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[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 【第二部】
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/04 15:57
 その地には、元々、許という街があった。
 河南郡、すなわち中華帝国の要たる中原に位置する許は、しかし人口は万に満たず、申し訳程度の城壁に囲まれただけの小さな街に過ぎなかった。
 そんなありふれた小都市が、一躍、中華にその名を知られるようになったのは、先の洛陽の大乱以後のことである。


 後漢の帝都は、建国以来、洛陽から動くことはなかったが、董卓、そして朝廷の高官たちが引き起こした先の大乱により、洛陽は炎上、そこに住んでいた多くの民が都から焼け出されることになった。
 その数、数十万。董卓打倒に集った諸侯も、これだけの数の難民を領地に受け入れることは出来ず、また遠征軍を長期に渡って維持してきた彼らに、洛陽を再建するほどの財政的余裕があるはずもなかった。結果、諸侯は洛陽の難民を半ばうち捨てて帰国の途につかざるを得なかったのである。


 住むところを失い、食べる物もなく、明日を生きる術を見つけることも出来ない。洛陽の住民は呆然と立ちすくむしかなかった。もし、この状況がずっと続いていたならば、洛陽とその周辺では、戦時に優るとも劣らぬ凄惨な光景が展開されることになっていたであろう。事実、一部では難民同士の小競り合いがすでに頻発しており、賊徒と化して他領へ流れる者もかなりの数、出ていたのである。


 数十万の棄民が押し寄せれば、千や万の守備兵で止められるはずもない。阻む者がなくなれば、難民は賊徒に変じ、中原の城や街を押しつぶす海嘯となっていたであろう。
 だが、幸いにも、そんな地獄絵図が現実になることはなかった。一人の人物が、地獄の現出に待ったをかけたからである。


 姓を曹、名を操、字を孟徳。


 反董卓連合の発起人にして、朝廷の高官による一連の陰謀を粉微塵にしてのけた若き英才。
 曹操は陳留の大富豪である衛弘の全面的な協力の下、許の街を大拡張し、食料を山と積んだ上で洛陽の難民を許へと誘ったのである。
 住むところを失った人々が、この誘いを拒む理由がどこにあろう。数十万とも言われていた難民は、そのほとんどが許への移住を望み、受け入れられた。
 当時、衛弘の財――つまりは曹操の金蔵は、先の董卓の乱の軍備と、その後の許拡張、難民の誘引と続く一連の行動によって、ほとんど底をついたと言われている。


 一時的に庫を空にした曹操は、その代償として数えれば百万にも達しようかという難民の、絶大な支持を得ることになった。彼らは許の民となり、さらに漢帝を奉戴した曹操が、皇帝を迎えて、街の名を許昌と改めて後も、漢ではなく曹操を支持する態度をかえることはなく、後の三国争乱において、曹魏陣営を支える巨大な柱となるのである。


 青州黄巾党を傘下に加えたことが、魏武の強の魁であるとするならば。
 洛陽の難民を許昌へと迎えたことは、曹魏の世の礎を開いたと言えるだろう。


 この許昌建設に加え、青州黄巾党の討伐、呂布、張超との兌州争奪戦、陶謙領徐州への侵攻といった大規模な軍事行動のことごとくを成功させた曹操は、いまや衰亡した漢朝に並ぶ者とてない実力者として、一日ごと、一刻ごとにその影響力を増大させていた。
 この状況に危機感を抱く者は朝廷の内外に少なくなかったが、朝廷内の反曹操派は、先の張超の乱鎮圧後、曹操麾下の荀彧によって一掃されており、その声が大きなものになることはなかったのである。


 ただ、その処罰された者たちの中に、三公の最後の一人、司空張温が含まれていた。このことが、朝廷にもたらした影響は軽視できるものではなかった。
 現帝劉協が即位した際、三公の座に就いたのは太尉董卓、司徒王允、そして司空張温。
 うち続く混乱によって、董卓と王允の後任はいまだ定められておらず、最後の三公であった張温が処罰された今、朝廷を主導する高官は不在となった。
 無論、新たな三公の選任は幾度も提議されたのだが、現状、その任に耐え得るだけの能力と識見を持つ人材はごくごく限られており、そしてその中でも雄なる候補は朝廷の存在を脅かすと目されている人物であったことから、結局、新たな三公が任命されることはなかったのである。これまでは。


 だが、徐州戦の勝利後、停滞していた朝廷の人事は思わぬ形で刷新されることになる。
 それは皇帝自身が群臣に示した新たな形。すなわち三公の廃止と、それに代わる丞相職の復活であった。
 それは単純に言ってしまえば、三公に分散されていた権限を一つに束ね、丞相に委ねるということで、文字通りの意味で人臣の最高位として丞相という職を復活させることをさす。
 そして皇帝がその職に任命した人物こそ、曹孟徳だったのである。


 皇帝自身の口から出た人事とはいえ、影でそれを画策した人物がいることは誰の目にも明らかであった。
 廷臣の中には、憤激のあまり冠を投げ捨てる者が多数おり、一時、朝廷は騒然とした空気に包まれる。
 しかし、曹操の武威と影響力はもはや一介の廷臣のそれを大きく越えていた。智勇双び備えた配下を数多く抱え、強大な兵力と巨大な武勲を有し、民衆の人望を一身に集める曹操に対し、正面から異を唱えることが出来る廷臣はいなかった。
 また漢に叛旗を翻した偽帝の勢力が淮南を席巻し、中原に及ぼうとしている今、その脅威に対抗できる者もまた曹操しかいないであろうことは誰の目にも明らかであったのだ。


 かくて漢の丞相曹孟徳が誕生する。
 ほんの数年前まで、宦官の子と侮られ、私兵すら持ち得なかった一介の廷臣が、今や丞相となって朝廷を主導し、天下に臨もうとしている。鴻が羽ばたくにも似たその飛躍がいつまで続くのか、そしてどこまで続くのか。それを見通せる者は、誰一人としていなかったのである。ただ、本人を除いては……




◆◆◆




 許昌の中心部にほど近い豪壮な邸宅。
 関羽が曹操から与えられたその屋敷の一室で、俺は許昌の現況を関羽の口から聞いていた。
 淮南での死戦によって傷ついた身体は全快にはほど遠く、俺は寝台に横になりながら、何かに急かされるように、次から次へと言葉を紡いでいく関羽の様子を、半ば呆気にとられて見やっていた。
 関羽の手元には、曹純と許緒が見舞いに持ってきてくれた林檎が握られており、先刻から壮絶な音と共に皮を剥かれていた。ざしゅ、とか、ぐしゃ、とか。どう考えても皮を剥いている音ではない音が響く都度、俺はなにやら居たたまれない気分になっていった。
 食べ物を粗末にしているという実感ゆえ。もちろんそれもあったが、それ以上に関羽の様子を見ていると、数日前に目覚めた時の状況を思い浮かべてしまうのである。


 ――いや、つまり関羽に抱きしめられて、その胸で窒息しそうになった時のことを。あの軟らかさと心地良さと良い匂いを、どうやって忘れろというのだろう。
 肩と脚の怪我? 戦の疲労? そんなものは一瞬で空の彼方まで吹き飛びましたとも、ええ。
 ついでに、はっと正気づいて己の行動を認識した後、顔を真っ赤にして慌てふためく関雲長の可愛らしさといったら、黄河の氾濫並の破壊力で、俺の心の堤防は一瞬で破却されてしまったのである。


 いつの間にか頬がにやけてしまっていたらしい。目ざとくそれに気付いた関羽が、口元に険をあらわしつつ口を開く。
「な、何をにやにやと笑っているのだ、一刀」
「あ、いや、別に何でもございませ――ではない、なんでもないですよ、雲長殿」
 敬語を口にしようとして、俺は慌てて言いなおす。「雲長殿」などという慣れない言い回しに舌がもつれそうになるが、これは関羽たっての希望なので従わざるを得ない。
 関羽曰く「もう同格の将軍なのだから、要らざる遠慮は不要」とのこと。
 確かに俺は玄徳様に長史に任じられ、太史慈が意識を失った後は半ば強引に高家堰砦の将として指揮を執った。劉家軍の将になったと言って、あながち間違いではないだろう。もっとも、だからといって中華に名を知られた美髪公と同格になったなどとは決して思っていないが。
 まあ、関羽の言うところは互いへの言葉遣いや態度を、僚将のものに改めるくらいの意味だと思ったので、頷くことにしたのである。
 が、正直、今は違和感だらけだ。関羽自身も「一刀」と俺に呼びかける際の違和感を拭えずにいるのが傍目にも明らかだった。多分、趙雲に準じているのだろうが、別に呼び方は今までどおり「北郷殿」でも構わないと思うのだがなあ。
 まあ、時が経てばどちらも慣れていくのだろうけれど。


 そんなことを考えていると、関羽は「ならば良いが」などとぶつぶつ言いつつ、果肉を削ぐ作業に戻っていく――残念ながら誤字ではない。
 そのうち、ギャグ漫画みたいに芯だけ残った林檎を食べないといけなくなるのだろうか。そんないやーな予感を振り払いつつ、俺は関羽や曹純から聞いたことを反芻する。
 それは高家堰砦において、俺が意識を失った後の経過であった。



◆◆



 結果から言えば、高家堰砦は守られた。
 迫り来る李豊の刃は、予期せぬ高順の行動によって防ぎとめられ、湖面を焼いた火計と、駆けつけた曹操軍――曹純、曹仁、曹洪らの奮戦によって、仲軍は砦への攻撃を諦めざるを得なくなり、内城にいた陳羣と孫乾、そして広陵から逃れた人たちは無事に曹操軍に保護されたという。
 いや、伝聞形式で記す必要はなかった。目覚めた当日、その話を聞いて息をきらせて駆けつけた陳羣と孫乾に、俺は深甚な感謝を示されたのだから。
 一番の気がかりが去り、俺は心底ほっとして、安堵の息を吐いたのである。


 もちろん、それ以外にも気がかりはあった。玄徳様たちは無事に長江へ逃げられたのか。太史慈と廖化は。俺をかばったという高順は。関羽と一緒にいたはずの張飛と趙雲はどこへ行ったのか。
 そんな矢継ぎ早の質問に、関羽と曹純はかわるがわる答えてくれた。
 まず、玄徳様たちは、どうやら無事に長江へ逃げられたらしい。何故「どうやら」「らしい」などという言葉がつくかというと、江都の県令である趙昱が害され、代わりに立った窄融なる人物が仲に従ったため、そのあたりの詳細が掴めなくなってしまったのである。
 ただ長江に浮かぶ多数の軍船は多くの人々に目撃されており、その船団が長江を遡っていく光景は誰に隠しようもない。この情報は、後に江都から脱出してきた者が淮河を渡って来たことで確報となり、玄徳様と劉家軍は荊州へ逃れたことが明らかとなったのである。


 一方、太史慈と廖化の行方に関しては、はかばかしい成果を得られなかった。少なくとも曹操軍の陣門に二人が姿をあらわすことはなく、おそらくは南の方向――江南か、あるいは玄徳様の後を慕って荊州へと逃げ延びたものと思われた。月毛がいるから、袁術に捕まる心配はいらないが、太史慈の体調だけが気がかりであった。


 高順に関しては、なおも複雑な話となる。
 俺自身はまったく覚えていないのだが、許緒と曹純によって討ち取られる寸前だった高順は、俺が身を挺してかばったためにあやうく戦死を免れたという。
 その際、あやうく俺を刺しそうになった曹純が思わず俺の名を口にしたことで、高順は俺と曹純が知己であることを知ったらしい。そして、高順は曹純に対し、自分たちと戦うつもりがあるか否かを問いかけてきたのだそうだ。
 本来であれば、頷く必要もない言葉である。だが、高順の短い言葉の中に、主である呂布と、仲との関わりに思うところがあることを悟った曹純は、あえてそれ以上高順らと戦うことを避け、城外への離脱を見逃すことにした。
 無論、あえて戦えば、飛将軍と陥陣営、この二人とまともにぶつかり合わねばならないということを鑑みた上での決断であった。策略である可能性は無論あったのだが、高順の直ぐな眼差しを見た曹純は、その可能性は極めて低いと瞬時に判断したらしい。
 事実、城外に出た呂布らは曹操軍との対決を避けるように南へと逃れ、結局、そのまま一矢も交えることなく退却していったのである。
 しかし、この呂布と高順の一連の行動は、明らかに仲への異志を感じさせるもので、南へ逃れた彼女らに対し、仲帝袁術がどのような態度をとったかはいまだ明らかになっていなかった。


 そして張飛と趙雲に関してだが、これは関羽の進退とも関わりあう。
「結論から言えば、二人はもうここにはいない。一刀が守った牙門旗をもって桃香様の下へと赴いた」
 関羽はそう言って、曹操との間に交わした約束を口にした。
 今回の劉家軍の行動が、皇帝に逆らうものではないことを釈明するため、関羽が許昌に赴くこと。そしてそれが嘘偽りでないことを示すために漢の旗の下で戦うこと。言葉こそ違え、それは関羽が曹操の麾下につくことを意味する。俺は瞬時にそのことに思い到り、愕然とした。
 関羽がその決断に到った理由の中に、俺の存在があったことが明らかだったからだ。関羽は一言もそんなことは言わなかったが、今回の戦の経緯を振り返れば、その程度のことは俺にも理解できた。


 関羽の玄徳様への忠節、玄徳様の関羽への親愛。二人の互いへの気持ちの深さを、一端なりと知る身であってみれば、その二人を引き裂く原因となった我が身を責めずにはいられない。
 だが、そんな俺のひきつった顔を見て、関羽はむしろ穏やかに笑ってこう言ったのである。
「別に一刀のためにやったわけではない。自分のために、などと思う必要はないぞ。それに――」
 関羽の視線に含まれる感謝と信頼。真っ向からそれを受け止め、俺は知らず顔を赤らめていた。それは目覚めたばかりの俺を胸にかき抱いた時の関羽の顔とそっくりだったからである。


「飛将軍率いる精鋭を寡勢にて退け。偽帝の大軍から孤軍よく砦を守り、ついに陳太守らを守り抜いた。陶太守の亡骸は彭城にて盛大に弔われることになっている。それもこれも、すべては桃香様の牙門旗の下で戦い抜いた子義と一刀、そして兵たちの勲だ。そのことを桃香様と私が、どれだけ誇りに思っていることか……」
 一瞬、関羽の声が震えたように聞こえたのは、俺の気のせいではなかったであろう。
「たとえ今回の私の決断に、おぬしのことが含まれていたとしても。そのために一時、桃香様と離れることになったのだとしても。この決断に悔いなど欠片もない。むしろ、逆の決断を下した時こそ、私は千載に残る悔いを避け得なかっただろうよ」
 そこまで言った後、関羽は少し慌てた様子で「無論、今のは例え話だが」ともごもごと呟き、俺は反応に困って俯くしかなかったのである。 



◆◆



 以来、数日。
 俺は関羽に与えられた屋敷で傷を癒す日々を送っていた。
 呂布に射抜かれた肩の傷と、李豊の剣で刺された太腿の傷はもちろん、それ以外にも俺の全身には到るところに傷があった。
 それらの傷にくわえて、あの攻防戦から今日に到るまで、意識を失っていた俺は物を食べることもできず、身体の衰えは隠せるものではなかったのだ。
 今は日に三度の医者の手当てを受けつつ、消耗し、萎縮してしまった胃が食事を摂れるよう四苦八苦している最中であった。


 こういう時は胃に優しく、水分も摂れる果物が良いというのはわかっている。わかっているのだが、はたしてほとんど芯だけになった林檎は果物と呼べるのだろうか?
「……まあ、あれだ。誰にでも得手不得手はあるってことで、うん」
 俺はしゃくしゃくと林檎、というか林檎の果肉を削ぎとったものを食べつつ、笑いをおさえることが出来ずにいた。うむ、関羽は実に期待を裏切らない人だ。まさか実際にこんな芯だけ林檎を目にする日が来ようとは。
 当の本人は「ちょ、ちょっと待っていてくれッ」の一言を残して何処かに消えてしまった。まさかとは思うが、市にでも行ったのだろうか。いや、これで十分美味いのだが、と思いつつ、俺は皿の上に並べられたものを食べていく。関羽が目の前にいれば、あざとくて食べたり出来なかったが、本人がいない以上、別に気にする必要もないだろう。


 そうして、俺が皿の上のものをほとんど平らげた頃。
 屋敷で働く侍女の一人から、俺への来客が告げられた。
 関羽ならばともかく、今の俺に会いに来る人はごくごく限られている。まして男とくれば思い当たるのは曹純か孫乾だけだ。そして、告げられた名前は、予想に違わず曹純のものであった。当然のように俺は曹純を案内してくれるように頼んだのだが、侍女に案内されて室内に入ってきたのは、曹純一人ではなかった。



 そして。
 曹純に続いて入ってきた人物に目を向けた瞬間、俺は全身を硬直させて凍りつく。
 それも仕方ないことだろう、と俺は半ば呆然としながら考える。訪れた人の顔を知らなかったわけではない。むしろ知っていたからこそ、言葉が出てこなかったのである。


 ――なんで、ここに丞相がいるんだ、と。


「あら、自己紹介が必要かしら。一度は顔を合わせたことがあると記憶しているのだけれど」
 黄金色の髪をかきあげつつ、その少女はかすかに目を細めて俺をみやる。
 別に威迫されているわけでもないのに、言葉が詰まりそうになったのは、その身に纏う覇気に、俺が勝手に気圧されたからなのだろう。
 俺は慌てて寝台に横たえていた身体を起き上がらせる。全身に鋭い痛みがはしるが、今は無視。
「いえ、必要ございません。お久しゅうございます、曹将ぐ――い、いえ、丞相閣下」
 思わず将軍と呼びそうになり、慌てて訂正する。丞相への敬称は閣下で良かっただろうかなどと不安になりながら。


 曹操はそんな俺の様子を皮肉っぽい笑みを湛えながら見ていたが、すぐにそれにも飽きたのだろう。あっさりとした口調で俺の動きを制してきた。
「そのままで結構よ。今日、ここに来たのは漢の丞相としてではなく、一人の娘として、我が母の恩人に礼を言うため。病状の恩人に朝臣としての礼を強いるつもりはないわ」
「は、はい」
 とはいえ、はいそうですかと言って寝台に横になれるほど図太くない俺は、寝台の上で不器用にかしこまりながら、さて何を言えば良いのかと途方に暮れる。
 曹操が口にした恩という言葉は、徐州襲撃の際、俺が結果として曹家一行を救ったことを指しているのだろう。しかし、あれも元はといえば身内の不始末によって起きたこと。恩を売れるような行為ではないだろうと思うのだ。


 そんな俺の戸惑いを察したか、曹操の後ろに控えていた曹純が曹操に向かって口を開く。
「華琳様、突然のお越しに北郷殿も戸惑われておられる様子です。丞相のお出でとあれば、それも無理からぬこと。早めに用件を済ませるべきと考えますが」
「そうね、子和。恩人殿の様子を見るに、確かにその方が良いようね――流琉、支度を」
「は、はいッ」
 そう言って曹操が視線を向けたのは、傍らで控えていた女の子であった。見たところ、張飛とさしてかわらぬ背格好で、澄んだ双眸が印象的な子である。
 侍女なのか、とはじめは思ったのだが、考えてみれば曹操の傍らに侍る者がただの侍女であるとは思えない。許緒だって、あんなちっこい女の子だしなあ、と俺は内心で戦々恐々としつつ、その少女を見やった。
 すると、何故か相手も俺の方をまじまじと見つめていた。必然的にぶつかる二つの視線。照れたように頬を赤らめるこの子が、実はあの勇名な悪来典韋だったとしても驚くまい、と心密かに決意する俺であった。



 ――実は本当にそうだった、と知って俺がひっくりかえるのは、このすぐ後のことである。
 


◆◆



 典韋の手になる菓子を口にした途端、濃厚でいながら、決してしつこくない甘みに俺は思わず賛嘆の言葉をもらす。
「これはすごい。めちゃくちゃ美味いですね」
 疲労した心身にほどよい甘みが染み渡っていくのが体感できる。
 許昌で目を覚ましてまだ数日。戦で萎えた身体は全快にはほど遠く、食事もあまり口に出来ていなかった俺だが、この菓子ならばいくらでも口に出来そうな気がした。
「当然よ、流琉は私が認めた料理人でもあるのだもの」
 言いつつ、曹操も目の前の菓子をつまんで頬張る。かすかに綻ぶその顔は、今や天下にその名を知られた曹孟徳とは信じられないほど穏やかなものであった。


 俺や、主である曹操からの率直な賛辞を受け、典韋は嬉しそうににこにこと笑いながら、いそいそと給仕に精を出す。あらかじめ用意でもしてきたのか、卓の上には次々と新しい菓子や料理が並び、俺はそのすべてを舌鼓をうって堪能させてもらった。
 いつのまにやら、俺は丞相閣下を前にしていることも忘れ、無心に眼前の食事に集中していた。並べられた料理は、肉を避け、野菜や果物を主として作られており、内容自体は、ここ数日の食事と似ていると思われたが、その味は、屋敷の料理人には申し訳ないがくらべものにならないと言って良い。
 量自体は多くなかったため、間もなく卓上の皿は全て空になる。満足の息を吐き出し、俺は典韋に礼を述べた。深々と頭を下げながら。
「ご馳走様でした」
「お粗末様でした。お口にあったようで、嬉しいです」
 皿を見れば、一目瞭然である事実を口にしながら、典韋は嬉しそうに笑う。
 曹操が認めたと口にするだけあって、典韋の料理の腕は、長年、その道で生きてきた熟練者に優るとも劣らぬ。そんなことを考えつつ、久方ぶりの満腹感に幸せを感じていた俺は、曹操が典韋を連れてこの部屋を訪れた真意に、ようやく思い至った気がした。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/05/04 15:57

 名実ともに漢王朝の主導者となった曹操は多忙を極める日々を送っていた。
 かつては中華全土を統べる強大な国家であった漢も、現在は各地への影響力こそ残しているものの、実質的な支配権を握っているのは、中原とその周辺――すなわち、曹操が実力で切り取った領土に限られる。
 河北の袁紹、荊州の劉表といった朝廷の威光に従わない大諸侯の存在、中でも淮南の袁術などは自ら帝号を名乗って堂々と漢朝に叛旗を翻す有様であり、のみならず虎視眈々と許昌への侵攻の機会を窺う気配すら示している。
 それらの外憂にあたるのは漢の丞相たる曹操の責務であり、それに併行して戦乱で荒れた都市の復興、農地の開拓を行い、盗賊を討って街道の治安を守り、商人らの陳情に対処して経済基盤を整え――時間などいくらあっても足りないほどの責務を、その両の肩で背負う曹操は、その日も精力的に政務をこなし、配下の報告を聞き、指示を下し、不明なところは再度の調査を命じるなどしていたのだが。


 ふと曹操は思いついたように傍らに立つ夏侯淵に問いかける。
「そういえば、関羽は最近どうしているのかしら?」
「は。これまでどおり、晴耕雨読の日を送っていると流琉が申しておりました。霞(しあ 張遼の真名)も三日とあけず、屋敷に通いつめていると」
「そう、霞も関羽にほれ込んだものね。それともまだ、徐州でのことを気にかけているのかしら」
「おそらく、両方かと。副将の手綱を握れなかったこと、かなり気にしていたようですからね」
 徐州侵攻の際、張遼は小沛から南に逃げる劉家軍を追い、関羽と一騎打ちを演じた。結果として張遼は敗れるのだが、その際、副将である魏続、侯成らが、張遼が口にした約定を破って劉家軍に追撃をかけた。曹操たちが口にしているのは、その一件である。


 その追撃が関羽らの渡河を阻んだことを考えれば、今、曹操が関羽を麾下に迎えることが出来た要因の一つは、その追撃であることになる。結果だけを見れば、手柄とさえ言えるのだが、副将たちに面目を丸つぶれにされた張遼は烈火の如く怒り、あやうく副将たちに斬り捨てるところだったのである。
 よほど、そのことを気にしていたのだろう。張遼は関羽が降伏した時も、また劉家軍の張飛、趙雲の二将の処遇で意見が分かれた際も、一貫して約定の遵守を主張し、関羽が許昌に来てからは、ほぼ毎日のように屋敷に顔を出していたのである。
 軍務が忙しくなった最近では、さすがに毎日というのは無理であったが、それでも時間をとっては関羽を訊ね、武芸を競い、用兵や軍略を語りあうなどして時を過ごしているらしい。


「その様は、あたかも恋する乙女のようだ、と黒華(張莫の真名)様などは申されておられました」
 親友の言に、曹操はそれとわからないくらい、かすかに頬を膨らませる。
「まったく、この私を差し置いて。かなうなら私がそうしたいくらいだというのに」
「華琳様がそれをなされば、朝廷の仕事が軒並み止まってしまいますよ。関羽を丞相府に呼び出すのも一つの手だと思いますが?」
 曹操のすねた態度に、夏侯淵が頬を綻ばせながら助言すると、この場にいたもう一人、荀彧が口を開いた。
「関羽が丞相府に来たところで、何もできないでしょう。あれは戦に関わらないことには、たいした役には立たないわ。それに、劉備の下に帰ることを宣言している者を、朝廷の枢機に触れさせるなんて百害あって一利なしよ」
「さて、関羽が政務に役立たない、というところは疑問の余地が残ると私は思うがな。だが、確かに桂花の言うとおり、丞相府に招くのは差し障りがあるかもしれん」
 それは、関羽に情報を盗まれるから――というわけではなかった。
「……関羽と姉者が顔を合わせでもしたら、部屋の一つ二つは吹き飛んでしまいそうだからな」
 夏侯淵がそう言うと、全く同じ表情で、荀彧は頷いた。
「猪二人、人間の働く場所で暴れられては迷惑よ。だから、関羽はつれてこないでちょうだい、本気で。ただでさえ猫の手をかりたいくらい忙しいのに、これ以上無用の騒動を起こされてはたまらないわ」


 曹操は部下二人の話を苦笑しながら聞いていた。
 関羽の武名の高さと、曹操の執心を知る夏侯惇が、関羽を毛嫌いしているのは周知の事実であった。
 だが、実のところ、それは荀彧も似たようなものであった。その証拠に、荀彧はまだ言い足りないことがあるようで、なおもぶつぶつと言葉を続ける。
「仲徳(程昱の字)も奉孝(郭嘉の字)も、おまけに藍花(らんふぁ 荀攸の真名)までいないし。関羽にしろ北郷にしろ、いるだけで迷惑よほんとに」
 その言葉に、さすがに夏侯淵は眉をひそめる。
「皆、各々の職分を果たした上でのことだろう。桂花、さすがにそれは誹謗というべきではないのか」
「わかってるわよ、秋蘭! だからこうやって小声で言うだけでとどめてるでしょ」
 きー、という感じで噛み付いてくる荀彧に、夏侯淵は小さく肩をすくめる。程昱と郭嘉はともかく、荀攸まで自分を置いていなくなってしまったのが、お気に召さないらしい。
(まあ、男嫌いの桂花に、北郷のところに行って来ると声をかけられなかった藍花の気持ちもわかるのだが)
 ならばせめて、行き先を伏せるくらいの配慮は示してほしいと思う夏侯淵であった。もっとも、荀攸は頻繁に関羽邸に足を運んでいるので、伏せたところで荀彧に看破されてしまうに違いないのだが。


 腹立ちをおさえきれない荀彧の胸元に、曹操の手が伸びる。
 そして。
「きゃッ?!」
 次の瞬間、曹操は強い力で荀彧を引き寄せていた。不意のことで、体勢を崩した荀彧は曹操の膝の上に倒れる格好となる。
 眼前にある荀彧の髪に手をうずめながら、曹操は囁くように呟いた。
「桂花」
「は、はい、華琳様」
 それだけで、すでに蕩けるような表情を浮かべた荀彧に、曹操はゆっくりと言葉を向ける。
「桂花は私と政務を執るのが窮屈なのかしら?」
「え、と、とんでもありませんッ!! そんな、華琳様と共にいられるだけで望外の幸福だというのに、窮屈だなんて、天地がひっくりかえってもありえませんッ!」
「なら、むしろ今の状況は喜びをおぼえても良いくらいだと思うけど」
 曹操の指先が、荀彧の髪から頬へ、頬から唇へ、順々に触れていく。
「あ……あ、は、はい……」
 愛する主君の指が顔を撫でる感触に、荀彧は先刻までの不満などかけらもなくなった表情で何度も頷いてみせる。
「そう、可愛い子。ご褒美をあげないといけないわね」
「ああ……華琳様」
 彼方で響く扉の音は、夏侯淵がそっと退出したことを示すものであったが、すでに荀彧の脳裏に夏侯淵の存在はなく、曹操もまた、あえて気に留める様子を示すことはなかったのである。



◆◆◆



 淮南での戦いの後、思いもかけず許昌で日々を送ることになって数月。俺は事前の想像などおよびもつかない厚遇を受けていた。
 無論、金銀珠玉に囲まれた生活という意味ではなく、日々の糧と戸外を歩く自由、その二つを保障されたということである。くわえて、傷が治るまでの間、毎日、都の名医の診療を受けさせてもらっているのだから、これを厚遇と言わずして何といえばよいのだろう。
 さらに言えば、丞相である曹操推薦の料理の達人が、三日に一度はたずねてきて、腕を振るってくれるのだから、文句のつけようがなかった。


 関羽のように名が知られ、曹操自身が望んだ将であればともかく、俺程度の相手にどうして曹操がここまで礼を尽くすのか。確かに俺は徐州の危難において、結果として曹凛様をお救いしたが、劉家軍の一員として曹操軍に――ひいては朝廷の軍に刃向かったこともまた事実。牢に入れられないだけでもありがたいくらいだというのに……などと考えていると。
「まったくもう。おにーさんは相変わらず、自分への評価だけは適正にできないのですね」
「それに関しては風に同意せざるを得ませんね。北郷殿は、今少し自分を客観視なさるべきです」
「――と、言われてもなあ。淮南での戦は綱渡りの連続だったし、要になったのは子義だったし。言われるほど活躍したとは到底思えないんだけど」
 そういって、俺は卓をはさんで向かいあう程昱と郭嘉の二人、そしてもう一人の人物に肩をすくめて見せたのである。



 許昌に吹く風は冷たく乾いているが、そこには確かな春の兆しが感じられる。
 高家堰砦で被った戦傷も大分癒え、俺は外を歩く程度なら支障ないまでに回復していた。それでも、少し歩くと息が切れてしまうあたり、失った体力を完全に取り戻すまでには、まだしばらくかかりそうではあったが。
 もっとも、この街で特にやることがない俺には、時間は余るほどあり、のんびりと怪我からの回復を待っても問題はない。ないのだが。
「無為徒食に甘んじるのは心苦しいからなあ」
 衣食住の心配がなく、すべきこともないという状況は気楽ではあったが、この安逸にひたろうという気にはなかなかなれない。かといって、積極的に曹操軍に協力できる立場でもない。
 どうしたものかと考えている時、俺はとある人物の訪問を受けたのである。


 それが、今、程昱、郭嘉と共に俺の前にいる人物である。
 亜麻色の髪を腰まで伸ばし、微笑む姿は清楚そのもの。薄緑色の瞳に宿る深い思慮は郭嘉や程昱に優るとも劣らず、その発する言葉は穏やかでありながら、的確に真理を衝く。
 この人物こそが、漢の丞相曹孟徳の股肱、荀攸、字は公達その人であった。



◆◆◆



 俺ははじめて荀攸と会ったのは、許昌に来てから一月ほど経ってからのこと。
 当初、荀攸が俺を訊ねてきたのは、淮南における戦いの詳細を知るためであった。これは荀攸自身の口から聞かされたことであり、俺にはそれを拒む自由も、また理由もなかった。
 高家堰砦における一連の攻防、その詳細を出来る範囲で教え、荀攸はそれを熱心に聞き取り、時に質問を挟んで、すべてを語り終えた時には中天にあった陽が地平の彼方に沈みかけていた。
 そのことに気付き、荀攸は慌てて俺に謝罪した。荀攸としては、あそこまで長居をするつもりはなかったらしい。俺としては体力的に少しきつかったくらいで、ちょうど良い時間つぶしになったので、気にしていない旨を告げ、その日はそれで終わった。


 荀攸の姉(正確には違うらしいが)である荀彧は、一度だけ顔をあわせたことがあるが、俺や関羽に敵意を隠そうとしない狷介な人柄であると、俺の目には映った。だから正直、荀攸と相対する時、すこし身構えていたのだが、思ったよりもはるかに友好的な人物だったので、俺は逆に拍子抜けしたほどであった。
 そして、もう滅多に会うことはないだろうなどと思っていたのだが――あにはからんや、荀攸はその後、何度も屋敷に足を運んできたのである。
 その問うところは、主に淮南の戦いに集中していたが、時に徐州時代の俺の行動にまで及ぶ時もあって、俺としてはそれに答えながらも、荀攸が何を知ろうとしているのかがさっぱりわからなかった。
 荀攸の口からその真意を聞いたのは、それほど前のことではない。
 奇妙なまでに真摯な眼差しで、荀攸は俺にこう言ったのである。すなわち――


 高家堰砦に攻め寄せた袁術軍の狙いは、俺だったのではないか、と。




 ぽかん、と。開いた口が塞がらなかった。
 それはそうだろう。なにも自分が、誰の恨みもかっていない聖人君子である、などと主張するつもりはないが、善悪は別にして一国に叛旗を翻すほどの者たちに命をねらわれる理由など、あるはずがないではないか。
 ただ、そう反論しようとはしなかった。率直にいって、反論する価値もない暴論、というより妄想だとしか思えなかったからだ。
 荀攸も、自分の言っていることが荒唐無稽であるという自覚はあったらしい。俺の呆れたような眼差しに、やや恥らうように顔を伏せた。だが、その顔が再びあげられた時、その瞳には先刻と同じ真摯な輝きが宿ったままであった。


「妄言を、と思われても仕方ないと思います。でも、淮南での仲軍の動き――とくに、広陵に達してからのそれは、明らかに戦理に反していると私には見えるのです。いえ、これは私だけではなく、姉様や仲徳殿、奉孝殿も同じ意見を持っておられます。あの時点で、あなたが篭っていた高家堰砦は、戦略上捨て置いても問題はない砦だった。仲の将軍がたとえ排除の必要を感じたにせよ、淮南侵攻の全軍を挙げて潰すべき必要などあろうはずもありません。でも、仲軍はそれをした。どうしてでしょうか?」
 戦略上、その土地も、砦も、必要ではない。もし、それでもどうしても攻め落とさなければならない理由があるのだとしたら。
 荀攸はそう言って、じっと俺の目を見つめる。
「それは、あの時、あの場所に、なんとしても殺さなければならない人がいたから。そう考えれば、あの時の仲軍の奇妙な動きに、ある程度の理由が見出せるんです」


 俺はそれに対し、当然のように反論する。
「しかし、あの時、砦にいたのは私だけではないでしょう。砦の守将は子義――太史将軍でしたし、広陵の陳太守、それに陶州牧の亡骸も高家堰砦に安置されていた。私は、それに太史将軍もですが、あの戦に先立って急遽任命された将軍とその長史に過ぎません。淮南を制圧しつつあった仲軍が、全軍を挙げて抹殺を望むほどの理由がどこにあります?」
 言いながら、俺はいまだ行方が知れない太史慈のことを思って、胸を痛めていた。すでにあの戦からかなりの時が経過しているが、太史慈の行方は杳として知れなかったからだ。
 廖化と月毛がいるから、仲に捕らえられることはないとは思うが、太史慈の傷は決して浅くなかった。俺とちがって、至れり尽くせりの治療を受けられたはずもなく、不慮の事態が起こる可能性は低くないのである。
 曹純を通じて、諜報に通じているという曹洪殿に捜索を頼んではいるのだが、淮南は広陵をのぞいて仲の支配下にある。情報は遅々として集まっていなかった。


 一方、荀攸は俺の言葉を受け、ゆっくりとかぶりを振る。
「陳長文殿、あるいは陶州牧が目的であるのなら、広陵を陥とした際、あえて解き放つ理由がありません。しかし、仲は長文殿を一族もろとも解き放ち、陶州牧の亡骸を委ねさえした。老人、女子供を抱えた長文殿が、もっとも近くの砦に向かうのは必然です。私は、あれは砦の劉家軍の方々に対する楔ではないかと考えているのです。事実、あなた方は、長文殿らを守るため、砦に篭らざるを得なくなりました」
「それは確かにその通りですが、それは結果論ではありませんか。私たちが彼らを捨てて逃げ出す可能性だとて無いわけでは……」
 と、俺が口にしかけると、荀攸は小さく首を傾げてみせる。その口元には、どこか優しげな笑みが浮かんでいるようにも思えた。
「本当に、その可能性はありましたか? 見ず知らずの曹家一行を助けるために、ただ一人、百の賊徒の前に姿を晒したあなたが、顔を知り、言葉をかわし、恩義さえある人たちに背を向ける可能性が」
「う……それはもちろん」
 言葉を詰まらせつつ、俺はそう口にする。
 事実、俺はその手段を考えはしたのである――まあ、即座に却下したのだが。


 荀攸はそんな俺の葛藤を見て、なにやらくすくすと笑っていた。なまじ綺麗な顔をしているものだから、そんな仕草を眼前で見せられると照れやらなにやらで頬が赤くなってしまう。
 荀攸は笑いをおさめると、すぐに頭を下げて謝罪してきた。
「すみません、笑ってしまって。私も、自分が荒唐無稽なことを言っているとは思うんです。けれど、あの時の仲の動きに説明をつけられるとしたら、この考えしかないとも思っています。一国の軍が、ただ一人を討つために戦略目標さえ無視して軍を動かす――そんなことはありえない。ありえないですが、それが実際に起こったのならば、それこそが事実であり、真実。そこに相応の理由があると考えるべきです」
 そういって、荀攸はじっと俺を見つめ、囁くように言った。



「北郷一刀。あなたは何者ですか?」



◆◆


「お人よしで、からかい甲斐のある奴じゃないか?」
 あっさり言ったのは張莫、字は孟卓。
「母者と仲康(許緒の字)、子和(曹純の字)の恩人だな」
 肩をすくめ、興味なさげに言ったのは曹仁、字を子綱。
「くわえて、今では寡兵にて飛将軍を退け、偽帝軍から長文殿や陶恭祖さまの亡骸を守りぬいた勇将でもありますね」
 好意を湛えた口調で言ったのは曹洪、字を子廉。


 北郷は知らなかったが、それはある時、荀攸が丞相府にいた面々に、同じ問いを向けた際の答えであった。
 その場に同席しながら、一人、首を傾げていた曹純は怪訝そうに荀攸に問いかける。
「公達殿は、北郷殿が何か秘めておられるとお考えなのか?」
「はい。ただ……」
 曹純の問いを肯定しながら、ややためらいがちな荀攸に、今度は張莫が口を開く。
「ただ、それが何なのかはわからない、といったところか」
「は、黒華さまの仰るとおりです」
 荀攸の言葉に、張莫は腕組みしながら首をひねる。
「正直、藍花の考えすぎとも思えるんだけどな。ただ、鐙の件といい、曹凛様のことといい、そして今回の淮南での戦といい、北郷の行動が、少なからず中華の歴史に関わっていることは確かだな」
 陳留の太守である張莫は、常に許昌にいるわけではない。そのため、さほど北郷と関わりがあるわけではなかった。曹家襲撃の件でたずねたのが一度。そして、北郷が関羽と共に丞相府に赴いた折、たまたま顔を合わせたことが一度。その二度だけである。
 ただ、その人柄は不快を感じる類のものではないと認めている。否、飛将軍を退けた智勇が本物であるのなら、配下にほしいとさえ思っていた。


 その張莫の考えは、曹仁や曹洪と半ば重なる。
 かつて、劉家軍と行動を共にしていた程昱や郭嘉から、その陣容の為人については聞き知っている。
 彼女らは、北郷に関して、実質的に鐙を開発した人物として、その稀有な発想に感嘆こそしたが、それだけだ。関羽や張飛、趙雲ら劉家軍が誇る勇将や、諸葛亮、鳳統らの軍師とは比べるべくもないと考えていた。
 だが、今回の偽帝の淮南侵攻における太史慈と北郷の活躍は傑出したものであり、その詳細を知るにつれて、高家堰砦を守り抜いた二人への評価は曹操軍内では急激に高まっていた。
 ことに先の徐州での一件とあわさって、北郷への関心が高まるのは致し方ないことであったろう。あの働きがなければ、曹純らが高家堰砦へと赴くことはありえず、結果として高家堰砦は陥落していたのだから、すべては北郷あってこその勲であるとさえ言えた。



 実のところ、それは荀攸も同様であった。今回の戦いにおける高家堰砦の奇跡的な奮戦を、結果論、の一言で済ませることが出来ない何かを感じ、その焦点に北郷がいることを知った。
 その時、思ったのである。
 あるいは、仲軍はこれをこそ恐れていたのではないか、と。




◆◆◆




 めずらしく、なにやらぼんやりしている荀攸に、俺は小首を傾げて声をかける。
「公達殿、いかがなさいました?」
「……え? あ、いえ、何でもありましぇ……せん。失礼しました」
 いたそうに口元を押さえる荀攸に、程昱が俺と同じ仕草で話しかける。
「どうしました、ついに公達ちゃんもおにーさんの毒がまわってきたのです?」
「ど、毒?」
「そうです。女性限定、可愛い子限定の局地的暴風雨たるおにーさんの最後の切り札。それに感染した子は、朝と夕とを問わず、おにーさんのことしか考えられなくなり、ついにはその言うことに逆らえなくなり、どんな言葉も頷いてしまうという恐怖の毒なのですよ」
「ひ、ひぃッ?!」
 がたがたがた、と音を立てて俺から遠ざかる荀攸。


「……北郷殿、何も反論なさらないのですか?」
「……突っ込みどころが多すぎて、どこから反論すれば良いのやらわからないんです、奉孝殿」
 というか、なんだ、可愛い子限定の局地的暴風雨って?! 自慢ではないが、自分から女の子をくどきにいったことなんて一度もないぞ、おれは。
 などと憤慨すると、そんな俺を見て郭嘉はぼそっと一言呟いた。 
「それは本当に自慢になりませんね」
「う……い、いや、まあそれはともかく。仲徳殿! 妙なことを公達殿に吹き込まないでください!」
「感染者たる風が言っているのです。とっても真実味があるですよ?」
「……ほほう。それはつまり、仲徳殿は俺の言うことなら何でも聞く状態である、ということですね?」
「見ましたか、公達ちゃん。この欲望と扇情に満ちたおにーさんの顔を。きっと風はこの後、一糸まとわぬ姿で、おにーさんの部屋に呼びつけられることでしょう」
「そ、そんなッ?! 北郷殿、いかに相手が言うことに逆らえないとはいえ、相手の意思を無視して、その、えーと、その、そのような行為に及ぼうとは、なんと非道なッ?!」
「仲徳殿の戯言を真に受けないでください、公達殿ッ!」
「お気遣い痛み入ります、公達ちゃん。でも、風は慣れているから大丈夫。それより、公達ちゃんは早く毒を抜かないと、風と同じ目に遭ってしまうのですよ?」
「ひッ?!」
「……あの、そんな恐怖に震える目で見られると、すごい切なくなるんですけど……」
 もしかして、本気でそういうことをやる人間だと思われてるんだろうか。
 俺はがっくりと頭を垂れた。


 俺が本気で落ち込んでいることに気付いたのだろう。それとも、さすがに妙だと思ったのか。荀攸が、首を傾げて問いかけてきた。
「あの、ど、毒、というのは嘘なのですか?」
「当たり前ですッ」
 そんな毒があったら、恋に悩む人間なんぞ一人もいなくなるだろう。
「とすると、仲徳様の意思を無視して、閨に呼ぶというのも?」
「当然ですッ! というかそんなことして何が楽しいんですか」
「し、しかし、男というものは、皆、飢えた獣。皮一枚をはがせば、そこには常に女体をつけねらう眼光が迸る、と姉様が……」
 姉様、というのは荀彧のことか。なんか男に恨みでもあるんだろうか。まあ、まったく見当違いだとも言い切れないところが少し悲しいのだが。
「まあ、多少はそういう面もありますが……」
 がたがたがた、とまた俺から遠ざかる荀攸。いや、もうそれはいいですから。
「真っ当な男なら、きちんと手順を踏んで、相手の同意を得た上で行動します。皆が皆、そこらの野盗のような真似をするわけではありませんよ」
 それを聞いた荀攸は、まるで新たな戦術理論を耳にした、とでも言わんばかりに目を見開く。
「そ、そうなのですか?」
「そうなんですッ!」
 というか、今まで男をそんな目で見ていたんですか、あなたは。
 呆れた口調でそう言った俺を見て、荀攸はなにやらしゅんとしょげ返ってしまった。


「公達ちゃんは、桂花ちゃんの男嫌いの影響をもろに受けてしまってますからねー」
「確かに。それに華琳様の周囲に、それを是正してくれる方は見当たりませんし」
 言われてみれば、曹操軍の高官は、軒並み女性ばかりだった。
「だから、これは良い機会だと思ったわけです。ご協力感謝です、おにーさん」
「……いや、協力はまあ良いんだけど、毒云々のたわけた設定は必要あったのか?」 
「一切合切、欠片もありませんですよ」
「…………なら、なんで使った?」
「その方が面白いからに決まってるだろ、にーちゃん」
「宝慧、久しぶり……じゃなくてッ!」
「つまりは面白ければすべて良し、ということですね♪」
「『ね♪』じゃないだろッ?! それに、それを言うなら終わり良ければ、だッ!」
「はい。ほら、公達ちゃんの男性への誤解も解けたし、終わりよければ、ですよ」
「ぐ……」
「北郷殿の負け、ですね」
 澄ました顔で言う郭嘉の言葉に、俺はがっくりと肩を落とすのだった。




 余談だが。
「ところで、公達殿は、男が獣だと思いながら、俺に話を聞きにきてたんですか?」
 荀攸は特に護衛も連れていなかったし、向かい合って話をしたことは一度や二度ではない。
 危険だとは思わなかったんだろうか。
 そんな俺の疑問に、荀攸はやや頬を赤らめながら、懐から筒のような物を取り出してみせた。
 笛、いや、まさか、とは思うが。
 俺は冷や汗を流しながら、確認してみた。
「吹き矢、ですか?」
「はい。私は非力ですから、剣や槍は使えません。でも、身を守る手段は持っておくべきだと華琳様に言われまして。今ではそれなりに使えるんですよ」
「な、なるほど……ちなみに、矢には何を塗っておられるんでしょうか?」
「姉様からもらったものを。たしか、その――」
 と、そこで荀攸はなぜか再度頬を赤らめ。
「男の方の場合、三日三晩、七転八倒して苦しんだ上、身体の一部が二度と使えないようになる薬、だと」


 ……それ、普通は毒っていいませんか?
 俺は内心でそんなことを呟きつつ、虚ろに笑うことしか出来なかった。 





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/06/10 02:12
 風を裂いて迫り来る剣撃を、俺は息もたえだえになりながら、かろうじて迎え撃つ。反応自体は良かったのだが、眼前の相手の膂力は、俺の形だけの迎撃などものともせず、構えた剣ごと俺を後方に吹き飛ばす。
 こうして、ごろごろと地面を転がるのは、今日、何度目のことか。咄嗟の受身の取り方だけは間違いなく上手くなったと思います、はい。


「どうした。もう終わりか、一刀?」
 俺とは対照的に息一つ乱さず、そう語りかけてくるのは劉家軍の鬼軍曹、関雲長殿である。
 その手に持っているのは俺と同じ木剣だ。俺にはちょうど良い重さなのだが、重さ八十二斤の青竜偃月刀を苦もなく振り回す関羽にとっては、はなはだ頼りない得物に映っていることだろう。
 当然ながら、木剣を縦横無尽に繰り出してくる関羽の剣尖の鋭さは俺の比ではない。先刻から、実力の半分どころか、半分の半分も出していないであろう関羽に対し、俺はただの一撃も加えることが出来ないでいた。


 とはいえ。
「なんの。この程度で、ばてるほどやわではないですよ」
 俺はそう言いつつ、軋む身体に鞭打って、何とか立ち上がる。肩と太腿から鈍い痛みが伝わってくるが、我慢できないほどではない。
 あの冬の戦から、すでに数月。季節は春を過ぎて、夏にさしかかりつつある。許昌での手厚い治療の甲斐あって、俺の身体はこんな荒稽古も可能なくらいに回復していたのだ。


 ――ただ、実のところ、この展開はまったくの偶然の産物であった。
 怪我が癒えた春先から、少しずつ身体を動かす訓練はしていたのだが、俺が木剣を振り回せるようになったのは最近だった。なので、身体の感触と怪我の影響を確かめつつ、屋敷の中庭で、一人、素振りをしていたところを折悪しく――げふんげふん――折り良く関羽が通りがかり、何故かわからないが稽古をつけてやろうという流れになってしまったのである。


 立ち上がって木剣を構える俺を見て、関羽が小さく笑う。
「……なんだか楽しそうですね、雲長殿?」
 問いかける声が、天下に名高い美髪公に稽古をつけてもらえる喜びにうち震えていたとは決して言うまい。
 おれのじとっとした視線を受け、関羽が頷く。
「うむ。聞いてはいたが、実際に受けてみるとまた違う。一刀の剣は面白いな」
「……先刻から、雲長殿には一向に通用していないような気がするんですが?」
「面白いと言っただけだ。一刀がまだまだ未熟であることにかわりはない。その程度の腕では、私には通じぬよ」
 ばっさりと斬り捨てられ、俺は肩を落とす。
 俺が爺ちゃんたちから教え込まれた剣は、止まらないことを本義とする。常に先手を取り、相手に主導権を渡さない――と、言葉にすれば簡単だが、それを実践するのがどれだけ難しいかは言うまでもないだろう。まして、相手はあの関雲長。主導権を握ることさえ容易ではなかった。


「とはいうものの」
 関羽は再び笑みを浮かべ、俺に向かって口を開いた。
「並の兵士としてなら、十分に及第だ――強くなったな、一刀」
 唐突に、率直な賛辞を受け、俺は戸惑って目を瞬かせた。
「は、はあ、ありがとうございます……?」
「む、なんだ、そのめずらしいものでも見るような眼差しは?」
「関将軍に褒められるのは、十分にめずらしいことのように思えるんですけど」
「そ、そんなことはないだろう。褒めるべき時は褒めているはずだ、淮南での戦功もちゃんと称えたではないかッ」
「……あ、そ、そうでしたね」
 言いつつ、その時のことを思い出して、俺は自分の頬が紅潮するのを自覚した。
 許昌で再会し、関羽に抱きしめられた感触を思い出したからであった。


 多分、関羽も俺がいつのことを思い出したのか悟ったのだろう。俺に劣らず、頬を紅潮させている。
 もう何ヶ月も前のこととはいえ、俺はあの時のことを昨日のことのように思い出せるのだが、それは関羽も同じなのかしら、などと考えていると。
「えい、そんなことはどうでもいい! 稽古を続けるぞ、一刀!」
「は、はい、わかりまし……って、なんで青竜刀を構えてるんです、雲長殿?!」
 いつのまに?! そしてどこから取り出した、それ?!
「武人たるもの、己の得物を常に手元にとどめておくのは当然のこと」
「それは見上げた心構えだと思いますが、その長大な武器をどうやって隠し持っていたんですか?! そして、何より……!」
 どうして稽古に青竜刀を用いるのかを聞きたいんですが?! こちらは木剣なんですけどッ。


 そんな俺の叫びに、関羽は意外に冷静に答えを返してきた。
「戦場で、常に敵が自分と対等の条件であらわれるわけではあるまい。自分より優れた力量を持つ者が、優れた得物をもってあらわれるなどめずらしいことではない。その時、お前はそれは卑怯だと敵を詰るのか?」
 その言辞はかなりこじつけめいていたが、言わんとするところは理解できないわけではなかった。
「む、なるほど、仰りたいことは理解しました。これはそんな急場を凌ぐための稽古ということですね?」
「その通りだ。決して照れ隠しなどではない!」
「自分から白状してるよ、この人?!」
「えーい、問答無用!」
「前後の文脈を無視しないでくださいッ?!」


 叫びながら、俺はすばやく身を翻す。
「逃げるか、一刀?!」
「当然ですッ。勝てない敵から逃げるのも、策のうち! 孫子曰く、三十六計、逃げるが上策なり!」
「孫子にそんな文言はないッ!」
「なら俺の信条ということで!」


 脱兎の如く、走り出す俺。
 その後を、猛然と鬼軍曹が追いかけてくる。 
「男児たる者、そんな軟弱な信条を持つな、ばか者! えーい、待てィ!」
「お断りします!」
 追う関羽、逃げる俺という状況にどこか懐かしいものを感じつつ、俺は懸命に両の手足を動かして、中華の誇る武神の攻撃から逃げ続けるのであった。



◆◆



 俺の許昌での滞在は冬から初夏におよび、その間、一部の事柄を除いては平穏そのものといってよかった。まあ、その一部のせいで、何度か死にそうな思いをしたりもしたのだが――ついでに言うと、そのほとんどは黒髪の女将軍に由来するものだったのだが……まあ、それは後述しよう。
 俺は、この際だからと程昱や郭嘉に頼んで兵書を読ませてもらったり、あるいは過去の春秋戦国時代や楚漢の争いを記した史書を借りたりして、貪るようにそれを読んだ。
 元の時代でも読んでいなかったわけではないが、この時代――というより、この世界にあって戦乱を潜り抜けた身には、どんな形であれ、知識を吸収できる機会は逃すべきではないと実感させられている。
 付け加えれば、元の世界での歴史と、この世界の歴史が同じであるとは限らない。玄徳様や関羽らの年齢、性別のことを踏まえれば、別物と考えた方が間違いがないだろう。
 であれば、知識の齟齬が命に関わる事態がこないとも限らない。何より――ぶっちゃけ暇だったのである。
 

 晴耕雨読、なんて言葉をしみじみと実感しつつ、俺の上に春は過ぎ去っていった。
 幸いというべきか、この時期、大きな動きを示す諸侯は存在せず、河北でも淮南でも、あるいはそれ以外の地域でも小競り合い以上の戦は起きていない。
 その結果、曹操は内治に力を注ぐ時を得て、国力を急速に充実させていた。許昌に暮らしていると、人と物の出入りの激しさに唖然としてしまいそうになる。人々は気忙しげに立ち働きながら、しかし笑顔を絶やすことはなく、平和というものの価値を無言で物語っているように感じられてならなかった。


 そんな情勢であったから、関羽が戦に連れ出されることはなく、その屋敷も静かなものであった。
 もっとも静かといっても、世俗的な意味での話。客人は結構頻繁に訪れる。
 たとえばあの高名な張遼、字を文遠などは頻繁に関羽に会いに屋敷にやってきては矛を交えたり、酒を飲んだりと大騒ぎしていくし、程昱、郭嘉、荀攸といった軍師たちも時折、訪ねてきてくれた。
 あるいはこちらから他者の屋敷に出向く時もある。曹凛様(曹操の母君である)のお招きにあずかったり、曹純の屋敷でお茶をご馳走になったり、といった具合である。


 ちなみに、もっとも会う回数が多いのは、上の誰でもなく典韋と許緒だったりする。
 典韋は曹操の内命を受けて、俺と関羽に料理を振舞うために来るのだが、許緒はどうしてそれにくっついてくるのだろうか。
「も、もちろん、にーちゃんのお見舞いに決まってるじゃないかッ!」
 とは許緒の言である。その隣で典韋が苦笑しているところを見るに、多少は料理の相伴に預かりたいという意図もありそうだが、それを口にしないのが大人の気配りというやつである。違うかもしんない。
  

 もう一つ付け加えれば。
「あの、兄様、どうかしました?」
 俺の視線に気付いたのか、典韋が不思議そうに首を傾げる。
 ある意味で、曹家陣営の中で、俺ともっとも親睦を深めたのはこの典韋かもしれなかった。
 その料理の才能に俺が魂を奪われた、というのもあるのだが、それ以上に長きにわたる死闘を共にしたという同志的連帯感が、俺の中では一際強い。
 ――何を言ってるかわからない? それはもっともだが、あの苦難の日々の記憶を甦らせるのは、俺に死ねと言っているようなもの。ゆえに一つの事実を口にするので、後は察してください。


 ――関羽の料理技能Lvがあがりました。
 

 ………………………………食べる物を食べられなくする技能を、料理技能と呼ぶべきか否かは、なお議論の余地があると思うが、とりあえずその域は脱したのだから、それは成長と言って差し支えないであろう。
 そこに持っていくまで、関羽に料理を教えたのが典韋で、そこに到るまでに出来上がった数々の料理を美味しくいただいたのが俺である。その苦難と力闘は、涙なくしては語れない。


 当然といえば当然だが、指導上、典韋も関羽の料理の味見はしていた。水で何倍にも薄めたものをちろっと舐めるだけにとどめていたにせよ(そうしないと、舌が狂いかねなかったらしい。料理人にとって舌の大切さは言うまでもない)あの破壊力を知るのは許昌では俺以外に典韋しかいない――ちなみに許緒も関羽の料理の味見をしたことはしたのだが、最初の味見の後、二度と関羽の料理教室には姿を見せなかったから除外。その時のことを持ち出すと、今でもだらだらとあぶら汗をかきはじめる許仲康であった


 ともあれ、そんな関羽の料理を一度ならず食するのが、どれだけの意思と覚悟を必要とすることか。典韋が尊敬の念をこめて俺を『兄様』と呼ぶようになったのは、それからであった。
 そして、関羽の壊滅的な料理の腕を上達させるという、独力で虎牢関を陥とすにも似た難事に敢然と立ち向かった典韋の勇敢さを知るのも俺以外にいない。
 俺と典韋の間に、戦友にも似た連帯感が育まれるのは必然であったといえよう――何かが致命的にずれているような気がしないでもないが、気にしてはいけないのである。




 穏やかなんだか物騒なんだかよくわからない、しかし間違いなく平和な許昌での日々。だが、その日々が長く続かないことを俺は承知していた。
 冬が終われば、春が来る。兵を動かすのに適した季節が訪れるのだ。どこで誰が動くにせよ、漢朝を擁し、中原を支配する曹操は兵乱と無関係ではいられない。
 それに、他者に主導権を渡すことをよしとする曹孟徳ではないだろうから、曹操自身が動く可能性も高いだろう。河北で勢力を拡げている袁紹、あるいは淮南で帝を僭称する袁術、いずれもこのまま放っておいては漢朝と曹操の威光に傷が付く。遠からず、許昌に兵馬の音が響き渡るであろう。


 そうなれば、いよいよ関羽も出陣せざるを得なくなる。その相手が袁紹であれ、袁術であれ、天下を揺るがす大戦になることは疑いなかった。
 そして、俺もまたその争乱と無関係ではいられない。都での厚遇の恩には報いなければならないし、なにより淮南の袁術には高家堰砦の借りを返さねばならない。
 太史慈と俺の麾下として砦で戦い、散っていった劉家軍数百の将兵の命の重み、忘れることが出来ようはずもなかった。


 その時が訪れるのは、そう遠い先の話ではない、とこの時の俺は考えていた。繰り返すが、曹操が偽帝をいつまでも野放しにしておくとは考えにくいからだ。
 だが、その考えは甘いといわざるを得なかった。この時、事態はすでに動き始めていたからである。
 中原を揺るがす動乱の足音は、大きく――そして奇妙に虚ろな響きを帯びながら、ゆっくりと中華の地に拡がっていこうとしていた。
 ひたひた、ひたひたと……

 

◆◆◆



 許昌、丞相府。
 漢の丞相として、日々、山と積まれる政務を片付けていた曹操の下に、その報告がもたらされたのは、地平線の彼方に日が没しようとしている時刻のことであった。
 曹操の口から怪訝そうな声が発される。
「……討伐の官軍が、消えた? 敗れたのではなく、消えたといったの、秋蘭?」
「はい」
 曹操の問いに、夏侯淵は小さく、しかしはっきりと頷いてみせた。
「華琳様もご存知のとおり、先日、皇甫義真(皇甫嵩)将軍が、勅命を受けて黄巾党の一派である白波賊討伐に赴かれました。その皇甫将軍と、将軍率いる二千の部隊が河東郡(司州)と西河郡(并州)の境で、忽然と姿を消したとのこと。河東郡、西河郡双方の太守が兵を出して確認しており、ただの誤報とも思えず、ご報告した次第です」


 曹操は手に持っていた報告書から視線をはずし、夏侯淵に問いを向けた。
「白波賊、か。たしか、すでに一度、討伐軍を追い払った輩ね」
「は。母体は河北から逃れてきた黄巾賊の残党と思われます。しかし、敗残の賊徒とは思えぬ精強さを示し、現地の太守らの軍を退けており、此度、皇甫将軍が征伐に出ることになったのですが……」
「その将軍が行方知れず、か。状況を見れば賊徒に敗れたと考えるのが妥当か。しかし、あの皇甫嵩が、そこらの賊徒に遅れをとるとは思えないわね」
「御意。この件、早急に手を打たねば、あるいは厄介なことになるかもしれません」
 主君の言葉に、夏侯淵は即座に同意を示す。


 二人が口にした皇甫嵩、字を義真という人物は、まもなく五十の齢を数える漢朝の名臣である。
 若年の頃から文武に通じ、清廉な人柄と、実直な為人で信望を集めた。ただ真面目一徹というわけではなく、賄賂を受け取った部下に対し、あえて自らも金品を送るという辛辣な対応をとったこともある。その部下は大いに恥じ、職を辞して野に下っていったという。
 民を安んじ、将兵を大切にする皇甫嵩の令名は年を経るごとに高まっていったが、その名声が先の霊帝や側近たちから疎まれ、中央からは長いこと遠ざけられていた。しかし、皇甫嵩は不満の声をあげることなく、与えられた職務に精励し、かえってその名声はいや増した。
 やがて霊帝が没し、その後の混乱の末に今上帝が曹操の保護の下で許昌へと移ると、皇甫嵩も召しだされ、将軍の一人として復権するに到る。
 この人事は朝廷の内外に好評を博したのだが、実のところ、その背後には功績著しい曹操に対抗できる人材を確保しようという司空張温の思惑が秘められていた。


 だが、追放同然に都を追い出されても霊帝やその側近に逆らわなかったこと、あるいは霊帝が没した後、その高い名声にも関わらず、大きな動きを見せなかったことからも察せられるように、皇甫嵩は乱世に野心を燃やす型の人物ではなかった。
 その望むところは漢朝へ忠誠を尽くし、国と民を安んじることであり、皇甫嵩は曹操にも、また張温ら反曹操派とも一定の距離を保ち、あくまで漢朝の臣として行動することを選んだのである。このため、皇甫嵩を反曹操勢力の核にしようという張温らの目論見はもろくも瓦解することになる。


 張温はほどなく兌州の乱における責任を追及されて朝廷から放逐され、漢朝における曹操の威権は確立されるのだが、皇甫嵩はそれまでと態度を変えることなく曹操と一定の距離を保ち続けた。
 その態度は、曹操陣営からすれば面憎いところがないわけではなかったが、人臣としてあるべき姿を考えた時、皇甫嵩のそれは、強者に対し、美辞を呈してすりよってくる小人たちとは比べるべくもない。
 己の意にそわぬからと皇甫嵩を退けようとすれば、曹操らは先の皇帝や、その側近と同類とみなされてしまうであろう。それは曹操の矜持の耐えられるところではなかった。


 結果、皇甫嵩は張温失脚後も将軍として朝廷に仕えることとなる。皇甫嵩に対し、曹操が一目置いていることは誰の目にも明らかとなり、皇甫嵩の周囲には曹操陣営、反曹操陣営に属さない人々が集まるようになっていった。彼らは丞相である曹操を介さずに漢朝に忠誠を尽くす、いわば非曹操陣営とでも言うべき新しい勢力として、次第にその数を増やしつつあったのだが――
「その矢先にこの事態、ね。今回の件、幾つかの思惑が感じられるのだけど、秋蘭はどう思う?」
「はい、私も華琳様と同意見でございます。皇甫将軍は華琳様と敵対していたわけではないにせよ、異なる立場に立っていたことは確かです。その将軍が不可解な形で姿を消したとなると、朝臣の疑いが華琳様に及ぶのは必然でしょう」
「ええ、問題はその不可解な事態に、皇甫嵩自身の意思が関与していたか否かというところね。もし皇甫嵩が策略のためにみずから姿を消したというのなら、かえって始末が良いわ。そのような愚策を弄する輩、恐れるに足りない。厄介なのは皇甫嵩が関わっていない場合よ」
 それはつまり、討伐に赴いた皇甫嵩を、実力をもって排除するだけの大物が背後に潜んでいることを意味する。
 夏侯淵が危惧するところも、正にそこにあった。断じて黄巾党の残党ごときがなせる仕業ではない。


「――いかがなさいますか、華琳様?」
「これだけの大事となれば、ほどなく朝廷から呼び出しが来るでしょう。裏面の事情はどうあれ、一度ならず二度までも官軍が野盗にしてやられたとあっては諸侯に示しがつかないわ。次は今回にまさる規模の大軍が派遣されることになるわね」
「御意。そして、許昌の防備はその分、薄くならざるを得ません」
「――あるいは、それが狙いかしら。それとも、それすら策の一環か。いずれにせよ、姿の見えない相手の掌で踊らされるのは良い気分ではないわね」
 曹操の唇の両端がつりあがる。それは笑みの形をとった刃の煌きであった。
 夏侯淵は、曹操の総身から立ち上る濃厚な怒りの気配を感じ取り、そっと面差しを伏せる。この策を弄した相手は、遠からず思い知るだろう。小手調べにと突き出した刃が、はからずも竜の逆鱗に触れてしまったことを。
 もっとも、と夏侯淵は思う。
 気付いた時には、すでに首と胴が離れているやもしれないが、と。



 無言で主君の言葉を待つ夏侯淵の耳に、やや興がる曹操の声が飛び込んできた。
「ふふ、そうね。この際、いきなり奥の手を使うのも一興か。どこの誰だか知らないけれど、この曹孟徳を相手に、あえて虎尾春氷をなさんとするその心意気だけは買ってあげましょう」
「では、華琳様」
「ええ、秋蘭、虎豹騎を動かすわ。子和(曹純の字)を呼んできて頂戴」
 虎豹騎は、曹家の軍の最精鋭として、曹操が最も育成に力を入れている部隊である。先の徐州侵攻においても、その実力は遺憾なく発揮されていた。ことに寡兵にて淮河を渡り、広陵の太守である陳羣と、先の徐州牧であった陶謙の亡骸を偽帝から奪回した勲功は、今なお人々の口の端にのぼるほどである。


 あれから数月。部隊の特徴から増員は容易ではないものの、それでも虎豹騎の総数はすでに千を越えていた。
 虎豹騎一騎は、並の兵十人に優るとの評は、曹操が意図的に撒いた噂ではあるが、決して誇張ではない。白波賊とその陰に潜む者たちは、間もなくその事実を身をもって思い知ることになるだろう。
「我が往くは天道。小賢しい策謀で、天へと到る我が歩みを阻むことはかなわない。そのことを思い知らせてあげるわ――骨の髄までね」
 昂然と言い切ると、曹操は眼差しをあげてはるか北の彼方へと視線を投じる。覇気に満ちたその双眸に、夏侯淵は半ば恍惚としながら見蕩れるのであった。





◆◆◆





 その頃、并州西河郡。
 その南方の原野の一角に、今、悲痛な叫びが響き渡る。
 予期せぬ奇襲を受け、全滅寸前まで追い込まれながら、それでもかろうじて軍を支えていた官軍の将の首が、血煙と共に宙を舞ったからであった。
「あ、ああ、将軍様が、義真様がッ?!」
「おのれ、賊めがァッ!!」
 絶望と悲哀の声をあげる官軍の生き残りに対し、白波賊の陣営からは凄まじい喊声が湧き上がった。
 それは勝利の確信と同時に、散々彼らをてこずらせた官軍への報復を望むものであった。
「殺せ、殺せェ、皆殺しだッ!」
「威張りくさるしか能のない兵隊どもめ。俺たちに勝てるとでも思ったかよ!」
「おうよ、名高い皇甫嵩だって俺たちの前じゃあごみみたいなもんだ、たとえ曹操が来たって恐れるにたりねえッ」
 口々にわめきたてながら、白波賊は徐々に官軍への包囲を縮めていく。目の前で将軍を討たれた官軍は恐怖と動揺を鎮めることが出来ず、迫り来る賊徒に対して陣形を整えることさえできずにいる。勝敗は、すでに誰の目にも明らかであった。


 そんな戦場のただ中で、一人、殺戮への渇望に溺れることも、死への恐怖に怖じることもなく、静かに佇む者がいた。
 その手に名将皇甫嵩の首を刎ねた武骨な斧を持つ人物は、長い亜麻色の髪を頭の後ろで一つに束ねた女性であった。どこか幼さの残る容貌を見れば少女といった方がいいかもしれない。
 戦場に似つかわしくない落ち着いた色を浮かべる双眸は琥珀色に輝き、その立ち姿からは猫科の猛獣を思わせるしなやかさと、歴戦の将軍を屠った力強さが同時に感じ取れた。その身に浴びた返り血さえなければ、人としての気品さえ感じ取れたかもしれない。


 少女は、大の大人でも持つのが難しいと思われる大斧を苦もなく操り、官軍の将兵に相対する。
 今また、皇甫嵩の仇討ちを望む兵士が斬りかかってきた。
「おのれ、将軍様の、義真様の仇だッ!」
「……ッ!」
 相手に応えることなく、鋭く呼気を吐き出した少女は、恐るべき速さで大斧を一閃させる。大斧は大きさと重さに相応しい破壊力を見せ、その刃が通り過ぎる途上にあった敵兵の首は、半ばもぎ取られるように宙に飛んでいた。


 容姿や体格にまるでそぐわない少女の武威に、官軍の将兵は怯んだように一歩二歩とあとずさる。
 その隙を他の賊徒が逃すはずもなく、あたりはたちまち乱戦――否、賊徒による一方的な虐殺の場へと変じていった。
 悲惨なはずのその情景を、しかし少女はどこか無感動に見やりながら、自らが果たすべき役割を求めて視線を転じる。


 すると少女の耳に、自らへの呼びかけが飛び込んできた。
「公明様!」
「……なにか、ご用ですか?」
「頭目からの命令です」
 使いの声を聞いた途端、それまでの感情を抑えた様子が嘘のように、少女の声と顔に生気が満ちた。
「母さんからッ?」
「はい。敵将を討ち取ったら、すぐに本城へ戻るように、と。すぐに次の戦が始まるとのことです」
「わかりました。すぐに命令どおりにしますッ」
 喜びを押さえきれないのか、語尾がわずかに跳ねる。
 少女が素直に喜びをあらわにする様は、これが街中であれば笑みを誘われる光景になったかもしれないが、血潮にそまる甲冑をまとう身では、どこか異質なものが感じられてならなかった。使者の口元がわずかに引きつったのは、その証左であったろう。


 しかし、少女はそれに気付くことなく、踵を返して母の待つ本城への道を歩き始める。
 その足取りは、確かに軽やかであった……




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第一章 鴻漸之翼(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/06/14 22:03

 ぱちり、と小気味良い音と共に、俺は槍を模した形の駒を動かし、自陣に突進してきた馬形の駒の後背を塞ぐ形で配置する。
 こちらの攻撃を凌ぎ、満を持して攻勢に出たであろう眼前の敵手の口が、への字に結ばれた。
「――む、そうきたか」
 そう言いながら、曹純は腕を組んで首を傾げる。黄金を梳かしたような鮮麗な髪が小さく揺れ、湖水色の双眸が思慮深げに瞬いた。
「……ならば」
 そうして、曹純が今度は弓を模した形の駒を、自軍の本陣前に配置する。攻撃の援護と本陣の防御、両方に用いることの出来る遊撃隊というところか。バランスを心がけている曹純らしい手だと思うが、しかし残念、次の一手でこちらの布陣は完了するのでありました。


「ぱちり、とな」
「ええッ?!」
 俺の打った手を見て、曹純の口からなんだか女の子みたいな悲鳴が漏れる。
 普段はなるべく男らしい所作を心がけているらしい曹純だが、こんな咄嗟の場合の挙動はどこか軟らかく、女性的なものが感じられる――口にすれば本気で怒られるので、決して口には出さないけれども。
 

 挽回の策を探して、曹純はしばしの間、うんうんと唸っていたが、ほどなく自分が罠にはまったことを悟ったのだろう。ため息まじりに投了を口にした。
「……参りました」
 その言葉を聞き、俺は小さく息を吐いた。
「これで昨日の借りは返せたかな」
 俺がそう言うと、意外に負けず嫌いの面がある曹純はむすっとしたまま、今の戦戯盤の取り組みを振り返り始めた。最初のこちらの攻勢をうまく凌いだ末に攻勢に転じたのに、それをあっさりひっくり返されたのがよほど納得いかないらしい。


 種を明かせば、最初の攻勢を凌がれたのも策の一環。あえて先手を敗走させ、追撃部隊を包囲撃滅する薩摩島津のお家芸、釣り野伏(偽)は、この戦戯にも有効でした。ま、ここまで綺麗に決まるのは、初見の時だけだろうけど。
 ちなみにこの戦戯盤、簡単に言えば将棋の親戚みたいなものである。将棋よりも駒の数は少なく、動きも複雑ではないため、覚えることはたいして難しくない。
 だが、単純である分、その結果は指し手の力量が如実に反映される。たとえば俺が荀攸や程昱と対局すると、四半刻で決着がついてしまうことも少なくない。一方で優れた指し手同士が相対すると千日手になることもあり、互いの力量が明瞭になるという意味でかなりシビアなゲームなのである。
 ちなみに俺と曹純の対局記録はほとんど五分、実力伯仲というやつで、二人ともに是が非でも勝ち越さんと、時折こうやって勝負しているのだ。


 曹純がふむふむと頷きながら口を開いた。 
「……なるほど、故意に敗北して敵を罠まで誘い込む戦術か。これは劉家軍の得意とするものなのか?」
「いや、これは盤面だから出来るんであって、実際の戦でやるのは並大抵のことじゃないと思うぞ。失敗すれば各個撃破されておしまいだしなあ」
 劉家軍は、偽りの退却で敵軍を誘い込む、という戦術は幾度か用いていたが、囮部隊も待ち伏せ部隊も、釣り野伏ほど徹底した役割分担をしていたわけではない。
 そもそも、ほとんどの戦いで相手より劣る兵力で戦ってきた劉家軍にとって、危険を冒してまで敵を包囲殲滅する戦術を用いる必要がなかったということもある。


「確かに、これをやるとなると各隊に相当な錬度が要求されるな。将同士の理解と連携も必須、一朝一夕にやれるものではない、か」
 なにやら残念そうに呟く曹純。自分の部隊でやれないものかと考えていたのかもしれない。曹純の言うとおり、これをやるには将兵共にかなりの錬度が要求され、しかもそれを満たしてなお成功する確率は高くない。盤面の駒を動かすようには、実際に将兵を指揮することは出来ないだろう……まあ、曹操軍ならなんか出来てしまうような気がしないでもないが、それは言わずにおこう。虎豹騎が釣り野伏とか、本気で勘弁してください。



◆◆



「白波賊?」
 対局を終え、互いにずずずっとお茶をすすっていると、曹純の口から聞きなれない言葉が発された。ただ、聞きなれないが、聞き覚えがないわけではない。白波賊というと、たしか――
「中原の外れで暴れている黄巾党の一派だ。元々、朝廷の混乱に乗じて、あのあたりで暴威を振るっていた連中だが、河北で袁紹や一刀たちに敗れた残党が合流して以来、さらに勢いを増していてな。討伐に出た河東郡の太守の軍勢を退けてからは白昼堂々、略奪行を繰り返すほどに猖獗を極めていたとか。このままでは新たな皇帝の威信に関わると、先日、重臣である皇甫将軍が討伐に赴いたのだが……」
 皇甫将軍、というとあの皇甫嵩のことだろう。言われてみれば、いつぞや遊びに来た許緒がそんなことを口にしていた気がする。
 その時のことを思い出しながら、俺は小首を傾げて曹純に問いかけた。
「その口ぶりからすると、皇甫将軍も敗れた?」
「うむ。おそらくはな」


 曹純の答えに、俺は戸惑って目を瞬かせる。
「おそらくは? 報告はきていないのか?」
 勝利をおさめたにせよ、敗北を喫したにせよ、報告の義務があるのは当然ではなかろうか。
 そんな俺の疑問に、曹純はかぶりを振って応じる。
「報告どころか、将軍はおろか、配下の兵一人戻ってきてはいないそうだ。河東郡と、あとは并州の西河郡の太守も兵を出して将軍らを捜索しているが、手掛かり一つ見つからないらしい」
「……討伐、というからには百や二百の兵ではないだろうに。それが手掛かり一つなく消えた、と?」
「皇甫将軍が率いた兵は二千。無事であれば、あの将軍が連絡一つ寄越さないはずはなし、おそらくは敵に敗れたのだろう。だが、戦いの痕跡一つ残っていないというのは明らかにおかしいからな。すでに優琳(曹洪の真名)姉上が動いているのだが――」
 朝廷としては、その結果が出るまで待っていることは出来ない、ということらしい。
 たしかに黄巾党の残党に、官軍が二度までも敗れたとあっては、許昌の朝廷が鼎の軽重を問われるところだ。
 今度こそ、万全を期して賊徒を討伐せねばならないところであるが――


「しかし、今の時期、大きな兵力を動かせば許昌の防備が手薄になる。河北や淮南に付け入る隙を与えたくないというのが華琳様のお考えでな」
「そうすると、少数精鋭の部隊を派遣するしか……なるほど、それで子和の出番というわけか」
「さすがは一刀、話が早くて助かる」
 納得したように頷く俺を見て、曹純はにこりと微笑む。それを見て、知らず頬が熱くなるのを感じる俺であった。


 ――曹家の血統の為せる業か、曹操自身はもとより、曹凛様も、曹仁も曹洪も、いずれおとらぬ美人ばかり。当然のように曹純も美青年である。
 顔の造作だけではない。厳しい訓練と幾度もの実戦を経ているというのに、白玉の肌には傷ひとつなく、引き締まった身体つきから感じられるのは武骨さではなく凛々しさである。その凛とした美貌――男に使いたい言葉ではないが、そうとしか言えないのである――を見て、初見で男性だと見抜ける者がはたしてどれだけいることか。


 それでも普段は本人が女性と間違われることを嫌ってか、仕草や声音、言葉遣い等を意図的に荒っぽくしているから意識しないですむのだが、ふとした拍子に出てくる生来の軟らかい反応(今の微笑とか)を垣間見ると、どうしても意識せずにはいられないのだ。
 ……一応断っておくが、俺にそっちの気はない。それはもう断じてない――ないのだが、ほんと、どこの美人モデルかと言いたくなる人なのだ、この曹純、字を子和という人物は。
 繰り返すが、本人に言うと素で存在を抹消されかねないので、口にはしないけれども、面と向かい合って照れずに済むようになったのは、そう昔の話ではない。


 ささっと視線をそらせる俺を見て、曹純は不思議そうに首を傾げた。
「――? どうした、いきなりあさっての方向を見て? それに、なんか頬が赤いようだが」
「はっは気のせい気のせいで白波賊の情報を俺に聞きに来たというわけかなるほど劉家軍は河北で黄巾党と戦ったしそもそも俺は昔黄巾党の中にいたからな何か知らないかと思ったわけだおーけーおーけー知る限りの情報は吐き出そう」
「…………そ、それは助かるが……い、いや、なんでもない」
 息継ぐ間もなく話し続ける俺を見て、曹純は微妙に引いていた。その視線は痛かったが、まあ俺の内心には気付かれなかったみたいなのでよしとしよう。




 とはいえ、実のところ、白波賊に関して俺が知っている情報はほとんどなかった。
 俺が黄巾党にいたのは、初期の奴隷時代を除くと、張家の姉妹の傍仕えとして仕えていた期間が大半である。波才や張曼成ら主力部隊の将に関する情報はともかく、地方の連中にまで気を配っている暇はなかった。
 白波という呼称自体、ほとんど聞いた記憶はなく、その頭目が誰であるかすら知らないのだ。
 ただ、同じ地方の勢力といっても、青州黄巾党のような大規模な勢力の情報はそれなりに耳にしていたから、逆に言えば俺の耳に入らなかったということで、白波賊の規模を推し量ることは出来るかもしれない。


 しかし、あれからもう年単位で時が過ぎている。白波賊が以前のままとは限らず、むしろ曹純から伝え聞いた情報からすれば、連中が俺がいた頃よりもはるかに勢力を伸張させているのは明らかで「昔は大したことなかった」なんて情報には一文の価値もないだろう。
 俺は腕組みして考え込む。曹純には様々に世話になっているので、頼ってきてくれた以上、期待に応えたいところなのだが……


 そんなことを考えながら唸っている俺を見て、曹純は表情を改めてかぶりを振った。
「いや、すまない、張家の姉妹と親しい一刀には言いにくいこともあると思う。だから、言えないなら言えないで構わないんだ」
「あ、いや、そういうわけじゃない。伯姫様たちに遠慮してたんじゃなくて、ただ白波なんて名前、ほとんど聞いた記憶がなくてな。何かなかったかと思い出していただけだよ」
 歌を本業と考える伯姫様たちと、黄巾党の関係をここで口にしても仕方ないので、俺はそう言うだけにとどめた。まあ黄巾党の一派である以上、白波賊にも伯姫様たちのファンがいるだろうから、これを破ることに思うところがないわけではないが、今そんなこと言っても、それこそ詮無いことである。


 しかし、やはりどれだけ頭をひねっても有益な情報は出てきそうになかった。俺は天を仰ぎつつ、曹純に謝罪する。
「……やっぱり、覚えがないなあ。せめて頭目の名前でもわかれば、少しは何か思い出す切っ掛けになるかもしれないんだが」
 元の世界的な知識も含めて俺がそう口にすると、曹純が目をぱちくりとさせる――だからそういう仕草をするなというに。また頬が熱くなるだろうが。


 そんな俺の内心に気付くことなく、曹純は照れたように頬をかきながら口を開く。
「すまない、まだ言ってなかったか。敵の頭目は二人いてな。一人は韓暹(かんせん)、もう一人は楊奉(ようほう)だ。韓暹が頭目、楊奉が副頭目という形になっているようだが、実権を握っているのは楊奉らしい。華琳様によれば、楊奉は以前、朝廷に仕え、それなりの地位にいたらしいな」
「韓暹に楊奉、か。黄巾党にいた頃に聞いた記憶はないなあ」
 俺は首をひねりつつそう言った。少なくとも波才らと並び称されるような人物ではなかったはずだ。
 しかし。


「楊奉が……」
「ん?」
 俺の呟きを聞き取って、曹純が怪訝そうにこちらを見やる。
「楊奉が副頭目といったけど、いつ頃、白波賊に加わったかはわかっているのか?」
「詳しい時期は不明だが、何年も前というわけではないようだな。そもそも、はじめは韓暹の情婦だったそうだから、正確にいつ頃、頭だった地位に就いたかもよくわからないんだ」
 そうか、と一度頷いた俺は、ん、と首を傾げる。
「……韓暹の、何だって?」
「情婦」
 端麗な顔の美青年が、眉一つ動かさず情婦と口にする光景は、なんだかとってもシュールでした。それはともかく。
「……つまりあれか、楊奉って女なの?」
「ああ、そうだが……って、一刀。なんでそこでため息を吐く?」
「いや、まあ色々と」
 久々に現実と脳内知識の乖離を実感している俺を、曹純は不思議そうに見つめるばかりであった。




「ま、まあそれはともかく。つまり楊奉は頭目の妾から成り上がって、実権を手にしたというわけだよな。俺がいた頃にそんな話があれば、耳に入ったはず――」
 仲姫(張宝の字)様が好きそうな話題だし。
「とすると、楊奉が頭角をあらわしたのはここ一、二年の間ってことになる。その短期間で烏合の衆であったはずの白波賊を、討伐の官軍を撃ち破るほどに鍛え上げたというのなら、その力量は恐るべきといっていいんじゃないかな」
「確かに。注意すべきは韓暹ではなく、楊奉の方か」
 その曹純の言葉に、しかし俺は首を横に振った。


 戸惑ったようにこちらを見る曹純に、俺は人差し指を立てて説明してみせる。
「確かに楊奉は恐るべきだけど、韓暹だってこの乱世で賊徒の頭目として何年も立ち回ってるんだから、十分に警戒すべき相手だろう。子和が曹操軍の最精鋭を率いているといっても、侮っていい相手じゃないと思うぞ」
 曹純が穏やかな気性の中にまけず嫌いの面を持っていることは前述した。互いに気安い口調で話せるくらいに曹純と親しくなった俺は、すぐにそのことを知ったわけだが、その時、もう一つ気付いたことがある。


 実は曹純、意外にも直情的な為人なのである。


 一本気とでも言おうか、思い立ったら一直線とでも言おうか、とにかく穏やかで思慮深そうに見えて、そんな一面を曹純は確かに持っていた。
 もちろんそれ自体は悪いことでも何でもない。むしろ俺から見れば好ましいとさえ言える。曹純がそれだけ情に厚い人物だからこそ、俺は淮南で命を拾うことが出来たのだから。
 だが、曹純のそれは、時としてあまりに真っ直ぐすぎる、と俺は密かに危惧していた。
 一つのことしか見えないゆえに、その視野の狭さを逆手にとられ、相手に足を掬われかねないのである。


 今の言葉もそうだった。
 確かに楊奉が恐るべきだと俺はいったが、だからといって韓暹とて海千山千の将、取るに足らない相手というわけでは決してないのだ。
 まあ常の曹純なら、その程度のことは自分で気付くことが出来ただろうとは思う。しかし、今回曹純に与えられたのは、皇甫嵩というれっきとした将軍の後任という重役である。
 曹純をこの任に充てたのは間違いなく曹操であろうが、周囲がこの人事を黙って見ていたとも思えず、紆余曲折があったはずだ。それは朝廷内に限った話ではなく、曹操軍の中であっても例外ではあるまい。


 それでもなお曹操が皇甫嵩の後任に曹純を擬したのは、それだけ曹純に期待するところが大であったということ。それに気付かない曹純ではなく、何としても今回の任を完遂させ、曹操の期待と信任に応えねばならないと気負っているのは明らかであった。
 その気負いが、敵への軽視に繋がらないように。俺はそういった意味で曹純に注意を促したのである。



「む、む。それは確かに」
 その自覚が皆無ではなかったのか、曹純は難しい顔で頷いてみせる。 
 聞けば、曹純は長らく曹嵩(曹操の父)や曹凛様の傍近くで仕えていたため、実戦の経験では他の諸将の足元にも及ばないという。当然、功績の面でも同様であろう。
 にも関わらず、曹操は曹純を虎豹騎の長に据えた。それは曹操の期待を示すものであろうが、同時に他者の嫉視を呼ぶものでもあることは容易に想像できる。
 今回の任務で、そのあたりの諸々を払拭したいと曹純が考えるのは当然であったのだろう。何とか重圧をはねのけて討伐を成功させてほしいと、思わずにはいられない俺であった。


 そんなことを考えている自分に気付き、浅からぬ感慨にとらわれる。
 つい先ごろまでは敵――それも尋常でなく巨大な敵であった曹家に連なる人を心配する時が来ようとは、と。
 曹純に限らず、曹操に仕える人たちは、いずれ必ず敵になるとわかってはいる。しかし、だからといって、負けてしまえ、なんて思うような器の小さい人間にはなりたくないし、なにより、その程度の人間が劉家軍に――玄徳様にお仕えするなど許せるはずがないではないか。たとえそれが自分であっても。否、自分であるから尚更に。

 
 
 それゆえに。
「それと、気をつけてほしいことがある」
「気をつけてほしいこと?」
「ああ、敵に楊奉がいるってことは……」



◆◆◆



 并州と司州、その境にある白波賊の砦。
 彼方に長城を望むこの砦は、塞外民族の侵入を阻むために前漢の時代に建設されたものと考えられていた。
 時の流れと度重なる戦乱の果て、忘れられていたこの砦に手を入れて本拠として利用したのが白波賊の頭目、韓暹である。
 韓暹は付近の農民や、各地から攫ってきた奴隷を用いて、この砦を拡張させ、今では砦というよりも城といった方が相応しい規模になっていた。その主である韓暹の勢威が、この付近でどれだけ大きなものであるかは言うまでもあるまい。


 ことに太守の軍勢を退けてからというもの、韓暹の自尊心は天井知らずの増長ぶりを見せた。太守気取りで税と称して略奪を繰り返すのはいつものこと、付近の住民のみならず、時に他郡にまで出向いて人や物を奪い取る様は、往時、中原や河北で暴れまわっていた黄巾賊そのものであったといえる。
 その暴虐が、名将である皇甫嵩の討伐軍を引き出す結果となったのは当然すぎるほど当然のことであった――少女はそう考える。
 しかし、韓暹をはじめとする白波賊は上下を問わず混乱した。一時は砦を捨てる案も出されたほどの狼狽ぶりであり、その醜態を目の当たりにした少女は眉をひそめたものであった。
 しかし、その混乱も、副頭目である楊奉の策略によって討伐軍を壊滅せしめたことで鎮まり、砦は今、歓喜と興奮の坩堝と化していた。


 そして、それもまた白波勢力の短慮を示すものだ、と少女には思われてならなかった。
 少女――漢朝の重臣である皇甫嵩を討ち取った勇武の持ち主であるその少女の姓を徐、名を晃、字を公明、真名を鵠(こく)という。
「この次は、今回にまさる大軍が派遣されるはず。喜んでいる場合じゃないのに……」
 今回の戦いで第一ともいえる功績をあげた徐晃は、しかし浮かれる様子を見せず、その表情はむしろ沈痛と言っても良いほどであった。
 その点、徐晃は白波賊の中でも異端であったが、徐晃からすれば、今この時、浮かれ騒ぐ韓暹らの方が理解に苦しむ。
 一介の太守の軍勢を退けたのとはわけが違う。朝廷が派遣してきた名将を撃ち破った以上、許昌の朝廷は、その威信をかけて白波賊を滅ぼしに来るだろう。
 その程度のこと、自分でさえわかるのに、と徐晃は唇を噛む。この砦にいる者たちの大半が、略奪に味をしめただけの賊徒に過ぎないということはわかっていたことなのだが……


 表情を曇らせながら、なおも徐晃は廊下を歩き続けた。その歩みは、砦の奥深くに位置する一つの扉の前まで続く。
 徐晃がやや緊張した面持ちで来訪を告げると、内側から歌うような響きを帯びた声が応じた。
 その声の主は部屋の中央で徐晃を待っていた。
 神経質なまでにまっすぐに伸ばされた黒髪は濡れたような光沢を放ち、その眼差しは穏やかそうに見えて、室内に入ってきた徐晃を見据える視線には確かな棘が感じられた。すぐにその険しい光は消えてしまったが。
 年の頃は三十半ばから後半、あるいは顔を覆う化粧をとればもっと上かもしれぬ。徐晃を見る表情は優しげ笑みの形をとっていたが、見る者が見れば、そこにはどこか造花めいた不自然さを見て取ることが出来たかもしれない。
 この人物こそ白波賊の首領である韓暹の片腕、その策をもって名将皇甫嵩の軍を壊滅に追い込んだ副頭目、楊奉その人であった。




「母様、鵠、ただいま戻りました」
 その権限は頭目すら越えると噂される楊奉を前に、徐晃は畏まって頭を下げる。
 自らを母と呼ぶ少女に対し、楊奉は艶を感じさせる声で応じた。
「ええ、ご苦労様、公明。報告は聞いています。討伐の将軍を討ち取ったのはあなただと――本当なの?」
「は、はい、皇甫将軍を討ち取ったのは私ですッ」
「そう……おいで、公明」
 どこか憂いを帯びた声で、楊奉は徐晃を手招いた。
 その声を聞いた徐晃は一瞬びくりと身体を硬直させる。その声音が母の不快を示すものであることを経験として知っていたからだった。


 しかし、徐晃に否やはない。おずおずとした様子で、楊奉のすぐ近くまで歩み寄った。その様は、戦場で幾多の官兵を大斧の錆びとした英武の武人とは似ても似つかないものであったろう。
 楊奉の手がゆるやかに徐晃の頭に乗せられる。
 無意識のうちに徐晃は身体を震わせるが、予想に反して楊奉は打擲を行おうとはせず、徐晃の亜麻色の髪を梳くように撫でるだけであった。
「か、母様?」
「漢朝の名臣として知られるあの皇甫嵩を撃ち破る――誰にでも出来ることではないわ。よくやってくれたわね、公明。これで朝廷はますます退けなくなった。次は更なる大兵を催して攻め寄せてくるでしょう。こちらの思惑通りに、ね」
「あ、あ、ありがとうございます」
「ええ、本当によくやってくれたわ。あなたのような娘を持てて、私も鼻が高い……」
 そう言った途端、楊奉の手の動きがぴたりと止まった。


 うっとりと母の手の感触に頬をほころばせていた徐晃が、それに気付いて不安げに母を見上げた。
「母様?」
「でもね、公明。私はあなたに言ったわよね。皇甫嵩は生かして捕らえるように、と」
 その楊奉の言葉に、徐晃はびくりと背を震わせる。すぐにその口から陳謝の言葉が発された。
「す、すみません、母様。皇甫将軍の武威は老いたりといえども衰えがなくて……全力で戦わなければ、勝つことが出来なかったんです」
 実際、皇甫嵩の戦いぶりは、五十に手が届こうかという人物とは思えない苛烈なもので、手加減する余裕はほとんどなかった。
 それでも一対一であれば老将に遅れをとるようなことはなかったであろうし、生け捕りにすることも出来たであろう。しかし、皇甫嵩の配下は圧倒的に不利な戦況にあって、主君を逃すために、文字通り命を捨てて徐晃に斬りかかってきたのだ。
 そんな彼らを撃ち払いつつ、皇甫嵩と戦うことを余儀なくされた少女は、手加減どころか、自身が討たれないために全力を出さざるを得ず、結果として皇甫嵩の首級をあげてしまったのである。


 だが、徐晃の言葉を聞いても楊奉の顔色に変化はない。徐晃ではなく、部屋の壁に視線を向けながら口を開いた。
「母の言いつけに背き、さらには言い訳を口にするの、公明?」
「あ、ご、ごめんなさい母様。次はきちんと言いつけどおりに――あ、あッ?!」
 しますから、と続きかけた徐晃の口から苦痛の声がこぼれでる。楊奉が不意に、力任せに少女の髪をつかみあげたからであった。
「あ……か、母様……ッ」
「私の言いつけに従い、私のために戦い、私の望む戦果を挙げる――公明、それが私の娘としての、あなたの役割でしょう。それが出来ないなら、私があなたを愛する理由もなくなってしまう。そうではなくて?」
「は、はい、ごめんなさい、母様ッ」
「口先だけの謝罪など、あなたの弟妹たちでも出来ることよ。それとも、次はあの子たちの誰かをあなたの代わりに戦場に出せば良いのかしら。それがあなたの望み?」
「ち、違いま、す。そんな必要は、ないです。わ、私、母様のために戦いますから、相手が誰でも、絶対、絶対勝ちますから。だから……!」
 楊奉の手に、幾十もの髪が抜ける感触が伝わってくるが、その顔にはわずかの感情の揺らぎも浮かばない。


 ――否、それを言えば。
 ――少女が部屋に入ってからこちら、その顔に感情が動いたことが一度でもあっただろうか。


「口では何とでも言えるわ。次は成果で示しなさい」
 その言葉と共に、ようやく楊奉の手から力が抜け、徐晃の身体は崩れるように床に投げ出された。
 しかし、それだけの目に遭いながら、徐晃は顔にも声にも一片の恨みも浮かべず、母の膝下に跪き、従順に頭を垂れた。
「はい、母様。次こそ、かならずご命令どおりにいたします」
「当然よ……下がって良いわ」
「は、はい、失礼いたしま……」
 と徐晃が口にしようとした時だった。
 慌しく扉を開く音が、室内にいた二人の耳朶を撃った。木の扉が軋む音がそれに続く。


 副頭目である楊奉の許可を得ずに室内に入ることが出来る者は、この砦には一人しかいない。そのことを徐晃は承知していた。そして不快感を禁じえなかった。その人物がこの部屋に入るたびに、まごうことなき殺意を覚える徐晃は、険しい視線で部屋に入ってきた人物を見据える。
 すなわち、白波砦の総帥、韓暹の姿を。


「よ、楊奉、許昌の曹操めが我らの討伐に動いたという知らせが来たぞッ!」
 徐晃の視線など気にもとめず――というより、動転して気付いていないのかもしれない。白波賊の頭目である韓暹は、それほどに慌てた様子をあらわにしていた。
「落ち着かれませ、旦那様。討伐の官軍を撃ち破ったのです、許昌の小娘が動くのは当然でございましょう。いかほどの大軍を動員したのですか?」
「一千だッ!」
「……なんですって?」
 問いかけに応じて韓暹の口から出た答えは、明らかに楊奉の予測と異なっていた。
「わずか一千? まことですか?」
「ま、間違いない。つい先刻、都から連絡が来たわ。丞相曹孟徳は、白波討伐のために、麾下の兵一千を動かしたという。そ、それもただの一千ではなく、精鋭と名高い丞相の親衛隊であるというぞ」


 その韓暹の言葉に楊奉は思い当たるものがあった。
「虎豹騎……忌々しい小娘め。こちらの思惑を読んだか。いかに精鋭とはいえ、一千程度が都から離れただけでは、奴らは動かぬ」
 そう言うや、楊奉はようやく傍らに立ったままの娘に視線を向けた。
 その視線に気付き、徐晃は直立不動の姿勢をとる。
「公明、幸運でしたね。こうも早く挽回の機が来るとは」
「はい、母様。此度こそ、必ず……」
「ええ、もちろんよ。いかに曹家の精鋭といえど、例の策を使えば、再び血祭りにあげることは容易いでしょう。旦那様もお気を平らかに。皇甫嵩ひきいる二千の軍勢さえ撃ち破った我らです。今度の敵はその半分、恐れるべき何物がございましょうか。塩賊の陰助と朔北の兵力、この二つがあるかぎり、曹操など恐れるに足りませぬ」
「う、うむ、そうであったな」
 楊奉の言葉に、韓暹はようやく落ち着きを取り戻したように見えた。


 その韓暹の姿を、どこか冷ややかな眼差しで見据えていた徐晃に、楊奉は再び声をかける。
「公明」
「は、はい、母様ッ!」
「今度の敵将は生け捕りにする必要もない。その生首を許昌に送りつければ、丞相を騙る小娘も自身で動かざるを得ないでしょう」
 楊奉は嫣然とした笑みを我が娘に向け、いかにも楽しげに――言った。



「――皆殺しになさい。その屍山血河をもって、許昌の大軍をこの地に招き寄せるのよ」



 中華の覇権を巡り、中原に再び吹き荒れようとする戦乱の嵐。白波砦に陰々と響き渡る宣告は、その荒天を告げる前兆として、聞く者の耳朶を撃つ。
 韓暹はどこかうそ寒そうに首をすくめた。
 一方、母の令に応じて深々と頭を垂れた徐晃は、韓暹と異なり、今度こそ母の求めに応じようとの気概で全身を満たす。母の令に応じることが、己が身にどのような結末を招くかを半ば以上察しながら、その意思は少しも揺らぐことなく、少女の心身を衝き動かすのであった……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/03 18:34

 塩賊、と呼ばれる者たちがいる。
 国家の専売品である塩を独自に製造、販売し、利益を得る者たちである。
 言うまでもなく、塩は人間が生きるために必要不可欠なもの。武勇に優れた豪傑であろうと、智略に優れた策士であろうと、塩なくしては生きていけない。塩にどれだけ高い税をかけても、庶民はそれを買わざるを得ず、国家が塩を専売することで得られる利益は計り知れないものがあった。


 
 そうやって国家が売る塩を官塩と呼ぶ。
 そもそも国が塩を専売品とするのは、それによって利益を得るためであり、官塩はそのための高い税が設けられている。
 無論、税を高くすれば民の不満もそれに比例して高まり、ついには王朝からの離反を招くことになる。安易な増税は、それを実行した権力者が自分の首をしめるに等しい、それは当然とも言える認識――であるはずなのだが。
 だが、往々にして権力者はそんな当然の認識を持ち得ない。たとえば、国家の要職を金銭でもって購わせた先の霊帝の時代、官塩は一時的に原価の二十倍近くに跳ね上がったのである。


 そういった官塩に対し、塩賊が扱う塩を私塩と呼ぶ。
 塩賊の中には官の横暴に対抗しようとする義心を持つ者もいたが、その大半は自分たちの利益のために塩を売りさばいているに過ぎない。当然、塩の値段も原価よりはかなり割高である。
 くわえて言えば、塩賊とは言葉のとおり賊――すなわち王朝に叛逆する者たちであり、討捕の役人に捕まれば処罰を免れない。それを匿う者、また塩賊と知りながら取引を行う者も厳罰に処されてしまう。
 それは塩賊という言葉がうまれた前漢の時代から、一時の中断はあったにせよ、変わることなく定められている漢の国法であった。


 しかし、それでも人々は争うように私塩を買い求めた。そういった諸々の事柄を考慮してなお、私塩は官塩よりはるかに廉かったからである。
 税収目当てで塩を専売品とした権力者たちがこの事態を座視するはずもなく、かくて朝廷と塩賊との長い対立は幕を開けたのである……



◆◆◆



 許昌。
 幾重にも伸びた街路の一つを、俺は典韋と共に歩いていた。
 俺が手に持っているのは料理の材料やらなにやらを詰め込んだ買い物袋である。
 典韋と二人、料理の話をしていたはずが、いつのまにか話題が塩賊とかいう物騒なものになっていました。とある姫君の名言「一番美味しいのは塩、一番まずいのも塩」という逸話を話してしまったことが原因らしい。
 廉い方の塩を買うだけで処罰されるとは、と俺はわざとらしく身体を慄かせる。
「むう、塩一つ買うにも命がけとは。おそるべし、許昌」
「あはは、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。最近は華琳様のおかげで塩の値段も安定してきてますから、あの人たちも大人しくしているみたいです」
 典韋はくすくすと笑って言った。もちろん俺が冗談で言ったことは、典韋も承知しているだろう。俺が許昌に来てから随分経つ。塩を買い求めるのは初めてのことではなかった。


「塩賊、ねえ」
 俺はわずかに首を傾げながら、その単語に関する知識を引っ張り出す。
 民衆の支持を得た賊。塩賊が凡百の野盗とは異なる理由の最たるはその事実。
 元の世界のことになるが、あの唐帝国を事実上滅亡させた黄巣の乱は、その指導者である黄巣を筆頭とし、塩賊を中心として起きた叛乱であった。つまるところ、情勢によっては一国を倒壊しうる力さえ有しているのだ、塩賊という連中は。
 かなう限り関わり合いになってはならない手合いであることは間違いない――間違いないのだが、同時に別の側面も存在する。


 典韋は手持ち無沙汰な様子で腕をぶらぶらさせながら、口を開いた。
「賊といっても、時にはありがたい存在なんですけどね。人は塩がなければ生きていけません。だからどんなに高くてもお塩は買わないといけませんが、前の皇帝陛下の時なんか、塩の値段が通常の十倍以上になったりしていましたから」
 典韋は曹操に仕える以前、青州黄巾党の山砦にいたが、必要に応じて付近の城市に買い物に行っていた。山砦では得られない食材などを買い求めるためである。そこで塩の値段を見ては、あまりの高さに眩暈を覚える日々であったとのことだった。
 もっとも典韋の買い物項目の中に、塩は入っていない。というのも、青州黄巾党は塩賊との関わりが深く、そちらからの援助を受けることが出来ていたからだった。典韋が「塩賊」という言葉を使わないのはそういう理由があってのことらしい。
 

 とはいえ、青州黄巾党と塩賊は、別に蜜月の仲というわけでもなかったようだ。
 典韋の顔に浮かぶ表情は、俺や関羽、あるいは曹純や許緒と一緒の時には見たことのない類のものであった。
「確かにあの人たちがくれる塩は、私たちには欠かせないものでした。でも、あの人たちは代償として私たちの武力を求めて、砦の皆はたくさん傷つきました。お爺様は関係を絶ちたかったようですが、そうすれば何万という人たちが暮らす山砦での生活が成り立たなくなってしまいます。だから――」
 だから、ずるずると塩賊との共生を続けていかざるをえなかった、というところらしい。



 どことなく元気のない典韋の様子を見て、俺は困ったように頬を掻こうとして――両手が塞がっているのに気がつき、無言で空を見上げた。
 雨続きだった昨日までの天気が嘘のように、雲一つなく晴れ渡った空。照りつける日差しは春の息吹を宿して暖かく、思わず顔がほころびそうになる。
 こんなうららかな陽気の中、典韋の表情が優れないのは、今の話題のせいばかりではないのだろう。
「やっぱり仲康がいないと寂しいか」
「え?! は、あ、いえ、あのその……」
 唐突な俺の問いかけに、典韋は目を見開いて、なにやらあたふたと慌てていたが、ほどなく観念したように、はぅ、と息を吐き、上目遣いで俺の顔を窺ってきた。
「……わかっちゃいます?」
 わからいでか。
「それはもう」
 俺が頷くと、典韋は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「うう……あ、でも寂しいというよりは心配なんです。季衣、子和様にご迷惑をおかけしてるんじゃないかと」
「うーむ、仲康が敵兵相手に暴れすぎて、子和が後始末にてんてこ舞い、という意味でなら有り得そうだなあ」
「やっぱりそうですよね。季衣は手加減を知らないからなあ……」
 期せずして視線をあわせる俺と典韋。俺たちは北の方角に視線を向けると、同時にため息を吐くのだった。




 丞相曹孟徳からの命令を受け、虎豹騎を率いる曹純と、その配下である許緒が都を発ってから、はや十日。今のところ、これといった情勢の変化は起きていないらしい。
 虎豹騎は曹操軍の最精鋭、数は一千に及ぶ。これを率いる曹純は、戦の経験や武勲の数こそ僚将に劣るが、統率、武勇、さらには智略に到るまで、いずれも水準を越えた能力の持ち主である。この麾下に、膂力では曹操軍一、二を争うであろう許緒が付き従っているのだから、本来なら彼らの心配をするだけ損だと言えたであろう。


 しかし、今回、并州で待ち受けている相手は、賊徒とはいえ、皇甫嵩率いる二千の軍を、おそらくは全滅させた相手である。決して油断して良い相手ではない。
 白波賊という名のその敵は、黄巾党の一派であるという。それはすなわち、典韋たち青州黄巾党とも繋がりのある相手であることを意味する。
 俺と同じく、典韋も色々と白波賊について聞かれたらしいが、群小の一党派以上でも以下でもなかった、というのが白波に対する青州の認識であったとか。この点、曹純に述べた俺の見解と大きな隔たりはなかったことになる。


 曹純にも言ったが、やはり、白波賊はここ数年で急激に力をつけて来たとしか思われない。その裏に何かがある、と考えるのは、それほど的外れではないだろう。
 無論、曹純には俺の知らない情報もまわっているだろうから、俺の心配なぞ杞憂に過ぎないとは思うのだが、相手の得体が知れない分、戦地にある者たちを案ずる気持ちは消しようがなかった。


 俺がそんなことを考えて、眉間に皺を寄せていると、すぐ近くからなにやら楽しげな笑い声が。
 見れば、いつのまにかいつもの笑顔に戻っていた典韋が、にこにこと俺を見上げていた。
「ん、どうしたの?」
「あ、いえ」
 不思議に思って問いかけると、やっぱり笑顔のまま典韋が応えた。
「兄様が、子和様や季衣のことを本当に心配してくれてるんだなって思って、嬉しかったんです。兄様は、本当なら私たちとは敵同士のはずなのに」
「ああ、そういうことか」
 典韋の言葉に、俺は困ったように頭を掻こう――として、手が塞がっているのに気付き、首を傾げた。
 確かに典韋の言うとおり、玄徳様を主と仰ぐ以上、曹操軍は必然的に敵になる。その俺が曹純や許緒を案ずるのは、他の人から見れば、確かに妙に映ることだろう。


 とはいえ、今の俺の中に矛盾した感情はない。
「力のない人たちの笑顔のために戦う。それが玄徳様の戦う理由だからな。たとえ曹丞相が玄徳様にとって敵だとしても、今回の白波討伐が失敗に終われば、たくさんの人たちが苦しむことになる。その成功を願うことは、劉家軍の一員として恥ずべきことじゃないさ」
 だから、出来るかぎり曹純の力になるよう努めたのである。結果として曹家の力を増すことになるとしても、それを理由として協力を拒むことなど出来なかった。玄徳様にとって、自領であれ他領であれ、民は民。それを守るために動くことに、どうしてためらう必要があるのだろう。
 それに。
「許昌のみんなには本当に良くしてもらってるからな。相手が玄徳様でもないかぎり、協力は惜しまないし、その無事を願うのは当然だよ」


 たとえ、いつか必ずぶつかり合う相手だとしても。
 今この時、憎しみあわねばならない理由にはならないだろう。


 口にはしなかったその考えを、聡い典韋は敏感に察したようだった。俺の心に添うように、典韋はゆっくりと頷いた。
 その眼差しは真摯に輝き、幼い顔立ちには凛とした表情が刻まれていた。



◆◆◆
 


 同じ頃。
 司州河東郡。


 虎豹騎を率いて河東郡に踏み込んだ曹純は、すぐさま物慣れた兵士を斥候として四方に放った。すでに大方のことは河東郡の太守から報告を受けているが、相変わらず皇甫嵩と二千に及ぶ官軍の行方は杳として知れないという。
 であれば、みずから情報を集めるまでのこと、と曹純は考えたのである。
「随分と寂しいところですね、子和様」
 隣の許緒の言葉に、曹純は頷く。
「県城や解池のあたりならともかく、このあたりは中原とは名ばかりの辺境だからな。白波の賊徒どもにとって、格好の根拠地だったんだろう」
「そっかー、盗賊たちが巣食う場所に、好き好んで暮らす人はいないですよね。だからこんなに寂れてるんだ。でも、太守さんたちは何で賊を放っておいたんでしょう? みんなが迷惑してるってわかってるのに」


 許緒の言葉に、曹純は渋面をつくる。
「放っておいたというわけではないようだな。幾度か討伐隊も出したようだ。だが――」
 それは形だけのものではなかったのか、と河東郡の太守に会った曹純は睨んでいた。
 はっきりといってしまえば、朝廷に対し、これこのとおり賊徒の対策はとっています、という体裁を整えているだけの出兵であろうと考えていた。
 官軍は出征の都度、いくらかの賊徒は討ち取っているようだが、現在の状況を見れば、それが白波賊にとって、いささかの痛手にもなっていないことは明らかである。白波賊は自分たちにとって痛手にならない程度に、官軍に功績を稼がせていたのではないか。下手に大破して、より有能な太守や精強な軍を率いた将軍を呼び込んでは、彼ら自身が破滅してしまうからだ。


 しかし、そうだとすると、ここ最近の賊徒の活発な行動に不審が残る。曹純はそう考える。
 これまで、言ってしまえば無能な太守を飼って勢力を拡げていた白波賊が、どうして突然豹変し、官軍に対して挑発にも似た行為を行ったのか。皇甫嵩の行方が知れないという事実の裏面には、あるいは曹純が考えているよりも、もっと性質の悪い真実が潜んでいるのかもしれない――
「子和様? どうしたんですか?」
 考え込む曹純を見て、戸惑ったように許緒が問いかけた。
 その声に、はっと我に返った曹純は小さくかぶりを振った。今の段階で、これ以上考えても答えは出ないだろう。思考の泥沼にはまる愚を冒すべきではなかった。今、思い浮かべたことは、一つの可能性として胸にとどめておこう。
「……いや、なんでもない」
「そうですか?」
 なら良いんですけど、と許緒は不思議そうに首を傾げた。
 その仕草に、曹純が思わず笑みを誘われた、その時だった。
 

 慌しい馬蹄の轟きと共に、曹純の下に報告がもたらされる。 
「曹将軍、斥候が戻って参りました! 北西の方角より、こちらに向かう兵団を確認したとのことッ。数、およそ二千、黄巾党の旗印です!」
「……ふん、早速のお出ましか」
 瞬時に意識を将帥としてのそれに切り替えた曹純は、報告してきた兵士に確認をとる。
「敵将の旗は確認できたか?」
「中央に『韓』の牙門旗が見えたとのことです。おそらくは敵将は韓暹かと思われます」
「楊奉は出ず、か。あるいは別働隊を率いているか。北西以外の斥候は戻っていないな?」
「は、未だ」
「――よし」
 曹純は束の間、瞑目すると、次の瞬間、戦意に滾った目を見開き、麾下の将兵に号令を下す。


「賊徒とはいえ、一軍の将みずからの出迎えだ。座して待つは礼に失しよう。これより全軍、討って出るッ!」
 青を基調とした戦袍を纏い、佩剣を振り上げて吼える曹純の姿に、麾下の将兵から爆ぜるような喊声が湧き上がる。
 実績こそ少ないが、曹純の将としての器量に疑問を抱く者は、少なくとも徐州、淮南での戦役を共にした兵士たちの中には存在しない。将と兵の信頼関係はすでに十二分に築かれている虎豹騎であった。
 さらに付け加えれば、女性と見紛う曹純の凛然とした容貌も、虎豹騎の士気高揚には大いに役立っていた。黙っていれば深窓の令嬢といっても通じるような人物が、覇気もあらわに陣頭に立ち、刀槍を振るうのである。これに血潮を沸き立たせない者がいようはずもない。
 一部、将兵の間では曹純のことを「戦姫」と呼び、崇拝に近い感情を抱く者もいるほどなのだ――当人にとっては甚だ不本意なことであるのだが。




 ちなみにそのことも皆、承知しているため、決して曹純の耳にはいるところでは、その言葉を口にしない。ゆえに、曹純はそのことを知らなかったが、許緒はしっかりと知っていた。
 出征前、そのことを漏れ聞いた許昌のとある人物は、ため息まじりにこう呟いたものだった。
「世界は、こんなはずじゃないことばっかりだなあ……いや、本気で」
「うーん、子和様、女に見られるの、本気で嫌がってるから……こんなこと、聞かれたらどうなっちゃうだろう……?」
「想像したくもないわ。まあ、それはともかく――」
「あ、にーちゃん、話そらそうとしてるッ?!」
「はっはっは、なんのことですかな、許仲康殿?」
「うー」
 許緒が唸るような声をあげると、相手は困ったように頬を掻く。
「う、すまん。すまんが、実際俺に出来ることは何もないと思うんだけど」
「それはそうかもしれないけどー」
「わかった、わかった。仲康たちが帰るまでに何か考えておくから、それで勘弁して」
「うん、わかった。よろしくね、にーちゃんッ」
 半ば以上、本気でそう口にする許緒を見て、相手は苦笑ともとれる表情を浮かべる。そして――
「その代わりといってはなんだけど、仲康に一つ頼みがある」
 その言葉とともに、相手は表情を改めた。その表情に押されるように、許緒も口を噤む。そうせざるを得ないほどに、相手の顔は真剣そのものだったから。


「子和の身辺に、気をつけてあげてくれ。白波賊は、ただの野盗じゃない。戦場の外で、子和を狙ってこないとも限らないんだ。子和にも言っておいたけど、子和は責任感が強いし、あれで直情的だから、自分のことを軽く見てしまいそうだしな。だから、仲康が子和のことをみていてあげてほしい」
「――うん、にーちゃんの言いたいこと、なんとなくわかった。大丈夫だよ、子和様はボクがしっかりお守りするから」
「ああ、頼む。それと、もしこれから言う名前の人が敵にいたら、本当に気をつけてくれ。多分、曹家の陣営の中でも、その人とまともにやりあえる人はほとんどいないと思うから」


「えッ?! それって、春蘭様や秋蘭様でも勝てないってこと?」
「む、いや、どうだろう?」
「どうだろうって、にーちゃん、その人のこと知ってるんじゃないの? 知ってたら大体のことはわかるでしょ?」
「知ってるというよりは、噂を聞いたことがあるって感じなんだ」
 正確に言えば違うんだけど、と呟くように言ってから、さらに相手は言葉を続けた……




 曹純の号令に従って動き出す虎豹騎の軍勢。
 その指揮官の傍らで馬を駆けさせながら、許緒はこっそりと呟いた。
「姓は徐、名を晃、字を公明――だったよね。うん、ちゃんと覚えてる覚えてる。でも、にーちゃんもおっかしな人だよねー。男か女か、年はいくつか、何にもわかんない人に、どうやって注意しろって言うんだろ?」
 それを指摘した時の相手の困りきった顔を思い出した許緒の顔に、戦いの前とは思えない和やかな笑みが浮かぶ。
 だが、馬蹄の轟きの中、すぐさまその表情は引き締められ、虎豹騎随一とも噂される小さな武人は、さらに馬脚を速めるのであった。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/03 18:33

  
 司州河東郡。
 その北方に広がる平野は、時折、野生動物の姿を見かける他は、代わり映えのしない景色が広がる索莫とした土地であった。
 しかし今、荒涼とした大地は、千をはるかに越える人馬を迎え入れ、かつてない賑わいを呈していた――刀槍の響きに血泥が混じり飛ぶ、殺伐きわまりないものではあったが。




「曹将軍、賊軍は陣形を円形にかえ、周囲に大盾を配置してこちらの騎射に対抗する構えと見えます。その中央に敵将韓暹の旗を確認!」
 配下の報告を、肉眼でも確認した曹純は、わずかに目を細めて口を開く。
「――円陣を組んで防備をかため、こちらの消耗を待つか。正解だ、わずか一度の激突でこの判断を下すとは、賊将とはいえ千を越える将兵を統べるだけはあるということか。しかし――」
 実のところ、曹純が気にしているのはそこではなかった。
 視界に映る白波賊の陣の外周には、大人の身長ほどもありそうな大盾がずらりと並び、こちらの弓撃を阻んでいる。その背後に控える賊兵たちは、おそらく白波賊の名前の由来なのであろうが、統一された白衣白甲の軍装をまとって曹純率いる虎豹騎に対していた。


 敵の出鼻を挫こうとした曹純は、長躯、部隊を進出させると、韓暹率いる白波賊が予期できない速さで接敵、これに攻撃を加えた。
 虎豹騎の神速ぶりに白波賊は目論みどおり動揺するが、それも長くは続かなかった。当初、曹純が想定していたよりも、敵に与える打撃が少なかったからである。
 その理由は、敵軍の、賊徒とは思えない兵備の充実ぶりにあった。その軍容を見渡せば、どこの正規軍と戦っているのかと唖然とさせられるほどである。


 剣や槍、戟、あるいは弓矢といった武器はもちろん、甲冑であれ盾であれ、金銭さえあれば十や二十の数を揃えるのは誰でも出来るだろう。しかし、それが百、あるいは千の数に至れば、個人で揃えられるものではない。
 ましてそれが統一された軍装ということになれば、相当数の資材と職人、そして時間が必要になる。当然、そんな動きがあれば、官軍が気付かないはずはないのだ。白波賊がそれを可能としたのであれば、それは――


「……まあいい。今は賊軍を討ち破ることが先決だ」
 曹純はひとりごちると、再び敵陣に目を向ける。
 騎馬を用いるの利は機動力にある。だが、賊軍が堅陣の中に貝のごとく閉じこもってしまえば、その利が大きく削がれてしまう。
 それでも遠巻きに騎射を続けていれば、一定の効果は得られるだろうが、賊軍の防備を見るに、遠巻きに矢を射掛けているだけでは痛打を与えるのは難しい。くわえていえば、虎豹騎とて無限の矢を持っているわけではない。矢の無駄うちは可能な限り避けたかった。


 わずかに黙考した後、曹純は新たな作戦行動を指示する。
 これに従って動き出した虎豹騎は、なおしばらく円陣の内に篭る白波賊に騎射を浴びせ続けた。当然、白波側からも猛然と矢が応射される。単純な数だけ見れば、賊軍は官軍の倍である。雨のような矢にさらされ、騎馬で駆け回る虎豹騎の将兵からも被害が出始めてきた。
 すると、虎豹騎は馬上、弓を下げ、武器を刀槍に持ち替える。矢数が少なくなってきたか、動かない戦況に業を煮やしたか、あるいはその両方か。いずれにせよ、この作戦の変更はほとんど時をおかず、賊軍の知るところとなる。





 白波賊を率いる韓暹にとって、これは思う壺であったといえる。
 元々、白波は数で勝っているのだ。くわえて、装備の面でいっても官軍に見劣りするものではない。そのことは短いながらも、虎豹騎とぶつかりあった時間が証明してくれた。


 であれば。
 別に楊奉の策に乗らずとも、敵を討ち破ることは出来るのではないだろうか。  
 

 ふと、脳裏をよぎったその考えに、韓暹は強く魅かれる。
 見れば、攻勢を仕掛けてきた官軍の騎馬隊に対し、白波軍は持っていた盾を捨て、長槍を手にとって、槍先を揃えてつきかかっていく。官軍の作戦はこちらの予測を越えるものではなく、こちらの素早い対応に相手の部隊から動揺の気配が立ち上る。
 再度の衝突。
 先刻は押し負けてしまったが、それは奇襲であったからこそ。正面からの攻防であれば、おさおさ敵に後れをとる白波軍ではない。事実、官軍はこちらの堅陣を突き崩すことが出来ず、いたずらに死傷者を増やすばかりであった。


 その戦況を見て、韓暹は決断を下す。
「李、胡の両将に伝令。両翼を前進させ、官軍を包囲しろと伝えろ」
「は、かしこまりました!」 
 韓暹は周囲が考えているほど底の浅い人物ではない。白波陣営にあって、自らの影響力の減退に気付いていないわけではなかった。
 楊奉の存在と、その智略によって勢力を拡げていることを認めつつも、自分の働きも捨てたものではないと考えている韓暹にとって、中華全土にその名を知られる丞相曹孟徳の子飼の精鋭を独力で討ち破るという武勲は、強い輝きを放って見えたのだ。


 中央の部隊で敵の攻勢を受け止めている間に、両翼の部隊で敵の左右と後方を塞ぐ。敵を包囲してしまえば、騎馬の機動力を活かしようもない。敵がその状態を嫌って包囲網を突破しようとすれば、そちらの方面を故意に開け、左右と後方から追い討てば、労せずして勝利を得ることが出来るだろう。
 その想念を。
「頭目、官軍の連中、退いていきますぜ。追撃しますかい?!」
 眼前の光景が肯定する。


「さすがに易々と包囲させてはくれんか。だが、もう遅いわ!」
 韓暹は高々と愛槍を振り上げると、声もかれよとばかりに号令を下した。
「全軍、突撃せよ! 都でぬくぬくと戦ごっこをしている若造どもを皆殺しにしてやれィッ!!」
 湧き上がる喊声。
 刀槍の光が日を反射して煌き、千を越える甲冑の鳴る音が木霊して、あたりは先刻にもまして騒然たる雰囲気に包まれる。
 統制がとれているとはいえ、白波軍は賊徒の集団であり、守りの戦より攻めの戦を好むのは当然のこと。作戦で押さえつけられていた闘争本能をむき出しにして、白の荒波は官軍を飲み干さんと侵攻を開始するのであった。 





 自ら本隊を率い、殿軍をつとめていた曹純は、鋭気に満ちた賊軍の突進を余裕をもって受け止める。否、それどころか、その顔には苦笑さえ浮かんでいた。敵指揮官の豪語が風にのって、かすかに届いてきたからであった。
「動いたか――しかし、戦ごっことは言ってくれる。一度、模擬戦で元譲様(夏侯惇の字)の相手をしてみてほしいものだ。あるいは姉上(曹仁)でも構わない。間違っても、ごっこなどと言える代物ではないのだが」
 その曹純の言葉に、傍らに控えていた許緒がうんうんと頷いて同意を示す。
「春蘭様たち、手加減知りませんからねー……まあ、それは子和様もなんだけど」
 後半はごにょごにょと口の中だけで呟く許緒であった。


 訓練や統率の厳しさで言えば、曹純は何気に先の二人に続く。それが曹操軍内部での認識である。もっとも、曹純自身にその自覚は薄かった。
 というのも、曹純麾下の虎豹騎は、長の命令ならばとどんな猛訓練でも喜んでこなしてしまうので、実際の内容に比して、配下の消耗が目立たないのだ。曹純はそんな配下の優秀さを見て、さすがは曹家の最精鋭だ、と自分に預けられた部隊に感嘆こそしても、そこに自身の指揮官としての適性を見ることはなかった。
 しかし、傍から見れば、虎豹騎の猛訓練は、それを課す将軍も、それをこなす兵士も、とてもとても尋常とは思われない。曹家の最精鋭『虎豹騎』という言葉は、ただ優れた将兵を集めただけの部隊に冠せられる称号ではないのである。


「ん、何か言ったか、仲康?」
「いッ? な、なんにも言ってないですよ」
 あははー、と笑う許緒を見て、曹純は首を傾げる。そんな曹純を見ながら、許緒はつとめてさりげなく――けれど、内心ではかなり必死になって敵軍を指差した。
「ほ、ほら、子和様、のんびりしてられないですよ、もうすぐあいつらここまで来ちゃいます!」
「あ、ああ、そうだな?」
 違和感に気付いたのか、なおも不思議そうに自分を見つめる曹純から、許緒は懸命に視線をそらす。今の指揮官の適性云々の話をすると、最終的に一つの事実に言及せざるを得なくなるのだ。


 すなわち、曹純の外見も、適性の一つだという事実を。しかも、結構重要な。


 言えない、絶対言えない。
 内心でそう呟く許緒であった。



 一方の曹純はなおも何か聞きたげな様子であったが、賊軍がせまり来るのは事実である。曹純は意識を切り替え、将帥としての声で配下に命令を下した。
「本隊は二射した後、ゆっくりと後退。つかず離れず戦い、敵の本隊をさらに釣りだすのだ。続けて先行している部隊に伝令。指示どおり二隊に分かれ、一隊は斜陣を形成し、待機。我らが敵本隊を誘導した後は、共にこれにあたり、賊の勢いをそぎ落とす。もう一隊は斜陣後方でこれも待機、敵の動きが止まった後、その横腹を食い破るべく、準備を怠るなと伝えよ」
「承知! 伝令、出ます!」


 蹄と甲冑の音が交錯する激しい戦いの最中にあって、整然とした秩序を保って戦場に屹立する虎豹騎。
 その指揮官は、眼前の戦いの勝利を確信しつつも、胸中に湧き出る黒雲の存在を意識せずにはいられなかった。今回の戦いで受けた被害は、曹純の考えよりも大分大きかったのだ。
「戦の進退はともかく、やはり兵備の充実ぶりが尋常ではないな。一介の賊軍がなせることではない。黄巾党の蜂起の裏には朔北の蠢動があったと聞くが、今回も同じなのか……?」
 その呟きは、間近に迫った賊軍の喊声に圧され、傍らにいた許緒の耳に、わずかに届くのみであった。 
 


◆◆◆



 司州河南郡、許昌。
 漢王朝の首府たるこの地にあって、北原で繰り広げられるの刀槍の響きも遠いものである。
 許昌で暮らす人々の多くは白波賊の名を知らず、あるいは知っていても気にしてはいなかった。天下国家を運営し、治安を守るのは役人たちの仕事であり、そのために高い税を払っているのだ。
 自分たちは日々の営みに精を出す権利があるし、実際、発展著しい都は繁忙のただ中にあって、生きる糧を得るために、皆、休む暇も惜しんで立ち働いていた。血が流れることこそないが、これも一つの戦いの形といえるであろう。



 大量の物資を運搬する際、便利なのは陸路よりも水路である。中華帝国における主要な都市の多くが水利に恵まれた土地に存在するのも、これによるところが大きい。
 実質的に許昌建設を取り仕切った荀彧も、当然、そのことに留意している。許昌の内外には大小の水路が張り巡らされ、物資の流通が滞らないように配慮されていた。


 その水路の脇を、日もまだ昇らぬ時刻から、幾人かの男たちが歩いていた。彼らの雇い主が、水路を用いて届く荷物の受け取りを命じたからである。
「今度の荷は洛陽からだっけか?」
「ああ、雇い主はそういってたな。結構な量だってことだ」
「そらまあ、これだけの人数に声をかけてるのを見りゃわかるけどよ。しかし、洛陽からの荷って何だろうな。あそこは城も街も焼けちまって、もうほとんど人がいないって聞いたが」
「そうかあ? 俺はまだ十万やそこらは残ってるって聞いたぞ。もっとも、行くあても財産もないようなのばっかりらしいけど……」
 そう言う男の口から、大きなあくびが漏れる。たちまちそれは周囲に伝染していき、男たちは互いに目をみかわして肩をすくめた。


「……眠い」
「同感だが、荷を運ぶ時はしゃっきりしろよ? うっかり手をすべらせて、中のものを壊してしまったなんていったら、洒落にならんぞ」
「へいへい。じゃあちょっくら顔を洗ってくらあ」
 そう言って、男は上体を左右に揺らしながら、水路に近づいていく。その姿を見た同僚は、あれは眠気というより酒気のせいじゃないか、と呆れ気味に考えたが、いずれにせよ冷たい水で顔を洗えばすっきりすることは間違いあるまい。
 そう思いつつ歩いていたのだが、当の本人がいつまでたっても戻ってこない。何をぐずぐずしてるんだ、と呆れて振り返れば、先刻と同じ位置でなにやらぼんやりと水面を見つめている。
「おい、何してんだ。時間もそんなに余裕はないぞ?」
 立ち止まって声をかけても、答える素振りも見せない同僚に、さすがに男たちが苛立ちを見せ始めた、その時だった。


「おいッ?!!」
 ようやく振り返った男から放たれた、短い声。だがそれは異様な響きをともなって先を歩いていた男たちの耳朶を撃つ。
 何かに促されるように、その場にいた者たちの視線が一斉に水路に向けられ、そして彼らは。


 水路の流れの中に力なく浮かびあがる、人身大の『何か』を、視界の中に捉えていた。
 


◆◆ 


 その日、政務を執るために丞相府の執務室にはいった曹操のもとに、夏侯淵が訪れる。その訪れ自体は曹操も望むところであったが、夏侯淵が携えてきた報告は、先刻食した朝の美食を台無しにする類のものであった。


「――知らせを受けた官吏が急行し、ただちに引き上げて身元を確認しようとしたのですが……」
 そこで夏侯淵は束の間、言葉をとめた。
 報告を聞いていた曹操は怪訝そうに配下を見やる。
「秋蘭、言いよどむなんてあなたらしくないわね?」
「……は、申し訳ありません。ご報告すべきと考え、お時間を割いていただいたというのに、いまだ華琳様のお耳にいれるべきか確信が持てずにおります」
「……秋蘭がそこまで言うからには、ただの刃傷沙汰、というわけではなかったようね」
 それは確認というより、夏侯淵に話の続きを催促する言葉であった。
 その言葉に、夏侯淵は頷く。元々、ここまで来て報告しないという選択肢はありえないのだから、と自身のためらいを半ば無理やり押しつぶす。


「引き上げられたのは、やはり遺体でした。そしてその身体には拷問をうけたと思しき傷痕があったのです――文字通りの意味で、身体中に」
 その報告に、曹操は眉一つ動かさなかった、少なくとも表面上は。
 しかし夏侯淵は、息のつまるような重圧を総身に感じていた。主の双眸から放たれる凍土のごとき視線が、自分に向けられたものではないことを承知してはいても、奥歯をかみしめて耐えなければならなかったのだ。
 しかも、まだ報告は終わったわけではなかった。


「くわえて、顔は完全に潰され、元の人相を確認することも出来ない有様でした。判明したのは、殺された者が男性であるということ。年齢は、遺体をあらためた医師によれば、おそらくは五十代、あるいは六十に達しているかもしれないと」
「……そう。秋蘭はその遺体、もう見たの?」
「は。ただの怨恨とも思えない節があるとのことで、衛兵の長から私のもとまで報告があがってきた時に一度、この目で確認いたしました」
「その上で私のもとに来たということは、秋蘭も衛兵の意見に同意と見て良いのね」
 曹操の言葉に、夏侯淵はゆっくりと頷く。


 武将、それも曹孟徳の片腕とも言われる夏侯淵である。戦塵に臨んだ経験は数え切れず、敵味方を問わず他者の死屍は見慣れたものと言って良い。
 当然ながら、件の遺体を見た時も取り乱したりはしなかった。ただ眉をひそめただけだ。凄惨な遺体の状況と、それを与えた相手に対する嫌悪ゆえに。
「傷口を改めましたところ、命に関わるほどの深さのものはありませんでした。おそらく、死因は血を失いすぎたことでしょう。医師によれば、全身の傷から、おそらく、相当の長時間にわたって痛めつけられたものと思われる、と。くわえて、おそらく途中からはほとんど意識がなかったはずだとも申しておりました。それがまことであれば、意識を失った相手を、それでも拷問し続けたことになります」
 秘密を聞きだすためなら、意識を失った相手をそこまで痛めつける必要はない。殺してしまっては元も子もないからだ。
 恨みを晴らすため、という可能性はないでもないが、ここまで相手を痛めつけるほどの憎しみは、一体どれだけの年月があれば醸成されるのだろうか。


 それよりはもう一つの可能性の方が、はるかに説得力がある。夏侯淵はそう考える。すなわち――
 と、それを口にしかけた夏侯淵に先んじて、曹操が口を開く。
「みせしめ、か」
「御意」
「みせしめであれば、誰が死んだのかを明らかにする必要があるわ。けれど、この遺体は顔を潰されていた。逆に言えば、これだけ念入りに痛めつけておけば、顔はわからずとも、相手に意図は伝わるという確信があったことになるわね、この残暴をなした輩は」
「は、仰るとおりです。付け加えて申し上げれば、殺すまでの過程を見ても、殺してからの処理を見ても、一個人が出来ることではなく、冷徹に――人を、殺すために殺すことができる集団が、この許昌に潜んでいることになります」
 そして。
 あえて夏侯淵は口にしなかったが、もう一つの事実がある。この虐殺をなした連中が曹操の膝元というべき許昌でこの挙に及んだ以上、それはすなわち、漢王朝の主宰者である曹操など眼中になしと公言したに等しいということである。


 丞相府の一室に沈黙が満ちる。
 静穏とは無縁の、音なき怒気の滞留に、夏侯淵の鼓動は知らず早まっていく。
 窓に歩み寄り、此方に背を向ける主の背。窓から外を見れば、先刻までの晴天は一変し、にわかに沸き起こった雷雲が街路を暗く覆っていく。
 それはあたかも主の胸中をあらわすかのようだ、と内心で夏侯淵が呟いた時。
 彼方で遠雷の轟く音がした。


 
◆◆




「さっきまで晴れてたのになあ……ついてない」
 一天にわかにかき曇り、遠くから雷鳴が轟いている。
 屋敷を出る時は、燦燦とした陽光が降り注いでいた許昌の街路は、今、時ならぬ荒天に暗く沈みこんでいた。
 この地の天候に詳しいわけではないが、これはまず間違いなく、すぐに大雨が来るだろうと思われた。
「そうですね……あ、兄様はここで戻ってください。私なら一人で大丈夫ですから」
「いえいえ、そういうわけにはいきませんのことよ」
 あえて珍妙な言葉を使って、典韋の申し出を速やかに却下する。
「でも……」
「ふ、子供は大人の言うことを聞くものだ」
 今度はふわりと前髪をかきあげながら言ってみる。我が事ながら、死ぬほど似合ってねえです。
「私と兄様、三、四歳くらいしか違わないんじゃ……?」
 あえて見なかった振りをしてくれる典韋の優しさに、心の中で涙する。
 まあ、それはともかく。
「ここで帰ると雲長殿にしこたま怒られるんで送らせてください」
「……なんで送ってもらう側の私が、頭を下げられているんでしょうか」
 典韋の顔に苦笑が浮かぶ。ただ、そこにはほんのわずかに安堵の色があるように思えたのは、多分、俺の気のせいではないだろう。





 事の起こりは今朝にまでさかのぼる。
 早朝、水路から引き上げられた惨殺死体の噂は、日が沖天に輝く頃には、許昌中に知れ渡っていた。
 許昌は百万に達しようかという人々が住まう都市である。朝廷の尽力によって治安は良く保たれているが、それでもこれだけの数の人々が生活しているのだ、喧嘩や盗み、刃傷沙汰が絶えることはなかった。
 そして、それらが高じた挙句、人死が出る事態も決してめずらしいものではない。


 だが、それが全身を切り刻まれ、顔まで潰された死体であるとなれば話はかわってくる。その陰惨な殺し方と、そこに至った裏面の事情に思いを及ばせた人々は、うそ寒そうに首をすくめ、心当たりがない者も、なんとなく周囲を見渡してしまうのであった。
 何で俺がそんなに詳しいかというと、討捕の役人が屋敷にやってきて教えてくれたからである。無論、親切心で、というわけではない。はっきり言えばアリバイを調べるためだ。
 といっても、いきなり犯人扱いされたわけではなく、参考までにと、ごく簡単に昨日から今日の未明にかけての行動を問われたに過ぎない。どこぞの刑事ドラマでも見ている気分だったが、もし俺が関羽の屋敷に居住する身でなければ、この程度ではすまなかっただろう。
 朝廷の軍に刃向かったという前歴から、役所に連行され、厳しい尋問を受けていたであろうことは想像に難くない……などと俺が考えていると。


「んなことさせるわけないやろ。一刀や雲長がそんなことできるわけあらへんもん」
 そう口にしたのは屋敷を訪れていた張遼で。
「そうですよ、それは、えっと杞憂というものです、兄様」
 同意の頷きを示してくれたのは典韋であった。
 ちなみに典韋が来ていたのは、いつもどおり料理をつくるためである。一応、怪我は治ったのだが、典韋はかわらず来てくれているのだ。ありがたいことである。ただ、典韋のことだから、朝の一件を伝え聞いて、関羽や俺を気遣ってくれたという理由も皆無ではないだろう。
 一方の張遼は、いつものごとく関羽と稽古するために来ただけだ、とのことだったが。
「明らかに雲長殿を気遣ってお越しになっておられるのがみえみえの張将軍でありましたとさ」
「めでたしめでたし♪」
「ち、違うっちゅーに! べ、別にうち、雲長のこと心配なんてしとらんもん。悪来(あくらい)も悪乗りするんやない!」
 頬を染めていっても説得力がありませんですよ、張将軍。
 俺はにやにやと、典韋はにこにこと、あの張文遠の慌てぶりを愉しむのであった。


 ちなみに悪来というのは、典韋のあだ名である。古く殷の時代に剛力をもって知られた豪傑であり、その小さな身体で曹孟徳の牙門旗を支える典韋に、曹操みずからが与えた栄誉ある名であった。
 典韋はいまだ字を定めておらず、悪来をもって字にしようかと考え中だと、感激おさまらぬ表情で以前俺に語ってくれたことがあった。


 それはさておき。
 劉家軍に属するとはいえ、今の関羽は漢帝の臣として曹操に従う立場にある。俺はそのおまけに過ぎないが、それでも立場としては似たようなものであり、前歴が怪しいからとて役人が独断で捕えられるものではない、というのが張遼と典韋の言い分であった。
 曹操の麾下として勇名高き張文遠と、丞相直属の親衛隊である典韋のお墨付きである。なるほど、俺の心配は典韋の言うとおり杞憂に過ぎなかったらしい。 


 その後、関羽と張遼は軍務のために官衙に出向くことになった。
 河北と淮南の脅威に加え、白波賊までが跳梁しはじめたことで、関羽が前線に出る日も近いのかもしれない。
 そのため、関羽は俺に典韋を送るように命じたのである。
 いまさら言うまでもないが、武の面で俺は典韋に遠く及ばない。ならば護衛など不要なのかといえば、そんなことはない。どれだけ強かろうと、典韋もまた一人の女の子なのであり、朝の凄惨な事件を伝え聞いて、何も思わないはずがないのだから――とは俺の考えではなく、出掛けの関羽の言葉である。


 それを聞いて、俺はただ頷くしかなかった。
 なるほど、典韋は曹操の親衛隊の一員として戦場に出て、敵味方を問わず多くの死を見てきたに違いないが、だからといって怖いもの知らずなわけではない。戦場にあって互いに生死を賭した戦いの末に命を奪うならばともかく、抵抗のできない人間を切り刻んで殺すという行為を平然と受け止められるはずもない。
 その程度のことに、関羽に言われるまで気付かないとは。もし関羽が言ってくれなければ、平然と典韋を一人で帰らせていただろう。あまりの不覚に、頭を抱える俺であった。









 瞬く間に黒雲に覆われていく許昌の街並み。
 本格的に天気が崩れる前に典韋を送り届けねば、と足を速めようとした俺の目に奇妙な人だかりが飛び込んできた。
「なんだろうな、あれ」
「なんでしょうね?」
 典韋も首を傾げている。 
 何やら騒然とした雰囲気が伝わってくるのだが、俺は立場が立場なだけに厄介事には極力かかわりたくない。俺が問題を起こせば、それは必然的に関羽にまで及んでしまうからである。


 許昌で過ごしたこの数月の間、関羽は典韋に料理を習ったり、張遼と稽古をしたりと、一見落ち着いて暮らしているように見えた。
 しかし、その実、焦がれるように玄徳様を思っていることは明らかで、同じ屋敷で暮らしている俺は、哀しげに南の方角を見やる関羽の姿を幾度も目撃している。
 かなうなら、すぐにでも玄徳様の下へと戻りたい関羽が、この地に留まっている理由はいまさら語るまでもないだろう。その一因となってしまった俺が、ここで問題を引き起こそうものならば、それは関羽を縛る鎖の数を更に増すことにつながりかねないのである。


 そんなわけで、触らぬ神にたたりなし、とその場を通り抜けようとした俺だったが、どうやらこの地の神様は、触らなくてもたたってくるらしい。
 悲鳴と共に人だかりが割れ、一人の若者が俺たちの行く手に倒れこんできたのだ。そして、若者を案じる声をあげながら、その傍らに駆け寄る女性。何故か服装が少し乱れているように見える。


 そんな二人を見て、驚きの声をあげたのは、俺ではなく、隣にいる典韋であった。
 どうやら典韋は若者の方と知り合いであったらしい。俺といくらも違わないであろう若者の名を呼ぶ典韋。しかし、若者は苦痛にうめくだけで答えられず、隣にいる女性も驚き慌てるばかりで説明どころではない。
 すると、彼らに続いて人だかりを割って、数名の男たちが姿を現した。


「なんだ、おまえら。邪魔をするなッ」
 姿を現したのは許昌の治安を司る衛兵であった。数は四人。いずれも筋骨たくましい身体つきをしており、居丈高にこちらを睨みつけてくる。
 見るからに剣呑な雰囲気をかもし出す衛兵たちを見て、俺は内心でため息を吐いた。さっさと立ち去りたいところだが、典韋の知り合いが関わっているとなれば、そうも言っていられない。


 一体、何事が起こったのか。
 そう問いかける俺に、長と思しき兵が答えを返してきた。
「先ごろ、この都で奇怪な事件が起こったことは知っていよう。あのような残虐をなす者を放置しておくわけにはいかず、糾明のため、そして同様の惨劇が起きぬよう警戒を続けていたところ、不審な者たちを見つけたのでな。問いただしたところ、反抗しおったので捕縛しているところだ」
 その侯成の言葉に、典韋は慌てたようにかぶりを振った。
「不審な者って……この人は青州兵、華琳様の配下ですよ。そんな、捕まるようなことをするはずがありません」
「青州兵……つまり元は黄巾賊であった輩だろう。その事実をもって潔白の証明にはならん。それにこやつがわしらに反抗したのは事実、わしは役儀によって行動しておる。丞相閣下の寵愛篤しとはいえ、一介の親衛兵が口をさしはさむことではないッ!」
 衛兵は典韋のことを知っているようだが、遠慮するつもりはないようだ。
 その語気に、典韋は息をのむ。そして、問いかけるように若者に視線を向けると、若者は苦痛に表情を歪めながらも、必死に首を横に振った。


「違う、こいつらが、俺と、俺の連れに難癖をつけてきたんだ……」
 その声に応じるように、傍らの女性が何度も首を縦に振る。
 目鼻立ちの整った綺麗な人だ。女性らしい優美な曲線を描く胸と腰あたりに目を向けてしまうのは男のサガというものか……って、そんなことを考えている場合ではなかった。
 若者の物言いに、衛兵たちから怒気が立ち上る。
「盗賊上がりがなめた口を。その性根、詰所で叩きなおしてやる」
「おうよ、青州兵といえば誰もが遠慮すると思っているなら、思い違いも甚だしいわ」
「その女も捕縛しろ。何か知っているかもしれんからな」
 そういって下卑た視線を女性に向ける衛兵たち。女性は嫌悪の表情を浮かべ、その視線から逃れようとするが、そうはさせじと衛兵の一人が手を伸ばし、女性を引き寄せようとする。


 その手を――
「はい、それまで」
 すすっと身体を割り込ませ、俺が遮る。
 一瞬、衛兵の顔に驚きの表情が浮かびあがり、それはすぐに険悪な視線となってこちらに叩きつけられた。
「なんだ、邪魔立てすれば、貴様もただではおかんぞ?!」
 その問いに、俺は小さく肩をすくめることで応えた。目線で典韋を促し、二人を衛兵たちから引き離す。
 それを見て、こちらの意図を悟ったのだろう。たちまち、俺たちの周囲を衛兵が取り囲んだ。
「お前も、奴と同じ青州兵か。やはり貴様ら、何かたくらんでいたのだな」
「いやいや、私は劉家軍の一員。青州兵とは関係ないですよ」
「なに……劉家軍?」
 その言葉に、何か思い当たることがあったのだろう。衛兵の顔に当惑の色が浮かぶ。
 だが、すぐにその当惑も居丈高な表情に塗りつぶされた。
「劉家軍といえば、朝廷に叛した逆賊ではないか。都にいられることさえ僥倖というべきだろう。職務の邪魔をするというなら、貴様をひっとらえることも、わしらには出来るのだぞ?」


 その威迫に直接返答することはせず、俺はにこやかに口を開く。
「職務の邪魔をするつもりはありません。ただ、確たる証拠もなく、以前は賊であったという理由でこの若者を犯人扱いするのであれば、再考をお願いしたい。それは民の目には横暴と映り、すべての青州兵に要らぬ不安を撒き散らすことになる。曹丞相の恩威を損なう行いではありますまいか」
 権威を笠に着て横暴を働く者を目にするのは、これがはじめてではない。許昌でも、あるいは許昌以外でも、そういった者は幾度となく見かけたものだ。
 そういった者たちは、理で説き伏せるよりも、上位者の威で押さえつける方が良い、というのが俺の見解だった。
 無論、それでは根本的な解決にはつながらないが、まあ俺がそこまで世話を焼く理由はないだろう。そのあたりは曹操陣営で何とかしてもらうとして、今はこの場をやり過ごすことを第一としなければ。
 しかし、許昌でこんなわかりやすい横暴を見るとは思わなかった。本当に曹操の麾下か、こいつら。


 俺の言葉に、衛兵たちが明らかに怯んだ様子を見せた。
 これがただの庶民であれば俺の言い分は一笑に付されただろうが、俺は劉家軍の一員、すなわち関羽と深いつながりがある。俺から関羽へ、関羽から曹操へ報告を伝えることは不可能ではない、と衛兵たちは考えたのだろう。まして、この場には親衛隊の一員である典韋がいるのだから尚更だ。
 実際に取り調べられた時、自分たちが正しいと主張しえる根拠を持っていれば慌てる必要もないのだが――まあ、そういうことだった。


 とはいえ、ここで引き下がれば物笑いの種になるのも事実。さて、どうくるか、と考えていると、衛兵の一人が急き込んで口を開いた。
「その男が、我らの取調べに抵抗したのは事実。それを捕えることに問題などあるまい」
「見に覚えのない罪で捕えられようとしたのなら、抵抗してしまうのは致し方のないことではありませんか? ましてこの場にいるのは自分だけではないのですから」
 俺は女性の方に視線を向け、すこしだけ間を置いてから、意味ありげに衛兵たちを振り返った――言いたいことは伝わっただろう。その証拠に、衛兵たちの顔に忌々しげな顔をしているし。


 それでも、まだ衛兵たちは矛をおさめようとはしなかった。
「しかし、そやつらが抵抗した事実は事実。それを等閑にするわけにはいくまい」
「謝罪せよ、ということですか?」
「官兵に刃向かったのだぞ、ただの詫びで済むはずがあるまい。ふん、そうだな……」
 次の瞬間、衛兵の顔には、良いことでも思いついたと言いたげな、どこか嗜虐的な表情が浮かぶ。
「二人そろって、地面に頭をこすりつけるくらいのことはしてもらおうか。それとも三遍回ってわんとでも吼えるか? そこまですれば、先の抵抗に他意がなかったと認めてやっても良いぞ」



 その言葉を聞き、俺は知らず顔をしかめた。小人というのはどこにでもいるものだが、これは座視しえるものではなかった。
 だが、俺が反論しようと口を開きかけた途端、別の人間が割って入ってきた。青州兵の若者である。
「……俺がそうすれば、この場を去ってくれるのか?」
「無論だ。貴様があの件と何も関わりがないのであれば、出来ぬとは言わぬよな?」
「……わかった」
 そう言うと、若者はゆっくりと跪く。その動作が鈍いのは、身体の痛みか、心の痛みか。
 俺と典韋は咄嗟に止めようとしたが、若者はかぶりを振って答えた。
「これ以上、君たちに迷惑を……ぐ、かけるわけにはいかないだろう」
 そう言うや、誇り高き青州兵の一員である若者は頭を垂れた。深く、深く。決して地面に付けはしなかったが、傍目にはほとんどわからないほどに深く。 



 周囲の者たちは、どこか痛ましげにその光景を見やっている。
 後味が悪いが、これで終わりか。この場にいるほとんどの人間がそう考えたに違いない。
 だからこそ。
「どうした、次だ。わんと吼えてみせよ――言ったであろう、二人揃って、と」
 そういって、衛兵が催促するように女性に視線を向けた時。
 咄嗟にその前に立てたのは俺だけだった。



 若者が激昂するより早く。
 典韋が憤激するより早く。
「おお、これは失礼した。確かに私もあなたがたに反抗したと言える。謝罪をするのは当然ですね」
 俺はさっさと衆人環視の中に進み出て、若者の隣に並んだ。
「あんた……」
 事態がつかめず、戸惑ったような声を向けてくる若者に、ぱちりと右目を閉じてみせる。
 そして、衛兵たちが何か言うよりも早く、くるりとその場で回って見せた。


 一回目。ゆっくりと、見せ付けるように。
 二回目。さらにゆっくりと、丹田に力を込める時を稼ぐ。
 三回目。終わると同時に、面差しを伏せ、頭を垂れる。 


 あたりがしんと静まりかえる。
 何が起こったのかと、きつねにつままれたような顔をする人々。
 その中には先の下卑た要求をした衛兵も含まれていた。俺の行動に理解が追いつかなかったのだろう、その手は所在なさげに宙を漂い、本人は戸惑いもあらわに一歩、俺に近づいてきた。



 ――その眼前に、叩きつけるように。
 ――俺の口から勁烈な響きが迸った。



「ひィッ?!」
 悲鳴じみた叫びと共に、眼前の衛兵が地面に崩れ落ちる。
 さすがは母さん直伝の必殺技、控えめにしても十分な威力である――まあ「わん」と叫ぶのに、必殺技を使うのもどうかと思うが、それは気にしないことにしよう、うん。



◆◆



 直後、その場に広まった笑いは嘲笑の類ではなかった。
 事態を把握して笑ったのではなく、地面にしりもちをついた衛兵の格好が、ただ単純に可笑しかったのだろう。
 だが、その事実は、笑いを向けられた当の本人にとって、いささかの慰めにもならなかった。
「貴様ッ!」
 眼前の相手は、立ち上がりざま、佩剣を抜いて俺に突きつける。
 そして慌てたようにそれにならう周囲の衛兵たち。
 今度、周囲からあがったのは笑いではなく悲鳴であった。


「ふざけた真似をしおってッ!」
「さて、私は言われたとおりのことをしただけですが、何がお気に召さなかったのでしょうか」
 言いながら、周囲に視線を向ける。衛兵の数は四人。いずれもすでに剣を抜いていた。
 一方の俺は剣など持っていない。当然のように勝ち目はなかったが、それでも落ち着いている自分を知って、俺は小さく肩をすくめる。淮南での戦いで、俺は多くのものを失ったが、代わりに得たものも少なくなかったようだ。


 ともあれ、これで衛兵たちの注意は完全に俺に向けられた。あとは典韋に女性を逃がしてもらい、俺はこちらの若者を、と考えた途端、眼前に剣光が舞った。
 踏み込みの浅い一撃を、俺は半歩、後退することで避ける。
「っと。わんと吼えれば許してくれるのではなかったですか?」
「やかましいッ! このわしにここまで恥をかかせておいて、無事で済むと思うなよ、小僧!」
「恥をかかせるつもりはなかったんですけどね」
 自覚もなく、官への信頼を削ぎ続ける小物に灸をすえてやろうとは思ったが。
「そのよくさえずる口、すぐに封じてやる! こいつから叩きのめすぞ。他の奴はほうっておけ!」
 そう仲間に呼びかける衛兵。その呼びかけにこたえ、二人の衛兵が俺を囲むように動き出す。
 そうはさせじと動こうとした俺は、ふと違和感を感じた。


 ……ん? 二人?
 

 俺の前に一人。周囲に二人。もう一人はどこにいった?
 だが、その疑問に答えを得るよりもはやく、眼前の衛兵が再び剣を振るう。
 咄嗟に身をのけぞらせるようにして、その一撃をかわす。が、一瞬とはいえ、他のことに気をとられていたせいだろう。踏ん張りきれず後方にたたらを踏んでしまった。
 それを見て取ったのだろう。俺の視界で、衛兵の口元が勝利の確信を映して歪むのが見て取れた。
 即座に振るわれた次撃。弧を描いて迫り来るそれを避け切れないと悟った俺は、逆に一歩踏み込もうとする。そうすれば、傷は負っても致命傷にはならないだろうと考えたからだ。


 しかし、それを実行に移そうとした途端であった。
 黒い影が、俺と衛兵の間に割って入り、衛兵の剣を受け止めてしまったのだ。
 剣撃の音さえほとんどしなかった。あっさりと、包み込むような剣の動き。


「え……?」
 俺はぽかんと口を開けた。
 いつの間に近づいていたのだろう。黒い外套に全身を包んだその人物は、俺の目には、まるで宙から唐突に現れたかのようにしか見えなかった。
「な、何だ、貴様はッ?!」
 誰何の声を発する衛兵に、しかし黒衣の人物は応えず、手首を翻す。
 ――ただそれだけの動作で、衛兵は剣をからめとられ、剣は持ち主の手を離れ、澄んだ音をたてて宙に舞い上がった。
「……な……?」
 瞬く間に武器を奪われた衛兵は、何が起こったのかと呆然と立ちすくむ。


 その首筋に、黒衣の人物の剣がぴたりと擬された。
「ひッ?!」
「……そこまで」
 その声を耳にした時、俺は咄嗟にそれが黒衣の人物の声だとは気付かなかった。
 何故といって、銀の鈴が鳴るかのような澄んだ響きを持つその声は、明らかに女性のものだったからだ。
「お、女、か? 貴様、官にたてついて、ただで済むとでも……」
 その言葉に、黒衣の人物はかすかに首を傾げたようだ。頭巾のように頭を覆う黒布が揺れた。
「恥とは心の痛み」
「……な、なに?」
 黒布の隙間からこぼれ出た声に、衛兵が戸惑いをあらわにする。だが、黒衣の人物は構わず言葉を続けた。
「あなたはそれを他者に強い、この方はあえて己で受けとめた。朝廷に――皇帝陛下に仕える身として、いずれに与するかは語るまでもないでしょう。官を名乗るのならば、これ以上の醜態をさらす前に立ち去りなさい」


 内容こそ痛烈であったが、それは激語ではなかった。
 むしろ穏やかに、諭すような口調であった。それでも、そこに逆らい難い威を感じたのは、多分、俺だけではなかったのだろう。人の上に立つことに慣れた――否、それを当然とする者の声音。
「お前……い、いや、あなたは」
 俺と同じことを、衛兵も感じ取ったのだろう。明らかに戸惑いながら、黒衣の人物を誰何する。
「ん……」
 束の間、何かを考えるように頭の黒布が揺れる。そして、その手が黒布にかけられて――




 周囲に響くは、驚愕のうめきか。賛嘆の呟きか。
 取り払われた黒布からあらわになった髪は、黒絹のごとき光沢をもって背に流れ、その容姿は名工の手になる彫刻を見るように人が理想とする造形を形作っている。
 髪と同色の瞳は、少女の深い思慮を宿して鮮やかに煌き、晴れ渡った夜空を見るよう。
 白磁の頬が薄く赤らむのは、たった今の立ち回りのせいだろう。その朱が少女に人としての温かみを添えていた。
 この少女を絵にするならば、多分場所はどこでも構うまい。窓辺で佇んでも、冠をつけて朝廷に出る姿でも、あるいは剣を持って戦場に立つところであっても問題ない。そのいずれもが、一幅の絵画として千載に残る輝きを放つに違いない、そう見る者に確信させる少女であった。



 そんな少女を前に、俺は内心でパニックに陥っていた。
 なんだなんだ、この壮絶なまでの美人は。
 傾国の美というのは、あるいはこういう人のことを指すのだろうか。その顔を見ていると、寒気すら感じてしまいそうだ。
 こんな人を、たとえ一度でも見ていれば忘れるはずがない。間違いなく初対面であるが、しかし誰だろうこの人。どこぞの高官のお嬢様――というより、実は漢朝のお姫様でしたと聞いても、俺は決して驚かないだろう。
 まあ、お姫様が真剣もって、卓越した剣技を揮うものか、という疑問は残るに違いないが。いや、お姫様と決まったわけではないから、そんな疑問を覚える必要はないのか、おーけー、落ち着け俺、落ち着け。こんな時は素数を数えよう、ところで素数って何だっけ?!



 などと俺が内心で一人慌てふためいていると。
 衛兵が驚愕もあらわに大きく口を開いた。
「仲達、様?! な、なぜこのようなところにッ?!」
「あなた方と同じ目的……のはずですよ?」
 それはつまり、件の惨殺事件を調べていた、ということなのだろう。黒衣で全身を覆っていた理由もわかった。たしかに、こんな美人が素顔を晒して歩いていたら、周囲が騒ぎたてて事件を調べることは難しいだろう。 
 いや、今はそれよりも、だ。


「仲達様?」
 俺のぽつりとした呟きを聞き取ったのだろう。衛兵に対していた女性は、俺の方を振り向くと、こくりと頷いてみせた。その顔に笑みはなかったが、真摯な眼差しは、まっすぐに俺に向けられている。
「お初にお目にかかります。わたしは先の京兆尹(けいちょういん 長安統治の要職)司馬防の子。許昌北部尉(許昌の治安を司る四尉の一)司馬朗の妹。姓は司馬、名は懿、字は仲達と申します」
 これ以上ないほどに丁寧な挨拶を受け、俺は慌てて姿勢を正す。
「お助けいただき、感謝いたします。私は――」
「先の淮南戦役において、孤軍、仲帝の侵略を退けた劉家の驍将……存じております」
「え?」
 女性の言葉に、俺は思わずぽかんとしてしまう。劉家の驍将って誰?
 だが、眼前の女性は、そんな俺を見ても苦笑一つ浮かべるでもなく、かすかに首を傾げるのみ。
 そして、相も変らぬ真摯な眼差しで、俺にこう告げたのである。 


「貴殿の偉功を耳にして以来、機会あればお会いしたいと思っておりました――北郷一刀殿」





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/05 18:14


 徐晃、字を公明という少女は、彼方で行われる戦闘の帰趨を見て取り、小さく、しかしはっきりと呟いた。
「強い……」
 その視線の先では官軍――虎豹騎につり出された挙句、無様に叩きのめされている自軍の姿が映し出されている。
 韓暹の敗北、それ自体は徐晃の予測の内にあった。だが、こうも早く、またこうも容易くそれが現実のものになるとは、さすがに徐晃も考えてはいなかったのだ。


 韓暹が不用意に自軍を突出させていたとはいえ、間髪入れずにそこを衝いた機動力、彼我の兵力差を巧みな戦術でおぎなった将の智略、そしてその策に完璧に追随してのけた兵の錬度、いずれも精鋭の名に相応しい。
「虎豹騎……曹家の最精鋭という評に偽りなし、ということですか」
 その言葉に応じるように強い風が吹きつけ、徐晃の髪をなびかせる。そっと前髪を押さえながら、徐晃は琥珀色の双眸に強い光を浮かべて、彼方の戦況を脳裏に刻み付ける。


 同じ官軍とはいえ、虎豹騎はかつて撃ち破った皇甫嵩の軍勢とは明らかに異なる。皇甫嵩の軍は、直属の将兵こそ精兵揃いであったが、錬度の低い新兵も少なくなかった。
 だが虎豹騎には、そのムラがない。すべて騎兵で編成され、そのいずれもが騎射をこなす――恐るべき錬度であるといえた。報告によれば、曹操は先年から鐙という新しい馬具を取り入れ、騎馬部隊の拡充をはかっているとのことだった。おそらく、あの虎豹騎というのは、その精華であるのだろう。これを撃ち破るのは容易なことではない、と徐晃は考えざるをえなかった。


 くわえて、それを率いる将も尋常な相手ではないようだった。
 今、叩きのめされている韓暹などは、虎豹騎の指揮官が曹操の一門に連なる若者であると知ってはじめから侮りをあらわにしていたが――噂に聞くあの曹孟徳が血縁のみを理由に将帥の人事を定めるはずもない、と徐晃は考えていた。
 若いとはいえ、敵将は丞相子飼の精鋭を預けられるにたる力量を有しているのだろう、とも。
 そして、今回の攻防を見て、徐晃は自らの考えが間違っていないことを確信する。否、それでもまだ敵を過小に評価していたかもしれない、とひそかに韓暹に感謝の念さえ覚えた。
 何も知らず、あの曹純という名の敵将を相手にしていれば、徐晃も思わぬ不覚をとっていたかもしれないから。


 例の策を用いれば、負けることはあるまいが、こちらにも甚大な被害が出てしまう可能性があった。たとえ敵を全滅に追い込んでも、それ以上の被害を受けてしまえば、その分、母の望みが遠ざかってしまう。それでは戦う意味がない、と徐晃は思う。
 であれば、虎豹騎と正面から戦うのは避けるべきであった。
 だが、単純な奇襲や待ち伏せを行っても見抜かれる可能性が高い。策を仕掛けるのならより巧妙に、そして大胆にすべきであろう。
 たとえば、我が身を犠牲にすることも厭わぬほどに……



「――決めた」
 わずかの沈思の後、徐晃は馬首を返す。
「あの人たちに連絡して……使者は私、後は……」
 呟きつつ、徐晃は脳裏で策の細部を詰めていく。この地に踏み込んだ官軍の死屍をもって屍山血河を築き上げる、そのために。  
 


◆◆◆


 
 司州河東郡解県。
 この地には『解池(かいち)』と呼ばれる中華有数の塩湖がある。否、有数というより随一というべきであろう。
 楚漢制覇戦、さらには古く春秋戦国の時代から、時の諸侯が所有を巡って血で血を洗う抗争を繰り返した塩の生産地。
 その価値は今代にいたっても衰えることはなく、むしろいや増すばかりであった。


 河東郡太守である王邑はそのことを承知しており、本拠である県城と、この解池にはきわめて厚い防備を施している。そして、王邑が白波賊討伐に及び腰である理由の一つもここにあった。
 白波賊に戦力を注いだ挙句、解池を失うことにでもなれば、間違いなく太守の首が飛ぶ。賊徒が州境で暴れていようと、こちらの防備を薄くすることは出来なかったのだ。
 とはいえ、いつまでも賊徒の跳梁を許せば、太守として鼎の軽重を問われてしまうのは当然だった。王邑としては頭の痛いところだった。


 それゆえ朝廷から派遣された曹純率いる虎豹騎が、白波賊の首領である韓暹の部隊を撃ち破ったと聞いた時、王邑は諸手をあげて喜んだ。
 一向に改善されない状況に対し、内外から太守への非難の声が高まり、さらには皇甫嵩率いる二千の軍勢が姿を消すという異変もあって、得体の知れない悪寒を感じていたのだが、問題の一つが片付いたと考えたのである。


 もっとも県城に帰還した曹純は、それが過大な評価であることをすぐに伝えている。韓暹の部隊を撃ち破ったことは事実だが、韓暹本人は捕えることが出来なかったからだ。
 深追いは禁じたので、敵兵も半ば以上は逃げ延びているだろう。
 それでも、王邑は勝利は勝利だと、小さいながら宴を催し、虎豹騎を労った。曹純としては緒戦に勝っただけで何をおおげさな、と眉をひそめたのだが、宴を拒絶したと知られれば配下から文句の一つや二つ出るだろう。
 賊軍がいきなり県城を包囲するとも考えにくく、まあよかろうと王邑の厚意を受けることにしたのである。



 遠くから響く管弦の音に耳をくすぐらせながら、曹純は一人外壁に立っていた。
 彼方の長城から吹き寄せる風は冷たく乾き、季節が逆行したかのようだ。曹純は酔い覚ましの水を口に含みながら、外壁に背を預け、上空を見上げた。
「……白波賊は確かに強い。強いが、それ以上のものはなかった。あれに、皇甫将軍が全滅の憂き目を見るはずはない」
 明晰な声に酔いを感じさせるものは残っていない。
「であれば、その背後に誰かがいるのは間違いない。何が狙いだ? どうしてこちらの動きを正確に捕捉しえた? 明らかに対騎馬の戦備を整えていたのはどうしてだ?」
 曹純の視界を埋め尽くすのは、晴れ渡った夜空一面に広がる星海の波濤。思わず嘆声がこぼれそうな光景であったが、それを見る曹純の心は一向に晴れる様子がなかった。
「情報が漏れている。それは間違いないが、許昌の諜報網は優琳姉上(曹洪)みずから築きあげたもの。その網に触れることなく、自分たちが欲する情報をことごとく手にいれるなど、ただの賊徒に出来るとは思えない」
 となると、誰かが情報を漏らしたか、あるいは曹純が気付いていない何かがあるのか――


 と、そこまで考えて、曹純は頭に手をやり、わしゃわしゃと髪をかきまわした。
 その顔に苦笑が浮かぶ。
「こういったことを考えるのは苦手だよ。やっぱり一刀を連れてくるべきだったかなあ」
 なんとなく思うのだ。あの友なら答えそのものを見つけ出すことは出来なくても、そこに到る道筋を示すことくらいはしてくれるかも、と。
「まあ、できるわけないんだが。一刀は関将軍の配下だし、こんな賊討伐にあの美髪公を出すなんて華琳様がお認めになるはずないしな」


 ここにいない者の助力をあてにしても仕方ない。曹純は苦笑して自分の考えを振り払い、この場から去ろうと足を踏み出そうとする。
 その時だった。
「子和様、よかった、ここにいたんだッ!」
「仲康か、どうした、そんなに慌てて?」
 飛ぶようにこちらに向けて駆けてくる小柄な人影は、とうに部屋に戻っていたはずの許緒であった。
「城に急使が来て、みんなで子和様を探してたんですッ」
「私を?」
「はい。太守さまが言ってました。皇甫将軍の部隊が見つかったかもしれないって」
 その言葉を聞き、曹純の顔が鋭く引き締まる。
「見つかった、ということは生きているのか?」
「わかんないです。詳しいことはまだ聞いてないから。早く来てください!」
 白波賊の支配下にある村から、命がけで脱出してきた者が、命からがらこの県城にたどり着いたのだ。
 許緒はそういってすぐに駆け出し、曹純はその背を追うように足を速めた。


 その顔に、ほんの一瞬だけ浮かんだ忌々しげな表情は、無論、眼前の少女に向けられたものではない。曹純には知りようもないことだったが、それは許昌の曹操の表情と酷似したものだった。侮りを受けた者が示す不快。
 もっとも、その表情もすぐに拭われる。虎豹騎の長は表情を引き締め、新たな局面に向けて歩みを進めるのであった。




◆◆◆




 滝のように降り続く雨は止む気配を見せず、時折、雷光が視界を純白に染め、耳をつんざくよくな轟音があたり一帯に響き渡る。風も出てきたようで、叩きつけるような風雨の音がたえず室内に木霊していた。
 許昌を包み込むように拡がる雷雲の勢力は衰えることを知らず、この嵐は当分の間続きそうであった。


 今、俺がいるのは司馬家の屋敷である。
 司馬家は清流派の名門であり、その家屋敷はかなり広大――と言いたいところだったが、実のところさほど大きくはなかった。正直、曹操から関羽に与えられた屋敷、つまりは俺が今、暮らしている屋敷の方が大きいくらいである。
 聞けば、京兆尹という要職に就いていた父は董卓の乱に前後して死去し、現在、司馬家の家長は、司馬懿の姉である司馬朗が務めているらしい。
 司馬朗は許昌の治安を司る四尉の一、北部尉の職に就いており、これはかつて曹操が務めたこともある要職だが、無論、京兆尹ほどの顕職ではない。
 名門だからとて、新たな都に身代に合わない屋敷を建て、無用な妬みを買うことを忌避したのかもしれない。実際、河内郡の司馬家の所領には、随分と大きな家屋敷があるとのことだった。
 下の妹六人はそちらで重代の家臣たちに守られて暮らしているそうだが、もしかしたらその子たちも美人ぞろいなんだろうか。司馬懿並みの美人、美少女が六人並んでいるとか……想像するだに震えがはしる。桃源郷は河内にありや。恐るべし、司馬家。


 そんなことを考えて、俺が戦慄を禁じえずにわなわなと震えていると、黒の外套を脱いだ司馬懿が(ちなみに脱いでも黒を基調とした服でした)目を瞬かせた。
「……北郷殿、何故、震えておられるのです?」
「我、桃源郷を見出したり」
「……それは重畳ですが……」
 俺の戯言を、笑うでもなく、無視するでもなく、しごく真面目な表情で受け止める司馬懿。
 そんな司馬懿を見て、俺ははっと我に返り、慌てて前言を打ち消した。
「あっと、すみません、戯言を申しました」
「そうですか。もしや雨に打たれて体調を崩されたかと思いましたが、戯言を口に出来るようでしたら、心配は不要のようですね」
「え、ええ、ご心配をおかけしてすみません」
 一瞬、これは司馬懿なりの諧謔かとも思ったが、真顔でこちらを見る顔からするに、少なくとも本人は諧謔を言っているつもりはないのだろう。
 俺は中途半端な笑みを浮かべたまま、さて、何を話せば良いのかと途方にくれてしまった。
 というか、なんで俺は司馬家のお屋敷で雨宿りしてるんだろう?



 せめて典韋がいてくれれば、まだ話の持って行きようもあったかもしれない。しかし典韋と、それに衛兵にからまれていた若者たちはここにはいない。
 あの後、若者たちは近くの医者のところで治療を受け、それが終わると、それぞれの家に帰ったのである。
 では、何故俺だけ司馬家の屋敷にいるかといえば、典韋を送り届け、その門前で別れた後、すぐにこの嵐に遭遇してしまい、何故か後ろにくっついてきていた司馬懿に半ば引っ張られるように連れてこられたからであった。
 黒衣の姫様曰く「奇貨居くべし」とのことでした。


「ぬう、仰りたいことはわかりますが……」
 司馬懿としては、折角、興味を持っていた人物に会えたのだから、この機会は逃したくない、という気持ちなのだろう。
 なんでまた俺なんかに、という困惑はこの際おいておく。ただ、あの司馬仲達にそう言われると、なんか骨の髄まで利用されてしまいそうで、背筋に寒気を覚えてしまうのは、俺が小心なせいなのだろうか。語源が語源だし、史実がどうであったかは別として、何となく司馬懿というと簒奪というイメージがあるからなあ……


 もちろん、司馬懿本人にそんなことは言わなかったが、それでも俺がわずかながら警戒したのは察したらしく、当惑げに目を瞬かせていた。
 たしかに、眼前の司馬懿からしてみれば、身に覚えのないことで警戒されているのだから、それは戸惑いもするだろう。 
 などと俺が考え、いささか気まずい沈黙が室内におりかけた、その時。
 相変わらず無表情のまま、司馬懿がぽんと両手を叩く。
「好機逸すべからず」
「いえ別に奇貨と例えられて機嫌を損じていたわけではございません!」
 ――反射的につっこんでしまった。


 俺の前では司馬懿が眉を曇らせていらっしゃる。どうやら司馬懿は、自分の引用に対し、俺が不快を覚えたと思ってかわりの言葉を探していたらしい。
 ……まあ実際、語源の人物の不穏な行動と、後年の司馬懿の行動を重ね合わせて、俺が勝手に不安がっていただけなので、司馬懿の考えは当たらずといえども遠からずなのだが、そんなことを言えるはずもない。
 ここは勢いにのったまま、話をうやむやにしてしまえ。


「そ、それはともかく、さきほどの話を聞けば、仲達殿は朝の事件を調べておられるとか。許昌に暮らす身としては、あのような残酷な事件は心に冷えを覚えます。何か掴むことができたのでしょうか? あ、いえもちろん、捜査上の機密であれば、仰っていただかずとも結構なのですが」
 俺が一息にそう言ってのけると、司馬懿は何やら考え込むように眼差しを伏せた。
 やばい、話をかえるにしても、もっと穏当な話題を選ぶべきだったか? けど、ついさっき会ったばかりの名門のお嬢様と共通の話題なんてあるわけないしなあ。


 俺のそんな内心を知る由もなく、司馬懿はゆっくりと口を開く。
「これといったことは、何一つ掴めませんでした。とはいえ、それは当然のことです。家宰の行方が知れなくなってから十日、姉様が懸命に探し続け、ついに見つけることがかなわなかったのですから。姉様と異なり、いかなる官職も持たない私が半日程度、野を歩いたところで何がわかるはずもありません」
 ……それでも、何もせず屋敷で姉の帰りを待つことは出来なかったから。俯き、瞳を悲しみで染めながら、司馬懿は悔いるようにそう言ったのである。


 ――その言葉を聞き、俺は思わず息をのむ。決して長からぬ言葉の中に、無視しえない事実が含まれていた。
「家宰の方が行方知れず? では、もしや見つかった遺体というのは……」
 おそるおそるの問いかけに、司馬懿はゆっくりと頷いてみせた。
「司馬家の家宰を務めていた者は、年は五十の半ばでした。そして先ごろより、我が家には、誰とも知れぬ輩から脅迫の書が届けられていたのです」
「脅迫、ですか? 北部尉を務める方の屋敷に?」
 衛兵を統べる人物を脅迫する。ただその一事で、相手がなみなみならぬ力を持っていると知れる。
「はい、そこには、今回の災いを予期させる言辞が記されていたのです……」


 止まぬ脅迫。行方知れずとなった家宰。その最中にみつかった拷問を加えられた遺体。
 顔はわからずとも、年と背格好からある程度のことはわかる。なにより、これまでの状況を顧みれば殺されたのが誰なのか、いかなる意図があってその暴虐がなされたのか、そのことは司馬家の人の目に明らかであったのだろう。


 そして。
「姉様が、荀文若様より託されていた任務は、都に巣食う塩賊を滅ぼすことでした」
 そこまで聞けば、俺もまた一つの結論に達せざるを得なかった。



◆◆◆



 漢王朝の都たる許昌。一日、その都で起きた一つの殺人に塩賊が関わっていることを知った時。
 幾つもの勢力の思惑がからみあう陰謀の渦に、劉家の若者もまた巻き込まれることになる。
 絡み合った陰謀が野心と妄念の炎によって燃え上がり、中原を業火に染める時、そのただ中で若者は一つの事実を知るに到る。それはその後の中華帝国に少なからぬ影響を及ぼすことになるのだが……
 この時の若者はそれを知る由もなく、ただ伝えられた事実に愕然とすることしか出来なかったのである…… 








[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/06 23:24

 古くから、塞外より轟く鉄騎の音は、中華帝国において長く恐怖の源泉であった。それは同時に、時の政治の良否を見る計りの役割も持っていた。
 たとえ個々の武勇で後れをとろうとも、遊牧民族と農耕民族では根本的な国力が違う。中華を統べる国が安定した国威を保っていれば、騎馬民族の勢力は一定以上に膨れ上がることはなかったからである。
 彼らが侵攻をはじめるのは中華帝国の政治が乱れた時。税が高まり、民心が乱れ、外敵への備えが緩んだ時こそ、彼らは得たりとばかりに勢力を伸ばしはじめるのだ。


 そして。
 王朝の混乱と失政に乗じるという意味では、塩賊もまた塞外騎馬民族と共通するものを持っていた。
 官塩の価格が高騰すればするほど、私塩の価値は高まる。
 そして官塩が高騰するということは国庫が逼迫しているということであった。それは荒天や旱魃、あるいは蝗害といった天災に拠る場合もあるが、そのほとんどは大規模な土木工事や無益な遠征、宮廷の奢侈といった人為的な行いを起因とするものであった。
 ことに霊帝の治世にあっては、朝廷は権力争いの場と化し、各地の州牧の多くは自領を守ることに汲々とし、民衆の生活にまで気を配ることが出来るものは数少なかった。
 この悪政に乗じて勢力を肥え太らせた代表格は黄巾党であるが、彼らよりも密やかに、かつ強かに力を蓄えている者――それが塩賊であった。


 だが、賊徒に福を与えた朝廷の混乱も、ひとりの人物によって終止符を打たれる時が来る。
 曹孟徳の台頭である。
 民心の安定は国家の基。曹操は治安の改善と物価の安定を柱とした政策を次々と打ち出し、自身と配下の類まれな政治手腕によって、そのほとんどすべてを軌道に乗せることに成功する。
 もっとも、治安の改善は人手と工夫によってやりようはいくらでもあるが、物価の安定には、物資の継続的な供給が不可欠である。曹操や配下の吏僚がいくら政治に長けていようと、無から有を生み出すことができない以上、限界は存在するはずであった。


 しかし、その問題もほどなく解決する。曹操陣営の資金源であり、先の許昌建設の立役者である陳留の大商人である衛弘の尽力、そして隆盛著しい曹操に期待を寄せる中原の商人たちの協力によって。
 商人が為政者に望むもの、それは安全に商いができるだけの治安と公正の実現であった。朝野に賊徒が蔓延っていれば、品物の運搬さえ容易ではない。護衛をつけるにしても、彼らを雇うための金が必要となってしまう。
 首尾よく品物を目的地まで運べたとしても、露骨に賄賂を要求する官吏や、権力や暴力を用いて品物を廉く買い叩こうとする輩は後を絶たない。そういった横暴に対し、商人たちが訴え出ることができる場所はごくごく限られており、また、訴えたところで、そこでも賄賂を要求される始末である。
 これでは利益など出ようはずもなく、これを見越して品物の値段を釣り上げれば、本来であれば売れるはずであった物まで売れなくなってしまうのだ。


 ゆえに商人たちは為政者に求める。
 安全に品物を運ぶことができる平和と、公正に商いが出来る体制の確立を。
 しかし、それがただの理想であることを、多くの商人はわきまえていた。理想とは叶えられないからこそ理想なのであって、実際はままならぬ現実と帳尻をあわせつつ、商いを行うしかなかったのだ。


 だからこそ。
 理想を現実にしてくれる、そんな期待を抱くに足る英傑が現れたとき、中原の雄なる資産家たちが、その資産の一部を割くことをためらうはずはなかったのである。


 

 かくて、丞相曹孟徳の下、中原における交易はこれまでに増して盛んになり、比例して物価も安定しだしていった。
 品物が多く出回れば、物価の高騰にも歯止めがかかる。ある商人が暴利を貪ろうと、品物の値段を釣り上げたとする。しかし、市場には、それより廉く品物が出回っているのだから、買う側はそちらにまわり、暴利を望んだ商人に残るのは在庫の山と閑古鳥の鳴き声だけ、商人は書き換えた値段表を元に戻さざるをを得なくなるのだ。
 安定した物資の流通は、均衡の見えざる手を動かし、適正な価格というものが自然と定められていく。
 無論、例外はいくらもあるし、すべてがうまくまわっているわけではないにせよ、少なくとも曹操の領内において、庶民がどれだけ懸命に働いても日々の糧にも事欠くような、そんな理不尽な状況は確実に排除されつつあった。



 そして、専売品である塩も、この流れの中にあったのである。
 曹操はまず、塩の専売そのものの廃止は将来のこととした。今の丞相府は、ただでさえ猫の手も借りたいほどの多忙さの中にある。どれくらい多忙かといえば、一部重臣から「背に腹はかえられないわ。あの猪にも少しは手伝わせなさいッ!!」という案が出るほどであった。
 この案は即座に「余計に仕事が増えると思うが」との意見によって棄却されるに到るが、ともかくそれくらい大変な状況であったのだ。
 そんな中で、多大な利害を生み出す塩の専売、その廃止にともなう混乱と利権の争いを捌くだけの余裕を持っている者は、少なくとも今の丞相府にはいなかったのである。


 無論、官塩の高騰と、塩賊の跳梁を座視するわけではない。
 曹操の懐刀である荀彧がとった策はきわめて単純であった。
 朝廷が塩を売るとはいえ、なにも士大夫がみずから塩の製造、販売を一手に引き受けていたわけではない。朝廷から権利を委ねられた商人たちがいるのだ。
 荀彧は彼らに対し、君命であるとして、貯蓄されていた塩の中から、余剰と見られる分をことごとく供出させ、それを市場に出すことで一気に官塩の値段を引き下げたのである。


 これには、当然、難色を示す塩商も少なくなかった。というより、全ての塩商が難色を示したといって良い。朝廷へと献上される利益から、彼らは幾つもの題目を掲げて(運搬費、製造費などなど)少なからざる利益を得ている。塩商たちの利益は、官塩の値が高ければ高いほど増加するのだ。つまるところ、ここにも官塩の高騰の一因はあり、荀彧は正確にそこを見抜き、手をうったのである。


 もっとも、荀彧は塩商たちを排除したわけではない。過剰な備蓄を吐き出すようにとは命じたが、これまでどおり製造と販売は塩商たちに委ねたままであった。
 荀彧がわずかでも余裕を持っていれば、ここにも改革の手をいれたに違いない。しかし、おそらく荀彧は現在、中華でもっとも多忙な人物の一人であり、問題を先送りするしかなかったのだ。
 塩商らにしても、今回の命令に対して不満は残るが、朝廷の実力者である曹操に刃向かう愚は知っている。下手に逆らって、塩を取り扱う権利を奪われてしまえば元も子もない。高利を得る塩商の地位は、他の商人たちにとっても垂涎の的なのである。


 もっとも、塩商たちは他の者たちが持ちえぬ利点を持っており、容易に他者がその地位につくことは難しかった。 
 効率良く塩を造るにはどうするか。造った塩はどこに保管しておくのか。保管していた塩をどのように販路に振り分けるのか。安全に目的地に届けるために注意すべきことは何か。届いた後、どこに保管しておくのか。どこでどうやって売りに出すのか。もっとも利益の出る販売量、期間はどの程度か。
 そういった細々としたノウハウを塩商たちは我が物としており、それは他の商人や、丞相府の役人が一朝一夕で得ることが出来るものではなかった。
 長い間の経験と蓄積なくして得られない情報。塩商たちがそれを握るゆえに、荀彧はこの問題に対しては拙速よりも巧遅を選ばざるを得なかったのである。



 こうして小さからざる不協和音を残しつつも、官塩をとりまく状況は、少なくとも庶民の目から見れば一気に改善された。
 こうなれば、あえて危険をおかして私塩を買い求める必要もない。人々は曹操、荀彧に喝采を送り、新帝の統治にまた一つ信頼を積み重ねる。
 将来は知らず、現状の官塩を取り巻く問題は一つの解決を見たのである。



 ……その陰に、塩賊の底深き憎しみを宿しながら。



◆◆◆



 并州西河郡。
 河東郡と境を接するこの地は、同時に朔北の勢力――匈奴とも隣接しており、たえずその脅威を受け続けていた。
 近年、匈奴側も単于(匈奴の王位)の地位を巡って抗争が激化しており、大規模な侵攻こそなかったが、小規模の部隊による襲撃は絶えず行われているのが現状であった。
 それでもこれまでは襲ってくる数が限られているので、何とか撃退することが出来ていたのだが……



「昨年の暮れのことです。突然、私たちの村を匈奴の大軍が襲い、瞬く間に村はあの人たちの手に落ちてしまいました……」
 そう言って、曹純の傍らで馬を進ませていた少女は瞼を伏せた。
 許緒がその姿を気の毒そうに見やる。匈奴の支配を受けた村人たちがどのような目に遭ったのか、また今も遭っているのかは想像に難くなく、何と声をかければ良いのかと悩んでいるようだった。
 その気持ちは半ば曹純とも重なるが、今、それを口にしたとて何の解決にもならないだろう。少女の言うことが事実なのだとすれば、一刻も早く村を解放することこそが唯一の解決策になるはずであった。


 河東郡の県城を離れ、西河郡へと向かう最中、曹純は少女に確認をとった。
「……君たちの村を占領した匈奴は、幾つも京観(死体で築いた塚)を築いているという話だったが、もっとも新しいものは何時ごろつくられたものかわかるかい?」
「少し前……ええと、半月くらい前だったと思います。あの人たち、大勝利だったってすごい機嫌が良くて、村のみんなを駆り出して、たくさんの人たちの亡骸を積み重ねて……」
 その時のことを思い出したのか、少女は小さくうめき、口元を押さえた。
 それでもなお言葉を続けたのは、村を救うために必要なことだと考えたからなのだろうか。もしそうであれば、この亜麻色の髪の少女の精神力は驚嘆に値した。


「あの人たちは、略奪に出るたびに人を浚ってきたり、殺した人たちを馬で引きずってきたりしてました。でも、それでも数十から、多くても百人くらいです。でも、あの時は百とか二百とか、そんな数ではなかったです」
 それが何を意味するのか、曹純の目には明らかであった。ため息まじりに少女に礼を言う。
「そうか……ありがとう。すまない、つらいことを聞いてしまったな」
「いいえ……村のみんなを救ってもらうんです。私も、出来るかぎりのことはしないと……」
 少女――姓を李、名を亮、字を公明と名乗った少女は、曹純の詫びに対して、琥珀色の双眸に涙を湛えながら、ゆっくりと首を横に振るのであった。



◆◆◆



 屈強な将兵の中にあって、なお一際雄偉な体格は、馬にまたがっても地に足をつけることが出来た。
 並の人間の胴ほどもある左右の腕に力を込めれば、巨馬の首すらへし折れる。丸太の如き両の脚を繰り出せば、敵兵は甲冑を着たまま宙を飛んだ。
 精気と客気に満ち満ちた両眼で周囲を睥睨すれば、最強を謳われる匈奴の猛者たちさえ顔をあげることかなわない。
 朔北の軍勢を統べ、西河郡を劫略する匈奴の王、於夫羅(おふら)の、それが姿であった。
 その姿は、もはや人というよりも智恵を持った獣とでも呼ぶべきであったかもしれない。今、その眼前で恐怖に震えながら剣を構える壮年の男性と比べれば、とてものこと、両者が同種の生き物なのだとは思えなかった。


「……どうした、かかってこぬのか? そこで震えているだけでは、汝の妻も娘も助からぬぞ?」
「……ぐ、この、なんで、こんな」
 於夫羅の言葉に、男性は小さくうめき、柄を握る手に力をこめる。だが、それだけだ。目の前の相手に斬りかかっていくことはしなかった――否、できなかった。眼前の相手から漂ってくる物理的な圧力さえ感じさせる死の気配を感じ取り、男性の身体は所有者の意思を無視し、その場を動くことを拒絶したのである。一歩でも近づけば、於夫羅の持つ大斧で腰斬されてしまうであろうから。


 だが。
「あ、ああ、お許し、お許しくださいませッ! 娘は、せめて娘はァ!」
「父上、ちちうえェッ!!」
 周りを取り囲む匈奴の兵に縋りつくように慈悲をこう母とおぼしき女性と、父の名を呼んで泣き叫ぶ少女。その服はすでに力任せに破られており、その肢体は半ばあらわになっている。ふくらみきっていない乳房が、少女がまだ年端もいっていないことを物語っていた。
「……京ッ! 甘ッ!!」
 妻と娘の名前なのだろう。男性は二つの名を叫ぶと、今にもそちらに向かって駆け出そうとする。
 ――が、その挙動はただの一言で封じ込められる。


「名を叫ぶ暇があったら、かかってくるが良い」
 一歩、踏み込みながら、於夫羅が口を開く。それだけで大地が揺れたように感じたのは、はたして気のせいなのだろうか。
「余の身体に傷一つ。それだけで汝も、汝の妻子も助かるのだ。このまま震えておるだけでは、いずれも助からぬぞ。それとも、目の前で妻子を犯されねば戦えぬか? ならば望みどおりにしてやるが」
「ぐ……この、蛮人め。どうせ、わたしたちを生かして返すつもりなどないのだろうッ?!」
「確かに余は蛮夷の王だが、約定は守る。別に信ぜずともかまわぬがな」
 そういうと、於夫羅は遠巻きに見守る部下たちに頷いてみせた。
 その意味を察した将兵から下卑た喊声があがる。そして、絹を裂くような二つの悲鳴がそれに続いた。


「やめろ、やめてくれッ! くそ、何故わたしたちがこんな目にッ?!」
 妻子に群がる男たちの姿を視界に捉え、男性は天地すべてを呪うような絶望の叫びをあげた。
 匈奴の単于はこともなげにそれに応じる。
「弱いからよ。弱者は強者にひれふし、慈悲を乞い、その慰み者になる以外の価値を持たぬ。それが嫌ならば強くあれば良い。簡単な理であろう? 何故か、汝ら漢族は受けいれぬ者が多いがな」
「蛮族がッ! いずれ天譴がその身に降りかかるぞッ!」
「なればその天譴さえねじふせよう――さあ、もう良かろう。はよう抜け。西河郡でも五指に入るというその力、余の前に示すがよい」
「う、ぐ、ああ、ああああァァァアアアアアッ!!」
 於夫羅の声と、そしてそれ以上に妻子の悲鳴に背中を押され、男性は大地を蹴る。
 裂帛の気合と共に振るわれた剣は、空気すら両断する勢いで於夫羅に襲いかかる。その身に受ければ、於夫羅がいかに頑強な肉体を誇ろうとただでは済まなかったであろう。それほどに、精魂のすべてが込められた一閃であった。



 ――だが、届かない。



「……いかに名が知られていようと、所詮は土いじりしか能のない漢族か」
 於夫羅は、その巨躯からは信じられないほどに素早い身のこなしで男性の一撃を避け。
「暇つぶしにもならぬわ、下郎」
 舌打ちまじりに振るわれた大斧は、ほとんど力が込められていないように見えた。にも関わらず――その先端が男性の身体を捉えた、そう見えた時には、男性の上半身は文字通り引きちぎられ、宙を舞っていた。


 みずからの夫が。父親が。
 血と臓物を撒き散らしながら倒れ伏すその光景を、その妻子は見ることはなかった。
 すでにその姿は匈奴の兵士たちの中に没し、悲鳴を発することさえ出来なかったから。
 於夫羅はその光景を眉一つ動かさずに眺めていたが、すぐに興が失せたのだろう。得物である大斧を担ぎ上げると、その場から立ち去ったのである。   

 

◆◆◆



 ――曹純がその光景を見ることが出来たのも、そこまでであった。
 無意識のうちに握り締めていた柄から手を離す。出来うるならば、今すぐにでも駆け出したいが、今、この場にいるのは曹純と李亮のみ。切り込んだところでたちまち斬り捨てられてしまうだろう。
 ことにあの於夫羅という敵の王は、たとえ十騎で取り囲んでも討ち取れるとは思えなかった。


 もとより、今のような光景が日夜繰り返されているであろうことは予測していたこと。怒りに任せ、折角の好機を潰してしまえば、あのようなことが今後も長く繰り返されることになってしまう。
「……今は、我が世の春を寿いでいるが良い、蛮族ども」
 呟く語尾が、消せぬ怒りのために、わずかに震えた




 そうして、曹純は半ば無理やり、意識を将としてのものに切り替える。
 李亮によれば、匈奴の軍勢は一所にとどまっているわけではなく、移動を繰り返しているらしい。それでも大体の兵力は推測できる。その数はおおよそ五千というところであるという。
 あの単于に率いられた匈奴の騎兵が五千。皇甫嵩率いる二千の部隊では、その急襲を防ぎきれまい。曹純は、その時の皇甫嵩の驚愕と無念を思い、祈るように小さく俯いた。


 一方で、曹純の胸には一つの疑問がわきあがっていた。
 匈奴の帝国は、時に十万以上の兵力で国境を侵してくる。あの於夫羅という敵将が匈奴の王たる単于であるというなら、五千という兵力は明らかに少なすぎた。
 ただ、と曹純は思う。
 近年、匈奴内部の覇権を巡り、国内における抗争が激化しているという情報は聞いている。一口に匈奴と呼んでいても、その中には幾つもの部族がある。あるいは、於夫羅は抗争に敗れてこの地まで逃げ延びてきた族長の一人なのかもしれない。
 無論、たとえそうであっても、五千の兵力の脅威は、何一つかわらないのだが。


 考え込む曹純に、李亮が声を潜めて告げる。
「私が村を出た時、村にいたあの人たちの兵は五百くらいでした。見る限り、今も大差ないと思いますが、確実ではありません。お話ししたとおり、私は一度、村に戻ります」
 曹純と共にここまで来た五名の騎兵は後方で控えさせている。そして、残りの軍勢はさらに遠く離れた地点で待機させていた。
 曹純率いる虎豹騎は、夜陰にまぎれて密かに県城を抜け出し、不眠不休でこの地までかけ続けた。まず間違いなく、敵はこちらの動きに気付いていないだろう。
 だが、不用意に近づけば、匈奴兵に発見されてしまいかねない。曹純は、遊牧民族である匈奴兵の機動力を甘くみるつもりは欠片もなかった。


「人数がわかったら、於夫羅の斧を奪ってお知らせにあがります。そのあとのことは、すべて曹将軍にお任せいたします。どうか、村のみんなをお救いください」
「無論。民を守ることこそわたしたちの務めだ、安心してくれ。それより、君こそ気をつけて。もし、村からいなくなっていたことがばれていれば、ただではすまない。それにあの於夫羅という単于、ただものではない。その得物を奪うのは容易いことじゃないだろう。無理する必要はないよ」
 その曹純の言葉に、李亮は小さく俯く。
「……大丈夫、です。あの人たちは、私が……私たちが反抗するなんて、思ってもいませんから」
「そうか……だが、もしうまく行かなかったとしても、拘泥する必要はない。その時はすぐに私たちに知らせてくれ。必ず、奴らを追い払ってみせる」
「はい……お願いします」
 李亮は深々と曹純に頭を下げると、踵を返した。様子を見て、村に戻るつもりなのだろう。
 曹純はその後姿を気遣わしげに見送ったが、いつまでもここに立っていて誰かに見られたら、それこそ本末転倒である。
 間もなく曹純自身もこの場を去り、あとにはただ冷たい漠北の風が野の草をそよがせるのみであった。




◆◆◆




 そして、機会は待つほどもなく訪れる。
 その身にあまる大斧を、引きずるように李亮がもってきたのは、二日後の夜半であった。
 それを見て、曹純はほぅっと安堵の息を吐く。
「上手くいったようだね」
「はいッ。やっぱり私みたいな小娘一人、いなくなったところで気にする人はいなかったみたいです。村にいた匈奴の人の数は六百人くらいです。みんなにお願いして、匈奴の人たちにお酒を勧めて。私はこの斧を取ってすぐ村を出ましたけど、今ごろはみんな眠ってしまってるはずです。将軍様、どうかッ!」
「重ね重ね、ありがたい。いかに強猛な匈奴兵といえど、酔いつぶれたところに奇襲を受ければ赤子も同然だ」
 曹純はそう言うと、持っていた槍を高らかに掲げ、麾下の将兵に命令を下す。
「天下無類の兵たちよ! 我らが武威をあまねく天下に知らしめる時が来たッ! 命知らずにも我らが領土に踏み込みし蛮族ども、一人残らず血祭りにあげるのだッ!」
 曹純の激語に応じるように、周囲に展開している虎豹騎から喊声があがる。
 それはたちまち闇夜を圧してあたり一帯に響き渡る。


 ――その喊声に耳をくすぐらせながら、李亮はゆっくりと曹純の背後に近づいていく。


「全軍、突撃ッ!!」
 号令と共に、怒涛となって突進を開始する勇壮な騎馬の軍。
 何者もあたるべからざる勢いをもって、彼らは李亮の村を救うべく駆けて行く――この場に残ったのは、曹純と数名の側近のみ。ここで「何か」が起こったとしても、もはや虎豹騎の勢いは止まるまい。


 ――その勇姿を視界の端に捉えながら、李亮は於夫羅の大斧を握り締め、抱え持つ。いとも、軽々と……いとも、易々と。


 そして。
「曹将軍」
 やわらかな問いかけは、どこか優しささえ含み、曹純の耳に届く。
「ん、どうした、李公明殿?」
 はじめて会った時、思わず息をのんでしまった美貌がこちらを振り返る。とてものこと、男性だとは思えないその秀麗な顔に。
「――さようなら」
 李亮は、まっすぐに斧を振り下ろした。






 その場に響くは、頭蓋を断ち割る重い音。
 その手を伝うは、命を断ち切る手ごたえか。
 いつまで経っても慣れぬことのないその光景は、しかし。



 金属同士がぶつかる硬い手ごたえと、爆ぜるような擦過音にて、現出することなく消えうせる。
 いつの間にか、自分と曹純との間に入り込み、李亮の一撃を苦もなくうけとめた小さな人影。
 予期せぬ出来事、予期せぬ光景に、李亮は束の間、呆然とする。

 
 そんな李亮に向け、再び同じ問いが発された。
「どうした、李公明殿?」
 その瞳に驚きはない。怒りもない。
 虎豹騎の長は、蒼穹の如き瞳を、ただ怜悧な輝きで満たしながら、こう言った。


「それとも、徐公明殿と呼んだ方が良いのかな? 白波の女傑殿」

 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第二章 司馬之璧(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/08 00:35

「君は、どうして、官軍にいるの?」
 河東郡から西河郡へ、虎豹騎の道案内を務めた途次、徐晃は一人の少女の問いかけていた。
 一団の中で際立って若い、否、その外観は幼いといっても良い少女。多分、徐晃の弟妹たちとそうかわらない年頃であろう。
 聞けばその少女――許緒、字を仲康という少女は、虎豹騎の中でも抜きん出た実力を有しているという。なるほど、徐晃の目から見ても、許緒の身ごなしは優れた武人のそれを思わせたが、普段の立ち居振る舞いは年頃の女の子にしか見えない。
(どうして、こんな小さな子が……)
 官軍に従い、その手を血で濡らしているのか。あるいは官軍に言葉たくみに言いくるめられているのではないか。徐晃はそう考えたのである。


 それに対する許緒の返答は明朗であり、簡潔であった。
 襲われた故郷、救われた恩義、それらを経て幼い心に宿ったのは、守るべきものを守り抜くという確かな決意。
「ボク、偉い人たちはあんまり好きになれないけど、曹凛様は大好きッ。華琳様のことはとっても尊敬してるし、子和様は……うーん、ちょっと手のかかるお兄ちゃんって感じかなあ。もちろん、二人とも大好きだよ」
 そういって、許緒は眼差しを真摯なものにかえる。
「華琳様は、もうボクの村みたいなことが起きないような世の中をつくるって言ってくれたんだ。子和様もそのために戦ってる。だから、ボクも戦うって決めたんだ。ボクや、ボクが大切に思ってるみんなが安心して暮らせる世の中をつくるためにねッ」
 それは子供らしく単純で。子供だからこそ真っ直ぐで。
 それを聞いた徐晃は言葉に詰まってしまう。何故なのかは、徐晃自身にもわからなかった。



◆◆



 并州西河郡。

 李亮――徐晃の大斧による剛撃を真っ向から受け止めながら、許緒がどこか寂しげに呟いた。 
「……ねーちゃん」
 その声を聞き、徐晃は我に返る。
 咄嗟に後方にとびすさり、許緒たちとの距離をあけると、油断なく大斧を構えた。


「どうして……」
 知らず、口をついて出た問いかけは何に対するものだったのだろう。
 何故、徐晃が偽名を用いていることがわかったのか。そもそもどうして徐晃の存在を知っていたのか。
 先の戦いにおいて官軍は全滅した。それはすなわち官側は、あの戦の詳細を掴んでいないということ。徐晃が皇甫嵩を討ち取ったという事実を知るはずがないのだ。くわえていえば、徐晃は名乗りをあげて一騎打ちしたわけでもないのである。
 徐晃の言動に不審を覚えた、ということも有り得ない。白波賊の切り札である匈奴の助勢という秘中の秘を明かしたように、徐晃は県城に赴いてからこちら、何一つ偽りを口にしていないのだから。


 そんな徐晃の不審に、眼前の麗将は思慮の深さを感じさせる落ち着いた眼差しで、ひたと徐晃を見据え、口を開いた。 
「何が理由かは知らないが、急ぎすぎたな。こちらが白波賊を打ち破った、そのすぐ後にこれまでひた隠しにされていた匈奴の助勢が明らかとなり、なおかつそれを討つ好機が転がり込む――たとえその言葉に偽りがなかったとしても、都合が良すぎると考えるのは当然だろう」
 槍をしごき、馬を進ませる曹純の姿に、徐晃は警戒の視線を走らせる。
 だが、曹純はすぐに突きかかってはこなかった。
「それに、偽名を名乗るのならば徹底するべきだったよ。李亮、字を公明、か。亮と明は共に明らかという意味、命名に不自然さはないが……それでも字がまったく同じであれば、な」
 さすがにピンと来る、と曹純は言った。


 対して、徐晃は無言を貫く。
 姓は顔も知らない父のもの、名もおなじく父が考えたものだという。そして真名はみずからつけた。
 だから、たった一つ字だけが、徐晃が母から授かったもの――徐晃と母とを結ぶ縁(よすが)だったのである。これを、たとえ一時のことであれ、失うことに耐えられるはずがなかった。


 無論、そんなことを敵に話すつもりはない。
 それに、徐晃とて字をかえないことの危険を考えないわけではなかった。
 その上でなお李公明という人物をつくりあげたのは、官軍が徐晃の存在など知るはずがないという確信ゆえだったのである。
「……何故? この身は将ですらないのに」
 白波賊の中では、副頭目である楊奉の娘ということでそれなりに顔も名も知られているが、言ってみればただそれだけのこと。その秘めた武勇を知る者は母を含めても片手の指を出ぬ。
 しかも、その真価が発揮されたのは先の戦がはじめてだった。その戦で官軍が全滅した以上、官軍が徐晃の名を知ることも、またその存在を警戒することもありえないはずなのに。


 琥珀の双眸に浮かぶ当惑を、どう見たのか。
 曹純は束の間、口元に苦笑を浮かべたが、すぐに表情を改め、周囲に合図する。
 たちまち残っていた騎兵が徐晃の周囲を取り囲んだ。
 正面に曹純と許緒。左右に二人ずつ、そして後方には三人。いずれも精鋭をもって鳴る虎豹騎の中でもとくに優れた武勇の持ち主なのだろう。
 徐晃のような少女一人を取り囲み、そしてなお油断も躊躇いも示していない。まるで、匈奴の単于でも相手にしているかのような敵の態度であった。


「白波賊副頭目楊奉の下に偉器あり。姓は徐、名は晃、字を公明。その者、智勇並び備えた剛の者、くれぐれも油断なきように」
「え?」
 突然の曹純の言葉に、徐晃は怪訝な顔を隠せなかった。
 そんな徐晃に向け、曹純はしごく真面目に口を開く。
「許昌を出るとき、とある人物からそう忠告された。かなうならば曹家に招かれよ、かなわずとも決して逃がさぬように、ともな。逃がせば天下の損失とも言っていたな。それだけの人物ならば顔も名も知れていようと、正直なところ、すべてを信じていたわけではないのだが……」
 曹純は、油断なく斧を構える徐晃と、完全に包囲されていながら、なお一片も戦意を失っていないその双眸を見て、小さく微笑んだ。
「まさかこのような少女とは思わなかったが、ふふ、当たらずといえども遠からず、か。一刀の奴、どうやって調べ上げたのやら」


 しかし、徐晃は半ば曹純の言葉を聞き流していた。
 その頭の中を占めるのは、どうやればこの場から逃げられるのか、ただそれのみ。
 曹純に隙はない。許緒はわずかに躊躇っているようだが、それでもそこに付け込むだけの揺らぎはなかった。それに、許緒を見ていると、弟妹たちの顔が重なる。刃を向けられるはずもなかった。
 左右後方の兵士たちは曹純たちほどではなかったが、それでもかなりの力量を持っているようだ。一対一なら知らず、多対一では勝機は薄い。
「逃がしはしない。武器を捨て、降伏せよ。その武勇、智略、いずれも野に放つには危険すぎるからな」
 今やそれは北郷の忠告とは関わりなく、曹純自身の意思であった。
 さきほど目の当たりにした大斧の一撃。その鋭さは背筋に氷片を感じさせるものだった。
 そして、その武勇以上に厄介な智略。たしかに先刻、曹純自身が口にしたように都合が良すぎるという疑念はあった。しかし李亮と名乗った少女がもたらした情報はことごとく事実であり、それはこちらに一粒たりとも疑念を抱かせまいとする徐晃の計算だったに違いない。
 自ら敵の懐に飛び込み、味方の秘奥を餌として、敵軍を誘い込む――正直、北郷が徐晃という人物の存在を示唆してくれていなければ見抜けなかっただろう。曹純は密かにそう考えていた。


「……私にかまっていていいのですか? こうしている間にも、麾下の方々は死地に進んでいるのに」
 徐晃がそう言ったのは、わずかでも相手の気が逸れてくれれば、という狙いであった。
 だが、曹純は微塵も揺らがない。
「構わないよ。村が死地であることは伝えてある。大方、こちらが村に攻め込んだ後、外で待機していた匈奴が襲ってくる、といったところか? 連中がそう複雑な作戦を採るとも思えないからな」
 その程度であれば、裏をかす術はいくらでもある。曹純はそう告げ、改めて徐晃に向き直る。
「蛮族どもには、あとでしかるべき報いをくれてやる。今、枢要なのは緒戦で君を捕らえること。そうすれば、この後の戦況は大きくこちらに傾くだろう。先の忠告とは関わりなく、今は私自身がそう確信しているんだ」


 油断も隙もなく語る曹純の姿は、徐晃の目に巍々たる城壁のように見えた。
 逃げられない、と心の底でささやく自分がいる。
(……どうして)
 この時、徐晃の内心を覆っていたのは焦りではなかった。ただ純粋に不思議だったのだ。
 こんなはずではなかった。母の望みをかなえるためにと、徐晃はありうべき状況を想定して、一つ一つ細部を詰めて、確認して、その上でこの計略を実行したのに。
 それなのに、どうして今、自分は追い詰められているのだろう?
 どうして、失敗してしまったのだろう?
 この時の徐晃には、どうしても、その理由がわからなかった。



◆◆◆



 原因があって、結果がある。
 たとえ、一見、何の関わりがないように見えても、そこに一つの結果が在る以上、それを生むに足る原因がなければ物事は動きようがないのだ。
 たとえば、この俺、北郷一刀は朝、関羽の料理をしこたま食べさせられ――もとい、食べる栄誉にあずかった。
 これは単純に食事を食べたという結果だけがあるように見えるが、原因となるものはきちんと存在する。
 それはたとえば俺が司馬家で夕食までご馳走になり、あげく酒まで飲んで帰りが深夜になってしまったこととか(司馬懿のお姉さんの司馬朗さんがにこにこ笑いながら、次々料理やつまみを出して来たのだ)、理由を問われた俺が司馬家の姉妹を絶賛してしまったこととか(これは原因となるかどうかはわからんけど)、それに対抗意識を燃やした美髪公が朝、まだ日も昇らぬ時刻から派手な音を立てて台所を戦場にしていたこととか、そういったものが積み重なった上に、俺の朝食は存在した。
 やはり原因があってこそ、結果は存在するのだ。


 それはつまり。
 俺が今、髪を片側で束ねた(サイドテールといったか)司馬懿と共に許昌を出て、河内郡の司馬家本領に向かって馬を進ませていることにも原因が存在するということであった。
 なお俺と司馬懿の二人だけで、司馬家の護衛とかお付きの人は一人もいなかったりする。
 改めて現状を認識し、俺は天を仰いで呟いた。
「どうしてこうなった?」



「解池への調査に赴くためですが、もう一度説明いたしましょうか?」
 俺の呟きを耳にした司馬懿が小首を傾げながら問いかけてくる。
 髪を束ねたことであらわになったうなじが自然に視界に入り、俺は慌てて視線をそらす。
 そんな俺の様子を見て、目を瞬かせる司馬懿。
 司馬懿の身長は俺より小さいが、女性としては十分に長身であるといえる。容貌については散々言及したから省くが、女性らしい優美な曲線を描く肢体は十分に魅力的であった。
 こういうことを主で例えるのもどうかと思うが、曲線の描き具合は玄徳様や関羽ほど豊かではないけれど、逆にすらりとした司馬懿の方が好みだという者もいるだろう。


 つまるところ、司馬懿は様々な意味で魅力的な少女であり、黒布で顔を覆っていないため、許昌でも、街道でも、男たちの視線を釘付けにしていた。俺とて木石ではないから、自然と視線を向けてしまう時もある。
 俺が家族であれば、昨日今日知り合った男と二人で旅に出すなど断じて許さないだろう。しかし、司馬朗は実ににこやかに俺と司馬懿を送り出した。
 無論、これにも原因があった……思い出すたびに、胸をかきむしりたくなるような原因が。 






  
 俺が司馬懿から惨殺事件の被害者が、自家の家宰であると聞かされてほどなく。
 司馬家の家長が勤めを終えて屋敷に戻ってきた。
 許昌北部尉を務める人物である。妹の司馬懿を見ても、おそらく冷静沈着、頭脳明晰な人なのだろうと俺は勝手に考えていた。こう、眼鏡をくいっとして語る感じの。
 だが、あにはからんや、姿を見せたのは俺の予測とは大違いの人だった。容姿こそ司馬懿と同じ黒髪、黒目、妹に劣らないくらいに綺麗な人だったが、常にその顔に優しげな笑みを浮かべているため、はじめて司馬懿に会った時のようにその美貌に圧倒されるようなことはなく、どこか親しみやすさが感じられた。


 司馬朗は、めずらしく妹が客人を連れてきていることに驚き、その客人が劉家の驍将だと聞かされてさらに驚いていた。
 俺としては過ぎた評価が面映くて仕方なかったし、幸い雨足も弱まってきていたので、そろそろ辞去しようと思ったのだが、司馬朗は俺が口を開く間もなくこう言った。
「じゃあ今日の夕食は一人分追加しないと――いえ、男の方ですから三人分くらいの方が良いですわね」
 いつの間にか司馬家の夕食に参加確定していることに驚愕した俺だが、とんとん拍子に話を進めていく司馬朗は、俺に遠慮の言葉さえ発させず、事態をまとめてしまったのである。
 ――計算づくだとすれば(後から思えば、間違いなくそのとおりだったのだろうけど)恐るべき手際であったといえる。さすがは『司馬八達』の長女だ、と俺は呆然としながら考えていた。



 だが、話はそれだけでは終わらなかった。というより、むしろここからが本番であった。
 当然だが、家宰の死は司馬朗も知るところ。それが塩賊の手になるものであることも同様である。それを思えば、この時、司馬朗はかなり無理して笑みを浮かべていたのかもしれない。ようやくそれに気付いた俺は、粛然とその話に耳を傾けた。


 司馬朗の話によれば、曹操の治下で大幅に影響力を減じている塩賊は、内部でもかなり動揺しているらしい。官の側に寝返ろうとする勢力があり、断固として抵抗しようとする勢力があり、あるいはそれらとは関係なく利益が見込めないので足を洗おうとする者たちがあり、といった具合に。
 司馬朗と、他の三尉(聞けば李典、楽進、于禁の三将らしい)はそれらの内紛を利用しつつ、確実に塩賊を追い詰めていた。そうして、遠からず、許昌から塩賊を叩きだせると確信した矢先――今回の件が起きてしまった、ということだった。


 おそらく塩賊たちを追い詰めすぎてしまったのだろう。それに塩賊の強硬派が暴発した、というところか。であれば、あるいはまだ終わっていないのかもしれない。
 そんな俺の考えに添うように、司馬朗は言葉を続けた。
 解池、という地名が出たのはその時である。
 中華随一の塩の生産地。当然、そこは官軍が厳重に守備しているのだが、塩賊の影響力も少なからず浸透していると思われていた。
 司馬朗が言うには、その解池で不穏な動きがある、とのことだった。それを調べるために人を派遣しなければならない、とも。


「それを璧(へき)にお願いしたいのです」
「承知しました、姉様」
「ありがとう。北郷様もよろしくお願いしますね」
「はい……はい?」


 俺は首をひねった。
 なんか今、不思議な展開がなかったか?
「……あの、お願いしますね、とは?」
「もちろん璧のことを、です。良くできた自慢の妹ですが、まだまだ未熟な面があることも間違いありません。北郷様にご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、どうぞ見捨てずにいてやってください」
 そういって頭を下げる司馬朗。傍らの妹もそれに追随する。
「よろしくお願いいたします」
「こちらこそ……って、いや、あのそうじゃなくてですねッ?!」
 あわせて頭を下げかけた俺は、慌てて首を横に振った。 


 一方の司馬朗は俺が何を慌てているのかわかっていないのか、頬に手をあてて考え込んでいる。
 司馬懿の方も何やら考え込んだ末、ぽんと両手を叩いて、こう言った。
「璧というのは、私の真名です」
「いやそれは聞けばわかりますから!」
 俺が慌てているのは、決して璧が誰のことだかわからなかったからではない!
「では話がまとまったところでお食事にしましょう」
「いつまとまった?!」
 嬉しそうに言う司馬朗に、俺は思わず素で突っ込んでしまった。
 天然か、天然なのか?!
「璧、お皿を出してください」
「はい姉様」
「無視ですか?!」
「大丈夫ですよ、北郷様。お代わりはたんとありますから」
「姉様の料理は絶品ですので、お楽しみに」
 その言葉を証明するように流れてくる魅惑の芳香。
「うおおお、流されているとわかっているのに、楽しみにしてしまう自分が憎いッ!」
 やるせない涙を流しながら叫ぶ俺と、姉妹の穏やかなやりとりが対照的な、奇妙な食卓であった。







