ガフッ!?」

「拙者、黄巾を捨てるでござるよ! 黄巾の教えでは腹も膨れぬ、家族も養えぬでござれば長いは無用、早く降伏するでござるー!」

「蒲公――じゃなかった、ぼくも降伏するぞー! 黄巾なんかもうたくさんだー!」

 そして、俺の声を反乱分子と受け取ったのか、黄巾賊の部隊指揮官らしき将が俺へと近づいてくる。
 その手は既に剣の柄へと伸びていて、俺の受け答えによってはすぐさまに引き抜かれるであろうことは予想出来た。
 だがそれも、その将がそれまで黙っていた庖徳の傍を通る時に、彼によって叩きのめされることで裏切られることとなる。
 その庖徳の行動は、先ほどまで俺の提案に付くかどうかを考えていた面々の気持ちを方向付けたらしく、彼の後へと続くかのように声が上がっていく。
 俺も、我も、僕も。
 それらの声は、互いが互いを増長させるようにどんどんと増えていき、俺の周囲を覆い尽くすまでになっていたのである。
 庖徳の声に反応して周囲へとそちらの方がいいのでは、と思わせる予定であった――つまりはサクラであった馬岱や同じように潜伏中の涼州の兵達もこれには驚いていたが、それでも自分達の任をこなさなければ、と慌てて声を上げ始める。
 そしてそういった声に、黄巾の教えにではなく、生きる糧を求めて仕方なく黄巾を纏っていた人達がそれに呼応することによって、さらに大きな声へとなって賛同者を集めていったのである。
 そういった人達の多くが、渭水から黄巾賊に参加した人達だ、と戦いが終わってから気付くことになる。



 黄巾に頼るな、降伏すれば飯が食えるぞ、等々。
 黄巾に縋り付くよりも降伏した方が糧を得られる、その意味を含めた言葉を騒ぎたてながら、周囲でそれに抵抗しようとする黄巾賊の兵を切り伏せていく。
 その途中にも呼びかけていけば、外から迫り来る軍と、内から食らい破らんとする反乱兵に気圧されてか、徐々にと賛同する人達が増えていった。
 数万――先だって万程度の部隊を二つ潰し、ある程度の兵を削ったことから四万程度と考えられるが、その黄色の群の中で生まれた小さな固まりは、徐々に、そして確かに脈動しながらその規模を広げていった。
 そして、その数が数百、数千を超えて万に届こうかという時になって、開戦当初にあった戦力差はその殆どが消え去り、今や覆ったと言ってもよいほどであった。



 そして今――



「生きるため、食うために、まずは董卓軍本隊と合流するために道を切り開く! 続けぇぇぇぇぇ!」



 ――勝敗が、決しようとしていた。





  **





「くっ! まだ負けてはおらん、懸命に押し返せと伝えろ! 数はまだこちらの方が上なのだ、一気呵成に押しつぶせッ!」

 臨時の指揮官である韓忠の指示に圧され、それまで押されていた黄巾賊は一時的に優位へと立つことが出来たが、しかし相手の勢いに飲まれれば再び押し返されることとなった。
 その光景に再び声を荒げるが、今度は相手を押すことはなく、後ろへ後ろへと押し込まれることとなる。

 どれだけ声を荒げても、口では何と言おうとも、この戦い、黄巾賊が破れることを韓忠は理解していた。
 元々南陽黄巾賊において部隊を指揮していた韓忠であったが、共に張曼成の配下であった趙弘に涼州方面軍の指揮権が移ってからは、さらにその下で部隊を指揮するという役目に当たっていた。
 多くの軍を見て、多くの戦を戦ってきた韓忠にとって、今日この場で黄巾賊が負けることなどは、ある意味自明の理でもあった。
 補給の見込めない敵地での戦闘、勢いだけに任せた進軍、現地兵調達での指揮系統の混乱、なにより情報が足りなかったのである。
 先にもって偵察の兵を出すなり密偵を出していれば、この戦場で対峙するのが董卓軍だけではないことは知れていたであろうし、相手の策の一部分だけでも知ることが出来たかもしれないのだ。
 それを知ることが出来なかった理由はただ一つ、趙弘がそれを知ろうとしなかった、ただこれだけである。
 

「くそっ、趙弘のやつめ! 面倒ごとを起こしよってからに! これでは儂の命が危ないではないか」

 だが、韓忠からしてみればそんな趙弘の指揮下に入ることに、さしたる不満は無かった。
 将として、武人として趙弘に劣っていることは己で理解していたし、彼のように強い敵や困難が好きなどということもない。
 ただ唯一としてあるのは、自身の欲を叶えて楽しく生きることである。
 もしこの場に天の御遣いがいれば、高校生みたい、或いは自己中心的だ、等と言われるであろうその生き方は、しかして韓忠としてみれば特別変わったことではなかった。
 そう思うことが自分にとって普通だと思っていたし、であるからこそ、それを叶えることが出来る黄巾賊なんぞで将をしているのだから。
 飯を食いたい時に食うことが出来、寝たい時に寝て、女が欲しい時に抱く――それらの行動が他人から奪い取るものであったとしても、さも奪われるのが悪いのだと言わんばかりであった。

 だからこそ、現状において自身が陥っている状況を、韓忠は我慢出来なかった。
 今回、涼州方面軍に付いてきたのも、噂から董卓の収める石城や安定が富んでいると聞いたためであり、自身が欲するものが出てくるかもしれないと思ってのことだった。
 当初の話であれば、董卓の兵は数少なく、正面から踏み潰していけば苦戦することなど何もない、そう聞かされていたのだが――


「――ちっ、趙弘も張曼成も、決して役に立ちはせん。やはり頼れるのは己のみ、ということか……。おい貴様ら、儂のために壁となって死んでいけ。大賢良師様に貴様らの奮戦ぶりを伝えおいてやろう」

「は……はっ! あ、ありがとうございます!」

 結局のところ、仮面の男に騙されていたか、と思い至った韓忠ではあったが、それに別段構うこともなくすぐさまに思考を働かせる。
 騙し騙され、など戦乱の常であり、それが実際にどうなどと気にする必要もないと感じていたからだった。
 現状で考えなければならないことはただ一つ――自身がどうやって生きるかである。
 まあ、名も無き兵を壁にして後方へ引けば助かるだろうと閃いた韓忠は、すぐさまにその指示を下す。
 初め、暗に死ねと伝えた韓忠に対して怪訝そうな表情を向けた兵達ではあったが、大賢良師――つまりは黄巾賊の頭首である張角に自分達のことを伝えてもらえる、と聞けば、韓忠からの指示はすぐさまに張角からの指示へと変貌したのである。
 黄巾賊の中には、その兵達のように張角に崇拝を捧げる者は多い。
 韓忠からしてみれば、あのような小娘に――まあ発育は良かったが――命まで捧げるなど考えられないことであった。
 だが、とふと考えてみれば、その崇拝は使えるものでもある。
 何かしらの手を使って――それこそ、男として張角とその妹達である張宝と張梁を侍らすことでも出来れば、全土において暴虐に暴れ回っている黄巾賊とその頭首である小娘は、自分のものとなるのだ。
 それもまた一興だな、と下卑た笑みを浮かべた韓忠は、とりあえずの目的地を黄巾賊本軍がいる華北と定め、近くにいた兵から奪った馬の踵を返し――



「おおっと、逃がさへんで。あんたが指揮官やな? その首、貰いに来たで」



 ――その進行方向を、一人の女によって塞がれることとなった。








「……何者だ、貴様――まあ、董卓の兵の一人だろうがな、その貴様がここで何をしている? 武功に逸ったか?」

「言うたやろ、あんたの首を貰いに来たってな。大人しく観念する言うんならそれで良し、せんのなら首を貰うで」

 まるで、そこらにある物をちょっと借りるとでも言うように韓忠の命を奪うといったその女に対して、シャキン、と韓忠は一般の兵のものよりも遙かに上等な剣を抜いて応えた。
 肩に担ぐ獲物こそ畏怖を示すかのように龍を形取っているが、自分を大きく見せたいがためにそのような意向にする者を多く見てきた韓忠にとって、それは大した問題では無かった。
 今問題なのは、目の前にいる女がどれだけの使い手なのか、ただそれだけである。
 武には少々自信があるとはいえ、それでも趙弘に負けるあたりそれほど才覚が無いことを自覚している韓忠は、無駄な戦いをしようなどと考えはしなかった。
 ただ、周囲にいる兵でどれだけの時間稼ぎが出来るほどの武なのか、だけである。
  
「……ふん、なるほどな。だが、儂とて簡単に死ぬ気もない。おい、お前達! この女を倒せば、好きにしても構わんぞ! 自分の女だろうが、奴隷だろうが、道具だろうがなッ!」

 だが、そう考えるのも馬鹿らしい。
 如何に豪傑でも、韓忠の周りにいるだけで十人以上いるのだ、これだけの数を相手に出来る筈もない。
 胸はサラシを巻いただけ、見たこともない腰巻きから覗く肌や腹のくびれは酷く扇情的であったらしく、韓忠の言葉にその全てが歓声を上げた。

「うげー……やっとれんわ」

 そんな兵達に心底からの嫌悪を顔に表した女の言葉を無視して、韓忠は馬の踵を再び返す。
 兵に敗れ、押し倒される女の痴態を見ても良かったが、このままここに残れば最終的には董卓によって破れることが決まっているのである。
 それこそ自分の命が危険な状況なのだ、わざわざその渦中に残ることもあるまい、と韓忠は馬を駆けさせ始めた。
 気の強そうな女を屈服させるのも楽しいが、如何せん胸がでかすぎる――小振りのほうが趣もあるしな、と韓忠は馬の速度を上げた――



「逃がさへんって言うたやろ? 観念しいや」



 ――その横を、さも当然かのように先ほどの女が馬を駆けらせていた。



 
「なっ!? き、貴様、どうやって……?!」

「どうも何も、全部叩き伏せたに決まっとるやないか。まあそれはええ、ほな、いくで」

 ちらりと先ほどまでいた場所を見てみれば、女の言葉を示す通りに、先ほどまで韓忠の周りにいた兵達が地に倒れているのが見えた。
 信じられないことではあるが、女が言っていたことは本当のことらしい――そして、そこでようやく韓忠は女の武がどれほどか、それこそ韓忠からすれば天と地ほどの差があることに気づいた。
 それを示すかのように韓忠が女へとむき直した時には、一瞬にして韓忠の視界は白銀へと染まった。
 

 そして、その意識が完全に闇と同化する直前。
 女は胸やない、と女の声が聞こえたのは気のせいだったのかもしれないが、もはやそれすらも理解出来ぬままに、韓忠は先ほどまで己の身体であったモノを、生気のない瞳で見つめていた。




 **




 そして、戦場に一際大きな声が響き渡る。

 敵将、張文遠が討ち取ったり、と。

 もはや瓦解寸前にまで追い込まれていた黄巾賊は、それによって完全に崩壊を始め、ある者は降伏し、ある者は黄巾の教えに最後まで縋って死んでいった。
 当初六万とまでいわれた黄巾賊は、その殆どが散々に打ちのめされることとなり、黄巾を見限って降伏した数千以外は、討ち取られたか、逃散していた。
 
 一方の董卓軍と涼州軍であるが、こちらも連戦による疲弊した者や負傷者などはかなりの数に上り、また戦死者にも多くの名が挙がった。
 だが、損害は大きくとも、それでもなお守るべきモノを守ることが出来たのである。
 多くの兵はそのことに喜びの声を上げ、いつしかそれは、戦場を覆う勝ち鬨の声へと変わっていった。

 


 後に、渭水安定の戦いと呼ばれることとなる戦いは、こうして幕を閉じたのである。
 





[18488] 二十五話  黄巾の乱 終
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/09/09 12:14


 朝靄に埋まる安定の街中。
 餌を求めるために鳥が飛び交い、朝を知らせるように鶏が甲高い声を響かせている中、相も変わらずに、俺は城の一室にいた。
 無論、いつものやつ――朝早くから積まれた書類の処理である。


 大豆などの畑を増やしたいので用水路の数を増やして下さい――財政と農畜の担当へ指示書を出しておきます。
 新しい戦術を考えたので検討して下さい――賈文和または陳公台にその概要を提出し指示を受けて下さい。 
 最近食い逃げが頻発しているとの報告があります――警邏に出る各将軍に話しておくと共に対応策の検討をしておきます。
 城壁の補修用資材が足りなくなってきてますので補充をお願いします――担当官の方へ伝えておきますので早急に対応します。
 董卓様が綺麗で可愛くて生きているのがつらいです――華雄将軍に伝えておきますので死ぬほど調練してもらいに行って下さい、むしろ逝け。
 警邏中に会ったあの子のことが気になるんですけどどうすればいいですか――むう、俺も経験が無いからよく分からんがまずは話をしてみることが大切……えっ、相手男?君も男だよね?ま、まあお互いによく話し合ってだな、意見を尊重しあえばいいと思うよ俺はうん。


 などなど、途中から今いち理解不能な問題があったりしたかもしれないが、さして気にすることなくそれらの提案書やらなんやらを片付けていく。
 どうにかこうにかそれらの書類やら竹簡やらを纏めると、今度は別の山へと視線を移す。
 先の渭水から安定までの戦いにおいての論功論賞のための勲功一覧作成、戦死負傷者等の割り出し、囮とした村々の復興のための資金や資材の必要分の算出及び調達、等々。
 先の戦が終わって数日、ようやく街や軍も落ち着きを見せ始め、俺としてもそういった仕事が来るであろうことは予測していたのではあるが――何というかである、ちょいと数が多いような気がするのは気のせいだろうか。

「あ、あの、北郷様……?」

「んー、ああ、その辺にでも置いておいて下さい」

 そしてまた、数人の侍女が持ってきた竹簡やら書類によって、新たな山が出来上がる。
 ちらりと見てみれば、どうやら軍方面からの提案書らしく、どうにもミミズが這ったようにしか見えない文字がつらつらと並んでいた。
 文章の最後に『華』と押された印に、思わず苦笑してしまった。

「えーと……これは装備関係……こっちは部隊運用に関して……なんだこれ、詠からだ。なになに、新兵の運用方法についての検討書の提出? 俺じゃなくて霞や葉由殿の仕事だろ、これ……」

「えーと、北郷様、これは一体どちらへ?」

「ああ、すいません! えっと、そこの端にでも置いておいて下さい」

 そうやって一通りに目を通していけば、再び文官の一人が腕一杯に持ってきた竹簡によって、また新しく山が出来た。
 まあ、今回のは先ほどの侍女達の分よりは少ないので、些か楽そうではあった。



 だが。

「北郷様、財政担当からの報告書です。あと、市井への予算をどうするかとご相談が――」

「北郷様、将官の方々から模擬戦の要望書です。それに関して場所を決めて欲しいと――」

「北郷様、賈駆様から街の有力者との会談に出るようにとのご連絡ですが――」

「北郷殿、伯約が聞いてまわった民からの提案や要望を纏めた書を持って来ましたが――」

「北郷! 調練をするぞ、武器を取れッ!」

「一刀、酒呑もう! ほらほら、早く行こうやッ!?」

「……一刀、セキトと遊ぶ?」

「お前の意見を聞きたいのです! これなのですが、どう思うのですか!?」

 こうも次から次へと来ると、どうにもこうにも立ち回らなくなるのは当然のことであり、さもすれば、作業効率が低下するのも当然であった――なお、自分達の仕事は済んだとばかりに部屋を訪れた方々には丁重にお帰り頂いた、具体的には暇なら手伝えという言葉で追い払ったとも言える。
 塵から山へ、山から山脈へとなるように積まれていく書類と竹簡を出来るだけ見ないようにしながら、俺は人知れず溜息をつく。
 本当、なんでこんなことになっているのか、と。
 戦の前にもある程度の仕事があるにはあったが、現状はそれどころの話ではない状態である。
 それこそ。
 全ての仕事が、一旦俺を介しているかのように。

 それが自分の預かり知らぬものであるならば、誰々がさぼっているのだ、と開き直る――もとい、諦めることも出来るのだが……あれ、あんまり変わらないような気が。
 まあそれはともかくとして、何故こんな現状になっているのか――明確に言うのなら、何で俺に宛がわれた執務室の壁が書類と竹簡げ埋め尽くされているのか、であるが、それに心当たりのある俺は、再び溜息をついた。
 本当に、なんでこんなことになってしまったのだろう、と。



 ただ一言、了承をしただけなのに。 





 **





 勝利。

 その二文字は、多くの軍が求め得ようとするものであり、もっとも得難いものでもある。
 人が人として在り始めて後の世、それを求めるだけに生きている人達だっているのである。
 それほどに得難く、尊く、そして甘美なそれを携えて、董卓軍と涼州軍は安定の門をくぐった。


 
 黄巾賊との決戦。
 当初の六万対一万という絶望に覆われていた戦いは、当初の予想を大いに覆して連合軍の勝利に終わり、軍の内部からは奇跡とも、各々の将兵達の奮戦の賜ともの声が上がっていた。
 無論、そのどちらとも言うことが出来るし、或いは軍師達による策が嵌っていた時点で勝利は確実なものだったという智者もいたりはするのだが。
 まあようするに、である。
 そういったことを話せるだけには落ち着いた状況であり、また議論するほどに勝利の興奮に身を委ねているのではあるが――どうやら、それは戦況を見守っていた民達も同じだったらしい。
 二列に並んで安定へと入った董卓軍と涼州軍、その両者を待ち受けていたのは歓声の嵐であったのである。

「董卓様、ありがとうごぜえますだ! これで安心して畑を耕せますだ!」

「賈駆様ー! その鋭い眼差しとその知謀、そこに痺れる憧れるッ!」

「おお、あれが天下無双と豪語する華将軍か。あの佇まい、まさしくその通りよ」

「張遼様、またいい酒入れときますんで、呑みに来て下さいよー」

「呂布様も、肉まんを用意しておきますから、来て下さいね」

「陳宮様、今日も可愛いですぞー!」

 などなど。
 見渡す限りの人――それこそ、安定中の人達が賛辞を述べるためにここに集っているのではないかと思えるぐらいの声の多さに、董卓軍の面々はそれぞれに応対しながら道を進んでいった。
 まあ、董卓が誉められて照れたり握手を求められたりすると賈駆が睨んでそれを押さえ込んだり、天下無双と呼ばれて鼻を高くした華雄が回りとの歩調を考えずに先に先にと進んだり、酒と肉まんがあると聞いた張遼と呂布がそちらへ流れるのを陳宮が服を引っ張って止めたり、と。
 大勝利の中にあっても常日頃となんら変わらない董卓軍の面々に、俺はどことなく居心地の良さを感じていた。

 ふと視線を移してみれば、涼州軍でも同じような感じであった。
 馬超が誉められて顔を真っ赤にして慌てれば馬岱がそれを宥めつつ引っ張っていく、庖徳はのんびりと軍を纏めて行進していた。



 


 そんな軍の一角にて、俺も慣れぬ手つきで馬を歩かせていた。
 戦場で勢いよく駆ける分には気前よく走ってくれるのだが、どうにもこういった混雑した所を歩くのはお気に召さない俺の馬は、いつでも走れるといったばかりにいきり立っているようだった。
 ならもう少し気性の大人しい馬に乗れば、ということになるのだが――いや、まあうん、こいつしか乗れる馬がいないのだから、仕方がない。
 語るも涙、聞くも涙――馬岱から言わせれば前者はそれまでの苦難と痛みを思って、後者はその話を笑って――というエピソードがあったりもするのだが、それはまあ、割愛しておくとしよう。
 
「……一刀、疲れた?」

「ふん、これしきのことで疲れるなど、軟弱者なのです。そのような者が恋殿と同じ将軍となろうなどと、百年早いのですぞ!」

 自分の馬に乗るまでの課程を思い出して沈んでいる俺の横へと、呂布が馬を寄せる。
 紅い身体に炎のような鬣を持つその馬に跨る呂布、その馬が赤兎馬かどうかは分からないが、これが人馬一体か、と言えるほどの風格を携えていた――その呂布の前に、ちょこんと陳宮が座っているために台無しではあったが。

「大丈夫ですよ、奉先殿。心配して頂いてありがとうございます。公台殿は……まあ、面目ない」

 分かればよろしいのです、と鼻をならして胸を張る陳宮から視線を外して、そんな陳宮の頭を器用に撫でる呂布へと視線を移す。
 片手で手綱を引いて片手で撫でる、そんな芸当を俺がしようものなら、すぐさまに跳ね飛ばされるのは目に見えていた。
 というか、そもそも陳宮は疲れるようなことをしたのだろうか。
 まあ、それを聞けば最近日常になりつつある跳び蹴りを喰らうことになりそうなので、言わないでおいた。 

「それにしてもお疲れ様でした、奉先殿。張、華の両将軍と共に黄巾賊の陣を散々に打ち破ったと聞きましたが……あー、全然疲れてなさそうですね」

「……ん」

「恋殿はお前なんかとは違うのですぞッ!」

 そして、社交辞令とばかりに俺も呂布に対してお疲れと言おうとしたのだが、ふと彼女の状態を確認してみれば、服やらは常と変わらず、手綱を持つ手で器用に支えられた方天画戟は汚れも痛みもない。
 さらには、特に問題はないとばかりにけろりとされては、それを口に出すわけにもいかなかった。
 同じ時間を戦場に立っただけでへとへとな俺とは、天地ほどの差である。
 そんな俺を気遣う視線を送ってくれる呂布に、少しだけ和んだ。



   


 そんなこんなで城へと辿り着いた俺達は、その一室へと集った。
 外からは未だに歓声が聞こえ、まるで祭りでもしているかのような――後に本当にしていたことが判明する――賑やかさの中にあって、その部屋の中は静かであった。
 その議題は、当然のことながら黄巾賊への対策である。

「それじゃあ……まずは、みんなお疲れ様。厳しい戦いだったけど、今日勝てたことはみんなの働きのおかげよ」

「はい、詠ちゃんの言うとおりです。特に馬超さんと馬岱さんには、大変感謝しています」

「えへへ、そう言ってくれるのは嬉しいけど、翠姉様と蒲公英だけじゃ勝つことは難しかったと思うよ。翠姉様、イノシシだし」

「そうそう、わたしと蒲公英だけじゃあ――って、誰がイノシシだ、蒲公英ッ!?」

「なっはっはっは! うちにもイノシシはおるから気持ちは分かるで、なあ華雄?」

「うむ、よく分かるぞ……ん? これだと私がイノシシみたいではないか?」

「う、うわっ!? 孟起殿、ちょっと落ち着いて下さいよッ!? 霞もちょっとは空気を読んでッ!?」

 今回の戦では勝利を収めることが出来たし、多くの兵力を潰すことが出来たことによって、当分の間は黄巾賊が活発な動きをすることはないように思えた。
 だが、それでもその勢力は健在であり、いつまた牙を剥くとも限らないのだ。
 それこそ、である。
 過大な表現も含まれているのであろうが、黄巾賊百万、この全てがもし安定を襲おうとするのであれば、いかに馬騰の西涼などに助けを求めてもどうすることも出来ないのである。
 だからこそ、勝利したとは言え、黄巾賊の勢力を削れたとは言っても、その新たな対策を講じることは無駄になることはないのだ。
 
 だと言うのに。
 そんなことなどお構いなしにいつものように騒ぎが起こり始めるのを、俺は苦笑しながら見ていた。
 俺が知る三国志という歴史の中で、後の世となっても英傑と数えられるその面々を見ていれば、例え百万もの敵が攻め寄せてきても勝てる、と思えてくるから不思議でならない。
 そして、そう思える人達だからこそ、人は英傑と呼ぶのだと、何だか不穏な空気が流れ始めた面々を見てそう思った。 
 
 そして、話し合いなど気にすることもなく、馬岱を追って馬超が、張遼を追って華雄がそれぞれ追いかけようとするのを、後ろから腰に腕を回してどうにかこうにか押さえた――ええと、柔らかくていい匂いがしました、汗かいてるはずなのに甘い匂いとはこれ如何に。
 これ以上被害を広げないで、などと俺の意見が聞かれるはずもなく――馬超は、俺が腰に手を回したら真っ赤になって止まったが――張遼に言われた言葉の真偽を何故かしら俺に聞いてくる華雄を宥めて、どうにかこうにか賈駆に議題の進行を促した。






 そして。

「……」

「……」

「……」

 黄巾賊への対応が一通り決まった――偵察斥候を増やして情報を掻き集め先手を打ち、馬騰達西涼との連絡連携を密にする――その後に、俺は賈駆に呼ばれて先ほどまでの部屋に残っていた。
 仕事の話、ということだったので当然のように董卓も一緒で、並んで座る彼女達の対面に俺が座ることとなる。
 そして、俺を呼び止めた賈駆が口を開くのを待つ……待つのだが、一向に口を開こうとしない彼女に首を傾げてしまう。
 普段であればどんなに言いにくいことでもずばりと言う彼女が、どんなことを言うにせよ言い淀むというのは実に珍しい光景であった。
 その事実にますます首を傾げるしかない俺に、ついには賈駆ではなく董卓が口を開いた。

「あの……一刀さんに、お願いしたいことがあるんです」

「いや、やっぱりボクから言うよ、月。……あんたに頼みたいことがあるんだ」

 そして、結局は口を開いた賈駆のみならず、董卓のその緊張した面持ちに、俺は知らず身体を強張らせていた。
 彼女達がそれほどまでに言いにくいこと、それが一体どんなことなのか理解出来ない以上、賈駆の口が開くのを待つしかない俺にとって、その数秒とも言える時間は永劫にも感じられた。



「あんたに……将軍をしてもらいたいの」


「……はい?」



 しかし、待ち構えていた言葉は意外なものであって、俺はその意図を知ることなくあまりにも呆然と声を出していた。

 というか、将軍?えっ、元々なる予定じゃ無かったの?

 俺の今現在の肩書きは将軍見習いだったと記憶している。
 それはつまり、後々には将軍として呂布や華雄、張遼と同じように――いや、あれだけの働きをすることは無理だし、そもそも武力からして段違いなのだが、それでも同じ立場として戦場に立つことになるのだと思っていた。
 しかし、賈駆は将軍になってもらいたいと言う。
 わざわざ伝えなければならないことなのか、と首を掲げた俺へ、賈駆は呆れたように呟いた。

「多分だけど、あんたの考えていることとは違うわよ。……ボクが言ったのは将軍、つまりは将ではなく、文字通り軍を任せられる将軍にならないかと言うこと。分かりやすく言えば、漢王朝でいう大将軍になってくれないか、と言うことなのよ」

 大将軍。
 この時代では何進がその役職にあったと記憶しているが、その意味としては、各地の太守や州牧、軍閥を纏めるものである。
 つまりは元締めだ。
 そして賈駆が言うところは、董卓軍にとっての大将軍に、俺がならないかということなのであろう。
 それを聞いたとき、俺はふと思っていた――何かの冗談か、と。

「武官文官に顔が通じ、戦を生き残るだけの武と、数倍の敵を打ち倒せるだけの策を考えつく智があって、あんたをただの将軍にするにはあまりにももったいないの。それに、石城だけならまだしも、安定をも支配下にいれたとあっては、同時に攻められれば月とボクだけでは両方を対応するのは難しい」

 だからもう一度言うわ、あんたに将軍になってほしいの。
 武官としての将軍ではなく、戦場を任せられるだけの将軍に。
 そう告げる賈駆と、自分も同じ気持ちだと言わんばかりに頷く董卓の視線に、俺は知らず視線を彼女達から逸らしていた。
 董卓軍の将軍と言えば、董卓軍最強部隊を率いる華雄、飛将軍と呼ばれ天下無双を誇る呂布、その部隊運用の疾さから神速将軍と呼ばれる張遼がすぐさまに挙がる。
 彼女達の武勇はこれまでも見てきたし、俺なんかがその末席に加えられるなど、と思って時間があれば鍛錬を繰り返してきたものだが。
 何がどうして何があれば、末席であった将軍職が、いつのまに彼女達を指揮する将軍へと変貌してしまうのか、まったくもって謎である。

 そもそも、俺よりも呂布達董卓軍が誇る三将軍の誰かがなればいいじゃないか、ということになるのだが。
 そんな俺の疑問を感じてか、賈駆がずばりと言う。

「駄目よ、華雄達は部隊運用ぐらいなら考えるけど、戦術とか全く考えないもの。言うなれば馬鹿、なのよ。だから無理。もちろん、軍師であるボクやねねでは前線に出るわけにはいかない。なら、両方を兼ね備えたあんたっていうのは当然だと思わない?」

「いや、思わない、って聞かれても……。あれだ、その…………本当に俺、なのか?」

「ええ」

「はい」

 当然、そういわんばかりに頷かれて、知らず頭を抱えてしまう。
 どうにも本気らしい――裏に馬岱とか馬騰がいたような気もしたのだが――董卓と賈駆に、正気なのか、と本気で問いただしたいぐらいだった。
 ただ、彼女達の言いたいことは理解出来る。
 董卓に天下を狙うという意志は見えないとはいえ、現状で二つの街を勢力圏としているのだ。
 現状でさえ独自に動ける軍は必要とも言えるし、これから飛躍する――俺が知っている歴史へと移っていくのであるならば、絶対に必要と言えた。
 まさか、その軍を指揮するのを自分がしろと言われるとは思わなかったが。

 それでも、将軍という地位は、待ち受ける歴史へと準備をするには十分に好都合なものである。
 軍の編成、その兵力、行軍経路、策略を決められる立場であるならば、あるいは。
 そう思った俺は、いよいよに覚悟をもって口を開いた。



 
 そして。
 その時をもってして、将軍、北郷一刀が誕生したのである。




  **




 もっとも、歴史より何より、待ち構えていたのは仕事仕事の連続なのだけれど。
 そう心中でだけ愚痴を吐きつつ、伸びをする。
 朝早くから椅子に座っていたためか、ゴキゴキと音をならせば幾分かすっきりとした――時々、メキッ、とか、ミシミシッ、と聞こえたのは気のせいだよね、と痛みと共に見過ごした。

「ご主人様、飯持ってきたぞ」

「ありがとう、翠。一緒に食べようか」

 そうしていれば、手に盆を持って馬超が部屋へと入ってくる。
 結局の所、馬超は西涼へと帰らなかった――帰れなかったと言った方が正しい気もするが。
 彼女の母親である馬騰と従妹である馬岱、彼女達の策略によって俺をご主人様と呼ぶこととなった馬超ではあったが、何の因果か、はたまた呪いか、多分ではあるが悪戯によってそのまま安定に残るようにと指示を出されたのであった。
 母親からの指示に初めは反抗した馬超ではあったが、さっさと軍を纏めて西涼へと帰還を始めた馬岱に置いてけぼりを喰らい、はたまた追いかけようにも衣類やら細かいものを隠されて、更には愛馬である馬を連れられていればそれも叶わず、残ることとなったのである――なお、馬は後日庖徳が連れてきました。

 そして、ついでとばかりに賈駆によって俺の副官に任命されてしまったのだから、何とも申し訳ないものである。
 まあ、その縁もあって真名を預けてもらえたのだから、悪いことばかりでは無かったのかな。

「……それにしても、相変わらず仕事多いな。何か手伝えればいいんだけど」

「ああ、別に構わないよ。そもそも、軍方面に関しての指示を伝えてくれるだけでも相当助かっているんだし、翠には感謝してるよ」

「べ、別にご主人様のためって訳じゃなくてだなッ!? え、えと、その……そうだ、ご主人様が仕事溜めたら他んところに迷惑がかかるだろ、それを心配してんだよッ!」

 そうそううんうん、と一人納得している馬超に苦笑しつつ、心配してくれていることに内心感謝する。
 俺が将軍になって今日で三日目。
 初日と二日目などはあまりの仕事量の多さに飯を食べに行くなど考えられないぐらいであったが、そんな現状を見てか馬超が運んでくると言ってくれた時には、本当に感謝したものである。
 姜維が、はわはわ私の仕事が取られたです、などと悲しんでいたのはちょっと罪悪感があったが――でも伯約殿、あなたが何事もなく飯を持ってこれたこと、一度でもありましたっけ。
 姜維が飯を持ってきて何かに躓いてそれをひっくり返し書類やらをグショグショにしてしまうのをリアルに想像出来て、俺は背筋を振るわせながら汁物を啜った。



 結局の所、姜維も、つい先日まで俺を手伝ってくれていた王方でさえ、あまりの忙しさに忙殺されていれば、それも叶わぬことではあったのだ。
 安定に本拠を構えたとはいえ、当初であれば董卓軍を歓迎するというムードは、ほぼ皆無であったと言っていい。
 漢王朝から派遣された太守、それが自分達を見捨てて逃げ、その代わりとして董卓軍が街を救ってくれたとはいえ、新たにきた太守を信じろとは言っても再び見捨てて逃げるのではないか、と疑うのは当然のことであった。
 王方が言っていたように、俺が助けた姜維が董卓軍に参加し俺の補佐をする、という印象緩和策でさえ、さしたる成果を上げることはなかったのだが。
 命をかけて、誇りをかけて、十倍になろうかという黄巾賊に挑み、そして勝利して守ってくれたという実績が、それを覆してくれたのだった。

 となると、当然覚えをよくしようと訪れる商人の数は増えるし、俺も俺も、と軍に参入する志願兵も増える。
 であるからこそ、董卓軍において暇な人物など、殆どいなかったのである。
 西涼からの半ば同盟の人質みたいな形でいる馬超も、その騎馬技術を買われて斥候部隊の訓練や騎馬隊の調練に駆り出されていたりする。
 それでも昼や晩になれば飯を持ってきてくれる辺り、本当に感謝してもしきれない。





 そんなこんなで、数日が経過する。
 相も変わらずに忙しかったが、それでも黄巾賊戦の後始末が終わればそれも徐々に収まりつつあった。
 まあ、その時に囮にした村々の復興は献策した俺の義務でもあるけどさ、何でその村々に関しての一切合切を俺へと回してくるのかが、未だに謎である。

 そして、再び迫るであろう黄巾賊の脅威への対応策や、活発になりつつある群雄諸侯の動きへと注意を払っているある日の午後。
 『張』の印が押された模擬戦の提案書――っていうかつい昨日もやったばかりなんだけど、どんだけやるんだよ――に目を通していた俺は、馬超が持ってきた報にしばし呆然としてしまった。
 それは驚きであるとともに、俺にとっては意外なものであって。
 本音を言えば、その報が各地へ飛び交うのがもう少し後であればよかったのに、と言えるものであった。




 すなわち。
 各地にて蜂起した黄巾賊、尽く壊滅す。
 
 その報は、一つの転換点として時代を舵取り、そして待ち受ける歴史へ突き進めていった。  
 



[18488] 二十六話~六十話 オリジナルな人物設定 (田豫)追加
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/11/09 14:22
・張莫
  姓:張
  名:莫
  字:孟卓
 真名:紅瞬(こうしゅん)

  背中まである紅い髪を、飾りのついた布で一つに纏めた少女。
  スラリとした長身に文官風の服を纏いながらも、腰にぶら下げた剣は飾り物ではない。
  バクの字が難しいので『莫』とさせてもらいました、これが一番それらしいかな、と思ったので。
  正史では陳宮に唆されて後に曹操を裏切りますが、はてさて、一体どうなることやら。


・魏続(ぎぞく)
  姓:魏
  名:続

  ぼさぼさ気味の茶色の髪を適当に流している少女。
  幼く両親を亡くし、弟と二人で畑を耕して生きてきた所、黄巾賊に襲われそうになったのを董卓軍に助けられる。
  十分な栄養の不足とこれまでの肉体労働のためか、発育に乏しい身体に日々思い悩む。
  字と真名を付ける前に両親を亡くしたためそれらは無く、後に呂布によって付けられることとなる。
  というわけで、高順じゃなくてすみません。
  正史では呂布の縁戚である魏続です。
  呂布に重用されたにも関わらず、後に呂布と陳宮を裏切って曹操に寝返った魏続ですが、この作品ではどうなることやら。


・李需
  姓:李
  名:需
  字:文優
 真名:時雨(しぐれ)

  幼い劉協の側近として朝廷に仕える女性で、李粛の姉でもある。
  武に優れた李粛とは異なり、知謀に優れその手腕を振るう。
  濡れ羽色の長い髪を腰まで流し、その女性にしては高い身長と起伏の少ない体型を映えさせているのだが、本人はそれを不満に思っている。
  豊満な肉体の李粛とよく見比べては、落ち込んでいる。
  というわけで、李需です。
  正史やらいろいろな二次創作を見ても、どうにも悪人にしか見えないお人ではありますが、そこはそれ、李粛の姉となってもらいました。
  個人的にはナイスバディな女の子と自分の身体を比較して落ち込む少女とか萌えー、という作者の個人的なツボからぺちゃp(ry
  

・劉協
  姓:劉
  名:協
  字:伯和
 真名:伏寿
 
  霊帝の子にして、後に後漢王朝代十三代皇帝、献帝と呼ばれるようになる少女。
  溢れるほどの金髪を持つが、あまりに長すぎてちょっと邪魔だと思っている。
  血が繋がっていないにも関わらず、姉馬鹿とも言える李需の暴走に振り回され気味なちょっと可哀想な妹属性な少女です。
  というわけで、漢王朝版ラストエンペラー、劉協です。
  劉協と言えばこの時期は幼い筈だったな、ということで幼女になりました……なんで男じゃないのかって? だって可愛くてちっちゃい男の子より、可愛くてちっちゃい幼女の方が、萌えるですよ?
 

・韓暹(かんせん)
  姓:韓
  名:暹
  字:興建(こうけん)

  白波賊の副頭目で、頭目である楊奉の幼馴染み。
  ざんばらの黒髪に浅黒く焼けた肌、引き締まった身体は何処か威圧的ではあるが、その内実はぶっきらぼうながらも優しかったりする。
  後に諜報機関『忍』の副頭領となる。
  いやあ、賊上がりなのに皇帝を助けて将軍位を与えられる彼ですが、うん、どうしてこうなった?
  うんまあ気にせずに忍者の一員として頑張ってもらいましょう。


・楊奉(ようほう)
  姓:楊
  名:奉
  字:猛志(もうし)
 真名:貴白(きはく)

  長い銀髪と露出の高い服を纏う女性で、白波賊の頭目。
  酒と昼寝と面白いことが好き、と色々な将と仲良くなること請け合いな人物である。
  面倒なことは嫌いだが、韓暹を弄れるとなると途端楽しくなる。
  この人もどうしてこうなった?
  おかしい、白波賊の出でありながら、一時期は皇帝を擁していたりする将なのに……。
  ま、まあ、気にせずいこう気にせず。


・田豫(でんよ)
  姓:田
  名:豫
  字:国譲
 真名:たよ

  おかっぱの濡れたような黒髪に少女らしい容貌を持つ、劉備軍謀略の士。
  基本的には物静かでありながらどこか愛嬌があり、広く慕われている。
  ということで、劉備、公孫賛、曹操と様々な人に仕える人物です。
  正史だけで見れば三国志の最初から最後まで色々と絡む人物ではあるんですけど、主役の方々が出来すぎなだけにあまりメインには出ません、不憫。
  ちなみに、真名は平仮名のまんまだったりしますが、これは作者が初めそう読んだからだったりしますです、はい……勉強不足ですみません。



[18488] 二十六話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/07/06 10:04


 ガキン、ゴギンと金属同士がぶつかり合う音が、辺りを包み込む。
 それは決して一つではなく、二つ三つ、という数でもなく、それこそ数千といったほどが、その場を支配していた。

 戦場。

 黄色の群集と、青とも黒とも取れる集団。
 数だけで言えば圧倒的なほどに黄色の群集の方が多いのだが、しかして対する集団は徐々にではあるがそれを切り崩していった。
 その先頭に、一人の女性を走らせて。

「黄匪など、この夏候元譲の敵ではないわぁぁッ! 敵将、何処だ、出てこいッ!」

 腰まで届くであろう黒髪を靡かせ、その手に持つ片刃の剣を振るう女性は、その姿だけならば美女として謳われる類の容姿であったのだが、その言葉遣い、その獲物にこびり付いた血、そしてその武威から見てみれば、それも到底遠いものであった。



 だが、そんな評も彼女からしてみれば不要か。
 黄色の群集を切り崩していく黒髪の女性――夏候惇を横目で見やりながら、水色の髪の女性が夏候惇の突撃によって集中の剃れた黄色の群集の横へと部隊を進める。

「全く……姉者も少しは軍としての戦術を学んで欲しいものだ。いつもいつも突撃では、軍の損害も大きくなるし、何より華琳様をお守りするのに苦労するではないか。……まあ、そんな何も考えていない姉者も、可愛いのだが」

 水色の髪の女性――夏侯淵はそう呟いて、自らが率いる部隊へと指示を下す。
 放て。
 その一言で全てが通じるように伝達してあったのか、部隊の半数が構えていた弓から、次々と矢が放たれていく。
 まるでそれ自体が一つの群れであるかのように飛来していく矢は、狙い澄まされたかのように、夏候惇の行く末へと吸い込まれていった。
 しかし、夏侯惇に当たることはついぞ無い。
 まるでそれが当然とでも言うかのように、夏侯惇はその走る速度を上げた。
 それでもなお放たれる矢は、その進路へと放たれていっては、彼女の行く先に立つ黄色の布を付けた賊徒を、一人また一人と崩していく。
 姉である夏侯惇を信じて、また、夏侯惇も妹である夏候淵を信じて、それを緩めることはせずに、一気呵成に切り込んでいった。
 そして、その穿たれた穴を切り開くかのように、夏侯惇は再び剣を振るった。



 視界の先で自身が憧れる女性が剣を振るったのを確認して、それに伴って吹き飛ばされた首や人を確認する。
 七人。
 それだけの人が、たったの一振りで命を奪われたり、戦闘の継続が不可能になったのである。
 首を飛ばされた者、剣で防ごうとしたがそのまま吹き飛ばされた者、それに巻き添えをくらった者などなど。
 その内容に違いはあれど、それを成すことの出来る武威は、少女――許緒にとって憧れより強いものであった。

「はぁ……やっぱり春蘭様は凄いなぁ。僕なんか、まだ多くて五人ぐらいしか倒せないのに」

「それだけ倒せれば十分だってのよ。そもそも、あの馬鹿猪を前提に考えているのがおかしいって気付きなさいよ、季衣」

「うーん、僕、頭悪いからそれが普通だと思ってたんだけど……やっぱり桂花は凄いなぁ」

 憧れの女性は夏候惇ではあるが、幼いがゆえに自らが持たないものを持つ桂花と呼ばれた猫の耳のような頭巾を被った少女――荀彧に向けられた無垢な視線に、知らず向けられた本人は息を呑んでしまう。

 そもそも許緒にとって、今の軍に入ったのは全くの偶然であり、それまではただの農民として生きてきた。
 黄巾賊が蔓延るようになってからは、その人並み外れた膂力によってそれらを撃退してきたのだが、それも所詮は素人のものであった。
 だが、今目の前で繰り広げられるものは、彼女が知っているものとは一線を画していた――遙かに違うのだ。
 許緒が住んでいた村の人よりも多い人数でありながら、その動きは実に機敏で、的確で、軍として機能していた。
 それを成す将軍として、また武人としても自分より強い夏侯惇に憧れてはいるが、自分より頭のいい荀彧、その両方を兼ね備える夏侯淵にも憧れるし、そんな彼女達を束ねる自らの主にも憧れているのである。
 


 不意に、クスクスと笑い声が聞こえると、許緒も荀彧も、その声の方へと身体を向けた。

「ふふ、桂花も季衣の前では形無しね。――いい、季衣? 今のあなたは私の親衛隊だけど、いつかは軍を率いてもらわなければならない時が来るわ。そのためにも、これからも桂花からいろいろと学んでいきなさい。早きに越したことはないのだから」

「はい、分かりました、華琳様! これからもよろしくね、桂花!」

「うッ!? か、華琳様~!?」

 金髪を二つに纏めた髪の少女が、椅子に座りながら頬杖をついていたのだが、何が面白いのやらとクスクスと笑う。
 その笑いを好意的とっている許緒は屈託無く笑うのだが、その笑顔を向けられた荀彧としては、己の主が一体どういうつもりでそのようなことを言ったのかが理解出来ていた――つまりは、自分を虐めて楽しんでいるのだ、その微笑みの裏に閨でしか見せないあの意地悪な微笑みを隠して。
 
 敵意や畏怖、侮辱を向けられることは、荀彧としても慣れてはいるのだが、どうにも純粋な好意を受けるのは尻込みしてしまうのである。
 今に至る前、袁紹の所にいた時は才能ゆえの嫉妬から、ここに来てからは主の寵愛を取り合って夏侯惇などから敵意――というか羨ましがられるたりもするのだが、純粋な好意を受けた記憶というのは、両親縁者などの少数しかいない。
 ようするには受け慣れていないのだが、かと言って、いつも夏侯惇に対するように口を開くのもどうかと思うし、いざそれを成した時に許緒がどう取るかが想像出来ない。
 笑って流すか、泣くか――もし夏侯惇のように怒ってしまえば、あの膂力によって自分がどうなるかは、用意に想像出来てしまった。

 

 ニコニコと笑う許緒、その視線を受けて何故か泣き出しそうな荀彧、その光景を見てクスクスと笑う――その中身はニヤニヤと笑っている金髪の少女の後背、一人の女性が歩み寄った。
 燃えるような朱い髪を緩く纏めたその女性は、汚泥と血泥塗れる戦場にいながらも、その佇まいは凜としていた。
 衣服は文官風ではあったが、その歩みに一切の隙は無く、腰にぶら下げられた剣は質素な装飾でありながらも、どこか使い慣れたようであった。

「華琳、各地で蜂起した黄巾賊の報告、届いたわよ――また桂花を虐めて楽しんでいたの? いい加減、その性癖直した方がいいと思うんだけど」

「ありがとう、紅瞬(こうしゅん)。それと、私の性癖に口を出さないでくれる? もっとも、あなたが閨に付き合ってくれるのなら考えても――」

「――ごめん、桂花。諦めて」

「そ、そんな、紅瞬様ー!?」

 閨で虐められるのは大歓迎だが、人前で虐められるのはあまり嬉しくない荀彧は、それを言っても逆に嬉々として虐め出すであろう主よりも、彼女に唯一対等に意見出来るであろう人物へと期待を寄せた。
 だが、そんな荀彧の希望も虚しく、紅瞬――張莫は、閨に誘われるのはご免だ、と言わんばかりに荀彧へ向けて謝罪した。
 幼い頃からの親友である金髪の少女の性癖はよく知っている――何度か危ない目に遭っているのだが、張莫自身は至って普通の性癖を自負していた。
 親友に負けない男を婿に、と考えている張莫に、本当に残念そうに溜息をついたその親友――曹操は、張莫が持ってきた報告書へと目を通す。

 既に勝敗は決している。
 如何に黄巾賊が大軍であろうとも、それは指揮系統がまとまっていればの状態であり、今現在はそのようではない。
 すでに大方と呼ばれていた将軍は、夏侯惇によって討ち取られているし、もしそれが無事であり指揮系統がまとまっていても負ける気などしなかった。
 夏侯惇の武、夏侯淵の部隊運用、荀彧の戦術と智、許緒の護衛があって、それで負けるのであるならば、自分の主としての才などただそれまでのことなのだ。
 だから、負ける気はしない。
 自分の才は、自分が信じられるものなのだから。

 

 幽州、荊州、揚州で立った黄巾賊の報告を読んでいた視線が、ある一つの項目で止まる。
 涼州。
 その州は別段構いはしない、各地で蜂起した黄巾賊がそこに行かないという理由もないのだから。
 だが、そこで起きた黄巾賊を鎮圧した軍の名前に、聞き慣れない名を見つけたのだから、どうしても気になってしまう。

「ねえ、紅瞬?」

「ん、何か用かしら、華琳? 言っておくけど、閨には行かないわよ」

「ああ、別にそれは今はいいの。それよりもこれ、これは本当のことなの?」

「……ああ、それは私も気になって再度調べさせたんだけど、事実みたいよ。――涼州方面の黄巾賊が、董卓という人物の軍に鎮圧された、っていうのはね」

 董卓。
 その名前に聞き覚えは無いのだが、董家は知っている。
 優秀な官僚を輩出したのだが、彼がなまじ優秀で清廉であったがために疎まれて、涼州の僻地とでも言える石城の太守として飛ばされたということなのだが。
 よほど優秀であるのなら、いつかは召し抱えたいと思っていたのだが、彼の名は董卓だっただろうか、と疑問に思えば、報告によればどうやら少女――娘らしい。
 
 と、そこまで考えたところで、ふと思い出すことがあった。
 確か、安定に黄巾賊が攻め寄せたのを撃退し、末には安定を勢力へと取り込んでしまった太守。
 その者が、董卓という名前では無かったか、と。
 そこまで思い出して合点がいったのだが、それでもどうにも不思議なことがある。
 報告によれば、董卓の軍勢は総数が七千ほどだということである。
 普通、太守にもよるが一つの街に駐屯する兵は一万程度なのだが、二つの街を勢力とする董卓にとってこれは少なすぎる。
 まあ、その理由などはどうでもいいのだが、これでは防備の兵を残しても動かせる兵は五千ほどでしかない。
 如何に馬騰が救援を差し向けたとは言っても、一万対六万でよくもまあこれだけ損害が少なく勝てたものだと感心する。

「優秀な軍師でもいるのかしら?」

 そう思ってみれば、軍師の欄には賈文和の名があった。
 だが、その名よりも一つ下の欄、そこに記されていた名に、曹操は視線を取られた。
 


 天将、北郷一刀。




  **




「……ふぅ」

 一つ溜息をついて、女性は眼鏡を外して磨き始める。
 艶やかな身躯を沿うように流れる黒髪を掻き上げて眼鏡を掛け直した女性は、先ほどまで行っていた報告書の確認へと再び戻ろうとした。

「冥琳、お酒呑まない?」

「……見て分からないかしら? 私は今、仕事をしているのだけれど」

 しかも、あなたの分までね。
 そう言外に視線で投げつけたのだが、それを気にする風でもなく部屋へと入ってきた女性に、冥琳――周喩は、再び溜息をついた。



 呑まないか、と問いかけをしてきたのに、杯が二つあるのはどういうことなのか。
 断られると思っていなかったのか、或いは断られても呑まそうと思っていたのか――恐らくは後者であろうことを思考しながらも、どうにも目の前の女性がしでかすことには流されてしまうことを、周喩は自覚していた。
 だからこそ、無言で注がれた杯を受け取る。

「もーう、そんな気むずかしい顔でお酒を呑んだって、美味しくなんかないんだから。ほらほら、そんなに睨むと眉間に皺が寄ったままになっちゃうわよ?」

「なるわけないでしょう。そもそも、戦が終わった途端にふらふらと何処かへ消えていたあなたに言われたくないわね、雪蓮?」

「あー、それね……ちょっと、ね」

「あなたが消えることなんかいつものことだから気にしていないけど、戦が終わったあなたは危ないんだから、一言言ってから消えて頂戴。いつ民から陳情が来ないかと、ヒヤヒヤしてたのよ」

 うんまあね、と笑う雪蓮――孫策に対して、彼女にしては曖昧な笑みだな、と周喩は杯を空けながらにして思う。
 常であれば笑みを絶やさないという印象がある孫策であるが、今日みたいな笑みは周喩の記憶の中でも、さして見た記憶はない。
 あるとすれば、陽蓮(ようれん)様――孫堅様が病で亡くなった時ぐらい、か。
 


 孫堅、字は文台、真名は陽蓮。
 その名にふさわしく太陽のように輝いたかの御仁は、その武威によって名を広め、その治世によって徳を成した。
 江東の虎、それが彼女を表す二つ名ではあったが、連戦連勝を築き上げてきた虎も病に勝つことは出来なかったのである。
 母の亡骸に縋り、泣き喚く小蓮――孫尚香。
 王たるもの、喚くことをよしとせずに嗚咽を堪えた蓮華――孫権。
 そんな二人の妹を控えて、姉たる孫策はどういった心境だったのだろう。
 当主交代という混乱の中にあって、機を狙った袁術の手によって孫家は衰退、袁術の客将という形となってしまったのだが、その時の笑顔に似ている、と周喩は思った。

 不安、決意、困惑、自虐、そういったものが混在した笑いであった。
 黄巾賊を撃退したことによって孫家が再び名を売ることが、それを思い出させたのか、もしそうであるならば如何様にすればそれを取り除くことが出来るのか。
 そう思考を始めていた周喩であったが、いつものニコーとした笑顔で孫策が覗き込んでくれば、ふと不思議に思った。

「うふふ、心配してくれるのは有り難いけど、今回の分はちょっと違うの。なんて言えばいいのかな、ええっと……覚悟、うん、覚悟を決めてきたの」

「覚悟? なんだ、まだ決めていなかったというのか、孫伯符ともあろう者が?」

「うーん、と……冥琳の言う覚悟とはちょっと違う、かな。楽しみなの、きっと天下は乱れるわ。それこそ、私達が飛躍出来る時が来るぐらいに。その時に、私はきっと楽しいことがあると思うの。それを、迎え入れる覚悟」

「楽しいことと言ったって……結局は雪蓮の勘でしかないのでしょう? あなたの勘は信じられるものだけど、いくらなんでもそんな先のことまでは――」

「――ううん、絶対来るわ。それも、とてつもないものが、ね」

 そう言って、くい、と杯を空けた孫策は、酒に酔ったのか、はたまた心中を吐露したからかは分からないが、いたく上機嫌で周喩の部屋を出て行った。
 出際に、祭は何処かな、と言っていたあたり、厨房で酒を貰っては再び飲み直す気なのであろうが。
 しかも、祭――黄蓋も孫策を止めずに呑もうとするから、余計に質が悪い。
 一度でも止めようとしてくれるのならまだしも、自らも嬉々としているのだから、なんとも頭の痛いことだと、周喩は眉を顰めた。



「全く、雪蓮にも祭殿にも困ったものだ。今度見つけたら、何かしらの罰を与えねばな」

 そう言って、周喩は再び――五度目になるが、報告書へと視線を落とした。
 荊州方面の黄巾賊は、孫家が壊滅させた。
 袁術からの命令ではあったが、救援に向かった先々の村々の有力者に顔を通すことが出来たし、いざという時の約束をも取り付けた。
 幽州方面は、公孫賛と袁紹がお互いを利用する形で壊滅させていた。
 まさか、公孫賛の本隊が黄巾賊を引き留めている間に、別働隊が袁紹を引きつけて――もとい、釣り上げて黄巾賊の後方へと廻ったなどという策とは思わなかったが。
 袁紹が軍を出すことを知り得たこと、公孫賛の軍が黄巾賊を引き留められると考えついたこと、そして袁紹を釣り上げた後に黄巾賊の中を突っ切って公孫賛の軍に合流出来るだけの武威を備えた将がいたこと。
 その全てに驚き、それを成した劉備なる将に、周喩は注目していたのだが。

 涼州の報告書で、どうしても視線が止まってしまう。
 何度見ても、内容が変わることはない。
 だというのに何故だろう、何度でも読んでしまう、何度でも視線を止めてしまうのは。
 董卓という人物と、西涼騎馬隊を率いて有名な馬騰との連合軍は、その数五倍以上の黄巾賊を相手に勝利したというものである。
 董卓、馬騰、共に損害は軽微。
 それはいい、策が予想通りにはまればそういったことは多々あるし、あの近くは渭水がある。
 水を引き入れて水計が出来れば、軍が衝突しての損害などほぼないであろう。
 だが、報告書にはそんな策が書かれてはおらず、その変わりとして単純な文が書かれていた。
 


 北郷一刀の献策により、村々を囮にしての各個撃破、と。




  **




「ふう、雛里ちゃん、こっちは終わったよ」

「あっ、もうちょっと待って……ん、しょ、と……朱里ちゃん、私も終わったよ」

 カラカラ、と乾いた音を立てながら墨の乾いた竹簡を巻いて、既に出来上がっている山へと載せる。
 崩さないように載せたその山以外にも部屋の中に鎮座する竹簡や書類やらの山に、二人の少女は知らず溜息をついていた。

「あぅ……やっぱり文官さんがいないのは、厳しいよね」

「仕方ないよ、朱里ちゃん。今の私達は白蓮さんの好意で城を間取りしているだけで、根拠地なんてものはないんだよ。白蓮さんにお給料を貰っているのに、劉家として文官を雇うわけにもいかないし……」

 そう言いながら、腕一杯に抱え込んだ竹簡を一カ所に集めていく。
 一つ一つであればそこまで重たくはないものだが、数が集まれば存外に重い。
 こういうときに男手があれば、とは朱里――諸葛亮も思うが、彼女が仕える劉家軍で男性は簡擁ぐらいしかおらず、彼も彼で多忙を極めておりこれだけのことで呼び出す訳にもいかないのだ。
 仕方がない、と諸葛亮はまた一抱えの書類を山へと積み重ねた。

「ん、しょと……ふう、これで終わり、かな。また兵の皆さんに頼んで、運んで貰わなきゃ」

「そうだね。……じゃあ朱里ちゃん、ちょっと今の状況でも確認しておく?」

 そう言いながら雛里――庖統は、先の黄巾賊戦の報告が書かれた竹簡を数個取り出した。
 五百ほどでしかない劉家軍の中から騎馬の扱いがそれなりの者や、諜報活動が得意な者を選りすぐって――内実としては元農民の兵からでは出来うる者の数が少ないだけなのだが、それでもそうやって選ばれた者達から送られてきた報告書には、必要な分だけの情報が書かれていた。



 幽州方面の黄巾賊は、主である劉備の友人でもある公孫賛との協力で、庖統と諸葛亮が考案した策によって壊滅させることが出来た。
 まさか、黄巾賊撃退に出撃していた袁紹の軍勢を挑発して黄巾賊の後背を突かせる、という策とは思いもしなかったのか、主たる面々が驚愕していた――劉備だけは、よく分かっていなさそうではあったが。
 だが、主君たる袁紹の力量、実質軍勢を率いる顔良、文醜の力関係など、公孫賛からの情報の提供もあって予測した通りに袁紹軍が動いてくれたおかげで勝利し得たのだから、彼女達にも感謝はしなければならない。
 結果として、黄巾賊に襲われた村々の復興やその後始末などを押しつけられる形となったことは仕方がないのである。


 荊州方面は、その大部分を占める劉表ではなく、その地方の支配を目論む袁術が戦果を欲して軍勢を起こし、壊滅させたとある。
 ただその実情としては、かつて江東の虎と呼ばれた孫堅亡き後に袁術の客将となった孫家軍が、討伐軍の主力であったとのことだが。
 客将とはいっても、一勢力を保持するだけの実力を持つ孫家軍が執った策は、策無しという極めて無謀なものであった。
 涼州を攻めるために割いた二万の兵がなくなったとはいえ、荊州方面に蔓延る黄巾賊は七万にも及んだ。
 これは、孫家軍八千、袁術七千の一万五千で立ち向かうにはあまりにも多い数であり、それに策無しで攻めるなど勝利を取らぬ所業とも思えたのだが。
 報告書を読めば、その謎も氷解した。
 孫家軍が攻めたのは、涼州方面を攻めるために二万の兵が発った、その直後であったのである。
 元々荊州南部を攻める予定の軍を動かしたとはいえ、それをそっくりそのままという訳にはいかない。
 道程の糧食のこともあれば、装備のこともある。
 荊州南部は山岳が多いことから騎馬は使いづらいが、涼州へ攻めるには騎馬は必需である。
 そういった再編成を終え、涼州を攻めるために二万が減ったその直後に攻められた黄巾賊は、大混乱を喫した。
 そもそも、軍を動かすという知識に欠ける賊軍なのである、やれ騎馬が無い、武具が無いという事態になるのは目に見えていた。
 そこを、孫家軍は的確に突いたのである。
 結果として、その半数を討った孫家軍はその名を荊州のみならず各地に轟かせることとなり、好機と見た袁術は孫家を引かせた後に総軍を動かして、体勢を整え直した黄巾賊によって少なからずの痛撃を受けたのである。

 

 諸葛亮は、その報告書に自然と息をついた。
 攻める時機、引く時機、さらには策無しとも言える突撃にもかかわらず、その采配の巧みさに見ほれてしまう。
 中軍と左軍が攻め、右軍と後軍がそれを補佐する。
 それぞれがそれぞれを引き立てるように攻めることによって、予想以上の戦果を出していたのだ。
 今の劉家軍に、それが出来る将は少ない。
 主軸たる張飛はもとより、関羽でさえそういった細かな采配は未だ無理であろう。
 かといって、諸葛亮や庖統が補佐をするにしても、孫家軍のように連携して、というのは難しいものがあった。
 相手に出来て、自分には出来ない。
 そのことが、実に悔しかった。
 周喩。
 諸葛亮は、その名を胸に刻み込んだ。



 そして、視線を動かせばふと涼州のものでそれも止まる。
 董卓と馬騰連合による協同戦、それはいい。
 自分達劉家軍も公孫賛と協同したのであるし、荊州から発った涼州方面の黄巾賊は、渭水の地にて二万から六万にまで膨れあがったのであるから、そういった策を取ることもやむを得なかったであろう。
 
 だが、どうにもこうにも、黄巾賊に対する策こそが不思議で――そして不気味でならない。
 村々を囮として黄巾賊を引きつけつつ分割し、それを各個撃破する。
 文に、言葉にすればいたく簡単なものであるが、いざそれを行おうとすればそれが難しいことは理解出来る。
 もしその通りに黄巾賊が動かなければ、壊滅していたのは連合軍の方だったのだから。
 だが、結局のところ、勝利したのは連合軍である。
 それはさして問題ではない、戦うということは勝利を求めるということであって、それを成したことを特に気に留めることでもない。
 
 だが、その後のことはそれどころではない。
 村々を囮にしたということは、そこで戦闘があった場合は荒れるということである。
 勿論、それの復興のために策を出した董卓軍が財貨を放出することになるのだろうが、それはすなわち、そういった村々は董卓の下に庇護される――言い換えれば、その勢力として組み込まれるということではないのか。
 村を襲うであろう黄巾賊を撃退し、その復興のために尽力する。
 そこに住まう民が、董卓軍を歓迎し、その勢力となるのは想像に難くないのである。
 無論、そういった村ばかりではないだろうが、そういったことがあっても、復興の名目で無理矢理勢力に組み込むことが出来るとあっては、その考えも殆ど意味はないだろう。
 
 戦に勝つための策を導き出し、戦後において勢力を拡大することをも視野に入れたその策。
 自分でも考えつくと諸葛亮は思うが、それはすなわち自分と同じだけの智を持つ者がいるということでもあった。
 もし。
 その者と戦い、智を競わせることがあれば、自分は勝つことが出来るのであろうか。
 自分より優れた戦術眼を持つ庖統ならば、勝つことは出来るのであろうか。
 それが不気味で――言い知れない恐怖でもあった。



 そして、視線は自然とその策を献策した者の名を探す。
 何度も探したからか、すぐさまに諸葛亮はその名を見つけた。



 天の御遣い、北郷一刀。




 **




 曹操。
 周喩。
 諸葛亮。

 正史の三国志において、秀逸とされる知謀を持つとされる三者が、一様にその名を脳裏に刻みこむ。
 
 ある者は、自らの覇道の強敵となることを喜び勇んで。
 ある者は、友の夢を邪魔するであろう障害として。
 ある者は、自らの才に匹敵、凌駕せんとする壁として。

 その思惑はそれぞれ違えど、その思うところは同じであった。



 天将、或いは天の御遣いと呼ばれる男、北郷一刀。 
 彼は一体何者なのか、と。







[18488] 二十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/10/02 14:32



  
 ギィン、と。
 振り下ろした剣を弾かれた俺は、その勢いを利用してその場で身体を回転、そのまま反対側から斬りつけるように腰に力を入れる。
 普通に考えれば隙だらけのその行動も、相手の獲物が槍なことからその懐へと迫り、さらには動きを阻害するかのように身体を密着させれば、転じて威力を増した斬撃となる。
 
「ははッ、ご主人様も中々やるじゃないかッ!? だけど、まだまだ甘いッ!」

「錦馬超にそう言われるとは嬉しい限り――って、グフォォォォァァァッ!」

 そう言って、右半身を前にするかのように槍を突き出していた相手――馬超は、その槍を振るおうともせずに、右脚を軸にして身体を回転させていく。
 それに俺が気付いた時には既に遅く、まるで鞭とでも言えるしなりを響かせて、馬超が放った横蹴りは俺の横っ腹へと直撃した。
 ミシッ、とか、メキッ、とか聞こえたのはきっと気のせいではないと思う。
 その染み一つ無い綺麗な脚のどこにそんな力があるのか、そう思えるほどの蹴りを受けた俺は、肺から空気を押し出されて、本日一度目の気絶を味わった。
 ふと、花畑の向こうで父親と母親が手を振っていた――光景が見えた気がする。



「はっはっはッ! 北郷よ、この私の一撃を受け止めることが出来るかッ!? 受け止めたら全力で叩き斬るがなッ!」

「ちょッ! それって、俺に一体どうしろと言うんですか葉由殿ッ!?」

 ゴウッ、と空気を切り裂いて迫り来る戟を受け止めようと腕を動かすが、受け止めたらと言う以前にそんなことをすれば剣が折れると思った俺は、慌てて横っ飛びでそれを回避する。
 訓練用に刃を潰している筈なのに、それを感じさせない音を発しながら地面にめり込んだ戟に冷や汗を流しつつ、体勢を整えて華雄が次の動作に移る前に勝負を仕掛けるために、脚に力を入れた。

「これでッ!」

「――甘いわぁぁッ!」

 普段は片手で持つ剣を両手で構えて、力の限りに横に――華雄の横腹へと薙ぐ。
 常であれば女性に傷を付ける行為など、とも思うのだが、華雄や呂布にそれをすればこちらの命が危うかったりするので、彼女達に対してはそれも別、本気でいかなければならない。
 だが、たとえ俺が本気を出したからといって、その実力の差が埋まるのかと問われれば――断じて否であるのだが。
 そんな俺との実力差を表すかのように、俺の横薙ぎの攻撃は――そこまでを予測していたのか、はたまた臨機応変に対応したのかは分からぬが――地面にめり込んだ戟を無理矢理に縦にすることによって、受け止められることとなった。

「げッ!?」

「中々に良い判断だったが、受け止められた後のことも考えておかねば、その時点でお前は死ぬぞ? ふんッ!」

「ぐふぅぅぅっ?!」

 ガァン、と鈍い音を響かせて止まった俺の剣に視線をやりながら、実に楽しそうに笑う華雄であったが、相対する俺としては呆然とするしかなかった。
 地面にめり込んだ戟を無理矢理に立たせて防ぐとか、無茶苦茶過ぎるだろ。
まさかあの体勢から防がれるとは思わなかった俺は、心の底から楽しそうに笑う華雄が目の前にいるにも関わらず、呆然としすぎて次への動作が遅れてしまっていた。
冷静になってみれば、剣を防がれたからといって攻撃の手を緩めることにはならないのである――まあ、剣を受け止められたという隙を華雄が見逃してくれればの話であるが。
だが、それとしても俺がいた世界での歴史でも、この世界に来て見た限りでも、華雄を含めこの世界の武人達が俺の常識に入りきらないのだと思い出すべきであった。
 思い出せなかったからこそ、俺は華雄が横腹へと繰り出した蹴りを避けることが出来ずに、地面を転がっていった――馬超とは反対の方である、内臓大丈夫かな俺。
 膝を打ち、頭を打ち、胸を打ち。
 ようやく止まった時には打ち付けていない箇所はない、と言えるほどにズタボロになった俺は、擦れゆく意識の中で笑う華雄を見たのを最後に二度目の気絶を味わった。



「翠も華雄もちょっと本気だった。……恋もちょっとだけ本気出す」

「ええッ?! いや奉先殿に手合わせしてもらえるだけでも嬉しいのに本気まで出して貰ったら何と言いますかとりあえずまずは俺が死にますよねッ!?」

「いく」

「話を聞いて――うわおぉぉぉぅぅぅッ!?」

 馬超の神速の戟も、華雄の破壊力満点の戟も凄まじいものがあったけど。
 さすが三国無双と謳われる呂奉先であって、その戟は凄まじく――先ほども痛感したことだが、俺の常識の中では有り得ないものであった。
 自分が反応出来たのが信じられないぐらいの速度で振るわれたそれは、呂布にとってはまるでそれが自然であるかのように、右から左へと振るわれただけ。
 だと言うのに、その動作が全く見えなかったのは俺の技量が低かっただけなのか、それとも知らずのうちに目を瞑っていただけなのか――いや十中八九前者だけれども、或いは両方という可能性もなきにしもあらず。
 ふと何かの匂いを感じて鼻を動かせば、何となく焦げ臭い感じがした。

「……避けられた。一刀、凄い」

「お褒めに与り光栄ですけどももう少し手加減を――ひゃわぁぁぁぁッ!?」

「……また避けた。もうちょっと、本気出してみる。……一刀?」

「な、何でしょうか、奉先殿? ええっと、何故そんなに楽しそうで――」

「死んじゃダメ」

「えっ、ちょっ、ぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!?」

 避けられるとは思っていなかったのか、いつもの感情の変化に乏しい表情を若干驚きに変えた呂布は、俺の言葉を待たずに再び戟を繰り出してくる。
 幸いというか何というか再び避けることには成功したのだが、そんな俺の行動が何かしらに火を付けたのか、再び戟を構えた呂布から感じる気は先ほどまでとは違っていた。
 何て言えばいいのか――獲物を前にした獣、そう表現するのが一番正しい気がする。

 結局の所、少しだけながらも本気になった呂布の一撃を防ぐことなど俺の武力で出来るはずもなく、当初の予想通りに、気づいたときには強烈な衝撃と共に俺は空を飛んでいた。
 実に、本日三度目の気絶である。
 数刻のうちに三度も気絶するなんて身体の健康上何の問題も無いのだろうか、なんて考えながら、真っ暗な意識のまま俺は地面へと着地――もとい、激突した。




  **




 黄巾賊との戦闘の後処理がほぼ終わり、残る所とすれば民を受け入れるとの噂を聞きつけた人々の受け入れのための施策を考えなければならないという頃。
 事務仕事に忙殺された二週間によって、俺はそれらを完結させることが出来た。
 まあ、戦後処理を済ませることが出来ただけであって、他の仕事は未だ健在であったりするのだが。
 それでも、一応に肩の荷が下りたことにほっと息をつくぐらいには落ち着いた状況を、俺は満喫していた。

 だがまあ神様――と言うよりは現状、或いは周囲か、まあそういったものはどうにも俺を休ませたくはないらしい。
 俺の仕事が一段落したのを見計らってか、はたまた見張ってたのかは知らぬが、問答無用とばかりに馬超に連れて行かれれば、そこは中庭であり、華雄と呂布、張遼が待ち構えていたのである。

 結果は、まあ言わずもがななのであまり触れないで欲しい。
 天下無双クラスの豪傑とはいえ、女の子相手に三戦全敗はさすがに俺でも落ち込んでしまうのですよ。



「……うぅん。…………あれ、霞?」

「おっ、やっと起きたんか、一刀。うちとやる前に気絶されたらかなわんで」 

 呂布との一戦からどれだけの時間が経ったのか。
 神速の横薙ぎに文字通り吹き飛ばされたのまでは覚えているのだが、そこからの記憶が無い辺り、どうやら気絶していたらしい。
 痛む節々やら横腹やらを確認して、おや、と頭を抱える。
 思いっきり後頭部を打ち付けたと思っていたのだが、それほど痛くはないのだ。
 それどころか、妙にふわふわとして――むしろ柔らかい。

 さらに気になるのは、何故に張遼の顔が俺の上にあるのか。
 いやいや、俺が寝ているのを覗き込んでいるのかもしれない――のだが、横目に見えるは剥き出しの臍、軽く視界を覆うのはサラシに巻かれた張遼の胸という光景に、どうにもこうにもある一つの事柄――というよりは、一つの体勢しか思いつかない。

「ええっと、霞……?これは一体――」

「ん? なんや、一刀はそんなことも知らんのんか? 男の夢、膝枕やないか」

 いやむしろ太腿枕か、何ていつもの笑顔で言う張遼に、ああやっぱりか、と自分の現状がどうなっているのかなんてすぐさまにでも理解出来た。
 あまりの恥ずかしさにそこから抜けだそうとしても、先の馬超やら華雄やら呂布やらとの一戦においてこっぴどくやられた身体は言うことを聞かず、ずきずきと来る痛みに叫ぼうとしても、張遼を驚かすわけにもいかずにそれを耐える。
 そんな俺の心中を知ってか知らずか、何故か嬉しそうな笑みで張遼はさらさらと俺の髪を梳いていった。
 ……何か周囲が桃色に見えて、恥ずかしくて死にそうです。

 せめてばかりもの抵抗として顔を横に背けようにも、にこにこと張遼に額を抑えられてしまえばそれも出来ず。
 張遼の臍やら胸に視線が行くのを誤魔化すために、俺は瞳を閉じた。

「……なんや、一刀はうちの胸を見るのが嫌なんか? 整っとる、とまでは言わんけど、崩れてる訳でもないんやけどなぁ」

「……いや、そんなこと聞かれても返答に困る」

「それもそか。まあ、その真っ赤な顔が既に答えになっとるけどな」

「うぐっ……分かってるなら聞くなよ」

「いやいや、その反応が可愛くてなぁ」

 可愛い、などと言われたことも無い――と思うのだけれども、そんな俺にとってその言葉は十分に照れるものであった。
 なおかつ、どんな意図があるにせよ、張遼のような美人、美女に分類される女性に可愛いなどと言われてしまっては、無性に恥ずかしい。
 何故だか実に楽しそうに髪やら頬、鼻や終いには唇を触ってくる張遼の拘束を解くことが出来ず、俺は仕方なしにそれを諦めて力を抜く――そこ、もっと堪能したいだけとかいうなよ、悪いか、開き直るぞ。
 そんな俺の心中に気づいてか、からからと笑う張遼の声に決して不快感を感じるわけでもなく、俺は張遼のなすがままになっていた。

 勿論、馬超がそれを見咎めて、ご主人様のスケベ変態、とか何とか騒いだのは当然のことである。
 その騒ぎを聞きつけて、呂布とか華雄が私もしてやろう、とか、賈駆にすっごく冷たい視線で射抜かれたりとか、董卓が何故か涙目になったりとかも、当然のこと――じゃないと思うんだけどなあ、どうなんだろ。



 だけどまあ、仕事が落ち着いたからといってものんびりしている訳にもいかない。
 戦後処理は一通りの落ち着きを見せたが、今度はこれからの対策やら対応をしていかなければならないのだ。
 一戦も出来ないことに文句を言う張遼に今度酒を奢るということを約束して宥めた俺は、痛む身体を引きずりながらどうにか自室へと戻った――戻ることが出来た。
 俺凄え、と自分の身体に感謝である。
 用意していた手ぬぐいで汗を拭いて服を着替えると、新たに将軍となって董卓と賈駆に用意された執務室へと赴いた。
 ただ、である。
 用意してくれたことには感謝するし、それに応えるために頑張ろうとは思うのだが――もう少し質素なものは無かったのだろうか。
 何も董卓や賈駆と同じ規模じゃなくてもよかったのに、とは秘密である。

「北郷様、おはようございます! あ、あの、今日からまたよろしくお願いしますッ!」

「張り切りすぎて、また書類にお茶を零さないようにしてくださいよ、赤瑠。北郷殿、私もまたお世話になります」

「おはようございます、伯約殿、白儀殿。遠慮無く頼りにさせてもらいます」

 部屋へ入ると、そこで仕事の準備をしていた二人――姜維と王方からの挨拶に応える。
 戦後処理の時は人手が足りないこともあって他方の補助へと廻っていた二人であったが、それも落ち着いたとあって再び俺の補助へと戻ってきてくれることとなったのである。
 感謝感激、というものだ。

「……そう言えば、馬超殿は何処へ? 軍事での副官だとお聞きしていたのですが」

「ああ、翠は葉由殿と霞から騎馬隊の調練に付き合って欲しいって言われて、そっちに行ったよ。結局のところ、こっちにいても意味はあまり無いし」

「護衛、という任もあるでしょうに。そもそも、錦馬超と名高い馬超殿が副官とは……」

「ああそれは……うん、無駄遣いだよね」

「はわはわ……そ、そんなはっきりと」

 王方が積み重ねていく竹簡の一つを抜き取って開く。
 軍部から来た徴兵の要望であったが、この件に関しては俺の独断で決定するわけにはいかない。
 自領を守る戦の準備のために兵を集めるとはいえ、そこで集められ戦うのは俺達と同じ人であり、剣や矢を受ければ死んでしまうのだ。
 そういった人達が増えるのを、董卓は酷く悲しむのである。
 よって、これに関しては董卓へ上奏する分に纏めておく。

「まあ、俺としても自分の身を守れるだけの武があるとも思えないし、軍事関係――特に騎馬隊のことに関しては本当に助かっているんだし。その辺は大目に見てくれると助かるなあ」

「北郷殿の言うことは分かっているつもりですよ。我々としても、あなたに――天の御遣い殿に死なれると非常に困りますからね。各諸侯、民、漢王朝、どれをとってもその名は効果的に用いることが出来るでしょうし」 

 そう言ってニヤリと笑う王方に苦笑で答えつつ、目につく竹簡やら書類を片付けていく。
 俺は戦後処理でどたばたと忙しくあまり関わることは無かった――いやまあ、俺に関することなんだけども、黄巾賊との戦いが終わり各地での黄巾賊もほぼが鎮圧されたとの報を受け、賈駆は真っ先に天の御遣いの名を前面へと押し出したのである。
 勿論、董卓の下に天の御遣いがいて、という前提は崩さなかったものの、天から遣わされた御遣いの知謀によって匪賊を打ち倒し、そんな彼を従えて復興の指揮を執った董卓という構図は、おおよその民に受け入れられることとなったのである。
 天の御遣いという名は、彼を従える董卓という名は、暗く混迷とした時代を生きる人々にとって、光輝く希望となりつつあった。

 だがまあ、そんな恐れ多い希望を向けられても、何の実感も湧かない本人からすれば特に気にするものでもないのだが。
 勿論出来うる限りのことはしたいと思っているし、期待に応えたいとも思ってはいるのだが、何分つい先日まではただの高校生だったのだ、いきなり英雄になれと言われても実感も湧かなければその道のりを描くことも出来やしないのである。
 だから、実感を持って自分を天の御遣いと呼べるようになるまでは、利用価値のあるその名を利用するだけしてもらおうなんて考えていたのである。
 それに賈駆なら悪いようにはしない――だろうと思うんだけど、どうだろうなあ。



 そんなこんなで、久方ぶりに王方や姜維との会話を楽しみながらも、手と目は休めることなく出来るだけ要領良く仕事を片付けるように努力する。
 俺で裁量出来るものは俺で、各方面の専門の方が詳しいことはそちらに、徴兵の件みたいに董卓の意見が必要なものは上奏するものへと纏めて。
 戦後処理が済んだからこそ特に問題もなく仕事が進んでいくし、何より仕事の量が少ない。
 壁を覆い隠し、机を潰すのではないかと思え、部屋を浸食していた竹簡と書類はなりを潜め、その数は机の上に積み重ねるぐらいであるのだ。
 俺は、心中で安堵の涙を流していた。



 安定の城壁の修復、食料事情の改善、来たる難民の受け入れ措置、周辺地域の賊討伐、などなど。
 黄巾賊の脅威が一応の終結を見せたとはいえ、やらなければならないことはまだまだ山積みであり、時間などいくらあっても足りないほどであった。
 事務を片付けて、姜維がお茶をひっくり返して、軍の調練に顔を出して、華雄にぶっ飛ばされて、姜維がお茶をひっくり返して、呂布にぶっ飛ばされて、張遼にぶっ飛ばされて、姜維がお茶をひっくり返す。
 本人に言えば、そんなに零していません、などと可愛らしく文句を言いそうだが、如何せん一日一回ひっくり返されれば、擁護のしようが無かったりするのですよ姜維さん。




 そうして、俺が何とかこうにか牛輔と打ち合えるぐらいには成長したころ。
 名目のみとはいえ中華の支配者である幽帝がおわす洛陽から発せられた文書は、俺が知る歴史へと――彼女達にとっては悲劇へと、現状を進ませるには十分なものであった。
 



 **




 洛陽の中でも一際豪勢な装飾が施された――帝が住まう城の廊下を、一人の女性が歩いていた。
 歩く度にカツカツと杖をつく音が鳴り、杖をつかなければならないほどに丸められた背中からみるに、女性というよりも老婆と表した方が正しいようであった。

「……やれやれ、わたしも年かねぇ。あれしきのことを止められないだなんて」

 質素な服を纏いながらもかもされる上品な佇まいは、擦れながらもはっきりとした口調も相まって、確かな人物を感じさせるものである。
 その足取りは見た目に反して力強く、彼女が年をくろうとも決して衰えたわけではないことを表していたのだが、その一言と共に急に弱々しくなる。
 一つついた溜息には、どれだけの感情が込められていたのか。
 年はくいたくないねえ、と頭を振った彼女だったが、ふと何かに気付いたように顔を上げた。

「うふん、王司徒ともあろうお方が、物憂げに息を吐く。私が男なら、保護欲を刺激されてきっと放っておかないわん」

「ふふ、若い頃ならそういった男もいただろうけどね、今はただのしわくちゃ婆さ。……あんたの忠告があったにも関わらず、あんたが危惧する方へと事態は動いてしまった。……本当に、申し訳ないねえ」

「うふ、それはいいのよ、別に。元々避けようがないことなんだし、私としても、助けて貰った恩を返したかっただけなのよ。気にする必要はないわ」

「ふふ、あんたも存外優しいねえ。漢女なんかじゃなく、ただの男だったならわたしも放ってはおかなかったよ」

 幾分か軽くなった感情をもって振り向いた王司徒と呼ばれた老婆――王允は、先ほどまで誰もいなかった空間に人がいることを確認した。
 筋骨隆々、長く朝廷に関わってきた王允でさえ見たこともない鋼の肉体とも呼べるそれは、この場にいない天の御遣いならばピンクのビキニ、と称するであろうものだけを履いていた。
 それだけを見るのであれば、筋肉自慢の男が自己主張のためにそういったものを履いている、と解釈することも出来るのだが、それが実に女らしく身体を動かすのであれば、そういう訳でもなかった。

 二房の三つ編みには桃色の布が可愛らしく巻かれており、その口元は女っぽく彩られている。
 ともすれば、それらと動きを見れば女なのでは、とも思えるのだが、その鋼の肉体と履いている腰布の一部が少しばかり膨れていれば、彼が男だということはすぐさまに分かるものである。
 だが、その動きは女。
 真に奇っ怪な存在であった。

「王司徒にそこまで言われるなんて、漢女冥利に尽きるものだわ。ご主人様に会った時に、漢女に磨きのかかった私のこと気付いてもらえるかしら?」

「まあ、あんたぐらいなら忘れたくても忘れられはしないだろうねえ。自信を持ちなさいな、貂蝉」

「ありがとう、王司徒。私、頑張るわ」

 乙女のように瞳を輝かせるそれ――貂蝉から視線を逸らすと、王允は再び歩き出した。
 それに合わせて、貂蝉もくねくねとその後を付いていく。
 端から見れば、老婆を襲おうとする刺客――もとい、化け物のようであるが、誰もそれを見咎めることなく、廊下を歩いていく。
 そもそも、誰もいないのだから見咎められる筈もないのだが。
 
 謁見の間に集められた文官、武官。
 その前に進み出たそれらの纏め役――大将軍である何進が放った命令に右往左往していのであろう。
 王允からすれば耳を疑い、命令を発した何進の神経を疑うものであったが、漢王朝に仕える臣としては自身の上役である何進に逆らう訳にもいかないのである。
 だからこそ、王允は自身の執務室の扉を開け、長年使っている椅子に座り机を前にした。

 
 如何にそれが愚策と思えども、主君たる皇帝が認めたことならば従わぬわけにもいかぬ。
 ならば自分が出来ることは、その愚策によって漢王朝が被る被害を出来るだけ少なくすること。

 
 そう思いながら、王允は筆をとった。
 



  **





『黄巾の匪賊ここに殲滅し、その祝いを洛陽にて行うものとする。ついては、その後に黄巾の残党をも殲滅させるために、各々軍を率いて洛陽に来られたし』
 
 そう書かれた文書が、大将軍何進の名で各諸侯へと送られたのは、その数日後のことであった。

 




[18488] 二十八話 洛陽混乱 始
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 09:44

「あら、御遣い様じゃないかね。珍しいね、今日は一人なのかい?」

「こんにちは、おば――お姉さん。ちょっと時間が空いたから警邏ついでに昼飯を、ね。とりあえず、肉まんを三つほどちょうだい」

「あいよ。……しかしなんだね、御遣い様はちっとも御遣い様らしくないよねえ。そこら辺にいる、普通の兄さんみたいだよ。はいよ、肉まん三つね」

「ははは、俺もその方が気楽でいいんだけどね。んじゃこれお金ね、ありがとうございました」

「ああ、また来ておくれよ」

 仕事の目処が一段落した俺は、目に入った飯屋で包んでもらった肉まんを頬張りながら、街の様子を確認するためにぶらぶらと歩く。
 つい先頃――とは言っても既に半月ほど前のことになるのだが、黄巾賊の驚異が目の前に迫っていた、などということは微塵も感じ取ることは出来ないぐらいに活気づいていた。
 あの戦いで多くの黄巾賊を討ち取ることは出来たのだが、それと同じように董卓軍の兵士にも多くの犠牲が出たことは、その後処理に奔走していた俺としては身にしみるほど理解しているつもりであった。
 
 俺の策で多くの人が死んだ、などと自惚れることは無い――と言うか、賈駆と陳宮から自惚れるなと言われたことは今も記憶に新しい。
 献策したのは俺とはいえ、それが使えると判断し細部を決定したのは自分達だ、とまるで宣言でもするかのように、彼女達は俺へと言ったのだ。
 さらには、それに合わせるかのように華雄や張遼からは、精一杯戦って死んでいった者達に感謝こそすれ後悔など不要、あいつらも守れて死んだのだから悔いは無いだろう、とも言われてしまったのである。

「おまけに琴音や翠にも言われたしなあ。……俺って、そんなに顔に出やすいのか?」

 徐晃や馬超、さらには王方や姜維に牛輔や李粛にも言われているのだからその通りだと認めてしまえばいいのだろうが、それを認めてしまうと何となく悔しい気もする。
 それでも、心配してくれているということは分かるので、それは受け入れなければいけないよな、と肉まんを一つ口にするとふと見知った顔を見つけた。



「……一刀、お昼?」

「ええまあ。奉先殿はもう?」

「うん、食べた」

 けぷ、と可愛らしくげっぷする呂布の頭を撫でて、その傍でこちらを睨む陳宮へと視線を移す。
 食後の幸せな時間を邪魔するな、と言外に視線で語られれば気圧されそうになるのだが、その視線が一つではないことに気づいた俺は、頭を掲げた。
 呂布と陳宮は二人でワンセットと思っていただけに、それを疑問とした俺はその視線の出所を探してみた。
 周囲は昼飯へと駆り出す人達やそれを受け入れる店の人達の声で騒がしい。
 だが、それらの人達は特にこちらを気にする風でもなく、あったとしても飛将軍と呼ばれる呂布や天の御遣いと呼ばれる俺を気にするぐらいであるのだ。
 そうした人達が俺を睨む、というか敵視するような視線を放つとは思えないのだが――ええと、俺何かやらかしたかな。
 きょろきょろ、と周囲を見渡して唐突に悩み出した俺をさして気にする風でもなく、呂布は思い出したかのように自身の背中へと視線を移した。

「……一刀、新しい友達」

「ううむ、心当たりは無いと――って、え? 新しい友達?」

「うん……ぎー、って言う」

「れ、恋殿、それは名前ではありませぬぞ」

 うんうん、と悩んでいた俺は呂布の声に反応して彼女の背中へと視線を移す。
 決して整えられているとは言えない茶色の髪を背中まで流し、その身は動きやすそうな武官の格好をしていながらも些か細い印象を受ける。
 微かに膨らむ胸部が、その人物が女性――見た目も合わせれば少女なのだということを、表していた。
 そんな俺の視線にあからさまに嫌悪感を滲ませながら、その少女は小さく名乗りを上げた。

「……魏続、と申します」

 そう呟いて再び呂布の背中へと隠れる少女――魏続に苦笑しつつ、視線を魏続を嬉しそうに撫でる呂布から陳宮へと移す。
 視線で誰、と問いかければ、陳宮は溜息をもって答えてくれた。

「……この間の黄巾賊との戦いの中、囮とした村の娘なのです。黄巾賊が襲う間近、忘れ物を取りに戻り、黄巾賊に見つかって襲われそうになっていたのを助けたのですよ」

 それから恋殿にべったりなのです、と若干うっとうしそうに言う陳宮に思わず苦笑してしまう。
 本当は魏続から呂布を取り返してべったりしたいのに、彼女の心理を考えてそれを遠慮してしまうほどに陳宮が優しいことは、よく理解しているつもりだった。
 それと同時に、黄巾賊に襲われそうになったということは男――つまり俺に対して嫌悪感を抱くことも当然のことだと気づく。
 男に襲われることなど無い俺にとっては――そんな機会など欲しくもないのだが――襲われそうになった女性の心理を理解することなど出来るはずもない。

 結局の所、魏続の視線に含まれている敵意をどうすることも出来ずに、俺は彼女達からある程度の距離をとった状態で話しかけた。

「魏続殿は――あー、何をするわけでもないのでそんなに身構えないでください」

「……ぎー、一刀は大丈夫」

「……恋さんがそう言うなら」

 話しかけた途端、魏続は身体をビクリと震えさせたかと思うと、敵意を通り越した殺気混じりの視線と唸り声を俺へと向けてきた。
 戦場で向けられるものや、張遼や華雄から半ば本気で向けられるそれらよりは比較的軽いものではあるのだが、かと言って向けられているという事実が変わるわけでもなく、率直に言えば非常に心苦しいものであった。
 これが恋、などと言えるほどボケられる空気でもないのでそれは自重して、それでも敵意の混じった視線を向けてくる魏続に苦笑しつつ口を開いた。

「魏続殿は……えと、その、俺を恨んでますか?」

「…………え?」

「いや、俺が魏続殿の村を囮とする策を献策したから、魏続殿がつらい目に遭いそうになった訳でして……俺を恨んでも仕方のないことだなあ、と」

「……もし、恨んでいるとしたらどうだと言うのですか? その首、頂くことになっても構わないと言われるの――」


「ええ、構いません」


「――ですか……って、ええッ!?」

 まさか俺がそう言うとは思わなかったのか、意表つかれたかのように驚きを顔に貼り付けた魏続に、どんな形であれ俺は初めて彼女の感情を見た気がした。
 まあ、敵意だけはずっと向けられていたので初めて、という訳でも無かったりするのだがその辺は置いておこう。

 そもそも俺のこれまでの経緯を考えれば、自分でも驚くほどにそういった出来事を嫌うというのは自身理解しているのだ。
 ただ自分を受け入れてくれた人達が穢され犯される、という理由ではなくとも一人の人間として、また男としては当然受け入れられるものではなかった。
 だからこそ、魏続をそういう目に遭わせそうにしてしまったという負い目はあるし、元々そういった関係の上で人を殺したことのある俺であるから、その代償として自分の首をかけるぐらいは当然のことだと思っていた。

「ただ、この身は卑しくも将軍となりました。今は多忙、故に天下が泰平となって、私がいなくても天下に問題が無くなった後になりますが。その後ならば、この首なり腹なり、お好きな所へ刃を突き立てて――」

「――駄目。一刀は死なせない」

 未だ驚愕に瞳を開いている魏続の表情に苦笑しながら、俺は言葉を発していく。
 死にたい、とは特別思うものではないが、かといって用済みになってしまえばどんな目に遭うかは現状では分からないのだ。
 天の御遣い、天将、それらの名が民にもてはやされるのも、今の世が戦乱であり、そこに不安があるからなのだ。
 不安の中に救いを求めた結果が天の御遣いであり、それさえ拭われてしまえば俺という存在が不要になるのは目に見えていた。

 それこそ、漢王朝と対立してしまうことだってあり得る。
 だからこそ、不要とされて死んでしまうよりも、俺に恨みを抱く人の捌け口となって死ぬのも有りかも、とも思ったのだが。
 そんな俺の心中を知ってか知らずか、幾分か鋭い視線で呂布は俺の言葉を遮った。

「で、ですが奉先殿? わだかまりを持ったままに天下が泰平となっても、そこには必ず綻びが生じるもので……」

「恋でいい」

「え、ええっと、そういう訳にもいかないんじゃないかと……それに今は呼び方の話では……」

「恋」

「あ、あのですね……」

「恋」

「ううっ……」

「……」

「……分かった分かった、分かりましたよッ――じゃなくて、分かったよッ! これでいいんだろ、恋」

 おかしいな、さっきまで首が欲しいかそらやるぞ的にシリアスな場面だと思っていたのに、いつのまにこんなことになってしまったのだろうか、とついつい首を掲げる。
 じい、と無表情に見えながらもその実、無垢と言い表せるほどに澄んだ呂布の瞳をむけられ――睨まれているとも言えるが、ついには折れた俺に呂布は嬉しそうに笑った。
 そんな嬉しそうに笑う呂布の頭をついつい撫でている俺に、魏続は訝しげに口を開いた。

「……本気、ですか? 本気で首をやるなどと――」

「ありえないことなのですが、この男の言うことは常に本気だったりするのです。ぎー――ではなく魏続殿も、早めに慣れた方がいいのですぞ」

 本当に馬鹿な男なのです、とやれやれと言わんばかりに首を振る陳宮だったが、ふと思い立ったように俺へと視線を向けてきた。
 もしかして呂布の真名を呼ぶことになったことへの報復か、と身構えそうになる俺であったが、陳宮の視線の中にそういった感情が含まれていないことに疑問を抱いて首を捻った。

「恋殿が真名を許した以上、ねねもお前のことを少しは認めてやることにするのです。今度からはねねのことも真名で呼ぶがよいのですぞ」

 そもそもお前に字で呼ばれるのは気色悪いのです、と忘れずに呟くあたり嫌々なら別にいいのにとも思うのだが、陳宮の纏う雰囲気はそんな負の感情を含んではおらず、むしろ新たな決意なり目標を抱いた者が纏うものであった。
 どんな心境の変化があったのかは分からないが、俺としては蹴られないのなら何でもいい。



 俺に真名を預けたことが新たな決意を抱くことに繋がるのか、と意味を全く理解出来ない陳宮の行動に頭を悩ましていると、ドタバタと走る音が近づいてくる。
 何事か、とそちらへと視線を向ければ、そこには見覚えのある兵士がいた。

「北郷様、呂布様に陳宮様も、こちらにおいででしたかッ!?」

「そんなに慌てて、何かあったのか?」

「は、はいッ! 賈駆様から、将軍の方々をすぐに呼び戻せとの命令を受けまして。北郷様達も、城へとお戻り下さい!」

 他の将軍を捜さねばならぬので、そう言って再び走り出した兵士の背中を見送った俺は、呂布と陳宮へと視線を移す。
 その意味を受け取ってくれたのか、コクリと頷いた彼女達と共に城への帰路を急ぐために俺達は走り出した。





  **





 城に戻って四半刻。
 城外で部隊の調練をしていた華雄と徐晃が帰ってきて、その一室には董卓軍の主要たる面々が集うこととなった。
 さすがに魏続をそんな中に連れてはいる訳にもいかず、客間にて呂布の愛犬であるセキトと留守番してもらっていたりする。
 


 そして、集った面々をぐるりと見渡して、賈駆は口を開いた。

「黄巾の匪賊ここに壊滅し、その祝いを洛陽にて行うものとする。ついては、その後に黄巾の残党をも殲滅させるために、各々軍を率いて洛陽に来られたし」

 静かに、そして確かに発せられた賈駆の言葉は、その部屋に集う者達を途端に騒がせた。
 賈駆が言葉にしたにせよ、その内容はどう考えたって彼女のものではない。
 となると誰のものかということになるのだが、その最後にあった覚えのある地名にふと思い立つことがあった。

「……なるほど、洛陽――漢王朝からの命か」

「はい、牛輔さんの言うとおり、何大将軍からの文書にそう書かれていました。恐らくではありますが、各地にある諸侯へも送られているものと思われます」

 そんな董卓の言葉を受け、賈駆は一同が集う中心にある机に地図を広げる。
 地図とはいっても、大まかな中華大陸の図の中に、これまた大まかに各諸侯の勢力図やら主要な都市の名前やらを書いただけのものであるが、今はこれで十分である。
 何もやることが無くなれば地図を作るために各地を巡ってもいいなあ、なんて思いもするものだが、現状を考えればそれも無理かもと諦めざるをえなかった。
 暇になるとか絶対にあり得ないし。 

「恐らく、四世三公を輩出した冀州の袁紹はもとより、東郡太守の橋瑁、済北国の相である鮑信、騎都尉の丁原や名ばかりの西園八校尉の典軍校尉である曹操など、様々な諸侯が集められることになるわね」

「……勢力だけで見るならば、大陸のほぼ全ての勢力、といっても過言ではないな」

「にゃはは、総数だけで見るなら一番の勢力だよね。ただ――」

「――そう、それに各諸侯が応えればの話、だけどね。漢王朝、大将軍の名を用いているとはいえ、対立する宦官を相手するのに本気を出しましょうってことだけで、わざわざその話に乗る必要はないの。いくら命令とは言っても、断り文句なんかいくらでもあるんだし」

 それこそ黄巾賊被害の復興のために手が離せない、なんてのも有りかもね。
 地図を見ながらうむむ、と唸る牛輔と李粛にそう言って、賈駆は地図を覗き込む面々へと視線を回す。
 
「とは言っても、これは好機であることに変わりはないわ。黄巾賊の残党を討つにはいい機会だし、洛陽で名が広がれば石城と安定の政もしやすくなるし流民が噂を聞きつけて多くの民を助けることが出来る。ボク達が飛躍するためにも、今回の洛陽への出征は必要なことだと思う」

「なるほど……霊帝に名を売ることが出来れば、いずれ何進に替わることも出来るやもしれませんね。出来ないにしても、これから勢力を拡大するしないにしろ有利に事を進めることが出来る可能性も出てくる。確かに、好機ではありますね」

「はわはわ……な、何だか事が大きくなっていってますけど、現状保持のためにも何かしらを一手打つのは必要かと思います。それが洛陽に赴くことなのか、それとも別のことなのかは未だ分かりませんけど……」

 ふむ、と顎に手を当てて考えだした王方の後に続いた姜維の言葉に、俺はざっと地図を見渡してみる。
 黄巾賊の残党は青州を主として、未だ華北で激しい抵抗を続けているという。
 これが俺の知る歴史の通りに進んでいくのならば、劉備やら曹操がこれらの残党をも片付けながら勢力を拡大していくのだ。
 とりわけ、残党の中でも一際強大である青州黄巾賊は曹操と激戦を繰り広げ、その尽くを勢力下においたことは曹操――曹魏において飛躍する原動力であるとも言えた。

 董卓軍が勢力を拡大していく上で、それは出来うる限りなら阻止したいことではあるし、それを考えると洛陽からの文書に応じる必要も出てくるだろう。
 または徐州をもって飛躍する劉備、揚州に地盤を築いて勢力を拡大する孫家、あるいは益州の劉焉や荊州の劉表など、後に一大勢力を築き上げていくそれらの勢力の先手を取るのも悪くはない手である。 



 だが。
 だが、である。

 もし、俺の知る歴史においても同じような話がされ、そして同じような考えに至り行動していたとしたら。
 もし、全く同じ道筋を辿る訳ではないにしろ、その行く先が同じ結末――反董卓連合の結成へと至るのだとしたら。
 もし、その先に待ち受けるのが、董卓軍の瓦解――董卓の死、だとしたら。

 
「……そんなの、受け入れられる訳ないじゃないか」
 
 
 だからこそ――
 故に――




「私としても、未だ黄巾賊の脅威に怯える人達を救いたいんです。都での権力争いなんかも絡んでいると思いますが、それでも、私は民を救いたい。皆さん、どうかお力を貸してはもらえないでしょうかッ!?」

 意を決したように頭を下げる董卓。


「ボクは月に従うよ。大丈夫、月は民を助けることだけを考えて。都での権力争いの方はボクが何とかしてみせるから」

 どう手玉に取ってやろう、と笑う賈駆。


「ふふ、諸侯達が率いる軍がどれほどのものか、我が武にとって不足無しか、実に楽しみだ」

 いずれ出会う豪傑を楽しみにする華雄。


「洛陽には強い奴も上手い酒もごろごろあるんやろうなぁ。華雄の奴やないけど、うちもめっちゃ楽しみやで」

 強者を望み、嗜好の酒を求める張遼。


「……美味しいご飯、ある?」

 未だ見ぬ大都市とその食事などを楽しみにする呂布。


「きっとあるのですぞ、恋殿。食べ歩きの際は、このねねも誘って下さいのです!」

 主との都を楽しみとする陳宮。


 その他にも、様々な形で洛陽へと出征することを楽しみだと話すみんなの前で。




「俺は反対だ」




 ――俺はきっぱりと断言した。







[18488] 二十九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/10/16 13:05



「武官の方々は各諸侯の軍を駐屯出来る土地の確保を、文官の皆様は諸侯達への召喚に応じたことへの謝礼と駐屯中の兵糧の確保をお願いいたします」

 てきぱきと的確な指示を出していく己の臣下――司馬懿の背中を見つめながら、何進はふと思考に耽った。
 司馬懿が洛陽に、何進の元に来たのはたまたまの偶然であった。
 たまには、と思い軍の調練へと顔を出したその帰り、城の門付近で見かけた男が目についた。
 その男は何とか入れないだろうかと思案しており、話を聞けば朝廷に仕えたかったが宦官には馬鹿にされて相手にされなかったと言うのだ。
 常の何進であればそれだけで切り上げただろうが、その頃は宦官の勢力が増していたこともあって、その通りにはならなかった。
 宦官が話も聞かなかった男を自分が取り上げるのも悪くない。
 それで宦官が動揺すればそれでよし、男が使えなくてもただ捨てればよいのだと、その時は思っていた。

 だが、男は予想に反して優秀であった。
 文を読み解き万人にも分かりやすいように整え。
 剣を握らせば軍兵の誰よりも優れた使い手であった。
 そんなものだから男の存在は瞬く間に大きなものとなっていき、何進にとっても漢王朝にとっても、いつしか無くてはならないものとなっていた。
 宦官共の――張譲のあの苦虫を噛み潰したかのような顔はいつになっても忘れられん、と何進は笑いを堪えた。

「何大将軍は、宦官にこちらの思惑を気取られぬよう、細心の注意を……何を笑われておいでで?」

「いやすまぬ、なんでもない。して、注意だったな、宦官共が気づくとは思えんが仲達がそう言うのなら気をつけておこう。――して、仲達?」

「はっ、何用で?」

「いや何、袁紹や丁原などを呼び寄せるのは分かるのだが、宦官の孫である曹操や、地方の役人の娘である董卓などという小娘を呼び寄せる必要があるのか、と思ってな。西園八校尉の曹操はともかく、董卓など役に立つのか?」

 たかだか黄巾賊の一軍を撃退した程度、何進にとって董卓というのはその程度の認識であった。
 自軍の倍以上の賊軍を相手に勝利を収めてはいたようだが、それも練度も低く明確な指揮官のいない黄巾賊相手のことであって、さして評価を上げるようなものでもない。
 また、荊州方面の一軍が勢力を拡大しながら涼州へと侵攻したのを撃退したとはいえ、それも涼州連合の一派として名を馳せる馬騰の軍が助勢したからであり、その功は殆どがそちらのものであろうとも考えていた。
 だからこそ、何進は何故に司馬懿が董卓を呼び寄せようとするのかが理解できなかったのだが。

「何大将軍の言うことはもっともでございます。ですが、石城安定を勢力下とする董卓を御するということは、ここ洛陽において西方の守りを固めるということと同義でございます。董卓に西方を任せ、宦官に味方しようとする者共への抑えとする。彼の者の父親は洛陽にても名の知れた者であったとのこと、その娘である董卓ならばきっと任を全うすることも出来るでしょう」

 信頼する司馬懿にそう言われてしまえば、うむむ、と何進は頭を抱えた。
 今回呼び寄せる多くの諸侯は――というよりも、董卓以外の諸侯は洛陽より東方に割拠している者達である。
 これは、黄河と長江の下流域が肥沃なためでもあるのだが、そういった理由もあって肥沃とはほど遠い地を勢力とする董卓に期待するというのは難しいものであった。
 だが。

「……それに、彼の地には近頃民の間でも噂される天の御遣いとやらがいるとか。嘘か真か、一人で万もの黄巾賊を相手にしたとあっては、目を付けぬ訳にもいきますまい。それに、董卓を御するということは彼の者をも御するということ。民の指示を受け、宦官を討つ名分を得られることでしょう」

 信頼する臣が笑みをたたえながらそう言えば、何進としては頷く他ないのである。
 自身の女の部分が冷静な思考を邪魔する筈もない、そう言えば嘘になることは何進とて十分に理解している。 
 端正な顔立ちに鋭利な眼差し、そんな中見せる笑みに乙女のように顔が熱くなるのを止めることが出来ない何進は、ふい、と視線の中に司馬懿を入れぬようにと顔ごと動かした。

「……お主の言を信じよう。よきにはからえ」

「仰せのままに」

 紅くなっているであろう顔を隠すように、その事実が目の前の男のせいでなっているという気恥ずかしさを隠すように、何進は顔を背ける――司馬懿が考えることならば、決して間違いはないのだという信頼をも隠すように。


 だからこそ。


 顔に張り付いたままの笑みの裏側に隠された司馬懿の思惑に、何進はついぞ気づくことは無かった。





  **





「一体全体、どういうことなのか説明してもらおうかしら? あんたが反対って言う、その理由を」

 俺の一言で空気が固まった部屋を解すように、賈駆が言葉を発する。
 その表情には、こいつは何を言っているの、という感情が張り付いており、下手な受け答えでは感情を逆撫でするということは容易に想像出来た。
 見渡せば、他の面々も同じように――こちらは俺が反対した理由を探っているものではあったが、各々に感情を貼り付けて、俺の言葉を待ち構えていた。

「……まあ、理由としてはですが、石城安定の復興に勢いが出始めたとはいえ、その完了までは未だ遠い道のりであります。そんな中、洛陽にまで軍を発し黄巾賊残党を掃討する、そんなことをすれば政を圧迫し民にも被害が及ぶ恐れがあります」

 そもそも、黄巾賊に破壊された安定の城壁の修復は未だに終了していないのだ。
 捕らえた元黄巾賊を従事させているとはいえ、街一つの城壁を直すのにどれだけの数がいようとも瞬時に直る訳でもないのだ。
 結果として、未だ六割ほどの修復しか済んでいない安定の街が、洛陽に軍を発している間に黄巾賊残党に襲われてしまえば持ち堪えられるかは微妙な所である。

 さらには、渭水周辺地域への対応、対策もある。
 黄巾賊に促されたとは言え、あの地から多くの民達が黄巾賊に参加し安定に攻めたこともあって、警戒はしておかなければいけない事案であった。
 今は牛輔の指揮の下、統率された偵察隊がその動きを監視している所であるが、それもいつ爆発するかは分からない。
 それこそ、黄巾賊残党と共謀して安定を攻める可能性も否定出来ないのである。



 それ以外にも新兵の調練、馬家との連携の強化、収穫物の見込み収入などなど、多くの懸念すべき事案があってどうして軍を発することが出来ようか、などと思ってしまうのであった。
 もちろん、俺が考えつくことなのだから賈駆も当然予想はしているだろうし、先手や対策を打っているであろうことは想像に難くない。
 だからといって、それだけならば反対などすることも無かったのだが。

「……なるほど、あんたの言いたいことは理解出来たわ。ようするに、時期尚早、そう言いたいわけね?」

「話が早くて助かるよ。確かに洛陽まで軍を率いれば、漢王朝はもとより何進、果てには各諸侯の覚えもよくなるだろう。だけど、それは目先にぶら下がっている勲に過ぎないんだ。それよりは、先に待つ大功を得るために今は力を蓄えるべきだと、俺は思う」

「だけど、それで時代のうねりに取り残されてしまえば? いずれ都で権力と財力と兵力を携えた勢力によって、私達は飲み込まれてしまうのは目に見えているわ。ならばこそ、そうなる前に出来るだけうねりに取り残されないように動いて、先手を打つ必要があるの。こうしている間にも、何進の呼びかけに応じた諸侯は出立しているでしょう。時を、一刻を争うのよ」

「だけど、そのために民を苦しめたら元も子もないだろう。民あっての国ならば、今は兵を鍛え国を富ませることが――」

「――もういいわ。あんたの言いたいことは分かるけど、だからといってボクも引くつもりはない。決して妥協点の見つかりそうにない議論をしたところで、時間の無駄だもの」

 だから。
 そう言って賈駆は、主たる董卓へと視線を移した。
 それに合わせて、俺と賈駆の成り行きを見守っていた面々のみならず、俺の視線までもが董卓へと注がれた。

「月が決めてちょうだい。洛陽に軍を出すか、出さずに力を蓄えるか。どちらになったにしろ、ボクは全力を尽くすよ。……あんたも、それでいい?」

「……分かった、俺もそれでいいよ。悪い、月。面倒を押しつける形になっちゃったけど」

「へ、へぅ……い、いえ、一刀さんの言うことも理解出来ますし、詠ちゃんの言うことも分かるんです……」

 だけど道筋は決めなければならない。
 そう小さく呟いた董卓は、ふと思案するように瞳を閉じた。
 俺としては、ここで諦めてくれた方が都合が良い――というよりは、諦めてくれればおおよそのことに決着が付くのだ。
 俺の知る歴史において、細かい理由は多々あれど董卓が帝を、洛陽を手中に収めた最大の要因はその行動の速さであったと思う。
 機を見るに敏となる――それこそ、今の賈駆であれば俺が危惧する通りに事が進むであろうことを想像するのは容易であった。

 だが、先の話を思い出しても、董卓自身は洛陽へ軍を出すことには前向きなのだ。
 黄巾賊残党によって苦しめられる可能性のある民を助けたい、そう思う志は立派であると思うし、守っていきたいと思う。
 ならば、最早力を蓄えるようと説得するのは諦めて、俺は次の打開策を考えることに決めた。

 一番に考えつくことは、出来うる限り遅めに行くということだ。
 それならば俺の知る歴史とは差違を生じさせることが出来るし、その差違からいざ戦いが始まったとしてもこちらの損害は少なくすることが出来るだろう。
 そのためには、この軍議を出来るだけ延ばすこと――最良なのは諦めて洛陽には行かないことなのだが、もし洛陽へ軍を出すにしても無理のない範囲で時間を延ばしたい所である。
 賈駆が本気で準備の指揮をすれば瞬く間に洛陽へ発する準備は整うだろうが、それでも細かい所を延ばせば結構な時間となる。
 

 要するには、だ。
 俺は甘く見ていたのかもしれない――歴史が、そんなに簡単に変わるはずもないのに。
 



 結局の所、董卓は俺の案を聞き入れることは無く、洛陽へ出征するための準備の任をその場にいた面々に下した。
 無論その中には俺も含まれる訳で、俺の案をとらなかったことを董卓は酷く恐縮していた。
 賈駆からの刺すような視線にさらされながら董卓を宥めた俺は、早速とばかりに出征の準備と平行して打開策を模索、検討していったのである。


 


  **





 そして、五日後。
 
 涼州から洛陽に至るまでのいくつかの道筋の一つ、その入口にて俺は馬へと跨っていた。
 この世界に来たばかりで馬に乗ったこともなく、またそういった知識も無かった俺を、唯一乗せてくれた馬――真っ白な毛並みを持つ白毛であることから、俺は白(はく)と呼んでいるのだが、初めて乗れた時には感無量であったのは、記憶に新しい。
 そこ、名付けが安直とか言わない。

 そして、訓練の時は気にしたことは無かったのだが、俺が天の御遣いと言われる理由でもある聖フランチェスカの制服を纏って跨れば、上も白、下も白という非常に目に痛い色になっていたりもした。
 これは、董卓やら姜維やらが綺麗と言ってくれたりもしたので嬉しかったりもするのだが、俺としてはどうだろうなと頭を掲げるばかりであった。



 そんな俺の隣に、一人の騎馬が近づいてきた。

「はっはっは、中々にお久しぶりですな、北郷殿。中々苦労されていると聞きましたが、いやはや、いい顔をするようになられた」

「お久しぶりです、稚然殿。稚然殿や玄菟殿の苦労が、ようやく分かった気がしますよ――っていうか、凄いと尊敬さえ出来ます」

「おおう、中々に言ってくれるわ」

 無骨ながらも所々にある傷が歴戦を匂わせる鎧を纏った李確を隣にして、俺達はその形態を整えていく軍勢を、少しだけ小高い丘の上から眺めていた。
 洛陽に出征する、という董卓の決には従った俺であったが、それでも石城と安定の守りの主張を翻すことはなく、結果として董卓軍総数の半分で洛陽へと赴くこととなったのである。
 その数、実に五千。
 黄巾賊戦において総数七千ほどであったのが、黄巾賊からの降兵や新規に参加した兵などを含め、多少の出たり入ったり――出た兵の多くの理由は華雄達武臣の訓練が厳しいというものであったが、そんなことをがあって董卓軍はようやく一万とも言える兵力を整えたのである。



 そして、その内の四千を有する石城から二千の軍を任されたのが、李確であった。
 とは言っても、任されたというよりは奪い合いで勝った、というのは本人の談である。
 
「いやなに、玄菟の奴も儂に行かせろと五月蠅くての。仕方なく剣で決着を付けてやったのよ、なっはっはっは」

「なっはっはっはっ、ではありませんよ、稚然様。董家の御重鎮ともあろうお二人が、子供のような理由で剣など振らないで下さい。下の者に示しがつかないではありませんか」

「おお、琴音。玄菟がよろしゅう言っとったぞ。あと土産――洛陽の名物酒もよろしく、とな」

「知りません、そんなことは。信じられますか、一刀殿。父上と稚然様、洛陽の酒を先に呑むのはこの儂だ、という理由で洛陽への出征を希望したんですよ」

「それは、まあ……何と言うか……」

 そして、俺を挟んで李確の反対側へと徐晃が馬を進めた。
 その表情はどうしていいやら、と何やら諦め顔で、李確を注意する声にもいつもの覇気は無い。
 まあ、徐晃にとって李確は幼い頃を知るもう一人の父とも言えるのであろうから、本当の父である徐栄と例え殺さずとはいえ剣を振るわれては、心配なのもしょうがないものではあった。
 まあ、彼女の場合はあまり顔に出したりはしないのだけれども。



「準備が出来たみたいだぜ、ご主人様。琴音と李確殿も、早くしないと詠がきれちゃうぜ」

 徐晃に責められる李確を苦笑しながら見ていれば、不意に背後から声がかけられる。
 声に反応して振り向いてみればそこには馬超がいて、出立の準備が終了したとの報をもたらした。

「ああ、分かったよ、翠。稚然殿も琴音も、早く行きましょう」

「分かりました、翠殿、一刀殿。ほら、稚然様も早く行きますよ」

「分かっておるわい、そう急かすな」

 年寄り扱いするでない、と愚痴る李確を徐晃が引っ張っていくのを後方から眺めながら、俺は馬超と馬を並べた。

「翠は洛陽に行ったことはあるのか?」

「洛陽? ああ、あるよ。母様が漢から呼ばれた関係で、一度だけどな」

「寿成殿か……まあ、独立勢力に近い西涼連合の最大勢力だもんな、そう不思議なことではないか。どんな場所だった?」

「どんな場所? んー、簡単に言えば人が多かったな。民も官も、どちらにしてもだけど」

 器用に手綱から手を離して腕を組む馬超、腕を組んだことによって主張が激しくなったその胸から視線を外し、俺は首を前へと向けた。
 幸いなことに、馬超は気づいていないらしく、横目で窺えば何とも可愛らしく頭を抱えていた――再び胸へといきそうになる視線は、無理矢理に引っぺがした。

「あと飯は美味かったな。安定のも美味かったけど、何かこう……使ってるものから違うというか……」

「当然よ、洛陽は周辺の地域や諸侯から上納として作物などを得ているの。その中には当然、各地域の名産やらが含まれているのだから、翠が感じるようになっても無理はないもの」

 整列した軍勢の前。
 先ほどまで指示を飛ばしていた将達の中から、俺と馬超の言葉を聞きつけた賈駆が歩み寄ってくる。
 その顔色を見るに、先日の口論の影響が残っているようではあったが、俺が特に気にしていない風なのを知ると、あからさまに俺の顔を見ながら溜息をついた。
 
「……まあ、その違いは洛陽に行ってから確かめて頂戴。今は出立の時、あんた達も早く持ち場に着きなさい」

「はいはい、分かってるよ。疲れたらちゃんと近くの兵に言うんだぞ、月も詠も、体力無いんだから。無理はするなよ?」

「はいはい、あんたの言いたいことは分かってるからさっさと持ち場に行きなさいよ。……全く、本当にお気楽なんだから。…………ボクがあんなに心配したのだって、無駄だったじゃないのよ」

「ん? 何か言ったか、詠?」

「何も言ってなんかないわよッ、さっさと行きなさいッ!」

「ひえっ! ご、ご主人様、早く行こうぜ!」

「ああ――って、翠ちょっと待てよ、俺を置いていくなッ!?」

 まるでゴロゴロという音が聞こえるかのように落とされた賈駆の雷に、俺と馬超は慌てて馬を走らせた。
 ふん、と賈駆が鼻を鳴らしたのを背中で聞きながら、俺と馬超は与えられた持ち場へと急いだのだった。





  **





 そして、石城安定を出立してから数日。
 途中に数度の休息を入れながらも出来るだけ急いだためか、当初の予定より大幅に早くあと少しで洛陽を遠くに望めようかという距離にまで近づき、俺達は最後の休息をとった。
 洛陽に入る前に出来るだけ疲れや汚れを取って体裁を整えた方がいいだろう、ということで簡素な陣地を構築した俺達は、ほんの一時の安らぎを楽しんでいた。


 
 だがそれも、賊や黄巾賊の残党を警戒するために発していた斥候の一人が、ある報を持ち帰るまでのことである。


「洛陽方面にて詳細不明の砂煙を確認ッ! 徐々にこちらへと近づいてきている模様ですッ!」






[18488] 三十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/11/09 11:52



 一閃。
 白銀の煌めきが僅かばかりながらその場を支配すると、少女の周りにいた数人の男達が叫び声を上げながら吹き飛んでいく。

 一閃。
 剣を振り上げて襲いかかろうとする男の喉元へと槍を突き出した少女は、すぐさまにそれを引き抜き同じように、続いてそれを横へと振るう。
 
 一閃。
 繰り出される剣を槍の腹で器用に受け止めた少女は、くるりと槍を回し剣を絡め取ると、槍を振るい男の首を刎ねた。



 幾重にも重なる骸を前にして、またその骸から流れ出た血溜まりを前にして、纏う白き衣を朱に濡らすこともなく、少女は眼前に迫り来る男達を一瞥した。
 数十人の男を相手にしながらその息づかいは乱れた所無く、その視線には一切の疲労の色も無かった。
 白き衣と蒼穹の髪を風に流せるままにするその姿は、およそ戦場という地においてはあまりにも不似合いなものであった。

「ふむ、大将軍子飼いの兵というからどれほどのものかと思えば……ただの夜盗崩れではないか。そのようなもので私が討ち取れるなどと、片腹痛い」

 ふふ、と。
 まるで女が男を誘うかのように艶やかに笑った少女は、静かに槍を構えた。
 いや、実際に誘っているのかもしれない。
 その違う所は、それが閨か槍の範囲か、というだけのものであるが。

 そうして誘われた一人の男が、横に振るわれた槍の穂先に捉まってその首を宙へと放り出した。
 自らが死んだことすら知覚出来ずに倒れ伏した男を前にして、その少女は声高らかに名乗りを上げた。

「我が名は趙子龍、常山の昇り龍なりッ! 我が愛槍、龍牙の露になりたい者はかかってくるがいいッ!」





「おおー、星ちゃんのりのりですねー。あのまま追い払ってくれないでしょうか」

「いくら星殿でも、さすがに三百程の相手は難しいと思うぞ、風。もっとも、ここまで派手にやらかしたんだ、そろそろ助けが来てもおかしくはない筈だが……」

 名乗りを上げる少女――趙雲から少し離れた場所で、二人の少女は趙雲を視界に収めていた。

 水色を基調とした服を身に纏い、ふわふわとした金色の髪の上に人形らしきものを載せた少女は、眠たげな口調で期待を口にした。

 だがそれも、紺色を基調とした服を纏う少女に覆されてしまう。
 きらり、と光を反射する眼鏡の奥に見える瞳は冷静な色を称えており、趙雲一人対三百人という絶望的な状況でも何ら心配などしてはいなさそうではあるが。
 
 前か後ろか、そうぼそりと呟いた眼鏡の少女の背後から声が発せられた。

「あ、あの、あの方は大丈夫なのですか? いくらあの方が武芸に秀でていても、あれだけの数を相手にすればいくらなんでも……」

「……助けてもらったことには感謝していますが、彼女が引きつけている内に逃げることは叶わぬのですか? 見たところ、彼女は武芸に秀でているのでしょうが、あなた方はどうにもその域ではない様子。逃げるなら今では?」

 先の眠たげな少女に劣らぬふわふわとした髪に隠れながら、気弱な声がぼそぼそと紡がれる。
 音量だけで聞くのなら小さいとも言える声であるが、いざ実際に聞くことになれば驚くほどにすんなりと耳に入るものであった。
 それに眼鏡の少女が驚いていれば、そんな声を遮るかのように冷徹な声が発せられた。

 同じような眼鏡をかけていながら、その奥から覗く双眸は酷く冷たい。
 明らかに警戒されている、と眼鏡の少女が気付くほどにであるのだが、背後に守るようにしている先の少女を見る時だけは、その中にも温かさが灯るみたいであった。

 文官風の身なりながら、用いられている布や装飾が絢爛なことから鑑みるに、どうやら朝廷の関係者であるらしいのは、初め見たときから知れたことであった。
 そのような者が一人の少女――それも自分達より遙かに身なりのいい彼女を守るということは、その少女がどれだけの地位にいるのかがよく分かる。
 実際にはどのような身分なのかは知らぬが、それも戦場ではあまり関係のないことだと、眼鏡の少女は視線を戻した。
 ただまあ、いくら朝廷の関係者が守るとは言っても皇族でもあるまいし、と考えながら。



「稟ちゃん、ぼちぼち下がりますですよー。どうにも、星ちゃんが押され気味みたいですし」

 そう言われて眼鏡の少女が視線を移せば、先ほどまで趙雲に切り崩されていた固まりが、徐々にではあるが彼女を――自分達を覆い尽くすかのように蠢いているのが確認出来た。
 指揮官らしき人物は確認出来ないため、彼らが適当に命令された一団だと言うのは分かるものだが、どうやら多くの仲間を討たれていよいよに頭を使い始めたらしい。
 いくら趙雲の武が優れているとは言っても、それにも限度がある。
 さらには、自らのみならば趙雲でも身を守ることは叶うかもしれないが、この場にいる四人を守ることは難しいことは自明の理であった。

 故に、敵がこちらを囲もうとするのなら囲まれないように退く。
 こちらが後方へ退いていけば敵はまず趙雲を囲んで討とうと動くのだが、少し動けばこちらへと手が届きそうな距離を保つことでそれを防ぐ。
 いざこちらへと動こうとした者がいたとしても、それを優先して討つ趙雲の前に、敵もそれが成せない状況であった。
 まあ、一度に全部がこちらへと来れば防ぎようなどないに等しいのだが。

「ふむ……そろそろ本気で逃げた方がよさそうですね」

 それでも、そのような状況が続くはずもなく。
 敵の中でも機動力に優れた騎兵が、こちらの前方を塞ごうと動き始める。
 護身用にと馬に乗せてあった弓を放つが、元々武芸に秀でるわけでもない自分ではそれもどれだけの効果があるのか、と思う。
 だが、やらないよりはまし、とばかりに眼鏡の少女は弓を引き絞っていた。





「ちぃッ!?」

 徐々に、徐々に。
 じりじりと押されてきていることが分かっているのにどうしようもない現実に、趙雲は知らず舌打ちした。
 五十を斬った後からは面倒くさくなって数えていないが、それでもまだ脅威となる数が残っているのは見て取れる。
 さすがに疲れが出始めているのか、と趙雲は槍をしっかりと持ち直して眼前の敵を見やった。

 女だから、と甘く見て一人ずつで襲いかかってくることが無くなった敵は、途中から三人或いは四人の組で斬りかかってくるようになった。
 それだけの数で負けるとも趙雲は思っていなかったが、それが積み重なってくれば直接の負けには繋がらなくても、どうしても疲労は積んでしまう。
 その時こそが勝負の時だろうな、と趙雲はその時に向けて出来うる限り体力を回復させたいと思っていた。

 だが。
 それを敵が見逃す筈もない。

「くぅッ! あっ、待てぃッ!?」

 一瞬ばかり思考を別のことに用いた隙を突いて、三人の男達が一気に趙雲へと襲いかかってきたのだ。
 疲労がなければ、それだけの数は恐るるに足りないものであるが、今この時としてはそれもままならない。
 一人は斬りつけ、一人はその首へと槍を突き立てたものの、最後の一人に穂先を撫でらすまでには至らなかった。
 振り落とされた剣をかろうじて受け止めた趙雲は、視界の端を走り去っていく騎馬へと声を荒げるが、彼らがそれを聞き入れることもない。
 すぐさまに追いかけたいものではあるが、体重を加算して力の限りに押しつぶさんとする男の剣を今は押しとどめるので精一杯であった。

 そんな趙雲を見て、次々と男の背後から騎馬が飛び出していく。
 先に逃げる少女達を狙っているのは明確であったが、そんな趙雲の思惑とは裏腹に、数人の男達が趙雲を囲むように動き始めた。
 剣を押しとどめるので精一杯ではあったが、男達から聞こえる下卑た笑い声に、彼らがどのような顔をしているのか容易に想像できる。
 それを表すかのように、身体の各所――胸や太腿、その奥までを舐めるかのような視線を感じ、趙雲はぞくりと背筋を振るわせた。

 逃げるか。
 瞬時に脳裏に浮かんだ選択肢を、趙雲は頭を振って否定する。
 今ここで逃げることは十分に可能である。
 目の前の男を蹴飛ばし、槍を一気に振るってこちらの武に怖じ気づいている所を突破する。
 それだけならば、いくら疲労に塗れたとはいっても十分に実現可能な手段であった。
 だが、騎馬が駆けていった方向にはこれまで共に旅してきた同士がいる。
 今ここで自らが逃げ出せば、彼女達が自分の変わりに男達の標的なることは当然のことであり、周りにいる男達から見ても汚辱にまみれることもまた当然のことであった。
 
 だからこそ逃げる訳にはいかない、と趙雲は四肢に力を込めた――

「げへへへ、綺麗な肌してやがるぜぇ」

「ひゃぅっ!?」

 ――その瞬間、趙雲の剥き出しの二の腕が、不意にさわりと撫でられた。

 不意の感覚に不覚を取った趙雲は、慌てて抜けていく四肢の緊張に力を込めるが、力の抜けた瞬間を狙われて、地面に押し倒されるかのように剣を突きつけられる。
 最早こうなってしまえば、単純に体重と力の強い男の方が優勢であって、蹴飛ばしたからといってどうなる風でもない。
 さらには、視線を動かせば先ほど腕を触った男のみならず、反対側や頭の上からも男達が近づいてくるのが確認出来た。

 不覚。
 そう口の中で呟くが、そう言ったから状況が好転するわけでもない。
 迫り来る男という脅威と汚辱される瞬間を前にして、趙雲はいよいよここまでか、と諦めかけていた。
 願わくば、共に旅してきた二人と助けようとした二人が無事に逃げ切れることを。
 そうして、趙雲は全ての絶望を受け入れようと力を抜こうとした――



 ――その視界に、一本の矢が飛来する。





  **





 一本の矢が一つの命を今まさに奪わんとしている頃。
 皇帝がおわす洛陽の城、その一室において、三つの命の灯火が今まさに消えようとしていた――否、一つは既に消えていた。
 
 先ほどまで痛み、苦しんでいたソレが最早物言わぬ骸となって転がっているのを、司馬懿は冷徹な瞳で見据えていた。
 痛みから逃れようと伸ばされた腕は二度と持ち上がることもなく、何かを掴むように開かれた指はぴくりとも動く気配はない。
 口から吐かれた血が床と口周りを赤黒く変色させており、ソレが纏っている輝かんばかりの衣服をも所々汚していた。

「輝かんばかりの服……これがあの男の骸であったならば、どれだけ助かることか。まあ、そんなに簡単に事が済むのなら、左慈も于吉も手こずったりはせん、か……」

「ごほッ! かっ、かはっ」

「ぐふっ。き、貴様……ッ!?」

 実に残念だ、とばかりに溜息をつく司馬懿だったが、ふと思い出したかのように視線を動かした。
 ソレから少し離れた所、二人並ぶように地に伏せるソレを司馬懿は見やる。

 ごほごほ、と咳き込めば息と同時に血を吐き出し、その豪華絢爛な衣服をも朱に染めていく白銀の髪を持つ女性。
 その豊かな肢体は男の情欲の行く先になるには十分なものである――が、それも胸の谷間に突き入れられている剣がどうにも邪魔なものであった。
 少しだけ心の臓をそれた剣の切っ先は、しかして肺や気管支を傷つけたのか、彼女が呼吸をする度に空気の抜けていく音がするようであった。

 もう一人も、先の者ほどではないにしろ絢爛風靡な衣服を纏い地に伏せていた。
 ただ、その腹部には剣が深々と突き入れられており、彼女が痛みに蠢く度にカチャカチャと不愉快な音を立てて鳴っていた。
 背中まで突き抜けていた剣をどうにかしようにも、力を入れるごとに痙攣するかのようにビクリと動くものだから、余計に耳障りである。
 それでも、その瞳から覗く気概は、さすが朝廷の権力の殆どを手にした宦官ならではか、と司馬懿はソレ――張譲へと視線を向けた。

「何かご用ですか、張譲殿? もっとも、その傷では話すことはおろか、息をすることさえも苦しいでしょうが」

「ぐっ……がふっ……き、さま、何をしたの、ガ……ぐふっ」

「ええもちろん、分かっていますよ。あなたに幻術を見せ、殺すように仕向けただけですよ――あそこに転がっている、霊帝をね」
 
 そう言って、司馬懿はソレ――霊帝の骸に視線を向けることなく答えた。
 


 何進が各諸侯へ軍勢を率いて洛陽に来い、との命令を出したことによって、多くの宦官はそれを恐れることとなった。
 何進と対外的にも対立しているのは張譲であるが、自分達宦官が幽帝亡き後の次期皇帝として擁立しているのは何進が擁立している劉弁では無く、劉協なのである。
 この機会を好機として対立する自分達へと矛を向けることは至極当然のことであり、宦官達からとってみれば絶体絶命の危機でもあった。

 各宦官が保有する私兵をもって何進と一戦交えればそれでもよいが、宦官の全兵力を集めたとて五万がいいほどであった。
 何進が保持する兵力は二万と、宦官の勢力には遠く及ばないものであるが、それも各諸侯が加わればその限りではない。
 謀略で手に入れた大将軍とはいえ、その名は絶大であり、その命とすれば従わぬ訳にはいかないのだ。
 故に、たった三万ほどの戦力差では不十分なものがあるし、いざ一戦となった所で、百戦錬磨の各諸侯の軍と、ならず者やら黄巾賊崩れやらを金で雇っただけの宦官の私兵では明らかに練度の差があるのだ。
 


 軍事での決着が付かないのであれば、もはや宦官としては主格たる張譲に期待するしか他はない。
 張譲もそれを理解しているからこそ、彼女は信頼出来る手の者によって人払いの済んだ城の一室に司馬懿を呼び出し、何進の首を取れと囁いたのであった。
  
「もっとも、あなたが私――いや、俺を疑っているからこそ、容易に幻術にかけることが出来たのだがな。力を十分に発揮出来るのならそのような面倒くさいこともないのだが……まあ、上手くいったからとやかくは言うまい」

 だが。
 張譲の予想を大きく裏切って、司馬懿は張譲へと剣を向けた。
 時は今、と張譲が囁いた後、司馬懿は突然に剣を抜いて張譲へと襲いかかった――張譲にはこう見えていたのだ。
 それゆえ、張譲はとっさに懐に潜ませていた短剣にて司馬懿――と見せられていた霊帝の胸を突いたのだった。
 そして、その騒ぎを聞きつけて――というよりも、元々その張譲の動きを待ち構えていたであろう司馬懿によって連れてこられた何進によって、自らも剣によって突かれることになったのだが。
 しかも、その何進は背後から司馬懿によって剣を突き刺されるといった始末であった。
 ここまで来れば――ここまで流暢に物事が進んだのならば。
 そう考えると、張譲もようやくそこへ思い至った。

「がふっ……ま、まざが、初めからそのためだけ、に……ッ!?」

「ご名答。貴様らが俺を追い返すことも、何進が俺を拾うことも、今この場で貴様らが死ぬことも、すべては俺の手の上だ。もっとも、貴様らがこうなることはただの通過点――いや、始まりに過ぎぬがな。その基点として、貴様らには洛陽大火の礎となってもらおうか」

 司馬懿はそう言って、部屋を照らす蝋燭の燭台を倒した。
 途端、まるで初めから油でもまいていたかのように瞬く間に火は炎と化して、部屋の中を蹂躙していく。
 倉庫として使われていたのか、部屋の隅に置かれていた竹簡や書類は瞬く間に炎を広げるための燃焼剤となり、それは当然の如く張譲の近くにも積もれているものであった。
 まるで腹を空かした獣のように燃えるものを探す炎は、そこを経由して張譲へとその牙を剥いたのであった。

「ぐぅっ……おのれぇ……おのれぇぇぇぇぇッ…………」

 炎に包まれる直前、張譲は床に落ちていた剣へと必死に腕を伸ばした。
 このまま――司馬懿だけに一人勝ちをさせる訳にはいかない、と自らの中で警鐘を打ち鳴らす後漢王朝の臣としての自分の意に従って。
 司馬懿をこのまま世に放てば、後漢王朝が――しいては中華の大地がきっと未曾有の事態に巻き込まれるであろうことを懸念して。

 そして。

 あと少し、という所で炎は張譲の身体を覆い尽くし、延ばされた手が剣を掴むと彼女は二度と動くことは無かった。



「さて……何か言い残すことはあるか?」

「ひゅー……ひゅー……」

 動かなくなった張譲から何進へと司馬懿が視線を移すと、話す気力も体力もないのか、彼女の気管から漏れる空気の音だけがその場を支配する。
 二人の周囲ではごうごうと炎が燃え上がり、張譲に続いて幽帝の骸をも飲み込もうとしていた。
 このままであれば、いずれそれは何進をも飲み込むことは必至である。
 胸の傷から見て、それが骸であるか否か、の違いはあるが。

「まあ、気管が傷付いていれば話すことどころか、息をするのもつらいだろうがな。……一息に殺すわけにはいかんのでな、炎に巻かれながら死んでいくがいい」

 そう言って何進から視線を外して背を向ける司馬懿に、何進は何も言わない。
 もはや司馬懿の声が聞こえているのかも怪しく、もはやその姿を確認できているのかどうかも、生気のない瞳では怪しいものがあった。
 ただただ苦しそうな息づかいとそれによって零れる空気の音を聞きながら、司馬懿の姿は炎にまかれたかのようにその場から掻き消えた。





「ひゅー……ごほッ……ふふっ」

 司馬懿の消えた部屋の中、肺へと入り込んだ血にむせながら何進は知らず微笑んでいた。
 彼女自身とすれば微笑んでいるのかどうかも知覚出来ないほど血が流れているのだが、確かに頬の筋肉は動き笑みの形を作っている。
 だんだんと朧気に――黒とも白とも言い表せぬ色の思考を塗りつぶされて息ながら、何進は知らずの内に口を開いていた。

「――れて、信頼した男に殺される、か……かはっ。金と贔屓で権力を取ったわらわにしては、実に似合わぬ、死に方じゃな……。……のう仲達、お主は気づかなかったであろうが……わらわはお主のことを…………」

 


 
  **





 そして。
 部屋から零れる声が途切れた頃。
 部屋の中を蹂躙し燃やし尽くした炎は、いよいよを持って世へと放たれる。
 扉から溢れる炎を朝廷に仕える文官が見つけた時には、既に遅く。
 まるでそれが決められていた事のように、炎は部屋を飛び出し瞬く間に城を燃やし尽くさんとした。
 
 そして、天高く立ち上る煙は衆目――洛陽の人々にも知れ渡ることになり。
 まるで示し合わせたかのように、街は騒乱の渦へと叩き込まれることとなった。

 そしてまた。
 これを機に動き始める者達も、確かに存在した。

 

 何進の命令によって洛陽を目指していた、諸侯達である。
 
 





[18488] 三十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/11/09 11:43



「ぐうっ……あああああぁぁッ!?」

 トスン、と。

 空気を――その状況をも引き裂くように飛来してきた矢は、自らにのし掛かっていた男の右目へと吸い込まれるのを、趙雲は半ば呆然としながら見つめていた。
 地面に押し倒されている体勢では見ることは能わぬが、もしかしたら先に逃した者達がこちらの窮地を知ってとって返してくれたのでは、と思うがすぐさまにそれを否定する。
 続けて二射、三射と続けられるのであればそれも期待出来るであろうが、それも十、数十を超える数になれば、どだい無理な話となる。
 それと同時に馬蹄の音が地面を伝わって聞こえてきたのならば、そこから紡がれる解は一つしかない。

「ふふ……どこのどなたかは知らんが、実にいい頃合いだ。まるで見ていたようでもあるが……今それを考えるのも詮無きこと、か」

 援軍。
 その事実が、先ほどまで萎れかけていた胆に再び活力を漲らせるのを、趙雲はぞくりと背筋を振るわせながら受け入れた。
 乙女の危機に駆けつける、まるで古くからの大衆受けする伝承のようであったが、いざその渦中になってみると実に心躍るようである。
 そのようなことがあって自然に沸き上がる笑みを抑えることも出来ず、趙雲は降り続ける矢に呆然とする男を蹴り飛ばして立ち上がった。
 
 それを見ていたのか、ピタリと止んだ矢の雨に合わせるかのように、趙雲は槍を一薙ぎして周りの男達をも吹き飛ばす。
 一振りによって男達の腕やら脚を切りつけ、その痛みで男達が呻いた隙をついて二振り目によってその首を刎ねる。

 そうして窮地を脱したのを見計らって周囲を警戒した頃には、虚を突かれた敵軍はそちらばかりに意識を取られて、先ほどまで迫っていたこちらのことなど意識にないようであった。
 視線を変えて敵軍を攻めている軍を見れば、その多く――と言うよりはその全てが騎兵であり、その練度からしても相当な軍であると理解出来た。

「ふむ……中々によくまとまっているようだな。涼州の馬騰か董卓か、はたしてどちらなのか……」

 精強と謳われる涼州騎兵を主力とする西涼の馬騰の軍か、はたまた優れた武官を揃え騎兵のみならず歩兵弓兵どれを取っても練度が高いと言われる董卓軍か。
 洛陽からの援軍はほぼ無い、と助けた二人組の女性に言われていたことから、おそらくはそのどちらかだろうと当たりを付けた趙雲は、こちらへと駆け寄ってくる一騎の騎馬を見つけた。



「おおい、無事――だったみたいだな。大丈夫だったか?」

「うむ、そちらの援護のおかげで大事ない。感謝する」

「いいってことよ。ああそうだ、私の名は馬超。とりあえず、騎馬隊の指揮を任されてるよ」

「我が名は趙子龍と申す。それよりも、馬超……ということは西涼の馬騰殿の軍が我々を援護した、と考えて相違ないのかな?」

「いや、西涼の軍じゃないんだけど……まあ、その辺はご主人様に聞いた方が早いかもな」

「……ご主人様?」

「あっ、いやこっちの話だッ。……まずは部隊と合流しよう、付いてきてくれ」

 とりあえずは先に逃がした者達と合流するのが先か、と考えていた趙雲はこちらへと近づいてくる騎馬を警戒したが、その騎馬が女性であり、かつこちらを心配する風な口ぶりにそれを若干緩めた。
 見た目だけならば見目麗しい少女であるのだが、その手に持つ十文字槍と馬を駆る技術がただ者ではないことを教えている。
 いずれ名のある武人か、そう予想していた趙雲の勘は当たっており、少女は自らを馬超と名乗ったのである。

 馬超と言えば、西涼の馬騰の娘であり、名の知れた武人でもある。
 その人が騎馬隊を率いているということは、こちらを救ってくれた軍は西涼のものかと思っていたのだが、馬超の口ぶりからどうにも違うらしい。
 厄介な事情でもあるのかとも思ったのだが、馬超がついた溜息から察するに、どうにも面倒な――趙雲からすれば、実に楽しそうな事情であるようだ。
 目的地である安定に向かうにしろ洛陽に戻るにしろ、少しは楽しみが出来たやもしれぬ、と趙雲はまだ見ぬご主人様と出会うのを楽しみだと感じていた。


 
 そうして。
 数は劣るにしろ勢いと練度で勝っている馬超が率いていた隊は、難なくこちらを追撃していた部隊を撃退した。
 前方へ出て敵を攪乱する隊と騎射によってそれを援護する隊。
 それぞれに連携を取りながら、まるで盤上で行われる遊戯の如くに敵を討ち取っていく様から、部隊の指揮官の力量が分かるというものだ。
 そんな錬磨の部隊を前にしてか、敵軍の多くは戦場に散る前に逃げ出したこともあり、彼らが統率の取れていない――それこそ寄せ集めだということが見て取れた。

 洛陽から発した軍。
 寄せ集められた兵達。
 そして彼らが追っていた二人の女性。
 趙雲の中で、徐々にではあるが今回の追撃の全容が形作られていった。

「さっ、着いたぞ」

 そして、趙雲が本格的に思考へ沈もうとする直前。
 唐突に聞こえた馬超の声に顔を上げれば、既に残敵掃討や周囲の警戒に割いた以外の兵がその場に集っていた。
 ざっと見て二百ほど。
 その全てが騎馬であるらしいということから、周囲に放っている数も含めれば総数は三、四百ほどか、と大体の当たりを付けていた趙雲は、ふと見慣れぬ旗を見つけた。

 牙旗、または牙門旗とも呼ばれるそれは、軍を率いる将が己の居場所、また敵軍に対して武威を示すという意味で用いられることが多い。
 そのため、必然的にそれはよく見られることとなり、有名なものになれば民の間でもその噂が流布されるものなのだが。
 情報通を名乗る趙雲でも、その旗に見覚えは無かった。


 端を黄色で彩った白地の布。
 その中央、円の中に緑色の龍のような模様の中心にある、『十』の一文字。
 その牙門旗が、戦場の中において高々と風ではためいていた。





 **





「さて……」

 そう呟いた俺は、目の前にいる五人へと視線を走らした。
 その全員が女性であり、見目麗しいというかぶっちゃけ美人で可愛い人ばかりなので少々失礼かとも思ったのだが、先ほどには襲われそうになった人もいるみたいなのでその安否の確認も兼ねているのだ――と誰に対してでもなく言い訳しておく。
 ぐるりと見渡しても大きな傷があるようでもなく、また衣服が特別乱れている人もいるようでもないのでそこだけは安堵した。
 
 

 砂煙を確認した董卓軍は、それが洛陽方面からのものということもあり、偵察隊を出そうという決断へと至った。
 何進大将軍から洛陽への呼び出しを受けた直後に、その目的地から迫る何かしらの問題とあって、その対応を間違える訳にはいかないという賈駆の判断である。
 もしこれが何かしらの勢力の罠であり、覆せないほどの大軍勢がこちらを潰すために動いているのだとすれば、敵軍がこちらを捕捉する前に地の利のある領地へと帰還し、対策を練らなければいけないのだ。

 故に、偵察隊という名目ながらも、いざという時に敵軍と一戦して壁と成りうるだけの戦力を、捻出しなければならないのであるが。
 あろうことか、賈駆はその偵察隊の大将――指揮官を俺に任せると言ってきたのである。
 元々、将軍の一人としてそれに行かなければならないか、と思ってはいたのだが、まさか先だって言われた一軍を任せられる将軍になってくれ、と言う言葉を早速実践する機会が訪れてしまったのである。
 董卓と賈駆が本隊を取り纏め、俺が前線で指揮をして各判断を下す。
 言葉だけでは簡単そうなことなのに、いざしてみれば難解極まるその判断を、董卓軍軍師である賈駆は俺へと迫ったのであった。

 とは言うものの。
 敵軍の可能性がある勢力の規模も分からない以上、一応の名目であった偵察は本目的でもある。
 その規模を確認し、もしこちらの脅威となりながらも撃滅出来うるのであれば安全に領地へ帰還するためにも一戦を辞さない、その意図を忘れる訳にはいかないのだ。

 故に。
 偵察を主目的とし、かといっていざという時には壁として機能するだけの戦力がいる偵察隊において、賈駆の、無理はない程度に、という有り難い言葉と共に選抜された将は、俺を筆頭に馬超、呂布、張遼、牛輔、李粛という、下手をすればこれだけの面子で一軍が編成出来るんじゃね、と言わんばかりの面々であった。
 預けられた兵は、騎兵ばかりで三百。
 これをそれぞれ俺と馬超、呂布と牛輔、張遼と李粛という三つの部隊で割る形となった。
 呂布が率いる隊には追撃している軍を攻め立てよ、と。
 張遼が率いる隊には追撃してくる軍の攪乱、及びその撤退先の確認を。
 そして俺が率いることになっている隊は、馬超にその半数を預けて追撃されている人達の救援を、ということになった。

 まあ、結果としてだけ見ればこちらの損害は特になく、助けた人達にも大きな怪我もなさそうであった。
 一応の安全と状況の確認として、牛輔と李粛がそれぞれ五十騎ずつほどを連れて洛陽の様子を確認に行っているぐらいだが、これも問題があればすぐに戻ってくるようにと厳命しているので大丈夫だろう。



 そうして一応の安全を確保出来たとした俺達は、先ほど助けた五人の女性を前にした。
 敵軍に対して一人で奮戦していた女性を中心とした三人と、か弱げな少女を守るように立つ女性の二人という形で分かれている。
 二人の方は、どうにもこちらを警戒しているようで、少女を守る女性からは刺すような視線がどうにもきつい。

「助けていただいた礼がまだだったな。我が名は趙子龍、此度の救援、真に感謝する」

「程立と申しますですよ。助けて頂き、ありがとうなのですよお兄さん」

「戯志才……いえ、郭奉考といいます。助けて頂いたことには、礼を言っておきましょう」

「……なんかえらく凄いビッグネームばかりが来たな」

「びっぐねーむ?」

「いや、こっちの話だから気にしないで下さい、程立殿。……ごほん、俺の名前は北郷一刀。一応この部隊の指揮官ということになってるよ。とりあえず、間に合ってよかった」

 趙雲と程立と郭嘉などという、これからの時代に多大すぎる影響を及ぼし残していく面々の名前が耳に入ったことが幾分か信じられないのだが、それでも初めて董卓やら呂布の名前を聞いたときよりは衝撃が少ない。
 何か変な方向で成長しているらしい自分に驚きつつも、そればかりではいかないのだと奮い立たせて俺は口を開いた。
 
「ふむ……馬家の長女殿が救援に来たから西涼の軍かと思いきや、今や天下に名高き天の御遣い殿を擁する董家の軍であったとは……。いやいや、この偶然というものに感謝するべきやもしれぬな」

「偶然、で済めば星を見ることなど意味無いのですよ、星ちゃん」

「そもそも、この状況を予想して逃げていたのだから、こうなることはある意味必然とも言えるのですけどね」

 そんな俺の名前を聞くと覚えがあったのか、すぐさまに俺が董家の将ということを理解する当たりに趙雲が情報に通じているのがよく知れる。
 そして、そんな趙雲の言葉にすぐさまに反応する程立と郭嘉に、彼女達もまたその名に恥じぬ人物なのだと理解した。

 こちらの方向へと逃げれば助けが来る。
 太陽を掲げる夢を見たとして曹操に出仕した程立――後に程昱と名を変える少女と、病にて若くして世を去り曹操にその才を惜しまれた郭嘉という少女。
 出会ってすぐなためにその人となりを知る由もない俺でさえ、彼女達がある確信を持ってそう逃げたのだということが理解出来ると共に、董卓軍か或いは馬騰軍が助けに入るであろうことまで予測していた、ということに畏怖を覚えた。
 
 もし董卓軍も馬騰軍も洛陽へと動かなければ?
 その可能性もあった筈なのに、彼女達は集められるだけの情報と世の情勢を鑑みただけで、今の状況を半ば確信していたのである。
 畏怖――恐れるなと言う方が馬鹿らしいほどに、俺は背筋を振るわせた。

 

「……そなた達は、私達を討ちに来たのではないのですか?」

「ッ、気を緩めてはなりません、伯和様ッ!? こやつらがこちらの素性を聞けば、いつ剣を向けてくるやも知れませぬ!」

「で、でも、時雨……天の御遣い様がいるのだし、他の方達も悪い人には見えませんよ? ……それといつも真名で呼んで、って言っているのに時雨はいつになったら呼んでくれるの?」

「し、しかし伯和様の御真名を呼ぶなどと、私には勿体なき――ではなくッ!? こやつらも武門の端くれ、何大将軍の命さえあればすぐさまにこちらへと剣を向けるに決まっているのですッ! 信じるに値しないのですよッ!?」

「……なんだか、散々に言われてないか?」

「まあ朝廷ん中でいろいろしとった人らから見たら、そんなもんちゃうか? 宦官と何進の対立は深いゆう話やから、そうなっても仕方がないと思うで」

 ぶるり、と寒気すら覚える畏怖へ思考を飛ばしていると、ふと聞こえた声に無意識に意識を取られる。
 緊張すら覚える状況の最中、突如として聞こえたその声は酷く暖かいものに感じられた。
 か細い声ながらも、確かにはっきりと耳へと届いたその声の出所を探れば、女性の後ろへと隠れる――もとい、女性が後ろへと隠すようにした少女からのものであるらしい。
 女性の方は警戒心丸出しで、こちらが下手なことをすればそのまま噛みついてくるのではないかと思わせるのに対し、少女の方は少しずつではあるがこちらへの警戒心を解いてくれているみたいである。
 それが気にくわないのか、それに比例して女性の警戒心が増大するのだから善し悪しもあるのだが。

 それでも少女の言うことももっともだと思ったのか、凄く嫌そうで忌々しそうな顔をしながらも、女性は張遼と話していた俺へと顔を向けた。
 
「……伯和様の言うとおり、貴殿達に救われたのもまた事実。仕方なく、一応は感謝しておいてやろう」

「……感謝しておいてやる、とか初めて言われたぞ、俺」

「……うちも、そんなん言う奴初めて見たわ」

「中々面白いお姉さんなのですねー」

「……あなたがそれを言うの、風?」

 全然感謝などしていない物言いに、危うく脱力しかけてしまう。
 隣にいた張遼も同じなようで、俺と同じ酷く疲れた顔付きを眺めてみれば、程立の一言に反応した郭嘉まで同じ顔付きとなる。
 それだけで彼女がどれだけ苦労しているのかが分かるような気がした――あまり分かりたくなかった。
 
「……それはそうとして、あんた達は一体誰なんだ? 見たところ、良いところの出みたいだけど……」

 疲れた三人で奇妙な連帯感が生まれようとした頃、それまで黙っていた馬超の一言に意識を戻される。
 確かに趙雲達からはその名を聞いたが、彼女達からは聞いた覚えがない。
 とりあえず助けられた、という重いから誰何という問いすら忘れていたのだから、それも当然ではあるのだが――趙雲達は自ら名乗ったのだし。

 それにしても、と俺は少女と女性へと視線をやる。
 馬超の言うとおり、彼女達が纏うその服は、元の世界だろうとこの世界だろうと服装というものにとんと無頓着な俺でさえ、上質なものを用いて作られたものだということが分かる。
 俺が纏う聖フランチェスカ学園の制服は、その材質にポリエステルを用いているために日光が反射して輝いているように見えるのだが、彼女達が纏うその服は繊維の一本一本が輝いているようであった。
 この時代にはシルクロードもあったのだろうから、もしかしたらそこから得られた上質なものを用いているのかもしれないのだが、いざそうなってしまうと彼女達が一体何者なのかという疑問がいやに大きくなる。
 
 シルクロードの途中にある豪族の娘――洛陽から涼州方面に逃げていたのも実家に逃げるためか、とも思ったのだが、もしそうなら涼州に根を張る馬家である馬超が知らないはずもない。
 馬超のことだからそういった面倒なことは知らないようにしている可能性もあるが、そうだとしても少女と女性の反応を見るにそれもないだろう。

 大きな商人の娘――可能性としてはこれが一番な気もするのだが、もしそういう話になるのなら彼女達だけが逃げるというのも理解出来ない。
 これだけ上質な服を作れるほど大きな商人であるならば、幾人かは護衛を雇っていてもおかしくはないものである。
 女性がそうではないか、と言われればそこまでだが、女性が纏う服は護衛と言うよりもどちらかと言うと文官――安定に残る王方などが着ているものに近いのだ。
 その服の下に暗器を仕込んでいる、という可能性もあるが、それなら趙雲達の手助けなどいらないだろう。

 朝廷に仕える関係者の娘――この時代であるならば、それこそ宦官や位の高い将軍などの娘である可能性もある。
 この時代の宦官は張譲、将軍であるならば何進や皇甫嵩などが洛陽で名を知られているが、もしそういった人物の娘であるならば、いよいよをもって護衛がいてもおかしくない。
 特に宦官と将軍などの対立は顕著であり、そのどちらだとしても護衛がいて当然なのである。
 


 考えれば考えるほどに難解になっていく彼女達の正体に、俺は考えることを止めた。
 考えても埒があかないということもあるし、本人から聞いたほうが早いということもある。
 女性がそれを言わせない、ということも考えられたが、それならそれで構わないし別にそこまでして聞かなければならないということもない。
 そもそも、先に考えた可能性だとしてもそれ以外だとしても、これまで男なのだと思っていた三国時代の武将の面々が女性な世界に紛れ込んだ時以外の驚きなどはそうそうないだろう。
 
 まあ、もしこの見た目優しそうで儚げそうな董卓みたいな少女が曹操だとか孫策だとか、果てには張譲だとか何進だとか袁紹だとしても驚くことはない……と思う。
 何でこの時点でここに、なんて驚きはあるかもしれないが、それでもそれもさしたる問題ではない。
 もっとも、もし少女が漢王朝現皇帝である幽帝だ、などと言われたらさすがに驚くことになるだろうが、その可能性も皆無に等しいだろう。



 と、そこまで思い至った時、俺はあることを思い出した。
 董卓のみならず各諸侯が何進の命で洛陽に呼び出された時、洛陽で何が起こっていたのか。
 その混乱の最中、洛陽から連れ出され、かつ洛陽へと向かっていた董卓が保護した人物は一体誰なのか、を。




  **





「……ごめん、もう一度どういうことなのか説明してもらえる?」

「いや、俺にも何でこんなことになったのかさっぱりなんだけど……」

 一応の安全を確保した、という俺からの報告を受けて合流した董卓本軍と俺達は、目の前で起こっていることに中々復帰出来なかった。
 俺を含む偵察隊として出ていた面々はすでに一度経験済みなために復活も早いのだが、後から合流した面々――特に賈駆にとっては想像を絶するものだったらしい。
 痛むのか、こめかみを押さえる賈駆に弱々しい印象を抱きながらも、何故かその背後に何かしらの力というかオーラというか、そういったものが見えているのは気のせいなのだと思いたかった。

「……ボクは、何て言ったんだっけ?」

「……前方に迫る不明勢力を確認し、驚異となるようなら速やかに伝令を入れるべし。もし本隊が逃げられないと判断した場合は、壁となってこれを防げ」

「うん、よろしい。概ね間違ってはないわね。……でもね?」

「お、落ち着けよ、詠。ちょっと顔が怖いぞ?」

「うん? 大丈夫、ボクは落ち着いて――いられるかァァァァァッ!? 何てもんを拾ってくるのよ、あんたはッ!? 人ッ?! 人を拾ってくるのは恋だけで十分なのよッ!」

「ひ、ひぃッ!」

 全然気のせいではありませんでした、はい。
 全身から、それこそ全ての毛穴から吹き出しているのではなかろうかと言えるほどの怒気をまき散らしながら、賈駆は俺へと詰め寄った。
 その顔がまるで閻魔の如く、般若の如くであったために本能的反射から情けない声が出てしまったのだが、それを恥ずかしいとはこの時の俺はどうしても思えなかった――むしろ恐怖で気絶してくれた方が何倍も良かった。
 そうすれば、目の前に迫る恐怖も、そして知っていながらも防げなかった事実から目を背けることも出来たのに。



 一体全体これからどうなるのか、どうしようか等と恐怖を目前としながら考えていた俺だったが、賈駆の声を聞いたある人物――とは言っても、今現在賈駆の中で問題となっている片割れの女性であるのだが、彼女が声を高らかにした。

「もの扱いとはどういう了見だ、小娘ッ!? このお方をどなたと心得る、漢王朝第十二代皇帝霊帝様のご息女、劉協様にあらせられるぞッ! 者共、頭が高いッ、控――」

「し、時雨ッ、何てことを言っているのですかッ!? み、皆さん、時雨の言ったことには従わなくていいですからねッ!」

「へ、へぅ……は、ははー?」

「ああッ、そ、そんなことしなくていいんですって董卓様ッ!? もう、時雨のせいですからねッ、どうするんですかッ!?」

「し、しかし、伯和様ッ!? こやつらはあなたをものと言っ――」

「そんなことは良いんですッ!」

「そ、そんなことですとッ?!」

 こちらへと噛みつかんばかりに声を荒げていた女性であったが、それに従おうとした董卓を見てか慌てて止めた少女――劉協の言葉に、押される形となる。
 女性――そう言えば未だ名を聞いてはいないのだが、彼女も劉協には弱いのか、端から見ている分には妹に怒られる姉か、娘に怒られる母のようであって、これが自分に全く関係ないのなら笑いたくなる光景である。
 現状は実に笑えないものであるが。

 劉協。
 現皇帝の霊帝の子として陳留王に封じられ、後に暗殺される弘農王である劉弁の後を継ぎ献帝となる、漢王朝におけるラストエンペラーである。
 最終的には魏に皇位を禅譲して漢王朝は終焉を迎えるのだが、それ以前に彼――この世界では彼女だが、彼女を保護したことから董卓は権勢を誇ることとなる。
 反対に言うのならば、劉協を迎えて権勢を誇ったからこそ董卓は死ぬことになるのだが。
 これを成さないために洛陽へ出征するのを反対し、出征に当たって時間を延ばし、といろいろしてきたのだが、結局の所、済し崩し的に迎えることになってしまったのは事実である。

 タイミングが早すぎる、と思わないでも無いが、そもそも俺という歴史の異端がいる時点でその差違を認識しておくべきだったのは、俺の手落ちである。
 結局の所、こうなってしまった以上、董卓が洛陽で権勢を得るのは必然になってしまったと言って良い。
 権勢を得る事無く洛陽を去る、という可能性もあるのだろうが、賈駆の性格からして恐らくそれもあるまい。
 今は混乱しているが、落ち着いてしまえば知謀に優れる彼女のことだ、すぐさまにこれからなぞるべき道筋を導き出すことだろう。

 参った、と俺は人知れず溜息をつく。
 視線は、未だぎゃあぎゃあと騒ぐ劉協と女性を見ているが、心はここにあらずであった。
 本当に次代の皇帝かあれ、等と思考の片隅に置きながら、俺はこれからどうしようと再び溜息をついた。



 本当に。
 どうすればいいんだろう。





[18488] 三十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/07/06 10:14

「さて、と……そろそろ何があったのか説明してもらってもいいかしら?」

 董卓が率いる本隊と合流した俺達は、色々な混乱――助けた少女が後の献帝である劉協ということもあってか、一応の進路を洛陽へと向けた。
 本当であれば馬車みたいなものがあれば一番いいのだが、そういったものが用意されている訳もなく、そもそもの段階で作ってすらいないので劉協達は今現在馬に乗って貰っている。
 とは言っても、劉協が馬に乗れるのか、という疑問はもう一人の女性――お付きの女性とでも呼んでおこうか――の前に跨る感じで解決済みである。
 元々劉協も女性の方も細身であるためか、さしたる問題もなく馬に乗っていた。

 そうして洛陽を再び目指すことになった俺達は、張遼が率いる騎馬隊に周囲の警戒を任せながら安全を確認して進んでいった。
 偵察隊との戦闘によって洛陽へと逃げ帰った連中が本隊を連れて帰ってくるのではないか、と危惧していたのだが、そういった危険もなく影すら見えないことから酷く不安になる。
 気にしすぎ、と笑う馬超を頼もしく思いながらも、俺は確信めいた何かを感じていた。
 勘、と言い換えても間違いではないソレが、酷く俺へと警戒を繰り返すのだ。

 そうして俺がこれからのことに警戒心を巡らしていると、不意に隣にいた賈駆が声を発する。
 その行く先は俺――では無く、明らかに俺を挟んだ反対側にいる劉協達であり、それは彼女達も理解する所であった。

「そう……ですね、ここまで来れば周囲も安全でしょうし、話すにもいい頃合いでしょう」

「時雨……」

「大丈夫ですよ、伯和様。あなたが信じた彼らを、私も信じます。それに彼らが伯和様に何をしようとも、私が命をかけてお守り致しますので」

「何もしないよ。何だったら、天の御遣いという名に誓ってもいい」

「おいおい、そもそもその呼び名をあまり重要視していないご主人様がそれを言っても、あまり意味ないと思うぞ?」

「いや、翠……そこは黙っていて欲しかった」

 そんな俺達のやりとりにくすくすと笑みを零す劉協に温かい視線を投げた後、女性はこちらへと視線を改めた。
 その色は、劉協を守る色でも、ましてやこちらを警戒する色でもない。
 俺が知る中でも形容し難いものであるのだが、あえて例えるならば――闇、というものを知っているものだと思う。

「……まず、私の名を知らぬのも不便でしょうから名乗りを。我が姓は李、名は儒、字は文優。涼州安定が生まれにして、漢王朝に仕えるものでもあります」

 そういってチラリとこちらを見る女性――李儒の視線に含まれたものを見るに、安定を勢力下におく董卓軍というものを警戒しているようであった。
 確かに、董卓が安定を勢力下とした経緯を知らないでいるのなら、一介の太守としては強大な勢力を誇る董卓が劉協という駒を用いてさらなる飛躍を目指さないとも言えないのである。  
 李儒が危惧するのはそこであるのだろう、その意を汲んだ董卓が首を横に振ると幾分か安心したようで、少しばかり肩の力を抜いたみたいであった。

 劉協が、俺が知る歴史を歩んできたのだとしたら、その道程は茨のものだったのだろう。
 あの幼い身躯でどれだけの権謀術数に迷い、流されてきたのかは俺の理解の外であるのだが、劉協が李儒を信じることと、李儒が劉協を守ることはそういったことあってのことだと思う。
 何進と宦官の対立に巻き込まれ、幼い劉協を守るということがどれだけ大変なことであるのか。
 李儒の瞳の色が、それを物語っていた。



 それにしても、と俺は首を傾げた。
 安定生まれで李家って何か聞き覚えがあるようなないような。
 名門の家柄の筈なのに、何故かそんなことを感じさせない元気印な――それに不似合いなほどに豊満な肉体を持って別の意味で兵士を元気にさせそうな女の子がいた気がするのだが。
 と、そこまで考えた俺の思考を汲み取ってか、前方が何やら騒がしくなってきていたようである。
 しかも、徐々にその騒がしさがこちらへと近づいてきているような気がするのは気のせいだろうか?