 その後も色々話はあったのだが、この時点で勝敗(?)はすでについていたのだろう。
 俺は半ば諦めながらそう考えた。
 ちなみに、解池の調査なのに、どうして司馬家本領に向かっているのかといえば、敵の目を誤魔化すためである。表向き、俺たちは家宰の死を知らせにいくことになっているのだ。
 同時に、俺に司馬家の防備を見てほしい、という姉妹の意向も重なっていた。塩賊のことを考えれば、本領に武力侵攻してくる可能性もないわけではない。淮南戦役の英雄の目から見て、気になるところがあったら指摘してほしい、とのことだった。


 なんかもう明らかに俺の評価が暴走しているとしか思えなかった。
 とはいえ、仲軍から高家堰砦を守り抜いた俺の名は守城の名将として、すでに確固たるものとなってしまっているらしく、今さら俺が声をはりあげても評価が覆ることはなさそうだった。
「とはいえ、どの口であの司馬仲達に兵を説けというのか」
 本人に聞こえないようにこっそりと愚痴る俺だった。



 俺が許昌を離れることに関して、問題は他にもあった。
 まず朝廷の許可。続いて関羽の許可。
 だが、これは思いのほか速やかだった。朝廷に関しては司馬朗が手をうってくれたお陰である。
 そして、関羽に関してだが――意外にもあっさりと許可を出してくれて、俺の方が驚いた。てっきり「一度や二度、手柄をたてたとて調子に乗るな」的なお説教が待っていると思っていたのだが。
 これは俺を一人前と認めてくれたということなのだろうか、などと不思議に思っていると、関羽はやや迷いながらも、一つの事実を教えてくれた。
 ――すなわち、関羽もまた解池に赴くのだということを。
 無論、それは俺についてくるとか言う意味ではなく、朝廷からの正式な命令であった。




 ともあれ、諸々の要素が重なり、俺たちは思いもよらぬ速さで出立する運びとなったのである。
 俺は視線を空に向けた。そこには黒雲が重く垂れ込め、まるでこれからの道程の厳しさを示しているようで、道行く人の顔もどこか不安の陰を帯びているように見えた。
 俺はそのまま視線を傍らの同行者へと向ける。
 常と変わらない面差しは、俺よりはるかに落ち着いて見えた。その泰然とした様子を見れば、俺と同年か、あるいはそれより上にしか見えない……見えないのだ、が……
 俺は身体にのしかかる、なんともいえないやるせなさをこらえながら、先刻のことを思い出す。出立前に司馬朗と話した、その内容を。



 司馬懿が、女性ながら卓越した剣技の持ち主であることは昨日の一件でわかっていた。しかし護衛が俺一人というのは、いくらなんでも危険すぎる。まして司馬懿はこれほど人目をひく美人なのだから。
 まさか二人きりの旅程とは思っていなかった俺は、今日、司馬朗にそう言ったのだが、司馬朗さん曰く「家の者は屋敷を守ってもらわねばなりません。護衛に人を雇うほど、司馬家の台所事情は豊かではないんです」とのことでした。
 ――いや、妹さんの身命がかかっているのにそれで良いのか、と内心突っ込まざるを得ない俺。
 そうしたらお姉様は実ににこやかにこう仰いました。


 ――北郷様がおられるのです。何の心配もしていませんよ、と。
 

 ……こんな殺し文句を言われたら、任せてくださいと言うしかないではないか。うう、司馬懿とはまた別の意味で、この姉君もただものではない。昨日からてのひらで転がされっぱなしのような気がするのは気のせいか? 人使いの上手さも、人の上に立つ者の資質なのだろうなあ。
 なんとなく悔しくなった俺は、冗談まじりにこう言ってみた。
「しかし、妙齢の妹君を、昨日今日知り合った男に任せて良いのですか? どんな間違いが起こるかわかりませんよ」
 繰り返すが、もちろん冗談である。
 が、それに対する司馬朗の答えに俺は絶句してしまう。ある意味、この一両日の間でもっともショックな答えだった。


「あら、北郷様は子供がお好みなのですか? もしそうであれば、わたしとしましては、今の内に矯正することをお勧めいたします」
「は、はあ?」
「何かお辛いことがあったと推察しますが、恋愛は失敗した後にこそ、人としての価値を問われるもの。どうか自棄にはしらず、ご自分を見つめなおしてください。きっと、北郷様を好いてくれる方はおられますから」
「そ、それはどうも……?」
 何を言っているのかはわからないが、司馬朗がえらく俺のことを心配してくれていることだけは良くわかった。
 混乱する俺に、司馬朗はさらに追撃をかける。
「もしどうしても璧をお望みなら……そうですね、璧は先月十三になったばかりですから、後三年ほどお待ちいただければ。もちろん璧が北郷様を受け入れることを肯えば、ですけれど」


 ……ちょっと待て。今、何か聞き捨てならないことを聞いた気がするが。
 誰が十三だって?
「私ですが、何か? そう、共に旅をする前にお願いがありました。私のような小娘に丁寧な口を聞いてくださるお心遣いは感謝しますが、年長の方にそのように気を遣っていただくのは、私としても心苦しいです。どうぞ普段どおりにお声をかけてくださいませ」
 そう言う司馬仲達さん(13)
 ――つまりなにか? 俺は去年までランドセル背負ってた(?)子の顔を見て、桃源郷だなんだともだえてたのか? あまつさえ旅程を同じくすることにちょっとどきどきしてたのか? いやまあ、確かに司馬朗も女性にしては長身だし、司馬家は大柄な家系なのだということは想像に難くないが、しかしあれで十三歳って、えー……  
 

 俺は司馬家の姉妹の前で踵を返し、後ろを向く。
 すー、と大きく息を吸い込み、準備完了。 


◆◆


 その日、許昌の北門に「嘘だあああ」という叫びが響き渡る。
 後にそれを聞いた者は、一様に語った。
 それはまるで今にも泣き出しそうで、聞いている自分たちも涙を誘われてしまうような、そんななんとも切ない叫びであった、と……

 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/12 21:31


 司州河東郡白波砦。
 白波賊の副頭目を務める楊奉は、その一室で一人の巨躯の男と対峙していた。
 その頬に戦傷とおぼしき一筋の切傷を刻んだその男――於夫羅は、怒りで全身を震わせている。
 女性としては細身である楊奉と、匈奴の単于である於夫羅が対峙する様は、あたかも人食い熊と幼子のよう。事実、於夫羅が望めば、楊奉の細腰は右の腕一本でへし折ることも可能であったろう。


 だが。
「アレがしくじった。ただそれだけのことでしょう」
 怯む色もなく、むしろ蔑みさえ面にのぼらせて、楊奉は言い放つ。
「アレは軍師でもなく将でもない。その言うところに従わなければならない理由などそなたたちには何一つない。アレの策を良しとしたのは他の誰でもないそなたではありませんか。それが破られたからとて、裏切りと言い立てる浅はかさ……所詮は蛮族と、そう言われても仕方ないのではなくて?」
 相手が平伏して許しを請う――そんな光景に慣れた異国の王は、思わぬ反撃に遭って目を細めた。
「……よく言った。そこまで言うからには、覚悟はできておろうな?」
「五千をもって一千に敗れしは無能。一度の敗北をもって浮き足立つは臆病。無能にして臆病なる蛮夷の王が、私に何の覚悟を問う? 答える必要すら認めないわ」


 いつの間に抜き放ったのだろう。
 於夫羅が腰に提げていた幅広の直剣が、楊奉の首筋に突きつけられる。於夫羅がわずかに力を加えれば、楊奉の首は鮮血を散らし、刎ね飛ばされるであろう。
 至近に迫った死を前に――しかし、楊奉の態度は微塵も揺らがない。
 王たる身を前にして、その不遜は明らかであり。
 同時にその姿は、恐れられ、かしずかれることになれた於夫羅の目には新鮮に映った。


「余を前にして動ぜぬか。面白いな、女。漢の連中の頭は、地にすりつけるためにしか使われぬと思っておった」
 於夫羅の細められた両眼から伸びた針のような眼光が、楊奉の顔を、身体を刺す。
 腰まで伸びた黒髪は室内の灯火を映して照り輝き、女性としての円熟を示す身体つきは息をのむほどに鮮麗で。
「この身は北の単于に差し出されたことさえある。国を逐われたそなたの威に屈するはずがないでしょう」
「……ほう、なるほど。それが貴様と我らとの縁か」
 数日前の於夫羅であれば、とうに楊奉の首は宙を舞っていたことだろう。だが、思わざる敗北を喫したことが、於夫羅の内面になにがしかの影響を与えたのであろうか、楊奉の不遜な物言いに対して出てきたのは、怒声ではなく愉しげな声であった。


 身のうちに潜む獣が、むくりと鎌首をもたげるのを、於夫羅は自覚し――そして、行動に移る。
 楊奉が白波賊の副頭目であること、そして頭目である韓暹の妻に等しい立場にいることを於夫羅は知らない。部下から報告は受けていたが、記憶にとどめる必要を認めなかったのだ。
 だが、かりに覚えていたとしても、今からとる行動がかわることはなかっただろう。何故単于たる身が、一々他の人間に斟酌せねばならぬのか、と。
 いまや獣欲をあらわにした於夫羅は、一歩、その巨躯を前に進め、楊奉との距離を縮めた。ここに白波賊の人間がいれば、於夫羅を止めるなり、人を呼ぶなりしたに違いないが、室内にいるのは楊奉と於夫羅の二人のみ。


 ――人払いはすでに済まされていたのだ
 ――於夫羅が望んだわけでもないのに


 近づく匈奴の単于を見つめる楊奉の瞳の奥の、そのまた奥。煮えたぎる溶岩にも似た煉獄の炎が於夫羅を照らす。
 だが、その輝きは一瞬で。於夫羅にも、あるいは楊奉本人でさえ気付かないうちに、しずかに深奥へと沈み込んでいってしまった。

 

◆◆◆



「羽将軍」
 宮廷の一隅でその声がかけられた時、関羽は咄嗟に反応に迷った。
 あたりに人影がないところを見れば、おそらく自分を呼んでいるのだろう。しかし主君である劉備以外の人間に、姓でもなく字でもなく、直接に名を呼ばれる不快感は例えようもない。たとえ相手が「将軍」と続けていようとも。
 本来なら迷うことなく「無礼なッ」と大喝するところなのだが、それが出来なかったのは、まずここが宮廷の中であるということ。無闇に騒ぎを起こせば自身の、ひいては主である劉備の恥となってしまう。
 そしてもう一つ。呼びかける声に聞き覚えがあったからである。未だ幼さが残るものの、秘めた才智を感じさせる涼やかな声音。だが、その声の主が、まさかこのような場所にいるはずがないのである。
 呼びかけられ、振り返るまでのわずかな間に、関羽は胸中でそれだけのことを考え……振り向いた先に、まさかと思っていた人物の顔を見出し、目を見開くことになる。
 

 黄を基調とし、複数の竜が意匠された衣服。描かれた竜の爪は五本、そのことを関羽は一瞬のうちに確認する。
 五本爪の竜が描かれたその衣服――袞竜(こんりゅう)の袍を纏うことが出来る者は、中華広しといえどただ一人しか存在しない。
 すなわち――
「……へ、陛下?!」
 我に返った関羽は即座にその場に跪き、頭を垂れる。
 後漢帝国第十三代皇帝、劉協がそこにいた。



 
「これよりわが国のために征旅に赴く羽将軍のために、せめて朕みずから武運を祈りたいと思って」
 何故ここに、という関羽の問いに対する、それが皇帝の答えだった。
 関羽は皇帝に謁見した経験がある。そもそも許昌に来た理由は、先の動乱における劉家軍の行動が、皇帝に逆らうためのものではないと弁明するためだったのだから、それは当然であった。
 関羽自身の言葉もさることながら、臨淮郡太守陳登ら徐州勢が朝廷に降ったこと、広陵太守陳羣の口添え、さらには淮南における劉家軍の奮戦等、いくつもの条件が重なり合い、劉家軍が逆賊と呼ばれる事態は避けられた。この意味で、関羽が許昌を訪れた目的は達成されたといってよい。


 同時に関羽の稟とした立ち居振る舞いは、まだ幼さの残る少年帝に強い印象を与えた。朝廷の権威に媚びるでもなく、自らの功績に驕るでもなく、後ろ盾なき少年帝を蔑むでもなく。
 ただ真っ直ぐに臣下としての節度を示し、武人としての誇りを表す人物。
 皇帝がもっとも好ましく思い、同時にその周囲に数えるほどしか居ないと落胆する真の武人が、ここにいる。関羽を見た皇帝はそう考えたのである。
 さらに聞けば、関羽の主である劉玄徳は、漢朝の正当を示す宝剣『靖王伝家』を携えているという。
「それが真であれば、朕は頼もしき血族と、忠勇無双の臣下を得られることになる」
 その皇帝の言葉に、一部の廷臣が表情をわずかに動かしたが、若き皇帝はそれに気付くことはなかった。
 ともあれ劉家軍の功績は皇帝が認めるところとなり、関羽もまた皇帝の聡明さを肌で感じ取って、胸奥にたゆたう憂鬱をいくらかは散じることが出来た。
 また、関羽は見事な黒髪から『美髪公』と称されることがあったが、その言葉が皇帝の口から発されたのも、この時が初めてであった。以後、この名称は関羽を示すものとして急速に定着していくことになる。


 その後、関羽は都下の屋敷で晴耕雨読の日々を送り、朝廷に参上することは滅多になくなった。
 その理由としては、武人としての能力はどうあれ、関羽は小沛太守の麾下の一将に過ぎず、要職を授けて重用する名目がなかったということがひとつ。
 無論、丞相である曹操が望めば関羽を抜擢することは可能であった。皇帝が好意を持ったのであれば尚更である。
 だが関羽が、徐州において劉家軍が官軍と矛を交えた、その罪を償うに足る大功を立てた後、劉備の元に帰参するつもりであることは明らかであった。いまだ関羽を心服させぬうちに、功を立てさせることを曹操が避けたという理由も挙げられるであろう。


 その関羽が、今日、朝廷に姿を見せた。
 それはつまり、それだけの大事が持ち上がったということであった。
 その大事はつい先日、白波賊討伐に赴いた官軍の将である曹純からもたらされた。
 一日、并州から朝廷に急使が駆けつけ、曹純からの書簡を差し出した。その中には看過し得ない事実が記されていたのである。


 先に派遣された皇甫嵩率いる討伐軍を壊滅させたのは、北方騎馬民族の一、匈奴の軍。
 単于を名乗る於夫羅の下、五千に及ぶ匈奴兵が白波賊と共に河東郡、西河郡を劫略、民を殺し、家を焼き、略奪を繰り返し、その暴虐は留まることをしらず。願わくば、早急な対策を講じられんことを――


 曹純の書簡はそう結ばれていた。



◆◆



 中華帝国にとって、北方騎馬民族は不倶戴天の仇敵である。その名を聞き、多くの廷臣が動揺を隠せなかった。漢を建国した偉大なる高祖が、時の匈奴の単于に一蹴され、屈辱的な不平等条約を結ばされたことを知らない者は、朝廷にはいない。
 今のところ、敵の数は五千程度であるようだが、単于みずからの出陣となれば、必ず万を越える軍勢が姿をあらわすに違いない。多くの者がそう考え、色を失った。
 軍事力を持たない彼らは、こんな時の解決策を一つしか持っていない。すなわち丞相である曹孟徳に全てを委ねるのである。


 一方の曹操はといえば、最初から自分以外の廷臣に期待などしていない。同時に、他の廷臣のように脅威を脅威と知りつつ放置するほど安穏としているわけでもない。
 配下の郭嘉の進言に従い、北方の動向には常に注意を払っていたのである。ただ、時が時、場所が場所であるだけに、探るといっても限界は存在した。今回の件に関して、事前に掴み得なかったことがその証左。
 それでも保有する情報の量は、他の者に比べて抜きん出ている。於夫羅という単于についても、無知ではなかった。


「匈奴の帝国が南北に分かれて争いあっているのは華琳様もご存知のとおりですが……」
 曹操の前で、郭嘉は今回の侵攻に関する自らの意見を述べる。
「於夫羅は南匈奴の単于です。もっとも絶対的な権力者というわけではなく、幾つもの部族を束ねる首長のようなものだ、とのことですが。南匈奴は、古来より漢と誼を結んで北と対峙してきました。ですが、近年、北匈奴は急激に勢力を拡大しつつあり、南匈奴は追い詰められる一方であるとのこと……」
 言うまでもなく、郭嘉は南だけではなく、北にも人を派遣している。だが、まがりなりにも漢と交流のある南匈奴と違い、北は文字通りの意味で騎馬民族の帝国であり、その詳しい情勢を掴むのは容易なことではなかった。
「もし子和殿が掴んだ情報が真であるなら、おそらく於夫羅は北に追い落とされ、漢土に落ち延びてきたのでしょう。こちらが考えている以上に、匈奴の統一は進んでいることになります」
「匈奴同士、一転して手を結び、わが国を侵そうとしているという可能性は?」
 曹操の問いに、郭嘉は即座に首を横に振った。
「それはまずありえないかと。背後に匈奴の大軍が控えているならば、白波賊などと結んで辺境に竦んでいる理由がありません。全軍をもって許昌に攻め寄せてきているはずです」
「なるほど、稟の言うとおりね。となれば、当面は敵の兵力は五千から動かないと見て良いわね」
「御意。しかし、五千とはいえ朔北の軍勢は精強、しかも単于直属となればなおさらです。虎豹騎がいかに精鋭とはいえ、兵力差は如何ともしがたいかと存じます」


 それは、早急に援軍を送るべき、という郭嘉からの具申であり、曹操の考えも郭嘉と異ならない。
 しかし大軍を動かせないという状況は、虎豹騎を派遣した時とかわっていないのだ。数が揃えられない以上、せめて質は水準以上の部隊を送りたい。さもなくば匈奴と戦うなどできはしないだろう。だが……
 曹操は小さく息を吐く。
「春蘭と秋蘭の二人は都にあって、事が起きた時に私の代わりに数万の兵士を指揮統率してもらう必要があるわ」
 それはつまり、河北と淮南が動いた時、都から動けない曹操の代わりに総大将として軍を率いてもらう、ということであった。


「黒華(張莫)は陳留、鵬琳(曹仁)は徐州から動かせない。優琳(曹洪)は第二、第三の白波賊が出てこないように情報の収拾と分析に専念してもらう。子和と季衣はすでに北に差し向けているし、流琉は親衛隊を率いて私の傍に控えていてもらわないとね。李典、楽進、于禁らは塩賊の動きを抑えてもらっている上に、まだあの子たちでは朔北の兵の相手は苦しいでしょう」
「御意。いま少し、将としての経験を積む必要があるでしょう」
「であれば、動かせるのは霞くらいのものだけど……霞の部隊の機動力は虎豹騎と同じくわが軍の切り札よ。四方の戦線が不穏な今、都から動かすのは出来れば避けたいわ」
 曹操がそこまで口にした時、郭嘉はかすかに苦笑をうかべ、短く述べた。
「誰を遣わすべきか――華琳様は、すでに決めておられるのではございませんか?」
「ええ……そうね。ただそれが最善の一手かどうか、考えを決めかねているのよ。稟はどう思う?」
「この国を匈奴の軍勢から守る……朝廷に仕える武人として、これに勝る価値のある戦いはございません。心情的にも、国内の諸侯との戦よりも、よほど関将軍にとっては戦いやすいと存じます。彼の地で美髪公があげる武勲はこの国に、ひいては華琳様にとっておおいに益するものとなる――それが私の考えです」


 ――丞相府でのこのやりとりから一刻を経ずして、関羽は丞相府へ呼ばれ、ほどなく参内を命じられることとなるのである。



◆◆◆



『どうぞ璧姉様をよろしくお願いいたします』


 河内郡の司馬家を出る際、そういって深々と頭を下げたのは司馬孚、字を叔達という少女だった。ちなみに司馬懿とは一つ年下の十二歳ながら、実質的に本家を取りしきっている傑物である。
 この司馬孚の下にはさらに五人の妹さん達がいたが、皆、性格や考え方こそ違え、いずれひとかどの人物となるであろうと確信できる少女たちだった。一番下の司馬敏にいたっては少女というより幼女といった方が良いくらいだったが、姉たちの薫陶が染みているのだろう、幼いながらに言葉遣いや礼儀作法のしっかりした子だった。
 俺があの年の頃は、礼儀作法の「れ」の字さえ知らなかったというのになあ、さすが世に司馬八達と称されるだけのことはある、と俺は感心しきりだったが、良く考えると、一番とんでもないのは彼女らを育てあげた司馬防殿なのかもしれない。
 すでに亡くなられていることが惜しまれてならない。是非、一度お会いしてみたかった、と口にしたら、司馬孚は嬉しそうに、そして誇らしそうににこにこ笑っていた。


 俺はその笑顔を見て、自分の思い違いに気付く。
 てっきり司馬家の人たちは厳格な教育の下、司馬懿のように感情を秘める人たちなのだろうと勝手に考えていたのだ。司馬朗は例外なんだろう、と。
 だが例外であったのはむしろ司馬懿の方であったらしい。
 聞けば、司馬懿は八人の姉妹の中でも特に将来を嘱目されており、幼少の頃から他の姉妹に倍する教育を授けられていたらしい。それはただ座って書物を読むだけでなく、立ち居振る舞いから果ては武芸に到るまで、おおよそ考えられるものはすべて教え込まれ――そして、司馬懿はそれをことごとくものにしてしまった、とのことだった。
 ただ、代償として、子供として無邪気でいられる時を失ってしまい、幼くして感情を秘めるようになってしまったのだという。


 とはいえ、別に感情を失ったわけではないし、それを示すことに戸惑うわけでもない。そのことは多少なりと司馬懿と行動を共にすればわかることだ。
 だが、司馬懿の二親は、そんな司馬懿を見て思うところがあったのか、後の妹たちの教育に関しては司馬懿ほど徹底することはなかったそうだ。それでも三女より下が十分すぎるほど優秀なあたり、やはり司馬家は父も娘たちも尋常ではなかったのだろう。




 ところで、何故、俺がこんなに司馬家の内情に詳しくなったのかというと、何のことはない、滞在中に当の妹さんたちから聞いたからである。
 はじめて司馬家の門扉を叩いた時、司馬懿の隣に俺がいるのを見た時の妹たちの反応は、あたかも青天に霹靂を見たかのごとく。美人姉妹がそろって口を開け、目を見開いている様は驚きを通り越して苦笑してしまうほどであった。
 妙な誤解をされないうちに、と口早に事情を告げる俺。幸いというべきか、俺の名前はこの地にも伝わっており、俺が同行した理由を聞いた姉妹は口々に礼を述べてくれた。一部、なんだか残念そうな声をあげる子もいたのだが――司馬孚とか。


 ともあれ、俺は無事に司馬家の邸内に招かれたのである。
 その後、家宰の死を知らされた姉妹はさすがに沈んだ様子を見せたものの、取り乱す子はいなかった。というのも、あくまで年齢にともなう病死ということにしたためだった。さすがに年端もいかない妹たちに、凄惨な事実を告げることは出来ないと司馬懿は考えたのだろう。
 無論、俺はその判断に異論をはさんだりはしなかった。


 続いて、この後、俺と司馬懿が解池の調査に赴くことを伝えると、せめて一夜だけでも、と滞在を請われた。別々に暮らしている姉妹同士、積もる話もあるのだろうと俺は快く頷いて、席を外そうとしたのだが……なんか司馬懿ともども包囲されました。
 そして乱れ飛ぶ言葉の雨。「女」性が三人集まると「姦」しくなるとするならば、六人集まった状況をどう表現したものか。まあ、その中の一人は無表情で頷いたり、首を振ったりするだけなので、正確には五人なのだが、それを承知している妹たちの矛先は主に俺に向けられるわけで、正直途方に暮れてしまった――司馬家の姉妹はみんな可愛いからなおさらである、とは内心の呟き。


 まあ、なんだ、その、つい先日の司馬懿の件もあり、司馬家の諸々に対して、多少なりとも耐性がついていたのだろう――単に諦観の域に達しているだけかもしんないが、いずれにせよ、俺は司馬家の屋敷に一日ご厄介になり、司馬八達と称される八人姉妹の残り六人の名と字を覚えるに到る。下の子たちからは何故か「お兄様」と呼ばれる御褒美付きで。
 司馬家は名門であり、家人や従僕の数も多い。彼らからも「お嬢様がお連れになったお客様」として、とても良くしてもらった。
 もちろん状況が状況なだけに、心の底からくつろぐというわけにはいかなかったが、それでも司馬家の滞在が俺にとって心底ありがたいものであったことは間違いなく。
 俺は与えられた一室で深い眠りを貪ることが出来たのである。




 ――後から思えば。
 この日が最後だった。心ゆくまで眠ることが出来たのは。
 中原を震撼させる動乱が、その真の姿を現す前夜。劉家軍の一将としてではなく、北郷一刀という一人の人間に端を発する嵐の襲来。
 その真実を知らず、知らぬがゆえに穏やかに過ごすことが出来た日々は、この日をもって終わりを告げる。
 嵐はすでに眼前まで迫っていたのである。



◆◆◆



 翌朝、司馬家のもとに一つの報告がもたらされる。
 白波賊副頭目楊奉、頭目である韓暹を殺害し、白波賊を掌握したというのである。さらに楊奉は白波賊の全軍を挙げて解池を強襲したという。
 解池は中華随一の塩の生産地であり、当然、そこは金城湯池と称すべき堅固な防備を誇る。ゆえにこれまでは白波賊といえど手出しが出来なかったのだ。
 その解池に対し、楊奉はいっそ無造作に全軍を叩きつける。損害など無視した猛攻に、防衛側は驚愕し、寄せ手の白波賊からさえ驚きと怒りの声があがりかけた。


 ――だが。
 結果として楊奉を弾劾する声はあがらず、攻撃を止める兵はいなかった。何故ならば、白波賊の後方には猛々しき匈奴の軍勢がずらりと居並んでいたからである。
 損害を恐れ、わずかでも退いた者には、彼らから容赦なく矢が浴びせられた。匈奴の軍勢が督戦の任を与えられていることは敵味方の目に明らかであり、白波賊の将兵は自失する間もなく、絶望的な攻勢に、己が命を賭さねばならなくなった。


 常軌を逸した寄せ手の猛攻に、しかし、解池の官軍はかろうじて耐え切るかに見えた。
 この地を制することは、帝国の死命を制するに等しい。将兵ともにそれを知る官軍は奮戦に奮戦を重ね、ついに日没まで城門を守りきることに成功したのである。
 日が落ちてしまえば、賊軍は退かざるを得ない。いかに白波賊とはいえ、夜、城を攻めることの無謀さは承知しているはずだった。


 事実、白波賊は退却の銅鑼を鳴らして城壁より撤退、官軍はようやく矛をおろすことが出来る……そう考えた時だった。
 解池の城門が音を立てて開かれた。外からではなく、内から。
 誰が。何故。どうして。
 そんな疑問は、時を同じくして引き返してきた賊軍の前に吹き飛ばされる。白波賊と匈奴の軍勢は開かれた城門を突破すると、競い合うように解池に踏み込み、必死の抵抗を試みる官兵を殺し、わけもわからず逃げ惑う民衆を殺し、時に邪魔をする味方までをも殺していく。
 賊徒の手によって各処に火が放たれ、北方の乾燥した空気の中で炎は瞬く間に燃え拡がっていく。建物を、人を甞めながら進んでいく炎は無数の蛇が這い回るにも似て、ほどなく解池のすべては人血と炎によって、朱に染まったのである……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/14 00:25
 解池陥落。
 その報が県城にもたらされた時、曹純は数瞬の自失を余儀なくされた。
「ばかな……」
 白波賊の頭目である韓暹率いる主力を撃破し、つい先日、賊の切り札であり、皇甫嵩率いる二千の官軍を全滅させた元凶でもある匈奴の軍に打撃を与えることにも成功した。
 とはいえ虎豹騎の総数はわずか一千。一方の白波賊は二千、匈奴の軍は五千。兵力差は明らかであり、勝利を収めたとはいえ、致命的な損害を与えられたわけではないことは曹純も承知していた。
 それでも敵の出鼻を挫き、計略を覆し、その士気に少なからぬ打撃を与えたことは間違いないと考えていたのである。軍勢を再編するにも時間を要するし、敵の計略の裏を衝いたことで白波賊と匈奴の間に不和が生じる期待も持てた。いずれにせよ、それなりの時間は稼げるだろう、と。


 だが、賊徒は曹純の予想を上回る早さで陣容を立て直し、なおかつ攻勢に転じた。わずか一日で解池が陥落したことについては、予想すらしていなかった。曹純が言葉を失ってしまったのは致し方ないことであったろう。
 それでも、いつまでも放心してはいられない。解池を取られたことの意味を考えれば、一刻も早く行動を起こさねばならなかった。




 その曹純の傍らで、河東郡の太守である王邑は呆然と呟く。
「まさか、あの賈逵(かき)がこうもたやすく敗れるとは……」
 そう言ったきり、凍りついたように動かない。
 賈逵、字を梁道。名族の出ながら、一族は朝廷での争いの巻き添えをくって没落。貧困に苦しむ幼少時を送ったが、苦学して朝廷に仕える。
 誠実で私心のないその働きぶりを認めた王邑によって、解池の守備という重任を委ねられ、今日まで見事にその職責を果たしてきたのである。


 王邑は内政にあっては堅実な手腕を有していたが、軍事に関しては凡庸の域を出ない。そのことを自覚していたから、事あるごとに賈逵に意見を求め、それに従ってきた。
 もっともすべてを受け入れていたわけでもない。白波賊に対しても、賈逵はかなり早い段階で潰すべきと口にし、人がいないのであれば自分が出るとまで主張していたのだが、解池の守備を慮って先送りにしてきたのは王邑の判断であった。


 その賈逵が守る解池が、たとえ突然の強襲であったにせよ、二日ともたずに陥落するとは。解池を守備していた将兵は白波賊と匈奴によってことごとく殺され、城内は地獄のような有様になっているともいう。
 忠誠心に厚く、責任感の強い賈逵がそれを座視できるはずはなく、まして民や兵を犠牲にして逃げ出すなどありえない。おそらく賈逵はもうこの世のものではないだろう、と王邑は呆然としながらも確信していた。


 
「王太守、すぐに動かせる兵力はどれだけです?」
 曹純の問いかけに、ようやく王邑は我に返る。
「……あ、そ、そうですな。すぐに動かせるとなると、おおよそ二千、というところでしょうか。もっともこの城を空にするわけにもいきませんから、実質、千、いや、五百……」
「この城の防備は最低限で。徴募すれば数日で千は集められましょう? 今は一刻も早く解池を取り戻すことが肝要なのです」
 その言葉に、王邑は戸惑ったように目を泳がせる。
「し、しかし、その間に賊徒が回りこんで、この城を攻め寄せてくる可能性も……」
「ここに立て篭もっていれば攻めてくることもありましょうが、こちらから出れば、まずは出てきた部隊を叩こうとするでしょう」
 無論、曹純としても二千や三千の兵で解池を奪回できるとは考えていない。敵は白波賊だけでこちらと同数かそれ以上、くわえて匈奴の軍がいる。勝算は限りなくゼロに近い。
 だが、ここで敵に時間を与えてしまえば、勝算は本当にゼロになってしまう。この城に立て篭もるにしても、解池を一日で陥とした敵を相手にどれだけ耐えられるか。
 敵の得体の知れなさを思えば、受身の戦は何としても避けるべきであった。


 くわえて言えば、解池やその周辺から逃げてくる民や兵は少なくあるまい。彼らを収容するためにも、現段階でかき集められるだけの兵を集めて出陣する必要があるのだ。それは同時に、まだ官軍には戦うに足る兵力と覚悟があるのだと、各地の敵味方に示すことにも繋がるのである。
 この曹純の説明には王邑も頷かざるを得ない。慌てた様子で配下に指示を出し始めた。
 曹純が率いる虎豹騎には、今さら用意を命じる必要はない。河東郡の将兵の準備が出来るまでの間、曹純は一人の人物のところへ足を向けることにした。
 おそらくはただ一人、今回の敵の動きの理由を推測できる人物のもとに。



◆◆◆



「知りません。たとえ知っていたとしても、口にするつもりはありません……」
 問いを発する曹純と、気遣わしげにこちらを見つめる許緒に対し、徐晃はそう言ったきり、口を噤む。
 事実、徐晃は今回の母の動きについては何も伝えられていなかった。
 徐晃に与えられた任は曹純と虎豹騎を撃ち破り、許昌からの大軍を引き出すこと。では、その次は?
 予測ならしている。許昌の防備が薄くなれば、いずこかの勢力――おそらく河北の袁紹、淮南の袁術らが動き出す。主力が不在の許昌では、大軍を有する二者の侵攻は止められまい。許昌は陥ち、帝都を失った漢帝国は再び混乱の坩堝に叩き落されることになる。


『この身を王昭君ごときよりも下に扱いし宮廷の愚者ども。許しはしない……決して』
 そういって歯軋りする母楊奉の背を、幼い頃からずっと見てきた徐晃にとって、母の願いを察することは難しくない。
 すなわち、自らを北辺に追いやった国への復讐。
 それゆえ、頭目である韓暹を殺したことを聞いても、さして驚きはしなかった。むしろ、どこかで安堵さえ感じていた。目的を果たすためとはいえ、韓暹の傍らに侍る母を見るのは、徐晃には辛いものであったから。


 ただ、その安堵はほんの一時のことだった。韓暹を殺したのが於夫羅であったこと、そして白波賊と匈奴の軍勢が示し合わせて解池を陥としたことを聞き、これまで韓暹が務めていた役が於夫羅に変わっただけであることを悟ったからである。
「母さん……」
 それもこれも、自分が失敗してしまったためだ。徐晃はそう考える。
 於夫羅にしてみれば、先の戦いの敗北は徐晃に謀られたとしか思えぬであろう。徐晃が姿を消した以上、その責を楊奉に問うのは必然であり、おそらくその席で楊奉は決断を下し、韓暹を切り捨てて於夫羅に――言い方は悪いが乗り換えたのだろう。


 ――だが、しかし。
 それでは説明できない点がある。


「解池ほどの堅牢な城市を、どうやって短期間で陥としたのか。内から開いたという城門といい、相当以前から準備を整えていたとしか思えない」
 その曹純の言葉に、徐晃はわずかに肩を震わせた。
 そう、そこだけが不可解なのだ。徐晃の不首尾を知って方針を変えたのだとすれば、解池への攻撃準備がこうも早く整うわけがないのである。
 於夫羅を引き込んだから戦力に余裕が出来た、という理由も考えられないわけではないが、そも匈奴の軍勢をこの地に引き入れたのは楊奉であり、匈奴を動かしただけで解池が陥とせるのならば、とうの昔に動いていたであろう。
 聞けば解池の攻撃でも匈奴はほとんど動かず、督戦兵として後方に控えていただけであったという。であれば、解池を陥とす戦力として、必ずしも匈奴は必要ではなかったということになる。
  

 解池を陥とした主力は白波賊。
 元々、楊奉の影響力は頭目である韓暹を凌ぐといわれていたが、実際に韓暹を殺害して成り代わるとなれば、他の幹部が黙っていないはずだった。だが実際には韓暹が楊奉の手にかかったにも関わらず、白波賊にはほとんど動揺が起きていない。時をおかずに全軍を動かしたことからも、それは明らかだった。
 自軍の半数に満たない官軍に敗れたことで、韓暹の力を疑う者が出たことは疑いないが、それにしても何の準備もなく、楊奉が全権を握ることができるとは考えにくい。
 くわえて城攻めに必要な様々な武具や兵器は一朝一夕で用意できるものではない。


 つまるところ。
 鉄壁とも称される解池の防備を揺るがすほどの戦備を、楊奉はあらかじめ整えていたのである。人と、物の両面で。
 もちろんそのこと自体に問題は何もない。徐晃は知らされていなかったが、そもそも徐晃は白波賊において確たる地位についているわけでもないのだから、そこに不満を抱いたりはしない。


 ただ、あまりに早い方針の転換は、楊奉が徐晃に対して一片の期待もしていなかったことの裏返し。


「母さん…………」
 否、そもそもすべては予定通りなのかもしれない。周到に整えられた戦備がそれを示す。


「母さん……」
 解池での殺戮に、官軍に囚われた徐晃を気遣う思いは皆無であり。


「母さんッ」
 母にとって、自分は捨て駒であったのだという事実だけがのしかかる。


 突然取り乱した徐晃の様子を、曹純と許緒が痛ましげに見つめていた。理由はわからずとも、徐晃の苦悩が奥深いものであることは察せられた。




 徐晃はそんな二人の様子に気付かない。
 気付いたのは別のことだ。徐晃の脳裏に、ふとよぎった楊奉の言葉。あれは皇甫嵩を討ち取った報告をした時だったか。
『――口先だけの謝罪など、あなたの弟妹たちでも出来ることよ。それとも、次はあの子たちの誰かをあなたの代わりに戦場に出せば良いのかしら。それがあなたの望み?』


 ――まさか、と思い、徐晃は小さくかぶりを振る。
 いくら何でも、そんなことはない、と。
 徐晃の弟妹と楊奉は言ったが、楊奉の子供というわけではない。度重なる戦乱の中で、徐晃が助けてきた子供たちだ。母を除く白波賊のすべてを嫌悪していた徐晃は、白波砦ではなく、あえて解池にほど近い土地に弟妹たちを置いていた。逢う機会は減ってしまうが、かえってそこの方が安全であるとわかっていたからである。
 もし楊奉が解池の攻撃に踏み切るようであれば、先んじて避難させれば良い。そう考えていた。無論、万一、官軍に気付かれたり、賊に襲われた場合の対処も教え込んである――そして、そのすべては楊奉も知るところであった。



 解池が白波賊と匈奴に陥とされた今、弟妹に危険が迫っていることは間違いない。そのことにさえ思い至らなかった自分の迂闊さに腹が立つ。
 だが、それ以上に徐晃の胸を焦がすものがあった。
 徐晃に煮え湯を飲まされた形の於夫羅は、解池の殺戮だけで満足するのだろうか。
 徐晃に秘中の秘を官軍に暴露された形の楊奉は、徐晃の失態を看過してくれるだろうか。
 考えたくもない、最悪の想像が胸奥から湧き出てくる。
 否、それは想像などではなく、至近に迫った現実なのだ。そのことを、他の誰でもない徐晃自身が確信している。確信、してしまっている。



 徐晃の四肢に力が篭る。
 得物である大斧は当然のように没収されているが、拘束されているわけではない。
 これは曹純の指示による。
「四肢を縛って我らに降れといっても、説得力なんてないだろう」
 そう言って、徐晃を一室に閉じ込めこそしたが、手足は自由のままであった。無論、見張りはつけたし、もし徐晃が逃げ出そうとすれば容赦するつもりはなかったが。


 徐晃としても、許緒や虎豹騎の精鋭を振りきり、官軍で満ちる県城を突破できるとは思っていない。考える時間が欲しかったこともあって、官軍が隙を見せるまでは大人しくしているつもりだったのである。
 だが、脳裏に浮かんだ思考が、そんな思慮を粉微塵に打ち砕く。一刻も早くここから脱出しなくては、そう考える徐晃の耳が曹純の言葉の一部をとらえた。
 許緒に対し、曹純は解池への出陣を伝えたのである。
「……解池へ?」
 徐晃が反応したことが意外だったのか、曹純は目を見張るが、すぐに頷いた。
「そうだ。可能な限りの兵を集め、解池から逃げてくる民と兵を救出する。仲康は王太守と共にこの城を守ってくれ、公明殿の世話も任せる」
 王邑の危惧があたる可能性もないわけではない。許緒を残しておけば滅多なことはないだろう、と曹純は信頼していた。
「わっかりました、子和様、気をつけ……」
 そんな曹純の信頼に気付かない許緒ではない。大変な時だということはわかっているが、そこはかとなく嬉しそうな顔で、気をつけてくださいね、と言いかけた許緒の言葉を、この場にいるもう一人の人物の言葉が遮った。
 無論、それは徐晃のこと。曹純と許緒が意外に感じるほどに強い口調で、徐晃は口を開き、言った。


 ――お願いがあります、と。



◆◆◆


 
「お願いがあります」
「却下します」
 結構本気で口にした言葉だったが、あっさりと退けられてしまった。
 しかし、ここで諦めてはいけない。俺はもう一押しを試みる。
「そこをなんとか」
「なりません」
 しかし、返ってきたのは、けんもほろろなお言葉でした。


「そもそも――」
 俺が次は何と言って説得したものかと考えつつ馬を進ませていると、隣で、同じく馬を進ませていた司馬懿が口を開いた。
「解池の様子を探るというのは、私が姉様から命じられたこと――姉様は私にお願いと仰っていましたが、同時に上司としての命令でもあるのです」
 若き廷臣はそう言って、落ち着いた眼差しでこちらを覗う。
「北郷殿はそうではない。表向きは護衛ですが、私は協力してもらっている立場です。どちらが危険を冒すべきなのかは明らかでしょう」
 解池の調査のために都から派遣された司馬懿であるが、当の解池が白波賊に陥とされてしまった今、真っ直ぐに向かうのは危険極まりない。
 とりあえず解池には俺が向かい、司馬懿は県城の方へ行ってもらうつもりだった。白波賊の討伐に赴いた曹純が県城にいるかは微妙なところだが、解池に向かう関羽は、この報告を聞けば間違いなく県城を目指すはず。このあたりで一番安全なのは県城であろう。
 だが、俺のその提案に対し、司馬懿はあっさりと首を横に振る。そして、この問答へと続くのである。


 俺は困惑しつつ、頭を掻いた。
「それは正論――と言いたいところですが、賊徒と匈奴が溢れている城市に、女の子を一人で行かせるわけにはいかないでしょう。そんなのは論外です」
「顔を隠すなり、金銀で人を雇うなり、誤魔化す手段はいくらでもあります」
 あくまで淡々と語る司馬懿に、頭を抱えたくなる。薄々気付いてはいたが、やはりこの少女、自分の容姿に関して自覚がいまいち薄い。
 多分『それなりに人目を惹く』程度にしか考えていないのではあるまいか。
 この状況で顔を隠した者が解池に入れるとは思えない。金銀で人を雇うにしても、素顔を晒さねば不審を抱かれるだろうし、晒せば晒したで、間違いなくひと悶着起こるに決まっていた。
 妙な例えだが、俺が賊であれば絶対に司馬懿みたいな美少女は見逃さないし、無関係な民だったとしても、よこしまな思いの一つ二つ抱くに決まっているではないか!――って、何を力説してるんだろう、俺?


 ともあれ。
 司馬懿を解池に行かせるのは断固阻止せねばならない。司馬懿に傷でも負わせようものなら、姉である司馬朗や妹である司馬孚たちに何と言って詫びれば良いかわからん。
 だが、当の司馬懿は何とかなるの一点張り。実際、頭の冴えも武芸の腕も俺以上の人だから、面と向かって否定できないのが辛いところだった。
 考え込む俺を見て、司馬懿が小さく首を傾げる。そして、めずらしく不思議そうな表情をあらわにしながら口を開いた。
「どうして、北郷殿は私を解池に行かせたくないのですか?」
「いや、それはもちろん危険だからです」
「危険というなら北郷殿も同じことです。そして危険を冒す必要性が高いのは私の方だということもお話しました。それでもまだ納得されない……何故なのでしょう?」
「……本気で聞いてるから性質がわるいな、この子は」
 思わず本音がこぼれてしまった。
「? 何か仰いましたか?」
「いえ、ただこのお姫様を説得するにはどうしたものかと」  
「お姫様??」
 目を瞬かせる司馬懿を前に、俺は一つ息を吐いて覚悟を決めた。
 このままではいつまでたっても結論が出ないだろう。



「率直に言いましょう」
「お伺いいたします」
「女性の前では良い格好をしたい――それが男というものなのです」
 とりあえず、いろんな事情を四捨五入してそう言うことにした。ぶっちゃけ理屈では勝てん。
 案の定、司馬懿は目をぱちくりとさせている。さすがにこの台詞は司馬仲達といえど予測できなかったと見える――まあ、当たり前だが。
「……それは殿方の意地、ということなのでしょうか?」
「そう、ですね。男児たる者の沽券に関わる重大なことだと考えてください」
 至極まじめな表情で言う俺。
 対する司馬懿は、馬上で何やら考え込むように頬に手をあてている。


 沈黙はしばらく続き、緩やかな馬蹄の音だけがあたりに木霊する。
 もしや呆れられてしまったろうか、と不安になったが、司馬懿の顔を見るかぎり、そういった風にも見えない。その脳内でどのような考えが渦巻いているのか俺には知る由もなかったが、ふと、視線を感じて振り返ると、司馬懿が何やらじっと俺のことを見詰めていた。
 どうしたのか、と思って口を開きかけた時だった。
「承知いたしました」
「どうかしまし……って、え?」
 あまりにもあっさりとした言葉だったので、今度は俺が目をぱちくりとさせる番だった。
 そんな俺に対し、司馬懿は言葉を付け足す必要を感じたのか、こう続けた。
「私が一人解池に向かうのは避けるべきという北郷殿のお言葉、承知いたしました」
「それは、その、ありがたいですが、なんでまた急に?」
「私たち女は殿方を立てるもの。以前、叔達(司馬孚)がそう申していたことを思い出したのです」
 ははあ、なるほど。確かに司馬孚が言いそうな台詞ではある。
 ともあれ、司馬懿が聞き入れてくれたことは確かなので、俺はほぅっと安堵の息を吐いた。


 危難が襲ってくるのはこれからなのだが、他人のそれを見ているより、自分で踏み込んだ方が気が楽だ。
 などと俺が考えていると。
 隣の司馬懿がこんなことを言い出した。
「では共に参りましょう、北郷殿。解池の速やかなる奪回のために」


 束の間、呆然とした後、すぐに俺は慌てて口を開く。
「……は? あの仲達殿、俺の言葉を聞き入れてくださったのでは?」
「はい。聞き入れました。『一人で』解池に赴くのは避けるべきだとのことでしたよね?」
「あ、いや、確かにそうですが、それは二人で行けば大丈夫という意味では……」
「それに女性の前で良い格好をしたい、とも仰っておられました。ならば解池における北郷殿の活躍を、この目で確かめることこそ私の役目。謹んで務めさせていただきます」
「……本気で言ってるから性質が悪いな、この子は」
 思わず本音がこぼれおちた。本日二度目である。


 どことなくすっきりとした面持ちで前を向く司馬懿の横顔を見る。これ以上何を言い募っても結論は変わらないだろう。それを直感的に悟った俺は、司馬懿に悟られないように小さく、小さく息を吐くのだった。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(三) 
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/19 15:24
 覚醒を促したのは、焼けるような背部の激痛だった。
 知らず苦悶の声をあげた賈逵(かき)は、自らの声で意識を取り戻す。混濁した意識の中でぼんやりと周囲を見回すと、室内の質素な調度が見て取れた。質素というよりは、ほとんど何もないと表現すべきかもしれない。
 ただ自分にかけられている寝具からは、日向のにおいと暖かさが伝わってくる。その温もりは、貧しくも希望に満ちていた昔日の暮らしを、賈逵に思い起こさせた。
「ここは……ぐッ?!」
 どこかぼんやりとしたまま、口を開きかけた賈逵に再び襲いくる激痛。
 うめき声をあげながらも、今度こそ賈逵は自分の意識が浮上したことを自覚した。


 ――解池の守備という重役を任され、押し寄せる賊徒と対峙したこと。
 敵の狂ったような猛攻に押し込まれはしたが、冷静に、諦めることなく指揮をとり続け、ついに日没まで城門を守りぬいたことを思い出す。
 負傷者を収容し、武具を補充し、明日以降の防戦の準備を整えねば、と賈逵は考えた。督戦隊まで用いて、なお城を陥とせなかった賊徒はこちら以上に疲れているはずだ、勝機はある、と。
 夜襲を試みるのも一つの手かと思案を進めている最中、響いてきた、重く低い音。悲鳴じみた報告がもたらされた。城門が開かれました、と。


 そこから先の記憶は曖昧だった。一つ一つの情景は思い出せるが、それがばらばらに配置され、筋道だった記憶になっていない。
 夜闇の中を押し寄せる賊軍、うろたえる味方、敵は開かれた城門を苦もなく突破、賈逵は城内の将兵を指揮して何とか敵を追い返そうと努めたが、混乱と動揺によって指揮系統を把握することさえ容易ではなく、ついに敵の蹂躙を許すことになった。
 わけもわからず斬りたてられる女子供の悲鳴が、今も耳にこびりついてはなれない。賈逵は奥歯を噛み締めて、それに耐えることしか出来なかった。


「……ッ。しかし、ここはどこだ?」
 解池の失陥は免れない。それを悟った賈逵は、一人でも多くの民を逃がそうと、少ない手勢を率いて奮戦した。だが、それも悪足掻き以上のものにはならず、賈逵の部隊は匈奴の猛兵に斬りたてられ、突き崩され、ついには運河に叩き落された。
 運河は解池の塩を都に運ぶためのものだが、自然の河川をそのまま利用しているため、水深もあるし、流れも速い。岸に行けば匈奴の兵の槍にかかり、鎧を脱いで泳げば弓矢の的として射殺された。彼方から響く匈奴兵の殺意に酔った声を最後に、賈逵の意識は身体ごと水の奥底に沈んでいった……そのはずであった。


 縛られていないことから、少なくとも敵に捕まったわけではないようだが、と賈逵が首を捻った時だった。
「あ、目が覚めましたか、よかったー」
 そんな声が入り口から飛んできた。
 そちらに視線を向ければ、賈逵の娘と同じ年頃と思われる少女が一人、こちらを向いて笑顔になっている。
 その隣には鋭い眼差しをした少年が一人。こちらは少女より幾分か年上のようで、賈逵を見る目には確かな警戒の色がある。その身ごなしから、腰に提げた剣は飾りではない、と賈逵は見て取った。
 ともあれ、賈逵は子供たちに言わねばならないことがあった。
「姓は賈、名は逵、字を梁道。解池の官軍を指揮していたものだ。助けていただいたこと、心より感謝する」
 背中の痛みをこらえつつ、賈逵は深々と子供たちに頭を下げるのだった。


 その姿を見て、少年は少し驚いた様子で目を瞬かせ、少女は場にそぐわないほんわかした笑みを見せる。
「いえいえ、困った時はお互い様……って、官軍を指揮? もしかして将軍様なんですか?!」
 驚いたように目を見開く少女。
「将軍ではなく県令……む、都市の責任者、と言った方がわかりやすいだろうか?」
「えっと、じゃあ白波の皆さんとは敵、ということで――」
「こ、浩?!」
 何事か言いかけた少女の口を、少年が慌てたように塞ぐ。
 目を白黒させながら少年を見上げる少女。
「もが?」
「あまり軽はずみなことを言わないで。鵠姉さんに迷惑がかかるかも」
「もがー」
 なるほど、という風に頷く少女を見て、少年は口を覆っていた手を外した。


 そんな子供たちの言動を、賈逵は微笑ましそうに見つめていた。何やら不穏な単語が聞こえてきた気もしたが、目の前の子供たちと、解池を陥とした賊徒とが繋がりを持っているとも思えないので、あえて聞かなかったことにする。下手に問い詰めたところで、今の賈逵には何も出来ないという理由もあった。
 それよりも現状の確認の方を優先すべきであろう。そう考えた賈逵は子供たちに問いを向ける。
「すまないが、川に流されてからの記憶が曖昧なんだ。君たちはどうして私を助けてくれたんだ?」
 その問いに対する答えをまとめると、以下のようになる。


 この家は、解池から半日ほど離れた山間にあった。
 暮らしているのは六人。目の前にいる渙という名の少年が最年長であり、その次が同じく目の前にいる浩という名の少女であり、あとは幼い弟妹が四人いるらしい。
 子供ばかりの生活とはいえ、ほど近いところに村があり、生活に不自由を感じることは少ないとのことだった。
 先夜のこと。子供たちは遠くの空が赤々と燃えていることに気付いたという。言うまでもなく、それは賊徒が解池に放った炎が空を焦がしたもの。
 無論、子供たちにはそこまでわかるはずもなかったが、危険が迫っているかもしれないという判断は出来たらしい。
 こんな時代であるからか、こういう際の逃げ道は幾つも用意してあるらしく、その中の一つである舟を使うため、弟妹たちと共に川沿いまでやってきて……そこで川岸に流れ着いていた賈逵を見つけて、ここまで連れてきてくれたとのことだった。
 

「私以外に助かった者は……?」
 賈逵の問いに、浩は表情を曇らせた後、ゆっくりと首を左右に振った。
「そうか……」
 あの状況では仕方ない、というより、むしろ自分が助かったことが僥倖なのだろう。この子供たちがいなければ、傷口から流れる血もとまらず、とうに水辺で命を失っていたに違いないのだ。
 そう考え、賈逵は重いため息を吐くのだった。


◆◆


「ぐ……」
 身体を起こそうとした賈逵は、全身から伝わってくる痛みに苦痛の声をもらす。匈奴兵に切りつけられた背中以外にも、どうやらあちこちに傷を負っていたらしい。
 しかし、今は逆にその痛みがありがたい。ともすれば崩れ落ちそうになる意識に喝を入れてくれる。
「あ、だ、駄目ですよ、まだ寝ていないとッ」
 ぱたぱたと駆け寄ってくる浩に、賈逵はかぶりを振ってみせた。
「そういうわけにもいかないんだ。君たち……弟さんや妹さんも、まだここに残っているのか?」
「え? あ、はい、残ってますが……」
 渙と浩が賈逵の手当てをしている間、薪を割ったり、食事をつくったりしてくれているのは弟妹たちであった。


 それを聞いて、賈逵は表情を硬くする。まずい、と思った。
「手当てに関しては心から感謝する。が、もう十分だ。君たちは急いで逃げた方が良い。あらかじめ舟を用意しているのだったら、出来れば県城まで逃げなさい」
 塩を運ぶ運河が、解池と県城とを結んでいるのは当然であった。賊徒が現れるまでに、この子供たちを安全な場所まで逃がさねば、と思う。
 賈逵は、賊徒が自分を追ってくると確信しているわけではない。敵がそこまで自分の名を警戒しているかはわからない。
 だが、賈逵の生存の有無に関わらず、解池を陥落させた賊徒がどう動くかは明瞭だと思えた。略奪と放火、殺戮によって城内を嘗め尽くした賊徒は、その惨禍を城外にまで広げようとするだろう。否、おそらくすでに拡げているはずだった。
 より多くの財貨を奪い、敗残兵を狩り立てるためにも、それ以外の行動を採るとは考えにくかった。


 幸いにも、ここは解池からある程度の距離があるという。しかも山間の小さな住居だというから、賊徒の手が及ぶまでには多少の時間の余裕があるだろう。
 見れば渙という少年も、浩という少女も、服装は質素だが、整った容姿の持ち主である。彼らの弟妹たちも同様だとすれば、この子供たちが白波賊や匈奴兵に捕えられた際、どんな目に遭うかは想像に難くない。
 いや、それは想像などという不確かなものではなかった。解池の各処で目にした光景が、賈逵の脳裏に浮かんだ情景が間近にせまった未来なのだと警鐘を鳴らす。耳朶の奥に甦る悲痛な嘆きが、血の気を失った賈逵の顔をさらに青く染めていった。
 解池に取り残された自分の妻子のことを、賈逵はあえて考えようとはしなかった。今は、自分を助けてくれたこの子供たちを逃がすことだけを考えるべきだ、と自分自身に言い聞かせる。



 子供たち、特に浩という少女の方は、すぐに行動することに最後まで渋い顔をしていた。賈逵の怪我はそれほどに重いものだったのだ。
 だが、解池が陥落したことを賈逵が伝えると、渙という少年はすべてを察したようで、浩を説得してくれた。
 その様子を見て、聡い少年だ、と賈逵は感心する。身のこなしや受け答えを見ても、ただの農民や猟師とは思えない。このような場所で子供たちだけで暮らしているのにはそれなりの理由があるのだろうが、なるほど、この少年なら大過なく弟妹たちを守って暮らすことも出来たであろう。


「じゃあ将軍さまも一緒に行きましょう」
 考えつつ、立ち上がった賈逵に、浩が口を開く。その目に底意はなく、純粋に賈逵を心配していることは明らかだった。
「いや、私はやることがあるから……」
 構わず君たちだけで。そう言いかけた賈逵の手を、浩はしっかりと握り締める。離すもんか、と言わんばかりに。
「行きましょう」
「あ……いや、だからね?」
「行きましょうッ」
「む……しかし、だな」
「じゃあ、行きますね」
「をを?!」
 反論を丸ごと否定され、呆然と引っ張られる賈逵。
 その隣で渙が小さく呟いた。
「浩は、一度決めたら梃子でも動きませんから」
「……そのようだな」
 少年の言わんとすることを察した賈逵は小さく頷いた。将軍ではないのだが、という反論は受け入れてもらえるだろうか、などと考えながら。




◆◆◆




 賈逵の怪我は、自身が思っていたよりもかなり重かったらしい。血を失ったことによる体力の低下も無視できなかった。
 すこし歩いただけで息が切れるような有様では、戦うにせよ、逃げるにせよ、物の役に立つはずがない。結局、その後数日の間、賈逵は子供たちと共に身を潜めながら、体力の回復を待たねばならなかった。
 その間、時間だけはありあまっていたので、賈逵は今後の行動について考える。


 解池を守備していた賈逵のもとには、虎豹騎が白波賊を撃ち破った知らせは届いている。
 今となってみれば、それはこちらを油断させる敵の策略の一環だったのかもしれないと思えるが、丞相秘蔵の精鋭が県城に駐留している事実は、この危急の際にあってほとんど唯一とも言える希望であろう。
 解池が陥落したという事実は、もはや覆しようがない。であれば、次に考えるべきはいかにしてこれを賊徒の手から取り戻すかである。
 賊徒とはいえ、賈逵が見たところ、敵の総勢は匈奴兵を併せれば万に達するやもしれぬ。現状の河東郡の兵力では、虎豹騎を加えても数の上では大きく劣っていた。
 無論、徴募すれば賊と同数、あるいはそれ以上の兵を集めることは出来るが、それには時間がかかるし、賊徒が跳梁している現状では思うように兵を集めることも難しいと思われた。
 付け加えて言えば、太守の王邑はこういう戦況にあって、毅然と討って出るような人物ではないことを、賈逵は良く知ってもいたのである。


 県城に兵を集めて立て篭もり、都からの援軍を待つ。おそらく、王邑が採る策はこれだろう。その策は決して間違いではない。先帝なら知らず、今上帝であれば并州を見捨てるようなことはなさるまい。
 だが、都から援軍が来るまでの間、解池とその周辺は賊徒のほしいままに蹂躙されてしまう。解池の責任者として、賈逵はそれを座視することは出来なかった。
 一方で、解池陥落の詳細を知らせる者が必要になることも事実。白波賊が攻め寄せてきた時点で急使は出したが、一夜にして解池が陥落したことに関しての詳細は、まだ王邑たちの手元に届いてはいまい。県城に逃げ込んだ兵や民の口から、大体のことは伝わると思うが、そんな不確かなことを当てにするわけにもいかなかった。


 賈逵が書状を書き、この子供たちに託す。その上で、賈逵自身は解池に赴き、やがて来るであろう援軍のために情報を集める。もし付近で抵抗を続けている者たちがいるなら、それに合流しても良い。
 問題は、この子供たちを要らない危険に巻き込む羽目になってしまうことと、傷を負った自分が別行動をとることをどうやって納得してもらうかなのだが――と賈逵は今も背中の傷に薬を塗ってくれている浩を見ながら、考えていた。


「……しかし、こんな隠れ家まで用意しているとは、周到だな、君たちは」
 感心したように賈逵はあたりを見回す。
 ここは、元々子供たちが暮らしていた家ではなく、山の麓ちかくにある洞穴を利した隠れ家だった。入り口は大人が背をかがめなければ通れないほど狭く、自然の木々に紛れていて、一見しただけでは、よほど山に慣れている者でもなければ、そこに洞穴があるとは気付かないだろう。
 中は進むに従って広くなっており、奥行きもそれなりにある。さらに入り口を塞がれたり、火と煙で追い立てられた時のためにもう一つの出口も用意されているという念の入れ方であった。


「鵠姉さんと一緒に、みんなで頑張ってつくりましたから」
 賈逵の言葉に、浩が微笑んでそう言った。鵠、というのはこの子供たちの親代わり、姉代わりである少女の真名であるとのことだった。
「ふむ、中々に兵法に通じた御仁でもあるようだな」
 危急の時のための食料も蓄えられているあたり、油断とは縁のない人物のようだ。普段は別々の場所で暮らしているとのことだったが、その鵠という少女が、この子供たちをどれだけ気遣っているのかということは、賈逵にも十分に感じとることが出来た。
 ただ、さすがにここには書簡を記す道具は用意されておらず、子供たちの家にもなかった。竹簡ですべてを伝えようとすれば、膨大な量になってしまうという欠点もある。


 こうなれば、申し訳ないが何か身分を示すものを渙という少年に渡して、県城の王邑への使者を務めてもらうしかないか、などと賈逵が考えた時、入り口の方から物音がして、誰かが入ってくる気配がした。
 賈逵と浩、そして周りにいる子供たちは緊張と警戒の視線を向ける中、あらわれたのは村の様子を見に行っていた渙だった。
 子供たちの間にほっとした空気が流れるが、賈逵は渙の表情にただならぬものを見つけ、確認した。
「何かあったようだね?」
「はい。村に騎馬兵が来てます。それも二十近く」
 青ざめた表情の渙の言葉に、賈逵は顔をしかめた。言ってはなんだが、こんな山がちの村では略奪したところで旨みは少ない。そんなところに二十近くの騎兵が来るとなると、あるいは川にそって賈逵のことを探しているのかもしれない。そう考えたのだ。


 だが、渙の言葉には続きがあった。
「季は帰ってきてる、浩?」
「う、ううん、まだだけど……」
「そう、なら迎えに行かないとッ」
 季、というのは子供たちの一人で、村に傷薬を取りに行った子である。
 渙は帰りの遅いその子を迎えに村まで行き、そこで村の中に傲然と馬を進める男たちの姿を見かけたのである。その姿を見た渙は、すぐに村を離れた。関わるのはまずい、と凶猛な笑みを湛える騎兵たちを見て、咄嗟に判断したのだ。
 だが、そのために弟の行方を確認することが出来なかった。どうか入れ違いで帰っていてくれと願ったのだが……


 渙の言葉に、浩や弟妹たちが何か口にしかけた時だった。
 再び、入り口のあたりで誰かが入ってくる音がする。皆の視線が集中する中、入ってきたのは一人の男の子だった。
 それを見て、皆の顔が緩んだのは、それが今まさに安否を気にしていた季という子供だったからだ。
 だが。
「渙兄ちゃん、浩姉ちゃん……」
 今にも泣き出しそうな声が、その口からこぼれでる。口だけではない、すでにその瞳からは滴が零れ落ちそうだった。そして、まるで何かに怯えるかのように、大きく震えるその身体――


 そのことにいち早く気付いたのは、一番近くにいた渙であった。
 渙は弟を落ち着かせるために、そっとその頭に手をやると、つとめて優しい声で理由を問う。
 震える口が、答えを紡ぐ、その前に。
 洞穴の外から怒声が轟いた。


「さっさと出て来い、ガキどもォッ! 十数えるうちに出てこないのなら、火を放って蒸焼きにしてやるぞッ!!」


 そんな声が、洞穴内に響き渡る。
 言葉だけを聞けば、あまりに陳腐。だが、込められた苛立ちと、聞き違いようのない殺意は、この場にいる者にとって――少なくとも子供たちにとってはあまりにも異質で。
「もう一つの出口で逃げても良いが……まあ、逃げられても一人か二人だけだ。それも一時のことだぞ。俺たちを苛立たせるだけだから、やめておけ」
 嘲笑と共に吐き出されたのは、自分たち以外知らないはずの事実。それを知られていることが、得体の知れない恐怖を呼び起こす。渙でさえ、平静ではいられなかった。


 賈逵もまた、何が起きたのかはわからなかった。
 ただ――
「……ぐ」
 その脳裏には、解池で見せ付けられた、凄惨な光景が甦る。
 まるで、それと同じことがこれから起こるのだと、賈逵自身が意識せずに確信してしまった、その証左のように。

 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(四) 
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/19 15:24
 南匈奴の右賢王(漢土における丞相に匹敵する地位)たる去卑(きょひ)にとって、於夫羅は兄の子、つまりは甥にあたる。
 すなわち去卑自身は単于の叔父ということになる。そのため、匈奴の中でも強い影響力を持っており、一時は去卑自身が単于への野望を半ば公然と示していたほどであった。
 その去卑が、なぜ甥である於夫羅の下風に立つことになったのか。
 それは人望という点で、去卑が於夫羅に遠く及ばないからに他ならなかった。
 その理由は、去卑の過剰なまでの欲望の強さにあった。人でも、物でも、権力でも、すべての面で、去卑は足るということを知らぬ性情を持っていたのである。。


 遊牧民族の帝国において、略奪は一つの作戦行動といってよい。豊かな他族から奪い、貧しい同族に分け与えるために、またみずからの勢力を肥え太らせるために、必要な行動なのだ。
 そして、単于をはじめとした指導者の役割とは、略奪した品の公平な分配である。極限すれば、ただこの一事で指導者としての器量を計られるほどに重要な役割であった。
 そして、自身の欲望を制することができない去卑に、公平という概念が理解できるはずもない。
 財貨であれ、奴隷であれ、価値の高い、あるいは眉目の優れた者たちはことごとく我が物とし、配下にはそれ以外を与える。しかもその与え方からして、自らにごく近しい者を優先するため、末端の将兵はもちろん、近臣たちでさえ不満を隠せなかったのである。


 去卑は右賢王――漢土風に言えば丞相級の重職にあるが、常であれば、去卑のような人物は早々に周囲から引き摺り下ろされる。それが今なお地位を保っていられるのは、先代単于の弟、今代単于の叔父という血統と、於夫羅の意に添う如才のなさ、そしてなにより戦場と、そして戦場外においても発揮される残忍さ、ないし凶猛さにあった。
 自らに敵対した者、傷を負わせた者は、当人はもちろん、その家族、親族までをも探し出して殺しつくす。親の前で子を犯し、子の前で親を嬲り、生まれたばかりの赤子さえ容赦せぬ報復の仕方は、匈奴兵をさえ鼻白ませるものであった。


 於夫羅の性情が武に傾くため、国の運営の多くは右賢王である去卑をはじめとする臣下が司っていたが、人と者に執着する人物が、権力に執着しないはずもない。
 実のところ、南匈奴の急激な衰退の一因は、有為な人材の多くを去卑が粛清してしまった点に求められる。それは北匈奴の単于の傍に侍る、とある人物の策略によるものであったが、去卑は気付いていない。まさか北の連中が、漢族のような策略を張り巡らせているとは想像すらしていなかった。


 結果、南匈奴は北匈奴の軍勢に圧迫され、漢土の片隅で逼迫するまでに追い詰められてしまった。
 当然というべきか、周囲が去卑を見る視線は厳しい。言葉にこそしないが、現状に至った責任の多くはお前に帰すのだ、とほとんどの人間が考えていた――少なくとも、去卑はそう感じていた。
 主君である於夫羅は、今のところ去卑の罪を問う気配は見せていないが、これとていつまで続くかわかったものではない。


 傲然としながら、しかし内心では疑心を膨れ上がらせていた去卑。
 その去卑にとって、徐晃の提案してきた作戦は渡りに舟であった。虎豹騎が精鋭とはいえ、所詮は漢族から見てのこと。兵力差を鑑みれば勝敗は明らかであり、まして策にはめてしまえば、負ける方が難しいほどだ。
 たいした功績にはならないが、それでもないよりはまし、と去卑は於夫羅の許可の下、自ら部隊を率いて戦地に赴き――そして、完膚なきまでに叩きのめされた。
 去卑直属の配下二百はほぼ壊滅、去卑はわけもわからず斬りたてられ、敗走を余儀なくされた。それだけでも致命的な失態であったが、くわえて、敗走する去卑を密かに追尾してきた敵軍によって、於夫羅の本陣を衝かれてしまう。挙句、敵指揮官の放った矢によって、単于である於夫羅に手傷を負わせてしまったのである。


 死者は三百、負傷者はその倍。軍として致命傷には至っていないが、しかし決して軽い傷でもない。
 しかも戦った相手は同族ではなく、漢族なのだから、去卑の自尊心は深く傷つかざるを得ない。人望、指導力という点では文字通りの意味で致命傷であり、周囲の去卑を見る目は半分は冷笑、もう半分は蔑視という有様だった。
  

 それでも、挽回を期して戦った解池の攻防において、多少の功績をたてたことで、かろうじて地位を保つことはできたが、去卑自身、心穏やかでいられようはずもない。捕えた兵やその家族、あるいは城内の民らに鬱屈を叩きつけ、それでも満たされぬ激情に悶えていた去卑に、一つの命令が下されたのは、つい先日のことだった……






「引きずってでも解池まで連れて来いとの単于の仰せだが」
 自らの前に引きすえられた子供たちを睥睨する。その視線を受けて、幼い子供たちは恐怖のあまり泣き出したが、去卑は威圧するように大喝する。その一喝で、子供たちは泣き声をのみ込んだが、すすり泣きの音はそこかしこから聞こえてきていた。
 そんな子供たちの様子を心地良さげに見ていた去卑は。
「五体満足で、などという条項はなかったからな」
 嗜虐に満ちた表情で、唇を歪ませていた。



◆◆◆



「年端も行かぬ、しかも身動きできぬよう縛られた幼子らを怒鳴りつけて、何を哂うか、蛮族めが」
 賈逵の言葉を、去卑は鼻で嘲笑う。
「城を失い、惨めに逃げ回った挙句、その幼子とやらさえ救えなかった輩が何をほざく。吼えずとも、貴様も解池まで引き摺っていってやるから心配するな。妻子を嬲られる様を見せてやるゆえ、楽しみにしておれ」
 その言葉に憤激した賈逵が立ち上がろうとするが、後ろに立っていた匈奴兵が無言でその横腹を蹴り上げ、賈逵は崩れるように地面に倒れこんだ。


「恨むなら、あの徐晃とやらいう小娘を恨め。我ら匈奴を謀れば、どのような末路を迎えるか、貴様らに教えてやる」
「鵠、姉さんが、どうしたんですか……?」
 去卑の言葉に、浩が震える声で問いかける。
 だが、去卑はそれにこたえず、無言で右の手を翻す。音高く鳴る浩の頬と、弟妹たちの悲鳴がそれに続いた。
 

「おまえッ!!」
 激昂して立ち上がりかけた渙であったが、その動きは賈逵と同じように背後の兵によって封じられた。のみならず、渙の身体は地面に引き倒され、その背を匈奴兵が踏みにじる。
 一度だけではなく、二度、三度、四度……たまらず渙の口から苦痛の声がこぼれ出るが、それでもその匈奴兵は足を動かし続ける。戦傷で覆われた顔には、はっきりと加虐の悦びが溢れていた。
 去卑がせせら笑いながら口を開いた。
「そやつは、見てのとおり醜貌でな。そこの小僧のように整った顔の男が何よりも嫌いなのだ。すでに解池でも三人以上、見目良い男だけを嬲り殺している」
 その言葉を聞き、浩は頬の痛みも忘れて悲痛な声を絞り出す。
「や、やめて、やめてくださいッ!」
「聞けぬなあ」
 そう言うと、去卑は浩の胸倉を掴み、自分の顔の位置まで引っ張りあげた。浩の口から苦悶の声がこぼれでるが、無論、気にするはずもない。
「あの徐晃という女のおかげで、散々な目に遭わされた。彼奴に思い知らせてやらねば、腹の虫がおさまらん。土臭い漢族の、しかも小娘など犯したところで面白くもないが、ふふ、聞けばあやつは自らの苦痛より、親しい者の苦痛を、より忌むらしいではないか。であれば、貴様らにこの恨みを叩きつけてやるのが、何よりの報復となる、ということだ」
 恨むなら、徐晃を恨め。そう言うや、去卑の手が浩の衣にかかり、音高くそれを引き裂いていった。



◆◆◆



 この時、この場には賈逵と子供たちの他に村人たちもいた。数だけで言えば匈奴兵の数を凌駕していたが、すでに血気盛んな若者たち数人が匈奴兵の手にかかって殺されており、村の入り口近くの見張り小屋はすでに燃え尽きようとしている。残った者たちは暴虐がこれ以上拡がらないように祈りつつ、黙って従うしかなかったのだ。
 それでも、年端もいかない子供たちが泣き叫ぶ情景を見て、何も感じないはずはない。ある者は俯き、ある者は痛ましげに顔を背け、ある者は耳を塞いで座り込んだ。
 そんな村の人たちを取り囲み、威圧するように匈奴兵は時に馬を棹だたせ、時に哄笑を発していた。


「やめいッ! 単于への手土産なら、私一人で十分だろう。朔北の部族には情も理もないのかッ?!」
 賈逵の怒声に、去卑は再び嘲笑を浮かべる。
「自惚れるな。こいつらを連れて来いというのが単于の命であり、こいつらを痛めつけるのが俺の目的だ。お前ごときの首で、代用はできぬわ」
「この、下郎どもが――がァッ?!」
 罵り声をあげようとした賈逵は、頭上から襲ってきた衝撃にたまらず地面に突っ伏してします。匈奴兵が容赦なく、鞘ごと賈逵の頭を打ち据えたのである。


 その姿に侮蔑の視線を投げつけながら、去卑は口を開く。
「貴様も、自分の苦痛は気にせぬ輩のようだな。ならば、次に余計な口を聞いたら、村の者ども、そうさな、口を開くごとに一人ずつ、女子供を殺していくことにしよう。次に口を開く時は熟慮した上で開けよ? 文字通り、命懸けの言葉になるのだからな」
「……ぐ、ぅ」
 うめきつつ、賈逵は口を引き結ぶ。やると言ったらやる連中であることは、すでにその行動で示されていた。   
 だが、だからといって子供たちへの乱暴をそのままにしておけるはずがない。
 賈逵はきつく奥歯をかみ締めるが、すでに去卑の視線と関心は、半裸の浩へと移っていた。  


「やめ……あ、ァァアアアッ?!」
 渙の口から制止の声が出た途端、醜貌の兵士が、その背を踏む足に体重をかける。
 大柄な匈奴兵、しかも甲冑の重さまで加味された重量をかけられれば、渙のようにまだ身体が出来ていない子供の骨を砕くのは難しくない。
「ひし、しし。良い声だ、お前」
「まだ殺すなよ」
「はいです、右賢王」
 言いながらも、その背を踏みにじるのはやめようとしない。渙は歯を食いしばり、なんとか逃れようと四肢を動かすが、匈奴兵はそうはさせじとさらに体重をかける。

 あまつさえ。
 強い衝撃と共に、渙は地面に顔を押し付けられた。身体ではなく、頭を踏みにじられたのだと気付いた時には、口の中に泥と土が入り込んでいた。
「ぐ、ふ、ああ、がッ」
「しし、土、うまいか?」
 足元で苦しみうめく渙を見下ろしながら、匈奴兵の顔には陶然とした表情が浮かんでいる。
 それを見て怖気をふるったのは、浩だった。
 自らのことも忘れて、声を張り上げる。
「やめて、やめてくださいッ、お願い、やめてェッ!」
「右賢王、やめるか?」
「続けろ」
「はいです」
 その言葉と共に、一際、匈奴兵の足に力が込められるところを浩は見たように思った。


「やめてください、お願い、私だったら、何でもしますから、だからッ!!」


 悲痛な叫びに、しかし、匈奴兵は微塵も心を動かさず、嗜虐の宴を続けようとする。
 制止をかけたのは別の人物――去卑であった。まるで、その言葉を待っていたとでも言うかのように、去卑は好色そうな目つきで浩の身体に視線を送る。
「ほう、何でも。本当か、小娘?」
「は、はい、何でもしますから、だから渙兄さんにこれ以上、ひどいことしないでくださいッ」
「その言葉が本当であれば考えてやっても良いぞ」
 そう言うと、去卑はあっさりという。
「では、ここで衣服を脱いでみせよ。何でもするといったのだ、その程度のことは出来るのだろう?」
 それに、と去卑は嘲る。
 半ばは俺が脱がしてやったのだからな、と。


 その言葉に激烈に反応したのは、浩ではなく、渙の方であった。顔を地面に押し付けられながら、それでも何とか口を開こうとする。
「こ、こぶ、やめッ!」
「……おまえ、黙れ」
「ぐ、あああッ?!」
 くぐもった悲鳴は苦痛のためか、土を食ませられた汚辱のためか。
 悲痛な兄の声に、浩は身体を震わせ、みずからも声を振り絞る。その声は兄弟たちが聞いたこともないほどに高く、涙で濡れていた。
「渙兄さんッ! ああ、やめてください、お願いします、お願いしますぅッ!」
「なら、言われたことをしろ。そうすれば考えてやると言ったはずだ」
「……う……は、はい……」
 弟妹たちのすすり泣きの声を聞きながら、浩は唇をかみ締めつつ、それでも決然と服を脱ぎ捨てた。ここで手間取れば、また別の誰かが止めに入ってしまう。そうして、またその人が傷つけられるとわかっていたからだった。


 あらわになった少女の上半身に、去卑は嘗めるような視線を向ける。
 豊麗さとは無縁の身体だが、丸みを帯びつつある胸と腰の線は、咲き初めの春花を思わせた。
 異性の前で肌を晒したこともないのだろう。まして、衆人環視の中で裸身をあらわにさせられたことなぞあろうはずもなく、少女の頬は羞恥に赤らみ、屈辱の涙で濡れていた。
 そんな少女を前に、去卑は下卑た笑みを浮かべる。
「ふん、漢土の女は恥じらいも慎みもないのだな。このような青臭い小娘でも、平然と人前で肌を晒すか」
 自らがそれを強いたことを承知しつつ、去卑は少女を嘲った。
 解池の守将たちから、人を殺しかねないほどに殺意のこもった視線を向けられるが、復讐の蜜に酔いつつある去卑には、それすら敗者の足掻きと感じられて心地良い。


「お前は俺が犯してやろうと思っていたが、土臭い上に穢れた女にその価値はないわ。貴様にくれてやろう」
 言われた匈奴兵が、ぎょろりと目を剥いた。
「右賢王、良いのか?」
「良い、奴隷としてそこの小僧ともども嬲ってやれい」
 その返答を聞き、男の口元から涎が零れ落ちる。
「はいです、楽しみ……ここで食っても良いか?」
「好きにしろ。おい、小娘、はやく奴の前で跪いて、服従を誓え。今日から奴が貴様の主だ」
「……う……は、はい」
 そういって、両手で胸を覆いつつ、浩が歩き出す。
 だが、去卑はその歩みが終わるのを待ってはいなかった。白磁のような浩の白い背を蹴り飛ばしたのだ。
 浩の悲鳴と、それを見ていた村人たちの悲痛な声はほぼ同時だった。



◆◆



 悲鳴をあげて地面に倒れこむ。
 顔を上げれば、そこには泥と涙で顔を歪めた兄の姿と、顔中傷だらけの兵士の姿があった。
 暗く淀んだような眼差しが自分を――自分の身体を嘗め回すのを感じ取り、浩は声を詰まらせる。
 だが、ここで黙り込めば、また誰かが傷つくだけだとわかっていた浩は、口を開きかけ、そこではたと動きを止めた。何をすれば良いのかがわからなかったのだ。
 跪いて頭を下げれば、この人たちは満足するのだろうか。してくれるのだろうか、そんな疑問と戸惑いを覚えた浩の耳に――


「そういえば、貴様らは真名とやら言うものを持っているそうだな」


 去卑の言葉が響く。冷たい、けれどどこか滾るような妄念の炎が感じられる声。


「自らが心許した者にだけ与える名……ふん、反吐が出るようなふぬけた慣習ではあるが、こういった時は便利かもしれんな」
 その声を聞いた賈逵が、信じられぬ、と言いたげな震える声を絞り出す。
「貴様、まさか……」
「気をつけろ、それ以上ぬかせば、そこらにいる奴が死ぬぞ」
 去卑はそういって賈逵の口を封じると、さも当然のごとく言い放った。


「小娘、真名をその者に捧げ、奴隷となることを誓え。さすれば、そこの小僧も、他の連中も、命だけは助けてやろう」 


 ひぅ、と。知らず、浩の口から押し殺した悲鳴が零れ落ちた。
 真名を捧げる、その意味は浩のような若年でも骨身に刻まれている。言葉で嘲られようと、身体を嬲られようと、命さえあれば――そう考えて耐えることは出来た。心まで屈したわけではないのだから、と。
 だが、真名にかけて隷属を誓えば、それは終生、その者の心身に刻まれ、消えることのない枷となる。心を、譲り渡すことになるのだ……永遠に。
「ふざけるな、きさまァッ!!」
 我慢の限界に達した渙が、怒声をあげながら跳ね起きようとする。
 匈奴兵は渙の勢いに押され、一瞬、体勢を崩してしまう。その隙に渙は立ち上がり、浩のもとへと駆け寄った。
 が、そこまでだった。
「兄さんッ?!」
 その浩の声と共に。
 背中からの強い衝撃に、弾かれたように前に倒れこむ渙。咄嗟にその身体を支えた浩の顔に飛沫のようなものが飛び散る。
 浩の視界に映ったのは、渙の背を断ち割り、血に染まった剣を抱え持つ匈奴兵の姿であった。


 浩の腕の中で苦悶の声をあげる渙。幸いというべきか、背の傷は致命傷ではない。あるいは先の去卑の言葉を覚えていた兵が手加減したのだろうか。
 しかし、決して浅い傷でもなかった。背の傷に目を向けた浩は、すぐにそのことを悟る。このまま放って置けば、遠からず命を失ってしまうだろう。
 すぐに手当てをしなければ。だが、それをするためには――


 逡巡は、なかった。


「私の、真名は…………繋(けい)、です」
「……こ、浩、だめ、だ……それは、言っちゃ、いけな……」
「だ、大丈夫です、兄さん。私は、大丈夫、だから。しゃべらないで……」
 浩が真名を許したのは、これまでは徐晃だけだった。兄や弟妹たち――特に兄に許していなかったのは、兄に迷惑をかけないくらいに成長してから、という浩なりの決意があったからだ。
 こんな状況で口にするとは思わなかったけれど、と浩は涙で揺れる視界の中で呟いた。


「ほう。で、繋とやら、続きはどうした?」
 去卑が浩の真名を口にした時、村人たちの間に無音の悲鳴が満ちた。否、それは悲鳴というより、怒声に等しかった。許されざる者が真名を口にするなど、漢族にとっては野蛮と称することさえ生ぬるい万死に値する所業であったから。
 だが、右賢王去卑は、それを承知の上で口にしたのだろう。笑みの形に歪んだ口元が、その証左であるように思われた。


「我が、真名に懸けて、誓い、ます……」
「ふ、くく、何を誓うのだ、繋?!」
 去卑の嘲笑があたり一帯に響き渡る。
「ど……ど、れ、いに……」
「しし、きこえない、きこえない。叫べ」
 匈奴兵の含み笑いが、虚ろに木霊する。
 浩は涙を拭い、大きく――大きく、息を吸い込んだ。
 尋常ならざる気配を察したか、村の外れから、甲高い鳴き声がほとばしる。鳥か、あるいは森の獣だろうか。
 だが、いずれであっても浩にとっては関わりない。これから放たれる決定的な言葉。誇りを売り渡す言葉。一度、口にすれば、もう二度と取り返しがつかない。
 そんな言葉を、浩は叫ばなければならなかったのだ。
 







 もし。
「ししし………………………………し?」
 匈奴兵の胸から、一本の剣尖が突き出なかったのならば。









 胸から突き出た刃を怪訝そうな表情で見ていた匈奴兵が、後ろを振り返る。ゆっくりと――みずからの身に起きたことを理解せぬままに。
 そして、そこに黒髪の若者の姿を見出す。若者の手は剣の柄をしっかと握り締めていた。その切っ先が、自分の胸から生えている。その意味に気付かぬままに、匈奴兵は口を開いた。
「……なんだ、お前」
 返答は言葉ではなく、行動でもたらされた。
 若者は柄から手を放すと、懐から小刀を取り出したのである。


 無造作に薙がれる刃。切り裂かれた咽喉笛から溢れ出る血と、笛を吹き損ねるにも似たひゅーひゅーという狂った音に顔をしかめながら、匈奴兵は前のめりに崩れ落ちた。
 若者は飛散する血飛沫を嫌うように身をそらすと、地面に伏した匈奴兵の背に刺さったままの剣の柄を握り、その背に足をかけて無造作に引き抜いた。
 剣が抜かれた瞬間、びくり、と倒れ伏していた匈奴兵の身体が痙攣した。だが、ただそれだけ。もはやその口から言葉が発されることはなかった。


 その一連のよどみない動きに呆然としていた匈奴兵の一人――賈逵を押さえつけていた兵は、若者が浩と渙を助け起こしたところでようやく我に返った。
「なんだ、貴様ッ?!」
 返答はまたも刃でなされた。若者は此方を見もせず、横薙ぎに剣を揮ったのである。
 無造作な動きに虚を衝かれながら、その匈奴兵は持っていた剣を立てて、かろうじてその剣撃を防ぐ。
 鉄と鉄とがぶつかりあう甲高い金属音が耳を灼く。
 攻撃が避けられたことを知った若者が、はじめてこちらに向き直る。応じて、匈奴兵が剣を構えなおそうとした、その時。
 匈奴兵は足元に強い衝撃を受け、大きくよろめいた。賈逵が身体ごとぶつかっていったのだ。
「きさ――ッ?!」
 驚愕と、等量以上の怒りに任せて匈奴兵の口が開かれる。だが、剣をもって対峙する最中、その致命的な隙を見逃す者がいるはずもなく。
 揮われる刃の輝きを視界の端で捉えた匈奴兵は、咄嗟に腕で首筋をかばう。その腕に容赦なくたたきつけられる剣刃は、肉を裂き、骨を断ち割り、皮一枚を残して肘を叩き斬る。
 絶叫をあげて地面に倒れこむ兵士。そちらには見向きもせず、若者は賈逵を戒めから解き放つ。


 この頃になると、おくればせながら周囲の匈奴兵も動きはじめていた。
 去卑もまた自失から立ち直り、二人の配下を失ったことに怒りの声をあげる。兵を惜しんだのではなく、簡単なはずの任務にケチがついたと考えたからだった。
 反抗には報復を。それが去卑のやり方であり、それはこんな時にも適用される。去卑は村人を威圧していた配下の名を呼び、血走った目で命じた。
「殺せ!」
 応じて振りかざされる刃。
 賈逵の口から制止の声があがるが、匈奴兵が従うはずもない。
 だが、それらを目の当たりにしても、若者の顔にはいささかの変化も見られなかった。
 制止の声もださず。あるいは村人を救うために駆け寄るでもなく。
 去卑とその配下を、若者は静かに見据えていた。



◆◆◆



 一の矢を放つ。矢は宙空を裂き、今まさに無辜の民を斬り殺そうとしていた匈奴兵の首筋に突き立った。絶叫と共に倒れこむ兵士。    
 さらに続けざまに二の矢、三の矢を放つ。司馬懿の弓は、強弓と呼べるほどの弓勢はなかったが、その代わり、狙いは精妙をきわめた。揺れる馬上の兵士の首や肩を的確に射抜き、次々にその戦闘力を奪っていく。
 予期せぬ攻撃に乱れ立つ匈奴勢。それを確認するや、司馬懿はすぐさまその場を離れ、あらかじめ目していた次の地点を目指す。敵は二十、味方は二人、今の攻撃は不意を衝いたからこそ成功したが、いつまでも同じ地点から矢を放っていてはたちまち居場所を特定されてしまうだろう。


 そうして、目的の場所に達した司馬懿は再び視線を村に投ずる。
 そこには傷を負った少年たちをかばいながら、敵と刃を交えている北郷の姿があった。
 それを見た司馬懿は、すぐさま合図に定めていた指笛を吹いた。鳥や獣の鳴き声にも似たそれは、先刻、援護の体勢が整ったことを知らせるために発したものと同じである。


 激しい剣撃を繰り広げながら、しっかりと周囲にも意識を配っていたのだろう。北郷は司馬懿の合図を聞くや、すぐにその場からとびすさった。それを見た司馬懿は、間髪いれずに弓を引き絞り、矢を放つ。放たれた矢は吸い込まれるように匈奴兵の右肩を射抜き、周囲から驚きと怒り、そして警戒の声が立ち上った。
 その中の幾人かは司馬懿のいる方向に視線を向けているが、木立の陰に隠れた射手を見つけることは出来ないようで、苛立ちの表情を浮かべているのが見て取れた。
 不意に。
 その中の一人が苦悶の声をあげて地面に倒れこむ。北郷が注意がそれた隙をねらって斬りつけたのだ。




 その北郷の姿を遠目に見た司馬懿は、小さく呟いた。
「……劉家の驍将」
 飛将軍を退け、十万ともいわれる仲軍の猛攻から高家堰砦を守り抜き、ひいては広陵一帯を仲の支配から解きはなった、稀有の才。
「ようやく」
 ――その片鱗を、垣間見た。そう思う。


 それは、ただ勇を揮って敵を倒すことを意味しない。北郷がただ戦術的に奮戦しただけだというのであれば、司馬懿とて、ここまで逢ってみたいと考えることはなかっただろう。





 司馬懿が見るところ、淮南戦役において、劉家軍は戦略的に大きな失策を犯した。
 それは官軍――曹操軍と袁術軍、二つの大勢力を敵にまわしたことである。ただでさえ少数の劉家軍は、この二大勢力を敵にまわした時点で敗北を確定付けられたといって良い。
 無論、それが結果論であることは司馬懿も承知している。劉家軍にしても、その時、その時で最善と思われる選択をしていったのだろう。それでも結果として劉家軍は袋小路に追い詰められた。劉家軍は敗れ、劉旗は土に塗れる――そのはずだった。


 だが、現実はそうならなかった。
 当時の戦況、敵味方の動向。時が経つほどに情報の量は増え、証言の数は増し、戦況はより精細に机上に映し出されていく。司馬懿はそれらを見て、一つの結論を出す。
 すなわち、高家堰の奇跡は、本来起こるはずのない戦いだった、という結論を。


 司馬懿の考える「起こるはずのない戦い」というのは二つの意味を持つ。
 一つは、そもそも仲軍が高家堰に攻め込む必要がなかった、という点である。あの砦は、淮南制圧に関して欠かせぬ要地というわけではない。砦に篭る兵力もたかだか数百、無力化する手段などいくらでもあったはずだ。ましてや、仲軍が淮南侵攻に動員したほぼ全兵力をもって砦を囲むなど、司馬懿から見れば狂気の沙汰としか言いようがなかった。
 だが、実際に仲軍はそれを為し、砦外は仲の軍旗と袁旗で埋め尽くされたという。


 二つは、無論、双方の戦力を見比べれば、砦を守りきることは不可能だった、ということである。
 単純な兵力差だけではない。援軍など期待できず、逃亡することもかなわず、万策尽きて砦に篭らざるを得なかったあの戦況を、一体、どうすれば覆すことが出来るというのだろう。
 だが、実際に太史慈と北郷率いる劉家軍はそれを為した。
 ほぼ全滅に等しい打撃を受けながら、それでも戦い続けた劉家軍の奮戦は特筆に価しよう。だが、それだけで覆せるような、生易しい戦況では断じてなかったはずなのだ。
 それを可能としたのは、徐州では敵であった曹操軍と、洪沢湖を緋色で染め抜いた火計の主。前者に関しては指揮官の独断に等しく、後者に関してはいまだ詳細をつかめていない。戦略に組み込むことができない、あまりにも不確かな要素が、あの時はこれ以上ない形で組み合わさり、仲軍を退けるという本来はありえなかった武勲をもたらした。


 攻め寄せる必要のない仲の大軍が攻め寄せ。
 覆すことは不可能であったはずの戦況を覆した――高家堰砦の奇跡。
 許昌の屋敷で伝え聞く戦況を分析し、その異質さに気付いた時の感覚を、何と評すべきかは司馬懿自身にもわからない。
 ただ、一つだけ確かなことがあった。
 思ったのだ。逢ってみたい、と。  
 




「火計の主は別として、曹家の方々が高家堰砦に赴いたのは、徐州の襲撃での恩に報いんがため。他の誰でもなく、あなたがそこにいなければならなかった……」
 必要な時、必要な場所に居ることができる。
 一国の王のように、多くの情報に触れることが出来る立場であれば、それを為すことは可能だろう。だが、そんな恵まれた立場ではない者が、確たる情報も確証もないままにそれを為すことが出来るならば、それは紛れもなく才能であろうと司馬懿は思う。
 司馬懿が知りえたのは、曹操軍が高家堰砦に赴いた理由だけであるが、おそらくあの戦いにはそれ以外の理由が幾つも積み重なっていたのではないか。火計の主とて、仲軍を敵とし、かつあの機を見計らってしかけたことを考えれば、北郷らの動きを注視していたとしか思えない。


 そして、今。
「右賢王は、匈奴において単于に次ぐ位であったはず。そのたくらみを、何の情報もないままに妨げてしまう……なんてでたらめ」
 司馬懿と北郷がこの場にいるのは、率直に言えばただの偶然であった。
 解池を目指してやってきたものの、さてどうやって解池に潜入すべきか、と考えていたところに、山間から立ち上る煙が見えたのだ。
 これは匈奴兵が村の入り口にある見張り小屋に火を放ったものだったが、それを頼りにこの村までたどり着き――後は、状況を見て動いたに過ぎない。


 無論、敵はまだ多く残っており、こちらは北郷と司馬懿の二人のみ。いや、あの賈逵という人物も戦力に入れてかまわないだろう。だが、それでも敵の方が数は多く、危険がまだ去っていないことにかわりはない。
 かわりはないのだが――
「もう、時間の問題でしょう」
 司馬懿の目には、それがはっきりと映っていた。右賢王は数にまかせて北郷らを討ち取ろうとしているようだが、司馬懿の援護によってそれもままならない。
 そして、明らかな動揺を見せる略奪者たちに対し、村人たちの間から反抗の気が立ち上りつつある。
 彼らとして、好き好んで匈奴に従っているわけではないのだ。くわえて、眼前で蛮人が真名を弄ぶところを見せ付けられた彼らは、悲憤の情を堪えかねていたところなのである。
 感情が行動に結びつくまで、さして時間はかかるまい。司馬懿は冷静にそう判断し――そして、その判断が正鵠を射ていたことは、すぐに明らかとなる。



◆◆◆


 
 ただ。
 司馬家が輩出した稀代の英才も、千里眼ではありえない。
 県城から発した一団が、雷光のごとくこの村を目指していることを知るはずはなかった。
 と、いうよりも。
 すでにその先頭をはしる者たちは、村を指呼の間にとらえ、ほどなく村に踏み込んできたのだ。
 すわ匈奴兵の援軍かと、村の中はたちまち騒然となる。その騒ぎには目もくれず、県城からひたすらかけ続けてきた人物――徐晃は、馬から飛び降り、家族の姿を捜し求める。
 幸いというべきだろうか、その姿はすぐに見つかった。
 その背から今も血を流し続ける弟。
 泣きはらした目でその手当てをする妹は、粗末な布で身体を隠しただけの姿で。
 その周りには、乾ききっていない涙で頬を光らせる、幼い弟妹たちがいる。


 徐晃の眼差しは、弟のすぐ後ろに立つ黒髪の若者に向けられた。
 血塗られた剣を提げ、その目にいまだ冷めぬ殺意を湛えたまま、こちらを見据える人物の姿を見て。
 徐晃は、胸の奥のどこかで、何かが弾ける音を、確かに聞いたように思った。
 大斧の柄を握る手に、一際強く力が篭る。柄ごと握り砕けそうなほどに、強く。
  


「……え?」
 なにやら至近で膨れ上がる剣呑な気配に気付いた浩が、振り返ったその時には。
 人身大の嵐は、すでに彼女の恩人に向けて動き出した後であった。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/19 15:24

 并州河東郡解池郊外。
 その時、俺はお世辞にも冷静であるとは言えなかった。真名を弄ぼうとした匈奴兵の蛮行を目の当たりにして冷静でいられるはずもない。
 それでも、司馬懿の援護と村の人たちの協力によって、子供たちを助けることは出来た。
 しかし、と俺は周囲を見渡す。
 村の中にいた匈奴兵の数は二十名ほど。その中の半数近くが俺の視界に倒れ伏している。逆に言えば、半数近くを逃がしてしまったということでもあった。
 村の人たちの中にも、幾人かが匈奴兵に斬られて重傷を負っている。幸い、命に別状はないとのことだったが、一歩間違えれば、死者が出ていてもおかしくはない状況だったのである。
 より正確に言えば――あの右賢王とやらが真っ先に逃げ出さず、最後まで踏みとどまっていれば、間違いなくもっと多くの死傷者が出ていただろう。


 その意味で言えば、あの男の卑劣さが被害を少なくしたとも言えるかもしれない。
 だが、それは一時だけのこと。あの手の輩がこのまま黙っているはずはなく、間違いなく近いうちに、もっと多くの兵を連れて襲ってくるだろう。
 出来れば一人も逃がしたくなかったのだが、俺一人が馬に乗って追撃したところで返り討ちに遭うのは目に見えている。
 否、それ以前に――
「そもそも、鐙のない匈奴の馬じゃあ、俺には乗りこなせないからなあ」
 そう言って、俺はすぐ近くで落ち着きなく嘶いている馬に手を伸ばす。
 幾度か首筋をなでてやると、馬は間もなく落ち着きを取り戻し、円らな目を俺に向けた。俺が何者なのか、確認しているようであった。


 問題は、と俺は右手で馬をなで、左手で血に濡れた剣を持ちながら考え込む。
 右賢王が再度、来襲するまでにどれくらいの時間があるのかであった。解池へ退き、ここに戻ってくるまで馬であれば一日かかるまい。
 あるいは解池まで戻らずとも、このあたりに他の匈奴の部隊が出張ってきている可能性は少なくない。もしそうであれば、最悪、すぐにもあの連中が戻ってくることも有り得るのだ。
 そんなことを考えていた矢先だった。
 慌しい馬蹄の音と共に、一人の少女が視界に飛び込んできたのは。



 寸前まで匈奴の再襲を案じていたこと。
 亜麻色の髪と、琥珀色の瞳という少女の容貌が、先刻まで戦っていた匈奴兵の多くと酷似していたこと。
 この二つは、突然現れた少女に対し、俺が警戒の念を持つには十分すぎる要素であった。
 ――まあもっとも、この時、俺がいま少し冷静であれば、また異なる対応をとれたかもしれない。少女が本当に匈奴の援兵であれば、一人で突入してきた挙句、馬から下りるはずもないのだから。


 しかし、俺はその違和感に気付くことなく、警戒の為に剣を構え。
 その動きに、少女は反応した。そう俺が思った、次の瞬間。


「なッ?!」
 俺とその少女の距離は、確かに十歩以上離れていたはずだった。そして、少女の手には、華奢な外見とは不釣合いな大きな斧。あれでは斧を振り回すことはおろか、持って歩くことさえ出来ないのではないか。そんな俺の考えを嘲笑うかのように。
「……殺(シャア)ッ!」
 俺の眼前に、いっそ軽々と大斧を構えた少女の姿があったのである。


 必殺の気合と共に横薙ぎに振るわれる斧を、俺は咄嗟に剣を立てて受け止めようとする。
 これもまた、俺が冷静を欠いていたことを裏付けるものだった。少女の常人離れした瞬発力、そして大斧を軽々と振るう膂力。目の当たりにしたその事実を考えれば、真っ向からその攻撃を受け止めるなど不可能だと気付かなければならなかったのに。


 だが、俺は気付くことが出来ず。
 奇妙に空疎で、甲高い音があたり一帯に響き渡る。玻璃が割れるにも似たその音は、俺の剣刃が砕け散る音。そして。
「ぐ、ああァァッ?!」
 その反動を受けた俺の身体は、凄まじい勢いで後方に吹っ飛ばされ、民家の壁に叩きつけられた。
 強い衝撃に打ち据えられ、呼吸さえままならない。喘ぐように空気を吸い込もうとするが、その途端、右目に激痛がはしる。
 不意の痛みに耐え切れず、思わず苦悶の声をもらしてしまう。砕けた剣の破片が目に入ったか。だが、傷を確かめている暇などあろうはずもなく。
 赤く染まる視界の端で何かが光るのを確認した俺は、それが何かを確かめるよりも早く、柄だけになった剣を手放すと同時に、全力で真横に倒れこむように転がった。
 間髪いれず、襲い来る大斧の猛撃。轟音。
 少女が振るった大斧が、一瞬前まで俺が倒れこんでいた空間を、背後の壁ごと叩き壊した音だと、わずかに遅れて俺は悟った。 


 これだけの重量級の得物を、小刀でも扱うかのように軽々と操るとは――
「なんつう、でたらめなッ!」
 知らず、そんな言葉が口をついて出る。言いながら、次撃を避けるために、身体は勝手に動いていた、が。
(間に合わない……ッ)
 壁を砕くほどの一撃を放ったにも関わらず、少女はすでに得物を高々と抱え上げていたからだ。それを振り下ろせば、地面に倒れこんでいる俺の身体は胴のあたりから綺麗に両断されてしまうであろう。
 それでも、俺は諦め悪く、その攻撃を避けるために這うように動き出す。
 そんな俺の姿がどう映ったのか、無表情な少女からは読み取れない。俺にわかったのは、俺を見下ろしながら、少女が呟いた一言。
「……さよなら」
 という、その言葉だけだった。
 そして、少女が容赦もためらいもなく、俺に斧を叩きつけようとする――その寸前。



◆◆



「ちょ、ちょっと待ってください、鵠姉さんッ?!」
「こ、鵠姉さん、お、落ち着いてッ!」
 大慌てで、その腰に抱きついたのは渙と浩である。突然の激突に呆然としていた二人が、ようやく我に返って止めに入ったのだ。
 渙などはまだ背中の傷の手当ても終わっていなかったが、みずからの恩人と、敬愛する姉が殺し合いをしている状況では、手当てなんぞ後回しにするしかないではないか。


 二人の弟妹の行動に対し、鵠――徐晃の口からは、意外に明晰な言葉が発された。
「大丈夫だよ、二人とも」
 その声に、二人はほっと安堵の息をこぼした。正気に返ってくれた、とそう思ったのだ。しかし。
「私は落ち着いているよ?」
 そんな言葉と共に振り下ろされた大斧は、殺意と言う名の明確な感情を宿して揺ぎ無かった。
 あと、全然落ち着いてなかった。


『だから駄目ですってばッ?!』
 異口同音に叫ぶ弟妹の声は徐晃の耳に届いてはいた。が、その内容を吟味するための冷静さとか落ち着きとか、そういったものが、今の徐晃には致命的なまでに欠けていたのである。
 それでも、二人が腰にしがみついたことで、攻撃そのものの鋭さは大幅に減じられ、北郷は危ういところで避けることが出来た。
 それでも、いまだ虎口を脱するには至らない。腰にしがみつく子供たちをひきずるようにして歩み寄ってくる徐晃の姿を見て、北郷の背に冷たいものが走る。北郷の目には、今の徐晃の姿は、先刻の匈奴兵なんぞ比べ物にならないくらいに恐ろしいものとして映し出されていた。


 無論、子供たちの行動は北郷の目に入っていた。それでも北郷は徐晃に向け、制止の声も、誰何の声も発しない。ただひたすらその攻撃に意識を集中させている。そうしなければ、たちまち自分の首が宙を舞うであろうことを、本能的に察していたのである。
 その感覚が間違いないことを証明するかのように、唸りをあげて眼前の空間を薙ぐ斧。
 幸いというべきか、子供たちのおかげで徐晃の俊敏さは封じられる形となっており、あとは力任せに振るわれる一撃から、ひたすら身を避けるだけ――なのだが。
 それとて決して簡単なことではなかった。なにせ、かするだけでも肉が散り、骨が砕けるのは間違いない、という攻撃なのだ。怪我で狭まった視界では遠からず追い詰められてしまうだろう。だからといって、この女怪の攻撃が他の人たちに向けられたらと思うと逃げることもできぬ。
 断続的に襲ってくる右目の痛みに耐えながら、どうすれば良いのかと、北郷は苦悩で顔を歪ませていた。




 一方の徐晃にとって、事態はすこぶる簡明だった。
 眼前の人物をたたっ切る。ただそれだけ。
 今も怯えて泣き縋る(と徐晃は思い込んでいる)弟妹たちには、もう二度と手を触れさせない。
 ミシミシ、と。柄から発する異音こそ、もっとも徐晃の心情を代弁するものだった。
「こ、鵠姉さん、駄目ですよッ」
「お願いですから、落ち着いてッ」
「うん、大丈夫だよ。もうちょっと待っててね――すぐに、終わるから」
『終わらせちゃだめーッ?!』
 悲痛な弟妹たちの叫びも届かない。ちょこまかと小賢しく逃げ回る敵に対し、徐晃は今度こそ、との必殺の念もて大斧を振り上げる。
 その意を察したか、相手の顔に緊張がはしるのを徐晃は見たように思う。
 こちらに向けられる鋭利な眼差し。相手は右の目を傷つけ、得物もなく、反撃の手段は無いに等しい。徐晃の勝ちは揺らがない、そのはずだった。
 だが、若者の目に諦めの色は微塵もなく、今、この時も反撃の方法を模索して、めまぐるしく頭を働かせているのだろう。若者の眼差しを見て、徐晃はそう確信する。


 油断をしたら、やられる。
 理屈ではなく、直感で徐晃は悟る。この手の人物に対しては、首を刎ねるその時まで、一瞬たりとも気を緩めてはいけないことを、徐晃はすでに学んでいた。
 ゆえに。
 油断なく、容赦なく、躊躇なく――
「――今度こそ、さよなら」
 振りかざした大斧を、振り下ろす。
 応じて、若者が動き出そうとした、その瞬間。






「い…………」
 なにやら大気が鳴動するような不穏な気配が巻き起こる。
 少なくとも、渙にはそう感じられた。否、渙だけでなく、近くにいた二人――徐晃と北郷もそれを察したのだろう。なにやら戸惑ったように渙たちを見つめていた。正確には渙たちではなく……


 渙はおそるおそる二人と同じ方向――すなわち、隣にいる浩を見た。不穏な気配の発生源は、間違いなくそこだったから。


 浩の顔は伏せられ、その表情をうかがい知ることは出来なかった。だが、渙は見た。いつも笑みを浮かべている浩の口元が、真一文字に引き結ばれていることを。
「い……」
 可憐な唇から、ぼそりと声がこぼれでる。優しくもなく、暖かくもない、ただただ平静。静かな淵にも似た声音にどうしてこれほど身体が震えるのだろうか。


 凡庸な目では見抜けようはずもない。
 猛々しき激流よりも、静穏なる淵の方が、水はより深いことを。
 ゆえに、一度溢れたならば、それをとめることは困難を極めるのであって……
 そのことに思い至り、慌てた渙は、決死の覚悟で浩へと呼びかける。
「浩――」
 だが。
 遅かった。



 次の瞬間、天地を震わせるような雷喝が周囲一帯を――というか、村全体を包み込んだ。
「いい加減にしなさーーーーーーいッッ!!!
 

 





 ――後に、北郷は語る。当時のことを思い出し、痛そうに耳をおさえながら。
『あれは、母さんの必殺技に、優るとも劣らなかった』と……






◆◆◆



「じゃあ、あの……全部、私の勘違い……?」
「な、なるほど、徐公明殿か――道理で……」


 あの後。
 浩という女の子に一喝され、正座させられた俺と徐晃は、改めて互いの立場を説明され、呆然と顔を見合わせることになる。
 ちなみに浩は滔々と俺たちにまくし立て、怒ってます、と言わんばかりに頬を膨らませつつ、俺の目の手当てと渙の背中の治療をしてくれた。それが済むや、今度は徐晃に抱きついてわんわん大泣きする浩。
 浩のように小さな女の子にとっては、あまりにたくさんの出来事が、いっぺんに起こりすぎたのだろう。挙句、駆けつけた姉と俺の殺し合いを眼前で見せ付けられれば、それは穏やかな気性の子であっても、爆発せずにはいられまい。申し訳ないことをしてしまった。
 今は泣きつかれて、徐晃の腕の中で眠っている浩の顔を、俺は忸怩たる思いで見つめるしかなかった。


  
 そんな俺の視線に気付いたのか、徐晃は硬い表情で俺の視線を遮るように浩を抱きしめる。
 すでに誤解は解け、互いに謝罪は済ませているのだが、ついさきほどまで真剣に殺し合いをしていたのだ。すぐに笑顔で語り合えるはずもなかった。


 そんな俺に、背後から声がかけられる。
「――おや、嫌われてしまったようだな、一刀」
「否定はしないけど……そもそも、そっちがきちんとあの子の手綱を握っていれば、何の問題もなかったんだぞ、子和」
 俺はじと目で声をかけてきた人物――曹純を睨みつける。
「む、面目ない。ここに来る途中、匈奴の斥候とぶつかってしまってな。やりあっている間に、公明殿が先行してしまったんだ」 


「それなら仕方ないか。まあ、幸い、大事には至らなかったし」
 曹純の言葉を聞いて、俺はほぅっとため息を吐く。
 つい先刻まで対峙していた少女が、あの徐晃だと知った時は、しばらく身体の震えが止まらなかった。なるほど、それならあの尋常ならざる少女の武芸も納得できる。あの徐晃を相手にしてよくも命があったものだ、と我がことながら感心してしまう俺だった。


 ともあれ、曹純が来てくれたことはおおいに有難い。これでこの村の人たちを逃がすことが出来るからだ。
 俺の言葉に頷きつつ、曹純は口を開いた。
「ここに来たのは五十騎だけだが、南に行ったところに虎豹騎と河東郡の軍兵、あわせて千五百が待機している。斥候程度なら問題ないが……ただ、解池から敵の主力が出てくると厄介だ」
「右賢王を逃がしてしまったからな、それなりの兵力で来ると思うけど……」
 村での出来事は、すでに曹純にもおおまかに説明してある。俺は首をひねりつつ、言葉を続けた。
「ただ、いきなり千を越える援兵が来ているとは知らないはず……って、そうか、子和がぶつかったっていう斥候は?」
「すまない、何人か逃がした。さすがに匈奴は馬の扱いに長けていてな」
「……そうすると、あまり楽観もしていられないか」
 総兵力はわからずとも、官軍が来ているとわかれば、向こうも相応の対策を練ってくるだろう。それとも、いきなり全軍で向かって来るか。
 白波賊だけならまだしも、匈奴の動きを読むのは難しい。ましてこちらは向こうの情報がまったくわからないのだから尚更である。



 そうやって俺と曹純が顔をつきあわせて相談していると。
「あの……」
 不意に横合いから声をかけられた。見れば、どこか複雑な顔をした徐晃がいつの間にか、すぐ近くに立っている。浩という女の子は弟たちに託したようだ。
「右賢王、と聞こえましたが、去卑が来ていたのですか?」
「あ、いや、名前はわからない。ただ兵の一人が右賢王と呼んでいたのは確かだな」
 そう言って、俺が大体の人相や風体を教えると、徐晃は小さく頷く。
「去卑に、間違いないみたいですね。なら、急いで行動した方が良いです。あの人は執念深くて、同じくらいに用心深い性格ですから、恥をかかされたら黙っていません。そして官軍がいるとわかれば、少数の兵で来るようなこともしないでしょう」


「――解池に戻ったら、動かせる限りの兵を連れて来る、ということだな。確かにあまり猶予は無さそうだ。礼を言う、公明殿」
「……いえ、こちらも弟妹の命がかかっていますから」
「そうか――ところで、一刀」
 曹純の呼びかけに、俺は怪訝そうに首を傾げた。
「お前と司馬家の令嬢、何か目的があってこの地に来たのだろう。この後、どうするつもりだ?」
 曹純は村人の手当てをしている司馬懿に視線を向ける。
 ちなみに曹純は司馬懿の顔を知っており、最初にその顔を見たときは目を丸くしていた。司馬家の麒麟児として、司馬懿の名は許昌ではかなり有名であるらしい。
「年端もいかぬ齢ながら、衆に優れた才知と秀でた容貌を併せ持てば、自然、人の口の端にのぼる機会も多くなるだろう。むしろ一刀が知らなかったことの方が驚きだ」
「……知っていたら、あんな無様を晒さずに済んだんだけどね……」
「…………な、なんだかよくわからないが、気を落とさないようにな、うん」
 知らず、どんよりと生気のない表情をしていたらしく、曹純が引いていた。いかんいかん。


 俺は気を取り直して、この地に来た事情を曹純に説明する。さっきはそこまで説明する暇はなかったのだ。
「……解池に不穏な動きがあるから調べてこいっていう伯達殿(司馬朗)の命令だよ。で、俺はその護衛役らしい」
「なんだ、その『らしい』というのは。自分のことだろう?」
 そう言われても、自分より強い上に頭も切れる子の護衛役とか、胸を張って言えることではないのですよ。
「そうなんだけど……まあ、それはともかく、解池の情報を集めるためにここまで来たんだ。この状況じゃあ潜入なんて無理そうだし、子和たちと行動を共にさせてもらえると助かる」
 後で確認はとるつもりだが、多分、司馬懿も異存はないだろう。
「それは助かる。では遠慮なくこき使うとしよう」
「お手柔らかに、将軍閣下」
「それは聞けんな、長史殿」
 そう言って短く笑いあう俺と曹純の姿を、どこか戸惑った様子で、徐晃がじっと見つめていた。
 その視線に気付いた俺が徐晃の方を見ると、さっと視線を逸らされてしまう。
 俺としても、ついさきほどの猛撃はそうそう記憶から消せるものではなく、あえて声をかけようとは思えなかった。
 気まずいというには、いささか重過ぎる沈黙が、俺たちの周囲にはびこっていた……











 ――したがって。
 この出会いから数年の後、次のようなやりとりをすることになるとは、この時の俺はまったくもって予想だにしていなかったのである。










◆◆◆◆



 解池陥落から数年後。とある城内にて。


 

 第一印象、というのは重要である。少なくとも俺にとっては。
 たとえば、とある青竜刀をもった黒髪武将に対する苦手意識(今となっては笑い話でしかないが)は、初対面の時の記憶が濃厚に作用していたし、とある金髪弓武将の腹ぺこキャラ疑惑(別の意味で笑い話にしているが)もこれに類する。
 ゆえに、初対面でいきなり斬りかかってきた亜麻色の髪の少女のことを、ヒト科うっかり属の生物扱いしたり、時にそれを口に出してからかったりすることは、決していきなり斬りかかられたことへの意趣返しなどではないのである。
「う……」
 無論、最初の一撃で剣を叩き折られ、飛び散った破片が眼球をかすって、あやうく失明しそうになったりしたことへの報復でもなく。
「うう……」
 勿論、唸りをあげて襲い来る斧撃の恐怖を心底に植えつけられてしまい、今なお思い出す度に夜な夜な飛び起きることへの恨みでもなく。
「ううう……ッ」
 ただ、半泣きになってこちらを睨む徐晃が面白いから、からかっているだけなのである。


「今、本音出たッ!」
「気のせいです」
「面白いから、からかっているって言いましたよね?!」
「空耳です。あと、今、書いている名人録(誤記にあらず)、渙くんと浩ちゃんの次に徐公明の名前があるんだが、これも他意はないので」
「……内容は、なんて書いてあるんですか?」
「ええと……『史公劉――姓を史、名を渙、字を公劉。徐晃の義理の弟。後漢末期の動乱にて親を失っていたところを徐晃に保護され、以後、その下で扶育される。若年の頃より文武に長じ、朝廷に仕えてからはその武勇と、寡黙ながら誠実な為人を見込まれ、近衛隊である虎豹騎の一員となる。曹純の転任後、曹操直々の命令にて部隊長に抜擢され、見事に期待に応える働きを見せている』」


 俺が史渙の項を読み上げると、徐晃はそれまでの不機嫌が嘘のようににこにこと笑顔になった。弟の活躍が嬉しくて仕方ない、といった様子だ。
 ちなみに曹純も史渙も、男にしておくにはもったいない容姿の持ち主のため、虎豹騎の隊長になるためのハードルが無駄に高くなってしまった観がある。
 また、なまじ曹純が人望、統率力ともに優れた指揮官であったため、後任の史渙の力量を疑問視する声もあがったのだが、曹純が去った後、兵士たちは新隊長である史渙に、曹純に勝るとも劣らない崇敬の念を向けているとのことだった――それはそれで別の意味で心配だ。大丈夫かな、渙くん。あ、いや、もう公劉殿と呼ばないと駄目か。月日が経つのは早いものだ。


 そんなことを心中で呟きつつ、俺は続いて韓浩の項を読む。
「『韓元嗣――姓を韓、名を浩、字を元嗣。徐晃の義理の妹。史渙と同じく、徐晃の下で扶育される。武に関しては兄ほどの適性はなかったが、優れた統率力をかわれて兄と同じく虎豹騎に抜擢される。先陣に史渙、本陣に韓浩という陣立てが新たな虎豹騎の戦術として確立されつつある。本人はほんわか癒し系の女の子。だがしかし、怒ると怖いのは、幼少時から変わらず。その柔和な笑みが顔から消えたら要注意。折悪しくその場に居合わせてしまった者の中で、心当たりのある者は即座に平謝りすること。なお心当たりがない者は、脱兎のごとく逃げることを推奨する』」
 俺が読み上げると、徐晃が戸惑ったように首を傾げた。
「……な、なにかいきなり文体が変わってませんか?」
「俺の趣味で、思いつくままに書いてるだけだから」
「そ、そうなんですか……あの、それで、その」
 私のは、と、どこか緊張した面持ちの徐晃に促されるように、俺は眼前の人物の項を口にする。
「『徐公明――姓を徐、名を晃、字を公明』」
(……どきどき)
「『ヒト科うっかり属に属する三国一のうっかり武将』」
「……は?」
「『彼女ほど、うっかり属の存在を世に知らしめた者が他にいるであろうか? いや、いないに違いない』
「反語ッ?!」
「『うっかりに始まり、うっかりに終わる。ああ、これ以上は記すことさえはばかられる……』
「はばかられたッ?! しかも『……』までしっかり書いてありますッ?!」
 たまらず覗き込んできた徐晃が悲鳴じみた声をあげるのを聞き、俺は充実感すら覚えながら名人録を閉じた。
「以上」
「『以上』、じゃないですよッ! もう、もうッ!!」
 拳を振り上げる徐晃から、笑い声をあげながら逃げ出す俺。顔を真っ赤にした徐晃が追いかけてくるのを見やりながら、俺は名人録を懐にしまった。
 別に徐晃をからかうためだけに書いたわけではない――その目的があったことは否定しないが。
 趣味だと言ったのは本当で、折に触れて自分の好き勝手に書き綴ってきたのだ。いずれ完成したら本として出版――したら、一部の人間に半殺しにされそうなので、こっそり書棚にしまっておこう。間違っても、歴史の史料に供されるようなものではないので、それで十分だろう。
 この時の俺は、そう考えていたのである……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/20 23:01

「それは本当か?!」  
 目を血走らせ、そう言ったのは南匈奴の右賢王たる去卑。その後ろには一千を数える匈奴の精鋭が続いていた。
「ま、間違いありません。連中は村から動いてませんぜ。重傷を負った奴らを放っておけないとか言って、立て篭もる準備をしてました。なんでも官軍がすぐ近くまで来てるってことでしたが……?」
 眼前で報告する兵士は、去卑が徐晃の家族を捕らえるために連れて行った兵士の一人であった。逃げ遅れ、とうに殺されたと考えていたのだが、村の連中の隙をついて馬を奪い、ここまで逃げてきたのだという。


「それはそのとおりだが……」
 言いつつ、去卑は猜疑心に満ちた眼差しで兵士を見据える。
 千を越える官軍が解池に近づきつつあることは、逃げ帰ってきた斥候の報告で、すでに匈奴側も掴んでいた。それゆえ、去卑に兵を与えて迎撃に出したのである。
 実のところ、去卑が於夫羅に請うたのは、敵に倍する二千の兵数だった。
 だが、於夫羅は、叔父である去卑の求めを「漢族相手ならば千で十分であろう」とあっさりと退ける。その眼差しが始終、冷たい輝きを放っていたことに気付かない去卑ではない。これが汚名を返上するために与えられた最後の機会であることは明らかだった。この戦いに敗れれば、粛清の刃は今度こそ去卑の首筋へと落ちるであろう。
 これまでは他者を切り捨てる側に立っていただけに、切り捨てられる恐怖は想像以上の重みをもって、去卑へとのしかかっていた。 


 報告によれば、官軍は小高い丘の上に陣取り、柵をつくるなどして急造の陣地をつくり上げているという。その一方で近隣の住民を保護し、運河を用いて後方の県城へ逃がしているとのことだった。
 官軍の居場所は、件の村から何日も離れているわけではない。おそらく連中は村を捨てて、そちらに向かっただろうと去卑は考えていた。であれば、官軍の陣地を蹂躙した後、虱潰しに周辺一帯を捜せば、見つけることは容易かろう、と。
 

 だが、連中がまだ村に残っているとなれば話は別だ。
 兵さえいない村を襲撃し、無様に追い返された挙句、ただでさえ激減していた手勢の半数を失ってしまったことは、去卑の自尊心に深い傷を与えていた。あの村の連中を皆殺しにし、家屋をことごとく焼き尽くし、畑には塩を撒いてやらねば、この激情はおさえられぬ。
 連中が官軍と合流していないなら幸い、即座に討ち滅ぼしてやる、と去卑は考えを定めかけた。


 だが、と去卑は元々細い目を、さらに細めて考え込む。
 死んだと思っていた兵士が生きて戻り、しかも今もっとも欲する情報を持っている――あまりに都合が良すぎはしないか。
 おまけに。
「水路が使えるのだ。怪我を負った者を逃がすことは容易かろう。怪我人を理由に村に残る必要がどこにある?」
 報告にもあったではないか。水路を使って民を県城に逃がしている、と。
 そもそも、あの村の連中にとっては、こちらは殺しても飽き足りない敵であるはず。その敵の耳に情報をもらした挙句、あっさりと逃がすとは、いかに腑抜けの漢族とはいえあまりにも不自然だ。


 つまりは――
「……故意に情報を流した、か」
 逃げ帰った匈奴兵が、村への報復を企むことは容易に推測できるはず。その上で、報復の標的がまだ村に居残っているという情報を流したからには、向こうは匈奴兵を村に誘き寄せようとしているのだろう。
 村に戦力をまわせば、当然、官軍へ向ける戦力は薄くならざるを得ない。
「わずかでもいい、時間を稼ぐための策か。陣地の守りを固めるにせよ、民を逃がすにせよ、漢族には時間がいくらあっても足りないだろうからな。だが――」
 なめられたものだ、と嘲りをこめて吐き捨てる。
 ここまで小細工を弄しても、匈奴相手ならば見抜かれないと思っている相手に対して。
 そして、実際にそれを見抜けず、肩を射抜かれた傷に顔をしかめながら、それでも手柄顔をしている眼前の配下に対して。


 まあ良い、と去卑は内心で考えた。
 小細工を弄して陣地に居竦まっている官軍を一戦のもとに屠り、匈奴を戦うことしか出来ない野獣だと考えている敵に思い知らせてくれよう。



 獣は獣でも、我らは知性ある獣――猛き狼の一族である、そのことを。




◆◆◆




 解池から発した匈奴の一軍は、軍を分けることなく、官軍の陣地に直進しつつあり。
 その報告を、俺は曹純の傍らで聞くことになった。
 曹純が渋い顔でこちらを向く。
「どうやら見抜かれたようだぞ、我が軍師」
「長史になったり、軍師になったり忙しいな、俺。じゃあ、本当は何なのかと聞かれても答えに迷うわけだが」
 曹純の戯言に戯言で返すと、傍らから、落ち着いた声が補足をしてくれた。
「今のところは私の護衛です」
 そう言ったのは、黒髪を頭の右側で束ねた少女であった。


 その少女に向け、俺は、もう何度目かもわからないお願いを口にする。
「……今さらなんだけど、仲達殿は後方に下がってくれませんか? 具体的には県城まで」
「本当に今さらです。私がここにいないと、北郷殿がこの場にいる理由もなくなると説明したはずですが。ただでさえ、北郷殿の行動には色々と制約がついてくるのですから」
「それはその通りなんだけど、あとで口裏をあわせるとか、方法はあると思うのですよ」
「陛下に偽りを口にしろ、と仰せですか?」
「……失言でした」
 あっさりと司馬懿に言い負かされた俺は、ため息を吐きつつ、かぶりを振る。
 口と理屈では勝てないことはわかっているし、そもそも十三の女の子に対して、村の外から弓矢で援護してくれと頼んだ時点で、俺が、司馬懿を戦場から遠ざけたいと願う資格は失われている。
 それを自覚しているがゆえのため息であった。


「……で、そこの人は、なんで口元ゆるめて俺を見てるんだ?」
 俺がじろりと睨んだ先には曹純がいた。
「いや、なに。あの一刀がこうもあっさりと口で敗北するとはめずらしいと思ってな。うん、麒麟児という仲達殿の評に偽りはなかったのだな」
「お褒めいただき恐縮でございます、曹将軍」
「なに、こちらもめずらしいものを見せていただいて感謝している、仲達殿」
「……一体、俺は普段どう見られてるんだろう」
 ぼそりと呟くと、当の二人はしごく真面目な表情で、同時に口を開いた。
「聞きたいか?」
「お聞きになりたいのですか?」
「……結構です」
 深いため息が、声に続いた。



「まあ、それはともかく」
 俺を弄るだけ弄って満足したのか、曹純が話を戻す。
「どうする、一刀? 敵はどうやらこちらの狙いに勘付いたみたいだが」
「特にどうもしないよ――というか、そもそもどっちに転んだって構わないようにしたことは知ってるだろうに」
 俺は周囲の村人――に扮した虎豹騎を見渡した後、怪訝そうに曹純を見た。


 すでに本物の村の人たちは怪我人を含めて、舟をつかって県城に逃がしてある。村人全員を乗せるだけの舟の用意はなかったが、それはとある斧使いさんに頑張ってもらって、筏をつくってカバーした。
 筏の材料になる木材は周囲にいくらでもある。ついでに、切り倒した木材の一部は官軍の陣地つくりに流用していたりする。そのため、結構な量が必要になったのだが、ほとんど汗もかかずにそれを用意してしまったあたり、さすがは徐晃といったところだろうか――やがては歴戦の名将になるはずの人に木こりを頼むとか、人材を無駄遣いしてる気がしないでもないが、そのあたりはあまり深く考えないことにする。


 俺は曹純に進言し、村人の避難に徐晃と虎豹騎の一隊を割くと、残余の虎豹騎を村人に扮装させて、各処に配置した。
 一方で河東郡の軍兵の指揮は賈逵に頼み、陣地を構築してもらったのである。
 現在の官軍の配置をおおまかに言えば。


 山村には曹純と俺、司馬懿と虎豹騎四百騎。
 陣地には賈逵と河東郡の軍兵一千。
 県城に避難している民のところには徐晃と虎豹騎百騎。
 県城には太守の王邑率いる河東郡の軍兵一千と許緒率いる虎豹騎五百騎。


 以上のようになる。
 俺が村でとらえた匈奴兵をあえて逃がしたのは、無論、敵を山中に誘導するためである。平野では恐るべき破壊力を誇る匈奴騎兵だが、木立が矢をさえぎり、密集した草木が馬の脚をからめとる山中にあっては、その実力を十全に発揮することは出来ないと考えたからだ。
 無論、それはこちらの騎兵にも同じことが言えるのだが、匈奴と違い、こちらの兵士は歩卒としての訓練も十分に積んでいる。おまけに地の利もこちらにあるのだから、敵が多勢であっても、戦いを有利に進めることが可能であるはずだった。少なくとも、引っ掻き回して進軍を遅らせることくらいは出来るだろう。


 しかし、その目論見は曹純が言うように見抜かれてしまったようだ。
 では作戦はご破算なのかと言えば、別にそんなことはない。賈逵が丘の上に築いたのは、土を盛り、柵をたてた程度の急造の陣地であろうが、それでも遮るものとてない平原で戦うことに比べたら、どちらが有利かは考えるまでもあるまい。
 元々、朔北の兵は機動力を活かせない攻城戦を苦手とする。たとえ城どころか砦と称するのもおこがましい粗末な陣地であったとしても、守る側にとっては十分な拠りどころとなるはずであった。


 ――つまるところ、山に来ようが、陣地を攻めようが、匈奴にとって不得手な戦いになることに違いはないのである。司馬懿と綿密に話し合った末の作戦だから、そうそう破綻はないはずだった。
 ただひとつ、心配な点は――
「匈奴が、こんな小細工が通用しないくらいの大軍で攻め寄せてきてたら、まっすぐに後ろを向いて逃げなきゃならなかったんだけどな」
 幸い、去卑率いる匈奴兵は一千のみ。後続は確認されておらず、白波賊も動く様子はないという。
「兵の損失を嫌ったのか、官軍なんて千もあれば十分だと本気で考えているのか……」
 あるいは、官軍の手を借りて去卑を始末しようとしているのか。
 だが、そのために千の精鋭を捨てるとは考えにくい。すると、あと考えられるのは……


 そんな俺の考えを中断させたのは、黒衣をまとう司馬懿の言葉だった。 
「――蛮族の思惑を、ここで考えたとて詮無いこと。時が来れば明らかになるでしょう。それよりも、今は動くことを優先するべきです。去卑なる男、人柄は愚であっても、将として必ずしも無能であるわけではありません。ぐずぐずしていると戦機を逸する恐れがあります」
「……ごもっとも。確かにここで頭をひねっている間に、陣地を陥とされたら洒落にならない」
「うむ。梁道殿(賈逵)であれば、そうやすやすと敗れるとは思えないが、それは私たちがここでのんびり話している理由にはならないな」


 敵がこちらの策にかかったのなら、山中で敵をあしらっている間に、陣地の防備をより一層固め、民を逃がす時間を稼ぐ。
 逆に敵がこちらの策を見抜き、全軍を陣地に向けたのなら、俺たちは山を降り、陣地を攻める敵の後背を衝く。
 敵が兵を分けるようなら、各個撃破してしまえば良い。そして、それが不可能なほどの大軍であれば、斥候の報告を聞いた時点でとっとと退却を開始する。
 これは最初からの約束事であったから、司馬懿の言葉は要約すれば「無駄口叩いてないで、さっさと決め事どおりに動きなさい」ということであり、その正論に男二人は畏まって頭を下げるしかなかったのである。


 
◆◆◆



 河東郡解池城内。
 その奥まった位置にある、つい先日まで守将であった賈逵の私室。
 解池の治安と政治を司る場所であったこの部屋は、今、南匈奴の単于と白波賊の頭目が同衾するだけの場所と化していた。
 質素を旨としていた賈逵は、室内に無用な調度を置くことを好まず、室内は殺風景なものだったが、現在の主たちも室内を飾り立てる趣味は持ち合わせていないらしく、身体をあわせる場所さえあれば問題はないと考えているらしかった。


 奇妙に甘い空気が漂う室内にあって、逞しい裸身をさらしながら、気だるげに寝台に横になっていた於夫羅が、不意に口を開いた。
「……しかし、良いのか? 虎豹騎とやらが出てくれば、あの叔父では勝てぬぞ」
 鏡に向かって髪を整えていた楊奉は、おどろいた様子もなく、口元に笑みを浮かべる。
「その方が御身にとっては喜ばしいことではありませんか?」
「……千の勇者を無為に散らすつもりで、あのようなことを申したか?」
「此度が最後の機会であること、右賢王とて承知していましょう。必死に戦えば、勝つ目も出てまいります。勝てば無論よし、負けたとて匈奴の機動力をもってすれば、将兵の死傷者は最低限で済むと存じます」
 楊奉の口調に淀みはなかった。だが、同時に芯もなかった。あらかじめ考えていたことを、ただなぞっているだけのような、奇妙に無機質な話し方であった。


 だが、於夫羅はそのことに気付かない。あるいは気にしない。
「そのような迂遠なことはせず、最初から全軍で蹴散らす、という手もある。今からでも遅くはあるまい」
「御身が望まれるのであれば、そのようになさいませ。ですが、朝廷の大軍が間もなく押し寄せるは必定。漢の誇る精鋭との戦いを前に、辺境の弱卒を相手に武を揮ったところで虚しいだけでは?」
 解池が陥落したことで、朝廷は塩の供給を断たれた。無論、解池以外で塩を生産している場所がないわけではないが、解池の生産量と比すれば微々たるものだ。ゆえにこの城の奪還は漢朝にとって至上命題、袁紹と袁術が隙あらばと許昌を狙っていることを承知していても、今だけは動かざるを得ないのである。


 強敵との戦いを望む於夫羅にとって、それは十分すぎるほどに戦い甲斐のある相手である。楊奉の言葉はそのことを指していた。
 於夫羅は小さく鼻を鳴らした。
「ふん、相変わらず何を考えているか読めぬ女だ。財貨を欲せず、利権を求めず、この地の塩にすら手を出さぬ。お前は何を望んで余に近づき、この城を陥としたのだ?」
「わたくしは強い男が好きなのです。好いた男の望みがかなうよう力添えをしただけのことですよ」
「そして、より強い男が現れれば、それまでの男は情け容赦なく捨て去るか。余に先の白波の頭目を殺させたように」
 於夫羅の言葉に、一瞬、鬼気がこもったように思われた。楊奉を見据える視線に、一際力がこもる。
 しかし、楊奉はさもおかしげに笑って、その視線を軽くいなしてしまう。
「ふふ、男とて、飽いた女は捨てましょう? 女が飽いた男を捨てるも同じこと。ただわたくしの基準が他の女子と異なり、容姿でも、此方を思う心でもなく、強さである――そうお考えくださいまし。御身が強くあり続ける限り、そして御身がわたくしに飽きぬかぎり、わたくしは御身の傍らに侍り続けましょうほどに」


 単于に向ける言葉としては、あまりに不敬。
 だが、何故か於夫羅は楊奉を斬ろうという気になれなかった。
 女として充実しきった肉体を、まだ嬲り足りないという思いもある。同時に、単于たる身にここまで堂々と己をぶつけてくる女に出会ったことがない於夫羅は、こういった遣り取りにさえ愉悦を感じている自分に気付いていた。
 要するに、於夫羅は楊奉を気に入っていたのである、これまでにないほどに――そして、これまでの男たちと同じように。
 そのことに思い及びながら、それでも――
「――こちらに来い」
 やはり、於夫羅は楊奉を手放すことが出来なかったのである。


 楊奉の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/23 18:36


 不安がなかった、と言えば嘘になるだろう。
 賈逵は押し寄せる匈奴軍に対し、応射を指示しながら、率直にそう認めた。
 それは作戦を主導する者があまりに若すぎることへの危惧。
 彼らのたてた策は確かに有効であると思えたが、机上の作戦はことごとく成功するもの。それは敵にも同じことが言えるのである。
 だが、実際に敵と刃を交えれば、必ず勝者と敗者はうまれてしまう。敗者は、机上の作戦を現実にあてはめる際、どこかで失策を犯しているのだ。


 河東郡は匈奴の勢力と境を接する地であり、賈逵はその恐ろしさを良く知っている。そして賈逵と同じように、あるいはそれ以上にこの地の将兵は匈奴の強さを骨身に刻んでいる。
 ことに野戦における匈奴兵の破壊力は、中原のほかの戦ではまず目にすることの出来ないものであった。
 匈奴が城攻めを苦手としているのは確かだが、急造の陣地でどこまで匈奴兵を防ぐことが出来るかは心許ない。何より、麾下の将兵の動揺を賈逵は案じた。怖じた兵士は、本来の半分の力も出せないからだ。


 それゆえ、賈逵は、もし若者たちがそこまで気を配れていないようであれば、自身が動くつもりだった。
 だが、と賈逵は周囲の将兵を見て、思う――自分の心配など無用であった、と。
 河東郡の将兵は、敵が匈奴兵と知りつつ、怯え逃げ回るどころか、むしろ勇を揮って相手を迎え撃とうとしていた。
 解池の惨劇を知らされ、憤った者もいる。
 県城と、そこに住む家族に戦火が及ばないように決意した者もいる。
 もっと単純に、勝利の後に約束された恩賞目的の者もいるだろう。
 そして、彼らのすべてが一つの共通の認識を持っていた。この戦いは勝てるのだ、と。
 敵が匈奴であろうとも、自分たちが力を尽くせば撃ち破れる。何故ならば――


 味方には、丞相子飼の精鋭である虎豹騎がいる。
 そして、わずか数百の将兵でもって、十万の偽帝を退けた劉家の驍将がいるのだから。


 麾下の将兵の士気の高まりを察した賈逵は、当初、首を傾げた。
 淮南における戦いの趨勢は賈逵も聞き知っている。北郷一刀の名も記憶にある。
 だが、それは賈逵が解池の官軍を統べる身であったからであり、この地の民や将兵が遠く淮南における戦いの顛末や、そこで活躍した者の名を一々記憶にとどめているとは思えなかった。
 虎豹騎はすでに一度、匈奴勢を撃ち破ったという実績があるが、北郷の名が士気高揚に役立つものか、と首をひねる賈逵は一つの事実に気付く。
 将兵の間を渡り歩きながら、さも大げさに淮南における大戦果を吹聴している者たちがいることに。解池の惨劇を口にし、故郷を蹂躙させてなるものかと気勢をあげる者たちに。その数は一人や二人ではなかった。
 彼らが何のためにそんなことをしているかは瞭然であった。そして、誰がそれを命じたかも。


 無論、ただそれだけで士気が一気に高揚するような即効性のある策ではなく、おそらくはやらないよりはまし程度に考えたものだろう。
 その意味で言えば、賈逵があの村で助けられたことの方が、将兵の士気により良い影響を与えているというべきであった。
 だが、効果の優劣など些細な問題。
 うつべき手を抜かりなく打ち、幾つもの偶然と必然を積み重ねた末に、今の将兵の姿があるという事実に、いささかのかわりもないのだから。


「……名将とはすなわち、兵士に必勝の確信を刻む将を指すというが……」
 さて、あの若者たちは何と呼ぶべきなのか。そんなことを考えつつ、賈逵は配下を鼓舞して押し寄せる匈奴勢に対し、更なる斉射を浴びせ続けた。
 匈奴兵の多くは軽装騎兵であり、鉄製の甲冑をまとわず、獣毛や牛革の防具で身を固める。ゆえにこそ、その機動力は恐るべきものがあるのだが、一つの陣地に縛られた今の彼らはその機動力を活かせない。
 先日来、官軍が懸命に地面を掘ってつくった空堀や、その土を盛って出来た土壁、それに木で出来た馬防柵が邪魔をして、匈奴兵は思うように攻め込むことが出来ず、到るところで立ち往生してしまう。
 そこを見計らって射こまれる矢の雨。軽装の人馬はかわしきれずに悲鳴と共に倒れこみ、またそのことで後続の味方の動きさえ止めてしまう。


「射よ、射よ! 手を休めるな! 奴らに、蛮行の報いを与えてやるのだ! そして、骨身に刻んでやるのだ、ここは我ら漢族が生きる土地なのだ、とな!!」
 賈逵の言葉に、兵士たちの喊声が続いた。



◆◆◆



「おのれッ、あの程度の敵に何をてこずっている?!」
 予期せぬ苦戦を目の当たりにして、去卑は上ずった声で怒号を放つ。
 官軍の陣地は決して大規模なものではなく、土を積み上げ、木の柵を並べた粗末なものだった。この程度で匈奴騎兵の突進を食い止めようとしている官軍に、哀れみさえ覚えながら、去卑は攻撃を指示した。
 蹴散らすのに一刻もかかるまい。あるいは一千の匈奴騎兵が馬首をそろえて突進する様を見れば、官軍は戦うことも出来ずに逃げ散るかもしれぬ、そう考えながら。


 だが、官軍は去卑の思いもよらない頑強な抵抗を示した。
 陣地を活用し、矢を放ち、槍を連ねて匈奴騎兵の突進を食い止める。それどころかしばしば逆撃に転じて、出血を強いてきた。
 南匈奴の将兵は、漢土に来てからというもの、ほとんど苦戦というものを経験していない。多少なりともてこずったのは皇甫嵩率いる官軍と戦った時くらいであり、それとて、最終的には白波賊との挟撃で全滅まで追い込んだ。
 漢土の兵は弱く、寄せれば逃げ、攻めれば勝つ、というのが匈奴兵の認識であった。ゆえに、眼前のみすぼらしい陣地に居竦まっているはずの官軍から、思わぬ抵抗を受けた匈奴兵は驚きを禁じえなかったのである。


 無論、それで怖気づくような匈奴兵ではない。
 思わぬ反撃は、むしろ彼らの怒気を誘発する結果となり、攻勢はより勢いを強めていく。
 それでも官軍は崩れない。かつてない粘りを見せながら、懸命に匈奴の攻勢を凌ぎ続けた。
 膠着する戦況。
 去卑は一部の兵力を後方にまわすなどして戦況の打開をはかったが、丘陵上の陣地からは麓の動きが手に取るようにわかる。いかに匈奴が機動力に優れるとはいえ、陣地内での展開よりも素早く動くことは不可能であった。


 もしこの戦いが平野で行われていれば、同数の兵でも余裕をもって勝利できただろう。
 敵に倍する兵力を率いていれば、強攻して陣地を攻略することも出来ただろう。  そのいずれも選ばなかった、または選べなかった去卑率いる匈奴勢は、官軍の頑強な抵抗に対して攻めあぐね、いたずらに被害を重ねていく。
 早朝から始まった攻撃は、日が中天に達してもなお続けられ、いまだに朗報は届かない。指揮官である去卑の苛立ちは募るばかりであった。  



 去卑は周囲に百の兵士を配している。これは自らの身を守るためであり、同時に敵にとどめを刺すべく用意した切り札でもあった。
 それは、逆にいえば全軍の一割を遊兵にしてしまったということ。それでも問題なしと判断した去卑は、己の計算違いを認めざるを得ず、不甲斐ない配下に舌打ちしつつ、ようやくみずからの部隊を動かそうとした。
 だが。 


 後方から響く音は、幾千の馬蹄が地を蹴るもの。
 大地を轟かして疾駆する人馬の音は、去卑にとって耳慣れたものであった。
 それゆえに、去卑はそれを味方だと考えた。そして、表情を曇らせた。
 於夫羅の気が変わって援軍を派遣してくれたというのであれば、何の問題もない。だが、あるいは密かにこの戦の様子を探るものがおり、苦戦の報告を聞いた於夫羅がもう去卑には任せておけぬと判断したのかもしれない。そうであれば、たとえこの戦に勝ったところで、去卑自身の命運は尽きてしまうのだ。
「誰でも良い、こちらに向かって来る部隊に確認してこい。何のために来たのか、と」
 いま少し早く動くべきであった、と舌打ちしながら、去卑が口を開く。
 何人かの兵士が心得たように動き出す。


 兵士たちは馬を駆って、接近してくる一団との距離を詰めていたのだが、双方の距離が近くなってくるにつれ、奇妙な胸騒ぎを覚えた。
 その胸騒ぎが具体的な形をともなったのは、近づく騎馬の一団が陽光を映して眩い輝きを発した瞬間であった。鉄装備をつけない匈奴兵ではありえないその輝きは、必然的に彼らに一つの事実を突きつける。
 そのことに思い至り、匈奴兵は慌てて馬首を返そうとしたが、すでに遅かった。迫り来る騎馬の一団が放った矢が、うなりをあげて彼らの頭上に降りかかってきたのである。


 人馬ともにはりねずみのように全身に無数の矢を受けて絶命する匈奴兵。
 その彼らの上を五百に及ぶ騎兵が通り過ぎていく。一団が去った後に残ったのは、原型もとどめず、土に染み付いた血肉だけであった。
 だが、それを気に留める者は誰一人としていない。
「……捉えたッ! 全軍、突撃せよッ!」
 外縁部にいる騎兵の一団を視界に入れた曹純は、槍を振りかざして背後に続く将兵に命じるや、自ら先頭を駆けて突っ込んでいったのである。



◆◆◆



 虎豹騎の突撃を受け、明らかに浮き足立った様子の匈奴勢を見て、俺は小さく首を傾げた。少し脆すぎるように思えたのだ。
「こちらの接近に気付かなかったわけでもないだろうに。味方だとでも思っていたのか?」
 だとすれば、随分と拍子抜けである。
 仮にも右賢王は単于に次ぐ位なのだ、この程度の相手とは思えないのだが……


 そんなことを考えていると、隣から声がかけられた。、
「……偽報で相手の考えを誘導した張本人が口にする台詞ではないように思います」
 平静な中に、どこか呆れた調子が含まれたその声は司馬懿のものだった。
 俺と司馬懿の周囲には二十騎ほどの虎豹騎が護衛として残っている。
 何故、俺が残っているのかといえば答えは簡単で、虎豹騎に混じって剣を振るい、騎射を行うほどの武勇が、俺にはないからだった。正直、遅れないようについてくるだけで精一杯だった。さすがは虎豹騎、曹操の誇る最精鋭という評は伊達ではなかった。
 無論、司馬懿の手前、そんな情けない素振りは見せないように努めたが、あるいは司馬懿のことだから、とうに見抜かれているかもしんない。


 それはさておき、俺は司馬懿の言葉に、もう一度、首を傾げる。
「それはそうなんだけど、な」
「……何か、気になることがおありのようですね?」
 そう言うと、司馬懿は目線で先を促す。
 それを受け、俺は一旦、司馬懿から視線を外すと、周囲を見渡して、何か異変がないかを確認した。
 はっきり言えば、俺は足手まといのためにここに残されたわけだが、一応、見張りの役目も持っている。後方の解池から、もしくは城外に出ているであろう他の部隊がこの戦場に来ないとは限らないのだ。
 無論、解池には見張りをつけているが、匈奴兵の機動力をもってすれば、見張りからの知らせが俺たちに届く前に、こちらの陣を襲来することも不可能ではないのである。


 しかし、幸いそういった援軍が参戦する様子はない。であれば、多少、口を余計に動かしても問題はないだろう。
「曹純から、敵の将帥である於夫羅の為人は聞いた。だから、全体の舵を取っているのはその下にいる部下なんだろうと思ってたんだけど」
 その筆頭である右賢王が、自分で言うのもなんだが、こんな若造に振り回される程度の人物なのだろうか。
 あの村で見た去卑という男、確かに人としての品性は劣悪を極めたが、人柄と能力は必ずしも比例しない。こと戦に関しては、それなりの力量を持っていると考えていた俺にとって、この展開はいささかならず意外なものであった。


 俺の言葉に、司馬懿が思慮深い眼差しを向け、自らの見解を告げる。
「王は武に淫し、宰相は策に淫する。それゆえに南匈奴は衰退したのでは?」
「それはその通りだと思う」
 頷きつつ、ただ、と俺は言葉を続けた。
「それにしては、韓暹を殺し、白波賊を手中に収め、解池の攻略をなした手際が鮮やかすぎる。新しい才能が匈奴に現れたのかとも思ったんだが、この戦いを見る限り、その可能性も薄い」


 あと、考えられるとすれば、新たに白波賊の頭目となった楊奉か。
 韓暹の背後にあって、白波賊の勢力を拡げたように、今度は南匈奴の単于である於夫羅の影にあって、匈奴に力添えをしていると考えれば――
 しかし、そうだとすると眼前の戦いに説明がつかない。楊奉が俺の危惧しているような人物なのだとすれば、去卑のような人物に、主力である匈奴兵の二割に及ぶ兵力を預け、空しく散らせるような愚策を選ぶとは思えないのだ。


「――なるほど。解池を陥とした手際と、その後の無策な動きが、あまりにくいちがっている、と」
 司馬懿の言葉に、俺は頷いた。正しくその通りなのだ。そう、まるで――
「解池さえ陥とせば、後はどうでも良い……そんな風に見える。でも、それはおかしいんだ。たとえばこれが、都の官軍を引き出すための陽動だとしても、今ここで兵力を無益に損じて良いはずがない。丞相が動けば、十万以上の兵を動かせるんだから」
 無論、許昌の守りを考えれば、許昌の全軍を動かすことは不可能だが、それでも解池にこもった白波賊と匈奴勢よりも、はるかに多い兵力を動かすことは可能なのだ。向こうにしてみれば、今は一兵でも惜しいはず。一千の軍勢を捨てるがごとき、今回の動きは明らかにおかしい。



 これまで、俺は幾つもの戦いを経験してきた。
 黄巾党とぶつかった大清河の戦い、曹操軍とぶつかった徐州での撤退戦、またその引き金になった曹家の襲撃。そして淮南で対峙した呂布と、袁術軍。
 いずれも、相手からは強い意志が感じられた。目的は種々あった。それは野望であり、理想であり、ただ生き残るという意思であり、時にはただの獣じみた欲望であったりした。だが、いずれにせよ、勝利を望み、その先に何かを求める者との戦いだったのだ。



 ――この戦いにはそれがない。何故か、そう思われてならなかった。得体の知れない寒気に、知らず背筋が震える。
 そんな俺の顔に、何を見たのだろうか。
 不意に司馬懿が手を伸ばし、俺の腕に触れた。
「……仲達殿?」
「――特に今でなければいけないわけではないのですが……この際なので、お願いがあります」
「は、はあ? 何でしょう?」
「そろそろ、年下の小娘に『殿』をつけるのはおやめくださいませ。曹将軍のように呼び捨てていただいて結構ですから」
「あ、いや、それは……なんというか失礼では……」
「れっきとした将軍を呼び捨てにしている方が、何をいまさら」
 めずらしく、はっきりとした笑みを口元に浮かべながら、そう言う司馬懿に、俺は一言もなく押し黙るしかなかった。
 では、今後ともよろしく。
 そんな風に笑う司馬懿を見た俺は、了承の代わりに小さく肩をすくめる。


 ――さきほどの悪寒は、いつのまにか消えていた。
  



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 幕間
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/27 20:58

 幽州遼西郡易京城。


 見渡すかぎり広大な平野が広がる北の大地を、今、白銀の大河が流れていく。
 曹孟徳の懐刀として知られる程昱は、曹操に仕える以前、各地を旅してまわり、見聞の広さにはそれなりに自信を持っていたが、それでも今、易京城より見下ろしているような光景は見たことがないと断言できる。
 それは白銀の甲冑をまとい、白馬に跨った騎兵たちによってつくられる人の奔流であった。


「……これが音に聞こえた白馬義従ですかー。戦うための部隊とは思えないくらい綺麗なのですねー」
「ふふ、丞相閣下の使者殿にお褒めいただけるとは光栄だよ、程仲徳殿」
 易京城の城壁の上。
 周囲には護衛の兵も置かず、公孫賛は一人、許昌から派遣されてきた程昱の傍らに立っていた。
 彼方の平原では公孫賛自慢の白馬隊が縦横無尽に駆け回っている。その数は三千。公孫賛の誇る最精鋭であるが、無論、公孫賛麾下の騎兵はこれだけではない。
 先年来、公孫賛は騎兵の拡充に国力を注ぎ込んでおり、その数はすでに一万を大きく越えていた。
 これは反董卓連合結成時にくらべ、倍ないし三倍近い数である。公孫賛が短期間にこれほどの騎兵の増員をなしえた理由は――


「おにーさん発案の鐙のおかげ、というわけですね」
「まあ、そうだな。北郷があれを考え付かなかったから、ここまで騎兵の数を増やすことは無理だったな。馬自体はなんとでもなるが、それに乗る兵士の練成が間に合わなかったろう」
 程昱の言葉に頷きつつ、公孫賛はどこか苦みの残る笑みを浮かべる。
「もっとも朝廷も――いや、曹丞相もとうの昔に騎兵の拡充に動いていると聞いてるぞ。徐州侵攻においては、その騎兵が大きく活躍したともな。まったく北郷の奴め、たしかにあたしは鐙のことを黙ってろとは言わなかったが、敵になるとほぼ確定している者に、戦の技術を伝えてどうするんだ」
 それは程昱と郭嘉が、鐙の技術を曹操にもたらしたことを指している。何故、公孫賛がそんなことを知っているかといえば、程昱が自分でそのことを口にしたからだった。


「あの頃のおにーさんはいまいち自分が何をしたのかの自覚に薄かったですからねー。まあ、風たちもとくにそれを指摘したりはしなかったわけですが」
「そのあたりはさすがに策士というべきかな?」
「さて、どうでしょう?」
 童子が戯れるかのように、程昱はくるくると人差し指を回してみせる。
 意味などない。悪戯っぽく光る目を見ればそれは明らかだった。
「仮にあそこで風たちに鐙のことを隠していたら。そして華琳様たちがそのことを知らずにいたら。淮南での戦い、どうなっていたでしょうか?」
 だから、どちらが正解というものでもない、と程昱は小さく笑って言った。
 その顔を見て、公孫賛はふと思う。まさか、眼前の少女は、その頃から先を見通して動いていたのだろうか、と。
 無論、そんなはずはないとすぐにその考えを打ち消したが。


「ともあれ、わたしの戦力は言ったとおりだよ。河北の覇者を自称するあのおほほ娘にひけをとるつもりはないさ。もっともあちらは冀、幽、二州の牧。こちらは一郡の太守に過ぎない。名目上はわたしは本初(袁紹の字)の配下だからな。名分はどう見てもあちらにあるんだが……」
 それも昨日までのこと。
 許昌の朝廷は、公孫賛に一つの地位を与えた。程昱はその使者としてはるばるこの地までやってきたのである。
 その地位とは――


「遼西郡太守公孫伯珪を鎮北将軍に任ずる。朔北の脅威より中華を守り、また、一朝河北に乱起こりし時は、皇帝陛下の忠実なる臣下として、これを征すべし――鎮北将軍は朝廷の北部方面指揮官、事あったときは周辺の州牧を麾下に置くことが出来る。これに従わないことは、すなわち朝廷に叛すること、か。まったく曹丞相も良く考えるもんだ。わたしを誘うに、これ以上のものはない」
 苦笑しつつ、公孫賛は朝廷の抜け目なさを認めた。


 現在、河北の地で巨大な勢力を築きあげた袁紹に対し、公然と不服従の意思を示しているのは、公孫賛ただ一人であろう。
 冀州牧と幽州牧を兼ねる袁紹に対し、公孫賛は遼西郡太守という小身であるが、それは朝廷の官職だけを見た場合である。
 両者の実質的な領土を見た場合、袁紹が冀州全土と幽州の南半を領しているのに対し、公孫賛は幽州の北半を領し、さらにその北に広がる遊牧民族である鮮卑族にも影響力を持っている。
 総合的に袁紹が優勢であることは間違いない。しかし、それはいつ両者の立場がひっくり返っても不思議ではない、その程度の差でしかなかった。


 当然ながら、河北の覇者たらんとする袁紹にとって、公孫賛の存在は目の上のコブである。また、公孫賛にとっても、官職を笠に度々服従を要求してくる袁紹の傲慢は腹に据えかねるところであった。
 したがって、この二勢力の間で大きな戦が起こるのは時間の問題だったのである。
 ただ袁紹は南に曹操という大敵を抱え、公孫賛にしても国力で劣り、大儀名分でおくれをとっていることは自覚せざるを得ない事実。
 そのため、互いに今一歩踏み込むことが出来ず、結果として小競り合いに終始していたのである。


 袁紹を共通の敵とする点で、曹操と公孫賛は立場を同じくする。
 袁紹軍が南下した際、北で公孫賛を動かすというのは、誰もが考えつく策であり、曹操から誘いの手が伸びてくることは公孫賛の推測の中にあった。
 しかし、公孫賛は自分から曹操と誼を結ぼうとはしなかった。それは何故か。
 理由は幾つかあるが、まずこちらから申し出ることで交渉の際に足元を見られる恐れがあったこと、そして河北で袁紹と公孫賛が戦端を開いた時、四方に難敵を抱える曹操が北上できるとは思えなかったことが挙げられる。
 利用だけされて捨てられる。朝廷の狐狸と化かしあいをするよりは、単独で袁紹と対峙した方が良いと判断した公孫賛の胸のうちを、曹操も、そして使者となった程昱も承知していた。


 ゆえに程昱が持ち込んだ話は、ただ地位職責でもって公孫賛の歓心を買うに留まらない。
 それは正確な段階を踏んで実行されるべき戦略であった。


「本初が圧力を強めている北海に対し、新たに領土とした徐州から援兵を送り込む。北海と冀州の要地である平原はさほど離れていないし、平原を越えれば本拠地である南皮を直撃されてしまう。本初は北海に更に兵を向けざるを得ない、か」
 公孫賛の言葉に、程昱はこくりと頷く。
「はいです。徐州からは曹一族の子孝さん(曹仁)が出ますし、袁紹さんが動いた後は陳留の張太守、済北の鮑太守が北進します。鎮北将軍さんは、それを確認した後で動いてほしいのですよ」


 公孫賛は腕組みしつつ、脳裏で戦況を描く。
「北海、陳留、済北の三箇所で兵を動かせば本初も本腰をあげざるをえないな。その上であたしが北で動けば、たしかに効果的だろう。しかし、徐州や兌州の防備は大丈夫なのか? それだけの兵が動けば、袁術は間違いなく動くと思うが」
「徐州には陳太守(陳登)がいますし、兌州には元常さん(濮陽城主から東郡太守となった鍾遙)がいますから、滅多なことにはならないと思うのです。それに、ですねー」
 程昱は右の人差し指を立て、くすりと笑う。
「許昌では、袁紹さんが動けなくなった分、より自由に動けるようになった華琳様率いる大軍が今か今かと仲軍が動くのを待っているのです。袁術さんたちが徐州や兌州に兵を出したなら幸い、豫州から寿春まで、一息に押しつぶしちゃえば良いのですよ」


 袁紹と袁術、この両者の動きを警戒して曹操は容易に許昌を動くことが出来なかった。しかし、その一方が動けない状況をつくりあげることが出来たなら、話は大きくかわる。
 曹操の動員能力は、昨年の徐州侵攻の段階で二十万に達していた。そしてあの戦いで、曹操軍は被害らしい被害をほとんど出さずに徐州を占領し、その軍勢を麾下に組み込んでいる。
 あれから数月。それは曹操軍の再編を完了するためには十分すぎるほどの時間であった。
 
 
「といっても、軍を半分にわけて、一方は袁紹さん、一方は袁術さんというふうにぶつかれるほどの兵力はなかったですから、華琳様もこれまでは動かずに機を待っていたのですけどね」
 それは具体的に言えば、公孫賛に提示した戦略が実現可能となるまでの時間を稼いでいたということであった。
「華琳様が河北と淮南の動きを気にするあまり、居竦まっていると思っている人もいたみたいですがー、あの華琳様が他者に主導権を渡すのをよしとするはずないのです」
「ほほー、さすがは曹丞相、と言わねばならないかな。ちなみにここであたしが首を横に振ったらどうするつもりだったんだ?」
「その時は公孫家は頼むに足らずと華琳様に伝えて、袁紹さんに使者を出すよう勧めますねー。鎮北将軍の地位と、朝廷の命令があれば、袁紹さんは間違いなくここを攻めるでしょうし、そうすれば結果として、しばらくは風たちにかかる圧力がなくなりますから」
 その間――つまり、袁紹が公孫賛を滅ぼすまでの間、曹操は北を気にすることなく、兵力を南下させ、偽帝を滅ぼすことに専心できるというわけである。
 結果として袁紹の勢力を肥らせることになるが、曹操軍も淮南をくわえて強大化できる。そして曹操と袁紹の衝突の勝者が、中華の覇者に一番近いところに立つであろう。


 そう語る程昱に、公孫賛は両手をあげて降参の意を示す。
「ああ、わかったわかった。つまらないことを言ったな、許せ。あたしとしても、あえて陛下と曹丞相に弓引くつもりはないよ」
「いえいえ、もちろん風も冗談で言っているのでお気になさらず、ですよ?」
「はは、冗談であたしを滅ぼす策が出てくるとは、怖い軍師殿だ」
 そういいつつ、こっそり冷や汗を流す公孫賛。
 それを見た程昱は口元を手で覆い、くすくすと微笑んだ。
 童女のような笑みが、何故かやたらと怖く感じたのは果たして気のせいなのだろうか。
 背筋に寒気を覚えつつ、そんなことを考える公孫賛であった。




◆◆◆




 荊州襄陽城。


 荊州牧である劉表、字を景升という人物が統治の拠点を置く城市である。
 長江の支流である漢水の中流域に位置する襄陽は、水利に恵まれ、また中華帝国の臍ともいえる要地にあることから、人々の流入が盛んであった。
 劉表は中原の戦乱を避けてきた難民を受け入れて人口を増やし、同じく中原から逃れてきた知識人らを受け入れて文化を興し、今やその首府である襄陽は中華全土を見渡しても屈指の大都市として、大いなる繁栄の時を迎えていた。


 その襄陽城の一画、劉表の一族が住まう室。
 その内で、今、一人の少女が物憂げな表情で窓の外を見つめていた。
 糸杉のごとくすらりとした身体に白絹の衣服を纏う少女の背を、服とは対照的な艶やかな黒髪が流れる様は思わず見惚れてしまうほどに優美であった。だが、それは同時にどこか脆さを感じさせる。まるで高価な青白磁の器を前にした時のように。
 触れてはならないものであると見るものに思わせてしまうのは、病的なまでに白い頬や、透き通るように薄い暗灰色の瞳のせいなのだろうか。


 少女の姓を劉、名は琦、真名を薔(しょう)。荊州牧劉表の長子である。
 もっとも劉琦は生来病弱なこともあって、早くから後継者候補から外されていた。
 現在の後継者は劉琦の妹の劉琮である。荊州の有力な臣である蔡一族らは劉琮を支持している。彼らを上回る権勢を得ようと、時折、野心を抱く者が劉琦の近くに侍ろうと画策することがあったが、聡明な劉琦は荊州と、またその者たちのことをも考え、これを退け続けた。
 やがて、そういった野心家も劉琦に近づくことを諦めたため、後継者争いは未然に芽を摘まれることとなったのである。


 だが、それは同時に劉琦に孤立を強いた。
 劉表の一族とはいえ、権勢とは無縁の病弱な少女のもとにあえて顔を出す臣下はいない。
 また劉琮の生母と近臣たちは劉琦の聡明さを警戒した。今でこそ後継者の座に欲を見せていないが、いつ豹変するかしれたものではない。健康が回復したら、長子としての立場を示して、劉琮の座を奪わないと誰が保証できるだろう、と。
 劉表は二人の娘のことを等分に可愛がっていたし、劉琮本人も優しい姉に懐いていた。それゆえ直接的な危害を加えることこそなかったが、蔡瑁らの冷えた感情が劉琦に向けられていることは、見る者が見れば明らかであった。
 蔡瑁らに睨まれることは、荊州における栄達を捨て去るに等しい。そんな危険をおかしてまで、少女のもとを訪れる者は荊州にはいなかった――そう、つい先年までは。 


 
「お嬢様、新野の玄徳様がお見えでございます」
 侍女から一人の人物の来訪を告げられた途端、劉琦の白い頬にかすかではあるが朱が差した。
「お通ししてください。それとお茶の用意をお願いしますね」
「かしこまりました」
 そう言って侍女が退出してしばし後。


「やっほー、薔(しょう)ちゃん、お久しぶりー」
 それまで室内に滞っていた儚さとか脆さとか、そういった諸々をすべて取り払ってしまいそうな生気に満ちた声と共に、その人物――先日、新野の城主に任じられた劉備がその姿を見せたのである。





 普段は滅多に見せない笑みを、めずらしくはっきりと表情に浮かべた劉琦は、すぐに心づいたように頭を下げる。
「お久しぶりです、桃香様。本日はお呼び立てしてしまい、申し訳ありませんでした」
「なにいってるの、薔ちゃんのためなら新野から来るくらい何でもないんだから」
「ありがとうございます。けれど……その、他の臣たちが、また口さがないことを申すのでは、と……」
 劉琦がわずかに眼差しを伏せる。
 その意を悟って、劉備は困惑を誤魔化すために、あははと笑いながら頬をかく。
「え、えーとね、それは今にはじまったことじゃないし……じゃない、ほら、景升様に報告しなきゃいけないことがあるって言えば、あんまりうるさくも言われないよ……たぶん」
 語尾にこめられた不安げな感情に気付かない劉琦ではない。胸に両手をあてて深々と頭を下げる。
「本当に申し訳ありません。桃香様は荊州にいらしてまだ日も浅いのに、偽帝から私たちを守るために新野を守ってくださっている。私たち荊州の臣民はどれだけ感謝してもしたりないというのに……」


 その劉琦の言葉に、しかし劉備は穏やかに、しかしきっぱりと首を横に振る。
「荊州の人に助けられたのは私も同じだよ、薔ちゃん。感謝してもしたりないっていうなら、それは私の方」
 徐州から逃れ、淮南を駆け、はるばる長江をさかのぼった。あの逃避行のことを思い出しているのか、劉備の声がやや沈んだように思われた。
 しかし、それも次の瞬間には、また元の生気に満ちた口調に戻る。その心根の強さを感じ取り、劉琦はかすかに目を細めた。まるで中天に輝く太陽を見るかのように。
「その恩義にすこしでも報いたいから、景升様から新野の守備を頼まれたときも喜んでお引き受けしたの。そのことを感謝してほしいなんて思ってないし、まして感謝されて当然だなんてこれっぽっちも考えてないから。だから、そんな風に薔ちゃんが気を遣う必要はないんだよ?」


 劉備はさして力を込めて語っているわけではない。当然のことを、当然のこととして話しているだけなのだろう。
 劉琦にはそれがわかる。
 だからこそ余計に眩しいのでしょうね、と内心で呟きながら、劉琦はこくりと頷いた。
「……はい。では、言い直しますね、桃香様。本日は私の招きに応じ、遠く新野からお越しいただき、本当にありがとうございます」


 劉備はにこやかに、どういたしまして、と頷いてから、まだわずかに納得いかないのか、小さく唇をとがらせる。
「……うーん、でもまだちょっと硬いよね、もうちょっとくだけて話してくれた方がわたしとしては嬉しいんだけどなー。あ、そうそう、あとそろそろ『桃香様』もやめない? 普通に『桃香』で私は全然かまわないんだけど」
「それは……すみません、もうすこしお時間をください。玄徳様は私と同じ劉姓の一族の年長者、しかも太祖縁の宝剣を持つお方。目上の方に丁寧な口の聞き方をするのは当然だとしつけられてきましたので……」
「そっかー。でもでも、元はむしろ売りの私と、州牧の息女である薔ちゃんなら、むしろ薔ちゃんの方が目上かもしれないよ。それに年長者っていっても、一年も離れていないんだし」


 無茶な理屈を展開してくる劉備に、劉琦は困ったように微笑む。その姿だけを見れば、たしかにどちらが年長者かわかったものではなかった。
 文字通り深窓の令嬢として育った劉琦には、他者との距離の掴み方がわからない。特に劉備のように自分の感情を素直に出してくれる人は、これまでいなかったから尚更である。
 それでも、劉琦が困惑よりもはるかに大きな喜びを感じているのは、ほころんだ口元を見れば明らかであったろう。実際、劉備の口から腹蔵ない素直な言葉がぽんぽんと飛び出てきて、自分に向けられることが、劉琦には楽しくて仕方なかったのである。


 父は優しくしてはくれるが、病気がちな劉琦の身体と、劉琮の母への遠慮があったし、妹にしても母や近臣たちへの遠慮があるせいだろう、近頃は足を向けてくれることも稀になった。それは仕方のないことだと、強がるでもなく劉琦は自然と納得していた。そして、家族でさえそうなのだから、それ以外の人たちにこれ以上、何を求めることが出来るだろう、とも。
 そう考えることが出来る聡明さと、受け入れてしまえる強さを持っているゆえに、劉琦は孤立するしかなかった。望むと望まざるとに関わらず、それが荊州の安定のためには最良だとわかってしまうから。


 だから、はじめて劉備と出逢った時、劉琦は心底驚いたのである。
 明るく、暖かく、時に騒がしいくらいであるけれど、たしかな温もりを伝えてくれるその為人。太陽が降って来た、とそう思った。
 


◆◆



 しばらく後、劉琦の私室を辞した劉備は、形良く整った眉を顰め、なにやら考え込むようにおとがいに手を当てながら、ゆっくりと歩を進めていた。
 するとその先で、劉備を待っていた者が声をかけてくる。
「もうよろしいのですか、桃香様?」
「あ、星ちゃん、ごめんね、待たせちゃって。うん、ちょっと薔ちゃんから気になる話を教えてもらったんだ」
 趙雲はそれを聞き、小さく頷いた。
「そのようなしかめ面をされているところを見るに、やはり穏やかならぬ話であったようですな」
 そう言いながらも、趙雲の表情に驚きはない。劉琦からの使者が新野を訪れた時点で、きな臭い内容であることは明らかだったからだ。
 劉備が荊州の有力者たちに疎まれていることを知っている劉琦が、襄陽まで出向くように伝えてきた。それはすなわち、書面に記すことさえ憚られるような内容を伝えたいということを言外に示していた。


 劉備は周囲を気にしつつ、声をひそめる。その声は、劉備にはめずらしく隠しきれない怒りを孕んでいた。
「この前、寿春から使者が来たんだって、この城に」
 相手の名ではなく、あえて根拠地を口にするあたりに、劉備の浅からぬ感情が示されている、と趙雲は思う。
 無論、趙雲とて無心でその名――淮南の袁術の名を口にすることは出来ない。
 趙雲自身は淮北で曹操軍と対峙していたため、直接、袁術軍と矛を交えてはいない。だが、淮南の戦いにおける詳細は当然のように当事者たちから聞きだしている。その名に好意的な感情を示せるはずがなかった。


 しかし、と趙雲は内心で首を傾げる。
 襄陽に来てからこちら、そういった話は誰からも聞かされていない。荊州の中には数こそ少ないが、劉備に好意的な人物もいる。そういった者たちからも、袁術の名は聞かされていない。
 趙雲はその点を口にした。
「荊州にとっても、寿春は不倶戴天の敵であったはず。使者の持ち込んだ内容がなんであれ、我らはともかく、他の荊州の臣下が知らないというのは妙ですな」
「うん、薔ちゃんの話だと、そもそも使者が来たことさえ、ほんの一部の人しか知らないんだって。内容にいたっては薔ちゃんさえわからないって。ただ――」
「和戦いずれにせよ、秘すべき内容であることは間違いない、ということですか」
 たとえば新野を差し出す代わりに和平を結ぶ、とかそういったことか、と趙雲は考える。


 荊州の蔡一族らが、劉琦と親交を深める劉備を敵視しているのは衆知の事実であった。
 仲の領土である荊州南陽郡。新野はそれに接する仲との最前線である。この城に劉備が派遣されたことにも、蔡一族らの思惑が絡んでいることは間違いあるまい。袁術から何らかの手が差し伸べられたか、あるいは蔡一族が何らかの話を持ちかけ、その返答が来たのか。いずれにせよ、袁術が絡んでいる時点で、新野の劉備たちにとって他人事ではありえなかった。




 もっとも、と趙雲は口元をほころばせる。
 そこにはつい今の今まであったはずの負の感情はない。どこか暖かさを含んだ笑みを湛えながら、趙雲は口を開く。
「蔡一族は桃香様を恐れることはなはだしいですが、それは致し方ない面もありましょう」
 思わぬ趙雲の言葉に、劉備は驚いたように目を瞬かせる。
「へ? わ、わたし、何かしたっけ?」
「劉家軍の武威は、今や荊州全土に鳴り響いております。その主である桃香様が劉琦殿に力を貸せば、それに追随する者も出てまいるやもしれませぬ。無論、お二方にそのような野心がないことは承知しておりますが、それがわかる者であれば、そもそもこちらを敵視したりはせぬでしょう」


 そう、劉備率いる劉家軍の強さは、今や天下に隠れないものとなっているのだ。数こそ五千に満たず、それこそ兵力でいえば蔡一族が動員できる兵力の十分の一にも達すまい。
 だが、そんなことは些細なことであった。何故ならば――


 劉家軍はわずか五百の軍勢をもって、あの偽帝袁術の誇る告死兵と、それを率いる飛将軍呂布を撃退せしめたのだから。
 あまつさえ、十万を越える袁術軍の総力をあげた大軍勢による猛攻を、最後まで耐えしのぎ、広陵以東への侵攻を食い止めることに成功さえしたのである。
 しかも、それを為したのは関羽や張飛、あるいは諸葛亮や鳳統といった、劉家軍の中でも天下に名の知られた猛将、智将ではない。
 淮南における戦いが始まるまで、その名を知られることもなかった新参末席の将軍たちが、天下を驚愕させる大功をたてたのである。


 ゆえに、蔡一族ら劉家軍を敵視する者たちは当然のようにこう考えた。
 わずか五百の軍と末席の将軍たちがそれだけの力を持っているのであれば。
 本隊と、本隊を指揮する上位の将軍たちの力はそれ以上ということになりはしないか、と。
 劉家軍に数倍する兵力を抱えていたところで、どうして安堵できようか。
 長年、袁術と矛を交えているからこそ、彼らは知っていた。自分たちの武力が偽帝に遠く及ばないことを。その偽帝を退けた者たちの上に立つ劉備が、長年にわたって無力化させてきた劉琦と親しくなっていく様を、どうして安穏と見ていることが出来ようか。


 そう言うと、趙雲はくすりと楽しげに笑う。
「まあ、安穏としていられぬのは我ら新野の将兵とて同じことですが。淮北で別れた時は将ですらなかった子義と一刀があれだけの功をたてたのです。我らがそれに後れをとるような無様を晒せるはずがありませぬ」
「うん、そうだよね……子義ちゃんと一刀さん、それに他の皆も、頑張ってくれたんだから……」
 伝え聞いた高家堰砦の死闘を思い浮かべたのだろう。劉備の顔に翳りが生じた。
 が、それはすぐに意思の力で拭い去られる。
 太史慈と北郷が、そしてあの地で果てた多くの兵士たちが命を懸けて守り抜いた劉旗。それを掲げるに足る自分であることを、一刻たりとも揺るがせにはできないのだから。
 その決意は劉備や趙雲のみならず、新野にいる者たちすべてが――武官、文官に関わらず、等しく抱くものであった。
 趙雲は頷きつつ、告げる。、
「そういうことであれば、襄陽に長居は無用ですな。新野の朱里と雛里を交え、劉琦殿からの情報を検討すべきでありましょう」
 




 自らの言葉に頷く主の傍らに立ちながら、趙雲は許昌で別れた友の姿を思い浮かべる。
 ――深々と。自分に対して深々と頭を垂れ、桃香様を頼む、とそう言った黒髪の友の姿を。
 あの時点で、荊州の劉備の安否は判然としていなかった。その周囲には諸葛亮や陳到らがいるとはいえ、武の面で手薄であったことは否定できない事実。
 本来であれば、真っ先に自身が駆けつけたいところであったに違いない。焦がれるほどにそうしたかったに違いない。だが、どうしてもそれが出来ない理由があった。
 義妹だけでは力が足りない。
 だからこそ、あの誇り高い乙女が頭を下げて頼んだのだ――主君を、義姉を、自らがすべてを懸けた夢を、その傍らで守って差し上げてくれ、と。


 ああ、その願いをどうして無碍にできようか。


 あの時、真名に懸けて誓ったこと、真名を交し合ったことは、決して一時の感情ではない。
 趙雲は劉備に聞かれないよう、そっと内心で呟いた。
(案ずるな、愛紗。そなたが戻り来るその時まで、桃香様には、たとえ相手が誰であれ、この趙子竜が指一本触れさせぬ)






 そして、同時にこうも思った――こっそりと。
(ゆえに、そちらはこの好機を逃すなよ。敵地で一刀と二人きり……ふむ、これぞ災い転じて福と為すの極意であろうよ。さすがに口には出せなんだが、な)





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/29 22:19

 右賢王である去卑の首級を掲げながら虎豹騎が県城に入るや、街路の両側に立った民衆から凄まじいまでの喊声があがった。
 白波賊の跳梁、二度に渡る官軍の敗北、さらには解池の陥落と凶報が続き、状況が悪化の一途を辿っていることは誰の目にも明らかだった。
 解池から避難してきた民によって、解池とその周辺で起きている暴虐が伝えられ、やがてその波が自分たちをも飲み込んでしまうのではないか、と恐れおののいていた県城の人々の士気を高める意味で、匈奴の王の片腕をもぎとった今回の戦いの意義はきわめて大きかったのである。


 一際大きな歓声に包まれたのは、凶猛な朔北の軍勢を二度に渡って撃ち破った曹純であった。
 丞相曹孟徳麾下の最強兵団たる虎豹騎の名と共に、その武勇と智略を人々は激賞し、未だ解池に留まる白波賊と匈奴の悪しき連合軍も、曹純と虎豹騎さえいれば物の数ではないと口々に言い合う。


 だが。
 彼らの顔には等しく翳りがあった。あるいは彼ら自身もわかっていたのかもしれない。
 止まぬ歓声と高まる賛辞は、同時に、人々の心に巣食う不安がいかに大きなものであるかの証左でもある。
 不安を散じる声は、不安が消せないからこそ必要なものであった。
 


◆◆



「あ……ッ!」
 そんな驚きの声と共にぱたぱたと駆け寄ってくる女の子の姿。
 その後ろにはやや年嵩の少年の姿が見える。
 いずれも、俺には見覚えのある子供たちだった。
「よかった……ご無事だったんですね」
 そう言って胸をなでおろしているのは、あの村で去卑たちと対峙していた浩という少女だった。後ろにいるのは同じくあの村にいた渙という少年である。
 ちなみに、彼らの姓は少女が韓、少年が史――つまるところ韓浩と史渙だった。てっきり徐姓だと思っていた俺はそれをきいて面食らったものだ。本当にこの世界はどこに有名人がいるかわかったものではない。いや、まあ今さらではあるんだけどね。


 ともあれ、二人とその弟妹たちは無事に県城に辿りついていた。当然、その保護者である徐晃も辿りついているはずだった。
 その徐晃と少し話がしたかったのである。いきなり刃を交えた――というか交えることさえ出来ずに叩きのめされたファーストコンタクトのせいで気まずくて仕方ないのだが、白波賊と匈奴について、今、城内で一番詳しいのが徐晃以外にありえない以上、そんなことは言っていられなかったのである。


「鵠姉さんですか、それなら……」
 俺の言葉を聞いた二人が顔を見合わせる。
 その奇妙な仕草を不思議に思って問いかけると、なんでも徐晃も俺のことについて二人に色々聞いていたらしい。
 ただ、あの場ではじめて俺と会った二人は、当然のように俺についてほとんど何も知らない。
「だから、鵠姉さんもあなたを捜していると思いますよ」
 とは史渙の言葉だった。
 背中の傷が痛むのだろう。時折、顔をしかめながらも律儀に村での礼を繰り返すあたり、実に礼儀正しい少年である。
 史渙を見てると、なんとなく田豫のことが思い出された。我が馬術の師だが、元気でやっているだろうか。伯姫様(張角)たちのおもちゃにされていなければ良いのだが。


 急に遠い眼差しで黙り込んだ俺を見て、史渙と韓浩は顔を見合わせて不思議そうにしている。
 そんな二人を見て、俺が口を開きかけた時だった。
「……あ」
 後ろから、驚いたような、戸惑ったような、そんな呟きが聞こえてきた。
 振り返った俺の目に移ったのは、亜麻色の髪をポニーテールの形で束ねた琥珀色の瞳を持つ少女の姿であった。





「あの時は本当にすみませんでした……」
「いや、あの状況では仕方ない面もありましたし、幸い無事に済んで……ないか、目、怪我したし」
 つい、そう口にしてしまうと、徐晃が涙目になりつつ深々と頭を下げる。
 俺は慌てて頭を上げるように言った。
「あ、いや、でもほら、大した怪我でもなかったですし。耳元を通り過ぎる大斧の音が、頭にこびりついて離れないくらいですので……」
「うう……ごめんなさい」
 フォローをしたはずなのだが、徐晃はますます項垂れてしまう。気のせいか、ポニーテールもしゅんとしてしまったように見えた。
 聞けば、史渙からは遠まわしに、韓浩からは直接に、あの時の行動について、城に着いてから改めて苦言を呈されたらしい。
 なるほど、それで元気がないのか、などと納得しつつ、これではいつまで経っても本題に入れないと考えた俺は話題を転じることにした。
「弟さんたちに聞きましたが、何か私に聞きたいことがあるとか?」



 そう口にした、その途端だった。
 徐晃の右目がすがめられ、俺は思わず息をのむ。まるで咽喉元に刃を突きつけられたかのような威圧感が全身にのしかかる。
 言うまでもなく、徐晃はその場から動いていないし、いきなり刃を抜き放ったわけでもない。
 ただ右目を細めた――それだけでこの威圧。つい今の今までしゅんと項垂れていた少女とは思えない。
 威圧感そのものよりも、そのあまりの落差に、俺は悪寒を禁じ得なかった。


 俺の顔色がかわったことに気付いたのだろう。徐晃はかすかにかぶりを振り、それによって辺りに張り詰めていた空気はわずかに和らいだ。
 それでも身体から汗が滲むのを止めることは出来ない。先の誤解が解けた以上、これほどの重圧を浴びせられるような覚えはないのだが。俺が内心でそんなことを考えた時だった。
「……一つだけ、教えてください」
 徐晃が呟くように問いを発した。


「何故……知っていたのですか?」
「知っていた……?」
 一瞬、徐晃の問いの意味を図りかねた俺は、眉を顰める。それは匈奴が村を襲ったことを指しているのか、いや、あるいは――
「官軍の将軍から聞きました。北郷一刀、あなたが私の名前を示して注意を促した、と。私はあなたを知らない。あの村で出会うまで、言葉を交わしたこともなく、顔を合わせたこともないはずです。なのにあなたは、この地に到る前、許昌にいた頃に、すでに私を危険視し、それを忠告という形で官軍の将軍に伝えていた――」


 淡々とした口調で、疑問を詳らかにしていく徐晃。
 口調は平静、されど眼差しは勁烈。下手な言い訳やごまかしは通用しそうになかった。いや、立場が立場だけに、徐晃は俺を相手に強く出ることはできない。答えたくないと言えば、無理強いすることは出来ないのだ。
 ただ、その場合、こちらからの質問にも答えてもらえないだろう。
 俺が問いただしたい内容は、おそらく徐晃にとって口にしたくない類のことであり、そこに問いを向ける以上、こちらも出来る範囲で誠意を示すべきであろう。


 そんなことを考えている間にも徐晃の言葉は続いていた。
「私は母さんの娘として、白波の中でも名前はそれなりに知られていたと思います。でも、それは個人の武や智とかかわりの無い、副頭目の娘として知られていたに過ぎません。皇甫嵩将軍を討ち取ったことも、あの曹という将軍が出陣する頃には許昌で知る者はいなかったはずです。あるいは何かの拍子に私の名を知る機会があったとしても、頭目である韓暹や副頭目である母さんよりも、私を警戒する理由なんかあるはずがない……」 


 しかし、俺はそれをした。
 その結果として、曹純は徐晃の策を逆手にとり、徐晃を捕らえ、匈奴の軍に打撃を与えることに成功した。
「――於夫羅は私に欺かれたと激怒したでしょう。母さんは……きっと、それを利用した。あの子たちの居場所を於夫羅と去卑に教えたのは……きっと、母さんだから。期待に応えられなかった私への罰。そして、韓暹よりも強大な力を持つ於夫羅を自分のものとするために……」
 震えているのは言葉なのか、身体なのか。それとも、心なのか。
 母と呼ぶ人が、自らを罰するために弟妹たちを匈奴に売ったのだと、そう告げる徐晃の顔は蒼白で、寒さに凍えているかのように自らの身体を抱きしめている。


「……すべては、あなたの言葉から始まった。責めているわけでも、恨んでいるわけでもなく、ただそれが事実なんです。あなたが私の名前を出し、そのために私の策が見破られ、匈奴は敗れ……母さんによって、あの子たちは報復のために差し出された……」
 そして、と徐晃は言葉を続ける。


 ――そのあなたが、あの子たちを助けてくれた、と。


「これは偶然? こんな偶然があるんですか? あなたが、あの子たちの誇りを守ってくれたことは聞きました。それが偶然であれ、なんであれ、私は感謝しなければいけない。でも、もし偶然ではないのなら……」
 そう言ってこちらを見る徐晃の目は先刻とは違った理由で潤んでいた。熱に浮かされたように言葉を紡ぎ続ける徐晃の姿は焦燥の塊であった……知らず、憐れみさえ覚えてしまうほどに。


「教えてください。どうして、私の名を知っていたのかを。それを教えてくれたなら、私はあなたに感謝して、その言うことに従います。話せというなら、何でも話します。だから教えてください。あなたはもしかして――」
 徐晃は問う。
 母さんのことを知っているのではないか、と。すべては母さんの計画通りなのではないか、と。
 ――母さんは、自分も、弟妹たちも、決して見捨ててはいないのではないか、と。
 



 ……沈黙は、長くは続かなかった。
 必死に……それこそ溺れる寸前に藁に縋るような徐晃の願いを、自分の手で打ち壊すために、俺は口を開く。
「――皆が笑って暮らせる世の中をつくる」
「え?」
「私が、命を懸けて戦う理由があるとしたら、それだけです」
 そんな夢物語を、夢物語と承知して、それでも笑顔で語り、そこに至ろうとしている人の姿を脳裏に思い描きながら、俺は徐晃に向かって首を横に振ってみせた。
「あなたにも、あなたの母親にも、それはないでしょう。だから――それが答えです。私はたしかにあなたの名を口にした。あなたの弟さんたちを助けることも出来た。でも、それは決してあらかじめ頼まれていたからでも、命じられていたからでもありません」


 それを聞いた徐晃の表情を、なんと形容すれば良いのだろう。
 ああやっぱりという納得と。
 そんなはずはないという否定と。
 どうか嘘といってくださいという懇願が。
 ない交ぜになったその顔を。
「……でも、だって、ならどうして私のことを知ってたんです? 気をつけろなんて言うことが出来たんですか?」
「私のことを聞いたのは子和からか、それとも仲康からかな。ならこうも言っていたはずです。徐晃という名前はわかる。でも性別も、年齢もわからないんだ、と俺はそう伝えました。それでどうやって注意するんだと二人には笑われましたよ。『あなた』のことを知っているなら、こんな言い方をする必要はないでしょう」


 信じるか信じないかは任せますが、と前置きした上で、俺は口を開く。
「昔、あなたの名を聞いたことがあった。楊奉という人物の下に、智勇ならび優れた徐公明という人物がいる、と。そのことを伝えただけです」
 それは嘘ではなかった。俺にとっては。
 だが、その内実を明かすことは出来ないし、明かしたところで信用されないだろう。だから、徐晃が俺の言葉を受け容れなかったとしても、それは仕方ないことだったかもしれない。事実、この世界の徐晃にとって、俺の言葉は虚構に等しいのだから。
 

 徐晃は激しく首を横に振りながら、口を開く。
「そんな……じゃあ、どうしてあの子たちを助けることが出来たんですか? 司馬家の人と解池の近くまで来たことも、あの子たちが襲われた時に近くにいたことも偶然だっていうんですか? しかもあなたが――私の名を知るあなたが? たまたま討伐の官軍の将軍と知り合いで、私の名を口にして、結果としてあの子たちが襲われて、たまたまそこにあなたがいた? そんな偶然が……」
「すべてが偶然というわけでもないですが……」
 言い募る徐晃の言葉を、俺は中途で遮った。
「でも、そこは措いておきましょう。それよりももっと根元のところで、あなたが私に期待している役割は的外れなんです。どれだけ偶然が重なり、あなたの目に必然に映ったとしても、私があなたの母親のために働く理由がない以上、それはやはり偶然なんです――言ったでしょう、私が戦う理由は一つだと」


 なによりも、と俺は付け加えた。
「あなた自身が知っているのでしょう。あなたの母親が、そんな甘い人ではないことを」


 だからこそ、俺などに縋っているのだろう。徐晃の力をもってすれば、曹純をはじめ俺たちが去卑と戦っている間に抜け出すことは容易かったはずだ。
 それが出来なかったのは、曹純らとの約定があり、弟妹を気にかけたためでもあろうが、最たる理由は母親に会う勇気がなかったからではないか。
 勇気がないということは、つまり母親に会えば何を言われるか、徐晃は自分でもわかっているのだ。それを認めたくないからこそ、こうして俺に問いかけているのだろう。
 ――俺が、楊奉に依頼されて動いていたのではないか、と。



 考えるまでもなく、そんなわけはないのだ。
 俺の行動、楊奉の行動、すべてがそんな可能性を否定する。可能性というよりは妄想といってもよいくらいに破綻した推理。
 確かに俺の行動と結果には、偶然と断じるには奇妙な点が多々あった。だが、それは決して徐晃の推論を肯定するものではない。
 誰よりもそれを理解しているのは徐晃であろうに、それでも必死に俺に食い下がるその姿は――正直、痛ましいというしかなかった。



  


 俺の言葉を聞いた途端、徐晃の動きが凍りついたように止まる。
 身体も、表情も、何もかも。瞬きすらしていない。
 やがて、ゆっくりとその唇が動き出し、あえかに言葉を紡ぎだす。
「じゃあ……母さんは、ほんとに……私たちを……私を、捨てたんですか?」



 身をちぎるようなその声に、俺は否定することも、頷くことも出来なかった。
「それに答えることが出来るのは、解池にいるあなたの母親だけです」
 表面にあらわれた事象が答えなのか。何か秘めた思惑があるのか。そんなことが、昨日今日関わっただけの俺にわかるはずもない。
 わかるのは、答えが欲しいなら、徐晃が自分で問わなければいけないということだけだ。
 だから、俺はそれを口にするしかなかった。俺が豊富な人生経験を持った大人であれば、もっと別の言い方や方法が見出せたかもしれない。だが、今の俺には、そう言うしかなかったのである。






[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/07/31 00:24
 司州河東郡県城。
 今、その城内はかつてないほどの喊声に包まれていた。
 先日の虎豹騎の凱旋とは比べるべくもないほどの熱狂と歓喜。今やそこに不安の影は微塵もなく、すべての民が解放の喜びに浮かれ、騒いでいた。
 まだ、解池が取り戻されたわけではない。白波賊と匈奴はいまだ健在であり、虎視眈々と県城を狙っているに違いない。
 にも関わらず、人々は口々に言い合った。もう大丈夫だ、と。もう怯える必要はない、と。
 何故ならば――城外で跳梁する賊徒など及びもつかない援軍が来てくれたのだから。


 隊伍厳正、歩武堂々。あたかも一つの生き物であるかのような統率の下、県城の門を潜るは許昌を発した精鋭五万。
 それを率いるは黒髪を風になびかせ、軍勢の先頭に立って馬を進める鮮麗なる姫将軍。美髪公、関雲長その人であった。 



◆◆◆



「では、解池奪還は以上の作戦で行うこととしたい。異存のある方はおられようか?」
 県城の一室に関羽の声が響く。
 室内にいるのは太守である王邑、解池の城主であった賈逵、朝廷の援軍である関羽、曹純、許緒。そして作戦立案者として俺、司馬懿、徐晃。
 これだけの人数が集まる中、解池奪還のための作戦会議は開かれ――そして今、あっさり終わった。
 というのも、こちらは新たに参戦した五万が加わり、向こうは去卑率いる一千が失われたわけで、戦力比ははっきりとこちらが上だったからである。正攻法で押せば、必ずとは言わないが、ほぼ確実に勝てる戦いであった。


 多くても一万と予想されていた関羽の援軍が、どうしていきなり五万もの大軍に膨れ上がったのか。その理由は関羽の口から語られた。
「一刀が許昌を発って間もなくのことだが、北平より程仲徳が戻ってきてな。河北の袁紹殿を封じる手立てが成ったのだ。それゆえ動かせる兵力が大きく増した。おかげで少し到着が遅れてしまったが」
 関羽は当初率いる予定だった編成済みの一万だけで先発しようとも考えたらしいが、その後、解池陥落の報がもたらされた。敵が解池を陥とすほどに強大だと明らかになったため、各個撃破される危険を避け、全軍を率いた上で必勝を期したのだという。


 白波賊と匈奴の連合は多く見積もっても一万。解池に援軍が到着した形跡もない。
 相手に優る兵力を用意したなら、あとはそれを正面から叩きつけるのみ、つまりは奇策を弄さず正面から攻め寄せる。
 県城には河東郡の軍兵を残し、関羽率いる五万を本隊とし、曹純率いる虎豹騎を遊撃部隊として配する。
 敵が出撃してくるか、城に篭るかは不明だが、いずれにせよこちらの有利は動かない。相手にしてみれば、遮るもののない平野で五倍の敵とぶつかるか、先日陥としたばかりの不穏な城に立て篭もるかの眩暈のするような二択である。
 もっとも厄介なのが城を棄てて逃げられることなのだが、それは敵の掃滅に視点を据えた場合の話である。解池の奪還という目的が無血で果たせることにはかわりない。


「……相手より大きな兵力で戦うって、楽ですねえ……」
 思わず、しみじみと言ってしまった。
 すると――
「うむ、まったくだ……」
 即座に関羽が同意する。
 しみじみと頷きあう俺と関羽の姿に、周囲から戸惑った視線が注がれる。いや、劉家軍での戦いはほとんどの場合、相手の方が兵力が多かったから、関羽にしても俺にしても、こういう優勢な立場で作戦をたてるという経験に乏しいのである。
 あまりの選択肢の多さに、昔日の苦難に満ちた逃避行を思い起こして、ついついため息も出ようというものであった。
 


「出陣は明朝。県城には王太守、佐には梁道殿(賈逵)、本隊は私、佐には北郷殿。遊撃部隊は子和殿、佐には仲康と公明殿」
 関羽が配置を告げると、各々がしっかりと頷く。
 ちなみに司馬懿の名前がないのは年が年だけに戦力に数えていないからである。明日の出陣も県城に残ることになっており、この点は本人も了承していた。
 ただ作戦の立案を手伝ってもらったことと、本人の希望もあって、関羽に頼んでこの軍議に司馬懿の席を設けてもらったのだ。司馬懿もそのあたりのことをわきまえているのだろう。軍議の際は一度も口を開かず、じっと軍議の様子を観察していただけであった。


 徐晃に関しては、またさらに話がこみいってきてしまう。
 どう関羽に説明したものかと俺が頭をひねっていると、関羽はさして気にする様子もみせず口を開く。
「いや、特にこみいってはいないだろう」
 これまでの経緯を説明しつつ、徐晃の参戦を告げた俺の言葉を聞き、うむうむ、と頷きながらそう言う関羽。
 その口調は平静そのもので、特に怒気を感じさせるものはない。ないのだが……なんでだろう、机の上の椀がカタカタと鳴っているのは。部屋には少しの風もないんだけどな。
 あと曹純たちはなんでいきなり壁際に移動しだしたんだ? 司馬懿まで?


 などと考えていると、関羽はにこやかにこう続けた。
「――つまり解池を探るという任務に従事していたら、何故か年端もいかぬ少女に手玉にとられ、匈奴に襲われた村を助けて村娘に懐かれ、情報を集めようと尋問を試みたら敵方の女将に泣かれ、挙句その涙を拭うために解池を陥とすことを約束した、と。そういうわけだな、一刀?」
 ……あれ? 今の話を聞いた上でそのまとめ方はおかしくないですか、雲長殿?
「け、決して間違ってはいませんが、白波賊とか楊奉とか於夫羅とか、そういった単語はどこに消えてしまったんでしょうか?」
「うむ、そうであったな。白波賊の副頭目である楊奉の娘を言葉たくみに抱きこんで於夫羅に一泡ふかせるから力を貸せ、とこういうことだったか」
 ええ、まあそういう……ことか?
「こ、言葉の上では決して間違っていないのですが、なんかこう、刺々しいものを感じるのは気のせいなのでしょうか、か……雲長殿?」


 おそるおそるの問いかけに、関羽はなおもにこやかに――その実、額に青筋たってたりするが――応じた。
「なに、そんなことはない。洛陽では猛火の中から高順を救い、河北では黄巾党の党首らを助け、北海では……いや、あれは平原だったか、太史慈を導き、北海では王修を見出し、徐州では――きりがないな。ともあれ、いつもどおりではないか。一刀が積極的に動く時はほぼ確実に女子が絡み、事が済めば篭絡している――そして、今回もまたいつもどおりになるのであろうな?」
「い、いや、『あろうな?』って言われましても。あと、篭絡っていうのは何か違うと思うんですが……」
 あとこっそり激怒しているように見えるのは気のせいですか? な、なんか咽喉が乾いてきたので、お茶お茶、と。
「気にするな。後宮の候補が増えて結構なことではないか」
 ぶふ、と含んだお茶を吐き出しそうになった。
「な、何を趙将軍みたいなことを言ってるんですか?!」 
「いやいや、男児の本懐を邪魔するつもりはないぞ? それに陛下より授かった勅命を果たすためであれば、多少の不如意には目を瞑らねばならん。ここで我らが功績をたてることは、ひいては桃香様の御為にもなることだしな。ゆえに一刀が一刀であることに文句を言うつもりはさらさらない。この城でお前を見たとき、また見慣れぬ女子の顔が左右にあるのを見ても、私の心にはさざ波一つ立たなかった」
「と、穏やかに言いつつ何故に青竜刀に手を伸ばすッ?!」
 あと、今回は俺的にかなりがんばったんですが。徐晃の説得とか、玄徳様の麾下として恥ずかしからぬと思うんですけれど?!
「うむ、それを認めるに吝かではない」


 ――だが、と関羽はゆっくりと口を開く。般若みたいに。


「いかになんでも十三歳は見逃せん」
「は?!」
「劉家軍とは関わりなく、人として、その性根を叩きなおしてくれよう」
「ちょ、将軍、冷静にッ?! 俺たちの間には致命的な認識のずれがあると愚考するんですがって、いた、いたたたたッ?!」
「妙なことを。私はこの上なく冷静だ。ともあれ、人がお前の身を案じて、援軍の編成をはやく済ませようとやっきになっている間、とうのお前は何をしていたのか、ことこまかに聞かせてもらおうか。王太守、しばし錬兵場を借りますぞ」
 関羽の言葉に、こくこくと機械仕掛けの人形のように首を動かす河東郡の太守様。
 その周囲に、今の関羽に声をかけられるような猛者も、俺に助け舟を出してくれそうな勇者も、いそうになかった。
 まあ、劉家軍ではこの状況はいつものことだったので慣れたものです。危機は独力で回避すべし。
「い、いや、関将軍、雲長殿。今はそれよりも眼前に迫った匈奴との戦いについて、互いの見解を語り合う方が有益だと、不祥北郷一刀は考える次第でありますが――って、痛ッ?! なんか俺の腕の骨がくだけそうなくらいに力を込めて引っ張らないでくださいッ!」
「なに、武人たる者、得物をあわせれば互いの考えを伝えることは難しくあるまい」
「もう理屈も何もないですね?!」
 しかし抵抗は一瞬で潰え去り。
 錬兵場で鍛えなおされることと相成りました。



◆◆


 
「……ふむ、行ったか。不覚にも震えが止まらん」
 関羽の覇気だか何だかにあてられ、微妙にがくがくと身体を震わせながら呟く曹純。その横で、同じような状況の許緒が震える声で問いを発した。
「し、子和様……にーちゃん、なんであの関将軍の前で平然と口がきけるんだろう……?」
「慣れ、なのだろうな……あれに慣れるとか、どれだけ苛酷な日常を経ているのだ劉家軍恐るべし」



「い、いや、しかし、このようなことをしている暇はないのではないか? 解池の敵がいつ動くともしれぬのだぞ」
 王邑が困惑しつつ口を開くと、隣の賈逵がため息まじりに応じた。
「では、太守が関将軍にそのように仰いますか?」
「……ここはそな――」
「お断りします」
「即答ッ?!」
「今のはたわむれですが、すでに夜襲への警戒は指示してありますゆえ、問題はありますまい」
「そ、そうか、ならばよかろう」
「はい、君子危うきに近寄らずと申します」



「……なるほど。あれが美髪公。飛将軍と並び称されし、中華の武神」
 司馬懿がぽつりと口を開くと、隣の徐晃はこちらもぽつりと呟いた。
「こちらへ疑いの眼差しすら向けない……信じているのか、それとも裏切られても問題はないって自信のあらわれなのかな……」
「単にあなたの存在が眼中になかっただけのような気がしますが」
「逆にあなたは思いっきり敵視されてたよね……」
「人は生まれる時と処を選べません。ならばそこで足掻くことこそ人の生。敵視されたとて、自分の在り方は変えようもないのです」
「時と処は選べない、か……そうだね。あ、ところで」
「なにか?」
「あの人、助けにいかないで良いの?」
「助けを求めてもいないようでしたから……」
 そういって、司馬懿は踵を返す。
 司馬懿の目には、あの二人はじゃれあっているようにしか見えなかった。


 そして。
「そう、変えようもないんです……」
 再び発されたその言葉は、誰の耳に入ることもなく、県城の闇の中に溶けていくのだった。




◆◆◆




 司州河東郡解池。
 県城が朝廷の大軍を迎え入れて沸きかえっている頃。
 未だ血と屍の色が薄れていないこの城でも大きな喊声が響いていた。
 とはいえ、それは数万の民の口から出る希望と安堵とはまったく異なる類の、更なる血と死を欲する野獣の咆哮であった。


「ふ、はっははは! ようやっと来たか、しかも五万だと! ようやく歯ごたえのある輩と戦えそうだわ」
 報告を受けた於夫羅は高らかに哄笑しつつ、すぐに麾下の全軍に集結を命じた。遅れる者は斬る、との言葉を付け加えて。
 斬るといったら斬る単于であることは、すべての将兵が承知するところである。配下は素早く応諾してその場から立ち去った。


 配下の後姿を見送った於夫羅は、傍らの楊奉に向かって口を開く。
「よもや、これ以上待てとは言うまいな?」
「もちろんです。どうぞお望みのままに駆け回り、殺戮の颶風となりて、朔北の恐怖を中華の者どもに刻みつけてやってくださいまし。白波の者も出しましょうか?」
「不要ぞ。かえって足手まといになる。十倍の大軍とて、所詮は土民の寄せ集め。匈奴が騎兵の真髄を見せ付けてやるわ」
 くつくつと笑いながら、於夫羅は愛用の大斧を手に取った。


 赤黒い染みが残る得物を持った於夫羅は、ふと心づいたように愛妾に目を向ける。
「叔父が死んだということは、貴様の娘は生きているのだろう。どうするのだ?」
「どうする、とは?」
「殺してもかまわぬのかと問うておる」
 その言葉を聞き、楊奉は右手を口元にあて、さもおかしげに笑った。
「おかしなことを仰る。すでにそう申し上げておりましょうに、何をためらっておられますやら」
「ふむ。率直に言えば、あの叔父がしくじることは予想できたこと。件の子供らにせよ、もしやそなたが……」
「わたくしが密かに手をまわした、と? ほほ、旦那様は面白いことをお考えになる。あれがどうなろうと、あれが可愛がる者たちがどうなろうと、わたくしの知ったことではございません。いつぞや申し上げたことはわたくしの本心でございますよ」


 於夫羅がかすかに目を細めた。
「我らの血族に孕まされた子が、それほど疎ましいか」
「この上なく。あれの髪と目を見るだけで怖気を催します。この身を嬲りし弱き者を思い出してしまうから」
「では、何ゆえ、わしに侍る?」
「御身がお強いから」
 迷う素振りもなく、楊奉は断言する。
「優れた容姿などいりませぬ。高い地位など知りませぬ。中華の奴隷でも、朔北の蛮族であってもかまいませぬ。その力、山を抜き、気は世を蓋う。腐りはてたこの世を粉微塵にしてくれる強き者こそ、わたくしが焦がれてやまぬ方。ゆえに証明してくださいませ、旦那様。官の大軍を破り、中華を喰らいて、御身が蓋世の雄であることを」
 

 そのような御方の子をこそ、わたしは産みたいのでございます。
 そう言って繊手を伸ばした楊奉は、於夫羅の胸板にそっと指を滑らせる。
 その目に映るは、底の知れない井戸の底。深く、暗く、一片の光りさえ差さない闇を映して、白波の頭目はなおもその手を滑らせ続けるのだった。



◆◆◆



 同時刻。
 許昌。


 後漢帝国第十三代皇帝劉協が住まう宮中の一隅に、一組の母子が暮らしていた。
 室内の調度は皇帝のそれに劣らず、常にその周囲には侍女と宦官たちが侍っている。それほどに、この母子は尊貴の身であった。あるいは現在の皇帝よりも。
 母は先の皇帝の寵姫。子は先の皇帝の実子であり、長子。すなわち今上帝の兄にあたる弘農王劉弁である。


 先帝の死後、長子でありながら後継者から外された劉弁は、その後の混乱とは無縁でいられない身であった。事実、劉弁の身柄と、先帝の長子であるという正当性を利用して権勢を得ようとした者は少なくない。
 だが、一部の心ある臣下によって劉弁は守られ、一連の乱が曹操の台頭によって鎮まった後、宮中に帰ることが出来たのである。
 とはいえ、宮廷が洛陽から許昌に移っても、その存在が危険を孕んでいることにかわりはない。たとえ本人にその意思がなくても、今上帝に叛意を抱く者――すなわち曹操を敵視する者に利用される可能性はきわめて高いのである。


 そう判断した曹操だが、だからといってこれを排除することは出来ない。
 存在を隠そうかとも考えたが、隠すことは、すなわち弱みを持つことにつながる。四方の群雄と対峙する今、そんな悪手を打つことは出来なかった。
 結果、宮中の一画に部屋を与え、いずれしかるべき処遇を用意する、という――いわば厄介ごとを先送りする形となった。


 無論、その周囲には常に曹操の目が光っている。この皇兄を担ごうという不届き者には相応の処分が下されるはずであった。
 それゆえ母子の部屋を訪れる者はきわめて少ない。無用な訪問は、曹操の疑惑を招き、宮中での栄達を妨げることが明らかだったからである。
 そして、そんな状況を、皇帝の寵姫として権勢に浸った経験を持つ者が快く思うはずはなかった。
 世が世であれば、皇帝とその母として、権勢と栄華を両手に抱えているはずなのに。そう考える者にとって、現在の空虚な在り方はなお耐えられぬ。


 そんな憤懣を抱える者と、その子のもとへ、とある臣下が伺候してきた旨が伝えられた。
 今、この部屋を訪れる者は片手で数えられるほど。その名は母子ともに知っていた。ことに弘農王にとって、その人物はかつての乱の折、一命を捨てて自らを守ってくれた人の娘であり、匿われていた当時から、自分を可愛がってくれた人であったから、その伺候を告げられ、思わず顔がほころんだ。
 当然のようにここまで連れて来るように命じる。


 しばし後。室内に入ってきた黒髪の麗人を見て、弘農王劉弁はわずかにはずむ声で言った。


 ――よく来てくれた、伯達。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/02 18:08


 どこまでも続くかと見えた緑の野。
 やがてその彼方から濛々と土煙が上がり、赤錆色の軍団がその全容を示すまで、大した時間はかからなかった。
 軍装は去卑が率いていた兵と特にかわりはない。牛革の戦袍に獣毛の帽子、指揮官とおぼしき者たちは臙脂色の布地をマントのように背に流している。
 そして彼らの先頭で馬を駆る巨躯の男。


 五千対五万。十倍を越える敵勢を前にしながら傲然とこちらを見下すその様は、兵力差など微塵も気に留めていないことをはっきりと示している。
 跨る馬が子馬のように見えるのは、その体躯があまりに巨大だからだろう。匈奴随一の名馬でさえ、この男の身体を支えることはかなわないのだと思われた。 
 先ごろ対峙し、首級をあげた右賢王去卑などとは比較にもならぬ。
 零落し、漢土に落ち延びてきたとはいえ、その姿はたしかに漠北の覇王たるに相応しい威容であった。



「あれが南匈奴の単于、於夫羅か。なるほど、その武威、離れていても肌をさすように伝わってくる」
 関羽の慨嘆にも似た感想に、しかし俺は小さく首を傾げた。
 そのことに気付いたのだろう。関羽が訝しげに俺の顔を覗き込んできた。
「どうした、一刀。何か言いたいことでもあるのか?」
「いや、つい先日、あれとは比べ物にならないほどの武威をまざまざと見せ付けられたもので、あの男を見ても、そこまでの脅威は感じないのですよ、雲長殿」
「……ふむ。参考までに聞くが、誰のことを言っているのだ、一刀?」


 その問いに対し、俺は爽やかに笑って言った。
「はっはっは――思えばこうやって雲長殿と戦場で轡を並べるのははじめてかもしれませんね」
「質問にこたえ……」
「しかも曹丞相の兵を率いて、とは……いやはや、人生万事塞翁が馬というやつですねえ」
 俺はなにやらふるふる震えている関羽をよそに、そ知らぬ顔で続ける――決して先日の意趣返しではないのである。


 そんなことをこっそり考えていた俺に対し、関羽は不意に言った。
「……うむ、そうだな」
「え?」
 予期せぬ言葉に、俺は思わず問い返していた。
 あれ、ここはもう少し会話を引っ張って、俺がどつかれて、関羽の気負いを和らげるという予定だったんだけど。
「何を妙な顔をしてる? 今、口にしたとおり、こうして一刀と轡を並べるのは初めてだろう? いつかこの日が来ることを願っていたが、しかし、確かに朝廷の軍を率いてとは考えもしていなかった」
 そう言うと、関羽は澄んだ眼差しでこちらを見つめ、落ち着いた声音で語りかけてきた。
「……にも関わらず、こうして一刀が隣にいることに不思議と違和感を覚えないのは何故なのだろうな」
「さ、さて、何ででしょう?」
 穏やかで優しげな笑みを向けられ、俺は咄嗟に関羽から視線をそらす。
 何故だかその視線を受け止めることが気恥ずかしく、頬が紅潮してしまうのがわかる。
 それは関羽にも明らかだったのだろう。くすくすと笑い声が聞こえてくるが、その関羽らしからぬ女の子のような笑い声に、ますます照れくさくなる俺であった。



 戦場に似つかわしくない、穏やかで気恥ずかしい雰囲気。
 しかしそれはやはり一時の幻に過ぎず。すぐに先陣から伝令が駆け込んできた。
「申し上げます! 匈奴勢、動き始めました!」
 その言葉で、俺と関羽の間に立ち込めていた何かはたちまち霧散する。
「とと、こんなところで話し込んでいる場合ではなかったですね」
 俺が照れ隠しを兼ねて苦笑すると、関羽も同じ表情で頷いた。
 だが、すぐに表情を改めると、真摯な眼差しで俺を見つめる。
「……では、頼むぞ、一刀」
「御意です、雲長殿……や、ここは関将軍、とお呼びすべきですね」
「そんな軽口を叩ける余裕があるのは結構なことだ、さすがは劉家の驍将殿」


 ……どっかで聞いた妙な名称を耳にして、その場を去りかけていた俺は思わず動きを止める。そしておそるおそる振り返り、関羽に問いかけた。
「…………もしかして、その名称って結構広まってるんですかね?」
「私の耳に入る程度には広まっているようだな。ふふ、結構なことではないか」
「うぅ……誰だ、最初に言ったやつは」
 微妙にへこんだ状態のまま前線に出て行く俺。
 いや、まあそういった評判があるからこそ、俺がいきなり関羽の副将として兵を指揮する立場になっても、将兵から苦情の一つも来ないのだから(というか関羽が有無を言わせなかったのだが)、むしろ感謝するべきなのだろうが、しかしなあ……趙雲の耳にでも入った日には、腹を抱えて笑われそうな気がするぞ。
 

 などと俺がぶつぶつ言っている間にも、大地を蹴る馬蹄の音は地響きとなって官軍へと押し寄せつつあった。
 間もなく騎射の射程に達するだろう。こちらの十分の一にも達しない寡兵だというのに恐れる色もなく、悠然と突進してくる様はいっそ不気味なほどであった。
 自らの武力に対する圧倒的なまでの自負と自信。相対する官軍を塵ほども気にかけていないその疾走ぶりは、敵ながら王の――単于の名に値する勇姿であるといえたかもしれない。
 


 もっとも於夫羅の自信は確かな実績に基づくものであった。
 匈奴兵はいわゆる弓騎兵であり、その機動力と騎射の技術を活かした一撃離脱戦法を得手とする。
 これに対し漢土の軍は基本的に歩兵を中心とした部隊が多く、騎兵でも鉄甲、鉄鎧を重ね、防御力と突破力を重視した重装騎兵が一般的である。
 正面からぶつかって矛を交えれば、重装備であり、なおかつ兵力の多い軍が有利であろう。そして大体において漢土の軍は重装備であり、国力の高さゆえに兵力も多い。
 にも関わらず、騎馬遊牧民族の帝国は漢民族にとって脅威の対象として君臨する。
 その理由はどこに求められるのか。答えは簡単である。



 そもそも、騎馬民族は正面から戦わないのだ。



 その機動力を活かし、敵との距離を保ちつつ騎射で敵を射続ける。
 歩兵の足と騎兵の脚とでは比べるべくもない。また同じ騎兵であっても、重い鉄装備で身を固めた騎兵と、軽装備の騎兵とでは馬にかかる負担が大きく異なるのは誰の目にも明らかである。
 敵軍に正面から突撃などしない。敵が槍や剣を掲げて突っ込んできたら、即座に馬首を転じて逃走、馬上で振り返り、追って来る敵を騎射で撃ち倒していく。これを続けられれば、機動力で及ばない敵軍には為す術がない。剣を交えることすら出来ず、ただ射殺されていくしかないのである。
 軽装弓騎兵による一撃離脱戦法――パルティアンショット。とある古代国家の名をとったこの戦法こそ、匈奴をはじめとした騎馬遊牧民族が得意とし、長きにわたって農耕民族が屈従を味あわされてきた要因の一つなのである。




 ただ、それは逆に言えば、この戦法をとることが出来ない状態に持ち込めば、勝利を得ることは出来るということでもあった。
 端的に言えば、それは先日のように敵に攻城戦、陣地戦を強いることであり、さらには西河郡で曹純が去卑の部隊を打ち破った時のように、策略なり奇襲なりで敵部隊を直撃することである。
 過去、騎馬民族相手に勝利を得てきた名将たちの多くは、距離をとって対峙されない戦況を形作り、そこに敵を誘導することで勝利を得てきたのだ。


 その点を鑑みた場合、今回の官軍――つまるところ俺と関羽は、兵数こそ揃えたが、戦場の選択を完全に誤ったといえる。
 なにせ遮るものとてない平原で匈奴の騎兵と相対しているのである。当然のようにあらかじめ陣地をつくっていたりはしない。
 於夫羅もそう考えればこそ、不動の自信をもって突進してくるのだろう。やがて騎射の距離まで近づけば、射で陣形を乱し、突で将兵を蹂躙する常の戦いを仕掛けてくるものと思われた。



 ――そう、こちらの意図したとおりに。
 


 ……などと思わせぶりな言い方になってしまったが、その『意図』に関して、今回の俺は一切合財関わっていない。
 匈奴兵を掌の上に乗せたのは、遠く許昌にいる稀代の軍師。今頃は眼鏡をくいっとしつつ「すべては私の掌の上です」などと言っているかもしれない。程昱によると、案外、決め台詞が好きな人らしいし。
 そんなことを考えつつ、俺は前線の将兵に命令を下す。
「偏箱車(へんそうしゃ)、展開せよ!」





 その声に応じて引き出されてきたのは車輪を備えた戦車の一種であった。
 通常、戦車というと馬に牽かせた車体に弓兵、槍兵などを乗せて戦場を疾駆するものを指す。もっともこの手の戦車は小回りが利かず、難路の走破も難しいため、騎兵の充実と共に戦場から姿を消しつつあるのだが、官軍――より正確に言えば曹操軍の軍師郭嘉が用意したのは、そういった戦車とはまったく異なる役割を持っている。


 まず、外観だが、その名のごとくやたらと大きな――大の男が並んで二、三人入れるような木製の箱を思い浮かべてもらえばわかりやすいかもしれない。その箱から左右と後方の壁面を取り払ったのが、この偏箱車である。
 車体は馬に引かせず、偏箱車一台に付き、二名の兵士が人力で押して移動させる。
 進行方向には槍状の突起が突き出ており、これが騎兵の接近を阻む。
 弓を射掛けられても、前述したように進行方向と上方部分はしっかりと板で覆われているため、その内側にいる兵士には届かずに済むという寸法であった。


 車体を馬に牽かせないのは、馬自体を狙い打たれて移動力を殺がれないようにするためである。そのために車体も、極力、軽量化が計られている。壁面や車体が鉄ではなく木で造られているのもそのためであった。当然、皮革を張り付けるなどの補強はしてあるにせよ、正面から歩兵部隊と相対すれば、比較的容易に打ち壊される程度の代物でしかなかった。
 だが、それは欠点ではない。何故なら、この偏箱車は対弓騎兵用に用意された――ただそれだけに特化した戦車だったからである。





 この偏箱車が、何十台と連なって押し寄せてくるのを目の当たりにした匈奴兵は困惑した。彼らにしてみれば、いきなり眼前に槍が突き出た壁が現れたようなものだから当然であったろう。
 だが、困惑しながらも彼らは馬上、弓に矢を番え、次々に射始める。
 たちまち偏箱車の壁面に矢がつきささり、まるでハリネズミのような有様になっていくが、それだけだった。戦車同士の空隙を縫った矢が不幸にも命中した例を除き、将兵の被害はほぼ無しといってよい。


 三十台を一隊とし、横に三隊を並べ、さらにそれを縦に三重に布陣する。
 合計九隊、二百七十台の戦車、五百四十人の兵士をもって一軍とする戦車部隊。
 この戦車部隊を、曹操軍は今回の遠征に四軍動員している。
 それはつまり、敵が機動力に任せて左右に展開すれば左右を、後方に回り込めば後方を、同じ戦車部隊によって阻止することが可能である、ということだった。


 匈奴兵は騎射に優れ、またその弓自体も工夫を凝らし、短弓ながら飛距離、射程に優れてはいたが、三重に展開している戦車兵によって射程を奪われ、また狙いを定めることもままならない状況では、その優れた弓術を活かしようもない。
 機動力に任せて回り込もうとしても、そちらの方面に戦車兵を繰り出し、同じように騎射を阻む戦法を崩さない。
 当然、こちらとてただ黙って矢を射掛けられているだけではない。戦車同士の隙間から、また戦車の壁面と上方部分に設置された狭間(さま)――矢を射るために手動で開け閉めする小窓――から猛然と射返し、敵に少なからぬ損害を強いている。


 その損害にたまりかねたのか、今度は匈奴兵から火矢が放たれてきた。無数に突き立った矢を見れば、壁面が金属製でないことは明らかであり、火で一掃しようと考えたのだろう。
 その考えは正鵠を射ていた。
 車体を軽くするために大半を木で造り、強度を増すために獣皮を用いている以上、どうしたところで火には弱くなってしまうのだ。
 だが、弱いとわかっていれば、それに備えるのもまた当然のこと。偏箱車には冷たい泥を塗り込め、容易に火を通さないようにしてあった。
 

 たまりかねた匈奴兵の一部が弓を剣に持ち替え、突撃してくる。
 偏箱車には槍状の突起がついているとはいえ、静止した状態であれば、馬術に長じた騎馬民族にとって障害にすらなりえない。車体同士の隙間をぬって馬を駆り、小癪な敵兵を蹴散らそうとするが、こちらとて備えは十分してある。それぞれの車体には弓矢以外に槍も剣も置いてあるのだ。
 さらには敵の突撃を受けた場合、二人一組を保ち、騎兵に対処する術も十分に訓練されている。まずは馬を刺し、敵兵を馬上から引き摺り下ろして、二人がかりでこれを討つ。少数の兵の突破など恐れる必要はなかった。


 では多数の匈奴兵が突撃してきたらどうなるのか。
 その時こそ、戦車兵の内側で待機してきた重装歩兵の出番である。
 軽装弓騎兵の長所は機動力と騎射の妙。
 直接に矛を交えるのなら、重装備で、兵力が多い方が勝つのだから。



 敵が不利に気付いて逃げ散るようならば、偏箱車の陰に隠れ、騎射の的にならないようにすれば良い。しかる後、前進するか、その場に留まるかは指揮官の判断次第といったところか。
 偏箱車は前進の際は戦車となり、その場に連ねれば鹿角と壁を備えた簡易の陣地に早代わりする。そして、戦車兵と呼称しても、実質的に歩兵と特段の違いはなく、どちらがどちらの代わりとなることも可能であった。




 匈奴の弓騎兵が得手とする平原にあって、歩兵を中心とした自軍が勝利するための、戦車を用いた簡易移動陣地――車営陣。
 偏箱車を用いた、この簡易性と柔軟性に富んだ用兵こそが、対騎馬民族戦に備え、神算鬼謀の郭奉孝が考案した切り札の一つであった。




◆◆◆




「……なんというか、恐ろしい錬度だな、相変わらず」
 日はとうに地平線の彼方に落ち、匈奴勢の姿は周囲から消えている。
 夜空に浮かぶ星の光を霞ませるほどに煌々と焚かれた篝火。その赤々とした輝きに目を細めながら、俺は偏箱車に囲まれた本陣の中で、しみじみと呟いた。
 

 実際、関羽からこの車営陣の話を聞いた段階で成功は間違いないと確信していたものの、将兵の動きは、そんな俺の予想をはるかにこえて、驚くほど速やかであった。
 偏箱車の造りもしっかりしたものだし、将兵の弓や槍の腕前はいわずもがなだ。
 今回、関羽が引き連れてきた曹操軍の主力部隊が、農民を徴兵した兵士ではなく、職業的に兵士として雇われた者たちであることは承知していたが、それでもなお将兵の錬度は俺の予測を越えていた。


 生産に従事しない職業兵を大量に抱えることが出来るのは、その国の国力がそれだけ高い証である。かつての徐州侵攻の段階で、すでに万単位の職業兵を有していた曹操だから、今ではさらにその数を増しているのだろう。
 かつては敵として、その精強さをまざまざと思い知らされたものだが、味方として見てみると、また違った凄みが感じられる。
 関羽の指揮は的確であり、俺もきちんとそれに応じた動きをしてみせたつもりだが、おそらく、俺はもちろんのこと、たとえ関羽以外の将軍が指揮官であっても、今日の勝利は容易であったに違いない。それほどに、この軍は――曹操軍は強い。匈奴の軍を、赤子の手をひねるように退けてしまえるほどに。


 とはいえ、まだ敵を撃ち破ったわけではなかった。
 今日の戦いにおいて、こちらの被害は少なかったが、それは敵も同様である。基本的に陣地に篭って駆け回る敵に矢を射掛けていただけ。最後に多少の混戦はあったが、敵は執着せずにすぐに退いた。決定的な打撃を与える機会はなかったのである。
 であれば、明日以降の敵の動きは、今日よりもさらに注意を要する。
 この車営陣は、当然だが機動力に欠ける。人力で押す戦車が、馬で駆ける騎兵に追いつけるはずもない。それゆえ、敵に戦いを避けられてしまうと、延々と戦いが長引いてしまうのである。


 もっとも騎馬民族の戦いは基本的に速戦であり、持久戦はこちらに一日の長がある。くわえて、今回、敵は解池という根拠地を持っているため、草原での戦いと異なり、どこまでも逃げ続けることが出来るわけではない。
 ただ、漢土への拘泥を捨てれば、匈奴はそういう選択肢を選ぶことも可能ではある。そうすればこちらは匈奴の妨害なく解池奪還にとりかかれるわけで、損はないのだが、伝え聞く於夫羅の為人を聞けば、その選択肢を選ぶ可能性はまずないと見て良いだろう。
 むしろ、今日の一連の戦いにおいて、ほとんど沈黙を保っていたことに違和感を覚えるほどであった。
 おそらくは、新たな戦術を用いてきたこちらの動きを観察していたのだろう。その上でこちらに襲い掛かるつもりなのだとすると、やはり――




 そこまで考えを進めた時、不意に地面が揺れるのを感じた。
 地震か、などという寝ぼけた呟きはもらさない。この感覚は、今日一日でいやというほど味わったのだから――幾千の馬蹄が大地を蹴る、この感覚は。
「申し上げますッ! 北東方面より敵騎兵が出現、一直線にこちらに向かってきます!」
「応戦準備。各自、持ち場につくよう伝えてくれ。あらかじめ伝えておいたから問題ないと思うが、早急に」
「は、了解いたしましたッ」
 昼間、確たる成果を挙げられなかった敵が、夜襲を試みてくる可能性は高い。むしろ常套手段といっても良いだろう。そのため、夜営をはじめる段階で麾下の将兵には注意するよう伝えてあったのである。
 もっとも、たとえ俺が指示しなくても、この精鋭たちであれば自分たちで勝手に判断したに違いない。そんなことを思いつつ、俺は彼方から押し寄せる馬蹄の濁音と匈奴兵の喊声に意識を向けなおすのだった。




◆◆




 彼方に広がる敵陣のちょうど反対側。
 刀槍の音と、人馬の声が絡み合い、こちらまで響いてくる。予定どおり、別働隊が敵陣に喰らいついたことを於夫羅は知った。
 夜空の下、煌々と浮かび上がる敵の本営の位置は今さら確認するまでもない。昼間、こちらの進撃を阻んだ戦車は、敵陣の背面にあたる南側にも配置されているが、将兵は未だこちらに気付いてはいないようであった。
「まあ気付かれたとて、蹴散らすだけ。かまわぬがな」
 於夫羅は手に持った大斧を構えなおし、不敵に口元を歪ませる。
 その周囲には於夫羅直属の匈奴の精鋭が居並ぶ。いずれも於夫羅には及ばぬながら、頑強な体躯と優れた膂力を持つ者たちだ。
 数は五百に満たないが、於夫羅にとっては十分な数であった。


「余に続け。こざかしき土民の軍勢を食い破る」
 士気を高める口上を口にすることもせず、於夫羅はかすかに身体を揺らす。それだけで騎手の意を感じ取った軍馬はたちまち走り出した。
 その単于の後ろに、匈奴の精鋭たちも続く。
 彼らは特に喊声をあげたりはしなかったが、五百の人馬が突進してくる騒音は隠しようもない。北側で激しい戦闘が交えられていたとしても、その物音を聞き逃す曹操軍ではなかった。
「南より、騎兵、百騎以上! 突っ込んできます!」
「迎え撃て! 弓兵、斉射準備! 槍兵は敵の突入に備えよ! たかが数百、陣を破られては他軍に笑われようぞ!」


 その敵軍の様子を観察しつつ、思ったよりも敵兵に動揺がないことに於夫羅は気付く。どうやら気付かれてはおらずとも、分撃の可能性は考慮していたのだと思われた。
「だからといって、余を止められると思っているのか」
 呟く於夫羅の耳元を、音をたてて矢が通り過ぎる。敵が戦車の陰に隠れながら、射放ったものであろう。
 だが、於夫羅は顔色一つかえず、そのまま猛然と馬脚を速めた。たちまち戦車に近づくや、突起を避けつつ、大斧を振りかぶる。
 そして。
「ぬんッ!!」
 ただ、一言の気合と共に放たれた単于の一撃は、奇妙に乾いた音をたてて、そこに置かれていた戦車を、文字通りの意味で吹き飛ばした。その陰で弓を構えていた兵士ごと。


 単于の猛威はそれだけでは終わらなかった。
 自ら突っ込み、車営陣に穴をあけ、そこに将兵をさしまねく。単純な、呆れるほどに単純なその行動を、しかし曹操軍は止められなかった。
 於夫羅の斧が一閃する都度、必ず血煙と共に首が舞った。時に臓物と共に身体ごと両断される者もいる。ただ力を込めて振りまわすだけで、戦車さえ子供の玩具のごとくに破壊された。
 昼間、あれほど見事に匈奴勢を食い止めた車営陣が、ただ一人の膂力によって引き裂かれていく。それは悪夢というよりも、子供の戯画じみて、現実感が喪失した光景であった。


 だが、それはまぎれもない現実であった。
 於夫羅が引き裂いた空隙に、匈奴兵が次々と躍りこみ、さらに穴を広げていく。
 曹操軍も懸命に反撃しようとするが、於夫羅にはその一切が通じなかった。両者の差は、武芸の力量ではなく、もっと根源的な膂力の差であったのかもしれない。鍛え上げられた曹操軍が、まるで赤子の軍隊でもあるかのように次々と屠られていく。
 その光景に、周囲の将兵は怯みをおぼえずにはいられなかった。


 そして、そんな敵軍の怯みを見逃す於夫羅ではなかった。
 全身を敵兵の血で染め上げながら、息一つ乱さず、周囲を睥睨する。
「他愛もない。机上の策だけで戦に勝利しえるなら、敗者など存在せぬわ。多少は歯ごたえがあるかと思ったが、所詮はこの程度か」
 自軍に数倍する敵軍の真っ只中に躍り込み、暴れまわりながら、匈奴の単于はさも退屈そうに言い放った。興が削がれたとでも言わんばかりに。  
 刀槍の音で、曹操軍にその声は届かない。あるいは届いたとしても、於夫羅の猛攻に押し込まれている今、言い返すだけの余力も余裕もありはしなかったろう。



 ――事実、その場で口を開く者は誰一人としていなかった。
 ――にも関わらず。 



「……ぬ?」
 於夫羅は視線を敵陣の奥へと向けた。
 より正確に言うならば、向けざるを得なかった。その在り様はどうあれ、優れた武人として鍛え上げた彼の本能が告げたのだ。
 そこに、いるのだ、と。
 

 何が? 誰が? 
 そんな疑問は於夫羅の脳裏から刹那で消えた。
 姿を見せたのは、身の丈以上の得物を構える黒髪の乙女。
 夜空に溶けてしまいそうな艶のある髪が戦塵に靡く様は、戦場にあってなお美しいと称するに足りたであろう。


 無論、そんな詩的な表現は於夫羅の脳裏には浮かばない。
 浮かんだのはただ一言――あれは敵だ。ただそれだけ。
 望んで得られなかった敵。望んでやまなかった敵。それが今、目の前にいる。
 それを知って、他に何かを考える必要があるだろうか? いいや、そんなものがあるはずはない。
 今はただ、こちらを射るように見据えるあの女に、この大斧を叩きつけることだけ考えていればそれで良い!