 そうして。
 意を決したかのように口を開いた李儒を遮って、ソレは現れた。

「まずは始めに説明を――」

「大変大変大変だよーッ!? 洛陽が――って、お姉ちゃんッ?! お姉ちゃんが何でこんな所にいるのさッ?!」

「……陽菜、もう少し落ち着きを持ちなさいと以前から言っている筈でしょう? そもそも、私がここにいてあなたが困ることなど無いはず。少しは落ち着きなさい」

「う、うん、ごめんなさい……。あー、それにしてもびっくりした。ここでお姉ちゃんに会うなんて思いもしなかったもん」

 あーうん本当にびっくりしたー、なんて呟きながら、騒がしくなってきたその張本人である李粛は大きく肩で息をした。
 ……というかお姉ちゃん?
 以前姉がいると聞いた気がしないでもないが、まさか李粛の姉が李儒であったなどとは思わなかった。
 そもそも元いた世界で二人が兄弟姉妹などと、大きくみれば血縁関係であったなどという話はないことから、全く知らない人物がいるのだとばかりに思っていたのだが、どうやら外れていたらしい。
 この流れで実は李確が父親だ、とか言わないだろうなと俺はふと思っていた。
 や、だって同じ李の姓だし有り得てもおかしくはないのだけども、いきなりそんなこと言われても困るから今の内に心構えだけしておこうかなと思いまして。
 まあ、それも結局は無駄の所に終わるのだが。

 李儒はそんな騒がしい李粛に慣れているのか、さすが姉だ、と言わんばかりの落ち着きを見せながら李粛を宥める。
 太陽のように朗らかな李粛と、月夜に振る雨のようにしっとりとした李儒。
 陰陽という言葉を体現するかのような二人に、本当に姉妹なのかと疑いそうであるのだが。
 息をして大きく動く肩に連動し、これまた大きく揺れる李粛の胸へと向けられる李儒の視線が、羨ましそうに――どうして妹の李粛だけがこれだけ育っていて自分はこんなのなのか、とばかりに妬ましそうな視線を自身の胸と交互に見やる肉親特有のものを見れば、それも信じられるものであった。
 
 そうして李粛と李儒へ視線を向けていると――段々と李粛のその自己主張の激しい部分へと向かう割合が増えていくと、ぎろり、とばかりに李儒に睨まれてしまう。
 それに加えて、何故か背後やら横から周囲から向けられる視線が増えてきたのをひしひしと感じつつ、俺は話を変えるためにと慌てて口を開いた。 

「そ、それで、武禪殿? 一体何をそんなに慌てておいででしたのか?」

「……」

「……もしや、お忘れとは言わないでしょうね?」

「えっ、い、いや僕がそんなこと言うわけないじゃん、北郷さんったらもう……ああッ、そうだったッ!?」

 自分は忘れてなんかいない、そう言った直後にさも思い出したとばかりに手を打つ李粛に、俺のみならず彼女の姉である李儒の溜息が重なる。
 まったくもう、とばかりに復活した李儒に、やはり姉だから慣れているのだな、と感想を抱きつつ、俺は李粛に先を促し――その言葉に驚愕した。

「それで、武禪殿? 一体何が――」



「た、大変なんだッ! ら、洛陽が……洛陽が燃えているんだよッ!」





  **





「おーほっほっほっ! 何進さんの姿は見えませんが、この火事は宦官を討つための絶好の好機ですわッ! 猪々子さん、斗詩さん、やっておしまいなさい!」

「あらほらっさっさーッ! ってな訳で、行くぞ、斗詩ッ! うおりゃぁぁぁぁ!」

「あっ、文ちゃん、先に陛下と皇族の人達の保護を――って、聞いてないし……。はぁ、麗羽様ものりのりだし、行くしかないのかぁ」

 轟々、と。
 洛陽の街、その全てを燃やし尽くさんとするかのように燃え上がる炎を前にして、黄金色の豊かな髪をいくつもの螺旋状に編み込んでいる女性――袁紹の両横に控えていた二人の人物が飛び出した。
 その男とは思えない小柄な躯と、ひらひらとした腰布、そして自らの性別を強調するかのように膨らんでいる胸元から、その人物らが女性だということを知らしめていた。

 身の丈ほどもある大剣を振り回す猪々子と呼ばれた少女――文醜は、走り出した勢いを利用して、およそ少女が振るに似つかわしくない大剣『斬山刀』を、軽々と横へと振るった。
 狭い通路で振るうには些か不釣り合いなそれは、如何に名将名人と言えども大きく振るうのは難しい。
 洛陽の街中、城へと至る通路を閉じるかのように待ち構えていた兵士達はそう考え、その切っ先が壁なり家なりに止められたときに襲えばいいだろう、そう考えていた。
 だが、彼らの予想は大きく外れることとなる。
 飛び込んだ勢いそのままに斬山刀を振るった文醜は、あろうことか剣の切っ先が壁へと触れると力のままに振り切ったのである。
 ガリガリ、と壁を削り、剣筋を残すように迫っていた斬山刀に、振れないだろうと考えていた兵士達が反応できる筈もなく、その驚愕のままに彼らは身体を分断された。

 だが、その一振りで仕留め損ねた二人の兵士が、斬山刀を振り切って体勢を崩していた文醜の頭上へと剣を振りかざす。
 刀身に炎が揺らめき、その揺らめきが文醜の頭蓋へと振り落とされようとするが、それも横から飛び込んできた影によって未遂へと終わる。
 蒼とも黒ともいえる髪をはためかせて、もう一人の少女――顔良は、文醜と同じく少女が振るに似つかわしくない大槌『金光鉄槌』を、その重さを感じさせる訳でもなく振るった。

 音もなく、と表現するのが正解とでも言うように振るわれた大槌は、しかして確かに兵士を――二人とも巻き込みながら振るわれる。
 まるで弾力があるかのようにはじき飛ばされた二人の兵士は、通路の壁に打ち付けられたまま、動くことは無かった。

「へへっ、助かったぜ、斗詩」

「もう、文ちゃんったら……ちゃんと気をつけないと駄目でしょ。もう少しで危ない所だったんだから」

 薄い緑の髪を揺らしながら、照れたように鼻をこする文醜に、顔良も口では厳しく言いつつもその顔はどこか安心したような色が混ざっていた。
 軽口を言いつつも周囲を警戒することは忘れない二人に、主たる袁紹は満足気に頷いた。

「おーほっほっほっ! 三国一の名家であるこのわたくしが、宦官如きに負けるはずがございませんッ! 全軍、突撃しなさい!」

 そして。
 まるで前方の障害が除かれるのを待ち構えていたかのような袁紹の指示に、彼女の後背に控えていた大量の兵士達が一斉に動き始める。
 皆一様にある目的――洛陽にて権力を占める宦官の排除を目的として動く兵士達は、袁紹、文醜、顔良と同じ黄金色の鎧を纏い、怒濤の如く押し進んでいった。
 その先頭に翻るのは、黄金色の中にあって一際目立つ蒼銀の一房であったが、その髪を持つ人物――少女は気負った風でもなく、ただただ真っ直ぐに目的地を目指した。
 多くの人の視界を炎という赤が占めるのに対し、その一区画だけは黄金色が占めていたのである。





 そんな黄金色の集団へと、一人の少女が視線を向けていた。
 炎によって生じた風になびく髪は視界を埋める色と同じ金の色で、頭部の両横にて螺旋で纏められた髪がふわふわと揺れていた。
 その髪の色に反するかのように、身に纏う衣服と鎧は黒を基調としたものでまとめられており、髪の合間から覗く眼光と合わさって酷く冷徹に――強靱に映った。

「か、華琳様ッ! 皇帝陛下はおろか、皇族の方々の姿、どこにも確認出来ませんッ!?」

「加えて申し上げますなら、袁家の軍が宦官のみならず、その疑い有りとする者達まで手にかけはじめており、宮城の中は阿鼻叫喚の絵図となっております。続けて皇帝の捜索をすることは可能ですが、火の周り具合からしてこの辺が頃合いかと……」

 そうして袁紹の軍を――炎に包まれていく城と街並みを眺めていた少女の背後で、二人の人物が臣下の礼を取って声を発した。
 獣の耳のような装飾のついた頭巾を被る少女――荀彧は、先ほど自らが命じられた指示に対する報告を矢継ぎ早に発した。
 炎によって蹂躙される城において、自分達が朝廷に叛するわけではなく皇帝とその一族の身の安否を願って兵を出した、とするためにそれらを探していたのだが、城のどこを探しても見つかることは無かったのである。
 これだけの大火であるならば必ず皇后やその子息である劉協や劉弁は側近に守られて安全な位置へ脱している、と荀彧は考えていたのだが、いざそう出来る場所へと兵を発しても帰ってくる解は全て不発であったのである。
 洛陽の城門付近で逃げ回る民へ話を聞いてもそれらしき人物は見たことがない、と返ってくれば、いよいよをもってその所在は掴めなかった。

 荀彧と同じように皇帝とその親族の捜索を命じられた蒼髪を持つ女性――夏侯淵も、荀彧と同じような意見を発した。
 火が回りきる前にこれだけ探したにも関わらず、姿形はおろかその所在さえ掴めぬとあっては、これ以上炎の中にいれば少なからずの損害が出る、と夏侯淵は遠巻きに主へと伝えたのであった。
 無論、そういった夏侯淵の思惑をくみ取れないほど、少女は無能では無かった。

「そう……桂花と秋蘭がそう言うのであれば、これ以上の捜索も無意味と終わるでしょうね。ふむ……では、桂花は民の避難を誘導している季衣の、秋蘭は抵抗する宦官を攻めている春蘭の補佐へと回って頂戴。桂花は飛び火しない位置へときちんと誘導、秋蘭はあまり奥まで行かずに頃合いを見て春蘭を連れて帰ってきて。頃合いを見て、一旦洛陽から出るわ」

「はッ!」

「承知いたしました」

 そう応えて自らの主の命を成すためにその場を離れていった荀彧と夏侯淵の背中を見送って、少女はその視線を再び燃えさかる城へと向けた。
 古くから王都、帝都として多くの人が集まり栄えてきた洛陽にとって、そこにある城とはその時代とも言うべき存在であった。
 古代の王らがここを目指し、ここで政務をし、ここで息絶えていったということを考えても、その少女の考えはあながち間違ってはいないだろう。
 それがどうだ。
 それだけの時代を築いてきた洛陽でさえ、今こうして炎に巻かれて消えゆく運命にあるというのだ。
 その事実に、少女――後の世に覇王とも呼ばれる曹操は、口端を歪めていた。



「時代が変わる、か……。おもしろい、そのうねりがどこを中心とするのかは分からないけど、きっとそれも大きなものとなる。多くの将が、英雄が、諸侯が、徳を求め、願いを求め、権力を求め、富を求め、力を求め――覇を求める。その時こそ――」

 そう呟いた曹操は、炎の揺らめきが反射する金の髪を翻しながら、声たかだかと宣言――天に対する宣戦布告かのように声を高めた。



「ふふ……。我は天道を歩む者、曹孟徳ッ! 天命は我に有り。――さあ、英雄諸侯よ。これから訪れるであろう戦乱の世で、共に舞おうではないか!」





  **





「でぇぇぇりゃああぁぁぁッ!」

 高く振り上げられた剣は、彼女の怒声とも取れる気合いの声によって加速したかの如くの剣速で振り落とされた。
 女性が扱うには少々大きいと言わざるを得ないソレは、前方に構えられた剣を断ち切り、そのままの勢いで鉄を――そしてその中身である宦官側の兵士をも両断した。
 斬鉄、とも呼べるそれはしかして全くの別物のようであり、彼女が振るう太刀筋自体が凶器でもあった。

「この七星餓狼に切れぬものなど無いわァァッ! 命が惜しくない者は、夏侯元譲の前にその首をさらすがいいッ、残らず叩き斬ってくれるわッ! ……む?」

 そうして、『七星餓狼』と呼ぶ幅広の剣の刃についた血を一振りして除いた彼女は、ふと何かに気付いたかのように周囲をきょろきょろと見渡した。
 そうして周囲を確認し終えたのか、顎に手を寄せて彼女はぽつりと呟いた。

「うむむ、兵達とはぐれてしまったか……。全くあいつらめ、周囲を見ずに進むからだ」

 少し考えるそぶりを見せた彼女――曹操から春蘭とも呼ばれる夏侯惇は、納得がいったかのようにうむうむと頷いた。
 なお、その言に反して夏候惇の配下である兵達が一人突っ走った彼女を捜している、ということなど夏侯惇は知る由も無い。

 そうして再び思考するようにうむむ、と呟いた夏侯惇は、何かに閃いたかのように顔を輝かせた。

「そろそろ秋蘭達も、皇帝陛下達を見つけ出したころだろう。宦官の兵達の姿も見えなくなったことだし、一度戻るのもいいのかもしれぬな」

 うんうんそうだそうしよう、とばかりに頷いた夏侯惇は、主である曹操の元に戻ろうと先ほど来た道とは反対の方向――城の奥へと向かってその脚を動かしていった。
 戻るのであれば来た道を戻るのが一番である筈なのに、夏侯惇はそれに気付くこともなく、またそれを指摘する人物もいないために、奥へ奥へとその歩みを進めていった――



 ――その先で不意に感じた気配に、夏侯惇は反射的に剣を構えていた。



「ぐうぅッ!?」

 己の脳天をたたき割るかのように振り落とされたソレを、なんとか眼前で防いだ夏侯惇は、それを振るう人物の腹へと向けて足蹴りを行う。
 体勢的に不利だったためかそれも結局は当たることは無かったのだが、それでもこちらの体勢を整えることが出来たのは僥倖であった。
 すぐさまに体勢を立て直した夏候惇は、後方へと跳躍して蹴りを避けた人物へと一足の間に飛びかかり、その剣を振るった。
 鉄と鉄がぶつかり合う鈍く固い音が周囲に響き、夏侯惇の剣は振るわれたソレ――十文字の槍によって防がれてしまう。
 だが、互いに押しつけ合うように武器を重ね合わせた結果、夏侯惇は十文字の槍を振るう人物を間近で見ることとなった。

「なッ!? 女、だと……ッ?!」

「なぁッ!? お、女だって……ッ?!」

 そしてそれは相手も同じであるのだが。
 顔を突き合わせた結果、言葉は違えど同じ意味を発する相手に、夏侯惇は無理矢理に剣を押しのけることでその場を後退した。

 緑を基調とした上衣に、ひらひらとした白の腰布。
 それらの衣服に包まれた身体は、実に女性らしさを含んだものであり、女である夏侯惇からみても中々に魅力溢れるものであった。
 一つに纏められた栗色の長い髪の奥から除く瞳には、確固とした意志が覗くようであった。

「中々やるな、貴様ッ! 宦官の賊徒如きに、これだけの武人がいるとは思わなかったぞ!」

「へん、あんたこそ、あれを止められるとは思ってもみなかったぜ。何進の兵って言うからどれだけかと思えば、結構やるもんじゃないか」

 そう言いながら、二人は再びそれぞれの獲物を構える。
 夏侯惇は、剣の切っ先を相手に向けるようにして顔の横まで持ち上げた。
 突くにしても、振り下ろすにしても、横へ薙ぐにしても、両手で持たれたそれは並大抵の武人に止められるものでは無い、と夏侯惇は確信していた。
 事実、止められたのも曹操や許緒の己が知る中でも最上位の武人ぐらいなのだが、目の前の人物はその中に含まれるほどであることも、また夏侯惇は確信していた。

 穂先を下へ向けて構える目の前の相手に、ぞくりと背筋が震える。
 その切っ先、そして視線が自分の胸や喉元などの急所へと迫るのをひしひしと感じながら、夏侯惇は知らず口端を釣り上げていた。
 


「我が身、我が剣は曹武の大剣なりッ! 姓は夏侯、名は惇、字は元譲、押して参るッ!」

「西涼の錦、馬孟起ッ! 悪をも貫くこの銀閃、止められるものなら止めてみやがれッ!」
 

 
 そして。
 今まさに互いが互いを食いちぎらんとする獣のように跳躍しようとした二人の他に、別の人物達がその場へと現れたのである。



「止めろ、翠ッ!」

「止めるんだ、姉者」



[18488] 三十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/07/06 10:23




 振り下ろされた剣は相手の脳髄を。
 突き上げられた槍の穂先は相手の喉元を。

 あと一秒でも声を上げるのが遅れていたのなら、勢いのままに振り切れられてその軌跡を朱に染めていたであろうそれぞれの切っ先は、寸で――まさしく首の皮一枚と言っていいぐらいの所で止められていた。
 あのままであればどうなっていたのか、なんて考えたくもないけれども、結局の所は相打ちか、或いは彼女達の武人としての反応によって継続されていたかのどちらかだっただろう。
 本当に、間に合って良かったと思えた。

 そして、驚いた顔のままにこちらを見る馬超と。 
 俺とほぼ同じタイミングで部屋を挟んで反対側から現れた水色の髪の女性へと顔を向ける夏侯惇と名乗った女性は、殆ど同じタイミングで呟き、俺と水色の髪の女性を脱力させた。

「……なんで止めるんだよ、ご主人様?」

「な、なんで秋蘭がここに……?」

「なんで、じゃないだろ、翠……」

「なんで、ではないだろう、姉者……」



 李粛から洛陽が燃えているとの情報を受けた董卓軍は、その内実が分からないにせよ、民の救出と事態把握のために再び兵を出すことに決めた。
 洛陽から逃げてきた劉協や趙雲達に話を聞いても、彼女達が洛陽を脱する前は火災が起こる兆候は無かったと言うのだ。
 となれば、自然発火などと生易しいものではない――人為的なものを予測するのは当然であった。
 それが劉協達を狙ったものなのか、それとも全く別のものなのかは分からないが、分からないまま現状に巻き込まれるのは実に不味い。
 そう判断した賈駆は、先ほどまで偵察隊となっていた騎馬隊を、再び洛陽へと発することと決めたのであった。

 再び指揮官として偵察隊を率いることになった俺は、とりあえずはと先に洛陽にて活動していた牛輔と合流することに決めた。
 李粛が本隊に洛陽炎上の情報を持ってきた時間から考えても、洛陽に残った彼ならある程度の情報を得ているだろうと考えてのことだった。

 だが。

 どうにか牛輔と合流した俺達は、そこで意味が理解出来ない情報を耳にすることとなる。


 宦官の筆頭である張譲と、大将軍である何進の姿が見えない。


 どのような立場にせよ、官軍の長たり得る二人の消息が掴めないとあって、宦官と何進の軍兵――私兵達は動くことが出来なかったのである。
 宦官は張譲が実質の最高実力者であったためか、動きを取るための指揮者を取り決めることが出来ず。
 何進の勢力も、何進が傍へと仕えさせていた副官格たる男の所在も掴めないとあっては、その軍の手綱を誰も御せることが出来なかったのである。

 故に。
 民を守るべき存在である官軍は動くことなく。
 洛陽に住まう一握りの有志や、何進の呼びかけに応じて洛陽へと集まりつつあった諸侯の一部が、炎に包まれ行く洛陽を救うために行動を行っていたのである。

 そんな現状にあって、俺達もそのように動くべき、と声が上がったこともあり、俺はそれぞれに指示を下した。

 呂布、張遼は火の燃え広がっていく進行方向にある建物を破壊し、燃える火種を断つことをまず指示した。
 元の世界にいた頃、時代劇などで見たことがある程度なのだが、燃えるものを破壊してそれ以上火災が広がるのを防ぐ破壊消火、という手法を取るためである。
 燃えている範囲が水を用いて消火するには規模が大きすぎることもあるし、そもそもそれだけの水が確保出来るか怪しい現状であっては、それが一番効果的であると取ってのことであった。
 牛輔にその指揮と半数程度の指揮を任せて、俺は次の指示へと移った。

 馬超は俺と共に、城内部にて略奪暴行をしているものがいないかどうかの確認と、逃げ遅れた人がいるようならその救助を、ということになった。
 火事場泥棒、なんて言葉もあるぐらいだ。
 これだけの大火で洛陽の街全体が混乱に陥っている現状であれば、そういった輩が出てきてもおかしくはないし、いざ死ぬともなれば人間どんな行動を取るのか予測が付かない。
 そうして城の中へと入っていった俺達であった――その直後に、馬超が夏侯惇へと斬りかかったのである。
 
  

「す、すまぬ、てっきり宦官の兵がまだ残っているものと思ってだな……」

「こ、こっちこそ済まなかったな……。何進の兵がまた襲ってきたのかと思って……いや、本当に悪い」

 そうして。
 それまでの経緯を一通り――劉協とその側近である李需を保護している、という部分以外を説明し終えた俺は、内心で安堵していた。
 彼女達がこちらと敵対する立場ではない、ということもあるが、何より彼女達と戦わなくていい、ということが一番大きい。
 馬超と切り結んだ女性――夏侯惇は、俺が知る限りでは後の曹魏において一の武力を誇る猛将である。
 馬超も後の蜀漢において五虎将軍という大役を担うだけの、夏侯惇に劣らぬ武力を持つことは俺も知っているのだが、それでも勝てるか、という話になってくれば分からないものがある。
  
 さらには、夏侯惇のことを姉と呼んだ水色の髪を持つ女性のこともある。
 この現場に着いたのは同時であったが、腰に剣をぶら下げている俺と違い、向こうも手にこそ剣を持っていてもその腰には弓がぶら下がっているのだ。
 屋内では弓を使うには不便、ということもあるのだろうが、使い込まれていると一目見て分かるその弓を見れば、彼女が剣よりも弓の方が扱えるという理解に至る。
 そして、夏侯惇の妹――あるいは縁戚で、かつ弓の扱いが上手い。
 そういった人物に、俺は心当たりがあった。

「姉者がいきり立ったようで、どうにも迷惑をかけたようだな。そうだ、名乗っておこう。私は夏侯淵、字は妙才という。あちらの姉者――夏侯惇の妹にあたる。重ね重ね、どうも済まなかったな」

「いや、幸いどちらにも怪我はないみたいだし……それにこういった状況だ、大きな問題にならなくてよかったよ。俺は北郷一刀、それで向こうが――」

「――馬超、だろう? 西涼の馬騰の娘、馬超がなぜ洛陽になどと思ったものだが……。なるほど、お前が北郷だということなら納得出来るな」

 そういって、どんな噂を聞いていたのかは知らないが水色の髪の女性――夏侯淵は、じろじろと俺の顔へと視線をやっていた。
 顔の右半分はその髪によって隠されているが、笑みによって崩された残された半面からは好意的そうな印象が見て取れた。
 だが、その隠された右目かは知らないが、どうにも値踏みというか観察されているというか、そういった視線を少しでも感じてしまえばそれも信じ切れるものではないが。

 そして、夏侯淵という名を聞いてしまえば、今という状況がいかに不味いのかを理解してしまう。
 いかに馬超が夏侯惇に勝てるとしても、もう一人猛将が――しかも、あの曹操の旗揚げからその名を知らしめる夏侯淵がいるとすれば、それはもはや絶望的であった。
 もし馬超が夏侯惇を押さえたとしても、夏侯淵が俺へと矛先を向けてしまえば俺としては速攻で押さえられる自信があるし、そうなってしまえばいかに馬超と言えども逆転は難しいだろう。
 
 どうする、どうやってこの窮地を脱する?
 そういった俺の不安やら焦燥やらが顔に出ていたのか、些か不本意だと言わんばかりに夏侯淵は口を開いた。

「お前が危惧することは分かるが、それでもこのような場所で手出しはせんよ。そもそも、そのような命も無いし、お前達を相手にする理由もないのでな」

「……そう言ってもらえると、こちらとしても幾分か安心出来るよ」

「ふふ、まあそういうことにしておこうか。……こちらにも炎と煙が回ってきたようだな、一旦外に出よう。姉者、一旦外に出よう。馬超殿も、それで構わないか?」

「あたしとしては、ご主人様が良いって言うなら……」

 確かに、見れば視界の端に黒い煙がちらほらと見かけるようになり、炎が近いのか徐々に熱くなってきていた。
 何かが燃える焦げ臭い匂いが鼻にまで辿り着き始め、俺は迷うことなく頷いていた。





  **





「……空気が変わってきたな。雨が降るやもしれん」

 そうして燃えさかる城から脱した俺達は、街の一角へと出た。
 すでに呂布達が廻った後なのか、ぐるりと見渡すだけで周囲の建物が破壊されているのが確認出来た。
 これが平時であれば非難が集中するどころか、暴動すら起こっても不思議でもないのだが、最早瓦礫と言ってもおかしくはないそれらの持ち主は、この場には残っていないみたいであった。
 まあ、燃えている城が目の前にあるのに、のんびりしている訳もないのだが。

 そうして、逃げ遅れた人達を探していた牛輔の隊の兵士に、状況の確認と各部隊との連絡を任せた俺の背後で、夏侯淵が空を見上げながらぽつりと呟いた。

「雨が降れば火も消えるけど……そんなもの、分かるものなのか?」

「まあ大体は、だがな。弓を射るのに気象や風などは要だからな、自然と身にも付くさ」

「そうだぞッ、秋蘭は凄いんだッ! 雨が降る前に天幕の準備を手配出来るぐらいに、凄いんだからなッ!」

 まるで、自分が偉いとも、妹の手柄は姉である自分のもの――いや、あれは妹がどれだけ凄いのかを自慢する姉馬鹿のようでもあるのだが、えっへん、と言わんばかりに胸を張る夏侯惇に、幾分かほんわかとした気分になる。
 何て言うか、こう……馬鹿可愛いとでも言おうか。
 見た目俺と同年代か上の筈なのに、そうやって胸を張る彼女が幼い子供に見えてくるようで、何とも不思議な気持ちとなってくる。
 ちらりと横を見れば、夏侯淵も同じ気持ちなのか、先ほどまでの引き締まった表情を幾分か緩ませて、姉である夏侯惇へと視線を向けていた。

「……ご主人様ッ、夏侯淵の言葉を信じるなら、雨が降る前に一旦他の奴らと合流した方がよくないか? 降ってきてからだったら、連絡も取りにくくなるし、動くのも大変になるだろうし。とりあえず、あたし達が出来ることは終わったみたいだしな」

「あ、ああ、そうだな……。よし、そういうことだから、夏侯淵殿、夏侯惇殿、俺達は先に戻ることにするよ」

「む、そうか。……我らが主も天の御遣いに興味があるみたいでな、一度、顔を合わせてもらおうとも思ったのだが……そういうことなら仕方がない」

「むむ、良いではないか、北郷とやら。華琳様に会ってからでも、戻るのは遅くはないだろう?」

「いや……二人の言葉は嬉しいけど、俺達も待たせている人達がいるからな。それに、今ここで出会わなくても、出会うべき天命があるとしたら、きっとその時に出会えるさ。それまで楽しみにしておくと伝えておいてくれよ――」

 そうして。
 何か段々と可愛らしくなってきて、頭を撫でたら失礼に当たるのかな、と若干危ない方向へと傾き始めていた俺に、語尾を強めた馬超が進言をした。
 その視線がなんだかじくじくと突き刺すようなものだったので、俺は慌てて背筋を正したのでだが、それでも馬超は許してくれないのか、ますます視線を強めたようであった。
 
 そんな俺達に苦笑しつつ、実に残念そうに主である華琳という人物と出会って欲しかった、という夏侯淵に、それでも引き下がれないのか、夏侯惇は半ば押しつけるように言った。
 確かに、俺も彼女達が華琳様と呼ぶ――夏侯惇と夏侯淵の主と言えば一人しか思いつかないのだが、その人物には出会いたいと思う。
 だが、その人物に出会いに赴く、それだけの余裕が今の状況にあるのかと問われれば、あるとも断言出来ない現状なのだから、今回ばかりは縁がなかったとして諦めざるを得ないのである。

 そうか、と本当に残念そうにする夏侯惇に申し訳ないという気持ちを抱きつつ、俺はその場を離れ――ようとした時に、その声が聞こえた。



「伝える必要は無いわ。あなたの言葉で言うのなら、今が出会うべき天命、なのでしょうし」



 華が咲く声、とはこの声のことを言うのであろうか。
 そういった感想を抱けるほどの声は、しかして凜としたものを含んでおり――そして、他者を圧倒するかのような覇王とも、英雄とも取れる自身に溢れていた。
 
 初めて出会う、初めて聞く。
 確かに、俺が知りうる中では聞き覚えのない初めて耳にするその声は――何故だか不意に懐かしさを運んできて、俺は反射的に声の聞こえた方向へと顔を向けていた。

 炎によって生じた風に揺れる二房の金髪。
 身に纏う鎧と衣服は、小柄な身躯を包みながらも威圧感を醸し出す漆黒に彩られており、彼女の持つ雰囲気と印象によって、それもさらに引き立てられていた。
 こちらへと向けられた、自信と、威圧と、そして覇王という自覚を兼ね備えたその視線を真っ正面から受けた時――不意に、目の奥が痛んだ気がした。



  *



『もう……俺の役目はこれでお終いだろうから』

 それは、暗い森の中。
 遙か高い夜空には、こちらを包むような淡い光を放つ満月があった。
 彼方から聞こえる喧噪は/賑やかな声は一体何によるものだったか。
 覚えにないその光景は/脳裏に走るその映像は、何だか酷く悲しくて。

『……お終いにしなければ良いじゃない』

 目の前の少女が紡ぐ声も、酷く悲しそうに震えていた。
 その細く、暗闇で腕の中に抱いた柔らかい肩は、彼女一人で支えているものには儚く、弱々しいもので。
 共に支えることが出来ればと、俺は確かに願った気がする。

『それは無理だよ。――の夢が叶ったことで、――の物語は終焉を迎えたんだ……。その物語を見ていた俺も、終焉を迎えなくちゃいけない……』

 身を削り。
 心を削り。
 時間を削り。
 己自身の存在をも削り、俺はその願いを叶えた。
 けどそれは、全ての終わりでもあって。
 
『……逝かないで』

『ごめんよ……、――』

 未練が無い、と言えば嘘になるけど。
 それでも、俺がそう思えるだけ幸せであって、――が、みんなが幸せであってくれるなら未練なんて無いと思えたんだ。

『さよなら……誇り高き王……』

 全てを任せる、なんて言葉は――ならただの逃げだ、なんて言うだろうけど。
 みんながいて、――がいて、そして多くの英雄がいるのだから、きっと大丈夫。
 だからこそ、俺は時代を生きることが出来たんだ。

『さよなら……寂しがり屋の女の子』

 きっと。
 その先の時代に、多くの笑顔があることを信じて。
 ――、君が本当の笑顔で過ごせる日々があると信じて。

『さよなら……』

 そうして。
 ――の夢を叶えるという願いが叶って、願いという枠が空いたこともあって。
 薄れ行く意識と存在の中、最後に言葉を紡ぎながら俺は一体何を願ったのだろうか。
 


『……愛していたよ、華琳――――』



 ただ、朧気で確かなことは言えないけども。
 もう一度、彼女と共に。
 そう、願っていた気がする。
 


 *



「華琳様ッ、どうしてここに?」

「ッ……」

 深く深く、意識の底にまでたどり着いていた俺の思考は、夏侯惇の声によって急速に表面へと引っ張り上げられた。
 今の感覚――脳裏に流れ出た映像は何だったのか。
 その場所も、目の前にいたであろう少女も見たことは無いはずなのに、どうして彼女を愛おしいと言ったのか。
 その答えがこの場で見つかる筈もなく、俺は頭を振ってその考えを思考の外へと追い出していた。

 頭を振ったことによって眩暈にも似た倦怠感が身体を包むが、意識を表面へと――前方の人物へと向けてしまえば、それも彼女の持つ雰囲気によって霧散してしまう。
 それだけの存在を――覇王としての存在を、彼女は持っていた。

「どうして、というのはこちらの台詞なのだけど、春蘭? 秋蘭を向かわせたのにいつまで経っても帰ってこないから、何処で迷子になっているのかと思えば……城中の制圧を任せたのに、何で反対側から出てきているのかしら?」

「そ、それはですねッ、……うぅ、秋蘭」

「姉者可愛――いや、華琳様、これには少々訳がございまして……」

「別に説明は不要よ、秋蘭。大体のことは理解しているつもり」

 そう言ってニヤリ、というのが正しい表現である笑顔を夏侯惇へ向けた少女を見る限り、どうにもわざと夏侯惇を責めたのだということが分かる。
 ふふ、なんて言いながら涙目になっている夏侯惇をうっとりとしながら見ている辺り、そういう性格――性癖なのだろう。
 同じようにうっとりとしそうになった顔を引き締めた夏侯淵を見る限り、彼女もそういった人種なんだと理解した。
 


 そうして。
 夏侯惇を虐められたことで満足したのか、先ほどよりも幾分か生気が満ちているような表情のまま、少女はこちらへと視線を向け直した。

「我が名は曹孟徳。私の部下が世話になったようね」

「いや……こちらも世話になったみたいだからな、お互い様さ。……俺の名前は北郷、北郷一刀。お会い出来て光栄だよ、曹操殿」

「あら……私の名前を知っているのね?」

「黄巾の乱平定に功を上げ、名を上げた西園八校尉の一人、曹孟徳殿、だろ? 情報を集めていれば自然と聞く名前だし、黄巾の乱のことはこっちも関係あるしね。……そっちとしても、俺の名前を聞いて驚かない所を見ると、同じなんだろう?」 

 そう言う俺に対して、少女――曹操は、幾分か驚いた顔を一瞬だけ表面へと出し、すぐにそれを引っ込めた。
 代わりに出てきたのは、先ほど夏侯惇へと向けたのは別質のにやりとした笑いであり、その瞳は獲物を探るかのように細められていた。

 ぴりぴりとした空気が――辺りの空気を圧縮したかのように息苦しくなっていく感じが、目の前のそれほど大きくない少女から発せられているかと思うと、背筋が冷たくなる。
 今俺の目の前にいるのはあの曹孟徳なのだと、いやでも実感出来た。
 


「……ふふ、まあいいわ。今日は顔合わせだけということにしておきましょうか、そちらも急ぎの用件があるみたいだしね。……春蘭、秋蘭、急ぎ戻り兵を纏め、洛陽から出るわよ」

「はッ!」

「はっ! ……では北郷、それに馬超、また機会があれば、な」
 
 そして。
 一通り俺を見て満足したのか――俺なんかを見て満足というのもおかしなものだが、不意に笑みを含めた曹操は、こちらの言葉を待つ間もなく身を翻した。
 短く答えた夏侯惇はその背を追って歩き出し、夏侯淵もその横へと並び――曹操の後ろへと控えるように歩いていった。

「……なんだか、凄い奴だったな。覇気、っていうのかよく分かんないけど、そういったもんが滲み出ているようだったよ」

「ああ……あれが、曹操、か……」

 曹操の雰囲気に当てられてか、半ば呆然とした馬超の呟きに、俺も呆然としながら答える。
 ただその内実は決して同じものではなく、俺としては自分の知識からのものであったが。

 曹操、字は孟徳。
 後に曹魏の礎、その主ともなる人物ではあるが、この時代では彼――いや、この世界では彼女であるが、未だ大きな勢力を築くには至っていないらしい。
 それは、洛陽の騒乱が落ち着きつつある現状にも関わらず洛陽を脱する、ということをする辺りから窺い知れた。
 
 洛陽は、きっと混乱と戦乱と動乱の中心地となる。

 それは、俺が知る歴史の上から見ても当然の帰結であり、きっと董卓がその中心となるのだろうけど。
 それを知らない曹操からすれば、そのような未来が待ち構えている洛陽という中で、信頼も出来ない他軍の将と馴れ合うことも判断しただけなんだろう。
 だが、それを即座にはじき出した彼女の思考と、すぐに実行へと移す力。 
 それらと共に、確かな戦略眼、そして権謀を知り得ているということに、俺は彼女へ対して畏怖を抱かずにはいられなかった。


 きっと。
 曹孟徳は、俺の――董卓軍の前へと立ちはだかるであろう、その確信と共に。

 



  **





 そうして。
 曹操達と別れた俺と馬超は、洛陽の民の避難誘導をしていた牛輔達と合流し、そのまま民を率いて洛陽郊外へと陣を張っていた董卓軍本隊と合流した。
 既に情報を聞きつけていたのか、そこには多くの民達がおり、それらの多くがその状況に絶望していた。
 
 洛陽が。
 漢王朝の皇帝が住まう城が燃えている。
 
 火事によって何かを失った、等という話ではない。
 その火事から民を救い、洛陽を救い、そして洛陽を復興させるであろうのが、漢王朝ではないことが問題なのだ。
 今回の火事によって、漢王朝に最早力など無いことは証明された。
 大将軍たる何進、朝廷を取り仕切る宦官の兵、どちらをとっても火に追われ煙に巻かれる民の心配などせず、己達が欲を果たすために動いていたのは洛陽の民ならば誰でも目にしていると言ってもいい。
 
 そういった民達を救い、守ったのは漢王朝では無く、その臣下とも言える諸侯達なのだ。
 中央の力が弱まり、地方において諸侯の力が強まる。
 今回の事態は、それを明確にするには十分なものであった。

 故に。
 何進も宦官もその勢力を弱めた今、地方における諸侯達の狙いはただ一つとなる。
 すなわち――その権力を引き継ぐ、ただそれのみである。


 
 そして。
 それにもっとも近い人物は一体誰になるのか、と言うと――



 ――霊帝の次代の皇帝候補でもあった劉協を保護した董仲頴、その人であった。 










[18488] 三十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/07/06 10:27




「……これは、不味いことになるぞ」

 ざあざあ、と降りしきる雨に打たれながら、牛輔はたまらず空を仰いだ。
 開けた――それまで屋根があったであろうその隙間から覗く空は、まるで彼の心を表しているかのようでもあった。
 それまで晴天だった空は、つい先まで燃えさかっていた炎の煙を吸い込んだかの如く黒く濁っていた。

 ふと、雨粒が眼に入ったことから、牛輔は視線を下――真っ黒に焦げている床だった場所へと戻した。
 天井があった場所を支えていたのであろう太い柱の黒こげになったものや、本棚であったと思われる黒こげの板などが視界に入る中、牛輔はどうしてもソレへと視線がいった。

 部屋の中央に二つ、そして入口付近に一つ倒れているソレは、周囲の状況と比例して真っ黒に焦げて――いや、真っ黒に焦げた燃え滓だけが残っていた。
 一つは、その長い全体を何かを抱えるようにして丸まったもの。
 一つは、何かを求めるように五つの先端までも伸ばされた一本の棒を持つもの。
 一つは、長い全体から二本の棒を投げ出したもの。

 ソレら――三体の黒こげの遺体を目の当たりにして、牛輔は知らず身体を強張らせていた。

「……姿も見えず、連絡をも取れぬと思っていれば、まさか……まさかッ、こんなところで息絶えられているとは……ッ」

 そう呟きながら、牛輔は若干の期待を――この三体の遺体が、自らの想像した者達とは違うものだという期待を込めて、今一度それらに視線をやった。

 最早、目鼻が何処なのかさえ分からぬ程に燃えてしまっていた一体の遺体の頭部には、炎熱によってその姿形こそ若干の差異はあれど、見覚えのある冠が灰によってくすんでいた。
 安定の元太守――くそ太守とも言い換えられる人物を迎えに洛陽に赴いた際に、一度だけその御身を拝見出来たことがある牛輔にとって、それは実に記憶に残っていた。
 遺体の各所に残る装飾品の数々も、その遺体が牛輔が危惧していた人物――霊帝だということを知らしめていた。

 そうして視線を移せば、これまた実に見覚えのある剣が目に入る。
 あの剣は、自分が送ったものだ――事実を言えば、くそ太守に命じられて鍛冶に打たせた宝石を散りばめた剣を送ったに過ぎぬのだが、その送ったときの顔は今でも覚えている。
 そういったものを貰い慣れている彼の人物でも驚くほどに装飾されたそれは、その人物の気を引くことになり、その剣を即座に腰へと座らせたのは、牛輔の目の前であったのだ。
 だが、その装飾も最早灰にまみれ、その輝きを失っていた。
 張譲――まるで自らのものだという風にその剣に伸ばされた腕を見るに、この遺体がそうであるのだろう。

 そして、牛輔は最後の遺体へと視線を移す。
 その遺体は、霊帝のように冠がある訳でも、張譲のように見覚えのある剣がある訳でも無かったが、一つだけ――その指に嵌められていた指輪が、生前のその人物を表すものであった。
 成り上がり。
 妹が霊帝の寵愛を受け、そしてその権力を利用して諸侯豪族の頂点となったその人物は、その名に恥じぬぐらいに自らを飾っていた。
 それが己を誇示するためか、或いはただ自らの欲を叶えたためなのかは今となっては知れないが、それでも、彼女は己の飾っていた。
 当然、それは牛輔もしるとこであり、その指輪を彼女が嵌めていたのを見たこともあった。
 何進――どうして大将軍がここにいるのか、と思っても既にどうにもならない現実に、牛輔は再び空を仰いだ。



 漢王朝皇帝である霊帝。
 漢王朝を実質取り仕切る宦官の中でも一の実力者である張譲。
 漢王朝の軍部を纏め、地方の諸侯豪族の頂点でもあった何進。

 それらの遺体が何故このような城の一角――それも、人が来ないような角にあったのかは、最早どうなっても知る由もない。
 だが、一つだけ言えることがある、とばかりに、牛輔は雨に顔を打たれながらぽつりと呟いた。



「……これは、不味いことになる」





  **





「此度のこと、漢王朝霊帝の子女として、また洛陽に住まう者として、真にありがとうございました。貴殿らの働きが無ければ、この城のみならず洛陽の街全てが灰燼へと帰していたでしょう」

「あ、頭を上げてください、劉協様ッ!? わ、私達は困っている人達を助けるという当然のことをしたまでで、そこまで特別なことは――」

「私も、助けられた当然のこととして感謝しているに過ぎません、董卓様。なにとぞ、この感謝を受け入れていただけるよう、お願いいたします」

「へ、へぅ…………は、はい」

「ほぅ……良かったぁ」

 ざあざあ、と。
 夏候淵の言葉の通りに降り出した雨は、恵みの雨とも言えた。
 それ以上燃える範囲が広がらないようにと破壊消火を試みてはみたものの、城を壊すわけにもいかず、壊すにしても範囲が広すぎた。
 そんなこともあって、街がそれ以上燃えないようには出来たが、城の全焼は免れないかもしれないと思っていた時に降り出した雨は、どうにもならない消火活動を手助けするかのように炎を小さくしていった。
 そうなってしまえば――さらには雨が降ったことによって少ないながらも水の確保も出来たとあってか、城の中で燻っていた炎をその全てが消されることになり、ここに至ってようやく洛陽を包まんとしていた炎は消火出来たのであった。

 ただ、消えたからそれで終わり、という訳にもいかない。
 董卓軍軍師である賈駆は、牛輔に城の中での被害状況の確認と霊帝などの再捜索を、李粛に街の被害状況と仮設天幕を立てるための場所の確保を命じた。
 彼ら二人には散々動いて貰っていたのに休めないではないか、という声も上がったのだが――主に俺から――現状こんな事態になると思っていなかったこともあって将が足りず、また董卓軍に参入して日の浅い彼らに信頼度の高い仕事を任せては、不満に思う将兵がいるかもしれないと言われてしまえば、俺としては強く反対と言える訳はなかった。
 なおかつ、牛輔と李粛本人にそれでいい、と言われればどうにも言えなかった。

 こうして、彼らの状況の確認を任せた俺達は、李需の案内によって通らされた一室にて劉協から頭を下げられたのである。



 しかし、なんとも花のように笑う少女であろうか。
 董卓もまた花のように可憐で、という言葉が似合う美を付けても間違いではない少女であるのだが、そんな彼女を前にしても些か衰えることのないその可憐さは如何なるものなのか。
 その豊かな金色の髪に映えるかのように微笑んだ少女は、しかしてすぐさまにその笑みを引き締めた。

「趙雲様、程立様、郭嘉様の三人も、その武と智によって救って頂き、誠にありがとうございました。いかような恩賞をも与えます故、何かご希望のものがあれば――」

「――いや、せっかくですがご遠慮しておこう。我々もそこな董卓殿と同じく困っている者を助けただけのこと。感謝こそ受け入れど、恩賞などとても受け入れませんな」

「星ちゃんの言うとおりですかねー。ちょっともったいない気もしますが、ここは遠慮しておきます」

「……それに、我々に恩賞を与えるような余裕があるのなら、街の復興と城の再建へそれを向けるべきでしょう。民は家々を失い、商人は命にも等しき品物や財産を失い、そして洛陽は明日を失う……、それだけは避けねばならないでしょう」

 初め趙雲と程立の言葉に、董卓にしたように言葉を発そうとした劉協ではあったが、それも郭嘉の言葉にしゅんと項垂れてしまう。
 その言葉が過ちであれば劉協も抵抗したであろうが、郭嘉の言葉は当然のことであり、これからの劉協にとっての課題でもあるのだ。
 それを知っているからこそ彼女も項垂れるのであろうし、だからといって感謝の念だけでは不足と思ったのだろう。
 何か恩賞の代わりになるようなものは無かったか、とわたわたと慌て考える劉協から視線を移せば、何故か趙雲と視線がぶつかった。
 さらに別の視線を感じてしまえば、程立と郭嘉までもがこちらへと――俺へと視線を飛ばしていた。

 そして。
 そのことを確認した趙雲は、にやりと口端を歪めたかと思うと、そのままに言葉を発した。



「――では、代わりと言ってはなんですが、一つだけご提案がございます」





  **





「……はぁ」

 そうして俺は、つい二日前ほどのことを思い出して溜息を漏らした。
 ふと顔を上げればあの大火の時から降り続いていた雨はようやく止んだようで、空の端々に濁った雲の切れ端を見つけてはみるが久方ぶりに見た気もする陽光が実に眩しかった。
 これが何事にも巻き込まれていない状況であれば大変喜ばしいものではあるのだが、俺を取り巻く現状で言えば諸手を挙げて喜べる状態でも無いので実に難しいものである。
 とは言っても、洛陽を灰燼へと帰そうとしていた炎は雨によって消火され、それも晴れたことによってようやく復興作業が本格化するのは目出度いことであるのだが。

 結局の所、董卓軍は洛陽での混乱を収めた後に、そのまま洛陽へ駐屯することとなった。
 これは劉協たっての願いであり、何進と宦官の勢力の大半が何進の副官でもあった袁紹と西園八校尉の曹操に掃討されてしまったとあっては、頼れる勢力が助けてもらった董卓軍ぐらいしかないのである。
 無論、そんな風に願い出た劉協――洛陽の民からも街を救った英雄として駐屯を請われてしまえば、董卓としては首を横に振るわけもいかなかった。
 結果として、状況は俺が危惧していたほうへと流れてしまったと言えよう。

「……はぁ」

 だが、それでも見方を変えてみれば、この時期に洛陽を事実上制圧下に置くことがメリットになることもある。
 この時代、いかに名家である袁紹や後に魏の礎となる曹操でさえ確固たる勢力を築くには未だ遠いものであった。
 俺が集められた情報からでも、曹操は陳留の張莫の協力を得て兵を維持しているようなものだし、袁紹にしても各地の豪族を束ねるといった首魁的な存在であったのだ。
 そういった確固たる基盤を持たない各諸侯豪族を差し置いて、人と富と情報とが集まる漢王朝の都たる洛陽を得たのは、これから待ち受ける未来において、一筋の光明であったのかもしれない。

「……はぁ」

 だが、それでも俺の心は晴れなかった――もっと言えば、何でこんな面倒なことに、という思いで一杯だった。
 それはと言うもの、ある三人が理由でもあるのだが。

「……先ほどからそんなに溜息をつかれてどうなされた、北郷殿? 何か気にかかることでもあるのかな?」

「気になることがあるにしても、風達を前にして溜息三連発では、何やら風達がその原因みたいですよねー。そんなこと、あるはずもないんですけども」

「まあ、風の言うことはあれですけど、それでも目の前で溜息をつかれては気になりますね。我々でよければですが、話していただければ少しは心も軽くなるやも知れませんよ?」

「……あなた方がそれを言いますか」

 その三人――趙雲、程立、郭嘉は口端をにやりとしながらそう言い切った。
 言い切ってくれやがったのである。



「おやおや、北郷殿は我々に他意があるとおっしゃるのか? この戦乱の世、我らが智勇を振るうにふさわしい主を得るために旅をする我らが、路銀を稼ぎたいがために貴殿の客将となるのがそんなに疑わしいと?」

「そこまでは言っていませんが、それでも路銀を稼ぐだけならば、わざわざ俺の客将とならんでもよろしいでしょうに……。そもそも、路銀が欲しいだけならば、あの時劉協様からの恩賞を断ることなく受けていれば問題無かったでしょうに」

「そうは言ってもですねー、あそこで劉協ちゃんから恩賞を受け取っていれば、後々何か面倒が起きた時が面倒ですしねー。それを恩として無理難題を言われて困りますしねー」

「……まあ、主とした勢力が漢王朝の権力を背景にしていたとしたら、そういった面倒が起こる可能性もあるかもしれませんが、それでもそこまで気にするものではないと思いますけどね」

「まあ本音を言わせてもらえば、貴殿――天の御遣い殿のことを知りたかった、というのが大きいのですがね」

「あー、まあ……好きにしてください」

 どうにもこの三人には口で勝てるような気がしない、と思った俺は、再び溜息をついた。



 結局の所、趙雲が劉協に押した提案といえば、恩賞をもらう代わりとして董卓軍へ客将として雇いあげるようにと口添えすることであったのだ。
 劉協側からすればただでさえ必要な国庫を開くことなく、董卓軍からすれば少しでも人手が必要であり、趙雲達からすれば路銀を稼ぐことが出来る――これは建前で、本音で言えば天の御遣いである俺を知るためであると、後に郭嘉に聞いて知ったのだが。

 そんなこともあって、董卓と賈駆が洛陽の実力者や朝廷の有力者との会談を続けている現状、趙雲達は暫定的にではあるが俺の配下ということになったのである。
 これは様々な要素も絡んでくるのだが、大きなものとしては彼女達の目的が天の御遣いである俺ということもあって、なら近くにいさせれば面倒なことを気にしなくていい、という賈駆の判断なのだが――俺としては実に面倒くさいことこの上なかった。

 彼女達が一応俺預かりの客将になったことで、馬超は俺の副官から董卓軍の客将ということになったのだ。
 それだけならばそれほど困ることは無いのだが、何事にも真面目に動いてくれた馬超と違って、この三人――郭嘉以外の趙雲と程立は実に扱いにくい。
 それぞれ仕事は早いのだが、それに取り掛かるまでに時間がかかったり、かといってそれが全てではなく時たまさっさと仕事を片付けたりするものだから、こちらとしてもその対応が実に難しいのであった。
 
 まあそれでもこちらが忙しいということは理解しているようで、仕事が滞らないようにしてくれているのだから、多くは言うまい。
 郭嘉を秘書、趙雲と程立がそれぞれ武官と文官を繋ぐ連絡係り兼実働部隊という役割でようやっと回り始めた頃、洛陽の街はようやく落ち着きを取り戻し始めたのであった。




  **






「……はぁ」

 とは言っても、それだけで仕事が楽になるなど到底有り得ない訳で。
 知らず知らずのうちに溜息が零れていた。

「……お疲れのところ悪いのだけれど、溜息で見送られるこちらの身にもなってくれるかしら?」

「そうだぞッ北郷ッ、華琳様の顔を見ながら溜息などと、失礼なことをするではないぞッ! まあ、溜息が出るほど可憐なのは認めるがなッ!」

「あ、ああ、これはすみません、曹操殿、夏侯惇殿。まいったな、そんなつもりじゃないんですけど……」

 そうして何度目かは分からない溜息をつくと、それを見咎めたかのように――若干苛立ちが混じったような声で、隣で馬に跨る曹操が声を上げた。
 じと、と目を細める彼女の向こうで夏侯惇が声を荒げると、俺は慌てて頭を下げた。

「……まあ、忙しいのは分かるから、今回だけは目を瞑りましょう。ただ……次は無いわよ?」

 覇王としての威圧を醸し出しながら凄む曹操に、俺はコクコクと頷くほか無かったのである。

 董卓軍が洛陽に駐屯することに決まった後、洛陽の街と民を守ったとして郊外に陣地を構築して野営していた曹操にも、劉協から同じ要望があったと曹操は言っていた。
 だが、彼女自身、董卓と違い確固たる根拠地を持たない――あえて言えば陳留がそうとも言えるが、実質的にそこを収めるのは曹操の親友でもある張莫であるためか、長期的に軍を維持することは大きな負担となるのだ。
 そういったこともあって、曹操は家々を失った洛陽の民に炊き出しを行い、陣地を構築するために用いていた資材などは街の復興のために惜しげもなく放出したのである。
 
 それら一連の行動は、洛陽という街において曹操の名を大いに上げることとなり、初め一千ほどであった彼女の軍勢も、いざ陳留へ帰還するというころになれば曹操を慕い付き従おうとする民で膨れるほどであった。
 その多くは家々を失った難民であったが、そういった人々を受け入れたという噂は、洛陽という街の特色上、瞬く間に各地へと広がることだろう。
 そして、その噂を聞いた難民たる民達が救いを求めて曹操の下へ――そういった好循環が生み出されるこということを、曹操は狙っていたのだろうか。
 不敵に。
 覇王のように笑う彼女からは、それを掴むことは出来なかった。

「それにしても、天の人々というのは皆お前のように勤勉なのか? 幾度か朝廷の文官と話すことがあったが、お前が一番仕事をしていると心配していたぞ」

「えー、まあ夏侯淵殿の言うとおりですかね。俺が特別というわけではないですが、それでも勤勉だったと思いますよ」

「ん? いまいち曖昧な物言いだな、知らないわけではなかろうに」

「ああ……俺は父と母を幼い頃に亡くしていますので、そういった働く人というのを身近では見たことがないのですよ」

 爺ちゃんは勤勉という感じでは無かったしなぁ。
 むしろ働いているのを見たこともない――いや、俺がここに来る原因ともなった倉庫にある骨董品やらを売ったり、また別の骨董品を買ったりして生計を立てていたらしいのだが、そういったことをしているのを見たことがないので、何とも言えないのであった。
 
 そんな俺の言葉に負い目を感じたのか、言葉に詰まる夏侯惇と夏侯淵に苦笑を返す。
 この時代では決して珍しいことでもないのだろうが、自分達がそういったことに踏む込むのは躊躇われたのか、バツの悪そうな顔をしていた。
 

 ただ一人、曹孟徳を除いては。


「そう……ならば、私に仕える気は無いか、本郷一刀よ? 天の御遣いという名が広まった時期を考えれば、董卓の下にいるのは父祖代々の臣であるという訳でもないのでしょう? ともすれば、董卓にそこまで忠を立てる必要もない。さらには、あなたの能力があれば私達が今より飛躍することは間違いないでしょう。……私は、優秀な人材が好きなのよ」

 そう言って、こちらへと堂々と手を伸ばす曹操にしばし呆然とする――見惚れてしまう。
 それがさも当然であるかのように突き出された手を見つめ――俺は首を振った。

「……曹操殿に優秀と認められることは大変嬉しいのですが、お誘いは受けることは出来ません」

「何故、と聞いても?」

「初めこの地で途方に暮れていた俺を拾ってくれたのが、月――董卓だからです」

「……」

「……」

「……それだけ?」

「はい、それだけです。夏侯惇殿と夏侯淵殿が曹操殿に仕えられるのも、曹操殿が曹操殿だから、でしょう? 人とは意外と単純なものなのですよ、曹操殿」

 俺の言葉に、うむそうだな、と頷く夏侯惇に視線を移さぬままに、俺は曹操の視線を真っ向から受け止めた。
 視線に含まれる意図が、俺の言葉がどこまで本気で事実なのかを探っているようであったためだ。
 しばしの間見詰め合った後、曹操はふっと口端を緩めた。

「そう……ならば仕方ないでしょう。でも覚えておきなさい。私は諦めが悪いわよ?」

「委細承知、心得ておきましょう」

「ふふ」

 華の咲くような笑い声とは裏腹に、獲物を狙い済ませた獣のように細められた瞳から視線を外さずに、俺も笑うかのように口端を歪める。
 とはいっても、曹操という覇王の気に押されて実際に笑えているかどうかなどは自分では分からず、心中なんとも情けない気持ちではあるのだが。
 そんな俺の心中を知ってか知らずか――なんとなくばれているような気もするが、笑みを収めた曹操はくるりと馬首を翻した。

 それにつられて視線を移せば、いつの間にか俺達は城門まで来ていたらしい。
 帰還の挨拶に城まで来た彼女達を送っていたのだから、結構な距離を歩いていたみたいだった。
 
「では、北郷……また会いましょう。願わくば、その時こそ私の下に膝をついてくれればいいのだけど」

「それは確約出来ませんけどね。願わくば、次にお会いするのが戦場では無いことを祈っておきます」

「ふふ……その時に振るわれるであろう天の采配、楽しみにしているわ」

 俺の受け答えが気に入ったのか、実に上機嫌に曹操は諦めの悪い言葉を吐いた。
 諦めの悪い――というか、獲物を狙う笑みのまま笑った曹操は、すぐさまにその笑みを収めて凜とした表情とした。

「春蘭、秋蘭、帰還するわ」

「はっ! 北郷、次に会うときを楽しみにしているぞッ!」

「はっ……ではな、北郷。次に会うときは共に戦えることを楽しみにしている」

 そうして馬を歩かせ始めた曹操の脇を、夏侯惇と夏侯淵の姉妹が固めて馬を駆る。
 二人ともに会うことを楽しみと言われた俺は、そこにどんな意図があるにせよ嬉しいと感じることとなり、それを隠さぬままに微笑んだ。

「はい、お二人とも、次にお会いできるのを楽しみにしておきましょう。帰路の安全を」

 そして俺の言葉を受けて頷いた二人は、先に進んでいた曹操に追いつくために馬を駆けさせていった。





「ふぅ……何というか、凄い人達だったな」

 そうして曹操一行を見送った俺は、馬を厩舎へと預けて遅めの昼食を取るために街を歩いていた。
 覇王たる曹操と、その片腕――二人いるのなら両腕ともなる夏侯惇と夏侯淵という人物達は、俺が知る歴史において名を馳せた人物達と同じ存在なのだということがいやでも理解出来た。
 董卓と賈駆も君主たる風格を備えているが、彼女達はそういったものを脱しているようにも見えたのである。
 董卓達が劣っているとは言わないが、やはりあれが後の世にも名を残す人物たる由縁か、と思わずにはいられなかった。



 そんな空腹には些か堪える思考をしつつ、俺は何を食べようかなどとも考えていた。 

 いつまで洛陽にいることになるのかは未だ分からないが、いざ何かしらがあった時に対応できるようにと時間があれば――殆ど皆無に等しいのだが、街を歩くようにしていることもあって、何件か食事を取れる店には目星を付けている。
 昨日は肉まんを食べたし、一昨日は青椒牛肉絲を食べたし。
 そんなことを考えながら歩いていると、ふと視界の端で上手そうにラーメンを食べている人達を見た。
 スープを喉を鳴らしながら飲む男性、麺があるままに一気に啜る男性、肉厚チャーシューにかぶりつく子供達。
 その光景に自然とつばを飲み込んでいた俺は、記憶の中にあるラーメンを出してくれる行きつけの店への道筋を、脳裏に思い描いて道を歩いていた――



「控えなさいッ!」



 ――そんな俺の耳に、怒声が入り込んだ。







[18488] 三十五話
Name: クルセイド◆ba5a1630 ID:bc2f3587
Date: 2010/12/10 13:17

「むー」

「……」

 洛陽の街中。
 先の大火において荒廃していた街中の一部は、洛陽に駐屯することになった董卓や西園八校尉である曹操からの物資によって徐々にではあるが、元の形となるべく復興が始まっていた。
 あれだけの大火に襲われながらも既に復興、そしてその先を見据えて生きている洛陽の民達へ視線をやりながら、その女性は――その女性達は歩いていた。

 豊かに流れる黒髪は先端だけを軽く纏められ、その艶かしい輝きを含めてみれば、ともすれば漆黒の宝玉とも取れる見栄えであった。
 その髪が流れるは浅黒く日に焼けた肌であり、肌の大部分を露出する服に身を包まれていながらも下品な所は一つも無く、その肌と髪は一つの至宝のようでもあった。
 瞳を覆う眼鏡が、日光を反射してきらりと光る。

「むー」

「……」

 そんな女性の隣を歩く女性も、また同じように黒く日に焼けた肌をしていた。
 違う点といえば、その肌を流れるのが漆黒の髪ではなく桃色の髪といったところか。
 先の女性のように纏めることはせず流せるに任せた桃色の髪は、その豊満な肉体の曲線を惜しみなく現している服の上を流れていた。

 桃色の髪の女性は、睨むかのように黒髪の女性を見ていた。

「むー」

「……はぁ。いい加減、納得してくれると助かるのだけれど、雪蓮? 今この時に騒ぎを起こす訳にはいかないのよ――」

「――んっもう、冥琳ったらそればっかりじゃない! あーあ、私も暴れたかったなぁ」

「……暴れて袁紹に目をつけられたらどうするの? 今の私達の勢力ではそれに太刀打ち出来る筈もないし、袁術までもがそれに付け入ってしまえば、孫呉の復興など夢のまた夢よ」

「むー……それは分かってるんだけどさぁ」

 そうむくれるように呟いて、雪蓮と呼ばれた桃色の髪の女性――孫策は視線を街へと移した。
 彼女が視線を向けた先では、木材を肩に担ぐ男達が一山に詰まれた木材の上に次から次へと木材を置いていた。
 その後に汗を拭った彼らは、笑い合いながら昼食に何を食べようかなどと話をして雑踏へと姿を消していく。

 さらに視線を移せば、昼の掻き入れ時ということもあってか、飯店の恰幅のいい女性が声を上げて客を呼び込んでいた。
 その横で照れながらも声を上げている少女は娘だろうか、彼女目当てで通っていそうな少年達が店へと入っていった。

 そうやって視線を移せばそこら中に活気が――笑顔が見られた。
 その光景を少し見つめた孫策はくるりと体ごと黒髪の女性へと向けると、不満を隠すことなく表した。

「だってさぁ、いくら袁術ちゃんからの命令とはいえ、洛陽で朝廷や民を助けるのは後々の私達にとって有益なことなのに、冥琳ったら軍を洛陽目前で止めるんだもん。しかもその理由が面倒事に巻き込まれないようにするためだなんて、そりゃ不満も溜まるわよ。祭だってそうみたいだったし」

「あの方はいつもああではなかったか?」

「あー……まあ、それは否定しないけど」

 そう言って孫策は、洛陽から少しばかり離れた地にて構築された陣地に置き去りにしてきた祭という女性――黄蓋のことを思い出した。
 確かに彼女も自分と同じく軍を止めた冥淋に文句を言っていた筈だ、と孫策は苦笑した。

「……それに、雪蓮や祭殿の不満も分かるが、今回洛陽に来た最大の理由は橋公に会うことなのを忘れないで頂戴。彼は――」

「――洛陽においての母様、ひいては孫呉にとって最大の協力者、でしょ? それぐらいは私だって分かるわよ」

「ならその不満を橋公には見せないで頂戴ね。あちらに敵愾心を持たれてしまっては私達の――陽蓮様の願いが遠のいてしまうのだから」

「むー……仕方ない、か。今回は冥琳の言うとおりにしてあげるわ」

「これからもずっと私の言うことを少しでも聞いてくれればとても助かるんだけど――」

「何かあっちの方が騒がしくない、冥琳? ちょっと見てくるわ」

「――って、人の話を聞きなさい、雪蓮ッ! ……ッ、ああもうッ!?」

 そうして彼女達の歩む先の方、人の頭によって構成された黒いざわめきに孫策が気づいた。
 ざわざわと聞こえる声の中に、少女やら老人やら兵やらの言葉が聞こえた孫策は、ふと思いつくものがあって――彼女の堪に引っかかるものがあって、背後からの声を無視してそちらのほうへと足を速めた。

 そんな孫策の背中を見送った黒髪の女性――周喩は、明らかに面倒事っぽいそのざわめきを数瞬呆然としながら見た後、先に飛び込んだ孫策の後を追って自らもその面倒事へと身を投げた――





 ――そして、今の現状による頭痛に眉を顰めた。

「控えなさいッ! 帝都洛陽での狼藉、この孫伯符が許さないわッ! そも、民を守るべき兵がその矛先を無力な老人と女子供に向けるとは何事かッ、恥を知りなさいッ!」

 痛む頭を抑えて横になりたい気分だが、周喩はその魅力的な考えを即座に頭を振って捨て、前へと視線を向けた。
 視線の先には孫策の背が、その向こう――孫策の前左右を囲むようにいる三人の兵は、その装備からどこの軍かを知ることは出来なかったが、袖口に巻かれた布に『董』の一文字が書かれているのを見るに洛陽に駐屯する董卓軍のものか。
 洛陽という大拠点ともいえる地を制した驕りか、にやにやと笑う兵達の視線はいやに下卑ており、その視線が自分や孫策に注がれているのが理解出来た。
 そして、自分達を通り越して、その背中にまでも。

「はっはっは、孫だか伯符だか知らんが、我々は何も矛先を向けたわけではないぞ。そこな老人が我々を酒へと誘い、その肴――おっと、我々を持て成すためにと自らの孫娘共に酌をさせようとしたに過ぎん。お主の言葉こそが間違いだと何故気づかん?」

 そう言いながらその笑みを深める正面の兵に、周喩は嫌悪感を――生理的な拒否感を抱いた。
 ちらりと背中を――そこに匿う一人の老人と二人の少女へと視線を移せば、老人こそ好々爺という印象を抱ける人物であるが、その孫娘という二人の少女は酷く幼かった。
 白を基調とした服を纏う少女達は、双子であるのか髪の一本からその目立ち鼻、体型に至るまでの全てがそっくりであった。
 幼いながらの美を備えたその風貌は、将来成長した姿を楽しみにさせた。
 そして、そういった趣味を持つ人物からしてみれば酷く甘い果実に見えるのだろう。
 後ろの少女達へ視線を向ける兵達は、これから待ち受けているであろう狂宴を待ち望むかのように一層笑みを深めた。

「ちょっとあんたッ、御爺ちゃんはそんなこと言ってないもんッ! それに、あんた達の相手なんかこっちから願い下さげなんだからッ、勝手に自分達で勃ててなさいよッ!」

「しょ、小橋、それに大橋や、わしのことはいいから、早くここから離れなさい……孫策殿と周喩殿も早く。あなた方にもしものことがあれば、わしはあの世で文台様に顔向け出来ぬ……ッ!」

「残念ですが橋公よ、あなたのそのお言葉は、例えあなたが陽蓮様――文台様の古くからのお知り合いとはいえ聞くことは出来ませんな。そもそも、そこの馬鹿娘のせいで我々も無関係では無くなりましたですし」

「ちょっとー、冥琳は私ばかりが悪いって言うの? 明らかに悪いのはこいつらじゃない」

「それはそうだけど、事をここまで大きくしたのはあなたのせいでしょう、雪蓮? 一発もぶん殴らずに事を収めてくれれば、こんな面倒なことにならずにすんだのに……」

 ぶーぶー、と文句をたれる孫策から視線をずらせば、正面に陣取る兵の頬には赤く腫れた痕が見える。
 嫌がる少女達――小橋と大橋と呼ばれた少女達の腕を取り、あまつさえ彼女達の祖父であり自分達孫呉の協力者でもある橋公を蹴飛ばしたのを、ちょうど駆けつけた孫策が殴ったのだ。
 吹っ飛んでいく兵と、明らかに殴ったであろう体勢で止まる孫策に、周喩は頭痛を抑えることが出来なかった――それと共に、少しだけ安堵した。
 これが戦場で昂ぶっていた孫策でなくてよかった、と。
 昂ぶっていた彼女であったならば、その殴った威力で兵の首がもげていた可能性もあったのかもしれない。
 もしそうなってしまえば、他国の――しかも、洛陽を実質勢力下においた董卓軍の兵を殺したということでどんな圧力がかかるか、とても判断出来るものではなかったのだ。
 少しだけ、殴られた兵には悪いが安堵した。

「あ、あの……ここは私が引き受けますので、周喩様達は小橋ちゃんと御爺ちゃんを連れてここから離れてください。元はといえば、私があの人達にぶつかったのが悪いんですから……」

「あー、大橋ちゃんだっけ? ごめん、それ無理っぽいわ」

 そんな孫策の言葉と共にそちらへと視線を向ければ、先ほどまでこちらを眺めていただけだった三人の兵達がじりじりと距離を詰め始めていた。
 その動きに孫策も腰の剣――南海覇王に手を伸ばすが、敵地ともいえる洛陽の街ということを理解しているのか、それを抜くという行為を戸惑っているようであった。
 それが自分達を恐れていると勘違いしたのか、兵達は一層笑みを深くしてこちらへと近づいてきていた。

 そして、その腕がこちらへ向けて伸ばされ――



「はい、そこまで」



 ――孫策に触れる直前、鞘に納まれた剣によって防がれることとなった。





  **





「あっ、おっちゃん! 一体何の騒ぎだい?」

 曹操達を見送った後、昼食を取ろうとしていた時に聞こえた怒声が気になった俺は、その声の出所を探していると顔見知りに出くわした。
 目星を付けていた店――先日食べた重厚な肉まんを出している店の店主であるのだが、俺はその後姿へと声をかけてその横へと並んだ。

「あ、ああ、北郷様じゃないですか!? 北郷様、どうにかなりませんかねぇ、あの娘達を助けてあげて下さいよ」

「一体何の騒ぎ――」

「はっはっは、孫だか伯符だか知らんが、我々は何も矛先を向けたわけではないぞ。そこな老人が我々を酒へと誘い、その肴――おっと、我々を持て成すために自らの孫娘共に酌をさせようとしたに過ぎん。お主の言葉こそが間違いだと何故気づかん?」

 そこまで言いかけた俺の言葉を遮って、おっちゃんの言葉と共に向けていた視線の先で兵の格好をした一人が声を上げる。
 その言葉を聴いてようやく全体を見てみれば、どうやら三人の兵士達が二人の女性と二人の少女――その容姿から双子の少女と老人を囲んでいる、ということであった。
 それだけを見るのならば、不穏分子の可能性がある女性達を兵士達が追い詰めた、と見ることも出来るのだが……兵士の言葉を聞く限りどうにもその通りではないらしい。

 腕に『董』の文字が入った布を巻きつけているあたり、俺達が洛陽に入った後に董卓軍に参入した――吸収した宦官か何進の勢力の残党であるらしい。
 その多くを吸収することによって爆発的に増えた兵士の全てに鎧が配給出来ないこともあって、俺が黄巾から思いついた案であったのだが、今回はそれが仇になる形か。
 あれだけこれ見よがしに見せてしまえば、こちらは無関係であると言うことも出来なかった。

「――あー、了解、何となく事態は把握出来たかも」

「だったら北郷様、あの娘達を助けてやってあげて下さいよ。あの娘達、あのままだとどうなっちまうことか……」

 そう言って呟くおっちゃんから視線を外してみれば、周囲の人々もみな同じように悔しそうな顔をしていた。
 力がない、だから彼女達を助けられない。
 それが悔しくて、そして董卓軍への感情が悪化する、と。
 そこまで想像出来た俺は、おっちゃんに気づかれないように密かに溜息をついた。
 本当に、こういう輩はどこにでも湧いて出るものなんだな、と。
 前回は姜維が巻き込まれていた場面に遭遇したが、今度は一体どうなってしまうのか。
 再び溜息をついた俺は、着ていた聖フランチェスカの制服を脱いでおっちゃんへと渡した。

「おっちゃん、これを持って城の門まで兵を呼びに行ってきてくれないか? 俺のこれなら話が通じると思うから」

 確か今日の門の警備は徐晃だったはずだ。
 俺が天の御遣いとも呼ばれる要素でもあるこの制服であれば、きっと徐晃も気づいてくれるだろうし、俺が赴けるほど余裕がない状況なのだと彼女なら理解してくれるだろう。
 そんな俺のことを信じてくれたのか、おっちゃんはやや慌てるようにその服を受け取ると、一目散に城へと向けて駆けていった。

「さて……はい、そこまで」

 それを見送った俺は、くるりと身体の向きを変える。
 その視線の先では、女性達を囲んでいた兵士達がじりじりとその距離を詰めていた。
 ああ、今回はどんな面倒になるのだろう、と。
 そんなことを考えながら、俺は女性達へと手を伸ばしている兵士達の間へと、鞘をはめたまま剣を突き出していた。



「ああ? 何なんだ、あんたは? 関係無い奴は口出ししないでもらいたいねぇ」

 いきなり突きつけられた剣に唖然としていた女性と兵士達だったが、先に兵士達の方が復活したか、それまで女性と少女達へと向いていた視線と意識が俺へと向けられる。
 邪魔をするな、という意思と明らかな敵意を向けられるが、それを極力無視する方向に努めて俺は口を開いた。

「まあ確かにこの現場にはあまり関係無いけどさ、かといって目の前で女の子達が困っているのを見逃すことも出来なくてね。悪いんだけど、ここいらで手打ちにしてもらえないかな?」

「くっ……くくく、ふはっはっはッ! 聞いたかよ、おい。この小僧、それで俺達が引くと思ってやがるぜ。一丁前に剣など持ちよって、英雄気取りか小僧よ? ほら、命が惜しくばさっさと消えるがいい」

「そうだぜ、坊ちゃんはお家に帰って母ちゃんのおっぱいでも吸ってりゃいい」

「この女共のおっぱいは、俺らが万遍無く吸ってやるからな。お前にゃ分け前はねえのよ」

「……駄目だこりゃ」

 ひゃはは、と下卑た笑みを浮かべる兵士達に、俺は頭が痛むのを抑えられなかった。
 こいつらは本当に董卓軍の兵士なのだろうか、と思わずにはいられないほど崩れた兵士達に、俺はふとコクが吸収した宦官と何進の残党は賊崩れや元黄巾賊が多いと言っていたのを思い出した。
 確かに、目の前で笑い声を上げる兵士達を見ていればそれが事実である、と理解することが出来た。

 だが。
 この時の俺は、目の前の兵士達へと意識は向いていなかった。
 その意識は後ろ――先ほどからずっと黙っている桃色の髪の女性へと向かっていたのだ。
 兵士達が笑い声を上げた頃から背後の彼女から受ける重圧がまるで何かの生き物――それこそ龍に心臓を掴まれているのではないか、と思えるほどの重圧に、俺は知らず剣を握る手に力を入れていた。
 ここに着いてからその顔やら服装はちらっとしか確認出来ていないが、うろ覚えのそれだけでもそういった重圧を感じるような女性では無いと思っていたのだが。
 そこまで考えて、俺はふと首を傾げ――るわけにはいかないので、疑問だけ心の中で浮かべた。

 
 そう言えば、はじめここに辿り着いた時に兵士が呼んでいた女性の名はなんだったか、と。
 

「ほら小僧、命が欲しくば早くそこをどけるがいい。今なら我々に意見したことを不問にしておいてやろ――う? ッ、グハァァァッ!?」

 そんなことを考えていた俺は、いよいよ俺をどかそうと伸ばされた兵士の腕に対応出来なかった――否、反射で動いてしまった。
 まあつまりはである。
 こう、伸ばされた腕をそのまま手前に引き寄せてですね、肩に担ぐようにした勢いのままにぶん投げた――これまた見事に一本背負いを決め込んでしまったのである。



「……」

「うっわー、これまた見事に決めちゃったわねえ。完璧に目回しているわよ、これ」

「……あぁ、やっちまった」

 ドシンッ、と地面に強かに打ちつけることになった兵士は、その不意の衝撃に耐えることなく意識を手放すこととなった。
 剣術だけでなく体術も鍛えておいたほうがいい。
 そういう李粛と呂布の言葉に従って鍛えておいたおかげか、特に意識したわけでもなく技が出てくるあたりそれも正解と言えよう。 
 そう思えば彼女達には感謝しても感謝しきれない――組み手の時にふよんふよんと揺れる李粛の胸とか、いつもと同じく無防備に身体を押し付けてくる呂布に精神的に四苦八苦したことを除けば、だが。

「こ……こ、この野郎ッ、やりやがったなッ!?」

「か、構わねぇッ、この小僧を殺して女共を無理矢理にでも連れていっちまおうぜッ!」

 仲間をのされて逆上した残りの兵士が、共にその腰にある剣を抜く。
 ジャキン、と歪な音をもって抜かれたそれは、日の光を反射して鈍い光を放っていた。

「なあッ、ぬ、抜きやがったッ!?」

「き……きゃあああぁぁぁっ!」

 それと同時に、周囲から悲鳴とも怒声とも取れる声が上がり始める。
 我知らずとその場を離れていく者。
 巻き込まれるのを嫌がり距離をとる者。
 それすら関せず動かずに事の次第を見守る者。
 そういった風に周囲が動き始めていく中で、俺は鞘をつけたまま剣を構えた。

「ちょ、ちょっとあなた、そのままで戦うつもりッ!?」

「無論ですよ。こんな些細なことで徒に命を散らすものでもないでしょう。叩きのめして、城へ届ければそれで解決です」

 そんな俺に戸惑ったのか、はたまた不思議に思ったのかは分からないが、背後にいた桃色の髪の女性から上げられた声に、俺は努めて冷静に振舞った。
 まあ、冷静に振舞ったところで、その中身である心臓などはバクバクと早鐘を鳴らしているし、背中にはいやな汗もかいているのだが。
 死の恐怖が目の前に迫っているとしても、女性やら女の子にいいところを見せたいと思うのは男の性なのか、と空気も読まずに疑問に思ってしまった。

「……んふふー、なら私も助太刀しちゃうわね? これで二対二、全く問題はないわ」

「ちょ、ちょっと雪蓮ッ! 問題を起こさないっていう問題は一体何処へいったのッ!?」

「んもー、冥琳は考えすぎなんだって。向こうは彼と私達が目的、こっちは向こうを止めるのが目的、ならお互いに協力したほうがいいのは考えなくても分かることでしょ? お互いに問題が解決出来ればそれでいいじゃない」

「いいじゃない、じゃないでしょッ、雪蓮ッ! 少しはこちらの話も――」

「――ほら、来るわよ。 あなたも、死なないように頑張ってね?」

「承知、そちらも気をつけて下さいよ?」

「当然ッ!」

「って、話を聞けこの馬鹿娘ッ!? あなたもあおらないで頂戴ッ!」

 桃色の髪の女性――雪蓮と呼ばれた女性は、にやりと笑ったかと思うと、その腰にぶら下げていた剣を手にとった。
 俺と同じく鞘から刀身を抜き放たない所を見ると、叩きのめすということに賛同してくれたらしい。
 その光景に、俺は内心安堵した。

 もし俺がこの兵士達を斬ることになれば、それは洛陽の安全を守る側としてそれを乱す者達を成敗した、で片がつく。
 だが、見た感じ洛陽の者ではない彼女達がそれを成してしまえば、それで片がつく筈が無いのだ。
 それこそ、軍として報復なり攻撃なりを検討しなければいけないのかもしれない。
 そういったことを踏まえて事態を見てみれば、殺さずに兵士達を捕らえることが正解なのかもしれないと、そう思ったのである。

 黒髪の女性――冥琳と呼ばれていた女性の声を無視して、俺達は斬りかかってくる兵士達と相対した。
 その動きは、一騎当千の武人達から鍛えられてきた側からすれば蝿が止まるのではないか、と思えるほどであり、さしたる驚異でも無い。
 ただ、その刀身が抜き身であるということに気をやりながら、俺は鞘付きの剣を振るった。

 振り下ろされる剣を弾き、そのままの勢いを持ってしてがら空きとなった胴へと剣を振るう。
 これが抜き身であるならばそのまま胴を二つに分断していたのであろうが、鞘が付いたままの剣は、鈍い音と何かが軋む音を発してその身体へとめり込んだ。

 ドゴッ、という自分であれば出来るだけ――極力貰いたくない音を響かせた兵士は、その痛みに耐えることなく地面へと崩れ落ちていった。
 剣が直撃した部分を抑えながら呻いているので、意識はあるようだ。
 これならば城へと連れて行った後に事情を聞くことも出来るだろう、と思考した所で、俺は雪蓮と呼ばれた女性の方を見た。
 
 丁度、彼女が下からすくい上げるように振るわれた剣が兵士の顎に直撃したところで、仰け反った兵士はそのまま後ろへ倒れたかと思うと、気絶でもしているのか動くことは無かった。
 ふん、と鼻を鳴らした彼女は、くるりと振り向いたかと思うと、にっこりと笑いながら俺と視線を合わせた。
 よくよく考えてみれば、今回の騒動で初めて彼女の顔を正面から見た気もする。
 その空とも澄み切った湖とも言える深い蒼の瞳に見つめられ――俺は、またも瞳の奥が痛んだ気がした。


 *


『はは……母様の顔がちらついているわ』

 戦いを終えた俺達は、――が呼んでいると聞いて彼女の下へと駆けていた。
 戦を終えたばかりの疲労など関係無い。
 例えこの身が壊れても、俺は一刻も、一秒のみならず一瞬でも早く彼女の下へと駆けていった。
 彼女の下へと行けば、いつもと変わらぬ笑顔が俺達を待っていてくれるのだと。
 あの出来事……俺の目の前で――が毒矢で撃たれたことなど嘘のように、笑っていてくれるのだと信じて。

 そして。
 俺達を迎えた彼女は……そう言う――の顔は死人のように青ざめていて。
 彼女の言葉と共に、最後はそう遠くないことを告げていた。

『呉の未来は、あなたたち二人に掛かってる……二人仲良く、協力しあって……呉の民を守っていきなさい……』

 そう弱々しく、囁くように言葉を発した――は、力の無い俺と――の妹の手を、そっと重ね合わせた。
 それに答える彼女の声はどこか震えていて。
 共に答えた俺の声も、知らずのうちに震えていた。

『任せとけ……!』

『うん……見守って、ごほっ……おくからね……』

 それに満足したのか、咳き込みながらも言葉を発した――の顔はどこか満足気で。
 これからその身を、その命を、その魂を失おうとしている者のものとは思えなかった。

『はは……もう……時間が無いみたい……』

『――……!』

 だから。
 俺は信じることは出来なかった。
 信じられなかった。
 信じたくなかった。

『一刀……楽しい……日々、だった、ね……』

『ああ……楽しかったよな……! 酒飲んで怒られたり、釣りしたり……! でもさ、――! 俺はもっと、もっとおまえと居たかった! もっと楽しく、笑いあっていたかった! ……なのに……どうしてだよ! なんで……なんで死んじゃうんだよ!』

 ――が死ぬということ。
 ――がいなくなるということ。
 ――が……――の笑顔が、もう二度と見られなくなることを。

 いたずらが見つかった時の、子供のような顔も。
 民を愛し、民に愛されてきたあの笑顔も。
 それを傷つける者にだけ向ける獣のような顔も。
 その裏にある、弱々しく甘える少女のような顔も。

 もう、二度と。

『人は、いつか死ぬもの……私、幸せだよ……楽しかったこと、思い浮かべて……死んで、いけるから』

 だけど、彼女はそれでも満足だと言う。
 そう言えば、俺達が悲しまないとでも思っているのだろうか。
 それとも。
 そう残すことで、俺達の心の中……魂に――が生きていけるように、であろうか。

 その真意は、最早伺い知ることは出来ないだろう。
 その心の奥は、最早――は話さないだろう。

 だけど。
 俺は、そう思うことが出来た。
 確かに、――の命は失われ、その魂は天へと召されるのだろう。
 だが、彼女が生きた証は、確かにここにある。
 確かに、俺達の中で生きていくのだ。

『さよ、なら……かず、と……あなたにあえて…………』

『――っ!』

 だから、俺は――の死を、――がいなくなることを受け入れよう。
 今すぐには無理かもしれないけど、きっとその事実を受け止めようと思う。

 だからな、――。
 今だけは。
 今だけは……泣くことを、許して欲しい。

 ――のことだ、泣き虫だとか言って俺を笑うかもしれないけど。
 今だけは、愛した人が逝くことを、悲しませて欲しい。

『……雪蓮ーーーーーっ!』

 そうして俺は、溢れる涙を堪えることなく彼女の名を呼ぶ。
 ゆっくりとその命を天へと昇らせる雪蓮の顔は、涙で滲みぼやけていたけど。
 最後に名を呼ばれ。

 雪蓮は、微笑んでいた気がする。



 そして俺は願う。
 涙を堪えることなく、ゆっくりとその温もりを失っていく雪蓮の顔を見つめながら。
 願わくば、再び笑顔の彼女に出会えるように、と。


 *


「一刀殿ッ! 状況は……どうやら、落ち着いているようですね」

「……ッ」

 唐突に聞こえた徐晃の声に、俺は沈みかけていた意識を急速に引っ張り上げられる。
 
 まただ。
 曹操と初めて出会った時に感じたものと同じ感覚。
 見たこともない景色で、見たこともない映像が流れるその感覚は、やはり俺の記憶にはないものであった。
 どうして俺が泣いているのかも、どうして目の前にいる女性が死ぬのかも、全く分からない。
 ただ言えることは、俺と彼女は親しい関係であった、ということぐらいか。
 
 何を馬鹿な、と俺は頭を振った。
 今日、この場所で初めて出会った女性を知っていて尚かつ親しい関係であるなどと、どうして言えることが出来よう。
 ただの気のせいだ、とばかりに俺は口を開いた。

「お疲れ様、琴音。とりあえず暴れていたのはこいつらだけみたいだけど、こういったことはこれからも起こりうることだから、何か対策を考えないといけないかもな」

「……私が引き受けた兵士の中にも、同じような素行の者がいるとのことですので、それは賛成ですね。早速ですが、こいつらを城へと連行した足で月様と詠様に意見してみます」

「うん、そうしてみてくれ。華雄殿や霞なんかには、俺の方から気をつけるように言っておくよ」

「分かりました、その件はお願いします。……ああ、そういえば」

「うん?」

「これをお返ししておきましょう。ふふ……いきなりこれを持った民が駆け込んできた時には何事かと思いましたが。警邏の時にこういう緊急度が分かるものを持っておけば、駆けつける優先度が分かっていいですね」

「うーん……そうだな、琴音の言うとおりだ。今度、草案を詠に出してみるよ」

 そうして徐晃から手渡されたそれ──聖フランチェスカの制服を受け取った。
 初めての試みであったのだが、それが上手くいったかと思うとほっとすると同時に、それに気づいてくれた徐晃に感謝する。
 とりあえず俺の知る将達なら気づいてくれるものとは思うのだが、一般の兵士や新規の将には難しいものがあるかもしれない。
 そう思った俺と徐晃の提案によって、この数日後から洛陽の街の警備体制は一変することとなるのだが、この時の俺には知るよしも無かった。



「へー、あなた、天の御遣いだったんだ」

 そうして、捕らえた兵士達──元兵士とも言える彼らを城へと連れて行くにあたっての注意事項を徐晃と話していた俺の背後から、ふと声がかかる。
 その声に反応してみれば、桃色の髪の女性とその背後に黒髪の女性、双子の少女と老人がいた。

「あー……うん、まあ、そう一般的にはそう呼ばれてるね。俺の名前は北郷一刀、今回はうちの兵達が迷惑をかけたみたいで……本当に申し訳ない」

「ああ、別にいいわよ。だってあなたは助けてくれたんだし、あのままだと面倒に巻き込まれたのは私達なんだし。おあいこ、ってことでいいと思わない?」

「……面倒に自ら身を投げ入れた人の言葉とは思えないわね、雪蓮? まあ……こちらも、迷惑をかけたようだな、北郷殿。申し遅れた、私は周喩、字は公瑾という」

「ああ、よろしく。……さすがは美周郎、その名は伊達じゃない、か」

「ん? 何か言ったか?」

「いや、何も」

 桃色の髪の女性に苦言をしながら、一歩黒髪の女性が前へと出る。
 そして名乗られた名前──周喩の名は、少しでも三国志をかじっていれば途端に思い出すものであり、それだけの人物が目の前にいるのだということに知らず俺は身体を強ばらせた。
 

 周喩、字は公瑾。
 孫堅の代から仕え、その子である孫策とは断金ともいえるほどの親交を結んだとされる人物である。
 その知略武略は数多の英傑が活躍した三国志の時代でも群を抜いており、その才をもって孫策と共に孫呉の礎を築いたとされている。
 
 そして、彼は──まあこの世界では彼女らしいが、その立派な風采から美周郎と呼ばれていたらしい。
 その時代の美という感覚は現代人の俺からしてみればどんなものなのかは理解出来ないが、今目の前にいる周喩を見れば、なるほど確かに美周郎だと思えるほどに、彼女は美しいと言えた。

 
 と、そこまで思い出して、俺はふと思った。
 周喩がここにいて、かつ彼女が真名を呼んでいることから非常に親しい間柄だと思われる桃色の髪の女性は、一体誰なのか、と。
 そんな俺の疑問をかぎ取ったのか、意中の彼女はにこーと笑いながら自ら名乗りを──小覇王と呼ばれるその名を上げた。



「んもー、誰も迷惑なんかかけてないのに、冥琳ったら気にしすぎなんだから。ああ、私の名前は孫策、字は伯符。面倒くさいから敬語は無し、呼び捨てで構わないわよ?」
 





[18488] 三十六話 洛陽混乱 終
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 09:45

「……なるほどねー、そういう訳、か」

 徐晃が暴れた兵士達を城へと連れ戻った後、俺はことの次第を孫策達と共に確認しあった。
 俺が駆けつけ、尚かつ制圧したとはいえ、あの状況だけでこちらが全て悪いと言うわけにもいかないだろうと思ってのことだったのだが。
 自分達は悪くないと孫策達が気分を害するだろうか、と思っていた俺の不安は、賛同した孫策と周喩の声によって杞憂と消えた。

「いや、本当に申し訳無かった……。特に、そちらの方々には多大な迷惑をかけたみたいで」

「いやなに、大事になる前に孫策様方が来られましたのでな。儂も孫達も、さしたる怪我もありませんのでお気になさるな」

「でも御爺ちゃんは蹴られたんだよッ!? こいつらには謝らせるのが筋ってもんじゃ――」

「小橋や、全てのことは、それが善か悪かなどという二つのことしかないとは決して言えぬ。そこに義が入る者もおれば利が入る者もおろう。元々は此度の件、こちらが粗相をしたことが始まりだったしのう。そういった中で、北郷殿ばかりを責める訳にもいかぬであろう?」

「うぐっ……それは、確かにそうだけど」

「うぅ……私が最初にぶつからなければ」

「そういったことも踏まえれば、北郷殿は儂らに対しても、孫策様達に対しても、そして自分達にとっても手堅く事を纏められたのじゃ。感謝するのは当然のことよ」

 まあ、もう少し上手くいく方法もあったじゃろうがの。
 そうにこやかに言われた俺は、その通りです、とばかりに頭を下げる他しか無かった。
 まあ前回の姜維の時みたいに城から将が来るのを待っても良かったのだし、俺自身の名を使って止めることも出来ただろう。
 洛陽の民に反感を抱かせず事を纏めるという策を考えつかなかったことは事実なのだから、まさしく彼の――橋公の言う通りと言えた。


 
 互いの状況を確認し終えた俺達は、往来のど真ん中から端の方へと移っていた。
 周囲で状況を見守っていた人々も既に散れており、俺達のそういった動きを気にする者は特にいなかったのである。
 
 そこで聞いた話と言えば、何進の招集に応じてはみたものの軍勢の集結に遅れてしまい、結局のところ洛陽へ迫ったのも既に何進の死はおろか、大火によって失われた諸々が復興を始めたこの時機、と言う周喩の話であった。
 洛陽に来たのはいいものの何もすることが出来なかった彼女達は、とりあえずは洛陽の城へと挨拶に行く時に、今回の騒動に巻き込まれたらしい。

 それだけ聞けばそれもあり得るのか、と思えるものなのだが、俺としてはその騒動で助けた人達と孫策達との関係性が非常に興味引かれるものであったのだ。

 橋公、そしてその孫娘である大橋と小橋の双子の姉妹。
 孫策の妻として大橋が、周喩の妻として小橋がそれぞれ有名であることから、全くの無関係では無いのでは、と思っていたのだがよくよく話を聞いてみれば橋公は孫策の母親――孫堅の古い友人であるらしい。
 その辺はどうにも俺の知る歴史とは違うのだな、と思うものだが、それでも美女と呼ばれるその姉妹は――まあ見た目どちらかというと美幼女であるのだが、その名の通り二橋と呼べるものであった。
 曹操が彼女達を欲したがために赤壁の戦いを起こした、なんて説もあるぐらいである。
 先に出会った曹操の人となりを思い出して、ちょっと有り得そうと思ったのは秘密である。

「ふぅ……こちらとしても本当に助かったわ、北郷殿。この馬鹿娘が勝手に動いたままだったら、余計に面倒なことになっていたでしょうし」

「ぶーぶー、私、馬鹿じゃないもん」

「後先考えずに動くあなたが馬鹿でなくて、一体誰が馬鹿だと言うの、雪蓮? ああ、ごめんなさい。猪、と言い直した方がいいかしら?」

「あー、ひっどーい、冥琳! 私、猪みたいに直進ばっかりじゃないのに! むしろ考えを変えない冥琳の方が――」

「――私の方が、なにかしら、雪蓮? 今私のことを猪と、そう呼ぼうとしたのかしら?」

「あ……あははー……やだなー、冥琳。笑顔が逆に怖いわよー?」

「ちょ、ちょっと孫策殿ッ!? 何故に俺の背中に隠れられるのでしょうかッ!? 周喩殿もそう怒らないで――ヒィッ!?」

 そうしてギロリと睨まれた孫策は、キョロキョロと逃げ道――もとい、隠れられる場所を探したと思えば、ここだと顔を煌めかせたとばかりに俺の背中へと逃げた。
 そのままひょっこりと俺の右肩から顔を覗かせて周喩へ視線を投げかけるものだから、孫策の髪やら肌から香る甘そうな匂いに包まれながら、俺は孫策と共に周喩の氷点下とも呼べる視線を浴びることになったのである。
 俺を巻き込まないで下さいと一言言いたい――そう思いながも時々背中に当たる柔らかい感触に、知らず意識を寄せてしまう俺であった。



 まあそれはともかく。
 ぶーぶー、と俺の背中から離れていく孫策に若干の惜しさを感じつつ、そんな俺達を見て笑っていた橋公に、俺は視線を向けた。

「それで、橋公殿や皆様方はこれから如何なされますか? あの兵達はこちらが責任持って処罰をするにしても、今回の一件で目立ってしまってはこれから暮らしていくのにも不自由があるやもしれませんし……。もしよろしければ、城へ住まうのも――」

「そのことなのですがな、北郷殿。儂らは、孫策殿のところへお世話になろうと考えておりましてな」

「うん。元々母様の古い友人を誘おうって目的で私達は洛陽に来たんだしー、どうせなら私達が帰るついでに一緒に行っちゃえばいいんじゃないか、ってね。ああ、あなたも一緒にどうかしら? 今なら――」

「――ご遠慮しておきますよ。……その目的の先に何を目指しているのか、ここでは聞かないことにしておきましょうので、それで勘弁して下さい」

「そうしてくれると助かるわ。……何でそんなにぺらぺらと話すの、雪蓮? 北郷でなければ何を言われてもおかしくはないのよ? 少しは自重して頂戴」

「ぶー……はいはい、冥琳に従えばいいんでしょ? まあ、北郷なら大丈夫かなっと思ったんだし、結果そうなったんだから別にいいじゃない」

 結果がよければ課程は気にしなくてもいい訳じゃないのよ。
 こめかみに手をやりながらそう呟く周喩に苦笑を漏らす。
 それは橋公も同じようで、ちらっと視線が合うと同じ感情を抱いていたことに共に笑いあった。
 
「こほん……それでは、孫伯符殿。橋公殿およびその御息女方の護衛、そしてそちらの領地への受け入れ、お任せしてもよろしいかな?」

「……ふふ。不肖、孫伯符、その任、命に代えましても必ずや遂げることをお約束いたしましょう。……さて、と。そうと決まれば早く動くに限るわね」

「そのようですな。……大橋、小橋や。先に帰り、越す準備をしておいてくれないかね?」

「はい、御爺ちゃん」

「うん、行こうお姉ちゃん」

「では私は、その受け入れの準備を行うとしようか。祭殿にその旨も伝えねばならんしな」

 態とらしすぎるぐらいに仰々しくしてみれば、予想以上にノリのいい返事が孫策から返ってきたことに、自然と笑みが溢れる。
 そうして二人して笑った後、顔を引き締めた孫策は即座に行動を指示した。
 そんな様子に、彼女もまた英雄の名に恥じぬ人物なのだ、と俺は理解する。



 そうして。
 小橋と大橋が引っ越すための準備に、周喩がその受け入れのための準備に消えた後、その場には俺と孫策、橋公が残るのみとなった。 
 ただ、周喩が去る直前にちらりと孫策と橋公に視線を投げかけていたのは何だったのか。 
 その理由を聞こうにも周喩は既にその身を雑踏に紛れ込ませており、孫策達も先のそれを感じさせぬほどに飄々としていた。
 先ほどのは俺の気のせいだったのか、と首を傾げるばかりである。

 そして。
 そんな俺の反応を待っていたのか、不意に橋公が口を開く。

「……さて、北郷殿にお聞きしたいことがあります」

「は、はあ、一体何でしょう?」

「なに、そんなに身構えないでもよろしい。先ほど、孫策殿が断られたみたいなので、儂の方からもお伺いしようかと思いましてな」

 ふぉっふぉっふぉ、とまさしく好々爺の如く笑みを浮かべる橋公に、疑問に首を傾げていた俺は不意を突かれたこともあって知らず身構えていたらしい。
 それを指摘されて幾分か力を抜いた所を見計らってか、橋公は幾分か姿勢を正して続けた。

「あなた方董卓軍が洛陽に来てそれほど時間も経っておりませんが、北郷殿の才、人柄、どれを取っても後々の孫呉にとって有益なものであると判断いたしました。そして、重ねて申し上げれば天の御遣いというあなた様の血と骨を、孫呉の地に埋めて貰いたいのです」

「……俺に孫呉に降れと?」

「御意。加えて、北郷殿の血――ようするに胤ですな、それを孫呉の将、そして民に広めてもらいたいのです」

「……ようするに、民を治めるのに天の血を使って、孫呉の将兵は天の一族――または天の軍という渾名が欲しいのよ」

 無理矢理じゃなくて両者同意の上ならどの娘とも契っていいわよ、何なら一号は私でもいいんだし。
 そう言った――むしろ隠すことなく堂々と言い切りやがった孫策は、ニヤニヤと笑いながら俺の腕へと自らの腕を絡ませた。
 んふふー、何て耳元で笑うものだから、腕を圧迫する温かく柔らかい感触に混じりながら、どことなく甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐる――微かに酒の匂いがするのは気のせいだろうか、というか酔ってるんじゃないだろうな、この人?
 そんな若干楽しそうな孫策とは対照的に、橋公の視線には真面目なものが入っており、今しがた自らが放った言葉が本気であると暗に示そうとしているようであった。
 まあ孫策の態度は、はたから参考になりそうもないので切り捨てておく。

 そんな橋公の視線に耐えきれなくなった俺は――腕に感じる柔らかい感触は出来るだけ無視して、空いている手で頭を掻いた。

「男としては非常に魅力的なお話しではありますね」

「で、では――」

「――ですが、申し訳ありませんがお断りさせてもらいます」

「えー、何でよー? 冥琳もその案には賛成してるんだから、公認で女の子とイチャイチャ出来るのよ、男なら受けるしかないでしょう?」
 
 何で何で、と腕への絡みを一層強くする孫策を出来るだけ無視しつつ――それによって訪れる魅惑の感触も出来うる限り無視して思考の外に弾きつつ、俺は橋公へと視線を向けた。

「あー、まあ曹操殿にも同じようにお断りはさせてもらったんですが、この地にきて俺を拾ってくれたのが董卓だったんです。俺はその恩を返したいと思っていますし、橋公殿だってそういった恩を返そうともしない俺を孫呉に迎えたって面白くないでしょう? ですから、お誘いは嬉しく思いますけどお断りとさせて下さい」

 それに、と俺は言葉を続けた。

「いくら同意の上ならと言っても、俺にそこまでの甲斐性があるとは思えませんし、そうやって、その……契る、と言うのは自ら身を預けるに値すると信じた方とお願いします。いくら孫策殿と橋公殿が言ったとしても、そんなに簡単に信じてもらえるとは俺も思っていませんしね。ですから、申し訳ありませんけど」

「ぶー……じゃあ、もし私達があなたを拾っていたら、そのまま孫呉にいたかもしれないってこと?」

「……まあ、俺の話からいけばそうなりますね」

「そのまま孫呉にいたら、天の血が孫呉に入っていた可能性もあるっていうこと?」

「……まあ、可能性はあったかもしれませんね。そこまで信じてもらえるかどうかは別にして」

「ふーん……よしっ、じゃあ初めからやり直してッ! そこを私が拾ってあげるから」

「無茶言わないで下さいッ!?」

 ねーねーいいじゃん、とか何とか言いながら俺へと迫ってくる孫策を押し止め――いやマジそろそろ勘弁して下さらないと困る感触を押し止める俺を、橋公はじっと見つめていた。
 その視線には気づいていたのだが、何分腕に感じる柔らかい感触やら孫策の髪から香る甘い匂いやらに堪えるのに一生懸命で、そこまで気を回す余裕が無かったりもするのだが。
 それでも幾分か俺を見つめていた橋公は、溜息をついたかと思うと仕方がないとばかりに苦笑した。

「やれやれ、振られてしまいましたかな。老いぼれとしては文台様の孫らの顔を見なければいけないと思っておりましたが……いやはや、ままならぬものですなあ」

「えー、橋公そんなこと思ってたの? 別に私、子供なんていらないんだけどなあ」

 一号は自分でもいい、なんて言っていた人の言葉とは思えないんだけど。
 そう口から出かかるのを必至で堪えた俺は、危ない危ないと心の中で安堵した。
 こんなことを言おうものなら、再び俺への攻めを孫策が行うに決まっているのだ。
 ちょっと惜しい気も――いや、ここは心を鬼にしてでも堪えるべきであろう。

 そんなことを考えている俺を知って知らずか、くすりと笑った孫策は俺の腕から離れていった。
 柔らかい確かな感触と人肌の温もりが失われ、腕にひんやりとした感覚を覚える。
 若干名残惜しい気もするが、孫策はそんなこと知らないとばかりに橋公の元へと戻った。

「さーて……大橋ちゃん達も冥琳も準備が済んでることだろうし、そろそろ行きましょうか、橋公」

「ふむ……そうですな。北郷殿、今日のところはここまでとさせてもらいましょうが、儂も文台様にしごかれた身。これしきのことでは諦めませんぞ? カッカッカッカ」

「じゃあね、北郷。また会えることを期待しておくわ」

 笑いながら足取りも確かに歩いていく橋公の後ろを、ひらりと身を翻した孫策がついていくのを、俺は半ば呆然としながら見送っていた。
 何というか、曹操達とはまた違った凄みのある人達であったのだが、あれが小覇王とまで呼ばれるようになる孫策であるとなると、それも理解出来るものであった。

 それにしても。
 孫策と周喩が女性であるということは、その妻となるべきの大橋や小橋は一体どうなるのかなんて思ってたりもしていたものだが……その相手がどちらも幼気な少女達であっても孫策と周喩の関係を見ていると何でもありな気もしてくるのだから、今いちこの世界のことは理解出来ないものである。
 見るからに女の子という彼女達が実は『男の娘』と書いて『おとこのこ』と読むような人物であったら何も問題はないのかもしれないが。
 まあ今となっては詮無きことか、と俺は思考を切り替えるために頭を振った。


 
 とりあえずは、戻って新たに来ているであろう事務仕事を片付けて、徐晃や警邏に出るであろう将達と警備関係の改善草案を練り上げて。
 その後は模擬戦と軍備の拡充についての報告書を纏め上げて、と。
 考え出したらきりがないこれからの予定を頭の中に浮かべながら、それよりもまずは飯だな、と先ほどから自己主張の激しい腹を押さえながら、俺は目当ての店の戸をくぐるのであった。





 **





 それから数日後。
 洛陽の街を警邏する専門の部隊――警備隊を発足させようという話になったり、模擬戦が物足りないからどうにかしろと言われたり、洛陽に駐屯するに当たって長安のことも考えないといけなかったり、と。
 それこそ一日が二十四時間では足りないほどに感じる日々を過ごしていた俺は、さて今日は何をするかなとばかりに考えていた――ところまでは覚えているのだが。

 現在の状況と言えば、何故だか視界一杯に青空が映し出されているのである。



「ふぐぅっ!?」
 
 そして唐突に訪れた――襲われた衝撃によって、自分が先ほどまで空を舞っていたことを思い出す。
 思い出すというか、ただ客観的に自らの状況を冷静になって考えてみれば気づいたのであるが。
 それを成した人物へ視線を向けてみれば、俺をぶっ飛ばしたことなど気にすることなく堂々と言い放ってくれた。

「ほら北郷ッ、さっさと起きろッ! 鍛錬はまだ終わっていないぞッ!」

「うぐぐ……葉由殿、少しは手加減ってものを……」

「何を言う? 本気で取り組まねば鍛錬になどなるものではないし、そもそも本気で来いと言ったのはお前ではないか?」

「……はい、その通りです」

 そう言われてしまっては、痛む身体をおして起き上がるしか他に道はない。
 何とか持ち堪えていた剣を杖のようにして起き上がりながら、俺は何故こんなことをし始めたのかを思い出していた。



 洛陽の街中にて孫策達と別れた翌日。
橋公や大橋、小橋の準備が終わった後、孫策と周喩と共に洛陽を発した彼女達を見送った。
 その別れ際まで付いてこいだの天の血を入れろだの言ってくる孫策をあしらいながら、ようやっと洛陽を発してくれた彼女達に俺は少しばかり安堵していた。
 短い間の付き合いであるがあの孫策の性格だ、いつ董卓に直談判しに行かないかが心配でならなかったのだが、それも杞憂であったらしい。 
 とは言っても、発する前に周喩から聞いた話に大分引き留めたのだと聞けば、彼女に頭を下げるしかなかったのであるが。
 董卓のみならず、これが賈駆などに聞かれていれば俺の今は亡かったかもしれなかったのだ。
 本当に、周喩には感謝してもしきれぬ。
 ちなみに、それを――天の血を入れるという名目で女の子といちゃいちゃするという孫策の言を知った小橋から凄まじく冷徹な視線を受けたことは、俺の精神を存分に斬りつけてくれるものであった。

 そんなこんなで孫策達を見送った俺は、その足で華雄に――張遼や呂布も含めた武人達に頼み込んだのである――



 ――俺を鍛えて欲しい、と。



 孫策達に会って思い出したことだが、俺が心配していること――反董卓連合が組まれるのはそう遠くはないことであろう。
 その時に軍を指揮するのが誰になるのかは分からないが、全将兵をもってこれを防ぐのは間違いないと言える。
 となると、一番の要所となるのは汜水関と虎牢関での戦いである。
 三国志演義のみに出てくる汜水関ではあるが、どうやらこの世界にも存在しているみたいで、虎牢関と双璧を成す洛陽防護の防壁として機能している。
 詳しくは知らないので割愛しておくが、反董卓連合が組まれれば初めの戦いはそこで行われることだろう。

 そうなってくると、いよいよをもってそれに対しての対策を練らなければならなくなってくるのだが。
 一番の問題となってくるのが華雄のことであった。
 董卓軍に所属する将の中で、彼女だけがこの時点で――洛陽に迫る前に討死してしまうのである。
 俺の知る歴史では、関羽か孫策――孫堅は既に没しているらしいので、恐らくはその娘の孫策になるのであろうが、それらの手によって。
 そして、それが直接的な原因かは分からぬが、華雄の死によって汜水関が陥落するのであれば、これに注意するのは当然のことであった。
 もっとも、俺としても汜水関が陥落するから、という理由だけでこんなことを考えている訳ではないのだが。
 
 まあ、それはともかく。
 そうして俺が考え出した答えが先の一言であったのだ。



「でえぇりゃぁぁッ!」

「ははっ、中々に良い剣戟だが……如何せん甘いわぁッ!」

「ぐおぅ……ッ、まだまだまだぁぁッ!」

「ふふんッ、かかってくるがいいッ!」

 たとえ知略をめぐらし敵を防ごうとも、いざそれでどうにもならない場面に陥ってしまえば、必要となってくるのはその場を凌げるだけの武である。
 董卓軍最強の部隊を率い、天下無双と豪語する華雄ならばそれも可能であろうが、それでも俺の知る歴史から考えれば負ける可能性があるのだ。
 となると、前線の将でもある華雄を守るという話になるのだが、それを成そうと思うには自らも前線へと出なければならないのである。
 なおかつ、華雄に勝つであろう将に勝とうと思うには華雄よりも強くてはいけない。
 だからこそ俺は、どれだけ無謀でも彼女に勝たなければいけない……のだが。

「脇が甘いッ!」

「ぐぅッ!?」

「注意が偏っているぞッ! それでは即座に首を落とされるッ!」

「がぁッ!?」

「ええい、小手先だけで凌ごうとするなッ! 身体全体を使わねば、一撃必殺の豪撃を防ぐことなど出来はせんぞッ!」

「づぅッ!?」

 結果としては散々である。
 斬りかかろうと振り上げた腕をすりぬけた石突きは脇腹へと叩き込まれ。
 フェイントを入れて隙を作ろうとしても、そんなもの関係無いとばかりに振られた模造戟は腕ごと身体を吹き飛ばし。
 繰り出される怒濤の撃を何とか凌いだと思えば、体重を乗せた一撃によって砕けた模造刀と共に、俺の身体は投げ飛ばされていた。

 本気で守るために強くなろうとしたからこそ痛感した力の差。
 元々、それなりに鍛錬してきたとはいえ戦乱の無い時代の剣術を学んできた俺にとって、戦場によって培われてきた武力を超えようとすることは、あまりにも無謀に近いのだ。
 しかも、俺はこの華雄を討つほどの将に勝とうしているのだから、無謀どころかそれが実現出来るのかどうかも怪しいものである。

 だが。
 だからと言って、それが諦める原因になる筈もないのだが。

「……そろそろ立ち上がることも出来まい、北郷? 今日はよく頑張ったな、ここで終わりと――」

「――まだ、ま、だ……ですよ、葉由殿ォッ!」

「ッ!?」

 そうして、よろよろと立ち上がった俺は、腰に差してあったもう一本の模造刀を手に取って力の限りに駆け出す。
 呂布や華雄ら武官のように、俺は専用の武器というものを持っていない。
 彼女達のそれは、彼女達が扱いやすいようにと独自に作られたものであって、俺が扱う一般の兵が使うような剣ではどうにも太刀打ちがしにくいものであった。
 そんなことで考えたのが、折れたときように予備を持っておくことである。
 とは言っても、それまで折られてしまえばそこまでなのだが。

 そのことは華雄も知っていた。
 だが、俺が起き上がるとは思っていなかったことと、それまでにぼこぼこにされた俺がそれだけの速さで駆けることが出来るとは思っていなかったのか、あまりにもその反応は遅い。
 殺った。
 手加減など――寸止め、模擬刀だからという安心、それらを抱えたまま剣を振るっては到底適いはしない華雄に勝つためには、それがその気でなくても殺す気でいかねば太刀打ち出来ない。
 そう思った俺は、身体が動く限りの速度と威力を持って、その首を刎ねるつもりでその剣を振るった。

 そして俺が感じたものは。
 剣が肉を打つ感触でも。
 鉄を打ち付け、鈍く痛む感触でもなく。
 ただただこちらを見つめる――戦場と同じ視線を発する華雄から放たれた殺気であり。
 その殺気が首の辺りを包んだと感じた途端、俺の意識は闇の中へと叩き込まれていたのである。





  **





「あー……お疲れさんやけど……」

「言うな。……私も、悪いことをしたとは思っている」

 頭を掻きながら近づいてくる張遼に、華雄はどこか申し訳なく俯く。
 その視線の先には先ほどまで自分へ挑みかかってきていた少年が倒れており、張遼の視線がそこに向かっているのを華雄は感じていた。

 唐突に言われた願い――自分を鍛えて欲しいと言ってきた少年は、その意識を手放したままに倒れている。
 それが自分が振るった一撃が原因であることは華雄とて理解していることであるが、それでも少年が――北郷一刀が何故あれだけ叩きのめされても挑んできたのかまでは理解出来ないでいた。
 それまでの彼で考えるならば、さしたる無茶をすることなく一歩ずつ目標を決め、それに向かって精進するようだと思っていたのだ。
 事実、彼はこれまでの鍛錬でそういった動きを見せており、昨日出来なかったことは今日、今日出来なかったことは明日、といった風に徐々にではあるが成長していたと言える。

 なのに、である。
 今日の鍛錬ではがむしゃらに――まるで本当に自分を殺したいのではないかと思えるほど、彼が持ちうるあらゆる技術を用いて斬りかかってきたのだから華雄の疑問はその深みを増すばかりであった。
 特に最後の一撃は――折れたときの予備用と聞いていた剣を持って斬りかかってきた時などは、本当にこの首を狙っていたようでもある。
 模擬刀であるため首に当たったところで斬れることもないのだが。
 だが、華雄はひんやりとした感触を自らの首に感じていた。

「首狙ってきた一刀もあれやけど、それに本気で応えるんもあれやで、華雄。いくら模擬戟と言うても、当たり所悪かったら首の骨折れるとこや」

「ああ……そうだな。次は気をつける……」

 まあ折れてなさそうやし、気失なっとるだけみたいやし大丈夫やろうけど。
 
 そう言いながら偃月刀を肩に担ぐ張遼であるが、華雄としてはあまり喜べるものではない。
 董卓軍でも李確や徐栄に次ぐ地位を確立しつつある北郷を殺すことがなかったことは、本当に喜ばしいことである。
 最近の仕事ぶりから彼が本気で董卓軍のために働いていることは華雄も分かっているつもりであるし、自分達の要望を出来るだけ受けようとする姿勢も好感がもてるものである。
 では何が喜べないのかと言うと。



 本気で殺す気で――首の骨が折れるであろうとも振るった戟であったのに、予測していた結果とは全く違った結果となったことである。



 あの最後の一撃、時間が経って冷静になってみれば、確かに北郷はこの首を狙っていたと思う。
 それは、実力差がある相手に勝とうとする時に覚える『殺す気で』という感情からくるものであろうが、それでも確かに華雄はあの一瞬に本気の殺気を感じた。
 自分だけに――自分の首に向けられた確かなる殺気に、本能によって反射的に繰り出された一撃は確かに北郷の命を奪うつもりであったと思う。
 だと言うのに、彼の首が――命が無事な理由が理解出来ないでいた。

 確か、北郷が使う武術は北郷流タイ捨剣術と言っていたか。
 自らの武術を戦場にて培ってきた華雄にとって、指南されてきた剣術といったものはどうにも馴染みが薄いものである。
 そんな彼女に北郷は何と言って、その説明をしていたか。

「……なんでもあり、か」

「ん-? 何かゆーたか、華雄?」

「いや……何でもない。そろそろこいつを運ぶぞ、文遠。いくら夏が近くなってきたとはいえ、未だ夜は冷える。風邪でもひかせて、こいつの仕事がこちらに回ってくるのは勘弁願いたいからな」

「うへぇ、それもそやな。……どないする、うちが運ぼか?」

「そうだな……頼めるか?」

「任しときー」

 そう言いながら――にへにへと頬を緩ませながら背に北郷を担ぐ張遼から、華雄は偃月刀を預かる。
 何がそんなに楽しいのか。
 そんなことを疑問に思いながら、華雄は張遼の背に負われた北郷へと視線を移す。
 所々に擦り傷やがある顔は思いの外穏やかで、気を失っているよりはどちらかと言うと眠っているほうが近い気もする。
 董卓と賈駆が洛陽での地盤を築くのに奔走しているためか、洛陽で華雄達がこなしている仕事の殆どの採決を北郷がしていることは知っていた。

 事前に賈駆から言われていたから、というものもあるが、彼が忙しそうに机に向かう様を見たのも一度や二度ではないのだ。
 忙しく――それこそ寝る間さえ削って仕事をこなす合間に身体を動かして、かつ気絶してしまえばそのまま寝てしまうことはしょうがないとさえ思えた。
 そんな顔を見ていれば、本当にこの男があれほどの殺気を放ったのか、と思わないでもないのだが。

 ともかく、と。
 この様子では明日まで目を覚ましそうもない北郷が目を覚ましたら、一度謝っておこうかと華雄は決めた。
 それは自分が本気を出したこともあるし、あやうくその命を刈り取りそうになったこともある。
 とにかく謝った後にでも、防がれた理由とタイ捨剣術なるものがどういったものだったかを再び聞いてみるのも悪くはないか、と華雄は先ほどまで北郷が振るっていた剣をも手にして、張遼の背を――そこに背負われた北郷の背を追った。
 


 



[18488] 三十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/12/16 16:48



「うぅ……痛づぅ……」

「……一刀殿、わざわざ痛みをおしてまで休みの日に城を出なくてもいいのではないですか? そもそも、連日華雄様や恋様、霞様の鍛錬を受けておいて、その疲労を見かねた月様から命じられた休みであるのに……それでわざわざ悪化させていては元も子も無いと思うのですが」

「ぐわぁ……い、いや、琴音の言葉も有り難いんだけどさ、のんびりしてる暇も無いって言うか……うぐぅッ!?」

 みしりみしり、と悲鳴を上げる身体が、馬が揺れる度に激痛を流すのを我慢している俺へ、同じように馬を歩かせる徐晃が心配した声をかける。
 まあ、心配というよりはどちらかと言うと苦言のようでもあるのだが、そう思ってもらえるだけでも嬉しいものである。
 だが、整地された地面でもなく、また歩く度に揺れてしまう馬の上にあっては、俺の身体はどうしても上下に動いたり細かい動きを捉えてしまうのだ。
 その度に、華雄や呂布、張遼などに――最近では李粛やら趙雲やら馬超までもが参加し始めた鍛錬で打ちのめされている俺は、それによって生じた打ち身やら筋肉痛で情けなくうめき声を発しているのであった。


 
 あの日の翌日――華雄に叩きのめされた次の日に彼女から謝罪されたことはあれど、特に大きな問題も無く洛陽の統治を進めていた董卓から一日休みをもらった俺は、自身の副官たる馬超を連れ添って洛陽の郊外で馬を歩かせていた。
 殺しそうになったことと気絶させたことを謝ったきた華雄には絶句したが――あやうく殺されるとこだったのだから当然の反応なのだが、そういった経験も得たいと思っていた俺としては彼女を罰することは出来やしなかった。
 まあ、問題無かったのだからそれで解決、とまではいかないまでも、今回のような幸運がいつも転がっている訳ではない、とした華雄によって俺は連日鍛えられることとなったのである。
 
 幸運ではなく己の実力で死を回避してみろ。
 そう言われた時には華雄らしい真っ直ぐな言葉だと思ったものだが、いざ本気の彼女を前にしてみればそれも簡単に言えるものではないということが実感出来た。
 北郷流タイ捨剣術の極意だとか、あの時どうやって必死の戟を回避したのか――結局の所、華雄が想定していた実際に刃がある部分より根本に近い部分を受けたというだけのことなのだが、そういったことを鍛錬の合間に根掘り葉掘り聞かれてしまえば、次からは同じことは出来ないだろうなと思う。
 遠心力だとか体術だとか、そういった様々なことを囓っていたからこそ、という今の現実に、俺は内心祖父に手を合わせたほどであった。
 ありがとう爺ちゃん、俺、頑張って生きていくよ。
 そんなことを思おうものなら、即座に拳骨とまだ死んでいないという言葉が降りかかってきそうではあるが。

 まあそんなこんなで。
 初め時間の空いた合間にと頼んでいた鍛錬はいつの間にか食後の運動――運動と呼ぶのに値するかどうかは別にして、そこから毎日の日課となり、そしてそれ専用の時間が出来るまでになってしまったのである。
 しかも、それに参加する人数が徐々に増えていくのは如何なものか。
 華雄と張遼、或いは呂布と初めこなしていた鍛錬は、いつしかそれに李粛と馬超が混じり、そして趙雲やら徐晃までもが参加するようになってしまえば、それに比して自らが刀を取る回数も増えるというものであった。
 しかもである。
 一対一に満足出来なくなったのか、ただ単に面白い方が良かっただけなのか、趙雲の戦場では多くの兵と戦うのだ、という言葉によって乱戦をすることになったりするのだから、それも更なる拍車をかけていたりするのだった。



「……それにしても、一体何用があって洛陽郊外――いえ、洛水近辺まで出るのですか? しかも、あの辺には賊が出ると知っていて」

 徐晃の言う洛水とは別に洛河と呼ばれる黄河の支流であり、その名の示す通りに洛陽近郊に流れ込むものである。
 その大きさは非常に広大なものであり、かつ洛陽の近くを流れることもあってか、重要な河川として董卓軍は見ていたのだが。
 今回赴いているのは、その洛水のほとりにある山林だったりするのだが、ここ最近、その辺りで賊らしき人影が目撃されているということもあって、徐晃は注意しているようであった。

「んー、まあそれが賊と決まった訳ではないし、もしかしたらその地に住む民達だとしたら、どういった人達がそこで暮らしているのかを知るにはいい機会じゃないか。……それに、俺としても少しは気分転換をしたいし……ッ、いたた」

「まあ、一刀殿をそのようにしてしまったことには私としても責がありますから、その護衛というのも甘んじて受けますが……もうちょっとこう、男女がお互い休日二人で出歩くことに対して期待をさせてもらってもいいではありませんか……」

「ん、何か言った? ……って、痛ッ」

「いーえ、何も言ってはおりません。ええ、何も言ってはいませんよ」

 ぼそぼそと呟くように言われた徐晃の言葉は、身体の節々が痛む度に奇声を上げる俺の耳に届くことはなく、彼女の突っぱねるような物言いにただただ首を傾げる――ことをするとまた奇声を上げそうなので、疑問に思うばかりであった。
 そんな俺を無視するように、それに、と徐晃は続ける。

「一刀殿が言うことが本当であったとしても、洛水のみならずそれだけ広大な河川まで向かえば、それぞれの肥沃な地に根を張る賊や、水上で船を駆って村々を荒らす賊までいる始末ですから、多少なりとも兵を連れてきた方が良かったのではないか、と思います。一刀殿がどのような考えかは知りませんが……」

「んー、まあ大丈夫だと思うんだけどなぁ……。琴音もいるし、そっちの方は安心出来るよね」

「そ、そんなこと言われても、さすがに私とて百や二百の賊が来れば太刀打ちは出来ませんよ? 華雄様や恋様ならそれも可能かも知れませんが……」

「あー、確かにあの二人とかなら十分にいけそうだよね……琴音もいけそうな気もするけど」

「か、からかわないで下さいッ! そのようにからかわれてしまっては、いざという時に動けないかもしれませんよ!?」

「おおぅ、それは困るかな。でも、その時は頼りにさせてもらうよ」

「ふぅ……ですが、一応この地の賊のことをお教えしておきますね。……一刀殿のことですから、知らずそれらに話かけそうで怖いですからね」

 ぽんぽんと進んでいく掛け合いに、先ほどまで何故か眉間に皺を入れていた徐晃の顔が徐々にほぐれていくのを、俺は安堵しながら確認していた。
 まあ徐晃のような美少女にそういった顔が似合わない、ということを面と向かって本人に言えるほど軟派な男ではないと俺自身は思っているのだが、それを抜きにしてもそう思ったこともその一因である。
 では、他の要因は何なのかというと――



「この地には白波賊という賊がいるとの報告がありますので、十分に気をつけて下さいね」



 ――俺を心配してくれているその徐晃の言葉を無視するということだろうか。

 もっと正確に言うのなら。
 今回の遠出、その白波賊こそが目的であると彼女が知ったときに、出来うる限りご機嫌を取っておきたいのだと言ったら、どんな顔をするのだろう。
 そんなことを思いながら、俺はこれから来る時に思いを馳ながら、少し痛む胃を押さえつつ馬を歩かせた。





  **





 結論から言おう。
 やっぱり怒られました。



「じとー……」

「うっ……あ、あのですね、琴音――殿? 今はそのようなことを言っている場合では……」

「じとー……」

「え、えとですね……なんかいつもと言葉使いが違うような気がしないでもないのですがとりあえず冷たい視線と一緒に殺気を放つのは止めていただければ……」

「じとー……」

「うぅ……ごめんなさい」

 呆れやら怒りやらが込められた冷ややかな視線と共に、この間の鍛錬で華雄から感じたような首への殺気に背筋を振るわせる。
 初めてみる言葉使いに、徐晃がどれだけ呆れているのか、はたまた怒っているのかは受け取れないが、とりあえずそういったふうにするぐらいには怒っているということは理解出来た。
 それに耐えきれなくなって謝罪してみれば、やれやれといった雰囲気を徐晃から――ではなく、俺と横に座る徐晃の正面にいる男から感じることとなる。

「お前ら、少しは緊張感ってものを持たねえのか? いや、持たれても面倒臭えけどよ」

「持ちません。そもそも、賊と話すことなど何も――」

「――少しは黙ってろよ、小娘? ぐだぐだ抜かしてると、餓えてる男共の中に放り込むぞ? お前はべっぴんだからな、さぞかし喜ぶだろうよ」

「なッ!? ぶ、無礼者がッ、やはり賊は賊のようだ――」

「――黙ってろ、って言うのが聞こえねえのか? やれやれ、漢の将軍方は皆おつむが弱いと見える」

「言ったな、貴様ァッ!」

 そう怒気を張らせながら横に置いてある大斧を手に取って立ち上がろうとする徐晃に、待ってましたとばかりににやりと笑う正面の男。
 そうして互いに即動出来るように少し腰を動かした所で、俺は努めて冷静に声を発した。

「……落ち着いて、琴音。ここで怒りに身を任せてしまえば、それは向こうの思うつぼだ。少しだけ辛抱して欲しい」

「し、しかし、一刀殿ッ!? こやつは――」

「――ごめん」

「ッ……あなたに謝られては、従わぬ訳にはいかないではありませんか……命拾いしたな」

「……ちっ、それはこっちの台詞だ。ったく、なんだお前、このひょろっちい奴の言うことなんか聞いて、こいつに惚れてるのか?」

「なッ!? そ、そそそそんなこと、き、貴様には到底関係の無いことだろうッ!? 何を根拠にそんな――」

「――それで? そこの兄ちゃんが本題を話してくれるのかい? さっさとしてくれよ、こう見えても暇じゃないんでね」

 唐突に徐晃の言葉を遮った男に対して、徐晃はその怒気を膨らませていった。
 散々に振り回されて、挙句の果てに俺との関係に対してあらぬ誤解をされたから当然のことであるのだが、俺としては顔を真っ赤にするほどに嫌がられるのも微妙に悲しかったりする。
 実は嫌われているのだったりするのだろうか、と心配になって落ち込みそうになる気分を必死に留めて、俺は男の視線を正面から受け止めた。
 
 この時代ではあまり珍しくも無い服装を大いに着崩したその隙間から、実に引き締まった筋肉やら腹筋が覗く。
 剣や槍を振るうだけでなく、かといってただ鍛えただけとは違う、戦うために鍛え上げられた筋肉を見れば、その男がただの賊ではないことが窺い知れた。
 
 そんな俺の視線に気づいたのか、俺の視線を受けた男はにやりと笑った。

「そういえば自己紹介がまだだったな。俺の名は韓暹(かんせん)。この白波賊の副頭目をしているが、今日は一体何のようでここへ来た、天の御遣い殿? 見たところ矛を交えにきた訳でもなさそうだし……ああ、やっぱりそこの女を売りに――」

「率直に言えば、これかな」

「――って、ああん、なんだこれは?」

 そうして。
 自ら自己紹介をすることによって俺との会話の主導権を取ろうとした男――韓暹の言葉を遮る形で、俺は懐から取り出した一握りの袋を目の前に置いた。
 それなりに頑丈に作られたその袋はずしりと重く、それは俺の動きを見ていた徐晃も感じたのだろう、俺へと疑問を投げかける視線を向けてきた。
 
 俺が懐へ手を差し入れたことに反応していた韓暹もまた、同様の視線を向けてくる。
 飛び道具でも出てくると思っていたのか、投げかけられる視線には戸惑いの色が混ざっており、いざという時に即動出来るようにと腰を浮かせた体勢のまま固まっていた。

 その袋の中身を見ようとしているのか。
 それとも、それに隠された俺の意図を探ろうとしているのか。
 およそ賊徒の副頭目とは思えない視線を袋と俺の間で往復している韓暹の視線に、俺はやはりと安堵していた。
 これなら。
 そう確信めいた思いを抱きながら、俺は袋の中身をその場へとひっくり返した。


「これであなた方を――白波賊を雇い入れたい」


 その場に散らばるは琥珀やら翡翠の色に輝く鮮やかな宝玉宝石の数々。
 その所々から覗くは豪華絢爛に飾りを施された装飾品の数々。
 それらを前にして驚愕で表情をひっくり返した韓暹の表情に、俺はにやりと口端を歪ませた。



「……おいおいおいおい。正気か天の御遣い殿よ、頭に蛆でも湧いてるんじゃねえのか?」

「残念だけど至極真面目に話しているよ。そうだな……これで不足ならこの三倍持ってこようか? 持ち運びできる量がそれぐらいだったんだけど、まだいるのであれば――」

「――その宝石なんかのこともあるが、それよりも俺達を雇い入れたいという話の方こそ信じられねえな。漢の――お前らの立場からすれば俺達はお尋ね者だ、厄介者と言ってもいい。それを討伐する訳でもなく、逆に雇いたいなどと言われればその裏を勘ぐるのは当然のことだろう。最悪、洛陽に引き寄せておいて一網打尽の可能性さえある」

 みすみす死にに行けとでも言うのか。
 徐晃よりも早く驚きから回復した韓暹との言葉の応酬、その端々に言外な韓暹の意志が露わになる。
 確かに、韓暹の言いたいことも分かるし、俺だって同じ立場になればそう勘ぐることだろう。
 それを踏まえると、今回、白波賊を訪れたことはほぼ正解であったと言っていい。

「……一発目から当たりを引くとは、中々に運が良いのか?」

「ああん、何をぶつぶつ言っている?」

「いや、何でも」

「けっ、まあいい。それで? あんたを信じられない俺達に、お前は一体何をするっていうんだ? 金を出すだけじゃ、俺達はあんたを信用することは出来ねえな」

 そう言って腕を組む韓暹に、俺は再びにやりと口端を歪める。
 これが頑なに無理だと言われてしまえば交渉するにもやりにくくなるのだが、韓暹の言い方からすれば条件次第ではあるが、話を聞くだけ聞いてくれるみたいなのだ。
 しかもである。
 ちらりと僅かながらに視線が動いた韓暹に、俺はさらに笑みを深める。
 彼の視線は後ろを――まるで自らの背後に隠す何かを気にするように向けられていたのだ。
 ともすれば、その背後に隠す何か、が俺の予想通りであって欲しいと願いながら、俺は口を開いた。

「では……あなた達が必要としている物資を優先的に届けるようするよ。衣、食、それらに関する全てのことに対して。ああ、これは賄賂なんかじゃなく正当な報酬となるから勘違いはしないでくれよ」

「……勘違いではないことは分かったが、そこまでして俺達を雇うことに何か意味があるのか? こう言っちゃなんだが、俺達は賊だぞ? そこまであんたがする意味が――」

「それと、最後の住に関してだけど」

「――ッ!? ま、まだあるのかッ?」

 膨大過ぎる報酬――というよりは、賊という団体を雇うにはあまりにも破格な報酬に、いよいよをもって韓暹の表情がその形を崩し始める。
 驚きとも戸惑いともに崩れたその表情に止めを刺すように、俺はにやりと口を歪めながら最後の報酬を口にした。



「――望まれるのであれば、洛陽への転居も受け入れるよ。これで俺が挙げれる報酬の全てだけど……それでどうかな、韓暹殿? いや、この場合は頭目たる楊奉殿に聞いた方がよろしいかな?」





  **





「くく……くくく、あーはっはっはっ!」

 俺の言葉を受けて静まり返っていたその場に、唐突として笑い声が起き上がる。
 それは、それまで驚きと呆然が混じった表情の韓暹でも、俺の隣に座る徐晃のものでもない。
 女性特有の柔らかい声でありながら豪快に笑うその声が止んだかと思うと、韓暹の後ろ――垂れ幕で隠されていた空間から一人の女性が現れた。

 ふわり、と。
 足下まであるであろう柔らかく豊かな銀に輝くその髪は、雑に紐で纏められながらもその輝きを損なうことはなく。
 胸元を覆う衣服は胸下から腰骨にかけてまでが大きく取り払われ、その陶磁のように白く艶めかしい肌によって造り出される腰のくびれを、これでもかと強調しているようであった。
 腰は大きめの布を斜めにかけただけのようであり、布と布の間から覗く太腿もまた、白く澄んだ肌であった。
 そしてその顔は何処か中華の大陸の風ではなく、どちらかというと北欧とかそちらの印象を俺に抱かせた。
 理由としては、僅かにかかるほどに染まったその紅瞳であろうか。
 透き通るような――まるで一つの宝石ではないかと思える瞳に、俺は見つめられていた。

「……一つ聞きたい。いつから気付いていたんだい?」

「……それは楊奉殿がそこに隠れていたこと? それとも、白波賊が決して賊徒の集まりではないということだろうか?」

「ははっ、そこまで気付いていたのかい? となると、あたし達を雇い入れるという話、どうやら本気のようだねぇ」

「か、一刀殿ッ、一体どういうことなのですか……ッ!?」

 やれやれ、と頭を押さえるような仕草の韓暹の背を叩く楊奉に、徐晃だけがその場の空気を理解出来ずに頭の上に疑問を飛ばす。
 いつも真面目な顔をして真面目に過ごす彼女の意外な一面を今日一日で随分見たなあ、と思いつつ、俺は彼女の疑問に答えるべく口を開いた。

「まず一つ。琴音の言うとおり、この地域には賊が蔓延っているとの噂と情報があったし、それは俺も耳にしていた。だけど考えてみてくれ。この地を基盤とした賊の勢力がいる筈なら、俺達がそこに足を踏み入れたことに対する動きが全く無かったことはあまりにもおかしい。もし動かないという判断をしたにしろ、それだけの判断を下す人物がいるのならそれだけ名が通っているのもおかしいんだ」

「それは……私達は二人だけでしたから襲うに能わずと思ったのではないでしょうか? それに、それが罠だとも思っていたのではないですか?」

「うん、琴音のその意見はもっともだと思う。ただ、そこに二つ目がある。ならばなぜ、彼らは――この場合は白波賊の副頭目である韓暹殿の指示になるけど、俺達を即座に襲うことはせずにここまで通したのか、ということなんだけど。俺はまだしも琴音ぐらいに可愛い女の子がいれば、賊のことを考えるのならそちらの方が説明が付かない。それこそ、ここに連れてこられる前に襲われている筈だと思うんだ」

「そ、そんな……可愛いだなんて……。で、でも、それもこちらを危険な人物だと恐れていたからでは? 休日の遠出とはいえ、私としても鎧は着込んでいますし武器も持っています。それこそ、恐れていて何も出来なかったと考えることも……」

「そこで最後なんだけど。俺達を恐れているのなら、余計におかしいことが出てくるんだ」

 その俺の言葉に首を傾げる徐晃に苦笑しつつ、俺は視線を韓暹と女性――楊奉へと向けた。

「俺達を本当に恐れているのなら少なくとも護衛は付けるだろうし、付けないにしても一人では会わないだろう。それに、賊の中で頭目の決め方を知る訳はないけど、副頭目より頭目の方がそういった場の心得を知っている筈なのに、俺達に顔を通したのは副頭目の方だった。ここまで来れば自ずと答えは決まってくる――」

 ――すなわち、白波賊はただの賊では無い、ということが。
 
 答えは如何に。
 その意味も込めて向けた視線に、楊奉は手を打って応えてきた。
 それが正解なのか間違いなのかはすぐさまに理解出来るものであり、彼女の笑みもあって、俺はようやく事が進んだことを理解するのであった。



「いやはや、流石は天の御遣い殿。そこまでこちらの意図を見抜かれてしまっては、こちらも立つ瀬が無いと言うものだが……ふふ、実に面白いお人だね」

「……何でそんなことを、と聞いても?」

「ん、別に構やしないよ。白波賊がそうやってこの地域に名を馳せていれば、この地には民が近づかない。そうなれば民が襲われることも無く、その被害を受けた民から賊討伐の要請がいくこともない。ともすれば、あたし達は平穏無事に暮らせるっていう訳さ」

 白波賊っていうのはそういう面倒が嫌いな奴の集まりでねえ、あたしも興建もそういう奴なのさ。
 そう徐晃の疑問に応えた楊奉はひとしきりからからと笑った後、韓暹の横へと座り、表情を引き締めた。

「白波賊、楊猛志以下五十三名、本日この時をもちまして天の御遣い殿の指揮下へと収まりましょう」

「え、と……うん、よろしく頼むよ。ついては敬語なんかは止めてくれれば嬉しいんだけど……俺としても面倒なのは――」

「さて……だったら話は手早くいこうか。興建、みんなに知らせて明後日には洛陽に発てるように準備をさせておいておくれ」

「了解した」

「――なのは……全く気にしてなさそうだから別にいいか」

「……一刀殿、少しは気にしましょうよ」

 真面目になったと思えばいきなり元に戻ったりとする楊奉に、それ以上突っ込むのも面倒くさいとばかりに諦めた俺へ徐晃は呆れる言葉をかけてきた。
 いやだって面倒なのが嫌いなんならそういうのは手間じゃないか、と思ってのことなんだけど。
 そんなことも関係無しに韓暹や呼んだ人に次々と指示を出していく楊奉に、本当に面倒なのが嫌いなのかと思わないでもない。
 そんな彼女を見ていた俺へ、楊奉はくるりと振り向いた。

「そう言えば天の御遣い殿――ああもう、面倒臭いから大将でいいや。それで大将、あたし達を雇って、一体何をさせるつもりだい?」

 ああ、あんた専属の情婦でもいいよ。
 そんなことをくすりと笑いながら言われ頭に血が昇る感覚を覚えるが、横からじと目で見てくる徐晃に気付いて慌てて頭を振ってそれを誤魔化す。
 その様が面白かったのか、くすくすと笑う楊奉にどうにか視線を戻しつつ、俺は口を開いた。

「諜報機関――ようするに、細作の部隊を作ろうかと思いまして」

「ほう……細作の部隊、か。小規模で使うそれらの規模を大きくして、一個の部隊として使う、か。……いやはや、ほんに面白いことを考えるお人だねえ」

「確かに、これからの戦いでは情報を敵に先んじて手に入れることが重要になってくるでしょうが……まさかそれを成すために部隊を丸ごと作るなどとは……この徐公明、まだまだ足りません」

「うん。それらの指揮官として楊奉殿と韓暹殿を。そこから俺との中継ぎとして琴音に間に入って欲しいんだ」

「それは構いませんが……何故私に?」

「……俺が全部面倒を見る訳にはいかないし。詠やねねには子飼いの細作がいるだろう、かといって武官の面々で面倒見切れるかと聞かれれば――」

「――ああ、無理かもしれませんね」

「だろ? その点、琴音なら安心して任せられるから適任だと思うんだ。それも踏まえて連れてきたんだし」

 だからね、よろしく頼むよ。
 そう微笑みながら――ここで強引にでも決めさせておかないと初めの頃の怒りが再沸するかもしれないと思った俺は、無言の圧力が出るようにと笑顔で徐晃へと迫る。
 そんな俺から視線をきょろきょろと彷徨わせて俯いていく徐晃に、笑顔で迫るのは失敗だったかとふと不安になる。
 笑顔で有無を言わさずに押し切る……実に不気味な画であった。
 
 そして。
 こくり、と小さく頷いた徐晃に安堵を覚えつつ、俺は再び楊奉へと視線を戻した。

「それじゃ大将、あたし達の新しい呼び名でも考えておいておくれよ」

「……へ?」

「へ、じゃないよ。いつまでも白波賊のままだと、話になんないじゃないかい。将兵に話をするのに、賊です、と名乗る訳にもいかないしねえ」

「……それでそうだなあ」

 うむ、実にごもっともである……ごもっともであるのだが、そこまで頭を回していなかった俺としてはどうしようかと頭を捻り――後日、改めて決めることにした。
 白波賊を白波賊として雇った気である俺としてはそう言われるとは思ってもいなかったのだが、まあ楊奉がそう言うのなら考えねばならないだろうととりあえずは頭の片隅にそれを置いておいた。



 

 そうして。
 この日をもって、董卓軍に新たな部隊が生まれることとなる。
 天の御遣いである北郷一刀の直属として出来たそれは、一時は元が賊であったという噂が流れることもあったのだが、その噂に負けることなく任を全うした彼らによって董卓軍は大きく飛躍を遂げることとなる。
 
 他国の情報を探し、そして自国を探る他国の細作を排除する彼らは、こう呼ばれた。


 北郷一刀直属の諜報機関『忍』。
 そしてそこに所属する者は、忍ぶ者と書いて『忍者』と。


 



[18488] 三十八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2010/12/20 16:04





「うーん……これだとちょっと大きいのか? 木の方が軽いけど、でも戦場で使うことを考えると鉄の方が確かだし……でもそれだと費用もかかるんだよなぁ」

 直属の諜報機関――忍を設立してから一週間ほどが経過したある日の昼下がり、俺は執務室にて届けられた荷物を前に頭を捻っていた。
 机の上にて広げられた一枚の紙――忍に調べてもらった洛陽近辺の地図である。
 その荷物が届くまでその地図を見ていた俺は、俺の知る歴史では存在していなかったとされる汜水関が存在していることを知った。
 これで反董卓連合が結成された時に頼りになる壁が虎牢関と併せて二つになったと言える。
 
 表向きは俺の直属部隊とは言っても、その実、そういった人物達を――明確に言えば、賊と呼ばれていた人物達を雇ったことは、既に董卓や賈駆、その他の董卓軍の中心でもある将達には報告してある。
 それまで個々人で用いてきた細作を纏めて一つの組織とし、それを部隊単位で運用する。
 その説明をしたときの賈駆や陳宮の顔は今でも忘れられないが――呆れたような、馬鹿にする視線であったのだが、それでも鬼謀と呼ばれる彼女達にとってその有用性は認めざるを得なかったようである。

 一つの情報を細作によって得、それの信憑性を増すために新たに細作を放つことは、情報の確実性を増すことは出来てもある程度の時間が必要だったりするのだが。
 それを部隊単位で運用するということは、大まかな指示を出しておくことで独自に判断する指揮官がいるということなのだ。
 今回はそれが楊奉と韓暹なのだが、彼女達はそういったことに慣れているのか、はたまた適正であったのかは知らぬが、俺が指示した以上の情報を仕入れてくれていたりする。

 そして、そういった部隊を創設するにあたって、細作の用い方を熟知している賈駆と陳宮がその指導をすることは当然のことだと言える。
 さらにはその諜報機関の出来具合で他国に対しての優劣が決まってくるのであれば、その指導に熱が入るのも、また当然のことと言えた。
 さすがに諜報関係のことは祖父には習うことも無かったし――習う機会があったらあったで中々に不気味なものだが、そういったこともあれば俺としては手出し出来ないのであった。
 
 俺としてもいろいろと口を出したかったんだけどなあ。
 みんな黒色の衣を纏う、という俺の提案は即断で却下されたし、女性の細作はくのいちと呼ぼうとしたり、そういった提案の悉くが却下されたのだから少し悲しいものがあったりするのだが。
 そんなものを着たら逆に目立つだろう、とは韓暹の言であるし、楊奉に至っては働き過ぎて頭が、と心配されるようなこともあった。
 そもそも、部隊の――機関の名前は忍となったものの、結局のところは細作の集まりであり、俺が想像しているような忍者とはほど遠いものであったりするのだから仕方のないことなのだが――でも俺は諦めない。
 水蜘蛛だとか、木の葉隠れの術とか、そういった忍術を使用出来るようになるにはどれぐらいの時が必要か。
 いつかは俺色に染めてやるよ、とちょっとにやにやする俺であった――うむ、実に変人っぽい。
 


 まあ、そんなこともあって忍の有用性が認められてきたその頃に、それらは届いたのであった。
 木製と鉄製。
 二つ作られたそれは見た目は円形であり、その大きさは人の胴体ほどであろうか。
 木製の方は、板を束ねたような形になっており、その端は崩れないように鉄で固定されていた。
 鉄製はというと、とりあえず試作をということだったので、表面にはさしたる装飾も無いままであった。
 
「ふむ……まあ装飾は無いほうがいいかな。その分、重たくなるし金もかかるし……いや、千人長ぐらいならそれも必要か。うーん……その辺は月と詠に相談してみるか」

 そう呟きながら、俺はその二つを裏返した。
 表面と同じような加工が施されている裏面だが、表面とは違い、その中心に皮で作られた輪っかみたいなものが付いてある。
 そこに手を――握るように通した手を握りながら、俺は木製のそれを持ち上げた。

「やっぱり木の方が軽いか……それに安いし、大量に持たせるんならこっちの方がいいんだけどなぁ……。でも耐久力の話もあるし……そもそもこれ、葉由殿とか恋の攻撃止められるのか?」

 ぶつぶつと言いながら木製のそれを持った腕を振り回す俺であったが、自分で放った言葉にぴたりと止まる。
 訓練用とはいえ、まがりなりにも鉄で出来た模擬刀を折るほどの膂力で振られる戟を、それより耐久力が低い木製で止めることが出来るのか。
 そこまで考えた俺は、どうやってもそれごと両断された俺しか想像出来ずに、頭を振ってその想像を頭から追い払った。

「う、うん……やっぱり鉄の方がいいかな。木よりは重たいけど、それも慣れれば問題無くなるだろうし……。よしっ、こっちでいってみるか」

 そうして、木製の代わりに鉄製のそれ――盾を手に取りながら、俺はうんと頷いた。



 ここ最近、将の面々と鍛錬をしていて思ったことだが、一撃必殺の勢いで繰り出される攻撃を受けきれるほど、俺の武の能力は高くない。
 一撃二撃を凌いだとしても、それによって受け手が追いつかなくなったところを叩かれることが最近の負けパターンだったりするのだから、それへの対抗策を考えるのは当然のことであるのだが。
 だからといって、将達が数年以上――人によっては十数年かけて培ってきた技術や力を、短期間で追いつけるほど武の道は甘くないのである。
 そこで考えたのが、盾を用いて戦う、ということであった。

 一撃を防ぎ、それによって生じた隙を突いて勝つ。
 そう祖父に教えられたこともあり、また一通りの使い方なども教わったりもしたものだが、いざ実際に使えと言われれば即時対応は難しいものがあった。
 それまで補助的にしか用いなかった利き手の反対側の手――俺の場合は左手なのだが、それを防御とはいえ主で使うのだから慣れの問題もあったし、何よりそれを想定しての鍛錬も必要であった。
 戦場では刀は言うに及ばず、矢や槍、はてには石なども飛んできたりするのだから、それらに対する手段を覚えなければならないのだ。
 さすがの祖父もそこまでは想定していなかったらしい――普通はしないけど。

「鍛錬の件は、葉由殿が北郷流とやらを見せてくれ、と言っていたからその時にでも行うとして……どうするかな、これ。兵も使うことが出来れば少しは……」

 そうして俺は、先ほどから思案していることに再び思考を埋めていった。

 一般の兵――百人長や千人長などの階級ではなく、雑兵にまで盾を持たせることが出来れば、戦力の向上にならないか。
 盾の使い方を熟知し、それによって敵兵との打ち合いに勝ち残る兵になることが出来れば、その積み重ねは確実に勝利へと近づくことになる。
 その戦場を勝つことも出来るし、そうして生き残った兵はさらに盾の使い方を熟知し、次回からの戦いにおいても敵兵に対して優位に戦えることが出来るのである。
 そうしてさらに次の勝利へと繋ぐことが出来れば――盾の優位性を確かにすることが出来れば。



 そうなってくると大型の盾を使って……。
 そうして思考にふけっていた俺であったが、ふと開けられた扉によって、急速に意識は表へと引っ張り出された。

「北郷殿、そろそろ件の刻限に近づいてきておりますが」

「ああ郭嘉殿、わざわざありがとうございます。……そうですか、もうそんな時間ですか」

「はい。そろそろ時間も近づいてきたので呼んできてくれ、と賈駆殿が言われましたのでお迎えにあがりました」

「分かりました。すぐに準備をするので、しばし待って下さい」

 この時代――とはいえ俺も元々の歴史は知らないのだが、董卓軍の面々に聞いても盾というものはどうにも存在しないらしい。
 古代ローマの陣形に盾を用いたものがある、ということは俺とて知っているのだが、その発祥の歴史を知らない身としてはそういうことなのかと納得する他は無かった。
 となってくると、盾の存在はそれほどではないにしろ機密となってくるのである。
 頼んだ加工屋のおっちゃんも不思議そうな顔をしていたことから、その辺は大丈夫だと思うのだが、それでも必要最低限として隠すぐらいはしておかなければ、と俺は盾を机の陰へと置いた。
 
 そうした後に、俺は服に汚れがないかと確認して部屋を出た。

「すみません、お待たせしました」

「いえ……それでは参りましょう。事前に立ち寄るところはありますか?」

「えーと……いえ、ありませんね。このまま向かいましょう」

 そうして頷いた郭嘉の隣に並びながら、俺と彼女は城のある一室を目指して歩いて行った。
 女の子の隣を歩くなんてデートみたいだ、と思わないでもないのだが、見た目真面目そうな郭嘉ではそういった話も出来そうにない――いや、誰にでも気軽に話すようなものでもないけどさ。
 これが馬超なら大いに照れてくれるだろうし、張遼あたりならノリで同意してくれるだろうか。
 華雄は何だそれみたいな反応で、呂布は分からずといったふうに小首を傾げて、賈駆と陳宮の両軍師なら冷たい反応が返ってきそうだな、と。
 そんなことを考えながら、俺は目的の場所へと歩いて行った。





 そうしてたどり着いた一室。
 董卓軍のみならず、漢王朝に使える役人や将などが――宦官はその殆どが袁紹と曹操によって討たれており、生き残った面々もこれ以上の厄介は御免だとばかりに隠れているためか、常より比較的がらんとしているであろうその部屋で、中華全土に影響を及ぼす発表が成されたのであった。
 新たな時代を築くはずのそれは、俺が待ち望むことのないものであって。
 それでもそれを直視するという現実に、俺は意外にも冷静にその発表を見ていたのである。

 すなわち――
 

「では、本日この時をもって、漢王朝第十三代皇帝に劉協様が即位されることになった! 皆の者、これからも忠をもって漢王朝へと仕えるのだッ!」


 ――後漢王朝最後の皇帝となり、また幾多もの権謀術数に巻き込まれることになる献帝の誕生であった。





  **





「さてどうするか……」

 歩きながらそう呟いて、俺は先ほどの事を――劉協の皇帝即位の式のことを思い出していた。

 董卓軍が洛陽に駐屯してしばらく経つが、劉協より年上ということもあってか、先の帝位継承権を持つ劉弁の捜索は欠かしたことがない。
 洛陽周辺は言うに及ばず、長安から涼州は石城安定に至るまでの捜索は続けていたのだが、その姿はおろか、死んだにしても亡骸さえ見つかりはしなかった。
 劉協によく似た美少女である、という話から賊に捕らえられ慰み物にと思わないでも無かったのだが、忍の情報ではその線も無いらしいのだ。



 霊帝、何進、張讓の死は隠すことなく発表されたため、その後任を決めることは急務であった。
 幸い――とはいってもこれは賈駆が想定して誘導したのだが、軍政の長でもあった何進と張讓の後は董卓が継ぐことになり、後は霊帝の次代を決めるだけであったのだが。
 その真っ先の候補である劉協が、劉弁を探して皇帝に据えるようにと押したのであった。

 帝位継承の順を覆すことは出来ない。
 劉弁の生死が確認出来ていない以上、そういって皇帝に即位するのを突っぱねる劉協は何処か痛々しいほどであった。
 李儒から話を聞くと、何進と宦官、果てには親による権謀術数が王朝を占めていく中で、劉弁は以前と変わらず劉協と接してくれていたのだという。
 父親しか血のつながらない二人ではあるが、本当の姉妹のように仲良く連れ添って歩き、そんな劉弁を劉協は姉と慕っていたというのだ。

 そんな劉協の小さな抵抗は――劉弁が生きていると信じていた彼女の行いは、しかして皇帝不在の悪影響がちらほらと見えるに従って徐々に収まっていった。
 姉と慕った劉弁の方が皇帝に相応しい。
 それだけでなく、継承の順を違えることは後々に漢王朝にとって災いとなる可能性があると理解していた劉協にとって、自らがこねる駄々がどれだけ影響を与えるかを知っていたのだろう。

 そうして。
 いよいよをもって劉協は皇帝へ――漢王朝第十三代皇帝である献帝へと即位した。
 俺が知る歴史では十三代と言えば劉弁であったのだが、その彼女を追い越して即位したとあってはそれも納得出来た。
 なんせ将の大半が女性なのだ――しかも皇帝も女性だし――それぐらいの差異は受け入れられるものである。



「それにしても……」

 呟いて足を止めた俺は、開けた中庭から空を仰いだ。
 
 ふと胸をよぎるのは、即位の式の間、無表情のままでいた劉協のことであった。
 隣に控える李儒が即位における諸々を読み上げている間だけでなく、皇帝を補佐する三公である司徒の王允と、司空の張温が――王允は穏やかそうなお婆ちゃん、張温は厳格そうなお爺ちゃんであった――即位の讃辞を述べていても、その表情は変わることは無かったのである。
 それが実に痛々しく、悲しみを見せないようとしていた子供の精一杯の我慢であることは、俺とて理解しているつもりであった。

「本当に……悲しいなら、素直に泣いたりすればいいのにな」

 そうぽつりと呟いた言葉は空へと消えた。
 それが出来ぬからこそ皇帝だと言うのに。
 皇帝だからこそ個人の存在を嘆かずに、民のことを第一にしなければならないというのに。
 
「本当に……」

 どうすれば劉協を――人のために悲しむことの出来る少女を助けることが出来るだろうか。
 思いを乗せた呟きは空へと消え――


「一刀お兄様ーーー!」

「うぐぼぁぁっ!?」


 ――否、意中の少女の声によってかき消されることになるのであった。
 何故か抱きつきという名を借りた腰への突撃も一緒であったが。


 
「す、すみませんでした、一刀お兄様……大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫……ですよ、劉協様――ではなく、献帝様。伊達に鍛えてはいませんからね」

 男には、耐えねばならん時があるのです。
 それが幼い少女が涙目で見上げてくれば、どんなに痛みで苦しみ悶絶しようとも耐えるのが男であると、俺はそう思います――でも痛いものは痛い。

「北郷殿がこう言われているのですから大丈夫ですよ、伯和様。彼も将の一人でありそして男性です、伯和様のような可憐な女子に抱きつかれては逆に喜ぶことでしょう」

「あぅ……そ、そうなのですか、一刀お兄様?」

「いやまあ……はは、ははは……はぁ」

 劉協を泣かせることは許さない、と言外に示す李儒に、俺はうやむやに誤魔化しながら知られないように溜息をつく。
 李儒も劉協も、先ほどまで纏っていた豪華絢爛を表現したかのような服装ではなく、最低限の装飾が施されたすっきりとした服を纏っていた。
 ふわふわと揺れる豊かな髪に紅く染まった顔を埋めていくのは実に可愛らしいものなのだが――隣の人物から放たれる何かしらの気配に気づいてほしい、と思うのは俺の身勝手だろうか。
 
 聡明な部分もあるけどやはりまだ少女か、と思っていた俺は、ふと劉協から見つめられていることに気づいた。

「伏寿、と。そう呼んで下さいとお願いしたではありませんか、一刀お兄様。様、などを付けなくとも、私はそう呼んでいただいて構いませんのに……」

「えー、っと……献帝様のお言葉は嬉しいのですが――」

「伏寿、です」

「漢王朝の臣である董仲頴のさらに臣の立場の私がですね、献帝様の御真名を呼ぶことはですね――」

「……伏寿、です」

「いらぬ誤解や争いを生み出すでしょうし、献帝様や李儒殿までそれに巻き込んでしまうのは忍びないというか――」

「……一刀お兄様は、私のことお嫌いですか?」

「……伯和様で勘弁して下さい」

 徐々に涙が溜まっていく瞳に見つめられると、何も悪いことなどしていないのに罪悪感にかられるのは一体何故なんだろう。
 それは女の涙がイケナイ薬やからや、なんて及川なら言いそうなものだが、いざ目の前にしてみるとどうする手だてもなく、俺は頭を垂れるしか無かった。
 
 どうしても真名で呼んで欲しかったのか、字で呼ばれたことにしばしば考えていた劉協であったが、俺の言ったことを理解してにこりと笑った。

「それでも、私や時雨のことを心配してくれたことは嬉しいです。ありがとうございますね、一刀お兄様」

 そう言って笑う何処か無理した笑顔に、俺は何とも言えない感覚を抱きながら、知らずにその頭へと手を伸ばし――そうになったのを必至に自重した。
 目の前の女の子は如何に可愛くとも漢王朝の皇帝であり、この時代においては大陸の頂点であるとも言っていい。
 そんな子の頭を撫でるなどと恐れ多いことを、と必至に己の中で何かしらと戦っている俺を、劉協は不思議そうに首を傾げていた。



「伯和様、そろそろ急ぎませんと今日中に案件が終えることが出来ませんが……」

「ああ、もうそんな時間ですか……。一刀お兄様、また今度、お茶でも一緒に如何ですか?」

「え、ええ、よろしいですよ、伯和様。時間を見つけましたらお誘いさせてもらいます」

 そんな劉協からの誘いに、必至に何かと戦っていた俺は少しばかり慌てながらもそれに応える。
 まあ忙しすぎてその機会は作れないかもしれないが、それでも初めから出来ないと思っていては無理であろうから、時間が出来た時にでも誘ってみるのもいいかもしれない。
 そんな俺の言葉に本当に嬉しそうに笑った劉協は、李儒を伴ってその場から離れていったのである。





* *


  


「やれやれ……天の御遣いちゃんも中々に女の敵みたいだねぇ」

「がっはっはっは。その相手が劉協様というのが、北郷が並みの人物では無いと言っているようなものだがな」

 そうして劉協と李儒を見送って俺であったが、不意に背後から聞こえた声に振り返った。

 かつては色鮮やかに艶やかであった白髪を頭頂部で纏め上げ、その雰囲気と髪の色から合わせて柔らかい印象を抱く。
 身体は声から想像したものよりも幾分か小さく、ともすれば触れれば折れてしまうのではないかという感覚を覚えさせた。
 皺が深く刻まれた口元は緩みながらも、こちらを見るその双眸はどこか油断ならないものであり、その人物が――老女が並みならぬ人物であることを知らしていた。

 対して、彼女の隣を歩くのは、いかにも武人と言うような鎧を纏う男性であった。
 鎧の装飾は絢爛ながらも、その実大小様々な傷で覆われており、醸し出す雰囲気と相まって男性が歴戦の戦士だということが窺い知れた。
 それを示すかのように、皺が刻まれた頬や額には傷が走っており、白髪に隠れた首筋などにもそれらが見て取れた。
 
「……俺は別段女性に仇成してはいないと思いますよ、王司徒?」

「あらあら、あのような幼い女子を泣かせる寸前までいかせ、あまつさえそんな女子に獣欲に塗れた視線を投げつけるような人物が、女の敵ではないと言われるのですか? ……ああ、天の御遣いちゃんは幼女趣――」

「――断じて違いますッ!」

「がっはっはっは、良いではないか、北郷よ。英雄色を好むと言う。それが劉協様が相手であろうとも変えぬというのは、中々に剛胆であるぞ。……まあ、お主が幼女に興奮するような趣味を持っていたとしても儂は何も――」

「――そんな趣味持ってませんよッ!? ああもうッ、王司徒も張司空も俺を変態みたいな言い方しないで下さいッ!」

 あらあら。
 がっはっはっは。 
 それらの笑い声が辺りを包む中、一向にフォローを受けることはない俺は、ただただ肩を落とすばかりであった。



 老女の名は王允、字は子師。
 男性の名は張温、字は伯愼。

 皇帝を補佐する司徒、司空、太尉と呼ばれる三公のうち、その司徒と司空の任を与えられた人物が彼女達であった。
 司徒が国内外の政治の統括を、司空が民事に関わる統括を行うということから、彼女達がどれだけ重要人物であるのかが窺い知れる。
 特に王允に至っては、俺の知る歴史の中では董卓暗殺の原因ともなる美女連環の計を施した人物であって、俺の立場としては要注意人物である――筈なのだが。

「うむむ、幼女を愛でる趣味ではないとすると……熟した方が好きということかッ!? おのれぃ北郷、お静ちゃんはやらんぞッ! 欲しければ力尽くで来るがいいわッ!」

「あらあら、伯愼ちゃんにそう言ってもらえるなんてとても嬉しいわねぇ。……だけどその言い方だと、私が年老いて熟したお婆ちゃんであると、そう言いたいのかしらね?」

「うぐぅッ……い、いや、その、だな、お静ちゃん? その、何て言うか、先ほどのは言葉のあやと言うか何と言うか……ええい、北郷、何とかしろいやして下さいッ!」

 あらあら、と言いながら笑みを絶やさず、しかしてその背後に怒の感情が醸し出されているような王允と。
 そんな王允を前にして先ほどまでの威勢は何処へやら、その年老いた風貌からは想像も出来ないほどに機敏な動きで頭を下げてきた張温を前にして、俺はあれと首を傾げたのであった。
 この二人が本当に皇帝に次ぐ実力者で、董卓を破滅へと追い込んでいく人物達なのか、と。 

 
 
 王允と張温に出会ったのはつい昨日のこと――その名を知ったのは洛陽に駐屯するようになって数日後のことなのだが、その時のことは忘れることが出来ないかもしれない。
 会うや否や、あらまあいい男だねえ、と言われてしまえばそれも仕方のないことなのかもしれないのだが、まさかそれを発言した人物が王允であることなど、その時の俺は名を教えられるまで気づくことは無かったのである。
 老女とはいえ男として誉められること無かったのだから、色々と察して欲しい。
 張温はそのことを聞いていたのか、出会うなり勝負しろなんて言ってきたのだが、そちらは既に慣れたので大した問題では無かった――まあ、ぼこぼこにされたけどさ。

 まあそんなこんなで初顔合わせを終え、即位式の打ち合わせや警備状況を話し合った俺達は、さしたる話をすることもなく今日に至った訳である。
 それでも、その短い話し合いの中だけでも王允と張温がどういった人間かを窺い知ることが出来たのは、これからのことを考える上で儲けものだったと言えよう――まあこちらがいることお構いなしに先ほどの調子なのだから、嫌でも知れていたのだろうが。
 何進と張譲が死に、皇帝に即位したばかりの劉協がさしたる影響力を持っていない現状の中で、朝廷一の権力と実力を持っているとは思えない二人であることは確信出来た。

「おい、北郷ッ、貴様、儂とお静ちゃんのことをそんなふうに思っていたのかッ!? 一体どういう了見で――」

「伯愼ちゃん? お話しはまだ終わっていませんよ?」

「――もいいから儂を助けろッ、いや助けてくれ助けてくださいッ!?」

「あらあら、威厳も何もありゃしないわねぇ、伯愼ちゃん? ……さて、そろそろ私のことをどう思っているのか、洗いざらい白状して――」

「あー……そろそろ許してあげて下さいませんか、王司徒? 張司空もこう言って反省しているみたいですし……」

「よくぞ言った北郷ッ! そうだぞお静ちゃん、いい加減に儂を虐めるのは止めろと常から言っておるだろうがッ!」

「……反省しているようには見えないわねぇ」

「な、何いぃぃぃッ!? こ、こんなにも儂は反省していると言うのに、お静ちゃんは儂のことを信用――痛い、痛いぞお静ちゃんッ?!」

「あらあら、嘘をつく耳はこの耳かしら? こんないけない耳は引っ張ってしまいましょうかねえ」

「耳ッ!? いやそこは口じゃないのかお静ちゃ――いひゃい、いひゃいひょおひひゅひゃんッ?!」

「……はあ」

 ぐいぐいと耳を引っ張っていた手を張温の口に運び、先まで耳を引っ張っていた以上の力を込めて引っ張る王允を見ていて、俺は知らず溜息を零していた。
 張温も張温である。
 そこで黙って謝っておけば万事解決する筈なのに、何故か不必要な一言を発して場を掻き回してしまうのだから始末に負えない。
 しかも張温も王允も何となくその掛け合いを楽しんでいるようであるのならば、俺がわざわざ止めるのも無粋であるだろうと、俺は一歩離れた所から彼らの掛け合いを眺めていた。
 ……うん、張温が本気で痛がっているような気がするけど、気のせいだということにしておこう。
 本気で助けを求めているような涙目で見上げられても、劉協の十分の一ほども可愛くは無かった。



「ああ、そう言えば……」

「ぐおぅッ」

 そうしてあらかた張温の頬やら口やら引っ張っていた王允が、ふと思い出したかのように俺へと振り返った。
 途端に手を離したもんだから、何やら張温の口から不思議な声が出たような気もするのだが、王允はそんなことお構いなしとばかりににこにこと笑っていた。

「天の御遣いちゃんにお客人いること、すっかり忘れてたわ。貂蝉、という子なんだけど……知っているかい?」

「ッ!」

 そうして王允の口から飛び出た言葉は――彼女の口からだけは聞きたくなかったその名前に、俺は知らず反応してしまう。
 王允と貂蝉、そして董卓。
 これに呂布が加わることが本来であるが、加わるにしろしないにしろ、結局の所はたどり着く先は同じかもしれないのである。
 歴史に語られる通りに絶世の美女なのか、はたまたこの世界では絶世の美男子なのか。
 董卓と呂布が女性であることを考えると明らかに後者の方が有力ではあるが、それでもいざ会ってみるまでは安易な判断は危険だろう。
 そう考えた俺は、震える手を握りしめながら口を開いた。

「……お会いしたことはありません。ですが、その方が俺に何か用事でもあるのですか? 王司徒の言い方では、そのような感じでありましたが……」

「うーん……そうだと思うんだけどねえ。私からは何とも言えないから、実際に会ってみると分かるかもしれないよ? どうだい、会ってみるかね?」

「……はい、お願いします」

「そうかいそうかい。……ではそうだね、貂蝉、出ておいで」

 そうして王允の言葉に、不意に人の動く気配がしたのを、俺は手を握りしめながら感じていた。
 絶世の美女か、はたまた美男子か――そんなことは関係無い。
 俺に客人ということだが、そこからもし董卓に、そして呂布に出会うこととなり、その結果俺が危惧する方へと事態が転がる可能性を――危険性を孕んでいる人物であるのなら。
 俺はそう思いながら知らず剣を握っていた。


 そして、その人物が――
   

「ちょばぁぁぁぁッ!」


 ――貂蝉という名の桃色のビキニのみを身につけた筋骨隆々で揉み上げのおさげだけの頭にこれまた桃色の塗料を唇に塗った人物が、その場へと降り立ったのである。
 あれ、と目を解してもその人物がいることに変わりはなく。
 どれだけ目をこらしても、その場のどこにも絶世の美女美男子の類が見えることはなく。
 その場にいるのは俺と王允、張温を除けば、ムフンッ、と鼻息荒い筋骨隆々の人物だけであった。


「……あれ? …………え?」


 事態を把握出来ていない俺の呟きが、ただただその場に響いた。




 
 



[18488] 三十九話 反董卓連合軍 始
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 09:47
 しんと静まった部屋の中。
 蝋燭のみが唯一の灯りであるその部屋に、二つの人影が存在した。
 
『……行くのね?』

『……起きてたのか』

 衣服を整えていた一人に対し、その背後に寝台から声がかかる。
 何も身につけていない身躯の上に薄布をかけただけの人物は、むくりと起き上がった。

『……死ぬわよ?』

『分かってるさ』

『……後悔するわよ?』

『承知の上だ』

『…………私、泣いちゃうわよ?』

『あー、それが一番つらいかもなあ』

 でも、笑って送り出してくれると嬉しい。
 そう言って笑う青年に対し、寝台の人物――漢女は、少しだけ悔しそうに笑った。

『劉備ちゃんも曹操ちゃんも孫策ちゃんも、みんなご主人様の首だけを狙ってくるわ。対して、ご主人様の軍勢はほぼ壊滅状態。……戦えることすら奇跡に近いのに』

『……まあ俺も悪逆非道の暴君で通っているからな、それも仕方のないことさ。……それでも、そんな俺を信じて付き従ってくれて、最後まで共に戦ってくれる兵達がいる。俺だけ逃げる訳にはいかにさ』

『……ねえ、私も――』

『――駄目だ』

 自分も共に戦いたい、最後のその時まで傍にいたい。
 そう願った漢女の想いを、青年は一言で切り捨てた。

 漢女が青年を大切に想うのならば、青年もまた漢女が大切なのだと言わんばかりに。

 無論、漢女もそれを知っているからこそ、それ以上の追求を青年に延ばすことは無かった。
 戦いに出向く男を黙って見送るのも女の嗜みよ、そう言わんばかりに微笑みながら。
 ふわりと薄布を纏っただけの裸身で――鍛え上げられた筋肉の上に薄布を滑らせながら起き上がった漢女は、青年へと歩み寄っていく。

『……信じてるから』

『はは、その信頼さえあれば百人力だな』

『……待ってるから』

『ああ、待っていてくれ。必ず帰ってくるから』

『……愛してるわ、ご主人様……いえ、一刀』

 悲しさを表に出すことは無く――これから青年がどれだけ絶望的な戦いに身を投じるのだとしても、必ず帰ってくるのだと信じて、漢女は言葉を紡ぐ。
 溢れ落ちそうになる涙も嗚咽も押さえ込んで、彼女は微笑んだ。
 抱きつきたい。 
 抱きつき抱きしめて、青年が戦いに――死に場所を求めに行こうとするのを引き留めたいと願いながらも。
 それでも小さな意地で、漢女は青年の服の裾を握った。

 そして、そんな彼女の心配りを――想いを知っているからこそ、青年は微笑みながらそっと漢女の頬へと手を添える。
 少しだけ頬を滑らす手は漢女の温もりを――存在を己が魂に刻み込むために。
 しっとりと濡れる唇に指を這わすはその思い出を――漢女を愛した過去を刻み込むために。


『ああ……俺も愛してるよ、貂蝉』


 そして。
 漢女――貂蝉という存在、その全てが自分のものであると魂に刻み込むために。
 青年――北郷一刀という英雄になり損ねた者の存在を刻み込むために。

 瞳を閉じて、桃色に彩られた唇を突き出すようにしている貂蝉へと、北郷一刀はそっと触れるように自らの唇を落として――


 *


「――って、そんな訳あるかぁぁぁぁッ!?」

「ぶるうぁぁぁぁッ?!」

 呆然としていた意識にうっすらと見えた映像は、途端に俺の叫び声で打ち切られることとなった。
 いや、桃色の口紅――口桃と言うのかどうでもいい悩みだが、そんなものをした漢女(おとめ、と読むらしい)の顔が気づいた時には至近距離にあったりするものだから、反射的に叫び声が出たとしても何らおかしくはないと思うのだが。
 それと同時に手まで出てしまったのは、申し訳ないと思う。

「しくしく、ご主人様にぶたれちゃった……これって、愛の鞭かしら?」

 訂正、やっぱり思わないし思いたくもない。
 勢い余って――というよりは生命的危機を感じた本能のままに本気で殴ったにも関わらず、特に問題なと無いと言わんばかりにぶたれた部分を愛しそうに撫でながら、むふふ、と桃色に彩られた唇を歪めて笑う筋骨隆々でビキニパンツのみの人物なんかに申し訳無いと思ったこと自体が間違いだったか。
 しなを作りながら地面に座り込み、あまつさえいじらしげに指を床に這わせる仕草は、見目麗しい女性ならいざしらず、目の前の人物がすると気持ち悪さで寒気が走るものであった。

「あらあら、貂蝉ったら……こんな人目があるところでなんて、若いわねえ。でもね、そういった密事は閨でするほうが効くと思うわよ?」

「ふーむ、幼女でも無く熟女でも無く……北郷よ、お主の趣味に儂がとやかく言うのも筋違いというものじゃが……男色と言うのは儂としてもちと勧めにくいものが――」

「――あらん、どこをどう見たら私が男に見えるって言うの、張司空? 私は漢女、れっきとした女なんだから」

「……どこをどう見たら女に見えるんじゃ」
 
「どこをどう見ても漢女じゃないのよ」

「……はぁ」

 そんな張温と貂蝉の不毛な争い――俺個人としては明らかに張温支持なのだが、そんな争いを続ける二人に視線をやりながら、俺は溜息が止まらなかった。
 
 

 王允から客人だと会わされた人物――自らを漢女と呼ぶ貂蝉と言う名の人物は、俺の予想の遙かに斜め上をいくような人物であった。
 絶世の美女や美男子だと待ち構えていたのが嘘のような人物であった、と言えば話も早かろうが、しかしその言葉を口にしてしまえばどういうふうに思ったのか、という追求がありそうなので自重しておいた。
 あの顔が至近距離に迫るなど、二度とご免被りたい。
 これが美女美男子ならまだまし――いや、それもそれで微妙に困るな、主に王允と張温の態度とか。

 まあ、それはともかく。
 俺の予想の斜め上どころか全く予想だにしていなかった人物が現れた衝撃から若干ながらも回復した俺は、恐る恐る口を開いた。
 微妙に逃げ腰なのは許して貰いたい。

「……それで、あー、貂蝉殿……でしたっけ? 俺へ何か用があるのですか?」

「うふんっ、天の御遣い様たるご主人様に、私の漢女としての全てを貰って――」

「断固として拒否します」

「――って、ちょっとー、いきなり拒否は酷いじゃないの、ご主人様ったら。……うふふ、でも、焦らされるのってちょっと素敵……」

 何だか全てを言わせたらとても不味いような言葉を発しようとする貂蝉であったが、それをきっぱりと断った俺に対して隠すことなく不満を漏らす。
 いきなり拒否は酷い、と言われてはいるが、かと言って全てを言わせてしまったら有無を言わさずに問題が起きそうな――直接的に言えば襲われそうな気がしては、それも仕方がないというものだろう。
 獲物を仕留めようとする視線を向けられれば、誰だってそうなってしまうよな、うん。

 だが、そんな突き放した言葉すら快感に変えるのか。
恍惚とした視線を空へと向けながら、頬を紅く染め小指を軽く口に含む貂蝉の仕草に背筋を振るわせつつ、俺は口を開いた。

「……ところで、何で貂蝉殿は俺のことをご主人様と呼んでいるんですかね?」

「あらんっ、貂蝉殿、なんて他人行儀みたいなこと言わないで。貂蝉、って呼んで頂戴、ご主人様?」

「……なら貂蝉、直に聞くけど、何で俺のことをご主人様なんて呼んでるんだ?」

「うふん、それはね……ご主人様がご主人様だから、よ」

 王允へ向けた質問は、しかしその内容の本人である貂蝉に返されてしまう。
 しかも、呼んで頂戴、の部分でバチンと片眼をつぶってくるものだから、再び飛びそうになる意識を堪えるのは実に大変であった。
 何て言うかあれだ、見えない何かで叩きのめされたようだ――何て言おうものなら、私の魅力でご主人様のハートを射抜いた、なんて言いそうな貂蝉が何故か容易に想像出来てしまった。



 そして、意味の分からない貂蝉の答えに頭を傾げていると、ふふ、と笑った貂蝉は俺から王允へと視線を向けた。

「さて、ご主人様にも会えたことだし……王司徒、そろそろ劉協ちゃんに伴っての会談の時間じゃないかしら? 張司空も、董卓ちゃんと軍の編成って言ってなかったかしら?」

「あらあら……もうそんな時間かしら? 天の御遣いちゃんとお話しするのは楽しかったのに……残念ねえ」

「むう……まあ致し方あるまい。お静ちゃん、儂は行くが……」

「ええ、私も行きますよ。……それではね、天の御遣いちゃん。今日はここまでだけど、また今度、お茶でもしながらお話ししましょうね」

「うむ、では儂とは酒でも呑みながら話し合おうではないか」

「は、はあ、それは構わないのですが……え、貂蝉の用事ってそれで終わり?」

「そうよ、ご主人様。……まさかご主人様、私と離ればなれになるのが寂し――」

「いや、それは無い」

「――んもうっ、つれないんだからぁ」

 それでこそご主人様だけどね、そう微笑みながら言う貂蝉は、いつのまにか俺の横を通っていた王允と張温の後を付いていくように、俺の横をすり抜けていく。
 筋骨隆々の大男――貂蝉風に言えば、大漢女が横を通っていく様は中々に強烈なものがあったが、それもすれ違いざまに彼女が耳元で囁いた言葉によって、微塵も無く吹き飛ばされてしまった。


「……気をつけてね、ご主人様。……嵐が、来るわ」


「ッ!?」

 本当に消えるように囁かれた言葉は、しかし確かに俺の耳から意識へと届いていて。
 その言葉の意味を考える前に、俺は貂蝉の背を確かめるために反射的に振り返っていた。
 しかし。
 既にそこには貂蝉の姿は無く。
 いつの間にか遠くまで離れていた王允と張温の背中だけが、視界の中にあった。



「……気をつけろ、か。分かってるさ、そんなことは……」

 分かっている、貂蝉が一体何に対して気をつけろと言ってくれたのかを。
 王允に近い彼女のことだ、きっとこれから起きるであろう騒動がどういったものなのかを知っているに違いない。
 そして、そのことを知らせてくれたことに感謝しつつ、俺は無意識のうちに見つめていた己の掌を固く握りしめた。

「……やって、やるさ」

 そうして。
 ぽつり、と呟かれた俺の言葉は誰に聞かれるでもなく、静寂の中へと消えていた。





  **





「お兄ーさん、お兄ーさん。飲み屋のつけがこんなに来てるですよー?」

「はーい……って、飲み屋のつけッ?! ……これ糧食事情に関する案件じゃないですか……程立殿、紛らわしいので止めてくださいよ」

「いやいや、お兄ーさんの反応が面白くてつい。ついでですがー、まぎらわしいとまぎわらしい、どちらが正しいんですかねー?」

「え? ええ、っと……まぎわらしい、かな? あれでも、まぎらわしい……って、ああもうッ、紛らわしくなるので止めてくださいよッ!?」

「……ぐう」

「寝るなッ!?」

「おおっ……中々にのりがいいですね、お兄ーさんは」

「……北郷殿、お楽しみのところ悪いのですが、賈駆殿よりこの案件について、早急に意見が聞きたいとのことですが……如何なさいますか、今返事をお書きしますか?」

「え、ああ、郭嘉殿。誰も楽しんでなんかはいないんですけど……まあいいや。ええっと……すぐに見ますので少し待っててください」

 そうして。
 貂蝉と初めての邂逅から数日後、俺は多忙の中にいた。
 最近では常日頃から多忙であることに変わりはなかったのだが、先日の貂蝉と出会った頃からさらに拍車がかかったように思う。
 まあ、それも劉協が献帝として即位し、それによって滞っていた諸々が一気に流れ始めたため、というのが俺の見方ではあったが。
 それだけ忙しくなってもどうにか問題無く日々を過ごせているのは、各将の働きはもとより、やはり郭嘉と程立のものが大きいかな、と思ってしまう。

 至極真面目に相対する郭嘉と、何処かふざけながらもその実きちんと仕事をこなす程立。
 そのどう見ても相反しそうな二人が実に上手く関係しているのは不思議であるのだが、それでも知謀に長けた者同士、どことなく惹かれ合うものがあるのかな、なんて思う。
 これに趙雲が交じればまたさらに不思議に思ってしまうのだが、まあそれは黙っておこう。
 ことさらに話を――聞かれれば面倒事に発展しかねない話題は広げない方がいいだろう。
 そうして、うんとばかりに頷いた俺は、再び目の前の案件を処理するために机上へと集中していった。



「はっはっは、中々にやるようですな、北郷殿! だが、この趙子龍、その程度の腕では仕留めることは叶いませぬぞッ!」

「ッと……それは分かりませんよ、趙雲殿。それに、負けるにしても簡単にはやられはしません」

「ふふふ、ならばその言葉、偽りではないことをお示しなされ……それでは、いざ参るッ!」

 そして。
 仕事に段落がつけば――とりあえず届いている案件を片付けた俺は、趙雲を伴って中庭にて鍛錬を行っていた。
 いつも相手をしてくれる呂布や華雄が今日は多忙なために、たまたま――趙雲本人がそう言うのだからそうなのだろうが、たまたま手の空いた彼女が相手してくれることになった。
 よくよく考えてみれば、趙雲一人と相対して鍛錬などしたことがないな、と思う。
 それは趙雲も同じなのか、はたまた身体を動かしたいだけなのか、いつもの飄々とした雰囲気は鳴りを潜め、武人らしい雰囲気で満ち溢れているようであった。

 準備運動ということで数合打ち合った俺達は、適当な距離をとって武器を構えて相対した。
 趙雲は模造槍、俺は模造刀に盾を用いて。
 始め盾を見て不思議そうな顔をしていた趙雲だったが、それでもそれを構える俺を見てか、すぐさまに気を入れなおして槍を構えた。
 その辺はさすが武人というところか、その対応力はさすがと言えよう。

「シッ!」

 そんなことに感心していると、すぐさまに趙雲から槍が繰り出される。
 構えた体勢から一息に繰り出されたそれは、いくら先を潰したものとはいえ、まともに喰らえばただではすまないだろう。
 ゆえに、俺は外へ流すようにと迫りくる槍の穂先を盾によって受け流していく。
 削るような金属の音と気迫を乗せているかのような槍を横目で確認しながら、俺は槍に盾を滑らせて振るわせないように固定しながら、前へ前へと進んでいった。

「おおおぉぉッ!」

「ッ!? ……なるほど、その形状からでは受け止めるだけのもののように見えますが……ただ受け止めるだけでなく、受け流すことも考えられてのものとは……」

「こういうものを使うのは卑怯かな?」

「いいえ。何を用いようとも強く、という気持ちは蔑ろには出来ぬものでしょう。それも武の一部、とも言える。……それに」

「それに?」

「自らに勝とうと手を尽くされることに――そして、それによって強くなっていく武を前にして、武人として昂ぶらない訳が無い」

 故に、もっと昂ぶらせてくだされ。
 迫りくる剣を槍の持ち手部分で器用に受け止めた趙雲と至近距離で視線を交わしながら、彼女は口端を歪めながら実に楽しそうにそう言った。
 俺との鍛錬を楽しんでくれることは嬉しいのだが、ぶっちゃけ言うと少し怖いものがある。
 まるで獲物を待ち望むかのような視線を受けて、俺はぞくりと背筋を振るわせた。

「なら……行かせてもらいますッ!」

「ふふ……参られいッ!」

 圧迫するかのような視線に、長期戦は不利と判断。
 ならば、と俺は盾を前面に押し出したまま、趙雲へと向かって走りだした。
 顔や腕は出来るだけ盾で隠し、趙雲の攻撃の選択肢を減らす。
 そうすることによって次に来るであろう攻撃を予測しその先の先を取る、そう祖父に教えられた盾を用いた戦術のまま、俺は突撃していった。

「くっ……なるほど、これでは槍が入らんか……。ならばこれでッ!」

 そして。
 趙雲はこちらの思惑通りに、幾度か突きを放つ。
 その尽くは盾によって防がれることとなり、趙雲の悔しそうな声を耳に入れながらなおも突き進む。
 恐らく、趙雲の次の行動は横へ動いてのものになるだろう。
 正面が駄目ならば横から、その考えは普通のものであり、今の趙雲の心境を語っていると言っても過言ではないのかもしれない。
 となると、それに対応するために身体の向きを変えなければならないのだが。
 右か、左か。
 そう悩んでいた俺の視界――その右端で、不意に何かしらが動く気配がした。

「右かッ!?」

 その動きに、俺は反射的に盾を自身の身体の前から右へと動かし、身体の向きをも変えようとして――



「ふふ……それしきのことで揺れ動くとは、まだまだ甘いですぞ?」



 ――動かした盾の向こう、先ほどの位置から全く動いていない趙雲と視線があった。
 それにギクリと反応して盾と身体の動きを停止させても時既に遅く。
 神速に突き出された槍によって、俺の意識は刈り取られていた。





  **





「あー……まだずきずきする」

「おや、それほど強くはないと思ったのですが……ふむ、少々昂ぶって力加減を間違えましたかな」

「……それは少しでも本気を出してもらった、と受け取ってもいいのかな?」

「おやおや、北郷殿は私の本気があれほどであると思いか? この趙子龍の本気があの程度であると?」

「……いえ、全然思えません」

「ふふ……本気を出して欲しいのならば、その盾とかいうものの扱い方ももう少し勉強されておけばよろしいかと。相対してみたところ、あまり扱いにも慣れておらぬのでしょう?」

「うぅ……その通りです」

 意識を取り戻した俺は、趙雲と連れ添って城の廊下を歩いていた。
 既に鍛錬に使った模造の槍と刀は趙雲が片付けてくれたらしく、俺と彼女は特に何を持つわけでもなく歩いていたのだが。
 趙雲からの遠慮無しの指摘に、がっくりと肩を落としてしまう。
 確かに彼女の言うとおりなのだから仕方が無いのだが、それでも少しぐらいは言い方があるのではないか。
 そう思っていた俺を察してか、幾分かにやりとその端整な顔立ちを歪めながら、さも当たり前のように趙雲は口を開いた。

「ならばもってのほかですな。そもそも、慣れておらぬものを使ったぐらいで本気を引き出せると思われていたのが心外です」

「うぐっ……その、怒ってたりは……?」

「ほう……北郷殿は私がそれだけで怒ると――いや、怒っておりますな。それはもう、ぷんすか、という具合に」

「え? 今怒ってなさそうなこと言わなかったですか?」

「北郷殿の気のせいでしょう。それよりも……私の怒りを静めるためにはある物が必要なのですが……」

 怒ると思いか、みたいなことを言ったような気もするんだが、そんなことは知らないとばかりにしれっとした趙雲は、にやりと口端を歪めて笑った。
 彼女の怒りを静めるために必要なものとは一体何なのか。
 これが元いた世界なら、どこ何処の有名ケーキだとか、限定品だとか。
 この世界ならば服飾の類か、と思いつつも、俺は何が必要であるのかを尋ねた。
 
「なに、さほど多くは望みませんが、そうですな……良い酒とメンマを奢ってもらえればそれでよろしい」

「……ほえ? メンマ……ですか?」

「左様。幸いにも、つい先日にその両方を兼ね備えている店を城の近くで見つけましてな。まあ、そこで昼を頂ければ怒りも水に流しましょうぞ」

「うむむ……メンマを奢るというのが今いちよく分かりませんが、まあその程度でよろしいのなら喜んで。すぐに行きますか?」

「うむ。良い酒とメンマは待ってはくれませんですからな。では、早く行きましょう」

 しかし。
 趙雲の口から飛び出た予想外の言葉に、俺はしばし放心してしまう。
 メンマというとあれだよな、ラーメンとかの上に載っている筍のやつだよな。
 こりこりとした味わいは美味いものがあるが、かといってそこまで食べようとも思わないものであるのだが。
 何処と無くうっとりと、それでいて実に嬉々としてメンマについてを語る趙雲を前にしてはそれも言葉に出せるはずもなく、それで怒りが収まるならと俺は頷いていた。
 
 そして。
 早く早くと急かす――まるで散歩を楽しみにする犬のようだ、とまるで言えるはずのない言葉を脳裏に浮かべながら趙雲の背中を追っていた俺は、ふと一人の女官とすれ違った。

「――」

 そうして、すれ違い様に耳に吸い込まれた囁きに、俺は一つ溜息をついた。

「……すみません、趙雲殿。急用を思い出したゆえ、奢りは後日でも構いませんか?」

「む……しかし、先も言ったとおり酒とメンマは待っては――」

「俺が用意出来うる最高の酒とメンマを用意しましょう」

「――承知した。では、その儀を楽しみに今日は一人で昼としよう。……では」

 俺の言葉に若干残念そうな顔した趙雲であったが、俺の言葉にすぐさまにその表情を満面の笑顔に変えた後に、足取り軽くその場を去っていった。
 また余計な出費か、と肩を落とす俺とは対照的な彼女を見送った後、俺は自室へ急ぐことにした。





「大将……」

「……ええ、分かってます」

 そうして辿り着いた部屋。
 そこで既に待ち構えていた先ほどの女官――楊奉から受け渡された書簡に、俺は身体が強張るのを止めることは出来なかった。
 その内容にも既に目を通しているのか。
 その情報の意味を知っている楊奉も、俺と同じように顔を強張らせ、その声にも緊張が見て取れた。

 それだけのことを確認出来るぐらいには落ち着けている自分に感謝しつつ、俺は一つ溜息をついた。
 ついに来たか。
 空気に乗せることなく口の中でだけ呟いて、俺はもう一度だけその書簡を――ある細策が持っていたというそれへと視線を落とす。



 洛陽に暴政を敷く悪逆、董卓。
 漢王朝を己が意のままに操り、洛陽の民に圧政を強い、暴虐の限りを尽くす彼の者から、洛陽の街を解放するために軍を発せよ。



 反董卓連合。
 その戦いの始まりの合図に、俺は知らず手を握り締めていた。






[18488] 四十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/01/09 09:42



「きいーー! 一体全体、どういうことですのッ?!

 冀州。
 黄河の北である河北という広大で肥沃な地の中、鄴という街においてその声は響き渡った。
 古の戦国時代に西門豹という人物がいたことでも有名で、彼が成したこの地域に流れ込む漳河流域の灌漑は大事業となって、今日の鄴の農業を支えていた。
 そんな街での――そこを支配するために建てられた城での声に、二人の少女が反応した。
 
「ちょ、ちょっと落ち着いて下さい、麗羽さま~」

「そーそー、斗詩の言うとおり。今ここで何を言っても意味無いっすよー」

「お黙りなさい、猪々子さんッ! このわたくしを差し置いて――宦官から洛陽を救ったこのわたくしを差し置いて、何で董卓さんが洛陽で踏ん反り返っているんですのッ?!」

「何でって……だって、なあ斗詩」

「うぅ……麗羽さま、洛陽の人たち無視で宦官ばっかり攻撃してたし」

「ぶっちゃけ、無関係な洛陽の民にも結構な迷惑かけてたしな。しかもその後、放っぱらかしだったし……そりゃ、洛陽にはいられないっしょ」

「何か言いまして、斗詩さんッ、猪々子さんッ!?」

 鋭い目つきで視線を飛ばす麗羽と呼ばれる少女――袁紹は、ふるふると横に首をふる二人の少女から視線を外して、くるくると大いに巻かれた髪へと顔を埋めるようにして思考へとふける。
 事実、あの行動は――何進の命に従って洛陽へと入り、混乱に乗じて宦官を討ったことは間違いでは無かったはずである。
 あの一連によって中央が地方に向ける注意は途端に弱まることになり、結果として袁紹の勢力を肥大させたことは、如何に自分は思慮深いと常々思っている袁紹本人でさえ認めるところであった。
 自らの才能が怖い、などと思ったこともあるが、この乱世においてはそれも必要なものであると自分を言い聞かせていると自分では思っていた。

 なのに、である。
 あれだけ洛陽の民を苦しめていた宦官を廃したにもかかわらず、洛陽の民からはおろか、漢王朝からの使いが来ないのは一体どういうことなのか。
 袁紹の予想であれば、洛陽を宦官から解放し、さらにははなただ不本意ではあるが何進の後継として大将軍に任命される、と当然のように思っていたのだ。
 それが、いつまで経っても洛陽からの使いが来ることはなかった。
 あまつさえ、自らがいたであろう場所に董卓なる少女がいるのは一体如何なることなのか。

「斗詩さん、猪々子さん、洛陽に攻め入りますわよッ! 董卓さんに、身分の違いというものを教えて差し上げなさい」

「え……ええぇぇッ?! れ、麗羽さま、本気ですかっ?!」

「あちゃー……姫、それはさすがにまずいんじゃ」

「……? 何でですの?」

「れ、麗羽さま、今、洛陽を攻めて董卓さんと戦ったら、必然的に漢王朝に喧嘩を売っちゃうことになっちゃうんですよ!? そうなったら朝敵にされて、回りの諸侯から一斉に攻められちゃいます!」

「んー、さすがに今のあたい達じゃ、それに敵わないから、姫の言うこともちょっと無理じゃないっすかね」

「むきーー! だったら一体どうしろと言うんですのッ!?」

 今こうしている間にも、洛陽では董卓がその権力を振るっていることだろう。
 贅沢の限りを尽くし、酒池肉林が如くの饗宴を繰り返し、漢王朝を意のままに操る。
 酒池肉林に興味は無いが、それでもその権力を董卓が持つよりは自分が持つことのほうがいいに決まっているのだ。
 だが、洛陽に攻めて無理矢理に、という方法は腹心であり親友でもある二人の少女に否定されてしまった。
 となると、どうやって、という疑問を袁紹は抱くことになるのだが。

 そんな疑問も、一人の少女の進言によって解決することになる。





「……連合、ですって?」

「はい。袁紹様は洛陽に攻め入り董卓を廃してその跡を引き継ぎ時代の実力者となりたい。ですが、それを成そうとすると朝敵という汚名を被ることになり、ひいては袁家の存亡に関わることになります。……しかし、それは袁家のみので事を起こした時の話。董卓が洛陽で暴虐を強い、洛陽の民が暴政に喘いでいるゆえに洛陽解放のために軍を挙げる。その名目をもって連合を結成すれば、漢王朝が何と言えど、衆目からすれば我々は朝敵ではなくなるでしょう」

「でもさー、董卓を倒しても結局は連合の勝利ってことになって、姫の手柄にはならないんじゃね? そしたら、あまり意味無い気がするんだけど……」

「故に、袁紹様が連合の発起人となってその主権を握るのです。さすれば、連合が董卓に勝利したとて、主権をもって洛陽へと入ればそれに異を唱える者もおりますまい。もしいたとしても、洛陽で得た兵力によってその意見ごと押しつぶしてしまえば……」

「で、でも、もし連合を発起したとして、それだけ都合よく諸侯が集まるとは――」

「集まるでしょう、必ず」

 慌てたように発言する斗詩と呼ばれる少女――顔良の言葉に、連合の進言をしてきた少女はにやりと笑って自信溢れる言葉を放った。
 蒼銀の髪を軽く揺らす様は何処か鋭利であったが、その雰囲気と相まってか、その言葉は袁紹にとって酷く甘く聞こえることとなった。
 
 確かに少女の言うことは一理ある。
 三公四世を輩出した名門である袁家の威光であれば、いかに漢王朝に弓引く形となりうる戦いであっても、それに従うものは後を絶たないだろう。
 それこそ、大陸中の諸侯が従ってもおかしくはないはずである。
 ならば。
 そう考えた袁紹の行動は迅速であった。

 反対を唱えなくなった顔良と猪々子と呼ばれる少女――文醜に、出陣に向けての軍の準備を命じ。
 文官に反董卓連合の檄文に関することを命じ。
 進言してきた少女は、将として任命し一隊を率いるようにと命じた。
 一兵卒からの異例の抜擢ではあったが、それも袁紹の命であれば逆らう者はおらず、多くは滞りなく進むこととなった。
 
 そして。
 一通りの指示が済み、万事問題無いとしたとき、袁紹はふと少女の名を知らないことに気づき、そしてその名を問いかけた。
 普段であればそのようなこと気にも留めないのだが、まあ役に立った者の名を知っておくことも必要か、と不意に思ってのものだったが。
 一度気になったものは知らなければ気が悪い、とのことであった。



 張恰(ちょうこう)、字は儁乂。
 それが少女の名前であった。





  **





「何だこれはッ……一体どういう事だッ!?」

 忍が手に入れた書簡を揚奉から見せられた翌日、俺はそれを賈駆へと見せた。
 それを見せずにいてもどのみち彼女の耳には入ることであるし、そもそも俺一人で現状を打破出来る程度では無くなってきているのである。
 初めのうちこそどうにかしてその結成を遅らせるかその口実を与えないようにしよう、と思いつく限りの手で奮闘していた俺であったが、結局のところはそれを行うのが人であるがためか、どうすることも出来なかった。
 となってくると、俺一人が意固地になって出来る対応にも限度が出てくると思ってのことだったのだが。
 賈駆が董卓軍の主要な面々を招集して始められた軍議の始まりは、華雄の怒鳴り声から始まったのである。



「見た通りのまま、洛陽に暴政を敷く悪逆を討つべし、という檄文。さしずめ、反董卓連合軍の決起文ってとこかしら?」

「そのようなことは分かっているッ、詠! 私が言っているのは何故このような文なのだ、ということだ! これでは、月がまるで……」

「まるでも何も、向こうは――これの発起人である袁紹は、明らかにこちらをそう謳って軍を発しようとしているわ。その目的が、この檄文に書いてあることなのか、はたまた別のことなのかは分からないけどね」

 ふん、と忌々しげに一度鼻を鳴らした賈駆は、憤る華雄から視線を外して、もう一度書簡へと視線を落とした。
 それにつられて、俺も視線を落とす。

 既にその書体も内容も暗記してしまう程に目を通したものであるが、それでもその内容には気を引かれるものがあった。
 元々、俺の知る歴史の上でも反董卓連合軍は結成された。
 その発起人が今回のように袁紹なのか、或いはまた別の人物――曹操やら橋瑁という人物だったという説もあるが、そこはまあ置いておこう。
 だが、その歴史において時の栄華を誇った董卓は檄文の通りに激しい暴政を敷いていたということであり、それを討つということはあながち間違いでは無かったと言えたのだ。

 だが、今俺の隣にいる董卓は、暴政どころか圧政と言われるようなことすらしていない。
 逆に、財を得て自らを富ませるためにと今は亡き何進と宦官によって跳ね上げられていた税を無理の無い程度にまで抑え、さらには洛陽での騒乱によって失われた家屋や田畑の再建費用を国庫を開いたりして補ったりしたのである。
 善政、とも言えるような政をしておきながら悪逆だと言われるのは何故だ、と悩む俺に、董卓とは反対側に座る陳宮が口を開いた。

「……今回の件――詠の言葉を借りれば反董卓連合軍決起ですが、何も檄文の通りに義憤に駆られて、というばかりではないのです。皇帝は献帝に変わったばかりで献帝自身もまだ幼い。ともすれば、その後見にという者が参加することもあるのです」

「更に言えば――と言うよりはこれが一番多いと思うんだけど、ボク達が洛陽にいることが気にくわない、っていうのもあるんでしょうね。元々、涼州の一太守でしかなかった月が、偶然にも次代皇帝を保護して権力を得る。権力のことしか頭にない奴からしてみれば、そりゃ頭にも来るわよ」

「なるほど……やからこそ、月の変わりにその座に就こう、ってのが出てくるわけやな」

 ほんまにしょうもない奴らやで。
 賈駆の言葉に納得がいったかのように頷く張遼のその言葉に、なるほど、と俺は深く頷いた。
 確かに、陳宮や賈駆の言うとおり権力を求める者が多く参戦することは間違いないだろう。
 恐らく袁紹もそうであろうとはその人となりを調べていた韓暹の言ではあるが、彼の人物が名門である袁家ということも含めて見れば、それに取り入ろうとする者もいることだろう。
 
 さらに言えば、檄文を真に受ける者、混乱の中のし上がろうとする者、周囲に流される者など、多くの諸侯がこの戦いに参加するのだと思う。
 皇帝のいる洛陽に攻め入ることは朝敵にも成りうることだが、檄文によって大義名分を得ていることは大きな要因だろう。
 さらには、その檄文を民にまで広めたことによって、参加しないものは英雄にあらず、という風聞を流される状況を作られたのであれば、これからのことを考えると参加しないほうが不利なのだ。

 ともすれば。
 これらを見据える諸侯が反董卓連軍に参加するのは、半ば当然のようなものであった。


 
「……詠ちゃん。今回の戦い、戦うことなく話し合いで解決することは出来る?」

「……月、さすがにそれは無理よ。連中も悪逆と謳った以上、その首を――少なくとも、その死を求めて軍を動かしてくるわ。そんな中で、話し合いで解決出来るなんてボクは思えない。下手をすれば、その場で殺されるかもしれないのよ。……ボクは、月を死なせたくない、だから反対だわ」

「……それに、もし月殿が言う通りに話し合いで解決――洛陽から董卓軍が撤退したとしても、結局のところ、洛陽は権力争いの中に放り込まれることになるのです。そんな中、先の騒乱の復興を董卓軍が支援したにも関わらず、新たな権力者がそれを成さないとすれば、洛陽の民は董卓軍を求めるですよ。そうなってくると、先の先を取らんとするその権力者に討たれることになるのであれば、今戦ったとしてもさして変わりはないのですよ」

 そうして。
 権力という無形のものを求めての連合軍であれば、それを差し出すことで戦いを止めることが出来ないか、と董卓が考えるのも当然であると言えた。
 なるほど、確かに権力を宙へと放り投げることが出来れば、董卓軍としては戦わなくて済むだろう。
 だが。
 それは洛陽の民を見捨てることになる。
 先の騒乱からの傷跡も癒えぬままに新たな騒乱へと巻き込まれ、兵へと徴集されて、一時を凌いだとしてもまた新たな騒乱に巻き込まれる。
 そうなってしまえば、洛陽が元の歴史通りに荒廃に塗れた地になることは容易に想像出来てしまうのだ。
 そして、戦うことを嫌う董卓なれど、それは意に介さぬものであるのだ。

 故に。
 董卓はそれまで揺れ動いていた瞳を――戦わずに矛先を治める手立てが無いかと回転させていた思考をゆっくりと落ち着かせて、前を向いた。
 その瞳に、迷いは無かった。

「戦うことは嫌いです……でも、戦わないと生き残れないなら――大切な人達や民のみなさんを守れないのなら、頑張るしか無いと思います……。だから、皆さんの力を私に貸してください!」

「当然よ、月。くく、軍師の腕が鳴るわね。鬼謀神算、とくと披露してみせるわ」

「……みんな守る。月も恋も、みんな負けない」

「恋殿が戦うというのであれば、恋殿一の家臣であるねねが戦わない筈がないのです! 存分に智を振るわせてもらうのですよ!」

「我が武、その全てをもって敵を打ち倒してくれるわ!」

「強いやつと戦えるんなら、なんでもええけど……まっ、やったろうやないけ!」

「すぐに石城安定の父上と稚然様に使者を送ります。まあ、前回は稚然様でしたので、此度は父上が来るのだと言って聞かなそうですが……」

「ふむ……ならば、俺は武具などの備蓄を確認してくるか。陽菜、お前は洛陽の防備の確認を頼む」

「了解だよ、子夫。ん~、忙しくなってきたぞー!」

 ならばこそ。
 董卓を主と――彼女の下に集う面々にも迷いは無かった。
 自らが誇る武を、智を、その能力を遺憾なく発揮出来る戦場に赴くということに。
 そして、自らが主である少女の願いに応えるということに。

 そしてそれは、当然の如く俺も同じであって。
 にわかに活気立つみんなへと視線を移しながら、俺は静かに呟いていた。

「守ってみせる――守りきってみせるさ。大切な人達も、大切な場所も何もかも……今度こそ」






「さて……そうと決まれば細かいこともさっさと決めていきましょう。時間が惜しいわ」

 そうして、各々が自らの覚悟を新たに確かめた後に、賈駆が切り出した言葉でざわめいていた空気が引き締まる。
 牛輔と李粛が戦に関わる物資や武具の確認へ、徐晃が戦巧者であり董卓軍の重鎮でもある李確と徐栄へ使者を出すために部屋を出るのを見届けた後、連合軍とどう相対するかを早急に話し合おうとする賈駆が口を開く。

「まず、基本方針だけど――」

「――待ってくれ、その前に一つだけ」

 そして、それに続く賈駆の言葉を待っていた視線は、唐突にそれを遮った俺へと向けられることとなるのだが。
 えーと皆さん……連合軍と戦う覚悟を決めたのはいいんですけど、ちょっと目が血走ってて怖いですよ。
 特に華雄さん、その今にも襲いかかってきそうな目で睨まないでください、とてつもなく怖いです。

 とまあ、そんな暢気なことを考えながらも恐怖に怯えて背筋を強張らしていた俺であったが、一体何を言うのか、という視線に答えるべく口を開いた。

「翠――馬超殿、それに趙雲殿と程立殿、郭嘉殿は明日までに出立の準備を済ませ、洛陽から出て行って貰いたい」

「……な、何でだよ、何でなんだよ、ご主人様ッ!? あ、あたしは確かにがさつで乱暴で可愛くないかもしんないけどさ、邪魔だから出て行けなんて言うことないだろッ?! あたしだって、みんなやご主人様と一緒に――」

「――どうどう、落ち付け、落ち付けって、翠。誰も邪魔だから出て行けなんて言ってないだろ?」

「じゃあ何でッ!?」

 そして案の定と言うか何と言うか、俺の言葉に――洛陽から出ろ、という言葉に真っ先に反応したのは馬超であった。
 猪突とも呼べるほどに真っ直ぐな彼女のことだ、俺が放った言葉の奥も考えずに何事もなく受け取るだろうとは思っていたのだが、馬超の行動はまさしく予想通りとも言えるもので、簡単に予想できるほどに行動の読める彼女の将としての未来に、少々不安な影が見え隠れするのは気のせいだろうか、なんて思ってしまう。
 この真っ直ぐさが彼女の長所であり好ましい部分ではあるのだが、すぐさまに短所に直結されるのも些か問題ではある。
 どうすればそれを直せるか、などと先ほどまでとは全く関係の無いことに思考を使い始めていた俺の意図を察したのか、なるほど、と小さく呟いた賈駆が口を開いた。

「……翠、こいつはね、連合軍にあんたが――西涼が狙われないようにって言ってるのよ」

「は、はぁ? 一体どういうことだよ?」

「……西涼連合の筆頭である馬騰の娘がへっぽこ北郷の下で武勇を振るったとなると、連合からしてみれば、西涼が董卓軍の下に付いたのだと見るようになるのです。ともすれば、董卓軍を討った後、その矛先が西涼にまで及ぶことは明白なのですよ。こいつは、そうならないようにすると言っているのです」

「……勝つつもりやー言うても、勝てるかどうか分からん以上、同盟の相手のことを考えて最悪のこと考えるちゅーわけやな。中々に軍師っぽいことやっとるやんけ、一刀」

「まあ、負けるつもりも無いがな」

 陳宮の言った通り、今現在で言えば俺の――董卓の臣である俺の客将としている馬超が、連合相手に武を振るったりすれば、いざ董卓軍が敗れた際には西涼にまで影響が及ぶ可能性があるのである。
 関係無い、間違いだ、と断固として主張することも出来るだろうが、元々の結成の目的が権力である連合軍において、その主張が通るかどうかは怪しいものである――話を聞くかどうかすら怪しいのだ。
 そんな最悪の状況を考えれば、馬超がこのまま董卓軍に留まるのは大変に危険なことであり、今俺が切り出さなくとも馬騰やその軍師である馬鉄であれば思いつくことであり、すぐさまに返還の使者を出してくることは目に見えていた。
 
 故に、俺から切り出した訳なのだが。
 ふと静かに――それでいて何故か迫力満点に呟かれた言葉に、俺は内心たじろいだ。

「……ご主人様は、西涼のことを思って帰れって言ったのか?」

「ま、まあ、そうなるかな……。たださっきも言ったけど、決して邪魔だと思った訳じゃないぞ」

「……そっか。……あたしがご主人様を斬りそうになったこと、あれはもういいのか?」

「あー……そんなこともあったっけなあ。まあ、その分は働いてもらっただろうし、特に問題は無いと思うよ。次からは気をつけておくし」

 そうして。
 俺の言葉を受けてしばし考える素振りを見せた馬超であったが、それでも俺の言葉に納得してくれたのか、小さく一度だけ頷いた。
 そして、席から立ち上がった馬超は、董卓の方へと向き直った。

「……西涼連合が雄、馬寿成が娘、馬孟起、本日この時をもって董卓軍客将の身から西涼へと帰還させて頂く。……共に戦えぬことは残念であるが、貴軍の健闘を西涼から祈らせて貰おう」

「……はい。大したもてなしも働き場も用意出来ませんでしたが、貴殿が当家に残されたこと、大変有り難く受け取らせてもらいます。……お元気で、翠さん」

「ああ、月も元気でな。それに詠も、みんなも。……死なないよな、ご主人様?」

「……うん、当然。とりあえず……元気でな、翠」

「ああ……じゃあ、またな」

 武人馬超では無く、俺の副官としていた翠としてでもなく、西涼の名代として挨拶をした馬超は、若干名残惜しそうに部屋を出て行った。
 その背中だけではどんな思いであるのかは読み取れなかったが、それでも董卓軍から離れることが名残惜しいと思ってくれているのだろうか、と思うと俺は少し嬉しかった。
 そこでだらだらと名残惜しまないところなんかは実に彼女らしいと微笑ましく、そんな彼女がいなくなるということに少しばかり寂しいと思ってしまったりもするのだが、まあ仕方のないことだろう。
 生き残れば――反董卓連合軍に勝利することが出来れば、再び会うことが出来るだろう。
 そんな不確かな予想に確信めいた予感を抱きつつ、俺は閉じられた扉を見つめていた。



 そして。
 馬超を見送った俺は、趙雲達へと視線を向ける。
 馬超のように西涼のような地域まるごとのことを交えない分、趙雲達のことについては完全に私心のようなものがあるのだが。
 そんな俺が考えていることに気付いているのか、まるで甘いと言われているような視線を賈駆から感じつつ、俺は口を開いた。

「……趙雲殿達も、ご説明が必要ですか?」

「……いえ、結構ですよ、北郷殿。貴殿が、私達のことを――後々の仕官のことを考えてくれてそう言ってくれているのだということには気付いておりますから」

 俺の言葉に答えた郭嘉の声色は、先ほどの馬超とは対極的に酷く落ち着いたものであり、知らず俺は身体を強張らせる。
 悪逆と言われている董卓の客将であった、という噂が立つと後々に彼女達が求める主に仕官する際において、何かと不具合が生じるかもしれないと思ってのことだったのだが。
 彼女の声が、視線が、その思考がこちらの意図が本当にそれだけなのか、その裏に何かあるのではないか、と探っているようで気が気で無かった。
 さすが俺の知る歴史では曹操の懐刀と呼べる郭奉考である。
 俺の意図を汲み取ってなおその裏を読もうとするのには恐れ入るが、それでも少しは信じてくれてもいいのに、と思ってしまうのは仕方のないことだと思いたい。

「くく……ふふふ……はっはっはっは!」

 しかし、そんな郭嘉の視線も唐突に響いた笑い声――趙雲の声によってなりを潜めることになる。
 訝しげに向けられる視線を気にするふうでもなく、趙雲は口を開いた。

「稟よ、怪しむのは分かるのだが、北郷殿がそのような腹芸が出来ようがなかろう。先の馬超のでもあのようであったのだ、先ほどお主が言った理由が正解であろうよ」

「まあ、お兄さんが隠し事の出来るような人ではないのは、ここ数日で分かり切ってることですしー。稟ちゃんの危惧しているようなことは起こらないかとー」

「むむ……ちなみに程立殿、郭嘉殿が危惧していることとは一体?」

「お兄さんには日常茶飯事でしょうけど、まあ風達に洛陽を出ろと言っておきながら、その実、軍の監視下から外れた後にその権力を使って風や稟ちゃん達の肢体を存分に楽しむこと――」

「――そんなことしないよッ?! ってか日常茶飯事とか何それッ、そんなことしたこと無いのにッ!?」

「……北郷、貴様、月から預けられた権力を用いて、そのようなことを……」

「しょ、葉由殿、そのようなことは決して――ヒィッ、どこから金剛爆斧を取り出したんですかッ?! ちょ、ちょっと、程立殿、誤解を解いて――」

「……ぐう」

「――寝るなぁぁぁぁッ!? 寝るな寝ないでお願いだからぁぁッ?!」

「おおう……お兄さん、こんな人の目がある所で風を襲おうとするとは、中々やりますねー」

 朗らかに笑う趙雲と少しばかりの問答を広げる郭嘉から視線を外し、彼女が危惧することとは一体何なのかを程立へと問いかける俺なのだが。
 彼女から帰ってきた答えは遙か斜め上をいくもので――いや、なんとなーくそんなことを言われそうな予感というかこれまでで学んだ予測とでもいうものをしていたのだが、いやまさかこのような場所でそのようなことを言われるものとも思えなかった俺は、些か過敏に反応してしまったらしい。
 それを聞いてしまった――否、わざと聞こえるような声を出した程立の思惑通りに釣れた華雄に、彼女の愛用の武器でもある金剛爆斧を首に突きつけられてしまう。
 それをなんとかくぐり抜けて程立に訂正を促せば、何故だか襲っていると言われる始末で。
 墓穴とか泥沼とか、そんなのに嵌り込んでいる感覚に、俺は襲われていた。

「……北郷殿が私達を森の奥まで誘い込んで寂れた小屋に押し込めてそこで自らのあらん限りの欲望をさらけ出してでも逆らったらその権力によって何処までも辱めるとしてついにはその艶やかな肌に……うぷっ」

「はーい、稟ちゃん、とんとんしましょうねー。華雄さんも、今のは風の冗談ですのでー、その辺にしておかないとお兄さん死んじゃいますよー?」

「む……程立がそう言うのなら、まあよかろう。しかし北郷、もしそんなことをしでかしてみろ、その首、即座に宙を舞うぞ?」

 だが、その感覚も今にも首を落とさんと構えられた刃を前には霧散してしまう。
 華雄の膂力であれば、その体勢からでもほんの少しだけ力を入れれば俺の首など落とすことは容易いのであろうが、それも、いきなり顔を真っ赤にして鼻血を出した郭嘉を介抱している程立の言葉によって音もなく引かれることになった。
 首に冷たい感触がしている間は、本当に生きた心地がしなかった。

 

 そうして。 
 華雄の言葉に音もなく頷く俺を見ていた趙雲が、にやりと口端を歪めながら口を開いた。

「ふむ……では、北郷殿――いや、一刀殿とでも呼ばせてもらうが、これからもよろしくお願いするとしよう」

「あ、はい、分かりまし……は?」

「なに、いずれ仕えるに値する主を捜すことも大事ではあるが、このような大戦において蚊帳の外というのも何とも面白くない、と思いましてな。ならば、より多く戦う機会がある董家にいる方が幾分か面白いかと」

「では風もですかねー。我が知謀、ご覧になれ……とでもしておいて下さいー」

「……まあ、このような大戦において知勇を振るえる機会というのもそうそうはないでしょうから、このまま客将として世話になってもよい、ということですよ、北郷殿。……無論、邪魔だということであればやぶさかではありませんが」

 コクコク、と頷いた姿勢のまま趙雲の言葉に反応した俺であったが、その意味が頭の中に入っていくと同時に、随分と間の抜けた声が口から漏れ出ることとなった。
 そんな俺にもう一度にやりと笑った趙雲は、これから訪れるであろうその機会に若干瞳を輝かせながら、その理由を語ってくれた。

 ようするには、自分も混ぜろ、と。
 これだけ大きな戦いともなると、多くの英傑豪傑の類が集まることは必至であるのに、その中に自分が加わっていないのが実に面白くない、と趙雲はそう言ったのである。
 そして、それは程立と郭嘉も同じであるみたいで、自らの知謀を振るうのも悪くはない、と言ってくれていた。
 勿論、この反董卓連合をやり過ごすまでではあろうが、それでも、俺が知る中でも有数の英雄達が共に戦ってくれるというのであれば、これほど頼もしいことはない。

 何より、将は多いほうがいい。
 何しろ、相手は連合軍である、俺の知る歴史であれば曹操に限らず孫策や劉備の軍勢も交じっているのであれば、きっとその配下にいる将は後の世に名を残すほどの英雄達であろう。
 ともすれば、こちらの将が相手不足と言う訳でもないが、それでも相手のことを思うと数は出来るだけ多いほうがいい。
 特に、知謀の士ともなれば賈駆と陳宮しかしないのが現状であるのだから、今このときだけでも力を貸してくれるのは非常に有り難いものがあった。

 賈駆に視線を向けると、彼女も同じことを考えていたのかこちらを向いていた視線とかち合うこととなり、その頷きと共に董卓へと視線を移す。
 そして、董卓もまた頷いてくれたことによって許可を得た俺は、彼女達に向けて頭を下げつつ言葉を放った。

「趙雲殿、郭嘉殿、程立殿……その武勇、そして知略を、これからもどうかお貸し願いたい」

 そうして。
 俺の言葉を受けて、趙雲はにやりと笑い、郭嘉は仕方がないといったふうに息を吐きながら、俺の言葉に返してくれた。

「趙子龍、確かに承った。ついては、これからは字である子龍と呼び捨てで構わんよ。……どことなくむず痒い故な」

「同じく郭奉考、その願い、確かに。……そうですね、私も星と同じで、字である奉考で構いません。こちらも一刀殿、と呼ばせてもらいますから」

 では私は一刀と呼ばせてもらうとしよう。
 そんなことを言いながら俺の願いを承諾してくれた趙雲と郭嘉に感謝しつつ、しかし承諾の言葉を発しない程立にふと不安になる。
 先ほどは共に戦ってくれるという意味ともとれる言葉を聞かせてはくれたのだが、もしかしたらこの短い間に何かしらの粗相で気が変わってしまったのだろうか。
 そんなふうに不安になっていた俺であったが、次いで程立が発した言葉に――彼女の宣言とも取れる言葉に、驚愕することとなる。



「姓は程、名は立――でしたのですが、今日この時をもって昱とするのです。字は仲徳……そして、真名は風なのですよ。お兄さん、これからよろしくですー」






[18488] 四十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/07/06 10:30
「――風」

「んむ? おやおや、稟ちゃんではありませんかー。風に一体何用で?」

 反董卓連合軍の発起とその対策に関わる軍議が終わり、董卓軍の軍師である賈駆と陳宮、そして臨時の主である北郷がいまだ細かい話し合いをしている中、先に部屋を退室していた郭嘉は、前方を歩く程立――先ほど改名したので程昱、へと声をかけた。

 先ほどの軍議――北郷が自分達の知勇を願い求め、自分も趙雲もそれに応えたこと、それは良かった。
 路銀を稼ぐため、というのが最初の目的ではあったが、それでも自分達を巻き込まないためにとその契約を解除しようと気を使った北郷への義理立てという部分もあるが、多くのことで言えば自らの知謀を大軍を相手に振るってみたい、という思いがあったからだ。
 当然、自らの武勇に自身を持つ趙雲も同じ気持ち――彼女の場合、こちらの予測も当てにならないだろうが、それは程昱も同じであると思っていたのに。
 程昱は、自らの真名を北郷へと――董卓軍へと預けたのだ。

 それだけならばさしたる問題も無いのだが。
 一番の問題として郭嘉が捉えていたのは、程昱が改名したことであった。

「……以前、日輪を掲げる夢を見た、そうあなたは言っていましたね」

「……おおっ、よくそんな昔のことを覚えていましたね、稟ちゃん。いやはや、さすがですよー」

「……昔というほどでもないと思いますけど」

 そう、そこまで昔のことではない。
 それどころか、董卓軍に客将として迎えられる前、天の御遣いを求めて洛陽を経て安定に向かおうか、という話をしていた頃であるから、つい先日といってもいいほどであった。
 その日輪が仕えるに値する主かもしれぬ、これから会いに行く天の御遣いがもしかしたらそうかもしれない、陽光に煌めく衣がその証かも。
 そんな話を程昱と交わしたことを思い出しつつ、郭嘉は口を開いた。

「……昱という字は、立の上に日という字があります。となれば、その名はあなたが見た夢を元にしたものと、私は推測します。……一刀殿に、英傑の相を見ましたか?」

 そうして。
 程昱との会話と、そして改名に至るまでの道筋の中で、一つの確信にも似た予想が郭嘉の脳裏を駆ける。
 北郷一刀に、英傑の相を――日輪を見た、という予想を。
 なるほど、確かに董卓軍の中にあって、彼の人物の位置は中々に重要なものと言える。
 董家の中でも重鎮中の重鎮とも言える李確と徐栄の代理として、董卓軍の武官と文官の橋渡しと中継ぎを行い、政務を賈駆が統括するのに合わせて軍務に関わることを統括するなど、確かに、数え上げてみれば意外と多い者があった。
 だが。
 英傑の――英雄と成りうる相を見るほどか、と問われれば首を傾げるものがあることもまた確かであるのだ。

 自らも、そして趙雲も、自身の身命をかけてまで仕えたいと思える英雄たる人物に出会うために旅をしてきた。
 勿論、程昱も同じであったと思っていたのだが。
 そんな思いが顔に出ていたのか、にゅふふ、と笑みを浮かべた程昱が口を開いた。

「稟ちゃんの言いたいことはごもっともだと思いますよー? 風とて、お兄さんにそこまで英傑の相があるとは思えないですしねー」

「なら……」

「……ねえ、稟ちゃん? お月様は、独りぼっちだと思いますか?」

 だからこそ。
 何故、と思っていた郭嘉は、程昱の問いの意味が分からなかった。
 英雄英傑の話をしていたと思っていたのだが、程昱は何故月の――夜空に独り浮かぶ月のことを問うてきたのだろうか。
 その意味を理解出来ない郭嘉に視線を向けながら、実に面白そうに――そして楽しそうに、程昱はその言葉を放った。
 


「風はそうは思わないのです。夜空にお月様が浮かぶのと同じように、昼空にはお日様が浮かびます。異なる輝きを放ちながらも、その二つは決して離れることなく連れ添うのです。お日様があるからお月様がある、お月様があるからお日様がある。それは当然のことのように思えますが、それでも、離れないようにするお日様とお月様は凄いと思うのですよ」



 そうして。
 にこり、と笑いながらも、いつもの間の抜けたような喋りではない声を発する程昱に、郭嘉はふと思い立つものがあった。
 その呼び方は違うものの董卓の真名は月という字ではなかったか、と。
 もし董卓のことを夜空の月に例えているのであれば、やはり天の御遣いであり陽光に輝く衣を纏う北郷を日輪として例えているのではないか、と郭嘉は、半ば確信していた。

「そうですか……少し、寂しくなりますね」

「まあ、それもこの戦いを生き残れたらの話なんですけどねー。現状で言えば圧倒的な兵力差もあるでしょうし、どうなることやらですけど……まあ、どれだけ兵力がいても弱点があればどうしようも無かったりしますけどねー」

 程昱が北郷に――董卓軍に仕えるのかどうかは本人次第ではあるが、このままでいけばそれもその通りになると思った郭嘉は、ひとまずそれを意識の外へと出してこれからのことを考える。
 程昱の言うように、連合軍の兵力は先の軍議でもあったように凄まじいものになることは明白であるが、それでもどのような大軍勢となっても弱点は――連合特有の突き所は存在する。
 ようは、如何にそこを効果的に攻められるか、というのが勝敗を決める鍵となってくるのだが。
 戦の前に勝敗を決める、とは孫武の兵法の極意ともいえるものであるが、さて如何にしてそれを成すべきか、と思考していた郭嘉の耳へ、程昱の含み笑いが聞こえた。

「それにですねー、稟ちゃんが寂しい思いをするかどうかはお兄さんにかかっているような気もするので、今決めるのはまだ早いと思いますよー?」

「……一刀殿が?」

「はいー。……戦に従軍させると思わせておいて、いつ森の中に引きずり込まれるかは分かりませんし、稟ちゃんもいつ恥ずかしい思いをさせられてお兄さんから離れられなく――」

「ちょ、ちょっと、風ッ、このような場所でそのようなことを言うのは恥ずかしい思いをさせて私のことを縛り付けようとする一刀殿の策略であってああ駄目ですそんなとこはしたないああもうッ……うぷしゅっ」

「あららー、ちょっと意地悪しすぎましたかねー。はーい、稟ちゃん、とんとんですよー」

 そして。
 いつもの癖――と言うのも憚られるが、鼻腔から噴き出した鼻血を抑えるために首筋をとんとんと叩く程昱に感謝しつつ、郭嘉は鼻血を止めるために悪戦苦闘するのであった。





  **





「……連合軍との戦い、前線での実質の指揮は一刀さんに任せたいのですけど……」

「ああ、分かったよ」

 そうして。
 武官の面々には兵の徴募や調練を、文官には戦に至っての必要物資や経費などの確認を指示した賈駆は、俺と陳宮にその場へ残るようにとした。
 ぞろぞろと殆どの面々が退室した後、ふと血の臭いを微かに感じたような気もしたのだが、特に気にすることなく幾ばくかの間を持って放たれた董卓の言葉に、気のせいか、として俺は特に驚くこともなく彼女の言葉を受け取っていた。
 そんな俺を訝しんでか、賈駆が口を開く。

「……えらくあっさり受けたわね。もうちょっと、断るかと思ってたんだけど……」

「断ったからといって、受ける受けないの押し問答をしている時間も、今は勿体ないだろ? だったら、俺に任せると言ってくれた月と詠の言葉を信じて、俺は自分に出来ることをするだけさ」

「べ、別にあんたのことを信じてって訳じゃないんだけど……まあ、うん、そうしてくれて助かるわ。事実、動くなら出来るだけ早くの方がいいのは確かなんだし」

「……大体どれぐらいの猶予があるのかな? それによって、こっちの動きも変わってくると思うし……」

「……連合の発起人が袁紹ということも含めて考えてみれば、恐らくですが、一週間から二週間ほどが目安だと思われるのですぞ。優れているとは聞きませんが、名門である袁家が発起人というだけで集う諸侯もいるでしょう。それと同時に、参加するべきかしないべきか、それで悩む諸侯もいるでしょうし、遠地から参加するのもいるでしょう。それらが全て集うのを考えれば――」

「……一週間から二週間、か。なるほど、詠の言うとおり、あんまりのんびりは出来ないみたいだな」

 賈駆の言葉に頷く陳宮の言葉に、俺もまた頷く。 
 俺の認識で言えば、どれだけの距離が離れていようとも自動車や新幹線などの交通機関によってそれほどでもない、と無意識に思っていたのだが、今いるここは古代中国である。
 自動車どころか自転車であるとか蒸気機関といったものも開発されていない以上、その移動手段は徒歩か騎馬、あるいは馬車となる。
 石城から安定や、安定から洛陽までの距離だけでもかなりのものがあると思っていたのに、さらにそれより遠い距離を移動するとか、まともに考えられるはずも無かった。

 それでも賈駆と陳宮がそれぐらいの期間である、と言うのであれば、それも大きく間違えることはないだろう。
 となると、今考えるべきは遠い距離の移動ではなく、いかにしてその期間に迎撃の準備を整えるか、というものであるのだが。

「……とりあえず、戦の心得は相手がしてほしくないことをするってことね。あんたにも覚えていて欲しいんだけど、相手は連合軍、兵力だけなら明らかに向こうが上だわ」

「おおよそで……二十万、こちらが動かせる兵が七万程度と考えるのであれば、かなりの差ですな」

 張譲――宦官勢力と何進が抱え込んでいた兵力を洛陽にて得た董卓軍であったが、それも、俺が献策した警邏専門である警備部隊を設立したことに加えて、董卓が戦うことを嫌う人は軍を脱してもよい、としたことによって、その数は大きく減少していた。
 この董卓の言葉には少なからずの兵達が飛びつくことになり、その兵らも故郷などに親や家族を残しながらも無理矢理に徴兵されていた者達ばかりとなれば、仕方がないことだと思う。

 結果として。
 洛陽以前の董卓軍であれば万に届かないほどの兵力であったのが、守備兵力以外で考えての総数において七万程度にまで増えたというのはかなりの増強と言えた。
だが、内実とすれば指揮系統の統一や部隊指揮の調練、兵数が増えたことによる指揮をする将兵の増大などに時間を費やしたために、今現在で言えば、軍としての錬度はあまり高くない。
金で雇われていた賊崩れの雑兵が多い状態では、それも仕方のないことなのかもしれないが。
 精強を誇った華雄の部隊でさえ、その数があまりにも増えたために、他部隊との連携を取るのさえ難しいものであった。

 となると、取れる策などは自然と限られてくるものだ。

「……篭城、か」

「そうね……。あんたの言うとおり、洛陽に至るまでにある関に篭って戦うのがいいと思う。特に、汜水関と虎牢関は堅固だから、篭城にはもってこいね」

「そうして、連合の兵糧切れと権力争いが表面化するまで持ちこたえる、ですか……。地味ではありますが、それが一番被害の少ない策でしょうな……」

 話を進めていきながら机上に広げられた地図――忍に製作させた司隷全体の地図の上をカクと陳宮の指が走るのを、ふむ、と考えながら俺は眺めていた。
 
 練度がさして期待出来ない状態では、篭城という策はあながち間違いではないだろう。
 なにせ、城壁を攻撃しようとする兵のみと戦えばいいのである。
 城壁を登ろうとする者、城門を破ろうとする兵達だけを狙えばいいのであるから、如何に部隊としての練度が低かろうと、最低限戦えればいいというものであった。
 
 さらには、推測でも二十万である連合軍は、大兵力と将の多さという点でいえば脅威であるが、その大兵力がゆえに兵糧という弱点を抱えている。
 であれば、汜水関と虎牢関という俺の知る歴史の中でも堅固と言える関に篭城していれば、その弱点によってこちらが打てる策も可能性が増えていくのだろうが。
 脅威ともいえる大兵力。
 そして、俺の知る歴史においての董卓軍の敗北という知識が、それでは駄目なのではないかと俺に囁いていた。
 
「なあ……ちょっと、思いついたんだけどさ」

 大兵力、兵糧、堅牢な関――そして、地図を見るに汜水関から洛陽までのほぼ直線の道筋。
 それらに意識と思考を働かせ、そして現状である情報を元にした結果、ある一つの策が俺の脳裏を掠めることとなった。



「奇襲って、どうだろうか?」





  **





「ほわー……すっごい人だねえ」

 ざわざわ、と。
 幾重にも重なった人のざわめきが喧噪とも取れるような地において、それらとは全くの無縁であるかのような声が、のんびりと響く。
 その中には真からの驚きの色が混じっており、目の前に広がる光景――実に雲霞の如くとも言える人の集まりに、素直に驚いているようであった。

 それだけの人が集まるのが珍しいのか。
 きょろきょろと辺りへと視線をやるのに合わせて、桃色の髪が揺れ動く――ついでに、主張の激しい胸がぷるぷると揺れる辺り女性、しかも少女であるみたいであった。
 
「にゃはー、鈴々たちより断然多いのだー。んー、どれぐらいいるのだー?」

「……だ、大体二十万ほどだと、お、思います……。私達の二千から考えても、か、かなりの数かと……」

 そして。
 桃色の髪の少女――劉備の隣に立つ少女達が声を発する。
 少女というよりも些か小さい印象を受ける短髪の少女――張飛は、しかして、少女らしかぬ矛を肩に担いで劉備と同じく周囲をきょろきょろとしていた。 



 兗州陳留郡。
 帝都洛陽からさほど遠くないこの地において、これだけの人数――二十万もの軍兵が確認されるのは初めてのことではないだろうか。
 袁紹の檄文に応じて反董卓連合軍に参じた諸侯達の集い場となった彼の地には、それを表すかのように幾千、幾万もの旗が風に靡いていた。

 河北の雄、檄文を発し連合軍の発起人ともなった袁紹。
 その従妹であり、袁紹に負けぬ劣らぬの勢力を保つ袁術。
 徐州牧として、安寧の優れた統治をみせる陶謙。
 異民族との前線である幽州において、白馬義従と呼ばれる優れた騎馬隊をもつ公孫賛。
 反董卓連合軍が集うこの陳留において太守である張莫。
 その張莫の客将という形でありながら、実質その地を収める曹操。
 先代無き後、その跡を継ぎながらも袁術の客将として力を溜めている孫策。
 そして、戦乱に苦しむ民草を守るためにと義勇軍を率い、公孫賛と知古の中でもある劉備。

 多くの英傑名将達が参戦する反董卓連合軍において、将兵の数でも兵力でも劣る董卓軍に負けることなど露にも思っていない者は多くいるだろうが、しかしてその少女達は――劉備の後ろに控えていた少女達は違った。

「細作の情報によれば、董卓軍の総数は七万ほど……その内の二万を洛陽に残し、残りの五万が、緒戦のために前線へと出てくるらしいですが……」

「二十万と五万か……数だけでみれば、三倍以上の兵力をもつ連合が有利だと思うものだが……朱里、どう思う?」

「……簡単にはいかないと思います、愛紗さん。最初の関門――汜水関においては、側面を崖に阻まれ、広範囲に軍を展開出来ないようになっています。となれば、正面からしか攻められないということになりますが、堅牢を誇る汜水関においての正面攻めは、愚策でしかありません。本当なら何かしらの策を考えるべきなのでしょうけど……」

「雄々しく、華々しく、華麗に前進、か……。まったく、前線に出る将兵の命を何だと思っているのか……」

 そう呟いて、黒髪の少女――関羽は、疲れたかのように溜息を出して、先ほどの軍議を思い出していた。

 

 反董卓連合軍、初めての軍議。
 袁紹の檄文から二週間を経て、参加表明を示した諸侯の全てが陳留の地に落ち着いてから行われた軍議において、もっとも初めに議論されたことが総大将を決めることであった。
 権力争いからの名目とはいえ、悪逆と謳った董卓を討つための連合軍の総大将である。
 その任には最も才あるものが必要というのが各諸侯の意志であったのだが、かといって、あまりにも優秀過ぎれば戦果を横取りされることも考えられた。
 だが、自らが総大将になるということは連合軍全体の責任を負うこととなり、もし董卓討伐が失敗に終わってしまえば、その地位と名声が地に落ちることは目に見えていた。
 故に、誰もが総大将に立候補しようとはしなかったのだが。
 発起人となった袁紹が、三公四世の名家である自分が総大将に相応しいだろう、と立候補したのであった。

 無論、誰もそれに反対することは無かったのだが。
 総大将を決めた後の議題――如何にして洛陽へと迫り董卓を討つのか、という議題において、殆どの諸侯が、それに後悔したことであろう。

 陳留から直線――汜水関、虎牢関の堅牢な関を通り、洛陽へと迫る最短の道筋か。
 南方――荊州あたりまで南下した後に北上して洛陽を目指す遠回りの道筋か。
 大軍勢ともなった連合軍を支える兵糧の話もあるし、各々の間で繰り広げられる権力争いの話もある。
 根拠地となる土地のことも考えなければならない、といった各諸侯の腹の探り合いの中で、総大将となってしまった袁紹が命じた策は――策と呼べるかどうかも怪しいものだが、最短の道筋をただひたすらに前進、というものであった。
 
「愛紗さんの言うことももっともですが、かといって、我々に――連合軍に遠回りするほどの余裕が無いことも確かです。連合とはいっても、味方である諸侯の間で繰り広げられる権力の争い……それに加えて連合故の補給路の未整備に兵糧不足など、様々な要因がありますから……」

「しかしな……ただ前進しろ、などという命令は釈然としないものがあるのだが……。まあ、朱里の言うとおり、連合に余裕が無いことは認めざるを得ないのだがな……」

 朱里――諸葛亮の言葉に、関羽は諦めたように偃月刀を器用に持ちつつ、腕を組んだ。
 腕を組んだ際にその豊かな胸が主張しているのだが、関羽はそれを気にすることもなく言葉を発した。

「……しかし、董卓軍は一体どう出て――」



「――て、敵軍を……董卓軍を確認しましたッ!」



 しかし。
 董卓軍は連合軍に対してどのような策を取るだろうか、そう聞こうとした関羽の言葉は、唐突にもたらされた伝令の声によってかき消されることとなった。
 それと同時に関羽は――そして諸葛亮は、馬鹿な、と小さく呟く。

 現在地点は、初め反董卓連合軍が終結した陳留の地から、さほど離れていない。
 ただひたすらに前進、という連合軍全体の指標が定められ、そして今日中には最初の関門である汜水関を指呼の間に捉え、緒戦を開くと思っていた予想は大きく覆されることとなった。

 否、そもそも汜水関に籠城するということ自体を考えたのが間違いであったのではないか。
 そう思えるほどに、堅牢である汜水関を出ての連合軍を迎え撃つことは明らかな愚策であった。
 そもそも、迎え撃つにしても、なにもこんなに前に出る必要もないのだ。
 汜水関前に陣取り、地上で防戦しながら城壁の上から援護射撃をするのでも十分だと思われる。
 なのに、一体どうして。
 解の出ない堂々巡りに、諸葛亮から潤んだ声が発せられた。

「ひ、雛里ちゃん……」

「……情報が――本当にその軍が董卓軍なのかどうかを確認しないと、何にも出来ないよ、朱里ちゃん……。もしかしたら、連合に参加しようとした誰かの軍なのかもしれないし……」

 だが。
 汜水関より遙かに前方――これから両横を崖に阻まれた地形へと入っていこうかという目前で、その軍は陣を構えていた。
 遠目であるからそこまで詳しくを窺うことは出来そうも無かったが、それでも、その微動だにしないその陣が、少なくとも、雛里――庖統の言うような、連合に参加しにきた軍ではないことを知らしめていた。

 先ほどまでのざわめきが、瞬く間に大きなものへと変わっていく。
 恐らく、どの諸侯達も、あの遠くにある軍が董卓軍なのかどうかの真偽を確認するために、慌ただしく動いているのだろう。
 汜水関に籠城すると思われていた董卓軍が、陣を構えてこちらへの抗戦の意志を見せている。
 その可能性と、そこから派生する策を、連合軍の誰もが見出せずにいた。





 そうして。
 その陣を構える軍を指呼の間にまで捕らえた時、いよいよをもってその軍の正体が掴めることとなった。

 総数は五千。
 その合間にはいくつかの旗が立てられていた。

 『董』の旗は、その軍が董卓軍であるということを示し。
 『漢』の旗は、その軍が漢王朝を奉じる軍だと――董卓軍であるのだとを確かに示していた。

 そして、その合間に翻るは『郭』と『程』の旗であって。
 真ん中に示すように――自らがその軍の大将であると示すように『十』の旗が風に靡くままになっている。

 

 董卓軍と連合軍。
 五千と二十万、その先鋒の緒戦が始められようとしていた。






[18488] 四十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/01/27 09:36

「いやはや……中々に凄い光景だな」

 辺り一面――視界のほぼ全てを埋め尽くすほどの人の塊に、俺は空いた口をそのままに自然と呟いていた。
 一種感動すらするその光景に知らず緊張していたのか、力を入れすぎて強張っていた掌を開いたり閉じたりして解していく。

「……どうやら、連合軍はこちらを確認したようですね」

「おや……稟ちゃんの言うとおりみたいですねー。こちらを警戒してか、進軍が遅くなりましたよ」

 そんな俺の両隣で、『郭』の旗を掲げる郭嘉と、『程』の旗を掲げる程昱が冷静に連合軍を分析していた。
 彼女達の言葉に促されて連合軍を見れば、その言うとおりのようで、こちらを警戒し窺いながら徐々に距離を詰めてきているのが確認出来た。
 その連合軍の行動に、ひとまず安堵する。

 警戒などせずに遮二無二に攻め寄せられていればどうすることも出来なかったが、こちらを警戒することによってその進軍速度が低下することは、防衛するこちらにとっては大変有り難いものである。
 準備する時間が潤沢にあったなら罠の一つ二つ仕掛けておくことも可能であったのだろうが、さしたる時間が無かった今回に至っては、こういった罠をちらつかせることによって警戒させるぐらいしか手は無かったのである。
 とりあえずの初手の成功に、俺は人知れず安堵の溜息を吐いた。 

「おやおやー……緊張してるのですか、お兄さんはー?」

「そりゃまあ……今回は、こちらの倍とかいう話ではないですからね。程昱殿の言うとおり――」

「おいおい、兄ちゃんよ。まさか、終わりまで言わせる気じゃねえだろうな?」

「――風の言うとおり、緊張してるよ。……ありがとう、宝譿」

「おやおや、宝譿にお礼とはー……お兄さんも中々に面白い人ですねー」

「……敵を前にして、いやに落ち着いていますね、貴殿らは」

 そんな俺を緊張していると見てか――事実その通りなのだが、そんな俺に対して程昱が声をかけてくる。
 最近聞きなれた間延びした声にはどこか気を使うような色も混じっており、それが少し嬉しくて彼女の相棒である宝譿――程昱の頭上にある人形へと、返事を返す。

 日輪をモチーフにしたと言うその人形は、見た目で言えば酷く手作り感が溢れており子供が作ったもののように見えた。 
 程昱が改名したその由来は自らが日輪を支えている夢を見たため、とされているが、まさか程立の上に日輪の宝譿をおいて程昱としたのか、とも疑ったものだ。
 とりあえずあれだ、それはともかくとして、ただの人形のはずの宝彗が何故だか器用に動きまわっていたりするのがよく理解出来ないのだが、気にしたら負けかなと思うので触れないでおくことに決めた。
 時間もないことだし、と誰にでもなく言い訳する。

 

 ともかく。
 待ち構えていた連合軍が来た以上、このままのんびりしているわけにもいかない。
 とはいっても、二十万の連合軍に対し、こちらは精鋭をかき集めたとはいえ五千ほどなのである。
 如何にこちらを警戒させることに成功したとはいえ、その圧倒的な戦力差は先の黄巾賊との戦いなど児戯にも等しいと思えるものであって、意図もせず笑いたくなるぐらい凄まじいものであるのだ。
 これだけの戦力差であるのだから、取れる手などは自然と限られてくる。

「では……そろそろ、こちらも動きましょうかねー」

「そうですね……これ以上近づかれては、こちらも動けなくなりますから……では一刀殿、よろしくお願いします」

「……分かった、行ってくるよ」

 ともなればその限られた手を取るためにも先手を取らなければ、と俺は自分を奮い立たせて馬を前へと進ませる。
 それに合わせて周りにいた兵達が開いた道を開き、俺はなるべく緊張を顔に出すことなく前へ前へと進んでいった。
いよいよをもって、俺の前には兵がいなくなった――言うなれば、俺が一番前へと出て、眼前に連合軍を控えた時。

目の前に広がる二十万もの連合軍を前にして、俺は静かに口を開いた。
二十万の軍勢を相手に、五千の兵が取れる手段を行うため――



「……連合軍に告げるッ!」



 ――即ち、逃げるために。





  **





「十中八九、罠でしょう」

 董卓軍にどういう意図があるのか。
 そう尋ねた曹操に対し、荀彧はそうきっぱりと告げた。
 
 連合軍二十万に対し、前方に布陣する董卓軍は五千ほど。
 普通に考えれば、連合軍の数に飲み込まれることは必至であり、それだけの数を前へと出すぐらいなら汜水関において防衛のための兵力とするのが常道である。
 五千の兵力がどれだけの効果を持つかは現時点では分からないが、堅固と謳われる汜水関のことだ、それだけの兵力でも十分に機能するだろう。
 だからこそ、不可解な董卓軍の布陣に荀彧は断言したのである――罠である、と。

「ふむ……考えられる策としては?」

「第一に伏兵が考えられますが、細作の報告では、この先の道は一本道で潜める地が少ないとのことですので、伏兵ではないでしょう。少なくとも、汜水関まではありえないと思われます」

「そう……」

「華琳様、如何なさいますか?」

 そして、伏兵では無いだろう、との荀彧の言葉に、曹操はふと思考を回転させる。



 今回の連合軍――対董卓軍での戦いにおいて、義は明らかに董卓軍にあった。
 決起の檄文にこそ、悪逆と謳われ洛陽の街に暴政を敷いている、とあったが、実際に洛陽の街へと赴いた身としてはそれを疑わざるを得ないものであったのだ。
 さらには、自分達が洛陽を去った後にそういった暴政を敷いたのかと怪しんで洛陽に潜ませていた細作の報告からでも、そのような事実は発見されなかった。
 それどころか、何進が大将軍として洛陽に駐屯し、軍を維持するためという名目で苛烈なほどに税を搾り取っていた頃からみれば善政と言ってもいいほどである、と報告を受けたのであれば、自らが持つ情報と合わせても信じるに足るものであったのである。

 しかし、連合軍は結成された。
 その大部分は袁紹のように洛陽で得られる権力を求めてであろうが、それ以外の目的をもって参加した者達も多くいることだろう。
 時勢に取り残されないように、檄文を真に受けて義憤に燃える者――そして、自らのように天下に覇を唱える前哨として各諸侯の力を見極めようとする者など。
 義は董卓にあると理解しながらも、反董卓連合に参加したのはそれを成すためではなかったのか。
 そこまでに思考が至った時、曹操はにやりと口端を歪ませた。

「天下に覇を唱えんとするこの曹孟徳が、罠に臆する訳にもいかないでしょう」

「……では?」

「ええ……桂花、兵を纏めている季衣と流流に牙門旗を掲げるように伝えて頂戴、あの子達ならそれで理解するでしょう。加えて、一応、麗羽と紅瞬に出ることを」

「はッ」

「秋蘭は季衣と流流から兵を受け、編成を急いで頂戴。もし罠があるのだとすれば、出来るだけ後手に回りたくないわ」

「心得ました」

「華琳様ッ、私はどうすればよろしいでしょうかッ!?」

 そして、自らの臣へと指示を飛ばしていく曹操へと、夏候惇が指示を仰いでくる。
 妹である夏候淵のみならず、曹操を巡る恋敵とする荀彧までもが指示をもらっているのだから、自らも指示をもらえる筈と思ってのことなど、曹操としては即座に理解出来るものなのだが。
 まるで犬のよう――閨の中では雌犬のようなのであながち間違いではないのだが、それでも、飼い主に尻尾を振る犬のような夏候惇に、曹操はぞくりと背筋が震えた。
 
 今度、そういった玩具を作ってみようかしら。
 犬耳と尻尾のような玩具で遊んでみるのも悪くない――そう戦場には似つかわしくない思考を走らせようとしていた曹操であったが、しかしそれも、ある声が聞こえたことによって現実へと引き戻されることになる。
 
 洛陽で聞いた――自らの誘いを断ったその声は、声高々に響いたのであった。

「……連合軍に告げるッ!」



  

 **





「己らが欲を果たさんがために皇帝のおわす洛陽へと大軍をもって迫るその所業、貴様らの手によって悪逆と謳われた我が主、董仲頴の業よりも深いものであるッ! そも、自らの私利私欲のために軍を発するなど、君としてあるまじき行為である、恥を知るがいいッ!」



「……何あれ?」

「連合軍の批判、だろうな……。しかし、中々に痛快だな……恥を知れ、と言われてるわよ、雪蓮?」

「あはは、まああながち間違ってはいないんだし、別に好きなだけ言わせておけばいいんじゃないかしら――」

「――あのようなことを言われて、笑って認めるわけにはいかないでしょう、姉様ッ!?」

 機を見る。
 それが、孫家の長として下した孫策の判断だった。

 先代である孫堅亡き後に袁術の客将に――配下扱いに甘んじてきた孫家であったが、黄巾賊討伐の頃から、徐々にではあるがその勢力を伸ばしていた。
 意気と勢力を削ぐためにと各地へ散らされていた孫家の将達とも連絡を密にし始めており、この董卓軍との戦いが終結した折には、いつでも蜂起出来るようにとしていくつもりであったのだ。
 故に、いくら孫策と言えど、五千の董卓軍が罠に誘い込むための餌であろうと食い破る、という考えには至りはしなかったのである。
 どのような罠が待ち構えているにしろ兵を消耗するのは当然のことであって、待ち受ける独立の機運のためにも、このようなことで兵を失する訳にはいかないと考えてのことであった。

 そして。
 こちらを挑発せんとばかりに声高々に放たれた言葉――遠くからでは確信出来るものではないが、北郷からの連合軍への批難に孫策自身もあと少しまで迫った独立の機運を考えてか、長として自重してくれたとばかりに周喩は喜んでいたのだが。
 それに意を唱えたのが、孫策の妹――孫権であった。

「他の諸侯はいざ知らず、我ら孫家もあのように罵られて、笑って認めるなどと……姉様は一体どういうおつもりですかッ!?」

「でも蓮華? 北郷の――あそこでつらつらと批難を並べているあの男の言い分も確かなものだとは思わない? 言い方は何にせよ、私達も自分達のために軍を発したんだし」

「で、ですがッ、あそこまで言わせっぱなしにしたままでは――」

「――落ち着き下さい、蓮華様。戦を先だって、相手の士気を下げるために罵詈雑言を並べるのは間違いではありません。既に戦は始まり先手は相手に取られた、として切り替えねば、次手をも相手に取られてしまいます。相手の言い分を真に受け血の上ったままでは、三の手も取られてしまうでしょう。それだけは、何としてでも避けねばなりません」

「くッ……ふぅ、済まない冥琳、少し落ち着いた」

 孫堅の血を継いだのは孫策であるが、孫家の血を継いだのは孫権である。
 そういう噂が軍中を流れているのを周喩は知っていたが、それと同時に、その噂についてなるほどとも思う。
 孫堅はその真名――陽蓮の名の通りに、陽のような人物であった。
 明るく朗らかな部分は孫策に瓜二つであるが、二人揃ってそれを否定していた所なども似ていたと言える。
 そして、少々堅苦しいながらも孫家の将来を担うものとして王らしくあろうとする孫権は、武家としての孫家の血を受け継いでいると言っても過言ではなかった。
 
 孫堅の明るく朗らかで、そして戦場においては苛烈なその姿勢を孫策が継いだのだとすれば。
 孫堅の王たらんとするその気風、そして意志は孫権が受け継いだと言えた。

「……それで如何なさいますか、姉様? あの男が姉様が洛陽で会ったとする北郷であるとして、私達はどう動くのでしょうか?」

「んー……突撃?」

「却下だ、馬鹿者め。罠があると分かって進むは愚の極みよ。少なくとも、その中身が分かるまでは――」

 であるからこそ。
 孫堅の跡を継ぐ孫策と、次代の孫家を担う孫権を輝かせるために自らがいるのだとした周喩は、しかして孫策が放った提案――というか、言葉に即座に反対した。
 そもそも、罠があると分かっていて進むというのは如何なるものか。
 孫家の軍師としてそれを認める訳にはいかない周喩であったが、それでも、誰かが罠にかからなければ動きようもないことを理解していた。
 どれほどの罠が待ち受けているかは知れないが、最悪のことを考えればその罠を排除しないことには進みようが無いのだ。
 
 どう動くべきか。
 そう思案していた周喩であったが、視界の端に唐突に動き始めたものがあって、不意に意識をそちらへと飛ばした。



 白地に紫の『梁』の旗と、黒地に白の『梁』の旗。
それらが風に靡かせながらその速度を上げつつ北郷の元へ――董卓軍の元へと駆けていくではないか。


 
 確か、袁術麾下の梁綱(りょうこう)と梁剛(りょうごう)の兄弟であったか。
 自らを袁家一の武勇と知略を誇る猛者である、と何やら吹聴していたことは覚えているのだが、如何せん、その言葉に能力が見合っていないことだけしか覚えていなかった。
 そもそも、罠と知っていながら突き進まんとするのは将としてどうなのだろうか、とも思ったのだが、その指示をしたのが彼の二将なのか、はたまた袁術なのかは知らないが、そのどちらにしても詮無きことか、と周喩は考えることにした。
 
 今考えるべきことは、董卓軍の布陣を罠だとして動きが停滞しかけていた連合軍が、彼の者達によって動き始めた今、どのように孫家は動くのか、そのことだけであろう。
 幸いにも、袁術の軍は孫家の軍の横に位置していたこともあり、今だ彼らが動き始めたことに気付いているのは自分達だけである。
 そして、こう言ってはなんだが、彼らが罠を食い破るにしろ罠に落ちるにしろ、それは孫家としても大変に有り難いことであった。

 ここで無理をする訳にもいかない、かといって名を上げられるのであれば後のことを考えて上げておきたい。
 そんな思惑をもってすれば、今の状況は孫家にとって好機であると言ってもよかった。
 それを孫策も感じていたのか、はたまた勘なのかは知らないが、ふと合った視線に頷く彼女を見るに、同じ気持ちであると周喩は確信した。



 であるからこそ。



「袁術の軍に続き、私達も行くわよッ! 蓮華、後曲の部隊を纏めなさいッ! 冥琳ッ!」

「分かっているわよ、雪蓮! 全軍、我らが武勇、この戦にかけよッ! 進めい!」



 孫策の言葉に、一も二もなく応えていたのである。





 **





「ふはははッ、董卓軍、何するものぞッ! 見よ剛、我らが武威に、奴ら戟を合わせるでもなく逃げ惑っておるわ!」

「それも当然……もともと、二十万に五千の兵で立ち向かおうとするのが異常というもの。であれば、奴らの狙いはこちらに考えるにさせて時間を稼ぐことにある。連合軍は大軍ゆえに兵糧の減りも早いからな。ならば、そのような陳腐な策に付き合う義理も無かろうて。一気呵成に叩き潰してしまえばよいのだよ」

 先陣をかける梁綱の言葉に、梁剛は冷静に努めて状況を分析していた。
 
 董卓軍の連合軍への非難の際、自分達兄弟は各諸侯に先んじて攻めへと移った。
 非難されることに我慢出来なかったというのも理由の一つだが、一番の理由は董卓軍がわざわざこちらを非難して挑発したことにあった。
 なぜ、二十万に対して五千の小勢によって挑発を行ったのか。
 もし連合軍が董卓軍を攻めるに至れば、その壊滅は必至であったと言っていい。
 では何故。
 そこまで思考が及んだ時、梁剛の脳裏にふと思いつくものがあった。

 攻めてくれば罠がある。
 そう思わせることこそが董卓軍の狙いだとしたら。

 二十万で五千の兵を叩き潰すことは容易い。
 その心理にのっとって董卓軍を攻撃した場合、もし罠に嵌められでもすれば、連合軍が被る被害は無視出来ないものになるかもしれないのだ。
 事実、連合軍の諸侯達は罠を恐れてただでさえ遅滞し始めていた進軍を停止しかけていた。
 それこそが――罠があると思わせておいてその実罠などなく、連合軍に無駄な時を過ごさせるための策だとすれば。

 その結論に達した時、梁剛はすぐさまに兄である梁綱へと進言し、董卓軍への攻撃を開始した。
 そして、梁剛の推測が事実であるかのように、董卓軍は戦おうともせずに撤退を始めたのであった。



 ここまで来れば、最早董卓軍の策を見破ったも当然、とばかりに梁剛は梁綱へと追撃の手を締めるようにと進言した。
 このままの勢いでいけば、汜水関まで達することが出来るかもしれない、そのまま陥落させることも叶うのでは。
 そうして梁綱と梁剛は、先を競うように馬の速度を上げていく。
 それに引っ張られるように彼らの部隊も速度を増していき、連合軍全体もその動きに取り残されないようにと速度を上げていった。

 もうしばしで、撤退していく董卓軍の殿が弓の射程範囲に入ることだろう。
 二十万もの連合軍全体が布陣できるような幅のない一本道とはいえ、自分達兄弟が率いる軍勢は合わせて四千弱。
 数こそ劣っているものの、自分達の能力と勢いがあれば董卓軍五千など一蹴出来るとばかりに、思っていた。



 そして。
 その殿を視界の先に収めた時、董卓軍が木枠によって組まれていた柵の向こうへと消えていくのが見えた。
 消えていく、とはいっても、立てられていた木枠に沿うように木の板が立てられたために、その姿を確認出来なくなっただけなのだが。
 
「ふん……壁を築いたか」

「がっはっはっは! 例え壁を築こうとも、あのような木の板でどうしようと言うのだッ!? 所詮は小賢しい時間稼ぎに過ぎぬわッ!」

 少しばかりの壁を築いて、撤退の時間を稼ぐつもりか。
 殿を少しばかり犠牲にするつもりであろうその策を即座に看破した、そう思った梁剛は、部隊の兵へと指示を飛ばしながら自らも兄と共に一斉にその即席の防壁へと突撃していった。

 五千の殿であるならば、恐らく千に満たないほどか。
 自分達が率いる軍勢の敵ではないわ、そう思いながら馬を操り一気に壁へと迫る梁綱と。
 洛陽にて権勢を誇った董卓といえどこの程度か、このまま洛陽へと迫り諸侯を――主である袁術をも凌ぐ勢力を築くことも可能かもしれない。
 そうこれからの自分達が歩むべき道を見ていたとされる梁剛は、董卓軍の殿を叩き潰して追撃を再開するためにと、数百の兵らと木枠と木の板を取り外すためにそれへと近づいていき――


「ぬ……?」

「ぐ……?」


 ――べきり、と木枠を取り外した向こう、数多もの黒い何かが視界全体を多い尽くすとともに、その意識もまた、何にも気付かぬままに黒い闇の深淵へと葬られていた。






[18488] 四十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/01/28 14:28



 それは、突然であった。

 汜水関へと向けて撤退していく董卓軍。
 当初、二十万の連合軍に対して五千の兵で迎え撃とうとしたことこそ驚愕ではあったが、結局兵力差を鑑みてか、董卓軍は言いたいことだけを言って撤退していった――この時点ではただそれだけだと思われていた。

 だが、撤退していく董卓軍を追撃するためにと先行した袁術配下の梁綱と梁剛が、董卓軍が撤退の時間稼ぎのために立てたと思われた木枠と木の板に取り付いた時に、その判断は間違いであったとして。
 木の板を叩き壊し、木枠を強引に押し倒して突き進んだ向こう、撤退していたとされた董卓軍が待ち構えていたのである。

 そして。 
 董卓軍を一気に押しつぶさんとした勢いの梁兄弟の軍勢を、道を塞ぐように立てられた木の板の向こうで待ち構えていた董卓軍は、一斉にあるものを突き出していた。
 
「ありゃー……痛そうね、あれ」

「ああ……董卓軍も中々に惨いことをする……。まさか――」

「――木を尖らせて突き出すなんて、ねぇ……。しかも、ご丁寧に先を荒らしてるから抜いたとしても簡単には傷塞がらないわよ、あれ」

 痛そうに視線と顔を歪ませる孫策の言葉に頷く代わりに、周喩は視線を先へと――罠に陥った梁兄弟の軍勢だったものへと向けた。

 阿鼻叫喚。
 そこは、そう表すのが正しいほどに壮絶な光景であった。

 脇腹から背までを貫かれた者、太いものに当たったのか肉皮一枚以外をそぎ取られた右腕の者、先頭で走っていた梁兄弟は一段と大きいものに当たったのか頭部の中心をそれぞれ貫かれていた。
 一撃を与えることに成功した董卓軍はすでになく、彼らが残していった太さや長さが様々なものであったそれら――木枠を構築した木材の余りにて作られた木槍とでも言うべきそれは、その要因によって様々な被害をもたらしていた。

 まず第一に人的被害。
 連合軍二十万の中で袁術の軍勢が占める割合は三万ほどである。
 梁兄弟が率いていたのはそれぞれ二千ほどで合わせて四千と、五千の董卓軍を追撃するぶんとしては十分であると言えた。
 だが、その四千の部隊もその指揮官を失い、その半数近くが追撃の勢いのままに罠に嵌められたのだ。
 実質に罠にかかったのは千と少しほどだろうが、急停止した勢いで怪我をした者も少なくは無い。
 実に半数以上もの戦闘不能者が出てしまっては壊滅といっても差し支えもなく、彼らを救護する者もいれれば結構な数の兵が前線に出ることは無くなったのである。

 さらには、連合軍全体の精神的被害は計り知れないものがあった。
 二十万のうちの四千、なるほど、数字にしてみればさしたる被害とは言えそうもないものだ。
 だが、董卓軍を追撃するために集中していた連合軍の意識は、その先頭を走っていた部隊が受けた壊滅的被害をまともに受けることになったのだ。
 不揃いにされた木槍の先端によって、木槍の刺さった傷口はぐずぐずに侵し激痛を与えられ、応急処置をしようにもずたずたに切り裂かれた肌や筋肉はは絶えず血を流し、それらの者の絶叫と悲鳴に連合軍の多くが二の足を踏むこととなっていた。
 次にああなるのは自分達ではないのか、と。



「董卓軍からしてみれば、初撃を与えることには成功、といったところかしらね」

「そうだな……こちらとしてはまんまと嵌められた形になるが。木材で槍としたのも、事を成し遂げた後に捨て置くためと……そこまで予想しての策ともなれば、中々に凄いと言わざるを得ない。寒気すら覚えるわ」

「まあ、袁術ちゃんの軍なんだから、私達としてはあまり痛まないんだけどね。それでも……うん、冥琳の言うとおり私も凄いと思うわ。二十万もいるんだから、罠じゃないと考えるのがいる考えるのは分かるけど、緒戦でそれを逆手に取るとは思わないわよ。それこそ、ここ一番にしたほうが効果は大きいでしょうに」

 確かに、だ。
 孫策の言うとおり、確かに策というのは機を見る必要がある。
 例えば奇襲などにおいても、広く障害物のない所で行われても大した戦果が見込めないし、下手をすれば返り討ちにあう可能性すらあるのだ。
 ともすれば、まずは軍同士が相対、或いは戦闘を開始し、注意を引きつけておいてからか、混乱させてから、というのが奇襲においての機になる。
 
 今回、董卓軍が行った策というのは目隠しをしておいての待ち伏せ――しかも、突出する者達がいると想定の上でのことだった。
 だが、と周喩は思う。
 自分ならば、一当てした後に敗走を演出し、功を焦り勢い余った軍勢相手に策を弄した方が効果的であったのではないか、と。

 今回の連合軍結成において、董卓軍が取れる手段は多種多様なものがあった。
 皇帝を保護した関係を用いて連合軍を朝敵とすることも出来たし、防備に向かない洛陽から関中の肥沃な地と堅固な関のある長安への撤退或いは遷都も考えられるし、何より、堅固と謳われる汜水関と虎牢関に籠もりきることも出来た。
 なのに、董卓軍はそれらを成さなかった。
 それはつまり、それを成さずともよいという自信と勝機があるからではないのか、そう周喩は考えていた。

 つまり、である。
 董卓軍にとって、この策を弄する機は緒戦こそが正しかったのではないか、と。

「なるほど……冥琳の言うとおり、その可能性もあるわね。その場合、これから董卓軍が取る策は何が考えられる?」

「推測でしか物事を言えないが……要所要所で足止めをしつつ汜水関に退き、そこで籠城だろうな。私ならそうする――いや、堅実にいくのならば初めから籠もるが」

「ふむ……では、公瑾よ。董卓軍は、ここから先も何かしらの策を弄しておる……そう言う訳じゃな?」

「そうです、祭殿……最悪、同じ策を弄している可能性すらあるのです。ここからは二十万という数的有利を一時置き、慎重に軍を進めていくしか――」

「――よしっ、ならば黄蓋隊は先行するぞ! 罠があると安心しきっておる董卓軍の尻に噛み付くのだッ、罠があれば食い破れッ、我らが武威、董卓軍へと思い知らしめるのだッ!」

 となってくると、ここからの道筋は慎重に進まねばならない。
 如何に連合軍が二十万という大軍とはいえ、ここから汜水関、そして虎牢関へと抜ける道がそれほどに広くないことを考えると大軍という優位性はそれほど生きてこなくなる。
 であれば、先行し壊滅した梁兄弟の後ろに付いていた孫家の軍は少し後ろへと下がり、功を立てるための機を窺うべきである。
 そう下知を下すようにと孫策へ伝えようとしていたというのに。

 はっはっはっ、と何故だか実に楽しそうに自らの部隊を纏めて去っていく祭――黄蓋に、周喩は知らず痛む頭を抑えていた。

「……あの方は、私の言うことを理解しているのか?」

「ま、まあまあ……祭だって冥琳の言うことを無視しているとかじゃないと思うわよ……多分。それに祭だもの。袁術ちゃんの軍と違って、罠があることが分かったんだから闇雲には突っ込まないと思うわよ?」

「……まあ、そうだな。……仕方あるまい、祭殿だけを突出させる訳にもいかぬし、何やら曹操の陣も動き始めているみたいだし、私達も進みましょうか、雪蓮」

「そうこなくっちゃ! 行くわよッ、我らが孫家の誇り、董卓へと見せつけるのだッ!」

 そして。
 先行した黄蓋の部隊だけを進ませるわけにもいかず、曹操の軍勢の動きと孫策の承諾もあってか、壊滅した梁兄弟の軍勢を救援していた袁術軍の脇を通りながら停止していた連合軍の動きが再開したのを――その背後から董卓軍が来ないかと、周喩は視線を向けていた。
 
 どうする、そう考えていた連合軍が進もうとするこの瞬間。
 意識が前にいくこの瞬間こそ、奇襲に最適な機である――周喩はそう思っていた。
 奇襲を恐れていればいつまでも前に進むことは能わず、連合軍の――自分達の本懐を遂げることは出来ぬと思い口に出すことは無かったが、それでも進み始めた連合軍に対して奇襲するためにと董卓軍が現れることもなく、周喩は知らずのうちに溜息をついていた。
 
「気にしすぎ、か……?」

 悪いことというのは、総じて続きがちになるものである。
 罠にしても同じことが言え、一度罠にかかったのなら、それを想定して第二第三の罠を仕掛けてこその策であると周喩は考えていたのだが。
 それこそ、進まんと意識を前にした連合軍の背後を奇襲部隊が突き、混乱している連合軍に向けて先に撤退していった董卓軍五千が――もし汜水関に籠もっている兵まで連れて引き返して来たのなら、それこそ連合軍は壊滅的打撃を負ったかもしれないというのに。

 そもそも気にしすぎなのかもしれない、と周喩は頭を振った。
 自らが優秀だと自惚れることはないが、皇帝を保護するという優位性に目をつけ洛陽に駐屯し、そして今また勝機を持って連合軍に相反する董卓軍において、自らと同じだけの知謀を持つ士がいてもおかしくはないと思っていた。
 もしそうともなれば先を読む方が有利に立てるのだが、しかして、自らが考えつく策で来ない以上それも杞憂であったか、と周喩は先を急ぐことに決めた。





  **




「こりゃこりゃ……ここまで当たると気持ち悪いねえ。大将の――いや、二人の軍師様の言うとおりになってるじゃないか」

 連合軍を――逃げる董卓軍五千を追うにつれて、徐々に長く伸び始めた連合軍を眼下に収めながら、楊奉はぞくりと背筋を振るわせながら呟いた。

 眼下、とは言っても楊奉がいるのは連合軍の集結地から汜水関に向かう途上、崖の一画であり、そこには若干崖肌を崩して作られた数人が潜り込めるような空間があった。
 楊奉が大将と呼ぶ青年に仕えだした頃――北郷一刀が諜報機関『忍』を設立した当初の頃に、洛陽周辺から司隷の地図を作成する任と同時進行で命じられて作ったその空間だが、なるほど、今回のような時のために作らせたのか、と楊奉は感心していた。

 能力があっても――あるからこそ人のために、と頑張るのが面倒な者達が集った白波賊の中において、そういった場所を見つけ出す者や崖を削る技術を持つ者は数人いる。
 それを北郷が知っていたとは思えないが、それでも、彼が求める任を無事果たした結果がこれならば、どれだけ先を見てのことなのかと楊奉は思っていた。

「しっかし……やっぱり二十万ともなると多いな。……疑う訳じゃねえが、本当にこんな策で勝つことが出来ると思うか、貴白(きはく、楊奉の真名)?」

「何だい興建、あんた、大将を疑ってんのかい?」

「いや、そういうわけじゃねえけどよ……今いち信用ならない女共の策にそのまま乗っても大丈夫なのか、と思ってな。聞く所によると、あいつらは旅をしていたって言うじゃねえか。どこで連合と繋がってるかなんて分からねえぜ?」

「そりゃあそうだけどさ……大将が信じるって決めたんだ。私達もそれを信じなきゃ駄目だろ」

 自身の隣でぽつりと呟いた韓暹の言葉に、なるほど、と楊奉は頷いた。
 確かに、これから行う策で勝てるかどうか、と問われれば疑わしいのは確かだ。
 それに加えて、当初の起案が北郷であるのも関わらず、その細部を詰めたのはそれまで見聞を広めるためにと旅をして、今回の戦において客将として北郷の下にいる郭嘉と程昱という少女達なのだから、韓暹の言葉も当然である。
 
 だからと言って、北郷を信じられない理由にはなりはしないのだが。
 自分達は雇われた側であるとする楊奉にとって、よっぽどの限りでないのであれば、その指示に従うことに否は無かった。

「まあ……そうだな。どっちにしろ、ここまで来たからには今更後には引けない、か……」

「そうそう。……ってな訳で、そろそろ行こうかねえ。ぼちぼち頃合いだろうし」

 そう言葉を放って、楊奉は隣の韓暹から再び眼下へと視線を移した。
 事前に組んでいた――軍が動くと目立つという理由から、忍が組んでいた木枠の陣地を連合軍が慎重深く突き進んでいた。
 木枠と木板で構築された壁を取り外していくが、待ち構えていた迎撃が無かったからか、連合軍は少しばかり驚いては先に逃げていく董卓軍を追撃していた。
 そうして追撃を重ねて、徐々に徐々に――言うなれば、龍が如く長大になろうとその体勢を縦へと延ばしていく連合軍に、楊奉はにやりと口端を歪ませた。

「それじゃあ、あたしは後ろ。興建は真ん中辺りでいいかい?」

「おう、それでいいぜ」

「目標のぶつを見つけたら合図があるまで待機……勝手に突っ走るんじゃないよ?」

「こっちの台詞だ。貴白こそ、強そうな奴がいたからといって喧嘩ふっかけんじゃねえぞ?」

「ははっ、重々承知してるよ。……じゃあ、行こうかねえ」
 
 その言葉に、韓暹やその周辺にいた数人が一斉に空間から外へと出て、連合軍を目指して駆けていく。
 それまで光が少なかったために気にすることも無かったが、いざ日の光の下へと出てみると、韓暹達は――彼らが身に纏う金色の鎧は実に目立っていた。
 ただ、それが連合軍を前に――追撃して隊列などが崩れている連合軍を前にすれば、その程でも無いのだが。
 
 混乱ほどでないにしろ、追撃に次ぐ追撃によってその隊列が長く伸びたことによって、連合軍の中では様々な色が混ざり合っていた。
 それこそ、金色や自らが身に纏う黒色のように。
 
「……本当に、どこまで予測しているのやら」

 そう呟いて、楊奉は腰に括り付けてある拳大の壷へと視線を投げる。
 微かな水音を響かせたそれにしばし視線をやった後、楊奉は韓暹と同じように日の光の下へ――連合軍の中へと自らの身を投げ出していた。





 **





「……明らかにおかしいです」

「何がおかしいのだ、朱里よ? 董卓軍が迎撃に出たのも初戦の一戦きりで、後は初めと同じように木枠と木の板を立てつつ逃げていただけではないか。確たる策を弄せずに逃げることこそ不気味とは思うが、さほどそこまで気にすることもないと思うのだが……」

 そう呟いた諸葛亮とそれに反応した関羽の言葉に、彼女の主である劉備は微かに反応しつつ眼前へと視線を向けた。

 汜水関。
 洛陽へ迫る道筋において、虎牢関と文字通り双璧を成す堅固な関であり、反董卓連合軍においてはこれもまた文字通り最初の関門と言える関が、目の前にあった。

 さほど広くない――とはいっても人の往来程度なら十分な広さであって、二十万もの連合軍が展開するには窮屈なぐらいに狭い程度であるが、それでも、それだけの道幅を塞ぐように立てられたその関は、十分に脅威である。
 その間を道と成す両側の崖は到底人が登れるような角度ではなく、汜水関を押し通ろうと思えば正面から押し進むしか方法はないのだ。
 攻め難く、守り易し。
 それが、汜水関の評価であった。

「最初こそ罠がありましたが、それからは董卓軍は壁を築くだけでただひたすらに逃げていました。ですが、逃げるだけなら壁を築く必要はありませんし、壁を築きたいのであれば逃げる必要はありません。事前に築いておけばいいのですから」

「それは、まあ、朱里の言うとおりだが……初めの罠で打ち勝つつもりだったのではないか?  いくら我々連合軍が二十万とは言え、このような地形においてはさほど大軍を動かせまい。董卓軍はそう思ってこそ、五千という小勢で迎え撃とうとしたが、そうは出来なかった……そうは考えられないか?」

「あ、愛紗さんの言うことも、一理あると思います……で、ですが、それだと逃げることには繋がりません」

「む……」

 であるからこそ、その堅固な汜水関に籠もりきるという策を取らずに打って出た董卓軍に、劉備を支える二人の軍師や義姉妹の関羽だけでなく、連合軍全体が困惑しているようであった。
 耳を澄ませばざわめきが聞こえる辺り、それも間違いではないだろう。
 それだけ、董卓軍の思惑が計り知れないようである。

 自身の臣である諸葛亮と庖統もまた困惑しているようであり、董卓軍の真意が見えないことに不安を隠せないでいるようであった。

「んー……ここまで案内してくれた、ってことはないかな?」

「はあ……。桃香様……いくら董卓軍といえど、さすがにそこまでは愚かでないでしょう。誘い込んだ先に罠があるのならともかく、ただ案内しただけというのは――」



「――……あながち間違いじゃない、かも」



「えっ? た、たよちゃん、それはどういう……?」

 そして。
 劉備の言葉を関羽が否定しようとするが、それに待ったをかける少女がいた。
 黒く――ただひたすらに黒い宝玉のような髪は肩に届くまではなく、その緩やかな形とそれに隠れる闇夜の如く黒く輝く瞳と合わさって、ふと幼い印象を抱く。
 女性らしく曲線を描くその身躯も、少女ということもあってか、未だ成長途中かのように微々たるものであった。
 物静かに――それでいて鈴のように凜と発せられた声は、ざわめきにある連合軍の中にあっても、酷く耳に染みこんだ。

「……洛陽の南から攻めるのは遠いけど、大軍が展開するには十分広い。だから、狭いこっちに案内しても不思議じゃない。……それに、何か仕掛けるならこっちの方が有利」

「むむ……しかしだな、たよ。事実、董卓軍は緒戦こそ罠を仕掛けたものの、それからは仕掛けていないのだぞ。たよの気のせい、ということではないのか?」

 その関羽の言葉に、たよと呼ばれる少女――田豫はふるふると首を横に振って応えた。

「……多分、これからだと思う。……先手は取れたし、十分に主導権は握れた。わたしなら、ここで仕掛ける。……桃香お姉さん」

「ん、何かな、たよちゃん?」

「……すぐに動けるように兵を纏めて。何かあったら危険。……朱里お姉さん、雛里お姉さん、ちょっといい?」

「うん、たよちゃん。済みません、桃香様……少し向こうで話してきます。行こう、雛里ちゃん、たよちゃん」

 そうして。
 てくてくと歩いていく諸葛亮と庖統の後ろを、これまたとことこといった感じで付いていく田豫に可愛らしさを感じつつ、劉備は隣の関羽へと視線を向けた。

「……すっごいねえ、たよちゃん。あんなに小さいのに、朱里ちゃん達と変わらないぐらいにすっごいよねえ」

「ええ……憲和(簡雍の字)殿が謀略の士と言ったのも頷けます。初めは何を言っているのかと思いましたが……」

「ああ……いきなりだったもんね、憲和さん」

 その関羽の言葉に、劉備は連合軍に参加するために公孫賛と共に幽州を発った時のことを思い出した。

 諸葛亮は知略の士、庖統は軍略の士、ならば田豫は謀略の士である。
 異民族や新たに参加表明をなす義勇兵を募るためにと幽州に残ることになった簡雍は、見送りの儀において劉備にそう言ったのである。
 それが突然のことだったので、劉備もその隣にいた関羽も些か驚きを隠すことは出来なかったが、それでも、その真剣な言葉は頷くに値するものであった。
 
 元々、田豫は劉備が決起当初に募った義勇兵の一人であった。
 身躯が大きくないことから兵にするには、となった結果、簡雍の補佐という形で参加することになったのだが、その簡雍からそう言われてしまえば、その能力を疑うことは愚かであろう。
 事実、黄巾賊と相対した時は情報の重要性を諸葛亮達よりも重要視しており、当時兵数の少ない軍の中では貴重であった騎馬兵を斥候として多方へ放つなどして、その勝利に一役買ったりしたのだ。
 最早、劉備の軍勢の中で田豫の能力を疑う者はいないのである。

 その田豫が、これから何かが起こると言う。
 その事実に、劉備は知らず背筋を振るわせていた。

「では桃香様、私は兵を纏めてまいります。鈴々がどこかにいる筈ですから、朱里達が帰ってきたら共に話を聞いておいて下さい」

「あっ、うん、分かったよ、愛紗ちゃん」

 そうして。
 関羽を見送った後、劉備は再び汜水関へと視線を向けた。


 『程』、『郭』、『華』、『牛』、そして『十』
 

 色とりどりのそれらの旗が汜水関の上で翻るのを、劉備は何とも言えない感情を胸に見つめていた。

 

 





[18488] 四十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/02/08 14:52





「華麗に、雄雄しく、突き崩すだけですわ!」

 汜水関。
 洛陽へ至るための最初の関門として、文字通りその道を塞ぐかのように聳え立つかの関をどう攻略するか。
 縦へと伸びていた連合軍が一同に再集結し、汜水関に篭る董卓軍を十分に警戒しながら開かれた軍議であったが、その始まりはさも当然とでも言うように放たれた袁紹の言葉からであった。



「……麗羽、聞きたいのだけれど、それが汜水関を攻めるための策なのかしら?」

「当然ですわ、華琳さん! 連合軍の力をもってすれば――いえ、私の軍の力をもってすれば、いかに堅固と言われる汜水関でさえも容易に陥落させることは可能でしょう。もちろん、華琳さんや他の方にも戦功を挙げられる場は設けますわよ」

「いやー……そういうことを言ってるんじゃないと思うんだけどなー。やっぱあれね冥琳、袁術ちゃんの従姉妹だけあって変なところで似てるわね?」

「このような場で言うことではないだろう、伯符殿。……さて、総大将殿の言うとおりに突き進むにしても、最低限の編成は考えねばならぬと思うが、如何か?」

 曹操の言葉にふふん、と大きな胸を張りながら答える袁紹に、若干頬をひくつかせた孫策が、こそりと耳打ちしてくる。
 その言葉に内心同意しつつも誰かに――袁術にでも聞かれたら困ると思った周喩は孫策を戒めつつ、袁紹の言葉に道をそれかけていた軍議を正すために口を開いた。

 策も無しにただ攻めるなどは愚の極み。
 そうは思っていても、防備を調えているであろう董卓軍に弄せる策も少なく、それらの策も効果的とは言えない以上、袁紹の言葉もあながち間違ってはいないのだが。
 であるからこそ、周喩の言葉に各諸侯は仕方が無いとばかりに軍議へと口を開いた。

「現在の位置で言えば、曹操さんと孫策さんの軍が一番前。それに続いて鮑信さんと張莫さん、陶謙さんの軍が。その後に劉備さん。さらにその後ろに袁術さんを含む他の方々がいて、最後尾に私達袁家の軍がいます」

「むー……わらわ達は大分後ろの方じゃな」

「仕方ありませんよー、美羽様……梁綱さん達が勝手に動いて罠にかかっちゃったせいで、こちらもあんまり派手に動くわけにはいきませんし。足を引っ張って連合の皆さんから目の敵になるのも面倒ですしねー。ここは孫策さん達に頑張ってもらいましょう、美羽様」

「おおっ! もしや、七乃の言うとおりにすれば孫策達の手柄をわらわ達が横取りすることが出来るのかや?」

「そうですよー。いよっ、美羽様お嬢様、人の手柄を横取り前提で考えるだなんて、人の風上にもおけないですよー」

「うわっはっはっはっ! そうじゃろそうじゃろ、もっと褒めてたもー!」

「……ふう」

 袁紹の隣、顔良の上げた報告の声に、声高々に笑い声を上げる袁術に周喩が溜息をつくが、実際、今の連合軍においてはそういった袁術の態度こそが正しいものであった。
 悪逆董卓を討つための正義の連合軍とは謳っているが、その内実は自らの私利私欲のために参加したという諸侯が大半で、いつ他の諸侯の裏を掻くか、という猜疑で溢れているのだ。
 
 さらには、大した戦果とは言えないまでも、董卓軍が構築していた陣地を立て続けに攻め落としたとされる孫策と曹操の名声は、緒戦において一部隊が壊滅状態にまで追い込まれた袁術とは違い、連合軍内においても高く評価され始めていた。
 追撃するときは疾風怒濤、罠が待ち構えているかもしれないと思われる陣内などは慎重に、その全てを将兵を正しく率いる。
 知勇に優れていると証明させるその動きは、連合軍内において彼の者達の地位を確かなものへと引き上げていたのだ。
 
 であるからこそ、自らの目的のためにと――それが私利私欲かどうかは別にして、連合軍に参加した諸侯が動いた。
 周喩の溜息によって一旦場落ち着いたのを見計らってか、白く染まった髭を豊かにする人物――陶謙が静かに手を上げる。

「ここは一つ、陣を破る功を上げた孫策殿と曹操殿の軍を一度休ませ、他の諸将によって一陣を務めるがよろしいと思うが、如何かな? この老いぼれも功を上げねば、漢王朝や民に対して示しがつかぬしな」

「あら? 漢王朝の忠臣にして徐州牧、陶恭祖ともあろう方が老いぼれだなんて……その名と下の治政は遠く陳留にまで届いているというのに。それに、先達でもある方にばかり働かせるのも、若輩の身としては心苦しいわ。ここは、私に任せてもらいたいのですけど?」

「ほっほっ、才女と謳われる貴女には敵いませんよ、張太守。そこな袁紹殿と曹操殿の知古であれば、その評も頷けるというもの。そのような貴女にそう言われたとあれば、この老いぼれ、恐悦至極ですな。……しかし、それとこれとは話が別かと。」

「まあ、そう言うわよねえ……とは言っても、このままでは埒があかないわね」

「なら協同で汜水関を攻めればいいんじゃない、紅瞬? 陶州牧も、一軍より二軍のほうがいいんじゃないかしら?」

「ふむ……一理ありますな。……儂はそれで構わんよ」

 功を上げる場を。
 その陶謙の言葉に待ったをかけた張莫にそのままでは軍議が進まないと思った曹操は、協同で汜水関を攻めてはどうか、と一つの案を出した。
 
 徐州牧たる陶謙の権威は曹操や一太守の張莫の比でない。
 その動かせる兵力は強大なものがあり、今回の連合軍においても一万五千という兵力を誇っていた。
 勇名轟かす猛将こそ陶謙配下には存在しないが、それでも、指揮統率に優れた優将がいるということもあって、それだけの兵力をもって連合軍の一画を担っているのである。
 一万五千の兵力があれば如何に汜水関でも、と諸侯は考えるが、しかして攻めるには相手の三倍は必要であると考えられることもあって、協同で汜水関へと迫るという曹操の言葉に、否を唱える者は存在しなかった。

 ゆえに。
 その言葉を――場の空気を読んでか、袁紹もまた諾と頷いたのである。

「いいでしょう……陶謙さんと紅瞬さんは、軍を率いて前曲へと移動なさいな。それより後ろは今のままの形でよろしいでしょう。……では、天下無敵の策も決まったことですし、華麗にッ、優雅にッ、雄々しく前進しますわよッ!」





  **





「それにしても見事なものだな」

「なあに、冥琳? 何をそんなに感心してるのよ?」

 軍議が終わり、自らが率いる軍勢が展開する地へと戻る最中、ぽつりと呟いた言葉に隣を歩いていた孫策は足を止めた。
 それにちらりと視線をやった後、周喩は近くにあった蓋のされた甕(かめ)に腰を落ち着けながら、視線を杭によって構築された木枠――董卓軍によって構築されていた陣へと向けていた。
 
「守り易く攻め難い。そう言うのは簡単だが、いざ実戦しようとなると難しいものだ……この陣地は、その理想だろうな。よく考えられている」

「ふーん……私にはよく分かんないけど、冥琳がそう言うんならそうなんでしょうね」

「ああ……」

 外側は攻め込みにくいようにと幾重にも張り巡らされた柵に、部隊が展開しやすいようにと柵によって区分された内側。
 構造だけ見れば簡単なように見えるが、それを理想の形にしようと思うのなら思いの外、難しく手こずってしまうものなのだ。
 
 元々、連合軍が追撃していた董卓軍は五千であった。
 二十万に対して五千という小勢であったことから董卓軍が取った策といえば、守りを固める汜水関方面に誘い込むようにと動きながら、それでいて追撃する先鋒を罠によって壊滅させたことである。
 それによって、連合軍は新たな罠を気にするという必要以上の警戒を強いられることとなり、それに比例して進軍速度も遅くなったのだから、董卓軍の策は完成したと言えよう。

 ただ籠城するよりも罠を警戒する分行軍が遅くなり、籠城して時間を稼ぐという意味では効果的。
 それが周喩が出した董卓軍の策の評価である。

「でもさあ、冥琳……そんな陣を何で董卓軍は利用しなかったの? わざわざ立てておいて、一度も使わずに逃げるなんて勿体なくない?」

「ふむ……陣を構築した余りの杭を槍とした先手の策を行うためと、守る者がいないながらも攻め込みにくい形状の陣を利用することで逃げる時間を稼いだ、その両方が目的ということではないか? 陣を立てた董卓軍ならその形状も知っているだろうから、こちらがもたつく間に通り抜けることも容易いだろうしな」

「むー……」

 事実、先の追撃において、ご丁寧に柵に布をかけた陣を董卓軍は周喩達の目の前でするすると抜けていった。
 対するこちらといえば、布がかけられたことによって視界を塞がれる形となっていれば罠を警戒するものであり、結果として罠が無かったにしろ、その警戒によって追撃の手が遅れたことは事実である。
 
 先手の罠で精神的に不安と恐怖を兵に抱かせることによって統率を緩め、将に警戒心を抱かせることによって追撃と汜水関に至る道筋を遅らせる。
 人の心理によく長けた者が立てた策か。
 ぞくりと背筋を振るわせながら――軍師として知謀を競い合わせるであろう相手の存在に、不謹慎ながらも昂揚した気分を抱いた周喩であったが、不服そうに唇をとがらせる孫策にふと疑問を抱いた。

「勘、か……?」

「んー……まあ、ね。ただ、ちょっとよく分かんないのよねー、何かが引っ掛かってる感じなんだけど……」

「ふむ……まあ、雪蓮がそう言うのなら警戒だけはしておきましょう。……あなたの勘は当たるから」

「ん……お願いね、冥琳」

 であるからこそ、不服と思う孫策を信じて――彼女が勘で感じる何かしらがあることを信じて、周喩は思考を働かせる。
 先の軍議で張莫と陶謙が先陣を務めて汜水関を攻めるとはいえ、董卓軍がどう動くか分からない以上、警戒しておくのは当然であろう。
 それに加えて、孫策が危惧すること――その正体が分からない以上どうしようも無いのだが、し過ぎに越したことはない、とした所で周喩は、そう言えば、とふと思う。
 先の話の流れからするに、陣地に関することで危惧しているのではないのか、と。



「お話し中失礼。……ちょっといいかしら?」



 しかし。
 ふと思いついたことを孫策に伝えようと口を開く寸前、放とうとした言葉は突然に聞こえた声によって飲み込むこととなった。
 凜とした声が放たれた方向へと視線を動かせば、先の軍議で発言をし、そしてつい先ほどまで思考の中にいた人物――張莫が、そこにいた。





「あら、先陣を務める張孟卓が一体何のようかしら?」

「ああ、大層な用という訳でもないんだけど……そうね、提案ってとこかしら?」

「提案、だと……?」

 自らが志願し、そして陶謙と協同して汜水関を攻める軍を率いる将が一体何用か。
 そもそも何故自分達に用があるのか、と怪しむ孫策の視線に、それを向けられた張莫は少しも悪びれた様子もなく肩を竦めた。

「汜水関を攻めるにあたってだけど、私の軍は――いえ、陶州牧にも賛同を得ているから、私達ね、私達の軍は被害甚大による敗走を装って後退するわ。その時に、そちらの軍も一緒に下がって欲しいの」

「ああ……なるほど、そういうことか」

「どゆこと、冥琳?」

「なに、簡単なことだ。意趣返しをする、ということだろう?」

「ご明察、さすが周公瑾ね」

「……なるほどねー」

 意趣返し。
 その言葉を聞いた孫策も張莫の言葉を理解したのか、にやりと口端を歪ませて笑う。
 そんな孫策と同じように口端を歪める張莫に、周喩は彼女が考え出した策に感嘆していた。 

 ようは、汜水関に連合軍が誘い込まれたように、連合軍もまた董卓軍を誘い込もうというものである。
 張莫と陶謙が汜水関を攻める、というのは先の軍議によって決定したことだが、その二軍が撤退を装って後退する。
 それに巻き込まれた形で孫呉の軍も――恐らく曹操にも話を通しているのだろうが、それらの軍も後退することになれば、董卓軍からしてみれば混乱していると見えることだろう。
 絶好の機とみてもいいその隙を突かんとして出陣した董卓軍を誘い込み、そして反転した各軍によって包囲殲滅する。
 それが張莫の掲げた策であった。

 先に撤退していった董卓軍は五千ほどであったが、現在汜水関に籠もるであろう董卓軍はそれ以上いることは当然のことであった。
 如何に汜水関が堅固といえど、二十万の連合軍に対して五千だけの兵で立ち向かうのは到底無理があるし、ここで簡単に汜水関を抜かれてしまっては先の罠が意味を成さないのだ。
 汜水関の上にはためく牙門旗からも、それは見て取れた。

 だからこその策であるのだ。
 撤退していく董卓軍を指揮していたであろう『十』や『程』、『郭』の旗の将であれば、それらの策を理解し踏み潰すことも可能であろうが、汜水関の上にはためく牙門旗はそれだけではない。
 『華』と『牛』が新たに増えている、それだけならまだしも、撤退に見せかけた罠への誘導を行った先の偽装に加わっていなかったところから鑑みるに、恐らく、その二旗はそれほど知謀を振るわせる将のものではないのだろう。
 故に、罠と策が成功したと慢心しているであろう彼の将達を誘い出すのだ。

「……まあ、そういうことなら別にいいんじゃない。あなたの策、私達孫呉も一枚噛ませてもらうわ」

「それは重畳。では、悪いけどよろしく頼むわね。私はもう行くわね、時間が惜しいし」

 それを理解しているからこその孫策の言葉に、張莫は少し安堵したように、嬉しそうに微笑んだ後に、他に回る所があるからと言ってその場を離れていった。
 女の身でも少しばかり胸に来る微笑みと共にその背を見送ると、頭を振って孫策へと口を開いた。

「……私達もすぐに動けるようにしておきましょう、雪蓮。いつ戦況が動くとも限らないし」

「そうね……」

 初めから後退するために動いていたのでは知られてしまうし、かと言って、張莫達が後退し始めてから動いては遅れてしまう。
 そのために、事前に軍全体に周知しておき、いざという時に即座に行動出来るようにと手を打つために戻ろうとする周喩であったが、動こうともしない孫策にふと疑問を感じて首を傾げる。

「なんだ、まだ気になることでもあるのか?」

「んー……気のせいだと思うんだけどねー。……まあいいわ、早く戻りましょ、冥琳」

 そうして。
 ひらり、と先ほどまで訝しみ悩んでいたことなど見せるふうでもなく歩いていく孫策の後ろを、周喩もまた歩いていく。
 その途中、ふと後背を――先ほどまでいた陣を見る。
 孫策が危惧したこと、それが何かは分からない。
 だが、この時の周喩もまた、言い知れぬ何かしらを感じて、少しばかりの不安を覚えていた。

「……まさか、な」

 周喩がぽつりと漏らした言葉は、動き始めた戦場のざわめきの中へと消えていった。





  ** 
 
 



「動き始めましたけど、どうにも一辺倒ですねー」

「……風の言うとおりですね。このような動きの時は、何かしらの策を考えているようなものですが……」

 程昱と郭嘉の言葉を耳から脳へと取り入れながら、俺は眼下に広がる戦況を見つめていた。

 さしたる被害もなく、俺達は汜水関へと逃げ込むことが出来た。
 二十万の連合軍に五千という小勢で相対することこそ無謀と思われていたのだが、賈駆が考案した罠や、郭嘉と程昱が指示して構築した陣が役に立ったらしく、無事に逃げることが出来た俺としては、感謝しても足りないぐらいである。
 奇襲、という案を俺が出した後にそれだけの策を思いつき煮詰めたりするのだから、本当に軍師様々というものであった。

 そして、郭嘉の言葉に、俺はさてと腕を組んだ。
 今現在、汜水関へと取り付き攻め込んできているのは『陶』と『張』の旗の軍勢である。
 『陶』というのは恐らく徐州の陶謙の軍だろう――というか、陶姓を持つのが陶謙しか知らないのでそうではないか、というものだが、知識にある三国志においても、確か陶謙も連合軍に参加していた筈だよな、と思う。

 『張』という旗は、それこそ思いつかない。
 董卓軍に関係するだけでも張遼や張温、少し前では張譲といった人物がいるように、張姓の人物は三国志においてかなりの人数が存在するのだ。
 俺が知っている知識で連合軍に参加した張姓といえば、張莫ぐらいしか思いつかなかった。

「……一刀殿の言うとおり、あれは恐らく張莫殿と思います。張莫殿と親しいとされる曹操殿の旗が近いことから、まず間違い無いかと……」

「なるほど、確かに奉孝殿の言うとおり『曹』の旗が近くにありますね。……けど、それだけで判断するのは早いのでは?」

「お兄さんの心配ももっともですが、その辺は大丈夫かと思いますよ。張姓で前曲を務めようとする人物となると、風も張莫さんぐらいしか思いつかないですしー」

 他の張の人達は周囲に流されるまま連合軍に参加してて、そこまで本気では無いでしょうしねー。
 そうのんびりと放つ程昱の言葉に、俺はなるほどと頷く。

「……風が買うような人が前に出るということは、何かしらの策を持ってってことかな?」

「それは分かりませんよ、一刀殿。防戦の指揮をしている牛輔殿にも聞いてみなければなりませんが、あの攻め様は本気のようでもあります。……策に頼ろうとするのなら、もう少し緩くなってもおかしくはないでしょうが……」

「稟ちゃんや風、お兄さんがそういうふうに考えるように誘導するのが目的かもしれないですけどねー。こればかりは、実際に動いてみないと分からないと思いますよ」

「……かといって、確かめようと先に動こうとするのも、数的劣勢のこちらとしては状況が許さない、か」

「そうですね。先の罠こそこちらが主導権を握る形であったから成功したようなものですが、現在の状況で動けば主導権は連合軍側にあります。主導権を握られ、流れを握られ、戦況をも握られる……それだけは、なんとしても避けたい」

「うーむ、どうしたものか……」

 郭嘉の言葉に、俺は眉を歪ませながら腕を組む。
 
 連合軍の有利の一つに将の多さが上げられるが、それはまた、不利にも繋がることである。
 将が多いということはそれだけ指揮を執れる者が多いということであり、戦場の流れを知る者が状況に応じて動きやすいということでもあるのだが、反面、統率が行き渡りにくいということでもあるのだ。
 先の罠は、そうした連合軍特有の弱点を攻める――すなわち、圧倒的劣勢の董卓軍が先に動き出すことによって警戒する者とそうでない者を分け、主導権を握る形で追撃してきた警戒していない者達を誘い出すことによって成功したものなのだ。

 だが、現状は主導権を握れる形ではない。
 汜水関の城壁に取り付き攻められている、という形で先手を取られているし、何より今出撃してしまえば、連合軍二十万のただ中に文字通り身を投げ出すことになるのだ。
 汜水関に籠もる董卓軍は、総勢四万ほど。
 董卓軍七万からすれば半数以上が汜水関にいることになるが、それでも、二十万には遠く及ばないのだ。

「連合軍が一度退いてくれれば、とも思いますが……」

「この状況でそれだと、明らかに罠でしょうしねー」

「仕方ない、か……風、奉孝殿、守勢の子夫殿と一度相談して――」



「――北郷ッ!」



 一度防戦の指揮をしている牛輔と相談し、こちらの策をどうするかを――いつ用いるかを決めよう。
 そう空気を振るわそうとした俺の言葉は、しかして、さらに大きな空気の振るえによって掻き消されることとなった。
 そして、それを成した人物――華雄は、彼女の獲物である金剛爆斧を手にずんずんとこちらへと歩み寄ってきたのだ。

「北郷、いつになったら出撃するのだッ?! 連合軍は攻めに攻め続けておるが、成果も出せずに疲労困憊……今打って出れば、必ずや奴らを討ち果たすことが出来るのだぞッ。今こそ打って出る時ではないのか!?」

「……出陣の下知は下せません、葉由殿。少なくとも、連合軍が一度退き、何も無いと確認出来るまでは」

「それでは手遅れではないか! 撤退する敵を追撃してこそ痛手を与えることが出来るのだぞッ、そのような時にいちいち無事を確認していては、好機などあったものでは――」

「――お願いします、葉由殿。しばし……今しばし、お待ち下さい。連合軍が退き確認が出来た後こそ、功を上げる戦場となるでしょう。……その時までは、どうか」

「う、うむ……」

 今こそ打って出る好機だと言う華雄の言葉は、よく理解出来る。
 俺だって、隣に程昱と郭嘉がいない状況であれば同じ判断をしていたかもしれないのだ。
 もし彼女達がいなければ。
 俺の取る一手が董卓軍全将兵の身命を左右していたとすれば、そう思うと、俺は心臓が握りつぶされる思いであった。
 
 であるからこそ。
 賈駆と陳宮、そして程昱と郭嘉が考案し煮詰めた策を潰す訳にはいかないのだ。
 いくら華雄が猛将とはいえ、四万の軍勢ほどで二十万の連合軍を倒せるほど戦というのは簡単ではないだろうし俺自身もそう思う。
 故に、俺は華雄に対して頭を下げた。
 
「……よかろう」

「葉由殿……ありがとうございます!」

「仕方あるまい……お前がそこまで言うのであれば、な。ただし、連合軍が後退し始めた時は攻める。その時は私が先鋒でよいな?」

「……はい」

 願いを聞き入れてもらうため――ではなく、謝罪のために。
 俺はこの汜水関の戦いにおいて、華雄を出撃させるつもりなど毛頭無いのであった。

 猛将として、又、董卓軍最強と名高い部隊を率いる将として、華雄の存在は実に有り難いものである。
 彼女がいるだけで将兵の士気は向上するし、その武があれば如何様にでも策を弄することが出来るだろう。
 何より、華雄自身の武勇は俺自らが身を以て知っているだけに、彼女がいてくれるだけでも十分に心強いものであった。

 汜水関にて華雄が打って出る。
 彼女の武勇をもってすれば、如何に多勢である連合軍といえど生半可な損害では済まないことになるだろう。
 数的不利な側からすれば、それがもたらす損害は実に求めるものであり、普通に考えればそれを軸にして策を弄するのだろうが。
 しかし、普通ではない俺が――その先に待つであろう彼女の最後を知っている者からすれば、それは断じて認めることの出来ない策であるのだ。

 華雄にもしものことがあれば、恐らくは将兵の士気は激減し汜水関は容易く陥落することだろう。
 であるからこそ。
 諸説あるにせよ、その出撃が彼女の最後を決めてしまうのならば、如何に不利な状況において喉から手が出るほどに求める武勇であっても認める訳にはいかないのである。

 俺が頭を下げたことでどれだけ心動いたのかは俺の知る由も無いが、その姿に何かを感じたのか、華雄は少しばかり息をついたかと思うとくるりと背を向けて城壁の中へと戻っていった。
 その背を申し訳無く――彼女が求める行動を取らせられないことに申し訳なさと若干の罪悪感を胸に抱きながら見送った俺は、一つ息をついて顔を上げた。

「さて、と……とりあえず、子夫殿と状況を整理するために相談しようか」

「そうですね……策の機も話し合わないといけないでしょうし」

「ではではー、行くとしましょうかねー」

 そうして。
 ちらり、と眼下で繰り広げられる攻防戦に少しだけ視線を投げていた俺は、先に歩き出していた郭嘉と程昱の背を追う形で脚を進めた。
 いくら二十万の大軍といえど、ずっと気を張り詰めさせている訳にはいかない。
 攻める部隊の交代、食事、休息のための夜営など、どう工夫しても気は緩むものである。
 それらの中で、策を実行に移すために一番効果的な機は何時になるか。
 そんなことを考えながら、それらのことを話すためにと俺は城壁の中へと消えていった――



 ――だからこそ。
俺は忘れていたのかもしれない……気付いていなかったのかもしれない。
 この目で歴史は繰り返そうとしている、ということを見たというのに。
 




  **





 届けられたその一報――二報は、策を実行するための機をある程度定め、これからどう動くかという話し合いを始めようとしてた俺達のもとへと届けられることとなった。
 そしてそれは、こちらの思惑を尽く打ち砕くには十分なものであったのだ。



「も、も、申し上げますッ! 連合軍先鋒が被害甚大のためか本陣へと撤退していきますッ、それに加えて、その動きに巻き込まれた後曲の部隊と共に混乱している模様ッ! 打って出るなら今かと!」



「く、加えて申し上げますッ! 連合軍混乱のためか……華雄将軍が打って出られましたッ!?」







[18488] 四十五話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/02/14 15:03





「も、申し上げますッ! 張莫、及び、陶謙、両軍とも……後退していきますッ!」

「く、加えて申し上げますッ!? 曹操、孫策の両軍も共に後退すると共に、それを追撃せんと汜水関から董卓軍が打って出てきましたッ! 旗印は『華』……華雄と思われますッ!」

「ふぇっ!? な、何が起きてるの?!」

 汜水関攻略。
 董卓の悪逆非道に苦しむ洛陽の民を救うためにと集った連合軍において、かの街に進軍するための文字通り最初の関門として聳え立つ汜水関を攻略するためにと軍議が行われた。
 その結果による編成によって、汜水関に迫る先鋒は張莫と陶謙の軍勢ということになっていた。

 関羽が諸葛亮や庖統から聞いた話では、張莫も陶謙もその配下には武勇に優れる猛将といった人物はいないということであったが、それでも指揮統率に優れた名将はいるということであった。
 それを証明するかのような汜水関への接近や攻撃という行動、そして彼の軍の練度は、劉備軍の指揮を取り纏める関羽の身からすれば感嘆に達するものであったのだ。

 しかし、である。
 感嘆するほどに精強で統率の取れた張莫と陶謙の軍勢は、今現在袁紹が纏める本陣に向けて後退していた。
 その様子こそ整然としてはいないが、かといって乱れているというわけでもない。
 その張莫と陶謙の軍に巻き込まれる形で共に後退していく曹操と孫策の軍もまるで図っていたかのように、また同様に後退していたのであった。

 その光景を見ていた諸葛亮が何かに気づいたようにハッと顔を上げた。

「ま、まずいでしゅッ! このままでは、私達の軍が一番前に出ちゃいます!」

「張莫さん達が後退して、董卓軍が打って出てきた今、一番前にいる私達が迎え撃たなければ後方にいる連合軍の人達に多くの被害が出ることになりましゅ! そうなってしまえば、連合軍の維持が難しくなるかもしれません」

「ええッ!? で、でもでも、私達は七百ほどしか兵の人達はいないんだよ?! あんな一杯の董卓さんの兵を、どうやって迎え撃てば――」

「ッ!? 桃香様ッ、お下がり下さいッ!」

 ヒュン、と。
 一筋の軌跡を導きながら飛来した矢を、その進路上にいた劉備を守る形に身を投げ出しながら関羽は偃月刀で叩き落とした。
 董卓軍の距離は未だ遠く、放たれた矢がたまたま風か何かしらに乗ってここまで届いただけのことであろうが、それでも、董卓軍の意識がこちらに移ったことを知るには十分なものであった。
 後退する張莫らの軍ではなく、進路を阻むように動かない劉備軍を障害だと思ったのか。
 その真意こそ与り知らぬことであるが、そんなことは現状では特に関係ない。
 これからどうするか、それだけが意識を占めていく中で、田豫が呟いた言葉が関羽の耳を打つ。

「……多分、包囲するための時間を稼ぐために利用された。なら、こっちもそれを利用すればいい」

「? どーいうことなのだ、たよ?」

「……敵将を討ち取ってしまえば、そこで終わり。包囲するまでもなく董卓軍は汜水関に退くだろうし、その時は包囲じゃなくて追撃すればいい。それに乗じて汜水関に一番乗りすることが出来れば、敵将を討ち取ったことと汜水関を落とした功名は頂いたも同然」

「敵将と言うと……華雄、という将のことか?」

「……うん。董卓軍の中でも猛将として知られてるけど、こっちには愛沙お姉さんと鈴々お姉さんがいる。……将の質とすればこっちの方が数段上」

「にゃははー、そんなふうに言われると照れるのだ」

 なるほど確かに、と関羽は田豫の言葉に頷いた。
 華雄という将がどれほどの武勇を誇るのかは実際に見てみないと分からないが、彼の将を討ち取ることが出来れば、田豫の言うとおり、董卓軍は汜水関へ退くことだろう。
 『華』の旗しかないことを見るに、恐らくではあるが、華雄が打って出た軍を率いているのだと思う。
 指揮する将を討てば、どれだけの大軍であろうとも少数の劉備軍を覆い尽くすことは出来はすまい。
 自らの武勇がどれだけのものを誇るのかは分からないが、自信はある。
 出来ないことではない、と思い、関羽はニヤリと口端を歪ませた。

「ふふ……たよにそう言われてしまえば、期待に応えぬ訳にはいかないな。何より、他に手立ては無いのだろう?」

「……恐らくですが、たよちゃんの言う策が一番現実的かと。何より、今から後退するには時間が足りません」

「ふむ……雛里、軍の指揮を頼むぞ。朱里とたよは桃香様を頼む。では桃香様……行って参ります」

「うん……怪我には気をつけてね」

「御意」

 そうして。
 心配そうながらも、それしか道の無いことを理解する自らの主である劉備の声に背を押され、関羽は前へと進み出た。
 それに同調するように隣に立つ張飛と視線を交わしあった後、一つ頷いて関羽はさらに前へと進み出て、口上を述べた。



「聞けい、洛陽にて圧政を敷き私利私欲を貪る董卓の兵らよッ! 我が名は関雲長、劉玄徳が一の家臣にて一の剣なりッ! 我が偃月刀の血錆に成りたくなければ、退くがいいッ!」

「鈴々は張飛なのだッ! 華雄とかいう奴、勝負するのだー!」




 
  **


 


「どうやら、劉備は董卓軍を迎え撃つみたいですね」

「当然よ、秋蘭。普通に考えるのであれば、そうせざるを得ないわ。……もっとも、それすら分からぬ愚か者だったのなら、戦う以前の問題でしょうけど」

 董卓軍を迎え撃つためにと展開を始めた劉備軍の少し後方から見える光景に、曹操は知らず口端を歪めて、夏候淵の言葉に答えていた。

 数百程度の劉備軍が二万ほどを超えるであろう董卓軍を如何にして押しとどめるかは分からず、そして楽しみではある。
 かと言って、その見学だけに興じるほど戦況が許しているわけでもないとした曹操は、ちらりと周囲を確認した。

 共に後退した張莫の軍は既に立て直しを行っており、あと半刻もしないままにその全てを終えるだろう。
 今回の策は――張莫と曹操が考え出した策は、撤退の迅速さが鍵であった。
 遅ければ董卓軍に捉えられてそれなりの被害を出すし、かといって早すぎれば策だと見破られてしまう。
 となれば、策を弄するまでは全力で汜水関を攻め、頃合いになった時には全力で後退するといった切り替えが重要であったのだ。
 その点はさすが張莫という他しかなく、困難であったであろうその切り替えも、さしたる大きな混乱もなくやってのけたのである。

 視線を遠くに――劉備軍を超えて反対側へと移せば、張莫と協同して汜水関を攻めていた陶謙の軍がある。
 州牧にまで昇り詰めるだけの器量があるからか、遠くからで確信はもてないもののそれなりの被害に抑えているようであった。

 なるほど、一部の兵だけで汜水関を攻めたのね。
 どうやら、軍の一部――陶謙軍は一万五千ほどであると荀彧からの報告であったが、その内の三千ほどを汜水関攻撃に当てていたらしい。
 それらの負傷者を後方へと下がらせ、残りの無傷な一万二千ほどで董卓軍の包囲に回ろうとする陶謙に、曹操は感嘆を抱かずにはいられなかった。

 そして、そのさらに後方にいる孫策の軍は、こちらと同じくほぼ無傷である。
 弓矢などの後方支援こそしてはいたが、実際に大きな被害はなく、董卓軍の包囲に回るらしい。
 先代の孫堅が病で倒れた後からその娘である孫策が軍の指揮を執っていると報告を受けてはいたが、なるほど、中々に優秀な者であるようだ。
 いずれ天下覇道のための障壁となるか。
 孫策の才能を実に楽しみと感じながら、曹操は視線を前へと戻した。



「どうやら、劉備は関羽を前面へと押し出すようね。ふふ……中々、将の使いどころを弁えているようね、劉備は」

「劉備の下には関羽と張飛という豪傑がいるとのことですので、恐らくは将である華雄を討ち取る算段ではないかと……。如何に二万という数であっても将を討ち取られてしまえば、数百の劉備軍を押しつぶすことも敵わないでしょう……理にかなっております」

「それが目的でしょうね。劉備の知恵か、或いは知略の士がいるのか……どちらにせよ、関羽を動かすのであれば劉備は華雄を討ち取るでしょう。その時こそ私達も軍を動かすわ、秋蘭。紅瞬と春蘭、桂花にその旨を伝えておいて頂戴」

「はっ、心得ました」

 勇猛の将として名を知られている華雄であるが、それも、黄巾賊相手によって功を上げたものによるものと判断していた曹操は、きっと関羽が華雄を討ち取ると確信していた。
 かつて黄巾賊との戦いの場において見惚れたあの武力であるのなら、それも容易いことであろうことは十分に理解しているつもりである。
 連合軍が結成された折、戦いに移る前に一度挨拶に向かおうとしていたのだが、それも董卓軍の誘い出しという策によって状況が動いたために結局為し得ていない。
 一度状況が落ち着けばその時間を作るか
 戦場の中で不釣り合いな思考を頭の中から追い出しつつ、曹操は代わりにある人物の名と顔を脳裏に思い浮かべた。

「さて。このまま汜水関を陥落させることは容易いけど……一体どう動くかしらね、天の御遣いは。願わくば、このまま終わりなんていうつまらない結末にはならないで欲しいけど……私の誘いを断ったのだもの、楽しみにさせてもらうわよ?」
 
 そうして。
 曹操は視線を董卓軍を今まさに迎え撃たんとする劉備軍から汜水関へと移す。
 
 恐らく、天の御遣い――北郷一刀は汜水関にいるだろう。
 彼の者がどれだけの能力を持つかはあまり知ることではないが、それでも、先の黄巾賊との戦いにおいての策を彼が献策したことは報告にも上がっていた。
 となれば、それなりの知略を携えていることは当然だろう。
 もしやすれば、先刻の罠も彼の策かもしれない。

 もしそうであるなら。
 そこまで考えて、曹操はぞくりと背筋を振るわせつつ、実に楽しそうな笑みで汜水関を見つめていた。





  **






「ふははははっ、討て討ていッ! 連合軍の雑魚共が何する者ぞッ、ここで息の根を止めてやるのだッ!」

 自らの獲物――金剛爆斧を横殴りに振り切って、華雄は周囲にてこちらを伺っていた数人に兵を吹き飛ばす。
 その際に首やら手やらを引き千切りながら、それによって飛び散った血液が頬にかかるのも気にせずに、こちらへと槍を突き出してきた兵のそれを弾き飛ばしつつ、跳ね上げられた腕ごとその首を刎ねた。



「北郷も気にし過ぎよ、このような雑魚共が何用な策を弄そうとも汜水関が陥ちるはずもなかろうに。連合軍が退くのに合わせて打って出ていれば、さしたる問題も無く撃退出来ようぞ」

 放て。
 自らの周囲に敵兵が固まってきたことを看破した華雄は、一度道を切り開いてその場から離れつつ、離れた所で待機していた弓兵へと指示を出す。
 兵が打って出た隙を突かれて汜水関を落とされては敵わぬ、と思い連れてきた弓兵はそれほど多くは無いが、それでも、現在戦闘中の敵軍からしてみれば圧倒的に多い。
 そもそも、圧倒的少数で二万もの軍を押し止めようしていることこそが愚策ではないのか。
 ざっとみても千に満たないであろう敵軍の『劉』の旗に、華雄は心底つまらなさそうに溜息をついた。
 
 このまま『劉』の旗の軍を――幽州で黄巾賊討伐に功の挙げたと報告にあった劉備軍を一蹴することは容易いだろう。
 義勇軍ということであったが、装備がまちまちな所を見るとどうやらそのようであった。
 その練度こそ一義勇軍とは思えないものであったが、かといって、驚愕するものでも、こちらが被害を覚悟するほどのものでもない。

 となれば、劉備軍を瞬く間に抜いた後に連合軍本陣を急襲するべきか。
 そこで連合軍総大将である袁紹を討つことが出来れば――いや、討つことは叶わなくともその陣容に多大な被害を与えることが出来れば、数の多い連合軍だ、必ずや内から瓦解することだろう。



 このまま劉備軍を散々に蹴散らした後に、一度汜水関に退くか。
 それとも、このまま突き進み連合軍本陣に控えているであろう袁紹を討つか。

「貴様が華雄かッ!?」

 その半ばまで答えの出ている問いに――自らの武勇と率いる精鋭達を信じて袁紹を討つ、そう判断を下し、指示を出そうと口を開いた華雄であったが、それも不意に呼ばれた自らの名によって閉じられることとなる。
 その声に応じてみれば、視線の先には一人の女が――少女といっても差し支えのない人物が、そこにいた。