 次の瞬間、匈奴の単于の口から迸った咆哮は、どこか歓喜の声にも似ていた……

  



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/05 14:28

 聳え立つ巨躯から放たれる一撃。
 込められた力は地を砕き、揮われる一閃は風を薙ぐ。
 その口からは絶えず咆哮があがり、獲物を見定めた肉食の獣は、その目にただ戦意だけを滾らせて猛然と襲い来る。
 夜闇に瞬く篝火に映し出されたその姿は、人外の化生、悪鬼羅刹を見るにも似て、官軍の将兵を恐れさせずにはおかなかった。
 巨大な斧は、もはやそれ自体が一個の生物と化したかのように死の颶風となって荒れ狂う。宙を裂き、咆哮のごとく吼えたけるその旋風は、人と物とを問わず、形あるものを砕かずにはおけぬのだと、天地人、そのすべてに己が業を謳いあげるかのようであった。
 さしもの丞相曹孟徳の誇る精鋭軍も、その猛威の前に立ちすくむしかない中で。 


 彼らは見た。 
 その颶風を遮る黒髪の乙女を。
 その咆哮を断ち切る八十二斤の偃月刀を。
 その傲慢を砕く中華の誇る武神の姿を。



◆◆



「がアアアッ!!」
「はああァァッ!」
 耳が焼け焦げるような甲高い金属音。鋼と鋼がぶつかりあい、宙空に火花を散らす。連鎖する斬撃の応酬は、篝火よりもなお強く周囲の光景を照らし出していった。
 於夫羅の大斧が唸りをあげて関羽に襲い掛かる。巨木を砕き、頑強な匈奴兵が三人がかりでも押さえ切れない剛撃を、しかし関羽は真っ向から撃ち払う。
 再び響く金属音。互いの手には重い衝撃が跳ね返り、耳には不快な音響が木霊する。
「ふ、く、ははは! やるな、女! 余の撃をこうも容易くはねかえすとは!」
 於夫羅はそう哄笑しつつ、更なる斬撃を繰り出していく。
 そこに系統だった武は感じられない。そこにあるのは、師から受け継ぎ、昇華した技ではなく、ただ生まれもった膂力を揮い、幾多の敵の血肉を吸って鍛え抜かれた業であった。


 先刻までの戦闘の疲労など微塵も示さず、於夫羅は巨斧を縦横無尽に振り回した。あえて技巧をこらす必要などどこにもない。膂力にまかせて撃ち込めば、相手の剣は折れ、槍は曲がり、甲冑は砕け、血肉が舞い散るのだから。これまで、於夫羅が打ち倒してきたすべての者たちがそうであった。
 しかし。
 眼前の女将軍は、於夫羅が繰り出すすべての攻撃をことごとく凌いでいる。
 それは受け流し、力を逸らすのではなく。
 真っ向から打ち合い、弾き飛ばす。
 はじめの十合は流した。次の十合は試した。次の十合で期待した。
 そして。
「くは、はっははははッ! 余の渾身に耐えうる者が、まさか土民の中にいようとは!! 良いぞ、女! 見事だ、女! さあこれならどうだ! これならどうだ! く、ふ、ははっははははははッ!!」
 死に直結する斬撃を繰り出しながら、その口からは哄笑がとめどなくこぼれ出る。否、それはもはや哄笑というより歓喜の絶叫とでも呼ぶべきであったろう。
 於夫羅の瞳に浮かぶのはもはや戦意とは呼べぬ。それは性的な意味さえ伴う絶頂と恍惚であった。
 

 その状況でなお、於夫羅は戦士としての冷静な部分を残していた。それは於夫羅が単于にまで上り詰めた資質の一つでさえあったかもしれない。
 於夫羅が見るところ、相手は攻撃を凌いでこそいたが、攻撃に移るだけの余裕を欠いていた。その息は明らかに乱れており、こちらの一撃ごとに体力を殺がれているのがはっきりと見て取れる。
 すでに刃を交えること四十合。しかし、それでもなお相手の構えに揺らぎはなく、隙もない。そのことを確認し、さらにこの至福の時が続くことを確信した於夫羅の口から、再び哄笑が迸った。





◆◆◆




 ――お尋ねしたいことがあります。



 於夫羅の観察は決して間違ってはいなかった。
 次々と繰り出される攻撃は重く、激しく、ただ受け止めるだけで体力を消耗する。
 眼前で吼え猛る人身大の猛獣は明らかに卓越した力量を持っていた。この人物を武人、と呼ぶことは承服しかねるが、しかしその力量の巨大さを否定することはできない。関羽はそう考えていた。
 ただ、実のところ関羽は眼前の相手にさほどの注意を払ってはいなかった。脅威を感じなかった、というわけではない。ただそれ以上に考えなければならないことがあったからである。



 ――あの人……北郷一刀さんについて。



 脳裏に木霊する静かな声。
 自身と同じ黒髪を持ち、自身と異なる在り様を持った乙女の言葉。
 司馬仲達と名乗った少女に声をかけられたのは、この戦いが始まる前日のことであった。



◆◆



 迫る戦を前に、県城は城の内外を問わず喧騒に満ちていた。
 関羽は事実上の総指揮官として、これを束ねる立場にある。新戦力である偏箱車の運用、展開についても、戦車隊の指揮官や北郷と話をしておかねばならない。
 そういった諸々がある程度片付いた――司馬懿が声をかけてきたのは、ちょうどそんな時だった。


「一刀……あ、いや北郷殿について尋ねたい、と?」
 こくりと頷く司馬懿を見て、一瞬、関羽は言葉に詰まる。
 別に司馬懿が無礼な行いをしたわけでも、隔意を示したわけでもない。丁寧に、礼節をもって問いかけてきたに過ぎない。
 それなのに言葉に詰まってしまった理由は何であったろうか。


 黒絹の髪、白皙の頬、黒曜石の瞳……などといった評はすでに北郷から聞かされていた。その時は、会って間もない少女の可憐さに半ば呆然とする姿に、胸中穏やかならぬものを感じたものだが、しかしなるほど、面と向かって相対してみると、そんな北郷の反応も無理からぬものであったと思う。
 関羽とても自分の容姿に無関心ではない。いかに武をもって世に立つことを決めたとはいえ、女性であることを捨てたわけではないのだから。
 皇帝陛下より美髪公などと呼ばれ、戸惑いはあったが、それでもそのことを喜ぶ心は確かに自らの裡にあったのである。


 事実、関羽は決して司馬懿に劣るものではなかった。容貌、肢体、あるいは心の在り様。女性としての魅力を問われた時、司馬懿よりも関羽を選ぶ者も少なくないだろう。
 にも関わらず、関羽がほんの一時であれ、司馬懿に見惚れ――否、気圧されてしまったのは何故なのか。
 それは多分、司馬懿を見た人の多くが感じるであろう光――可能性を目の当たりにしたからだろう。




 関羽はすでに選んでいる。
 武人として立つことを。
 そして劉玄徳という人物と共に歩むことを。
 はるか彼方まで続くその道に踏み出された関羽の足は、もはや戻ることなく、その足跡を残しつつ、いつか途切れる時まで続いていくのだろう。
 その在り様こそ関雲長の武人としての、人としての、そして女性としての魅力に他ならぬ。


 一方の司馬懿は未だ選んでいない。
 しかし、司馬懿を見た誰もが感じ取ることができるだろう。彼女の前に並ぶ、幾通り、幾十通りの道――そのどれもが眩い輝きを放っていることを。
 秀麗な容姿に見惚れる者もいよう。傑出した才能にほれ込む者もいよう。そしてそれらすべてを越えて思うのだ。
 未だ蕾に過ぎぬこの花は、どれだけ美しく艶やかに咲くものなのか、と。
 そして、こうも思うだろう。
 この少女がこれから歩む道を見てみたい、出来うるならば共に歩きたい、と。



 関羽は深々と息を吐く。
 それはため息ではなかったが、限りなくそれに近い色合いを持っていた。
 当の司馬懿は、関羽の内心を知る由もなく、目を瞬かせながらその様子を眺めている。そのきょとんとした様子を見て、関羽は何故か頭を抱えたくなった。
 司馬懿の聡明な眼差しを見れば、自身の価値をまったく知らないわけではないだろうが、おそらく――いや、間違いなくこの少女は、自身が他者に与える影響を過小評価している。
 そこがまた、少女の未成熟さを見る者に感じさせずにはおかない。なまじしっかりしているように見えてしまうからこそ、そこに気付いた者はこの少女を放ってはおけないだろう。
 なるほど、これは――
「……男はひとたまりもあるまいな。一刀なら尚更だ」
 北郷本人が聞いていたら、どういう意味だ、と不満の声をあげたであろう台詞を呟く美髪公。
 そんな関羽を見て、司馬懿は当惑したように首を傾げるのだった。



◆◆



 繰り出される剛力の斬撃。重く、激しく、荒々しく。かすっただけでも鎧は砕け、手足は千切れ、この広漠とした大地に叩きつけられるであろう死の乱舞。
 これを絶え間なく繰り出す単于の膂力は、おそらく匈奴の帝国、中華帝国、その双方を見回しても屈指の域に達していよう。
 だが、と関羽は思う。


 ただそれだけだ、と。


 はじめて関羽は自ら仕掛ける。
 横なぎの一閃は大斧に弾かれたが、相手の体勢は大きく崩れた。
 敵の一撃は確かに重い。しかし、重くとも、その一撃は粗いのだ。ただ振り回すだけだから。
 乱れた息を整えながら、追撃を繰り出す。振りかざし、振り下ろされた青竜偃月刀が、於夫羅の額を断ち割らんと唸りをあげて襲い掛かる。
 於夫羅はこれを大斧の柄をつかって受け止めたが、こめられた力にその口から驚愕の声がこぼれでる。
 それでもすぐさま反撃をしてくるあたりはさすがというべきかもしれないが、関羽はこれをあっさりと弾き返す。
 それを見て、於夫羅の目が見開かれた。さきほどまでたじたじとなって自らの攻勢を受け止めることに終始していた相手が、あっさりと攻撃を凌いだことに不審を覚えたのかもしれない。
 しかし、関羽にしてみれば造作もないことであった。於夫羅の攻勢はたしかに激しい。だが、いくら激しくともその一撃、その一閃が次手へと繋がっていないのである。
 両者の力量が隔たっているならば知らず、そうでない相手に、攻撃の組み立てを考えずに挑めんで、どうして勝利を得ることが出来るだろう。力任せに得物を振り回すなど、子供でも出来るのだ。


 哄笑を撒き散らし、愉しげに戦斧を振り回す巨躯の男は、やはり武人ではない。
 命を懸けて互いの武を競い合うべき武人では有り得なかった。
 関羽は得物を握りなおして確信する。この血と戦いに淫した飢狼は、ただ血の匂いにひかれて、何者かに鼻面を引き回されているに過ぎない、と。
 ならば、その何者かとは誰なのか。



◆◆



「何故、北郷殿のことを知りたいなどと? いや、そもそも私ではなく当の本人に聞けば良いのではないか?」
 関羽の言葉に、司馬懿は小さくかぶりを振った。
 小さな唇から、明晰な言葉が発される。
「北郷様とは、許昌からこの地に到るまでご一緒させていただきました。一月にも満たない時間です、その為人を知るを得た、などとは申しません。ですが私が知りたかったことの多くは、知ることが出来たと考えています」
 ただ、と司馬懿は続ける。
「将軍様とお話している時の顔は、私が見たことのないものでした。ですから、将軍様にとっての北郷様をお聞かせいただきたいと思った次第です」


 その言葉に、関羽はやや怯む。何故かは関羽自身にもわからなかった――ということにしておかねば、色々と支障が……
(って、ええい! 何をわけのわからないことを言っているのだ、私は?!)
「そ、それは、だな……」
 内心の混乱も鎮められないままに、関羽は落ち着かなげに口を開く。
 もしこの場に通りかかる者がいれば驚いただろう。外見はともかく、内実は十三の少女を相手に、あの美髪公があたふたと慌てているのだから。


 だが幸か不幸か、二人が向かい合う一画を通り過ぎる者はおらず。
 関羽はじっと自分を見つめる少女を前に、何とかこの場を切り抜けねばと一人で慌てていた。
 そもそも答えなければいけない義務もないのだが、それを口にするのは何故か憚られたのだ――なんか負けてはいけないところで負ける気がして。
 
  

 関羽は司馬懿の言葉を思い返し、ふと違和感に気付いた。
「私と話している一刀の顔が、見たことのないもの、といったか?」
「はい」
「しかし、それは当然ではないのか? 私と一刀は許昌に来る一年以上も前から、同じ劉家軍として行動を共にし、幾多の戦場を越えてきた。そなたはもちろん、子和や仲康にしたところでその半分も時を経ていないのだ。私とそなたらに、多少なりとも親疎の差が出てもおかしくはないだろう?」
 その言葉は至極当然のものであった。だが、司馬懿は首を横に振る。


 関羽の顔に当惑が浮かび上がるのを見やりながら、司馬懿は口を開いた。
「北郷様は表裏の少ない御方です。努めてそうあろうとしているというより、単に隠し事が出来ない性格なのでしょうね」
「それは確かにそうだな」
 うんうん、と頷く関羽を見て、司馬懿は口元を、それとわからないくらいにほころばせる。
「素直、というには少し違うかもしれませんが、表裏のない方は、それゆえに他者に利用されやすい。でも同時に、他者の信頼を得やすくもある。これは想像ですが、北郷様は子供に好かれやすくはありませんか?」
「む、確かに洛陽や小沛では桃香様と共に子供たちの相手を良くしていたな」
 それを聞き、司馬懿はゆっくりと頷いた。
「やはり。あの村でも北郷様はすぐに子供たちに懐かれていましたから。恩ある人、という事実があるにしても、子供たちの涙をたちまち笑顔にかえられる人はそう多くはないでしょう」
 少なくとも、私には出来ません。
 そう言う司馬懿の顔は、どこか翳りを帯びて見えた。


 その表情を見た関羽の気配が、わずかに鋭利なものへと変わる。
「つまり、そなた何を言いたい?」
「表裏がないということは、つまり他者と自分を隔てる壁がないということ。もしくは、壁は存在するにせよ、薄く、数も少ない。他者との親疎は、互いの壁を幾つ乗り越えたかによって示されるものと私は考えていますが、北郷様の場合、その壁を乗り越える時間はとても短くて済むでしょう――特にあの人は、女性と子供に甘いですから」
 くすくすと。
 はじめてはっきりと微笑んでみせた司馬懿の顔には、つい先ほどの翳りは見えない。
 それに安心したわけでもないが、関羽は知らず、満腔の同意を示していた。
「それに関してはまったく同感だ」
「だから、多分、一ヶ月が一年になったところで、北郷様と私たちの親疎に大きな差は生じないと思います。もちろんまったくかわらないということはないでしょうけれど」
 優しげな、そしてどこか儚げな司馬懿の眼差しを、関羽は無言で受け止める。
 そんな関羽を前に、司馬懿はなおも言葉を続けた。
「将軍様と同じだけの時を過ごしても、将軍様に向けるものと同じ顔を、北郷様が私たちに示してくれるとは思えないのです。あの顔は――あの信頼は、時の経過だけで得られるものではないでしょうから」


 そこまで言って、司馬懿は関羽の表情が、少し険しくなったことに気付いたのだろう。わずかのためらいの後、こう言い足した。
「話す順番が前後してしまいましたが……私は北郷様の信頼を得たくて、将軍様に聞いているわけではありません。わかったところで、それをなす時間も私にはありませんし」
「では、何故、聞こうとする?」
「聞きたいから、では答えになりませんでしょうか。将軍様の武威は、そのお姿を見て、さらにこのようにお話しさせていただくだけで十分に感じ取ることが出来ました。その傍らに、必要な時に、必要な場所にいることができる方がいるならば……私たちがどれだけ足掻こうと、廃都の炎は燎原の大火にはなりません。それはもう確信に近いです。ただ、どうせなら……」
 司馬懿は再び微笑んだ。だがそれは、先ほどのように明るくはなく、楽しげでもなく――ただ笑みの形に顔を動かした、というだけのものだった。
 誰よりも司馬懿自身がそのことをわかっていたのだろう。空虚な笑みを関羽の視線から隠すように、司馬懿はかすかに首を傾げてこう言った。


「どうせなら、確信に至りたい。それが理由です、美髪公関雲長様」



◆◆



 荒れ狂う暴風を鎮めたのは、舞い躍る烈風であった。


 五十合を過ぎたところで、攻守は完全に逆転した。
 於夫羅が繰り出す攻撃はことごとくはじかれ、打ち込まれる打撃は単于の巨躯をしびれさせる。
 長大な八十二斤の偃月刀が、飛燕のように舞い躍る。
 繰り出される攻撃は重く、鋭利に。
 激しく、精緻に。
 暴虐の颶風は、精細に編まれた烈風の前に力を失うしかなかった。


「女、きさまッ!」
 於夫羅の怒号は、押されている自分への苛立ちか。単于たる身に加減をした相手への怒りか。
 いずれであっても構わない。関羽はそう考えていた。
 そうして、続けざまに於夫羅に鋒鋩を叩き込んでいく。
 青竜偃月刀は、その重さと長大さを利して渾身の一撃を叩き込むもの。本来、連撃のように小回りを要する攻撃には向かない武器である。
 だが、関羽にとってこの青竜刀はもはや半身に等しい。その扱いに苦慮することなどあろうはずがなく。
 於夫羅は重く、鋭く、激しく、精緻に組み立てられた猛撃の前に、たちまち防戦一方に追い込まれていった。


 そのことを自覚した瞬間、琥珀色の於夫羅の眼球が鮮血に染まった。
 憤怒のあまり、目の毛細血管が切れたのだろう。その口から獣じみた咆哮が沸き起こる。
「オォオオオオッ!」
 叫びながら、於夫羅は両の腕で大斧を振りかぶる。
 それを見た関羽は、反射的に隙だらけになった腹部へ青竜刀を叩き叩き込んでいた。牛革の鎧を切り裂き、於夫羅の腹部に刃先がめり込んでいく。
 だが。
「くッ?!」
 関羽が小さく呻く。青竜刀の刃先は於夫羅の左の側腹部に深々とめり込み、下半身をたちまち赤く染めていく。だが、致命傷には至っていない。狩りと戦で鍛え抜かれた頑強な筋肉が、それ以上の刃の侵入を阻んだのである。


 無論、それが於夫羅の狙いであった。
 関羽がそこに思い至った時には、すでに於夫羅は小癪な女を両断せんと大斧を振り下ろす寸前であった。そのまま立ち尽くしていれば、関羽はあたかも薪のように身体を両断されるであろう。
 腹部にめりこんだ青竜刀を引き戻すには時がない。身体を投げ出したところで、もう間に合うまい。
 於夫羅の目に灼熱した勝利の確信が浮かびあがり、戦斧が大気すら両断する勢いで振り下ろされた。
 関羽は凍りついたように動かない。
 周囲の将兵から悲鳴にも似た声があがった。



 関羽の頭が柘榴のように割れ砕ける様を、その場にいる将兵は幻視した。



 誰よりも於夫羅自身が、その手に伝わる重い感触に勝利を確信する――が。
 その確信は二秒ともたなかった。
 於夫羅の耳に声が飛び込んできたからである。



「――よほど力が自慢のようだな、蛮夷の王」



 その声は、幻聴と呼ぶにはあまりに明晰で、力感に満ちていた。
 脳漿を撒き散らしているはずの眼前の敵を見る於夫羅の目は、張り裂けんばかりに見開かれていた。
「き、さ……」
「力もて奪うがおまえたちの法ならば、力もて守るが私の法だ。草原の飢狼ども、中華の民がいつまでも狩られる立場に甘んじるなどと思うなよ」
 斧は剣とは違い、刃の部位は先端のみ。当然、重心も先端部分にある。
 これまで幾百、幾千もの敵兵をあるいは切り裂き、あるいは叩き潰してきたその先端を。
「ぬ、ぐ、余を、おさえるだとッ?!」
 関羽は掴み取っていた。
 於夫羅が全力をもって振り下ろした戦斧の、その先端。もっとも重く、もっとも破壊力がこめられたその箇所を、両の掌で、左右から挟みこんでいたのである。


 剛力を誇るあの於夫羅が、怒号と共に力をこめても、戦斧は微動だにしなかった。
 それは並びなき膂力を誇ってきた於夫羅にとって、どれだけの屈辱であったのか。力を振り絞るために顔は赤をこえて土気色に変じ、唸り声さえあげて力を込める。於夫羅の身体が小刻みに振るえ、腹部に半ばめり込んでいた青竜刀が音をたてて地面へと落ちる。その傷口から血が溢れ出てくるが、於夫羅を気に留める様子も見せず、なおも戦斧を取り戻さんと力をこめ続けた。
 ――だが、それでもなお、関羽の力を上回ることはかなわなかった。


 そんな単于の姿を見た匈奴兵たちからもれたのは、驚愕を通り越した畏怖の声であった。
 彼らは自分たちの王の強さを知っている。だからこそ、眼前の光景に恐怖を禁じ得なかった。
 最強たるを望み、事実これまで個として不敗を誇ってきた巨躯の王が、その半分もない女性に力で及ばぬその不条理を、どうして恐れずにいられようか。
「テングリ(天の意)……」
 喘ぐような呟きが匈奴兵の口からこぼれでる。  
 匈奴はシャーマン信仰が盛んであり、巫師や祈祷師らが大きな発言力を持っている部族も存在する。神仏、精霊、悪神など人ならざるモノが人の身に宿ることを知る匈奴兵にとって、眼前の不条理な光景は『そういったもの』にしか映らなかった。
 すなわち。
「悪霊だ、悪霊が憑いて……」
「東の悪しきテングリが降り立ったんだ! 祟りが起きるぞッ!」
 於夫羅がみずから選び抜いた匈奴の精兵が、雷に怯える羊の群れのように統制を失って乱れていく様は、何かの策略ではないかと思われるほどに呆気なかった。
 だが、匈奴兵の動揺はまぎれもなく事実。そして、曹操軍にとって彼らを見逃す理由など、どこを捜しても存在しなかった。


「馬鹿者どもがッ! なにを血迷ったことを」
 配下の混乱を見て、於夫羅は歯軋りする。
 その途端、不意にこれまで於夫羅を縛り付けていた戒めがなくなった。関羽が両の手を戦斧から離したのである。
「な……ッ!」
 周囲に注意をそらしていた於夫羅は、この咄嗟の動きに対応しきれない。
 斧はそのまま宙を断ち切りながら関羽の傍らを滑り落ちていく。そのまま斧を地面に叩きつけていれば、致命的な隙になってしまうだろう。


 だが、ここで於夫羅は剛力に任せて、振り下ろした戦斧を中途で止めるという離れ業を演じてみせる。
 その判断は決して間違っていなかった。が、すでに遅きに失したことを於夫羅は知る。
 関羽は戦斧から手を放すと同時に、地面に転がる青竜刀の柄の端を踏みぬき、跳ねるように浮かび上がった得物を、自分の手に取り戻していたのである。


 曹操軍が、匈奴兵を見逃す理由をもたなかったように。
 関羽が、於夫羅を見逃す理由もまた存在しない。聞きたいことがないわけではなかったが、それを問う無意味さは今の戦いではっきりと知れた。
 文字通り、鮮血に染まった眼差しで憤怒の叫びをあげようとする於夫羅。
「おのれ、土民ごとき……ッ!」
 だが、その言葉を言い終えるよりも早く、関雲長の青竜刀は唸りをあげて於夫羅の左の肩口を襲い――瞬きをする間もなく、右の肩口を通り過ぎていく。



 宙を飛ぶ単于の首が地面に落ちたのは、そのすこし後のことだった。





◆◆◆



 

 官軍勝利の報は、その日のうちに県城まで伝えられた。
 元々、兵力の差は明らかであったとはいえ、これまで恐怖の対象でしかなかった匈奴の軍勢を撃ち破り、あまつさえ敵の王さえ討ち取ることが出来た。
 大勝利の報告を受け、官、民を問わず人々はおおいに湧き立ち、声高らかに皇帝陛下万歳を唱え、その声は終日消えることはなかった。


 報告はさらに続き、官軍がこれより解池攻略に取り掛かること。単于を失った匈奴の残兵はすでにはるか後方へ退いて解池に戻る気配はなく、おそらく漢土に留まることもないのではないか、との推測も付け足されていた。
 となれば、残る敵は白波賊のみである。賊徒としては強大な勢力だが、無論、五万を越える官軍の精鋭にはかなうべくもない。
 なにより所詮は賊徒。軍としての統率は匈奴とはくらべものにならない。押し寄せる官の大軍を前に、脱走する者も少なくないとも言う。解池の奪還は時間の問題といってよかった。
 

 一時はどうなることかと思ったが、と太守の王邑は安堵の息を吐く。
 解池が陥ち、塩の生産地を奪われたことで、今後起きるであろう混乱を思って青ざめていたのだが、それも杞憂で終わりそうだった。
 無論、解池の陥落は大事であり、その復興も一朝一夕にはいかない。解池に蓄えられていた大量の塩はどうなったのか。それ次第ではしばらく混乱が続くことも考えられるが、それでも匈奴や賊徒がいなければ、王邑や賈逵らで十分に対処できるだろう。王邑はそう考えていた。


 賈逵の心情はより深刻だった。
 なにより実質的に解池を失ったのが自分の責任だという自覚がある。敵を追い払い、めでたしめでたしで済ますことができるはずもない。あの地獄を見てから、まだ半月も経っていないのだから。
 何より、今こうしている間も、解池は白波賊の支配を受けているのである。迫り来る官軍を前に、荒んでいる賊徒の支配を受けている城内のことを思えば、今すぐにも駆け出したい気持ちに駆られてしまう。
 無論、そんな衝動に負けるほど若くはないが、と賈逵は自嘲する。衝動を抑えてしまえる自分に失望するように。
 それでも、すでに賈逵は解池の復興と民衆の救済に向けた準備を進めており、それはこの後の復興状況に少なからず寄与することになる。


 だが、賈逵はこの時、一つのことを忘れていた。
 解池が陥落したその日。何者かが城門を開いて城内に賊徒を手引きしたことを。
 ただ、それは仕方ないことであったかもしれない。その後の混乱と略奪、逃亡と反抗の中では当時の戦況を思い出すことも稀であったし、たとえ思い至ったとしても、城内に賊徒が紛れ込んでいたと推測するくらいしか出来なかったであろう。
 金城湯池と謳われた解池であったが、結局自分は賊徒に一夜で陥とされる程度の守備しか出来なかったのだという賈逵の自責が、賊徒が潜り込んでいたという可能性を現実にあてはめてしまうのである。


 賈逵は知る由もない。
 たしかに白波賊は解池に幾人もの密偵を送り込んでいたものの、実際に潜入に成功した者はいなかったのだという事実を。
 では、何者が城門を開いたのか?
 それは――






[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/07 22:21


「……一刀」
「なんでしょう、関将軍?」
「なんだか周囲からの視線がくすぐったくて仕方ないのだが」
「ああ、まあそれは仕方ないことかと」
 どこか居心地悪そうに口にする関羽に、俺は苦笑しつつ応じた。
 匈奴の単于を一騎打ちで屠る女将軍なんて、中華の歴史でも空前の出来事だろうから仕方ないだろう。絶後かどうかはわからんけど。


 単純な武の力量で言うなら、曹操軍にも夏侯惇や張遼といった関羽に劣らぬ猛将がいる。この軍を率いたのが関羽ではなく、彼女らであっても、関羽に近しいことは出来たに違いない。
 しかし、現実に於夫羅を討ち取ったのは――漢民族にとって積年の怨敵である匈奴の単于を討ち取ったのは関羽に他ならない。官軍の将兵が驚嘆ないし畏敬の念を抱くのは当然といえば当然であった。
 彼らの視線はさながら武神を仰ぎ見るごとく。元々、名だたる武将として、また丞相の賓客として、関羽は相応の敬意を払われていたが、将兵が関羽に向ける視線は、昨日までのそれとは明らかに一線を画していた。
 ――なんか目の中にお星様がきらきら光っている感じの人もいるような気がするのだが……あと、関羽と話していると無言の重圧が俺にまで押し寄せてくる。これは明らかに昨日まではなかったことである。
 ふと思い出す。黄巾党にいた頃、張角たちと話していた時、周囲から寄せられる視線がこんな感じだったなあ。



 そんなことを話しながら、五万の大軍は一路、北へ、解池を目指して軍を進めていた。
 先夜の襲撃によって王である於夫羅を失った匈奴は大混乱に陥り、南から於夫羅と共に突っ込んできた兵士はほぼ壊滅。北から夜襲をかけてきた部隊も、こちらの反撃と、曹純ら虎豹騎の横撃を受けて千以上の死傷者を残して潰走した。
 先に戦った去卑に与えた損害とあわせると、これで匈奴は全軍の半ば以上を失った形になる。さらには単于である於夫羅と、右賢王である去卑を失った軍は、事実上無力化したといえるだろう。
 事実、匈奴勢は解池には戻らず、北西方面へ逃亡。おそらくそのまま漢土を抜け、北の草原に逃げ込むものと思われた。


 本来なら追撃して後の禍根を断っておきたいところだが、彼らを追うだけのまとまった数の騎馬隊はおらず、あるいは追撃しても手痛い反撃を食らう可能性が高かったため、去るに任せることになった。
 ついでに言うと、なにやら関羽を悪霊扱いして勝手に怯えているらしいので、その評価を本国に流してもらえたらもうけものである。
 武神になったり悪霊になったり、美髪公も大変だ――と、つい口に出してしまったら、わりと本気で関羽に頭をはたかれ、悶絶する羽目になった。すみませんすみません。



 ともあれ、匈奴の退路にあたる河東郡と西河郡の城や砦には手出し無用との急使を出し、俺たちは眼前の解池奪還に傾注する。
 偵察した兵士の知らせでは、解池の白波賊は匈奴の敗北を知って、一時はかなり大きな混乱を来たしていたらしい。それも当然といえば当然のことで、兵数を見ても、また互いの錬度を見ても、白波賊に勝ち目などないことは誰の目にも明らかであった。


 にも関わらず。
 頭目である楊奉が動くや、その混乱はぴたりと鎮まり、白波賊は周辺に出ていた部隊を集結させ、解池で篭城の構えを見せているという。
 それどころか城内にいる民衆に武器をもたせて城壁に立たせようとする気配すらあるという。
 おそらくその背後には武器を構えた白波賊が並び、督戦隊の役割を果たすつもりなのだろう。
 しかし、賊徒と民衆、数を比べれば圧倒的に賊徒の方が少ないのだ。反抗される危険はきわめて大きい。まして官軍が攻め寄せれば尚更である。
 それでもそんな手段をとるということは、それだけ追い詰められて判断力を失っているのか、城内の女子供を人質にとっているのか。あるいはその両方か。
 いずれにしてもこのまま攻め寄せれば血なまぐさい戦になることは間違いなかった。


 単純に勝利だけを望むなら、と俺は内心で考える。
 このまま解池を包囲して、圧力をかけ続けていけば、解池は勝手に自壊する。賊徒と民衆の間で高まる不穏な気配に衝き動かされ、いずれ誰かが城門を開くに違いない。
 だが、それは城門が開かれるまでの間、城内を白波賊の恣意に任せるということでもある。どれだけの民衆が犠牲になるのか、考えたくもなかった。
 よってこの案は没。


 しかし、常道にそって城攻めを行えば、背中に槍を擬された民と血みどろの攻防戦を演じることになる。これも避けたい。
 速戦、持久戦、どちらを選んでも、そこには相応の犠牲が求められる。将兵ではなく、解池の民の犠牲が。
 そんなことは許されぬ。
 その認識は、この場にいるすべての将が共有するところであった。



 そしてもう一つ、彼らは共通の認識を持っていた。
 民を犠牲にした戦は避けなければならない。しかし、だからといって手をこまねいてはいられないのである。
 解池の重要性を鑑みれば、一刻も早く官軍の手に取り戻す必要があり、それは丞相である曹操からの命令であり、皇帝からの勅命でもあった。
 ゆえに選びえる作戦は最初から速戦しかない。
 たとえ、それで民に犠牲が出ようとも、時間をかければより多くの犠牲が出てしまうのだから、選択肢など初めからあってないようなものだったのである。
 


 ――とはいえ。
 ――犠牲を避けるための策略が禁じられているわけではなかった。



◆◆◆




 そんなわけで、今、俺は徐晃と一緒に解池へと通じる地下通路を歩いている最中であった。
 てくてくと。
 てくてくと。
 てくてくてくてくてくてくてくてく……
「……どこまで続いてるんだ、これ」
 ぼそっと呟くと、少し離れたところを進んでいる徐晃が、これも呟くように答えた。
「今、半ばを過ぎたあたりです」
 そう言うと、徐晃はふいと顔をそむけて再び歩き出す。
 俺を避けているというよりは、これから先のことを考え、俺のことなんか気にしてはいられない、といったところか。
 



 元々、徐晃は好き好んで官軍に協力しているわけではない。
 この解池への潜入にしたところで、母である楊奉の真意を知りたいと願うなら、話し合うしかない、という俺の言葉に従ったに過ぎない。
 具体的にどう説得したのかというと。



 楊奉のこれまでの経歴を考えれば、捕虜となれば死罪しかありえない。その真意を知りたいならば、そうなる前に――解池での戦いが始まる前に、楊奉のもとへ赴かねばならない。
 史渙や韓浩ら弟妹たちを保護されている徐晃は、今さら白波賊として砦に戻ることはできない。であれば、官軍に従って解池攻撃に加わり、城攻めに先んじて楊奉の下へと駆けつけるしかないのである。
 楊奉を説得するなり、解池奪還のために何らかの功績をたてれば、あるいは助命のための一助になるかもしれない……



 自分で言うのもなんだが、ほとんど脅迫である。
 だが、少なくとも前半は紛れもない事実であった。だからこそ、徐晃もかなり悩んだ末にではあったが頷いたのだろう。
 後半の助命の件に関しては、正直なところはっきりしない。そもそも楊奉が今回の事態にどう関わっているかも判然としないのである。人材を愛してやまない曹操のこと、徐晃という武将を引き入れるためであれば、かなりの無理も通すであろうが……もし楊奉が今回の一連の争乱の主導的な立場にいたのであれば、たとえ曹操といえど、いかんともしがたいだろう。


 ……脅迫の上に詐欺も追加か。どの口で、劉家軍として頑張ったとか関羽に言ったんだろうか、俺。


 とはいえ、ほんのわずかではあっても、楊奉を救える可能性があるとしたらそれしかない、と俺が考えたのも事実であって、決して徐晃を騙したつもりはない。
 事態がどう転ぶにせよ、楊奉自身の口から、今回の件の真意を聞かなければならないことに違いはなく、徐晃もそれを承知しているからこそ、こうして動いてくれたのだろう。
 先を急ぐ徐晃の様子を見て、俺は小さく息を吐いた。
 


◆◆



 徐晃の案内のもとに向かった地下通路の入り口は、解池を取り巻くように流れる水路の一画にあった。
 周囲には見張りらしき人影もなく、入った当初は土がむき出しになった通路を、少し腰をかがめて歩いたのだが、どうやらその通路は枝道の一つであったらしく、ある一画から、あたりの光景は一変した。
 手に持つ松明の灯りに照らされた通路は、天井は高く、通路自体も広い。いや、正確にはここは地下通路ではなく、地下水路であったらしい。


 まずは俺と徐晃でこの通路を抜け、城内に入ったら城外に合図を送る。それを確認したら待機している虎豹騎三十名が同じく水路を使って城内に潜入し城門を開ける手筈であった。
 先に入るのが俺と徐晃の二人だけ、という点で異論を唱える者もいたのだが、そこは俺が説得した。徐晃が一番恐れているのは、城内への道を教えた段階で官軍に掌を返されることである。虎豹騎をぞろぞろと引き連れていけば、自分を捕らえるためではないかと警戒されてしまうだろう。
 その点、俺一人なら徐晃はいかようにも行動できる。そのことは村でも証明済みですしねと笑ったら、周囲から冷たい眼差しで睨まれてしまったが。無論、罠があった際の用心のためとか理由はあるが、それはわざわざ口にするまでもないだろう。


 そんなわけで、俺は徐晃と二人で水路に潜入した。
 中央には小型の舟であればすれ違うことができるほどの幅広の水路、その両脇には石畳が敷かれた通路がある。
 地下であるためか、空気がよどみ、どこかすえたような異臭が鼻をさす。一瞬、下水道を連想したのは、水路を流れる水が赤黒く汚れていたからである。
 だが、冷静に考えれば、この時代にここまで整備された下水道があるとも思えない。それにここが本当に下水道で、流れる水が汚水ならば「どこかすえたような」程度の異臭でおさまるはずがない。それこそ鼻がもげるような悪臭が漂っていなければおかしいだろう。
 

 ここは一体、何なのだろう。松明の火が消えない以上、空気の流れがあることは確かであったが、足元の石畳といい、水路の造りといい、一朝一夕でつくれるものではない。
 そんな疑問が顔に出たのだろうか。俺から少し離れて隣を歩く徐晃が、ちらとこちらを見てから、再び顔を前に向けて口を開いた。 
「ここは塩賊が解池の地下に張り巡らせた隠し通路です。解池の塩は中華の各地に運ばれることは衆知の事実。塩賊は長い時をかけてその流れに食い込み、物資を掠め取って、この通路を用いて自分たちの販路に持ち出していたと母さんから教えてもらいました」
 かつて、解池に潜入を命じられた折、徐晃は楊奉にここを教えられたそうだ。


 その言葉に、俺はあたりを見回す。
 古来より、解池の塩は時の権力者にとって重要な産物であった。
 塩賊は大胆にもその懐へ潜り込み、それを掠め取っていたということか。当然、見つかれば死罪は免れない。仲間や家族も同罪となる。
 それらを覚悟の上で、官軍の膝元とも言える解池で、死を賭して活動し続けた塩賊たち。この通路は、そんな彼らが長い年月をかけて築き上げ、拡げてきたものか。


 何故そんな重要な道を楊奉が知っているのかと疑問に思ったが、白波賊がこの地で活動する塩賊と関わりを持っているのは別に不自然ではない。
 しかし、それにしてもこの静けさはどうしたことか。
 荷を運ぶ舟はもちろん、人っ子一人通りかからないのだ。いや、ここが塩賊の隠し通路ならば、通りかかってもらっては困るのだが、それにしてもここまで無人であるのは妙ではないだろうか。
 白波賊と塩賊、どちらが主でどちらが従かは知らないが、解池を支配した今、彼らは膨大な量の塩を手にいれたことになる。塩賊にとっては金銀珠玉にまさる宝物であろう。それを運ぶ塩賊が、この通路に溢れていても不思議ではないのに。


「……いや、そうでもないか」
 俺は自分の考えを否定する。解池自体が賊の手に落ちたのだから、こそこそ地下に隠れて運ぶ必要はない。堂々と正面から運び出せば良いのだ。ここが無人であってもおかしくはない。
 おそらく徐晃もそれを計算にいれ、ここを選んだのだと思われた。


 もっとも、と俺は先を歩く徐晃の姿を見て胸中で呟く。
 あの少女はそこまで考えたわけではなく、ただ単にもっとも手っ取り早く城内に入れる道を選んだだけなのかもしれない。背に追う大斧を見れば、妨害する者がいれば、即座に排除しようという意思は誰の目にも明らかであった。





 俺が異変に気付いたのは、それからまもなくのこと。
 徐晃と共に進んでいた方向から、これまでに倍する異臭が漂ってきたのだ。
 その臭い自体は、この水路に足を踏み入れた時から感じていたが、今、淀んだ風と共に流れ込んできた『それ』は、これまでとははっきり異なっていた。
 異臭ではなく、悪臭。いや、もっと正確に言えば、これは――
「腐臭……」
 足を止めて呟く俺の声に、ほぼ同時に足を止めた徐晃が緊張した表情で頷いていた。


 戦場を往来すれば、誰もが嗅がざるを得ない臭い。
 慣れたくなくても、慣れざるを得ないそれは、異なる表現を採れば、死臭、と言い換えることも出来た。
 俺と徐晃はそれぞれの松明を掲げつつ、ゆっくりと歩を進める。
 蛮族と賊徒に占領された城市。地下水路に濃厚に淀む死臭。
 この先に何があるのか考えたくもないが、それでも幾度も戦場に臨んだ身心は、勝手に答えを弾き出してしまう。
 

 その推測が、暗闇を点す灯火に照らされ、現実として俺たちの前に立ち塞がったのは、そのしばし後のことであった。



◆◆



 屍の山から一斉に虫が飛び立つ。あたりを這いずりまわる音は虫か獣か。胸の悪くなる光景、むせ返るような腐臭。肌に張り付く湿り気が、不快を通り越して悪寒に変わる。
 通路の両脇に山と積み上げられたそれは、紛れもなく人間の屍であった。視界に映るだけでも数十人はくだらないだろう。
 それだけの死者が、山となって俺たちの行く道を阻んでいる。俺は腰に提げていた剣を抜き放つと、左手で松明を掲げ、右手に剣をもって、その死者の山に近づいた。
 予想していた光景――とは、少しだけ違ったからだ。


「男だけ……それも明らかに屈強な体格をした、か。官軍、というわけでもないよな、武装がばらばらだし」
 不意の出来事に備えつつ、俺は屍の山を見て呟いた。
 正直、匈奴か白波賊がここを死体置き場として利用していると考え、女子供の屍を見るのを覚悟していたのだが、ここに積み上げられている死者は、見るかぎりすべて屈強な男性だった。そしてもう一つ、皆、明らかに戦いの結果と思われる傷が刻まれており、それが致命傷になっていることは容易に推測できたのである。
 この死者たちは何者かと戦い、敗れ、こんな薄闇の水路に積み重ねられ、腐るに任されているのだ。もっとも、遺体の状態が確認できるあたり、死後何十日も経過した、という感じはしない。おそらくは解池陥落以後のものだろう。
 問題は彼らがどこの勢力に属していたのか、そして敵は誰だったのかということだ。そして、彼らをここに積み上げたのはどうしてなのか――そこまで考えた時、それまで黙っていた徐晃が不意に口を開いた。


「あの……平気、なんですか?」
 俺が驚きもせず、屍の山を調べだしたので驚いたらしい。目を瞠っている。徐晃は目に見えて怯えたりはしていないが、ためらいはあるようだ。
 もちろん、俺とて平気かと問われれば平気ではないが、将兵の死屍であれば、たとえ表面だけであれ冷静さを保つことはできる。劉家軍に加わった当初から、戦い終わった後の死者の埋葬や負傷者の手当てには携わってきたのだから、こういった光景にも耐性がつこうというものだった。
 武勇では到底徐晃に及ばない俺だが、戦に臨んだ数でいえば俺の方がまさるようだ。まして高家堰砦の激戦を経た今の俺は、眼前の光景程度で取り乱したりはしなかった。


 それはともかく。
 冷静に考えれば、この水路の存在を知っている以上、これをしたのは塩賊ということになる。
 しかし、こんな形で通路を埋めてしまえば、自分たちが通ることも出来なくなってしまう。塩賊がそんなことをするだろうか。とはいえ、死体で埋められているのは通路のみで、真ん中に流れる水路にまで及んでいない。舟があれば簡単に通り抜けられるから問題ない、ということかもしれないのだが。
 くわえて、舟を使わないにしても、水路の底はそれほど深くないため、歩いて通り抜けることも出来そうだった。ただ、そのためには、両側の屍の山から絶えず流れ出る、何かが腐ってとけた赤黒い水に腰までつからなければいけないのだが……しかし、他に方法がないとなれば、それをするより仕方なかった。



 というわけで。
 奇妙にぬめる水底ですべって転ばないように気をつけつつ、俺と徐晃は汚水をかきわけて進んでいた。
 城内に入るためには、この通路を抜けなければいけないと徐晃が言ったためである。もしかしたら、他に道があるかもしれない、と徐晃は付け足したが、この危急時にそんな隠し通路を探してる暇があるはずもなかった。


 もう絶対ヒルとかなんかいるだろこれ、などと内心でうめきつつ、一歩一歩、足を進める。一刻も早く駆け抜けたいのだが、そんなことをすれば水底に足をとられて、汚水で全身浴をする羽目になりかねない。半身浴でさえ気が狂いそうなのだ、全身浴など本気で御免被りたい。
 両側に積まれた屍の山、鼻ごともげそうな腐臭、下半身を嘗め回るおぞましいぬめり。一人であれば、あるいは同行している少女が冷静さを保っていなければ、大声だして絶叫していたかもしれない。いくら戦による死傷者に慣れたとはいえ、さすがにこれは次元が違った。


 しかし、ここを通らなければ、この惨劇が地上で現出することになる。いや、解池が陥落した段階で似たような状況になっているだろうが、それがさらに大規模になってしまうのだ。
 それを承知の上で、大の男がこの場から悲鳴をあげて逃げ去れるはずがない。先ほどまで装っていた冷静さをかなぐり捨てながら、それでも俺は歯を食いしばってまた一歩、足を踏み出していった。



◆◆◆



 足首を何かが這い回る感触。口から飛び出しかけた悲鳴を、徐晃は咄嗟にのみこんだ。一体何がと疑問に思ったが、確かめようにも、濁りきった水は足首はおろか膝すら隠している。それに正直、確かめたいとも思えなかった。むしろ確かめてしまえば、今度こそ我慢できなくなると確信してしまう。
 母に逢う、という一念がなければ。あるいは徐晃の少し前を歩く人の姿がなければ、すぐにも引き返していただろう。


 互いに言葉はない。ぬめった水音と共に足を進めるごとに、両脇の通路から耳障りな羽音が聞こえてくる。松明の火にぼんやりと照らされたそこに、何が密集しているのかなど考えたくもなかった。
 そして同時に、誰がこんな真似をしたのかも考えたくなかった。
 北郷が気付いているかどうかはわからないが、この死者の山は明らかにこの水路を使う者への足止めである。が、今、徐晃たちがこうして進んでいるように、足止めにしては詰めが甘い。そもそも本当に水路を使われたくないのなら、それこそ土で埋めるなり何なりしてしまえば良いのだ、わざわざ手間をかけて死体を運んで積み上げる必要などどこにもない。


 であれば、この惨状をつくった者の狙いは――
(嫌がらせ? そのためだけに、こんなことをしたの? 戦いが終わった後、この水路を使うのにどれだけの労力がいるのかもわからないのに)
 それはつまり、この戦の後のことなどどうでも良い、という考え。
 この水路を使う者――すなわち解池を早期で陥とすために、この水路を使えば良いと考えるであろう何者かを、精神的に追い詰めるためだけに、不要と思われる労力を平然と費やすその考えは、明らかに破綻していた。将としても、人としても。



 脳裏に浮かぶ母の姿。
『鵠……』
 そういって優しく髪を梳いてくれたのは、匈奴の天幕の中であったか。
 楊奉は匈奴の陣営で決して粗末に扱われていたわけではない。むしろ厚遇されていたと言っても良いだろう。ただ、その事実が母の矜持を満たすものではないことは、幼心に徐晃も感じ取っていた。
 ただ、それが何故なのか、あの頃の徐晃にはわからなかった。


 漢族には凶暴凶悪と思われている匈奴であったが、何も年中略奪に狂奔しているわけではない。
 野の獣を狩り、羊を放ち、広大な草原を馬で駆けぬける。遊牧民族の質実で素朴な生活を、徐晃は決して嫌ってはいなかった。
 その気持ちは、草原を離れ、母と共に漢土に至り、それまでとはまったく異なった生活をするようになった今でも変わっていない。


 母が白波賊に入り込み、韓暹に取り入り、事実上の頭目に成り上がっていく様を、徐晃は胸を痛めながら見ているしかなかった。
 母が心の底で草原を嫌っていることは察していた。だから、草原に戻ろうとは思わなかったし、口にすることもしなかった。ただ、こんなことをするために草原を離れたわけではないのでしょう、と問いかけたかった。韓暹のような男の傍らに侍る母を見るのは、徐晃にとってただただ辛いだけだったのである。


 そんな気持ちが、あるいは知らずに表情や態度にあらわれていたのかもしれない。いつか、徐晃は母が自分を疎んでいることに気がついてしまった。
 ――否、正確に言えば、そのことはずっと前から気付いていた。匈奴の血をまざまざと伝える自分の髪と瞳、それを見る母の目が、ときおり凍土さながらの冷ややかさを放っていることには気付いていたのだ。その眼差しが、年を経るごとに深みを増していることにも。


 だが、気付いたからといってどうすれば良かったのだろう。
 その言うことに従い、その歓心を得られるように努める以外に何が出来たのだろうか。
 徐晃にはわからなかった。
 わかったのは、一つ。
 その道の果てに、この死屍累々たる光景があるというなら、自分は間違っていたのだろうという、ただそれだけ。



 そして、そんな徐晃の思いを肯定するように。
 暗く濁った暗闇の奥。ようやく左右の屍山から抜けることが出来た二人の耳に、濡れたような艶のある声が響いてきた。
 その声を――この場にあって微笑みを宿したその声を、徐晃は知っていた。他の誰よりも。
 
 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/08/09 17:38


 鮮麗な黒髪を表現するものとして、烏の濡れ羽色、という形容がある。
 青みを帯びた黒、艶のある黒髪を指すこの言葉が、今、俺の眼前にいる白波賊の頭目、楊奉という人物を見ていると、自然に浮かび上がってきた。
 美しいといえば美しいし、綺麗と言えば綺麗なのだろう。豊麗な肢体を見せ付けるような衣服をまとって、こちらを見つめる表情は、不思議に穏やかであった。





 地下水路の屍の山をようやく抜けたと思った途端、そこには楊奉と、その部下たちが待ち構えていた。楊奉の周囲には白波賊と思われる男たちが鏃をまっすぐ俺たちに向けている。腰まで汚水に浸かっていた為、ろくに身動きが取れない状況だった俺は、咄嗟に動くことも出来ず、その場に立ち竦むしかなかった。
 待ち伏せを予測していなかったわけではなかったが、積み上げられた屍に意識を向けすぎて、そちらへの注意と対策を怠ってしまったことを悔やむ。しかし、それはすでに遅すぎた。


 徐晃は楊奉が姿を現した折、母さん、と呟いたきり動かない。
 こちらに向けられた複数の鏃を見て、死、という言葉が俺の脳裏をよぎった。
 だが、しかし。
 楊奉は俺たちをその場で殺そうとはしなかった。俺たちに武器を捨てるよう命じ、それに従ったのを確認するや、配下に命じて俺たちを捕らえ、解池城内に連れてきたのである。


 そこで俺と徐晃は着替えを命じられた。
 死虫を張り付かせたままでは落ち着かないでしょう、と笑う楊奉によって、俺は敵城で湯浴みした挙句、新しい衣服までもらうことになったのである。
 当然、周囲には逃亡できないように白波賊の見張りがつく――と、俺は考えていた。
 だが、実際には表立って俺を見張る者はいなかった。侍女――おそらく元々、解池城内で働いていた人たちなのだろう――が二名ほど近くにいたが、どう見ても武芸に通じているようには見えない。
 逃げだそうと思えば、決して不可能ではない状況だった。
 だからこそ、俺は逃げて城外に待機している味方に合図するという選択肢を採れなかった。
 楊奉が何を考えているのか、何をしたいのか、それがまったくわからない以上、迂闊なことはできないと考えたからだが、もしかしたら、俺はただ単に楊奉に気圧されていただけかもしれない。その命じた以外のことをすれば、たちまち心臓を射抜かれてしまうような、そんな予感があったのである。





 その感覚は、着替え終わって、こうして楊奉の前で座っている今なお続いている。
 そんな俺を見て、楊奉が口元に手をあてて微笑んだ。
「ふふ、落ち着かないようね。たった二人――しかも共に来る一人は敵の娘と知って、この城に潜り込むつもりだったのでしょう。もう少し肝が据わっていると思ったのだけど」
 ころころと。楊奉はさも楽しげに卓についた俺に笑いかけてくる。
 娘の連れてきた男友達を迎えた母親のような、ごく自然な態度。そこにはこちらへの敵意や警戒など微塵も感じられない。
 地下水路での邂逅が悪い夢であったかのようにさえ思われる態度だが、その語る内容は、やはり笑って話すようなことではない。
 一体、楊奉は何を考えているのか。この時点で俺にはまったく理解できなかった。


 次の瞬間、扉から白波賊が雪崩れ込み、俺を切り刻んでもおかしくない。そう考えた途端、扉が開く音がして、俺は反射的にそちらを振り返った。腰をあげ、手は剣にかかっている。
 そう、楊奉は俺に武装することさえ許したのである。着替え終わった後、取り上げられた剣を返された俺は、唖然とするしかなかった。
 それはさておき、扉から入ってきたのは武装した白波賊――ではなく、こちらも着替え終えた徐晃だった。
 といっても、先刻まで来ていた戦袍ではない。俺に与えられた服もそうなのだが、どんな相手の前に出ても、それこそ朝廷に出仕しても文句は言われないだろう高雅な服装だった。
 徐晃はいつも後ろで束ねていた髪も下ろしており、そこには武人としての面影はほとんど残っていない。一瞬、どこの令嬢かと本気で考えてしまった。衣装一つでこうまで印象がかわるか、と知らず感嘆の息を吐く俺。


 そんな俺の様子に気付いたのか、徐晃は顔をしかめてそっぽを向き、楊奉は楽しげに微笑んでいる。
 本当に、今の状況を忘れてしまいそうな光景であった。
 徐晃もまた、母親の様子に驚きを隠せずにいるようで、戸惑いがちの視線を楊奉に向けている。
 その徐晃に向け、楊奉が口を開いた。
「こちらにおいで、公明」
「は、はい、母様ッ」
 穏やかに声をかけられ、徐晃は背筋をぴんと伸ばして楊奉に歩み寄る。
 そこに大斧を縦横無尽に揮う武人の姿はなく、母の差し伸べた手を掴んで良いのか否か、おずおずと迷う少女の姿があった。
 徐晃としてはすぐにもその手をとりたいのだろうが、そもそもここまで来た目的がある。それを確かめないうちに、母の手をとることはできないと考えているのだろう。その顔は緊張と不安に塗りつぶされていた。
 
  

 そんな娘の顔を、楊奉は静かに見つめている。
 白波賊を率いる頭目であり、匈奴と手を組んで解池を陥とした人物。
 徐晃の話を聞いた限り、楊奉は実の娘である徐晃に対し、穏やかならぬ感情を抱いているように思われた。その徐晃が官軍である俺と一緒に解池に潜入しようとしたところを捕らえたのだ、もはや敵とみなしてもおかしくはない。
 にも関わらず、どうしてかくも穏やかなのか。
 あるいは何かの拍子に親子の情愛を思い出した、ということもないわけではない。
 だが、だとしても俺を生かしておく理由はないはずなのだ。徐晃と異なり、俺は間違いなく楊奉の敵であり、地下水路で問答無用で殺されていてもおかしくはなかった。あるいは殺す価値もないと思われたのかもしれないが、だとしたらこの厚遇の意味がわからない。湯浴みの上に衣服を着せ、挙句、武装したまま室内に招き入れるなど、どう考えてもおかしいのである。


 眼前の光景が穏やかであり、微笑ましければこそ、この場の異質さが際立って感じられる。
 その答えを知る者は俺でも徐晃でもなく、微笑を浮かべて徐晃を見つめている人物以外にありえなかった。
 自然、楊奉を見据える俺の視線が鋭くなる。
 その視線に気付いたのか、楊奉が不意に俺の方を見やると小さく笑った。
「どうなっているのか説明しろ、と言いたそうね」
「今の私は捕虜同然の身。要求するつもりはありませんが、しかし聞かせてもらえるなら聞かせてほしいとは思っています」
「口にせずとも立場をわきまえてくれる子は嫌いではないわ。御褒美に一つ教えてあげましょう。あなたたちが見たあの死体、誰のものだと思う?」


 地下水路で俺たちを遮った、あの死者の山。おそらく官軍ではない。城内の住民でもないだろう。風貌からして匈奴兵でもありえない。であれば、必然的に白波賊のもの、ということになるのだが……
 しかし楊奉の答えはそのいずれでもなかった。
「あれは塩賊よ。ある者は潜み、ある者は溶け込み、この解池に巣食っていた者たち。解池がどのように陥落したかは、もう知っているのでしょう? 戦局の終わりに、解池の城門を開け放ったのはあの者たちの仕業よ」
 あっさり、楊奉はそう断言した。のみならずこう続けた。
「約定に従えば、戦が終わった後、解池の塩はあの者たちに引き渡さなければいけなかった。今の塩賊は、都の小娘に追い詰められているから、挽回のための資金を咽喉から手が出るほど欲したのでしょう。だから――」


 ――解池が陥ちてすぐ、貯蔵していた塩の引渡しを求めてきたあの者たちを、私は皆殺しにしたの。


 笑みを絶やさぬままに、そう口にした楊奉に対し、俺は束の間の沈黙の後、ゆっくりと問いを向けた。
「そして、あの地下水路に積み上げておいた、ということですか?」
「ええ、そうよ。どのみち、今回のことで解池の塩賊は壊滅した。あの水路が使われることはもうないわ。あの通路を埋め立てるだけの時もないし、死体の山を積み上げておけば、侵入者を防ぐことは出来る。一々、土を掘り返して死体を処理する手間もかからない。一石二鳥というものでしょう」
 自分の言葉に、一片の疑問も抱いていない楊奉の顔と言葉だった。
 その言葉に頷くつもりはなかったが、効率だけを見れば、その言葉が誤りではないことは理解できた。繰り返すが、楊奉の行動を是とするつもりはない。ただ、そういう考え方もあるだろう、と俺が考えたに過ぎない。
 問題はそこではなかった。


「何故、塩賊を殺したのですか? あなたがたは官軍を敵とするという一点で、共通の利害を持っていたはずです。だからこそ、塩賊は解池を陥とすために動いたのでしょう?」
 俺のその言葉に、楊奉は楽しげに笑う。言葉の内容よりも、俺が選んだ言葉そのものに興を覚えたらしい。
「共通の利害、ね。味方を裏切ったと非難されるものと思ったのだけれど、なるほど、身の程をわきまえた言い回しね。小賢しくはあるけれど、それすら出来ぬ無能な輩よりよほど良いわ」
 そう言ってから、楊奉は卓の上に置かれていた茶をすすり、あらためて俺に視線を据えなおす。激情など微塵も感じさせない、相も変らぬ穏やかな視線であった。


「何故、塩賊を殺したのか。答えは邪魔だったからよ。この城は塩の生産地としての価値はもちろん、ここに蓄えられている膨大な塩そのものにも価値がある。城と塩、どちらも官軍にとっては欠かせないものでしょうけれど、そのうちの一つがなくなったと知られれば、ここに向ける戦力が他に割かれてしまうかもしれないでしょう? それでは困るのよ。より強大な敵と戦いたいと於夫羅は望んでいたのだし」
 もっとも、と楊奉は続ける。
「塩賊が以前ほどの勢力を持っていたのなら渡しても良かったのだけれどね。滅びに瀕して足掻くことしかできない今の連中にそんな価値はないわね」
 曹操と荀彧の政策、そして許昌の四尉(司馬朗、李典、于禁、楽進)らによって、霊帝の時代に跳梁していた塩賊のほとんどは致命的な痛手を被っている、と楊奉は俺に教えた。


 今回の一挙は、塩賊にとって窮余の一策であったということか。そして楊奉はそれを見透かして手を差し伸べ、挙句に切り捨てた――と、そこまで俺が考えかけた時だった。
「あら、怖い顔ね。塩賊を利用するだけして利用して、用が済んだら切り捨てた。あなたが考えているのはそんなところかしら。そう思ってしまうのも仕方ないけれど――」
 楊奉はそう言って、傍らの徐晃の髪に手を伸ばす。
 徐晃はその手に応じかけ――咄嗟に、踏みとどまる。かすかに涙の滲んだ眼差しで、じっと母を見つめている。
 そんな娘の様子を見やりながら、楊奉は声だけをこちらに向けた。
「塩賊を動かしたのは私ではないわ。元々、あれらの半ばは高騰する官塩に耐えかねた市井の者たち。地下に潜み、官の目を盗んで私塩を売りさばく彼らと白波が繋がりを持っていたことは確かだけれど、その程度の繋がりで塩賊が動くはずはないでしょう。こちらに命令をする権利があるわけでもなし――彼らを従わせるだけの力の差はなかったのだから」



 その最後の言葉が、引っかかった。
「力の差……?」
 その言葉。
 それはつまり、塩賊が従わざるを得ないだけの力を持つ者が、塩賊を動かしたということなのだろうか。
 その考えを敷衍すれば、眼前の楊奉の背後にもその勢力が存在する、ということになる。
 俺がそう考えたことを察したか、俺を見る楊奉の笑みが一段、深みを増したように思えた。




 思い出す。
『解池さえ陥とせば、後はどうでも良い……そんな風に見える』
 そう司馬懿に言ったのは他ならぬ俺自身である。解池を陥落させた白波賊の手際と、その後の無策な行動に疑問を覚えた。
 あの時点で、その真意を知りようもなかったから、疑問は封印していたのだが、今、楊奉が語る言葉を聞けば、白波賊の目的は解池を陥とし、官軍をこの地に引き寄せることだという。それも出来るかぎり多くの兵を。


 大量の討伐軍を引き出してしまえば、白波賊はこの地で孤立するしかない。まさか匈奴が十倍の敵軍を掃滅できると信じていたわけでもないだろう。それならば、匈奴が敗れた後、なおもこうして戦う理由がない。
 今、楊奉自らが敵の鋭鋒の前に身を晒している以上、何らかの成算があるとしか考えられないのである。
 ではその成算とは何なのか。
 討伐軍をこの地まで引き寄せれば、その分、許昌は手薄になる。そこを衝かれれば、朝廷も慌てざるを得ないだろう。
 とはいえ、今の朝廷――曹操軍は、この地に五万の兵を派遣してなお許昌に数万の常備兵を残しているはず。そこらの賊徒や領主に太刀打ちできる相手ではない。
 そう考えれば、自然、背後にいる者は浮かび上がってくる。


 河北の袁紹か、あるいは淮南の袁術か。
 ただ、袁紹はここまで小細工を弄する人柄ではない。曹操と対決を決意したなら、麾下の全軍で真っ向から許昌に押し寄せてくるのではないか。実際、袁紹を見たことのある俺にはそう思えてならなかった。
 となると、残るは一つ――淮南の偽帝袁術。
 あの国なら小細工はお手の物だし、今上帝や曹操の政策を敵視する塩賊を従わせるだけの国力もある。
 白波賊と匈奴が北方で暴れれば、当然、朝廷は討伐軍を派遣する。そうして手薄になった許昌を、荊州、豫州、揚州の総力を挙げて襲撃する。
 いかに曹操軍といえど苦戦を余儀なくされるのは明らかであった。


 くわえて言えば、袁術が袁紹や曹操にくらべて有利な点が一つある。
 それは後背に憂いがないということだった。
 江南は未だ群小の勢力が割拠して争い合っており、荊州の劉表は積極的に動く型の君主ではない。かつて袁術が淮南に侵攻した折も、その後背を衝く動きを見せなかった劉表が、今回に限って動くことになるとは考えにくい。
 つまり、袁術は文字通りの意味で総力をあげて許昌に侵攻できるのである。




 そう考えれば、今回の白波賊の行動に一応の説明はつけられる。
 ただし疑問に思う点も少なくない。
 解池を陥とした後の無策な動き。楊奉ならば、去卑と於夫羅の動きを掣肘することが出来たのではないか。たとえば袁術軍が許昌を攻撃するにしても、匈奴勢がいらないということはなかったはずだ。
 ほかにも、楊奉が塩賊を殲滅したこと。おそらく袁術側は、協力の報奨として塩賊に解池の塩を与えると約束していたはず。それを楊奉の一存ではねのけた挙句、こともあろうに皆殺しにしてしまった。戦後、袁術側から咎められるのは火を見るより明らかであろう。
 大枠では戦理にそって動きながら、随所で不要な争いの種を撒き散らす。
 俺が気付く程度のことを、楊奉が気付いていないとは思えない。それを意図してやっているのだとすれば、それはつまり、楊奉は戦いを拡げるために戦っているということに――



 俺がそれらの推測を口にした、次の瞬間。
 不意に楊奉の口から、迸るような哄笑が響き渡った。


◆◆


「か、母様……?」
 徐晃が唖然として楊奉を見つめる。
 だが、楊奉はそれにも気付かず、なおも笑い続けた。さも可笑しげに。さも愉しげに。
 それは娘である徐晃さえ見たことのない母の姿。
 そして。


 楊奉がようやく笑いを収め、俺に目を向けたその途端。
 部屋の空気が一変した。あたかも春から冬へと季節が遡ったかのように、穏やかであった雰囲気が凍えるようなそれにとってかわる。
 楊奉の表情が変質したわけではなかった。その顔は、俺はこの部屋に入ってきた時から、ほとんど変わっていない。にも関わらず――


 何故、俺の身体は凍りついたように動かないのだろう?


 蛇ににらまれた蛙のように、指の一本も満足に動かせない俺に向かい、楊奉がにこりと笑って口を開く。ぬめるように蠢く舌が、何故だか異様に目についた。
 そして、俺はその言葉を耳にする。


「なかなかに面白いことを言う。劉家の驍将……あやつらが気にかけるだけのことはあるな」    


 楊奉は確かにそう言ったのである。 
 ぞわりと背筋に走る悪寒。
 哄笑をおさめた楊奉は相変わらず穏やかに――怖気を感じるほどに表情をかえず、俺を見て言った。劉家の驍将、と。
 その瞬間、俺の中に発生した得体の知れない違和感は、たちまち沸点にまで達し、膨れ上がる恐怖に耐えかねた俺は、弾けるように卓から――楊奉から遠ざかった。
 そうしなければ飲み込まれてしまいそうだった。目の前の人身の大蛇に。


 そんな俺の様子を見て、楊奉はくすくすと笑う。まるで童女のような邪気のない笑顔に、俺は思わず剣の柄に手を伸ばしてしまう。
「ふふ、突然どうしたというの? 十万を越える仲の軍勢を追い返した勇将が、この身一つを恐れる理由などないでしょうに」
 その言葉に俺が応えるより早く、俺の前に立ちはだかった者がいる。
 言うまでもなく、この場にいるもう一人――徐晃であった。


 徐晃は俺とは違い、何の武器も持っていない。だが、たとえ素手であっても、俺を叩きのめすのにさして手間はかからないだろう。
 それを無言で証明するように、琥珀色の瞳を底光りさせた徐晃が冷たい声を俺に向ける。
「母様に、何をするつもりですか?」
「……ッ」
 その声に込められた威圧が、俺の中の何かを急速に冷ましていく。
 得体の知れない悪寒を感じ、咄嗟に剣に手を伸ばしてしまったが、楊奉は何一つ具体的な害意を示していない。くわえて、楊奉と話をするという選択肢を徐晃に示した俺が、ここで楊奉を斬ってどうするというのか。今、この場で咎められるべきが誰であるのかは、誰の目にも明らかであった。


「……申し訳ありません。無礼をいたしました」
 徐晃と、卓についている楊奉に向けて、俺は小さく頭を下げる。
「かまわないわ。こちらにも何か粗相があったのでしょう。席に戻りなさいな」
 楊奉はそう言って席を指し示す。
 徐晃はまだ腹立ちが鎮まらない様子であったが、楊奉にそう言われては黙らざるを得ないのだろう。自らも席に戻った。


 一見、寛厚で、友好的な態度だ。
 だが、だからこそ違和感が拭えない。敵である俺に、どうしてこんな真似をするのか、と。
 もう何度目かもわからない疑問が脳裏に浮かび上がるが、考えたところで答えが出ることはない。
 今、見極めるべきは楊奉の目的である。楊奉は袁術の関与を否定しなかった。だからといって、ただ袁術の言うがままに動いているわけではないことは、塩賊への仕打ちを見れば明らかである。
 一体、この女性は何を目的として動いているのだろうか。


 いっそのこと、直接問いただしてみようか。俺はそう考えて口を開こうとする。
 だが、その機先を制するように、楊奉は徐晃へ呼びかけた。
「公明」
「は、はい、母様ッ!」
「何か、私に問いたいことがあるのではなくて? そのために、戻ってきたのでしょう?」
 その楊奉の言葉に、徐晃が小さく息をのむ。
 咄嗟に何と言うべきかわからなかったのだろう。場に沈黙が舞い降りた。


 だが、その沈黙はすぐに徐晃によって破られる。
 よほどに覚悟を決めて、ここまで来たのだろう。楊奉を見つめる徐晃の目は、かすかに揺れていたが、一度も逸らされることはなかった。
「はい、母様。教えてください、あの子たちの居場所を匈奴に教えたのは……か、母様なんですか?」
「ええ、そうよ」
 振り絞るように放たれた娘の問いを、楊奉はためらいすら見せずに肯定する。
 お前の弟妹たちを、匈奴の慰み者に差し出したのは自分だ、と。


「……何故、ですか?」
 掠れた声で、徐晃はなおも問い続ける。
「それはあなたが一番良く知っているのではなくて? 私の言いつけに背き、あろうことか官軍に――漢に尾を振った者に、罰を与えるのは当然のことよ。そしてあなたは自分に与えられる苦痛は耐えられても、近しい者たちのそれは耐えられない。自分が原因であれば、なおのこと、あなたは苦しむでしょう。なら、罰としてこれ以上のものはないのではなくて?」
 だからそうしたのだと、淡々と言う楊奉。
 そんな母を見る徐晃の目は、はりさけんばかりに見開かれていた。
「……母様」
「もっとも、あの去卑という下郎は、隠れ潜む幼子を嬲る程度のことも出来なかったようだけれど。ふふ、そういえばあの子たち、今はあなたのもとにいるのよね。みんな無事だったの?」
「は……は、い……」
「そう、それは幸いだったわね、公明。匈奴に襲われて、なお無事だったなんて……あの子たちの並外れた幸運に感謝しなくてはいけないわね」
 そういって、楊奉はさも愉しげにくすくすと笑うのだった。



 その楊奉を見ながら、徐晃は身体を震わせていた。その目に浮かぶのは当惑。
 その眼差しは言葉よりも雄弁に語っていた。
 年端もいかない子供たちを蛮族に差し出しながら、その無事を知り、運が良かったわねと微笑みかけるこの人物は、一体、誰?


「……かあ、さま?」
「あら、どうしたの、公明。そのように泣きそうな顔をして」
 表情を曇らせた楊奉が、そっとその手を徐晃の髪へと伸ばす。
 子供の頃から、泣いた娘をあやす時にはそうしていたのだろう。俺がそうわかるくらいに自然な動作であった。



 ――その手は、しかし。
 ――娘の髪に届かない。
 


「……公明?」
 空を掴んだ手をそのままに、楊奉が不思議そうに口を開く。
 母の手を避けた娘に向かって。
「どうしたの、公明? 何か気に障ることでもあったのかしら?」
 さも不思議そうに問いかける楊奉。
 一方の徐晃も、意識してその手を避けたわけではないらしい。自分の行動に戸惑ったように、首を左右に振っている。
「まだ、この身を母と呼んでくれるのでしょう、公明。なら、どうして私を避けるの?」
「か、母様、あの、これは……」
「大丈夫、怒ってはいないわ。あなたは確かに私の期待に応えなかったけれど、それ以上の成果を持ち帰ってくれたのだから」


 ――そう言う楊奉の視線は、何故か、まっすぐ俺に向けられていた。


「どうやって司馬の目を逃れられたのかは知らないけれど、要となる驍将をあなたが連れてきてくれたことで、ふふ、あの男の策謀を覆す目処がついた。新帝が廃都で陣容を整えてしまえば、許昌の小娘も終わりだったけれど……これで、何とかなりそうね」
「母様、一体、何を言って……?」
 徐晃の問いに、しかし楊奉は応えない。じっと俺を見据えたまま、なおも奇妙な言葉をはき続ける。
「廃都の新帝、許昌の現帝、寿春の偽帝。互いに潰しあい、殺しあえばよい。けれど、いずれかの勢力が大きくなりすぎてはいけないの。許昌の勢力は削ぐ。けれど削ぎすぎて潰してしまうのは良くないわ。それでは勢力が統合されてしまう。それでは戦いが終わってしまう」 


 この時、俺が楊奉の言葉を冷静に聞いていれば、それが恐るべき意味を秘めていることに気付けたかもしれない。
 だが、俺は楊奉の言葉をほとんど聞いていなかった。
 俺を見据える楊奉の視線。穏やかで、静かな、その表情を、俺はじっと見つめていた。




 穏やかで/穏やか過ぎて
 静かで/静か過ぎて
 その先があることにさえ気付かなかった。
 静かな淵こそ、水はより深いとは誰の言葉だったのか。


 思い浮かぶのは、底の見通せない古びた井戸。
 溜まった水は穏やかに/濁り
 静かに/腐り
 その奥底に埋もれた『それ』を隠していた。


 ああ、ようやく気付く。
 俺が感じていた違和感は、ただの勘違い。
 平静に見えた楊奉の行いに『それ』を感じたから、違和感を覚えた。
 そうではなかったのだ。
 俺が、勝手に穏やかだ静かだと思い込んでいただけで。
 楊奉は最初から最後まで、己に忠実に考え、話し、行動していたのだ。
 己の奥底に潜む『それ』――いかなる言葉も受け付けず、いかなる思いも通じない、そんな静謐な狂気に従って。











 凍りついたように止まった室内の時間は。
「か、頭、大変ですッ!!」
 飛び込んできた一つの報告によって、再び動きます。
「じょ、城門が、誰かに開けられました! か、官軍が一斉に動き出してますぜッ!」
 その報告を裏付けるかのように、彼方から喊声が響いてくる。
 戸惑いは短い時間だった。おそらく、いつまでも俺から合図がなかった為に、待機していた虎豹騎が独自に地下水路を突破したのだろう。
 地下水路の構造自体はさほど複雑ではなかったし、俺が合図をしていない以上、妨害があることは容易に予測できる。虎豹騎ならば地下水路を抜けることはさほど難しくなかったに違いない。


 慌てきった配下の報告に対し、楊奉は対照的に冷静さを保って応じた。
「何を慌てることがあるのやら。あらかじめ命じていたとおり、解池の民を盾として、城外に押し返せ。所詮、我らは賊。賊は賊らしく、戦えば良い。皆にそう伝えよ」
「しょ、承知しましたッ!」
 配下が配下が慌てふためいて出て行くと、楊奉はゆっくりと立ち上がると、俺や徐晃には目もくれず、そのまま扉へと歩み寄る。
 その背にかけるべき声を俺は持たず、徐晃もまた口をつぐんだままであった。


 不意に。
「公明」
 楊奉が娘に呼びかける。
 応じて視線を向ける徐晃を、楊奉は束の間、じっと見つめていた。
 まるで何かを待っているかのように。
 だが、徐晃が何も口にしないとわかると、興味を失ったように、すぐに踵を返して扉の外へと出て行ってしまったのである……
 





◆◆◆





 徐晃は声もなくその場に立ち尽くしていた。
 その脳裏をよぎるのは、出て行く間際の母の顔。黙ったままの徐晃を見る目は、冷たくはなかった。しかし、暖かくもなかった。
 そこにあったのは、ただただ静かな――無関心ゆえに波が立たず、それゆえに静かな母の表情。それを見て、徐晃は指一本動かすことが出来なかったのである。


「公明殿」
 声をかけてきたのは、北郷だった。
 ゆっくりとそちらに視線を向ける。北郷は何かを言いよどんでいる様子だったが、今の徐晃にとってはどうでもいいことだった。
 そんな徐晃に向かい、北郷は言葉を続ける。
「解池の民を戦に巻き込むわけには、いきません。俺は楊奉を止めないといけません」
 この状況で、あの母を止めるということは、すなわち殺すということだろう。
 それは理解できた。正直、北郷にそれが出来るとは思えなかったが、だからといって母に刃を向けるのを止めようとも思えなった。あの人が、もう自分には何の期待も抱いていないだろうこと、むしろ何をしたところで余計な世話だと疎んじられるであろうことは、先刻の眼差しを見れば明らかだったから。


 そんなことを考えている徐晃に向かい、なおも北郷は続ける。
「楊奉の真意を知りたければ話し合えと言ったのは俺です。けれど、劉家軍の一員として、民を盾として戦おうとする者は止めなければいけません。公明殿がそれを止めるというのであれば――」
 ここで相手をする、と北郷の目が語っていた。
 多分、それは北郷なりの誠意であったのだろう。徐晃が呆然として、判断力を失っていることは察しているだろうが、だからといって黙って先刻の二の舞を演じることは出来ないと考えたのか。


 しかし、その気遣いは徐晃にとってわずらわしいだけだった。行くならさっさと行ってほしい、そんな風にすら思う。今は、何も考えたくない。
 その内心を示すように、徐晃は項垂れ、床面に視線を落とす。その姿を見た北郷が痛ましげな眼差しを向けるが、無論、徐晃は気付かなかった。
 しばしの沈黙の後、北郷は踵を返して外へと向かう。
 その足音を聞きながら、徐晃が小さく息を吐こうとした、その時。
 またも、北郷の口が開かれた。もう何も聞きたくもなかったが、しかし、その内容が徐晃の注意を惹かずにはおかなかった。
 すなわち、北郷はこう口にしたのである。


「心が正道を踏み外してしまっていることには、気付いているだろう」
 誰の、とは問うまでもない。


「解池で聞いたことを考えれば、その目的もわかったように思う」
 それは母の生い立ちのことだろうか。確かに解池でその一端は口にした。
 目的――先刻の母の哄笑を思い出す。戦いを拡げるために戦うのかと、そう北郷に問われた時の、あの哄笑を。


「あの業は、誰かが断ち切らなければいけない。その役割は――」
 業を断ち切る。何を気取った言葉を言っているのだろう。それは要するに母を殺すということだろう。そんなことを今の自分に話して、何をしたいのだろうか。報復を恐れてでもいるのか。


「……すまない、ここから先は俺の勝手な推測だけれど」
 今までのも推測だろう。多分、間違ってはいないけれど。でも、それはもうどうでも良いから。お願いだから、これ以上、私の心をかき混ぜないで。


「その役割を、あの人は君に求めている、とそう思う」
 なんだ、結局、私を戦わせたいだけか。母を殺す? あはは、そんなことできるわけが――




「――だから、あの人は、君を真名で呼ばないのだろう」




 思わず顔を上げていた。
「な、何を……?」
 何を言っているのだろう。そんな徐晃の疑問に、北郷はこちらに背を向けたまま答える。
 徐晃の顔を見ないことが誠意だとでもいうように。
 あるいは、気に食わなければ、いつでも頸骨をへし折ってくれとでもいうように。
「地下で聞いたときから不思議には思ってた。仮にも親が娘を、公明、と字で呼ぶのが。今まで俺が会った親子は、例外なく真名で呼び合っていたからな」


 そう。字で呼び合う親子などほとんどいない。現に楊奉も、昔は徐晃を真名で呼んでくれていた。それがかわったのは何時からだった?
 そんな疑問に、北郷は答えを返す。
「君たちのことを、俺はほとんど知らない。わかることなんて無いに等しい。でも、ほんのわずかではあっても、わかることもある。多分、漢に戻ってから……白波賊に関わり合った頃からじゃないか」


 白波賊に関わりあった頃……母が韓暹に近づいていた頃。
 そう、あの頃、そんな母の姿を見るのが辛くて。そんな心が、言動にあらわれてしまったのか、母との距離が一日毎に遠くなっていった。それを引き戻すために、ただひたすら母の言うことに従ってきた。
 確かにあの頃だった。母が徐晃を呼ぶとき、『鵠』ではなく『公明』になったのは。
 それは、徐晃を疎んだ母が、もうお前を娘だとは思わないと、言外にそう言っているものだと……



 しかし、北郷が口にしたのは、まったく別のこと。
 権利の放棄ではなく、権利の喪失。
 徐晃を娘ではないと考え、真名を口にしなくなったのではなく。
 徐晃を真名で呼ぶ資格を喪ったと考え、真名を口にしなくなったのだ、と。



 北郷の言葉に、徐晃は首を横に振る。
 そんなはずはない。だって、それではまるで――
「……気付いて、いたんじゃないかな。自分が薄明に踏み入ろうとしていることに」
 それでは、まるで――母が、助けを求めているようではないか。
 気付いてくれと、そう徐晃に言っているようではないか。



「もっとも、これは俺の勝手な想像だから。的外れなことを、言っているのかもしれない。だから、確かめたいのなら、君がもう一度聞かなきゃいけない。それを望むなら、急いで。俺が倒れても、今の白波に官軍の攻勢は押さえ切れないから」
 機会は、多分、今しかない。そう言って、北郷は駆け出していく。
 その後ろ姿に手を伸ばし――その姿が扉の向こうに消えた後、その手は何も掴めず、力なく下ろされた。





 あまりにもたくさんのことが起こりすぎた。徐晃はそう思う。
 何が正しいのか、何が間違っているのか、その判断さえ容易ではない。
 ――そう、そのはずなのに。
 何故か、わかってしまった。あの青年の言うことは正しいのだと。それは多分……


「……気付いてたんだ、母さん。私の真名を呼んでくれなくなった、あの時から」
 呼びたくないのだと考えて、うちひしがれていた。もう一度呼んでもらおうと、必死にその言うことに従った。
 薄明に堕ちた母が、娘の真名を呼べなくなったのだという可能性に、自分は……
「……気付いてたんだ、私も。ただ、目を瞑っていただけで」
 誰よりも母の近くにいたのは自分だった。だからこそ、その行動がおかしいことに気付くことができた。なのに、ほんのわずかなズレだからと、気付かなかったふりをした。
 わずかなズレは、先に進むほどにその幅を大きくする。時を経るごとに、正道との隔たりを拡げていく。
 いつか、それは取り返しのつかないものに変じてしまった。


 もし。
 ああ、もしも、最初の最初に戻れたなら。
 まだ何もずれていない母娘であった頃に。ただほんのすこし数奇な人生を歩んでいただけの、普通の親子であった頃に戻ることが出来たなら。
 自分は、何かを変えられるのだろうか?
 母の心を、あの暗く澱んだ井戸の底から、引き上げることが出来るのだろうか?




 出来るわけはない。戻ることなど、変えることなど、出来るわけはないのだ。
 遅かった。あまりにも遅すぎた。
 今、眼前にあるものこそが現実。もう、あの頃に戻ることなど出来ない。
 それは終わってしまった選択肢。今、考えるべきは別にある。
 今の自分に出来るのは何だ? 楊奉の娘である自分に出来るのは何なのだ?!


 ――そう考えて、気付いた。そう、道はさきほど示された。示してくれていたのだと。


 母さん、と。
 徐晃はゆっくりと呟き。
「……今、参ります」
 琥珀の双眸が不動の決意を映し。
「――あなたの業を断ち切るために」
 その顔からは、何かが確かにとりのぞかれていた。  
 




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/12/12 12:50

 解池の政務を総攬する政庁は、城内のほぼ中央に建てられている。
 名称こそ政庁であるが、実質的に内城の役目も備えており、屋上を取り囲む壁には、矢を射るための狭間が無数に設けられていた。
 楊奉は壁の一画に足を運ぶ。そこは屋上に居ながらにして、城内が一望できるように台座状にしつらえてあり、そこに立てば一目で城内の様子を見て取ることが出来た。逆に、外にいる人間も、ここに立つ者の姿を仰ぎ見ることが出来るため、平時でも訓令を行うときなどに利用されてもいた。


 その場所に立つや、楊奉の耳に、凄まじい喊声と剣撃の音が鳴り響く。
 その音がまっすぐに自分がいる政庁に向かっていることを、楊奉はわずかの時間で悟った。陣頭に立って兵を指揮したことのない楊奉が、そうと悟れるくらいに白波賊は官軍に押されていたのである。
 官軍の猛攻、白波賊の後退を間近で見て奮い立ったのは、盾とされていた民衆だった。彼らはたちまち矛を逆さまにして白波賊へと襲い掛かり、勝敗の秤は瞬く間に官軍の側に傾いていったのである。


 こうなれば、数の上でも、勢いの上でも、白波賊に勝ち目はない。武器を捨てて逃げ出す者、あるいは両手を挙げて降参の意を示す者が続出したが、これまで散々踏みにじられてきた解池の人々が、それを許すはずはなかった。
 降参を叫ぶ者の口に棒が突き込まれ、歯が砕けた。
 一目散に逃げ出した者の頭上からは、付近の住民たちから石や鈍器が雨のように降り注ぐ。怒り狂った一部の住民からは、時に包丁や木の卓までが投げ落とされ、直撃を受けた白波賊は悲鳴をあげることさえ出来ずに路上に倒れ伏した。
 ならばと剣を抜いて抵抗する者もいたが、報復に我を忘れた人々は恐れ気も無く次々と賊徒に飛び掛り、拳や小刀をもって、たちまちのうちに賊徒を沈黙させていく。


 今、楊奉の周囲には防戦の指示を求め、あるいは不利な戦況に怯えて、白波賊の頭だった者たちが集まっている。
 勇戦というより半ば暴走に近い解池の民の反撃を目の当たりにした彼らの間から、怒りとも怯えともとれないうめき声がもれていた。 
 ただ皮肉なことに、この民の行動は、逆に官軍の道を塞ぐ結果ともなってしまっていた。
 まさか官軍が解池の人々を蹴散らして通るわけにもいかない。また、白波賊の抵抗で傷つく民も決して少なくない。
 くわえて、白波賊の占拠に協力していた一部の城民に対して、他の者たちが襲い掛かり、住民の同士討ちさえ発生していた。
 官軍の指揮官たちは城内の白波賊を掃討しつつ、これらの混乱への対処を余儀なくされ、政庁に立て篭もる白波賊にわずかな猶予を与えることになったのである。




 官軍がこの政庁に到るまでは、まだしばしの時間があるだろう。政庁の屋上から眼下の様子を眺めながら、楊奉はそう考えた。
 しかし。
 その考えを裏切るように、間近から剣撃の音が楊奉の耳に飛び込んで来た。
 正確に言えば、城内を見下ろす楊奉のすぐ後方からである。


 何が起きているのか、後ろを振り返らずとも楊奉にはわかった。
 だから、背後からの剣撃の音が止むまで、楊奉は後ろを振り返ることはしなかった。逃走を呼びかける声にも応じず、悲鳴や絶叫に眉一つ動かさず、剣撃の音が止むのを待つ。
 ……遠からず終わるだろうという楊奉の推測ははずれなかった。


 そうして。
 ゆっくりと後ろを振り向いた楊奉は、そこに予期した者たちの姿を見出す。
 その内の一人――楊奉が与えた藍色の衣装を纏い、その服装に似つかわしくない巨大な斧を手に持った少女を見て。
「……そう。それがあなたの選んだ答えなの、公明」
 少女の名を口にした楊奉の口元が、愉しげに微笑んだように見えた。 
 


 
◆◆◆


 

 王昭君という人物がいる。
 古く前漢の時代、時の皇帝の後宮から出て、匈奴の閼氏(あつし 単于の妻)となった女性である。
 皇帝の後宮に入るほどの美貌の持ち主が、政略として朔北の草原に送られ、漢土に戻ることなく生涯を終えたのである。たとえ一国の王の正妻であるとはいえ、その苦衷はいかばかりであったろうか。


 漢民族と匈奴。農耕民族と遊牧民族。文化、価値観、生活様式、あらゆるものが異なる二つの民族。
 一方では当然とされる行いが、一方では禁忌とされている例も少なくない。
 その中の一つ。
 匈奴において、夫に先立たれた妻は、その夫の兄弟ないし後を継いだ義理の息子と再婚するのが通例であった。婚姻によって結び付けられた二つの部族間の繋がりを維持すると共に、子を産める女性を寡婦として過ごさせるより、新たに子を成してもらい、部族の数を増やすことの方が重要だからである。


 匈奴においては当然とされるこの習慣は、しかし漢民族にとって近親相姦に優るとも劣らない不道徳な行いとみなされる。これを行った者は、禽獣とかわらない扱いを受けるのである。


 王昭君は草原で三人の子を産んだとされるが、後に生まれた二人の娘に関しては嫁いだ単于の子ではなく、その後を継いだ義理の息子の子供であった。
 本人が自らの生涯をどう感じていたのかは今となっては知りようもない。
 だが、多くの人々は、これをもって王昭君を悲劇の女性として捉えた。
 そして、その名は百年を経た今なお漢土で語り継がれているのである。



 楊奉も当然のように王昭君の事績は承知していた。
 だが、楊奉はそれを悲劇とは考えていない。本人の思いがどうであれ、王昭君の存在によって、漢と匈奴の間で争いが絶えたことは事実であり、その名は史書に銘記された。中華の歴史が続く限り、その名は千載後も色あせることはないに違いない。
 どうしてそれが悲劇なのか。
 自らの半生を振り返る時、楊奉はそう思わずにはいられなかった。





 現在、中華帝国において、女性の士大夫はめずらしいものではなくなりつつある。
 丞相である曹操、河北の大領主である袁紹、さらには皇帝を僭称した淮南の袁術をはじめ、むしろ歴史の表舞台に立つ者の多くが女性となったといっても過言ではない。
 しかし、それは本当に近年になってからのこと。かつて楊奉が朝廷に仕えていた時、女性の士大夫は数えるほどしかおらず、まして太守や州牧の地位にいたっては皆無だったのである。


 そんな時代、楊奉は数奇なめぐり合わせを経て、朝廷に仕える身となった。
 当然のように、楊奉の前には様々な障害が立ちはだかったが、あらかじめ覚悟していたこともあり、またとある人物の支援もあって、楊奉はそれらを一つ一つ確実に乗り越えていき、宮廷内での地位を確立していく。


 あの頃の自分には確かな志があった、と楊奉は思う。
 当時、すでに漢王朝の政治は腐臭を発しており、高官たちは宮廷内の権力闘争に明け暮れ、地方の民政を顧みようとはしなかった。頻発する叛乱、高騰する物価、悪化する治安。農民は田畑を耕すことさえ容易ではなく、かろうじて収穫できたものも税として容赦なく取り立てられてしまう。
 楊奉の幼少時の記憶は飢えと貧窮、賊徒への恐怖で塗りつぶされている。それは楊奉だけでなく、あの時代を生きた多くの者たちが共有する過去であったろう。
 多くの民が政治の乱脈に翻弄されるしかない中で、楊奉をそれを糾すことができる立場に立っていた。
 宦官の跳梁、外戚の横暴。それ以外にも宮廷の問題点は枚挙に暇がなかった。それらの問題を片付け、滅亡に瀕した国を立て直す――それが当時の楊奉の志だったのである。



◆◆



 元々、楊奉はその日の糧にも事欠くような貧家に生をうけた。
 宮廷に務め、世を糾すなどという志を立てようもない環境である。
 そんな楊奉が世に出ることが出来たのは、他の者たちが望んでも持ち得ない二つの才能を持っていたからであった。
 すなわち、優れた容姿と明晰な頭脳である。
 学問をする時間も金もなかった楊奉にとって、後者の才能は現状を変えるだけの力を持たなかった。周囲の認識も、利発な娘だと褒める程度のものでしかなく、環境がかわらなければ、いずれそのまま立ち枯れていたであろう。


 だが、前者に関しては。
 この時代、容姿の美しさは才能に等しい。活かしようによっては一夜にして貧窮から抜け出せるほどの、得がたい才能である。
 そして楊奉は幸か不幸か、その美貌をある富豪に見初められる。その家に妾として入ったのは、楊奉十三歳の時であった。


 半ば売られたようなものだったが、この点、楊奉は生家を恨んではいない。家族を貧窮から救えるのだと思えば、むしろ喜ばしいとさえ思っていた。
 実際、その家でもそれなりの扱いは受けられたし、何より先代の趣味であったという蔵書に触れられたのは、心から幸運だったと思う。
 先代に仕えていたという老人から字を教わり、竹簡を読み漁る姿は、同じような立場の妾たちからは嘲笑されたが、それでもあの頃は楊奉の人生の中でも、はっきりと幸福だったといえる数少ない時間であった。


 これが第一の転機であったとすれば、第二の転機は、あの皇甫嵩との出会いであった。
 といっても、別に色事は絡まない。楊奉の知識の吸収が尋常でないことを知った老人が、これまた先代からの縁で知遇を得ていた皇甫嵩に楊奉のことを話し、興味を覚えた皇甫嵩から招かれたのである。
 この頃、皇甫嵩はすでに北地太守の地位にあり、その下に赴いた楊奉は皇甫嵩の問いのすべてによどみなく答え、皇甫嵩を感嘆させる。
 この才は、一富豪の妾として埋めてしまうのは惜しいと考えた皇甫嵩は、富豪にいくらかの便宜を図った末に楊奉を自邸に引き取り、さらに知識を蓄えさせた。
 妾という枷から解き放たれた楊奉はさらに多くの知識を吸収し、若い女性の身ながら、その学識は皇甫家でも指折りのものとなっていく。


 やがて、楊奉は皇甫嵩の推挙を得て朝廷に仕えることとなった。
 そうして数年。
 楊奉は順調に階梯を進めていく。皇甫嵩という庇護者を持ち、累進著しい女官吏。今となっては信じられない迂闊さであるが、あの頃の自分はその立場の危うさに気付いていなかった。そのことを楊奉は時折苦く振り返る。
 同じ頃、戦と疫病によって家族があっけなく死んでしまったことが衝撃であったのは間違いない。だが、それを差し引いても無用心なことこの上なかった。
 後宮に入り、皇帝の寵愛を受けて地位を高めていくというならまだしも、れっきとした官吏として栄達していく楊奉を見る周囲の目の険しさに、何故気付かなかったのか。
 皇甫嵩が、そんな周囲の圧力に抗するような人物でないことくらい、わかっていたはずなのに。



 皇甫嵩という人物は、清廉をこころがけ、麾下の将兵の信頼厚い名将であった。太守として治安を改善し、税を引き下げ、民政に心を配ることのできる名相でもあった。
 その一方で、皇甫嵩は、討伐にあたった賊徒の死体を集めて京観(死体でつくった山)を築いて敵を威圧したり、あるいは賄賂を受け取った自分の部下に、みずからも賄賂を与え、恥じ入った部下を自害に追い込む一面を持っていた。
 みずからの領地には善政を敷いたが、朝廷の乱脈を糾すべく行動することはせず、逆に命令であれば、それが民に不利益なものであろうとも従った。


 それらの行いが間違っているわけではない。
 敵への威圧は武略であり、部下への訓戒は自省を促す意図があったのだろう。朝廷への服従も、むしろ廷臣として褒められこそすれ、非難されるいわれはあるまい。
 事実、多くの者たちは皇甫嵩こそ真の朝臣であると褒め称えてやまなかった。
 ただ、そんな人物であれば。
 上位者からの命令には、それがたとえ理不尽なものでも従うであろう。そう予測することは難しくなかった。




 ……そうして、匈奴との友好の使者として選ばれた皇甫嵩に従い、草原へと旅立った楊奉は、一人、その地に残されることとなる。
 



◆◆



 表向き、匈奴の単于に見初められたということになっていたが、事実は漢からの貢物に等しい。
 そこまでは王昭君と大きな違いはなかったが、楊奉は漢と匈奴の友好の使者として、国を挙げて送り出されたわけではなく、閼氏(正妻)の座を得られたわけでもない。文字通りの意味で機嫌うかがいの貢物であった。
 かつて貧家の一娘として貧窮に喘いでいた頃ならともかく、れっきとした廷臣として志を立てていた楊奉にとって、この屈辱は到底言い表すことが出来なかった。
 自身をこの地に追いやった者たちの狙いを、楊奉はようやく察したが、気付くのがあまりにも遅すぎた。


 ただ。
 あるいはもっと早くに気付いていたとしても、対処は難しかったかもしれない。
 皇甫嵩が何一つ口にせずに漢土に帰った以上、指示を下したのは相応の高官であることは推測できる。女である楊奉を疎む高官がいる以上、いずれは楊奉は宮廷から排斥されていたであろうから。



 それらのことに思い至った楊奉は、屈辱に身を焼きながらも自暴自棄になることはなかった。
 ここで楊奉が死を選び、あるいは逃げ出すなどすれば、楊奉の美貌を気に入ったと思われる単于は間違いなく怒り狂うだろう。その怒りが、ひいては漢土に及び、民衆への凶刃となることは容易に予測できた。
 民を守ることこそ士大夫の役目。
 この期に及んで朝廷に忠誠を尽くそうとは考えなかったが、それでもこれまでの自分を否定するつもりはなかった。
 みずからがここにいる限り、漢と匈奴の間に一定の繋がりが出来ることは間違いない。匈奴が漢土に欲目を見せた時、それを逸らすべく立ち回ることも出来るだろう。
 誰に認められることもない働きである。史書に載ることもないだろう。それでも、楊奉がここに居ることで民を救うことが出来るなら、それは決して無意味なことではない。そう自身に言い聞かせる。
 売られるのもはじめてというわけではない。だから、耐えられないわけがない。そう考えることで、楊奉はかろうじて自分を保ったのである。



 しかし、やはり漢民族と匈奴、異なる民族の差は大きかった。
 慢性的な不快と屈辱に耐えながら、異国の地で虜囚のごとく過ごす日々。士大夫としての意識にしがみついてはいたが、それも数年続けば限界が見えてくる。
 そんな時、単于が死んだ。強壮な男であったが、全身に針鼠のように矢を受けては死の顎から逃れようもなかったらしい。
 騎馬民族は末子相続が基本であり、親の財産は末子に受け継がれる。この場合、妻妾も財産の一つとして扱われるが、楊奉はすでに二十代の半ばに達しており、これから先、多くの子を望めないこともあって、単于の弟の一人に分け与えられることになったのである。



 思えば、あれが決定的だったのだろう。振り返って、楊奉はそう思う。
 楊奉を得た青年は、単于の一族の中ではめずらしく穏やかな人物であり、楊奉もその顔と名を知っていた。言葉をかわしたことも幾度となくあった。
 そんな人物であったが、兄の妻を弟が抱くという行為に対して、楊奉――というよりも漢族が抱く激甚なまでの不快感を理解することはかなわなかった。
 穏やかとはいっても、日頃、馬と弓で鍛えた身体は楊奉が跳ね返せるものではなく、抵抗も無駄に終わる。青年としては、むしろこれまで子がない楊奉が子を成せば、一族内でもしかるべき扱いを受けることになると考えたのだろう。拒絶する楊奉を、あやすようにその身体に手を伸ばし――やがて、楊奉は草原の地で、一人の女の子を産むことになるのである……





 その後のことは、正直、思い返すことさえ煩わしい。
 娘の父は、妻と娘を戦乱から遠ざけ、自身はあっけなく死んだ。
 戦乱に関わりのない遊牧民に混じって娘を育てながら、その娘を見る度に襲ってくる不快感に耐える日々。おぞましいという言葉さえ遠い蛮行に身を染めた自分と、その証である娘。
 それを強いた匈奴への憎しみと、そもそもの原因となった朝廷への恨み。もう、民のために、などという名分すら楊奉は見つけ出すことが出来なかった。憎悪の焔は鎮まることなく、楊奉の身心を灼いていく。


 そしてあの日。
 決定的な何かが起こったわけではない。
 その日、積みかさなったのは藁の一本。しかし、ほんの些細なその一本の重みが、これまで積み重ねた何もかもと共に、楊奉の心をへし折った。
 いつ来るかはわからなかった――けれどいずれ必ず来たであろう、そんな日。



 ――草原の彼方。地平線の果てへ落ちて行く夕陽を眺めながら、楊奉は思ったのだ。
 ――誰そ彼……今、ここに立っている女は、誰なのだろう、と。




◆◆◆



 
「……我が身は喰らい尽くされ、我が心はしゃぶり尽くされた。ふふ、自分が誰であったのか、何であったのかさえ、もはや私には遠い」
 そう口にする楊奉の目には、先刻とかわらぬ静かな狂気がたゆたう。
 俺も、徐晃も、何一つ口を挟めなかった。
 そんな俺たちを前に、楊奉はうっすらと口元に淡い笑みを浮かべる。
「――滅べばよい。否、滅ぼさずにはおかない。そのためならば、この身を賊に与えることも厭わぬ。匈奴に嬲られることさえ快楽に変ずるわ。漢、匈奴。そこに生きる何もかも、絶え間なき戦乱に足掻き、もがき、苦しみぬいて死んでいくがいい。文字、歴史、文化……中華を中華たらしめるすべてを焼き尽くす。それを見届けた後、最後にこの穢れた身を葬り去ろう」



 それは、未来など微塵もない虚ろな言葉。
 あまりに虚ろで、あまりに空っぽで――だからこそ、悪寒を禁じ得ない、そんな言葉。
 それは、去卑との戦いを前に俺が感じた奇妙な悪寒と根を同じくするものだった。
 あの時は、隣にいた司馬懿のお陰で悪寒を忘れられたのだが……


 徐晃がこの場ではじめて口を開く。
「母様……母さん。それが、母さんの望みなんですか? 母さんを苦しめた人たちだけなら、私は止めるつもりはありません。そこに私自身が入っていても。でも、何もかもを――母さんとは関わりのない人たちも、母さん自身さえ滅ぼしてしまうことが、本当に母さんの望みなんですか?」
「繰り返すつもりはないわ。なにより公明――あなた自身がもう理解しているのでしょう。それをここで私に問うてどうするの? 私が違うと言ったら、あなたは血で染まったその戦斧を下ろすのかしら?」
 楊奉の問いに、徐晃は唇を噛む。しかし、その視線は楊奉から逸らさなかった。


 そんな徐晃の視線を受け、楊奉はそれとわからないくらい、かすかに目を細めた。そのまま、静かに続ける。
「責めているわけではないの。私はこれまで多くのものを踏みにじってきた。あなたや、あなたの弟妹たちのように。今度は私が踏みにじられる番が来た、ただそれだけのこと。なんら異とするに足らないわ。だから公明、早くその斧で私を斬りなさい。これ以上、あなたの大切なものを失いたくないのなら」
 そう言って、楊奉は両腕を左右に開く。
 その姿はまるで徐晃を迎え入れるかのようだった。先刻、狂おしい光を湛えていた両の眼は凪いだように穏やかで、静かに娘を見つめている。
 狂気の狭間に浮かび上がる、一片の心。もう自分で自分を止められないから、だからせめてあなたが止めて、とそう訴えかけるように。


 徐晃が一歩、足を踏み出したのは、その声なき声が通じたからか。
 徐晃の後ろに立っていた俺の耳が、戦斧の柄が発する異音を捉える。あまりに強く握り締めているためだろう、柄が軋んでいるのだ。
 それが徐晃の内心の苦悩をあらわしているようで、俺は奥歯をかみ締めた。この場面で、俺が口を出すべき場所などない。その程度のことはわかっていた。
 徐晃の歩みを止めることは出来ないし、俺が代わりに楊奉を斬るなどさらに出来ない。どんな結末が訪れるのであれ、ここは母と娘の二人で幕を下ろすべき場所であった。



 だからこそ、楊奉も――と、そう思って視線を転じた俺は、背筋に氷塊を感じた。
 楊奉は相変わらず穏やかな表情を浮かべて、近づいてくる娘を見つめている。
 ――そこに、違和感を感じる。
(……穏やかな、表情?)
 おかしい。
 先刻、感じたはずだ。言葉も思いも通じない。楊奉の奥底にあるのは、そんな狂気だと。



 今、楊奉は追い詰められている。
 周囲を見渡しても、立っている白波賊の姿はない。倒れているのは七名。五人は徐晃によって討たれ、二人は俺が斬り捨てた。命がある者もいるが、立ち上がって剣を振るうことが不可能であることは一目瞭然であった。近くに身を潜めていられる場所も存在しない。
 もし、ここで徐晃に危害を加えられる者がいるとすれば、それは楊奉以外にはありえない。だが、楊奉が武芸の心得がないことは俺程度でも看破できる。仮に斬りかかったところで、あっさり徐晃に取り押さえられるだろう。
 援軍はなく、伏兵もなく、自身の力で挽回することもかなわない。
 すなわち、楊奉は間違いなく追い詰められているというのが結論であった。


 にも関わらず。
 俺の胸中に巣食う悪寒は、いや増す一方であった。


 おかしい――どうして楊奉がこうもたやすく変心した?
 おかしい――どうして徐晃の姿が、まるで剣刃の上で綱渡りをしているように見えるのか?
 おかしい――楊奉と徐晃、二人の間に割って入ってはいけないとわかっているのに。


 何故、俺は駆け出しているのだろう?



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/12/12 12:50

 それは、一瞬の出来事だった。
「きゃッ?!」
 突然後ろから抱きすくめられた徐晃の口から、思わず悲鳴が飛び出る。
 背後にいたのは北郷だけ。当然、背後から両腕を伸ばして自分を抱きすくめているのは北郷に違いないと徐晃は考えた。
「な、なにを……?!」
 何をするのか。そう問いかけた徐晃に委細構わず、北郷は自らの身体ごと、徐晃を後ろに引き倒す。
 あまりに予想の外の出来事であった為、徐晃は咄嗟に足を踏みしめることも出来ず、そのまま倒れこんでしまい――だからこそ助かった。
 徐晃は見た。
 すぐ目の前。一瞬前まで、自分の首があった空間を、一条の剣閃が薙ぎ払うところを。

  
「……なッ?!」
 徐晃と楊奉が向かい合っていた、その狭間。数秒前まで、確かに誰もいなかったはずのその空間に、今、一人の人物が立っていた。
 全身を覆う白の装束。その顔を半ば覆うのは、衣装とは対照的な黒布である。顔から覗くのは、針のように鋭い眼光だけ。眼前の人物が男か女かも判然としなかった。
 頭巾のように頭を覆う白布には縦に三つの菱形が連なり、そのいずれの菱形にも、中央に真紅の方円が描かれている。それはあたかも血に染まった三つの眼のようで、見る者に奇妙な圧迫感を与えてきた。


 徐晃はその衣装の色から、一瞬、眼前の人物を白波賊の一員かと考えたが、着ているのは鎧や甲冑ではなくただの白色の布地である。戦うには、あまりに軽装すぎるといってよい――実のところ、その点は今の徐晃も似たようなもので、先刻、楊奉から与えられた藍色の衣装に戦斧という格好なのだが――それを措くとしても、突然あらわれた人物は明らかに尋常ではなかった。
 周囲に隠れていられる場所がないことは確認済みである。これだけ目立つ格好をした者が、最初からこの場にいたのであれば間違いなく気付いたはずだ。なにより、突然、空中から浮かびあがって来たかのような、あの姿の現し方――普通の人間には、絶対に不可能な所業であった。


 そして――
「……く」
 黒布の隙間から覗く白装束の両眼、そこから自身を見据える眼光を正面から捉えた徐晃は、知らず息をのむ。
 そこには殺意もなく、敵意もない。それ以前に、そもそも人間を見る目ですらなかった。足元を這いずる害虫を踏み損ねた――煩わしげに細められた眼差しが、そう語っているように思われてならなかった。


 腰に回されていた北郷の手が離れるや、徐晃は跳ねるように立ち上がり、白装束に相対した。ほんの一秒でも目を離せば、取り返しのつかない事態になるという予感に急かされながら。
 徐晃の横に、同じく立ち上がった北郷が並んだ。その視線が白装束に向いていることは、確かめるまでもなく明らかであった。


 白装束は右手に剣を持ち、左手はだらりとぶら下げていた。
 その姿は、徐晃の目から見れば隙だらけに見える。真っ向から戦えば、苦もなく斬り伏せられるだろう。
 しかしこのまま斬りかかっていって大丈夫なのか、とのためらいを捨てきれない。ここまでの一連の動きを見れば、目の前の相手が人以外の何かの力を有していることはほぼ間違いないのである。
 幼少期を草原の地で過ごした徐晃は、シャーマン信仰をごく素朴に信じている。人の身に、人ならざるものを降ろすことは可能なのだ。徐晃は、眼前の白装束をそういった相手だと考えた。
 そんな相手に、徐晃の武芸が通用するのだろうか。
 くわえてもう一つ。
 この場にいるのが、目の前の相手だけだとは限らない。気配の一つも感じさせずに潜んでいた相手だ。他の仲間が潜んでいたところで不思議ではない。
 不用意に斬りかかれば、今度こそ不覚をとることになりかねない――
 徐晃は戦斧を構えつつ、咄嗟の動きに対応できるようわずかに腰を下げる。


 すると、白装束が不意に動いた。といっても斬りかかって来たわけではない。剣を持っていない左の手を徐晃に向け、囁くように一言を口にしただけである。
 『縛』と。
 それだけで。
 全身を、鉄の鎧で覆われたような重みがのしかかってきた。
「なッ?!」
 斬りかかってこられたとしても、あるいは飛び道具を使われたとしても、徐晃は対応することは出来ただろう。
 だが、こんなものを予測できるはずがなかった。




 とはいえ。
 のしかかる重さ、それ自体は普通の甲冑を着込んだ時とかわらない。武器を持ったこともない町娘なら知らず、徐晃にとっては大した重量ではなかった。実際、落ち着きさえ取り戻せば、このまま戦斧を振るい、白装束と戦うことは可能であったろう。
 あるいはそのことを知っているのだろうか。白装束はさらに追撃をかけてきた。
「……『操』」
 その言葉を聞いた途端、徐晃は平静を失ってしまう。
 白装束の声が、砂が水を吸うように脳裏に染み込み、蜜のように甘く心をくすぐる。敵であるはずのその姿が、誰よりも近しい人の姿に見えて、徐晃はその場に立ち竦んでしまった。


 ――その奇妙な感覚は長続きしなかった。時間にして、精々数秒というところだろう。
 だが、わずか数秒とはいえ、敵を前にした自失は致命的な隙をうむ。
 徐晃が気付いたときには、幽鬼のように音も無く進み出た白装束の刃が、徐晃の首筋を切り裂かんと再び迫っていたのである。
 そして――


 その刃は、横合いからすくい上げるように繰り出された北郷の剣と衝突していた。


 絡み合う刃、刹那の力比べの軍配は北郷にあがる。白装束の剣は甲高い金属音と共にあっけなく宙を舞った。
 そして、撥ね上がった剣が床に落ちるよりも早く、素早く立ち直った徐晃が、白装束の腰を両断せんと斧を真一文字に振るう。唸りをあげる刃は、方術の影響があってなお、普段とかわらない冴えを見せていた。


 舌打ちの音を残し、白装束の身体が、まるで怪鳥のように、ふわりと後方に飛んだ。
 白装束が着地するのと、すこし離れた場所に剣が落ちたのはほぼ同時。剣は耳障りな騒音を発しながら、政庁の壁まで転がっていく。
 まるでそれを合図にしたように、徐晃にまとわりついていた重みも消失する。そのことを確認しながら、徐晃は再度、白装束に向けて斧を構えた。
(……もう不覚はとらない)
 四肢に力を込め、不意の事態に備えながら、心中でそう呟く。そして、白装束に視線を据えたまま、傍らに立つ北郷に礼を言った。
「すみません、ありがとうございました」
「どういたしまして」
 徐晃の礼に、北郷は徐晃と同じく白装束を見据えたまま、小さく頷く。そして、すぐに問いを向けてきた。
「あの覆面、見覚えは?」
「ありません。いきなり身体が重くなって、心が揺れて……あれは何?」
 徐晃の疑問に、北郷から怪訝そうな反応が返ってくる。さきほどの呪術めいた重みは、北郷へは向けられなかったらしい。徐晃はそう考え、すぐに意識を切り替えた。


(呪術……巫師様や祈祷師様は、精霊の御力を借りて災いを予知したり、テングリを降ろして、部族を発展させるための助言を得たりしていたけれど……)
 徐晃が知るかぎり、部族の祈祷師がこんな妖術めいた業を行使したことはない。そもそも祈祷師の役割は、戦に先立って将兵に善き霊の加護を与えること。前線に出てきた挙句、妖術を用いて敵兵と渡り合うなどあるはずがなかった。
 祈祷師ではない。しかし、ならば今の妖かしの術は何なのか。
 城内の各処から響いてくる戦いの音をいやに遠くに感じながら、徐晃は相手の正体について考えたが、答えは杳として出てこなかった。




◆◆◆




 不意に現れた白装束。それを見た瞬間、一瞬、俺の脳裏に淮南での戦いがよぎった。
 告死兵――白衣白甲を血に染めて押し寄せる、あの姿が。
 しかし、よくよく見れば白装束は甲冑をまとっておらず、白い仮面もつけていない。ついでに言えば、眼前の白装束の頭の部分にある奇妙な紋様――まるで血に染まった眼のような不気味な意匠は、告死兵にはなかったものであった。


 告死兵ではない。徐晃にも覚えがないという。しかし、このタイミングで姿を現した以上、今回の戦いに無関係であるはずもない。
 一体、何者なのか。
 その正体を計りかねて、俺が剣の柄を握りなおした時。
 不意に周囲に艶やかな笑い声が響き渡った。今の今まで、無言で佇んでいた人物――白波賊頭目、楊奉の口から。



「自慢の方術もたいしたことはないわね、方士。苦戦、なのかしら?」
 言いながら、楊奉の口からはなおも笑いがこぼれていく。
 白装束は返答しなかったが、楊奉はかまわず言葉を続けた。
「南陽の使いは、そなたらにかかれば英雄豪傑さえ赤子の如し、などと申していたが……英雄はおろか娘一人御しえないとは笑止だわ。それとも、これもそこな男の力なのか?」
 楊奉が口にした娘とは徐晃のことだろう。すると、そこな男、というのは俺のことになるのだが――俺の力、とは何のことだ?


 疑問をおぼえた俺の耳朶を、奇妙に掠れた声が揺らす。楊奉の声ではない。徐晃の声でもない。
「……余計なことを口にするな」
 その声を聞いた楊奉は、ほう、と目を細めた。
「奇襲を防がれ、方術を凌がれ――一人でも手にあまるところに、天敵まで姿を見せたことで慌てたか。思ったより底が浅いな、方士」
 その楊奉の言葉に対し、白装束は返答しなかった――言葉にしては。
 無言で掲げられたのは右の掌。それが俺や徐晃ではなく、楊奉へと向けられる。
「……『縛』」
 そして、すぐに左の掌を向け『操』と呟いた。
 その途端、楊奉の両目から光が失われた。両腕はだらりと垂れ下がり、立ってこそいるが、いつ倒れこんでもおかしくはない。そんな風に見える。



 楊奉は、白装束のことを方士と言っていた。
 方術などといえば、眉唾物にしか思えなかったが、突然に姿を現したことといい、さきほどの徐晃の様子、そして今の楊奉の姿を見れば、白装束がなにがしかの力を持っていることは否定できない。
 ならばこの方士は、楊奉にとって最後の切り札なのかと思ったのだが、いきなり同士討ちをはじめるとは――
「なんなんだ、一体?」
 呟きながら、俺の身体は前に踏み込んでいた。
 正直、どういう状況なのかはさっぱりわからないが、いきなり出てきた白装束に、楊奉を討ち取らせるわけにはいかなかった。ここまで来て、母娘の決着に部外者が口を挟むなどという結末は、禍根しか残さないと思えたから。


 俺が躊躇なく斬りかかるとは思っていなかったのだろう。方士の反応が一拍遅れた。振り下ろされた剣先が、左腕部分の白装束を一気に切り裂いていく。
 そこから覗いた白い肌を見て、俺は一瞬だがほっとしてしまった。何故といって、声を発し、身体を持っていれば、たとえ相手が方士などというわけのわからない存在であっても、実在の相手として相対することが出来るからである。



「……あくまで我らの邪魔をするか、北郷一刀」
 その言葉に、俺は眉をひそめる。この場で発されるには、妙な言い方だ、と思えた。
 だが、そんなことに拘泥している暇はなかった。
「邪魔をしているのはそちらだろう。ここから消えれば、追いはしない」
「あいにく、こちらにもやるべきことがある」
 そう言うや、方士は俺を見据えたまま、ふわりと飛んだ。先刻と同じように、まるで体重を感じさせない挙動であった。


 方士が降り立った先は楊奉のすぐ目の前。まるで楊奉の姿を、俺たちの視線から隠すような格好であった。
「とはいえ、結果として貴様の望みどおりになる。この狂人を回収したら、消えてやろう」


 狂人、という方士の言葉を聞き、徐晃の琥珀色の瞳がたちまち激情で溢れた。徐晃の身体がわずかに沈む。その姿はあたかも獲物を前にした猫科の猛獣のようで、しなやかさと力強さに満ち満ちていた。
 それを知ってか知らずか、方士はなおも言葉を続けた。ただ、それはおおよそ俺たちにとって理解しがたい内容であった。
 すなわち、方士はこう続けたのである。


「外史の理を知らぬ者が、我らと等しく滅びへの渇望を抱く。貴様らにとっては狂気、だが我らにとっては真理。ここで死なせるには惜しい」


 その方士の言葉を、しかし徐晃はほとんど聞いていなかった。
「貴様の戯言などどうでもいい! 母さんを放せッ!」
「断る」
 淡々と方士は拒絶の言葉を発する。
 それに対する徐晃の反応は迅速だった。
「ならッ!」
 弾けるように地を蹴って飛び掛る徐晃の身体は、一息のうちに方士を間合いの中に捉えていた。左の肩口から袈裟懸けに振り下ろされる刃。その鋭さは、常人には反応できない域に達していた。


 俺の剣を避けきれなかったことから推測するに、この方士、武人としては徐晃に到底及ばないだろう。
 事実、徐晃の攻撃を予期していたであろう方士は、それでもなお、繰り出された一撃へ反応しきれていなかった。
「……ちッ」
 再び舌打ちの音を残し、その場から飛び上がって攻撃を避けようとする方士。
 だが、今度は徐晃もそれを予期していた。


 第一撃を、膂力に任せて中途で止める。
 しかる後、方士の後に続くように床を蹴った。藍色の衣装が彼方から吹く風になびき、一際、優雅に翻る。
 そして、振るわれた戦斧の一閃。鉄の斬風は、軽やかに宙空に飛んだ方士の身体を、今度こそ完璧に捉えた――少なくとも、俺の目にはそう映った。



 だが。
 降り立った徐晃は苦い顔で構えをとりなおす。
「手ごたえがない。北郷殿、気をつけて。まだ……」
 仕留めていない。その徐晃の言葉を証明するように、方士の身体は軽々と床に降り立った。
 あのタイミングで、どうやって徐晃の戦斧の破壊力から逃れたのか。
 慄然とする。目の前の相手が人外の存在であることを改めて確信した俺は警戒のために方士から距離をとる。
 徐晃もまた、警戒を絶やさず、方士をじっと見据えていた。


 だが、方士の方も無傷ではなかったらしい。白装束の左肩のあたりが赤く滲んでいるのは、わずかだが徐晃の刃が届いたためであろう。それによく見れば、方士の右手は胴の部分にあてられ、こちらを見る眼差しには苛立ちがあらわになっていた。
 得体の知れない方術を用いたところで、こちらの攻撃を完全に無力化できるわけではないらしい。であれば、息つく間もなく攻撃を畳み掛ければ勝機を見出すことは出来るだろう。




 そう考える一方で、俺は方士の後ろに立つ楊奉の様子が気になっていた。
 まるで人身大の操り人形でも見るような虚ろな眼差しと不自然な姿勢。そのいずれもが、楊奉が自分の意思ならざる何かに従わされていることを物語っていた。
 徐晃も俺と同じように感じたのだろう。あまりに不自然な母の様子を見かねて、方士に詰問の声を発した。
「……一体、母さんに何をした?」
 その問いに対し、どういう意図があったのかはわからないが、方士はあっさりと応じた。
「木偶を操る方術をかけた」
「木偶……?」
「そう。外史を破るために与えられた力。もっとも、今では長くても四半刻ともたぬ。中には先刻の貴様のように数秒たらずという者までいる始末。どれほど拒んだところで、所詮、泡沫の作り物に過ぎぬというに……ここまで腹立たしき外史ははじめてだ」
 その方士の声に含まれる明らかな苛立ち。
 多くなった口数は、何を示しているのだろうか。外史――さきほどから方士が何度か口にしている言葉だが、一体何のことだろう。


 俺がそんな疑問を覚えていた一方で、徐晃は異なる疑問を覚えたらしい。木偶、という言葉と、今の母の様子を見て、その顔を蒼白にさせていた。
「……木偶……まさか、母さんが変わったのは、貴様の仕業か?!」
 その声は悲痛なものでありながら、どこかに焦がれるような響きがあった。


 母がみずから黄昏に踏み込んだのではなく。
 誰かが母を黄昏に誘ったのならば。
 ――元凶を除き、母を連れ戻すことも出来るのではないか。
 徐晃がそう考えたことが、手に取るようにわかってしまった。


 それを方士も感じ取ったのか――否、そうではない。徐晃にそう思わせるために、わざわざ木偶などという言葉を使ったのだ。
「そうだ……と言えばどうする?」
 その声に潜む愉悦の感情が、俺の推測が間違いでないことを物語っていた。
 顔を覆う黒布からのぞく方士の目に、陽炎のような淡い光が灯る。
 捕まえた蝶の羽を、面白半分にむしりとる幼子のような眼差し。
 徐晃が救いを見出したことを知り、それを叩き潰すことに興を覚えた……そんな残酷な視線だった。


 だが、方士の目論見は未発に終わる。




「――物覚えが悪い子ね」




 徐晃が口を開こうとした、その時。
 そんな声が響いた。
 それは徐晃の声ではなかった。方士の声でも、無論、俺の声でもない。
 方士が驚きをあらわにして背後を振り返る。


「さっきも言ったでしょう。あなた自身がもう理解していることを、他者に問うてどうするの」


 方士の胸を貫くためには武の力量など不要だったようだ。
 視界の中で、背中から懐剣の切っ先を生やした方士を見て、俺はそう思う。
 俺の剣も、徐晃の斧も避け続けてた白装束の方士は、あっさりと地面に倒れ伏した。俺たちと同じ赤い血を流しながら。


「私が戻れないのは、私が戻らないと決めたから。それ以外の理由なんてあるはずがないことを、あなたは知っているでしょうに」


 そして、その赤い血に染まりながら、楊奉はなおも笑みを浮かべていた。
 変らぬ狂気を、その瞳に宿しながら。





◆◆





 楊奉は足元に転がる方士を見下ろし、くすりと微笑む。
 そこにはつい先刻まであったはずの無機質さは欠片もない。
「方士といえど、心の臓を抉られれば死ぬものなのね。外史を刈る者などと口にしていたわりには儚いこと」
 そう呟くと、楊奉はすぐに方士への興味が失せたように視線を徐晃へと向ける。
 今度、浮かんだ笑みは半ば苦笑に近かった。
「情けない顔ね、公明。自分の足でここに来たのだもの、覚悟は定めたのでしょう? それは道化がでしゃばった程度で壊れる程度の、脆いものだったの?」


「わか、りません……わかんない、よ、母さん。どうして……どうなってるの? 母さんは、私の知らない間に、一体どうして……」
 徐晃の両の頬を、ぽろぽろと流れる雫。
 二転三転する状況。母との別離のみを見つめていた徐晃は、方士の存在に、一時ではあれ、希望を見てしまった――そして、すぐに現実を突きつけられた。
 この状況で少女に冷静さを保てとは誰にも言えまい。
 そうして、生じた揺らぎは、徐晃が覚悟していたはずの母との対峙にさえ影響を及ぼしてしまったようであった。



「公明」
 そんな徐晃に、楊奉はゆっくりと語りかける。
 その眼差しはどこか遠くを見るように茫洋として、つかみ所がなかった。同時に、これまで眼窩に湛えていた狂気の色が、ほんのわずか、薄れたようにも思えた。
「あなたがそうであるように、私の生のほとんどは強いられた環境で足掻くことの繰り返しだった。側妾となった時も、女の身で官吏に登用された時も、草原に置き去りにされた時も、義理の弟に与えられた時も。そうなることを、自分で望んだわけではなかったわ」
 けれど、と楊奉は続ける。
「選んだのは、他の誰でもない私だった。選択肢なんてあってないようなものだったけれど、それでも選んだのは私なの。悔いもある、恨みもある。すべてを憎んで、すべてに憎まれて、ついにはこんなところまで来てしまったけれど。それは私のせいなの。他の誰でもない、私の」


 そう口にする楊奉の口元は歪んでいた。
 今になって何を言っているのか、と自らを嘲るように。
 おそらくは自分が何を言わんとしているのかもわからないまま、それでも、楊奉は言葉を紡ぐことをやめなかった。
「方士のせいではない。あなたのせいでもない。恨むなら私を恨みなさい。憎むなら私を憎みなさい。私以外の誰かに――まして方士なんかに『私』を決めさせたことなんてないのだから」


 楊奉が一歩を踏み出す。方術の影響など欠片も感じさせない優美な動き。
「……かあ、さん?」
「その果てにあなたに討たれたとしても、それも私が選んだ結果。けれど……あなたがそれを選ばないというのなら、私が口を出すことも出来ないのよ」
 立ち尽くす徐晃と、歩み寄る楊奉。両者の距離はたちまち零にまで縮められた。

 
「……母さん?」
「さよなら、公明。あなたは最後まで、私を母と呼んでくれたわね」
 そういって楊奉の手が徐晃の首筋に伸び――数瞬の後、徐晃の身体は崩れ落ちるように楊奉の腕の中におさまっていた。 


   

  
 

 その一部始終を、俺は声もなく見つめていた。口を出すことが出来ず、かといって立ち去るなど更にできるはずもなく。
 楊奉が徐晃の身体をそっと床に横たえ、こちらに声をかけるまで、案山子の如く立っていることしか出来なかった。


「北郷一刀……外史の要……淮南の一戦は、その名が表に出るただの切っ掛けだったのかしら。ふふ、本当にあなたは何者なのかしら?」
 その問いを受けたのは、初めてではない。
 だが、何度問われようと、答えはかわらなかった。
「……見てのとおりの者、としかお答えできませんが」
「仲の方士も、南陽の小策士も、あなたに注意を払っている。方士どもと南陽では思うところが違うようだけど、一国を牛耳る者と、これから牛耳ようとする者が共に注視しているのよ。身辺に気をつけておきなさいな。ことに南陽は明らかにあなたを敵視しているから。かなうならば殺せ、と私たちに命じるほどに」


 楊奉が口にした内容に、俺は驚きを禁じ得なかった。
 だが、それよりもさらに驚いたのは、楊奉がそれを俺に教えたことだった。
 その俺の疑問を察したのか、楊奉は小さく哂う。お前もか、と言わんばかりに。
「公明と同じ。物覚えの悪い子ね。言ったでしょう、あなたがいれば三帝は並び立つと。仲、というよりも南陽ね。南陽の儒子の策略が成ると、許昌が陥ちる危険がある。どのみち新帝は長くないけれど、そうなれば袁術が労せずして覇権を握ってしまうわ」
 それでは困るのよ、と楊奉はにこやかに笑う。
 それは相も変わらず、背筋が凍るような笑みだった。


 先刻の徐晃との会話を聞き、もしや、と思っていたのだが、楊奉の心はいまだ薄明をさまよっているようであった。そして、多分、もう戻ることはないのだろう。そんな風に思う。
 問いたいことは山のようにあったが、どういった答えが返ってくるのであれ、それを鵜呑みにするのは危険だった。そもそも、ここまでに聞いた情報も信用するに足る証拠がない。確かめる術がないわけではないが、それはここでは出来ないことだった。


 だから、今、ここでしか出来ないことをしよう。楊奉が、俺のことを方士の策に抗う要とみて、俺を生かして帰そうとしていることは間違いない。でなければ、ここまで俺を放置しておく理由がないのだから。
 しかし、先刻の方士の言い分を真に受ければ、方士の策はむしろ楊奉にとって都合が良いのではないかと思うのだ。
 楊奉が何もかもを滅ぼすことを願うのなら、何故、あえて俺をつかって方士の策を妨げる必要があるのだろうか。


 後から思えば、外史の意味、方士の狙い、そういったものを聞き出すべきだったのかもしれない。だが、この時はそこまで考えが及ばなかったし、たとえ及んだとしても、同じ問いを発しただろう。
 そのいずれも、真相を知る者は他にもいる。だが、楊奉の思いを知る者は、楊奉以外にありえなかったから。


「あの方士は、滅びへの渇望において、自分たちとあなたは等しいと言っていました。それが具体的に何を指すのかはわかりませんが、方士の企みの成就はあなたにとって望むところのはず。何故、私を生かし、あまつさえ方士を殺したのです?」
 俺の問いに、楊奉はあっさりと答えた。そんなことか、とでも言わんばかりに。
「目的地は同じでも、そこへ到る道が違うだけ。あれらは滅ぼすことそのものが目的だけれど、私は違う。苦しみぬいた末に滅んでもらわなければ意味がないのよ。一足飛びに世を壊すような真似をされてはたまらないわ」
 だからこそ、と楊奉は続ける。
 方士が忌み嫌う俺があらわれたことを好機としたのだ、と。


 その言葉が真実なのか、韜晦しているのか。この時の俺にはわからず、それを確かめる術も、また時間もなかった。
 同時に、楊奉もこれ以上言葉を連ねる意思はなかったらしい。困惑をあらわにしている俺から視線を外した。もう興味が失せたとでも言うように。
 踵を返して、俺に背を向けた楊奉は、もう俺にも徐晃にも目をくれず、この場から立ち去ろうとする。
 だが、不意に立ち止まると、こちらを見ずに呟くように言った。
「……今、動乱の中心となっているのは廃都よ。あなたが知りたいものも、そこにあるでしょう」


 そう言って、再び歩き去ろうとする背に、俺は問いを発しかけ――思い直す。
「何故――いえ、助言、ありがとうございます」
 返答はない。歩みも止まらない。そもそも、声が届いたのかどうかさえわからない。
 ただ、何故か、伝わっているという確信があった。だから、もう少し言葉を連ねる。
「公明殿は、最後まであなたを母さんと呼んで……」
 去り行く背に、どうしようもない無常を感じた。終わってしまった悲劇に、救いを求めても、それは決して叶わない。まして俺のような小僧が何を言ったところで、楊奉には届くまい。しかし――
「あなたは最後まで、公明殿の真名を呼ばなかった――どうしようもないほどに、あなたたちは母娘だったのだと、私はそう思います」
 それは救いなのか、手向けなのか、とどめなのか。
 自分でもよくわからないままに、そう口にしていた。
 一瞬、楊奉の足がわずかに止まり、かすかな声が空気を震わせたように思った。
 だが、その声は俺の耳に届くまでに力を失って宙に溶け。
 楊奉の姿は、そのまま政庁の中へと消えていったのである……



◆◆



 その後、俺は徐晃を担いで外に抜け出した。
 白波賊の多くは逃げ惑うばかりで、俺たちを気にする者はほとんどいなかった。
 その混乱は政庁の奥――頭目である楊奉の部屋から、猛火が発するに及んで最高潮に達し、ほぼ時を同じくして政庁に押し寄せた官軍によって、白波賊は一網打尽にされる。
 官軍は火を消し止めようとしたが、炎は意思ある蛇のように城内を嘗めていき、恐るべき勢いで政庁を飲み干していく。
 やがて炎は建物全体に及び、万を越える将兵をもってしても鎮火は不可能であると判断せざるを得なかった。
 そうして、炎は政庁すべてを呑み込み、建物も、中にいる者たちも、何もかもを灰燼と帰していく。


 適当な民家に逃げ込んだ俺は、その猛火を窓越しに眺めていた。何をするでもなく、ただ、じっと眺めていた。 
 
 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/12/12 12:49

 解池城内の一画。
 略奪を受けた様子のない、かつ人気のない民家に踏み込んだ俺は、家人がいないことを確認した上で、徐晃を寝台に横たえた。
 城内の混乱は、関羽たちによって鎮まりつつあるが、それでも危険がないわけではない。女の子一人背負った状態で歩き回るのは避けたかったのだ。
 官軍に保護を求めるのは、もう少し事態が落ち着いてからにすべきだろう。決して、綺麗な服を着た徐晃を背負っている姿を、関羽に見られるとまずいかも、などと思ったわけではないのである。


 そんなことを考えた俺は、小さくため息を吐いた。
 あえて日常に逃げ込もうとしている自分の小心さに気付いたからであった。
「……なんて言えばいいのかな」
 寝台で横になる徐晃を見ながら、ぽつりと呟く。



 地下水路への潜入から今この時まで、すべてを思い返せば、あまりの情報量に脳が破裂しそうになる。
 どんな内容のものであれ、明確な目的を持ち、明確な行動をする相手ならば整理することは難しくない。しかし、今回はその意味でこれまでとは全くことなる相手だった。
 白波賊、そして匈奴を敵とした今回の戦いで、俺が相手の真意を読めなかったのも道理。狂気を包んで破壊を撒く者と、方士などという人外の術を扱う者たちが何を考えているかなど、俺にわかるはずもなかった。


 もっとも相手は俺のことを知っているようだが、これは今考えたところでどうしようもない。気にはなるが、疑問は一旦封印する。
 今、考えるべきは、目を覚ました徐晃に、何と言葉をかけるべきか。徐晃が倒れた後の楊奉の言葉をどこまで伝えるか、この二つだった。
 政庁での楊奉の様子は、他人である俺にさえ衝撃的だった。その上、方士などという輩まで出てきた挙句、きちんとした別離の言葉もなく、母娘は離れてしまった。
 おそらく、政庁に火を放ったのは楊奉だろう。その後、逃げ延びたのか、あるいは猛火の中に身を投じたのかはわからない。後者であったとしても、あの火勢を見れば、遺体を見つけるのは不可能に等しい。つまり楊奉に関しては生死不明という中途半端な状況となってしまうのである。
 きちんとした別れがあったのであれば、まだ踏ん切りをつけることも出来るかもしれない。しかし、今の徐晃にそれが出来るのだろうか。


 母を敵として戦う。その一事だけで、人の心は千々に乱れる。
 その上、この地で目の当たりにしたことを考えれば、最悪、心が砕けてしまっても不思議ではないのではないか。
 もし、俺の身に同じことが起きたら、と考えてみる。
 ――無理だった。母さんが取り乱すところなんて想像もできない。親父だったらいくらでも想像できるのだが……そこまで考えて、また逃避している自分に気付き、俺はかぶりを振った。


 多分、一般的に見ても、俺は幸福な家庭で幸福に育ったのだろう。
 ……それはつまり、今の徐晃の心を察するなど俺には無理だということ。賢しげに慰めようとするよりは、むしろ黙っているべきなのかもしれない。
 楊奉が最後に口にした言葉は、ほとんどが俺にあてたもので、あえて徐晃に言う必要は――


 などと考えていると、寝台で横になっている徐晃が身動ぎした。
 そして、ゆっくりと瞼を開き、琥珀色の双眸が俺に向けられた。
 それはどこか戸惑うような眼差しで――



◆◆



「……そう、ですか」
 寝台の上で上半身を起こした徐晃は、自分が倒れてからのことを俺の口から聞くと、そう言って俯いた。
 その姿を見ると、俺はうろたえずにはいられなかった。直前まで色々と考えてはいたのだが、慰めるのはもちろん、この部屋でただ黙っているだけでも十分堪える。
 踵を返して逃げ出すわけにはいかない。そのことだけははっきりとわかっていたが、このまま立ち尽くしているだけでは、逃げたのとかわらないわけで――と、俺が内心で頭を抱えた時。
 不意に徐晃が口を開いた。


「……ありがとうございます、北郷様」
「は?」
 唐突な感謝の言葉に、俺は装っていた平静さを崩され、ぽかんとした顔をしてしまった。
 俯いていた顔を上げ、視線を俺に向けていた徐晃は、それを見て小さく、だが確かに微笑んだ。
「は、あの、別に礼を言われるようなことは……」
「ここまで運んでくれたこと、方士から助けてくれたこと、母さんと話した方が良いといってくれたこと……ほかにも、たくさんあります。お礼を言うには、十分だと思います」
 なにより、と徐晃は続けた。
「北郷様は、私と母さんとは何の関わりも持っていなかったんだから、なおさらです」


 こちらを見る徐晃の顔は穏やかで、落ち着いているように思えた。
 いつもは頭の後ろで束ねている髪を、服装に合わせて下ろしているためだろうか、あたかも名家の令嬢のような繊細さを感じさせる。
 これまでは髪や目の色、そして戦斧を振り回す剽悍なイメージに打ち消されていたが、こうして向き合ってみると、たしかに徐晃からは母である楊奉の面影が感じられる。
 ふと、思う。
 今の徐晃の年のとき――文官として朝廷に仕えていた頃の楊奉は、こんな姿だったのかもしれない。


 同時に、こうも思った。
 やはりこの母娘は似ている。内面に重苦しいものを抱え込んでいる時こそ、表向きは穏やかさを装おうとするあたりが特に。
 もっとも、徐晃のそれは楊奉と異なり、俺程度でもあっさりと見抜けるほどに不完全なものであったが。


 先刻までのためらいが、すっと流れ落ちていく。
 寝台に歩み寄った俺は、戸惑ったように見上げてくる徐晃と視線をあわせるために膝をつき――なるべく驚かさないようにしつつ、そっとその手を握る。
 自分から女の子の手を握るという慣れない行為だったが、不思議とあまり緊張しなかった。
「……え? あの、北郷、様?」
「無理してますね、公明殿」
 問いかけではなく、断定。
 相手の目を見据えながら、俺はそう口にする。徐晃はかすかに瞳を揺らしたが、視線を俺からそらしつつ首を横に振ろうとする。
「突然、何を……あ、あと、手を離してくださ――」
「今の笑い方、あなたの母上にそっくりです」
 俺の手を振り払おうとしていた徐晃の動きが、ぴたりと止まる。


 驚いたように俺を見つめる徐晃に対し、俺は意図的に少し呆れた様子をのぞかせた――それでやり過ごせるつもりか、と。
 俺の顔を見て、言いたいことを察したのだろう。徐晃は真っ赤になって俯いてしまった。
 こちらに心配をかけまいとしてか、それとも自分なりのけじめのつもりだったのか。仮面をつけて内心の痛みを隠そうとしたようだが、ぶっちゃけ徐晃ほどそういうことに向いていない人はいないのではなかろうか。
 本人は自覚していないだろうが、他にも俺への呼び方が『北郷殿』から『北郷様』にいきなり変わっていたりと、とてもわかりやすいうっかりである。


 くわえて言えば。
 俺は徐晃と知り合ってからまだ一月も経っていないが、初対面の時からいきなり全力全開で襲われたり、県城で涙ながらに詰め寄られたりと、表情豊かな徐晃を目の当たりにしてきた。楊奉に倣ったような付け焼刃の穏やかさとか、違和感ありまくりなのである。
 そんな主旨のことを口にすると、徐晃は首筋まで赤くそめて、ますます項垂れてしまった。
 もしかしたら、徐晃としてはこの韜晦の方法に自信があったのかもしれない。俺から握った手を振り払うことも忘れてしまうくらい消沈していた。


「とどめをさすために率直に言いますが、公明殿の演技で誤魔化されるのは赤子くらいのものです」
「……ぅぅ」
「まあ、これからずっとその演技を続けていけば、いずれもっとましになるかもしれません。しかし――」
 俺はそう言って、一旦、言葉を切った。


 一時のことだからと涙も嗚咽もこらえ、悲しみや痛みから目をそらして、気にかけていない演技を続けていくことは出来る。それを繰り返していれば、いずれ自然にそれを行える日が来るかもしれない。
 だが――
「それでは、いつか本当に『それ』に慣れてしまいます。目を逸らしても、痛みや悲しみが消えるわけではないんです。その仮面をつけている限り、それらは消えることなく積み重なっていく――いつか、溢れてしまうその時まで」
 溢れてしまった人の名を、あえて出す必要はないだろう。


 俺から見れば、徐晃はまだ出会ってまもない知人である。友人と称することもおこがましく、向こうからみれば、得体の知れない人間としか映っていないかもしれない。
 それでも、目の前の少女が、あの白波賊の頭目のように生に彷徨するところを見たくはなかった。先刻のように虚ろな笑みを浮かべている姿よりも、史渙と韓浩に叱られてしょんぼりしている姿の方がずっと好ましい。


 誰かが言うべきなのだと思う。
 母を失って、なお笑みを浮かべ他者への礼を口にする少女に。
 あなたは泣いてもいいのだ、と。悲しんでもいいのだ、と。
 史渙でも、韓浩でもいい。俺以外の誰かがいれば、その人に任せただろう。けれど、今、徐晃の傍らにいるのは俺しかいない。であれば、俺が言うしかない。
 柄ではない、と心底思う。母を失った傷心の女の子を支える役割なんてものは、もっと世慣れた、包容力のある人物のものではないか。
 そう思いつつ、しかし、ここで口を噤むという選択肢はありえない。
 そうして、俺が意を決し、口を開きかけた時――


 室内に、小さく、かすかに嗚咽が響いた。


 気がつけば、徐晃の手を握っていた俺の手は、徐晃の胸元まで引き寄せられていた。
 一度、俺の手を解いた徐晃は、今度は自らの手で俺の手を覆う。
 そうして重なった二人の手に、俯いた徐晃の額があたる。
 表情はわからない。ただ、掴まれた手から、徐晃の震えが伝わってきた。そして、両の目から零れ落ちる滴も。
「……う……く……ゥゥ……」
 開きかけた口を、再び閉ざす。
 徐晃の泣き声を聞いた途端、言おうと思っていた言葉が掻き消えてしまった。それに、もうあえて言葉にする必要もなくなったように思えた。
 だから、俺はそのままじっとしていた。徐晃の嗚咽が終わるまで、ずっと。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第三章 卵翼之檻(十七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:49f9a049
Date: 2010/12/12 12:49

 官軍が解池を奪還してから数日後。


 司州河東郡県城。
 早馬によって解池の奪還ならびに白波賊の壊滅が伝えられ、城民は歓声をあげると共に安堵の息を吐いていた。
 匈奴の軍勢が壊滅し、白波賊が滅んだ。河東郡の動乱が、ようやく終結を見たと考えたからである。
 無論、解池の復興をはじめとして、やるべきことは山のように積み重なっているが、当面の脅威はこれで去ったと多くの人々が考えていた。



 ――だが、一方で、そうでないことを知る者も少数ながら存在する。
 県城の闇の一画に集った彼ないし彼女らは、緊張と怒りをない交ぜにした表情を浮かべ、今後の対応策を検討していた。
「みろ、言わないことじゃない。この城の防備に穴をあけておくなど意味がなかっただろう。南陽の指示で潜入したが、とんだ骨折り損だ。この城を陥とす軍がどこにいる?」
「結果論だな。白波なり匈奴なりが勝っていれば、無駄になってはいなかった――許昌からあれだけの軍勢が来るなど、誰にも予測できん」
「繰言はいいッ! どうするんだ、解池の同胞とは連絡がとれない……一人もだぞッ?! 地下水路も含めて、官軍がこちらの動きを掴んでいるなら、この城にいる俺たちだって無事じゃ済まない。いずれ狩り出されちまうぞッ!」
「完全にこちらの動きを掴んでいるなら、とうにこの場所に踏み込んできているはずです。それがないということは、官軍にすべてが筒抜けになっているわけではないでしょう。だからといってずっとここに潜んでいれば無事に済むという保証もありませんけれど」


 額を寄せ合い、口々に言い募る。
 だが、言葉の応酬は白熱すれども、そこから有効な打開策が導き出されることはなかった。
 それも仕方ないのかもしれない。口には出さずとも、ここにいる全員が知っていた。自分たちが追い詰められ、駆逐されようとしていることを。
 だが、それを承知している彼らの顔には苛立ちこそあったが、恐慌や自棄は浮かんでいなかった。
 何故なら、彼らにとって、この劣勢は昨日今日はじまったことではないからである。
 圧倒的に不利な戦いに臨む気構えを持てない者、逃げられる場所がある者は、とうの昔に逃げ散っている。それだけの時間はあった。
 彼ら――塩賊の衰退は、丞相曹孟徳が、皇帝を許昌に迎え入れたその日から、とうに始まっていたのだから。



 塩賊は官の扱う塩をより廉く民衆に提供するため、民衆と深い繋がりを持つ。白波賊のようなれっきとした(?)賊徒とくらべ、民衆との境界が曖昧なのだ。そのため、政治状況によってはたちまち巨大な勢力に変貌するし――当然、その逆もありえる。
 積み重ねられた歴史、そして組織の全貌が容易に窺えないことから、塩賊は官吏や、あるいは他の賊徒からもおおいに警戒されているのだが、実のところ、その勢力はとうの昔に衰亡していたのである。


 今や塩賊の実働部隊は五百名に満たず、そのほとんどは洛陽に集結していた。
 洛陽以外では、この城にいる五十名がまず挙げられる。もっともこの場にいるのは頭だった四名だけで、あとは城内で指示を待って潜伏していた。
 この城以外では、解池の城門を開けた者たちがいるが、今日まで何の連絡もないところを見ると、おそらく彼らはすでに命を奪われているのだろう。
 今、この城にいる者だけで現在の戦況をかえることなど出来るはずはない。本来なら、解池から早馬が来るまでに、この城を出て洛陽に戻るべきであったのだが……
「くそ、あの方士、どこにいきやったッ?! 肝心なときに役に立たんッ!」
「確かに妙だな。知らせるだけであれば、あれらは馬よりもよほど早く動けるはず」
「何かがあった、と考えるのが妥当ですね。解池を攻めた官軍を率いる関羽は、匈奴の単于を一刀の下に斬り伏せたとか。方士ごときの歯が立つ相手ではないでしょう」
「南陽の指示なく動けば面倒なことになるが、このまま木偶のように突っ立って捕らえられてもまずい、か……潮時だな」
 

 その言葉に、皆が一斉にうなずいた。
「官軍を混乱させるために用意していた火はどうする?」
「無論、使う。このあたり一帯を焼き払うことくらいは出来るだろう。どの道、俺たちが城門を抜けるためにも陽動は必要だ」
「そうですね。何の成果もなく逃げ出すのも腹立たしいです」
「はッ、イタチの何とやらってやつか」
 口々に言い合いながら、塩賊は素早く動き出そうとする。


 ――が、その動きが、不意にとまった。
 ざり、と。
 彼らの背後から響いてきた足音によって。



 咄嗟に振り向いた塩賊たちは、出口から歩み寄ってくる人影を見て、表情を強張らせる。一切のためらいがない歩みは、その人物がたまさかここに入ってきたわけでないことを示していた。
 塩賊の配下が無言でここに足を踏み入れることはありえない。そして、ここを知るのは塩賊以外には、あの方士しかいないはずであった。
 しかし、歩み寄る人物は闇に溶けるような黒い服をまとっており、白装束の方士とは明らかに別人である。
 くわえて、闇の中でなお映える黒髪は長く、どうみても女性にしか見えなかった。


「……誰だ、てめえ」
 押し殺した誰何の声は、いわば儀礼のようなもの。問いを向けた塩賊も、まさか相手が素直に応えるとは考えていなかった。
 だが。
「司馬仲達」
 答えは拍子抜けするほどあっさりと与えられ、塩賊は呆然とした。
 正直に答えたという事実もそうだが、その名前も、塩賊にとって無視しえない意味を持っていたのである。 


 帝都である許昌の四方を守る役職。東西南北四つの尉。彼女らは丞相である曹操の命令の下、塩賊の拠点を次々に潰していった。
 その活動は許昌の内だけにとどまらない。中でも四尉の上席である北部尉の司馬朗は、温和な為人にそぐわない仮借なき掃討を展開し、各地の塩賊の勢力を次々と屠り、塩賊とそれに関わる者たちを震え上がらせた。
 今や塩賊にとって、司馬家は不倶戴天の敵といっても過言ではない。
 現在では、紆余曲折の末、奇妙な共闘関係を結ぶにいたっているが、それは自分たちの背後にいる者たちの威を恐れただけのこと。塩賊の司馬家に対する敵意は、増しこそすれ衰えることはなく、その名を思わぬところで聞いたことで、塩賊たちはたちまちいきり立った。


 しかも仲達といえば司馬家の直系、あの司馬朗の実の妹である。塩賊たちがいきり立ったのも当然といえば当然であった。
 相手の狙いはわからないが、他に兵を連れている様子はない。本物か、という疑いは当然あったが、それは司馬懿が黒布の頭巾をとり、素顔を晒したことでたちまち解決した。薄闇の中に浮かび上がった白皙の美貌は、写し絵で見た姿そのままだったからである。


「……司馬家の者が、何故ここにいる?」
 塩賊の問いかけへの返答はなかった。声にしては。
 司馬懿が腰に差した剣をすらりと抜き放った――そう見えた途端。銀色の閃光が、闇の一隅を引き裂いた。
 そして。
「がァッ?!」
 咽喉を押さえて倒れ伏す仲間の姿に、塩賊たちは一瞬、何が起きたのかわからず呆然とする。が、瞬時に事態を察し、次々と武器を手に取った。
「何をする、貴様ッ?! 我らを裏切るつもりか!」
「――裏切るも何も」
 司馬懿は剣先を、蝶が舞うように不規則に揺らしながら口を開く。
「私も、司馬家も、塩賊と手を組んだ覚えはありません。我らは漢室の臣。仲の指図に従ういわれはなく、惨禍を撒き散らそうとするあなたたちを見逃す理由もないのです」
 そう言った瞬間、後方に回り込もうとしていた塩賊に向け、司馬懿は剣を振るった。寸前までの不規則な動きとは対照的な、空を飛ぶ燕のように速く、鋭角的な斬撃は、防ぐどころか、反応すら許さない域に達している。
 あがる悲鳴、何かが倒れる重い音。
 残った二人は、それを聞き、もう言葉が意味をなさないことを悟る。一斉に躍りかかる塩賊たち。
 迎え撃つ司馬懿はほんのかすかに目を細め。
 城内の誰の目も届かない闇の一隅で、白刃が交錯した。  



◆◆◆



 一刻後、司馬懿の姿は県城の南門にあった。
 城内は平穏そのもので、火災が起こる気配もない。ただ、わずかに慌しい雰囲気が漂っているのは、衛兵が塩賊の残党を狩り立てているためだろう。
 とはいえ、それも間もなく終わる。塩賊は数自体が少なく、また彼らが潜伏している場所は、投降した塩賊の一人によって明らかにされていたからである。


 南門は多くの人々でごった返していた。
 賊徒や匈奴に怯えて逃げてきた人々が、解池奪還、白波賊壊滅の知らせを聞いて郷里に戻ろうとしているのだ。おそらく他の門も似たような状況だろう。
 塩賊がこの隙に逃げようとする恐れがあるため、衛兵によって一応の確認が行われていたが、明らかに人手が足りていない。
 足止めされている人々から不満の声があがっており、おそらく、じきに太守から何らかの指示が伝えられると思われた。


 その騒がしさの輪から少しだけ離れたところで、司馬懿は民家の壁に背をもたせかけていた。
 司馬懿は協力者ということで、太守である王邑や賈逵に面識がある。優先的に城門を通れるようにしてもらうことも出来たが、そうすれば当然、司馬懿がこの城を離れることを知られてしまう。
 姉から託された任務が終わったと言えば筋は通るが、その場合、北郷を置いていく形になってしまうし、司馬懿の年齢が年齢だけに護衛をつけるなどという話に発展しかねない。というより、まず間違いなくそうなるだろう。
 しかし、様々な意味で、それは好ましくない。そのため、司馬懿は民に混じる形でここまでやってきたのである。


 しばらく後。
 人の波が城外へ動き出したのを見て、司馬懿も壁から離れて歩き出す。
 愛馬と共に城の外へと続く列に並んだ司馬懿は、髪はいつものように頭の横で縛り、顔を隠すための黒布は、今は首に巻きつけて口元あたりまでを覆っていた。この状況で顔を隠せば、賊と疑ってくださいというようなものであろう。
 周囲を見渡せば、皆、賊徒の脅威から解放された喜びで湧き立っているように見える。だが、その表情に拭い難い影のようなものがこびりついていることに、司馬懿は気がついていた。
 匈奴が去り、白波賊が討たれたとはいえ、戦乱の足音はいまだ止まない。これから先の暮らしを考えれば、心の底から安堵するというわけにはいかないのだろう。
 その点、司馬懿も似たようなものであった。
 もっとも、その内容はといえば、新帝の擁立やら廃都の復興やら、周囲の人々とはかけ離れたものであったのだが。


 城門の衛兵は、若い女性である司馬懿が一人であることに怪訝そうな顔をしたが、腰に差してある剣、そして司馬懿の落ち着きぶりを見て、かすかにためらいながらも通行を許した。まさか司馬懿が年端もいかない少女だとは思わなかったのだろう。
 司馬懿もまたそう思われるように心がけて衛兵に対したのだが――いつものこととはいえ、こうも簡単に年齢を誤魔化せてしまえる自分に、少し複雑な気分になってしまう司馬家の麒麟児であった。


◆◆


 城門を出た司馬懿は街道を南に下っていく。
 この先には黄河の渡しがあり、そこを利用して対岸に渡り、あとは河水の流れに沿って東へ向かう。
 洛陽へ行くにしても、許昌へ戻るにしても、これが一番早く着く道筋だろう。
 そこまで考えた司馬懿は、馬上、小さく息を吐いた。


 洛陽か、許昌か――それは司馬懿にとって、意味のない選択肢であった。
 すでに洛陽における挙兵の準備は九割方終わっている。そして、残り一割を担う司馬朗も許昌で動いているはずだった。
 今から不眠不休で馬を駆けさせたとしても、許昌に着く頃には何もかも終わっているだろう。ゆえに、許昌へという選択肢は採りえないのである。
 司馬朗が計画に加わることを肯い、司馬懿がその姉の下へ戻ると決めた以上、行くべきは洛陽以外にない。


「――洛陽起義」


 司馬懿は小さく呟く。
 それが司馬家の姉妹が参画する計画の名称である。
 起義とはすなわち正義の蜂起。
 先帝の正当な後継者であった太子劉弁を廃嫡に追い込み、洛陽を灰燼に帰さしめた董卓の悪行。そして、その混乱に乗じて不正な権力を獲得した曹操の専横。彼ら奸臣たちによって、中華帝国は本来あるべき姿を捻じ曲げられた。
 今回の挙兵は、それを糾すためのもの。玉座に正当の皇帝を迎え、奪われた権力を取り戻し、中華帝国のあるべき姿を取り戻すための戦いである。
 それが仲帝――もっと正確に言えば、その臣下である南陽太守李儒が持ちかけてきた計画であった。


 もし。
 この計画が直接司馬家に持ち込まれたものであれば、考慮する必要もない夢物語だと一蹴して終わっていたであろう。
 李儒が言わんとしていることは間違っていないが、計画を実行に移すのは困難を極め、実現性にいたっては皆無であったからだ。万に一つ、成功したとしても、それは中原に更なる混乱を招き寄せるだけに終わることも明らかであった。


 しかし、この計画が司馬家に伝えられたとき、すでに計画は了承された後であった。弁皇子の生母である何太后は、一も二もなく計画に飛びつき、司馬朗に命令という形で計画に参画するよう指示してきたのである。
 当然、司馬朗は計画が実現性に欠けていることを事をわけて説明し、自重を請うたのだが、何太后を説得することは出来なかった。宮中の片隅で不遇をかこっていた太后の忍耐心は、とうに限界に達しており、李儒の甘言は的確にそこを衝いていたのである。
 同時に、司馬朗は何太后の命令を拒否することも出来なかった。弁皇子への親愛、同情もある。また亡き父の「司馬家は弁皇子に殉じるべし」という言葉も、司馬朗から拒絶の選択肢を奪う一因であった。



 宮中の奥深くで、半ば幽閉の身であった何太后に、偽帝の臣下がどうやって近づき、その信を得ることが出来たのか。
 それ以前に、漢王朝の存在を無視し、みずから皇帝を名乗った袁術が、どうして今さら漢室の正当を持ち出そうと画策するのか。
 疑問は尽きなかったが、それを追求する術も権限も司馬家には与えられず、時は無情に過ぎていくばかりであった。


 司馬朗と司馬懿――二人の姉妹は幾度も話し合い、この計画に関して、ある程度の推測は立てていた。その行き着く先も予測できている。
 だが、その末路がどれだけ悲惨なものであれ、すでに賽は投げられており、引き返すことは出来なかった。
 なにより、ここで司馬家がどういう形であれ消えてしまえば、弁皇子と何太后の下に残るのは、袁術配下の李儒と、得体の知れない方士だけになってしまう。
 彼らが何を企むにせよ、それは皇子のためにも、また中華帝国のためにもならないことは火を見るより明らかである。その惨禍から皇子を守るために、傍らに一人で良い、権力ではなく、皇子自身を守るための人間が必要だと司馬朗は考えたのである。



 そう、一人で良いのだ。父の言葉に殉じる者は。
 姉がそう考えていることは、何となく司馬懿も悟っていた。司馬朗が一度も言葉にしなかったのは、それを口にしても司馬懿が首を縦に振るはずがないとわかっていたからだろう。
 そんな司馬懿の推測が確信に結びついたのは、あの日――数奇な縁で知り合った一人の若者を、司馬懿が家に連れ帰った日であった。
 仲に属する者たち――李儒、そして方士でさえも警戒心を抱いている劉家の驍将。その訪問を知った司馬朗は、妹に対していとも気軽に解池へ赴けと命じてきた。若者を思いっきり巻き込む形で。


 若者の為人を確かめ、もし信ずるに足る人物であれば戻ってこなくても良い。そんな司馬朗の心の声が聞こえてくるようであった。あまりにも急であったのは――家宰を死に追いやった者の手が、司馬懿の身に伸びてくることを恐れたゆえであろう。



 姉の心を察した司馬懿は、しかし、姉の望む行動を採るつもりはなかった。
 弁皇子を孤立させることは出来ない。同じように、姉を一人にさせることも出来なかった。出来るはずがなかった。
 残された司馬孚らにかかる負担は計り知れないであろう。それがもっとも気がかりであったが、あの子たちであれば何とか切り抜けてくれるだろうという信頼もある。
 かくて、司馬懿は河東郡へとやってきたのである。
 そしてこの地で見るべきものはすべて見た。そう思う。


 たとえ自分たち姉妹が全力をあげて弁皇子を補佐しようと。
 仲が何を目論み、李儒が何を企んでいるとしても。
 洛陽から発する炎は、決してかつてのような燎原の大火にはならないだろうという確信を、司馬懿は得ることが出来た。
 あの若者――北郷一刀という人と行動を共にすることで。一ヶ月にも満たない、ほんのわずかな間であったが、その確信は大樹のように揺ぎ無く司馬懿の胸奥に根を張り、こうして県城を離れた今もしっかりと感じられる。
 心残りがあるとすれば、きちんと北郷に別れを告げられなかったことか。
 敵味方に分かれるのが決まっているとしても、それが礼儀というものだろう。だが、今の司馬懿の立場でそれが許されないことは自明であった。


 だから、せめて手掛かりだけでも残そう。そう思って、関羽と話をしたのである。
 白波賊の頭目である楊奉は事態の裏面を知る数少ない人物であるし、その娘である徐晃と共に城内に潜入する北郷が、城内で有用な情報を耳にすることは十分に有り得る。
 くわえて姿を見せない方士も気にかかる。北郷や関羽が、解池でなんらかの情報を得た可能性は高い。
 北郷らが解池で得るであろうそれらの情報と、司馬懿が関羽に口にした言葉。それらがあわされば、あの人たちのことだ、こちらの動きを推測することは難しくないだろう。
 司馬懿はそう考えていた。
 そして――



「……あ」
 その考えが間違いでないことを司馬懿は知る。視線の先に、今まさに脳裏に思い浮かべていた人の姿を目にしたことで。




◆◆◆




「……あ」
 そんな呟きをもらし、両目を見開き、驚きをあらわにする司馬懿を見て、俺は小さく笑った。司馬懿の様子が微笑ましかったことと、もう一つ、黄河の渡しへと繋がるこの道で待ち構えていて正解だった、という安堵を込めた笑みであった。


 解池陥落の知らせをもって俺が県城へ駆けつけた時(要するに俺が三人の早馬の一人を務めた。到着は案の定最後だったが)には、すでに司馬懿の姿は城になく、賈逵や韓浩たちも行方を知らないという。
 厩舎を見れば、司馬懿の馬の姿も見当たらない。県城は許昌には遠く及ばないとはいえ、一郡の首府、人一人を探し回るにはあまりに大きすぎる。事情が事情だけに大々的に探し回るわけにもいかなかった俺は、一計を案じてとっとと城外に出たのである。
 司馬懿がいつ、どの門を使って城外に出るにせよ、洛陽なり許昌なりに戻るためにはここを通るだろうと考えたのだ。 


 そうしておおよそ三時間。これはしくじったかなと冷や汗を流しつつ、いやいや、ここで場所をかえて行き違いになってはと思いとどまることを繰り返した結果、幸い、目的の人物と出会うことが出来た。
 これで一安心とこっそり胸をなでおろす俺とは対照的に、司馬懿の方は安心どころではない様子だった。俺がここにいるという一事で、大体のことを察したのだろう。


 とはいえ、具体的に俺がどこまで知ったかまではわからないようで――まあ、当然といえば当然だが――言葉を選びかねている様子がありありと見て取れた。
 あるいは、俺が姿を現した理由を計りかねているのだろうか。であれば、さっさと用件を切り出すべきだろう。
 確認したいことが一つ。問いたいことが一つ。
 その答えを得たいがために、俺は解池から馬を飛ばしてきたのである。


 そう口にすると、司馬懿はよほどに意外だったのか、幾度か目を瞬いた。
 最近気付いたが、司馬懿の感情は表情ではなく、こういった仕草によくあらわれるようである。
 俺がそんなことを考えていると、司馬懿はゆっくりと口を開き、問いを向けてきた。
「――確認したいこと、というのは何でしょうか?」
「ああ、俺の護衛の任務は終了、ということで良いのかな?」
「……はい、結構です――短い間ではありましたが、ありがとうございました」
 馬上、深々と頭を下げる司馬懿。
 司馬懿は俺が解池から早馬として戻ってきたことを知らなかった。その上でこの場にいるわけだから、俺に別れを告げる意思はなかった、と考えて間違いないだろう。
 そのあたりの謝罪も弁明もなく、ただ頭を下げる司馬懿。それらが意味をなさないと考えていることは明らかで、それはつまり、司馬懿が異なる陣営にいるという俺の推測を肯定するものであった。


 知らず、俺は小さく息を吐いていた。
「……そんな丁寧な礼に値することはしてませんよ。護衛の身で、仲達殿を危険に晒してしまったこともあったのですから。ただ、結果としてあなたを無事に伯達様(司馬朗の字)のもとにおかえしできることは嬉しく思ってます」
 いまだに司馬懿に対する口調から堅苦しさがとれない。時間が解決してくれるかと思っていたら、この事態だ。世の中、ままならないものである。


 これまでの経緯、そして解池で耳にした幾つもの情報から、司馬懿が何かしらの意図を持って、俺と行動を共にしたことは間違いないと思われた。ある程度の推測もできている。
 だから「どうして」「何故」という問いかけは発しない。言ったところで詮無いことだし、短い付き合いしかない俺が何を口にしたところで、今さら司馬懿と、そして姉である司馬朗の二人が翻意することはない。その程度の覚悟で事に臨む人たちではないことくらいは、俺にもわかっていた。


 だから、俺が向ける問いは二人を止め、あるいは説得するためのものではない。
 単純に、俺が、自分の中の二人の像を確かなものにするための問いに過ぎなかった。
 すなわち、俺は司馬懿にこう問いかけたのである。
「家宰殿は、塩賊の手にかかったということでしたが――それは、どちらの理由だったんですか?」



 ここへと到る切っ掛けともなった、あの事件。
 司馬家の家宰は、官軍に追い詰められていた塩賊が、官軍を主導していた司馬家へ報復するための残忍な標的となったものと思われた。
 だが、事ここに到ると、もう一つの可能性が浮かび上がってくる。
 司馬家の家宰は、主家の意向に従って塩賊に殺されたのではなく。
 主家の意向に逆らったがために殺されたのではないか、と。


 司馬家が叛意を持っているという事実は様々な意味を持つ。
 それを知った家宰は何を考えたのか。丞相府に知らせて大利を得ようとしたか。あるいは皇帝や丞相に逆らうことを恐れたか。
 それとも――それとも仲の策謀や、新帝の擁立など、一歩間違えれば姉妹がもろともに処刑されかねない陰謀の巷から、主家の姉妹を連れ戻そうと考えたのか。
 いずれにせよ、事を決した司馬家にとって邪魔な存在であることにかわりはない。これを殺せば、他の司直から司馬家に向けられる疑いの目をそらすことも出来るのだ。



 抽象的な問いかけだったが、司馬懿は俺の問いに含まれた意味を察したのだろう。
 次の瞬間、司馬懿の目に恒星さながらの勁烈な光が躍った。
 此方を射抜く眼光は、秀麗な容貌とあいまって尋常ならざる重圧をかけてくる。
 ――はじめて、だった。司馬懿が本気で怒気を発したところを見るのは。
 それは同時に、万言にもまさる解答でもあった。


 俺は無礼を謝するために、そして内心の安堵を押し隠すために、先刻の司馬懿のように深々と頭を下げた。
「無礼な問いを発したことをお詫びします。引き止めてしまって、すみませんでした、仲達殿」
 そうして、馬首を県城に向ける。
 司馬懿と行き交う形になるが、それは県城に戻るためである。
 もとより、俺はここで司馬懿を捕らえるつもりはなかった。俺一人ではそもそも司馬懿を取り押さえることは難しいし、衛兵を連れて来る理由も権限もない。
 司馬家への疑惑――俺の中ではもう確信だが――は確たる証拠がなく、王邑も賈逵も、俺の言葉だけで動いてはくれないだろう。
 仮に動いてくれたとしても、司馬懿の才智であれば何とでも言いぬけることが出来る上に、実力で斬り破ることさえ不可能ではない。王邑たちが確認のための使者を洛陽なり許昌なりに出したとしても――おそらく、もうすでに間に合わないだろうという予感があった。


 聞くべきことは聞いたし、見るべきものは見た。問題は言うべきことを言ったかどうかなのだが……正直、今は何を口にしても意味がないような気がする。
 だから、俺は無言で司馬懿の横を通り過ぎる。あたりに人影はなく、街道にはただ蹄の音だけが木霊している。ふと見れば、北の方から家族連れらしき人たちがこちらに向かって歩いてくるのが見て取れた。このあたりから避難した一家か、それとも戦禍を避けて黄河を渡るつもりなのか。
 後者なら、むしろ河北に留まった方が戦禍からは逃れられるのだが、などと俺が考えた時だった。
 後ろから、囁くような司馬懿の声が追いかけてきた。


「結局――」
 その声は耳に慣れつつあったいつもの司馬懿の声だった。ついさきほど垣間見せた怒気は感じられない。
 口調をかえないまま、司馬懿は言葉を続けた。俺が振り返っていないように、多分、司馬懿もこちらを見ずに口を開いているのだろう。なんとなくそう思った。


「最後まで『仲達殿』のままでしたね」


 少し残念です。
 そんな言葉が耳朶を震わせる。
 しばし後、俺の馬とは異なる蹄の音があたりに響いた。
 去り行く背にかける言葉を俺は持っておらず。その背を振り返ることさえ出来ない。
 これで良いのかという自問は、他に何が出来るという自答によって封じられ、俺は県城への帰路についたのである……






◆◆◆





 それから数日の後。県城の城門を、血相をかえた急使が駆け抜ける。
 その使者が口にした知らせを聞いた者は、皆、等しく表情を凍らせた。



 弘農王劉弁、何者かの手引きにより許昌を脱出、先の帝都である洛陽にて第十三代皇帝を称す。
 新帝劉弁、弟である今上帝劉協を皇帝を僭称する悪逆無道の罪人として弾劾、これを討つため、大陸全土に追討令を発す……

 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/12 12:47


 荊州襄陽城。
 荊州牧である劉表が統治するこの城市は、戦いと放浪を繰り返してきた劉備の目から見れば、別天地かと思われるほどの平和と繁栄を享受していた。
 徐州の州都であった彭城も、陶謙の治下で栄えてはいたが、中原にほど近い徐州では、荊州よりも戦乱の影響が色濃く感じられ、人々もどこか不安そうな面持ちをしている者が多かったように思う。


 もちろん荊州とて戦乱の影響から完全に免れているわけではない。現に淮南の袁術とは幾度も矛を交えてきた間柄である。
 だが、それはあくまで国境での争いにとどまり、袁術軍や他の軍勢が荊州国内を劫略するような事態には至っていなかった。
 そのため、街を歩く人々の顔にも安穏としたものが漂っており、中原や河北、淮南での戦いをどこか遠い国の出来事のように捉えている節があった。


 もちろんそれは悪いことではない、と劉備は思う。
 むしろ中原の戦乱の影響を極力排除し、これまで平和な治世を維持してきた州牧の劉表やその麾下の人々の苦心に頭が下がる思いである。
「玄徳殿にそう言ってもらえるとは光栄ですな」
 荊州牧劉表は顎鬚をなでながら、実の娘ほどに年の若い劉備に対し、丁寧に礼を述べる。
 かつては艶やかに黒光りしていたであろう髭は、すでに半ば以上白くなっている。それは頭髪も同様だった。くわえて、相貌に刻まれた皺の深さが、長年荊州を維持してきた劉表の心労の深さを物語っていたであろう。



「そういえば、最近は娘の琦とも仲良うしてもらっていると聞くが、真かな?」
「あ、はい、本当です。お嬢様は博学なので、私が色々と勉強を教えてもらったり、逆に私がこれまで経験してきたことをお話ししたりしています」
 劉備の返答に、劉表は何度か頷いた後、ゆっくりと口を開いた。
「あれは生まれつき身体が弱く、部屋で本を読んでばかりだったのでな。知識の量に限って言えば、そこらの学士では、琦の足元にも及ぶまいよ。だが、賢明であるがゆえに、というべきか。幼いながらに物事が見えすぎた」
 劉表はそう言って、小さくため息を吐く。
「荊州が乱れることがないよう、みずから城の奥深くに閉じこもってしまったゆえ、琦の傍らには心許せる者がおらぬ。本来であれば、親としてわしが動くべきなのだが、そうすると世継ぎをかえるつもりなのではないかと邪推する者がおってな。正直、どうしたものかと考えあぐねておったのだよ。玄徳殿があれの支えになってくれれば、わしとしても頼もしく思える」


 その劉表の言葉に、劉備は困ったように頬を掻く。
「ど、どちらかというと、毎日のように勉強を教えてもらってる私が、お嬢様に支えてもらってるような気がしないでもないんですけど……あ、でも、もちろん何かあった時には、ちゃんとお嬢様をお守りしますので、ご安心くださいッ」
「ああ、彼の偽帝すら防ぎとめた劉家軍の長が守ってくれるとあらば、これ以上、心強いことはない。よろしくお願いする」
 そう言うと、劉表は頭を下げた。荊州の牧としてではなく、一人の親として。
 それゆえに。
「――はい、お任せください」
 そう答える劉備の顔が、ほんの一瞬、泣きそうにゆがめられたことを、劉表は知ることが出来なかったのである。



◆◆



「お帰りなさいませ、玄徳様」
 襄陽の一画に与えられた劉家軍の宿舎に戻った劉備を出迎えたのは、軍師の鳳統だった。
 一見、子供と見紛う幼い容姿の持ち主だが、その頭脳は大陸でも稀有の明晰さを誇り、その視線は天下を見据えて微動だにしない。
 師である司馬徽から鳳雛――鳳凰の雛と称えられた少女は、劉家軍に参じて以来、余すところなくその才能を発揮しており、流浪の軍とも言える劉家軍が天下に名を知られるようになった要因の一つは、疑いなくこの小さな軍師にあった。


 それは劉備のみならず、麾下の将兵のすべてが等しく考えていることである。
 だが、当の本人はそういった評を一顧だにしていなかった。元々、遠慮深く、自ら前に出ることが出来ない慎ましい少女だったが、現在の鳳統が他者の賞賛を気にかけないのは、そういった遠慮から来るものではない。


 徐州撤退戦以降の鳳統は、それ以前の鳳統とは明らかに一線を画していた。
 落ち着いた挙措、時に冷たく感じることさえある鋭い眼差しを前にすれば、そのことは誰の目にも明らかであった。
 軍議の席で緊張をあらわにすることはなくなり、同輩の諸葛亮と笑いあっている姿も滅多に見せなくなった。徐州での敗戦と、それに続く過酷な敗走が、鳳統の心に深い影を落としていることは、劉備ならずとも察することが出来たであろう。


 だが、劉備はあえてその変化に口を挟むことはしなかった。というよりも、挟めなかった。
 曹操軍に敗れたことは、軍師のみの責任ではない。その後の敗走も同様。むしろ鳳統が軍師でいたからこそ、全滅しても不思議ではなかった戦況を切り抜けることが出来たとさえ劉備は考えていた。
 それゆえ、鳳統に対して、徐州での出来事を気にかける必要はない――そういうことは簡単だった。責任を云々するのであれば、誰よりも先にそれを負うのは劉備自身である。鳳統が一身にそれを背負い込む必要などどこにもない。


 実際、劉備は幾度かそのことを口にしようとはしたのである。
 だが、その都度、鳳統はそれを察して小さくかぶりを振るのが常であった。円らな瞳に、柔らかい光を称えて、それを言ってくれるなと訴えてくる軍師に、劉備はあえてその先を続けることが出来ない。
 劉備が口にする程度のことは、鳳統もわかっている。わかった上で、鳳統はその先に進んでいるのだと劉備が察するまで、長い時間はかからなかった。



『もう雛ではいられないし、いたくない。雛里ちゃんは、きっとそう考えているんだと思います』
 そう言ったのは、もう一人の軍師である諸葛亮である。
 そして、その評は劉備が抱いた考えとほぼ等しい。あの敗戦の責に押し潰されるような、そんな脆い覚悟で戦っているのではない。きっと、鳳統は劉備にそう言いたかったのだろう。
 覚悟とは、口で主張するものではなく、行動で示すもの。
 鳳士元という人物が、鳳雛という名を越えるのは、そう先の話ではないのかもしれない。





「わたしも負けてられないよねッ」
「……あ、あの、玄徳様、突然どうされたんですか?」
 突然の劉備の行動に、目をぱちくりさせる鳳統は、少しだけ以前の面影を感じさせる。
「あ、うん、わたしも頑張らないといけないなって思って」
「玄徳様は、十分すぎるほど励んでおられると思います。むしろ、きちんと休んでおられるか、そのことが心配です」
 鳳統はかすかに表情を陰らせ、劉備の顔を――より正確には、近頃とみに濃くなっている化粧を見つめる。
 戦陣に臨む立場も関係していたであろうが、元々劉備の化粧はごく薄いものだった。それが襄陽に着いてからというもの、明らかに濃く変化している。それが、その下のやつれた表情を隠すためのものであることは、鳳統ならずとも察しはついた。


 そんな状態でも、自らではなく家臣を案じる劉備の為人を、心から尊しとしている鳳統だが、同時に危惧も覚えていた。
 今の劉家軍は掛人の身とはいえ、数千の軍兵を抱える集団である。そして、その集団の核となっているのは疑いなく将である劉玄徳であった。
 ここで劉備が倒れるようなことがあれば、河北、徐州といった遠方の地から、はるばる荊州まで従ってきた者たちは動揺を禁じえないだろう。その隙をついて、劉家軍を危険視する人間が何か仕掛けてこないとは限らないのである。
 荊州出身の鳳統は、この地の政治情勢も、重臣たちの人柄もおおよそ把握している。ゆえに、彼ら荊州の重臣にとって、いまや天下に名を知られつつある劉家軍と、それを率いる劉備の存在は、決して好ましいものではないことも理解していたのである。


 だからこそ、劉備にはきちんと休みをとって身体を大事にしてほしいのだが、劉備にそれを言ってもなかなか頷いてくれない。いろんな意味で困った方です、と鳳統は劉備に聞こえないように小さく呟いた。
 しかる後、意識を切り替える。劉備に休んでもらうためには、休め休めと口やかましく言うよりも、やるべき仕事をささっとこなしてもらってから寝室に押し込める方が早道であることを知っていたからであった。


 しかし――
「……士元ちゃん、どうしたの?」
 鳳統がかすかに示したためらいを、敏感に察した劉備が問いを向けてくる。
 鳳統が答えるのにためらったのは、これから口にする報告が、ただでさえ浅い劉備の眠りを、より浅いものにしてしまうことが明らかだったからだ。
 しかし、報告の重大さを鑑みれば、黙っていることなど許されぬ。
 沈んだ表情のまま、鳳統はゆっくりと口を開いた。




◆◆◆




 劉家軍に与えられた宿舎の一室に沈黙が満ちる。
 部屋の中にいるのは、劉備に呼ばれて集まった劉家軍の主だった者たちである。彼らすべてが、今、瞑目して一人の人物に弔意を示していた。室内に満ちる沈黙はそれゆえである。
 徐州彭城にて、先代の徐州牧 陶謙の葬儀が行われた――それが鳳統が劉備に伝え、劉備が皆に伝えた報告であった。



 陶謙は曹家襲撃にはじまる一連の騒乱の責任者として、許昌の漢帝から朝敵とされていたため、本来ならば大々的な葬儀が行われるはずがないのだが、かつての陶謙の部下たちの訴願と、先の偽帝による淮南侵攻などの当時の状況を鑑みた末に、丞相である曹孟徳が決断を下した形となったらしい。
 無論、皇帝である劉協の許可の上で、である。曹家襲撃以前にさかのぼる徐州牧としての陶謙の治績は誰の目にも明らかであったし、また許昌から朝敵と擬されながら、あくまで偽帝に与しなかったことを劉協は認めたのだ。


 報告はさらに続き、葬儀に参列した者の名が挙げられていった。
 そこに陳登ら徐州の旧臣の名と共に陳羣の名があったことに、劉家軍の諸将はほっと安堵の息を吐く。広陵太守である陳羣が水軍を出してくれなければ、劉家軍は淮河を渡ることは出来ず、その後、江都まで逃げ延びることも不可能だったであろう。陶謙と並び、その恩は骨身に染みている。
 しかし、その安堵の息も、次の瞬間には驚愕にとってかわられる。
 次に挙げられた者の名前は、陳羣よりもさらに彼らが良く知る者であったからだ。
 その名を関羽、字を雲長といった……





 驚愕のあまり、皆が声を失う中、真っ先に我に返ったのは黄巾党三姉妹の一人、張宝だった。
「……って、なに、何であの女が徐州にいるわけッ?! まさかあたしたちをうら――」
 何事かを叫びかけた張宝だったが、次の瞬間、盛大に悲鳴をあげる。
 すぐ隣から伸びてきた繊手に、思い切り頬をつねられたからであった。
「痛あッ?! ちょ、ちょほっと姉はん、なにふんのよッ?!」
「ちーちゃん、証拠もなく人を貶めるようなことを言っちゃだめだよ?」
「しょ、証拠って言っはって、現に徐州でのほほんと……って、いたい、痛いってば、ごめんなはいッ、言い過ぎましたはら手を離してー」
 張角はにこやかに微笑み、妹を軽くたしなめているように見えたが、張宝の頬の赤みを見る限り、結構本気であるらしい。 
 末の妹である張梁は我関せずとばかりにお茶をすすっている。


 そんな三姉妹の様子を見ているうちに、周囲の者たちも驚愕から立ち直っていった。
 彼らの中にも、張宝が口にしようとしていた言葉を意識した者がいなかったわけではないのだが、その疑念はすぐに払われる。
 すなわち、鳳統はこう続けたのである。
「陳太守がご無事であったということは、曹丞相の軍勢が広陵と高家堰を救ったという情報を肯定するものです。けれど、あの時点で朝敵であった徐州と劉家軍を、渡河の危険をおかしてまで助ける必要が曹丞相にあったとは思えません。けれど、曹丞相は動いた。それはきっと、そうするに足る理由が出来たからだと思います。たとえば――」


 関将軍を麾下に招くことが出来る、というような。
 鳳統は面差しを伏せながら、そう口にしたのである。



 曹操が関羽に執心していたことは、劉家軍の中でも知らない者はいない。
 関羽がそのことを厭っていたことを知らない者もいない。
 それでも関羽があえてその行動に出た理由……それを察せないような者もまた、劉家軍にはいなかった。



 その推測を肯定するかのように、鳳統はさらに言葉を続ける。
「許昌の皇帝陛下は、関将軍に対し、淮南における劉家軍の戦いを口をきわめて称されたとのことです。十万を越える大軍と相対し、一歩も退くことなく淮南の地と民を守らんとした劉家の将兵こそ朝臣の鑑である、と。これは、劉家軍はもはや朝敵にあらず、と天下に知らしめる御言葉です」
 その言葉に対し、痛そうに頬をさすっていた張宝が、思わず、という感じで不平を口にする。
「徐州で散々あたしたちを痛めつけておいて、よく言うわ」
 その言葉に反応したのは、張宝の妹である。
「ちい姉さんの言うこともわかるけど、それでも朝敵という看板が外れたのは、正直助かるわ。荊州の人たちの私たちを見る目も、少しは和らぐんじゃない?」


 張梁の言葉に、諸葛亮も頷いた。
「はい。実は、すでに内々に誼を通じたいと申し出てきている人たちもいらっしゃいます。劉州牧が受け入れてくださったとはいえ、やっぱり朝敵にされた相手とは関わりたくなかった、というのがほとんどの人の本音だったんじゃないでしょうか」
「朝敵じゃなくなったから、これからよろしくお願いしますってわけ? そんな相手、信用できんの?」
 ぶーぶーと不平を口にする張宝に、鳳統は少し困ったように首を傾げつつ口を開く。
「それでも、孤立無援でいるよりは動きやすくなりますよ。中には荊州でもそれと知られた方々もいらっしゃいますから。もちろん、これで万事解決というわけではありませんけど……」



 その鳳統の言葉に、さらに張宝が言い返そうとした時。
 不意にそれまで黙っていた人物が口を開いた。
「あ、あのッ」
 細身の身体に、陰を感じさせる表情、見る者にどこか透き通るような印象を与えるその少年の名を田豫、字を国譲といった。
 田豫は元々公孫賛に仕えていたのだが、軍馬に関する知識を買われた縁で劉家軍に加わった。
 当初は馬術の訓練や、軍馬の養成などを主な任としていたのだが、徐州以来の戦乱に放り込まれた末、今では将軍である陳到の下で騎馬隊を預かるまでになっていた。
 病で家族を失ったため、悲しい記憶が残る故郷から離れたかったという理由があったとはいえ、北平から荊州にいたる自身の境遇の変遷を振り返るとき、田豫はそのあまりの変わりように呆然としてしまう。


 とはいえ、それを悔いたことは一度もない。
 劉家軍に加わっている自身を誇る気持ちは、田豫の中にしっかりと根ざしていた。
 それゆえ、ここで田豫が声をあげたのは不満を述べるためではない。確認したいことがあったのである。
「関将軍と陳太守がご無事であったのは大変うれしいのですが、ほかの方々は……?」
 それは田豫にとって、当然発されるべき問いかけであった。
 しかし、それを口にした途端、田豫は自身が失敗したことを悟った。
 鳳統や諸葛亮はもちろん、劉備や張角、さらには張宝までが表情を曇らせたからである。


 淮北に残されたのは、関羽だけではない。張飛、趙雲をはじめ多くの将兵が友軍を逃がすために淮河を渡らなかった。
 淮南で偽帝と戦ったのは陳羣だけではない。広陵の陳羣を援護するため、また劉備たち本隊を無事に江都へ逃がすため、高家堰砦に立てこもった太史慈と北郷らの将兵がいるのである。
 その彼らの安否を気にしない者がいるはずはない。
 知っていて、口を緘している理由もない。
 諸葛亮と鳳統がそれを口にしなかったのは、今回の報告でその無事を確認することができなかったからであり、ほかの者たちは、それを悟ってあえて口に出さなかったのである。


「あ……こ、これは申し訳……」
 自身の失態を悟り、顔を青ざめさせる田豫。
 劉備はそんな田豫を見て、慌てて口を開きかけたのだが。


「ふむ、別にそなたが詫びる必要はなかろう、国譲」


 それに先んじて声を発した者がいた。
 室内に響いた声は、劉家軍の諸将にとって聞きなれたものであり、同時にこの場で聞けるはずがないものでもあった。
 何故といって、その声の主は遠く淮北に――


「そなたの知りたいことは残らず語って聞かせよう。この身の不甲斐なさを主に詫びた後で、になるがな」


 そう言って姿を現した者を見て、劉備は思わず声を高めた。
 その人物は、徐州で離れ離れになってしまった同志の一人であったから。
 その名を、常山の趙子竜といった……


 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:9e91782e
Date: 2010/12/15 21:22
「お久しゅうございます、我が主よ。徐州では大言を吐いておきながら、あの体たらく。面目次第もございませぬ」
 深々と頭を下げる趙雲の姿を見て、その場にいた者たちは程度こそ違え、それぞれに驚きの表情を浮かべた。
 趙子竜は常は飄々としているように見えて、その実、中華でも類稀な武芸の腕と明敏な頭脳の冴えを併せ持つ豪胆の将。その趙雲が慙愧の念もあらわに深々と――地にすりつけるように頭を下げているのである。
 常の趙雲を知る者にとって、それは驚きを禁じえない光景であった。


「今さら何のかんばせあってまみえようか。そう思いはしたのですが……」
「顔を上げてください、子竜さん」
 言葉を続けようとした趙雲は、劉備の言葉を聞いて口を噤む。劉備の声は穏やかで、趙雲の罪に激しているわけでも、あるいは突然の趙雲の行動に慌てているわけでもない。ただ穏やかで――にも関わらず、趙雲はごく自然にその言葉に従っていた。
 顔をあげれば、目の前に劉備がいる。顔はやつれ、おそらくは涙をこらえてのことだろう、瞳はかすかに震えていた。
 それでも、劉備の声は穏やかに、威厳さえともなって趙雲の耳に響いたのである。


「子竜さんが懸命に戦ってくれたことは、誰に聞かないでもわかります。だって、こんなに……」
 そう言って、劉備はそっと趙雲の頬に触れた。趙雲が劉備の顔のやつれに気づいたように、劉備もまた趙雲が秘めようとしていた心労の痕跡をしっかりと見抜いていた。
「こんなになるまで、戦ってくれたんですから。その勲を、誰にも否定なんてさせません。たとえ子竜さん自身にだってさせません。だから、顔をあげてください」
「主……」
 劉備の言葉に、趙雲は半ば呆然として言葉を返す。
 劉備の顔をまじまじと見つめ、しばし後、こくりと素直に頷いてみせた。


「承知仕った。主の命とあらば、従わざるを得ませぬな。まずは何をおいても大言の責任をとらねばと思っておったのですが……玄徳様」
「は、はい、何ですか?」
 趙雲の眼差しが真摯なものにかわったことに気づき、劉備は何事かと背筋を正すが、趙雲は不意にみずからの迂闊さに気づいたように小さくかぶりを振った。
「……いえ、これを口にするのは後にいたしましょう。今はわが身のことよりも先に、お伝えせなばならぬことがありますゆえ」


 その言葉に劉備の顔が緊張に染められていく。
 淮北に残った趙雲が伝えなければならないこと――それは、今この場にいない者たちの消息であることは明らかだったからだ。
「あ、あの、趙将軍、他の皆さんは……ッ!」
 真っ先に声をあげたのは、それまで黙って劉備と趙雲を見守っていた軍師の一人――鳳統だった。
 最近、とみに目立つ冷静さ、その対極に位置する叫びに、周囲の人々が驚きを示すが、当の鳳統はそんな周りの視線に気づかず――あるいは気づいても気にも留めず、食い入るように趙雲を見つめている。


 反応が一番激しかったのは鳳統だが、この場にいる者たちも皆、鳳統と同様の心境である。
 もちろん、趙雲もそれはわかっていたのだろう。いつものようにもったいをつけることも、遁辞を構えることもせず、周囲が求めているであろう答えを口にした。




「詳しいことは措きまする。淮北に残った将、それがし、愛紗、益徳は皆無事にございます。兵に関してはさすがに無傷というわけにはいきませず、五十二人が討たれました。もっとも、曹操殿が加減をしておらねば、この数が十倍になっても不思議ではありませんでしたゆえ、これは不幸中の幸いと申すべきかも知れませぬ。淮南の戦が終わった後、愛紗は曹操の下に残り、それがしと益徳は玄徳様の所在を求めてこの地に向かったのでござる」
 詳しいことは措く、とあらかじめ言ったように、趙雲は詳細は後に述べることにしたらしい。
 どうしてそうなったかはばっさりと切り落とし、ただ結果だけを口にしていった。


 そして。
「淮南に残った将でござるが……」
 室内に満ちる無音の緊張。その張り詰めた空間を、趙雲の沈痛な声が響き渡った。
「子義の行方は知れず、一刀はかろうじて命だけはとりとめました。しかし、その麾下の兵は……袁術軍の猛攻に晒され、最後まで一刀と共に生き残ったはわずか十七名。彼ら以外は、皆、淮南の地で果てた由にござる」


 北郷の生存のところでわずかに緩まった室内の空気は、しかし、それに続く趙雲の言葉で再び張り詰めた。
 噂で聞き、予測もし、覚悟もしていたことである。砦に篭っていたとはいえ、十万を越える敵軍に対し、わずか五百で抗戦して無事に済むはずがない。
 しかし、五百名を越える兵士が篭った砦の生き残りがわずか十七名……河北から続く劉家軍の転戦の中で、ただ一戦でこれだけの被害を被ったことはかつてない。文字通りの意味で、高家堰砦の劉家軍は壊滅したのである。




 その事実に、室内にいる人々は等しく顔を俯かせた。亡き戦友を悼むため、そしてその勲功を受け継ぐみずからの責任を、今一度、胸奥に刻み込むために。
 同時に、彼らが簡略にすぎる趙雲の報告の細部を聞きたいと思ったのは当然であった。
 というよりも。
 今この時、何故にわざわざ詳細を省く必要があったのか。
 その理由にいち早く気づいたのは劉備であった。あるいは、趙雲がそれを口にした瞬間から、とうに察していたのかもしれない。別に驚くことでもない。この場にいる誰よりも、その人物に近い劉備であってみれば、それは当然のことでさえあったろう。


「子竜さん、鈴々ちゃんは今、どこに?」
「は……城門に入ったところから、動こうとしま――」
 趙雲の言葉が終わるよりも早く、劉備は脱兎のごとく部屋から駆け出していた。
 普段は、むしろおっとりとした観のある劉備の機敏な動きに、歴戦の諸将も呆気にとられている。




「ちょ、趙将軍、玄徳様はどう……あ、いや、それよりも張将軍はどうされたのですか? もしや怪我なり病なりに……」
 それまでじっと趙雲の話に聞き入っていた陳到が、突然の劉備の行動に驚きつつも、事情を知っているであろう趙雲に問いを向ける。
「負傷したと言えばそのとおり。病であるとも言えますかな――ただし、身体ではなく心の方でござるが」
「心、ですか?」
 陳到は怪訝そうにそう呟いたが、すぐに趙雲が言わんとしていることを察し、はっとして口を閉ざした。


 そんな陳到に、趙雲は一度だけ頷いて見せる。
「さよう。一騎当千の武人とはいえ、あれはまだまだ幼い。戦に敗北したこと自体はもちろんのこと、愛紗と一刀を敵の……曹操の下に残し、自分たちだけ逃げ出したことを悔やみ続けているのですよ。そして、玄徳様に何と思われるかと怯えてもいる。ここまでは半ば無理やり私が引っ張ってきたのですが、いざ玄徳様に会う段になって不安がぶりかえしたのでしょうな。城門のところから梃子でも動こうとせず、私では如何ともしがたかったのです」
 だからこそ、趙雲は一人でここまで来たのである。
 戦の詳細を省いたのは、とりあえず最低限の報告をした後、張飛の現状を話して、劉備にあの幼い虎将の傷を癒してもらおうと考えたためであった。


 もっとも――
「私が説明するまでもなく、玄徳様はすべて察しておられたようですな。益徳のことを誰よりも知っておればこそ、此度の戦で何を感じたのかも手に取るようにわかったのでしょう」
「……なるほど、そういうことでしたか。であれば、我らも張将軍を迎えに……」
 そう言って席を立ちかける陳到だったが、それを遮ったのは張家の姉妹たちだった。
「それはよした方がいいんじゃない? 今は玄徳たちを二人きりにさせてあげるべきよ」
「そうだねー、他の人が傍にいると、素直に弱音も吐けなくなっちゃうと思うし」
「私も同感。めずらしくちい姉さんが良いことを言ったわ。今は二人きりにさせてあげましょ」


 最後の張梁の言葉を聞いた途端、張宝が頬を膨らます。
「ちょっと人和、めずらしくってどういう意味よ?」
「非常にまれ、めったにない、そういった意味よ」
「誰も言葉の意味なんて訊いてないわよッ! この美麗秀才の地和様が、物事の道理を見据えて意見を述べるなんていつものことでしょうがって言ってんのッ」
「うん、さすがに姉さん。この中でもっとも張将軍と精神年齢が近いだけあるなって感心した」
「ふふん、最初からそういいなさいよ……って、ちょっと待って、何もほめてないじゃん、それッ」
「あら、私は褒めてるつもりなんだけど。いつまでも童心を失わないちい姉さんはすごいと思う」
 やっぱり褒めてないじゃない、といきり立つ張宝に対し、張梁はなおも言い募る。


 唐突にはじまった姉妹の口げんかに、陳到も周囲の者もぽかんとするが、その言わんとするところは皆が理解した。
 席を立ちかけていた者も、再び座りなおす。
 そんな中、口を開いたのは張角だった。
「じゃあ益徳ちゃんのことは玄徳ちゃんに任せるとして、私たちは趙将軍のお話の続きを聞かせてもらおう」
 口調は普段と大差ないのんびりとしたものだったが、その眼差しは思わず息をのむほどに真剣そのものである。少なくとも、その眼差しを向けられた趙雲にはそう感じられた。


「承知した……やはり一刀のことから話した方が良いのかな?」
 張飛の心配がなくなったからか、趙雲はここでようやく皆が見慣れた、からかい混じりの笑みを浮かべた。
 張角が北郷に思いを寄せていることは、ここにいる全員が知っている。なにせ小沛にいた折、張角自身がそう宣言したのだから。
 しかし――
「んー、私としては関将軍のことを先に聞きたいかな。なんで丞相さんのところに残ったのかは大体わかってるつもりだけど、本当のところがどうなのかがわからないと、戻ってきてもらうために、どうすれば良いかもわからないでしょ? それに――」
 そこで張角はにこりと微笑んだ。
「多分、関将軍のことを訊けば、一刀のこともわかるだろうしねー」
 その笑みに、趙雲もまた笑みで応じる。
「ふふ、さすがは伯姫(張角の字)殿、見事な洞察ですな。仰るとおりゆえ、まずは淮北で我らが曹操に降ったところからお話ししよう」
 そう言って、趙雲は当時のことを思い起こしながら、口を開く。
 鳳統や諸葛亮をはじめとして、皆がその一言一句を聞き漏らすまいと口を噤む。
 しわぶき一つ起きない室内に、趙雲の声がゆっくりと紡がれていった。




◆◆◆




「鈴々ちゃんッ!」
 襄陽城は荊州の首府であり、当然のように城門の周囲は大勢の人で混雑している。
 その中に分け入った劉備であったが、手がかりなしに義妹の姿を見つけるには、やはり人の数が多すぎた。
 趙雲の言葉を聞いた瞬間、慌てて飛び出してしまったが、これでは探しようがない、と劉備は唇を噛む。
 しかし――


「あッ!」
 劉備は思わず声を高めた。
 城門前から少し離れた、やや開けた場所。旅立つ者を見送り、訪れた者を迎える広場の隅に、小ぶりの劉旗が翻っているのを見つけたからである。
 当然だが、襄陽に劉旗はめずらしくない。しかし、その傍らに立つ長大な蛇矛は見まがいようもなかった。


 おそらく、それは趙雲の計らいだったのだろう。
 何故なら当の張飛は、みずからの得物のすぐ傍で、膝を抱えて座り込んでおり、劉備の方を見てもいなかったからだ。
 否、劉備だけではない。膝頭に顔を埋め、凍えるように身体を震わせている張飛は、誰一人として見ようとはしていなかった。


「鈴々ちゃんッ!」
 それを見た瞬間、劉備は駆け出していた。
 その劉備の声が聞こえたのだろう。視線の先で、張飛はわずかに肩を揺らすと、おそるおそる顔を上げ……
「……お、ねえちゃ……」
 他の誰にも聞こえないような小さな声でそう呟くと、張飛は座った体勢のまま、あとずさろうとする。
 その動作、涙で濡れた円らな瞳、そして別れた時から一回り小さくなったように見える身体つき。


 張飛を苛んできた苦悶の大きさを指し示すそれらすべてを蹴散らすように、劉備は飛びつくように張飛の身体を抱きしめた。


 一瞬、張飛はそれを拒むかのように、身じろぎするが――劉備はきつく抱きしめ、義妹が離れることを許さない。。
 そして、万感の思いを込めて、その耳元に囁いた。
「よかったぁ……やっと、鈴々ちゃんに逢えたよ」




 負けてしまったこと、逃げてしまったこと、置いて来てしまったこと……桃園の誓いに背いてしまったとさえ、張飛は思っていた。そんな自分を、劉備が受け入れてくれるだろうかという不安があった。
 しかし、泣きそうに震える劉備の声と、自身の身体をかき抱く抱擁は、張飛が密かに抱いていた恐れをあっけなく粉砕する。それくらい、劉備の全身からは、張飛への強く、確かな愛情が溢れていた。


「……お、ねえちゃ……ごめんなのだ、ごめんなさいなのだ……鈴々、頑張って、いっぱい、いっぱい戦ったけど……でも、何も、できなかったのだ……鈴々、ばかだから、戦う以外に、何にもできなくて、わかんなくて……」
 しゃくりあげながら、張飛は幼い胸に秘めてきた後悔を口にする。
「愛紗も、おにいちゃんも……置いてきちゃったのだ……鈴々がいれば、だいじょうぶだから、一緒に行くのだって、愛紗に言ったけど……愛紗、ついてきてくれなかったのだ……自分は行けないからって、子竜と、鈴々だけでも、おねえちゃんを守ってくれって……」
 その時のことを思い出したのだろう。ここで張飛は耐えかねたように劉備の胸に顔を埋め、大声を張り上げた。
「そのかわりにおにいちゃんは自分が守るから、それで、いつかまたみんなで会おうって言ったのだッ! 愛紗、泣いてたのだッ! 愛紗、泣いてたのに、鈴々、鈴々、何もできなくて……ッ」