 白と緑を基調とした衣服を身に纏う姿は、洛陽の街でときたまに見かける豊かな商家や豪族の娘のように華やかである。
 その豊かで女性らしい曲線と愛くるしい容貌があれば、果てはどこかの郡の太守や上手くやれば王朝の下に召し抱えられることも不可能ではないだろう。
 しかし、動きやすいようにと纏められた上質な絹のように煌めく漆黒の髪と、その手に握られる無骨ながらも確かな作りの偃月刀を携えていれば、その印象も武人のものと見て取れた。

「貴様は?」

「我が名は関羽ッ、劉玄徳が一の家臣にして、一の矛なりッ! いざ尋常に勝負を願い出るッ!」

「ふん……貴様が幽州の美髪公とかいう奴か。どんな奴かと思っていれば、このような小娘であったとはな。去れ、貴様などに用はない」

「ふん……怖じ気付いたのか?」

「くっ……言わせておけばッ! いいだろう……我が金剛爆斧の切れ味、その身と首で味わうがいいッ!」

 にやり、と笑いながら武器の構えを解いた関羽に、華雄はそれまで構えることの無かった自らの武器を構える。
 ずしりとした印象を受ける華雄の武器に、関羽はそれまで歪めていた口端を正して、華雄と同じように武器を構えた相対した。

「董仲頴が臣にて、彼の軍最強の武人、華葉由ッ! 貴様如きに止められるかッ!?」

 それを確認した華雄は、一気に関羽に肉薄するために駆け出した。
 武器を構えぬ相手に斬りかかり勝った所で、それは褒められるものではない。
 その武を認める呂布を相手にする時でこそ、自然体という構えのままにいる呂布に打ちかかることはあるが、それ以外の者が相手ならば同じ状況で戦わねば意味が無い。
 
 それを関羽も捉えているのか、華雄が駆け出した時を同じくして、彼女もまた華雄に肉薄しようとしていた。 
 肉薄するためにと駆けた勢いのまま、華雄は石突きにて突き出された関羽の偃月刀を弾き上げる。
 鉄と鉄が勢いよくぶつかる鈍い音が途絶える前に、華雄は偃月刀を弾かれてがら空きになった関羽の横腹へと金剛爆斧を振り切った。

「これで終わりよッ!」
 
「させるかッ!?」
 
 そのままでいけば、数瞬の後には上半身と下半身を切り離された関羽の死体が転がるだろう。
 そう確信しかけた華雄であったが、弾き上げた偃月刀を金剛爆斧の切っ先を止めるようにと突き立てた関羽によって、それも為し得なかった。

 しかし、振り切ろうとした金剛爆斧は止まることは無い。
 相当な強度を持つ偃月刀ごと関羽は斬ることは叶わないことを判断した華雄は、そのままの勢いで偃月刀ごと関羽は振り飛ばした。

「グゥッ!? くそっ、なんて馬鹿力だッ?!」

「ふはははは、まだまだだぞ、関羽ッ!」

「ちぃ!」

 脚に力を込めてもなお地を滑り吹き飛ばされていく関羽であったが、華雄はそれを見逃しはしなかった。
 関羽が体勢を整える前に、再び彼女へと肉薄していく。
 踏ん張るためにと立てられていた偃月刀を再び構えた関羽へと、あえてその構えた偃月刀に華雄は金剛爆斧を振るった。

 ガギン、と固い鉄の音を響かせて若干弾かれた金剛爆斧を、華雄は次々と振るっていく。
 その首を狙うために右から、頭頂部から叩き割るために上から、偃月刀を持つ手を切るために左から、再び偃月刀を跳ね上げ胴体を狙うために下から。
 だが。
 そのたびに鈍く固い音をかもしながら防がれる斬撃に、華雄は若干苛立ちながら身体を回転させての蹴りを放った。



「中々しぶとい奴だ……形は違えど北郷のような奴だな、貴様は」

「……何だと?」

「む。いや何でもない、気にするな。……しかし、何を不服そうに顔を歪めている? それほどまでに私に負けることが悔しいのか?」

「……いやなに、不服にもなると思ってな。董卓軍最強と謳う貴様がこれしきの武なのだ、強者と戦えるだろうと思っていたのだが、これでは董卓軍も恐るるに足らずだとな」

「貴様ぁぁッ! 我が武のみならず、他の者の武まで愚弄する気かッ!? 死を以てその罪、償うがいいッ!」

 再び吹き飛ばす形で関羽との距離を取った華雄であったが、そこは追撃をしなかった。
 思ったより距離が離れたために追撃に転じても体勢を整えられる、というのもあったが、何より、相対する関羽の武が思ったより自身に切迫していることが上げられた。
 切迫している、と感じるということは、つまり自らの方が強いと感じているからである。
 勿論それだけではないだろうが、それを認識できるほどに落ち着いていた華雄の精神は、関羽の言葉に一気に沸点までと引き上げられることになった。


 許さん。
 それは自らが自身をもつ武を侮られた怒り。

 許さん。
 それは自らが認めるほどに強者の武をも侮られた怒り。

 許さん!
 それは――自らを含め、主である董卓に関わる全てのことを侮られた怒り。


 その激情のままに、華雄は再び関羽へと斬りかかっていた。

「どうしたどうした。攻めが単調に成っているぞ、図星を突かれて頭へと来たのか?」

「キ……サマァァァ! 許さん……武において我らを愚弄するなど、許さんぞッ!」

 首を、顔を、口を――命を止めるべく力の限りに振るわれた金剛爆斧は、しかして関羽の偃月刀によって目的を果たさぬままに防がれていく。
 関羽の言うように単調になっていることは自覚していたが、しかし、胸の内を渦巻く激情を発するためにと華雄はさらに力を込めて金剛爆斧を振るっていく。

 
 だが。


「隙だらけだぞッ! これで……終わりだッ!」

「な……に?」

 必殺の速度で振るわれていた金剛爆斧は、撃と撃の合間に生じた一瞬の隙を突かれる形で上空へと跳ね上げられてしまった。
 力の限り、と振るっていた腕は気付かぬ内に力が弱まっていたようであり、思いの外簡単に華雄は自らの武器を手放していた。

 無意識の内に口から零れ出た言葉はその事実に呆けてか。
 或いは。
 いつの間にか自らの首を刎ねるためにと掲げられていた関羽の偃月刀を前にして、自らの敗北を悟ったが故か。



「――!」



 それすら理解出来ぬままに偃月刀が振り下ろされる直前。
 これから死ぬのだと、最早武器も失われどうしようもないと理解してしまった華雄の耳に、誰かを呼ぶ声が聞こえた。
 




  **





 少年は疾駆する。
 後背から呼び止められるのを振り切って、自らに従ってくれる愛馬と共に。



 少年は疾駆する。
 守りたいと願った大切な人達――その内、死すべき運命にあった一人の女性を守るために。



 少年は疾駆する。
 遙か前方にて戟を交え、そして自らの武器を吹き飛ばされて死を目の前にした女性を――華雄を守るために。



 そして少年は――北郷一刀は、辿り着いた。
 後の歴史においてその名を馳せるほどの人物と相対しながら、華雄を背後に守って。





  **





 ガキン、とも、ゴギン、とも聞こえる固い音を耳から脳へと伝わせながら、華雄はそれを認識出来る程度には首が繋がっていることを理解した。
 否、それどころか、自らの首には傷一つ入っていないことに、不思議さを覚えるほどであったのだが。
 目の前を覆うその光景に――関羽と自らの間に立ちはだかるその人物に、華雄は驚愕を感じ得なかった。

「誰だ、貴様はッ!?」

 それは関羽も同じであったのだろう。
 自身と同じく驚愕を含んだ声で、その人物へと問いかけた。

 唯一、華雄が関羽と違うことと言えば、その人物が誰かということを知っていることだろうか。
 驚愕が張り付いた脳で、華雄はその名を口に出そうとした。


 董卓と賈駆が拾い、連れて帰ってきた男。
 軍に参加することになり、その能力を遺憾なく発揮させた男。
 黄巾賊との戦いの折、董卓と賈駆を守った男。
 強くなるためにと、師事してきた男。
 ――天の御遣いと呼ばれる男。


 だが、口に出そうとは思ってもそう簡単にいくわけはない。
 死ぬと思い、覚悟し、最後は武人らしくと思い切り詰めていた神経は、しかし、目の前の人物がここにいるという事実によって、散々にと崩されているのだ。
 震える唇に音にならない空気をのせて、華雄は呟いた。

 何故ここにいる。
 何故来た。
 何故――助けた。

 それらの音にならない問いに答えぬままに、目の前の人物は――陽光に煌めき輝く衣を纏う天の御遣い、北郷一刀は淡々と告げた。



「董仲頴が臣、北郷一刀」



 



[18488] 四十六話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/02/20 14:24




「――来たわね」

 その光景を、曹操は口端を釣り上げながら見つめていた。
 
 一つの白き存在が汜水関から出でて、そして戦場へと近づいていくのを。
 白き馬に跨り、白き衣を翻しながら駆け進む様は戦場を切り裂く流星の如くで。
 曹操は、その人物がどう呼ばれているかを不意に思い出した。

「ふふ……天の御遣い、か。その名に恥じぬというわけね」

 そして、その人物が――天の御遣いと渾名を受ける北郷一刀が駆ける先で起きている事柄に、曹操は実に愉快そうに微笑んだ。
 『劉』の旗の下。
 今まさに彼の旗の持ち主でもある劉備が家臣である関羽が、董卓軍の将である華雄を切り捨てようかとしていた。

 劉備が出撃してきた董卓軍を迎え撃つとした時、自分はそれを率いる華雄という将が関羽に討ち取られると予測していた。
 関羽は自らが目にかけるだけの才と武を持つのだから当然とも思っていたのだが、状況と情報をもって考えてみても、その考えは間違いではないと思っていた。
 
 だというのに、である。

 そこに天の御遣いという存在が入るだけで、それは酷くあやふやなものに感じるのである。
 天命であると、それが動くことのない事実であると認識していたにも関わらず、それ自体が揺れ動き消えそうになっているということに、曹操は酷く背筋を振るわせた。
  


「天を動かしたのか……或いは、北郷自体が天なのか。これが天の御遣いたる由縁かどうかは分からないけど……いずれにせよ、これで戦況は動くわね。……伝令ッ!」

「ハッ!」

「すぐに荀彧を呼んで――」

「――華琳様ッ!」

 北郷の行動が天を――天命すらを動かしたのか。
 或いは、動き行動した北郷こそが天なのか。
 そんなおよそ戦場では似つかわしくない考えを切り捨てた曹操は、これが戦場が動く予兆だとして、その場を離れていた荀彧を呼ぶようにと伝令を呼び寄せた。
 だが、それを伝える直前、その本人――荀彧が息を切らしながら駆け込んでくる。

「どうしたの、桂花? そんなに息を切らせて」

「はあ……はあ……、か、華琳様ッ、今すぐ軍をお纏め下さい……」

「……何があった?」

 初めは、自らが荀彧の名を呼んだことでそれが聞こえた荀彧が忠犬の如くに寄ってきたのかと思われた。
 それに可愛さと虐めたくなる衝動をどうしてやろうか、とも思ったものだが、それも、こちらの思惑とは裏腹な緊張した荀彧の声に、鳴りを潜めた。
 変わりに浮かんできたのは、荀彧がこれほどまでにした事実とその理由であったが、息も絶え絶えに声を発する代わりにとすっと向けられた指先の延長線を視線で追わせていけば、その理由も判明した。

「……なるほどね。助かったわ、桂花。あのままでは見過ごしていたわ」

「はっ。この身命、華琳様のものなれば当然のことです。……如何いたしますか?」

「そうね……紅瞬には?」

「伝えております。その上で、判断は華琳様に任せる、と」

「そう……」

 そうして、曹操は視線を汜水関へと――その城壁の上で左右にと振られている旗へと向けた。
 その中央に書かれている人文字は『十』。
 恐らく――非常に曖昧である意味直感とも言えるものが、あれが北郷のものであると耳元で囁いていた。
 その旗を振る。
 その直感が正しいものであるならば、華雄を助けるためにと汜水関から打って出た北郷を呼び戻すためのものだと考えることだろう。
 
 だが……本当にそれだけだろうか?
 そう思ってしまえば、最早それを無視するわけにもいかなかった。

「……桂花、季衣と流流に軍の纏めを急がせて。加えて、秋蘭と春蘭に兵を率いさせて私達の前と後ろへと移動させて頂戴。いつ何が起きても即動出来るようにと」

「はい、華琳様! では、早速」

「ええ、頼むわね」

 そうして去っていく荀彧の背を見送った曹操は、ぐるりと周囲を確認するために視線を動かしていく。
 恐らくではあるが、既に各軍が汜水関の上にて振られている『十』の旗に気付いていることだろう。
 だが、どの軍もが表立った動きを見せない以上、その真意は測り切れていないということか。
 
 後手に回っているわね。
 そう口の中で呟いた曹操は、解の出ない問いを頭の中で繰り返しながら視線を関羽と北郷へと――今まさに剣を突き合わさんと言わんばかりの彼の者達へと向けた。





  **





「――冥琳、軍を纏めさせて。蓮華、後退する準備を」

「ね、姉様ッ?!」

 陶謙が率いる軍の後方、張莫からの策によって今まさに汜水関から打って出てきた董卓軍を囲い込まんとしていた時に、そんな孫策からの言葉が周囲をざわめかせた。
 圧倒的ほどでないにしろ、董卓軍を率いる華雄は劉備軍の関羽によって討ち取られる寸前で、それを何とか防いだ北郷にしろ関羽に勝てるとは到底思えなかった。
 もしやすれば、華雄と北郷という二人の将を董卓軍は失うことになるかもしれないのだ。
 そのような好機を見逃す筈も、見逃してやることも無いのだが。
 しかして、孫策が放った言葉はそんな周喩の思惑とは全くの反対のものであった。

「……どういうことか説明してもらえるかしら、雪蓮? 今このような状況で、攻めずに後退しようという理由を」

「そんなもの、勘に決まってるじゃない」

「じゃない、ってそれでは理由にはならないでしょう、姉様。確かに、姉様の勘が凄い確率で的中するのは事実ですが……それにしても、それだけで判断するには……」

 そう孫権が言いよどむが、確かにそうである、とも周喩は思う。
 確かに、孫策の勘はそれが良いことだとか悪いことだとかを抜きにしても、怖いぐらいに良く的中する。
 それが何かの法則に基づいてのものであるのなら、彼女の軍師として補佐として、それを踏まえての行動を取ることも出来るものなのだが。
 本当に直感に頼る孫策の勘はでは、それも出来ないものであった。

 だが。
 信じるには値する、そうも周喩は思う。
 唐突に閃かれては困らされる孫策の勘ではあるが、その実、それで助かったことは両手の指では足りないものであったりするのだ。
 事実、荊州方面に展開していた黄巾賊との決戦の折、その圧倒的な数にものを言わせて包囲されそうになった軍を救ったのは孫策の勘であった。
 まあ、こっちの方向に指揮官がいる、という理由――直感だけで突き進んだ時には困ったものであったが、その結果として本当にいた指揮官を討ち混乱した黄巾賊を壊滅させたのであるから、馬鹿に出来るものではないと身を以て知っていた。
  


 であるからこそ。
 主であり、大切な友人であり、愛する人でもある孫策の言葉を、周喩は信じた。

「……その勘は良い方? それとも、悪い方?」

「悪い方ね」

「そう……明命」

「はっ!」

「お前は部隊を率い、董卓軍に動きがあるようならすぐにこちらに伝えられるようにしろ。汜水関、出撃している董卓軍、そして連合軍の後方……異常があればすぐにな」

「承知しました!」

 孫策から董卓軍が何かを仕掛けてこちらに打撃を与えるつもりであるとの言を取った周喩は、すぐさまに行動を開始する。
 今まで何処に隠れていたのか。
長くきめ細かい黒髪を靡かせる明命と呼ばれる少女――孫呉の軍において隠密行動にも長けた工作部隊を率いる周泰を呼び出した周喩は、彼女へと董卓軍の警戒を指示した。
 
 孫策の直感を信じるにしろ、事を成すのは董卓軍に他ならない。
 連合軍内に対立が無いと言えば嘘になるが、それでも、目の前に董卓軍と汜水関を望んでおいて、わざわざ混乱させるような真似はしないだろう。
 であるならば、警戒するのは董卓軍のみで十分であるのだ。
 そして、そんな周喩の考えを理解してか、周泰は事も無げに頷き、下された指示を成すためにとその場から再び消えたのであった。

「冥琳、私にも何かすることは無いか?」

「蓮華様はここで指揮を――いや、それでは思春と共に軍を纏めている穏と亞莎の手助けをして下さい。状況は切迫していますので、出来るだけ早急に」

「分かった、任されよう。行くぞ、思春!」

「はっ!」

 そうして周泰に指示を出した周喩へと、孫権が口を開く。
 内容こそ自らも何かしらを、というものであったが、その口調は彼女が常日頃から心がけている王たらんとするものであり、孫権がその立場に負けぬ働きを、と願っているのが容易に見て取れた。
 しかし、このまま孫策の直感を信じていけば、連合軍は少なからずの被害を被ることになるのだ。
 孫権の能力を疑う周喩では無かったが、そんな中で指示を下して独自に動かしてしまえば、混乱に巻き込まれて最悪の事態をも生み出しかねないのだが。
 それを踏まえて言葉を発しようとした周喩ではあったが、ふと思い立って別の指示を――今この時にも軍を纏めようとしている陸遜と呂蒙の補佐という指示を下した。

「んふふー。ありがとね、冥琳」

「なに……蓮華様にはこれからの孫呉を導いて貰わねばならないからな。様々なことを経験してもらうのが良いと思ってのことよ、雪蓮」

「まあ、ね……あの子も大概に頑固だからねえ。もう少し肩の力を抜けばいいのに」

「あなたのように力を抜かれ過ぎても困るものだけれどね。……そもそも、勘で軍を動かされたら将兵達はたまったものではないわ」

「あらら……藪蛇だったかしら?」

「虎の尾を踏んだだけよ」

 一緒じゃないそれ、という孫策の言葉ににやりと微笑みつつ、周喩は汜水関へと視線を向ける。
 次代の孫呉を導いていくであろう孫権は、その王たらんとする気概こそ立派であるものの、それ自体が足を引っ張る形となって存外に視野が狭い。
 孫策が力を抜けというのもそういったことがあってのこと――であると信じたいものではあるが、それを抜きにしても周喩自体もそう思わずにはいられなかった。
 広く深く物事を見極めて欲しい、とは軍師としての周喩の思いではあるが、かといってそれがすぐに実践出来る訳でもない。
 となれば、無理矢理にでも実際に知って貰うことが一番の道であった。

 陸遜と呂蒙――とりわけ、どこか抜けているようでしっかりとした軍師である陸遜ならば、そういったこちらの思惑をすぐさまに理解するであろうし、それを踏まえて行動してくれることだろう。
 そして、未だ見習いではある呂蒙だが、彼女もまたそれを理解し、そして行動出来るだけの力はあるのだからそれに期待させてもらおう、と周喩は考えていた。

「さて、と……向こうさんはどう出るかしらね?」

「さて……それはその時になってみないと分からないが……少なくとも、何か仕掛けてくることは確かだろうな」

 そうして、周喩は孫策と共に汜水関を見やる。
 その城壁の上では今なお『十』の旗が振られており、それだけを見るのならば突出した董卓軍を呼び戻すためとも思えるのであるが。
 それでも動きが無い以上、あまりそのことばかりを考えるのも無駄であるとした周喩は、突出している董卓軍へと――その先頭で関羽と相対している北郷へと視線を向けた。





  **





「……大丈夫ですか、葉由殿?」

「あ、ああ……」

 じんじんと痛む腕を――繰り出された偃月刀を盾で受け止めたそのままに、俺は背後にする華雄へと問いかける。
 こういうこともあろうかと、と声高に言うつもりもないが、それでも、こういった事態を予測して盾という防具を用意しておいて良かったと、本当に思う。
 きっと、盾も無しにこの一撃を受けていたらただでは無かったと思う、割と本気で。
 腕で受け止めたりでもしていたら折れていたのではないかと思える程の衝撃であったのだ。

 脳に伝えられる痛みがそこまでではないことに内心安堵しつつ――本当に安堵しつつ、俺は目の前へと視線を向け直した。
 白と緑を基調とした衣服を身に纏いながらも、それでいてしっかりと女性らしい曲線を描くその肢体は、今が戦場でなければ目を奪われていたかもしれないほどに可愛らしい。
 そんな感情を抱きながら向けた視線に対し、その人物は――関羽はこちらを射抜くような視線を向けていた。



「北郷一刀……ということは、貴殿が天の御遣いと謳われる方ということか?」

「まあ……そういうことになるかな。初めまして、関雲長殿。そして、ここは見逃してくれると大変有り難いんだけど……?」

「そのようなこと、出来る筈がありません。そも、本当に貴殿が天の御遣いというのであれば、董卓軍の重鎮ではありませんか。そうであれば、わざわざここで見逃して後の脅威とするわけにもいかないでしょう……天の御遣いという名、悪いようにはしません、降伏していただけませんか?」

 見逃してはくれないだろうか。
 その問いに、関羽は言葉での拒否と共に、盾に当たる偃月刀に力を込めることで答えてきた。
 ギチリ、と盾が軋む音を耳にしながら、さてどうするかな、と俺は思考を働かす。

 関羽、字は雲長。
 俺の知る歴史の中でも三国志の登場人物においてもっとも有名な武将の一人であり、彼が生前没後関わらずに起こしたことは、後に関羽という名に神格をもたらすほどのものであった。
 そろばんを開発したとか雑事のこともあれば、その武名と劉備に捧げた忠誠から後の世の皇帝達に信仰されたり、はたまたその死の原因でもある呂蒙を祟り殺したりなど、様々な逸話がある。
 そんな中で――正史ではなく三国志演義において、華雄を斬ったのが関羽というのであるのだから、俺としては十分に気にしなければならない存在であった。
 ちらり、と関羽の背を確認してみれば、どうにもそこには曹操であるとか呑みかけの酒などは無いことに、俺は内心安堵していた。

 ギチリ、と盾が軋む音とは別の音を頭の中に響かせながら、俺は関羽へと――否、自身を取り巻く全ての状況へと注意を向ける。
 理解不能な、だけど不思議と懐かしいと思えてしまう関羽の視線から逃れるためではあったのだが、その行動は意外と意味があったらしい。
 よくよく見てみれば、連合軍全体がこちらへと注意を傾けていた。
 唯一、曹操と孫策の軍だけが、どうにも慌ただしいようではあったが。

 その事実に、俺はニヤリと口端を歪ませる。
 現在の状況を鑑みて。
 そして、汜水関にいてこの状況の全てを確認しているであろう自身の臨時の部下達ならば、どういう行動を取るのであろうか、汜水関を背後にした状況でさえ容易に想像出来たからだ。

 なるほど、今が好機か。
 そう音にせずに呟いた俺は、関羽へと右手に握る剣で――先の問いの答えを示すように斬りつけた。



「ッ!? ……それが、貴殿の答えということですか?」

「その通りと言えば、関羽殿は如何なさるか? そもそも、卑しくも漢王朝皇帝である献帝様がおわす洛陽へと迫る所業を成している者達に対し、洛陽を守らんとする我々が降伏するとは如何なことか。逆賊として降伏するのは、そちらではないのか?」

「わ、我々が逆賊であるなどと……ッ! 取り消せ、今の言葉をッ!」

 俺が繰り出した斬撃を難なく回避した関羽と距離を取った後、関羽からの射抜き射殺すような視線を受けて、俺は態とらしく口端を上げて笑う。
 目の前の女性の身である関羽のことは知らないが、俺の知る歴史の中での関羽のことはそれなりに知っている。
 曰く、忠義に篤いだの。
 曰く、老将軍といわれる黄忠と同格の将軍位に不満を漏らしたとか。
 そして、それらの情報から、関羽という人物は主である劉備へと忠義を篤くしつつ、自尊心――誇り高いことが推測された。
 ともなれば、それは目の前の少女にも当てはまるのではないか、と俺は思っていた。

 そして。
 そういった推測が全てかどうかは別として、そうした人となりによって関羽が自らを窮地に追いやったというのであれば。
 何分、武力も智力もこの世界の面々には勝てないのであれば、そういった故事に倣うことも吝かではなかった。

「取り消せと言っている、北郷一刀ッ! 我らを……洛陽の民を董卓の暴虐から救わんと起った連合軍を愚弄した言葉を取り消せと――」

「咆えるな、痴れ者が」

「――なッ?! き、きさま……今なんと言った?」

 怒れ怒れ、と。
 心臓のみならず、この身全てを鷲掴みにされて刃を突きつけられているような殺気を全身で受けながら、怖いと思うよりも先に俺は笑ってみせた。
 いくら名の知れた武人といえど、感情のままに戟を振るえばその能力を全て発揮できないことは、奇しくも先ほど華雄によって知っている。
 その華雄は俺のいきなりの豹変に半ば呆然としているようであるが、それでも、目の前の関羽は予想通りに――計画通りに激昂寸前のようであった。
 
 もっとも、ここまでの経緯においてで言えば、関羽を怒らせることだけが目的ではないのだが。
 俺の言葉が聞こえていたのか、徐々にこちらを包囲せんと動き始めようとしていた連合軍の視線に、俺はその目的の達成を確信していた。
 なに、ここまで意識を集めれば――そして、ある程度の時間を稼ぐことが出来たのであれば、おおむね十分であろう。
 まあ俺自身は下手すればここで死ぬかもしれないけどな、と諦め二割、目の前で怒髪天を衝く関羽への恐怖が七割な心境をもってすれば、頑張ったほうだと思う。

 だと言うのに。
 そのまま黙って時間が経過するか、華雄が立ち上がるまで待てばいいというのに、残りの一割に残った思いは――すぐに顔に出る関羽を弄ってみたいという思いは、それを許してはくれなかった。
 おかしいな、俺に攻め属性は無かったような気がするのだが――いや、決して受け属性も無いけどさ。
 そんなふうに思考の中だけで首を傾げながら、しかして、ニヤリと嗤って俺は口を開いた。



「聞こえなかったのか? ――咆えるな駄犬と、そう言ったのだよ……この逆賊共が」



「き……さまぁぁぁぁぁッ!」

 途端、まるで暴風の中に投げ込まれたのではないかと錯覚するぐらい膨れあがった関羽の殺気によって、俺は一瞬怯えそうになる。
 ビクリ、と。
 俺の精神などお構いなしに、生物的本能からの行動とも言えるその一瞬の隙を、関羽が見逃す筈もなかった。

 だが。

 そのままであれば、頭頂部から一撃のままに断ち切られていたであろう俺の運命は、しかして、不意に叫ばれた言葉によって防がれることとなった。



「き、奇襲だぁぁッ?! 董卓軍が、後ろから攻めてきたぞォッ!」



「――な、何だとッ?!」

 そして。
 その言葉に驚いた関羽が振り返った先――俺と彼女の視界の先で。
 ぬらり、とも、ぬめり、とも実に表現し難いままに、紅蓮の炎が産声を上げた。
 





[18488] 四十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/02/28 11:36





「やれやれ……本当に、お兄さんにも困ったものですねー」
 
 そう呟きながら程昱は城壁の下――打って出た董卓軍とそれを迎え撃たんとした連合軍へと視線を向ける。
 さすがは董卓軍でも最精鋭と呼ばれる部隊を率いる華雄か、と思えるほどに、打って出た董卓軍二万の軍勢は的確に連合軍へと襲いかかっていた。
 後退していく両翼の軍勢に釣られながらも、迎え撃つためにと留まった劉備軍を覆っていくように動いていた董卓軍であったが、しかし、その動きは突如としてぴたりと止まることになる。
 彼の軍を率いていた華雄が、劉備軍の将である関羽に一騎打ちの末に敗れたからだ。
 汜水関の城壁からでは聞こえることはなかったが、遠目で見ても華雄の戟が鈍ったことから、恐らくは挑発か何かの類をされたのだろう。
 怒りのままに戟を振るい、そのままに隙を突かれた華雄は自らの武器を空中へと跳ね上げられていた。

「その割には、いささか嬉しそうに見えるのは気のせいですか、風?」

「おやおやー、稟ちゃんの目は節穴ですかー? 風が嬉しそうに見えると言うのなら、節穴を通り越してただの穴かもしれませんが」

 そのままであれば、華雄は関羽に斬られていただろう。
 冷静であった華雄ならばその力量も拮抗していたであろうが、頭に血が上り戟が単調になった華雄ではそれもままならない。
 ともすれば、戟を跳ね上げられた勢いのままに、華雄の首が地を転がっていてもおかしくはなかったのだ。
 そして、将が討ち取られた勢いのまま打って出た董卓軍は蹴散らされることになり、籠城のための兵力の大半を失った汜水関を放棄して虎牢関へと退かなければならない。
 程昱は、即座にその案を頭の中へと浮かべ――そして、すぐさまに破却した。


 自らの――どれだけ制止したにも関わらず、華雄が打って出たと聞いた途端に目の色を変えて自らも出て行った北郷一刀が、華雄の首を転がしていたであろう関羽の一撃を防いだからであった。


「……やれやれ。あの方は本当に自分が汜水関防御の総大将であるとの自覚があるのですかね? とは言え、あるのでしたら打って出る筈もありませんが」

「あの兄ちゃんにそんな自覚があるかよ。ありゃ、特に何も考え無しなんじゃねえか?」

「でもですよ、稟ちゃんに宝彗? お兄さんが打って出なければあのような事態にもなっていませんでしたよ?」

 そうして程昱が北郷達から少し外れた地点を指さしてみれば、郭嘉の視線がそれを追ってその先へと動いていく。
 その先では、連合軍が動きの止まった董卓軍を飲み込まんとして口を広げた生き物のように展開していくのが見えていた。
 その動きに、郭嘉はなるほど、と頷く。

「……連合軍の注意は一刀殿達が引きつけている、ということですか。ともなると、策の条件としては十分かもしれませんね」

「はいですよー。色々と当初の予定とは違っちゃいますけど、まあ、今は結果を求める時かなと思いますし。旗の方はもう振らせましたんで、今更ですけどねー」 

「……動きがやけに速いですが、まさか風、華雄殿が打って出たと聞いた時から既に読んでいましたね?」

「はてさて、何のことやら?」

「黒い女だな、全くよ」

「それが女の嗜みというものですよー、宝彗」

 にゅふふ、と口元に笑みを浮かべながら、程昱は北郷から視線を外して連合軍内部へと移す。
 北郷が打って出た時から振らせていた彼の場所を示す『十』の旗に、そろそろ連合軍は気づくことだろう。
 遠い先祖が使っていたとされる十文字の旗、とは北郷本人から聞いた言ではあるが、それに連合軍が気付くということは、それはその内に潜む者達も気づくということで。
 気づかぬままに笑みを深めていた程昱は、隣の郭嘉が発した笑い声に彼女へと視線を移した。

「ふふ……ここまで掌の上で踊ってくれたとあれば、こちらとしても相応の持て成しをせねばいかない、といったところでしょうか……駒を進めますか?」

「そうですねー。予定通りに事が進めば――おや、早速ですかー」


 轟、と。


 駒を――策を進めるか。
 そう問う郭嘉の言葉に返そうとする矢先、程昱は連合軍内にて動きが起き始めたことを――まるで生き物のように妖しく蠢く紅蓮の炎が、連合軍の中枢付近において立ち昇ったことを確認した。

 そして。
 それより少し遅れる形で、連合軍の各所から同様の炎が巻き起こるのへと視線を送りながら、程昱は順調に策が進んでいることを顔に出さずに笑った。
 まるで連合軍という入れ物を内から食い破らんとするようだ、と口に出さずに、当初の予定通りに――火計と共に合図を兼ねている幾つもの炎から視線を外し、連合軍の後方へと移す。
 ちらちら、と。
 色の対象物が乏しいことから今いち確認しづらいが、そこには何かが蠢いていた。

 徐々に近づいてくると同時にそれが土煙である、と結論を下した郭嘉が口を開く。

「……さて。では、締めといきましょうか」

「そうですねー。このまま放っておいて、お兄さんの首が落ちちゃっても困りますしねー。……ではでは、行きましょうか」

 連合軍内で巻き上がった炎。
 そして、その後方にて土煙が確認されたことにより、郭嘉とともに程昱は策の完遂を確信した。
 まあ、それを表に出すには未だ早く、もし破られるようなことでもあれば将兵の士気精神的な被害も計り知れないこともあって、それを成すことは無いのだが。
 策の完遂自体が勝利に直結するわけでもないが、それでもなお、程昱はそれを確信していた。
 


「先に出撃した同軍と伏兵部隊、奇襲部隊を迎え入れるために全軍打って出るぞッ! 牛輔殿、守りはお任せします!」

「おー」



 ならばこそ。 
 その策を完結させるべくの最後の一手として、駒を進めねばならないだろう。
 郭嘉の言うように、先に打って出た華雄率いる軍や北郷を汜水関に再び迎えるため、そして、連合軍内にて炎を巻き起こした楊奉率いる伏兵部隊と、連合軍の後方から食らい付かんとする奇襲部隊を――『張』の旗を風で翻しながら迫る部隊とで行う連合軍二十万の挟撃作戦を完遂せんがために。

 もっとも、それもただの前座でしかありませんけどねー。
 くすり、と誰にも分からぬように微笑んだ程昱は、城壁から打って出るためにと進む郭嘉の背を追いながら、徐々に露わに成ってきた策の全貌へと思いを馳せていた。





  **





「何をしているんですか、あなたはッ!?」

「……やれやれ、見つかっちまったかい……まあいいかい、目的も達したことだしね」

 ガシャン、と。
 腰元に備えていた拳大の壷を、楊奉は炎によって燃えさかるソレの中へと投げ入れた。  
 固い音を響かせて割れた壷は、その中身に蓄えていた液体を辺りに撒き散らすのだが、それより何より、その壷が割れたことによって轟々と燃えていた炎がさらに燃えさかることになった。

 後方からの奇襲の情報。
 そして、連合軍各地から立ち昇った炎によって騒然となる周囲の状況の中において、楊奉は背後からかけられた言葉に応えるように、ゆっくりと振り返った。

「まさか……董卓さんの兵……ッ!?」

「ご名答だよ、おかっぱの少女。楊奉だ、覚えておいておくれ」

 深い蒼色の髪を短めにした少女がこちらへと穂先を向けているのにも関わらず、楊奉は力を抜け、と言わんばかりに肩をすくめる。
 その細っこい身体のどこにそんな力が、と問いただしたくなるような鎚の先端に備えられている槍の穂先のようなものは、既に幾人かの肉を割いたのか、血で濡れていた。

「顔良です……おかっぱの少女なんていう名前ではありません。……それはそうと、何をしているのか、と私は問うたのですが、それには答えていただけないのですか?」

「ほう……顔良と言や、袁紹の下で文醜と双璧を成すと言われている将軍様じゃないかね。いやいやそれにしても、中々に慎重深いんだねえ。いっそのこと、一気にかかってきてくれればこっちとしても楽だったのに」

「……懐に何を入れているか分からない方に、わざわざ近づくこともないでしょう。それよりも、いい加減にこちらの問いに――」


「――なに、こういうことさ」


 諜報活動をする上で嵩張らずに役に立つ武器は何だ。
 そう尋ねた北郷から薦められた先端を尖らせた鉄の棒――彼からは苦無とも言われたが、懐に潜ませるその数と存在を確認していた楊奉であったが、それを察知されたのか、一向にこちらへと攻めかかってこない顔良に焦れてくる。
 人間、何かに取りかかろうという時が一番集中するものであり、そして注意力が散漫になるものである。
 こちらへ攻めようとするその先を取って投擲してやろうと思っていた楊奉の企みは、既に顔良に露見しているようであった。

 そうとなれば、このまま対峙していても埒が明かない。
 元々、自らの身に帯びる武器と言えばその苦無か、袁紹の兵に化けんとした装飾過多の剣しかない。
 対して、顔良の武器といえば、一体何を砕きたくてあれだけ巨大なのかが理解出来ない大槌であるが、それでも、そんなものとぶつかってしまえばたちまちの内に吹き飛ばされることだろう。
 ともすれば、そんなものを軽々と扱う顔良と、いつまでも対峙しておくこともない。
 そう思った楊奉は、近くにあった蓋のされた大きな甕へと苦無を放った。
 
「……一体何を――ッ?!」

 突然の楊奉の行動が理解出来なかったのか、頭上に疑問を浮かべながら首を傾げようとしていた顔良であったが、楊奉が放った苦無によって割れた甕と、そこから流れ出た液体――そして、ふわりと舞った火の粉によってその液体が瞬く間に火の川になったことによって、その顔色を変えた。

「まさか……油ッ!?」

「ご明察だよ。まあ、全部が全部油というわけでもないけどさ。それでも、これだけの数をよく集めたと思わないかい? ははっ、本当にあの大将は面白いことをやるよ」

 自然に漏れる笑みに口端を歪めながら、楊奉は一つだけ残っていた拳大の壷を手に取る。
 ちゃぽん、と僅かな水音を響かせるそれにも、油が満たされている。
 本当にどこまでを予想して予測しているのやら。
 くっ、と喉を鳴らしながら、楊奉はその壺を燃えさかるソレへと――堆く積まれていた兵糧へと、更に投げつけた。
 そうして、さらにその火の手を強める炎に、楊奉はにやりと笑う。


「まさか圧倒的な攻め手に対して兵糧攻めをしようなんて真似、普通なら考えつかないけどねえ。さすがは天の御遣い考えることが違う、って所かね。いやはや、凄いもんだよ」

「くっ! まだ燃えていない分を火の無い所に早く移してくださいッ! 他の人は消火をッ、急げば燃えている分もまだ間に合います!」

「おやおや、頑張るねえ。……まあいいさ、あたしはここいらで退かせてもらうとしよう。後続も来たようだしねえ」

「……え?」

 轟々、と。
 最早どう手をつけていいのかも分からぬ程に炎に包まれるソレ――袁紹軍の兵糧にちらりと視線をやって、楊奉はこの策を考えついた北郷をふと思う。

 奇襲と同時に火計を行うことによって被害を大きくし、各軍の兵糧を損なわせる。
 なるほど、火計を行う上でこれ以上の目標は無いだろう。
 兵糧を失ってしまえば、軍としての士気や統率、機能は著しく低下するだろうし、もしそうなってしまえば、連合軍という体裁すら整わないことになるかもしれない。
 最悪の場合、同じ連合軍内において兵糧の奪い合いをすることにも成りかねないのだ。
 状況によってはそれだけで連合軍が瓦解するほどのものである。

 随分と雇われがいがあるもんだけど、まあそうじゃないと面白くないしねえ。
 そう心の中でだけ――にはならず、自らの口端をもにやりと歪ませた楊奉は、ふと耳に届いた音に反射的にしゃがみ込んで大地へと触れる。
 人が走る音とは違う音――そして振動を大地から読み取りつつ、そういえば、とした楊奉は、呆気に取られる顔良を置いて炎の中へと飛び込だ。


「駆け駆けえッ! 連合軍の奴ら、この火計で慌てとるッ、この隙突いて一気に攻めかかれやッ! 神速の名、ここで連合軍に見せつけえッ!」

「応ッ」


 その背後。
 周辺の視界が炎によって赤く染まる中、その壁の向こうから聞こえてきた声に覚えがあった楊奉は、策の順調な進み具合にニヤリと笑いつつ、他に潜伏していた忍と合流するために炎の中を駆け出した。
 


 神速将軍とも呼ばれる張文遠が率いる董卓軍奇襲部隊五千。
 それらが今まさに、火計によって混乱し無事な兵糧を確保しようと右往左往する連合軍へと襲いかかっていた。





  **





「なんだというのだ……一体?」

 ふるふる、と。
 茫然自失といったふうに肩を振るわせながら炎に巻かれていく連合軍を見やる関羽に、俺はほっと息をつく。
 関羽の注意がそちらに向いたために生き延びたということ――若干の時間だけかもしれないが、それでも、そうして迎えた時間と目の前で起こる現状に、脱力せずにはいられなかった。

「はは……風も奉孝殿も上手くしてくれたみたいだな。……霞にも、後で礼を言っておかなきゃ」

 未だ怒声と剣戟の音が入り交じる騒々しさが戦場を包んではいるが、感じるだけでもそこら中から感じるあたり、どうやら策は上手くいったみたいである。
 一手、忍を伏兵として連合軍の兵糧を確認、これを焼失させる。
 二手、忍が上げた炎を合図として連合軍を後方から奇襲、これを混乱させる。
 まあ、この後にも三手四手と策は進んでいくのだが、この段階までくれば概ね成功と言えるだろう。
 ちらり、と汜水関へと視線を送ってみれば、程昱達もそう思っているのか、彼の堅城から残りの董卓軍が打って出ているのが確認出来た。

「まさか……これは、貴様らが……ッ?!」

「さて、それはどうでしょうかね? 連合軍内においての仲間割れ、という線もあると思いますが?」

「そのようなこと……洛陽の民を救わんとした我らが――」

「……では一つお聞きしますが、洛陽の街が悪逆と暴政に苦しめられているとは一体誰が言った言葉ですか? 兵か、民か、それとも国か? そもそも、関羽殿はその現状を自らの瞳で確認したり、自らの耳でその報告を受けたのですか?」

「――ッ!?」

 ここまで来れば、策の第一段階は過ぎたと言っても過言ではないだろう。
 程昱達が動き出していることがその証であるし、実際に俺としても、それは間違いないと思う。
 ならば。
 そろそろ策を次の段階へと――連合軍を瓦解させるための段階へと進めることにしようか、と俺は口を開いた。

「言うまでもなく、俺の瞳にも耳にもそのような現状も報告も入ったことはありませんよ。洛陽の街は平穏無事……民も、先だっての大火からの復興に活気づいております。……さて、ではもう一度聞くとしましょう――誰が、洛陽の街が悪逆と暴政に苦しめられていると言ったのか、を」

「う……あ、それは……」

 まあ概ねは袁紹とか袁術とか、俺の知る歴史の中でも散々に権力とかを求めた人物の辺だろうけどな。
 そんなことを思いつつ、俺は口を開きかけたり閉じたりする関羽へと視線を滑らせた。

 ぶっちゃけて言うと、何も関羽に誰が言ったかをわざわざ言わせたいわけではない。
 視線をきょろきょろと頼り気なく彷徨わせ、少しばかり上目遣いでこちらを伺う関羽に少しだけ申し訳なさを感じながら――少しだけ、本当に少しだけで迷子みたいで少しだけ可愛いとか思ったわけでもないことでもないのだが、俺はしばしの間、口を閉じながら視線を周囲へと回していた。
 では、何故、ということになるのだが。

 要は、である。
 関羽が――そして連合軍が、自らの行いに疑問を持ってくれればいい、と思ってのことであった。



 今回の連合軍――とは言っても、俺が知る三国志での連合なんて反董卓連合か、孫権と劉備が対曹操で結び赤壁で彼の者を破った連合しか知らないわけだが、それにしても、その参加した諸侯は結構な数になる。
 そして、それらの多くが総大将であり連合の発起人である袁紹の悪逆討つべしという檄文によって参加しているのは、当然のことである。
 ならば、その当然のことを揺らがせてやればどうなるのか。
 それが、今回俺達が――俺の奇襲という言葉から賈駆や陳宮、郭嘉と程昱によって考え詰められた策の肝であるのだが。
 その全貌が全ての姿を見せるには、まだ少し早い。

 だが、初めの楔を打ち込んでおくことは肝心だ。
 そう思って関羽を意地も悪く問い詰めてみたのだが、思いの外効果的であったらしい。
 連合軍に対して疑問を持ってくれれば程度に思っていたのだが、存外に真面目であったみたいだ。
 大儀を掲げた人物を答えるのは容易だが、しかし、その人物が本当に民のことを思って大儀を掲げたのか。
 俺が言わずとも、関羽にとってはそれが既に疑問として脳裏にこびり付いてしまったようであった。

「さて、と……これからどうするか――」


「――愛沙ちゃんッ!?」


 関羽が疑問を抱えたとあれば、これ以上ここにいる必要は特にないだろう。
 この後に彼女がどう動くかは特に気にすることでもない。
 その自らの混乱を連合軍全体に伝染させてくれれば儲けものであるし、もしそうしなかったとしても、まだまだ打つ手はあるのだ。
 程昱達ももうそろそろこちらへと近づく頃だろうし、何より、華雄に怪我が無いかも確認したい。
 そう考えた俺は、背後に守っていた華雄の方へと振り向き――唐突に聞こえた言葉に再び振り返っていた。

 桃色の髪の少女。
 帽子を被った背の低い少女。
 自らの倍以上はあろうかという槍をこちらへと構えながら、関羽の前に立つ幼げな少女。
  
「ッゥ?!」

 それらの少女を――関羽を含めたその四人を視界に収めた時、曹操や孫策の時に感じた以上の痛みが、俺の頭を駆け抜けた。


  * 

 
『消えないで……っ! 帰ってきて……っ!』

 そう聞こえた声は、確かに目の前の少女から伝えられた筈なのに。
 酷く遠くから聞こえたように擦れていて、その声は酷く悲しんでいて。
 徐々に薄れていく意識が――存在が、それを遠くのように思わせているのだろうか。

『私を……私を一人にしないで……』

 その声を求めるように腕を伸ばしても――最早手なのかどうかさえ分からない自らの存在を伸ばしても、その声には中々届くことは無く。
 ともすれば、そのまま腕を伸ばした状態のままに消えていくかもしれないのだ。

 ……だと言うのに。
 何故こんなにも悲しいのか。
 何故こんなにも苦しいのか。
 何故こんなにも――声の主が、愛しいのか。

『やだやだやだやだ! お兄ちゃーーーんっ!』

 消えていく。
 失われていく。
 薄れていく。

 俺という存在が。
 俺という個人が。
 声の主――彼女達への想いが、思い出が。
 そしてこの願いが。

 ――離れたくない、別れたくない。

 俺を支え、時には励ましてくれた大切な半身、ずっと傍に居てくれた心優しき少女。
 俺を支え、時には導いてくれた大切な半身、ずっと傍にいてくれたお淑やかな少女。
 俺を支え、時には励ましてくれた大切な半身、ずっと傍に居てくれた元気一杯な少女。

 彼女達と――俺を支え、慕ってくれたみんなと離れたくない、と。
 俺は、自らの存在があやふやでありながらも、力の限りに腕を伸ばして――白光にと飲み込まれていた。
 その直前、確かに掴み、握り合った手を離すことは無い。


 


『我ら四人っ!』

『姓は違えども、姉妹の契りを結びしからは!』

『心を同じくして助け合い、みんなで力無き人々を救うのだ!』

 光を抜けた向こう――戦乱の世の中であっても暖かみを持つ陽光に照らされながら、そう掲げられた言葉は自分達を包み込む桃園に負けぬほどに美しくて。
 自らがその場にいるということに現実を感じさせぬほどであった。

 絹のように美しい黒髪を靡かせる少女と。
 桃園に負けぬ劣らぬの美しい桃色の髪を持つ少女と。
 桃園の美しさに負けぬほどの命の輝きに満ちた少女と。
 ……そのような少女達に不釣り合いと思わないでもない自分に苦笑しながら、それでも、彼女達と共に歩んでいける先を美しいと思えていた。

『同年、同月、同日に生まれることは得ずとも!』

『願わくば同年、同月、同日に死せんことを!』

 であるからこそ。
 さらに高く掲げられた杯へと、俺も杯を合わせていく。
 友であろうと、親であろうと、子であろうともその命を奪い合う時代において、血は繋がらずとも共にいようというその心は桃園に負けぬほどに美しくて。
 その光景にふと混ざりたいと思ってしまった俺は、乾杯、とその契りを締めていた。


 *
 
 
「愛沙さんッ?!」

「愛沙、大丈夫なのかッ!?」

「あ、ああ……大丈夫です、桃香様」

「ッ!?」  

 そして、そんな幻覚にも似た感覚は三度唐突に断ち切られることとなる。

 ガクン、と。
 唐突に電源を入れたかのように意識が覚醒したためか、まるで何かに叩かれているほどに痛む頭を抑えながら、俺は声の発せられた方へと視線を飛ばす。

 桃色の髪の少女と帽子を被った少女が関羽を労るように身体を支え、その前に、彼女達を守るように槍を突きつける幼い少女がいた。
 桃色の髪の少女と帽子を被った少女は俺を警戒する視線を向けていたが、槍を突きつけている少女は俺を敵と断定しているのか、敵意を込めた視線を飛ばしていた。
 もっとも、先ほどに関羽から向けられた殺気の比ではないし、その意識自体は後ろに守る関羽へと向けられているためか、それほど堪えるわけでもなかったが。

 それでも、その力量差は十分に理解出来る。
 俺如きでは太刀打ちできそうもないことを即座に理解すれば、少女の意識がこちらから逸れていることを確認しつつ、それから逃れるためにと俺は関羽達に注意しながら俺は華雄へと近づいた。

「白ッ! ……少々失礼しますよ、葉由殿」

「え……何を北郷――ひゃっ?!」

 未だ現状が掴み切れていないのか、或いは放心したままなのかは知れないが、あれだけ大きな武器を振り回せるほどの膂力があるのも関わらずに意外と軽い華雄を、俺は抱き上げる。
 本当、何処にそれだけの筋肉とかあるんだろうというほどに柔らかい感触にどきどきと――いやいや、この状況でそれ以上考えるのは不味いかもしれないので自重しておこう。
 それまで、こちらに巻き込まれない位置で待機してくれていた愛馬である白を呼び出した後に、華雄を抱きかかえたまま白に乗った俺は、こちらへと近づいてくる汜水関からの董卓軍に合流せんと、手綱を――



「ま、待ってください、御遣い様ッ!」



 ――引こうかというところ、ふとかけられた言葉に留まることになった。

 今この場にいるのは――俺に声をかける人物といえば、俺の腕の中から馬に跨ることになった華雄か、或いは関羽やその周囲にいる人物達ぐらいであろう。
 だが、華雄は俺のことを御遣いなどと呼ばないし呼ぶことはないと思う。 
 さらには、その華雄といえば未だ放心しているのか、落ちないようにと俺が後ろから片手で胴を抑えていることを気にするふうでもなく黙ったままである。

 となると、関羽か、或いはその周囲にいる人物達ということになるのだが。
 そんな人物達が一体俺に何用なのか。
 そう怪訝そうに眉をひそめた俺に対して、俺に声をかけた人物は――関羽の義姉である劉備は、口を開いた。
 その言葉に、俺は更に眉をひそめることとなる。



「わ、私は劉備、字は玄徳と言います……ええと、その……御遣い様ッ、私達と共に戦ってくれませんかッ!?」







[18488] 四十八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/03/15 10:00




「駆けえッ、燃やせえッ! うちらのここでの働きが、勝ちに繋がるんやッ! 気張れやッ!」

「応ッ!」

 喚声や怒号、そして悲鳴が響き渡る戦場の中、張遼は周囲に付き従っていた騎馬に指示を下しながら、腰に付けていた拳大の壺を炎の中へと投げ入れた。
 既に先に伏兵としていた部隊――北郷が雇い入れた忍という部隊が、連合軍を構成する諸侯の大半の兵糧へと火を放っている。
 その被害がどれだけのものになるかは分からないし、現状で把握しようとも張遼は思わなかったが、それでも、この炎によって連合軍が大きな被害を被ることだけは理解出来た。

「くそッ!? 相手はたかだか数千ほどの兵なのだ、ここで押しつぶせぇッ!」

「し、しかしっ、炎に巻かれた兵糧を確保しなければ、我々は餓えて戦うことに……」

「ちいッ、ならば半数は兵糧を死守せよッ! 残りの者達は、ここで董卓軍を食い止めるのだッ! そのまま押しつぶしても構わんッ、奮戦せよ!」

 だからこそ、自分達の被る被害を出来るだけ少なくしようと動く連合軍の兵達に、張遼は馬を駆けさせて切り込んでいく。
 大いに混乱した連合軍であったが、さすがと言うか何というか、その立ち直りは意外の他に早い。
 この辺りは各軍からの将が多いという利点である、と事前に賈駆と北郷から伝え聞いていた張遼は、ならばと立ち直りかけた者達から斬りつけていく。

 ヒュン、と。
 こちらを確認したのか、上段に剣を振りかざして切り込んできた兵の首を、飛竜偃月刀を軽々と振ることによって跳ね飛ばす。
 その首を失った骸がどうなったかなど意識するまでもなく、振り切った飛竜偃月刀を即座に切り返して自らが駆る愛馬に向かって突き出されていた槍を弾き飛ばし、それを成そうとしていた者の腕を斬り飛ばす。
 瞬間。
 自らへと向けて放たれた幾つかの矢を飛竜偃月刀を回転させることによって叩き落とした張遼は、にやりと口端を歪めながら指示を出していた兵の斬撃を弾くと、その顎を石突きで跳ね上げた。

「ぐおッ!? ……ぐっ、くそッ……まだまだぁッ!」

「お? なんや、今のでくたばらんかったんかい。中々に頑張るみたいやけど……これでどやッ!」

 顎を石突きで跳ね上げられてなお意識を保っていた兵に素直に感心しつつ、その男が兵としても指揮する者としても優秀だと判断した張遼は、即座に馬へと指示を出してその場で回転させる。
 ぐるり、と回転するままを馬に任せた張遼は、その円軌道上にあった兵の顔を上顎と下顎にと飛竜偃月刀で両断した。

「う、うわぁぁぁぁッ?! 隊長がやられたッ!?」

「何だとッ?! くそッ、顔良将軍と文醜将軍は何処に――ぐわぁッ!?」

「火を……火を消すんだッ! このまま兵糧が焼ければ俺達は戦う以前に餓えてしまうぞッ!」

「そのまえに董卓軍を撃退しないとそれすらもままならいんだぞッ! くそっ、俺に従う者は付いてこいッ、董卓軍を迎え撃つぞッ!」

「おいッ、そんなことよりも兵糧を守ることが――」

「飯を守るより、命を守る方が――」

「……ぼちぼち、のようやな」

 先ほどの兵の骸が重たい音を響かせながら地に倒れるのを確認した張遼は、隊長格であったらしい兵の死によって再び混乱し始めた連合軍の中でも、袁紹が指揮する軍兵達に視線を巡らせ、ぽつりと呟く。

 火計と奇襲による混乱によって、一団となっていた連合軍に亀裂が生じ始めている。
 ある軍は火計による兵糧焼失を防ぐために動き、ある軍は奇襲によって命を落とすのを防ぐように動き、ある軍はそれらから逃れるために後退を始めていた。
 それらの動きをみれば、連合軍は最早統率の取れた行軍が行えないだろうとの予測が生まれるのだ。
 となれば、戦場の主導権は既にこちらに移っているとしても過言では無かった。

「ということは、や……ぼちぼち次の分も来る頃やろうし、うちらもそろそろ動かなあかん言うわけやな。……他の奴らはどないになっとる?」

「はっ。当初の予定通りに、袁紹と袁術の軍を中心に攻め込んでおります。ただ、何分数が多い故にそこまでの戦果は……」

「ああ……ええよ、別に。一刀も倒す必要はあらへん言うてたしな。今大事なんは、連合の奴らを混乱させることと奴らの兵糧に火つけることや。それが大体出来とんなら問題あらへんやろ……よし、張遼隊はこれより汜水関に向けて突っ走るでッ! ここが正念場や、気合い入れッ!」

「応ッ!」

 そして、戦場の主導権を火計と奇襲にて握り、連合軍へと打撃を与えるという策には、まだ続きがある。
 その続きを脳裏に走らせた張遼は一度汜水関へと視線を向けた後、連合軍の後方へと――先ほど自分が連合軍へと狙いを定めた先へと視線を移す。
 程昱と郭嘉の能力は、今回の策で十分とは言わないまでも発揮して見せた。
 初めこそ酔狂な奴とも思ったものだが、ここまでの戦果を見せつけられてしまえば嫌でも認めざるを得ない。

 さて、ならば。
 北郷が認め薦めた二人の智がここまでであったのなら、彼が認め薦めた武の方もまた、認めるに値するものなのかどうかを見極めさせてもらうとしよう。
 董卓軍において、北郷の傍に近い武人を自負する自分からすれば、彼に認められている彼の武人に――常山の昇り龍と自らを謳う彼女に少しばかりの嫉妬を抱かないでもないのだが、それを今ここで表す筈もない。

 まあ……酒ぐらいは付き合ってもらっても罰は当たらんよな。
 八つ当たりも兼ねて酒ぐらいなら、として自らに言い聞かせるように頷いた張遼は、さてどんな酒がいいか、という考えを一旦頭の外へと追い出しつつ声を上げ、北郷に合流するためにと馬の背を蹴った。
 


「神速の張文遠ッ、連合のごろつき共に止められるもんなら止めてみいッ! 押し通させてもらうでッ!」





  **





「な……何を言われているのですか、桃香様ッ?! ほ、本気でこのような奴を仲間にするなどと……そのようなこと、本気でッ!?」

「う、うん……だ、駄目かな、愛紗ちゃん?」

「駄目とか良いなどとか、そのような問題ではありませんッ! こやつは董卓軍なのですよッ、悪逆董卓が率いる軍の将なのですッ! そのような者を、仲間になど出来よう筈がないでしょうッ!?」

 劉備が放った言葉――こともあろうに、俺に対して自分達と共に戦ってくれ、などという要求に対し、一番に動いたのは関羽であった。
 まあ、この世界ではどうなっているのかは知らないが、俺の知る歴史の中でも劉備と関羽は義兄弟――この場合は義姉妹か――なのだから、関羽が劉備の言葉に思うところがあっても不思議ではないと思うのだが。
 つい先ほどまで殺るか殺られるかという関係の立場であったにも関わらずのその言葉に、俺は劉備という人物を図りかねていた。

 彼女は一体どういう人物なのか。
 どういう考えを持ち、どういう理念で戦い、どういう戦いをするのか。
 関羽こそ元々考えていたイメージと俺の知る歴史から考え出したイメージが現実と近かったために、ああもあそこまで挑発して思うとおりの戦いを繰り広げることが出来たが、劉備としてはそもそもの前提が違う――というか、劉備ぐらいは男でいて欲しかったと切に願っていた。
 いや、挑発された関羽があそこまで怒るものだから男女の仲とかそういう類の関係が絡んでいるとばかり思っていたのだが、まあこれを直接関羽とかに伝えれば即座に首が転がっていそうなので自重しておくことにする。
 ゲームとか創作の中であればそういった主人公らしき人物がいてもおかしくはないものなのだが……いやはや、現実とは上手くいかないものである。
 俺? 柄じゃないし。

「あ、あの……?」

「……いや、すみません。少々予想外のことに戸惑りまして……劉備殿、でよろしかったですか?」

「あっ、はい!」

 先の映像によってズキンズキンと痛む頭を抑えながら、俺は馬から落ちなくて良かったと思う。
 腕の中では華雄が――顔を赤くして――じっとしているし、何よりここは戦場である、落馬でもしようものなら命取りになりかねなかった。
 それと同時に、ふと思う。
 推測でしかないが、曹操や孫策の時と違い、これほどまでに痛みが長引くのは先に見た映像に何かしらの原因があるのだろうか。
 今いちその内容こそ覚えきれてはいないが、それでも、曹操や孫策の時と違って二つの映像を垣間見た気がするのは確かである。
 頭が痛むことこそ曹操や孫策の時にも感じたものであったが、何故彼女達と出会うとそういった映像が脳裏に流れるかは分かるものではないが、俺がこの世界に来たことと何かしらの関係でもあるのだろうか、とふと思った。
 ……まあ、遙か前世とか祖先などが三国志に関係している、という可能性も無きにしもあらずだが、とりあえず、現状においてはそれも特に関係が無い。
 
 ふと――本当に何故だかは分からないが、貂蝉なら何か知っているのかも、と自らも不思議に思いながらも、無事に帰ることが出来たのであれば聞いてみるかなと思った。



「俺の名は北郷一刀。劉備殿のおっしゃるとおり、世間では天の御遣いと呼ばれています」

 お会いできて光栄です、と続けた俺は、さて、と心の中で一段落を置いて、目の前の少女から視線を外すことなく思考を働かせる。
 目の前といってもこちらは馬上からなので見下ろす形となるが、そこにいる少女は先ほど自らを劉備と名乗った。
 劉備と言えば、俺の知る歴史の中では蜀漢を建国し、魏の曹操や呉の孫権などと戦いを繰り広げていく人物であり、三国志の中でも最も重要な人物の一人とも言える。
 蜀漢を建国する以前は根拠地と呼べるものを確保するに至らず、各地を流浪する形で戦ってきた人物でもあるが、その徳と義、情をもって多くの豪傑英傑を麾下としてきた。
 
 現状では――俺の知る歴史でもそうであったが、恐らく公孫賛辺りの客将という扱いなのだろう。
 こちらを迎え撃つためにと布陣し、董卓軍に飲まれかかっていた劉備の軍を救うためにか、包囲を崩そうと動く『公孫』の旗を見るに、それも間違いではないと思える。
 その『公孫』の旗の動きが慌ただしいのを鑑みるに、恐らくではあるが、連合軍内は相当な混乱となっていることだろう。
 ちらちらと昇る火の粉に交じる形で届く喧噪に、そろそろか、と俺は策を再び思い起こしていた。

「……さて。先ほどの件――まあ、共に戦ってくれないかというものですが……お断りとさせていただきましょう」

「ええェッ?!」

「な……何だと、貴様ッ!? 桃香様の好意を、貴様ッ、踏みにじるつもりかッ?!」

「控えろ、関雲長。今は貴殿と話しているのでは無いぞ」

「ぐっ……」

「そ、その……御遣い様、その理由を聞かせてもらっても構いませんか?」

 となってくると、策の遂行こそが現状で一番に考えなければならないことであるのだが。 
 かといって、このまま劉備を無視して馬を汜水関へと走らせてしまえば、散々に関羽を罵倒し挑発したことも含めて、連合軍に対していらぬ弱みを握られかねない。
 火計と奇襲によって混乱している連合軍にとってそれだけの余裕があるかどうかは分からないが、それでも警戒するにこしたことはないと俺は口を開いていた。

「では、その前に一つだけお聞きしたい。……劉備殿は、何のために戦っているのですか?」

「わ、私は……この世の中をみんなが笑って暮らせる、戦いの無い平和な世にしたいんです。そのために、私は――」

「……なるほど」

 戦うのだ、という劉備の言葉を遮る形で俺は納得する。
 やはり、目の前の彼女は劉玄徳なのだろう。
 徳、義、情、そしてそれら全ては民のためにと直結するその想いと戦う理由は、遙かに尊いものであって。
 自分の大切な人達と場所を守るためとかいう独りよがりな俺の戦う理由と比べてみれば、雲泥の差があるのではと思うほどであった。
 だが――否、だからこそ。

「……戦いのない世を作るために戦う。そんな辻褄が合わない理由で、劉備殿は戦うのですか――兵達に死ね、とおっしゃるのですか?」

「そ、そんなこと、したことはありませんッ!」

「ですが、同じことでしょう? 戦いの無い世のために戦い、後に待っているのはみんなが笑って暮らせる世だと貴方は言いますが、では、その戦いによって命を散らせた者達の遺族は如何なさるおつもりですか。まさか、親や子、愛する者なりを失ってなお笑って過ごせと? 悲しみにも苦しみにも、後悔も復讐の念にも駆られることなく笑えと、貴方は言われるのですか?」

「そ、それは……」

「……では、聞き方を変えましょうか」

 そう溜息をついて、俺は腰から剣を引き抜いた。
 馬に跨った状態ではあったが、腕の中にいる華雄は大人しいものなのでそれほど苦になるほどではなかったが、それでも動きやすいものではない。
 ともすれば、このまま斬りかかられればどうにもならないかもしれない、と思うものだが、まあその時は剣を投げつけた後に馬を飛ばして逃げればいい。
 連合軍が混乱の渦中にあって、目の前にいる劉備一行も飛び道具らしきものを持っていないことから、それも十分に可能であると判断してのことであった。
 剣先を劉備に突きつけて、俺は続きを口にした。
 だが。

「関羽殿か、或いは……まあ名を知らぬのであれですが、そこにいる方のどなたかの首を今ここで俺が刎ねたとしても、劉備殿は笑っていられると言われるのですか? そも、もしそのような方であるのならば、どちらにしてもお断りで――」


「黙るのだッ!」


「――うおっとッ?!」

 ひゅん、と。
 ですが、と続けようとした俺の口上を遮る形で煌めいた穂先に、僅かに動き出していた白の赴くままに、俺は寸でのところで身体を反らして回避することに成功する。
 腕の中に収めてみれば案外に華奢で小柄な華雄こそ大事無かったが、あと少し動くのが遅ければ手遅れだったかもしれない、と俺は危なかったと安堵すると同時に、白に感謝した。

「黙って聞いてても何言ってるのかよく分かんないけど、お姉ちゃんと愛沙を虐める奴はこの張翼徳が許さないのだッ! 鈴々が、お前の首を刎ねてやるのだッ!」

 それと同時に、内心で舌打ちする。
 関羽が劉備に従っているから何処かにいるものとは思っていたが、まさか劉備の前で関羽らを守らんと矛を向けていた少女こそが張飛であったとは。
 その武は関羽に勝るとも言われ、一騎打ちの達人として勇猛を知られている人物である。
 酒飲みで乱暴粗暴な虎髭の男、といった印象とは全くの反対だったがために、そこに思い至らなかったことを俺は悔やんだ。
 そして。
 げえ張飛、などと驚く暇もないままに振られた矛は、その軌道上にあった俺の首を――


「一刀の首刎ねるとか、させる訳ないやろがぁッ!」


 ――刎ねる直前、突如として駆け込んできた騎馬の戟によって止められることとなる。
 やばい、と思っていた俺の思考も、ギンッ、といった固い鉄の音によって定まるところになり、俺は張飛の一撃を防いでくれた人物の名を――外套をはためかせながらニヤリと笑う張遼の名を叫んでいた。

「霞ッ!?」

「へへっ、何かええとこに来たんちゃうか、うち?」

「ああ、助かったよ――ってちょっと待てよ、霞がここまで来たってことは……」

「一刀の考えとる通りや。ぼちぼち動かな間に合わんなるで。あー、うちも関羽と偃月刀で打ち合いたかったけど、ここは我慢やな」

 なるほど、龍をあしらった偃月刀を用いていたことは知っていたのだが、それは関羽の青龍偃月刀を模してのものだったのか。
 そういえば、黄巾賊討伐の折に関羽の話を聞いていた張遼が何かしら興味を引いていたような覚えを思い出しつつ、俺は仕方ないとばかりに劉備へと視線を向けた。

「話の途中でしたが、今日のところはこれで帰らせていただきます、劉備殿。それとですが……あなたが目指す世と掲げる大儀は確かに尊いものではありますが、同時に酷くあやふやで危険なものでもあります。もし、そのままで戦い続けるつもりであるのなら――」

 ――理想を抱いたままに現実に溺れてしまいますよ。
 そう言葉を吐いた俺は、劉備や関羽、張飛の反応を確かめぬままに馬の背を蹴り戦場を駆け出していく。
 見れば、既に汜水関からの軍はかなり近くまで迫っており、張遼の言うとおりにさほど時間が無かったことを表していた。
 
 色々考えてても仕方がないな、とばかりに首を振った俺は、汜水関からの軍を率いているであろう郭嘉と程昱と合流するべく――そして、火計と奇襲によって混乱する連合軍に投ずる次なる策のためにと馬を駆けさせた。

 



  **





「はー……やれやれだよ、まったく」

「そうぼやくなよ。あれだけ攻め込まれたにも関わらずに、命があっただけでもめっけもんってこった。ほらよ、お前んとこの隊はこれぐらいで構わんよな?」

「ちょッ、これじゃいくらなんでも少なすぎるってッ!? これだけじゃ俺が上に殺されっちまうッ!」

「仕方無いだろ。どこもかしこも飯を寄越せってうるせんだ……お前んとこばかり偏るわけにも如何だろが」

「うぐ……」

「さらには他んとこの軍までもが飯を寄越せってくるもんだから、袁紹様も名家の意地を見せたいのかしらんが大盤振る舞いをしろ、との達しでな。顔良将軍がどうにか押しとどめてるらしいが、今のうちからその準備をしろとのことなんだよ」

 だから無理だ。
 そう放たれた言葉によって背を向けて去っていく兵を、男は見送った。
 やれやれ、と溜息一つを吐くと、兵が手配した兵糧の分だけを総数の一覧から減らしていく。

 董卓軍による火計と奇襲によって、連合軍は多大な被害を被った――否、未だ戦いはそこかしこで続けられているので、被っていると言ったほうが正しい。
 しかし、董卓軍の反撃とも呼べる攻勢の初期に被害を被った袁紹軍では、顔良将軍の的確な指示と文醜将軍の鼓舞によって他の軍に先駆けて体勢を持ち直していた。
 袁紹軍の根拠地は古来より必争の地でもあった河北にあるが、その原因とも呼べる肥沃な地によって袁紹軍は大軍を動かすことが可能なのである。
 今回の反董卓連合軍において、大軍を動かすためにと用意された兵糧は実に数万の兵を月単位で動かせるほどであったのだが、董卓軍の火計と奇襲によってそれも大多数が焼失してしまった。

「……実に半分近くが燃えちまったかぁ……半分が燃えたことを嘆くべきか、半分残ったことを喜ぶべきなのか、難しいとこだなぁ」

 ただ、その半数という数も袁紹軍本隊だけで表したものだ。
 先ほどの兵のように、袁紹軍に付き従う豪族の軍などは、その限りではない。
 下手をすれば全焼というところもあるようで、彼らを取り纏める立場である袁紹軍からしてみればその補填は必須であった。
 しかし、現状において確保出来る兵糧には限りがある。
 補填する量が少なければ不満が噴出して支障をきたす場合もあるし、かといって多くすれば本隊の兵糧が足りなくなる。
 さらには、各豪族ごとに量が違えでもすればさらなる不満が出てくるのは目に見えていた。

 何故自分がこんなに悩まなくてはならないのか。
 元々兵糧担当では無かった自分が何故、と思わないでもないのだが、前任者が先の奇襲でそこら辺に真っ二つになって転がっていることと、簡単ながらもある程度の計算が出来るのが自分しかいなかったため、と直々に顔良将軍から命じられてしまえばそれも仕方のないことなのだが。
 凄く申し訳なさそうに頼み込んでくる顔良将軍が、いやに記憶に新しい。



「もし、そこな方。ここは袁紹殿の陣で相違無かろうか?」



 先のことを思って乾いた笑顔で指示を受け取る自分とぺこぺこと頭を下げていた顔良将軍のことを思い出していた男であったが、不意に後背から受けた声に反応していた。

「ほお……」

 顔を見ずともに、その凜とした声から美丈夫ではなかろかと予想していたのだが、いざ後背にいる彼の人物を見ると、自然と声が出る。
 空の色をそのまま映し出したのではないかと思えるほどに美しい短めの髪は、その身に纏う白の装束と実に映え合っていて。
 装束から覗く白い肌と女性特有の膨らみやら曲線に、その人物が女であることを男は知った。

 女が戦場に立つことが珍しくない時代において、顔良や袁紹、文醜のように可愛らしいとも言える人物を男はよく見てきた。
 最近では張恰なる人物もまたその一人であるほどの美貌を持ってはいるのだが、目の前の女はそれとは別と感じ入るほどにまた美しかった。

 男としての性か、自然とその露わになりそうな胸元に視線がいくのを自重しつつ、男は口を開く。

「いかにも。貴殿の言うとおり、ここは袁本初様の陣である」

「ふむ、そうか……」

 だと言うのに。
 女は自らが問うたことに対しての解に、何かを考えるように顎に手をかけたまま呟く。
 美しい女というのはそれだけで見ていて楽しいものだが、試案するその顔もまた同じであるのか。
 そんな取り留めのないことを男は考えていたのだが、ふと女の口元が歪んだことに気付く。

「いやはや……まさか、ここまで予想の通りとなろうとはな。眉唾ものとは思っていたのだが、本当に天から遣わされた者なのかもしれぬな」

「……? 一体何を……」

 実に面白いといったふうに喉を鳴らす女に、男はふと疑問を抱く。
 今、目の前の女は何と言った、と。
 初めは先の兵と同じように兵糧を都合してもらうためにと訪れた他の軍の者とも思っていたのだが、女の口から漏れ出た言葉に――天から遣わされた者という言葉に、男はある言葉を脳裏にかすめていた。

「ふふ……信じているから寄せる機会は任せるなどと、どうしてあの御仁はそのようなことが言えるのか。武人として、また殿方から願われた女子としては応えぬわけにもいかないであろうに。ふむ……中々に手練れなのか、それともただの虚勢なのか、はたまたあれが素なのか……まあよい、今はそのようなことを考えている場合ではないからな……」

「貴様ッ……天の御遣いのッ!?」

「いかにも。貴殿の言うとおり、この身は御遣い殿の――董仲頴が臣、北郷一刀殿の麾下である」

「くそっ、敵しゅ――」

「させぬ」

 そして。
 その脳裏をかすめた言葉の意味が正解であるとの女の言葉に、男は咄嗟に敵襲であると声高々に放とうとする。
 火計に続いての奇襲。
 それらによって連合軍は打撃を受けたことになるが、それが通り過ぎ去ってしまえば後は自らが知る由ではないとする諸侯は多くいる。
 それは即ち、それまで緊張という張り詰められていた糸が緩むことを意味し。
 そしてそれは同時に、警戒が緩むということでもあった。


 やられた。
 まさか――まさか、警戒と緊張が緩んだ状態で、誰が愚策と言われる二度に分けての奇襲が来ると思うのか。


 このままでは不味い。
 そうした男が放とうとした言葉ではあったが、しかして、それも女が突き出した槍によって遮られることとなる。
 肉を裂く音と液体か何かに空気が混じる音を間近で聞いた男は、それが自分の喉に突き立てられた女の槍によるものだと気づき。
 槍を引き抜かれた勢いのままに地に――そして闇に落ちていく意識の中で、男は女の言葉を聞いた。



「我が名は常山の昇り龍、趙子龍ッ、董仲頴が臣である北郷一刀の麾下の者なりッ! 自らの欲のために悪逆を宣い造り上げ、洛陽の街と民を戦火に巻き込まんとする連合軍よッ、すべからく……押し通させて貰うぞッ!」







[18488] 四十九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/03/21 13:02




「ほ、報告しますッ! 袁紹軍の後方より、董卓軍による奇襲部隊が再び現れましたッ! その数、五千! 先の火計と奇襲によって疲弊した袁紹軍や他の連合軍を蹴散らしながら、真っ直ぐに突き進んでおりますッ!?」

「な、何ですってッ?!」

 火計と奇襲によって狙われていた兵糧の確保が一段落した後、矢継ぎ早に飛び込んでくる報告の中の一つに荀彧が叫び声を上げると共に、曹操はその報告を拾い上げると同時に、董卓軍が取っているであろう策になるほどと思う。
 初めに少数の董卓軍が布陣していたのは、このための布石であったか、と。

 後退したことは誘い込むと同時に、奇襲のためにと伏していた部隊を探し当てられないために。
 無謀とも思われた汜水関から打って出たことは、火計と奇襲を行うために連合軍の意識を前方へと逸らすために。
 前方に討って出た董卓軍、そして火計と奇襲という連合軍を撃滅するためにと思われた策は、しかしてその兵糧を損じさせるために。
 そして、兵糧を損じさせるためにと思われていた策は、一段落したと思わせた連合軍を散々に打ちのめすために、と。

 初めこそその行動と考えが読めないとばかりに思っていた董卓軍であったが、いざここに至ってみれば、その動きは初めからこのためにあったのだと思えた。
 人の動き、人の感情、人の欲を全て読み込んだその策をに感嘆しながら、曹操はぞくりと背筋を振るわせて溜息をついていた。

「ふぅ……慌てる必要は無いわ、桂花。……軍の方はどうなってる?」

「はっ……いつでも動ける手筈となっています。董卓軍が目標としていた兵糧も、大半は無事です」

「そう……実質的な被害は?」

「報告にある限りでは、大小様々な怪我をした兵が十数名。兵糧の方は、その二割ほどが焼失した、と……」

「二割ほど、か……その程度ならまだ許容範囲ね。では桂花、次に紅瞬を――」

「――その必要は無いわよ、華琳。一体何の用かしら?」

 欲しい、この策を考え出した将を。
 優秀な人材を広く求めることは軍を拡充する上でも、国を動かす上でも、自らが満足する上でも必要なことであると曹操は認めているが、それを踏まえた上でも今回の策を考え出した将を曹操は欲しいと思っていた。
 連合軍二十万を手玉に取るほどの策略を生み出すその知略。
 荀彧に不満があるわけでもないが――軍師としても閨の友としても――それでも、これからの覇道のことを考えれば優秀な将は出来うる限り多いほうがいい。
 それが戦場を作り操るほどの将であるのなら尚更なことは言うまでもないが、しかし、現状において刻一刻と戦況が動いき、あまつさえ連合軍に不利な状況となっているのであればそれを成すことも難しいと思われた。

「あら、紅瞬。その様子だと……そっちの準備も終わってるみたいね?」

「当然でしょ、華琳。前に敵、後ろにも敵、おまけにこっちは火の中。それで動かない方がどうかしてるわ。……それで、すぐに動く?」

「そうね……ただ、私達がすぐに動くようだと麗羽が何を言ってくるか分かったもんじゃないし……」

「あー……麗羽だもんねぇ。何を勝手に後退しているんですの、とか平気で言いそうだし……」

 そして、肩を竦めた張莫の視線を受けつつ、袁紹を真似ていながらも微妙に似ていない彼女の言葉に曹操はふむと考える。
 確かに、そういった言葉は袁紹が言いそうなものである。
 ある私塾において共にに机を並べた仲とはいえ、彼女は特に考えも無しにそういった言葉を放つことは曹操とて知っていることではあるし、よく時間を共にしていた――自らとの時間よりも多かったことが非常に口惜しいことではあるが――張莫なら尚更である。
 
 その張莫が恐らくそう言うであろう、と推測するということはほぼ確実と取ってもいいであろうし、曹操自身も袁紹は恐らくそう口にすることだと思う。
 自らが背負う袁家という重さこそ知ってはいても、その名が持つ意味と影響力は自らが思っている以上に大きいことに袁紹自身気づいていないからこその言葉なのだろうが。
 もしそれらを自覚していての言葉であるのならどれだけ質が悪いのか、と振るえそうな背筋を曹操は押さえ込んでいた。
 
 さて、どうするか。
 いざ軍議で何故勝手に後退したのか、と問われてしまえば本当のこと――汜水関より打って出た董卓軍の迎撃を避けるためと言えば良いのであろうが、かと言って、それだけで済むとも曹操は思えなかった。
 多大な被害を受けた連合軍であれば、中には董卓軍と繋がっているのでは無いか、と思う人間も出てくることだろう。
 それが自らに向かうという可能性すらあるのだから、それすらも考慮に入れなければならない。
 常であれば気にする必要も無い些事であるが、しかし、手負いの獣となった諸侯が何をしでかすかも分かったものではないのだ。

 少なくとも、自分達にそれらの感情が向かない道を模索しなければ。
 そこまで考えて、自ら達が取るべき道を口にしようとした時、ある報告が曹操の耳へと飛び込むこととなった。



「報告しますッ! 孫策軍が、後退を開始いたしました!」


 


  **



  

「謝れば何でも許されると思いですか?」

「……俺、まだ何にも言ってないんだけど。うん……でも、謝っておくよ、二人の制止を振り切ったこと。……ごめん」

「まあまあ稟ちゃん、今はそんなこと言っているような場合でもありませんしー。心配だったのは分かりますが、仲良くするのは後にしときませんかー? お兄さんも、今は謝罪に使う時間でももったいないことは承知しているようですしー。洛陽に帰って落ち着いてから、稟ちゃんが寂しい思いをしたことに対して十分に償っていただくということで、どですかー?」

「おうおう稟よ、熱々なのは構わねえがよ、ここが戦場だってことは覚えておいてくれよ?」

「なッ、ふ、風ッ?! べ、別に私はそのようなつもり言ったのでは……」

「なんやなんや、一刀。うちには手出さんくせに、いつの間に手出したんや?」

 汜水関からの同軍と合流した開口一番の郭嘉の言葉に、俺は苦笑で応えた。
 引き止める郭嘉と程昱の言葉を無視したことを謝ろうとしたことは事実であるが、まさか合流した開口一番で釘を刺されるとは思わなかったのだ。
 まあ、どちらにしても怒られるとは思っていたのだから、さしたる償いにはならないと分かってはいても俺は謝罪を口にした。
 顔を赤くして俺から視線を逸らせた郭嘉と、そんな彼女を見てニヤニヤと笑う程昱――とその頭上の宝彗に便乗するように、張遼が俺の肩をばしばしと叩いていた。

「……奉考殿、連合軍の状況はどうなっています?」

「こちらの予定通り、後退を開始したようですね。さすがに全軍が一斉に、というわけにはいかないようですが、それでも、他の軍が動いたということで自分達もとする軍が後退を開始しているとの報告があがっています」

「ふむ……どうせなら一斉に動いてくれたほうがこっちとしてもやりやすかったけど、そう簡単には思惑通りにはいかないか……風、どこが一番に後退したかは?」

「忍者さんの報告からでは、孫策さんの軍が一番に後退を開始していたみたいですねー。それに続いて曹操さんと張莫さん、さらに陶謙さんが後退し始めたことによって、連合軍全体が後退の動きを見せていますね」

 何や無視かいな、と上目遣いに可愛くむくれる張遼から視線を外しつつ、俺は程昱の言葉に促されて連合軍へと視線を送る。
 程昱の言葉通りであるならば、火計による炎の中を連合軍は後退しているのであろうが、耳に届く喧騒はただそれだけではないことを示していた。
 恐らく、張遼に続く第二波の奇襲部隊を率いる趙雲が、散々に連合軍の内部を掻き乱しているのだろう。
 喧騒に混じって聞こえる怒号と喊声に、彼女もそれが聞こえるほどに近づいているということが確認出来た。
 となれば。

「では、ぼちぼち行くとしますかねー?」

「……そうですね、風の言う通りです。この機を逃してしまえば、ここまでお膳立てをした意味がありません。……ここで一気に動きを進めてしまいましょう」

「そう、だな……それじゃ葉由殿、あなたは一度汜水関へと戻ってください。武器を持たぬでは危険ですから。霞、ここまで駆けてきて疲れてるところ悪いけど、葉由殿を頼むよ。汜水関へ行かさないようには動くけど、十分に気をつけて」

「ぶー……うち、もっと暴れたいんやけど」

「お、おい、北郷……その、私は……」

 次なる策を投ずるは今。
 そう程昱、郭嘉の両軍氏と確認した俺は、腕の中にいた華雄を張遼へと任せた。
 不満をそのままに口を尖らせた張遼に苦笑するが、彼女は連合軍の遥か後方から一気に駆けてきたと言っても過言ではないのだ、これ以上の無理を強いるわけにはいかなかった。
 そして、華雄もまた同様である。
 汜水関から打って出て、そして後退していく連合軍を追撃して関羽と激しい打ち合いをしたばかりなのだ、気づかぬ怪我などをしている可能性もある。
 常に武人という彼女のことだ、武器など無くとも戦ってみせると言うことも予測出来たが、今ばかりはそれを許せるはずもなかった。

 口ごもらせた華雄が放とうとした言葉は謝罪の言葉か。
 指示を無視し、そして勝手に死にそうな目にあっておきながら助けられた。
 その事実は覆るようなものでもなく、篭城戦に鬱憤が溜まっていた多くの兵が華雄の指揮に従い、そして少なくない兵がその命を散らしたとなれば無視するわけにもいかなかった。
 だが。

「……葉由殿、今はその話は置いておきましょう。今すべきことは、責めることではなく連合軍を相手にすることです。葉由殿が自らを責めるべきだと言われることは分かりますが、とりあえずはこの戦いが落ち着いてからでよいかと。……だよな、霞?」

「あー……まあ、一刀の言うとおりやな。華雄の暴走の責が無くなる訳やないけど、今はそんなことしとる場合やあらへんし」

「……そもそも、一刀殿は汜水関防衛の大将にこそ任命されましたが、将兵を罰するほどの権利を有している訳でもありません。いくら戦時とはいえ独断によって将軍を罰してしまえば、それは軍の規律を乱すことになります。そうなってしまえば、如何に精鋭と言えども勝利を得ることは難しくなりましょう」

「稟ちゃんの言うとおりかと思いますよー。日頃ならまだしも、今は状況が状況ですしー、華雄さんの武力は連合軍を相手にする上では必須ですから。とりあえず、今はお兄さんの言うとおりにするべきかなー、と」

 華雄を慕う将兵は少なくない――否、むしろ多いと言ってもよいほどである。
 先の華雄の失態こそ誰の目に見ても取り返しの付かない事態になる可能性もあったが、しかし、それによって華雄を罰してしまえばその将兵らにどんな影響があるかは分からないものであるのだ。
 それこそ、士気を著しく損なってしまえば、汜水関を守れるものも守れなくなってしまうことも考えられた。
 故に、現状はその問題を捨て置くに限る。
 そう判断した俺に物申したそうに口を開いた華雄であったが、言葉を発することもなく、結局のところは小さく一つ頷くだけであった。

「……分かった」

「あっ、ちょっと待ちいな華雄ッ!? ほ、ほなうちらは汜水関に先に戻っとくからな、一刀」

 そう言葉を放った華雄がとぼとぼと汜水関へと歩いていくのを、慌てて張遼が後を追う。
 現状自軍の後方とはいえ戦いから気を抜くなど常の華雄から考えられないことであるが、それすらに気づかないとあっては彼女の意気消沈の具合も分かるものであった。
 だが。
何も無い状況であればいつもの華雄に戻ってもらおうと動くことも出来たのだが、現状はそれを許す暇さえない。
 一度頭を振った俺は、華雄のことを頭の中から追い出して、前方――炎と喧噪に包まれながらも後退し始めていた連合軍へと視線を動かした。

「……さて、それじゃあ次へと行こう。風、一番に動き出したのはどこの軍か分かる?」

「……ぐう」

「……宝彗?」

「そうだな……孫策んとこの姉ちゃんの軍が一番早かったと思うぜ? ありゃあ、こっちの動きを読んでたかもしんねえな」

 例の如く、狸寝入りを決め込もうとした程昱から視線を外し、その頭上にいる宝彗へと俺は問いかける。
 どうやって動いているのかは全く理解出来ないが、器用に腕を組んで考える仕草の宝彗に促されるままに、俺はその視線を火中の孫策の軍へと向けた――無視されて睨んでくる程昱の視線には気づかないふりをしておいた。

 確かに、孫策の軍は宝彗の言うとおりに他の軍に比べてその動きが早いように見える。
 見える、とは言っても、気にしなければ気づかない程度ではあるのだが、それでも、他の軍に比べて迷いが無いと言うか、始めから後退することを考えていたかのように動いていくのだ。
 張遼と趙雲の奇襲によって散々に乱された袁術と袁紹の軍が邪魔をする形で今は動きが鈍っているが、そこまでの一連の動きを見れば、宝彗の言葉も頷けるものであった。
 まあ、なんとなくだが、読んでいたとかではなく、孫策による勘の一言で片付けていそうな気がしないでもないのだが……気にしないでおこう、うん。

 それはさておき。
 一番に動いた軍が判明したとあれば、準備を進めていた策を行えるというもの。
 そんな俺の考えを先読みしたのか、郭嘉が口を開く。

「……全ての準備は済ませていますよ、一刀殿。貴殿の指示があれば、いつでも動くことは可能です」

「そうですか……準備出来た数は?」

「江東の虎と呼ばれた孫堅殿の息女とはいえ、孫策殿の軍勢はそこまで強大ではありませんでしたので……十人に五本ずつしか用意出来ておりません。本当であればもう少し準備しておきたかったのですが……」

「計五十ですか……まあ、それだけあれば十分に届くと思いますよ。ですから、顔を上げてください、奉孝殿。……それで、狙いはどの辺りが良いと思いますか?」

「そ、そうですね……あそこ、孫策殿の軍と陶謙殿の軍に押される形で陣形が崩れている袁術殿の軍、あの辺りへと三十ほど集中的に打ち込めばよろしいかと。それぐらいあれば、炎によって燃えることなく兵の目につくでしょうし。あとは、広範囲にばらばらに放っておけば、多くの兵が目にすることでしょう」

「ふむ……よし、奉孝殿の言うとおりにいくとしましょう。風、兵に孫策殿宛の矢文の準備をさせてくれ。こっちの指示でそれを一斉射後、子龍殿を迎えると同時に汜水関へと退く準備も」

「了解ですよー」

 カサリ、と。
 音を立てて手渡された紙に視線を落としながら、俺は郭嘉と言葉を交わしていく。
 紙に書かれているのは策の全容――ではなく、その一部である諸侯宛への文である。
 今回はたまたま孫策宛となったが、まあ、とりあえずは誰でも良かったので問題はあるまい。
 むしろ、精強な孫策の軍になったことがこちらの思惑通りに動く要因に成りうる可能性もあるのだから、適役だったのかもしれないが。
 袁術の客将という立場も、中々に都合の良いものであることだし。

 孫堅亡き後、その勢力縮小によって袁術の保護を受け客将という形となっている孫呉ではあるが、俺の知る歴史の通りでいけば独立の機会を窺っていることだろう。
 以前洛陽で出会った孫策と周喩の威風や人となりから考えてみても、それはそう遠くないように思えた。
 そしてそれは、きっと袁術の側も知っていることだろう。
 となれば、その間にある確執や亀裂に刺激を与えることになれば。
 
 そんなこれから行われる策がもたらすであろう動きを考えていた俺の耳に、程昱からの準備完了の報が届けられる。
 元々、ある程度の準備を整えていたのか俺が思ってたよりも随分と早いものであったが、今この時は迅速さが求められるのだから有り難いものであるが。
 その先読みの鋭さに些か背筋が振るえてしまうが、この戦いの間は彼女達は味方であるのだ、という意思でそれを押さえ込んで、俺は腰から剣を抜き頭上へと掲げた。
 連合軍が陣容を整えてしまえばこれ以上の策の実行の意味が無くなることを考えれば、猶予は残されていないのだ。
 そして。


「よし……放てッ!」


 準備が整ったのであれば躊躇する必要もない。
 火計、そして二度の奇襲に次ぐ策を実行に移すがために、俺はその合図を切るためにと掲げた剣を勢いよく振り下ろす。
 それと同時に、風と空気を切り裂いて前方へと向けて飛んでいく矢を見つめながら、俺は次に取るべき行動を口にした。




「趙雲隊を迎え入れるため、そして連合軍に痛撃を与えるために距離を詰めるぞッ! 全軍、前進ッ!」 




 汜水関の戦い。
 後の世にそう称されることになる戦いの終局が、近づきつつあった。

  






[18488] 五十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/04/02 13:46




 

「オオオオォォォォッ!」 

「ふむ……何と力強い声のことか。……ただ、もう少し雅やかにはならんものか」

 それは勝利の歓喜からくる雄叫びか、或いは次戦に備えて自らを奮い立たせる声か。
 そのどちらでも無い――しかしてどちら共とも言える歓声に包まれる汜水関の中を、趙雲は歩いていた。

   

 結果だけで言えば、連合軍は後退した。
 火計と二度の奇襲によって散々に陣形と連携を乱され、さらには軍を維持する上でも重要な事項である兵糧の大部分を焼失した連合軍は、趙雲率いる第二波の奇襲部隊に呼応して動き出した汜水関からの董卓軍によって挟撃されることを恐れ後退した。
 二度の奇襲の直撃を受けた袁紹や、火計奇襲といった事変に迅速に対処し始めた孫策に置いてけぼりを食う形だった袁術らの軍が連合軍の動きを阻害したために、その被害はこちらが当初予定していたよりも甚大であった、と郭嘉が話していたことを思い出す。

 数多の将兵を討ち取り、多くの兵糧を焼失させ、その陣形を乱して多大な戦果を挙げた。
 なるほど、これが常と変わらぬ普通の戦であったならば、この戦いが既に終結してもおかしくはない戦果である。
 郭嘉が言うこともあながち間違いではない、と趙雲は思う。
 だが。

「それだけで勝てるのなら苦労はせぬ、か……もっとも、二倍以上の兵力差があるのだから仕方のないことなのかもしれんがな」

 二十万対七万、その兵力差を思い出して趙雲は知らず眉間に皺を寄せる。
 元々汜水関に籠もっていた兵力は四万、そこに張遼が率いた奇襲部隊五千と趙雲が率いた五千が加わって現在は五万にまで膨れあがっている。
 いくら二十万の連合軍とはいえ、少なからずの打撃を受け兵糧を焼失した状態であっては、これを打ち崩すことなど到底不可能である――普通ならば、そう考えるものだ。

「だが……兵糧を失った連合軍がここを落とすためにどれほど躍起になるか。こればかりは、私では容易に想像出来んな……」

 軍を維持するために、兵糧は必要不可欠なものである。
 それは、兵を食わしていくために必要なものであるし、兵の士気を鼓舞したり、報酬にと与えるためにも必要であった。
 後のことを考えれば戦によって得た地への補償とも使える兵糧ではあるが、それを焼失させたということは、言うなれば軍の時間的余裕ともいえるものを削り取ったとうことであった。

「……となれば、次に来るのは……」

 力攻めか、しかも極端なほどの。
 そう口の中だけで呟いた趙雲は、ぶるりと背筋を振るわせる。
 兵糧の損失を補うために、連合軍二十万その全てにおいて汜水関を力攻めし出陣にかかる期間を短縮する。
 汜水関の城壁、そしてその眼下に夥しいほどの人が群がるであろうその光景に、趙雲は肌の上を虫が這うような感覚を抱きながら腕を掻いた。

「ふふ……はてさて、あの御仁は一体いかがされるのやら。痛撃を与えた今であれば、多少警戒されてはいようが更なる打撃を与えることも可能だが……ふむ、しかし夜襲の指示も無しであるし……」

「……お、おい」

 時は既に、陽が傾き景色を紅く染め上げていく頃である。
 汜水関の城壁の上や兵が集う場所には篝火が既に焚かれており、いつ連合軍が攻めてきても迎え撃てると表示しているかのようでもあった。
 となれば安心して眠ることも出来そうだが、それでは面白くないと趙雲は思う。
 どうせならば、連合軍の混乱に乗じて更なる打撃を、とも思うのだが、しかし、現状において北郷預かりの客将であるのならその指示が無ければ好きに動くこともままならない。

「さて……となれば、一刀殿の元にでも訪れてみるか。稟や風とも話をしてみれば、どういった考えなのかも分かるであろうし」

「おい……ちょ、趙雲ッ!」

 ならば、北郷から指示をもらうか。
 北郷のことはよく分からないが、趙雲が知る程昱と郭嘉ならばこのぐらいのことは既に考察済みであろう。
 その彼女らが何の指示をも出さないのであるならばそれは現状がそこまでのものではない、と趙雲に思わせるものであったが、まあ、かといってこちらが勝手に動く分にはさしたる問題があるわけでもないだろう。
 とりあえずは程昱と郭嘉と話をする、それが不可であった場合は北郷でも――酒でも持って――尋ねてみるか。
 そうした思考を中断して、酒と共に楽しめる肴でも探しに行こうかとした趙雲の耳に、自らの名を呼ぶ声が飛び込んできたのである。



「む……おお、華雄殿か。如何なされた?」

「う、む……その、だな……済まないが、聞きたいことがあってだな……」

 声に反応して振り向いた先に、その声の人物――華雄を見つけた趙雲であったが、その後に続いた言葉にふと違和感を覚えた。
 
 それほど話をした間柄でもないが、常の華雄は威風も堂々に胸を張っていた。
 今回の戦いにおいて失態をおかした、というのは耳にしていたが、それでも、その沙汰が出るまではこれまた堂々と言わんばかりに待っているものと思っていたのだが。
 その人目をはばかるように影から趙雲に話しかける姿に、そのような欠片は微塵も無かった。
 かといって、罰せられることを恐れているふうでもない。
 どことなく狼狽しているような、それでいて気恥ずかしそうに振る舞う華雄に、趙雲はぴくりと違和感とは違う何かを感じていた。

「はてさて……では、聞きたいこととは何ですかな?」

「う……その、ええっと……」

 その感じた何かを信じるままに――良い肴になりそうだという直感を信じた趙雲は、華雄が尋ねようとした内容について問いただす。
 恐らくは先の戦いについてのことか。
 汜水関前の攻防戦において退くと偽装した連合軍の釣り出しに合い、劉備軍の関羽によって華雄は討ち取られる寸前であったと聞く。
 間一髪で北郷が助けたとは聞くが、恐らくはその礼に関してというところだろう。
 ただ、もしそうだとしても何故礼をするだけでそこまでに気恥ずかしそうになるのだろうか。
 その疑問を頭に浮かべた趙雲であったが、次いで放たれた華雄の言葉になるほどと納得した。

「わ、私は北郷に助けられたのだが、な……その礼に、真名を預けたいと思ってるんだ……。だが、命を助けられたという礼に真名一つで良いものなのかどうかと思って……」

 要するに。
 関羽に討たれそうなところを北郷に助けてもらい、その礼に真名を預けようと思っているが、北郷自身の命をも危険にさらしてしまったことを考えてそれだけで足りるのだろうか、と華雄は悩んでいるようであった。
 華雄のような人間が自らの失態を認め、そしてそのことに関しての助言を求めるなど到底認められることではないのだろうが、それでもなお助言を聞こうとする姿勢に好感が持てた。
 であるからこそ、趙雲は華雄の問いかけにふむ、と真面目に考えてみた。

 結果として。
 まああの北郷ならばそれで良い、と言いそうな気もするという答えに落ち着くのだが。
 しかして、それだけでは実に面白くな――いや、華雄への答えには不足であろう。
 ふむ、と腕を組んで華雄を見てみれば、いやはや中々にして可愛らしい。
 いつもの覇気はなりを潜めており、見る者からすれば可憐な乙女とも言えるほどであろう。
 となれば。
 ニヤリ、と口端に表すことなく嗤った趙雲は、自らが考え出した最高の肴――いや、華雄から北郷へ出来る最高の礼を、誰に聞こえるでもなく華雄の耳元で囁いたのであった。


 


  **





「――それじゃあ、当初の予定通りということで」

「そうですね……それが一番良いでしょうね。では、すぐに動かなければならないので、私は指示を出してきましょう。先に失礼します」

「はい、頼みます、奉孝殿。持ち運びが難しそうなものは置いていくことも視野に入れて頂いても構いませんので……えと、その辺は奉孝殿にお任せします」

「お任せですか……分かりました、その辺は適当にしてみることにします。……では」

 ふむ、と腕を組んでいた郭嘉が眼鏡を光らせながら退出していったのを確認しながら、俺はふうと一つ息を吐いて椅子に深くもたれかかる。
 汜水関での戦いにおける一つの区切りがついたことと、色々と当初の予定とは違うことがあったにせよ、ここまでに策を進められたことに対する安堵からであった。
 ゆらゆらと揺らめく灯りの炎を見つめてボーとしているとそのまま眠りにつきたくなる衝動にかられるが、とりあえずはその衝動をこれから行うことが一段落付くまでは、と心の奥底へと仕舞い込んだ。

「さて……それじゃあ、俺達も準備をしようか?」

「そうですねー……風達は持ってきているものも少ないのでそれほど大変ではありませんが、兵の人達はそういう訳にもいかないですしー。星ちゃんを探すついでに、風も稟ちゃんを手伝ってきますよー」

「ん……何で子龍殿を?」

「いやー、星ちゃん洛陽に着いてからあちこちに動いていたからですね、これからのことは話してなかったりするのですよー」

「……ええぇっ?!」

 だが。
 段々と眠たげになっていた意識は、程昱の言葉で途端に覚醒することとなった。
 これからのことを――汜水関での戦いにおける一つの区切りがついたこと、そしてそこに至るまでに散らした数々の策を一気に発動させるための策を行うことを、趙雲に話していないとい内容に何故、とも思うのだが。
 そういえば、とふと思い当たるものがあって、俺はがっくりと肩の力を抜いた。

「あー……そういえば、最近忙しそうだったもんな」

「おや、お兄さんは気付いていたので?」

「あれに気付かない方が凄いと思うんだよ、俺は」

 華蝶仮面。
 最近洛陽の街を沸き立たせる人物で、華のように美しく、蝶のように舞う、美と正義の使者の名――であるらしい。
 俺が考案した警備隊による治安維持によってある程度の治安が守られているとはいえ、やはりそこは人の営みと言うべきか、多くの人々が暮らすだけに大小様々な喧噪は日々生まれる。
 警備隊が警邏するとはいえ、その全てに対処するのも難しく、場所によっては後日になると思われるのもあったりすれば、その対策を早急に考えねばならない――そんな時に、華蝶仮面の名は洛陽の街に広がり始めたのである。
 
 だが、それは俺にとって懸念するべき事項であった。
 何しろ、正義の使者にしろ何にしろ、街を騒がせる人物であることには変わりない。
 もしやすれば、正義を名乗って人々の信頼を得つつ裏では、という可能性すら否定出来ないのだ。
 ともなれば、その人となりを確認して、最悪の場合には罰せねばならない。
 そうして華蝶仮面に会うためにと警邏に参加していた俺の元へ、華蝶仮面現るとの報が入る。
 そして、その現場へと向かった先にいたのは、戟を振り回す華雄と、その一撃一撃を華やかに舞って避ける華蝶仮面――蝶の趣向を凝らした仮面を付けた、趙雲その人であったのである。

「あー……本当ならそこは厳しくいかなきゃいけないんだろうけど、今は時間が惜しいことだし……仕方ない、また今度確認するからとりあえずは早く伝えておいてくれ、風」

「了解ですよー」

「何か説明するようなことがあれば、部屋を訪ねてもらっても構わないから。……それじゃ、先に失礼するよ」

 問い質してみても趙雲は認めようとしないし、更には華雄やらその他諸々の人達が全くと言っていいほどに華蝶仮面は趙雲である、と理解しないために、趙雲自身もばれていないと思っているらしい。
 猪突気味な武人の人達が顕著だろうか、などと考えてはみるものの、まあ趙雲自身のことは俺も知っていることだし、未だよく知る仲では無いにしろ悪い人物でも無いだろうし、と俺はとりあえずに思考をそこで遮って、自身の荷物を纏めるためにと程昱に手を振りながらその場を退出していったのである。





「さて……と言っても、俺も何にも持ってきてないからなあ」

 そうして。
 宛がわれていた自室へと帰ってきた俺は、ぐるりと部屋を見渡して一つ息を吐く。
 元々用意されていた机に椅子、寝台の他には特に何かが置いてあるわけでもなく、それ以外に置いてあるものといえば、郭嘉達との軍議の前にと置いていった剣と盾、そして数枚の着替えが机の上にあるだけだった。
 見事に何も無いな、と苦笑した俺は、さてどうするかと腕を組んで――そんな時に、控えめにコンコンと扉が叩かれる音を聞いたのであった。

「はい? 誰ですか?」

「……」

 早速程昱が来たか。
 そう思いつつもとりあえずはと口を開いた俺の問いは、しかして無言で返されることとなる。
 はて、と首を傾げつつ名乗りを待つが、それでも続く沈黙を訝しんで机に近づいて剣と盾を即座に掴めるようにした。

 まさか連合軍の刺客か。
 その可能性は低いであろうと思っていたものであったが、それでも絶対無いとは言い切れない類のものである。
 こちらが常に先手を取る形で推し進めていったあの状況の中で、汜水関に退く董卓軍に紛れ込んで将兵を討とうとする人物が扉の向こうにいるのであれば、もしやすればこちらがこれから取る策を知られている場合もあるかもしれない。
 そう思った俺は、音に出さずに剣を握ろうとして――

「……そ、その、北郷……か?」

 ――扉の向こう、声が小さいのかやや聞き取りにくく、そして少し緊張したかのような華雄の声に俺は息を吐いていた。

「葉由殿、ですか?」

「う、うむッ……その、入っても……いい、か?」

 霊の正体見やり枯れ柳、というわけでもないが、些か緊張していたのが馬鹿らしくなる己の勘違いに、知らず顔が熱くなるのを頭を振ってどうにか冷やす。
 こちらの緊張が伝わったのか、どこか固い華雄の声に申し訳無いと感じつつ、俺はその扉を開けた。

「すみません、気付かなくて。どうぞお入り下さい、葉由殿」

「……う……」

「……葉由殿?」

 あー本当に緊張とか馬鹿らしい、と気恥ずかしさを感じつつ扉を開けた先には、やはりというか華雄が立っていた――立ってはいたのだが。
 縮こまるように少しだけ身を屈めた彼女は、俺の言葉を聞くや否や、はっと顔を上げたかと思うとそのまま萎縮するように再び縮こまってしまったのだ。
 はて、と首を傾げて華雄と視線を合わせようにも、こちらと視線が合った途端に逸らされて、かと思えばちらちらと上目遣いでこちらを窺う彼女に、今いち何が何だか分からない状態であった。

「……ほ、北郷ッ!」

「え――って、んむぅッ?!」

 とはいえ、何かしらの用事があって訪ねてきたことには変わりはないのだろう。
 そう思った俺は、とりあえずは部屋に上がってくださいと口を――開こうとして、その唇が急に柔らかい感触と共に塞がれたことに気付いたのである。
 
 そうして。
 半ば飛びかかるように顔を近づけた華雄の反動からか、押し倒される形で床へと転がった俺の目の前に彼女の顔と何かを決意したような、それでいてとてつもなく恥ずかしそうなその視線によって、俺は現状を理解することが出来たのである。
 すなわち。
 


 華雄自身の唇によって唇を塞がれながら、彼女に押し倒されたのだ、ということであった。 





  **
 




「おや……星ちゃん、こんなとこにいたのですかー」

「ん……おお、風か。どうした、何か私に用でもあったのか?」

「まあ、そんなとこなのですがー……一つ聞きたいんですけど星ちゃん、その手に持っているものは?」

「うむ、持ってきていた酒を少しな」

 酒が満たされているであろう壷を、ちゃぽん、と微かな水音と共に掲げた趙雲に、程昱は知らず漏れでそうになる息を押し殺す。
 元々伝え切れていなかった自分の落ち度から来ているとはいえ、ここまで予測通りに動いていた趙雲にじと目の視線を送ってはみるが、不思議そうに首を傾げる彼女に仕方ないとばかりに苦笑していた。
 まあ、それでも酒を楽しむ時間などは無いのだ、と趙雲に説明しようとしていた程昱は、ふと違和感に気づく。

「そういえば、星ちゃん……いつものあれは持っていないのですねー?」

「む……おおっ、メンマのことか」

「ったくよ、メンマ好きもここまで来ると病気みたいなもんだぜ。けど不思議だな、星が酒を持っててメンマを持ってないなんてよ?」

 宝彗の言う通りだ、とばかりに程昱は首を傾げる。
 飯を食べればメンマ、間食にはメンマ、酒の肴にはメンマ、といつでもメンマ尽くしが当然のことである趙雲が、酒を片手にしながらもメンマを持っていないとはどういうことなのか。
 ここ汜水関には持ってきていない、という考えが一瞬頭をよぎるが、そんなことは無いと趙雲に知られないようにと頭を振る。
 以前趙雲の私物を拝見したことがあったが、そのときに多種多様に分類されたメンマの壷には来るべき出征用というものがあったはずだ。
 肴用と布教用がかなりの数だったことが一番印象に残ってはいるが、その事実にも間違いはないはずだった。
 となれば持ってきていてもおかしくはないのだが。

 そんな程昱の疑問に感づいてか、趙雲はにんまりと口端を歪めながら笑った。

「なに、単に面白――いや、実に良き肴を見つけただけということよ、宝彗」

「ほう……?」

 そんな趙雲の笑みに、程昱は何かしらをぴくりと感じ取った――彼女がこんな顔をするのは、本当に面白そうなことが目の前にある時だということを。
 それと同時にやっかいなことになった、とも思う。
 戦勝したとはいえそれは一時的なものであり、今現在も汜水関より離れた地において連合軍は体勢の立て直しを図っていることだろう。
 数に劣る董卓軍において、数に大きく差をつけられている連合軍を相手に勝利を積み重ねていくには、出来うる限り先手を取って有利な状況へと持ち込まなければいけないのだ。
 故に、程昱はここでの動き如何によって連合軍との勝敗がつくものと思っているのだが。

 今ここでそれを口にしたとこで状況に変わりはないだろう。
 そう結論付けた程昱は、それを表に出すことなく口を開いた。

「ではでは、星ちゃんのいう面白いこととは一体何なのですかー?」

「ふむ……まあ、隠すようなことでもない、か……」

 だが。
 程昱は、その後に続く趙雲の言葉に先ほどの己を――もっと言うのなら、以前の自分を悔いることとなる。
 事前にきちんと話をしていたのなら、こんな面倒なことにはならなかったものを、と。



「なに、簡単なことよ。一刀殿に助けられた華雄殿が礼には何が良いか、と問うてきたのでな、殿方に真名と共に礼を尽くすのであれば、文字通り身命を捧げるがよろしかろうと言ったまでのこと。まあ、さすがの華雄殿でもそこまで真面目には取っておらんだろうが、如何様に狼狽するのかを肴に、こちらも楽しませてもらおうと思ったまでよ」





  **





「――ということなのだ……し、しかし……その、だな……くっ、本当にこの身体を捧げねば礼にならぬのか……いや、北郷が嫌だというわけでは……」

「……なるほど」

 つまり今の状況は――華雄に唇を奪われて押し倒されて挙句、可愛らしく頬を赤く染めるその顔が目の前にあるのは趙雲の仕業か、と俺は華雄の言葉で納得した。
 短い付き合いゆえに確信は持てないながらも彼女のことだ、華雄が真面目に受け取ることは無いと思ってその狼狽する様を肴に楽しもうという魂胆であったのだろうが。
 そこで真面目に受け取らないような人物なら先の戦いで連合軍の策によって打って出なかったということに気づいて欲しかった、と華雄の言葉を右から左に流しながら俺は切に願っていた。

 というか、無理矢理にでも冷静に物事を考えるようにしないと、色々と本気でやばかったりするので、思考をどうにかそちらへと向かわせる。
 汜水関から退くときにも感じたことだが、華雄の身体は武人という印象を裏切って意外と軽い。
 その身体は引き締まっていながらも筋肉を鍛え上げたような硬さもなく、ふわふわと柔らかいものであった。
 そこに女性特有の柔らかさと温もり、そして拭ってなお残る甘い印象を受ける微かな汗の香りに、心臓が高鳴ると共に顔が熱くなるのを感じてしまう。
 さらには、生物的危機に瀕した際の種の保存の影響が――ぶっちゃけ本能的なもんもあって、自然と喉が鳴るのを必死で押しとどめながら、いかんいかんと俺は呼吸を深くした。

「……事情は大体分かりました」

「う、うむッ……」

 事情は大体分かった、だから落ち着こう。
 言葉の外にそう意味を込めてみたものの、よほど緊張しているのか、華雄はそれに気づくことなく落ち着きなく頷く。
 その動きのたびに胸部に押し付けられる柔らかい感触や、ほのかに甘い匂いのする熱の篭った吐息に心臓が高鳴って仕方がない。
 まあ、押し付けられた身体から伝わる華雄の鼓動の方が早いもんだから、こちらとしては冷静にそれを確認出来るだけ幾分か落ち着いていられるのだが。
 それでも、このままでは不味いと――時間的にも本能的にも――と思った俺は、きょろきょろとせわしなく視線を動かす華雄に苦笑しながら口を開いた。

「……強かったですね、関羽は」

「ッ……そう、だな」

「不意を突いた形でなければ、俺は相対すら出来ませんでした……」

「それでもお前は、私を救ってくれたさ……それに引き換え、お前の指示を無視し一人勝手に突き進んだ私がこの様だ……月様に顔向けも出来ぬ」

 関羽の話題を出すのはずるいかな、と思いつつも口にしてみれば、案の定というか、それまでの空気はどこへやらというほどに華雄は落ち込んだ。
 その変わりように苦笑しつつも、自らも先ほど話題に出した関羽のことを想う。

 わざとらしく挑発したためにまともに打ち合うことは無かったが、それでも、感情のままに振るわれたその戟は俺にとって必殺の類であった。
 呂布や張遼、徐晃や華雄といった俺の知る中でも最高位に存在するであろう武人達と鍛錬を繰り返してきたとはいえ、やはりというか、俺が関羽と相対するにはあまりにも荷が重いものであったのだ。

 こちらの技能に合わせて手加減をしてくれる呂布達とは違う、本気をもってこちらの首を――命を刈り取るためにと振るわれた戟。
 ほんの一瞬でさえ判断を間違えたなら即座に剣ごと身体を断っていたであろう一撃を思い出して、俺は先ほどとは違う意味のつばを無意識のままに飲み込んでいた。
 戦い勝利を得たことの高揚よりも、死を目前にしていたという恐怖が今更になって身体の奥底からこみ上げてくるが、震えそうになる身体と心を無理矢理に静めこんで、俺は口を開いた。

「……葉由殿はそれでいいんですか?」

「……何だと?」
 
「一度敗れたからといってそれだけで全てを諦めるのか、と聞いています」

「そんなことあるわけがないだろうッ!」

 関羽とは違う、しかして同質であろう怒りにも似た気を眼前から受けながら意識を保つことが出来たのは、関羽のそれによって慣れが生じたからか。
 その理由は分からないが、向けられる華雄の視線に応えられるのであれば、今はどうでもよいと思えた。

「だがッ……どうすればいい、私は……将として敗れ、武人としても敗れたのだ……どのような顔で兵に向き合えばいい……どのようにして――」

「……俺は、進み続けました」

「――……なに?」

 だが、怒気を発したから、それともそれが蓋となっていたのかは知れないが、俺の胸に顔を埋めるままに言葉を放つ華雄はどこか悲痛で、ともなれば目指す先を見失った迷い子のようでもあった。
 自らが目指した先は遥か遠くで、そして自信を持っていた自らの武は義勇軍の将にも及ばないものであって。
 その本質と内容こそ違えど、両親の命を犠牲にしてまで生き残っていたと思っていた俺にとって、華雄がそう思うことは理解出来るものであった。

 だが。
 もしそれを俺が認めてしまえば、実の息子を失ってなお俺と過ごしてくれた祖父や、俺の過去を知ってなお変わらず付き合ってくれた及川を裏切る形となってしまう。
 俺を信じてくれた人達を。
 俺が信じてきた人達を。
 決して裏切ることなど出来やしない――その意思と共に、俺は華雄の瞳をまっすぐに見つめた。
 
「悲しむこと、苦しむこと、悔やむこと、それらがあってなお進み続けるのだと教えられました。どうすればいいのか分からなくてただ従っただけ、とも言えますが、俺はその言葉を信じて今があります。……葉由殿も、例えどんなに悔やむことがあろうとも、まずは自分に出来ることを探して、そして進んでいくが大切なんだと俺は思います」

「……自分に、出来ること……だと? しかし、だな……今の私に出来ることなど、何も無いだろう? ましてや、敗軍の将などには……」

「なら、また一から武の道を進めばいい。敗れたこと、悔やんだこと、その全てを忘れぬように進んでいって、また武の頂を目指していく……そうして、これまで辿ってきた道を抜くことが出来たのなら、今日敗れたことも決して無駄にはならないでしょう?」

 ね?
 そう口に出した俺の言葉に、華雄は初めこそ自らを拒否するように言葉を紡いでいたが、徐々に思考が定まってきたのか、ぶれていたその視線が一点へと定まり始めていた。
 縋るように俺の服を掴んでいた彼女の手も、徐々に力が解かれたかと思えば、それは自らの拳を握る決意のようになっていって。
 目に見えて変わりだしだ華雄に、俺は知らず微笑んでいた。

「……また、戦ってもいいのか?」

「言ったでしょう? 今ここで罰するような余裕も無いし、そもそも俺にそこまでの権限は与えられていませんから。それに、この戦時中において葉由殿のような武人を失うことは手痛いものとなりますからね」

「……また、戦うことが出来るのか?」

「それは葉由殿次第ということになるでしょうが……まあ、俺個人としては武の師がいなくなるのは勘弁願いたいですしね。葉由殿が心折れても目指す頂から手を離さぬのであれば、俺としても出来る限りお手伝いさせていただきますから」

「……この、馬鹿者めが……」

 押し倒されたままにおどけたように肩をすくめてみれば、幾分か力が抜けたのか、ごく自然に力の抜けた笑みのままに、華雄は俺の胸へと頭を預けてきた。
 体勢は変わらないはずなのに、先ほどの酷く緊張していた時とは違う柔らかくも心地よい重さに、トクントクン、と自然に互いの鼓動が重なっていくのが分かる。
 人の温かさと柔らかさ、そしてその鼓動にふと意識が別のところへと飛びそうな俺の耳に華雄の声が入り込んできた。

「…………だ」

「……え? 何か言われましたか?」

「だ、だからッ、その、だな……美麗(みれい)、が、私の真名、だ……」

「へー……可愛らしいですね」

「ぐぅっ……このような女々しい真名は、は、恥ずかしいんだからな……その、人前では呼ぶなよッ! ……華雄、で構わないから」

 ぷいっ、と。
 いつもの彼女からは考えられないぐらいに赤く染めた表情を逸らした華雄は、ぽつり、と表現するかのように自らの真名をその口から吐き出した。
 その様子が本当に恥ずかしそうで、彼女の言葉通りに恥ずかしがっていることが理解出来た。
 美しく麗しい、で美麗。
 戦場を駆け抜け戟を振るうその姿から見れば実に良く似合っていると思われるのだが、まあ人前では呼ぶなと言う以上はそれに従わねばならないだろう。
 
「……分かったよ、美麗」

「ふ、ふん……分かればいい」

 俺を訪ねたそもそもの理由――助けてもらった礼をする、というのが済んだからか、押し倒されたままの俺が感じるほどに華雄の身体から力が抜けていくのが分かる。
 だが、即座に趙雲の言葉を思い出したのか、すぐさまに身体を緊張させて顔を赤らめる華雄に苦笑しながら、それには及ばないと応えていた。

「その、だな……そもそも美麗は子龍殿に騙されたんだよ。俺も色々なことがあってそれなりに真名を預けられているけど、そういった人達は一人もいなかったよ」

「なッ……ほ、本当か、それは……?」

 こくり、と頷いてみれば、酷く衝撃を受けたような顔で華雄は見るからに落ち込んでしまう。
 騙された、ということよりも、関羽に続いて趙雲にまで口で負けたとでも思っているのか、わなわなと振るえる手と、ぶつぶつと呟かれる言葉にそういった色が見えて俺としては非常に怖いものがある。
 一度ならず二度までも、とか、この悔しさ晴らさずでおくべきか、とか。
 なんか呪いみたいだ、と内心思いながらも、決して口に出すことはないが一つだけ言っておきたいことがあった。
 きっと趙雲には叶わないよ、と。



 ともあれ。
 華雄が俺の部屋を訪れた理由が判明し、その大半が達成されたとあって、俺は知らず強ばっていた身体から力を抜いた。
 戦場のものとは違う、果てなどないほどに緊張していたのか、脱力感が妙に心地良かった。
 そうしてくると、既に自然と体重をかけていた華雄の感覚を実に鮮明に感じ取ることになるのだが、ぞくり、と振るえそうになる柔らかい感触を思考から追い出して、俺は口を開いた。

「美麗? その……上からどけてもらえると――」

「一刀ッ、虎牢関行くまでには時間あるやろ、酒でも一緒、に……呑まへん……か?」

 だが。
 この世は実に無情に出来ているのか、はたまた、これが天命なのか。
 助かるんだけど。
 そう続けようと口を開けていた俺は、酒を片手に扉を開けた人物――張遼を視界に収めたままに次の句を紡げなかった。

 対する張遼も、俺が一人で片付けをしているとでも思っていたのか、床に倒れる俺の上に華雄が大人しく乗っている状況に、矢継ぎ早に紡いだ言葉の語尾が自然と最大級の疑問へと変わっていた。
 なるほど、その疑問、とてもよく分かる。
 渦中でなければ同じ疑問を抱いていただろうと頷く俺であったが、そんな俺の心境を図っていたかのように、新たな声が部屋へと響いた。

「おやおやー、どうやらおいしいとこには間に合わなかったみたいですねー」

「いやいや、これで十分ではないか、風よ? まさかの私もこのような事態になるとは思いもしなかったが、まあ、一刀殿を巡っての争いとは実に面白――良き肴ではないか」

「……言い直しても意味一緒じゃないですか」

「おおっ、これは失礼した一刀殿……それにしても驚きましたな。そのような状況下で、まだそこまで冷静でいられるとは」

「か、華雄に負けてもうた……」

 にやにや、と。
 その声だけでそういった表情をしていると分かりそうな声の主達――程昱と趙雲に、俺は知らず溜息をついた。
 事態がどんどん悪化していくことへの諦めの溜息だったりするが、そんな俺が面白くないのか、挑発するような趙雲の声も、何故か落ち込む張遼の声に覆われた。

「な……な……何なんだ、貴様等ッ?!」

「お、落ち着いて、美……じゃなくて、葉……でもなくて、えっと、華雄?」

「ッ……う、うむ……か、一刀がそう言うのならば……」

「ふむ……中々意外にも甘い空気だな……」

「そうですねー……」

「ぐぅ……うちも撫でてもらたことないのに……」

 張遼、趙雲、程昱という想定外の人物の登場に驚いたのか、俺の上で怒気に似た感情を濃くし始めた華雄に俺は内心慌てる。
 もし俺の上――ふと及川が卑猥な言い回しやなと言った気がした――で暴れられでもしたらたまったものではないし、そこで感情的に趙雲達に向かってしまっては付け入る隙を与えるだけだと思ったからだ。
 だが、華雄に押し倒されている現状であっては、そんな彼女を押し止める手段が見つからない。
 そう思った俺は、華雄の頭へと手を伸ばし、その頭を撫でながら言葉を紡いでみたのだが。
 如何せん、趙雲と程昱の反応にそれも墓穴であったか、と悔やんだ。
 ちなみに、ぽつりと呟かれた張遼の言葉はよく聞き取れなかった。



「まあ、こんなことしている状況ではないので、お兄さん、そろそろ自重して頂ければー」

「……ああ、まあうん、俺が悪いってことでいいよ、もう……」

「む……このような状況とはどういうことだ、一刀? それに、さきほど文遠が言っていた虎牢関というのは……」

 ともあれ。
 こんなことをしている場合ではないという程昱の言葉に従って華雄を下ろしたのだが、当の華雄からその場合の説明を求められる。
 はて、と首を傾げてみれば、そういえば元々汜水関に籠もる予定ではなかった華雄には伝えていなかったな、と気づいて苦笑した。

「あー……まあ、伝えていなかった俺も悪いんだけどさ……」

「おや、駄目駄目ですねー、お兄さんは」

「いや、風には言われたくないから」

「……ぐう」

「寝るなよッ?!」

 そして。
 説明を求める華雄に視線を向けた俺は、にやり、と口端を歪めながら口を開いたのであった。



「えっと、な……つまりは――」 





  **





 そうして夜半。
 汜水関を巡る攻防の初戦での敗退によって、連合軍は対汜水関攻略の策を練り直すこととなった。
 這々の体で汜水関から後退した各諸侯達は、自軍の混乱を収めその被害状況を踏まえた上で、その軍議においてこれからの行程を述べるつもりでいたことだろう。
 事実、多くの諸侯がそのつもりで連合軍総大将たる袁紹が用意していた大天幕への道を歩いていた。

 だが。

 
「も、申し上げますッ。し、汜水関に籠城していた董卓軍、城壁の上にもどこにも、その姿が確認出来ませんッ! 加え、堅く閉ざされていたその城門が開かれておりますッ!」


 夜襲に備え放っていた斥候が持ち帰った一つの報により、諸侯達の目論見は崩れることとなるのである。






[18488] 五十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/04/29 15:29




「今ここで追撃せねば、勝ち逃げという形で虎牢関に篭られることになりましょうぞッ」

「しかし、それが罠だとすれば如何する? 二度も罠にかかり、あまつさえそれを言い訳に洛陽に迫ることなく撤退などしてみよ、連合軍は全ての民から侮られることとなるぞ」

「だが、董卓軍が汜水関を退いたことは事実。今は、汜水関を取り状況確認と情報を集めることが先ではないか?」

「兵糧という時間の制限がある中で、それがどれだけ可能になることやら。……多少、兵に苦労を強いることになるが、ここは南から迂回して洛陽を目指したほうが良いのではないか? 董卓軍との兵力差であれば、正面からぶつかれば勝てるだろう」

「ここで我々が反転した隙を突かれたらどうするッ!? ここは、罠を恐れることなく虎牢関を目指し進軍したほうが――」

「じゃが、それで兵糧を狙われてしまえば、連合軍の存続どころか我々が領地へ帰ることもままならぬことになると――」

 無意味ね、と。
 曹操は眼前の光景に痛みだしたこめかみを押さえながら、溜息をついた。



 董卓と反董卓連合軍との間で起きた緒戦。
 洛陽へと至る道程にて立ちふさがる汜水関を巡っての攻防は、とりあえずのところ、連合軍の敗北と言ってもよい状況で初日を終えた。 
 罠、火計、奇襲。
 それらの董卓軍が施した策略によって士気、兵糧、指揮系統を散々に掻き乱された連合軍は、董卓軍の追撃を振り切って後方へと撤退したのであった。

 曹操が率いていた軍は、他の将が率いる軍とは違い、それほどの被害を受けていない。
 元々、長期化することが予測されていた今回の連合軍の出征において、多くの軍が用意出来る限りの兵糧を運ぶためにと総大将たる袁紹に過剰分の兵糧の輸送を任せていたのに反し、曹操はそれを良しとせずに自らの軍で輸送を行っていたからなのだが。
 さらには、ほぼ最前列にいたこともあって、さして変わらない位置にいた張莫と共に、大きな被害とはならなかったのである。
 
 ならば、自分達と同じように前列へと出ていた他の将――陶謙と孫策はどうなのか、と思いながら、曹操は彼の者達へと視線を向ける。
 さすが名高き徐州牧と言うべきか、陶謙は様々な意見が飛び交う軍議に慌てるふうもなく、落ち着いた視線をそこに向けていた。
 荀彧からの報告によれば、陶謙は自軍の兵糧は自軍で輸送していたらしい。
 さらには、州牧という役からなる大軍を巧く指揮することによって、董卓軍の攻勢を被害を最小限にして繰り抜けたとのことであった。

 対して、孫策からはそんな余裕のような印象は抱けない。
 様々な方面へ迷走する軍議に興味無く退屈だとでもいうように振舞ってはいるものの、その視線に映る中身はギラリと表現できるほどに鋭い。
 孫策は、江東の虎として名を馳せた孫文台の娘であるが、母親が死んだどさくさに紛れて暗躍した袁術の手によって、現在はその客将という立場になっている――客将と言えば聞こえはいいが、実際にはその麾下という扱いで、扱き使われているといった方が正しいのだが。
 猿が龍を飼っているのか、と溜息をついたことを今でも覚えている。 

 そんな立場にあって多くの兵を集めることが出来なかった孫策は、他の軍と同じように兵糧の大半を袁術に任せていたらしいのだが、それが仇となった形か。
 荀彧からあがっていた袁術が被った被害を思い出し、曹操は英傑とも呼べる人材の不遇を憂いた。
 そんなこともあって、誰が味方で敵なのか、孫策がそれを判別しようとしているのが理解出来た。

「……とはいえ、このままだと本当に誰が味方なんて分からなくなるわね」

 そして、それを同じように理解しているのか、張莫が呟いた言葉に曹操も頷く。
 追撃を主張する者、罠を恐れる者、状況把握を一にしようとする者、汜水関を諦め別策を取ろうとする者。
 その他にも様々な意見が目の前で放たれていくが、そのどれもが実現は難しくないものの、酷くあやふやであった。
 何しろ、連合軍が先手を取って主動しているわけでなく、董卓軍の先手で戦況が動いているのである。
 汜水関を巡る攻防における、董卓軍先導による策略によっての連合軍の後退。
 そして、優勢でありながらも汜水関を放棄したその行動。
 現状、董卓軍がどういった目的を持って動きを成しているのか不明な以上、安易な策に頼ることは避けねばならないのである。
 だが、連合軍の指針は纏まらない。

「ふう……何にしろ、ここで意見を纏めなければいけないことは事実。多少不味くとも動く場面かしらね?」

「そう、ね……。……麗羽、少しいいかしら?」

「な、なんですの、華琳さんっ? 何か良い案でも――」

 しかし。
今こうして時間を浪費している間にも、董卓軍は虎牢関へと戻りその防備を調えていることだろう。
 もしやすれば、このような連合軍の様相に高笑いしながら、今か今かと奇襲の準備を進めているかもしれないのだ。
 となれば、どれだけの損害が出るかは分からないにしろ、早急に連合軍としての策略を固めなければならない。
 必要とあれば、洛陽を諦める訳ではないにしろ、一度陳留付近まで後退することも視野に入れなければならないのだ。
 袁紹自身もそう思っていたのか、それとも先の見えぬほどに曲がり始めていた軍議に焦っていたのかは知れないが、そんな曹操の言葉をこれ幸いとばかりに取り上げようとした。


「も、申し上げますッ。兵の一人がこのようなものを持って参りましたが……」


 だが。
 それも、唐突に軍議の間にへと入り込んできた兵によって遮られることとなる。
 その兵が手に持つモノ――紙を結び付けられた矢文に、諸侯達の意識は集められることとなった。





  **





「……追撃してきませぬな」

 幾重にも重なる馬と人が大地を駆ける音に混じらせながら、ぽつりと趙雲が呟くのを俺は耳に入れていた。
 駆けていく――虎牢関へと駆ける兵達から少し離れた彼女の横へと馬を進めた俺は、その視線の先へと同じように視線を飛ばす。

「汜水関を空けていることはそろそろ連合軍も確認している頃でしょうけど、初めに罠があったからそれを疑っているのでしょう」

「なるほど。こちらの意図も分からぬままに攻めるのは危険、と……?」

「恐らくは」

 汜水関からの撤退。
 城門すらも開け放って行われたそれは、董卓軍からすれば当初からの予定ではあったものの、突如としてそれを突きつけられた連合軍からすれば十分に困惑するものであったことだろう。
 何しろ、汜水関を巡っての攻防、その第一戦とも言える戦いは董卓軍勝利と言っても間違いではないものであったのだ。
 散々に連合軍を混乱させ、消耗させたとあっては、堅城とされる汜水関においての籠城は十分に勝機を掴めるものであるのだ。

 だが。
 汜水関での籠城をさらに固くするであろうと予測していた董卓軍の、突然の汜水関からの撤退。
 先の戦いで連合軍が勝利したとは到底思えない連合軍からしてみれば、こちらの意図を掴むことは難しいことだろう。
 ともすれば、それは緒戦を――そこに施された罠によって被った、手痛い被害を思い出すものかもしれない。
 となれば、如何に汜水関を被害無く通れる状況にあろうとも、董卓軍の意図も分からず、再び罠が待ち構えているかもしれないとあっては、連合軍の動きが鈍くなるのも致し方のないことであった。

「今頃は、こちらの意図を推測する軍議でも開いている頃か……」

「或いは、責任の押し付け合いか、出来るだけ自分の被害を抑えようと腹の探り合いか……まあ、どちらにしてもすぐには追撃の手は来ないでしょう」

「ふむ……これは予想されていたことですかな?」

 そんな趙雲の問いかけに、俺は肩を竦めるにとどめる。
 この連合軍の動きを予想、或いは予測していなかったと言えば嘘になるが、それでも、ここまで予想の通りに動くとは思いもしなかった。
 ともすれば、殿として虎牢関へと駆ける董卓軍の最後尾に当たる自身と趙雲が、もう一働きをせねばいけないかもしれない、と覚悟していたぐらいなのだ。
 緒戦のことを思い出せば、そういった血気に盛る将が突出するやもしれないと思っていたのだが、どうにも肩すかしを受けた気分であった。

 撤退戦などを経験したことが無い俺にとっては想像し難いものであるが、郭嘉曰く、撤退戦というのは非常に困難であるらしい。
 著しい士気の低下、物資の運搬による速度の低下、そして何よりも退きながら戦うということがどれだけ大変なことなのかは、洛陽にいた時から――もっと言えば、この策を思いついた時から言われ続けたことであった。
 そのため、出来るだけ難易度を上げる要素は減らすべきだとして、先の罠においては使い捨て出来る陣地を構築した余りの木材で槍を造ったり、一応の勝利を収めたその時に撤退したり、追撃を防ぐためにと罠があるかのように汜水関を空けたり、と様々な手段を講じたのだ。
 賈駆に陳宮、程昱に郭嘉というずば抜けた知略の持ち主達が手と口を貸してくれたからこそ、今ここまで問題無く事が進んでいるのだと思うと、感謝してもしきれないものである。

 

 とはいえ、ここで感謝をしているだけでは先に進まない。
 そう思った俺は、口を開いた。

「……このまま行けば、どれぐらいに着きますかね?」

「虎牢関にですか? そうですな……まあ、予定の明朝よりは少しばかり遅くなるぐらいかと」

「そうですか……よし、なら少し急ぎましょう。今は追撃が無いにしても、いつ来るか分からないですから。出来るだけ距離を稼いでおきたい」

「ふむ……そうですな。では、私は牛輔殿を急かしてくるとまいりましょうか」

「はい、頼みます、子龍殿」

 任されましょうぞ。
 そう言ってニヤリと笑った趙雲が馬を駆けさせて兵の向こうへと消えたのを見送って、俺は再び汜水関がある方角へと視線を向ける。
 夜という闇の中にあって、先ほどまでうっすらとその輪郭が確認出来ていた汜水関は、もはや完全に闇の中へと埋まっていた。
 連合軍が汜水関を一時的にも占拠して人と火でも入れば少しは違う――もっといえば、闇の中にいるこちらからが一方的にその動きを知ることが出来たのだが、そうは問屋が卸さないらしい。
 やっぱりそれぐらいには頭が回る人物がいるか、と俺は一人納得していた。
 まあ、あの曹操とか孫策辺りなら普通に気づきそうではあるのだがそれは黙ったままにしておいた。
 もし全て気づいて行動していたら、と考えると少し怖い。

「……ま、まあ、あまり気にしないようにしよう、うん。いくら曹操殿と孫策殿とはいえ、まさか連合軍を放って動くことも無いと思うし……」

 連合軍が連合軍として行動している以上、それを構築する軍の一画である曹操と孫策は独断で軍を動かすことは出来ない筈なのだが、どうにも自分の中にある彼女達の像はそれを容易に納得させてくれない。
 というか、である。
 兵は拙速を尊ぶ、全軍進め。
 んー、何となくだけど今進んでおかないと駄目かな、と思って。
 そう兵に指示を下していそうな二人は容易に想像出来るものだから、どうしても不安は膨らんでいくばかりであった。
 うう、考えただけで胃がきりきりする。

「……まあ、簡単に動くことが出来ないように楔は打った――いや、この場合は射った訳だし、そう連合軍自体がすぐに動ける筈も無いだろうし……とりあえずは大丈夫だと思うけど」

 とはいえ。
 俺が今ここで不安がっても、状況が動くはずもない。
 ならば今俺に出来ることは、少しでも連合軍が考える先のことを考えて策を考えることである、としてその策へと思考を巡らせていく。



 罠。
 火計。
 奇襲。 
 空城の計。
 そして、火計と奇襲の混乱の最中に放った数十の矢文。

 そこまで確認して、俺は言葉に出すことなく一つ頷く。
 条件は全て揃った。
 後は連合軍が――その中に蠢く私利私欲が動き出すのを待つばかりである。

  
 

 
  **





「……これは一体どういうことかしら?」

「ひぅっ?!」

 自身の横で孫策が声も小さく――その実溢れんばかりの殺気を漲らせながらそう呟くのを冷静に聞き取りながら、周喩は先ほどまでの軍議の流れに自分達に非は無いという結論を自身に打ち出した。
 そもそも、つい先ほどまで目の前で推移していた軍議の内容はどう董卓軍に対するか――簡潔に言えば、自分が自分がといった私利私欲の投げかけあいであったのだ。
 それが何を思えばなのか、一人の兵が持ってきた一本の矢がその状況を一変させた。
 否、その矢に結ばれていた文であろう一片の紙が、であったか。



 それに何かが書かれているのだろうということは、血相を変えていた兵の顔を見れば即座に理解出来た。
 名立たる諸侯達における軍議に割り込まなければいけないほどの内容であれば、それも当然のことであろう。
 もっとも、その書かれている内容を知らない周喩からすれば、そういった兵の動きなど気にする必要もなかった――その文に書かれている内容が、自らの懐に入れている文と同じ内容ならばその限りではないのだが。
 気づかれぬように懐にある一紙を確認した周喩は、ちらりと周囲を――自らと孫策を取り囲む兵達をも確認したのであった。

「……一体どういうことかと聞いているの、袁紹殿。一体いかなる理由があって、兵をけしかけ我らを取り囲むのか。それを聞いているのだけれど?」

「ひっ……り、理由、理由ですわね……えと……それは、ですわね……」

 十と少しぐらいか。
 顔と視線に出さぬままに周囲に展開する兵を数えた周喩は、孫策の殺気に怯える袁紹から視線を外す。
 いきなりの袁紹の命令に――文を読んだ途端に天幕の内と外に控えていた兵に声をかけて孫策と自分を取り囲ませたという状況に、多くの諸侯が狼狽していた。
 その状況だけでみれば、恐らくではあるが袁紹が読んだ文と自分の懐にある文は同じ内容であるのだろう。
 孫策の殺気に震えながらもこちらを見やる袁紹に、それが確信へと変わっていた。

 それと同時に、ふと疑問も生じる。
 多くの諸侯が狼狽している、とは言ったが、それに漏れた少数の諸侯はただ成り行きを見守っているのだ。
 自身とは関係が無い、としているのだとしたらそれも当然ではあるかもしれないのだが、その表情からするにそれは違うであろう。
 となると、どういった意図があって、ということになるのだが。
 ある種の推測によって――孫策から言えば直感に当たる部分で、周喩は確信していた。
 彼らも、自分の懐にあるモノと同じものを持っているのだ、と。


「ッ!? 孫伯符殿に告げる、予てよりの約定通りに、連合軍全軍を引き付けている間にこれを後方より襲撃せよ、だと……これは……」

「き、貴様らッ、これは明確な謀反ではないかッ!?」


 そして。
 袁紹が取り落とした文を読んだ諸侯の口から語られたその内容に、周喩は自らの懐にあるモノ――文と全く同じ内容であると認識することとなる。
 それと同時に、先ほどの直感を信じるのであれば、それと同じ文が少なくとも幾つかは存在することにも気付くこととなり。
 ここに至って、嵌められた、と周喩は気付くが時既に遅い。
周喩は誰に気付かれるでもなく呟いていた。



 連合軍内における意識の散逸――これが目的か、と。





  **
 

 


「罠と火計と奇襲で散々に警戒心やら気勢やらを掻き乱しておいて、その実、通じているかのような文をわざと見つけさせることによって内部から攻めるか……中々にやるわね、董卓軍も」

「華琳、そんなに嬉しそうにしないでちょうだいよ……」

 目の前で繰り広げられる騒動――孫策と董卓が通じていたとされる文の発見による孫策摘発を視界に入れながら、思わず呟いた言葉に張莫が苦言を零すが、曹操はそれを耳に入れようとすることなく思考を働かせていく。



 思わずゾクリと背筋が震えた。
 自らの懐には、先ほど読み上げられた内容と一字一句間違いのないことが書かれている文がある。
 汜水関から後退した後に、自軍の兵が拾ったということで持ってきたものであったが、初め目にした時は驚きこそすれ、声高に孫策を攻めるつもりもなかった。
 通常、内通を示す文というのは直に取り合うものである。
 何よりも他者に――もっと言えば、裏切る予定である味方に見つからないようにするため、というのが一番の理由ではあるが、そこから考えればわざわざ他者に見つかる可能性のある矢文で指示を下す、といったことは余りにも不自然であったのだ。

 となってくれば、これが董卓軍の策略だということは即座に看破出来た。
 少なくとも、もし孫策が事実董卓と通じていたとしても、この情報があるだけでそれに対応することは容易になったし、何事も無く黙ったままにしていても孫策に対して恩が売れた。
 故に、この軍議では――これから董卓軍に対してどういった戦略をとるべきか、それを話し合うこの場ではさほど気にするものでもないとばかりに思っていたのだが。
 まさか、このような手に――わざと内通の文を見つけさせることで連合軍内に疑心を植え付けるとは、予想だにしていなかったのである。

「周喩の顔を見るに、どうやらそういった文があることは知っていたようね……いえ、持っている、と言った方が正しいか」

「私が今ここに持っているもの、そこにあるもの、周喩が持っているもの……少なくとも、十から数十はありそうね。今この場に無くとも、多くの兵が目にしているでしょうし」

「将だけでなく、兵からも突き崩すか……董卓軍の指揮官は中々に強かなようね」

 自身の持つもの、軍議の議題を変えてしまったもの、周喩が持っているであろうもの。
 その数だけならば三つであるが、あの混乱の中に得たものでこれだけあるのならば、恐らく全部で数十ほどは放たれていることだろう。
 そして、もしそれだけの数が放たれているのだとしたら、それはここにいる将だけでなく、一般の兵までもが目にしている可能性も考えられることで。
 将が目にしただけでこれである、もし兵が目にしたことを考えれば、個々の兵が――もっと大きく言えば、その兵が所属する軍同士での諍いが起こる可能性も考えられるものであった。

 さらに言えば、孫策はあの混乱の最中、いの一番に後退を開始していた。
 それまでの動きを見ていた感じでは、恐らくは事前に読んでいたか何かを嗅ぎ取っての行動であったのだろうが、今はその行動こそが文の内容を決定づけるものとなってしまっていた。

「まさか……読んでいた?」

「いえ……恐らくだけれど、名前を入れるだけのものを用意していたのではないかしら。そして、汜水関に近いとこまでに動く将の中で、そういった動きを取りそうな者の名を書いておいて、一番に後退し始めた将の名を書いていた文を放った……こう考えれば、問題なくいけるわ」

「……それはつまり?」

「ええ……私達の名が書かれていたとしてもおかしくはなかった、ということね……」

 その事実を口にして、曹操は再びゾクリと背筋を震わせる。
 自らもがその策に翻弄されかけていたという事実、相手の掌の上で転がされていたという事実は、常であれば怒りへと動くものであったかもしれない。
 だが、今は違う。
 怒りよりも何よりも、自らを手玉に取り、そして二十万もの大軍をも翻弄させるだけの智を持つ者が董卓軍にいる。
 自身の能力を全て使ってでないと勝てないであろう董卓軍という存在に、曹操は知らず口端を歪めていた。

「あらあら、本当に嬉しそうな顔しちゃってまあ……それほどの相手?」

「ええ、それほどの相手でしょうね……この連合軍では荷が重いぐらいに」

「そう……なら――」

「――ええ……連合軍はこれ以上進めないわね。士気、兵糧、気勢の低下に加え、将兵同士に疑心が生じてしまえば、二十万という大軍は足の引っ張り合いをする上でこそ優位に働けども、董卓軍を相手にして優位に働くことは有り得ないわ」

「唯一の有利だった二十万が不利に働くんだったら、そりゃ勝てるわけないわね……連合軍という意識の多さが仇になった、か……」

 連合軍という状況において、利はその参加する軍勢における大兵力と指揮する将の多さにおける多方面行軍である。
 例えば、これが洛陽を南から、北から、東から目指して攻め上がるのであれば、兵数でも将の数においても劣る董卓軍は、対抗の手段は限られてくる。
 攻めて引いてを繰り返せば、数に劣る董卓軍はほぼ全力で戦わねばならず、主力が疲労した時を見計らって連合軍全軍で攻めれば勝利を収めることが出来たであろう。

 だが、今回のような状況であればその限りではない。
 二十万という数でこそ董卓軍を大きく圧倒するものではあるが、それも谷と呼べるところにある汜水関と虎牢関を攻略するために展開するには、些か狭いのである。
 となってくると、数多い将が一地点に集うこととなり、それは結果として連合軍の中に思考なり心理なりが増えることとなったのである。
 そして、それが連合軍の不利とも弱点とも言えるものであった。

「考える数が多ければ、思考も意識も心理も定まらないのが当然のこと。対して、向こうは事前にそれを考慮に入れて策を考えていた……勝てないのも無理はないわね」

「数十の心理対一の心理……まさしく心理戦、か」


 心理戦。


 その張莫の言葉に、曹操は言い得て妙だ、と思う。
 こちらの心理を乱し策に嵌めようとした董卓軍と、それに見事に嵌り連合軍としての心理を乱されて、あまつさえその内部で足の引っ張り合いと責任の押し付け合いをしようとする反董卓連合軍。
 なるほど、こうして考えてみれば確かに心理戦という言葉はよく通じていた。

「まあ、この戦いは連合軍の負けね……最初から最後まで董卓軍の手を読み切れなかったのだから」

「ええ……もっとも、麗羽を含め多くの諸侯がそれを認めるかどうかは分からないけどね。実の被害からしても、兵糧の大半を失っただけで二十万もの兵力は顕在な訳だし」

「兵糧の大半を失っただけでも結構な被害だと思うんだけどねぇ……まあいいわ、その辺は。……それで、これからどうする?」

「そうね……」

 そして、その心理戦は――董卓軍と反董卓連合軍の戦いは、反董卓連合軍の敗北で終結することだろう。
 敗北まではいかないにしても、勝利を収めることが出来ず、結局のところは内部からの崩壊で解散になることは目に見えていた。
 決起人である袁紹や、董卓の地位を求める我欲に塗れた諸侯などはそれでも戦うかもしれないが、ここまでした董卓軍のことだ、恐らくはそれに対する手段も用意していることだろう。
 今回の心理戦ほどに大がかりな策は人材的にも時間的にも難しいであろうから、それらに抗することは容易いであろうが、こういった状況になってしまえば、外からではなく内から攻められることも考慮に入れなければならない。
 ともなれば、取るべき手段など自然に限られていた。

「ここで話すことではないから、陣に戻って桂花を交えて話をしましょう……まあ、恐らくは撤退ということになるでしょうけど」

「あー……まあ、そうなるわよね。……うん、よし。そうと決まれば、とりあえずはこの場をどうにかして、さっさと戻るとしましょうか」



 そうして。
 ちょっといいかしら麗羽、と口を開いた張莫の傍で、曹操は顎に手をやる。
 董卓軍の指揮官は恐らく北郷だろう。
 緒戦における囮の役割によって、彼が汜水関にいるであろうことは想像に難くない。
 さらには、神速将軍と謳われる張遼や董卓軍最強の部隊を率いる華雄の旗こそあれど、覚えのない『十』の旗が指揮官と表すが如くそれらの中央で風にたなびいていたことからも、北郷という名が出始めた頃と合わせて考えてみれば彼のものであると容易に想像出来る。

 洛陽で少しばかり顔を合わせたほどであったが、彼だけでこれだけの策を考えたことは無いだろうと思う。
 天の御遣い、天将という呼び名こそあれど、そこまで優秀そうな人物には見えなかったことから、恐らくよほどの智者が手と智恵を貸したのであろう。
 だが、それでもなお北郷がその策の本筋を考えついたのではないか――曹操は自然にそれを理解していた。
 何故だかは分からぬが、そう思うことこそが自然であるとする自らの心理に戸惑いながら、曹操は一度頭を振って、これらか自らが取るべき道のことについて、思考を働かせたのであった。

 
 



[18488] 五十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/05/24 14:22





「……」

 汜水関を放棄した董卓軍の意図を探ろうと反董卓連合軍が軍議を開いている頃。
 彼の地より遠く離れた洛陽の南――黄河からの支流である洛水のほとりに構築された陣内において、一人の兵士が遠く暗闇を見つめていた。

 篝火のみが光源となる暗闇において、それでもなおその僅かばかりの光に煌めいて輝く金の髪は、しかして武骨と言わんばかりに一つに纏められている。
 その身に纏う鎧もまた武骨ながらも、滑らかな曲線が形取られていることから、それを纏う兵士が女の身であるということが分かる。
 少女というよりも女性に近い曲線を描くその身躯と、暗闇の中でさえなお輝くほどに美しい髪だけを見れば、洛陽においても宮中に近い場所で華美な衣服を纏っているのが相応しいほどである。
 だが、女性がこれまた武骨な二本の大斧を支えにしているのであれば、それを見た者は先とは違った印象を抱くことになるだろう。
 女性に背後から近づく人物――徐栄は、それを少しだけ嘆かわしく思っていた。
 育て方を間違えただろうか、と。

「ふうむ……もう少し力を抜いてはどうじゃ、琴音よ? そのように常から気を張っていては、いざという時に動けぬぞ」

「……しかし父上、詠殿と一刀殿の話では、この闇夜こそが一番警戒するべき時間であると――」

「それは儂とて分かっておるわ。今回の話に限らず、気の抜ける夜半から明け方にかけてはもっとも警戒する時間じゃということはな……じゃがな琴音よ、お主のそれは行き過ぎじゃ」

「? ……父上、おっしゃっていることの意味が分かりませぬが?」

「……では聞くが。もしや、そのままずっとそこに立っておるつもりか――戦況が動くまで?」

「ええ……それが武人の役目ですから」

 否、明らかに育て方を間違えたかも知れぬ、と徐栄は頭を抱えそうになるのを何とか堪えながら、徐晃の言葉によって生じた頭痛をどうしようかと悩むこととなった。



 今回、自分と徐晃に下された命は二つ。
汜水関虎牢関を迂回して洛陽を南から攻めんとする軍勢への対処、及びその撃破が一つ目でである。
 北郷によって設立された諜報機関――忍とかいう部隊からの情報によって、反董卓を掲げた諸侯の連合軍は、陳留付近に集結した後に汜水関へと向かったという。
 二十万という数に驚きはしたものの、彼の軍の進む先には堅城堅固と名高い汜水関と虎牢関が聳え立ち、そこには董卓軍の半数以上が籠もるのである。
 如何に二十万の大軍勢とはいえ、容易く落とせるものでもないということを、徐栄は認識していた。

 連合軍が南からの迂回を選択せずに、真っ直ぐに洛陽を目指した。
 その報が忍によって徐栄達の元へ届けられて結構な時間が経つ。
 それだけを見れば、既に徐栄達がこの場にいることは不要であり、ともすれば二十万もの大軍を相手にしている汜水関や虎牢関へと向かった方が良いのではないか、とも思われるが、それでもなおこの場に留まるということが二つ目の命とも言えた。
 
 今回董卓軍が――北郷率いる汜水関防衛のための軍が執る策は、既に徐栄にも徐晃にも説明されている。
 心理戦。
 罠と火計と奇襲によって連合軍内にある対董卓軍という意識を散らして不満と不安を煽り、そこに内通という疑惑を持たせることによって更に混乱させて対董卓軍から意識をずらす。
 なるほど、実にえげつない策だ、と徐栄は思う。

 更には、策が成った後は闇夜に乗じて汜水関を放棄、虎牢関にて連合軍を迎え撃つという。
 それまで優勢であった董卓軍が汜水関を放棄したという意図を連合軍は図りきることが出来ず、あまつさえ、その城門を開け放ってでもいればそれは恐怖と不安という感情に動くことだろう。
 ともすれば、再び罠が待っているのではないか、と思う者も出てくるはずだ。
 そして、必要以上に警戒すれば気持ちの面から疲労が色濃くなり、それは再び内通の疑惑という楔を強くする。
 その策の全容を考えるに、徐栄は背筋が震えるのを感じていた。

「さらには、もし連合軍が汜水関を越え虎牢関へと迫った時は、儂らが南より迂回して再び汜水関を奪取、連合軍を虎牢関と汜水関の狭間に閉じこめる、か……」

「そのことなのですが、父上……私達に預けられている兵は五千にも満たない数です。これだけの数で汜水関を奪取などと、本当に出来ると?」

「まあ、出来んじゃろうな……否、そもそもそれはせんでも良いものだ、と儂は思っておるでな」

「一体どういうことですか?」

「なに、簡単なことよ……連合軍に打ち込んだ楔、それを打つ鎚の役割だということじゃ」

 もし連合軍が虎牢関へと攻めている時に汜水関を塞がれてしまえば、連合軍はたちまちの内に逃げ処を失うこととなる。
 昼夜問わずに駆けて汜水関に籠もる五千にも満たない兵など、総勢二十万もの大軍の前には霞よりも儚いものではあるが、かといって、汜水関へと力を注げば虎牢関からの挟撃に曝されることとなる。
 ならば、軍を二つに分けてとも思われるが、ここで浮き出てくるのが内通の疑惑なのである。
 将にも兵にも浸透させたその疑惑は、きっと連合軍内に不穏をまくことであろう――連合軍を裏切った軍勢によって挟撃されるのではないか、と。
 かといってそれを恐れてしまえば、堅固な関に挟まれた形で連合軍は兵糧攻めを受けることとなり、結局の所は敗北の道しか残されていないのだ。

 南の守備部隊が迂回して汜水関を落とすという命を受けている。
 恐らく、これは連合軍としても予想していることだろう。
 故に、頭の回る将はそのために虎牢関に攻めるを良しとせずに撤退を提案するだろう。
 そして、それらの将が勲功を挙げていたとすれば、未だ勲功を挙げていない将はそれに反対し、虎牢関に攻めるべきであると頑なに主張することだと思う。
 そして、連合軍は自らの行動によって、そこに打ち込まれた楔を更に深くしていくのだ。



「なるほど……今回の行動、その全てに策を成すための意味がある、と……」

「そうじゃ。じゃからこそ、ここにいることにこそ意味はあれど、敵が来ん内から気を張る理由もあるまいて。そもそも、儂らには臨機応変に動くことが求められておるのじゃぞ。今からその様では、それもままならぬだろうて」

「むう……」

 悔しいけどその通りですね、と。
 不承不承とでも言うかのように納得する自らの娘に、何時の間にこんなに頑固になったのか、と徐栄は思う。
 昔はととさまととさまとそりゃあ可愛かったもんだが、と徐栄は過去のことを思うが、やはり華雄に師事させたのは失敗であったか、とも思う。
 まあ、徐晃が武を扱うようになった頃には、未だ張遼も呂布もいなかったのだから、それも仕方のないことなのかもしれないが。
 
 それでもこう、年頃の娘らしく振る舞ってほしいと思うのは儂の勝手かのう。
 実の娘の成長を素直に喜べばいいのか、それとも育て方を――師事させる人物を間違えたのか。 
 過去の小さく可愛らしかった徐晃のことを思い出していた徐栄は、その成長の軌跡を思い浮かべている途中、あることに気付いて口を開いた。

「そういえば琴音や、お主、北郷殿とは何も無いのか?」

「……何も無いとは、どういう意味ですか?」

「どういった意味も何も――」

 そして。
 そこまで口を開いた徐栄はふと気付く――師事したのが華雄ならば、もしや年頃の惚れた腫れたといった感情に疎いのではないか、と。
 北郷とは何も無いのか。
 その質問が意図するところは、当然の如く彼の者に惚れたであるとか惚れられたであるとか――ぶっちゃけ孫が見えるのは何時になるのか、ということである。
 常在戦場を心がけている徐栄からしてみれば、何時その命が絶たれるか分からない今において、娘の幸せが早いに越したことはないのだ。
 もっと言えば、自らも幸せになれるような――ぶっちゃけ孫が見たい、と思っても不思議ではないだろう。

 だが、目の前で首を傾げる娘からはそのような話、一切聞いたことがない。
 それどころか、浮いた話どころか噂さえ聞かぬであれば、娘の幸せが――ぶっちゃけ孫が見えるのは何時になるのか分からないのである。
 贔屓目に見ても、徐晃の目鼻立ちは十分に整っていると言える。
 まあ、これは董卓軍において主要な位置を占める女性陣にも言えることなのだが、親の目から見ても、徐晃の容姿は十分に整っていると言っても過言ではない。
 さらには、女性らしさを備えたその身躯があれば浮いた噂や娘を慕う人物も出てくるのであろうが、如何せん、彼女の武人としての堅い性格がそれを台無しにしていた。

 ううむ、これではいかんな。
 そう思った徐栄は、娘の性格を鑑みて迂回は不可と判断し、真っ直ぐに口を開いた。

「うむ。これだけの策を考えつく北郷殿は、これからの董家にとって必要な人物であると儂は思っておる」

「はあ……それは理解出来ますが……」

「そして、儂は董家にとって稚然に並んでの重鎮。その娘であるお主にも、当然その責は付いて回ることだろう」

「はい……それは重々に承知しております。しかし父上、一体何がおっしゃり――」



「故に、だ。琴音よ……お主、北郷殿を婿に取る気は無いか?」



「――たいの……で…………ッ、なあああああッ?!」

 ななな、と。
 まるで魚の如くに口をぱくぱくとさせる徐晃の意外な反応に、徐栄は中々なるほどとばかりにニヤリと口を歪ませる。
 そのようなことは考えていない、とか、北郷に失礼だ、と返されるかもしれないといった予想に反した徐晃の反応に、実に珍しいものを見たと徐栄は思った。

「な、ななな何てことを言われるのですか父上ッ!? か、一刀殿が、私のむ、む、む……むこ…………あぅ」

「月様の婿殿にとも思ったものだが、まあこればかりは当人同士しか決められぬこと。故に、まあ先にお主にどうかと問うてみたのだが」

「な、なら私だって決めさせてもらっても良いではありませんかッ!?」

「それは別に構わんが……なんじゃ琴音、北郷殿のことは嫌っておるのか?」

「い、いえ……その……嫌っているかと言われれば……」

「言われれば?」

「うぅ……えと……嫌いでは、ありませぬが……」

 耳まで真っ赤に染まった顔を金の髪へと埋めて恥ずかしがる徐晃に、徐栄はこうしておれば実に可愛らしい娘であるものを、と思う。
 いつもの凜とした佇まいと武人としての風格などは微塵もなく鳴りを潜め、そこにいるのは初心な村娘かの如くの可愛らしい娘である――後々に北郷とこのことを話した時、彼はぎゃっぷもえとか何とか言っていたが、好意的な意味と受け取っても間違いはないだろう。
 
「ならば別に問題はあるまい? お主さえ良ければ、此度の戦が終わった折にでも北郷殿に声をかけてみようかと思っておるが」

「は、早すぎでしょう父上ッ。む、む、婿などと言う話、そう簡単に決めるものではないと思いますがッ」

「じゃが早きに越したことはあるまい?」

「そ、それは……そうですが……」

「ならば問題あるまいて。儂もそろそろ良い年じゃ。ぼちぼち孫の顔も見たいしのう」

「ま、孫ッ?! 父上にとってま、孫ということは私にとっては子供であって、私にとっての子供ということは、えと、その…………あぅ」

「……うむ?」

 ううむ楽しみじゃのう、と娘の幸せを――ぶっちゃけ孫を見る楽しみに胸を躍らせようとした徐栄であったが、ふと静かになったと思ってみれば、顔を真っ赤にしてへたり込んでいる徐晃が視界へと入る。
 元はと言えば、徐晃と北郷の間に子が生まれれば、その子は董家の次代を担っていく子として――将となることだろう。
 そうすれば、董家に仕える者としてはこれ以上の奉公は無いであろうし、董卓の父である先代にも顔向けが出来るというものである。
 
 さらには、北郷ならば徐晃を幸せにしてくれるだろう、との期待も込めてはいたが、それも彼女が北郷をどう思っているのかによるとばかりに考えていたのだが。
 いやはや、先ほどの反応を見る限りではどうにも憎からずぐらいには想っているらしかった。
 父として喜ばしいと想いつつも少しばかりのもやもやを胸に抱えながら、考えすぎて逆上せた挙げ句に顔を真っ赤にして目を回している徐晃の顔に、本当に珍しいものを見たとばかりに徐栄は自然と口元を緩めていたのであった。




  
  **
 




「……恐らく、連合軍はここまでだと思います」

 ふうむ、と。
 灯りの炎が揺らめく闇の中、関羽は目の前の人物――諸葛亮の言葉に、腕を組んでいた。

 軍議は失敗に終わった――失敗と言えるかどうかは分からぬが、成功とはとても言い難いものであったことには間違いはない。

 罠、火計、奇襲といった董卓軍による数々の策略を受けた連合軍は、ただ一戦しただけにもかかわらず大きく疲弊していた。
 それでなくても、軍を動かす上で――人が生きていく上で最重要でもある兵糧の大半を焼失させられたのだ。
 兵と兵糧の損耗、士気と意欲の低下、さらには汜水関放棄のみならず連合軍を待ち構えているとでも言わんばかりに開け放たれたその城門。
 その進んだ先に罠が待ち構えているであろうことは先の罠による痛撃から簡単に連想されるものであり、そしてそれは一連の策略をも連想させるものであった。

 当然、好き好んで開け放たれた虎口に飛び込もうとする者はいない。
 だが、董卓軍はその虎口の向こうにいることは明白であり、そういった現状を打破するためには連合軍全体が一丸となって動かなければいけないことは関羽とて承知していた。
 だが。
 董卓軍はそれすらも勘定に入れていたかのように、策略を張り巡らせていた。
 公孫賛に同行する形となった義姉――劉備に従い軍議へと赴いた関羽は、そこでそれを目の当たりにすることとなったのである。
 


「……袁術さんの軍が罠にかかった後、最も戦場の動きを見抜いて動き、築かれていた陣を抜いて最も功を上げた孫策さんの軍……洛陽の富と権力を求めて連合軍に参加しながらも功を上げることの出来なかった諸侯からすれば、これ以上の邪魔者はいないでしょう。そして、董卓さんからしてみても、これ以上の標的はいないと思います」

「む……邪魔者を排斥出来る形だからこそ、董卓軍の策を――内通の疑惑を信じたというのか?」

「あっ、いえ……信じた、というわけではないと思います。ええっと……その、愛沙さんには考えられないかもしれませんが、言い訳、としたかったのではないかと……」

 じりじり、と。
 暗い天幕を少しばかり明るくする灯りに照らされながら、関羽は油が焼ける音を酷く不快に感じながらも思案する。
 言い訳、と諸葛亮は言った。
 現状、連合軍は一度敗れたとはいえ、二十万という兵力は――ある程度は減ったためにおおよそは、であるが未だ健在である。
 兵糧を失ったことは痛手ではあったが、それも早急に虎牢関へと迫り、時間をかけずに攻略することが出来れば洛陽に至るまでにはそれほど不足という訳でもない。
 であるのに、何故言い訳を用意することがあるのか。
 そこまで考えた時、関羽の中で一つの案が浮かび上がる。

「まさか……」

「……そのまさか。愛紗お姉さんの考えた通り、敗戦の言い訳に孫策を使うつもりだと思う。孫策が裏切ったから連合軍は負けたのだ、と。……もしかしたら、裏切り者がいるから、という理由で撤退の口実にするかもだけど」

 ゆらり、と灯りが揺らめいて、関羽の右隣に座る人物――田豫が静かに口を開く。
 いつから呼ばれたか美髪公という名が自らに付いていることは関羽とて聞いたことがあるが、こうして暗い中で田豫のそれと比べてみれば嫌でもその違いに目が引き付けられる。
 自身の髪とて決して悪いと言う訳ではない。
 むしろ、その理由こそ不可解にせよ美髪公という名が付けられるほどなのだから、それも理解出来るものである。
 だが、同じ配色に近い田豫の髪は美しいというよりも、どこか妖しさを感じさせるものであった。
 ゆらりと揺らめく灯りに蠢くがごとく――それこそ、ぬらりとした妖しい輝きを放つ田豫の黒髪は、その下に続く肢体が義妹である張飛が如く未成熟であると知りながらも言い様のない色気を放っているかのようであった。

「くそッ、まだ連合軍は負けてなどおらぬと言うのに……」 

「で、でしゅが、実際の被害はそれほどでなくとも、将兵の士気は著しく低下していますので……この状態で虎牢関を落とすことはかなり困難だと……」

「……下手をすれば汜水関の二の舞になる。後ろを気にして、兵糧を気にして、虎牢関の董卓軍も気にして。そんなことをすれば、今よりも士気が落ちるのは当然のこと」

「士気が落ちれば勝てるものも勝てなくなります。そして、疲弊させて疲弊させて、連合軍が負けを認めて撤退を始めた時を狙い突かれてしまえば……」

 敗北します。
 そう言葉に紡がずに語る諸葛亮の視線に、関羽は胸に溜まる重苦しい空気を吐きだした。
 まるで蜘蛛の糸だ、と関羽は心の内で舌打ちする。
 動けば動くほど雁字搦めに捕らえられていき、身動きの出来なくなった時を見計らって止めを刺す。
 これが一個体であるならば、ただひたすらに逃げるという目的のためだけに動き、いざとなれば蜘蛛の糸に近づかないといった選択も取れたことだろう。
 だが、群体とも呼べる連合軍において、己の私欲や理念、覇道のためにと好き勝手に動いてしまえば、もはや一度かかった蜘蛛の糸から逃れることなど到底予想も出来ないことであった。

 そうして関羽は悩む。
 如何するべきか、如何に動くべきか、と。
 劉備は、軍議が終了した後に張飛を護衛にと付けて将兵の慰労にと動いている。
 時間からすればもうそろそろ帰ってくるころだろうが、そこで今の話をして判断を仰いでみるべきか、とも思う。
 本来であるなばら、当初から劉備を交えてこういった話はするべきなのだろうが、何分あの戦いの後だ、将兵の慰労を先にとする劉備の心情も理解出来ていた。

 仕方あるまい、と関羽は一つ息を吐く。
 劉備が帰ってきた後に、判断を仰ぐ。
 政略、軍略、謀略、そして軍の指揮。
 それぞれ関羽達が担当していると言っても過言ではないそれらであるが、最終的な決定は義姉であり主でもある劉備が行うことである。
 今回のことについても、進めば将兵を危険に晒し、退けば洛陽の民を見捨てることになるのであれば、関羽が勝手に判断を下してよいものでもない。
 
 何より。
 何より、劉備ならばそういったしがらみもなくそのどちらをも守るような考えを出してくれるのではないか、そう関羽は何となしに感じていた。
 劉備が帰ってくるまで待つ。
 そう諸葛亮達に告げた関羽であった――が、そんな思惑は関係ないとばかりに、連合軍は判断を強いられることとなる。



 孫策、帰還のために行動す。


 
 その報が関羽の耳へ飛び込んできたのは、夜も白け始めようかという頃、眠たげな劉備を迎えて先の話をしようとした、その矢先であった。








[18488] 五十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/07/01 14:28



 
「こちらが北郷様のお部屋となります」

「ああ……ありがとう」

 虎牢関にて通された部屋は、関という性質上仕方のないことではあるが、酷く簡素で質素なものであった。
 それでもなお武骨、という印象を抱くのは、虎牢関が築いてきた年月の成せる業なのか。
 汜水関から駆けに駆けたゆえの疲労した身体と頭脳にがそんなふうに動くのに大した反応を返すこともなく、俺は部屋の備え付けである寝台へと腰を落ち着けさせた。



 結論から言えば、汜水関から虎牢関へと渡る際、連合軍からの追撃は終ぞ無かった。
 罠があるとしながらも勢いに駆られた連合軍が来るやも、と危険視して斥候を放ち、連合軍内に未だ潜む忍からの報告を待ちはしたが、結局の所は心配のし過ぎであったらしい。
 もっとも、それは単なる結果であって、もし別の結果のことを考慮に入れていればし過ぎたという訳でもないのだろうが。

 夜も暮れて月が中空に差し迫ろうかという頃に汜水関を脱した俺達は、駆けに駆けて翌日の日が暮れようかという頃に虎牢関へと辿り着いたのである。
 数万もの兵が全て一同に、という訳にはもちろんいくはずもなく、今なお続々と虎牢関に入城している兵達に先んじて俺は今ここにいる訳なのだが。
 虎牢関で待機していた李粛が率先してそれらの兵の指揮をしてくれていることに感謝しつつ、俺は一つ息を吐いた。

「とりあえずは、これで無事に一息付けたってことか……」

 連合軍の前に五千の小勢で立ちふさがり、追撃する連合軍を罠に嵌め、討たれそうであった華雄を救い、関羽に斬られそうになり――そして、その集大成として二十万もの連合軍を混乱の渦中に叩き込んだ挙げ句、数万にも及ぶ兵を特に大きな損害も無く虎牢関へと連れてくることが出来た。
 汜水関を放棄したことは損害と呼べるもかもしれないが、それだって策の一つであって、損害と呼ぶべきかどうかは分からぬものではあるのだが。
 まあ、とりあえず無事であるのならそれを喜ぶべきであろう。
 何より。
 今の俺はそんなことまで考えている余裕など無い。

「はは、やばいな……いまさら震えてきた……」

 ぷるぷる、と。
 軽く痺れたかのような感覚を腕に抱いて視線を移せば、そこには意図した訳でもなく震える腕があって。
 それを抑えようと手にどれだけの力を込めてみても、返ってくるのは虚しい震えだけで、一向に堅く閉じられない自らの拳を、これも力の入りきらない片方の手でどうにか押さえつけようとしていた。

「くそっ……落ち着け、落ち着けよ……」

 致し方のないことか、と自嘲する。
 これまで、董卓軍が有していた兵力はどれだけ多くても一万程度であった。
 これには予備兵力等も含まれているのだが、それでも一人の将が率いる兵数はその内の千前後であろう。
 以前、華雄から話を聞いたことがある。
 千の兵を預かるということは、それだけの命を預かることであり、そしてその家族や兵に想いをかける者達をも預かることだということを。
 だからこそ私は自他共に厳しくとも共に生き残れるようと武の頂きを目指すのだ、と。

 なるほど、実に華雄らしい実直な言葉だと思う。
 だが、俺がそれを言おうとしてもそうはいかない。
 そもそも、元の世界では当然のこととして、董卓軍が洛陽に至るまでの間でも俺は人を率いるとしたことなど一度もない。
 いや、馬岱と庖徳と共に扇動した黄巾賊の先頭に立ったことはあるし、下に就く予定だった部隊を作られもした。
 だが、それらは結局の所は率いたとは到底言えぬものばかりであったし、その時その時の状況に応じて仕方なく、といった感じが強いものであった。
 そもそも、兵に指示を飛ばしていた時があったとしても、それは董卓や賈駆からの指示をそのまま伝えただけであったり、それに準じただけであったりしたのだ。
 生き残ろうとすることに一杯一杯であった時の俺からすれば、その主張はさも当然のことであると思っていただろう。

 だが。
 汜水関においての攻防では――否、そこに至る罠に誘い込む段階からにおいては、まさしく俺が率いたと言っても過言ではない。
 董卓と賈駆からそういう指示が下されていたことは事実だが、今この場に彼女達はおらず、まさしく指示の通りに俺が戦場を構築するという状況であったのだが。
 だがそれは、俺がこの場における――洛陽防衛ともいえる今作戦においての最高責任者とも呼べる者で、そして、そんな俺を守るために動き、命を散らしていく兵達もいるということで。
 あの戦場の最中で董卓と賈駆を守った時から――自らの手を血で濡らした時から人の命を奪うことを覚悟してきたが、だからと言って、慣れるどころかそれを当然のように受け取ることが出来る筈も無かった。

「……何人、死んだんだ?」

 ぽつり、と呟かれた俺の言葉に答える者はいない。
 董卓軍において、戦死者は決して少なくない。
 ほぼ一方的に連合軍を翻弄し後退にまで追い込んだものの、その兵力差自体は圧倒的なままであり、そういった状況下の中で結果を出そうとしたのだから、大なり小なりの被害は予元々測出来ていた筈である。
 だけど。

「そんなの……慣れる訳、ないじゃないか……」

 俺が立てた策で人が動き、そして命を散らす。
 俺が指揮をとった動きで、人が人の命を散らす。

 董卓軍のみならず、連合軍においても多数の死傷者が出たことは忍の報告から既に認知している。
 それらの命もまた、俺が――俺のせいで散っていったと言っても間違いではないだろう。
 華雄の言い方を借りれば、幾人幾千幾万もの命が、俺の行動の結果として――。
 そこまでを思考に浮かべた俺は、襲い来る嘔吐感を誤魔化すために弱々しく口を開いた。

「くそ……くそ……」

 黄巾賊と戦っていた時とも、ただひたすらに生き残ろうとした時とも違う、人を率いその命を背負うことからくる重圧。
 自らの一挙一動で命が散っていくのだと、今更ながらに気づいた現実が、意味もなく俺を不安にさせる。
 目頭が熱い、胸の奥が熱い、喉の奥が熱い。
 ともすれば、口を開けて声高に弱音を吐ければどれだけ良いことだろう。
 ともすれば、泣き叫んで後悔と重圧の赴くままに胃の中のものを吐き出せればどれだけ楽になることだろう。
 だが、連合軍が再び迫ろうかという今において、そんなことを許してくれるような状況でもなく。 
 数度扉を打つ音に続く趙雲の声に、俺はすぐさまに気を取り直してその報を聞いた。



「一刀殿、軍議の時間だ。どうやら諜報部隊からの報告が来たらしい」 
 


 

  **





「……良かったのですか、姉様?」

「んー……まあ、別に良いんじゃない? あのまま残ってても、面倒なことには変わりなかったでしょうしねー」

 多くのざわめきと、それらを成す人が大地を踏み固める音の最中において、それでもなお確かに聞こえる馬の足音を耳に馴染ませながら、孫権は姉であり孫呉の王でもある孫策へと問いかける。
 何が。
 その内容こそ口には出さなかったものの、それは孫策にも通じていたのか、それでもなお会話は転がっていく。
 といっても、現状において会話に上がる内容と言えば、多くの場合は決まっていると言っても過言では無い。
 何より、自分達孫呉の軍勢は反董卓連合軍から抜けて揚州へと帰還中なのである。
 会話の内容など、それ以外には有り得なかった。



 連合軍を翻弄し、汜水関を放棄して誘い込まんとする董卓軍に対する軍議に出かけていた孫策と周喩は、陣へ返ってきた直後、開口一番に揚州への帰還を孫呉の将兵らに告げた。
 曰く、陣を抜き董卓軍を追い詰める功名を挙げた以上、私欲のために権力を求めんとする連合軍にこれ以上加担することは不要、と。
 そうして、孫策と共に返ってきた周喩がそれに同調を示したことによって、その動きは瞬く間にと纏められていったのだ。

「それともなあに? 蓮華はあのまま連合軍に残って、誰のものとも分からない私欲のために大変な思いをしたかったとでも言うの?」

「そういう訳ではありませんが……連合軍の足並みを乱すようなことをして、これを機として董卓軍が攻めてくるのではありませんか? もしそうなれば、足並み以前に体勢の整っていない連合軍のみならず、帰還の準備を進めているこちらまでが巻き込まれるのではないか、と危惧しているのです」

「まあその危険性は有り得るわねー。まだそれほど戟を交えた訳ではないけれど、董卓軍は機を逃さないことに長けている。となれば、蓮華が危惧することも分かるんだけどー――」

「――そこから先は私達がお話しましょう、蓮華様」

 だからこそ――あまりにも迅速に過ぎる孫策と周喩の判断に、孫権は疑問を抱いていた。
 確かに、孫策から聞いた話の限りで言えばあのまま連合軍に陣を設けていることは危険と言えただろう。
 その場にいなかった孫権が軍議がどのように荒れたのかなどを想像するには孫策から聞いた話で推測するしかないが、それでも表立たないにせよ、自分達孫呉の軍勢を見る他の連合軍の視線は気になっていたところであるからだ。
 こうして孫策から詳しい話を聞いた今ならば、それらも納得出来る。
 
 故の、疑問。
 身内の贔屓目、ということを否定するわけではないが、姉であり孫呉の王である孫策とその軍師であり親友でもある周喩、その二人の能力は孫権が知る中でも最高に近い――むしろ、彼女達こそが孫権が目指す理想のようなものなのだ。
 そして、そんな二人を近くで見てきた孫権だからこそ、ふと思うことがあった。
 常の彼女達ならばこういった手を――どれだけ連合軍が混乱していたにせよ、無理矢理にでも追撃すれば董卓軍の首を取ることが出来たかもしれない好機を放っておくだろうか、と。
 
 そんな孫権の思考を読んでか、それとも妹にも等しい人物の成長を喜んでか、孫策と共に軍議へと赴いていた人物――周喩が、口を開いた。

「恐らくではありますが、董卓軍の狙いは連合軍がこうなることであったと思われます」

「……連合軍の足並みを乱し、ばらばらにさせることが目的であったと?」

「というよりはー、戦力の低下を狙ってたのではないかー……と思いますー」

 周喩の弟子でもある穏――陸遜の言葉に、孫権はふむと手を顎に当ててその意味を考える。
 今回の反董卓連合軍において、孫呉は董卓軍に嵌められたと言っていい。
 火計と奇襲によって混乱し疲弊していた連合軍の諸侯達は、董卓軍による偽の内通文書によって孫呉を裏切り者と罵ることとなり、そこからの報復なりを恐れた孫策は連合軍からの脱退――撤退を決定した。
 ここまではいい。
 ここまでのことは孫策に既に聞いたことであるし、孫権にしても、それだけ聞いていればいやでもその時の情景が思い浮かぶ。
 まあ、ぷちりと怒り狂おいそうになる孫呉の王を必死に止めるその軍師をも想像出来たのは如何ではあるが。

 孫呉の軍勢が撤退することになって、客将という名であるが事実上配下としている袁術は、意外にもそれを勧めたらしい。
 配下が勝手に撤退した、と普通に考えれば泥を被せられるとも取れる行動ではあったのだが、それを喜ぶとなると、袁術は普通ではないのかもしれない。
 もっとも、孫呉が討てなかった董卓軍を討つことが出来ればこちらに対して優位が取れる、という簡潔な考えあってのことであろうが。

 そこまで考えて、孫権はふと思考をそれまでのことから外す。
 ここまで考えてみて、自分達孫呉の動きから連合軍の戦力を低下させる事柄は見当たらない。
 孫呉の軍勢が撤退する、という事実こそ戦力の低下と言えないことはないが、それだけでは弱い――そう考えた孫権は、一つの事実を思い出す。

「なるほど……張莫達か」

「ご明察ですー」

「さすがです」

 手を打った衝撃でぷるんと揺れる陸遜の胸に女としての何かしらを感じながら、同じように自身を誉める周喩に孫権は人知れずほっとする。
 孫呉の軍勢が撤退することにおいて、何も孫策だけが撤退を決定した訳ではない。
 孫策が撤退を決定した軍議において、追随というほどでないにしろ、そういった動きがあったのだ。
 兵糧が燃やされてなお前に進み董卓軍を討つべきだと主張した袁紹袁術の派と、兵糧の焼失と士気意欲の低下における一時撤退及び補給路の確保を主張した張莫陶謙の派とが反目しあったのである。

 徐州牧陶謙はもとより、陳留太守である張莫もまた名君として民に慕われていると孫権は聞いている。
 実際に陶謙にも張莫にも会ったことは無いため、彼の人物達がどういった人となりなのかは噂に聞く程度にしか知らないものではあるが、そういった判断を踏まえてみれば、なるほど、噂に違わぬ人物らしい。
 そこまで噂に違わぬのでは、董卓軍の目的を――名が知れた実力派たる自分達と袁紹袁術達とを不和にさせる、ということにも思い至っている筈であるのだが。
 それを知っていてもなお乗らなければならない誘いがあるものだ、と孫権は後に周喩から聞くことになる。
 
「さすがは名門と謳われる袁家でしょうねー。陶謙さんや張莫さん達が退くべきだー、って言ったことに賛同した人達を除いたとしても、袁紹さん達に従う兵力は未だ十万を超えるでしょうからー」

「だが、それは烏合の衆と呼んでも間違いではない兵力だろう? 自己満足に浸るつもりは無いが、我々始め、多くの名の知れた諸侯がこれ以上の戦闘に疑問を呈して撤退を始めようというのだ。それにひきかえ、袁紹袁術達に付いて董卓軍との戦闘を継続しようとする諸侯達は、多くがそこに付属する権力と欲を求めてのもので、連携などという言葉とは遠い。相対する董卓軍からすれば、これ以上の状況はないだろう」

「そして恐らくではありますが、董卓軍からすれば偽の内通のままに我々が連合軍の後方を襲ってくれれば、と思っている節もあるでしょう。緒戦において、董卓軍は我々のことを逆賊だと宣言しましたから、連合軍に従わずにこちらの思惑に乗ればそれを許そう……そう言外に示しているものと思われます」

「まっ、あえてそこには乗らないんだけどねー」

 だって悔しいじゃない、なんてむくれる姉の姿に頭を痛める孫権ではあるが、しかしてその判断に間違いは無いと自身でも思う。
 確かに、董卓の思惑に乗ることが出来れば、洛陽を望まんとするこの地において袁紹袁術達を――独立のために袁術を討つことは、難しいことではあるものの可能だと思う。
 だが、それは董卓に貸しを作るものでもある。
 漢王朝を擁する董卓ではあるものの、董卓自身は漢王朝において一人の臣である。
 漢王朝に貸しを作るのであればまだ許容出来そうなものではあるが、いくらそれを擁するとはいえ、ただの臣に貸しを作るのであればどのようなことを言われるかたまったものではないのだ。
 下手をすれば袁術と董卓が変わるだけの可能性も有り得るのだから、無言の誘いに安易に乗ることは出来ないのである。

「……あなたの場合、悔しいというのが一番の本音のような気がするわね」

「あっ、分かる?」

「……姉様、そこは素直に認めるところではないでしょう」

「えー、だって蓮華も悔しいと思わない? ここまでいいようにされたのに、これ以上向こうの思うままに動くのって」

「まあ……確かに、姉様の言うことも一理ありますが……。それでも、そこは孫呉の王として――」

「――あー、はいはい、分かったわよ、もー。蓮華は色々と考えすぎなのよ、ほら、もう少し肩の力を抜いて抜いてー」

 ひらり、と自分の小言を避けながら飄々とした態度を崩さない姉に、孫権は知らぬ間に溜息をつく。
 孫策は姉であり、孫呉の王であり、そして尊敬し敬愛する人物である。
 その武力もさることながら、常に飄々として難しいことを考えてなどいないと思わせる態度とは裏腹に、深く広く物事を捉えるその能力は、形はどうであれ優秀であると認めざるを得ない。
 孫策には子がいない――というか、男性の影すらないない現状において、次代の王は妹である自分ということになる。
 無論、孫策に子が出来たのであればその限りでは無いであろうし、さらに妹の孫向香が跡を継ぐことだって有り得るのだが。
 自分の王とする才も能力も姉である孫策に敵わないとこうして目の前に披露されてしまえば、どうしても溜息をつくことを止められなかった。
 
 重圧、と言えばそれまでだろう。
 だが、それに似て非なる、そして更に重たいものを背負う立場となれば、それも致し方のないことだと無自覚ながらに思っていた。
 姉を超えなければならない。
 姉の跡を継いで孫呉の将兵と民を導かなければならない。
 これから待ち受けるであろう想像だにできぬほどの重圧を覚えて、孫権は人知れず溜息をついた。

 もっとも、この後において吐かれる溜息は、そういったものとは無縁のものであるが。
 むしろ、本当に何を考えているのかこの姉は、と、何を言っているのかこの姉は、というものであることは否定のしようが無かったのである。
 そもそも、何故連合軍と董卓軍の動きを話していたにも関わらずにこのような話題が出てくるのか。
 


「さーてと、それじゃあお喋りはこれぐらいにしておいて……穏は祭と合流して一足先に帰ってて頂戴。私と冥琳は少し洛陽で意趣返しを――じゃなくて、戦勝祝いにでも行ってくるから。あっ、蓮華も一緒に来る? 未来の旦那に顔通しておくぐらいは必要でしょうし」 
   


 孫策が告げた一言――未来の旦那、という一言に驚愕に目を丸くしたまま、孫権はそのようなことを考えていた。





  **

 



「……状況は?」

 何故かしらゾクリ、とまだ見ぬ何かしらに背筋を振るわせつつ、俺は机の上に広げられた地図から視線を外すことなく口を開く。
 夕闇に染まりつつある外に負けぬようにと、灯りが揺らめいた。

「簡単に言うのなら、こっちの思惑通り連合軍内において不和が生じたのです。袁紹袁術を筆頭として洛陽をなお目指さんとする者達と、これ以上こちらと戦うを良しとせずに一度退くとした者達。楊奉殿の報告によれば、大体半分程度とのことなのです」

「もっとも、半分とは言っても袁紹達の――ここを目指そうとする奴らの方が幾分か多い、ってところかねえ。まあ、優に十万は超えてると思えばいいと思うよ」

「それでも十万か……もう少し減ると思ったんだけどな」

「袁家の名を出してそれだけの数しか残らなかったのなら、僥倖であるのですぞ。これ以上高望みしても無駄なのです」

 汜水関に次ぐ要衝、虎牢関。
 反董卓連合軍が洛陽を目指すにあって、次なる目標であると予測される関の守将呂布の軍師、陳宮の言葉を忍の首領、楊奉が捕捉していく。
 とは言っても、それらを簡潔にすれば連合軍の兵力が半分の十万程度になった、ということであるのだが、陳宮の言葉を聞くにどうやらそれでも少なすぎるらしい。
 俺の中での袁家と言えば、名門名家、というぐらいでしかないのだが、陳宮が言うのであればそれほどのもの、ということなのだろう。
 なるほど、と頷いてみれば、郭嘉が口を開いた。

「まあ、袁家がどうであろうと、ここ虎牢関を目指して進軍してくる兵が十万いることに変わりはありません。いくら数が減ろうとも、向こうはこちらの二倍近く。如何様にしてこれに向かうか、それを決めませんか?」

「む? 二倍程度ならば引きつけておいて打って出れば良いのではないか、郭嘉よ?」

「……ちなみに、打って出て、何かしらの策があるのですか、華雄殿?」

「うむ。相手がこちらの二倍と言うのなら、一人が二人を討てば良い。なに、我等が兵は
精鋭揃い、有象無象の連合軍など物の数では――」

「――さてさて、お兄さんは何か策があるのですかー?」

「そうだなあ……二倍ぐらいなら、守りを固めて籠城でもいいと思うけど。向こうは兵糧も減ってるし、不和の関係もあって士気も落ちてるだろうし……こっちが何かを仕掛ける、みたいな動きを見せてやれば混乱するかもしれないしな」

「ふーん……なんや一刀、ちゃんと大将みたいなことしとんのやな」

「まあ、一応防衛の大将になってるしね。そこらへんは、まあさすがにちゃんとするさ」

「お、おいっ、話を遮――モガモガッ!?」

「さて……華雄殿は向こうで私と一杯――おや、酒が無い? ならばメンマでも如何ですかな?」

 モガモガ何事かを言いながら趙雲に引きずられていく華雄から視線を外しつつ、張遼の軽口を肩を竦めながら流した俺は、再び地図へと視線を走らせる。
 郭嘉と程昱が何も言わないということは、恐らくは俺が先ほど述べたような策――と呼べるかどうか疑問であるが――で良いのだろう。
 ここで彼女達が口を挟んで策の変更でもあれば、俺としても心情的に幾分か軽くすることが出来るのだが、いやはや、どうやら彼女達はそういった俺の弱音を許してはくれないらしい。
 静かに視線を送ってくる郭嘉と、にゅふふと笑う程昱に腹の底に重圧が落ちていくのを感じつつ、俺は口を開く。

「……なら、ここを目指す連合軍には守りを固める、という形で対しよう。恋とねねは兵の指揮を頼む、打って出られるようならその機は任せるから」

「……ん」

「分かったのです。恋殿とその軍師であるこのねねに任せるが良いのですぞ!」

「ん、頼む。それと、霞は奇襲部隊としていた騎馬隊を率いて、洛陽に一旦戻ってくれ」

「そりゃええけど、うちもここにおって戦った方がええんとちゃう? っていうか、戦いたいんやけど」

 地図に指を這わせながら、呂布と陳宮に指示を出した俺は、続いて張遼にも指示を下す。
 だが、騎馬隊を率いて洛陽に戻れ、という指示に張遼が従うなどとは俺とて元々思っていない――まあ、素直に従ってくれたほうが楽であったことは確かだが。
 そんな不満を零す張遼であったが、洛陽まで這わせた俺の指が下へ――南へ降っていくのを確認すると、合点がいったとばかりにニヤリと笑った。

「なるほどなあ……徐栄と琴音んところ行け、ちゅうわけか」

「まあね。いくら連合軍から抜けたとは言っても、洛陽を目指す軍勢がいないとは限らないから。関を巡っての攻防じゃあ騎馬の優位性は活かせないけど、徐栄殿達が守るあそこなら十分に活かせるからね」

 張遼が率いた騎馬五千、趙雲が率いた騎馬五千、総勢一万。
 連合軍内を突っ切る際に大小の犠牲が出たためにその通りの数にはならないであろうが、それだけの数を虎牢関の中で燻らせておくにはそれなりに惜しい。
 無論、虎牢関に駐留させておけばいざ追撃という時に遺憾なく騎馬の優位を発揮出来ることであろうが、そのような状況が実際に起きるかどうかは戦場において確約出来る限りではなかった。
 
 それに、連合軍から脱退した軍勢の行方も気になるところである。
 楊奉からの報告書を読む限りでは、殆どの諸侯が自らの領地へと引き上げたとあるが、幾分かの軍勢は陳留付近で留まっている、とある。
 陳留の街か領地からの補給を待って再び進軍する気かどうかは分からぬが、その軍がここ虎牢関を目指すのならまだしも、洛陽を南から狙おうとすればそれは十分に危機である。
 なおかつ、汜水関虎牢関方面に連合軍を引きつけるという今回の策の性質上、精鋭と呼べる兵は出来る限りこちらに集める必要があって、南を守る兵の質はそれほど良くはない――というか、ほぼ新兵ばかりである。
 今この時にも陣内において出来うる限りの調練が行われていることだろうが、それでも、どうにか戦で使える新兵を集めた五千程度の兵では、諸侯の軍勢を相手取るにはまだ早いだろう。
 それどころか、相手になるかどうかも怪しいものである。

 故に張遼に騎馬隊を率いてもらう。
 特に神速将軍と名高い張遼なら、と説明する俺に負けて、かなわんわ、と言わんばかりに張遼は両手を挙げた。

「しゃーない、北郷大将の命令や。従わな、何を言われるか分からんからな」

「うっ……その、ごめん。色々と無理を言って……」

「別に謝ることやあらへんよ。特に無理ちゅうわけでも無いやろし、何よりうちが一番適任思てくれたんやろ? そんな期待されたら頑張るしかないわな」

 任せときや、と笑う張遼に頼もしさと感謝を覚えつつ、俺はさて、と腕を組む。
 これでここと南は大した問題は無いだろう。
 兵力差こそ小さな問題ではあるが、兵糧も無く、士気も無い連合軍において言えば、それがどれほどの不利となることか。
 守りを固めて先の混乱を思い出させてやれば、遠くない内に連合軍を敗退せしめることが出来ることだろう。



 そも、もはや烏合の衆と成り果てた連合軍は大きな敵では無い。
 楊奉の報告書にある連合軍から脱退した諸侯――孫策や曹操、その盟友である張莫から陶謙などが。
 そして烏合の衆と成り果ててなお洛陽を救わんとそれに続く諸侯――劉備や公孫賛などが。
 これから後、強大な敵として目の前に現れるだろう者達の名を目にして、俺は今更ながらに背筋をぶるりと震わせつつも、虎牢関を目指して進む連合軍にどうして対するべきか、と思い悩んでいた。

 






[18488] 五十五話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 09:48




「では、改めまして。ようこそお出で下さいました、連合軍諸侯の方々よ。俺は北郷一刀、汜水関と虎牢関防衛の指揮を任されています」

 およそこれから戦場になるであろう地には相応しくない円卓に腰を落ち着かせながら、俺は卓上にて拳を組み合わせたままに視線を飛ばす。
 手を自らの前で組むのは拒絶の現れ、なんて何かしらで聞いたことがある気もするが、個人的にいえばそれが一番落ち着ける体勢なのではないか、と思う。
 何より手持ち無沙汰にならないのがいいよね、と特に関係のないことを考えていた俺の耳に、凛として、そしてどこか――というかどう聞いても自分が偉いのだと隠そうとしない声が聞こえてきた。

「お出迎えご苦労ですわ、ほ…えっと、ほ、ほん…?」

「……姫様、北郷一刀です」

「そう、それですわっ! よく出迎えました、北郷とやら。わたくしは連合軍総大将、総・大・将にして名門袁家の棟梁である袁紹、字は本初ですわ!」

 俺のいた世界において――実物を見たことがある訳でもないが――あからさまにお嬢様であると強調するかのような長い金髪をくるくると縦に巻いた少女が、それはもう潔いといった形で胸を張りながら口を開く。
 鎧に覆われてその実物は想像の中でしかないが、豊かな曲線に形取られた鎧から想像される豊満な肉体を恥じることも惜しむこともなく前に出す彼女――袁紹の姿勢に、何となくだが彼女の性格を見た気がした。
 
 その両隣に立つ大人しめな黒髪の少女が顔良、活発そうな水色の髪の少女が文醜と名乗れば、袁紹を筆頭としたその三人は卓へと落ち着いた。

 顔良と文醜といえば、袁紹陣営の中でも軍師である田豊に次いで実力を持つ二人である。
 博学多才、そう田豊が呼ばれているのは忍の諜報網を伝って届いているが、彼――この世界の名の知れた人物には珍しく男性らしい――が袁紹と共に可愛がっているのがこの二人であるらしい。
 何より、袁紹自身も幼い頃から一緒の二人とあっては、その信は田豊に負けずとも劣らず、といった具合らしいのだが。
 それでも、智に優れた田豊がいるにしても、袁紹含めた三人が智に優れているという話は聞いたことが無い。
 将兵としては優れているらしいが、智に優れていないのであれば特に気にする事でもないか。
 考えることを苦手としていればそれだけこっちとしても思惑を進められるしな、と俺は知られることなく笑む。



 まあ、田豊がこの場にいないのはこっちとしても助かるけど、一応油断はしないでおこう、報告だけで判断するわけにはいかないしな。
 なんてことを考えながら、俺は袁紹より視線をずらして四人の少女――劉備と他の少女たちを見やる。
 忍からの報告で再編連合軍に参加したままだということは知っていたが、まさかこの局面で出てくるとは思わなかったというのが本音である――それと同時に、出てきてくれればと思っていたのも本音だ。
 そんな本音を出すこともなく視線を動かして、劉備の隣に立つ赤髪の少女を見やる。
 大きな装飾もない鎧の胸部は緩やかな曲線を描いており、その下にてひらめく腰布を見れば彼女が女性であることは間違い無いだろう。
 ポニーテールのように上げた髪からはきめ細かな肌が覗き、その落ち着いて雰囲気とは別に少女らしさを見せていた。
 その容姿もそれに違わず……えっと、その容姿も……その、ふ、普通……いやいや、普通より可愛らしいと言える……と思う。

「……おい。今なんか失礼なこと考えただろ?」

「……い、いえいえ、そのようなことは決して」

 だと言うのに。
 心中だけで零した言葉に反応するかのようなその少女の唐突でいて的を得た言葉に、俺は内心ドキリとする。
 むしろ、その驚愕を隠すことが出来ずにビクリと体が跳ねれば、冷や汗ものであるのだが。
 そんな俺を一瞥した赤髪の少女は、一つため息をついた。

「まあ、別にいいか。私の名は公孫賛、字は伯珪だ。北郷ということは……お前が天の御遣いということか?」

「ははっ。白馬長史殿にまで名を知られているとあれば、悪い気はしませんね」

「私も、董卓の下に落ちし天からの御遣い殿に渾名を知られていれば悪い気はしないな」

 互いにニヤリ、と。
 その人の実績や偉業を褒め称えるという渾名の本来の意味とは全く違うのではないかと思われる挑発とも取れる言葉に、俺と公孫賛は瞳を逸らさぬままに口端を上げる。
 先ほどの袁紹のような強烈な個性は無いものの、真面目というか至って普通そうな公孫賛がそのような挑発に乗るとは思ってもいなかったのだが、よくよく考えてみれば彼女も諸侯の一人にして幽州を治めている一人である、その普通そうな外見に反して負けん気は強いのかもしれないとふと思った。

「は、はは……あまり普通普通って連呼しないでくれると嬉しいんだけどな」

「……えッ?! 俺、声に出してましたか!?」

「そりゃもう……ばっちりと……は、はは」

 ……それと同時に少し打たれ弱い――というか、普通という言葉に弱いのか。
 その、随分と普通ぽい外見やら性格やら人となりを気にしているみたいで、乾いた笑い声が何となく怖い。
 どことなく瞳も虚ろで、その落ち込んだ雰囲気も合わされば軽くホラーである。

 ひくり、と軽く頬が引きつるのを覚えつつ、俺は公孫賛から視線を外してその隣――劉備と残りの二人へと視線を向けた。


 
「お久しぶりです、劉備殿――といっても、汜水関以来ですからほんの少しの時間しか経っていませんけど。それと……二人の方々も汜水関でお会いしていた、でよろしかったでしょうか?」

「……はい、天の御遣い様の――いえ、北郷さんの言い分で間違いないです。申し遅れました、私の名は諸葛亮、字は孔明と申しましゅっ……申します」

 あ、噛んだ。
 はぶにゅ、とか、がぶしゅ、とか聞こえてきたような気がしないでもないのだが、少し涙目ながらも言葉を続ける少女――諸葛亮にそれを突っ込むのも野暮な気がする。
 というか、この諸葛亮という少女、どうにも知り合いに似ている気がするのだが、はてさて誰であったか。
 背の低い少女でよく噛む、そこに当てはまる人物を思い探って、ふとそういえば姜維に似ているのか、と思い至る。
  
 確か元の世界において諸葛亮と姜維は師と弟子の関係のようであったと記憶しているが、まさかこんなところまで――少女という点と噛み癖まで似ているのか。
 そう頭を悩ませようとした俺の耳に、諸葛亮の隣に佇む少女からさらなる声が飛び込んでくる。

「……田豫、字は国譲。……」

「……?」

 静かであっても凛とよく届く声。
 知らずと耳に残る不思議な声色の少女――田豫は、しかしてその声と雰囲気とはかけ離れた視線をこちらへと向けていた。
 こちらを見据えるように、そして俺という人物を図るかのように向けられた視線を受け止めるも、それに気づいた田豫はすぐさまに顔をそむける。
 その彼女の意図を得ることが出来ずに首をかしげるが、それで答えが出るほど甘い人物であるのなら、俺という人となりを知る劉備に付いてこのような場所になどいないだろう。
 
 田豫が何を考えているのかを知ることが出来ればこの先においても優位に立てるだろうが、あいにく、状況はそれほど緩くない。
 俺の視線の先には、席についた袁紹とその配下である文醜と顔良の二人、そして公孫賛と劉備、劉備の配下である諸葛亮と田豫である。
 ということは、待機している軍勢の中には袁紹と再編された連合軍の指揮権を争った袁術がいるままだ。
 袁紹と共に秀逸という噂は聞いたことがないが、その噂もどれだけの信憑性があることやら。
 自分への評価を過剰にするわけではないが、突如として軍勢を動かした後に俺を確保し、天の御遣いという人質を利用して、董卓軍に降伏を求めないとも限らない――まあ、それも狙いの一つであったりするのだが。
 
 そんなことを顔に出すでもなく、虎牢関にて待機する郭嘉や程昱らとの打ち合わせ通りに、俺は出来うる限りの作り笑いを顔に張り付かせて口を開いた。



「では、各々方も席につかれたようなので本題にと参りましょう。降伏も撤退もいりません、ただ和議を結んで欲しい、それだけです」





  **
 




「……ふう」

 遥か前方――虎牢関城壁の上から見れば眼下にもなるその地において、さらに向こうに待機する軍勢から歩み出た数人が席に着いたのを確認してから、郭嘉は息を一つ吐いた。
 怪しむ雰囲気のままの数人に対し、先に席に着く白き衣をまとった人物のなんと落ち着きようか。
 もっとも、その本人の心中はどれだけの緊張に占められているだろうか、と郭嘉は知れず口元を緩める。

「出来うる限りに両軍の被害を抑える……中々面白いことを仰る御仁だな、稟よ?」

「智策と謀略を考える軍師からしてみれば、あれだけ扱いづらい上司もいないと思いますけどね。むしろ、我々よりも副官として共に戦場をかけたそちらの方がその想いも強いのではないですか、星殿?」

「はっはっはっ、確かに違いない」

 そんな郭嘉の隣に、カツンと一度槍を鳴らした趙雲が並ぶ。
 ふわりと仄かに香る酒類の匂いに、彼女が先ほどまで呑んでいたことが窺い知れる。
 その横顔を見る限りでは大した量でもなく、また酔っているわけでもないことが見て取れるが、それにしてもこのような状況でと郭嘉はじろりとした視線を趙雲に向ける。
 そんな郭嘉の視線を気にすることもなく趙雲は口を開いた。

「……さて、稟よ。一刀殿の案、どのように進むと思う?」

「……そうですね、ほぼ間違いなく予定通りに。ここに至るまでの汜水関においての策でも思いましたが、北郷殿は軍師の才があるのかもしれませんね」

「ふむ……私から見れば、近頃の上達具合から武官の才もあると思っていたのだが……なるほど、お主がそう言うのであれば中々面白いことになるのやもしれぬな」

「さて、それは北郷殿の努力次第というところですが……ひとまずは、あの場を生きて帰れるかによるでしょうね」

 そうして動かされる趙雲の視線に、郭嘉は同じように視線を動かして呟く――まったく、と。

 

 北郷一刀があの地――再編された連合軍から見ていくつかの陣を抜けて虎牢関を仰ごうかという地において、意味有り気に用意された卓で一人連合軍を待っていたのは、簡潔に言えば和議を結ぶためである。
 和議という言葉を借りるとはいえ、反董卓という名目を掲げた連合軍に対して董卓軍からそれを勧めるというのは、傍から見れば降伏以外の何物にも見えないであろう。
 事実、北郷と共に虎牢関へと入城した直後に行われた軍議において――郭嘉自身はそこに至るまでに彼と共に歩いた廊下で先んじて聞いてはいたが――華雄や元々虎牢関防衛の任を受けていた将兵らから反対の声は上がった。
 郭嘉としても、先に話を聞いていなければ反対の声を上げていただろうと思うが。
 
 
 和議――その名を借りた一種の降伏勧告であるなどということを聞いていれば、話はまた別になる。


 董卓軍と反董卓連合軍。
 洛陽と漢王朝を擁する側とそこに付随する権力やその他諸々を欲した側の戦いにおいて、どちらが優勢であるかと聞かれたならば大多数の人々は連合軍と答えるだろう。
 事実、当初の兵力において二十万を擁する連合軍は圧倒的であり、多くとも十万を超えないであろうとされていた董卓軍は汜水関虎牢関を用いて籠城防衛に専するしかないと、誰もが思っていた。
 郭嘉に至っても、北郷や董卓に協力することになった時でもそれらの策しか取り様が無く、手を出すにしても情報操作や、連合軍が油断した時に向けての策を練るしかないとばかりに思っていた。
 
 だが結果として、董卓軍はそれらの予想を大きく裏切る形で連合軍を一度後退にまで追い込んだ。
 それどころか、その兵糧を大きく損じさせることに成功したのだ。
 士気は大きく損なわれ、鼓舞するためにと振るわれる兵糧もその全体を欠けさせ、ともすればそのままであれば勝利など見込める筈も無い状況――再度の後退をも考えなければいけない状況下の中で、連合軍におけるどれだけの人間が冷静に物事を考えることが出来るであろうか。
 もっと言えば、自分達を打ち負かした筈の董卓軍からの和議の提案において、その裏に隠された狙いに気づけるだけの人物が権力を良しとした再編連合軍の中にいるであろうか、と。

 答えは否だ――もっと言えば、否であると当初は思っていた。
 聡明な頭脳を持つのであれば、大きく不利を背負うことになった連合軍にそれ以上付くことは無駄だと知り得るだろう。
 さっさと手を切った後に董卓軍と結んだ方がいい、そう考える者も出てくるかもしれないのだ。
 事実、忍からの報告で確認出来るだけでも名の知れた諸侯達は連合軍から去っており、そこに居残るのは再編連合軍の主戦力となる袁紹と袁術に群がってそのお零れを預かろうかという者達ばかりであったのだから、ここまで推測していた郭嘉や程昱、賈駆や陳宮の考えは当然のことであったのかも知れない。
 
 だが。

「よもや公孫賛殿が残られることになるとはな。加えてあの『劉』の旗、あれは汜水関にて一刀殿と戟を合わせた関羽殿がおられるところだな」

「……劉備の義姉妹である関羽と張飛は共に優れた武人と聞きます。確かに、汜水関においての戦いを見る限りではそれも頷けるものではありましたが……武の力だけで、義勇軍が黄巾賊相手に名を馳せることは出来なかったでしょう」

「……それ即ち、智に優れた将がいる、そう言いたいのか?」

「……」

 趙雲の言葉に郭嘉は言葉を返すことも頷くこともせずに北郷へと――彼が座る卓へと視線を飛ばす。
 遠くからのためかそこにいる連合軍の将兵の判別は難しいが、金色の鎧を纏う三人は袁紹とその配下である顔良文醜だろう。
 袁紹より小柄とされる袁術らしき姿が見えないことから、恐らくは軍勢の中に残ったままか、或いは汜水関と同じ轍を踏ままいと奇襲を警戒しているのか。
 そんなことはさておいて、その他に見える桃色の髪が劉備だとすると少しばかり気品の見える鎧が公孫賛か。
 まあ、公孫賛においてはそれほど危険視することは無いだろう。
 白馬長史とは呼ばれていてもそれは戦場のこと、幽州の治め方が普通ということを取ってもそういった智の方には詳しくはないのだろうから。
 
 しかし。
 劉備と公孫賛の近く、卓に隠れてしまうのではないかと思われるほどにちんまりとした人の形に、郭嘉はふと背筋を振るわせる。
 
「……星殿、風はどこに?」

「下で華雄殿と兵らを纏めておるよ。予てより定めておいた反応あるまで、虎牢関を出ることは罷り成らんという一刀殿の言葉を守ろうとしている華雄殿のお目付と共にな」

「ふっ、餌を前にされた馬のように鼻息を荒らして、ですか?」

「なになに、そこは猪という表現が妥当であろうよ……もっとも、猪は待つことなど考えはしないであろうがな」

「違いありません。しかし、そう言う星殿も些か力が入っているようですが……?」

「そう言う稟の方こそ、幾ばかりか口端とこめかみが震えているような気がするが? ……もっとも、今回ばかりは一刀殿の神経と頭を疑わざるを得ないと思うがな」

「それには同意です……はあ」

 先ほど感じた直感を――軍師を目指す者としてはこれほど曖昧なものは無いのだが――信じるのであれば、劉備と共にする背の低い二人は、恐らく北郷では太刀打ち出来ないほど智に優れているであろう。
 軍師として敵わないと思う人物とは未だ出会ったことは無いが、それに準ずる者であるならばそれなりの数を上げられる。
 程昱にしたってそうであるし、経験を含めれば賈駆には至らないし、時をおけば陳宮もそこに至るであろう。
 曹魏の荀彧、孫呉の周喩のように他国においてもそういった人物を覚えてきた郭嘉にとって、あの二人はそこに加えるに十分なほどの人物であると郭嘉は半ば確信していた。

 だが、と思う。
 今回ばかりはこちらの勝ちだと、郭嘉は口端を歪め――それと同時に微かな憤りを覚える。
 勝つということは何にもまして嬉しいものであるが、かといって憤りを覚えるようなものではないし、郭嘉としても覚えようとも思わないのだが。
 では何に対して憤りを覚えているのかて聞かれれば、郭嘉は――否、この虎牢関において憤りを覚えている多くの人物はこう答えることだろう。


 己の命を犠牲にすることすら勘定に入れた策を考え出した青年――北郷一刀に対して憤っている、と。


 それと同時に、郭嘉はふと思う。
 彼がここまで身を削ろうとする理由は、やはり董卓や賈駆のためなのだろう、と。





  **





「和議締結における即時撤退、汜水関の放棄、そして反董卓連合軍の解散……こちらの用件はそれだけですね。無論、撤退の時に追撃等はしませんのでご安心下さい」

「あら、随分と生ぬるい和議の条件ですのね。許しを請おうという立場の言葉とは思えませんわ」

 では紹介も済ませたところで。
 まるで見合いの席のような言葉を交じえた後、開口した俺の言葉をこれまた開口一番に袁紹は切り伏せた。
 それと同時に俺は――某汎用人型決戦兵器が出てくる話の主人公の父親の如く机に腕をつけたその影で――ニヤリと口端を歪ませる。
 
 何を勘違いしているのか、等とは思わない。
 和議を持ちかけられた側としては当然の対応であると思うし、俺としてもこういった対応をしてくれることを予測していた。
 
「ふむ、まあそう言われるであろうことは予想していましたが……しかし、考えてもみてください。士気、兵糧、兵力は開戦当初の半分以下となって、汜水関よりさらに堅固な虎牢関を攻め、そして洛陽を目指す……それは険しき道だとは思いませんか?」

「おーほっほっほっ! 庶民はそう思うのが常かもしれませんが、完璧究極完全な我が軍勢――そして連合軍に、そのような障害はハでもありませんわ」

「ひ、姫様、ハではなく、屁です、屁」

「そんな些細なことどちらでも構いませんわ、斗詩さん。さあ北郷さんとやら、これでわたくし達の有利とそちらの不利がよく分かったことでしょう! 今降伏するのなら許して差し上げなくも無くは無いですわっ!」

 結局許してくれないのかはたまたくれるのかどっちなんだ、とか、それで不利有利が分かる奴は凄いだろ、とか。
 緊張と興奮に塗れていない素の俺であったならば反射的に飛び出ていたであろう言葉を何とか押しとどめつつ、俺はさも残念と言うかのように溜息をつく。
 バックンバックンと喧しい心臓が体温を上げているのか、乾き始めていた唇を舌で湿らせた俺は、態とらしい微かな笑みを頬に貼り付けながら右腕を上げた――これが第一の合図。

「? 一体右手を上げて何を……」

「ちょっ!? ひ、姫様、斗詩、あれッ!」

 いきなりの俺の行動に頭に疑問符を浮かべていた袁紹であったが、ふと文醜が気付いた事実にその顔は先ほどとは打って変わって余裕の色が消え失せていく。
 ただまあ、それも当然のことであろう。
 汜水関における奇襲の時と同じく、虎牢関の城壁の上で旗が――しかも、同じ『十』の旗が振られているのであるから、その気持ちもよく分かる。
 しかも、少し時間が経てば他の旗も振るように指示していたものだから、目の前にいる袁紹達は当然として、何より彼女達を挟んで遙か遠くにいる連合軍の動揺までもが確認出来たのであれば、こちらとしては万々歳である。

 火計か、奇襲か、はたまたどちらもか。
 汜水関での脅威を覚えているのか、そんな混乱と驚愕に彩られていく袁紹三人組ににこりと微笑んで、俺は右腕を下ろす。
 それと同時に袁紹達が安堵した――恐らくは虎牢関の旗が止まったのだろう――のを確認すると、俺は再び口を開いた。

「……さて、こちらとしてはこれ以上無駄な犠牲を出したいとは思わないのですがね。焔によって焼かれる痛みも、兵糧を失って餓える辛さも、それらによって生じる苦労も無理強いはしたくは無いのですが……」

 それと同時に、自らに対して反吐が出るのをぐっと堪える。
 何が無理強いはしたくないだ、ならばそういう策を取らなければいいだけの話なのに、これを選んだのは俺なのだ。
 既に一度その無理を強いた俺がそのようなことを言う資格など無いのかも知れないが、そんな弱音を胸の奥底に飲み込んで、俺は再び腕を卓へとつけた。

「くっ……あ、あなた、卑怯とは思いませんのッ?! 天の御遣いとも呼ばれていながら、このような脅し方をするなどと……」

「卑怯……卑怯、ねえ……」

 ああそうだ、と認めることは簡単であるのだが。
 今は――この後に待つ展開のためにもそれを認める訳にもいかず、俺はさも心外だとばかりに卑怯という単語を数回口で転がす。
 卑怯というのは正義という言葉と真逆のようであるが、そもそも正義とは何なのか。
 そんな汜水関において関羽そして劉備と繰り広げたような問答の再来か、そう思われた矢先、文醜がぽつりと呟いた言葉によってその場の空気が動き出す。

「……なあ、斗詩? もし、もしもだ、こいつを捕らえて董卓軍の奴らに降伏しろって迫ったら、上手くいかないかな?」

「えっ!? で、でも文ちゃん、それは……」

「……ですわ……」

「えっ、ちょっと姫、まさか……ッ?!」

「それですわ、猪々子さんッ! この北郷さんとやらを捕らえて人質にすれば、董卓軍はきっと降伏するに――」

 来た。
 待ち望んでいた――郭嘉達に暗愚単純と言われる袁紹達がそう考えるように誘導した展開に、俺は眼前に突きつけられた袁紹の剣先を笑みのままに見る。
 少しばかり身を乗り出せばすぐさまに顔に突き刺せる距離にあるそれを見つめつつ、俺はさてこれからどうするかと思考を切り替え――ようとした矢先。
 それまで黙っていた人物達――劉備公孫賛達の内、諸葛亮と田豫が声を上げた。


「……私達の負け、ですね」

「……もうどうにも出来ない事実。袁紹のくるくるお姉さん、諦めた方がいい」





 実は。
 俺が待ち望んでいた展開――袁紹が俺を人質にするうんたらかんたらと同じような展開がもう一つあった。
 それは――俺がこの場で傷付けられること。
 もっと言えば、殺されることであった。
 とは言え、何も死にたくてここにいる訳ではないし、袁紹達を追い込む形でそこに至った訳ではない。
 和議の使者を害す、または害しようとする、ただそれだけで良かったのである。 
 
 初めの和議の条件を袁紹が――連合軍が呑んでくれるのであればそれで良かった。
 二十万もの大軍勢を擁しておきながら董卓軍の罠に嵌り、汜水関において策に嵌り、離間の計に嵌ってその士気兵糧兵力を損なう。
 これだけぼろぼろに敗れておきながらも洛陽を目指した連合軍は、これ以上の戦闘は無意味と和議を結ぶ。
 
 再編の前後でその意味合いは色々と違ってくるだろうが、この筋書きだけを見たのであれば、恐らくは多くの人が連合軍は敗れたのだと思うだろう。
 董卓軍をよく知る洛陽の民はそれを喜び、知らぬ他の街の民はそれを悲しむであろう――これで洛陽と同じく暴虐と圧政に苦しむことになるのか、と。
 だが、洛陽という街が他の街に与える影響力を考えればそれでも良い。
 ゆくゆくは洛陽を拠点とする商人や、他の街に移りゆく人々が口によって伝えて行くであろう――洛陽を治める董卓は、連合軍が流した噂のように悪逆非道ではない、と。
 この展開になれば、董卓軍としては反董卓連合軍に勝利し、洛陽の民の支持を得、後に他の街までもから支持を得る、いわゆる完全勝利ということになる。

 ならば和議を結ばなかった場合――つまりは、今のような状況であればどうか。
 これも完全とはいかないまでも、勝利への道筋は見えていた。
 要は関羽の時と同じように連合軍の掲げた正義を突いてやればいい。

 和議の使者を断ったというだけでもそれなりに話を広げることが出来るし、先ほど文醜と袁紹が導いた答えのように、もし和議の使者を人質なりに取れば連合軍の正義すら問われかねない。
 洛陽を開放するためという正義を掲げながら、その実、人質という外道な手段をもって董卓軍を屈服させる連合軍。
 なるほど、もし勝利を得ることが出来たとて、民心を離してしまえばどうなるのか。
 黄巾賊という最たる例をつい最近知った諸侯達からすれば、これほどの打撃は無いであろう。
 それに、俺としては人質に取られた時の保険として呂布を虎牢関に配置しておいたのだ。
 戦闘の疲労の無い呂布であれば、人質に取られた俺を袁紹達の手から奪い返してくれるであろうし、飛将軍とまで呼ばれる弓の名手であれば、俺を捕らえる将を射るだろうと信じてのことであった――自力での脱出は早々に論外とした、武力九十三と九十四に俺が勝てる訳ないだろ。



「だ……誰がッ、くるくるで――もがもがッ!?」

「ちょ、ちょって麗羽さま、突っ込むところはそこじゃないですけど、ここは抑えてくださいってば」

「しゅ、朱里ちゃん、たよちゃん、私達の――連合軍の負けって、どういうこと?」

 ざわりとした卓の空気に煽られてか、虎牢関の空気がにわかにざわめいたことを背中にひしひしと感じる。
 恐らくは俺が袁紹に剣を向けられたことを確認してのことだろうが、それも俺が不動の姿勢のままなせいかその場に留まっているようだ。
 目の前で揺れる剣先に張り裂けそうになる心臓を口から出さないようにしつつ、俺は言葉を発した諸葛亮と田豫へと視線を向けた。

「恐らくですが、ここで北郷さんを人質に取る、或いは討ち取るようなことがあれば、董卓軍の人達は虎牢関から出陣してこちらを討とうとするでしょう」

「……兵力はこっちの方が二倍近い。けど、士気は低いし、董卓軍が出撃したことで汜水関のように策を疑うことになるし、普通に戦っても勝つことは難しい。……それに、また旗を振られることになればもっと混乱することになる……それじゃあ勝てない」

「となると、自然と連合軍は後退なり撤退なりをしなければいけなくなりますが……汜水関からここに至るまでにあった幾つかの陣――作りかけのものもありましたが、あれは恐らくこちらの逃げ足を塞ぐためのものだと思います……前方の兵の足が少しでも鈍ればそれは全軍の鈍りとなりますから。……そして、これは汜水関の時のように戦力を削るためではなく、連合軍を打ち破るためのものではないかと」

「……戦う前に勝利を収める。この場に――ううん、連合軍が汜水関へと引き寄せられた時から、既に負けてた。……完敗」

 どうでしょうか、と。
 その容貌からまるで答え合わせを待つ子供のような視線を二人から受けながら、俺は表情に出すことなく感嘆する。
 奇襲をして先手を取ってそのままの流れで汜水関と虎牢関の間で何とか討てないかな。
 董卓と賈駆から連合軍に対する防衛の指揮を執ってくれと言われた時、俺が進言し、そして董卓軍軍師の面々において詰め合わせた策の全容を、ようもここまで言い当てたものだ、と。
 さすがは伏龍、臥龍と呼ばれる諸葛亮と、そんな彼女に従う田豫である。
 情報を操作する形で忍に色々と暗躍してもらったが、それが無く、多くの情報が彼女達に流れていればと、遅まきながらにぞっとした。

 それと同時に、彼女達が負けを認めたということは、ここまで来て策が全て成ったのだと安心する。
 これで、ここからどう状況が転がろうとも董卓軍の負けは無いだろう。
 むしろ、諸葛亮と田豫がここで抗えば連合軍の負けであると――それどころか、完膚無きまでに打ち破られてしまうであろうと言ってしまえば、それも確実なものとなる。
 もしやすれば俺や董卓軍を騙すための罠かも知れないとも思うが、ここまで気付く彼女達のことだ、そうした時に民衆からどのように思われるかにも考えは至っているだろう。
 


 となれば。
 この場で抗えば打ち破られて負ける、抗わなければ負けを認めることになるものの無事に撤退出来る。
 そのどちらを取るのかと言わんばかりに、俺は立ち上がって右手を袁紹に差し出した。

「では……和議の締結といきましょうか、反董卓連合軍総大将、袁本初殿?」

「う、ぐ……」

 そして。
 一度俺の顔を見て。
 虎牢関にて風に靡く旗を見て。
 傍にいる顔良と文醜に――ついでに公孫賛と劉備、その傍らにいる諸葛亮と田豫に視線を送った袁紹は、俺の右手を注視した後に勢い良く右手で掴んできた。

「こ、今回の負けは貸し……そう、貸しですわッ! いつか借りるその時まで、この貸し、預けておきますわよッ!」
 
「……貸しは借りるものではなく、返して貰うものだと思いますが」

「わ、分かってますわよ、そのぐらいッ!? 猪々子さん、斗詩さん、退きますわよ!」

「待ってくださいよ、姫~」

「わわっ、麗羽様、猪々子ちゃん、待ってよう。そ、それではお先に失礼しますッ」

 勢い良く俺の右手をはね除けた袁紹は、常の優雅――かどうかは別にして――を気にするふうでもなく肩を怒らせながら歩いていく。
 ゆらゆらと揺れる長い金の縦巻きを見送った後に、俺は劉備達へと視線を向けていた。

「今回はこっちの負け、か……。してやられたって感じだな」

「いえ、白馬長史殿がその力を存分に発揮されれば戦況はどうなったか分からないでしょう。今回はこちらの運が良かった、ただそれだけです」

「はっ、よく言う。朱里達の言葉を信じるのなら、そうなるように仕向けていたってことだろうに」

「はてさて何の事やら」

 だが次は勝たせて貰うからな。
 そう言外に視線で語る公孫賛に苦笑しながら、俺はふと視線を感じて劉備へと顔を向ける。
 その傍にいる諸葛亮と田豫の視線も向けられていたことに若干押され気味になるが、それを何とか受け止めていれば、劉備が口を開いた。

「御遣い様……私……」

「劉備殿達も、お疲れ様でした――って、まあ俺が言うのも何だか変ではありますけど」

「……とても変。御遣い様は……変態?」

「いやそこは変人でしょう普通ッ!? そもそも変態と変人では意味合いが全然違うと思うのですがッ!」

「……そう。実に残念」

 何が残念なのか、そう迫って問いかけたいのだが相手は見目麗しく、そして幼い女の子である。
 そんなことをしてしまえば正真正銘変態という烙印を押されかねないと自制する俺に、田豫は本当に残念そうに肩を落とした――あれ、俺何も悪いことしていないのに何だか悪いことしたみたいになっちゃったぞ。

 変態ではないことが残念だと言う田豫の真意も知れずなままに、俺はひくつく頬を押さえ込んで口を開いた。

「共に戦って欲しいという劉備殿の願いに答える訳にはいきませんでしたが、お誘い自体は嬉しいものでありましたよ。願わくば、劉備殿達の武運長久を」

「……はい。私も、御遣い様の武運を祈っています」

 何かを言いたそうな顔をした劉備であったが、既に撤退を始めていく袁紹軍のざわめきと、諸葛亮からの撤退の進言を受けて、一度頷いた後に俺へと背を向けて歩き出す。
 その隣に公孫賛が、その後ろに諸葛亮と田豫が――本当に残念と言いながら並んでいくのを確認して、俺はいよいよと緊張を解いて椅子の背もたれに深くかけながら空を仰いだ。
 権謀術数、陰謀思惑渦巻く地上とは違い何と澄み渡った蒼空のことか。
 そんならしくもないことを考えながら、俺は趙雲の槍に小突かれるまで空をぼうっと眺めていた。





  ** 




   
 何進大将軍と宦官の権力争い、洛陽大火において洛陽の権力を得た董卓と、それに対する反董卓連合軍との戦いは、和議という形で終結を向かえた。
 策略謀略を駆使した董卓からの一方的な和議は、大陸において董卓軍勝利という事実を広めることとなり、結果として、地方の一太守でしかなかった董卓が群雄の一人として認められることとなった。

 反董卓連合軍に参加していた群雄達も敗北からの解散によって各々の領地へと帰還することとなり、これもまた結果として、洛陽を擁し自ら達を撃退した董卓の手から己の領地を守るためにと軍備が拡充されることとなる。
 これにより、それまで比較的小規模でしかなかった小競り合いはその意味合いを大きく変えることになる。
 多くの諸侯が、己が野望を、欲を、願いを、想いを抱き天下一統を目指す――群雄割拠の時代が、このとき幕を開けたのであった。






[18488] 五十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/07/24 14:30





「ふう……」

 カーン、と小高い音を立てて木槌を振るっていた李粛は、額を伝う汗を肩に回していた手拭いで拭うと、腰に手を当てて周囲を見渡す。
 ぷるん、と揺れる豊かな胸部と、首から胸元にかけて流れ伝う汗を本人が気にすることはないが、周囲の人物はそうは思っていないのか。
 ちらちらとこちらへと視線を向けながらも背を伸ばすことなく――正確に言えば前かがみにならざるを得ないのだが――仕事に打ち込む兵士達に誇らしげに頷きながら、李粛は視線を虎牢関へと向けた。
 とはいっても、今いる地点は既に虎牢関より数里。
 近くにいればあれだけ大きく見える虎牢関がここから見れば拳大ぐらいなことと、今の地点から虎牢関に至るまでに木材で築き上げた幾つかの陣が、今ここにいる理由を――連合軍を迎え撃たんとするために即席の陣を築き上げていることを思い出させた。



 汜水関防衛に当たっていた北郷率いる董卓軍が虎牢関へと入ってから、既に三日が経過した。
 始めこそ連合軍の追撃を警戒してか、北郷ら汜水関防衛の面々を交えての軍議が終了してなお続けられていた兵達の収容を急がせてはいたのだが、それでもそれが終了し、そして連合軍がいつ来てもいいようにと気を張り声を挙げてなお来ないとあれば、それも拍子抜けというものであった。
 否、拍子抜けというよりは、やっぱりか、と李粛は感情を抱く。
 今なお連合軍内に潜む忍からの報告によって、再び総大将をどうするかと袁紹袁術で揉めていたり、兵糧の不足をどうするのかといったことで揉めているということが知らされてしまえば、李粛が抱いた感情こそが正常のような気もするのであった。

「元々予想していたこととはいえ、こうもこっちの読み通りだと気も抜けちゃうんだけどなあ……」

 そうぽつりと呟いた言葉は、それでもなお高く響く木材を打つ音によってかき消される。
 自身の言葉が遮られたような機会に若干膨れそうになる自身の頬に、李粛はそれを二度手のひらで打つことによって意識を切り替える。
 そもそも、今ここにいるのは虎牢関を――ひいては洛陽の民や石城安定を守ることに繋がるのだ。
 これが洛陽だけを守るのであれば、安定の街において名家とされる李家をまとめる者としては、ぶっちゃけどうでもいい。
 自身が生まれ育ち守る街である安定が無事であれば洛陽など、と董卓軍に関わっていない状況下であれば言えたことだろう。
 だが。

「そういう訳にもいかないんだよねー、やっぱり……」

 自分は既に董卓軍の将の一人である。
 安定の街は既に董卓軍の勢力に無くてはならない地となっているし、安定の民は黄巾賊襲来の折に救ってもらった恩を忘れることは無いだろう。
 姉である李需は漢王朝皇帝であり董卓の擁護を受ける劉協の傍仕えを、安定の軍兵を纏め上げ正規軍の指揮を経験したことのある牛輔もまた董卓軍においても兵を纏め上げるなど、安定に関わり深い者達もまた、董卓軍になくてはならない存在であった。

「お姉ちゃんも子夫も頑張ってるしなあ……こりゃ僕も頑張るっきゃないね!」

 李粛にとって、董卓軍というものはさして忠誠を感じるものでは無い――というよりは、そこに集う人々にこそ忠誠を感じている、と言った方が正しい。
 董卓、賈駆に始まり、その下に集う武官文官、それに連なる李需や牛輔、そしてそういった者達が守るべき存在である民達。
 そういった人達こそ守るべき存在であり、そして忠誠――というよりは、守るという戦う理由こそが大切であると思っている李粛にとって、さほど難しいことは必要無い。
 まあ、難しいことを考えるのが苦手であることは否定しないが。

「だからまあ……こっちに対するっていうんなら、僕は手加減なんかしないからね――連合軍」

 だからこそ、守るべき存在とその戦う理由を害そうとする者は何者であろうとも容赦はしない。
 その姿を遠く確認出来、そして斥候へと出向いていた騎馬がもたらした報――袁紹袁術を中心とした連合再編軍の接近に、李粛はそう気合を入れるために再び自らの頬を叩いた。
 もっとも、その際に揺れる豊満な胸に兵士の注意が若干それかけたのは致し方の無いことなのかどうか。
 そんなことを意識する暇もなく、李粛は連合軍が起こす土煙を確認した後に、かねてからの予定通りに――虎牢関前にて連合軍を待ち受けるある一人の人物にあとを任せるためにと口を開いた。



「総員、作業を中止してッ! 必要なもの以外をこの場に捨てて、すぐ虎牢関まで逃げるよッ!」





  **





「いいのか、桃香……?」

「うん……。ごめんね白蓮ちゃん、迷惑かけちゃって」

「なあに、別に気にすることはないさ。私だって洛陽の現状は気になるところだし、麗羽達が洛陽で何かしやしないかと心配なのもあるしな。桃香の言う通り、董卓と一度話をしてみるのも悪くはないさ」

「でも……ううん、ありがとう、白蓮ちゃん」

「よ、よせよッ、照れるじゃないか」

 ぱたぱたと照れを隠すように手を振る白蓮――公孫賛に感謝の念を抱きつつ、劉備は前方に聳える虎牢関へと視線を飛ばす。
 堅牢、堅固、難攻不落、金城鉄壁。
 交通路を抑える関には不釣り合いなほどに高くそびえる城壁と、重く固く閉ざされた城門は、ともすれば関と呼ぶよりも要塞と呼ぶに近い。
 泗水関と並び洛陽を守護する東の守り、虎牢関。
 その全貌と威容、そしてそこに籠るであろう董卓軍が醸し出す迫力に、劉備は知れず緊張する喉を鳴らしていた。



 袁紹と袁術、袁家を中心として再編された――主だった名高い諸侯たちが抜けた連合軍は、その矛先を揺らすことなく虎牢関への進撃を決める。
 陶謙や張莫ら多くの諸侯が抜けたにも関わらず、未だ十万の軍勢を誇る連合軍に劉備は公孫賛と共にその姿を残していた。
 だがその行動は、袁家について栄華と権力のお零れにありつこうとする者達とは違う感情から来ていた。
 洛陽にいるであろう董卓と話をしたいから洛陽を目指す、そう放たれた自らの言葉によって呆気に取られていた公孫賛の顔を思い出して、劉備は笑みを含む。

 初め、劉備は檄文に書かれた董卓の行いに義憤を覚えて反董卓連合軍へと参加した。
 董卓の圧政と暴虐に苦しむ洛陽の街と民を、彼の者の手から解放し救おうと想いを抱いてのことであったが、義兄弟である関羽と張飛、それにその知略で軍――と呼ぶにはおこがましいほどに小規模な義勇軍ではあるが――を支える諸葛亮や庖統、田豫と彼女を押し軍を影から支える簡雍など、劉備を慕う義勇軍の多くの者達は、
劉備のその想いに賛同してくれた。
 公孫賛もそんな劉備に賛同してくれた一人であり、また、付き合いの長い袁紹が暴走しやしないかと他人事ながらに心配した結果として、劉備と共にその姿を連合軍にと残していた。

 泗水関を巡っての攻防の際、関羽の一撃を受け止めた北郷に、劉備は共に戦ってくれないかと声をかけたことがある。
 あの混乱と喧騒と戦いの中で声をかけたことは、今落ち着いて考えてみれば何故あのような状況でと思わないでもないのだが、それでも前々から思っていたことを口に出せたときは知らず安堵していたふうに思う――天の御遣いという言葉に何故かしらの懐かしさを感じていたとは、いよいよ気づくことも無いのだが。
 関羽に聞いた話であるが、そんな北郷は彼女に聞いたらしい――洛陽の街は先の大火からの復興で活気に溢れて民は平穏無事に暮らしているというのに、一体誰が董卓を悪逆だと謳ったのか、と。
 己の目で見、耳で報を聞いたのか。
 そう聞かれた関羽はすぐに答えることが出来なかったというが、当然ながらに劉備も即答は出来ない。
 義勇軍として小規模に活動する自分達では洛陽にまで細作を飛ばすほどの余力は無いし、義勇軍として確固たる拠点を持たないということは情報を集める拠点も無いということである。
 それが洛陽の情報を集めていなかった言い訳になることも無く、またそのことを言い訳にするつもりは劉備には毛頭ないが、かと言って、北郷が関羽に伝えたことの全てを信じるべきかと聞かれればそういうわけでもないだろう。
 彼は言ったのだ、洛陽の現状を瞳で確認したり、その報告を耳で受けたのか、と。
 それはつまり、自らが見聞きしたことを信じて動けと、そう言っているような気がするのだ。
 故に、劉備は北郷が言ったようにまずは真なる情報を得るために洛陽へと――そこにいるであろう董卓と話したいと思ったのである。
 そのためには連合軍から脱退して被害無く洛陽を訪れ、目的を達する方法もあるだろう。
 だが、連合軍と董卓軍、そのどちらの言い分がはっきりとしない状況の中で見極めようとするために、劉備は連合軍の中から虎牢関を見据えていた。



「……そういえば桃香、董卓と話をするってのはいいとしてだ、董卓が一体どんな奴かってのは知っているのか?」

「えっ……えっと、その……えへへ」

「なんだよ知らないのかよ――って、まあ私も人のことは言えないけどな」

「えっと、白蓮ちゃん……北郷さんに聞く、ってのはどうかな?」

「天の御遣いにか? ……そりゃ、確かにその方が確実ではあるし、それが出来るならその方がいいんだろうけどさ……愛紗がそれを許すのか?」

「えーと……ど、どうだろう?」

 そこまで会話が転がったところで、劉備はふと想像してみる。
 関羽は泗水関における先の一件から、北郷をまるで親の仇であるかのように振る舞っている。
 華雄との戦いに水を差されたこともあるし、何より自らの信念に口を出され、あまつさえ劉備の誘いが断られたことがよっぽど気に障ったのだろう。
 あの者の首を取るのはこの私だ。
 そう言って憚らない義妹が北郷に会うことがあればどういった行動を起こすのか。
 そこまで容易に想像出来た劉備は、知らず冷や汗を流しながら苦笑していた。

 というよりも、関羽のみならず張飛も北郷にはいい感情を抱いていない。
 むしろ関羽より精神的に幼いためにか敵対心敵愾心を隠すことも隠そうともしないその姿は、見た目だけならば可愛らしく映るものであるのだろうが、その中身はそれどころではない。
 劉備が知る中でも最上級に位置する武人の二人から敵対視される北郷に、劉備は同情を抱かずにはいられなかった。

「……さすがに会った瞬間に斬りかかったりはしないよな、いくら愛紗や鈴々でも、さすがにそれは無いよな?」

「えーと……う、うん。無いと思う、よ……多分」

「……は、はは。ま、まあ、そこら辺のことはおいおい考えるとするか。まずは虎牢関をどうやって――」



「――も、申し上げますッ」



 劉備が一体どんな想像をしたのか、それとも同じ考えに至ったのか、共に苦笑する公孫賛が口を開こうとしたとき、不意に慌てたような声が耳へと入る。
 それに視線を動かしてみれば、先行して虎牢関の様子を探っていた斥候の一人が慌てたようにこちらへと駆けてきていた。
 だが、その様子と表情に劉備はふと疑問を抱く。
 驚愕というよりも狼狽と不安に近い色がその斥候に見えるのに公孫賛も気づいたのか、硬い声で何があったのかと問いかける。
 そして。
 斥候の口から放たれた報は、逆に劉備と公孫賛を驚愕させるに十分なものであった。





 そうして。
 斥候が持ち帰った報告――董卓軍からの和睦の提案という言葉に従って連合軍は歩を進める。
 作りかけの陣を一つ越え、整えられていながらも兵の一人もいない陣を二つ越えた向こう、円卓が設けられたその傍に一人佇む姿があった。


「連合軍諸侯の方々、我が声と和睦の提案を聞き入れての来訪、心より感謝申し上げます。そして、和睦の席へ、ようこそ御出で下さいました」


 天の御遣い、北郷一刀。
 劉備と公孫賛が――そして、彼の者が連合軍を迎えるという先の泗水関敗走にも似た状況の焼き直しに、北郷の柔らかい笑みと礼とは裏腹に、見えざる緊張がその場を包もうとしていた。





  **





 北郷が連合軍を迎えようかという頃より少しばかり前、ある暗闇の中に一人の姿がゆらりと浮かぶ。

「……反董卓連合を覆す、か。やはり、あのような不確定な事象では抑えることは出来んということか」

 洛陽、そして現在において彼の地を抑える董卓軍とその後釜を狙う反董卓連合軍との争いが虎牢関にて始まるという緊迫した状況の中において、その人物の声はなんと淡々としたことか。
 彼の戦場から遠い地であることがその由縁か、そんなことを知らせるふうでもなく、再び暗闇の中ぽつりと言葉が紡がれる。

「元より、董卓の行動によって反董卓連合の勝敗は動いてきたからな。此度のこと、考えられることであったということか……」

 暗闇の中にあってなお白く艶めかしい顔の半分を覆う仮面は、それを伴う者の声に反応してか形を変えないままに口元を嗤わせる。
 くく、と。
 それをつける人物――司馬懿が喉を鳴らすのに反応してさらにその口元を歪めていくのは、暗闇の中での幻か。
それを知ってか知らずか、気にするふうでもなく司馬懿はさらに言葉を紡いでいく。

「やはり、北郷より先に董卓を討つべきか……」

 北郷。
 その名を呟いた時、司馬懿の仮面が酷く歪む。
 それは怒りか、あるいは恨みか、はたまた別の感情か。
 その全てであると言われても納得出来るような感情を覚える司馬懿であったが、ふと人が近づいてくる気配にそれを即座に消失させる。
 それと同時に、仮面と同じく無機質な笑みをその顔に張り付けて、司馬懿は近づいてきた人物をその暗闇に迎え入れた。



「……ふむふむ。お主が司馬仲達かの?」

「左様にございます、西涼連合が雄、韓遂殿。お目にかかれて恐悦至極に存じます」



 洛陽の西に位置する涼州。
 その大半を勢力下に抑える西涼連合に属する一人にして、馬騰と双雄と称される韓遂、字は文約。
 緩み弛む腹と顎を持つ、ともすれば好々爺とも呼べる見た目でありながらも、その実、その瞳の奥からこちらを見据え自身にとって有益か否かを見定めようとする韓遂の視線に、司馬懿はますます笑みを深めていた。





[18488] 五十六話 反董卓連合軍 終
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 09:53





「呂布様ーッ!」

「華雄将軍様ーッ!」

「御遣い様ッ、よくやってくれたーありがとうーッ!」

「わー、しょうぐんさまたちだー!」

「文遠の姐御、ありがとさんよー、今度酒奢りますぜー!」

 驚喜と歓声。
 ただそれだけが、洛陽の街を支配していた。



 虎牢関の和議。
 後に董卓軍と反董卓連合軍の間で行われた戦闘の終結と呼ばれることになるその後、俺達は虎牢関と返還された汜水関に幾ばくかの兵を置いて洛陽へと帰還した。
 反董卓連合軍が和議を反故する可能性は低いだろうが念のため、と虎牢関と返還された汜水関の防御を洛陽でも名の知られた牛輔に任せてのことであった。

 洛陽への道中、先んじて忍による使者を送っていた徐栄と徐晃、騎馬隊を率いてもらっていた張遼達と合流した俺達は、開け放たれた洛陽の城門を潜り抜け、そこを歓声が出迎えたのであった。



「ふわー、大きい声ですねー」

「うむ、これも我らが打ち立てた功績の証。存分に受け取るべきだろう」

「ゆーて、華雄は汜水関で関羽にぼろぼろに負けただけやないか」

「うぐッ……た、確かにそうだが……」

「簡単に騙されて一刀殿を押し倒したりもしてましたなあ」

「ぐぐぐっ……」

「それは星殿が煽っただけでしょうに……」

 だと言うのに――いやまあ最早慣れたものであるが。
 歓声と笑顔に答えつつ全然驚いているふうでもなく手を振るう程昱――何故か俺の前に乗っているし、手を振っているのは宝譿だったりするが――に、それらに応えんと厳格であろうとする華雄に、ひらひらと巧みに馬を操りながらそれをおちょくる張遼に、それを追撃する趙雲に、呆れる郭嘉、と。
 いつぞやの黄巾賊討伐の時みたいだとふと思った――まあ、あの時とは色々と顔ぶれが違うけれども。

 しかし、李粛には事前に洛陽への帰還の先発隊として離れて貰っていたのだが、この街の様子だと、彼女が兵を率いて帰った時も凄かったのではないかと思う。
 けどまあ、李粛のことだ。
 これだけの大歓声にさらされながらも物怖じすることなく手を振って応えていたに違いなかろうと思うことにする。
 その度に揺れたであろう胸部に目を奪われたのではないか、そう思える幾ばくかの頬を赤くした男性とその隣でその男性を睨む女性を見つけてしまえば、俺としては苦笑するしかなかったのであった。





「皆さん、お疲れ様でした」

 洛陽の城中。
 さすがに洛陽の城内に董卓軍のほぼ全軍にあたる七万近い兵を入れる訳にもいかず、数カ所ある練兵場に分割するための指示を徐栄に任せた――年寄りの仕事じゃ、と徐栄が勧んでのことだったが――俺達は、その城内にて董卓と賈駆、そして洛陽を守備するための軍備を進めていた面々と再会することとなった。

 といっても、漢王朝の文官やら董卓軍で留守を任されていた文官武官やらを交えた軍議は既に終了している――というか、半ば強制的に終了されたと言っていい、賈駆によって。
 指揮権を任された俺を先頭にした諸将が広間に入った時、広間もまた驚喜と歓声に包まれたのであれば、冷静に話など出来やしない。
 ともかくとして。
 お互いの無事を喜ぶ武官達や、喜びながらもこれからの動きやらをどうするか話し合っている文官達に一度解散を言い渡した俺達は、主要な人物だけで報告する形となったのだが。
 その始まりが、董卓からの労いの言葉であった。

「負けないように、とは思ってたけど、まさか勝っちゃうなんてね……報告には聞いていたけど、いざ実感してみれば中々凄いことをしたのよ、あんた達は」

「みんながそれぞれ動いてくれたおかげだよ。俺なんて、指揮官のくせにあまり働いてないしな」

「……二回も敵軍の前に姿を出した人の言葉とは思えませんね」

「駄目ですよー、稟ちゃん。お兄さんはどうも天然無自覚みたいですしー、ここはあまり触れないであげたほうが後々に好感度あっぷですよ」

「風の言うとおり、無自覚は放っておいたほうがよろしかろうて」

 あまり出しゃばるのもなあれかな、なんて思っての言葉だったのだが、おい誰が天然無自覚だ誰が。
 程昱と趙雲の言葉に頬をひくつかせていれば、その事に対して何かしらを思っていたのか、不意に董卓と賈駆から睨まれる――賈駆はともかく、董卓のそれはむーという言葉付のどこか可愛らしいものであったが。
 それが俺の勝手な行動に対してのものだと考えて少しばかり身を引けば、さらに険しくなる視線にどうにも違うらしい。
 では何事か、と首を傾げるより早く、拗ねたような口調で賈駆が口を開いた。

「……何よ、ボクが心配するのはおかしいとでも言うつもり?」

「い、いや、そういう訳じゃないけど……心配、してくれてたんだ?」

「べ、別にあ、あんたのことを心配した訳じゃなくて……そう、兵の士気を心配していたのッ! 兵の士気は戦の勝敗も分けるんだから、その辺わかってないあんたの指揮に従う兵の心配をっ!」

「もう、詠ちゃんたら……一刀さん、私も詠ちゃんもとっても心配したんですよ? ……だから、その、無事で帰ってきてくれてとても嬉しいんです」

「ゆ、月~」

「それは……うん、分かってるよ。ありがとう、心配してくれて。詠も、心配させてごめんな」

「ッ……ふん、分かってればいいのよ」

だがしかし。
 心配をかけたことに対して謝ってはみたものの、一瞬だけ硬直したかと思えばすぐさま顔を背けられてしまえば、何か気に障るようなことを言っただろうかと疑問符を掲げてみる。
 もっとも、私も詠ちゃんと一緒で本当に心配したんですよ、という董卓の言葉に顔を赤くしながら反論する賈駆を見てみれば、ただ照れただけなのかと納得はしたが。
 何に照れたのかまでは理解出来なかったりする。


 
「さて……まあ、雑談はこの辺りにしておきましょうか」

 わいわいがやがや、と。
 汜水関ではこうした、虎牢関ではこうなった、ああしたこうした、とそれぞれの話が一段落を迎えようかという頃に、手を二度叩いた賈駆によってそれが中断される。
 何事か、などと問いかける者はいない。
 賈駆の真摯なその瞳が、これから行われるであろう話の内容を物語っているように見えた。

「反董卓連合軍に勝利することが出来た、これはいいわ……けど、差し迫る状況が好転していないということ、これは不味い」

「何で好転してへんのや? 反董卓連合軍に勝った、それを洛陽の民だけやなく大陸の街々に広めるちゅう一刀の策は成っとんやろ?」

「それは詠殿だけでなく、このねねも確認したから間違いないのですぞ、霞殿。ただ、問題は策が成ったからといって終わりという訳ではないのです」
 
「反董卓連合軍に勝つことが出来たとはいえ、その勝利はあくまでも洛陽防衛に関してのこと。そのことによって多くの諸侯が動き出すとはいえ、結局のところ、殆どの情勢は変わっていないのですよ、張遼殿」

「あー……つまりや、簡単に言や、また攻められるかもしれんちゅうことか?」

 郭嘉の言葉に応える張遼の言葉に、返事は無い――否、むしろそれこそが正解であるとその場の雰囲気が物語っていた。
 確かに、俺達董卓軍は反董卓連合軍に勝利を収めることが出来た。
 大きな損害も無く、この先のために色々と布石を打つことが出来、董卓軍の強さを見せつけるという、完全勝利とも言えるものである。
 だが、それは即ち董卓軍を警戒させることにも繋がるものであり。
 結果として、その武威を恐れた諸侯によって何時また第二第三の反董卓連合軍が結成されるのか分からない状況となってしまったのである。

 無論、悪いことばかりではないだろう。
 警戒されるほどに強さを見せつけたとはいえ、敵対の行動を取る諸侯が現れるのであれば、こちらと結びつき生き残ろうと動く諸侯も出てくる訳で。
 戦うことが嫌い、と言う董卓からしてみればそういった勢力が出てくるのは喜ばしいことである。
 反董卓連合軍に勝利したという武威によって出来るだけ戦わずに勢力を大きくし、最終的にはそれによって戦が収まれば最良であるが、しかして事はそう簡単に進むものではない。
 無論、抵抗する勢力も出てくるだろうし、今回みたいに同盟を結んで対抗せんとする勢力も出てくることだろう。
 その度に今回のような総力戦をしなければならないのか。
 そうして沈みそうな雰囲気を破ったのは董卓の声であった。

「勝つとか負けるとか、勝敗は兵家の常ではありますが、私としては皆さんが無事に帰ってきたことが一番嬉しいです。結果として勝利を収めることが出来ましたが、皆さんに大きな怪我も無く、兵の人達も出来るだけ多くの人達が帰ってこれたことを、私は喜ぶことだと思います……もう一度になりますけど、皆さん、無事で帰ってきてくれて本当にありがとうございます」

「そう、ね……月の言うとおり、みんなが無事に帰ってきたっていうのが一番かもね。これだけ大規模な戦闘だったのに将に怪我人がいないってのも凄いことなんだし」

「私は汜水関虎牢関の戦闘には参加していませんが、詠様の言うとおりかと」

「……まあ、そうだな」

「華雄は首獲られる一歩前やったけどな」

「うぐぅ……わ、わざわざここで蒸し返さなくてもいいだろう、張遼」

「あー……はいはい、じゃれるのもいいけどとりあえず今は本題に入りましょう。まあ、簡単に言えばこれからどうするかってことなんだけど……」

「ふむ……勝利の武威と漢王朝の権威を用いて諸侯を抑える、は除外でしょうね……」

 二度手を叩いて再びずれかけた話を戻した賈駆に応えた徐晃の言葉に、俺はふむうとばかりに腕を組む。
 勝利の武威を用いることに異論は無い。
 それは無用な戦を減らしてくれるものでもあるし、こちらの味方を見極める上でも重要なものだからだ。
 だが、漢王朝の権威を用いることはしてはならないことであった。

「まあ、琴音の言うことも分かるんだけど、それをしちゃうといよいよ反董卓連合軍の檄文の通りになっちゃうからね……民に負担をかけないまでも、今それをしちゃえば今度こそ敗北を視野に入れなくちゃいけないし」

「ふむう……確かに、詠様の言うとおりですな。しかし、そうなるとやはり……」

「まあ、地力を固めるのが正当でしょうね」

 人というのは、存外に単純であると以前曹操に言ったことがある。
 あの時は人が人に従うというその理由に対して言ったものだが、もちろん、それは他のことにも当てはまるのだが。
 先ほどの賈駆の言葉などがまさしくそれに当てはまる。

 と言っても、特段難しい話でもない。
 二つの物事を信じろと言われた時、両方とも信じることが出来るか、或いは片方しか信じることが出来ないか、その違いである。
 今回の反董卓連合軍に変えて言えば、漢王朝の専横による権威の乱用と洛陽の民への圧政暴虐が上げられる。
 そういった趣旨の檄文こそ袁紹は立ち上げたが、事実としてそういったことが確認されていないのであれば、それは大した意味を成さない。
 それどころか、俺が関羽や劉備にしたように離反や相反の元となる可能性だってあるし、結局のところはそれらの事実が嘘であり、そういったものに賭ける必要性も無いと判断したから多くの諸侯が離脱したのだから、その重要性はよく分かるものである。

 だが、もしその二つの文句の内、どちらかが信じられるものであれば――今ここで話に出たように、漢王朝の権威の乱用が事実であったならばどうだろうか。
 洛陽の民には暴虐を強いず、しかして漢王朝の権威を乱用するのであれば、それはきっと未だなお漢王朝に忠を尽くさんとする諸侯は目の色を変えることだろう。
 そして、権威を乱用するという事実さえあれば、暴虐を強いていないという事実は疑われることとなり、結果としてその真相は如何にせよ反董卓連合軍は離脱相反などせずに洛陽へと迫っていたはずである。
 反董卓連合軍で無いにせよ、そういったことをしてしまえばそれに準ずる勢力が洛陽に迫るのが容易に想像出来るものであるのだ。
 ゆえに。
 誰もがその考えに至っている――かどうかは怪しい人物がいることはいるが――からこそ、俺達は地力を固めるべきだろうという郭嘉の言葉に自然と頷いていた。

「となると、東はやっぱり汜水関の守りを固めるべきかな」

「それが妥当でしょうね。それ以上東に行くと陳留に近くなるし、あんたの報告からみれば出来る限り張莫と曹操には関わりたくないし。南は……宛の袁術か」

「風は連合軍の動きを見た感じではそこまで警戒するようなことは無いと思うのですよー。まあ、一応忍者さんの目を入れておいた方がいいとは思いますけどー」

「風さんがそう言うなら私もそれがいいと思うけど……どう思う、詠ちゃん?」

「うーん……それはどれぐらい信用出来る、風?」

「まあ、月さんと詠さんがお兄さんを信用するぐらいには」

 董卓と賈駆が俺を信用するぐらいとなると、まあ補佐付きながらも防衛の総大将に任命するぐらいってことか……って、いまいちよく分からないな。
 総大将任命なんてしたことが無い俺からすればそれがどれほどに信用が必要なのかも分からずに首を傾げるのだが。
 一刀殿が董卓殿と賈駆殿を信頼しているぐらいだ、と趙雲から耳打ちされればああなるほど、と一人納得していた。

「そう……なら南はそれでいきましょう」

「となると、あとは西ちゅうことやけど……どないな、そこら辺は?」

 東は汜水関、南は様子見、北は黄河によって遮られているし何より忍の根拠地であるから情報の入りも早く心配は無い。
 となると、残る懸念は西ということになるのだが。
 洛陽以西――西涼のことに話が及ぶと、周囲の視線は俺へと集められた。

 なんたって――それが無理矢理にでも仕組まれたものとはいえ――西涼連合は馬騰、その娘である馬超のご主人様に一時なっていたのだからそれも仕方のないことである。
 そもそも、もし董卓軍が反董卓連合軍に敗北した時に西涼にまでその手が及ぶことは避けねばならぬとして馬超を西涼に返したのは俺であるのだから、その反応は分かるのだが。
 俺は少しばかり考える素振りをした後に、まあ隠すことはないだろうと堂々と言い放った。

「うーん、と……特には何も考えてないな」

「……堂々と言い張ることやないやろ、一刀」

「うぐっ……で、でもなあ、こればっかりは何とも」

「はぁ……まあ、こいつの言う通り、こればかりは向こうの出方次第ていうのもあるかもね。長安に詰めてる李確の方が近くでよく分かると思うから、こっちから確認してみるわね」

「うん、お願い、詠ちゃん」

 黄巾賊襲来の折に同盟を結び、そして反董卓連合軍結成の際にそれを解消した西涼の馬騰。
 裏切りである、と言うのは簡単であるし言えばそこまでなのだが、こちらとしては影響が及ばないようと同盟を解消したのだからそんなことを言うはずも無い。
 そもそも、馬騰の軍勢がいなければ安定の街を救うことは出来ず、黄巾賊はその勢いをもって石城を攻めていたのであろうから、こちらの立場からしてみれば恩を感じこそすれど裏切りなどという感情を持つ者はいないのだ――いたとしても、洛陽以降の新参な将兵ぐらいであろう。

 だが、結局のところ、それはこちらの言い分である。
 実際に馬騰がそう考えているかは分かるはずもないし、西涼連合の雄を務めているだけあって、簡単にことを進めるような人物ではないだろう。
 まあ、ここ洛陽にて出会った時に抱いた印象だけでいけばその限りではないのだが。
 というか、完全にノリで進めそうで怖いとふと思った。
 何というかあれだ、趙雲とか孫策とか、その辺に通じそうなものがありそうである。

「さて……ちゅうことは、大体決まったわけやな」

「現状で言えば南は警戒、東と西は守りを固める。反董卓連合軍に所属していた諸侯の動きが分からない以上、しばらくの間は守りを固めながら地力を溜める……そういうことでしょうね」

「こっちの被害も決して小さくはないですしー。しばらくはその方が良いかとー」

「新たな敵に備えるためにも更なる兵の調練も必要だな」

「長安との連携、石城安定の防備の強化、朝廷への対応に街の警護と活性化……はあ、連合軍に勝ったとはいえ、まだまだ問題は山積みね」

「まあ良いではないですか、詠殿。勝てたことによって今こうして先を見据えることが出来るのですから」

「ふふ……そうですね、琴音さんの言うとおりだと思います」 

 いかんいかん、とズレ始めていた思考を前へと戻す。
 はっきり言って、馬騰のことは今から考えていたところで――否、今どう考えたところで向こうの出方次第であると先ほど賈駆が言ったばかりなのだから、こちらとしてはどうしようも無い。
 何をされようとも動じないように備える、それだけしか取りようが無いのだから。
 そう思考を纏めた俺は、目の前で繰り広げられる諸将の話を耳から取り入れながら思考を働かせていく。
 
 さて、と。
取るべき指針が決まったのなら話は早い。
 大火に襲われた洛陽の本格的な復興も進めねばならないし、皇帝となった献帝の皇位継承における諸々の祭事の段取りも必要である。
 此度の戦における死傷者への保障も考えねばならないし、西の長安、東に汜水関、とそれらの守りや戦力を固める戦略も進めねばならない。
 さらには、戦火から逃れる難民の対処もあるし、増える民の食糧事情のことも考えねばならない、と。

「はは……こりゃまた、忙しそうだなあ」

「さて、それが一刀殿の仕事であったと存じておりますが?」

「趙雲の言う通りよ。こっちはこっちで色々と忙しいんだから、そっちはそっちであんたが動かないと事が始まらないの。そのことはちゃんと覚えておいてよね」

「へう……私と詠ちゃんが朝廷のことで忙しいとはいえ、一刀さんにご迷惑をかけてしまって……本当にすみません」

「ああ、別に気にしなくていいって。朝廷もいきなり皇帝が変わって大変だろうし、何進と宦官の政争の後始末でぼろぼろだろうし、さ。俺に出来ることがあれば、どんどん任せてくれていいから。それに、これから忙しくなるのは月達も同じだろう? 体調に気を付けて、無理だけはしないようにな」

 洛陽に駐屯し始めてから、董卓と賈駆は朝廷につきっきりである。
 元の歴史であれば董卓が朝廷を専横して権威を牛耳っている、というところであろうが、この世界においては、現皇帝である献帝を救ったことと宦官がほぼ全て袁紹と曹操に斬られたことによっての人材不足、そして漢王朝としての兵力不足という理由もあってか、朝廷が董卓――そしてその勢力を頼りにしている節がある。
 もともと漢王朝の兵力として数えられるはずであった大将軍何進と宦官の残党兵力を吸収したがために兵力が増大した董卓軍にあって、その兵力が漢王朝のものであると考えることは致し方のないことなのかもしれないが。
 もっとも、あの献帝――劉協様に頼られでもしたら俺個人として断ることは出来ないだろうと、断言だけしておこう。
 俺に幼――げふんげふん――女を愛でる性癖は無いはずだが、うん、彼女の上目使いに加えた涙だけは理性が外れてもおかしくないと、本気でそう思った。
 本当に、幼――げほげほ――女を愛でる趣味など無いと思うのだが。

 それはさておき。
 俺達が汜水関虎牢関に詰めていた間も忙しかったのだろう、微かにやつれ隈を残す董卓の頭を撫でながら、朝廷のこともどうにかしなければならないかなとふと思う。
 洛陽を擁して一大勢力を築いた董卓とその軍師の賈駆とはいえ、その実は何処からどう見ても少女である。
 大人、ことさら男からしてみれば体力にも限界があるし、精神的につらいこともあるだろう――何より、俺自身、彼女達がそんなことで疲弊するのが嫌なのだと言える。
 見知らぬ世界と土地で救ってもらい、過去の傷を拭ってもらった恩ということもあるが、それよりも何よりも、今この瞬間を精一杯生きるために少女達が輝くのを曇らせてはならない。
 その輝きこそが後世において時代を紡ぎだし、多くの人達がそれを歴史として学んでいく上であって、彼女達を輝かせたいと。
 命がけの戦場を駆け抜け、英傑とも呼ばれるであろう人物達と邂逅し、時代の転換点とその末の新たな結末を見たことによって、ことさらにそう思う。

「じゃあ、大体の指針はこれで決まったわね。それと、何かしらで事を進めるときは朝廷に関することや政の関係はボクに、内治や軍政、それらに関することは北郷に……それでいい、月?」

「そう、だね……一刀さんがそれで良ければ」

「俺はそれで構わないよ」

「ならば良し。そういう訳だから、色々と忙しいとは思うけど、各々、頑張ってちょうだい」

 だからこそ。
 新しい可能性の歴史――正しい歴史から外れた外史を、みんなと共に駆け抜けるために、そして生きるためにと俺はみんなと同じように応、と答えていた。
 


 なお、余談ではあるが。
 董卓を撫でた後に物欲しそうな視線をちらちらと投げかけてきていた賈駆の頭――その上にある帽子ごと撫でていると、何故だか向けられた呂布の羨ましそうな視線に負けてその頭を撫で、そしてまた張遼やら華雄やら徐晃の頭を撫でた挙句、趙雲と程昱、そして郭嘉までもの頭を撫でることになるのだが。
 それはまあ、別の話ということにしておこう。







[18488] 五十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/10/12 15:52





「あー……終わったぁー……」

 カタリ、と。
 軽やかな音を立てて巻かれた竹簡を机の傍らに位置する山――竹簡で築かれたものの頂上に置いた俺は、それを崩さぬよう気をつけながら、身体の力を抜いて安堵の声を上げる。
 その場――俺の執務室には俺だけでなく、俺の補佐である王方やその他の文官達もいるのだが、それらも同じくして仕事が終わった喜びではなく、安堵の声を上げていた。
 
「あー……とりあえず、これでようやっと終わった……」

「ええ……私もこれだけの仕事を終わらせたのは始めてですが、さすがに疲れましたね……」

 ふう、と一息つきながら首をコキコキと鳴らせば、同じように疲労の色が濃い王方が声をかけてくる。
 俺よりも遙かに優秀な副官殿でもやっぱり疲れるのか、と思うと同時に、これだけの量をすればさすがに当然か、と思い周囲を見渡す。
 決して広くとは言えない俺の執務室に王方含めた五人分の机が並べられ、それぞれが移動に用いる範囲以外は全て竹簡や書類で埋まっていたことに軽く目眩を起こす。
 もっとも、壁の全てが埋もれている訳ではないのでそこまででは――と考えて、どうにも思考が正常に機能していないな、とばかりに自覚する。
 確かに俺もこれだけの仕事はしたことがない。
 それは内容という意味でもそうであるし、何よりその量がこれまでしてきた仕事とは全然違っていたという意味でもある――無論、大変な意味であるが。

「いやいやしかし、これでようやく普通に戻れるよ……」

「普通もそれはまた忙しそうな気もしますが……まあ、とりあえず一段落したことは確かでしょうね」

 終わらせた仕事の内容に問題が無いか、不足が無いかを確認している文官の姿を視界の中に収めつつ、俺自身もまた、不足が無いかどうかを手元にある資料を基に確認していく。
 死傷者およびその遺族への補償諸々、石城安定周辺および長安までの道程における治安の強化、長安の物流促進、朝廷への礼状云々や各諸侯達にむけた朝廷名義の戦勝報告など――反董卓連合軍における諸々の後処理が、今この時、あの軍議からおよそ一週間の時を経てようやく終わったのであった。

 その事実と結果に感謝し、王方や文官達に今日はこれを配り終えたら仕事を終わりにするからまた明日から頑張ってくれと言い残しつつ、俺は机仕事で凝り固まった身体を動かしつつ、書類の山を崩さぬように執務室から出て行った。





 そんなこんなで歩くこと少し。
 文官達に言ったように俺も今日の仕事を終えたい所だが、如何せんそんな状況では無い。
 ならばと思い早めの昼食を取って仕事を続けるか、と凝り固まった身体を動かしつつ歩いていた俺は、手に剣と楯を持って数ある中庭の一つに立っていた――何故に。

「……一週間ほぼ徹夜に近い状況でまともに身体を動かせるとは思えないんですけど?」

「なるほど、一刀殿の言うことはもっともでしょうが、戦場はそのようなことは待ってはくれませんぞ? 何より、この調練は一刀殿が望んで行っているもの。文句を言われる筋合いはありませんなぁ」

「……左様ですか」

 まあその理由も目の前に立つ人物なのだが。

 では構えられい。
 そう言い放つかのように槍を構える少女――趙雲を前にして、俺は知られずに息を吐く。
 俺が望んで、というのは確かに間違ってはいないのだが、それを望んだのは既に五日も前のことだ。
 二日間をほぼ缶詰状態で仕事をこなしたものの、あれだけの戦場の中にあった興奮はそう易々と抑えられることもなく、かといって抑え込む気力も勿体ないと思った俺は、副官たる趙雲に調練を願い出た。
 まあ調練といっても軽く身体を動かしたい、との言葉であったのだが、何を思ったのかは知らぬが、思いの他全力で向かってきた趙雲にこてんぱんにしてやられたのである。
 うん、まあここまでは良かった――だが、これで終わらないのが最早日常と化している気がしないでもない。
 その翌日、仕事に区切りを見つけ昼食にと出かけた俺は趙雲に連行されて調練に励み、そして張遼やら呂布やら全くもって軽く動く、という目的とはかけ離れた動きをする方々によってぼろぼろにされたのであった――無論、この日から今日に至るまでそれは続くこととなったのは当然のことである。

「……よくよく考えれば、最初だけで調練を終えていれば一週間もかからなかったんじゃ……?」

「……ははは、はてさて一刀殿、早く構えられよ」

 であるのに。
 誤魔化しやがるかこの野郎。
 眠気と疲労で身体は重く、連日の猛特訓――もとい、調練によって今なお鈍く痛む筋肉に活を入れて、手足をどうにかこうにか動かしていく。
 構えろ、なんて趙雲は言うが、生憎とそんな悠長な動きをする余裕は今の俺には無い。
 そもそもが体力的にも限界に近い状態である、まともに打ち合った所で勝利の光を見出すことすら難しいのに体力的に振りであるなら、短期決戦こそが望ましいと判断する。
 ならばこそ、いやいやはてさて、と笑う趙雲に向けて、俺は唐突にと駆け出してた。

「シイッ!」

「おわっとぅッ……いきなりとは、中々今日は元気があるようで」

「無理矢理にでも動かないと身体が動かないんですよ、誰かさんのおかげで」

「いやはや、照れますなあ」

「褒めて無いですってばッ?!」

 駆ける体勢で下から上へと切り上げるも寸でのところで避けられると、振り切った体勢のままに、前へ出る。
 剣を握ったまま右肘を前へと突き出しながら迫る俺に対して、趙雲は特に焦るふうでもなく少しばかりの距離を取ると槍を振り下ろしてくる。
 それに合わせる形で曲げた肘を伸ばし剣を横薙ぎさせれば、甲高く、それでいて鈍い鉄の音と共に、剣と槍が交差した。

「いやはやそれにしても……随分とやつれておいでで。寝食を惜しんで政務をこなすのも結構ですが、少しは身体のことも労わられよ」

「はは、子龍殿と同じことを白義殿にも言われましたよ。ただまあ……俺からの報告を待っている人達もいましたから、悠長にも出来んのですよ」

「……なるほど」

 ギチリ、と。
 嫌な音が目の前で起きると同時に、俺は盾を装備している左手ごと趙雲にむけて振るう――というよりは殴りかかる。
 趙雲ほどの武人であるなら俺如きに殴られたところで、とも思うのだが、金属である盾を装備したままであればどうなるのか。
 人体に斬りつける形でも刺さる形でも無い盾ではあるが、そこはやはり鉄の塊、それで殴られればただでは済まないだろうと思ってのことだったのだが。
 思いのほかひらりと簡単に避けられてしまえば、どうしようもなかった。

 そうして訪れた少しばかりの距離に、俺はふと脳裏にある一覧を浮かべる。
 竹簡十数巻に記されたそれらは全て人の名前であって、その名前の人物を補足するかのように虎牢関や汜水関の名、そしてその時の情報が記されている――いわば、戦死者一覧であった。

 今頃はきっと遺族のもとに戦死の報告と補償を持った文官達が訪れている頃だろう。
 初めこそ俺が全ての遺族の元を回る、と言っていた。
 責任を感じて、と言われればそうだと答えるしかない。
 策を考えた責任、軍を動かした責任、人殺しを命じた責任――まあ、色々とある。
 その全てに対して責任が取れるとは思ってはいないが、それでも、自分に出来ることはと思っていたのだが。
 しかして、そんな俺の言葉を遮り、そして抱えていた竹簡を王方はじめとした文官に奪われてしまえばどうしようもない。
 さらには、それは私達の仕事です、と言われしまえば無理にでも取り返すことも出来ず、言葉少なく任せるしか出来なかったのである。

「ふむ……なるほどなるほど。やはり……」

「? どうかされましたか、子龍殿?」

「いや、先の動きを見るにこの隙で攻めてくるかと思ったのですが、存外にも来なかったので、はてと思ったまで……ははあ、さては私に見惚れましたかな?」

 若干の回想――走馬灯だとは思いたくないが、その後に幾分か沈んだ趙雲の声に首を傾げるも、常と変らぬ飄々とした返答に気のせいだったかとその想いを振り切る。
 挙句、にんまりと笑みを顔に張り付かせながら身体をくねらせるものだから、そんな疑問など即座に消えてしまった。
 まあ、にんまりとまるで悪戯を思いついたかのような趙雲の表情は可愛いし、その女性らしい身体は目に毒と言えると思うけどさ。
 
 そんなことを顔に出すことも無く、俺は再び一気に駆けだす。

「ははは……ご冗談を」

「む。いやはや、そちらこそご冗談を。男というものは女子を見るにはいられん性癖でしょうに……それが一刀殿ならなおのことかと」

「どんな変態ですか俺はッ?!」

「はははは」

 盾を用いての身当てに始まり、剣で縦横に斬りかかるものの軽やかに捌く趙雲に、知らず力がこもる。
 くそう、などと思いつつも決定的なものがある筈でもなく、それが余計に俺に力をこめさせていく。
 
 趙雲の槍捌きは、はっきり言って今の俺にはどうしようもない。
 将来的にはどうにか出来るかもしれないし出来ないかもしれないのだが、そこはまあ現状では置いておく。
 調練を続けてきて結構な時が経つし、俺自身としてもそろそろ実力的に少しばかり自覚したいものがあるのだが。
 常日頃から董卓軍が誇る武人達に叩きのめされるだけでなく、成長した証も見えないと報われないと思ってしまう。
 それになにより、おちょくられたままでは終われない、そう思った俺はふと思い立つことがあって口を開いた。

「……正直に申し上げますと、確かに、子龍殿に見惚れておりました」

「む……一体何を――」

 ガギン、と叩きつけた俺の剣は難なく趙雲の槍にて防がれてしまうが、これで俺の目の前に趙雲の顔があるという状況が出来上がった。
 かつて及川は言っていた――女の子と話し、かつ堕としたい時は至近距離から目を見て話すんや、と。
 あの及川の言うことが一体どれだけ信じられるかは分からないが、まあ、女の子を堕としたいと特段思ったことの無い俺からすれば、この言葉は非常に貴重な助言である。
 まあ別に落としたい訳ではないんだけど、などと誰にともなく呟きつつも隙を作るためには、そう思って俺は趙雲の瞳を見つめて口を開いていた。

「その瞳は優しく身を包む陽光のように」

「……は?」

「その髪は清流が如くに蒼く輝き」

「……」

「その滑るような肌は淡く白い絹のようで」

「……く」

「薄く咲く桃のような唇は、まるで――」

「くく……も、もう、止めて下され……ぷくく」

 だと言うのに。
 初めこそ静かに聞いていた趙雲であったが、不意に真剣な瞳が揺らいだと思うと、頬をひくつかせながら俯く始末。
 照れての効果は抜群か、とふと嬉しく思ったものだが、俯いた趙雲から零れ出た言葉によって即座にその考えを改める。

 まあ、俺もこんなのでいけるとは思ってもいなかったし、自分の口からこんな訳の分からない言葉が出てくることに驚いたりもしたけどさ。
 まさか笑うことは無いだろう、と必死に笑いを抑えようとする趙雲を軽く睨む。
 そんな俺の表情を拗ねていると思ったのか、はたまたどう思ったのかは分からぬが、ようやっと笑いを抑え込んだ趙雲はその姿勢を正した――まあ、まだ口端が引くついているのは見なかったことにしておこう。

「いやはや、まさかこのような手段をもって勝ちを狙おうとするとは……やはり一刀殿は面白い御仁だ」

「褒められているのかどうかは分からないけど、まあ、その言葉は素直に賛辞として受け取っておくことにしますよ」

「うむ、そうされるがよろしい。……さて、思わぬ中断がありましたが、続きと参りましょうか」

 俺の愛の賛辞――と言うかどうかは別にして――を受けてにやにやしていた表情を引き締めなおした趙雲に対峙し、俺も即座に先ほどまでの流れを頭から追い出す。
 先ほどまで劣勢だった場は仕切りなおされる形となったが、それがこちらに有利に働くとは思えない。
 かといって、先と同じく意表を突く言葉を並べたところで、もはや趙雲には効き目が薄いだろう。
 賛辞で駄目だったのなら愛の告白か、と変な方向に飛びそうになる思考を切り替えるために、俺はとりあえずとばかりに趙雲へと向かって駆けだした――のだが。


「先の言葉が忘れられず、かといって再度同じでは勝ち目薄。その状況下でとりあえずの一撃とは……一刀殿、思考が単純過ぎですぞ」


 ゆらり、とした趙雲の顔が目の前にあると認識したと思えば、俺は頭への衝撃と共に俺の視界はかちり、と闇が濃くなっていく。
 落ちる、と思うと同時に何とか一矢報いようとするものの、次いで顎を下から打ち抜かれた衝撃と共に俺は意識を完全な闇へと手放すこととなったのである。

 ちなみにこの後、意識を手放す寸前の趙雲の顔が赤みがかかっていたのでは、と思った俺は、復活した後に趙雲の元を訪れたのだが。
 体調が悪いのに無理させたか、と思っての俺の行動ではあったのだが、楽しそうに酒の席を続ける趙雲に杞憂であったかと首を傾げることとなるのであった。





  **





「――そう……ならばそれで進めて頂戴。桂花、例の件は?」

「予定より早めに進めております。こちらの件は予定通りに」

「そう……早く進めるのは構わないけど、他の案件とのことも考えて頂戴ね。一つだけが突出して早ければ、他の分との連携が崩れて疎かになる……軍事も政務も同じことよ」

「心得ております」

「華琳様」

 洛陽より虎牢関汜水関を隔てて東に位置する街、陳留。
 彼の街の太守は張莫であるが、彼女の親友であり陳留を実質的に纏める少女――曹操は、荀彧からの報告に思考を働かせていた。

 反董卓連合軍の敗北によって受けた損害は、もはや跡形も見えないようになった。
 元々、大規模な戦闘があった訳ではないからそれほど兵を損なった訳でも無いし、唯一の損害と言っても言い火計による兵糧の損失も、想定していた被害よりは幾分も少ない。
 奇襲の混乱にあった戦傷者だけは想定よりも多いものであったが、それでも、軍を維持する上においてはそれほどのものでも無かった。
 結果として、反董卓連合軍においてで言えば、被害は軽微であったというところか。
 そう考えながら、曹操はこれまで受け、目を通した報告を思い出しながらそう結論付ける。

 となると、そこから考えることは当然これからのことである。
 いくら自軍――まあ、張莫から兵を借りているため陳留軍とも言える――の損害が軽微だったとはいえ、反董卓連合軍が敗北したことに変わりはない。
 変わりがないのであれば、董卓がその戦勝の勢いに乗って進軍を開始することも当然の可能性であった。
 それを曹操も、そして張莫も危惧したからこそ、損耗した軍備を拡充させつつ街の防備を固めるという案件を最優先させていた――のだが。
 汜水関を見晴らせている兵から董卓軍出撃の報は聞こえず、その周辺に放っている斥候からは出撃の機運も見られないという報告が来れば、それも杞憂であったかと思えてくる。

 まあ、警戒するにこしたことはないし、何より、董卓軍にはあの北郷一刀がいる。
 彼の人となりを熟知している訳でも無いが、あの戦いぶりを見る限りではどんな策を講じてくるかは中々読めるものでもない。
 読めないのであれば、警戒し、そして策を講じてきた時にどれだけ迅速に動けるかで勝敗が決まってくるのだ。
 その意味で、現状は維持と言える。

 しかし、そればかりに思考を傾ける訳にもいかない。
 そうして諸々の報告を――今日は真面目に――受けていた曹操は、それを遮って聞こえた声に応えた。

「どうしたの、秋蘭? 今日は報告を受けるようなものは無かった筈だけど?」

「はっ……先ほど、報告を受けたのですが――」

 まさか桂花と二人っきりを怪しんで、とか、寂しくて来たのか、とも思ったが、ふとそれは彼女――夏候淵の役割では無い気がした。
 どちらかと言えば彼女の姉の方がそれに似合うのだが。
 そこまで考えて、夏候淵の声に若干の張りを見つけた曹操は、茶化すことなく夏候淵からの報告を聞いた――


 ――見張らせていた件の娘達が、洛陽へと向かってしまった、と。


「なっ……?!」

「ふむ……それは確かなの、秋蘭?」

「どうやら報告の通りのようです。連合軍に勝利した董卓が洛陽を広く開放し難民や転居者を受けて入れているとの噂を聞きつけたらしく、その集団に紛れて汜水関を抜けた、と……」

「そう……」

 やってくれたわね、と歯噛みし苛立ちを隠そうとしない荀彧から、曹操は思考を外す。
 三人もいれば一人は頭の良い人物もいるだろうとは思っていたが、まさかこの状況でそう動くとは。
 反董卓連合軍に勝利しここで勢力拡大とばかりに董卓軍は汜水関虎牢関を開け放ち難民を迎えているとは言え、その警戒を緩める様子は無い。
 無論、先の戦いで確認された諜報を専門にする部隊も当然詰めているであろうから、それも本気であるだろうし、その姿と存在を知ってしまえばそもそもがそれに感知されない程度までしか近づけないというのもあったのだが。
 無闇矢鱈に挑発しない。
 その態度が裏目に出てしまったようだ。

 かといって、今更見張りを再度送る訳にもいかない。
 最早あの娘達は難民に紛れてしまっていることだろうし、洛陽に近くなればなるほど董卓軍の諜報部隊は目を光らせていることだろう。
 ともすれば、見張りや斥候があの娘達と接触するのが見つかってしまえばそれはいらぬ混乱を招くことになり、それはこちらにも飛び火するであろうことは容易に想像出来た。
 現状において董卓軍を真っ向から敵にすることは賢明では無い、そう考えた曹操は一つの策を思い浮かべる。 

 特に害がある訳でもなく、あの時――黄巾賊が乱を起こしていた時は名を上げるだけで実がそれほど必要であった訳でもなく、そして次があれば即座に対応してまた名を上げるために利用するつもりであった。
 その時にそう考えた――考えてしまった自分が間違っていたことを認めると同時に、これは一つの好機であると曹操は考えたのである。
 即ち。



「……桂花、私が留守の間の雑事を任せるわ。秋蘭、紅瞬を呼んで頂戴。我らが軍で討ち取った筈の黄巾賊の首魁、それに似た人物が洛陽へ向かったという情報を得たのでその確認と報告……あとはそうね、遅くなった戦勝祝いにでも行きましょう、とでもしておこうかしら」



 反董卓連合軍が終結した後、董卓は――そして北郷はどう動くのか、そして敵なのか。
 その見極めの好機である、そう考えたのであった。





  **





 そうして多少の前後はあれど、時を同じくして。
 曹操とは別の地、遠き地にある姫達も、同じ考えに至ることになる。





  **





 例えば、江東にほど近い地――その河縁にて。

「さーてと……行くわよ、冥琳、蓮華、思春。洛陽に乗り込むわよ」

「ちょ、ちょっと姉様ッ、乗り込むんじゃないでしょう?!」

「蓮華様の言うとおりよ、雪蓮。今回の訪洛、戦勝を祝うと同時にこちらに董卓と争う気が無いことを示すためなんだから。前回のような揉め事は勘弁して頂戴」

「別に、北郷に会えたんだから結果良しじゃない……って、はいはいかってるわよ、だから睨まないでよー。冥琳も心配性なんだから」

 ひらりと船に乗った孫家の当主を追って、三人の女性が乗り込んだり――その中で、蓮華と呼ばれた少女と思春と呼ばれた少女が眉を顰めたり。





  **





 例えば、河北の地よりさらに北――異民族に抗する将軍が住まう地にて。

「……ごめんね、白蓮ちゃん。忙しいのに洛陽にまで付いて来てもらっちゃって」

「別にいいさ、気にするなよ、桃香。それに、私も漢王朝の臣として行った方が良いだろうしな。良い機会だったんだよ」

「それでも助かります、白蓮殿。我らは義勇軍、董卓殿に会おうとしても追い返されるのが関の山でしょうから」

「別に愛紗も気にすることはないさ。それにだ、お前らに聞いた北郷なら、なんとなくだけどそれでも会ってくれそうだしな。私個人としても気になる所はある、一度見てみるのも悪くはない」

 その渾名に恥じぬ白馬に跨った女性と、汜水関と虎牢関の地において天の御遣いと相見えた少女達――その中の愛紗と呼ばれた少女が眉を顰めたり。






  **





「ふぇ……ふぇっくしゅん」

 しかして。
 本来であれば相見える可能性など塵ほどに小さい人物達が、その塵ほどの可能性をもって洛陽へと向かうというこの状況を俺が知る由などある筈もなく。
 
「風邪だろうか……ただ疲れているだけなのか……うーむ」

 ずず、と垂れそうになる鼻を啜り、額に手を当て熱が無いことを確認しながら、俺は首を傾げる。
 冷や汗らしきものを流しつつ背筋を振るわせたのも、風邪か疲れによるものだろう、うん――と、何故だか非常に嫌な予感を感じつつも、俺は報告書の山を抱えながら董卓の執務室へと歩いていた。







[18488] 五十八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/11/11 14:14





「これでッ!」

「うわっとぉっ?!」

 防御のために構えていた剣を腕ごとはじき飛ばされた俺は、それを成してこちらの懐へと飛び込もうとする少女に向けて勢いに流されるままに蹴りを放つ。
 軸足に力が入っている訳でもなく、腰の回転を使わない、まさに膝から先だけを使っての蹴りではあったが、懐へと潜り追撃を仕掛けようとした少女はそれを嫌ってか一歩距離を取る。
 その隙を突いて体勢を整えた俺は、無理矢理に動かした身体の鈍い痛みと荒い息が整うのを待って、少女――魏続へと構えた。

「……やはり、中々やりますね北郷殿。恋様が褒めるだけのことはあります」

「それはどうも――って、恋が褒めてくれるの? 俺を?」

「ええ、それはもう。口を開けば北郷殿は凄いとばかりに……ねね様と、もげればいいのに、と日々口に出すほどです」

「……き、聞かなかったことにしよう、うん」

「……もげればいいのに」

「ヒィッ?! や、止めて怖いッ、っていうか無表情でそんな怖いこと呟かないでッ!?」

 そんな魏続の言葉に、衝撃を与えられた訳でもないのにキュンと軽い痛みが襲うのを頬を引く付かせながら受け入れ、得体の知れない殺気からくる寒気を抑え込みながら、俺はチキリと剣を構え直す。
 魏続との――実力が拮抗している相手との鍛錬にて、盾を用いて守りを固めるというのは些か鍛錬の意味合いとして違うのではないか、として彼女との鍛錬においては盾を用いてはいなかったのだが。
 そんな魏続との鍛錬が見たいといった呂布と華雄の言葉に踊らされた俺と彼女の打ち合いも、そろそろ数えるのが面倒くさいほどになってきていた。

 というか、やはりこの世界の女の子達――まあ全年齢的に女性とも言うが、彼女達は強い。
 それは武力であり智力であり魅力であり財力であり、まあ色々な面でなのだが、そう知っていてなお、目の前でそれをまざまざと見せつけられてしまえば、それも顕著である。
 今まさに相対する魏続もそうだ。
 黄巾賊が安定の街を襲撃した時に呂布達が助けた少女。
 それまでは戦うことはおろか、剣を持ったことすら無いと言っていた彼女が、今こうして剣を持って俺と鍛錬をしている――しかも実力は拮抗――その事実は、やはり俺の中の常識とは違っていた。

「一刀ー、男のくせに勝てへんとか情けない思わんのかいなー」

「いやいや、張遼よ。あれでいて一刀殿は十分に男らしいかもしれぬぞ? つい先日とて、鍛錬中にいきなり私を――」

「……一刀も、ぎーも、どっちもがんばれ」

「ぎー殿よ、ここで勝って北郷をもぐのですぞ!」

「ふえー、二人ともやるもんだねー。ねえねえ、子夫、あの二人とやって勝てると思う?」

「ふむ……まあ、動きを見た限りではまだ負けるとは思えんな。だが、どちらも成長の速度は速いから、後々には分からんかもしれん」

 そんな俺と魏続を囲むように居座る面々から様々な声がかかるが、こちらとしてはそれに意識を取られるような隙は見せられる筈もない。
 俺と魏続の鍛錬を肴に酒を飲む張遼と趙雲はニヤニヤとこちらに視線を送り――ていうか子龍殿、それは言わないで恥ずかしいからお願いします――饅頭を咀嚼しながら応援の声を上げる呂布と何をもぐのかと怖くて聞けない陳宮に、至って真面目に状況を分析する李粛と牛輔。
 気が抜けるのか抜けないのか、よく分からない面々の声に促されるに反し、俺は口を開いていた。

「さて……今日はこの辺にしておきましょう」

「む。北郷殿が一勝、私が未勝……勝ち逃げですか?」

「いや、そんなつもりは無いんですけど……そろそろ警邏の時間ですし。これでも中々に忙しかったりしますし」

「うむむぅ……仕方が無い、ですね」

 今日はこれまで。
 その俺の言葉に巻き起こる不満の声――主に酒の肴が足りぬという張遼と趙雲だが――を無視して、俺は剣を鞘へと納め地面に置いていた盾を拾う。
 そんな俺の行動に従って魏続もこれまでかと剣を収めるが、その顔に張遼や趙雲とは違うものの、そこにはありありと不満の色が浮かんでいた。
 まあ、今日は鍛錬だけで一刻ほどしかしていないし、その中で魏続に一度勝っていたがための勝ち逃げである、と理由は分かるものなのだが。
 これで通算成績が十二勝十一敗と勝ち越ししたことにはなるのだが、断じて負けて引き分けに持ち込まれるのが嫌で切り上げたという訳ではないことをここに断言しておきたい、俺はそんなに心の狭い人間では無い、と。
 
 とはいえ、俺が忙しいのも事実であった。
 反董卓連合軍との戦いにおける報告や事後処理等はつい先日に終わりを迎えたのだが、仕事はそれだけでは無いし、やらなければいけないことや進めなければいけない進捗は山ほどある。
 これからで言えば、警邏に繰り出した後には兵の調練に顔を出し、兵長たちから意見やその他諸々を聞いて回り、軍備拡充における問題点を報告するなど、今から考えるだけでも夜が更けるまで仕事を終えることが出来ないのは想像に難くない。
 それを知っているからこそ、魏続も唇を尖らせながらも仕方ないと言葉を零したのである。

「北郷殿が忙しいことは承知していますので、まあ、仕方がありません……ですが、次回は私が勝ち越して通算成績も抜かせてもらいます」

「はは、抜かれないように次回も勝たせてもらいますよ」

 とはいえ、武人に近い動きをし始めた魏続に一体どこまで勝つことが出来るであろうか。
 離れた途端に牛輔に頼んで打ち合いを始めた魏続の動きの節々に、呂布や華雄に似たものが見え始めたことに背筋を震わせつつ、俺は警邏へと向かう前に腹ごしらえにしておくか、と厨房へと足を向けていた。





  **





「いやー、今日も良いお天気ですねー」

「そろそろ夏も近いからちょっと暑いけどな」

「それが良いのですよ、宝譿。お昼寝にはちょうど良いのです」

「いや、仕事しろよ」

 てくてく、と。
 人の生活の声と音で賑わう街並みの中、緩やかに流れる金髪を揺らしながら程昱は宝譿と共に歩いていた。
 宝譿はいつもの如く程昱の頭上にあり、共にと言うのは些か間違いではあるのだが、程昱はそんなことを露程も気にせずに、昼食の後に訪れる柔らかな眠気を抑えながら特に何するでもなく視線を動かす。

「それにしても、洛陽も人が増えましたねー。ついこの間まで権力争いの末に人がいなかったのが嘘みたいです」

「まあ、その辺は月や詠、それに北郷なんかが頑張った成果だろ。それに、そんなことはお前の方が詳しいんじゃないのか、風?」

「いやいや、そこは口に出さずに感慨深そうに口にするのが風なのですよ、宝譿」

 宝譿は人形である。
 掌に収まるほどの、到底人には見えない容貌の人形であるが、まるでその人形が喋っているかのようなその言葉の応酬は、驚愕のものがあるのだが。

 だが、得てして人とは慣れてしまうものである。
 洛陽に来た当初こそ、程昱の頭上にある人形が喋っている、などと話題を集め、子供などからは人気を得ていたものだが、その頃から共にいた人物に色々と喋られてしまえばそれはすぐさまに収まったのである。
 ふくわじゅつ、と天の国では呼ぶらしい程昱のその技術を街の人々に教えていった人物を脳裏にと浮かべながら、程昱はふふっと微笑んだ。

「全く……お兄さんには困ったものなのですよ。あれでは風の自分らしさが現れないというのに」

「それにしちゃあ嬉しそうな顔してるじゃねえか」

「そこはそれ。やはり風も女の子ということですよー」

「へっ、自分で女の子と言うのもどうかと――」



「ちょ、ちょっと凄いよ地和ちゃん、人和ちゃんッ!? お、お人形さんが喋ってるッ?!」



 ふくわじゅつ――腹話術という天の国に伝わる技術の詳細を後に聞いたことを思い出しながら、その詳細の出所である人物の北郷のことを、ふと程昱は思う。
 洛陽に来てから――というよりは、程昱や趙雲と郭嘉が董卓軍に救われる形で客将となり、諸々あって程昱は真名を預ける形で反董卓連合軍を相手取り、そしてそれに勝利はしたものの後処理に忙殺されてきたとあって、自分達が絡んでいるとは言っても彼は本当に忙しい人物であった。
 その思考、頭脳、技量はどれをとっても平々凡々の域を出ないが、そんな彼が軍政、内政、治世において董卓軍に大きな影響を与えていることは事実である。
 忙しいながらも諸将と良く顔を合わせては鍛錬を行い、暇を見つけては街へと警邏に出て民の不満を聞き、兵と話しては軍備に真面目に取り組む。
 なるほど、一つ一つの仕事こそ程昱などの軍師や文官の方が早いだろうし、武官や華雄などの将の方が軍備には精通しているだろう。
 ともすれば、北郷はただ指示をすれば良いのでは無いか、そう思うことも当然のことであろう。
 彼はそれだけのことが出来る地位を任されていると言っても過言では無いのだから。

 だが、と同時に程昱は思う。
 それこそが北郷らしいと言えるのでは無いか、と。
 技量と技術、能力が足りていないことは北郷とて理解しているだろう。
 でなければ、趙雲に鍛錬を請い、王方の補佐を受けて文事をこなし、郭嘉や自身に助言を求めることなど無いのだが、北郷はそれらに対して特な葛藤も無くそれらを行うのだ――まるで、初めから自らの力量が自分達に届かないのだということを理解しているかのように。
 だからこそ不思議に思い、そして惹かれた。
 彼が彼らしくあろうとする行動とその理由、そして、そんなふうにまでして董卓や賈駆、その周りに至る全てを守ろうとする彼を支えたいと思う感情と共に、何か不思議な感情が胸の奥で動くのを感じながら――。

 無論この感情がらしくない、そして自分には似つかわしくないものであると、程昱自身も理解している。
 だが、この戦乱の世において、そんな理由で仕えるのも悪くはないと思う。
 一度郭嘉に語った言葉――月を支えようとする北郷に太陽を見たことは事実ではあるが、ふと、彼の行先を見てみたいとも思った。
 ああ駄目だ、本当にらしくなく、似つかわしくない。
 そうして。
 似つかわしくないとした感情によって回されていた思考は、不意の言葉に停止したのである。





  **





「いやー、食った食った。それにしても、まさかメンマを丼物にしたものがあるなんてな……洛陽もまだまだ知らないことが多い」

 膨れた腹をさすりながら、俺はつい先ほど口にした料理――メンマ丼なるものを思い返しながら、警邏という名目で街を練り歩いていた。
 メンマ丼――まあ、ご飯にメンマを盛りつけただけのものであったのだが、そこに柔らかくとろとろになるまで煮られたチャーシューや半熟卵、牛丼でいうつゆだく程度にかけられた醤油味の出汁に、腹は一杯ながらも思い出すだけで口の中に唾液が広がっていく。
 まあ、冷静に考えてみれば醤油ラーメンとご飯を付け合わせただけのものと言えなくも無いが、メンマ丼という名に恥ずかしく無い量のメンマが載っていれば全く別の物と考えることができるのだろうか。
 今度メンマ好きの副官殿にでも聞いてみるか、と思考を働かせた所で、俺はふと視線の先――街中で賑わう人の中で、見慣れた少女が角を曲がるのを見つけた。

「あれは……風、か? 何だってあんな所に……?」

 ひらひらと揺れる服や、金の長い髪、そしてその常に眠たげそうな瞳は風――程昱で見間違いは無いだろう。
 何よりも、ちらりとその頭上に見えた人型の人形は、彼女の相棒である宝譿であった。
 そこまで考えて、俺はふむと言葉を漏らす。
 洛陽も漢王朝の代行として董卓軍が治安改善や維持に努めているとはいえ、その実態はやはり裏まで手が回らないのが現状である。
 何より、ここ最近人の数が膨れたからか、裏のみならず表の通りであっても些細な喧嘩や喧噪は後を絶たないのであれば、手を打たなければならない段階なのだが。
 ただ、現状においての董卓軍は反董卓連合軍における影響への対応と、肥大した軍勢の再編成に追われてそこまで手が回っていない。
 仕方なしに警備隊における警邏範囲拡大で対応しているものの、それが隅々にまで行き届いているかと言われれば怪しいものがあるのだ。
 つまり何が言いたいかと言うと。

「うーむ……あの奥はちょっと危ないならず者が多いから、出来るだけ近づかないようにって通達してたんだけどなあ。風に限って問題は無いと思うんだけど……んー……仕方がない、ちょっと様子を見に行ってみるか」

 近頃騒ぎをよく起こしているならず者や、商人相手に警護の仕事で糧を得ている荒くれ者達などが多く確認されている裏通りに知り合いの少女――しかも一般的に美が付くほど――が向かったのであれば、その知り合いとして、上官として、そして警邏をする者としては様子を見に行く以外に選択肢は無かったのであった。





「にゃ、にゃあ……?」

「にゃーにゃー、にゃおう」

「……にゃー」

「なうなう、にゃおーなのですよ」

「……」

 言葉を失うということは、このことだったのか。

 そうしてまあ、程昱は見つかった――うん、結論から言えば見つかったで合っているし、怪我もなく楽しそうにしているのであれば、さしたる問題は無い。
 ただまあ、猫鳴き声で数匹の猫を相手にしていたり、何故か程昱以外に三人の少女がいることを除けば、であるのだが。
 というか、視界というか、視線の先――まあようするには程昱を含めた四人の少女であるのだが、色々とやばいという問題が唯一そこにあった。
 猫の視線に合わせるためなのか、四つんばいになった姿勢をさらに低くするために下半身――主に尻――を持ち上げる形となっていて、四人共に短めの腰布から除く情景に視線を向けることが出来なかったりするのである。

 正面や横から見るのであれば、それはほのぼのとした可愛らしい光景が広がっているのであろうが、生憎とそこは壁に囲まれており、可愛らしい光景を見るに回り込むということは能わない。
 その変わりというか何というか、にゃーにゃーと言いながら尻尾でも付いているとか思っているのか、彼女達の一部がふりふりと揺れてその度に腰布がちらちら動くものだから、視線を逸らしてもその動く気配によって、知らずに唾を飲み込んでしまうのだから始末に負えない。
 やばいやばいと思いながらも、ちらちらとした視線が段々と正面に向き始めようとしていたことに危機感を抱いた俺は、少し勿体ないと――仕方ないと――思いながらも口を開くことに決めた。
 本音と建て前が逆であるのには、この際、目を瞑ろう。

「……えー……あー……ふ、風さんや?」

「にゃ? ……にゃっ、にゃによ、あんた誰にゃッ?!」

「にゃー……おにーさんは誰?」

「……にゃー?」

「にゃおん? ……おお、何ですかな、お兄さんや? もう風達を後ろから見てはぁはぁするのには飽きたのですかな?」

「いや、気付いてたなら声をかけてよ?! っていうかはぁはぁとかしてないし!」

「いやいや、正直に喋った方が身のためだぜ、一刀よ? 我慢は身体に毒だろうしよ」

 何を言うんだ宝譿。
 はぁはぁなんてしていないし、そもそも、もししていたとしてもここで言えと言うのか、この程昱以外の三人があんた誰とかいう視線を向けている状況で、俺後ろからあなた達見ててはぁはぁしてました、と。
 ……いやいや、無理無理、絶対無理、そんなことしたら俺変態じゃんか。

 と、そんな俺の葛藤を知ってか知らずか――明らかに知っているふうなニヤニヤとした笑みの程昱から視線を外して、俺はふと彼女の周りにいる三人の少女に視線を向けた。
 大きなりぼんを止めた桃色の髪の長い少女、水色の髪を頭の横でとめた活発そうな少女、眼鏡の奥から冷静な視線を除かせる少女、その三人もこちらを見ていたのか、ふと視線がぶつかり合う。
 まあ、それも後ろから声をかけたらこっちに視線を向けるから当然のことか、と一人納得しつつ、俺は口を開いた。

「えーと……俺は北郷と言うんだけど、その、いきなり邪魔して、それで驚かせてごめんね」

「……おおー、もしかしてこの辺りが治安が悪いということを思い出して、心配して来てくれたのですか、お兄さんは?」

「そうだけどさ……てか、治安が悪いことをちゃんと聞いてたんなら、近寄るのよそうよ……」

「いやー、照れますなー」

「いや、褒めてねえだろ」

「……あんた、何、漫才でもしにきたの?」

「違います」

 俺の心配は無意味だったのか。
 いつもと変わらぬ様子でほのぼのと口を開く程昱にがっくりと肩を落としていると、活発そうな少女が明らかな警戒の色を瞳に宿しながら口を開く。
 ふと気付けば、程昱より少し離れた状態で三人は固まっており、逃げる時のことを考えているのか、眼鏡の少女の視線が俺や周囲の路地などに向けられていた。

「……北郷ということは、天の御遣いとも呼ばれている?」

「まあ、そうなるかな……」

「……」

「まあ北郷という名は珍しいですしねー。お兄さんは一度、自分がどれだけ物珍しいのかを知る必要がありそうですね」

 まるで人を珍品か珍獣のように扱う程昱と深く話し合うことは後にしておいて、俺はふと少女達――といっても活発そうな少女と眼鏡の少女だけで、桃色髪の少女はぽけーと猫を見ているのだが――の視線が緩く歪んだことに気付く。
 警戒の色を濃くした、と言えばそれまでなのだが、その色の中には明らかに敵意とも取れる類も含まれており、俺は反射的に自らが所持している武装を脳裏に浮かべていた。

 腰には剣、懐には先を尖らせている鉄の棒が二本。
 程昱も彼女達の反応に気付いているのか、先ほどまでの戯けた雰囲気は鳴りを潜めており、何かしらの行動があれば即座に動けるようにとしているのが分かる。
 そんな彼女を守りつつ、目の前の三人から逃れることが出来るだろうか。
 桃色髪の少女こそほけーと猫と遊び出してはいるが、活発そうな少女と眼鏡の少女がどれだけの武力を誇るのかは、俺には理解出来そうもない。
 そもそも、俺より背も小さく華奢な少女と先ほどまで打ち合っていたり、さらには俺より強い少女にぼこぼこにされていたのだから、俺の判断が露ほどに役に立たないことが分かる――少し悲しいけど。
 
 まあそれはさておき。
 見たところ武器を持ってるふうでもないし、こちらを警戒するだけで特に動く気配の無い少女達にどうするかなと思案してみる。
 とは言っても、とりあえずは表の通りに出た後に程昱を連れてそこで分かれれば良いだけの話なのだが。
 この警戒のしようではそれも難しいと思われたが、かといって治安が安定していないこの場に少女達だけを残して去る訳にもいかない。
 そこまで考えた俺の耳に、意を決したかのように、眼鏡の少女の声が飛び込んできた。

「ふむ……天の御遣い殿」

「いや、北郷でいいけど……何かな?」


「……いきなり唐突ではありますが、私達を雇っては頂けませんか?」


「…………は?」

「ちょ、ちょって何言ってるの、人和ッ?!」
 
「えー、お姉ちゃん働くのやだなー。歌だけ歌ってたいのにー」

「……初めて会った女性であろうと口説くなんて……やはり、お兄さんはお兄さんですねー」

「ちょっと待て、風。そして君もだ」

 何かスイッチが入ったのか、何処かしらが切り替わったのか。
 突然の言葉に意外と俺が冷静だったのかを好機と見たのかは知らないが、警戒一色であった眼鏡の少女は、本当に唐突だなという返答を待つこともなく、その眼鏡をきらりと輝かせながら一歩こちらへと近づく。
 ふと、何処かしらの店員みたいだと感想を抱くが、そんなことを知るはずもない少女は、さらに一歩こちらへと近づく。

「私達、今日洛陽についたばかりなんですが、頼れる人もなく、途方に暮れているところをそちらの女性に誘われてここに来たんです」

「うーん……おお、そちらのお胸の大きいお姉さんが宝譿を気に入って、それこれな流れで風のお友達である猫さん達に会いに来たのでした」

「天の御遣いと呼ばれる貴殿であれば、私としても、私達としても初めて来た街の他人を信じるよりは少なからず信用出来ます。無論、雇われるだけの仕事はしてみせましょう……如何ですか?」

「いや、ちょっと待ってよ。いきなり雇えと言われても、はいそうですかと言う訳には……」

「では、もう一度言いましょう……雇って頂きたい。はい、これでいきなりではありませんね」

「いや、そういう意味じゃないんだけど……ちょ、ちょっと待って、考えてみるから」

 はてさて困った。
 もう一歩――いつの間にか手を伸ばせば届きそうな位置にまで近づいていた眼鏡の少女を前にして、俺はそう思う。
 初見からの感想であれば、彼女達は特別な訓練や鍛錬を詰んだような特殊な人物などではなく、至って普通の人種である。
 誰かしらの暗殺を目的とした暗器の類を用いる人種はそういったふうに見せるのが得意ではあろうが、彼女達が今ここにいるということは、城門前後で警戒している忍の目を潜ったということでもある。
 無論、そこを通らなかったという可能性もあるのだが、その場合はその旨が忍から伝えられる筈であろうし、そもそも程昱が気付きそうなものである。
 いくら常から寝ぼけ眼とは言っても彼女とて軍師、人の機敏と動きは俺よりも詳しいのだから、そんな少女達を自らの領域に招くことは無いだろう。

 とすると、反董卓連合軍が終結し、洛陽が安全だと知って増えだした難民に紛れ込んだ細作であろうか。
 涼州の端に位置する石城安定から長安洛陽を勢力下におく董卓軍は、今や戦乱の大陸において一大勢力となっている。
 さらには数倍にも至った反董卓連合軍に勝利したこともあって、多くの諸侯が注意し警戒するのは当然のことであろう。
 事実、ここ最近で入り込もうとする細作は増え続けていると報告があり、賈駆もまたそれが当然と言っていたのだから、その可能性は否定出来なかった。

 だが、である。
 それもまた好機であろう、と俺は思うことにした。

「……まあ、いいだろう。君達を雇おう」

「ええッ、本気で?! ちぃが言うのもなんだけど、あんた頭おかしいんじゃないの!?」

「んもー、駄目だよ、地和ちゃん。人和ちゃんが頑張ったおかげでせっかく雇ってくれるって言うんだから、ここは変なこと言っちゃ駄目なの」

「お姉ちゃん、でもこいつがおかしいのは……って、あれ? 猫は?」

「んーとね、ご飯食べに行ったみたい」

「……ありがとうございます」

 まさか承諾されるとは思っていなかったのか、活発そうな少女――地和というのが真名らしい――が驚きの声を上げ、それと同じ色を宿して眼鏡の少女が目を白黒させる。
 先ほどまで静かで落ち着いた雰囲気を纏っていた人和と呼ばれていた眼鏡の少女が、どことなく可笑しく、そして可愛らしい反応を返してくれたことに若干の嬉しさを覚えたものだが、自らが取った行動を気にするでもなく、眼鏡の少女は礼と共に頭を下げた。

 それにしても、後ろにいる桃色髪の少女は見ていて和むな。
 猫とじゃれていた時もそうであるし、彼女が本来持つ雰囲気も十分に和めるものがある。
 だと言うのに、その雰囲気には不釣り合いなほどの凶悪なむ――程昱さんや、何故にそんな鋭い視線を飛ばしてくるのでしょうか。
 ま、まあともかく、和む、うん和む。

「さて、では契約内容を話し合いたいと思うのですが……ここでは何でしょうし、どこか良い場所を知りませんか?」

「おお、では風がお気に入りの飲茶店へと連れて行きますよー。勿論、お代はお兄さん持ちですが」

「おい……まあ、別にいいけど」

 俺の言葉にやったやったと喜ぶ桃色髪の少女――名前を聞いていなかったが、関係的に彼女が長姉らしい――に引っ張られていく活発な少女と眼鏡の少女について、俺と程昱も歩き出す。
 
「……お兄さんも、中々に悪ですねー」

「いえいえ、風さんほどではありませんが……まあ、何とかなるかな」

「そですねー……まあ、お兄さん次第かと」

「はは、努力するよ」

 はっきりと言って、彼女達は情報源として――そして、操作した情報を渡す混乱役にすればいいと、俺は思っていた。
 もちろん、それは彼女達が細作――もしくはそれと同等の人物達であったとしての場合であるが、そのどちらにしても忍による監視は必要であろう。
 細作なら機密に触れないように警戒し、違う場合は純粋に客人として護衛させれば良いのだ。
 何かしらの事情がありそうな彼女達のことだ、どんな形になれど護衛は必要であろう。

 細作であった場合は、誰が敵であるかという判断が実にしやすくなる。
 もっとも、それは厳密に彼女達を監視出来た場合になるのだが、その辺は忍を――楊奉達を信じるしかないだろう。
 さらには、得させる情報についても、監視がいればある程度の誘導は可能になるだろう。
 そうなれば彼女達を潜ませた勢力に対して嘘の情報を与えることも可能となるし、情報の操作加減では二虎競食もあり得るだろうと思う。
 そこに至ったからこそ、程昱もまた俺の決断に口を挟まなかったのかもしれない――なお、これは後日間違いではなかったと知ることになるのだが、それぐらいはすぐに至って欲しかった、という程昱の言葉に打ちのめされるのは全くの余談である。

 それはともかく。
 ぼそぼそ、と互いに呟いた言葉は三人の少女達に聞こえたふうでもなく。
 俺達は表の通りはどっち、と悩む三人に合流するために足を急がせたのである。





  **





「――と言うわけで、しばらくは彼女達の身の回りを調べつつ、護衛を頼みます」

「あいよ。大将の頼みだ、十分に心得ているが……何だい何だい、いきなり三人も囲うたあ、大将も隅に置けないねえ」

「……ちなみに、何と勘違いしてるんですか?」

「ん……何だい、あの娘達は妾か、或いはそういう商売の娘達じゃないのかい?」

「違います」

 じゃらり、と感触と音でそれなりに入っていると思わせる布袋を楊奉に手渡しつつ、下卑た笑みのままに肘でつついてくる彼女から少し離れる。
 人差し指と中指の間に親指を入れるのってこの時代でも有効なんだな、とどうでもいいことを考えつつ、俺は程昱と共に城への道を歩いていく三人の背姿を見やる。

 天和と名乗った桃色髪の少女、地和と名乗った活発そうな少女、人和と名乗った眼鏡の少女達は、それが真名であると教えながら、決してその姓名を答えようとはしなかった。
 それだけで何か訳有りであると判明するものの、かといって一度雇う約束をした以上、それだけで反故にする訳にもいかない。
 だが、真名をいきなり教えられてはいそうですかと呼ぶわけにもいかないとした俺と、真名を呼べと言った彼女達との――主に人和――話し合いの結果、テン、チー、レンというとりあえずの名で俺は呼ぶこととなった。
 それに対する不服不満を彼女達は隠すことは無かったが、人和――レンのいきなり信用を得ることは難しいだろうという言葉に、渋々従ってくれた。
 なお、程昱は特に気にもせずに真名で呼んでいたのだが……真名ってそんなに軽いもんだったか、俺は首を傾げることとなる。

 はてさて、それはさておき。
 違うってんならあたしが相手してやろうか、といつの間にか耳元で怪しく囁いた楊奉から慌てて身を離した俺は、とりあえずとして城への案内を頼んだ程昱が見えなくなったことを確認して、当初の予定であった警邏へと戻ることにした。

 慌てた俺が面白可笑しかったのか、笑いを堪える楊奉にじと目を向けた後に、さて何処に行こうかと迷った俺は、とりあえず城門に行こうと足を向けた。



「……あら?」

「あら?」

「あっ!」



 その過去の俺に、今現在の俺は一言言ってやりたい。
 そのまま程昱達と一緒に城の案内をしておけ、と。

 洛陽の城門を中に入った地点。
 城門からの大通りと、市場や飲食街が並ぶ左右の道と合流するその十字路において、俺はその三人――と数人――に出会うこととなる。



「あら北郷、わざわざ出迎えてくれたの?」

 妖しく微笑みつつ二房の金髪を揺らすは、曹孟徳。
 その隣には見覚えのない紅蓮の髪を持つ女性が立ち、後背には夏候淵と腹を満たしてか何処か上機嫌な夏侯惇の姿が。

  
「あら、北郷じゃなーい。何々、わざわざ出迎えに来てくれたのー? そ・れ・と・も、ようやく私達に天の胤を落としてくれる気になったー?」

 ちゃぽんと酒瓶を鳴らしながら可愛らしいけもののように表情を動かすは、孫伯符。
 その背後には周喩は溜息を漏らし、そんな彼女の隣には明らかな敵意をもってこちらを睨み付ける二人の少女。


「あ、あの、北郷さん……その……あ、遊びに来ちゃいました?」

 汜水関の折に邂逅しその理想と思想をぶつけ合ったことからおどおどしつつ、それでもなお笑顔を見せようとする少女、劉玄徳。
 そんな劉備の隣に立つは興味を持った視線でこちらを見る赤髪の少女と、敵意とも殺気ともとれる視線を飛ばす黒髪の少女、関羽。



「……何でこう色々と考えたい時に揃うかな?」

 片や蠱惑的に。
 片やにこにこと。
 片やこちらを窺うように。
 傍から見ているだけなら可愛い美人綺麗といった感想を抱きそうな、それでいてその裏にある性格と事情が簡単にそれを許してはくれそうもない笑顔と視線をひしひしと受け止めながら、俺は誰に聞かすでもなくぽつりと呟いていた。






[18488] 五十九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2011/12/07 15:28






「曹孟徳、及び張孟卓、董卓殿に戦勝の祝いを申し上げるものとする」

「同じく孫伯符、及び孫仲謀、戦勝祝いを申し上げる」

「公孫伯珪、劉玄徳、董仲頴殿に戦勝における祝いを申し上げる」

 よくもまあ、どのような顔をして言えるのか。
 そうした感情が胸の中に溜まりそうになるが、誰に知られることもなく息を一つ吐いて、そういった感情を出来るだけ外へと排出する。
 黒いもやがかかっているような気分も幾分かは落ち着いてはみたものの、だからといって、その全てが感情から排せるはずもない。
 少しばかりの猜疑心、そして警戒心を抱いたままに、俺は眼下にて頭を下げる六人の少女――後背に控える少女達も含めれば十数人にもなる彼女達へと、視線を向けていた。

 陳留刺史、曹操。
 兗州陳留太守、張莫。
 袁術客将、孫策。
 孫策実妹、孫権。
 幽州遼西太守、公孫賛。
 義勇軍大将、劉備。
 そして彼女達の後背に控えるは、曹操の腹心である夏候惇夏侯淵姉妹に、劉備の義姉妹の関羽、孫策の親族らしき少女とその副官らしい少女である。
 見目も麗しく、その肩書きからどれだけでも優秀であることが窺い知れる彼女達であるが、であるからこそに、こちらとしては警戒心を――反董卓連合軍に参加していた彼女達に対して疑わないわけにはいかないのであった。

 無論そのように警戒することなど、俺でなくとも当然のことであろう。
 彼女達を前にして座る董卓、その傍らの賈駆と張遼、徐栄、俺の後ろに控える趙雲など、みな同じように顔を強張らせて彼女達の一挙一動に意識を探らせていた。

「ふう……そのように警戒されては、こちらとしても堅苦しいものがあるのだけれど。もう少し楽にしてもらえないかしら?」

「そんなもん、するなちゅう方が無理な話やろ。特に、あんたらみたいなのが前におるんやったら、なおさらや」

「あら、ずいぶん買ってくれているのね。天下にその名を轟かせた董卓軍からの評価、光栄に至り、ってところかしら」

「亡き江東の虎、孫文台の娘か……なるほど、親が虎なら娘も虎ということだな」

「あら、徐栄だったかしら……母様を知っているの?」

「なに、昔すこしな」

 ぴりぴりとした張りつめているだけの空気とは違う、まるで戟が混じり矢と怒号が飛び交う戦場の、その一歩前という空気に知らず湿った手のひらを固く握る。
 口を開いた曹操と孫策などは特に気にしたふうでもないのだが、それに応える張遼や徐栄の顔には明らかな警戒が見て取れる。
 そもそも、多くの武官文官がいるとはいえ、武将という位の人物は張遼と徐栄、それに趙雲ぐらいである。
 それに対して、曹操は夏候惇と夏侯淵がいることに加えて彼女自身の武力も高いであろうし、孫策は以前見た感じでは俺より遥かに強い上に、その妹と副官も強いであろう、さらに公孫賛と劉備にはあの関羽がいるのだから、この場にいる戦力的には不利は否めない。
 ともすれば三組が組んで董卓を討ちに来たのか、と思わないでもないのだが、そんな俺の考えを知ってか知らずか、紅蓮の髪の少女――張莫が口を開く。

「そんなに気にしなくたって、別にあなたが危惧しているようなことを起こすつもりは無いわよ、天の御遣い殿?」

「……はいそうですか、と簡単にその言葉を認める訳にもいかないことはそちらとてよくご存じの筈ですが、張莫殿……でよろしかったでしょうか?」

「ええ、張莫で構わないけど……そんなに敵視しなくてもいいと思うのだけれど?」

「よく言うわ。あんた達が月に――私達董卓軍に矛を向けた反董卓連合軍に参加していた、それぐらいはこっちだって知っているのよ」

「け、けどそれは、洛陽の人達が苦しんでいるって話を聞いたからッ」

「そのような実態も無い街に攻め込み、あまつさえ自分達が民を苦しめていれば世話はありませんな、劉備殿」

「ッ?!」

「愛紗、落ち着けっ……趙雲も、相も変わらずのようだな」

「はっはっはっ、伯珪殿にお褒めに預かり光栄ですな」

 いや褒めてないだろう、と軽口を叩こうにも、その場の雰囲気がそれを許してくれそうにもない――いや、軽々と叩く趙雲が怖いもの知らずというか、胆力が凄いんだろうけど。
 だがそれでも、こちらまで聞こえそうな関羽の歯噛みの音に、後背に控える趙雲の気配がさらに張りつめたものへと変わるのを感じる。
 普段は色々と茶化すような人物であるが、やはり武人ということか。
 いつでも飛び出せるように即応の気配が後背で大きくなるのを感じつつ、俺は少し現状を纏めようと思考を働かせることとにした。



 戦勝祝いに赴いた。
 洛陽の街中において、十字路で出会った少女達――曹操に孫策、劉備からそう聞かされた時は何を馬鹿なことを言っているのかと思った。
 董卓軍の勝利は、それが擁する後漢王朝皇帝である劉協の勝利である。
 それは対外的なものであるし、細かいこと詳しいことを省けば色々と語弊があるかもしれないが、董卓軍のみならず多くの諸侯がそう思うことは当然のことであろう。
 それ故に、反董卓連合軍は偽の勅旨までを流布し檄文を上げてまで、自分達は朝敵ではないということを世間に知らしめたのだ。

 朝敵ではないと知らしめる、確かにこれは一応の成功を収めたと言っていいだろう。
 その檄文に乗じて名を上げようとした者、勢力拡大の好機とみた者、都の権力を手中にしようとした者、檄文を間に受けて義憤によって起った者、様々であるが、総勢二十万もの軍勢を揃えることが出来たのであるから。
 だが、その二十万の兵力もいよいよ洛陽へと辿り着くことは出来なかった。
 それどころか、待ち構えていた董卓軍によっていいようにとあしらわれ、汜水関に至る緒戦において散々に打ちのめされ、虎牢関を前にして分裂するに至り、そして退くしかない状況へと持ち込まれて敗退へと導かれたのである。
 完全たる敗北に至って反董卓連合軍は解散することとなり、それに参加した諸侯達は各々の領地へと戻って力を蓄えることとなったのである。

 ここまでは董卓軍においても解散した反董卓連合軍においても共通の認識だろう。
 勝った側負けた側の区別こそあろうが、黄巾の乱から続く大きな戦いが一段落を迎えたことによって、次なる戦いのために国と勢力を富ませ、軍備を増強する段階であるということも、また共通であることは間違いないだろう。
 では、なぜそのような時期に戦勝の祝いなのかということなのか――それが、反董卓連合軍に参加していた勢力の、その頂点の人物達が来るのか。
 そこまで思考を回した時に、俺はふと考えに至ることとなった。

「ふうん、なるほどね……ようは、自分達は騙されていただけだった……その構図の方が後々には利があるとしたのね」

「まあそれもあるけれど、麗羽――袁紹や袁術のような、己が欲のために権力を欲して兵を動かしたという風聞を嫌ったのが一番かしら。私達は汜水関をわざと譲られた後に撤退しているから、董卓が悪逆非道などではなく清廉潔白な人物だと知って撤退、後に誼を通じたとした方が、民への受けがいいのよ」

「まあ、色々とあるけど私達も張莫の言ったことと大体同じね。悪いとは思うけど、そっちも洛陽に出入りする商人を使って色々としてたみたいだし、お互い様ってことね」

 ようは、自分達は民のために立ち上がったのであって、決して己が欲のためではないと知らしめるためである、と張莫と孫策は語る。
 董卓は悪逆非道で洛陽の民に圧政を強い、漢王朝を私欲のために専横しているといった檄文を信じたものの、色々と得た情報からそれらは反董卓連合軍総大将である袁紹や洛陽の権力を得たいとした者達の嘘であったがゆえに、連合軍から脱退、董卓に謝罪と共に誼を通じた、という筋書きを作ろうとしたのだろう。
 詳細こそ諸々と違い、それぞれの考えと策略政略があるのだろうが、大まかな流れはそういうことであり、それを内外知らしめるためにわざわざ彼女達が洛陽へと赴いたのだと思われる。
 彼女達がわざわざ訪洛したのは、一文官を使わずに勢力の頂点が赴くことでそれだけ本気度を知らしめることも狙っているのかもしれない。
 まあ、その他にも色々と用事もあるのだろうが、それが――反董卓連合軍参加においての謝罪が主目的であろうことは、俺とて理解出来たのである。

 それと同時に、洛陽出入りの商人――に扮した忍者の存在を知られていたということに、内心ぎくりとする。
 どの勢力だって自分の支配下に間者が潜むのは望ましくないだろうが、忍からの報告にはさほど警戒されていない、とあった。
 純粋に情報攪乱を用いての策などを警戒していないだけかと思っていたのだが、その見通しも甘かった――甘すぎたようだ。
 俺が楊奉を通じて忍に依頼したのは、董卓が清廉潔白であるという噂を流すことと、反董卓連合軍に参加する諸侯達の動向を確認するということだったのだが、その存在の認知を今こうして聞けば、それも失敗だったかと思う。

「まあ、思春――うちの甘寧からの報告では特に害は無かったから放っておいた訳だし。流された噂にしても、参加している時こそ鬱陶しかったけど、今となれば今回のことで随分と助かったしね。別に気にしなくていいわよ?」