 泣き叫ぶ張飛を、劉備は強く抱きしめる。
 それ以外に、今の張飛にしてあげられることは何も無かったから。
 幼い口からほとばしる悲痛な言葉。やがてそれは意味を為さない嗚咽になり、年相応の子供の泣き声へと変わっていく。
 そのすべてを、劉備は胸に刻み込む。それを言わせてしまった自分の不甲斐なさを、今一度――否、何度だって心に刻みつける。もう二度と、あんなことが起きないように。もう二度と、あんなことを起こさせないくらいに強くなるために。



 繰り返し、自分にそう言い聞かせながら。
 劉備は、張飛がやがて泣きつかれて眠り込んでしまうその時まで、ずっとその身体を包み込み続けたのである……





◆◆◆





 その夜。
 劉家軍に与えられた宿舎の屋上に、鳳統は一人、足を運んでいた。
 屋上には先夜までなかった旗が高々と掲げられ、襄陽の夜空に翻っている。
 緑地に『劉』の一文字。かつて劉家軍が河北で手に入れたその旗こそ、劉家の牙門旗。
 淮南の地に残してきたその旗は、趙雲と張飛、二人の手によって再び劉家軍に戻ってきたのである。


 ただ戻ってきただけではない。
 今や、この旗の持つ意味はかつての比ではなかった。飛将呂布を退け、偽帝袁術を破るという無二の武勲を誇る征旗。袁本初にも、曹孟徳にも持ちえぬその旗を見上げながら、鳳統は唇をかみ締める。
 ともすればあふれ出そうになる気持ちを飲み込むためには、それが一番だとこれまでの経験から承知していたから。
 しかし、昨日までは押さえ切れていたそれが、今宵は押さえきれるかどうか鳳統にはわからなかった。
 

 広陵郡高家堰砦の戦い。
 実のところ、高家堰砦が呂布の軍を退けたことに関しては、鳳統はさほど驚いてはいない。
 牙門旗をもって呂布をひきつけ、告死兵の白衣白甲を利用することで敵陣を突き崩す。その策は鳳統自身から太史慈と北郷に伝えた策であったからだ。
 無論、彼我の戦力差はかけ離れており、策の成否は実際にそれを行う将兵の資質に拠ったとはいえ、あの二人であればやってくれるはず――その信頼ないし期待があった鳳統にとって、その勝利は予想外のことではありえなかった。


 しかし。
 その後に続く袁術軍の猛攻に関しては、まったくといっていいほど予測の外にあった。
 鳳統と諸葛亮は荊州へ来るや、すぐに淮南の情報をかき集めた。それゆえ、かなり早い段階で高家堰砦で起きた戦いについて掴んではいた。
 だが、掴んだ情報の中で、袁術軍の動きは戦理に反すること甚だしく、おそらくは誤報であろうと結論付けていたのである。
 全軍の一部を向ける――その程度であればともかく、戦略的価値のない小砦に、袁術軍が全軍をもって攻め寄せるなどどうして予測できようか。



 しかし、趙雲が語った高家堰砦の戦の詳細は、鳳統らが集めた情報とかわりないものだった。
 否、それどころか、趙雲が高家堰砦の生き残りの兵士から聞いたという実際の戦ぶりは、掴んでいた情報よりもさらにとんでもないものだったのだ。
 まるで高家堰こそが天下の要だとでも言わんばかりに四方から攻め寄せる袁術軍。そして、それを孤軍耐え凌いだ劉家軍の奮戦。聞けば太史慈も北郷も、みずから最前線に立って敵と刃を交え続けたというが、将がそれほどの気迫を示さなければ、砦はもっと早い段階で陥落していたことは間違いない。


 しかし、北郷らの奮戦で圧倒的な戦力差が覆るほど、中華を包む戦乱は優しくない。それは陥落までの時をわずかに引き伸ばす――ただそれだけの、悪あがきに等しい抗戦に過ぎないはずだった。
 だが、そうして得たわずかの時間。その時間が、勝敗の天秤を揺り動かす。
 おそらくは北郷らもその存在を知らなかったであろう三つの援軍。
 西の洪沢湖を炎で染めた火船。北からは関羽が身命を懸けて導いた曹操軍が淮河を渡り。東からは徐州での恩義に報いんと曹操軍の別働隊が独自の判断で動いていたという。
 それらすべてが、まるであらかじめ定まっていたかのごとくに高家堰の地で結びつき、偽帝の軍勢を退ける。



「……なんて、でたらめ」
 思わず、そうこぼしてしまう。軍略に長けた鳳統といえど……否、そんな鳳統であればこそ、淮南の戦の不可解さを、余人よりもはっきりと理解できるのだ。
 そして、理解できるゆえに――


 鳳統は零れ落ちそうになる笑いを懸命に堪えていた。
 ――涙ではない。嗚咽でもない。笑いを、堪えねばならなかった。
 期待していたものを。それ以上のものを。もしかしたら、どこかで予測さえしていたかもしれない、そんな奇跡の精華たる劉旗を前にして、鳳統の心の奥底から湧き上がってくる感情。
 それに名前をつけるとしたら、一番ふさわしいのは歓喜に違いなかった。



 きっと、こんな気持ちを抱いているのは自分だけ。鳳統はそれを自覚している。
 袁術軍を退けたとはいえ、高家堰砦の惨状は目を覆わんばかりであったという。将軍である太史慈は北郷によって逃がされて行方知れず。その北郷も、趙雲たちが旅立つ時には、まだ昏睡から目覚めておらず、曹操軍の軍医によれば、命はとりとめるだろうとのことだったらしいが、張飛はむろんのこと、あの趙雲が絶句するほどに凄惨な姿であったという。


 そんな話を聞いた後に、笑いが零れる人間なんているはずがない。
 いるとしたら、その人は普通じゃない。そこまで思う。
 それでも。
「……それでも、私は笑ってるんだよね。ふふ、もう化け物みたい、なんて言えないよ……今の私は――」


 化け物、そのものだよね。


 その鳳統の呟きに応じるかのごとく、一際強い風が襄陽の夜空を吹き抜けた。
 劉旗がはためく音が鳳統の耳朶を振るわせる。まるで劉家軍に相応しからぬ人物を忌むかのように、激しく、猛々しく。
 厚い雲に覆われた暗灰色の夜空の彼方に、本物の竜が潜んでいたとて、今の鳳統は不思議には思わなかったに違いない。


 身体は震えている。
 怖かった。自分の内に棲む化け物が。この状況で笑おうとしている自分が。
 口元を笑みの形に歪めつつ、その目には涙が滲む。
 しかし、鳳統はかぶりを振ってその雫を振り落とす。
 泣いてはいけない。涙で、怖れから目を背けてはいけない。それでは今までと――鳳雛であった頃と何一つかわらないのだから。



 鳳統は化け物に自分を渡すつもりなどない。だからこそ、こみあげる笑いを必死で堪えていたのだ。
 だがその一方で、これまでのように自身の裡に化け物を押し隠すつもりもなかった。


 古来、鳳凰は聖天子の出現を世に知らせる霊鳥であったという。
 ならばその雛が孵るために必要なことは何なのか――今さら考えるまでもないことだろう。
「一刀さん」
 自然に口にしていたのは、かつて鳳統が化け物に怯えていたとき、それを否定してくれた人の名前だった。
 あの時、どれだけその言葉に救われたのか、今なお鳳統ははっきりと思い出せる。
 でも。


「……ごめんなさい。やっぱり、私の中には化け物がいました」
 その言葉によりかかっている限り、この先には進めない。もっと早くに気づいていたら、北郷たちをあんな死地においやらずに済んだかもしれない。
 認めよう、そのことを。
 認めた上で――
 
 
「でも、安心してください。私は負けませんから。一刀さんたちが負けなかったように……ううん、負けないだけじゃ駄目、ですよね。一刀さんたちは勝ったんだから。なら、私も勝ちます。私だって一刀さんたちと同じ劉家軍の一員。化け物なんて逆に呑み込んじゃいます。そのくらいに大きくなってみせます。だから……」
 だから、どうか無事でいてください。
 最後の言葉だけは、胸の中で呟くに留める。



 その鳳統の頭上、さきほどまで雲に覆われていた空から月が顔をのぞかせる。
 淡い月光が燐光のように襄陽城に降り注ぐその光景を、鳳統はじっと見つめる。
 気がつけば、いつのまにか風は止んでいた。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:152119eb
Date: 2011/01/05 23:46

 長江を遡り、荊州へと逃れた劉家軍の総数は三千を越える。
 根拠地を持たない流浪の軍――しかも淮北で曹操軍に敗れ、淮南で袁術軍に追われて、なおこれだけの将兵が劉旗を仰いでいる事実は劉家軍の精強さを物語って余りあるだろう。
 とはいえ、当然ながら問題も存在する。
 三千の兵がいれば、三千人分の糧食が必要になる。戦うに際しては三千人分の武具を要する。それ以外にも数え上げれば際限がない種々の問題は、要約すれば一言であらわすことが出来た。つまりは――


「金が足りんなあ」
 簡擁がぼやく。
「糧食もちと心もとないな」
 糜竺が頷く。
 劉家軍の旗揚げ以来、もっぱら資金、糧食といった内向きの差配をしてきた簡擁だが、荊州に着いてからというもの、以前にもましてぼやきとため息が増えていた。主要な収入もなしに三千を越える人数を養うのは、それだけ頭の痛い難事だったのである。


 一方の糜竺は、陶謙の死によって正式に劉備配下に組み込まれ、簡擁と共にこの問題に取り組んでいるのだが、こちらも簡擁と同様にこれといった妙案も浮かばない。
「まあ、そもそも何千という数をたやすく食わせる術がほいほいと見つかるはずもないのだがな」
 そう言って糜竺は肩をすくめる。
 簡擁としても、その言葉にはまったくもって同感なのだが、だからといって何も考えないわけにはいかない。
 袁術軍の追撃から逃れるために、かなりの物資を淮南に置いて来てしまったこともあって、現在の劉家軍の懐具合は非常に寒々しい。
 すでに資金は底を尽きかけており、食料は普通に食べて半月、節約すれば一月もつかどうか、といったところであった。


 もっとも、資金や糧食が乏しいからといって、ただちに劉家軍存亡の危機につながるわけではない。
 劉家軍の長である劉備は、正式に劉表に客将として迎えられたので、そちらからの援助を受けることが出来るからである。
 しかし劉表から全面的な援助を受けることは出来れば避けたい、というのが簡擁と糜竺の考えであり、ひいては他の劉家軍の諸将の総意でもあった。
「過ぎた借りは返すのが大変ですからなあ」
「うむ。なまじ武名が上がってしまったゆえ、荊州の内輪の争いに巻き込まれぬとも限らぬ。付け込まれる隙を見せるべきではあるまい」
 うんうんと頷きあう二人。
 一見、平和に見える荊州だが、劉琦と劉琮の跡目争いをはじめとした幾つものきな臭い問題を抱えている。今は劉表が健在であるから表立った問題にはなっていないが、もし劉表が倒れてしまえばその限りではない。
 その時、客将として過分な恩を被っていた場合、劉家軍もまたその争いに巻き込まれかねないのである。


 まあ、もっとも――と簡擁は頭をかいた。 
「……桃香様はすでに片足を突っ込んでしまわれているような気もするがのう」
「……玄徳様の為人では致し方ないというべきか」
 糜竺が浮かべた表情は苦笑ではないが、限りなくそれに近いものであった。
 荊州の後継者問題の一方の当事者である劉琦と、彼らの主である劉備が付き合いを深めているのは周知の事実であった。


 ともあれ、出来るかぎり荊州に借りをつくりたくない、という原則がそれによってかわるわけではない。独立独歩とまでは行かずとも、荊州からの援助は最低限のもので済ませい、というのが劉備に仕える者たちの考えであり、それを具体的に実現するのが簡擁と糜竺の役割であった。
 とはいえ、糜竺の言うとおり、何千という人数を養い、軍としての形を維持するのは容易なことではない。なるべく劉表や荊州の重臣たちの援助を得ずに、という前提がつけば尚更である。


 状況に変化が生じたのは、つい先日のこと。
 一つの知らせが劉家軍に届き、劉家軍の現状に一筋の光明をもたらした。
 簡擁は安堵と悔いを等分に宿した、なんとも微妙な表情で口を開く。
「幸い雲長殿や北郷殿らの勇戦で朝敵の汚名は返上することができましたし、襄陽の商人の中からも桃香様と誼を通じようとする者も出てきたところ。孔明殿や士元殿も故郷の人脈を駆使して動いてくれておることですし、これまでよりは随分と楽になりましょう。しかし……」
「うむ、それは確かに喜ばしいが、だがこの好ましい流れに、我らがいささかも寄与していないあたりは問題だな。率直に言って、役立たずの観を拭えぬ」
「然り。いやはや、いい年をして面目ないことでござる」
 糜竺の言葉に、簡擁はやや情けなさそうに頷くしかなかった。


 実際のところ、糜竺は糜竺で徐州以来の外交手腕を活かして、荊州内部に人脈を広げていたし、簡擁は簡擁で襄陽の商人連に幾度も足を運ぶなどして、それぞれに成果を挙げてはいた。二人がいなければ、劉家軍を取り巻く状況がもっと過酷なものとなっていたことは疑いない。
 しかし、年少の者たちが自分たち以上の働きをしている現状で、己の成果を誇るほどに二人とも厚顔ではなかった。


「とはいえ」
 糜竺は肩をすくめる。
「どうされた、子仲(糜竺の字)殿?」
「いい年した男二人が、不景気な顔をつきあわせていたところで良策が出るわけでもないのだがな」
 その言葉に、簡擁が苦笑しつつ口を開きかけた時、部屋の扉が叩かれた。
 簡擁が扉の外に立つ者に入るように促すと、ゆっくりと扉が開き、一人の少女が室内に足を踏み入れてくる。 




 その少女の顔を見て、簡擁は驚いた。
「これは叔治殿、いかがされた?」
「はい、憲和様に昨日頼まれた分が終わりましたので、別の仕事をいただきにあがりました……あ、子仲様もいらっしゃったのですか。す、すみません、大事なお話の途中でしたでしょうか?」
「いや、そう大した話をしていたわけではないのでかまいませんぞ。しかし、終わったと言われたか?」
 叔治――北海の戦いから劉家軍に加わった王修の言葉に、簡擁は目を丸くする。
 劉家軍の諸将は、文武どちらかといえば武に偏った者が多い。必然的に簡擁や糜竺、さらにその下で働く王修らの負担は大きくなってしまいがちである。
 簡擁が王修に頼んだ仕事は、質量ともに一日二日で終わるようなものではなかったはずなのだが。


「は、はい。仲穎(董卓の字)さんや文和(賈駆の字)様も手伝ってくださいましたので、なんとか終わらせることが出来ました」
 俯きながら、ぼそぼそと口にする王修を見て、簡擁は口にしかけていた賛辞を寸前でおしとどめる。
 王修から手渡された成果を見れば、いつもながらに見事な仕上がりである。董卓と賈駆の手助けがあったとはいえ、それは王修自身の能力を否定するものではない。
 簡擁としては幾重にも感謝したいところなのだが、王修の沈んだ表情を見るに、それを口にしても哀しげに首を横に振るだけであろうと思われるのだ。これまでそうだったように。


 先の敗戦以来、王修は明らかに無理をしている。それは簡擁ならずとも感じるところであった。
 元々、生気溌剌といった為人ではない。執務室の一画で、静かに、黙々と自分の仕事に取り組んでいた少女にとって、淮南の敗走と、その過程で失われたものはあまりにも大きかったのだろう。
 本人は不安も不満も一言半句とて口にしなかったが、生気の失せた眼差しや、こけた頬を見れば、その内心は明らかであった。


 新たに与えられた仕事を持って王修が退出すると、簡擁は深々とため息を吐いた。
 傍らの糜竺はそんな簡擁を見ても皮肉を口にせず、めずらしく気遣わしげに口を開く。
「よいのか? あの者、かなり参っているように見受けたが」
「休んでくれと言うて聞き入れてくれる子ではなくてのう」
 実際、簡擁はすでに何度も王修にそう言っていたが、その都度、王修はそれこそ泣きそうになりながら、首を横に振るのが常であった。


「無理にでも休ませようかと思ったが、劉佳様はそれも良くないと仰る。今は忙しさで何とか悲しみを堪えているところ、時間が出来れば、今よりもさらに不安に押し潰されてしまうだろう、とな」
「玄徳様の御母堂がそう仰るのであれば、たしかに無理やりというのは良くないのだろうな。大方の者たちは子竜殿と益徳殿の帰還で多少なりとも持ち直しているが……」
 糜竺は眉根を寄せ、難しそうな表情で首をひねる。
 簡擁も同輩と似た表情で一つ頷いて見せた。
「友である子義殿は敵地である淮南で行方知れず、恩人と慕っておる北郷殿は曹軍の虜囚ときては安堵できるはずもない。叔治殿に限っていえば、今回の知らせは凶報に他なるまいよ」
「くわえて今の劉家軍に淮南と許昌に人を向ける余力なぞない以上、不安の晴らしようもなし、か」
 簡擁と糜竺は顔を見合わせ、ため息を吐いた。


 休めと言うわけにもいかず、かといって簡擁や糜竺といった上役が仕事に口や手を出せば、今よりさらに王修を追い詰めることになりかねない。
 さらに言えば、現状で王修に抜けられてしまうと、ほぼ確実に仕事に支障をきたしてしまうことがわかりきっているので、それもまた簡擁にとっては頭痛の種であった。
 というのも、常は簡擁の上で文事を総攬している諸葛亮が、現在、鳳統と共に故郷の人脈をたどって劉家軍への援助を得るために駆け回っているところであり、簡擁にかかっている負担は並大抵のものではない。ただでさえ人手が足りない文官から、今、王修が抜けてしまうのは、はっきりいってまずいのだ。下手をすると、将兵の間から不満の声があがる事態になりかねないのである。


 王修に負担をかけたくはないが、それを担ってもらわないと劉家軍が立ち行かない。
 どれだけその身を案じようと簡擁らに出来ることはなく、結局のところ、王修への配慮は劉佳や董卓に頼るしかないわけである。
 役立たず、ここに極まれり、と簡擁がもう一度ため息を吐こうとした時だった。
「――ふむ、なにやら辛気臭い空気が漂ってくると思えば、大の男が二人もそろってため息ばかりとは」
 不意に耳朶を震わせたその声に「大の男二人」はそろってぎょっとした顔をした。
 その声は入り口の扉からではなく、室内から響いたように聞こえたからだ。
 慌てたように声が聞こえてきた方を見やった二人は、すぐに自分たちの勘違いを悟る。声の主は室内に潜んでいたわけではなく、きちんと外から部屋へ入ってきたからだ。
 ――もっとも窓から入ってくることを「きちんと」と言うべきかどうかは議論の余地があるかもしれないが。



「ちょ、趙将軍、驚かせないでくれい」
「これは失礼、憲和殿。おお、子仲殿もこちらでしたか。叔治を探していたところ、なにやらどんよりとした空気が漂ってきたので、誰かと思えばお二人とは」
 趙雲の言葉に、糜竺が小さく肩をすくめる。
「お言葉恐れ入るが、今現在の情勢を考えれば、ため息の一つ二つは致し方ないと思われませぬか?」
 対して、趙雲ははっきりとかぶりを振ってみせる。
「否とよ、子仲殿。和気致祥という言葉もある。苦しく辛い時にこそ、笑い励み、部下を力づけることこそ我ら文武の官の務めではござらんか? ため息ばかりの陣営では、折角やってきた幸運も我らに愛想を尽かしてしまいましょうぞ。それに――」
「それに?」
「少なくとも、我らは許昌の公祐(孫乾の字)殿や一刀よりは恵まれておりましょう。塞ぎこんでいる暇などありますまい」
「……ふむ、確かにそれも道理であるか」
 糜竺は右の手で顎をさすりつつ、なにやら納得したように頷いていた。



「ところで、叔治がこちらにいると聞いてきたのですが」
「おう、叔治殿ならつい先ほど出て行かれましたぞ」
 簡擁が応じると、趙雲はむむ、と眉をひそめた。
「入れ違いであったか。邪魔をしました。それがしはこれにて」
「……いや、趙将軍。何も窓から出て行かずとも、普通に扉から出ればよろしいのでは――」
 そう言って扉の方を見やった簡擁が、趙雲に視線を戻したときには、すでにその姿は室内にはなく、窓から枯葉と共に冷たく乾いた風がはいりこんでくるところであった。
「っと、もうすでにおられぬか。いや、まったく風のごときお人よな」
 簡擁が呆れ半分に感心すると、その傍らでは糜竺が感じ入ったように深々と頷いていた。
「武人らしく大胆にして不敵な為人であるとは思っていたが、細やかな心配りもされる方なのだな、子竜殿は」
 その言葉に、簡擁は頬をかきつつ頷いた。
「うむ、おそらく、ああやって諸方をまわっておられるのだろうよ。確かに身動きとれぬ者たちからしてみれば、荊州の地で自由に動ける我らが陰々としていては面白くなかろうて。ため息なんぞ吐いている暇はないのう」
「然り、だな。しかし、この年で年少の女子に励まされるとはな。これは猛省せねばなるまい」
「確かに。劉家軍の男どもは基本的に引き立て役になる定めとはいえ、その立場に甘んじるようでは男児の沽券に関わるというもの。せめて置いていかれぬように励むことにしましょうぞ」
「……それはそれで情けない話ではあるがな」
 そう言って、文官二人は苦笑を交し合う。
 それは決して朗らかといえる笑みではなかったが、しかし、先刻までの重苦しい雰囲気がいつの間にか消え去っていたことは、確かな事実であった。
 



◆◆◆




「おお、やっと見つけたぞ、叔治」
「わあッ?! ちょ、ちょ、趙将軍、ど、どこからいらっしゃったんですか?!」
 執務室に向かう道すがら、ふと立ち止まり、ぼんやりと外をうかがっていた王修は、煙のようにあらわれた趙雲を前に驚きの声をあげてしまう。
 対して趙雲は事も無げにこう言った。
「見ればわかるであろう、屋根を伝って窓から入ってきたのだ」
「いえ、それは見てもわからないんですが……」
 王修は表情の選択に困りながらも、律儀にそう指摘した。





「ふむ、良い日差しだ。やはり、こういう日は外で飲むにかぎるな」
 話があるという趙雲に、中庭にある東屋の一つにまで連れ出された王修は、早くも酒盃を手にしている趙雲に困ったような眼差しを向けた。
「あ、あの将軍様、お話というのは……?」
「まあそう急くな。仕事があるから早くしろ、と言いたいのだろうが、そなた、見るからに不健康そうな顔色をしているぞ。大方、ずっと執務室に篭りっぱなしだったのではないか?」
 図星を指され、王修は言葉に詰まる。
 その王修の表情を見て、趙雲は軽やかに笑ってみせた。


「そう硬くなる必要はない。別にそのことを咎めたり、健康に気をつけよと説教するつもりではないのだ」
「は、はい……」
 趙雲の言葉に王修は頷いたが、その表情はさして変化しなかった。
 実のところ、趙雲と王修はこれまでもさして親しかったわけではない。廊下ですれ違えば挨拶はしたし、仕事で言葉を交わしたことは幾度もあるが、積極的に言葉をかけるような間柄ではなかった。
 これは何も趙雲に限った話ではなく、王修は基本的に太史慈や北郷以外の武官との付き合いはなかったのだ。
 それゆえ、趙雲に連れ出されたことで過度の緊張を覚えるのは致し方ないことであった。


 そんな王修の様子を見て、趙雲はそれと気づかれないほどわずかに目を細めた。言葉を重ねて緊張を解すつもりだったが、それをすればするほどに王修を追い込んでしまいかねないと見て取ったのである。
 ここは余計な前置きをせずに本題を切り出すべきか、と考えた趙雲は表情を改めてから、ゆっくりと問いを放った。
「淮南の戦のことは、誰ぞより聞いたかな?」
「は、はい。劉佳様から、それと憲和様からもお聞きしました」
「では、子義と一刀がどうなったかも知っているな」
「……はい」
 力なく王修は俯いた。あるいは頷いたのかもしれないが、いずれにせよ相貌に浮かぶ深い憂いは隠しようもない。


「ならば前置きは省こう。子義がどうして行方知れずとなったのか、その理由を伝えるためにそなたを探していたのだ」
「え……?」
 趙雲の言葉に、王修は怪訝そうな表情を見せる。
「一刀が曹軍に捕らわれたにも関わらず、子義の方は逃げ延びることが出来た。そこにはそれなりの理由があるのだよ――子義の友であるそなたには少々酷な話になるゆえ、口にするべきか否か、いささか迷っていたのだが、詳細を知らずに心痛のみを抱えるのもそれはそれで辛かろう。無論、そなたが聞きたくないというのであれば、あえて語るつもりはないが……」
 そう言って、趙雲は王修に問う眼差しを向ける。


 対する王修は、びくりと小さく身体を震わせた。
 知りたいか否かで言えば知りたいに決まっている。しかし、それを聞いてしまえば、王修が胸に抱えているわずかな希望を打ち砕いてしまうかもしれない。趙雲の言葉を聞いた瞬間、王修の胸によぎったのはその恐れであった。


 高家堰の戦以降、太史慈は行方知れずとなっているが、偽帝を退けた勇将として、その名はここ荊州でも人口に膾炙するまでになっている。当然、煮え湯を飲まされた袁術や、その配下の将軍たちは太史慈のことを知っているだろうし、知っている以上は報復を考えないはずがない。
 淮南のほぼ全域は袁術軍の支配下にあり、その捜索の手を逃れるのが容易でないことくらい、王修にも想像がつく。明日にも太史慈処刑の報告が届いたところで、なんら不思議ではないのである。


 それでも太史慈であれば、袁術軍の追及の手を逃れることが出来るかもしれない――王修はそう自分に言い聞かせながら、日々を過ごしている。
 しかし、趙雲の語る話を聞けば、明日からそう信じることさえ出来なくなってしまうかもしれない。
 王修はそこまで考えた。
 考えた末に――ゆっくりと、しかしはっきりと趙雲に頷いて見せた。
 


   
 王修の表情に怯えと等量以上の覚悟を見て取り、趙雲はあえて問い返すことはせず、太史慈が逃がされるに至った状況を説明しはじめた。
 無論、それは趙雲自身が見聞したものではなく、高家堰の戦を生き残った兵士から伝え聞いたものであり――だからこそ、余計な言葉を付け足すことは出来なかった。


 それは予想どおり王修の望みを打ち砕く凶報であり、同時に、太史慈が立っていた戦場が王修の想像もつかないほどの過酷な場所であったことを思い知らせるものでもあった。
「……小さな傷は数知れず、右の足を射抜かれて歩くこともままならず、敵将に顔を幾度も足蹴にされ、常の秀麗な容姿は見る影もないほどに腫れ上がっていたそうだ。さらに幾日にもわたる死戦の疲労と、傷から発した熱とで意識を保つことさえ出来ず、高家堰砦から連れ出された時の子義は、文字通りの意味で満身創痍であったという。いつ事切れても不思議はないように見えた……私に話をした兵士はそう言っていたよ」
「……そん、なに……?」
 王修は両手で口元をおさえ、うめくように呟く。
 趙雲は厳しい表情を湛えたまま、あえて王修の反応を無視して言葉を続けた。
「その子義を、一刀は自分の馬に乗せ、廖化という副将に託して砦から逃がしたそうだが、逃がしたといっても、周囲は袁術に十重二十重に取り囲まれていた。月毛――これは一刀の馬の名だが、あれは良馬ではあっても、呂布の赤兎馬、曹操の絶影といった名馬には遠く及ばぬ。廖化とやらにしても、それなりの腕はあったようだが、千や万の軍勢を蹴散らすほどの武勇を持っているわけもない。ましてや子義という重荷を抱えた状態だ。正直、敵中を突破できたかどうかさえ怪しい、と私は思う」


 それを聞いた時の王修の顔色は、半ば死者のそれに近かったかもしれない。
 いつ死んでもおかしくないような傷を負った身で、趙雲ほどの武将が危惧を示す戦場を駆け抜ける……どうして昨日までのような楽観を抱けようか。あるいは趙雲は遠まわしに太史慈の生存を諦め、その死を受け入れろと言っているのだろうか。半端な希望に縋り、現実を見ようとしない自分を叱咤しているのだろうか。そんなことまで王修は考えてしまった。




 無論、王修の考えは間違っている。趙雲の意図はそんなところにはなかった。
 それどころか、むしろまったくの正反対であったのだ。すなわち、趙雲はこう続けたのである。
「いつ事切れても不思議ではないと言われるだけの傷を負い、ただ逃げることさえ容易でない戦場に放り出され、その上でいまだ行方が知れぬというのなら――案ずることはない。子義の命に別状はあるまいよ。すぐにとは言えぬが、いずれ再会することは出来るだろうさ」


 その言葉を聞き、王修はぽかんと口を開けた。
 何故といって、まったく意味がわからなかったからだ。より正確に言えば、趙雲が口にした言葉の意味はわかる。しかしながら、前後の文がまったくかみ合っていないと王修には思えた。
 しかし、趙雲は疑惑と困惑に満ちた王修の表情を見ても、さして気に留めた様子を見せない。
「ふむ、何を言っているのかさっぱりわからぬ、といった顔だな」
「……え、ええと、恐れながら、そのとおりです……」
「さして難しいことを言ったつもりはないのだが――では、もっと砕いて言うことにしよう」


 王修が固唾をのんで見つめる中、趙雲はあらためて口を開く。
「まず負傷のことだが、これは一刀が子義を逃がした時点で案ずる必要はないとわかるだろう。何故といって、あの砦には広陵の陳太守をはじめ、死なせてはならない高官が幾人もいたし、広陵から逃れた女子供も少なくなかった。そんな彼女らをさしおいて、一刀は子義を逃がしたのだ。子義の負傷が真に命に関わるものであり、助かる可能性がないとわかっていれば、一刀は他の誰かを逃がしたであろうよ」
 だから重傷ではあっても、命に別状はない。
 その趙雲の言葉はかなり強引な解釈によって成り立つものであったが、それなりの説得力を有していた。少なくとも王修にはそう聞こえた。


「問題は無事に包囲を抜けたかどうかだが、これはもっと簡単だ。仮に抜けられなかったのであれば、子義はとうに処刑されているに違いなく、それは我らの耳に届いているはずなのだ。なにしろ、袁術にとっては淮南侵攻における唯一の敗北だからな、高家堰の戦は。その敵将を捕らえたのであれば、衆目の元で盛大に、かつ残酷にこれを処刑し、天下に対して、仲に逆らった者の末路はかくのごとし、と喧伝するのがあれらのやり方だ」
 しかるに、未だに太史慈は行方知れずのままとなっている。それこそが、太史慈が袁術に捕らえられていないことの何よりの証左である、と趙雲は言う。


「無論、だからといって無事であるとは断言できん。子義の負傷は一月やそこらで完治するものではないだろう。傷の手当をしながら、敵地である淮南で、袁術の目を潜り抜け続けるというのは、いかにも無理がある。子義は無論、廖化とやらも淮南の産というわけではないそうだから、地の利はないだろうしな」
 あるいは淮南の何者かが二人を匿っているのかもしれない、と趙雲は考えていた。いまだ袁術に捕まらず、しかし荊州や許昌に姿を見せたわけでもないとなれば、その考えが穿ちすぎであるとは断言できまい。
 この場合、その匿った者の考え一つで太史慈も廖化も再び危険に晒されることになるのだが、高家堰の戦から今日まで、ある程度の日にちがすでに過ぎている。これだけの期間、危険をおかして二人を匿い続けたのであれば、おそらく匿った者にも相応の理由があるはずであり、それが一日二日で急激に変じる可能性は少ないだろう。


 趙雲はそこまで語ると、眼前でみるみる生色を取り戻しつつある王修に笑いかけた。
「つまりはそういうことだ。私が言わんとしていることが理解できたかな?」
「はい……はいッ」
「いずれ時が至れば、子義は――そして一刀も帰ってくる。二人が帰ってくる場所を守ることこそ我らの務め。俯いている暇などないのではないかな、王叔治殿?」
 趙雲の言葉に、王修は目元の涙を拭い、はっきりと頷いて見せた。
「その……そのとおりでございますね、将軍様。私は皆様と違って矛をふるって戦うことは出来ませんけど、でも、この場所を守るお手伝いくらいなら、きっと出来ると思います。下を向いている暇なんてないんですよ」
「そのとおり。そうして、戻ってきた二人を笑顔で迎えてやれば、これに過ぎたるはない。ついでに――」




 そういって、趙雲は指を伸ばして王修の胸元をつつく。
「きゃッ?! しょ、将軍様、ななな、なにを?!」
「いやなに、戻ってきた一刀をたわわに実ったそれで包んでやれば、さらに喜ばれるだろうと思ってな」
「あ、え。いや、あの…………将軍様?」
「ふむ、こんなところにも後宮の妃候補がいたとは。やはり一刀は侮れんな」
「こッ?! きさッ?! あの将軍様、ほんとに何をッ?!!」 
 なんと反応すれば良いやらわからず、あたふたとする王修の声に、趙雲の軽やかな笑い声が重なった。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:3d64c114
Date: 2011/01/09 01:56

 右に、左に。前に、後ろに。
 時に軽やかに舞うように。時に裂帛の気合をもって断ち切るように。
 少女は縦横無尽に剣を振り回した後、ぴたりと動きを止める。
 その口からは荒い息がこぼれ、額から零れた汗が頬を伝って首筋に落ちていく。全身が鉛のように重く、少女は今すぐ座り込んでしまいたい衝動に駆られる。おおよそ五分の間、ほとんど静止せずに剣を振り回していれば、それも当然であろう。


 しかし。
「……ほんの少し、身体を動かしただけでこの様とは。不甲斐ない」
 少女にとっては、この程度の動きで疲労を感じる自分の身体の衰えが恨めしいようで、口からもれた言葉には隠しようのない失望の響きがあった。以前であれば、この程度は軽い運動に過ぎなかったのに、と。


 もっとも、そう考えているのは本人ばかりで、たとえば今しがた水汲みから戻ってきた少女の連れの大男などからすれば、不甲斐ないどころか喝采ものの動きであったようだ。
 男は素直にそれを口にする。
「いや姐さん、それは贅沢ってもんでしょう。あの怪我から、この短い間にそこまで回復しただけでも大したもんだと思いますぜ」
「たしかに、ただ生活する分には支障はありませんが、それでは駄目なんです。一刻も早く、戦陣に立てるようにならないと――」
 そう言って唇をかみ締めた少女だったが、すぐに何かを思い切るようにかぶりを振ると、今度はなにやら渋い表情を浮かべ、男に視線を向けた。



「あの、元倹さん、やっぱりその『あねさん』という呼び方はやめた方が良いと思うのですけど」
「姐御(あねご)、姐貴(あねき)、姐さん、どれが良いかと聞いた上で決めたんですぜ?」
「いや、ですからそもそも何故その三択なんです? たしかに私の名を公然と呼ぶのは避けるべきですけど、それなら偽名なり何なり用いれば良いんです。私みたいな小娘に、元倹さんみたいな立派な殿方が丁重に接しているのは、他の人から見たら明らかにおかしく映ると思います」
 そう言われた男は、むう、と腕組みして唸る。
「仰ることはわからんでもないんですが、ここに運び込まれて以来、ずっと姐さんと呼んでたわけで、今さら別の呼び方をする方が怪訝に思われるんじゃねえですかね。それに――」
 男――廖化、字を元倹という人物は言葉を続けた。
「大将から姐さんのことを頼まれた身としちゃあ、気安く接するのもためらわれるんですわ」


 その廖化の主張に対し、少女は目に明らかな険を宿した。
 思わず廖化が首をすくめるほどのそれは、しかし眼前の相手に向けられたものではなく、ここにはいない何者かへと向けられた感情だった。
 その感情のままに、少女――太史慈はうふふと微笑む。それを見た廖化が何故か後ずさっているが、太史慈は特に気に留めない。
「つまり、これもまた原因は一刀さん、ということですね。ふふ、これは再会した際に問い詰めるべき事柄がまた一つ増えてしまいました」
 言いつつ、太史慈は右手に視線を向け、親指、人差し指、中指、薬指の順番で折っていく。
 「問い詰めるべき事柄」とやらを内心で数え上げているのだろう。
 その証拠に、最後に小指を折った太史慈は握り締めた拳をわなわなと震わせつつ、なおもにこやかに(あくまで主観的に)微笑み、こう呟いた。
「一晩で語りつくせるかどうか、不安になってきてしまいました。でもきっと一刀さんは快く付き合ってくれますから、心配はいらないですよね」
 それはどうだろう、と傍らで聞いていた廖化は内心で首を傾げる。だが、無論、ここで口を挟むことはしなかった。それは勇は勇でも匹夫の勇だ、と理解していたからである。





 しばし後。
「えーと、姐さん、落ち着きやした?」
「……はい。醜態をお見せしました。太史家を継ぐ身が、こうも度々平常心を失うとは情けないです……」
 太史慈はそう言って深く俯いてしまう。
 廖化はやや慌てながら、そんな太史慈を励ますように口を開いた。
「いや、まあお気になさらずに……というか、俺も不用意に大将の名を出しちまってすみませんです」
 乱暴に頭をかきつつ、廖化はそういって謝罪する。
 今のように落ち着いている時ならばいざ知らず、太史慈が無力感に苛まれている時に大将――北郷一刀の名を出せばどうなるかを廖化は経験上知っていた。にも関わらず、ついその名を出してしまったのは、太史慈が十分に落ち着いているように見えたからなのだが、そのあたりの見極めは無骨な武人には難しかったようだ。
 我ながら気の利かないことだ、と自分に呆れるしかない廖化であった。


 しかし、太史慈はかぶりを振って、廖化の自己評価を否定する。
「とんでもないです。『大将』の一言で取り乱す私の未熟さこそ責められてしかるべきなんですから。でも、どうしてもそれを聞くと、こう胸の奥からめらめらと燃え盛るものが……ッ」
「あ、姐さん、落ち着いて、落ち着いて」
 言いながら、またしても何やら怖い雰囲気を発散しはじめた太史慈を見て、廖化は慌てて話題を転じた。


「そういやあ華佗の旦那の姿が見えやせんが、どこかに行かれたんですかね?」
「元化さんなら、麻沸散(麻酔薬)の材料を採ってくると言って出かけられましたよ」
「ああ、あの痺れ薬ですかい」
 そう言う廖化の顔には、この豪快な武人にはめずらしく、やや怯んだ様子が窺えた。麻沸散には良い記憶がないのであろう。
 実のところ、太史慈も内心は廖化と同じようなものだった。自分の身体が自分のものではなくなるあの感覚は二度と味わいたくはない。もっとも、麻沸散による治療のお陰で今こうして五体満足に生き長らえていることを思えば、これはたいそう恩知らずな感想なのだろうけれども。


 だが、それも仕方ないことだろう。
 太史慈や廖化にとって、傷の手当てとは、血が止まらないようであれば傷口を縛って止血し、骨が折れたのであれば添木をあて、あとは薬を塗って回復を待つ――そういった行為を指す。
 廖化がいうところの痺れ薬――麻沸散を用いて感覚を奪い、患部に刃物を押し当てて傷口を開くような治療など見たことも聞いた事もなかった。


 太史慈が高家堰砦で受けた傷の中で、特に重傷だったのは呂布に射抜かれた右足部分であった。
 矢傷そのものもそうだが、矢を抜いた後の処置がまずかったようで、傷口が一向にふさがらなかったのである。
 傷口からは悪臭と共に膿が出続け、激しい痛みが絶えることなく続いて、太史慈の気力と体力を根こそぎ奪い取っていく。 
 太史慈自身、朦朧とする意識の中で、これは命が長らえても、一生まともに歩けなくなると覚悟していたほどだったのだが――


「――まさか後遺症もなく、わずか一月足らずで回復してしまうとは思いませんでした」
 そう口にする太史慈の顔には、治療をほどこしてくれた華佗への純粋な感謝の念があった。
 華佗によれば、なんでも呂布の矢は肉を貫き、骨を削って貫通しており、その際に砕かれた骨の欠片の一部が体内に残って、これが痛みの原因となっていたらしい。
 華佗はこれを麻沸散を用いた医術であっさりと取り除いてしまった。逆に言えば、麻沸散を用いない華佗以外の医者であれば、あの傷をこうも見事に治すことは出来なかったということになる。
 太史慈が華佗の治療を受けられたのは天与の幸運といってよいのだが。


 しかし、と太史慈は思う。
 これは本当に幸運によるものなのか、と。


 『五斗米道施療院』
 それが太史慈たちが日々を過ごしている建物の名である。
 ちなみに呼び方は「ごとべいどうせりょういん」ではなく「ゴッドヴェイドォォォせりょういん」と前半部分を力強く叫ぶのが正しい呼称であるらしい。違いがよくわからない太史慈は単に「せりょういん」と呼んでいる。決して、後者を叫ぶのが恥ずかしいからという理由ではなかった。信じてくださいお願いします。


 ともあれ、この施療院はその名称のとおり五斗米道という道教教団が建てたものである。施療院と銘打っているように病気や怪我の治療を主に行っているのだが、それだけではなく、貧しい人々に無償で食事を提供したり、年齢を問わず学問や武術の手ほどきをしたりと、かなり多目的に利用されていた。
 これは信者を増やそうとする宗教集団の手法として特に珍しいものではなく、かの有名な黄巾党も初期は似たようなことをして信者を増やしていったのである。


 そして彼らは、半死半生で高家堰砦から抜け出し、その後も戦傷に苦しみながら袁術軍の執拗な追跡から逃げ続けていた太史慈たちを匿ってくれた。それがどれだけ危険な行いであるのかを認識した上で、である。


 太史慈は五斗米道の教えを信じているわけではない。それどころか、この地に来るまでそういう教団が存在することすら知らなかった。当然のように教団とはいささかの関係も持っていない。
 そして、それは五斗米道側にしても同じことであった。太史慈を匿っていたことが発覚すれば、間違いなくこの施療院は袁術の手によって灰燼に帰してしまうだろう。それだけの危険をあえて冒してまで、太史慈を匿わなければならない理由など五斗米道にはないはずであった。


 にも関わらず、彼らは太史慈を匿い、さらには名医として名高い華佗を呼び寄せてさえくれた。
 施療院を預かっている初老の男性は、穏やかながら、しっかりとした芯を持っている人物で、その為人は敬意を払うに足りると太史慈は考えていた。
 しかしながら、乱世にあって五斗米道の教えを奉じ、袁術の勢力に敢然と戦いを挑むような覇気ないし蛮勇の持ち主ではないことも明らかであった。



 太史慈は年齢だけ見れば年端もいかない小娘に過ぎないが、幼い頃から祖母の手一つで育てられ、それなりに世の辛酸をなめている。武人として、あるいは将として幾たびも戦陣に臨み、乱世の過酷さをつぶさにその目で見つめてもきた。
 それらの経験から太史慈は、幸運というものがそこらに転がっているものではないということを理解していた。
 莫大な賞金をかけられて袁術軍に追われている自分たちを匿ってくれる人がいただけでも僥倖というべきであるに、くわえて幸運にも彼らの同志に中華屈指の名医がおり、さらにはその人物がたまたま近くを訪れていたため、運よくその治療を受けることができた――そんな幸運の連鎖は、物語の中にだってありえない。太史慈はそう確信している。


 それはつまり、今の太史慈の境遇が何者かの掌の上にあることを意味していた。


 それと気づきながら、なお太史慈が今の境遇に甘んじていたのは、怪我の快癒を待っていたということもあるし、その何者かが悪意を持っているわけではないという確信があったからでもあった。
 悪意や害意がある人間が、わざわざ華佗と引き合わせて太史慈たちに治療を施す必要はないから、この推測に間違いはないだろう。
 しかし、だからといって純粋な好意から来る行いだと考えていたわけでもない。そうであれば、太史慈たちの前に姿を現さない理由がないからである。
 おそらくはこちらの回復を待って、なにがしかの条件を突きつけてくるのではないか、というのが
影に潜んでいる人物に対する太史慈の推測であった。
  
 


◆◆



 太史慈と廖化が世話になっているのは施療院の奥棟――重傷、重病の患者を診る一画であった。
 太史慈は実際に重傷であったので、ここを利用するのはおかしいことではない。しかし、剣を振るえるまでに回復した今もここを利用しているのは、太史慈の存在を隠すために他ならない。
 一方で、廖化に関しては太史慈のような枷はなく。
「元倹殿、そろそろ皆、集まっているのですが」
「お、もうそんな時間か。じゃあ姐さん、ちょっくら行ってきますわ」
 廖化はそういい残すと、五斗米道の信者の一人と連れ立って立ち去った。
 太史慈や北郷とは異なり、廖化の存在は袁術軍に知られていない。そのため、廖化は普通に本名で通しており、宿賃代わりとばかりに武芸の手ほどきをしたり、力仕事を引き受けたりしているのである。


 一方の太史慈はといえば、名はもちろん、あまり似ていないとはいえ手配書までまわっているとあって、ろくに施療院から出ることも出来ずにいた。外の人間に顔を見られるのを避けるためとはいえ、やはり窮屈さは否めない。
 もっとも、最近では仲の追求の手も緩んできたように思われる。一ヶ月以上もの間、重傷を負ったまま追求の手を逃れ続けるなど不可能であり、太史慈はすでにいずこかに逃れたか、あるいはどこぞで野垂れ死にしたのではないか――仲の都である寿春ではそんな風に語られているらしい。先日、施療院を訪れた商人がそう言っていた、と廖化の口から聞いた。






「であれば、そろそろ出立すべきかもしれませんね。あなたもご主人に逢いたいでしょう?」
 そう言って太史慈が話しかけたのは、しかし人ではなかった。
 相手は綺麗な月毛が特徴的な一頭の馬である。
 北郷一刀の愛馬で、名は月毛。そのままか、と初めて聞いた時は呆れたものだったが、まさかその馬に命を救われることになるとはあの頃は思いもしなかった。
 太史慈の脳裏に過去の情景がよぎる。ほんの数ヶ月前のことだというのに、まるで何年も前のことのように思われるのは、それだけ淮南の争乱が太史慈の心に落とした影が大きかったということなのかもしれない。


 すると月毛がそっと太史慈に鼻面を寄せてきた。甘えているようにも、また俯く太史慈を慰めているようにも見える仕草である。
 太史慈はくすりと微笑みながら、月毛の鼻面を撫でた。
「心配しているつもりで、心配されてしまいましたか。ありがとう、月毛」
 元々、馬は賢い動物であるし、人の機微を察することもある。武人として馬と身近に接してきた太史慈はそのことを承知しているが、それでも月毛の聡明さに驚くことがある。本当に人語を解しているのではないか、と感じることさえあった。


「人を驚かす、という意味ではあなたはご主人と良い勝負ですね」
 厩舎に備え付けの馬櫛で月毛の身体を洗いながら、太史慈はそう口にしてみたが、今度は月毛は特に反応を見せない。心地良さそうに太史慈の手に身を委ねるばかりである。
 何故かそんなところさえ北郷に似ているように思えるのは、さすがに意識しすぎというものか、と太史慈は首を傾げる。
 とはいえ、それも仕方ない。北郷に対しては言いたいことが山脈一つ分ほどにある太史慈であった。



「……一刀さんに恨み言を口にするのは、筋違いだとわかってはいるのですが」
 単純に事実だけを述べるなら、北郷は陥落間際の砦から太史慈を逃がしてくれた。そのために大切な愛馬を譲り、副将格の廖化を戦線から離脱させて。
 その厚志に対して、太史慈は涙ながらに感謝して当然、文句や恨みごとを述べるなど忘恩も甚だしいと言うべきである。
 さらに言えば、あの時、太史慈はみずからの意思で北郷に後の指揮を委ねたのであり、指揮官である北郷の決断に異を唱えるのは二重三重の意味で不見識だといえるかもしれない。


 そのことは太史慈も理解していた。
 それでも廖化の前で取り乱してしまったように、心中には穏やかならざるものが渦巻いているのである。
 高家堰砦の陥落は免れないと考えた北郷が、あえて太史慈を城外に逃がした理由。その思いを理解してなお太史慈は北郷に言わずにはおれなかった。


 何故、自分を逃がしたのか、と。


 結果として助かったとはいえ、あの時、北郷と残った将兵は砦と運命を共にするつもりであったはず。その輪から太史慈をはじき出したことに対する憤りは、そう簡単に消せるものではない。
「……ええ、ええ、八つ当たりだということはわかっています。一刀さんだって好き好んであんな真似をしたわけじゃない。真に怒りを向けるべきは、あの状況を強いた偽帝です。けどやっぱり、あの状況で私だけを逃がすというのはあんまりじゃないですか。確かに、あの時の私は足手まといにしかなりませんでしたけど、でもッ――」
 ぶつぶつ呟いているうちに、自然と手に力がこもり、馬体を洗う手つきが荒々しいものになってしまったらしい。
 月毛が小さくいななき、困ったように身体を揺らす。ちょっと痛かったようだ。  
  

 はっと我にかえった太史慈が、慌てて力を抜いて詫びると、月毛は再びおとなしくなった。
 いけない、いけない、と太史慈は自らを戒める。こうも容易く感情を揺らすようでは、将としてはもちろん武人としても物の役に立たなくなってしまう。
 心は熱く滾っていても、頭は常に冷静を保つ。そうでなければ、また高家堰の失態を繰り返すことになってしまう。五百を越える兵を預かり、五百を越える兵を死なせてしまった、あの失態を。


 厩舎に響いた軋むような音は、太史慈が奥歯をかみ締める音であった。
 厳しい戦況にあって最善を尽くしたという自負はある。だが、最善を尽くした上であの惨憺たる結果しか掴めなかったということは、つまりは太史慈という武将の器がその程度であったということ。
 高家堰の戦において、栄誉というものが与えられるとするならば、そのすべては闘死した者と、最後まで砦で戦い抜いた者とに与えられるべき物。
 逃げ出した――否、配下に逃がさざるを得ないと考えさせてしまった将軍などに何の価値があろう……


 そこまで考えた時だった。
「ひゃあッ?!」
 不意に、太史慈の口から変な声がもれた。
 いきなり、なんか柔らかいもので顔を撫でられた――というか、はたかれたからである。
 何事か、と目を丸くする太史慈の顔に、再度、その柔らかいものがあてられる。
 月毛の尻尾だった。
 蝿や虻のような羽虫を払い落とすための尾が、ちょうど後脚部分を洗っていた太史慈の顔に二度、三度とあてられたのだ。まるで、太史慈の胸裏に飛来していた、明るくも健全でもない思考を払い落とすかのように。
 
 

 後脚を洗い終えた後、太史慈は前にまわりこみ、じぃっと月毛の顔を見つめる。
「……月毛」
「?」
「実は中に人がいたりはしませんよね? 具体的には一刀さんとか」
 直後にあがった、ひひん、という嘶きに、なんとなく呆れたような響きを感じ取ったのは、多分、太史慈の気のせいであったのだろう。




◆◆◆




 同じ頃。
 徐州臨淮郡東城県。
 

「あー、疲れたぁ……」
 東城県の政務をつかさどる県城の一室で、魯粛は心底疲れ果てた声を絞り出し、卓に突っ伏していた。
 いつもかぶっている顔の上半分を覆う鉄の面は外しているため、端整な容貌がはっきりと外気に晒されている。ただ、その言葉どおり今は疲労の極地にあるようで、いつもは生気に満ちている眼差しにも陰りが見て取れた。

 
「……疲れましたねー……」
 魯粛の眼前で、同じように卓に突っ伏しながら、張紘も魯粛と同様の有様だった。
 元々の体力で劣る分、張紘は魯粛よりもさらに疲労困憊といった感じである。
 だが、それも仕方ないことだろう。高家堰砦の戦が終わっておおよそ一ヶ月。この間、二人はろくに休む暇もなく働き続けたのである。


 東城県のすべての住人を広陵城に移す、という難事を実現させるために。


 二人がそう決断した理由は幾つもある。
 理想を言えば、曹操軍が東城県に入り、袁術軍に対抗する楯となってくれれば良かったのだが、東城県は広陵と異なり、人口一万弱の小城である。交通の要衝に位置しているわけでもなく、戦略上の要地というわけでもない。広陵城からも遠く――それは東城県が袁術軍の勢力圏の只中にあることを意味する。
 いずれは曹操も淮南に兵を進めて来るだろうが、現状では淮北を制した時点で曹操軍の継戦能力は限界に達したと魯粛は見ていた。おそらく広陵への進出はかなりの無理押しだろう。この上、さらに敵地の真っ只中にある東城県を確保するために曹操が兵を動かすとは考えにくい。


 東城県一城で仲に対抗するなど不可能。かといって仲に降伏したところで、これまで散々反抗し続けてきた相手を、素直に受け入れるような袁術ではあるまい。
 残る手段はただ一つ、逃げることである。高家堰砦の戦が終わったその日には、すでに魯粛はその結論を出し、張紘もそれを諒としていた。


 当然のように城内からは不満と反対の声が焔のごとく立ち上った。生まれ育った土地を捨て、他郷へ居を移すことを望む者など一人としていない。まして戦に敗れたならともかく、東城県は袁術軍の攻勢を退けたではないか。
 そう主張する者たちに対し、魯粛は説得などしなかった。張紘が口を開く暇も与えない。、
 このまま動かなければ、遠からず高家堰で敗れた汚名の返上を望む仲の大軍に取り囲まれること、その戦に勝ち目はなく、敗れれば城内の女子供にいたるまで殺しつくされることになると告げた上で、魯粛はこう続けた。
「逃げるなら、袁術軍が混乱している今しかない。一日待てば、その分、袁術軍は態勢を立て直すよ」
 広陵城は袁術軍の略奪によってかなりの被害が出たようだが、逆に言えば、その分よそからの人間を受け容れる余地が出来たともいえる。魯粛はそうも考えていた。口にすれば張紘が悲しむだろうから、あえて言葉にはしなかったけれども。


「逃げたくない、あくまで戦うというなら別に止めないけど、わたしの私兵は動かさない。子綱ちゃ――ではない、子綱殿も賛同しておられる」
「し、しかし、袁術軍に降伏しても助かるという可能性もあるのでは……?」
 その声に、魯粛はあっさりと頷いた。
「可能性はないこともないね。まあ日が西から昇るくらいの可能性だとは思うけど、そう考えないのはあなたの自由。好きにしたら良いよ」   
 そう言われてしまえば、確たる根拠もない声は沈黙せざるを得ない。
 また、ある者は広陵に移った後の不安を口にしたが、魯粛はそれも命あってのこと、とあっさりと切り捨て、半ば人々の尻を蹴り上げるような形で城を捨てさせたのである。
 
 
 無論、速やかには行かなかった。
 袁術軍との攻防で、東城県内における張紘と魯粛の評価は天を衝かんばかりに上がっていたが、それでも郷里を捨てるとなれば、はいわかりましたと言える者ばかりではない。
 中には、どうせ死ぬのならここで死ぬ、と腰を据えて動かない老婦人などもいて、そんな人たちを説得するために、張紘は日に何度も足を運ばねばならなかった。
 その間、魯粛は魯粛で袁術軍の動向を探りつつ、先発した人々の道程の安全を確保するために東奔西走し、時に敵の目を東城県からそらすために、食客をつかって遠方の地を攻めさせもした。



 そうして、およそ一ヶ月。
 今、城内に残るのは張紘と魯粛、そして麾下の精鋭十名のみとなっていた。
 すでに東城県の住民の多くは広陵城にたどり着き、またはもうじき到着する。すでに曹操軍の広陵城主とは話をつけてあり、彼らの居場所は城内に設けられている。淮北に逃れるも、広陵で新たな人生を紡ぐも彼ら次第であるが、願わくばどのような道を選んでも彼らの今後に幸がありますように、と張紘はもう何度目かもしれない呟きを発する。
 そして、ゆっくりと立ち上がった張紘は窓辺に立ち、閑散とした城内の様子に安堵と寂しさをない交ぜにした視線を送る。
 あえて口を開こうとはしない。事ここにいたって、今さら未練や後悔を口にしたところで意味はないからだ。


 口を開いたのは魯粛の方であった。
「ところで子綱ちゃん、ほんとに良いの?」
「む、そんな何度も訊ねるなんて子敬姉様らしくないです。私が思いつきで言ったと思ってるんですか? なら、それは侮辱というものです。私だって士大夫の端くれ、自分の行動に責任と誇りを持っています」
「んー、それは重々わかってるんだけどね。子綱ちゃんなら、丞相の下で結構栄達できると思うよ? なにも私と一緒に来て、いらん苦労をすることはないと思うんだけど」
「それを言うなら、姉様だって自分の功績を明らかにすれば重用してもらえるじゃないですか。この城を守ったこともそうですし、高家堰のこともそうです。それこそ名高い劉家軍の二将軍様に匹敵するくらいの大功じゃないですか」
 むすっと唇を突き出して文句を言う張紘の言葉に、魯粛は苦笑まじりに両手をあげる。
「ごめんなさい。もうこのことは口にしません」
「はい、ならばよろしいです――あ、でも本当に邪魔になったらちゃんと言ってくださいね、姉様」
「了解したよ。まあ、子綱ちゃんが邪魔になるなんてありえないとは思うけど」


 そう言うと、魯粛はさて、と呟きつつ立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ始めるとしようか――袁術への反撃を」
「はいッ。まずは、その……五斗米道教団、でしたっけ。その人たちのところに行くんですよね?」
「そうそう。噂の劉家の将軍様がいるはずだからね。知らせじゃ怪我も治っている頃らしいし」
「どんな方なのか、お会いするのが楽しみですッ。けど、姉様、なんで五斗米道の方々とお知り合いなんですか?」
 不思議そうに問う張紘に、魯粛は肩をすくめてみせる。
「昔、私があっちこっちで散財してるって噂を聞いたらしくてね、淮南での布教を援助してくれないかって訪ねてきたことがあったんだ。で、まあ聞けば妖しい宗教というわけでもないし、医術に関してはちょっと驚くくらいの知識と技術をもってたから施療院を建てる費用を出したりとか、色々と援助したんだよ。で、それ以来の付き合いってわけ」
 魯粛の説明とその人脈の広さに、張紘は、はー、と感心する。


「だから、姉様の頼みで、危険を冒してまで太史将軍を匿ってくれたんですね」
「そういうこと。まあ、あの人たちに極力迷惑がかからないように、他の食客も動かしてたけどね」
 その言葉どおり、魯粛は太史慈や施療院の安全を確保するため、結構な数の人数をそちらにまわしていた。その結果、こちらで魯粛に過度の負担がかかってしまうほどに。


 魯粛は太史慈と面識があるわけではない。他者が知れば、どうして見ず知らずの相手にそこまでするのか、と不思議に思ったかもしれないが、魯粛は魯粛でこの程度は当然のこと、と考えていた。
 高家堰砦における劉家軍の奮戦には、それくらいの価値があるのだ。
 そして、その価値はあの一戦にとどまるものではない。
(出来れば力を貸してほしいけど、うーん、ちょっと難しいかな)



 さて、何と言って太史慈を口説こうか、と考えていた魯粛はふとあることを思い出した。
「そうだ、子綱ちゃん」
「何ですか、姉様?」
 不思議そうに首を傾げる張紘に、魯粛はおごそかに告げる。
「あのね、『ごとべいどう』じゃなくて『ゴットヴェイドォォォ』だからね」
「……はい?」
「だから五斗米道は『ゴットヴェイドォォォ』なんだって。なんか彼らなりのこだわりがあるみたいだから、口にするときは気をつけてね」
「は、はぁ……わかりました……??」


 明らかにわかっていない様子で目を瞬かせる張紘が、華佗によってその発音を覚えさせられるのは、これから数日後のことである。
 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 幕間 桃雛淑志(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/05/30 01:21
 高家堰砦の戦いからおよそ一ヶ月。それは太史慈が今後のことを考えるには十分すぎる時間といえた。
 もっとも今後のことと言っても選択肢はさほど多くはない。
 荊州に落ち延びた劉備の下へ参じるか。
 許昌に捕らわれたという北郷らを救いに行くかの二つに一つである。
 しかし、後者を選んだ場合でも北郷らを救ってから荊州に向かうことになるため、結局は荊州へ向かう前に許昌に行くか否か、考えるべきはその点のみであった。
 そして、太史慈には北郷らを放っておくという選択肢はあらゆる意味で選ぶことが出来ない。救出的な意味でも、その首根っこ掴まえて胸中で燃え盛るめらめらとした何かをぶつけてやる的な意味でも。
 つまりは結論などとうの昔に出ているのである。


 問題は許昌の情勢が不分明であることだ。
 淮南にいる太史慈たちには、広陵や淮北の詳しい情勢を調べようもない。高家堰砦に残った北郷たちが曹操軍に捕らわれたことはどうやら間違いないようだが、そもそもどうして曹操軍が高家堰砦に寄せてきたのかも定かではないのである。
 劉家軍は朝敵であり、その救援というのはありえない。太史慈が考えたのは、降伏した徐州の陳登らの要請で広陵太守の陳羣らを救いに来たのではないか、ということであった。それならば曹操軍が高家堰砦に姿をあらわしたことに関して、一応の説明はつくように思える。


 だが、もしそうだとすると、捕らえられた劉家軍の将兵に対する処罰が案じられてならなかった。
反抗した者には死を――それが徐州に攻め寄せた曹操軍のやり方であったからだ。
 ただ、陳羣らが生きていれば間違いなく北郷らの助命を請うてくれるだろうし、北郷自身もかつて曹操の母を助けたという事実がある。それゆえ、命までは取られないのではないか、と太史慈は考えていた。より正確にはそう信じ込もうとしていた。何故といって、そうでなければ北郷はとうに曹操軍によって処刑されていることになってしまうからである。


 幸いにも、というべきだろうか。北郷らは処刑を免れ、許昌に連れて行かれたらしい。
 しかし、太史慈は安堵の息を吐くどころか、新たな衝撃に絶句してしまう。
 噂の中に、淮北に残った関羽の名があったからである。
 あの関羽が曹操に降伏するはずはなく、太史慈の頭は疑問と不審ではちきれんばかりであった。一体、今、淮北の情勢はどうなっているのか。
 なんとか情報を集めたいと思ったが、しかし、袁術軍の追及の手を逃れるために身を潜めている太史慈たちに、情報を集める手管など残っているはずもない。他の人間に頼むことが出来ないわけではなかったが、下手に北の情報を集めようとすれば、仲の官吏に目をつけられてしまう可能性がある。
 なにより、たとえ淮北の詳細を知ることが出来たとしても、怪我が治っていない状態では動きようがない。それゆえ太史慈は疑問を飲み込み、傷の治療と体力の回復に専心するしかなかったのである。
 ……そんなままならない状態が、太史慈が内心に押し隠している焦慮とあいまって、とある人物へ向ける感情をやたらと尖鋭化させてたりもするのだが、それを自覚するには太史慈はまだ若すぎた。


 ともあれ、ようやく傷が癒えた今、太史慈を留める理由はなくなった。
 情報が集められないのなら、直接許昌へ行って自分の目で真実を確かめれば良いだけのこと。
 そう考え、出立の準備を進める太史慈のもとに二人連れの客が訪れたのは、間もなく日が沈もうかという時刻であった。
 


◆◆



 五斗米道施療院の一室。
 案内された太史慈がこの部屋をおとずれた時、室内は夕日の残光に照らされて紅く染まっていたが、今はその光源も稜線の彼方に沈み、壁には灯火に映し出された人影が揺れている。
 その中で、太史慈は二人の人物と向かい合っていた。




 魯粛、字を子敬。
 張紘、字を子綱。
 太史慈は淮南に知己はおらず、当然、目の前の二人とも面識はない。
 だが面識はなくても、その用件は察しがついた。そもそも人に知られないように身を隠している太史慈の下を訪れる人物など極々限られている。
 客が来た、と告げられた時から、その人物の氏素性は知らず、それが自分を匿ってくれた相手なのだろうと太史慈は推測していた。傷が癒えた今、そろそろ姿を見せるのではないかと考えていたところでもある。
 そして、その太史慈の推測は的を射ていた。
 この二人――正確には魯粛の方であるらしいが――こそが太史慈らを匿い、さらには袁術軍の追求の手が及ばないように計らってくれた恩人であったのだ。


 もっとも、当の魯粛は別に恩を着せるでもなく、むしろ太史慈が恐縮してしまうほどに礼儀正しく、敬意を込めて太史慈に頭を下げたものだった。その隣りでは、こちらも太史慈が内心でたじろぐほどに澄んだ眼差しに、興味と親愛を湛えて視線を向けてくる張紘の姿がある。
 見たところ、魯粛は太史慈より三つか四つばかり年上で、逆に張紘は三つほど年下であろうか(後刻、顔を真っ赤にした張紘に目いっぱい否定された。実際はほぼ同年)。
 太史慈は、てっきり命を救った代償として、彼女らが何やら難事を押し付けてくるものとばかり思っていたのだが、どうもそんな様子は見て取れない。


 魯粛らの思惑を測りかね、はて、と太史慈が首を傾げる。
 すると魯粛は、そんな太史慈の疑問に応えるように次の行動に移った。それは太史慈が求めてやまなかった情報を伝えることであった。
 これによって、太史慈はようやく知ることが出来た。高家堰砦の戦において、太史慈らが離脱した後に何が起こったのか。その後の淮北、許昌の情勢がどのように動いているのか、それらすべてを。






「……そういうことでしたか。だから、関将軍は曹軍と行動を共にしているのですね」
 魯粛の話を聞き終えた太史慈は、そう言って小さく息を吐いた。
 その太史慈に向け、魯粛はさらに一つの事実を付け足した。
「許昌の帝は、偽帝の軍を退けた劉家の功績をみずからの口で称えたそうだよ。朝敵の汚名は晴れたと見て良いと思う」
「それはなによりです。朝敵でなくなれば、関将軍や、かず――北郷殿らの身に危険が及ぶこともない。荊州の皆も、安堵していることでしょう」
 太史慈はそういって仲間たちのために喜んだが、あるいはそう言う太史慈こそがもっとも安堵しているのかもしれない。両手を胸にあてて表情をほころばせる姿を見て、魯粛と張紘は同時にそう思った。


 その二人の前で、太史慈は姿勢を正すと、改めて頭を下げる。
「貴重な知らせをもたらして頂いたこと、長きに渡って陰助して頂いたこと、いずれも心より感謝します」
 その言葉は嘘偽りない太史慈の真情であった。
 しかし、と太史慈は怪訝そうに言葉を続ける。
「面識もない私たちのために、何故お二人がここまでしてくださるのか、その疑問は膨れ上がるばかりです。なにがしかの目的がおありなのだと推察しますが、そちらに関しても話をしていただけるのでしょうか?」


 太史慈の疑問に対し、魯粛はあっさりと頷いてみせる。
 しかし魯粛はそれを口にする前に確認したいことがあったようで、一つの問いを向けてきた。
「それを話す前にお訊ねしたいんだけど、子義殿はこの後はどうするつもりだったのかな?」
「そうですね。お話をうかがう前は許昌に囚われた人たちを助けてから、荊州の玄徳様のもとへ帰参するつもりだったのですが……」
 関羽の行動を聞くかぎり、条件が整うまで――別の言い方をすれば、曹操への借りを返すまでは許昌を離れることはないだろう。
 北郷は関羽の下で傷を癒している最中であろうが、回復した後はどうするつもりだろうか。劉備の下に帰るか、あるいは関羽と共に許昌に残るか。そして太史慈は、おそらく北郷は後者を選ぶのではないかという気がしてならなかった。


 荊州にいる劉備を案じる気持ちは無論あるだろうが、劉備のもとには頼もしい仲間たちが揃っている。一方の関羽は、ほとんど敵地に等しい許昌にあって、これから相当の期間、孤軍奮闘しなくてはならない。北郷が、そんな関羽を尻目にさっさと荊州に戻るとは考えにくいのだ。
 だが、そうなると太史慈が許昌へ行く理由から「救出」という側面は失われることになる。太史慈が内に抱える、自分でも理不尽と感じないわけではない憤懣をぶつけるためだけに許昌へ赴くのも、なんだか情けないような気がしてしまう。


 あるいは、と太史慈は考えを推し進める。
 北郷のように関羽の下で働くという選択もある。魯粛の話によれば、高家堰の戦で北郷と太史慈の声価はおおいにあがっているという。自身のそれは虚名に等しいと太史慈は考えているが、この際、その虚名は許昌における太史慈の立場を保障するものとなるだろう。
 その案に心惹かれる一方で、荊州の劉備の傷心を思えば、ただちにその下へ駆けつけたいという気持ちも捨てきれない。劉備が太史慈を信頼してあずけてくれた一軍を壊滅させてしまった償いをしなければ、という気持ちもあるし、単純に劉備自身の力になりたいという想いもある。さらに言えば、許昌の関羽や北郷も、太史慈がそうすることを望んでいるように思われてならなかった。


 そういったことを考えつつ、太史慈は自分の考えをまとめるように口を開く。
「今から私が許昌に行ったところで出来ることは限られていますし……それに淮河の線はいまや漢と仲との最前線。広陵に入るのも容易ではないでしょうね」
「ん、そうだね、高家堰の戦いが終わってすぐ後なら、袁術軍も大分混乱してたし、結構簡単に広陵に入れたんだけど、さすがに一月も経つと袁術軍もかなり立ち直ってきてるから、淮河の線はかなり厳重に固めてきてるね」
 それを予測していたからこそ、魯粛らは東城県の住民を早期に避難させたのである。
 それを聞いた太史慈は、ふむ、と腕組みする。
「であれば、無理をして北へ戻るよりは、素直に長江伝いに荊州へ向かった方が得策でしょうか?」
「そっちの方が淮河を越えて許昌へ行くよりは間違いなく安全かな。ただ江都は県令の趙昱殿が窄融に弑されて仲に降っているから、危険がまったくないというわけじゃない」
 この時、太史慈は魯粛が口にした内容に特に注意を払わなかった。太史慈は淮南の人名に馴染みはなく、これから採るべき行動について考える方がよほど重要であったから、これは当然のことであった。



「どのみち、仲の支配圏を通るのですから危険があって当然。ここは荊州に向かう方が得策か……」
 劉備の無事を確認してから、改めて荊州経由で許昌へ向かうという手段もある。無論、劉備と相談した上での話になるが、そうすれば許昌の人たちに劉備や仲間たちの無事を伝えることも出来るだろう。
 そう考えた太史慈は素直にそれを魯粛に告げた。
 隠し立てしなかったのは、恩を受けた相手だということもあるし、短いながらに魯粛らの為人に感じるところがあった為であるが、それ以上に魯粛たちが何を考えているかが気になったからであった。
 ここで下手に内心を偽れば、快活な為人の中にどこか鋭利なものを宿す眼前の女性は、あっさりと太史慈を見限って席を立つような気がしてならなかったのである。



 太史慈の考えを聞いた魯粛は二度頷いてから口を開いた。
「そうだね、それが子義殿にとっては最良だと思う」
 その言葉に驚いたのは、太史慈ではなく、傍らにいた張紘の方であった。目を丸くした張紘は、何か言いたげに魯粛を見つめる。これから協力を求めるはずの相手に、荊州へ向かうのが最善だ、と口にするとは思わなかったのであろう。
 その視線を感じとったのか、魯粛は苦笑しつつ頬をかいた。
「いや、交渉を前にこういうことを言うのもどうかと思ったんだけど、子義殿が腹蔵なく話してくれた以上、こっちもそうしないとね」
「あ……ごめんなさい、少し驚いてしまって」
「いいよいいよ。さて、それでは子義殿、本題なんだけど」
 張紘に軽く手を振ってから、魯粛は表情を改める。
 その口から発された言葉は、簡潔にして明瞭だった。すなわち魯粛はこう言ったのである。



「私たちは、これから淮南の偽帝を討つための戦いをはじめるんだ。それに協力してくれないかな?」




◆◆




 魯粛の一言は簡要であり、聞いた太史慈が絶句してしまうほどに直截的であった。
 その太史慈の驚きに構わず、さらに魯粛は続ける。
「といっても、いま言ったように子義殿にとっては荊州へ戻るのが最良――つまりは私たちに協力するっていうのは、少なくとも次善以下ってことになっちゃうわけで、是が非でも、とは言えないんだけど、考えてみてくれないかな」


 その魯粛の言葉を聞くうちに、太史慈はなんとか平静を取り戻すことが出来ていた。
 考えてみれば、袁術に追われている太史慈を匿った時点で、魯粛たちが袁術に対して敵対的な立場にいることは明白である。その打倒を目指しているのは当然のことであった。
 しかし、自身とさしてかわらない年齢の女性が、声を低めるでもなく、いっそ堂々と「偽帝討伐」を口にした衝撃は、太史慈にとって決して小さいものではなかったのだ。


 太史慈は声に驚愕を滲ませないように苦労しながら、ゆっくりと言葉を発した。
「……お聞きしたいことがあります」
「どうぞ」
「偽帝を討つ、というのは戦場なり宮廷なりで袁術の命を狙う、ということですか? それとも仲という勢力そのものを撃滅する、という意味でしょうか?」
 袁術個人を討つのか。それとも一軍を組織して仲帝国を討つのか。
 魯粛はその問いにあっさりと答えた。
「無論、後者だよ」
 それは袁術個人をつけ狙う刺客になるつもりはない、ということである。


 諒解した太史慈は問いを重ねる。
「仲は十万を越える兵力を動員できます。これを討つには、それを上回る兵力が必要になる。それだけの兵力を抱えるのは、このあたりでは許昌の曹操殿ただ一人でしょう。仲を討つというなら、曹操殿の下に赴くのがもっとも近道ではありませんか?」
 太史慈は、張紘が東城県の県令であったことは先刻聞いていた。太史慈たちが高家堰砦で戦っていたように、張紘と魯粛も東城県で戦っていたのだ。あの頃は他の戦場に目を向ける余裕なぞかけらもなかったので、太史慈は二人の存在を知りもしなかったのだが。


 二人が仲の報復を恐れ、東城県の住民を広陵に避難させたことも聞いている。
 どうしてその際、民と共に曹操の下へ赴かなかったのか。この二人であれば、曹操陣営にあっても相応の地位と職責を手に入れることは出来たのに、とは太史慈ならずとも感じる疑問であったろう。
 その疑問は魯粛も予測していたようで、返答はほとんど間をおかずに発された。
「確かに、ただ仲を討つんであれば曹操殿のところに行くのが一番なんだけどね。それだと時がかかりすぎるんだよ」
「時、ですか?」
「そう、時。曹操殿の目的は中華全土に覇を唱えること、そのためには仲は討たなければいけない。けど、仲を討てばよし、というわけじゃない。河北に荊州、西涼、備えなければいけない相手はたくさんいる。ああ、それに朝廷の反対派やら塞外の騎馬民族もいるね。そういった連中を身動きとれないように封じ込めた上で淮南に兵を発するまで、どれだけの時間が必要になるか。少なくとも一年や二年じゃ無理だろうと思うんだ。そして兵を出したとしても、仲を征圧するまでにまた数ヶ月――呂布や張勲、それに最近じゃ于吉とかいう方士もいるらしいし、敗れる可能性だって十分にある。そしたら、また更に数年……私はね、そんなに長い間、あいつらをのさばらせておくつもりはないんだ」


 断言する魯粛の口調に迷いも怯みもない。それが可能であるか否かはともかく、可能であると魯粛が考えていることは疑いなかった。
 ここで魯粛は語調を緩め、小さく肩をすくめた。
「それにね、今の曹操殿の陣営は文武共にかなり完成されてる。私は自分の能力に自信があるし、曹操殿の陣営に加わってもやっていけると思ってるけど、私が加わったからといって、今いった年月が劇的に縮まるとまでは自惚れていない」
 それなら、いっそのこと淮南で独自に動いた方が良い、と魯粛は考えたのである。
「一から勢力をつくりあげれば、その中で思う存分、腕を揮えるし、なにより淮南は私の故郷だからね。地の利も心得ているし、人脈もある。かなうなら、天の時も欲しいとこだけど――」
 それはまあ今後の展開次第だね、と魯粛は楽しげに笑みを浮かべた。
 仮にも一国を相手に戦いを挑もうというのに、その顔には緊張も気負いも感じられず、相手の底知れぬ胆力に太史慈は感嘆を禁じえなかった。


「一から勢力を築くというと、旗頭は子敬殿ということになるのですか?」
「そこはまだ未定」
「未定?」
 一番重要なところが未定と聞いて、太史慈は目を丸くする。
 その視線の先で、魯粛は困ったように頬をかいていた。
「自分で言うのも何なのだけど、私はちょっと為人に角があってね、上に立つにはあんまり向いてないんだよ。本当は子綱ちゃんにお願いしたいとこなんだけど、まあさすがに自分より年下の子を戦の矢面に立たせるわけにはいかないから、私がやるしかないな、と思ってたんだけど――」
 東城県における戦いでは、張紘は県令として上に立たざるを得なかったが、今回のそれは状況が違う。そう口にしてから、魯粛は真摯な眼差しで太史慈を見つめる。
「もし子義殿が協力してくれるなら、あなたに長をお願いすることになるかも」
「はいッ?! わ、私ですか?」
「うん。まあ、私から見ればあなたも年下なんだけど、あんまり――というか、まったくといっていいくらい抵抗がないのは、やっぱり死地に臨んだ経験の差かな。正直、さっきから気圧されっぱなしだよ」
「……とてもそうは見えないんですけど?」
 ついでに言えば、太史慈は別に相手に重圧をかけているつもりはなく、普通に話しているだけである。これで気圧されたと思われるのは、それはそれで複雑な気分だった。
 そんな太史慈の内心を知ってか知らずか、魯粛はさらに言葉を続ける。
「そこはほら、わずかとはいえ私の方がお姉さんだから、年の功ってやつだよ。話の内容が内容だから、虚勢張らないと格好つかないしね」


 そう言って、からからと笑う魯粛の姿を見て、他の二人は小さくかぶりを振った。そして、互いに相手の動きに気づいて視線をあわせ、苦笑を交し合う。
 だが、魯粛は魯粛で別に韜晦したつもりはないようだった。その証拠に、笑いをおさめた魯粛は、目に真剣な光を浮かべる。
「真面目な話、ね。ここ淮南では、子義殿ともう一人、北郷一刀殿の声価は普通に考えたらありえないくらいの勢いで高まっている。そして広まっていってる。それはお二人が成し遂げたことが、それだけの価値を持っていたから。もしあの時、高家堰砦が偽帝に陥とされていたら、曹操軍が広陵を奪還することは出来なかった。東城県も返す刀で斬られていた。それはつまり、淮南全土が仲の馬蹄に蹂躙されていたということなんだ」
 高家堰砦の被害を思えば、勝利という言葉は相応しくないと言う者もいるかもしれない。全滅に近い被害を受け、しかも曹操軍が来なければ間違いなく敗北の二字を刻まれていたに違いないからだ。


 しかし、魯粛はあれは勝利だと考えていた。それも上に『大』をつけるだけの価値がある勝利だ、と。
 ただ砦を保持し、仲軍を退けただけではない。あの戦いは、淮南の人心を悲嘆と諦観の檻から解放するための鍵であった。
 仲の全軍――それも呂布、張勲をはじめとした最精鋭の軍勢が、わずか五百の兵がこもる小砦を陥としえず、退却したのだ。淮南各地を蹂躙して敗北を知らず、その残虐な振る舞いから悪鬼羅刹と恐れられた仲兵は、しかし常勝でも無敵でもないことが、これ以上ない形で証明されたのである。
 仲軍などといっても、所詮は数に頼っただけの暴兵でしかない。飛将軍とて、戦いようによっては勝つことが可能なのだ。ましてその他の将軍どもなど、何を恐れることがあろうか。


 ――無論、実際には仲軍はそこまで脆くはない。
 だが、重要なのは人心が仲に屈しなかったことである。ひとたび心が屈すれば、再び立ち上がるまでに長い時間を必要とする。しかし、高家堰砦の戦いによって、淮南はそんな最悪の事態を免れることが出来たのである。
「ちょっと気恥ずかしい言い方だけどね。子義殿たち劉家軍は、淮南の人たちの心に希望を残したんだよ。だからこそ、その名前はもうこれ暴走といっても良いんじゃないかくらいの勢いで広がったんだ。子義殿たちを匿ってくれるように頼んだのは確かに私だけど、鵜の目鷹の目で子義殿を探す仲の目を一月近く避けることが出来たのは、私の言葉を越えて、皆が子義殿を守ろうとしたからだと私は思ってる」
 

 ゆえに魯粛は太史慈に恩を売ったなどとは考えていなかった。
 魯粛は貸しをつくったのではなく、借りを返したのだ。この地を故郷とする一人の人間として。
 だから、太史慈がここで首を横に振ったとしても、これまでのことを引き合いに出して協力を強いるつもりなど欠片もなかった。
 その点、恩義を楯に何かしら要求してくるのではないか、という事前の太史慈の推測は外れていたといえる。


 魯粛はついでとばかりにそのことも口にした。
「もちろん、協力を断ってくれても構わないからね。それなら居場所を袁術にばらしてやるー、なんて言うつもりはもちろんないから」
「……あの、子敬姉様。それはそれで、なにか引っかかる物言いではありませんか?」
「そ、そうかな? もちろん冗談なんだけど」
「こういう場で口にするのはやめた方が……人によっては脅迫ととってしまうかもしれません」
 張紘はそう言ってから、あわてたように太史慈に釈明する。
「あ、あの、太史将軍、もちろん本当に冗談ですからね――って、私が強弁すると、もっと誤解を招くような気もしてきましたッ?!」


 余計なことを言ってしまったかも、とあわあわと狼狽する張紘に、太史慈は微笑を浮かべて頷いてみせた。
「心得ていますよ、子綱殿。心配は無用です。この短い間にお二人の為人をすべて把握した、などと言うつもりはありませんが、相手を脅して言い分を通すような人かどうか、そのくらいはわかりますから」
「そ、そう言ってもらえると助かります。それで、あの、お返事は……どうでしょうか?」


 おずおずとこちらの様子をうかがってくる張紘の視線に、太史慈はむむっと考え込む。
 率直に言って、太史慈は魯粛と張紘の二人に好感を持ったが、その為さんとしている事柄が困難を極めるであろうことは明らかであった。二人に協力すると決めたら、それこそ高家堰砦にまさるとも劣らない苦闘を年単位で余儀なくされるだろう。
 当然、その間、劉備の下を離れなければならない。ゆえに、もし魯粛たちがただの戦力として太史慈を求めているのあれば、謝絶するつもりだった。



 しかし、魯粛が口にした一語が、太史慈に謝絶の言葉を押し留めさせた。
 『子義殿たち劉家軍は、淮南の人たちの心に希望を残したんだよ』
 魯粛は確かにそう言った。そして、その言葉が偽りでないことは、周囲の人たちの態度から察することが出来る。一国に追われた人間が、一月近く、場所をかえることもせずに無事で過ごせたという事実。そこに多くの人々の有形無形の助力があったであろうことは想像に難くない。
 内容の困難は、この際、判断の材料にはならない。問題は劉家軍の一人として、どう行動するのが最善であるか――その一点であった。


 先刻、魯粛は自分が曹操の陣営に加わっても大きな違いにはならない、と口にした。
 それはそのまま太史慈にもあてはまる。このまま単身、荊州に戻ったとしても、それは劉家軍に将が一人戻るだけのことだ。無論、劉備たちは太史慈の帰還を喜んでくれるだろう。太史慈にはそれがわかる。わかるからこそ、無手の帰還は心に忸怩たるものを残すだろうこともわかってしまう。


 それは、高家堰砦で最後まで戦えなかった太史慈の意地であったかもしれない。
 劉家軍の将として、何でも良い、何か一つ確かなものを手に入れたい――今までろくに意識すらしていなかったその思いが、魯粛の言葉を切っ掛けとして溢れ出たのである。
 淮南において偽帝の支配を覆す。それが出来る劉家軍の将は太史慈ただ一人であった。当たり前だ、淮南に残っている劉家軍は太史慈しかいないのだから。


 太史慈が陣頭に立てば、淮南の人々は高家堰砦の結果を思い起こして士気を高めるだろう。
 荊州の劉表も、許昌の曹操も、袁術とは不倶戴天の間柄。つまり太史慈がどれだけ苛烈に仲と戦おうと、彼らの下にいる劉備や関羽たちが迷惑を被ることはありえない。
 いや、それどころか――
 太史慈の内心を察してか否か、魯粛が口を開いた。
「どのみち、仲を討つには最終的に曹操殿の力が必要になる。荊州が動けばもっと早く済むけど、まあたぶんあの州牧じゃ無理だろうから、とりあえずそっちは計算にいれないつもり。私たちがある程度勢力を広めて、曹操殿が話を聞いてくれるようになったら、許昌に使者を出して仲を挟撃するよう持ちかける。曹操殿が承知してくれたら――というか、どうあっても承知させるつもりだけど、とにかく承諾を引き出したら、北郷殿と、出来れば関羽殿もこちらに遣わしてもらう。関羽殿は劉備殿にならぶ劉家軍の象徴、北郷殿は子義殿に並ぶ高家堰戦の象徴だ。二人が来てくれれば、仲の支配を揺るがす決め手になる」
 そこまで言って、魯粛はちょっと困ったように腕組みした。
「……まあ、あんまり劉家軍を表に出すと、曹操殿が面白く思わないだろうから、そこはちょっと考えないといけないかな。けど曹操殿にとっても偽帝は出来るかぎり早く倒さなければならない相手だからね、多少の無理は通せると思う。とまあ、私の考えは今のところこんな感じなんだけど――」


 さあ返答や如何、という感じで見つめてくる魯粛に対し、太史慈の決意はほぼ固まっていたが、一つだけ、確認しなければならない事があった。
「今、子敬殿が口にされたように、仲を討つために劉家軍の名を前面に出せば、曹操殿は心安からぬ思いになることでしょう。最悪の場合、仲を討った次の瞬間から、淮南で曹操軍と劉家軍の争いが始まってしまう。確かに劉家軍の名は淮南の人々の士気を高めるために有用でしょうが、最終的に曹操殿の力が必要であるというなら、なにも新たな戦乱の火種を抱え込む危険を冒すことはない。初めから曹操殿の麾下で動いた方が得策のように思います。なにも許昌に行って曹操殿に仕える必要はない。遊撃の役割を帯びて淮南で活動することは可能でしょう?」
 魯粛の言葉を総合すれば、曹操軍は必要不可欠であるが、劉家軍は必ずしもそうではない。
 しかし、ただ太史慈を引き入れるために劉家軍の名を出したにしては、魯粛の語る言葉は不思議なくらい真摯であった。真摯に淮南の安寧を願い、劉家軍のことを考えてくれていた。


 だからこそ太史慈は疑問に思ったのである。劉家軍とは縁もゆかりもない魯粛たちが、どうしてそこまで劉家軍を重んじるのか、と。
 その太史慈の疑問に、魯粛と張紘は顔を見合わせる。何事か無言のやりとりをした後、口を開いたのは意外にも張紘の方であった。



「太史将軍、先刻申し上げましたが、私は若年の身ながら東城県の県令を務めていました。そして、私を引き立ててくださったのが、今は亡き陶州牧です。その、正直、私はあんまり県令にはなりたくありませんでしたけど、それでも最終的に引き受けたのは、徐州の人たちを思う陶州牧の仁慈の心に打たれたからです。この方であれば――その信頼がなければ、たとえどれだけ頼まれたとしても首を縦に振ったりはしませんでした」
 そうしたら、子敬姉様にも逢えなかったんですけどね、と張紘は人の縁の不思議さを思いながら、言葉を続ける。
「その陶州牧が先の乱で亡くなられた時、どなたに後を託したのか。これまでの陶州牧を見ていれば、それは誰の目にも明らかです。将軍様はさきほどから劉家軍と仰っていますが、その長である玄徳様は陶州牧の後を継がれた御方。お目にかかったことこそありませんが、私にとっても主に等しいのです。その安寧と興隆を願うことに、何の不思議がありましょうか」


 張紘が口を閉ざすと、次は魯粛の番だった。
「私の場合は、子綱ちゃんほど理路整然としたものではないんだけどね。陶謙殿に仕えていたわけではなし、その意味で劉備殿に忠義立てするつもりもなかった。それを求められる筋合いもない。当然、劉家軍のために力を尽くそうなんて思わなかったよ――さっきも言ったけどね」
 それは高家堰砦の戦いにおいて、魯粛が最後の最後まで動こうとしなかったことを指す。
 太史慈はそれをすでに聞いていたが、別に腹を立てたりはしなかった。太史慈が魯粛の立場であっても、同じ決断を下しただろうからだ。ただ同じ勢力に属しているという理由だけで命を懸けるには、あまりにも彼我の戦力差が隔絶しすぎていた。
 むしろ、情報を得るためとはいえ敵軍に扮して陣内に潜入し、万に一つの機を窺って火船の用意まで整えた魯粛は賞賛されてしかるべきであったろう。もし敵に気づかれていれば、間違いなく皆殺しにされていたに違いないのだから。


「――それでも結果として私は動いた。動かされた、というよりは動かざるを得なかった、というべきかな。あの戦いは色々と妙なことがあったけれど、その最たるはあの日、あの時、あの場所で起きたんだ。勝ち目のない戦い、来るはずのない援軍、動くはずのない私……そのすべてがひっくり返った。天が動いたんじゃない。天を動かしたんだよ、あの場にいたどこかの誰かがね」
「……どこかの誰か、ですか? その口ぶりからすると、それが誰なのか、すでに確かめているように思えますが」
 太史慈の苦笑に、魯粛は済ました顔でとぼけてみせる。
「さあ、どうだろう? まあそういうわけで、今の私は劉家軍に対して深甚たる興味と感謝があるの。狂児と呼ばれた私が、他人のために動くことがいささかも苦痛ではないくらいに、ね」
 



 語り終えた魯粛は、さて、と口を開いた。
「返事を聞かせてもらえるかな、劉家の銀箭殿。それとも一晩ゆっくり考える時間が必要かな?」
「――返事はすぐにでもするつもりでしたが、すみません、あと一つだけ。今、なにか妙な名前で私を呼びませんでしたか?」
「ん、あれ、もしかしたら知らない? 結構有名なんだけど……って、ずっとここにいたんだから知ってるわけないか。高家堰砦の指揮をした劉家軍の二将、おそろしく評価が高まってるってさっき言ったけど、いつからかあだ名まで付けられててね。北郷殿が劉家の驍将、で子義殿が劉家の銀箭。ほら、関羽殿の美髪公とか、孫策殿の麒麟児とかと同じようなものだよ」
「そ、それはわかりますが、私のような若輩に、そんな大仰な名前……お祖母ちゃんに聞かれたら、腹を抱えて笑われそうなんですけど」
「んー……もう結構な勢いで広まってるからねえ。よっぽど辺鄙なところに住んでいるんでもない限り、多分遠からず耳に入ると思うよ?」
「えー……」


 がっくりと肩を落とす太史慈の姿を見て、張紘は申し訳ないと思いつつ、ついつい笑みをこぼしてしまう。
 気配を察した太史慈に恨めしげに見つめられ、張紘は慌てて口元を引き締めるが、時すでに遅かった。
 しかし、太史慈にしても、ここで張紘をじと目で見つめても事態が解決しないことはわかっているので、すぐに苦笑して張紘を緊張から解放する。
 どの道、北海に戻るのは当分先のことだ。今は頭の中で大笑いしている祖母の幻影をとっぱらってしまうべし。



 ――そうして、しばしの脳内格闘の末、祖母の幻影を追い出すことに成功した太史慈は、表情を改め、自らの決断を眼前の二人に告げるためにゆっくりと息を吸い込んだ。









◆◆◆







 涼州武威郡。
 仲帝袁術が淮南全土の制圧に失敗して数ヵ月。
 たとえ表面的なものであれ、混迷を極める中原の情勢が一応の落ち着きを取り戻したように思われていた最中、大陸全土を震撼させる知らせが、涼州を支配する馬家に飛び込んできた。
 廃都洛陽において、今上帝の兄にあたる弘農王劉弁が後漢帝国第十三代皇帝として即位。十三代皇帝は許昌の劉協と等しく、すなわち劉弁は弟の即位を真っ向から否定し、さらには追討令を布告して劉協ならびにその麾下にある丞相曹孟徳の討伐を諸侯に命じたのである。


 洛陽からの使者を迎えた諸侯の多くは困惑を押し隠すのに苦労しなければならなかった。かつて諸侯は連合を組んで漢帝を擁した董卓を討ったことがあったが、当時と今では状況が大きく異なる。
 なにより今回は双方の陣営に皇帝が存在する。今上帝は確かに劉弁の弟にあたり、儒教的正当性から見れば疑問符をつける余地は存在するが、歴代の皇帝の中には劉協と同じ立場の者が多く存在する。たとえ疑問符をつけることが出来ても、すぐに消されてしまう程度の根拠の薄いものにしかなりえなかった


 まして当時の董卓と、現在の曹操では基盤となる勢力が大きく異なる。たとえ諸侯連合が実現したとしても、曹操を討てるかどうか。河北の袁紹あたりは喜んで乗り出して来そうであるし、その勢力は曹操に伍すと思われるが、曹操側につく諸侯も間違いなく存在する。
 そういった諸々の推測ないし憶測は、必然的に諸侯を一つの結論に導く。すなわち、状況を静観し、ある程度情勢が動き、双方の戦力が明確になった後にみずからの利となる方に従う、という結論である。ゆえに現段階において、諸侯のほとんどは沈黙を保ち、あえて兵を出そうとする者はごくわずかしかいなかった。




 そして、涼州の馬騰はそのごくわずかな兵を発する諸侯の一人であった。
 馬家の本拠地には一万を越える兵力が集結している。洛陽派遣軍の先鋒部隊、そのすべてが騎兵で構成されていた。
 率いるは西涼の誇る錦馬超。先の反董卓連合の時は馬騰自身が陣頭に立ったが、今回は涼州に残って後方を支える予定である。
 それは娘である馬超に、一軍の長としての経験を積ませるためであった。そして、それを必要とする理由が馬騰自身の身体の内に巣食っているからでもあった。


「まったく、朝廷の権力亡者どもめが。年端もいかぬ幼き兄弟を政争の濁流に引きずり込んで、忠臣面とは笑わせおるわ。かなうならば、この手でこらしめてやりたいところじゃ」
 自軍の征旅を見送るために城壁にあがった馬騰が、吹きすさぶ朔風に顔をしかめながら言い放つ。
 その声は聞くものとてなく風に吹き散らされたが、先日、似たような言葉を配下の一人にこぼした時、その少女はこんな言葉を返してきた。
『朝廷の城狐社鼠の相手など、寿成様にとっては役不足というものです。翠様にお任せになれば何の心配もございませんし……正直なところ、翠様がお出になる必要さえないかと。私に命じていただければ、不忠者どもをまとめて相手どってごらんにいれますが』
 血気に逸るわけでもなく、功績をあげようと気負うでもなく、ごく自然な様子でそう口にする少女――姜維、字を伯約という配下の姿から、その言葉が十分な思慮の上で発されたものであることが窺えた。


 姜維は西涼軍の中にあって、若いながらに出色の人材であり、その思慮分別は涼州屈指であろう、と馬騰は見ている。そして数年を経ずして、涼州随一となるだろう、とも。
 しかし、馬騰は朝廷を知ること姜維よりはるかに優る。姜維が言うところの狐や鼠どもの愚劣さを骨身に染みて知っており――同時に、その恐ろしさも知悉していた。
 正々堂々と戦場で兵を競うことと、宮中の濁流での遊泳はまったく異なる戦である。それは書物を読み、人から話を聞く程度で理解できるものではない。その意味で、姜維の態度は自らを知らぬものといえた。
 だが、それは仕方ないことなのだ。馬騰とて、自らの目で見聞きするまでは、宮中の醜悪さを理解することなど出来なかったのだから。


 その意味で、今回の出兵は馬超のみならず、姜維にとっても良い経験となるだろうというのが馬騰の考えであり、もっといえばそうなることを期待していた。
「遠からず、二人には西涼軍を担ってもらわねばならんからな。令明もおることだし、不覚をとることはよもあるまいが、不覚をとったらとったで一向に構わぬ。それもまた貴重な経験。若い頃の失敗は長じて雄飛するための糧であるしな」
 兵を発するとはいえ、新帝の言い分を鵜呑みにして、許昌の今上帝と曹操を敵とするつもりはない。
 西涼軍の目的は、今回の争乱の真相をつきとめ、漢室をないがしろにする者たちを根絶することである。無論、状況によっては今をときめく曹孟徳らと刃を交えることも覚悟していた。
 娘たちだけでは心もとないことは否定できぬ。だが、命さえあるならば、敗北の一つ二つは致し方なし、と馬騰は割り切っていた。


 いささかならず乱暴なやり方であることは自覚していたが、今はこれ以外に採りえる手段がない。かりにここで朝廷の騒擾を見てみぬ振りをしてしまえば、後漢の名将馬援の後裔たる馬家の忠節が疑われ、その声価は瞬く間に失墜してしまうだろう。
 そうなっても涼州の一画に勢力を保つことは出来るだろうが、そんな状態では遠からずおとずれる中原勢力に対抗することは不可能であり、西涼軍は何者かの膝下に屈し、その走狗に甘んじるしかなくなってしまう。
 そんな屈辱に満ちた未来を避けるためには、今、戦うしかないのである。


「惜しむらくは、中華の歴史を左右するであろうこの戦で、西涼軍の陣頭に立てぬことか。翠たちが羨ましゅうてならんわ」
 母として、長として、今回の戦に危惧を抱いている。だがそれと同じくらいに一個の将として、大戦を前に沸き立つものがあるのも否定できない事実であった。
 その馬騰のぼやきが聞こえたわけではあるまいが、城壁の上にあらわれた母の姿に気づいた馬超が愛槍を掲げて呼びかけてくる。
 その馬超の行動で、周囲の将兵も馬騰の姿に気づいたようだ。たちまち地が轟くような歓声が一万の軍勢から立ちのぼる。
 城壁さえ揺らすような喊声に応じて、馬騰が腰間の剣を抜き放ち、高々と掲げる。
 すると、剣は陽光を映して、眩しく煌いた。まるで西涼軍を祝福するかのごときその光景に、歓声はさらに高まり、その覇気は沖天に達するかと思われた。




[18153] 三国志外史  第二部に登場するオリジナル登場人物一覧
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/07/16 20:48


曹純


字を子和。曹仁の実弟。
幼い頃から曹操の父である曹嵩から目をかけられ、曹徳(曹操の弟)の腹心となるべく教育を受けてきた。
徐州の乱において曹嵩らが討たれて後は曹操に仕え、曹操軍の最精鋭である虎豹騎を任される。
曹嵩、曹徳らが亡くなったため、現在の曹一族の中では唯一の男性である――のだが、兵たちから『戦姫』と(密かに)呼ばれていることからもわかるように、男としては秀麗に過ぎる容姿のせいで、度々女性と間違えられる。
本人、ひそかにこのことを気にしており、男らしく見えるように振る舞いや言葉遣いを粗野にしたりと四苦八苦しているのだが、総じて効果は出ていない。それどころか、そうした行動はふとした拍子に出てくる生来の優しげな仕草をより引き立ててしまっている観がある。「その落差がたまらない」とは虎豹騎一同の弁である。
徐州の乱において北郷と出会い、北郷が許昌に来てからは貴重な同性の友人として互いに親交を深めている。



張紘


字を子綱。真名を花冠。女性、しかもわずか十五で県令に任じられた英才。しかして外見はといえば、ほぼ確実に実年齢より三つは下に見られる幼顔であり、本人も結構気にしている。
当人に官界で栄達する意思はなかったが、張紘の噂を聞きつけた陶謙みずからの招請を断りきれずに東城県に赴任する。
その施政は、若年の県令に不安を抱いていた人々の危惧を一掃するもので、袁術軍の淮南侵攻においても魯粛と共に果敢に抵抗し、見事に仲の軍勢から東城県を守りぬいた。
高家堰砦の戦いの後、民衆を広陵に逃がすと、淮南を仲の支配から解き放つために活動を開始する。
将来の夢は素敵なお嫁さんになること。



魯粛


字を子敬。真名を長恭。女性。
名家に生まれながら、その破天荒な思考と行動で人々に忌まれた魯家の狂児。しかし、ひとたび仲の侵略に遭うや、張紘と共に東城県を守りきり、さらに高家堰砦の戦いにおいて仲を退ける一翼をも担った智勇兼備の人である。
高家堰砦の戦いが終わったその日から仲の淮南支配を覆すために策動を始めており、密かに太史慈や廖化を匿うなど幾つもの手を打っている。
武勇に優れ、智略に秀で、戦闘時に鉄の面で顔を覆う。その真名からもわかるように、元になった人物はまんま蘭陵王高長恭である――ただし性格は除く。



廖化


字を元険。男性。
言動は粗野だが、磊落な為人で、人情にも厚い。
劉家軍の一員として高家堰砦における一連の戦いに参加。それまでは英傑がずらりと居並ぶ武将たちの陰に隠れる形となっていたが、高家堰において北郷の副将として力量を発揮、堅実な判断力と統率力で劉家軍の抗戦を支える要因となる。
戦の終盤、重傷を負った太史慈を逃がすため、北郷に命じられて単騎仲軍を突破。血路をひらいて逃げ延びた。特技『血路』習得。



楊奉


白波賊の副頭目。
元は朝廷に仕える文官であったが、その美貌から匈奴の単于に望まれ、彼の地にとり残される。
匈奴が内乱によって分裂した後、漢土に舞い戻り、韓暹に近づいて白波賊の実権を奪取。白波賊、塩賊、さらに匈奴との繋がりをもって并州における動乱を主導し、最後は解池にて炎の中に消えた。



徐晃


字を公明。真名を鵠(こく)。
楊奉の娘。亜麻色の髪と琥珀色の双眸は騎馬民族であった父の血によるもの。
大の男でも持つのが難しい大斧を自在に操る。
并州動乱においては母の命に従って皇甫嵩を討ち、さらに虎豹騎を率いる曹純と戦おうとするが、あらかじめ北郷から忠告を受けていた曹純によって策略を見破られ、捕虜となる。
以後、義理の弟妹たちを助けるため、また母の行動の真意を知るために官軍と行動を共にする。
もう一人の運命(?)。



史渙


字を公劉。
徐晃の義理の弟。不在の徐晃に代わり、韓浩と共に弟妹たちの面倒を見ている。
まだ少年の身ながら胆力にすぐれ、危急の際にも努めて冷静に行動しようとする勇気と思慮深さを併せ持つ。徐晃からの信頼も厚い。
徐晃を心底尊敬しており、いずれは義姉のような人物になるのが目標。暇をみては徐晃に頼んで武芸の稽古をつけてもらっている。



韓浩


字を元嗣。真名を繋(けい)。
徐晃の義理の妹。史渙と共に弟妹たちの面倒を見ているしっかり者。
笑顔を絶やさない穏やかな人柄ながら、怒ると怖い。どれくらい怖いかというと、徐晃が怯み、史渙が竦み、北郷が逃げ出すほど。
先の并州動乱を経て、今のままではいかんと一念発起。史渙と共に徐晃に稽古をつけてもらっている。


韓暹


白波賊頭目。やられ役その一。



去卑


南匈奴右賢王。やられ役その二。



於夫羅


南匈奴単于。色々な意味で相手が悪かった人その一。
結果として女性陣の引き立て役になってしまった――この作品の男性陣では別にめずらしくもないことだが。
筆者的に、この人と楊奉のシーンは書くのが楽でした。



皇甫嵩


後漢帝国の名将。色々な意味で相手が悪かった人その二。
台詞の一つもなく退場させてしまったが、その功績や為人を見れば、もっとキャラとして活かせたような気がする。もったいないことをしてしまったか。
今思えば、初期の頃に皇甫嵩VS張三姉妹(+北郷)とか書いても面白かったかもしれない。




司馬朗


字を伯達。
許昌四尉の一、北部尉の職を務める。他の三尉は李典、楽進、于禁。
北部尉はかつて曹操自身が勤めていた職であり、四尉の筆頭格として扱われている。つまり司馬朗は許都の治安の実質的な総責任者であった。
父司馬望は先帝崩御の混乱の折、劉弁をかくまい、政争の中で命を落としている。その父の後を継いで司馬家の家長となった司馬朗は、人柄はいたって穏やかで、いっそ暢気と称しても良いほど。料理に熟達しているが、これは妹たちに美味しいものを食べさせたいという姉心の精華である。
その一方、ひとたび官吏として立った時は都の塩賊を潰滅させる策をたて、これを完璧に実行してみせるなど、父譲りの有能かつ厳格な面を見せる。



司馬懿


字を仲達。真名を璧(へき)。
都でも麒麟児として名高い司馬家の珠玉。弱冠十三歳ながら文武双全の偉器であり、并州動乱では北郷と共に行動、白波賊討滅、解池奪還に少なからぬ貢献を果たす。
司馬家は代々大柄な者が多く、司馬懿も年に見合わない大人びた容姿の持ち主である。本人はそのことをほとんど気にかけていないが、近頃は多少まわりの目が煩わしいと感じて始めており、もう少し年相応でもいいかなと思うこともある。この件については、いずれ終生の好敵手たち(?)から猛抗議を受けるかもしれない。
思慮分別に富み、洛陽における挙兵の意義や末路についてはおおよそ察しているものの、父の遺志、弁皇子への情、姉司馬朗への思いから洛陽側に従った。



司馬孚


字を叔達。
司馬朗、司馬懿の妹。
許昌で働く姉たちになりかわり弱冠十二歳で司馬家本領を差配していた優れた才識の持ち主。
その一方で危地に立った際の決断力と行動力にも優れる。
性格は素直で真面目、かつ健気。姉を敬い、妹を慈しみ、他者には常に誠意をもって当たる司馬家の良心。司馬八達の評に偽りなし、とは司馬孚の真価を知った後の北郷の評である。


余談だが、司馬孚は姉妹の中ではめずらしく身体つきは年相応(司馬家は基本的に大柄な者が多い)で、時折下の妹の司馬馗より年下に見られることがある。それはまあ仕方ないとしても、さらに下の司馬恂よりも年下に見られるのはさすがにまずいんじゃないか、と自身の成長を少しだけ心配している今日この頃である。



姜維


字を伯約。真名を鞘(さや)。
幼少時、父姜冏が羌族との戦で戦死したため、馬家で養育された。そのため、馬超、馬岱とは真名で呼び合う仲である。
母親は不明だが、姜維の淡黄色の髪や琥珀色の瞳は、北方騎馬民族の特徴と酷似していることから、母親はそちらの人間だったのではないかと思われる。
馬騰に引き立てられ、若くして軍師を任された才略の持ち主。
一方で武芸や馬術にも並々ならぬ才能をみせ、机上で作戦をたてるだけでなく、自らその一翼を担って戦場を駆ける。
為人は清廉にして潔白。戦においては正面から敵を撃ち破ることを第一義としているが、必要とあらば計略も策略も用い、馬騰軍の勢力拡大に尽力してきた。
いつも使っている黒絹の髪留めは馬騰からもらった宝物。
馬頭琴(遊牧民の楽器)の名手でもあり、よく子供たちに聞かせている。



鳳徳


字を令明。男性。
間もなく四十代にさしかかろうとしているが、その武勇は衰えるどころか、ますます円熟の深みを加える西涼軍屈指の勇将。こと騎射の腕前に関しては西涼軍随一であろうと言われている。
無駄口を好まず、年若い少女たちが中核を担う馬騰軍を縁の下で支えることこそ己の役割と考えている。
馬騰曰く「西涼軍に人多しといえど、猪突しがちな翠(馬超)をおさえ、脱線しがちな蒲公英(馬岱)をたしなめ、経験の浅い鞘(姜維)を補佐できるのは令明ただ一人じゃろう」


謹厳実直を絵に書いたような鳳徳だが、実は若い頃は今とは正反対の猪武者で、戦のたびに棺桶を用意し、白馬に跨って暴れまわり、あまりに命知らずな戦いぶりに、敵はおろか味方からも怖れられていた。また女性関係も非常に派手で、幾度も問題を起こしては馬騰を呆れさせていた。
本人曰く『あの頃は若かった』




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/05/30 01:19

 河内郡 汜水関


 汜水関の城壁の上にやってきた俺は北西の方角に視線を向けた。
 視界に映るのは洛陽へと至る街道であるが、その道はお世辞にも整備されているとは言いがたい。
 地理的に見れば、この地はかつての帝都である洛陽と、現在の帝都である許昌を結ぶ要地である。にも関わらず、その二つを結ぶ街道は寂れ、通行する人の影も形も見て取れない。
 かつて中華一の繁栄を誇った洛陽が、先の大乱の後にたどった凋落を察するにはその一事だけで十分であろうと思われた。


「まあ、今の状況で通行人の姿が見えないのは当然といえば当然なんだけど」
 俺はそう言って、今度は逆の方向、すなわち汜水関の内部に視線を転じる。
 そこは外側とはうってかわって人で溢れていた。人といっても城内で暮らしている民衆ではない。そもそも汜水関は純軍事的な要衝であり、ここに暮らす住民は存在しない。
 ゆえに俺の視界に映る人というのは、当然のようにこの関を守る兵士たちであった。
 その数はおおよそ一万人に及ぶ。
 曹操の有となって以来、この関の常駐兵は千人に達しなかったというから、現在はほぼ十倍の兵士が詰めていることになる。
 その理由が、洛陽において蜂起した弘農王の反乱に対処するためであることは言うまでもない。
 すでに洛陽側も兵力を虎牢関に展開しており、両軍がぶつかりあうのは時間の問題であった。俺が街道に兵士以外の人影が見えないのも当然だといったのはそのためである。


 一応、俺がこのあたりに来るのは二度目ということになるが、正直、あまり懐かしいという感じはしない。
 だが、冷静に考えればそれも当然かもしれない。前回、ここを通ったのはもう二年近くも前の話であり、しかも劉家軍は汜水関の戦いに参加しなかった。このあたりはほとんど素通りしただけなのだ。
「あの頃は……たしか後方で食事の改善やら不満処理やらしてたんだったか」
 当時のことを思い出した俺はほろ苦く笑う。我が事ながらとても似合わない顔だと思うが、他に選択できる表情もなかった。




 天を仰げば、雲ひとつない空が彼方まで広がり、深い青の色が目に染みこんでくるようだった。
 その空を見上げながら、俺はゆっくりと息を吐き出し、胸の内で疼く羞恥心に蓋をする。こんなところで一人、過去の記憶に身もだえする男なぞ不審者扱いされても文句は言えない。
 ただでさえ、今の俺はやたらとややこしい立場にいるので、味方に不審を抱かれるような真似は極力避けるべきなのである。


「……味方、ね」
 俺は城壁の上に翻る曹操の軍旗を見て、小さく肩をすくめた。二年前の俺に官軍、というか曹操軍の一翼としてもう一度汜水関に来ることになる、などと言っても絶対信じなかったろう。
 しかも――
「司馬家の私兵に加わって、だもんな。もう想像というより妄想の領域だ」
 しかし、それは紛れもない現実であった。無論、ここに至るまでには様々な紆余曲折があったわけだが、曹家の人たちや、この地で関わった人々へ借りを返し、あるいは恩に報い、関羽と共に玄徳様の下へ戻るのはいつになることか、と考えると知らず深いため息がこぼれてしまう。
 この変遷が今後も続くようだと、下手をすると一年後には長江の南で孫策や孫権と一緒に戦っていても不思議ではない気さえしてくるのだ――まあ、さすがにそれはありえないだろうけれど。





「お兄様。よかった、ここにいらっしゃった」
 埒もないことを考えていた俺の耳に、柔らかい、しかしどこか翳りを帯びた声が飛び込んでくる。
 見れば、頬を上気させた少女がこちらに早足で向かってくるところだった。
 遠目でもわかるほどに整った顔立ち、円らな瞳、雪のように白い肌……少女の可憐な容色を例える言葉なら幾らでも出てきそうだが、それ以上にこの少女を特徴付けるものがある。
 それは少女の頭を丸ごと包みこむようなつば広の帽子だった。その帽子は明らかに少女の頭よりも大きく、帽子をかぶっているというよりは帽子に埋まっている観がある。
 青空を映したような明るい色合いの帽子を見ていると、何となく鳳統のことが思い出された。まあ鳳統の帽子ほどとんがってはいないのだが。


 
 呼びかけの言葉から察するに、俺を探していたとおぼしき帽子姿のこの少女、姓を司馬、名を孚、字を叔達という。その名から明らかなように司馬家の一族で、司馬朗、司馬懿の妹にあたる。
 俺が司馬孚とはじめてあったのは河内郡の司馬領であったが、あの時の司馬孚は姉たちに劣らぬ見事な黒髪を腰のあたりまで垂らしていた。
 だが、今、帽子の端からわずかにのぞく黒髪の長さは、その時の半分どころか、十分の一にも達しない。それもそのはずで、いま帽子をとれば、まるで男の子のように髪を短くした司馬孚の姿を見ることができる。


 司馬孚が帽子を手放さないのは、そんな自分の姿を恥ずかしく思っているからである。
 もっとも髪を短くしたといっても、別に坊主頭になったわけではない。個人的には今の司馬孚の姿もボーイッシュで、十分にありだと思う。いやいや、かりに坊主頭になったところで司馬孚の可愛らしさが損なわれることはないだろう。
 俺はそう思い、また実際にそうと口にして、そんなに気にする必要はないのではないか、と言ってみたのだが、司馬孚は帽子のつばを持って首を左右に振るばかりだった。
 ううむ。髪は女性の命というし、男の俺が考えるよりもはるかに深刻な問題なのかもしれん。


 では、何故司馬孚が羞恥を禁じえないとわかっていながら、自らの髪を断ち切ったのか。
 あまつさえ、何故俺と一緒に汜水関の城壁の上に立っているのか。
 これもまた洛陽での事変が原因であることは言うまでもないことだった。



◆◆



 端的に言えば、今現在、司馬家は謀反人の一族として族滅の危機にあり、司馬孚は一族を救うために、謀反の張本人である二人の実姉を自らの手で討つべく、この地に来ているのである。


 劉家軍に属しながら、官軍の一員として曹操の指図で戦う今の俺の立場は、控えめにいっても危なっかしいものであったが、現在の司馬孚や妹たちのそれは俺とは比べ物にならない。
 司馬家の家長である司馬朗は都の治安をつかさどる要職にありながら、洛陽において蜂起した弘農王の陣営にはしり、妹である司馬懿もまた同様の行動をとった。
 無論、そこに至るまでには様々な事情や葛藤があったのだろうし、それは他者に計り知れるものではない。
 だが、二人の行動が許昌の朝廷に対する反逆であることは、誰の目にも明らかである。
 皇帝に対する反逆を裁くには極刑以外にありえない。そして、その罪が反逆した当人のみならず、一族に及ぶのもまた当然。
 今回の場合、反逆した相手が今上帝の実の兄であるという厄介な事情があるにせよ、それで反逆の罪が薄まるわけではない。
 司馬孚と妹たちは、二人の姉の行動によって族滅の危機に瀕しているのである。



 さらに司馬家にとって厄介なことに、現在、朝廷を主宰する丞相曹操もまた司馬家の姉妹の行動には怒りをあらわにしていた。
 これはもちろん反逆という行動に対してのものであったが、曹操自身の期待を裏切られた失望も加味されている。
 司馬朗は前述したように北部尉として都の治安を司っていたのだが、これは曹操がかつて務めていた要職であり、司馬朗をその席に据えたのは曹操自身である。つまりはそれほど曹操は司馬朗を買っていたのだ。
 また、妹の司馬懿は都でも麒麟児として将来を嘱望される逸材であり、こちらにも曹操は目をかけていた。すでに二度、姉のように役職を与えようと計らったこともある。
 その二度とも年が若すぎることを理由に司馬家の側から辞退したのだが、司馬懿が遠からず丞相府に席を与えられることは確定的である、と人々は見ていた。


 その二人が許昌を去り、洛陽にはしったのだ。
 その事実を知り、曹操が怒りを示したのは当然であったろう。特に司馬朗に関しては、宮中から弘農王を連れ出した疑いもかけられており、丞相府の中には今回の一連の事態において、司馬家が主導的な役割を果たしているのではないか、と考える者さえいた。
 それらの有形無形の感情が、残された司馬家の姉妹――十二歳の司馬孚を筆頭とした幼い姉妹に向けられるのは避けられないことであった。


 司馬家は代々朝廷の高官を輩出した名門であり、家柄だけを見れば曹家に優る。先代の司馬望は京兆尹の要職を務めたほどの人物であり、司馬望に引き立てられた者、あるいは司馬家に連なる親類縁者も数多い。
 ゆえに、これが他の失態であれば、司馬朗らを擁護する者、あるいは残された司馬孚らを庇う者も出てきたに違いない。しかし、事が明白な叛逆行為である以上、下手に司馬家を擁護すれば、自家まで叛逆の疑いをかけられてしまう。否、かばうかばわないに関わらず、司馬家に関わりがある家々にはすでに朝廷の手が差し向けられていた。
 この状況で、司馬家を擁護しようとする者があらわれるはずもない。
 司馬孚はわずか十二歳で、姉の裏切り、一族の族滅という最悪の危難に直面し、しかもそれを独力で払いのけなければならなくなったのである。




 この時、十二歳の少女が自身に課せられた責務の重さに耐えかねたとしても、それを責めることは誰にも出来なかったはずだ。茫然自失となり、自らの殻に閉じこもってしまったとしても何の不思議もなかったろう。
 だが、この危地にあって司馬孚の採った行動は水際立ったものであった。
 司馬孚は姉たちの決断と行動を知り、それが間違いないと知るや、すぐさま自身の立場を明らかにした。
 すなわち洛陽側にはしった姉たちの行動を、忠に反し、孝をはき違えたものとして非難し、自身と司馬家は今上帝に従うことを表明したのである。


 さらに司馬孚はすぐさま領内の府庫を閉じ、司馬家が有する財貨や召抱えている将兵の数を記した文書、さらに砦や館の見取り図といった軍事上の機密情報を余さず持ち出すと、五人の妹たちと共に許昌へ向かう。
 そして、所領と財貨のすべてを朝廷に返納して姉たちの行動を謝し、かなうならば討伐軍の先頭に立って洛陽側と戦いたいと申し出たのである。
 一兵卒としてでも構わない。決して陛下を裏切らない証として、妹たちを人質に差し出す。
 そう嘆願を繰り返す司馬孚の黒髪は、自身の覚悟を示すためにばっさりと切り落とされていた……



◆◆


 
「あの、お兄様、どうかなさったんですか?」
 黙りこんで口を開こうとしない俺を不思議に思ったのか、司馬孚が目をぱちくりとさせ、首を傾げる。癖になっているのか、その両手は帽子のつばを掴んだままであった。
 そんな子供っぽい仕草を見ていると、眼前の少女が採った数々の行動が信じられなくなりそうだ。
 十二歳といえば小学校の六年生か中学校の一年生。そんな時分に姉たちが姿を消し、家族が皆殺しにされるかもしれないなどという重荷を背負わされる。
 俺だったら確実に挫けるだろう。もしくは現実逃避して、部屋にでも閉じこもるか。いずれにせよ事態を自分の手で何とかしようとは思えないだろうし、仮に思ったとしても、何をしてよいやらわからず、結局は諦めてしまうに違いない。


 それを思えば、司馬孚という少女のことを子供扱いなど出来るわけがない。
 司馬孚は二人の姉に比べても優るとも劣らない人物であり、俺などはあごで使われても決して文句は言えない。罵ってこき使ってくれても構わない。むしろそうしてほしい。
 俺は司馬孚の前に跪くと、深々と頭を垂れ、内心の思いを素直に口にした。
「なんなりとご命令を、ご主人様」
「は、はい? いきなりどうしたんですか、というか、な、なんですかご主人様って??」
「無論、御身のことでござる。それがし、御身の車についた土を払う程度のことしか出来ぬ役立たずでござるが、身命を賭してご命令に従う所存。なにとぞ――」
「お、お兄様、一刀様、あのどうか落ち着いてください。冷静になって、あと深呼吸なさるのもいいかと思います。なんで急にわたしたち、主人と従者の関係になってるんですか?!」
「司馬家の人間に逆らえぬは我が宿業なれば」
「全然意味がわかりませんッ?!」
 司馬孚の悲鳴じみた叫びが城壁の上に木霊する中、俺は心からの敬意をもって一回り年下の少女に傅き続けたのであった。




 
 しばし後。
 腕を組んで頬を膨らまし、怒ってますと全身で表現する司馬孚に、俺は懇々と説教されていた。
「まったくもう! お兄様がわたしのことを思いやって、緊張をほぐそうとして下さっているのは重々承知していますが、あんまり突飛なことを言い出さないでください。驚いてしまいます」
 おかんむりな司馬孚の前で、俺はぺこぺこと頭を下げる。ちょっと調子に乗りすぎました。ごめんなさい。


 そんな俺を前に、司馬孚はなおもしばらく唇を尖らせていたが、俺が十分に反省したと見て取ったのだろう、組んでいた腕を解くと、にこりと笑みを浮かべた。
 思わずこちらも微笑んでしまいそうな優しい笑顔であったが、こうして近くで見ると気づいてしまう。司馬孚の頬はこけ、目の下にはかすかに隈が浮かんでいる。初めて会った時に比べれば、顔色もずいぶんと悪い。
 その俺に視線に気づいたのか、司馬孚はちょっと困ったような顔をして俯いてしまった。


 司馬家存続のために、実の姉たちと矛を交えるという苛烈な決断を下してのけた司馬孚だが、それについて割り切っているわけでは決してないのだ。
 周囲から向けられる疑念と不審の眼差しも、司馬孚の心身には負担になっているに違いない。
 それでも自身の責務を果たそうと懸命に努めている健気な少女を前にして、何も思わないはずはない。先刻の言葉は俺の心底からのものであった――多少おおげさではあったけれども。



 とはいえ。
 俺がここにいるのはひとえに司馬孚を助けるため――というわけではなかった。
 他人事のように司馬家の現状を説明したが、俺自身に向けられる視線も決して穏やかなものではないのである。
 なにしろ、俺はつい先ごろまで司馬朗の手配により、動乱の中心であった解池で司馬懿と行動を共にしていた。しかも俺は劉家軍の一員として、官軍を率いる曹操と敵対していたという過去がある。高家堰での戦いや関羽らの行動により、朝敵の汚名は避けられたとはいえ、その過去が消えたわけではない。
 そういった前後の状況を鑑みれば、今回の件で俺に疑いの視線が向けられるのは致し方ないことであった。


 つまり、俺もまた司馬孚と半ば重なる意味で、自身の無実を証明するために戦わなければならなかったのである。
 司馬孚と異なるのは、それがあくまで戦う理由の一つに過ぎないという点であった。俺がこの戦いに望んで加わった理由はそれ以外にも幾つもある。中でも最も大きいのは――


『……今、動乱の中心となっているのは廃都よ。あなたが知りたいものも、そこにあるでしょう』


 解池で聞いたあの言葉が俺を洛陽へ向かわせた。
 あの方士が口にした言葉。あれはもしかすると、俺がこの地で本当の意味ではじめて耳にした、元の世界との関わりを示す言葉だったのではないか。そう思われてならないのだ。
 無論、そんなことは他の誰にも言えないし、言う必要もない。
 解池でのことを報告する際、曹操には俺や徐晃が目の当たりにした方士や方術の存在を口にしたが、俺自身の境遇に関わることは言わなかった。





「あの、お兄様?」
「うおわ?!」
 ふと気づくと司馬孚の顔がすぐ近くにあり、帽子のつばが軽く俺の額にあたっていた。その感触に、俺は思わず身体をのけぞらせてしまう。いつの間にか自分の考えに沈んでしまっていたようだ。
 人と話している最中に考え込むとか、失礼にも程がある。俺は慌てて謝ろうとしたのだが、それに先んじて司馬孚が申し訳なさそうに頭を下げてきた。
「本当にすみません」
 む? 謝る相手と謝られる相手が明らかに逆なのだが。
 そう思って内心で首を傾げたのだが、司馬孚の言葉には続きがあった。
「わたしたち姉妹のことで、お兄様にはご迷惑ばかりおかけしてしまって……」


 ああ、そういうことか、と俺は納得と困惑を同時に感じた。
 前述したように、俺が司馬家の軍に加わったのは種々の理由によるもので、なにも「俺が司馬家の窮地を救ってやろう」などと考えたからではない。そこまでうぬぼれてもいない。
 その旨は、言える範囲で司馬孚にはすでに伝えていた。感謝する必要はない、俺が司馬家を利用している一面もあるのだから、と。


 だが、司馬孚はこう見えて頑固なところもあるらしく、頑として俺の言い分に首を縦に振らず、あくまで俺を恩人として扱った。
 軍制上、俺は司馬家の麾下に入るので、当初、俺は司馬孚のことを「叔達様」と呼ぼうとしたのだが、その呼び方は即座に改めさせられてしまう。
 司馬孚本人は叔達と呼んでくれればいいと言うのだが、司馬家の将兵の前で家長を呼び捨てるわけにもいかないので、互いに譲歩した結果、今では叔達殿という呼び方で落ち着いている――なんとなしに既視感を覚えるやりとりだったのは内緒である。
 ちなみに俺の呼び方が『お兄様』なのは、初対面以来、司馬孚以下の妹さんたち共通の約束事なので、変更はききませんとのことだった。なにゆえ。


 ともあれ、司馬孚は先刻の俺の沈黙を心身の疲れから来るものだと感じ、その原因となっているであろう自分たち姉妹のことを詫びたのだと思われた。
 ここで、それは違う、あるいはそんなにかしこまる必要はない、と口にしてもこれまで繰り返してきたやりとりが、また繰り返されるだけだろう。
 そう考えた俺は話題をかえることにした。


「そういえば叔達。俺を探していたみたいだけど、何かあった?」
 そう訊ねると、司馬孚は「あッ」と慌てたようにこくこくと頷いた。
「す、すみません。公明様が戻られました。張太守が、公明様の報告をもとに作戦を定めるから、お兄様もすぐ来るように、と」
「――そうか。承知した」
 それを聞き、俺は意識を「これまでの事」から「これからの事」へと切り替え、表情を改めた。




◆◆◆




 現在、中原を取り巻く情勢の焦点となっているのは、言うまでもなく洛陽の叛乱である。今上帝の兄にあたる弘農王の叛乱は、中華の人々の耳目を洛陽へと集中させていた。
 だが、実のところ、その勢力はさしたる伸張を見せていない。というのも、現在の皇帝である劉協は、たしかに弘農王の弟にあたり、即位にあたって王允をはじめとした一部重臣の意向が色濃く反映したことは事実であるが、その即位自体は文武百官が参列し、儀礼に則って行われた正当なものであったからだ。
 兄だからとて、弘農王が弟の即位を否定したところで、自らの即位の正当性が認められるはずもなかった。
 くわえて、劉協の即位後、幾つもの乱を経ながらも中原の治安は急速に回復し、交易が盛んに行われ、塩や食料といった必需品の物価は安定するようになった。それらの治績の多くは丞相である曹操の勲であったが、その曹操を登用したのは皇帝である。
 すなわち、洛陽側は民衆の支持も得ることが出来ていないのである。


 即位の正当性はなく。民衆の支持もなく。それでも洛陽に集った者の多くは、曹操と敵対する者たちであった。
 が、その数さえ決して多くはない。曹操の台頭を快く思っていない者は少なくないが、すこしでも見る目があれば、ただ正統の血筋を誇るだけで、民衆の支持も、確たる武力の基盤もない弘農王の叛乱に、自らの将来を託そうとするはずはない。
 弘農王は四方の群雄に許昌の弟帝追討を呼びかけたが、呼びかけられた側もそういった洛陽の情勢を知れば、洛陽側に助力する気が起こるわけもなかった。


 ゆえに、許昌の朝廷が総力を挙げれば、洛陽側はあっさりと敗北に追い込まれたことだろう。それくらい両者の勢力には大きな開きがあった。
 だが、実際に曹操が動かした兵力は汜水関に向けた一万のみ。解池に向けた兵力の五分の一に過ぎない。
 何故、曹操は少数の兵しか動員できなかったのだろうか。


 その理由は弘農王の叛乱と時を同じくして、淮南で大動員を発した仲帝袁術にあった。
 袁術が十万とも二十万とも言われる兵力を寿春に集め、許昌の隙をうかがう気配を示したため、曹操は洛陽に大兵を向けることが出来なくなってしまったのである。
 そして、この動きに河北の袁紹が気づかないはずはない。すでに曹操は公孫賛と結び、また麾下の有力な将帥を各地に配備して袁紹を封じる手立てを打っていたが、袁紹は先の黄巾党の叛乱以降、兵力を温存しており、河北の軍勢が一斉に動き出した場合、公孫賛や麾下の将帥たちだけでその攻勢を支えきれるかどうか。
 それを考えれば、許昌には相当数の兵力を残しておく必要があったのである。




「――とまあ、そういった理由で私たちは一万足らずの兵力でこの汜水関に派遣されたわけだ」
 そういって、貧乏くじを引かされたと言わんばかりに鼻をならす女性の髪は燃えるように赤い。
 漢の丞相、曹孟徳の親友にして陳留郡太守、曹操軍にあっては主である曹操に次ぐ影響力を有すると言われるこの女傑、姓を張、名を莫、字を孟卓といった。
 この張莫、曹操からの信頼と過去の実績は他者の追随を許さないといわれるほどの人物であり、俺などはその足元にも及ばない小物である。
 それほどの人物ゆえに、こんなつまらない戦にまわされたと不平を抱くのも無理はない――と言いたいところなのだが。
(たしか、陳留の守りはもうあきたとか言って、しぶる曹操をほとんど無理やり説き伏せて、この戦に加わったと聞いたんだけど……?)


「ん、どうした、驍将殿? まるで許昌で私を見送る際の華琳のようなしぶい顔をして。言いたいことがあれば聞くぞ?」
「あ、いえ、その一言で色々とわかりましたので結構です。あと、その驍将殿というのはやめていただきたいのですが」
 もう何回も言っているが、一向に改まらん。許昌で初めて会った際にも思ったが、この太守殿もなかなかにいい性格をしているようだった。


 そんなことを考えていると、俺の内心を悟ったわけでもあるまいが、張莫はややわざとらしく感嘆の声をあげた。
「もはや驍将という呼び名ではあきたらないか。その意気やよし。ならば華琳に奏上して新たな名をもらってやろう」
「いや、私には過ぎた称号ですので、普通に名で呼んでほしいと言っているだけなんですが――」
「そうだな、宇宙大将軍というのはどうだ?」
「全身全霊をもってお断りさせていただきますッ!」
 その名は色々な意味でまずい。というか、その発想に自力で至ってしまうこの太守殿のセンスがやばい。
 見なさい、司馬孚と徐晃がぽかんと口を開けてしまっているじゃないですか。まあ話の流れからして冗談だと思うけど。


 そんな俺の内心をよそに、張莫はなにやら残念そうに首を左右に振っている――え、もしかして本気だったの?
 俺はひそかに戦慄を覚えたが、張莫は気持ちを切り替えるようにかぶりを振り、話を戦況に関するものへと戻す。どうやら宇宙大将軍は歴史の闇に沈んでいったようで、俺はほっと胸をなでおろした。



「さて、公明の偵察によれば、虎牢関に馬旗が加わったとのことだ」
 その張莫の言葉で、室内の空気が明らかに一変した。俺も表情を改める。その報告の意味がわからない者は、この場にいることを許されない。
「まず間違いなく西涼軍だ。それも錦馬超みずからの出馬だろう。西涼軍自体は一万そこそこだが、いずれも名にしおう西涼騎兵。容易に勝ちは得られまい」
 その言葉に、各人がそれぞれに頷いた。


 張莫はゆっくりと言葉を続ける。
「とはいえ、騎兵は騎兵。城攻めは苦手だろうから、この関に立て篭もっていればそうそう我らが遅れをとることはあるまい。だが、時を経れば、洛陽側に従おうとする者が出て来てしまう。袁紹、袁術が共に動こうとしている今、許昌の華琳は動けない。四方に敵を抱えたこの戦局、打開することは容易ではないが、それでもあえて打開できる場所を挙げるとするならば、それはここ汜水関に他ならない」
 そう口にした張莫の眼差しには、先刻にはなかった真摯な色合いが混じっているように見えた。今、口にしたことこそ、張莫が無理をおしてこの地に来た理由なのだろう。


「とはいえ、安易に敵に挑みかかって敗北しようものなら最悪だ。仮にこの汜水関を破られれば、洛陽勢に許昌を直撃されてしまうからな。それはさすがにまずい。つまるところ、我らはなんとしても虎牢関を奪い、洛陽を制さなければならない。だが、万に一つも敗北は許されないということだ。敵を知り、己を知れば百戦危うからずとは古人の説くところ。驍将殿、敵の力量をはかる意味でも、ここは洛陽勢に一当てしておくべきと思うが、如何」


 問われた俺は即座に賛意を示した。その問いを俺に向けた張莫の意図も理解している。現在の俺や司馬家の置かれた状況から、もっとも苦戦を強いられる場所にまわされるであろうことは、すでに覚悟していた。
「は、仰るとおりかと存じます。西涼騎兵の機動力、西涼軍以外の敵兵の士気、錬度、それらを知ることが出来れば、勝機を探ることも出来ましょう」
「よし。驍将殿の言は我が意に重なる。ゆえに、ここは私が出る」
「御意――って、え?」


 私が出る? 張莫自身が? 
 てっきり、出陣を命じられると思い込んでいた俺は、思わずぽかんと口を開けてしまった。
「ああ、私が出る。ここで汜水関に立て篭もっているだけだったら、わざわざ陳留から出てきた意味がないだろう?」
「い、いや、『ないだろう?』って言われましても……」
 別に先陣を務めるために陳留から出てきたわけでもないでしょうに。
「それに様子見の前哨戦に、総大将が出てどうするんですか?」
「大丈夫だ。陳留から率いてきた部隊は置いて行くから。こうすれば口うるさい部下たちから離れられ――じゃなくて、いざという時のための戦力は温存できる。というわけで司馬家の兵は護衛をよろしくお願い。ふふん、名にしおう西涼騎兵が相手か。楽しみなこと」
「最初の大丈夫が、何にかかっているのかがさっぱりわからんのですけど」
 あと、なんか途中でおもいっきり本音がもれてませんでしたか?


 だが、張莫はそんな俺の問いなど耳に入らない様子で、どこか浮き浮きとした様子で部屋を出て行ってしまった。なんというか、語尾に音符マークがついても不思議ではない感じである。
 ……もっと重厚な人物だと思っていたのだが。いや、たしかに奥深い人物ではあるのだけど、微妙にその方向性が俺の思っていたものと違うような気がする。
 曹操に親友と認められるだけあって、やはり只者ではないということなのか。
 そんなことを思いながら、室内に残された俺や司馬孚たちは、しばしの間、呆然とその場に立ち尽くしたのであった。

   



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:cd1edaa7
Date: 2011/06/02 23:24

 司州河内郡 虎牢関


 天下に知られた虎牢関の城壁上にあって、その少女は射るような眼差しで、関の外の光景を見つめていた。眼前に広がるのは、道行く者の影さえ見当たらない荒涼とした景色であるが、少女は先刻から飽くことなく、その光景に見入っていた。
 ここ虎牢関は、洛陽において即位した弘農王――現在では西帝と称される劉弁軍の最前線であり、この関にいるということは、すなわちこの少女もまた西帝軍の一員であることを意味する。


 身にまとう戦袍の色は白。身体を覆う甲冑の色は白。腰に提げた鞘の色も鮮やかな白。
 白色を基調としたその装いは、凛と背筋を伸ばした立ち姿とあいまって、見る者に清爽な印象を与える。今も少し離れたところに立っている見張りの兵士たちが、少女に感嘆の視線を注いでいた。あるいは、もっと単純に少女の容姿に目を惹かれているだけかもしれないが。
 しかし、そのいずれにせよ、少女は兵たちの視線を意に介していなかった。それは、どこか険しさを含んで彼方を見据える少女の眼差しを見れば、誰の目にも明らかであった。


 汜水関へと繋がる街道から一陣の風が吹きつけ、少女の淡黄色の髪をなびかせる。頭の後ろで髪を一つに結わえている黒絹の布がかすかに揺れ、少女はわずかに目を細めた。
 その仕草が思索から立ち戻る契機となったのか、風がおさまるや、彼方に向けた視線はそのままに、少女はゆっくりと口を開いた。
「――起義とはすなわち正義の戦。その言葉を真に受けていたわけではないが、まさか洛陽の朝廷があれほど歪んでいるとは思わなかった」
 桜色の唇から零れ落ちた声音は澄んだ響きを帯びていたが、その内容は様々な意味で物騒なことこの上ない。朝廷批判に等しいその言葉が他者の耳に入れば、ただではすまないだろう。
 しかし、自身の予測が甘かったと自戒する少女の顔に恐れやためらいは見て取れない。そこにあるのは、ただただ現状を苦く認識する表情だけであった。




 姓を姜、名を維、字を伯約。真名を鞘(さや)。
 若くして西涼軍の軍師を任された、それが少女の名である。
 西涼軍は主君である馬騰の命令により、一万の騎兵をもって洛陽に赴いた。これは西帝による許昌追討の命令を受けてのことで、他の群雄が静観を決め込む中、いち早く洛陽に到着した西涼軍は皇帝はじめ、朝廷の高官たちにおおいに歓迎された。
 西帝はただちに馬騰を征東将軍、涼州牧に任命し、娘である馬超らにも牙門将軍だの偏将軍だの裨将軍だのといった称号を惜しげもなく与えたのである。


 それらは、いずれも下級とはいえれっきとした将軍職であり、確たる功績を立てていない臣下に与えられるものではない。与えて良いものでもないだろう。
 西帝やその側近にしてみれば、西涼軍に対する厚遇を示したつもりなのだろうが、姜維から見れば、洛陽の朝廷がいかに識見を欠いているかの証左としか思えなかった。涼州の田舎者は栄誉さえ与えておけば満足するだろう、という底意さえ感じられる。
 実際、朝廷が西涼軍に与えたのは名のみであり、一人の兵も、一粒の米も西涼軍には加わらなかったのである。




 姜維は嘆息しつつ、さらに考えを進めた。
 洛陽の朝廷に人も物も不足しきっているのは、この地に来て一日と経たずに理解できた。さすがに皇帝とその周囲は別であったが、飢えで倒れこんだ者が散見される街路や、焼け落ちた建物がそのまま残っている宮城の様子を見れば、姜維ならずとも理解できたことだろう。
 もっとも、姜維は元々朝廷や他の軍の助力をあてにして戦おうとしていたわけではないから、助力がないこと自体はさして問題ではない。強がるでもなく、そう思う。
 だが、はじめて洛陽の状況を目の当たりにした時は、さすがに姜維は言わずにはおれなかった。


「――人もなく、物もなく。これでどうやって許昌に勝つつもりなのか」


 荒廃した帝都と宮城。
 かつて漢の都として栄華を極めていた都市の住民は、いま往時の十分の一にも達しない。そのほとんどは、他所へ行く費用もあてもない貧民ばかりであった。
 これまで曹操の勢力は洛陽に及んでおらず、だからこそ西帝が自立する根拠地となりえたのだが、それは曹操の手落ちというより、現在の洛陽を占拠すれば、それがたちまち重荷となって財政を逼迫させることを曹操が理解していたためだろう。
 おそらく河北の袁紹、淮南の袁術らとの争闘に区切りをつけてから、廃都の復興に手をつけるつもりだったに違いない、と姜維は判断していた。


 そんな都市を占拠したところで、金も食料も手に入らない。税収なぞ期待できるはずもない。人もなく、金もなく、物もなく。この状態でどうやって勝利を得るつもりであったのか、姜維ならずとも疑問をおぼえずにはいられなかっただろう。
 西帝や側近は、自分たちが皇帝を称しさえすれば、人や物が雲霞の如く洛陽に集まると考えていたのだろうか。だとすれば、その見通しの甘さは童子にすら劣る。
 姜維は洛陽に到着したその日のうちから、早期に涼州に戻ることを馬超に提案しなければならなくなるかもしれない、とひそかに考えていたのである。


 その時のことを思い起こし、姜維は小さくかぶりを振った。
「あるいは、いっそその方が良かったかもしれないな」
 この争乱が西帝やその側近の無能ゆえに起きたものだとすれば、西涼軍があえて関わる必要はない。馬騰は劉弁、劉協兄弟が廷臣たちに利用されていると憤っていたから、その争いを無視して兵を帰せば叱責は免れないだろうが、無為の争いに加担して西涼軍の血を流すよりは、自身が叱責される方がましに決まっている。
 馬騰に対する忠節の念は誰にも負けないと自負する姜維だが、だからといってその指示に盲従するつもりはなかった。それに、実際に洛陽の現状を目の当たりにした姜維がつぶさに報告すれば、馬騰も納得してくれるはずとも考えていた。


 だが、事態はそれほど単純なものではなかった。
 西帝の洛陽勢は、東帝の許昌勢と矛を交えれば鎧袖一触、蹴散らされる程度の戦力しか持っていない。にも関わらず、まがりなりにも今日まで両者が対立していられるのは、淮南の袁術が許昌の隙をうかがう姿勢を示し、さらに河北の袁紹までが動く気配を見せたからである。
 この一連の動きが、単なる偶然でないことを西涼軍は知らされたのである。
 それを口にした者は、荊州南陽郡太守、李儒、字を文優。
 淮南の偽帝、袁術配下として名を知られた人物であった。



◆◆



 許昌の東帝を敵とする。この一事において、西帝と偽帝は共通している。敵の敵は味方、という考えに従えば、両者が手を組むことは一つの戦略として有効だろう。
 だが、戦略以前に、政略としてこの策は下の下策であった。
 どれだけ強大な勢力を誇ろうと、袁術が漢に背いた逆賊であることは事実である。その逆賊と手を結んだ時点で、西帝自身も逆賊に堕す。洛陽の西帝と許昌の東帝、この兄弟のいずれが漢の正当であるか、などともはや問題にすらならないだろう。戦の勝敗とは関わりなく、起兵の意義を失わせるがゆえに、この決断は下策、否、愚策なのである。


 そのことは李儒も承知していたはずだが、彼は意に介さなかった。
 それは何故か。
 李儒の遠謀は、心ある人々の眉をひそめさせる類のものであった。
 すなわち李儒は自らを漢朝の忠臣と位置づけ、袁術の配下におさまったことを「漢朝復興のための力を得るための臥薪嘗胆の行い」としたのである。
 袁術の信頼を得て南陽郡の太守となり、固有の武力を得た今こそ漢の旗の下へと戻るとき。李儒はそう考えた。


 先帝の正当なる後継者である劉弁を許昌の曹操の手から奪い返し、洛陽の地に新たな朝廷をつくりあげる。それは袁術軍の方士于吉の企てた許昌攻略のための策謀の一環であったが、李儒はこれを逆手にとり、真実、新たな朝廷を洛陽に築くつもりであった。
 密かに劉弁と、その生母である何太后に面会した李儒はその旨を告げ、一時の悪評は顧慮するにたらず、と自身の策謀に与するよう決断を促したのである。


 袁術の配下におさまったことが漢への裏切りであるならば、その袁術の下から漢へ帰参することもまた裏切り。裏切りの罪を裏切りで償う道理は中華帝国には存在せず、李儒の行動は変節と謗られるものであった。
 李儒が真実、漢に忠節を捧げていたとしても、その行動を是としてしまえば新朝廷の拠って立つ基盤が失われてしまう。
 あるいは、李儒の言葉が偽りであり、すべては袁術の指図である可能性も少なくない。
 いずれにせよ、洛陽の新朝廷が累卵の危うきに立たされるのは間違いないのである。当時、まだ弘農王であった劉弁は、これを毅然としてはねのけるべきであったろう。


 しかし、劉弁は――というよりも生母である何太后はこの李儒の案を受け容れてしまう。
 受け容れなければ、今後も許昌の宮中の片隅で、いつ誰に害されるかと怯える日々が続くと思えば、選択の余地などないと考えたのだろうか。
 そして、李儒や側近の手引きで許昌を脱した母子は、洛陽の地で新たな皇帝として名乗りをあげたのである。




 姜維が現在の洛陽を指して「歪んでいる」と評したのは、このためであった。
 兄弟で帝位を争うだけならば、これまでの歴史にも幾多の例があった。
 だが、そのために帝位を僭称する叛逆者と手を組むとは、本末転倒も甚だしい。しかも、その臣は叛逆者の禄を食みながら、これを裏切ることで忠を口にする小人である。本来、少年帝にかわって彼ら叛逆者や裏切り者を裁き、人倫のなんたるかを示さなければならない立場にある何太后は、今に至っても自らの安寧と栄華にしか目を向けていない有様である。
 これを歪んでいると評さずして、何と評すれば良いのか、姜維にはわからなかった。


 さすがに諸侯の反発を案じたのか、今のところ李儒は表立って高位には就いていない。当面はあくまで袁術の配下として、寿春と連携をとりつつ許昌を追い詰めるつもりなのだろう。だが、すでに西帝の身辺は李儒の率いる南陽勢で固められており、廷臣たちの多くは皇帝を通して李儒の命令に従っている状態であった。
 この状況を案じている者もいるにはいるのだが、何太后を味方につけた李儒に刃向かえる者はおらず、また南陽太守としての李儒が有する武力と財力なしでは新朝廷は立ち行かない。
 この有様を目の当たりにした姜維が、いっそ許昌に参じた方がましである、と考えなかったといえば嘘になってしまうだろう。


 姜維がその言葉を押し留めたのは、西帝自身の考えが明らかになっていなかったからである。
 馬超や姜維は、すでに洛陽で西帝と何太后に謁見していたが、言葉を発したのは李儒と何太后、この二人だけで、西帝自身はじっと玉座に座ったままであった。
 何太后と同じ考えなのか、あるいは異なる考えを持っていても、何太后に遠慮して自身の意思を口に出せないでいるのか。
 そのあたりがわかれば、姜維らにも動きようがあるのだが、仮にも皇帝である人物と接する機会がそう何度もあるはずもない。
 どうしたものかと考えているうちに、西涼軍は虎牢関に赴くべし、との命令が下されたのである。 

   

◆◆



 現在の情勢を考えるほどに、姜維は頭の奥に鈍い痛みを感じてしまう。こめかみを揉み解しつつ、その口から小さなため息がこぼれた。
 中原の権力争いが醜いものであることは承知しているつもりだったが、今の事態は姜維の予測をはるかに越えている。
 正直に言ってしまえば、静観を決め込む諸侯を見習いたいのだが、馬騰の意を受けて兵を率いてきた以上、そんなことは許されない。くわえて、西涼軍の一将である馬岱が洛陽にとどめ置かれている今、別の意味でもそんな振る舞いは許されなかった。 



 と、その時である。
 不意に姜維の耳が重々しい甲冑の音をとらえた。そして、ほぼ同時に壮年の男性の寂びた声音がその場に響きわたった。
「ここであったか、姜軍師」
 そう言って姿を現したのは、姜維が見上げるほどの雄偉な体格の武人であった。
 姜維は十七という年齢、さらに女性にしては長身の部類だが、この武人はその姜維よりさらに頭一つ以上背が高い。雲を衝くような長身を支える手足はこれも逞しく、手足の太さは細身の姜維に比べて倍どころか三倍くらいあるかもしれない。


 巌のごとき、という形容が違和感なくあてはまるこの武人、姓を鳳、名を徳、字を令明といい、西涼軍にあって三指に入る武勇の持ち主であった。
 鳳徳が得物を手に悠然と敵陣に突入すれば、敵兵は巌にぶつかる波濤のごとく左右に裂かれ、その陣は木っ端微塵に砕かれる。そんな光景を、姜維は過去幾度も目の当たりにしている。
 鳳徳は剣、槍、矛、戟といった武器を等分に使いこなすが、もっとも得手とするのは弓であり、こと騎射の腕に関しては涼州随一と讃えられていた。


 もっとも、当の本人は自らの武勇を誇ることなく、己に課せられた役割を粛々とこなすのが常である。馬騰に任命されたとはいえ、娘に等しい年齢である(鳳徳は独身だが)姜維が軍師として自らの上に立ち、命令を下すことにも不満の色を見せたことはない。


 それだけ見れば、武勇と忠義を兼ね備えた忠臣と判断されるであろうし、事実その通りなのだが、鳳徳の価値は一武将としての忠勇に留まらない。
 若い頃から戦場で身を立てていた鳳徳は、たとえば姜維などと比べれば学がなく、一武将として敵を破る力はともかく、戦場全体を見渡して勝利を得る、いわゆる大局観に欠ける。
 だが、逆に鳳徳にあって、姜維にはないものもある。それが経験であった。


 どれだけ才能に溢れていようと、それを修めるべき器が小さければ意味をなさない。姜維は自身の才に溺れるような少女ではないが、それでも年若く、諸事に経験が浅いことは否定できない事実である。
 若者の才を十全に発揮するために、年長者の思慮と経験は欠かせない。馬超、馬岱、姜維らをはじめ若年の将が多い西涼軍にあって、後者の役割を果たすことができるのは、主君である馬騰を除けば、ひとり鳳徳のみであろうと思われていた。


 姜維はそのことを十分に心得ており、鳳徳を蔑ろにしたことは一度もない。というより、そもそも姜維は武将としての鳳徳を心底尊敬していたし、常に静粛さと沈着さを崩さない為人にも敬意を抱いていたから、この西涼軍の重鎮を蔑ろにしたりするはずはなかった。
 ――噂によれば、若い頃の鳳徳は馬騰も手を焼くほどの暴れ馬で、戦時はもとより、平時の女性関係も大層派手であったそうだが、これはいわゆる誹謗の類であろうと姜維は考えている。今の鳳徳を見れば、そう考えて当然ではないか。もっともこのことに話が及ぶと、何故か馬騰は笑いをこらえてそっぽを向いてしまうし、鳳徳はやたらとひげをしごき始めるのだけれど、あれは何なのだろう?





 知らず、姜維はじっと鳳徳の顔を見つめてしまっていた。
 姜維の視線に気づいた鳳徳が怪訝そうに口を開く。
「……む、どうされた?」
「あ、いえ、すみません、令明様」
 現在の立場はどうあれ、鳳徳と姜維の軍歴の長さは比べるべくもない。偉大な先達に対し、姜維は心からの礼を示しつつ、問いを向けた。
「出陣までにはまだしばらくあるかと思いますが、何かご用でしょうか?」
「若大将(馬超のこと)が姜軍師を探しておられた。そのことを伝えにきたのだが……」
 鳳徳はそう言うと、戦場での猛勇からは想像できない優しげな眼差しを年少の軍師に向けた。


「なにか考え事かな?」
 姜維が何事か考えこんでいることを立ち姿から察したのだろうか。
 問われた姜維は内心で考えたのは、しかし、その問いとはまったく無縁のことであった。
(以前、武威で南蛮から来た象なる巨大な動物を見たが……)
 何故か鳳徳の眼差しは、姜維にその象の目を思い出させるのだ。鳳徳の巨躯が、あの動物を連想させるのだろうか。


 そんなことを考えつつ、姜維は鳳徳の問いに答えるべく、小さく頷いてみせた。
「はい。此度の戦について、少し」
 ふむ、と鳳徳はあごひげに手をあて、考えに沈むように目を閉じる。姜維が言わんとしていることを察したのだろう。
 その推量を助けようとしたわけではないが、姜維はなおも言葉を続けた。
「都に着き、三日と経たぬうちの出戦の令。しかも蒲公英(たんぽぽ 馬岱の真名)様を洛陽に残して、です。名目上は西涼軍を信頼し、その一部を陛下の守りとして宮中に据えるためとなっていますが、体のよい人質であることは明白。このまま日を経れば、西涼軍はいいように使われた挙句、墨のように磨り減らされ、最後には溶けて消えてしまうかもしれません。無論、そんなことを許すつもりはありませんが、その危険をおかすだけの価値が、果たしてあの都にあるのか、と」


 他聞をはばかることを、いっそ堂々と口にする姜維。
 さすがの鳳徳も驚きに目を瞠った。周囲にもれないように声を低めているとはいえ、安易に口にしていい言葉ではない。
 だが、それを口にせざるを得ない姜維の焦りを感じ取ったのか、鳳徳は目に思慮深い光を湛えつつ、ゆっくりと口を開いた。
「あの李儒なる者がどれだけ配下を掌握しているのか。それ次第であろうな」


 その言葉は、戦局を見据えていた姜維の意表をついた。かすかに戸惑いを示す姜維に対し、鳳徳はなおも言葉を続ける。
「あの者に将、あるいは相としての声価はない。偽帝の威をもって南陽の太守となった者が、偽帝の下から離れれば、基盤となる南陽の兵と富を失うは必定。であれば、此度の戦で自身の声価を高めようとするはず。我らの勝利を漫然と眺めていることはできまい」
「西涼軍が勝利を重ねれば、李儒も焦って動き出す、ということですね」
「うむ。もっともすでに南陽を自身の手で掌握している可能性もなきにしもあらず。それを確認するためにも、緒戦で許昌の軍勢を撃破することが肝要であろう」


 もしも、その報を受けて李儒が慌てて動くようであれば、そこに付け入る隙がある。逆に動かないようであれば――可能性は二つ。一つは李儒は袁術の威によらず、南陽を心服させており、小策士、変節漢という印象を覆す何かを持っているということ。もう一つは、もっと単純に李儒は今なお袁術の配下であるということ。そのいずれであっても、改めて対策を考えなければならないだろう。
「ゆえに、まずは眼前の戦に傾注するべきであると思うぞ、姜軍師。それも一筋縄ではいかぬ難事であろうから」
 鳳徳はそう言って、虎牢関の内部に視線を向けた。


 現在、虎牢関に詰めているのは西涼軍だけではない。西涼軍が来る前から虎牢関の守備についていた将兵が五千人ほどいる。当然、彼らも洛陽の西帝軍の一員なのだが、その錬度や士気は惨憺たるものであった。少なくとも、姜維や鳳徳の目にはそう映った。
 彼らのほとんどが洛陽で貧困に喘いでいた男たちである以上、それは仕方ないことなのだろう。
 食うや食わずの状況から生きるために徴兵に応じ、ろくに訓練もされず、最低限の装備だけで最前線の虎牢関に送り込まれた者たちの部隊。雑軍、という呼称がこれほど似合う部隊もめずらしかろう、と皮肉でもなく鳳徳は思う。


 その雑軍と共に、今をときめく丞相曹孟徳の軍勢と渡り合おうというのだ。涼州で羌族と戦うのとはわけが違うだろう。
 他のことに気をとられて勝てる相手ではない。鳳徳はそう注意を促したのである。




 瞬間、姜維の頬に朱が散った。
 鳳徳の答えは姜維が抱いた疑問の答えではなかった。が、空ばかり見上げる姜維に対し、足元への注意を促す鳳徳の答えは、姜維の先走りを諌めるものでもあったのだろう。それと察したからこそ、姜維は赤面を禁じえなかったのである。
 そして、めずらしく慌てた様子をあらわにしながら、姜維が何事か口にしようとした時だった。


 虎牢関にいる総ての兵士たちの耳に、甲高い銅鑼の音が響き渡る。
 それが敵襲を告げる知らせであることを、姜維はすぐさま悟った。
 その考えを肯定するかのように、見張り台の上に立っていた兵士の叫びが姜維の耳朶を震わせる。


「敵襲ッ! 騎兵およそ三百、一直線に正門に向かって突っ込んできますッ!! 旗印は『張』!」


 それを聞くや、姜維はたちまち表情を改める。
 敵が攻め寄せてきたのは驚くべきことではない。汜水関の東帝軍を率いるのが陳留の張莫であることもわかっている。問題は――
「……わずか三百。正門に突撃をかけてくる数ではない。こちらの様子を探るための突出か」
 総大将みずからとは剛毅なこと、と姜維は小さく呟く。その声は、関内からあがった味方の気勢の声にかき消され、傍らの鳳徳の耳にさえ届くことはなかった。




◆◆◆




「……無能共め、反応が遅い」
 周囲に馬蹄の音が轟く中、徐晃がその張莫の声を聞き取ることが出来たのは、隣で馬を走らせていたためであるが、それ以上に張莫の声が喧騒を貫いて響く強さを持っているからであった。
 そして、その内容はまったく徐晃も同感だった。
 司馬家の私兵を中心としたこの騎兵部隊は、わずか三百名とはいえ、身を隠すところとてない平野をまっすぐに駆け抜けてきたのである。偵騎を出していれば、もっと早くに発見できたはずだ。


 徐晃たちが虎牢関の姿を肉眼で捉えてから銅鑼の音が響き渡るなど、無能と呼ばれても仕方ないだろう。
 これで敵の警戒ぶりは知れた、と徐晃は判断した。今回の動きを察知できないような敵であれば、夜襲であれ、偽退であれ、打つべき手はいくらでもある。本隊同士の激突になったとしても、十分に勝機はあると見て良いだろう。
 それを知ることが出来ただけでも、この突出の価値はある。


 そう考えた徐晃は、自身と逆の位置で張莫と馬を並べる北郷の姿に視線を向けた。
 馬上、危なげない手綱さばきで馬を操る北郷の顔は鋭く引き締まり、出陣前におどけていた名残は微塵も感じられない。
 それを言うならば張莫も同様であった。二人がああいった態度を示すのは、司馬孚の前だけであることを徐晃は知っている。それが、幼い身で重責を担わされた少女への、二人の精一杯の気遣いであることも。


 できれば徐晃も二人に倣いたいのだが、ああも軽快なやりとりを咄嗟の機転で繰り広げるのは、なかなかに大変なことなのである。少なくとも今の徐晃には無理だったし、正直なところ、今後出来るようになるとも思えなかった。



 ところで、と徐晃はかすかに首を傾げた。
 まさかこのまま突っ込むとも思えないのだが。わずか三百で虎牢関に挑みかかるなど、天下の物笑いである。敵を無能と笑えない。
 すると、まるで徐晃の疑問の声が聞こえたかのように、張莫が再び口を開いた。
「この反応の鈍さ、音にきこえた西涼軍とは思えんな。もっと早くにぶつかると思っていたのだが」
 その張莫の疑問には北郷が答えた。
「昨日今日来着した新参の諸侯が、いきなり総指揮を委ねられるとは思えません。大方、指揮は別の者が執っているのでしょう」
「そうか。出来れば錦馬超の声を聞いておきたかったのだが……」
「ならばこのまま突っ込みましょう」


 あっさりと言い切る北郷に、徐晃だけでなく、張莫も驚きの視線を向けた。
「虎牢関の主将が誰かは知りませんが、この程度の用兵で高位にある以上、人並み以上に功名欲は強いはずです。張太守の旗を掲げる部隊が、わずかの軍勢で近づいてきたと知れば黙ってはいられないでしょう。関を守るだけなら城壁から矢の雨を浴びせれば済みますが、手柄を欲するなら討って出る方が確実です。最初は西涼軍に手柄を渡すまいと、出撃を禁じるかもしれませんが――」
「……なるほど。自身が手痛く叩かれれば、今度は命惜しさに西涼軍をぶつけてくるか」
「御意――まあ、最初から命惜しさに出てこないかもしれませんけどね。それならそれで、さっさと汜水関に退きましょう。西涼軍が出てきた際も、引き際は見誤らないようにしないといけません」
 かすかにうそ寒そうな顔をしつつ、北郷はそう締めくくった。


 それを聞いて、徐晃はなるほどと思いつつ、虎牢関に視線を戻す。
 かつて、董卓軍と反董卓連合軍がその支配権をかけてぶつかりあい、何十万という将兵が血を流したという関。今でもその痕跡がそこかしこに見て取れるのは、洛陽の荒廃にともない、虎牢関の戦略的価値が減少したからだろう。あえて資金を費やして、これを修復する必要がなくなったのである。
 だが、それを考慮しても、なお虎牢関は徐晃を圧倒するほどに巨大であり、かつて難攻不落を謳われた偉容は健在であった。
 その虎牢関に向け、わずか三百騎で突っ込んでいく徐晃たちは、さながら虎に立ち向かう子犬のようなものかもしれぬ。


 そんなことを考える徐晃の視線の先で、虎牢関の城門がゆっくりと開かれようとしていた。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/01/03 15:33

 許昌 丞相府


 戦えば勝ち、攻めれば取る。丞相たる曹孟徳麾下の軍勢は、中華帝国でも屈指の精鋭揃いとして知られている。
 名を知られた有力な将帥だけを見ても、曹操自身を筆頭に、張莫、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪、張遼、鍾遙、鮑信と枚挙に暇がない。その彼らを荀彧、荀攸、郭嘉、程昱といった智者たちが補佐し、さらに先ごろ降伏した徐州の群臣の中からも陳登、陳羣といった人物を加えた曹操軍の陣容は厚みを増すばかりであり、もはや一朝一夕には抜くべくもない壮観を呈していた。


 曹純、字を子和という人物が、この錚々たる面子の中に数えられるようになったのは、それほど昔の話ではない。
 先ごろ発生した解池の戦い――中華屈指の塩の産地である解池をめぐり、白波賊、塩賊、さらには南匈奴の軍勢までもが関わっていたあの戦いにおいて、曹操みずから命名した精鋭部隊『虎豹騎』を率い、平定に尽力した功績が認められたのである。
 ただ、このために短くない期間、許昌を離れていた曹純は、現在の中原をめぐる情勢にやや疎い面があった。
 曹操の股肱として知られる荀攸が、丞相府の朝会に先立って曹純とその配下である許緒に声をかけたのは、もし曹純が望むなら現在の情勢を自分の口から説明しようと考えたからであった。


 荀攸としては、余計なお世話かな、と思わないでもなかったが、その申し出は曹純にとってありがたいものであった。
 曹純は現在の情勢について、曹純と入れ違いで青州へと出陣した実姉の曹仁からひととおりの説明を受けている。だが曹仁は、みずから作戦の骨子を理解する早さは抜きん出ていたが、それを他者に説明するのは得手ではなかった。決して説明が下手だと言っているわけではない、と曹純は内心で思う。
 くわえていえば、曹純は出陣後の、曹仁は出陣前の、それぞれ多忙さの合間をぬってのことだったため、曹純は現在の情勢について、しっかり理解したとは言い難い状態だった。
 だからこそ、荀攸の申し出をありがたく思ったのである。それに軍師である荀攸の口から聞けば、また違ったものが見えてくるかもしれない、とも考えた。
 

 荀攸はわざわざ地図まで用意してくれており、その気遣いに曹純と許緒は感謝したのだが、朝会を前に何やらごそごそ動いている三人の姿に気づいたのか、丞相府の重臣たちが次々に集まってきてしまったのは、荀攸としても予想外の出来事といわざるを得なかった。
 集まった面々を見渡すと。
 文の面では荀彧、荀攸、郭嘉、程昱。
 武の面では夏侯淵、張遼、曹純(許緒)。
 いずれも丞相府を支える英傑ばかり、夏侯惇、曹仁、曹洪らが不在の今、重臣たちが勢ぞろいした観がある。周囲からは、何事か、というように驚きの視線が注がれていた。


「まあまあ、お気になさらず、なのですよー」
 そんな程昱の言葉に従い、荀攸は近くにあった卓の上に地図を広げた。
 その地図は現在の曹操の所領のみならず、南は淮南から、北は河北まで記された精細なものであり、荀攸はその所々に旗を立てていく。現在の曹操軍の配置を示すためであった。
 腰まで伸ばした亜麻色の髪、深い知性を示す薄緑色の瞳、端整な目鼻立ちといった外見だけを見れば、血縁である荀彧と良く似通っている荀攸であるが、その為人は大違い。愚姉賢妹とはこのことだ――とは、この場にいない夏侯惇の評である。
 曹純としては、その評(特に荀彧との対比あたり)について物申すつもりはなかったが、確かにこの細やかな心遣いは、姉である荀彧にはないものだなあ、と思わざるを得なかった。
 ちなみに荀彧は夏侯惇の評を聞いた際、無言で鏡を指し示すという反撃を行ったのだが、当の夏侯惇は意味がわからなかったようで、目を瞬かせるばかりであったという。




 そんな曹純の内心を知る由もなく、荀攸は説明を開始する。
「先の黄巾党の大乱からこちら、袁紹殿は河北における自家の勢力拡大に努めておられます。すでに冀州のことごとくは袁紹殿の掌中に帰しました。幽州では公孫賛殿がこれと対峙し、袁紹殿の勢力は伸張を阻まれておりますが、并州、青州では名門袁家の実力と信望を背景とした勢力拡大はとどまるところを知らず、その影響力は増大の一途をたどっています」
 しかも、この間、袁紹は基本的に武力を用いておらず、兵を動員したとしても、その数は精々一万か二万というところであった。
 兌州動乱、徐州侵略など、度重なる兵乱を経た曹操に比べ、国力の充実ぶりははっきりと袁紹側が優っていると見るべきであろう。


 自軍に不利な情勢であることをはっきりと明言した荀攸は地図上の一点を指し示す。青州の東部、北海郡である。
「現在、袁紹殿は北海の孔融殿に対して圧力を強めています。これは我が軍の徐州制圧を受け、青州各地で華琳様に帰順する動きが出てきたことへの対応でしょう。我が軍はこれに対し、孔融殿の求めに応じて鵬琳様(曹仁の真名)の部隊を北海に派遣し、同時に済北郡の鮑太守(鮑信)にも動いていただきましたが、今も申し上げましたとおり、河北の国力の充実は恐るべきものがあり、袁紹殿が本腰を入れれば、お二人だけでこれに対処することはきわめて困難であると考えられます。本来であればもうお一方、黒華様(張莫の真名)もこちらの戦線に加わっていただく予定だったのですが……」
 そういって、荀攸は困惑したように首をかしげた。だが、それを不思議に思う者はこの部屋にはいない。荀攸が言いたいことは、この場にいる全員が承知していたからである。


 夏侯淵が苦笑まじりに口を開いた。
「黒華様は洛陽の方に行ってしまわれたからな。おかげで姉者が黒華様の代わりを務めるため、許昌を離れざるをえなくなってしまったわけだ」
「さすがは黒華様、見事な判断としか言いようがないわ。ふふん、春蘭のやつ、ざまを見なさい」
 心地よさげに言ったのは、夏侯惇と犬猿の仲である荀彧である。
 騒がしい猪武者がいなくなり、心底せいせいしたと広言してやまない荀彧であるが、妹(正確には姪)の荀攸などから見れば、喧嘩相手がいなくなってしまった荀彧が、時にさびしそうに見えることもないわけではなかった。
 だが、それを口にすると――
「そんなわけないでしょ、藍花(らんふぁ 荀攸の真名)! いいかげんなこと言うんじゃないのッ!!」
「ひぁッ?! ごめんなさい、ごめんなさいッ」
 このように荀彧が激昂し、平謝りする羽目になる。わかっているなら言わなければよさそうなものだが、何かにつけて一言多い荀公達であった。


 ともあれ、本来はこの場にいるはずの夏侯惇の姿が見えない理由はこれである。夏侯惇は張莫の代わりとして、曹洪はその副将として、兵を率いて陳留に向かっていた。
 形式上は訓練および黄河流域の警戒のため、となっているが、これが袁紹軍の動きに対応したものであることは誰の目にも明らかである。
 当然、袁紹軍もそう考えるだろう。というより、許昌の朝廷に従う姿勢を見せている孔融に圧力をかけた時点で、袁紹軍の目的が曹操軍を許昌から引きずり出すことにあるのは明白だった。
 曹操軍がどれだけの兵力を青州に向けるか、それで現在の曹操軍の陣容を推し量ることができる。かりに曹操が兵の派遣を躊躇すれば、一気に北海を制圧してしまうことも考慮にいれた上での行動であろう。


 袁紹らしからぬ(と袁紹の為人を知る者は思った)慎重な動きであるが、曹操が麾下の陣営の充実をはかっているように、袁紹もまた多くの人材を幕下に招き入れている。そういった智者たちが策を講じているのだろうと思われた。それに、元々河北は人材が豊富であり、田豊や審配、沮授といった名士の名は早くから曹操軍にも知られている。
 河北の国力と人材、この両者を活用することが出来れば、袁紹軍の勢威は巨大なものとなる。それこそ中原を席巻して余りあるほどに。
 否、現実はすでにそうなりつつあった。


 荀彧の怒りを回避した荀攸は、こほんと咳払いしてから、話を続けた。
「もちろん、河北の強大さは昨日今日明らかになったものではありません。我が軍もそれに備えて動いていました。仲徳様(程昱の字)が公孫賛殿のもとに使いしたのも、この一環です」
 曹仁が北海郡に入り、済北郡の鮑信が兵を発し、さらには張莫のかわりに夏侯惇と曹洪が陳留から北上すれば、袁紹は必ず動く。元々、そのために北海にちょっかいを出してきたのだから当然である。
 この段階で北の公孫賛が動く態勢を整えることが、程昱に課せられた使者の務めであった。そして、程昱はそれを成功させる。袁紹が北に向かえば南から曹操軍が、南に向かえば北から公孫賛軍が、それぞれ袁紹軍の後背を衝く。袁紹軍の行動には大きな掣肘が加えられたことになる。


 程昱が果たした役割はきわめて大きかったが、当の程昱はのんびりとしたものであった。
「おー、袁紹さんの領内を越えていくのは、風といえども中々に緊張したのですよー」
 程昱がそう言うと、隣にいた郭嘉が小さく肩をすくめた。
「うそをおっしゃい。どうせ鼻歌まじりの往来だったのでしょう?」
「いえいえ、残念ながら稟ちゃんのように鼻血まみれの往来とはいかなかったのです」
「誰もそんなことは言っていないでしょう……ッ」
 思わず、という感じで振り下ろされた郭嘉の拳を、しかし程昱はひらりと華麗にかわしてみせた。
「なッ?!」
「ふ、いつまでも俺がただ殴られるだけだと思ったら大間違いだぜ、鼻血の嬢ちゃん」
 頭上の宝慧という名の人形を上手に操りながら、程昱は不敵に笑ってみせた(?)。


 奇妙な程昱の言動だったが、その姿は曹操軍でも度々見られていたので、いまさら驚く者はいない。感心する者はいたが。
「いやー、いつ見ても仲徳の人形扱いは上手いもんやなあ。そう思わん、子和?」
 張遼が笑いかけると、曹純はこくりと頷く。
 その際、額にかかった髪が気になったのか、曹純は軽く髪を払う。この場にあってはただ一人の男性である曹純だが、相変わらずこの手の仕草は優麗であった。隣にいる許緒などから見れば、下手をすると張遼や夏侯惇よりもよほど艶があるように見える――絶対に口にはしないけれども。
 そんな許緒の心中を知る由もなく、曹純は微笑して言う。
「同感です。それに、あの腹話術も実にお見事。感服するしかありませんね」
「……いや、あれは単に口元を飴で隠しているだけだと思うんやけど」
「飴がないときでも、仲徳殿の口が動いていないのはご存知ですか、張将軍」
「ほんまかッ?!」
 などと二人が言い合っていると、それを聞きつけたらしい程昱が二人の方を振り向いた。
「そこの二人、人を人形呼ばわりは感心できねえぜ。俺の名は宝慧、字を敏々(びんびん)だ」
「む、申し訳ない、敏々殿」
「いつの間に字まで付けたんですか……子和殿もまじめにこたえる必要はありませんよ」
 郭嘉がこめかみを揉みほぐしつつ、疲れたようにそう口にした。





 荀攸はそんな同輩たちの話し合い(?)をくすくす笑いながら眺めていたが、地図の上に視線をはしらせるや、その表情はすぐに真剣なものへと変じていた。
 荀攸が今まで口にしていたのは、これまでに曹操軍がとった行動をなぞっただけのもの。つまり、すべては曹操軍の視点から見たものだった。
 当然ながら、袁紹軍には袁紹軍の思惑がある。荀攸はそのことをわきまえていた。
 事実、袁紹はすでに一つの動きを見せている。
 自身の本拠地を、南皮から鄴へと移したのだ。
 鄴は章河の上流部に位置する西門豹由来の要地であるが、この際、そういったことは重要ではない。



 重要なことはただ一つ。
 鄴は、南皮よりもはるかに中原に近い、という事実である。



 北海郡に圧力をかけて曹操との対立を深めつつ、自身の本拠地をより中原に近い鄴へと移した。袁紹の狙いがいずこにあるかは童子にでも理解できるだろう。
 くわえていえば、本拠地を移すというのは一朝一夕で出来ることではない。費用も手間も莫大であり、なおかつ事前に周到な準備が必要となる。それこそ冀州を完全に制圧する以前から、袁紹はこのための準備を始めていたのかもしれない。
 だとすれば、それは豪奢で豪快な袁紹らしからぬ周到ぶりであり――だからこそ、恐ろしい、と荀攸は思う。打倒曹操にかける袁紹の強い意気込みが、許昌にいながらにして総身で感じられる。  



 とはいえ。
 この袁紹の動き自体は曹操軍の目論見を覆すものではなかった。
 袁紹が中原に向けて本拠地を動かしたということは、逆に言えば南皮をはじめとした河北北方の防備が薄くなったことを意味する。むろん、相応の守備兵力は残しているだろうが、公孫賛がより動きやすくなったことは間違いない。
 そして、公孫賛が北方で動ける状態であるかぎり、袁紹軍は曹操軍との戦いに全力を注ぎ込むことが出来ない。
 この状況を維持するかぎり、曹操軍に敗北はない。河北の富強を承知してなお、荀攸はそう断言することが出来る。


 ――ただし、それには一つの条件がつく。
 他勢力が動かないかぎりは、という条件が。
 はっきりいってしまえば、袁紹軍と対峙している間に淮南の袁術が動けば、いかに曹操軍といえども存亡の危機に立たされてしまうだろう。
 そして、曹操と袁紹の争いが本格化すれば、袁術が漁夫の利を得ようと動き出すのは火を見るより明らかだった。
 ゆえに――


(まずは、淮南を叩き潰す)
 それが荀攸の考えであった。
 もっと言えば。
 公孫賛を誘う形で築き上げた袁紹包囲網は、これすべて袁術を叩き潰すための布石だったのである。





 策としては、さして独創的なものではない。
 まずは袁紹の誘いに応じる形で北海郡に軍を向け、青州をめぐる対立を袁術に見せ付ける。
 曹操軍は袁紹軍相手に身動きとれず、という状況になれば、袁術軍は曹操軍の後背を突くために動き出すに違いない。袁紹軍とにらみ合っている曹操軍は、この袁術軍の動きに対処できない。そんなことをすれば、袁紹軍の猛攻を背中で受ける羽目になるからである。
 だが、この時に北方で公孫賛に動いてもらえば、袁紹軍はこれに対処するために兵を帰さざるを得なくなり、曹操軍は後顧の憂いなく袁術軍と相対することが出来る。
 こうして袁術軍の主力を淮河流域に釘付けにしている間、許昌の部隊をもって豫州の南部、汝南郡一帯を制圧し、荊州から揚州にまたがる長大な袁術領を東西に分断する。
 しかる後、東西二つに分断した袁術領を一つずつ潰していく。まず狙うのは袁術領である荊州南陽郡。荊州でも随一の人口を誇る要地である。
 この一連の軍事行動が成功すれば、袁術の――仲帝国の国力は半減する。この段階になれば、内応や反乱を画策することも可能だろう。現在、仲に仕える群臣の多くは袁術の強勢にひれ伏しているに過ぎない。国力が衰えれば、おのずと群臣の心も揺れ動くに違いないからである。


 ここが袁紹と袁術の拭いがたい差異である、と荀攸は考えている。
 河北の袁紹、淮南の袁術、共に強大な勢力を誇る強敵のように見える。また、事実そのとおりでもある。
 だが、河北統一でほとんど兵を用いずに名望を高めた袁紹と、淮南攻略で悪名を積み上げた袁術、どちらがより与しやすいかと問われれば、答えは明らかであった。
 攻め易きを攻め、取り易きを取る。すなわち、勝ち易きに勝つこと。
 これが荀公達が主に献じた策であった。






 ただ、むろんというべきか、ここまで上手くは進むまい、と荀攸は考えている。
 特に河北における戦況は不透明だった。実際に公孫賛と麾下の軍勢を見た程昱は、その陣容を賞賛し、公孫賛が一朝一夕で滅ぶようなことはない、と曹操に報告した。だが、程昱といえども河北の戦力すべてを把握しているわけではなく、目算が狂う可能性は否定できない。
 荀攸の策は、公孫賛が袁紹の攻勢をある程度の期間、独力でしのぐことが前提となっている。もし、早期に公孫賛が敗れるようなことがあれば、戦略を根底から見直す必要が出てくるだろう。
 それ以外にも幾つか気になる点は存在する。が、曹操軍の戦略の根底にあるのが偽帝討伐であることは確かであり、荀攸としては、虎豹騎を率いる曹純にそのことを把握しておいてほしかったのである。




 曹純は思わずうなってしまった。
 なるほど、こうして聞いてみれば、別段、奇をてらった策というわけではない。少なくとも、曹純の目には十分に実現可能な策だと映る。
 だが、現在の曹操軍の動きを見て、これが淮南の袁術に向けられた巨大な陥穽であると見抜ける者がはたしてどれだけいるのか。それを思えば、やはりこれを考案した人物に対して畏敬の念を禁じえない曹純であった。


 そんなことを思いながら、ふと曹純は傍らを見た。そこでは許緒がしきりに首をひねっている。
「……あのー、子和様。ぼく、よくわからなかったんですけど、なんで袁紹と袁術、別々に相手するんですか?」
 両方いっぺんに倒しちゃ駄目なのかな、というのが許緒の率直な疑問であった。
 許緒は相手を侮るということをしないが、特に袁術に対しては、恐れるべき何物もない、とごく自然に考えている。
 その判断の根底にあるのは、高家堰砦の戦いだった。
 あのとき、十万を越える袁術軍を寡兵で撃ち破った功労者のほとんどは、今現在、許昌にいる。許緒から見れば、袁術軍を恐れる理由がさっぱりわからなかった。


 曹純はそんな許緒の内心を察したが、今ここで戦略や国力の何たるかを説き聞かせても、許緒には理解しづらいだろう。
 そう考えた曹純は、身近な話題で許緒の考えの危険性を教え諭すことにした。
「それは曹凛様と典韋を同時に怒らせたってへっちゃらです、と言っているのと同じだぞ、仲康」
「うぇッ?!」
 その状況を想像したのか、許緒は幼い顔に一瞬だけ恐怖に似た表情を閃かせた。
 そんな許緒に、曹純は諄々と説き聞かせる。
「覚えておくんだ。世の中には万難を排してでも避けなければならない事態があるんだ、ということを」
 許緒は慌てたようにこくこくと頷いた。今の例えはとてもわかりやすかったらしい。
「わ、わかりました……えっと、そ、そうだ。子和様の怒らせちゃいけない人って誰なんですか?」
 一刻も早く不吉な想像を振り払いたかったのか、許緒がそんな問いを投げかけてくる。
 曹純はしごく真面目な顔でこう答えた。
「私の場合は、そうだな、姉上(曹仁)と優琳姉上(曹洪)、だな。あの二人を同時に怒らせるようなことだけは断じて避けるようにしている」
 まあ片方だって怒らせるとまずいんだが、とは曹純の内心の呟きである。


 だが、その曹純の答えは許緒にとって意外なものであったらしい。
「えー、鵬琳様も優琳様もお優しいですよ?」
 納得いかなそうな許緒に対し、曹純は端的に応じた。
「だからこそ、いざ怒らせると怖いんだ。特に優琳姉上は普段は穏やかな分……あ」
 曹純が慌てて口を閉ざしたのは、周囲の視線を集めていることに気がついたからである。
 だが、その曹純の用心は少し遅かったらしい。
 かつて曹洪と刃を交えたことのある張遼が、両の目に好奇心を溢れさせながら問いかけてきた。
「なんやおもろいこと聞けそうやなあ。子廉(曹洪の字)のやつ、怒るとどうなるん?」
「い、いや、聞いても面白くはありません、張将軍。それに、おそらく言っても信じてもらえないでしょうし」
「そう言われるとますます聞きたくなるわあ。なんやったらちょちょいと怒らせて試してみるさかい、うちにもおしえてーな」
「駄目です。この大事な時に張将軍を失うわけにはまいりませんッ」


 曹純の言葉はいささかならず大げさであった。少なくとも張遼はそう思い、それがこちらの興味をそらすための方便であると考えた張遼は、ますます興味をそそられた。
「子和はケチんぼやな。ほんなら他に知ってそうなんは……って、みんなどうしたん?」
 周囲を見渡した張遼はきょとんとする。この場にいる人間のおよそ半分がうそ寒そうな表情を隠しきれていなかったからである。
 正確に言えば、曹純を含めて荀彧、荀攸、夏侯淵の四人。いずれも並々ならぬ胆力の持ち主であるはずの四人が動揺していた。
 曹洪が怒ったところを見たことのない郭嘉と程昱も、張遼と同じように不思議そうな顔をする。彼女らにしてみれば、常に礼儀正しく、煩雑な任務も文句一ついわずにこなす曹洪が怒る場面を想像できないのだ。
 だが、そんな彼女らの疑問に答えてくれそうな人物は、この場にはいないようであった。







「そ、それはともかく、ですね!」
 慌てたように――否、真実慌てて荀攸が話題を引き戻した。
「いま申し上げたように、私の狙いは袁術殿をつり出すことでした。けれど、今のところ、目的は果たせていないのです。寿春の袁術殿が動かぬゆえに」


 曹操軍は曹仁に加え、夏侯惇、曹洪をも対袁紹戦に備える形で差し向けている。袁術が望んでやまぬであろう曹操と袁紹の激突は間近に迫っている――外から見れば、そのように見えるはずだ。曹操軍内でもほとんどの人間がそう考えているだろう。
 にも関わらず、袁術は寿春から動こうとしない。淮南一帯に動員令を発し、手元に大軍を集めたのは確認されている。現在の仲の国力から推して、その数が十万を下回ることはないだろう。寿春城の内外は仲の軍旗で埋め尽くされているはずであった。
 ところが、それだけの大軍を集めたにも関わらず、袁術軍はこれといった動きを見せていない。
 こちらの思惑を察し、静観を決め込むつもりなのだろうか。


 それならば、それでかまわない、と荀攸は思う。荀攸の戦略上の主敵は袁術であるが、その袁術が動かないことがわかれば、後顧の憂いなく袁紹と戦うことができる。荀攸は袁紹よりも袁術の方が与しやすいと考えているが、決して袁紹と戦うことそれ自体を否定しているわけではない。袁術が静観を決め込むならば、今の段階で河北と激突しても勝算はあるのだ。
 問題なのは、袁術が動かない理由が、静観以外のものであった場合である。
 具体的にいえば――


「洛陽の叛乱、だな」
「はい」
 夏侯淵の言葉に、荀攸はこくりと頷く。
 洛陽の変。すなわち弘農王劉弁の反乱である。巷では洛陽起義だの、西帝だのと呼ばれているようだが、当然、丞相府の中でそんな呼称を用いる者はいなかった。
 今回の戦略を定める段階で、荀攸は洛陽における反乱をまったく予期していなかった。ゆえに洛陽の弘農王らの存在は、曹操軍の戦略を根幹から揺さぶる要因となりえる――少なくとも、この乱を主導した者たちはそう考えていたであろう。
 そして、この乱に袁術が深く関与していることは、すでに確認されていた。


 解池にて、そのことを確認した者の名を北郷一刀という。
 動乱の首謀者であった楊奉の口から、袁術の関与を聞き取った北郷は、許昌に帰還するやその旨を朝廷に報告した。
 この報告をうけて、荀攸らが考えた袁術の目的は次のようなものである。


 洛陽で弘農王を即位させることで、許昌の朝廷の混乱と分裂を謀り、なおかつ先の反董卓連合軍のように、曹操に不満を持つ諸侯を集結させる。
 これが成功すれば、曹操は袁紹、袁術に加えて、洛陽の弘農王と諸侯連合に対して兵を割かねばならなくなり、許昌から身動きがとれなくなる。袁術としては淮河を渡って徐州、兌州を侵すも、あるいは汝南から北上して陳、梁といった豫州北部の曹操領を奪うも思いのまま。それこそ一気に許昌を突くことも可能であろう。
 それゆえ、袁術が弘農王の乱を画策したという話は信憑性があった。というより、北郷が報告する以前から、丞相府では袁術の名が挙げられており、北郷の報告はそれを補強する役目を果たしたのである。




 だが、袁術の狙いが、かつての董卓の乱の再現だとするならば、その目論見はまったくといっていいほど成就していなかった。
 なるほど、たしかに弘農王の反乱は予想だにせぬ出来事であり、朝廷は蜂の巣をひっくり返したような騒ぎになっている。が、言いかえればただそれだけなのだ。
 洛陽は先の大乱で荒廃しており、都市としての価値は無に等しい。弘農王は虎牢関をとざして許昌からの攻撃に備えているが、荒廃した洛陽に立てこもったところで、事態を打開できるはずもない。
 また、弘農王が発した檄文に応じた諸侯は涼州の馬騰ただ一人。それも馬騰みずからではなく、娘の馬超に配下の騎兵一万を与えて動かしたのみで、明らかに本気の出撃ではなかった。むろん、西涼騎兵の機動力は脅威だが、汜水関に兵をこめれば、これを掣肘することは難しくない。
 つまるところ、政治的にも、軍事的にも、洛陽の反乱軍は曹操軍にとって脅威とするに足る要素を持っていないのである。
 事実、曹操軍が洛陽勢に対するために汜水関に集めた兵力はわずか一万のみ。袁術軍にしてみれば、謀略に費やした労力に見合わない成果としか言いようがないだろう。




 むろん、さしたる脅威ではないから、という理由でいつまでも洛陽勢を放っておくことはできない。いずれは討伐軍を差し向けることになろう。
 しかし、弘農王らが短時日のうちに許昌の脅威になるとは考えにくく、袁紹、袁術に先んじて洛陽に兵を向ける理由はどこにもない。
 もし、袁術がいまだに洛陽勢になんらかの期待をしており、それゆえに寿春から動かないのだとすれば、ずいぶんと情勢に疎いと言わざるを得なかった。
 ただ、荀攸はこの件に関して、一つだけ気になっている――否、はっきりと不安を抱いていることがあった。北郷一刀が解池の動乱について報告した際に口にした、とある存在。袁術軍や洛陽勢の裏で蠢く彼らのことを、北郷はこう呼んでいた。
 ――方士、と。



「……北郷さんは、解池の動乱で方士なる存在が蠢いていた、と言っていましたが」
 荀攸がつぶやくように言葉を発すると、それを耳にした荀彧が、ふん、と鼻を鳴らした。
「本当かどうか怪しいものよ。実際、賊の中に方士のことなんて知っている奴らはいなかったでしょ。その存在を主張しているのはあの男と、賊の首魁の娘だけ。とうの首魁は焼け死んでいるんだから、確かめようもないわ。少しでも罪を分かとうとして、適当な黒幕をでっちあげたんじゃないかって疑いたいくらいよ」
 

 それを聞いた途端、曹純が眉根を寄せ、荀彧に向かって何事か口にしようとする。
 その曹純の動きを、それとなくさえぎったのは郭嘉であった。
「罪を分かつのが狙いであるなら、もっと信憑性のある話をするのではありませんか。空中からいきなり姿をあらわしただの、鳥のように宙を飛んだだの、言葉一つで人間を操っただのといった話をしたところで、疑われるのは目に見えているのですから」
 そう言ってから、郭嘉は小さく肩をすくめる。
「そもそも、北郷殿には功こそあれ罪などありませんし、徐晃殿にしても皇甫嵩将軍の件をご自分で話された上で、罪に服すると言っておられるのです。その二人が罪を分かつために方士なる存在をでっちあげるとは思えません」
 その郭嘉の言葉に、うむまったくそのとおり、というように頷いたのは曹純と許緒、ついでに張遼の三人である。
 対して、荀彧はむすっと口を引き結ぶだけだった。反論の余地がない、というよりは、荀彧としてもその程度のことは承知していたのかもしれない。


 為人に圭角を宿す荀彧だが、讒言や誹謗の類を口にすることはまずない。ないのだが、こと相手が男性となると、多少たがが外れる面があり、郭嘉や荀攸はひそかにこの点を気にかけていた。郭嘉が曹純の言葉をさえぎったのも、これが理由である。
 もっとも、荀彧はそれと指摘されれば渋々ではあっても改めるので、二人ともさして深刻に考えているわけではなかった。
 付け加えれば、荀彧は大抵の男性については、毛嫌いするというより眼中にないという感じで相手にすらしないのである。
 荀彧がくってかかる男性は、基本的に曹操の傍近くに近づこうとする者、もしくは逆に曹操が興味を惹かれた者だけであった。


「……姉様」
 この時も、荀彧は訴えるような荀攸の眼差しに根負けし、自身が言い過ぎたことを認めた。
「ああ、もう、悪かったわよ。まあ方士云々に関して信じらんないのは本当だけど、適当な黒幕をでっちあげたってのは取り消すわ」
 それを聞いた荀攸がこくりとうれしそうに頷くと、にやにやと笑いながら張遼が口をはさんできた。
「あっはっは、男嫌いの文若(荀彧の字)も、泣く子と妹にはよう勝てんか」
「うっさいわよ、文遠(張遼の字)ッ!」
「おお、こわ。しっかしまあ、方士なんちゅうもんを信じられんのは、ウチも文若と一緒やわ。一刀はともかく、公明(徐晃の字)が苦戦したってのも信じられへんしなあ」


 北郷たちが解池から戻った際、早速徐晃とやりあった張遼は、白波賊の頭目であった楊奉の娘、徐晃、字を公明という少女の実力をかなり正確に把握していた。
 巨大な戦斧を苦もなく操り、張遼の飛竜偃月刀と真っ向から渡り合った膂力と技量は瞠目に値する。馬上にあって張遼にひけをとらない武人は中華全土を見渡しても数えるほどしかいないが、あの少女は疑いなくその中の一人であった。
 しかも、話してみれば真面目さの中に、からかい甲斐のある初心な面も持っており、張遼はほとんど一目で徐晃のことを気に入ったのである。
 張遼は徐晃と知り合ったその日のうちに曹操のもとに赴くと、徐晃の罪をすべて許して麾下に招くように説いた。あの娘はそうするに足る人物だ、とそれはもう熱心に。


 それほどに徐晃のことを買っている張遼からすると、その徐晃が方士などという得体の知れない相手にあわや討たれるところであった、などという話には懐疑的にならざるを得ないのである。
 実のところ、これに関しては曹純や許緒なども張遼と同様の感想を抱いていた。北郷らの話を疑っているわけではないのだが、その言うところのすべてを信じるのは難しい。そんなわけで丞相府では、方士の存在についてはともかく、その不可思議な力については懐疑的な見方が主流であった。


「まあ、当のおにーさんが『俺も自分の目で見てなきゃ信じられなかっただろうから、仕方ないよ』なんて苦笑してたくらいですからねー。風たちが半信半疑でも仕方ないと思うのですよ」
 程昱がそう言うと、郭嘉も頷いた。
「そのような得体の知れない力を縦横に振るうことができるならば、とうに歴史の表舞台に出てきているはずです。だが、実際はそうではない。であれば考えられるのは、方術なるものはただのまやかしであるか、あるいはそこになにがしかの力が秘められているとしても、それを振るうためには相応の準備ないし条件が必要である、ということです。実際、北郷殿の前で方士はそのような言葉を吐いていたそうですし」
 それゆえ、過度に警戒する必要はない、というのが方士に対する郭嘉の見解であり、それは他の面々も同様であった。
 ただし――



 
「――無視するには厄介な相手です」
 荀攸がそう口にすると、周囲の空気がわずかに下がったように思われた。
「方士なる存在が今回の乱に絡んでいるのだとすれば、不可解であった幾つかの疑問が解決します。宮中の奥深くにおられた弘農王様や何太后様が、どうやって洛陽まで逃れることができたのか。司馬伯達殿(司馬朗)が手引きしたと言われてはいますが、北部尉の官職では宮中を自由に歩くことなどできません。まして、その奥深くにおられたお二方を、近臣ともども煙のごとく、誰にも見つからないままに城外へ連れ出すなど不可能です。実際に事が起きてしまったため、手口の追求に関しては等閑にされてしまっていますが……」
 荀攸の言葉を、荀彧が引き継ぐ。
「方術なんてものが実際にあるとしたら、別に難しいことではなかったでしょうね。そもそも、仮にも太后ともあろう方が、いきなり姿を現したやつの言うことを聞くとも思えないから、ずっと以前から宮中の内と外で連絡をとりあっていたんじゃないかしら。それとも、いきなり傀儡にされてしまったのかしらね。あいつも、確かそんなことを言ってたわよね。方士が一言つぶやいたら、楊奉がいきなり木偶人形みたいになってしまったって」


 突然に方士があらわれ、得体の知れない力で意思を奪い去り、相手を傀儡に仕立て上げる。
 その情景を想像した幾人かは、それが我が身におきた場合のことを思って背筋に冷たいものを覚えた。刺客が持つ武器であればどうとでも対処できるが、方術などというものを相手にした時、どのように対応すれば良いのだろうか。


 だが、そんな寒気を覚えた者たちの耳に、再びのんびりとした程昱の声が流れ込んできた。
「そんなに気にすることはないと思いますよー。それができるなら、それこそすぐにでも華琳様や風たちのところにやってくるでしょう。それをしないということは、稟ちゃんの言うとおり出来ない理由があるということなのです。もちろん、公達ちゃんのいうように無視するには厄介な相手なので、いずれしっかりと調べる必要があるのは確かですが、今は目に見える相手をしっかりと見据えておくべき時だと思うのですよ」
 目に見える相手――袁紹、袁術、そしてそれ以外の群雄たち。彼らだとて、十分すぎるほどに厄介な相手なのだから。それこそ、影でうごめく方士などとは比べるべくもないほどに。



 その程昱の言葉を聞いた者たちは、はかったように一斉に頷いた。
 まさしくそのとおりだったからである。







 その時、荀攸たちの耳に時ならぬ騒音が飛び込んできた。
 いまだ曹操は姿を現していないとはいえ、朝会の場で騒ぎを起こすなど懲罰ものである。
 可能性は低いが、刺客の類かもしれない。そう考えた曹純と許緒は同時にその場を駆け出した。夏侯淵が残ったのは、万一の場合、荀彧らを守るためである。曹操の傍らには常に典韋がいるため、そちらの心配をする必要はなかった。
 だが、幸いにもこれは杞憂であった。
 騒ぎの中心に駆けつけた曹純と許緒の二人が見たのは、丞相府の衛兵に支えられた急使の姿であった。よほどに遠くから、夜を日に継いで駆けてきたのだろう。その顔は汗と砂塵にまみれ、ひげは伸び放題であり、年齢の見当すらつけられない。まとう服も襤褸同然であり、周囲には表現しがたい異臭が漂っていた。


 衛兵がついている以上、刺客の類でないのははっきりしていたが、こんな格好の人物が朝会の場に入り込んでくれば、戦塵の経験を持たない文官たちが騒ぐのも当然であったろう。
「丞相閣下への急使だな」
 使者の様子を見た曹純は、余計なことは問わず、ただそれだけを口にした。
 衛兵が頷いたのを確認すると、曹純は衛兵に任務に戻るように伝えると、自らの官服が汚れることも厭わず、砂塵まみれの使者に肩を貸し、部屋の中央へと連れて行こうとする。
 左右から制止の声がかけられたのは、いかに急使とはいえ、あまりに汚れきった格好を見咎めたからであろう。


 だが、曹純がそれに反論するより早く、彼らを押さえる声がその場に響いた。
「かまわないわ、子和。その者、こちらに連れてきなさい」
 いつの間に来ていたのだろう。群臣の視線の先には、丞相たる曹操の姿があった。
 曹操が認めた以上、曹純を咎めることが出来る者はどこにもいない。
 曹純に連れられた使者は、曹操を前にすると、くずおれるように床に跪いた。
 使者は震える手で懐から書状を取り出すと、無言のままに曹操に差し出した。無言であったのは、過度の疲労と渇きゆえに声が出なかったからである。
 曹操の手に書状が渡ったのを確認するや、使者は安堵したように頭を垂れ――そのまま、床に崩れ落ちてしまった。
「誰か、この者を連れて行きなさい。手厚く遇するように」
「丞相閣下、私が……」
 曹純が言いかけたが、曹操はみなまで聞かずにかぶりを振った。
「使者が命をかけて届けてくれた報よ。その内容がなんであれ、将軍たる身には聞く義務があるでしょう」
 もはや曹純は一介の武官ではない。虎豹騎の将として、丞相府の重臣として、事の軽重をわきまえなさい、という曹操の言葉に、曹純は一言もなく頭を下げるしかなかった。
「申し訳ございません。浅慮を申し上げました」
「兵を思いやる心は得がたいもの、浅慮とは思わないわ。ただ、この者の思いを汲むならば、あなたはここにいるべきでしょう」
「御意にございます」


 そのやりとりの間に、幾人かの衛兵たちによって使者は別の部屋へと運ばれていった。
 曹操は渡された書状の封を破り、すばやく内容に目を通す。
 群臣一同は、そんな曹操の姿をじっと見つめている。
 何か重大なことが――それこそ中華帝国を震撼させるような事態が起きたのだ、とはこの場にいるすべての人間が予感するところであった。




 そして、その予感は正しかった。
 書状の送り主は陳登、字を元龍。元は徐州牧であった陶謙の配下であり、曹操の徐州侵攻に際して曹操に降伏、以後はその配下となった人物である。
 陳登は先ごろ臨淮郡太守から広陵太守となり、淮河以南で唯一、曹操に属している広陵へと赴任した。いわば、対袁術の最前線を任せられたのである。
 その陳登のもとに、先日、予想だにせぬ報せが舞い込んできた。事にのぞんでは冷静沈着、その思慮の深さを世人に賞賛される陳登であったが、その報せを聞くや数瞬の自失を余儀なくされた。それほどに衝撃的な報せだったのである。


 陳登は我に返るや、すぐに急使を仕立て、許昌の曹操のもとに差し向けた。証拠のない、つまりは風聞の段階で曹操の耳にいれることにためらいがなかったわけではないが、事の重大性が陳登のためらいを押し流した。
 それが事実なのか、あるいは謀略の類なのかはわからない。だが、ひとたび耳にした以上、主君の耳にいれないわけにはいかなかった。


 ――袁術領である揚州九江郡に合肥という城、というよりも砦がある。仲の国都である寿春の南、長江と通じる巣湖の北に位置するこの小砦において、袁術配下の武将の一人が謀反を起こしたのである。
 その武将の名は呂布、字を奉先。
 すなわち、先の淮南戦役において、袁術配下の将として奮迅の活躍をなした飛将軍、その人であった……









◆◆◆








 司州河内郡 汜水関


「なあ、北郷。私たちに課せられた任は、この汜水関を守ることだ」
 隣に立つ張莫が、突然そんなことを言い出した。俺としては、何でいまさらそんなことを、と思いつつも、こう返答せざるを得ない。
「は、はあ、そのとおりですが……?」
「しかし、だ。彼方に聳え立つあの虎牢関、別に陥としてしまってもかまわんのだろう?」
「そら陥とせるものなら陥としてもかまいませんが……」
 ようやっと敵の追撃を振り切って汜水関に逃げ込んだばかりの今、その台詞は負け惜しみ以外の何物でもありませんよ、張太守。


 俺の呆れた視線を歯牙にもかけず、張莫はいっそ爽やかと形容したくなるような笑みを浮かべた。
「はっはっは、やはり西涼騎兵は手ごわいな」
「というか、わずか数百で虎牢関に挑めば、相手が誰であれ、こうなるのは確実なんですが……」
「これは異な事を聞く。正面から突っ込むという策を口にしたのは宇宙大将軍殿ではなかったか?」
「敵の陣容を知るためには、それが得策だと考えたのであって、真っ向から虎牢関を陥としましょうと申し上げたわけではありません。その際にこうも申し上げたはずです。引き際は見誤らないように、と」
 張莫が口にした妙な称号については聞かなかったふりを決め込む俺だった。


 


 虎牢関に立てこもる叛乱軍の詳しい情報――指揮官、総兵力、錬度、その他もろもろ――を得るべく、司馬家の私兵を中心とした少数の軍勢で敵に突っかけたのが昨日のこと。
 結果だけを言えば、張莫との会話にあったようにこちらの完敗であった。とはいえ、実際には錦馬超率いる西涼軍とはほとんど矛を交えていない。目的はあくまで情報を得ることであって、西涼軍が前線に出てくるや、俺たちはさっさと馬首を返したのである。兵力をすべて騎馬兵でそろえたのも、逃げ足を早めるためであった。
 ……まあ途中、何を思ったか、いきなり張莫が嬉々として西涼騎兵に突出したりしたせいで、危ない局面もあったりしたのだが、とりあえず無事に逃げ切れたからよしとしよう。
 それに、張莫はなにやら韜晦しているようだが、何の思慮もなく、兵士を危険にさらすようなまねをする人物とも思えない。おそらく、張莫にはあれをしなければならない理由があったのだろう。まあ、それが何なのかはさっぱりわからないのだが。


 ともあれ、虎牢関の城門前で最初にぶつかった敵部隊(西涼軍とは別の部隊)から、幾人も捕虜を得たことで、張莫率いる曹操軍は、敗れたとはいえしっかりと目的を果たしていた。
 現在の虎牢関の守将の名は樊稠(はんちゅう)。元は董卓軍に属していた人物であるが、李確、郭汜と同心していたというから、為人も推して知るべし、という感じだろう。
 この樊稠ともう一人、張済という武将がいるのだが、彼らは董卓軍が敗れた後、洛陽や許昌での騒乱を尻目に、弘農郡で勢力を養っていたらしい。一時は長安のあたりまで勢力を伸ばしていたそうだが、その後は他の勢力との間で勝ったり負けたりを繰り返していたところ、今回の洛陽の乱が起きた。


 これを好機と見て自分たちを売り込んだのか、あるいは洛陽側から誘いがあったのかは定かではないが、樊稠はおよそ三千の兵力をもって洛陽勢に投じ、虎牢関を任されるに至った、ということだった。
 ちなみに張済の方は弘農郡を動いていないらしい。張済と樊稠の間には何らかのわだかまりがあったのか、それとも洛陽勢の出方をうかがうため、あえて別々の行動をとったのかはわからないが、ともあれ、敵将の名と正確な兵力がわかったのは大きい。
 この樊稠の三千の兵力に洛陽でかきあつめた二千の兵力を加えたのが先日までの虎牢関の守備兵であり、そこに馬超率いる西涼騎兵一万を加えたのが、今の虎牢関の総兵力であった。




「汜水関を攻めるにせよ、虎牢関を守るにせよ、そこに西涼騎兵をあてるあたり、洛陽の奴ら、間抜けとしか言えないわね」
 機動力が取り得の騎兵に、砦の攻撃ないし守備を任せてどうするのか、と張莫は辛辣な言を吐く。
 俺も同感であったが、一応異論を唱えてみた。
「洛陽で無駄飯を食わせておくよりは、前線で戦わせた方が良いと判断したのではありませんか? 現在のところ、戦端が開かれているのはここだけですから」
「諸侯の中でただ一人、檄文に応じて参集してくれた西涼勢を使いつぶすようなまねをするなら、それは別の意味で間抜けとしか言いようがないわ」
 ふん、と鼻を鳴らす張莫。
 これには俺も反論の余地がなかった。ただ、そんな間抜けばかりが集まった洛陽勢が、どうしてあの曹操たちを出し抜いて叛乱を起こせたのか、という疑問はどうしても付きまとうのだが。





◆◆





「やはり、あの方士たちの仕業、ということでしょうか」
 汜水関の一室で、そう俺に向かって言ったのは、亜麻色の髪と琥珀色の瞳、ついでに俺では両手でも持てそうにないくらいの、えらくでっかい斧を持つ少女である。
 徐晃、字を公明。やがては曹操麾下の武将として、大陸全土にその名を馳せることになるであろう人物――なのだが、何故だか今は俺と行動を共にしてくれている。
 いわく『恩返しです』とのこと。
 徐晃が恩というのは、おそらく楊奉との一件であろう。それはわかったが、俺としては恩を着せるつもりなどなかったし、そもそも楊奉があのような最後を迎えてしまった以上、恩だの借りだのいう以前の問題だ、とも思う。


 俺は徐晃にそう言って、気にかける必要はないと伝えたのだが、徐晃はしずかにかぶりを振るばかりで、結局こうして行動を共にすることになってしまった。
 司馬孚もそうなのだが、なんで俺の知り合いはこうも義理堅い人ばかりなのだろうか。徐晃の真名である鵠は白鳥の別称でもあるというが、別段、鶴を意味する言葉ではなかったはず――などと妙なことを考えていると、黙ったままの俺の態度が気になったのか、徐晃が怪訝そうに俺の顔をのぞきこんできた。琥珀色の瞳が灯火を映し、一瞬、宝石のように煌いて見えた。
「北郷さん、どうかしましたか?」
「……へ? あ、や、なんでもないですッ」
「そう、ですか? もしや退却の途中に怪我などしていたりは?」
 こちらを案じてくれる徐晃に対し、俺はあわてて大丈夫である旨を告げた。
「大丈夫です。まあ公明殿がいなかったら、どうなっていたかわかったものではありませんが」
「お役に立てたのであれば幸いです」


 なんでもないことのように言って姿勢を戻す徐晃。その挙措は落ち着いたもので、たまにうっかりをしでかす時との落差が、この目で見てもまだ信じられない。
 そんな俺の内心を知る由もなく、徐晃の口からもう一度同じ問いが発された。
「やはり、洛陽の件も、あの方士たちの仕業なのでしょうか?」
「関係があるのは間違いないでしょうね。実際、こうして叛乱が起きている以上は」
 解池で遭遇した方士に関して、俺は自分に関わることをのぞき、すべてを曹操に伝えている。
 だが、案の定というか何と言うか、その報告は多くの人から疑いの眼差しで見られる羽目になった。
 それゆえ、件の方士に関して、まともに相談できるのは徐晃くらいなのである。
 これは徐晃にとっても同じことが言えるようで、時折、俺たちは互いの意見を交換していた。
 もっとも、あれ以来、方士が俺たちの前に姿を現すことはなく、方士の存在を知る者も見つかっていないため、どれだけ二人で考えこもうと、確たることなどわかるはずもなかったが。


 俺は考えつつ言葉を続けた。
「方士については、当面は気にしても仕方ないでしょう。解池のときも、あれらが姿を見せたのは最後の段階でした。であれば、今回もおそらく――」
「洛陽での叛乱が終わる前後に出てくる、と?」
「何の証拠もないことですけどね。探して見つかる相手ではない以上、向こうから出てくるのを待つしかありません」
 実際、口で言うほど達観しているわけではなかったが、大筋において嘘はいっていない。
 それに、俺としては、連中よりももっと気になる相手がいる。


 言うまでもなく、司馬朗と司馬懿の姉妹のことである。
 あの二人が今回の叛乱にどの程度関わっているのかはわからない。だが、もしあの人たちが主体的に動いているのなら、現在の洛陽勢のお粗末さが説明できないから、さほど深く計画に関わっているわけではない、という推測はできる。
 だが、だからといって安心できるものではない。


 先に捕虜にした敵兵の情報によれば、現在、洛陽を実質的に取り仕切っているのは、袁術領の南陽郡太守である李儒、字を文優という人物だという。
 元々、今回の叛乱における袁術の関与を朝廷に報せたのは俺だったが、この情報はそれを確定づけるものであった。張莫はすでに許昌に向けて使者を走らせている。
 俺としては李儒の名に警戒を禁じえなかった。
 元の時代の知識は措くとしても、その為人については、小沛にいた頃に賈駆から聞かされている。優れた才能と、その才能に相応しからぬ歪んだ器。為人に圭角を宿す賈駆はともかくとして(などと言ったら引っぱたかれそうだが)、あの優しくて柔和な董卓でさえ、自分の臣下である李儒に対し、完全な信頼を置けなかったという。それだけで、ある程度、李儒という人物の危うさを知ることが出来る。
 実際、李儒は董卓たちを裏切り、王允に与した挙句、どこをどう転がったのか袁術麾下の南陽太守に収まっているのだから、賈駆がことさら李儒の人格を貶めたとは言えないだろう。


 そんな人物が、弘農王を擁して洛陽にいる。
 そして、伏魔殿と化したかつての帝都に司馬懿たちがいる。
 事態がどう転ぶにせよ、ただで済むはずがない、という予感だけは今この時も、ひしひしと俺の胸を苛んでいた。
 そんな俺を、どこか気遣わしげに見つめる徐晃の視線にも気づかず、俺はひとり考えに沈むのだった……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/01/08 01:32

 司州河内郡 虎牢関


「しっかし、結局何しに来たんだ、あいつらは?」
 自身の愛馬の身体を洗いながら、そう口にしたのは馬超、字を孟起という名の少女だった。
 化粧一つしていないはずなのに、その肌は絹のごとく滑らかであり、唇は紅を差したように紅い。馬超の母である馬騰は西方の羌族の血を引いており、当然のように馬超にも羌族の血が色濃く流れている。鋭すぎるほどに鋭い眉目はこのためであろうか。
 とはいえ、それは馬超の容姿を引き立てこそすれ、他者の忌避を招くようなものではなかった。瀟洒な衣装で着飾れば、どこの高家の姫君か、と見る者を感嘆させる艶姿に変じるのは間違いない――もっとも、従妹の馬岱などに言わせれば「黙って立っていればって条件がつくけどね」ということになる。
 この評からも察することができるように、馬超は自ら望んで着飾ることはほとんどない。城の奥で女官に髪を梳かれるよりも、城外で兵士と共に馬を走らせることを好む為人だ。
 溢れんばかりの覇気を瞳に映し、白衣白甲を身に着けて颯爽と草原を駆ける馬超の姿を見れば、その異名たる『錦馬超』が決して阿諛追従の類ではないことが理解できるだろう。


 その馬超が首を傾げているのは、先日、虎牢関に来襲した曹操軍の行動を訝しく思ってのことである。
 馬超が悩むのも当然といえば当然であった。敵の主将である張莫が、わずか三百騎たらずの兵で正面から虎牢関に押し寄せてきたのだから。
 馬超としてはわけがわからぬながら、敵将に槍をつける好機である。張莫を討ち取ることが出来れば、一気に汜水関を陥とすことが出来るかもしれない、とも考え、すぐに出陣しようとしたのだが、これは虎牢関の守将である樊稠に止められた。
 樊稠としても、張莫の突出は千載一遇の好機と映ったのだろう。「西涼軍は遠路はるばるやってきたばかり。疲労が溜まっているゆえ、ここは自分たち弘農勢に任せられよ」との言葉は、おためごかし以外の何物でもなかった。


 馬超としては、この程度の騎行で西涼軍がへたばるものか、と言い返したかったのだが、その言葉はなんとか咽喉元でおしとどめた。樊稠はまがりなりにも上官であり、これに歯向かえば、西涼軍そのものが洛陽の朝廷から罪に問われてしまう。馬岱が洛陽に残っている今、そのようなまねは出来なかった。
 もっとも、出撃した弘農勢は、騎兵で統一された曹操軍に引っ掻き回された挙句、敵の女将軍たち――敵将の張莫と、もう一人、名前は不明ながら大斧を振り回していた少女――に幾度も痛撃を被り、たまりかねて馬超たち西涼軍に出撃を命じてきたのだが。


 馬超としては樊稠に対して色々と言いたいことはあったのだが、敵が攻め込んできている今、内輪で争っていては敵を喜ばせるだけである。それに、西涼軍の実力を敵味方に知らしめる意味でも、ここで曹操軍を叩いておくことには意味がある、と考えた。
 かくて、気合をいれて虎牢関を打って出た馬超であったが、すぐに拍子抜けすることになる。西涼軍の姿を見た敵が、ほとんど間髪をいれずに退却を始めたからだ。
 その逃げっぷりはいっそ見事なほどで、西涼軍の足をもってしても、敵を捉えることは不可能であった。より正確に言えば、何度か敵の背に手が届きかけたことはあったのだが、その都度、先の二将が西涼軍の追撃を払いのけてしまったのである。中でも張莫などは、退却の最中に面と向かって馬超を呼び出し、さては一騎打ちを望むのか、と勇躍して飛び出した馬超を前にこんなことを言い出した。



◆◆



「ほう、貴公が西涼の錦馬超か?」
 緋色の髪を靡かせながら、緊張感というものをまるで感じさせずに問いを向けてくる張莫。
 だが、張莫と相対した馬超は、その姿に油断できないものを感じ取っていた。陽気に眩めく瞳の奥に、相手の端倪すべからざる覇気がはっきりと見て取れたのだ。
 むろん、他者に気圧されるような馬超ではない。正面から張莫の視線を受け止め、高らかに名乗りをあげる。
「ああ、西涼の馬騰が娘、馬孟起とはあたしのことだッ! そういうそっちは、陳留の張莫だな?!」
「いかにも。漢の丞相曹孟徳が麾下、陳留太守張孟卓だ」
 そういうと、張莫はどこか楽しげに微笑んだ。
「ふむ、思ったよりもずいぶんと激しい為人だな。戦意を外に示し、感情を内に秘める――そんな人物だと思っていたのだが」
「は、そっちがどう思おうと、あたしにはどうでもいいことだ」
「道理だな。では、用も済んだことだし、私はここで失礼するとしよう」
「……へ?」


 思わず、馬超はぽかんと口を開けてしまった。人を名指しで呼び出しておきながら、何を言い出すのか、そう思ったのだ。
 だが、そんな馬超に構わず、張莫は本当にくるりと馬首を返してしまう。
「ちょちょ、ちょっと待て?! 一騎打ちするんじゃないのか?!」
「ん、そんなことを言った覚えはないが? 錦馬超相手に、一騎打ちで勝てると思うほど自惚れてはいないぞ」
「じゃあなんであたしの名前を呼んだんだよ?!」
「遠く西域から、はるばる陳留にまで名声の轟く錦馬超とはいかなる者や、と興味があったのでな。で、その顔も見られたし声も聞けた。用は済んだので、さらばと告げた。何かおかしいか?」
「お、おかしいも何も、勝手なことばかり言うな! 将たる者が戦場で向き合って、用は済んだからさよならなんて、それこそおかしいだろ?!」
「『そっちがどう思おうと、あたしにはどうでもいいことだ』、そうではなかったか、孟起殿?」
「ぐ……」


 先の自らの発言をそっくり言い返され、思わず馬超が口ごもる。
 張莫はひらひらと手を振り、これが最後、とばかりに顔だけを馬超に向けて言い放った。
「文句があるなら追ってきてもかまわないぞ。ああ、そちらの厳ついおじ様に私を射るよう命じるのも一手ではあるな」
 張莫が口にしたのは、馬超を守るように背後に控えていた鳳徳のことである。その並々ならぬ騎射の腕前を、張莫は退却の最中に一度ならず目にしていたのだ。
 敵将を背後から射るのは卑怯――などと馬超は思わなかった。これが戦場の外ないし戦が始まる前ならば話は別だが、今は戦の真っ只中、しかも仕掛けてきたのは相手の方なのである。
 敵の背後を狙うのが卑怯なのではない。敵に背中を見せる相手が間抜けなだけだ。
「言われなくても! 令明!」
「承知」
 打てば響く、との言葉そのままに、馬超が命令を下すや、鳳徳は即座に弓を構えた。馬上、弓を放つ動作は、その巨躯からは想像できないほどに滑らかであり、張莫から見ても無駄な動作がまったくといっていいほど見て取れなかった。
 流麗、という言葉が張莫の脳裏をよぎる。
 張莫の視線の先で、鳳徳は弓を満月のごとく引き絞り――そうと見えた時には、すでに矢は一直線に張莫の背へと迫っていた。


 互いの声が届く距離である。鳳徳にとっては目を瞑っていても当たる距離だ。
 矢は正確に張莫の身体の中心を捉えており、多少身体をひねった程度では避けることは出来ないだろうと思われた。
 実際、張莫が避けようとしなかったのは、この距離ではそれをしても無駄だ、とわかっていたからである。
 そして、張莫はもう一つのこともわかっていた。つまり、わざわざ避けるまでもなく、この矢が自分の身体に届くことはないのだ、ということが。



 ――不意に、張莫の眼前に人馬が躍り出る。
 その人物が持っていた長大な得物を一閃させると、轟、と大気そのものを断ち切るような音があたり一帯に木霊した。
 むろん、人の身で大気を断ち割るようなまねが出来るはずはない。実際に断ち切られたのは、鳳徳が放った矢であった。


「む……」
 張莫の後背を守るように姿を現した少女を見て、鳳徳がかすかに驚きの声をあげた。少女の容姿が、どこか草原の民を思わせるものであったからだ。
 戸惑う鳳徳の耳に、張莫たちの会話が届く。


「ありがと、公明」
「礼などいりませんので早く退いてください、太守様ッ! どうして総大将が殿軍で、敵将と向かい合っているんですか?! 北郷さんが顔を真っ青にしてましたよッ」
「これもまた戦局を打開するために必要なことなのでな。北郷には悪いが、無茶をさせてもらった」
「ならせめて護衛を引き連れて来てください! 私が来ていなかったらどうなさるおつもりだったんですか!」
「当然、自力でなんとかするまでだが?」
「……何故でしょう。陳留の方々の日ごろの苦労が、手に取るようにわかった気がします」
「ふむ、ならばちょうどいい。北郷ともども正式に私のもとに来ないか?」
「お誘いはありがたいのですが、時と場所をわきまえてくださいッ!」


 そう叫ぶ少女の名が、徐晃、字を公明ということを、馬超と鳳徳の二人が知るのはもうしばらく先のことであった……



◆◆



 その時のことを思い起こしながら、馬超は苦い表情を浮かべる。
「なんだかんだで逃げられたが、よく考えると連中は何しに来たんだ? まさかあれっぽっちで虎牢関を陥とせると思っていたわけじゃないだろうし」
 その馬超の疑問に答えたのは、隣で同じように愛馬を洗っていた姜維である。
 西涼軍の軍師として馬超に付き従う少女は、黒絹の布で結わえた髪をかすかに揺らしながら口を開く。
「小手調べ、というところではないかと」
「んー? 小手調べで虎牢関に向けて突っ込んでくるか、普通? それは勇は勇でも匹夫の勇ってやつだろう」
 めずらしく、馬超の口から難しい言葉が出てきたので、姜維はわずかに目を見開いた。
「寿成様(馬騰の字)の教育の成果が如実に出ているようで、喜ばしいかぎりです。もっとも、それを承知していらっしゃるならば、あの状況で敵将の前に身を晒すようなまねは慎んでいただきたかったですが」


 姜維は敵味方の将が陣頭で口舌の刃をかわし、あるいは一騎打ちを行うことを否定はしない。ただし、それはそうするに足る理由がある場合だけだ。
 昨日の戦でいえば、味方は一万、敵は三百、西涼軍の大将が陣頭に出て行かねばならない理由はどこにもなかった。もし、馬超が討ち取られていれば、それこそ大敗の要因となりえただろう。
 言葉や物腰こそ丁寧だったが、つまるところ、姜維は馬超に向けてこう言っているのである。
 ――匹夫の勇とか敵将に向けて言えた義理か、と。


 姜維と馬超はそれこそ子供の頃からの付き合いである。
 当然のように、馬超は姜維が言わんとすることを察した。姜維がけっこう怒っていることも。
 額に嫌な汗がにじみ出るのを自覚した馬超は、慌てて釈明を試みる。
「い、いや、でもだな、名指しで呼ばれたら、出て行かなきゃまずいだろ?! 馬超は臆病者だ、なんて言われたら西涼軍の武威にも傷がつくし……」
「翠様」
「な、なんだ……なん、で、しょうか?」
「今の翠様は西涼軍の一武将ではありません。総大将なのです。常にもまして自重してください、と度々もうしあげてきたはずです。たしかに翠様の武は中華でも屈指です。しかし、武の力量のみで生き抜けるほど、戦場は甘いものではない、と寿成様も仰っていたではありませんか。涼州での戦と中原での戦はおのずと違いましょうし、罠や詐謀の類を用いてくる者もおりましょう。翠様が倒れてしまえば、西涼軍もまた倒れてしまいます。総大将であるとは、すなわちそういうことなのです。ゆえに――」
「すまん! 悪かった、次からは自重するから、そのへんで勘弁してくれッ」
 放っておけばいつまでも続きそうな姜維の説教攻めに、馬超はたまらず音を上げた。ついでとばかりに両手も挙げて降参の意を示す。
 何故だか、馬超の愛馬も申し訳なさそうに、ひひん、と小さく嘶くのだった。




 そんな主従(?)を見て、さすがにあわれに思ったのかどうか。
 姜維はしばらく黙っていたが、やがて一つ息を吐くと、舌鋒を収めた。
「……わかりました。今日のところはこのあたりで。ただし、もしも同じことを繰り返すようならば、その時は相応の対処をさせていただきますよ? 具体的には、令明様にお願いして本陣から一歩たりとも出られぬようにいたしますからね」
「い、一応、総大将はあたしなんだが……」
「問題ありません。寿成様には出陣前に許可をいただいております。『翠が総大将たる責務を果たせぬと判断したときには、皆で最善と信じる行動をとるがよい。なんだったらあの猪娘は縛り上げて本陣に転がしておき、令明か鞘、あるいは蒲公英(馬岱の真名)が指揮をとってもよいぞ』とのお言葉でした。むろん、このことは私だけではなく、令明様はじめ皆さまがたも承知しておられます」
「ははうえー?!」






 しばし後。
「それはさておきまして、曹操軍の動向についてですが。こちらの出方を探るつもりであったのは間違いないと思います。しかし、翠様の危惧されているとおり、確かに奇妙なところはありますね。特に敵将である張莫殿の思惑が気になります」
「あたしとしては、さらりとさておかれるのはちょっと納得いかないんだが……まあいいか。で、鞘としてはどう見てるんだ?」
 馬超は言葉どおり納得いかなそうな様子ではあったが、すぐに気を取り直して当初の問いに立ち戻る。
 姜維は馬の身体を洗う手に力を込めつつ、自身の考えを口にした。
「令明様によれば、何か意図あっての行動だ、と張莫殿ご自身が口にされていたとのことです。翠様に興味があったから、という単純な理由だけではないのは明らかでしょう。ただ、退却の最中、総大将たる身がわざわざ危険を冒して翠様と相対することで、何を得られるのか……」
「ふーむ。まあ、あたしの顔を知っておけば、いざという時に討ち漏らす恐れは少なくなるが」
「そのためだけに、一郡の太守を務めるほどの者が、己が身を危険に晒す、というのは少々考えにくいです。それにわざわざ確認するまでもなく、戦場で翠様は十分すぎるほどに目立っておられますし」
 白衣白甲の錦馬超。ひとたび戦場に立てば、当人の優れた武勇と、凛々しい面差しもあいまって、その姿は敵であれ味方であれ惹き付けずにはおかぬところだ。
 張莫みずからがわざわざ確認する必要もない、と姜維は思う。
 


 では、張莫は何をたくらんでいるのだろうか。
 率直にいって、姜維にはわからなかった。それを素直に口に出す。
「今はまだ張莫殿の狙いはわかりません。しかし、話を聞く限り、戯言をもてあそぶような方とも思えません。注意しておくに越したことはないでしょう」
「そうかー? わざわざこちらに聞こえるように話しているあたり、単にあたしたちを惑わせて楽しんでいるだけのような気もするぞ」
 みずから張莫と相対した馬超と、鳳徳らから張莫の様子を伝え聞いた姜維とでは、認識に若干の違いがあるらしい。
 あるいは馬超の言うとおりかもしれぬ、と姜維も思わないでもなかったが、仮にそうだとしても油断するよりはマシだ、と割り切ることにする。
 それに姜維としては、張莫以外にも気になる人物がいるのである。


「令明様が仰っていましたが、巨大な戦斧を操る少女がいたとか」
「ああ、ばかでかい斧を小枝みたいに振り回してたな。馬を御する腕も見事だった」
 その少女の引き際を思い出し、馬超は感心したように幾度も頷いて見せた。
「翠様が見事だと認めるほどですか。それは私も会っておきたかったですね」
「張莫を守ってさっさと退いていったから、名も聞けなかったけどな。でもまあ、あれだけの腕前の持ち主なら、いずれ必ず戦場でぶつかるだろうさ。鞘が会う機会もあるだろ」
「はい。なんでも髪や目の色は草原の民に似ていたそうですね?」
「ああ、ちらと見ただけだが……ん、そういえば髪といい、目といい、髪を一つに縛っているところといい、鞘に似ていたかもな。いやいや、張莫に説教してた口うるささなんかを思い返せば、むしろ瓜二つといえるんじゃ――」
「何か仰いましたか、翠様?」
 にこりと微笑む姜維の顔から、馬超は慌てて目をそらした
「い、いや、何でもない。何でもないぞ」
「そうですか、では私も気にとめないことにいたしましょう」
「あ、ああ、それがいいな、うん」
「ところで翠様、縄と枷、拘束されるならどちらがお好みでしょうか?」
「何の確認だよそれは?!」






 二人からやや離れた場所にいた鳳徳は、もれ聞こえてくる会話を耳にして小さく苦笑をもらした。
「戦の最中だというに、一体何を話しているのやら。まあ妹君(馬岱のこと)がおられる時に比べれば大人しいものだが」
 そういってあごひげをしごく鳳徳だったが、その顔からはすぐに苦笑の色は拭われる。現在の状況を思えば、いつまでも笑ってはいられなかったのだ。たとえそれが苦笑であっても。
 鳳徳は出陣前に姜維と交わした会話を思い起こし、ひとりごちた。
「ともあれ、これで西涼軍は一つ、勝利を積んだ。これを聞いた洛陽の者どもは、さてどう出るか」




 そう呟く鳳徳は、この時、張莫と徐晃の会話で出てきた『北郷』という名には関心を抱いていなかった。これは馬超も同様である。
 北郷は高家堰砦での戦いで勇名を馳せたとはいえ、それはあくまで一戦場における武勲に過ぎぬ。袁紹や袁術、曹操、呂布といった、誰もがその名を知る英雄、豪傑と肩を並べたわけではない。高家堰砦の戦いの詳細を知っていれば、また違った考えを抱いていたかもしれないが、淮南から遠く離れた西涼に詳しい情報が伝わるはずもない。
 実のところ、馬家の軍師として中原の動静に注意をはらっていた姜維は、その名をかろうじて聞き知っていたのだが、当の馬超と鳳徳が報告の際に北郷の名を挙げなかったため、その名に気づく機会そのものを得ることが出来なかった。
 虎牢関前での戦闘と、その後の退却戦においても、北郷は目立った働きをしていなかったため、西涼軍の将兵の耳目を集めることはなく。
 結果、この時点で西涼軍が認識した敵将は、張莫と徐晃(名は不明であったが)の二名のみであった。




◆◆◆




 司州河内郡 汜水関


 現在、汜水関の曹操軍の兵力はおよそ一万あまり。
 その内訳は、元からの関の守備兵が一千。司馬家の私兵が三百。余の軍勢およそ九千は、そのすべてが張莫率いる陳留勢であった。
 陳留勢は曹操の旗揚げ時から付き従う、いわば股肱の軍勢。謀反の罪を償うべく最前線に送られた司馬勢とは、曹操軍内における立ち位置は天地のごとくかけ離れており、汜水関の内部では司馬勢は常に冷たい視線で囲まれている――


「――というような状況を覚悟していたのですけど」
 そういって司馬孚、字を叔達という少女は小首を傾げてみせた。みずから髪を断ち切ってからというもの、屋外では常に帽子をかぶっている司馬孚であるが、さすがに屋内ではいつもそうしているわけではない。
 今がちょうどそうであり、司馬孚は帽子を胸の前で両手で抱えながら話をしている。不思議そうに首を傾げる司馬孚の仕草に応じて、短くなった髪がかすかに揺れた。


 その司馬孚に同意するように徐晃も頷いた。
「確かにそうですね。私も立場上、冷眼を向けられるのは覚悟していました。許昌でも賊徒や裏切り者として見られることの方が多かったですから」
 そう言いながらも、徐晃はことさら憤慨する様子は見せない。その理由を、いつか徐晃はこう語った。
『憤慨する理由がありません。母さんが匈奴や塩賊を利用して朝廷に歯向かったのは事実ですし、私自身、その命に従って朝廷の討伐軍を討っているのです。しかも最終的に私は母さんを討つ片棒を担ぐ行動をとったのですから』
 実際はそこにいたるまで幾つもの事情が山積しているのだが、それは表に出すことはできないし、出すつもりもない。であれば、事情を知らない周囲の人間が疑いや嫌悪の眼差しを向けてくるのは当然のこと、というのが徐晃の考えであったようだ。


 そう考えていたからこそ、許昌で荀彧あたりからきつい言葉を向けられても平静を失うことはなかったのだろうし、徐晃が重罰を受けないよう張遼や曹純が奔走したことに心底驚いてもいたのだろう。聞けば河東郡太守王邑と、その配下で解池城主であった賈逵の二人からも徐晃の助命嘆願の書が提出されたそうである。
 そういった人たちの行為が実ったのか、曹操はすぐに徐晃を処罰しようとはしなかった。といって、むろん無罪放免にしたわけでもない。
 曹操の命により、徐晃は許昌に留め置かれ、指定された邸宅から許可なく出ることを禁じられた。おって沙汰あるまで蟄居すべし、といったところであろうか。


 死罪や長期の投獄という罰が下される可能性は依然残っていたのだが、韓浩や史渙らの弟妹たちも同じ邸宅で起居することを許された。むろん、曹操が許可したことである。
 この点を見ても、曹操の徐晃に対する感情は容易に推測できる。もしかしたら、曹操は初めから徐晃を罰するつもりなどなく、功もて罪を償わせようと考えていたのかもしれない。
 徐晃が洛陽勢との戦いへの参加を望んでから、それが許可されるまでの早さを見れば、この推測は当たらずとも遠からず、というところだろう。
 曹操に誤算があったとすれば、それは徐晃が正式に曹操の麾下に加わるのではなく、俺と共に戦うことを望んだ、という点であったかもしれない。




 とはいえ、むろんというべきか、徐晃は俺に仕えたいといったわけではない。ただ、俺が司馬家の軍に加わり、不利な戦に参加することを伝え聞き、解池での恩を返そうと考えてくれたのだろう。
 そうすれば一に俺への恩に報いることができるし、二に曹操軍のために功績をたてることができる。徐晃自身の去就はともかく、弟妹たちのことを考えれば、早いうちに許昌での制約を解いておいた方が良いのは当然であった。
 そういった諸々を経て、族滅の危機に瀕する司馬家の軍勢に、劉家軍の俺と、元白波賊の徐晃が加わるという、第三者から見ればわけがわからないであろう混成部隊が誕生したのである。





 付け加えれば。
 司馬孚や徐晃のみならず、俺もまた汜水関で冷遇されることは覚悟していた。
 しかし、実際はどうだったかといえば――
「主の薫陶のせいかどうか知らんけど、陳留の将兵はやたらと親身な人ばかりだな」
 俺の言葉に、司馬孚と徐晃、二人が同時に頷いた。
「ええ、みなさん、とても良くしてくれます。軍のことでお願いにうかがっても、大抵は快く引き受けていただけますし、駄目なときもこちらが恐縮してしまうくらいに申し訳なさそうで。我が家のみなさんに聞いても、つらく当たられたり、意地悪されるようなことも全然ないって言ってました」
 司馬孚が言うと、徐晃が続いて口を開いた。
「私も同様です。冷遇もせず、警戒もなし。それどころか……」
『それどころか?』
 不意に徐晃が言葉を止めたので、怪訝に思って俺と司馬孚が同時に問い返すと、徐晃はなにやら誤魔化すようにこほんと咳払いした。


「い、いいえ、なんでもないです。ともあれ、北郷さんの言うとおり、太守様の人柄が配下の方々にも影響を及ぼしているのでしょう。敵と戦う際、後ろを気にせずに済むというのはありがたいことです」
 それを聞いた司馬孚が、隣でうんうんと頷いている。
 俺も徐晃の言葉を否定するつもりはなかった。しかし、いかに張莫の配下とはいえ、何の打算もなく、俺たちのような胡乱な部隊に親切を働くだろうか、という疑問はあった。
 彼らがそうするには、そうするに足る理由があると考えることもできるだろう。そう、たとえば――
「張太守のいらんちょっかいを、自分たちの代わりに引き受けてくれる人たちを逃がすまいとする、陳留の皆さんの深慮遠謀ではなかろーかと思うのだけどどうだろう?」
「……そ、そ、そんなことはないんじゃないかな、と思いますよ、お兄様」
「……叔達殿(司馬孚の字)に同意します」
「ぬう、けっこういいところを突いたと思ったんだが」
 まあ相手の親切の裏を探るようなことを口にするのは、ほめられた行いではないな。反省しよう。




「――それはさておき、張太守はどうしたんだろう?」
 先日、許昌に差し向けた使者が戻ってきたということで、俺たちは軍議の間に呼び出されたのだが、当の張莫がなかなかやってこない。
 何かあったのだろうか、と思って言ったのだが、まるで俺の言葉を待っていたかのように張莫が姿を現した。
「すまん、遅くなった。いやいや、一波動けば万波したがうとはいうが、まこと中原の治乱興亡はただならないな」
 のっけから物騒なことを口にする張莫。当然、それを聞く俺は嫌な予感全開であるが、ここでさっさと退出するわけにもいかない。
 ただでさえ厄介なことが山積みなのだ。これ以上、面倒な事態は勘弁してほしい、との俺の願いは、次の張莫の一言で木っ端微塵に打ち砕かれた。


「呂布が叛乱を起こしたそうだ」
 あっさりとした調子で、どでかい爆弾を放り投げる張莫。
 俺は真顔でこう返した。
「……はい?」
 冷静に考えると、一郡の太守に向けて失礼きわまりない態度だったが、張莫は気にすることなく言葉を続けていく。
「場所は合肥。華琳によれば、仲の都である寿春の南、巣湖の北に位置し、なかなかに難攻の地であるとのことだ。詳細は不明だが、先ごろから袁術の動きが妙に鈍い理由はこれである可能性が高い、と華琳は考えている」


 次々に新しい事実が明かされていくが、耳に入る情報のほとんどは、俺の脳内を右から左へと通り抜けていくばかりだった。
 呂布の謀反、という事実を飲み下すのは、それほど厄介だったのだ。見れば、司馬孚も俺と同じように身じろぎ一つできずに固まっている。
 一方で、徐晃は俺たちほどには動揺していないように見えた。これまで中原の情勢と無縁でいた為だろうか。


 とはいえ、さすがに呂布の名は聞き知っていたらしく、驚きは感じているようだった。その口から小さく声がこぼれでる。
「呂布……飛将軍、ですか。并州育ちの方ですから、その名は草原にいた時もよく耳にしていました。武勇の誉れ高き方だそうですが、人柄に関してはあまり良い噂は聞きませんね」
 張莫が肩をすくめる。
「まあ、これまで呂布が属した軍はことごとく滅んでいるからな。丁原しかり、董卓しかり、私の不肖の妹しかり」
 そう口にした張莫の顔に、一瞬、陰りが見えたような気がした。だが、俺たちがそれと確認する前に、その陰りは拭われる。


 ――考えてみれば、陳留勢も一度は曹操に反旗を翻したことがあるのだ。首謀者は張莫ではなく、妹の張超であったというが、それでも反旗を翻した事実は事実。
 そして、その張超は姉である張莫の手で討たれたと聞いている。徐晃を母殺しと罵る者にとって、張莫は妹殺しに他ならない。
 先刻の話ではないが、陳留勢が俺たちに対して隔意を示さなかったのは、彼らもまた曹操軍内の立場が不安定であり、この戦に期するものがあったからなのもしれない。
 とすると、張莫が望んで陳留を離れ、洛陽戦に加わったのは、そのあたりのことも絡んでいるということになる――まあ、すべては俺の想像に過ぎないのだが。


 そんな俺の考えをよそに、張莫はなおも言葉を続ける。
「先の戦でも、呂布は袁術軍の先頭に立ち、無人の野を駆けるように淮南各地を切り従えていった。呂布の部隊は民には手をかけなかった――というか、ひとたび切り結んだ敵の将兵は、降伏しても容赦せずに苛烈に追い討ったというから、民に目を向けている暇はなかったのだろうな。どのみち、告死兵の白衣白甲が朱に染まるほどの死山血河を築き上げたのは事実。良い噂が流れる理由は乏しいな」
「その飛将軍が謀反したのが事実であれば、これは一大事ですね」
 徐晃の言葉に、張莫はこくりと頷いてみせる。
「まさにそのとおり。付け加えれば、これが事実ではなく、ただの偽報であっても厄介なことに違いはない。飛将軍の存在はそれほどまでに大きく、その影響は当然のように我々にも及ぶ。そこでだ、実際に呂布と矛を交えたことのある北郷に問いたい」


 張莫の視線が俺を捉えた。その視線は一見、常と同じに見える。しかし瞳の奥では戦意が躍るように揺らめいているのがはっきりと見て取れた。俺の意見がどうあれ、この一報が動乱の開始を告げる狼煙であることを、張莫は悟っているのだろう。
 そんなことを考えながら、俺はゆっくりと口を開いた。
「たしかに淮南の戦場で呂布と相対しましたが、言葉を交わしたわけではありません。その為人について、噂以上のものは知りませんよ? それでもよろしければお答えしますが」
「かまわん。それでも、人づてに話を聞いたことしかない者よりはマシだろう。かくいう私も、呂布と面と向かって会ったことはないのでな。で、率直に聞くが、この情報、本当だとおもうか?」


 俺はわずかに首をかしげた。
「本当だとすれば、公明殿の言うとおり仲軍にとっては一大事です。許昌に知られれば、致命的な事態を招くこともありえましょう。そんな重要な情報が、たとえ噂という形であれ、あっさりと仲国内を通り抜けて丞相閣下のもとに届けられる……仲の群臣がそこまで間抜けぞろいだとは思えません」
「つまり、今回のは偽報である、というわけか?」
 その言葉に、俺はかぶりを振った。張莫は怪訝そうに眉をひそめるが、俺は構わず言葉を続ける。
「しかし、情報の伝達を阻めぬほどに仲国内が混乱している、という可能性もなきにしもあらずです。あるいはそれを逆手にとり、あえて情報を伝えることで敵に策略であると疑わせ、時間を稼ぎ、その間に呂布を始末しようとしているとも考えられます」
 俺の話を聞いた張莫は、しばし後、得心したように頷いた。
「なるほど。つまり北郷が言いたいのは、今回の知らせ、嘘かほんとかさっぱりわからん、ということか?」
「御意」


 視界の端で司馬孚と徐晃がこけているのが見えた。
 だが、仕方ないではないか。こんな重要事をわずかな情報だけで把握できるわけがない。
 許昌で曹純に聞いた話によれば、高家堰砦で呂布の配下である高順と、敵将の李豊が刃を交えていた場面を目撃したという。そして、高順の行動は俺をかばうためであった、と。
 その後、李豊は曹純によって討たれたが、その場には他の仲の将兵もいたわけで、逃げ帰った彼らの報告を受けた袁術が、高順、ひいては呂布に対して制裁を行った可能性は否定できない。呂布がそれに抗って謀反を起こした、という流れもあり得ないことではないだろう。
 だが、それならばもっと早くに事は起こっているはずだ。すでに高家堰砦の戦いから何ヶ月も経っている。今頃になって袁術がかつての罪を咎め、それに対して呂布が叛乱を起こす、というのはいささかならず妥当性を欠いているように思える。


 とはいえ、策略だと断定するには不自然な点があるのも確かであった。
 そもそも策略であるならば、その目的は何なのか。『呂布が謀反を起こしたから袁術軍は寿春から動けない』――そう曹操に判断させ、油断した曹操の背後を突くつもりか。
 しかし、噂の一つ二つ流しただけで、あの曹操が背後をがら空きにするとは童子でも思うまい。仮にも一国の皇帝とそれを支える臣下が、そんな稚拙な策を仕掛けてくるだろうか、というのが俺の疑問だった。


 これ以外にも奇妙な点は幾つもある。だが、俺はそこまで深く考えなかった。考える必要がないと思ったからだ。
 張莫は最初にこう言った。
『詳細は不明だが、先ごろから袁術の動きが妙に鈍い理由はこれである可能性が高い、と華琳は考えている』
 それはつまり、曹操はすでにこの報がかなりの確度で事実に即したものだ、と判断しているということであった。ここで俺が長々と考え込む意味はないのである。



 俺がそう言うと、張莫は何やら楽しげに頷いてみせた。
「はは、さすがに聞き逃さなかったか。確かに華琳はすでに動き出している。袁術が動けない千載一遇の好機を活かし、本格的に麗羽とぶつかるつもりらしいな」
「私が口をさしはさむ筋はないのですが……丞相閣下は呂布が謀反を起こしたという確証を掴んでおられるのですか? これが袁術の策略だった場合、許昌が危うくなる可能性もあると思いますが」
「さて、華琳なりの成算があるのは確かだが、確証を掴んだかどうかは定かではないな。案外、ただの勘かもしれないぞ? 華琳は賭け事は好まないが、いざとなればどんな博打うちも及ばないくらい大胆になるからな。まあ、それはさておきだ」
 そう言うと、張莫はやや語調を改めた。


「今回の事態を受け、曹操軍は各地の部隊の再編にとりかかる。当然、私たち、というか私にも指示が出ている。具体的に言うと、汜水関を守るだけなら他の軍でも出来るから、私は陳留勢を率いてさっさと許昌に戻って来い、だとさ」
「『汜水関を守るだけなら』ですか。その言い方ですと、帰還命令というよりは、張太守をけしかけているように聞こえますが?」
「おお、話が早いな、北郷。まさしく華琳は私をけしかけているんだろうさ」
 にやり、と(にこり、とはとても言えない)張莫は笑って見せた。
「今の洛陽は腐った卵だ。下手に殻を割れば、こちらにも汚濁がかかってしまう。いつかも言ったとおり、現在の戦況で汜水関を奪われることは断じて避けねばならんからな、慎重に様子を探りながら事を進めるつもりだったんだが……呂布のことでそうも言っていられなくなった。いま肝要なのは巧遅よりも拙速。華琳から許可も出たことだし、我らはこれより卵の殻を割りに行く」


 張莫の言葉を聞き、俺たちは一様に表情を厳しくする。
 張莫の言葉どおり腐っているかどうかはさておいて、現在の洛陽勢を卵に例えるならば、黄身は朝廷だろう。では、黄身を包む殻は何を指すのか。思い当たるものは一つしかなかった。
 すなわち、張莫は今こう言ったのである。



 ――全軍を挙げて、虎牢関を陥とす。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/03/17 16:12
 司州河内郡 汜水関


 城門の前で兵を呼び集める将の声が響き渡り、甲冑を身に着けた兵士たちが慌しげに陣列を整えていく。その彼らのすぐ傍らを、伝令とおぼしき騎馬兵が駆け抜けていき、砂埃が立ち上った。
 槍や剣を構える兵士たちの中には、緊張に顔を強張らせる者がおり、興奮のあまりにはや目を血走らせている者がおり、何か、あるいは誰かに思いを馳せているのか、静かに目を閉ざし、うつむいている者がいる。
 そんな兵士たちの近くでは、兵糧を運ぶ牛馬が、人間たちの騒ぎなぞ関係ないとでもいうように、のんびりと尾を揺らしながら手近の草を食んでいた。



 虎牢関を陥とす。
 張莫の決断が全軍に伝えられたことにより、汜水関は先日までとは比べ物にならない喧騒に包まれていた。
 ただ、関内の将兵は忙しげではあっても、混乱した様子は見られない。それは曹操軍、なかんずく陳留勢を率いる張莫の統率力を示すものであると同時に、個々の将兵の覚悟を示す光景でもあった。もとより戦うために汜水関にやってきた者たちである。いずれこの時が来ることを誰もが承知していた。

 
 それは汜水関にあって、ただ一人、胸に劉旗をいただく北郷一刀も同様である。
 ただただ汜水関に立てこもっていれば済むような、そんな生易しい戦いではないことは、北郷とてとうに覚悟していた。
 ゆえに、この時、北郷の顔にくっきりと浮かび上がっていた戸惑いと困惑は、迫る戦に対するものではない。
 ――いや、正確に言えば、眼前の戦と無関係とは言えないかもしれない。何故といって北郷の困惑の源は、自らも戦に加わるのだと主張する司馬家の幼い家長にあったからである。




◆◆◆




 両の拳を握り締め、潤んだ眼差しでこちらを見上げてくる司馬孚を前に、正直なところ、俺は困じ果てていた。
 司馬孚の主張は単純といえば単純で、姉たちが犯した謀反の罪を償うために汜水関までやってきた以上、自分には前線に出る義務がある、というものだった。
 先の戦いでそれを主張しなかったのは、街道を騎行する程度ならともかく、実戦の只中を駆けるだけの馬術の腕が自分にはなかったから、とのことだった。


 しかし先日とは異なり、今回は張莫率いる陳留勢も出陣する。そして、陳留勢のほとんどは歩兵である。ゆえに自分が従軍するのに不都合はないという司馬孚の主張は、決して間違ってはいない。
 これが戦場を知らず、人の上に立つことの意味もわきまえていない子供のわがままであれば、一喝して退けることもできただろう。
 だが、司馬孚は姉たちが許昌にいる間、司馬家の本領を差配してきたほどの人物である。くわえて、その姉たちが洛陽側にはしった後、自家と妹たちを守るため、苛烈ともいえる決断と行動をとったことも俺は知っている。いつかその眼前に跪いたのは、決してただの冗談だったわけではない。司馬孚、字を叔達という少女は、間違っても子供扱いなど出来る相手ではないのである。


 そして、そんな相手が理にかなった主張をしてきたのなら、これに反駁することは困難を極める。
 俺自身、気にかかってはいたのである。たとえこの戦に勝利したとしても、司馬孚本人が汜水関から一歩も出なかったならば、朝臣たちがその功績を認めるだろうか、と。
 そのことを考慮すれば、ここで司馬孚が前線に出ると主張することは間違いではない。否、むしろ司馬家の今後を考えれば、それは必要なことですらあるのかもしれない。


 だが、しかし。
 西涼軍を主力とする洛陽勢。それと本格的にぶつかる戦場に、健気な十二歳の女の子を引っ張り出すとか、できるわけねーのである。というか、意地でもさせん。
 司馬孚が前線に出たという実績が必要であるのなら、戦の趨勢が決した段階でそれをすればいいのであって、何も今回の戦いに出る必要はない。
 俺はそう主張したのだが――
「でも、お兄様は出られるのでしょう?」
 そういうと、司馬孚は上目がちに俺を見やりながら、口元を引き結ぶ。
 こんな感情的になった司馬孚はめずらしい。というより、初めて見る。俺は気圧されたように頷くことしか出来なかった。
「張太守様は、お兄様に陳留勢の一部を預けると仰いました。それはつまり、敵の人たちと正面きって戦う任を与えるということです」
 司馬孚の言は事実である。虎牢関への攻撃を指示した張莫は、続いて俺に先手の一人となるよう命じた。そのための兵は自分が与える、と。


『この張孟卓、出来ない者にやれとは言わぬ。劉家軍が将の力、見せてもらうぞ、北郷一刀』


 そう言われてしまえば、俺に否やはない。くわえて言えば、騎兵で統一した司馬家の部隊は思っていたよりもはるかに錬度が高く、今の俺の技量では足手まといになりかねない。そのことは先日の戦いで骨身に染みている。さすがに司馬八達を育てた司馬防殿が手塩にかけた兵士たちであった。
 それゆえ、陳留の歩兵部隊を指揮する機会を与えられたことは、俺にとってむしろ好都合とさえ言えた。張莫が、一部とはいえ陳留勢を預けるほどに俺を評価してくれていたことには驚きを禁じえなかったが、ともあれ、司馬家の部隊は徐晃に率いてもらい、張莫が本隊を、俺は先手の一人として先陣を務める。ここまではとても速やかに決まったのである。


 だが、ここで司馬孚が、自分も戦に加わる、と言い出したことで、事態は混迷の度を深めてしまった。
 しかも、張莫は何を考えたのか「可否は北郷に委ねよう」といって、戸惑う徐晃を引きずるように連れて行ってしまった。
 結果、俺と司馬孚はこうして終わりの見えないやりとりを繰り広げる羽目になってしまったのである。




 司馬孚が震えを帯びた声で言う。
「今回のこと、お兄様は姉様(司馬朗)と壁姉様(司馬懿)、それに私……司馬家の事情に巻き込まれたようなものです。それにも関わらず、お兄様は私たちのために戦ってくださっています」
「あ、いや、だからそれは買いかぶりだと何度も……」
 俺は俺で戦う理由がある。司馬家のためだけに戦っているわけではないのだ。
 だが、俺がそう言っても、これまでと同じように司馬孚は首を横に振るばかり。
 ――そう見えたのだが。
 今日は続きの言葉があった。
「買いかぶりなんかじゃありません。もちろん、司馬家のためだけに戦っていらっしゃるわけではないでしょう。でも、私たちのことを思ってくださっているのも確かなはずです。だって、そうでなければ、どうして私の前ではいつもおどけていらっしゃるのですか? 張太守様と一緒になってまで、まるで……」
 まるで私が少しでも楽になれるよう気遣うように。


 そう口にする司馬孚の目はじっと俺の顔に据えられており、淡い緑を帯びた黒色の瞳は、思わず息をのんでしまうほどに真摯な光に満ちていた。




 
「……あー、ばれてた?」
 思わず素で言ってしまった俺に、司馬孚は申し訳なさそうに、小さく、しかしはっきりと頷いて見せた。
 それを見て、俺は思わず頭を抱えてしまう。年下の女の子をさりげなく気遣っているつもりで、実はしっかりその気遣いを見抜かれていたとか、いくらなんでも恥ずかしすぎる。
 そんな俺の傷心を悟ったのか、司馬孚は慌てて言い添えた。
「あ、あの、私、お兄様の心遣いには感謝しています。とても、感謝しています。でも、だからといって、本来私が果たすべき責務までお兄様に押し付けるつもりはありません。お兄様に戦う理由がおありのように、私にも戦う理由があるんですッ」





◆◆◆





 戦う理由がある。
 司馬孚がそう断言すると、眼前の北郷はこれまでよりもさらに困った表情を浮かべ、司馬孚から視線を逸らそうとする。
 そうはさせじ、と司馬孚は相手を見据える視線を強めたが、その内心は相手に対する申し訳なさ――もっといえば罪悪感で一杯だった。


 張莫の命令を受けてからの北郷は、はっきりと『戦う人』の顔になっている。少なくとも司馬孚にはそう見える。
 もちろん、昨日までの北郷が安穏としていた、などというつもりはない。これから始まる戦いが、昨日までの前哨戦とはまるで異なる次元の戦いだということなのだろう、と思っている。


 ――だからこそ、司馬孚はじっとしていられない。


 張莫は言っていた。劉家軍の将の力を見せてもらう、と。
 だが、この戦に劉旗は掲げられていない。本来ならば、北郷が命を賭して戦う必要のない戦い。そんな戦いに北郷を巻き込んだのは、司馬孚をはじめとした司馬家なのである。
 北郷は司馬孚がそれを口にする都度否定する。もちろん司馬孚とて、北郷が自分たちのためだけに戦ってくれているとは思っていない。北郷が口にするように、北郷自身にもこの戦いに参加する理由があることはわかっている。
 だが、司馬家が北郷を巻き込んだこと――それは、誰にも否定しえない事実なのである。
 
 
 




『ごめんなさい、螢(けい 司馬孚の真名)』
 すぐ上の姉が、そういって深々と頭を下げたのは、司馬孚がはじめて北郷と顔をあわせた日の夜のこと。今から思えば、あれは本来ならば自分が引き受けなければならない重荷を、自分よりも小さな妹に預けてしまうことへの、姉なりの精一杯の謝罪だったのだろう。
 司馬孚は、二人の姉からすべてを聞かされていたわけではない。聞かせるわけにはいかなかったのだろう。司馬孚がそれを知ってしまえば、どうしたところでその後の行動に不自然な点が出てきてしまうから。それは朝廷の疑心を深め、残された者たちへの処罰に影響を与えずにはおかなかっただろう。


 ただ、司馬孚とて姉たちに成り代わって領内を治めてきた身である。漠然とではあるが、穏やかならぬ空気が家中に立ち込めていることには気づいていた。家宰の死の知らせを聞いてその思いはより確かなものになり、本家を訪れた司馬懿の一言ではっきりと確信へとかわった――あるいは、司馬孚に確信を与えるために、司馬懿は妹のもとを訪れたのかもしれない。
 その後、洛陽の叛乱が起こり、姉たちがそれに加わったことを知ったとき、司馬孚が速やかに動けたのは、あらかじめ変事に備える心構えをしていたからであった。


 とはいえ、族滅という事態を前にして、いささかも動じないような肝の太さは司馬孚には持ちえないものだった。許昌に参じた時、自分や妹たちに向けられた数多の視線、その冷たさを司馬孚は今なおはっきりとおぼえている。
 すぐにも首をはねられるかもしれない。否、それで済めばむしろ運が良い。古来、謀反人の一族は見せしめのために酸鼻を極める殺され方をしてきたのだ。そのことを知っている司馬孚は、宮廷の一室で妹たちを励ましながら、胸奥でうごめく不安と恐怖を必死で押さえ込んでいた。
 そんなとき――


『おお、やっと会えた。久しいな、妹たちよ』


 暗く沈む室内に不釣合いな、いっそ朗らかといえるような声と共に姿を現した北郷を見て、司馬孚はぽかんと口を開けてしまった。驚いたとか嬉しかったとか、そういうこと以前にわけがわからなかった。
 それは司馬孚のみならず、下の妹たちも同様であった。司馬家の姉妹にとって、北郷は一度あっただけの人物だが、なにしろあの次姉(司馬懿)が連れて帰ってきた男性である。そうそう忘れられるはずがない。
 だが、その北郷がどうしてこんなところにいるのか。どうやってやってきたのか。それを思えば、世に司馬八達と称えられる少女たちがとっさに口を開けなかったのも当然であったろう。
 この時、動いたのは一番下の司馬敏だけ。司馬敏は「あー、にーさまー」と嬉しそうに言うと、すぐにその傍に駆け寄っていったのである。




 その後、北郷はたびたび姉妹のもとを訪れては励ましてくれた。
 他に出来ることがないからな、と北郷は幾度か力不足をわびてきたが、そのつど司馬孚は、何をいっているのか、と思ったものだ。
 謀反人の一族に会いに来るということが、どれだけ危険なことか、少し考えれば誰にでもわかる。手続きだとて相当に面倒なものだろう。
 だが、北郷はそういったことを脇に蹴飛ばして、姉妹のもとを訪れてくれているのである。感謝こそすれ、不満を言うつもりなどかけらもない。


 それに、と司馬孚は思う。
 その後、司馬家がかろうじて最悪の事態を回避したことについても、北郷がなにかしら動いてくれたのではないか、と。
 むろん、北郷は朝廷を動かすような身分ではないが、現在の朝廷の意向は、すなわち丞相である曹操の意向である。曹操本人に直接説くことは無理でも、その配下を通じて司馬家の助命に動くことは出来るだろう。
 前線に向かう司馬家の軍に北郷が加わると知ったとき、一度、司馬孚はそのことを訊ねてみた。
 いくらなんでも買いかぶりすぎだ、と笑われてしまったが。





 そして、汜水関へとやってきて、今日という日を迎えた。
 今、北郷が汜水関にいることと司馬家には何の関わりもないなどとは童子でも思うまい。当然、司馬孚もそうは思わない。
 北郷が覚悟を決めて戦いにのぞもうとしているのに、巻き込んだ司馬家の人間が汜水関でじっとしていていいわけがなかった。
 司馬孚は河内郡にいた頃、家長の代理として野盗相手の戦いで指揮を執ったこともあり、戦の経験は有している。もちろん、自身の力は把握しているから、この重大な戦いで北郷のように一翼を担えるなどと自惚れてはいないが、それでも後方で震えている以外にもできることはあるはずだった。


 そんな司馬孚の主張を聞いた北郷は、深々とため息を吐いた。
「……ああもう、なまじ頭が良いもんだから、言っていることには理屈が通ってるし、ちゃんと覚悟もしているし。これ以上、反対する余地がないじゃないか」
「じゃあッ」
 思わず声を高める司馬孚に向け、北郷はあっさりと言った。
 それでも駄目だ、と。
 一瞬、何を言われたのか分からなかった司馬孚は呆然とし、言われたことを理解するや、むうと口元をへの字にかえた。
「な、なんでですか、お兄様ッ?! 今、反対する余地がないってッ」
「余地があろうとなかろうと、駄目なものは駄目。妹は兄に従うものだ。司馬家の家長殿には、いまさら説くまでもない、当然の常識であると思うのだが?」





 それは、おそらく北郷としては苦し紛れの言葉だったのだろう。
 だが、それを聞いた司馬孚は思わず言葉に詰まってしまった。
 むろん、司馬孚と北郷に血のつながりなどないし、正式に義兄になったわけでもない。義兄妹の契りを交わしたおぼえもない。
 司馬孚たちが北郷を兄と呼ぶのは、あくまで親しみを込めてのこと。いずれ姉の伴侶に、という遠謀がないわけではなかったが、半ば以上たわむれに過ぎなかった。
 だから、ここで司馬孚が言い返すことは容易かった。「ならお兄様とは呼ばず、今後は一刀様と呼ぶことにします」とでも言えば、北郷の言葉は意味を為さなくなる。


 ――だが、それは司馬孚には出来ないことだった。
 そもそも、司馬孚は北郷のこと『お兄様』などと呼んではいけない身である。司馬家の事情に巻き込んでしまったから、という理由もあるが、なにより、そう呼ぶことは北郷と司馬家が浅からぬ関係がある、と広言するようなものだから。ただでさえ難しい立場にいる北郷が、謀反を起こした司馬家と交誼を持っているなどと知られたら大変なことになる。そのことは司馬孚もわかっていた。
 しかし、司馬家の姉妹は許昌で北郷と再会してからというもの、ずっとその呼び方を続けていた。それは司馬孚も例外ではない。
 もしかしたら、そのことが北郷を窮地に陥れる結果になってしまうかもしれない――幼い妹たちはともかく、そのことを自覚していた司馬孚が、それでも北郷をお兄様と呼んだのは、甘え、であった。
 一寸先に死の顎が待ち構えているのではないか。次の瞬間にも処刑役人が踏み込んでくるのではないか。そんなどうしようもない不安と恐怖に苛まれていた時に、駆けつけてくれた人への甘えだったのである……





◆◆◆





 不意に。
 司馬孚の頬を涙がすべりおちていくのを見て、俺は自分の頬がひきつるのを自覚した。
 司馬孚の主張に対抗することができず、困じ果てて妙な理屈を振りかざしてみたのだが、まさかその返答が涙とは。
 やばい、何かひどいことを言ってしまったのか、いやでもだからといって司馬孚を戦場に出すなんて認めるわけにはいかないし、と内心でパニックに陥る俺。
 だが、涙に関しては司馬孚自身も驚いているようだった。慌てたように手で目元を拭うが、涙は後から後から溢れて止まる様子がない。ついには司馬孚は両手で顔を覆って俯いてしまった。


 突然の事態に、どうしたものかとうろたえる俺。
 そんな俺に、司馬孚は震える声で話しかけてきた。泣き声が恥ずかしいのか、可聴域ぎりぎりの声だったが、不思議なくらいによく聞き取ることが出来た。
 その語る内容は、俺への甘えを詫びるもの。劉家の将たる俺を、本来戦う必要のない戦場へと引きずり出してしまったことへの悔い。悔いながら、それでも俺を頼ってしまう罪悪感。
 そういったものから決別するためにも、ここで後ろに隠れていることは出来ないのだと告げた司馬孚は、その場で俯いて嗚咽をもらしはじめた。





 ぐすぐすと鼻をすする音が二人きりになった室内に響く。司馬孚は早く泣き止もうと何度も目元を拭っているのだが、あまり効果はないようだ。言葉を重ねていくうちに、これまでおさえていた気持ちが溢れだしてしまったのかもしれない。
 戦を控えた関内の空気も、司馬孚にとっては浅からぬ負担だったのだろう。
 十二歳の女の子が背負っていた、あるいは背負わざるを得なかった重荷を、俺は本当の意味では理解していなかった。司馬孚が俺に対し、ここまで罪悪感を抱いていたことも気づいていなかった。
 それらに対する後悔が胸を苛むが、ここで俺が悔恨に打ちひしがれたところで、何の意味もない。


 必死に泣き止もうとする司馬孚を前にして、小さく息を吐きだした後、俺はいま自分がとるべき行動に移った。
 ためらわなかったのは、我ながら上出来といえる。傷心と罪の意識で泣いている女の子を前にして、その痛みを和らげる行動にためらうような人間にはなりたくない。
 ……もってまわった言い方をしてしまったが、具体的に何をしたかといえば、俯いて涙をこらえようとしている司馬孚を抱きしめたのである。もちろん、出来るかぎり、そっと。





「………………え?」
 はじめ、状況がわからなかったらしい司馬孚であったが、すぐに自分が抱擁されていることに気づいたのだろう。俺の腕の中で驚きと、そして戸惑いの声をあげる。
「……え、あ、あああ、の、お兄様……ど、どうしたん、ですか?」
「――伯達殿(司馬朗の字)と仲達殿(司馬懿の字)に含むところはないんだが、とりあえず、洛陽で会ったら一度だけ頬をひっぱたこうと今決めた」
「え、ね、姉様と、璧姉様を? な、なんでですか?」
「それはもちろん、こんな可愛い妹に重すぎる荷物をあずけていったからだよ――そして、その後に、二人に俺の両の頬を殴ってもらう」
「な、なんで?」
「それはもちろん、叔達がこんなに苦しんでいることに気づいてあげられなかった罰ですとも」


 そう言ってはみたものの、あの二人のことだから後者は拒絶されるかもしれない。だが問題はない。その時は許昌に帰って関羽に吹っ飛ばしてもらおう。
 そんなことを考えつつ、俺は震え続ける身体を抱きしめる手に、少しだけ力をこめる。
 腕の中の司馬孚の身体がぴくりと震えたが、拒否する仕草は見せなかった。
 しばしの間、室内に沈黙が満ちる。
 互いのぬくもりを感じながらの沈黙は、気恥ずかしくはあったが、不思議と落ち着くものでもあった。
 おそらく、司馬孚も同様だったのだろう。いつか涙も、嗚咽も、止まっていた。




 不意に、ぽつりと司馬孚が呟いた。
「……お兄様に、言い忘れていたことがあります」
「んー、なんだ?」
 今頃になって湧き上がってきた照れくささを隠すため、すこしおどけた言い方になってしまった俺にかまわず、司馬孚はゆっくりと言葉を続けた。
「許昌で、私たちに会いにきてくださって、ありがとうございました。嬉しかった……ほんとに嬉しかった……」
 震える声で礼を言う司馬孚に対し、俺はつとめて軽い調子で応じた。
「お安い御用だよ。そうだ、俺も叔達に言いたいことがある」
「なんでしょ――うにゅ?!」
 司馬孚の語尾が妙な音になったのは、俺があらためて司馬孚の頭を胸に抱き寄せたからである。
 もうここまでくれば、多少の恥ずかしさなど無いも同じ。やるべきと思ったことはすべてやりぬくべし。


「な、なにを?!」
「こうした方が心の臓の音がよく聞こえるだろ?」
「あ……はい」
 突然の俺の行動に驚いた司馬孚であったが、俺がそう言うと、こくりと頷き、そっと身体をもたせかけてきた。
「……ゆっくり、脈打ってます。私は戦を前にして、どきどきとうるさいくらいなのに」
「ふふん、こと戦に関しては、くぐってきた修羅場が違うからな。ま、年下の女の子に優ったところで何の自慢にもならないけど」
 俺がおどけたように言うと、腕の中で司馬孚が小さく笑い声をもらした。


 そんな司馬孚に向け、俺は内心で思いを整理しつつ、言葉を続けた。
「――みんなが笑って暮らせる世の中をつくる」
「……え?」
 司馬孚の口から戸惑ったような声がこぼれおちるが、俺はかまわず先を続けた。
「それが俺の戦う理由だ。確かに叔達のいうとおり、この戦いに劉旗は掲げられていないけど、だからって俺が戦う理由がなくなったわけじゃない。『みんな』の中には、伯達殿も、仲達殿も、もちろん叔達だって含まれているんだから」
「お兄様……」
「だから、俺はここにいる。俺自身の意思でここにいる。司馬家に関わって、厄介事に巻き込まれて、仕方なく戦っているなんてことは絶対にない。そのことで叔達が気に病む必要なんかどこにもないんだ」



 俺の言葉を聞いた司馬孚は、しかし、まだ納得がいかないようだった。
「……でも、司馬家と関わらなければ、お兄様がこの地にいらっしゃることはなかった。なら、やっぱり……」
 それを聞き、俺は知らず肩をすくめてしまった。
「まったく、妙なところで頑固だな、叔達は」
「ご、ごめんなさい……」
「謝るくらいなら、ささっと納得してほしいんだが、それは難しいか。なら、この際だからはっきり言ってしまおう」
 腕の中で、司馬孚の身体がわずかに強張るのが伝わってきた。
 そんな司馬孚の耳にちゃんと届くように、俺は一言一言をしっかりと声に出す。
「俺は叔達と出逢えたことに感謝してる」
「…………え、あ、え?」
「もちろん、伯達殿とも、仲達殿とも、下の妹さんたちともね。もっといえば、張太守や公明殿も同じだ。俺は望んで許昌に来たわけじゃないけれど、だからといってこの地での出逢いを否定するつもりなんかない。出逢えて良かった、と本当にそう思っているよ」
 俺は一息置いて、さらに続ける。
「そして、そんな人たちが苦しみ、つらい思いをしているのなら助けてあげたいと思う。それは別におかしなことじゃないだろう?」


 問われた司馬孚は、慌てたようにこくこくと頷いた。
 俺はその頭に手を置いた。
「あ……」
「それにな。今だから言うけど、はじめて会ったとき、叔達たちに『お兄様』と呼ばれて内心で大喜びしてたんだぞ。にやけ顔を押し隠すのに苦労したもんだ」
「そ、そうなん……ですか?」
「そうなんですよ。甘えていた? 大歓迎ですとも。だから決別とかしなくていいから。むしろどんどん甘えてください。健気な女の子を守るために戦うのは男児の本懐と断言できる」


 俺が言い終えると、司馬孚はもぞもぞと身体を動かし、腕の中から上目遣いで俺を見上げてきた。潤んだ眼差しの可憐さはもはや凶器のレベルであるが、ここはとろけている場面ではない。耐えろ、がんばれ我が理性。
 司馬孚はじっと俺を見つめたまま、何を言うべきか迷うように口を二度、三度と開閉させた。
 そして――
「……ありがとう、ございます、お兄様。それと、ごめんなさい。私、出すぎたことを言いました……お兄様の決断に、私が責任を感じるなんておこがましいですよね」


 それを聞き、思わず安堵の息を吐きかける。ようやくいらん罪悪感は振り払ってくれたようだ。
 しかし、まだ一つ問題が残っている。そのためにも、ここであっさりと司馬孚を許してはいけない。理性よ、あと少しだがんばれ。


「ああ、実におこがましい振る舞いだ。ちょっとやそっとで許すことはできんな」
「あぅ……ど、どうすれば許してもらえますか?」
「そうだな――反省の意味を込めて、一週間ばかり汜水関で謹慎してもらおうか」
 司馬孚のことだから、罪悪感を振り払っても、それでもやっぱり戦についてくるとか言いかねん。今回の戦いが一週間で決着がつくとは思えないが、その時はまた改めて考えよう。とりあえず、当面の出撃を禁止すべし。
「…………お兄様、ずるいです」
「答えになっていないな、司馬叔達殿。否か応か? むろん、己が非を認めた以上、礼節を知る司馬家の家長殿が否というはずもないが、やはりきちんと確認しておかなければなるまいて」
「うー……」






◆◆◆







「……あれだな。北郷であれば事を収められるとは思っていたが、こういう形で収めるとは。うむ、実にあっぱれ」
「『一刀が積極的に動く時はほぼ確実に女子が絡み、事が済めば篭絡している』……か」
「ほう、そうなのか、公明?」
「あ、いえ、私ではなく、解池で関将軍が仰っていた言葉です。こういうことか、と思いまして」
「ふむ、まあこの光景や公明を見るかぎり的確な言だな。さすがは美髪公」
「なッ?! わ、私は篭絡なんてされてません!」
「はは、恩返しの一言で男に従って戦場についてくるやつが言っても、あまり説得力はないぞ?」
「太守様!」
「でかい声を出すな、あいつらに聞こえる。まあ、気になって様子を見に戻ったが、この分ならば心配はいらんだろう。こちらはこちらで、務めを果たすとしようか」
「……承知しました」






[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/01/15 22:30

 およそ九千の兵をもって汜水関を発した張莫は、先陣に三千の兵士を配し、これを三人の武将に統率させた。
 張莫の配下である棗祗(そうし)、衛茲(えいじ)の二名。そして、先の淮南戦で大いに武名を高めた北郷一刀である。
 張莫自身は六千の本隊を率いて彼らの後に続く。司馬家の私兵である騎兵三百は徐晃に委ね、これを遊撃部隊とし、汜水関の守りには元々の守備兵一千を充て、守将には司馬孚を任じた。


 曹操軍、汜水関を出撃せり。
 この報はただちに虎牢関へと届けられた。先の張莫らの突出を受け、洛陽勢は汜水関への警戒を強めていたのだ。
 虎牢関の兵力は守将である樊稠の弘農勢三千、洛陽で徴募した兵力が二千、そして馬超率いる西涼軍が一万ほどである。
 難攻不落の虎牢関に立てこもり、しかも兵力の上でも優っているとなれば、洛陽勢の勝利は動かない。このまま虎牢関に立てこもり、城壁に拠って敵軍の兵力を損耗させた後、敵が攻め疲れたところを追い討てば、ほぼ確実に勝てる戦であった。


 しかし、樊稠はみずからは虎牢関にとどまったものの、西涼勢には出撃を命じた。
 これは西涼勢を率いる馬超が出撃を望んだからであったが、樊稠には別の思惑も存在する。虎牢関には長期の篭城戦に耐えうるほどの物資がなかったのである。
 樊稠は虎牢関に着任してから、連日のように洛陽の朝廷に補給を求めているのだが、朝廷は一向に応じようとしなかった。というよりも、現在の洛陽は慢性的な物資の欠乏に悩まされており、応じたくても応じられなかった、といった方が正確であるかもしれない。


 南陽太守である李儒の援助により、かろうじて兵糧だけは充実しているのが救いであったが、それとて保って半年、否、西涼軍を考慮すれば三ヶ月以上の篭城には耐えられないだろう。しかも西涼軍の場合、馬も食物を必要とするので、実質的にはさらに短くなる。
 矢や油といった消耗品は戦えば戦うほどに減っていく。一度や二度の戦いで底を尽きることはなくとも、五度、六度と立て続けに相手が攻めてくればその限りではない。
 眼前の張莫の部隊だけならば、虎牢関に拠って戦えば打ち勝つのは容易いが(と樊稠は考えた)その背後の許昌には、曹操率いる大軍が控えているのだ。出来る限り物資は温存しなくてはならず、しかも曹操軍にそれと気づかれてはならなかった。
 となれば、張莫軍相手に篭城戦は選べない。西涼軍が願い出てきたことこそ幸い、城外で一気に叩き潰すべきであった。


 問題があるとすれば、西涼軍に軍功を独占されてしまう可能性があることだが、相手は曹操麾下でも令名のある張莫である。その張莫が主力部隊を率いて出てきた以上、いかに西涼軍でも、先日の前哨戦のように圧勝というわけにはいかないだろう。
 両軍が疲弊したところで、弘農勢を押し出せば、労せずして勝利を得ることも可能である。仮に西涼軍があっさりと勝利するようであれば、その後の汜水関攻めであらためて弘農勢を用いれば良い。いずれにせよ、数日は西涼軍に任せよう――それが樊稠の考えであった。




 一方、出撃した西涼軍では、総大将の馬超はともかく、その麾下の姜維は、樊稠の目論見をおおよそ見抜いていた。
 それでも姜維が出撃を主張する馬超に反対を唱えなかったのは、騎兵で統一された西涼軍の本領が野戦にあることを知るゆえである。虎牢関と汜水関の間には荒野がひろがっており、騎兵の突進を阻む物はない。そのことは、先日の追撃戦で確認していた。
 張莫率いる曹操軍が出撃したのならば、これと決戦するのにこれ以上適した戦場はない。
 先日、鳳徳に言われたとおり、今、姜維が考えるべきは目の前の戦いにいかにして勝つかであって、洛陽勢の足の引っ張り合いに参加することではない。
 樊稠が西涼軍の敗北を画策するような人物ならばともかく、現段階で樊稠はそこまで悪辣なまねをしてはいない。ならば、一時、その思惑に乗る形になったところで問題はない。それが姜維の判断であった。



 かくて馬超率いる西涼軍と、張莫率いる曹操軍は、汜水関と虎牢関の中間地点で激突する。
 日は中天に輝き、強い日差しが地面に人馬の影を色濃く映し出す。
 はや将兵の肌着を重く湿らす汗は暑さゆえか、興奮ゆえか。誰かが問うたところで、答えは返ってこないだろう。命を賭した闘争は、もうすぐそこまで迫っていた。





◆◆





 西涼軍の先陣を切ったのは、二千の騎馬兵を率いる宿将鳳徳、字を令明。
 数の上では曹操軍の先陣より劣るが、西涼軍は兵のすべてが騎兵であり、その機動力と突進力は歩兵部隊の比ではない。
 馬超の命令を受けた鳳徳は、みずから陣頭に立つと、悠然と麾下の部隊に進撃を命じた。
 鳳徳が見る限り、曹操軍の隊列は横一列である。林立する『曹』と『張』の軍旗。さらに鳳徳から向かって左方の部隊には『棗』の旗が、右方の部隊には『衛』の旗が見て取れる。これはおそらく部隊長を示す旗であろう。
 ただ、中央の部隊は曹操と張莫の旗印のみで、部隊長を示す旗は見当たらない。
 一瞬、それを訝しく思った鳳徳だったが、すぐにその疑問を脳裏から振り払った。
「どのみち、蹴散らすのみよ」
 そう呟くと、鳳徳は今度は一転して大声を張り上げた。低く、太く、聞くものの耳にずしりと響く重い声。三軍を叱咤するに足る勇将の声であった。
「鳳徳隊、一射後、突撃する。中原に名高き曹操殿の武烈、見せてもらおうぞ」
 小細工抜きの突撃を指示された鳳徳配下の騎兵の口から、勇壮な雄たけびが沸き起こった。


 麾下の将兵の喊声を背で聞きながら、鳳徳は馬上、素早く矢を番え、敵陣を見据える。
 目に映るのは、しんと静まり返った敵の陣列である。そろそろ矢の射程に入る頃合であるが、鳳徳の視界には弓兵や弩兵の姿は映らない。こちらの騎射を警戒し、大盾を並べた兵士たちが整然と居並ぶのみである。
 臆したか、とは鳳徳は思わなかった。
 敵陣が静かなのは、西涼騎兵の突進に竦んでいるわけではなく、たまりに溜まった戦意を解放する刻を待っているのだ、ということは、肌をひりつかせる空気が教えてくれている。
 

 はや陳留勢の容易ならざるを悟った鳳徳であったが、むろんそれに怯むものではない。
 陳留勢がどれだけの錬度を誇ろうと、西涼軍が劣ることはない。自身が手塩にかけて鍛え上げた部下たちを、そして西涼軍を率いる馬騰を、その娘である馬超を信じている鳳徳にとって、恐れるべき何物もありはしなかった。
 弓弦の音が鳴り響き、宙空を裂いた鳳徳の矢は、大盾の間からわずかにのぞいていた曹操軍の兵士の頭を一矢で射抜いてのけた。彼我の距離、しかも騎射であることを考えれば、信じられない精度と弓勢である。
 その鳳徳に続くように、背後の部隊も一斉に騎射を行い、颱風のごとき猛威が曹操軍の頭上に襲い掛かる。
 鳳徳ほどの精妙な射手はいなかったが、精度と弓勢は凡百の軍をはるかにしのぐ。敵軍は少なからぬ被害を受けたであろう。


 だが、敵の陣形に綻びは生じず、戦意の緩みも見て取れない。
(面白い)
 そんな思考を他人事のように感じながら、鳳徳は鞍に結び付けていた矛を手にとった。
 すでに両軍は互いの顔が判別できるほどに近づいている。
 馬上、矛を一閃させた鳳徳は、天にも届けとばかりに大喝を発し、真っ先に敵の陣列に馬を乗り入れていった。



◆◆



 両軍が喊声と共に激突した瞬間、文字通りの意味で人馬が宙を舞った。
 西涼軍の馬蹄にかけられた曹操軍の歩兵がいた。
 曹操軍が突き出した槍の穂先を避けきれなかった西涼軍の騎馬がいた。
 愛馬を失った騎兵は咄嗟に馬体にしがみつこうとするも果たせず、鞍から投げ出され、地面に叩きつけられる。好機とばかりに四方から繰り出される槍を全身に受け、その西涼軍の兵士はたちまち絶命した。
 曹操軍の将兵が沸き立つが、その背後には、すでに後続の西涼騎兵が殺到している。
彼らは槍を振り下ろす必要さえなかった。突進の勢いと人馬の重みがあわされば、それは敵兵の身体を引き裂く凶器となる。騎兵の突進を避けられなかった兵士が、ひとたまりもなく弾き飛ばされ、奇妙に鈍く湿った音を立てて地面に倒れこむ。わずかに苦痛の声が漏れ、兵士の生存を報せるが、それも長くは続かなかった。
 兵士が倒れた場所を、十を越える数の西涼騎兵が通過していく。人馬の列が通り過ぎた後、残ったのは人の身体の原型をとどめない血まみれの肉塊だけであった。


 両軍の将兵が激突するところ、怒号と絶鳴が交錯し、喊声と悲鳴が重なり合って美しからざる二重奏を戦場に響かせる。
 汗と血と臓物の匂いが交じり合った戦場特有の空気が両軍の将兵を包み込むが、歴戦の兵はもとより、この戦が初陣の新兵でさえ、すでにそんなものを気にしている者はいなかった。
 殺さなければ殺される。いかなる戦場においても不変の真理に突き動かされ、西涼軍、曹操軍を問わず、将兵は腹の底から声を搾り出し、戦意をかきたてて目に映る敵兵に斬りかかっていく。何度も、何度も、繰り返し。戦が終わる、あるいはみずからが死者の列に加わる、その時まで。




「殺(シャア)ッ!」
 大喝一声、鳳徳が矛を振り下ろすと、馬を狙って槍を突き出してきた兵士の頭が石榴のように割れ、周囲に血とも脳漿ともつかない赤黒い液体が飛び散った。
 頭部を失った兵士の身体は、前と後ろ、どちらに倒れるのか迷うように揺れ動いた後、前方の地面に倒れこむ。
 その傍らを駆け抜けようとした鳳徳に向け、さらに数本の槍が繰り出されてきた。
 しかし、鳳徳の矛が一閃するや、そのすべてが払いのけられ、穂先は鳳徳の身体には届かない。
(いや、狙いは馬の方か)
 西涼軍の突撃を受け止めた――正確には受け止めようとした曹操軍であったが、平原の只中で西涼軍の突進を受け止めることは至難の業である。事実、鳳徳の部隊は曹操軍の先陣に深く斬り込むことに成功していた。
 鳳徳としては、かなうならば一気に敵の先陣の中央を突破し、そのまま敵本隊を突くつもりであったのだが、曹操軍は鳳徳の猛攻に押されつつもかろうじて戦列を維持しており、突破を許すことはなかった。


 しかし、全体として西涼軍が押していることは間違いない。鳳徳の部隊は敵の先陣の中央を大きく押し込んでおり、このまま戦況が推移すれば、遠からず突破に成功するのは確実だった。
 鳳徳はそう判断していたが、気になる点がないわけではない。馬の被害が多いのである。
 今しがたの敵もそうであったが、どうやら曹操軍は西涼軍の兵士よりも馬の方を狙っている節があった。
 当然といえば当然だが、槍であれ、剣であれ、弓であれ、馬上の人間を狙うよりも馬そのものを狙った方があてやすい。なにしろ馬は人間よりも身体が大きく、人間のように全身に衣服や鎧兜をつけているわけでもない。
 ゆえに歩兵が騎兵と戦う際、馬を狙うのは常套手段であった。


 むろん、騎兵の側もこれに対抗するため、馬体――顔や胴といった部分に皮革ないし鉄製の防具を着けさせるなどしているが、これも過ぎれば騎馬本来の機動力を削ぎおとしてしまう。くわえて、重い馬鎧を着けた馬自身の疲労も軽視できない。
 機動力と持久力に欠ける騎兵など、涼州の広漠な大地では大して役に立たないため、西涼軍にはいわゆる重騎兵の類は存在しなかった。
 それゆえ、人ではなく馬に攻撃を向けた曹操軍の意図は一定の効果をあげたのである。


 とはいえ。
 元来、騎兵と歩兵が戦えば、攻撃においても防御においても、地上の歩兵より馬上の騎兵が有利なのは当然である。不利な立場にある歩兵が、騎兵ではなく馬の方を狙えば、騎兵は容易に歩兵の隙を突くことができる。
 また、一口に馬を狙うといっても、騎兵の突進は見ると聞くとでは大違い。大地を揺るがして疾駆する騎兵集団の迫力は、新兵ならば背を向けて逃げ出してもおかしくないほどで、つまるところ、安易な馬狙いの戦術はかえって自軍を混乱させる原因になりかねない。


 だが、どうやらこの敵はあえてその危険を冒しているらしい。
 そんなことを考えながらも、鳳徳は馬の足を止めずにさらに前へ前へと突き進む。
 だが、相手も必死なのだろう。この頃から、敵の抵抗が目だって頑強になってきていた。
 曹操軍の特徴は、馬への攻撃もそうであるが、常に複数で連携して襲い掛かってくることだった。一人が騎兵へ槍を向けている間、他の兵士が馬を狙って剣なり槍なりを振るってくる。数に劣る西涼軍が複数の敵を相手どるのは当然といえば当然だが、敵兵の動きは明確な指示を受けた者のそれであった。
 指示を出したのは曹操か、張莫か、あるいはその下の何者かか。


「……厄介な」
 鳳徳の口から、そんな言葉がこぼれる。
 指示を下した敵将はもちろんのこと、この混戦になってもその指示を忠実に守っている――守ることのできる敵兵に向けた言葉でもあった。
 繰り返すが、今、戦は明らかに西涼軍が押している。敵の先陣は突破される寸前であり、曹操軍の将兵も自軍が不利な状況であることは把握していよう。西涼騎兵の猛威も、総身で実感しているはずだ。
 にも関わらず、高い戦意を保って騎兵の前に立ちはだかってくる曹操軍を前にしては、鳳徳といえども手こずらざるを得ない。
 そしてもう一つ、鳳徳が苦みと感嘆の双方を禁じえない敵軍の特徴がある。それは――


「死ねェッ!」
 鳳徳の前方に立ちふさがった敵兵が、気合の声と共に槍を突き出してくる。
 鳳徳はたくみに馬を御してその矛先を避けると、敵兵に向けて素早く矛を突き下ろした。
 矛は狙いたがわず兵士の胸板を貫いた――が、その兵士は苦悶の声をあげながらも両の手で鳳徳の矛を掴み取る。その狙いは敵味方の目に明らかであった。


 鳳徳の口から小さく舌打ちがこぼれる。
 この手の捨て身の行動をとる兵士はこれが初めてではない。というより、即死でもしない限り、曹操軍は西涼騎兵の足を止めるべく身体を張り、命を捨てて向かってくるのだ。西涼軍が未だ中央突破を成功させていない理由の一つは、この敵兵の粘性に富んだ戦いぶりにあった。
 これまで戦陣にのぞむこと数知れず、幾多の戦場を踏破してきた鳳徳だが、このような戦いぶりを見せる相手と戦った経験は皆無といっていい。
 野盗はもとより、西方の羌族や涼州の他の諸侯の軍とは比較にならない士気であり、錬度。この戦いぶりは激しい訓練を重ねるだけで得られるものではない。敵将である張莫が麾下の将兵の心を完全に掴んでいなければ不可能なことであった。


 これが曹操直属の親衛隊とでもいうのであればともかく、今、鳳徳が戦っているのは曹操配下の一太守の軍勢に過ぎない。単純に考えれば、この後ろに控えている曹操の本隊は、将も兵もこれ以上の精鋭ということになる。
 それに思い至ったとき、鳳徳ともあろうものが戦慄を禁じえなかった。なんという陣容の厚さか、と。
 



 と、その時、味方の捨て身の行動を見て、別の陳留兵が鳳徳に向かって槍を繰り出してくるのが見えた。
 矛を抱え込んだ兵士を引き剥がしている余裕はない、と判断した鳳徳は膂力に任せて矛を横薙ぎに振るった――しがみつく兵士ごと。
「なッ?!」
 今まさに鳳徳に突きかかろうとしていた兵士の口から驚愕の声がこぼれ落ちた。だが、避ける暇などあろうはずもなく、兵士は矛先ではなく、味方の身体によって弾き飛ばされる。同時に、矛を振るった勢いで、矛を抱え込んでいた兵士の身体も引きはがされた。
 その鳳徳に向けて、さらに別の兵士が突きかかってくるが、鳳徳は矛を引き戻しざま、石突でその兵士の頭を打ち据える。
 兜に守られていたため、外傷はなかっただろうが、強く重い衝撃は一瞬で兵士の意識を刈り取ったようだ。その兵士は糸の切れた人形のようにくずおれた。



「このまま敵陣を突破する。皆、続け」
 倒れこんだ兵士にかまわず、鳳徳は部下に命令を下し、馬腹を蹴りつけた。
 本陣の馬超と姜維に使者をはしらせようかと考えたが、あの二人のことだ、こちらの戦いぶりを見れば大体のことは察しよう、と考え、敵先陣の突破を優先する。
 鳳徳麾下の騎兵部隊が、主将の檄に応じて喊声を張り上げた。
 その時には、鳳徳はすでに別の敵兵と刃を交え、これをも瞬く間に突き殺していた。




 曹操軍――陳留勢は敵将である鳳徳が感嘆を禁じえないほどの奮戦を見せていたが、それは逆に言えば、鳳徳にはいまだ敵に感心するだけの余裕がある、ということでもあった。
 事実、曹操軍は鳳徳の突撃を阻止しえない。その進むところ、曹操軍は巌にぶつかる波濤のごとく左右に裂かれ、将兵の血は驟雨となって大地に降り注ぐ。
 鳳徳は個としての驍勇を発揮する一方、敵陣に穴をあけるや、配下を差し招いてさらにその穴を広げにかかり、曹操軍の陣列を突き崩していく。その武勇と指揮は乱戦の中にあっても陰りを見せず、むしろ戦いが激しくなるほどに際立っていくかのようであった。
 鳳徳は名乗りを挙げて斬り込むようなことはしなかったので、曹操軍はいまだその名を知るに至っていない。
 だが、その剛勇と統率力は曹操軍の注意を引かずにはおかなかった。
 一際目立つ巨躯も手伝って、鳳徳の存在は曹操軍の将兵に認識されていったが、だからといってこれを止める術が閃くわけでもない。
 曹操軍の先陣はかろうじて踏みとどまってはいたものの、実状としては鳳徳の猛勇に押されっぱなしだったのである。



 特に鳳徳の猛威と真っ向からぶつかりあっている中央付近はひときわ損耗が激しかった。
 今も後退しつつ懸命に陣列を立て直そうとしているが、西涼軍の圧力の前に思うに任せないでいる。
 それを見た鳳徳は、あと一押しで先陣を突破できる、と判断した。判断したと同時に指示を出し、麾下の兵力をこれまでよりもさらに中央に集中させ、敵陣への圧力を強めていく。
 この鳳徳の用兵に、中央の曹操勢はたまりかねたように後退し、それでもこらえきれずにさらに後退を重ね、なおも踏みとどまることが出来ずに後退を続け――ついには西涼勢に背を向けて逃げ出しはじめた。


 中央を押しまくられた曹操軍先鋒部隊の陣列は、いまや凹字形というよりもU字形に変化していた。その様は分厚い羊肉を牛刀で裂くにも似ていたかもしれない。
 鳳徳が緒戦の勝利を確信した瞬間であった。






 ――だが。
 まるで鳳徳がその確信を得るのを待っていたかのように、鳳徳の耳に異音が飛び込んでくる。幾千の馬蹄が地を蹴りつける音に混じって聞こえてくるのは、横殴りの氷雨にも似た何かが、冷たく、鋭く、宙を裂く音。
 それが西涼軍の左右から浴びせられる幾百もの矢の音であることを悟った鳳徳は、咄嗟に警戒を告げようとするが、それが間に合うはずもなく――


 一瞬の静寂の後、西涼軍の陣中に人馬の発する苦痛と絶叫が渦を巻いた。
 勝利はすぐそこと勇み立ったまさにその時に、横合いから、あるいは斜め後方から降り注ぐ矢の猛襲。
 しかもご丁寧にこんなときまで狙いは兵ではなく馬であった。
 横腹に、あるいは尻に矢を受けた馬が悲鳴と共に倒れこむ。倒れこんだ馬の後ろをかけていた騎兵が慌ててこれを避けようとするも、急激な方向の転換はさらにその後ろを駆けていた騎兵の予期せざるものであった。
 各処で悲痛な馬のいななきと、騎兵の苦悶の声が交錯する。ここが戦機、と中央に兵を集中させていたことも裏目に出た。密集していた騎兵部隊は、死角から襲い来る矢に加え、前方や左右を駆ける味方の騎兵にも注意を払わねばならず、騎射で応戦することもできない。
 そして、それだけの注意を払っても、いつ襲い来るとも知れない矢から自らや愛馬を守ることは難しい。それにくわえて、いつ転倒するとも知れない味方を完璧に避けることなど不可能といってよい。
 そんな西涼軍に向け、曹操軍は二の矢、三の矢を浴びせかける。西涼軍の混乱は加速度的に拡大していった。



 
 これが正面からの斉射であれば。
 あるいはわずかなりとも敵軍の動きに罠の気配を感じていれば、西涼軍はここまで一方的に射倒されることはなかっただろう。
 だが、敵の動きに不自然な点はなかった。少なくとも、鳳徳は気づかなかった。
 中央の曹操軍も佯敗の気配などつゆ示さず、力の限り戦い、その上で押し負けて退いていったとしか見えなかった。だからこそ、鳳徳は中央突破を指示したのである。


 だが、その結果が今の戦況である以上、謀られたことは間違いない――鳳徳は率直に認めた。今思えば、最初に矢の洗礼がなかったのは、これに備えてのことだったのだろう。
 すなわち、曹操軍は西涼軍が中央突破することを読み、左右の部隊の後方に弓兵部隊を配置していたのだ。
 弓兵部隊は緒戦には一切関わらない。これは矢を温存するためでもあるし、西涼軍に配置の意図を気づかれないためでもあったのだろう。
 そして、西涼軍が本格的に中央突破をはかったその時、至近距離から矢による側背攻撃を仕掛ける。正面から射られれば立ち向かいようもあるが、横から、あるいは後方から射られては対処のしようがない。
 西涼軍としては、矛先を左右どちらかの弓兵隊に転じるという選択肢もあった――が、そのためにはどうしたところで突撃の勢いを減じ、馬首を転じる必要が出てくる。側背からの猛攻を受けている今、一瞬であれ部隊を停滞させれば、被害と混乱が致命的なものに膨れ上がる可能性があった。


 敵の矢の好餌になりたくないのであれば、勢いを緩めてはならない。であれば、鳳徳が採りえる選択肢は一つしかなかった。
「告げる」
 混乱する西涼軍の只中に、鳳徳の重く低い声は不思議なほどによく通った。
「倒れた者には構うな、ただ前のみ向いて駆け続けよ。止まれば敵の思う壺ぞ」
 当初の狙いどおり、正面の敵兵を打ち破る。しかる後、敵の弓兵隊とある程度距離を置いたところで矛先を転じよう。この罠を食い破るにはそれしかない、鳳徳はそう決断し、みずからそれを実践すべく馬足を速めようとした。


 だが、その時。
 鳳徳の目に、向かって右の方角から、急速に肉薄してくる敵の騎馬隊の姿が映し出される。その旗印は『司馬』。
 兵数はおよそ三百。鳳徳の二千の部隊と比べれば微々たる数である。だが、この時、この場に姿を現した敵兵の思惑は明らかで、知らず鳳徳の口から唸り声がこぼれおちた。
 敵の罠が、矢と騎馬の二段備えであることを悟ったのである。


 

◆◆◆



 
「――捉えた」
 そんな徐晃の呟きは馬蹄の音に溶けて宙に消えていく。
 誰の耳にも入らなかった徐晃の呟きだが、もし徐晃と近しい者が耳にしていれば、その声音のあまりの冷たさに首をすくめたかもしれない。
 徐晃の視線の先には西涼軍の中でも一際雄偉な体格をした武将――鳳徳の姿がある。これまで西涼軍の戦いぶりを遠望していた徐晃は、その容易ならざる武勇と統率力を承知していた。
 実のところ、その姿を捉えた時から、徐晃はともすれば駆け出そうとする身体を押さえつけるのに苦労していたほどなのである。
 なぜなら、あの敵将の鋭鋒を向けられている部隊を率いているのは徐晃の恩人であり、いつあの偉丈夫の矛が恩人の身体を捉えてしまうかと思うと、居ても立ってもいられなったのだ。


 ゆえに、ようやく動ける時が来た徐晃の行動には、瞬き一つの遅滞もない。
「危険、だね。あなたは」
 草原で生まれ育った徐晃の馬術の腕は、西涼軍に優るとも劣らない。
 愛用の戦斧を振りかざした徐晃は、琥珀色の瞳に煌くばかりの戦意を湛え、まっすぐに敵将のもとへと突き進んでいった。




◆◆◆




 初撃。
 戦斧と矛。ぶつかりあう鋼の音は、あたかも雷鳴のごとく周囲に響き渡った。


「ぬ……」
 手に伝わる衝撃の強さに、鳳徳は一瞬だけ目を瞠る。
 鳳徳の半分も生きていないような少女が、鳳徳に迫る豪撃を繰り出してきたのだから、鳳徳の驚きは当然であったろう。
「はあああッ!」
 だが、徐晃の方は鳳徳の内心など関係ないとばかりに立て続けに戦斧を振るう。
 時に無造作なほど力任せに、時に鳳徳の矛を絡め取る技巧を交えて流麗に、次々と襲い掛かる戦斧を前に、鳳徳はたちまち防戦一方に追い込まれた。


 一合、二合と攻撃を受け止める都度、鳳徳の腕に重い衝撃が伝わってくる。鳳徳の防御は的確で、徐晃の攻撃にも崩れる気配を見せなかったが、徐晃も徐晃で鳳徳に反撃の機会を与えない猛攻を続けてくる。
 双方巧みに馬を操りながら武器を振るい続け、一騎打ちは十合を越え、二十合に達した。それでもなお勝敗の天秤がいずれに傾くかは判然としない。


 と、不意に徐晃が手綱を引いて鳳徳との間に距離をとった。一騎打ちの興奮ゆえか、その頬は紅く染まり、息もわずかに荒くなっているように見えたが、それ以外に疲労を印象付けるものはなく、攻め疲れたというわけではないだろう。戦斧を構える姿にも隙はない。
 油断なく矛を構えながら、鳳徳は相手の意図がわからず、訝しげに目を細める。
 すると。


「徐晃、字を公明といいます。西涼軍の将、そちらの名をうかがいたい」
 その声は感情を秘めるように低く押さえられていたが、年頃の少女らしい音楽的な響きまでは隠しおおせていなかった。
「鳳徳、字は令明という。しかし、わしの名など知ってどうする?」
「私も出来ればあなたをここで斬って終わらせたかったのだけど、それはかないそうにない。であれば、今後のためにもその名は知っておく必要があると思いました」
「……ほう」
 鳳徳はあらためて眼前の少女――徐晃の顔を見据える。


 その顔を見るのは初めてではない。先日、張莫を守るため、鳳徳の矢を空中で叩き落したのは間違いなくこの少女であった。
 馬超、姜維と接してきた鳳徳は、外見だけで相手を侮る愚とは無縁であり、徐晃についてもその実力を率直に認めた。
 鳳徳が気になったのは、曹操軍の主だった将軍たちの中に徐晃という名がなかったことだ。
 その語る言葉を聞けば、徐晃が武勇と共に分別も備えた人物だということはわかる。
 これほどの人物が将として下位に位置しているのだとすれば、曹操軍とはどれほど底知れない実力を持っているのか。先に陳留勢とぶつかった時と同種の思いが鳳徳の胸裏をよぎる。


「……さすがに若大将や姜軍師と伍すほどの少女がそこかしこにいる、などとは思いたくないがな」
 鳳徳の呟きに、今度は徐晃の方が怪訝な顔をするが、鳳徳はかまわずに言葉を続けた。
「名は告げた。そちらの部隊も逃げ切ったようであるし、用件は終わり、ということでよいのかな?」
 その言葉どおり、鳳徳に追われていた部隊は徐晃の援護により、完全に追撃を振り切っている。徐晃が鳳徳に名を問うた理由の一つは時間稼ぎでもあった。


 徐晃は目を瞠ったが、特にごまかそうともせず、こくりと頷く。
「気づいていましたか」
「貴殿と同じ年の頃から戦場で過ごしてきたのでな。あの見事な佯敗の手腕、あの部隊の指揮官はできれば討っておきたかったが、弓と騎馬、二重の罠にかかった身ではそれも難しい。今は貴殿を討ち、罠を食い破ることに専心すべきであろう」
「佯敗ではなくて、本気で逃げてるだけなんだけど……」
「む?」
 一瞬、徐晃が妙な顔で妙なことを口にしたが、それは周囲の喧騒にまぎれて鳳徳の耳には届かなかった。


「……こちらのことです。それに、時間稼ぎはお互い様でしょう」
 徐晃がそれを口にするのとほぼ時を同じくして、鳳徳の部隊への包囲の輪を縮めていた棗祗の部隊の側面に、西涼騎兵の一団が襲い掛かった。旗印は『姜』。
 姜維の部隊が、鳳徳を援護するべく動いたのである。
「ほう、そちらこそ気づいていたのか?」
「十や二十であればともかく、千を越える騎兵が動けば、その馬蹄の響きを聞き逃すことはありません」


 そういうや、徐晃は戦いの再開を告げるように戦斧を一閃させる。
 応じて、鳳徳はこちらも矛を構えなおした。
 二人は示し合わせたように同時に距離を詰めようとする――が、この時、姜維の増援に気づいて勢いだった鳳徳の部隊の一部が乱入し、そうはさせじと徐晃側の兵もあらわれ、あたりはたちまち乱戦の様相を呈し始めた。
 徐晃と鳳徳の二人はこの波によって引き離され、この日はついに再びぶつかることはなかったのである。



◆◆◆



「令明様の突進を受けて崩れぬとは……さすがは中原の覇者の軍、というべきなのだろうな」
 麾下の一千の軍勢を率い、曹操軍の右側面に回り込んだ姜維は、呟くようにそう言った。
 その瞳の奥には憂色が浮かんでいる。西涼軍の前に敵はなし、などと驕っていたわけではないが、まさかあの鳳徳が三千程度の敵陣を押し破れないとは思わなかった。
 いや、正確には押し破る寸前までいってはいたのだ。姜維の目で見ても、敵の後退が罠であるとは映らなかった。


 しかし、現実として鳳徳の部隊は側背から矢の痛撃を受け、大きな被害を出している。これが敵の罠であるならば、今頃逃走していた部隊は反転して攻勢に移っているであろうし、敵の左右の部隊も包囲の輪を縮めつつ、鳳徳の部隊の後背を塞ぐであろう。
 そうなれば、鳳徳隊二千は敵の包囲下にあって壊滅してしまう。
 姜維は敵軍が鳳徳隊に向けて第一矢を放つのを遠望した時点でそこまで考え、自ら一千の部隊を率いて鳳徳隊を救うべく動き出していた。
 敵の先陣はおおよそ三千。それで二千の鳳徳隊を包囲すれば、陣列は薄くならざるを得ない。姜維の一千の部隊であれば、たやすく包囲の輪を切り裂けるだろう。


 その一方で、姜維は本隊の馬超には極力動かないように言い含めていた。
 その理由は敵本隊に備えるためである。張莫は六千あまりの兵力を手元に留めている。姜維はいまだ張莫の能力を測りきれておらず、緒戦の一時の不利で安易に本隊を動かした場合、張莫がどのような用兵に出てくるのかを予測することは難しかったのだ。
 馬超の本隊が動かずにいれば、張莫もまた安易に動くことは出来ないだろう、という考えもそこには含まれていた。
 姜維から『勝手に動くな』と言われた(さすがにそこまで直截的には伝えなかったが)馬超は、当然のように盛大に文句を口にしたが、最終的には首を縦に振ってくれた。壮絶な仏頂面をしながら、ではあったが。


 その時の馬超のふくれっつらを思い出し、姜維はわずかに頬を緩める。
 が、すぐに意識は眼前の戦闘へと向けられた。
「できれば、全軍激突という事態は避けたかったが。やはり、そううまくは行かないか」
 曹操軍と戦って負けるとは思わない。だが、戦えば当然のように被害が出る。全軍がぶつかれば、被害は百や二百では済まないだろう。それは、今回の乱で西涼軍が戦うべき明確な意義をいまだ見出せていない姜維にとって、許容できない事態だった。
 それゆえ、かなうならば騎兵の利を活かして敵陣をかき乱し、少ない被害で勝利を得る――そんな常の西涼軍の戦いに持ち込みたかったのだが、中原の覇権を握った曹操軍相手では、やはり都合の良すぎる考えであったようだ。


 鳳徳の突撃を耐えしのいだ曹操軍の粘り強い戦いぶりは、馬超も姜維も確認している。
 あれほどの軍とまともにぶつかれば、西涼軍の被害は甚大なものになってしまうだろう。かといって、犠牲を惜しむようなぬるい考えで戦って勝てる相手ではないこともまた明白。
 厄介なこと、というのが姜維の偽らざる思いであった。


 その一方で別種の思いも姜維の胸中には存在する。
 それは一言でいえば戦意。
 一人の武将として、正面から雄敵と矛を交えてみたい、という単純にして純粋な欲求であった。
 常ならば軍師としての識見でこの手の欲求をおしとどめる姜維であったが、現在の戦況ではあえてそうする必要がない。
 戦況の先を見据えんとする意思と、鳳徳を案ずる気持ちと、雄敵との戦闘に心躍らせる思いは、姜維の中で違和感なく並立する。




 曹操軍を指呼の間に捉えた姜維は、馬上で大剣を一閃させた。
 通常の剣では馬上で振るっても地上の兵士には届きにくい。姜維が持っているのは、人の身長ほどもある――と記せば、いささかならずおおげさになってしまうが、少なくとも通常の将兵が扱う剣よりははるかに大きい業物であった。
 姜維はこれを両手で扱う。必然的に、武器を振るっている間は両足で馬を御さなければならないのだが、これは姜維にとってさしたる難事ではなかった。


「全軍、このまま突撃! いくぞ!」
 姜維が短く指示を下すと、配下の騎兵が猛々しい喊声で応じた。
 当初、姜維が狙っていたのは鳳徳の部隊を射続けている弓兵隊であった。包囲を切り崩すのと同時に、鳳徳隊の被害を増やし続ける元凶を討とうとしたのである。
 だが、今、姜維の部隊と弓兵隊の間には『棗』の旗印を掲げた部隊が割り込んできている。
 一千もの騎馬兵が動けば、曹操軍とて気づかないはずはない。姜維の狙いを察した棗祗は、弓兵隊を守るべく兵を動かしていたのである。


 しかし、その陣列はいかにも薄い。それも当然で、元々棗祗率いる部隊は姜維の部隊とほぼ同数。一方で鳳徳を攻撃しつつ、一方で姜維を防ごうとすれば、兵力を分散せざるを得ない。
 むろん、棗祗としては自部隊だけで姜維を防ぎきれるとは思っておらず、姜維の攻撃をいなしつつ他の部隊の援護を待つつもりであったのだが――棗祗は一つの事実を知らなかった。
 姜維、字を伯約という将の攻撃の苛烈さは、先の鳳徳、さらには陳留まで勇名の鳴り響く錦馬超に匹敵しうるものである、ということを。



「西涼軍が一将、姜伯約、参る!」
 簡潔な名乗りを挙げると、姜維は裂帛の気合と共に大剣を振り下ろす。狙われた兵士は咄嗟に持っていた槍で防ごうとするが、姜維の大剣の勢いは止まらず、槍の柄を叩き折り、そのままの勢いで兵士の頸部を断ち切っていた。
 半ば首を両断された兵士の身体が力なく地面に倒れこむ頃には、姜維はすでに次の兵士に向かっていた。
「なッ?!」
 外見からして剛勇の武将を思わせる鳳徳と異なり、姜維は細身の少女である。そんな少女がいかにも軽々と大剣を振るい、味方の首を刈り取る光景を目の当たりにし、兵士の口から驚愕の声がこぼれおちる。
 咄嗟に武器は構えたものの、その姿は姜維から見ればあまりに隙だらけであった。


 むろん、姜維には敵兵に容赦する理由はなく、その意思もない。
 兵士の一瞬の自失の隙をつき、真っ向からその身体を斬りおとす。姜維の力と大剣の重みがあわさり、その一撃は兵士の右の肩を叩き割り、そのまま胸骨にまで達した。
 瞬く間に二人の兵士を屠り去った姜維の剛勇と、その外見の落差に、さすがの陳留勢も一瞬怯む。
 そんな敵兵に向け、姜維は高らかに声をあげた。
「どうした、音に聞こえた中原の覇者、曹孟徳殿の軍勢が私のような小娘一人に臆するはずはあるまい! 疾くかかって参られよ!」
 鳳徳は戦場でみずからを誇示する言動はとらないが、姜維はそれをする。むろん、戦術上有効と思える場合だけであり、無用な自己顕示を好むわけではない。


「いかがした、来られぬのか?! 竦まれたのであれば結構、こちらから行こう。我が大剣を恐れるならば道を開けよ。渡り合おうというならば立ちはだかれ! 何人がかりでも構わぬぞッ!」
 そういうや、姜維は愛馬を駆って敵陣の只中へ突っ込んでいく。
 その猛々しい姿に姜維麾下の部隊は勇み立ち、主将に遅れては恥とばかりに勢いづく。
 これを迎え撃つ棗祗麾下の部隊は、敵の猛攻に怯んだわけではなかったが、しかし勢いの上で押されたことは否定できず、数の上で劣ることもあいまって、苦戦を余儀なくされることになる。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第四章 洛陽起義(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/01/19 23:14

「うむ、実に見事な逃げっぷりだったな、北郷。さすがの西涼軍もすっかりだまされていたぞ」
「……それはまあ本気で逃げましたから。というか、あらかじめ私の意図は伝えておいたはずですが?」
「いやなに、あれを佯敗ということにしておけば、作戦の立案のみならず、実際の戦場におけるお前の功も際立つというもの。華琳への報告でも最大限称揚しておくから、褒美を楽しみにしているがいい。今回の戦ではさすがに間に合わなかったが、お前用の軍旗なんかどうだ?」
「……念のためにうかがいますが、でかでかと『宇宙』とか記した旗をつくる気ではないでしょうね?」
「むろん、そんなせせこましいまねはしないさ。悪来(典韋のこと)でも持てないほどの黒絹の大旗に、お前の名と称号をすべて記してや……」
「生地と糸と旗作りの職人さんの労力の無駄遣いなのでやめてください」


 なにやら上機嫌な張莫の戯言を遮り、俺は目の前の卓に置かれていた白湯を口にして深々と息を吐いた。別に張莫へのあてつけではなく、単純に疲れ果てていたのだ。かなうことなら今すぐにでも横になってしまいたいほどに。
 張莫もそのことはわかっていたのか、こちらの労をねぎらうように軽く肩を叩く。
「まあ軍旗云々はともかく、褒美については本気だぞ。お前の作戦が功を奏したのは事実だからな」
 張莫がそういうと、この場にいる棗祗、衛茲、徐晃といった武将たちも頷いてくれた。


 棗祗は年の頃は三十半ば。陳留勢でも指折りの武将なのだが、そうとは思えない穏やかな容貌の持ち主で、武官よりも文官といった方がしっくりくる。というか、実際、能吏としても名の通った人物だから、文官といっても間違いではなかったりする。
 もう一人、衛茲という武将もこの場にいるのだが、こちらは棗祗に輪をかけて武官らしからぬ人物であった。なにしろ色白、無口、優男と三拍子揃っている。
 軍議の場でも求められれば意見を述べるが、基本的には常に黙している。といっても、他者を拒絶する類の沈黙ではなく、話しかければ柔和な微笑を浮かべて応じてくれるし、その声がまた美声だったりする。聞けば陳留の女性にも大人気だそうな。
 ちなみに、二人とも男性である。


 そんな人たちに功を認められて嬉しくないわけはない。
 が、手放しで喜ぶ気にもなれなかった。何故といって、今回の俺の作戦は、作戦と呼べるような代物ではなかったからだ。
 遮るもののない地形で、騎兵と歩兵が激突すれば、どうしたところで歩兵側が不利になる。そして、部隊を預けられて日が浅い、というか、ほとんど間もない俺が、もっとも崩れる可能性が高いのは自明である。
 俺の作戦というのは、そういったことを考慮して、俺自身を先陣の中央に配し、弓兵部隊を左右の部隊の後方に置くという変則的な布陣にした――これだけであった。
 俺が敵の騎兵部隊に追われて逃げていた際、徐晃は絶好のタイミングでこれを撃ってくれたが、あれは俺の作戦上の行動ではなく、遊撃隊として控えていた徐晃の戦術眼の賜物であった。


 敵が正面からではなく、機動力を活かして側面へ回り込み、あるいは後方の本隊を直撃してくる可能性もあった。そうなれば、俺の作戦はまったく意味のないものに変じてしまっていただろう。
 ついでに付け加えれば、俺は麾下の将兵に作戦の意図は伝えていなかった。昨日今日預けられた部隊で、偽退だの佯敗だのといった高度に戦術的な行動をとれるはずもない以上、伝える意味がないのだ。
 実際、退くことなく勝てればそれに越したことはないわけで、俺自身、本気で勝つつもりで戦っていた。
 だから、今日の俺の後退は、戦術上のものではなく、本気で敵の攻勢を支えきれなくなったゆえである。
 俺が素直に諸将の賛辞を受け容れられない理由はこれで明らかだろう。




 そんな俺の微妙な気持ちを知ってか否か、張莫は肩を叩いていた手を背中にまわし、いささか乱暴にばんばんと叩いてくる。
「だからこそ、あの敵将――公明によれば鳳徳というらしいが、鳳徳を罠におとせたのだ。十分すぎるほどの手柄だよ。あの後、敵が本隊を動かさなかったのは、こちらの罠を警戒してのことだろう。これもまたお前の手柄といっても過言ではないな」
「手柄というなら、あんな……ごほん、あの作戦できっちりと西涼軍を食い止めてしまった陳留の将兵こそが一番手柄でしょう。褒美を与えるならば、私などより将兵の方にお願いしたいところです」
「ふむ、北郷がそういうのなら、それでよかろう。人数分のお前の軍旗を用意するのは大変そうだが、そこは華琳に頼み込んで是が非でも数を揃えてやろうではないか。これでお前の名は陳留の将兵の間にもあまねく知れ渡ることだろう」
「心の底から申し上げますが、意を用いる部分が完璧に的を外しています。軍旗製作にかかる費用を、現金でそのまま渡してあげてください」
 俺の声がため息まじりであることを、一体誰が非難できるのか。いや、誰もできないであろう。
 心中でそんなことを呟きつつ、俺は昼間の戦いを思い起こしていた。




◆◆




 日が中天に差し掛かる頃に始まった両軍の戦闘は日没まで続いた。
 とはいえ、その間、ずっと間断なく血が流れていたわけではない。敵将である姜維の横撃により、鳳徳の部隊の包囲が突き崩された後は、両軍入り乱れての乱戦になったが、これは双方の将が一旦兵を退かせたことで痛みわけの形で終了した。
 この頃には俺も自分の部隊を立て直して戦線に戻っており、曹操軍と西涼軍は再びぶつかりあったのだが、それは最初の激突ほど激しいものではなかった。
 陳留勢は騎兵よりも機動力の劣る歩兵を主体とした軍勢であるため、基本的には敵の攻撃に対応する形で動く。そのため、ここで積極的に攻勢を仕掛けようとはしなかった。
 一方の西涼軍は、鳳徳が一時とはいえ罠に落ちたことが尾を引いていたのか、さほど積極的な攻勢に出てこようとはしなかった。
 結局、張莫が口にしたとおり、両軍の本隊は最後まで本格的な戦闘に加わることなく、日没を迎えた両軍は示し合わせたように互いに兵を退いた。むろん、退却したわけではなく、明日に備えて野営の準備を始めたのである。


 張莫は西涼軍の夜襲を警戒して篝火を盛大に焚かせ、簡易的ながら馬防柵をもくみ上げて陣地の要所に配置した。歩哨にあたっているのは、昼間の戦闘で結果として体力を温存した形になった本隊の将兵である。規律正しく、整然と行動する彼らの姿を見れば、たとえ西涼軍が夜襲を実行しようとも、そう簡単に成果をあげることは不可能であろうと信じることができた。


 俺が疲れた身体に鞭打って、陣営の真っ只中にある張莫の天幕までやってきたのは、張莫に呼ばれたからであったが、明日以降の戦いについての見解を聞いておくためでもあった。
 なにしろ虎牢関を陥とすと命令したとはいえ、張莫はその具体的な手段までは口にしていないのである。たとえこのまま正面から西涼軍を撃破したとしても、虎牢関にはなお五千近い軍勢が立てこもっており、これを陥とすのは容易なことではない。
 むろん、それ以前に西涼軍を撃破することだって、まったくもって容易なことではないのだが。



 ちなみに、昼間、俺が相手をしていた武将が鳳徳だと知ったのはこの時である。おまけに敵のもう一人はあの姜維であるという。まあ旗印を見た時から、もしや、とは思っていたが、それで衝撃が薄れるわけではない。なんでこの時期に姜維が馬騰軍にいるんだろうか。というか、馬超、姜維、鳳徳とか、なにその涼州三傑みたいな組み合わせ。
「……よく無事だったな、俺」
 思わず首をすくめて呟く。その瞬間、頬やら腕やらにずきりと痛みがはしる。昼間の戦いでいつの間にか負っていた傷だが、鳳徳と戦い、敗れて逃げ回ってこの程度の傷で済んだのは、むしろ幸運だったというべきなのかもしれない。


 そのうちどこかで鄧艾とか鍾会に出会っても驚かないようにしよう、などと考えていると、張莫が口を開いた。
「さて、昼間の戦いで疲れている皆にこれ以上の労を強いるのは忍びないのだが、ここが勝負の際である。もうしばらく付き合ってもらうぞ」
 それを聞き、俺の脳裏にひらめいたのは夜襲であった。おそらく、他の三人も同様であったろう。
 なるほど、夜間であれば、少なくとも昼間よりは騎兵の行動も鈍くなるし、不意をついて敵を陣内に押し込むことが出来れば勝利も得やすい。
 だが、問題は向こうとて夜襲の警戒くらいは必ずしているはずだ、ということである。敵軍に姜維がいるとなると、下手な夜襲は敗北の原因にもなりかねない。


 まあ、姜維の存在はともかく、俺が考える程度のことは張莫とて承知していると思うので、あえて反対を唱える必要はないだろうが、などと考えつつ、俺は張莫の言葉の続きを待った。
 そんな俺の前で、張莫は実にあっさりとした調子でこう言った。


 ――これより虎牢関を陥とす、と。




◆◆◆




 司州河内郡 虎牢関


 虎牢関の城壁の上に立っている若い歩哨は、彼方から響いてくる笑声を耳にし、もう何度目のことか、鋭い舌打ちの音をたてた。夜間の見張りなどという面倒な仕事を押し付けられた上、押し付けた者たちがばか騒ぎをしているのを耳にすれば平静ではいられない。
「酒もはいっているな、あの様子だと」
「うらやましいこったな」
 若い歩哨の声を耳にとめたのだろう、隣に立つ年配の兵士が苦笑と共にそう言った。
 現在、虎牢関に駐留している兵士は、守将である樊稠に率いられてやってきた弘農兵と、洛陽で徴募された洛陽兵の二つに分けられる。関内における立場は、当然のように樊稠を戴く弘農兵が上である。見張りを押し付けられた彼らが、いずれに属するかは語るまでもないだろう。


「まあ、わしは飯が食えるだけで満足じゃが……ん?」
 何か言いかけた年配の兵士が、不意に怪訝そうに眉をひそめた。どうしたのか、と口にしかけた歩哨も、すぐにその音に気がついた。それは騎馬が地面を蹴りつける音であった。
 弘農兵の酒盛りの音に混じっていた馬蹄の轟きは、一秒ごとにその音を高め、今や城壁の上に立つすべての兵士たちが気がついていた。
 警戒の声が各処から立ち上るが、その声に緊張の色は薄い。出撃した西涼軍が敗れたという報せは未だ届いておらず、であればやってくるのはほぼ間違いなく味方の軍勢である、と多くの者たちが考えていたからである。


 事実、虎牢関の城門前に姿を現した騎兵たちは『馬』の旗を掲げた西涼軍であった。 ただし、伝令にしては数が多い。百騎はくだらないだろう。何事か、と城壁の上から兵士たちが問いかける前に、騎兵の先頭を駆けていた者の口から、凛と澄んだ声が放たれた。
「城壁上の兵に告げる、あたしは西涼軍の馬孟起だ! 曹操軍の捕虜より、看過しえぬ情報を得たため、これについて樊将軍と相談すべく戻ってきた。至急、開門を願うッ!」
 城壁の上では煌々と篝火が焚かれていたが、虎牢関の高い城壁が仇となり、篝火の明かりは城壁の下までは届かない。ゆえに馬超の顔立ちは確認できなかったが、身にまとっているのは白衣白甲、乗っているのも白馬であり、そのいでたちはまさしく馬超のものだった。馬超の周囲の騎兵も同様に西涼軍の軍装に間違いない。


 馬超は快活な為人で、洛陽兵の中にも関内で馬超に声をかけられた経験を持つ者は少なからずいた。馬超が姜維と声高にやりあっている際、その声を耳にした兵も多い。
 彼らは等しく今の声が馬超本人のものであると認めた。それでも、ただちに開門を、と言われて洛陽兵は躊躇してしまう。
 罠を疑った、というよりは単純に責任の生じる行動を回避したかったのだろう。数人が、弘農兵の下に報告に走る。弘農兵から守将である樊稠に連絡が行けば、樊稠が開門の可否を判断するだろう。
 そう考えた洛陽兵であったが、城壁の下にいる人物はそんな彼らの心情を掌を指すように承知しているらしい。
 呆れと苛立たしさを混ぜ合わせた声を張り上げた。
「城壁の上にいるは洛陽の兵と見るが、至急の用ゆえみずから足を運んだこのあたしを門前で待たせるつもりならば、その責は軽くないと知っておけよ。再度の開門は求めない。お前たち自身で判断が出来ないのなら、はやく樊将軍にあたしが来たことを伝えて来いッ」


 突き放した馬超の物言いに、洛陽兵が不安げな視線を交し合う。とはいえ、ここではいわかりましたと城門を開くほどの決断も下せない。そもそも、彼らにそんな権限はなく、その権限を持っている守備隊長は見張りの役目を洛陽兵におしつけ、部下と共に奥に引っ込んでいるのである。
 と、報告を聞いて慌てて駆けつけたのだろう。弘農勢に属する守備隊長が姿をあらわした。そして、立ち尽くしている洛陽兵を甲高い声で叱咤する。
「何をぼんやり突っ立っているのか、ばかどもが! いつから貴様らは錦馬超殿を閉め出せるほどにえらくなった?! さっさと城門を開けィ!」
 隊長はひとしきり洛陽兵たちを罵ると、城壁下にいる馬超に釈明をはじめた。
「洛陽の雑兵どもが失礼をいたした、馬将軍。ただちに門を開けますゆえ、お通り下され!」
「樊将軍の兵か? 感謝するッ」
「感謝などとんでもない、当然のことです。ただ、将軍を門外でお待たせしようとしたことは我ら弘農の部隊の本意ではございません。どうかそのことは――」
「承知している。素早い対応に感謝こそすれ、罪を問うたりはしないさ。それよりも急ぎ門を開けてくれ。この戦のみならず、洛陽の朝廷の行く末をも左右する報告なんだ」
「は、ただちに!」


 しばし後、重い地響きの音と共に虎牢関の城門が開かれる。むろん、完全に開放したわけではなく、騎兵一人がかろうじて通れるかどうかといった狭い隙間を開けただけだったが、馬超麾下の西涼軍はその隙間を苦もなく次々と通り抜けていく。
 その間、転がるように城壁上から下りてきた隊長は、馬を止めている馬超のもとへ駆け寄ってさらに釈明を繰り返そうとして――ふと、視線の先に佇む馬超の姿に違和感を覚えた。


 白馬に跨り、白衣白甲を身にまとう西涼の錦。威風堂々たるその姿は、しかし、虎牢関の中で幾度も見かけた馬超のものと何故か重ならない。
 違和感が形をもってあらわれたのは、虎を模した馬超の兜からこぼれでた髪を目にした時である。
 西方の異民族の血を引く馬超の髪の色は黄褐色。城壁上から見下ろした時は周囲が暗がりだったこと、また馬超が髪のほとんどを兜の内におさめていたので気がつかなかったが、こうして関内の灯火に照らされた髪に目を向ければ、その色は黄褐色というよりはずっと赤茶けた――否、もっとはっきりと赤い。
 緋の色合いは、灯火の照り返しを受けたゆえの錯覚なのだろうか……



 その思考が消え去らないうちに、馬超から声がかけられる。
「お前が守備隊の長か?」
「は、はい、さようです、馬将軍。すでに人をやっておりますゆえ、間もなく樊将軍もこちらにお越しになられるかと」
「それは助かる。この広い関の中、将の姿を求めて駆け回るのは骨だからな」
 それを聞いた隊長は、その場で足を止めた。何故か首筋につめたいものを感じたのである。別に馬超が声を荒げたわけでもないのだが。


 長の戸惑いに構わず、馬超は続けて口を開く。
「そうだ、長よ。あたしが掴んだ情報、お前には先に教えておこう」
「は? あ、いや、それは我が身に過ぎたことですので、樊将軍に……」
 馬超が馬首をこちらに向けるのをみて、隊長は一歩あとずさった。馬超は気にした風もなく、さらに馬を進ませて距離を詰めてくる。
「己が分をわきまえた発言だな。しかし、気にすることはない。どのみち、明日には一兵卒に至るまで知れ渡っていることだ。情報というのはな、この虎牢関が陥落し、洛陽の朝廷がその身を守る盾を失った、ということだよ」


 ――気がつけば、馬超は隊長のすぐ近くにまでやってきていた。
 だが、隊長は言葉の方に注意を割かれ、その事実に気がつかない。
「しょ、将軍、何をおっしゃって……?」
 その問いに対し、返ってきた答えは、呆れた響きを隠しおおせていなかった。
「今、決定的なことを告げたつもりなのだがな。いいかげんに気づけ、ばかもの」
「は……?」
 知らず、馬上の馬超の顔を見上げた長は、兜の下からのぞく容貌を見て思わず息をのんだ。
 そこにあったのは秀麗な、それこそ花のような顔(かんばせ)だった。馬超も優れた容姿の持ち主だが、この人物は馬超ではない。馬超がその眉目に西方の血を感じさせる鋭利さを宿しているのに対し、今、長が見上げている人物にはそれが欠けている。かわりにあるのは、中原の民の多くが理想とするような柔らかな美貌である。
 女性がかぶっていた兜を脱ぎ捨てると、中に収められていた豊かな髪があらわになる。不意に吹き付けてきた夜風になびいた髪は、隊長の視界を鮮やかな緋へと染め上げた。
 その色合いが灯火の反射によるものではないことは、誰の目にも明らかであった。



「陳留太守張孟卓である。無能か、保身か、小心か、いずれか知らぬが門を開けてくれたこと、感謝するぞ、長よ。大口を叩いて出てきた手前、見破られましたとすごすご帰るわけにはいかなかったからな」
 張莫がそう言っている間にも、配下の騎兵は行動に移っていた。
 突如として牙をむいてきた西涼軍を前に、弘農、洛陽を問わず、関の守備兵はまったく為す術なく切り倒され、驚愕と怒号と絶鳴が渦を巻いて関内に溢れた。
 守備兵の多くは張莫と隊長のやりとりなど知らない。そして、張莫の配下はわざわざ自分たちが曹操軍だ、などとは名乗らなかった。ゆえに、ほとんどの守備兵が、味方である西涼軍から攻撃を受けている、と誤解したのである。
 混乱が誤解を生み、誤解が混乱を拡げた。それは張莫麾下の兵士が虎牢関の城門を開け放つにいたって爆発的な拡大を見せ、西涼軍謀反の報となって守将である樊稠の下へ届けられることになる。




◆◆ 




 虎牢関の城門が音を立てて開かれていく。
 先刻のようにほんのわずかな隙間を開けるためではなく、完全に開放するために。
 その情景と、もれ聞こえてくる関内の混乱の物音が、万言に優る効果をもって、作戦の成功を俺に伝えてくれた。
「『彼方に聳えるあの虎牢関、別に陥としてしまっても構わんのだろう』……か」
 いつかの張莫の台詞を思い起こし、俺は苦笑を浮かべかけたが、それは面にあらわれるまえに立ち消えてしまう。残ったのは、どこかうそ寒い感情であった。
 表面的な言動で、張莫の為人を見切った気になっていたわけではないが、ここまで周到に先を見据えて行動していたとは全く予想の外というしかない。
 ……まあ肝が声真似の作戦を、予備知識もなしに事前に見抜けるようなやつがいたら、それは天才というより変人であろうけれど。


 思い返せば、司馬家の兵と共に虎牢関に向かった時も、張莫は馬超の声を聞いておきたいというようなことを口にしていた。
 顔を見ておきたいという程度の意味だと思って大して気にとめてはいなかったが、あの時点で張莫は今日の奇襲を思い描いていたのだろう。
 ただ馬超の声を確認するためだけではない。自らの存在をあからさまにして敵兵の突出を誘い、自軍の手ごわさを印象づけると同時に、捕虜をとってより詳細な虎牢関内の情報を得る。
 馬超率いる西涼軍一万、樊稠率いる弘農軍三千、そして洛陽で徴募されて間もない二千の兵。
 張莫が汜水関を出撃すれば、先の戦闘で痛撃を被った樊稠が西涼軍を差し向けてくることは容易に予測できる。
 そうして西涼軍を虎牢関から切り離し、自軍で足止めしている間に夜陰に乗じて虎牢関へ急行、曹操が評していわく『神業』の声真似で馬超を装い、城門を開けさせる。
 西涼軍の旗やら軍装やらは、昼間の戦場で回収したものを使っているわけだが(張莫の白馬と白衣白甲はあらかじめ用意しておいた物)、当然、関内の兵は張莫の行動を西涼軍の謀反――洛陽ではなく許昌の朝廷を選んだゆえの行動とみなすだろう。それは洛陽の朝廷にとって計り知れない打撃と混乱をもたらすに違いない。



 ただ馬超の声を上手にまねるだけではない。そうすることが勝利へと結びつく――その状況をつくりあげるまでの手腕が尋常ではない。そして、その勝利をただこの戦場のみのものとせず、今後の戦局を大きく左右するものへと化けさせる手並みにいたっては空恐ろしいほどだった。
「曹丞相が同じ時に違う場所にいるようなものだよな、これ……」
 頼もしいといえば頼もしいのだが、今後のことを考えると恐ろしくもある。張莫が陳留の太守以上の権限を与えられ、丞相府で重きをなすようになった時、曹操軍の行動力は飛躍的に増加するのではないか。
 なにしろ曹操に匹敵ないし迫る人物がいるのだから、曹操自身が許昌を動かずとも大規模な作戦が展開できる。逆に曹操が出撃し、張莫が留守を守るという形をとることも可能だろう。これまで曹操がそうしなかったのは、やはり兌州の乱の影響が、曹操軍内でも抜けきっていなかったから、と見るべきか。
 となると、この戦いの勝利は曹操軍にとってさらに大きな価値と意味を有するわけで……


「――って、今はそんなこと考えている場合じゃないな」
 俺は先走りかけた自分の手綱を引き締める。この戦いが後にどのような影響を及ぼそうと、それを理由として手を抜くようなまねはできない。張莫は昼間の戦いに参加した俺や徐晃、司馬家の軍をこの襲撃にあえて加えた。それが、それぞれに明確な功績を必要とする俺たちへの心遣いであることは間違いない。
 その心遣いに応える意味でも、汜水関で待っている司馬孚のためにも、勝利を得るために専心する義務が俺にはある。


 開かれた虎牢関の城門に向け、闇に隠れていた曹操軍が駆け込んでいく。兵数だけを見れば、俺たちは敵の十分の一程度なのだが、関内の敵の混乱ぶりを見れば敗北の可能性は皆無であると断言できる。
 俺は虎牢関に入るや、すぐに馬を下りて地面に降り立ち、持っていた剣を抜く。視界に映るのは、はや逃げ腰になっている粗末な格好をした兵士である。おそらく洛陽で徴募された兵士なのだろう。となると、そんな兵士を叱咤している連中が弘農兵か。
 ――ふむ。


「虎牢関の守備兵に告げる!」
 急に俺が声を高めたもので、隣の徐晃が驚いたようにこちらを見つめてくるが、説明は後回し。
「我らは曹丞相が麾下、張孟卓様の兵である。すでに西涼の馬超殿は洛陽の朝廷に義なしと判断し、我らにくみすることを誓約した。我らと西涼の精鋭を同時に相手取り、勝利しえると考えるならば戦いを続けるがいい。かなわぬと思うならば武器をすてて降伏しろ! 降伏が肯えぬというのならば逃げ出すがいい! 我らにくみせず、この関にとどまる者に待つは、ただ死のみぞ!」


 俺の声に敏感に反応したのは、洛陽で徴募されたとおぼしき兵たちである。元々、事態がわからず、逃げ腰であった彼らは、西涼軍も敵にまわったと聞いて完全に戦意を喪失したようだった。
 弘農兵はそこまであからさまに動揺はしていないが、やはり西涼軍が敵にまわったという言葉には衝撃を隠せない様子であった。
 俺の言葉をただの妄言だと切り捨てることは、彼らには出来なかった。西涼軍の軍装をまとった陳留の兵は、今も各処で暴れまわっているのだから。
 背を向ける者、武器を捨てる者、それらを阻もうと怒号をあげる者、こちらに向かって斬りかかって来る者、反応は様々であったが、混乱が加速したことは間違いない。


 思った以上の効果が出たことに、俺は内心でほっと安堵の息を吐いた。昼間の敵とは比べ物にならないとはいえ、こちらが数の上で劣っていることは事実。どんな拍子で形勢が逆転しないものでもない。
 ゆえに、なすべきことはぬかりなく為しておかねばならない。それが結果として勝利という形に結びつく――否、それをしない者に勝利が得られるはずはないのだ。
 そんなことを考えていると、不意に隣から声をかけられた。
「……北郷さん」
「なんです、公明殿?」
「私としては、太守様と同じくらいに北郷さんも厄介な人だと思いますよ? ええ、色々な意味で」
 どこか呆れたようなその物言いが、妙に真剣味を帯びて聞こえたのは……きっと俺の気のせいだったのだろう。うん、そうに違いない。





◆◆◆





 明けて翌日。
 先夜、棗祗、衛茲の二将による夜襲を凌ぎ、したたかに逆撃を加えることにも成功した西涼軍の陣中に、戦勝の喜びを凍結させる報告がもたらされる。
 報告が知らせたのは、虎牢関の城壁に翻る旗印は『曹』と『張』の二つである、ということだった。それは曹操軍によって虎牢関が陥とされたことを意味する。馬超らは報告の真偽を確かめるためにただちに馬を飛ばし、自らの目で報告に間違いがないことを確認する。
 馬超はもちろんのこと、さすがの姜維や鳳徳も数瞬の沈黙を余儀なくされた。先夜の奇襲、さらに本陣を守っていた兵数を考慮すれば、たとえ曹操軍が別働隊を組織していたとしても、その数は千を越えることはまずないはず。汜水関の守備兵が、関を空にして急進してきたとしても、二千にも届かないだろう。そんな寡兵で、五千の兵が立てこもる虎牢関が一夜にして陥とされるなどということがありえるのか。
 だが、事実は事実。ありえないとうめいたところで、眼前の旗印がかわるわけではない。虎牢関が陥とされた以上、西涼軍は前方を汜水関に、後方を虎牢関に塞がれた形になる。一刻も早く動き出さなければならなかった。
 そう考える各将は、幸か不幸か、この時、自分たちにかけられた不名誉な疑惑をいまだ知らずにいた。



 一方、洛陽にも日をおかずして虎牢関陥落、西涼軍謀反の報がもたらされ、朝廷は蜂の巣をひっくり返したような騒ぎに包まれる。
 この時、西涼軍は馬超の従妹である馬岱を朝廷に留めており、朝臣たちの中には馬岱斬るべしと声高に唱える者が相次いだが、少しでも先の見える者たちはすでに洛陽を退去する準備にとりかかっていた。
 虎牢関が陥とされた以上、洛陽は丸裸にされたといっていい。西涼軍の謀反が事実であれ、偽報であれ、勝敗はすでに定まった――多くの者がそのように考えたのである。
 わずかでも利を得ようとして集まった者たちだ。利が失われたと判断するや、去ることもまた早かった。 
 これに対し、南陽太守の李儒は、南陽からみずからの部隊を洛陽に呼び寄せることを決断。これまではあくまで洛陽の朝廷を主とし、その影で動いてきた李儒であったが、ここにおいて公然とその存在を表にあらわしはじめた。




 かくて李儒率いる南陽軍は慌しく動き始める。
 それは同時に、南陽郡と隣接する荊州牧劉表の領内にも影響を与えずにはおかなかった。
 現在、荊州では劉表の後継者の座をめぐり、劉琦、劉琮の姉妹の対立が激しくなっていた。より正確にいえば、その二人の背後にいる新野城主劉備と、荊州の有力者である蔡瑁との対立であった。
 もっとも、劉琦はすでに病身をはばかって後継者の資格を放棄して久しく、劉備にしても野心をもって劉琦に接しているわけではない。
 だが、劉琦の聡明さと劉備の武力との結合を恐れた蔡瑁は、劉表に働きかけて劉備を仲との最前線である新野に追いやり、劉備が不満ひとつもらさずに新野に赴任して以後も、事あるごとにその排除を進言してやまなかった。


 こうなると、劉備の方も自衛のために動かざるを得ない。また、荊州内部でも蔡瑁の権勢に反感を抱く者、あるいは蔡瑁では袁術や曹操といった者たちから荊州を守りえぬと考える者がおり、彼らは自然と劉備に対して信望を寄せ始めていた。
 かくて望むと望まざるとに関わらず対立を深めていた両者にとって、南陽の動きは無視できないものだったのである。




 中原では曹操と袁紹の激突が間近に迫り、淮南では、いまだ噂の段階ながら、袁術に反旗を翻した呂布が寿春の南で袁術と対峙している。
 そのさらに南、長江を渡った江南の地でも、一時、地図の上からその勢力を消した英雄が胎動をはじめていた。
 中華の大地を覆う戦雲は未だ晴れず、それどころかさらに厚く立ちこめるばかり。いかなる智者の目をもってしても、その行く末を見通すことは容易ではないものと思われた……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/03/28 23:20
 司州河南郡 洛陽


 かつては中華帝国の中心地として繁栄をほしいままにしていた洛陽の都。
 だが、中華の戦乱が深まるにつれ、その価値は下落の一途をたどり、昨今ではこれを治めようとする勢力もないままに、貧民、流民の巣窟と成り果てていた。
 この状況は、西帝劉弁の蜂起によって一度は改善の兆しを見せる。しかし、曹操軍によって虎牢関が陥とされたことが伝えられると、洛陽政権はもはやこれまでと見切った者たちは我さきに洛陽から逃げ出しはじめる。
 都を縦横にはしる街路からは一日ごとに人の姿が消えていき、都を包む空気は以前にもまして荒涼たるものになっていった。


 そして、それは街中に限った話ではなかった。許昌の現政権打倒を掲げた劉弁の下に集まった文武百官の中にも、洛陽から逃げ出す者は少なくなかったのである。否、むしろ彼らの方が庶民よりもはるかに嗅覚に優れており、朝臣の姿は一日ごと、一刻ごとにその姿を減らしつつあった。
 一日、朝会の場に姿を見せた何太后(劉弁の母)は、その場に集まった臣下の数を見て、傍らに控えた李儒に向けて悲鳴まじりの詰問を放つことになる。




「儒(李儒)よ! これはどうしたことぞ?!」
「どうした、と申されましても」
 何太后に甲高い声を浴びせられた李儒は、しかし眉一つ動かさず、冷静そのものの声で応じる。
「洛陽はもはやこれまで、と考えた者どもが逃げ出しただけのことでございます」
「それがわかっているのなら、何故手を打たぬ?!」
「打つ必要がないからでございますよ、皇太后さま」
「なに?」
 何太后は訝しげに眉をひそめて李儒の顔を見据える。
 その何太后に対し、李儒は丁重な態度を崩さないまま、自身の発言を説明してみせた。
「陛下が洛陽で蜂起してよりこの方、事態はさしたる進展を見せておりませぬ。都には金も物も集まらず、檄文に応じた諸侯はわずかに涼州の馬騰のみ。これでは話が違うと考えていた者も多かったことでございましょう。虎牢の陥落により、洛陽を守る盾が失われた今、陛下を見限る者が現れたとて何の不思議がございましょうか」
 利の匂いをかいで現れた者が、利の匂いが消えるや姿を消すのは道理である、と李儒は言う。今、洛陽はこの段階にあるのだ、と。


 それを聞き、何太后の眉がきりりとつり上がった。
 かつては皇帝の寵愛を得た美貌が、怒りと不満、そしてほんのわずかな恐怖に歪む。
 相手は皇帝の生母であり、皇帝はこの母親の意に逆らえない。下層から成り上がった出自ゆえか、何太后は感情の動きが激しく、時に怒りに任せて廷臣や宮女を処罰することがある。李儒にかぎらず、廷臣にとって不興を買うことは避けたい相手である。そのはずだった。
 だが、李儒は何太后の怒りを目の当たりにしながらも、大して気にかける様子を見せない。
 李儒は知っていたのだ。何太后はかつて巨大な権勢を握り、一度それを失った。再び失うことには耐えられないだろう、ということを。
 何太后の権勢、すなわち皇帝劉弁を支える柱は李儒であり、いかに驕慢な何太后とはいえ、その事実は無視できない。ゆえに、李儒は何太后の怒りを恐れる必要がないのである。
 また、仮に何太后がその事実を無視して李儒を排する行動に出るのなら、身の程を知らせてやるだけのこと――それが李儒の内心の呟きだった。


 とはいえ、そのつぶやきを公然と口にするのは、まだ時期尚早である。
 李儒は静かに言葉を続けた。
「利を求めて集った者が去った。それはつまり、今、洛陽に残っている者たちは、利ではなく忠義によって集った者、ということを意味します。彼らをもって新朝廷の基盤となせば、国家百年の大計を立てることもかなうでありましょう」
 その言葉を聞くと、何太后は表情をやや緩めた。
「ふむ……だが、人は残っても、人を活かす術がないではないか。都に金も物も集まらぬ、とはおぬし自身が口にしたことぞ」
 その指摘にも李儒は動じなかった。
「これまで表で、あるいは裏で私を逆臣だと非難していた廷臣の多くは宮廷を去りました。それはすなわち、私の力を存分にふるえる環境が整ったことを意味します。我が兵をもって洛陽を守り、我が富をもって都を潤せば、金も物もおのずと集まりましょう」
「それが出来るなら、なぜ最初からそうしなかったのじゃッ?!」
 再び苛立ちをあらわにした何太后が詰問するが、李儒はこれを故意に無視した。
 むろん、李儒の行動には相応の理由がある。だが、それをこの場で口にするつもりは毛頭なかった。
「今日までの停滞は、これすべて今の状況を現出させんがための布石です。どうかご安心くださいませ」


 虎牢関の陥落でさえ、無能不忠の廷臣を追い払い、李儒が表に出るための一手に変じた。すべては我が掌の上にある。今後もかわらず自分を信じてくれるように――そう言い放つ李儒。
 彼を見据える何太后の目には、不審の薄い膜がかかっていたかもしれない。
 元々、何太后は李儒に全面的な信を与えているわけではない。李儒は容姿だけを見れば秀麗そのものだったが、痩身を包む陰鬱とした空気は、他者の信頼を呼び起こすものではなかった。李儒の眼差しが底光りするのを見る都度、不快とも不安ともつかない思いが何太后の胸奥をよぎるのである。
 だが、何太后はその思いを表に出そうとはしなかった。その為人に気に食わない点があるにしても、自分を宮中の奥深くに閉じ込め、無視してのけた曹操をはじめとした許昌の廷臣たちに比べれば、李儒の方がずっと信頼するに足る。何太后はもう二度と宮中の虜囚になるつもりはなかった。




 しばし後。
「儒よ」
 沈黙をやぶって呼びかけたのは、何太后ではなく、その傍らにいた劉弁であった。
 痩躯である許昌の劉協と異なり、劉弁の身体はふくよかである。だが、肥満というほど肥え太っているわけではない。劉弁は母である何太后と異なり、為人に圭角を宿しておらず、李儒を見る眼差しは柔らかく穏やかなものだった。ただ、見る者によっては少し芯を欠く印象を受けるかもしれない。
「残った者たちを新たな朝廷の柱とする、ということは懿(司馬懿)を取り立てることもできるのだな?」


 それを聞いた李儒は、かすかに眉をひそめた。
「許昌にて北部尉を務めておられた伯達どの(司馬朗の字)はともかく、仲達どの(司馬懿の字)には何の実績もございませぬ。ましてやまだ年端もいかぬ女子、この場に席を与えられてもおりません。仲達どのに重任を授ければ、他の者から不平の声があがりましょう」
「む、む、そうか……しかし、歳若しとはいえ、司馬家の麒麟児として懿の令名はつとに知られておる。文武に長けた懿を用いぬは真に惜しいと思うのだが」
 李儒の反論にわずかな戸惑いを示しながらも、劉弁は司馬懿を推す。


 その皇帝の姿を見て、李儒は先日聞いた話を思い出した。劉弁と何太后は、先に洛陽で起きた乱の際、司馬家の先代当主である司馬防にかくまわれ、命を救われたのだという。
 あの乱では、当初は何太后も殺害されたと思われていた。それほどの大乱から救われた劉弁にしてみれば、ここでぜひとも司馬家の恩に報いたい、という気持ちが強いのだろう。
 何太后にしてもそれは同様か。そう見て取った李儒は、ここであえて司馬懿の登用に反対を続けることの無意味さを悟った。どのみち、十三、四の小娘ひとり、李儒にとってはどうでもいい存在なのだ。適当な役職を投げ与えておけば問題あるまい――そう判断すると、李儒は劉弁に対し、うやうやしく頭を垂れる。
「かしこまりました。具体的にどの任を与えるか、この場ではきとは申せませぬが、仲達どのがしかるべき役職に就けるよう取り計らいましょう」
「おお、そうしてくれるか。儒よ、よろしく頼んだぞ。懿も、それに朗も喜んでくれよう」
 劉弁は破顔して両手を叩く。
 その皇帝の姿を、李儒はじっと見つめていた。臣下が皇帝の顔をまじまじと見ることは失礼にあたる。ゆえにそれと悟られないように注意しながらではあったが、それでも李儒の視線が皇帝と、皇帝が座す玉座に向けられていたのは確かな事実であった。





◆◆◆





「ここにいるぞー!」
 洛陽城内の一画に、そんな声が響き渡ったのは、まだ日も昇りきっていない時刻のこと。
 荒廃した洛陽にあって、例外的に綺麗に整えられた家屋敷が立ち並んでいるこの一帯は、洛陽政権において高位を与えられた者たちの住居である。その声が聞こえてきたのは、その中でも特に豪奢な邸宅であった。ここは劉弁と何太后の意によって、司馬家に与えられた屋敷である。
 その屋敷の一室で、司馬懿、字を仲達という少女は、茶の入った二つの碗を盆の上にのせたまま、きょとんとした顔で目を瞬かせていた。
 その視線の先では、おそらく退屈だったのだろう、一人の少女がばっちりとポーズを決めた格好で凍り付いている。決め台詞の際のポーズの練習でもしていたのかもしれない。


 司馬懿はわずかの沈黙の後、盆を持ったまま首を傾げた。
「馬将軍がこの部屋にいることは存じ上げています」
「そ、そうだよね、仲達さんは知ってるよね! あはは、わたしってば何いってるのかなー?」
 そういって恥ずかしそうにわたわたと両手を振る少女の名を馬岱という。劉弁の檄文に応じて洛陽にやってきた西涼軍の一将である。
 馬岱は西涼軍が虎牢関に赴いた後も洛陽の朝廷に留まった。表向きはどうあれ、内実は人質であり、西涼軍謀反の報が届けられた今、その命は旦夕に迫っている――はずだった。
 だが、現在までのところ、劉弁は馬岱を斬る命令を発してはいない。これには幾つかの理由がある。


 朝廷で馬岱斬るべしの声があがった際、司馬朗をはじめとした一部の臣は、西涼軍謀反の報に疑念を差し挟んだ。西涼軍の主である馬騰、そして今回、軍を率いてやってきた馬超の人格的にも、また能力的にも、現時点で西涼軍が矛を逆さまにするとは考えられない、というのがその理由だった。
 あの二人が裏切りを働くとは思えないし、仮に本当に裏切ったとしたら、その被害が虎牢関一つで済むはずがない。西涼軍は洛陽の防備が薄いことを知悉している。馬超が真に洛陽に弓を引いたのならば、虎牢関を陥落させた後、間髪いれずに洛陽を直撃してくるだろう。
 だが、実際には曹操軍は虎牢関に留まり、洛陽に進撃する気配を見せない。まるで何者かの反撃を警戒しているかのように。


「虎牢関の主将は張孟卓どの。今、この地に、かの人物が警戒を余儀なくされるような軍があるとするならば、それは西涼軍に他なりません。これすなわち、西涼軍がいまだ我らと共に在ることの証左ではないでしょうか」
 この司馬朗の言はある程度の説得力をもって廷臣たちの耳に響いた。確かに西涼軍が降ったのならば、曹操軍が虎牢関でじっとしている理由はないのである。
 ただ、司馬朗の発言は状況を踏まえて構築した仮説にすぎず、確たる証拠があるわけではなかった。
 そのため、あくまで馬岱を処分すべし、と主張する者もいた。その筆頭は虎牢関で敗れた樊稠ら弘農勢である。彼らは自分たちの目と耳で西涼軍の謀反を確かめており(と彼らは信じきっている)、馬岱斬るべし、との声を緩めようとはしなかったのである。


 馬岱の処分を巡る両者の舌戦は、激しさを増していくかに思われた。
 しかし、事態は思わぬ形で終息する。


 虎牢関陥落以後、洛陽政権に見切りをつけた廷臣の数は少なくなかった。彼らの多くは洛陽から逃げ出す道を選んだのだが、中には一歩踏み出し、いっそ馬岱を救出して虎牢関へ駆け込もうとする者もいた。ただ逃げ出すよりは、その方が立身を望めると考えたのだろう。
 一日、彼らは徒党を組んで馬岱救出の挙に出る。
 しかし、彼らの思惑に反し、馬岱は洛陽から逃げ出そうとはしなかった。皇帝陛下よりたまわった自分の任は洛陽の警護であり、その務めを放棄する理由はない――そう言明し、逃亡者たちの差し出した手を払ったのである。


 感謝されるものと思い込んでいた逃亡者たちは数瞬の自失を余儀なくされた。だが、彼らは我に返るや、馬岱に現在の情勢を諭し、このままでは処刑されるのは必至であり、助かるためには自分たちと共に来るしかないと繰り返し述べ立てた。
 しかし、馬岱は頑として応じようとしない。
 怒りと焦燥に駆られた彼らは、ついには実力行使に及ぼうとするが、若年とはいえ馬岱はれっきとした将軍である。たとえ武器を取り上げられた状態であっても、易々と取り押さえられるはずがなかった。


 逃亡者たちは馬岱を取り押さえるどころか、かえって馬岱によって捕らえられ、そのまま朝廷に突き出された。
 この行動は馬岱の立場を明らかにすると共に、洛陽の廷臣たちに対して痛烈な皮肉を突きつけることとなる。言葉にして言ったわけではない。しかし、馬岱は行動によって問いかけたのだ。
 真の裏切り者は西涼軍か、それとも朝廷に仕える臣たちなのか、と。
 これにより、馬岱斬るべしと唱える声は一気に鎮火することになる。
 馬岱の名は、馬騰や馬超に比べればまだまだ無名といってよかった。だが、今回の毅然とした行動と決断により、心ある廷臣の中で馬岱という武将の評価は大いに高まった。
 西涼軍の向背はいまだ定かではないため、自由の身とするわけにはいかなかったが、宮中で幽閉しておく必要はなかろう、という劉弁の言葉にあえて反駁する廷臣はおらず、馬岱の身柄は司馬家が預かるという形に落ち着いたのである。



 ただ、当の馬岱は、自身の名があがったことに対してさしたる関心を示していなかった。
 その理由は、馬岱の次の言葉が明らかにしていたであろう。
「いやー、ほんと仲達さんの言ったとおりに事が進んだよねー。あたし、びっくりしたよ」
 椅子に座り、司馬懿が持ってきてくれたお茶をすすりながら馬岱がそう言うと、司馬懿もそれに応じて口を開く。
「馬将軍のお役に立てたのならば幸いです」
「でもさ、なんでああもぴたっとあの人たちの動きがわかったの? ひょっとして、あの人たちも仲達さんの掌の上だったり?」
 興味津々、という風に馬岱が卓の上に身を乗り出し、じっと司馬懿の顔を見つめる。
 馬岱が言う「あの人たち」というのは、言うまでもなく逃亡をはかった廷臣たちのことであった。


 司馬朗と異なり、洛陽の朝廷に席を与えられていない司馬懿は、馬岱をはじめとした西涼軍とは面識がなかった。ゆえに、宮中に幽閉されていた馬岱の下に、司馬朗を介して司馬懿からの手紙が届けられたとき、馬岱は少なからず戸惑い、さらに内容を見て驚きを禁じえなかった。
 そこには、近日中に馬岱をつれて洛陽を脱しようとする一団が現れること、これに従えば西涼軍と馬岱、双方の名が損なわれること、さらにそれを避けるための対応までが克明に記されていたからである。


 やや迷ったが、馬岱は司馬懿の提言に従い、結果として馬岱と西涼軍の疑いは一応は拭われた形となった。
 馬岱は当然のように司馬懿に感謝したが、西涼軍と縁もゆかりもないはずの司馬懿が、どうして馬岱のために動いてくれたのか、という疑問は残った。事態があまりにも司馬懿の想定どおりに動いたことも、不可解といえば不可解である。
 もしかすると、彼らもまた司馬懿にそそのかされて事を起こしたのではないか――馬岱がそう考えたとしても、さして不思議はないだろう。
 その疑問を口にした際、一瞬だけだが、馬岱の目に眩めくような光がよぎる。それは不信を示すものではなかったが、司馬懿に何らかの底意があれば、それを見逃すことはなかったであろう。


 天真爛漫なようでいて、奇妙に奥深さを感じさせる眼差しを向けられた司馬懿は、しかし、構える素振りも見せずにあっさりと首を横に振る。その面持ちは平静そのもので、問いかけに応じる声にはわずかの乱れもなかった。
「予測はしました。けれど使嗾はしていません」
 虎牢関が陥ちた以上、廷臣の動揺は避けられない。利を求めて集まった者たちが馬岱の存在に目をつけることは十分に予測できることであった。そして、馬岱の存在に目をつけた者たちがどういう行動を選ぶか、ということも。
 司馬懿にしてみれば、それは朝になれば日が昇ることを指摘するようなもので、つまりはもう予測ですらなく、時期を未来に設定した単なる事実の指摘に過ぎなかったのである。


 司馬懿の短い返答に感得するものがあったのか、馬岱は素直にこくこくと頷いた。元々、馬岱は悪戯好きではあっても、権謀術数の類を好むわけではない。腹の探りあいなど御免こうむりたい、というのが本音だった。
 馬岱の視線の先で、司馬懿は両手で卓上の茶碗を持ち、ゆっくりと口元まで運んでいる。馬岱の内心に気づいていないのか、あるいは気づいた上で気にかけていないのか、その動作から読み取ることは難しい。
 確かなのは、そんな何気ない仕草の一つ一つにまで華が感じられるということである。司馬懿は馬岱よりも三つばかり年が下とのことだが、その立ち居振る舞いを見る限り、とてもそうは思えなかった。


(うーん、お姉さまや鞘ちゃんとは、また違った美人さんだよねえ)
 従姉である馬超や、軍師である姜維の姿を思い起こしながら、馬岱はそんなことを考える。優れた容姿や、歳に見合わぬ威厳といった面では、あの二人とて司馬懿に劣るものではない。ただ、草原を駆けて育った彼女らと、洛陽や許昌といった大都市で育った司馬懿では、おのずから発する雰囲気が異なった。端的にいえば、司馬懿の方が格段にお淑やかなのである。


(ほんと、お姫様みたい。ま、ただ淑やかってだけの人じゃないんだろうけど)
 それは今回の件を見れば明らかだ、と馬岱は思う。
 廷臣から離脱者が出るのを予測しながら、司馬懿はなんら手を打とうとはしなかった。司馬懿自身に権限がなかったとしても、姉である司馬朗を通じて、離脱者の動きを封じることは可能であったにも関わらず、である。
 それはつまり、そうしたところで何の益もない、と司馬懿が見切っていたからだろう。この程度の劣勢で逃げ出す廷臣など洛陽には不要であるゆえに、離脱の動きを掣肘しようとはしなかった。
 一方、ただ逃げ出すだけにとどまらず、利のために今日までの主に仇なそうと企む者たちに対しては、しっかりと手を打っている。
 これにより、司馬懿は馬岱に恩を売り、西涼軍との繋がりを得た。そして――
(たぶん、あたしへの指示以外にも、色々と動いていたんだろうねー)
 何の証拠もないことだが、馬岱はそう確信している。西帝に仇なそうとした廷臣たちは、今後策動する余地を根こそぎ奪われているだろう、と。
 聞けば眼前の少女は、都でも麒麟児とあだ名されていたそうだが、なるほどと思わざるを得ない馬岱だった。



 その麒麟児は、暖かいお茶を飲みながら、淡々と言葉を続けた。
「虎牢関の動きを見れば、西涼軍謀反の報が誤りであるのは明らかです。馬州牧は諸侯の中でただひとり、陛下の檄に応じてくださった御方。その配下の方を、誤報をもって処断するようなまねをすれば、陛下の徳望が大きく損なわれてしまいます」
 そんな事態は避けたかった、と司馬懿は言う。そのために一石を投じただけだ、と。
 だが、それによって生じる波紋に対し、何の思惑も持っていなかったわけではない。司馬懿はそれをも率直に口にした。
「司馬家としては、陛下をお守りするため、馬家の皆様と手を携えて事にあたりたい。馬将軍に手紙を差し上げることが、そのための手蔓になるのではないか、と考えたことは事実です。また、私個人としても、皆様がどのような為人なのか、それを知る機会が欲しかった」


 司馬懿にならってお茶をすすりながら、馬岱も口を開く。
「そっかあ。やっぱり色々と考えてたんだね。ちなみにあたしと会った感想は……えと、やっぱりちょっと頼りないかな? お姉さまや鞘ちゃん――あ、これは軍師の姜維って人のことだけど、あの二人からも事あるごとにお小言もらってて……あたしなりに頑張ってるつもりなんだけど、あの二人がちょっと反則なんだよね。おば様(馬騰)やおじ様(鳳徳)もそうなんだけど、なんであたしの周りには普通の人がいないのかな。たぶん、同じ年頃の子に比べれば、あたしもけっこうイケてると思うんだけど、あの人たちの中だとねえ……」
 言っているうちに自分でへこんでしまったのか、馬岱の声が段々と小さくなっていく。


 司馬懿はそんな馬岱の様子を気にする風もなく、あっさりと、そしてはっきりと述べた。
「信頼するに足る御方である、と見受けました」
「……へ?」
 予期せぬ言葉に、馬岱の口から間の抜けた声がこぼれでる。
 しっかり伝わらなかったのか、と考えた司馬懿は、改めて同じ言葉を口にする。
「馬将軍は信頼するに足る御方である、と私は見受けました。仮の話ですが、もしもこの先、私と将軍が敵対するような事態になったとしても、私が先日の行動を悔いることはないでしょう。このようなこと、お訊ねするは汗顔の至りなのですが、私は馬将軍が苦境から抜け出すための一助となれたでしょうか?」
「え、う、うん。というか、仲達さんのおかげで助かったんだから、一助どころの話じゃないんだけど……?」
「そうですか。ならばそれは、私にとって生涯の誇りとなるもの。御身と面識を得た今の私の、それが正直な感想です」


 理解は、数瞬の戸惑いの後に訪れる。
 そのとき、馬岱を襲ったのは圧倒的なまでの羞恥であった。
 馬岱は西涼軍の将軍として、阿諛追従の言葉を投げかけられたことは何度かある。だが、それでも面と向かってこれほど激賞されたことは一度もなかった。
 しかも司馬懿の場合、追従を口にしているわけではない。それは馬岱にもはっきりとわかった。つまり、司馬懿は今の言葉を本気で口にしているのだ。どうして照れずにいられようか。
 もしこの場に馬超や姜維がいれば、満面を朱で染める馬岱という実にめずらしいものを見て、目を丸くしたことであろう。


「そ、それはちょっと褒めすぎじゃないかなー、なんて思うんだけど」
「そう、でしょうか? 私としては、正直に内心を吐露しただけなのですが、お気を悪くされたのでしたら謝罪いたします」
「や、気を悪くしたわけじゃなくてね、ただその、なんていうか無性に恥ずかしいというか……あ、ああ、お茶がおいしいなあッ」
 あくまで生真面目に返答する司馬懿を前に、馬岱は進退きわまって茶碗を抱え込み、その中身を飲み干して大げさに感嘆の声をあげる。誰が見ても照れ隠し以外の何物でもなかった。
 もっとも、現在の洛陽では茶を飲むのはきわめて贅沢な行為であり、つい先日まで幽閉同然の境遇に置かれていた馬岱は当然のように茶を飲むことが出来なかった。ゆえに、お茶がおいしいという言葉は嘘ではない。


 相手にもそれは伝わったのだろう。司馬懿は席を立つと、茶を飲み干した馬岱に向けて穏やかに言った。
「かわりをお持ちしましょう。少しの間、お待ちいただけますか?」
「あ、あはは、おかまいなくー」
 空になった茶碗を盆にのせて去っていく司馬懿の後姿を見やりながら、馬岱は小さく息を吐いた。それはため息ではなかったが、かぎりなくため息に近いものではあった。
 決して司馬懿を嫌いになったわけではない。むしろ好き嫌いでいえば好きの部類に入る。ただ、そういった好悪の感情とは別の次元で、司馬懿の為人には馬岱の調子を狂わせる一面がある。そのことを確信したゆえの吐息であった。







◆◆◆







 司州河内郡 虎牢関


「はァッ!」
「ぬァッ?!」
 徐晃の鋭い気合の声にわずかに遅れて、俺の焦ったような声が馬場に響き渡る。
 轟く馬蹄は二人が共に騎乗しているためであり、互いの得物が長柄の棒なのは、これが訓練であるためだ。
 ただ、訓練とはいえ徐晃の眼差しは真剣そのものであり、かぎりなく本気に近い力で打ちかかってきている。空を切り裂くように襲い来る棒の鋭さを見れば、それは明らかだった。
 訓練用の棒とはいえ、十分な重さと厚みがある。まともにくらえば骨の一本や二本は簡単に折れてしまうだろうし、頭部を一撃されれば、そのまま昇天してしまいかねない。
 ましてや、徐晃はその長柄棒を小枝のように振り回す膂力の持ち主である。その攻撃を防ぐ俺も必死にならざるをえなかった。


 それからしばしの間、あたりには馬蹄の音と、棒同士が撃ち交わされる重く乾いた音だけが響いた。
 しかし、それも長くは続かない。徐晃の剛撃を受け続けた俺の手はしびれ、すでに柄を握る感覚は失われつつある。そんな状態では、たとえ防御に専心しても徐晃の猛攻をしのげるはずもない。
「はッ!」
 気合の声とともに徐晃は横薙ぎに棒をふるう。風を裂いて迫る一撃を、俺はかろうじて防ぐことに成功する――が、その圧力に抗し切れず、鞍の上で大きくバランスを崩してしまう。
 ここで俺は体勢を立て直そうと焦るあまり、意図せずに左手に握った手綱を強く引っ張ってしまった。おまけに、なんとか踏ん張ろうと足にこめた力が馬腹を締め付ける形となり、騎手である俺の意をはかりかねた馬は混乱したように棹立ちになる。
 こうなると、必然的に俺の身体は鞍の上から投げ出されてしまうわけで――
「ぬわー?!」
 咄嗟に受身をとることもできず、俺は頭から地面に落下することと相成りました。




 しばらく後。
 関内に与えられている部屋に戻った俺は、申し訳なさそうに身を縮める徐晃と向き合っていた。
「ほ、本当に大丈夫ですか、北郷さん?」
「ああ、大丈……痛ッ」
 大丈夫、と言おうとしたとたん、後頭部からずきんと響いた鈍痛のため、つい苦痛の声をこぼしてしまう。心配そうに此方を見つめていた琥珀色の瞳が、瞬く間に罪悪感に染まっていった。
 それを見て、俺はあわてて咳払いして言葉を続ける。
「ごほん。大丈夫ですよ、ええ本当に大丈夫です。ぶっちゃけもう落馬には慣れましたし」
 前半は我ながら説得力皆無の言葉であるが、後半の内容に嘘はない。北郷一刀、これで都合十三回目の落馬である。


 ただ、案の定というか何というか、俺の嘘はばればれだったようで、我が馬上戦闘の師は俯いて肩を落としてしまう。
「すみません。私、人にものを教えたことってあまりなくて……」
「それを承知の上で頼んだのですから、気にしないでください。それに、ここだけの話ですが、雲長どの――関将軍の訓練に比べたら、公明どのの手ほどきは涙が出るくらいわかりやすいですから。いや、ほんとにありがたいです」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。なにしろ関将軍の訓練の要諦はただ一つ。身体で覚えろ、ですからね」
 劉家軍に加わった当初、あの鬼軍曹の訓練についていくのは大変だった。戦闘に出ないという条件の下で加わったとはいえ、それは訓練の免除にはつながらなかったのだ。
 その後、兵士の陳情処理をしていた時も、決まって関羽の訓練が厳しすぎるという苦情(というか悲鳴)が含まれていたしなあ……当時のことを思い出し、思わず遠い目をしてしまう俺だった。




 詳しく言葉にせずとも俺の苦衷は伝わったらしく、徐晃は何も口にしようとはしなかった。もしかしたら、いきなりどんよりとした雰囲気を漂わせ始めた俺に引いているだけかもしれないが。
「……まあ、効率的なやり方ではあったんですけどね」
 重いため息と共に俺がそう口にすると、徐晃は戸惑いつつも、こんなことを言ってきた。
「ならば私もそうした方が良いでしょうか?」
 俺が、間髪いれずに全力で首を横に振ったのは言うまでもないことだろう。


 一応いっておくと、別にシゴキが嫌というわけではない。
 ただ、関羽の訓練の肝は、戦闘技術の習得ではなく、雑多な義勇兵たちに対し、玄徳さまや関羽らの命令に対する服従を教え込むことにあった。そのためには『身体で覚えさせる』猛訓練も意味を持つ。
 だが、今回の場合、訓練の対象は俺ひとりであり、あえてそこまで苛烈な訓練を行う必要もない――というか、そもそも徐晃の訓練だって十分にシゴキの名に値するのだ。なにしろ『あの』徐晃と馬上で得物を合わせるのだから。
 本人が言うように、あまり他人に物を教えた経験がない徐晃は、必然的にほどよい手加減というものを知らず、本人の真面目な性格もあいまって、繰り出される一撃は速い、重い、巧いの三拍子がそろっている。訓練中に冷や汗をかいたことは一度や二度ではなかった。




 と、俺がそんなことを考えていると、当の徐晃がなにやら眉尻を下げている。
「本当にこんなので恩を返せているのかな……?」
「それはもう。というか、もう公明どのは俺の命の恩人なのだからして、むしろ俺の方が恩を返さなければならん立場なのですが」
 徐晃がいなければ、先日の戦いで鳳徳に討たれていた可能性は結構高い。俺はそのことを指して言ったのだが、徐晃は呟きを聞かれていたことに慌てながらも、なおも納得がいかない様子であった。
「あ、う……で、でも『飛雪』のこともありますし、まだ私の方が北郷さんに恩を返さなければならない立場ですッ!」



◆◆



 徐晃が口にした飛雪とは、先日の戦いの褒賞として俺に与えられた馬のことである。
 陳留郡の太守張莫の奇略によって虎牢関を陥落させた曹操軍は、虎牢関に蓄えられていた武具や資金、糧食といった物資をも無傷で手に入れることができた。そして張莫は、虎牢関を陥としたその日のうちに、配下の将兵にこれらの物資を気前良く分配したのである。
 軍勢の維持に必要な分は汜水関に蓄えてあるとはいえ、実に思い切りが良いと言わなければならない。予期せぬ褒美を得た兵士たちは大喜びで自らの主の剛腹さを称え、戦勝の喜びはいや増すばかり、関内の士気は目に見えて高まった。
 で、この際に下された褒賞の中に軍馬もあったのだ。


 虎牢関の厩舎には軍馬が何十頭と繋がれており、中には見るからに駿馬の風格を持つものもいた。
 訓練を積んだ軍馬は貴重なもの。特に駿馬と呼べるクラスの馬になると、いくら金を積んだところで手に入るとは限らない。
 飛雪はいわゆる葦毛の馬で、黒い肌を包み込むように淡い白色の毛が馬体を覆っている。一見すると、まるで雪中を駆け抜けてきたばかりのようにも見えた。明らかに他の馬とは一線を画する品格が感じられるあたり、おそらくは西涼軍の頭だった者たちの所有馬だったのだろう。
 この馬を狙っていた者は、俺も含めて相当数いたのだが、張莫の鶴の一声で俺に与えられることになった。曰く「先の戦いでの功績第一は北郷だからな」とのこと。その評には頷きかねたが、このときばかりは張莫の好意に甘えさせてもらった。ただ、陳留の人たちに恨まれるのは嫌だったので、恩賞としてもらった金銭の方は酒にかえてみんなに振舞っておくことにする。


 晴れて俺の所有となった飛雪をはじめて目にしたとき、徐晃は歎声を発してこう言った。
「……これは、たしかに皆さんが欲しがるだけはありますね。見事なものです」
 ほれぼれとした視線を葦毛の馬に向けた後、徐晃は俺に向き直ってにこりと微笑む。
「これはちょっと北郷さんがうらやましいかもしれません。これだけの馬は、草原でも滅多に見かけませんよ。大事にしてあげてくださいね」
「そうですね。ま、大事にするのは公明どのなんですが」


「……え?」
 俺の言葉に、徐晃が目を丸くする。
 しばし後、首をかしげて問いかけてきた。
「あの、北郷さん。今、なにか不思議なことを言いませんでしたか?」
「む? そんなに変なことは言っていないと思いますが」
 顔を見合わせる俺たち。
 徐晃は混乱したように重ねて口を開く。
「あ、あの、今の『うらやましい』というのは、別に譲ってほしいとか、そういう意味で言ったんじゃありませんからね?!」
「ああ、はい、それはわかってます」
「そ、そうですよね。なら私の聞き違い――」
 徐晃は胸に手をあて、ほっと息を吐く。
 その徐晃に、俺はあっけらかんと告げた。
「はじめから公明どのに差しあげるつもりでもらってきた馬ですから。さあ公明どの、この名馬を乗りこなし、存分に功績をあげてください!」
「ええッ?!」



 そう、自分のためならば、陳留の諸将の妬みや反感を買う危険を冒してまで駿馬を得ようとはしない。今の俺では到底乗りこなすことはできないし。
 だが、徐晃ならば、さほど苦労せずに乗りこなすことが出来るのではないか、と俺には思えたのだ。草原育ちの徐晃の馬術の腕は、西涼軍に優るとも劣らない。それは先日の戦いで証明されている。それに、許昌では張遼とほぼ互角にやりあってたしな。
「で、でも北郷さんだって戦場に出るのですから、良い馬は必要なはずじゃないですか?」
「馬に乗るのはともかく、馬に乗って戦うことが出来ないのは公明どのも知ってますでしょう。そんな人間に、こんな名馬はもったいないですよ。名馬は名将にこそ相応しいのです」
「め、名将って……」
 困惑と動揺をないまぜにしたような表情で、徐晃はおろおろと視線をさまよわせた。
 おそらく、徐晃としてもこの馬が欲しいという思いはあるのだろう。というか、普通はそう思う。なにせ目利きには程遠い俺でさえ、一目で違いがわかるほどなのだから。
 ただ、それほどの馬ゆえに、さしたる理由もないままに譲られるのは気がとがめる――徐晃の内心はこんなところだと推測できる。
 となると、その負担を取り除けば問題はなくなるわけだ。
 ならば、というわけで、俺は交換条件として徐晃から馬上での戦闘のイロハを教えてもらうことにしたのである。




 実のところ、これに関しては許昌にいたころから気にかけていたのだ。
 ただ、下手に俺が馬上戦闘の訓練などをはじめれば、すわ逃亡の準備か、などと疑われかねないために自重していたのである。木剣で打ち合う稽古と異なり、馬を用いる訓練はどうしても広い場所が必要となり、こっそり行うのは難しい。
 許昌を出てからはといえば、戦いやら陰謀やらでそれどころではなかった。
 だが、虎牢関ならばそういった問題は何もない――俺はそう考えた。西涼軍とぶつかってみて、改めて騎兵の利や、馬上戦闘に長けた者たちの恐ろしさがわかったという理由もある。


 徐晃は徐晃で「それくらい、頼まれれば交換条件なんか抜きで引き受けますけど」となおも抵抗を示したのだが、後は無理やり押し切った。ちなみに飛雪という名はこのときに徐晃自身がつけたものだ。
 おそらく馬の外見から連想して名づけたのだろうが、いささか安直な命名だという気がしないでもない。まあ、自分の馬に月毛と名づけた俺が、他人のセンスに口を出すのはどうかと思ったので、これは内心で呟くにとどめたが。



◆◆



 ――と、まあこんな一幕の末に、飛雪は徐晃の馬となったのである。
 恩を着せるために譲ったわけではないのだが、どうも徐晃はこれさえ恩の一つに数えてしまっているらしい。徐晃の義理堅い性格にはとても好感が持てるのだが、これはちょっと気にしすぎのような気がする。
 下手をすると、恩のために命を捨てかねない徐晃なだけに、そろそろ恩だの借りだのを介さない関係を築きたいところなのだが、さてどうするべきか。


 俺がそんなことを考えていると。
「ふむ、存外、北郷は冷たい男なのだな」
 その言葉を返してきたのは徐晃ではなかった。それまでは黙って茶をすすっていた張莫である。馬場から部屋に引き上げてくる際、なぜだかくっついてきたのだ。
 それはともかく、張莫の台詞は俺にとって心外なものだった。当然のようにその真意を問いただす。
「冷たいとは心外ですね、張太守」
「おや、恩を返すために同行する相手に対し、もう恩を返す必要はないと口にする。それはつまり、邪魔だからもうついてくるな、と言っているのと同義ではないのか?」
「……む」
「これを冷たいと言わずして、何を冷たいというのだろうか。私がそう考えても、別に不思議はあるまい」
 思わぬ方角からの攻撃に、俺はとっさに言葉に詰まってしまった。
 たしかに言われて見れば、俺の言葉にそういう側面があることは否定できない。むろん、俺にそんな意図は一切ないのだが、知らないうちに徐晃を傷つけてしまっていた可能性はある。張莫はそんな俺を叱責してくれているのか――と考えたのだが。



「まあ要するに、釣った魚にも餌はやれということだ、驍将どの。それでは後宮建設なぞ夢のまた夢だぞ」
 俺が一瞬で半眼になったことを、どこの誰が責められようか。
「……突っ込みたいところは多々ありますが、とりあえず後宮建設とか、何のことですか?」
「美髪公関雲長いわく『一刀が積極的に動く時はほぼ確実に女子が絡み、事が済めば篭絡している』――だ、そうではないか。そうやって後宮候補を増やしている、と公明から聞いたぞ」
 じろり、と徐晃を睨むと、亜麻色の髪の少女はあわあわと顔と両手を左右に振った。頭の後ろで一つに束ねた髪も、左右にぶんぶんと揺れているのが微笑ましかったが、しかし、ここで追求の手を緩めるわけにはいかない。


 そんな俺の意思を悟ったのか、あるいは、いわれなき濡れ衣を晴らすためか。徐晃は慌てたように声を高めた。
「あ、いや、あの、解池で関将軍がそのようなことを言っていた、ということをお伝えしただけで、決して北郷さんが会う女性、会う女性を一生懸命篭絡して後宮建設に備えているなんて言っていませんからッ」
 それこそ一生懸命言い訳している徐晃の隣で、張莫はチェシャ猫のような笑いを浮かべる。
「一介の武将に可能な業とは思えんが、叔達への抱擁を目の当たりにした後では、あながち不可能な所業とも言い切れぬ。ゆえに助言の一つもしてやろうと思ってだな――」
「……ほう。つまり、汜水関での俺と叔達のやりとりも覗き見ていた、ということですね?」
「おお、これは失言だった。すまんな、公明」


 今度はじろりではなく、ぎろりと徐晃を睨む。
 その視線の先で、徐晃は身の置き場もない様子で顔を真っ赤にして俯いていた。が、黙っていることはできない、と判断したのだろう。消えるような声で詫びの言葉を口にする。
「……す、すみません。のぞいてました」
「……張太守はともかく、まさか公明どのが、ね」
 まあ十中八九、無理やり張莫に付き合わされたのだろうが、それでも意外ではあった。
「返す言葉もありません……」
「まあ、俺はかまいませんが、叔達には後日謝っておいてくださいよ」
「はい、そうします……」
 しょげ返った徐晃は力なく頷いた。あまりにしゅんとしてしまっているので、なんだか俺の方が罪悪感を覚えてしまいそうになる。




 ――と。
 ここで、張莫の口から耐えかねたような笑い声がこぼれおちた。俺と徐晃がいぶかしげに張莫を見つめると、当の張莫はさきほどと同じ笑いを浮かべながら、そんな俺たちを見つめ返す。
「そうしていれば、二人とも恩だの借りだの関係なく、普通にやりとりできるではないか。篭絡云々は、まあ冗談としても、別に改めて関係を築きなおす必要なぞあるまいが」
 その言葉に、俺と徐晃は思わず顔を見合わせる。まさか、今までのやりとりは、これを言うための布石だったのだろうか。


 しかし、張莫はその考えが正鵠を射ているのかどうかを確認する前にさらに言葉を続けていく。
「だがまあ、確かにお前たちのやりとりは堅苦しい。とりあえず呼び方からかえてみてはどうだ?」
「よ、呼び方、ですか?」
 戸惑ったような徐晃の声に、張莫は真面目な顔でうなずく。ただ、その目には、なにやら楽しげな光が眩めいているように見えて仕方ない。気のせい――ではなさそうだなあ。
「うむ。とりあえず公明の方は北郷の名を呼ぶようにしたらどうだ。『北郷さん』ではいつまでたっても他人行儀なままだからな」
「で、でも名を呼ぶなんて失礼では……」
 徐晃がちらと俺の顔をうかがう。これには張莫ではなく、俺が応じた。
「あ、いや、別にかまいませんよ。私にとっての名は、公明どのにとっての字みたいなものですから。関将軍もそうですが、子和(曹純の字)も『一刀』と呼んでいたでしょう?」
 ああそういえば、という感じで徐晃はこくりと頷いた。
 そして、ややためらった末、わずかに頬を赤らめて口を開く。
「……じゃ、じゃあその、これからは『一刀』でいいですか?」
「も、もちろんです」
「は、はい、じゃああの、そういうことで」
「ええ、はい、そういうことで」


 そういうことになりました。

 


◆◆





「と、ところで張太守はこんなところにいても大丈夫なんですか? いつ西涼軍が攻め寄せるとも限らないのに」
 照れたように視線をそらせる俺たちを見て、けらけらと笑っている張莫に対し、意趣返し――もとい、礼の意味をかねて注意を促す。
 だが、張莫はあっさりとこう切り返してきた。
「ああ、大丈夫だ。なにせ西涼軍は昨晩のうちに姿を消したからな」
『はい?!』
 はじめて聞く事実に、俺と徐晃の声が見事に重なった。


「さきほど偵騎が戻ってな。その報告によれば、西涼軍の痕跡は南方に向かっているとのことだ。山地を強引に突っ切り、南まわりで洛陽にもどるつもりのようだな。あるいは嵩山を南に抜け、南陽まで行くつもりか。いずれにせよ、道一つない峻険な地形を、ろくな兵糧もなしに踏破しなければならん。下手をすれば、山の中で兵馬もろとも餓死する羽目になるだろうな。いや、あえてこの方策を採るとは馬超も思い切ったものだ」
「……彼らを窮地に追いやった張本人が口にすると、すごく白々しく聞こえますね」
「おまけに苦労してたどり着いた先には、謀反人として処断される運命が待っているかもしれぬと思えば哀れですらある。ところで彼らを窮地に追いやった張本人の一人である北郷よ、今、何かいったか?」
「……いえ、何も申し上げておりません」


 俺はさりげなさを装って張莫から視線をそらす。
 そうして改めて考えて気づいたのは、西涼軍の撤退はさして意外なことではないのかもしれない、ということだった。
 戦闘のために虎牢関を出た西涼軍が多数の輜重を抱えていたはずはない。戦うにせよ、退くにせよ、西涼軍は糧食が尽きる前に行動しなければならない。兵力の上から見れば、曹操軍と西涼軍はほぼ互角であるが、曹操軍は虎牢関と汜水関という二つの要害で西涼軍の前後を塞いでいる状態であり、さらに後方の許昌には曹操率いる無傷の精鋭が控えている。この戦況で、しかも城攻めに向いていない騎兵を率いて、一か八かの決戦を挑んでくるほど西涼軍は無謀ではなかった、ということだろう。


 張莫も同様の考えのようで、今のはただの前置きに過ぎなかったようだ。
「もう一つ、洛陽に放った諜者からも報告がきてな。本題はこちらなんだ」
 そう言ってから、張莫は看過できない報せを口にする。
「洛陽の南西の方角から『仲』と『袁』、それに『李』の旗を掲げた一軍が近づいているらしい。確認できただけで二万。おそらく後続もあるだろうとのことだから、ざっと三万から四万といったところか。方角と軍旗からして、まず間違いなく南陽の李儒の軍勢だ。いよいよ、袁術が本格的に動き出したようだな」
 その言葉に、室内の空気がざわりと揺らめいたように思われた。
 いまさら言うまでもないが、曹操軍にとっての主敵は河北の袁紹と淮南の袁術である。その一人が本格的に動き出したと聞けば平然とはしていられない。


 ――だが、しかし。
 俺がかすかに眉をひそめると、張莫はめざとくそれに気づいたようだった。あるいは張莫自身も、とうに報告の不自然さに思い至っていたのかもしれない。自らの口で説明しなかったのは、こちらの知恵をはかるためか、ただ単に説明が面倒だったためか。
「何か気づいたようだな?」
 問われた俺は、考えをまとめつつ口を開く。
「先の報告では、呂布が謀反を起こしたために袁術は寿春から動けない、ということでした。この状況で洛陽の動きを本格化させたところで、袁術にとっては何の意味もないはずです」
 弘農王の反乱に袁術が深く関与していることは明らかであり、その狙いは曹操軍を分散させることであろう。
 だが、今は肝心の袁術軍本隊が動けない。どれだけ洛陽の動きが活発になろうとも、袁術にとっての利にはならないのである。
 確かに虎牢関の陥落で、洛陽は累卵の危うきにある。しかし、袁術にしてみれば、仮に洛陽が陥ちたところで、自分の領土が失われるわけではない。戦略の手駒を一つ失った――その程度の痛手だ。南陽郡を失う危険を冒してまで、洛陽を救おうとするとは考えにくい。


 俺の意見に張莫はあっさりと頷いた。やはり、張莫も気づいていたらしい。
「確かに北郷のいうとおりだ。南陽郡は人口も多く、物産も豊かで、それゆえに兵力も強大だが、三万以上の兵を洛陽に送り込めば、さすがに防備は手薄にならざるを得まい。もし四万を越えるならば、南陽郡はほとんど空だろう。南陽は許昌とも繋がる要地であり、しかも袁術は後背に劉表という敵を抱えている。今回の仲の動きは、それを承知しながら、それでもあえて南陽郡を隙だらけにし、弘農王のために兵を派遣したということになる。あの蜂蜜娘の今日までの行動を思えば、不自然というしかないな。考えられるとすれば――北郷?」
 俺は一つ息を吐いてから、口をひらいた。
「……もっとも憂慮すべきは、呂布の謀反は偽りであり、実は寿春の軍勢はすぐにも動ける状態である場合、でございましょう」
「その場合、袁術が動けないと判断して袁紹との決戦に踏み切ろうとしている華琳は、完全に判断を誤ったことになるな」
「はい。ですが淮南の動きは丞相閣下にとって存亡に直結する大事です。確たる証もなく、決断をされたとは思えません。となると、袁術が実は動けるという可能性は――無い、とは申しませぬが、きわめて低いものと考えるべきでしょう」


 俺が言うと、張莫はおとがいに手をあて、思慮深げに目を細める。
「となると、だ。南陽軍は袁術の本隊が動けないことを承知した上で、洛陽まで出てきたことになる。この挙にいかなる意味があるのか」
 考え込む張莫に対し、俺は一つの推測を付け加えた。
「南陽軍が本拠地を空にすれば、これを好機と見て動く勢力もいるでしょう。これに対して、南まわりで洛陽入りを目指す西涼軍をあてるつもりなのかもしれません。さきほど張太守がおっしゃられたように、西涼軍の機動力をもってすれば、嵩山を突っ切って南陽に出ることも出来なくはないでしょうから」
「そうなると、この地の敗北でさえ、敵には計算のうちであったということになるが?」
「さすがにそれはない、と思われます。張太守の奇略をあらかじめ見通せる者がいたとは思えませんから。しかし、敵軍の動きに奇妙な点があるのは事実であり、警戒しておくに越したことはありません」
「なるほど、南陽が空同然とはいえ、安易に動けば思わぬ逆撃をくらう可能性もある。許昌の華琳にそう伝えろ、ということだな」
「はい」
 俺は首をたてに振った。そしてさらに言葉を続けようとして――ためらいを覚えて口を噤む。


 一方、そんな俺の様子を見た張莫にはためらいはなかった。
「さてさて、どうやら軍師どのには更なる見解があるものと見受けたが?」
「……いつから俺が軍師になったんですか?」
「そうだな、西涼軍に謀反の汚名をかぶせたあたりから、というのはどうだ? その奸智に公明も怖気をふるったと聞いたぞ」
 いきなり名前を出された徐晃がぽかんとした顔をした後、あわてて顔の前で両手を振った。
「な、た、太守様、いきなり何を言い出すんですか?! 怖気をふるったなどと、そのようなことは言っておりません。ただ、北郷さ――ではない、ええと、か、かず、一刀も太守様と同じくらい厄介――じゃないや、えと、端倪……そう、端倪すべからざる御方だなあ、と言っただけです!」
「はっはっは、大した違いはないだろう。劉家の驍将は、転じて虎牢の謀将となるか」
「ろくでもない名前ばかりつけないでください」
 宇宙大将軍だの虎牢の謀将だの、似合わないことおびただしい。いや、別に劉家の驍将というのが似合っている、などと思っているわけでは断じてないが。


 張莫はからからと笑っていたが、どうやらそれは次の一言を告げる前の一服代わりであったらしい。張莫は表情を改めると、おもむろに口を開いた。
「やはり、南陽は仲の仕掛けた陥穽だと見るか?」
 俺は無言でうなずいた。
「張太守もさきほど仰っていましたが、南陽は豊かな土地です。かつて袁術の本拠地でもあった場所。これを奪えば仲の国力は大きくそがれ、同時に奪った勢力は飛躍的に国力を高めることになりましょう。ここが空になったとわかれば、丞相閣下はこれを制するために兵を発するでしょう。それは当然のことです。当然のことですが――」
「それは華琳に限った話ではない、か。南陽の支配を欲するのは劉表も同様。やつは腰が重いことで知られているが、さすがにこの好機は逃すまい。となると、華琳が南陽に兵を出せば、その支配をめぐって劉表と対立することになる」


 そう、ただでさえ河北に淮南、おまけに洛陽に敵を抱えているのに、この上荊州まで敵にまわれば、曹操軍は文字通り四方に敵を抱えることになってしまう。兵も将も到底足りるものではない。
 この策の厄介な点は、策略だとわかっていても放置できないというところにある。繰り返すが南陽は豊かな土地であり、人口も多い。おまけに距離的にも許昌に近い。許昌にとって、南陽の存在は喉元に突きつけられた刃に等しく、ここを袁術軍に押さえられているゆえに、曹操軍は相当数の守備軍を許昌におかねばならず、結果として兵力の展開に枷をはめられる形となっていた。
 ここを劉表なり他勢力なりに奪われれば、今後も枷をはめられ続けることになる。曹操としては、それは何としても避けたいだろう。


「――だが、それをすれば劉表と敵対する。となると、袁術はとうに荊州を使嗾して、お膳立てを整えていると考えるべきだな」
 そういって、張莫は意味ありげに俺を見た。
「そして、その使嗾に劉表が動かされた場合、荊州の先陣は、南陽との最前線である新野を治める劉玄徳の軍勢か」
 その名を聞き、徐晃がはっとした顔になる。
 一方、俺はゆっくりとうなずいた。
「……はい。そうなるでしょう」
「荊州としては、劉備がそのまま南陽を制圧できればそれでよし。仮に華琳とぶつかり、劉備が敗れたところで荊州の兵を損じるわけではない。劉備は蔡一族との間に隙が生じているとも聞き及ぶ。彼奴らとしては、劉備を捨て駒として華琳と争わせ、漁夫の利を得られれば最善というところかな」


 張莫の言葉は、俺の予測とほぼ重なる。
 だからこそ、俺としてはできれば曹操には南陽に手を出してほしくないのである。
 ――ただ。
 俺も今の自分の立場は心得ている。なにも玄徳さまのことばかり慮っていたわけではない。もちろん、劉家軍のことは俺にとって最重要事項だが、曹操軍のことも考えていないわけではないのだ。


「そのとおりです。そして、結果がどうあれ、一度でも両軍が南陽で衝突してしまえば――洛陽は仲本国と切り離される形になります。もはやその掣肘を気にかける必要はなくなりましょう」
 一瞬、張莫の目が恒星のような輝きを帯びてきらめいた。
「ほう。それはつまり」
「はい。此度の南陽の動き、袁術にとって利はないかもしれません。ですが、南陽の太守にとってはどうでしょうか?」
「偽帝から離れ、真に漢の血を継ぐ皇帝を擁して自立する絶好の機会――というわけか。ふむ、そう考えると、色々とこれまでとは異なる景色が見えてくるが、しかし今の洛陽の現状を見れば、南陽を捨てる価値があそこにあるとは考えにくいぞ? たとえ弘農王の存在があろうとも、だ」
 疑わしげな張莫の言葉に、しかし俺は反論しようとはしなかった。かなり無茶がある推論だ、というのは俺自身も承知していたからだ。
「もちろん、今の段階ではただの推測、というよりは妄想に近いですね。ただ、私が聞く限り、李儒とやらの為人はほめられたものではありません。解池で、私や公明どのが出会った方士どもも、今回の件にどのように関わっているのか判然としません。この先に何が起こるかは予断を許しませんが、それでも可能性の一つとして備えておくか否かは、今後の展開に少なくない影響をおよぼすものと思われます」




 今度こそ、内心の考えをすべて言い終えた俺は、知らずほぅっと大きく息を吐き出していた。
 俺の話を張莫がどう受け止めるかはわからないが、とりあえず言うべきことは言ったという充足感はある。
 と、そこで室内にパチパチと拍手の音が響いた。張莫が俺に向けて手を叩いているのだ。その口からは感心しきり、といった声が紡がれた。
「いやいや、見事だな、北郷。冗談ではなく、こっちの方が向いているのではないか?」
「……そうですか? 我ながら、結構穴のある推測だと思うんですが」
「むろん穴はある。あるいは真相とはかけ離れているかもしれんが、しかし現状においてそれなりの説得力があるのも確かだ。ほれ、公明も感心しているではないか」
 言われて、そちらを見れば、いつの間にか徐晃も拍手に加わっていた。
 なんだろう、何かむしょうに恥ずかしいんですけど……!
 



「ふふ、まあ華琳の報告へは、今の北郷の意見も添えておこう。どう判断するかは華琳次第だ。我らはいかなる命令が来ても即応できるように準備を整えておく。結論としてはそんなところか。まっとうすぎて、いささか面白みに欠けるがな」
「……まあ、別段奇抜な結論を必要とする場面でもありませんしね」
 俺はしごくまっとうに返答したのだが、張莫はなおも『面白み』にこだわっていた。
「北郷の後宮建設計画も順調に進行中、と記しておくというのはどうだろう? これならば面白みもあるし、華琳が関羽を丞相府に招く口実にもなる。得点稼ぎとしてもなかなかのものだ」
「やめてください。というか、やめろ」




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/03/29 00:57
 荊州南陽郡 新野


「――このゆえに百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり」
 新野城の一室で、城の主である劉玄徳は兵法書の一文を声に出して読み上げていた。自身が兵法を学ぶため――ではなく、傍らで眉を八の字にして書物を睨んでいる義妹に、わかりやすく説明するためである。
 劉備は傍らに座っている張飛に穏やかに問いかけた。
「鈴々ちゃん、わかるかな?」
「うー、わかんない。お姉ちゃん、なんで戦いに勝ったらいけないのだ? 突撃、粉砕、勝利はいけないことなのか?」
「うーんとね、いけないわけじゃないんだよ。ただね、実際に戦って勝つよりも、その戦いが始まる前に相手に負けを認めさせてしまえば、敵の人も味方の人も傷つかないで済むから、そっちの方が良いんだぞーって言っているの」
 劉備の説明を聞いても、張飛はむーとうなるばかりである。今ひとつ理解できないらしい。


「たとえば、そうだなあ……うん、鈴々ちゃんが山賊退治に出かけたとします」
「うん、鈴々、出かけたのだ」
 張飛はこくこくと頷いた。
「鈴々ちゃんの前にあらわれた山賊さんたちは言いました。『俺たちだって好きで山賊やってるわけじゃねえ。こうしないとご飯が食べられないんだ』」
「なら、ご飯をわけてあげるのだ! お腹がいっぱいになれば、悪いことする気なんてなくなるのだ!」
「――はい、鈴々ちゃん、よくできました」
 劉備がそういって張飛の頭をなでると、張飛は不思議そうに首を傾げた。
「ほえ?」
「『戦わずして人の兵を屈する』っていうのはね、相手の人と戦う前に、相手の人が戦う理由をなんとかしちゃうことなの。今のお話だと、山賊さんたちの目的はご飯なんだから、ご飯をあげれば戦わなくて済む。戦わなければ、鈴々ちゃんが怪我することはなくなるし、鈴々ちゃんが誰かを傷つける必要もなくなるよね」
 戦いには目的があり、目的を果たすために手段がある。戦闘はあくまで手段の一つ。食料を分け与えて懐柔することも立派な手段なのである。
「おー、なんとなくわかったのだッ」
 張飛はそう言うと、再び書物に目を向ける。すでに日は沈み、空には無数の星々が瞬いている。荊州に来る以前の張飛であれば、とうに寝台でいびきをかいていた時刻である。だが、今の張飛は真剣そのもの、といった様子で書物に目を向けており、まだまだ勉強を続ける気であることを言外に示していた。


 その後、しばらくの間、劉備による勉強会は続けられた。時折、眠たそうに目を瞬かせる張飛を見て、劉備は何度か「あとは明日にしよ?」と声をかけたのだが、張飛は頑固に首を横に振り続けた。
 だが、その頑張りもやがて限界に達し、いつか張飛はこっくりこっくりと船を漕ぎはじめる。隣に座っていた劉備がその小さな身体をそっと抱き寄せると、張飛は劉備の胸に顔を埋めるように身体をあずけてくる。その口からは健やかな寝息がもれていた。
 それを確認した劉備は、義妹の小さな身体を抱え上げ、自らの寝台へと横たえた。
 時々、むにゃむにゃとよく聞き取れない寝言を呟く張飛の寝顔を、劉備は暖かい眼差しで見つめていた。だが、そこには暖かさ以外に、ほんのわずかな痛みも混ざっていたかもしれない。


 荊州に――劉備の下に戻って以来、張飛は進んで書物を手に取るようになった。それ自体は否定されるべきものではない。むしろ喜ばしいことである。だが、張飛がこの行動をとるに至った原因に思いを及ばせれば、喜んでばかりはいられない。無理をしているのではないかという危惧を、劉備は振り払うことができずにいたのである。
 と、そのときだった。
「――玄徳さま、張将軍、よろしいでしょうか?」
 遠慮がちな声が扉越しに投げかけられる。声の主は劉備の良く知る人物だった。
「孔明ちゃん? うん、どうぞ」
「失礼します」
 そういって室内に入ってきたのは諸葛亮、字を孔明という少女だった。河北から始まる劉家軍の転戦を、主に文の面で支えてきた能臣である。
「お二人にお茶をお持ちした――んですけど、ちょっと遅かったみたいですね」
 寝台で「すぴー」と寝入っている張飛を見て、諸葛亮は困ったように微笑む。諸葛亮が手に持った盆には、湯気の立つ二つの茶碗が乗せられていた。



◆◆



 張飛を起こさないように部屋を出た二人は、軍議の間に場所を移した。
 劉備が窓際に立って外の景色に目を向けると、城壁上に盛大に炊かれた篝火が見て取れる。時折、城壁に映し出されるおぼろな影は、見張りに立っている兵士たちのものだろう。耳を澄ませば、眼下の街並みからも、警邏の兵士の整然とした足音が聞こえてくる。
 新野は仲との最前線であり、昼であれ夜であれ、警戒を疎かにすることはできない。劉備は内心で彼らの苦労をねぎらった後、部屋の中央に置かれた卓に戻った。
 そうして椅子に座り、ゆっくりとお茶を飲む。熱くもなく、ぬるくもない、ちょうど良い温度だった。
「ん、美味しい」
 ほにゃっと相好を崩す劉備を見て、卓を挟んで向かいに座っていた諸葛亮は嬉しそうに微笑むと、みずからも主君と同じようにお茶を飲み、ほぅっと息を吐き出した。
 新野に拠点を移してから――否、荊州にきたその日から、劉家軍の諸将は激務に追われる毎日を過ごしている。劉備にとっても、諸葛亮にとっても、この穏やかな時間は万金に優る価値を有していたのである。




 しばし後。
「張将軍のお勉強の進み具合はいかがですか、玄徳さま?」
 諸葛亮の問いに、劉備は誇らしげに応じた。
「順調だよ。鈴々ちゃん、とっても頑張ってるから、このままだと、じきに私がいなくても兵法書を読むくらいへっちゃらになるんじゃないかな」
 それは劉備の嘘偽りない本心だった。元々、張飛は個人の武勇が突出した猪突猛進型の将であったが、それは多分に本人の勉強嫌いによるところが大きく、張飛本人の頭脳の冴えが他人に劣っていたわけではない。張飛が本気になって学問と向き合えば、その吸収力は自分の比ではないだろう。劉備は本気でそう考えていた。


 そんな劉備を見て、諸葛亮も破顔する。
「ふふ、それは楽しみです。智勇兼備の名将の誕生までもう少し、ですね」
「うんうん、鈴々ちゃんが勉強を頑張ったら、鬼に金棒、虎に翼、愛紗ちゃんに青竜刀だよ」
「げ、玄徳さま、前二つはともかく、最後のは何ですか?」
「んー、むかし一刀さんが使ってた言い回しを真似してみました」
「あのあの、それだと関将軍が鬼や虎と同列になってしまうのですが……」
 はわわ、と諸葛亮が慌てたのは、その言葉を耳にしたときの関羽の反応を想像したからだろう。
 だが、当の劉備は落ち着いたものだった。
「愛紗ちゃんの耳に届いちゃったときは、発案者の一刀さんに対応を任せるつもりだから大丈夫。きっと何とかしてくれるよ」
 厄介事は丸投げします、と清々しく断言する劉備。それを聞いた諸葛亮は、思わず、という感じで目を丸くした後、口元をおさえて笑いをこらえなければならなかった。
「玄徳さま、図太く――こほん、たくましくなられましたね」
「あは、孔明ちゃんに褒められちゃった」


 そう言ってから劉備は小さく舌を出す。今のは冗談、という意味だろう。
 むろん、諸葛亮もそれとわかって乗っかっていただけである。
 ただ、諸葛亮は心のより深いところで安堵の息を吐いていた。どういう形であれ、ここにはいない者たちの名前を劉備が自然に口にしたということは、それだけ心理的な再建を果たした証拠である。それを確認できたことが嬉しかったのだ。
(やっぱり、張将軍の先生を玄徳さまにお願いしたのは正解だった、かな)
 諸葛亮はそんな風に思う。
 張飛が学問をしたいと望んだとき、最初に先生役に擬されたのは諸葛亮と鳳統であった。二人がそれを辞退して劉備を推したのは、張飛はもちろん、劉備のことをも考えた結果である。
 どういうことかといえば。
 徐州撤退戦での傷心が癒えきっていない張飛にとって、大好きな劉備が自身の先生になり、一緒にいられる時間が増えることは喜ばしいことだろう。勉強をすると同時に傷心を癒す効果も期待できる、というわけだ。
 一方の劉備にとっても、日々の激務から離れ、張飛に勉強を教えて過ごす時間は、つもりつもった心労を癒す意味で貴重なものとなるはずだった。休め、といってもなかなか頷いてくれない主君の健康を、小さな軍師たちはずっと気にかけていたのである。




「そういえば孔明ちゃん。士元ちゃんはどうしたの?」
 ややあって、劉備が不思議そうに問いかける。
「あ、雛里ちゃんなら、文和(賈駆の字)さんと一緒に、明日の演習――」
 と、諸葛亮が応じた時だった。
 不意に、部屋の外から慌しいざわめきが伝わってきた。何事か、と室内の二人が顔を見合わせ、椅子から立ち上がったその直後、部屋の扉が勢いよく開かれる。
 息せき切って走りこんできたのは、黒装束に身を包んだ刺客――ではなく、諸葛亮とほとんどかわらない小柄な体格をした少女、すなわち今しがた二人が口にしていた劉家軍のもう一人の軍師、鳳統だった。


「し、士元ちゃん?」
「雛里ちゃん、そんなに慌ててどうしたの?」
 劉備と諸葛亮の二人は慌てて鳳統の下に駆け寄る。鳳統は胸に手をあて、荒い呼吸を繰り返している。どうやら劉備らの姿をさがして、あちこち走り回っていたようだ。
 諸葛亮が背をなでてあげると、ようやく少し呼吸が落ち着いてきたらしい。鳳統は小さな口から、か細い声を発した。
「……あ、ありがとう、朱里ちゃん」
 そのかすれる声を聞けば、やはり鳳統が相当に急いで劉備たちを探していたことがわかる。劉備も、諸葛亮も、余計なことを口にせず、ただ鳳統が再び口を開くのを待った。


「……玄徳さま、宛から、報せが、参りました」
 鳳統の声がところどころで途切れているのは、その都度、息継ぎをしているからである。
 宛は南陽郡の中心都市であり、かつては袁術の本拠地でもあった。袁術が本拠を寿春に移してからは南陽郡太守の李儒がここを治めているが、依然、仲にとって重要な城市であることにかわりはない。
 その宛の軍勢、およそ三万が洛陽へと進発したのはつい先日のことである。これにより、仲国が洛陽の事変に深く関わっていることは明白となった。
 新野では、この宛の動きを好機と見る者もいたが、宛にはなお一万五千の軍勢が駐留しており、対する劉家軍は、新野で新たに徴募した兵を含めても五千あまり。宛の袁術軍のおよそ三分の一である。しかも、劉家軍の新兵はいまだ訓練の途中であり、実戦に用いることは難しいとくれば、出撃したところで勝機など見出しようがない。
 それゆえ劉備は軽挙を慎み、襄陽の劉表へと報告を送る一方、新野の守りを固めて様子見につとめているのである。


 その宛でさらに動きがあった、と鳳統は言う。
 それも鳳統ですら予想しえなかった大規模な動きが。
「宛の、軍勢が、さらに、洛陽へ向け、動き始めた、とのことです……その数は、一万五千を越える、と」
 それを聞いた諸葛亮は、思わず口を挟んでしまう。
「一万五千って、それじゃあ宛が空になっちゃうんじゃあ?」
「うん、でもね、朱里ちゃん、動いたのは軍勢だけじゃないんだよ」
 ようやく呼吸が落ち着いてきたらしく、徐々にではあるが、鳳統の口調がなめらかさを増していった。
「玄徳さま。袁術軍は、宛の街の人たちを、洛陽へ向かわせているそうです。従わない人たちは、財産を没収されて、ひどい時には命まで奪われている、と。さらに袁術軍は、おそらく街に人が残らないようにしたかったのでしょう、宛の各処に火を放ち、すでに街は炎に包まれているとのことです」


 その鳳統の言葉に、劉備と諸葛亮は息をのむ。
 南陽郡の中心都市である宛は多数の人口を抱えている大都市である。かつての洛陽、現在の許昌には及ばずとも、それに迫る規模であることは疑いない。
 その住民を無理やり洛陽へと移住させ、都市を破壊するなど正気の沙汰ではない。敵に追い詰められて滅亡寸前だ、とでも言うならともかく、現在、宛に攻め寄せている勢力などどこにもいないのである。
「そ、そんな、なんでそんなひどいことをッ?!」
 さすがに伏竜、鳳雛といえど、悲鳴にも似た劉備の疑問に答える術を持っていなかった。
 手元にある情報だけでは、敵の意図を読み取ることは容易なことではない。
 そもそも、この敵の行動に意図などあるのだろうかとすら諸葛亮は思う。何をどれだけ考えたところで、宛を崩壊させるに足る理由を見出すことはできないように思われるのだ。いっそ南陽太守が乱心した、という安易な結論こそが正解であるかも――と、そこまで考えたとき、諸葛亮の脳裏に引っかかるものがあった。


「……ねえ、雛里ちゃん」
「――朱里ちゃん?」
 諸葛亮の声に何かを感じ取ったのか、鳳統が真剣な眼差しで友の顔を見つめる。
「以前にもこんなことがあったよね。一つの都市を焼き払って、そこに住んでいる人たちを無理やり他の場所へ連れて行く――」
 それを聞き、鳳統が目を瞠る。
「……洛陽……仲穎(董卓の字)さんの時と一緒……?」
「あのとき、それを企んだのは仲穎さんの名前を借りた朝廷の人たちだったって、文和さんは言っていたよね。その人たちの大半は曹丞相に討たれたけれど、でも実際にあの策を考え出した人が誰かは判明していなかったはず」
「……策を実行した人たちは討たれたけど、考えた人は逃げ延びていた……?」
「うん、あんな酷い策を考える人が何人もいるとは思えないもの」


 あの愚挙によって洛陽は焼け野原となり、住民たちの多くは野に投げ出された。当時、洛陽にいた劉家軍はその混乱を目の当たりにしている。
 結局、彼らのほとんどは曹操によって許昌に招かれ、最悪の事態はかろうじて回避することができたのだが、あれは曹操の実力によって為された救済であり、劉家軍はそれにまったく関わることができなかった。洛陽の民を救うためにと駆けつけながら、ほとんど何ひとつ出来なかったあの無念は、劉家軍の者たちの胸に今も深く刻みこまれていた。
 諸葛亮もまた、あの混乱と惨禍を目の当たりにし、みずからの無力を嘆いた一人である。あの挙を再び繰り返そうとする者に対して、虚心ではいられなかった。


 諸葛亮はさらに言葉を続ける。 
 当時と今。その双方で、愚策を実行する側に名を連ねている人物がいる。
 かつて董卓の麾下にいたという策士。董卓を裏切って朝廷の陰謀にくみし、今、偽帝の下で中華に惨禍を広げているその人物の名は――
「南陽郡太守、李文優」
 深い確信をこめた諸葛亮の声に、鳳統もうなずいて賛意を示す。
 諸葛亮たちは実際に李儒と顔をあわせたことはない(と思っている)が、その為人は賈駆から何度か聞かされている。今回の件を主導していたとしても不思議ではない。


 ただ、気になる点もあった。
 李儒の主君である袁術がこんな行動を認めるのか、という点である。


 淮南征服において、仲が苛烈な方針を採ったことは広く知られている。しかし――
「……淮南での行動は、短期間で広大な領土を得るために、あえて強権的に、武力を前面に押し立てたって考えることもできる、よね」
 鳳統は考えをまとめるように呟いた。その是非はともかく、領土拡大という目的を果たす上で、あれも一つの手段ではあった。鳳統は袁術軍のやり方を肯定するつもりはないが、恐怖による征服、統制が時として効果を発揮することは理解している。
 だが、今回の件は仲にとって何一つ益しない。
 洛陽を確保しても宛を失っては意味がないということもあるが、それ以前に、仲が劉弁の即位を影で画策したのは、現在の漢王室を二つに割って許昌を混乱させる、という目的のためであったはずだ。そして、かなうならば、そこに各地の諸侯を巻き込んで、かつての反董卓連合を再現する――これは漢王室に叛旗を翻した『偽帝』では為しえないことなのである。


 しかし、今の時点で仲軍が洛陽をおさえてしまえば、結局はすべて仲の策動によるものだ、と満天下に公表するに等しい。仲はこれまで積み重ねてきたものをみずから捨て去ろうとしているのだ。しかも重要拠点である宛を焼き捨ててまで。
 今回の件、仲にとって益がないと表現するのは正確ではない。仲にとって損しかない、と表現するべきであろう。
「ということは――この件は寿春の人たちが画策したことでもなければ、許可したことでもない」
「もしかしたら、一番驚いているのは、寿春の人たちかもしれないね……」
 答えにたどりついたのだろうか。諸葛亮と鳳統は顔を見合わせ、うなずきあった。


 一方、それまで黙って二人のやりとりに聞き入っていた劉備は、まだ首を傾げている。
「え、えーと、つまり?」
「今回の件は、おそらく南陽郡太守の独断です。いえ、ここまで踏み切ったということは、もう独断というよりは自立へ向けた動き、というべきかもしれません」
 諸葛亮に続き、鳳統も口を開く。
「……宛の兵やお金、物資を住民ごと洛陽へ持ち込む。今の洛陽の状況から推して考えれば、李儒という人に対抗できる兵力や財力を持った人物はいない、と思います。先発の三万で洛陽をおさえ、宛の住民を迎え入れる用意を整える。荒廃したとはいえ、洛陽は漢の都だった都市ですから、数十万の住民を受け入れることは十分に可能です」
 そして、そこに南陽郡でかき集めた富を注ぎ込めば、ある程度の復興は可能だろう、と鳳統は言う。


「でも、そんなことしたら、寿春の人たちが黙っていないでしょう?」
 その劉備の疑問に、諸葛亮はわずかに面差しを伏せて応じた。
「おそらく、それに備えるために宛に火を放ったのでしょう」
「備えるため?」
「はい。南陽郡太守は仲からの離反を宣言したわけではありません。おそらく今後しばらくはしないでしょう。すると、今回の行動は寿春からの指示で行われた、と世間は受け取ります。もともと彼らの悪名は隠れもないもの、ほとんどの人たちはきっと疑問に思うこともないはずです」
 当然、南陽郡の住民は、昨日までの支配者に対して強烈な敵愾心を持つ。仲が軍勢を送り込んでも、容易に従おうとはしないに違いない。
 寿春の君臣は宛の放棄が李儒の独断であることを知っているわけだが、重要な戦略拠点である南陽郡を任せていた太守が離反した、などと公言すれば、国の内外に与える影響は計り知れない。それに、仮に公言したとしても、李儒が素直にそれを認めることはないだろう。かえって仲の廷臣が罪をかぶせてきたとして、独立の名分にしてしまうかもしれない。


 また、宛の放棄は別の意味でも李儒にとって利益となる。
 中心都市である宛を失えば、南陽郡内の混乱は必至である。それは境を接する国々にとって千載一遇の好機となる。たとえ宛が失われても、南陽郡が依然豊かな土地である事実はかわらないからだ。
「……もっとはっきり言えば、南陽郡をめぐって、許昌と荊州が争うのを期待しているんだと思います。いえ、期待ではないですね。ここまで思い切った手を打ってきた以上、すでに許昌と荊州を使嗾していると見るべきでしょう」
 その諸葛亮の言葉を聞き、劉備はあることに気づいて目を見開いた。
「あ……このまえ、薔(劉琦の真名)ちゃんが言っていたのって」
 先日、劉琦に呼び出された劉備は、そこで寿春からの使者が襄陽にやってきたことを知らされた。ただし、これは極秘であり、主だった荊州の臣下にさえ秘されていたという。


 諸葛亮はこくりと頷いた。
「はい、おそらくは。これは何の証拠もない想像になってしまいますが、実際は寿春からの使者ではなく、宛からの使者だったのではないでしょうか」
 李儒が謀反を起こし、洛陽に拠点を据えるならば、荊州にとっては南陽郡を奪取する絶好の機会である。使者がその用件でやってきたのならば、極秘であった理由も理解できる。
 おそらく、李儒の使者は劉表ではなく、蔡一族に会いに来たのだろう、と諸葛亮は推測していた。
 蔡一族が今回の件をあらかじめ承知していたとすれば、間もなく新野の劉備軍に対して南陽郡攻略の命令が伝えられるはずだ。新野の兵を用いれば、荊州軍の被害をおさえることが出来る。そして劉備軍は、遠からずあらわれる許昌の曹操軍との対峙を余儀なくされる。その間、荊州軍は後方で動かず、両軍が疲弊してきたところで――あるいは劉備軍が敗北してからおもむろに兵を出す。蔡一族にとっては邪魔者を始末すると同時に、豊沃な南陽郡を奪取できるとあって、笑いが止まらないことだろう。
 一方の李儒にとっては、これらの勢力が南陽郡でぶつかれば、仲の報復や許昌からの侵攻を恐れることなく、洛陽での勢力拡大に専心できる、というわけである……




 この諸葛亮の推測が正鵠を射ていたことは、およそ半刻後、夜闇を裂いてあらわれた襄陽からの使者によって証明される。
 西帝劉弁の蜂起に始まる洛陽起義。
 動乱は、その陰で幾多の思惑を蠢かせながら、群雄たちを巻き込み、さらに激しく燃え広がっていく。
 数えれば、徐州撤退戦より半年以上の月日が過ぎ去っている。劉家軍にとって、かつての過酷な戦いに優るとも劣らない苦闘の幕があがろうとしていた。





◆◆◆






 司州河南郡 洛陽


 洛陽北部尉。
 それは洛陽の北門警備、および都下の治安維持を司る役職である。かつてこの職にあった曹操は厳法をもって洛陽の風紀を正し、法を犯した者は貴賎官民を問わずこれを容赦なく罰した。その厳正な勤めぶりから『北門の鬼』などと称され、当時の有力者たちさえ北門を通り抜けるときは緊張を余儀なくされたという。
 それから数年。
 新たに洛陽北部尉の職を与えられたのは、曹操と同じ女性であった。わずか十三という年齢を考えれば、少女といった方が正確かもしれない。
 姓は司馬、名は懿、字は仲達。
 この少女が北部尉の職に就いた時、この人事が洛陽を中心とした動乱において一つの転機となることを予感した者は、誰一人としていなかったであろう。


 洛陽の宮廷で隠然たる力を持つ李儒が、司馬懿に北部尉の役職を与えたのには幾つかの理由がある。
 一つは単純に皇帝たる劉弁の願いをかなえるためであった。司馬家に恩義を感じている劉弁は、司馬懿の登用を願ってやまなかったのだ。
 李儒はこれを肯ったのだが、閑職を与えても劉弁が納得しないことは明白であり、かといって、年端もいかない小娘に政治や軍事の実権を授けるつもりなど更々ない李儒にとって、これは意外な難問となる。
 ややあって、李儒が思いついたのが北部尉の役職であった。
 北部尉は宮廷の序列的に見れば取るに足らない地位といえる。だが、治安を司る要職であることは事実であり、別の言い方をすれば、他者の目によりはっきりと成果が映る役職であるといえる。
 麒麟児とうたわれた司馬懿にとっては、宮廷で些事にこき使われるより、こちらの方がよほど適任であろう――李儒は劉弁に対してそう言上し、劉弁は繰り返し頷いたものであった。




 ただ、むろんというべきか、それは李儒の本心ではなかった。
 李儒にとって司馬懿個人は取るに足りない小娘に過ぎない。しかし、その姉である司馬朗は無視できない政敵であった。司馬家という名家の家柄もそうだが、司馬朗自身も柔和な外見とは裏腹に、官吏として怜悧な一面を持っており、許昌において塩賊を壊滅に追いやったことは夙に知られている。なにより、司馬朗は劉弁、何太后らとの繋がりが深く、彼らを傀儡としたい李儒にとっては、いずれどうあっても除かなければならない相手なのである。


 ゆえに、今のうちからこれを追い落とす口実をつくっておく――それが李儒の思惑だった。十三やそこらの少女が北部尉の職を完璧にこなせるはずはない。すぐに何かしらの失態を犯すであろう。
 司馬懿の失態は司馬家の失態であり、それは家長である司馬朗の失態となる。それが司馬懿を北部尉に就けた李儒の狙いであった。


 ただ、李儒はことさら司馬懿に失態を犯させるべく策動するつもりはなかった。
 それをする必要がないことを、よく知っていたからである。
 というのも、現在、北部尉にかぎらず、東西南北四尉の部下たちは、洛陽で徴発した男たちがほとんどであり、能力、士気、いずれも最低であった。彼らはほとんど街のゴロツキと大差はなく、いたるところで騒ぎを起こし、住民に乱暴を働き、街中での評判はすこぶる悪い。
 たとえ司馬懿本人が評判どおりの実力を持っていたとしても、配下がこれでは実力を活かしようもない。
 そうして、洛陽の住民たちの不満を限界近くまで高めたところで、機を見て司馬懿とその部下を切り捨てる。
 彼らの後任に据えるのは、李儒が呼び寄せた南陽軍である。前任者の評が悪ければ悪いほど、新しく着任した者たちへの期待は高まる。そして、これに応えてみせれば、南陽軍、ひいてはその長である李儒の声望は増していくはずであった。




 そんな思惑の下、朝廷からあたえられた北部尉の職を、司馬懿はとくに表情をかえるでもなく、無言で拝受する。そして拝受したその足で北門に赴くと、すべての人員を一堂に集めて新たな方針を示し、即日これを実行に移すことを宣言した。
 そうして一日が過ぎ、二日が経ち、三日目になる頃には、洛陽の街路を歩く役人たちは見違えるように職務に精励するようになっていた。あまりのかわりように、住民の中には気味悪がる者もいたほどである。


 このとき、司馬懿は奇をてらったことをしたわけではない。
 厳格な法をつくったわけではない。
 過酷な罰則を用いたわけではない。
 容姿や武芸をことさら見せ付けたわけでもない。
 司馬懿がしたことは二つだけ。配下の役人たちの働きぶりに対する評価を厳正にしたことと、俸給を日払いにしたこと。ただその二つだけであった。


 これまでは、真面目に働こうと、酒を飲んでさぼろうと、あるいは街中を歩いている女性に戯れようと、支払われる俸給はまったくかわらなかった。
 司馬懿はこれを改め、なおかつ俸給に関しては日払いへと変更した。職務に励めば、励んだ分はその日のうちに、目にみえる形となって返ってくるようにしたのである。
 ただ、いうまでもないが、北部尉の配下は十人や二十人ではなく、職務も多岐に渡り、働く場所もそれぞれに違う。これらすべての仕事ぶりを正確に把握することなど出来るはずはない、と司馬懿の部下たちは一様に考えた。


 だが、この考えはその日のうちに覆される。夕刻に支払われた俸給に文句をつけた者は一人もいなかったのだ。まるで、一日中、自分たちの仕事ぶりをつきっきりで監視していたのではないか、と思われるほどに司馬懿の評価は正確であった。おまけに、一日の寸評(良い点、悪い点をしっかりと分けて書いてあった)まで付記されており、これまたぐうの音も出ないほどに正確なものばかり。
 司馬懿の部下たちはあちこちで声をひそめて語り合った。


「新しい隊長は本当に人間かね? ありゃあ仙女とか物の怪とか、そういった類の人じゃねえかな」
「そりゃあどっちも人とは言わんじゃろう。まあ言いたいことはわかるがの」
「細かいことはいい。今重要なのは、隊長が独り身かどうかってことだッ」
「……なにか、すごい勢いで話がずれたな、今」
「あの器量じゃ。若い連中が目の色を変えるのは当然じゃろうて。しかしまあ、司馬家のご令嬢という話だ、許婚の一人や二人おるだろうし、たとえいなくても庶民にゃあ高嶺の花じゃろうよ」
「なら、俺が出世すれば問題ないってことだよな! 警邏にいってくるッ」
「あ、おいッ……行っちまったよ」
「青春じゃのう、かっかっか」


 このように部下たちの話題は新隊長のことでもちきりだったが、その評判は概ね好意的なものであった。
 衆にすぐれた容姿ゆえに話しかけるのには勇気がいるが、いざ話してみれば、愛想こそないものの受け答えは丁寧かつ明晰であり、地位を笠に着る様子もない。部下の名も一度で完璧に覚え、決して間違わないあたり、目下の者たちへの心遣いは、これまでの上官たちとは比較にならなかった。
 そして、一日でも司馬懿の下で働いてしまえば、そのやり甲斐は先日までの比ではない。厳正な評価と、その評価を形にした日払いの俸給。司馬懿が部下たちに提示したのはこの二つだけであったが、この二つだけで十分だったのである。


 この時点で、大半の者は司馬懿の指揮に従うことを選び、その数は日をおうごとに増えていくばかりであった。
 ただ、当然のように全員が司馬懿を認めたわけではない。これまでのぬるま湯のような日々を望む者たちも少なくなかった。
 一日、彼らの中でも特に過激な者たちが、夜間、帰途についた司馬懿を取り囲んだ。
 男たちの数は十人あまり。首謀者の男は刃物をちらつかせながら、居丈高に司馬懿に詰め寄って声を張り上げたが、司馬懿の方はまるで動じた様子を見せず、脅し文句にも淡々と応じるばかり。
 その姿を見れば、司馬懿が周囲を取り囲む男たちに何の脅威も感じていないのは明らかで、腹を立てた男の一人が後ろから乱暴に司馬懿の肩を掴もうとした。
 だが、次の瞬間、男の身体は綺麗に宙を舞っていた。鈍い音と共に、男の身体は地面に叩きつけられる。
 苦痛のうめきをあげる男の傍らで、司馬懿は静かに口を開いた。


「――私に触れていいのは、私が許した人だけです」


 その口調は冷静そのものであったが、その冷静さが逆に男たちに火をつけてしまう。首謀者も周りの男たちを煽り立て、たちまちのうちに周囲は騒然とした気配に包まれていった。



 しばし後。
 司馬懿を取り囲んだ男たちは、全員がその場に倒れ伏していた。
 逃げ出すこともできずに地面でうめく彼らの姿を、司馬懿はじっと見つめていたが、やがて彼らが動けるようになると、ついてくるように、と一言いい置いてさっさと歩き出してしまう。
 残された者たちは呆然とするしかなかった。中には好機とばかりに逃げ出した者もいたが、大半は司馬懿の言うことに従った。恐れ入ったというよりは、もうどうにでもなれ、と捨て鉢になったのである。
 ――ただ、彼らの中で一人、首謀者の男だけは他の男たちと異なる視線で去り行く司馬懿の背を追っていた。司馬懿が振り返れば、その男の目に鍛えあげた刃物にも似た鋭利な光が瞬いていることに気づけたかもしれない。
 だが、男はすぐにその輝きを晦ますように面差しを伏せ、他の男たちに混じって司馬懿の後を追ったため、その事実に気づいた者はいなかった。
 この後、襲撃者たちを自邸へ連れ帰った司馬懿は、そこで酒食を提供し、それが終わると彼らを咎めることなく帰宅させた。何がなんだかわからないまま家に戻った男たちは、翌日、自分たちが北部尉の側近に取り立てられていることを知り、放心して立ち尽くすことになる。



 司馬懿は彼らの首謀者、名を張晟という人物を副官に取り立て、討捕(犯罪者を討ち、捕らえる)の責任者に据えた。
 この張晟の抜擢は、本人たちはもとより、周囲の人間をも驚かせた。司馬懿に対する不満を公言してやまなかった張晟とその取り巻きが、司馬懿の側近に収まってしまったのだ。何事が起きたのか、と首をひねるのは当然であったろう。
 中には司馬懿に再考を促す者もいたが、司馬懿は進言には感謝したものの、進言それ自体をとりあげることはせず、張晟らを予定どおりみずからの傍に置いた。
 そして、これでもか、とばかりに諸事に扱き使ったのである。


 ――いや、これは正確な表現ではないかもしれない。司馬懿はことさら彼らを酷使しようとしたわけではないのだから。
 ただ、司馬懿自身の仕事量が尋常ではないために、それを補佐する側近たちの仕事も多忙にならざるを得なかっただけのことであった。
 張晟らにしてみれば仕事を放棄することは簡単だが、それをすれば次はないことはわかっていた。司馬懿がそう警告したわけではないにせよ、襲撃の件で生殺与奪の権を握られたも同然の彼らとしては、そう考えざるを得ない。
 結果、彼らは司馬懿の下で日々激務に追われることとなり、不穏分子であった彼らをあっさりと従わせた司馬懿に対し、彼ら以外の部下たちも尊敬を新たにしたのである。


 かくて、若すぎる北部尉の権威は急速に確立されていき、それにともなって洛陽の治安は北門を中心として劇的な改善を見せるようになる。新たに着任した黒髪の北部尉の話題は街のいたるところで語られるようになり、司馬仲達の名は瞬く間に洛陽中に広がっていった……




◆◆




 その日、めずらしく時間が空いた司馬朗は、宮廷から自宅に戻るや、手ずから腕をふるって夕飯の支度をした。このところ宮廷に詰めきりであったため、包丁を握る機会のなかった司馬朗は、これまでの鬱憤を晴らすかのように大量の料理をつくって妹の司馬懿をあきれさせた。とてものこと、屋敷の中の者たちだけで食べきれる量ではなかったのである。
 もっとも司馬朗はさして気にする様子もなく「残った分は、包んで璧の部下の人たちに配ってあげれば問題はないでしょう」といって、あっさりと問題を片付けてしまった。どうやらはじめからそのつもりであったらしい。


 夜、司馬懿が淹れてくれた食後のお茶を飲みながら、司馬朗はふと何かに気づいたように周囲を見回した後、妹に声をかけた。
「そういえば、馬将軍はどちらかしら?」
「部屋に戻られました。食べ過ぎて動けない、とのことです」
「あら、そうだったの。涼州の人たちの口にあったかどうか心配だったのだけれど」
 姉の眉が心配そうにたわめられるのを見て、司馬懿は食後の馬岱の姿を思い起こす。おなかをぱんぱんに膨らませ、苦しそうな、それでいて幸せそうな笑みを浮かべていた姿を。


「――口にあわなかった、ということはないと思います、姉さま」
「そう、璧(司馬懿の真名)がそういってくれるなら大丈夫ですね。あなたはこの屋敷で一番将軍と親しいのですから」
「一番かどうかはわかりませんが、将軍とは親しくさせてもらっています」
 ありがたいことです、と言って司馬懿は茶碗を手に取り、香気を楽しむようにゆっくりと口をつける。
 昼日中から無頼の徒が幅を利かせ、盗み、恐喝、さらには刃傷沙汰までがめずらしくなかった洛陽の治安は大きく改められようとしている。その中心に司馬懿がいることは万人が認める事実なのだが、のんびりとお茶を飲む今の司馬懿を見て、それと察することが出来る者はなかなかいないであろう。



 そんな妹の姿を見て、司馬朗はふと先日のことを思い起こした。
 司馬朗と司馬懿は、兵や財はすべて司馬孚に残して洛陽にやってきた。つまり治安の改善に司馬家の私財を投じるのは不可能ということである。司馬懿は与えられたわずかな予算と、士気の低い部下たちをもって短時日で成果を挙げてみせたことになる。
 一体どんな手段を用いたのか、当然のように司馬朗は興味を持った。
 その司馬朗の問いに対し、司馬懿は特に隠すこともなく、自分がとった方策を説明した。
 法を厳しくするでもない。罰則を強めるでもない。ただ正確に仕事ぶりを評価し、早期に俸給を支払うようにしただけだ、と。


 それを聞いたとき、司馬朗は納得すると共に、一つの疑問を覚えて首を傾げた。
 司馬懿はこれまで司馬家の臣下以外の者を指図したことはない。少なくとも、司馬朗が知るかぎりはそのはずである。それにしては、半ば流民に等しい洛陽の役人たちを統御する手並みが鮮やかだ、と思えたのだ。迷いがないと言おうか、試行錯誤した様子もない。
 誰かに助言を請うたのだろうか。司馬朗はそう思い、その旨を訊いてみた。
 すると、司馬懿は姉とそっくりな仕草で首を傾げ、こんなことを口にしたのである。


「助言をいただいた、というわけではありません。ただ、以前にある方からうかがったことを参考にしたのは事実です」
「それはなにかしら?」
「『女性の前では良い格好をしたい――それが男というものなのです』」
 しごく真面目に答える司馬懿の前で、司馬朗は二、三度、目を瞬かせた。そんな姉の様子に気づかず、司馬懿は言葉を続ける。
「これは男児たる者の沽券に関わる重大なことだそうです。以前、螢(司馬孚の真名)も言っておりました。女性は殿方を立てるものだ、と。そして、北門の役人や兵士はほぼすべてが男性です。まずは彼らを尊んでいることを示すことが必要だと考えた次第です」
「なるほど、そういう意図だったのですね」
 ふむふむ、と司馬朗は頷いた。どうも司馬懿の取り組みの意図と、実際の成果には若干のずれがあるような気がしないでもないが、結果としてうまくいっているのだから別にかまわないでしょう、と結論づける。


 ただ、気になることがないわけではなかった。
「ところで、璧」
「はい、姉さま、なんでしょうか?」
「あなたの前で、今の台詞を口にした殿方はどなたなのかしら?」
 年端もいかない少女の前で口にするには、なかなかに勇気がいる台詞である。
 姉の問いに、司馬懿は率直に応じた。
「北郷どのです」
 その名は司馬朗の近い記憶にあった。かつて許昌で共に食卓を囲んだ青年の姿を思い起こしながら、司馬朗は小さく微笑む。
「そう、あの方が……ふふ、存外お茶目な人だったのですね、劉家の驍将さまは」


 司馬懿は姉の北郷評に特に異は唱えなかった。その表情や仕草からは、何一つかわった様子は見て取れない。
 ただ、その内心はどうなのだろう、と司馬朗は考える。発言を覚えているだけならばともかく、任務において参考にするということは、妹の心中で北郷の存在がある程度の重みを持っていることを意味するのではないか。
 そんな人物と敵対する側に身を置く境遇が快いものであるとは思えない――と、そこまで考えて、司馬朗は内心でかぶりを振った。このことについては、もう何度も話し合っている。今、ここで蒸し返したところで、妹を困惑させるだけだろう。そう考えたのである……




「姉さま、どうかなさいましたか?」
 司馬懿の怪訝そうな声で、司馬朗ははっと回想から立ち返った。
 なんでもない――そう言いかけた司馬朗だったが、思い直したように口を開く。
「この前、璧に仕事のことを聞いたでしょう? その時のことを思い出していたの」
「そう、ですか」
 応じた司馬懿の言葉は、めずらしく歯切れが悪かった。このところ宮廷に詰めきりであった姉の体調を案じているのだろう。司馬懿の気遣わしげな視線に応えるように、司馬朗は小さくうなずいてみせる。
「久しぶりにたくさん料理もつくれてすっきりしましたし、今日は早めに休ませてもらうつもりですよ」
「はい。ぜひ、そうなさってください」
 司馬朗の言葉を聞き、司馬懿はわずかに表情を緩める。だが、なおも自分を見つめる姉の視線に気づいたのだろう、怪訝そうに目を瞬かせた。
「姉さま?」
「ただ、休む前にあなたに伝えておきたいことがあります、璧」
 これが姉の本題だと察したのだろう。司馬懿は真摯な表情で司馬朗に向き直った。


 その司馬懿に向け、司馬朗はゆっくりと語り出す。
「汜水関、いえ、もう虎牢関といった方が正確ですね。虎牢関の曹操軍に、司馬家の軍が加わっていることは以前伝えましたよね――?」





◆◆


 


 司馬朗が部屋に戻った後、司馬懿は一人、屋敷の中庭にやってきていた。
 この屋敷は、かつての栄華の面影を残す洛陽でも数少ない場所の一つであり、中庭の情景もこれにならう。庭師が手入れした種々の草花、その葉や花弁についた夜露が、上空の月光を照り返して無数の宝石のごとく煌く様は、現在の洛陽の街路と見比べれば、これが同じ都市の光景なのかと目を疑うほどに鮮麗であった。
 しかし、司馬懿の目には眼前の光景はほとんど映っていない。その視線は頭上、煌々と輝く月へと真っ直ぐに向けられており、微動だにしなかった。




 司馬懿は、先刻、姉から聞いた話を思い起こす。
 司馬家は、家長であり長女である司馬朗、次女である司馬懿が共に洛陽の劉弁に従った。許昌の劉協にとって、これは裏切り以外の何物でもない。残された司馬孚たちは裏切り者の一族として厳しい糾弾に遭うはずだった。
 その司馬家の軍が前線に出てきた、と司馬懿が聞いたのは少し前のこと。司馬懿はすぐにその理由を悟った。許昌の朝廷が命じたのか、あるいは現在の家長である司馬孚みずからが望んだのかはわからない。しかし、司馬家の軍勢は、司馬朗、司馬懿の謀反の罪を贖うべく、前線に立ったのだろう。


 覚悟していたこととはいえ、この報せは司馬朗と司馬懿、二人の心に重石をのせた。だが、同時に、二人は心ひそかに安堵の息を吐いてもいたのである。
 というのも、司馬家の軍が出てきたということは、残された妹や一族が問答無用で族滅されるという最悪の事態は避けられたことを意味するからだ。その意味で、この報せは姉妹にとって凶報であると同時に吉報でもあった。
 むろん、司馬懿も、そして司馬朗も、その最悪の事態を免れるべく、洛陽にはしる前に幾つもの手を打っていた。だが、それにはどうしても限界があった。下手に動いて、そのことが表ざたになってしまうと、残った司馬孚たちまでが洛陽側に加担していると許昌の朝廷に疑われてしまうからだ。
 このため、二人は残される妹たち、とくに司馬孚に多大な負担をかけることを承知しつつも、彼女に後事を委ねざるを得なかったのである。



『今日、宮廷で、弘農の樊将軍に呼び止められたのです』
 先日、虎牢関で敗れた樊稠のことである。かろうじて洛陽へ逃げ延びた樊稠は、敗北が西涼勢の謀反によるものであると声高に主張し、人質である馬岱の処分を強硬に主張してやまなかった。
 樊稠が目の仇にしたのは西涼軍だけではない。司馬家もまた、その対象だった。これは馬岱の処分に対して司馬朗が異見を掲げたことが原因であったが、それ以外にも理由がある。
『緒戦、虎牢関に真っ先に寄せてきたのは、司馬家の騎兵部隊だったそうです。そして、虎牢関が陥落する際にも、司馬家の兵は攻撃に加わっていた、と樊将軍は仰っていました』
 つまり、樊稠にとって、司馬家は二度までも苦杯をなめさせられた相手なのである。樊稠が司馬朗を呼び止めたのは、司馬朗が洛陽陣営の情報を許昌に流しているのではないか、と詰問するためであった。


 樊稠の主張は次のようなものである。
 司馬家と西涼軍は裏で繋がりがある。だからこそ、真っ先に馬岱をかばおうとした。西涼軍が裏切りを働いたことは明白。ならば、その西涼軍と繋がりを持つ司馬家の叛意もまた明白。
 弘農勢の敗北は、司馬朗が洛陽や虎牢関の情報を敵に流した結果である――


 この樊稠の主張には何の証拠もない。証拠がないからこそ、宮廷で呼び止めるという手段でしか口に出来なかったのだ。
 司馬朗にとってはただの言いがかりに過ぎず、相手にする必要はないものだったが、一つだけ、聞き逃せない一言があった。
 樊稠の口から出た、司馬家の部隊を率いる者のことである。
『樊将軍によれば、司馬家の軍を指揮していたのは亜麻色の髪の女将軍だったということです。巨大な戦斧を縦横無尽に振り回し、その騎乗の術は西涼軍に優るとも劣らなかった、と』
 樊稠としては、あのような剛武の武将を残してきたのも叛意がある証拠であろう、と言いたかったのだろう。
 司馬懿はそれを察したが、それは司馬懿にとってどうでもいいことだった。重要なのは、司馬懿がその武将の容姿に心当たりがあることである。
 亜麻色の髪の女将軍。しかも戦斧を振り回し、西涼軍に優り劣りなき馬術の腕を持つ。
 司馬懿が知るかぎり、その特徴に合致する人物は一人しかいなかった。
 徐晃、字を公明という少女である。


 并州での動乱について、司馬懿からおおよその報告を受けていたる司馬朗も、そのことに気づいていたのだろう。さらにこう続けた。
『そして、虎牢関の戦いのとき、司馬軍を率いる徐晃どのの傍らに黒髪の青年の姿があったそうです。樊将軍の話では、西涼軍が降ったことを言明したのはこの青年だったとのこと。ために虎牢関の混乱は拡大し、洛陽で徴募した兵士たちは武器を捨てて降伏してしまい、弘農兵はやむなく虎牢関を捨てざるを得なかった――』
 後半に関しては樊稠の都合の良いように脚色されているだろう。しかし、それは青年の存在を否定するものではない。
 徐晃と共に戦いに参加し、口先一つで戦況を動かした青年とは誰なのか。



 考えてみれば、徐晃が司馬家の軍を率いているというのもおかしな話であった。
 徐晃は白波賊の長の娘であり、先の乱にも少なからず関与していた。それゆえ、罪を功績で贖うために前線に出てきたとしても不思議ではない。
 だが、徐晃が司馬家と行動を共にする理由はどこにもないのである。それどころか、謀反人を出した司馬家と行動を共にすれば、いらぬ誤解をうける羽目になりかねない。徐晃は守るべき弟妹を抱えており、無用の危険を冒すとは考えにくかった。


 だが、樊稠が挙げた人物の特徴を聞けば、司馬軍を指揮していたのは徐晃であるとしか思えない。
 であれば、異民族の血を引く少女と、謀反人を出した司馬家を結びつける『誰か』がいたことになる。
 その『誰か』は徐晃とも司馬家とも関わりを持っており、しかも双方から信頼を受けている者であるはずだ。そうでなければ、徐晃は指揮官になることを承知しないであろうし、司馬家の側も、異民族の血を引く少女を指揮官に迎えようとは考えないだろう。
 そして、その『誰か』とは、虎牢関で徐晃の傍にいたという黒髪の青年に他なるまい……




 月を見上げたままの格好で、司馬懿は静かに目を伏せる。
 『誰か』などと考える必要はない。そもそもの最初からその名は――北郷一刀の名は司馬懿の胸のうちにあった。
 だが、どうして北郷が司馬家の軍に加わっているのだろうか。
 劉家軍の朝敵の汚名が晴れた今、北郷には罪を功績で贖う必要はない。あえて司馬家の軍に加わる必要はどこにもないのだ。むしろそれは、ただでさえ不安定な北郷の立場をより危うくするだけの愚行に過ぎない。
 そのくらい、わからない人ではないはずなのに、と司馬懿は思う。
 だが、実際に北郷はその危険を冒してまで司馬家の軍に加わっている。その理由はなんなのだろう――?