「軍師からしてみれば大層困ることだということを理解して欲しかったわね、雪蓮」

「まあね。機密を探る訳でもなく噂を流したことと、こっちの大まかな動きを探っていただけみたいだから私達も放っておいたし、孫策の言うとおり害があった訳でもないし。まあ、軍師様が大変気にしていただけだったかしら、華琳?」

「ええ、そうね。桂花が大層気にしていただけだったわね」

「あう……ね、ねえねえ、白蓮ちゃん。そんな話知ってる?」

「うっ……い、一応、その可能性があるかもしれないって朱里と雛里からは聞いたような気もするが……いやぁ、どうだったかな」

 孫策と周喩の言葉に孫権の傍らに控える少女――恐らく彼女が甘寧かその知り合いなのだろう――の肩がぴくりと動けば、張莫と曹操は何かを思い出すかのように笑いを堪えている。
 劉備と公孫賛はそんな事実を気にしたこともないみたいだが――まあ、ぶっちゃけると彼女達の所には忍がいなかったのだからそれも仕方がない。
 劉備は総勢数百の義勇軍ゆえに顔を良く知り合っているだろうから、新参として紛れ込ませるわけにもいかないし、そもそも商人に扮し民を通じて噂を流そうにも基盤となる居が無いからそれも難しい。
 公孫賛の本拠にも忍の派遣は行われたらしいが、そもそも距離が遠すぎて反董卓連合軍結成に間に合わなかったというのが正解である。
 解散終結した後はそこまで気にしていないのか、或いはそれだけが行える人材がいないのかは不明であるが、この場から帰ったあたりで報告を受けるのではないかと、どうでもいいことを考えていた。
 決して軽視していた訳ではないので、どうせ私なんか、と落ち込まないで欲しいと思う。



「さて、と……それじゃあそろそろお暇しましょうか、紅瞬」

「あら、別の案件の話はもういいの? それが主目的だって桂花から聞いたような気がするんだけど」

「別に問題は無いでしょう。天の御遣い殿自らが警邏をしていることだし、何かあれば私達がされた時みたいに即座に対応するでしょうしね」

 ぺろり、と。
 何故か視線で全身を舐められたような感覚を曹操に覚えながら、彼女の言いたいこと――ようするにお手並み拝見ということだろうが、それに思いを馳せる。
 張莫の言葉から察するに、どうやら自国領内だけではどうにもならないことを伝えようとしていたのであろうが、記憶を少々辿ってみても、俺と曹操達が絡む話でそういった案件は思いつきそうもない。
 反董卓連合軍に関することかと思いを馳せても、何にも思いつかないものだ。
 
 では、曹操と張莫の領内――陳留のことでは無いのだとしたら、推測される地はここ洛陽であるのだが、その件に関しても彼女達が洛陽に関わる案件が思いつかない。
 唯一思いつくとすれば、以前洛陽大火の際に問われた俺が曹操陣営に参加しないかということであるのだが、それだと即座に対応という言葉に合わない。
 重大な案件なら事が起こる前、或いは大きくなる前に対応したいものであるのだが、こうも分からなくてはそれも叶わないものだ。
 
「さて、曹操殿達が帰られるならば、私達も帰るとしましょうか、雪蓮」

「えー、まだ洛陽の街を見て回ってないじゃなーい。もっとのんびりしてから帰りましょうよー」

「馬鹿を言わないで。元々のんびり出来るような状況ではないのだし、そろそろ祭殿や穏達だけでは対処に困る案件も出て来るでしょう。それに……あなたが見て回りたいのは洛陽の酒屋でしょう、伯符殿?」

「え、えへへー」

「さあ、帰るわよ」

「わー、ちょ、ちょっと待ってよ冥琳ッ。帰る前に蓮華を北郷に紹介しなきゃ……、って痛い痛い耳引っ張らないでッ!?」  

「はあ、仕方がないわね……」

 仕方がないと言いつつも孫策の耳を離さない周喩に促されるように、彼女達の後背に控えていた二人の少女が前へと――俺の目前へと歩いてくる。
 褐色の肌に桃色の髪を持つ少女は恐らく孫権であろうが、姉である孫策に負けず劣らず、随分と整った容姿である。
 孫策ほどでは無いにしろ豊かな胸は歩く度に程よく揺れ動き、そこから紡がれる曲線は細すぎないほどにくびれていた。
 服から覗かれる腹部は実に艶やかであり、そしてきめ細やかで、すらりと伸びる手足もまたそうなのであろうという期待を抱かせるものであった。
 そんな少女が目の前に来るのだ、男としてはどきどきせずにはいられない――のだが。

「ッ……孫権、字は仲謀だ……」

「……甘寧だ」

「う……」

 ギンッ、と。
 まるで剣が如き鋭い視線に、自然に声が零れてしまう。
 こちらを殺そうとする害意とも、汜水関にて関羽に向けられた憎しみに似た感情とも違う、純粋な敵意に知らず気圧されてしまう。
 孫権の隣の少女――やはり彼女が甘寧らしいのだが、こちらからも随分と凄みを含ませて睨まれてしまえば、いよいよ何が原因で彼女達に敵視されるのか全くもって理解出来ない。
 だが、孫策達との出会いの時に――その時孫策から言われた言葉を思い返してみれば、まさか、と思い至るものもあることにはあるのだが。

「姉様ッ、帰りますよッ!」

「あーん冥琳、蓮華が帰るって言うのよ。まだまだ、お酒呑んで無いのにー」

「帰るぞ」

「んもー、みんなして意地悪なんだから――ああ嘘、嘘だから耳は引っ張らないでって言ってるじゃないのー!」

「……」

「……あんた、孫策達に何をやったの?」

「……さあ?」

 怒っているのが見て分かる孫権に続く形で周喩が、彼女に耳を引かれていく孫策の後ろ、部屋を退出する直前に甘寧がもう一度だけ、俺へと敵意を――厳しく客観的に言えば殺意を飛ばしてくるのを、口端を引く付かせながら見送れば、賈駆からは事の次第を問いかける声が聞こえてくるのだが。
 まあ、正直に――天の子を宿した天軍が作りたいから胤を寄越せと言われた等と――言える筈もなく、俺としては苦笑しながらはぐらかす他無かったりする。
 というか、孫策は本気であの言葉を実践しようと考え、そして妹である孫権にそれを伝えたのだろうか。
 天の御遣いとか自分で言うのも何だが胡散臭い男の胤で孕めとか、そりゃ怒るだろうと思うものである。
 
「ふーん……何があったのかしら、ねえ……?」

 まあそれはそれとして。
 何故か向けられる曹操の探るような視線と張莫のニヤニヤとした視線に、俺は寒気を感じずにはいられなかった。

 そして。

「……では桃香様、我らもそろそろ」

「あっ……でも愛紗ちゃん、私、北郷さんと――」

「桃香……とりあえずここでの用事は終わったんだから、一度退出はしないと不味いと思うぞ? 北郷殿のことは後でも出来るだろうし、公式なことならともかくとして、私事ともなればそちらの方がいいことは分かっているだろう?」

「……うん、そうだね。愛紗ちゃんと白蓮ちゃんの言うとおりだね」

 不承不承といった感じで頷く劉備の視線に、俺はさしたる動きを見せることもなく返す。
 彼女が言いかけた部分から考えてみれば、劉備が望むのは俺との対話なのだろうが、現状――というよりも今この場においては、それは難しいものがある。
 時間的にも場的にもそうであるし、何よりこの場は公式正式な漢王朝の臣としての場であって――その相手が皇帝ではなく董卓であったとしても――私的なことに用いる訳にはいかないのだ。
 もっとも、そのような時間が取れるかどうかすら怪しい俺としては、話がしたいという視線を向けてくる劉備においそれと応えることが出来ないのが一番の理由であるのだが。

 まあそれはともかくとして。
 中王靖山の末裔と謳うその血がなさせることなのか、義勇軍大将という位の低さなど微塵も感じさせないほどに堂々とした立ち振る舞いのまま公孫賛と退出する劉備を――その後ろに控えていた関羽も含め――見送った俺は、誰に知られぬようにほっと息を吐く。
 反董卓連合軍に参戦していた勢力の頂点がつい先ほどまで集っていたことへの緊張感からは当然のこととして、なによりも、曹操、孫策と孫権、そして劉備と、後の時代に名を馳せる人物達が一度に邂逅するということの緊張からであった。

 三国志、或いは三国時代と呼ばれる基である三傑。
 魏王の覇業、蜀王の人徳、呉王の悲願が連なり、重なり、絡み合って出来たその時代を知っている身からすれば、彼女達が一度に邂逅することに緊張するなという方が難しいと思う。
 そして何よりも。
 知っている時代とは既に違う、董卓が洛陽から撤退することなく反董卓連合軍に勝利したという事実を前にして、董卓と三人の王との邂逅は、俺に緊張と同時に警戒を抱かせるには十分なものだったのである。





  **





「――では、道中気をつけてお帰り下さい」

 そんな三人の王との邂逅から数日後。
 漢臣として宮中で数日を過ごした曹操や孫策、劉備達は洛陽視察と街の有力者との会談を終えて、帰路に付こうとしていた。
 漢臣として洛陽に赴いていたということで、漢王朝皇帝である劉協から――というよりは李需から董卓に彼女達を見送るようにと命じられ、董卓が忙しいがために俺にとその役目が回ってきたのだ。
 故に、今いる場所は洛陽城門。
 そして目の前にいるのは、曹操と夏候姉妹、張莫、孫策孫権姉妹に周瑜と甘寧、劉備と関羽に公孫賛という、名前だけを見ればまるで三国時代を築いた人らの夢の競演であり、姿だけを見るならば見目麗しい少女達の集いであった――まあ、その内については触れないでおこう。

「ふふ。以前に洛陽であった時も、こうやって北郷に見送ってもらったわね」

「えー、そうなのー。私達の時には見送りなんか無かったのになー」

「いや……気づいた時には帰っていた人が言うことじゃありませんよね、それ」

「はは、まあそれは許してくれ、北郷よ。我らも色々としがらみの中にいる故な、そうそう自由には動けんのだよ」

「まあ、周瑜殿がそう言われるならば確かにその通りなのでしょうが……っと、そういえば、橋公殿やあの姉妹――大橋や小橋はお元気で?」

「ああ、北郷に会うことがあればよろしく頼む、と橋公殿がな。大橋と小橋も――小橋はぶつぶつ言っていたが――よろしく、と」

 なんで冥琳の言うことばかり聞くのよ、なんて孫策が隣でぶつくさ言うのに耳を――袖を引っ張られて身体ごと傾けられながら、橋公やその孫である姉妹が無事であると聞き幾分かほっとする。
 実は孫策達が橋公達を連れて帰った後に、賈駆に橋公は有力者だったのになんで引き止めなかったのか、と怒られることになったのだが、まあ今では余談であろう。
 
「へえ……橋公は孫策の所へ行っていたのね。会っておこうと思ったのにいなかったものだから、どこに行ったのかと不思議だったのだけれど」

「あら、それはすまないことをしたわね。そうね、どうせならこのまま会いに来る? 歓迎するわよ」

「いえ……それはまた今度にしておくわ。そのような暇も無ければ、猶予も余裕も無いしね。……そういえば気になっていたのだけれど、何故あなたの妹――とその付き――は北郷を睨んでいるの?」

 お酒とか一緒に呑んでみない、と誘う孫策に対して、少しばかり考えた曹操はまた今度と断るのだが、その後にふと不思議そうな表情を浮かべた曹操は孫策へと問うた。
 そうして視線を動かせば――というよりは最初から気づいてはいたのだが――こちらを睨む視線があり、それが孫権と甘寧からだと認識出来る。
 視線が合ってもお構いなしに向けられるその視線には明らかな敵意が混じっており、場所と状況を気にしなければいつでも腰の剣を抜いてきそうであった。
 そんな状況なものだから、ふと知らずのうちに腰の剣と懐の鉄棒を意識してしまうのは仕方のないことだろうと思う――盾もあった方が良かったかも、とは後の祭りだな。

「んー。まあ別に難しいことじゃ無いんだけどさ……前に洛陽来たときに北郷に胤を寄越せって言ったら断られちゃってね、それなら外堀から埋めようと蓮華――孫権にそれを伝えたら……」

「知らずの男に身を任せるなどとは何事だ、と言うことになって、その元凶が北郷であると思っているのだよ、蓮華様は」

「へえ……」

「ほう……」

「なっ?!」

「……ん?」

 そうして周囲の状況と装備を確認していた俺の耳に、ある意味で予想通りというか、考えていた通りの孫権と甘寧に睨まれる理由が孫策と周瑜の口から語られる。
 天の御遣いと呼ばれる男といえど、見ず知らずの男の胤をもって天軍を成すという姉に反し、その果てには姉がそういうことを言い出したのはその天の御遣いと呼ばれる男――つまりは俺が全ての元凶である、としたのだろうということである。
 予想通りというか、孫権が俺を睨み敵意を抱く理由などそんなことしか無いだろうと思っていたし、何より、洛陽で問われた孫策の言葉は、孫策と周瑜だけが持つ策であろうと思っていたのだが。
 なに外堀から埋めていくとか言っているんですか孫策さん、まだ諦めて無かったんですか周瑜さん。
 そうは思ってみたものの、にやりとした笑みを返されてしまえば、がっくりと肩を落とすしか出来ないものであった――孫権と甘寧に関しては、何時か何処かで誤解を解くことも出来るだろうから、今はとりあえず諦めよう。

 とまあ、それはともかくとしておいて。
 深々とため息によって少しでも心労を減らしておきたいとした俺の耳に、孫策と周瑜の言葉に反応した声が入ってくるのだが。
 へえ、とか言っている曹操と張莫は何やら面白いものを見つけたといった顔をしているし。
 ほお、とか言った夏侯淵と公孫賛は中々面白いことを考えるものだと納得しているっぽいし。
 なっ、とか驚いている劉備と関羽は顔を真っ赤にしてちらちら見たり、こちらも憤慨しているし。
 唯一、何を言っているのだろうと首を傾げている夏候惇が実に目に優しい。
 俺の知っている歴史であれば呂布を討伐――まあそのようになることもないであろうが――するための戦闘の最中において流れ矢で左目を射抜かれるのだが、まだそのようなことにはなってないらしく、両目とも健在のまま、不思議そうな顔をしていた。

「ふふ。そのようには見えなかったけど、意外と好き者だったのね」

「違います。俺では無く孫策殿が勝手気ままに話を進めているだけのことで」

「どう、紅瞬? 私達も天の胤を求めてみる?」

「んー、まあまず桂花が怒るでしょうけど……なに、本気?」

「まさか。ただ、あなたが婿がどうたら言っていたから、どうかと思っただけよ」

「ああ……その話か。そうねぇ……顔は、まあ悪くはないだろうし、天の御遣いというのも面白いとは思うわね。董卓軍の指揮をある程度任されていることから無能ってことは無いんでしょうけど……んー」

「……あなたこそ、まさか本気だったの?」

 とか。

「え……ええっと、孫策さんや曹操さんがそうするって言うんなら、私達も胤を入れるって考えなきゃ駄目なのかな?」

「そんな筈が無いでしょう、桃香様ッ。あのような男の胤など、入りようがありませんッ!」

「そうだぞ、桃香。まあ愛紗の言うことは極端だけどさ、孫策や曹操が話に出したからといって、わざわざしなけりゃいけないなんてことは無いと思うぞ。……そもそもお前、胤を入れるとか意味分かってるのか?」

「えと……その……男の人が女の子の……」

「あー、いい、言わなくていい。それ以上は言うんじゃない、桃香。あと、こんな街中でそんなことを言うな。小恥ずかしいじゃないか」

「くッ。その醜悪な考えを桃香様に向けてみろ。ただでは済まさんぞッ」

 とか。
 俺が話に出した訳でも無く、俺が悪いことをした訳でも無いのに様々な感情が向けられるのは一体なぜだろう。
 関羽に至っては敵意どころか殺気に似た――似たというかそのもののような気もするが――ものを込められた視線を向けられるし、話があちこちで湧き上がれば孫権と甘寧の視線がますます鋭くなった気がする。
 ますます重くなる無言の重圧と、向けられる敵意と殺意に胃で感じていた鈍い痛みが途端に鋭くなった気がするが、まあ精神の安寧のために気のせいということにしておこう。
 じゃないと、穴が開きかねん。

「さ、さて……そろそろ出立の時間だと思われるのですが」

「ふむ……北郷の言う通りのようだな。雪蓮、そろそろ」

「えー、まだこの面白い光景を見ていたいんだけどなー」

「そうは言うが、北郷があまりにも辛そうであるしな。それに、我らも色々としなければいけないことは山とあるだろう? さっさと帰りましょう」

「んー……まっ、仕方ないか。蓮華、思春、北郷に熱い視線を送ってないで、そろそろ行くわよ?」

「……はい」

「……はっ」

 ギンッ、と。
 まるで刃物のように研ぎ澄まされた視線を最後にもう一つ送った後に、孫権と甘寧は馬へと跨って先に走らせていた孫策と周瑜へと続いて洛陽から出て行った。
 直前に孫策の視線がにやりと笑った気がしたのだが、俺としては敵意丸出しの視線が減ったことに安堵していたので、それもあまり気にしてはいなかった。

「あ、あははー……そ、それじゃあ私達も帰ろう、白蓮ちゃん? ほ、ほら愛紗ちゃんも、ね?」

「は。……覚えていろよ、北郷」

「それじゃあ、私達もこの辺でお先に失礼させてもらうよ、張莫殿、曹操殿」

 先ほどの胤の話の余韻か、頬を赤く染めた劉備が声をかけると、関羽はそれに即座に頷き、そして俺へと敵意と殺意の視線を向ける。
 汜水関の折ではそこまで――まあ色々と否定したりしたので分からないでもないのだが――敵意を向けられてはいなかったのだが、今回のことでいよいよ殺意を向けられるようになってしまったことは誠に遺憾である。
 見目麗しくはあるものの、やはり敵意を向けるその姿は関羽の名に恥じぬものであって、内心いつ斬りかかられるかびくびくしていたのだが、まあ何事もなくて良かったと思う。
 ただまあ、次に戦場で出会ったならば汜水関の時のような手は使えないな、と思い、また深々とため息をつくことになるのである。

「ふふ。心労が絶えないわね、北郷」

「お陰様で。関羽殿とは汜水関で剣を交えましたが、あの時は策でどうにかなったものの、あの様子では次からは問答無用で来られて使えそうにありませんし。武も無く智も無い俺としては、心労が溜まるというものですよ」

「あら、その割には次に出会った場合、どうやっていなすかを考えている顔をしているけど?」

「はは……まあ、戦わずして勝てることが出来ればいいなあという程度ですけど」

「へえ……孫子も嗜んでいるのね」

 俺が知る歴史の中で日ノ本における戦国時代において武田信玄が謳った風林火山――説によれば風林火陰山雷もあるらしいが――は、孫武が著した孫子から取られていることは有名である。
 ようするには軍と兵を動かす上での心構えやその他を書いているものなのだが、孫子の中において孫武はあることを多く説いていた。
 それが、戦わずにして勝つ、あるいは戦う前に勝つ、ということである。

 まあそれは置いておいて。
 孫策達と劉備達が帰ったからか、帰り支度の点検を始めた夏侯淵にちらりと視線を送った後に、曹操は不敵な笑みを浮かべつつ口を開いた。

「さて、私達もこれで帰るけれど……以前と同じことをもう一度問うわ。私の元に来ない、北郷? まあ、今なら孫策と同条件を出しても良いけれど?」

「……それは曹操殿でも可と?」

「まあそうね。ただ、嫌がる娘にしては駄目よ。あと、私が可愛がっている娘とかもね」

「……いえ、遠慮しておきましょう」

「そう……」

 孫策と同じ条件というと胤を落とせ、ということなのだが、嫌がる相手に駄目というのは分かるにしても、曹操が可愛がっている相手というのはどういうことなのか。
 何となくな雰囲気的に夏候惇と夏侯淵がそれに含まれているということは理解出来るのだが、俺が知っている曹操関係と言えば、未だ目の前で婿がどうとか子供がどうとか思考がどこかに飛んでいる張莫ぐらいである。
 ぶつぶつぶつぶつ、と何かを声に出すその姿は若干引きそうになるものがあるが、なんといっても俺の近くにはあの郭嘉もいることだし、ある程度の耐性も出来ているのだろう。
 表面上特に気にすることも無く、俺は口を開いた。

「曹操殿に対しては二度目の見送りですが、どうかお元気で過ごされますよう」

「ふふ、ありがたく受け取っておくわ。次に会うのはまた戦場かしら、それとも、あなたが私に膝をついてくれる時かしら? 実に楽しみだわ」

「俺はあまり楽しみではありませんが……まあ、戦場で出会わないことだけは祈っておきますよ」

「もう、つれないんだから。……さて、では我らも帰ることにしましょう。紅瞬、いい加減に目を覚ましなさい」

「――でも子供は男の子三人と女の子二人が……って、もう帰るの? 桂花や春蘭みたいに色々と想像したり妄想したりするの楽しかったのに」

「楽しむのはいいのだけれど、場所を弁えて頂戴。……それとも、帰ったら春蘭と秋蘭を交えてみんなで楽しむ?」

「さあ帰りましょう、きびきびと帰りましょう。春蘭何しているの、遅いわよ」

「あっ、ちょッ、待ってくださいよ紅瞬様~!」

「……ふう」

 それまで惚けていた人物とは思えないほどの速度で曹操の魔の手――毒牙とも言うが――から逃げる張莫とそれに慌てて続く夏候惇に、全くというふうに曹操がため息をつく。
 だが、それにも慣れているのか、すぐさまに表情を切り替えた曹操は、軽やかに馬へと騎乗すると、わずかな笑みを浮かべて声を上げた。

「それではね、北郷。来たくなればいつでも門は開けておくわ。……それじゃあ行くわよ秋蘭、あの二人に追いつくわ」

「御意。……ではな、北郷」

 そうして。
 影を残さぬのではないかと思えるほどに早い曹操――確か絶影という馬だったか――に続く形で夏侯淵が駆けて行ったのを見送って、俺はようやっと一息つく。
 孫権や甘寧、関羽にもしかしたら斬られるかもしれないという不安で気が気ではなかったが、それも過ぎ去ってしまえばとりあえずの所は安心出来た。
 それに、なんといっても曹操と孫策、劉備は俺が知る歴史でもそうであったからか、この時代においても中心人物となることは間違いないだろうと思う。
 もしやすればすぐさまに勢力が潰れてしまう可能性もあるのだが、俺の直感で言えばそれも無いだろうと思った。
 いつかは必ず戟を交える時が来るだろう、その確信だけが、俺の胸中を占めるのであった。



 そして。
 とりあえずは、三人の王――董卓も含めれば四人の王か――との邂逅が済み、その見送りも済んだ俺は、ここ最近手つかずであった大火によって焼失された区分の視察に赴こうかと考えた。
 すでに燃えカスや黒焦げになった木材は撤去され、そこにあるのは更地にされた広場だけなのだが、いかんせん宮城に近いだけに街の人々は店を動かすのにあまり乗り気ではない。
 それなりの範囲があるために街一番の商店とか大規模な飲食街とかを考えてはみたものの、洛陽新参の人を宮城の近くにいれる訳にもいかず、かといって以前からの街の人は勧まずで、復興はあまり芳しくなかった。
 さてどうするか。
 いっそのこと子供が遊べる遊具を入れた公園でも作ってみるかな、とどんな遊具があったかなどと思いながらそこへ向かって歩いていた俺は、背後からの声にその足を止めることになる。



「お兄っ様ーッ!」

「お久しぶりです、北郷殿」

 

 そしてその声が。
 この場にいる筈のない――否、いるとは思ってもみなかった少女達のものであれば、俺は驚くことしか出来なかった。

「伯瞻殿に元遷殿ッ!? なんでここにッ?!」

「へへー」

 西涼連合が馬騰の次女馬鉄と、その従妹である馬岱。
 反董卓連合軍前に董卓軍との同盟を解消して盟主である馬騰の娘を涼州へと戻し、それが終わった後も特に動きの無かったがために半ば放置していた西涼からの突然の訪問に、俺は表面に出すことなく内心身構える。
 疑う訳でもなくそのつもりも無いのだが、反董卓連合軍前は同盟を結んでいたにせよ、馬鉄と馬岱は現状は大きな関係もない勢力の将であるのだ。
 どのような用向きがあるのかは知らないが、洛陽の民にとって西涼は巻き添えを嫌って同盟を解消した裏切りものと映っており、余り長居はよくないと俺は彼女達を連れて城へと戻ろうとした。
 
 だが。
 彼女達が洛陽へと赴いたその理由を聞いた時、俺は彼女達を目にした時より強いさらなる驚愕を覚えることとなる。





 即ち。
 西涼連合、漢王朝に降伏す。
 事実上、それは漢王朝を擁する董卓軍に降伏することと同意義であった。





[18488] 六十話~ オリジナルな人物設定(馬鉄・馬休)追加
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/11/09 14:33
・馬鉄
 姓:馬
 名:鉄
 字:元遷(げんせん)
真名:右瑠(うる)

  西涼連合馬騰の娘で、馬超の妹、馬休とは双子の姉妹である。
  頭頂部の右側で栗色の髪をまとめている。
  馬休とは瓜二つで、活発な性格。
  初対面の相手はよくおちょくって遊んでいる。
  作者イメージでは性格は戦極姫の島津末妹の家ちゃん、見た目はボカロのそっくりな二人の片割れだったりする。


・馬休
 姓:馬
 名:休
 字:草元(そうげん)
真名:左璃(さり)

  馬鉄の双子の妹。
  頭頂部の左側で栗色の髪をまとめている。
  基本毒舌、時々辛辣、まれにくーでれ(平仮名の方が可愛らしい)
  馬鉄とは違い基本感情を出すことはないが、親しい人には時々デレる。
  馬鉄と同じく、作者内の性格的に戦極姫の歳ちゃん、見た目はボカロの片割れ。




[18488] 六十話 西涼韓遂の乱 始
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 09:54




「……洛陽、普通に無事だったね」

「ああ。まあ今になって思えば、麗羽の言うことがどれだけ信用出来たにせよ、黄巾の時から洛陽に入っていた董卓の悪い噂が聞こえなかったのは、やっぱりそういうことだったのかなとは思うよ」

「それは、悪逆暴政なんか元から無かったってこと、白蓮ちゃん?」

「まあ、そういうことなんだろうな」

 ぎりり、と。
 馬が大地を蹴る音に紛れて劉備と公孫賛の声が届く度に、関羽は手綱に握る力を強め、そして歯噛みする。
 洛陽を制した董卓を討つためにと起こされた反董卓連合軍、その結成に用いられた檄文は、暴政を敷き民と朝廷に悪逆を働く彼の者を討つべし、というものであった。
 洛陽から遠い幽州にて陣を張っていた劉備軍――関羽からすれば、義勇軍という理由もあって諜報網の形成が進んでいなかったがために、檄文にて初めて洛陽の実情を知ったというものであった。
 無論、劉備軍が誇る軍師達ならば何かしらの手段を講じて情報は集めていたのであろうが、義勇軍というあまりにも小規模な勢力では単独でそれに参戦することは叶わず、劉備軍は公孫賛の仲介を通じて連合軍へと参戦することとなる。
 それはひとえに、主たる劉備が洛陽の民を救いたいという想いが故にである。

 だが、目の当たりにした現実は檄文とはほど遠いものであった。
 暴政のひとかけらも洛陽の街並みには落ちておらず、民は活力と笑みに富まれ、そして平穏に生きていて。
 悪逆非道という言葉は街中はおろか宮中にも見当たることは無く、帝都洛陽は揺らぎ動いてなどいなかったのである。
 ともすれば、反董卓連合軍が――自分達が動いたのは一体なんのためだったのか。
 漢王朝に戦勝の祝いに赴くこと、洛陽の実態を見ること、北郷一刀と話をすること、それらの目的を持って洛陽へと赴く主たる劉備とは別に、関羽はそれを見極めんがために洛陽へと赴いたのである。

「じゃあ、悪いのは私達だったってこと……?」

「……よく言いにくいことを言えるな」

「え、えへへ……でも、悪いのは私達ってのは間違ってないんだよね……」

「まあ、な……。ただ、私達として言えば、それも檄文を信じて民を救おうとしたからであって……っていうのは詭弁だな。まあ、その旨は董卓にも皇帝陛下にも言ったからな。一応の謝罪としては十分だっただろう」

「……北郷さんと話、しておきたかったなあ」

「天の御遣い殿とか? まあ、私も個人としては話をしてみたかったが……如何せん、ああも忙しそうではなあ。仕方のないことだと諦めるしかないだろ」

「うー……」

 そして。
 見極めたその結果として――簡潔に言えば――自分達がしたことは意味を成さなかったのだということに辿り着いた。
 それどころか、黄巾の乱から続いた混乱からようやっと落ち着きつつあった洛陽の街に、更なる混乱を招こうとしていた行動であったことに関羽は酷く恥じ入ることとなった。
 恥じ入り、悔しみ、どうしてこのようなことになったのかを考え――そして、北郷一刀という男に辿り着いたのだ。
 
 別に、北郷を恨んでいる訳ではない。
 天の御遣いという彼の呼称こそ眉唾物ではあるのだが、董卓軍との緒戦、汜水関においての攻防、虎牢関を前にした会談において、その名は彼の実力に恥じぬ物だろうということはすで理解出来ている。
 汜水関にて一撃を止められはしたものの、武においては関羽からしてみれば考えられぬ程度で、大半が農民上がりの劉備軍では少しばかり抜き出るほどであることも理解していた。
 であるからこそ――理解できるからこそ理解出来ないことが、関羽の中で黒いもやのような感情を湧き上がらせる。
 汜水関における北郷の言葉――理想を抱いたままに現実に溺れてしまう、その意味にである。

 理想――劉備の理想が戦の無い笑顔溢れる世を作るということは、関羽のみならず劉備軍に所属する者としては陽の浮き沈みが当然であるかのように知られている。。
 傷つき傷つけられることを嫌う劉備らしい理想であり、その理想が尊く、そして光溢れたものだと思ったからこそ彼女に従う者がいるのだし、彼女自身に惹かれた自分や張飛のような人物がいるのだ。
 そんな理想に、北郷は口を出した。
 戦の無い世を作るために戦を起こし、傷つけ傷つけられるのが嫌いで掲げた理想の果てに兵に殺せ、死ねと命じ、戦の後に生まれる悲しさと苦しみに囚われた者に笑えというのか、と。
 そして、自らが親しい者を傷つけられた場合にその理想を貫くことが出来るのか、と。

 無論、関羽とて北郷の言いたいことは分かるつもりだ。
 劉備の理想と現実のそのあやふやさが危険なことは重々承知している。
 だが、理想を追うことによって突き付けられる現実が厳しいことはどうしようも無いことであるし、そこは納得しないと進むことができない。
 それに、と思う。
 理想を追って現実の壁に劉備がぶつかることがあれば、自らが――関羽含め劉備を慕う者達でそれを支え、共に乗り越えていけばよいのだと。

 だからこそ関羽は北郷のことが理解出来ない。
 劉備の理想は酷く脆いものであることは関羽とて承知しているし、難しいがために自分が戟を振るうのだということを理解している。
 だが、酷く脆く、そして難しいであろう劉備の理想は、故に光溢れ、輝かしく眩しいものである。
 尊く儚く、故に劉備は人を惹き付けるのだと思っていた関羽にとって、それに真っ向から疑問を持つ北郷という人物を関羽は理解できないでいた。

 故に、関羽は北郷という人物が怖い。
 怖いからこそ、関羽は北郷という人物に対して警戒心を隠すこともなく洛陽で彼を前にしたのだが。
 それ故に、関羽は北郷という人物をさらに理解出来ずに、その恐怖を深めることとなる。

 だというのに。

「北郷、一刀か……」

 ちくり。
 恐怖と警戒と、疑念を持って零れた言葉に対し、心の奥底――深淵とも呼べる場所が微かに痛むのは何故であろうか。
 意識しなければ気にもならない、けれど何故だか気になるその痛みに、関羽は原因が理解出来ない。

 そして。

 だからこそ、関羽はそれをもたらす北郷一刀が理解出来ないでいた。





  **





 曹操と張莫、孫策、劉備と公孫賛がそれぞれの所領へ帰っていった、その翌日。
 俺はある部屋の前へと立っていた。
 本当はこんなことしている場合じゃないんだけど、と背後に立つ三人にばれないように溜息を吐きつつ、俺は目の前の扉へと手を伸ばした。

「三人だと少し狭いだろうけど、とりあえずはこの部屋を使ってくれるかな」

 キイ、と軽く音を立てて開いてみれば扉の向こう、三つの寝台が置かれている部屋を俺の後背にいた少女達――テン、チー、レンはまるで値踏みするかのように見渡す。
 いろいろとあってようやっと落ち着けた後、洛陽の城の一角、俺の寝室や執務室の隣にあった空き部屋を董卓の許可を得て借りた俺は、そこに三人を案内していたのであった。
 
「えー。散々に待たせておいて、ちい達にこんな狭い部屋で寝泊まりしろって言うの~。最悪、信じらんない」

「お城の部屋の割には、なんか普通だね~。お姉ちゃん、もっといっぱい色々なものが付いてるのかと思った」

「……まあ、初めはこれくらいで良しとしておきましょう、姉さん達。いきなり押しかけておいてこれだけの部屋を用意してくれたことには感謝しなくちゃ。最悪、奴隷扱いもあったかもしれないんだから」

 それまで部屋を見渡してはぶつくさと言っていたテンとチーであったが、レンの言葉に仕方ないか、とばかりに納得してくれたようである。
 奴隷扱いという言葉においおいと思いつつも、とりあえずは納得してくれたことにほっと胸を撫で下ろした俺は、さて、とばかりに口を開いたレンの言葉に耳を傾ける。

「それで? 私達は一体何をすればいいのかしら?」

「あー……そうか、雇ったからには働いてもらわなくちゃいけないのか。ええっと、何が出来るのかな?」

「歌なら唄えるよ~」

「というか、それしか出来ないわね」

 そういえば彼女達を雇ったんだよな俺。
 ここ最近色々な人達を雇ったり、転がり込んで来たり、奔走したりと忙しかったからか、彼女達がいることを既に普通として処理してしまっていた自身に疲れているのかなと思いつつ、彼女達に一体何をさせることが出来るのかとふと悩む。
 テンとチーの歌が唄えるという言葉にレンも頷くことから、恐らくではあるが、その言葉は真のことであろう。
 この世界――時代の歌ならば漢詩ということになるのだと思われるが、ふと彼女達を見ても、そのような歌という訳では無い気がする。
 
「歌っていうのは、えーと……とりあえず、聞いてて楽しくなるような、そんな奴と思えばいいのかな?」

「とりあえず、私は唄ってて楽しいかな~」

「黄き――じゃなくて、前に聞いてくれてた人達は喜んでくれてたかな!」

「北郷殿が言われる楽しめるというものかは分からないけど、聞いてくれる人も私達も楽しめるようには唄っています」

「ふむ、そうか……」

 俺の基準の楽しめる歌というのは元いた世界で流行っていたような歌であるし、そもそもがこの世界の楽しめる歌の基準とは違うかもしれないのだが、彼女達の言葉と顔の限りでは、どうにも同じ類のようである。
 となると、それを基準として何か出来ないかと思ってはみたものの、歌を聴く側でしかなかった俺がどれだけ考えようとも、歌でどれだけのことが出来るかを思いつくなど、到底難しいことは即座に理解出来る。
 なれば、歌を聴く側であったからこそ思いつくことがある筈だと思った俺は、ふと思いったったことを呟いてみた。

「ストリートライブ……」

「すとりいと? 何それ?」

「ああいや、俺の国の言葉なんだけど、要は街角で歌を唄うんだよ。街角で唄って、道行く人に聴いてもらうんだ。それでファン――興味を持ってくれる人を増やして有名になった人もいたし……」

「えー。また道端で唄うの~?」

「あの本ももう無いから、有名なんてなれるわけないでしょうし……ちょっと人和、どうするの?」

「あの本?」

「それは気にしないで、こっちのことだから。……でも姉さん達、こうやって住める場所が出来たんだから、それだけでも良しとしておきましょう。……そこで唄えたばお金が出ると思っても?」

 本って何のことだ、と気にはなるものの、彼女達の言葉から推測するにただ歌を唄うのが好きなだけでなく、それなりに経験があるというのが見て取れる。
 歌というのは、聴いているだけで感情が動かされるものである。
 ライブやコンサートなどに行ったことも無い俺が言うのもなんではあるのだが、街角に流れている歌やテレビから流れる歌などは、聴いているだけで楽しくなるものがあった。
 それと同じ状況をこの世界でという訳にはいかないが、これまでにも歌を唄ってきている彼女達ならばそれに近いものが出来るかと思った俺は、レンの言葉に頷いていた。

「それはもちろん。そうだな……慰撫というか慰労というか、戦や政争で街の人達もいろいろと疲れているだろうから、三人の歌で励まして欲しいというのが一つ。それと、歌を聴きに来た民からの実情を報告してほしいのが一つ。仕事の内容はそれでどうかな?」

「歌で励ますというのは分かるけど……民の実情っていうのは?」

「警備隊で治安も良くしてるし俺自身も警邏はしているけど、どうしても目が届かない所は出てくるものだからね。そういったことは民から直接聞ければいいんだけど色々と忙しかったりするし、直接話すのは遠慮されたりもするし」

「仲良くなってお話を聞けばいいってこと?」

「うん、テンの言う通りだよ。歌を唄う日時、場所はそっちに任せるし、必要なものがあったら言ってくれれば揃えるから。報告は……そうだな、三日に一度ぐらいでどうだろう? 最初のうちは色々と大変だと思うから、ある程度の報告が溜まってからでいいよ」

「……報告以外は好きにしろってこと?」

「うん、それで間違いは無いかな」

 既に楊奉に頼んで護衛兼監視の忍も付く手筈になっているし、基本行動が街だけならば機密云々の話に触れることも無いだろう。
 彼女達の言葉通りに歌を唄えるのであれば街の人達も憩いと娯楽に触れることが出来るし、気を抜ける場所を作ることが出来れば正にこそ働けど負に動くことは無いだろう。
 最悪――本当に最悪、彼女達の歌が使えないのであればその報告だけを期待してもいいことだし。
 そう思いながら差し出した俺の右手に、幾ばくか思考を働かせていたであろうレンは、一つ頷いて右手をつなぎ合わせてきた。

「雇用契約成立、ということで」

「ええ、よろしくね。所でなんだけど……西涼連合が降伏してきたのに、私達に掛かり切りでいいの?」

「……よく知ってるね」

「待たされていた部屋の外で武官の人が話しているのを聞いたから」

 とりあえず三人の処遇が落ち着いたことに安堵すると同時に、もともと初めに彼女達に関わったのは程昱なんんだけどな、と苦労の何故を自らに問いかけてみる。
 もっとも、そんなことで答えが返ってくるはずも無く、結局のところは俺が頭を悩ませなければいけないのだが。
 最初の時点で郭嘉にでも相談しておけば良かったかなとは思うものの、ふと冷静に考えて、彼女が楊奉と同じ考えに至って宙を朱に染めそうだと思った。

 それはともかくとして。
 三人の話も済んだことだし少しは落ち着けるか、と思った俺であったが、レンが首を傾げて問いかけてきた言葉に、少しばかり返事に詰まる。
 というか、はっきりと言ってそちらのことこそ優先的に考えねばならなかったりするのだが、俺としては中々に頭が破裂しそうで彼女達のことを先に済ませておきたかったというのが大きかったりする。
 彼女達のことがあって、曹操孫策劉備のことがあって、西涼連合のことがあって。
 こんがらがりそうになる頭の中を整理するために半ば忘れかけていた彼女達のことを優先してはみたものの、整理出来るどころか余計に分からなくなるばかりであった。

 一体どんな思惑があって西涼連合は降伏するのか。
 ついこの間――とは言っても半年以上も前のことだが、元の世界にいたときは考えるとは思いもしなかったことを考え、思考し、その真意を探ろうとしている自分に、窓から見える青空を見ながら苦笑していた。





  **





「……ここはどうかな?」

「む……中々に良い手。……では、俺はここで」

「うむむ…………うむむむ」

 パチリ、パチリ。
 木材同士が合わさる軽い音を響かせながら繰り広げられる盤上の戦いに、それを成している俺と馬鉄のみならず、傍らで経過を見ている馬岱ですら静かに思考を働かせる。
 王を守るように金将と銀将がその周囲を固めれば、香車と桂馬、それに竜王がそれを崩さんと猛攻をかける。
 かと思えば、虎視眈々とこちらの王を狙っていた角行が陣地に入ってくればそれを銀将で奪い取り、即座に猛攻をかける布陣を厚くする。
 目まぐるしく動いていく戦場は実際のそれよりは遙かに静かであるが、どちらにしても極度の緊張感を伴うことに変わりはない。
 生き死にが絡まない分だけこちらの方が気を許せるものであるが、それも、初心者であるにも関わらず的確にこちらを射抜こうとする目の前の馬鉄相手では、難しいものがあった。

「うぐぐ…………うー、参りました」

「ぷっはあ……何とか勝てた」

 だがそれも、馬鉄の降参宣言によって終わりを迎えることとなる。
 出来るだけ表情を変えないようにしている馬鉄ではあるが、やはり悔しいのか、終局したばかりの盤上の駒をあれこれどれあれと動かしながら、自らの敗戦理由を探そうとしている。
 これが軍師の性か。
 初めてでこれだったら次は負けるかもしんないな、なんてことを思いながら馬鉄が動かす駒を見ていると、終わったことを確認してもたれかかってきていた馬岱が、口を開いた。

「はー、右瑠ちゃんは凄いなあ。将棋だっけ? 初めてなのにそれだけ指せるなんて。たんぽぽ、まだちんぷんかんぷんだよ」

「基本は戦戯と同じだよ、蒲公英姉。戦戯はそれぞれの解釈であるとか理解によるのが大きいけど、これは北郷殿の言うるーるがちゃんと決まってるからね。覚えて理解すれば、蒲公英姉でも出来ると思うよ」

「……ホント? だったら、頑張ってるーるを覚えるから、一緒に将棋しましょ、お兄様?」

「はい、楽しみにしておきます……ただ、伯瞻殿と指し合うのはまた今度にでもしておきましす……して、此度のこと、どこまで本気なのでしょうか?」

「全部だよ」

 危ないところだった、と内心かいた冷や汗を拭いつつ馬鉄との決戦の地――将棋盤を片付けた俺は、さてとばかりに姿勢を正して口を開く。

 戦戯は堅苦しく、囲碁も俺の知っているものとはルールが違うということから考案した――というよりは知っている知識から作ってみた将棋ではあったが、馬鉄の反応を見る限りでは意外にも好評だったらしい。
 暇つぶしは無いか、という馬岱に街の木工職人に作ってもらっていた将棋盤を見せ、簡単なやり方を馬鉄に教えての実践であったが、こうも好評であれば広めてみるのも悪くはないのかもしれないと思う。
 民や将の娯楽にもなるだろうし、簡単な軍略の勉強にはいいかもしれないな。
 と、思考を幾分か落ち着かせた俺は、馬岱と馬鉄という西涼連合においても重要な位置にいるであろう少女達が何故か将棋を指し始めたのを視界に収めながら、つい先日――彼女達が洛訪した時のことに思いを馳せた。
 


 漢王朝の真なる臣として涼州を五胡から守ってきたが、此度の戦乱において漢王朝を――ひいてはそこに仕え、これを守らんとした董卓を信じず裏切る形となってしまった。
 彼の者と漢王朝にいらぬ混乱を与えたことは涼州を守る身として遺憾であり、また漢王朝を信じきれぬ身では涼州の守りを任せられぬとして、この身命をこれまでよりも深く漢王朝に捧げる所存である。

 まあぶっちゃけると降伏宣言ってところかな。
 漢王朝皇帝劉協への参洛の言葉を述べた後、董卓を前にいった馬岱の言葉に続けられた馬鉄の言葉は、その場にいた――洛陽にいる董卓軍の主要武将達は、皆一様に驚愕の渦に巻き込まれることになる。
 むしろ驚愕という表現では足りないほどに驚き、混乱し、騒ぎだしたその場はまとまることはなく、とりあえず董卓側の意見を纏めなければいけないということで、少しばかりの時間をもらいたいと応えたのが、五日前ということになる。
 テン、チー、レンの三人を雇い入れ、曹操劉備孫策を迎え入れ、そして彼女達を送り出したのがつい昨日のことではあるので、うん、こうやってふりかえることができるには落ち着いているみたいだ。
 
 そうして落ち着いていることを確認すれば、俺の問いに対しての馬鉄の答えに思考を働かせてみる。
 とはいっても、そこまで難しいことではないのだが、そこがまた難しいという難儀な思考である。
 降伏宣言はどこまでが本気であるのか。
 それに全部であるという馬鉄の答え、それがどこまで本当であるのかというものであったからだ。

「んー、お兄様も中々に難しい性格してるよねー? 全部だって言われたんなら、そのまま受け取っておけばいいのに」

「いや、だからといってその全部を真に受けるのも難しいですよ……。ただ、伯瞻殿もそう言うということは、いよいよをもって真みたいですね」

「さっきからそう言ってるじゃないですか、北郷殿……ああそういえば、私もお兄様とか呼んだ方が良かったりする?」

「いえ。これまで通りで」

「むー……いけず」

 自らが使者であることを思ってかところどころ不思議な敬語を控えさせた馬鉄の言葉に、俺は思わず苦笑する。
 話を聞けば馬岱は馬騰の姉の子であるらしく、馬岱よりは馬騰直系であり実質的な彼女の言葉を伝える使者たる自身の言動がどれだけの影響を及ぼすかを考えてのことだろうと思う。
 お兄様って呼んだ方が私としても楽なんだけどなー、などとチラチラこちらを窺う馬鉄に、こちらが本当の彼女なんだろうな、などと思ってしまう。
 以前、ここ洛陽の城中においてもの静かな馬休と一緒にいた彼女のままであることに、俺は不思議と嬉しく思っていた。

「さて……降伏の話が本当だということは後で報告しておくとして。馬騰殿――というよりは、西涼はこれからどう動くんですか、伯瞻殿、元遷殿?」

「うんとねー、とりあえずは降伏宣言受諾の話が纏まったらそれを持って帰って、その後に叔母様や文約おじ様が洛陽に来るって感じかな」

「漢王朝に兵権を返す――ようは降伏なんだけど、表向きはそうだから少数の兵を連れてはくるんだけどね。そこで本格的に話が纏まれば、あとはよろしくって感じなんだけど……ねえねえ、北郷さん?」

「ん?」

 むー手強い、などと呟いている馬鉄は今のところ置いておいて。

 文約という字に聞き覚えが無かったが、馬岱が敬称をつけて呼び、なおかつ馬騰と同列に扱っていることから、西涼連合の雄で馬騰と肩を並べる韓遂だと当たりをつける。
 韓遂といえば後々に馬超と組んで曹操と争うも、曹操配下であった賈駆の離間の計に嵌り降伏する人物だったように思う。
 西涼でよく反乱を起こしていたという人物であったことから危険な人物かと緊張するが、いくら賈駆がいるとはいえそれに相対するのは董卓である。
 あの賈駆が董卓を裏切ることなど無いことだと断言出来るし、そもそもの歴史とは違うことから、そこまで気にするものでもないかと俺はその感情を一度頭から追い出すことにした。
 
 それに伴い、馬鉄からの言葉に耳が引かれる。
 北郷殿ではなく北郷さんという呼び名から、恐らくは西涼の使者ではなく馬鉄本人の言葉なのだろう。
 頭頂部の右に纏めた髪をぴょこんと揺らしながら、彼女は口を開いた。

「えっとね、西涼が降伏って形になったら私――と蒲公英姉様も北郷さんと一緒に戦うことになる訳じゃない?」

「まあ、恐らくはそうなるんでしょうね。降伏という形とはいえ、西涼連合の軍兵、特に騎馬隊は精兵です。それを指揮することに長けた馬家や他の将の方々とは一緒に戦うことになると思いますよ」

「うんうん、そうだよね。だからね、一緒に戦うことになるから――ううん、それもあるけど、これは証として受け取って欲しいの」

「証?」

「うん。北郷さんが最初に私達の言葉を信じられなかったのは、私達が北郷さんのみならず董卓さんを裏切ったことにあると思ったんです。でも、これから一緒に戦うことになるのなら信じて欲しいし、信頼して欲しいんです。だから預けたいんです……真名を」

「まあ、蒲公英達なりのけじめって意味もあるし。……それに、翆姉様だけ真名で呼ばれてるってのもずるいと思うし」

「それは…………いや、分かった。その……受け取らせてもらってもいいかな、二人の真名を?」

 信じたから真名を預ける、ではなく、信じてほしいから真名を預ける。
 そう言う馬岱と馬鉄にそれは違うのでは無いか、と言うことは簡単であろう。
 そもそもの話として、俺は二人のことを何かしらで疑っている訳ではないし、元々が信じているのであれば真名云々の話は特に必要の無いことである。
 降伏の話にしたって、信じられなかったというよりはその真意が掴みきれなかったというだけなのだ。
 それをもってして、信じていない訳ではない。
 そんな単純な俺の考えなど、目の前の二人は既に至っていることだろう。
 それでもなお。
 そう願い、そして見つめてくる二人の少女の問いに、俺が首を横に触れる筈も無く。
 強張りそうな顔を無理矢理崩した笑みを、彼女達に向けていた。

「うん。姓は馬、名は岱、字は伯瞻、真名は蒲公英! これからもよろしくね、お兄様」

「姓は馬、名は鉄、字は元遷、真名は右瑠! 翆姉様と蒲公英姉様ともども、よろしくね、えと……一刀さん!」

「ああ、こちらこそよろしく。蒲公英、右瑠」
 
 ただ。
 そうして向けられた爛漫な笑みに、俺も思わず笑顔に崩す。
 恐らくではあるが、彼女達は彼女達なりに重荷を背負っていたのではないかと思う。
 西涼がいらぬ混乱と嫌疑と騒乱に巻き込まれないように。
 そうして同盟を解消したのは董家側からとはいえ、結局のところ西涼は面倒事に巻き込まれないようにとそれを承諾した。
 自身を守り、率いる勢力を守り、そこに集う兵と民を守り。
 そうした馬騰の姿勢を批判することは俺には出来なかったし、元々の勢力地が涼州になる董卓もそれをしようとはしなかった。
 だが、馬騰の側――あの真っ直ぐに育ったであろう馬超や、その妹や従妹の馬鉄馬岱はそれをどう思っていたことだろう。
 俺の安直な予想であれば、きっと董卓軍にやましいことなど無いと憤慨し、自らの力では何も出来ないことを悔やんだのではないかと思えた。
 だからこそ。 
 今回の降伏によってようやく肩の荷が下ろせたような笑みの少女達に、俺は何も言うこともなく、笑みを浮かべた。
 想い想ってくれる、そんな心優しき少女達に、ありがとうの思いをのせて。





  **





「――お久しぶりです、馬騰殿。そして初めまして、韓遂殿。ようこそ、漢王朝帝都洛陽へ」

 そうして。
 いつかのように、俺は洛陽城門にて一人立つ。
 眼前に進み出てきた数人に僅かばかりに頭を下げながら、その人を観察するかのように。

「ふふ、随分久しぶりになったね、天の御遣い殿。元気にしてたかい?」

 颯爽と。
 軽やかに馬から降りた女性――馬騰は、こちらを少しばかり探ったのちににこやかな笑みをその顔に張り付けながら。

「……元気にしてたか……その、ご主人様」

 びくびくと。
 何処か居心地の悪そうにこちらを窺う少女――馬超は、それでもなお俺に怪我が無いことを確認すると、どこか安堵したような笑みを浮かべて。

 そして。
 ガシャリ、と重厚な鎧が擦れ動く音を響かせながら、老齢な雰囲気を匂わせる男性――韓遂が、その足を大地へと下ろす。

「ふむ……お初にお目にかかるかな、天の御遣い殿よ。我が名は韓遂、世話になる」



 馬騰。
 韓遂。
 
 多くの諸侯が参加する西涼連合軍の中においても、実質的にそれらを束ね、指揮する二雄が洛陽へと到着する。
 全面降伏という案件を持ってきた彼の者達を迎え入れるために、俺は一つ息をついて気を静め、もう一度ゆるりと頭を下げた。

「では、案内いたします……漢王朝皇帝劉協様の下へ。そして我が主、董仲頴の下へと」






[18488] 六十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/01/29 16:07





「――みな、集まったか」

 陽が空を赤焼けに染め、そして大地へと沈んだ後。
 空に煌めく星と月だけが暗闇を照らす中、微かに感じられるほどにゆらりと動いた影が声を上げる。

「……否。梁興(りょうこう)と馬玩(ばげん)がまだ来ておらぬ、楊秋(ようしゅう)よ」

 それに応えるように、また一つゆらりと影が蠢く。
 初めの影――楊秋と呼ばれた男より一回り大きな巨躯は、それに似合う形で静かな威圧を放っていた。
 
「またですか……あの二人が睦み合うことは構いませんが、時と場合を選べと言うべきでしょうか」

「別にいいんじゃない? 誰と誰が乳繰り合ったって、特に関係は無いんだしさぁ。獣な男と蛇の女なんて、その最たるものじゃない」

 さらには、二つの影。
 暗闇よりさらに深い黒髪に隠れるように溜息をつく女の声と。
 どこか可笑しそうに淫靡な笑みを含めた気怠そうな女の声と。
 その声色は相反すれど、溜息と笑みの声はどこか近い。

「李堪(りかん)殿と成宜(せいぎ)殿の言うように、別に待たなくてもいいんじゃないですか? あの二人がいなくたって長安を落とすぐらい簡単でしょうし。なんなら僕だけでも構いませんよ? そこな小娘なんていらないです」

「韓遂様の策略にけちをつけようとするそこな小坊主はさておいて、私も待つ必要は無いと思います、楊秋様。如何に洛陽を抑える董卓軍とはいえ、此度の韓遂様の策略、即座の対応も難しく、また見破られることも無いと思いますが?」

 さらには二つの年若い声と影。
 先の二人とは違う、まるで敵対するかの如くなその声らに、巨躯な影は静かに息を吐く。
 まるで仲違いをする兄妹――あるいは姉弟に苦慮する親のようであると楊秋は思うが、今はそのような感慨は無用である。
 
「……程銀(ていぎん)と張横(ちょうおう)の言葉は頼もしい限りだが、此度の件、軍略を嗜む者として安易な策は取りたくない。必勝を期するならば、全兵力を長安攻略に向けたいところであるが……」

「私も楊秋殿と同じ意見です。長安から涼州を守る李確は董卓軍の重鎮です。少なくとも、生半可な兵力では太刀打ち出来ないやもしれません」

「ふうむ……しかし、楊秋よ。いくら馬騰の側に気付かれぬようにとはいえ、一万以上もの兵力を動かすのだ。聞けば、董卓は先の戦によって少なからずの損害を被り、寄せ集めた兵の再編に四苦八苦していると聞く。先手となる此度の策において言えば、存外有利に進められるのでは無いか?」

「候選の言う通りよ、李堪。あんたも、そんなに気ばかり使ってるから二十六にもなって手付かず所か男を知らないままなのよ。何なら、良い男を紹介してあげましょうか?」

「……年のことは今は関係無いでしょう、成宜」

 闇夜の中で気怠い女の声――成宜がくすりと小馬鹿にしたような笑みを浮かべ。
 それに翻弄される女――李堪というのはいつもと同じ絵図であるが、残念ながら今は常と同じ状況下ではない。
 年若い少年――程銀。
 年若い少女――張横。
 そして巨躯な影――候選。
 彼らの言葉も一理あると楊秋は思うが、しかして、此度の戦においては西涼にて五胡なりを相手にするようなものではない。
 確かに奴らとて手強いものはあるが、董卓軍はそのようなものではないのだと、楊秋はなんとなしに思っていた。

 反董卓連合軍を撃退、瓦解させたことにしても、総大将たる袁紹が使えないこともあったのだろうが、何よりも数倍もの兵力差において連合軍をそこまで追い詰めたことこそが危険であると、楊秋は感じていた。

 数倍の兵力差を破った何かが、董卓軍にはある。
 それは、自身も言ったように軍略を嗜んだ者でしか分からないようなものなのだろう。
 しかし、楊秋とてそれを掴みきることは出来ていないのだから、それを他の面々に理解しろというのも無理なものがあった。

「いよお、遅くなってすまねえな。こいつが咥えこんだもんを離さなくてよ」

「何だい何だい。お前さんがわたしの中に入れたまま何回も出したから腰が抜けただけじゃないさ。わたしだけのせいじゃないよ」

「……これでようやく全員か」

 そもそも策は最早動いているのだ、どうしようもあるまい。
 そうして頭を振った楊秋の耳に下卑た笑い声を浮かべる男の声と、それに従うように甘ったるい声を上げる女の声が届く。
 梁興と、その女である馬玩の声だ。
 閨からそのまま駆け付けたのか、梁興はその衣服や鎧を肌蹴るに任せているし、馬玩に至っては未だ男と女の情欲の匂いを撒き散らせている。
 それに特に感情を揺れ動かすでもなく、楊秋は口を開いた。

「では、これよりは夜が更けきるまでは各々の持ち場にて待機となる。夜が明ける一刻前に行軍開始――石城安定を皮切りに長安を奪取し、洛陽にて韓遂様をお迎えする。……それで良いな?」

 応。
 そんな声などは何も無く、ゆらりと影が――七つの影が揺らめき蠢いたかと思うと、楊秋の周囲からは音が消える。
 獣が息を潜めて獲物を待ち構える時のような静けさだが、しかして楊秋は特に何かを思うこともなく――脳裏に浮かんだ、韓遂にこの策を授けたであろう仮面の人物による作り物めいた笑みを即座に消去しながら――自らもその影を揺らめきさせて、その姿を闇へと溶かしていった。





  **





「お久しぶりです、馬休殿。翆も、元気にしてたか?」

 洛陽城中の一室。
西涼連合の二雄、馬騰と韓遂を劉協と董卓の下に送り届けた俺は、そこで馬超馬休と同じ卓についた俺は、まずはと労いの言葉をかける。
 西涼からここ洛陽まではかなりの道のりであるし、何よりも彼女達は降伏する側としてのこともある、その道程における心労は俺には知ることが出来ないものがある。
 故に、と思って労いつつお茶を出せば、どこか安心したように馬超が口を開いた。

「……ご主人様は、その、怒ってないのか?」

「いや怒るも何も……俺の方から帰ればいい、って言ったからな。色々と迷惑をかけたことを俺が謝ることはあっても、怒ることは無いよ」

「……それを信用しろと北郷殿は言われる?」

 同盟解消前からは予想だに出来ないほどにおずおずとした馬超の言葉に、俺は苦笑しつつ口を開く。
 確かに、彼女の心配はもっともだと思う。
 馬岱や馬鉄の時でもそうであったが、西涼の将兵らは結びつきや盟約を大切にするのではないかと思えるほどに、それを気にしすぎる感じである。
 約束や盟約は確かに大切なものであるが、この戦乱の世において言えばどこまでが信用できる言葉であると俺は思っていたのだ。
 だが、彼女らはそれを気にする。
 やはりそれは、西涼という地理の上において異民族の襲来に怯え備え、立ち向かってきた彼女達が育んできた感情なのかもしれないなと思った。

 であるからこそ、俺の言葉に猜疑を抱く馬休になるほどと思う。
 これまで戦場を共にしてきたのは馬超と馬岱だけだが、武力に厚い馬騰陣営にあって馬休は軍師的立ち位置なのだろう。
 冷静な立ち振る舞いと視線からそう当たりをつけてみれば、彼女の猜疑も当然のことと思えた。

「確かに、馬休殿の猜疑は分かるのですが……馬岱殿と馬鉄殿――いや、蒲公英と右瑠に信じてくれと言われてしまえば俺としては何とも」

「……なるほど、蒲公英姉様と右瑠が真名を許したのですね」

 馬岱と馬鉄が真名を許した、そのことを馬休がどう思ったのか。
 それは俺が知ることは出来ないものであったが、少しばかり考えるように俯いていた馬休は顔を上げた。

「分かりました……いえ、いろいろと考えねばならないこともあるので一概に全てを理解したつもりではありませんが、蒲公英姉様と右瑠の真名に誓って、この場は貴殿を信じたいと思います」

「ああ、そうしてくれるとこちらとしても助かります。猜疑心を抱いて戦場に出れば、常に後ろも気にしないといけないなんて、気が気じゃないですから」

「ええまあ、それには同意です。……それはそうと、私の真名は左璃(さり)と申しますのでどうかよろしくお願いします」

「え……いやあの……」

「翆姉様、蒲公英姉様、右瑠……我が従姉妹と姉妹が真名を預けたのですから、信に値する人物なのでしょう、北郷殿は。であれば、私としても信じる証として預けようと思ったのですが……その、迷惑でしたか?」

 先にもあったが、西涼の将兵が味方を装って背後から討ってくるような性格であるとは思ってもいないが、重くなりそうであった場を和らげるために俺はわざとらしく肩をすくめておどけて見せる。
 それに応える馬休の言葉にもどこか笑みが見えたのであれば、それも成功であると思っていたのだが。
 唐突に真名を名乗られたことで、俺の思考回路はショート寸前となる――ちと言い過ぎか。

「いえ、迷惑などではありませんが……その、よろしいのですか?」

「言いましたでしょう、信じる証にと。それに、蒲公英姉様と右瑠の真名をそうして受け取っておいて、私の真名は受け取られないとあれば、やはり信じるに値しないのだと思われていると受け取りますが?」

「うぐっ…………承知、つかまつりました……左璃」

「では、お願いしますね」

 しかし、やはり気のせいではないのかもしれない。
 迷惑であろうかと上目で問いかける馬休は年相応の可愛らしさがあり、軍師然とした先ほどまでの雰囲気とは違う面が覗け。
 さらに、彼女と髪留めの位置以外がほぼ同じ顔である馬鉄と違うその人となりに、さらに違う面が覗けてしまう――いわゆる、ギャップ萌えとかいうやつである。
 馬鉄の明るい面、馬休の冷静な面、そして目元を潤ませて今にも泣きそうな顔で自分は信じるに値しないのかと問いかける馬休に、俺はがっくりと肩を落として白旗を上げた。
 初めて見た柔らかな笑みは、どことなくクスリと笑っているかのようだった。





  **





「いやあまあ、呑め呑め御遣い殿。翆はあんたに会っていやに女になったからな、まあなんだ、これは感謝の印だよ」

「ちょッ、母様ッ!? 何だよ、女になったってッ」

「何言ってんだい、女と男がすることなんざ、まぐわ――」

「そんなことしてないよッ何言ってんだよこの酔っぱらいッというかそれ以上言うなああああッ!」

「叔母様、いやにご機嫌だねー」

「蒲公英姉様の言う通りだね。母様、いつにも増して翆姉様弄りに磨きがかかっているもん」

「翆姉様が可哀そうだと思うでしょうが、あれはいつものことなので気にしないで下さい、北――ではなく、一刀殿」

「ええ……ああ、うん」

 そうして西涼連合の面々が洛陽へ来てから一夜が明け、洛陽が城中の大広間にて俺達は西涼連合合流――劉協と董卓の取り決めによって降伏ではなく合流となった――を祝い盛大な酒宴を行っていた。
 西涼連合に関わることであれば当然の如く馬家の面々もいる訳であり、目の前で娘である馬超に絡みかかる馬騰などは明らかに酔っぱらっているようにも見えるのだが。
 絡み付かれる馬超の妹やら従妹殿達がいつものことと言うのであれば、俺としても特に気にしなくてよいかと一人杯を空ける。
 
 馬姉妹は中々に薄情なのか、それとも信頼の裏返しなのか。
 そんなふうに穏やかに彼女達の賑わいを眺めた後、ふと思い立って宴の卓を歩いてみる。
 さすがに劉協がいることは無かったが、それでも西涼連合という大陸でも名の知れた勢力が漢王朝に助力――董卓軍に合流するということもあって、漢王朝に仕える武官文官も結構な数が杯を傾けている。
 張温や王允などの三公もこの場にはいないが、この宴の前に少しは落ち着くみたいだねえ、という彼女らの言葉を聞いた限りでは、今回のことに関しては前向きみたいである。

 さて、と唇を酒で湿らせて思う。
 西涼が董卓軍と合流――内実こそ降伏だが――したということは、これで洛陽以西の守りが確実なものとなるということだ。
 西涼連合が長らく相対してきた五胡の対抗こそ考えなければならないが、とりあえずは一安心してもよいことだろう。
 石城安定、そして長安を西方前線として李確に任せていたが、それが不要となれば次はどうするべきかと考えてみる。

「やっぱり、東方と南方かな……気にするべきは」

「おやおや、御遣い殿。杯が空いておりますな?」

「ん……ああ、これは韓遂殿」

 東方の群雄割拠する中原か。
 南方の劉姓が根を張る荊州と益州か。
 東方と南方、どちらにしても引き続き警戒を続けなければならないか、などと思っていた俺は、ふと声をかけられた方へと顔を向ける。
 にこやかな笑みを携えながら、韓遂が酒瓶を傾けていた。

「このような時にまで軍略を考えるとは……御遣い殿は中々に勤勉でいらっしゃるのじゃな」

「いえ、そのようなことは……。西涼にて根を張り、五胡を馬と共に防いできた韓遂殿に比べれば俺などまだまだです」

「はっはっはっ、ご謙遜めされるな。あの寿成が気に入って娘を預けようとする男など、そうそうおりますまい。それすなわち、貴殿にはそれだけの能力があるということ」

「はあ……そこまで自覚があるわけではありませんが、そう言って頂けるのであれば、有り難く頂戴しておきます」

「うむ、そうなされ」

 かっかっかっ。
 その風貌と相まってまるで好々爺とも見れる韓遂に、俺はどことなく彼が李確や徐栄に近い人間であると感じていた。
 武人然とした二人よりは少し身体が緩そうではあるが、それもある貫禄を与えるに至っており、なるほど、どちらかと言えば君と見た方がしっくりと来る。
 馬騰と双雄と呼ばれる理由が分かる気がした。

 それと同時に、騎馬隊を丸々西涼連合の諸将に任せるのはどうか、などという構想が俺の頭を駆け巡る。
 馬超と馬岱の能力はこれまでの戦いで既知であるし、馬騰は言うに及ばず、馬鉄と馬休もその能力に疑うところは無いのではないかと思われる。
 そして馬騰と対を成す韓遂であるならば、これもまた疑う余地は無いだろう。
 馬騰と韓遂をそれぞれ東西に配置し騎馬隊の指揮官を任せることが出来れば。
 そう考えていた俺の耳に、韓遂の声が届く。

「ふむ……そういえば御遣い殿、厠はどちらですかな? 少々酒が進み過ぎたようで」

「トイ――厠でしたら、あの扉を出て突き当たりを右に曲がっていただければすぐ見えます。……ご案内しましょうか?」

「いやいや、何の。少し夜風にも当たりたいですしな、ご厚意だけ受け取っておきましょうぞ」

 では、失礼いたす。
 そう言い残して俺が指し示した扉を出て行く韓遂を見送れば、不意に視線が董卓と賈駆へと向けられる。
 つい先ほどまでは漢王朝に仕える面々に祝辞やら賛辞を述べられていたようであったが、彼らが回りに見えないことから、それも落ち着いたようである。
 疲れ切ったような顔をしている賈駆に苦笑しながら、俺は円卓の上にある水瓶を持って彼女達に近づいた。

「お疲れ様、月、詠」

「あっ、一刀さん。お疲れ様です」

「ん……なんだ、あんたか。お疲れ――って、全然疲れてないようなのに言っても仕方が無いわね。で、何か用? 見ての通り月もボクも、疲れてるの」

「そんなことは分かってるよ。まあ、特に急ぎの用件なんかも無いけどさ、話に来たってだけなんだから。それに疲れてるだろうと思ってね……はい、水」

「あ、ありがと……」

「ありがとうございます、一刀さん。私、もう喉からからで」

 だから何かしらの用件は後にしなさい。
 そう続ける賈駆に苦笑しつつ、俺は空の杯に水を注ぎ入れて二人へと渡す。
 酒を呑み呑みで賛辞やらに対応していれば喉も潤っているだろうが、彼女達は西涼と同じくこの宴の主であるからして、悪酔いを防ぐためにと賛辞の者達による酒は遠慮していたようだ。
 それでいてずっと彼らの相手をしていたのだから喉も渇いているだろう、と思っての水だったのだが。

 どこかぶっきらぼうながら礼を言って喉と唇を潤す賈駆と。
 花が咲いたように微笑む董卓に、俺もつい嬉しくなる。

「それにしてもあれだな……漢の役人さん達はえらい喜んでいたようだけど、そんなに嬉しいものかね? そりゃ、確かに俺達も助かるし嬉しいけどさ」

「喜ぶのも無理は無いかと思いますよ、一刀さん。今代の皇帝陛下――劉協様からすれば、初めて大々的に臣の礼をされたのですから」

「ボク達も同じような立場ではあるんだけど、どちらかと言えば臣というよりも協力者――もっといえば、皇帝陛下の権力の背景としてそれを保護しているのよ、ボク達は。勿論、皇帝陛下の側にもボク達にもそれを露骨に言う者はいないでしょうし、皇帝陛下自身がそれを望まれてボク達はここにいる訳だし」

「それに、西涼は将兵から民に至るまで漢王朝への忠に厚いと聞きます。元々涼州は異民族の襲撃を防ぐことが主でしたが、西涼はそれが特に顕著です。それ故に、漢王朝に忠を尽くす優秀な人が代々に太守をしてきたと聞いています」

 賈駆と董卓の言葉に、俺はなるほどと思う。
 俺達董卓軍は、黄巾の乱から何進と張譲の争いに至る権力争いによって引き起こされた争乱によって洛陽へと赴くこととなり、その過程で当時は未だ皇帝では無かった劉協を保護することとなった。
 そして、洛陽で起こっていた争乱や大火によって漢王朝皇帝である霊帝や何進、張譲がその身を朽ちさせていたことから、劉協を保護して洛陽の混乱を収めた董卓軍がそのまま駐屯することになったのは記憶に新しい。
 洛陽の大火からの復興、権力争いによって乱れた治安や街並みの整備、人心の安定――そして後に繰り広げられた反董卓連合軍との戦いにおいて、董卓軍は漢王朝の背景としては十分なものとなったのだ。

 だが、それは漢王朝に心から仕えるものではない。
 無論、董卓にしろ賈駆にしろ、俺にしたってそのようなつもりは無く、漢王朝――その皇帝である劉協の支えと力になりたいと思っているのは事実である。
 しかし、それでもなお大局を見るのであれば疑心を抱かずにはいられない人がいるのも、また当然であるのだ。
 そんな折に西涼連合が――それが事実上董卓軍への降伏だとしても――漢王朝に忠を尽くすと大々的に洛陽を訪れたものだから、その疑心を抱く者、不安に思う者からすれば喜びもひとしおであろうし、董卓軍と西涼連合という後ろ盾を漢王朝が得て喜んでいる者もいることだろう。
 つまりは、である。
 此度の西涼連合の動きに関して、漢王朝の殆どの面々がその理由と内容こそ違えど喜んでいるということであった。

「はあ……色々と難しいんだな、政治の世界も」

「そう? これぐらいならまだ簡単なほうだと思うけどね。……それはそうと、あんた、さっき韓遂と話をしてたわね、何を話してたの?」

「え? ええっと、そうだな……寿成殿を含めた馬家のことだとか、これからの展望だとかを色々と話して、厠の場所を案内しただけで、特には何も話してないけど」

「ふーん……それだけ、のようね」

「それだけだけど……何かあったのか?」

「特に気にすることでも無いと思うんだけど、ちょっとね……」

「詠ちゃん、私ちょっと……」

「えっ、あ、うん。ちゃんと兵は護衛に付けてね」

 大丈夫だよ。
 そう言って笑う董卓が何処に行くのかと問いかけようとすると、賈駆に止められる。
 その顔と視線が察しろとばかりに訴えるものだから、ああ、韓遂と同じかと察しをつけてみたのだが、何故だか殴られた。

「理不尽だ……ということはさておいて、だ。何か気になることがあれば言ってくれ、動きが必要なら人も呼ぶ」

「いや、そこまでじゃないと思うんだけど……あんた、手下八部って知ってる?」

「確か……韓遂殿麾下の将軍達のことじゃ無かったか? 彼の領地に元々割拠していた豪族から選ばれた勇将の八人だったと思う」

「よく知ってるわね……それも忍からの報告?」

「まあね。情報は集めておくにこしたことはないし」

「それじゃあ話も早いんだけど……その八人が洛陽にいないのはどういうことだと思う?」

「それは……待機している兵を指示しているとか?」

 手下八部。
 俺の記憶に間違いがなければ、西涼連合の将にして馬騰と韓遂の同盟相手か、その配下だった気がする。
 楊秋、梁興、馬玩、李堪、成宜、程銀、張横、候選の名を賈駆から聞けば、確かにそのような名には聞き覚えがあった。
 確か、そのうちの数人だかは後に曹魏に仕えて列侯に封ぜられた者もいたはずなのだが。

 城内にある軍兵練兵場にいるのではないか、という俺の問いに賈駆は首を横へと振るう。

「そこにもいないわ。そもそもとして、洛陽にすら来ていないみたい」

「とすれば、全員が西涼に残っているということになるのか……けど、それに何か問題があるのか?」

「問題は無いわ。ただ、西涼連合において馬騰はその娘と姪まで連れて来たにも関わらず、韓遂は直臣となるその八人のうち一人も連れて来ていない、彼一人なのよ。……不気味というか、疑問に思うのも仕方の無いことでしょう?」

「……確かに、違いない。そうだな、それとなく韓遂殿に聞いてみることにするよ」

「ええ、お願いね」

 ボクはもう一度練兵場の方を確認してみるわね。
 そう言ってその場を去る賈駆を見送った俺は、ふうむと顎に手を当てる。
 韓遂殿は厠に行っているからすぐには戻ってこないが、このような華やかな場で将軍の居場所に関することを聞くのも野暮であろうし、もしやすれば賈駆も顔を知らずただ紹介されていないだけでこの場に手下八部の誰かしらがいるのかもしれない。 
 その居心地の悪さを感じるよりは、厠にて男二人で話をしたほうがいいのかもしれないな、なんてことを考えながら、俺は厠へと向かってみるために扉へと足を進めた。





  **





「――董卓殿」

「え? ああ、韓遂さ――殿。お疲れ様です」

 幾分かすっきりした身体と頭で夜空を眺めていると、不意にかけられた言葉に董卓は振り返る。
 穏和な笑みを浮かべた韓遂が、ふうむとばかりに隣まで進み出る。

「少々肌寒いですが、良き夜空ですな」

「はい。もうしばしすれば暑き日が訪れるのでしょうけど、やはりまだ晩は冷え込むものがありますね」

 はあ、と息を吐いてみれば、ほんの微かにだけ白いものが混ざる。
 いつもであれば酒や人の熱気に当てられて火照った身体には心地よい涼しさではあるのだが、雨が近いのか、今日はここ数日のうちで良く冷えている。
 
「この分だと、数日のうちに雨が降るかもしれませんね」

「左様ですな。この湿り具合、それなりに降るやもしれません」

 同じように微かに白い息を吐きだして笑う韓遂に、董卓もつられてくすくすと笑う。
 体躯と笑みの雰囲気が李確や徐栄に近いと思えたからか、その韓遂の笑みに董卓はどこか親近感を覚えていた。

「しかし、こう冷えると老体には些か堪えますなあ。董卓殿はお若い故にそのようなことは無いのでしょうが」

「まあ、韓遂殿が老体だなんて。馬を駆れば西涼で誰よりも早いとお聞きしていますのに」

「かっかっ。もはや流石に馬家の若姫殿には勝つことは出来ませぬよ。ここ最近ではその妹殿達や従妹殿にも負けたりしますからな」

 かっかっかっ、と笑う韓遂の背にどことなく哀愁を見た董卓は、ふと苦笑する。
 韓遂は馬家の面々とは血の繋がらない――遡れば敵であった時もあるらしいが――筈なのだが、その哀愁には娘のような存在に負けることへの寂しさのようなものがあった。
 あたかも、李確と徐栄の自分や賈駆に対する時のようだ、と思った董卓は、歩き出した韓遂の背を追いつつ、彼が呟いた言葉に耳を傾けた。

「そういえば……この廊下に面する部屋は一体何に使われる部屋ですかな? 造りは寝室のようですが、寝台などが見えませぬが……」

「ああ、確かにここは寝室なのですが、寝台は西涼連合の兵の皆さんが眠れるようにと練兵場に張られた天幕に移してあります」

「何と……ッ。宮城の寝台を兵らに与えたというのですか?!」

「はい……といっても、かず――北郷がそのように手配したのですけどね」

 戦地であればいざ知らず、我らに付こうと洛訪した兵達に地で寝ろとは申し伝えられぬ。
 そう言って寝台移動の許可を取りにきた時の北郷を思い出して、董卓は一人暖かい気持ちになる。
 優しい人であることはこれまでのことから色々と知ってはいたが、降伏してきたとはいえ他国の兵のことを考えて寝台を用意しようと考える人だということは、中々に衝撃的であった。
 賈駆などはあまりいい顔をしなかったのだが、頭を下げてお願いされて狼狽し折れた彼女の姿は、今も記憶に新しい。

 その姿をふと思い出してくすりと笑えば、不意に韓遂の声が耳へと届く。

「……申し訳無いが、部屋の中を見ても?」

「え、ええ……問題ありません。少々お待ち下さい」

 先ほどまでの笑みを含んだ声とは違う、何処かひんやりとした声に疑問を覚えながら、董卓は申し訳程度に備えられていた鍵――ただのつっかえ棒とも言う――を外して、韓遂に先んじて部屋の中へと入る。
 寝台は無く、あるのは小振りな円卓と簡単な机のみ。
 寝台が無いだけでこんなにも広いのか、と伽藍とした部屋を見渡した董卓の後に続いた韓遂――。



 ――それに続く形で、パタン、と扉が閉ざされた。



「……韓遂殿、如何なさい――きゃあッ?!」

「……黙っておるがよい」

「――んっ、んふぅ!?」

 何故、扉が閉ざされたのか。
 韓遂が入る前に扉が閉ざされてしまったのか。
 もしや鍵が倒れてそれで扉が閉ざされてしまったのだろうか。
 色々な疑問が董卓の頭をよぎるが、確認しないことには分からないままだろうと思って振り返ろうとした彼女は、不意に受けた衝撃に声を上げる。

 そうして聞こえた冷たい声と鼻から下を覆う何かしらに口を塞がれたのだと理解した時には、その冷たい声が自らの背後から――そして、その声が韓遂のものであるとも理解した。
 それと同時に、背後にまで迫ったが故に韓遂の雰囲気が一変していることに董卓は気付く。

 李確や徐栄のようだと思った好々爺なふうな雰囲気は何処にも無く。
 西涼のことや馬のことを微笑みながら語った姿も何処にも無く。
 背後にいるのは、ただひたすらに冷静で、冷ややかな視線を送ってくる韓遂であるということに。
 
「……漢王朝が授けしもの、それが寝台であるとはいえ一兵卒に与えるなどと……貴様は何を考えている?」

 一体何を言っているのか。
 そう言葉にしようとしても口は塞がれており、故に鼻から零れる息では音を紡ぐことは出来ない。
 ぎりっ、と少しだけ力の込められた韓遂の手に動きを押しつぶされて、韓遂はそれに構うことなく言葉を続けていく。

「漢王朝は貴様の私利私欲のために用いるべきものでは無いということぐらい、容易に考えられんのか。或いは、漢王朝への忠を捨て一田舎の太守と成り果てた男の娘であるからして、それも当然なのかもしれんがな」

 ギリリッ。
 さらに力が込められていく韓遂の手は、いつしか董卓の口元から離れて首へとそえられている。
 そのきめ細やかな肌に滑る手は、いつしか董卓の喉を少しずつ圧迫していた。
 
「やはり、貴様のような女に漢王朝は任せられん。儂のような――否、漢王朝に絶対の忠を誓う儂こそが、漢王朝を支えるに相応しいのじゃよ」

 このままでは不味い。
 徐々に圧迫が強くなっていく韓遂の手に董卓は危機感を募らせていくが、何かしらの技を使っているのか、声を上げようにも口から零れるのは吐息だけであった。
 それでいて、口から出し入れされる息は韓遂の手によって少しでしかないのだから、次第に朦朧としていく頭についには声を上げることすら出来ずに、吐息がただ口から漏れるのみであった。

「貴様のような若い娘に全てを任してしまったこと、それは儂の不覚でもあるが、その存在が後々に漢王朝に仇を成すと言われてしまえば、今ここでその禍根を断つことは正しきことなのだろうよ……とここまで言っても、もはや答えることすら叶わんだろうがな」

 徐々に薄くなりつつある意識と視界で、背後にいる筈の韓遂の声が何処か遠くから聞こえてくるのをどうにかしなければと董卓は思考を働かせるが、少しずつ喉を締め上げていく韓遂によってそれもままならない。
 脳と身体に酸素が不足している、と北郷ならば言うであろうが、そんなことを董卓が知る由も無く、思考と共に鈍くなっていく身体は思うように動いてくれなくなりつつあった。

「……せめてもの情けよ。眠りにつくように、このまま死なせてやろう」

 死。
 韓遂の言葉によって、自らのそれが迫っていることを認識する董卓ではあるが、今のような状態ではそれに抗うことも難しい。
 せめてもの抵抗にと腕や脚を出来うる限りに動かしてはみるが、ガタリ、と近くにあった小振りな円卓を動かしただけである。
 
 西涼連合のためによる宴で多くの人はそちらにいるし、この部屋に入るまでの段階では周りに人がいたような感じでも無い。
 ともすれば自力で脱出出来ればよいのだが、それも、屈強な武人でもある韓遂に押さえつけられてしまえば、それも難しい。
 死にたくない。
 離れたくない。
 このような場所で、嵌められて死ぬのは嫌だ。
 ぽろりと零れた涙はその恐怖からか、或いは、朦朧とした意識とは別に本能が零した不安か。

 もはやここまでなのか。
 視界や意識がほぼ真っ白にまで染め上げられた董卓は、それがそのまま暗くなるのではという素直な意見を抱いた。
 だが。
 最後の一押しと込められた韓遂の力は、不意に聞こえた声によって瞬間、弱まることとなる。




「……韓遂殿、おられるのですか?」




 ビクリッ、と。
 有り得ることの無い、ある筈の無い声だったのだろう。
 ふと震えた韓遂の手は、その震えによって董卓への圧迫を弱めることとなり。
 それによって空気を得た董卓は、急速に浮かび上がってきた意識にぶるりと身体を震わせながら、一息に声を上げた人物へと叫んだ。



「――助けてッ、一刀さんッ!」



 と。




[18488] 六十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/02/23 15:07





「あれ? おかしいな……」

 しん。
静まりかえった廊下に立ちつくして、俺は周りをきょろきょろと見渡しながらぽつりと呟く。
 その動作と、夏を目前に控えていながらも何処かひんやりとした夜風によって酔いを醒ましながら、俺は目の前の厠、そこにいる筈だった人物――厠へと席を立った韓遂を探して、来た道を戻ることにした。

「ふうむ……どこか入れ違いにでもなったのか? ……あるいは、韓遂殿がどこかふらふらしているとか……」

 宴が開かれている広間から厠までは、特に迷うことのない一本道である。
 韓遂に厠の場所を聞かれた際にも言ったが、広間を出て真っ直ぐ進み、突き当たりを右に曲がればすぐに見えてくる筈なのだ。
 であれば、厠自体にはいなくともその途上であれば姿を見つけることなど容易いものだと思っていたのだが。
 
「いよいよをもって何処に行かれたのか……まさか、左には行ってないだろうな」

 その姿が見えない以上、韓遂と手下八部の話をしようと思っていた俺としては、些か拍子抜けに近いものがあった。
 もしやすれば、と思って右ではなく左へ行ってはみたものの、その途上と周囲にも韓遂の姿が見えることは無く、俺はいよいよ途方に暮れていた――。


 ――そこで、俺はふとあることに気付く。


「あれ……そういえば、月も厠だった筈……」

 そういえば、と賈駆と話をしていた時を思い出す。
 厠では無いか、というのは俺が独自解釈として導いた解であったのだが、あの時の賈駆の反応からすればそれも正解であったのだろう。
 であるならば、韓遂の姿は置いておいたとしても、董卓の姿は見えてもおかしくはない筈なのだが。
 
 もしや董卓も酔って道を間違えたか。
 そんな考えが即座に脳裏へと浮かぶが、先の様子ではそれは未だ早いだろう。
 何より、彼女は自制が良く効く方である。
 酔えはせども、酔い潰れてしまったり前後不覚になるほど酔うことはまず無いだろうと言えた。
 そもそもとして、彼女が人前でそこまで酔うような人物にはとても思えない。
 そんな彼女の姿が見えない――そして韓遂の姿も見えない。
 そして。
 韓遂の配下、手下八部が洛陽にいない。

 これらの事実を冷静に、そして早急に並べていくと、不意に背筋に言いしれぬ悪寒が走る。
 それを待っていたかのように――。
 ――カタリ。
 人もいない闇夜に包まれた廊下に面する部屋の中から、微かな音が聞こえた。

「……」

 風か。
 声に出さずに出した問いは、しかしてすぐさまに掻き消される。
 この部屋――これらの廊下に面している部屋は、西涼の軍兵が寝るための寝台を運び出した後に、きちんと施錠されている筈である。
 施錠とは言ってもきちんとされているのは窓ぐらいなものであり、扉などは簡単な支え棒で自然に開かないようにしていただけなのだが――と。
 そんな折に、俺は一つの部屋の前にて足を止めた。

「鍵が……」

 鍵――支え棒――が開いている、その部屋。
 自然に外れたのかもしれない、と頭の中で考えてみても、心のどこかでは有り得ないと思ってしまうその光景に、知らず手に力がこもる。
 もしやすれば韓遂がつい部屋を覗き込んだだけか。
 もしやすれば酔いを醒ますためにと董卓が部屋に入ってみただけか。
 ――あるいは、何かしらの用件によって二人がこの部屋にいるのか。
 
 韓遂は男、董卓は女である。
 男と女という性別だけを考えるのであれば男女が一部屋に集う理由などは数えるほどしか無いであろうが、それも韓遂と董卓であるかもしれないと思えば疑問に思える――いや、そういう関係である可能性もあるにはあるのだが、それを考慮するのはズクリと不思議と胸が痛くなると共に、この場で考える事ではないので止めておくことにしよう。
 それはともかく。
 
「……韓遂殿、おられるのですか?」

 微かに聞こえた音を頼りにしてみれば、その近くにて部屋の鍵が外されている。
 そして韓遂と董卓の姿が見えない。

 それらの全てを繋ぎ合わせることは短慮であろうが、しかしてこれ以上の可能性を考えることも難しいであろう。
 そう思った俺は、とりあえず始めの探し人である韓遂の名を声に乗せた。

「……ッ?!」

 そしてその声に反応してか、部屋の中からは人の気配。
 やはりここにいたのか。
 そうして安堵しようとしていた俺の耳に、予想だにしていなかった声が届く。


「助けてッ、一刀さんッ!」


 その後は、半ば反射的であった。
 腰に構えてあった剣を抜き放ち、扉を蹴破って部屋の中に入ってみれば。


「……月ッ!?」

「おっと……それ以上近づかないでもらおうか、御遣い殿」


 微かに脳裏と胸中によぎった男と女の甘い空気や雰囲気などどこにも無く。
 韓遂が、董卓を羽交い締めにしていたのであった。





  **





「ふあぁぁぁぁ……むにゃむにゃ」

 洛陽より遥か西に位置する街であり、董卓の始まりの街でもある涼州が石城。
 董卓の元の根拠地であるということ、董卓軍が勢力とする最西であるということも踏まえて、彼の街には長安以西を任されている董卓軍重鎮である李確が治世していた。
 元々、石城は董家が長く治めていたこともあって、そこに長く仕えてきた李確からしてみれば、その統治にさほど苦労することは無かった。

 そして。
 さほど苦労することの無い日々において、反董卓連合軍との戦いの折に同盟を解消することとなり、そしてその戦いが終結した後に再び同盟を――服属という事実はさておいて――結ぶこととなった西涼方面を見張るという仕事は、否応無しに暇を消化する仕事となったのである。
 李確直属の軍と言えば、董卓軍でも最精と呼ばれるほどに良く練られている兵である。
 暇を持て余すことこそすれど、そのような仕事であっても気の緩みは微塵も無い。
 事実、パチリと弾ける火に照らされている兵は、大きな欠伸こそすれど、その視線は注意深く城壁の上から闇夜を見つめていた。

「おい、ちゃんと目を覚ましてこいよ」

「いや、そんなこと言われてもなあ。こう静かで真っ暗だと、寝ずの番も大変じゃねえ?」

「寝ずの番が大変なことは認めてやるが、それとお前が眠たげなことはまったくの別だ。……もっとも、西涼連合が再び同盟相手と成った今、この石城を狙おうとするのは賊の類か五胡ぐらいなもので、それも最近は無いがな」

「おまけに、近場の賊共は李確様の名前を恐ろしがって近づきやしないし、五胡に至っては西涼の騎馬が勝ちまくって防いでるとくりゃあ、全くもって怖いもんは無しだな」

「いや、そうは言うがな。一度気を緩めてしまえば、それは軍を脅かす禍根と成りうるのだぞ。お前はそれを分かっているのか?」

「分かってる、分かってるって。ったく、お前はいつもそうやって難しいことばかり……ん? なんだ、ありゃあ?」

「おい、話を……む……人影、か? おまけに足音も……結構な数がいるな」

 だからこそだろう。
 無駄口と思わしき声を互いに上げながらも闇夜へと注意を飛ばしていた見張りの兵にとって、それはあまりにも目立ち過ぎた。
 人の動く気配。
 闇夜で揺らめく多くの影。
 多くの脚で鳴らされているであろう足音。
 
 それらの存在に、ひしり、と見張りの兵達が纏う空気が変わる。
 それは先まで話をしていた二人だけではなく、城壁の上から各々見張っていた兵達も同様であった。
 ある者は防衛のためにと弓矢を番え。
 ある者は休んでいる兵を起こしに行き。
 ある者は指揮官への伝令に走り。
 ある者は動き近づく存在に注意を飛ばした。

「……賊徒、か?」

「さあて、どうだろうなあ……。賊なら一気に攻めてきてもおかしくはないんだろうが、そんな気配も無しとくりゃあ、不気味で不気味で仕方がねえな」

「……馬の嘶きも聞こえるな」

「とすりゃあ、五胡か?」

「――ちょっと待て。一人、進み出てくるみたいだ」

 近場に根を張る賊軍がもしやすれば攻め寄せてきたのでは、とそれはまず無いのではないか、と兵の一人は思う。
 ここ石城は、元々董卓の先代から董家が統治する街である。
 しかし、董家が統治する以前はあまりにも酷いものであったと、古くからこの街に住む人は言う。
 五胡に対する西涼連合の本拠は遠く、かといって洛陽は元より長安ですら近いと言える距離では無い。
 そんな地理上にあり、さらには西方からの商隊を狙う賊徒によって、石城は常に賊徒からの脅威にさらされていたと言っても過言では無かった。

 李確や徐栄、董家先代の奥方といった武将達がいたにはいたが、元々さほど重要視されていなかった石城には必要最低限の兵しか徴用することは許されず、自衛しかままならなかったと言っていい。
 そんな状況を、董家先代――董卓の父は変えて見せた。
 賊徒を取り締まり、王朝に願い兵を増やし、民から志願兵を募り、石城のみならず周辺地域の治安を向上させることに成功したのである。
 むろん、それまでやりたい放題であった賊徒を取り締るのであるから、その手腕は苛烈と言っていいほどであった。

 さらには、反董卓連合軍が洛陽へ攻め寄せようとした際に、その混乱に乗じて石城を襲撃しようとした賊軍があったのだが。
 その折には石城へと赴任していた李確によって、これらはその尽くが討たれることとなる。
 その苛烈さはまるで先代のようであった、とは古くからの兵の言葉だ。

 そのように数度に続けて苛烈に散々に打ちのめされた賊徒らは、それからというもの、石城の軍を恐れて近づかなくなっていたのである。
 そんな折に、まさかの石城に近づく多勢の気配。
 賊軍であるかもと思われたがどうにも様子が違う、ならば五胡の軍勢か。

 そう身構えようとした見張りの兵達は、しかして、それから進み出た者の声によってそれを程よく緩め、それを主である李確に伝えるためにと再び伝令を走らせた。


 曰く。
 我らは西涼連合において韓遂直属の軍兵であるが、西涼騎馬の雄姿を見せるために先に進んだ主に合流しようと進んでいるところである。
 先に進むが真ではあるのだが、董卓軍重鎮である李稚然殿に礼を交わし、適うならば兵糧の補給をしたい。
 指揮官、楊秋より。





「――西涼連合の楊秋殿か……」

「はい。我が主は心より腰を曲げてお願いしたいと申しております。李確殿を始め董卓軍の皆様方には、先の戦による傷が癒えぬこともありましょうが、重ねてお願い出来ましたらと……」

「ふうむ……」

 そうして訪れた西涼連合からの使者を前にして、李確はふと息をついた。
 時間は明け方、既に日が昇り始めようかという頃合いである。
 となれば、西涼からは駆け通しでも昨夜より前に出たということになるのだが、目の前にてこちらの返答を待つ使者には疲れの顔色はどうにも見えない。
 馬と共に生まれ生きてきた者達の成せる業なのか。

 さてそれは置いておくとして。
 現在の状況を確認してみようか、と李確は先ほどまで仕事で酷使して疲れ切っている脳を再び働かせる。

 董卓軍は、西涼連合軍と反董卓連合軍との戦いにおいて解消されていた同盟を再び締結――その内実が降伏、服属、良く言えば合流――することとなる。
 そのおかげもあってか李確の仕事はそれまでより格段に増えることとなるのだが、それに加えて、その先触れとして西涼連合の雄でありまとめ役を務める馬騰、その娘である馬鉄と従姉である馬岱が洛陽へと赴いたことも、仕事の増加に拍車をかけていた。
 ともあれ、色々――北郷が絡んだ――なことがあってそれらの人物は無事に劉協や董卓の下に辿り着くこととなり、同盟は再び結ばれることとなった。
 そして、締結の詳細を詰めるために馬騰は先の二人に加えて、娘である馬超と馬休を連れて行き、その傍らには馬騰に双ぶ雄である韓遂がいたという。
 劉協は馬騰と韓遂の同盟締結を心から喜び、董卓はその気持ちに応えるために宴を開くという――現状、この時をもって動いているのがここである。

 洛陽は祝賀に包まれ、西涼の韓遂麾下の兵がその祝いを述べに窺い、そのついでとして補給をさせて欲しい、と。
 なるほど、確かに事柄を並べてみればそれは至極当然のことであると思えてくる。
 だが。

「……少々聞きたいことがあるのじゃが、よろしいかな?」

「はっ。なんなりと」

「うむ。儂の聞くところによると、韓遂殿――いや、西涼の方々はいらぬ混乱と喧噪を洛陽に持たぬようにと兵の数を厳選したとある。しかし、ぬしらは三千の兵をもって韓遂殿に合流しようとなされる……その食い違いが、ちと疑問での」

「ああ、そのようなことでしたか。何、簡単なことでありますよ。西涼が主、韓遂が洛陽の方々に西涼の武勇とそこにある品々をご覧にいれたいと願ってのことであります」

「ふむ……西涼の武勇とは、精強と謳われる騎馬ということで相違は無いか?」

「如何にも」

 確かに、使者の言うことも一理ある。
 西涼の武勇を洛陽の民に見せるということは、それ即ち、そこを実質的に支配する董卓軍に見せるということである。
 その行動は、要らぬ反感を抱く可能性もあるが、同盟を結ぶ双方にとって言えば主導権を握る握らないといった扱いになっていくことだろう。
 そして、降伏服属といった面から見て取れば、西涼連合内において馬騰と韓遂の主張合戦とも言えることになるのだ。
 特に、韓遂はこの同盟に関していえば馬騰の後手に回っている感は否めない。
 娘を人質同然で洛陽に置いていたのとは訳が違うのだから、それを焦って独断に走ろうとしたのでは無いか、という結論を李確は出そうとした。

 ――しかし、本当にそれだけであろうか。
 確かに、西涼連合は同盟の相手であるからして、自身の立場で疑念を抱くということは要らぬ混乱を生じさせてしまうということを李確は承知しているし、ここは快く使者の言い分通りに補給を認めるべきなのだろう。
 だが、同盟相手とはいえ、同盟の締結とそれに伴う布告はまだ成されてはいない。
 いや、実際には成されているのかもしれないが、それは董卓軍の勢力に確固たる真実として広められている訳では無いし、事実、洛陽以西の守備を任されている者とすれば洛陽からの通達が無い状態で向こうの言い分を鵜呑みにする訳にもいかないのである。

 さらには、使者が持っている――その腰に掲げているのも、疑念を深める要因となっていた。

「時に使者殿よ、その腰に掲げているのは……」

「は……何のことでございましょうか?」

「特に隠さずともよかろうて。足の動き、音、気配……使者殿、お主、剣を腰に掲げておろう?」

「……は」

 剣。
 片刃、両刃、長短様々なものがあるであろうが、目の前の使者が部屋に入ってからの動き、足音と共に微かに届いた金属の音、その気配から察するに、恐らくはそれほど普通のものより少し短いものであると思われた。
 使者――とりわけ文官といった者達はゆったりとした衣服を好む傾向にあるが、これは相手から必要以上の警戒を抱かれないためである。
 そのゆったりとした衣服に隠すように掲げられた剣が、李確の疑念の正体であった。

 もとより、文官が剣を携えていたとしても李確とすればさして珍しいものではない。
 洛陽の漢王朝皇帝である劉協と顔合わせをした時などは、その傍らに控えていた李需は懐剣を忍ばせていたし、北郷にしたってその懐には先を尖らせた鉄の棒を忍ばせている。
 武人と呼ばれる者達は己の獲物に誇りを持つが、そういった人種でないならば暗器とも呼べる獲物を持つ人がいることを、李確は理解していた。
 そもそもとして、北郷が取り立てた忍なる諜報機関はこういった獲物の取扱に優れているのだから、その理解も当然のことである。

 だが――いや、だからこその疑念である。
 李需にしろ北郷にしろ、そういった獲物を持つ根底にあるのは身を守るためである。
 それは彼女らの立場からすれば当然のことであるし、忍の者達にしても武人にしても身を守り敵を討つためのものだ。
 自身にしても、いつ何ときとも気の抜けない立場にいるからこそ、今ここでもなお剣を携えている。
 だが、目の前の使者はそうではない。
 同盟を結び、その同盟という信頼の下に街での補給を請うているのに、その腰にあるのは敵と対するもの。
 疑念――不信感を抱くなという方がおかしい。

「ふむ……兵はおるか?」

「はっ……指示があればいつでも」

「少し待て……使者殿が敵だとはまだ決まっておらぬ」

 疑念を抱けば、それは総じて警戒となる。
 自身の傍らに控えていた副官へと小声を飛ばした李確は、顎に手を当てて使者を見やる。

 見たところ、使者は武芸に精通している様子は無い。
 それは剣を持っていると分かる動き方からの推測ではあるが、恐らくは外れていないだろう。
 使者の中には武芸に精通し生半可な武人より強い猛者もいたりするが、目の前の使者はそのような人物ではなさそうである。
 であるならば、どういった要件をもって剣を持つのか。
 先の言葉で言うのなら、敵と相対する時に、であるが、それは使者がこちらを敵と見なした――すなわち、使者がこちらの敵であるという可能性が浮かんでくるのだ。

 だが、未だ使者は口を開かずのため、敵と断言するのはまだ早い。
 そもそも、使者の口から出た名は楊秋――西涼連合軍の中でも馬騰に双んで壁を成す重鎮の、その軍師的立ち位置にいる片腕である。
 その名が出、その旗も確認されたことからまさしく本物なのだろうが、しかして、どうにも疑念を抱いてしまえばそれも実に疑わしい。
 
「……楊秋殿が野心に炎を灯したか……或いは……韓遂殿、か?」

 となれば、どれが真実で、誰が言っていることが偽りなのかが重要となってくる。
 使者がただ自己防衛のために剣を持っているのか、はたまた敵と対するために剣を持っているのか、その場合の使者の敵とは誰になるのか、そして楊秋――韓遂の立場は。
 或るいは別の誰かか。
 声に出さずに口の中だけで転がされた言葉――それを脳裏に染み込ませる前に、使者が零した言葉が李確へと届く。


「……もはや……これまでッ!」


「ッ……使者殿を包囲せよ、逃がすなッ」

 もはや。
 そう零した使者が取った行動は、文官が好んで頭に被る帽子のようなものを空中へと投げることであった。
 すわ何事か、と身構えようとした李確ではあったが、それに意識が向きそうになれば使者にとってそれが目的――注意を逸らしての逃亡であると即座に理解する。
 即座に理解してしまえば後はそれに倣わないようすれば良いと、李確は帽子のようなものへと周囲の副官や武官の意識がそちらへと向かう前に声を荒げた。

 李確直属の中でも、その精鋭たる武官達がこの場にいるのだから、李確の声を受けた彼らの行動は早かった。
 帽子のようなものに飛びそうになる意識を即座に収束、李確の言葉に意識するよりも早く反応した武官達は、駆けだそうとする使者の前のみならず左右と背後を固めた後に、手に持つ槍を構えたり、腰の剣を抜き放った。

「ぐっ……おのれ……」

「使者殿が何をもってこちらに敵意を示しているのかは分からんが、こうなってしまえばそれを明らかにせねば、儂の身ならず、董家も漢王朝も危ういのでな……悪いことは言わん、すぐに口を割ればその身の安全は保障しようぞ」

「……お主らが漢王朝の名を口にするのか」

「ん、何じゃ?」

「……」

「……やれやれ、だんまりか」

 つい先ほどまでの態度から一変した、不快さと敵意とをかき混ぜたような視線に臆することも無く、李確は使者からの視線を受け止める。
 その視線に、使者が敵であるとした李確は、であるならば使者を動かした人物を探ろうと思考を働かせる。
 楊秋か韓遂か、或いは――西涼連合軍か。
 
 ぶるり、と背筋が震えるのを李確は確かに感じた。
 楊秋だけがこちらの敵ならば街の外でこちらの返答を待つ軍勢を撃破すれば良い。
 韓遂が敵であるならばどれだけの勢力かは分からないにしろ、洛陽にいる面々であれば遅れは取らないだろう。
 だが、これが西涼連合軍自体が行った行動だとしたら。
 数度しか目にしていないが、馬騰もその娘達も腹に一物を抱えるような細かい芸当は難しいであろう。
 しかし、それすらもこの行動のためであったと思えばそれも疑わしきものとなる。
 となれば、洛陽に西涼連合軍の代表ともいえる二人、その娘達がいる現状は如何に危険なものであるのか。
 むろん、その考えが外れていればとは思うが、戦乱の最中、事態が悪い方にばかり流れていく現実を知っている李確からすれば考えすぎないにこしたことはない。

 であるからこそ、幾つかの真実を知っているであろう使者を捕えようと指示を下そうとした李確であったが、その使者が腰に隠してあった剣を抜いたことにより自身はもとより、周囲に緊張が走った。

「もはやここまで……こうも囲まれてしまえば、指揮官を討つことも叶わぬか」

「……やはり敵であったか。悪いことは言わん、剣を捨てて投降せよ。このような状況で何するものもあるまいぞ」

「……いや、だからこそ出来ることもある」


 その緊張は、次にまた違う緊張へと変わる。
 使者が持った剣は、その矛先をくるりと変えた――使者自身の喉元へと狙いを定めて。
 そして。


「くくく……漢王朝に、栄光あれぇぇッ!」


 李確が止める間も――口を開く間も無く、使者はその剣を勢いよく自らの喉へと突き立てた。
 ごふりっ、と。
 血塊とも空気ともとれるものが血を零す使者の口からもれたかと思うと、使者はその振動のままに床へと倒れた。
 そのまま数度、びくりびくりと数度痙攣しつつ血塊を零した使者は、その身体から既に力を抜いていた。
 そして。
 その使者の身体から痙攣が抜けると、それはもはや動くことは無かった。



「……城門を閉じ、兵を配置せよ。伝令を安定、長安、洛陽に送るとともに、周囲に斥候を放て」

 ぴくりとも動かなくなった使者の骸を配下の兵に確認させ、その死が確かなものとした李確は、傍らにいた副官に指示を飛ばす。
 周囲は使者が自害したという事実に初めこそ茫然としていたが、それも李確の指示を受ければ即座に打ち消される。
 指示に従うためにと慌ただしくなってきた周囲に混じり、副官の声が李確へと届く。

「使者――いえ、敵はどこになるでしょうか?」

「ふむ……恐らくはじゃが、韓遂殿では無いかと思うておる」

「楊秋殿の独断――或いは、西涼とはお考えにならないので?」

「うむ。……楊秋殿だけという可能性も考えることは出来るが、兵からの報告にあった数ではここを落とせるとは思えまい。使者殿の言に嵌ればそれも可能かもしれぬが、それでも、精鋭たる西涼騎馬を主とした編成でさえも難しかろうて。となれば、伏兵がおる。伏兵がおれば、楊秋殿の手勢だけではあるまい。韓遂殿でなければ、それらを動かせぬだろうと思ったまでよ」

「西涼でないと考えた理由は?」

「知れたこと。西涼が敵ならばこのような回りくどい手は使わぬと思うたまで。兵力と練兵の差を考えれば、瞬く間に石城は精鋭騎馬隊に飲み込まれていただろうよ」

 となりで納得した副官から視線を外し、彼が用意していた見張りの兵からの報告を簡単にまとめたものへと移す。
 城外に現れた軍勢、三千ほど。
 昇る旗は『楊』の字、ただ一つ。
 その威容、騎馬、旗の名から西涼連合が将、楊秋と考えられる。
 ざっと目を通して、なるほど、と李確は思う。
 今現在に石城にある兵は二千ほどである。
 これは、元々董卓が洛陽に移る石城にいたころからの最古参に近い兵であり、その錬度は洛陽の兵より遥かに上なものがある。
 故に董卓軍勢力地の最西を守る兵力としているのだが、それを知らぬ西涼ではないだろう。
 それを三千ほどの兵で落とせるなどと、微塵にも考えていないだろうし、考えていないからこそ使者という名の罠を用いたのだろうと、李確は予想した。

 開門と偽って内部へと招き入れたところを奇襲、という案がちらほらと出始めるが、李確はそれを一蹴する。
 使者が自害した――するほどであるということは、恐らくではあるがこちらの反応をある程度予想してのことであろう。
 使者が拒否されれば石城をおいて安定を攻め、開門すれば石城を攻める。
 使者が出てこなければ害されたか元より予定であったかもしれない自害をしたとして、こちらに敵を定めることと、三千という二千で蹴散らせるほどと思われる兵力に討って出てもらうための布石であると考えられた。
 
 となれば、揚秋が繰りだそうとしている策は自ずと限られる筈である。
恐らくは、石城を視認できる距離で千から二千ほどの騎馬が待機しており、討ってでたところを逆撃して討つつもりであろう。
 韓遂が直属の兵を全て動かしていたのならばそれのさらに数倍にもなるだろうが、それだけの兵力を動かすのであれば、ここまで遠回りなことをしなくてもいい。
 石城は比較的防備の薄い街であるから、それだけの兵力を一気に投入すればどうにでもなるのだ。
 石城をまず勢力下において、そこを拠点に勢力を広げていくという軍略を取らない以上、その数はたかが知れている。
 故に、李確は今回において動いている敵方――韓遂の兵力に大体の当たりをつけていた。

「一万……いや、一万五千ほどであろうな……。伝令が無事に届けばよいのじゃがな」

 おおよそ無理であろうと思われる言葉を口にした李確であるが、今は目の前のことであると頭を振る。
 一万五千のうち五千ほどが石城に目を光らせているのであれば、当然石城の後に攻めるであろう安定には一万の兵がおり、その動向に目を光らせていることは容易に想像出来る。
 もしやすれば、安定は放っておいて長安に一万の軍勢が向かってるかもしれないのだ。
 となれば、万全を期するためには当然の如くにこちらの動きを警戒していることだろう。
 危急を知らせるために伝令をと指示は出したが、これが届くかどうかなどは、まさしく運であると言ってよかった。
 であるからこそ、李確はなるほどと一人納得していた副官――忍から派遣されていた石城諜報部隊の長へと加えて指示を出した。

「先に指示を下した伝令とは別に、主らからそれぞれの街に伝令を頼みたい」

「承知に。人数は如何ほどに?」

「任せる。……金子に糸目はつけん、伝えが届けば何人でも構わん」

「それはそれは、随分と払いのいい……後々、賈駆殿や北郷殿から苦言を貰うのでは無いですか?」

「それは仕方が無かろう。出世払いというやつじゃ」

「これ以上出世のしようがないでしょうに」

 違いない、と笑う李確に一度頭を下げた副官は、後にこちらを振り返ることなく喧騒に包まれた部屋へ去って行った。
 この部屋の警護を秘密裏に担当していた忍者達に指示を与えに行ったのであろうが、自身にとってもそれをどうこう詮索する余裕は無いと李確は気を引き締める。
 まずは民を落ち着けつつ、兵の気を引き締めることとするか。
 そうして、李確は次第に大きくなりつつあった喧騒を収めるために口を開いたのであった。





  **





「……李稚然(りちぜん、李確の姓と字)はこちらの思惑に気付いたようだな」

 朝日が冷え込む闇夜を切り裂きながら僅かな温もりを与えてくるのを感じつつ、楊秋は感嘆した声を上げる。
 常であれば日が昇れば開けられる筈の街を守る門が閉じられていく光景は、揚秋の言葉が真であると認識させるに等しいものであったのだ。

「さて……気付かれた、となるとこの兵力では石城を落とすことなど出来んか……。もっとも、それもこちらの手筈通りではあるのだが……李稚然がそれにどこまで勘づいているのか、どのような手を打ってくるのか……実に楽しみだ」

 揚秋の言葉が真であるのなら、それはすなわち自身が考えて実現しようとしていた策の不発を意味するのだが、それに固執することなく、気にすることもなく彼は言葉を紡ぎ、思考を働かせる。
 
「両脇に控えていた伏兵部隊に伝令。こちらの第一の策は見破られた、よって我らはこれより石城の攻囲へと移る故、これに合流するようにと伝えよ。加えて伝令。安定を捉えている侯選殿、長安を目指す梁興に董卓軍の伝令や動向に注意しつつこれを攻めよ、とな」

「はっ!」

 策が見破られてしまうことは半ば予想していた。
 何せ、石城に駐屯し、そこから長安に至る防衛網を敷いているのは他ならぬ董卓軍の重鎮、李確なのだ。
 董卓の先代が石城太守へと就く以前に、それより前の太守が放り出していた政軍を戦友である徐栄と共に纏め上げ、後に董卓が飛躍する礎を築いていた人物。
 洛陽から遠く、西涼からも遠い地理における石城において、漢王朝でも評価を受けていた人物が、今こうして自らに対しているのだ。
 策を見破られることも、元より通じるなどと揚秋は微塵も思ってなどはいなかった。

 故に。
 第一の策が破られたのならば、第二の策を披露すれば良いだけのこと――否、むしろ第二の策こそが本命であるなどと、さすがの李確といえども見破ることは出来まいて。
 そう頭を振った揚秋は、僅かに口端を釣り上げながら、遠くにて城門が全て閉じられた石城を見ていた。

「さて……戦にてこうも胸が高鳴るは不謹慎ではあるのだがな、こうも軍略を講じられるのであればそれも致し方のないことか。だが……」

 李確はこちらの思惑通りに動いた。
 これより様々な手を打ってこの状況を打開しようとするだろうが、此度の行軍において招集された軍兵は西涼韓遂軍の中でも精鋭と呼べる者達である。
 倍程度の軍勢を蹴散らせる兵を李確は育てているであろうが、それでもそれは難しいであろう。
 なれば時間がかかる、それこそが策の肝要なのだが。
 しかして、揚秋の脳裏にふと走る名が僅かな不安を落とす。

「天の御遣い、か……。反董卓連合軍との戦いにおける功労者ではあるが、さて……どのように動くのか……」

 不安――いや、或いは昂揚か。
 言いしれぬ感情を胸中に抱きながら、揚秋は石城を眺め、再び口端を釣り上げた。





  **





 洛陽にて董卓に牙を剥いた韓遂。
 西涼にて石城から安定、長安へ牙を剥かんとした揚秋――韓遂配下の手下八部達。
 それに抗するは、涼州石城が李確と、洛陽が北郷。
 董卓軍における新古の将達は、時を同じくして再び戦へとその身を預けていく。


 後の世に、西涼韓遂の乱と称されるそれは、静かに幕を開けた。






[18488] 六十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/03/22 14:33



「――さて、御遣い殿よ。まずはその剣を下して……いや、床に置いてもらおうかのう」

 どういうことだ、どうすればいい。
 二つの感情が心中を渦巻いて、えてして混乱していると言っても間違いではない境地にいる俺に対し、それを強いた人物――その混乱でさえも掌上であるという顔の韓遂は、そう言葉を紡いだ。
 それに逆らうことは出来た。
 その韓遂の指示――状況的に命に近いが――に逆らうことも断ることも出来るのだが、それは俺が一人の時ならばの話である。
 韓遂の懐には董卓が捕えられ、韓遂の剣は彼女の首へと添えられている。
 呼吸が荒い董卓を見るに、恐らくは俺が入ってくるまで首を絞めていたのだろう、董卓の首元が若干赤くなっていることに気付く。
 あの腕の太さ、そして戦場を駆け巡ってきたという猛将という面から韓遂を見た時、彼であれば董卓の首を簡単にへし折ることなど造作も無いことのように思えた。

 董卓が無事なのも、恐らくは董卓が絶命する前に俺が来たか、或いは時間をかけて首を絞めていたのだと推測を立てる。
 脳に送られる酸素が少なくなれば眠るように死ぬ、と元の世界の時に推理小説か何かの漫画で見た気がしたが、そうなってしまえばこの時代のことだ、自然死だと思われてしまったことだろう。
 それだけの技術を持つ韓遂のことである、先に浮かべた董卓の首の行方など自身の思いのままなのだろう。
 であるならば、ひとまずは主である董卓を救うためには韓遂の言に従うが上策か、と俺は剣を韓遂の言葉通りに床へと放り投げた。

 カランカラン。
 金属が床を跳ねる音が辺りに響くが、つい先に周囲に誰もいないことは俺自身が確認済みである。
 音に誰か気づいてくれればとも思ったが、そんな虚しい願いを表すかの如く、甲高い音を立てていた剣はやがて静かになった。

「……何が目的ですか?」

「目的? ふむ、さすがの御遣い殿でも儂の目的は分からんか。いや、分かっていればこのような愚行はせぬか」

「愚行? ……はてなんのことか、見当もつきませぬが……二人の逢瀬でもお邪魔しましたか?」

「ふ……くっはっはっはっ。いやいや、御遣い殿は中々に面白い冗談を言われるな。董卓殿は見たところまだ途上、これからに期待というところですかな」

 なるほど、つまり韓遂には董卓に危害を――肉体的に支配しようというつもりはないのだろう。
 その言葉全てを受け取ることこそ今の状況であれば難しいものがあるが、俺の言葉を笑い飛ばした韓遂の雰囲気に嘘は無さそうに見える。
 それすらも嘘だとしたら、と疑いは晴らさぬままに、俺は董卓へと視線を向けた。

 薄い月明かりすらも届かぬ部屋の中ながら、淡い銀にも似た髪が零す灯りに僅かばかりに表情が読み取れる。
 少し疲れたような表情は韓遂に抵抗していたからか、視線と意識こそしっかりしているものの、その身体には力が入っていないように思えた。
 首を絞められていたとすれば当然のことか。
 董卓の首元が赤いがためにと先ほど推測したものではあったが、こうやって冷静に観察してみれば、いよいよをもって確定としてくる。
 そして。
 董卓のその身体に力が入っていない――または入らない状態であるのならば、この状況を打破するには彼女の力を借りることは難しいだろう。
 であるならば、如何にしてこの窮地を脱するか。
 歴戦の猛将、あの馬騰に肩を並べる将軍――韓遂。
 その脅威を前にして、俺はごくりと唾を飲み込んだ。

 それと同時に、韓遂の目的について考察してみる。
 この状況において、韓遂の取れる策は二つ――いや、三つだろう。
 一つ、董卓を殺す。
 二つ、董卓を人質に俺の動きを封じて俺を殺す。
 三つ、董卓も俺もどちらも殺す。
 この三つだ。
 首を絞めていたであろうという推測から、韓遂の第一目的は一つ目であったのだろうが、今こうして俺に見つかった以上、その目的が続けられるとは限らない。
 さて、一体どれか――何が目的か。
 それを見極めるためにも、と俺は口を開いた。

「我が主を離してもらう訳にはいきませんか、韓遂殿?」

「いくら御遣い殿の――若姫の婿であれど、それは出来かねますな」

「……何故、と聞いても?」

「……やはり、御遣い殿でも思い至らぬか」
 
「……ッ」

 ちりり。
 質問に返された言葉――どこか失望したようなそれに、ふと首筋に熱を感じる。
 この感覚は知っている、最近になって、この世界になって馴染み深くなりつつある気配――殺気だ。
 濃厚で芳醇な殺気を向けられてびくりと震えそうになる身体を、歯を食いしばってなんとか耐え凌ぐ。
 耐えきることなく身体を震わせていればそのまま切り捨てられてのではないか、と思える殺気の向こうで、韓遂が笑った。

「……御遣い殿、御遣い殿は西涼がどういう土地かご存じか?」

「……荒涼とした土地が広がり、西域からの商人が足を運び、漢とは違う民が姿を見せ、騎馬に優れた者が多い。私としての理解はその程度ですが?」

「ふむ、概ね間違いではなかろうて。しかしながらな、御遣い殿、貴殿の認識には一番大事なものが欠けておる――我らはな、御遣い殿、漢王朝を主と定めておるのだよ」

 韓遂の剣は、今なお董卓に向けられている。
 それは間違い無い、俺自身の視線の先であっても、その事実は変わらない。
 だと言うのに。
 まるで剣先が眉間、或いは首元に突きつけられているのでは無いかと思える殺気に、全身の毛穴が開いたような感覚に襲われる。
 思えば、これが初めてなのかもしれない。
 黄巾賊との戦いの折にも、反董卓連合軍との戦いの折にも、俺個人を目標として向けられなかったソレ――殺気が、こうして俺自身を目的として向けられることなど。
 これが恐怖か、と俺は身体を震わせていた。

 それと同時に、ようやっと韓遂の言わんところが理解出来た――董卓に従うつもりは無い、そう言いたいのだろうと。
 今回の董卓軍と西涼連合軍の同盟は、表向きこそ漢王朝を守らんとした董卓に感銘を受けて漢王朝の力になるためとあるが、その裏向きは実質的な董卓軍への降伏に他ならない。
 時の権威を擁し、時勢を得て、今まさに群雄に名を上げて時代を駆けようとする董卓軍と、争乱に巻き込まれないように先の同盟を解消し、しかるに何の援護もしなかった西涼連合軍とすれば、それはどうしようも無いものなのかもしれなかった。
 だが、西涼連合軍の中にはそれを良しとしない者がいたとて可笑しい話ではない――それが、韓遂だったというだけの話であった。

 それを知れたことは、幸いなことだろう。
 戦の最中に背後や横撃を気にしなくても良いのだから、とは思うが、しかして、今この状況ではそれを知りたくは無かったというのが本音である。
 初めて会った時に感じた好々爺たる雰囲気などどこにもない、歴戦の猛将たらんとする韓遂を前にして、濃厚な殺気を浴びながらどうやって現状を打破すべきか。
 それを模索するために――韓遂の気をどうにか逸らそうと、俺は引き続き口を開いた。

「……つまりは我ら――主、董卓に従うつもりは無い、と?」

「然り。そも、我ら西涼が董卓殿に従わねばならぬ理由が無い。寿成が誼を通じていたことは知っておるが、かといって、それがどうして同盟を結び、あまつさえ従う話となるのだ、御遣い殿よ?」

「うぐっ」

「ッ……主に、危害を加えないで頂きたい」

「む……いやいや、これは失礼。年甲斐もなく気が入りましたかな」

 しかし、それは韓遂とて理解しているのか。
 俺の言葉に反論するように口を開いた韓遂は、つい力が入ったのか、あるいは故意なのかは知らないが、董卓を捕らえる腕に力を込める。
 首を腕で押さえられ、その身体に剣を向けられている董卓から力を込められたことによる苦痛の声が上がり脚を踏みだそうとするも、韓遂の視線に射抜かれて思いとどまる。
 思いとどまった俺を見てか、韓遂が腕から力を抜くと董卓の首に掛かっていた力が緩んで――軽い董卓の身体が床へと脚をつけた。
 ごほごほ、と董卓が軽く咳き込むが、董卓が力を取り返す暇を与えずに、韓遂は再びその腕に力を込める。
 董卓の身体は、幸いにも浮いていない。

「ふむ……しかし、このままであったも埒が明かぬな。……董卓に我らが従うのでは無く、董卓が我らに従う、そのようにすれば董卓も助けてみせようか、御遣い殿よ?」

「しかして、その後に一体どうするおつもりですか?」

「知れたこと、漢王朝の権威復興よ。漢王朝に反した逆賊共を全て討ち滅ぼし、戦乱と争乱を漢王朝の威光の下に収めるのだ」

「ッ……あなたは」

 確かに、韓遂の言うことにも一理ある。
 戦乱と争乱を漢王朝が収めることが出来れば、それが一番良いにこしたことはない。
 反董卓連合軍という名において漢王朝に弓を引いた諸侯らを逆賊として討ち果たし、天下安寧の時代を築くという韓遂の言葉――野望は、漢王朝を主と仰ぐ者達からすれば輝いて見えることだろう。
 だが、しかし、けれど。
 時代の先を――世界こそ違えど漢王朝が潰える時代を知っている俺からすれば、その野望に共感することは出来そうもない。
 むろん、俺の知る歴史とは違う点はある。
 反董卓連合軍で董卓軍が勝利したことこそがそれであるが、しかして、歴史の大枠は大体にて決まっているのだろうと俺は思う。
 華雄が、討ち取られそうになったことこそが、その証だ。

 であるならば、韓遂の野望は大変危ういものだ。
 華雄の時こそ歴史の大枠に逆らう形で奇跡的にも助けることが出来たが、それが何度も続くかと問われれば難しいだろうと返さざるを得ない。
 そしてそれは、漢王朝の権威復興と天下安寧を目指す韓遂の野望にも当てはまる。
 ――漢王朝が潰えるという歴史の大枠、それに抗うことは出来るのか。
 反董卓連合軍との戦いを避けるよりも、そこで討ち死にする運命であった華雄を助けるよりも、敗北の未来でしか無かった反董卓連合軍に勝利することよりも。
 これまでよりも遙かに抗うことが困難だと思える未来に、董卓を――みんなを巻き込ませる訳にはいかない。
 俺はごくりと唾を飲み込んだ。

「……左腕で足りるかな」

「うむ? 何かな、御遣い殿、覚悟が決まったかな?」

「そう、ですね……はい、決まりました」

「一刀さんッ、私は、私はどうなっても構いませんからッ……うぐっ」

「月ッ……ごめん」

「はっはっはっ、何と麗しき主従愛よ。まあよい、では御遣い殿、一応ではあるが今ここで宣言してもらおうか――董卓軍が西涼連合軍に下るという、宣言をな」

 韓遂の腕に力がこもって、董卓の軽い身体が若干に宙に浮く。
 董卓に余計な口を挟ませないようにとの韓遂の考えからだろうが、今の俺にとっては――これから取らんとしている行動からすれば、それなりに都合が良い。
 逆らうことがあれば董卓の命は無いぞ、と示すように剣先がぎらりと月光に輝き、俺はふと――痛いだろうな、と思った。
 きっと痛い、きっと怖い、きっと辛い――でもそれ以上のことを、董卓達に味合わせたくはない。
 それに、きっと韓遂は董卓と俺を逃さぬように、口を開かぬようにするだろう――殺そうとするだろう。
 黙ったままでは悪し、従っても悪し――ならば後は決まっていた、俺が心を決めるだけだ。
 そう思った俺は韓遂に気付かれないように、ちらりと床に置いたままの剣を見た。
 抜き身の剣先は、韓遂に向いたまま床に置かれている。

「……ごめんな、月。……韓遂殿。董卓軍は――」

 身を引き締める。

「か、ずと、さんッ……」

 呼吸を落ち着かせ、とるべき行動のために身体に活を入れる

「ふっふっ、これで董卓軍も漢王朝直属の軍か。逆賊も容易に討てると――」

 にやけて笑う韓遂の剣先が気の緩みによって動いた、その瞬間。



「――西涼連合軍には下らない、下りま……せんッ」



「――なッ?! ……ぐっ、いいだろう御遣い殿ッ、そこで董卓が死ぬのをッ……なあッ!?」

 言い切る、それよりも前に床を蹴る。
 速く、ただ速く駆けるためにと床を蹴ると、董卓を人質に取ったが故に俺が素直に降参の言葉を口にすると思っていたらしい韓遂は、驚きの声を上げると共に驚愕に顔を染める。
 しかし、そこは歴戦の将、すぐさまに気を引き締めた韓遂は、俺より先に董卓に剣を向けようとした。
 だが、させない。
 驚愕の色が、幾ばくか身体を硬直させている驚きが韓遂の身体から抜けきる前に、俺は床にあった剣を蹴飛ばした――韓遂に向けて。
 
 がちゃんッ、と音を立てて蹴り飛ばした剣は、真っ直ぐ韓遂に向かえば良かったものの、実際には床をくるくると回転しながら韓遂へと向かっていく。
 しかしながら、俺より何より、床の上を回転しつつ向かってくる剣に意識を向けた韓遂は、まずはとそれを剣にて払った。
 驚愕によって董卓を身代わりにしようとは考えつかなかったのか、董卓分の体重が加算されている身体で剣をはじき飛ばしたのだ。
 董卓が韓遂の腕によって引き上げられているからこそ出来る芸当ではあったが、董卓を用いて避けるという判断が出てこなくて良かったと今更ながらに思う。
 そうこうしているうちに、俺は韓遂に肉薄しようとしていた。


「ぐっ、おのれ御遣いッ! 貴様の愚行で董卓が死ぬ様を拝むが良いわッ!」


 しかし、俺が肉薄するより早く韓遂が動く。
 俺からでも分かるほどに腕に力を入れて董卓を逃がしはせまいとして、俺が蹴飛ばした剣を払った剣で、董卓のその首に狙いを定めていた。
 間に合わない、その剣が董卓の首元へ突き立てられるのに。
 間に合わない、その剣が董卓の白く艶めかしい柔肌を突き破るのに。
 間に合わない、その剣が董卓の肉を切り裂き鮮血を巻き起こさんとするのに。
 ――けれどそれは、誰も傷つかないようにすればの話。

 その剣がまずは俺に向かってきていたならば、俺はそれによって頭なり腹なりに致命傷を負っていたことだろう。
 何せ、剣を構えている自分に向かってただ突き進んでいる者を突き刺すだけなのだ、狙いを付けることは戦場で兵を討つよりも容易いことだろう。
 まずは距離を取ろう、とされていても、俺の行動は無駄足だったに違いない。
 俺がこれから取ろうとしている行動は、近くなければ意味がない。
 無事に終わらせるためにはさらに近い必要があるのだが、最悪の場合を想定しての行動ならば遠くても駄目なのだ。
 であるからこそ、俺は韓遂の意識を逸らすために近場にあったもので注意を引いたのだが。
 
 それはさておき。
 剣が董卓に向けて突き進んでいく最中、見える景色――駆けているために後ろにと動いていく部屋の景色がスローになっていくのを、俺は意外にも冷静に見ていた。
 駆ける脚も遅く、流れる景色も遅く、振り下ろされていく剣も遅い。
 それでも、だというのに意識ばかりは先に先にと進んでいて。
 先に進み過ぎた意識は、俺の左腕を前に出すには十分なものであった。


 そして――。
 
「あ゛あ゛あ゛ああぁぁぁぁッ?!」

 ――びしゃりっ、と鮮血が宙に舞った。





  **
 
  
 
 

「……ん?」

 祝辞を述べる洛陽の有力者達――董卓に顔を通そうと思っていたであろう人物達を適当にあしらって、賈駆はふと顔を顰めた。
 祝いにと注がれた酒を呑んでいたためか、頬は目尻の辺りが仄かに朱に染まり、普段の強気で冷静な表情は微塵もない。
 それどころか、男を知らぬ少女の無邪気な色気がその身から滲み出そうとしており、このまま酒を進めていれば、辺りにいる男共は皆がその色気に見惚れることだろう。
 そういう時であった、ふと疑問を抱いたのは。

 きょろ、と辺りに視線を飛ばしてみても、賈駆の視線には目当ての人物――董卓がいない。
 北郷と話をしていた時に部屋を出たのだから、既に結構な時間が経過しているというのに、だ。
 もう一度、と思い視線を巡らせてみても、帰ってくるのは不在の証ばかり。
 豪快に笑う武官が杯を傾け、国の先を文官達が集って議論する。
 祝いの席であろうと無かろうと、常と変わらないような景色の中には、やはり董卓は存在しない。
 夜風にでも当たっているのだろうか。
 そんな疑問も首をもたげた時、ふともう一つの事実に賈駆は気付くことになる。

「……あの馬鹿までいないわね。……まさか、ね」
 
 まさか、そうまさか、だ。
 董卓と馬鹿――北郷がこの場にいないという事実に、ある疑念が意識へと広がる。
 はっきりと言って、董卓は北郷に好意を抱いていると言っていいだろう、そう言い切れる。
 初めて北郷に助けられた時から色々なことがあって、今や董卓軍には無くてはならない存在にまでなって、多くの諸侯にその力を認めさせて。
 その傍ら――そして、北郷が忠を董卓に向けているのだから、董卓と北郷、二人の距離は思ったよりも近いものだ。
 そんな関係なのだから、董卓は北郷に好意を抱くようになった――賈駆は、そう見ている。
 何より、董卓が北郷のことを話す時に実に楽しそうな笑みを浮かべるのだから、それも外れてはいないだろう。

 そんな北郷に好意を抱く董卓と、好意を向けられる北郷が揃ってこの場にいないのだ。
 邪推な考え方をすれば、二人が時と場所を共にしていると取れるものであった。

「まさか、だけど……うん、まさか、だし、ね……」

 董卓は女で、北郷は男だ。
 北郷とて董卓を嫌っている訳ではないだろうし、男女が好きあうことには何ら支障は無い――しかし、その推測に賈駆はちくんっ、と胸が痛むのを感じた。
 本人すら気付かぬほどに小さな痛み。
 酒の飲み過ぎか、と思える胸焼けにも似た痛みが賈駆の思考に広がることもなく、もう一度視線を酒宴へと向ける。
 ――そこで、賈駆は更にあることに気付く。

「……うん? ……韓遂もいないわね」

 武官に絡むように酒を飲み干している馬騰、その馬騰に絡まれるように酒を呑まされている馬超、その二人を遠目に酒を呑んでいる馬岱に馬鉄と馬休。
 西涼連合において双雄の片が宴を楽しんでいるというのに、もう片がこの場にいない。
 さらには、董卓と北郷も揃っていない。


 ――ふと、賈駆の脳裏に予感が走った。



「…………まさか……ッ」



 予感が走った、それと同時に賈駆は走り出す。
 使える武官は――駄目だ、皆酔ってしまっていて、使えそうもない。
 人を呼べる文官は――こちらも駄目だ、赤ら顔で議論している内容はもはや意味の無いものとなっている、ただの酔っぱらいだ。
 軽く舌打ちをして、しかし、と思いながら賈駆は部屋の扉を開ける。
 酒と人の熱気で暖められた部屋に流れ込むように寒気が身を震わせるが、それすらも惜しむ樣に、賈駆は周囲を見渡した後に脚を進めていく。
 北郷ならば、との想いを胸に秘めながら。


 董家当主であり董卓軍の長、董卓。
 董卓軍の要となった天の御遣い、北郷一刀。
 ――そして、西涼連合が雄、韓遂。
 最悪な予想が、思考を占める。


 見過ごしていた。
 見逃していた。
 見切れなかった。
 どんな思いを口にしても、その予想は消える筈もなく。
 その予想が外れるように、と賈駆は闇夜の中へその身を投げ込んでいた。


 董卓と北郷、二人の身を韓遂が狙っている。
 そんな最悪な予想を表すような、闇夜の中へと――。



 

 **





「――さて、李確殿はどういう動きをするかな?」

 闇夜が段々と白け始めようした頃、ひんやりと冷え込むその中にて、揚秋はぽつりと呟いた。
 冷える夜と暖かい日の光によって生じた風によって、陣に立てられた旗が靡く。
 その様を特に感情を込めずに眺めた後に、揚秋は現状を整理するために思考を働かせる。

「……頃合い、か」

 梁興が長安に。
 馬玩が安定に。
 李堪と成宜がその後詰めに。
 自身が石城を包囲し。
 程銀、張横、そして侯選が後詰めとして待機している。

 長安に向かった梁興は、はっきりと言って長安を落とすことは出来ないだろう。
 いくら兵力を限った董卓軍とはいえ、長安はもう一つの都とも呼べる都市だ、その防備も力を入れていることだろうことは明白である。
 もっとも、長安は落とせずとも良い、と揚秋は考えていた。
 石城、そして安定が攻められたという報が長安へと伝われば、その報は洛陽へ届けられると同時に、優秀な董卓の部下がこれを救わんと兵を発することだろう。
 戦場は石城と安定、そう思って長安を出陣した董卓軍の前には梁興の軍勢。
 機先を制してしまえば、騎馬隊を多く引き連れた梁興の敵では無い。
 そうなれば、安定を落とすにしろ石城を落とすにしろ、時間的な余裕が出来るし、何より援軍が来ることもないと全力を向けられる。
 長安からの兵を梁興で留め、その隙に石城と安定を落とし、後に全軍で長安を落として洛陽へ攻め入る。
 概ね予定通りに進んでいる策に思考を働かせて、揚秋は一つ頷いた。

 まあ、それぞれを落とすのは各々の戦術次第なのだがな。
 そう考えながら揚秋は、眼前に聳え立つ石城の城壁を見やる。
 それほど大きくない街でありながらも防備が優れているのは、やはり董卓軍の根拠地であるということと、そこを守るのが李確という理由なのだろう。
 自身の兵と後詰めを動かして力任せに攻め入れば落とすことも可能であろうが、やはりそれは損得を考えれば無茶な話であった。
 しかし、出陣を誘って包囲殲滅との策を取ろうにも、こちらの使者の亡骸を返されて以降は、ただひたすらに弓矢を番えて防備を固めるばかり。
 どうしようもない、とはまさにこのことであった。
 
「もっとも、籠城戦となった時に不利なのは向こうなのだがな……それに」

 元々の防備が優れているとはいえ、やはりこちらが急に動いたことによる準備不足は否めないだろう。
 兵の練度こそ李確直属の兵ということで充実してるだろうが、戦には弓矢や槍、刀などの物資が必要で、兵を癒すにも物資がいる。
 元々の準備があるだろうが、やはり、戦を前にした状況でなければその数は知れていると揚秋は考えていた。

 そして。
 夜が明けていく空を見上げながら、揚秋はまたもぽつりと呟いた。
 夜が明けていく――策が、主である韓遂が動く時間が迫っている、その事実を確認するために。

「……洛陽にて董卓を害しこれを混乱せしめ、その混乱に乗じて皇帝陛下を保護し長安へと至る……か。中々……いや、実に有なる策だと言わざるをえないが……まあいい、今は目の前のことに集中するとするか」

 遠く洛陽にて行われている宴――董卓軍と西涼連合軍の同盟を祝しての宴に紛れて董卓を害し、その混乱に乗じて皇帝陛下を保護する韓遂の狙い。
 普通の同盟であれば難しいそれも、馬騰が以前主導して行われた同盟によって董卓軍はこちらを既に信用していると言っても過言ではない。
 その信用の隙を突くという策に心身が昂揚するのを感じながら、しかし、と揚秋は気分を落ち着かせる。
 唯一の不確定要素――二十万という大軍を抑え、あまつさえ瓦解を引き起こして殲滅せんとした将、天の御遣い、北郷一刀。
 彼の者と顔を合わせたことは無いが、あれだけの策を生み出す者がどういった動きをするのか。
 そのことに意識が逸れそうになるも、遠い洛陽では自身の身では最早どうしようもない。

 今は目の前のこと――如何にして石城を落とすか、ということにだけ視線を向けて、揚秋は実に楽しそうに口元を緩めていた。







[18488] 六十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/04/21 10:41



 ――――ぴちゃり。
 ――――ぴちゃり、と流れる血が床へと落ちた。
 ――――ぴちゃり、と刃を伝って流れる血が、また床へと落ちる。
 その流れる血は徐々にその数を増やしていき、そして、それは床に花開いていく紅い華のように床を染め上げていく。
 荒い息づかいが――命の灯火が消えゆくようなか細い息づかいではない、荒々しく、その身に滾る何かしらの感情による息づかいが、驚愕に息を呑む音と一緒にその場を支配する。
 ふと、俺は――北郷一刀は視界の中で驚愕と涙をその目に浮かべる主を見やる。
 何かの覚悟が来なかったからか、或いはそれ故の安堵からか。
 その首元に迫ろうとしていた――突き立てられようとしていた剣先から血が流れると、彼女はその血を追って視線を剣に這わせていった。

 その彼女の動きに、俺は彼女が――董卓が助かったことを理解した。
 その剣先は未だ近い場所にあるとはいえ、ここまで近づいた状態でならば、如何様にも出来るだろう。
 この身で守るもよし、董卓の頭一つ上で驚愕の色に染めたままの韓遂の顔を殴り飛ばすもよし、韓遂の剣を奪い取ろうとするもよし。
 さてどうしようか、などと考えていると、額を一粒の汗が流れ落ちる。
 駆け抜けた熱が発生させたもの――ではない。
 冷たい、まるで全ての熱を奪い取ろうかという汗は、額のみならず頬や背中を流れ落ちる。
 これは、不味いかもな。
 なんてことを思いつつ、背中を流れる汗に身を震わせて――忘れようと努力していた身を裂くような激痛が、走り抜けた。

「うっ……ぐぅぁぁぁぁッ」

「……なッ……き、貴様ッ……」

 驚愕の声を上げる韓遂に、痛みから震える唇が自然と笑みを形作る。
 まるで挑発してるみたいだ、なんて思わないでもないがはっきりと言えば今の俺にそんな余裕は無い。


 ――董卓の柔肌に突き立てられようとしていた剣、その刃を握って鍔の部分で押しとどめた俺の左手にその指はまだ繋がっているのだろうかと思えるほどの激痛が襲いかかり、俺の身を震わせる。
 俺の左手――その中で刃が走って造り上げた傷から血が流れ落ちて、ぴちゃん、とまた床を濡らした。


 なんて無謀、と言えばそこまでだろう。
 押しとどめられる保障なんてどこにも無く、下手をすれば俺の指が切れ落ちただけで董卓を守ることも出来なかったというのに。
 けれど、あの状況で俺が考えついたのはそれしかなかったのだ。
 剣を止める、そのためには――その鍔を抑えれば。
 激痛で混沌と化してきた思考で今一度考えてみれば、可能性は低いものだっただろう。
 けれど、左手を犠牲にすれば右手を、右手を犠牲にすればこの身を、と順繰りにしていけば董卓だけならば守れた筈だ、と混沌とした思考は一応の決着を付けた。

 つつっ、と左手から流れる血が腕を伝ってくる感触に、ふと我に返る。
 そうだ、思考に耽っている場合ではない。
 驚愕に身を強張らせているとはいえ、目の前には未だ脅威が存在している。
 剣こそ抑えることが出来たが、力を入れれば十分に振り払うことは出来るだろうし、何より西涼の雄だ、落ち着く時間を与えてしまえばそれだけでこちらの脅威と成りうる。
 ならば、取れる手など限られてくる――それに先んじる、ただそれだけ。

「か、ずと、さんっ……」

「……しゃがめ、月」

「ッ!?」

「ぐぬッ……何を……ッ?!」

 混沌としていく思考とは裏腹に、冷水に浸かったかのように落ち着いていく意識の中で、董卓の言葉に応えるように俺は指示を口にすると同時に懐に右手を入れる。
 固い、冷たい感触。
 制服の上着、その内ポケットに忍ばせるように所持していた尖らせた鉄の棒――苦無を、右手でしっかりと握る。
 冷たい苦無に思考と視界が幾分かはっきりとして、その視界の中で董卓がしゃがもうと身体を屈めようとしたのが確認出来た。
 董卓の首に腕を回していた韓遂は、その動きに釣られるように少しだけ身を屈ませる形になる。
 驚愕、そして不意の董卓の行動に一瞬だけなされるがままになった韓遂――その首が、目の前にあった。
 躊躇することはない。


「……おおおおぉぉぉぉぉッッ!」


 俺が何かを握っていることに韓遂が気付いて、ぎょっと顔を歪ませる。
 しかし、遅い。
 董卓を放し、剣を離し、身を自由にして後ろへと飛び退こうとする韓遂、その首に向けて俺は激痛からの叫びを後押しに変えて苦無を突き出した。


 ずぶりっ、と皮を裂く。
 ずぐりっ、と肉を切り裂く。
 ぐずぐずっ、と筋肉を引き裂いて――しまった、という感情を出すことなく。
 俺は一気に苦無を振り切った。

「ぐッ……あ゛あ゛あ゛ああぁぁぁぁッ?!」

「ぐぅっ……?!」

 狙いがずれた、などと舌打ち出来るほど余裕がある筈も無い。
 首の皮を切り裂く直前、さすがと言う他しかない動きで身体と首を逸らした韓遂の動きのために狙いのそれた苦無は、その喉を真っ直ぐ突くことは無かった。
 しかし、致命傷には違いない。
 首の左半分――韓遂からすれば首の右半分を大きく切り裂いたのだから。
 一瞬、忘れていたかのように鮮血が肉片と共に宙を舞う。
 凄まじいほどの激痛なのか、振り払うように手を振るわれて不意に左手から剣が剥がれ落ちる。
 突き刺す様な、神経がずたずたにされているような激痛と共に左手の傷から剥がれ落ちた剣は、カランと乾いた音と僅かな水音を立てて血溜りに落ちた。

 その音と同時に、ようやっと一応の危機が去ったことを知る。
 同じように振り払われたのか、鈍い音を立てて床に転がる董卓が無事なことを視線だけで確認して、韓遂に目をやる。
 首の傷を何とかしようと押さえている両手の隙間から、止めどなく血が流れ落ちていく。
 その胸と身体が動くたびに血と呼吸の混ざった粘着質な音が耳に届いて、その音に合わせるように韓遂の身体はふらふらと動いていた。
 
「がはっ……ぐぅ、おの、れぇ……おのれぇ……」

 しかし、韓遂から発せられる気はまだ死んでいない。
 状況を打破するためにと身体に活を入れて首の傷をどうにかしようとしている様は、まさしく猛将の名に相応しいものだ。
 だからこそ、俺もこれで終わりだなんて思わない。
 床の血溜りにて無機質なままの剣を右手で拾い上げる。
 左手はもはや感覚がほとんど無い、あるのは激痛だけで、剣を支えるために添えてみても役に立っているかさえ分かりはしない。
 それでも、と俺は右手と共に左手に力を込めた。

「……韓遂、さん……」

「ごぶっ……ぐふっ、ふふ……わ、しを、討ったとしても、流れは……止まらん、ぞ」

「……それでも」

 血と空気が混じる音に紛れて、韓遂の徐々にか細くなっていく声が耳に届く。
 声を発するたびに身体がびくんと震えて、そのたびに塊のような血が零れ落ちていく。
 ふらふらの韓遂の身体が部屋の一角にあった小ぶりな机に当たって、がたりと音を立てる。
 ふらふら。
 ふらふら、と。
 身体に当たった机を蹴飛ばそうとでもしているのか、身体を揺らり揺らりと朧気に動かしている。
 もはや、目が見えていないのだ。

「一刀さん…………」

「……ああ」

 一向に止まる気配の無い血が滴っていく韓遂の衣服は、もはや元の色が分からないほどに赤く染まっている。
 血に濡れて肌に張り付いた様は猛将らしい隆々とした筋骨を示していたが、その力の無さはもはや死人のそれであった。
 楽にしてあげてください。
 言外にそう訴える董卓の視線に、言葉を紡ぎつつ深く頷く。
 本当であればこのような行動に出た理由、根拠、先ほどの流れという言葉の真意を問いただしたいところだが、目の前で息も絶え絶えな韓遂にそれを期待するのは酷な気がした。
 だからこそ。


「つつあああぁぁぁぁッ!」

 
 痛む左手を叱咤して、腰だめに構えた剣を韓遂の身体の中心――。
 ――心の臓目がけて、剣を突き刺した。






 **






「つつあああぁぁぁぁッ!」

 何かに耐えるような、それでいて力を振り絞るような声が聞こえた後、ドンッ、という鈍い音に、賈駆は駆けていた脚に急制動をかけて咄嗟に振り返った。
 視界の中は未だ暗闇だ。
 廊下の端々に置かれている灯りの蝋燭は既に燃え尽きており、闇夜を照らすは星月だけだというのに、その中で賈駆は声と音の出所を気配で探った。
 
 軍師とはいえ、賈駆とて将の一人である。
 物事の気配を探ることぐらいは出来るし、暗闇以外で与えられる情報といえば虫の細い鳴き声ぐらいだ、人が動く気配を追うことぐらいはどうということはない。
 ――そんな時、ふと賈駆は鼻を鳴らした。

「これは、この匂いは……まさか、血ッ?!」

 僅かに香る戦場で嗅ぎ慣れた匂い――人の血の匂いに、賈駆は冷や水を浴びせられたかのように背筋を震わす。
 先ほど感じた不安が。
 董卓が韓遂に害される、という不安が否応なしに賈駆の中で大きく育っていく。
 嘘だ、そう叫びたいのを我慢して――未だ董卓が無事ならば韓遂を刺激してはいけない、と思って、賈駆は気配と匂いを頼りにゆっくりと、しかし急かされるように脚を進めていく。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ、そんなことは無い、そんなことはあってはならない。
 暗闇の中で確かに香る血の匂いは、歩みを進めていくたびにどんどんと濃いものになっていく。
 それと同じくして不安がどんどんと大きくなっていき、それに比例して歩みが速くなっていくのを賈駆は気付かない。
 

 ――そして。


「……っぁ……ぁぐぅ……」

「一刀さんッ」

 ある部屋から――扉の留め具が外されている部屋から聞こえた声に賈駆は駆けて、その扉を開け放った。
 途端に鼻に付く、むせるような血の匂い。
 僅かな暗闇の中に、探し求めていた董卓の姿と、彼女が身体を支える北郷一刀の姿。
 そして。
 壁際にて力無く崩れ去り、その胸に剣を生やした韓遂の物言わぬ身体があった。



「月ッ、一刀ッ、大丈夫なのッ?!」

 物言わぬ崩れ落ちた韓遂――恐らくは骸だろう。
 左手を抑えて苦悶の表情を浮かべる北郷一刀。
 涙を浮かべながら北郷に寄り添って彼を心配する董卓。
 その三者三様の姿を見て、賈駆はすぐさまに結論に達する。
 ――北郷一刀が董卓を韓遂から救ったのだ、と。

 細かな流れや状況などはさすがに推測でしかないが、董卓を助けた北郷が韓遂を討ち、その際に傷を受けたのだと意識が及ぶ。
 最悪の状況――不安は免れたのだ、と安心すると同時に、北郷が浮かべる苦悶の表情が酷いということについ声を上げた。

「あッ、詠ちゃんッ、一刀さんが……一刀さんがッ」

「……大丈夫、だよ、月……こんなの、かすり傷、さ……ッぅ」

「……ちょっと見せてみなさい」

 額に大粒の汗を浮かべて、何が大丈夫だというのか。
 喉の奥から零れる声は痛みが混ざっているし、その表情には血の気が無い。
 あからさまに我慢しているのが見てとれた。
 この馬鹿、なんて思わないでもないが、とりあえず今はそのような軽口を叩いている場合ではないだろう。
 震えながらも見せられた北郷の左手――手の平から指からが裂けて血が流れる様に、知らず賈駆は眉を顰めていた。

「指は……うん、ちゃんと繋がってるわね。大方、剣の刃でも握ったんでしょ」

「は、は……よく、分かったな、詠」

「傷を見れば大体はね……やっぱり、韓遂が?」

「うん……韓遂さんが、その、私を討とうとした時に一刀さんが助けてくれて……その時に」

「はぁ、全く……声を上げるなりなんなりして、まずは助けを呼ぼうとは思わなかった訳?」

「はは、いや、そのな……うん、悪かった、ごめん」

 痛みで震えて強張っている北郷の左手を、半ば無理矢理に動かしてみる。
 傷に関してはいまいちな知識しかないが、あまり動かさないほうがいいと知ってはいても、実際にその手が無事かどうかを確認しておかないと気分的に落ち着かない――もちろん、董卓のである、断じて自分のではないと賈駆は誰ともなしに言い訳する。
 それはともかく。
 無理矢理に動かされた北郷の左手は、その痛みに耐えきれなかったのかピクリと動いた。
 動くということは、傷さえ塞がってしまえばどうにかなるということだ。
 そう安心した賈駆――いやいや、董卓から視線を外しつつ、賈駆は韓遂、その骸に視線を動かした。

 胸の中央にて刺し貫かれた剣は心の臓を貫いているのか、その傷口からは闇夜に紛れてどす黒い血が溢れており、それが致命傷であると一目で分かるものだった。
 その血溜りに力なく落ちる両の手にはべっとりと血が付いていて、ふと胸からの傷で濡れたものだと思うが、それも韓遂の顔――その下にある首の部分を見て違うと気付く。
 大きく切り裂かれた首の左部分。
 その傷口は見るからにずたずたなものであり、切り裂いたというよりは、どちらかというと引き裂いたというに近い。
 きょろ、と視線を動かしてみれば、北郷が最近になって携帯し始めた先端を尖らせた鉄の棒――苦無と言うらしい――が落ちていた。
 なるほど、あれか。

「まあ、何はともあれ二人が無事でよかったわ。かず……馬鹿の傷の手当もあるし、韓遂の思惑のこともあるし、さっさと――」

「――それじゃ駄目だ、詠……ッ。それじゃ遅いんだ……ッ」

 韓遂の思惑――恐らく権力を狙ったものだろう――のことも気になるが、まずは北郷の傷の手当が先だ。
 繋がっているということは確認したが、見るからにその傷は深く、実際に元通りに治るかどうかは賈駆には判断がつかない。
 出来る限り早急に医者――名医と呼ばれる医者に診てもらったほうがいいだろう、と思って賈駆は口を開く。
 一刀、と北郷のことを呼びそうになってしまったことに慌てて言い直した賈駆だったが、北郷と董卓の張りつめたような表情に、すぐさま意識を締め直してその理由を二人が放つのを待った。

 そして。
 その理由を聞いた時、賈駆は自分が油断していたということに気付く。
 まさしく、油断。
 この戦乱の世において安息の時など無いというのに、軍師たる自分が。
 この賈文和たる自分が意識と思考を思い至らせていなかったという事実に、彼女は気付くこととなる。

 即ち。
 董卓と北郷は言ったのだ――。


 ――韓遂の軍勢が動いている、と。





  **





 洛陽より遠く、石城よりほど近い地、安定。
 かつて董卓軍が黄巾賊の手より彼の地を守って以来、安定の地を守ってきた城内に緊迫した空気が満ちていた。



「……そうか。石城が攻められておる、か……」

「はっ」

 目の前にて跪く忍の男に視線を落としながら、簡素な鎧を着た女性――郭汜(かくし)は手に広げた文書に意識をやる。
 郭汜、字は阿多(あた)。
 李確の幼馴染として共に董家に古くから仕え、董家先代の奥方が師事したほどの勇将として知られている人物である。
 しかし、である。
 李確と歳が近いというのにその髪と肌には艶が存在しており、その容貌は年相応に老婆というよりは、童女というに近い。
 幼げな董卓と並べて見ると姉妹ですら通りそうな人物は、しかして、眉間に皺を刻む形で文書を見やる。
 ――北郷一刀が初めて見た時に呟いたろりばば、という名称よろしく、その姿はどこか可愛らしい。
 しかし、その身に纏う雰囲気は本物であった。

「万右(まんう)、貴殿は韓遂と同郷の出であったろう? このような行いをする者であったか?」

「……否。奴は漢の臣下、弓引くことはすまい」

「ふむ……となれば、配下の暴走もあるか。……いや、或いは我ら董卓軍から漢王朝を救おうとしているのやもしれん」

「……然り、かもしれん。……稚然は?」

「儂と同じ意見のようじゃ。本腰を入れておろうから十分に警戒せよ、とな」

「……兵を揃えておこう」

「うむ、頼む」

 そんな愛くるしくも厳格な雰囲気の郭汜に、武骨な鎧を纏い顔に大きな傷を負った男――樊稠(はんちゅう)が近づく。
 樊稠、字を万右。
 李確、郭汜と同じく古くから董家に仕える将であり、その口数少なくも実直な姿と常に前線へと出る武勇に兵からの信頼は高く、また、華雄に用兵を授けるほどの将である。
 董家の重鎮とも呼べる二人を董卓本拠である石城と長安の間に位置する安定に配するは、如何に彼の地を重要視しているかを読み解くに、容易くさせるものであった。

 その樊稠が副官を連れて場を後にすると、郭汜は傍らの卓に広げていた安定周辺の地図に視線を落とす。
 天の御遣い――北郷一刀が考案、設立した諜報機関が製作したものだが、これが実に実用的で効果が高いものであったことは記憶に新しい。
 初めこそ、こちらの頭を痛めていた賊を雇い入れると言った時には狂ったか、と思ったものだが、いざ諜報機関が始動するとそんな意見もすぐさまに覆すこととなった。
 役に立つのなら、効果があるのなら、と次々と新しい策を講じていく北郷に息吹を感じたとともに、自らが十分に老いたことを感じたこともあった。
 ――もっとも、童女のような姿をした自身が言ったところでどうかと思わないでもないが。
 
 それはともかくとして。
 今は迫る脅威――西涼連合が雄、韓遂の軍勢への対処である。
 石城が攻囲される直前に李確が発した忍によってその脅威は安定に届くことになったが、彼の軍を前にしての推測からはじき出された戦力差で言えば、この安定の兵ではとてもではないが打ち勝つことは難しいだろう。
 
「韓遂が軍勢は一万……対するこちらは二千に及ばない、か……。ふむ……さて、どうするかのう」

 李確が推測した韓遂軍の総数に、郭汜も恐らくはその程度であろうと思う。
 石城を五千ほどの兵が狙っているとすれば、と李確は言うが、城攻めという観点から考えてのことと後々のことを考えればそれぐらい用意しているのが普通だろう。
 何せ、洛陽には数万以上もの兵がいるのだ。
 たかだか数千の兵で石城なり安定なりを落したとしても、防備の減少したところを奪い返されでもすれば目も当てられないだろう。
 となれば、それに備えての兵力もいる――その最低が一万ほどだろうと郭汜は踏んでいた。

「やはり籠って守るが正当、か。李確は安定に数千、長安に数千としておるから、あやつの言を信ずれば守り勝つことも出来ようが……ふむ、はてさて」

 しかして、石城や安定よりも重要するべき地は他にもある――長安だ。
 古来は都として、今現在は洛陽の副都として存在するその地は、言うまでも無く石城や安定よりも重要視されるべき地である。
 董家の本拠である石城、そこと長安を結ぶ地である安定を抑えることは確かに重要であろう。
 しかし、古来は都であった長安を抑えるということは、洛陽を抑える勢力に対して、その位置関係から喉元に剣を突きつけたに等しいものがあった。
 郭汜が韓遂の狙いが石城や安定でもなく長安を抑えることか、と疑うのも無理も無い話である。
 
 だが、それも全てただの推測、憶測でしかない。
 やはり戦の機敏は戦場でなくては感じることは出来ぬ、とばかりに郭汜は席を立つ――それを待っていたかのように、郭汜の耳に急報が飛び込んだ。


「遠くに軍勢を確認、旗印は紺地に真紅の『馬』の一文字ッ! 西涼の――韓遂が配下、馬玩の軍勢と思われますッ」


 来たか。
 そう口にすることはなく。
 しかして、その童女のような容貌にはあまりにも不似合な、勇将たらん獰猛な笑みを顔に張り付けながら、郭汜はまるで幼子のように瞳を輝かせていた。






[18488] 六十五話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/05/25 13:00

 *若干ながら、性描写的な表現があります。苦手な方は二つ目の区切り以降は軽く読み飛ばすことをお勧めします。





 洛陽――その以西が今また動乱の渦に巻き込まれようとしている頃。
 洛陽より遙か遠く北の地において、こちらもまた動乱の幕が開けようとしていた。



「とうとう来たか……麗羽」

 ひゅう、と一陣の風が城壁の上を駆け抜けて、そこに立つ人物――公孫賛の髪を揺らめかせる。
 闇夜を切り裂くように昇りつつある陽光に目を細めた公孫賛は、その煌めきの中に別種のそれを確認する。
 ちかちか、と。
 きらきら、と。
 まるで生きているかのように浮き出ては沈むその別種の煌めきは、しかして、時が進むにつれて、朝日が昇るにつれてその姿を大きくし、その全貌を現していく。
 遙かに続く大地の一画を埋め尽くすほどの黄金の群れ。
 ――反董卓連合軍の総大将を務めた派手好きたる袁紹の軍勢が、今まさに襲いかからんとしていた。

「……ったく、いきなり攻めてくるのもどうかと思うぞ、麗羽。もっとも、そんな細かいことを考えないのは昔からだけどな」

 はっきりと言って、自身と袁紹の仲はさほど良くはない、と公孫賛は考えていた。
 袁紹は三公などを輩出したこともある名家、対した自分は古くから異民族との最前線で生きてきた一族の出だ。
 かねてより顔を合わせれば小馬鹿にされてきたし、嫌いや憎らしいといった負の感情を抱くまではいかなくとも、良い感情を抱くこともなかった。
 それでも、真名を預けるほどには親しくなったし、反董卓連合軍においても昔からの付き合いから押しとどめる役として参加もした――もっとも、反董卓連合軍の参加は時流に乗っかったこともあるし、古くの付き合いである劉備の願いもあったのだが。
 まあそれは置いておいて、だ。
 結局のところ、仲がさほど良くないと自覚しているとはいえ、それでも古い付き合いだ、袁紹の考えるところが理解出来る公孫賛からすれば、今回の行動――自領への侵攻は予想出来ていた。
 つまるところ、袁紹は反董卓連合軍における敗北の責を別の勝利にて埋める算段なのだ。

「伯珪様ッ、袁紹の軍勢がこちらに進んできておりますッ」

「もう確認出来てるよ」

 袁紹の進撃の理由を思考していると、同じ城壁の上にいた見張りの兵からようやっと袁紹軍発見の報が届く。
 遅すぎやしないか、と思わないでもないが、狙っていたのか定かではないが、煌めく陽光に混じっての進撃ならばあの無駄に豪華で派手な金色の鎧は姿を隠しやすいだろう。
 まさかな、と思いつつ、公孫賛は報告の兵へ口を開いた。