 思いつく答えは一つだけ。
 けれども、それは――北郷が残された妹たちのことを救うべく動いてくれている、というその答えは、司馬懿にとってあまりにも都合の良すぎるものであった。
 司馬懿は北郷と行動を共にしている間、今回の挙兵の件を一言も話さなかった。話す機会はいくらもあったのに、そうしなかった。
 それはつまり、司馬懿は北郷を欺いていたということ。欺かれた北郷が、どうして自身を危難にさらしてまで、司馬懿や、その一族のために戦ってくれるというのか。そんなことは考えることさえおこがましい。司馬懿はそのことを痛いほどに自覚している。


 ――そう、自覚しているのに。
 ――どうしてわかってしまうのだろう。おこがましいと断じたその考えこそが事実なのだ、と。


「どうして……?」
 ささやくような問いが向けられた先は、司馬懿自身なのか。それとも虎牢関の北郷なのか。
 月光を映した草花の園で、ひとり佇む司馬懿の頬を、夜露によく似た雫が流れ落ちていった……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/04/06 01:03
 時を少しさかのぼる。


「司馬家の軍に加わる、だと?」
 白波賊や匈奴が暗躍した并州の動乱が終わり、まるでそれを待っていたかのように洛陽において弘農王が蜂起して間もなく。
 軍勢を率いて許昌に戻った関羽は、しばらくの間、朝廷への報告などの戦後処理に忙殺されていた。曹操から与えられた屋敷で、北郷の口からその言葉を聞いたのは、そういった諸々がようやく一段落した頃であった。


 司馬朗、司馬懿が洛陽側にはしったことで、残された司馬家の一族が危機に瀕していることは関羽も承知していた。そして、北郷がそれを何とかしようとしていることも。
 北郷は最悪の事態を避けるべく、曹純、郭嘉、程昱といった丞相府の知人、さらには曹操の母である曹凛のところにまで足を運んでいた。何故に関羽がそれを知っているかといえば、関羽自身も北郷に頭を下げられ、協力を求められたからである。このため、関羽も張遼などに働きかけたりもした。


 眉をひそめる関羽に対し、北郷はしごく落ち着いた様子でうなずいてみせる。その顔を見れば明らかなように、幸いにも司馬家は賊滅を免れることができた。
 だが、これは北郷らの行動が実を結んだというよりは、はじめから曹操にその意思がなかったためであろう、と関羽は考えている。
 つい先日、関羽は北郷にそのことを話したことがあった。
『曹操は自分にも他人にも厳しい為人だ。先の兌州の乱で、妹が叛乱を起こした張太守を罰しなかった上は、今回、司馬叔達らをはじめとした司馬一族を、姉たちの叛乱の罪で罰することはできまい。それをすれば、自身との親疎の差で処罰をかえることになり、公平を保てなくなるからな』
 むろん、万事に『公平』を貫くのは困難をきわめる。だが、為政者たるもの、臣下や民衆に対して『公平感』は与え続けなければならない。張超による叛乱が人々の記憶に新しい今、怒りにまかせて司馬家を賊滅するようなまねをすれば、この公平感が大きく損なわれてしまう。ゆえに、曹操が司馬一族に過酷な処分を下すことはまずないだろう。
 私的な面はともかく、公的な――為政者としての曹操に対しては、関羽はそれなりに評価しているのである。


 この関羽の考えは、北郷のそれとほぼ重なる。
 もとより北郷は自身の奔走ゆえに司馬家が助かった、などとは微塵も考えておらず、司馬家が賊滅を免れた、という結果だけで十分に満足していた。
 ただし、当然ながら、賊滅を免れる事と、無罪放免になる事はイコールではない。司馬家に向けられる厳しい視線は緩められることはなく、その視線をはねのけるためには汗馬の労が必要になる。
 今回の司馬家の出陣はその一環。それは関羽にもわかるのだが、それに北郷が加わらなければならない理由は何なのか。常であれば、関羽は「どうしてそこまで司馬家に肩入れする?」と詰問するところである。
 だが、今回に関しては問うまでもなく答えは明らかであった。


 関羽は呆れと感心を等分に混ぜながら、口を開いた。
「司馬叔達をはじめとした、年端もいかない司馬家の娘たちの危難を見過ごすわけにはいかない、か。まったく、こういう時の決断の早さと行動の速さは中華でも屈指だな、お前は。いやいや、もはや随一といっても良いかもしれん」
「雲長どのに中華一と評していただけるとは、光栄の極みに存じます」
「嬉しそうな顔をするな、ばかもの。別に褒めたわけではない」
 関羽はそういって、軽く北郷の額を小突く真似をした後、微苦笑をもらす。
「まあ、その逆であるよりはずっとマシだがな」
「ですよねッ」
「だから、そこで喜ぶなというに」


 注意を受け、おどけたように肩をすくめる北郷に対し、関羽は真摯な表情で話しかける。
「反対はせぬ。もとより、我らは桃香さまの配下として対等の身、一刀の行動を掣肘する権利は私にはないし、たとえあってもそうするつもりはない」
 それは関羽の本心であり、同時に客観的な事実でもあった。ただ、北郷の行動は良かれ悪しかれ、関羽にも影響を及ぼす。その逆もまた然り。許昌において、劉家軍の将たちは一蓮托生なのである。
 その事実に立った上で、関羽は北郷の行動を掣肘するつもりはない、と言い切った。それが意味することを正確に汲み取った北郷は、関羽に対して深く頭を下げる。
「感謝します、雲長どの」
「別に感謝する必要はない。ただ、今回の件、司馬家はもとより、お前自身に向けられる視線も、決して穏やかなものではないぞ」
「承知してますよ。ただまあ、それは今にはじまった話ではありませんし、これまでどおり劉家軍の一員として恥ずかしからぬ振る舞いを心がけていれば、特に問題はないでしょう」
 その北郷の言葉に、関羽は知らず眦を下げるが、すぐにそんな自分に気づいて、ごほん、と大きく咳払いする。


「しかし、一刀は本当に労ばかり多くて功の少ない道を選ぶ。少しは自分自身のことを考えてだな――何をきょろきょろしている?」
「いや、鏡はどこにあったかな、と思いまして」
「む? 何故いま鏡が必要なのだ?」
 本気で首をひねっている関羽を見て、北郷は嘆息した。
「……わが身を許昌に留めて、他の将士を救った人に『もっと自分のことを考えろ』といわれても説得力に欠けますよ」
「何を言う。それは一軍の将として当然のことだ」
「そうかもしれません。ということは、玄徳さまの配下として雲長どのと対等の身である俺は、今のままでかまわないということですね」
 今しがたの関羽の台詞を拝借した北郷の言葉に、関羽はうっと言葉に詰まる。


 だが、すぐに関羽は体勢を立て直して反撃に出た。
「そ、それとこれとは話は別だッ。そもそも、怪我から回復した今、一刀はいつなりと桃香さまの下へ戻っても良いのだ。先の并州の一件といい、今回の件といい、許昌に留まっているゆえに背負い込む羽目になった面倒ごとなのだぞ」
「またその話ですか? 雲長どののおかげで命を拾いながら、その雲長どのを許昌に残してひとり荊州へ行く――どの面さげて玄徳さまに会えというんですか」
「桃香さまは一刀が戻ったことを喜びこそすれ、責めるようなまねは断じてせん。いや、それ以前に私の決断に一刀のことは含まれていないと何度も言っておろうがッ」
「……そういう人たちだから、余計に心苦しいんだけどなあ……」
「ぬ、何を遠い目をしている?」
「目の前にいるお人好し二号をどういって説き伏せようかと思案中なのです」
「に、にごう?」
「ちなみに一号は玄徳さまです」
「誰もそんなことは聞いておらんわッ!」
「付け加えれば、三人目は三号ではなく『V3』なのでご注意ください」
「ええい、わけのわからんことをいって誤魔化そうとしてもそうはいかんぞッ」
「ち、ばれたか」



◆◆



 許昌 丞相府


 曹操によって丞相府に連れて来られた関羽は、昔日のことを思い起こし、わずかに苦い表情になった。あの後も、結局、北郷はなんやかやと言いつつ、関羽の追求の手を断ち切ってしまったのだ。
 あの話を切り出すと、北郷は決まってこちらを煙に巻こうとする。そうとわかっていながら、それでもその都度それに乗ってしまう自分は、実のところ、ものすごく浅はかなのではあるまいか。
 振り返ってみれば、趙雲にもいいように弄られていた記憶がある。義妹の張飛には、もっと勉強しろ、などと口うるさく言っていたが、案外勉強する必要があるのは自分の方なのかもしれない。関羽はかなり本気でそう考え始めていた。


 と、そのときである。
「面と向かって、そう険しい顔をされるとさすがに気になるわね。私と同席するのはそれほど気詰まりかしら、関雲長?」
 鋭い、だが、どこか楽しげな響きを帯びた声を聞き、関羽ははっと我に返った。
 視線をあげた先には、この丞相府の主の秀麗な顔がある。関羽は慌てて姿勢を正した。
「し、失礼した。少々、考え事をしていたもので」
「その険しさを見るに、漢寿亭侯に封じられた喜びを感じていた、というわけではなさそうね」
「……陛下よりじきじきに功を称えていただいたことには、深く感謝しております」


 今日、関羽は朝廷に呼び出され、漢寿亭侯に封じられた。
 これは先の并州の兵乱で、関羽が軍を率いて解池を解放し、さらには匈奴の単于を討ち取った功績を称えてのものである。曹操からの恩賞であれば関羽は辞退したであろうが、漢帝からの恩賞であればそうはいかない。むろん、この封爵の背後には曹操の意思が関与していようが、褒詞を述べる少年帝の誠心は本物であり、関羽は素直に頭を垂れて恩賞を受け取ったのである。


 その後、関羽は曹操に丞相府へと連れて来られ、共に中庭の東屋へとやってきた。
 通常、関羽が曹操と会うときには夏侯惇や荀彧が目を光らせているのが常であるのだが、前者は遠く北海郡に赴いており、後者は河北との一戦に備えて寝る間もない多忙さの中にある。曹操はその間隙をつく形で想い人との逢瀬を成功させたのである。
 もっとも、関羽にとっては曹操と二人きりの密会ができたところで何の喜びもない。劉備への忠誠は花崗岩のごとく強固であり、同性と色恋を語る趣味もない。曹操の問いに対する受け答えは礼儀正しいものであったが、この場合、礼儀は内心を押し隠すための壁の役割を果たしていた。


 むろんというべきか、曹操はそんな関羽の内心を悟っている。しかし、阿諛追従を並べ立ててすりよってくる者を見慣れた曹操にとって、関羽のそんな態度もまた新鮮であり、権力におもねろうとしない関羽の硬骨に好意を篤くするばかりだった。
 とはいえ、このままどれだけ話を続けようと、関羽がこちらに心を開くことはないのは曹操も理解している。それに荀彧が多忙である以上に曹操は多忙なのである。ほどなく曹操は本題に入った。


「河北の密偵から、黎陽に大量の物資が集められている、という報告が来たわ」
 その曹操の言葉に、関羽の表情がわずかに動いた。
 黎陽とは黄河北岸に位置する城であり、袁紹軍にとっての最前線である。そこに物資を集めている袁紹の思惑は火を見るより明らかである。当然、関羽もその意味に気づき、同時に関羽を招いた曹操の意図にも思い至った。
 そして、曹操の口から出た言葉は関羽の推測と合致する。 
「今回の河北勢との戦は、朝廷の総力を挙げての決戦となるでしょう。漢寿亭侯関雲長、あなたの力、貸してもらうわよ」
「それは朝廷からの正式な命令である、という理解でよろしいか、曹丞相」


 応じる関羽の声は硬かった。関羽は曹操に対し、あくまで漢の臣として対等である、という立場を崩さない。むろん、曹操と関羽では、廷臣としての地位は曹操の方が上であるため、最低限の礼儀は尽くしているが、それは他の曹操の臣から見れば不遜と映るものであった。
 だが、当の曹操は気にする様子も見せず、朗らかに笑ってみせた。
「ええ、そう思ってもらって結構よ。もっとも私としては、数月にわたって許昌で暮らしてきたあなたが、私の命令に従うことに、これまでとは異なる意味と価値を見出してくれていれば嬉しいのだけど」
「……陛下の股肱である曹丞相の命令に従うことは、漢の臣として当然のこと。それ以上の意味も、それ以外の価値も、必要ありますまい」
「あら、あなたが劉備に従うのは、ただ劉備が主であるという理由だけなのかしら。その下で戦うにおいて、ただ臣節を尽くすだけでなく、人として、武人として、懸けているものがあるのでしょう?」
 曹操の問いかけに、関羽はわずかに視線をそらして無言であった。劉備に対して抱いているものはあっても、曹操に対して抱くものは何もない、とその態度が雄弁に物語っていた。


 常の曹操であれば、他者のこんな態度を許すものではないのだが、関羽に対してはひたすらに甘い曹操だった。曹操の関羽に対するこういった特別扱いが、荀彧や夏侯惇を切歯扼腕させ、それがひいては二人の関羽への厳しい態度に繋がっているのだが、このあたり、曹操は存外無頓着である。
 ただ、関羽にしても曹操から寄せられる厚意や厚遇を当然のこととして受容しているわけではない。北郷に言明したように、関羽は為政者としての曹操の治績は十分に認めている。また、関羽自身のことはもとより、劉家軍の同士らに対する扱いは破格といってもよいほど寛大なものであり、この点では疑いなく関羽は曹操に感謝の念を抱いていた。ゆえに、よほどのことがないかぎり、その命令を拒むつもりはなかった。


 関羽はわずかに頭を下げる。その動きに応じて、関羽の鮮麗な黒髪がかすかに揺れた。
「従軍の件は承知しました。もとより朝廷に忠を尽くすために都にやってきた身です。陛下のご命令とあらば、相手が匈奴の暴兵であろうと、河北の精鋭であろうと、怯むものではございません。いかようにもお使いくださいますよう」 
「頼もしい言葉ね、期待しているわ」
 関羽の言葉に曹操は満足したように頷く。
 対して関羽は、黙然と頭を垂れてから腰を浮かした。
「それでは、私はこれで――」




「待ちなさい、まだ用件が済んだとは言っていないわ」
 曹操は片手をあげて関羽の動きを制する。
 関羽はいぶかしげな表情を浮かべた。
「まだ、何か?」
「ええ、そう。今回の戦でのあなたの意見を聞かせてもらいたいのよ」
「此度の動乱に関して何も知らぬ身で、ことごとしく軍略を語れば諸将の物笑いの種になるでしょう。まして曹丞相は百戦錬磨、私ごとき一介の匹婦の意見を必要とされるとは思えないのだが」
「あなたが匹婦であるのなら、この世に英雄傑人の類は一人もいないことになるでしょうね」
 曹操は小さく肩をすくめてから、言葉を続けた。
「ただ、少し言葉が足らなかったことは確かね。より正確にいえば、今回の戦における、とある人事について、あなたの意見を聞かせてもらいたいの」


 その曹操の言葉を聞いても、関羽の顔から怪訝そうな色合いが消えることはなかった。それもそのはずで、関羽は現在の丞相府の諸官や朝廷の人材について、ほとんど知識がない。ある意味、関羽にとっては軍略を語る以上に畑違いの話題であった。
 むろん、曹操もそれは承知している。ただし、曹操が言及した「とある人事」に関してのみ、関羽は許昌の誰よりも詳しい者であるはずだった。
 それを聞いた関羽は、自分自身にもわからない理由で眉をひそめた。
「それはつまり、その人事に関わる何者かと一番付き合いが深いのが私である、ということですか?」
「まさしくそう言ったのよ。今回の戦は河北との総力戦になる。将も兵も、もっとも信頼できる者たちを連れて行くわ。ただ、許昌を空にするわけにはいかない。政事や朝廷の対応については桂花がいれば問題ないけれど、あの子は兵を率いるのは向かないから、しかるべき人物を置いていく必要があるの」


 今回の留守居役は、これまでのようにただ曹操の留守を守るだけではない。戦況によっては自ら大軍を統率して戦う必要が出てくるだろう。これまで曹操軍にあってこの種の役割を任せられてきたのは、臣下では夏侯惇、夏侯淵、一族では曹仁くらいのものであった。
 夏侯惇と曹仁が北海郡に出陣している今、該当するのは夏侯淵だけである。曹操も、当初は夏侯淵を留守居に据えるつもりだったのだが、戦況の変化が、その判断に変更を強いた。
 曹操が夏侯淵にかえて許昌の留守居を命じた人物の名を張莫、字を孟卓という。



 曹操は張莫と無二の親友であったが、先の兌州動乱の影響を考慮して、これまでは重任を委ねることを控えてきた。だが、張莫は洛陽の弘農王との戦いで、西涼軍を打ち破り、難攻不落の代名詞ともいえる虎牢関をわずか数日の攻防で陥落させるという大功をうちたてている。これらの功績は、張莫を重く用いるために十分な理由となろう、と曹操は考えたのである。
 これには関羽も特に異論はなかった。実際、虎牢関を我が目で見たことのある関羽は、まさか張莫が一万足らずの軍勢であの関を陥落させるとは夢想だにしていなかった。


 だが、問題はそこではない。
 張莫が許昌に戻るということは、洛陽方面の主将の座が空になるということである。虎牢関を陥としたとはいえ、洛陽政権はまだ崩壊したわけではない。何者をもってその座に充てるのか。
 そこまで考えたとき、関羽の胸にそこはかとない不安がよぎった――いや、不安というよりは危惧というべきか。
 まさか、と思ったのだ。
 張莫の軍勢には関羽が良く知る人物が従軍している。まさかとは思うが、あれが張莫の後任に充てられるなどということが起こりえるのか。いや、まさかそれはないだろう、と関羽は脳裏をよぎった考えを振り払おうとする。だが、先ほどの曹操の言葉から察するに、そうである可能性は皆無ではない。いやしかし、まさか……


 そんな関羽の内心の混乱を知ってか知らずか、曹操はあっさりとこう口にした。
「北郷一刀。あの者を虎牢を守る主将に据える。この人事について、あなたの意見を聞かせてもらいたいのよ」


 その曹操の言葉は、轟雷さながらの響きを帯びて、関羽の耳朶を振るわせた。






◆◆





 しばし後、曹操は丞相府の高官を一室に集めた。
 曹操が張莫をもって許昌の留守居に据えると決めた理由は、関羽に告げたとおりである。だが、実のところ、もう一つ、関羽には告げていない理由があった。
 荊州南陽郡の動静である。
 南陽郡の太守である李儒が洛陽に兵力を集め、さらには宛に火を放って住民を強制的に連行しようとした情報はただちに許昌へ伝えられた。
 南陽郡の重要性をかんがみれば、袁術がこれを放棄することに意味があるとは思えない。南陽郡を空にして、曹操と劉表をかみあわせる策略であるという可能性もないわけではないが、それでは宛を炎上させた理由が説明できない。
 曹操をはじめ、荀彧、荀攸、郭嘉、程昱らの見解は一致した。すなわち、これは南陽郡太守李儒による独立の動きである、と。


 実のところ、この李儒の動きは曹操にとって少なからぬ利益をもたらした。
 元々、一個の勢力としてはとるに足りない洛陽勢に対し、曹操が対応を余儀なくされたのは、漢王朝が分裂している、という事実が曹操にとって甚だ不都合だったからである。
 曹操の権威と正当性は『漢帝』を擁しているという事実によって裏打ちされている。その『漢帝』が複数いては、曹操自身の地盤がゆらいでしまうのだ。この点だけを見れば、漢に叛旗を翻した袁術などよりも、洛陽の弘農王の方がはるかに厄介な存在であった。


 だが、今回の李儒の動きは、弘農王の蜂起が偽帝による策略の一環であったと公表したに等しく、漢の皇帝を称する弘農王の正当性は著しく減じた。もとより弘農王を正式な皇帝として認めていた諸侯や民衆は少なかったであろうが、今回の件でその数はさらに減ったであろう。
 こうなると、曹操としては貴重な将兵を洛陽に向けておく必要がなくなる。むろん、いずれは討伐の軍を向けることになろうが、袁紹との決戦を控えている今、それをしなければならない理由はない。
 相手が攻めてくれば望むと望まざるとに関わらず戦わざるを得ないが、袁術から離反したばかりの李儒は、しばらく洛陽で地歩を築くことに専念するものと推測された。洛陽の廷臣すべてが李儒に同心しているとは思えないから、彼らに対処する時間も必要になろう。ゆえに、李儒が即座に虎牢関に兵を向けてくる可能性は低い。


 そんな戦場に張莫や、張莫率いる陳留勢を置いておくのは、人的資源の無駄遣いというものだ。
 この曹操の考えは、多くの者たちが納得するところであり、張莫の召還はあっさりと決まった。
 次に問題となるのは、誰をもって張莫の後任に充てるか、である。洛陽勢が攻め寄せてくる恐れは少ないとはいえ、可能性は皆無ではない。虎牢関は洛陽を守る砦であるから、洛陽方面からの攻勢に関しては防備が整っておらず、これを守るには相応の将才が必要になる――そう考え、人選にとりかかろうとした荀彧は、次の瞬間、曹操の口から出た名前に呆然とすることになる。


「ほ、本気ですか、華琳さまッ?!」
 相手が曹操でなければ、正気ですか、と問いかけていたであろう。それくらい、荀彧は驚愕していた。
「むろん、本気よ。将兵の命がかかる軍議の場で偽りを口にするつもりはないわ」
 その曹操の口調にひやりとしたものを感じた荀彧は、慌てて無礼を謝する。
「も、申し訳ありません。し、しかし、黒華さまの後を北郷に任せるのは賛成いたしかねますッ」
「ふむ。理由は?」
 荀彧が反対することはわかっていたのだろう。曹操の声は静かなままであった。


 荀彧は口を開くと、滔々と述べ立てた。
「北郷は劉備の私臣、朝廷の軍をあずけるべきではありません。この点、関羽も同様といえば同様ですが、北郷と関羽では積み重ねてきた戦歴が違いすぎます。彼の者の淮南での戦果について認めないわけではありませんが、あの一戦のみをもって将としての評価を下すのは早計であると考えます」
 事実、并州の動乱においては北郷は将としての功績をあげてはいない、と荀彧は続けた。虎豹騎が匈奴の軍勢と戦うに際し、北郷が作戦に関与したことは事実だが、これは将としての功績ではなく、参謀としてのそれにあたる。於夫羅との決戦の際、関羽の副将をつとめはしたが、あの戦いで勝敗を決したのは兵の錬度であり、郭嘉の戦術であり、関羽の武力であって、北郷に功らしい功はなかった。その後、解池に潜入するなどしたが、これは将ではなく個としての行動である――


 荀彧は将軍としての北郷の力量を全否定しているわけではなかったが、その評価はひたすら辛かった。今回、北郷が虎牢関で敗れるようなことがあれば、その脅威は許昌にまで及んでしまう。荀彧にとって、到底黙っていることはできなかった。
 また、単純な力量以外でも気になる点はある。
「華琳さまの期待を裏切って洛陽にはしった司馬家の者たちとも少なからず関わっていること、北郷自身が認めております。現在、虎牢関にいるのは、黒華さまの陳留勢を除けば、劉家軍の北郷、白波賊の徐晃、そして謀反人を出した司馬家の司馬孚という面々です。黒華さまが上にたち、あれらの手綱をとっているならば何の心配もありませんが、北郷を主将に据えれば、どのような事態が起こるか、予断を許さなくなりましょう」
 北郷自身が裏切って自立したり、あるいは洛陽勢に通じるとは荀彧も思っていない。だが、北郷が種々雑多な配下を統率し、敢然と洛陽勢と対峙しえる将器の持ち主である、とはそれ以上に思っていない荀彧であった。


 荀彧の主張は、多少主観が混じっているとはいえ、大方の者たちが抱えている危惧を過不足なく言い当てているであろう。少なくとも曹操はそう判断し、あっさりと頷いた。
「桂花の言は実に剴切ね」
「では、華琳さま――」
 何か言いかけた荀彧だったが、続く曹操の台詞をきいて、言葉を詰まらせることになる。
 曹操はこう言ったのだ。


 ――では、北郷以外の何者をして虎牢関を守らせるのか、と。


「それは……」
「桂花の言うとおり、黒華の後任を務めるのは北郷では力不足でしょう。けれど、それは他の誰であっても大してかわらないわ。黒華の後を過不足なく務められる者は丞相府にあっても数えるほど。そして、それが出来る者たちは麗羽との戦いに従軍してもらわなければならないのよ」
 そう言って、曹操は口元に笑みを閃かせた。どこか、刃の鋭利さを感じさせる鋭い笑みを。
「であれば、多少の力不足には目を瞑りましょう。その上でもっとも適した人材は誰か、と考えて北郷の名が浮かんだの。桂花が口にした淮南での戦果、あれにどのような意味があったのか、この戦いはそれを知る助けにもなるでしょう」
 もしも淮南での勝利がただの怪我勝ちであれば、虎牢関を失うことになりかねないが、最悪でも汜水関が保持できればそれでいい、というのが曹操の考えだった。元々、虎牢関は張莫の智略で得たものであり、数多の兵力や物資を費やして陥落させたわけではない。虎牢関陥落の一事が洛陽勢に圧力をかけ、結果として李儒の行動を早めたことを考えれば、虎牢関を陥落させた効果はすでに十二分であるといえる。再び失ったところでさして惜しくはなかった。




 曹操の言葉を聞いた荀彧は口を噤んだ。納得したわけではない。ただ、今回の戦いでは、丞相府や朝廷の主だった武将は軒並み出陣する。彼らから後任を選ぶわけにはいかない以上、留守居の者の中から選ぶしかないのだが、荀彧の脳裏に浮かんだ者たちは、はっきりいってしまえば、不安という意味で北郷とさしてかわらなかった。曹操の人事にあえて異を唱えてまで推したい者はいない。
 そこに思い至った荀彧は、別の角度からこの人事を見つめなおした。
 誰を選んだところで完全な満足を得られないのなら、ここで北郷を試すのも一つの手か。もとより敵が寄せる可能性は少ないのだし、仮に北郷がしくじれば、むやみに高くなりつつある劉家軍の名声にも瑕がつく。勝てばむろんよし。負けても、曹操にとって益はある。
 あるいは、北郷の敗北という事実によって関羽を縛る枷を増やすこともできよう。曹操はそのあたりのことまで考えた上で、北郷の名を口にしたに違いない……
 そう考え直した荀彧は、これ以上異論がないことを示すために曹操に向かって頭を垂れる。
 そして、曹操が決め、荀彧が認めた人事に、なお異見を掲げようとする者は、この場にはいなかったのである。





◆◆





「華琳さま、華琳さまー」
 軍議が終わり、曹操が自室に戻ろうとしたとき、後ろから声をかけてくる者があった。
 ふわりとして捉えどころのない声は程昱のものである。
 曹操は足を止めて振り返ると、怪訝そうな声を発した。
「どうしたの、風?」
 程昱は曹操の前まで来ると、不思議そうに問いを発した。
「華琳さまはお兄さんをあまり高く評価していないと思っていたのですが、どうして今回はお兄さんの名前が真っ先に浮かんだのでしょう?」
 曹操は小さくかぶりを振って、程昱に答えた。
「たしかに格別高い評価を与えていたわけではないけれど、だからといって不当に低く評価していたつもりもないわよ、風。鐙のこと、母上のこと、淮南でのこと、数え上げれば北郷を評価する理由はいくつもあるもの」
「なるほど、評価はしていたけど興味はなかった、ということですか」
「そうね、劉備と行動を共にしていた頃の北郷に、さして興味がなかったのは確かね」


 曹操はあっさりと程昱の言葉を認める。
 ある意味で、曹操にとって劉備と北郷は対照的な存在であった。評価はせずとも興味はあった劉備と、評価はしていても興味はなかった北郷。
 評価の有無が、曹操の目から見たその人物の功績であるとすれば、興味の有無は何によってもたらされるのか。
 曹操にとって、それはとても単純なことだった。
「この乱世にあって、自らの理想のために己が血を流せるか否か。別に一勢力の長になる必要はない。主君の理想に自らのそれを重ね、そのために自分の血を流せるのならば、それもまた一つの在り方よ。劉備も、関羽もそれをしていた。けれど、私の目には、北郷がそれをしているとは映らなかったの」


 劉備たちが掲げる理想の傘の下で、乱世の風雨から守られている男。それが曹操から見た北郷一刀という人間だった。
 別に曹操はそれが悪いとは思っていないし、北郷の生き方を蔑むつもりもない。言明したように、北郷がこれまでに為してきたことを曹操はきちんと評価している。ただ、どれだけ北郷が功績を積み上げようと、曹操はその為人に興味を抱くことはないし、親しく語らう気も起きない、というだけのことだった。


 程昱は、可愛らしく小首を傾げる。
「でも、今の華琳さまはお兄さんに興味を持っているように見えるのですよ?」
 程昱の疑問に、曹操は苦笑じみた表情を浮かべて反問する。
「問いに問いを返すけれど、風はどうしてあの男のことを気にかけているのかしら? 私が北郷をどう捉えていようと、風にはあまり関係がないと思うのだけれど」
「それはですねー、風が華琳さまとお兄さんには仲良くしてほしいと思っているからなのです」
 それを聞いた曹操は、二、三度、目を瞬かせる。程昱の答えは、明らかに曹操が予想していなかったものだった。


「それは何故、と訊いてもいいかしら? 私が北郷との距離を縮めたところで、何の益もないでしょうに」
「むー。何故と訊かれると、なんとなく、と答えるしかないのですが」
 首をひねる程昱を見て、曹操は苦笑を浮かべる。
「それはまた、ずいぶんと頼りない理由ね?」
「はいです。なので、これまでは口にすることを控えていたのですよ。他の人たちにも怒られちゃいますからねー」


 そう口にしたとき、程昱の頭に浮かんでいたのは荀彧や夏侯惇の姿であったのかもしれない。
 曹操はそれと察したが、あえてこれ以上掘り下げる必要がある話題とも思えなかったので、先の程昱の問いに立ち戻る。
「風が気にしていたのは、私が北郷に興味を覚えたのか、だったわね。許昌に来てからの北郷の行動に以前とは違うものを感じているのは事実よ。淮南での戦いが、何かを気づかせたのかしらね」
 それと、と曹操は言葉を続ける。
「風以外にもあの男を気にしている子がいるのよ。黒華は黒華でずいぶんと北郷を気に入ったようだし、それに藍花(荀攸の真名)も、何かあの男に気になるものを感じているようね。そのあたりも含めて、今回の一戦で確認するつもりよ」
「方士とやらの存在もありますからねー。華琳さまがさっき言っていたのは、そういうことでしたか」
「そうね。結論をいえば、興味がないわけではない、といったところかしら。これで答えになっている?」
「十分なのです。お忙しいところを引き止めてしまって、すみませんでしたー」



 足早に立ち去る曹操の後ろ姿を見送った後、程昱はとことこと中庭を歩き、目に付いた東屋にやってきた。
 そこは先刻、関羽と曹操が向かい合っていた場所なのだが、むろん、程昱はそうとは知る由もない。
「狼烟、四方にあがりて戦火は絶えず。群臣、征旅にそなえて奔走やまず」
 うたうように呟いてから、程昱はくるくると右手の人差し指を宙で回す。
「たくさんの人たちの思惑が入り混じる戦乱の中で、おにーさんが築いてきた絆が形となってあらわれたのが淮南の戦。あれがただの偶然でないとすれば、この戦で何かが見えてくるかもしれませんねー。華琳さまはそれを確認しようとしているのでしょうか」
 程昱はそういって、しばしの間、東屋に佇んでいたが、やがてくるりと踵を返すと、丞相府の中へと戻っていった。
 荀彧も曹操も多忙であるということは、当然、程昱も多忙であるということ。これ以上のんびりしていると、執務室にいる郭嘉からぽかりとやられることは必定であった。





◆◆◆





 司州河内郡 虎牢関


 虎牢関の一画から大きな歓声がわきあがる。
 それを脳裏の片隅で意識しながら、俺は歓声にまけじと大声を張り上げた。
「よし、叔達どの、こっちにパス!」
「ぱ、ぱすってなんですか、お兄様?!」
「その毬(まり)をこっちにくれって意味です!」
「わ、わかりましたッ」
 馬上、片手で手綱を握り、もう片方の手で毬杖(長柄の棒)を握った司馬孚が、意外に様になっている動作でこちらに向けて毬(布製のボール)を打ち放す。毬は勢い良く転がり、先んじて前方に突出していた俺のすぐ近くまで跳ねてくる。ナイスパス。
 俺はこの好機をものにすべく、両手で毬杖を握りしめ、大きく振りかぶる。司馬孚と同じく騎乗しているため、両手で杖を握ると、必然的に足だけで馬を御さなければならなくなるのだが、今の俺の技量をもってすれば、短時間だけならばそれも可能。ここは是が非でも点を取るッ。


「おりゃああッ!」
 気合一閃、ゴルフのスイングのような弧を描いた俺の毬杖の先端は、地面に転がっていた毬の中心を正確に捉えた。渾身の力を込めた剛打の勢いそのままに、毬は半ば宙を駆けるように相手ゴールに吸い込まれていく。
 再び周囲から湧き上がる歓声。中には悲鳴じみた落胆の声も混ざっていた。多分、前者は俺たちの勝利に賭けている兵たちで、後者はその逆であろう。
 よし、これで勝った、と俺が確信した瞬間だった。
「させませんッ」
 そんな声と共にゴール前に立ちはだかった騎影がある。亜麻色の髪をなびかせ、巧みに馬を操るその人物――徐晃は無造作とも言える動作で自身の毬杖を振り下ろした。揺れる馬上、勢い良く飛んでくる毬を杖先で防ぎとめるのは容易なことではない――そのはずだったが、徐晃にとってはさして難事ではなかったようだ。よほどに目も勘も良いらしく、いとも軽々と杖先で毬を押さえつけてしまう。
 それを見て、再び周囲の観衆から歓声と落胆の声が沸きあがった。先刻との違いはといえば、さきほど歓声をあげていた者たちは落胆の声をあげ、落胆の声をあげていた者たちは歓声をあげている、ということ。
 そして、その観衆の声と相前後して、銅鑼の音が鳴り響く。
 敗者の列に立たされることが決定したことを知り、俺は馬上でがくりとうなだれるのだった……





 最前線の砦で何をしているのかと問われれば、こう答えよう。
 馬上、長柄の棒をもって地面に転がっている毬を打ち、相手陣地に叩き込む、実にシンプルな遊びをしているだけだ、と。 
 打毬、あるいはポロといった方がわかりやすいかもしれないが、ともかく俺たちがやっていたのはそれらの馬上競技の真似事である。なぜ真似事なのかといえば、俺が正式なルールなぞ知らなかったからである。


 そもそものきっかけは、俺と徐晃が行っていた馬上訓練を見た司馬孚(張莫の許可を得て汜水関からやってきた)が、自分も訓練に参加したいと望んだことであった。
 だが、司馬孚は頭脳の働きや思慮分別こそ年齢離れしているが、体力や身体能力に関しては年相応であり、激しい訓練に耐えられるとは思えない。怪我でもさせてしまったら大変である。
 とはいえ、駄目だと言って、はいわかりましたと引き下がってくれる子ではないことはすでに俺も理解していた。
 どうしたものか、と考え込んだ俺がふと思い出したのが、古く唐の時代には後宮の美姫たちすら熱中していたというポロのことだった。後宮の人たちがやっていたというのだから、司馬孚がやってもさほど危険ではあるまい。
 で、まあ、詳しいルールを知らなかったから、馬に乗り、棒をつかって行うサッカーみたいな感じで始めてみたのだ。
 はじめは毬がうまくはねなかったりと、色々な問題があったのだが、それも少しずつ解消されていき、やがてそれなりの試合が出来るようになった。はじめ、そんな俺たちを不思議そうに見ていた兵たちが一人、また一人と加わっていき――気づけば、なんか賭け事まで行われる一大イベントに化していたのである。訓練ではなく、娯楽だからして、気軽に楽しめるという利点があることは計算に入れていたが、まさかこんな大事になるとは思っていなかった。


 しかしまあ、娯楽とはいえ、騎乗の訓練になることは事実である。馬上で長柄の得物を扱うコツも掴めるのだから、たいした問題ではないだろう……たぶん。
「そうですか? まだ戦いは終わっていないんです。遊戯に興じているのは問題だと思います、一刀」
 試合が終わった後、虎牢関の一室で俺に向かってそう言ったのは、先ほど俺たちの勝利を阻んだ徐晃である。
 呆れたような、またどこか咎めるような口調だが、先刻の場面を思い出せば明らかなように、実際に試合になればもっとも真剣になるのは眼前の少女だったりする。俺は茶をすすりつつ、その事実を指摘した。
「一番燃えていた人がたしなめても、あまり説得力はないと思うんだが」
「べ、別に燃えてはいません! ただ、何事もやるならば全力で、と考えているだけですッ」
「それを燃えていると人は言うのだよ。叔達もそう思わない?」
「え、わ、私ですか?! それはあの、ええと……」
「一刀、叔達どのを困らせるのは感心しません」
「むう、それは困った。叔達を困らせるのは俺の数少ない楽しみの一つなんだが」
 それを聞いた司馬孚がげふんげふんとせきこんだ。飲んでいたお茶が気管に入ったのかしら。
「大丈夫か、叔達?」
「だ、大丈夫です。大丈夫ですけど、お兄様、人を娯楽の用に供するのはやめてくださいッ?!」
「ふむ、言われてみれば、人を困らせることを娯楽とするのは褒められたことではないか。よし、ではこれからはもう一つの楽しみ、すなわち公明どの弄りに邁進することにしよう」
「邁進しないでいいですッ! というか、今、人を困らせることを娯楽とするのは褒められたことではないって言ったよね?!」
 思わず、という感じで徐晃の口調が素に戻っている。
 俺はそのことに気づかぬふりをしつつ、苦渋の表情を浮かべた。
「く、叔達を困らせるのも駄目、公明どのを弄るのも駄目。ならば俺にどうしろと?!」
「ど、どうしろといわれても……そ、そうだ、人をからかうくらいなら、ポロの方に邁進して! あちらの方がよっぽど一刀のためにもなるから」
「かしこまった。これで公明どのの許可は得られたので、お小言をもらうこともなくなるだろう」
「……一刀、もしかして最初から私にそれを言わせるつもりだった?」
「さて、なんのことやら」


 などと俺たちが和気藹々(?)と話し合っていると、兵の一人がやってきて、張莫が俺たちを呼んでいる、と伝えてきた。
 張莫が俺たちを呼び出すこと自体はさしてめずらしくはない。ただ、張莫が伝言で「早急に」と付けてきたのは初めてだった。
 もしかしたら、なにか変事でも起こったのかもしれない。
 徐晃と司馬孚も気づいているのだろう。今しがたの穏やかな表情とはうってかわって、その顔には緊張が張り付いている。
 もっとも緊張しているのは二人ばかりではない。三人で並ぶように虎牢関の中を歩きながら、俺自身、鼓動がいつもより早く脈打っていることに気がついていた。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/04/07 19:41

 司州河南郡 洛陽


「――どういうつもりです、李文優。此度のあなたの行動は、仲の臣下としての道を大きく逸脱していますよ」
 深夜の宮中。
 人気のない玉座の間で、ひとり考えに沈んでいた李儒は、不意に背後から聞こえてきた声にわずかに肩を震わせた。
 だが、一拍の空隙の後に振り返った李儒の顔には能面のような笑みがはりつき、その内心をうかがわせる隙を示さない。
 振り返った李儒の目に映ったのは、予想と違わない人物だった。


 学者を思わせる線の細い風貌と、深井戸にも似た底知れない双眸を併せ持つ男の名を于吉という。
 かつて、この洛陽の都で于吉と出会い、以後、その指図で動いてきた李儒であるが、于吉については何も知らないに等しい。方士であるというが、その方術がどのようなものなのかすら教えられていなかった。
 ただ、その才能には敬服の念を抱いていた。心服、と言い換えてもいいかもしれない。袁術に取り入り、その智謀で瞬く間に仲の地歩を固めてきた手際は見事としかいいようがなかったし、なにより、他者の目を避け、逃げるように洛陽の街区を徘徊していた李儒が、南陽郡の太守という尊貴の地位を得ることができたのは疑いなく于吉のおかげであったから。


 ――だが。
「逸脱、おおいに結構。漢に背きし偽帝の臣としての道を逸脱するということは、すなわち漢朝の臣としての正道に回帰するということ――否、私はもとより偽帝の臣にあらず。すべては洛陽にて漢朝を再興させるための布石であったのだ」
 傲然と胸をそらす李儒を見て、于吉は口元に薄い笑みを湛えた。
「なるほど。すると、私はあなたを利用しているつもりで、まんまと利用された、ということですか」
 于吉はその言葉にことさら害意を込めたわけではなかった。それどころか、むしろ感心した、とでも言いたげな響きさえ感じられる。


 にも関わらず。
 李儒の目には、どこか怯んだような色が浮かび上がる。
 李儒はそんな自分自身の感情をねじふせるように、強い声を吐き出した。
「……わかっているぞ。お前たち方士はどこにでも現れることができるが、だからといって何でも出来るわけではない、ということは。こうして洛陽に現れても、ここで私を害することは出来ぬはずだ。それができるならば、淮南の二つの叛乱はとうに鎮圧されているに違いないのだから」
「前半分に関しては、いかにもそのとおり。我らは何でもできるわけではありません。ただし――」
 いきなり、于吉の姿が陽炎のように掻き消える。
 と、思う間もなく、背に硬い感触を覚え、李儒は背筋を凍らせた。
 背後からささやくような于吉の声が聞こえてくる。
「ただし、それはここであなたを害することが出来ないことを意味するわけではありませんよ。事実、今、私がもう少し力を込めれば、あなたはここで果てることになります。試してみますか?」
「く……」
 背に押し当てられているものが何であるかはわからない。だが、この状況なら、ただの果刀であってもたやすく心の臓をえぐれるだろう。それを悟った李儒は、しかし、許しを請おうとはせず、唇を歪めて嘲りを発した。


「できるものならば、やってみるがいい――できるものならば、な」
 そこには虚勢の色が皆無ではなかったが、声も身体も震えてはいなかった。
 そうと悟った于吉は、ふむ、となにやら得心したような声を発する。
「どうやらそれなりの覚悟あっての行動のようですね」
 その声と共に背に押し当てられていた感触が離れていく。
 李儒は咄嗟に懐に手を伸ばしながら前方に飛び出すと、素早く振り返って于吉の追撃に備えた。


 だが、その李儒の目に映る于吉は、人差し指を此方に向けて真っ直ぐに突き出しているだけであり、その手には果刀すら握られていなかった。
 背におしあてられていたのが于吉の指であったことを悟り、李儒の秀麗な顔が憤激で紅潮していく。
「……愚弄してくれる」
「ふふ、他者に礼を尽くされる行いをしていないことくらい、自覚しているでしょう? 裏切られた側の報復としては大人しいものだと思いますよ」
 そういって、楽しげにくつくつと笑う于吉の姿を、李儒はどこかうそ寒そうに眺めていた。
 李儒は于吉が詰問に来ることは予測していた。だが、詰問に来たはずの于吉の、この楽しげな態度は何に由来するのか。あるいは、李儒自身すら知らない切り札を握っているのだろうか。



 李儒とて何の成算もなく今回の挙に踏み切ったわけではない。淮南における二つの叛乱、河北と河南の大勢力の対峙、さらには荊州や洛陽の情勢まで踏まえた上で、時は今しかないと判断して起ち上がったのだ。
 前述したように、これまで李儒は于吉の智謀に心服しており、その手足として動くことに不満を抱いてはいなかった。
 だが、高家堰砦での仲軍の敗北を知り、その心情に変化が生じる。
 戦えば勝ち、攻めれば取り、謀れば成る。于吉がそんな人物だと思えばこそ、李儒は于吉に従っていた。だが、于吉でも思い通りにならないことはある。敗れることはある。そう、李儒がこれまでの生でそうであったように。
 于吉も、李儒と同じ人間なのだ。であれば、自分がその下にいなければならない理由がどこにあろう――李儒の心中にそんな想念がすべりこんで来た。


 さらに現在の仲は合肥の呂布、そして首謀者こそ判明していないが、盱眙(くい 洪沢湖南岸の県)で起きた叛乱を鎮圧できずにいる。この二つの叛乱により、寿春の袁術軍は動くことができず、仲軍の戦略は停滞を余儀なくされていた。これもまた于吉の限界を示すものであろう。
 ここにいたって、李儒は于吉に対するある種の畏れ、遠慮を捨てた。元々、李儒はおのが才覚を誇り、史書にわが名を刻み込まんとして戦乱に身を投じた人間である。これまでは時勢が味方せず、また固有の武力を持たぬがゆえに、他者に従ってその才能を揮うべく努めてきた。
 しかし、李儒の才を使いこなせる者は現れず、ようやく于吉に出会えたと思ったが、于吉もまたその器ではないと知った。


 もはや手は一つしかない。
 それは、自らを自らの主とすること。
 南陽郡の富と兵を手中におさめ、さらには漢帝を擁した今の自分ならば、群雄の一人として戦乱に挑むのみならず、その中でも雄たる者として天下に覇を唱えることも夢ではない。
 自分ならばそれが出来る――否、自分にしか出来ぬ。
 李儒はその決意と共に、行動を開始したのである。




 当然、袁術や于吉はそんな李儒の行動を許さぬであろう。そう思ったからこそ、李儒は南陽郡を放棄して、仲の攻勢を防ぐ壁とするべく荊州を使嗾したのだが、李儒の前に姿を現した于吉は、そういった諸々を一切気にしている様子がない。李儒としては警戒せざるを得なかった。
「……何を考えている、方士?」
「さて、さて。私が何を考えているにせよ、今のあなたにとってはさして関わりがないでしょう。なにしろ今の仲は、足元の叛乱を鎮圧するために四苦八苦している状況ですからね」
 なおも笑みを絶やさない于吉の顔に、李儒は刺すような視線を向ける。
「口先ひとつで飛将をからめとった手腕はどこに失せた?」
「心に隙を持つ者を動かすのはたやすいですが、それは逆にいえば、そうではない者を動かすのは難しいということ。今の呂布どのを動かすのは中々に大変なのですよ」
「ならば、淮南で彼奴らを潰す策でも練っていればいいものを。何故に洛陽まで出てきたのか?」


 李儒の問いを受けた于吉の両の目が細められる。その口には、三日月のような笑みが浮かび上がっていた。
「私がこうして出て来ないと、あなたはいつまで経っても落ち着けないでしょう? 私はあなたの予測どおり詰問にあらわれ、そして、これまた予測どおりにあなたに危害を加えることが出来ずに去っていく。そうして初めてあなたは胸中の不安を払い、この帝城ではじめの一歩を踏み出すのです。今のあなたは皇帝の傍近くに座し、兵力と財力であなたに優る者は存在しない。そう、あなたはまさに洛陽王とでもいうべき至高の権力をその手におさめているのです」
「……洛陽王」
 于吉の言葉を聞いた李儒の口から、思わず、というように呟きがこぼれおちる。そんな李儒に向かって、于吉は恭しく頭を垂れた。まるで王侯に対する臣下のように。
 だが、それゆえにこの時、李儒は于吉が浮かべていた表情に気づくことができなかった。


「それでは私はこのあたりで失礼させていただきましょう。あなたの叛意が本物であることを知れば、寿春の陛下はさぞお怒りになるでしょうが、これはあなたの器をはかりきれなかった私の責。あなたを推挙した私は、陛下のお叱りを謹んで受けなければなりませんね」
「……本当にこのまま、何もせずに去るつもりか?」
「はい」
 顔をあげた于吉はそう言って踵を返そうとする。が、不意にその動きを止めた。
 それを見た李儒は、もう何度目のことか、警戒するように身体を強張らせたが、于吉は別段李儒に危害を加えようとはしなかった。于吉の意図は、むしろその逆であった。


「思えば、兌州の乱の頃から、あなたにはずいぶんと働いてもらいました。仲の臣下としてではなく、私個人として、これからのあなたにとって重要な情報を一つ、いえ、二つ、伝えておきましょう」
「私にとって重要、だと?」
 訝しげな李儒の様子にかまわず、于吉は言葉を続ける。
「一つはあなたにとって、北は凶である、ということ」
「……それは得体の知れない方術とやらが導いた戯れ言か?」
「解釈はご自由に。もう一つは虎牢関の主将が張莫から別の者にかわったことです」
 一つ目と異なり、二つ目は具体的なものであった。李儒の眼差しに興味の光が灯る。だが、于吉の策謀を警戒しているのだろう、李儒の表情は険しいままであった。
 于吉は針のように細い眼光で、その李儒の様子を見据えつつ、ゆっくりとその名を告げた。


「新しい主将の名は北郷一刀。すなわち、かつてこの帝城においてあなたの企みを破り、あなたのすべてを否定して立ち去った、あの少年のことですよ」 




◆◆◆




 許昌 丞相府


「いやいや、実に急な召還だったな、華琳。まあ華琳の人使いの荒さは今に始まったことじゃないが」
 曹操の私室に呼び出された張莫は、開口一番そう言ってからからと笑った。
 その言葉遣いが砕けているのは、この部屋にいるのが曹操と張莫の二人だけだからである。張莫は朝廷では臣下として曹操に接するし、丞相府の中であっても、余人がいればもう少し丁寧な口をきく。ただ、二人きりになれば、幼い頃からの口調が自然と口をついて出てくるのだ。


 応じて、曹操も口を開いたが、その口調もずいぶんと砕けたものだった。
「ふん、そもそもあなたは麗羽との戦に加わる予定だったのよ。それを半ば以上押し切る形で汜水関に向かってしまったものだから、その後の調整はずいぶんと面倒だったわ。あなたの代わりに北海に赴いた春蘭に、苦情の一つも言われるのは覚悟しておきなさいな」
「はっはっは。春蘭にはとうに詫びの使いを出しているさ。むろん、春蘭の不満をなだめてくれた秋蘭たちにもな」
 それを聞いた曹操は小さく肩をすくめた。
「そういうところは如才ないのよね、あなたは」
「人間というやつは、感謝を忘れることはあっても、恨みを忘れることはない。ゆえに人の恨みを買うは愚かなことだ。それが近しい者であれば尚更な」
「その割には、私に対する事後の手当てが何もないのだけど?」
「華琳は成果を挙げれば満足してくれるからな。謝罪を考えている暇があったら、功績をたてる方に集中するべきだ。そのおかげで、ほら、虎牢関も陥ちただろう」
 得意げに胸を張る張莫を見て、曹操はあきれたようにかぶりを振るのだった。


 

 それから曹操と張莫は互いの情報を交換したが、一を聞いて十を知る二人のこと、必要とした時間はほんのわずかであった。
「――そうか、初報だけで麗羽との決戦に踏み切るとは、華琳もずいぶんと思い切ったものだ、と思っていたんだが、合肥以外でも叛乱は広がっているのか」
「ええ。しかも、広陵の陳登からの報告によれば、ずいぶんと統制のとれた動きらしいわ。単純に仲の支配に対する不満が爆発した、というわけではないのは確かね」
「ふむ。核となっている者がいる、ということだな。呂布に加えて、そんな叛乱が膝元で起こっていれば、なるほど、偽帝も許昌を狙うどころではないな。おまけに南陽まで離反するとは――いや、そんな状況だから離反に踏み切ったのかな。まあ、そのいずれにせよ、偽帝にとって災難であるには違いない」
「そして、こちらにとっては幸運だわ。麗羽と雌雄を決するには絶好の機会よ」
 それを聞いた張莫は同意するように頷いた。
「確かにな。しかし――」


 なにやらしみじみとしている張莫を見て、曹操は怪訝な顔をした。
「なによ、意味ありげに言葉を切ったりして?」
「いやなに、あの華琳と、あの麗羽が――」
 二つの『あの』を強調しつつ、張莫は続ける。
「中原の覇権をかけ、黄河を挟んで激突する日が来るとはなあ、と思ってな。いや、二人の才覚も性格も承知しているから、いずれ激突する日が来ることはわかっていた。わかっていたが、それがこうも早いとは思っていなかったよ」
 感慨深げな張莫に対し、曹操はさして感じ入った様子もなく、軽く頷くだけだった。

 自身が勢力を伸ばせば、それ以上の勢いで袁紹の勢力が伸びることを曹操は承知していた。であれば、張莫のいうとおり、この激突は必然。曹操にしてみれば、時期的に早いどころか、少し遅いと感じているくらいだった。
 その間、曹操は国力を充実させることができたが、幾度も兵乱を経た河南とは異なり、河北では黄巾党の乱以降、大きな戦いは起こっていない。曹操が力を蓄えた以上に、袁紹は勢力を肥らせていたに違いない。
 その袁紹が満を持して仕掛けてきたのだ。かつてない大戦の予感に、曹操は身体の震えをおさえることが出来ずにいた。



 そんな曹操を見やって、張莫はぽつりと呟く。
「……そうも嬉しそうにぷるぷる震えられると、私も出陣したくなってしまうんだがな」
「……言うまでもないと思うけど、駄目よ、黒華。西涼軍と戦い、虎牢関を陥とし、すぐさま許昌にとってかえして、今度は河北の精鋭と戦う? 人の恨みは買うべからず、といったのはあなたよ。兵の恨みを買ってどうするの」
「ならば希望者だけ、というのはどうだろう?」
「だーめ」
 曹操は両手を腰にあて、張莫に向き直る。
「そもそも、あなたが許昌を離れたら、わざわざ呼び戻した意味がなくなるじゃない」
 その曹操の言葉に、張莫は楽しげな笑いで応じた。
「なに、意味ならあるさ。私が虎牢関を離れた意味ならな」
「へえ、それはなに?」
「北郷のやつが遠慮なく動ける。おおかた、そのあたりも華琳は狙っているんだろう?」
 張莫の問いかけに、曹操は返答がわりにわずかに苦笑した。
 そして、表情をかえないまま口を開く。
「報告から察してはいたけれど、風といい、あなたといい、よほどに北郷が気に入ったようね?」
「さて、仲徳のそれは、私の興味とは毛色が違うように思うがな。ただまあ、北郷は面白い。それは確かだ。正直、本気で配下に欲しくなっている」
「そこまで見込んだの。あなたにしてはめずらしいわね。北郷は配下としてそれほど有能だった?」


 曹操の問いに、張莫は腕組みして首を傾げた。
「有能、か。ふむ、有能といえば有能だったが、実務面を見れば、北郷と同じか、それ以上に使える奴は私の配下にもいる。まして華琳の部下を見渡せば、もっといるだろう。そういう意味では華琳のお目がねにはかなわないかもしれないな」
 ただ、と張莫は続けた。なにやら考え込みながら。
「北郷は為人が――ううむ、優れている、というのも何か違うな。うん、やはり『面白い』という言葉が一番ぴったりくる」
「……話だけ聞いていると、どんな奴なのかさっぱりね」
「ついこの前までは賊徒だった徐晃や、姉たちの謀反の罪を償うべく悲壮な顔をしていた司馬孚が、北郷と共に過ごすようになってからは楽しそうに笑っている、といえば想像しやすいか? うちの連中ともうまくやっていたし、私がこちらに戻る前には、ポロとかいう新しい娯楽まで考え付いていたぞ」
 それを聞いた曹操の表情が険しくなる。
「――ちょっと待ちなさい。前線の虎牢関で娯楽ってなに? 話によっては厳罰ものよ?」
「いやいや、そんな眉間にしわを寄せるような話じゃないさ。ポロというのはだな――」


 張莫からポロについて一通りの説明を聞いた曹操は、わずかに両の目を細めた。
「…………へえ。それはたしかに面白いわね」
「だろう? 流行らせれば労せずして騎兵の訓練になり、長柄の武器の扱いにも慣れる。くわえて、賭場を仕切れば軍資金も稼ぎ放題――」
 そこまで言った張莫は、氷のような曹操の視線に気づき、こほん、と咳払いした。
「むろん、最後のは冗談だが」
「そう、よかったわ。もしも本気で言っていたら、陳留の太守を更迭しなければならなかった。賭場を仕切る太守だなんて、冗談にもなりはしないもの」
 張莫は賛同するように、うんうんと頷いてみせた。そして、さりげなく話をまとめにかかる。
「まったくだ。で、だな。部下としても十分に面白い北郷だが、一軍の将として立ったときにはもっと面白くなりそうだ、と思うわけだ。だから言ったんだ。私が虎牢関を離れる意味はある、とな」




 曹操はしばらく張莫の顔を睨んでいたが、やがて表情を緩めて嘆息した。
「まあいいわ、そういうことにしておきましょう。そういえば北郷で思い出したけれど、黒華、あれは本気で書いてよこしたの?」
「あれと言われてもわからんが、報告に嘘偽りを記した覚えはないぞ」
 怪訝そうな顔をする張莫に、曹操はなぜかこめかみをさすりつつ言葉を続けた。
「北郷の褒美にと言って送ってきた将軍名のことよ」
 それを聞き、張莫はぽんと両手を叩く。


「ああ、宇宙大将軍のことか。むろん本気だが。実に雅味のある良い称号だろう? 肝は『宇宙』『大将軍』ではなく『宇宙大』『将軍』であるというところだな。さすがに大将軍位は贈れないが、少々かわった将軍名だと思えば、別に問題はなかろう?」
 あっけらかんと言う張莫を見て、曹操の額に青筋が立った。
「『別に問題はなかろう?』じゃないわよ! むしろ問題じゃない部分が無いくらいだわ!」
「む、まだ北郷に将軍位は早すぎるということか?」
「そうじゃないわよ! いえ、まあそれもあるけど、それ以前に――」
 きっと張莫を見据えると、曹操は声を大にして言い放つ。
「名称自体を考えたのが誰であれ、史書に名が残るのは授かった北郷と授けた私なの! あなた、この曹孟徳に、こんなふざけた名称を使用した人物として、歴史に名を残せとでもいうつもりッ?!」




 ――もしも、この場に北郷がいれば、全力で首を縦に振るか、渾身の力をこめて拍手するか、あるいはその両方を同時に行うか、いずれにせよ曹操の言葉に賛意を示したに違いない。
 だが、このとき、張莫はいまひとつ曹操の怒りに感応できなかったようで、訝しげに首をひねるばかりだった。


「そういえば北郷も何故か嫌がっていたな。良い名称だと思うんだが??」






◆◆◆






 司州河内郡 虎牢関


「へくしッ?!」
 虎牢関の城壁の上に立ち、これから眼下で行われようとしてるポロの試合(陳留勢VS司馬勢)の準備をぼんやり眺めていた俺は、派手なくしゃみを炸裂させた。突然のことに、隣にいた司馬孚が目を丸くする。
「お兄様、大丈夫ですか?」
 心配そうに顔を見上げてくる司馬孚に、俺は鼻をこすりながら頷いた。
「あ、ああ、大丈夫だ。別に寒気もしないし、誰かが噂でもしてたんだろう」
 すると、司馬孚は不思議そうな顔で小首を傾げる。
「? 誰かが噂をしていると、くしゃみって出るものなんですか?」
「ああ、俺の故郷ではそういう言い伝えがあってな」
「へえ、はじめて聞きました」
 感心したようにうなずく司馬孚。
 すると、その司馬孚の声を掻き消すような歓声があたりいっぱいに広がった。どうやら、始まったばかりの眼下のポロの試合、早速に司馬勢の側が得点を決めたようだった。




 俺を虎牢関の主将に据える、青天の霹靂とでもいうべき人事が行われてから、すでに数日が経過している。
 現在、虎牢関の兵力は陳留勢およそ三千、司馬勢三百のみ。兵力は張莫の頃の半分以下になった計算になる。もっとも、後方の汜水関には衛茲率いる二千の軍が駐留しているし、許昌の張莫も必要とあらば即座に援軍を送ってくれると言っていたから、四千に満たない兵力で洛陽勢とぶつからなければならない、というわけではない。
 くわえて言えば、南陽郡の動静も細大もらさず教えてもらったので、洛陽から大軍が押し寄せてくる可能性は低い、ということは俺も理解していた。


 ただ、それはあくまで可能性が低いというにとどまり、敵軍が襲来する可能性はゼロではない。当然、それに対する備えをしておかなければならなかった。
 洛陽方面からの攻撃に備えるため、要所要所に空堀を掘ったり、柵を立てたり、時には頭上から矢を放つための高台を組み立てたりと、やるべきことは枚挙に暇がない。
 とはいえ、この手の作業は張莫が主将であるときから行われていたので、すでにある程度は出来上がった状態である。
 となると、次に必要となるのは情報だ。敵の奇襲を食らわないためにも、また周辺の地形を良く知る意味でも、偵察は欠かせない。まあ、これとて張莫がいた頃からすでに行われていることなので、要するに俺の役割は、張莫がやっていたことを無難に、そつなくこなす事だけであったりする。ちなみに徐晃はいま洛陽方面への偵察に出ていた。


 そんなことを考えていると、再び眼下から歓声があがった。またも司馬勢が得点を決めたらしい。
 その兵たちの歓声に耳をくすぐられつつ、俺は今後のことに思いを馳せる。
 張莫から――というより曹操から、というべきか。伝えられた命令はただ一つだけである。
 すなわち、虎牢関から東の地を、敵兵に一歩たりとも踏ませないこと。
 要するに虎牢関を死守せよという厳命なのだが、見方をかえると、虎牢関から西に踏み出すことに関しては何の制限もない、という意味にもとれる。
 なんとなくだが、曹操に試されているような気がしないでもない。張莫に訊いてみたら「その意図が無いとは言えないな」とのことだった。


 ただ命じられたことを守るだけならば誰でもできる。かといって、自分の能力をわきまえずに持ち場を離れ、突出するような将では物の役に立たない。彼我の戦況と自身の能力を冷静に見極め、戦場で最善の行動を採ることが出来るのか。それが曹操が武将の力量を判断するポイントなのだろう。
 あの曹操のことだから、基準点を満たすのはさぞ難しいに違いない――などと考えていると、またしても眼下からの歓声が俺の耳朶を振るわせた。またまた司馬勢が得点を決めたようだ。


 なにやらえらく盛り上がっている眼下の光景から視線を剥がし、洛陽の方角へと視線を向ける。
 考えてみれば――否、いまさら考えるまでもなく、俺が一軍を率いる将帥、すなわち一部隊の指揮官ではなく、その軍の総指揮権を握る立場になったのは高家堰砦の戦い以後、はじめてのことである。
 そのせいだろうか。こうやって城壁の上に立つと、否応なく淮南の戦のことが思い出された。あれ以来、自分なりにではあったが、玄徳さまたちに近づけるように努めてきた。だが、その努力が実を結んだ、と実感できたことはついぞない。
 あの時、淮南の地で気づき得たことを、今の俺は活かせているのだろうか。主将になってからというもの、そんな答えの出ない疑問が時折脳裏をよぎる。


 ふと視線を感じた。
 見れば、司馬孚がいまだに俺をじっと見つめている。まださっきのくしゃみを心配しているのかと思ったが、その視線は俺を案じるというよりも、何か不思議なものを見るような色合いを帯びていた。
「どうした? なにか気になることでもある?」
 気になって問いかけると、司馬孚ははっと我に返ったように目をぱちくりとさせ、慌てたように頭を下げた。
「あ、い、いえ、すみません、なんでもないですッ」
「なんでもない、という風には見えなかったんだが?」
「あ、その、なんていうか……今、お兄様が別人のように見えたんです」
「ぬ? そんな変な顔してた?」
 俺が思わず顔に手をあてると、司馬孚はぶんぶんと首を横に振る。
「そうじゃなくて、ですね……」


 なにやら考え込んでしまった司馬孚を、俺は当惑したように見つめるばかりだった。特に人相がかわるような出来事に遭遇した覚えはないのだけれど。
 俺が首をひねっていると、司馬孚は何故だか頬を紅くしながら、再度、口を開いた。
「その、お兄様が張太守の後を継がれてから、ですね」
「ふむ?」
「時々なんですが、すごく、か――」
 司馬孚は何か言いかけ、けふんけふんと咳払い。
「じゃなくて、す、透き通って見えるんですッ」
 透き通る。これまでの人生で、こんな形容をされたのは初めてだった。司馬孚の表情を見るかぎり、たぶん悪い意味ではないと思うが――


 もう少し詳しく訊くべく、俺は口を開きかける。
 だが、声を発する寸前、四度、眼下から歓声が湧き上がった。またまたまた司馬勢がポロで得点を決めたらしい――
「というか、強いなッ?! 点取りすぎだろ?!」
 口をついて出た言葉は、司馬孚への問いではなく、えらく調子の良い司馬勢への突っ込みじみた台詞に変じていた。
 たしか昨日までの成績は陳留勢の方が良かったはずだ。しかも、俺の考案したポロ(偽)はそうそう連続して得点が入るものではない。それこそ徐晃なみの腕の持ち主が参加しているというなら話は別だが。
 しかし、徐晃は現在偵察に出ており、虎牢関にはいない。一体何事がおきているのか、と俺は眼下の試合に注意を向けた。


 自然、司馬孚の視線もそちらに向けられる。
 俺たちが見ている間にも、陳留勢はけっこう必死の形相で司馬勢が守るゴールに襲い掛かっていく。皆、一目見ただけでわかるほどに見事な手綱さばきであり、おそらく陳留の騎兵の中でも優秀な者たちなのだろう。
 だが、その彼らの連携を司馬勢はあっさり寸断し、さらに逆襲を仕掛けて追加点まで奪ってしまった。これで五点目である。今回、歓声があがらなかったのは、もはや勝負あったと見物人の多くが考えたからだろうか。


 ともあれ、司馬勢の動きは実に見事だが、しかし、これが出来るなら、昨日までの戦績で司馬勢が陳留勢の後塵を拝しているのはおかしな話だ。
 そんなことを考えているうちに、俺はふと司馬勢の中に見慣れない人物がいることに気がついた。


 やや小柄な体格に、短い灰褐色の髪。城壁の上から見てわかる特徴はその程度である。厚い戦袍をまとっているので、男女の区別もつかん。いや、よくよく見れば、後ろ髪は短いが、左右の髪は肩のあたりまで伸びており、それを髪留めのようなものでまとめているので女性なのか。しかし、男性でも髪を伸ばしている人は結構いるし、やはり判断はつかなかった。
 その人物は味方を鼓舞すべく大声を張り上げるでもなく、誰もが目を瞠る技を見せ付けているわけでもなかったが、敵味方の流れのようなものを掴むことが出来るらしく、攻撃においても、守備においても、要所要所に必ずといっていいほど顔を出し、味方を助け、敵の連携を断ち切っていた。その様は、なんというか、実に老獪だ。動きに躍動感があるから、たぶんけっこう若い人だと思うが――


「あ、士則さんだ。めずらしいな、士則さんがこういうのに参加するなんて」
 司馬孚が口にした人物が、俺が見ていたのと同一人物であるらしいと気づいたので、どんな人なのか訊いてみることにする。
 すると、司馬孚は答えていわく。
「士則さんですか? ええと、姓名が鄧範、字を士則という人で、元々は父さまの御者を務めていた方だったんですが、璧姉さまの推挙で司馬家の農政に関わるようになって、姉さまたちが許昌に移ってからは、わたしの補佐を――」


 と司馬孚が説明してくれようとした矢先、徐晃が偵察から戻ったという報告がもたらされたため、この話はここまでになってしまった。
 司馬孚と共に徐晃を出迎えるべく歩き出した俺は、このとき、司馬孚が口にした名前にどことなく引っかかるものを覚えており、後でもう一度司馬孚に話を聞こう、と考えていた。
 だが、徐晃の報告を聞き、それどころではなくなってしまう。偵察に出た徐晃が発見したのは、洛陽方面から広範囲にわたって立ち上る土煙。そして、地軸を揺らすように此方へ向かって進軍を続ける多数の軍兵の姿であった。


 その掲げる旗は『漢』と『李』の二つ。
 疑いようもない。それは、洛陽の李儒の軍勢であった。 




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/04/17 22:29

 司州河南郡 洛陽


「文優」
 宮廷の一画。此方への礼儀や敬意を一切感じさせない居丈高な呼びかけを耳にした李儒は、一瞬の半分にも満たない間に、その人物が誰であるかを察した。
 振り返れば、そこには予想に違わず、無骨で粗野なヒゲ面の武人がねめつけるようにこちらを見据えている。
 李儒はうやうやしく頭を下げた。
「これは樊将軍(樊稠)ではございませんか。このようなところでいかがなされました?」
「ふん、言わねばわからぬのか。その小ざかしい知恵を少しは働かせてみせよ」


 樊稠はそう言うと、ゆっくりと李儒に歩み寄る。言葉、態度、いずれも李儒への蔑視を隠そうともしていなかった。
 この樊稠の態度は、昨日今日はじまったものではない。
 樊稠も李儒も、元々は董卓の麾下として同じ陣営に所属していた者同士である。ただし、同じ陣営に所属してはいても、互いの立場は大きく異なった。樊稠が当時から一軍を預かる将軍であったのに対し、李儒は文官の一人に過ぎず、樊稠にあごで使われる立場に過ぎなかった。樊稠が李儒に対してことさら居丈高な言動をとる理由はこれである。


 当時と現在とでは互いの立場は大きく異なっている。それは樊稠も承知しているが、ほんの二、三年前まであごで使っていた相手、それもろくに戦場にも出ない白面の小才子にへりくだる気にはどうしてもなれなかった。
 また、李儒は李儒でそういった樊稠の態度を咎めようとはせず、樊稠率いる弘農勢に対しても様々な便宜をはからい、その歓心を得るよう努めた。洛陽の宮廷に参じて間もない樊稠が虎牢関の守備を任せられたのも、李儒の献言によるところが大きい。そして、その虎牢関を失った樊稠が、いまだ処罰を受けていないのも、李儒の計らいによるところが大きかった。
 この李儒の行動により、樊稠は一つの確信を抱くに至っている。すなわち、李儒にとって弘農勢の武力は必要不可欠であり、その指揮官である張済や樊稠に対しては常に礼を呈さなければならないのだ、と。


 であれば、こちらも廷吏を扱うように李儒に対すればいい。樊稠はそう考えていた。
 ――先日、南陽軍三万が洛陽に入城するまでは。


 樊稠の口から苛立たしげな声が発される。
「南陽はよほどに豊かな場所であるようだな。たかが一太守の身で、あれほどの大軍を養うことが出来るとは。もっとも、肥沃な地でのんべんだらりと過ごしていた軍が、どれほどの戦力となるかは知れたものではないが」
 もともと、樊稠が率いてきた弘農勢は三千。先の敗北により、その数はさらに減っている。本拠地である弘農にはまだ張済率いる一万の軍勢が控えているが、それを加えても南陽軍の半分にも達しない。しかも、李儒の南陽軍は、まだ全軍が洛陽に入ったわけではないことを樊稠は承知していた。


 そのことを知ったとき、樊稠は背筋に悪寒めいたものをおぼえた。率直にいって、樊稠は李儒がこれほどの武力を掌握していようとは夢にも思っていなかったのだ。
 李儒が望めば、洛陽の弘農勢は今日にも壊滅の憂き目を見るだろう。それを知るがゆえに、樊稠の傲然とした言動には先日まではなかった揺らぎが存在した。
 それでも樊稠があえて態度をかえなかったのは、李儒も、李儒に従う南陽軍も恐れてはいない、と言外に示すためである。李儒が態度を豹変させ、樊稠らを侮るようなまねをすれば、しかるべき報いをくれてやる、という意思のあらわれでもあった。




 そんな樊稠の内心を知ってか知らずか、李儒の態度はこれまでと変わらぬ丁寧なものだった。
「仰るとおり、樊将軍率いる弘農勢には及びもつかないでしょう。数だけを集めた張子の虎でございますよ」
 不快も憤りも示さない李儒の顔に、樊稠は不審の眼差しを向けるが、その秀麗な顔には兵力を笠に着た傲慢さは見て取れない。樊稠はわずかに安堵する。李儒が弘農勢の排除に動く可能性はない、と確信したからである。
 むろん、感謝などしない。洛陽の宮廷にあるのは利用するかされるかの駆け引きだけ。樊稠はそう考えている。
 李儒が樊稠を除かない理由は、李儒や皇帝の温情などではなく、弘農勢に利用する価値がある、というだけのことだろう。


 この樊稠の考えは、李儒の内心のそれと一致していた。
 ただし、樊稠が考える『価値』と、李儒の考えるそれとは意を異にしていたが。




 次に口火を切ったのは李儒の方であった。
「樊将軍、ここでお目にかかれたのは幸運でした。将軍にお詫び申し上げねばならぬことがございまして」
「ほう、何事か?」
「樊将軍には、この洛陽から多くの廷臣が退去しつつあること、すでにご承知であると存じます」
 李儒の言葉に、樊稠は不快げに眉をひそめる。
 むろん、樊稠はその事実を知っている。そして、その事実の原因となったのが虎牢関の失陥――すなわち、樊稠自身の失態であることも。


 だが、李儒はことさら樊稠の罪をならすつもりはなかったらしい。樊稠の表情の変化には気づかない様子で、さらに言葉を続けた。
「これにより、陛下は新たに宮廷内の要職につく者たちの人選をはじめられました。中でも急を要するのは三公の選任でございます。司徒、司空、太尉、これら朝廷の文武をつかさどる者たちを定めなければ、再興の一歩を踏み出すことはかないませぬゆえ」
「当然のことだな。で、それがどうしたというのだ? 思わせぶりに言辞を弄するな、わずらわしい」
 苛立たしげにはき捨てる樊稠に対し、李儒は恐縮したように頭を下げる。
「これは失礼を。では結論から申し上げます。私は軍事の首座たる太尉に樊将軍を推したのですが、これに反対する者がおり、いまだ陛下は決断をためらっておられます。私の力不足のために樊将軍に朗報をお届けできずに申し訳ございません。そのことをお詫びしたかったのです」


 あまりに意外な李儒の言葉に、樊稠はつかの間、声を失った。
 すぐにかぶりを振って立ち直ったように見えたが、李儒に向けた声ははっきりそれとわかるほどに揺れていた。
「これは異な事を聞く。弘農の張済どのをさしおいて、この身だけが栄達するわけにはいくまい」
「樊将軍も、張済どのも弘農の支配者としての立場は同じとうかがっております。そして張済どのは弘農に留まり、樊将軍は洛陽におられる。くわえて、樊将軍はすでに陛下のために戦陣に臨んでいらっしゃいます。顔も知らぬ張済どのと、虎牢関で奮戦した樊将軍、いずれを陛下が信頼していらっしゃるかは口にするまでもありますまい」
 李儒は声を低めてそういった後、わずかに唇を歪めた。どうやら笑みを浮かべたつもりであるらしい。
「むろん、私はお二人の仲たがいを望んでいるわけではございません。ゆえに張済どのには弘農太守の地位、さらにはいずれしかるべき地の州牧を、と考えております。ただ、こちらにも反対をする者がおりまして。いずれ陛下にもご納得いただけるとは思うのですが、反対者も陛下の信頼あつき者ゆえ、事は遅々として進みませぬ。真っ先に陛下にお味方いただいた弘農の方々、わけても虎牢関で奮闘した樊将軍に、すぐにも吉報を届けられぬわが身の力量の無さを不甲斐なく思います」


 李儒はそう言って謝罪するように深々と頭を下げた。
 その後、李儒は踵を返した――まるで、背後から声がかけられることがわかっているかのように、ゆっくりと。
 予測どおり、というべきか。離れゆくその背に、樊稠の低い声がかけられる。
「……文優。その反対者というのは誰のことだ?」
 足をとめた李儒は再び樊稠に向き直ると、一拍の間をおいた後、その名を告げた。
「司馬伯達(司馬朗)」
「やはり、あの女かッ」
 忌々しげに樊稠がはき捨てる。
 虎牢関の敗戦において、司馬家からの情報漏洩があったのではないか、と樊稠はいまだに疑っていた。それについて、司馬朗本人に問い詰めたこともある。結局、シラを切られたが、司馬朗が兵も財も持たずに洛陽に来たことを考えれば、心底から劉弁に忠誠を誓っているとは考えられない、との樊稠の考えは揺らがなかった。


 司馬朗にしてみれば、樊稠らが高位を得れば、その分、みずからの立場が危険に晒されることになる。李儒の人事に反対を唱えるのは、ある意味で当然――そう考えて怒りをあらわにする樊稠を見て、李儒も同様の表情を浮かべる。
「樊将軍が抱えておられるお疑いはごもっとも。真実を知る者であれば、誰もが疑問に思うことでございましょう。しかし、陛下は司馬家の先代どのに命を救われた身なれば、その子らに疑いの目を向けるわけにはいかぬ、とお考えなのです。その信頼を笠に着て他者を追い落とそうとする者に対し、私も怒りを禁じ得ません」
「過ちがあれば、これを正すのが側近であるお前の役目ではないのか、文優?」
「正論でございます。耳が痛い、とはまさにこのこと。ですが、あれは陛下のみならず、皇太后さまにも信を置かれているのです。言葉だけでは、なかなか――」


 李儒がそこで言葉を切ったのは、二人が話している場所に足音が近づいてきたからである。
 このような場所で南陽軍を統べる李儒と、弘農勢を率いる樊稠が密談していたと知られれば、陛下の耳にどんな噂が囁かれるか知れたものではない――李儒は口早にそう言うと、樊稠に背を向けた。李儒は噂を口にする具体的な名前をあげたわけではなかったが、それはわざわざ言うまでもないと考えたからであろう。


「……ここだけの話ですが」
 樊稠の耳に響く、囁くような李儒の声。
「陛下も、事あるごとに父の恩を振りかざす輩には、辟易しておられるのです」
 そう言うや、今度こそ李儒はこの場から立ち去った。
 目を細めてその後ろ姿を見やる樊稠は、李儒が言わんとすることを悟った――悟った、と思った。




◆◆



 しばし後。
「いつまで自分が上位のつもりなのか。数だけを集めた張子の虎とはまさしく弘農勢のことだというに気づきもせぬ。戦斧を振り回すしか脳がない貴様が太尉になれるのならば、この身は相国にすら届くだろうよ」
 樊稠と別れた李儒は、十分に距離が離れたと見て取るや、これまでの表情を一変させて侮蔑の意をあらわにする。
 李儒にしてみれば、三千程度の軍しか持たない樊稠が、十倍近い南陽軍の陣容を目の当たりにして、なお虚勢を張っているのは笑止の極みといえる。彼我の実力差をわきまえず、董家に仕えていた頃とかわらぬ傲慢な態度をとりつづける樊稠の存在は、冷笑を通り越して侮蔑の対象であった。


 そんな樊稠に対し、李儒がへりくだっているのは、むろん、これに利用するべき価値を見出しているからに他ならない。
 ただし、それは樊稠麾下の弘農勢をあてにしてのものではない。李儒はすでに南陽の兵と富を背景に王方や李蒙といった樊稠麾下の武将を抱き込んでおり、樊稠の命を欲すれば、明日にでもその首を見ることができる状況にあった。
 ゆえに、李儒にとっての樊稠の利用価値とは将軍としての能力ではなく、李儒の偽りの謙譲をそれと見抜けない浅薄な為人にある。
 はっきりと言ってしまえば、李儒は樊稠をそそのかして司馬朗を害させる心算なのである。


 むろん、今の一連のやり取りだけで行動に移るほど樊稠も考えなしではないだろう。だが、樊稠は元々司馬朗を敵視しており、繰り返し使嗾すれば、遠からず心の秤は一方に傾くに違いない。李儒のみならず、王方や李蒙といった配下を経由して同じ情報を流せば、樊稠の行動を操るのはさして難しいことではない。李儒はそう読んでいた。
 樊稠が行動に移れば、李儒は労せずして政敵を除くことができる。当然、皇帝も何太后も激怒するであろう。ゆえに、司馬朗を害した樊稠は、李儒の手で即座に殺す。そして――




「樊稠の行動をもって弘農勢を討つ名目とし、弘農にいる張済めを討つ。董卓と王允が死に、長安は今も混迷が続いていると聞く。函谷関と潼関の守備兵は数えるほどであろう。あの二関を抜き、長安を陥落させることが出来れば――」
 洛陽は後漢の帝都であるが、その以前、高祖劉邦が定めた都は長安であった。これを陥落させることができれば、李儒は新旧二つの帝都を我が物とすることになる。その想像は李儒の自負をくすぐってやまなかった。


 洛陽にて自立し、曹操や袁紹といった東の勢力の侵入を虎牢関で阻んでいる間、西へと勢力を伸ばす。それが李儒の基本的な戦略であった。
 長安を中心に涼州一帯、さらには漢中地方を制圧することができれば、その勢力は曹操や袁紹に匹敵するほど巨大なものとなるだろう。
 これは李儒にとって夢想ではなく、現実的な戦略である。元々、涼州は董卓の郷里であり、董家はこの地を根拠地として勢力を伸ばした。当然、董家に仕えていた李儒はかの地の動静に通じており、十分な兵と財をもってすれば、これを従えることは難しいことではない。少なくとも李儒自身はそう考えており、ゆえに李儒は西へと勢力を伸ばすことを戦略の根幹に据えたのである。


 ――また、西へと勢力を伸ばすことは、李儒にとって別の意味も併せ持っていた。
「長きにわたって私を冷遇した董家の凡愚どもにも思い知らせてやらねばな。できれば董卓と賈駆めにはわが手で報いをくれてやりたかったが、行方が知れぬのであれば是非もない。代わりに一族郎党、女子供にいたるまで、ことごとくを嬲りぬいた末に打ち殺してくれる。かりにあの二人がまだ生きているのならば、たまりかねて姿を現そう」
 もう二人がこの世にいないのならば、それはそれでかまわぬ。その時は、一族を襲う殺戮の嵐を、あの世とやらに見せ付けてやるだけのこと。そう考えて、李儒は唇に刃物のように薄く鋭い微笑をたたえ、しばしの間、復讐の快感に身をゆだねた。





 だが、李儒にとって至福とも言うべき時間は長くは続かなかった。
 現在の情勢はおおよそ李儒の思惑どおりに進んでいるが、すべてがうまく行っているわけではない。そのことを思い出したからであった。
 中でも、李儒にとって最も予想外だったのは虎牢関の戦況である。


 于吉からの情報――虎牢関に駐留する曹操軍の主将が張莫から北郷一刀にかわり、その兵力が半分以下になった、との報せが事実であることを確認した李儒は、即日虎牢関に向けて兵を差し向けた。
 その数、およそ一万五千。
 北郷の名を持ち出して李儒を使嗾した于吉にしてみれば、この行動は思惑どおりであろう。李儒はそれを承知していたが、ことさら気にかけることはなかった。むしろ、今回のことで、于吉が李儒のことをくみしやすいと侮ってくれれば儲けものである、とすら考えていた。


 于吉はわざわざ北郷の名を出して使嗾する必要などなかったのだ。
 李儒の戦略において、虎牢関は西へ兵を向ける前に是が非でもおさえておかねばならない要衝である。北郷の存在の有無に関わらず、その守備兵が半分以下に減らされたと知れば、黙っていられるはずもない。
 逆にいえば、わざわざ北郷の名と、過去の恨みつらみを持ち出してきた于吉は、そのあたりの李儒の戦略を見抜いていないことをみずから証明してしまったことになる。李儒にとって、今回の于吉の行動は迂闊としか言いようがないものだった。




 だが。
 そう考える一方で、李儒が北郷の名に無視できないものを感じていることも事実である。ただし、それは過去の恨みを晴らす好機――などという理由によるものではない。
 北郷一刀。
 高家堰砦において、張勲、呂布、高順、李豊、梁剛、陳紀らが率いる十余万の軍勢を、わずか数百で退けた驍勇の将軍。
 淮南の戦い以後、その名は各地に広まったが、それは北郷ら劉家軍によって最後の最後で淮南の完全征服を妨げられた仲においても同様であった。否、実際に戦い、敗れた側であればこそ、その名はより以上に早く広まったのである。
 いうまでもなく、南陽軍の将兵もこれに含まれる。南陽軍の中には、あの戦いに参加した者も少なくないのだ。


 そして、これこそが李儒が北郷を無視しえない理由であった。
『張勲、呂布、高順、李豊、梁剛、陳紀らが率いる十余万の軍勢を、わずか数百で退けた驍勇の将軍』
 それはすなわち、今の李儒に欠けている武名ないし威名というもの。前線で兵を指揮した経験のない李儒にとっては、決して持ち得なかったものである。
 軍監からの報告によれば、南陽軍の将兵の中にもわずかな動揺がうまれているという。彼らにしてみれば、張勲や呂布が率いた十万の兵を退けた相手に、自分たち南陽軍が孤軍で挑んで勝ち得るのか、という疑問があるのだろう。


 敵将に対する畏怖は、南陽軍の将兵が李儒に抱く不安のあらわれでもある。
 今回、李儒が虎牢関に兵を向けた理由のひとつは、この不安を打ち払うためであった。
 淮南の戦で勇名を馳せた北郷を、虎牢関で打ち破ることができれば、南陽軍と、南陽軍を率いる李儒の勇名は北郷を上回るものになろう。それはこれまで武名のなかった李儒にとって、大いなる力になる。
 同時に、虎牢関での勝利は、淮南において北郷に勝ち得なかった仲の将軍たちに対する李儒の優越を知らしめることにも繋がる。現状、李儒は仲からの離反について、全軍の理解を得ているわけではない。今後、起こりうる軍内の混乱を未然に防ぐ意味でも、今回の戦いの勝利は大きな意味を持つことだろう。
 虎牢関を陥とすことにより、李儒が享受しうる益は一つや二つではないのである。


 南陽軍三万のうち、およそ半分にあたる一万五千を虎牢関に割いた李儒の決断の裏には、そういった理由が存在した。李儒にしてみれば、ここで是が非でも勝利をもぎとりたかったのだ。
 虎牢関の曹操軍はおよそ三千。数の上では五倍の差がある。それでも虎牢関を攻めるに十分な数とはいえないが、防備の薄い西側からの侵攻であることを考えれば、兵力的には問題はないだろう。
 くわえて、虎牢関の曹操軍は西涼軍との戦いを経て疲労しているであろうし、さらにいえば、曹操軍にとって北郷はつい先日まで干戈を交えていた相手である。勝っている間はともかく、篭城戦のように精神にも肉体にも負担がかかる戦いになれば、これまでおさえこんでいた不満や不安はたちまち噴出し、軍内の不和が顕在化するに違いない。そうなれば、虎牢関の堅牢さも意味をなさなくなる。
 早ければ五日、おそらくは半月、遅くとも一月。虎牢関陥落までに要する時日を李儒はそう予測していた。
 だが――




「虎牢関に攻め寄せてすでに十日。未だに一人として城壁に達することも出来ぬとは……無能者どもめが」
 李儒の舌打ちは、本人が思っていた以上に激しい音を立てて周囲に響き渡った。
 虎牢関の南陽軍からは、連日、一進一退の攻防が続いている、との報告が届けられているが、ここ数日、その内容はさしたる変化を見せていない。おそらくは一進一退というより、攻めあぐねて膠着状態にはいりかけているのだろう。このままでは、半月どころか一ヶ月経っても虎牢関が陥ちることはないかもしれない。


 現在、洛陽にいる南陽軍は一万五千。ただ、まもなく宛の住民を引き連れた残りの軍勢も洛陽入りする。こうなれば兵数は再び三万に届くので、もう一万ほど虎牢関に援軍を送ることは可能である。あるいは洛陽と宛の住民から新たに兵を徴募する手もある。
「――それも一案か。一度攻めかかった以上、ここで兵を退くようなまねをすれば、南陽軍恐るるに足らず、という侮りを敵に与えることになる。なんとしても虎牢関は陥とさなければ……」
 今の李儒は、南陽軍の兵威を背景に洛陽で勢力を固めている。南陽軍が軽んじられるような事態は何としても避けねばならない。
 今後の方策について、改めて考え始めた李儒であったが、ここでふと別の件を思い出した。虎牢関のそれに比べれば取るに足りないが、無視することもできない――そんな件である。



 何度目のことか、李儒の口から忌々しげな声がこぼれでる。
「司馬仲達か。姉妹そろって面倒な奴輩よ」
 李儒が呟いた名は、先日、洛陽の北部尉に任じた司馬朗の妹の名である。これは李儒にとって皇帝の意に沿うための人事であり、司馬懿本人に対しては、麒麟児などと称えられていようと実務に携わればほどなく馬脚をあらわす、と大して気にも留めていなかった。
 しかし、司馬懿は瞬く間に成果をあげ、洛陽の治安を見違えるほどに改善してみせた。いまやその名は洛陽中に知れ渡り、これを解任などすれば李儒に対する非難は囂々たるものになってしまうだろう。
 司馬懿の失態を予測していた李儒にとって、これは予想外もいいところであり、苦虫を何匹も噛み潰す羽目になった。


 もっとも、前述したようにこれは虎牢関の件とは異なり、李儒にとって何とでもなることだった。なんといっても、今の洛陽の宮廷において李儒を上回る兵と富を持つ者はいないのである。
 司馬懿本人の更迭は難しくなってしまったが、西、東、そして南の尉に関してはすでに南陽軍の人材がこれに取って代わっており、着実に成果をあげている。北部尉はあくまで北門の責任者であって、他の三尉が結託すれば、その動きを封じることはなんら難しいことではない。司馬懿については、いずれ司馬朗が除かれた暁に、適当な罪をなすりつけて切り捨ててしまえばいい。


 そう考えると、やはり焦眉の急は虎牢関の戦況か。
 考えを据えなおした李儒の口元に、ふと苦いものが浮かびあがった。先日、姿を現した于吉が口にした言葉を思い出したのである。
「――北は凶、か。北部尉の司馬懿に、虎牢関の北郷。なるほど、うろんな方術とやらも、ときには真実を言い当てるものらしい」


 もっとも、と李儒は言葉を続ける。
「その基を取り除けば、凶はすなわち吉となる。遠からず、二人ともこの世から消し去ってくれるわ」
 そう口にすると、李儒は今後の方針を定めるべく、自らの執務室に向けて歩き始めるのだった。





◆◆◆





 司州河内郡 虎牢関


『文は世の範たり、行いは士の則たり』
 世に三君と称えられた穎川の名士、陳寔の碑文の一節である。
 貧窮に喘いでいた幼少時、そんな一文を目にした牛飼いの少女は、自らの名を鄧範、字を士則と改める。貧しい幼年期を経て、世に屹立する大樹となった人物に対し、少女は深く思うところがあったのだろう。


 ただ、一口に貧しいといっても、少女の貧窮と陳寔のそれは大きく意を異にしていた。日々、牛を飼いながら空腹に耐える少女に学問を修める暇も金もあろうはずがなく、身を立てることよりも、今日を生き抜くことを優先しなければならなかった。
 少女は群衆に埋没することを望まず、他者から振り仰がれる巨木になりたいと願ったが、名声も門地もない家の出である少女一人では、そもそのための機会を得ることさえ容易ではない。
 少女が世に知られるためには、他者――それもある程度の権力を持つ者の理解と助力が欠かせなかったが、強情で口下手な少女は他者に取り入るようなまねは出来ず、また少女自身、そういった行為に価値を見出していなかった。若さゆえの潔癖、といえばそれまでであったかもしれないが、少女にとってそれは譲れぬ一線だったのである。


 結果、機会はますます遠のき、ただ時間だけが少女の上を通り過ぎていく。
 その身を焦がす志も、いつか時の風雪にのまれて朽ちゆくか。
 知らず、そんな思いが胸裏をよぎるようになった頃だった。少女にとって転機となる、一人の貴人との出会いがあったのは……






「――なんでも御者の人が悪い食べ物にあたってしまって、見るも無残、聞けば愉快な状態になってしまったとかで、代わりの御者に雇われたんだ」
「…………」


 どこか詩的だった出だしを台無しにする台詞に、俺は思わず半眼になってしまった。
「貧窮にあえぎながら、それでも節を守って暮らしていた少女に訪れた素敵な出会いを期待していた俺のわくわくをどうしてくれる」
「勝手に期待して、勝手に失望しているだけだろう。オレの知ったことじゃない」
 事実を口にしただけだ、と言って、語り手だった少女は気分を害したように、ふん、とそっぽを向いてしまう。
 言葉だけを聞けば男らしい――というか勇ましいのだが、頬を膨らましている仕草は実にかわいげがある。
 そして、端的にいって、それが鄧範、字を士則という少女の特徴だった。


 鄧範は胡乱げに俺を見つめて口を開いた。
「というか驍将どの、こんなところでオレの相手をしていていいのか。敵が攻めて来ないといっても、やるべき事はいくらでもあるだろう」
 聞きようによっては、こちらを気遣ってくれているようにも聞こえるし、さっさといなくなってくれ、と言っているようにも受け取れる。このあたりが、司馬孚をして「誤解を招く人柄」と言わしめる原因の一つなのだろう。
 見れば、いまだ頬を膨らませてはいるものの、ちらとこちらを伺う視線には気遣うような色が見て取れるから、今回の場合はおそらく前者だと思われる。


 俺は小さく肩をすくめた。
「防戦の指揮は棗将軍(棗祗)に任せているし、夜戦の準備は公明どのに一任している。けが人の手当ては叔達どのに委ねた。つまり、今の俺は完全無欠に暇なのだ」
 事実を事実として口にしただけなのだが、何故か鄧範はつい先ほどの俺と同じような半眼で言い返してきた。
「……要は面倒な仕事は全部部下にぶん投げたってことだろう。叔達さまの部下であるオレに胸を張って言うことか」
「良い部下に恵まれて、俺は幸せだ……」
「いまさら感動に目を潤ませても、説得力に欠けること夥しい」
「ああ、そうだよ! どうせ全部、部下に押し付けただけさッ!」
「開き直るな」
「ならばどうしろと」
「とりあえず、オレを呼び出した理由を簡潔に説明してくれ。叔達さまに呼ばれてきてみれば、何故か驍将どのと同じ卓につかされて昔話をせがまれる。意味がわからない」
 半眼はそのままに、鄧範はそう俺に問いを向けてきた。


 言われて、俺はむむっと考え込む。
 俺としては、先日のポロの試合で鄧範を見かけて以来、その存在が気にかかっていた。防戦の最中も何度か奮戦を目の当たりにしている。それを見て、俺はこれまでどうしてその存在に気づかなかったのか、と不思議だったのだが、司馬孚によれば、鄧範は司馬家においては農政をつかさどる文官であり、兵を率いて戦った経験はほとんどないという。ゆえに今回、鄧範は従軍する予定はなかったのだが、司馬孚に直訴して軍に加わったのだという。当然、兵を指揮する身分ではなく、一人の兵士として。ゆえに、俺がその存在に気づかなかったのも不思議なことではなかった。


「――で、まあ、ようやく敵の攻勢もひと段落し、反撃を行う余裕も出てきた。となると、その人柄を知るには今が好機と思ったわけだ」
 俺の説明を聞いても、鄧範は納得した様子を見せなかった。むしろ、不審の色が濃くなったようにも見える。
「だから、どうしてオレの人柄に興味を持ったのか、と訊いている。オレは司馬家の先代さまに取り立ててもらった身だ。司馬家には大恩がある。ゆえに司馬家と叔達さまに力を貸してくれている驍将どのには感謝している。昔話程度ならいくらでもするが、敵との戦の最中に聞くほど価値があるものとは思えない。そして、驍将どのがオレにそこまでの関心を抱く理由にも心当たりがない」


 ポロの試合を見た程度で、そこまで強い関心を抱くものなのか。鄧範はそれをいぶかっているのだろう。
 なるほど、確かに俺の行動は他者から見れば不審なものと映るだろう。だが、仕方ないではないか。思い出してしまったのだから。
 鄧範、字を士則。
 司馬孚にその名を聞いたとき、何か引っかかるものがあった。それがずっと俺の脳裏に残っており、昨日、司馬孚にもう一度話を訊いたのだ。
 その際、鄧範が司馬懿に才を見出される契機となったのが、鄧範の趣味(?)である地図の作成であることを知ったのである。


『璧姉さまは偶然それを見る機会があったそうです。地形はもちろん、その土地毎の状況や、季節による変化などが詳細に記された地図を見て、璧姉さまはとても感心なさっていました。詳しい地図は軍事にも内政にも欠かせないものですから、これほど見事な地図をかける人を重用しないでどうするのだ、と』
 鄧範と親しく語り合った司馬懿は、鄧範が文武いずれにも適性があると見抜いた。そして、その為人からいって、誰かの下に配するよりは、本人にある程度の権限を委ね、好きにやらせる方が成果をあげやすいだろう、とも。
 そうなると、軍事よりも内政の方がやりやすかろう。司馬懿は父や姉にそう進言し、ほどなくその意見は容れられた。
 この人事は見事に奏功し、以後、鄧範は内政官として司馬家の内部で地歩を固めていく。司馬孚が河内郡で家長代理として領地を治めていたとき、内政面でその補佐をしていたのが鄧範だった――そう司馬孚は教えてくれた。


 そして、ここまで詳しく聞けば、いい加減俺も何が引っかかっていたのか、その理由に思い至ろうというものである。
 何に思い至るのか。それは、眼前の鄧範という少女が、すなわち『あの』鄧艾のことである、という驚愕の事実に、である。

    


 で、まあそういった諸々を経て、俺は鄧範とこうして向き合っているわけだ。
 当の鄧範は今なお俺を不審の眼差しで見据えている――つもりなのだろう、本人としては。
 しかし、俺から見ると、可愛い女の子にじと目で睨まれている、くらいにしか感じられない。なんというか、色々とギャップが激しい人物である。


 そんな俺の柔らかい視線に気づいたのか、鄧範は冷ややかな声を発した。
「……何故だろう。驍将どのがこちらを見る視線に、腹立ちを禁じえないのだが」
「気のせいだ」
「……そうだろうか」
 一瞬のためらいもなく断言した俺を見て、鄧範はなおしばらくぶつぶつと不服げに呟いていたが、やがて口を閉ざした。どうやら不問に付してくれたらしい。
 そんな鄧範を見て、俺は司馬孚から聞いた司馬懿の鄧範評に得心する。なるほど、こうもずけずけと上役に物を言うようでは、軍で位階を重ねるには問題が多かろう。まあ、俺も人のことをいえた義理ではないのだが。


 だが、それはそれとして、鄧範の存在を知ったからには、これを活用しない手はない。むろん、鄧範は司馬家の配下であるからして、勝手に引き立てたりはできないのだが、司馬孚を通じて知恵を借りるくらいはできるはずだ。
 ただ、俺が鄧範に過剰に関心を示すと、司馬家の中での彼女の立場がおかしなものになってしまう可能性もあるから、そこらへんは注意が必要だろう。難しいところであった。


    


 その後、鄧範と別れた俺は、虎牢関の中を歩きながら、ひとりごちた。
「しかし、西涼軍に姜維がいて、司馬家に鄧艾がいるということは、やっぱり鍾家には鍾会がいるのかな。確認したこともなかったけど……まあ、鍾遙はたしか東郡の太守だったはずだから、鍾会に会えるとしても、当分先の話か」
 この時、俺は格別深い考えがあったわけではない。ごく自然に、思ったことを口にしただけであった……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/04/22 00:06

 司州河内郡 虎牢関


 洛陽を守る要衝、虎牢関。
 虎牢関の堅牢さは、高大な防壁や幾十もの投石器、強弩等、関自体の防備によるところが大きいが、周囲の峻険な地形もこれに大きく寄与している。
 険しい山地を切り拓いて建設された虎牢関は、その地形上の特性ゆえに迂回がきわめて難しい。ゆえに、東から洛陽を目指す勢力は、どうあっても正面から虎牢関に挑まねばならない。
 かつて反董卓連合軍が虎牢関に攻め寄せた際、この関は比較的容易に陥落したが、それは董卓軍が朝廷の高官たちの思惑によって関の放棄を命じられたからであり、もしもあの時、呂布や張遼らがこの難攻の関に拠って激しい抵抗を繰り広げていれば、連合軍の死傷者の数は桁を一つ増やしていたであろうことは疑いない。
 ――先日、張莫はやたらあっさりとこの関を陥落させてしまったが、あれは例外中の例外である。


 それはさておき。
 今、俺がいるのはそんな難攻の要塞なわけだが、何度か述べたように、虎牢関は洛陽を守る砦であって、基本的に西――洛陽側から攻撃を受けることは想定されていない。それゆえ、洛陽側の防壁は反対方面のそれに比べると、高さも堅固さも著しく劣る。破城槌や攻城櫓といった城攻め用の兵器を持ち出すまでもなく、大軍で押し寄せれば攻略できてしまうだろう。
 よって、攻め込まれる側としては、敵軍が防壁に取りつく前に何とかしなければならない。俺たちがせっせと空堀だの柵だの高台だのをつくっていたのはこのためである。


 今日までの防戦の経緯を簡単に述べれば、柵や堀でつくった城外の拠点で敵を防ぎつつ、防壁の上から矢石の雨を降らせる、という単純なものだった。
 それ以外にも落とし穴(尖った杭つき)を掘ったり、反対方面の防壁に据えつけられていた強弩(兵士数人がかりでないと弦を張れない大弩)を無理やりこちら側に据え直したりもした。投石器に関しては、でかすぎ&重すぎで、移動させるのは無理でした。
 ともあれ、俺たちは考え付くかぎりの防備を施して、敵軍に出血を強いていったのである。


 しかし、やはりというべきか、彼我の兵力差は大きく、入れ替わりたちかわり攻め寄せてくる南陽軍の攻勢により、空堀は埋め立てられ、柵は取り外され、高台は打ち壊され――苦労してつくった拠点の大半はすでに破却されていた。
 これより先、防戦の拠点となるのは、さして頼りにならない西側防壁のみ。南陽軍にしてみれば、虎牢関攻略まで後一歩、と考えているだろう。
 そんな俺の考えを読んだかのように、南陽軍から降伏勧告の使者が訪れたのは、虎牢関をめぐる攻防が始まって、およそ半月あまりが経過した頃であった。



◆◆



 虎牢関の一室。普段は軍議に使われているその部屋は、現在、南陽軍から遣わされた使者を迎えるための場所となっている。
 朝方から降り始めた雨の音が木霊する中、部屋の中央の椅子に腰掛けた俺は、肘掛に手を置き、足を組んで、傲然と正副二人の使者の姿を眺めていた。
 そして、さも驚いたように口を開く。
「使者どの。念のために聞くが、それは本気で言っているのか?」
 唇を曲げたのは、相手に対して侮蔑の意を伝えるためである。
 使者の顔がひきつったところを見ると、俺の意図は正確に伝わったらしい。


 それでも怒りをあらわにすることなく対応するあたり、使者に選ばれるだけあって、それなりの器量を持った人物らしい。
「むろんです、北郷将軍。戯言を弄するために敵陣をおとずれるほど、我らは酔狂ではございません」
「そうか。いや、しかし、どう聞いたところで戯言以外には聞こえないのだがな。どうして俺が南陽軍ごときに降らねばならないのか、しかるべき理由を教えてもらえようか?」
 肘掛の表面をこつこつと指で叩きつつ、俺ははっきりと現在の敵を嘲弄してみせた。


 これはさすがに腹に据えかねたのか、それともここで受身にまわれば交渉の主導権を奪われると思ったのか、正使は声を高くして『しかるべき理由』を述べたてる。
「城外の陣地はすでにことごとくわが軍の手で破却され、今や虎牢関を守るのは西の城壁のみにございます。聡明なる将軍には今さら口にするまでもございますまいが、虎牢関が難攻不落となるのは東から攻める場合のみ。我ら南陽軍はその数一万五千。対する貴軍は三千。この半月あまりの戦いで我が軍は数百の死傷者を出しましたが、それでもなお一万を越える兵力を有しております。もはや勝敗の行方は誰の目にも明らかであると申せましょう」
 その言葉に、俺の左右に居並んだ諸将の顔が険しくなるが、俺はふんと鼻で笑うのみで、使者に続きを促した。


 そんな俺の仕草を見ても、正使は顔色をかえない。あくまで冷静に言葉を続けていく。ただ、次に言葉を発するまで、一拍だけ間を置いた。高ぶる感情をなだめるためであろうか。
「……我が軍を指揮する荀正(じゅんせい)は、北郷将軍や、その麾下の方々の奮闘を称え、これを殺すに忍びずと考え、この身を遣わしました。北郷将軍の淮南での勇戦は遠く離れた南陽にも届いております。我が軍の中には、貴殿と直接に矛を交えた者もおりますが、昨日の敵は今日の友となるも乱世の習い。もしも北郷将軍と同じ旗を仰げるならばこれにまさる栄誉はなし、将軍がご決断くださるならば、我が身にかえてもその安全を保障する、と荀正は申しております」


 むろん、これは将軍ご自身のみならず、配下の方々も同様です、と使者は続けた。
「皆様がたが降伏――いえ、まことの朝廷に帰順なされば、姉妹同士で矛を交える必要はなくなり、また、昔日の罪ゆえに常に疑いの眼差しを向けられる不遇からも解放されることと存じます」
 それが司馬家や陳留勢のことを指して言っているのだ、ということは確認するまでもなかった。
 ここで、使者の男性はわずかに語調を緩める。
「我が軍は貴殿らの帰順を望みますが、貴殿らが我が軍への帰順を望まぬのならば、これを強いることはいたしませぬ。今日までの勇戦に敬意を表し、我が軍は一舎を引きますゆえ、速やかに退かれますよう――以上が荀正よりあずかった言にございます」


 言い終わると、使者は「返答やいかに」と告げるように俺の顔に視線を向けた。表情は穏やかなまま、視線だけが鋭利なものに変じている。
 客観的に見て、使者の言葉の大半は事実か、あるいはかぎりなく事実に近いといえる。現在の戦況は疑いなく曹操軍の側が不利であり、このままでは兵力差を補うことができずに虎牢関は失陥するだろうという予測は十分に説得力があるものだった。降伏したくなければ逃げろ、という申し出は南陽軍の寛大さを示してあまりある――とでも思っているのかね、このあんぽんたん共は。




 俺は冷めた眼差しで使者を見返した。
「なんだ、やはりただの戯言ではないか」
 ゆっくりと立ち上がりながら、俺は相手にそう告げた。
「戯言を吐きに来たのではないと言いながら、口にするのは戯言以外の何物でもない。語るに足らずとはこのことだ。使者どのには早々に引き取られるがよろしかろう」
「……これは心外な。何をもって、それがしの言葉を戯言と仰るのか。北郷将軍ともあろう御方が、現在の戦況を理解できぬとでも?」
「これ以上ないほどに理解しているゆえに、降伏など戯言だ、と言っているのだがな」


 俺はそう言ってから、わずかに目を細めた。
「――ふむ。てっきりこちらを嘲弄するのが狙いだと思ったが、そのように言うところを見ると、本当にわかっていないのか。使者どの、試みに問う。淮南での俺の戦い、その耳に届いている、と先ほど言っていたな?」
「確かに申し上げました」
「教えてもらおう。南陽に届いた俺の勇戦とやらでは、俺はいくらの兵を率い、どれだけの敵と戦ったのだ?」
 その一言で俺の言わんとすることを察したのか、使者は一瞬言いよどんだように見えた。が、すぐに口を開く。
「五百あまりの寡兵で砦に立てこもり、十万を越える軍を迎え撃ったと聞き及びました」
「そこは正確なのだな。であれば、その十万を越える軍を率いていたのが、飛将軍であり、陥陣営であり、仲の大将軍であったことも当然承知していよう」
「……は、それは承知しておりますが、しかし――」


「ひるがえって」
 何か言いかけた使者の言葉を、俺はあっさりと無視してのける。
「現在の戦況を見てみようか。今、俺があずかる兵力は三千。淮南の時の六倍だ。攻め寄せる敵軍は一万五千。高家堰砦に攻め寄せた仲軍の五分の一にも満たぬ。あの時と異なり、周囲を完全に包囲されているわけでもない。我らは兵も、物資も、望めば後方から運び入れることができるのだ」
 俺はいかにもわざとらしく、優しげな声で問いかける。
「おわかりか、使者どの。今の戦況を見て敗北は必至と考える理由が、俺にはまるでないのだ、ということが。これで攻め寄せてきた敵将が、飛将軍や陥陣営を越える驍勇の将であるというのならまだしも、荀正? 誰だ、それは」


 あまりにあからさまな嘲弄に、たまらず使者の口元がひきつった。俺はそれを目の当たりにしながら、なおこれみよがしに挑発を続けた。
「使者よ、立ち返って荀正とやらに伝えろ。今の貴様らはかつての敵手に比して、数において及ばず、質において劣る。俺に降伏ないし撤退を求めたいのならば、少なくとも今の十倍の兵力を引き連れて来い。無名の将が率いる一万五千の軍勢ごときが、我らに降伏を勧告するなど身の程知らずもはなはだしいわ」
 静まり返った室内に、ただ俺の声と雨音だけが木霊する。
 全身を震わせた二人の使者が退室したのは、このすぐ後のことであった。





◆◆◆





 虎牢関西、南陽軍本陣


 虎牢関に攻め寄せた南陽軍の先鋒一万五千、これを指揮する将の名は荀正(じゅんせい)という。かつて袁術軍において猛将として知られた紀霊の副将を務めていた人物である。
 そのことからも明らかなように、荀正は軍内でも相応の人物だと目されていたのだが、張勲などからは副将どまりの人物とみなされていたようで、紀霊亡き後も将軍に任じられることはなかった。
 袁術が寿春に本拠を移し、仲を建国した際も、淮南に呼ばれることはなく、南陽太守となった李儒の下に配され、今日に至っている。


「……降りやまぬな、この雨」
 南陽軍の本陣で、荀正はわずかに眉をひそめて呟いた。荀正は間もなく四十にさしかかる年齢だが、しわが深く、さらには顔の下半分がひげで覆われているせいか、実年齢より十以上も上に見られることがめずらしくない。
 為人は物堅く、たとえ不満があってもそれを公言するようなまねはしない。配下に対し、有能であるよりも従順であることを求める李儒にとって、不平不満を口にせず、与えられた任務を黙々と遂行する荀正のような武将は得がたい存在だった。ゆえに李儒は今回、荀正に先鋒軍を預けたのである。


 李儒の命令を受けて虎牢関に攻め寄せた荀正は、正面からこの難攻の関に挑む。
 荀正の用兵は、その為人に相応しく堅実なもので、奇策や謀略の類は一切用いず、兵力に任せてひたすら力押しを繰り返す、というものだった。
 曹操軍は城外の至るところに柵と堀で陣地をつくり、それらを拠点として南陽軍に対して苛烈な反撃を行ってきた。これによって南陽軍はかなりの被害を受けるも、荀正は愚直に攻撃を続け、敵の拠点を確実に破却していく。
 開戦からおよそ半月。大兵を利して攻撃を繰り返してきた南陽軍は、曹操軍が築いた陣地をすべて元の更地に戻すことに成功していた。


 虎牢関は西からの攻撃に弱い。
 ゆえに、城外の陣地を失った時点で南陽軍の勝利は確定したといってよい。おそらく曹操軍は撤退の機をはかっているはずだ。彼らは虎牢関を失っても、まだ汜水関という拠点が残っており、これ以上、虎牢関にこだわる理由はないのだから。少なくとも荀正はそう考えていた。
 だが――


「飛将軍らに比すれば、わしが率いる南陽軍など恐れるに足らぬ、か」
 先刻の使者の報告を思い返し、荀正の口に苦笑が浮かぶ。敵将の嘲弄に対して怒りを覚えるよりも先に、なるほどと納得してしまったのだ。淮南で呂布や張勲と刃を交えた敵将にしてみれば、今、荀正と渡り合うことに脅威など覚えまい、と。
 荀正は自身の評価に関してはいたって淡白だった。
 ただし、荀正は何の考えもなしに使者を差し向けたわけではない。降伏勧告は容れられなかったが、使者は我が目で虎牢関の内部を見ている。


 報告によれば、虎牢関では負傷兵も見張りや警戒の任に就いていたというから、曹操軍も決して余裕をもって戦っているわけではないことは明らかである。敵将である北郷の傲慢な言動も、こちらを挑発するというよりは、そう見せかけることで自軍の窮状を隠す意図があったのかもしれない。荀正はそこまで考えた。
 であれば、こちらはどう動くべきか。


 出てきた答えは、これまでどおり、であった。
 荀正は自分が臨機応変に軍勢を動かす将才を持っているとは考えていない。敵の意図がどうあれ、やれることは兵力を利した力押ししかない。であれば、あれこれと考えたところで仕方ない。凡庸ならば凡庸なりの戦い方がある、と割り切った。
 ――このあたりが、荀正が張勲などから評価されない理由であり、同時に李儒から重宝される理由であった。


 本陣の天幕の中で、荀正は刻一刻、激しくなる雨音に耳を傾けながら独りごちる。
「雨は将兵の視界を塞ぎ、大軍の足をからめとる。総攻めを行うならば、雨が止んでからであろうな」
 連日の攻防で将兵の疲労も溜まっている。明日に備えて英気を養わせるべきだろう。もっとも、この雨が明日に止むという保証はどこにもないのだが、その時はその時である。
 荀正は配下の諸将を呼び出し、兵たちを休養させるように命じた。むろん、全軍ではない。虎牢関の敵軍が突出してきた場合に備え、前線に三千あまりの兵を配した。
「もっとも、この戦況で敵が出てくるとも思えぬがな。仮に出てきたとしても、まさか全軍をあげて突出してくることはあるまい。三千あれば十分におさえきれるだろう」
 その荀正の言葉に、配下の者たちも賛同した。


 かくて、南陽軍は夜を迎える。



◆◆◆



 同時刻


「――さて、反攻開始だ」
 降りしきる雨音が響く軍議の席。
 使者を追い返したついでに諸将に作戦の説明を終えた俺は、残った徐晃と司馬孚の前で、気負いなくそう口にした。
 そんな俺を見て、徐晃があきれたように口を開く。
「一刀、豹変しすぎだよ」
 本当にさっきまで傲然とふんぞりかえっていたのと同一人物なのか、と問いかけてくる徐晃。
 同感だ、というように司馬孚もうんうんと頷いている。
 そんな二人の反応を見て、俺は満足げにうなずいた。
「それだけ俺の演技が真に迫っていたということだな。嫌みったらしく敵を嘲弄するとか、実に新鮮な経験だった」
 まあ半ば以上本心だったので、演技であるという意識は薄かったのだが、ともかく二人の反応を見るに、南陽軍に俺の底意が見抜かれたということはなさそうだ。
 俺の底意とは何か。それは今しがた口にした言葉がすべてである。
 南陽軍が姿を現してから、およそ半月。ようやく反攻の機が訪れようとしていた。



 反攻に関しては、昨日今日、考えを定めたわけではなく、すでにいくつか手は打っている。
 今日まで防戦の矢面に立っていたのは陳留勢のみで、司馬家の兵はほぼ一貫して後方で待機させていた。これは反攻に転じる際の主力が彼らだからである。
 また、俺たちが、これでもか、とばかりに力を入れ、何重にもわたって築いた柵や堀は、虎牢関を守る拠点としての役割を果たすと同時に、南陽軍に対し、こちらが出戦する意図がないことを示す意味もあった。言葉をかえていえば、こちらから出撃する際には、かえって味方の軍の邪魔になるという欠点があった。城門へと至る道を塞ぐようにあっちこっちにつくったのだから、これはまあ当然といえば当然であろう。

 
 しかし、南陽軍の使者が口にしていたとおり、いまやすべて柵と堀は南陽軍の手で除去されるに至っている。
 南陽軍にとっては知らず、俺から見れば、彼らが柵を壊し、堀を埋めていくのは、反攻に転じるためのカウントダウンのようなものだった。
 最後の肝は、朝から降り始めたこの雨である。雨音は、夜闇と共に騎兵の接近を隠す役割を担ってくれるだろう。
 天候に関しては運任せの要素もあったが、間もなく盛夏を迎えるこの季節、河南郡を含む黄河中流域は一年でもっとも雨量が多い。河内郡に所領を持つ司馬孚から、俺はそのことを教えられていた。




 反攻の主力となる部隊は休養十分。
 自分たちが築いた、反攻の障害となりかねない陣地群は敵の手で取り除かれた。
 期待もし、予測もしていた雨も降り出した。
 後は追い返した使者の口から俺の嘲弄をきかされた南陽軍が、怒髪天を衝く状態となってくれれば言うことはない。まあ、これは期待のしすぎであろうけれど。


 今日までの南陽軍の戦い方は、奇策の類を一切用いず、兵力を利した力押し一辺倒であった。それは単純であるがゆえに、兵力に劣るこちらにとっては一番厄介な攻め方である。そのことからも、敵将である荀正が堅実な為人であることは予想できた。
 おそらく先ほどの一幕もこちらの挑発だと見切るだろう。というか、そもそも本気で降伏を勧めに来たとも考えにくい。虎牢関内部の状況を探るため、降伏勧告にかこつけて使者を送り込んできた、と考えた方がしっくり来る。
 なので、使者が訪れる際には、こちらの窮状をアピールするべく、様々な手を打った。虎牢関の各処にさりげなく負傷兵を立たせたのもその一つ。使者の男性はなかなか目端が利きそうな感じだったので、そのあたりを見逃すことはないだろう。俺の傲慢な態度も、窮状を悟らせないための芝居だとでも思ったかもしれない。


 むろん、逆に俺の小芝居を見抜かれ、かえって警戒されてしまうという可能性もないではないが、それならそれで別にかまわない。そもそも反攻といったところで、わずか数百の軍勢で敵を追い返すことができると楽観しているわけではない。今回の反攻はあくまで布石の一つに過ぎない。
 敵が勝手に警戒を強め、攻撃をためらってくれるのであれば、その分、こちらは労せずして時間を稼ぐことができる。それも悪い結果ではないのである。


 
 ――俺がそんなことを考えていると、不意にどこかほっとした徐晃の声が耳に飛び込んできた。
「やっと私の出番、だね」
 陳留勢が南陽軍を押し返している間、防壁上の指揮は俺が執り、城外の陣地の指揮は棗祗が執っていた。その間、徐晃は一度も敵兵と刃を交えていない。
 むろん、これは俺の命令である。反攻の切り札は司馬勢。これは当初から予定していたとおりだが、司馬勢はわずか三百しかおらず、数の上での不利は免れない。ゆえに、敵に撃斬の力を加えるためには、こちらの切り札ともいうべき徐晃の武を最大限に活かす必要があった。そのためには徐晃という剛武の将軍が曹操軍にいることを出来るかぎり秘しておく必要があったのである。


 とはいえ、俺が指揮を執っている間、敵陣から飛んでくる矢から俺の身を守ってくれていたのは徐晃なので、敵から逃げ隠れしていたというわけではない。くわえて、徐晃は柵や高台をつくる木材の切り出しに大活躍(?)してくれたので、徐晃が前線に出ないことを非難する者はひとりもいなかった。
 ただ、今日まで、味方が戦っている間、戦斧を振るうことも、矢を射ることもできなかったのは事実。この状況に徐晃が内心でかなりのストレスを感じていたであろうことは想像に難くない。
 ようやく、正面から敵と戦える。今の徐晃の言葉には、そんな安堵が確かに感じられた。




「――あの、一刀。それだと、なんだか私が戦いに飢えた狼みたいに聞こえるよ?」
 どこか釈然としない面持ちで、こちらを見つめる徐晃に、俺は澄ました顔で返答する。
「まさかそんな。公明どのが草原の飢狼にも似た危険な存在であり、これを戦から遠ざけることは虎の前から生肉を奪うにも似た暴挙である、などとは決して思っておりません。ましてや、あえてその危険を冒すことで公明どのに不満を蓄積させ、その鬱憤を敵に叩きつけてもらうことで勝算を増やそうなどとは、この北郷一刀、断じて考えておりませぬッ」
「……冗談だと思いたいけど、ここまで真摯に言われると、かえって冗談に見せかけて本音を言っているんじゃないかって疑いたくなるよね」
「ああ、あんなに素直だった公明どのが、どんどん疑い深くなっていく……」
「私が疑い深くなったのだとしたら、その原因は間違いなく私の前に座っている人だよ?」
 徐晃は渋い顔でそんなことを口にする。むう、口まで達者になっていらっしゃる。


 むろん、俺が口にしたのはただの冗談である。
 徐晃の為人からすれば、たとえ俺からの命令であったとしても、他者が命がけで戦っている戦場で、命令に縛られて動けない我が身に引け目を感じてしまうだろう。
 徐晃の声に安堵が感じられたのは、ようやくその枷が取り払われたから。それ以外の理由は思いあたらない。
 俺がそう言うと、徐晃はむすっとした顔で口をとがらせた。
「だったら、最初からそういってくれれば良いと思う。一刀って、実は意地悪?」
 その一言はさすがに無視できなかったので、俺はやや声を荒げて言い返した。
「心外な。今頃気づいたのですか?」
「心外なのはそこなんだ?!」
 徐晃の驚愕の声が、部屋中に響き渡る。


 反攻開始の刻まで、あとわずかであった。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/05/02 00:22

 虎牢関西 南陽軍陣地


 夜半、夕刻まで降り続いていた雨は、ようやくその勢いを弱めつつあった。
 しかし、その事実は見張り台に立つ兵士にとって、さして慰めにはならなかった。見張りを交代してからすでに一刻あまり。曹操軍が急造した高台を転用した見張り台には屋根がなく、ために兵士はすでに下着までびしょぬれの状態だった。今さら、少しばかり雨の勢いが弱まったところで、有難がる気になれるはずもない。
 おまけに、と兵士は東の方角を見据えて忌々しげに舌打ちする。
 昼間であれば、あるいは夜であっても晴れてさえいれば、この見張り台から虎牢関の様子を窺うことはできた。しかし、雨と夜闇に視界を遮られた今、虎牢関の城門は暗闇に沈んで兵士たちの目には映らない。
 要するに、雨に打たれながら行っているこの見張りは、ほとんど何の意味もない無駄働きなのだ。少なくとも、兵士にはそう思えてならなかった。


 次の交代は夜明け前、まだまだ先だ。無駄働きと思いつつ、緊張を維持するのは難しい。
 兵士の口から、ふああ、気が抜けるあくびがこぼれおちた。
 すると、それに気づいた同僚が咎めるような視線を向けてくる。あくびをした兵士は、そんな同僚に小さく肩をすくめてみせた。
「あくびの一つ二つ出ても仕方ねえだろ。雨の中、無意味に突っ立ってるだけなんだから」
 すると、同僚は眉間に険をあらわしながら、真面目な表情で真面目な台詞を口にした。
「油断するな。いつ敵が攻めてくるかわからないんだぞ。俺たちの役割は敵の襲撃を一秒でも早く見つけ出して、それを全軍に知らせることだ」


 同僚の言葉に促されるように、兵士は見張り台の中央に置かれた銅鑼を一瞥する。いざ敵が攻め込んできたら、これを打ち鳴らして全軍に報せるのである。
 しかし、同僚の注意を受けても、兵士の顔に緊張感が戻る気配はなかった。
「真面目だねえ。だが、実際に敵が夜襲を仕掛けてきたためしは一度だってないだろうが。ここまで追い詰められた敵が、今になって出てくるとか考えられん」
「窮鼠、猫を咬むというだろう。今だからこそ出てくるかもしれない。少なくとも、出てこないという保証はどこにもない」
「いや、ほんとに真面目だな、お前さん。おぬしこそまさに三国一の見張り人よ」
 熱のない口調で、わざとらしく拍手などしてくる兵士を見て、同僚は腹立たしそうな表情を浮かべたが、それ以上言葉を重ねようとはしなかった。これ以上会話を続ければ口論になりかねないし、口論などすれば見張りの任が疎かになる。それでは本末転倒だ、と自分を律したのであろう。


 もっとも、注意を促した方の兵士にしても、不満がまったくないわけではなかった。
 今夜、彼らの部隊は見張りの任を命じられており、その他の部隊は休養待機している。これは明朝の総攻撃に備えてということだったが、だとすれば、彼らの部隊は総攻撃から外されることがすでに決定した、ということである。
 当然といえば当然の措置であるが、見方をかえれば、ほぼ勝利が確定した戦いから除外され、手柄をたてる機会を奪われたことを意味する。出世を望む人間にとっては、面白くないことであった。


 とはいえ、この兵士は同僚と違って不満を口にするつもりはなかった。そんなことをすれば、冗談ではなく我が身が危ういからだ。
 李儒が太守になってからというもの、南陽軍は統制が著しく強化されており、太守直属の軍監に目をつけられれば、将軍や長史といった上位者たちさえ無事では済まないと聞いている。当然、一兵卒など反論することすら許されず、処罰を受けるしかないだろう。下手をすれば郷里の家族にまで咎が及んでしまう。
 今、見張り台の上にいるのは二人だけ。多少不満をもらしたところで、軍監の耳に入ることはないだろうが、だからといって油断する気にはなれなかった。この天候で見張りなど意味がない、と不満をこぼす同僚が、実は軍監であるという可能性だってないわけではないのだから……


 

 と、そのときだった。
 不意にその同僚が怪訝そうな声を発した。
「……ん?」
「――どうした?」
「いや、今なんか、聞こえなかったか?」
「何かって何だ。聞こえるのは雨音くらいだろう」
 その言葉どおり、周囲から聞こえてくるのは木板に降り注ぐ雨滴の音ばかりである。
 先ほどの戯言の続きかと思い、そっけなく応じた兵士であったが、次の瞬間、自身の言葉を撤回する必要を認めた。


 奇妙に重苦しい音が、雨音を裂くように前方――虎牢関の方角から響いてきたからである。
 ほぼ同時に、今度は視界に異常が発生する。わだかまった夜闇を払うように、宙空に横一文字の光が鮮やかに浮かび上がったのだ。
 それは虎牢関の防壁の上に並べられた篝火の明かりであった。いまだ雨が降り続く中、煌々と周囲を照らし出すことが出来るのは、惜しげもなく油を注ぎ込んでいるためか。
 そして、その篝火に照らされて夜闇の中に浮かび上がった虎牢関の城門は、今まさに開け放たれようとしているところであった。





 虎牢関の方角から激しく響き渡る銅鑼の音。
 それを聞いた見張りの兵士たちはようやく事態を把握した。


 ――虎牢関の曹操軍が、城門を開いて突出してきたのである。


「敵襲! 敵襲だッ!!」
 飛びつくように銅鑼に取り付いた兵士は、力のかぎりこれを打ち鳴らした。夜闇の中にしずむ南陽軍の頭上を、雨を裂いて銅鑼の轟音が響き渡る。
 すると、南陽軍の各処がにわかに慌しくなっていき、「敵襲ッ」の声がそこかしこから湧き上がった。
 それでもなお、見張りの兵士たちは銅鑼を打ち鳴らし続けた。自分たちの部隊はもちろん、後方で待機している主力部隊にも届くように、力の限り。






◆◆◆






 前方の南陽軍。後方の虎牢関。
 その双方から響いてくる銅鑼の音に耳朶を震わせながら、俺は掲げた剣を振り下ろした。
「かかれェッ!」
 俺の号令を受け、一千の軍勢が喊声と共に南陽軍に攻め寄せていく。この部隊は、先の西涼軍との戦いで俺が預かった部隊と同じ――つまるところ陳留の歩兵で構成されている。今日までの攻防による疲労は拭いがたいが、それでもひたすら守勢に徹してきた昨日までと異なり、今日はこちらが主導権をとって攻める側に回っており、その分、兵士たちの士気は低くない、と感じられた。


 対する南陽軍であるが、こちらは多少の動揺こそ見て取れたものの、これといった混乱もなく、槍先をそろえてこちらの軍を迎え撃とうとしている。
 これは曹操軍が――というか俺が、これみよがしに篝火を焚き、銅鑼を鳴らして南陽軍に出撃を報せたためであろう。元々こちらを警戒していた部隊だ。出撃してくることさえわかれば、立ち遅れるはずがない。
 正面の敵部隊はおよそ三千。曹操軍を迎撃するには十分すぎるほどの兵力である。真正面からぶつかれば、数に劣るこちらは勝利は期しがたい。それどころか、横腹を突かれたり、後背に回り込まれれば全滅の危険さえある。


 だが、それらはもとより覚悟の上。
 一度や二度の夜襲で決着がつけられるならば、わざわざこちらの出撃を報せるようなまねはしない。しかし、彼我の戦力差を考えれば、ここでどれだけ奮戦したところで、それが曹操軍の勝利に結びつくことはないだろう。
 ゆえに、この初撃において重要なのは、ただ敵を討つだけでなく、この攻撃を次手の布石とすることにある。
 そんなことを考えながら、俺は南陽軍を切り崩しにかかった。


 曹操軍と南陽軍の先陣が接触した瞬間、戦場は静から動へと移行した。
 槍と槍が絡み合う音。甲冑と甲冑がこすれ合う音。喊声と悲鳴が交錯し、汗と血と臓物の臭いが混ざり合った悪臭が戦場全体を覆っていく。
 数に劣る曹操軍――陳留勢であるが、その錬度は折り紙つきである。野天で西涼軍とまともにぶつかり合い、渡り合った精強さは、南陽軍を相手にしても存分に発揮されていた。
 南陽兵も決して弱兵ではないのだが、陳留勢の突進を完璧に受けきることはできず、陣列のそこかしこに小さからざる穴が開けられていく。
 ここを好機と見た俺は、その穴をさらにこじ開けるべく、ためらうことなく兵を突っ込ませた。兵だけでなく、俺自身も突っ込んだ。





「殺(シャア)!」
 敵の陣列に躍りこんだ俺は、気合の声と共に剣を振るう。
 切ったのは南陽軍の兵士ではなく、雨滴を裂いて突き出されてきた槍の穂先だった。そちらを見やれば、俺と同じくらいの年齢であろう兵士が、表情に驚愕を張り付かせたまま立ち尽くしている。
 おそらくは絶対の自信をもって放った一撃だったのだろう。それをあっさりと断ち切られた兵士は信じられぬと言いたげに動きを止めている。それは戦場において、致命的としかいえない失態だった。


 俺はためらうことなく敵との距離を詰める。それを見た敵兵は、慌てて槍を手元に引き戻そうとするが、穂先の欠けた槍では大した威力はないし、なにより今さら槍を引き戻したところで間に合うはずもなかった。
「がァッ?!」
 敵に肉迫した俺は、相手の無防備な頸部に剣刃を叩きつける。
 伝わるのは鈍い手ごたえ。聞こえるのは苦悶の声。
 頸部を切り裂かれ、地面に倒れ伏した兵士はまだ息があるようだったが、それもあとわずかのことだろう。


 一人目の敵を討ち果たすと、俺はすぐに次の相手を求めて左右に目を転じた。するとすぐに、これは、という敵兵を発見する。
 その敵兵は今しがたの兵士よりも年嵩で、おそらくは四十前後と思われた。明らかに戦に慣れている様子で、陳留兵二人を相手どって怯む様子もない。その目には強烈な戦意が眩めくように渦巻いて、古強者という表現がぴたりと当てはまった。
 それを見た俺は、迷うことなく相手の背後にまわりこもうと考えた。だが、考えたことを実行に移す時は与えられなかった。


 それまで、手に持った剛槍を巧みに操り、二人がかりの攻撃をいなしていた敵兵は、陳留兵の側に隙ができたと見て取るや、即座に反撃に移ったのである。
 鋭い踏み込みと共に槍が翻り、石突で頭部を強打された兵士が地面に這わされる。強烈な一閃を喰らって倒れた兵士は、そのままぴくりとも動かなくなった。
 続く兵士は数回槍を合わせたものの、これも敵しえず、繰り出された敵兵の槍に胸板を貫かれてしまう。甲冑を割り、胸を貫通し、背中から突き出た血染めの穂先。絶命した兵士の傷口からこぼれ出る臓物の臭いが鼻をつく。
 そのせいだろうか。南陽軍の篝火の光を反射した赤い穂先は、俺の目に奇妙に毒々しい輝きを帯びて焼きついた。


 敵兵の剛強と、二人の味方の死を目の当たりにした俺の脳裏に、無意識のうちに後退の二文字がちらついた。
 しかし、ここで退くわけにはいかない。士気に関わるという理由もあるが、なによりも俺自身がそうしたくなかったからだ。
 悲惨な光景も、生臭い悪臭も、今の俺にとっては縁遠いものではない。慣れたなどとは言わないし、言えないが、それはここで退くことを肯定するものではないだろう。
 大体、ここで俺が回れ右をすれば、別の誰かがあの敵と対峙することになるのは必然。それは指揮官として、あまりに情けない所業であるといえよう。だったら最初から虎牢関から出てくるな、という話である。


 左右に泥を散らしながら敵兵に肉迫する。
 二人の陳留兵を屠った南陽兵は、迫る俺を見ても気にかける素振りを見せず、それどころか新たな獲物を見つけたと言わんばかりに目を輝かせ、歯をむき出しにして哂ってみせた。
 そんな相手に対し、俺は委細かまわず真っ向から斬りかかる。
 敵の槍は味方兵士の胸板を貫いたまま。これではこちらの攻撃に対処できないだろう。
 俺のそんな思惑は、しかし、次の瞬間にあっさりと瓦解することになる。俺の手に伝わってきたのは、肉を裂く鈍い感触ではなく、鉄と鉄がぶつかりあう硬い感触。そして、耳に響いたのは甲高い金属音だった。


 敵兵は自分の槍に執着しなかった。
 剛槍をあっさりと手放すと、腰に提げていた剣を抜き放って俺の剣撃を受け止めたのである。その動きには瞬き一つの遅滞もなく、敵兵の口元は俺の浅知恵を嘲るように歪んでいた。
 互いの剣と剣が重なり合い、鍔迫り合いに似た体勢となる。敵兵の口がゆっくりと開かれた。
「運がなかったな、小僧」
 にやりと野太い笑みを浮かべる。相手は何をもって運がないと言ったのか。おそらくは「この俺を相手にして」といったあたりだろう。こちらを睥睨するかのような眼差しを見るかぎり、槍と同じほどに剣にも長じていることが窺える。俺のような小僧相手に敗北する可能性など微塵も考えていないことは明らかだった。




 と、俺の視界で敵兵の口元が不意にすぼまり、次の瞬間、右目に鈍い痛みがはしる。
 唾をはきかけられたのだ、と気づいた時にはすでに視界の半分を奪われていた。
「チッ?!」
 拭っている暇はない。舌打ちしつつ、俺は相手と距離をとるべく後方に飛び退る――


 フリをしてみせた。おそらく、それが相手の狙いだろうと察して。


 鍔迫り合いのように密着した状態では、近すぎて逆に思うように攻撃できない。敵は唾をはきかけて俺の視界を奪い、なおかつ視界を奪われた俺が慌てて後退することまで読んで、そこを狙って斬り捨てるつもりであろう。




 そんな咄嗟の閃きに従ったわけだが、どうやら正鵠を射ていたらしい。
 俺の動きに応じて敵兵が踏み込んでくる。この時、俺は相手が剣を振り上げ、振り下ろす音まではっきりと聞こえたような気がした。雨が降っていたこと、周囲で激しい戦闘が繰り広げられていたことを考えれば、おそらくただの気のせいであったろうが。
 それでも、相手の斬撃が身体を断ち切る寸前、俺が体を開いてこれを避けることに成功したのは確かな事実。
 敵の剣は勢いあまって、ぬかるんだ地面にもぐりこんだ。斬撃の勢いを証明するように、剣先は深々と地面を抉っている。
 片目だけの狭い視界に、どこか唖然とした敵の顔が映し出された。まさか俺によけられるとは思っていなかった――というより、視界を奪われた俺が冷静さを保っているとはまったく予想だにしていなかったのだろう。


「運がなかったな」
 先ほどのお返しというわけではなく、半ば以上本心だった。
 俺とこの敵とでは、戦場に出た回数も、そこで斬った人数も比べ物にならないだろう。俺がこれまで生きてきた年月を、丸々戦場で過ごしたような相手にとって、俺は確かに小僧に過ぎまい。
 その侮りが、唾を吐きかけるという行動につながった。相手が俺のような小僧でなければ、向こうも下手な小細工などしなかっただろうし、まともに斬りあっていれば、こうもあっさりと決着が着くことはなかったはず。そう考えると、この敵兵にとって、俺という小僧を相手取ったことは不運であったといってよい。
 ――そんなことを考えつつ、俺は剣を真横に振るう。いかに視界が半分ふさがれていようとも、この距離、このタイミングで外すはずがない。かわせるはずがない。


 鈍く、重い感触に続いて、数滴の泥がはねて俺の戦袍を汚す。
 雨でぬかるんだ地面に崩れ落ちた敵の、最後の反撃であった。




◆◆◆




 南陽軍本陣


「報告いたします! 三番隊隊長王泰さま、戦死! 部隊の指揮は副長が引き継いでいるとのことですが、敵軍の攻勢激しく、戦況は不利。至急援軍を、とのことですッ」
「申し上げます! 五番隊隊長李由さま、敵軍の猛攻により負傷! 後方へ退避する許可を求めておられます」
「報告、報告です! 敵後方、虎牢関より新たな部隊が現れました。数は、先陣と同じく、こちらも一千ほどかと思われます!!」


 曹操軍、襲来。
 その報が本陣の荀正まで届けられてから、まださほど時は経っていない。にも関わらず、入れかわり立ちかわりやってくる伝令の報告は、そのほとんどが南陽軍の劣勢を伝えるものばかりであった。
 これが敵の奇襲を喰らった後だというならば、まだわかる。しかし、敵はご丁寧に篝火を焚き、銅鑼まで鳴らして出撃を報せてくれた。当然、南陽軍は十分な余裕をもってこれを迎え撃つことができる、と荀正は考えていたのだが――


「……さすが、というべきか」
 曹操軍の侮りがたい勢いは本陣からでも十分に察せられる。
 今日まで拠点に閉じこもり、防戦一方だった軍とは思えない。おそらくはそのあたりの心理も、南陽軍の苦戦に影響を与えているのだろう。
 そうと察した荀正は、しかし慌てることはなかった。確かに今のところ、南陽軍は押されている。だが、所詮は一時のこと。敵が千から二千に増えようが、このために配していた三千の部隊が簡単に敗れるはずがない。仮に敗れたとしても、こちらにはなお一万の兵を余している。
 敵がどれだけ奮戦しようとも無限の体力を持っているわけではなく、どうしたところで勢いは弱まらざるを得ない。そうなれば、数に勝る軍の地力がいきてくるのだ。


 寡は衆に勝てない。
 それが荀正の軍略。ゆえに、この戦況で慌てる必要はない――ないのだが。
 荀正の顔に狼狽はない。しかし、困惑はあった。
「……夜襲は闇夜に乗じて敵の不意を突くからこそ効果がある。わざわざ篝火を焚き、銅鑼を打ち鳴らして出撃する意味がどこにあるのか」
 寡は衆に勝てない。しかし、時に寡をもって衆を討つ者がいることも荀正は承知していた。今、荀正が対峙している敵将もそのひとり。その思惑が読めない、これは荀正にとって座視できることではなかった。


 そこまで考え、荀正は小さく苦笑する。
「まあ、敵将の思惑なぞ、読める方がめずらしいのだがな」
 荀正は智将でも謀将でもない。敵の狙いを読み取り、その裏をかく術など知らぬ。だからこそ、敵に勝る兵力をもって、敵に打ち勝つという戦い方を繰り返してきたのである。
 その意味でいえば、この戦場も常となんらかわらない。一時、敵に押されていようとも、兵力に勝る南陽軍が主導権を握っている事実は動かないのだから。


 このまま主力部隊を温存して敵に疲労を強い、明朝の総攻撃で一気に決着をつけるもよし。あるいは、一軍を割いて突出してきた敵の横腹を突く、ないしは後方を塞いで、敵主力を覆滅するもよし。
 いっそ、総攻撃の時期を早め、このまま一気に攻勢に転じるという手段もある。敵の後退に追随すれば、労せずして城門を突破することもかなうかもしれない。
 無謀な攻撃を仕掛けてきた曹操軍をどう料理するも、こちらの思いのまま――


「……む、いかんな」
 荀正は無意識のうちに逸っていた自身に気がつき、ゆっくりと息を吐き出した。
 まだ夜明けは遠く、雨も降り止まない。この状況で総攻撃の命令を早めれば、混乱するのは敵よりもむしろ味方であろう。統制のとれない軍勢が虎牢関を陥落させられるはずがない。
 敵の攻撃は前線の部隊で防がせ、その間に主力部隊の出撃準備を完璧に整えさせよう。もとより明朝には出撃する予定だったのだから、さして時間はかかるまい。準備を終えた段階で、まだ曹操軍が攻撃を続けているようなら、その時は満を持して攻勢に出れば良い。




 戦況を鑑みれば南陽軍の有利は動かない。敵将はあの北郷一刀、注意してし過ぎるということはあるまいが、だからといって自縄自縛に陥ってしまっては本末転倒というものだ。あるいは、それこそが敵の狙いという可能性もある。
 聞こえよがしに銅鑼を打ち鳴らして出撃してきた曹操軍の意図は不明のままだが、敵を撃ち破ってしまえば、敵将の思惑を気にかける必要も――


「……まて。聞こえよがしに銅鑼を打ち鳴らして、出撃した……?」


 自身の想念を引き金に、荀正はあることを思い出す。
 伝え聞く高家堰砦の戦い。その初期に呂布の軍勢と相対した際、北郷はこれを打ち破るべく夜半に奇襲を仕掛けた。この時、北郷は高らかに銅鑼を打ち鳴らして城門を開いたという。
 あれは何のためだった?
 呂布の注意を砦にひきつけることで、その戦に先立って城外に潜伏していた太史慈の部隊を援護するためである。
 北郷の突出に注意を割かれた呂布の部隊は、告死兵を思わせる白の戦袍に身を包んだ太史慈の部隊に後方から痛撃され、味方の混乱もあって一時的な退却を余儀なくされた。
 考えてみれば、否、考えるまでもなく、北郷がしているのはあの時とまったく同じこと。であれば、北郷が意図するものも、あの戦と同じということになりはしないだろうか……


 ハッと目を見開いた荀正の口から、驚愕の声がこぼれおちる。
「いかん、もしや迂回されたかッ?!」
 南陽軍の後方は洛陽に続く街道が伸びており、周囲はすべて洛陽側の勢力圏である。開戦からこちら、虎牢関に立てこもったままの曹操軍が忽然と背後に姿を現すはずはないが、しかし、少数の兵であれば密かに後方へ回り込ませることも可能かもしれない。
 それに――まさか、とは思うのだが――今日まで曹操軍が防戦に徹していたのは、迂回に必要な時間を稼ぐためであったのかもしれない。


 そのことに思い至った荀正は、弾けるような勢いで命令を口にしていた。
「伝令! 至急、後方で待機している全部隊に伝えよ。曹操軍が後背に回り込んだ恐れがある、警戒を厳にせよ!」
 虎牢関の敵軍に対しては相応の警戒態勢を布いていた荀正だが、後方に関してはほとんど無防備であった。
 上空は厚い雲に覆われ、雨は今も降り続いている。この状況で後背から奇襲を受ければ混乱は爆発的に拡大してしまう。下手をすれば同士討ちが発生しようし、最悪の場合、敗北の端緒になりかねなかった。


 おそらく、虎牢関の北郷はこちらの総攻撃が間もなくであると読み、機先を制するべく動き出したのだ。後手にまわれば、その分、押し込まれてしまう。
 荀正は息を吸い込み、次なる命令を発するべく口を開いた。







 荀正からの命令が伝えられるや、南陽軍は小さな混乱を見せた。もしも曹操軍が後方に回り込んでいれば、洛陽への帰路を断たれたことになり、一転して南陽軍は窮地に立たされる。敵の兵力によっては全滅の危険さえあるだろう。その恐れが混乱を生じさせたのである。
 しかし、その混乱は荀正ら指揮官の尽力によって静められ、南陽軍はほどなくして戦闘準備を終えることができた。
 もし、荀正の推測どおり、後背からの奇襲が行われたとしても、それがよほどの大部隊でもない限り、南陽軍は苦も無く撃退してしまったことだろう。この点、荀正の迅速な指揮は称賛に値した。


 しかし、実際に南陽軍の陣中で荀正の指揮を称える声があがることはなかった。
 何故といって、どれだけ待っても後方から曹操軍が姿を現すことはなく、差し向けた偵騎も、敵兵の影ひとつ見出すことが出来なかったからである。
 洛陽方面に敵兵なし。その報告が荀正の下に届けられるのと前後して、虎牢関から突出してきた曹操軍も退却を開始していた。夜襲が失敗し、事破れたりと判断したのだろう。
 それまで曹操軍と矛を交えていた前線部隊は、当然のように追撃を行ったのだが、曹操軍は虎牢関からの援護を受けつつ巧みに兵を退き、ついにはさしたる被害も出さずに退却を成功させる。


 もし、この時に荀正が総攻撃を指示していたら、また違った結果が出ていたかもしれないが、荀正はあくまで慎重だった。
 そして、その慎重さは将兵にとって優柔不断と映るものだった。結局のところ、曹操軍は深慮も遠謀もなく、ただ夜雨に乗じて出撃してきただけ――南陽軍の多くがそう考えた。結果だけを見れば、それ以外に考えようがないとも言える。
 中でも特に不満を抱いたのが、曹操軍の強襲を跳ね返した前線部隊である。
 虎牢関から敵軍が突出してきたというのに、荀正はそれとは反対方向への警戒を命令し、挙句、その警戒は無用のものだった。命がけで戦っていた兵たちにしてみれば、何をやっているのか、と言いたくもなるであろう。
 居もしない後方の部隊に備える暇があるのなら、突出してきた曹操軍の横腹を突くなり、いっそ後方を塞ぐなりすることも出来たはず。そうすれば、曹操軍を覆滅し、ただ一戦にして虎牢関を無力化することも出来たであろうに、と。


 むろんというべきか、荀正は将兵の不満に気づいていた。
 だが、ことさら自身を弁護する言葉を口にしなかったのは、自分の決断が勝敗を揺るがせるものではないと知っていたからである。今しがたの結果を別の角度から見れば、南陽軍は出撃してきた曹操軍を撃退した――ただそれだけのこと。依然として、南陽軍の絶対的有利は動いていないのである。
 ゆえに、荀正の眉間にきざまれた深いしわは、将兵の不満を慮ったものではなく、単純に虎牢関の敵将の狙いがわからないことに起因していた。




 北郷がわざわざ篝火を焚き、銅鑼を鳴らして出撃を知らせたのは、後方から忍び寄る部隊を隠すためではなかった。そもそも、そんな部隊は存在しなかった。
 では、あれは何だったのか。本当に何の意味もなく、意図もない行動なのか。その場合、夜襲をみずから敵に報せるような武将が、あの淮南の戦を乗り切ったということになる。そんなことがありえるのか。
 一時は振り払ったはずの疑問が、再び荀正にまとわりつく。
 答えの出ない問いを抱えながら、荀正は虎牢関へと視線を向ける。そこにはいまだ降り止まない雨と夜闇がわだかまるばかり。先刻、視界に映っていた篝火の灯は、いつの間にか闇の中に沈んでいた。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/05/05 16:50

 虎牢関西 南陽軍本陣


 ひとたび曹操軍の夜襲を退けた荀正であったが、多事多端な夜はいまだ終わってはいなかった。
 曹操軍が虎牢関に退却してから、およそ四半刻後。南陽軍の将兵の耳に、再び銅鑼の音が響き渡る。
 虎牢関の防壁の上には、先刻と同じように篝火が赤々と焚かれ、腹の底に響く音と共に開かれた城門から曹操軍が姿を現した。それはまるで、先ほどの襲撃を鏡に映したかのようで、南陽軍にこれ以上ないほど明確に再襲の事実を伝えていた。


 これに対し、南陽軍は荀正の指揮の下、すばやく応戦の態勢を整える。先ほどの夜襲からさほど時が経ったわけではなく、荀正は敵軍に対する警戒を解いてはいなかったのだ。
 後方に敵がいないことが明らかになったことで、南陽軍はすべての戦力を前方に集中できる状態にある。曹操軍が先ほどの夜襲に味を占めたのならば勿怪の幸い、今度こそ出撃してきた曹操軍を鏖殺してくれよう――そう考えて待ち構える南陽軍の陣列は、先ほどと違ってわずかばかりの乱れもなかった。


 そして、それは攻め寄せる曹操軍の側からも見ても明白だったのだろう。城門から突出してきた曹操軍は、早くも勝算なしと見極めたのか、南陽軍と激突するよりも前に矛を引き、慌しく退却してしまう。
 南陽軍にしてみれば、夜襲のために打って出た相手が、攻めかかる前に退却するとは予想だにしていなかった。正面から敵の攻撃を受け止めつつ、一部隊を割いて敵の後背を塞ぐつもりだった荀正は、この曹操軍の動きに即応できずに追撃の機を逃してしまう。誘いの隙ではないか、という疑いも拭えなかった。
 他方、一般の将兵はそこまで考えが及ばない。ただ敵軍の動きに拍子抜けしたことは事実であり、同時に曹操軍の醜態を目の当たりにしたことで、軽侮の笑いがどこからともなく沸き起こる。その声はたちまち全軍に波及していった。




 南陽軍の嘲笑を聞いて意地になったわけでもあるまいが、曹操軍はその後も思い出したように銅鑼を打ち鳴らしたり、鬨の声をあげるなどして出撃の気配を示してみせた。だが、それらはことごとく虚勢であり、実際に曹操軍が出撃してきたのは初めの二度だけで、それ以後は城門を開くことさえしなかった。防壁上の篝火を焚くこともなくなったのは、そのために必要な油を惜しんだからであろう。
 曹操軍の悪あがき。
 この一連の行動を、南陽軍の将兵はそう受け取った。虎牢関から銅鑼や鬨の声が響く都度、南陽軍の陣営では、ある者は敵軍を嘲り、ある者はあくびをし、またある者は悪あがきを繰り返す敵軍の見苦しさに舌打ちを禁じえなかった。
 この時点で、銅鑼の音を聞いて警戒の念を抱く兵は稀になっており、それは兵たちを指揮する武将たちさえ例外ではなかった。


 そんな余裕とも油断ともつかぬ有様を危惧したのは、南陽軍を統べる荀正その人である。
 荀正にしても、敵が本気で打って出てくることはないだろう、と考えている。だが、それはあくまで南陽軍が警戒を緩めずにいればの話。こちらが油断をすれば、曹操軍はそれに乗じて本気で攻めかかってくるかもしれない。未練げに繰り返される敵軍の行動をただの悪あがきと受け止め、相手を侮る空気が蔓延するのは好ましいことではない。


 あるいは、それこそが敵の狙いかもしれないのだから。


 そう考えた荀正は、自軍の油断を戒め、敵軍の警戒を厳にするため、度々陣営の各処に伝令を走らせた。
 これに対して将兵の間から不満の声があがったのは、何も荀正の命令を臆病者のそれと考えたからではない。
 いつ終わるともしれない敵の挑発に応じて厳重な警戒を続ければ、南陽軍はろくに休むことも出来ずに夜明けを迎えることになる。そうなれば、明日の戦闘にも少なからぬ影響が出てしまうだろう。
 全軍で夜通し警戒を続け、朝になったら予定どおり総攻撃などという無茶な命令に従っていれば、命がいくつあっても足りるものではない。今日までの戦いで疲労が溜まっているのは曹操軍だけではないのだ。むしろ虎牢関で就寝できる曹操軍よりも、野天での宿営を余儀なくされてきた南陽軍の方が、疲労はより色濃いのである。


 南陽軍の幕僚からは、時間を繰り上げて総攻撃を開始するべきではないか、との意見も出された。
 しかし、これには荀正が首を横に振る。南陽軍は夜間に本格的な城攻めを行う準備はしていないし、作戦も考えていない。曹操軍が城門を開けた隙に乗じられれば問題ないのだが、三度目以降、曹操軍は城門を開けることなく、ただ銅鑼だけを打ち鳴らしているため、それも不可能だった。
 今、こちらから攻め寄せても、敵の矢石の好餌となるばかりであろう。


 いっそ一度虎牢関から大きく距離をとり、明朝、改めて押し寄せるべきではないか。それが荀正の考えだったが、それはそれで敵の小細工にしてやられた観は否めない。
 現在、南陽軍の将兵は曹操軍に対して心理上の優越に浸っている。この状況で軍を退けば、それが退却ではなく、ただの後退だとしても、将兵の士気に悪い影響が出るのは避けられないだろう。
 ただでさえ、将兵の間には先刻の荀正の指揮に対する不満がある。ここで更なる不満を抱かせてしまえば、明日以降の戦闘にも支障が出てきてしまう。それを李儒直属の軍監が見逃すはずはなく、荀正に待っているのは更迭か、粛清か、いずれにせよろくでもない未来だけであろう。


 そんな事態を避けるためにも、ここで後退することはできない。荀正は自らの考えを捨てざるをえなかった。
 攻めることはできず、退くこともできず、かといってこのまま何の手も打たなければ、それはそれで将兵の不満は膨れ上がるばかり。
「さて、どうしたものか」
 荀正の声には迷いがある。
 迷いは戸惑いと言い換えることもできた。戦いそのものに関してはかわらず優位を保っているというのに、時間を追うごとに採れる選択肢が少なくなっていくことに対する戸惑いである。
 その齟齬をもたらすものが何なのか、それがはっきりとわからないゆえに戸惑いは消えず、迷いは深まり、ただ時間だけが流れていく。
 夜明けまで、あと二刻もない。おそらく曹操軍は夜が明けるまで、この行動を続けるつもりだろう。それに対して南陽軍はどう動くべきか。考えを定めかねた荀正の耳に、数えれば十度目となる銅鑼の音が、どこか虚ろに響き渡るのだった。



 
◆◆◆




 虎牢関内部


 間もなく東の空が白み始める時刻、打ち鳴らされた銅鑼の回数はすでに十二に達している。
 俺はこめかみを揉み解しながら、しみじみと嘆息した。
「むう、何事もやってみなければわからないものだな。まさかこの作戦にこんな落とし穴があろうとは」
 すると、傍らにいた亜麻色の髪の少女――徐晃が小さく首をかしげた。
「……落とし穴、かな? 遠くの敵陣に届くように何度も何度も銅鑼を鳴らしていたら、その近くにいる自分たちが、相手以上にその音に悩まされるのは当たり前だと思うんだけど……」
「返す言葉もない。生兵法は怪我の元だな」
 その声に応じたのは、徐晃ではなく、別の人物だった。
「違う。こういうのは生兵法ではなく、ただの小細工というんだ」
 そちらをみれば、こちらは灰褐色の髪の少女が苛立つ馬をなだめつつ、俺に半眼を向けている。鄧範、字を士則。今回の作戦において、非常に重要な役割を担う少女である。どのくらい重要かというと、鄧範なくして今回の作戦の成功はありえないだろう、というくらいに重要だった。


 鄧範の一言は説得力に富み、語気も鋭かったが、しかし、表情自体はさして険悪なものではない。その証拠というべきか、鄧範はこう続けた。
「まあ、数に勝る相手に何の策もなしに突っ込むよりはずっとマシだが」
 すると徐晃が、同感だ、というようにうなずいた。
「うん、それはそのとおりだと思う」
 だが、徐晃の言葉はそれだけでは終わらなかった。
 でも、と恨みがましい目で俺を見やりつつ、なおも続ける。その声にそこはかとない棘を感じたのは、たぶん俺の気のせいではないだろう。
「一刀が直接、敵と戦う必要があったかどうかは疑わしいと思うんだ」


 その疑問に対し、俺は胸を張って言い返す。
「必要か否かを言えば必要だった。虎牢関の奥でふんぞり返って指揮を執れるような実績はないからな。どこかで示さなければいけなかったんだ、将としての実を」
 自信をもって口にした言葉に、鄧範がぼそりと応じる。
「一軍の将が自ら剣をとって敵に挑みかかる。驍将どの、それは勇は勇でも匹夫の勇だと思うぞ。将としての実を示すどころか、逆効果だろう」
「……」
 こほん、と咳払いを一つしてから、俺は改めてこれからの作戦について思うところを述べることにした。
「さて、いよいよ待機から行動に移るときがやってきた。ここからの行動は、その一つが一つが作戦の成否に直結する。皆の者、心してかかるように」




 あさっての方角を向き、誰にともなく話しかける俺を尻目に、何やらひそひそと語り合う少女ふたり。
「……いっそ清々しいくらい露骨に話をそらしたね、一刀」
「驍将どのも自覚はあるのだろう。ないよりはマシ、と言いたいところだが、自覚がある分、余計に始末が悪いとも言える」
「こっそり私たちについてきたりはしないよね?」
「さすがにそこまで愚かではないだろう。というより、それが出来ない我が身の不甲斐なさに耐えかねて、先の出撃を行ったのではないか?」
「ああ、それはありそうだね。というより、きっとそうだ。気にすることないのに」
「驍将どのは気にしてしまうのだろうさ。それが良いことか悪いことかはさておき、採るべき方法は明らかに間違えているな」
「こういう人が指揮権を握っちゃうと、その下にいる部下は大変だよね。今の私たちみたいに」
「全面的に同意する。あまり叔達さまに心配をかけないでほしいものだ」




「……そこのふたり。聞こえよがしにひそひそ話するのをやめなさい。というか君ら、いつの間にそんなに親しくなったんだ?」
「共通の話題があると話が弾むんだよ」
「厄介な上役について、とかな」
「……さいですか」
 俺は深々とため息を吐く。いや、徐晃も鄧範もこの作戦の要だからして、この二人が意気投合してくれたのなら、それは俺にとっても喜ばしいこと――なのだが、素直に喜べないのは俺の心が狭いからだろうか。


 と、そんなことを考えていると、不意に横合いから声がかけられた。
 今度のそれは少女たちのものではなく壮年の男性のものである。
「北郷どの、こちらは準備は整ったぞ。いつでもいけるゆえ、指示を頼む――む? どうした、これから大一番という時に覇気のない顔をして。腹が空いたのならば餅(ビン)を食べるのだ。陳留の麦でつくった餅は旨いぞ」
 そういって近づいてきた男性の名を棗祗(そうし)という。陳留太守張莫の配下であり、俺が虎牢関の主将に任じられてからは、陣地の設営、防戦の指揮等、様々な面で働いてもらっている。陳留では賊徒の討伐や、民屯(流民に田地を与えて耕作させること)の実施など、政軍両面において実績を挙げており、汜水関の衛茲と並んで張莫の左右の将といってよい。
 虎牢関では実質的に俺の副将扱いなのだが、ここまでの説明でもわかるように、本来であれば、俺ではなくこの人が虎牢関の指揮を執るべきなのである。それがどういう経緯だか知らないが、いきなり俺が指揮権を握ることになってしまったわけで、棗祗としてはさぞ面白くないことだろう――と俺は思っていたのだが、棗祗はたいして気にかける様子もなく、俺の指示に忠実に従ってくれた。


『たしかに北郷どのが指揮官になったことには驚いたが、丞相閣下や張太守が戯れで人事を定めるはずもなし、それ相応の理由があるのだろう。まして敵が攻め寄せてきた今、味方同士で諍いを起こすなど百害あって一利なしというもの。その程度のことがわからぬほど、わしは愚かではないぞ』
 棗祗が笑いながらそう言ったのは、虎牢関をめぐる攻防が始まって間もなくのことだった。


 棗祗は美男というわけではないのだが、温顔というか、他者に信頼の念を抱かせる穏やかな顔つきをしている。涼しげな目元、というやつである。為人は快活で、よく笑い、また他者の話を聞く時は、それが目下の者であっても真剣に耳を傾けてくれるため、配下や領民の信望も厚いという。その評を聞いたときは、俺もなるほどと頷いたものだった。
 甲冑をまとって戦場に立てば凛然と威を示し、官服をまとって内務を司れば粛然と事を処す。俺は棗祗をそんな人物だと考えているし、それは事実でもある。


 だが、今の棗祗を見て、俺と同じ印象を抱く人は少ないだろう。
 なにせ髪は乱れ、顔は汚れ、身にまとう甲冑は血と泥で染まっているという有様だから。向こうから声をかけてくれなければ、おそらく棗祗だとは気づけなかったことだろう。
 これは先刻の戦いとはかかわり無い。先ほどの出撃時、棗祗は俺にかわって虎牢関内の指揮を執っていたから、ここまで汚れる理由がない。なにより、今棗祗が来ている甲冑は、過日、城外で南陽軍とぶつかった際に討ち取った南陽兵から剥ぎ取ってきたものだったりする。


 そういった諸々のことに思いを及ばせつつ、俺は棗祗に応じる。
「食事はきちんととっているので大丈夫ですよ、棗将軍。将軍たちこそ、しっかりと腹に物をいれておいてくださいね。しばらく戻って来られないのですから」
「うむ、任せてくれい。役目、しっかと果たしてみせよう」
「正直、棗将軍が務めるような任ではないので、申し訳なく思いますが……」
「はっはっは、気にするな。わしが出なければ、北郷どのが出るつもりであったろう? すると必然的に虎牢関に残るのはわし一人。『後は任せた』などと言って面倒事を丸投げされかねんからな」
 そのつもりだったのだろう、と言いたげに棗祗はにやりと笑う。なんとはなしに張莫を思い起こさせる笑い方だった。妙なところで君臣のつながりの深さを垣間見た気がする。
 内容の正否についてはノーコメントとさせていただこう――


「しっかり見抜かれてるね、一刀」
「見透かされているな、驍将どの」
「そこの二人、うるさい」




 その後、最後の確認を終えた俺たちは、互いの幸運を祈り、それぞれの部署に就く。
 防壁の上の兵士たちに合図を送ると、ほぼ同時に十三度目の――最後の銅鑼の音が虎牢関に轟いた。




◆◆◆




 虎牢関西 南陽軍陣地


 銅鑼の音が響いてきたとき、それが何度目のことなのかを正確に覚えている南陽兵はほとんどいなかった。
 彼らは、またか、と言いたげに虎牢関の方角を見据えるが、案の定というべきか、敵軍が打って出てくる気配はない。
「よくやるな、連中も」
「まったくだ。これで十三回目だぞ」
「……数えてたのか、お前」
「他にすることもなかったからな」
 歩哨の兵士たちが低声でそんなことを語り合っていると、後方から叱責の声が飛んで来た。
「そこ、無駄口を叩くな! 警戒を厳にせよとの命令を忘れたか!」
『は、申し訳ありませんッ』


 指揮官の叱声に兵士たちは肩を縮める。彼ら以外にも、同様の仕草をする者がそこかしこで見て取れたのは、緊張感を欠いている兵が一人二人ではないことの証左であったろう。
 だから、というべきだろうか。
 異変のさきがけたる『その音』に気づいたのは、ごく一握りの兵のみであった。
 雨音を裂いて耳朶を震わせるその音は、四つの脚が地面を蹴りつける音。ただし、人のそれではない。その音は人の足が地面を蹴るよりも、はるかに強く、激しく、猛々しく――なにより、人の足では、雨でぬかるんだ地面を飛ぶように駆けることなど出来はしない。


「――行くよ、飛雪」


「……え?」
 歩哨の一人が呆けたような声をあげる。
 今の今まで、その歩哨の前には夜闇がわだかまるばかりで、目に映る物といえば、雨滴と、雨滴を弾く地面だけであったというのに。
 今、彼の前には自身の倍ほどもある人影が、巨大な戦斧を振り上げていた。
 むろん、『自身の倍ほどもある』と感じたのは歩哨の錯覚。その人影は馬に跨り、戦斧を振り上げていたに過ぎない。だが、馬蹄の音を知覚していなかった兵士にとって、目の前の存在は夜闇の中からあらわれた悪鬼に等しかった。
「ひ――?!」


 かすれるような悲鳴は、わずかに空気を震わせただけで宙に溶ける。
 熟れた果実を叩き割るにも似た音と共に、歩哨の頭部は撃砕された。血と脳漿を撒き散らして兵士が地面に倒れ込んだ時、それをなした少女は、すでに南陽軍の陣列の只中に躍りこんでいた。
「殺(シャア)!」
 戦意を奮い立たせる裂帛の気合と共に、縦横無尽に振るわれる巨大な戦斧。
 常であれば耳に快く響くであろう少女の声も、闇と殺意にまみれれば怖気をふるう凶声へと変じてしまう。暗夜に少女の声が響きわたる都度、南陽軍の将兵は確実にその数を減らしていった。
 戦斧は刃の部分はもちろんのこと、重さそのものが武器になる。たとえたくみに刃を避けたとしても、勢いに乗った斧頭で身体を殴打されれば甲冑越しであっても無傷ではすまぬ。まして頭蓋や肩腕に直接打撃を受ければ、骨など簡単に砕けてしまう。
 その重量を自在に操るためには人並み外れた膂力を必要とするし、戦斧の扱いには相応の熟練を要するが、南陽軍にとっては不幸なことに、この少女――徐公明はそれらを二つながら備えていた。それも、容易に他者の追随を許さぬレベルで。


 奇妙な話だが、このとき、徐晃の周囲にいた南陽兵の多くは、眼前の脅威と曹操軍を結びつけてはいなかった。敵襲の声がすぐにあがらなかったのはこのためである。
 その理由を挙げれば、油断していたからであり、自失していたからであろう。それは咎められるべきことである。
 だが、闇夜の中から躍り出て、縦横無尽に戦斧を振るい、一撃ごと、一打ごとに南陽兵を屠っていく徐晃の姿はそれこそ悪鬼としか見えず、時に複数の兵士を一閃で宙空に弾き飛ばす姿を見て、一般の兵が茫然自失してしまうのは、ある意味で仕方のないことであったろう。
 むろん、南陽軍とて黙ってやられるばかりではない。ある程度の時間があれば平静を取り戻し、この敵を押し包んで討ち取ることも出来たかもしれない。否、きっと出来ただろう。
 しかし、徐晃は南陽軍が立ち直る時間など与えなかった。
 地面を揺るがすよう疾駆する馬蹄の音に、今度は南陽軍も気がついた。気がついたが、しかし、徐晃によって切り散らされた陣列をすぐに立て直すことは不可能であり、虎牢関から出撃した三百の騎兵の突入を許してしまう。
「押し通るッ、続け!」
 徐晃の命令に従い、騎兵部隊は敵陣の奥へ奥へと突き進む。
 混乱はたちまちのうちに本陣にまで波及していった。  





 南陽軍本陣。
 報告を受けた荀正は、思わず声を高めてしまう。
「騎兵、だと?!」
「はッ! 『司馬』の軍旗を掲げた騎兵の一団が前衛を強襲! 前衛の将兵は奮戦するも、敵将の驍勇おそるべきものがあり、果たせず突破を許したとのことです。敵騎兵部隊はそのまま直進、すでに後方の第二陣と激突したものと思われますッ! 二陣が破られれば、この本陣まで寄せてくるやも知れませぬ。ただちに対策を!」
「なんだと……?!」
 荀正が驚いたのには理由がある。
 曹操軍に司馬家の軍が加わっていることは荀正も承知していた。これは樊稠ら弘農勢がもたらした情報である。しかし、それは虎牢関の主将がかわる以前の情報であり、敵の指揮官が北郷一刀になってから、曹操軍がどのように兵を分けたのかは判然としていなかった。


 荀正が虎牢関に攻撃を開始してから今日まで、敵が騎兵を用いたことはなく、『司馬』の軍旗を見かけたこともない。おそらくは張莫と共に許昌に帰ったのであろう、と荀正は考えていた。
 ところが、今この時、この戦況で司馬軍が姿を現した。この事実は荀正にとって背筋に寒気を覚えるほどの衝撃を与えたのである。
 荀正の驚きは騎兵それ自体にはなく、北郷が騎兵を温存していた――その一事に集約される。攻城ないし守城の戦において、騎兵は有用とは言いがたいが、それでも城外で矛を交えた際に司馬軍を用いることは出来たはずだし、そもそも馬から下りれば騎兵は歩兵として動かせる。つまり、北郷は司馬軍を用いることができなかったわけではなく、あえて用いなかったのは明らかだ。
 敵より劣る兵力で虎牢関を守ることを強いられながら、なおも司馬軍を温存していたという事実から、北郷がかなり初期の段階で明確に今日の戦況を予測していたことが窺える。


 そのことが何を意味するのか。
 荀正はそれに考えを及ばせながら、配下に命じた。
「すぐに全部隊に警戒を指示せよ。騎兵の数は三百ほどだと言ったな?」
「はッ!」
「どれほどの精鋭であろうとも、その程度の数ならば防備を固めれば十分に対処できる。敵は遠からず息切れしよう。さすれば、これを討つはたやすいことだ。伝令は、この事実をあわせて各部隊に伝えるのだ。そなたは前線に戻り、陣形を崩すなと伝え――」
 荀正が命令を下す寸前、前方、虎牢関の方角から一際高い喊声が聞こえてきた。
 敵騎兵の前衛突破にともない、すでに南陽軍の各処では指揮官の命令や、それに応じる兵士たちの声、さらには移動の際に武具が立てる音などが交じり合って、周囲は喧騒に満ちていたが、そういった騒音をまとめて蹴り飛ばすような力強い喊声だった。


「何事か?!」
 その荀正の問いに応じることができる兵は本陣には存在しなかった。
 しかし、実のところ、荀正は問うまでもなく答えがわかっていた。
 今日まで温存してきた司馬軍をここで出してきたということは、敵将にとって今が勝負の際である、ということ。
 荀正はさきほど配下にこう言った。三百程度の騎兵では南陽軍は崩れない。遠からず敵は息切れするので、その後これを討ち取ればよい、と。
 だが、そんなことは敵将とて承知していよう。
 思えば、先ごろからの曹操軍の行動は、そのことごとくがこちらに油断ないし慢心を強いるためのものだった。
 敵軍に油断を強い、温存してきた精鋭でもって敵の前衛を食い破り、腸に喰らいつく。ここまで戦況が進めば、次の一手など考えるまでもない――!


「申し上げますッ、虎牢関の曹操軍が出撃してまいりました! その数、およそ二千五百、陣頭には敵将北郷一刀の姿があります!!」
 それは事実上、現在の曹操軍の全力出撃。
 南陽軍はいまだ敵軍の五倍以上の兵力を有しているが、敵騎兵が前衛と主力の間で暴れている今、荀正は十全な指揮が執れない。そして、指揮官の命令がなければ、数の利も意味をなさない。
 南陽軍としては一刻も早く浸透してきた敵騎兵を殲滅しなければならないのだが、この騎兵は剛強であり、疲労の色もない。殲滅するどころか、逆に南陽軍の方が後陣を食い破られかねない有様である。また、南陽軍の中にはいまだ戦況が掴めず、先刻来の弛緩した空気に浸っている部隊さえあった。
 明確な報告があったわけではなかったが、後陣の混乱は前衛の将兵にも伝わっていた。こんな状況では正面の敵に専心していられない。いつ、敵騎兵が後背から襲い掛かってくるか知れたものではないのだ。前衛、後方を問わず、南陽軍の混乱は留まるところを知らなかった。


 一方の曹操軍はどうであったか。
 虎牢関を守るのはわずかな兵と傷病兵のみ。今、虎牢関を直撃されれば苦戦は免れないだろう。しかし、南陽軍にそんな余裕がないことは火を見るより明らかであり、ゆえに後顧の憂いは存在しなかった。
 陣頭に立つ北郷一刀は、先刻とは異なり、はっきりと主将たるにふさわしい絢爛な甲冑(陳留製、張莫贈与品)を身に着けている。今日まで防戦の指揮を執る際に身に着けていた物と同じ代物であり、周囲にはこれを取り囲むように松明を持った兵士が並んでいた。むろん、それは否応なくその姿を際立たせ、北郷ここにありと敵味方に知らしめるためである。
 この時、北郷はことさら将兵に声をかけることはなかった。
 今が勝負の際。
 ここが勝敗の分水嶺。
 そんなことは、すでに一兵卒にいたるまで承知している。ゆえに北郷が行ったのは、その右手を高々と振り上げ、振り下ろす――ただそれだけであった。
 そして、それだけで十分であった。






◆◆◆







 同時刻 


 許昌 丞相府


 本来の主が袁紹軍と対峙するために黄河河畔に出向いた丞相府では、留守居として残った張莫が主に公務を執り行っていた。
 その公務の中には急使の対応も含まれる。
 未だ陽も昇らない時刻。馬を駆って城門を潜った人物と相対した張莫は、興味深く相手に観察の視線を走らせる。眠気があったとしても、それはこの人物と向き合った時点で消滅していた。
「張太守にはお初にお目にかかります。東郡太守鍾遙が末子、姓は鍾、名は会、字は士季と申します」
「陳留太守、張孟卓だ。おぬしの名は常々耳にしていた。今は危急の時ではあるが、こうして相会えたことを嬉しく思うぞ、鍾士季」


 張莫が口にしたのは世辞ではない。
 齢十四にして、上は天文に通じ、下は地理民情をよくさとり、六韜をそらんじ、三略を胸にたたみ、その才は神算に至り、その智は鬼謀に達す――との世評を得た人物こそが、この鍾会なのである。
 剣、弓、馬、書写、兵書、およそ文武に通ぜざるものはない、とまで言われたこの少女を、世人はこう呼んだ。


 すなわち、鍾家の神童、と。 




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第五章 狼烟四起(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/05/18 22:09

 鍾会、字を士季。
 政治家として、武将として、また書家として名高い父鍾遙と、教育熱心である母の双方からその才を愛され、幼少時より徹底した英才教育を施された。その内容は文武を問わずあらゆる分野に及び、およそ考えられるかぎりの学問を父母から叩き込まれたといえる。
「まさしく神童なり」
 その年齢が十に達するより早く、都の高官にそんな感嘆を発させた鍾家の秘蔵っ子の名は、漢帝国の次代を担う俊英として、心ある人々の間で語られるようになっていく。
 

 ただ、高まる評判とは裏腹に、鍾会本人が神童という呼び名をいたく嫌っていることを知る者は少ない。
 自分には過ぎた呼び名であると考えている――わけではない。むしろ、まったくの逆であった。
 神童とは、才知の極めて優れている『子供』や、非凡な才能をもった『子供』を指す言葉。鍾会にしてみれば、自身の実力が『子供』という枠組みにおさめられてしまうことが腹立たしくて仕方なかったのである。


 緩やかに波打つ髪をかきあげながら、鍾会は言う。
「確かにぼくは人並み外れて頭が良いし、腕は立つし、礼儀作法も完璧で、容姿は優麗、およそ非の付け所なんてない。年齢を鑑みれば、ぼくを神童と呼びたくなるのは理解できないでもない」
 知らず、豊かとは言いがたい胸をそらして自身の才を誇ってしまうのは、自負の為せる業か、自己愛過多の性格ゆえか。
 ともあれ、そう口にした後、鍾会は苦々しげな表情で決まってこう付け加えた。
「ただし、神童なんて言葉は、要するに『子供にしては優れている』程度のものだ。ぼくの才はそんな言葉で推し量れるものじゃない」
 自賛の言葉は決して根拠なき大言壮語ではなかった。
 鍾会の父である鍾遙は東郡の太守であるが、東郡は今回の戦いで河北勢との主戦場になると目されている黄河の二つの渡し――白馬津と延津を領内に持つ。鍾会は父の補佐として、これらの拠点の防備を固めるために奔走し、白馬に到着した曹操から褒詞を授かるほどの働きを見せているのである。


 そんな鍾会にしてみれば、神童という言葉は己を子供扱いするものであり、褒め言葉でもなんでもない。称賛のつもりで度々その言葉を口にする者に対する鍾会の評価は下の下である。
 とはいえ、鍾会はそういった自分の考えを表に出すことはなかった。どれだけ優れた才能を誇ろうと、それを発揮するためには周囲の理解と協力が欠かせない。たとえ打算に基づくものであろうとも、寄せられる好意をむげに扱うのは下策であろう。孤高は、高位に昇るための力にはなりえないのである。
 そのことをわきまえていた鍾会は、神童と称えられれば、蕩けるような微笑を浮かべ、服の裾をつまんで優雅に礼を口にするのが常であった。


 そんな裏表の激しい――猫かぶりともいう――鍾家の神童であるが、一度その才能を認めた相手に対しては、素直に親しみを見せ、内心を吐露する一面を持っている。
 今回、鍾会が父や曹操に対し、虎牢関での戦いに加わりたいと直訴したのもこの気質によるところが大きい。
 それはどういうことかというと――



◆◆◆



 司州河内郡 虎牢関


 はじめてその少女を見たとき、俺の脳裏に浮かんだのは「綺麗な子だな」という何のひねりもない感嘆の言葉だった。
 緩やかに波打つ長い髪、円らな瞳、小さく整った顔立ち等、風貌も仕草もどこぞの良家の姫君にしか見えなかったのだ。
 が、その姫君が口を開いたとたん、俺の抱いた印象はあっさりと一蹴されてしまう。
 少女――鍾会は、自身が虎牢関へやってきた理由を次のように説明したのである。


「つまり、あの仲達が何を血迷ったのか、洛陽の弘農王の下に参じたと聞いて、居ても立ってもいられなかったんだ。洛陽の情勢は混沌として、その先を見通すのは容易ではないが、しかし、弘農王は最終的に始末されるだろう。それだけは断言できる。当然、その下にいる仲達らが無事に済むはずがない」
 曹操が勝てばもちろんのこと、仮に洛陽の側が勝利したとしても、弘農王はどのみち殺される運命にある。実力なき皇帝は権力を握るための道具に過ぎず、用が済めば処分されるもの。それは過去の歴史を見ても明らかだ、と鍾会は断言する。


「弘農王が死ねば、仲達も死ぬ。それは別にどうでもいい。先を見る目のない愚か者がどんな最期を遂げようと、ぼくの知ったことじゃない。でも、片や麒麟児として、片や神童として、ぼくと仲達は何かと比べられていてね。仲達があまりに情けない死に方をすると、結果としてぼくの評判にまで関わってくる恐れがあるんだよ」
 これは無視できない、と鍾会は言う。
 そしてこう続けた。
 だから、司馬懿がどこの誰とも知らない者の手にかかって果てる前に、せめてもの情け、鍾会自身が司馬懿の息の根を止めてやるためにやってきた。ひいてはそれが中原の混乱を静める結果となるだろう……


 鍾会は鋭利と表現できそうな鋭い視線で俺を見据えた。
「北郷一刀、本日ただいまより、ぼく――鍾士季は君の指揮下に入る。ただし、今も言ったように、ぼくの目的は虎牢関を堅守することにあらず。南陽軍を討ち、洛陽を陥とし、謀反人どもをことごとく討ち滅ぼして、もって中原を浄めるにある。このこと、心に銘記しておいてくれたまえよ」
 滔々とまくし立てる鍾会の真意を、俺は嫌でも悟らざるを得なかった。
 もしも俺が虎牢関を守ってそれでよしとする退嬰的な指揮を執れば、鍾会は躊躇なく俺から指揮権を奪う心算だろう。
 鍾会の身長は俺の胸元までくらいしかなく、鍾会が俺の顔に視線を向けると、必然的にこちらを見上げる格好になる。が、そこに上目遣いの可愛らしさなど微塵もなく――それはもう砂一粒たりともなく――その迫力といったら、俺より年下とは到底信じられなかった。
 誰だ、この子を良家の姫君みたいだ、なんて思ったやつは。見る目がないにもほどがあるぞ、まったく。





 そんなことを考えていると、俺の反応を窺っていた鍾会が怪訝そうに口を開いた。
「……君はあの『劉家の驍将』なのだろう? ぼくのような小娘にここまで言われて、何か言い返すことはないのかい?」
「特には何も。間違っていることを言っているわけではなし、俺としてもこのまま虎牢関に篭り続けるつもりはないしな――あ、いや、一つだけ言いたいことがあった」
「聞かせてもらおう」
 そう口にした際、鍾会の両眼に一瞬だが眩めくような知略の光が躍ったように見えた。


 その光を見て、俺はふと思った。
 もしかすると、鍾会はあえて居丈高に出ることで、俺の為人を見定めようとしているのかもしれない。
 あるいはもっと過激なことを考えている可能性もある。衆人環視の場で俺の激昂を誘い、この場でそれをとりおさえ、指揮官たるの資格なしと弾劾して指揮権を奪ってしまう、というような。
 外見はおとなしやかであっても、いま俺が考えたような策略程度は平然と仕掛けてきそうな、ある種の不逞な雰囲気を今の鍾会は醸し出していた。
 やはりこの少女、外観は白鳥でも、内実は猛禽のそれであるようだ。



 ――まあ、それはさておき。
「友人を想って、はるばる虎牢関まで駆けつける篤実さには感動した」
 先ほどの長台詞、意訳すれば『べ、別に仲達が心配で駆けつけたわけじゃないんだからね! か、勘違いしないでよねッ!』という感じだろう。鍾家の神童どのは、他人に対してはかなり手厳しく接する人のようだが、一度認めた相手に対しては親身になるタイプとみた。


 率直に内心を口にすると、鍾会は何故だかぽかんと口をあけて俺を見つめ返し――と、思うまもなく、その顔はみるみるうちに怒りの朱色に染まっていった。
「な……何を言っているんだ、君は?! 人の話はちゃんと聞きたまえ! ぼくと仲達は友などではなく、ただの敵――それも倶(とも)に天を戴かざる敵だッ」
「ああ、もちろんわかっている。古人いわく『強敵と書いて友と読む』というやつだな」
「全然わかっていない! というかその古人って誰だい?! 聞いたことないよ、そんな文言ッ」
「……む?」
「自分から口にしておいて不思議そうに首を傾げるな! そもそも、ぼくは仲達に友情など感じたことはない。文でも武でも、あらゆる面でぼくと同等かそれ以上の結果を出す、目の上のこぶとしかいいようのない相手をどうして友などと思えるものか。おまけにあの背! あの胸! ぼくより一つ年下のくせに成長しすぎだよ! 今では誰が見たってぼくの方が年下だ! 天はいったい仲達に何物与えれば気が済むのか?!」


 天道、是か非か、と往古の儒者のように嘆く鍾会。
 はじめは俺に向かって話していたのだが、途中から完全に独白となっている。たぶん、もう俺など眼中になくなっているのではあるまいか。
 その鍾会の嘆きになんとなしに過去の自分を重ねつつ、俺は隣に立っていた司馬孚に低声で問いかけた。
「叔達、あのさ、士季どのってこういう人なのか?」
「ええと……そう、ですね。こういう方です」
 問われた司馬孚は、ためらいがちに小さく頷いた。なんでも司馬家の面々は鍾会と浅からぬ縁があるそうで、鍾会の到着を知った司馬孚は、挨拶しなければ、と俺と一緒にここまでやってきたのである。


 今、司馬孚は帽子をとっているので、短くなった髪があらわになっている。突然始まった鍾会の慨嘆に困惑しつつ、司馬孚は俺に正しい鍾会像を伝えるためにさらに言葉を重ねた。
「あ、でも! 私や妹たちには優しく声をかけてくださるんですよ。ただ、璧姉さまの事となると、何故かむきになってしまうみたいで……」
 司馬家の麒麟児と鍾家の神童。
 聞けば、以前から確執めいたことは何度かあったらしい。もっとも、さして深刻な対立ではなかったようだが。


 俺はわずかに首を傾げた。
「仲達どのなら他人から敵意を向けられても、それに気づかないか、気づいてもあっさりといなしてしまいそうだけどな」
「士季さまが璧姉さまを認めていらっしゃるように、璧姉さまも士季さまのことを認めていらっしゃいましたから。真剣に挑んでくる方には、こちらも真剣に応じるべきだ、と考えていたみたいです」
「なるほど。言われてみれば、それも仲達どのらしいか」
 互いに類を絶した才覚の持ち主であるがゆえに、二人はぶつかりあうことでしか分かり合えない運命だったのかもしれない。古来より、虎と竜は激突する以外の関わり方をしないものだ……などと、柄にもなく詩的(?)な気分に浸ってみたが、どうやったところで似合わないので口にするのはやめておくことにした。
 正直そんなことをしている暇もなかったのである。なにしろ、南陽軍との戦いはまだ続いているのだから。




◆◆




 夜襲の日からすでに五日が経過している。
 敵の混乱につけこんだこと、さらには司馬勢、陳留勢の奮戦もあって、あの夜襲では南陽軍に相応の打撃を与えることに成功した。
 だが、数にして五倍を越える敵軍を、一戦で蹴散らすのはさすがに難しかった。南陽軍は千を越える死傷者を出して虎牢関前から退いたが、全面的な潰走には至らなかったのである。


 現在、南陽軍は荀正の指揮の下、虎牢関からやや離れた地点に陣を敷き直し、これまでと同じように虎牢関攻略の機を窺っている。
 ただ、その勢いは明らかに衰えていた。この五日の間、南陽軍が虎牢関に攻め寄せてきたのはわずかに二度だけ、という事実を見れば、それは誰の目にも明らかであったろう。
 くわえて言えば、二度の攻撃の際も、南陽軍は本格的な戦いになる前に矛を引いてしまった。夜襲以前と比べれば、その動きの鈍さはあまりにも顕著である。


 先の夜襲が、敵の戦意に痛撃を与えたのは間違いない。
 だが、そういった心理的な要因とは別に、南陽軍の動きの鈍さにはもっと直接的な理由が存在する。
 現在、徐晃率いる司馬家の騎兵部隊は虎牢関にはいない。夜襲の後、虎牢関に戻らず、そのまま南陽軍の後背にまわってもらったからである。この騎兵部隊の存在が、南陽軍を激しく悩ませているのだ。


 騎兵によって南陽軍と洛陽を結ぶ街道を扼せば、洛陽から前線に送られる補給部隊を叩くことができるし、戦況報告の使者を捕らえて情報を遮断することもできる。また、後背から一撃離脱を繰り返せば、南陽軍は前方の虎牢関に戦力を集中させることが難しくなる。
 当然、南陽軍は後背で蠢動する騎兵を叩こうとするだろうが、南陽軍の主力は歩兵であり、少数の騎馬兵を捕捉することは難しい。仮に捕捉されたとしても、騎兵の側は容易に逃げることができる。
 まずいのは洛陽からまとまった数の敵騎兵が出てきた場合だが、徐晃率いる司馬勢であれば、多少の兵力差ならば覆すことは難しくないだろう。西涼軍が姿を消した今、洛陽側に徐晃と伍すような武将がいるとも思えない。


 以上のように、騎兵の機動力を活かした後方撹乱は非常に有効な手段である。
 だが、同時に危険も大きい。上に、尋常でなく、と付け加えてもいいほどに。
 騎兵を用いる利は機動力にあるとはいえ、人も馬も生き物である以上、食事は欠かせないし、休息だって必要となる。大軍に追い回され、疲れ果てたところを狙われれば、機動力を活かすこともできずに鏖殺されてしまうだろう。不利を悟って虎牢関に戻ろうにも、南陽軍が布陣している以上はそれも思うようにはいくまい。
 戦術上の有効性と引き換えに、敵の勢力範囲で孤立し、味方と連絡をとることもままならず、補給もできないという状況に置かれる部隊。


『これを専門用語で捨て駒というわけだが』
『……今、さらっとひどいこと言ったよね、一刀ッ?!』


 脳裏に作戦を説明した際の徐晃のあきれ顔がよみがえる。
 もちろん、あくまで一般論を述べたまでであって、俺には徐晃や司馬勢を捨て駒にするつもりなどまったくない。
 俺がこの危険な役割をあえて司馬勢に命じたのは、今の司馬勢であれば敵の捜索の目をかわし、撹乱という任務を完遂させることができる、と判断したからである。


 俺がそう考えるに至った理由は鄧範の存在にあった。
 鄧範が地図の作成を趣味(?)としており、それが司馬懿の目にとまり、司馬家で引き立てられる契機となったことは以前に記したが、鄧範が今まで作成した地図の中には洛陽周辺の物も含まれていたのである。つまり、鄧範はこのあたりの地理に深く通じているのだ。
 徐晃の武力と、鄧範の知識があれば、南陽軍の追撃をかわすことはさして難しくはないだろう。
 むろん補給や疲労の問題は残ったままなので、いつまでも大丈夫というわけではない。だが、当面の間は――具体的に言うと一週間くらいは――南陽軍の後背をかき乱すことは可能だと俺は判断し、徐晃らも俺の判断を是としてくれたのである。




 ちなみに。
 なぜ河内郡の司馬領にいた鄧範が洛陽の地図を作成していたのかというと、司馬懿の亡父であり、鄧範の旧主でもある司馬防どのは、京兆尹(長安統治の要職)となる以前、洛陽の令を務めていた時期があった。司馬防どのに仕えていた鄧範は、この時、洛陽一帯を丹念に歩いてまわり、精細な地図を作り上げたそうである。
 当然のように、鄧範は長安一帯や、司馬家の本領がある河内郡一帯の地図も作成していた。




◆◆




 そんなわけで、俺は今このときも徐晃らに孤立無援での苦闘を強いているわけだが、その間、俺自身は何をしていたのかといえば、南陽軍の攻勢を退けつつ、後方の汜水関にいる衛茲に援軍を求めていた。
 今回、曹操軍は虎牢関に三千、汜水関に二千の兵を配置している。
 虎牢関と異なり、汜水関はこれを直撃できる敵勢力が存在しないため、もっと早い段階で援軍を要請することも可能だったのだが、俺は今日までそれをしなかった。
 虎牢関を守りきることができなかった場合、汜水関の二千は許昌を守る最後の盾になる。ゆえに、安易に汜水関に援軍を求めることは避けてきたのである。
 だが、事ここにいたれば、もはやその配慮は不要だろう。衛茲には作戦の詳細を伝えてあるので、おそらく援軍を拒否されることはない。むろん、汜水関を空にして来てくれ、などとは言っていない。汜水関の兵は今日までたっぷりと英気を養ってきたはず。千、いや、五百でも十分すぎる――




「……と思っていたら、あにはからんや、いきなり四千の大軍がやってこようとは」
 しかも率いるのがあの鍾会とか、予想外にもほどがあるのですよ。
 いや、もちろんめちゃくちゃ助かるのだが、鍾会はどこからこの兵を持ってきたのか。鍾家の私兵とは考えにくい。十や二十ならともかく、百や千の兵を西にまわすだけの余裕が鍾家にあるはずもないし、仮にあったところで袁紹との決戦を控えた曹操が、そんな兵力移動を許すはずもない。


 しごく当然の俺の疑問に対し、ようやく落ち着きを取り戻したらしい鍾会が、こほんと咳払いしつつ応じた。
「事が後先になってしまったが、君に張太守からの言伝だ。『まさかこうもすばやく洛陽が動くとは思わなかった。読み違えてすまん』と」
「――ああ、なるほど、汜水関の軍勢に加えて、許昌の部隊の一部を割いてくれたのか」
 聞けば鍾会自身の手勢は三十騎ほどで、五百の騎兵と二千五百の歩兵は許昌の、残りの千の歩兵は汜水関の兵士であるということだった。
 俺は許昌に対しては報告のみで援軍の要請はしていなかった。よって、当然ながら許昌の兵力は計算にいれていなかったのだが、この予期せぬ援軍は正直ありがたい。問題はこちらに兵力を送った分、許昌の防備が手薄になっていることなのだが、そちらは張莫に任せるしかないだろう。
 大体、今の俺に他所の心配をしている暇なんてないのである。


「士季どの、軍議の間に案内しよう」
 俺はそういって鍾会を虎牢関の中にいざなった。
 予期せぬ援軍を得たといっても、作戦の骨子は今さら変えようがないし、変える必要もない。だが、この新たな兵力を活かすために確認しなければならないことがいくつもある。
 俺がそう口にすると、鍾会は腕組みしつつ頷いた。
「それはぼくも望むところだ。まあ、おおよそは汜水関の兵を預かる際、衛将軍(衛茲)からうかがったけどね。噂の驍将とやらは小細工がお好きなようだ、などと思ったものだよ」
「なぜか最近よく言われるなあ、それ」
「……さっきからぼくは君に対してずいぶんと失礼な口をきいているんだが、怒るとかしないのかい?」
「それだけ友達を助けるために必死なんだ、と理解している」
 共感を覚えこそすれ、怒る理由などないのである。



「だから、ぼくと仲達は友などではないと何度いえば……ッ!」
「あ、あの! 士季さま、お久しぶりですッ」
 怒りに震える鍾会をなだめようとしてか、ここで司馬孚がはじめて鍾会に声をかけた。
 はじめ、鍾会は司馬孚の顔を見ても眉根を寄せるばかりだった。明らかに司馬孚が誰だかわかっていない様子である。だが、すぐに目を大きく見開き、思わずという感じで声を高めた。
「き、君、もしかして叔達か? どうしたんだ、その髪?!」
「今回の戦いに加わるに先立って切り落としました」
 司馬孚はその理由を説明しようとはしなかったが、鍾会が司馬孚の考えを察するにはそれだけで十分だったようだ。というより、十分だとわかっていたから、司馬孚はくどくど説明しようとしなかったのだろう。


 鍾会は乱暴に頭を掻く。そんな仕草さえ絵になるのは、美少女の特権であろうか。
「……ああ、そうか。そういうことか。まったく、司馬家は愚兄賢弟ならぬ愚姉賢妹だな。となると、下の妹たちは許昌に?」
「はい、陛下のもとに」
「そうか。それを知っていれば、ぼくも張太守に頼んで顔を見せてきたんだが……まあ、それはこの戦いが終わった後でもいいだろう。心配することはないよ、叔達。伯達どのや仲達はどうにもならないが、君や妹たちには咎が行かないように計らってあげるから」
 それは鍾会が口にするには明らかに過ぎた言葉だった。いかに太守の娘とはいえ、朝廷から正式に官位を授かっているわけでもないのだから。
 だが、何故だか鍾会が口にすると、そんな言葉さえ説得力をともなって響く。それはたぶん、鍾会の中でどうすれば望む結果にたどりつけるのか、そこへと至る道筋がはっきりと見えているからなのだろう。内に宿る確固たる自信が、その言葉に明晰な力を与えているのだ。


 ……なんというか、もう明らかに神童とかいうレベルではない。普通に丞相府で働けるのではあるまいか。もちろん高官として。
 俺はそんなことを考えつつ、鍾会を軍議の間に案内すべく歩を進めた。
 ふと足元を見れば、頭上で輝く陽光がひときわ濃い影を作り出している。どうやら今日も暑くなりそうであった。





◆◆◆






 洛陽の周辺にはいくつかの河川が存在する。もっとも知られているのは北方の黄河であろうが、南方にも大きな河が流れている。この河を洛河といった。
 洛陽という都市の名前の由来ともなったこの河は、黄河ほどではないにせよ豊富な水量を誇り、その一方で水流は黄河よりも緩やかで、洛河を源とする支流の数も多い。
 徐晃率いる司馬軍は、今、そういった支流のほとりで、連日の戦いの疲労を癒しているところであった。


 場所は洛陽の南方。東に目を転じても、南陽軍はおろか虎牢関さえ見て取れないところまで司馬軍は踏み込んでいる。ここが敵地の只中であることを考えれば、無謀と言われても仕方の無い行動であろう。
 しかし、周辺一帯の地理に通じる鄧範にとってはしごく合理的な選択であった。
 ここであれば、荀正の偵知に引っかかる恐れはまずないといってよい。
 注意するべきは南陽軍の他の部隊であるが、南陽軍は洛陽の保持を第一と考えているらしく、周辺地域の宣撫はまったくといっていいほど行われていない。そのことを、鄧範らは近辺の村民から教えられていた。
 

 今日まで偵騎の影ひとつ見かけないところからも、南陽軍の注意が城壁の外ではなく、内に向けられていることは明らかである。
 むろん、南陽軍とていつまでも後手にまわってはいないだろう。荀正の部隊から詳細が伝われば、洛陽の部隊も動き出すに違いない。時が経てば経つほどに司馬勢が追いつめられる危険は高くなる――が、鄧範は先の心配はしていなかった。鄧範たちに与えられた任は、七日の間、敵軍の後背を撹乱する、というものであったからだ。
『前半は武力をもって撹乱し、後半は静黙をもって撹乱すべし。しかる後、呼吸をあわせて南陽軍を撃滅せん』
 それが鄧範ら司馬勢が北郷一刀から受けた命令だった。
 最初の三日間は後方で暴れまわり、後の三日間は敵の目を避けて姿を隠すことで南陽軍の不安を煽る。
 その命令を、司馬勢はほぼ完全な形で成し遂げた。七日目――すなわち決戦は明日である。


 当初、後方撹乱は司馬勢の危険が大きすぎるとして北郷は作戦から除いていた。それを実行に移す契機となったのが、地理に通じた鄧範の存在である。
 鄧範にしてみれば、主家のために、と一兵士として参加したはずの戦いで、いつの間にやら主要な役割を担わされ、いまだに何が何やらという感覚を完全には拭えていない。
 だが、こと軍事において、能力を買われ、信任を与えられた経験がなかった鄧範は、自身の中に確かな充足感があることに気がついていた。
 そして、北郷はそのあたりまで見抜いて鄧範に重任を与えた節がある。どうにも北郷にいいように使われている気がして仕方ない鄧範だった。
「……食えない人だ」
 なんとはなしに左右の髪をいじくりながら、鄧範はついそんなことをこぼしてしまう。
 ふと、脳裏に先日北郷と交わした会話がよみがえった。





 
「驍将どの、一つ問うが」
 ぴしっと右手の人差し指を立てた格好で鄧範が問いを向けると、北郷はわずかに首をかしげ、先を促した。
「驍将どのは北郷が姓で、名は一刀だと聞いた。字は持っていないのか?」
「む?」
 予想外の問いだったのだろう。北郷は一瞬、困惑したように言葉を詰まらせたが、別段隠すことでもないと考えたのか、すぐに答えを返してきた。
「ああ、持っていない。俺の郷里では、用いるのは姓と名だけなんだ」
 その返答は、劉家の驍将にまつわる噂の一つが事実に基づくものであることを鄧範に教えた。


 すなわち――
「すると、驍将どのが中華の外から来られた人だというのは事実なのか。その境遇でここまで上り詰めるとは……むう」
「……質問なんだが、なんで俺は士則どのに睨まれているんだろう?」
「心に期するものがある身としては、驍将どのはなかなかに興味深い。率直に言うと、ねたましい」
 見る者が見れば拗ねていると取られかねないふくれっ面で、鄧範はそんなことを口走る。
 北郷は頬をかきつつ、口を開いた。
「ほんとに率直だな。いや、しかし、俺をねたむ必要はないと思うぞ。士則どのはいずれ――」
「オレがいずれ?」
「いずれ……うん、いずれ一国の軍勢を預けられるほどの高位に昇るからな」
「……その根拠を教えてもらいたいものだがな」
「ふ、根拠があればとっくに示しているさ」
 何やら髪をかきあげる仕草をする北郷(雨で髪が濡れていたので何の意味もなかった)を、鄧範は当惑したように見やり――その目がじとっとしたものに変じるまで、さして時間はかからなかった。


「……要するに、先日からやたらとオレを買っているのは、ただの勘ということか?」
 それは確認というよりも、無責任な褒詞に対する糾弾という色合いが強かったが、北郷はいささかも怯んだ様子を見せず、むしろ胸を張って応じた。
「いかにも勘だ。しかし、この手の俺の勘は外れない。例をあげると、無名時代の玄徳さまや雲長どの、張将軍、それに諸葛亮、鳳統、陳到、太史慈といった人たちが、いずれこの乱世で頭角をあらわすであろうことを、俺はその名を知った瞬間から見抜いていたぞ」
 断言する北郷。
 そんなことを言われても、その中の誰とも面識を持っていない鄧範には確認のしようもないのだが、大真面目な北郷の顔を見れば、少なくとも悪意をもって甘言を弄したわけではないことは理解できる。
 大体、北郷には鄧範に媚を売る必要など微塵もないわけで、それらを考え合わせれば、北郷が口にした『いずれこの乱世で頭角をあらわす』人物の中に鄧範が含まれているというのは、北郷にとっては疑いない事実なのだろう。


 かつて、ここまではっきりと鄧範の才能を認めてくれた人は司馬懿以外にいない。
 嬉しくないといえば嘘になってしまう。しかし、素直に礼を言うのも、なんとはなしに腹立たしい。ゆえに、鄧範はぼそりと呟くことしかできなかった。
 食えない人だ、と。




◆◆◆




 虎牢関西 南陽軍本陣


 軍中の動揺、静まらず。
 その報告を受けた荀正は渋面を浮かべた。その内心の懊悩を示すように、眉間には、ここ数日でひときわ深くなった観のあるシワがはっきりと刻まれている。
 だが、それも当然といえば当然のこと。
 後背で蠢動する敵騎兵を捕捉しえず、虎牢関には新たに援軍が到着した気配がある。虎牢関に入ったとおぼしき援軍が、具体的にどれだけの数なのかは定かではないが、曹操軍の士気が目に見えて高まっているのは離れた南陽軍の陣地から見ても瞭然としており、反対に南陽軍の戦意は目だって衰えていくばかり。
 一日ごと、一刻ごとに不利になっていく戦況への不安。その戦況を打開できない指揮官への不満。
 これまでは兵数の上では勝っているという勝算があったが、今となってはそれすら疑わしい。神出鬼没の騎兵部隊に補給路を脅かされ、いつ敵が後背から襲ってくるとも知れない状況が、昼夜を問わずに将兵の心身に負担を強いている。もし今、虎牢関の曹操軍が、新たに到着した援軍を先鋒にして突出してきたら、果たしてこれに勝利しえるのか。南陽軍の各処では、兵士たちが不安げに囁きあっていた。


 荀正は凡将である。
 ゆえに、致命的な失策を犯したわけでもないのに、圧倒的なまでに優位であったはずの戦況がいつの間にここまで崩れてしまったのか、その原因が理解できなかった。
 荀正は凡将である。
 ゆえに、もはや勝算なしと決断するまで要した時間はごく短かった。南陽軍には――否、荀正には、この苦境を覆し、虎牢関を陥とすだけの力量はない。兵たちに勝利を信じさせるほどの信望もない。軍中の動揺が静まらない現状こそが、その証左であった。


「……このまま洛陽に帰還すれば、間違いなく敗戦の責を負わされて太守に首をはねられる。それを避けるために滞陣を続ければ、曹操軍に敗れて首をはねられる。どちらにせよ死が避けられぬのであれば、兵士たちが犠牲にならない方を選ぶべきであろう」
 そう呟く荀正の声は苦く、その顔は青い。死をおそれて取り乱すような無様を晒すつもりはなかったが、粛然と死を受け容れられるほど肝が据わっているわけでもないのである。
 だが、一軍をあずかった者として、最低限の責務は果たさなければならない。兵を捨てて逃げ出す、という選択肢だけは荀正の脳裏に存在しなかった。


 ともあれ、荀正は決断を下した。
 が、すぐに行動に移ろうとはしなかった。曹操軍に退却を気取られれば、全軍をあげて猛追してくるだろう。現在の戦況で追撃を受ければ、軍の秩序を維持することは困難を極める。ゆえに、本格的に動くのは夜になってから、と荀正が考えたのは当然のことであった。
 幸いというべきか、後方で蠢動する敵の騎兵部隊はここ数日いたって大人しい。偵知の網にまったく引っかからないところを見るに、おそらく南の山脈を踏破して東まわりで虎牢関に戻るつもりなのだろう。


 考えをまとめた荀正は、まず主だった武将だけを本陣に集め、夜になり次第、闇にまぎれて洛陽に帰還する、と命令した。荀正は帰還という言葉を用いたが、それが敗北の末の退却であることは明らかであり、武将たちの中には反対を唱える者もいた。
 しかし、責任はすべて自分が負う、という荀正の言葉により、その声はすぐに勢いを失う。反対を唱えた者も、今の南陽軍に虎牢関を陥とす力がないことは承知していたのである。


 こうして、荀正らは極秘裏に退却にとりかかった。
 しかし、密やかはずのその動きを、じっと注視する者たちがいた。兵たちに退却の命令は伝わっていなかったが、指揮官たちが慌しく動いていれば、自然と目はそちらに向けられる。彼らはそんな兵士たちの中に混ざっていたのである。
 そのことに荀正は気づけなかった。まして、彼らが連日のように他の将兵に不安を訴えていた事実など知る由もなく――





 
 曹操軍の夜襲が行われてから、数えて七日目の夜。
 南陽軍は密かに退却を開始する。その陣地には常と同じように篝火が焚かれ、各処に立てた軍旗も残したままで、南陽軍は夜闇にまぎれて退いていく。
 荀正はみずから三千の兵を率いて殿軍を務め、虎牢関の動きに注意を払っていた。今宵は月が出ているので、彼方にそびえたつ虎牢関の偉容を確認することができる。月明かりの下、虎牢関は静まり返っており、曹操軍が追撃に出てくる気配はつゆ感じられなかった。


 どうやら上手くいきそうだ。
 そう考えた荀正が小さく安堵の息を吐こうとした時だった。
 不意に、後方で喊声が湧き上がる。
 荀正の周囲にいる将兵の顔に狼狽が浮かんだ。騒ぎを起こせば、曹操軍に気づかれてしまうと案じたのである。だが、そんなことはただの兵卒であっても承知していること、この状況で南陽軍が喊声をあげるはずはない。


 しばし後、慌しい馬蹄の音と共に、荀正の耳に急報が届けられる。
「申し上げます、敵騎兵部隊の襲撃ですッ! 戦斧の女将軍を先頭に、その数、およそ三百! 先頭部隊は反撃を開始しておりますが、敵騎の勢いすさまじく、侵入を許すのも時間の問題かと!」
 ここ三日あまり、鳴りを潜めていた敵騎兵の襲撃。
 敵がまだ洛陽方面に潜んでいたことも驚きだったが、それ以上に荀正が気になったのは、敵がこちらの陣列に突入してこようとしている事実である。
 これまでのように外周部に打撃を与えては退いていく一撃離脱の戦法ではなく、先ごろの夜襲と同様、こちらの腸に喰らいつくその動きは、明らかに他の部隊との連動を計算にいれている――


 まるで荀正がそれに思い至るのを待っていたかのように、河南の夜空に銅鑼の音が鳴り響く。腹の底まで響き渡るようなその音は、もはや南陽軍にとって葬送の音楽に等しい。
 報告をしていた使者も、銅鑼の音を耳にしてぎょっとした表情を浮かべている。
 銅鑼の音に動揺したのは使者だけではない。本陣周辺もたちまち騒擾に包まれていった。


「曹操軍だ! 出てくるぞッ!」
「槍隊、前へ! 我らは殿軍だ、我らが抜かれれば後方の友軍は全滅するぞ。なんとしてもここで防ぎとめるのだ! 昨日の汚名を返上するは今この時をおいて他になしと知れィッ!」
「で、でも、後ろの騒ぎはなんだよッ?! 後ろからも敵が来てるんじゃねえのか、だとしたら挟み撃ちだ、どのみち全滅しちまうよッ!!」
「わめいてどうする? それこそ敵に殺されるのを待つばかりではないかッ」
「おうよ。死にたくないのなら武器をとれ。案ずるな、敵の数はいまだ我らより少ない。命令どおりに動けば必ずや生き残れる、繰り返す、命令どおりに動けば必ずや生き残れるのだ! 武器をとり、指揮官の声に耳を傾けよッ!!」 
 動揺と混乱が渦を巻き、それを静めるべく指揮官たちが声を張り上げる。聞く限り、将兵は混乱しているようだが、指揮官の制止の声が届かないほど乱れ立っている、というわけではない。


 そのことを確認した荀正は、困惑した様子の使者に声をかけ、正気づかせた。
「そなたは急ぎ先頭の軍に戻り、指揮官に伝えよ。虎牢関の部隊は必ず我らが食い止める。落ち着いて敵騎兵を鏖殺せよ、とな。不意を突かれたとはいえ、敵の騎兵が寡兵であることにかわりはない。周囲を取り囲み、逃げ道を塞いだ上で馬を狙え。機動力の源を奪ってしまえば、騎兵などどうとでも料理できよう」
「は、はい、承知いたしました!」
「復唱せよ」
「『虎牢関の部隊は必ず我らが食い止める。落ち着いて敵騎兵を鏖殺せよ。不意を突かれたとはいえ、敵の騎兵が寡兵であることにかわりはない。周囲を取り囲み、逃げ道を塞いだ上で馬を狙え。機動力の源を奪ってしまえば、騎兵などどうとでも料理できよう』」
 荀正の言葉を繰り返すうちに、使者の目に光が戻ってくる。混乱の渦中にあって見失いかけていた自らの任務を思い出したのだろう。
 それを確認した荀正は、頷いて言った。 
「よし、ゆけ」
「はッ!」




 使者を送り出した荀正は、すぐに手勢をまとめ、間もなく襲来するであろう曹操軍を迎撃すべく馬を進める。
 陣頭に姿を晒しながら、荀正は内心で不思議に思っていた。時を同じくして前後から襲い掛かってきたところを見るに、曹操軍はほぼ完璧にこちらの動きを掴んでいたのだろう。それはわかる。わかるが、一体どうやってこちらの動きを知りえたのか。
 考えられるとすれば、裏切り、内通、そのあたりなのだが……そこまで考え、荀正は苦笑しつつかぶりを振った。
「この期に及んで己が無能を棚に上げ、部下を疑うなど惨めに過ぎるな。勝とうと負けようと、この首と胴が離れるのは避けられぬ。ならばせめて、自ら誇れる死に方をしたいものだ」
 それは荀正なりの覚悟の表明であった。
 誰に語る必要もなく、知ってもらう必要もない、自分自身に向けた言葉。


 虎牢関から突出してきた曹操軍は、大地と夜気を震わせて南陽軍へと殺到してくる。耳朶を打つ敵の喊声や、視界に映る灯火の数を見るに、その数は五千以下ということはない。逆に、一万以上ということもあるまい。
 おそらくは五千から六千、荀正はそう見切った。
「すると、援軍の数は三千から四千、というあたりか」
 この情報は洛陽に知らせる必要があるだろう。だれぞ兵を選んで――と荀正が考えたときだった。


 突如として後方から驚愕の声が沸き起こった。ついさきほどの喊声よりもさらに近い。
 このとき、荀正が落ち着きを保っていたのは、冷静さの賜物というよりは、もう驚きを感じるだけの感受性が残っていなかったからかもしれない。
 はや敵の騎兵がここまで踏み込んできたのか、などと考えつつ、荀正は後方を振り返る。
 そこに騎兵の姿はなかった。あったのは、南陽軍の中軍に置かれていた軍需物資――武具や兵糧が次々に炎に包まれていく光景だった。兵士たちの中には火を消そうと試みる者もいたが、その勇気と献身はほとんど報いられなかった。火は一箇所ではなく、複数の場所で同時に発生した。すぐに水を用意することはできず、土や砂をかけても効果はほとんどない。そうこうしている間にも、火は次々に燃え広がっていく。右往左往する兵士たちに混じって、運搬のための牛馬が炎に追われて逃げ惑い、悲痛な声をあげている。遠からず火は放置されていた幕舎におよび、火勢はいよいよ勢いを増すであろう。


 失火とは考えられない。何者かが、この時を見計らって火をつけてまわったのである。しかも各処で一斉に火が放たれたということは、動いている人員は一人二人ではありえない。
 敵襲。伏兵。裏切り。
 そんな単語が、混乱の渦中から荀正の耳に飛び込んでくる。だが、その真偽を確かめている暇はなかった。
 なぜなら、虎牢関から出撃してきた曹操軍は、すでに互いの顔が確認できる距離まで接近していたからである。


 南陽軍の混乱と狼狽が頂点に達する、その寸前。


「うろたえるなあッ!!」
 荀正の口から、自分自身、驚くほど大音量の叱咤がほとばしった。
 敵の策にしてやられたことは疑いない。だが、呆然としたまま敵に討たれてやる義理はない。
 窮地に追い込まれたことで、かえって荀正は吹っ切れた。討たれるにしても、せめて最後まであがいてやろう、と。
「罠に落ちたのならば、力でこれを食い破るまでのこと。座して敵に首級を授けてなんとする! 剣を抜け、槍を持て! 我らこれより曹操軍に対し、突撃を敢行する! 皆、我に続けィッ!!」


 その突進は、一言でいえば無謀であった。
 あらかじめ何の説明もなく、さらには混乱の渦中にある兵士たちの耳に命令が届いたかも定かではない。仮に届いたとしても、無謀としかいいようのない突撃に従おうとする兵士がどれだけいるのか。
 それは荀正にもわからなかった。あるいは、気がふれたとさえ思われたかもしれない。
 だが、荀正は配下の反応が返ってくるのを待たず、馬の腹を蹴り、槍を扱き、殺到してくる曹操軍に対し、正面から突っ込んでいく。
 その目には、もはや眼前の敵しか映っていなかった。


 そして。
 この主将の勢いに殿軍を務めていた南陽軍は引きずられた。あえて理由を求めるならば「このまま立ち尽くしていては敵に討たれるのを待つばかり」という荀正の言葉に理を認めた、ということになろう。
 だが、相次ぐ凶報と混乱に挟撃されていた南陽兵の中で、そこまで冷静に物事を判断できた兵が何人いただろうか。それを考えれば、無謀であれなんであれ、やはり荀正の怒号と勢いが将兵のためらいを押し流したのだろう。


 曹操軍にしてみれば慮外のことである。
 ほぼ完璧に罠に落としたはずの相手が、向こうから喊声と共に突っ込んできたのだから。
 はじめて。
 虎牢関をめぐる一連の攻防において、はじめて南陽軍は曹操軍の虚を突いた。
 この時、荀正が率いていた殿軍はおよそ三千。対する曹操軍は倍の六千。しかもその主力は鍾会が率いてきた無傷の精鋭である。南陽軍が予期せぬ逆襲を仕掛けてきたとしても、押し包んで討ち取ってしまえば問題はない――はずだった。


 だが、この時、南陽軍は勢いにおいて曹操軍を凌駕する。南陽軍の逆撃で曹操軍の先陣は乱れ、これを立て直そうとするも、南陽軍はその暇を曹操軍に与えない。やぶれかぶれ、自暴自棄、そんな言葉があてはまりそうな猛襲は、曹操軍をして怯ませるほどの迫力を持っていた。
 泥土がはね、怒号がはじけ、敵意が奔騰する。ほとんど一瞬で、戦場は殺意と狂気に覆い尽くされた。
 穂先が剣先が絡み合い、無数とも思える金属音が耳を乱打する。喊声と絶叫、咆哮と悲鳴が交錯し、両軍の兵士は闇夜の中で激しい殺し合いを繰り広げた。


 その先頭を駆ける荀正は、馬上で槍を手にしながら果敢に敵兵と渡り合う。
 行き交った騎兵の肩をすれ違いざまに貫いて落馬させ、槍で突きかかってくる歩兵を叩き伏せて地に這わせ、周囲の将兵を鼓舞するべく声を張り上げながら、前へ前へと突き進む。
 荀正には飛将軍のように他を圧倒する武力はない。だが、荀正もまた一軍をあずかる武人である。まして今の荀正はここが死処と思い定めた、いわば死兵。その武威は凡百の兵士の及ぶところではなく、たとえ陳留の精鋭軍といえど、その突進を阻むのは容易なことではなかった。


 なおも槍を振るい、馬腹を蹴って、曹操軍の奥深くへ切り込んでいく荀正。
 眼前の曹操軍がなだれをうって後退する。それを見た南陽軍から新たな喊声があがった。彼らの将の勇猛が敵を怯ませたのだ、と考えたのだ。その認識は活力を生み、活力は勢いへと変じた。
 将兵一丸となった南陽軍が、さらに曹操軍を追い立てるべく前進しようとする――が、その前進は中途で遮られた。
 横合いから新たな兵馬の一団があらわれ、荀正らの側面を突いたのである。


「がッ?!」
「ぐッ!」
 荀正の周囲にいた兵士が地に倒れ、あるいは膝をつく。
 新たに現れた敵兵の強剛は、明らかにこれまでの相手よりも抜きん出ていた。おそらくは曹操軍の中でも屈指の精鋭部隊なのだろう。それこそ、主将直属であってもおかしくないほどの――


「ぬッ?!」
 夜闇を裂くように突き込まれて来た穂先を、荀正は鞍上で身をのけぞるようにして避ける。
 危ういところで槍を避けた荀正は反射的に反撃を繰り出すが、力無い一撃はあっさりと敵に弾き返されてしまった。
 敵――槍を抱え持った青年は眼光鋭く此方を見据えている。その顔に、荀正はどことなく見覚えがある気がした。
 その名に思い至ったのは、青年の軍装に目を向けた時である。
 夜襲に合わせてのことか、青年は戦袍も甲冑も斗蓬(マント)もすべて黒を基調としていた。だが、地味だの粗末だのといった表現はまったくあてはまらない。地味どころか、篝火を反射して輝くのはおそらく白銀。白銀をふんだんにあしらった装備など、そこらの兵卒がまとえるものではない。
 

 北郷一刀。
 その顔に見覚えがあるのは道理。虎牢関を巡る攻防において、その姿を目にしたのは一度や二度ではない。むろん、こうして至近で顔をあわせ、刃を交えるのは初めてであるが。
 相手の正体に気づいた荀正は、しかし、逸ることも怖じることもなかった
(誰であれ、かまわぬわッ)
 荀正にはここで退くという選択肢は存在しない。
 ゆえに、相手が誰であろうと、実力をもって押し通るのみである。


「殺ッ!」
 馬をあおり、渾身の力を込めて突きかかっていく。
 夜気を裂いた穂先は、まっすぐに北郷の喉元へと伸びていった。




◆◆◆



 右の頬が裂け、血が弾けた。
 繰り出された敵将の槍をかわしそこねたのである。
 お返しとばかりに槍を突き出す。
 狙いは槍を持つ右腕だ。穂先は狙いたがわず相手の右肩を突いたが、甲冑に弾かれてわずかに皮膚を切り裂くにとどまった。
 一瞬、体勢を崩しかけた敵将は、しかし巧みに馬を操って俺に追撃を許さない。
 俺は槍を手元に引き戻し、荒れた呼吸を整えつつ次なる激突に備えた。


 しくじった――そんな言葉が胸中に漂っている。たった今の一連の攻防について、ではない。騎兵として出撃した、その決断を俺は悔いていた。
 徐晃と訓練を重ねていたとはいえ、それは互いに折を見てのこと。一日中訓練ばかりしていたわけではない。そんな状況で一月やそこら過ごしたところで、実戦に耐えうる技量が身につくはずもない。
 だから、出撃するにしても、先日のように歩兵として出た方が戦力になれただろう。
 それを承知しながら、それでも俺が騎兵として出撃したのは、はっきり言ってしまえば騎兵戦闘に慣れるためだった。すべての策が成功すれば、南陽軍はまず間違いなく総崩れになる。おそらくは最初から追撃戦になるだろう。逃げる南陽軍を追うだけの戦いならば、追う俺たちが圧倒的に有利であり、危険も少ない。いずれ騎兵として戦場に出る時は必ず来るのだから、今日の戦でそれを経験しておこう――俺はそんな風に考えたのである。
 一言でいってしまえば、南陽軍を甘くみてしまったのだ。


 ただ、わずかに弁護させてもらえば、実際に南陽軍の後方には徐晃が襲い掛かり、中軍からは火の手があがった。むろん、これは先日来、敵軍に潜伏していた棗祗らの仕業であるが、ともかく俺の策が成功したのは事実である。
 あとは退却する南陽軍を追い討つだけ――となるはずだったのだ。この戦況で、乱れたった南陽軍が敢然と反撃してくるなど、一体誰に予測できようか。それもその場にとどまってこちらの攻撃を受け止めるというのではなく、逆にこちらに向かって突っ込んでこようとは。
 結果、周囲はたちまち敵味方が入り乱れて戦う乱戦の様相を呈し、俺はその真っ只中で慣れぬ騎兵戦闘を強いられることになってしまったのである。


 さっさと馬から下りてしまうという手もあったのだが、最初から歩兵として出撃したならともかく、仮にも主将たる身が、敵と激突したとたん、さっさと下馬してしまえば、それはそれで味方の士気を挫いてしまう。俺の姿が馬上から消えれば、俺が討たれた、あるいは負傷したと思ってしまう兵もいるだろう。
 こうなれば、張莫からもらった甲冑――黒甲に白銀をあしらった一品――を信じ、敵を押し返すしかあるまい。
 そう決意した俺の目に、南陽軍の先頭に立って突っ込んでくる敵将の姿が映し出された。
 鬼気迫る突進、味方の兵士が次々と槍先にかけられていく光景を目の当たりにして、俺は真っ先にこう考えた。
 あれが敵の勢いの源だ、と。
 そして、その考えは必然的に次の結論を導いた。
 すなわち――
 あれを討てば勝てる、と。 


 ……後日、身の程をわきまえなさいと各方面から説教をくらうことになるのだが、この時の俺はごく自然に敵将に対して馬を進めていた。





「シャアッ!!」
「らァッ!」
 雄たけびをあげ、力任せに槍をぶつけ合う。
 互いに馬を御しながらの必死の攻防は、力強くはあっても、美しくはなかっただろう。まして、見る者の魂を奪う華麗な武の競演、などとは口が裂けても言えないに違いない。そういった他者に語り継がれる戦いを披露するには、二人とも明らかに器量が不足していた。
 それでも、どれだけ無様であろうとも、俺と敵将が互いに命を懸けて戦っているのは疑いのない事実。耳朶を焼く槍撃の音は、その一つが一つが相手の命を奪う必殺の意思が込められたものだった。


 少しでも気を抜けば、相手の槍に喉元を貫かれる。
 そんな慣れない馬上戦闘で、俺がまがりなりにも敵将と渡り合っていられるのは、やはり徐晃との訓練のおかげだった。いかに敵が強剛であろうとも、徐晃には及ばない。脳裏に刻まれた鋭鋒を思えば、敵将の猛攻とて十分に対処しうるものだった。
 むろん、だからといって、俺に余裕があるわけではない。なにしろ、敵将は徐晃と違って明確な殺意をもって攻撃を繰り出してきており、その迫力は訓練で味わうことができない類のものだ。おまけに、篝火や、松明の明かりがあるとはいえ、夜闇の影響は確実に攻防に及んでいる。さらには、俺たちは別に一騎打ちをしているわけではなく、周囲で戦う将兵の動きにも注意を払わねばならなかった。いつ、他の南陽兵が俺に斬りかかって来るか知れたものではないのである。


 もっとも、条件は敵も同じ――というより、周囲の戦況は敵将よりも俺に利していた。
 南陽軍の勢いは激しいが、俺の周囲にいるのは陳留勢の中でも特に腕の立つ者たちであり、俺が戦っている間も着実に敵の兵力をそぎ落としている。敵将の槍が俺に届かない理由の一つは、そういった周囲の戦況にもあるだろう。
 もっといえば、南陽軍が逆襲に転じたといっても、それはあくまで殿軍のみ。大半の南陽軍は徐晃の奇襲と、陣中の放火に混乱しており、その混乱は時が経てば経つほどに拡がっていく。
 極端なことをいってしまえば、ここで守勢に徹して敵軍の崩壊を待つという手段も俺たちはとれるのである。


 逆に、南陽軍は現在の戦況を覆すために――あるいは、一人でも多くの兵を安全に退却させるために、ここで少しでも俺たちを叩いておく必要がある。
 南陽軍の激しい逆撃は、それを承知してのことであろう。であれば、これをいなして相手の焦りを誘うという手段もとれるのだが――
 と、その時だった。
 不意に俺の馬が悲痛ないななきをあげて横転した。


「なッ?!」
 驚愕の声をあげる暇もあらばこそ、俺はたちまち馬上から転がり落ちてしまう。この状況で、咄嗟に鞍上から身体を投げ出し、馬体の下敷きになることを避けたのは我ながら上出来であった。
 地面に落ちた衝撃で一瞬息が詰まったが、そんなことは気にしていられない。すばやく立ち上がった俺の視界に映ったのは、首筋に一本の矢が突きささった馬の姿。狙って放たれた矢とも思えないから、おそらくは混戦の流れ矢であろう。
 しかし、のんきにそんな考察をしている場合ではなかった。ここが勝機と見定めた敵将が、馬をあおって猛然と突きかかってきたのである。


「死ねッ!」
 続けざまに繰り出された槍撃の回数は三。
 すでに槍は手元から失われている。腰の剣を抜いている暇はない。
 初撃はかろうじて避けた。しかし、続く次撃は避けきれず、右肘から血が吹き出す。咄嗟に右手を握り締めると、指は問題なく動いたので、神経は無事のようだ。
 三度目に繰り出された敵の槍は、まるで引き寄せられるようにまっすぐに俺の胸――心臓めがけて伸びてきた。敵の穂先が胸甲に届く。
 敵将の目に勝利を確信する光が浮かび上がるのを、俺ははっきりと目にしたように思った。


 ――しかし。
「咄ッ」
 敵将の口から、思わず、という感じで舌打ちがこぼれる。敵将の槍は甲冑を貫くには至らなかったのだ。攻撃が浅かったわけではない。その証拠に、俺は息が詰まるほどの衝撃を受けている。それでも、俺が着ている黒甲は敵将の穂先を完璧に防ぎとめていた。


『黒と銀は夜天をあらわす。武運を祈るぞ、北郷』


 そんな言葉と装備一式を残して虎牢関を去った人物の顔が脳裏に思い浮かぶ。
 なんだかまた一つ借りが出来てしまった気がするが、このさい感謝は後回し。
 必殺を期した一撃を防がれた敵将が体勢を立て直す前に、俺はすばやく腰の剣を抜き放った。
 そうして俺が斬りつけたのは、馬上の敵将ではなく、地上を駆ける馬の方。馬を狙うのは正直嫌だったが、あいにく今の俺にはその綺麗ごとを貫くだけの力量がない。


 右の前脚を半ば叩き折られた馬は、悲痛な叫びと共に地面に崩れ落ちる。当然、鞍上の敵将も、つい先ほどの俺と同様に地面へと転がり落ちた。
 その瞬間、俺の耳に表現しがたい異音が響く。
 俺はそれが何の音かわからず、また音の正体を探っている暇もなかった。敵将が体勢を整えるまえにとどめを刺さねば。そう考え、俺は倒れた敵将に向かって剣を突きおろそうとしたのだが――
 寸前。敵将の首がごろりと傾き、白目をむいた顔があらわになる。一瞬の間をおいて、その鼻と口から赤い色の液体がこぼれおちていく。
 絶命していた。おそらく、地面に転落した際に頸骨が砕けたのだろう。


 呆気ない幕切れは、喜びよりも困惑を俺にもたらした。耳に轟く自軍の喊声も、敵軍の悲痛な声もどこか遠い。
 俺は半ば呆然としながら、互いに名乗りもせずにぶつかり合った敵将の死屍を見つめていた。






◆◆◆





 同時刻


 司州河内郡 孟津


 洛陽の北を流れる黄河、孟津はその北岸に位置する砦である。『津』とは渡船場を意味する言葉であり、白馬津や延津と同様、孟津もまた勢いの激しいことで知られる黄河の渡河点の一つである。
 かつては河北と都を結ぶ中継地として賑わっていた孟津であるが、洛陽が都市としての機能を喪失したことに伴い、その賑わいも過去のものとなった。
 砦そのものは廃棄されなかったものの、守備兵は往時の十分の一にも届かない。弘農王が洛陽で蜂起したことで、多少の兵の補充は為されたが、洛陽勢が黄河を渡る可能性は皆無に等しい。よって、対岸を見張る守備兵の目に緊張の色はなく、今日も今日とて彼らの目に映るのは奔騰する黄河の流ればかりであった。


「……水かさがどんどん増えてるな。いつ黄河が氾濫するのか、洛陽の敵兵よりもそっちの方がよっぽど恐ろしいや」
「そうだな。この季節、いつ氾濫が起きても不思議じゃない。堤防の方は大丈夫か?」
「当番の連中が泥まみれになって文句言っていたぞ。どうせ一度氾濫が起こったら、こんなちんけな堤防、何の役にも立たねえのにってな。見張りは楽でいいなあ、なんて嫌味まで言われちまったよ」
「楽であるのは否定できないな」
「賭けで見張り役を勝ち取った俺たちは、まさに勝ち組」
「違いない」
 そういって見張りの兵士たちは笑みを交し合った。


 洛陽の反乱軍が黄河まで押し寄せてくるはずはなく、万に一つ押し寄せてきたとしても、巨石すら押し流してしまいそうな今の黄河の流れを越えられるはずもない――その彼らの考えは間違ってはいなかった。事実、この時、対岸に敵の姿はなかったのだから。
 ただし、敵はいた。
 対岸――南ではなく、北の方角に。
 刻一刻と孟津に向けて接近する『袁』の軍旗の存在に、この場の見張りはもちろん、孟津の守備兵は誰ひとりとして気づいていなかった……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/11/18 23:00
 司州河内郡 孟津


 戦いは激しく、そして短かった。
 泥濘の中に倒れ伏した『曹』の軍旗を鉄靴で踏みつけた袁紹軍の指揮官は、つい先刻、陥落した孟津の砦を見渡して、唇の端を歪めた。
「ふん、たわいない」
 降り続く雨で額に張り付いた前髪をかきあげると、血胤の良さを思わせる貴公子然とした容姿があらわになった。右の頬から左の頬へ、鼻梁を通って一条の傷跡がはしっていることも見て取れる。
 鋭く引き締まった体躯は戦陣を疾駆する武将のそれであり、秘めた戦意と迫力をうかがわせる面差しは、孟津を襲撃した五万の袁紹軍を率いるに相応しいものと思われた。


 姓を高、名を幹、字を元才。
 袁紹から并州牧に任じられた、それがこの人物の名である。
 袁家と高家は古くから交誼があり、とくに袁紹と高幹はきわめて近しい血縁関係にある。高幹が若くして一州を統べる地位に就いたのは、この血縁関係に拠るところが大きかった。が、ただ血縁のみを重視した登用でないことは、これまで高幹が築き上げてきた功績が無言のうちに証明している。
 并州は九つの郡によって構成されているのだが、現在は州都である晋陽、要害である壷関を含む実に七郡が袁紹の勢力下にある。高幹が州牧に任じられたとき、袁家の手にあったのが二郡だけであったことを思えば、高幹の功績の巨大さが理解できるであろう。


 壷関を根拠地として并州平定を進めていた高幹が、一転して南に進出してきたのは、もちろん独断ではない。袁家の軍師 田豊の策に従った対曹操の軍事作戦の一環だった。
 現在、袁紹と曹操は黄河を挟んで対峙を続けている。黄河北岸の黎陽には袁紹率いる三十万の軍勢が、黄河南岸の白馬には曹操率いる十五万の軍勢が、開戦の時を今や遅しと待っている状況である。
 数の上では圧倒的に優勢な袁紹軍であったが、黄河の流れに阻まれ、みだりに攻撃を仕掛けられないでいた。渡河の最中に攻撃を受ければ、たとえ袁紹軍が相手に倍する兵力を有していようとも、苦戦を余儀なくされるのは明白であったからだ。


 それを避けるためには、曹操軍を挑発して渡河を強行させるか、さもなければ渡河中の袁紹軍を攻撃出来なくなる状況を作り出さなければならない。たとえば、袁紹軍の別働隊が背後を脅かせば、曹操は軍を退かざるを得なくなり、袁紹軍の本隊は悠々と黄河を渡ることができるだろう。
 田豊が高幹に命じたのは、まさにこの役割である。
 田豊から河内郡攻撃の指示を受けるや、高幹はただちに兵を動かした。高幹が州牧として動かせる兵力は八万あまり。高幹はそのうち二万を壷関に残し、六万の軍勢をもって南下を開始する。
 曹操配下である河内郡太守張楊は、決して并州方面の備えを怠っていたわけではない。事実、配下の眭固、楊醜らに兵を与えて高幹の南下に備えさせていた。
 だが、黎陽に腰を据えた袁紹軍の本隊が、突如西に兵を動かして河内郡に襲来する危険性を慮れば、どうしても軍の主力は東部に配置せざるを得ず、結果として高幹の南進を許してしまう。


 高幹が率いるのは音に聞こえた并州騎兵、さらに配下にも高覧、張恰といった勇将が居並んでいる。眭固、楊醜らは必死の抵抗を試みたものの、数、質、共に上回る并州軍によって卵を踏み潰すがごとく粉砕され、拠点のひとつである野王に逃げ込むことで、かろうじてその軍は壊滅を免れた。
 高幹は城攻めに時を費やすことはせず、一万の歩兵を割いて野王を攻囲させると、自身は残りの五万を率いて河内郡を北から南へと縦断、黄河北岸に位置する孟津を強襲したのである。




「あ、いらっしゃった。若さま!」
「……」
 忙しげに立ち働く兵士たちの間をぬって、二人の武将が高幹の下へとやってくる。
 凹凸のある甲冑と、雨で身体に張り付いた服のラインから、いずれも女性であることがわかる。
 雨中にたたずむ高幹を見つけ、声をかけてきた武将が高覧。
 無言で歩み寄り、丁寧に一礼したのが張恰。
 高覧は高幹が戦場に立つようになって以来の、張恰は高幹が并州牧に任じられて以来の配下である。


「若さま、命じられたとおり、捕虜の皆さんに集まってもらいました」
 戦が終わった後とはいえ、どこに敵が潜んでいるかしれないとあって、高覧は武器をしっかりと握っている。長柄の棒の先に子供の頭ほどの大きさがある鉄球(トゲ付き)が付いている錘(すい)と呼ばれる打撃武器の一種である。
 鉄球部分には、この雨でも完全には洗いきれない赤黒い色の液体がこびりついており、それは戦闘での高覧の勇戦を証し立てている。ただ、戦場を離れると気の優しい高覧は、勝敗が決した後の流血を嫌っており、高幹がどういう意図で捕虜を集めるよう命じたのかが気になっている様子であった。


 かつて、并州一帯には張燕という人物に率いられた黒山賊という名の賊徒が存在した。張燕は一軍の将としてはもちろん、組織者としての才覚も兼ね備えており、彼が率いる黒山賊の鎮圧には袁紹も散々手を焼いたのだが、最終的には張燕は高幹の手によって討ちとられ、配下の賊徒もほとんどが降伏して袁家の治下に入った。
 だが、この時、張燕直属の二千ほどの人数があくまで袁家に従うことを拒み、反抗を続けたため、高幹は策をもって彼らを捕らえたのち、その全員を撫で斬りにしてしまった。そのことを高覧は覚えており、今回も同じことをするつもりではないか、と気に病んだのであろう。


 高幹はその高覧の視線に気付いていたが、とくに何を言うこともなかった。わざわざ口にせずとも、すぐにわかることだ、と。
 高幹は必要とあらば捕虜を斬ることにためらいなど感じないが、必要もなく、他者の命を奪って喜ぶ趣味は持ちあわせていなかった。
「覧、動ける捕虜はどれくらいいる?」
「千人ほどでしょうか。砦にいた守備兵が二千あまり。戦死者は三百、重傷者は倍の六百。逃げ切った百名あまりの兵を除けば、残余の兵はすべて投降しました」
「それだけいれば十分だ。儁乂(しゅんがい 張恰の字)、例の荷を捕虜たちのところに運び込んでくれ」
「はい」


 張恰がうなずいて踵を返すと、角度によっては銀色とも、また白色ともとれる長い髪が、雨滴を吸って重たげに揺れた。
 その後ろ姿を見やりながら、高覧は小首を傾げる。
「若さま、例の荷というのは、あの荷駄部隊の後ろの方にあった大荷物ですよね。あれは一体なんなのでしょうか?」
「……説明してほしかったら、いい加減に若さまはやめろ。かりにもこの身は州牧だぞ」
 高覧はまたも小首を傾げた。そして、心底から不思議そうに問いかける。
「若さまは若さまです。どうして呼び方を改めないといけないのでしょう?」
 高幹はそれに対して何か反論しようとしたが、途中で止めた。これまでの経験から、何を言おうと高覧が呼び方を改めることはないと悟ったのである。


「……まあ、いい。荷駄のことなら、あれは羊の皮だ」
「羊の皮、ですか?」
「ああ。空気がもれないように加工してある。中に息を吹き込めば水に浮き、これを木で組めばイカダになる。羊皮筏子というやつだ」
 それは古くから黄河を渡河する方法として知られているものだった。
 并州は牧羊の盛んな騎馬民族と境を接しており、大量の羊を手に入れるのはさほど難しいことではない。ただ、羊の皮をはぎ、それを加工することは一朝一夕で出来ることではなかった。既製品を買い集めるにしても、丁寧に加工された羊皮は、時に生きている羊一頭に迫る高額で取引されることもあり、これまた容易に数を揃えることができるものではない。
 それでも高幹が渡河が可能なだけの羊皮を揃えることができたのは、田豊の命令が来る以前から、大軍で黄河を渡河する準備を整えていたからに他ならなかった。


「曹操との激突は不可避。韓信は木桶で河を北に渡り、この元才は羊皮で河を南に渡る。韓信は国を平らげたが、さて、こちらはどうなるか」
 それを聞いた高覧は、少し困った顔で高幹の顔を見つめた。
「あの、やはり黄河を渡るおつもりなのですか? 田軍師さまの命令はそこまで求めていないと思うのですが」
 田豊の命令は壷関から南下して河内郡を急襲することであり、黄河を渡れとは言っていない。
 河内郡を縦断して黄河に達したことで、張楊をはじめとした曹操勢には大きな脅威を植えつけることが出来たはず。高幹たちは田豊の命令をほぼ完全に果たしたといっていいだろう。あとは温や懐といった各地の重要拠点を潰し、占領地域を広げていけばいいのではないか、というのが高覧の考えであった。


 しかし、高幹の考えはそんな高覧の常識的な判断を軽々と飛び越えていく。
「元皓(田豊の字)は河内郡を急襲した後のことまで指示していない。麗羽さまの命令も届いていない。つまり、この後どう動くかはこの元才に委ねられている、ということだ」
 ならば、黄河の北で撹乱にいそしむよりも、一気に黄河を渡り、虎牢関と汜水関を落としてしまえばいい。この二関はいずれも洛陽を守るための関門であり、洛陽方面からの攻撃には弱い。おまけに守備兵たちは、袁紹軍があらわれるなどとは想像だにしていないはず。勝算は十分にある。
 この二関を陥落させれば、あとは無防備の許昌をあますのみ。曹操が高幹の動きに勘付いて許昌に戻るならば、それもまたよし。黎陽の本隊は妨害を受けることなく黄河を渡ることが出来る。高幹は袁紹の本隊と合流し、あらためて許昌を攻囲するまでだ。


 その高幹の考えを聞いた高覧はおとがいに手をあて、ややためらった末に疑問を口にした。
「相手は名にしおう曹孟徳です。こちらの動きを読んでいる、ということはないでしょうか?」
 ひとたび黄河を渡ってしまえば、容易に引き返すことは出来なくなる。敵に策があれば、高幹たちは河南の地で包囲殲滅の憂き目に遭うかも知れない。高覧はそれを案じたのだが、彼女の上役は一顧だにしなかった。
「今の曹操が動かせる兵力は、ほぼすべてが白馬と北海に集結している。それが元皓の判断であり、元才も同意見だ。洛陽政権がいまだ健在であることも、この推測を裏付ける」
 もしも、曹操に高幹たちの軍勢に対応できる兵力が残っているのなら、とうの昔にその兵力を用いて洛陽を制圧しているに違いない。それをしていない――出来ない、ということは、曹操に余剰兵力がないことを意味している。


 うなずいた高覧であったが、すぐに別の危惧を口にした。
「その洛陽の方々も、私たちの通過を黙って見過ごしはしないと思われますが」
「問題ない。洛陽には白騎を送り込んである。制圧するか、無視するかは彼奴の報告次第だが、こちらの作戦を妨げる障害にはならないだろう」
 おお、と高覧は驚いて目を丸くした。
「どうりで最近、張晟さんの姿を見かけないはずです。でも、あの人は、若さまにこてんぱんにされた黒山賊の生き残りですよね。信用できますか?」
 少し不安げな高覧に対し、高幹はこともなげにうなずいてみせた。
「今の洛陽と、我ら河北とを比べて、洛陽を取るほど先の見えない奴ではない。その意味で信用はできる――ん?」


 高幹が急に言葉を切り、頭上に目を転じた。雨足が急に強まってきたのだ。
 つられて、高覧も空を見上げる。二人の視線の先で、空は分厚い雲に覆われ、天候が回復する兆しはまったくといっていいほど感じ取れない。
 高幹が小さく息を吐いた。
「――覧、言うまでもないが、歩哨には後方にいた兵たちをあてろ。間違っても、今日の戦いに加わった兵をあてたりするなよ」
「はい、かしこまりました」
「それと、捕虜たちには作業を明日中に終わらせなかった場合、あるいは手を抜いた場合には、黄河を鎮める人柱として、濁流に叩き込んでやると伝えておけ。死にたくない奴は死ぬ気で働くだろう」
「そちらも了解しました。では後のことは私と儁乂さまに任せて、若さまは砦の中にお入りください。乾いた布を用意させてますので、しっかりとお体を拭いてくださいね。あ、きちんと髪も、ですよ。若さまは髪が長いのですから、面倒だからといって放っておくと身体が冷え、風邪の原因になってしまいます。しっかりと服も着替えて――」


 いつまでも続きそうな諸注意に対し、高幹は他者に滅多に見せない(けれど高覧相手だとよく見せる)表情をひらめかせた。げんなりしたのである。
「……元才はもう子供ではない。高家にいた時とは違うのだ。はやく行け、覧」
「はい! では行って参りますッ」
 ぴしっと一礼してから去り行く高覧。張燕につけられた顔の傷をなんとはなしになぞりながら、高幹はほぅっとため息を吐くのだった。






 司州河内郡 虎牢関


 南陽軍との戦いが終わってはや数日。
 負傷者の手当てや重傷者の後送、戦死者の弔いといった諸々がひと段落し、俺はようやくその日の夕食にありついていた。
 日々の食事は徐晃や司馬孚を弄るのに優るとも劣らない俺の癒しの時間である。近頃はここに鄧範や鍾会も加わっていたりするのだが――どっかから抗議の声が聞こえてきた気がするが、とりあえず今は食事に集中するべし。というか、焼きたての餅(ピン)のかぐわしい香りのおかげで、否応なく食事に集中せざるを得ない。


 餅は小麦を練って伸ばした生地を焼いたものである。これに肉や魚、野菜などを乗せたり巻いたりして食べるのだが、張莫配下で、今は俺の副将格となっている棗祗が胸を張って自慢するように、陳留の小麦でつくった餅は実においしく、そのまま食べても十分にいける。個人的には胡麻入りが好み。
 肉は鹿や鶏、豚、時には羊や牛も出てくるのだが、この肉にネギなどの野菜をそえて餅と一緒に頬張れば、この世にこれ以上うまいものがあろうかという気にさせられる。ピリっとしたネギの辛さが肉の味を引き立て、凝集した旨みを小麦の生地が優しく包みこんで生まれるハーモニーは正しく至高。 これに羹(あつもの 肉と野菜をこれでもかと詰め込んだ熱いスープ)が加われば、まさに鬼に金棒、関羽に青竜刀である。


 一応断っておくが、兵士に粗食を強いて自分だけ贅沢しているわけではない。虎牢関は後方からの補給は自由に受けられるため、食料をはじめとした物資に窮することはなく、俺の口に入るものは、ほぼ同じ形で兵士たちの口にも入るのである。たまに俺だけ肉のランクが上がって、羊肉(中原では珍しいので高い)や牛肉(牛は労働力なので滅多に食さない)が出たりするのだが、これは指揮官特権ということで許してほしい。
 それはさておき、鍾会が四千の援軍と一緒に大量の物資を持ってきてくれたので、食料庫には余裕がある。指揮官としての責務に加え、徐晃に頼んでいる騎乗訓練にもこれまで以上に身を入れているため、俺のカロリー消費量は増大の一途をたどっており、それに比例して食事量は増える一方だった。同席している人が目を丸くするくらいに、である。




「……ふう、ご馳走さまでした」
 満足の息を吐き、俺が手をあわせると、同じ卓を囲んでいた徐晃が感心したように口を開いた。
「よく食べるね、一刀」
「腹が減っては戦はできぬ。食べられるときに食べておくのは戦場にいる者の心得だ」
 関羽や太史慈を見て学んだ、とは口が裂けても言えない。それに、きちんと食べ、きちんと寝るのは玄徳さまとの約束でもある。
「よって、俺は毅然とした態度でおかわりを要求すべく、これより厨房に行って来ようと思う」
「まだ食べるんだ?!」
「むしろ公明どのはこれで足りるのかと問いかけたい」
 俺の訓練に付き合っている以上、疲労度は大して変わらないはずなのだが。


 問われて、徐晃は小首を傾げた。
「私は十分すぎるくらいなんだけど……やっぱり男の人だと違うんだね」
 徐晃が微笑みまじりに呟くと、隣に座っていた司馬孚が同意するようにうなずいた。
「そうですね。私はお兄様を見ているだけでお腹いっぱいです。私の分もお食べになりますか?」
「では遠慮なく――と言いたいところだが、叔達はもっと食べなさい。特に肉。野菜と餅しか食べてないじゃないか。動物の肉が苦手なのは知っているが、もうちょっと食べた方がいいぞ。ここは最前線なんだ。いつ何が起こるかわからない」
「あ、はい、わかりました……」
 ちょっと涙目で、はむ、と羹に入っている肉を頬張る司馬孚。なんだかいじめているみたいで申し訳ないのだが、ここが最前線の砦である以上、戦況がいつ急転するかは誰にもわからない。やはり食べられる時に食べておくべきだろう。
 ちなみに鄧範は夜の見張りに備えてお休み中のためにここにはいない。鍾会は南陽軍の襲来に備えて各処を見回っているので、こちらもこの席にはいなかった。正確には誘ってはみたのだが、無言でしかめっ面をされ、それ以上誘いの言葉を重ねることができんかったのである。


 司馬孚は困ったように眉をたわめる。
「士季さまは、またお兄様にからかわれると思ったんじゃないでしょうか」
「別にからかっているつもりはないんだがなあ」
「一刀にそのつもりはなくても、向こうはね……初対面があれだったから」
「うーん」
 どうやら初対面時の俺の対応に問題があったようだ。あのときは内心を率直に口にしただけなのだが、確かにいま思い返してみれば、俺が鍾会をからかい倒しているような気がしないでもない。
 繰り返すが、決してそんなつもりはなかったのだ。しかし、向こうがそう思ってくれなかったとしても仕方ないかもしれない。
 この問題は近いうちに何とかせねばなるまい、と考えつつ、俺は徐晃の台詞から別のことを連想していた。


「ふむ、初対面、か」
 あごを撫でながら、意味ありげに呟いてみる。言うまでもなく、脳裏に浮かんだのは脳天を叩き割られそうになった誰かさんとの初対面の光景だ。
 すると、不穏な空気を察したのか、徐晃は慌てたように声を高めた。散々からかわれて学習したのか、最近の徐晃は危機回避能力が大きく向上している。
「そ、そうだ、一刀に訊きたいことがあるんだけど!」
 急に大声を出した徐晃に、司馬孚がびっくりした視線を向けている。
 俺としてはからかいを継続しても良かったのだが、徐晃の言葉にその場しのぎだけとも思えない響きを感じたので、妙に気になった。


「ん、なんだ、訊きたいことって?」
「あの、私と士則(鄧範の字)が戻ってから、一刀、なんだか変わった? はっきりどこがどうとは言えないんだけど……」
 その徐晃の言葉をきいて、司馬孚も俺に問うような視線を向けてくる。どうやら徐晃と同じようなことを感じていたらしい。
 将としての品格が出てきた、とかだと嬉しいのだが、さすがに一度や二度、軍を率いて勝ったくらいで品格も何もないだろう。それに勝つには勝ったが、先の戦いは決してほめられたものではなかった。
 兵士の動きが悪かったわけではないし、徐晃や棗祗ら諸将に不満があるわけでもない。司馬孚の後方補佐も文句のつけようがなかった。
 将兵はこれ以上ない働きを示してくれたのだ。先の戦いで責められる者がいるとすれば、それは指揮官たる俺以外にはありえなかった。


 手前味噌ながら、作戦そのものは悪くなかったと思う。
 単純な事実として、曹操軍は数に優る南陽軍を撃ち破った。これは十分に誇れる戦果だろう。
 ただ、最後の局面で俺がみずから前に出てしまったあの判断は、諸々の功績をすべて無に帰するほどの致命的な判断ミスであった。
 あそこで俺が討ち取られていれば、それまでの戦況如何に関わらず曹操軍は敗れていた。俺が荀正を討ち取ったのは怪我勝ちに過ぎず、勝敗が逆になっていても何の不思議もない。何よりも責められるべきは、あの場面で前線に出るという決断を、半ば以上思いつきで下したことだった。


 高家堰砦でそうしたように、兵士の士気を高めるためというわけではなかった。騎馬戦に慣れる好機というだけの理由で俺は前線に向かった。どれだけ精緻な作戦を考案しても、自分でそれをぶち壊すマネをしてしまえば功績などあってないようなもの。否、将兵の命を無為に危険に晒しているのだから、はっきり害悪と断言できる。
 ほぼ勝敗は決していたのだから、騎馬戦に慣れる好機だったのは間違いない。だが、それでも作戦立案者として、指揮官として、あそこは後方に控えているべきであった。そうすれば、何の危険もなく勝利を手にすることが出来たのだから。


 勝利のために自分が定めた道筋を、わずかな利とその場の思いつきで簡単に違えてしまう。端的にいえば、俺には自分の策に殉じる覚悟がなかったのだ。
 張莫に「策士としてもなかなかのもの」みたいに言われて調子に乗っていたつもりは断じてないが、そう言われても仕方のない失態である。
 鄧範や鍾会は何度か俺の作戦を小細工と評したが、あれは作戦への批判というより(もちろんそれもあっただろうが)俺の不安定さを直感的に見抜いていたのかもしれない。




「――そういった反省を踏まえ、これからは質実剛健を旨として努めていく所存でござる」
 自分で思っている分には何の問題もないが、口にすると恥ずかしいコトというのは結構あるものだ。最後にござるとかいったのは照れ隠しである。
 だが、徐晃と司馬孚は真剣に俺の話を聞いてくれており、くすりとも笑わなかった。こういうのは地味に嬉しい。
「そっか。それで最近の訓練、すごく身が入っているんだね」
 徐晃はそういって納得し、司馬孚もコクコクと繰り返しうなずいている。両の手を握り締めているところを見るに、自分も負けないように頑張ろう、とか思っているのかもしれない。あいかわらず可愛らしい司馬家の家長さまだった。 




◆◆




 今、俺たちがいるのは、つい先日まで張莫が使っていた城主の部屋である。
 不精して――もとい軍務の処理で忙しかったので部屋に食事を運んでもらい、徐晃たちと一緒に食べていたのだが、その部屋の中に、不意に廊下から何者かの駆ける音が響いてきた。
 俺と徐晃は席を立つと、目配せをして司馬孚を部屋の奥側にかくまう。まさか虎牢関の最奥に刺客が忍び込んでくるとも思えないが、注意するに越したことはない。はじめ司馬孚は戸惑っていたが、すぐに状況を察しておとなしく従ってくれた。


 まあ、仮に刺客だとしても徐晃がいてくれれば滅多なことはあるまい。もし徐晃をもってしても防げない凄腕の相手だったら、そのときはもう仕方ない。いさぎよく最後まであがくとしよう。
 いさぎよく、という言葉に正面から喧嘩を売りつつ、俺は近づいてくる足音の主を待つ。
 部屋の前までやってきた足音の主は、ここまで駆けとおしてきた勢いそのままに、勢いよく扉を開いた。というか、蹴り飛ばした(ように見えた)。


「北郷、すぐに軍議の間に来てくれ!」
 現れたのは、見るからに上等の戦袍をまとった鍾会、字を士季という少女である。
 さきほどの会話でもあったように、俺と鍾会は今ひとつうまくいっていないのだが、それでも鍾会は俺の部下として最低限の礼儀は守っている。
 その鍾会らしからぬ態度を見て、俺は思わず眉をひそめた。
「誰かと思えば士季どのですか。どうしたのです、そのように慌てて?」
「慌ててなどいない。ただ単に一刻を争う事態なんだ。洛陽に偵察に出た者が戻ってきた」


 鍾会は虎牢関に来るに際し、鍾家の手勢を三十名ばかり引き連れてきた。先日、その中の何人かを洛陽の偵察に出したいと言われ、俺はそれを許可した。その彼らが戻ってきたということは鍾会の言葉から明らかであったが、鍾会をして「一刻を争う」と言わしめた事態とは何なのか。知らず、室内にいた者たちの顔に緊張が走った。
「洛陽で大規模な戦闘が起こった」
 廊下を早足で歩きながら、鍾会が口早にそう告げる。
 最初に脳裏にひらめいたのは、洛陽政権で同士討ちが起こったのか、という推測だった。李儒が皇帝に牙をむいたか、あるいは李儒の横暴に対して皇帝ないし側近が追討の兵を挙げたのではないか。そう思ったのだ。


 だが、鍾会はかぶりを振って、そのいずれも否定する。
「内乱ではない。北の方角から突如あらわれた大軍が、洛陽の北壁に攻めかかったそうだ。さすがに正確な兵力はまだつかめていないが、部下の言によれば一万や二万でないことは確かだ、と」
 少なくとも四万、おそらくは五万近い大軍。それが偵察の持ち帰った報告だという。
「四万から五万……それも北から」
 南から大軍が洛陽に入ったというならまだわかる。宛からの援軍だろう。それでも数が多すぎるが、民を徴用すれば不可能な数ではない。


 だが、北からあらわれ、しかも洛陽を襲撃したとなると、その軍の所属の見当がつかない。敵の敵は味方という理論でいけば、俺たちにとってその軍は味方である。曹操か、あるいは張莫あたりがひそかに北まわりで兵力を動かしていたのだろうか、と思わないでもない。しかし、今の曹操軍に洛陽方面に大軍を動かす余裕があるとは考えにくい。それだけの兵力があるなら、奇策など弄さず、虎牢関経由で洛陽に攻めかかった方が手間も費用もかからないだろう。
 となると、あらわれた軍勢は曹操軍ではない。
 北の方角からあらわれる大軍。曹操軍以外で、それだけの大軍を集められる勢力はごくごく限られる。まさか、と思うが――鍾会の言葉や急ぎ具合からして、それが一番可能性が高そうだ。


「……『袁』の旗があがっていた、という報告がありましたか?」
 ちょうど軍議の間が見えてきたあたりで、俺は静かに問いを投げる。
 すると、鍾会は緩やかに波打つ髪をゆらして振り返り、唇の端に笑みをひらめかせた。
「着くまでに気付いたか。そのとおりだ。ついでに言えば『高』の旗もあがっていたという。袁紹麾下で高姓の将、しかもこの時期に大軍を動かせるとなると、まず間違いなく并州の高幹だろう。どうやら壷関から一気に南下して黄河を渡ったらしいな」


 それを聞き、司馬孚の顔に不安の色がよぎったのを、俺は視覚によらず見抜いていた。
 司馬家の本領は河内郡の温県にある。并州軍が南下したとなると、温県も攻撃目標に含まれている可能性が高い。妹たちは許昌にいるとはいえ、故郷が蹂躙されたかもしれないと思えば、司馬孚も平静ではいられまい。
 だが、司馬孚は口を引き結んで言葉を飲み込んでいる。今は自分の不安を口にする時ではない、とわきまえているのだろう。
 当然、鍾会もそんな司馬孚の様子に気付いているはずだった。しかし、鍾会は安易な予測で司馬孚の不安を散じようとはしない。司馬孚の判断を正しいと考えているからだろう。


 そうとわかれば、俺も下手ななぐさめを口にすることはできない。
 それに、鍾会が一刻を争うと口にした理由も今ならばわかる。この時期、袁紹がわざわざ洛陽政権を潰すために兵を出すはずがない。その最終的な目標は許昌に違いなく、遠からず并州軍が虎牢関に殺到してくるのは確実なのだ。
 荀正率いる一万五千の南陽軍をようやく撃退したところに、高幹率いる并州軍五万とか洒落にならん。最悪の場合、虎牢関どころか汜水関すら落とされるかもしれない。
 そうなれば、并州軍に許昌を直撃されてしまう。今の許昌には張莫が控えているため、そう簡単に落ちることはないだろうが、苦戦は免れないだろう。なにより、并州軍が許昌に迫れば、白馬で袁紹軍と対峙している曹操本隊も退却せざるを得なくなる。戦況が、坂道を転げ落ちるように悪化の一途をたどることは火を見るより明らかであった。


「……まさか昨日までの敵の奮戦を期待することになろうとは」
 ぽつりと呟く。
 そう、ぶっちゃけ洛陽勢に奮闘してもらい、并州軍を一日でも長く洛陽に引き付けておいてもらわねばならない。
 ただまあ、その望みは果てしなく薄いのだが。


 鍾会も肩をすくめて俺に同意する。
「高幹にしてみれば洛陽はついでだ。ここで時を費やせば、許昌にたどり着くのがそれだけ遅くなる。それでもあえて洛陽を攻めたということは、高幹は虎牢関と洛陽の情報を掴んでいると考えるべきだろう。今の洛陽勢の主力は南陽軍であり、その南陽軍は半数がぼくたちに負けて使い物にならない状態だ。今、洛陽に攻め寄せれば、これを落とすのはさして難しいことではない――高幹はそう判断して、後顧の憂いを断っておくことにしたのだろう」
「李儒の存在をつかんでいれば、あの人物を背後に置いて許昌を目指すことに危険をおぼえても不思議ではないですし、おそらくそのとおりでしょう」


 結論として、南陽軍が并州軍をおさえることが出来る可能性はきわめて低い、と判断せざるを得ない。
 洛陽には討たねばならない敵もいるが、助けなければならない人もいる。かといって、まさか洛陽を援けるために俺たちが兵を出すわけにはいかない。そもそも今の虎牢関の兵力は俺があずかった三千に加えて、鍾会が率いてきた四千の援軍をあわせて七千程度しかいない。
 しかも、先の攻防で死傷者は千を越え、実質的にはかろうじて六千に届くかどうかといったところだ。主体的に戦況を動かすには、いささかならず戦力が足りなかった。
 

 これから先の多忙さを思い、俺は胸中で呟く。
 やはり、食べられる時に食べておいて正解だった、と。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/12/05 20:04

 司州河南郡 洛陽


 洛陽の北、黄河の南に邙山(ぼうざん)という山地がある。
 高名な泰山や嵩山のような険しい山岳ではなく、起伏の緩やかな丘陵状の地形であり、北邙(墓地の意)の言語の由来となったように王侯公卿が埋葬される地として知られている。
 また、邙山はその地勢上、黄河の氾濫から洛陽を守る天然の堤防という役割も有しており、洛陽にとっては様々な意味で重要な場所であった。


 その邙山を、洛陽の北壁から遠望する人物がいる。
 司馬懿、字を仲達。洛陽北部尉、すなわち邙山を望むこの北の城壁の守備を任とする者である。
 ほどなく夜の帳が落ちる時刻。西の空はかろうじて茜色を保ち、入り日の残照が邙山を淡く照らし出しているが、それも間もなく夜闇の中に没するだろう。視線を上空に転じれば、夜の勢力はすでに空の過半を制し、いたるところで星が瞬き始めていた。


 夕と夜の狭間を縫うように、粘るような湿り気を帯びた風が北方から吹き付けてくる。むき出しになった二の腕を這う生暖かい風の感触に、司馬懿がかすかに柳眉をひそめたときだった。
「これは仲達さま。お待たせしてしまったようで申し訳ない」
 そんな言葉と共に、司馬懿の視界に複数の武装した男たちが映し出された。
 男たちの数は十名あまり。その先頭に立って、刃物のように鋭い視線を向けてくる人物の名を司馬懿は知っていた。当然といえば当然のことで、張晟(ちょうせい)というその人物は、北部尉の麾下にあって討捕の長を務める司馬懿直属の部下なのである。
 その役目柄、武装した部下を引き連れていてもおかしくはないのだが、今の張晟には上官を前にした礼節や敬意はまるで感じられない。言葉こそ丁寧だが、夕闇に暗く染まった顔からは隠しようもない敵意がにじみ出ていた。


 張晟が右手を一振りすると、周囲の部下たちが一斉に武器の切っ先を司馬懿へと向ける。
 いずれも屈強な体格をした男たちが、年端もいかない少女を取り囲んで武器を突きつける姿はどこか芝居じみて滑稽であった。だが、あたりを包む張り詰めた空気は、張晟たちがまぎれもない本気であることを示している。
 一言も発さない司馬懿に向け、張晟は鋭い視線はそのままに、威圧的に言葉を吐き出した。
「どういうことか、などという愚問を発さないのはさすがですな。それとも、懐柔したつもりの相手に剣を向けられ、動揺しているだけですか」
 その言葉が終わると同時に、後方から物々しい足音が近づいてくる。一人、二人ではない。ちらと後ろを振り返った司馬懿の目に映ったのは、これも甲冑を身につけた十名あまりの男たちの姿。先の襲撃に失敗した張晟は、その反省をいかして倍の人数を用意したものらしい。


 ここで張晟は、それまで言葉の上では保っていた丁寧ささえかなぐり捨てた。もう限界だ、と言わんばかりにその口調が荒々しいものとなる。
「――俺は并州牧 高元才さまが配下、張白騎。小娘の頤使に甘んじるのは今日かぎりだ。司馬仲達、お前は捕虜として高州牧の御前に連れて行く。大人しく従うか、刃向かって痛い目を見るか、好きな方を選べ。こちらとしては逆らってくれた方が色々とありがたいのだがな」
 張晟は下卑た笑みを浮かべて部下たちを煽った。
 男たちの視線の先では二つの双丘が薄手の衣服を盛り上げており、豊かな曲線を描いていた。優れた容姿はもとより、これまで自分たちを散々にこきつかってきた上官を嬲れるという状況が嗜虐心を刺激してもいるのだろう、司馬懿を取り囲む男たちの目に油膜のようなぎらついた光が浮かび上がる。
 ここにいる者たちのほとんどは本をただせば野盗匪賊の類であり、この後に起きることは瞭然としていた。


 しかし、ただひとり、部下を煽った張晟だけは口元に好色の笑みを貼り付けつつ、その目は冷静に計算を働かせていた。
 張晟にしてみれば慮外のことなのだが、高幹は司馬懿を生かして捕らえよという命令を伝えてきた。張晟の報告を受け取り、司馬懿に興味を抱いたらしい。
 むろん、張晟にその気はない。今日まで己の半分も生きていないような小娘に虚仮にされ、こき使われてきたのだ。その腹立ちは筆舌に尽くしがたい。
 ゆえに、この挙に出たのである。


 司馬懿が文武に傑出した才能を有していることを張晟は知っている。別に知りたくはなかったが、今日までの日々で否応なく思い知らされてきた。だが、まだまだ小娘であることも事実。敵対する男たちに囲まれ、邪欲に満ちた視線や声を向けられれば平静ではいられまい。少なくとも「大人しく従う」という選択肢を採ろうとは思えなくなるだろう。
 問答無用で斬るのではない。降伏を勧告した上で、司馬懿がそれに従わないのならば、これを斬っても高幹から罪に問われることはあるまい。さらに部下を煽って凶行の共犯にしてしまえば、後から密告される危険も少なくなるという計算であった。




 気がつけば、西の空では最後まで抵抗していた夕闇が勢力を失い、城壁の上を暗がりが包み込む。黒絹の髪に黒衣を身にまとった司馬懿の姿が、まるで溶けるように闇の中に沈んでいく。張晟は一瞬、司馬懿がそのまま闇に溶けて逃げてしまいそうな錯覚にとらわれた。
「おい、篝火に火をつけろ」
 命令に応じて、幾人かの部下が城壁の上に並べられた篝火に火を投じていく。再び明るさが戻った視界の中に司馬懿の秀麗な顔をおさめた張晟は、自分でも理由のわからない吐息をもらすと、あらためて口を開こうとする。
 だが、その時、張晟の部下の一人が鋭い声音で張晟に呼びかけてきた。
「白騎の頭、あれを!」
 声の主が指差す方向を見ると、北の方角にわだかまる闇夜の中に、鬼火のように揺れ動く灯火が見て取れた。ただし、鬼火にしては動きが規則的であり、何かを求めるように何度も同じ動きを繰り返している。


 張晟はすぐにそれが何かを察した。
 小さく舌打ちしたのは、城外からの合図が予想外に早かったからだ。だが、合図に応じなければ、それこそ高幹の激怒を招くだけであろう。張晟は素早く意識を切り替えた。
「合図だ。こちらも応じろ」
 隅の方にいた兵のひとりが懐から松明を取り出し、今しがた点じたばかりの篝火に突っ込んで火を移した。そして、その松明を持って城壁の端に立ち、彼方の炬火と同様の動きを繰り返す。


 洛陽の北壁は長大であり、この場にいる者たち以外にも何人もの見張りが立っている。城外とやり取りをしているとしか見えない動きに気がついている者もいるはずだが、異常を知らせる声はどこからもあがらなかった。
 さらに言えば、こうして大勢の人数が集まっていることに関しても、何かあったのか、といった類の確認に来る者がいない。今夜の見張りはすべて張晟の息がかかった者たちなのだろう。
 城壁からの合図に呼応するように、城外の光は一度だけ大きな円を描いてから消えた。
 ほどなくして、北方から一際強い風が吹き付けてくる。さきほどのそれよりも更にぬめりを帯びた生暖かい風は、無慮数万の人々が集い、猛る熱気そのものであった。


 風が城壁の上を駆け去ると同時に、闇夜そのものを揺り動かすような地響きが彼方から伝わってくる。遠雷の轟きにも似たそれは、洛陽城外、おそらくは邙山近くに潜んでいた軍勢が時きたれりと動き出した証にほかならない。
 そして、状況はさらに進み続ける。
 彼方の闇から迫り来る進軍の音を掻き消すように、突如北壁一帯を轟音が包み込んだのだ。それは北壁を守る分厚い城門が内側から開かれていく音であった。


 張晟は勝利を確信した声で告げる。
「どれほど高く厚い城壁であろうと、内から開けば何の障害にもならないというわけだ。俺たちがこれまで従順を装ってきたは、今日この日のため。理解できたならば、腰の剣を捨ててひざまずけ」
 さもなくば――と張晟は続けようとしたが、それは必要なかった。司馬懿がなめらかな動作で鞘から剣を抜き放つ姿を認めたゆえに。


 張晟の唇が笑みの形に曲がり、愉しげな笑いがこぼれおちる。
「逆らう、ということだな、司馬仲達」
「――はい」
 短く、静かな返答。表情にも、声にも、一片の動揺もなかった。
 張晟の顔がますます愉しげなものになる。が、不意に表情を一変させると、張晟は語気鋭く司馬懿に言い放つ。
「今ここにお前に味方する兵はいない。それはすでにわかっているだろう。ひとりでこの囲みを抜けられるとでも思っているのか? 仮に逃げられたとしても、并州軍が動き、城門が開かれた今、北部尉ごときの権限で何ができるというのだッ」


 今日まで鬱積してきた憤懣を嘲弄に込めて吐き出す張晟。
 対する司馬懿は、滾るような悪意に怖じる様子もなく、静かに張晟を見つめ返す。そして、ゆっくりと口を開いた。
「私は陛下をお守りいたします。そして、私に味方してくださる方もいらっしゃいます」
「くだらぬ強がりを。この状況でお前に付く愚か者がどこにいるッ?!」




 張晟が吐き捨てた言葉が宙に溶けるその前に、場にそぐわない華やかな少女の声が城壁上にこだまする。
 その声は城門を開く轟音さえ貫いて響き渡った。
 ここにいるぞ、と。




「――ッ! 誰だ?!」
 咄嗟に声のした方を振り向いた張晟が見たのは、隠れていた櫓台の屋根から軽やかな動作で飛び降りる少女の姿だった。
 円らな瞳は篝火の明かりを映して眩めき、城壁上に降り立つ動作は猫のようにしなやかで躍動感に満ちている。もっとも、その後の動きを見れば、猫ではなく虎と例えた方が適切であったかもしれない。


 少女は握っていた槍を一閃させた。
「がッ?!」
 近くにいた男は柄の部分で頸部を強打され、くぐもった悲鳴をあげてその場に倒れ伏す。
 それを見て、周囲の男たちは慌てて司馬懿に向けていた武器を少女に向け直す。
 だが、少女は委細構わず、己が得物を頭上で勢いよく一回転させると、短い気合の声と共に手近の敵に叩き付けた。
「ちッ?!」
 その賊は少女の一撃をかろうじて受け止めることに成功する。だが、少女の攻撃は思いがけないほどに重く、受け止めた男の手に鈍いしびれがはしった。
 さらに少女の攻撃は重いだけでなく、速かった。男の眼前で槍が鋭く翻り、二撃目が襲い掛かってくる。今度はしびれに邪魔されて反応が追いつかず、男は側頭部に直撃をくらってしまう。


 苦痛の声をあげることもできず、白目をむいてくずおれる部下を見て、張晟は唖然とする。この場にいるのは、黒山賊の頃から張晟に付き従ってきた勇猛な者ばかり。それが突然現れた少女に手も足も出ず、瞬く間に二人が打ち倒されてしまった。
 篝火の揺らめきに照らされる襲撃者の姿はさして大柄ではない。むしろ、司馬懿よりも小柄とさえ映る。そんな相手に一瞬のうちに部下ふたりを無力化された張晟は、歯軋りしつつ突然の闖入者に怒りの声を向けた。
「な、なんだ、お前は?!」
「お前たちのような卑怯者に名乗る名前はないッ!!」
「なッ?!」
 決然とした語気に気おされ、張晟は口を封じられる。
 すると、相手はさらに言葉を重ねていき――


「ここで死ぬ貴様が、あたしの名を知ってどうするのだ?!」
「おのれ、ほざ――」
「遠からん者は音に聞け! 近くば寄って目にも見よ! 我は涼州を統べる馬寿成が配下、姓は馬、名は岱なり! 字? まだないよッ!」
「…………む?」
「天知る地知る我知る子知る――あ、これは違うか。あとは特にないかなー。ん、よし、じゃあ最後にもう一回!」
「な、何を……」
「ここにいるぞーッ!!」
「何を言っている、お前は?!!」


 混乱する張晟は知るよしもない。少女――馬岱が、名乗りをあげるのにこれ以上ないシチュエーションに興奮して、思いつくかぎりの決め台詞を連呼しているだけなのだ、という事実を。
 むろん、その間にも右に左に槍をふるって賊をなぎ倒してはいるのだが。単純な武芸では馬超らに及ばずとも、馬岱もまた西涼軍を統べる将に任命された身である。賊徒あがりの兵卒では相手にもならなかった。


 そして、そんな馬岱に注意力を殺がれてしまった時点で、彼らの将たる張晟の命運もまた決していた。
「頭、あぶねえ!」
 部下の言葉に耳朶を打たれ、慌てて振り返るも時すでに遅く。
 黒衣を翻し、疾風のごとく突っ込んできた司馬懿の剣先は、すでに張晟の眼前まで迫っていた。周囲からの害意に怖じることなく、静謐を保っていた先ほどまでの様子が嘘のような手練の一閃。
 張晟の視界の中で、篝火の明かりを受けた司馬懿の剣身が陽光のごとき輝きを発し――次の瞬間、その輝きは張晟の視界そのものを断ち切っていた。




◆◆




 かつて河北で一勢力を築いた黒山賊。これを統べる頭目たちは、それぞれの特徴に応じた呼び名をつけられていた。迅速な用兵を誇った者を飛燕、白馬に乗って戦う者を白騎、人並み外れた巨眼の持ち主を大目、というように。
 今、并州軍の先頭に立って洛陽に突入しようとしている人物の名は張雷公。雷公はいかなる混戦も圧して響き渡る彼の大声から付けられた異名であり、すなわちこの人物も張晟と同様、黒山賊から袁紹軍に加わった武将のひとりであった。
「見よ見よッ! 策略は成り、城門は開かれた! 突撃せよッ!!」
 銅鑼を打ち鳴らすにも似た哄笑と共に、張雷公は麾下の手勢をもって洛陽城内に突入していく。
 張雷公が率いるのは騎兵五百と歩兵二千。いずれも元黒山賊の兵士たちである。


 城内に踏み込んだ彼らを待ち受けていたのは、混乱する守備兵でもなければ、逃げ惑う民衆でもない。明かりひとつ灯っていない荒涼とした街並みであった。ただひとつ、南の方角に幾多の篝火に照らされて浮かび上がる建造物が見える。
 街並みの静けさを不審に思った張雷公であったが、洛陽が往時の繁栄を失ったことは周知の事実であり、この静けさもそれゆえか、と自分を納得させた。
 守備兵の数が少ないのは北からの敵を想定していなかったためであろう。くわえて、その数少ない守備兵がこちらの手引きをしたのだから、立ち向かってくる敵兵がいないのもうなずける。
 その判断の正しさを示すように、城門を開いて手引きした兵士のひとりが張雷公に駆け寄って告げた。南の方角に煌くあの明かりこそ、皇帝と李儒のいる洛陽宮である、と。


「よし、歩兵部隊は門を押さえ、敵兵があたりに隠れておらぬか確かめよ。騎兵はわしに続け。敵はまだ我らの侵入に気付いておらぬとみえる。全軍に先んじて宮殿をおさえるぞ。洛陽制圧の一番手柄はわしらのものだッ!」
 張雷公の雷声に麾下の兵の喊声が応じる。騎兵部隊は一斉に馬腹を蹴って駆け出した。
 洛陽の南北を貫く大路を、喊声と共に駆け抜けていく并州軍。
 彼らの視界の中で、おぼろに浮かび上がる宮殿が徐々に大きくなっていく。ここまで来れば、洛陽宮の方でも并州軍の侵入を確認できることだろう。


 ――にも関わらず。
 ――いまだ敵兵の影さえ見られないのはどういうことか。


 不意に、そんな疑問が張雷公の脳裏をよぎる。
 と、その時だった。張雷公の前を駆けていた騎兵の列が突如乱れたち、人馬の悲鳴がわきおこる。
 何事か、と不快そうに眉をしかめた張雷公の眼前で、数名の兵士が宙を飛んだ。
「なにッ?!」
 正確にいえば、馬が何かに足をとられて倒れこみ、騎手が前方に投げ出されたのである。
 張雷公が咄嗟に手綱を引くと、馬は乱暴な扱いに抗議するように甲高く嘶いた。先頭を走っていた一団が急停止したため、後続部隊の各処で似たような馬の嘶きがあがっている。避けきれずに衝突、落馬した者もいるようだった。


「何事かッ?!」
 大鐘のごとき怒声を発する張雷公の下に、部下のひとりが駆け寄ってくる。手に持っているのは墨で染めたような黒色の縄であった。
「これが馬の足にかかりやすい高さで道に張り巡らせてありました。この暗さで気付くことができず……」
「小細工をッ」
「すでに何人か縄を切るために先行しております。徒歩であれば引っかかる恐れもありませんし、このまま宮殿まで仕掛けが続いているとも思えません。すぐに罠を除くことができましょう」
「そうか、ならば怪我人の手当てを先に――」


 新たな指示を下そうとした張雷公は、しかし、不意に言葉を途切れさせた。
「……待て、今なんといった?」
「は?」
「罠、といったか?」
 その呟きに、部下は怪訝そうに応じる。
「は、はい、これは騎兵の足をからめとる罠だと思うのですが?」
 何を当たり前のことを、と部下は当惑した表情で上官を見つめる。だが、張雷公はそんな部下に構っていなかった。
 罠を仕掛けるということは、敵の攻撃を予期していたということではないのか。
 まさか常時このような縄が大路を塞いでいるわけではあるまい。そんなものがあれば、張晟が報告しているはずだ。であれば、この縄は張晟の目に届かないよう密かに仕掛けられたことになる。それが意味するところは――


 張雷公が沈思していた時間はごくわずかだった。
「いかん、先行させた兵をすぐに呼び戻せ!」
「は、はッ?!」
 部下は顔を強張らせたが、それは事態を悟ったわけではなく、間近で受けた張雷公の怒声に肝を潰されたゆえだった。
 だが、すぐに部下も状況を理解する。
 次の瞬間、街路の左右から煉瓦やら石やら子供の頭ほどもありそうな土の塊やらが雨あられと降り注いできたのだ。
 同時に、つい先刻まで静まり返っていた街路は沸き立つような喚声に包まれていく。


「おっしゃ、やれやれ!」
「仲達さまのご命令だ、遠慮なくぶつけちまえッ!」
「馬に乗ってる連中が優先だぞ。おい、そこのお前、どうせ投げるならもっとでっかい石を投げやがれ。こんな風に――お、当たった」
「さすがおやじさん、いつも酒樽をかついでるぶっとい腕はダテじゃないっすね」
「褒めてもツケはなくならんぞ。む、なんか弓みたいのを持ってる奴がいるな。よし、木板をもって盾になれ」
「ちょッ?!」


 この時、屋根の上や民家の二階から并州軍を攻撃していたのは民兵――とは名ばかりの、急遽集められた洛陽に暮らす一般の人々だった。
 彼らは戦闘訓練など受けたこともなかったが、道で立ち止まる騎兵に向けて石やら煉瓦やらを投げ落とすだけならば訓練など必要ない。
 一方、まったく予期していなかったこの投石攻撃に、張雷公の部隊は大混乱に陥った。
 高みから投げつければ、煉瓦や石でも十分な殺傷力を持つ。これらの投擲の材料は洛陽各処に立ち並ぶ廃墟や廃屋であり、遠慮も物惜しみもせずにぶつけることができた。


 并州軍の中には反撃しようとする者もいるのだが、なにしろ相手は高処にいて、なおかつ火をつけていないために弓でも狙いをつけにくい。おまけに木板のようなものを並べて飛び道具を防ぐ工夫も見せている。屋内に斬り入ろうとする兵もいたが、民家の入り口は固く閉ざされて容易に開かず、おまけにここが先途とばかりに真上から集中して狙われてしまう。
 それでも張雷公の指揮の下、落ち着いて対処すれば反撃を形にすることもできたかもしれない。だが、敵の指揮官は并州軍に立ち直る暇を与えるほど慈悲深くはないようで、張雷公は包囲の鉄環が狭まる気配を感じとっていた。
 罠で足を止め、投石で混乱させる。仕上げは包囲しての殲滅という段取りか、と張雷公は判断した。ここまでくれば、今夜の襲撃が読まれていたことは疑いようがない。


 張雷公は忌々しげに舌打ちした。
「白騎め、してやられたか。それとも裏切ったか。いずれにしても、このままでは座して死を待つばかりだわい」
 洛陽には李儒の南陽軍や樊稠の弘農軍といった軍が入っている。南陽軍は先ごろ虎牢関で曹操軍に敗北したというが、それでもまだ張雷公の部隊を殲滅するには十分すぎる戦力が残っているだろう。もっといえば、南陽軍が敗れたという張白騎の報告もどこまで信じてよいものやらわからない。すべては敵の計略であり、洛陽勢は万全の体制をもって袁紹軍を待ち構えていたのかもしれない……


 実際には、この場には南陽や弘農の兵はおらず、動いているのは司馬懿麾下の守備兵と臨時に徴集した民兵だけであり、その総数は千にも届かないのだが、もちろん張雷公はそれを知らない。
 冷静に敵の動きを観察していれば、包囲の軍が思ったほどの大軍ではないと気付けたかもしれない。しかし、日はとうに落ちて視界はきかず、なにより自分たちの側が奇襲を仕掛けたという心理的な余裕を突き崩された今の張雷公に、そんな冷静さは望むべくもなかった。


 張雷公は退却を決断する。部隊を立て直すためであり、城外の高幹らに埋伏計を逆手に取られたことを報告するためでもある。
 だが、今宵の戦闘において敵は完璧なまでに并州軍の機先を制していた。
 張雷公の耳に後方からの騒ぎが伝わってくる。それはたちまち干戈を交える怒号へと変じた。
 訝しく思う間もなく、伝令が駆けつけてくる。
「後方部隊より伝令です! 突如あらわれた兵馬の一団が攻めかかってきたとのこと!」
「数はどれほどか?!」
「わ、わかりませんが、後尾の混乱を見るに百や二百ではあるまいと存じます」
 張雷公はいらだたしげに鞍を叩いた。
「前を塞がれ、後ろから攻め立てられる。となれば横に活路を求めるしかあるまい。并州兵に告ぐ、一度北門まで退く。手近の脇道にそれ、敵の攻撃から逃れよ!」
 張雷公の命令は闇夜を裂いて辺り一帯に響き渡り、混乱の渦中にあった并州兵は生き返ったように脇道へと逃げ込んだ。


 張雷公自身も手近の脇道へ馬を乗り入れようとしたのだが、飛来した煉瓦の一つが冑にぶつかり、元黒山賊の頭目の視界がぐらりと揺らめいた。
「――ぐッ?! お、おのれ……」
 落馬しないよう馬の首にしがみついた張雷公に、頭上から歓声が降り注ぐ。


「やったぜ、おやじさん! 当たった当たったッ」
「よくやった! ありゃ多分敵のおえらいさんだぞ。よし、何でもいいからどんどん投げ落とせ」
「おうさ、褒美がでりゃあ溜まってるツケも払えるってもんだ。逃げんなよ、誰だか知らんが俺のツケのために犠牲になりやがれ!」


 ふざけるな、と怒鳴り返したいところだったが、そんな余裕は張雷公にはなかった。目に見えて数を増した投石を避けるため、張雷公は馬腹を蹴って駆け出そうとする。だがその時、投じられた石の一つが、今まさに駆け出そうとしていた馬の頭部を直撃してしまう。馬は悲鳴をあげて横転し、張雷公は地面に投げ出された。
 慌てて立ち上がろうとするが、得たりとばかりに降り注ぐ投石の豪雨を前にしてはそれすらかなわない。張雷公が無念のうめきを残して意識を手放したのは、それからすぐのことであった。




 一方、張雷公の命令に従って大路からそれた騎兵も、その末路は上官とさして変わらなかった。
 狭く暗い夜道、それもいつどこから敵が飛び出してくるか、あるいは物が降ってくるかもわからない状況では騎兵の機動力を生かしようもない。くわえて街路のいたるところには、件の黒縄をはじめとした騎兵用の罠が設置されており、執拗に騎兵たちの退路を阻んだ。
 孤立し、立ち往生した騎兵に群がる守備兵は、騎手を馬から引き摺り下ろすために石をぶつけ、網を投じ、鉤のついた棒を持ち出し――とあらゆる手段を尽くして襲い掛かる。そうして一度でも落馬してしまえば、数にまかせて寄ってたかって打ちのめされてしまう。
 并州騎兵は、夜の街に溶けるようにその数を減らしていった。




◆◆




 騎兵部隊が混迷の闇に飲み込まれようとしていた頃、城門の確保を命じられた歩兵部隊も洛陽勢の反撃に直面していた。
「放て」
 司馬懿の命令に応じて二百の弩から一斉に矢が放たれ、并州兵の頭上を襲う。城壁上の兵は張白騎率いる味方だと考えていた并州兵にとって、この攻撃は予測の外であった。
 このとき、司馬懿が弩を用いたのは、お世辞にも錬度が高いとはいえない自らの部隊に戦闘力を持たせるためである。弓よりも扱いやすさに優る弩は、錬度の低い兵でも十分に扱いうる。北部尉の権限で集められる数は限られていたため、姉である司馬朗や、さらに司馬家と同調する数少ない廷臣らにも協力を頼み、司馬懿はこれだけの数をかき集めた。


 しかしながら、相手は二千を越える大軍である。二百程度の弩だけではこれを撃退することはできない。
「城壁に軍旗をたて、篝火を増やしてください。こちらに備えがあることを、敵軍に知らしめます」
 司馬懿は周囲の兵に指示を出しつつ、みずから弓をとって火矢を放った。
 これは城門付近の建物に潜ませていた配下への合図である。彼らは北部尉麾下の文官であり、剣や槍を用いる戦闘の役には立たないが、民兵と共に旗を立て、篝火を焚き、銅鑼を打ち鳴らして大兵が潜んでいるフリをすることくらいはできる。張晟やその配下の者たちに悟られないように動いていたため、その数は多くなかったが、これまで静まり返っていた街並みが突如として敵意をもって沸き立ったことで、并州兵の表情に狼狽の影がゆらめいた。


 その狼狽をいや増したのが、并州軍の中から発された悲鳴にも似た叫び声である。
「やられた、相手にはかりごとがあったとみえるぞ!」
「いかん、敵の罠だ。このままだと皆殺しにされるぞ!」
 そんな声が并州軍の各処であがる。
 これは言うまでもなく司馬懿の指示によるものだった。
 司馬懿の命令を受けた兵たちは、張晟が城壁の上にあがった段階で、城門を開くべく待機していた張晟の部下を排除し、それになりすまして城門を開いたのである。まさか城門を開いた者が守備側の兵であるとは思わなかったのだろう。彼らが并州軍に紛れ込むのは難しいことではなかった。
 そして、その埋伏兵が時期を見計らって声を張り上げたことで、并州兵は自分たちの策略が破れたことを自覚し、その自覚は敵の罠に落ちたという錯覚を生んだ。


 実際には城壁上の兵はわずか数百であり、街で威勢よく騒いでいる兵の大半は戦力にならず、并州軍の挽回の機はいくらでもあったのだが、すべてにおいて後手を踏んだ并州軍の中にそれを見抜ける者はいなかった。
 ここで決定打となったのが馬岱の突出である。
 それまで城壁の上にのぼってこようとする敵兵に備えていた馬岱であったが、并州軍が混乱してそれどころではないと見て取るや、自身の判断で城壁を駆け下り、敵軍に突っ込んだのだ。
 これにより并州兵の混乱はとどめようがないものとなる。次にあがった「逃げろ」という悲鳴は、司馬懿の策によるものではなかった。




◆◆




「若さま、なにやら城門が騒がしいみたいですけど……」
「敵に策があったようだな」
 張雷公の部隊が北門に突入した少し後。
 并州軍を率いる高幹は、配下の高覧とそんな会話をかわしながら、城壁に高々と掲げられた『漢』の軍旗を見据えていた。数を増した篝火に照らされ、闇夜に昂然と翻るその旗を。


 その高幹に向け、高覧とは別の方向から声がかけられる。
「……閣下、いかがいたしますか」
 問いかけの形をとってはいたが、その実、突入の命令を請う呼びかけは張恰のものだった。
 張恰、字を儁乂。今回の大戦に先立ち、将軍の座を与えられた女性である。
 衆に優れた怜悧な顔立ちに、糸杉のごとき細身。外見だけ見れば、とてものこと戦陣の荒々しさに耐えられるとは思えない。しかし、事実はといえば、并州軍はもとより袁紹軍全体を見渡しても五本の指に入るであろう勇将だった。
 寡黙かつ寡欲な為人ゆえか、これまで際立った功績を挙げる機会には恵まれてこなかったが、騎兵を操り敵陣を突破する破砕力は顔良、文醜に迫るものがある。また、自身の責務をわきまえて逸脱せず、常に冷静さを保って勝利をもぎとる戦いぶりは田豊や沮授といった軍部の重鎮たちからも高く評価されていた。


 ただ、田豊らの評は事実に即したものであるが、戦場において冷静さを保てることは戦いそのものを厭うことを意味しない。外貌からは想像しにくいが、張恰は戦うこと自体は嫌いではなかった――というか、かなり好きだった。先鋒は武人の栄誉と疑いなく信じており、実際に先鋒を命じられれば、表情こそ動かないものの白皙の頬は鮮やかな朱に染まる。
 当然、并州で共に戦ってきた高幹や高覧はそのことを知っており、并州軍が重要な戦にのぞむ際には先陣は必ずといっていいほど張恰が務める。


 今回の戦いにおいても高幹は先陣を張恰に任せるつもりであり、本人も口にはしないがその心積もりをしていた。
 しかし、高幹は張晟の埋伏計があまりに順調すぎると考え、直前になって先陣を張雷公に変更する。
 張恰ならば、たとえ敵が策を秘めていたとしても苦もなく食い破ってみせるだろうが、高幹にとって洛陽攻めは許昌攻略の前哨戦に過ぎない。万一にも張恰を失う危険を冒したくはなかったのである。


 穿った見方をすれば、張雷公をはじめとする賊あがりの将兵は罠で失ってもかまわない、と高幹は考えていることになる。袁紹軍の高官には名士、名流の末裔が多く、他州から流れてきた外来者や、賊あがりの人材には冷淡なところがある。高幹もまたこの弊を免れることはできていなかった。
 ただ、そういった高幹の態度が配下の不満に直結しないのは、高覧の的確な補佐があるためで、これ以外にも、たとえば先陣の役目を与えられなかったことで気分を害していた張恰(一見すると普段と同じ表情なのだが、微妙に目つきが険悪になっている)をなだめたのも高覧であったりする。




 ともあれ、そういった理由もあって、現在、張恰はやや戦意過多の状態になっていた。その頬が紅潮して見えるのは、決して篝火のせいばかりではない。
 そのことに高幹は気付いたが、張恰の密かな期待に沿おうとはせず、あっさりと待機を命じた。
「しばらく様子を見る」
「……かしこまりました」
 どれだけ戦意に満ちていようとも、命令を受ければ即座にそれを押さえることができる。この自制こそが一軍の将として張恰が持つ何にもまさる美点であろう、と高幹は思う。今少し言動に華があれば、もっと早くに袁紹から将軍の位を与えられていただろうに、とも。


 とはいえ、度々出撃を止めれば張恰の鬱屈が溜まるばかりである。高覧に任せてばかりもいられぬと思ったかは定かではないが、高幹は待機を命じた理由を口にした。
「白騎が裏切ったとは思えぬ。おそらくは敵に埋伏を見抜かれたのだろうが、だとすると洛陽政権が分裂しているという白騎からの報告もあてにならなくなる」
 偽の情報を流されたのかもしれない、と高幹は危惧しており、その危惧を否定することは、高覧にも張恰にも出来なかった。南陽軍あたりが待ち構えていれば、五万の并州軍といえども容易に勝ちを得ることはできないだろう。


 特に高幹が気に入らないのは、こちらの襲撃を予測していたと思われる洛陽勢が、あえてこちらの計略どおり城門を開くに任せた点である。相応の防備を敷いて待ち構えているに違いない、との疑いは当然のモノであった。 
「……あえて隙を晒した可能性もないではないが、賭けるには分が悪い。雷公が城門を制することが出来ればそれでよし、かなわぬようならば――」
 そこで高幹の言葉が途切れた理由を、高覧と張恰はすぐに自らの目で確かめることになった。洛陽の城門から、先刻突入した部隊が掃き出されるようにあふれ出てきたのである。彼らに向けて城壁上から一斉に弩が放たれ、味方の兵がばたばたと倒れていく。何が起きたのかは火を見るより明らかであった。


 高幹は低声で指示を出した。
「――覧、弓兵を前面に配置せよ。逃げてくる兵を援護してやれ」
「はい、ただちに!」
「儁乂は騎兵を率いて待機。敵が追撃してくるようならば、これを蹴散らせ」
「承知」
 二人の配下が部隊を動かすために下がった後、高幹は再び城壁上の軍旗に視線を向けた。防戦のために駆け回る兵士の姿が見えるが、その中から敵将を見分けることはさすがにできそうになかった。




◆◆◆




「ばかな、何故ここで袁紹が出てくる?! どうやって洛陽まで来たのだ?!」
 袁紹軍襲来の報告を受けた李儒は、洛陽宮の一室で怒声を張り上げた。報告を持ってきた使者が、斬られるのではないかと恐怖を感じるほどに深甚たる怒りを秘めた声音だった。
 曹操軍が来るならばまだわかる。河内郡をはじめとした黄河北岸は曹操の領土であるからだ。
 しかし、袁紹軍が出てくるとはどういうことなのか。李儒の脳裏に混乱が生じたのは無理からぬことであっただろう。


 それでもすぐに怒気を押し隠し、冷静さを取り戻したのは、まがりなりにも洛陽の朝廷を主宰しているのだという自覚が、李儒の背を支えたからであった。
「間違いないのか」
「は、はい! 司馬さまからの報告では『袁』と『高』の旗が確認できたとのことです」
 袁と高の軍旗。その報告に河北の勢力図を重ねた李儒は、すぐに正解に到達する。
「たしか、袁紹めが并州牧に任じたのが高幹だったか。しかし、どうやってこの短期間で河内郡を抜け、黄河を渡った……?」
 答える術もなく、使者は肩を縮めてうなだれる。むろん、李儒は使者に答えなど期待していない。使者の様子を気にも留めず、さらに問いを重ねた。
「敵は確かに退いたのだな?」
「は、はい。一度は城門を破られた由ですが、かろうじて追い返したと」
「……よくぞ北部尉の手勢で袁紹軍を追い返せたものだ。陛下もさぞお喜びであろう。よし、さがれ」
「は、失礼いたします」


 使者が下がった後、李儒はいまいましげに舌打ちした。
「ただでさえ厄介ごとが山積しているこの時に。袁紹の間抜けめが、曹操を相手にしながらこちらまで手を広げてどうするのだ」
 多分に利己的な憤慨を口にしてから、李儒は気を落ち着かせるように大きく息を吐き出した。
 今、李儒には二つの懸念がある。
 ひとつはいわずもがな、虎牢関に立てこもる曹操軍――北郷一刀の存在だが、くわえてもうひとつ、宛に残った部隊からの連絡が途絶えていることが、李儒の心に不安の影を投げかけていた。


 すでに李儒は宛の放棄を決定し、残存するすべての兵力に洛陽に集結するよう指示を出している。宛の住民と全財産も共に、である。
 宛は数十万の住民を抱える大都市であり、その到着がある程度遅れることは想定していたが、部隊からの連絡がまったくないというのは尋常ではない。何事か起こったと考えるのが妥当なのだが、情報がまったくない現状では手を打つこともできない。急ぎ派遣した偵騎もまだ戻っておらず、李儒としては苛立ちが募る日々が続いていた。


 そこにきて荀正の戦死と南陽軍の敗北が伝わり、さらに北から招かれざる客が押し寄せてきた。幸いにも緒戦はこちらが勝利したようだが、その立役者が司馬家に連なる者であるという事実が、また李儒の不快を誘う。
 要するに、右を向いても左を向いても心安らげるものが何ひとつない、というのが現在の李儒をとりまく情勢であった。
 一州を統べる人物が出向いてきたのならば、その兵力は一万や二万ではあるまい。詳細を確かめるべく部屋を出た李儒は、すぐに何太后につかえる侍女に呼び止められた。
「も、申し上げます、何太后さまがお呼びでございますが……」
「……すぐ参る。そうお伝えせよ」
「かしこまりました。あの、急ぎ来るようにとの仰せで……」
 直後、李儒は無言で壁に拳を叩きつけ、周囲に鈍い音が響いた。
 何太后の使いは、ひ、と息をのむと、慌てて頭を下げ、急ぎ足で立ち去っていく。その後ろ姿を見やる李儒の顔には底知れぬ苛立ちが張り付いており、それは容易に剥がれ落ちそうになかった。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/12/08 19:19

 虎牢関 軍議の間


 洛陽、袁紹軍の攻撃を受けるもいまだ陥落せず。
 軍議の間に集まった曹操軍の諸将はその第二報を聞いた時、程度の差こそあれ驚きをあらわにした。
「――初撃はしのいだか。高幹が奇襲の利をいかせない無能とは思えないから、洛陽勢がよく守った、というところかな」
 鍾会の見解を受け、棗祗が疑問を口にする。
「報告を聞けば、城門は一度は開かれたという。奇襲を受け、城門を開かれ、その上で敵を城外に押し返すなぞ尋常な業ではないぞ。まして相手は河北の精鋭。今の洛陽にそのような用兵の妙を示せる者がいるとは思えないのだが」
「棗将軍の疑問はもっともだと思います。ぼくなりの推測をいえば、城門を開いたのは洛陽勢の策略でしょう」
 鍾会は棗祗に対して丁寧な口調で応じる。
 俺に対しては何かと刺々しい神童どのだが、基本的に他者に対しては身分や上下に関わらず物腰は丁寧なのである。


 もっとも丁寧=親切ではない。この場には司馬孚と徐晃、鄧範もいるのだが、司馬孚は戦陣に立たない身を憚って発言を慎んでおり、徐晃と鄧範は自身の立場を考えてこれまた口を噤んでいる。
 というのも、鍾会が結構そこらへんにうるさいのだ。司馬家の家長である司馬孚はともかく、賊あがりの徐晃と、先日まで一兵卒だった鄧範がこの軍議に参加することにも良い顔をしなかった。
 そんなわけで、軍議は基本的に虎牢関の主将(俺)と副将(棗祗)、そして許昌からの援軍の将(鍾会)の三人で進められていた。





「袁紹軍の奇襲を予測していた、か」
 そのことは棗祗も考えていたのだろう。しかし、その場合、もう一つ別の疑問が生じる。棗祗はそれを口にした。
「それにしては袁紹軍の被害が少なすぎるのではないか。城門が開いたのが策略であったとすれば、誘いこまれた部隊は全滅していてもおかしくない。しかるに、その大半は逃れ出たという」
「確かに、敵の奇襲を予測していたのなら、袁紹軍の主力を城内に引きずり込み、全軍をもって殲滅するという手段もあったはずです。ですが、洛陽勢はそれをしなかった。あるいは、奇襲を予測した者と、軍の実権を握る者が別人であり、後者が前者を信じなかったのかもしれません」


 突如あらわれた袁紹軍に対し、洛陽側は鮮やかな対応を見せたようにみえるが、戦果がこれに伴っていない。鍾会の推測は、このちぐはぐな印象を拭うに足るものだった。棗祗も得心したように頷いている。
 もっともその場合、袁紹軍の奇襲を予測した何者かは、他の部隊の援護を得られぬままにほとんど孤軍で袁紹軍を撃退したということになる。その存在は曹操軍にとっても座視しえないものだった。
 一瞬、俺の脳裏に司馬家の姉妹の姿が浮かんだが、まさか李儒が彼女らに兵権を与えるとも思えず、俺はかぶりを振って二人の幻影を追い払う。集まっている情報だけでは真偽のほどを明らかにすることはできない。推測に推測を重ねるよりも、今は他にやるべきことがあった。


 袁紹軍の出現で洛陽を巡る戦況には大きな変化が生じた。この新しい要素は、これまでの盤面そのものを砕いてしまうほどの重さを持っている。
 袁紹軍の指揮官が并州牧の高幹であることはほぼ間違いない。麾下の武将については明らかになっていないが、州牧みずから率いる軍、しかも黄河を渡って許昌を攻めようという軍に弱将、弱卒がいるはずもなく、まず間違いなく将も兵も并州の精鋭であろう。
 その精鋭部隊を洛陽勢が押し返したというのは驚くべきことである。しかし――
「経過はどうあれ、最終的には袁紹軍が勝つでしょう」
 俺の言葉に、鍾会と棗祗が同時にうなずいた。
「それは間違いない」
「確かに、今の洛陽では袁紹軍の攻撃に耐えきることはできまい。味方同士の連携がとれていないのならば尚更にな」


 二人の返答を受け、俺はさらに言葉を重ねる。
「そして、袁紹軍がこちらに攻めてきた場合にも同じことが言えます」
「……主将たる身がいうことではないだろう、それは」
「主将だからこそ、現実をきちんと見据えないといけないでしょう、士季どの。今の虎牢関では、五万の袁紹軍の攻撃には耐えられません」
 鍾会が渋い表情で渋々とうなずく。袁紹軍の参戦は鍾会の予測にもなかったと思われる。渋いを連続使用したことからもわかるように、俺の言葉にうなずく顔は実に悔しげであった。
 棗祗も嘆息してうなずいた。
「我らは南陽軍を退けたばかり。将兵には疲労が残り、虎牢関の守りは綻びている。五万の袁紹軍に寄せられれば厳しいだろう」


 そして、当然ながら虎牢関に立てこもっても勝ち目のない相手に、城外で野戦を挑んで勝てるはずもない。つまり、現段階で曹操軍が選び得るのは静観一択ということになる。
 俺がそう言うと、鍾会は軍議の卓を指でトントンと叩きつつ口を開いた。
「洛陽勢の奮戦に期待し、その間に防備をととのえる、か。それはかぎりなく望みが薄い、とご自身で口にしていたように思ったのだけれど」
 周りに人がいるときは、鍾会が俺に向ける言葉もやや丁寧になる。顔は相変わらずの渋面だったが。
「二度目の報告を聞いて考えを変えました。思ったよりも期待できそうです」
 俺はそう鍾会に応じたものの、鍾会が気に入らないと言いたげな顔をしている理由も理解できた。
 今しがた俺自身が口にしたように、洛陽を巡る攻防では最終的に袁紹軍が勝つだろう。静観を決め込むということは、それに対して何一つ手を打たないということ。戦況をみずからの手で動かすのではなく、他者が動かすのを待ち、それが自軍に有利なモノであることを願う退嬰的な判断であった。


 しかし、だからといって積極的にうって出ることはできない。袁紹軍の最終的な目的地が洛陽ではなく許昌であるのは自明のこと。下手に虎牢関から兵を動かせば、袁紹軍が洛陽を捨て置いてこちらに向かってくる可能性さえある。そうなればやぶ蛇もいいところであり、それを承知しているからこそ、鍾会は表情はともかく表立っては反論してこないのだろう。
 結局、軍議の結論はありきたりなものにならざるを得なかった。
 出せるだけの偵騎を出して情報を収集すると共に、いつでも出撃できるように準備をととのえる。
 同時に関の防備を再構築して篭城に備える。平行して負傷兵の後送を急がせることにしたのは、虎牢関の放棄を視野にいれてのことであった。



◆◆



 軍議が終わった後、俺は司馬孚に声をかけて城主の部屋まで戻ってきた。
 司馬孚の顔色が目に見えて悪かったからで、俺と同じくそのことに気付いていたらしい徐晃と鄧範も厳しい表情で同席している。
 司馬孚の顔色が悪い理由は明らかだった。南下してきた袁紹軍の進路に司馬孚の故郷があったこと、そして洛陽にいる二人の姉との再会の望みがほぼ完全に断たれたこと。この二つが司馬孚の小さな身体を内側から責め立てているのであろう。


 今、曹操軍にとって考え得る最悪の可能性は何かといえば、洛陽が早期に陥落し、こちらが手を打つ暇もなく袁紹軍が大挙して攻め寄せてくることである。こうなってしまえば、俺たちに出来るのは逃げることしかない。
 では、考え得る最良の可能性は何かといえば、洛陽勢が奮戦して多くの時を稼ぎ、袁紹軍に多大な犠牲を強いてくれることである。軍議で言ったように、それでも最終的には袁紹軍が勝つだろう。だが、洛陽勢はかき集めればまだ三万くらいの兵はいるはずだから、死ぬ気でかかれば袁紹軍を半減――は望みすぎだとしても、一万や二万程度の打撃を与える可能性はある(それでも極小の可能性だが)。今の虎牢関では五万の袁紹軍を相手にしても勝ち目はないが、三万やそこらであれば、出てくる結論はまた違うものになるだろう。


 これを司馬孚の視点から見るとどうなるか。
 最悪の事態でも、最良の事態でも、洛陽は落ちるに任せる。つまりは姉二人を見殺しにする、というのが司馬孚にとっての静観の選択肢の意味だった。
 もちろん、袁紹軍が勝ったとしても、必ずしも二人の命が失われるわけではない。だがあの二人のこと、落城の混乱に際しても命大事に逃げ隠れなどせず、戦火から弘農王を救うべく全力を尽くすだろう。となれば、どこかで李儒なり高幹なりとぶつかることになる。
 その結果が果たしてどうなるのか、俺の答えは悲観的なものにならざるをえなかった。司馬孚もまたそう考えていることは、その顔色を見れば誰の目にも明らかだった。




 曹操軍の戦略目標に、二人の救出というモノは存在しない。ゆえに、二人を救うために兵を動かすことは許されない。
 ただそれは裏を返せば、曹操軍を勝利に導くための行動が「結果として」二人を助けることにつながれば問題はない、ということでもある。
 たとえば、そう――
「一刀のことだから、密かに潜入する、とか言い出すと思ってたんだけど」
 徐晃の言葉に俺はぎくりとする。さすがにかつて一緒に解池への潜入行を共にしただけのことはあるというべきか、徐晃はかなり正確に俺の思考を追尾していた。


 そう。今後どう動くにせよ、洛陽の正確な情報は必要不可欠であり、それを得るためには洛陽に潜入するのが一番手っ取り早い。情報収集という明確な意義がある行動の最中であれば、結果として二人を救ったとしても、それは越権でも独行でもないと強弁することができるだろう。
 だが、しかし。
「そういう軽はずみなことをするのはやめるといっただろう」
 俺はつとめて平静な口調で返答する。
 ただの一兵卒であればともかく、今の俺はかりそめにも虎牢関の主将を拝命した身である。一番に考えるべきは何よりも虎牢関を保つこと。それは「敵兵を虎牢関より先に一兵たりとも踏み込ませるな」という曹操の命令を遵守することにもつながる。結果として洛陽の二人を見殺しにすることになろうとも、それが俺に課せられた任であった。
 その任をおろそかにすれば、それは先日までの俺と何もかわらない。過ちを改めないことを過ちというのなら、これこそ過ちというべきだった。


 俺はそのことを司馬孚に伝えなければならない。だが、聡い司馬孚はそのあたりを理解してくれているようだった。
「お気遣い感謝いたします、お兄様。でも、大丈夫です。もとより私は、司馬家の家長として、姉様たちと戦うことを覚悟して参じたのです。お兄様の判断は何も間違ってはいません」
 顔色こそ悪かったが、その口から発された声には震えも怯えもない。それどころか、幼い背にのしかかる重圧を毅然としてはねのける強ささえ感じられた。



 しばしの間、室内に沈黙の帳が下りる。
 それを破ったのは、それまで黙していた鄧範だった。顔の左右を流れる灰褐色の髪の房を揺らしながら、口を開く。
「驍将どの、進言をしてもいいか」
「士則どの、何か?」
「驍将どのの考えは理解した。叔達さまの仰るとおり、この戦況では妥当だとも思う。だが、今の驍将どのの案、すべてを捨て去る必要はないだろう。この苦境を乗り切るためには洛陽の詳細な情報が欠かせないのは事実。それを得るために城内に潜入する任、オレに任せてはもらえまいか」
 そう口にする鄧範の目には、かつて見たこともないほどに真摯な光があった。


「オレは先代さまに従って洛陽で起居していたことがある。付け加えれば、先ごろまで兵卒として従軍していた身。今、オレがいなくなっても軍への影響はほとんどない。その意味でも潜入には適任だと思う。これはあくまでもしもの話だが、伯達さまや仲達さまと偶然顔をあわせた場合、お二方はオレの顔を知っておられるから、警戒されることなく話をすることもできるだろう」
 それを聞き、俺は考え込むように目を閉じる。
 その沈黙をどう解したのか、鄧範はなおも言葉を続けた。
「もちろん、オレひとりでいい。その方が身軽に動ける。まあ、いざという時のことを考えればもうひとり、公明あたりに一緒に来てもらいたいところだが、そうすると驍将どのの周囲が手薄になってしまうからな」


 この鄧範の進言が意図するところは明らかであり、鄧範自身が潜入に適任だという理由も十分に納得できるものだった。
 だが――しばしの沈思の後、俺は目を開き、ゆっくりと首を左右に振る。
 それを見た鄧範の目が刃の輝きを帯び、俺の面上に据えられた。
「何故、と問うてもいいか」
「この虎牢関を守るためには、公明どのはもちろんのこと、士則どのの力も必要だからです」
「驍将どのがむやみやたらとオレの力を買っているのは承知しているが、虎牢関にこもって戦うにおいて、オレの力などはないよりもマシ程度のものだろう。それに、あの鍾家の将は兵卒あがりのオレが同じ戦場で指揮をとることをこころよく思っていないようだ。オレの存在は内患の種にさえなりかねない。それを避けられるだけでも、オレを洛陽に投じる意味はある」



「たしかに、虎牢関に立てこもって戦うのならば、その通りかもしれません」
 つとめて何気なく言ったつもりだったが、やはりというか、三人は一斉に反応した。鄧範は訝しげに目を細め、司馬孚は驚いたように目を丸くし、徐晃はじっと俺を見つめてくる。
 問いを向けてきたのは鄧範だった。
「……謎かけのようなことを言う。虎牢関を守るためにはオレと公明の力が必要だといいながら、今の言葉を聞くに虎牢関に立てこもるつもりはない、と受け取れる」
「戦況によっては立てこもりますよ。ただ、その場合は退却を前提とした時間稼ぎに終始するでしょう。袁紹軍が虎牢関に寄せてきた時点で、もうこちらにほとんど勝ち目はないですからね」


 先ほどの軍議で考えた最良の可能性――すなわち、洛陽勢が袁紹軍の過半を道連れにして果てるという戦況が現実になることはまずないだろう。
 その理由はといえば、洛陽を守る最大兵力である南陽軍にとって、洛陽が命がけで守るに値する都市ではないからだ。
 城攻めにおいて重要なのは、城内の将兵の心を攻めることであるという。南陽兵にとって洛陽は故郷ではなく、守るべき家族もいない。洛陽に固執しているのは太守の李儒だが、彼は南陽兵にとって累代の主君というわけではない。自軍に倍する敵の猛攻を受けたとき、南陽軍の中で李儒に忠誠を尽くし、洛陽を守るために命がけで戦おうとする兵がどれだけいることか。


 しかも虎牢関攻めで荀正を失った今、南陽軍は兵を率いる将にも不足していると思われる。袁紹軍を道連れにするどころか、その軍門に下ることさえ考えられた。
「――南陽軍が袁紹の麾下に加わり、両軍が虎牢関に押し寄せる、か。考えたくもないが……」
 ありえないとは言い切れないのだろう。鄧範が苦い顔で呟いている。
 司馬孚がおそるおそる、という感じで口を開いた。
「あの、お兄様。では、どのようにして虎牢関を守るおつもりなのですか? お話を聞けば聞くほど、その、目の前が真っ暗になっていくのですが」
「む、すまない。ただ、これは順を追って説明しないといけないことだから――」
 どうしても現在の戦況に焦点をあてざるをえず、焦点をあてればいやでも絶望的な答えばかりが目に付いてしまう。司馬孚が憂うのも当然のことだった。
 虎牢関を守るためには、この絶望的な戦況を打開しなければならない。
 そのためにはどうするべきか。俺が思い至った方策は一つだけだった。



 すなわち、敵将高幹を討ち取ることである。



 俺がそれを口にすると、俺以外の三人は互いに顔を見合わせた後、代表する形で徐晃が口を開いた。
「だけど、虎牢関に立てこもっても勝てないし、城の外に出ても勝てっこないって言ったのは一刀だよね?」
 徐晃の言葉にうなずく俺。
 こちらには徐晃、鄧範、鍾会という一国でも奪えそうな面子が揃っているとはいえ、彼我の戦力差を鑑みれば勝敗の帰結は明らかである。
 だが、今回の戦いの中で、おそらく一度だけ、高幹を討つ機会が到来する瞬間がある。
「驍将どの、その機会とはいつだ?」
 鄧範の問いに、俺は静かに答えた。
「洛陽が陥落する直前だ」


 それを聞き、鄧範と徐晃、二人の目に理解の灯がともる。
 ただひとり、司馬孚は意味を解せなかったようなので、俺はさらに言葉を続けた。というか、これを言うために司馬孚に声をかけたのであって、ここで司馬孚に理解してもらわないと今までの会話が無意味になってしまう。
「袁紹軍に正面から戦いを挑んでも高幹の本陣まではたどり着けない。かといって、敵地に踏み込んだ軍がやすやすと奇襲を許すはずがない。だが、城を落とす瞬間なら、大半の兵は城攻めに加わっているはずだ。高幹の周辺は手薄だろうさ」
 そこを急襲する。
 現在の曹操軍の戦力では、敵の主将を討ち取る以外、袁紹軍五万を黄河の北に追い返す手立てはない。
 そして、袁紹軍を追い返すことさえできれば、残るは袁紹軍に敗北寸前まで追い込まれた洛陽勢のみ。曹操軍六千でも十分に対処できるはずである。司馬孚の姉たちを救う手立てを探ることもできるだろう。
 ――しつこいようだが、あくまで結果としてそうなるだけであり、俺が軍を動かす理由は虎牢関を守るために元凶たる袁紹軍を叩くという、いわば積極的防衛策というものである。



 俺が言わんとするところを飲みこんだ司馬孚の横で、鄧範が口を開いた。
「……なるほど。先の言葉、高幹の身に刃を届けるためにオレと公明が必要だ、ということか。確かに勝利を目の前にしたのなら、いかな名将といえど気が緩むこともあるだろう。しかし、高幹の周囲を固める兵は并州の最精鋭のはず。あるいは高幹が前線に出て城攻めの指揮をとっていることも考えられる。高幹を討ち取るのは、かなり際どい賭けになるぞ」
 鄧範の言うことはもっともだった。俺も、これが成功確実な方策だ、などとはまったく考えていない。
 だが、今の虎牢関で袁紹軍を待ち受ける、あるいは野戦を仕掛けるよりは分の良い賭けであるはずだ。


 とはいえ、やはり賭けは賭け。成功の確率が低いことにかわりはない。
 俺はひとさし指を立てて見せた。
「というわけで、失敗したときのために一つ小細工をしようと思う次第です」
「……なんだか急にいつもの一刀に戻った気がする」
「……奇遇だな、公明。オレもそう思った」
「おだまんなさい、ふたりとも」
 いきなり結論だけ口にしても司馬孚には理解しづらいだろうし、姉たちを助けるために俺が無理をしようとしているなどと誤解される恐れもあった。
 だから、俺の考えが司馬朗と司馬懿を助けたいという個人的な感情だけにもとづくものではなく、戦局全体を見渡し、指揮官として勝利を追及した結果としてのものなのだと納得してもらうため、指揮官として冷静に、そして冷徹に気を張ったしゃべり方をしていたわけだが――いや、これ本気で疲れる。正直もう限界です。


「というわけで、ここからは肩の力を抜いて説明を続けます」
「は、はい、お願いします、お兄様ッ」
 徐晃と鄧範の二人を注意したのに、何故だか司馬孚が慌てている。
 それはさておき。
「この前戦った南陽軍の旗とか甲冑とかを出来るかぎり揃える。これが高幹強襲部隊になる。袁紹軍が城を落とす寸前ということは、南陽軍は敗北する直前。降伏を考える兵も多いだろうが、そこで味方が敵本陣を急襲したとわかれば、少しは抗戦の意欲を回復するだろ」
 それを聞いた鄧範が眉をひそめる。
「……敵本陣で自軍が暴れている状態では南陽兵は投降しにくく、仮に投降したとしても、総大将が危険に晒されている袁紹軍はそれどころではない、か。戦いを長引かせ、できるかぎり両軍の消耗を強いるのが狙いだな」
「もうひとつ、両軍の間に遺恨を植えつけることもできる。高幹を討ち取れた場合でも袁紹軍の兵は残るから、その恨みを南陽軍に押し付けられれば言うことはない。高幹を討ち取れずに俺たちが退却した場合でも、襲われた高幹は心穏やかではいられないだろう。戦い終わった後、南陽兵を狩り立ててくれれば、これまた言うことはない」
 それを聞いた鄧範は、深々とうなずいた後に一言付け加えた。
「……なるほど、実に驍将どのらしい手立てだ、といっておこう」
「どのあたりが俺らしいのかと問うてみたいような、そうでもないような」
「望むなら答えるが」
「やめときます」



◆◆



 とりあえず言うべきことを言い終えた俺が、肩のコリをほぐすために腕をぐるぐるまわしていると、徐晃が不思議そうに問いかけてきた。
「どうしてさっきの軍議で言わなかったの?」
「今の戦況で軍議にのぼらせる案じゃないからな」
 極端な話、今日明日にでも袁紹軍が洛陽を落としてしまえば、それで俺の考えは無用の長物になり果てる。今は出撃の準備等やらねばならないことが山ほどあるので、実行できるかどうかもわからない計画の可否を論じている暇はない。この案を軍議の卓に出すのはもう少し後になるだろう。
 もちろん、南陽軍の旗や甲冑の準備などは先んじてととのえておくが。


 鄧範が小さくうなずいた。
「では、そちらはオレがやっておこう。袁紹軍を追い返したという洛陽の武将に期待しつつな――ところで驍将どの」
「なにか?」
「大したことではないし、今さらではあるのだが。オレを呼ぶときには『士則』でいい」
「ぬ?」
 突然の言葉に俺が首をかしげて鄧範の顔を見ると、鍛え上げた鉄を思わせる色合いの瞳が見返してきた。
「『士則どの』より『士則』の方が呼びやすいだろう」
「それはまあそのとおりですが、なんでまた突然に?」


 俺が訊ねると、鄧範は小さく肩をすくめてみせた。
「あの鍾家の将がオレを疎んじている原因の一つはここだと思うぞ。驍将どのはあれに対する時とオレに対する時、ほとんど態度がかわらない。あれにしてみれば、驍将どのが名家に生まれた自分と兵卒あがりのオレとを同列に扱っているように感じられるのだろう」
 当然、鍾会としては面白くないが、面と向かって非を指摘するようなことでもない。そんなことをすれば自分の狭量をみずから浮き彫りにするようなものである。そういった苛立ちが、自然、こちらへのきつい態度になってあらわれている、と鄧範は指摘する。


「……む、それは気付かなかったな」
「驍将どのがオレに敬意を払ってくれているのはわかるし、オレ個人としてはあれに疎んじられたところで別に構わない。が、それが原因で軍の内部がぎくしゃくしてもらっては困る。このあたりで改めておいた方がいい」
 それを聞き、徐晃がなるほどとうなずいた。
「じゃあ私への呼び方も『公明』にした方がいいね」
 さらには司馬孚までがぽんと両手を叩く。
「そ、それでは私も」
「いや、叔達を公の場で呼び捨てたら、それはそれで怒られるんじゃないか?」
「あぅ」


 そんなこんなで徐晃と鄧範の呼び方は改めることに決定。ついでに、話し方ももう少し乱暴にした方がいいということになった。もちろん鍾会に対してはこれまでどおりに接する。そうすれば、俺が部下の中で鍾会を尊重していることが傍目にも明らかになるからである。
 俺はしみじみと呟いた。
「不満というのはどこからでも生まれるものなんだな」
「なに、気位の高い人間というのはどこにでもいる。他人事のように言っているが、オレだって驍将どのが『名家に生まれたから』という理由で、はじめからあれのみを尊重する態度を見せていたら不満を覚えただろう。人の上に立つ身には、そのあたりをうまくさばく裁量も求められる――」
 と、そこまでいうと、鄧範はどこか不器用な笑みを見せた。
「と、オレは先代さまから教えていただいた」


 なんとなくではあるが、今の鄧範の笑み、これまで見た笑みとは違う気がする。
 あらためて考えるまでもなく、今の言葉は鄧範自身の不満をさしおいて鍾会をたてよ、というもの。それはこの戦いに勝つため、潰せる不安要素を今のうちに潰しておくためであろうが、そこには鄧範なりに俺に協力しようという気持ちがあるのかもしれない。
 もちろん、これまでだって鄧範には十分に協力してもらっているのだが、なんというか今までよりも一歩踏み込んでくれたような気がするのだ。
 が、それを口に出して確かめるのはさすがに恥ずかしい。当たっていても、外れていても。
 なので、俺は貴重な教えを聞かせてもらったことに対して、深く感謝するに留めておいた。





◆◆◆




 冀州魏郡 黎陽


 この日、袁紹軍の本陣が置かれた黎陽の城内では、総大将である袁紹と軍師である田豊が、開戦以来、何度目になるか当人たちも覚えていない押し問答を繰り広げていた。
「ええい、どきなさいといったらどきなさい、元皓(田豊の字)! 今日こそ、この袁本初が雄雄しく! 勇ましく! 華麗に黄河を渡り、あのちんちくりんな小娘に目にモノ見せてやるんですわ!」
「どきませぬといったらどきませぬ、麗羽さま! 黄河を渡るはいまだ時期尚早! ここで軽々しく渡河を強行すれば、千載に悔いを残すことになりましょう! 今、動いてはなりませぬ!」
「そういってもう何日経つと思っているんですの?! もう我慢も限界ですわ。今日こそ、今日こそあのこまっしゃくれた小娘に袁家の威光を、そしてわたくしの偉大さを骨の髄まで叩き込んでやるのです! 我が三十万の大軍をもってすれば、背なし胸なし色気なし、なしなし尽くしの小娘など鎧袖一触、長江の南まで吹っ飛びますわ!」
「麗羽さま! たとえ背が低かろうと、胸が小さかろうと、色気が少しばかり足りなかろうと、それは丞相として、兵を用いる者としての力量不足を意味するわけではございませぬ。古来、敵を侮って戦に勝ちを得た者がひとりでもおりましょうか。いかに相手がないない尽くしの三拍子であろうとも、侮ってはなりませぬ!」


 敵軍との最前線ともいえる城で、全軍を率いる総大将と、軍略をつかさどる軍師が、まるで十年来の仇同士のように、互いに目を怒らせ、口角泡を飛ばして言い合っているのだ。周囲の側近たちは顔を青くして、これが敵に知られては一大事と仲裁に動く――べきなのだが、誰もそうしようとはしなかった。この二人の間に割ってはいるには相当の勇気と相応の地位が必要だからであるが、それよりももっと単純な理由がある。彼らの顔にはこう書いてあった。面倒くさい、と。
 それが一際顕著なのが、二人を遠巻きに眺めている顔良と文醜の二人である。


「まーたやってんのか、麗羽さまと元皓のおっちゃんは」
 文醜が頭をかきながら言うと、顔良はため息まじりに口を開いた。
「……なんか最近、この光景が日常になってるよねー」
「だよなー。まあ下手にためこんで、ある日突然ぶち切れられても面倒だし、こうやって小出しにしてくれる方がいいのかもしんないけどさ」
「それもそうだね。でも、これが曹操さんに知られないように気をつけるのも大変なんだよ~」
「いっそ知らせちゃってもいいんじゃないか。そしたら隙ありと見て、向こうから来てくれるかもしんないぜ、斗詩。向こうから攻めてくれば、おっちゃんも戦うなとは言わないだろ」
 これにはさすがに顔良も苦笑いした。
「この兵力差で、向こうから渡河することはないと思うなー。二人ともなにげにひどいこと言ってるから、これを聞いたら曹操さんも怒りはすると思うけど」
「そっか。ならいっそのこと、それで向こうを挑発してみるかね。背なし胸なし色気なしの丞相どのってさ」
「それはさすがに下品だよ、文ちゃん」


 と、二人がこそこそ会話している間にも、袁紹と田豊の押し問答は進んでいく。
「元才からも報告が来たでしょう。我、雄雄しく、勇ましく、華麗に黄河を渡れりと! 今攻めずにいつ攻めろというんですの?!」
「高州牧の渡河は我が軍の予定にあらざるところ。今の時点で、これを好機として軍を進めるのは反対にございます。軍を進めるのならば、少なくとも高州牧が虎牢、汜水の二関を落とした後でなければ。さすれば曹操どのは白馬に留まっていることができずに大半の軍勢を引き上げさせるはず。そうなってから渡河にかかっても遅くはござらぬ」
「そのように悠長なことを言っていては、勝機を逸してしまうのではありませんこと?!」
「目の前の好機に軽々に飛びつくことこそ勝機を逸する原因となりましょう。そも、我が軍がどうしてこれまで動かずにいたのかをお忘れか? 北方の公孫賛どのを放置したまま南に動けば、曹操どのの思惑どおりになってしまいます」


 それを聞き、袁紹はむぐっと言葉に詰まる。
 当然ながら、全軍を率いる総大将として袁紹はそのことを承知していた。袁紹軍の重鎮である田豊と沮授は、公孫賛を抱き込んだ曹操軍の戦略を完全に読みきっていたのである。
 袁紹はこれに対抗するべく南皮に将兵を残してきたが、その軍勢が公孫賛を防ぎきれなければ、急いで兵を戻さなければならない。黄河を渡った後では移動に支障をきたす。田豊が口を酸っぱくして渡河を止めているのはこのためであった。


「高州牧が西を制し、朱、路の両将軍(朱霊、路招)が東を押さえている今、北方さえ片付けば、我が軍は満を持して南に兵を向けられます。その時こそ決戦の刻。どうかそれまではご辛抱くださいますようお願いもうしあげます」
 袁紹の勢いが緩まったとみて、田豊は深々と頭を下げる。袁家の軍師は、このあたりの呼吸は完璧に飲み込んでいた。
 綺麗に頭髪が抜け落ちたその頭を見下ろしながら、袁紹はふんと拗ねたようにそっぽを向く。
「――いいでしょう。ただし! 決戦の時いたらば、この袁本初みずからが先陣に立ち、あの三無主義の小娘をぎたんぎたんのめっためたにしてさしあげますから、あなたは黙って見ているように! いいですわね!」
 それを聞き、田豊の禿頭が安堵したように更に深く下げられた。




◆◆◆




 冀州勃海郡 南皮


 南皮はつい先ごろまで袁紹の本拠地だった都市である。袁紹が本拠地を鄴に移したことで、街の賑わいには翳りが見て取れるようになったものの、それでも凡百の城市をはるかに凌ぐ規模であることは事実。南皮は今なお袁家の河北支配のために欠かせぬ要地であった。
 うらをかえせば、袁家の支配の打破を目論む者にとっては絶対に落とさなければならない城である。曹操との盟約に従って出陣した公孫賛が南皮を目指したのは当然といえる判断だった。
 ただ、それゆえに公孫賛の動きを予測していた袁紹が、この地に密かに精鋭を集めていたこともまた当然であった。
 公孫賛が国境を侵したという知らせを受けた南皮の袁紹軍は、黎陽の袁紹に急使を派遣するや、すぐさま公孫賛を討つべく出陣する。
 かくて、南皮北方の平野で両軍は激突するのである。




 索漠たる平原の光景を瞬く間に鮮やかな白へと染めかえていく人馬の波。
 音に聞こえた白馬義従が戦場に展開していく様は、どこか夢の中の光景にも似て、見る者の言葉を奪う。
 河北四州の制圧を目論んだ袁紹に対し、公孫賛は徹底的に抵抗を続けており、袁紹軍の将兵の中には過去に公孫賛の軍と戦った者も少なくない。にも関わらず、彼らはかつて見たことのある光景を前に無心ではいられなかった。


「ふふ、相変わらずとてもとても綺麗な軍。つい見とれてしまいそうになる」
 ささやくようにそう言ったのは、袁紹軍の陣頭に馬を立てた武将だった。
 柔らかい声音に、柔らかい表情。その肌は雪のように白く、その目は夢見るように潤んでいる。北から吹き付ける風にのり、濡れたように黒い髪がたなびくと、えもいわれぬ蠱惑的な香りがあたりに漂った。
 窓辺にたたずみ、詩作に思いをはせる姿こと似つかわしいと思われる少女は、しかし――


「ああ、でもやっぱり白より赤がいい。その方が、もっともっと綺麗になる」
 赤い戦袍をまとい、真紅の斗蓬(マント)を翻し、鮮血をもって数多の敵を染め上げてきた袁紹軍屈指の闘将であった。
 姓を麹(きく)、名を義、字を胡蜂(こほう)という少女はちろりと唇をなめると、かわらず潤んだままの瞳を敵陣に向け、にこりと微笑んだ。


「公孫伯珪。赤く赤く染めてあげる。兵も、あなたも」





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/12/12 20:08

 洛陽郊外 袁紹軍本陣


 五万の袁紹軍がひしめく陣の最奥。
 総大将である高幹の眼前には蒼白になって罪を謝す張晟の姿があった。その顔の左半分が白布で覆われているのは、司馬懿によって断ち切られた目の治療の痕である。この負傷にくわえ、司馬懿に利用されて敗北の一因となってしまった自責が、張晟の顔色を死者のそれに等しくしていた。


「――なるほど。要するに年端もいかぬ娘にいいようにあしらわれた、と。そういうことか」
 張晟の報告を聞き終えた高幹の第一声は、これ以上ないほど的確に先夜の戦いをあらわしていた。
「は、それは……」
 全身をわななかせる張晟を見て、高幹はゆっくりとかぶりを振る。
「ああ、誤解をするな。別にお前のことを言っているわけではない。野戦の将が本分であるお前を洛陽に送り込んだのは元才の誤りだ。そして、敵に策ありと判断して攻撃を控え、雷公と兵の死を無駄にした責任も元才にある」


 高幹はそう言ってから、目を細めて足元に平伏する張晟を見下ろす。
「ゆえにここでお前の罪を問うつもりはない。が、それはそれとしてわからないことがある。どうしてお前とお前の部下が生きて戻れたのだろうな。司馬仲達は何か言っていたのか」
「……裏切りの罪をもって一太刀浴びせたものの、今日までの功績に免じて命だけはとらずにおく、と」
「――素直に受け取れば討捕としての功績。穿った見方をすれば、こちらをつりだすエサとなってくれた功績。いずれにしてもお前にとっては業腹なことだろう。仲達に思い知らせてやりたかろうな、白騎。とはいえ、その負傷では戦働きも難しいか……」
 呟くような高幹の言葉をとらえ、張晟は勢いよく顔をあげた。布に隠れていない半面が、必死の形相でゆがんでいる。
「閣下! この程度の傷、物の数ではございませぬ。かなうならば、軍の先頭に立つ許可をいただきたくッ」
 必ず北壁を乗り越える。懸命にそう訴える張晟の顔を高幹はじっと見据えていたが、ほどなくして一度だけ頷いてみせた。
「よかろう。ならば今いちど先陣に立ち、并州軍の力を知らしめよ。雷公の部隊もお前に預ける。今度は謀略ではなく、用兵の才をもって、北壁を落とすのだ」
「は、ありがたき幸せ! 必ず閣下に勝利を献じてごらんにいれますッ」





 張晟が立ち去った後、高幹は高覧と張恰を呼び、張晟に先頭部隊を任せる旨を告げた。
 それをきいた高覧は心配そうに眉をひそめる。
「若さま、その、大丈夫でしょうか? 白騎さん、汚名を返上するために無理しちゃうんじゃ……」
「その危険はあるが、今の状態で後方へ行けといっても素直にうなずかないだろう。覧は二陣で援護してやれ」
「はい、かしこまりました。でもその司馬懿という子、どうして白騎さんを逃がしたんでしょうね。黒山の将だと知っていたのに」
「さてな。元才が怒りに任せて白騎を斬ればそれでよし、斬らずとも敵の陣営に疑心をまくことができるとでも考えたか」
 高幹の言葉に、高覧はふむふむとうなずいている。
 しかし、高幹はそれ以上、司馬懿の考えを深読みしようとはしなかった。それよりも気になることがあったのだ。


「司馬懿は元才たちの攻撃を予測していた。だが、白騎らによれば、先夜の防戦で司馬懿以外の部隊が動いた様子がないという。李儒とやらは将として褒められた器ではなさそうだが、元才の軍が出てくる可能性を聞かされたとき、それをまるきり無視するほど無能とは思えない」
「斥候のひとりふたり出すくらい、大した手間ではありませんしね」
 高覧が首を傾げる。
 と、それまで黙していた張恰が静かに口を開いた。
「斥候は出さず。部隊も動かさず――敵将は我らの動きをまったく掴んでいなかったのでは」
「え、でも司馬懿さんは予測して…………あ、そうか。司馬懿さんが、李儒さんに報せていなかった?」
 配下の言葉に、高幹は同意を示す。
「そうとしか考えられない。城門を守る者が敵襲の可能性を報せないとなれば、考えられるのは裏切りだが、司馬懿は智謀の限りをつくして白騎を欺き、元才を退けた。降伏も投降もするつもりはないと見ていい。その一方で逃亡もしなかったということは、司馬懿にとって守るに値するものが洛陽にはあるのだろう」


 そこで思い出されるのが、張晟が司馬懿から聞いたという言葉である。
 『私は陛下をお守りいたします』
 張晟たちに剣を向けられたとき、司馬懿はそう口にしたという。それらを考え合わせれば、司馬懿が何を考えて動いているのか、ある程度は見通すことができる。


「元才の攻撃を奇貨として、弘農王を李儒から引き離すつもりだと見える。李儒に報告しなかったのは、それをすれば李儒が弘農王を抱えて逃げかねぬと考えたからか」
「あー、なるほど。わたしたちがここまで来ちゃえば、もう逃げることもできませんしね。でも、それはそれで弘農王さまが戦いに巻き込まれてしまうかも……これもけっこう危険ですよね」
「そうかもしれない。が、李儒と共に歩むかぎりはいつか必ず用済みとなって殺されよう。楚の義帝のようにな」
 いつの時点でかはわからないが、司馬懿は感じたに違いない。このままでは遠からず李儒が凶行に及ぶ、と。
 そこに袁紹軍という強力な敵があらわれた。これを利用して君側の奸を排除しようと企んでいるという予想は大きくはずれてはいないだろう。高幹はそう考えた。


 張恰がぽつりと呟く。
「……弘農王にも忠臣はいるのですね」
 高覧は困った顔で高幹に問いかけた。
「むむ、若さま、どうなさるんですか?」
 これに対し、高幹はこともなげに応じる。
「別にどうもしない。こちらはこちらで予定どおり洛陽を落とすだけだ」
「あ、あれ?」
「密使でも来て弘農王の保護を依頼されたのならともかく、何もないのだからな。司馬懿にとって李儒も元才も同じ盤面の駒に過ぎないのだろう。であれば、こちらが相手をおもんぱかってやる必要もない」


 実のところ、高幹は洛陽攻めを決めた時から弘農王は殺すつもりだった。もちろん公に処刑するのではなく、落城の混乱にまぎれるという形をとって、だが。李儒あたりが弘農王を道連れにするという筋書きは不自然ではあるまい。
 弘農王に怨みがあるわけではない。だが、弘農王を生かしておけば、有象無象の野心家どもを引き寄せ、いつかまた乱を引き起こすだろう。袁家の天下にとって、弘農王は有害無益であった。
 その意味で司馬懿が袁家を恃もうとしなかったのは正解だったといえる。よもやそこまで洞察した上で判断したわけではないだろうが――


 と、ここで高幹はかぶりを振り、意識を目の前の戦況に据えなおした。
 すべては洛陽を落としてからのこと。捕ってもいない獲物のさばき方を考えてもしかたない。
「よし、覧は命じたとおり白騎の援護だ。儁乂は元才と共に来い」
 いかなる理由があれ、負けるのは一度で十分。次は勝つとの断固たる決意と共に、高幹は部隊を動かしはじめた。




◆◆◆




 袁紹軍が洛陽を強襲した次の日、李儒が真っ先に行ったのは北部尉の司馬懿を昇進させ、宮廷に席を与えることであった。
 表向きは袁紹軍撃退の功を称えてのことだが、その実、北部尉の権限と部下を取り上げ、司馬懿の行動を封じたのである。この時、李儒は司馬懿が独断で民兵を集めたこと、司馬家預かりの身となっている馬岱を戦闘に参加させたことをあえて問題にしなかった。事が終わった後、これを追及して司馬家処断の理由とするためであることは言うまでもない。


 こうして南陽軍を北壁に配置し、袁紹軍に備えることにした李儒であったが、自身が城壁に立って指揮することはできなかった。李儒が防戦につとめている間、宮廷で何が起こるかわかったものではない、と考えたからである。
 誰かかわりの将を北壁に置く必要があるのだが、荀正が討たれ、南陽軍には一軍を任せられる人材が不足していた。李儒はその人選に頭を悩ましながらひとりごちる。
「こんなことなら、反抗的であったとはいえ、蒋欽めも従軍させるのであったな」
 宛に残してきた少女のことを思い出して舌打ちした李儒は、李休という名に目をとめ、この人物を将とすることに決定した。南陽郡の出身で智略に秀でた武将である。


 虎牢関の戦いで荀正を失い、五千近い死傷者を出したとはいえ、それでもまだ南陽軍は二万五千を数える。李儒はそのうち一万を選んで李休につけた。五万の袁紹軍を防ぐには不足と思える数だったが、李休は「司馬懿のような少女が寡兵で防げる相手であればそれで十分」と豪語して高幹と相対する。
 実際、夜が明けてから始まった袁紹軍の猛攻を李休はよく防ぎ、ただの一兵も敵を城壁に上らせなかった。報告を受けた李儒は思わず手を叩いて喜びそうになったが、それでは威厳が保てないと考え、なんとか鷹揚にうなずくだけにとどめた。同時に、内心で袁紹軍の名におびえていた自分をあざ笑う余裕をも取り戻す。


 結局、その日の戦況は攻め寄せる袁紹軍と、これを退ける南陽軍という形を崩さぬままに日没を向かえ、それは次の日も同様であった。
 このまま城壁に拠って袁紹軍を撃退すれば、虎牢関の敗北で失われたものを取り返すには十分すぎる武勲となる。
 戦況報告に来た李休に対し、李儒は褒詞を与え、戦後の昇進と恩賞を確約した。
 李休はこれに対して感謝の意をあらわしたものの、その顔には一抹の不安が漂っている。食言を疑われたか、と李儒が内心でむっとしていると、李休はそれには気付かず、やや迷った様子で、ある危惧を口にした。
 袁紹軍の手ごたえが軽すぎる、と。


 なるほど、袁紹軍の攻撃はたしかに激しいが、一度の攻撃で投入される兵力には限りがあり、だからこそ李休はこれをしのぐことができた。ならば兵力を分け、南陽軍を奔命に疲れさせるべく間断なく攻め寄せてくるかと思えば、そうでもない。
 なにより訝しいのは、高幹はもちろんのこと、左右に控える高覧、張恰の姿さえ陣頭で見かけないことである。
 そのことに気がついた李休は、今日の戦いにおいて敵の本陣をたえず気にかけていたのだが――
「ときおり戦況報告とおぼしき騎馬が駆け込む以外はいたって静かなものでして。あるいは夜襲でも目論んでいるのかと警戒してはいるのですが、夜になっても動く気配すらなく、少々気になっているのです」
 李休はそう言うと、足早に李儒の前から引きさがった。真実、高幹の動きが気になっているのだろう。


 残った李儒はひとり考えに沈む。
 すべては李休の取り越し苦労であり、高幹は洛陽の想像以上の堅固さに攻めあぐねているだけ、と考えたいところだったが、李休の言葉は奇妙に李儒の警戒心を刺激した。
「一見、激しく攻め寄せ、その実、主力は動かさない。こちらの疲労を待っているのか……だが、疲労というなら短時日のうちに并州からここまできた奴らの方がひどかろう。そうか、主力部隊の疲れを癒しているのかもしれぬ。となると、こちらから出撃して敵を撃ち破るのも一つの手か」
 李儒は独り言を呟きながら窓辺に歩み寄る。 
 日はすでに落ち、空には欠けはじめた月がおぼろ雲の彼方でぼんやりと光っている。李儒が月を眺めていると、不意に光が遮られた。風に流されてきた厚い雲が月をさえぎったのだ。しばし後、雲は風に流されて月がふたたび姿を見せる。この雲の多さを見るに、雨が近いのかもしれない。河南の雨季はまだ終わっていなかった。


 と、そこまで考えたとき、李儒は自身の思考に引っかかるものを覚えた。その目が底光りし始める。
「……雲は月を隠してその光を遮り、雨は兵を隠してその足音を遠ざける。敵の備え無きを攻め、不意をつくが兵の道であるのなら――北壁の攻撃は陽動か」
 李儒は考えを進める。
 北の攻撃が陽動であるとすれば、本命は当然別の方角となる。
 こちらの不意をつかなければならないのだから、わざわざ南に回りこむとは思えない。遠くまで移動すれば、その分発見される危険が高くなるからだ。
 となると、あとは東か西か。ただ、東から攻めるとなると、虎牢関の曹操軍に背を晒す形となる。虎牢関の軍は一万に満たず、出撃してくるとは思えないが、それでもあえて危険を冒す必要もない。


「となると、西か」
 西にも函谷関があるが、そちらは多数の兵がこもっているわけではない。袁紹軍にしてみれば、たとえ攻撃をうけても痛痒は感じまい。
「誰ぞある!」
 李儒は人を呼ぶと、西方への偵察を命じた。
 すでに夜だが、逆にその方がこちらの動きに気付かれにくい。さらにいえば、袁紹軍が動いていた場合、夜の方が痕跡を発見しやすかろうと李儒は考えた。


 数刻後、西の山間に不審な灯火ありとの報告を受けた李儒は、口元に三日月に似た笑みを浮かべ、北壁の李休を呼ぶように命じるのだった。




◆◆◆




 冀州勃海郡 南皮郊外


 中華の民が成人の証として字(あざな)をつける場合、字はその人物の『名』に関わるものであることが多い。だが、麹義の字である胡蜂と、名である『義』はこの例にあてはまらない。それもそのはずで、胡蜂とはスズメバチの意であり、元々は凶猛な麹義の戦いぶりから付けられた異称だったのである。
 また、胡とは羌族ら騎馬遊牧民族を指す言葉であり、その意味で胡蜂という異称は涼州生まれの麹義や配下の涼州兵を、胡賊のごとき者、と嘲るものでもあった。


 そんな異称を進んで自らの字とした麹義の内心は誰にもわからない。
 涼州兵の中には羌族の血が流れる者が少なくない。彼らに対して配慮したのかもしれないし、単純に胡蜂という名称が気に入っただけかもしれない。あるいはその両方かもしれないが、ともあれ、麹義が内心を他者に語ることはなく、戦場においては麹胡蜂の名乗りを挙げて多くの武勲を積み重ね、ついには袁家の将軍に任じられるまでになったのである。


 麹義が将軍に任じられたのは今回の大戦に先立ってのこと。これは并州の張恰や、あるいは北海に派遣された朱霊と路招も同様であった。この中で麹義と張恰、路招は偏将軍に任じられ、北海方面の司令官となった朱霊だけはもう一段階上の破虜将軍の位を授けられている。
 ただし、実力という面でいえば麹義はこの四人の中でも郡を抜いていた。個々の武勇は張恰も麹義に迫るのだが、張恰には麹義に従う涼州兵のような固有の武力がないのである。
 麹義率いる涼州兵は八百名。彼らは涼州時代から麹義に付き従う精兵であり、南匈奴の軍勢を撃破したことも一再ではない。
 麹義は袁家の武将であると同時に、八百の私兵を抱える軍団長でもあり、その兵は匈奴兵すら蹴散らす猛者揃いというわけである。


 にも関わらず、現実に麹義に与えられたのは朱霊よりも劣り、張恰、路招と同等の位である。また朱霊が方面軍司令官に抜擢されたのに比べ、麹義は張恰らと同様に北方方面における一武将に過ぎない。
 これは袁家の高官の中に麹義の武力を危険視する者、また他州からの流れ者ということで麹義の存在を疎んじている者がいるためであった。このために麹義の地位は実績に比して低くおさえられる結果となったのである。


 麹義の部下の中には、これに憤る者も少なくなかった。この手のことは初めてではなく、それがまた彼らの怒りを倍加させる。
 だが、当の麹義はあんまり気にしていなかった。元々、地位や身分に恋々とする為人ではない。小人どもの嫉妬はわずらわしいが、袁紹には部下ごと拾ってもらった恩義がある。なにより袁家の命運と河北の覇権、この二つを賭して白馬将軍と真っ向から戦う機会など万金を投じても得られるものではない。麹義にとっては、こちらの機会を与えられたことの方が、将軍位などよりよほどありがたい恩賞であった。


 そんなわけで上機嫌の麹義は、張り切って部下たちに指示を下し、刻一刻と迫る公孫賛との決戦に備えて陣容を整えていく。
 ところが、この様子を遠目に見て顔色をかえた者がいた。
 けたたましい馬蹄と共に麹義の陣にあらわれた壮年の武将の姿を見たとき、好意的な表情をする者はいなかった。涼州兵の中にはひそかに天をあおいだ者もいる。おそらく、この後の展開がなんとなく読めたのであろう。


 一方、その男性は兵になど目もくれず、将たる麹義の下に足音荒く歩み寄る。
 そして、胸まで届く黒髭を震わせて叱声を放った。
「胡蜂、どういうことか、これは?!」
 姓は淳于(じゅんう)、名は瓊(けい)、字は仲簡。かつて、袁紹と共に漢帝直属の親衛隊指揮官に擬されたこともある名門出身の武将である。当然のように軍内部における地位は麹義よりも高かった。
 もっとも、この戦いにかぎっていえば、淳于瓊の権限は麹義と大きく異ならない。麹義の上官である北方方面の司令官は淳于瓊とは別におり、麹義から見れば淳于瓊は同格の将軍に過ぎない。


 むろんというべきか、淳于瓊の考えは麹義とは異なる。彼にとって麹義は部下に等しく、しかもいない方がいい類の部下であった。自然、麹義への態度は傲然なものになる。
 麹義はさも今気付いたように黒髪を揺らして振り返ると、居丈高に自分を睨みつける淳于瓊に応じた。
「これはこれは淳于将軍。そのように声を荒げて、どうなさったのですか」
「どうした、だと?! 貴様はわしが怒っている理由が分からんとでもいうつもりか」
「はい、それはもうさっぱりと」
 淡々とした麹義の返答に、淳于瓊は黒髭を震わせた。
「ならば、わかるように言ってやろう! 貴様、これから我が軍が戦う相手が誰だか知っておるか?!」
 淳于瓊の怒声を受け、麹義はくすりと笑う。
「公孫伯珪でしょう」
「そうだ! 我らが宿敵、白馬将軍公孫賛だ! 貴様は先年、騎兵をもって匈奴を撃破し、その功績で将軍位を授かってこの戦場に来た。そして栄誉ある先陣を命じられた。これに違いあるまい?!」
「ええ。そのとおりです」
「ならば!」
 淳于瓊は目を怒らせて咆哮する。
「何故、貴様は部隊を歩兵にしているのだ?! 馬からおりた涼州兵なぞ何の役に立つ! おまけになんだ、あの無用に大きな盾は。あんなものを兵に持たせたら槍も矛も振れぬではないか。敵はあの白馬義従なのだぞ、ふざけとらんでさっさと盾を捨て、馬に乗るよう兵どもに命令せよッ!」


 淳于瓊のいうとおり、騎兵の扱いに長じていることを買われて公孫賛との戦いに登用された麹義は、公孫賛軍を前にして部隊の兵を馬から下ろし、歩兵戦の準備を始めていた。
 それを本陣から眺めやった淳于瓊は、こうして慌てて叱責しにきたのである。淳于瓊にしてみれば、麹義が公孫賛に蹴散らされても別に胸は痛まないが、それが袁紹軍全体の敗北に繋がるようなら話は別であった。


 だが、麹義は一向に淳于瓊の言葉に反応しようとしない。その部下たちも、淳于瓊の怒声が聞こえていないはずはないだろうに、動きを止める様子がない。
 完膚なきまでに無視された形の淳于瓊は、顔中を怒気で染め上げて麹義に詰め寄り、さらに声を高めた。
「胡蜂! 命令に逆ら――ぐぉ?!」
 不意に。
 麹義の右の脚が目にも留まらぬ速さで動き、迫ってきた淳于瓊の足を払った。
 まったく予想だにしなかった麹義の行動に、淳于瓊はひとたまりもなくバランスを崩し、しりもちをついたような格好でその場に倒れこんでしまう。


 周囲の兵が発する失笑で、淳于瓊はようやく自分の身に何が起きたかを悟ったようであった。その表情は驚愕と羞恥、そして憤懣に見事に三等分されており、麹義を睨みあげて立ち上がろうとする。
 が、麹義は淳于瓊が上半身を起こしたところで胸甲を蹴りつけ、たまらず仰向けに転がった淳于瓊をそのまま足で押さえつけてしまう。甲冑を踏みつけにされて地面に縫いとめられる淳于瓊の姿は、あたかも標本にされた虫のようであった。


「お、お、おのれ、貴様、何をするか?!」
「転ばせ、甲を踏みつけている。それ以外に何をしたように見えます?」
 淡々とした麹義の答えを聞き、淳于瓊は何度目のことか、怒声を張りあげる。麹義の足元から脱出しようと足掻いてもいるのだが、麹義は巧妙に力点をずらして淳于瓊の動きを封じ込めていた。結果、淳于瓊は唯一自由な口で反撃せざるを得ない。
「ふざけるな!」
 応じる麹義は、怒りのかけらも感じさせない穏やかな声で告げた。
「ふざけてなど。淳于仲簡、先鋒を任されたのは私です。その指揮を妨げた挙句、軍法に適わない命令を強いて兵を混乱させるは敵を利する行為に他ならず。斬らなかっただけありがたいと思いなさい」
「なにを、涼州の胡賊ごときが! 将に任じられて増長しおったなッ! ただちに監軍にご報告申し上げ、貴様の指揮権をとりあげ、獄に放り込んでくれる。さっさとこの足をどけよ。地位だけでなく、命まで失うことになるぞ!」


 それを聞き、麹義は歌うように唇を動かした。
「警告を無視し、なおも妄言を吐いて私の指揮を妨げる。その罪、その咎、明々白々。その鼻をそぎ落とせば、少しは大人しくなるかしら」
 言うや、どこか愉しげに腰の剣を抜き放った麹義は、なおも何事か怒鳴ろうとする淳于瓊の鼻面に剣先を突きつける。
 これには、さすがに淳于瓊の罵倒の奔流も遮られた。まさかと思いつつも、血の気の引いた顔で麹義を見上げた淳于瓊は、自分を見下ろす麹義の濡れたような眼差しを見て、ごくりと唾を飲み込む。それは麹義が戦場で敵を斬る目となんら変わらないものだった。
「……本気――いや、正気か、貴様ッ?!」
「この上なく」
 鳥の羽よりも軽い調子で応じると、麹義は一片の躊躇もためらいも示さずに剣を動かそうとして――



「何をしている」



 その、氷の鞭が言語化したような一言で動きを止めた。止められた。
 麹義が声のした方向を見やると、一人の男性がゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくる。
 年の頃は四十に達したあたりか、あるいはもうすこし下かもしれない。武器を帯びず、甲冑はおろか戦袍すら身につけていない姿は明らかに文官のモノであったが、彫り深く精悍な顔立ちはむしろ歴戦の将帥のそれであった。
 麹義の命令以外は、たとえ相手が袁紹であっても容易には従わない兵たちも、この人物の前を遮ることはかなわず、粛然と彼の前に道を開ける。威風あたりを払うその様は、人臣として持ちえる気格の限界を極めているように思われた。


 この男性、姓名を沮授といい、袁紹軍の監軍を務めている。監軍とは袁紹になりかわって袁家の軍すべてに命令を発する権限を持つ役職のこと。袁紹が河北四州に勢力を広げた際、戦略、戦術を総攬して一切の遺漏なく務め上げたのは沮授であり、その功績と権限は他の臣下の追随を許すものではなかった。
「これより戦いが始まるというときに、味方同士で諍いを起こす。その罪がわからぬは童子と愚者のみよ。胡蜂、仲簡。そなたらはそのいずれでもないと私は考えていたのだが、これは買いかぶりであったのか」
 沮授の冷厳な視線が、淳于瓊を踏みつけたままの麹義へと向けられる。淳于瓊の怒鳴り声よりも、沮授の一瞥の方が麹義に与える圧力は大きかった。
「沮監軍の人物眼が曇っているなど、決して決してありえぬことと存じます」
 麹義はそういってくすりと微笑むと、淳于瓊から足をどけた。


 麹義が袁家の中で曲がりなりにも敬意を払うのは袁紹、田豊、沮授の三名のみ。
 ただ、袁紹には恩義こそあるものの、智謀や将としての能力は認めていない。
 田豊の智謀には敬服しつつも、兵を率いる将帥としては力不足と考えている。
 その点、沮授の能力は麹義をして賛嘆せずにはいられない。田豊に優り劣りなき智謀を持ちながら、戦場において将兵を統御する手腕も併せ持っているのである。戦場で相対するかぎり誰にも負けるつもりのない麹義であるが、沮授にだけはどうしても勝てる気がしなかった。


「何ゆえ僚将に刃を向けたのか」
「淳于将軍が我が指揮を妨げたゆえに」
 それを聞き、沮授はわずかに目を細めるが、麹義はすずしい顔でその威圧を受け流した。他者の目にどう映ろうとも、麹義は自身の行いを間違っているとは思っていない。受け答えに偽りを混ぜてもいない。ゆえに、沮授の眼光に怯む理由もない。
 沮授は麹義の態度からその内心を察した。それだけで麹義を信じる沮授ではないが、眼前に迫った戦いのことを考えれば、ここで二人から細かく事情を聞き出し、裁いている暇はない。
「――この場は私が預かろう。戦が終わった後、南皮に戻って審問を行う。胡蜂はすみやかに兵の指揮に戻るがいい」
「御意。白の奔流、朱に染めてご覧にいれましょう」
 そう言うと、麹義は軽やかに身を翻し、兵たちの下へ歩み寄っていく。淳于瓊からすれば、信じられないほどに従順な態度であった。




 無言でその背を見送る沮授の耳に、ようやく我に返った淳于瓊がくってかかる。
「監軍! あの胡賊めをただちに――」
「仲簡。そなたも後陣へ戻るがいい。話を聞くのは南皮に戻ってからだ。今は眼前の敵に注力せよ」
 沮授の命令に対し、淳于瓊は頷こうとはしなかった。さらに口の動きを加速させる。淳于瓊には、軍の地位はともかく、家格は自分の方が沮授より上だという意識がある。
「監軍、白馬義従を相手に、このようなふざけた陣が通用するはずがありませぬぞ。ただちに手を打たねば手遅れに」


「――仲簡」
 先の呼びかけよりもわずかに低い声。だが、そこに込められた威は、吹きすさぶ朔風にも似て、瞬く間に淳于瓊の口を凍らせてしまう。
「袁家の将の中に、同じ命令を二度言わねば理解できぬ愚者がいるなどと私に思わせてくれるなよ」
 沮授の勁烈な眼光に淳于瓊は震え上がり、慌てて頭を垂れた。これ以上不満を吐き続ければ、南皮ではなく鄴に送還されかねぬ、と判断したのである。それは将軍としての地位を剥奪されるにとどまらず、命令不服従の罪人として裁きを待つ身となることを意味していた。




 この出来事より半刻後。
 袁紹軍と公孫賛軍の戦いが始まった。 




◆◆




 この戦いにおいて公孫賛が動員した兵力はおよそ五万。そのうち、三割近くが騎兵であった。むやみに兵数のみを増やして軍の動きを鈍くするよりは、機動力を重視して袁紹領を縦横無尽に駆け回り、袁家の心胆を寒からしめるべき、と公孫賛は考えたのである。
 対する袁紹軍はほぼ同数。ただし、こちらは歩兵が主力であり、機動力の点では公孫賛軍に遠く及ばないであろう。この機動力の優位こそ、国力に劣る公孫賛が今日まで袁家に対抗しえた理由だった。


 今日も今日とて袁紹軍を奔命に疲れさせ、ばてたところを痛撃してやろう。そう考えて敵陣を遠望した公孫賛は、そこに奇妙な光景を見つける。
 袁紹軍の先鋒とおぼしき部隊がこちらに向かいつつあるのだが、その数が異様に少ないのだ。おそらく千にも届かないだろう。あれでは騎兵で蹴散らしてくれというようなものではないだろうか。さらにもう一つ気になることがあった。
「厳綱(げんこう)、どう見る、あれを」
「『麹』の軍旗……敵将は麹義のようですな」
「それはわかってる。馬上で私たちと互角にやれる数少ない将の一人だから、先鋒が麹義なのは不思議じゃない。だが、なんで歩兵を率いているんだ。おかしいだろう?」
 公孫賛の疑問に、厳綱は困惑した表情を浮かべた。
「数も少なすぎますしな。我らを油断させて、罠でも仕掛ける気でしょうか」
「このだだっぴろい平原で伏兵も何もないだろう。深追いすればその限りではないが、あの数じゃあ追いうちするまでもなく、一戦で全滅するぞ」
「そうですなあ……聞けば、麹義は涼州の産で、名門ぞろいの袁紹軍の上層部には煙たがられているとか。あるいは我らの手を借りて邪魔者を始末しようとする企みではありますまいか」


 厳綱の考えを聞いて公孫賛は腕を組む。
 騎兵の将がごくわずかな歩兵だけを率いて先鋒をつとめる。死んで来い、と命じられたようなものだ。であれば、厳綱の予想は的を射ているかもしれない。だが、ここまで露骨なマネをすれば他の将兵にも影響が及ぶ。
 考えあぐねた公孫賛は、頭をかいて嘆息した。
(こういうとき、頭の切れるヤツが一人いてくれると助かるんだがなあ)
 そんなことを考えるが、ここまで来てないものねだりをしていても仕方ない、とすぐに頭を切り替える。


「よし、越(公孫越 公孫賛の従妹)に合図を出してくれ。攻撃を開始する」
「は、かしこまりました」
 厳綱が頷いて兵に指示を出すと、本陣に巨大な赤地の旗が立つ。それを確認したのだろう、公孫越率いる三千騎の先鋒部隊が音を立てて動き始めた。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/12/26 23:04
 冀州勃海郡 南皮郊外


 公孫越は白馬に跨り、手綱をつかんで長槍を小脇に抱え込む。
 白衣白甲に身を固めたその姿は、白馬将軍とたたえられる従姉の公孫賛に比べればやや見劣りする感は否めなかったが、それでも凛とした視線で敵陣を射抜く勇壮な外観は、河北はもとより遠く朔北にまで武名を轟かせる公孫家の精鋭軍、その先鋒を任されるに相応しいものであった。
 公孫越は陣頭に馬を進めると、高らかに兵に向かって呼びかける。
「公孫が精鋭たちよ。朔北の部族を風靡せしめた我らの力を、無道な袁家に知らしめる時がきた」
 公孫越の部隊は騎兵のみ三千人。すでに戦闘準備を終え、あとは指揮官の号令を待つばかりという状態になっている。彼らは指揮官の言葉にじっと耳をかたむけ、しわぶきの音ひとつたてない。あたりに響くのは公孫越の声と、興奮した馬のいななきだけ。
 忠実な兵たちを前に、公孫越は河北制覇に邁進する袁家を弾劾する。


「父祖の地を守るため、我らは彼奴らの侵略に抗い、多くの仲間を殺された。同じくらい多くの敵を殺した。されど、彼奴らはなお戦いをやめず、河北すべてを我が物にせんと欲している。もはや河北に袁家あるかぎり、幽州に平穏はないと断じざるを得ない」
 いうや、公孫説は持っていた槍を高々と天へ向かって突き上げる。
「従姉どのは順をもって暴を正すべく、兵馬を発せられた。これは父祖の地を守る正義の戦、我らは無道を懲らす天の鉄槌、大義を具現する天兵である! 公孫が精鋭たちよ! 誇りもて地を駆けよ! 侵略に狂奔する暴君を討ち果たし、その末路を天下に示して、もって悪は栄えぬとの真理を万民に告げようぞ。全軍、突撃ッ!!」
 高らかな号令に、大地も割れんばかりの喊声が続く。公孫家の鉄の奔流が袁紹軍に向かって動き始めた。





 公孫越の号令は風に乗り、袁紹軍の先鋒である麹義の部隊まで届いていた。
 もっとも、届いたのは先頭付近の兵士の所までであり、麹義が後方で指揮をとっていれば公孫越の声を聞くことはできなかっただろう。
 だが、麹義の耳はしっかりと敵将の声をとらえていた。これから鉄騎の猛襲を受け止める歩兵部隊、その陣頭に麹義は立っていたのである。
 およそ三千。迫り来る敵軍の数を、麹義はそう見て取った。さすがにそのすべてが白馬ではない。公孫越の周囲以外はごく普通の騎馬隊であるようだ。むろん、公孫家の騎兵ともなれば、白馬義従ではなくとも精鋭揃いであろう。
 突撃の隊列に乱れはなく、猛る兵気は物理的な圧力さえともなって麹義に向かって吹き付けてくる。その風を心地よさそうに全身で受け止めた麹義は、愉しげに唇をなめた。


 麹義は歩兵百人を横一列に並べ、それを縦に八列そろえるという方形陣をしいている。いずれの兵も重装備で、とくにめずらしいのが歩兵に大楯を持たせていることであった。中華の戦いにおいて、兵卒は槍や矛といった長柄の武器をもって戦うのが主流である。状況によって楯を用いることもあるが、大体は小型のもので、身体が丸ごと隠せてしまいそうな大きな楯を用いることはまずない。
 その楯を、麹義はすべての兵士に持たせていた。
 麹義が右手をひとふりすると、先頭の列の百人は楯を地面に立ち並べて即席の壁をつくりだし、その後ろに身を隠した。二列目以降の兵は、こちらは地面ではなく、やや上方に向けて構える形で、同じく楯の陰に身を隠す。


 これで騎射に対する備えは万全となった。
 だが、騎射は防げても、横に長く縦に薄い隊列では数倍する騎馬隊の突撃に抗し得ないのではないか。
 そう考えたのは敵である公孫越だった。むしろ中央突破を誘っているとも思える陣形を見て、公孫越は馬上でやや判断に迷う。
 だが、迷いは一瞬で断ち切られた。
 鐙の普及によって得られた恩恵は騎射にとどまるものではない。馬上で姿勢が安定するようになったことで、武器の扱いもより容易になった。それはすなわち、敵陣を突破、破砕する力が格段に向上したことを意味する。
 公孫越は自軍の突破力に自信を持っており、ゆえにそのまま突進を続けた。敵に罠があったところで食い破ってくれる、そう考えて。


 両軍の距離はみるみるうちに縮まり、先頭はあと数十歩で激突する、という距離まで近づいた。
 麹義が動いたのはこの時である。
「喚きたてよ!」
 麹義の指示に従い、それまで粛然と静まり返っていた八百の兵は天地も裂けよとばかりの大喚声を発する。
 同時に、公孫越の騎馬部隊の各処で動揺が生じた。より正確にいえば、兵ではなく、馬が動揺したのである。
 元々、草食性動物である馬は臆病で、突然の轟音や騒音には弱い。むろん、軍馬である以上、敵兵が喚きたてるたびに騒がれては物の役に立たないので、そのあたりは訓練してあるのだが、麹義の兵は楯の陰に身を隠して馬の視界を遮っていた。敵兵がまったく視界に映っていない状況で大喚声を受けたのだ。本能的な恐怖を誘われた馬は少なくなかった。
 結果、隊列の一部に乱れが生じる。


 が、それだけならば騎手の技量ですぐに静めることもできただろう。
 麹義の部隊から公孫越の部隊に向け、布袋のような物が数十投げ込まれる。その布袋は人の首級ならば三つか四つくらいは入りそうな大きさだった。
 突撃の只中である。不審に思っても、馬を止めて中を確認するような余裕があるはずもない。ただ、殺傷力を感じさせるようなものでもないので、大半の兵は無視した。布袋はそのまま地に落ちて、馬蹄に踏みにじられていく。


 ――馬蹄がうみだす砂塵と共に、袋の内から黒々とした羽ばたきが沸き起こったことに気付いた者が、はたしてどれだけいただろう。
 公孫越の騎馬部隊が爆発的な混乱に見舞われたのは、次の瞬間であった。


 数十、否、百以上の馬が突如悲鳴のようないななきをあげ、その場で棹立ちになった。中には横転する馬もあった。
 騎手は突然の馬の挙動に驚いたが、もっと驚いたのはそのすぐ後ろを駆けていた騎兵である。慌てて避けようとするがよけきれず、あるいは避けようとしてみずから他の騎兵にぶつかる兵もおり、混乱は瞬く間に全体へと拡がっていく。
「何事かッ?!」
 指揮官のひとりがあまりの事態に怒声を張り上げるも、明確な答えを出せる兵はひとりもいない。騎兵の扱いに長じる公孫賛の軍にあって、敵兵とぶつかる以前にここまで混乱に見舞われたことはかつてない。
 だが、原因の究明をしている時間は、彼らには与えられなかった。


「た、隊長、敵歩兵、突っ込んできますッ!」
「なに?!」
 重厚な甲冑で身を固め、長大な楯に身を隠した敵の方形陣は『守り』のためのものだ、と公孫越の兵たちは考えていた。騎馬部隊の突撃をいかにしてはねかえすのか、それを考えた末のものだろう、と。
 だが、麹義にとってこの重装歩兵陣は『攻め』の陣。叫喚も、件の布袋も、攻勢にはずみをつけるための小細工にすぎない。
 ちなみに布袋の中に詰め込まれていたのは、麹義いわく「馬にも人にも害しかもたらさない、あの忌々しくて鬱陶しくて忌々しい血吸い虫」――つまりはアブだった。夏の時期にあらわれるこの虫は、馬にとって非常にやっかいな代物であることを麹義は承知していた。音に対して慣れさせることはできても、アブに対して慣れさせることなどできはしないのだ。たとえ公孫家の調練がどれだけ優れていようとも。


 麹義は敵陣の混乱を待つことはせず、布袋を投じるや、すぐに突撃を指示した。
 これを受けて部隊は槍先をそろえて整然と進撃を開始する。麹義が手塩にかけて育てた逞兵は、おのおのが喚きたてて敵兵に突きかかっていくようなことはせず、戦場において集団運動を展開する。騎兵として苦も無くそれをこなす者たちが、地に足をつけてできない理屈はない。
 これと相対したのが、突進の勢いを鈍らされながらも、なんとか馬を御し直した三百ほどの騎兵であった。
「突撃せよッ!」
「かかれェ!」
 双方の陣から喚声と怒号が湧き起こる。
 一方は混乱を跳ね除けようと声を高め、一方は戦意を叩きつけるために咆哮する。
 決戦の始まりを告げる喊声は、同時に緒戦の勢いそのものを明確に示していた。 
 



「申し上げます! 前軍より苦戦の報告!」
 その報告を受け、公孫越は舌打ちをかろうじてこらえた。苛立ちは眼前の戦況と、いわずもがなの報告を送ってきた者、双方に向けられている。
「わかっている。すぐに手を打つゆえ、前軍はこのまま敵を押し続けろと伝えてくれ」
「承知しました!」
 踵を返した伝令が、砂塵の向こうへ姿を消すと、公孫越は麾下の部隊を割き、敵の側背をつくべく兵をまわすことにした。重装備の麹義の部隊は正面からの突進には強いようだが、横腹をつけば、あるいは後尾から襲いかかれば、その限りではあるまい。


 指揮官の指示を受け、五百あまりの騎兵が慌しく動き出す。
 麹義の陣が横、あるいは後ろからの攻撃に弱い、という公孫越の分析は間違いではなかった。下した指示もはっきりと間違っていたわけではない。だが、結果としてこの指示は貴重な騎兵数百の命を無為に失わせしめることとなる。
 敵の側背をつくべく急速移動した部隊は、千を越える弩弓の雨に晒されて甚大な損害をこうむってしまったのだ。
 これは麹義の突撃と公孫越の混乱を確認した沮授が、麾下の蔣奇、沮鵠に命じ、麹義の左右にそれぞれ一千の弩兵を押し出したために起きたことで、公孫越の指示はこの弩兵の前に格好の好餌を並べたてたも同然であった。




 麹義が鋭鋒となって公孫越の陣を両断し、分断された部隊を蔣奇、沮鵠の弩兵部隊が狙い打つ。
 この形勢が確立されるまでにかかった時間はごくわずか。公孫越の指揮が劣っていたというよりは、麹義、沮授の指揮能力と戦況把握が図抜けていたというべきだろう。
 気がつけば、本隊さえ麹義の陣から指呼の間にあることを知り、公孫越の側近たちは青くなった。
 急ぎ後方へ、との進言を受けた公孫越は怒りで声をうわずらせた。
「私に退けというのか、お前たちは。袁家に背を見せろとッ!」
 公孫越は朔北の平原で騎兵を操ることには長けていたが、駆け引きや策略といったものが渦巻く中華の戦では並以上の将ではない。勇気に欠けることはないが、応変の才に乏しいのである。
 ゆえに、劣勢に立たされた際の粘りにかけ、また思考が硬直しがちになる。
 そんな公孫越を後方に下げるため、側近たちは言葉を尽くさなければならなかった。公孫越は主君である公孫賛の一族であるし、たとえそうでなくとも、勇壮であり、部下に優しく、気前の良い公孫越は将兵に人望があった。


「後退は必ずしも退却ではございません。いったん伯珪さまの下に戻り、兵をととのえて再び押し出せばよろしいではございませんか」
「さようです。戦において不利な戦況に陥ることはままあること。一時の感情に支配され、この場にとどまっては取り返しのつかぬことになりましょうぞ」
 口々に後退をすすめる側近たちの必死の形相を見て、公孫越は目を閉じ、唇をかみしめる。
 感情は、後退など断固として否、と述べている。理性は側近の進言を是としている。
 ならば――と、公孫越が決断を下しかけた、その時。


「遅い、遅い。退却するにせよ、踏みとどまるにせよ、決めるべき時はすでに彼方」


 そんな声が公孫越の耳朶を震わせる。公孫越が感じたのは驚愕と、わずかな戦慄。
 慌てて目を見開いた公孫越の目に映ったのは、鮮やかな真紅の斗蓬(マント)を翻らせる女将軍の姿。背に負った弓、手に持つ長大な戟、いずれも赤の色で染め上げられ、ただ乗っている馬だけが鮮やかな白馬であった。報告によれば、敵の陣に騎馬はなかったということだから、こちらの騎兵から奪い取ったのだろう。白馬ということは、乗っていた兵は相当の錬度であったはずなのだが、それを苦もなく奪ったこの武将は――


「麹義……!」
「公孫伯珪の従妹どの。伯珪を朱に染める小手調べとしてはちょうどいい」
 周囲すべてこれ敵兵、という状況で麹義はにこやかにそう言うと、向かってきた騎兵のひとりを戟の一振りで馬上から斬って落とした。糸杉のような身体からは想像もできない膂力で、右の肩から左の腋まで、地面に落ちた騎兵の身体はほとんど両断されている。


 麹義が馬腹を蹴って突進する。その向かう先が公孫越であることは言うまでもない。
 側近たちはこれを阻もうと麹義の前に立ちふさがる。いずれも白馬に跨った公孫家の最精鋭であるが、この時にかぎっては相手が悪かったとしか言いようがなく、斬られ、突かれ、叩き落され、たちまちのうちに十を越える死屍が大地を埋めた。その中には、今しがた公孫越を諌めた者たちも含まれている。
「おのれェッ!」
 公孫越は激昂して、長槍で麹義に突きかかる。
 だが、怒りに任せた攻撃は隙だらけであり、麹義は余裕をもって穂先を弾きかえすと、すぐさま反撃に転じた。
 一撃、二撃、三撃。
 不利な体勢で麹義の連撃を三度まで弾き返したことは、公孫越の武勇のほどを証明したであろう。だが、三度目をしのいだ際に大きく体勢を崩した公孫越は、麹義の猛撃に耐え切れずに長槍を手放してしまう。
 公孫越に次の一撃を防ぐ手立てはなく、麹義がとどめをためらう理由もなく、勝敗はここに決したかと思われた。


 だが。
 今まさに公孫越の頭上に必殺の一撃を叩き込もうとしていた麹義が、不意に戟をとめ、馬上で上体をそらせた。
 と、つい一瞬前まで麹義の頭があった空間を一条の矢が貫いていく。
 麹義が矢の飛んで来た方角を一瞥すると、そこには馬上で弓を構える年嵩の武将の姿があった。
「おお、厳将軍(厳綱)!」
 公孫越の嬉しげな声に厳綱は一つ頷いてみせたが、視線は麹義から外さなかった。そのまま、厳綱は公孫賛からの命令を口にする。
「急ぎ本陣に戻るように、との伯珪さまからの命令でござる。この場はそれがしが引き受け申すゆえ、お早く」
「しかし……」
「お早く! このままずるずると戦を長引かせれば、本営まで敗勢に巻き込まれかねませぬ。巻き返しの機会は何度もござらぬぞ」
 厳綱の強い語気を受け、公孫越は悔しげに頷くと馬首を返した。


 公孫越にかわって眼前に立ちはだかる厳綱を見て、麹義はくすりと笑う。
「一身をもって、主君の一族をかばうか」
「公孫家のご一族、むざと貴様ごときに討たせるわけにはいかぬゆえな」
 弓を捨て、槍を手にとった厳綱は、それを隆々と扱くと穂先を麹義に向ける。
「ふふ、見事な覚悟。おしむらくは、志は尊くとも、技量がともなっていないところね」
 いうや、麹義は無造作に戟を横なぎに振るった。
 厳綱はその一撃を槍の柄で受け止めるも、伝わってきた衝撃の強さに、知らず顔が歪む。と、麹義の戟の穂先が鮮やかに翻り、厳綱の槍を巻き上げると、宙高くはねあげた。
「しま――?!」
 空中で再度翻った麹義の戟が、驚愕の声ごと厳綱の身体を斬り伏せる。厳綱は苦痛の声を発することもできず、鞍上から地面へと転がり落ちた。


 麹義はもうそちらに目を向けない。去り行く公孫越に目を向ければ、いまだその姿は混戦の中に没さず、麹義の視界の中にある。
 麹義は戟を鞍にかけると、背負った弓を取り出し、素早く矢をつがえて弦を引き絞った。
 針のような眼光が公孫越の背に据えられ、麹義の舌がちろりと唇をなめる。
 ――殺った。
 そう確信した麹義が弦から弓を放そうとした、その時だった。
 不意に麹義の馬が悲痛ないななきと共に、高々と棹立った。地面に倒れた厳綱が最後の力を振り絞り、槍の穂先で麹義の馬の腹を突いたのだ。落馬を免れることができたのは、馬術に長けた麹義ならではであったろう。


 麹義がなんとか馬を御した頃には、公孫越の姿はとうに視界から失せていた。地面に倒れた厳綱はといえば、すでに麹義を睨む力さえないのであろう、地に這いながら今にもとぎれそうな喘鳴を繰り返している。
 それを見た麹義は、わずかに目を細めた後、大きく戟を振りかぶった。
「先の言葉は訂正しましょう。あなたの技量と気迫は、志に届きました」
 言い終え、勢いよく振り下ろす。
 その一撃が公孫越を打ち損ねた苛立ちゆえのものなのか、それとも言行を一致させた敵将の苦しみを断ち切るためのものなのか、麹義の表情から察することはできそうにない。
 公孫越の敗走により、部隊は統率を失って潰走の様相を呈している。今こそ好機と攻め寄せる袁紹軍の喊声が戦場を圧した。




◆◆◆




 青州千乗郡 蓼城(りょうじょう)


 朱霊、字を文博という少女が七万の軍勢を率いて黄河を越えた目的は、北海郡を統べる孔融に対して圧力をかけることだった。孔子二十世の孫という知名度を背景に、曹操方の有力者として動く孔融は袁紹にとって目障りな存在だったのである。
 ただ、これはあくまで表向きのことであり、実際は北海郡に圧力をかけることで曹操が許昌から相当数の援軍を派遣することを袁紹方は予測していた。その援軍を北海の地に釘付けにすれば、曹操軍の戦略に大きな掣肘を加えることができる。それは、ひいては袁紹軍の作戦展開が容易になることを意味する。
 河北の物量をもってはじめて可能となる力技。
 朱霊の侵攻は、曹袁両軍による覇権争いの開始を告げる烽火であった。


 曹操軍は袁紹軍の予測どおり、曹仁、曹洪、鮑信、さらに夏侯惇といった有力な武将、太守を北海に派遣し、孔融の援護を行った。
 曹操軍としては朱霊を撃ち破り、黄河下流域から渡河をはかることで戦況を優位に進めようという目論みがあり、それゆえ攻戦に長けた夏侯惇、曹仁を送り込んだのである。
 だが、朱霊は今日まで曹操軍の猛攻をしのぎきり、渡河はおろか黄河を望むことさえ許していない。
 朱霊の武将としての力量、ことに守戦におけるそれは袁家でも随一といってよいものであり、だからこそ破虜将軍の称号と共に北海方面における軍事の全権を沮授から委ねられたのである。


 ……だが、しかし。
 この抜擢を朱霊本人が望んでいたかといえば、それはまた別の話であったりするのだが。





「……はあ~」
 重く深いため息を吐く朱霊を見て、傍らの路招は緊張した顔付きになった。朱霊の顔を見るかぎり、何か悪い知らせであることは明白だったからだ。
 現在、朱霊たちは蓼城近辺の地形に幾つもの砦を築き、それを甬道(ようどう 両側に垣を築いた通)で結びつけ、それぞれの砦を有機的に機能させる方法で防戦を展開している。
 朱霊が築いた陣地群は、蓼城付近の高低さのある地形を活かし、曹操軍が一つの砦を攻撃すれば、その側背を別の砦が攻撃できるように計算されていた。甬道によって結ばれているために武器や食料が尽きる心配もなく、砦同士の連絡もとりやすい。


 当然のように曹操軍は甬道の破壊、占拠を試みたが、甬道へ攻撃を集中すれば、各砦から矢石の雨が降り注ぎ、曹操軍に甚大な被害を強いた。
 攻撃の都度、手痛い反撃を食らい続けた曹操軍は、このところ攻撃も及び腰になっている気配が濃厚である。
 今のところ、この防戦に破綻の気配はないが、全体を見れば、朱霊らの軍勢が袁紹軍の中でも特に敵中に突出した状況にあるのは確かな事実である。なにしろ黄河を渡った袁紹軍は朱霊たちしかいないのだから(路招は高幹の渡河をまだ知らない)。
 わずかな戦況の変化が自分たちの死命を制することになるかもと思えば、報告のひとつを聞くにも自然と緊張が増すというものであった。


 だが、この時にかぎっていえば、路招の心配は無用のものであったらしい。
 朱霊は力なく微笑んで路招を見た。
「……路将軍。南皮で、沮監軍と麹将軍が、公孫賛どのの軍勢を退けたそうです……」
「うそ?! あれ、だってつい三日前くらいに、これから戦端ひらくよーって使者が来てなかったっけ?!」
「南皮郊外の一戦で、半日たらずで白馬義従を退けたそうで……うん、すごいですねえ、あのお二方は……」
 報告によれば、緒戦で麹義が敵先鋒を一蹴し、その勝勢にのった沮授の指揮で、公孫賛の三度の反撃をことごとく退け、ついに一度たりとも主導権を敵に渡さぬままに押し切ってしまったという。


 路招は満面に笑みを浮かべて両手を叩く。
「よかったー! さすが監軍さま、防戦一方のあたしたちの士気が萎えないようにって気遣って、すぐに勝利を知らせてくれたんだね。これで本初さまも渡河にかかれるし、いよいよ曹操攻めの本番――って、あれ? なら、なんでため息?」
 喜びの声をあげた路招は、さきほどの朱霊のため息を思い出して首を傾げた。
 すると朱霊は、カゲロウでももうちょっとはあるんじゃないかというくらいに生気に欠けた声で言った。
「……袁家にはこんなすごい人たちがいるのに、なんで私なんかが司令官やってるんだろうなあって思ってしまって……」
「あーもう、文博――じゃなかった、朱将軍! 『私なんか』も『私なんて』も禁止って言ったでしょう! 破虜将軍さまになったんだから、もっと自分に自信をもって明るくなろうって話し合ったじゃない」
「……努力はしてるつもりなんですけど……はあ~、破虜将軍……敗れて(破)捕虜になる(慮)将軍……うふふ、なんだかとても私らしい……」
「違うから! 敵を破って捕虜にするくらい勇ましい将軍って意味だから!」
「……路将軍は前向きですね」
「文博が後ろ向きすぎるの!」


 自分と正反対の性向を持つ幼馴染を見て、路招は困ったように息をつく。
 あらゆることに悲観をもって望む朱霊は、砦や甬道に不備があると思えば、夜中でも起き上がって不備を潰し、敵の攻勢に備えてきた。そうやって築き上げられた朱霊の堅陣は、路招などから見れば鉄壁に等しく、城や砦に立て篭もれば朱霊以上によく守る武将はいないだろうと思う。その点を見抜いて朱霊を登用した田豊や沮授は、やはりすごい人だよなー、と路招はあらためて思うのだ。


 問題は立て篭もったまま容易に外に出て行かない(攻めても失敗すると思っている)ことなのだが、そのあたりを補佐するのが路招の役目である。
 というか、そういう理由でもないかぎり、自分が将軍に任じられることはなかっただろう、と路招はわきまえていた。路招と朱霊は性向こそ正反対だが、能力においてははっきりと朱霊が優る。路招の役目は、朱霊の傍らにあって彼女を励まし、力づけ、ともすれば自沈しそうになる朱霊を引っ張り上げることにあった。もちろん、きちんと将としての補佐もするけれども。


 ただ、僚将としてはそれでよくても、友人としてはまた異なる感情がある。
 朱霊は子供の頃から明るくも朗らかでもなかったが、それでもここまで後ろ向きではなかった。やはり、先の黄巾党による河北一斉蜂起の際、故郷の県で起きた一幕が影響しているのだろうかと路招は思い、悲しくなる。
 袁紹配下として攻め寄せた朱霊に対し、敵は城内にいた朱霊の家族を人質として城頭に引き出し、退却するよう要求した。これに対して朱霊は「ひとたび主君に仕えた上は、どうして家族を理由に君命をないがしろにできようか」と涙ながらに攻撃を指示。常の朱霊に似合わぬ決断の早さと激しい攻勢を前に、黄巾党は城をたもつことができずにあえなく制圧される。
 朱霊の即断に動揺したのか、敵は朱霊の家族に斬りつけはしたものの、斬られた朱霊の母と弟はかろうじて一命をとりとめた。
 路招が知るかぎり、二人が朱霊をうらんだり、罵ったりしたということはないはずである。だが、朱霊にしてみれば、結果として命は助かったにしても、家族を見捨てたという罪悪感は拭いようがなかったのであろう、これ以後、以前にもまして内にこもるようになってしまった。




 事が事なだけに気にするなと言うこともできず、路招は言葉に迷う。
 朱霊はそんな路招のためらいを見て、不思議そうに小首を傾げたが、すぐに別のことを思い出したようで、ゆっくり言葉をつむいでいく。
「……さきほど公則さん(郭図の字)と元図さん(逢紀の字)が来てたんですが――」
 その名を聞いただけで、路招の顔にはあからさまに不愉快そうな表情が浮かんだ。朱霊は思わず肩を縮めるが、むろん、路招の感情が向けられた相手は眼前の朱霊ではない。
「なに、またいつもの『今こそ好機』?」
「はい……」
「ふん。あいつらにかかったら、好機なんてのは夏の夜の蚊みたいにそこらをぶんぶん飛ぶ回っているものらしいね。どうせ失敗したらあたしらのせいにするんでしょ」
 そして、成功すれば我が手柄にするのだろう。口先だけのえせ策士どもめ、と路招は内心で二人のしたり顔を思い浮かべ、罵った。主君の側近面をして新任の将軍たちを睥睨する郭図と逢紀を、路招は心の底から疎ましく思っていた。


 だが、実のところ、彼らの進言自体は間違っていないのだ。そのことは路招も承知していた。
 ここ最近、敵の攻勢の勢いが弱まっていることは路招自身も感じていたこと。ここで逆撃に転じれば、あるいは一挙に勝ちを掴むことができるかもしれない。
 ただ、相手は曹操軍の中でもそれと知られた将帥たちである。夏侯惇などはとかく猪突で知られるが、先の青州黄巾党征伐では並々ならぬ智略の冴えを示してみせた。こちらの突出を誘うため、あえて攻勢の手をゆるめる程度のことはやってのけよう。
 そもそも、この軍の目的は敵の主力の一部を主戦場の外で釘付けにすること。現状でも十分に目的は達しているのである……


「……と、いうことでお二人にはお引取り願いました……」
「うん、あの二人の口撃に微塵も動じずに主張を貫けるのが、朱将軍のすごいところだね」
「……攻めても失敗しそうな気しかしませんし」
「り、理由はどうあれ、すごいのはすごいんだよ!」
 そんな会話をかわしながら、路招はなんとなく思った。
 田豊や沮授が朱霊を司令官に任命し、補佐として郭図や逢紀を付けた理由はこのあたりにもあるのかもしれない。何かと好戦的な袁紹の側近を厄介払いする意味で。
 おそらくは、朱霊であれば郭図や逢紀の好戦的な感情に染められることなく、当初の目的を見据えて不動を保ってくれると考えたのだろう。本当の智者というのは、ああいう人たちのことを指すのだろうな、と路招は考え、結果的に自分に面倒事を押し付けてきた相手に尊敬の念を抱くのであった。




◆◆◆




 司州河南郡 洛陽城外


 袁紹軍が洛陽の北にあらわれてから、かぞえて四日目の夜。
 昼間、厚く、重く垂れ込めていた雲は、夕刻になって大量の雨を降らせ始める。時間の経過とともに増していく雨勢に促されるように、北壁を攻め立てていた張晟は兵を退き、野営の準備にとりかかった。雨中とはいえ、篝火の数を減じれば暗闇に乗じて敵軍の奇襲を許す恐れもある。雨をさけて焚かれた炬火の数は、むしろ晴夜よりも多いほどであり、それは城壁の上からでも確認することができた。
 袁紹軍が夜襲に対する備えをしているとわかれば、城内の南陽軍もむやみに仕掛けることはできない。かくて、城壁を挟んだ両軍の睨みあいは、これまでと同様に明日以降に持ち越されることになる――はずだった。


 だが、洛陽の外では夜闇と驟雨に紛れ、袁紹軍の兵が密やかに動き出そうとしていた。
「若さま、準備万端、ととのいました。いつなりとご命令を!」
 高覧の報告を受け、高幹はうなずく。
 高幹の命令を待つ三万の兵は、今日まで城攻めに参加せずに英気を養っていた者たちである。雨の中、高幹に向けられる目に疲労の色はなく、これから始まる決戦に向けた戦意だけが瞳の奥で煌々と燃え盛っている。あたかも周囲を取り囲む篝火のように。


 城攻め用の頑丈な梯子も、三日かけて十分な数をつくりあげた。待ち望んでいた雨は、あつらえたように夜に降り出した。
 戦機至る。
 驟雨の向こうでおぼろにかすむ城壁の篝火に目を向けた高幹は、小さくひとりごちた。
「善く攻める者は敵に守るべき場所をつかませぬといい、善く守る者は敵に攻めるべき場所をつかませぬという。さて、元才と文優、どちらが善く兵を用いる者なのか」
 そう口にしながらも、高幹の顔には緊張も不安もない。あるのは兵たちと同様、ほどなく始まる戦いへの覚悟だけだった。


「よし、西の部隊に伝令。攻撃を開始せよ――できるだけ派手に、な」
「は、伝令、出ます!」
「西が動いたらこちらも出る。儁乂」
「――は」
「先鋒はそなただ。城門を貫け」
「御意」
 張恰がためらいなくうなずくのを見て、高幹は視線を高覧へと転じる。
「儁乂が城門を破った後、元才も突入して洛陽宮を落とす。覧は城門を確保した後、待機して次の命令を待て」
「んー、若さまのお側にいてはいけませんか? この戦況でよそから攻めて来る人はいないと思うんですが……」
「駄目だ。こちらの策が上回っていれば、そう手こずることもないと思うが、それでも夜間の奇襲だ。何か不測の事態が起こるかもしれないし、向こうの策が上まわっている可能性もある。いずれにせよ、退路は確保しておかねばな」
 高覧はさらに何か口にしかけたが、高幹の言は正論である。すぐに思いなおしてうなずいた。
「――はい、わかりました。若さま、儁乂さまもどうかお気をつけて」



 これより四半刻後。
 洛陽の西にあらわれた袁紹軍の夜襲により、旧き帝都をめぐる攻防はにわかに佳境を迎えることになる。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/12/26 23:03

 司州河南郡 洛陽


 袁紹軍、西方より襲来。
 夜半、西の城壁を守る李休からの報告を受け取った李儒は、口元に会心の笑みを閃かせた。
 袁紹軍による北壁への度重なる攻撃は、洛陽側の注意を北方にひきつける陽動であると判断した李儒は、天候が崩れた今夜こそが袁紹軍にとって好機であると読み、すでに西からの攻撃に対する備えを完了している。北壁には最低限の兵を残し、南陽のほぼ全軍を西門に集結させたのである。


 さらに李儒は袁紹軍の攻撃を奇貨として、外患と共に内憂をも片付けるべく策動した。
 これまで李儒は兵を動かす際、自分自身は洛陽宮を動かなかった。これは洛陽政権の正統性の源泉である皇帝――弘農王を、しっかりと李儒自身の掌中におさめるための措置であったが、今回、李儒はあえてみずから兵を率いて袁紹軍に備え、手薄になった洛陽宮には樊稠率いる弘農勢二千を据えた。
 これらの配置を決した李儒は、洛陽宮を離れる際に樊稠の耳元で次のように囁く。


 袁紹軍の予期せぬ夜襲。
 これまで皇帝を抱えて離さなかった李儒の不在。
 この二つが重なったとき、宮廷で不穏な動きをする者たちがあらわれるだろう。その者たちは皇帝という手土産をもって袁紹軍に降伏しようとするに違いない。樊将軍におかれては、かかる不届き者たちに対して断固たる処置をとられますように、と。


「……ふん、混乱に乗じて妙なまねをせぬかしっかりと見張り、証拠を掴めということか。確かに司馬朗あたりは何をするかわからぬな」
 その樊稠の言葉をきいた李儒はかろうじて舌打ちをこらえた。
 察しの悪いことだ、と思いつつも表面上は穏やかに話を進める。
「少しまわりくどかったでしょうか。樊将軍、袁紹めが攻めてくれば、不穏な動きをする者たちはあらわれる。必ず、あらわれるのです」
 奇妙に強い李儒の語気。樊稠は訝しげな視線を返す。
 白面の麗貌に笑みを浮かべ、李儒は重ねて説いた。
「袁紹めの夜襲を知れば諸人は動揺し、宮廷は混乱に陥りましょう。誰がどのように動き、どこで何が起きたか、すべてを知る者はどこにもおりません。事終わった後、裁かれた者がまことに罪ある行動に出ていたのか否か、確認することは容易ではない。いえ、確認することなど不可能と断じてもかまいますまい――おわかりですか、将軍」


 問われた樊稠は含み笑いをした。李儒が言わんとすることが理解できたのだ。
「……なるほど。災い転じて、ということか」
「さて、なんのことやら。私が申し上げることができるのは、厳然として宮中の綱紀を正した御方に対し、私はもちろん、陛下も最大限の敬意をもってその立場を尊重するであろう、ということだけでございます」



 ――出陣前のやり取りを思い起こしながら、李儒は李休からの使者に、洛陽宮にも袁紹軍襲来の報を伝えるよう命じた。
 心得た使者が立ち去ってから李儒は口元の笑みを消す。あの使者によって宮廷は大混乱に陥るだろう。それに乗じて宮中の邪魔者をまとめて排除する。事が終わった後、確たる証拠もなく廷臣を処断した樊稠を始末することも李儒の予定の内にあった。
 かくて内憂と外患を綺麗に片付けた李儒は、漢王朝の主宰者として万機を掌握する。皇帝を補佐し、歴史に不滅の名を刻み込むのだ。


 李儒が陣を構えているのは、西の城壁から洛陽宮に至る大路の一画。城門を守る李休には、ある程度防戦した後で城門を明け渡すよう命令してある。陽動の成功を疑わない袁紹軍は勢いに乗って洛陽宮に迫り来るだろう。そこを待ち伏せ、徹底的にこれを叩く。
 李儒にとってはこれまで欠けていた武勲を得るまたとない機会である。李儒がみずから兵を率いて洛陽宮を離れたのは司馬朗らを罠にはめるためであったが、軍事的成功への欲も少なからず存在した。


 ここまではすべてが予測どおりに進んでいる。ゆえに、ここからも予測どおりに進んでいく――と考えるほど李儒は軽佻ではなかったが、現状で戦の主導権を握っているのが自分であるとの確信は揺らがなかった。
 あとはこの主導権を手放すことなく確実に段階を踏んでいけば、内外の困難は一掃され、自身の権限は飛躍的に高まるだろう。いつか口にした相国の位を得ることさえ夢ではない。否、それ以上の高みを望むことさえ決して不可能ではないだろう。
 そう考える李儒の口元には、一度は消したはずの微笑が再び浮かび上がっていた。




 この時、西門を守る李休から、一つの報告がもたらされる。
 その報告は攻め寄せてきた袁紹軍に関するもので、敵軍は城外で喊声を張り上げ、矢を射掛けてくるばかりで、城門を攻め落とそうという気概がまるで感じられないというものであった。
 李儒は知らず眉をしかめる。
 夜襲してきた袁紹軍を城外で撃退してしまえば敵に致命傷を与えられず、今日までの攻防戦が明日以降も続くことになってしまう。それでは意味がないと考えたからこそ、あえて敵を城内に引き込むことにしたというのに、肝心の敵が攻めてこないというのはどういうことか。
 そもそも、夜襲は相手に直前まで襲撃を気取らせないために行うもの。わざわざ騒ぎたて、襲撃を知らせることに何の意味がある? これでは北壁に繰り返し攻め寄せた陽動も意味を為さなくなるではないか。
 李儒の脳裏に混乱の火花が散った。


 と、降り注ぐ雨滴を裂くように、血相を変えた別の伝令が本陣に駆け込み、声高に報告した。
「も、申し上げます! 敵の手により城門が開かれました! 敵軍、大挙して突入してきますッ!」
 それを聞き、李儒はえたりと頷いた。敵軍を城内に引き込むことは作戦で定められていたこと。袁紹軍の動きが鈍かったのは、雨天の夜襲ゆえの混乱があったのだろう。
 そう判断した李儒は、報告をもたらした兵の慌てぶりを苦々しく思い、語気を鋭くした。
「うろたえるな。西門を破られるのは作戦どおりではないか。あとは敵をここまでおびき寄せ……」
「違うのです!」
 伝令は李儒の言葉を遮って大声をあげる。一軍の長に対して非礼もはなはだしい行いであり、李儒の面が怒りで紅潮する。だが、伝令はそのことに気付かず、なおも報告を続けた。
「破られたのは西門ではなく、北門です! 袁紹軍の旗印は『張』! おそらく張儁乂の部隊であると思われますッ」
「……なんだと?」
「なお、その後方には敵将高幹の牙門旗を確認。袁紹軍の主攻は西ではなく北ですッ!!」


 敵の狙いは西ではなく北。そう告げられた李儒はわずかによろめいたが、すぐにかぶりを振って足元を確かめた。その口から現状を否定するうめき声がもれる。
「ばかな……たとえ敵の狙いが北であったとしても、北壁にも兵力は残した。それが何故こうも短時間に突破される? 守備兵は何をしていたのだッ!」
「敵軍の勢いすさまじく、二千ほどの兵では防ぎようがなかったのではないかと思われますが……」
 その伝令の口調には、兵力の大半を西に割いた李儒の決断を非難する色が感じられた。少なくとも李儒はそう思い、表情をさらに険しくしたのだが、あるいはそれは被害妄想の類かもしれなかった。
 李儒の内心を知る由もない伝令は、なおも必死の面持ちで言葉を続ける。
「それがしが城壁を離れる際、すでに敵の先鋒は城内に達しておりました。おそらく、今も敵の数は増え続けておりましょう。このままでは完全に突破を許してしまいます。早急に援軍を――」
「申し上げます!」
 伝令の口上が終わらないうちに、新たな報告がもたらされる。李儒が声もなくそちらを見やると、あらわれたのは西門からの使者であった。
「西の敵勢、にわかに活気づき、城壁を越えんと猛攻を仕掛けてまいりました。これより作戦に従い、城門を明け渡すとの李将軍の言葉……」
 そこで言葉が途切れたのは、本陣にただよう奇妙な緊迫感に使者がようやく気付いたからであろう。


 物問いたげな視線が李儒に向けられるが、李儒の唇は縫い合わされたかのように動かない。
 すぐさま作戦を白紙撤回し、李休には西門の死守を指示し、李儒みずからは主力部隊を率いて北の高幹に攻めかかるべきであろうか。だが、その指示はもはや遅きに失している。
 李休は作戦開始の許可を求めてきたのではなく、作戦実行を知らせてきたのだ。今から使者を出しても間に合わないだろう。仮に間に合ったとしても、北から押し寄せる高幹らの精鋭部隊に対し、策が破れて士気が低下した南陽軍でどこまでやりあえるか。城壁という障害がない上は、こちらに倍する袁紹軍の兵威は容易に対抗できるものではない。


 李儒は考え、そして決断する。
「……敵の主力が北へ回ったのならば、西の兵力はこちらの予測を下回るはず。李休に使者を。南陽軍の指揮を委ねる。作戦どおり、西から侵入する袁紹軍を速やかに撃滅せよ」
 その間、自身は洛陽宮に駆け戻って弘農王を外へと連れ出す。皇帝と兵力を握ってさえいれば打つ手はいくらでもある。西門を確保しておけば、最悪の場合は函谷関を越えて弘農へ退去することもできるだろう。袁紹軍の主敵は曹操であり、弘農まで追撃してくることはない。
 どのみち、いずれは西に進出する予定だったのだ。それが早まっただけと思えば衝撃も薄らぐというもの――李儒はみずからにそう言い聞かせた。己の指示が実現性に乏しいことに目をつぶりながら。


 おそらく、命の安全だけを考えるのならば、何もかも捨てて身一つで逃げ出すという選択肢がもっとも可能性が高い。だが、それをすれば兵も富も権力も――命以外のすべてを失うことになってしまう。それは李儒にとって、于吉に拾われる以前の自分に戻るということを意味した。この洛陽を焼き払い、しかし戻るべき場所もなくさまよっていた頃の自分に、である。


 ……それだけは断じて避けねばならぬ。
 李儒は内心でうめく。過ぎし日の惨めな姿を克明に思い出してしまうのは、今まさにその場所に立っているからだろうか。
 降り注ぐ雨は夏の暑気に溶けて奇妙にぬるく、顔を打つ雨滴が断続的に不快感をかきたてる。さきほどまではまったく気にならなかった天候すら、今は古い記憶とあいまって、ヤスリをかけるように李儒の神経をすりへらしていくのだった。




◆◆◆



   
 張恰の部隊が北壁を突破したとの報告を受けたとき、高幹の表情にさしたる変化は見られなかった。
 今の袁紹軍は、たとえるならば満月のごとく引き絞られた弓矢である。仮に南陽軍が全力で北壁の守備にまわっていたとしても容易に止められるものではない。向こうが西の囮に釣られたのならば、なおのこと。


「よし、元才も出る。続け」
「ははッ!」
 この時、高幹が西門にまわした兵力は一万弱。今日まで主力として北壁を攻め立てていた張晟の部隊はこちらも一万ほどで、彼らは邙山の麓で兵糧や武具、さらには渡河用の羊皮等の物資を守っている。
 北壁に攻め寄せる兵力はおよそ三万。
 今日のために英気を養ってきた并州兵の意気は盛んであり、泥土を散らして地を駆ける彼らの口からは自然と雄叫びが発された。


 高幹が城門に近づくと、城壁に立てかけられた幾十もの長大な梯子が見て取れた。すでに城壁上の守備兵は排除されているようで、城壁の上から矢石が降ってくることもない。
「さすがに儁乂、そつがない」
 北壁を守っていた二千の守備兵は、疾風のごとく攻め寄せた張恰の部隊に対し、抵抗らしい抵抗もできずに撃退されてしまったのだろう。
 高幹の本隊はまったくの無傷で洛陽に突入を果たした。
 すでに張恰は洛陽宮へと向かったらしく、夜目にもあざやかな銀髪の将軍の姿はあたりにはない。
 過日、張雷公を失ったときのこともある。伏兵の有無を確かめるために兵を割くか、と問われた高幹はかぶりを振ってこたえた。
「それは後ろの覧に任せる。本隊はこのまま儁乂に続いて前進せよ。罠の類は先行部隊が調べ済みだ。臆せず駆けよ!」


 力強い号令に、麾下の将兵が喊声で応じた。
 高幹は矢継ぎ早に指示を下しつつも、冷静に周囲の様子を観察していた。そして、推測を確信にかえた。北門の手薄さを見るに、敵将である李儒がこちらの策にかかったのはほぼ間違いないだろう、と。
「となれば、敵の主力は西門付近に集結しているはず。今後のこともある。南陽軍はここで徹底的に叩いておくか」
 袁紹軍は大軍といえど、当然ながら兵力には限りがある。東門と南門に関しては兵力を配置する余裕がなく、南陽軍が退却にかかった場合、これを取り逃がしてしまう恐れがあった。
 しかし、洛陽城内の敵の配置がつかめれば、この戦況からでも打つ手はある。


「宮殿の制圧は儁乂に任せ、本隊は西門へ向かう。敵はおそらくこちらを待ち伏せる形で布陣しているはず。これを押し包むように取り囲め」
 西からの突入に備えている部隊を、後方から半包囲の態勢で取り囲む。これで敵主力を取り逃がす心配はなくなるだろう。しかる後、敵部隊を西門に押し込んでいけば、敵は外の別働隊からの攻撃を防ぎつつ、高幹の攻撃にも対処しなければならなくなる。抵抗は長くは続くまい。
「南陽軍は策が破れて動揺している。立ち直る余裕を与えず、一気呵成に攻めかかれ。我ら并州兵の戦いぶり、偽りの皇帝と宰相に見せつけてやるのだ」


 この高幹の判断は、内容はもとより、決するまでの速さで南陽軍の死命を制する結果となった。
 李儒から南陽軍の指揮を委ねられた李休は、全体の戦況を把握する間もなく、高幹率いる主力部隊の猛攻を受ける羽目に陥ったのだ。李休にとって不幸中の幸いだったのは、高幹の兵力展開が速すぎたため、まだ西門を開いていなかったことであろう。
 だが、それでも城の内外からの攻撃に対処するのは容易なことではない。李休はみずから槍を振るい、声を嗄らし、懸命に防戦に努めたが、それは敗北のおとずれをわずかに引き伸ばしただけに過ぎなかった。


 このままではまずい。甲冑に張り付いた敵兵の血を雨で洗い流しながら、李休はそう思った。否、李休のみならず、すべての南陽兵がそう感じていた。
 だが、挽回の手立てがそこらに転がっているはずもなく、敗北と死は今この時にも彼らを喰らい尽くさんと迫りつつある。
 南陽軍の将兵の脳裏に、降伏の二文字がちらつきつつあった。



◆◆



「高将軍、付近の家々に怪しい人影はありません。伏兵の恐れはないものと思われます」
 北門を確保した高覧の下にその報告がもたらされたのは、袁紹軍が城門を破ってから四半刻ほど後のことであった。
 すでにあたりに戦闘の気配はなく、兵たちが忙しげに、だが規律正しく動き回っている。
 高覧は内心で安堵の息をはきつつ部下に応じる。
「はい、ご苦労さまです。雷公さんのことがあったからちょっと心配だったんですけど、考えすぎだったみたいですね」


 袁紹軍の張雷公は、過日、城内に攻め込んだ際に伏兵によって命を落とした。その二の舞を演じることのないように、高覧は廃墟となっている街区へ兵をいれたのである。
 もっとも、すでに張恰と高幹は城内の奥深くに突入を果たしている。今になって敵が北門を狙ってくるとは考えにくく、念には念をいれてのことであったから、伏兵なしとの報告はある意味で高覧の予想どおりであった。
 そのことは高覧の配下もわきまえており、報告の兵の顔に徒労を感じさせるものは浮かんでいない。ただ、勝利を確信しているためか、兵の口はいつもよりなめらかではあった。
「敵の動きを見るに、向こうは我々が西から攻め寄せると信じ込んでいたようです。高州牧の策は図にあたりましたね」
「そうですね。ただ、これで勝ったと浮かれないように気をつけないと。若さまは油断と怠慢が大嫌いな方ですから」
 内緒話をするようなひそひそ声で、高覧は兵に語りかける。
 兵は将軍の可愛らしい仕草に破顔しかけたが、すぐに高覧がやんわりと釘を刺していることに気がつき、慌てたように一礼した。
「承知いたしました。浮かれて気を抜くことのないよう、皆に注意してまいりますッ」
「はい、お願いします」


 兵がやや足早に立ち去った後、高覧は自身の武器である錘に目を向ける。
 トゲの鉄球がついた先端部分は常の鈍色のまま、いまだ敵兵の血に濡れていない。その事実が現在の味方の優勢を端的にあらわしている――
「なんて考えるのは、やっぱり油断かな」
 高覧は小首を傾げつつ、そんな呟きを発した。
 洛陽宮に攻めかかった張恰の報告では、いまだ抵抗する兵はいるものの、数自体は大したものではなく、ほどなく洛陽宮内部に侵入できるとのことだった。
 高幹の本隊は西門で敵軍の主力部隊を捕捉し、これを包囲しつつある。
 高覧がいる北門にいたっては、はや敵兵の影すら見えない状況であり、戦況は確実に袁紹軍の勝利へと推移しつつある。


 それでも、まだ勝ったと決まったわけではない。
 兵の油断を戒めておいて、将が弛緩していては洒落にもならぬ。高覧は自身に活を入れるべく左手で強めに頬を叩くと、周囲の兵たちに警戒を厳しくするよう改めて命じた。
 さらにこれまでと同様、邙山の後陣に使者を出して現在の戦況を伝えることにした。


 高幹は北壁への攻撃に迫真性を持たせるため、今夜の作戦に関しては張晟に真実を伝えていなかった。これは汚名の返上を望む張晟の苛烈な攻勢が必要だったからであるが、張晟にしてみれば半ば当て馬にされたようなもの、内心面白くはないだろう。
 この上、戦況の推移も報せずに戦の蚊帳の外に置いてしまうと、張晟やその配下の不満が反感に変じてしまう恐れがあった。ゆえに高覧は逐次戦況を知らせることで情報を共有し、張晟らを軽んじていないということを態度で示そうとしているのである。
 油断なく、万事に周到な高覧らしい配慮であった。



 このように、高覧は今の戦況で打つべき手をことごとく打ったといってよい。
 だが、瑕瑾がまったくないわけではなかった。敵の存在を城の内にのみ求め、外の敵への注意を怠ってしまったのだ。袁紹軍の本来の敵は、南陽軍などではなかったのに。
 もっとも、これはある意味で仕方ないことでもあった。袁紹軍は張晟からの情報で、虎牢関の曹操軍が一万に満たない寡兵であることを承知していた。つい先ごろ、曹操軍と南陽軍が激闘を繰り広げたことも把握していた。この状況で曹操軍が出撃してくるはずはないと判断することは、むしろ当然といってよい。おまけに、今の袁紹軍は奇襲の真っ最中。曹操軍がここを突くためには、袁紹軍の動きをかなりの確度で予測していなければならない。それらを考え合わせれば、曹操軍が出てくる可能性は限りなくゼロに近かった。


 それでも高覧は虎牢関の動きを見張るために少数ながら偵騎を出していたが、彼らからも急報は来ていない。曹操軍を警戒する必要性は皆無であるはずだった。
 だが――
「…………ん?」
 高覧は不意に後方を振り返った。いまだ振り続ける激しい雨の音に紛れて、何か聞こえてきた気がしたのだ。
 気のせいかとも思ったが、それは次第にはっきりと、雨音を裂くようにあたりに響きはじめる。馬蹄の音。報告の兵や急使ではありえない。なぜなら、それはどれだけ少なく見積もって五百以上の騎兵が雨中を疾駆する音であったから。


 なぜ、城外から騎兵が? 
 高覧は眉をひそめた。
 張恰も高幹も麾下の兵を率いて城の奥深くへと攻め入っている。もちろん、高覧の隊でもない。考えられるとすれば、城外の張晟が手柄欲しさに陣を離れてやってきたか――否、そんな勝手な行動をとれば、たとえ手柄をたてても高幹が厳罰をもって報いることは火を見るより明らかである。張晟とてそれは承知していようから、あえて高幹の怒りを買うようなまねをするはずはない。
 結論としては、今も耳に轟く馬蹄の音を生んでいる兵馬の一団は、高覧が知る兵ではないということになる。


 その認識が一つの推測を育み、推測は戦慄を誘った。
 高覧は自身の顔から血の気が引いていく音を聞く。
 まさか、とは思う。思うが、しかし将軍である高覧が把握していない騎兵戦力が味方に存在した、などという推測よりは、そちらの方がよほど説得力に富む。
 南陽軍との激突を経て、出撃する余力はないものと思われていたが――
「曹操軍……!」
 高覧の口から出た言葉は、しかしすぐに味方の報告によって否定される。
 現れたのは南陽軍。
 その報告は、なまじ曹操軍が出現するよりも高覧に混乱を強いた。城外から南陽軍が現れる。しかも今まさに袁紹軍が攻め入ってきた北の方角から。
 一体、何故。そんな疑問を抱きつつ、高覧は殺到する敵勢に対する防戦指揮に追われることになる。




◆◆◆




 少し時をさかのぼる。


 洛陽城外。
 泥土を跳ね散らしながら、北の方角へ一直線に駆けていく使者らしき騎兵の姿を、俺はふりしきる雨の向こうに捉えていた。
「攻め入って間もないというのに、どこに向けた使者だ?」
 俺の訝しげな呟きに応じたのは、傍らで馬を立てていた鄧範だった。
「洛陽の北には邙山があり、その向こうはもう黄河だ。この雨で黄河が荒れていることは容易に予測できる。河北への使者とは考えにくいな」
「確かに、黄河で足止めを食らうとわかっていて、城攻めの最中に使者を出す理由はないな。となると、邙山に輜重隊でも置いているのかな」


 さきほど夜の闇と雨の向こうにすかし見た袁紹軍の大攻勢は、明らかに決戦を意図していた。決戦に際して戦力を城外に留め置く理由はないから、おそらく北の部隊は輜重隊か、負傷兵か、いずれにせよ城攻めに用いることができない者たちで構成されていると考えられる。
 もし輜重隊であれば、敵の主力が洛陽に攻め入っている今、防備は手薄であろう。これを叩けば袁紹軍にとって大打撃――と言いたいところなのだが。


「北郷どの、妙な欲を出すなよ。輜重隊と決まったわけではないし、たとえ輜重隊だとしても、これを叩いたところで洛陽さえ落としてしまえば高幹は困らないんだから」
 やや離れた場所にいた鍾会が、鋭い声で注意を促してくる。
 俺はわかっているとうなずいた。
「袁紹軍が洛陽を落とせば、南陽軍の物資を得られますからね」
「そのとおり。ぼくたちの兵は三千に満たない。兵力の分散は下の下策だ」
 鍾会が口にしたとおり、後方に控えさせている兵力は騎兵七百、歩兵二千。あわせて三千に満たない寡兵である。
 単純に可能不可能でいうのなら、虎牢関の兵力を総動員すれば、もう三千ばかり兵を増やすこともできたのだが、それをすると虎牢関が空になってしまう。南陽軍に扮するための軍装がこの数しか揃わなかったこともある。さらに、今回の作戦は最初から最後まで綱渡りなので、重傷者はむろんのこと、先の戦いで軽傷を負った者も留守居役に残すことに決した。それらの結果として、強襲部隊は三千に満たない数になったのである。


 ゆえに、ただでさえ少ない兵力をさらに割くのは下策、という鍾会の言葉は説得力に満ちている。俺もあるやなしやの可能性にすがり、本来の目的をおろそかにするつもりはないのだが、ひとつだけ気になることがないでもなかった。
 総大将である高幹が城攻めに加わらず、後方に控えていたらまずい、ということである。
 高幹が決戦に際して城外に退避するような武将であれば、黄河を渡河して一気に許昌を突く、などという戦略をたてるとは思えないので、この可能性は少ないだろうと思っているのだが。


 そんな俺の考えを後押ししてくれたのが徐晃である。
「雨のせいではっきりとは見えなかったけど、さっき『高』の軍旗が城内に入っていくのが見えたよ。たぶんあれ、高幹の牙門旗じゃないかな」
「おお、それは気づかなかった――というか、よくここから軍旗の文字まで見えるな、公明」
 俺は旗が立っているのがかろうじてわかる程度だというのに。
 もっとも、この疑問は今さらのことではあった。
 俺たちは敵の偵騎の目を避けるため、日が落ち、雨が降り始めてから虎牢関を出たのだが、それでも完璧に敵の目をすり抜けられるわけではない。先行して、夜闇に潜む敵の偵騎を排除してくれたのが徐晃なのである。


 徐晃は小さく肩をすくめた。
「さすがに雨まで降ると厳しいから、断言はできないんだけど」
「それでも十分助かるよ」
 どのみち、ここまで来て作戦を変更するつもりはなかったとはいえ、気がかりを残しておくのと潰しておくのとでは大きな違いだ。
 北の部隊を放っておくと、俺たちが攻め入った後で彼らによって北門を塞がれてしまう可能性があるが、城内に攻め入った後は高幹を討ち取れるか否かに関わらず、俺たちは東門を内側から破って退却する予定だった。つまり、北門をふさがれても何の問題もない。


 これで心おきなく攻めかかれる。
 俺たちはそれ以上口を開くことなく、馬首を返して自陣に取って返した。
 当然といえば当然ながら、洛陽城内の戦況についてはほとんど何もわからない。できるかぎり偵察を出したとはいえ、それが過ぎれば俺たちが動くのではないかと敵に勘付かれてしまうので、あまり派手に動くこともできなかったのだ。
 作戦名をつけるなら、乾坤一擲とか、一六勝負とか、そんな感じになるのは疑いない。初っ端から足を踏み外さないよう注意しなければ、と俺はそんなことを考えていた。



 ――そのせいではない(と思う)が、喊声と共に城内に突入した俺たちは、いきなり苦戦を余儀なくされることになる。




◆◆




 確実に不意を突いた。
 南陽軍の軍装に身を包み、夜の雨を裂いて袁紹軍に攻撃を開始したとき、俺は確かにその感触を得た。
 だが、その感触は瞬く間に潰えてしまう。それほど、袁紹軍の立ち直りは早かった。自分たちが攻め入った方角からの敵襲は予測していなかったとしても、決して油断はしていなかったことの証だろう。敵将の統率力は見事というしかない。
「……感心している場合じゃないんだが」
 俺がそんな呟きを発したのは、ともすれば急いてしまいそうになる自分自身をなだめるためでもあった。


 曹操軍としては敵が混乱している隙をついて強行突入し、一気に敵将の首をはねるというのが理想的であり、そのために徐晃と鄧範が騎兵部隊を率いて敵陣に突撃を敢行している。
 しかし、敵将は直属の部隊を中心に円陣を布いてこれに対抗してきた。不意をついたとはいえ、こちらの騎兵の数は七百あまり。一方、北門付近の袁紹軍は、雨ではっきりとは確認できないが、騎兵部隊の数倍――おそらく三千近くはいるだろう。下手をすると四千に達するかもしれない。
 これだけの数の敵兵が将の指示に従って守りを固めれば、これを騎兵のみで突き崩すのは容易ではない。俺は理想的展開を早々に諦めざるを得なかった。


 むろん、諦めたのは理想的展開だけで、作戦そのものに見切りをつけたわけではない。不意をうって敵将に迫ることができなくなったのならば、力で敵陣を切り裂くまでである。
 この場には七百の騎兵の他に俺が率いる二千の本隊(歩兵)がいる。今まで本隊を動かさなかったのは、ここで歩兵を投入すると、夜間、しかも雨中のことなのでかえって徐晃ら騎兵部隊の動きを妨げてしまう恐れがあったためだ。乱戦になれば同士討ちの危険もあるし、俺が戦況を把握することも今より難しくなる。本隊を投入するのは高幹の所在をしっかりと確認してからにしたかったのだが――この敵を相手にそんな悠長なことは言っていられなかった。


 俺の隣にいる鍾家の神童も俺と同様の判断を下したようで、こちらを見る眼差しには命令を促す意思があらわだった。
「敵の後背に襲い掛かった優位まで失ったわけではない。北郷どの、一寸のためらいが戦機を逃すぞ」
 と思ったら、眼差しだけでなく、はっきり口で促された。
 俺は浮かびかけた苦笑を押し隠すと、鍾会の進言に頷いた。
「公明と士則に伝令。これより本隊を投入する。左右に大きく展開して敵陣を引き伸ばせ」
 命令に応じて伝令が城内に向かう。
 騎兵が左右に分かれれば、それに対応するために敵は自陣の側面の兵力を厚くするだろう。必然的に俺たちの突撃を受け止める中央部分の兵力は薄くなる。


 まあ、いかに洛陽が巨大な都市であるとはいえ、さえぎるもののない平原とはやはり違う。そうそう騎兵が思い通りに展開する空間があるはずもなく、俺の命令を受け取った二人の第一声はなんとなく想像できた。
『……言うはやすし、だな』
『……言うはやすし、だね』
 たぶん、こんな感じだろう。しかし、二人ならきっとなんとかしてくれる――だろう、きっと。


 そんな俺の願いが通じたのかどうか。
 ほどなくして、騎兵部隊は波が引くように左右に分かれ、歩兵部隊が突撃する道ができた。はっきりとは確認できないものの、こちらの騎兵の動きにつられたように、敵兵の一部が左右に展開する気配もある。
「全軍、突撃ッ!」
 放っておけば、すぐに敵将が自陣のほころびを繕ってしまうだろう。
 そう考えた俺は、半ば反射的に全軍に突撃を指示していた。二千の歩兵が一斉に動き出す。


 七百弱の騎兵に二千の歩兵が加われば、数の上では袁紹軍とほぼ同等になる。むろん、これは北門付近に限った話であり、こちらの奇襲が知られれば、すぐに敵の援軍がやってくるだろう。
 その援軍が来る前に、迅速に敵を討たねばならない。
 俺は胸中に芽生えかけた焦りを押し殺し、そう考える。
 この先に高幹がいればいいが、万に満たない敵兵力を見るかぎり、その可能性は低い。ここで敵に粘られては、敵軍襲来の報告が俺たちより早く高幹の下に達してしまう。そうなれば高幹を討ち取る機会は未然に摘み取られてしまうに違いない。


「こじあけろッ!」
 敵の陣に達した俺は、味方の兵を煽りつつ馬を前に進める。ただし突出はせず、いつでも周囲の歩兵と連携できる距離を保ちながら。
 そんな俺を見て指揮官であると悟ったのだろう、敵兵の集団が向かってくる。大半は味方の兵に遮られたが、それでも数名の兵が俺のもとまでたどり着いた。
 その敵兵に向かい、俺は大喝を浴びせる。


「我こそは南陽軍にその人ありとうたわれし李由、字は温祖なり! 雑兵ども、死にたくなくば道を開けィッ!!」
 

 ……こういうときは、偽名の方がかえって啖呵を切りやすいな、などと役に立つんだか立たないんだか良くわからないことを学びつつ、俺は槍を手に敵兵に躍りかかっていった。
 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2012/12/29 18:01

 司州河南郡 洛陽北門


 夜闇を裂き、喚きながら襲い掛かってくる敵兵を懸命に防ぎながら、高覧は胸奥から湧き出る焦慮を消しきれずにいた。
 袁紹軍が洛陽に攻めかかってからこちら、高覧は戦線の先頭に立ったことはない。だが、張晟らの援護のために洛陽勢、なかんずく主力である南陽軍と対峙したことは幾度もあり、その経験から高覧は敵軍の実力をおおよそ把握したつもりであった。
 だが、今攻め寄せている軍勢は、自分の知る南陽軍とは大きく異なっている。高覧にはそう思えてならなかった。夜目にも明らかなほどに充溢した戦意と粘り強い攻勢は、的確な指揮と明確な勝算にもとづかなければ発揮できない類のもの。南陽軍は決して弱兵ではなかったが、それでも并州兵をしてここまで押し込まれるほど精強な軍ではなかったはず。事実、北門を守っていた部隊は張恰が苦もなく蹴散らしたではないか。
 尽きることなく湧き出る焦慮は、拭いえぬ違和感を源としていた。


「……数が少ないということはあったにせよ、予期しない襲撃に不意を打たれて北門を手放したばかりだというのに、もう立て直したんですか?」
 疑問は尽きない。だが、斬りかかってくる敵兵は疑いなく南陽軍の装いをしており、旗印も南陽軍のそれである。
 今はまだ、敵兵は高覧のところにまで達してはいない。だが、ほどなく高覧自身が武器を振るわなければならなくなるだろう。今しがた、南陽軍の李某という将の名乗りがかすかに聞こえてきた。すでに、それだけ敵に肉迫されているのだ。


 高覧はいったん疑問を封印し、頭を将としてのそれに切り替える。
「若さまと儁乂さまに伝令を。南陽軍の立ち直りがここまで早いということは、敵の策がこちらの予測より一段深い可能性があります。ご注意されたし、と」
 高覧はそう命じたが、そちらの方角には敵の騎兵部隊が展開しており、伝令の一人二人差し向けても、中途で討ち取られてしまうことは目に見えていた。確実に二人に戦況を伝えるためには、後方の敵を突破しなければならず、そのためにはまとまった数の兵を差し向ける必要がある。
 高覧は直属の部隊の一部を割き、宮殿と西門に向かわせることにした。


 むろん、それをすれば高覧自身の守りが手薄になってしまうのだが、高覧は気に留めなかった。この場を離れることにためらいを見せる兵たちに高覧は説き聞かせる。
「夜、しかもこの雨のせいで、若さまも儁乂さまも北門で戦闘が起きていることに気付いていないでしょう。敵にここを抜かれてしまえば、お二人は無防備な側背に攻撃を受けることになってしまいます。それだけは避けないといけません」
 高覧の言葉は正論であったが、それでも兵たちはためらいを捨て切れなかった。なるほど、確かに高幹らに戦況を報せる必要性は理解できる。だが、敵の攻勢が勢いを増している今、この場を離れることは承服しがたかった。