「兵の配置はすでに完了しているか?」

「はッ。白馬義従はもとより、弓兵、槍兵、歩兵、騎馬隊……その全てが」

「そうか……。厳しい戦いになる、第一班に防戦の用意をさせろ。口上があるかどうかは分からないが、すぐに動けるようにも伝えておけ」

「御意ッ」

 敬礼を済ませた兵が、その足を駆けさせて城壁の上から姿を消す。
 交代して防衛に回れるようにと分けていた兵、その第一の班に指示を与えるためだろう。
 視界の先にある袁紹の軍勢は、視界の中から少なく見積もっても三万は下らないだろう。
 控えの兵、輜重、偵察、諸々を含めれば四万に届くかもしれない。
 華北の中でも良く富んだ冀州を押さえるだけあって、四万の軍勢を率いてなお、その本拠には防衛の兵を割いているだろうという事実に、公孫賛は少しだけ憂鬱になった。

「はぁ……対するこっちは一万と少し……厳しいどころの話じゃないな、これは……」

 白馬で固めて白い鎧にて構成された白馬義従が三千。
 その他の騎馬隊が二千。
 歩兵、槍兵、弓兵が合わせて五千。
 つい先日、抜けていった兵達の穴埋めとして募兵した新兵、訓練兵が二千。
 なるほど、厳しいどころの話ではないな、と公孫賛は今また深い溜息をついた。

「籠城するか、討って出るか…………うう、朱里か雛里がいればいい策も出るんだろうけどなぁ……」

 やっぱり私じゃ無理なんだろうか、などと自身の力量の無さを感じつつ、それでも、と過ぎたる日々――過ぎていった劉備との日々に思いを馳せた。
 天下に至るみんなが笑顔で過ごせる世が作りたい。
 そうした義を掲げ、戦乱に身を投じた彼女のことを公孫賛は眩しいと思った。
 そんな理想に惹かれて関羽や張飛などの猛将は集いて軍勢を率い、朱里や雛里――諸葛亮や庖統などの智将は知恵を貸して勝利を彩るのだ。
 その勢力は小さいなれど、従っていくには確かな理想に公孫賛自身も羨ましいと思ってしまった。

 だからこそ、ではないが、公孫賛は劉備を送り出した。
 彼女の理想はここで潰えるものではない、と。
 これからの戦乱の中において、劉備の理想こそが人々と民の希望になるだろう、との予想をもって。
 まあ、その際に好きなだけ人員を連れて行けと言った時、その理想に惹かれて二千もの兵が引き抜かれるとは思ってもみなかったがな、と公孫賛は言葉に出すことなく心中で涙を流した。

 そんなこんなで劉備達を送り出したのはつい先日のこと。
 反董卓連合軍の折に声をかけられた徐州牧である陶謙を頼ると言っていたから、二千もの軍勢とはいえ、今頃は青州との境まで行っている頃だろうか。
 陶謙の名君たる名は公孫賛とて聞いているから、劉備が腰を落ち着けて勢力を各台するには自分のところよりも適当だろう、と思った後に、彼女は視界の中で煌めく黄金に意識を戻した。

「まあ、無い物ねだりをしても仕方が無いな……。まずは一当てしてみるとするか」

 自らが率いる軍より倍以上にも多い敵軍。
 その事実に身体の奥底がずっしりと重くなったような錯覚を覚えるが、それでも、確かな足取りで公孫賛は城壁から階段を伝って降りていく。
 すでに用意されていた自らの白馬に跨がって背後を振り返れば、白き草原のように広がる白馬義従の威容。
 その姿に満足そうに一つ頷いた公孫賛は、気と顔を引き締めて声を上げた。


「城門開けッ。討って出るぞッ!」





  **





「おーほっほっほっ。前進前進、全速前進ですわー」

「麗羽様っ、白蓮様が討って出てきましたよッ」

「数はどれぐらいですの?」

「ええっと……多くて一万ぐらい、でしょうか……」

「ならばものの数ではありませんわッ。全力で前進するだけですわッ」

「えーと、姫……少しは戦略とか考えた方が……。白蓮様も太守だから、賊みたいに簡単にいける訳じゃないんだし……」

「あら、何か言いまして猪々子さん?」

「いや、姫がいいんならそれでいんだけどさ……」

「ふう……」

 規則正しい土を踏みしめる音が辺りに響く中、一応の主である袁紹とその配下である顔良と文醜の声が耳に届いて、張恰は仮面に隠れた下で人知れず息を吐いた。
 此度の軍、その名目は反董卓連合軍において失われた治安の回復である。
 反董卓連合軍の敗北によって活発になった賊徒の征伐、と言い換えればそれなりの筋はあるように聞こえるが、その名目だって顔良が体裁を整えたものである。
 元々の名目――目的は、公孫賛の討伐であった。

 三公四世。
 これまで多くの名将、智将、猛将を輩出し、漢王朝において多大な功績を挙げてきた文官や三公を送り出してきた袁家の名は、この時代において絶大なものがある。
 張恰自身として言えばさほど気に留めることでもないのだが、名を欲し、声を欲し、富を欲す者達からすれば結構なものなのだろう。
 反董卓連合軍の結成の際、袁家に近づく好機と見た諸侯の数が多かったのがそれを表していた。
 だが、反董卓連合軍での敗北は袁紹の領地において決して小さくない動揺を生み出すこととなる。
 領地では袁家の威光によって押さえつけられていた賊徒が湧き、袁家に仕える者でもその盛者必衰を予見――或いは恐れた者などは、今のうちにと己が栄華を求めるようになった。
 外が荒れ、内も荒れ。
 衰えるどころの話ではない、滅びへの道を転がり落ちるように進む袁家の勢いの中、それを打開するには勝利をもって再び威光を示す必要があった――それも、賊徒を相手にするような小さなものではない、諸侯を相手取った大きなものが。
 その標的が、後に中原進出ということ見据えて後顧の憂いとなる可能性のあった公孫賛であった。
 ――無論、そう仕向けたのは張恰自身である。

「……三万以上の軍勢と一万の軍勢……。普通に考えるのであれば、仲達様の言うとおりに勝利は容易いものなのでしょうが……」

 袁紹に公孫賛を攻めさせ、これを勝利するように動け。
 反董卓連合軍の敗北が北郷一刀の手によって決定的となり撤退の準備を行っていたあの日、仲達――司馬懿からの使いである白装束の者から受けた指示を、張恰は忠実に実行した。
 反董卓連合軍の失敗は多くの諸侯を募ったことにあった、故に公孫賛を討ち幽州を治め、その勢いをもって并州を勢力とし、さらに勢いのままに華北全土を平らげた後に洛陽に南下すれば袁本初に敵う者は無いだろう。
 中規模な賊軍討伐からの帰還の折にそう伝えたことは記憶に新しい。
 反董卓連合軍の際に召し出されてから袁紹の近くにいることが多くなったが、普段の言動はあれでも、こういった実利に絡む話の時は本当に動きが早いと感嘆する。
 あれよあれよと言う間に数万の軍勢を編成し、その半数を領地防衛のために残して出発することになったのだから、その力量と手腕――殆ど顔良だが――は見直すべきか、とは思う。
 だが――。

「それでも……仲達様には敵わない。袁紹様も、顔良様も……董卓も、北郷一刀も」

 今は遠く離れている司馬懿の仮面に半分覆われた顔を思い出し、少しだけ、どきんと胸が高鳴るのを張恰は心地よく思う。
 ついっ、と彼とお揃いにとした半身の仮面に触れて、胸の奥の辺りがほわりと暖かくなる。
 頭頂部より少し後ろで纏めた蒼い髪がふさりと揺れた。

 あの日――絶望しか待ち受けていなかった自身を司馬懿に救ってもらった日と同じ長さに整えている髪。
 自らの容姿の中で唯一認めてもらったことのある蒼い髪に一度だけ触れて、ふわりと暖かくなった胸の内のままに、司馬懿は前を見据えた。
 視界の先には、城から討って出た公孫賛の軍勢。
 その中に見える白い姿形は、おそらく彼の軍勢にて名高い白馬義従だろう。
 異民族相手に戦歴を積み上げ、戦場を駆け抜ける白い風。
 多分であるが、名声と威光と財力で集めた袁家の軍兵では太刀打ち出来ないだろうと思う。
 ただ正面から戦うだけでは勝利は難しいかもしれない、勝利出来たとしても、己が命すら投げ出さないといけないかもしれない。
 それでも。
 それでも、司馬懿は袁紹の勝利を望んでいる。
 彼の意図は分からない、袁紹を勝たせる理由も、その目的も何もかもが。
 けれど、と思う。

「迎え撃ちなさい、張恰さんっ」

「全軍……抜刀ッ!」

 自身にはそんなもの関係の無いことだ、と張恰は腰から――その左右に携えていた二本の小振りな剣を両手に抜く。
 司馬懿が望んだのは袁紹の勝利、自分にはただそれだけ良い。
 司馬懿が望んだのであれば、それが決して難しいことであっても、無理なことであっても、不可能なことであっても、ただ実行するだけである。
 両の手で司馬懿の願いを叶えられるように、それぞれに剣という力をもって。
 そうして拵えた双小剣を天に掲げ――。
 ――張恰は、司馬懿の願いを叶えるために号令を発した。


「迎え撃てぇぇッ!」


 ただ願うは、司馬懿の願いの成就。
 それだけの想いを胸に秘めて、張恰は公孫賛軍の先頭を駆けていた白馬の騎馬に双小剣を突き立てた。





  **





 袁紹と公孫賛が今まさにその軍勢をぶつかり合わせんとしている夜明けの時より少し前。
 
「はぁ……はぁ……ふぁ、んっ、ひゃんっ……はっ、かりん、さまぁ……ああぁぁぁぁッッ」

 荒い息遣いが闇夜に染まる部屋を埋め尽くしてる中で、女性特有の甘くて聞くものの劣情を呼び起こす様な嬌声が響く。
 びくんっ、びくんっ、と嬌声を上げた女性の身体が数度痙攣するかのように震え、その表情と瞳がとろんとした深く堕ちるほどの甘みに染まるのを、少女――曹操は楽しそうに口端を上げて眺めていた。

 兗州が東郡の城において、曹操の寝室とされている一室。
 明り取りの油や蝋燭などなく、ただ月と星がもたらす灯りだけが部屋の中を満たしている中で、豊潤に香るのはむせるほどの雌の匂い。
 つつっ、と未だ震える女性の肌に指を這わせると、ひくんっ、と蠢くその身体に曹操は思わず舌を舐めずる。
 反董卓連合軍の終結から早くも時が経ち、その敗戦による混乱は一応の収束を迎えていた。
 反董卓連合軍への参戦が私利私欲からではなく漢王朝の未来を案じて、と早くから張莫を伴って漢王朝皇帝である劉協に顔を通していたのも幸いしたが、何より――いや、元々の予定通りに領内に潜んでいた賊徒が一斉に反旗を翻したことが大きかった。
 反董卓連合軍が敗北してしまったことこそは予想外であったが、それに勝利したとしてもその内実がボロボロの薄氷を踏むものであった、と演じて後の不安材料である賊軍を一斉に噴出させようという荀彧の策が上手く行われたのであった。
 
 結果として、領内において曹操に不満を持つ者、ただ貪りたいだけの者らは結託して一様に陳留を目指した。
 軍勢の大部分を反董卓連合軍に割き、それも敗北したとあっては軍勢を防ぐことは出来ないだろう、そう思ってのことだったのだろう。
 だが、先も言ったようにその賊軍の動きはこちらの予定通りのものだった――もっといえば、上手く誘導した通りであったのだ。
 であるならば、襲撃されるというのに防備を疎かにするはずもなく。
 反董卓連合軍の参戦するより以前、陳留近くの村々を勢力とするときにそれらを守らんとしていた義勇軍の将らが、別働隊を率いてそれを撃破したのであった。
 楽進、李典、于禁。
 それがその将達の名であった。

 まあ、漢王朝皇帝への謁見、そして敗れてなお賊徒を撃破する気概を買われて、曹操はついに兗州に所属する東郡の太守となり、得難い将らまでをも獲得することが出来たのだから、結果としては万々歳であった。
 そして、そうして得た東郡は張莫が太守を務める陳留よりは幾分か小さい街ではあるが、それまで確固たる勢力基盤を持たなかった曹操からしてみれば堂々たる土地である。
 小さいなら小さいなりに成長のさせがいがある、なんてことを思いつつ、ふと自分の身体を見てしまったことなどは、すでに幾日も前の話であった。

 ただ、一つ残念なことがあった。
 新たな拠点として東郡を得ることになったのは喜ばしいことではあったが、そのために配下である夏候惇や夏侯淵、荀彧が忙しくなったのは予想外であったのだ。
 いつもならばどれだけ忙しくとも仕事を収め上げ、閨――夜の相手を任せていたというのに、今回ばかりはそうも言っていられなかった。
 文字通り不眠不休で働いているものだから、閨の相手を務めさせようとして眠られてしまったのは、凄まじい敗北感であったことを覚えている。
 結果として、体調のことも考慮してか普段から相手をさせている三人をその役目から一時的に外して、曹操が愛でるためにと編成していた親衛隊の中から一人二人ほど美味しく頂いている訳であった。

「けれども……なんか物足りないのよね……」

 ひくんっ、ひくんっ、と指を肌に滑らせるたびに身体のいろいろな部分を震わせる女性――親衛隊の新参の女性兵士で曹操直々に指名した――から視線を外しつつ、曹操はぽつりと呟いた。
 虐め甲斐が無いといえばそれまでだし、ただ欲求が満たされていないだけといえばそこまでだろう。
 荀彧などは相当の虐め甲斐があるものだし、夏候惇は夏侯淵と共に虐めてやれば欲求が満たされ、夏侯淵は女性同士の逢瀬を心行くまで楽しむことが出来るのだから、それも仕方のないことなのかもしれないが。
 
「まあ……今は仕方が無いわね……。ふふ……今は、こちらで楽しむとしましょうか……」

「……ひぁっ、か、かりんッ、さまぁ……ッ」

「……失礼します」

 まあ、忙しいのも今だけでもう少しすれば落ち着くとの報告も来ていることだし、無いものをねだってもしょうがない、と曹操はつい今しがたまで身体を重ねていた女性に再び覆いかぶさる。
 その胸に手と指を這わせ、その肌に唇と舌を落とし、その下腹部に快感をもたらしていく。
 そうして。
 決して男に曝け出したことのない女性の秘密の部分に曹操が再び指を這わせようと――その肉に指を埋めようとした時、閉じられた扉の向こうから聞きなれた声が耳に届く。
 荀彧の声だ。

「……何か用、桂花? 混ざりに来たのかしら?」

「いえ……北に放っていた偵察が戻ってまいりました」

「……すぐ行くわ。ふふ……残念だけど、今日はここまでね」

「ふぁ……はいぃ……」

「うふふ……可愛い子。部屋に帰っても、きちんと温かくして眠るのよ?」

 ぴくんっ、と身体を震わせてとろりとした表情の女性の頬に一つだけ口づけを落とす。
 軽く息を呑む吐息と少しだけ身体を震わせるその様は、未だ劣情を内部に燻らせているかのようであったが、残念ながらこれ以上可愛がっていると必要な時間が取れなくなってくる。
 まだ可愛がりたくなる衝動を息を深く吐いて殺しながら、曹操は寝台の横にある椅子にかけていた薄布をその裸身に纏う。
 熱る身体に冷たくなっていた薄布を心地よく感じながら、曹操は寝室の扉を開けた。

「……」

「あら、妬いてるの、桂花?」

「……意地悪です、華琳様は……。妬いていると私がお答えになると知っていて、なお質問されるのですから……」

「ふふ……羞恥で顔を赤らめながらも答えてくれる桂花が好きよ。……さて、それで?」

 扉を開けた向こうで、荀彧が顔を顰めるのを曹操は目にする。
 常の荀彧であれば曹操が――しかも裸身の姿で前に現れれば、すぐさま感情を興奮とさせてきそうなものなのだが。
 そこまで考えて、曹操は自身が纏う女と雌の匂いにふと気づいた。
 そして、荀彧の視線が閉じられていく寝室の扉の内側――正確に言えば、その寝台で身体を起こしていた女性に向けられているのを理解して、なるほど嫉妬か、と微笑んだ。
 だからこそ、荀彧もまた曹操に気付かれているということを前提に話を進めていくのだが。
 如何せん、今はこのような場合ではない。
 北に放っていた――曹操の領地より北に位置する冀州の様子を探っていた偵察が返ってきたという報告の先を、曹操は荀彧に促した。

「報告によれば、袁紹は三万程度の軍勢を率いて本拠を出立……その進路を北にと取ったそうです」

「三万程度、か……麗羽は確か五、六万程度の軍を擁していたわね」

「はい。密偵の報告では六万五千、戦力と数えない新兵、訓練兵は二万程度とのことですので、実質的に戦力の半数近くを動かしたことになります」

「そう……それだけ大々的に兵を動かしたとなると……」

「恐らくは、北の公孫賛ではないかと……」

 北――袁紹が擁する冀州の地は、古来より多くの英雄が覇を競って争ってきた地である。
 数多の兵の血が流れ、幾多もの民がその血をもって大地を耕して田畑とし、開発されてきた、言うなれば由緒ある地でもある。
 そんな地であるのだから、袁紹の軍勢は彼の地を統べるとあってもかなり多い部類に入る。
 一万二万程度の兵を持つ太守、それらを統べる冀州牧となったということはつい先日に洛陽で聞いたが、まさか一度の出征で三万もの軍勢を動かすようなことが来るとは、というのが素直に驚きである。
 反董卓連合軍の総大将であった袁紹はその敗北の影響が一番に大きいと思っていた、それは密偵や偵察から入る賊軍噴出の情報から間違いないだろう。
 しばらくの間はそれらにつきっきりで勢力拡大など到底無理だろう、と思っていたのだが。
 そこまで大々的に兵を動かせるほどまでに領地を落ち着かせることが出来たというのであれば、少々袁紹の評価を間違っていたのではないか、と曹操は思うことになる。
 
 しかし、それはそれだ。
 袁紹が北へ向かったというのであれば、恐らくその目標は幽州に勢力を築く公孫賛だろう。
 彼女もまた幽州全体に指示を出せる幽州牧となった、というのは聞いたことがあるが、元々洛陽より遠く離れた僻地である、その戦力には限界があるだろう。
 それに、公孫賛の主戦力はなんといってもその騎馬隊であり、中でも、白馬に白き鎧にて編成された白馬義従の名は轟いている。
 だからこそ、戦力には限界がある。
 騎馬の維持には思ったよりの資金や物資が必要だからだ。
 騎馬の状態を良好に保ち、騎馬兵の装備を整える、これだけでも凄まじいほどの資金が必要なのだから、通常の歩兵に割ける分はあまりにも少ないだろう。
 故に、曹操は――これは荀彧も同意見であったが――公孫賛の軍勢の規模は一万と少し、多くても二万程度だろうと予測していた。
 対しての袁紹は三万。
 曹操の脳裏に、閃きが走る。

「桂花……先日の鮑信からの使者、まだ返してはいないわよね?」

「はい。華琳様の指示通りに城の離れにて居留させていますが……華琳様?」

「夜明けに使者を出して頂戴。要請の旨、了解したと。ついては詳細を詰めたいので城へ来るように、とね」

 つい先日、兗州と青州の境にある済北国の太守である鮑信よりある要請が使者によってもたらされた。
 鮑信といえば儒教にて名を成した一族の出で、鮑信自身も寛大で節義を弁えているからか、多くの民から慕われているという。
 その鮑信からの要請――それは、青州にてこれを乱す黄巾賊残党の討伐であった。
 青州は古く光武帝の時代に赤眉賊の根拠地となるほどに治安が悪く、それを狙ってか多くの賊が闊歩する無法の地として現状に至っている。
 漢王朝からも多くの兵が差し向けられはしたが、そのたびに官軍は大敗を喫することとなり、その無法は最早止められない状況にまで陥っていた。
 そして、その無法の中でも一大勢力が、黄巾賊の残党であった。

 黄巾賊の残党兵三十万、非戦闘員は百万はくだらないというほどに大規模な賊軍は、見方を変えれば青州を支配する勢力でもある。
 その青州黄巾賊が、兗州に進出してきて鮑信の済北国を脅かしているというのだという。
 しかし、曹操は兗州でもそれほど大きな街ではない東郡の太守でしかない。
 兗州全体の問題となれば兗州刺史が動くのが普通であるのだが――。
 ――その兗州刺史であった劉岱が青州黄巾賊に敗れて討死しているのであれば、話は別であった。

「兗州刺史は討たれ、兗州牧も任命されていない今、動けるのは兗州の一太守でしかない私や紅瞬ぐらいでしょうね。……どれぐらい集められそう?」

「……かつてより華琳様に仕えてきた兵、東郡にて新たに徴兵し錬度を高めた兵、それに紅瞬様の陳留の軍勢を揃えて……総勢で三万五千ほどかと」

「そこから北、南……そして西の洛陽の抑えの兵を残したとして、どれぐらいの兵になりそう、桂花?」

「万全を期するならば漢王朝に上奏し、官軍として出征すれば総勢を。……ですが、兗州だけの軍勢となりますと……二万」

「なるほど……二万対三十万……勝算はあるのかしら?」

「華琳様が望まれるのであれば、絶対の勝利を」

 荀彧に言葉を投げかけながら、熱の昇っていた頭を冷やしながら思考を働かせていく。
 北――袁紹は公孫賛に向けて軍勢を動かしたが故に、こちらには手を出してこないだろう。
 それまで領内各地において反乱を抱えていた状況であったのだ、恐らくは、そこまで余裕は無いだろう。
 南――豫州はそこまでの情報は入っていない。
 袁術が興味を伸ばしているらしい、との情報こそ仕入れてはいるものの、今の所は大規模な賊であるとか、大きな行動があると聞いた話ではない。
 州をまとめ上げそうな確固たる勢力がいるとも聞いていなかった。
 そして西――洛陽方面は、驚くほどに静かであると張莫から報告が上がっていた。
 反董卓連合軍と董卓軍との会談において汜水関が董卓軍に返却されてから、彼の関に軍勢が終結しているらしき気配がないのである。
 関として機能する必要最低限――賊を迎え撃てる程度――の軍勢はあるらしいが、それもそれだけで、討って出る訳でも、こちらを警戒するでもないらしい。
 詳細は不明だが、危険視するほどではない、というのが張莫の見解だった。

 さて。
北、南、西に問題が無いのならば、後は東の問題を片づけるだけである。
 兵力でこそ明らかな差はあるが、錬度と将兵の質を考えれば苦戦は考えられなかった。
 さらには、目の前で絶対の自信をその瞳に宿しながら膝をつく荀彧の存在もある。
 彼女が絶対の勝利を授ける、というのであれば、それに相当する策があるのだろう。
 将としてその智謀と存在を頼もしく思い、女として愛するべき少女の気高しさを嬉しく、そして可愛く思い、曹操は知らずのうちに口元を笑みで浮かべていた。
 


 そして。
 一週間の後に、曹操は軍勢を率いて東郡を出立する。
 その軍勢には夏候惇と夏侯淵の夏候姉妹、軍師である荀彧、新規に曹操軍に編入された楽進や李典、于禁の姿があった。
 陳留からも太守である張莫が一万余を率いての参戦となって、曹操軍はその数を二万五千にまで膨れ上がらせることとなる。
 黒を基調とした鎧にて編成された彼の軍兵らは整然とし、その威容を見た者はまるで彼の項羽の軍勢であるかのようであったという。

 
覇王。


 曹孟徳という少女に、新たな名が付いた時でもあった。





  **





 こうして。
 洛陽を巻き込んだ争乱が董卓軍を襲う中、華北の地においても動乱の風が吹き荒れようとしていた。
 公孫賛。
 袁紹。
 曹操。
 その動乱の中心となるであろう諸侯達は、動乱が始まらんとしていたこの時すでに、ある程度の予測を立てていたことだろう。
 華北の有力者たる袁紹が幽州の公孫賛を討ってその勢力を広げ、曹操は東と南に勢力を拡大して、華北における最大勢力は袁紹と曹操になるであろう、と――。
 ――今はまだその名を歴史に現さない、誰ともつかぬ者が立てたであろう道筋に沿って。


 しかして、そんな予想と道筋は、一人の少女の決意によって覆されることとなる。
 その少女の名は劉備――劉玄徳といった。






[18488] 六十六話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/06/24 15:08



「どうすれば、良かったんだろう……?」
 
 そんな時が夜明けを刻んでいく中、一人の少女がぽつりと呟いた。
その心中にあるのは、洛陽より遥か遠き北の地、幽州のことだった。

 少女の姿があるのは、ある軍勢の中だ。
 幽州の地において黄金色に輝く軍勢が牙を剥かんとしている頃、その地より少しばかり南において、夜営を張っている軍勢である。
 新品のような、使い慣れていないかのような槍や剣を手に持つ兵達の顔は、性別、年齢共に様々だ。
 子供から大人、まさしく老若男女に境のない者達が鎧を纏って陣内を見回り、或いは鎧を脱いで眠っている。
 漢王朝の正規軍、官軍のように規律に満たされている訳でもない。
 覇道を目指す軍のように、張りつめた空気がある訳でも無い。
 穏やかな笑顔と確かな安息と、平和への希望に満ち溢れた顔が、そこにはあった。

 そんな陣内において、呟きを零した少女――軍勢の主でもある劉備は、陽が顔を出しつつあった空を見上げていた。
 幽州からずっと移動しっぱなしで疲労の色は随分と濃く、闇夜にて冷やされた空気が疲労で熱る身体に随分と心地良い。
 身体の中に籠る熱を吐き出すように、劉備は口を開いた。

「私……どうすれば、良かったのかな……」





 幽州において、公孫賛とそれを手伝う劉備達は忙しい日々を送ることになった。
 駐留を許可されたその見返りとして手伝い始めた頃から色々と忙しかったが、その時の忙しさはそれを超えるほどであった――その原因の大半が、反董卓連合軍の戦後処理にあった。
 参軍していた豪族への謝礼、兵達への恩給や補償、主戦力がいない間に湧き出していた賊徒の討伐、異民族への対応、それらに伴い悪化していた領内の治安回復など。
 身体が一つ二つでは足りないと思えるほどの忙しさに目まぐるしく働いて、それがようやく落ち着きを見せ始めただろうか――そんな時に、事は起こった。
 冀州の袁紹が兵を挙げた、その総数、実に三万以上。
 冀州内の賊徒を尽く征伐しながらゆっくりと北上を続けている――田豫が張り巡らせていた情報網にそう報告が飛び込んだのは、そんな時だった。



 軍議は、素早く行われることとなった。
 混乱と驚愕、それらが幽州の城を覆い尽くそうとする前に、公孫賛が即座に軍議を発したのだ。
 主たる武官文官を城に集めて軍議を開く故に参加を願いたい――そんな要請もまた、即座に劉備の元にも届けられた。

 さて軍議、という段階において、一番に考えなければならなかったのは袁紹の行動理由である。
 冀州内部の賊徒討伐、その点だけを見るのであればあまり問題の無いことなのかもしれないが、袁紹軍の動き方を見れば、それは実に本格的な軍事行動であった。
 公孫賛の下で執務軍務に励む者達は、これを冀州内部の賊軍を本格的に一つ残らず討つための行動であると断言し、劉備はなるほどと思ったものだ。
 まず、三万もの軍勢を動かすには途方も無いほどの財貨が必要である。
 いくら名門袁家とはいえ、それを捻出するのが簡単ということは無いだろう。
 勢力内各地に根を張る豪族、民、商人、商家など、様々な方面に無理をさせているに違いない。
 だからこそ、長期に渡る出征は不可能なのだ、という言葉に、劉備は理解し、納得した。
 ――冀州の賊徒を全て討伐し治安を向上させる、そのための無理強いだと。

 しかし。
 領内における賊軍を討ち滅ぼすための大軍なのだと論じた公孫賛旗下の将官達は、しかして、劉備の隣に座っていた諸葛亮、庖統、田豫の三軍師の言葉によって押し黙ることとなる。


 無理をさせているからこそ――否、無理をさせるからこその軍事行動、侵攻なのだ、と。

 
 現状であれば袁紹の領内――冀州には大規模な賊軍は存在せず、数多い小勢の賊徒を討つにしてもそれだけの大軍を動かさなければならないほどの意味はない、と田豫が発し。
 であれば、民や豪族に無理を強いてまでそれだけの大軍を動かすだけの理由がどこかしらにある筈だ、と庖統が続き。
 賊が出現するだけの不満、民の不平不満が反董卓連合軍における敗北からのものであり、それを覆すためにはその敗北に負けぬ大きな勝利が必要なのだ、と諸葛亮が締めた。
 つまりは、である。
 幽州――公孫賛を降し、その勝利をもって領内における民、将兵の不満をを和らげることこそが、袁紹の狙いであるのだ、と三人の軍師は言い切ったのである。

 無論、大軍が動いているという情報が入ったばかりのこの時点では、それも軍師達の推測に過ぎなかっただろう。
 もしやすれば、軍師達が考えすぎていただけで、当初の想定通りに領内における賊軍の尽くを討つつもりだけだったのかもしれない。
 つまりは、あの時点ではただの推測に過ぎず、実際に三軍師が発した言葉の通りに袁紹軍が動くかどうかなど、分からないものだったのだ。
 無論、劉備は諸葛亮達を信頼しているし、その言葉を疑うつもりはないが、少ないなりにも軍勢を率いてる劉備からすれば、そのような理由で行動を起こすということが理解出来ないでいた。
 敗北の責から逃れるためだけに戦を起こすなどと、わざわざ戦火を広げるだけのような行動が、劉備としては到底信じることが出来なかったのである。
 だからこそ、劉備は変わらず幽州の地において平和を願おうとしていた。
 きっと諸葛亮達の考えすぎだと、袁紹はそんなに悪い人ではない、そう思っていた。
 ――しかし。
 そう願い、思おうとしていた劉備は、信じられない公孫賛の言葉を耳にすることになる。
 

 幽州から出ていけ、桃香。

 
 それが公孫賛の言葉であった。





「どうして……どうしてなの、白蓮ちゃん……」

 快く送り出してくれた、餞別として付いてきたいと願った兵の人達も預けてくれた、これから先に恥ずかしくないようにと装備も整えてくれた――しかし、半ば追い出されたような形を思い出して、劉備は少しだけ瞳が潤むのを感じた。
 嫌われてしまったのだろうか、或いは、邪魔だと思われてしまったのだろうか。
もしかすると、軍議の場で言を発した諸葛亮達が気に食わなかったのだろうか、幽州を離れてから、ついついそんなことばかり考えてしまっていた。

 しかし、泣いてばかりはいられない。
 街や邑を収める領主の軍であれば税から兵らを賄えることが出来るが、自らが率いているのは義勇軍であり、その処遇はあまりにも儚い。
 給金など出せるような体裁ではなく、結局のところは街や邑を襲う賊を討って施しを受けるような立場である。
 故に、幽州から離れても問題の無いように、どこか落ち着ける場所が必要であった。
 
 幸いにも、反董卓連合軍の折に徐州牧である陶謙の目にとまったこともあってか、徐州へ来ないかという文書を届けられたこともあり、劉備達はひとまず徐州を目指すために幽州から南下することになった。
 公孫賛の下を去ってから、早すでに一週間になり、現在地はもはや幽州と青州の境目である。
 主要街道から外れて南下しているからか袁紹軍の姿は確認されていないため、このまま南下を続ければ大きな問題も無く青州を抜けて徐州へと入れるはずである。
 青州には黄巾賊の残党が強大な勢力を築いている、と諸葛亮からの報告になったのを覚えているが、元の義勇軍五百に公孫賛からの二千を加えた兵ではこれに適わない、というのが関羽や諸葛亮の意見で、劉備も徒に兵の命を散らさないということに賛成だった。
 二千五百の兵でも適いそうな小勢の黄巾賊残党は討って民を助け、無理そうな大軍であれば逃げて兵を守る。
 そうすれば徐州まではそこまで遠くないとして、劉備達は徐州を目指していた。


 
 しかし。
 徐州への道のりが目前に控えた今になっても、劉備はどうしても公孫賛のことを思っていた。
 あのような対応をする人物では無かった、と心の何処かが、何故か警鐘を鳴らしている。
 このまま幽州を離れても良いのだろうか、と何かが訴えかけていた。
それが何なのか、そして何故だろうか、と意識を飛ばそうとする劉備の耳に、柔らかい声が届いた。

「……眠っておきませぬと行軍に疲れが残りますよ、桃香様」

「……朱里ちゃん?」

 いつもは頭に被っている緑の布をあしらった帽子を手にもった、諸葛亮である。
 彼女の衣服に拵えている鈴が、一つ鳴った。
 つい今しがたまで眠っていたのか、或いは今までずっと起きていたのか、その可愛らしい顔に欠伸を張り付けて、眼の端の涙を指で拭った彼女はにこりと笑って劉備の隣へと移る。
 
「……朱里ちゃんこそ、すっごい眠たそうだよ?」

「はわっ……え、えへへ、少し疲れちゃってます。……白蓮様のことですか?」

「……うん。やっぱり、朱里ちゃんには隠し事は出来ないね」

 徐州への道を目の前に控えたというのに、劉備の心はどうしても公孫賛を思う。
 どうして、何で。
 そんな風に思い悩んでいることなど、諸葛亮にすればとうに把握していたのだろう――きっと、諸葛亮以外にも気付いている人は多くいるはずなのだ。
 そのことに劉備は申し訳無く思い、それでも悩ませてくれていることに有り難く思う。
 敵地とも呼べる場所を抜けていこうとしているのだ、要らぬ悩みなどただの邪魔でしか無いというのに、それでも注意や諌言をしようとはしない義妹や軍師達に、劉備は感謝した。
 
「……私は、なんとなく白蓮様の仰りたいことが分かる気がします……」

「……朱里、ちゃん?」

 いえ、正確に言うのであれば私も――きっと雛里ちゃんもたよちゃんも同じですけど――白蓮様と同じことをする筈、ですかね。
 そう笑いながら言う諸葛亮の顔はどことなく儚くて、そして酷く悲しそうで。
 徐々に陽光によって染め上げられていく星空を見上げながら、諸葛亮がぽつりぽつりと言葉を吐いていくのを、劉備は声をかけることも出来ずに、ただ見つめることしか出来なかった。

「……桃香様が悲しむことの無いように。その理想を潰すことの無いように、その道と顔を曇らせることの無いように……。恐らくですが、白蓮様はそう思ってのことではないかと、そう思います」

 今回の袁紹の行軍は、諸葛亮を含めた三軍師達が最初に推測したように公孫賛が収める領地に向けての侵攻が目的であったに違いない。
 領内の反乱を収めるために勝利を欲し、恐らくではあるが後の展望から後背を固めるという意味もあっての幽州への行軍だったのだろう。
 けれど、勝利を求めてという理由だけでは民はおろか兵は付いてこない、世論はそれを許しはしないだろう。
 であるなばら、もっともらしい理由が必要である――そして、恐らくそれは、出兵の原因でもある反董卓連合軍での敗戦の責を咎めるものになるだろう。
 諸葛亮は、静かにそう語った。

「反董卓連合軍の敗北の責となるとそれは大きなものとなるでしょう……。袁紹さん以外にもその敗北によって被害を受けた人達――この場合は洛陽の権力を握り損ねた人達のことですが――は、これを幸いとばかりに袁紹さんに追従すると思います。その始まりが、幽州なんです」

「そんな……そんなことってッ。白蓮ちゃんは何も悪いことしてないのにッ?!」

「はい、桃香様の言うとおりだと思います……。けれど、袁紹さん達にはそれは関係無いんです。……桃香様には言いづらいのですが、それが権力争いなんです……そして、それこそ白蓮様が桃香様を幽州から遠ざける理由でもあります」

「……それが、理由?」

「つまらない権力争いに巻き込まれて桃香様に危害が及ばないように……その理想が曇らないように。そのために、白蓮様は桃香様を――私達を、幽州から逃したのだと、そう思います」

 袁紹が――敗北の責を公孫賛になすりつけようとする者達が幽州を攻めるとなると、それを治める公孫賛のみならず、きっと公孫賛に力を貸している劉備すらも、責をなすりつける一人として扱うことだろう。
 ましてや、劉備は皇帝と同じ劉姓である。
 反董卓連合軍を利用し皇帝に成り代わろうとした極悪人である、という事実無根の罪まで造り上げる可能性すらあった。
 だからこそ、そこに思い至った――否、可能性を危険視した公孫賛は劉備を逃すことにしたのだろう。
 きっと、袁紹との戦を目前に控えた公孫賛からすれば、関羽や張飛の武力と諸葛亮などからなる知力をもって戦力となる劉備軍を手放すことは、苦渋の決断であったに違いない。
 自国の領民と戦う兵達のことを思えば、助けを求めることこそが正しいと、その時に公孫賛が下した判断は間違いであったと言えたかもしれない。

 けれど。
 それより何より、公孫賛は劉備の無事を願った――その理想を、下らない権力争いの結果に潰やす訳にはいかない、そう思ったのだろう。
 劉備の無事を願い、戦うということを嫌い安易に戦うことを善しとしない劉備の理想を――民の笑顔溢れる戦の無い世を作るという理想を、曇らせないために。
 その願いが、時代の果てに叶うように、と。

 そして、その公孫賛の願いは自分にとっても理解出来ると諸葛亮は語った。
 主たる劉備の理想を曇らせないために、その理想を守るために、時には自らを犠牲にするという策をもってしてもそれを遂行するだろう、と。
 諸葛亮は、軍師たる顔で言葉を発したのだ。

「……本当は、このことを桃香様に言うつもりはありませんでした」

「……朱里、ちゃん」

「けれど、悲しそうに、苦しそうに夜空を見上げる桃香様を見ていると、それを少しでも和らげたいと思ってしまって、つい……。ふふ……私、軍師失格ですかね?」

「そんなこと無いッ、そんなこと無いよッ! 朱里ちゃんは最高の軍師だよ、私が保障するッ。朱里ちゃんがいてくれないと、私……わたし……ッ」

「えへへ……ありがとうございます」

 軍師たる諸葛亮の顔は酷く冷静で、何処か儚くて、今にも泣き出しそうで。
 そんな諸葛亮に、劉備は声を上げた。
 深謀、鬼算の軍師の顔ではない、見た目と同じ、幼い少女の顔。
 世が平和であれば、女学院の友人と笑い、いつもの噛み癖に照れ、彼女らしい笑みを浮かべる、そんな顔を持つ少女に軍師としての重責を背負わせ頼り切っていた自分を恥じると共に、これまで支えてくれた感謝の言葉を、涙と嗚咽に負けぬように絞り出すために。
 劉備の感謝の言葉に、恥じ入るように頬を染めた諸葛亮がふんわりと微笑む。

「桃香様……私は、どこまでもお付き合いいたします」

 微笑んで空を見上げる諸葛亮に釣られて劉備もまた、空を見上げた。


 本当に自分は愚かだと思う。
 愚か、というのは何となく違うと思うが、それでも、至らない部分が多すぎることは自覚もしているし、理解もしている。
 関羽や張飛のように武力に秀でる訳でも、人を率いる才に溢れている訳ではない。
 諸葛亮や庖統、田豫のように深謀知略を振るえるほどの頭がある訳でもない。
 簡雍のように気配りが出来る訳でもない。
 ただ、理想を振りかざしてきただけの自分だということを、劉備は深く理解している。
 けれど、自分はそれで良いのだと、そう思っていた。
 理想を掲げ、その理想に人が集い、理想を掲げた自分を手伝ってくれて、みんなで理想に向かって歩んでいけばいいと――歩んでいけるのだと、そう思っていた。
 
 しかし。
 今この時、自らが掲げた理想のために――その理想を守ろうとしてくれたがために、友が一人、危難に飲み込まれようとしている。
 諸葛亮は言葉にすることは無かったが、恐らく、このままであればその友は危難に飲み込まれて、その身を滅ぼすことになるのだろうと至らない自分でさえ思い至っていた。
 離れる直前まで一万と少しだった友の軍勢は、自分の軍勢に新たに参加した二千の兵が減ったばかりだ。
 その数で三万以上もの軍と争うとなれば、精鋭たる騎馬隊が存在するにしても、勝敗は決定づけられているといって間違いではないように思えた。

 劉備は一つ息を吐いた。
――戦うことは嫌だ、嫌いと言ってもいい。
 親しい人が命と血を散らし、自分を慕ってくれる人達がその身を削り、平和を願っている人さえその手を血で汚させてしまう。
 ならば戦わなければ良いのだが、けれど、戦わないと守りたいものまでもが守れずに、理想は理想のままで潰えてしまう。
 相反する、あやふやな現実――理想。
 現実から目を背けてしまうことは簡単だった、理想を貫くために予てより通りに徐州を目指すことは、実に簡単なことなのだ。

 けれど、劉備は知った――己が理想を、守ろうとしてくれる友がいることに。
 友が自分の理想を信じ、叶うと信じたからこそ送り出してくれたことを、劉備は知った。
 なるほど。
 小さいなりにも軍を率いる者として、普通ならば友の遺志をもって理想の実現のために涙を呑めばいいのだろう。
 だが、と劉備は思う――。

 ――誰かを犠牲にしてまでの理想など、果たしてそれは理想と呼べるのだろうか。
 
 何事があっても叶えたい理想。
 誰何を犠牲にしても叶えたい理想――そんなものは、劉備の理想ではなかった。
 みんなが笑顔でいられる世。
 誰もが争わなくてもいい、将兵も民も、みんながみんなの笑顔で溢れる世を、劉備は作りたいと願った。
 その中には、勿論公孫賛だっているのだ。

 ――汜水関の前で、北郷一刀に言われた通りだ、と劉備はくすりと笑う。
 きっと公孫賛がいない平和な世で、自分は心の底から笑うことなんて出来やしないだろう。
 笑って、心の中で泣いて、きっと彼女がいないことを悲しんで、悔やむと思った。

 戦いのない笑顔が溢れる世を作るために戦うなんて、なんて辻褄が合わないのだろう。
 けれど、そう思い悩むことこそが戦いなのだろう、とその言葉は劉備の心にすとんと落ち着いた。
 辻褄が合わないことに、悩んで、考えて、苦悩して。
 それでも、悩んで苦悩して進む脚を止めてしまえば、自分には何も出来ないのだと言って考えることを止めてしまえば、何もしようとしなければ、もっと多くの笑顔が失われてしまうことだろう。
 思い悩んで、考えて、苦悩して、抗って、泣いて、悲しんで、悔しんで。
 それでも――みんなが笑顔で、笑っていられる戦の無い世を作る、ただそれだけのために自分は戦い、前に進んでいくのだろう。 

「……想いだけじゃ、駄目なんだね……」

「はい。そして、力だけでも駄目なんです」

「そっか……難しいね」

「はい……ですから、私が――私達が力となります、桃香様。桃香様の理想の先を開くための力に。ですから、桃香様は想いとなって下さい――平和を願う者達の想いとなって下さい」

 想い。
 力。
 相反する、辻褄の合わないその言葉は、それゆえに自分の中にあるものだと劉備は思う。
 きっと、ずっと悩んでいく道になるとしても。
 きっと、ずっと考えていく道になるとしても。
 きっと――悲しさに目を瞑って笑うことになるよりは、どんなにも良いのだ、と。
 そう劉備は思う――覚悟を、胸に秘めた。

「……朱里ちゃん、お願いがあるんだ」

「……何でしょうか?」

「愛紗ちゃんと鈴々ちゃん、雛里ちゃんにたよちゃん、簡雍さんを呼んで欲しいの」

「はい、分かりました」

 闇夜を切り裂く朝日が顔や身体を温かく染め上げていくのを感じながら。
 諸葛亮の笑みにつられて、劉備は自然と心からの笑みを浮かべていた。





 夜が明けて、夜営の片づけを行っていた劉備軍の陣営は慌ただしく活気立つことになる。
 喧騒のものではないということは漏れ出る声から窺い知ることになり、その声は、眠りから明けた者の声というよりは戦に赴く者の声であったという。
 必要最低限のみの軍装であった時とは違う、本格的な軍装をした者達の顔はみな歴戦の勇士のようで、これから向かうべき地を――守るべきもののことをよく理解している顔であった。

 
 それより二刻の後、劉備軍は行動を開始する。
 奇しくも、その行軍はそこまでの道程を戻すものであった。


 その頃には、闇夜は朝陽によって払われていた。





  **





「韓遂の兵達はちりぢりになって逃げているッ。いいなっ、我々が奴らを止めねば民草に危害が及ぶ可能性があるッ。何としても早急に奴らを捕えるのだっ」

「二刻後に出れる兵だけ先に出るでッ! ええなっ、出れる兵は練兵場に集めときやッ」

「華雄隊は休んでいる残りの奴らを呼び出せ! 西涼の軍勢が迫っているとすれば、我隊が主力となるだろう。何時如何なる時に来るとも限らん、迅速をもって兵を招集させよ」

 洛陽、その城内は童が蜂の巣をつついたかのように喧騒に溢れていた。
 それは、董卓軍と西涼連合軍の同盟締結の場における韓遂の董卓暗殺未遂が発生したということもあるし、韓遂が引き連れていた手勢が剣を抜き槍を掲げて反旗を翻したからに他ならない。
 元々の数はそれほど多くないとはいえ、精強と謳われた西涼兵の中でも韓遂が引き連れるほどの猛者達である。
 韓遂死去が何かしらで伝わったのか、暗殺未遂の混乱の最中に周囲にいた兵等を切り伏せた韓遂の手勢は、そのまま城内にて暴れたようである。
 だがそれも、警護に回っていた徐晃や華雄、城内にて酒を楽しんでいた張遼などによって防がれたらしい。
 今は討ち漏らした残党兵が街へと逃げ出したらしく、その対処に徐晃が追われているようである。
 その顔には焦りの色が浮かんでおり、この時代で例えてもいいかは分からないが、まるで鬼のようである。

 ちなみに、らしい、とか、ようだ、とか推測でしか語れないことには意味がある。
 その原因は先ほどから灼熱を注ぎ込まれているかのように熱と痛みを発する切り裂かれた右手であり、そこから溢れ出る血を止めるために応急処置を施している賈駆にあった。

「ぐぉぅッ……いっ……ぐッ……」

「動くんじゃないわよッ」

「そんなこと言った、って……ッ。い゛ッ……」

 手の先、身体の奥から脳髄に至るまで一気に駆けた激痛に、ぎちぎち、と歯が軋むほどに食いしばって、何とか悲鳴を上げることに耐える。
 額や首筋には油にも似た汗が流れ、背中は冷たい汗で濡れていた。
 熱いのか寒いのか、温かいのか冷たいのか、それすらも分からぬ中でも激痛は絶え間無く俺の中を走り抜けて、幸いにも意識が途切れることはなかった。

 びりびりっ、と何かが破れる音の後にくるくると巻かれていく布の色は鮮やかで、白地に模様をあしらえていたり、紺地に飾りがあったりと、質の良い肌触りが傷口を優しく覆い、血を拭っては朱に染まっていた。
 痛みに無理矢理覚醒させられる意識が、その布の出所――所々に衣服の欠けた董卓と賈駆を見て、俺は唇を震わせながら言葉を放つ。

「汜水関、虎牢関にも……使者を……ッ。そっちの方面も、ッゥ、警戒する、よう、に……ッ」

「もう出てるわよ、莫迦。だから……今だけは、少しだけ我慢してなさい」

「そうです、一刀さん……私を守るために、こんな怪我をしてるんですから……」

 焦りの声と怒号が飛び交う中、ふんわりと手を包む温かさと優しい声。
 傷は深くない、と賈駆は言っていたが、やはり見るからに痛々しいものなのだろう。
 血を押し止めるように押さえつけられる布から来る激痛に声を耐えると、申し訳なさそうな賈駆の顔に幾分か気が紛れた。
こんな時に何であるが、いつもの強気な顔とは違う一面に、彼女の心を見た気がした。
 しかし、今はそのような場合ではない。
 本当であれば医者に診せた方が良いのだろうし、董卓と賈駆もそれを強く押してはいるのだが、今こうしている間にも刻一刻と状況が動いているのは張遼と華雄の声からも正しいものなのだ。
 韓遂の間際の言葉によって西涼からの襲撃の可能性があるというのなら、そちらに対処しなければいけないのだ。

「……このまま残ってるわけにはいかないのかよ、ご主人様? ……その傷だと、戦場に出ても剣も槍も握れないだろうに」

「それでも、前線で指揮をする人間は必要だろ……いッ……もうちょっと優しくしてくれよ、詠……」

「うっさい、莫迦……馬超の言う通りよ。このまま残ってればいいのに……」

 少しだけ遠巻きにこちらを心配する馬超の言葉に出来うる限りの笑みで答えてやると、途端に生じた鋭い痛みに流れた脂汗が目にと流れ込み、涙を流した。
 その痛みの一端である賈駆に視線を飛ばせば、何故だか睨まれた。
本当、こんな掛け合いをしてる場合では無いんだけどなぁ、なんてことを痛みの中で思いながら、それでも、とばかりにどうにか思考を働かせていく。

 要は、俺が洛陽に残る訳にはいかないというだけなのだ。
 董卓と馬騰の同盟は、韓遂の手によって有耶無耶な状態のままで宙に浮いている。
 馬騰の人柄を見るに、恐らくではあるが当初の言葉通りに同盟を組むつもりであるのだろうし、こちらを害しようなどとは思ってもいない筈である。
 それは、騒動と混乱が生じてから微動だにせずに目を瞑っている彼女の姿から、推測出来た。
 馬鉄と馬休もそれに従い、馬岱は馬超の指示で清潔な布とお湯を求めに行っていて、馬超自身は俺より近すぎず遠すぎずで、こちらを窺っている。
 韓遂が混乱を引き起こした際に捕縛するのが正当なのだろうが、この混乱の最中においても更なる混乱を生じさせようとしないところを見ると、馬一族は今回の騒動には無関係ではないか、と思えていた。
 だが、それはただの推測であるのだ。

「……一刀さんが残ることになると、韓遂さんと同じ西涼の馬騰さんや馬超さんが一緒に洛陽に残ることになるから。そうなると、韓遂さんと組んで洛陽を狙うんじゃないか、と変に勘ぐられることを防ぐため……そうですよね、一刀さん?」

「そうか……そのことがあったわね。あまりにも自然に溶け込んでるから、すっかり忘れてたわ」

 董卓の言葉に頷くと、得心がいったとばかりに賈駆が呟いた。
 俺自身、これまでのことから考えてみても馬騰や馬超達が漢王朝に――俺達に槍を向けるとは考えにくいものがある。
 そうであればいい、と望んでいる部分が多分にあることは理解しているが、それでも、彼女達がそう動くというのは想像出来なかったし、動くつもりがあるのならば今動いているだろう。
 混乱が落ち着く後になれば警戒され、下手をすれば捕縛、投獄されることは目に見えているのだから、機は今しかないのだ。
 であるにも関わらず、馬騰達は動くことをしない。
 そればかりか、これから自分達にどういったことが待ち構えているかを理解しているような素振りに、疑えという方が難しいものであった。

 しかし、それが全ての意見では無いことはこの混乱の中においても明らかであった。
 主たる将や文官達は俺とほぼ同意見なのか、時折に警戒するような視線を向けるだけであるが、他の者達は明らかな敵意を視線に載せているのである。
 仕方がないとは思う。
 だが、仕方がないにしても、無用の諍いの元をわざわざ残す必要が無いことも、また確かである。
 だからこその、俺の出陣なのだ。
 あからさまに疑われている馬超達に挽回の機会を与える、そのためなのだ。
 
「翠や蒲公英、右瑠達だけを……ッ、行かせれば逆に迎え入れるんじゃないかって疑われたっておかしくは、無い……っ、だろ? だったら、俺がお目付役で一緒に行けばそれも問題ない筈だし……それ、に……汚名返上は必要だろ……?」

「……あんたじゃ、お目付役は出来ない気がするわ。何たって弱いし」

「あー……確かに、ご主人様ぐらいじゃあたし達を止められはしないだろうなぁ……」

「その……私は、一刀さんでも問題無いと思いますっ」

「え、なになに、何の話―?」

 痛みに耐えながら発した言葉は、逆に跳ね返ってきて深く俺の胸に突き刺さった。
 賈駆と馬超の辛辣な言葉に傷ついて、董卓の優しくも惨たらしい言葉に心を抉られる。
 でも、と言っている時点で半ば認めているようなものだよね、なんて心配顔の董卓に言える筈もなく、とてとて、と湯を張った桶と布を持って来た馬岱の声が、場の空気をふにゃりとさせた。
 殺気立つ声があちらこちらに飛び交う中だというのに、がっくりと脱力した俺は、幾分かすっきりとした状態で馬岱が持ってきた湯で布を濡らし、傷口の付近を拭っていく。
 瞬く間に朱に染まっていく布を再び湯で濡らして拭って、それを繰り返していくとある程度落ち着いたのか、じんわりと漏れ出るように出てくる血を軽く拭った。

「……うん。大分落ち着いたみたいね……でも、無理をするとまた傷口が開くわよ」

「それに結構な血が流れていますから、戦に参加すること自体は……」

「ああ、分かってる。……それに、これだと剣自体が持てないしな」

 傷口を覆うように二重にした布を抑えるように、その上から布を巻いていく。
 風呂において身体を拭う用の布らしく大振りなため、必要な大きさにするために半分ほどに裂いて、賈駆は手際よく巻いていった。

「本当は包帯を用意出来れば良かったんだけど……どこにあるのかが分からなくて……」

「まあ、仕方が無いでしょう。とりあえずは布で何とかなった訳だし、今はこれで十分だわ」

 問題は無いか、と視線で投げかけてくる賈駆に促されるがままに、少しだけ右手に力を入れて動かしてみる。
 ぴくり、と指先がまず反応し、次いでぐぐっと手全体が動く。
 大分厚く巻いているのか、少し動かしただけで布による引っかかりを覚えたが、それだけでずきんと痛むし、元々剣を握れるとは思っていなかったから、それで良かった。
 こくり、と頷いた俺に満足そうに頷いた賈駆は、董卓を伴って立ち上がった。

「それじゃあ、ボクと月も一旦着替えてくるわね。あんたは――」

「先んじて忍を出しておくよ。偵察を目的にしたのと、迎え撃つために兵を発したことを伝えるように、指示しておく」

「うん……お願いね。ああそれと、霞に騎馬隊を出すのは少し遅らせるように伝えておいて。今は頭に血が上ってるから、落ち着いてからで、お願いね」

「ああ、分かった」

 何時の間にだろうか、衣服の結構な部分が朱に染まっていた賈駆が背中を向ける直前、微動だにしないままの馬騰へ視線を向け、俺にそれを向け直した。
 その視線の意味に気付いた俺が頷くと、賈駆がそれに構うことなく歩いていくのを見送って俺はくるりと身体を回す。
 董卓と賈駆が向かっていった先には彼女達の私室があり、そこで新たな衣服を纏うつもりなのだろう。
 主たる将の私室がある方面ゆえに警備も厳重であることから、韓遂残党兵がそちらに入っている可能性は少ないだろうが、まあ、用心に越したことはない。
 近くにいた武官の一人にそちら方面の警戒を任せた俺は、馬超と馬岱が付いてくるのを背中で感じながら馬騰の元へと脚を向けた。


 
「翠と蒲公英をお貸し願いたいのですが、よろしいですか、馬騰殿?」

「別に構いやしないよ、御遣い殿。もっとも、馬鹿娘とその従妹だけで本当にいいのかい? 今なら、右瑠と左璃もお買い得だよ? 将来別嬪になること間違いなしさ」

「……将兵として、此度の一戦で力をお貸し願いたいということですよ?」

「何だ何だ、嫁や良人にと求めたんじゃ無いのかい」

「違います」

 今回の韓遂麾下軍との戦いの中で、騎馬隊を主戦力とした相手に対抗するためには、やはりというか、騎馬隊の力量如何だろう。
 涼州出身ということもあって、董卓や賈駆も騎馬に良く慣れており、その戦力にと騎馬隊を求めることはあるが、それでも、涼州の中でも西涼の軍閥はそれがさらに強い。
 はっきりと言って、騎馬隊同士の戦いとなれば西涼の方に分があるのではないかとは、俺の推測であった。
 張遼や呂布直属の騎馬隊なら十二分に対抗――もっと言えば打ち勝つことは出来るだろうが、それ以外の騎馬隊には少々難しいと思う。

 故に、馬超と馬岱の力が必要なのである。
 馬の質、練度、騎馬隊としての実力、その他諸々ははっきりと言って敵いはしないだろうが、それも、騎馬隊運用において歴戦の将たる馬家の二人を入れれば幾分かましになるだろうと思ってのことだった。
 先に挙げた通りに汚名返上の機会を設けるということもあるが、このような混乱に溢れた状況だ、指揮が出来る将も欲しかったし、何より元々無い武力がさらに減った俺の護衛と将としての代わりという意味も含まれていた。

 そんな俺の思いを知ってか知らずか、瞳を瞑ったままに俺の問いに受け答えする馬騰に、ふと首を傾げる。
 何となく話がかみ合っていない印象に頭を捻ってみれば、どうにもこのような状況においても彼女生来の気質――悪戯心みたいなようなものが湧き出ているらしい。
 思いっきり逸れた話にあやうく脱力しかけるが、とりあえずそんな場合では無いと、一つ息を吐くだけでそれを堪えた。

「韓遂殿が間際に残した言葉によって、彼の軍勢が襲来する可能性があると判断しました。韓遂殿旗下の軍は西涼でも精鋭の騎馬隊が主戦力と聞いていますが、我らの騎馬隊ではこれに打ち勝つことは難しいでしょう……であるならば、騎馬隊を率いる将だけでもそれに抗する将が必要と思ったまでのことです。霞――張遼も抗することは出来るでしょうが、如何せん、彼女一人では数が少ないでしょう」

「なるほどね。手下八部……あいつらが出てくると思ってるのかい?」

「恐らくは、ですが。手下八部の方々がどのような将かは、勇将であるということしか聞き及んでいませんが、あの韓遂殿の配下です。八人全員が出ていることを考えれば、張遼の力は信じるに足るものなので問題は無いでしょうが、それでも、数が数だけにこちらも頭数を揃えるにこしたことはないかと思いまして」

「ふふ……くっはっはっはっ。いやいや、うちの娘達を頭数を揃えるためだけに使うと言うとはねぇ……中々、豪胆なことを言う」

 はっきりと言って、茶番である。
 俺が馬騰に述べた言葉は全てが本心ではあるが、董卓達との話――汚名返上という意味でも、馬超と馬岱の参軍は必要であると言えた。
 何より、手下八部の力量の全てを知っている訳ではなく、また、先手を十二分に取られた現状からの反撃であれば、その者達の情報を良く知っている者は必要であるのだ。
 馬超と馬岱ならその点の情報は良く掴んでいるだろうし、手下八部の将としての力量も良く把握していることだろう。
 流動的な戦になるであろうことからも、彼女達ならば独自に判断が出来ると思ってのことであった。

 そのことを理解しているのか、はたまた最初から予測していたのか。
 で、と。
 いったん前置きを置いた馬騰は、にやりとした口を戻すことなく言葉を発した。

「私や右瑠と左璃はどうすればいいんだい、御遣い殿? 謀反の疑い有りと捕縛させるかい?」

 何なら縛ったまま閨に連れ込んでもいいんだよ。
 などと流し目で語る馬騰の視線にぞくりと背筋を振るわせながらも、よし落ち着け、とばかりに一つ深く息を吐きながら思考を働かせていく。
 馬超、馬岱を参軍させることはとりあえずではあるが、董卓と賈駆の了承も受けていることだし問題は無いだろう。
 暗殺未遂を引き起こした韓遂と共に西涼連合を率いていた馬騰の娘ということで警戒はされるだろうし、将兵の中には明らかに不満を持つ者もいるだろうが、馬超と馬岱ならば戦働きでそれらを見返してくれることだろう。

 そして、馬超と馬岱の問題はそれでいいとして、更なる問題は馬鉄と馬休――そして馬騰の問題である。
 言う間でもなく、馬騰は韓遂の件から考えれば要注意人物である。
 韓遂の混乱に紛れて事を起こすのではないか、と考えるのは当然のことで、喧騒に紛れている武官文官の一部は明らかにそれを警戒している者がいた。
 何か動きがあればいつでも斬ってかかる、と意識を飛ばしていることに頼もしさは感じても、恐らくではあるが、きっと馬騰には適いはしないだろう。
 それほどまでに、武力、謀力、知力の面で馬騰は将であった。

 そんな彼女であるから、何もせずに放置という訳にはいかない。
 彼女の言のままに縄にて捕縛をする、というのが通常であるのだろうが、こうまで堂々とされていてはそれをしようとする者はいないだろう。
 だが、それでいいとは到底思えないし、そのままにすると余計な諍いを巻き起こすのは目に見えていた――それが馬騰という人物なのだから、尚更である。
 さらには、馬鉄と馬休の扱いもある。
 彼女達の将としての力量が分からない以上、戦場に参軍させる訳にはいかないと思ってのことなのだが、だからと言って、馬騰と同じように放置しておく訳にもいかない。
 将としての力量は分からないが、彼女達の資質としてはこの短い日数においても十分に理解したつもりだ――馬騰と共に諍いや面倒をかける姿しか思いつかなかった。

 となってくると、お目付け役が必要である。
 それも馬騰、馬鉄や馬休に負けないだけの人物が今現在必要であるのだが、しかして、それらを成せそうな人物は董卓軍の中にも数は少なく、そういった将らはこれからの戦に従軍する形となる。
 誰にするべきか。
 そうして視線を迷わせて、ふと、こちらを悪戯気に笑いながら見つめる馬騰と目があった。
 馬騰、馬寿成――後に、俺の知る歴史の中ではその役官を衛尉とする人物。

 ――衛尉。

その役官の名を思い出した時、俺の脳裏に一人の少女――豊かな金の髪を携えた少女の顔が思い浮かんだ。


 なるほど、彼女なら適任だろう――さらに言えば、彼女にだけは迷惑をかけることはしないだろう。
 そう思って、俺は馬騰に負けず劣らずに口端を歪めながら、言葉を発したのであった。



「……では、馬騰殿、馬鉄殿、馬休殿の御三方には、劉皇帝陛下のお傍を御護りして頂くとしましょう」


 そんな俺の言葉は、驚愕の叫びに迎えられることになったのである。







[18488] 六十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/08/11 10:51





「ふうむ……動かん、な……」

 李確は涼州は石城、その城壁の上から眼下へと視線を飛ばしていた。
 陽はすでに明けて久しく、城壁から見下ろす街中においては人々が交差を行きかい、賑わいと活気が満たされている。
 なるほど、いつも見慣れた日常の光景である――だが、状況においては日常にはとんと遠い、非日常とも呼べる状況である。
 日常の中に埋もれる非日常なのか、非日常の中に存在する日常なのか。
 
 どちらとも取れないそんな状況に思考を働かせて、李確は再び視線を眼下へと――石城から姿が確認できる城外の荒野にて布陣している軍勢へと、視線をやった。



 陽も顔を出したばかりの、明け方の時において石城を訪れた西涼連合韓遂が軍勢は、その使者の死を知るや否や、瞬く間に陣を敷いた。
 そのあまりにもな手際の良さと素早さに、数多くの戦場を駆け抜け数多の将兵らを見てきた李確でさえ感嘆の声を上げるようなものではあったが、しかして、その迅速さは使者の死をもとより予想していたのではないかと思えるものであった。

「いや……もとより予想しておったのだろうな……。でなければ、あれほどの行軍は出来なかろうて」

 また思わずといった形で言葉を漏らすが、それも仕方のないことか、と李確は己の中だけで自己完結をする。
 使者の亡骸を送り返した後、まるで元から決められていたかのように石城を指呼の間に捉えられる距離まで後退、その後に陣地を陽が昇りきる前に終わらせるなど、当初からの予定通りなのか、或いは軍兵の練度があまりにも高いかのどちらかであろう。
 精強と名高い西涼連合軍の兵の練度が高いことは否めないが、やはりそれだけではないというのが李確としての推測であった。

 しかし、解せない。
 そう口の中だけで転がして、李確は再度視線を飛ばす。
 当初、韓遂軍の使者が亡き者になったときの予想としては、石城二千の兵を城外に誘き寄せるための三千という兵数であり、それに釣られて城外に出てしまえば、まっているのは精強なる騎馬による伏兵と、その後の敗北の身という事実だけだろう――そう思っていた。
 であるからして、李確は配下の将兵らには決して打って出ることはまかりならぬ、と厳命していた。
 無論、城門も閉じられたままだ。
 騎馬という機動力に優れた兵種が主戦力である以上、それを想定した策を考えて、出来る限りの敗因を取り除くのは将として当然のことであった。
 であるからこそ、布陣してから何の行動も起こさない韓遂軍に、李確は疑問を抱いていた。

「ふうむ……昼夜問わず、何か変化はあったか?」

「いえ……李確様の命により数名で交代しながら監視していましたが、特に変わった動きというのは……」

「そうか……兵数の増減は?」

「ここからでは細かく確認が出来たとは言えませんが……少なくとも、援軍が来たような気配はありません」

 考えすぎだろうか、或いは、こちらが警戒の手を緩めるのを待っているのか。
 彼我の兵力を考えれば、現状の兵力では石城を落とせないというのは向こうとしても理解しているだろうし、対策を講じてもいるだろう。
 それすらも思い及ばない将が軍勢を率いているのならばさほど危険視することはないのだろうが、しかし、西涼騎馬は警戒するに越したものではない。
 であるならば、こちらとしてはこのまま籠城を続けたとしてもとりあえずは問題は無い――そう楽観するのは、あまりにも早すぎる。

 騎馬隊というのは、思いの他に維持するのに手間がかかる。
 兵の他にも馬のことも考えなければならないのだ、食い扶持が増えるということもあれば、馬の糞尿による衛生面も考えなければならないだろう。
 馬もただじっとさせていればいかに駿馬とはいえ、その肉は張りを無くすこともある。
 さらには、鞍に馬のための防具、騎馬による戦となれば武具を取り落したことを考えての予備装具など、必要なものはあればあるだけ良いといったものになる。
 
 故に。
 はっきりと言って、韓遂軍の行動は騎馬を主力とした軍勢を動かしていく面から考えればあまりにも不適当と言えた。
 野戦では抜群の威力を誇る騎馬は籠城する城壁を相手にするにはただでさえ不利であるにも関わらず、それを長期戦に持ち込もうとしているのだ。
 李確でないにしろ、軍略を嗜んだことのある将兵ならば誰もがそこに思考を落ち着かせるだろう。
 であるならば恐れるに足らず、と断じることは簡単である――しかし、本当にそれだけであろうか。
 騎馬が主力ならば籠城するだけで手も出せず帰還する、陣地を組んでいるのもこちらを誘き寄せて少しでも有利な地形に引きずりこもうとする策である――普通であるならばそこで行き着くはずの思考であったが、李確は、もう少しだけそれを前へと進ませた。

「……とはいえ、手も出さぬであれば思惑すらも読み切れんな。かといって、打って出るは愚策なり、か……ふむう……如何するべきかのう?」

 陣地を組んだことに意味があるのか、騎馬を主力として籠城する石城に攻め寄せていることに意味があるのか、或いは――李確自身を石城に釘付けておくためか。
 様々なことに思考を働かせてはみたものの、しかして、それで戦況が動くはずも、変わるはずもなく。
 李確としては、めっきり冴えの無くなった自らの智謀に苦笑を漏らしつつ、その視線を洛陽の方面へと移した。

「安定の――郭汜は大丈夫かのう……? あやつ、年老いたにも関わらず見た目だけは幼いからな、血気に逸って無茶をせねばよいのじゃが……」

 口では軽く言ってみるも、石城より東――黄巾賊襲来の折に勢力となった安定の街に務める郭汜の能力を李確は疑っていない。
 忍の伝令に任せた情報だけで自らが取るべき道は十分に見つけられるだろうし、どう動けば良いのかも任せることが出来る。
 ただまあ、李確自身と年が近いくせに童女のような見目のために、自らの外見に惑わされて血気に逸ることがあるのが唯一の傷ではあるが。
 悪癖と言ってもいいその傷のせいで起きた徐栄との喧嘩に巻き込まれ、その仲裁に奔走した若き日々を思い出して、李確は知らず溜息をついていた。

「……まあ良い。時々によって適応していけばよいだけのことじゃ……じゃが、このままでは面白くないのう」

 何はともあれ、韓遂軍が動かないようであればこちらも動くことは出来ないか、と李確は己の思考を締めようとするが、しかし、韓遂軍に先手を取られてばかりなのも面白くはない、と一人ごちる。
 戦とは主導権を握ったほうが優位に運ぶものであるというのは重々承知しているし、洛陽で重要位を任されることになった北郷に送った言葉でもあるのだから、それを自らが実践出来ぬとあれば彼に顔向け出来ぬというものであった。

 しかし、先手とはそう簡単に取れるものではないし、易々と相手方が渡してくれるものでもない。
 先に動けばいいというものではない、相手方の裏を読み先を打ち、さらにその思考の奥に潜り込むようなものでなければ、策としてなりえなかった。

「……さて」

 どうするべきかのう。
 李確は、締まろうとしていた思考を再び働かせながら、韓遂軍が陣地を張っている地点をただ思案するかのように、髭を撫でながら見つめていた。





  **





「……さて」

 そう呟いた賈駆が部屋を――そこに集った将を見渡すのに倣って、俺も同じように部屋を簡単に見渡した。
 着替えたのか血潮に濡れていた衣服が真新しいものに替えられている董卓と賈駆に、馬謄からその身を預かった馬超に馬岱、そして俺付きの将でもある趙雲、程昱、郭嘉がこの場にいた。
 他の将らは現在も出撃の準備を整えている。
既に時刻が遅いということもあり準備も中々進まないと華雄が愚痴っていたが、それも仕方のないことだと思う。
 何より、董卓軍にとっては――というよりは俺にとっては初めての突発的な戦闘である。
 これまでは黄巾賊であるとか反董卓連合軍などの戦いにおいては事前に知ることで予め対策などを講じ、準備を整えることが出来ていたが、今回はそういう戦いではないのだ。
 戦というのは何が起こるか分らないものだとは理解していたつもりであったが、今回はそれに拍車をかける戦いになるであろうことは容易に想像できた。

「このまま出撃の準備が整っていけば出るのは早くても陽が昇ってからになるけど……出来れば、時間を置きたいわね。……陽が暮れる頃がいいわね。ある程度時間を置きたいわ」

「……なるほど、迎撃する時間を調整するということですね」

 賈駆の言葉に答えるように呟いた郭嘉に視線を投げかける。
 その視線を特に気にするふうでもなく、郭嘉は視線を机に広げた地図に落としたまま口を開いた。

「丸一日ほど時間をおけば兵には十分に召集の令が届くでしょう。兵が集うのに日中、装備を出撃可能までに整えるのに数刻……そう考えれば妥当な線かと」

「けどさ、それだと少し早すぎやしないか? 兵糧の準備もあれば馬を揃える時間もいるし、何より兵を軍にするには訓練が必要だろ? その時間じゃあそれは難しいんじゃ……」

「そこは石城からの古参の董卓軍兵を集めるのではないですかー? それならば、洛陽からの兵よりも練度が高いでしょうし、何より、故郷を守るという意識にも繋がりますしー」

「はい、程昱さんの言うとおりです」

 董卓の言葉に、いやーそれほどでもー、と照れる程昱はとりあえず置いておくとして、なるほどとばかりに俺は腕を組んだ――ずきり、と手が傷んだのですぐに解く。
 俺が知る中でも石城と安定での黄巾賊との戦いを生き抜き、反董卓連合軍との戦いにおいても生き延びてきた董卓軍古参の練度は高いと言っていい。
 董卓軍が洛陽に入ってから――何進と宦官の旧勢力から吸収した兵達とは一線を画していて、吸収してから兵数が増えてからこちらは隊の指揮官や軍の要になる者が多い。
 今回はそういった兵を使うのではないか、との程昱の言葉に同意した董卓は、視線を地図から上げて口を開いた。

「恐らくですが、兵数としては三千ほどが限界になると思います。時間を置いて数を集めればよいのでしょうが……なにぶん、後手に回っていますので……」

「それ以上に時間をかけるわけにはいかないってことか……」

 今こうしている時にも韓遂の軍勢が迫ってきているかもしれない、その軍勢が石城や安定に攻め込んでいるかもしれないという可能性を考えると、確かに、董卓の言うように後手に回っているのは否めない。
 可能性、という話だけで考えるのならば韓遂の軍勢が動いていないという可能性もあるのだが、それもここに集う前、馬謄に劉協を――いや、この場合は劉協に馬謄か――任せる際に確認すれば、それも特考えることに意味の無い可能性であった。


 ――韓遂ならばまず動かしていると思ってもいいだろうね。
 なんたって、あいつはこのあたしに張り合ってた西涼連合軍の雄の一人だ、これぐらいの策謀を張るのは赤ん坊に馬で勝つぐらいに普通だろうさ。


 そんな馬騰の言葉を思い出して、俺は一人背筋を震わせた。
 馬騰の武力、知謀、統率力を直に目にしたことはないが、その実力は知識として知っているし、情報としても得ている。
 その人物がそう断言したのだ、俺達の考えが杞憂である可能性など微塵も感じられなかった。
 それと同時に、俺は董卓を守れたことが本当に運が良かったのだと、一人安堵した。

「……陽が暮れる頃に出発、練度の高い古参の兵なら夜通し駆け抜ければ陽が昇りきる前には長安を目にすることが出来ると思うわ。状況によってはそこで休憩、もしくは戦になるでしょうね」

「安定、石城まで一気にいかないのか?」

「無理でしょう。兵が耐えられません」

「もし安定、或いは石城まで兵が耐えたとしてもそこまででしょうかねー。そこで韓遂さんの軍勢と戦にでもなったら、間違い無く負けてしまいますよー」

「郭嘉と程昱の言う通りね。速度、距離、戦が可能なだけの戦力維持のことを考えれば、これが最大限なのよ」

「……なるほど。その限界が長安を境にしている、ということですな?」

 趙雲の言葉に賈駆がこくりと頷くと、みんなの視線は地図上へと――そこに記された長安の名へと注がれる。
 地図で見るとさほど遠いという印象は抱かないが、実際に洛陽に入る時に通った身からすればかなりの距離があることは実感出来ていた。
 慣れない乗馬に尻を痛めたのも良い思い出、なんてどうでもいいことを考えて俺は、ふと思考に湧き出た言葉を口にした――。

「……なあ詠、長安を境にするんだったら、先に――」


「――ああ、あんたの言いたいことは分かってるわよ」


 ――だが。
 俺の言葉は賈駆の言葉――にやりと誇らしげな笑みと共に塞がれることとなる。
 まるでお見通しだ、と言わんばかりに口端を歪めるその顔をなんと形容すれば良いだろうか。
 どうだ、と視線だけで誇らしげに自慢する賈駆に何とも言えず、俺はただ頭を掻いていた。

「ふむふむ、お兄さんは中々頭が回る方だったのですねー。反董卓連合軍の時は偶然では無かったということですかー。これは評価を上げなければいけませんねー」

「今ここで思いつくのは少しばかり遅いものと思いますが、しかし、一人でそこに辿り着けるとなると……これは、私も見方を変えていくべきでしょうか……」

 とりあえず、中々に酷い評価をくれていたらしい郭嘉と程昱の言葉は置いておくとして。
 二人の反応からそこに策と思考が行き着いているのだと感じながら、俺はぽりぽりと頭を掻いたままでもう一度地図へと視線を落とす。
 洛陽、長安、安定、石城。
 洛陽から西に向かって大小様々な街や村の名を地図の上に指を滑らせながらなぞっていった。


「そこね」


 そうして。
 ある一点に指が辿り着いた時、賈駆の言葉が頭上に降りかかる。
 その言葉に指が止まった点――そこに記された村の名に、なるほど、と思う。
 確かにここならば、という感情のままに視線を上げると、一つ頷く賈駆と董卓に視線が合った。

「問題は解決したわね? なら……ここからは編成の話よ。郭嘉に程昱、それに趙雲も、今回はいろいろと動いて貰うことになると思うから、何かあれば言って頂戴」

「蒲公英と翠は俺が面倒を見る……でいいんだよな?」

「まあ、それしか無いでしょうけど……面倒を見て貰うの間違いじゃないの?」

「うぐっ」

 先ほどまでの誇らしげな顔とは一転して、何処か呆れたような顔を向ける賈駆に心と共に傷の塞がらない手がズキリと痛む。
 要するにはお目付役ということなのだが、怪我をしている俺がそのような――いや怪我をしてなくても出来るかどうかは分からないが、馬超と馬岱を止めることなど出来よう筈もない。
 むしろ、戦場においていえば怪我をしている俺は邪魔者以外の何者でも無いのだが、馬超と馬岱は汚名を雪ぐために戦場へ出なければならず、そのお目付役として俺が――不本意というか嬉しながらというか何というか、馬超の婿候補として彼女の手綱を握る役割を担う俺が戦場へ出なければならないことは、もはやどうしようもない事実と現実として存在していた。

 となると、手が痛いなどと――心が痛いとも――言っていられない。
 何より、現状はそう言うことを許してはいないし、そんな余裕も無いのだからどうしようもない――だからこそ、使える手は使うに限るのである。

「馬超と馬岱は先駆け、その指揮はこいつ。その後ろで月とボクが本隊を率いるわ。華雄なんかもこっちね」

「ふむ……我々は――いや、面倒なことは無しでいくとしよう。時間も無いことだしな……我々は北郷殿の指揮に従う、ということで良いのかな?」

「ええ、話が早くて助かるわ、趙雲。この馬鹿が馬鹿なことをして馬鹿な怪我をしたせいで戦場で死なれても困るからね、その護衛――まあ副官という立場で従って頂戴」

「詠ちゃん……一刀さんは私を助けてくれたんだよ? それなのに、馬鹿って……」

「うぅ……わ、分かってるわよ、月」

「まあとりあえず……頼めますか、子龍殿、奉考殿、風?」

 ――素直ではありませんな、なんて趙雲の言葉に顔を赤める賈駆はとりあえず見なかったことにするとして。
 指揮――俺のあれが指揮と呼べるかどうかはともかく――を執るぶんには少々怪我をしていようが大きな問題は無いだろうが、いざ戦闘になってしまえば指揮を執るだけで無いのが戦である。
 剣を取って敵を討つこともあれば、盾を取って矢を防ぎ、馬を駆るにも落馬することすらあったりする。 
 そういった事態に直面した場合、怪我の身である俺が真っ先に狙われる可能性は否定出来ないのだ。
 しかし、戦場ではそういった可能性らを避けて通るのは不可能に近い。
 ならば使える手――洛陽に来てからこちら、武官文官としての副官としてあった趙雲、郭嘉、程昱の三人を使うのに躊躇は無かった。

「……ふむ。まあよろしかろう……稟、風?」

「……仕方ないでしょう。そもそも、私達は雇われている身、否と言える立場ではありません」

「風も問題は無いですかねー。……ちなみに稟ちゃん? そのようなことをここで言っても良いのですかー? 後でお兄さんの閨に呼ばれて、あれやこれやと命令されるかもしれませんよー?」

「いやしないよ――本当にしないから汚らわしいものを視界に入れてしまったみたいな顔は止めて欲しいんだけど、詠。……あと月、泣きそうな顔をしないでくれ」

「……ぷっふぅ」

 数瞬後れていつものように赤い鮮血を鼻から撒き散らす郭嘉を話の中心に据えることなく、俺はとりあえず三人の承諾が得られたことにほっと胸を撫で下ろす。
 はっきりと言って、趙雲の武力は頼りになるし、郭嘉と程昱の知謀はいざ戦に臨んだ時には俺などよりも勝利への道筋を明確に照らすことだろう。
 事前に策を巡らせることが出来ないためにその知謀や策略は万全では無いだろうが、それでも俺より頭が回ることは当然なのだから、本当に頼りになる存在であり、心強い。
 ともすれば伝令、斥候として従軍させる予定の忍の指揮権を任せてもいいし、いっそのこと部隊の指揮を丸ごと任せてもいいかもしれない。
 彼女達に対するそれだけの信頼が、俺の中に育っていることに、俺は思わず笑みを零していた。
 まあ、鼻血を出したりその介抱をしたりそれを笑ったりしている趙雲達を見ていると、それも尚早だったのではないかと思わないでもないのだが。
 それでも、そんないつもの姿にどうしようもない頼りがいを感じていることに気づいて、俺はやはり笑みを零していた――。



 ――口を開くことの無かった馬超と馬岱の笑い声だけが聞こえない、ということに触れることもなく、そうして軍議は解散となった。





 **





 そうして。
 当初の予定通りに韓遂による暗殺未遂から陽が明けて、そしてまた暮れる頃に董卓軍は出陣することになった。
 騎馬三百、歩兵二千二百、総勢二千五百の董卓軍は、夕暮れの大地を引き裂いて一直線に長安にまで駆けることになった。
 その先駆け――騎馬三百の指揮を執ることになった俺の横、何処か思い詰めたように馬を駆けさせる馬超と馬岱が、印象的だった。
 





[18488] 六十八話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/09/03 15:28




 ――――――。



 ソレは――否、ソレらは明けに染まっていく空と大地を切り裂くように、ただひたすらに進む。
 夏を目前に控えているというのに空気は冷ややかであったが、火照る身体を冷まし、静めるためには丁度良い加減だ。
 ソレらの身体の内側に滾る熱は白い吐息となって夜明けの中に足跡を残していく。
 ――まるで、後に続く者達に自らの軌跡を示すかのように。

「――はっ」

 そんな思考を笑うかのように、ソレらの始まり――先頭の人影が口端を僅かに歪めた。
 ある一定の間隔を刻む振動に髪は揺れ、衣服は乱れ、自らの身体が揺れ動くことを気にすることもなく、ただ、人影は前方だけを眼光で射抜く。
 陽光に追われて逃げていく夜空を見つめる視線には、様々な感情が入り乱れている。
 悲しみ。
 怒り。
 後悔。
 ――それらを覆うほどの、戦を前にした高揚感。
 やはり自分にはこれしかないのだ、と人影はもう一度口端を歪めた。

「――くくっ」

 大地に刻まれる幾多もの四つの足音に、人影はさらに気分が高揚するのを感じた。
 大地を駆ける、風を切り裂く――馬と一つになる。
 人馬一体、そう呼べるほどの一体感にぶるり、と背筋を震わせながら、人影はその速度を一際上げて、ソレらは鋭い鏃のように陽光を引き離して闇夜を切り裂いていく。



 総勢四百。
 精強なる騎馬隊が、大地を駆けていく。





  **





「……騒がしくなってきやがったな」

 火照る身体を裸身としたまま、梁興はにやりと口端を歪めて呟いた。
 無精髭の中から放たれる熱く滾った吐息は野獣そのもので、筋骨に隆したその肉体は夜の最中において熱気を放っている。

 今、梁興がいるのは寂れた農村の、その村長――だった者の家だ。
 仄かに香る生臭さは、決して先ほどまで自らが放っていたものの匂いではない。
 ちらり、と視線を向けた先には、泣き叫ぶという表情のまま首が一つ転がっていた。
 皺に埋もれた瞳は恐怖と悲しみに彩られており、開かれた口からは血とも涎ともつかない液体が零れている。
 顔の右半分は赤く染まる液体――首の無い身体から流れた血溜りの中に沈んでおり、その様が首とその身体がもはや動かぬことを示していた。

「ったく……あいつら、明日には戦があるってことを忘れてるんじゃねえだろうな」

 そう呟きながら頭をかくが、梁興の口に重い空気は無い。
 寂れた農村は、若者がいたであろう過去ならいざ知らず、もはや聞くことすら出来なくなった数多の声が聞こえていた――それが、日常に関する声ならば、誰もがこの農村を羨んだと思えただろう。
 朝日が昇り始めれば、家を預かる女達は一日の支度のために挨拶をしながら飯を作る――自らの四肢を捥がれて尚、自らの娘を案じる悲鳴。
 母親が支度を終えれば、何れ女となる娘達が男共を起こすために声を上げる――衣服を剥がれ、数多の男に凌辱され、嗜虐され、喘ぎ、嬌声を上げ、そして絶望のままに上がる悲鳴。
 朝を過ぎ、昼を過ぎて、それでも元気に駆け回る男児の朗らかな声――そういう趣味のある奴らによる、痛みと混乱と諦めと絶望の混じり合った、甲高くもどす黒い悲鳴。
 女を守り、家を守り、家族を守り、村を守る逞しい男の声――既に物言わぬ骸は、声を上げることはない。
 狂宴、恥辱、狂態――暴虐の限りが尽くされた、狂って壊れた宴。
 その様に、梁興は傍らの机にあった酒を無造作に口に含んだ。

「……まあ、いいさ。昂ぶってんのは俺も同じだしなぁ」

 西涼から発して長安の手前、梁興は陣地を敷くこともなく手近にあった農村を襲撃した。
 梁興が率いるは西涼騎馬を主力にした二千五百の兵だ。
 寂れて閑散とした農村は騎馬の侵入を防ぐに足りず、畑へと出ていた数少ない男手達は瞬く間にその骸をさらすことになった。
 そうして。
 邪魔をするものがいなくなった時、二千五百の獣達は村に残る戦利品へと群がった。

 深く皺の刻まれた老婆は槍で一突きに。
 嫋やかで豊満な身体の女は貪り。
 瑞々しい身体と張りのあるその娘達は、身体も心も散々に犯された。
 無論、梁興とてそれに伴わなかったわけではない。
 物言わぬ村長の骸――それを前にして、その娘を散々に犯し、貪っていたのはつい先刻のことだ。

「う……ぁ……」

「おおん? なんだ、まだ壊れて無かったか」

 その娘が漏らした吐息にも似た声に、驚きにも似たような梁興の声が零れる。
 幾度となく放たれた雄のものは娘の奥ばかりでなく全身を白く染めており、その年頃に可愛らしく纏まっている顔は同じように放たれた雄のものが乾いたことによって、酷く匂い立っていた。
 こびり付いたその中から、うっすらと開かれた娘の瞳に光が戻る。
 無論、光とは言っても希望に向かう類のものではない。
 身体を犯され、心を壊され、絶望に埋もれていた中でそこから逃れるためにたった一つ舞い降りた光が――梁興を殺すという光と憎しみこそが、娘に降り立った光だった。

 その光を目の当たりにして――自らに向けられて、梁興は背筋がぶるりと震えるのを止められない。
 それは自らの命を消し去ろうと狙う者への恐怖――当然そんなものである筈がない。
 当然の如く、それは喜悦からくる震えだった。
 娘の秘所からは血と雄が混ざり合った桃色の粘体が零れており、その身体は度重なる嗜虐暴虐の類で既に疲労困憊である。
 ともすれば、立ち向かうことは愚か、立ち上がることすら難しいであろう身体をもって、その娘が向けてくる濃密な敵意――それを、再び壊せることへの喜悦だった。

 混乱と恐怖に歪む娘を壊す快感、それを快楽へと染め上げる愉悦、そこから一段超えてどす黒い濃密な感情――殺意や敵意に似た感情を抱く娘を再び壊すのだという喜悦に、梁興は再び己の中に燻る熱が燃え上がるのを感じていた。

「……まぁ、まだ時間があるからな。存分に可愛がってやるとするか」

 へへ、と軽薄な笑みとは裏腹に、獣性に満ちた瞳を娘の身体に向けて、梁興は知らず舌なめずりをする。
 壊れるか、壊れないか。
 壊れない方が十分に楽しめるのだがと思わないでもない梁興だが、壊れないとなるとまた馬玩が五月蠅そうだな、と辟易しながら娘の肌に手を這わし、舌で舐め上げる。
 初めて壊れることなく自身に従い才を伸ばして将になった馬玩だが、どうにも後続のことは許せないらしい。
 女の嫉妬という奴か、と自己完結した梁興は、自らの荒ぶるものを娘にあてがいながら、ふと、ある少女のことを思考に浮かべた。

 そういや馬玩の奴、馬超のことはいつも目の敵にしてやがったな。
 真名に合う緑の衣服を纏う少女――馬超のことを、梁興は脳裏に浮かべる。
 母親である馬騰の例に漏れず、意志の強い瞳と高い武力は、自身には及ばないが相当のものがある。
 馬を駆る技術も高く、それらを率いての統率も見事であると言って良いだろう――であるからこそ、そんな娘を常々壊してみたい、と梁興は密かに思っていた。
 強気な瞳を恐怖と被虐と快楽に壊し、性格を表すように強く結ばれた口に荒ぶるものを突き入れ、母親似の年若い肌の豊満な肉体を思う存分に味わってみたい、と。
 もしやすればそれがばれていたのか、なんて女の勘に恐怖しつつ、同じ馬姓ということから何か思うことがあったのかもしれない、と梁興は思うことにした。
 ――怒ったら怖いんだよなあいつは、と何時かの激怒した馬玩のことを思い浮かべながら。
 
 まあ、それはともかくとして。
 馬玩が目の敵にするのはそういった素養を持つ――言うなれば、結果的に壊れない女ばかりなのだ。
 馬超にもそういった素養があるのだとすれば。
 気と意志の強い瞳が被虐と快楽に歪んでいく様を思い浮かべて、梁興の瞳に宿る獣性が濃くなっていく。
 

「……楽しみだ。実に楽しみだ……ッ」


 唇がいやらしく歪んでいくのを止められないと自覚しながら、それもまた良しとした梁興は、馬超の肉体を思い浮かべていきり立ったものを娘へと突き入れた。



 狂辱の宴は、未だ終焉を見せない――。





  **





 長安郊外にある董卓軍野営地。
 洛陽出立後、長安にまで辿り着いた俺達董卓軍は、長安入りをすることなくその郊外に野営地を築いて、一晩過ごすことになった。
 洛陽からここまで駆け通しだったので少しでも兵らを休ませてやりたいという思いはあったが、何より西涼韓遂軍の動きが読めない現状下において気を抜くことは出来ない。
 賈駆、郭嘉、程昱の長安より少し離れた郊外に陣を組んでこれに警戒すべきだ、との進言を董卓が取り入れた結果であった。

「……本番は明日、か」

 ズクンッ、と痛む右腕の包帯を解いていく。
くるくると捲られていく包帯には血が滲んでおり、少しずつその色は濃さを増していく。
 一番下――肌に直接触れているそこは真っ赤を通り越して赤黒く染まっており、濃密な血と鉄の匂いが鼻につく。
 本当は水で流しながらが良いんだけどなと思いつつも、野営地で清潔な水は貴重であるのでそれも出来ず、仕方無しに微妙に乾いた血や未だ濡れる血に逆らいながら包帯を取って露わになった傷口に眉を顰めて、気を逸らすために思考を始めた。



 当初の予定通り、ここまでは問題無いだろう。
 周囲の警戒に忍を放ってはいるが、軍師達の予想通りに西涼韓遂軍その先鋒の姿は確認出来ずとの報告を受けたのはつい先ほどのことで、予てよりの予想通りに戦闘が行われるのは明日ということになるだろう。
 こちらの想定の裏をかいて速度を上げていればその限りではない、とは程昱の言葉であるが、それとて、こちらが軍を発するという前提条件がなければ成り立たないというのもまた確かだ。
 策の成功等を予想しての軍が動いているという可能性から考慮してみれば、韓遂の暗殺が失敗に終わる、という条件を前提にした策など、向こうからしてみれば無意味以外のなにものでもない。
 それすらを想定しての可能性もある、と郭嘉が程昱の言葉を補完したものの、結局の所、軍略を囓った者ならば大都市である長安を攻めるには万全の体勢で臨むだろうというのが軍師達の総意であった。
 つまりは、である。
どのような戦況、状況においても西涼韓遂軍とぶつかるのは明日以降ということになるらしい。

「ふむ……さて、どうするか――む?」

 となってくると、最重要なのは明日という話である。
 騎馬を主戦力とした西涼韓遂軍、それを如何にして撃するか、ということである。
 西涼韓遂軍がどれだけの軍勢かは分からないが、西涼から長安、洛陽に攻め入ろうとするのであれば当然の如く、それだけの兵力が必要になる。
 数百、数千、ということは無いだろうから少なくとも一万以上ではないか、とは俺の予想なのだが、その数ですら董卓軍三千の三倍以上にあたる。
 反董卓連合軍の二十万という数字からすれば少ないものだが、それでも、彼我戦力に数倍の差があるというのは明らかに驚異であった。

 さらには、制圧後の防衛戦力に回す兵力のこともある。
 西涼からであれば石城や安定が一番に攻め入られるのは当然のことだが、そこを抑えられたとしても董卓軍は洛陽を有したままである。
 そこにある兵力は並大抵の数ではなく、防衛戦力も無しに抑え続けることは難しいものになるだろう。
 故に、防衛戦力を含めた数で言えば――と思考を働かせようとしても、良いように思考は動いてくれず、どうしてもついつい他の方向へと向いてしまう。
 ――というか、俺の中ではそれどころではないというのが正しかった。

「……やばい。包帯が……」

 よっ、ほっ、うぬっ、くそっ。
 痛む右手で包帯を脚に押しつけて、くるっと巻いたら一度浮かせてもう一度押しつけて――失敗。
 脚の代わりに顎でどうだろう――失敗。
 ならば頬――これまた失敗。
 そうだ、と思い至って一度全部伸ばしてからならどうだ――ゆるゆる過ぎて失敗。
 
「ずーん……」

 途方に暮れるとはこういうことを言うのだろうな、なんてどうでもいいことを考えつつ、さてどうしたものかと頭を抱える。

 ――ぶっちゃけ、包帯が上手く巻けません。

 自分がここまで不器用だったのか、なんて別の角度で衝撃を受けつつ、けれどもこのままにしておく訳にはいかないし、何よりばれたときのみんなの反応が怖いなんて思ってしまう。
 野営地を設置して天幕を宛がわられて、一番に命令されたのが傷の手当なのだが、しかしてそれを無視して――あまつさえ包帯を外したままにしておけばどんな反応が返ってくるかなど想像に難くない。
 ――うん、きっと怒られるだろうね、冷たい目でじとーっと睨んだ後に溜息をつかれてアンタ馬鹿じゃないの、なんて怒られるだろうね。
 お兄さんは馬鹿ですか、とか。
 貴殿は馬鹿ですか、とか。
 一刀殿は馬鹿で阿呆ですな、とか。
 ご主人様は馬鹿だよな、とか。
 散々に怒られてしまうのが目に見えている――唯一、董卓だけが庇ってくれるかな、と淡い希望を抱いていられる。
 だが、俺にはそういったことを悦ぶ趣味は無いので出来ればご免被りたい。
 
 そう決意した俺は、何とか包帯を巻かなければと再び包帯を――。


「――入るわよ」


「うひゃぉいッ?!」


「……アンタ、馬鹿よね」

 ――包帯を手に取った所で、突然の来訪者に奇声を上げてしまって、しかもいきなり断言されてしまった。
 なんてことを考えている俺の手元に視線を飛ばしていた突然の来訪者――賈駆はじとーっとした視線を俺の手元から顔に向けて、その後に溜息を一度ついた。
 何故だろう、先ほどの予想が当たったっていうのに、嬉しくも何とも無いのは。
 苦々しくも爽やかな虚しさという相反しまくりの感情が、俺の中に渦巻いていた。

「はぁ……大方、一人じゃ包帯が巻けなかったんでしょ?」

「……ごもっともです、はい」

「はぁ………………し、仕方ない、わね」

 包帯が一人で巻けない、と衝撃を受けていた時よりも深く重い衝撃を受けていると、ぼそぼそ、と聞こえた賈駆の声に視線を上げる。
 何処かに視線を逸らしつつもちらちらと俺の手元に視線を寄越していた賈駆が、とすんっ、と俺の手元が目の前に来るように膝をついた。

「手」

「……え?」 

「包帯を寄越せって言ってるの。…………ア、アンタじゃ何時終わるか分からないからしてあげるって言ってるのよ」

 賈駆は俺の手から包帯を奪い取ると手を出せと仕草で示す。
 包帯なんて一言も言っていないじゃないか、と思わないでも無かったが、無言のままにじっとこちらを見つめる視線は動きそうもない。
 ひらひら、と催促するように手を動かす賈駆の真意が分からないままにじっと見つめていると、少しだけむすっとしたような――けれども、何処か寂しそうな声が耳に届いた。

「……ボクが触れるのは、嫌?」

「……そういう訳じゃない。……その、まあ……よろしく」

 つまりはそういうことになった。




「……痛みはどうなの?」

「とりあえず、今のところは大丈夫かな。貰った薬が効いてるみたいだ」

「そう……」

 一体何用で来たのか、なんてことを問いかける余裕すら無く。
濡れる血で手拭いを濡らして乾いた血を拭い取っていく賈駆の手付きに悲鳴を上げないよう、俺は無理矢理に笑みを顔に貼り付けながら口を開く。
 ぶっちゃけ痛いです、なんて心配の眼差しと声を向けてくる賈駆に伝える訳にもいかず、ずくんっずくんっと痛む手に包帯を巻いていく賈駆の手付きへとただ視線を飛ばす。

「この傷でよく戦場に出ようなんて思ったものね。……本当に馬鹿よね、アンタって」

「馬鹿馬鹿と二度も言われてしまったことは置いておくとして……なぁ、よく言われる。ただ、傷があってもなくても役に立つのかと言われたら怪しいものだし、どちらでも一緒のような気はするけど」

「それでも、この傷だと馬を駆るのは大変でしょ? いくら痛まないように乗っても、振動で痛むでしょうし」

「そうでもないよ。白(ハク、北郷の馬)は賢いし、痛まない程度に振動を抑えてくれてるから。詠が思ってるよりは楽だと思う」

 白くて細い指がつつっと俺の手を滑り、血の乾き具合を確かめながら手拭いを肌に擦りつけていく。
 ちらちらっ、とこちらを窺う視線を感じるのは俺が痛みを感じているかどうかの確認のためだろうか――必然的に上目遣いになる賈駆に、ぐらりと何かが揺らいだ気がした。
 
「……危なくなったら、ちゃんと逃げなさいよ。後ろにはボク達や華雄もいるんだからね、無理する必要は無いんだから」

 するり、ときめ細かな指がまた手の上を滑りながら包帯をくるくると巻いていく。
 俺が痛まないよう、傷が悪化しないようにと細心の注意を払いながら巻かれていくのはとうに理解出来ていて、俺としては賈駆の手際に驚きつつも感謝を覚えていた。

 それと同時に、俺は賈駆の言葉通りの状況を思い描いてみる。
 俺が危なくなる状況というのは、言うまでもなく董卓軍騎馬隊が西涼韓遂軍の騎馬隊に破れるということだ。
 指揮官として前線に向かうのだからそういった状況もあるのだろうが、馬超がいて馬岱がいて、趙雲が副官としている状況の中で危なくなる状況というのは間違いなく打ちのめされた時ぐらいだろう――俺が反董卓連合軍の華雄の時のように大馬鹿になっていなければ話は別だが。
 と、一人心の中で涙しながら、それでもと思考を働かせていく。
 西涼韓遂軍は攻め側の勢いに任せて攻め込んでくるだろうから、その勢いを利用してわざと騎馬隊を破らせて華雄に防ぎ止めて貰い、それを一気に包囲出来ないだろうか。
 しかし、それでは本隊の負担が大きすぎて――戦力差が劣っている状況であれば一か八かの賭けになってしまう。
 ううむ、何かいい手は無いだろう。
 それこそ、例えば相手が指揮も難しいほどに混乱していれば――。
 ――と考えたそこで、俺はいつのまにか大きくなっていた賈駆の声に気付く。


「……ちょっと、ボクの話を聞いてる――」

「……えっ、なに、聞いてる――」


 ――ちなみに、この時気付いたことだが。
 俺は、賈駆の手元に視線を向けていた影響からか、そのまま視線を下げて俯くように思考に嵌っていたらしい。
 頭の上から声を掛けられているということに気付いたこと、気付いた時には自分の脚が視界に映し出されていたということから、それは間違い無いだろう。
 
とまあそんな訳で。
賈駆の言葉に反応した俺は視界をふと上へと上げて――。


「――――え?」

「――――よ?」


 ――その視界一杯にいつもの不機嫌そうな瞳を驚きに開いた賈駆の顔があった。

 言葉を紡ぐと共に放たれた微かな吐息は俺の唇を少しだけ優しく撫でて、その吐息の発生元――賈駆の唇が近いということを教えてくれる。
 少しでも動けば唇が触れてしまう程に近いという現状に、動いてしまえ、と何処かにある悪戯心がざわざわと蠢き出す。
 賈駆は女の子の中でも可愛い部類に入る。
 董卓は守りたくなるような可愛さであるが、それとは少し違った、けれども確かな可愛さを持つ賈駆が――その小振りで可愛らしく潤った唇が目の前にあるのだ。
 悪戯心がとくんっ、と胸を高鳴らせる。

 ――けれど。
 何かが違うのだと。
 何かが駄目なのだと、俺の中にある何かが声を上げるのもまた事実で。
 その声が段々と大きくなっていくと、忘れかけていた手の痛みが俺の心と思考を現実へと引き戻すことになった。

「……ふぅ」

 ようし、どうにか落ち着け俺、落ち着け。
 こんなことを思っている時点で冷静でないことは分かっているが、どうにもこういった手順は必要だと思う。
 思春期のように高鳴る胸は徐々に治まりつつあり、ずきんっ、と手が痛む度に現状が頭の中に入り込んでくる。
 ……俯いていた俺が痛みを我慢しているとか話を聞いていないとか思った賈駆が俺の顔を覗き込もうとして、たまたま反応した俺がそこに顔を突きつける形になったとか、そういうのだろうな、よし俺は冷静だな、うん。
 全然冷静になれてはいない人の言動を行いながら、もう一度溜息――とした所でビクンッ、と賈駆の身体が震えた気がした。
 
 ――そういえば、と俺は再び現状を冷静に判断してみる。
 俺の視界一杯には驚愕に――それと色を徐々に赤くしていく賈駆の顔。
 いつもの不機嫌そうな瞳からは想像も出来ないほどに澄んだ瞳はとても綺麗で、一対の宝石であると真顔でも言えるほどだ。
 ふるふると震える唇から漏れ出る吐息は優しく俺の唇を撫でて――と、ここで俺は思い至ることになる。
 ――俺が吐息を感じるということは賈駆もまた同じである、と。

「…………」

「……」

 驚愕に染まっていた賈駆の顔と瞳が羞恥へと染まり、次いでまるで湯が沸くように怒りへと染まっていくのを目の前で確認する。
 白色から桃色、次いで赤色と。
 くるくると表情が変わっていく賈駆に可笑しさと可愛らしさを感じてはみたものの、どうにも、このままいくと良くないことが起きるような気がしてきた――主に俺の身について。
 これまでの体験談からいけばこの予感は良く当たると思うのだが、迂闊に動いてしまえば何やら一撃で仕留められてしまいそうなほどの重圧に、動くに動けない。
 
「……」

「…………」

 それほど長くは無かったのだろうが、永遠とも思える時間が、お互いが無言のままに過ぎていく。
 キッと睨みつけられるような視線を真っ直ぐに見つめ返して、微動だにしないままに時が過ぎていく。
 
 さてどうしたものか、とまた溜息を吐けば、ぴくんっ、と震えた後に色の濃さが増していく賈駆の顔。
 その様が湯が沸き立つ寸前のものに思えて、あっやばい、なんて思った時にはすでに手遅れであった。

「……ッ!」

 がばっ、と。
 まるで獣やら何やらを目にしたような反応のままに後ずさる賈駆に、ついつい身体を震わせてしまう。
 常の彼女を知っているからこそ手でも飛んでくるのかと思ったが、どうやらそのようではないようだ――代わりに飛んでくるのは射抜くような冷たい視線だけれども。
 けれど、頬やら首元を赤くしている賈駆は何処か可愛らしくて。
 睨みつけられているという現状であってもそう思える余裕があることに、俺はついつい笑いそうになった。

「……とッ、とりあえず終わったから、ボクはもう行くわね。き、傷が痛むようなら兵を捕まえて薬を持ってきて貰いなさいよ。包帯を変えるのなら衛生担当に言えばいいから。後は、えっと、その……これ、持っていくわねッ」

 賈駆の言葉に手を見てみれば、確かに綺麗に巻かれた包帯がそこにはあった。
 丁寧に、傷が痛くないようにと巻かれたのか、感触を確かめるように手を動かしてみても、傷が痛むだけで包帯がどうのという訳ではない。
 賈駆にこのような技術があったことに驚きつつも古い包帯は何処に、と探してみれば、賈駆の手の中には朱色の混ざった白い塊があった。
 どうやら衛生担当へと持って行ってくれるつもりらしい。
 血に濡れた包帯は不衛生故に後で自分から持っていくつもりだったのだが、と視線を飛ばしてみれば、その視線に気づいたのか、賈駆は軽く手を振るだけでその包帯を俺の視線から外した。

「……ええっと……ありがとうな、詠」

「べッ……別に、あんたが気にすることじゃないわ。この後、衛生担当に指示を出しに行くからそのついでよ、ついで」

「そっか……でも、ありがとう」

「……ふん」

 傷の手当と、古い包帯のことと。
 両方のことについて礼を言えば、少しだけ落ち着いて、けれど何処か照れたように顔を背ける賈駆が可笑しく、そして可愛らしくて、いよいよ耐えきれなくなってついつい破顔してしまう。
 声に出して笑うことこそ無かったが、口元と頬の筋肉がだらしなく緩んでいる――そんな俺の笑顔が気に入らなかったのか、じとー、とした視線を向けていた賈駆は、出ていこうと進めていた脚を止めて、一つ鼻を鳴らして振り向いた。

「……無理すんじゃないわよ」

「ああ、分かってるよ。何かあったら詠を頼りにさせてもらう」

「…………ばか」

 そうして。
 ぽつり、と一言呟いた言葉を最後にして振り返ることなく、賈駆は天幕からその姿を消した――。



「……ああ、そういえば」

 そうして、賈駆の姿が天幕から消えて少ししてから。
 俺はふとあることに気が付いた。
 いや、気が付いたというよりは思い出したに近いのだが、誰もいないということもあってか、俺はついついその疑問は口にしていた。

「詠のやつ……一体何の用だったんだろう……?」

 よくよく考えれば、賈駆は結局の所、俺の包帯を変えるだけで帰ってしまったことになる。
 もともと何かしらの用件で訪れたことは間違いないと思われるのだが、その用件を果たさずして帰ってしまったことに、何となしに俺は気まずいものを感じた。
 あの賈駆が用件を果たさずして帰るだろうか、なんて思ったものだが、戻ってこないところを見るとそこまで重要では無かったのかもしれない。
 重要な案件ならすぐに戻ってくるだろうし、忘れていたことを認めるのが恥ずかしくて、なんて感情を押し殺すのが賈駆である。
 
 となれば、そこまで重要な案件では無かったのだろうと俺は当たりをつける。
 ――それと同時に、ふと賈駆の用件に推測があたって、まさかな、と俺は首を振った。

「……まさかな」

 それこそ、本当にまさかの話である。
 ――元より俺の傷を心配して来てくれた、なんて。
 まさかまさかと想いつつも苦笑とも取れる笑みを顔に浮かべながら、俺はこれからの進軍経路を確認するために趙雲達を呼び出すことにしたのであった。




 




[18488] 六十九話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/10/07 13:07





「梁興様ッ」

 狂態の宴――その後の殺戮から一夜明け。
 西涼韓遂軍の将、梁興は手勢二千五百を率いて長安を目前としていた。
 荒野の先に未だ長安は見えないが、あと数刻も駆ければその城壁を遠目に確認出来るほどになるだろう。
 陽は未だ中天には達しておらず、このままいけば長安に一当て出来る頃合いだ。
 長安に務める将は誰だったか――など、梁興は気にも留めない。
 長安の城壁が高いことは知っているし、その硬さは漢の中でも比類無きものだろう。

 であるからこそ、梁興は長安について考えることを良しとはしなかった。
 ――ただ喰らい尽くすのみ、であると。
 騎馬の突進力のままに長安へと一気に突撃し、暴れ回り、将を討ち――暴虐と狂態の宴を再び現世させる。
 そのためには小賢しい細工など必要ではない、と梁興は感じていた。
 否、小賢しい細工などを弄すれば自分では太刀打ち出来ない、と本能で感じ取っていた。
 元々考えることは苦手である。
 頭を使うことなどは馬玩や楊秋、成宜に任せておけばいいのだ。
 自分はただひたすらに馬を駆り、武を振るうだけである。

「何だッ?」

「この先にて少数の軍勢を確認したと斥候より報告が。董と馬の旗印も見えるそうです」

「ほう……? 馬はどれだ?」

「恐らく、馬超と馬岱であると」

 であるからこそ、梁興は明確な敵がいたということに背筋を振るわせた。
 それは精鋭と名高い董卓軍と錦馬超を一度に相手とした恐怖――からでは、当然無い。
 それは純粋な喜悦。
 それは純粋な昂ぶり――武人としては当然ともいえる、武を震えることへの興奮によるものだった。

 それに伴って、自身の内側でぐずぐずと燻っていた熱に炎が灯るのを梁興は感じていた。
 壊したいと思っていた獲物が自ら懐に飛び込んでくるとは。
 滾る、高ぶる、昂ぶる――本能が獣性に満ちていく。
 知らず獣性に満ちた吐息が零れるが、それすら受け入れながら梁興はさらに口端を歪めていく。

「くっくっくっ……おいお前等ッ、馬超は俺の獲物だが馬岱はくれてやるッ」

 敵――董卓軍がここに姿を現したということは、恐らくではあるが、韓遂の目論みは失敗に終わったと思っていいだろう。
 この段階で長安付近にいるということは、行動を起こした直後に鎮圧――最悪、死んだということも有り得た。
 とすればこれ以上戦を長引かせることなく西涼へと撤退し、董卓軍との協議の末に落としどころを見つけなければいけないのが将としてであるのだが――梁興としては、そのようなことは知った事ではない。
 
 敵がいれば武を振るい、殺す。
 女がいれば犯し、壊す。
 実に単純で、そして真理でもあった。

 そもそも、梁興としては楊秋に長安陥落の指示を受けているのだ。
 指示を受けたのなら成さねばならぬし、中止の指示は未だ受けていない――距離を考えるにそれがどんなに不可能であっても、だ。
 それに、韓遂が死んだ――あるいは失敗したのだと決めつけることも梁興は放棄することにした。
 うだうだと考えていてもしょうがない、と一切の思考を放棄した。
 
 ――ただそこにあるのは武人として武を振るい、男として女を犯すという、本能のみ。

「馬岱は好きにしていいんで?」

「ああ、構わねえ。犯すも良し、孕ますも良し、壊すも良し……存分に好きにしろッ」

「ひゃっはッ。俺、前からあいつ気にくわなかったんだよな」

「俺もだぜ。落とし穴に落とされた恨み、ここで晴らしてやるッ」

「ちぃとばかし貧相な身体付だが、そりゃおめえ、まだまだ青い果実ってことだよな、おい」

「はっはっ。青くてまだ固いってか」

「固いのはおめえのもんだろうがよ」

「違いねえ」

 がはは、と荒々しい声が風の中に響く。
 これこそが戦場、これこそが時代――これこそが武人と男としての性なのだと宣言するように響いた笑い声は、いつしか獣性溢れる叫びへと変わっていった。
 兵達の瞳には狂気と狂喜が渦巻き、自然、馬を駆る手に力が籠もってその速度を上げていく
 
 このまま進めば直に董卓軍――そこにいる馬超とぶつかることは明白である。
 董卓軍の規模は未だ報告に上がってこないが、余りにも大規模であるならば撤退も視野にはいれるが、その規模故に動きが目立つ大規模な軍勢という報告が無いのであれば、それほどでは無いのだろう。
 であるならば、自分達の敵ではないと梁興は感じ取っていた。
 何より、自らが率いるは精強精鋭の西涼騎馬隊である。
 いくら暴れる名目である主たる韓遂と肩を並べる馬騰、その娘である馬超が相手とはいえ、涼州も端である董卓軍の兵を率いているのであればそれほどではないだろう。
 馬超自身にしても同じである、自らに敵うほど武力が高いわけではない。

 となれば。
 梁興の思考は自然にその後へと移り変わっていった。

「長安で散々に犯してやるとするか……そうだな、壊れた馬岱の目の前でってのもいいなぁ。良い声で鳴いてくれそうだ」

 ずくんっ、と獣性が身体の中で一気に燃え上がる。
 吐息に熱が籠もり、自然に吊り上がる口端から獣の匂いが溢れ出ていく。
 そうして、我慢出来なくなったのか――。
 ――荒ぶる熱を放出するかのように、梁興は槍を掲げて声を荒げた。


「お前らァッ、このまま一気に突撃するぜェッ! 力、女、金ッ。手にいれたい奴は付いてこいやァッ!」
 

 総勢、二千五百。
 まるで一体の獣のように蠢く梁興率いる西涼韓遂軍は、今まさに董卓軍の喉笛へと噛み付かんとしていた――――。




 
  **





「……見えてきたようですな」

 規則正しいように見えて不規則な、それでいてどこか統制が取れているなどと相反の感情を抱く足音に混じりながら、趙雲の呟きが耳に届く。
 長安から安定、果ては石城まで駆けようかという董卓軍三千の中において、先頭を行く騎馬三百の最中において、俺は趙雲の言葉に視線を巡らせた。

「……見えないんだけど」

「ここからであれば砂煙ほどしか確認出来ぬほどでしょう。……こう言っては何ですが、一刀殿では確認は難しいかと」

「……そうですか」

 凄い視力が良いんだな、なんてことではなくどうも武人としての力量で見える見えないが分かれるらしいと趙雲の言葉で何となく納得しつつ、俺は再度視線を前方へとやる。
 じぃ、っと視線を凝らして、目を細めたり開いてみたり。
 結局の所、人の形どころか、砂煙の姿形すら確認出来なかった。

 しかし。
 並ぶように馬を並走させる趙雲の横顔には、いつもの飄々とした余裕は若干確認出来るものの、色濃い緊張がまとわりついていた。
 その引き締まった横顔が綺麗だ、なんて感情を抱くまでもなく、俺は彼女の言葉が正しいものだと――西涼韓遂軍の先鋭が目前にまで迫っているのだと理解した。

「……あの砂煙では二千は固いでしょうか。こちらの三千よりは小勢になるとはいえ精鋭名高い西涼の騎馬を主力としているのであれば、戦力としてではあちらの方が上でしょうね」

「加えて言えば、こっちの騎馬さんが三百程度なのも関係しますねー。このまま風達だけで進んでいけば、あっという間に負けちゃうと思いますよー」

 郭嘉と程昱の言葉に彼女達もまた砂煙が確認出来ているのだと何処か納得しつつ、俺はその言葉に意識を傾ける。
 郭嘉の言葉で敵軍はその多少はあれど二千程度であると知れた。
 こちらの兵三千からすれば数的優位はあると言えるが、しかして、西涼連合の一画を担ってきた騎馬隊が多分に含まれている予想からすれば、戦力的優位はあちらに分があると言えるだろう。
 二千のうち半分は騎馬である可能性も考えて下さい、との郭嘉からの言葉に、三百程度の騎馬隊ではどうにも太刀打ちできないと理解させられる。

 それと同時に、ふと思い立つ。
 韓遂の暗殺未遂の件から俺達は西涼連合の韓遂軍が反旗――正確に述べれば違うのだが――を翻したという可能性を考慮して、軍勢を発している。
 韓遂と肩を並べていた馬騰の確信、韓遂の最後の言葉などからほぼ確実なものとしたからだ。
 だが。
 今こうしてその軍勢を捉えようかという段階になって、それは本当に正しいものなのか、と微かな感情が脳裏をよぎる。
 もしやすれば、ただ韓遂を慕って追いかけてきた兵達なのかもしれない、などという有り得そうにない予想が首をもたげる。
 このまま討っても良いのだろうか、と――。


「気を引き締めろよ、ご主人様」


 だが。
 そんな俺の不安も、ついに口を開いた馬超の言葉に払拭されることになる。
 普段は愛嬌のある眉を強張らせて歪めたまま、続いて馬超は口を開く。

「……この進行上に、村はあるのか?」

「あ……ああ? 確か、小さな村があったと思うけど……」

「――――ッ」

「……翠?」

 俺の言葉に、歪んでいた眉をさらに歪ませて――その瞳に明確な怒りを滲ませながら歯ぎしりする馬超に、俺はふと疑問を抱いた。
 見れば、いつもは飄々としている馬岱ですらその表情に憤怒を滲ませて砂煙を睨み付けている。
 一体何が――そんな疑問は、ふと生じた予感と予想に変わり、それらは程昱の言葉に一気に表面化した。

「……まさか」

「うん……お兄様の考えたとおりだと思うよ」


 村の人達は、多分、みんな生きていない。


「――――ッ」

 ぞわり、と。
 馬岱の言葉に誘われるように、背中が一気に寒気だつ。
 興奮か恐怖か、はたまた不快感からか。
 拒絶反応を起こした身体が喉元から胃液を逆流しようとするのを必死でこらえる。
 チカチカ、と。
 確固たる現実とかした予想――寂れた村の地が血に濡れて、そこに転がる幾多もの骸と狂態に塗れたであろう女子供の骸が、実際に見た訳でもないのに視界に浮かんでは消えていく。
 それは、ある日見たアスファルトの上の光景に似ていて――。
 そこまで考えて、俺は自身を落ち着かそうと肺と胃に溜まっていた空気を一息に吐き出した。

 村を襲おうとした黄巾賊とは戦ったことがある。
 彼らは皆一様に生きるために――その過程上において村を襲おうとしていた。
 だが、今回はそのような話ではない。
 ――ただ、殺した。
 例えば、武を奮いたいがため。
 例えば、逆らわれたため。
 例えば、ただ人を斬りたいから。
 例えば、それは陵辱の後始末。
 今はもう誰もいないだろう村で起こったと思わしき顛末を馬岱が語ると、自身の中で黒い何かがざわりと波打つ気がした。
 
「……あの『梁』の旗の将、それほどの人物ということか?」

「……梁興。韓遂のおじさんとこでも、一、二を争うほどに残虐な奴だよ」

 何かを押し殺したような極めて冷静を振る舞った趙雲の問いに、馬岱が答える。
 その声色だけで人が殺せそうなほど重々しく呟かれた馬岱の言葉に、それでも、俺は深く呼吸をして身体と思考を静める。
 西涼連合は韓遂の下でも残虐な部類に入るということは、その性格は置いても、武勇は優れていると言っていいのだろう。
 そんな将を相手に心身を乱していては勝負になりはしない。
 であるからこそ、俺は少しばかり冷静になった頭を使って、さらに冷静になるためにと呼吸を整える。
 今すべきことは憤怒に塗れることではなく、ただ勝利を掴むのみである、と。

 そう冷静になってくれば、次に考えるべきは対応策だ。
 数はこちらが上でも兵力とすれば向こうが上、それを率いる将は残虐ながらも武勇に優れているときている。
 冷静に対応出来れば問題ないだろうが、先の村のことを考えるとそれがどこまで出来るかどうか。
 辺りを見れば、趙雲も郭嘉も程昱も、皆が噴き出そうとする怒りを無理矢理に抑え込んでいるかのようである。
 それは無論、西涼韓遂軍と共に戦ってきた馬岱と――。


「――――ハァッ!」


 ――と考えたところで、それまで考えていた人物である馬超が空気を切り裂くかのように声を上げる。
 裂帛の気合いと言うのだろうか。
 照れに顔を赤らめて慌てる可愛らしい少女の眼差しは、触れれば全てを切り裂くような冷たい視線へと変化している。
 それはまるで槍の穂先のようで。
 そんな感情をままに表して、馬超は馬腹を蹴って一気に駆け出した。

「ちょッ、お姉様ッ?」

「す、翠ッ?! 待てっ、待てってッ!」

「おやおや……錦馬超殿はえらくお怒りのご様子ですなぁ……」

「左様で。……ただまあ、お気持ちは理解出来ますが」

「これまで一緒に戦ってきた人達がしたことだから許せない、ぐらいですかねー。或いは、裏切られた立場で裏切った人達を目の前にしたことで我慢が出来なかったのでしょうか?」

「ちょッ! そんな落ち着いてる場合じゃないだろッ?!」

「左様ですな……であれば、指示を頂きたい、指揮官殿。それが無ければ勝手に動くこともままならぬもので」

 馬の勢い十分なままに、馬超の背がみるみる内に砂煙へと肉薄していくのに慌ててみると、実際に慌てているのは俺と馬超の従妹である馬岱なだけで、趙雲達はさして驚いた様子も無く周囲を見渡している。
 その表情にこそ緊張が見られるものの、常と変化の無い口調についつい声を荒げてしまえば、返ってきたのは冷静で正確な趙雲の言葉――言葉の取り方によって独断で動く許可を求めている気がするのはこの際無視しておく、時間が勿体ない。
 
 簡単にさっと郭嘉と程昱に視線を巡らせば、一度だけコクリと頷くあたり、趙雲と同意見なのだろう。
 現状、馬岱は俺預かりなので異を言えない立場であることを考えれば、他の三人から指示を求められて迷う訳にはいかない。
 そもそも、馬超の独走によって戦況は否が応にも動き出してしまっている。
 このまま迷っていては董卓軍は――趙雲達の言葉を借りるに、怒りに任せたままの馬超の身が危ぶまれるのだ。
 
「ッツ!? ああもう、くそッ! 奉考殿と風は後方の本隊へと連絡ッ、騎馬隊は先行、本隊は臨機の応対を求める! 子龍殿、蒲公英、俺達は翠の援護だッ!」

「馬超殿の独断先行を咎めないので?」

「そんなものは後だ、後ッ。命が無いと怒ることすら出来ないだろッ」

「ふふ、確かに。……では、馬超殿と合流後は騎馬隊を二手に分けて敵軍を駆け抜けて下さい。その後は本隊の華雄殿と呂布殿に敵騎馬隊を押しとどめて頂きますので」

「その後には反転してきたお兄さん達と本隊による前後挟撃ですかねー。一度動きを止めてしまえば、騎馬最大の利点である速度と威力は軽減出来ると思いますのでー」

「よし、分かったッ! じゃあ月達に頼むッ。子龍殿、蒲公英、行くぞッ!」

「応ッ」

「わわっ、ちょっと待ってよ、お兄様ッ?」

 何を馬鹿なことを、と馬超を怒るのは後でいい。
 真っ直ぐな性根の彼女のことだ、先ほどの程昱の話のように裏切りに近いものを受けた怒りというのもあるだろうし、今は亡き村で行われたであろう残虐への怒りもあるだろう。
 何より、馬超自身は共に戦ってきたということもあって梁興なる人物をよく知っているであろうから、その残虐は容易に認められるものだったのだろう。
 故の、独走。
 自分の手で討ってやる、などと考えているに違い無いと俺は感じ取っていた。

 だが。
 もし仮に梁興を討ち取ることが出来たとはいえ、その後に控えるは韓遂軍二千――近くなってきて思ったが三千ぐらいはいそうである――だ。
 いくら馬超が武勇に優れているとはいってもそれだけの数を相手にするのは大変であろうし、なにより、梁興を討ち取らないままにその数に囲まれてしまえば脱出とて困難になるだろう。
 そして、もし囲まれて無力化されてしまえば小さな村を残虐の渦に陥れた将のことだ、馬超自身を残虐にもてなすであろうことは容易に想像出来た。

 一瞬想像してしまった光景に、ぶるりと身体を震わせる。

「……しかしなんですかな。一刀殿の下で戦うと、否応無しに不利なのですが……先祖の供養が足らないのでは?」

「反董卓連合軍との時も凄かったんだって?」

「左様。数千の兵で二十万の中を駆けろと命じられた時には、さすがの私も度胆を抜かれたもの。生きた心地がしませんだな」

「……よく言いますね、子龍殿。子供のように瞳を輝かせて指示を受け入れた人の言葉とは思えませんよ」

「いやぁ、お恥ずかしい」

「いや、褒めてないでしょ」

 だと言うのに。
 眼差しは緊張のままに口元を笑みに歪める趙雲と馬岱に、がっくしと俺は肩を落としそうになる。
 まあ、趙雲の言い分は確かにもっともで、俺が来てから――かどうかは分からないが――の董卓軍の戦いは、あまりにも不利な条件というものが多すぎる気がした。
 安定救援戦や反董卓連合軍との戦いの折には色々と前準備が出来ていたのでそのまま不利という訳では無かったが、それでも、有利な条件という戦自体が俺の記憶に無い。
 ――もしかしたら本当に俺の影響か。
 なんてことに思考が働きそうになるが、とりあえずは今考えなければいけないことはそれではないと意識を集中させて、俺は目前に迫りつつあった西涼韓遂軍へと視線をやった。

「騎馬隊への対応策は?」

「正面からぶつからないことだと思うよ、お兄様。この軍の騎馬隊も凄いけど、西涼の騎馬はこれどころじゃないから」

「とはいえ、馬超殿が突出している現状においては一人だけ残していなす訳にもいかぬがな」

「うぅ……ごめんなさい」

「蒲公英が悪い訳じゃないさ……そうだな、翆には後でお仕置きでも受けてもらうとしよう」

 とりあえずは溜りに溜まっている文書仕事を手伝ってもらうとしようか。
 俺の左手がこんなんだし、身の回り諸々をお願いするのも悪くない――服屋にメイド服なんて無いだろうか、それともいっそのこと作ってしまおうか。
 いやいや、最近遊んで欲しそうな視線を向けてくる呂布の相手でも任せておこうか。
 そんな色々なことを考えつつ、にやりと歪みそうになる口元を引き締め直して、俺は馬腹を蹴った。

「翆を捕えた後、そのままの勢いで一気に離脱するぞッ! 後にちょっかいを出しつつ本体と挟撃するッ」

 怪我した左手で馬を駆れないため、必然的にいつもは剣を握る右手が塞がってしまう俺は、周囲へ届くように顔を向けながら声を発する。
 もはや西涼韓遂軍は指呼の間まで迫っており、そんな俺の声に合わせて趙雲と馬岱が速度を上げて斜め前の辺りへと馬を進めた。
 進行方向上の敵を切り伏せてくれる算段なのか、多勢に突っ込む形としても非常に心強い前衛である。
 その後背――俺の横を固めるように布陣を変えていく周囲の騎馬隊にこれまた頼もしさを感じつつ、俺は一気に声を張り上げた。


「いくぞォッッ!」





  **





 己が武勇を誇り、董卓軍など恐れるに足らずと考える梁興。
 西涼の騎馬隊を十分に恐れ、残虐とされる梁興の武勇を警戒する北郷一刀。

 奇しくも、今まさに激突の時を迎えた西涼韓遂軍先鋒と董卓軍先鋒を務める二人の将は、ほとんど同じ理解の元にいた。
 西涼の騎馬隊、その威力を如何にするか。
 梁興はそれを十二分に発揮して董卓軍を撃破しようと考えるし、北郷一刀はそれを十二分に発揮出来ないように意識を働かせる。
 まさしく、一撃の下に全てが決着する、そんな戦い。
 それだけ、西涼の騎馬というものは多くの将兵によって恐れられていたと言っていい。

 だが、梁興も北郷一刀もただ一つだけ忘れていた――北郷一刀は知識こそあったものの、暗殺未遂から怪我に至るまでの混乱で思い至らなかっただけだろうが、それでも、忘れていたことに変わりはない。



 ――最精鋭と名高い西涼の騎馬隊、その中で、錦と呼ばれるほどに苛烈な戦人は誰であったのかを。





 勝負は、ただ一瞬だった。





  **





 獲物が来た。
 どくんっ、と身体中の血液が多いに滾り、生じた熱が逃れようと自然に口端を醜く歪めていくの押しとどめるまでもなく、梁興は獣性の笑みを深めていた。
 梁興の視界の先には、緑を基調とした衣服を馬の速度になびくままの女将、馬超の姿があった。
 自身が放つもので散々に汚したい顔と髪は煌びやかに流れ、母に似た豊満な肉体は馬の揺れに合わせてゆさりと震える。
 短い腰布から覗く太腿は健康的ながらも年若いままに色白く、今すぐに貪りつきたい衝動に駆られてしまう。

 だが、と梁興は思いとどまる。
 馬超を組み伏せるのはまだ先の話だ。
 董卓軍を打ち破り、長安を攻め落とし、馬岱を兵達に嗜虐させ、その馬岱の目の前で悦楽と快楽を与えて壊す。
 そのためには、ここで馬超に見惚れている訳にはいかないし、何より早く長安に入るためには早々に馬超を倒して董卓軍を討たなければならない。
 となると、ここで一騎駆けに近い形で突出してきた馬超には早々に倒れてもらうに限る――後で十分に愉しむためにはここで要らぬ怪我を与える訳にもいかないこともあった。

 さらには兵達への恩賞――長安の女や財宝のこともある。
 元々、梁興は韓遂ほどに漢王朝に忠誠を誓っている訳ではない――否、忠誠などという言葉がある筈もない。
 ただ武を存分に震える機会あり、そして、漢民とみなさない異民族をいくら殺そうが、どれだけ犯そうが問題が無かったからこそ、梁興は韓遂に従ってきたと言っていい。
 それも韓遂が討たれたというのなら、いざここで長安に起つのも悪くはないかもしれぬ。
 そう口端を吊り上げようとして――戟を合わせる距離にまで馬超が近づいていたことに気付いて、梁興は槍を掲げた。

「ぐはっはっはっはっ、馬の娘よッ! 今ここで許しを請うならば命だけは助けてやらんことも無いぞッ」

「……黙ってろよ」

「……くく、いいぞ、そうでなくてはな。ただ黙って受け入れられては詰まらんからな。精々、抗ってもらわんと困る。嫌がる娘を犯す方が愉しいからなあ?」

「……」

「はっはっはっ! ではいくぞ、馬の娘よッ。我が豪撃、耐えられるかなッ?!」

 真っ直ぐにこちらを射抜く馬超の視線に、生来の残虐さが滲みでそうになるが、それよりも強い武人としての性がそれを押しとどめ、代わりに身体の中に熱を発する。
 ぶわっ、と身体の穴が広がっていく感覚、意識と知覚が研ぎ澄まされていく感覚の中で、梁興は馬超が思ったよりも強いであろうことを理解した。

「はァァァァァッッッ!」

 だからこそ、梁興はそれまでの油断慢心などは微塵も感じさせることもなく、槍を己が出来る最高の一撃のままに振るった。

 まさしく豪撃。
 
 その名に相応しいであろう一撃は馬超が繰り出したであろう一撃とぶつかり合って、甲高く鈍い鉄の音を響かせた。

「ぐわっはっはっ、一撃で終わっては面白くないとは思っていたが、まさか、これ、ほどと、は……」

 そうして、一撃で馬超が仕留めきれなかったと感じた梁興は、そのまま馬を半回転させて馬超へと振り向いた――しかし、馬超はこちらへと振り向くことなく後続の騎馬隊へと斬りかかっていく。
 途端、やられた、との思いが梁興の中に湧き上がる。
 指揮官たる自分を無視して後続の兵へと斬りかかってその勢いを殺し、本隊で討つ策のつもりであるか。
 確かに、こうして梁興自身が脚を止めてしまった時点で策は半ば成功しており、馬超が次いで騎馬らへと斬りかかったがために、勢いを殺がれてしまったといっていい。
 小娘のくせによくやる……だからこそ、虐め甲斐のあるというもの。

 この後に待つであろう残虐の宴ににやりと口端を歪めて、けれど将としてこのまま策を行われるのを待つ訳にはいかない梁興は、再び馬超に戟を合わせようと馬を駆ろうと――。



 ――――そこで、手綱を握る役目を負った自らの腕が半分ずつになった槍を両手に握ったままに地に落ちているのを視界に収めた。

 ――――否、自らが転がっていた視界の中に腕が落ちてきたと言った方が正しいか。



 落ちてきた腕の先、首と腕の無い自らの身体であったモノが馬の振動によって地にずり落ちるのを視界に収めて――。
 梁興は、自らの首が斬り落とされたと理解して信じられないという表情のままに、その意識を闇に沈めた。





  **





 一合。

 馬超と梁興、武将同士のその激突はたったそれだけで馬超勝利という結果をもたらすこととなり、その結果は総じて梁興が率いていた騎馬隊の脚を少しだけ鈍らせることになった。
 歴戦の騎馬隊にとってそれはとても見られない現象であるが、指揮官を討たれたということ、それがたった一撃であったということ――それを成したのが、西涼連合軍内でも錦と名のついた将によるものだとようやく理解したことからだろうか。
 ある者は驚愕、ある者は呆然、ある者は――恐怖。
 多様に表情を彩ながらも脚を止めてしまった騎馬隊の面々を前にして、錦馬超は声高に吠えた。



「西涼の民の名、裏切りでそれを汚したこと、この錦馬超が許さないッ! 死にたい奴からかかってこいッ」








[18488] 七十話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/11/09 14:20




「らぁぁッ!」

 振り下ろされた剣を槍で微かに撫でた後、馬超はそれを一息に押し返して敵兵の体勢を崩す。
 返すままに後方から駆けようとしていた敵兵の首元へ槍を突き入れると、石突によって体勢を崩していた敵兵をそのまま馬上から跳ね飛ばした。
 本来、騎乗戦闘というものにおいて落馬というのは死することに近い。
 体勢を崩したところを敵に狙われるというのもあるが、何より、間断なく周囲を踏み荒らす馬によって押しつぶされるという危険性があるからだ。
 馬上から落ちた敵兵も、苦悶の声もままならぬまま騎馬の放つ砂煙の中へと消えていった。

「せいっ、せいッ、せぇぇいィッ!」

 繰り出される槍の横薙ぎを、馬超は身を縮めることで難なくと避ける。
 横薙ぎによる風圧に馬超の髪が幾分か巻き上げられるが、それを気にすることなく馬超は眼前から迫ろうとしていた敵兵へと槍を突き入れる。
 そうして、敵兵の胸元に槍を突き入れたまま馬超は馬腹を蹴り手綱を操って、愛馬をその馬で一回転させる。
 敵兵に刺さった槍はその肉を切り裂き、そして次なる獲物――周囲の敵兵をも切り裂いていく。
 その勢いのままに槍を振るった馬超の周りから、敵兵が馬上から地へと落ちていった。

「く、くそっ……ひるむなッ。一気に押し掛かれっ」
「し、しかし、梁興様が討たれた今、ここは一度馬玩様と合流されるために退いた方が……」
「んなこと出来る訳ねえだろッ。馬玩の姉貴に殺されちまうのが目に見えてんだろうがッ。ならここは、あの馬騰の娘を――ぐふァァッ?!」
「じゃまだァッ、そこォッ」

 飛びしきる血飛沫に濡れることもなく、髪を振り乱しながら馬超は槍を振りかざす。
 一度振れば首が飛び、二度振れば馬は倒れ、三度振れば攻め寄せていた兵は馬を止める。
 騎馬隊にとって勢いとはまさしく攻撃力であり、それを止めてしまえばそれは零となるもの。
 指揮官たればそれを阻止するものなのだが、その指揮官たる梁興は既に一撃の下に討たれており、梁興の代わりとなる者などその軍勢には存在しなかった。

 そうして、馬超は再び槍を振るう。

「しゃああぁぁぁッッッ!」
「ひぎゃぁぁぁッ?! うでが、うでがぁぁぁッ」

 腰の捻りを加えた一撃を敵兵の肩へと突き入れて、その勢いのままに一気に切り上げる。
 威力と勢いに肩から腕を斬り取られた敵兵がもんどり打って馬から落ちると、ひゅんっ、と飛来してきた矢を軽々と避けた後に馬を飛ばして、馬超は弓を構えていた敵兵を弓ごと両断した。

「ひぃィッ?! と、止まらねぇっ、どうなってやがんだッ?」
「ちょ、おいッ、そこ邪魔だッ! 逃げられないじゃないかッ」
「何おう?! いや、そこの奴が邪魔をして――ぐぶふぁぁァァァッッッ?!」

 三度槍を振るって敵を止め、敵中に入りて三度槍を振るってまたこれを止める。
 腕が飛び、怒声が飛び、首が飛び、嘶きが飛び、血飛沫が飛び交う。
 そんな中でまるで踊るかのように、跳ねるかのように、舞うかのように槍を振るい馬を駆る馬超の姿は、まさしく錦の名に相応しきものだった――。



「……圧倒的じゃないか、我が軍は」
「は?」
「いや、何でもない。ちょっと言ってみたかっただけ」

 馬超の渾名の凄味に圧倒されつつも西涼韓遂軍の中にて迫りくる騎兵の槍を剣で切り払い、俺は趙雲に横付けるような形のままにぽつりと呟く。
 何て言うか、凄いという以外に表現のしようが無いぐらいに、敵陣にて暴れ回る馬超は凄い。
 馬超自身の能力自体は元いた歴史の史実において知っていたつもりではあったし、安定の戦いの折にて存分に知ったつもりであった。
 だけど、今こうして目の前で繰り広げられている戦いぶりには驚かされるばかりである。

 戦に揺れる肢体は、まるで舞うかの如くに跳ね。
 振るわれる槍は、花のついた小枝のように。
 飛び散る血飛沫は、まるで舞い散る花びらのように。
 それほどの中にいても尚汚れぬ様に、俺は錦という渾名の意味を垣間見た気がした。

「なるほど……故に錦馬超、か……」
「おや……もしや、馬超殿に見惚れ申したか?」
「えっ……いや、そういう訳……でもないな」
「おや、これは珍しい。お認めになられるので?」
「……弄り甲斐が無い、って顔をされてますね、子龍殿」

 そんな馬超の働きもあり、西涼韓遂軍の勢いは瞬く間に削がれていった。
 まあ、それも当然のことだろう。
 指揮官たる梁興を一撃に下した上でのあの槍働きだ。
 一介の兵からしてみればつい先日まで勝利が約束されていたのに、今目の前に広がるのは明確な死地なのだから勢いなど維持出来る筈もない。
 それが出来る将が一人でもいればまた違った話だろうが、そのような将がいるのであれば村での残虐は防がれていただろうし、そもそも旗印も見えないのだからいないと確定して良いだろう。

 となれば、後はほぼ確定である。
 勢いに乗っていた西涼韓遂軍は、その指揮官たる将の死と馬超の働きによってその動きを止めつつある。
 さらには、馬超の働きによって混乱状態に陥っていた西涼韓遂軍の前方と、それに巻き込まれて急に停止させられることになった後方によりますます混乱が深くなっているようである。
 悲鳴と怒号が俺達の周囲以外からも聞こえ始め、馬の嘶きは叫び声かのように周囲を埋め尽くさんとしていた。

「……お兄様、好機だよ、これは」
「左様。勢い勝る敵陣の中を突破せねばと覚悟しておりもうしたが、こうまで脚を止められているのであれば、こちらとしても幸いというものでありましょう」
「駆け抜けるは今……ってことか」
「御意に」
「……よし。子龍殿は俺と一緒に右、蒲公英は翆を回収して左だ」
「その後はぐるっと回って後ろの離れたところで合流でいいの?」
「うん、それで行こう」

 混乱が混乱を呼び、迷走し、もはや軍としての統制すら失いつつある様を一瞥した馬岱と趙雲の言葉に、俺も視線を素早く巡らせる。
 確かに、彼女達の言う通りにここまで脚を止めていればいくら騎馬隊といえどもその只中を突っ切ることも難しくは無いように思えた。
 となると、判断したのであれば策は早くに弄するに限った。
 後方を窺い見れば董卓率いる本隊が既に指呼の間へと近づいており、俺達の動きを今か今かと待ち望んでいる。
 これ以上無いという好機、準備万端な策の中で、俺は程昱と郭嘉が無事に伝令として動いてくれたことに安堵しつつ、口を開いた。

「翆ッ! そのまま左だッ!」
「ッ……ご主人様ッ、けど、こいつら……ッ」
「憤りは分かるッ。けど今はここを切り抜けることを考えろッ、預かりの身で勝手に死ぬことも傷つくことも許さないからなッ!」
「うぐッ…………分かった」
「翠姉様、こっち!」

 名を汚された怒りやら何やらで頭に血が昇っていた馬超であったが、さすがに自らの立場には思考が働いたらしい。
 そもそも、今の彼女は西涼の馬騰の名代に等しく、董卓軍の人質という立場と同意義である。
 勝手気ままに槍を振るい武を奮っても良い立場ではないのだが、まあここで話を分かってくれたということに安堵して、俺は馬超に一度だけ視線を送った後に趙雲へとそれを向けた。
 にやにやと含み笑いを隠そうともしない趙雲と視線がぶつかった。

「……おやおや」
「……何か言いたげで?」
「いえ、別に。……さて、ではこちらも行きましょう」

 明らかに弄り足りないという顔をしている趙雲にどこか納得しないものを感じつつも、俺は彼女の言葉通りに馬の脚を一気に早める。
 馬超の働きにより混乱の境地にまで達している梁興麾下の騎馬隊は、最早こちらの動きを止めるに値しないものでしかない。
 ある者は去りゆく馬超の後を追おうとし、ある者は馬超の隣にある馬岱を捕らえようと後を追い、ある者は逃げ去ろうと、ある者はこちらの動きに合わせて道を空けようとしている。
 幾人かがそれでもと俺達に対して剣を振りかざしてくるが、趙雲の槍の一突きにて剣を振りかざした勢いのままに後方へと倒れ込んでいった。

「ふむ……名高き西涼騎馬隊と言えども、指揮執る将無くば有象無象と成り果てるか……。存外、詰まらぬものですな」
「というよりは、何処からともなく集めてきたならず者の集まりって感じがするけどなぁ。はっきりと言って、こっちの騎馬隊の方が戦力としては上のような気がする」
「ふむ……確かに、言われてみれば。となると、西涼騎馬隊の名もそれほどでは無い、と?」
「いや……翠と蒲公英の言葉通りなら、明らかに戦力自体は西涼騎馬隊の方が上だろう。そもそも……」
「身なりも装備も各々ばらばらか……。これは――」
「本隊が別にいる、と見て間違いないでしょう」

 本隊、というよりは精強と謳われた西涼騎馬隊の噂の元なのだが、梁興麾下の兵を見るに、どうもそれとは違う気がする、というのが俺と趙雲の見解だった。
 身に纏う装備は元より、手の持つ武具も拵え等がばらばらであればそれも仕方がない。
 さらには、指揮官たる梁興が討ち取られた後の対応――逃げ惑い混乱するその様が、確信にも近い見解を後押ししていた。

 となると、本体――噂に名高い韓遂麾下の西涼騎馬隊はここではない何処かにいるということになる。
 長安攻めだったであろう軍勢にそれがいないことにも驚きであったが、今そこを追求してもどうしようもないし、答えられる将がいる筈もない。
 今ここで問題なのは、西涼騎馬隊が何処にいるかということである。
 西涼に控えているのか、この戦場を伏兵として臨んでいるのか――或いは、石城や安定、他の村々を攻めているのか。
 しかし、伏兵の存在は忍からは報告されていない。
 されば他の街か――そこまで思考を働かせて、わっと湧いた喊声に思考を中断された。

「董卓殿が攻め寄せたみたいですな」
「みたいですね……考えても埒が明かないな。翠達と合流して予定通りに動きましょう、子龍殿」
「うむ、心得た」

 一度二度、頭を振って先ほどまでの思考を追い出す。
 西涼韓遂軍本隊が別にいる確信は持てても、それが何処にいるのかの確信が持てない以上、これ以上の思考は何かに嵌り込んでしまうだけだろう。
 何より、目の前の戦局は常に動いている。
 思考と行動、それぞれ別のことを行いながらそれらを両立出来るほど器用では自分のことを認めて、俺は一度溜息をついて周囲を見渡した。

 指揮官たる梁興の死、混乱の軍勢を掻き乱していく俺達、止めとばかりに押し潰さんと攻め寄せる董卓軍本隊。
 それらを示されて、いよいよをもって西涼韓遂軍が梁興麾下の軍勢は敗走を始めていた。
 統率の取れていない軍は脆い、とは賈駆から耳が痛いどころか耳の感覚が無くなるまで言われ続けてきたことだが、こうもそれを示されると胸の奥がずくんと重くなる。
 石城の戦い、安定の戦い、反董卓連合軍との戦い、諸々。
 そういった戦いの中で梁興のように骸を転がしていたのは自分であったかもしれない、なんて今更ながらの重圧が身体を重くしていく。
 
 ――落ち着け。
 高く鈍い音を響かせて迫る剣を叩き落とし、その動作と共に胸の中に溜まっていた息を一気に吐き出した。
 戦場の中で余分なこと、過分なことを考えている余裕は無い。
 今この場では命の遣り取りが全てであり、趙雲や兵の命は俺の手にかかっていると言えるのだ。
 自らの骸を想像するよりも遙かに思い重圧――だからこそ、俺はそれを振り払うかのように声を荒げて剣を掲げた。
 
「一気に駆け抜けて翠達と合流するぞッ。全員、後れずついてこいッ!」
「応ッ」
「はッ」

 ――とりあえず、うだうだ悩むのは後にしよう。
 そう考えて、俺は馬腹を力強く蹴った。





  **





「……帰った」
「おう、ご苦労じゃったの」

 むわっとした戦気と血の臭いを纏わせて入ってきた男――樊稠に、郭汜は特に気に留めることもなく軽く言い放ち、次いで机の地図に視線を巡らせる。
 むむぅ、と眉を潜ませて地図の上に指を這わせ、違う違うと呟きながら頭を振ってはまた地図と睨めっこをする。
 その姿に数人の兵――男女半々――が何かを堪えているのに気付きつつも、樊稠は気にすることなく郭汜の隣へと立った。

「……敵の数は相変わらずだ」
「むぅ……二千のまま、ということか?」
「然り」
「うむむ……」

 淡々と、しかして郭汜だけが何処か悔しそうな色を声に潜ませながら、樊稠は地図に指を這わせていく。
 ――総勢二千、それが安定を囲んでいる西涼軍の総数であった。

「はっきりと言えば、不可思議か奇妙か、それ以外の何物でも無いのう」
「左様。……気とすれば楽だが、意図が読み取れぬ」
「さしものお主でも戦術は読み取れぬか?」
「……そも、指揮官たる将がおらぬでは如何とも出来ぬ」
「……おらぬ、だと? 敵将がか?」
「然り」
「確か馬玩と言ったか……こうまで来ると妙手よのぅ。まさか、と思う他しかないわ」

 さしものわしも掌よ、と郭汜が笑えば、困った奴だ、と樊稠が口を結ぶ。
 そんないつもと変わらぬ姿を見せる二人の将に、彼女達に従う兵達は安堵の表情を見せていた――二人の瞳の奥に宿る真剣味に気づけた兵達は誰一人としていなかった。
 
 現在の戦況は、安定にある幾つかの城門を西涼軍二千がそれぞれ千に満たない兵数に分かれて包囲している状況である。
 通常であれば三倍近くの兵数が必要であると言われる攻城戦の筈だが、守勢側であるこちら側の兵数と同数で包囲しているということに、郭汜は安堵の息を吐けなかった。

「……まあ、十中八九、伏兵を用意しておるだろうのう。二千と見せるはこちらが全軍で討って出るのを誘っておるか……?」
「……場所を探るか?」
「斥候か? ……いや、無理じゃろう。このような妙手を打ってくるのじゃ、無論のこと、そう来ることを見越して兵を伏していることじゃろうて。徒に兵を損ずることもあるまい」
「ふむ……ならば、もう一度出てみるか」
「そうじゃのう……今は様子を見ながら小競り合いをするしかないじゃろうの」

 侍女から手渡された湯に濡れた手拭で血潮をふき取っていく樊稠からの報告をざっと聞いた郭汜は、その情報を頭の中で高速に処理しながら次なる手を模索していく。
 安定の各城門を包囲するのは千に満たない程度であれば、先にも言った通りに安定軍二千で討って出れば撃滅出来ないこともない。
 まあ、他の城門の守備を考えれば千五百程度に減るだろうが、それでも、樊稠が指揮を執ればそうそう遅れは取らないだろう。
 
 しかし、それをしてしまえば伏しているであろう兵に攻め寄せられるは確実である。
 城攻め三倍の考え方でいくのであれば、西涼軍の二千の後ろには四千の兵が待ち構えていることになる。
 さすがにその兵数差を埋められると考えるほど楽天的ではない、と己を評価しつつ、郭汜は樊稠に次なる指示を送るために口を――。

「――――――ッ?!」
「む……どうした?」
「ん……いや、何でもない」
「……そうか」

 どうやら、敵にも策略家がおるらしいのう。
 一瞬だけ感じたぞわりとした寒気に、頭の奥底がちりちりと焼け付くように痛む。
 頭を覗かれている、思考を手に取られているような――実に懐かしい感覚に、つい口元が緩んでしまうのを、郭汜はさして気にすることもなく顔を上げる。
 
 ――かつて、董卓の父であった先代が石城太守として赴任した当時、彼の経歴から権謀術数の塊が洛陽から石城へと持ち込まれた。
 換言虚言は当たり前、女を用いた誑かし、毒を用いた暗殺未遂、果てには賊徒の扇動、等々。
 それらに対処し、対応し、対抗し――そして今という勝利を掴んできた過去を思い出して、郭汜は全身の血が熱を帯びるのを感じた。

「くく……ここまで熱くなれそうなのは、詠達に謀略を仕込んで以来かのう。久々に熱くなれそうじゃ」

 どうやら、敵将は自身と同じ輩らしい――そう、空気で郭汜は感じた。
 敵を測り、図り、そして謀る。
 自身と同じ方面に長けている将が相手である、その事実に郭汜は隠すこともなく獰猛な笑みを浮かべていた。



 ――董家先代の石城太守着任の折にて数多の権謀術数を払い、返したと洛陽は漢王朝内にて恐れられるが一人、『謀師』と呼ばれた郭汜は、じっと地図を睨んでいた。





  **


 



「くふっ……くふふふっ」
「……何が面白いというのだ、痘朴(とうほく、馬玩の字)? そもそも、何故お前はここにいる?」
「あたくしが指示したからですわぁ、汎季(はんき、李堪の字)さん」
「錫辟(しゃくへき、成宜の字)? ……また謀略か?」
「ええ、その通りですわぁ」
「……」

 明るい栗色の髪に意志のある眉、整った顔立ちは馬玩、字は痘朴。
 赤や黒を基調とした煌びやかな衣服のみを纏ったは成宜、字は錫辟。
 黒の長い髪を頭頂部で纏め、意志の強い瞳を持つは李堪、字は汎季。
 安定から望む視界には映り込まないよう台地を影にした西涼軍の陣地内において、三人の見目麗しい女性が一同に集う。
 何処か濁った瞳をしながらも可愛らしい印象を抱く馬玩、気怠い色香を放つ成宜、真面目な印象と整った肢体が印象深い李堪。
 それら三人が並んでいれば、見るは桃園のように華やかである――ように思われた。

 だが、どうだ。
 壊れた――否、壊れている笑みのままの馬玩に何やら悪巧みをする成宜、それを快く思わない李堪の醸し出す空気は桃園とはかけ離れていた。
 それはまるで戦場のようで。
 そんな空気を前にして、彼女達の回りにて情報や報告を受け取る武官達は何かを恐れるように彼女達から離れていた。

「安定に務める郭汜は謀師と呼ばれて洛陽から恐れられていたらしいんやで? そんなお人を相手に真面目に戦う方がどうかしてるわぁ」
「くふふ……くふ」
「それで相手と同数の兵、しかも将無しで包囲させているのか? ……確かに、謀略に長けた将ならばそこに何かしらの意図を感じとって身動きが取れなくなるやもしれぬが……」
「まあ身動きが出来なくなるようにするのも目的ですけどなぁ……いっちゃん良いのはじたばた身動きしてもろうことですなぁ」
「……物資の消耗を早めるのか?」
「左様で。こっちの思惑知ろ思うて身動きしてもらえば、馬なり兵なりでいろいろ消耗してもらえるからなぁ――突き詰めれば、阿鼻叫喚の出来上がり、ちゅうことやなぁ」
「阿鼻叫喚……くふふ……良い響き」

 兵糧攻め。
 そう口にするのは簡単なのに、そのあまりにもかけ離れた策の内容に、馬玩と成宜は恍惚とした笑みを浮かべ、李堪は嫌そうに眉を顰めた。
 兵も馬も、活動するためには糧が必要である。
 馬は動かした分だけ糧をもって補給しなければならいし、その維持にも物は必要である。
 兵に至っては言わずもがなで、武装に兵糧に衛生物質など、様々なものが必要なのだ。
 今回、急襲する形で安定に迫った結果、恐らくではあるが安定の備えはさほど充実しているとは思われない。
 であるならば、兵糧攻め――そして同数の兵を囮にしての物資消耗を促進させるという策は、確かに確実であると言えた。

 さらに兵糧攻めとして恐れられるのは、守勢側の身内から崩れかけないというところにある。
 先の見えぬ籠城戦、奥の見えない心理的駆け引き、ただ減っていく兵糧からの恐怖、疑心暗鬼――そして崩壊。
 その崩壊が身内の将か、或いは民の暴発かは分からないにしても、その先に待っているのは血で血を洗い、血に濡れた大地を持つ安定の街になるだろう。
 そう口上して、成宜はぞくぞくと背筋を震わせ、馬玩は嬉しそうに笑みを深めた。

「……けれど、そう簡単にいくのか? お前の話だと相手は謀師と呼ばれるほどに謀略に優れているのだろう? 軍略と謀略は違うとはいえ、看破されればこちらが危ういぞ?」
「故に、伏兵として隠れているのよぉ。成果を見せなければ内から崩れるのを知っているでしょうし、将がいないと見れば討って出てきやすいでしょう? それに、馬玩の兵達だもの……簡単には壊れない、でしょう?」
「くふ」
「焦れて討って出てきたところを一気に押しつぶす……いや、その間に他の城門に構えている兵に攻め寄せさせるか?」
「ええ、ええ。汎季さんも良く考えていらっしゃるわねぇ」
「これでもお前達と同じ軍師の端くれでな。少しは功を上げねばならんだろう?」

 李堪自身としても、徐々に惨たらしく死へと近づけていく成宜と馬玩の策に思うところはあっても、その有用性自体は認識していた。
 知略と知略をぶつけ合うことこそが軍師、と李堪は常々思っているが、成宜達の策は少ない損害で大きな成果を上げるものであるのだから、軍師としての立場からすれば何も言うものは無かった。
 であるからこそ、李堪は一度だけ深い息を吐いた。

「四方に斥候を放ち、敵の増援を探らせることにしよう。短期決着を望まないのであれば、敵の戦力が増えるのを止めるに越したことは無い」
「あらぁ、敵の増援がこちらより多い場合はどうするというのぅ?」
「その時は包囲している戦力を引かせればいい。それに食付いて討って出てくれば、そこを一気に強襲すると同時に城の中に雪崩れ込めばよかろう?」
「くふ……その後、城門を閉めればそれでいい……くふふ」
「食付いてこなければそこで退く、ということねぇ?」
「うむ。……まあ、韓遂様の策が行われていれば安定への援軍など有り得はしないのだが、な……」

 しかし、と李堪は思う。
 油断と慢心、そして服従すると思わせるために単身洛陽へと赴いた韓遂が董卓を討ち、その混乱をもってその勢力を攻め抑える。
 なるほど、自身よりも大きな勢力を相手にする時や、小さな勢力をそのまま併合する時には有効な手であるだろう。
 だが――それは、最低でも頭を押さえなければならないということでもある。
 あるいは、逆に頭を押さえられたとしたら――。

 そこまで考えて、李堪は頭を振った。
 今この場で考えても仕方の無きことか、と。
 そもそも、策は既に現段階まで動いてしまっている。
 いくら――いくら李堪が韓遂の策に不安を覚えていたとしても、人も軍も時も止めようのない段階まで動いてしまっていては、もはや止めることなど不可能であった。

「そも、ここで止まるは汚濁か……清流目指すならばただ流れるしかないのだろうな……」

 ぽつり、と呟いて安定を遠く見つめる李堪に並んで、馬玩と成宜も視線を送る。
 慌ただしく蠢くその城壁――その奥にいるであろう謀師との知略合戦に挑みかかるように。
 


 ――奇しくも、城壁と空を超えて三人の視線と郭汜の視線がぶつかり合ったのは、同時であった。








[18488] 七十一話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2012/12/27 18:04





「悪い、遅くなった」

 未だ兵達の喧噪が絶えることなく、右へ左へ伝令が走り回っている間を縫って、俺は小綺麗にされた天幕の中へと馬超を伴って脚を踏み入れる。
 慌ただしくも剣戟の音が響いている訳では無い筈なのだが、天幕の中は未だ戦場にいるかのように張りつめたまま沈黙していて、戦いがまだまだ終わらないことを静寂に示していた。


 西涼連合軍――韓遂軍との緒戦は終結へと向かっていた。
 衝突初めの一合で先鋒を束ねる梁興を馬超が討ち取ったことは元より、それによって指揮統率の崩れた残党軍を董卓軍三千で散々にすりつぶすことに成功したのだ。
 馬超を筆頭に騎馬隊で一気に敵軍中を駆け抜け反転、後に後方より追いついた歩兵との挟撃。
 元々の予想通りに賊徒崩れのような兵達はそれに対抗することは敵わず、ついには敗走することになったのである。

「追撃の方はどうなってるの?」
「そっちの方は子龍殿に任せてきた。深追いはしないように厳命してるから、少しすれば戻ってくると思う」
「そうですか……馬超さん、お怪我はありませんか?」
「あっ……い、いや、別に」
「ふむ、さすがは音に聞こえた錦馬超ということだな。うむ、頼りにさせてもらおう」

 そうして。
 敵軍の敗走後、その追撃を趙雲に任せた俺は本隊にて陣地構築後に董卓の天幕に軍議のために集結していた董卓軍武将の面々に合流した。
臨時で築かれた陣地ながら反董卓連合軍との戦いで培われた技術は用いられており、賈駆からの要請の下に派遣した郭嘉と程昱が構築指示した陣地は、戦場の最中においても安心感を抱くことが出来る。
 さすがは二人だ、なんて視線を送ってみれば、こほんっ、と何処か遮るような賈駆の咳に促されて彼女が拡げた地図へと視線を送った。
 
 暴れに暴れた馬超に労わりの声をかける董卓とそれに若干慌てる馬超、その武勇に感心している華雄などに、少しだけ肩の力が抜けた。

「さて……じゃあ、状況を整理するわね」
「梁興の先鋒は梁興自身を馬超が討ち取ったことにより瓦解、残兵は今現在追撃中。そして、今俺達は情報収集、状況把握、そして休息のために陣を張っていると」
「当初の予定通りに、ですな。もっとも、戦もすぐさまに終わったことですし、もう少し進んでも良い気がしますが」
「援軍の可能性が無いとも言えないのですよー」
「もっと言えば、早急に安定を陥落させた西涼軍が押し寄せないとも限りません。一日二日ほどは余裕があるでしょうから、休めるうちに休んでおきませんと」
「……ご飯は大事」

 何処か物欲しそうに呟く呂布に苦笑しつつ、飛び交う情報の中から俺は現状を頭の中で整理していく。
 今ここ長安の外れにいるのは董卓を始めとした董卓軍でも古参の主将――徐栄と徐晃は洛陽の警戒に残っている――と、俺の副官級である趙雲と郭嘉、程昱の三人に西涼馬騰軍から馬超と馬岱の二人である。
 梁興の軍勢と戦ったことで幾分かの損害はあるものの、それでも兵数は三千前後という数に留まっている。
 同数程度の騎馬隊を相手にそれだけの損害で済んだことは僥倖であったが、馬超の活躍や敵軍が賊徒崩れの統率が緩い隊であったことなど、色々な幸運が重なったことも含めてまず及第点であった。
 それと同時に、賊徒崩れの兵が先鋒であったということ――それは最精鋭の本隊が別にいるということを推測するに十分なもので。
 そんな俺の推測に、軍師達は一斉に眉を顰めた。

「お兄さんの言うことももっともですかねー」
「……その可能性もあり得ますが……いえ、これだけあっさりと敵軍が瓦解したことからも、そちらの可能性の方が大きいかもしれませんね」
「確かにご主人様の言うとおり、梁興が率いてた兵達はならず者上がりみたいなのが多かったけどさ……」
「馬超さんが言うのならその可能性を想定して動いた方が良さそうですね……どうかな、詠ちゃん?」
「んー……まあ、想定しておいても問題は無いでしょうし、それでいくとしましょうか。……六千が安定、四千が石城、こんなところかしら?」
「もう千ずつぐらいは多いやもしれませんね……総兵力は二万ほど、で間違いなかったでしょうか、馬超殿?」
「う、うん」
「稟ちゃんの言う通りぐらいでしょうかねー。囮とでも言うべき役に韓遂さん自身が出てたんです、乾坤一擲で来てもおかしくはないでしょう」

 一を聞いて十を知る――この場合は十を考えるとも言うが、さすがは権謀術数を極めた軍師達と言うところか。
 本隊が後ろにいるかもしれない、との俺の言葉から推測して即座にその兵力を導き出すとは思っていなかった。
 それでも、ああでもないこうでもない、と韓遂軍の兵力戦力の検討を始める軍師達から視線を外すことなく俺は軍師の交わりに混ざっていない陳宮へと口を開く。

「本隊がいる可能性を検討してもらえるのは策を取り入れられた時みたいで嬉しいんだけどさ……なんでそこから兵の数が出てくるんだ?」
「そんなことも分らないですか?」
「……大体の予想は出来る」
「はぁ……いいですか、韓遂が率いることの出来る総兵力は二万程度、韓遂自身が出ていることも考えれば一万五千程度は今回のことで動員していてもおかしくは無いのです。その内、三千近くの兵は先立っての戦で蹴散らしたのです」
「残りは一万二千ほどってことか……ただ――」
「……石城は董卓軍にとって本拠に近く堅固、ならば勢力下になってまだ日の浅い安定を攻めるならば勝機は十分でしょう――が、石城に籠るは李確殿なのです」
「なるほど……足止めか」
「精鋭たる李確殿の兵を石城に押さえつけ、さらには石城を囲んだ後に安定を目指すことによって伝令や情報の伝達を防ぐことにもなるです。石城には抑え込めるだけの兵で囲み、安定に注力して先に落とそうとするのは理に適っているのですよ」

 さらには攻め落とすことの出来る安定を先に落とすことが出来れば、董家の根拠地でもある石城を攻め落とすには十二分な時間を稼ぐことができ、より大きな損害を与えることが出来る。
 ふふん、と胸を張りながらそう述べる陳宮の頭を呂布が撫でると、陳宮がさらに威張るように胸を張る。
 それに――わずかばかりの感情を抱きながらも――苦笑して視線を地図へと戻せば、どうやら軍師達の意見は纏まったらしい。

 安定に七千ほど、石城に五千ほど――それが、西涼韓遂軍の全貌。
 その事実に、ごくりと喉を鳴らす。
 三千程度の兵を討ち散らしたとはいえ、今だ健在であるそれだけの兵力に思うところが無いといえば嘘になる。
 だが、こちとら五千の兵で二十万の前に立ったこともあるのだ。
 とりあえず、あの時と同じ状況では無いだけ運がついているのだと思うことにして、俺は董卓の言葉を待った。

「それでは、私達は明朝までここで陣を張り待機。陽が明けた後に再度進軍、まずは安定を目指します」
「か――北郷は三交代での見張りの段取りをした後に後日の野営地候補を選出しておいて。華雄と恋、ねねは兵の統率。安定と石城を囲んでいると想定したとはいえ、敵がどう動くかは分らないわ。警戒だけは絶やさないようにしておいて」
「ああ」
「うむ、心得た」
「では、私達は斥候からの報告を纏めることにしましょう」
「そうですかねー。忍者さん達は?」
「すでに放っているわ。多分だけど、もうそろそろ第一陣が帰ってくる頃じゃないかしら」
「ではそちらの方の取り纏めもしましょうかねー」
「うん、頼む、風。それに奉考殿も」

 そうして、指針が決まれば行動が早くなったのは戦いを潜り抜けてきた故か。
 自らが生まれ育った街である石城、自らを頼りにしてその下に下った安定、そのどちらもが戦火に巻き込まれようとしているのに――既に巻き込まれていてもおかしくないというのに、董卓はてきぱきと指示を下して賈駆を話し込む。
 どくんっ、と胸の奥底が鈍く痛む。
 俺が――俺の生まれ育った地は遥か遠くで、守りたかった日は過去のものだが、それでも、それをまた失ってしまうかもしれないと考えればどうしようもない不安に駆られてしまう。
 董卓もまたそうであろうというのに、それを表に出すことはなく指示を下す表情に、俺は一度だけ深く息を吐いた。

 守りたい場所、守りたい人達――それは過去にではなく、現在にある。
 以前のそれを守りきれなかったことに言い訳を並べるつもりはないし、かつてあった日を忘れたこともないし、振り向かないと決めた訳でもない。
 けれど、今また――守りたい人達のそれが侵されようかとしている時の中で、後ろを振り向いたままでいるか、前を向いて対処するかと言われたら、俺はもちろん前を向きたい。
 そのことを考えて、いかんいかん、と心の中から要らぬ思考を振り払って、俺は一度だけちらりと董卓を見てその天幕を後にした。

 一度だけ虚空に吐いた息は、白く染まっていた。





  **

 
 


「――よーし、やぁっと着いたなぁ」

 ふわり、と地に人影が舞い降りる。
 音を立てるは木製の履物で、その身体は軽やかな衣服に纏われている。
 ひんやりとした夜気がさらし越しに肌に染み入るが、ぶるりと身体を震わせながらもその人影はにやりと口を歪めた。

「……人の姿は確認できませんね」
「そらそうやろ。安定の救援戦でこの村は一度放棄しとるからなぁ。一回捨てたんは中々に元には戻らん。……一刀の奴も、その辺は分かっとる筈や」

 夜を迎えたばかりだというのに、空にはすでに星々が主張を始めており、まるで草に代わる草原のように夜空を満たす。
 それを満足そうに見上げて、人影――張遼は大きく息を吸い込んだ。

 胸一杯に程よく冷えた夜気が入り込んで、戦を前にした高揚感を静かに押さえつけていく。
 さらしに覆われたたわわな胸が張り出されて、張遼の横にいた副官たる男がせき込みながら視線を外した。

「……安定と石城、救えると思いますか?」
「救えるとちゃうで。救う、やろ?」
「……は。しかし、この数では――」
「――」

 ぶるる、と馬の嘶きが無人の村に響き、それを抑えるかのように数人の人影が蠢く。
 ゆらりと空気が――時が揺れた。
副官たる男はそんな錯覚に落ちた。
 深々とした夜において、それは異質であったと言っていい。
 そしてそれが、見た目のんびりと夜空を見上げている女のものであることに身が震えて、そして納得した。

 神速の騎将――張文遠。
 目の前にいる人物はまさしくその将なのだと納得させるように副官たる男もまた、夜空を見上げた。

「――愚問でしたな。我らは二十万の中を駆け抜けた。如何な西涼軍といえど物の数では無いかと……」
「油断は禁物や。……もっとも、うちらは正面切ってぶつかるんやないけどな」
「ふむ……左様でしたな。まあ……もとより我々が得意な戦いではありますが」
「そうやろそうやろ。騎馬隊の本領発揮や……めっちゃ楽しみやねん、うち」
「反連合軍との戦いでは満足に騎馬の足を活かせませんでしたからな」

 にぱっ、とまるで童女――どちらかというと童だが――のように瞳を輝かせる張遼に、彼女の纏っていた気がゆらりと霧散する。
 その瞳は本当に楽しみにしているようで、今が戦に赴く前だとは副官には到底思えなかった。
 だが――。

「……油断は禁物、だろう?」

 ――ぴりっ、と。
 先ほどまで張遼が纏っていた気とは違う、まるで研ぎ澄まされた刃のような気を纏わせて、男の声が辺りに満ちる。
 それに合わせて、細身の人影が脚を進め、土を鳴らした。

「……忍の配置は済んだん?」
「問題無い。もとより安定周辺は我らが領域、西涼軍から姿を隠すことなど容易いことだ」
「……まあ、白波賊ちゅうたら石城の辺でも結構手広いって有名な賊軍やったしなぁ。馬に船、何でもござれって聞いたで?」
「まあ、貴白(楊奉の真名)が来る者拒まずだったからな。戦乱に辟易した奴が集まったのが白波賊だ、変に突出した賊軍が出来上がるのも無理はない」
「……その纏め役はあんたちゃうんか?」
「さてな」

 まるで空気が実体を伴ったと言えるような風貌の男が夜影から姿を現す。
 黒い衣服に身を纏いし男――韓暹は、苦笑するように肩をすくめた。
 どうやら、自身が白波賊――今では忍だが――の纏め役であると半ば理解しているらしい。
 様々な苦労――主に上役である楊奉が原因のそれでそのように見られていることは、韓暹にとって苦笑するようなものであったらしい。

「それらの突出した最たるが貴白だからな、必然として取り纏めは俺になる。……苦労したことなど、手足の指では足りぬよ」
「そのお気持ち、良く分ります」
「……どういうことや、それ?」
「無論、言葉通りの意味で」
「ぶぅー」

 だが。
 当の韓暹自身はそれを苦笑はしながらも嫌な顔もせずに語っている。
 その事実が彼自身の中で納得いくものとして、理解でき迎え入れているものであると張遼は理解して、楊奉に向ける韓暹の信頼のようなものが垣間見えた気がした。
 男女のそれとは少しだけ違うような、けれども何処か温かいと思える信頼。
 それにほっこりと胸の内を温めて、ちらりとだけ副官たる男を見てみる。
 
 彼との付き合いはそれなりに長い。
 石城を治めていた董家の先代に仕え始め、女などと馬鹿にされて叩きのめしたのが出会い。
 それから色々と紆余曲折を経て副官へと収まった男との信頼関係を期待した張遼は――続いた副官の言葉に頬を膨らませていた。

「……それにしても、いささか驚いたぞ」
「ん……まぁ、その辺は一刀や月っちの先読みやなぁ」
「それだけでは無いだろうが……神速将軍の名は伊達では無かったということか」
「いややわぁ、照れてまうやん」

 しなっ、と妙な動きを始めた張遼へ視線を一度も向けることなく、韓暹は続けて口を開いた。

「……さて、部下を配したとはいえ警戒するに越したことは無いだろう」
「ふむ……では斥候の手配に移ります」
「おう、頼むで。情報はいつぐらいに届く?」
「天候と状況によるだろうが、明日には」
「そっか。ほなら四隊に分けて二刻ずつでいこか」
「はっ」

 副官たる堂々とした声で周囲の兵を集め始めた男の背と影に溶けるように消えていった韓暹の姿から視線を外しながら、張遼はぐるりと周囲を見渡す。
 がちゃがちゃと金属が重なり擦れ合う音が響く村は無人で、あまりにも静かすぎていた――静かであるということがあまりにも自然であった。
 それもその筈である。
 張遼率いる董卓軍騎馬隊が駐するその村の位置は、安定の街より程よく離れた地点――かつて、黄巾賊が駆け抜けたその途上。
 ――北郷一刀が策によって囮とするために廃棄された村、その一つなのだから。

「……ふぅ」

 張遼は、月を眺めながら白い息を一つ吐いていた。

「間に合わせる……それがウチの役目や」

 戦いの時は近い。
 そう思わせる声色で、張遼はぽつりと呟いていた。





  **





「ああッ?!」
「なんだよ、このッ」
「……止めてくる」
「うむ、任せたの」

 はぁ、と吐息を一つ零して、郭汜は眉を潜ませる。
 石城の李確から急使が届き安定が西涼軍に包囲されて、すでに結構な日数が経過した。
 日数が経過したにも関わらずこうして思考出来るということは未だ自身の身が健在である証拠なのだが、それを僥倖と喜ぼうにも戦況は芳しくない――正確を期するのなら、動きはまるで無い、と言ったほうが正しいか。
 安定の街を包囲したは西涼軍およそ二千ほどだが、これらが一向に動きを見せないことこそが問題であると言って正しかった。

 現在、安定に詰めるは二千程度の兵である。
 安定救援の折に勢力下に入った安定の軍兵は董卓軍への感謝や諸々からその士気こそ高いものの、練度はお世辞にも精鋭とは言い難い。
 主力となりうる兵達を先代の安定太守が連れて行ったためだが、それでも、新兵同然だった兵もどうにか賊徒を打ち破るぐらいまでには育ってくれた。
 だが、精鋭と謳われる西涼軍相手には未だ荷が重いのも、また現実である。
 それを考えてこそ、無暗な兵の減少を抑えるがための籠城、防衛という戦であったが、まさかここまで相手側に動きが無いとは思わなかった。

 攻める様子も気配もなく、包囲の陣内にて鍛錬等に明け暮れる――そう思いきや、討ち散らそうとこちらが動きを始めれば即座に体勢を整えて迎え撃ち、痛手を与えようと動く。
 そもそもの練度は向こうが上である、有効な手立てもないまま戦う訳にはいかず、さしたる戦果も損傷もないままに撤退を繰り返しては出陣し――そして現在に至っていた。

「むぅ……これはやられたのぅ」

 防衛戦、その戦果だけを見るのならば、この戦いは上々も上々、これ以上ない戦果であった。
 何しろ目立つ損傷が無いのだ、守り切れていると言い切っていいものであった――だが、籠城戦として考えるのであれば、今現在の状況が非常に不味いことに、郭汜は焦りをにじませていた。
 
 ――要は士気の問題だ。
 練度は低いものの士気が高い安定の軍兵ならば、西涼軍相手と言えど負けぬ戦――十二分以上の戦いが出来るものだと郭汜は確信していた。
 郭汜が軍略戦略戦術を構築し、樊稠が敵を討ち果たす。
 練度がいくら低いとはいえ相手は同数、相手の動きを見極めて機会を逃さなければ勝てる――そう思っていたのだ。
 だが、勝敗は決着することなく時が過ぎてしまった。
 いっそ高すぎると言っても良いほどだった士気は戦によって発散されることなく内へと向かい、次第に不満へと変じていった。
 ひとたび内へ意志が向いてしまうと、後は坂を転げ落ちるように士気は低下していったのである。

「さらには糧食の問題もある、か……」

 そして、第二の問題が兵糧である。
 戦時であるならば、と協力してきた商家の面々は戦の長期膠着化からによる財政圧迫を恐れてすでに数が少ない。
 この辺は勢力にして時が経っていないことが多いに関係あるのだが、今はそんなことを論じている場合ではなく、そして意味も無かった。
 ともすれば、兵と商家――安定という街が近すぎたこそが問題でもあった。
 商家が離れていった――それはすなわち戦時からも離れていったと独断で判断した兵達が湧き出したのである。
 戦時であるからこそ少ない食事で耐えていた兵達は、商家が離れた途端に浪費を増やした。
 もともと戦経験も少なく、また戦果が無く不満を向け始めていた時期だったのがさらに災いしたのだろう、浪費は速やかに兵に浸透していった。

「どうにかして締め付けてはいるが、全てを見渡すこと能わず、無理矢理にでもすれば兵と民の両方から反感を受けるか……なかなか、どうして……」

 安定を助けたというのはついこの間であるというのに――などと郭汜は言わない。
 戦うのも人であれば生きていくのも人である、人の機敏など悟れるものではないし善手を打てない自らの責は重々に承知しているつもりであった。

「かといって討って出るは愚策、籠り続けるのも愚策。はてはて、打つ手無しとはまさにこのことかのぅ……」
「……嬉しそうに言うな」
「おや、終わったのか?」
「うむ。黙らせておいた」

 言葉を放ちながら手のひらを気遣う 樊稠に、殴って黙らせたのかと視線で郭汜は問う。
 その視線に悪びれる様子もなく、樊稠は口を開いた。

「……忍から報告があった。山の向こう、影に隠れる形で西涼軍の別隊が見つかった」
「ほう……?」
「その数は五千ほどらしい」
「それが全てなら、総数七千といったところか? こちらの三倍以上ではないか」
「兵達には知られていない――が、ただ事ではないことは理解しているらしい。騒動の数は日に日に増しているからな」
「……こちらの準備不足が見透かされておるようだのぅ」
「……一つ言わせてもらうが」
「うん?」

 樊稠が地図に記していく西涼軍の兵数や配置、忍の動向、包囲している西涼軍の動きなどを視界に収めながら、郭汜は腕を組む。
 さらり、と上質な布が滑る感触を幾分か楽しみながら、それと並行して思考は高速で動いていく。
 西涼軍の兵数――おそらく、七千が全軍だろう。
 西涼軍の策略――動きの無いまま包囲、戦果の無いことと兵糧の減少からの士気低下が目的だろう。
 西涼軍のこれからの動き――士気が最低限まで落ち切ったところで全軍による攻撃、或いは撤退に見せかけて戦果に逸った出陣を誘うか。
 石城の動向――李確ならば問題無いとは思いたいが、同時攻撃ならば援軍の期待は出来ぬであろう。
 洛陽、董卓軍本隊の動向――未だ急使として放った忍は辿り着いていないだろう、そもそも距離が距離である、到着までにあと数日は要することは明確であった。
 となれば、洛陽から――長安からの援軍でさえ到着するまで十数日以上はあることが確実であって、その期間、如何にして西涼軍を防ぐかが今戦の肝と言えた。

 そんな考えが顔に出ていたのだろう。
 動きのないまま――その実、心底憐れむような声色で、樊稠が口を開いた。

「そんなに嬉しそうな顔をするな。兵が見ている」
「む? 笑っておったかや?」
「にやけておるぞ」
「あや、そうか。まぁ、いや何、心底楽しいからこそ笑っておるのよ」
「……楽しむのは良いが、今は目の前を打破することを考えてくれ」
「分っておる、分っておる。……ふん、策を練るにはまず情報じゃ。忍を呼ぶとしようかの」
「呼んで来よう」

 やれやれ、といった態度を隠すことなく立ち上がった樊稠に歯を覗かせたまま笑みを送って、郭汜はどっかりと椅子に深く腰掛ける。
 安定の先代太守が用いていたらしい背もたれ付きの華美すぎる椅子であるが、こうやって身を休ませるのには実に役に立つ――脂肉たっぷりだったその男とは違い、幼子な容姿ながらも威厳のある郭汜が脚を組んでいるのは凄まじく不釣り合いに似合っているのだが、本人は知る由も無い。
 


 ――顔や動きには出さないが、郭汜自身もそれなりに疲労の色が濃くなっているのを自覚している。
 先の見えない籠城戦、不安定な状態となった安定の街に兵、数え上げればきりがないほどに積み重なっている不安要素に、否が応にも疲労は強くなっている。
 目を瞑って身を任せた安堵のままに気を抜けばすぐにでも眠りへと陥ることが出来るだろうが、樊稠が帰ってくるまでそんなに時間は無いだろう。
 であるからこそ、目と頭を休める程度に休んでおくとしよう――今だけは。

 だが。
 郭汜のそんな思惑は、まったくの無駄に終わらされることになる。

 ――珍しくも慌てた様子で樊稠が連れてきた忍の一人が矢継ぎ早に放った報告に、郭汜はあまりの驚きに空いた口を閉じることが出来なかった。



 ――董卓軍三千、安定の街より数里にてこちらの救援の機を窺っている由。
 
 
 
 あまりにも早すぎる援軍に、戦況は郭汜の思惑とは擦れ違いながらも加速するのであった。






[18488] 七十二話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/02/26 19:07





「――何ということだ」

 安定攻略における軍議の最中、突如として舞い込んできた報を確かめるために天幕を飛び出した李堪の視界に、俄かには信じ難い光景が映し出される。
 安定攻略――知謀策略の限りを尽くしていた戦いは、自軍にとって優位に押し進んでいたと言っていい。
 安定に籠る董卓軍と同数の兵で包囲し、さも策があるかのように動き、董卓軍の不平不満と疑心を燻らせ、焦れて討って出てくれば控えていた軍勢によって討ち滅ぼす。
 李堪と成宜によって構築された、謀将たる郭汜が率いる安定を攻め落とすための謀略は、既に終わりが見える状態にまで進められていたのだ。

 だが――。
 だがそれも――董卓軍に援軍が来ない、そのことを前提にしての話である。

「……『董』の旗に色々と、馬超と馬岱の『馬』旗もあるわねぇ。んー……三千ぐらいかしらぁ?」
「それぐらいだろう。――前提が崩れたな」
「韓遂が失敗したってことね。死んだか、捕えられたか……。あまりにも早すぎる気もするけど……どちらにしろ、この戦は負けね、負け」
「まだ完全に負けたと決まった訳でも無いし、韓遂殿が失敗したという可能性も無いが……だが、董卓軍が長安を超えて来たということは、梁興は敗れたのだろうな」
「ただ単に見つからなかったのかもしれないけど……最悪の場合、死んだかもしれないわねぇ」


「――くひ?」


 通常、敵地に接している拠点というものは防備を固めているというのが常である。
 勇将名将が兵を率い、万全たる体勢で敵を待つ――董卓軍で言えば、まさしく李確籠る石城がそれであった。
 だからこそ、西涼韓遂軍は石城を落とすための策略を進めていたと言っていい――まず一番に落とさないことによって、石城を、董卓軍を攻め落とそうとしていたのだ。
 反董卓連合軍との戦いにおける傷が治り切っていない今、董卓軍の西の抑えは李確が柱と言って良いだろう。
 その李確が籠る石城を包囲によって固め、防備の薄いその裏を落とせば董卓軍は防備の要との連携を失って一気に瓦解するだろう――しかしてその目論見は、突如として現れた董卓軍の援軍によって崩れ去ることとなり、戦況は大きく覆されてしまうこととなったのである。
 
 そして、董卓軍の救援がここに至ったということは、洛陽にて混乱を起こさんとしていた韓遂、長安に攻め入る予定であった梁興は失敗したということでもあった。
 彼らが無事に使命を果たしたのであれば、ここに至っていたのは韓遂本人であっただろうが、その旗が見えないであればその可能性は無いだろう。
 捕らえられたか、逃げたか――或いは、死んだか。
 死んでいる可能性の方が大きい、という予想を李堪は決めつけることはなかったが、軍師たる成宜が可能性を浮かべるために口にした言葉は――首をひねる馬玩の耳へと届いていた。



「くひ、くひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ、くひひひ、くきききききき、きき、き、き――――ッッッッ!」



「ひぃッ?!」
「……」

 途端、悲鳴が上がる。

 壊れかけのような――否、子供が首をもぎ手足を折った壊れた人形のような動きで不気味な叫び声を上げる馬玩に、異様な空気が溢れ出す。
 兵の中にはあまりの異様さと異質さと恐怖から声を漏らす者もいた。
 
 ――確かに、馬玩のことを知らない者からすれば、今の馬玩の異様は明らかに恐怖を抱くものだということは李堪も理解していた。 
 だが、李堪にしろ成宜にしろ、馬玩が梁興に壊される前からの付き合いだからこそ、これが彼女の怒りの表現であることを知っている。
 ――儚くも爛漫だった笑顔は、壊れたように歪で。
 だからこそ、馬玩が自らを壊した男の死を悲しみ怒り狂っているのだとすれば――今にも無垢なる殺意を吐き出そうとするのであれば、共をするのが同じ軍に属する者として、友としての役割だろうと李堪は一つ息を吐いた。

「さて……お前はどうする?」
「負けが決まってるなら即刻逃げたい所だけどねぇ……ま、一戦くらいは問題無いでしょう。……もっとも、勝ちか負けが決まったらすぐに逃げるわよぉ?」
「ふむ、お前らしいな……もっとも、負けるつもりは毛頭ないがな」
「あら、勇ましいわね」
「梁興のことは嫌っていたが、友が泣くのならば弔いの戦も付き合ってやらねばならぬだろう。……それに、負けるつもりは無いと言った。別に勝ってしまっても構わんのだろう?」
「ふふ、あなたらしいわねぇ」

 もしやすれば、旗を出さず韓遂や梁興があの兵を率いている――そんな淡く、微少な可能性を頭を振って振り払った李堪は、にやりと口元を歪める。
 なるほど、方針は決まった。
 一戦するかや。
 そう李堪と同じように口元を歪めた成宜は馬玩へ笑みを浮かべようとして――馬玩がその場にいないことに気づいた。

「あや?」
「あそこだ……さすがに、速い」

 視線を飛ばしてみれば、馬に砂煙を立ち上がらせながら安定を攻囲する自らの部隊へと馬玩が駆けていく。
 くききくかかと笑っていた馬玩は既に兵の下へ向かいました、などと遅れて伝えてくる兵に苛立ちのまま成宜が舌打ちして、やれやれと李堪が肩をすくめた。

「誰かッ」
「――は」
「伝達確保のため数人を率いて石城包囲中の本隊へ伝令。韓遂殿が策は失敗し長安攻略も失敗、董卓軍三千が安定救援のために出陣、これを撃滅する。董卓軍本隊の兵数不明のため、西涼への撤退も視野に入れたし、とな」
「はッ」
「さて……こっちは総勢で五千五百、安定を包囲してはる痘朴はんの二千とあたくし達の三千五百ですなぁ。汎季はん、どう攻めはる?」
「痘朴が前衛として安定と救援両方の董卓軍を押しとどめ、その間に安定を迂回して奇襲する隊と直に救援に来た董卓軍に横撃を与える二手に分かれるとしよう。私が直、お前が迂回……それでいくぞ」
「……奇襲て、ばればれやろ?」
「そんなことは分かっている。敵にこちらの狙いがばれるのも策の内だ。そうすれば、相手の対応は限られてくるからな……狙うはべきは一つ――機を合わせての三面包囲による殲滅戦だ。遅れるなよ?」
「そちらこそ」

 ――すっ、と。
 まるで涼州の果て、平原を馬で駆けていた時のように落ち着いた李堪の顔が引き締まるのを見て、成宜もまた口元を引き締める。
 総での兵数は董卓軍と大差無いが、董卓軍はここまでの強行軍で疲弊していることに加えて、恐らくではあるが梁興の軍勢からの連戦になる。
 対して、自軍は安定を包囲していたと言っても策を前提にしていたためさほど疲弊しておらず、活力から言えば差を言うまでもない。
 また、ここまで溜まりに溜まっている功名心と戦気は、開放の匂いを嗅ぎつけてか。確かで濃密な殺気という形となりて、解き放たれるのを刻一刻と待ち望んでいた。

 敗れる要素など見つけるほうが難しい――そう思うことは、実に簡単であった。
 だが、目の前に迫るは数倍以上にもなる二十万の軍勢を退けた董卓軍である
 油断など出来るはずも無く、手を緩めることなど有り得はしなかった。
 さらには、成宜が謀略に長けているように李堪は戦術に長けている――常日頃から人を信じぬ自らとしても信用に値する、と成宜は身を振るわせながらさらに口元を歪めていた。


 そして――。


「出陣するぞッ、救援に来た董卓軍を叩き潰すッ! 安定に籠る董卓軍の出撃も予想されるが、勢いと勝機は我らにあるッ! 臆するな、いざ――進めェッ!」



 西涼が韓遂軍――その残党とも呼べる者達は、李堪の号令によって戦の勝敗を決するがために謀略の要でもあった伏兵部隊を発した。

 三千五百。
 董卓軍が危惧していた、賊軍にも近かった梁興の軍勢とは違う正規軍。
 精鋭たる騎馬が、嘶いていた。





  **





「――確認するわよ」

 視線は前に。
 戦を前にしてか熱が籠っているのか、馬の動きに合わせながら肩を少しだけ上下させて吐かれた吐息は妙に熱っぽくて艶やかだ。
 額にじんわりと浮いた汗が髪を張りつかせていることに気付いているのかいないのか、そんなことを構うこともなく、賈駆は口を開いた。

「まずは安定を包囲する西涼軍の撃退ね。恋、華雄は先に突っ込んで暴れてちょうだい」
「……ん、分かった」
「ふ……任されよう」

 視界の遥か先――西涼軍に包囲されている安定が見える。
 あの地を舞台とした黄巾賊との戦がつい先日のように思い出されるが、まるで繰り返されるが如くのように、あの時に似た光景が視界に映し出されていた。

 城壁の隙間に刺さったままのものや、半ばから折れている矢。
 わらわらと兵が蠢く城壁の上は、未だ堅牢さを示すかのように防戦の準備をしているもののさしたる活気が見当たらない。
 まさしく陥落寸前といったふうな安定の街を、風に揺らめく『董』の旗だけが元気づかせているようであった。

 ――士気が低い。
 安定の有り様を見て、俺はそんな感想を抱く。

 事前の情報では安定の兵は二千程度だった筈である。
 安定救援以降にて急募した志願兵や徴兵が大半を占めていた覚えがあるが、練度が低い兵による戦の恐怖故に――という訳ではどうにも無さそうだ。
 恐怖で士気が低いのならば、救援が現れた段階で士気は回復するものだと思う。
 だが、どうにも様子はそのようではない。
 近づくにつれて、どうやら士気が低いというよりも、鬱憤が溜まっているような印象を城壁の上で防衛の準備を進めている兵から見て取れた。
 なぜ、なにゆえ――と眉を潜めて呂布と華雄を見送りだしたところで、傍らにいた郭嘉の言葉に耳を取られた。
 
「城壁の損傷具合が低いながらも士気が低いところを見るに、恐らくは謀略の類かと」
「む。安定には郭汜殿がいるけど……それでも、と?」
「詳細は何とも……ですが、安定の兵は石城、長安、洛陽から比べて一段と錬度が低かったはず。言うなれば――意思が弱い」
「膿んだ傷、あれは痛い」
「……いきなりですね、子龍殿」
「でも的確ですよー」
「うぅ……痛いのは嫌ですけど……面白い表現をされるんですね、趙雲さんは」
「おや、董卓殿に褒められるとは軽口を叩いた甲斐がありますな」
「いや、褒めてないでしょ」

 趙雲の言葉になるほどと頷く――例えが的確であるかはさておいて。
 そのまま放っておけば治るはずの傷がぐずぐずに膿んでくると、心底としてはあまり良いものではない。
 そのまま安静にしていれば完治するものが一向に治らないのだ。

 それと同じように、疑念の種が安定にはあったのだろう――例え的に傷と言い換えても良い。
 普通ならばなんでも無い傷、それが中々に直らない。
なんで、どうして、と疑問に思う者が出てきたとして不思議ではない。
 そうして、疑問は疑念を呼び、疑念は疑いを呼び、疑いは不和を呼び、不和は不況を呼んで――士気の低下というわけであった。
 おやおや、いやいや、と何やら白熱し始めた趙雲と賈駆の言い合いの合間にそう程昱から教わると、やれやれと俺は口を開いた。

「うん、分かった、状況は分かった。――それで、俺達はどうする?」
「今回、あんたは待機」
「う、うん……まあ、そうだよな」
「当然でしょ? 怪我して剣を握れないのに前線に出た梁興との戦いは勢いを殺さないために仕方が無かったとして、今回はそういう訳にはいかないの。そんな所、剣を握れない奴は邪魔なだけでしょ」
「う……ぐむむ」
「分かった? なら、馬超と馬岱は恋達と合流。郭嘉と程昱もこっちで預かるわよ」
「――え゛っ?」

 ぬぐぐ、と俺を口で負かしたのが余程嬉しかったのか、にんまりとした笑みを誇らせながら賈駆が口早に指示を下していく。
 確かに、手に負った傷によって満足に剣を振るうことの出来ない俺が前線にいてもお荷物が増えるだけというのは理解出来る。
 理解は出来るのだが――果たして、呂布と華雄を抑えることが出来る人物などいるのだろうか、などと他人事のように考えてしまった。

 しかも、賈駆の言葉ではそれに馬超が加わるという。
 ちらりと横目で俺の指示を待つ馬超と馬岱に目を配る。
 馬超は梁興戦の熱が引かないのか鼻息荒く。
 三人の手綱を握らなければならない、その役目を自分が行わなければいけないのかと驚きの声を上げた馬岱は、震えるように涙を溜めた上目使いでこちらを見つめていた。
 その顔に三人を相手にする苦労さを思い出して――俺は賈駆の指示に合わせて声を発した。

「うん――それでいこう。翆と蒲公英は恋と華雄に合流して、先陣を頼む」
「おうッ、任されたッ!」
「うぅ……お兄様の裏切り者ォォォッ?!」

 本当にすまん。
 そんな言葉を馬超につられる形で馬を走らせ出した――どちらかというと引っ張られていると言った方が近いが――馬岱に内心で投げかける。
 騎馬隊を主力とした西涼軍と当たる上で同程度の騎馬隊を率いた経験のある馬超と馬岱は重要な戦力である。
 騎馬隊の練度こそ西涼軍に劣っているからこそ、その戦力を怪我で前線に投入しにくい俺のそばで遊ばせている訳にはいかない――賈駆の判断が理解出来るからこそ、その判断に従うのだ。
 とは言え、明らかに大変な役割を馬岱に任せたことは事実である。
この戦いが終われば何か穴埋めをするべきだろうか、などと考えてみた。

「……さて」
「……あんた、中々に酷いわね」
「今は余裕があるわけじゃないんだろ? だったら、詠の策で月の指示の通りに動いていくしかないさ」
「う……うん。そうね……あんたには、兵五百を率いて遊軍で動いてもらうわ――多分だけど、敵は正面だけじゃないから」
「……謀略の肝か?」
「詠ちゃんは奇襲急襲の類だと」
「ふむ……」
 
 同数の兵で攻囲して疑念を生み出して攻略を容易にする、というのだけが敵の策はないとの賈駆の言葉に、徐々に馬足を速めて戦況を眺めながらも、戦場を確認する。
 先陣を駆る呂布と華雄に馬超と馬岱が合流し、今まさに安定を包囲している西涼軍とぶつかろうとしている。
 二千という数には遠く及ばないが、率いるのは董卓軍でも最上位に位置するであろう武人達だ。
 それに、西涼軍は安定の城門を塞ぐために数か所において布陣している。
 二千が幾つか分かれているのであれば、先陣を駆ける兵数でも十分に対処は可能だろう。

 となれば、俺達としてはその謀略の肝に当たるべき。
 そして、それを賈駆は奇襲と――そのための兵があの二千とは別にいると読んだのだ。
 

 そしてその読みが当たったことを示すかのように、安定より遥か向こう――安定救援戦の際に本陣を張っていた丘の向こうから、三千を超すほどの軍勢が現れたのであった。





  **





「全軍を叩き起こせッ! 敵軍が援軍を含めて攻めて来るぞッ」
「伝令は救援の先陣が敵軍にぶつかった混乱に紛れて外へ出る用意をッ! 決死行になる、馬を引けィッ」

 救援に来たであろう董卓軍本隊。
 一気に戦況を進めんとする西涼韓遂軍とその援軍。
 その両軍がぶつかる地であり、中間に位置する安定の街はその両軍の動きをつぶさに確認出来ていたとともに、瞬く間に喧噪飛び交う戦場と化していた。

「救援軍の動きはどうなっておる?」
「はッ。率いるは董卓様本人と思われます。現在、『呂』と『華』の旗が先陣を切り、それに続いて『馬』の旗が二つ――馬超と馬岱と思われます」
「馬謄の娘達か……『十』――北郷は如何しておる?」
「本隊とともに動いているようです」
「ふむ……対して、敵軍の動きは?」
「……包囲の二千に援軍――敵の肝は三千を超える程度。こちらは二手に分かれて、ここを迂回する軍勢と二千に合流する軍勢として進軍している模様だ」
「ふむぅ……包囲の軍勢が三千ほど、別働隊が二千ほどになるということかや」
「申し上げますッ、救援軍が先鋒、呂布様と華雄様が包囲軍と戦闘を開始ッ! 馬超、馬岱はこれに同調して横撃に移るものとッ」
「加えて申し上げますッ! 韓遂軍の別働隊、こちらの弓が届かぬ位置にて迂回中ッ! 本隊の横腹を穿つ模様!」

 その中でも最たる場所――安定の司令部では、矢継ぎ早に飛び込んでくる報告に目まぐるしく郭汜が地図上の駒を動かしていく。
 安定を中心とし、その周囲に西涼軍。
 それをさらに中心として、正反対の位置に現れたのは両軍の救援軍。
 董卓軍の救援は先陣を先行させて、本隊は少し後ろ。
 西涼軍の救援は二手に分かれて、安定の街を迂回して救援軍を叩く軍勢と安定包囲の軍勢に合流する軍勢。
 戦況の推移、両軍の動き、その含む所に、なるほどのぅ、と郭汜は音に出すことなく感嘆の声を上げた。
 
 恐らくではあるが、董卓軍の救援はここに至るまでにだいぶ無理をしているのだろう。
 こちらが出した伝令か、或いは石城から出た伝令が河を下ったのかは分らぬ。
 だが、どのような形にしろ、どのような経緯にしろ、伝令が洛陽まで向かい、そこから軍勢を整えて出撃したのではここまで早くは来られなかったであろう。
 ――洛陽にて凶事でも起こったのかや?
 その推測に謀略の匂いをなんとなしに嗅ぎ付けるが、しかし、今はそれに思考を動かすことも終わったことを詮索することも、そのような余裕は無い。
 どのような理由であれ、ここまで早く救援に来るためには道中に少なからずの無理を兵に強いたことは、推測に難くなかった。

 対して、西涼軍にはここまで大きな動きは無い。
 包囲していた軍勢にしても積極的な攻めは控えていたし、恐らく伏兵として待機していた救援の軍勢に至ってはほとんど疲弊していないだろう。
 故に、両軍の動きはここまで違う――大きく動く西涼軍と小さく動く董卓軍という、構図。
 そして、それを両軍――その頭脳である軍師が承知しているからこそ、それぞれの動きが噛み合った動きで戦況が進んでいくことに、郭汜は再び感嘆の溜息を洩らした。

「……呆けている場合ではないぞ」
「分っておるわい。うむ……月がおるなら詠も救援の中におろう。多分じゃが、本隊は疲弊が溜まっておる。故に少数ながらも精鋭たる呂布と華雄をこちらの解放に向かわせておる筈じゃ」
「……本隊はどう動く?」
「この迂回している敵別働隊を迎え撃とうとしておる筈じゃ。西涼の騎馬が迂回の勢いに乗せて攻め寄せるは脅威じゃが、恐らく、率いておるは石城から古参の兵じゃろう。五分程度には戦える筈よ」

 洛陽入り以降の兵ならば、恐らく神速と謳っても間違いではないここまでの行軍にはついてはこれないだろう。
 ならば、洛陽以前――それこそ石城からの古参兵ならば可能である、と断じての推測は、果たして当たっているや否や。
 戦が終わった後にでも答え合わせといこうかのう、とにんまりと口を歪める郭汜は、しかし、すっと視線を引き絞って地図上を睨んだ。

 呂布と華雄。
 董卓軍でも一、二を争う武人ならばいかに精強で知られる西涼軍とはいえ簡単に敗れることは無いだろう。
 むしろ、逆に食いちぎってしまいそうな想像すらある――が、そこはやはり人、過度な自信は策略を組む上では邪魔者以外の何物でもない。
 常に失敗を想定してこその謀略――失敗したとして、それでも利と益になることを行わなければならないのだと、郭汜は気を引き締める。
 
 対して、本隊の方は先陣よりも兵も将も多い。
 董卓がいれば当然に賈駆もいよう、あの二人ならば同数程度の敵軍を相手にすれば優位に事を進めることが出来るだろう。
 それは精強で勢い駆る西涼軍とて例外ではない――いかぬな、と再び思考を冷静に沈めていく。
 どうにも、董卓と賈駆を相手にすると童のころからの縁で盲目になりかねない。
 まあ、北郷もいるのだ、年若いながらもそれなりに優れた観察眼を持つあやつがおるならばさしたる心配も必要あるまい――が、何かがぞわりと背筋を撫でる。
 それは、西涼軍に安定を囲まれた後にも感じたことのある感覚で。
 あながち無視は出来ないその感覚に、郭汜は瞳を瞑って思考を働かせた。

「ふむ……恋達の方も五分程度には戦えるじゃろうな。あやつらは――馬超らは知らんが――お主にも勝つほどの武よ。そう簡単に負けはせぬ」
「うむ……だが――」
「――そこで終いよなぁ。如何せん、兵の量と質は武力だけで五分から押し返せる程度は無かろう。月達の方もそうじゃ、五分で戦えて兵の質でそれで終いよ」
「……随分と冷静な判断をする」
「過度な望みはせぬことが策略謀略の約束事よ」

 にしし、と笑いつつも視線だけは真剣に地図を眺める。
 状況、戦況、戦機、各将の思考、敵軍の動向、その全てを高速に混ざり合わせながら、郭汜は一つの判断を線として繋げていく。
 それを、樊稠は遮ることはない。
 腕を組み、じっと何かを待つようにただ黙っているのみだった。


 ――そして。


「――うむ」

 一つ頷きながらも声を発した郭汜に、その思考が結論を付けたことを樊稠は感じ取る。
 勝利を狙い澄ますかのようににやりと口端を歪める童女の如くな謀将は、そんな樊稠に伝えるかのように口を開いた。




「――救援の救援じゃ」




 そうして。
 タンッ、郭汜は駒を一つ地図上へと置いたのだった。





[18488] 七十三話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/04/06 12:50





「我が金剛爆斧、止められるものなら止めてみるがいいッ! 華雄隊続けェッ、一気に押し返すぞッ!」
「……一気にいく。ねね、兵はよろしく」
「任されるですぞー!」

 ――力の暴風が吹き荒れる。

 数人がかりで槍を構えて耐えようとしていた敵兵を一合の下に吹き飛ばし、自らの武器に纏わりついた血潮を豪快に一振りにて吹き飛ばした華雄は、十分に警戒しつつ戦況を見渡した。
 戦――安定の街を攻略しようとしていた西涼韓遂軍、その残党とも言える軍勢との戦闘が始まって少し、安定城門前での戦いは、拮抗しているといっていい。
 精鋭精強と謳われた西涼の兵は――なるほど、噂に違わぬものである。
 それを相手にしているという事実はもとより、数の上でも劣勢であるのだから、拮抗――対等に戦が出来ているのであれば、将という立場からしてみれば何ら問題は無い。

「――足りぬな」

 だが、それだけでは――対等に戦をするだけでは勝てぬ、と華雄は迫る敵兵へ石突きを食らわせた後にその身体を蹴り飛ばした。
 吹き飛んだ兵は、およそ人では有り得ぬであろう飛び方と曲がり方で敵軍勢の中へと突っ込んでいった。

 華雄の武、呂布の武。
 二人の武が合わさったからこそ敵より少数でありながらも対等に戦えているのならば、それを打破するのもまた武であるだろう――以前までの華雄ならば、そう考えていたと思う。

 ――だが、それだけでは勝てぬ戦を汜水関にて知った、と華雄は瞑目する。
 呂布はもとより、他家の者にまで武だけでは勝てぬ相手がいるのだと、この身をもって知った。
 敗者の身として、一度は武人としての全てを失ってしまったのだ。
 武人として敗れ、将として首を取られ、人としての生を終える。
 汜水関にて関羽に討たれてその生涯を終える――そんな華雄を救ったのは、北郷だった。
 そうして、一からまた進めばいい、と武人としての道を見失っていた自分を再び生んだのも、また北郷であった。
 敗れたこと。
 悔やんだこと。
 苦しんだこと。
 悲しんだこと。
 それらを無くすことは出来なくとも――否、出来ないからこそ、それを受け入れてまた初めから武を頂いていけばよいのだと、彼が教えてくれたのだ。

 心折れても目指す頂からは手を離すな、か。
 北郷の言葉を声には出さずに脳裏に描いて、華雄はにやりと口元を歪めた。
 身を救われ、心を拾われ、光を与えられた。
 その事実に、ほわり、と身体の奥底から熱が生まれ、武器を握る手についつい力が入るが、それを嫌うことなく――むしろ心地よいものだと認めて、華雄は一つ息を吐いた。

「――さて」

 思い返すことは重要である――と理解はしたが、こと戦場にあってはそれも否である。
 目の前にあるのは戦場で、命のやり取りである。
 過去を振り返っているような状況ではない。
 となれば、用件は簡潔にせねばならぬ。
 この戦、武だけでは足りぬ――策、或いは戦の流れや機を引き寄せる何かが必要だ、と判断した。
 したところで、迫る敵兵へと武器を向ける。

 振り下ろされる剣をそれよりも早く武器を振るって弾き飛ばし、手首を返したままに身体を一回転させる。
 ごうっ、と風を破る音が耳を掠り、一回転するがままに斬りつけた敵兵が地に伏せる音を聞くまでもなく、それを潜り抜けた敵兵へと回転を利用しての回し蹴りを放つ。
 華雄の蹴りで吹き飛んだ敵兵は、その先にてまるで嵐のように敵兵を吹き飛ばしていた呂布の一撃に巻き込まれて、再び宙を舞った。

 呂布の武は、獣のそれに近い。
 ただ速く、ただ力強く、ただ殺す――そんな武だ。
 それに憧れが無かったと言えば嘘になる。
 彼女のように速く、彼女のように力強く、彼女のようにあろうとしたこともある。
 しかし、それは自らの武ではないと言い聞かせて、そこから自らの武であると言い切れるほどの武を作り直すまでにどれだけの時間がかかったかはよく覚えていない。
 であるというのに、敗れてそれを失う時は実に一瞬であったな、と汜水関でのことを思えば、苦い気持ちよりも先に苦笑が漏れていた。

「……私もまだまだということだな」

 身体を回転させるように一閃させた斧によって群がる敵兵をなぎ倒して、華雄は一度だけ、ふる、と頭を振るうと、口を開いた。

「ねねッ、馬超達の動きはどうなっているッ?!」
「騎馬を率いらせて横撃を任せているのですが……ッ」
「……そんな感じ、しない」
「ふむ――」

 馬超、それに馬岱。
 西涼連合軍が馬騰の陣営から貸し出された二人の将のことを、華雄はよく知らない。
 馬騰の娘である馬超が錦と謳われるほどに苛烈な戦人であることは梁興との戦いの折によく理解したし、その従妹である馬岱もまた人並以上の武人であることは推測に難くない。
 武人として、武将として、戦力として数えるには十分ではある――機を引き寄せる手としても悪くはない。
 しかし、そのことと彼女達を信頼するということとはまた別のことであった――ある筈なのだが。
 しかして、華雄は彼女達のことを疑おうとはしなかった。
 ――それはただ単に、二人の主となっている北郷は信じられる、という簡潔なものである。

「……けど、戦の匂いはする」
「恐らくは敵の伏兵が合流しようとしたのを防いでいるのだろう。……その可能性もあるのだろう、陳宮よ?」
「詠殿達もそう読んではいたのですが……ぐぬぬ、こちらの目論見が崩されては、策も何も無いのですよ」
「まあ、読んでいたのなら如何とでも出来るだろう――よ」

 敵兵数人の身体を戟にひっかけるように放り投げる呂布に負けじと、斧の腹の部分で敵兵数人を纏めて弾き飛ばす。
 子供が無邪気に潰す蛙のような声が戦場の最中に紛れるが、すぐさま喧騒に飲み込まれて大地へと消えた。
 それを特に気にすることもなく、突かれた槍を石突きで弾き飛ばした後に敵兵の胴を斧で薙ぎ払った。
 
「それに……この方が話が早くて分かりやすい。馬超達が援軍、我らが目の前の敵、それぞれを相手にすればいいだけなのだからな。倒した後に片方の援軍、簡潔だろう?」
「難しいのは、だめ……」
「恋殿ぉ……それではねねが軍師として働けないのですぞぉ……」
「む……ねね、可愛い」
「恋殿ぉ!」
「誤魔化されてるぞ、陳宮」

 ひゅん、と乱戦となっているにも関わらず放たれた矢を、斧を頭上で回転させて数発弾く。
 ちらり、と視線を飛ばした先にはそれを指示した隊長格らしき人物が驚愕の表情でこちらを見ていた。
 斬りかかってきた敵兵の襟元を掴んで投げ飛ばしながらその手にあった剣を奪った華雄は、それを特に狙い定めることもなくその隊長格の敵兵へと投げ放った。
 くるくると回転しながら飛んだ剣は寸分違わず――とはいかないまでも、その肩口に深々と刺さる。
 瞬間、苦悶と激痛の表情を浮かべた隊長格の敵兵は距離を詰めていた呂布によってその顔面を穴へと変えた。

「さて――やるとするか」

 方針は決まった。
 とりあえずは目の前にて群がる西涼兵を打破した後に馬超達の救援である。
 安定の救援に来たにも関わらずにこれまた救援のことを考えていることに可笑しさを覚えるが、とりあえず戦うこと自体に変わりはないと華雄は周囲を見渡した。
 精鋭であると自負する程度には鍛えたつもりであったが、同じ精鋭であると謳われるほどの西涼兵相手には中々難しいものがあるのか、強行軍からの疲労なのか、所々にて押され始めているのが見て取れた。
 ――散逸だった統制が取れ始めている、か。
 中々に優れた将がいる――それは、精鋭たる兵同士の戦いにおいて将の力量での戦いとなる確信でもあった。
 やはり、機や流れを引き寄せるなど細々したことは性に合わない。
 ――今はまだ、力と力のぶつかり合いで我慢しておくことにしよう。

 ふるり、と奥底に滾る熱によって身体を震わせる。
 まるで小枝を振るうが如くに斧を振るい、血飛沫と肉片を飛び散らしながら華雄は一度だけ大きく息を吸い込んだ。
 ――瞬間。
 見えざる将に向かっての裂帛の咆哮によって、戦場はその空気を震わせた。



「我が名は華雄ッ、董卓軍にその人在りと謳われる武人也ッ! 西涼が将兵達よ、我が武、とくと見るがいいッ!」





  **
 




「馬超ォォォォォォッッッ!」
「ッ――ちぃッ!?」

 きぃん、と戦場の向こうで放たれた咆哮が霞むほどの音を立てながら、金属と金属が激しくぶつかり合う。
 肌を裂く寸での所で己の槍によって一撃を防ぐことが出来たが、その一撃は思ったよりも深く重く、馬超が知己として知っている女の一撃ではなかった――否、知己としてではなく知っている女ならば有り得る一撃であった。
 その一撃に、馬超はぽつりとその女の名を呟いていた。

「……馬玩か」
「くき、ききききき。……梁興様はどうした?」

 馬玩、字を痘朴。
 馬超は、以前の彼女を知っている。
 同じ馬姓として遠くは縁のある出であったのだろうが、以前の彼女は同姓といえども自分達とは違う人種であると幼いころの馬超は認識していた。
 花を見ればそれに微笑み、蝶を見ればそれを愛で、風と見ればそれを受け入れ、月を見ればそれを楽しむ。
 そんな華奢で可憐な少女というのが、馬超が馬玩に抱いていた印象であった。
 ――女として憧れが無かったと言えば嘘になるが、武人として、西涼の雄の後継としてではそれを求めることなど出来なかった。
 それでも、同姓ということもあってか馬超はそれなりではあるが馬玩と付き合うこともあった。
 ――馬超が求める理想の女性像が、その頃に馬玩になったとて不思議でもない。

 だがそんな過去も、梁興という男が韓遂に仕えた頃から壊れ始めた――否、壊れてしまった。
 それまでの印象を真逆に変えたような性格に変貌した彼女は、自らを壊した筈の梁興を深く信じ愛するようになり、盲目に敬うようになった。
 そんな彼女が、蟲が鳴くような声を発しながら剥き出しのまま殺気をぶつけてくる。
 深く暗く、べっとりと粘りつくようなそれが身体の表面を這いずり回るような感覚は実に不快だ。
 まるで梁興が目の前にいるようだな、と馬超は錯覚を覚えていた。

「さあな」
「くき。くかかかか――言いなさい、小娘」

 軽口を叩く馬超を、どす黒く濁った瞳が射抜いて、その研ぎ澄まされた鋭い殺気で貫こうとする。
 そんな感覚を、馬超は武器を構えることによって払拭した。
 馬超とて戦人だ。
 如何に同姓である馬玩の以前を知り、盲目的に自身を壊した梁興のことを想う彼女を哀れと思うことはあっても、今いる場所は戦場である。
 情けをかけるような真似はしない――出来ない。

 だからこそ、馬超は考えた。
 戦場であるからこそどうするべきか、と。
 自身は一時的に北郷の指揮下から離れて華雄達前線部隊と合流するために動いている。
 梁興との戦いの折には色々と思考が暴れていたが、それも今は落ち着いていて、至極冷静――だと馬超は思っている――と思う。
 そうして。
 落ち着いたまま華雄達と合流するようにと賈駆から指示を受け、敵の横腹を突くようにと陳宮から指示されてそう動いていた――のだが。
 その動きを嫌ってか、或いは事前に察知していたのか。
 馬超を拒むように現れたのが、馬玩であった。

「梁興様を……どうしたって聞いてるのよッ!?」
「あー……さあな」
「く、かかか。……これが最後」
「ふんっ――何処かに転がってるんじゃないか?」
「――」
「お姉様っ」
「蒲公英、お前は先に行け――こいつは、あたしが止める」
「う、うん、分かったっ!」

 役目を考えれば、ここは馬玩を無視してでも指示通りに敵の横腹を突くべきである。
 ――であるのだが、どうにも目の前の馬玩はそんな戦の最中であることすら忘れてここにいるらしい。
 静かに、ただ静かに。
 近寄ろうとする兵を槍で切り裂いていく――自らを止めようとする西涼兵まで。

 そんな馬玩の空気が、馬超の一言によってビシリッと音を立てて割れる。
 割れた隙間から漏れ出る殺気は先ほどまでの比ではなく、血と肉と油と液の生臭さと確かに何かが肌を這う感覚があった。
 ――腐っている。
 そう比喩するに当然な殺気がもはや支離滅裂な言動でしかない馬玩から放たれるのを、馬超は特に顔色を変えることなく受けていた。


 そして。


「――フッ、シャァッ!」
「――はあッ!」



 溜めなど無く、ただ殺気に溢れた馬玩からの一撃。
 これもまた、特に顔色を変えることなく馬超は受け止めていた。






  **





「馬玩様ッ、馬超を見つけてこれと戦闘を開始ッ!」
「加えて申し上げますッ、馬超の従姉妹である馬岱がこちらの動きを封じるために行軍を開始ッ! 横撃の動きですッ」
「――ふむ」

 痛む頭と眉間を兵にばれないようにしながら、李堪は飛び交う戦況報告を吟味する。
 ――はっきりと言って、戦況は一気に芳しくない方向へと進んでいる。
 馬玩に董卓軍救援の前衛部隊、成宜に董卓軍救援の本隊、自らが董卓軍への奇襲を行う形で策を弄してはみた。
 だが、戦は生き物だとはよく言ったものだ。
 西涼にて名の知れた馬超がその奇襲を防ぐかのように動き、その馬超に釣られて――いや、馬超を狙ってか、馬玩が大きく動いたがために最早戦況は滅茶苦茶になる一歩手前であった。
 それを持ちこたえられているのが原因となった馬玩の兵の踏ん張りであるということに、李堪は苦笑せざるを得ない。

「まあ、仕方が無い。痘朴は馬超のことを嫌っていたからな」

 正しく言えば、梁興が馬超を狙っていたがために馬玩は馬超を嫌っていた、だが。
 そんなことは、梁興が死んだであろう今や、戦場の最中においては関係無い。
 ――そして、そんな関係無いようなことが既に戦況の勝敗を別とうとしていることに、李堪は尚更苦笑した。

 ――この戦は負ける。
 韓遂が策略にしてもそうであるし、ここ安定を巡る攻防戦においても負けは確定してしまっただろう。
 馬玩の悲しみと苦しみを見抜けなかったことが敗因か、などと悲観するつもりもないし彼女に敗戦の責を押し付ける必要もない。
 戦においては勝敗は常であり、自らの力量がただ足りなかっただけである。
 だからこそ――。

「馬岱さんじょーッ! お姉様の代わりに、一気に押しつぶすよっ」
「出陣じゃ、出陣せよっ! ここで一気に戦況を押し返すのじゃっ、街も援軍も我らにかかっておるぞっ!」
「……行くぞ」
「ももも申し上げますッ! ば、馬岱が横撃をッ?!」
「安定の街から兵がッ!? 先頭は樊稠ッ、樊万右ですッ!」


 だからこそ――李堪は、ここで果てる覚悟を生み出した。


「……ふむ。怖い、な」

 自らの軍師たる力量の不足によって敗戦するというのなら、その咎をもってここで董卓軍を抑えきる。
 成宜にしろ馬玩にしろ、きっと向かった先で敗れるだろう。
 生きるか逃げるか――死ぬか、は別の問題として、董卓軍が追撃を始めたらきっと兵達は無事ではいられない。
 となってくると、それを押しとどめる殿の役が必要である。

「……」

 前には董卓軍最強の武人である呂布と最強の兵を率いる華雄、そして西涼にて錦と謳われた馬超。
 横からは馬超の従姉妹であり頭も回る馬岱、反対側からは謀師と謳われた郭汜。
 なるほど、一手足りないが十分に四面楚歌である。
 有体に言えば死地、勝つどころか保つことすら難しそうな戦場を前にして李堪は――口端を吊り上げていた。

「ふふ……ははは、くはははははっ。これはいい、完璧なる負け戦っ、元より予想していた通りの展開っ、ははっ、我が軍師たる目は曇ってはいなかったみたいだな」

 韓遂の策、楊秋の策、自らの策――そのどれをもってしても董卓軍に敵わないことなど、初めから見えていたことである。
 兵力、戦力、将の数と質、加えて漢王朝という背後と天の御遣いなどという民草と兵の希望。
 なるほど、勝てぬことこそが道理に見える。
 武人ならば滾るであろう戦場、軍師であるならば退くことを良しとするであろう戦場――。

 ――だが、軍師が戦場で滾ってはならぬなど誰が決めた。

 武で身を立てるを良しとした西涼韓遂軍において、軍師というものはあまり重宝されてこなかった。
 李堪しかり、成宜しかり。
 成宜は策の中に嗜虐を投じて謀略を求めたがために韓遂軍の風に馴染んだが、李堪としてはそこまでではない。
 常に見下されてきたし、戦の分岐においては策を求められることなど少なかった。
 今回、安定を攻める戦でこそ成宜と馬玩という顔馴染みと共だからこそ策を練ることもあったが、戦の原初である韓遂の策への言が取り上げられなかったのがその証明であった。

 それがここに来て強敵に次ぐ強敵による包囲である。
 ――軍師であり、西涼の将でもある李堪が滾るのにそう理由は必要ではなかった。
 であるからこそ。

「――兵は陣形を方陣へッ! 痘朴の後背を固めながら両翼の董卓軍を抑えきるぞッ、良いか、生きることだけを考えろ、自らの両脇を助け目の前の敵を討ち続ければ敗れることは無いッ! 同胞を故郷へ帰すために我らは負けられない場所にいるッ、滾らせろ、漲らせろ、声を張れェッ!」

 軍師たらん風体で、将たらん声を上げて、李堪は腰の剣を抜いた。
 馬上においては短いと思われる剣も、指揮をする上では存外役に立つ――むしろ、槍の方が細くて見づらく取り回しにくいという欠点がある。
 シャキンッ、と綺麗な金属音が喧騒にまみれていた空気を切り裂いた。
 李堪に従う兵達には、その李堪の様がまるで新たに現れた英雄であるかのように見えたことだろう。
 それほどまでに、李堪の姿は堂に入っていた。
 だが、そうではないことは李堪自身が一番よく知っている。
 知っているからこそ、李堪は現実を少しでもその幻想に近づけるために、全身全霊の力を込めて、咆哮した。
 

「総員――迎え撃てェェッ!」


 
 その李堪の一声と共に。
 安定を攻略せんとする西涼軍と。
 安定を救援せんとする董卓軍の。
 最終局面の、幕が切って落とされた。





 **






「やれやれ、またこうして一刀殿の御守りとは……」
「それは、何というか……申し訳ないとしか……」
「はは、まあそこまで気にしている訳でもない……メンマを肴に一杯付き合ってもらえるならば、ですがな」
「む……良いものを探しておきます」
「うむ、任せましたぞ――では、さて」

 安定の城壁の一角を二又に見立てて、岐路より向こう側において剣戟と喧騒の音が微かに届いてくるのを、俺は冷静を務めながら俯瞰する。
 呂布と華雄、馬超達の方面は五分に近い。
 兵の数は劣る、質は西涼が上、布陣と勢いはこちらが有位とくれば、戦況がどう転がるかは分からない――呂布と華雄、二人の武人の実力を信じても若干厳しいと感じてしまう。
 だが、それもその部分だけを見た場合だ。
 視線を広げてみれば安定の街が慌ただしく動いており、兵の気配が色濃くなっているようである――恐らくではあるが、戦況を鑑みて安定を務める郭汜が兵を動かそうとしているのだろう。
 それを理解すると同時に、安定――今まさに呂布達と西涼軍がぶつかっているその真横において、城門が開かれた。
 その先陣を駆けるはあまりにも色濃く重い威圧を醸し出す一騎――後に続く『樊』の旗は、一気呵成に西涼の軍勢を切り裂いていった。

「おおっ。凄まじい勢いですなぁ」
「樊稠殿は李確殿や徐栄殿達と同じぐらいに最古参の武人ですから、恐らくですけど謀略知略の戦いに鬱憤でも溜まっていたのではないでしょうか? 何度かお会いしましたが、多くを語らない寡黙な武人という感じでしたし、謀略は肌に合わなかったのでしょう」
「ふむ、なるほどなるほど。是非にも槍を合わせてみたいですな」
「まあ、それは戦が終わった後にでも……さて」

 二又の先――安定攻略を推し進めていた西涼軍の撃破は、このまま推移すれば可能であろう。
 安定から出撃した樊稠の勢いも凄まじいものがあるし、陳宮の指示だろうか、それに同調するかのように戦線を変化させ始めた呂布達に西涼軍は呑まれ始めていた。
 さらには、騎馬隊を率いて側面を突いていた馬超達の軍勢も少しづつではあるが、その動きに乗じて押し始めている。
 油断は禁物だが戦局はほぼ固まったとみていいだろう。

 となってくると、注意するはやはり二又のもう片側――董卓救援軍の本隊の方であろう。
 董卓と賈駆、そこに郭嘉や程昱がいるので軍勢を動かす上での戦術は申し分なさそうであるが、やはり前線で指揮を執る将が少ないのである。
 呂布や華雄は言うに及ばず、俺にしたって今回は前線ではない遊撃隊である。
 ――今更ながらに大丈夫なのか、なんて思ってしまった。
 だが、今は信じるしかない。
 ほんの少しばかりの不安が混乱となって頭に渦巻きそうになる。

「いや、やはりそこは当主殿とその軍師殿で。上手い具合に敵の勢いを捌いているようですな。稟と風がいるのも、やはり戦術的には大きいかと」
「あー、なるほどな……逆に言えば総がかりで戦技盤をしているようなものなのか」
「ふむ……とはいうものの、武人たる将がいないためにやはり決定力に欠けるようで」
「そう、だな……よし。子龍殿、向こうにある森を抜けて敵の側面を突きましょう」
「そうですな。あれだけ拮抗しているのならばこちらの姿を見せるだけでも、十分に陽動となりましょう」

 そんな混乱しかけた頭が趙雲の言葉によって冷静になっていく中、俺はツキンッと痛む手を握って意識を纏めていく。
 賈駆の策や董卓の指揮、郭嘉や程昱の補佐は見事なものであると思うが、そこはやはり趙雲の言う通りに前線を任せられる武人がいないということで、あと一押しが足りていない。
 となれば、足りない一手は手の空いているこちらで打つしかないのは当然のことであった。
 何より、こちらには趙雲がいる。
 武人として、将として、前線を任せられる趙雲がいるのであれば、戦の機を決める一手はここで打つべきだろう。
 そう、判断した。

「戦働き、期待していますよ、子龍殿」
「ふむ、期待というのは少々こそばゆいですな……が、それも悪くない」
「――武運を」
「――承知した」

 であるならば多くはいらない。
 言葉は軽く、空気は重く――想いは強く。
 どくんっ、と一際大きく鼓動が身体中に鳴り響き、身体を震わせて熱を灯す。
 ――まるで動力。
 不安、恐怖、後悔、懸念――高揚。
 その全てが身体を温めていくのを感じながら、ふうと冷静になるために一息ついた。
 そんな俺を待っていてくれたのだろう。
 ふと、視線を交わした俺と趙雲はお互いに頷いて、定めた通り、森へと紛れるために行動を開始することにした。

「――これより、本隊救援を行うために森を迂回して敵側面を突くッ!」
「声を上げること、武器を掲げること、許可するまで禁止とする。いいか、みんなッ、ここが正念場だっ! ここで敗けると安定だけじゃなくて洛陽や石城までが戦火に埋もれてしまう、それを防ぐために、想うみんなを守るために――勝つぞッ!」
「おおおおッッ」


「進軍――開始」


 ――まるで獣のように。
 董卓軍遊撃隊五百は、一目散に駆けだしていた。





 それと同時刻、同じ瞬間。
 安定の街を遠く眺める位置に、まるでそれ自体が一個の生き物のように統率された騎馬隊が現れた。
 それを、俺を含め、この戦場にいる武将と将兵は誰も知らない――。








[18488] 七十四話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/05/14 10:12





「右翼っ、何とかそこで敵を押しとどめなさいッ! 左翼は十歩引いて体勢を整え、次に備えなさいッ!」
「剣を持った人達は敵さんを頑張って押し戻してくださいー。槍を持った人達は押し戻された敵さん達をつんつんと突いてくださいねー」
「……じりじりと押されているわね」
「勢い、かな?」
「多分ね……」

 馬蹄の音、剣戟、怒号、悲鳴、咆哮。
 それらが混ざり合った戦場の最中で、それでも穢れることの無いような澄んだ声が、董卓軍の兵へと指示と活力を与え続ける。
 押されれば敵を討つ策を下し、気圧されれば士気を上げるように活を入れ、押せばそれを切っ掛けとして策を下す――当主である董卓とその軍師達の声である。
 その声には潤いとともに焦りが含まれていた。

 兵は人だ。
 怒りもすれば悲しみもし、苦しみもすれば喜びもする。
 兵は駒ではない。
 駒ではないからこそ、兵にとって共に剣を取って戦う将というものは、その力量問わずに頼りになるものなのだ。
 力があれば、敬い、信じ、頼りにし。
 力が無ければ、それを反面にして己が力で事を成そうとする。
 どちらであっても、軍師としてはこれ以上の精神論は無く――結果を出せるのであらば言うことは無い。

 だが、その兵と共に剣をもって戦う将がいないのであれば、その恩恵は受けられない。
 その事実を、賈駆は董卓の言葉に頷きながらも感じていたのだ。

「ああもうっ、こんなことなら琴音(徐晃の真名)でも連れてくるんだったッ」
「でも、そうしちゃうと武力の高い人が偏っちゃうって話、詠ちゃんがしたんだよね?」
「うぅ、そうだけどぉ……」
「とりあえず口喧嘩は後にして頂けないでしょうか?」
「お二人は余裕ですねー、戦歴の差でしょうかー?」
「うぅ……これも全部、あ――あいつらのせいよねッ、どうしてくれようかしらッ!」

 ――まあ、無い物を強請っても仕方が無い。
 武の器が一つも無くとも、智が三つも揃っているのならばそれは悲観することではなく僥倖なことである、と賈駆は無理矢理にでも思考を切り替えることにした。
 ――けっして、あの馬鹿が一人でもいれば違うのに、なんて考えはよぎらなかった、うん、よぎらなかったらよぎってない。
 まあそれはともかくとして。
 結局の所、武が足りないのであれば智で補えばいい、ということで兵を三つに分けて交戦している訳だが――なんというか、実に感動ものであった。
 一つ動けば流動的に、二つ動けば相互援護、三つ動けばそれは最早一個の軍勢であった。
 声を張り上げることは不要。
 策を確認しあうことも不要。
 策の先を確認することも不要。
 知謀の限りを尽くせばそれだけで通じる、そんな軍師冥利に尽きる、とはこういうことを言うのか思える戦を前にして、賈駆は柄にもなく興奮してしまっていた。

 とりあえず落ち着いて。
 今は――それでもなお押されているという現状に対応することに一杯である。
 興奮に悶える暇も、感激に流される暇もなく。

 ――ただただ、戦機を探ることに思考を働かせる。

「あの馬鹿は今どうしてるッ?!」
「森へと突っ込んだ所を見ましたから、もうそろそろじゃないかなーと。ああ、そこの人達は右を向いて迎撃して下さいー」
「弓兵は一歩進んで一斉射後、三歩引いてもう一度斉射して下さいッ! まあ、あの一刀殿なら最高の好機を見逃すはずはないでしょう。安心して待てますね」
「おやおやー? 稟ちゃん、いつにも増しておにーさんの援護をしますねー?」
「なッ?! わ、私と一刀殿はそのような――」
「ああもうっ、ちゃっちゃと動きなさいよッ!」

 それでも、喧噪の中にあって声を張り上げぬ訳にはいかない。
 怒号に似た声を張り上げながら、それでも賈駆は努めて冷静に戦場を見渡す――睨みつける。
 西涼安定攻略軍の――攻囲軍を本隊、こちらを別働隊として――別働隊は、その主戦力が騎馬である。
 対して、こちらはその殆どが歩兵だ。
 騎馬の準備というものは存外に時間がかかるもので、元々戦力の多くを騎兵としていた董卓軍であっても、突発の戦であった今回ではそれほどの数を集められなかったのだ。
 そして、騎馬と歩兵の戦というものは、騎馬の勢いをどう使うかに収束される。
 騎馬側はその機動力からの勢いをそのまま攻撃力とし、歩兵側は槍なり弓なりで騎馬の勢いを削ぐことを防御力とし、その攻撃力を減らす。
 数、地形、天候、時勢、将、指揮、士気、それらの諸々があってその幅は大きく異なるが、おおむね騎馬と歩兵の戦というものはそういうものである。

 そして。
 今現在の戦況といえば、敵の攻撃力がこちらの防御力を圧倒し始める、まさにその寸前であった。
 
「――」
「詠ちゃん」
「うん――」

 崩壊寸前。
 恐怖と不安が脳裏をよぎり、混乱と絶望が声に出る――そんな戦場を前にして、しかして、賈駆は冷静な顔色を変えようとはしなかった。
 それがただ当然であるかのように戦場を一度だけ見つめた賈駆は、隣に立つ董卓の言葉に頷いて、息を吸った。

 血と砂埃と熱気と殺気にまみれた戦場の空気は、不快な生ぬるさだ。
 年若い幼子であれば咽て、経験若い新兵であれば呑まれる――そんな空気である。
 だが。
 そんな空気だからこそ、賈駆には冷たく感じた。
 ――軍師である賈駆だからこそ、軍師たる策を下そうとした賈駆だからこそ、冷たく感じたのかもしれない。
 しかし、今はそのような推測は必要ない。
 冷たい空気で冷静になった頭でそんな思考を追い出しながら、戦場を見つめ――わっ、と喧騒が戦場を切り裂くのを目にし、耳にして、口元を歪ませていた。


「駆けろ、駆けろッ、一気に駆け抜けろッ! 足を止めるなっ、このまま駆け抜けるぞッ!」
「一匹の龍が如く、ただ戦場を駆け抜けんッ! ハッ、この趙子龍を止められる者、おらぬと知れィッ!」


 白い流星。
 そう思わせるほどに果敢に戦場を駆け抜けていく男の横に、これまた一匹の龍を思わせるほどに苛烈な一人の武将。
 ――北郷一刀と趙雲。
 別働隊としていた総勢五百の兵による奇襲攻撃が、賈駆の思考を震わせた。
 北郷にしても趙雲にしても、いつものように表情に余裕は無さそうである。
 身体の所々に汚れと木々の欠片が見えることから、どれだけ急いだのかが容易に想像出来た。
 歓喜と、興奮と。
 ぞわり、と背筋が思考と同じく震えるのを、賈駆は両腕で自らの身体を抱きしめるようにして耐える。
 
 ――戦機(とき)は来た。

 まさしく、そこしかないという一瞬。
 儚く、薄く、目を凝らしても見えることはないであろうその一つを的確に掴む。
 それを成した、成し遂げた今に、天運という言葉を不意に思い出した。
 ――果たして、天に愛されたのは隣に立つ董卓か、或いは戦場を駆け抜ける白い流星か。
 そんな思考に意味は無く。
 一度だけ瞑目した賈駆は、次いで、まるで咆哮のように声を上げた。
 


「――今よ、狼煙を上げなさいッ!」

 

 途端、まるで堰き止められていた流れのように高く高くたなびく煙は、戦場の空を引き裂いて青へと飲み込まれていく。
 ――これでいい。
 その煙を視線で追って、一つだけ息を吐いて、賈駆はしっかりと前を見据えた。

 後は耐えるのみ、である。
 騎馬を主力とする西涼、その相手をするならば一番に名前が上がる将がこの場にいないのは、苦戦するということを予測しながらも、一手の威力を高めるためだったのだ。
 その一手を打つ場面を前にして、その将が――彼女が躊躇するはずがない。
 何より彼女は、強い武将と戦うことと戦場を駆けることに意義を見出すような人物である。
 精鋭騎馬で名を馳せる西涼軍の中を自らが率いる騎馬隊で駆ける――そんな策を、今か今かと待ち望んでいるのが目に見えるかのようで。
 まるで犬のようだな、なんて思いながら賈駆は不意に笑みを零していた。

 
 


  **





 ――その一手を、今か今かと待ちわびた。
 戦場を前にして戦機を感じ、交じり合った土砂の埃と血潮の匂いが風に乗って舞うのを鼻にしながら、それでも、と安定を遠く望める地に待ち続けて既に数刻経つ。
 ふるり、と身体を震えそうになるのを両腕で身体を抱きしめることで、何とか耐える。
 さらしに巻かれた胸がそれによって強調されるようになるが、それは気にしなかった。

「は――」

 むしろ、肩にかけるようにした服がはためく程に吹き付ける風が随分と心地良い。
 滾り、漲り、声に出そうになる熱が微かに口から漏れ出る。
 熱が漏れ出たまま一息にそれを吸って、更なる熱をともして一気に吐いた。
 幾分か、落ち着く。

「は――」

 ――しかし、それでもまだ足りない。
 心の臓は胸から飛び出そうなほど強く鼓動し、身体を今すぐにでも飛ばさんと暴れている。
 ぶるる、と。
 跨ぐ馬が気に押されて嘶き、大地をかく。
 一度でも指示を下せば――否、一度でも手綱を握る手に力を込めれば何時でも走り出せると誇示するかのように、再び嘶いた。
 それに、少しだけ冷静になって、その背中を撫でてやる。
 それでこちらも少しは落ち着いたのか、馬は首を振るだけでその気を静めてくれた。

「……そろそろ、だな」

 そうして、幾分か経った後。
 戦場を睨み付けるように眺めていた隣にて馬を跨ぐ男――韓暹の口が、ぽつりと開かれる。
 韓暹の言葉に合わせて届く風の中に混じる血の匂いが増したことを感じ取り、彼女――張遼は戦場のそれを胸一杯に吸い込んで、熱の籠もった吐息を漏らした。
 くらり、と酒精に酔う時に似た眩暈を感じる。
 気だるげで、だけど身体の中にある熱が暴れそうで。
 固い金属の音をさせながら、偃月刀を持つ手についつい力がこもる。
 ――ようやく、暴れられる。
 ――ようやく、馬を走らすことが出来る。
 その思いのままに、張遼は口元を歪めた。
 
「よぉやくや……ようやくやなぁ」
「暴れたいのは分かりますが、突出はされぬようお願いしますよ、張遼様。兵と馬は未だ本調子で無いのもおります故」
「ああ、そりゃよう分かっとる――直すんも、兵はぶっ叩いても、馬は殴る訳にはいかんからなぁ」
「出来れば兵も叩かないで頂きたい」

 いつものように軽口を叩いて、血の匂いに混ざり始めた戦機の匂いに、今か今かと力が入りそうになるのを抑え込む。
 ――滾っている、ただそれだけの感情ではないことを、胸の奥底で蠢きそうになる黒くて重たい感情が示していた。
 むずり、と胸の奥を掻き乱して排除したくなるほどにずっしりとした感情を、それでも、張遼は嫌うことなく受け入れて、一つだけ冷たい息を吐く。

 要するに。
 怒っているのだ、自分は。
 董卓を害そうとした韓遂に対して。
 董卓を守ろうとした北郷が傷つけられたことに対して。
 董卓を討つだけで全てが自らのものになると考えた韓遂に――自らや呂布、華雄などという武人を忘れた末に要らぬ混乱だけを残した韓遂に対して。
 そして――。

「――うちはアホや」

 ――そのどれもをただ受け入れるしかなかった自分自身に対して、である。

 ぎりり、と知らず噛み締めていた奥歯が悲鳴を上げる。
 ゆらり、と風とは違う何かが身体に纏うものを揺らめかせているようで、それが冷たくて、熱く暴れそうな身体には随分と心地いい。
 心地よすぎて――自然と、口端が吊り上っていた。

「こんなんでも、早う暴れたくて仕方無いわ」
「それは兵達もみな同じです、張遼様――みな、滾っております」
「大規模な策を動かしながら、その身は策の要だ――ふん、滾らぬ方がどうかしている」
「はは――ほな、行こうか」

 ゆらり、と空気が揺れる。
 ゆらり、と大地が震える。
 ゆらゆらと戦場の空を切り裂きながらものんびりと立ち上り始めた白煙に、張遼の周囲にいた兵達の纏う気が、彼女のたった一言によって切り替わる。
 
 慣れぬ河を渡って疲れた顔から、戦場を駆ける一個の武人の顔へと。

 とっとっ、と始めは軽やかに。
 ざっざっ、と次いで力強く。
 だんだんと一つの流れになっていく、そんな騎馬隊の先頭にあって、張遼は溢れる闘気を前面――否、全面に押し出すかのように口を開いた。

「このまま隊を二つに分けて敵のけつを抑え込むでぇッ! そん後は他んと合わせて一気に押し潰すッ! ここが正念場や、気張りィッ!」

 まるで咆哮。
 びりびり、とまるで空気と大地と戦場を弾き飛ばすほどに高く上げられた裂帛の名乗りは、馬蹄の音に乗りながら一気にその戦場を近くとした。
 


 *



 ――ことの始まりは、董卓暗殺未遂のほぼ直後である。
 張遼の元を訪れた賈駆の言葉から始まった。

「霞には、騎馬を率いての奇襲のために先行して潜んでいてもらうわ――場所は、ここ」
「――いやいやいやいや、それは……正気か、詠っち?」
「大真面目よ……それはそうと、その呼び方っていい加減にどうにかならない?」
「ならへんなぁ」
「即答……そう、そうよね。聞いたボクが馬鹿だったわ」

 董卓暗殺未遂による混乱が波及した洛陽の警邏、その混乱に紛れて騒ぎを起こそうとする不埒者や残存兵の捜索と討伐など、董卓軍は右に左に駆けっぱなしなほどに忙しい。
 それは張遼だけでなく賈駆も同じであるのだが、しかして、そのような忙しさなど微塵も感じさせることもなく、賈駆は張遼が用意した机の上へと地図を広げていた。
 扉の外からは、喧騒が零れている。

「まあ、いいわ。それで――どう?」
「……どうも何も、せなあかんのやろ? だったらやるで」
「そう……ありがと」
「なんや、えらい殊勝やんか。いつもからは想像できへんで、詠っち?」
「そう、そうね……うん、ちょっと落ち込んでたみたい」
「……一刀の傷は深いんか?」
「そこまで深い訳じゃないけど、刃を握ったらやっぱり、ね……広いみたい」

 ゆらゆら、とまるで外の喧騒に合わせるかのように揺らめく灯りに照らされながら、影が落ちるほどに俯いた賈駆を見て、張遼がやれやれと頭をかく。
 その原因が董卓を庇って傷を負った北郷によるものであることは明白で、その症状を語る賈駆の姿が随分と小さく感じられることに、張遼は驚きを隠せなかった。
 良くも悪くも董卓ありきで考えて董卓を一番として考える賈駆が、北郷のことで悩み悔やんでいる。
 その姿に胸の奥底にもやっとした感情を抱きながら、けれどそれを嫌うことなく張遼は苦笑を漏らしていた。

 ――変わった、ということなのだ。
 誰も彼もが、北郷という人物に出会って変化したということなのだ。
 すんなりと董卓軍に溶け込み馴染み、ふわりと人の中に入って、いつの間にかそこにいる。
 それでも、嫌な感情を抱く筈がない。
 まるで――。

 ――元々そこにあったかのような安心感は、好意を抱くには十分なものだった。

 自らも女の身であったことに、張遼は再び苦笑した。

「まあそっちは任せるわ。うちらがどうこう言ってもどうにかなるもんでも無いし。……それで、この意図を教えてくれんか? この地図でも詠っちの考えでも、ここ――安定の向こう側に行くんには敵を抜けなあかんで?」
「こほんっ……うん、そうね」
「そうねって、詠っちなぁ……簡単に言うけど、西涼は騎馬の産地――」
「――ああ、勘違いしないで欲しいの」
「……んん?」

 そうして。
 苦笑していた顔は、とんとん、と地図のある部分を指で叩く賈駆によって若干崩れることとなった。
 意図が理解出来ていない、或いはそれが飲み込み切れていない、そんな顔である。
 そんな顔を浮かべる張遼に今度は賈駆が――苦笑ではなく、意地の悪いにやりとした笑みを浮かべながら、事も無げに堂々と言い放った。



「――今回はね、河を上ってもらうのよ」



 *
 


「――は」

 ――色々と無茶をさせるで、ほんま。
 その一言で河を上った時のことを思い出して、張遼は息を吐き出しながら口元を歪める。
 
 結局の所、張遼は騎馬を率いて河を上った。
 それは水深の浅い場所を選んで駆けたということであり、十分な重しを用いて下地を作って並べた船の上を駆けたということでもあり、そして船で馬を運んだということもあった。
 慣れぬ波の揺れで兵馬ともに疲弊したが想定していたよりも軽いもので、それも、数日ほど村で――黄巾賊の安定襲撃の折に策によって放棄された廃村の村にて逗留すれば、ほぼ回復していた。
 
 馬というものは、駆けさせないでいると途端に弱るものである。
 脚を動かすことによって血を巡らせているとかなんとか、などと北郷に聞いたことがあったが、まさしくその通りかもしれない。
 そんな馬を短距離ではあるといえ船で運ぶなどとは無茶なことをさせるものだ、とは思ったが、しかして、そこに新たな馬の可能性を見たのだから、呆れるよりも興奮の方が強かったのを覚えている。
 村についてからは中々落ち着かなかったな、とは後だからこそ言えた。

 ――そうして、張遼達は黄河を上って安定を攻囲する西涼軍の後背へと回り込むことが出来た。
 元より、その地に根を張っていた元白波賊である忍――その中でも副頭目の韓暹が案内してくれたのだ。
 道に迷うこともなく、また、時期によっては大いに荒れる黄河を思いのほか容易に上れたことは僥倖と言えるだろう。

 どうっ、と力強く地を踏む馬の振動はその背を挟む太腿に伝わり。
 ぶるる、と加速していくほどに荒々しく、それでいて熱を帯びていく嘶きは肌へと伝わる。
 一心同体が如く。
 馬と一つになった感覚を持ったまま、張遼は一つ息を吸い、手綱を握りしめて――そして咆哮した。



「神速の張文遠、ここに見参やッ! 行っくでぇぇぇェェェッッッ!」



 ――迫るは、西涼軍の後方。
 二つに分かれていくその様は、まるで安定をも丸ごと飲み込まんとする獣のようで。
 その名に奇襲という形をもって、今まさに食らいつかんとしていた。





 **





 安定を中心地として、それを挟んでそれぞれ対峙し戦闘する董卓軍と西涼軍。
 数に勝る西涼軍はそれぞれに董卓軍を押しとどめ、或いは討ち払おうとし。
 地勢に勝る董卓軍は西涼軍を安定の城壁すらも用いて包囲殲滅しようと、軍を分割してこれに当たる。
 戦は乱戦、泥沼の様相を呈するようになり、そうなれば長距離を駆けてきた董卓軍が劣勢になることは後の世から見ても明らかであった。

 だが。
 戦況はある二つの手によって一変することとなる。
 一つは、救援される側であった安定――それを率いる郭汜による董卓軍援軍を逆に救援するという出陣。
 これにより西涼軍の片割れを率いる李堪は意識をそちらに割かなければならず、さらには、郭汜という謀将が戦場に出たことが原因の一つでもあった。
 もう一つは、言う間でも無く張遼率いる騎馬隊による西涼軍後方からの襲撃である。
 この動きにより西涼軍は図らずも一方を壁に、三方を董卓軍によって抑えられる形となり、また、安定の守兵と張遼の兵数が加わることによって数的優位もその殆どが消えうせることとなった。

 ――後の歴史を学ぶ者はこう語る。
 ――逆援の計、ここに成れり、と。
 

 要するに。

 ――戦機は、董卓軍に傾き始めていた。








[18488] 七十五話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/07/02 19:48




 一突き、続く一閃。
 敵兵の首元に突き刺された偃月刀が横真一文字に振り切られ、その隣で慌ててそれを防ごうとした敵兵の剣をそれごと叩き折って、その首を刎ね上げる。
 繰り出される槍は偃月刀で斬り上げて、体勢の悪さから、後ろに続く兵に始末を任せて彼女――張遼は馬上でありながらも旋風の如く、血潮を跳ね上げながら馬を進めていく。
 馬駆ける先に在れば偃月刀の錆とし、馬傷つけんとする者がいれば血潮へと沈める。
 まさしく、人馬一体。
 そんな有様に感嘆しつつ、俺は声を張り上げた。

「叫べ叫べッ、今こそ攻め時と鼓舞しろッ! 張文遠が来たと全軍に知らしめろッ」
「全軍、一気に攻勢へッ! ここが攻め時よッ、一気に進みなさいッ」
「霞さんは攪乱をッ! 詠ちゃん、右翼が手薄になってるよっ」
「はは、了解や、月っち。――このまま一気に行くでェッ!」

 ――戦場は、終局を目前とした混沌と化していた。
 
 騎兵の勢いと速度という優位をもって董卓軍を蹂躙しようとしていた西涼軍は、俺と趙雲が率いる遊撃隊の横撃によって脚を弱めてその優位を薄くし。
 食い止めたものの徐々に押し込められ始めていた戦場は、後方より現れた援軍――張遼によって、一気にその色を変えていた。
 
 前方に董卓本隊、横に俺、後方に張遼――空いている横には安定の城壁。
 兵数は五分に近く、勢いはもはや雲泥の差。
 ――戦の趨勢は、ほぼ決していた。

「……一刀殿、前に出過ぎですぞ、自重なされい」
「む、ぐ……はい」
「ふふ、戦に滾るは将の性ですからな、無理も無い――が、その身に負傷を抱えていることを十分にお考えられよ」
「……御意に」
「く、はは。それならばよいでしょう」

 ざんっ、と振り落される剣戟に身体を反応させながら、鉄と鉄がぶつかる甲高い音に少しだけ安堵する。
 眼前に迫る白刃を弾き飛ばした槍の穂先とその主――趙雲が自らを見つめていることから逃れようと視線を外し、それすら関係は無しにと零された苦言に肩を落とす。
 戦の趨勢はほぼ董卓軍に偏っている――だが、それをもって油断とするわけにはいかない。
 俺は韓遂の手によって負傷したままで、敵軍勢は包囲しているものの初めに予想された総数とは違って、いつその差分が援軍に来ないとも限らないのだ。
 流れる清水のように冷やかな瞳を細めた趙雲の視線からそのことを思考に纏めて、俺はふぅ、と息を吐きながら戦場を見渡した。
 
 今この身は、些少であっても武を振るう将ではなく、智をもって戦場を制する将であるのだ、と自らに刻むように胸を部分を拳でとん、と叩いて――ふと、視界の端で奇妙に動く敵軍を見た。

「ん……?」

 それは、ただの見間違いだったのかもしれない。
 敵軍と言えばそう見えるし、鎧を脱いだ董卓軍と言えばそうとも見えた。
 戦場は乱戦の様相を超えて撃滅へと移行し始めていて、剣を投げ捨てたり槍を地に刺したりして降伏の意思を示し始めている西涼兵がちらほらと確認出来ている。
 そんな戦場の推移があれば、そういった兵の中にも森の中に逃げ込もうとする者達が出るのは何らおかしくは無いはずである――だというのに。
 その奇妙さが、いやに肌を撫でた。
 ――胸の奥を鷲掴みにするような、そんな嫌悪感。

「……」
「む……如何なされた? もしや、傷が?」
「いえ……そういう訳ではありませんが」
「……気になる点がある、とでも?」
「お分かりになりますか?」
「稟や風と共に旅をしてきたのです、それぐらいのこと、気づかぬわけがない」
「はは、ごもっともで」

 郭嘉と程昱なら、この奇妙な風から何かしらを読み取ることが出来るだろうか。
 そんなことを考えて、すぐさま思考から追い出して、俺は戦の邪魔にならぬように少しばかり後方へと馬を動かして考えを纏めていく。
 戦の趨勢、奇妙な動き、降伏の動きを見せ始めた敵軍。
 ――決断は早かった。

「子龍殿、頼みがあります」
「ふむ……。そうですな……戦が終わった後に、一刀殿のおごりで酒が呑みかわせるなら」
「それぐらいのことなら喜んで」
「ふふ、楽しみにしておきましょう。――では」
「はい――子龍殿には、兵を率い頂きたい」
「……ん。ふふ、くすぐったいですぞ、一刀殿」
「こ、これは失礼……」

 まるで雷鳴が如く数度突き出された槍によって、周囲にて隙を窺っていた敵兵の尽くは地へと倒れた。
 さらに視線を進ませればまだ数十にもなる敵兵がいることだが、それも、こちらの勢いに気圧されて降伏の意思を示している。
 自らの周囲にいる兵達にそれらの捕縛を指示しながら、俺はそそっ、と連れ添うように身を寄せてきた趙雲の耳元で指示を下す。
 周囲の兵に聞こえては要らぬ混乱を撒き散らすかもしれない、なんてことを考えて、趙雲の耳元で囁くによう行ったそれは、くすぐったそうに身を捩って流し目を向けてくる俺の精神に要らぬ混乱を持ち込んだだけだったりするのだが。

 それはさておいて。
 とりあえずの動きは決まった。
 兵を率いて外れる――それはつまり、目の前にある戦勝から外されるという意味でもあったが、趙雲はそんなことを気にしたふうでもなく、俺が向けた視線の先を一瞥すると一度だけ頷いた。
 ――動きは早いに限る。
 その頷きを確認した俺は、伝令に俺が率いていた遊撃隊は後退して包囲の蓋に徹すること、その動きと趙雲が少しばかり外れるという旨を董卓達に伝えるようにと指示を下して、もう一度だけ頷いた。

 

 戦場を眺める。
 俺の考えが正解であるのか、包囲された西涼軍は唐突に水を堰き止めたかと思えるほどに勢いを失い、ぞろぞろと降伏した者達がこちらの包囲から弾きだされていく。
 もはや抵抗しているものは数えられるほどで、三方向から囲んでいた董卓軍は既に一つの塊として動いていた。
 もはや勝鬨が上がるのは時間の問題。
 その後は――。
 ふるふる、と頭を振って、油断を頭の中から追い出して、また戦場を一瞥する。

 溜息で、一度だけ肩の力を抜いた。





 **





「――どけ」

 轟、と。
 斬るでもなく払うでもなく、叩くでもなく弾くでもなく――ただ純粋な、力の奔流。
 たった一言だけ呟いてそれは誰に止められるでもなく振るわれ、西涼の兵に死相を刻む――否、死そのものをもたらしていく。
 まるで血を呷ったように赤く煌めく髪を翻して、呂布は次なる撃を繰り出そうと淡々と武器を振り上げる。

「おおおぉぉぉぉッ」

 鈍、と。
 ただ力の限りに叩きつける力の漲りが、一人の西涼兵を血滴る肉塊へと変えた。
 呂布のただ力であるそれとは違い、武という名の下に鍛え磨き上げられたその力を、華雄は存分に振り回す。
 金剛爆斧、そう名付けられた武器を小枝の如くに振り回して進むさまは、まさしく獣のようである。



「ふ、はは……ッ。こうまでくれば戦術や策など意味を成さぬ、か……」

 そんな光景を。
 董卓軍の諸将が武器を振り、たった一撃を下すだけで自らが汗水流して下した策の全てが叩き潰されていくそんな光景に、李堪は苦笑と愉悦混じりに口を歪める。
 武は無くとも智で名を残す――そんな一念を胸中に抱いていたのは、いつのころまでだったか。
 韓遂軍の将兵となったころか。
 馬玩が壊されたころか。
 将として軍師として、満足してしまうところまで上り詰めたころか。
 それとも――。

「はッ……いかんな、これはいかん。……李汎季が臆病風に吹かれた、などと錫辟(しゃくへき、成宜の字)に笑われてしまうな」

 ぐるぐると思考の中に終わらない渦が生まれそうになるのを、李堪は一度だけ深く息をついてそれを払拭する。
 土煙と血と臓物の臭いが鼻の奥を突いて眉を顰め、それが幸いしてか李堪は目の前の戦場に帰ってくることが出来た。

 ――思考に耽っている場合でもなければ、過去を悩む場合でもないな。
 今目の前にあるは戦場で、負け戦で、回りにいるはそんな状況下にあっても我が策を待ち下す将兵達なのだ、と李堪は己を鼓舞するかのようにもう一度だけ息を吐いた。

「うららららら――らぁぁッ」
「ふぅッ――シャアアァァァッッ」

 そんな李堪の視線の先で、二人の将が兵を近づかせず、弾き飛ばすほどに激しくぶつかりあっていた。
 土煙と血と臓物――そして、それを弾き飛ばすほどの裂帛の気迫の応酬。
 馬玩と馬超。
 同じ馬姓として馬と草原と風に愛された二人の戦いは、もはや周囲の兵がついていけないほどに苛烈を極めていた。
 馬上ということを感じさせぬほどに苛烈で熾烈な馬超の連続突きを、こちらも馬上ということを感じさせぬ、まるで風のようにしなやかに馬玩はよけて、力の限りの突きを繰り出して応酬する。
 あまりの威力と速度に薄く舞った土煙が円に刳り貫かれて、それすらも髪にすら掠らせることなく馬超が避けて、距離を取る。

 ――現状を切り抜ける最上が策は、馬玩が馬超を打ち破ることか。
 馬玩と馬超、二人の死闘と呼ぶに相応しい戦いを目にして、李堪はそう戦を結論付けた。
 負けは確定的で、今の戦況からすれば逆転の策はもはや考えることすら不可能である。
 覆せない絶対の戦況――絶対の敗北。
 そこから取れる手があるとすれば、それは逆転を目指すことではなく如何にして敗北の被害を抑えるか、ということであると軍師として定めたのだが。
 呂布と華雄に正面を抑えられ、安定の街から出陣した兵によって横を抑えられ、反対側は突如として後方より現れた騎馬隊によって抑えられている状況にあっては、それもかなり難しい注文となっている。
 全軍壊滅か、或いは捕縛されるか。
 そんな選択肢が頭の中をちらつく中でそれでも手繰り寄せた策は――馬玩が馬超を討ち取り、馬超を討ち取った馬玩が名乗りを上げている隙と混乱に乗じて彼女を囮にして逃げる、などという策であった。

「ッ」

 ――しかし。
 すぐさま、そんな策を頭の中から消去する。
 幾度も幾度も浮かぶその策を李堪は必死に思考から消去しては、自らが脳裏に浮かべる最低最悪の策に歯噛みし、唇を強く噛み締める。
 軍師としてであれば、馬玩を囮にしてでも己と兵を逃がす策が最上であると考えつくというのに、個人として将兵として、果てる覚悟を決めた自身がそれを拒む。
 ヂッ、と馬超の槍がかすめた頬から血を流す馬玩が負けじと槍を振るい馬超の髪を数本だけ宙にさらし、さらなる攻勢を駆けていく――。

 ――ゾンッ、と繰り出された馬超の槍が馬玩の髪を数本纏めて葬り去った。

「く……ぅっ……わた、しは……」

 その光景に、ぞくりっ、と背筋が震えるのを李堪は腕を組むことでなんとか耐える。
 宙を舞った馬超と馬玩の髪は既に大地へと落ち切っており、それは二人が操る馬によって滅茶苦茶に足蹴にされている。
 ――はっきりと言って、馬超は強い。
 馬と風に愛されているという点では馬玩も同じだろうが、そこにある意志がもはや別物だと李堪は何処かで理解していた。
 それと同時に、馬玩は敗れるだろうということも、また、思考の何処かで理解していたことに李堪は何ら驚くことは無かった。

 西涼の名を背負って賊を討たんとする馬超と、自らを壊したものの仇を討つという相反する目的の馬玩。
 二人の意志の違いは明確にその武力を分かち、その澱み濁っていた流れを一気に押し流していく。
 馬玩のきめ細かい頬に切り傷が増えて、その肩が上下を始めていく。
 対しての馬超は、肩こそ息を切らせ始めたもののその姿は傷一つなく、その眼に宿る意志に陰りは一つも見当たらない。
 まさしく、錦。
 その姿をもって、李堪は事ここに全て敗れたことを悟った。

「……総員、覚悟は決まっているか?」
「へ、へへっ。李堪様のお言葉通り、生きる覚悟は出来てます」
「応よッ。この身命、李堪様の策が通りに動いてみせますぞッ」
「ご指示をッ」
「ご指示をッ」

 だとすれば、次なる策を下すは早い方が良い。
 戦は負け、馬超と馬玩の一騎討ちも負け、そうなってくれば逃げるしか他は無い。

 負けぬと決めた、守ると決めた、果てると決めた――その覚悟。
 その定めた覚悟が敗れるがなんと早いことか、と李堪は苦笑気味に自らの指示を待つ兵達に視線を回した。
 幸いというか、呂布と華雄が率いる董卓軍は安定の解放のためにそこから出撃した安定軍との合流を最優先しているし、後方から奇襲してきた部隊はこちらを抑え込む動きに終始している。
 馬超から指揮権を預けられた馬岱はまだ慣れていないのか、或いは馬超のことを心配しているのか、その動きが若干鈍い――付け入る隙は、そこにあった。

「となれば、だ……」

 反対側にて董卓軍と当たっているであろう成宜まで気が回らないのは残念なことだが、あいつのことだ、自分よりもよほど上手く立ち回っているだろうことは容易に想像できる。
 もしやすれば、なんて思わないでもないが、過度な期待は禁物だとばかりに李堪は頭を振って視線を戦場――馬玩と馬超へと向けた。

 馬玩が馬超を打ち破ることが出来れば、馬岱はさらなる混乱をもって戦場をかき乱してくれることだろう。
 そうなれば戦場から撤退することはかなり容易になる筈である――が、それはすなわち、馬玩が馬超に敗れた時は全てが終わるということでもあった。
 機動力の要である騎馬隊の指揮は馬岱で覚束ず、その上をいく馬超は馬玩に止められている。
 その止めている馬玩が敗れれば馬超は一気に矛先を変えてこちらを攻めて来るだろうことは、容易に想像できた。
 だからこそ。

 だからこそ――李堪は馬玩の一騎討ちの援護に回ると決めた。
 
「全軍ッ、馬岱率いる騎馬隊に一気呵成に攻めかかれッ! 我らが生きるために馬岱を打ち破るのだッ!」
「え、ええっ? わわッ」

 馬超から指揮を預けられた馬岱。
 彼の者を攻めれば馬超のことだ、きっとそちらの方に意識が向くはずである。
 その時こそ、馬玩が馬超を討つ絶好の好機であることは想像に難くなく――その時こそ、西涼軍がこの戦場を離れられる唯一の機会であるのだ。
 だからこそ、それを李堪が口に出さずともその麾下の兵達は皆一斉に馬岱に向けて殺到を始めた。
 
 皆が皆、ここが文字通り生きるか死ぬかの正念場であることを理解しているのだ。
 ――すまぬ。
 軍師として将として、そのような戦場に兵を招き入れたことにぽつりと一言だけ李堪は呟いて、そして剣を掲げた。
 その視線の先には敵将――馬岱。
 馬超には劣りはするもののその性は生粋の武人である彼女に、軍師たる自分が斬りかかろうとするその可笑しさに李堪は苦笑し、そして馬を駆けさせた。



「馬岱ッ、その首、貰い受けるッッ」
「むむっ、負けないんだからッ」
 


 奇しくも。
 李堪と馬岱。
 馬玩と馬超。
 それぞれが鉄と鉄のぶつかり合う甲高い音をさせたのは、ほぼ同時であった。





 **





「……負けちゃったわねぇ」

 成宜は心の何処かで推測していた事実をぽつりと呟く。

 李堪と別れ際に負けると述べたものの、そのまま負けるつもりなど成宜には毛頭無かった。
 騎馬の勢いに任せて董卓軍を正面から突き抜けて、李堪が防いでいた董卓軍別働隊の後背を突いて瓦解させ、しかる後に董卓全軍を打ち破る。
 たったそれだけのこと。
 たったそれだけのことをすれば勝てる筈だと分かれた後に策を練り指示を下し――それでもなお、こちらの上をいった董卓軍の横撃によって勢いは挫かれて敗北を決めつけられた。
 
 その敗北に落ちた戦場は、既に後方にあった。
 董卓軍が横撃――奇襲に用いた森の中にあって、茂みの中からでは戦場の喧噪しか確認出来ない。
 将も兵も、その姿は確認出来ず、その生死さえ不明である。
 自らの周囲に侍るは数人の親衛隊のみで、その姿でさえ疲弊と損耗と血泥に塗れていた。

「ふぅむ……さて、と」

 自らの身には傷も怪我も無かったが、やはりというか、長期の籠城戦とから敗北という疲労は隠せることなく、身体を覆っている。
 脚は重く、ともすればこのまま清流流る小川のほとりにて眠りたいなどと思うが、しかし、そのようなことをしている場合ではないと自らの身体に活を入れた。
 
 この敗北を、石城を包囲している西涼軍本隊に伝えなければならない。
 伝令は既に発したがそれもどれだけ辿り着けるかは分からず、しかも策の失敗を伝えるためのものだ、どこまで信じられるかは定かではない。
 もしその伝令を信じることなく包囲を続けた結果、今こうして安定を解放した董卓軍がまた石城解放のために発した軍と戦闘になることは想像に難くない。
 連戦連勝と石城という董卓故郷の解放からなる士気の高揚と安定の兵を含めた数的優位。
 西涼軍の敗北は日の目を見るより明らかであった。

 だからこそ、成宜は戦場を抜けて石城まで辿り着かねばならない。
 無事に、とはいかないまでもどうにかして――。
 そう決断した成宜は、喧噪が木々の合間から漏れ聞こえる程度の場所にて、従う兵へと指示を下した。

「ぬしは他二人を連れてここを中心として周囲を索敵せよ、敵を見つければ一人が盾となりて二人が万全の伝令となりてそれを報せぃ。他の者はあたしに続いて同じように敵が現れれば一人が壁となり盾となりてあたしを守りなさいな」
「……」
 
 指示は簡潔――盾となって死ね、ただそれだけである。
 一心となれる馬はなく、道程は敵勢力圏内で、兵も少数。
 決死行であることは疑わず、成宜は自らの身命を最優先するべし、との指示を下して森の中を行こうと脚を踏みだし――。


「――ぐ?」


 ――ずんっ、と鈍い痛みと熱い衝撃を、右脇腹に覚えた。

「――か……はっ?」
 
 じくり、と身体の奥が悲鳴を上げる。
 衝撃に押されて吐き出されたのか、肺の中から空気を全て押し出したかのように身体は重く感じ、視界はまるで強風に煽られた水面のように歪められていく。
 ――何が起きたか、理解出来ない。
 理解出来ないまでも、その痛みが身体の自由を失わせていき、歪む意識と視界いっぱいに広がる地が、自らが倒れたことを知らせていた。

 ごぼっ、と胸の奥から上り詰めた何かが咳とともに吐き出され、視界の縁を赤く染める。
 ずくんっ、ずくんっ、と。
 もはや誰であったか思い出せない男に乙女の純潔を捧げた時のような痛みは、けれどその時より遥かに大きく、胸の奥から何かを――血をせり上がらせた。

「ぐ、ごほっ……げほっ……」

 三度四度、咳き込んでは視界に映る大地に赤き血を染みこませていって、そこでようやく自らが刺されたことを成宜は理解した。
 無意識にやっていた手はぬるりとした熱い血に濡れており、その傷からは止まることなく血が溢れ出てくる。
 傷はそこまで深くはない――が、かといって放って置いてもいい傷でもない。
 ならば処置を、と思わないでもないのだが。
 指示を下そうとした成宜が地に伏しながらも振り向いた途端、その身体は仰向けへと移されていた。
 それを成した者の手には、血に濡れた剣がある――自らが連れていた兵の一人だった。

「ぬし、ら……ご、ほっ……」
「こ……このままだと、俺等まで殺されちまうッ」
「成宜様の……あんたの首さえあれば、俺等は見逃してくれるかもしれねぇ」
「あんたの命令でただ死ぬぐらいなら……俺等は……」

 今こうして見返してみて、自分に従っていた兵が五人であったことを初めて成宜は知ったが、その五人ともが剣を抜き、自らへと暗く淀んだ瞳を向けていた。
 戦の後に少しでも多く良い恩賞にありつこうとする、そんな者の目だ。

「ご……はぁ、くはっ……ぁ」

 泥のように重く、血のようにぬめりつく瞳を前にしても、成宜としてはどうしようもない、というのが歪む意識の中で定めたたった一つの理解だった。
 自らは腹を突かれ、溜まっていた疲弊と傷が重なってもはや自分の身体ではないかのように重い。
 そんな有様で首を斬られることを防ぐことが出来ようか、などと思って――成宜は全てを諦めたかのように全身の力を抜いた。

 森の木々からのぞく空を仰ぎ見るように――いつかの草原で見た空を求めるかのように、両手両足を投げて大の字で寝そべる。
 衣服は血と泥で汚れて、常からは見るも無惨に乱れている。
 露わになった脚は太腿まで現れ、土のついたその様が嗜虐心を煽る。
 傷を確かめるように動いた腕によって胸元は今にも零れそうで、流した血の多さの分だけ色白く艶めかしい。
 そんな姿を自らが視認できるはずも無く。
 それでも、それが空を見る時の格好であるのだ、と誇示するように咳き込みながらも一つ息を吐いて。
 歪み霞んでいく意識の中で、自らの肌に触れる熱を感じた。

「ひ、ひひ……首もってく前に、少しだけ楽しんでも」
「あ、ああっ……そうだ、そうだッ」
「いつもいつも扱き使われてきたんだッ、今ばかりは俺等が上でも問題ねぇッ」
「いつもいつも誘うような格好をしやがってよぉッ」

 泥のように重く、血のようにぬめりつく視線が全身を舐め回し、そこに獣のような欲が生まれるのを、成宜はごぼりっ、と血を吐き出しながらどうでもいいと一瞥する。
 自らに残された灯火は今にも消えそうなほどに儚くて、兵達が行おうとしている行為に抗う気力も術も無い。
 歪む視界は空を移して、その端で下卑た笑みを浮かべる者達など、もはや気に留める気力も無かった。
 
 そんな瞳を、成宜はそっと閉じる。
 朧気に肌を撫でる熱と感触はもはや自らの意識から遠いもので、瞳を閉じればそれは自分のものでは無いように思えた。
 これから獣欲が如くの陵辱の目に遭おうというのに、その様は実に自然なもので。
 自然ながらもその不自然さに、それをこれから壊すのだと、汚すのだという行為に興奮しているであろう兵の姿は、もはや認知出来ないままだった。

 自らのものか、或いは獣欲と興奮に染まった兵達のものか。
 荒々しい息は段々と収まっていき――。

 ――ある日の草原のように、眠るような静寂だけが成宜の意識を埋めていった。





 **





「せいせいせい、せいやぁぁッッ」
「シャッ、シャア、シャアァァァッッ」

 鈍く、鋭い。
 冷たく、温い。
 緩く、速い。
 そんな相反する印象を馬玩の撃に抱きながら、それを髪一重で避けて馬超は愛槍――銀閃を繰り出していく。
 ボッ、と空気を突き破る音が耳元から聞こえ、さらりとその奔流に巻き込まれて自らの髪が数本宙を舞うのを視界の端に留めながら、それをさして気にすることもなく、槍を突き出す。
 
「馬超ォォゥゥ、馬超ォォォォォッッ」
「はっ、獣みたいじゃないか」

 

 まるで人馬ではなくそれ一体が全く別の獣のような動きをしながら迫る馬玩の槍を回避して、馬超はちらりとだけ戦場を見やる。
 戦場は、もはや終息へと動いていた。
 董卓軍が西涼軍を囲み圧し潰すように動いており、組織だって抵抗している西涼軍はそれを破り切れずにただ数を減らしていた。
 西涼軍の中に翻る旗から、その指揮は李堪が取っているのだろう。
 韓遂麾下の中でも頭が良いほうで、底意地の悪い方に良い成宜と組んで謀略策略の方面で韓遂を支えていたと覚えている。
 味方とすれば直情型の多い西涼の中では頼もしくて、敵にすれば恐ろしいだろうな、なんて考えていたけれど、それも、結局のところは数と質によって敗北の色を濃くしていた。

「え、ええっと、右向け右ー!」

 そんな崩れゆく西涼兵が殺到する最中で、従妹である馬岱の間延びしたような声にどことなくほっとする。
 いつもは生意気盛りで武人や将としての心構えというものが分かっているのか怪しい奴だが、それでも、自らの妹分であるならば大丈夫だと信じている。
 だからこそ、あいつならば任せられる、と一つだけ息を吐いて、馬超は馬玩を見据えた。
 
 ――李堪の最後の策の一つが、崩れた瞬間でもあった。

「もう終わりだ、馬玩……元仲間の頼みだ、降伏するなら命だけは助けてやる」
「きき、かか……梁興様は、何処? 何処、何処ッ、何処ォォッ」

 そんなことは露知らず、馬超は馬玩へ槍の穂先を向ける。 
 交じり合うは殺気籠もる視線で、間にあるは色濃い殺気に当てられて毒気を孕んだ空気。
 馬超に、もはや裏切られたという怒りも西涼の名を乏しめたという憤りも無い。
 この辺が単純である、と母親に弄られる由縁であるのだが、洛陽を出て長安付近にて梁興を討った時にあった怒りは、ここに馬で駆けてくる間に綺麗に精算されていた。
 
 だが決して怒りそのものが消えた訳ではない。
 ただただ綺麗に精練され、静かな殺気となって放っているだけだ。

「……」
「何処ぉ……梁興さまぁ……くか、かかか」

 痙攣するかのように身体を震わせる馬玩に、馬超は瞳を細めた。
 ――混乱渦巻く戦場の最中において馬超と槍を合わしているというのに、馬玩は身体を震わせては時折思い出したかのように周囲を見渡して、梁興の名を呼んだ。
 壊れている。
 摩耗している。
 腐っている――手遅れな、状態。
 それが、酷く滑稽で、酷く悲しいものに見えたのだ。

「馬玩……」
「……馬超……梁興様は、梁興様は……ぁぁ……」

 だからこそ、馬超は槍を静かに構える。
 向けられた殺気と気配によって再びこちらを見据える馬玩に、その槍の穂先を向けて――言葉に出さず、表情にも出さず、誰にも知らせることはなく。
 ただ一度だけ、泣いた。

「……くか、くく」

 ねっとりと粘つくような殺気を意に介することなく、馬超は一つ息を吸って、それを大きく吐いた。
 たったそれだけで喧騒溢れる戦場の中にあるにも関わらず、その全てが遠く静かになっていく感覚。
 自分の呼吸の音が酷く大きい。
 かちゃり、と槍を握り直した音が頭の中に響いて、馬玩の壊れた笑い声がそこから洗い流された。
 緩やかな風が頬を撫でていくような感覚に、かつて彼女と共にあった戦場の匂いが混ざった中で――。
 
 ――馬超は、ただ一瞬の間に馬を駆けさせた。



「……これで、終わりだ――馬玩」



 緩やかにも感じられる、その瞬間。
 実際には数瞬程度であるのに、終わってみればその時間が凄く長く感じられた。
 にも関わらず、たった一度の交差はたった一瞬の交差のように短くて。
 
「……馬、超…………」

 図らずも、梁興と同じく一合のもとに斬り捨てた馬玩が馬からずり落ちて地に落ちるのを、音だけで感じ取れた。
 遅れてわっと湧いた戦場の喧騒が静かに感じられていた周囲を打ち砕き、耳を打ち、身体を震わせ、砂と血と風の匂いを届かせてくる。
 そんな中に混じって呟かれた自らの名前に込められていた意味は、何だったのだろう。
 驚愕か。
 困惑か。
 恐怖か。
 或いは――解き放たれる安堵か。
 じわり、と広がっていく血に埋もれていく馬玩はぴくりとも動くことはなく、馬超がその答えを聞くことは永遠に失われることになった。

 しかし、事実は事実として受け止めなければならない。
 答えを聞くことが出来なくなったことも、敵将となっていた馬玩を討ち破ったことも――ただ馬超の一撃を抵抗することなく受け入れた、その姿も。
 その何もかもを受け入れて、それでも隠せぬ胸の内の全てを吐き出すかのように馬超は咆哮した。



「敵将……敵将、馬玩、この馬超が討ち取ったァァッッ!」



 それは或いは慟哭で。
 獣の遠吠えのように、戦場の隅々まで響いてそれを伝えた。





 そうして。

「……終わった、か」

 その咆哮に溶けるような事実を耳にして、戦場にあった李堪は瞑目したまま空を見上げて剣を力なく下ろす。
 その姿は、安定を巡る戦の終結を表現するに十分なものであった。







[18488] 七十六話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/11/26 10:34



「北郷様、負傷している降兵の処遇は如何様に?」
「こっちの軍は安定の街中で対応している。西涼兵はさすがに中にいれる訳にもいかないからな、城外の仮設陣地で纏めてるからそっちに回してくれ。馬は翆――馬超と馬岱が仮設の厩で受け取っている、そっちに回してくれ」
「はっ、御意に」
「北郷様、降兵の中から恭順の意を示しているものがおりますが」
「……今は受け入れる余裕が無い。安定の方で受け入れてもらえるよう、調整しておく」
「はっ。指示があるまで、現状にて待機といたします」

 安定を巡る攻防は終わった。
 西涼軍と董卓軍の戦いは援軍と勢いによって董卓軍の勝利へと落ち着き、長きに渡る篭城より解放された安定の街は塞き止められていた活気がそこかしこで溢れ出ていた。
 膿んだ傷。
 そう趙雲が表現した鬱屈した安定の雰囲気は、もはや既に洗い流されている。
 その中心にあるのは、やはり安定解放の立役者である董卓だ。
 現在は李粛と李需の生家である李家によって歓待が行われているようであり、その熱気と歓びに誘われてか、城壁の外にいる俺達にまで董卓の名を高々と呼び続ける声が聞こえていた。
 黄巾賊に続いて西涼軍の危難からも救われたのだ、それも当然のことだった。

「いいよなぁ、中は……美味いもん食ってるんだろうなぁ……」
「はは、確かに美味いものは多いだろうけどお偉いさんのご機嫌を窺いながら酒呑んで飯は大変だと思うぞ? 月と詠も辟易してたからな、代わってやれないかなんて聞いたら喜んですぐ代わってもらえるさ」
「ぬ……北郷様、俺、真面目に頑張ります」
「うん、頑張ってくれ。これを稟――郭嘉に渡したら休んでくれていいからさ」
「は。では、失礼しますッ」

 そうした城内の活気に比べて、城外の活気は一段も二段も落ちる。
 笑い声や歓声こそ戦の勝利から零れているが、その声も顔にも、色濃く疲労が滲んでいた。
 無理も無い、と思う。
 洛陽における危急の呼び出し、そこからの長駆に長安近郊と安定における連戦は、無理をしたと認めるに十分なものであった。
 俺の声に反応して認めた竹簡を手に走り去る兵の顔もまた、疲労に覆われていた。

「ふぅ……いやいや、まだ頑張らなきゃな。子龍殿に申し訳がつかないし」
「ふふ、忘れられていなかったようで。何とも嬉しい限りですな」

 かくいう俺も、身体のあちこちに疲労が隠せていない。
 溜息漏らして身体を動かしてみればごきっぴしっと筋肉が張っているのが分かる。
 最前線で剣を取っていない俺でさえこれなのだ、呂布や華雄、奇襲のためにと慣れぬ船やら幾日もの待機やらで疲れている張遼達は、さすがの彼女達と言えど疲労困憊だということは容易に想像出来た。
 故に、董卓軍は幾日かの休養を安定にて取ることを、董卓と賈駆の下に決定された。
 石城の安否は未だ不明で、そこに務める李確の状況も不明瞭であるが、それでも、事を急いても良い方向に進むことはないだろう、との判断であった。
 兵から感謝や安堵の声が漏れたのは、当然でもある。
 
 とは言え、俺が休めない理由は他にもある――趙雲が未だ別働隊から帰ってこないのだ。
 残敵探索に移る、と忍からの情報はあったものの、未だ帰ってこないとなるといくら趙雲だからといっても心配にはなる。
 大規模な残党や賊軍は確認されいないと忍からの情報もあったが、それでも、命じた手前、趙雲を残して休む訳にもいかないのだった。

 と。
 熱が籠る筋肉を伸ばしながら、熱に任されるがままにぼんやりとそんなことを思考していた俺は、背後から近づく気配と声を察してそちらへと向き直る。
 趙雲、子龍。
 手に槍を持って歩く彼女は、戦が終わったにも関わらずに戦場の空気を纏って俺の目の前に現れた。

「……これは子龍殿。別働隊の任、お疲れでございました」
「はは。なに、勇んで行ったは良いもののさしたる数の敵がおらずに肩すかしを食らいましてな。一刀殿に功無しなどと、どう言えばよいか迷っていたのですよ」
「はは、ご冗談を」
「おや、冗談とはこれは失礼な……しばし、よろしいかな?」


「――かか、その話、わらわにも聞かせてもらえるかのう?」


 ぎゅんっ、と緊張感が一息に纏まったような感覚に、火照っていた身体は一気に熱を冷ましていく。
 趙雲とて疲労が皆無という訳ではないだろうが、その身に纏う戦と血の気配は戦場と変わらぬもので、否が応にも身構えてしまう。
 だというのに、彼女は常と変らぬ笑みを浮かべながら――その身に憤りを纏わせながら、冗談だとは失礼な、と口を尖らせて豊満な身体を俺の懐近くまで近づけた。
 女の子特有の甘い匂いというのはそれだけで胸を高鳴らせるものがあるが、それも、軽やかな汗の匂いに混じって香るとすれば、酷く蠱惑的なものがあると認識せざるを得ない。
 どくんっ、と胸が大きく高鳴って、ともすれば、このまま趙雲の身体を力の限りに抱きしめてしまいたい、なんて思春期な思考が感情を埋めようとする。
 まるで口づけをされると思うぐらいに趙雲の顔が目の前にあって――そこで初めて、俺は彼女が微かにだが血の匂いを纏っていることに気付いた。
 ただの血の匂いではない――酷く、生臭い。

 俺がそれに気づいたのを顔か気配から察したのか。
 すい、と抱きつくように肩の上に顎を乗せた趙雲が、俺の耳元で声を潜めた。
 ――いつぞやの仕返し、と勘繰るのは失礼だろうか、などと思わないでもない。
 ひときわどきんっ、と胸を高鳴らせて、知られることなく背筋を微かに振るわせて。

 ――かか、と含み笑いのような声が、耳を打った。

 幼子のような形――ロリ幼女、と初の出会いで叫んだ言葉を封印――をしながら、その実、老練なる謀略の使い手。
 安定に務めるが将、郭汜が、その背後に見慣れぬ女性を連れて、にまにまとこちらを眺めていた。。

「かか、甘い逢瀬の途中で済まんのぅ……それで北郷、わらわに何か含む所でもあるのかの?」
「ははは、そんな、郭汜殿に含む所なんて、はは、ははは」
「……一刀殿よ、それではあると言っているようなものですぞ」
「ふん、まあよいわ……おおっ、そうよ、降伏した将で李堪じゃ。一応、目を通しておこうと思ってな」
「……李堪だ」

 すいっ、と離れていく趙雲の芳香と微かな温もりに若干の惜しさを感じつつ、郭汜に向き合う。
 にまにま、と幼女のままの顔に笑みを張り付けつつこちらを見やる郭汜の顔は、それはそれは楽しそうな玩具を見つけたような笑みで。
 初心な男子よのう、と視線で笑われているような気がして、郭汜に対して考えるのを止めた――断じて逃げではない、勇気ある撤退である。

 まあそれはともかく。
 そうして郭汜から視線を外せば、その背後からすらっとした長身の女性が手に縄を締められたままに目礼を向けてくる。
 李堪。
 西涼連合軍の雄である韓遂が配下にして、手下八部と呼ばれる一人。
 安定を攻囲するために別たれた片側の軍勢を率いていた彼女は、董卓軍の猛攻を凌ぎ剣を振るいながらも、もう一人の将である馬玩が討ち取られた時点で兵の助命をもって降伏したのだという。
 涼やかな風貌と身なりからすれば武人たる印象ではなく、戦場の最中において剣を振るうような人となりには到底見えない。
 その冷やかな視線は敗れた相手に対する嫉妬のものか、或いは、先ほどまでの俺と同じく、将たる性として探りをいれているのだろうか。
 
「さてそれで? 趙雲と申したか、如何様なことがあった?」
「……ほう。お気付きになられるか」
「かか、当然じゃ。だてにお主らよりも歳をくっておらぬわ」
「は……と、歳上ですとっ?」
「……何じゃ?」
「いえ……。ふむ……一刀殿、世には未だ不可思議なことがあるものですな」
「然様で」
「ええいッ、さっさと申せッ!」

 そんな李堪の視線を受けながら、それに気づいてなお変わらぬ態度の趙雲に郭汜が苛ついた声を上げる。
 ぷんすか、と表現するのが正しい動作で手を上げる郭汜は、なんというか、その、子供が大人ぶっているようにしか見えなくて、実に微笑ましい。
 李堪がいなければそのまま眺めていたいほどであるが、それも、趙雲の緊張した声によって中断されることになる。
 
 
 曰く――森の中にて将らしき女の亡骸を見つけた、と。


 そんな趙雲の言葉に、それまで黙っていた李堪が息を呑んだ気がした。





 ――夕闇に包まれた森の中は、酷く薄暗い。
 木々の隙間からのぞく夜空は元いた世界とは段違いなほどに星々が明るいが、それだけでは到底闇を晴らすほどには至らぬだろう。
 趙雲が手に持つ松明が無ければ、即座に迷い込んでしまいそうな森の中。
 それを少し行くと、明かりに囲まれて、ぽつんと布を仕切りとした一角が現れた。

「……事が事ですからな、勝手に判断するよりは主たる一刀殿に指示を仰ごうと思いまして。あれはまあ、そのためのもの――」
「――かか。のう、趙雲よ、そう隠さずともよいであろう。……そうまでして人目に曝せぬモノか?」
「ッ」
「……さすがですな、郭汜殿」
「……」

 闇夜の中に浮かぶ炎に照らされた白。
 なるほど、常であれば幻想的であるとか綺麗だとか、そういった感想を抱くと思われるそれは――酷い臭気を放っているかのように近寄りがたい。
 嫌悪。
 生理的な、本能の部分で警鐘を鳴らすそれが近づくことを拒もうとしていた。
 
 けれども、近づかなければ事は進まない。
 趙雲の松明に誘われるように白い布を目の前にして、いよいよ耐えきれなくなったかのように趙雲がいつものように軽口を開こうとして――その真意を、あっさりと郭汜が暴いた。
 見せぬ、或いは、見せられぬ。
 そしてそれが将であると思われる女の亡骸――。
 推測は容易で、同じ推測に至ったのであろう李堪の顔に、形容しがたい気が満ちていく。
 怒り、嘆き、悲しみ、諦観、納得――後悔。
 それらが混ざり合った顔だった。


「――では」


 そして。

 
「……錫、辟」


 趙雲がめくった白い布の向こう。
 血溜りに沈み、流した血の量に準じて土色となった肌は衣服を剥ぎ取られて女として隠すべき秘所を曝され、その朱から土色の至る所に醜悪に黄ばみ始めていた何かが付着している――そんな女の亡骸が、そこにはあった。
 豪華絢爛――そう表すべき剥ぎ取られている衣服は血と土に汚れているが、将たる人物が纏うものとしては不足は無いだろう。
 もしやすれば安定から逃れようとした者であったか、と少しばかりの不安は払拭されたが、しかして、唇を噛み締めて何かを耐えている李堪の顔に別の不安が生じる。
 この亡骸が李堪と同じ西涼軍の将であったなら、もしやすれば董卓軍の兵が事を成したのではないか、と。
 そんな俺の不安を感じとってか、李堪は力なく頭を振って口を開いた。

「……この者の名は、成宜。私と同じ西涼にて韓遂様に仕えていた将の一人で、軍師……でもあった。物言いなどで敵も多く、兵から慕われているとは言えなかった。恐らくではあるが……逃げるための壁に成れと命じた兵が、事ここに至って反発したのだと……」
「ふむぅ、まるで見ていたような口ぶりじゃのう、李堪よ?」
「元々軍兵を揃えるのに荒くれ者を多用したのもあるが……事実、見てきた者もそちらにはいるのだろう? 梁興などは、最たる例だ」
「……貴殿も同じであると?」
「……いや、信じてもらえるかは別にして、私に従ってくれた兵には略奪暴行は禁じていた。成宜は西涼の頃より多用していたこともあって、そういった輩が多かったことは否めまい……が……」

 ……このたわけめ。
 そう呟いて、李堪は力なく肩を落とした。
 
「さて、一刀殿……ここを見つけた時に逃げ出した兵が数名いたので尽くを討ち取っておりますが……確かに、我らが軍の装いではなく、西涼の兵のものでしたな」
「それは……いや、もう少し早く言いましょうよ」
「はっはっはっ」
「……はぁ、まあいいや。それよりも子龍殿、布とお湯の手配を頼みます」
「……承知。女官も数人呼んできましょう」
「いや、それらはわらわが差配しよう、救援の礼じゃ……が、お主も甘い男よのう、北郷? ――だが、嫌いではない」

 かっかっかっ、と笑う郭汜に苦笑して、その言葉に任せることにした。
 布とお湯は負傷兵を救護するためには必要不可欠なものではあるが、俺がこの場に来るときには城外の救護についてはある程度収拾がついていたので、さしたる問題はないだろう。
 籠城を終えた安定にそこまで保有があるかは分からなかったが、それでどうにか捻出は出来ると判断した。

 ――と、事の推移に付いていけていない李堪は、きょとんとした顔を向けて口を開いた。

「なに、を……?」
「……何も、辱められた姿を衆目に曝すことはないでしょう」
「……まさか、清められるとおっしゃるのか……敵将であった成宜を?」
「戦果を考えれば骸とはいえ首は取らねばならんがのぅ……かか、まあこういう男だということだ、諦めよ」
「左様。まあ、これが一刀殿の毒牙にございまする」
「おい」
「将として、死なせて頂けると仰るのか……忝い。……かたじけ、ない…………」

 そんな李堪の顔が驚愕に変わり、次いで瞳に涙を溜め始め――そして零した。
 土と血で汚れたきめ細かな頬を伝う涙は、ぽつりと大地へと溶けていく。
 ぽろぽろ、と。
 敵であったとはいえ、友を想って流される涙は何処か悲しいぐらいに綺麗だ、と思えて。
 声に出さずに視線だけ交えた郭汜が頷くと、俺は趙雲を促した。
 
 ――生易しい、と言われるかもしれない。
 梁興に犯された村の出来事からすれば酷く温くて、その村に縁故ある者からすれば憤りと不平不満をぶつけられることは目に見えていた。
 同じ境遇を、陵辱を、狂気を、狂喜を。
 そう願う人がいることは、理解出来ていた――仄暗くて重く粘つく、胸の奥にこびりつくようなその感情。
 友人達と居場所から決別することになったあの一件でも感じたのだ、理解出来ない筈がない。
 
「……一刀殿」
「……」
「一刀殿」
「……は、何でしょう?」
「手を……傷に障ります」

 けれど。
 それでは狂気の連鎖が続くだけなのだ――そう深く飲み込んで、思考を冷静にする。
 何処かで、断ち切らなければならない。
 死んでいった兵も、死んでいった民も――陵辱された女達も、忘れることは出来ないけれど。
 先に続く時代のために、俺は息を吐き拳を握りしめることで、無理矢理にその感情を消化した。
 趙雲に言われて、初めてそこで傷を負っていた手を握りしめていることに気づいた。
 ずきんっ、と鈍く痛んだそれが誰かの心のようで。
 ふわり、と僅かな熱を伴って優しく繋がれた趙雲の手の平が、何処か安心出来た。

 そうして。
 郭汜が近くにいた兵に女兵を数人呼ぶ声と、忝し、と何度も何度も繰り返される李堪の声を背中に覚えながら、俺は趙雲と手を繋いだまま安定までの道のりを歩いていた。
 どちらとも、話もなく、また手を離そうともしない。
 それが自然である、というままに趙雲と肩を並べて歩いている途中、木々が開けた向こうから、俺は空を仰ぎ見る。
 月の煌めく夜空の彼方に、暗雲が見えた気がした。
 




 **





「――報告は以上になります」
「……左様か」
「むぅ……ご苦労であった、下がって休め」
「はッ」

 暗雲立ち込めるは空の彼方――石城を攻囲する西涼軍は、ある一つの報告によってその進退を迫られていた。
 その報告をもたらしたは、血と土と汗によって薄汚れた鎧を纏った兵――安定の戦いから命からがら逃れた兵達である。
 その中には、成宜や李堪が事ここまでと悟って放った伝令もいる。
 その者達が皆一様に持ち帰った報告――韓遂の死去と西涼軍の連敗に、さしもの楊秋と候選も苦い顔を隠せなかった。

 報告の兵に休めと伝える候選の声の後に、二人の間には言葉が無くなった――周囲には誰もいない。
 連日続く攻囲戦の最中ということもあるし、報告が相次いだのが夜更けということもあったが、此度はそれが幸いした形になった。
 ――このような話、程銀と張横にそのまま伝える訳にはいかぬからな。
 片や命を救われ、片や一侍女から寵愛を受けて将にまでなった二人の将は、その韓遂への信奉具合はただものではない。
 もしこの場で事をそのまま受け取っていたとすれば、仇討なりなんなりと軍勢を動かしていたことは容易に想像できた。
 故にどう伝えるべきか。
 そこが、頭の痛いところだった。
 口火を切ったのは、楊秋だ。

「伝えねばならぬ、か……?」
「……ならぬでしょうな。李堪か成宜、或いは馬玩が放った伝令の口ぶりでは、他にも数がいた筈でしょう。そこから聞かぬと限りませぬ」
「聞けば止まらぬ……候選殿でもそう思いか?」
「然り。あの二人だけではござらぬ、将兵、その全てが思い思いのままに動かぬと断言は出来ぬでしょうな」
「ぬぅ……あと少しということろで……」

 石城の陥落は、もはや目前であると言っていい。
 補給も情報も何もかもを封じてしまえば、董家重鎮たる李確でさえ手が出せないでいた。
 このまま事が進めば石城の前に安定は当初の目的通りに陥落し、董卓軍において西方の要である石城はそれに連なり陥落させることが出来、そこから長安、そして洛陽にまで迫れる筈であったのだ。
 それが、策の要であり最重要人物たる韓遂が敗死するとは。
 それどころか、韓遂の企みを防いだ後に、梁興の軍勢を討ち破って安定解放まで軍を進めていたのだから、戦とはままならぬものだ、と楊秋は溜息をついた。

 董卓軍の動きが早いは精兵たるが故か、或いは――天の御遣いと呼ばれる男が、何かを持っているからだろうか。
 などと、詮無きことを考えて、楊秋は苦笑して頭を振った。
 今考えるべきはそのようなことではない。
 如何にしてこの事実を将兵らに公表し、かつ、統率を乱すことなく次なる行動に結びつけるか、である。
 次なる行動として上がるは二つ、攻めるか引くか、ただそれだけだ。

「我らが総軍たるは約五千。その総数たるを投入すれば、ここまで疲弊させておるのだ、李確籠もる石城とて容易に落とせよう」
「ですが、損害は被り、疲労は溜まりましょう。さすれば、逆落としで董卓軍に蹂躙されるは必定かと」
「うぅむ……では、如何する?」
「ふむ……」

 攻めるか、撤退か。
 そう頭の中に浮かんだ中で、撤退という単語だけがすぐさま消えた。
 西涼に退く、という目的は既に韓遂の死――死んだことの事実すら確認出来てはいないが――によって検討の意味事態が消えているのだ。
 西涼連合という豪族等の集まりでしかない中で、有力豪族たる韓遂が死んだ後にその配下に収まっていた者達の行く末など決まっていよう。
 勝ち馬に乗ろうとする者達によって嬲られるか、勝者たる董卓、或いは韓遂亡き後に西涼にて最大勢力になるであろう馬騰による掃討である。
 少なくとも、逃げ帰って歓迎されることは万に一つとて無いだろう。

 となってくると、残された手立ては一つ――攻めるしかない。
 確かに、候選の言うとおり長きに渡る攻囲によって石城の将兵らは疲弊しており、そこからくる士気の低下は、いかな李確といえども対応しきれまい。
 様子見や小競り合いなど、小規模戦闘のみで殆ど被害のない自軍からすれば現状の石城を陥落させるのはさほど難しいことではないだろう――だが、後に残るのは破壊された城壁城門と、名将たる李確の徹底抗戦によって大きく損耗されるであろう兵であることは想像に難くなかった。
 西涼軍の強さは騎馬のを用いた戦略と騎馬自身の精強さによるものだ、籠城などすれば、それを活かす手段はほぼ無くなってしまう。
 
 どちらの手を取るにしても八方塞がり。
 そんな状況で、どんな策を打つというのか。
 そう頭を悩ませようとする候選を見やりながら、楊秋はさも当然の如く言葉を紡いだ。

「うむ。撤退も石城攻略も愚策というのなら、残る策は一つしかありませんな……」
「……何? 楊秋よ、事ここに至って、これ以上に策があるというのか?」
「策、というほどではありませんが……しかし、このまま座して死ぬは西涼兵の名折れ――となれば、取れる策など一つしかありませんでしょう?」
「ぬ……まさか?」
「ええ――」

 考えてみれば簡単なことであった。
 撤退――後々に詰むことは目に見えている。
 石城攻略――石城を攻略したとて董卓がそれを見逃す筈もなく、逆落としで討たれるだろう。
 ならば――。


 ――石城に籠もる兵も救援に来る董卓軍も、その全てを一同に討ち破ってしまえばいい。


 西涼兵の精強さに油断している訳ではない。
 洛陽からここまで駆けてきた董卓軍の疲労に期待している訳でもない。
 洛陽からの急動、梁興、馬玩、成宜、李堪などの軍勢との連戦、安定で取るであろう休息と補充、それらから鑑みるに、ここに至る時には董卓軍の総数は石城の城兵を加えても五千に及ばない程度であろう。
 無論、それはただ推測であるし、何より、兵数が多いから勝てるというものでもない。
 
 ただ。
 唯一つ、確固たる勝機を得ようとするのであれば。
 

「――決戦しか、道は無いでしょう」


 涼州特有の広大な地。
 馬が駆けるに邪魔するものは無く、兵が広がるに遮るものは無く、遠くを見渡すに気にするものは何も無い。
 策を弄せぬほどに広々としたこの大地が決戦を行うに相応しいということが、唯一つの勝機たり得た。


 それ即ち――梁興にも李勘達にも率いらせなかった西涼騎馬兵の精鋭衆、精強で名を知らしめたその威力の存分な見せ所である。








[18488] 七十七話
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2014/03/09 11:15





「――さて……と」

 とんとん、と誰かが机を叩く音が微かに響いた。
 
 街並みの喧噪は、暗く火を落とす部屋の中にも僅かに響く。
 飲めや食えや歌えや、の騒ぎはまさしく不眠で、未だかつて洛陽ですら味わったことのない熱気に当てられてか、賈駆が呟いた言葉は吐息と共に何処か艶めかしい。
 粘りつくような闇の中でつつっと地図の上を這う指先は僅かな炎に揺られて色白く映え、ついっ、と上げられた視線がこちらに向けられる。
 眼鏡の奥にある瞳はそれまでの酒宴と歓声と勝利の熱気に浮かされて熱っぽく潤み、上目遣いのそれが、俺の中にある何かを刺激した――ような気がしないでもない。

「……何見てるのよ?」
「い、いや……何でもない」
「……?」
「やはり、少し疲れましたね……元気な殿方もおられるようですが」
「おやおや、凛ちゃんは無粋ですねー」

 じろり、と賈駆に睨まれて慌てて顔を背ければ、その先にはじと目を向ける郭嘉とにやにやと口元を緩める程昱の姿があった。
 常日頃からと同じ対照的な二人は、しかし、その視線の奥が冷ややかなところは同じであった。
 戦勝祝い中の城外にて趙雲と手を繋いだまま帰ってしまったのを発見された時と同じような視線だが、あの件は何とか――本の購入やら戦術談義に一日付き合うやらで形で決着が付いた筈だ。
 西涼の合流から韓遂の暗殺未遂、果ては石城から安定から長安まで攻め込まれたのだ、戦後処理のことを考えれば今からでも憂鬱になれるが、その合間を取って一日ずつ休みが取れるのだろうか、と頭を痛めたのはつい先日の話だった。
 
 となれば――いや、ああ、まあ、うん、悪いのは俺なんだろうなー、と推測するのは実に早い。
 いや、推測というよりは理解と言った方が正しいか。
 郭嘉や程昱だけでなく、頬を膨らませた董卓や同じじと目の張遼と馬超、笑いを堪える趙雲と馬岱などが皆一様にこちらを見ているのだ、理解出来ない筈がない。
 むぅ、と唸ることは出来るが、男は俺一人で回りは全て女将だ、完全に敵地である。
 王方や牛輔がいる洛陽がものすごい恋しくなったのは、秘密である。

 それはさておき。
 今は軍議――それも、石城を解放しようという戦を目前にまで控えた、その軍議の最中である。
 いつまでも話が進まないでは無駄に夜も更けるだけだろう――俺の居心地の悪さが消えることもないし。
 そう思って、俺は一つ溜息をついて熱を逃しつつわざとらしく咳をした。

「……話を戻そう」
「……負傷兵の救護は救護と収容は目途が立った、それでいいのよね?」
「ああ。兵と装具の補充は樊稠殿が差配してくれるらしい。洛陽からの負傷兵は安定で休養させればいいってさ。補充して貰った兵の方は明日には再編成が終わるんだったな、霞?」
「うわっ、さらっと無かったことにしよったで」
「まあ、これ以上玩具――おっと、弄るのはよしておきましょう……では一刀殿に次いで報告ですが、安定周辺には西涼軍の残党は見受けられない模様。恐らくではありますが、石城を攻囲している部隊との合流に向かったものかと思われますな」

 張遼のじと目や軽口を珍しくも宥めながら、ちらっ、とだけこちらを一瞥して趙雲は地図の上で指を滑らせていく。
 郭汜と李堪を成宜の遺体があった場所に残して趙雲と手を繋いで帰ったのは昨夜のことだが、あの白くて武器など握ったことなどないような指と繋いでいたのか、と不意に思い出して身体の熱を上げてしまう。
 いかんいかん、と一息ついて熱を吐き出すと、ちらっ、とこちらを窺い見た趙雲と視線があって、にんまりと微笑まれてしまった。
 視線の行先というか意味というか、そういったものを見抜かれているようで、報告を終えた趙雲がひらひらと手を振るうと彼女に視線が集まって、次いで、その趙雲の視線の先にいる俺に視線が注がれた。
 二度の軍議の中断に、おっほんっ、と賈駆の咳払いに俺は苦笑いで頭をかいた。

 笑みを崩さない趙雲がやれやれといった顔を向けてくる。
 お前が言うな、と口にしたいがこれ以上の中断もさすがに悪いだろう。
 はぁ、と諦めたような溜息一つに、からからと趙雲の笑い声が響いた。

「まぁ……何があったのかは今は聞かないでおきましょうかねー」
「……そうしてくれると助かる」
「何かあったと白状しているようなもんよね、それ」
「何かあったと白状しているようなものですね、その行動は」
「むぅ……」

 中々軍議が進まないのだが、じとーっと音になりそうな視線を向けてくる程昱に頭痛を抑えていると、何処か納得していないような賈駆と郭嘉の言葉に、董卓の視線が重なった。
 何があった、とありありと顔に浮かべて問いただしてくる皆に苦笑していると、もてる男はつらいですなぁ、と他人事のように趙雲が呟く。
 お前が言うな、と二度目になる感情を込めて視線を向けてみれば、にやっ、と笑みを深めて再度手をひらひらとした――場の空気が冷やかになった気がするのは、気のせいのままにしておきたい。

「ふむ、では明後日――早ければ明日にでも石城に向けての準備が完了するということだな?」
「そう、だけど……華雄、あんたって……」
「む、どうした?」
「……いや、何でもないわ」

 ――しかし、華雄にはそういった空気は関係ないらしい。
 それまで黙っていた華雄の言葉にがっくりと肩を落とす賈駆とそれに苦笑する董卓といったいつもの光景が出来上がり、それに合わせて張遼や俺達などもいつもの空気へと戻っていく。
 ――ちなみに呂布と陳宮は軍議には参加していない、宴の熱に引かれていったから今頃は肉まんでも食しているだろう。
 ちらっ、一度だけ賈駆がこちらを窺い見たが、既に波は去ったと取ったのか、それ以上の言及はしてこなかった。

「ふう……そうね、それを前提にいきましょうか」
「出立はいつぐらいがいいのかな、詠ちゃん? それによっては、郭汜様達と話を詰めないといけないし」
「すぐにでも――とは言いたいけど、敵の本隊が待ってるだろうって戦に準備不足で行くのはさすがにね……」
「兵の再編と兵装が明日には整うというのなら、やはり明後日あたりではないでしょうか」
「敵さんの出方次第もあるでしょうが、その辺はどうなんでしょー?」
「……ぅん? ……うぇ、あたしッ?」

 さて、軍議の続きである。
 連戦によって損耗した軍勢の再編成は、先ほども告げたように明日を目処にすることが出来る。
 死傷者は決して少ないとは言い難いが、安定の兵は幾分かの不平不満が溜まったままで吐き出す場所が必要だ、と郭シの言葉があったから再編成には苦労していない。
 そういった者達に報いてやる時間が今は無いのが残念だが、同じことを呟いた董卓と賈駆ならばいいようにしてくれるだろうと、一人安心して、言葉の流れで馬超――西涼連合軍を良く知る人物へと視線を向けて――。

 ――こっくりこっくり、と船をこいでい馬超にがっくりとこけそうに成った。

 うとうととしていた馬超だったが、はっと顔を上げたかと思うときょろきょろと周囲を見渡して、視線が集まっているのを確認してから話の中心が自分に集まったことを理解したらしい。
 うとうとしても話は耳に入っていたらしい――そう感心していると、おば様に怒られて覚えた特技なの、とは馬岱の声。
 深くは突っ込まないことにして、話の先を促した。

「え、ええと……多分だけど、残りを率いてるのは楊秋か候選殿、だろうな」
「えーとね、楊秋さんは韓遂おじさんの副将みたいな人で、候選さんは老将って感じの人かな」
「それは厄介そうな人ばかりが残ってますねー」

 楊秋と候選。
 西涼を調べさせた時の忍の報告では、両人ともに韓遂旗下としてその軍勢の中心人物だった武将達である。
 韓遂の軍勢は韓遂を頂点としその二人がそれを支え、これまで戦ってきた李堪や馬玩、梁興などがそれに従う形であった。
 要するに――韓遂亡き後の残党軍、その主戦力が石城を攻囲している、ということなのだ。
 そしてそれを率いるはその主武将。
 厄介、という程昱の一言が正しいと言えた。

「実戦経験豊富な歴戦の将と老練な将に、精鋭たる騎馬兵ですか……。厄介過ぎますね」
「……こっちが安定まで来てることを把握したとして、その戦力を持ってると仮定するならボクなら正面からぶつかるわね」
「正気か? 我らと相対してるうちに横腹を石城から食付かれるぞ」
「篭城で疲弊している石城には一軍を向けておけば事足りうるわ。或いは、それを態とちらつかせて出てきた所を逆撃、救援に急ごうとしたこちらを襲撃――十分に有りうる」
「こっちがどう動いても、敵さんの主力とはやり合わないかん、ちゅーことやな」
「……そうなるわね」
 
 後手後手に回ってきた戦の集大成である、最後の最後まで後手に回るは仕方が無いといえた。
 仕方が無いとはいっても、西涼騎馬兵の脅威は騎馬兵をこれまた主力とする董卓軍からすれば十分に理解しており、これと正面切って戦をすることに、この場に集まる全ての顔が――ただ一つだけを除いて難色を示す。
 
 戦の構えが出来ていなかった梁興のように一当てでは崩れないだろう。
 舟を繋げた簡易陸地にて騎馬に河を逆上させる手も既に伝わっていると見た方がいい、安定の通りにはいかぬことだろう。
 時間をかけて調略謀略は無理だ、時間がかかり石城が陥落してしまう。
 であるならば、取れる算段は一つだけの筈だ。
 その一つだけ――正面衝突という策を、将のみならず軍師達までもが口に出せずにいた。

 そんな中で――。


「――なら、正面から当たりましょう」


 涼やかで、凛とした声が場を震わせた。

 将でもなく軍師でもない――当主たる顔で董卓が厳かに、そして確かに口にしたその一言は、場を騒がせるには十分なものであった筈なのに静寂をそのままにする。
 その場の誰もが、背筋に震えを覚えていた。
 


 決戦。
 その言葉は、もはや逃れ得ない現実として目の前を漂っていた。





 **





「――そう……董卓は洛陽から出陣したのね」
「はっ。それに伴い洛陽の警戒が厳重になったとの報告が上がっております」
「何かあったと考えるべきね……天の御遣い――北郷は、董卓と?」
「そのように」

 じじっ、と油が焼ける音が静かになった空間に響く。
 ゆらり、と揺らめく炎によって空間が僅かに乱れ、そこにいる影が浮かび上がった。
  
「西涼連合との同盟――実質上は西涼の降伏ですが、両雄である韓遂と馬騰、馬騰の娘が洛陽に入っていたとの報もあります」
「精兵で名高い西涼軍が戦いもせずに降伏だと? 秋蘭、それは本当なのか?」
「どうやら本当のことらしい、姉者」
「黄巾との戦で共闘したことがあるとのことでしたので、その時の実力からのことでしょうか?」

 またゆらりと炎が揺らめく。
 趣こそ違えど美しいと判ずるに足る二人――秋蘭と呼ばれた蒼の髪の女性と彼女から姉と呼ばれた黒髪の女性。
 まるで獣の――猫の耳のような形をした頭巾を被る、先の二人の女性よりも幼く見える少女とも呼べる一人。
 夏候惇、夏候淵の姉妹と、軍師の旬彧である。
 夜も深いからか、身は整えているものの軍装はなく、平服に近いものを纏っていた。

「詳細はこれからだけど、数倍の兵力差を討ち破ったということだったからその可能性も考慮しておいて頂戴、桂花」
「はっ、了解しました」
「青州から溢れてきた賊の動きはどう、秋蘭?」
「救援要請を受けてから各地に斥候を放っていますが、あまり良い状況とは言えないようです。紅瞬(こうしゅん、張莫の真名)様の陳留郡、我らが務める東郡こそ平穏なものの、奉山郡の辺りは荒らされているようです」
「当然だ、秋蘭よ。華琳様が治めるここが賊なんぞに荒らされる訳がなかろう」

 それに私が警邏をしているのだぞ、と自信満々。
 子供が威張るように胸を張る夏候惇に、人知れず夏候淵の頬が若干緩んだ。
 それにふんと鼻を鳴らす旬彧、といういつもの光景に、彼女達の頭上――彼女達よりも少しだけ高い位置にある台座から、一人の少女が立ち上がる。
 
 薄暗い炎だけの空間の中において、それでもなお輝かんばかりの黄金色に輝く髪は二つに纏められており、何時如何なる時でも完璧、という表現が正しいようなその姿は一郡の太守なれどまさしく王の威風を漂わせている。
 軍装を纏っていないために飾りの少ない平服ではあるが、それでもなおまき散らかされる覇気は隠すことなく空間を満たしていた。
 
 その覇気を、少女――曹操は膨張させた。
 瞬間、今が夜更けであるということを忘れてしまうほどの存在を感じて、三人は一様に頭を下げた。
 主たる曹操の、決断と指示を待ち望むかのように。

「桂花、公孫賛を攻めている麗羽の動向はどう?」
「守備兵を残しただけで、こちらはあまり警戒していないと思われます。少なくとも、侵攻はしてこないものと」
「戦況は?」
「袁紹が押しているようですが、公孫賛の元にいた劉備が公孫賛に助勢したらしく、やや拮抗しているとのことです」
「そう……春蘭、陽が昇りしだい兵を集めなさい。連合軍以降に参軍した新兵を中心にして頂戴」
「はッ、経験を積めるように古参の兵とある程度混ぜるように致します」
「ええ、それでお願い……秋蘭、紅瞬に東郡以東の賊徒征伐へ向かうことを伝達。加えて、青州の各太守に曹操が援軍に向かうことを伝えて頂戴」
「御意に。紅瞬様が合流を望まれたら如何しましょう?」
「許可するわ。けれど、董卓が洛陽から離れたとはいえ油断は無いように、と」
「はっ」
「結構。桂花は引き続き董卓と麗羽の動向に注意しつつ、兵糧などの後方支援準備と軍編成を春蘭と練って頂戴。必要であれば紅瞬と伝達を密にしても構わないわ」
「御意にございます」

 ひらひら、と。
 まるで熱に浮かされたかのように揺らめく炎の中に羽虫が迷い込む。
 一瞬のままに炎に巻かれて焼かれた羽虫は、そのまま少しばかりの炎を灯りとしたままちりぢりに闇夜に溶けていく。
 その様が、まるで黄金の粒子が曹操から放たれているようで。
 黄金の髪に映える粒子を嫌うことなく、曹操はそれを楽しむかのように覇気を吐き出した。

「出立は三日後。東郡以東に蔓延る賊軍を制圧し、可能なようなら青州も一気に呑み込むわ。各員、奮起しなさいッ」
「ははッ!」

 



 曹操、動く。
 大陸各地の動乱の色濃さがますます増していく中、一郡の太守でしかない少女の動向はさしたる注目は集めなかった。
 反董卓連合軍を破った董卓、北方の雄である袁紹。
 この二勢力の動向が、民草の耳や目をさらっていたからである。
 
 だが、彼らは知ることになる。
 兗州にて賊軍相手に奮戦していた義勇軍を旗下に治め、青州に蔓延る黄巾残党をその非戦闘員ごと吸収し、一気に勢力を拡大するその少女の名を。
 

 ――後に覇王と呼ばれる、英雄の飛躍の時であった。





 **





「く」

 ――そうして。

「くく」

 西に董卓が決戦を望み。

「くく――は」

 北に袁紹が公孫賛と劉備に争い。

「は――ははは」

 東に曹操が覇を唱えんと動く――その時を。
 その瞬間の到来を待っていたかのように。

「は――くく、はははははははははははッ」

 半面を白い影で覆った男は狂おしそうに嗤った。
 何度も、何度も。
 何度も、何度も――久しぶりに声を上げるかのように。
 仮面に覆われた半顔のみならず、その仮面の形すらもを歪めるかのように。

「は、ははッ。――ああ、これでようやく始められる」

 笑って、嗤って、哂い倒して。
 男は――司馬懿は、これで始められるのだ、と再度小さく呟いて。
 夜が明けゆく大地――その彼方にて陽光に煌めいて蠢く影に、再び口端を吊り上げていた。





 **
 




「……」

 そうして、夜が完全に明けた空に一度だけ俺は視線を向けた。
 暗く濁った雲が晴れ渡っていた天の支配を始めていく――そんな変化に併せるかのように、石城を取り巻く環境は激動の時を迎えていた。

「……完璧な布陣ね、惚れ惚れするわ」
「引くに易く、守るに固く、攻めるは強し。騎馬隊のお手本とも言える布陣ですね」
「何の、月様。我が武と精鋭たる兵ならばあのような騎馬隊、物ともしませぬ」

 石城を攻囲していたであろう西涼軍は、その攻囲をほぼ解いた状態で大きく羽を広げた鳥のように布陣しており、その片翼が攻囲と言うほどではないにせよ石城を押さえ込むかのように形を変えていた。
 鶴翼の陣、と呼ぶものである。
 騎馬の威力でもある突撃力を最も活かす陣というものではないが、機動力を絡めた包囲攻撃を行う上でこれ以上の布陣は無いだろう。
 騎馬を主戦力とする西涼軍からすれば賈駆と董卓の言葉通り、最適解たる布陣である。
 ――華雄はいつものことだ。

 それに対して、こちら――董卓軍の布陣はつい先ほど完了した。
 西涼軍がすでに布陣を終えてこちらを待ち構えていたことは、先行して偵察していた忍の報告として知り得ていたので、幾分か戦場になるであろう地域より前にて布陣を行いそのまま前進、という賈駆の指示に従った形である。
 石城が攻囲されたままなら数瞬すら惜しんで突撃あるのみだったかもしれないが、一応とはいえ攻囲を解かれているのならばそれに無策で飛び込むは愚策であった。
 故に、董卓軍は巧遅という策を取ったのだ。

「やぁっと存分に暴れられるでえ。慣れんことすんは肩が凝るわ」
「暴れるだけでは駄目だということは……分かって頂けないのでしょうね」
「稟ちゃーん、そろそろ慣れた方がいいと思いますよー?」
「暴れるだけ、だめ……石城も守る」
「恋殿の言う通りなのですよ、霞! 
 
 布陣する前を叩かれる、という気憂を排しての進軍は思いのほかに重圧を感じるものであったが、ここまでの連戦にも関わらず兵達の中にはそういった空気は感じられない。
 長駆と連戦に続き、大陸最強とも言えるだろう騎馬軍団との戦を目前に控えてなお疲弊悲壮の類は感じられず、溢れんばかりの闘気が士気を高揚させていた。
 その理由は――誰もが答えるであろう、石城を解放するためだ、と。
 暗殺未遂から始まり、長安襲撃を阻止し、安定包囲軍を撃滅せしめ、そして最後に石城を攻囲していた軍勢との決戦を控える。
 ――そんなもん昂ぶらん方が可笑しいわ、とにやりと笑った張遼が全てを物語っていた。

「だからって、固くなり過ぎちゃ駄目だよ、お姉様?」
「わ、分かってるよっ」
「ほんとーにぃ? また猪みたいに突出されたら大変だからね」
「た、蒲公英、お前ッ」

 だからこそ、交渉の場も口合戦の場も必要ない。
 こちらの姿を確認した西涼軍はその足を動かし始め、それを確認したこちらもまた、誰ともなく武器を構えた。
 ――空気が一気に張りつめて、背筋にぞくりとした何かが這いずり回った。
 
「――石城の様子はどうなっていますか、一刀さん?」
「忍からの報告では、攻囲解除の報から軍備と状況の確認を行っているらしい。じきに援軍到着の確認もしてくれると思う」
「――分かりました。稚然(李確の字)に機を見て動いてください、と」
「忍に伝えておくよ」
「……それと、もう一つ」
「……」


「――ありがとうございます、と」


「……ああ」

 その空気に合わせるかのように、董卓が息を吐いた。
 深く、深く、深く――。
 すぐにでも石城の状況や李確殿の状況を確認したいだろうに、それでもそれを押しとどめるその様につられて、俺も言葉少なに答えた。
 
 それでも。
 たった一言のありがとうに込められた想いは伝えるように、と。
 持ちこたえてくれた、守ってくれた、その全てのありがとうを伝えてあげるために。
 再度息を――号令をかけるために口火を切る董卓の影に隠れて、俺は忍へと指示を出していた。



 西涼韓遂の乱、石城の戦い。
 ――決戦の時である。








[18488] 人物一覧表
Name: クルセイド◆b200758e ID:bc2f3587
Date: 2013/03/13 11:02
董卓軍

・北郷一刀…本作の主人公。董卓軍の前線指揮官的存在で政務もこなす中間管理職的な人。
・董卓(月)…董家の長にして董卓軍のてっぺん。
・賈駆(詠)…董卓軍の軍師。
・呂布(恋)…董卓軍最強の武人で和み系。
・陳宮(音々音、ねねね)…呂布付の軍師。真名の略はねね。
・華雄(美麗、みれい)…董卓軍最強部隊を率いる武人で自称最強。
・張遼(霞)…董卓軍騎馬隊を率いる武人。
・李確…董卓軍重鎮その1。
・徐栄…董卓軍重鎮その2。徐晃の父。
・徐晃(琴音、ことね)…董卓軍の武人。徐栄の娘。
・魏続…安定の街にて呂布が黄巾賊から守った少女。真名は未だ無し。弟がいる。
・李粛(陽菜、ひな)…安定の名家、李家の代表。極大な胸の持ち主。
・牛輔…安定の軍の指揮官。のち虎牢関汜水関に駐屯。
・李需(時雨、しぐれ)…漢王朝皇帝付の文官、李粛の姉。若干皇帝萌。
・劉協(伏寿、ふくじゅ)…漢王朝皇帝の幼女。
・王方…北郷付の文官その1。その仕事は多岐にわたる。
・姜維(赤留、せきる)…北郷付の文官その2。洛陽にて母ともども北郷に救われた縁から彼を慕う。
・趙雲(星、せい)…北郷付の武官その1。
・郭嘉(稟)…北郷付の軍師その1。
・程昱(風)…北郷付の軍師その2。
・楊奉(貴白、きはく)…北郷直属の諜報機関『忍』の頭領。元白波族。
・韓暹…北郷直属の諜報機関『忍』の副頭領。元白波族で、楊奉の尻に敷かれている。

他勢力
・張莫(紅瞬、こうしゅん)…曹操軍、陳留の太守。曹操の親友。
・田豫(たよ)…劉備軍、謀略の士。劉備軍の諜報を担う。
・馬鉄(右瑠、うる)…西涼馬騰軍の武将。馬休とは双子の姉。元気な悪戯娘。
・馬休(左璃、さり)…西涼馬騰軍の軍師。馬鉄とは双子の妹。無表情ツン娘。
・張恰(?)…司馬懿の下にいる少女。現在は袁紹軍に所属。顔の右半分に白い仮面。
・韓遂…西涼韓遂軍の長。董卓暗殺に失敗、討ち取られる。
・梁興…西涼韓遂軍の将。賊上がりで女性を壊すのが趣味。怒りの馬超に一合で討ち取られる。


感想掲示板 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
2.1301488876343