 幕僚のひとりがためらいがちに口を開く。
「この場は我らが支えますゆえ、将軍が高州牧のもとへ向かわれるのがよいと思うのですが……」
 その提案に対し、少なくない数の兵が同意する。
 だが。
「兵を持ち場に残して、自分だけさっさといなくなる将軍がどこにいるんですか。あなたたちの上官をなめたら駄目ですよ?」
 人差し指を立てた高覧は、やんわりとした声音で、きっぱりと兵の提案を拒絶する。口調こそ普段と大差なかったが、目に宿る硬質の光は、高覧が決して譲歩するつもりがないことを示していた。


 端的にいって、高覧はすこしばかりむっとしていたのである。それと悟った幕僚は、慌ててかしこまった。
「差し出口を叩きました、申し訳ございませんッ」
 のみならず、泥の上に平伏しようとする幕僚を、高覧はこちらも慌てて制止した。高覧にしても、部下たちが己をきづかってくれていることはわかっているのである。
 だが、それに従うわけにはいかなかった。
「心配してくれるのは嬉しいですが、この身は将であり、若さまが下した命令は北門の確保です。私がこの場を離れることはできません。そして、これ以上時間を費やすこともできません。改めて命じます。これより百名を割いて若さまと儁乂さまの陣に戦況を報告します。大路を使っては騎兵の追撃をかわしきれないでしょう。市街を駆け抜けて宮殿と西門へ向かいなさい」
 常のように柔らかい声音には、兵たちの反論を許さない何かが込められていた。



◆◆◆



 攻めあぐねていた敵陣から、少なくない数の兵が離脱したことに徐晃はすぐに気がついた。
 おそらくは他部隊に敵襲を報せるためであろう。
 単騎の急使には注意を払っていたが、まとまった数の兵を相手どるとなると、敵陣への攻撃の手を緩めなければならなくなる。
 しかし、曹操軍は今もって頑強な敵陣を崩しきれておらず、ここで徐晃が攻撃を緩めると敵の守りがさらに堅くなってしまう恐れがあった。深読みすれば、敵兵の離脱はそれを狙った作戦とも考えられる。


 徐晃の迷いを断ち切ったのは、北郷からの伝令である。
 十や二十ならばともかく、百を越える兵が離脱するのを、今まさに敵陣をこじ開けようとしている最中の北郷が見逃すことはなかった。
「李将軍からの命令です。離脱する敵兵に構わず、このまま敵陣を攻め立てるべし!」
 それを聞いた徐晃は、一瞬だが「李ってだれ?」と思ったが、すぐにそれがあらかじめ定めていた北郷の偽名であることを思い出す。


 北郷曰く、意味があるのは李姓だけであり、名も字(あざな)も適当につけた、とのこと。
『北郷って姓は色々な意味で目立つからな。なにかの拍子に敵兵に聞かれると、こっちの正体がばれかねないから、それを未然に防ぐために偽名を名乗る。でだ、李姓を名乗っておけば、鹵獲した李儒の軍旗が、そのまま俺の軍旗にはやがわり。実に経済的な案だと自負している』
 そういって胸を張る北郷の姿を思い出した徐晃は、苦笑を押し殺しつつ使者に疑問を投げかけた。
「かず――李将軍は戦況が敵にもれるをよしとする、と?」
「は。李将軍によれば、眼前の敵将は生かしておかば必ず禍根となる人物。たとえ高幹ではなくとも、曹――南陽軍の全力をあげて、ここで討ちはたさねばならぬ、とのことですッ」


 敵に『南陽軍』襲撃の報が伝わるのは、袁紹軍に混乱を惹起する意味で望むところである。だが、あまりに早く情報が伝わってしまうと、結果として高幹を討つ機会を逃してしまうことになりかねない。
 徐晃はそれを案じたのだが、北郷はその危険を冒してでも眼前の敵は今ここで討っておかねばならない、と判断したようだ。あるいは、この敵を討っておかないと、そもそも高幹にたどり着くことすらできないと見て取ったのかもしれない。
 それほどに、円陣の奥にいる敵将は手ごわかった。


 徐晃は了解した。
「……うん、わかりました。我が隊はこれより敵将を討つべく突撃を開始します。李将軍にそうお伝えしてください」
「は、かしこまりました!」 
 使者が一礼して立ち去るのを見送りながら、徐晃はどのように敵の堅陣を破るかを考えた。
 この天候、しかも敵味方が激しく入り乱れて戦う状況では弓矢は使えない。かといって、突入しようにも敵の槍衾は容易に付け入る隙がない。
 徐晃は先刻から何度か個人の武勇で無理やりこじ開けようとしているのだが、敵兵の士気は高く、二、三人がまとわりついて馬の足をとめ、他の兵が徐晃を地面に引きずりおろそうとするのである。
 徐晃も勇をふるって、大斧で敵兵の頭蓋を叩き潰し、首をかりとり、両手の指で数えられない数の敵兵を冥府に送り届けたのだが、それでも敵兵は怯むことなく徐晃の前に立ちはだかり、陣に穴をあけることを許さない。
 おそらく、反対側の鄧範も似たような状況だろう。


 百の兵が離脱しようとも、元々敵は三千以上。徐晃の目をもってしても、目に見えて敵陣が薄くなったとは感じられない。だが、それでも――
「一刀が覚悟を決めたのなら、私も相応の働きをしてみせないとね」
 徐晃が呟くと、そのとおり、と言わんばかりに愛馬が鼻息を荒くする。
 微笑んでその首筋を軽く叩いてから、徐晃は愛用の戦斧を肩に乗せ、麾下の部隊を見回した。


 徐晃が一連の戦いに参戦した当初、あずかっていた三百の騎兵はすべてが司馬家の私兵であった。だが、打ち続く戦闘で被害をゼロにすることが出来るはずもなく、失われた兵員に関しては鍾会が張莫からあずかってきた騎兵を充てている。
 だが、それでもいまだに司馬家の兵が部隊の大半を占めているという事実は、徐晃の指揮統率が優れていることの何よりの証左であった。そのことを、少なくとも司馬家に連なる兵たちは認めている。


 徐晃が突撃を命じると、彼らはためらくことなく後ろに続いた。
 先ほどは破れなかった堅陣を、今度こそ打ち破るために。




◆◆◆




 離脱した百名にほとんど見向きもせず、それどころか今こそ好機とばかりに敵軍が一斉に本隊に猛攻を仕掛けてきたことを知り、高覧は表情を引き締めた。相手の狙いが自分の身命であることがはっきりと感じ取れたのである。
 中でも一際攻撃が激しいのが右後方に位置する騎兵部隊であった。実のところ、そちらは先刻から「戦斧を持った女将軍」に終始押されっぱなしであり、そちらの陣の破れを繕うために兵を動かした結果、正面の歩兵部隊に肉迫を許してしまったのだが、その部隊が先刻にも増して激しい攻勢に出てきたらしい。


「本隊より百名を割いて増援とします。急いでください」
「し、しかし、それではここの守りがさらに薄くなってしまいます!」
「かまいません。もう一方の騎兵部隊はどうですか?」
「は、そちらも攻勢を強めております。件の斧武将のような輩はいないのですが……」
 混戦の中でも秩序を保った敵軍に続けざまに押し込まれ、徐々にではあるが、円陣の内部に浸透を許しつつあるという。


 高覧はかすかに眉をひそめ、そちらに対しても指示を下そうとする。が、それに先んじて正面の敵軍に動きがあった。
「申し上げます! 李由とやら申す敵将、みずから先頭に立って槍を振るい、ために敵軍が勢いづいております! このままではじきにこちらまで押し込まれるやも知れませぬッ」
 高覧はつかの間、天を仰いだ。こちらが圧倒的に兵力に劣っているというのなら、続けざまの劣勢報告も致し方なしと思えるのだが、現状、兵力に優っているのはむしろ高覧の部隊である。
 にも関わらず、この劣勢。原因はおのずと明らかだった。


「劣っているのは兵力ではなく、将の質であることは明白ですね。うーん、南陽軍ってこんなに人材豊富だったのか」
 ため息まじりにぼやきながら、高覧は錘を手にみずから前に出る。
 周囲の兵が慌てて制止しようとするが、高覧は別に自棄になったわけではなかった。陣の奥で縮こまっている将と、陣頭に立つ将が相対すれば、付き従う兵士の勢いに差が出るのは当然のこと。
 ゆえに――
「私も出ます。左の騎兵に備えるため、もう百名をまわしてください。残った本営の兵は私と共に敵の本隊を止めにいきます」
 そう言った後、高覧は短く付け加えた。
「なお、反対、諫言は聞く耳もちませんのでよろしくお願いします」




◆◆◆




 俺はじりじりと、少しずつではあるが敵陣の奥へ奥へと踏み込んでいた。
 袁紹軍は統率こそとれていたものの、側背の騎兵部隊によって兵力を正面に集中することができず、こちらの猛攻に後退を余儀なくされている。
 このまま押し切れば、敵将までの道を開くことが出来るだろう。俺は槍を振るいながらそう考えていたのだが――残念ながら、その考えはすぐに訂正しなければならなくなった。


 突如として湧き起こる喊声。それは曹操軍ではなく、袁紹軍の只中で発生していた。同時に、それまでじりじりと押し込まれていた敵兵が息を吹き返したように一斉に反撃に転じてくる。
 その理由は、考えるまでもなかった。 
「申し上げます! 敵本隊、こちらに寄せてまいりました!」
 その報告どおり、これまで円陣の奥で防戦に徹していた敵の本隊が動いたのである。
 いつの間にか(?)敵味方がぶつかりあう最前線に出ていた俺は、敵兵の列の向こうに敵将軍の姿を捉えていた。黒髪を雨で濡らした武将が持っている武器は……あれはメイスだろうか。なにやら棒の先に凶悪なトゲ鉄球がついた武器が見える。
 許緒が似たような武器を使っていたが、許緒のそれほど並外れた大きさではない。とはいえ、それでもあれで頭なり胸なりを一撃されれば、防具ごと骨を砕かれてしまうだろう。


 向こうは馬に乗っておらず、敵兵の槍に阻まれて容姿や体格までは確認できないが、髪の長さや遠目の印象から見て、おそらく女性と思われる。
 ということは、あれは高幹ではない。同時に、ここまでの防戦を振り返れば、中級以下の指揮官であるとも考えにくい。
 であれば、高幹の左右の将として知られる高覧か張恰のどちらか。おそらくは高覧の方だろう。司馬孚から聞いたところによると(司馬家の本領がある河内郡は、壷関のある并州上党郡と隣接している)、張恰は鮮やかな銀髪だということだし。


 と、敵将もこちらを認めたのか、前方の敵兵が大きく動いた。
 やはり歩兵同士が激突する中、騎乗している姿は目立つようだ。もっとも、それが狙いの一つだからして、ここで気付いてもらわねばこちらが困る。
 俺は近くば寄って目にも見よといわんばかりに声を張り上げる。
「そこに来るは敵将高覧と見受けた! 我は南陽の李温祖である! 我が槍、馳走してくれるゆえそこを動くな!」
 言い終わると、今度は後方の味方の兵たちに呼びかける。
「皆、聞け。もはや敵に余力はない。押して押して押しまくれッ! 眼前の敵を撃ち破れば、こちらの勝利だ!」
 袁紹軍に優るとも劣らない喊声が、味方の軍から湧き上がった。




 ここから、戦況は一進一退となる。
 高覧みずから戦場に出てメイスを振るうことで、袁紹軍は勢いを取り戻した。
 一方、曹操軍の方も先に優る勢いで敵に攻めかかり、一歩も退かない構えを見せている。どちらの軍もこれ以上退けないことはわかっており、必然的に戦闘は時と共に熾烈さを増していった。
 だが、その均衡はほどなくして崩れ去る。


 袁紹軍は高覧直属の本隊が出てきたことで、兵力的に俺の部隊を上回った。その差が徐々にあらわれてきたのだ。
 敵はじりじりとこちらを押し戻しはじめる。
 こちらも負けじと押し返そうとするものの、少しずつ、しかし確実に後退を強いられていく。俺は懸命に声を嗄らしたが、今まで押し込んできた距離を取り返されるまで、さほど時間はかからなかった。


 その事実に戦意を鼓舞されたのか、袁紹軍はさらに勢いづいて攻めかかってくる。
 ただ、高覧の本隊は味方の攻勢に追随する気配を見せなかった。おそらく、正面は大丈夫と判断し、今度は後背の徐晃、鄧範の騎兵部隊に対して何らかの手当てをするつもりなのだろう。
 それは俺にとって待ち望んでいた瞬間であった。
「全軍、後退! 隊列を崩すなよッ!」 
 戦闘では進むよりも退く方が難しい。それまでの激しい鍔迫り合いから一転、後退命令を受けた曹操軍の各処では立て続けに混乱が生じた。
 袁紹軍にしてみれば、この後退は自軍の優勢を確定づけるものに思えたのだろう。攻勢は激しさを増し、こちらの混乱とあいまって形勢は一気に袁紹軍の方に傾いていく。


 雪崩を打ったように後退する曹操軍と、これを追撃する袁紹軍。
 後方の戦況に対処するために留まっていた高覧の本隊と、敵の前軍の間に空隙が生じた。



◆◆



 三十あまりの騎兵を率いた鍾会は、眼前の戦況を見て無言で馬腹を蹴った。
 袁紹軍に押される味方を尻目に弧を描くように部隊を進め、一路高覧の本隊を目指す。
 少数による敵本陣の急襲という危険な任であったが、鍾会に付き従う騎兵たちに動揺の色はない。彼らは鍾家の私兵であり、鍾会の気性や用兵を飲み込んでいる。どれだけ不利で無謀に見えたとしても、鍾会が動いた以上、なんらかの勝算があるのだ。鍾会は兵を無駄死にさせる指揮官ではなかった。


 そんな忠実な兵たちを率いながら、鍾会は馬上で小さくひとりごちる。
「なんだか、北郷にいいように使われている気がするな」
 この戦いに先立ち、虎牢関に棗祗、司馬孚の二人を残した北郷は、鍾会を副将として遇し、本陣に置いていた。鍾会の助言を間近で受けつつ、いざという時は敵将を討つ切り札として動いてもらうために。
 付け加えれば、下手に徐晃や鄧範と一緒に出撃させるとうまく連携がとれないのではないかと案じた結果でもある。


 鍾会としては北郷の作戦案に不備があればそれを指摘するつもりだったし、自身に相応しからぬ役割であれば断る気満々であった。
 しかし、北郷が鍾会に与えた役割は大将になりかわって全軍を指揮する権限を持つ副将と、高覧の首級をとるための切り札、その二つ。どちらにしても鍾会の自尊心をくすぐる役割である。
 北郷がそのあたりの心理を計算に入れていることは疑いない、と鍾会は思う。
 自分を見すかされているようで不愉快ではあるが、だからといって鍾会が拒めば、賊あがりの徐晃なり、兵卒あがりの鄧範なりが代わりを務めるだけのこと。自分で役目を拒んだ以上、鍾会はその人事に文句を言うことができなくなる。


 さらに別の要素もあった。鍾会は神童ともてはやされてはいても、実際の戦場で大任を委ねられたことはほとんどない。あったとしても、それは精々が野盗や黄巾党の残党を相手にした戦であり、今回のような大戦で才覚を振るう機会は与えられたことがない。
 その機会を目の前に投げ出されたら、それを掴む以外の選択肢があるだろうか。
 いいや、ない、と鍾会は心中で断言する。


「……むう、やっぱりいいように使われているな、ぼく」
 またしても鍾会の口からは不満がこぼれる。
 だが、不満を口にしつつも、不思議とそれが不快ではない――こともないが、断固拒否、という気持ちにならないのも確かである。
 なんだかんだと言いつつ、鍾会は北郷の指示を受け容れ、賊あがりや兵卒あがりと同じ戦場に立ち、こうして本陣突入まで行おうとしている。
 どうやら劉家の驍将は人使いに長けているらしい。鍾会は内心のメモにそんな条項を加えつつ、高覧の本隊に肉迫する。


「狙うは敵将高覧ただひとり。雑兵は馬蹄で蹴散らし、ただ高覧のみを狙い討て!」
 配下の兵に指示すると、鍾会はみずから矛をふるって敵陣に斬り入った。鍾会は体格には恵まれていなかったが、武術、馬術ともに神童の名に恥じることのない域に達している。いかに相手が并州の精鋭だとて引けをとるものではない。
 甲冑で身をよろっていようとも、長い髪や小柄な体格、さらにその声を聞けば、鍾会が少女であることは明らかである。その少女が次々に兵を矛先にかけていく様は、さながら夜叉のごとくであり、敵兵は明らかに怯みを見せた。
 なおも鍾会はとまらない。重ねた紙を錐で突き破るように、高覧のもとへと突き進んでいった。




◆◆◆




「正面より敵騎兵、突っ込んできます!」
 その報告が届くより早く、高覧は鍾会の突撃に気がついていた。
 ただ、正面から突っ込んでくる部隊は、後方の騎兵部隊と異なり、数は五十にも満たない小勢である。
 一方、幾度か他所に兵を割いたとはいえ、高覧の手許には三百近い手勢が残っている。少数の騎兵の突撃など押し包んで討ち取ることは可能であった。
 ――敵が、正面から来た部隊だけであれば、だが。


「右後方、突破されました! 戦斧の将を先頭に突っ込んできます!」
「高将軍、左側面の部隊より再度伝令! 敵騎兵の攻勢熾烈、至急援兵を、とのことです!」
 打ち続く凶報に、高覧は無意識のうちに頬をかく。
「後手にまわっちゃいましたね……これはまずい、かな」
 先ほどから、正面の敵本隊との先頭は数に優る袁紹軍が優勢を保っていた。その反面、敵騎兵の攻勢を受け止めていた側背の部隊からは、苦戦を報せる伝令が頻々と高覧のもとへ来ていたのである。
 正面の敵勢を押し返したと判断した高覧は、攻撃を前軍に任せ、自身の本隊から援軍を割くべく部隊を停止させたのだが、その隙を敵に突かれてしまった。


「いえ、高将軍、それほど深刻になる必要はございますまい」
 幕僚の一人がそう進言する。
 隙を突かれたといっても、敵が動かしたのは三十あまりの騎兵のみ。いってみれば、不利な戦況を覆すための一か八かの賭けであり、そこにたまさか後方の劣勢が重なってしまったことが、今、高覧に迫り来る危機の正体であった。
 いわば偶然の産物であり、ゆえに深刻になる必要はない。わずかな時間、敵を退けていれば、本隊の危機を知った前軍が引き返してくる。そうすれば少数の騎兵などすぐに潰すことが出来る。それが幕僚の見解であった。


 高覧はその進言に頷いたが、その表情はどこか曖昧だった。
 幕僚の見解が間違っていると思ったわけではない。その意見は、ほぼ高覧のそれと重なっている。
 しかし、それならばどうして自分は「まずい」などという指揮官らしからぬ言葉を口にしてしまったのか。
 高覧はひとつの危惧を抱いていた。
 先ほど敵軍は突如として後退した。あの動きが高覧にはとても不自然に思えたのだ。


 確かにあのとき、敵軍はこちらの勢いに押されていた。だが、総崩れになっていたわけではない。それどころか、押し負けてなるものかとばかりに意気盛んだったはず。
 敵将はその意気をみずからの手で挫いてしまった。結果として戦局は一気に袁紹軍の有利に傾いた。あそこで前軍が追撃に出たのは当然のこと。
 ――そして、それゆえに生じた間隙をつかれて、現在の戦況に至っている。これは本当に『偶然』なのだろうか。


 ぞくり、と高覧は背筋に寒気をおぼえる。
 偶然でないとしたら、敵将は高覧が部隊の前進をとめた意味を一瞬で見抜き、みずから危険を冒して後退することで、前軍を高覧の本隊から引き離したことになる。
 なんのために? むろん一時的に本隊を孤立させ、騎兵による前後からの挟撃で高覧を討ち取るためだろう。


 ……さすがに考えすぎだとは思う。陣頭に立って槍を振るいながら、冷静に戦況を読み、的確に兵を動かすなど並大抵の将にできることではない。年を経た老巧の将が相手というならまだしも、高覧が見た李由は青年と呼べる年頃だと思えた。
 高覧には「この敵はどこかおかしい」という意識が戦闘開始からずっと張り付いている。その意識が、敵を実像以上に大きく感じさせているのかもしれない。
 高覧はそう考え、前軍が戻るのを待った。
 幕僚の進言どおり、敵を追撃している前軍が戻ってくれば敵騎兵は数で押しつぶせる。同時に、高覧の胸に巣食う敵への過剰な警戒も一掃することができるだろう。
 というのも、一連の戦闘がすべて敵の計算どおりなら、敵はこの機に反転攻勢を仕掛け、前軍が引き返すのを許さないはず。裏を返せば、それをしないということは、敵に思惑などなかったという証左になるのである。



 だが、袁紹軍にとって不幸なことに、高覧の危惧は最悪の形で現実のものとなってしまう。



 高覧の危機に気づいた前軍はすぐに追撃の足を止め、引き返す動きを見せた。
 だが、勢いづいた兵はそう簡単には止まれない。その場に留まろうとする者、すぐにも引き返そうとする者、本隊の危機に気付かず、なおも追撃を続けようとする者。それぞれがそれぞれの判断で動いた結果、混乱は瞬く間に広がっていく。
 そして。
 南陽軍(偽)の指揮官である李由は、勝勢に乗った敵軍が突如として混乱に陥った意味を正確に読み取っていた。


 これ以上ないタイミングで反転攻勢の指示が下される。
 両軍の攻守は逆転し、追う者は追われる者へ、追われる者は追う者へと変じた。
 追われていた側にしても、当初から意図して佯敗していたわけではなく、反転命令で多少の混乱が見られた。しかし、その混乱は戦局を左右するほど広がることはなく、ほどなくして足並みをそろえた軍による反攻が始まる。


 これにより、高覧は前後から押し寄せる敵騎兵に対し、直属の部隊のみで戦うことを余儀なくされる。
 前方からは鍾会が、後方からは徐晃が。そしてわずかな間を置いて、側面から鄧範が、ただ高覧のみを目指して襲いかかってくる。高覧と麾下の兵はこの攻撃を退けるべく激しい抵抗を見せるものの、三将が築き上げた包囲の鉄環を切り崩すことはかなわず、敵兵の刃は高覧のすぐ近くにまで迫りつつあった。





◆◆◆





 夜の闇を切り裂くように、耳をつんざく擦過音が響き渡る。
 戦斧と錘の激突は、それを操る双方の手に重い手ごたえと激しいしびれを残したが、徐晃は委細構わず次撃を繰り出した。
「はあああッ!」
「くッ!」
 対する高覧は、顔をしかめながら徐晃の斬撃を受け止める。否、受け止めようとして、受け止めきれずに鞍の上で態勢を崩してしまう。
 立ち直る間もなく、徐晃の戦斧がうなりをあげて高覧に襲い掛かり、高覧は早くも防戦一方に追い込まれた。


 武将としての高覧は決して弱くはなかったが、名将皇甫嵩を討ち取った徐晃相手ではいかにも分が悪い。高覧を守るべき兵たちも、鄧範や鍾会らに阻まれて手が出せぬ。
 打ち合いが十合に達したとき、高覧の手から音高く錘が弾き飛ばされ、それを見た并州兵の口から悲鳴とも絶叫ともとれない叫びが発された。
 むろん、徐晃はとまらない。致命的な斬撃を叩き込むべく斧を振り上げる。
 対する高覧は避けられぬと悟ったか、小さな声で誰かの名を呼んだようであった。


「さよなら」
 そんな別離の言葉と共に徐晃が斧を振り下ろそうとした時だった。
「公明!」
 緊迫した鄧範の声が耳朶をうち、徐晃は半ば反射的に斧から手を離し、身をのけぞらせた。その眼前を貫いたのは、雨滴を裂く一本の矢。
 間一髪――否、間半髪とでもいうべきわずかな差で、自分が命を拾ったことを徐晃は悟る。


 何者か、と徐晃は鋭い視線で矢が放たれた方向を睨みつける。
 その先には、今まさに騎射を終えたばかりの銀髪の武人の姿があった。
「……後方が奇妙に騒がしいと思って来てみれば。何者だ、おまえたちは」
 弓を手放した武人はそう問いかけてきたが、答えが返ってくることは少しも期待していないらしい。腰の細剣を抜き放つ姿は静かな戦意に満ち満ちて、かなりの距離を置いているにも関わらず、徐晃はこの武人が容易ならざる相手であることを理解させられたのである。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/01/01 00:11

 司州河南郡 洛陽北門


 雨滴を切り裂いて剣閃がひらめく都度、夜の闇に鮮血が散る。争闘の場に姿を現した黒衣銀髪の武人を見て、すわ敵将か、と躍りかかった兵は、そのことごとくが細剣によって馬上から斬って落とされた。
 血煙をふきあげて鞍上から転落する敵兵を背景とし、武人は静かに名乗りをあげる。
「張恰、字は儁乂。無駄死にを欲せざる者は、あえて我が前に立ちはだかるな」
 激語と称するには穏やかに過ぎるその声は、しかし不思議なほど澄んだ響きを帯び、戦場の喧騒を貫いた。


 張恰の名乗りは敵兵のみならず、味方――袁紹軍の耳にも届き、将たる高覧の身に刃が迫るほど押し込まれていた袁紹軍は、自軍の勇将の登場を知って蘇生の思いを抱く。武勇将略においては并州随一といえる張恰の存在は、ここまでの劣勢を忘れさせ、尽きかけていた戦意をかきたてるに十分すぎるものであった。
 一方、曹操軍もまた張恰の名乗りを聞いて色めきたった。
 張恰は部隊を率いず、単騎で斬り入ってきた。ここで高覧のみならず張恰まで討ち取ることができれば、高幹の両腕をもぎとったも同然であり、袁紹軍に回復不可能な打撃を与えることができるのだ。


 味方を勇気づけ、敵の注意を己にひきつける。
 ただ一度の短い名乗りで戦場の空気を鷲掴みにした張恰は、それ以上は威圧も鼓舞もせず、無言で馬腹を蹴った。向かうのは、今まさに高覧と対峙している徐晃のところである。
 そうはさせじと張恰の前を遮った騎兵は、空恐ろしいほどの正確さで繰り出された一閃に頸部を断ち切られ、あえなく鞍上から転落した。その身体が地面に達する頃には、すでに兵の目から光は失われている。騎手を失った馬は哀しげないななきをあげると、人間どもが殺戮を繰り広げる場から走り去っていった。





 瞬く間に数騎を斬って捨てた張恰の前に、またしても別の騎兵が立ちふさがる。張恰がかすかに眉をしかめたのは、群がってくる敵兵の執拗さと、それを支える士気の高さを警戒したためであろう。
 だが、その警戒は張恰の攻撃の切れ味を落とすことはなく、繰り出された斬撃は容赦も慈悲もなく、ただ命を狩るべく敵兵へと襲い掛かる。
 しかし。
 わずかにおくれて張恰の手に伝わってきたのは、肉を断ち切る鈍い感触ではなく、鉄と鉄が激突する硬質の衝撃だった。はじめて、張恰の斬撃は敵兵の身体ではなく、武器によって止められたのである。


 この時、張恰の行く手を遮ったのは鄧範だった。
 手に持つ槍の柄で張恰の斬撃を受け止めた鄧範は、無言で反撃を繰り出していく。
 張恰の細剣は武器としては軽量であり、扱いやすさに比して丈夫さに欠けるため、槍や矛、あるいは徐晃の戦斧のような重量武器の攻撃を受け止めることは難しい。また、当然ながら武器が届く範囲は長柄の武器に及ばない。馬上で扱うには不向きな武器なのである。


 鄧範はそれらを考慮して張恰へ挑みかかった。
 だが――
「くッ」
 わずか数合。それだけで鄧範は自身の不利を悟った。悟らざるを得なかった。
 鄧範は自身の武に過剰な自信を抱いていたわけではない。自分と相手の得物を考慮し、一定の距離を保って戦えば勝機はあるとの考えは、相手が張恰以外の武将であれば問題なく適用できたであろう。
 しかし、張恰は武術はもちろん馬術にも秀でており、距離を保とうとする鄧範をあざ笑うように軽々と細剣の間合いに飛び込んできた。そして、その都度、熾烈な斬撃を繰り出して鄧範を追い詰めていく。
 鄧範はかろうじてその斬撃を避けているが、剣先はすでに幾度か戦袍に届いており、このままでは遠からず肉体にも達してしまうだろう。


 鄧範は内心で臍を咬む。
(そもそも、己が実力に自信がなければ馬上で細剣などという武器を選ぶはずもない。張儁乂の武名の高さは、その自信が確かな実力に裏打ちされたものであることの証左。オレらしくもなく、逸ったか)
 高覧と張恰を討ち取ることができれば、袁紹軍に大打撃を与えることができる。それは確かだが、それはあくまで討ち取ることができればの話である。
 張恰らがたやすく討ち取れるような相手であれば、そもそも敵味方にこれほどの影響を及ぼす武名を勝ち取ることはできなかっただろう。


 そんなことを考えつつ、鄧範はひたすら粘った。張恰は討てずとも、せめて高覧だけでも討ち取りたい。ここで鄧範が張恰の足を止められれば、徐晃が高覧を討ち取ってくれるだろう。
 だが、そんな思惑も張恰には見すかされていたらしい。
「……実力で劣る者が受身にまわって何ができる」
 言うや、張恰の斬撃がさらに鋭さを増す。相対する鄧範の目には、張恰が光の鞭を振るっているように見えた。
 戦袍が裂け、槍が弾かれ、ついには甲冑の隙間を縫って細剣が鄧範の身体を捉える。
「ぐッ!」
 右の肩を貫かれ、鄧範の口からくぐもった苦痛の声がもれた。さらに頸部を狙って放たれた一閃を、鄧範はほとんど勘だけでかわす。だが、完璧に避けることはできず、張恰の剣先には頸部の皮と肉が付着していた。


 傷口から流れ出した血が肌を伝う感触に鄧範は寒気を覚える。戦場でここまで死を間近に感じたことはかつてなかった。
 だが同時に、かつて感じたことのないほどに鄧範の心を満たすものがあった。


 ――こうでなくては、と。


 『戦場で』死を間近に感じたことはかつてない。だが、飢えに寒さ、病に苛政、牛飼いとして極貧の生活を送ってきた少女にとって、死は常に手の届くところにあった。そんな境遇からはいあがり、鄧士則という人間が生きた証を歴史に刻みこむ――そのためには苦境の十や二十は乗り越えねばなるまいと覚悟していた。その一つが、今、目の前にある。鄧範にとって、今の状況はむしろ望むところといってよい。


 それに、と鄧範は思う。
 苦境、苦境といっても、自分の前に立ちはだかったのは張恰ひとり。
 飛将軍やら陥陣営やら大将軍やらといった連中に寄ってたかって攻め込まれた者とは、苦境の規模において比べるべくもない。
 鄧範は自分でもよくわからない理由で口元に微笑をひらめかせた。



◆◆



 張恰が今まさに繰り出そうとしていたトドメの一撃を中途で止めたのは、相手がどこか愉しげに微笑む姿を見て警戒したから――ではなかった。
 もっと単純に、自分に迫る馬蹄の音に気付いたからである。
 そちらに目を向ければ、予想どおり戦斧をもって迫る敵将の姿があった。
 さきほど張恰の騎射を避ける際、地面に取り落とした戦斧は部下にでも拾わせたのだろう。ちらと見やれば、その隙に徐晃から距離を置いたらしい高覧が、駆けつけた部下に周囲を取り囲まれている。
(高将軍は無事。敵将を討つより味方を救う方を優先したか。ならば――)
 先の連撃で槍を弾き飛ばされた鄧範の手許に武器はない。張恰は牽制の一撃を放って鄧範に距離をとらせると、馬首をめぐらして徐晃と向きあった。
 先刻、徐晃が距離を置いて張恰の実力を感じ取ったように、張恰もまた徐晃の力量を見抜いている。知らず、張恰の口から気合の呼気がこぼれでていた。


 両雄は声もなく激突する。
 夜そのものを両断する勢いで繰り出された徐晃の剛撃は、張恰の剣刃の上をすべって虚空を切り裂いた。
 攻撃を受け流され、鞍上の徐晃の体が流れる。その頸部を狙い、張恰のすくい上げるような一撃が放たれるが、徐晃は戦斧を振るった勢いを無理に殺そうとせず、逆に利用することで張恰の斬撃をかわしてのけた。


 素早く体勢を立て直した徐晃は、しかし、すぐに次の攻撃を行おうとはしなかった。細剣を繰る張恰に対し、徐晃の戦斧は重過ぎる。当然といえば当然すぎるこの事実が、徐晃に攻撃をためらわせたのである。
 素早さに特化した細剣と、破砕力に特化した戦斧。 
 相手が並の将であれば、たとえ軽量武器を用いていようとも互角に――素早さでも対等に打ち合ってみせる自信が徐晃にはある。事実、これまで徐晃は武器を繰る速さで敵に遅れをとったことはない。
 だが、張恰のように徐晃と同等か、それ以上の力量の持ち主が細剣を用いた場合はこの限りではなかった。
 張恰が戦斧の攻撃をまともに受け止めれば、斧の破砕力を利して細剣を叩き折ることも出来ようが、張恰は攻撃を巧みに受け流すことでこれに対処している。ならば受け流しなど許さぬほどに立て続けに斬撃を浴びせれば、とも思うが、そうしている間に徐晃の方こそ反撃の一閃を受ける可能性が大である。


 今しがたの攻防も、ひとつ間違えば首元に致命的な斬撃を被っていた。その事実が徐晃に自重を強いる。
 対する張恰も、一連の打ち合いであらためて徐晃の力量を実感していた。見るからに重々しい戦斧を、まるで己が半身のように巧みに扱う少女。安易に攻撃に転じれば、手痛い反撃をくらうことは明白であった。


 ただ、張恰は徐晃と斬りあって遅れをとるまでは思っていない。真っ向から戦えば、十のうち八までは自分が勝つ(ちなみに残りの二は相手の勝利ではなく引き分けである)と自惚れるでもなく判断していた。
 武の才能は伯仲していようとも、戦場で過ごした時間、経験においては張恰に一日の長がある。徐晃は鄧範よりも戦場に慣れていると思われたが、それでも張恰から見れば未熟の一語で片付けられるものだった。


 とはいえ、張恰は決して相手を侮っているわけではない。ことに戦場において「一対一であれば」とか「真っ向から戦えば」などという仮定が意味を持たないことを知り尽くしている。
 ゆえに張恰は徐晃と相対しつつ、鄧範の動きにも注意を払っていたし、もっといえば全体としておされ気味の戦況すら把握していた。張恰の出現で高覧の本隊は持ち直しつつあったが、それでも直前まで劣勢に陥っていた影響は如実に残っている。一騎打ちでは勝てる相手でも、二人同時に相手取ればそう簡単に勝ちを得られぬし、取り囲まれてしまえばなおのこと苦戦を強いられる。


 と、そうこうしているうちに、急速に殺到してくる乱戦の響きが、その場にいた者たちの耳朶を打った。それは曹操軍本隊の反転攻勢に晒され、逃げ惑う将兵がこの場になだれこんでくる前触れであった。
 


 

 張恰たちは、それこそ一瞬のうちに乱戦の只中に放り込まれていた。押し寄せる人馬の波が壁となって互いの前に立ちはだかり、相手の姿を瞬く間に視界から消し去ってしまう。
 徐晃と鄧範の姿を見失った張恰は、しかし、ことさら悔しがるでもなく手近にいる味方の兵の援護にまわった。
 もとより、張恰が半ば以上勘に急かされて駆け戻ってきたのは高覧を救うためであり、それを果たした以上、敵将の命に固執するつもりはなかったのだ。


「儁乂さまッ」
 ややあって、張恰のもとに高覧が駆け寄ってくる。
 取るものものもとりあえず礼を述べる高覧に対し、張恰は小さくかぶりを振った。
「僚将を救うのは当然のこと。今は部隊の立て直しと、曹操軍への対処を」
 前軍はすでに総崩れとなっており、高覧の本隊もその敗勢にのみこまれてしまっている。ここまでの乱戦になってしまうと、先のように張恰の令ひとつで味方を鼓舞することも難しい。


「はい、わかりまし――って、え、曹操軍?」
 張恰の言葉に応じようとした高覧は、相手の返答の中に思いがけない単語が含まれていることに気付き、思わず訊き返していた。
「儁乂さま、曹操軍というのは……あ、まさか」
 その可能性に気付いた高覧が問う眼差しを向けると、張恰は無言でうなずいた。
 張恰にしてもなんらかの確証があるわけではなかったが、高覧を襲った部隊は、張恰が相手にした南陽軍とは錬度、士気、将の質、いずれも重ならず、等しいのは軍装のみである。南陽軍が素早く部隊を立て直したにしては、洛陽宮を守るではなく、西門の本隊を救援するでもなく、この戦況では奪還してもあまり意味のない北門にやって来たというのも理解しがたい。


 であれば、これは南陽軍とはまったく別の軍勢だと考えるべきではないか。
 張恰は状況を冷静に分析し、そのように判断した。そして、そこまで考えを進めれば、後は芋づる式である。
 洛陽近辺で袁紹軍と伍すほどの精鋭を抱えている勢力は虎牢関の曹操軍のみ。南陽軍の軍装も、先に両軍がぶつかった際の鹵獲品だと考えれば筋が通る。


 張恰の考えをなぞった高覧は心から納得した。開戦当初から胸奥にわだかまっていた不審の澱が、驚くほどの勢いで洗い流されていくのを感じる。これであれば敵軍が城外から現れた理由も説明できるのだ。
 ……というか、なんで自分はこれに気付けなかったのだろう、と高覧は自分の察しの悪さに頭を抱えたくなったが、慌ててかぶりを振ってその思考を払い落とした。敵軍はいまだに高覧の部隊を攻め続けており、このままでは部隊が四散してしまう恐れもある。今は落ち込んでいる暇などどこにもなかった。




◆◆◆




「張恰が単騎で?」
 混戦の中、それでも確実に敵を押し続けていた俺は、駆け戻ってきた徐晃たちから高覧強襲の顛末を聞き、疑問の声をもらした。
 張恰、字を儁乂。言わずとしれた曹魏の名将。まあ俺の歴史知識はさておくとしても、袁家の将帥の中では顔良や文醜に次ぐ声価を獲得している人である。実際に張恰と刃を交えた鄧範は少なからぬ手傷を負わされており(胸元が血に染まっていたので素で焦った)、次に刃を交えたという徐晃も乱戦で戦いが物別れに終わったことを「助かった」と表現した。それくらいに強大な敵だということだ。


 戦場で対峙すれば戦慄を禁じえない相手だが、しかし、張恰が敵方にいることはすでに俺も承知していたから、張恰が敵としてあらわれたこと自体に疑問を抱いたわけではない。
 俺の疑問は張恰が兵を率いずに高覧のもとに駆けつけた、という点にあった。
 先ほど、戦いの最中に高覧が後方に送った部隊から報せを聞いて駆けつけたにしては早すぎるし、そもそも明確な危機を伝える報告を受け取ったのならば、必ず兵を率いて来るだろう。
 だが、こうして高覧隊を追い込んでいる今も、新たに張恰の部隊があらわれる気配はない。張恰の救援は単独行動か、あるいは兵略に長けた張恰のこと、密かに後背に兵をまわして北門を封鎖しようとしている可能性もある。だが、どの道、俺たちはもう北に戻るつもりはないので、たとえそうであったとしても大きな問題にはならない。
 今、確かな事実は、俺たちの眼前に高覧、張恰という二将がいるということ。しかも張恰の方は自分の部隊が手許にいない状況である。


 どくん、と心臓が一度大きく脈打った。


 なにか――なにか、とてつもない好機を前にしているという感覚がある。
 二将を討ち取る絶好の機会だから?
 たしかにそれも間違いではない。いかに張恰が鄧範と徐晃を退けるほどの勇武の持ち主とはいえ、多数の兵で囲んでしまえば討ち取ることは不可能ではないだろう。
 ここで袁紹軍の二将を討ち取ることができれば、高幹の両腕をもぎとったも同然――と、そこまで考えて、俺は逸る自分の心の手綱を引き絞る。


 俺が感じている好機はこれではない。二将を討ち取ったところで、高幹と五万の袁紹軍が健在である以上、戦況を覆すことは難しい。あの二人以外に袁紹軍に人材がいないわけでもないだろう。
 そもそも、高幹はどこにいった?
 張恰が駆けつけた早さから考えるに、おそらく北門を抜いた張恰は真っ先に洛陽宮に攻めかかり、その後、なんらかの理由で北門の喧騒に気がついて馳せ戻ってきたのだろう。
 高幹が張恰と同じ場所にいたのであれば、洛陽宮は高幹が攻め、張恰は後方の様子を確かめるという役割分担をしたと考えられるのだが――


(袁紹軍は五万。本隊がどの程度の数かはわからないけど、少なくとも二万以上はいるだろう)
 それだけの兵力があれば、洛陽宮を攻めるかたわら、北門の奪還に兵を割き、なおかつ張恰に精鋭の騎兵を率いさせる程度のことはできるはず。
 しかし、実際に張恰は単騎であらわれた。北門に兵をまわしたというのも俺の推測であり、もしかしたら本当に単騎でやってきた可能性すらある。
 何故、張恰は単騎でやってきたのかと考えれば、これはおそらく張恰の兵力だけでは洛陽宮を攻めるのに手一杯であったからだ。敵襲だと確認がとれたわけでもない後方の喧騒を調べるために兵力を割くわけにはいかなかったのだろう。


 つまり、高幹は洛陽宮周辺にはいない。
 おそらく北門付近の戦況も知らずにいる。これを捕捉できれば、痛撃を浴びせることができる。あわよくばその首級をとることも……
「いや、無理か」
 胸中にわきあがった楽観を、俺は半ば無理やりねじ伏せた。
 捕捉といったって、どうやって捕捉するというのか。倒れている袁紹軍の兵士を引きずりおこして無理やり訊きだすにしても、自軍がどのように展開しているかなどただの兵卒は知らされていないだろう。指揮官クラスの人間ならばあるいは、とも思うが、そのクラスになると、今度は容易に口を割るまい。尋問(色仕掛け)だの拷問(くすぐり地獄)だのしている暇はない。まあ前者にいたってはそもそもやってくれる人がいないのだが(色仕掛けできるほど色気のある人がいない、という意味ではない)。


 もとより容易く高幹を討ち取れると考えていたわけではない。戦略的劣勢を戦術で補うのは困難であり、僥倖に僥倖を重ねた末に、なお僥倖を掴めればあるいは、というレベルの話だ。
 俺としては、高幹が後陣にどっしりと腰をすえて部下からの勝報を待つ類の指揮官であることに一縷の望みを抱いていたのだが、どうやら高幹はみずから動いて勝利を掴み取る武将であったらしい。今の俺にはその動きを捉える術がない。時間をかければ不可能ではないだろうが、その頃にはもう高覧が後方につかわした部隊が高幹の下に到着してしまっているだろう。
 俺はこの時点で、混戦をついて高幹を討つという最終目的を諦めた。


 諦めた上で、状況を整理する。
 高覧と張恰はすぐ近くにいる。高覧の部隊はもう脅威ではない。
 洛陽宮を攻めているのは、主将を欠いた張恰の部隊。
 高幹本隊は少なくとも洛陽宮付近にはいない。当然、北門にもいないわけだから、東、南、西のいずれかであろう。何の理由もなく本隊を動かすはずもないから、おそらくは南陽軍(真)と戦っているのだろう。洛陽勢の中で、高幹が本隊を動かさねばならない相手は南陽軍くらいのもの――と、そこまで考えたとき。


 どくん、と再び心臓が脈打った。


 高幹を討つことを諦めてなお、好機を訴える感覚は去っていない。
 俺はさらに考えを進める。
 高幹が南陽軍を討つために万を超える本隊を動かしたのならば、当然、南陽軍はそれ相応の兵力を宮殿の外に展開させていた、ということである。少数の兵を討つために、わざわざ本隊を動かす必要もない。
 つまり――今、洛陽宮は南陽軍の主力を欠き、かつてないほどに無防備な状態なのではないだろうか?
 張恰が単騎で高覧の救援に駆けつけた理由は、今の洛陽宮ならば自分が指揮をとらずとも落とせると判断したからだと考えれば、点と点を線でつなげることができる。


 むろんすべては推測である。かりに首尾よく洛陽宮に攻め入れたところで、袁紹軍を退ける切り札があるわけではない。
 あえていうならば、そう……洛陽宮の武器兵糧を焼き尽くしておけば、南陽軍の物資がそっくりそのまま袁紹軍のものになる、という事態は避けることができるという程度のこと。
『北郷どの、妙な欲を出すなよ。輜重隊と決まったわけではないし、たとえ輜重隊だとしても、これを叩いたところで洛陽さえ落としてしまえば高幹は困らないんだから』
 俺は攻め入る前に鍾会とかわした会話を思い起こす。
 洛陽の兵糧を焼き払った上で、東門から脱した後にちょっと寄り道して邙山の輜重隊を襲撃すれば、高幹も結構困るのではあるまいか。五万という大軍は、大軍であるゆえに急場の物資の確保は難しい。まして洛陽はつい先ごろまで廃墟同然だった都市だから尚更である。


 まあ、これとても高幹を討つという策に負けず劣らず綱渡りであるが、何もしなければ何も起こらず、俺たちは袁紹軍に踏み潰されるのを待つばかりとなってしまう。少なくとも、可能性の有無を確認しておくことは無駄にはなるまい。
 俺が意を決して顔をあげると、その気配を察したのか、徐晃たちが一斉に俺に視線を向ける。というか、さきほどから俺の考えがまとまるのをじっと待ってくれていたのかもしれない。


「士則、洛陽で起居していたのなら道はわかるだろう。宮殿を経由せずに街区を抜けて東門にいけるか?」
 地図づくりが趣味の鄧範なら街の並びも覚えているだろう、と考えて訊ねてみたのだが、どうやら正しかったらしい。鄧範はためらう様子もなく頷いた。
「洛陽が大乱に見舞われる以前のことだ。夜道を迷うことなく、というわけにはいかないが、まあ大体はわかるだろう」
「それで十分。五百を率いて東門を確保してくれ」
 いつでも逃げられるようにとは口にしないが、意図は通じただろう。それに鄧範は張恰によって肩に傷を負っている。首の傷は出血こそ派手だが傷自体は深くないとのことだったが、肩の傷はその逆であるように俺には見えた。馬上の姿勢も、常の鄧範に似合わず、どこか安定を欠いている。
 鄧範も自分の状態を把握していたのだろう。反論することもなく俺の命令にうなずいた。すこしばかり頬が膨れていたのはご愛嬌ということで。


「かず――じゃなかった、李将軍。私たちはどうするの?」
「ただひたすらに吶喊して洛陽宮を目指す」
「うん、簡にして要を得た命令だね」
 徐晃が感心したようにうなずくと、それまで黙していた鍾会があきれたように口を開いた。ちなみに鍾会は、徐晃たちが張恰と戦っている間は兵の統率の方に意を用いていたそうで、こちらの騎兵部隊が大きな混乱もなく乱戦から離脱できたのは鍾会のおかげだった。


「簡はともかく、要については疑問だよ。この戦況で宮殿を目指してどうするんだ。高幹がいないことくらいはわかっているんだろう?」
「可能であれば宮殿に攻め入って兵糧を焼き払います。無理なようなら即座に転進。東門を抜けて虎牢関に退却します」
 それを聞いて鍾会はわずかに目を細めた。
「……ふむ、首尾よく兵糧を焼いた場合、次は邙山か。まあこの状況では高幹までたどりつくのは難しいな」
 鍾会はそういって口を閉ざす。どうやら反対するつもりはないらしい。なんか一瞬で作戦を見抜かれていた気がしたが、あまり深く考えないようにしよう。
 三人の同意を得た俺は、新たに構築した作戦をもとに兵を動かし始めた。




◆◆◆




 洛陽宮の北。
 宮殿に攻め寄せる袁紹軍と対峙しているのは樊稠率いる二千の弘農勢である。もっとも、戦いがはじまってこの方、樊稠の姿は戦線にはなく、指揮をとっているのは別の人物であった。
「うーむ、なんだか妙に大人しくなったな、敵の奴ら。あのまま攻め続けられたらやばかったから、助かったといえば助かったんだが」
 なにかしっくりいかん。そういってぼりぼりと乱暴に頭をかく青年の名を張繍(ちょうしゅう)という。弘農勢の大将である張済の血縁上の甥であるが、子供のない張済には実質的に子として遇されている人物である。


 その張繍の傍らで、こちらはそびえたつ山のように雄偉な体躯をした男性が首を傾げている。腕も脚も丸太を思わせる太さで、顔には幾つも傷跡が残っており、幼子が間近で見たら泣いてしまいそうな面相である。が、円らな目は意外なほど穏やかだった。
 この男性、張繍の配下で姓は胡、名は車児という。胡という姓からもわかるように、西域の異民族出身の人物である。
「孟(もう)様はどう考えておいでで?」
 孟、というのは弘農勢における張繍の呼び名である。無理やり訳すと「張家のご長子様」とでもいう意味になる。張繍はわけあって、間もなく二十歳という年になっても字をつけておらず、弘農勢の中では孟様という呼び方が定着しているのだった。


「さてなあ。そもそも、なんでこうもあっさりと敵が宮殿にまで来てるのかもわからんし。まあ、今まで俺たちを無視しまくっていた李儒が、いきなり宮殿の守りを任せてきたと聞いたときから嫌な予感はしてたんだが」
 張繍はため息まじりに肩をすくめる。
「樊将軍にその旨は?」
「言ったよ。聞いてはもらえなかったがな。若輩者はだまっとれ、とのことだ」
 樊稠は張済と同格の共同統治者であり、張済から後継者と目され、またそのように遇されている張繍相手にも遠慮はない。むしろ、張済亡き後の権力争いの相手として敵視されている向きさえある。


「まったく面倒なことだ。叔母御が子を生んでくれるまでの辛抱とはいえ……いや、今はそんなことを言ってる場合じゃないな。次に敵が本格的に寄せてきたら、ここにいる五百程度じゃ防ぎきれん」
 張繍が言うと、胡車児も顔を曇らせて「ですな」とうなずいた。
 弘農勢は二千。しかし、そのすべてが北側に配置されているわけではない。敵が別方向から攻めてくる可能性がある以上、他の場所の守備兵を北側にまわすわけにもいかない。というか、そもそもそんな権限は張繍に与えられていなかった。
 張繍はすでに何度か樊稠に使者を出しているのだが、返答は一向にかえってこない。これは黙って命令に従えということなのか、それとも別の意味があることなのか、張繍は判断に迷っていた。


「孟様が樊将軍であればどうなさる?」
「尻尾まいて洛陽から逃げ出すね。李儒の下にいても、いいように利用されて使い潰されるだけさ」
 そう言った後、すぐに張繍は「いや」と首を傾げた。その顔には、日ごろはあまり見ることのできない真剣な表情が浮かんでいる。そうすると、張繍は不思議なほど威を漂わせはじめる。
「それだと、結局は手詰まりになるな。弘農一郡では天下の群雄を相手に出来ない。である以上、いずれかの勢力に加わらなければならないのは自明の理。だからこそ伯父御は洛陽政権に投じたわけだが、その内実は目を覆わんばかりのがらんどう。なれば次に選ぶべきは、うむ、まあ曹操だろうなあ」


「ほう?」
 胡車児は予期せぬ答えに目を見張る。
「孟様、袁紹ではなく、曹操なのですか?」
「ああ。袁紹は俺たちの助力なんぞなくても勝てるだけの兵力がある。俺たちが麾下に参じてもありがたくは思わないし、当然厚遇も期待できない。が、曹操は違う。兵力で袁紹に劣る以上、俺たちの助勢を喜び、相応の地位で報いてくれるだろうよ。まあ最初に洛陽政権に投じたことに関しては、嫌味のひとつも言われるだろうが」
「嫌味ですめばよいですが。それに、それでは曹操もろとも袁紹に潰されるやも知れませぬぞ」
「そこを何とかしてこそ俺たちの功績が引き立つってものだろう。というか、それを何とかする実力を見せないと、お前のいうとおり嫌味ではすまなくなるな」
 そこまでいって、張繍は苦笑した。
「ま、曹操の傘下にくだるなど、伯父御はともかく樊将軍がうなずいてくれるわけはないから、言葉遊びみたいなものだけどな」
 張繍の言葉に胡車児も苦笑してうなずいた。


 その時、不意に敵軍がいる方角から喊声があがる。すわ敵が再び寄せてきたか、と張繍と胡車児はそれぞれの得物をもって立ち上がったのだが、ほどなくして現れた報告の兵の言葉は張繍の意表をついた。
「敵が?」
「はッ! 雨中のこととて断言はいたしかねますが、明らかな動揺と陣の乱れが見て取れます。いずこかのお味方が参じたのであれば逆撃の好機であると愚考し、報告にあがった次第です」
「……ふむ、わかった。まことであれば、たしかに得がたい好機。全員に出撃の準備をさせよう」
「ははッ!」


「孟様」
「わかっている。そうそう都合よく事は運ばないだろう。こちらをおびき出す策かもしれん。だがまあ、とりあえず確認はしておくべきだろう。というわけで、自分の目で確かめてくるわ」
「そうおっしゃるだろうと思っておりました」
 胡車児はそういうと、これみよがしにため息を吐きながら、自身も張繍に従うべく準備をととのえるのだった。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/01/05 22:45
 司州河南郡 洛陽


 一日。
 司馬懿は姉である司馬朗を前に、自身の考えを口にした。
「陛下は帝位に昇ってしまわれました。たとえその挙が周囲の思惑に翻弄された末のものだとしても、天下の人々は陛下ご自身の野心であるとみなすでしょう。もはや陛下が他者の下で安寧を保つことはかないません。陛下が生を全うされるためには、皇帝として中華に覇を唱えなければならない。ですが――」
 妹の言葉に、司馬朗はゆっくりとした口調で応じた。
「それは無理でしょうね。資金に糧食、兵士に民心、そういったものの不足もありますが、何よりも陛下ご自身がその意志をお持ちではないのですから」
「はい。それゆえ、陛下は累卵の危うきに瀕しておられます」


 司馬懿はそう言い切った。
 劉弁が自身の志に従って天下を望むのならば、姉妹はその下で働くことを厭うつもりはない。司馬朗が言明したとおり、劉弁に不足しているものはあまりに多く、結果はほぼ見えているが、それでも彼の君に殉じる覚悟はあった。だからこそ、洛陽政権に身を投じたのである。
 しかし、それはあくまで劉弁自身が天下を望んだ場合の話。劉弁を担いで天下を盗ろうとする輩に力を貸すつもりは断じてない。


 洛陽政権の内実は、姉妹があらかじめ予測していたものとほぼ重なっていた。何太后におもねる野心家たちの策によってうまれた、起義の名を冠した意義なき争乱。
 この茶番から劉弁と何太后を切り離さなければならない。司馬朗は廷臣として時に諷諫し、時に直諫し、今日まで努めてきたが、その努力が実を結ぶことはなかった。
 皇帝とその母が、司馬朗の言葉に聞く耳を持たなかったわけではない。むしろ、二人は司馬朗や司馬懿に対し、格別に親愛の情を向けてくれている。
 だが、洛陽政権の屋台骨が野心家たちによって支えられている以上、司馬朗の言葉に従って彼らを遠ざければ、洛陽政権そのものが瓦解してしまうことになる。それはようやく回復した「他者にかしずかれる地位」をみずから手放すことと同義であり、特に何太后は司馬朗の進言にうなずくことは出来なかったのである。


 であれば、後はもう実力行使あるのみ――とは口には出さねど、ひそかに司馬懿が決意するところであった。主君の意に反した策動をするのは臣下として褒められた行為ではなかったが、このまま李儒が劉弁の側に侍り続ければ、地位はもちろん命すら失うことになる。当然、何太后は劉弁よりもさらに危うい。司馬懿の目には、それはあまりにも明白なことだった。




 とはいえ、司馬懿も司馬朗も、体ひとつで洛陽に参じた身。南陽という本拠地と、南陽軍という武力を抱える李儒を排除する力はない。ゆえに司馬懿は機を待ち続けた。
 その機がやってきたのは、司馬懿が北部尉に就任してからのこと。洛陽に敵対する勢力からの埋伏計を察知した司馬懿は、その力を利用した策略を組み立てる。
 司馬懿が武勲をたてれば、李儒がそれ以上の功績を欲して動くのは瞭然としていた。これによって南陽軍と城外の敵勢力をかみ合わせ、その間に劉弁と何太后を李儒から引き離す。何太后は容易に動こうとしないだろうが、自らの命を脅かす敵が近くまで攻め込んできていることを伝えれば動かざるを得なくなろう。
 司馬懿はそこまで計算していた。


 そして、その計算の先で、この逃亡はあえなく失敗に終わっている。
 戦いの結果として誰が洛陽の支配者になろうとも、その時すでに劉弁と何太后は『死亡』しているのである。





 この策をはじめて聞かされたとき、馬岱はすぐにピンときた。
「あー、もしかして、その後に陛下――じゃない、陛下のそっくりさんが涼州に向かったりするのかな?」
「何太后さまのそっくりさんもいらっしゃるかもしれません」
 司馬懿は澄ました顔でそう言い、さらに言葉を重ねた。
「手前勝手な期待ではありますが、馬州牧(馬騰は劉弁から涼州牧に任じられている)であれば、あやしげな二人組とその従者を受け入れてくださる度量をお持ちなのではないか、と」
「あはは、あたしからの口ぞえも期待できるしね。伯母さまは許昌や洛陽がどうとかじゃなくて、臣下の人たちがご兄弟を利用していることに怒っていたから、うん、仲達さんの期待は裏切られないと思うなー」
 まあ、宮中での安楽な生活に慣れた皇帝や何太后が、涼州の風土に馴染めるかどうかはわかんないけど、と馬岱は胸中でこっそりと付け加える。


 司馬懿も馬岱と同じ懸念はもっていたが、それは今心配することではない、と割り切っている。
 かくて司馬懿は、状況に応じて時々で修正を加えながら、段階を踏んで着実に自身の策を実行に移していった。
 袁紹軍が襲来して数日。司馬懿はもちろん、司馬朗のもとにも詳しい戦況は伝わってこなかったが、常に宮殿の各処で目を光らせていた南陽兵の姿が消えたことはすぐにわかった。かわりに配された弘農勢は、四方の防御拠点に重点的に兵を置いたようで、宮殿はおどろくほどに閑散としている。


 元々、虎牢関陥落時に少なくない数の廷臣が逃げ出しているから、兵士以外の人影もほとんど見当たらない。密かに皇帝を宮殿の外に連れ出すには絶好の機会といえた――が、いささかならず都合が良すぎると感じられるのも事実である。
 司馬朗は言う。
「人を謀れば人に謀らるともいいます。陛下と太后さまがいらっしゃる後宮には武器を持って入ることができませんから、そこで害意ある者に襲われれば抵抗する術がありません。かといって、それを恐れて密かに武器を所持していけば、今度はそのことを理由として処断される恐れが出てきます」
 ゆえに、まずは自分がひとりで後宮に入る、と司馬朗は言う。
 何事もなければそれで良い。もし、時が過ぎても司馬朗が戻ってこなかったのならば、それは敵に策があったことの証である。その時は――


「姉様」
 その先を続けようとした司馬朗は、妹のつよい視線を受けて口を閉ざした。
 司馬懿が姉の言葉を遮るという非礼をおかしたのは、姉の言葉の根底にためらいがある、と見て取ったからである。
 司馬朗は、最悪の場合でも司馬懿と馬岱だけは逃げられるように、と考えたのだろう。むろん、単純な情愛にかられてのことではなく、今回のことが失敗に終わっても劉弁を救う可能性が残るように、と思案してのことであろうが、事ここに及べばためらいは未練と同義である。少なくとも司馬懿はそう考えていた。
 事に臨んで未練を残すやり方では成功はおぼつかない、と。


「姉様の仰ることは正しいと存じますが、私たちはすでに陛下にはからずして洛陽脱出を企てております。付け加えれば、私は陛下や太后さまが此度のことにためらわれるようであれば、力ずくでもお二人を宮殿から連れ出す心積もりでおりました。今、なによりも大切なのは陛下の御命であり、これをお守りするためならば、二つの非礼に更なる非礼を重ねることもためらうものではございません」
 司馬懿が言わんとしているのは、規則をまもって武器を持たずに後宮に入り、劉弁と何太后を説くという手間を省こう、というところにあった。
 今は礼節を気にかけている場合ではない。かりに罠があったとしても、司馬朗と司馬懿、さらには馬岱がそろっていれば切り抜けることも不可能ではない。なぜなら、袁紹軍が攻め寄せているのは確かな事実であり、敵も宮中の陰謀に大勢の兵を割くようなマネはできないに違いないからである。




 司馬朗はびっくりしたように目を丸くした。
 常日頃から冷静で、激することのない司馬懿の言葉とも思えない過激な発言だったからだ。
 だが――
(いえ、そうでもないかしらね)
 と、司馬朗はひたと自分を見つめてくる司馬懿の瞳をのぞきこむ。
 ひとたび決断を下した後の苛烈なまでの実行力は、長姉、次姉を問わずに引き継がれた父譲りの資質である。伝え聞く司馬孚の行動を思えば、おそらく下の妹たちにも平等に引き継がれているに違いない。
 思い返せば、今日に至るまでに司馬懿が為した策略もまた、過激の一語で済むような生易しいものではなかった。先日、司馬懿が指揮をとって袁紹軍を追い返した戦では、下手をすればそのまま一気に洛陽を落とされていた可能性もあった。それを考えれば、今の司馬懿の言葉は、むしろ司馬懿らしいとさえ言えるのかもしれない。



 結局、司馬朗は自身の案を引っ込めた。
 ただ、後宮に赴くのは姉妹にとどめ、馬岱は外で待機してもらうこととした。馬岱は姉妹とは立場がまったく異なる。協力してくれているとはいえ、そこまで付き合わせるわけにはいかないと考えたのである。


 かくて司馬家の姉妹は行動に移る。
 だが、今現在、洛陽では諸勢力の思惑が交錯しながら火花を発しており、時にその相克は思いもよらぬ波乱を生みだしながら、河南の大地を軋ませていた。
 司馬懿はその中でも最も遠くを見通している者のひとりであったが、それでもすべてを見通すことはかなわない。
 洛陽宮に生じた災いの渦は、ゆっくりと、しかし確実に大きくなりつつあった。




◆◆◆




「全軍に告げる! これより先、敵の首を取る必要はない。ただ速さこそが百の首級に優る武勲と心得よッ」
 高覧の部隊を突破し、そのまま洛陽宮を攻め立てている張恰の部隊を撃破する。そのために肝要なものは早さであり、速さであった。
 高覧が部隊を立て直すより早く。張恰が自分の部隊に戻るより早く。袁紹軍が俺の意図に気付くより早く。
「突撃ッ!!」
 そのためには、いかに速く部隊を動かせるかが鍵になる。
 俺は力の限り叫ぶと、自らも馬を駆って突進を始めた。




 この突破は思いのほか簡単に成功した。
 俺の気迫が鋭鋒となって敵陣を貫いた――というわけではなく、敵将である高覧がこちらの突撃をいなしたのである。正面からぶつからず、こちらの勢いを逸らして被害を最小限に食い止める。闘牛の突進をするりとかわす闘牛士にも似た用兵を、劣勢で浮き足立った部隊でやってのけた高覧はやはり手ごわい。
 ここで高覧を討ち取れなかったことを悔いる日が、遠くないうちに訪れるかもしれない。敵陣を突破しながら、俺はそんな感慨に囚われた。


 だが、まあその時はその時。
 今しがたの一幕、一見すれば闘牛士の方が上手であるように映るが、牛(俺)の目的は闘牛士ではなく、別のところにある。ゆえに再び闘牛士に挑みかかることはせず、さっさと先へと進んでしまう。
 後背から闘牛士が狼狽する気配が立ち上ったような気がしたのは気のせいではあるまい。受け流しという受動的な用兵は可能でも、そこから即座に追撃に移るのは難しかったようだ。
 高覧が完全に部隊を立て直して追撃に移り、追いついてくるまでの時間が、俺たちに与えられたタイムリミット、ということになる。


 敵を置き去りにし、洛陽の大路を駆けぬける。
 俺たちが後背を突いた際、宮殿を攻めていた部隊は後方に対してある程度の備えをしていた。高覧からの連絡が届いたのか、あるいは張恰が何かの指示を残していたのかもしれない。
 袁紹軍にしてみれば、宮殿を落とすのは勝利の総仕上げというところ。この戦況で、宮殿を攻める部隊が千近い兵を後方に配置していたのは、用心としては十分だといえる。兵士たちも油断していたわけではなく、多少の兵が攻め寄せたとしても小揺るぎもしなかったであろう。


 だが、その兵たちも、いきなり自分たちの倍近い数の敵軍が叫喚と共に襲い掛かってくるとは予想だにしていなかったらしい。敵兵は明らかな狼狽を示し、敵陣は瞬く間に混乱の波に飲み込まれていく。夜で視界がきかず、雨で突撃の音がまぎれていたことも有利に働いた。
 ここは細かな指示など出さず、勢いで敵陣を踏みにじるのが正解だ。
 そう心を定めると、俺は馬を駆って前線に躍り出た。この手の役目は俺よりも徐晃の方が適任なのだが、徐晃と鍾会は後方で高覧と張恰の追撃に備えてもらっているので、将兵を鼓舞するためには俺が出るしかなかったのである
 しっかりとした理由があっての突出であることを、声を大にして述べておきたい。



 この方面に展開していた敵部隊はおよそ五千。
 高覧らが追いついてくる前に決着をつけなければ、との思いに急かされるように、俺は幾度も突撃攻勢を呼号した。
 それでもさすがに袁紹軍というべきか、敵は容易に崩れない。それどころか、一部の部隊は初撃の混乱を鎮静させ、徐々に反撃に転じようとしている。このままでは、彼らを中心として袁紹軍が態勢を立て直してしまうかもしれない。
 危険を覚悟で、後方の徐晃と鍾会を投入するか、と俺が決断を下しかけた時だった。
 不意に敵陣から異様な喧騒がわきおこり、わずかに遅れて敵軍がざわめき立つのが感じられた。立ち直りかけていた敵部隊が、再び混乱の渦に飲まれていく。


 何事か、と槍を振るいつつ敵陣に視線を向ける。
 雨はいまだ止む気配を見せず、夜の闇は深まる一方。各処で焚かれている篝火も周囲をわずかに照らすばかりであり、何が起こっているのかをはっきりと確認することはできそうもない。
 だが、それでも敵陣の混乱が一時のものでないことだけはよくわかった。


 この出来事の原因が、これまで防戦一方だった宮殿の守備隊が、俺たちの急襲に呼応して突出してきたことだとわかったのは、それから間もなくのことである。
 はからずも前後から挟撃される形となった袁紹軍は、ついに陣を保つことができなくなり、諦めたように兵を退きはじめた。
 だが、決して潰走したわけではない。整然と、というほどではないが、それでもある程度の秩序を保ちながら西の方角に逃走していく。袁紹軍、というより并州兵といったほうがいいのかもしれないが、彼らの並々ならぬ錬度がうかがわれる退却ぶりであった。




◆◆




「弘農太守張済の甥、張繍という。こっちは部下の胡車児だ」
 ふりしきる雨の中、敵兵の血で甲冑を染めた青年武将は、そういってにやりと笑って見せた。
 年齢は俺と同じか、あるいはひとつかふたつ上だろう。その笑みは貫禄とは無縁の、どこか軽薄にも見えるものだったが、甲冑についた返り血の量(多少の雨では流れ落ちない量がへばりついている)から推測するに、みずからの手で相当数の敵を討ち取ったことがわかる。ちらちらと垣間見える軽さは、相手にくみしやすいと思わせるための演技かもしれない。
 俺は相手に悟られないよう注意しつつ、密かに気を引き締めた。なにしろ張繍といえば、俺の知る歴史で曹操を追い詰めたこともある切れ者である。この世界では肝心要の軍師である賈駆は董卓のもとにいるが、だからといって油断してよい相手ではない。


 俺は視線を転じて、張繍の隣に立つ胡車児を見る。こちらは体格だけならば貂蝉に匹敵しそうな偉丈夫だ。
 ……誤解のないようにいっておくと「体格だけならば」である。口調や格好はごくごく常識的な範疇におさまっている。
 胡車児が怪訝そうな顔をした。
「……む、何故にそれがしを見て酸っぱい顔をされるのか?」
「いえ、胡さまの顔を見てのことではなく、現在の戦況を憂えたゆえの表情です。ご放念ください」
 胡車児は不思議そうな顔(けっこう愛嬌がある)をしたが、俺は強引にごまかし、なんと話を進めるべきか考える。


 張済の軍ということは、この部隊は弘農勢ということになる。
 洛陽内において、弘農勢と南陽軍がどのような関係にあるのかはわからないが、弘農太守の甥とその側近ともなれば、南陽軍の一武将が気安く話せる相手ではないだろう。俺はそう考えて、なるべく恭しく見えるよう振舞いながら自身の名を口にした。
 それを聞いた張繍は軽くうなずき、あらためて口を開く。
「李温祖か。なにはともあれ、お前の救援には感謝する。でだ、早速訊きたいんだが、宮殿の外は一体どうなっているんだ?」
「は、私もはきとはわかりかねるのですが……」
 ざっと見たかぎり、張繍の手勢は五百程度。一方のこちらは鄧範が五百を率いて別行動をとっているが、それを差し引いてもなお二千を数える。張繍相手とはいえ、戦えば勝てるに違いない。
 だが、ここで張繍らと戦うと、その間に態勢を立て直した袁紹軍が寄せてくる可能性が大である。逆に張繍らをうまく言いくるめることができれば、弘農勢は頼もしい楯になってくれるはず――よし、基本骨子の策定は完了。


「私が申し上げることができるのは、北門がすでに袁紹軍の手に落ちたこと。守備隊は四散し、敵がすでに洛陽城内奥深くにまで攻め込んできていること。その二つだけでございます。余のことはすべて私の推測が混じっており、張将軍のお役には立たないかと」
「ふーむ……見たところ、お前は俺と同じか、それとも少し下か? いずれにせよ、その若さで二千近い兵を指揮しているのならば、南陽軍でも相応の地位と権限を持っているはずだ。そのお前でもその程度のことしか掴んでいないのか?」
 張繍の目がすっと細くなる。こちらの挙動に細心の注意を払っているものと思われたが、俺は身構えることなく応じた。


「はい。私が知るのはこれだけです。ひとつ付け加えますと、将軍は誤解をなさっておられる」
「誤解とは?」
「私が兵を指揮しているのは、これまで従っていた将が戦死したゆえ。いわば臨時の指揮官なのです。南陽軍内部での私の地位など吹けば飛ぶようなものでしかありません。その証拠に、将軍も私の名などご存知ではなかったでしょう?」
 知っていたら、逆にこっちがびっくりである。
 そう思いつつ訊き返すと、張繍は思ったとおりうなずいた。


「ああ。たしかにはじめて聞く名だな。その戦死した指揮官とは誰のことだ?」
「王蔵という仁でしたが、指揮官になって日が浅かったですので、こちらも将軍はご存知ではありますまい。我らはもともと荀将軍の配下として虎牢関を攻めていたのです」
「荀将軍……ああ、虎牢関攻めで戦死した荀正どのか。南陽軍は将が少なく、再編成に手間取っていると聞いている。そこに今日の攻撃で指揮官を失えば、なるほど、無名の者が指揮を執ることになってもおかしくはない、か」
 張繍は納得したように頷いたが、どこか飄々とした素振りは俺の洞察を許さない。こちらの受け答えで疑問を散じたのか、それとも何かしら気になるところがあったのか、そのあたりは判然としなかった。
 ちなみに王蔵は架空の人物だが、名の由来は親父である。勝手に殺して申し訳ない。


 まあそれはともかく。 
「王隊長が討ち死にされた後、散り散りになった味方をかきあつめ、敵軍の攻撃より陛下を守り奉らんと参じた次第です。宮殿守備の総指揮を執っておられる方は今どちらにいらっしゃるでしょうか?」
 俺の問いに、何故だか張繍と胡車児がちらと視線をあわせた。
 別におかしなことを言ったつもりはない。俺は変に気づかないフリを装うよりは、と考え、素直に怪訝さを面に出した。
「あの、なにか?」
「ああ、いや、すまん。指揮は樊将軍がとっている。そして将軍は宮殿にいるんだが……大きな声では言えないが、さきほどから戦況報告と兵力移動の要請をもたせて何度か伝令を送っているんだが、その使者が戻ってこなくてな」


 今度は演技の必要もなく、眉をひそめる。
「……宮廷も混乱している、ということですか」
 張繍は口元に困惑を滲ませつつ頷いた。
「そのようだ。持ち場を離れるわけにもいかず、いささか苦慮していたところでな」
「さようですか……まさかとは思いますが、敵の手が宮廷内に及んでいる可能性もございます。張将軍がこの場から動けないのであれば、私が宮殿に参りましょう。袁紹軍が攻め寄せているのはここだけなのですか?」
「今のところは。もっとも、他の部署と連絡をとりあっているわけでもないので、確言はできんが」
「では私と共に来てくれた兵は張将軍にお預けします。よろしいようにお使いください。その間、私が宮殿の様子を確認し、可能であれば樊将軍とお会いして指示を仰ぐ。そういう段取りでいかがでしょうか。もっとも、私のように官位も持たない者が宮殿を歩き回っては不審がられましょうし、樊将軍に無用の疑いを抱かせてしまう恐れもございます。張将軍、できましたら宮殿で顔が通っており、かつ樊将軍に話を通せる方をひとり、私に付けてはいただけませんか?」


 俺はそう言って、張繍の目をじっと見据えた。
 こちらが兵を預けると言った以上、張繍の方もたった一人を割けないとはいえないだろう。
 むろん、兵を預けるといっても言葉の上だけのこと。数で優っている以上、主導権を握るのはこちらになる。後は鍾会に任せれば、良いようにはからってくれるだろう。
『ぼくは洛陽宮に出入りした経験がある。武器庫や兵糧蔵の大体の位置も把握しているよ。どうしてそんなことを知っているのか? ふん、別に丁寧に案内されたわけではないが、あちらに近づくな、こちらは立ち入り禁止、などという情報を重ね合わせていけば、子供だって重要な区画に気付くというものさ』
 とは神童さまのお言葉である。
 問題があるとすれば、鍾会は名が売れている分、張繍あたりが顔を知っている可能性があるということだが、この暗さに雨、しかも甲冑をまとっている状態であれば、そうそう見分けはつかないだろう。それでもばれてしまったのなら、その時は強硬手段に訴えれば良い。
 実をいうと、俺も徐晃も虎牢関の攻防で弘農勢と刃を交えているので、危険がないわけではない。特に徐晃の戦斧は目立つし。だが、こちらもばれたらそれまでのことだと腹をくくる。兵力に優っていると、こういう時に強気でいけるから便利だな、うん。



 俺がそんなことを考えている間、張繍もまた何事か考え込むように腕組みをしていた。
 そうしておもむろに腕を解くと、張繍は俺にとって予想外の言葉を発する。
「――よし、俺が行こう」
「孟様?!」
 俺が口を開くより早く、胡車児が驚きの声をあげる。
 すると、張繍が真剣な顔で応じた。
「今、温祖が口にした条件、もっとも適任なのは俺だろう?」
「それは、確かに孟様ならば、樊将軍も含め、弘農兵はみな顔を知っておりますが」
「俺が今まで動けなかったのは、五百程度の寡兵では俺なしで敵を防ぐことはできないと考えたからだ。しかし、こうして二千の援軍が加わった今、俺がおらずとも敵に突破されることはあるまい」
「……むむ」
「別に二刻も三刻も宮殿にいるわけではない。敵もそうそうすぐに引き返しては来るまいしな。俺がいない間、ここの指揮はお前に任せる」
「むう、それがしはお連れ下さらぬのか」
「敵の城に攻め込むわけでもなし、護衛はいらんよ」


 かくて、奇妙な成り行きで張繍と行動を共にすることになった俺は、徐晃と三十名ばかりの兵を率いて宮殿へと向かうことになった。
 徐晃は張恰らに備えて残そうかと思ったのだが、これは徐晃自身に拒否された。大路での正面からのぶつかり合いと異なり、拠点にこもっての防戦であれば、別に自分が残っておらずとも大丈夫という徐晃の理屈に抗いきれなかったのだ。
 まあ、より正確にいうと、抗えなかったのではなく、抗わなかったのだが。
 宮殿内では、俺の正体がばれてしまうことを含めて何が起こるかわからない。徐晃がいてくれればありがたいのである。
 ちなみに張繍は単身だった。胡車児は兵を連れて行くように言っていたのだが「不要」の一言で断っていた。張繍自身が口にしていたように敵の城に赴くわけではないとはいえ、この戦況ではいつ袁紹軍がなだれ込んでくるかしれない。いざという時のためにも兵は必要だと思うが、なかなかに豪胆なことである。 




 そうして張繍の案内で宮殿の建物に踏み込んだ俺たちを出迎えたのは、奇妙に閑散とした空間だった。文官や宦官、女官らが右往左往しているかと思ったのだが、すでに逃げ散ったのか、部屋で震えているのか、あるいは元々いなかったのか、いずれにせよ俺たちが通る場所に他者の姿はほとんど見当たらなかった。もし張繍がいなければ、まず間違いなく道に迷って途方に暮れていただろう。


 時折、他者の姿を見かけた場合も、こちらが声をかける間もなく逃げ出してしまう。こちらを誰何しようとする者などひとりもいなかった。
 彼らが張繍を見て、あるいは南陽軍の甲冑を見て、俺たちを味方と判断したのなら逃げ出す必要はない。どうやら宮殿の規模に比して、働いている者たちは思った以上に少なく、そして宮殿の主への忠誠にも欠けているようだ。この分では曹操軍の甲冑を身につけていても、誰にも見咎められずに済んだかもしれない。
(なまじ建物が大きい分、よけいに寒々しく感じられるな)
 ある程度予想していたとはいえ、実際にそれを目の当たりにしてみると、あまり良い気分はしなかった。まあ、皇帝への忠誠心と、職務への忠実さに溢れた人たちがたくさんいて困るのは俺なので、ずいぶんと自分勝手な憤りであるのは自覚している。


 と、そんなことを考えていた時だった。
 その声が俺たちの耳朶を打ったのは。


「ああああアアアアアッ?! 母上えええエエアアアアアアア」


 静まり返った宮殿の奥から、かすかな残響をともなって廊下を伝ってくる声には、遠く離れてなお感じ取れるほどに生々しい恐怖が張り付いていた。
 男性の声。どこか女性のように甲高い響きが混じっていることから、男性といっても年経た大人ではなく、俺より下、まだ少年といってもいい年頃の人物のものかもしれない。あるいは宦官という可能性もあったが、今の声は母上と叫んでいたから、その可能性は低いだろう。
 いずれにしても、ただならぬことが起きているのは間違いない。


 俺はこれまで幾度も激戦をくぐりぬけてきた。平時ならともかく、戦の最中に悲鳴や絶叫が聞こえてきたとしても動じることはない。だが、今しがた聞こえてきた悲鳴には身の毛がよだつ思いであった。
 魂消る(たまげる)という形容が違和感なくあてはまる、驚きと恐怖に満ちた声。悲鳴が連続せず、ただ一度で消えてしまったことも、不吉の感をより強くしていたかもしれない。


「……後宮の方角からだな」
 わずかな沈黙の後、張繍がそんな言葉を口にした。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/01/21 07:02
 司州河南郡 洛陽


 かつて漢の帝都として繁栄していた頃、洛陽の後宮では皇后、妃嬪、そして彼女らに仕える宦官など多数の人間が起居していた。その総数は数千に達し、時には一万を越えることもあったという。
 対して、現在の後宮はどうかといえば、単純な人数では十分の一にも及ばない。最盛期に比すれば百分の一にも達しないだろう。皇帝劉弁はいまだ皇后を迎えておらず、また女色に興味を示すような年齢でも性格でもなく、後宮の住人のほとんどは何太后に仕える者たちで占められている。彼らの数は百に満たず、その多くは洛陽政権の事実上の主宰者である李儒の息がかかった者たちであった。


 これは李儒にとって、皇帝を薬籠中の物とするために当然ともいえる措置である。
 このことは李儒の政敵である司馬朗も見抜いており、彼ら後宮内の人間たちが、李儒からなんらかの指示を受けているのではないかと疑ったゆえに、当初は自分ひとりで後宮に赴くつもりだったのである。後宮は皇帝以外の男子不入の場所であるが、内からの手引きがあればその限りではない。
 だが、幸か不幸か、この日、一度は後宮に戻った劉弁は、夜になって再び宮廷へと戻ってきた。西門から袁紹軍襲来の報告がもたらされたためで、このおかげで司馬朗たちは危険をおかして後宮に踏み込む必要がなくなったのである。




「おお、朗! それに懿もいるか、二人とも、はやく朕のもとへ」
 司馬姉妹が宮廷に姿を見せると、劉弁は目を輝かせて二人を側近くへ招いた。
 李儒からの知らせを受けて宮廷へ出てきたものの、廷臣の数はまばらであり、李儒も西門に出撃しているためにこの場にはおらず、劉弁は困じ果てていた。そんな劉弁にとって司馬姉妹は暗夜の灯火に等しかった。
「陛下、何事が出来したのでございますか?」
「儒からの知らせでな、敵軍が夜襲を仕掛けてきたそうだ。西門の休とやらいう将軍が防いでおるそうだが……」
 劉弁が口にした情報は、姉妹が予測もし、期待もしていたものとほぼ重なる。司馬朗はさらに問いを重ねた。
「李太守の姿が見えないのは、敵に備えるためでしょうか?」
「あ、ああ、そのようだ。朕が知ったのもつい先刻なのだが。今、南陽の兵は城外に出払っており、かわりに弘農の者たちが宮殿の守備についている」
 李儒の独断による配置換えということか。劉弁の言葉から、司馬朗たちはそう受け取った。


 李儒は城外で袁紹軍と戦って身動きがとれず、後宮まで赴かずとも劉弁を説くことができる。司馬朗たちにとっては願ってもない状況だが、だからこそ慎重に事にあたらねばならない。
 特に劉弁が口にした最後の部分が、司馬朗に警戒を促した。
「弘農……では、今は樊将軍が――」
 司馬朗が日ごろから敵意を向けてくる人物の名を口にした途端。
「いかにも、宮殿の守備は我らが承っておる。何か異存でもあるのか、司馬伯達」
 そう言って大股で劉弁のもとに歩み寄ってきたヒゲ面の武将こそ、二千強の弘農勢を率いる樊稠その人である。
 樊稠の手に、これみよがしに愛用の戦斧が握られているのを見て、司馬朗の後ろに控えていた司馬懿の目がすっと細くなった。


 皇帝の御前で武器を携えることが許されるのは、ごく限られた者だけである。樊稠があからさまに武器を見せ付けているのは、自らがその立場に立ったことを知らしめるためであろう。
 そう考える司馬懿の眼前では、司馬朗が樊稠に言葉を返していた。
「異存というほどのことではありませんが、袁紹軍は五万を越える大軍。李太守率いる南陽軍は三万に届かぬとうかがっています。敵が兵力差を利して宮殿に押し入ってくることも考えられましょう。そうなった場合、樊将軍と弘農の方々だけでは陛下をお守りすることは難しいのではないか、と案じられてならないのです」


 これを聞いた樊稠は、ふん、と司馬朗の不安を鼻先であざわらう。
「机上でしか戦を知らぬ文官はこれだから困る。確かに敵は兵力に優るが、こちらには守戦の利がある。外壁、内壁、楼台、防御に使える拠点はいくらでもあるのだ。五十万の大軍ならいざしらず、五万程度の敵にかなわぬ理由がどこにある? 臆病者は戦が終わるまで部屋で震えておればよいわ」
 このあからさまな嘲笑に、司馬朗はこたえようとしなかった。
 かわりに口を開いたのは表情を険しくした劉弁である。
「――稠、言葉が過ぎるのではないか」
「おお、陛下、お許しください。わしは戦塵を駆けることしか知らぬ武骨者、言葉を飾るのは慣れておりませぬでな」
 そういって樊稠は大げさな身振りで頭を下げる。司馬懿の目には、樊稠の動作は皇帝の注意に恐れ入ったためのものではなく、顔に浮かんだ軽侮の表情を隠すための動作であるように思われた。


 だが、劉弁はそこまで考えなかったようで、樊稠がさらなる敵意を口にしなかったことに安堵の表情を浮かべた。
「う、む。わかってくれればよい。頭を上げよ。朗も稠も朕に仕える者、まして今はこのような危急の時だ、共に手をたずさえて朕をたすけてほしい」
 劉弁の言葉に二人はかしこまってうなずく。それが不可能であることを、それぞれの理由で確信しながら。



 その後、幾人かの臣下が新たに姿を見せたが、有効な手立てを講じることはできなかった。
 洛陽内の軍権を掌握しているのは南陽軍であり、彼らからの知らせは先の一度のみ。内外の情勢がまったくわからない以上、策の講じようがなかったのである。もっといえば、なにがしかの策を講じたところで、皇帝や廷臣たちに動かせる兵力などタカが知れていたが。
 袁紹軍襲来という事実は、人々の心に様々な憶測を生み、宮中の混乱を加速させるばかり。
 司馬朗は早々に軍議を打ち切るよう進言し、劉弁もこれを受け入れた。このままでは無益に時を費やすばかりであるのが明白だったからである。



◆◆



 宮殿の一室に、皇帝の驚きの声が響く。
「ら、洛陽を出る?! 朗、それはどういうことか」
「言葉どおりの意味でございます、陛下。このままでは御身に凶刃が届くは必定。災いを避けるためには、この地を離れるのが最良の手段であると存じます」
 司馬朗は自分たち姉妹の考えを、できるかぎり手短に劉弁に伝えた。
 室内に他の廷臣の姿はない。常であれば、劉弁の身辺には李儒か、李儒に従う南陽兵が護衛と称して張り付いているのだが、今現在、宮中に南陽兵はおらず、役目を引き継いだ樊稠も劉弁のために兵を割こうとはしなかった。


 ただでさえ少ない兵を割きたくなかったのか、それともあえて割かなかったのか。
 それはわからないが、どのみち劉弁に決断を求めるためには司馬朗たちの考えを伝えなければならない。邪魔が入らないのは幸運と思うべきだろう。
 そして今、実際に司馬朗の考えを聞かされた劉弁は、求められた決断の重さに目を白黒させていた。
 今日これから洛陽を捨てる、などという案を即座に拒絶しなかったのは、劉弁が司馬朗たちに抱いている信頼と親愛ゆえである。
 だが、だからといって、せっかく得た皇帝の座を自分から投げ捨てる決断を下せるほど、劉弁は腹が据わってはいなかった。


 そして、それは司馬朗らも予測するところであった。その決断を下せる人物ならば、これまでの司馬朗の諫言が無為になることもなかったであろう。
 ここではじめて司馬懿が口を開いた。
「陛下、一万に満たない曹操軍に敗れた軍に、どうして五万を越える袁紹軍を退けることがかないましょうか。敵が宮中に侵入してからでは遅うございます」
 むろん、戦いはそれほど単純なものではない。司馬懿はそのことを知悉していたが、劉弁を説くために、あえて戦況を平易に表現したのである。


 一万を相手に勝てない軍勢が、五万相手に勝てるわけがない。その言葉は、劉弁の耳に道理と響いた。心の臓が不規則に脈打つのを感じながら、劉弁は口を開く。
「し、しかしだな、懿よ。袁紹は三公を輩出した名家の出。その軍が、皇帝に刃を向けるという非礼を犯すであろうか?」
「申し上げにくいことですが、袁紹どのは陛下を皇帝として認めてはおりません。そのことは、陛下の許昌追討の檄文に対し、返書すら認めなかったことでも明らかであると存じます」
「む、む」
「さらに申し上げれば、南陽が偽帝の勢力下にあったことは天下周知の事実です。袁紹どのは偽帝と犬猿の間柄。この一事をとってみても、袁紹どのが陛下に対して臣としての礼節をもって接する可能性は低いと断じざるを得ません。洛陽を攻めるにおいて、使者のひとりも遣わさなかったことも、この考えを裏付ける証左になるかと」


 劉弁はひとこともなく口を噤む。袁術の臣下であった李儒を重用している劉弁を、袁紹が皇帝として認める可能性はないに等しい。司馬懿の言葉には反駁の余地がまったくなかった。
 じわじわと足元が冷たくなってくるのを劉弁は感じていた。自身に迫る危険が、少しずつ実感できるようになってきたのである。
「騰(馬騰)のもとにゆけば大丈夫であろうか?」
 不安げな言葉に応じたのは、今度は司馬朗の方だった。
「必ず、とは断言できかねます。しかし、馬州牧は諸侯の中でただひとり、陛下の檄に応じてくださった御方。最も頼りになることは間違いございません。一族の馬岱どのも協力を約束してくださっています」
「おお、岱もか」
 西涼軍の一将の名が具体的にあがったことで、劉弁は力を得たように表情を明るくした。先ごろ、虎牢関が曹操軍によって落とされた際、反逆を疑われていた馬岱が、逆に反逆者たちをひっとらえて朝廷に突き出したことを思い起こす。劉弁はそのことを覚えており、それは馬岱のみならず西涼軍そのものを信頼する要素ともなっていた。


 ふらついていた心の天秤が一方へと傾いていく。劉弁は自らに言い聞かせるように、ためらいがちに何度かうなずいた後、不意に小さく笑った。
「思えば、朕に今日があるのも、先の大乱で防(司馬防)に救われたゆえ。わかった。朗、それに懿よ、そなたたちの言に従おう」
 その言葉を受け、司馬家の姉妹は深く頭を垂れる。
 第一の関門は突破した、と期せずして姉妹の思いが重なった。だが、安堵はしない。難関が待ち受けているのは、むしろここから先であることを二人とも承知していた。





「しかし、母上にはどう申し上げたものだろう……」
「私どもがご承引いただけるよう説得いたします。ただ、後宮内では何かと差し障りがございますゆえ、陛下には皇太后さまをこちらの宮までお連れいただければ。しかしながら、くれぐれも洛陽退去のことは口になさいませぬようお願い申し上げます」
 なるべく人目につかないように、という条件を司馬朗は口にしなかった。立場的にも、性格的にも、無理であることがわかりきっていたからである。
 女官や宦官を引き連れてやってこられると色々な意味で面倒なことになるが、それでも勝手のわからない後宮にいるよりは対処しやすい。


 問題があるとすれば――司馬朗が妹を見ると、妹もまた司馬朗を見つめていた。その目にはかすかな不審がたゆたっている。おそらく、自分の瞳にもそれはあるだろう、と司馬朗は思う。
 さきほど、いっそあからさまなくらいに司馬朗に隔意を示してきた樊稠。その妨害がここまでまったくないことが訝しい。司馬朗が皇帝と接触することを、あちらが看過する理由はまったくないはずなのだが。


 李儒と樊稠が通じていることは間違いないと思われるが、その企みの詳細までは知りようもない。共通の目的を持って動いているのか、それぞれが個々の利害打算のために動いているのかもわからない。
 いつ何が起きようと、すぐに対処できるように備えておくこと。それがただひとつの対応策であることは承知していたが、何も起きないという状況はそれだけで精神をすり減らす。それは司馬姉妹といえど例外ではなかった。



「んー、確かになんだかヤな空気だよね。いつ崩れるかわかんないオンボロ屋敷に入ったときみたいな。あんまり長居はしたくないかも」
 劉弁と共に後宮へと向かう途次、女官に扮している馬岱は、司馬懿が感じている不安をそのように表現した。
 目に映る範囲では何事も起きていないが、その実、見えない部分で崩壊が始まっている感覚。天井からこぼれ落ちる埃が、柱が軋む音が、建物の倒壊を告げる無言の警告となるように、目に見えない『何か』が事態の破局を訴えかけている。馬岱は鋭敏にそれを感じ取っているのだろう。


 司馬懿は素直に感心して、さらに何事かを問いかけた。しかし、その足が不意にとまる。
 司馬懿だけでなく、司馬朗も、そして馬岱も同時に足をとめた。
 後宮へと続く通路、その奥から流れてきた空気に、宮殿という華やかな場とは異質な『何か』を感じ取ったのである。
「む? どうした、朗、それに懿も」
 不思議そうな顔で劉弁も立ち止まったが、その顔に不審の色はない。馬岱の名を呼ばなかったのは、馬岱が女官に扮しているからである。
 もう一つ、劉弁が司馬懿らが感じた異変に気付かなかったのは、それが劉弁にとって馴染みのない感覚だったからだ。
 だが、慣れた者には間違いようもない。司馬朗は塩賊掃討で、司馬懿は并州動乱で、馬岱は戦場で、空気中にかすかに漂うこの臭いには慣れていた。


(血の、臭い)
 司馬懿は内心で断定する。
 次に思い浮かんだのは、引き返すべきだ、ということ。今すぐ、皇帝のみを連れて宮殿から逃れ出るべきだ、と誰かが声をあげている。この先に行ってはならない、と。
 だが――
「姉様、皇太后さまが」
「ええ、急ぎましょう」
 どうして後宮から血の臭いが漂ってくるのかはわからない。だが、後宮にいる何太后を見捨てるという選択肢をとることはできないし、そのつもりもなかった。
「馬将軍は――」
「あたしも行くよ。こんな時のための武官でしょ? あ、今は女官だけどねッ」
 にこりと笑う(すぐ引っ込めたが)馬岱に、司馬朗と司馬懿は深い感謝を込めて一礼した。



 女官に頭を下げる姉妹を見て、劉弁は不思議そうな顔を怪訝なそれに変えたが、疑問を口にすることはなかった。理由を看破したわけではない。なんとなく、それをすべきではない、と感じたからである。
 ゆえにこの時、皇帝劉弁は声を発さなかった。
 彼が声を発したのは、四肢を刺し貫かれ、後宮の門に磔にされた母の姿を目の当たりにした時である。




◆◆◆




 弘農勢を率いる樊稠は、その絶叫を耳にしたとき、迷いに迷っていた。
 司馬懿らが不審を感じるほどに樊稠の動きがなかったのは、深遠な意図あってのことではなく、単純に樊稠自身が迷いを抱え、動けずにいたからであった。
 樊稠は司馬朗を嫌っており、彼女らを宮廷から排することにためらいは感じていない。それがこの世からのものであってもかわらない。
 李儒から司馬朗の排除――殺害を唆された時も迷うことなくうなずいた。


 だが、今の樊稠には迷いが生じている。他でもない、李儒に対する不審が原因であり、その不審に気付かせたのが張繍の進言であった。
 張繍自身がどう感じているかは知らないが、樊稠は張繍に対して悪意は抱いていない。ただ、常日頃の軽薄かつ軟弱に振舞う態度を改めさせるべく、ことごとにきつく当たっているに過ぎない。盟友たる張済の跡継ぎとして、張繍のことを認めていないわけではないのである。


 ただ、当然というべきか、特別扱いをするつもりはなく、まして自分と同格だと考えているわけでもなかった。
 今回の件に関しても、張繍には宮殿北側の守備を任せただけで、司馬朗排除の計画や、李儒が口にした教唆などは一切伝えていない。
 にも関わらず、弘農勢が宮殿守備に就くと伝えられた張繍は、樊稠に対して李儒が持つ危険性を口にした。


「信用するあたわず。使い潰されるのみ、か」
 ヒゲをしごきながら、張繍の言葉を思い出す。
 当人に対しては若輩者は黙っておれと一蹴したものの、進言自体を蹴飛ばす気になれなかったのは、樊稠自身がかけらも李儒を信用していなかったからだ。
 それでも所詮は白面の文官、大それたことはできまいと高をくくっていた。南陽軍という武力を手にした後も、李儒が樊稠ら弘農勢を重んじる姿勢を崩さなかったからである。


 だが、それも弘農勢を利用するための李儒の一手なのだとしたら。
 李儒は、樊稠が証拠なく司馬朗を始末しても、これを咎める者はいないと口にしていたが、それはつまり、李儒が証拠なく樊稠を始末しても咎める者はいないということ。
 いや、後者の場合、李儒には樊稠を処断する確固とした理由がある。証拠なく司馬朗を殺害した罪、という。


 それに思い至ってからというもの、樊稠はずっと悩み続けていた。
 宮殿北を守る張繍から袁紹軍襲来の報告を受け、迷いはさらに深くなった。戦況は明らかに李儒が想定していたものとは異なってきている。このままでは司馬朗を討つどころか、樊稠や弘農勢そのものが危うくなってしまう。
 だが、これらもすべて李儒の思惑のうちにあるとしたら、軽率な決断は後日に悔いを残すことになるやも知れぬ。
 迷いは迷いを産み、戸惑いは戸惑いを加速させる。疑心に宿る暗鬼により、樊稠の心は千々に乱れていた。度重なる張繍の報告に対し、何の返答もしなかったのは、何をもって動くべきかがまったくわからなくなっていたからであった。


 その悩みを強引に断ち切ったのが、宮殿全体に響き渡ったのではないかと思われる絶叫だった。
 戦場であればめずらしくもない悲鳴だが、ここは洛陽宮、しかも声はかなり奥まった場所から聞こえてきたように思う。何が起きたにせよ、無視することはできない。樊稠は待機させていた直属の兵を率いて宮殿の奥、後宮の方角へと向かった。迷い続ける自身に嫌気が差し、行動による停滞の打破を目論んだ、という面もすくなからずあっただろう。
 そして――



「……な、何だ、これはッ?!」
 そこで樊稠が見たものは、惨殺され、門に打ち付けられた何太后と、それにとりすがって泣き叫ぶ皇帝の姿だった。
 二人の周囲には、かぞえれば十を越えるだろう数の死体が無造作に散らばっている。おそらくは何太后を守るために――あるいは口封じのために殺されたと思われる女官と宦官であった。


 何太后は、まるで刑死した罪人のように四肢を杭で貫かれ、咽喉を真一文字に切り裂かれている。咽喉から噴き出した血は何太后の死屍を赤く染め、さらに母に取りすがる皇帝がまとった袞竜の袍までをも暗赤色に染めかえていた。
 何事が起きたのか、樊稠は咄嗟に判断に迷う。何太后が殺される、という事態はまったく予測の外にあった。
 だが、狂乱の態を見せている皇帝のそば近く、まだ生きている廷臣の中に司馬朗の姿を見出したとき、樊稠は半ば反射的に叫んでいた。


「おのれ、皇太后さまを害し奉るとは天をも恐れぬ猛悪を! 者ども、逆臣 司馬朗を殺せェッ!!」
 予期せぬ光景に凍り付いていた弘農兵が、叱声にも似た樊稠の命令に打たれて次々と剣を抜き放つ。
 彼らの背を押すため、そして事態を一つの方向に導くために、樊稠は再度叫んだ。
「反逆者 司馬伯達を討つのだッ! 討ち取った者には褒美は思いのままぞ!」




 司馬朗を殺せ、反逆者を討て。
 口ではそう命じながら、樊稠は何太后を殺したのが司馬朗ではないことを何故か確信していた。
『樊将軍、袁紹めが攻めてくれば、不穏な動きをする者たちはあらわれる。必ず、あらわれるのです』
 脳裏に浮かんだのは、李儒が出陣前に告げた言葉。
 証拠なしに司馬朗を討ったところで問題はない。そう伝えんがための言葉だとばかり思っていたが、あれはまさかこういう意味であったのか。
 となると、この期に乗じて動くことは、一から十まで李儒の思惑どおりということになってしまうのだが。 


(構わん。もし李儒めがわしの命を奪おうとするなら、その時は逆にあの細首をねじきってくれるわ)
 樊稠は内心の危惧を無理やりねじふせる。
 先刻来、悩み続けていたことで鬱屈はつのり、心がはけ口を求めてやまなかった。そのはけ口が目の前にあらわれたのだ。いまさら懊悩の迷宮に舞い戻ることはできなかった。




◆◆◆




「仲達さん、これ!」
 そう言って、馬岱はゆったりとした女官の服に隠し持っていた二本の剣のうち、一本を司馬懿に放る。
 司馬懿は小ぶりの剣を受け取ると、殺到してくる弘農兵に目を向けた。数はざっと二十人といったところか。
 全員を斬り倒すことは不可能でも、切り抜けることは不可能ではない。自分たちだけならば。


「ああああ、母上、母上えええエエエエッ?!!」
 変わり果てた姿になった母親にとりすがり、狂乱したように――否、真実、狂乱して劉弁は泣き叫んでいる。
 司馬朗は先ほどから劉弁をなんとか正気づかせようとしているのだが、司馬朗の声が劉弁に届いていないのは誰の目にも明らかであった。


 司馬懿は内心で悔やむ。何太后の無残な姿を目の当たりにして、わずかとはいえ自失してしまった。すぐにこの場から立ち去るべきであったのに。
 だが、司馬懿も樊稠と同様、何太后の死という状況は予想だにしておらず、その衝撃を消化するためには少なからぬ時間が必要だったのである。
 そして、衝撃が鎮まれば、次に浮かぶのは疑問だった。
 この段階で何太后に手をかけることに何の意味があるのか。ましてや――
(このような残酷な殺し方をして、あまつさえそれを見せつけることの意味はどこにあるのか)


 つとめて冷静を保とうとしながら、それでも司馬懿は心が波打つのを抑えきれずにいる。
 何故なら、樊稠が現れたタイミングと、その後の行動を見れば、何太后の死が司馬家に対する陥穽であることはあまりにも明らか(と司馬懿はみなした。実際には樊稠も知らなかったのだが)であり、必然的にこの惨死を演出した人間の見当もついたからだ。
 政敵に対して策を仕掛けることは別にかまわない。というより、策を仕掛けているのは司馬懿も同様なのだから、相手を責める資格はないとわかっている。
 それでも、かりそめにも主君の母、自らが立てた皇帝の母親ではないか。これを殺害し、その罪を政敵にかぶせて抹殺するなどという策略を行使してくる相手に対して、司馬懿は深甚な嫌悪を抱かざるを得なかった。


 司馬家の次女はいかなる時も冷静沈着であると思われているが、それは感情の欠落によるものではなく、ただ並外れた自制心で感情を抑制している結果である。
 その心の奥には、喜びも、戸惑いも、悲しみもあった。むろん、怒りもまた。




「アアアアア――あ…………」
 不意に劉弁の身体ががくりと崩れ落ちる。
 まるで糸の切れた人形のような倒れ方を見て、司馬懿はもしや劉弁が憤死したのではないかと顔を青ざめさせたが、幸いというべきか、劉弁は気絶しただけのようであった。咄嗟に劉弁の身体を支えた司馬朗も安堵の息を吐き出す。
 だが、その顔はすぐに鋭く引き締められた。
「璧、馬将軍。陛下はわたしが」
 そう言うと、司馬朗は劉弁の身体を軽々と抱え上げる。


 少年とはいえ、劉弁はもう身体が出来ている年齢なのだが、司馬朗はまったく苦にする様子を見せない。司馬朗は女性としては大柄だが、手足は細く、膂力は人並みだろうと思っていた馬岱は、それを見て目を丸くした。
「おー、お姫様だっこだ。伯達さん、力持ちなんですね」
 あえておどけたような声を出したのは、平静を取り戻すための馬岱なりの方法なのだろう。それがわかったので、司馬朗も顔に険をあらわさなかった。
「父が厳しい人でしたので」
 馬岱は知らないことだが、司馬家の先々代家長が娘たちに対する教育態度を改めたのは、次女である司馬懿以後の話。つまり、司馬朗は司馬懿並の徹底した教育を受けて育ったのである。
 当然、司馬朗は剣も人並み以上に使えるが、劉弁を抱えたままでは剣を振るうことなどできるはずもない。
 道を切り開くのは、司馬懿と馬岱の役割であった。
 



 雄たけびをあげて突っ込んでくる弘農兵の初撃を、司馬懿と馬岱は受け止めようとはしなかった。宮殿の通路は広く、目の前の一人に固執していては、すぐにまわりを囲まれてしまう。
 二人はほとんど同時に身を翻し、相手に空を斬らせる。そして、伸びた敵の腕をめがけて自身の剣撃を繰り出した。
「があッ?!」
「ぐぬッ!」
 弘農兵は悲鳴をあげて床面に倒れこむが、とどめを刺している暇はない。二人はすぐに次の相手と向かい合った。二人の鮮やかな手並みを見て、弘農兵がわずかに怯む。


 と、後方から樊稠の叱咤が飛んだ。
「ばか者! 年端もいかぬ小娘相手に何を怯んでおるか! 所詮は女の膂力、正面から身体ごとぶちあたれば何とでもなろう。多少の傷など気にかけず、真っ向から食らいつき、押し倒し、組み伏せよ。首尾よく捕らえた者には金銀はもちろん、その女どもを好きにする権利をくれてやるぞッ」
 その命令に戦意と欲望を刺激されたか、弘農兵の顔から怯みが消えた。
 対する司馬懿と馬岱はといえば、こちらは今さら恐れを抱くはずもない。


 この時、司馬懿と馬岱の二人は互いの背をかばう位置に立ち、終始その位置取りを崩さなかった。弘農兵は二人の連携を崩せず、捨て身の突進を試みた兵も、左右から繰り出される鋭利な斬撃で両手を失い、絶叫の末に命を落としてしまう。
 長年、共に戦ってきたような巧妙な連携であったが、実のところ、この連携が維持できた理由のひとつは樊稠の命令の不徹底さにあった。


 反逆者。
 樊稠は司馬朗らをそう呼んだ。必然的に何太后の死は司馬朗らの行いと弘農兵は判断した。
 そして、皇帝はその反乱者の手のうちにある。
 その事実が弘農兵を躊躇させた。下手に斬りかかれば皇帝を傷つける恐れがあるというだけではない。下手に自分たちが斬りかかれば、反逆者たちがそれを理由に皇帝を害するのではないか、と恐れたのだ。皇太后を虐殺した者であれば、皇帝を弑逆することにためらいはないであろう、と。


 皇帝が死ぬ危険を冒しても司馬朗らを討ちとるのか。あるいは皇帝の命を救うことこそ最優先の事項なのか。
 本来であれば、その二つは秤にかけるようなことではない。皇帝の命を優先するに決まっている。だが、洛陽政権の現状は兵士たちも承知しており、樊稠が劉弁個人の命をどの程度重く見ているのかが判然としなかった。
 並の相手であれば、そもそも悩むまでもなく数で押し切って仕舞いであるが、司馬懿にしても馬岱にしても並という表現からはほど遠い。二人の反撃が続けば続くほどに、命令の不徹底さは如実に弘農兵の動きを縛っていく。
 そのことに気がついた兵のひとりが、たまらず樊稠に決断を請うた。
「将軍、陛下は反逆者の手のうちにありますが、万一のことがあってもよろしいのですか?!」
「今さら何を言っているか! さっさと伯達めを殺せ!」


 強い意思が込められた命令は、しかし、兵士たちが欲するものを何一つ含んではいなかった。それは果たして意識的なものなのか否か。
 聡い兵の中には、もしこのまま戦い続け、結果として皇帝が害されるようなことがあれば、その責任は自分たちに帰せられるのではないか、そんな疑惑を抱いた者もいた。司馬朗を討つことに固執し、虜囚となっている皇帝に注意を払わない樊稠の様子は、兵にそんな疑惑を抱かせてしまうくらいに不自然だったのである。
 実際には、樊稠は焦慮が昂じて司馬朗以外は目に入らない視野狭窄を起こしているだけであったが、兵たちにそこまで察しろというのは無理な話。
 断固とした樊稠の命令とは裏腹に、弘農兵の動きが目に見えて鈍る。
 その隙を司馬懿たちは見逃さなかった。包囲の一角を破り、宮殿の外へ向かおうと試みたのだ。




 その試みは半ば以上成功した。少なくとも馬岱はそう思ったのだが、その楽観をあざ笑うかのように、向かう先の通路から鋭い誰何の声が浴びせられた。
「何事か?!」
 そして、新たな将兵の一団が馬岱たちの前に姿を現す。
 馬岱らは弘農兵の包囲から脱しかけていたため、必然的に彼らに最も近い位置にいた。馬岱の口から思わず失望の吐息がこぼれおちる。軍装から、眼前に立ちはだかった一団が南陽兵であることがわかったためであった。


 だが、すぐに馬岱は気を取り直す。
 そも馬岱たちに援軍の心当たりがない以上、あらわれる兵はすべて敵とみなして間違いないのだ。当たり前のことにがっかりしている暇があるのなら、向こうが状況を掴みきれないでいるうちに、一気に突破してしまうべきだろう。
 もっとも――
(うーん、ざっと三十人くらいいる上に、なんかみょーに強そうな人もいるなあ……)
 一口に突破といっても大変そうだ、と馬岱は眉をへの字にする。
 それでも、もう無理とか、これでおしまいとか、その手の言葉がまったく思い浮かばない楽天ぶりは、まぎれもなく馬岱が持つ将としての長所の一つであろう。


 馬岱は自身が先頭に立って突っ込むことを伝えるべく、傍らの司馬懿の顔をうかがった。おそらく司馬懿であれば、自分のように益体もない失望など感じたりせず、新たな一団が現れるや、すぐに状況を打開するため、考えをめぐらせているはず――そう思っていた馬岱は、しかし、視線の先で思いがけないものを見出して、思わず驚きの声をあげる。


「ちゅ、仲達さん?」
 馬岱の視線の先では、司馬懿が目を瞠り、身体を硬直させている。いま敵に斬りかかられたら、反撃することもできずに斬り倒されてしまうだろう。馬岱がそう確信できるほどに、視線の先にいる司馬懿は呆然としていた。司馬家の麒麟児が、ただ呆然としていた。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/02/17 16:34
 司州河南郡 洛陽


「我は南陽の李由、字は温祖! 所もあろうに宮中で刃を手に騒ぎを起こすとは慮外の極み、誅戮の刃を欲せざる者は速やかに名と所属を明らかにせよッ!」
 新たに現れた一団、その先頭に立つ武将が大喝すると、彼に続く兵士たちが一斉に抜刀した。
 その数は三十あまり。甲冑も戦袍も雨にまみれ、よく見れば刃先や防具には赤黒く変色した血の跡がこびりついている。今まさに激戦を潜り抜けてきたばかりと思われる彼らのいる方向から、猛るような戦意が吹きつけてくるのを馬岱は感じていた。


 南陽の兵ということは李儒の配下に間違いないが、その言葉を聞くかぎり、あらかじめ樊稠らと示し合わせて待ち伏せていた、ということはなさそうである。
 となると、対応次第では弘農勢とかみ合わせることができるかも。そう考えた馬岱であったが、司馬懿は先ほどから凍りついたように動かない。ならばと司馬朗を見るが、こちらもこちらで何やら愕然とした様子である。
(ど、どうしちゃったんだろ、ふたりとも??)
 予想だにしない姉妹の反応を目の当たりにして、馬岱の頭には疑問符が飛び交った。ここが切所であることは火を見るより明らか。新手の一団を言いくるめるにしても、あるいは強行突破するにしても、機先を制さなければ成功は期しがたい。それは二人とも承知しているはずなのだが。


 馬岱が口火を切るという選択肢もあることはあるのだが、一介の女官に扮している馬岱が、朝廷の重臣である司馬朗らに先んじて口を開けば、南陽兵に不審に思われてしまうのではないか、という危惧があった。かといって、ここで馬岱が正体を明かしたところで事態を悪化させるだけであろう。なにしろ馬岱自身、一時は反逆を疑われた身の上であり、その疑いは今なお完全に拭われたわけではないのだから。
 司馬朗、司馬懿の沈黙と馬岱のためらい、それが樊稠にとっては乗じる隙となった。
「わしは文優より宮殿守備を任された樊稠だ! その者たちは皇太后さまを害し奉った反逆者、ただちに討ち取れィッ!」


 それを聞いた李由は、劉弁を抱えた司馬朗、そしてその左右をまもる司馬懿と馬岱を一瞥する。応じてその背後の兵士たちも動いた。
 その中でも特に馬岱の注意を惹いたのは、大斧を掲げ持つ女武将である。
(うぇー、お姉様――とはいわないけど、令明さん(鳳徳の字)くらい強そうで、おまけに鞘ちゃん(姜維の真名)くらい隙がなさそうだよー)
 相手の力量を察した馬岱は、げんなりしつつもしっかりと剣を構え直す。愛用の槍は女官が持つには大きすぎるので、厩舎に隠してある。慣れない得物で戦うのは、正直ちょっとばかり遠慮したい相手ではあるが、事ここにいたって逃げるなど論外。ここは西涼軍の底力を見せつけてやるべし、と覚悟を決める。



 だが、馬岱はふと相手が妙な動きをしていることに気がついた。斧使いの注意は馬岱たちでなく、近くに立つ青年に向けられているようなのだ。むろん李由ではない。斧使いが注意を向けている青年の装いは、南陽軍のそれではなく、樊稠らと同じ弘農勢のものであった。
 そして、事態はさらに、馬岱にとって意外な方向に進み始める。
 すなわち、樊稠の命令に対し、李由は次のように返答したのである。


「そこの御方は司馬伯達さまとお見受けする。樊将軍、反逆者とは司馬さまのことを指しておいでか? 確かな証拠あっての物言いなのでござろうな?!」
 まさか南陽兵が反問してくるとは思っていなかった樊稠は、驚きのあまり言葉につまる。
 だが、それも一瞬のこと。次の瞬間、樊稠の顔は怒気で染まり、その口から発された声は通路の石壁を揺るがした。
「文優の雑兵ごときが何様のつもりか?! つべこべいわずに命令に従え!」
「まことに皇太后さまがお亡くなりになられたのであれば、ことは天下国家の一大事。失礼ながら将軍の判断に唯々諾々と従うことはできませぬ。また、その義務もありませぬ。なんとなれば、ただ今将軍が仰ったように、我らは李太守さまの配下であり、樊将軍、あなたの部下ではないからです」
 遠慮も何もない、いっそ堂々と、李由は樊稠の命令を拒んでのける。


 のみならず、李由は赫怒した樊稠を舌鋒鋭く問い詰めはじめた。
「司馬さまの抱えておられる御方は、もしや陛下ではございませんか? まことに司馬さまが皇太后さまを害し奉ったというのなら、その反逆者が陛下の身柄を押さえている今、何の思慮もなくこれを討てと呼号なされている将軍は、陛下の御命を縮め参らせんとしていることになりましょう」
 李由の位置からでは司馬朗が抱きかかえている劉弁の顔を見ることはできない。だが、何太后の死という前提を踏まえ、その犯人と名指しされる人物が年端もいかない子供を抱きかかえて逃げようとしているならば、少年の正体を推測するのは難しいことではあるまい。あるいはもっと単純に、さきほど弘農兵が樊稠に向けた問いかけを耳にしていたのかもしれない。


 ともあれ、事実として司馬朗が抱えているのは皇帝劉弁であり、樊稠が劉弁の安全を二の次にしていることは確かなこと。
 ゆえに李由の言葉に対し、樊稠は沈黙をもって応じるしかなかった。
 李由は追及の手を緩めない。
「再度お訊ねいたしますが、樊将軍はいかなる証拠をもって司馬さまを反逆者と断じたのでございましょうや。証を示さず、陛下の御身への配慮もなく、ただ司馬さまを討てと命じる今の将軍のお姿は、失礼ながら都合の悪い人間を始末しようと躍起になっておられるようにしか見えません! それとも、まさか将軍のまことの狙いは、反逆者誅戮に事寄せ、陛下を弑し奉ることではありますまいなッ?!」



◆◆



 当然といえば当然のことだが、このとき、李由は宮殿内で何が起きているのか、樊稠や司馬朗がどのように動き、どうして今の事態になったのか、そのほとんどを把握していなかった。
 ゆえに、李由がことさら居丈高に樊稠の罪をならすような言動をとったのは、『南陽軍』と弘農勢の間に楔を打ち込むため――ただそれだけでしかなかった。樊稠が抱える焦慮、弘農兵の間にたゆたう不審、そういったものを見抜いたゆえの詰問ではなかったのである。


 だが、結果として、李由の詰問は事態を大きく動かす契機となる。
 弘農の兵士たちは思わず足をとめ、樊稠に探るような視線を送る。李由の言は、多くの弘農兵が内心に秘めていたであろう疑惑を、これ以上ないくらい正確に代弁する形となっていたのだ。
 その兵たちの視線の先で、樊稠は――


「ふ、く、かははははッ! そうか、そういうことか……そういう筋書きか、文優ッ!」
 高らかに笑っていた。激怒と、愉悦と、納得と。常ならば到底まざりあわない幾つもの感情を溶け合わせた哄笑は、聞く者の背に怖気をはしらせる。
 そう、樊稠は事ここに至って、ようやく今夜のからくりを理解した。理解したと思った。
 李儒は樊稠を使嗾して司馬朗を討たせ、しかる後に樊稠をも処断するつもりだったのだ。
 その口実こそが何太后の死。
 宮殿の守備を任されながら何太后を守れなかった責任を問うて処刑するのか、あるいは何太后の死すら樊稠の行いとされてしまうかもしれない。その結果、皇帝劉弁を守って逃げようとした『忠臣』司馬朗を討った罪を鳴らせば、樊稠の処断に異を唱える廷臣はいないだろう。
 何太后が死に、司馬朗が討たれ、樊稠が処断された宮中に残るのは、李儒と皇帝のみ。邪魔者を一掃した李儒は、名実ともに洛陽の支配者となって君臨する。それこそがあの小才子の狙いであろう。樊稠の罪を鳴らし、司馬朗をかばいだてする眼前の南陽兵の言動こそが、策謀の実在を証し立てているではないか!



 ……樊稠が冷静さを保っていれば、この推測に多くの矛盾が含まれていることに気付いたであろう。だが、樊稠はこれが正解だと信じ込んだ。南陽兵が樊稠を弾劾する、その一事に李儒の真意があらわれていると思い込んだのである。
 そして。
 誤解にもとづくこの判断が、実は正確に李儒の思惑を言い当てているところが、今夜の事態の煩雑さ――というより滑稽さを示していた。
 だが、もはやこの笑劇を笑劇として捉えられる人間は、洛陽内外のいずこを探しても見当たらない。主役たちでさえ、自らの思惑と限られた情報の中で、最善と思える判断を下して夜を駆けるだけで精一杯であった。



「もはやいかなる斟酌も必要なし! かまわぬ、南陽兵も、反逆者も、殺しつくせィッ!」
 憤激した樊稠の命令、そこに込められていた熱が、凍り付いていた兵士たちを突き動かす。
 それを見て、李由はかすかに眉をひそめた。離間の計といえば聞こえは良いが、実際は何の準備もなく、その場の勢いで暴言をまくし立てただけである。にも関わらず、樊稠はあまりにあっけなく南陽兵を敵と見なしてしまった。その短絡さが不自然に感じられたのだ。
 しかし、李由はすぐにその不審を振り払う。どのみち、司馬姉妹を洛陽から連れ出すためには弘農兵を排除しなければならない。向こうが憤激に囚われている理由など知ったことではない、と。


 李由は息を吸い込み、配下――徐晃に呼びかけるために口を開こうとする。弘農兵に切り込めと命じるためではない。ここまで同道してきた張繍を排除するために。
 だが、ここまで無言を通してきた張繍は、まるでこの機を待っていた、というように李由の機先を制した。といって、李由に切りかかったわけではない。張繍は前に進み出たのである。


「お待ちください、樊将軍ッ!」
 進み出た張繍を見て、弘農兵がざわりと立ち騒ぐ。幾人かの兵が、孟様、と驚きもあらわに呟いた。
 当然、樊稠も相手が誰であるのかすぐに気がついたらしい。目を剥いて張繍の名を呼んだ。
「繍?! おぬし、ここで何をしている?!」
「北にまわった袁紹軍に宮殿の守りを突破されました! 敵勢一万、すぐにもこの場になだれ込んで参ります!」
 張繍は間接的に樊稠の問いに答えた。常の飄々とした態度は鳴りを潜め、しごく真剣な顔で、真面目な声で――張繍は堂々と偽りを口にする。


「樊将軍、もはや洛陽や皇帝にかかずらっている場合ではありません。すぐにも函谷関へ退かねば、我ら袁紹の大軍に踏み潰されてしまいます」
「なんだと?!」
 怒りに身を任せていた樊稠だが、さすがにこの言葉は聞き逃せなかった。
 弘農勢の大半は宮殿の外に配置している。今、一万もの敵に攻められては打つ手がない。しかも、敵の数は増えこそすれ、減ることはないのだ。
 樊稠は忌々しげに舌打ちした。
「おのれ文優、しくじりおったか。口先だけの役立たずめがッ」
「あの男に兵馬を指揮する才覚はないですよ、それは樊将軍もご存知でしょう」
 張繍は口調を普段のそれに戻し、樊稠の激昂を柔らかく受け止める。


「将軍、我らに南陽の謀略に殉じる義務はないでしょう。一刻も早く、洛陽から去るべきです。西門を突っ切るのは難しいですが、南門から城の外に出て、しかる後に函谷関へ向かえば、南陽と袁紹の争いに巻き込まれずに済みましょう――皆も刃を収めてくれ」
 最後の一語は樊稠ではなく、状況の変化に戸惑ったように立ちすくむ弘農の兵士たちに向けられたものだった。
 樊稠の様子を見るかぎり、敵兵の侵入を知ってなお洛陽に固執することも考えられる。これを防ぐために、張繍は兵たちを取り込もうとしたのである。


 袁紹軍がなだれ込んでくるという言葉こそ偽りであったが、ここでくだらない騒動にかかずらっていれば殲滅の憂き目に遭うという張繍の危惧は本物だった。
 そのことを察したわけでもないだろうが、弘農兵は張繍の言葉に従って次々と刃を引いていく。彼らにしても、冷静を欠いているとしか思えない今の樊稠に従うよりは、張繍の言葉に従う方が納得できるのだ。まして袁紹軍が攻め込んできているというのなら、尚のこと、こんなわけのわからない状況から脱してしまいたかった。
 いずれ張済の後を継いで弘農勢を率いることになるという張繍の立場も、兵たちの決断の後押しをしたかもしれない。




◆◆◆




 この夜、予想外の出来事はいくらでも起こった。むしろ予想通りになったことなど一つもなかった、と言いかえてもいいかもしれない。
 この突然の張繍の行動はその中でも最大級のものであったが、しかし、俺はあまり驚いていない自分に気がついていた。予想はしておらずとも、予感はあったのかもしれない。
「さて、温祖。俺はお前の主をけなし、かつ南陽と袂を分かつと口にしてしまったわけだが……」
 張繍はそういって俺の顔を見ると、悪びれる素振りも見せず、唇をゆがめてタチの悪い笑みをひらめかせた。
「――まあ、大した問題ではないだろう。『お前』にとっては、な」


 俺は相手と同じ表情で応じた。
「確かに、この状況では大した問題ではございませんね。今は逃げ延びることが何より優先されます」
 後学のためにも、どのあたりで気がついたのか訊いてみたくはあったが。
 すると、そんな内心が顔に出てしまったのか、張繍は肩をすくめた。
「南陽の者たちは、今夜のような混戦にあって、陛下のために宮殿に駆けつけるほど殊勝な奴らではない。立て続けに指揮官を失ったにしては、袁紹軍を易々と貫くほど統制もとれていたしな? それに、連中は俺たちを見下していたから、口調がどれだけ丁寧であっても軽侮の感情は隠しきれていなかった。だが、お前にはそれがまったく感じられない。あれやこれやと考え合わせれば、不敏なるこの身にも洞察力が芽生えようというものだ」


 ……つまり、ほとんど最初から見抜かれていたらしい。俺たちを排除しようとしなかったのは、兵力で劣っていたためか。あるいは、俺たちの存在を奇貨として洛陽との決別を断行するつもりだったのかもしれない。なんにせよ、袁紹軍の脅威が現実としてある以上、俺も張繍も互いを利用せざるを得ない立場であった。
「我らは許昌に心を残す。できれば覚えておいてくれ」
「お安い御用です。が、真にそれを望むのならば、曹袁の戦いが終わってからでは手遅れです。それだけは申し上げておきましょう」
 張繍は軽くうなずいた。
「承知している。ではな。おそらく、近いうちにまた会うことになるだろう」
「はい。互いのために、そうなることを祈っております」
 そう言って、俺と張繍は互いに背を向けた。俺自身が口にしたように、今はとにかくさっさと洛陽から逃げ出さねばならない。長々と話し合っている暇はないのだ。




 ――そう。長々と話し合っている暇はない。
 俺は自身にそう言い聞かせながら、司馬懿の前に立つ。
 いつかの別れから、まだ一年どころか半年も経過していない。切れ長の双眸も、晴夜を思わせる色合いの瞳も、俺の記憶とほとんどかわっていなかった。かすかに瞳が揺れているように感じられたのは、姉や皇帝を守るために剣を振るった興奮の残滓であったのか。
 洒落た言い回しをしている場合ではないし、そもそもそんな文句も思い浮かばない。というわけで、俺はもし出会えたら真っ先にしようと思っていたことを実行に移すことにした。


 司馬懿の頬を思いきりひっぱたいたのである。


 我ながら容赦のない一撃。あえて擬音であらわすならば「バチンッ!」とまではいかなくとも「ぺちん」くらいにはなったであろう。いや、もしかすると「ぺち」くらいだったかも。うん、もう少し自分に素直になってみると「ぴと」くらいだったかな。
 ……傍から見ると、俺がいきなり無言で司馬懿の頬を撫でたようにしか見えなかったかもしんない。
 当の本人も、いきなりのことに目を丸くして、戸惑ったように顔を伏せてしまう。少なくとも、ぶたれたという驚きは、その表情からは微塵も感じ取れなかった。


 だが、しかし。
 俺の主観ではひっぱたいているのだ。ゆえに、虎牢関で司馬孚にいった「洛陽で司馬朗、司馬懿に会ったら一度だけ頬をひっぱたこうと決めた」宣言は忠実に実行されたのである。異論は認めない。認めないが、この状況で司馬朗に同じことをする勇気はなかったので、司馬朗に関しては後日実行することとしたい。


「あれからのこと、これからのこと、話し合わねばならないことは山のようにありますが」
 俺の声を聞いた司馬懿の肩がビクリと震える。
 俺は意識して声を低く、穏やかなものにした。
「今はとにかく一緒にきてもらいます。なお、拒否拒絶、異論反論みな却下しますのでご了承ください。必要とあらば力ずくです、仲達どの」
 一見冗談めかして、だがその実、心底本気で口にした俺の言葉を聞き、司馬懿はそっと上目遣いで俺の顔を見上げた後、承諾を示すように小さく頷いた。
 このとき、一瞬だが、司馬懿の口が言葉を発するために動きかけたように見えた。が、それは気のせいであったらしい。俺の耳が司馬懿の声を捉えることはなかった。




 次に俺は司馬朗に視線を向けた。すると、司馬朗は気遣わしげな視線で自分が抱えている少年を見やる。
 相手の言いたいことを察した俺は、その懸念が杞憂であることを伝えた。
「どうするかを決めるのはこれからですが、命を奪うことはいたしません」
 そう断言した後、司馬朗の側に控えていた、明らかにわけありと思われる女官(何故だか剣をもっており、衣服には返り血もべったりとついていた)のために、俺は言葉を付けくわえた。
「ただ、用があるのは司馬さまたちだけですから、そこの女官の方は、逃げるならばご自由になさってもらって結構ですよ」

 
 司馬朗の手前、言葉を選んだが、弘農王(推定)を保護するなど厄介の極みである。これ以上余計な手間を増やしたくなかった俺は、この血染めの女官さんは出来ればこのまま立ち去ってくれないかなー、と思っていた。
 だが、思いは儚く、願いは遠く。
 相手は明らかな困惑を声に宿しつつも、首を横に振る。
「えーと、何がなんだかさっぱりわからないんだけど、あなたは伯達さんや仲達さんの敵じゃない……んだよね?」
「ええ。いちおう南陽軍ですが、お二人に危害を加えるつもりはありません」
「いちおうっていうのがあからさまに怪しいんですけど」
 胡乱げな眼差しでこちらを見る女官。
「ならば言いかえましょう。れっきとした南陽軍です。ただし今夜限定」
 女官がじと目になった。なにゆえ。


 俺は判断に迷った。司馬朗らが信用している人物だからといって、こちらの正体を明かして良い相手とはかぎらない。立場はどうあれ、洛陽政権に参じている以上は許昌と対立関係にあるのは明白なのだ。それこそ、いきなり樊稠たちに真実を告げまわらないとも限らないのである。
 だが、そういった危険をおもんぱかり、ここでぐずぐずした挙句にもっと厄介な事態を招いたら目もあてられない。こうしている間にも、高幹や高覧、張恰といった袁紹勢、それにいまだ姿を見せない李儒も動いているに違いないのだから。
 俺は腹をくくることにした。




「虎牢関守将、北郷一刀」
 短く、端的に自身の立場と正体を告げる。
 すると、女官の目がまん丸になった。まったく予想だにしていなかったのだろう。まあ当然といえば当然なのだが。張繍のようにこちらの正体を見抜く材料があったなら知らず、何も知らない状況で、この場に曹操軍の武将があらわれるとか、普通は予測できまい。
 俺はさらに言葉を重ねた。
「司馬さまたちとは許昌で面識があります。虎牢関の司馬叔達どのに、姉君たちのことを頼まれてもいる。無体なまねをするつもりはない、ということは改めて言明しておきます」
 すると、相手は思ったよりもずっと早く我に返り、興味深げな眼差しを向けてきた。
「へェー、許昌の人なんだあ。あ、そだ、あたしは西涼軍の馬岱。お姉様たちと戦ったあなたたちは、あたしにとっても敵ってことになるんだけど……」
「む、西涼の……しかし、お互い、ここで李儒だの高幹だのに殺されるわけにはいかないでしょう。この苦境を切り抜けるため、ここは一時的な共闘を提案したく思うのですが」
「ま、それしかないよね。訊きたいこともあるし。じゃあしばらくはお互い、過去のことは脇においておくってことで」
 そう言って、俺と馬岱はうなずきあった。
 

 

「公明」
 俺が呼ぶと、徐晃は身体から力を抜いた。さきほど張繍に対してそうしていたように、いざという時は馬岱を斬るべく身構えていたのだ。
 徐晃に呼びかけた後、俺は兵たちにも声をかけた。
「俺と公明で先頭に立つ。皆は伯達どのたちの周囲を固め、お守りせよ。もはや洛陽に用はない。一気に抜けるぞ――それと公明」
 俺は最後に、小さく徐晃に呼びかける。
「なに、かず――李将軍?」
「いや、もう一刀でいいんだが、まあそれはさておき、宮殿を出た後は伯達どのたちを司馬の兵の中にいれて、士季どのに見られないようにしてくれ。あの人は俺たちとは立場も考え方も違う。見られるとまずい」
「それはわかった、けど。ずっと隠しておくのは難しいと思う」


 難しそうな顔をする徐晃に、俺はうなずきで応じた。
「わかってる。結論は早目に出すから、そう長いことじゃない。洛陽を出たら、俺は士季どのと邙山へ向かう。公明は士則に事情を説明して虎牢関へ戻ってくれ。言うまでもないけど、士季どのはもちろん、他の兵に見つかっても面倒なことになるから、十分注意してくれよ」
「うん、了解。それにしても、なんだか次から次へと大変だね」
 徐晃は俺の命令に頷いた後、苦笑まじりにそう付け足した。俺は頭をかきつつ、同意する。
「だなあ。七難八苦を与えたまえと月に祈った覚えはないんだけど」
「なに、それ?」
 不思議そうな顔で首を傾げる徐晃に、俺の故郷の武将の話だと説明する。すると、徐晃はなにやら感心したように何度もうなずいた。


「うん、その人はきっとすごい賢い人だね」
「む? なんでまた」
「苦難なんて求めないでも降りかかってくるものだけど、何もしないでいたら、それはただ運が悪いとか、日ごろの行いが悪いとか、うっかりが高じた結果だとか――」
 最後の部分だけ、なぜか徐晃の語調が強かった。
「とにかく否定的に受け止めざるを得ないよね。けど、自ら求めたものなら、どんな苦難、災いも正面からしっかりと受け止められると思う。しかも、それをしのいだ末に願掛けをしておけば、願いごともかなって万々歳。うん、今度からわたしもそうしよう」
 いずれも宮殿の通路を早足で歩きながらの会話である。
 人生に苦難はつきもの。どうせ避けられないものならば、みずから望むことでその苦難を前向きに受け止めよう。そう決意する徐晃の足取りは不思議と軽そうだった。





 この徐晃の決意が、俺たちに押し寄せようとしていた苦難を怯ませた(?)のかどうか。
 これ以後、俺たちは大した苦労もなく洛陽を脱することができた。
 だが、喜んでばかりはいられない。兵に大きな被害が出ず、将帥級の人物を失うこともなかったのは僥倖だったが、結局、袁紹軍を率いる高幹を討つどころか、その旗印さえ見つけることができなかったのだから。
 洛陽政権の中心人物であるはずの李儒も影さえ見出せず、俺たちが宮殿に踏み込んでいた間、洛陽の兵糧蔵や武器庫を見つけた鍾会も、これらを完全に焼き払うには至らなかった。時間も準備も足りなさすぎたのだ。
 徐晃に言ったとおり、俺と鍾会は洛陽を出た後に邙山へ向かったのだが、おそらく高覧あたりから使者がいったのだろう、こちらの部隊は厳重に敵襲を警戒しており、ただでさえ兵数で劣る俺たちはついに襲撃を断念して虎牢関に引き返すしかなかった。


 対して、袁紹軍は俺たちが退却した後、南陽軍の主力部隊を降伏させた上で洛陽全域を制圧したようだ。翌朝、四方の城壁に翻った『袁』の軍旗を見れば、そう判断せざるを得ない。
 戦況は確実に、そして着実に悪化していた。



◆◆



 邙山の襲撃を断念した俺と鍾会は、洛陽の城頭に翻る袁旗を遠目で確認した後、虎牢関へと帰ってきた。
 すでに日はのぼっており、雨もとうに止んでいる。ただし、その恩恵を俺は受けることができていない。なにしろ人身大の嵐がずっと側にいたのだから――むろん鍾会のことである。
 先夜の襲撃、多少の成果はあったものの、鍾会にしてみれば到底満足のいくものではなかったのだろう、神童どのは先夜来、ずっとご機嫌ナナメであり、虎牢関に帰着した後は、留守居を務めた棗祗と共に最低限の打ち合わせを済ませると、とっとと自分の部屋に戻ってしまった。


 まあ、俺としてもそれは好都合なわけで、棗祗に洛陽の動静に厳重に注意するよう頼むと、俺も鍾会にならって部屋に戻った。一眠りするわけではない。鄧範の見舞い、司馬懿らとの話し合い、弘農王と馬岱の処遇の決定などなど、やらねばならないことは山積している。
 くわえて、高幹らが洛陽制圧の余勢を駆って押し寄せてくる可能性もある。それもけっこう高い確率で。
「ゆっくり寝られるのはいつになることやら」
 そう言いつつ、部屋の扉を開けた瞬間。


「お兄様ッ!」
「おゥ?!」
 なにやら軽く、柔らかい物体に体当たりを食らった俺は、オットセイみたいな妙な声をあげてしまう。
 あわてて足を踏ん張って突撃物体を抱きとめると、それは司馬家の三女どのであった。 
「お兄様、お兄様、あの、あの、お兄様!」
「あ、ああ、なんでしょう?」
 俺の胸に顔を埋める格好で、感極まったようにお兄様を連呼する司馬孚。短い髪の隙間からのぞく両の耳はそれとわかるほど赤くなっている。
 言葉が続かないのは、何を言ったらいいのかわからないというよりは、言いたいことがありすぎて何から言ったらいいのかわからない、という感じであった。


 俺の方もいきなりのことで慌ててしまったが、冷静になってみれば、大体の事情を推し量ることはできる。
 視線を転じて部屋の中に目を向ければ、予想通り、そこには司馬孚の姉二人と徐晃に馬岱、それに血止めの布を巻いた鄧範の姿があった。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/02/17 16:32

「士則、傷の具合は?」
 部屋に入った俺は、隅に控えた鄧範に声をかける。鄧範は一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐにいつもの無愛想な顔に戻り、そっけなく応じた。
「前線での槍働きは無理だが、それ以外は何とか、といったところか」
「そうか。すまないが、ゆっくり休んでくれとは言ってやれそうもない」
「気にしないでいい。そんな状況ではないことは承知している――それよりも、驍将どの」
 そういって鄧範が目線で示した先には、当然というべきか、司馬朗たちの姿がある。ちなみに俺に抱きついてきた司馬孚は、我に返ったのか、慌てて俺から離れて姉たちの隣で縮こまっていた。


 劉弁の姿が見当たらないのは、別室で安静にしているからだろう。
 そんなことを考えながら、俺は司馬朗たちに話しかけた。
「話しあわねばならないことは山のようにある――洛陽でそう言いましたが、残念なことに時間があまりありません。姉妹での話はもうお済みですか?」
 俺の問いに、司馬家の姉妹は同時に頷いた。
 口を開いたのは司馬朗である。
「公明どのと士則どのに計らっていただきました。螢(司馬孚の真名)と言葉をかわす機会を与えてくださったこと、心より感謝いたします、北郷さま」


 そう言って膝をつこうとする司馬朗たちを、俺は慌てて制した。
 昨夜のことはあくまで結果であり、司馬朗たちを助けるためだけに兵を出したわけではない。戦況によっては洛陽宮に突入することなく退いただろう。礼を言うくらいはともかく、ひざまずく必要はない。
 だが、俺の言葉を聞いた司馬朗はゆっくりとかぶりを振った。
「螢からうかがいました。私と璧(司馬懿の真名)が去った後、司馬家を救うために北郷さまがどれだけ尽力してくださったのか――そのすべてを。ただその一事だけでも、私たちが北郷さまにぬかずく理由になりましょう」


 ぬかずく。額ずく。意味 額を地につけるくらい丁寧にお辞儀すること。
 ――司馬姉妹にぬかずかれている光景を想像してしまった俺は、半ば反射的に答えていた。
「いえいえいえいえ、そんなことする必要ないですから。そんなことされても困りますし、それに……」
 俺はそこでいったん言葉を切り、こほんと咳払いして気持ちを落ち着かせる。ここから先は非常に込み入った話にならざるを得ない。それこそ一手間違えれば破滅の淵にはまりこんでしまうレベルなので、慎重に話を進めていかなければならなかった。


「それよりも確認しておきたいことがあるのではないですか? ここにはいない御方を、私がどう処遇するつもりなのか、といったことについて」
 むろん、俺が口にしたのは劉弁のことだ。
 洛陽で俺は劉弁の命を奪うつもりはないと言った。その言葉を今になって覆すつもりはない。が、当然といえば当然のことだが、劉弁の処遇を最終的に決定するのは俺ではない。俺が命を救っても、許昌で処刑されてしまえば、司馬朗たちにとっては何の意味もない。
 そして、そうなる可能性がきわめて高いことに、司馬朗たちは気がついているはずだった。


「私は陛下とお呼びするわけにはいきませんので、殿下と呼ばせていただきますが――殿下は帝位をうかがい、これに失敗なされた。古今の法を見れば、その処遇は一つしかありません。ここで私が命を救ったとしても、それは一時の延命に過ぎないでしょう。そして、それは伯達どの、仲達どのも同様です。それを避けるためには、ここから殿下や伯達どのらをお逃がしするしかないわけですが、私はこれをするつもりはない」
 俺は司馬朗たちの命を奪いたくはないし、司馬朗たちが大切に思っている劉弁を殺したくもない。
 だが、だからといって許昌の朝廷に反逆した者たちを、再び野に放つつもりもなかった。


 俺は自分の意思で今回の戦いに加わっているわけだが、立場としては関羽に準じている。すなわち、劉家軍の一武将として漢帝のために働いている、という形である。許昌に来た経緯を考えれば当然のことであろう。
 関羽のように曹操に請われたわけではなく、朝廷から正式に要請されたわけではなくとも、俺の行動は劉家軍の将としてのものと見なされるのだ。
 一度は捕らえた反逆者を、個人的な情誼によって解き放つような不義を働けば、その罪業は俺のみならず、許昌の関羽や、ひいては荊州の玄徳さまにまで及んでしまう。そんなことが出来るはずはなかった。




 では、まっとうに助命を嘆願すればどうか。
 これについても可能性は低いと言わざるをえない。
 俺は虎牢関の守将に任じられたとはいえ、それはあくまで戦況に応じた戦力配置の結果であって、政治的な発言権などチリほども与えられていない。劉弁らの処遇について口出しすれば、僭越の謗りを免れないだろう。


 我が武勲と引き換えに、などと言えれば格好もつこうが、余のことなら知らず、帝位を狙った反逆者やその与党を助命するに足る武勲というものが、はたしてこの世に存在するのかどうか。
 一族とはいえ、企みとは関わりのなかった司馬孚や幼い妹たちが族滅される恐れのある大罪である。張本人たちの助命は事実上不可能だろう。
 そもそも、袁紹軍が健在であるということは「虎牢関より東に敵兵を踏み込ませるな」という曹操の命令の完遂さえ危ういということ。いくら袁紹軍の襲来が予想外のこととはいえ、虎牢関を失えば功より罪がまさる。司馬朗たちの助命を願うどころか、俺自身の身が危うい戦況だった。




 ――俺が語り終える頃には、室内の空気は冬の日の曇天のごとく、重く、冷たくなっていた。
 鄧範は目を伏せ、馬岱はわずかに身体を屈め、徐晃はそれに応じるようにそっと腰を落とす。司馬孚は何か言いたげに俺を見上げたが、司馬懿の手が肩に置かれたことに気付くと、慌てて口を噤んだ。自分が口を出す場面ではない、と考えたのだろう。
 微動だにしなかったのは、俺と向かい合う司馬朗ただひとり。
 その顔には――意外というべきかどうか、失意も緊張も、もちろん反発もなかった。穏やかな、それでいて揺らぎのない眼差しで、ひたと俺を見つめている。どうやら司馬朗は(おそらく司馬懿も)俺がそう言い出すことは予測していたようだ。


「北郷さまの仰ること、ことごとく道理であると存じます。この身は反逆の徒、その末路がいかなるものかは承知しておりました。螢と語る時を与えていただいただけで身に過ぎる厚遇、洛陽で誰とも知らぬ者に討たれていたかもしれないことを思えば、成長した妹の姿を見て、司馬家の今後に確信を得た上で死ねるは望外の幸福です」
 司馬朗がそう言うと、司馬懿も同意だというように頷いている。
 二人の顔には明確な覚悟があり、助けられることを当然と考えていた節はない。


 ――ただ、話の流れが俺の意図していた方向とは違ってきているのがひしひしと感じられる。
 俺は慌てて口を開こうとしたが、司馬朗に先を越されてしまった。
「ただ、願わくば、どうかあの少年の命だけはお助けいただけないでしょうか。陛下が洛陽で命を落とされたこと、私が確言いたします。私たちと共に洛陽から逃れ出たのは、権力とは何の関わりも持たない、年端もいかない子供なのです。あの子の今後については馬将軍に委ねてありますので、北郷さまや曹丞相の手を煩わせることはございません。戦が終わった後、少年は涼州に赴き、かの地で生を終えることになるでしょう。再び乱を起こすことはありません。利用されることも、きっとないはずです。ですから、どうか――」


 言い終えると、司馬朗と司馬懿はそろってひざまずき、それこそぬかづくように頭を垂れる。
 司馬孚も姉たちにならって膝をつきながら、こちらは懇願するような眼差しで俺を見上げてきた。
 別の方向からは鄧範と馬岱が刺すような視線で睨んでくるし、徐晃は徐晃で、こちらも訴えかけるように俺をじっと見つめている。




 ……きっと、針のむしろ、というのはこういう状況を指していうに違いない。
 正直にいえば、こんな流れになるとは思っていなかった。話の進め方を間違ったか、と内心で冷や汗を流しながら、俺はつとめて冷静に声を出す。
「――伯達どの。仲達どのも、どうか頭をあげてください。あなた方を助けることも、逃がすこともむずかしい。それは事実ですが、だからといって、叔達どのとわずかに対面させるためだけに、虎牢関にきてもらったわけではないのです。命は奪わないといった言葉を違えるつもりはありません」
 そう言った後、頭を下げる。
「すみません。事が事であるだけに、慎重に話を進めているつもりだったのですが、どうもまわりくどくて誤解をさせてしまったみたいですね。結論を言いますと、私の考えは、はからずも伯達どのが口にされたこととほとんど同じなのです」
「では、あの子の命は助けていただけるのですか?」
「もちろんです。ただし、伯達どのの考えにいくつか修正を加えますが」


 俺の言葉に周囲から怪訝そうな視線が向けられる。また誤解を与えてしまうのは避けたかったので、俺はさっさと自分の考えを言ってしまうことにした。
「洛陽における殿下の死を見届けたのは、伯達どのではなく私です。さらにいえば、私は昨夜、司馬伯達と司馬仲達、二人の叛臣の死も確認した。ゆえに私が洛陽から連れ帰ったのは、権力とは何の関わりもない少年がひとりと、女性がふたり。そういうことです」


 ただし、と俺はもう一つ、付け加える。
「先にも言いましたが、私は許昌の朝廷に不義を働くつもりはありません。私はたしかに三名の死を見届けたのです。ゆえに、もし今後、私が死を見届けた人たちが野心を再燃させ、、あるいは当人にその意図がなくとも、何者かに利用されて再び許昌に牙を剥くようなことをすれば――その時、私はどこにいようと、何をしていようと、もてる力のすべてで、反逆者たちを討ちにいきます。今度こそ、本当の意味で死者の列にひきずりおろすために」


 それが三人の反逆者の死という『事実』を報告する上で、俺が負うべき責任であろう。
 ……まあ、表面上はどうあれ、反逆者を見逃そうとしている時点で、俺はまぎれもなく許昌の朝廷に対して不義を働いているわけだが、そこはそれ、反逆者たちが二度と歴史の表舞台に現れなければ、結果として俺の報告に間違いはなかったことになる。
 我ながら何とも苦しい理屈だが、司馬朗たちの命を助けることと、朝廷に不義を働かないことがどうやっても両立できない以上、これが今の俺にできる精一杯であった。




「北郷さま」
 しんと静まり返った室内に、司馬朗の静かな声が響く。
 俺が司馬朗を見ると、司馬家の長女はひざまずいた姿勢のまま、両の手を胸におしあて――
「感謝と共に、誓いをここに。此度のようなことは二度と起きません。二度と、起こさせません。我が真名に懸けて、必ず」
 短い、だがこれ以上ないくらいに真摯な誓約を口にしたのであった。



◆◆



「確かにまわりくどい上にまぎらわしい物言いだったな」
「誤解っていうか、あれ聞いてたら、普通は助ける気はないって思っちゃうよねえ」
「……ごめんなさい。弁護の言葉が思いつかない」
 順に鄧範、馬岱、徐晃の発言である。
 ええい、自分でもわかってるからだまらっしゃい、と内心でうめきつつ、いらぬ心労を与えてしまった司馬姉妹に詫びる。俺としては現在の状況、自分の立場を説明した上で、これこれこのようにしましょう、というつもりだったのだが、思い返してみれば、確かに誤解を与えても仕方のない話しぶりであった。


 俺の詫びに対し、司馬朗は微笑んで首を左右に振り、司馬孚は困ったように笑っている。司馬懿はといえば、何故だかじっと俺の顔を見つめていた。
 その様子を怪訝に思った俺は、理由を訪ねようと口を開きかけたが、すぐに思いとどまった。
 実のところ、ここまでの話は前置きに近い。本題はここからなのだ。


 俺は半ば無理やり、頭と口調を戦時のそれに切り替えた。
「袁紹軍は南陽軍を降し、洛陽を制圧した。次に狙うのは間違いなくこの虎牢関だ。昨夜の戦い、向こうも無傷ではなかっただろうが、数千、数万の犠牲が出るような激戦ではなかった。南陽軍を吸収したとすれば、袁紹軍の兵力はかえって増大しているだろう。高幹の最終目的地が許昌であるのはほぼ間違いないから、洛陽を維持するために無駄な時間を費やすこともない。結論として、袁紹軍は近日中に攻めてくる。もっといえば、今日にも敵の主力が姿を見せてもおかしくない」


 俺が高幹であれば、今日中にうって出る。高覧あたりに洛陽の治安を任せ、張恰を先陣に据えて――あるいは自軍の損失を忌むのであれば、降伏した南陽軍を先頭に立たせ、袁紹軍は後方で督戦するという手もある。ともあれ、間違いなく洛陽制圧の余勢を駆って虎牢関に攻め込むだろう。
 洛陽襲撃前に俺が恐れた「南陽軍を呑み込んだ袁紹軍が攻めてくる」という最悪の事態が間近に迫っていた。


 昨夜の高覧や張恰の戦いぶりを思い起こす。不意をうって、ほぼ同数の戦いに持ち込んで、それでもなお勝てなかった。その相手が、こちらの十倍近い兵力で押し寄せてくるのだ。下手をすると、今日にも虎牢関を捨てなければならなくなるかもしれない。
 そうなっては司馬朗たちを逃すどころではなくなってしまう。逃がすと決めたのならば、それこそ一秒でも早く行動に移す必要があった。


 そして、肝心の逃げる場所についてだが、幸いにも西涼の馬岱という予期しなかった要素が出てきてくれたおかげで、これについては考える必要がなくなった。
 問題は、馬岱の主君であり、今回の戦いでただひとり洛陽側の檄文に応じた馬騰が、劉弁を擁して兵を動かす恐れがあることだったが、これは司馬朗によって否定される。
「馬州牧が洛陽に兵を出したのは、権勢を求めてのことではなく、ご兄弟が廷臣たちの争いの犠牲となっている、そのことに対する義憤ゆえだと馬将軍からうかがいました。許昌と洛陽、二つの朝廷の真贋を見極め、ご兄弟の争いをできるかぎり早く終息させるのが馬州牧の狙いだったのでしょう。陛下を擁し、涼州の兵馬をあげて天下に挑む――そのような野心は、馬州牧とは無縁のもの。そう考え、私と璧は陛下を涼州にお連れしようとしたのです」




「なるほど、ということは――」
 俺は右手をあごに押し当て、目を閉じた。
 考えをまとめつつ、それを口に出していく。
「……こちらが虎牢関を落とした後、西涼軍は南方の山越えに活路を見出して戦場を離脱した。それ以後、彼らが戦場に戻ってくることはなかった。どうやら洛陽に帰着したわけでもないようだけど――」
 そこまでいって、俺は目をあけて馬岱を見る。
「将軍は西涼軍の動向を知っているのですか?」
「ううん、さっぱり。西涼軍は謀反の疑いかけられてたからねー……」
 そこで俺は馬岱にじとっとした目で睨まれた。どうも、虎牢関陥落時における俺の言動は馬岱に伝わってしまっているらしい。


 だが、馬岱はすぐに小さく肩をすくめ、言葉を続けた。
 今は恨み言をいっている場合ではないと判断したのだろう。
「ま、お姉様だけならともかく、鞘ちゃんも令明さんもいるんだから、山の中で迷子になってるってことはないと思うよ」
「それでもまだ洛陽に戻っていないとなると……どこかで厄介ごとにでも巻き込まれているのか。西涼軍がこれまで参陣してこなかったのは幸運だったが、これから先、いつどこで西涼軍が参戦してくるかわからないとなると面倒きわまりないな」


 洛陽政権が事実上壊滅したことを知って、西涼軍を率いる馬超はどうするか。もはや戦う理由はなしとして涼州に帰ってくれればいいのだが、劉弁死亡の責任が曹操軍にあると判断して、報復戦を挑んでくることも考えられる。
 馬岱の話によると、馬超はかなり直情型の武将っぽいので、そうなる可能性は低くない。最悪の場合、曹操軍を共通の敵として、西涼軍と袁紹軍が手を組むことさえありえるだろう。
 できれば西涼軍には馬岱たちと合流してもらい、状況を理解した上で劉弁と司馬朗たちを連れて涼州に戻ってもらいたい。曹操軍にとっても、西涼軍にとっても、また劉弁たちの道中の安全の面でも、それが最善だと思える。




 まあ、さすがにそこまで都合良くいくはずもないが、だからといってはじめから諦める必要はない。宝くじも買わなければ当たらないというしな、うん。
 俺は少しの間だけ考え込み、すぐに結論を出した。
「申し訳ないが、伯達どのと仲達どのは早急に発つ準備をしてください。もちろん例の少年と馬将軍もです。それから、士則」
「なんだ?」
「ここから涼州に赴くとなると、どの道をたどっても安全とは言いがたい。袁紹軍はもとより、南陽軍の残党や弘農勢とぶつかる可能性もあるしな。よって、地理に精通した人物による先導が必要になるわけだが」
「ふむ、オレに行け、と?」
「怪我人を使い立てして申し訳ないが、他に適任がいない。司馬家の兵の中から、口がかたくて信用できる者たちを選んで、伯達どのたちを護衛してさしあげてくれ。可能であれば、洛陽の南側を通って、な」


 鄧範は腕を組もうとして、負傷に響いたのか、少し顔をしかめた。
「痛ッ……こほん。西涼軍が現れるとすれば南から。なるほど、そちらの動静も確かめたいわけだな」
「ああ、この機に西涼軍に帰国してもらえれば、今後、無用な警戒をする必要がなくなる。まあ、こちらはあくまでついでだから、可能であればでかまわない。ところで、平気か?」
「そこは見てみぬフリをしてくれ。ともあれ、命令は承知した。西涼軍を発見できた場合、護衛は彼らに任せて虎牢関に帰還しよう。それでいいか?」
「もちろん。そうなれば言うことなしだ――いや、ほんとにそうなればいいなぁ」


 つい嘆息まじりにつぶやいてしまったのは、前途の多難を思いやってのことだった。
 なにしろ、肝心要の袁紹軍の対策が何も出来ていない。これに関しては別に後回しにしているわけではなく、単純に何も思い浮かばないのである。
 しかしまあ、思い浮かばないなら浮かばないで仕方ない、と腹をくくる。座って考え込んでいても解決しないなら、開き直って行動するしかないのだ。




 俺は気合を入れるために、両の頬を軽く叩く。
 とりあえず、司馬朗たちを逃がす算段はつけた。次は袁紹軍を迎え撃つ準備を整える番だ。徐晃たちに異存や質問がないことを確認し、俺は部屋を出ようとした。
 これは司馬家の姉妹に気を利かせたつもりだった。姉妹にとっては生涯の別離となるかもしれない時である。出立の準備のための時間を差し引けば、ほとんど残されていない語らいの時間を、俺が奪ってしまうわけにはいかない――などと考えていたら、不意に司馬朗に呼び止められた。


「なにか、伯達どの?」
 何か言い忘れたことがあったろうか、と首をひねる俺に対し、司馬朗はしごく真面目な顔でこんなことを言い出した。
「みずからのことばかり気にかけて、北郷さまのことを失念しておりました。さあ、どうぞ遠慮なく私をひっぱたいてくださいませ」


 思わず、ずっこけそうになりました。
「な、何を突然??」
 当然であるはずの問いかけに、司馬朗は不思議そうに応じる。
「螢よりすべてうかがった、と申し上げましたでしょう。北郷さまが、私と璧をひっぱたくと仰ったこともお聞きしました。昨夜の璧への行為はそれだったのでしょう? 実のところ、螢から話を聞くまでは、みずから肌に触れて無事を確かめずにはいられないほどに璧のことを思いやってくださっていたのだ、とばかり思っていたのですが……」
「……ぐぬ」
 思わずうめき声みたいな妙な声がもれてしまった。
 ギギギ、とさびついた音がしそうな動きで司馬孚の方を見ると、情報漏洩の源は申し訳なさそうに身を縮めていらっしゃった。
 その様子を見るかぎり、自分から進んで口にしたというわけではなく、姉たちの追及を避け切れなかった、と判断するべきだろう。


 周囲から囁き声が漏れ聞こえてくる。 
「……うそ、あれって仲達さんをひっぱたいたつもりだったの?! あたしも、仲達さんの無事を確かめたくて、そっと頬を触ったんだとばっか思ってたッ」
「……わ、私もそう思ってた」
「……なんのことだ、一体?」
 最後の鄧範は別として、ひそひそと囁きあう馬岱と徐晃の声がなぜだか耳に痛い。というか、徐晃は張莫と一緒になって盗み見&盗み聞きしていたから知っていたはずなのだが……ううむ、知っていても、なおそれとわからないくらいにあの時の俺の行動は「そういう風」に見えていた、ということか。まあ、そうではないかな、と案じてはいたのだけど。


 だとすると、いきなり頬を撫ぜられた司馬懿はさぞ面食らったことだろう。無礼の応報として、逆にこっちの頬をひっぱたかれなかったことに感謝するべきかもしれない。
 そう思って司馬懿の方を見やると、司馬懿自身は特別表情をかえてはいなかった。ただ、先夜の感触を確かめるように、自分の頬にそっと指先を触れさせているだけである。
 俺の視線に気付いた司馬懿が「なにか?」と問うように、小首を傾げてみせる。俺は慌ててかぶりを振った。


 と、俺の慌てっぷりをよそに、司馬朗は落ち着いた様子で俺の眼前に立つ。
「ともあれ、次は私の番ということになりましょう。さあ、どうぞご存分に」
 そういってわずかに顔をあげ、目を閉じる司馬朗。
 なんだか誤解を招きかねないシチュエーションである。いやまあ、それは別にどうでもいいのだけれど、しかし、存分にと言われても正直困ってしまう。
 俺の中には今なお彼女に対する抜きがたい敬意が存在する。司馬懿をひっぱたけなかった俺が司馬朗をひっぱたけるはずもなく、振るわれた手にはあんまり力が込められていなかった。あえて比喩的に表現すると、これでは蚊も殺せないんじゃないかな、くらいな感じ。


 目を開けた司馬朗は柔らかく微笑んだ。
「軽く触られたようにしか思えませんでしたが、今のでよろしいのですか?」
「よろしいのです! では、次は妹さんを泣かせた男に対する打擲の番ですねッ。叔達どのにすべてを聞いたのなら、それもご存知なのでしょう?! さあ、伯達どの、仲達どの、どうぞご存分にッ」
「と、北郷さまは仰っていますが、璧、どうします?」
 問われた司馬懿は、静かに首を横に振る。


 それを見て、司馬朗は得心したようにうなずいた。
「璧は後にしますか。であれば、手本を示す意味でも、私はいま行うことといたしましょう」
 そういった後の司馬朗の行動は素早かった。
 そっと左手を伸ばし、俺の頬に軽く触れる。だが、これはフェイントであった。本命の一撃は次だったのだ。
 爪先立った司馬朗の顔が不意に迫ってきたと思ったら、逆の頬に柔らかい感触が――


 俺は思わずのけぞった。
「ぬあッ?! ちょ、な、なにをいきなり?!」
「世に、打擲はすべからく手で行うべし、などという法はありませんもの。先のやわらかな接触をひっぱたくと表現するのなら、このような打擲もあってしかるべきでしょう――というのは冗談ですけれど」
 そういって、司馬朗は唇の前で人差し指をたてると、いたずらっぽく微笑んだ。
 そして、その表情のまま。


「ここを離れれば、二度とお会いすることはないでしょう。ご厚情は生涯忘れません。御身の行く道に幸多からんことを」


 囁くように永別の言葉を口にした。 



◆◆



 しばし後、俺は早足で部屋を出た。
 別に照れ隠しとか逃げ出したとかではなく、時間が足りないという現実に迫られてのことである。
 鄧範が護衛の兵を選別するために去った後、俺は徐晃に話しかけた。
「公明、身体は平気か?」
 鄧範と共に虎牢関に戻った徐晃は、俺や鍾会よりも疲労は少ないはずだが、徐晃は今日までほとんどすべての戦闘で主力を務めてきたため、蓄積した疲労は俺の比ではないだろう。多少の休息で回復できたかどうか。


 だが、俺の心配とは裏腹に、徐晃はけっこう元気そうだった。
「もちろん。今から洛陽を攻めて来いって言われても大丈夫! すぐに逃げ帰ってくるけどねッ」
 と、実にわざとらしく握りこぶしなどつくっている。照れた顔と不器用な冗談にこめられた気持ちを察した俺は、感謝するかわりにニヤリと笑ってみせた。
「それは助かる。では遠慮なくこきつかうとしよう」
「望むところ…………と言いたいんだけど、一刀、目が怖い」
 いったい自分はどれだけ酷使されるのか、と戦々恐々としはじめる徐晃さん。まずいこと言ったかも、と素で思ってるっぽいところを見るに、いったい俺の笑みはどれだけ凶悪に映ったのやら。


 まあ、それはともかく。
「とりあえず、公明は騎兵部隊をいつでも動かせるようにしておいてくれ。それと、半刻ほど経っても袁紹軍の姿が見えないようなら洛陽に偵騎を出すから、そっちの準備も頼む」
 昨夜の襲撃では騎兵部隊を総動員したので、人間はもちろん、馬の方も疲労がたまっているだろうが、今回は温存しているような余裕はない。とはいえ、さすがに邙山襲撃に従軍した部隊はすぐに動かせないから、彼らが回復するまでは一足先に帰還していた徐晃と麾下の部隊に働いてもらわなければならなかった。


 ちなみに徐晃の麾下はほとんど司馬家の私兵なわけで、鄧範を含めて司馬朗たちの護衛はこの部隊から出すことになる。ただでさえ少ない戦力をさらに少なくするわけだが、これはもう仕方ないと割り切るしかない。
 むろん、これが理由で虎牢関を失えば釈明の余地なく俺の責任である。その意味でも次の戦いは俺にとって正念場であった。




 心得て立ち去る徐晃を見送ると、俺は棗祗の姿を求めて歩きだす。
 徐晃に怖いといわれた眼差しを和らげるべく、右手で目のまわりをもみほぐしながら、とりあえず城門に向かうことにする。たぶん棗祗がいるのはそこだろうし、いないのなら手近の兵に聞けばいい。
 すると、そんなことを考えていた俺の背中に、後方から声がかけられた。


「――北郷さま」


 聞き間違えようのない俺個人への呼びかけ。
 俺は声の方を振り返りながら思う。そういえば、洛陽での再会からこちら、こうしてはっきりと名前を呼ばれたのははじめてだな、と。


 俺の視線の先には予想どおり司馬家の次女、司馬仲達の姿があった。




◆◆




 徐晃と話しながらではあったが、俺はここまで結構な早足で歩いてきた。ゆえに、司馬懿の頬がわずかに上気していたのは、半ば走るようにして俺を追いかけてきたためだろう。
 それはいい。いいのだが、そうやって俺が司馬懿の顔を確認できてしまうことはよろしくない。
 というのも、麒麟児として高名な司馬懿は名も顔も知られており、関内で素顔をさらして歩いていては、いつ誰に見咎められるかわかったものではないからである。


 言うまでもないが、司馬懿の生存が知られると俺の計画はご破算になってしまう。特に鍾会あたりに見つかってしまったらシャレにならん。
 鍾会はいまごろ部屋で休んでいるはずだが、同じ関の中にいれば何かの拍子に顔をつきあわせてしまう可能性はあるので、できれば司馬懿たちには関内を歩き回ってほしくなかった。
 ただ、その程度のことは、俺が口にするまでもなく司馬懿ならば察しているだろう。なにか危険を冒してでも言いたいことがあったのだろうと思うが、それならばさっき俺が部屋を出る前に口にしてもよさそうなものである。


 司馬懿の為人から推して、姉にならって俺を打擲しにきた、なんてことは多分ないだろう。怪訝に思いつつも、俺は司馬懿の呼びかけにこたえた。
「仲達どの、どうなさいました?」
「お急ぎのところ、申し訳ありません。北郷さまに話を聞いていただきたく思い、参りました。少しだけお時間をいただけないでしょうか?」
「それはもちろんかまいませんが……?」


 どうして先ほど言わなかったのか、と不思議に思った俺が首を傾げると、司馬懿はそれを察したのか、わずかに目を伏せた。
「私の心は、北郷さまのお話の最中に決していたのですが、口にするのは姉様と螢に話してから、と考えたのです。姉様とは今生の別れとなり、螢には……おそらく、今よりずっとつらい思いを強いることになるでしょうから」
「どういう意味ですか、それは?」
 自然と表情が厳しくなる。話の流れは今ひとつ掴めないが、無視できる言葉ではない。
 すると、司馬懿は何かを決意した面持ちで俺の顔に視線を向けてきた。


「はじめに謝罪を。螢たちに手を差し伸べていただいたこと、心の底から感謝しております。こたびも、北郷さまはできるかぎりのことをしてくださった。その身を危険にさらし、立場を危うくしてまで、私たちのために計らってくださったことは、痛いほどに承知しております」
 司馬懿はそう言った後、ですが、と続けた。
「私は、北郷さまの計らいを容れることができません。いえ、できないのではなく、私に容れる心積もりがございません。せっかくのご配慮を無にすることをお許しください」


「……まさか、許昌にいかれるおつもりか?」
「はい」
 もしや、と思って発した問いかけに間髪いれずに返答され、俺は言葉に詰まってしまう。
 死亡を偽装することはせず、反逆者として許昌に戻る。司馬懿はそう言ったのである。それは事実上、みずから絞首台を登るに等しい。
 何故、という疑問が口をついて出たのは、いたって自然なことだろう。


 途端、こちらを見つめる司馬懿の視線の強さが増した。むろん、俺を圧伏したいわけではあるまい。おそらく、この次が司馬懿の本題なのだと思われた。
 そして、その予測は正鵠を射る。
「どのような形でもかまいません。次の戦い、この身を用いていただけないでしょうか。ご配慮を無にしておきながら、このような願いを口にするのは汗顔の至りなのですが、どうかお願いいたします」
 そういって、司馬懿は深々と頭を下げたのである。




 先夜来の騒動をくぐりぬけ、なお艶を失っていない司馬懿の黒髪が、肩を伝って流れ落ちていく。その様を見下ろしながら、俺はどう答えたものかと途方に暮れていた。
 次の戦い、というのは袁紹軍とのそれだろう。許昌に行くと口にしたということは、司馬懿はすでに死を覚悟しているということ。その上で袁紹軍との戦いを望む理由がはかりかねたのだ。
 不利な情勢を察して妹を助けたいと考えた。これは間違いないだろう。だが、それならば別に許昌に行くと口にする必要はない。俺が受け入れるかは別にして、まず司馬郎たちを先に発たせ、自分は袁紹軍と戦って妹を守ってから、姉たちの後を追えば済む話である。


 だが、司馬懿は言った。姉とは今生の別れとなり、妹にはつらい思いを強いることになる、と。あれは許昌で処刑される自分を明確に意識していなければ出てこない言葉だ。
 俺を信用させるために覚悟を口にした、という可能性はおそらくない。司馬懿はそんな小細工を弄する性格ではなく、行くといったら必ず行くだろう。
(わからん)
 形としてはこちらの厚意をはねつけられたことになるわけだが、それに関する憤りめいた感情はなかった。あるのは疑問だけ。


 率直にいってしまえば、今の状況で司馬懿が許昌に行く意味はないのだ。司馬懿が処刑されたところで、司馬家を取り巻く状況が劇的にかわることはない。また、袁紹軍との戦いに加わったところで、戦況を覆せるほどの影響力を持っているわけでもない。どれだけ優れた才能を有していようと、十三歳の少女ひとりに出来ることには限界があるのだから。
 もちろん、俺個人としては司馬懿の参戦は涙が出るほどありがたいのだが、それでも戦の最中に火種を抱え込む行為であることに違いはないのである。


 俺が考え付く程度のことに司馬懿が思い至っていないはずはない。司馬懿はいま俺が考えたことを承知の上で、一兵卒でも間諜でもなんでもいいから使ってくれ、と俺に懇願していることになる。
(さっぱりわからん)
 司馬懿の意図がまったくもって読めなかった俺は、角度をかえて訊ねてみることにした。
「伯達どのたちはなんと?」
 俺が問うと、司馬懿は顔をあげた。
「姉様は『そう言うと思っていました』と。螢も、理解してくれました。『きっとなんとかなります』と」
「全会一致ですか」
 俺は思わず天を仰いだ。司馬懿が自分で決め、姉も妹もそれを認めた。他人の俺が口を挟む筋合いはなくなった、と見るべきだった。


 まあ、俺個人の感情ではなく、虎牢関の守将としての立場で拒否することはできるわけで、拒否するに足る理由もある。その一方で、さきほど言ったように、時間も人手も足りない今、司馬懿の参戦が心からありがたいのも事実だったりする。
 メリットもデメリットもある。が、そもそもろくに打つ手もない状況だ。多少デメリットが増えたところで、今さら何がかわるわけでもない。
 なにより、まっすぐにこちらを見上げてくる司馬懿の懇願の視線にこれ以上あらがうのは非常にきつい。
 俺はいささか乱暴に結論を出した。


「わかりました。力を貸してもらいましょう」
 応諾の返答を受け、司馬懿の顔にめずらしくはっきりとした笑みが浮かびあがる。花咲くような笑みに見入ってしまいそうになるのをこらえつつ、俺はどのように司馬懿を組み込むか考えをめぐらせた。
 さすがに反逆者をそのまま用いるわけにはいかないから、ここは再び李温祖さんに登場願おうか。一夜にして青年から美少女に早がわりする物の怪として後世に語り継がれてしまいそうだが。


 しかし、司馬懿はその案に対し、かすかに表情を曇らせた。
「参戦を認めていただいた上は、もちろん命令に従います。ですが、できれば私は司馬仲達として戦いたいのです。叛臣が守将のそばにいれば将兵が動揺するのは理解していますから、お傍近くに控える役目でなくとも構いません。偵騎でも、あるいは洛陽に潜入して民を扇動することも厭いません」
 それを聞き、俺は思わず眉をひそめた。これまでの言葉とて十分に妙だったが、今のは明らかにおかしい。この戦いに『司馬仲達』として臨むことに意味があるとは思えなかった。


 司馬懿もそのことはわかっているのだろう。問う眼差しを向ける俺に対し、内心の思いを口にした。
「姉様は陛下と父様に殉ずる覚悟でした。本来なら、私は姉様になりかわって司馬家を率い、許昌の帝に尽くさなければならなかったのです。ですが、私には洛陽の策謀が陛下を蝕むものであることは明らかだと思えました。そんな場所に姉様をひとりにしたくはなかった。だから、私は姉様の助けとなり、陛下をお救いする一助にならんとして洛陽に身を投じました」
 司馬懿はそう言った後、目を伏せる。
「結果として、螢には重すぎる責務を背負わせてしまいました。けれど、あの子は立派にその務めを果たしてくれた。司馬家が今なお在り続けているのは、螢の至誠あったればこそ。司馬家の家長は間違いなく螢であり、他の誰でもありません」


 司馬懿の言葉はなお続く。
 昨夜からの沈黙を補うように、今の司馬懿は多弁だった。
「涼州に赴けば、積極的に陛下を利用しようとする者はいなくなるでしょう。父様の遺志は姉様によって果たされます。司馬家は螢が立派に継いでくれる。ならば、この身は何を為すべきなのか。それを考えたとき、浮かんできた答えは一つしかありませんでした」
 それが叛逆の罪を負って殺されること、なのだろうか? たしかに、劉弁と司馬姉妹は洛陽で死亡した、という俺の報告だけでは、どこかで生き延びているのではないかという疑惑をおぼえる者も出てくるかもしれない。
 俺と司馬懿が一時的に行動を共にしていたのは周知の事実であり、司馬孚にもかなり大胆に関与しているから、俺と司馬家が通謀しているのではないか、と疑われる素地は十分にあるのだ。


 司馬懿が公衆の眼前で処刑されれば、これを疑う者はいなくなるだろう。
 そして、死に行くその日まで、司馬懿が少しでも罪を償う姿勢を示し、なにがしかの功績をあげていれば、司馬懿自身はともかく、司馬孚や妹たちに対する処遇には影響を与えるかもしれない。
 そう考えれば、司馬懿の言動には一応の筋が通る。叛臣を用いることへの釈明としては袁紹軍という格好の口実がいることだし。
 ただ、それがどの程度の効果があるのかと考えると、やはり俺としては翻意をうながさずにはいられない――などと考えていると。
 司馬懿は特に気負うでもなく、静かに言った。



「私は、あなたに殉じたいのです」



 一瞬、司馬懿が言っている意味をはかりかねた。
 そんな俺を見上げつつ、司馬懿は理由を口にしていく。
「陛下を洛陽から救い得たのは北郷さまのおかげです。私と姉様が、今こうして生きていられるのも北郷さまのご厚情の賜物。螢も言っていました。今日までがんばってこられたのはお兄様のおかげだ、と。私たち司馬家は、あなたに返しきれない恩義がございます。姉様は陛下と共に涼州へ赴き、螢は司馬家の家長として許昌に仕える。ならば、北郷さまの下にあって、北郷さまのために働くことができるのは私以外におりません。この戦が終わり、許昌で処刑されるまでのわずかな間ではありますが、そうすることがせめてもの報恩であり、私自身の望みでもあるのです」




◆◆◆




 口を閉ざした司馬懿は、北郷からの返答を待った。
 眼前に立つ北郷は何度か口を開こうとしては、思い悩んでまた閉じる、という動作を繰り返している。
 司馬懿は答えを急かさない。司馬懿としてはしごく当然のことを言ったつもりであるが、北郷にとっては唐突なことだろう、ということを理解していたから。もっといえば、叛臣にこんなことを言われることは迷惑だろう、とも思っていた。悪意ある者に利用されれば、北郷や周囲の人々さえ叛逆の一味にされかねないのである。


 だから、北郷が拒絶の言葉を発しても、司馬懿は素直にそれを聞き入れるつもりだった。北郷のために戦うという決意と行動に、北郷自身の許可は不可欠ではない。北郷が認めないのならば、北郷の目に届かず、かつ他者から誤解されない場所で、命をかけて戦えば良いだけのこと。
 司馬懿にとって一番困るのは『俺のために働くというのなら、伯達どのと同じ行動をするように』と命じられることであり、それだけはやめてほしい、という思いでじっと北郷を見つめ続ける。



 そうして、しばし後。
 北郷は困じ果てた様子ながら、確かに頷いてみせた。
「……わかりました。言いたいことがないわけではありませんが、今は時間がないので措きましょう。仲達どのは洛陽で生き残り、罪を認めて虎牢関に来た。そこで袁紹軍の襲撃を知り、叛逆の罪を少しでも償うべく参戦を決意された、と。そんなところでしょうか。相当に厳しい立場におかれることになりますが、よろしいですね?」
「もちろん、覚悟しております」
「そうですか。では私も色々と思い切ることにしましょう。早速だが――仲達」


 呼びかけられた瞬間、司馬懿は自分でもよくわからない理由で言葉に詰まってしまう。
「……は、はい」
 司馬懿の躊躇の理由をどう受け取ったのか、北郷はふてぶてしく見えないこともない、不器用な笑みを浮かべた。
「口調は今後、こんな感じで。叛臣に丁寧な口をきいていると、たぶん士季どのあたりがうるさいからな」
 士季、というのが鍾会の字であることを、もちろん司馬懿は知っていた。
 北郷はさらに続ける。
「最初の試練だ。棗将軍や士季どのに隠れて仲達をこき使う、というのはまず無理なんで、素直に事情を明かす。どんな反応が来るかわからないから、心の準備をしておいてくれ」
「はい、承知いたしました」




 司馬懿からの応諾を得て、北郷は再び虎牢関の通路を歩き始める。
 少し遅れてその背中を追いかけながら、ふと司馬懿は思う。
 北郷は、司馬懿が司馬懿として戦いたい、といった理由に気がついているのだろうか、と。
 北郷のために戦うというのなら、別に偽名を用いたところで問題はない。司馬懿の手柄が妹たちを助ける足しになるようならば、許昌についてから詳細を明らかにすれば済むことであり、今の時点で司馬懿の生存を明らかにしなければならない理由としては薄い。
 もっとも、それを言うならば、司馬懿が抱えている理由とて必然性に欠けることおびただしいのだけれど。


 司馬懿は単純に、偽名をもって北郷に仕えることが嫌だったのだ。
 北郷に対する感謝と報恩の念は泰山の頂きに達するほど積み重なっている。許されるならば、死にいくまでの間だけでも真名を捧げて彼のために働きたい。
 だが、今の司馬懿にはそれが出来ない理由があった。
 真名とは本来、捧げる者と捧げられる者、二人の間の信頼関係をあらわすものだ。だが、自らの信頼を他者に預け、それを否応なく周囲に知らしめてしまう真名は、その特性ゆえに避け得ない問題を内包していた。


 単刀直入にいってしまえば、反逆者の真名を預けられた人物には、叛逆の疑いが向けられてしまうのである。真名が神聖なものであり、深い信頼関係をあらわすものであるがゆえに、この疑いは等閑にされることがない。古来より、讒言、誣告を事とする者にとって、真名は格好の口実となってきた。
 真名を預けても人前ではそれを口にしない等の方法もあるが、司馬懿はこれをするつもりはない。
 真名が神聖であり、尊いものである所以は、相手への信頼を、天、地、人の何物にもはばかることなく告げるものであるからだ、と司馬懿は考えている。ゆえに、状況次第で出したり引っ込めたりする真名に意義があるとは思えなかった。


 叛臣の道を歩むと決めたその時から、自分は誰かに真名を捧げる資格を失ったのだ、と司馬懿は胸に刻んでいる。
 それゆえに司馬懿は北郷に真名を捧げることができない。だからこそ、名を重んじる中華の民として、せめて自分の本当の名で北郷のそばに居続けたいと思い、偽名を用いるという提案に難色を示すこととなったのである。


(それがわがままに類することであるのは承知していますが……)
 それでも、こればかりは撤回する気になれない。
 司馬懿はそう思いつつ、前を行く北郷の背中を追って歩を早めた。
 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第六章 黒風渡河(十三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/02/17 16:14


 虎牢関 軍議の間


「……………………なるほど、話はわかった」
 深く重い沈黙を破り、鍾会がはじめに口にしたのはそんな言葉だった。
 睨むように俺の顔を見据える顔は見るからに不機嫌そうで、こめかみがぴくぴくと震えている。これが漫画なら、鍾会の顔には怒りマークが乱舞し、背後からは「怒怒怒怒……!」とかいう効果音が聞こえてきただろう。


「叛臣である仲達を登用し、虎牢関防衛に加える。で、北郷。それを聞いたぼくは君を斬るべきなのか? それとも切るか? あるいは伐る(きる)でもいいんだが、どうされるのが望みなんだい?」
「とりあえずKill以外の選択肢がほしいのですが」
「あるわけないだろうッ! 何を考えているんだ、君は?!」
 憤怒ゲージはあっさりと臨界点に達してしまったらしい。ものすごい勢いで一喝されてしまった。


 ただし、激怒しているように見えて、話が他の兵にもれないように声自体は低くおさえているあたり、鍾会は十分に冷静さを保っているのがわかる。
 そんなことを思いつつ、俺は先刻、棗祗にした説明を繰り返した。
「今の戦況で仲達を許昌に送ったところで刑吏の手をわずらわせるだけで、戦況にはいささかも寄与しません。いえ、実際には護送の兵を割かねばならないのですから、求めて戦いを苦しくするようなものです」
 猫の手も借りたい今、そんなことをしている余裕はない。司馬懿の参戦を認めさせる口実ではあるが、同時に本心からの言葉でもあった。


 鍾会は険しい目つきで反論してくる。
「そんなもの、戦が終わるまで牢獄に放り込んでおけば済む話だろう」
「それでも見張りの兵は必要になります。かりそめにも麒麟児と呼ばれた者、その気になれば見張りのひとりふたり、手玉にとるのは容易いことでしょう」
「そんな手間をかけるくらいなら、袁紹軍相手に働かせた方がマシ、とでもいうつもりか? コイツは帝位を僭称した輩に付き従った逆臣だぞ。いかに現在の戦況が厳しいものであれ、そんなヤツを用いるなどすれば、叛逆の汚濁がぼくたちにまで降りかかるかもしれない」
 コイツ、と言いながら鍾会は厳しい目で司馬懿を睨みつける。


 司馬懿は表情をかえず、視線をそらさず、鍾会の弾劾に身を晒し続けている。無視、あるいは聞き流しているわけではなく、何を言われたところで当然のこと、と思い定めている様子だった。
 そんな司馬懿の平静さがまた癇に障るのか、鍾会の表情は厳しくなる一方である。とはいえ、鍾会が口にしたとおり、逆臣と肩を並べて戦ってしまえばあらぬ疑いをかけられる恐れも出てくるわけで、鍾家の一門である鍾会が司馬懿の登用に難色を示すのは当然といえば当然のことだった。鍾会の苛立ちの視線が、司馬懿の胸やら背やらに向けられているように見えるのは、たぶん俺の気のせいだと思われる。


 なにやら黒々としたオーラを発しはじめた鍾会に若干腰が引けたが、俺はなおも言葉を重ねた。承認が得られるとは最初から思っていないが、黙認くらいはしてもらわないと今後に差し支えるのだ。
「汚名は将帥である私がかぶります。士季どのや棗将軍は反対を唱えたが、私が聞く耳をもたなかった、ということにすれば、罪が他に及ぶことはないでしょう」
「……逆臣を用いるは、すなわち朝廷への叛心あることの証左。その理由をもって今ここで君を捕縛する、という選択肢もあるんだぞ」
「それは士季どのに似合わぬ短慮といえるでしょう。今の戦況でそれを為せば、それこそ袁紹軍に利する行為として罪に問われるのは必定です」
「――虎牢関において利敵行為を裁くのは守将の役目。なるほど、ぼくが動けば自分も動くという宣告か、それは」


 鍾会が強い眼差しで俺を見据える。俺はその視線を正面から受け止めつつ、小さくかぶりを振った。
「虎牢関の防衛は丞相閣下より下された厳命です。今はひとりでも多くの味方が必要な時であり、士季どのにはそのことをご理解いただきたいのです」
 すると、それを聞いた鍾会はこちらの心中を推し量ろうとするようにわずかに目を細める。
「古昔、越の范蠡(はんれい)は死刑囚を用いて呉の軍を撃ち破ったという。まさかとは思うが、君は自分をあの名臣に重ねているのかい?」
「私は逆立ちしたところで范蠡にはなれませんよ。ただ、陛下に斉の桓公のごとき大度を望んでいるのは事実です」


 故事に故事で返すと、つまらなそうに鼻で笑われてしまった。
「ふん。君の目にはそこの逆臣が管夷吾に見えるのか。字(あざな)が等しいからとて、それは過大評価が過ぎると思うけどね」
「さて、それはどうでしょう? 仲達は鍾家の神童と並び称された者なれば、過大評価と切って捨てるのは早計かと思いますよ」
「……仲達の才を否定することは、ぼくの才を否定することと同じ、というわけかい。ああ言えばこう言う、というのはまさに君のためにある言葉だな」
「いやー、それほどでも」
「照れるな! 誰も褒めてないッ。だいたい、以前は知らず、今のぼくは仲達よりも絶対に上だ」
 ただし身長と胸囲は除く、と鍾会が心中で続けたかどうかは定かではない。


「……今、何か妙なことを考えなかったか、北郷?」
「いえ、特には何も。たしかに、士季どのの方が仲達よりも優っているところはあるな、と考えていただけです。へそ曲がりの度合いとか」
「誰がへそ曲がりか?!」
「それはもちろん士季どのが、です。仲達と再会できて喜んでいるのに、あえて冷たく蔑んでみせるところなど、実に見事なへそ曲がりっぷりではありますまいか。以前にも申し上げましたが、やはり二人は強敵と書いて友と読む間柄――」
「誰が誰の友だ?! ああ、もう、ほんとに君は人を苛立たせる天才だなッ!」
「重ねがさねの褒詞、ありがたく――」
「だから褒めてないって言っているだろうッ?!」


 ――結論次第では冗談抜きで血を見ることになる話し合いは、しかし、俺と鍾会が言葉を交わせば交わすほどに真剣みが薄れていってしまう。実に不思議……いや、まあ計算づくでやっている面もあるのだけれど。




 と、その時だった。慌しい足音に続いて、軍議の間にひとりの兵士が飛び込んできた。
「申し上げます! 西方に多数の敵兵を確認しました。旗印は『袁』と『張』! 洛陽より出撃した袁紹軍と思われますッ」
 息せき切ってあらわれた守備兵の報告を受け、俺と鍾会は視線を交錯させる。直前までの雰囲気はすでにない。
「さすがは張儁乂、はやいね。で、どうする?」
「初撃は私と棗将軍で防ぎます。士季どのは関内を」
「承知した」
 と、ここで鍾会は意味ありげな眼差しで俺を見た。
「かくて、仲達の件は無事うやむやに、というわけだな、北郷」
「……さて、なんのことやらわかりかねますが」


 視線をあさっての方向に向けてすっとぼけてみる。
 が、効果はあまりなかったようで、鍾会は委細構わず追求を続けてきた。
「ぼくを起こすまでの間、いったい何を準備していたのか、と訊いている。君が説明を終えるのを待っていたかのようにあらわれた袁紹軍について、君はぼく以上のことを知っているのではないか、と思うのだけれどね?」
「さて、不敏なる身には、やはりなんのことやらわかりかねますね。ともあれ、今は袁紹軍の撃退が最優先。私も士季どのも、それ以外の事にかかずらう暇はありますまい」
「たしかにここを破られれば許昌が危ういから、今はそちらを優先せざるを得ない。かくして逆臣が参戦したという既成事実は出来上がる――ふん、目的のためには手段を選ばないあたり、存外したたかな男なのだな、君は」
 そう言って、鍾会は剃刀のように薄く、鋭い笑みを唇の端にひらめかせた。



◆◆



 しばし後。
「うむ、バレるとは思っていたが、やっぱりバレてたな」
 防戦の指揮をとるために城門へと急ぐ途中、俺は肩をすくめた。
 すると、隣を歩いていた司馬懿がこくりとうなずきながら付け足す。
「おそらく、姉様たちのことも勘付いているでしょう。陛下……いえ、殿下と姉様は亡くなり、私ひとりだけが助けられた、という不自然さを疑わない士季ではありません。それを口にしなかったのは――」
「士季どのなりの自己防衛、なんだろうな」


 実のところ、すでに司馬朗と劉弁は鄧範を護衛として虎牢関を出立していたし、俺は偵騎の報告によって袁紹軍が洛陽から出撃してきたことを掴んでいた。この点、鍾会の洞察は正鵠を射ている。
 その間、鍾会の睡眠を妨げずにいたのは、その方が面倒がないと考えた――のではなく、これから始まる激戦に先立ち、少しでも鍾会の疲労が癒えるように、と気を遣った結果である。
 あと四半刻もすれば袁紹軍の姿が肉眼で確認できるだろう頃合で鍾会を起こし、司馬懿の件を説明し、なし崩し的に袁紹軍との戦闘になだれ込んで司馬懿参戦の既成事実をつくってしまおう、と企んでいたわけではない。
 ……結果としてそうなるだろう、という予測は立てていたけれども。


「ところで、仲達は士季どのを呼び捨てにしてるのか」
「以前、士季本人にそうしろと言われました。『君に士季さまとか言われると寒気がする』とも」
「……やっぱりへそ曲がりだよなあ。もしくはツンデレ」
 おもわず呟くと、司馬懿が柳眉をひそめた。
「北郷さま、つんでれ、とは何ですか?」
 耳慣れない響きの言葉が気になったらしい。俺は説明しようとして、首を傾げた。ツンデレの定義ってなんだろう?
「ああ、ええと、いつもツンツンしているけど、いざとなるとデレっと――いや、これだとわけがわからないな。ある特定の人物に対し、本当は好きで親しくなりたいのに、その人の前だとことさら構えてしまう態度をとる人の総称……かな?」


 言い直してみたが、やっぱりよくわからない。まあ、どうでもいいといって、これ以上どうでもいいことはないのだが。
 と、司馬懿を見ると、わずかに面差しを伏せ、なにやら真剣に考え込んでしまっている。
 ややあって顔を上げた司馬懿は、俺に問いを向けてきた。
「常は礼儀正しく一線を引いて接してくるけれど、いざという時は命がけで助けてくれる人も『つんでれ』なのでしょうか?」
「それは、うーむ、ツンデレといえないこともない、かな?」
 少し違うような気もするが、重なるところはあるようにも思う。
 俺が迷いながら答えると、司馬懿は得心したように小さくうなずいた。
「なるほど。おおよその意味はつかめたように思います」
「それはよかった」
 間違いなく何の役にも立たない知識だけど、という呟きは心の中だけにとどめておこう。




 そうこうしている間に城門に到着した俺たちは、そのまま城壁の上にのぼっていく。そこで俺たちを待っていたのは副将をつとめる棗祗だった。常の温顔も、戦を前にした今は厳しさを漂わせている。
 棗祗は俺たちの姿を見つけると、城の外を指差して告げた。
「おお、北郷どの。見られい、見たくもない光景が広がっておるわ」
「その言葉だけでお腹いっぱいですよ、棗将軍」
 そういいながら、俺は棗祗の指先が指し示す方向に視線を向ける。
 昨夜の雨のせいで、濛々と砂塵を蹴立てて、という具合にはなっていなかったが、それでも万をはるかに越える軍勢が此方に殺到してくる様は、何度見ても見慣れるということがない。以前との違いは、そういった心の揺れを表情に出さずに飲み下せるようになった、ということか。


 敵軍の数はおおよそ二万というところだが、そのすべてが袁紹軍というわけではなく、明らかに甲冑の色が異なる軍勢が加わっていた。ついでにいえば、彼らが着ている甲冑は、昨夜一晩中俺が着ていた甲冑でもある。
 その軍勢が掲げる旗は『李』。
 南陽軍の参戦は予測していたことではあったが、実際に目の当たりにすると苦いものがわきあがってくる。棗祗が言った「見たくもない光景」という言葉に心底同意できた。


 見たかぎり、袁紹軍は一万弱。南陽軍もほぼ同数である。
 袁紹軍の総兵力は五万に達する。南陽の全軍を麾下に組み込んだのならば、総兵力は七万を越える計算になる。相次ぐ戦闘で多少は数を減らしているだろうが、それでも六万以下ということはないだろう。
 そう考えると、二万という数字はいかにもすくない。まずは小手調べということなのか、あるいは高幹は虎牢関には二万で十分、と判断したのかもしれない。なにしろ眼前の二万だけで、すでにこちらの三倍近い数なのだ。


 厳しい戦いになる。
 わかりきっていたことではあるが、俺は改めて自分自身にそう言い聞かせて敵軍を待ち受けた。
 今回は少数の偵騎をのぞき、徐晃や騎馬部隊も虎牢関の中に待機させているので、奥の手の類は一切存在しない。徐晃を出撃させなかったのは、袁紹軍相手に小細工は通用しないだろう、と考えたことがひとつ。もうひとつは、鄧範が不在の今、退却時において機動防御(の真似事)を行えるのが徐晃だけだった、といういずれも消極的な理由による。
 虎牢関の放棄を前提として戦うつもりはないが、逆にそれを考慮しないで戦いに臨むほど傲慢にもなれない。そして、いざ退くとなれば、敵の追撃を阻む手段はどうしても必要になるのである。




 かくて始まった戦いは、攻防の激しさにおいて、先の南陽軍との戦いとは比べるべくもないものとなった。
 袁紹軍を率いる張恰は、つい先日まで敵対していた二つの軍(袁紹軍と南陽軍)を完璧に統御してのけ、あわよくば南陽軍の不満を煽って混乱を生じさせようと考えていたこちらに対し、まったくといっていいほど付け入る隙を見せなかった。
 結論から言ってしまえば、俺たちはこの日、ただの一度も戦の主導権を奪うことができず、最初から最後まで防戦に追い回されて終わる。
 ここまで戦力差が開いてしまうと、司馬懿や鍾会の頭脳を活かす術も機会もまったくなく、反撃だの挽回だのを考慮するような余裕は砂一粒たりともなかった。
 正直、よくぞ城門を守りきったと思う。先日の南陽軍との戦いから今日まで、堅実に補修につとめてくれた棗祗の努力の賜物であろう。


 だが、俺たちが相手にしたのは袁紹軍の先陣であり、いまだ敵の本隊は影すら見えない。彼我の戦力差は圧倒的であり、敵は明日以降も攻勢に攻勢を重ねてくるだろう。
 初日こそかろうじて守りきったものの、明日以降も同じことができるか、と問われれば否定的にならざるを得ない。
 俺は本格的に退却を考慮して作戦を練り始めた。




 ――許昌からの急使が虎牢関に駆け込んできたのは、そんな時であった。




◆◆◆




 少し時をさかのぼる。


 冀州魏郡 黎陽


 黎陽の城頭に袁紹が姿を現した瞬間、城の外を埋め尽くす三十万の軍勢から喊声がわきおこった。大地を揺らし、城壁を震わせる鬨の声は、積もりに積もった将兵の戦意を映して、黎陽の空を覆いつくす。
 曹操軍との決戦のために集められながら、今日まで待機を命じられていた河北の精鋭は理解していた。誰に言われたわけでもない。それでも、彼らは今日この時より戦いの火蓋が切られるであろうことを明確に感じ取っていたのである。


 そして、将兵の熱烈な視線を一身に集める河北袁家の総大将は、将兵の放つ熱と力を余すことなく受け止めると、行動で将兵の予感を現実のものとする。
 腰に佩いた宝剣を抜き放ち、それを高々と天に掲げたのだ。
 偶然か否か、刀身が東の方角より差し込む陽光をとらえ、反射した光は三十万の将兵の視界を眩く染め上げる。
 わずかにあがった狼狽の声は、しかし、すぐに興奮と激情の坩堝に飲み込まれ、先にもまさる巨大な喊声が黄河北岸の地に満ち満ちる。河北軍の士気の高さは、今や万人の目に明らかであった。




 この時、袁紹のやや後方に控えていた軍師の田豊は、感慨深げな面持ちで主君の後ろ姿を見つめていた。
 今回の戦いにおいて、今日まで袁紹自身がしたことといえば『待つ』ことだけである。袁紹はそれを不甲斐ないと感じているようだが、田豊の意見はおおいに異なる。はっきり言ってしまえば、今日まで待ちを貫いた――貫けたことこそが何にも優る勲、この一事で袁家は天下に手が届いたと断言してもよい、と田豊は考えていた。


 元々、今回の作戦計画は田豊と沮授が勘案したものであり、作戦そのものに対して不安はなかった。河北軍の人材、兵力、蓄積した物資をもってすれば、勝ち得ぬ相手など中華広しといえどどこにもおらぬ。
 案ずるはただひとつ、総帥たる袁紹が己に克てる(かてる)か否か、ただそれのみ。
 そして、袁紹は立派にそれを為してみせた。ときどき癇癪を起こしては田豊と激しく口論したりしたが、それは田豊も折込済みである。
 東は朱霊と路招が押さえ、西は高幹と張恰、高覧が制し、北の脅威は沮授と麹義、淳于瓊によって駆逐された。田豊の目をもってしても、もはや決戦をためらう理由はどこにも見当たらなかった。




 三十万の本隊を統べるのは言うまでもなく袁紹その人である。
 その左右には顔良、文醜の二大将軍が並び、郭援、辛評、呂曠、呂翔、孟岱といった武将がこれに続く。これに軍師の田豊が加わり、辛批、荀諶、許攸といった文官が後方を支える。
 東と西、そして北の三方面に主力級の将帥を配してなお、その陣容は偉容と称するに足りるであろう。
 この布陣をもって、河北軍はいよいよ黄河を渡るべく動き出そうとしていた。


 だが、それに先立って、ひとつやっておかねばならないことがある。
 民に向けて、兵に向けて、そして各地の諸侯に向けて、この戦いが正当にして不可避であることを謳いあげるのである。
 古来より、正義は勝者のものであるが、勝者となるために正義を唱えるのは決して無意味なことではない。どれほど汚濁に満ちた世に生きようとも、人はどこかで清廉を望むもの。みずからが正しいと信じたその時こそ、将兵は全力を尽くせるのだ。




 ひとりの人物がゆっくりと進み出る。
 その人物の姿を見た時、河北軍の陣列から戸惑いの声があがった。あれは誰だ、と立ち騒ぐ兵士たちの視線の先に立っているのは陳琳、字を孔璋という人物である。文書を起草する書記官である陳琳は、文の世界ならばともかく、一般の兵たちにとっては馴染みの薄い存在であり、彼の顔を知る者はごくわずかしかいないかった。
 かろうじて陳琳の顔を見知っている者も、今このとき、陳琳が悠然と進み出てくることの意味をはかりかねた。袁紹や田豊らが制止しないところを見るに、なにがしかの役目を申し渡されたことは確かだが、剣も握れず、策も練れず、ただ筆をもって働くことしかできない者が、戦場に出てきて何をしようというのか。
 そんな反感をともなった将兵の疑念の眼差しに対し、陳琳は行動で応じた。



「諸子に問う。曹操とは何者か!!」



 その声を聞いた瞬間、多くの将兵が思わず耳を塞いだ。
 陳琳はさしたる特徴もない凡庸な外見の持ち主であったが、声量にかぎって言えば凡庸をはるかに通り越して非凡の域に達しており、その声はまるで大鐘を打ち鳴らしたがごとく将兵の鼓膜を乱打する。


「曹操とは宦官の余った肉から生まれた醜き者。徳なく、礼なく、節度なく、詐術をもって世を乱し、奸知をもって禍を招く。混乱と災いを好んでやまぬ彼の者こそ乱人よ! 鷹か犬程度の才を鼻にかけ、軽はずみな出兵を繰り返し、民を苦しめ、兵を虐げ、己が財にものをいわせて残酷無道なこともやりたい放題だ」


 陳琳の声には深みがあった。ただ声が大きいだけではない、その語る言葉を他者の心に響かせる妙なる抑揚をもって、陳琳は丞相たる曹操を難詰していく。


「中原に兵火を起こして無数の民を故郷から逐い、ひるがえってみずからの都に招き入れて聖人君子を気取る。なんたる欺瞞。悪逆にして強大なる董仲穎(董卓)を討ち果たしたは袁大将軍、しかるにその功績を盗みし彼の者は幼帝を抱えて都を私(わたくし)す。なんたる瞞着。諸子よ、想起されよ。彼の者が起こした戦火でいったい幾人の賢人、善人が殺されたかを。朝廷に天下の権を担う顕職あり、これを三公という。討たれるべきは太尉 董仲穎ただひとりであったに、彼奴は朝廷を意のままにせんと、司徒 王子師(王允)、司空 張伯慎(張温)をも葬った。偽功をもって外に君子を気取り、暴虐をもって内に朝廷を壟断する者のどこに忠があろう、義があろう。あまつさえ、それを為した当人は幼帝を無視して天下の権をもっぱらにし、丞相なる称号を墓の下から引きずり出すありさま。天下すべてが己が兵威と権能にひれ伏すと信じてやまぬ傲慢が、どうして天の意にかなおうか」


 将兵はもちろんのこと、顔良、文醜、はては総大将である袁紹まで、いつか陳琳の言葉に引き込まれつつあった。もとより曹操を敵として集まった者たちである。曹操の悪逆を謳いあげ、曹操憎しを訴える声に共鳴するのは不思議なことではなく、陳琳の言葉は否応なく彼らの感情を掻き立てていく。


「谷あいの道まで覆いつくした刑罰、落とし穴のごとく張り巡らされた禁令。手をあげれば法網に触れ、足を動かせば陥穽に転げ落ちる。河南の民は四肢を縛られて怨嗟にまみれ、帝都許昌では嘆きの声が街路に響き渡っているという。断言しよう! どれだけ古今の書をむさぼり読もうとも、曹操ほど貪欲で残虐で苛烈で無道な臣下はひとりもいない。漢室を覆さんと謀略を巡らせ、国家の柱石たる重臣を次々に葬り、賢臣を排除し、善人を殺しながら、我こそ無二の忠臣、我こそ無双の英雄と任じる無恥が行き着く先はただひとつ、簒奪あるのみである!」


 漢室に逆らうにあらず。君側の奸を討つ、と陳琳は言う。
 河北軍は、あらためて自分たちが敵とする者の猛悪を思い、それは必然的に必勝の意気を高めていった。古今に類を見ない悪徳の者が相手であればこそ、この戦い、決して負けられぬ、と。


「諸子はすでに知る、曹操とは何者なのかを。諸子はすでに知る、みずからが正しき旗の下にあることを。諸子はすでに知る! 我らがこれから歩まんとする道こそ、すなわち天道にほかならぬということをッ! 諸子よ、河北の覇者にして漢室の柱石たる諸子よ。今こそ我らが決意を皇天后土に謳いあげ、天下万民に大義の在処(ありか)を示そうぞ!」


 言って、陳琳は一度口を閉ざし、目を伏せる。が、それも一瞬。次の瞬間、カッと目を見開いた陳琳の口から発された大喝が、黎陽の天地を震わせた。




「曹操討つべし!!」




 大逆、奸雄、佞臣。陳琳はそういった言葉を何一つ使わず、ただ曹操討つべしと唱えた。
 あらゆる悪徳、これすべてその名が示していると言うように。




「曹操討つべし!!」




 軍勢の最後列にいる者の耳さえ震わす大声は、誰もが理解しうる単純にして明確な目的をただ繰り返す。
 その一事こそ天下の公理であると告げるように。




「曹操討つべし!!」




 繰り返される断固とした言葉。
 河北の天地に轟き渡る大音声に、最初に続いたのは袁紹の隣に控えていた文醜だった。そして、ひとりが続けば、その後に続く者は引きも切らず、黎陽に集結した三十万の将兵は、いつか総大将も一兵卒も関わりなく、皆でただひとつの言葉を繰り返していた。





『曹操討つべし!!』






 ……後に『官渡の戦』と呼ばれることになる中原の覇権争い。その最後の幕はかくして開かれたのである。
 



[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/04/17 21:33

 兌州東郡 白馬


 河が河を越えてくる。
 黄河の奔流をものともせずに渡河を強行する敵軍を目の当たりにしたとき、曹純の脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。川面を埋め尽くす袁紹軍の勢いは、黄河の水勢をすら上回るように思えたのだ。
 そして、ほどなくして、その曹純の不吉な着想は曹操軍の全将兵が共有するところとなる。



「く、きりがないッ」
 河岸に押し寄せてきた袁紹軍の五度目の攻勢を退けた曹純の口から、こらえかねたように嘆息がこぼれ落ちた。
 袁紹軍が渡河を開始してから一刻あまり。
 曹純は虎豹騎を率いて黄河南岸を駆け巡っていた。五度にわたる敵の波状攻撃を退け、味方を鼓舞する曹純の勇戦は特筆に価するものであったが、その勇戦をもってしても袁紹軍の勢いを止めることはかなわない。袁紹軍の士気は曹純がかつて見たどの敵軍よりも高く、その勢いは敗北をさえ薪として盛んになるばかり。何度打ち払おうとも味方の屍を踏み越えて押し寄せてくる敵兵の姿は、しばらくの間、悪夢の苗床になりそうであった。


 河北三十万の大軍といえども一度に渡河できる兵の数は限られる。
 だからこそ、曹純をはじめとする曹操軍前線部隊はかろうじて敵の浸透を阻止できているのだが、渡河できる兵の数が限られている分、後方に控える河北兵の数には際限がなかった。
 南岸に展開した曹操軍は、川面を埋め尽くす袁紹軍に豪雨のごとき矢嵐を浴びせかけているが、河上の袁紹軍も負けじとばかりに大量の弩を打ち込んでくる。
 戦線は次第に混戦の様相を呈しはじめ、曹操軍の迎撃にも次第に綻びが出始めていた。




 河舟から次々に袁紹軍の将兵が降り立っていく。はじめ、その数は数十からせいぜいが百名というところであった。だが、彼らは自分たちと同じように幸運にも敵の迎撃を潜り抜けた味方部隊と合流し、瞬く間にその数を増やしていく。
 このままでは面倒なことになると見て取った曹純は、虎豹騎を率いてそういった集団を優先的に潰していったが、敵とても易々と倒れはしなかった。彼らもまた、今回の決戦で先鋒を任された精鋭なのである。いかに虎豹騎といえども鎧袖一触というわけにいかないのは当然のことであっただろう。
 次第に制圧に要する時間が増えはじめ、そうして生まれた間隙に乗じて、さらに多くの敵兵が南岸の地に降り立っていく。その数は増える一方であった。しかも看過しがたいことに、新たに降りたった敵兵は舟から資材らしきものをおろして陣地の構築をはじめる構えを見せていた。


「仲康(許緒の字)!」
 それを見た曹純は胸奥にわずかな焦慮がうまれるのを感じながら、かたわらで戦っている許緒に呼びかけた。
「なんですか、子和(曹純の字)さま?!」
 許緒はすでに馬から下りて敵兵と刃を交えている。怪力を利して鉄球を振り回す許緒の戦法は馬にとって負担が大きすぎるのだ。とはいえ、馬上から地上に移ろうとも許緒の武勇にかげりは見られず、鉄球の表面は河北の兵馬の血で真っ赤に染め上げられていた。


 許緒の足をもってすれば、曹純の馬についてくることも容易である。だが、曹純が命じたのはそれとは逆のことであった。
「ここは任せる。このまま押していけばこの部隊は制圧できるはずだ。私はあちらの連中を潰してくる」
「わっかりましたッ! 気をつけてくださいね!」
「仲康もな」
 そういうと、曹純は幾人かの指揮官の名を呼び、激戦の最中にたくみに部隊を二分した。


 このとき、若すぎる許緒に部隊をあずける曹純の判断に不満や不安を抱く兵士がいなかったわけではない。だが、許緒の武勇は虎豹騎の中にあっても隠れないものであったし、何よりも虎豹騎に属する兵士にとって指揮官たる曹純の判断は絶対であった。ゆえに、あえてその判断に否やを唱える者はいなかったのである。
 曹純が正式に曹操の麾下に加わったのは、かの徐州襲撃事件の後のことであり、諸将の中ではまだ新参といえる。そして、虎豹騎を預けられたのは、そのさらに後のこと。それを考えれば、短時日で部下の心服を得た曹純の将としての資質は瞠目に値するだろう。


 混戦の中、諸方を駆け巡って敵兵と刃を交える曹純の顔は自身の汗と敵兵の血で彩られ、手に持つ槍は柄の中ほどまで赤く染まっていた。
 夏侯惇のように全軍に冠絶する武勇というわけではない。指揮の巧みさでは実姉である曹仁に届かない。それでも、青の戦袍を翻して戦場を駆ける曹純の姿は人目を惹きつけてやまず、敵も味方もその戦いぶりを無視することはできなかった。


『そういう将を指して、華がある、と人はいうのよ』


 以前、どうして自分に虎豹騎をあずけるのか、という曹純の問いかけに対して、曹操はそう答えた。
 武勇や知略と並ぶ、あるいはそれ以上に得がたい才能。それは望んで得られるものではなく、学んで身につけられるものでもない、魅力と呼ばれる類の天の賜物である、と。
 もっとも言われた曹純自身にそれを持っているという自覚は薄い。曹純にしてみれば為すべきことを為しているだけであり、確たる理由もなく称えられてはすわりが悪かった。本音をいえば武勇や知略を称揚される方が良いのだ。


 だから、というわけではないが、先日、兵たちが自分を指して『戦鬼(せんき)』と呼んでいることを聞いたとき、面映くも嬉しく思ったのである。
 ただ、どうしてか、それを話したときに許緒はうろたえていたが。
『――うぇッ?! し、子和さま、それどこで聞いたんですか?!』
 驚きあわてる許緒を見て曹純は不思議に思ったが、理由がわからなかったので、ただ事実だけを伝えた。
『訓練が終わった後、宿舎に戻る途中で小耳に挟んだ。ようやく皆に認めてもらえてきているようで嬉しく思ったんだが、仲康、どうかしたのか? そんなに汗をかいて?』
『え、や、あの……えっと、子和さま、怒っていないんですか?』
『む、別に怒っていないし、怒る理由もないと思うが。たしかに戦鬼とは物騒な呼び名だが、戦場で戦う者にとって鬼に例えられるのは栄誉なことだろう。元譲さまや鵬琳姉上(曹仁)を差し置いて、というのは気が引けるが、さすがに皆も女性を鬼と呼ぶのはためらわれたのだろうな』
『お、おに……?』
 ぽかんと口をあけた許緒は、すぐに何事かに気づいたように両手を打った。
『……あ! そ、そっかそうですねそうでした! 鬼ってかっこいいですよねッ!』
『あ、ああ、そうだな?』
 妙に力がこもった許緒の返答に曹純は首をかしげる。ただ、この後、許緒が大慌てで話題をかえたので、結局、曹純は覚えた違和感をすぐに忘れてしまった。
 かくして、兵たちが口にしたのは実は『戦姫(せんき)』だった、という衝撃の事実は曹純から遠ざけられたのである。




◆◆




「はい、急いでくださーい。ぐずぐずしてるとすぐ敵がきちゃいますよー」
 どこか緊張感の欠けた声が立ち働く袁紹軍の将兵の頭上を通り過ぎていく。それは袁紹軍において知らぬ者とてない顔良将軍の声であったが、応じる声はまばらであった。
 味方の死屍を乗り越えて降り立った黄河南岸の地。敵味方の矢が降り注ぐ最前線では、いつ自分の頭上に死神の鎌が振り下ろされるかは誰にもわからない。まして敵前における陣地構築という難事に従事する身である。改めて命じられるまでもなく、兵たちは雑兵の端にいたるまで目を血走らせて懸命に働いていた。


 顔良はそのことを十分に承知していたが、それでもおりに触れて声を張り上げ続けた。将軍が健在であること、そして激戦の地にとどまり続けていること。この二つを兵たちに知らしめるには、それが一番てっとりばやいとわかっていたからである。
「あとは隣の文ちゃんと協力して足場を固めて、後続の部隊を呼び込まないとね。失敗しちゃったら、元皓さん(田豊)はともかく、麗羽さまに何を言われるかわからない――」
 と、その顔良の言葉が終わるのを待たず、ひとつの報告が友軍からもたらされた。
「申し上げます! 文将軍、敵陣に向かって突撃を開始しましたッ!」
「ええーッ?!」
 はや作戦が狂ってしまったことに呆然としつつ、顔良は視線を左前方に向ける。すると、そこにはたしかに『文』の軍旗とともに猛進する部隊の姿があった。先頭に立つのは山をも切り裂く大剣を背負った女将軍。見まがいようもない、袁紹軍二大将軍のひとり、文醜であった。


「ちょ、文ちゃん、それはシャレになってないよー?!」
 顔良が悲鳴じみた声をあげる。
 田豊がこの段階で顔良、文醜という二枚看板を投入したのは、敵陣に楔を打ち込むことの困難さを知るためであり、言葉をかえていえば、これが成れば緒戦における袁紹軍の優位を確立できると踏んだからであった。
 つまり、二人の目的はあくまでも黄河南岸に足がかりをつくることであって、敵と雌雄を決することではない。そもそも今ふたりが率いる兵数は三千に届かず、足場もまだつくれていない以上はまとまった数の増援も期待できない。真っ向から戦える状況ではないのだ。


「もう、文ちゃんのばかー! ああ、でもそんなこと言ってる場合じゃないよね。ど、どうしよう?!」
 顔良はとっさに判断に迷う。いくら文醜の武勇が卓越したものとはいえ、さすがに兵力差がありすぎる。普段ならば迷わず援護に向かうところだが、そうすると陣地構築という任務が果たせなくなってしまうし、なにより顔良が援護したところで現状の兵力差では焼け石に水であろう。二人そろって黄河のほとりに屍をさらすことになりかねない。
 すると、混乱する顔良のもとへ一騎の使者があらわれ、僚将からの伝言をもたらした。
「文将軍よりの伝令です! こっちは適当にあばれてるから陣地の方は任せた、とのことッ」
「任せた、じゃないよもうッ!」
 反射的に言い返すも、顔良は文醜の狙いを正確に読み取った。
 名にし負う河北の猛将 文醜が黄河を渡ったと知られれば、敵軍の目はいやおうなくそちらに向けられる。すると、必然的に顔良の部隊は敵の注視を免れ、陣地の構築に集中できるようになる。端的にいえば、文醜はみずから囮役を買って出たのである。自分の犠牲で勝利を得ようという悲壮な決意――ではなく、単純に自分が戦いたいから、というだけの理由だろうけれど。


 ともあれ、すでに文醜が出撃してしまった以上、ここで文句を言ったところではじまらない。今は文醜の行き当たりばったりな作戦もどきに従うほかないだろう、と顔良が吐息まじりに決断した時だった。
 顔良の陣に向け、猛然と突っ込んでくる曹操軍騎馬隊の姿を見張りの兵が捉えた。
「申し上げます! 敵騎馬隊およそ五百、こちらに向かってきます!」
 近づいてくる騎馬隊も文醜の旗には気がついているだろう。だが、彼らは矛先をそらさず、まっすぐに顔良に向かって突っ込んでくる。今このとき、優先して潰すべきはどちらかを正確に把握している証であった。
 その姿を一見した顔良は、この敵が作業の片手間にあしらえる敵ではないと即座に判断した。
「全員、作業中止してください! 敵騎馬部隊を迎え撃ちます!」
 実戦では文醜の補佐に回ることが多く、際立った武功をあげることは少ないが、顔良もまた袁家が誇る勇武の将である。そう命じるや、顔良は愛用の鉄槌を手に前へと進み出る。
 曹家の新鋭と袁家の宿将は、互いにその存在を知らぬままに激突した。



◆◆



 曹純率いる虎豹騎が顔良隊と激突した、しばし後。


「ありゃー、斗詩なら大丈夫だと思ったんだけど、敵もけっこうやるねえ」
 少数の精鋭を率いて暴れまわっていた文醜だったが、戦いつつも戦場の変化は鋭敏に感じ取っていた。敵が顔良の部隊に襲い掛かったことにも気づいていたが、顔良であれば苦もなく打ち払うだろうと考え、すぐに取って返すことはしなかったのだ。
 しかし、敵の勢いはかなりのものらしく、顔良も苦戦を余儀なくされているらしい。
 文醜は、はて、と首をかしげた。
「夏侯の上の姉ちゃんはここにはいないし、下の姉ちゃんも曹操と一緒に本陣だろ。斗詩が苦戦するようなやつ、他にいたっけ?」
 基本的に文醜が相手にしている敵将といえば、総大将である曹操を除けば、夏侯惇、夏侯淵の姉妹のみ、あとは強いてあげれば張遼くらいのもので、曹仁、曹洪の二人すら文醜の視界には入っていない。より正確にいえば「歯ごたえのある敵」として認識してはいなかった。


「張遼が出てきたにしては紺碧の張旗ってやつが見当たらないよなあ。斗詩のやつ、手ぇ抜いてる――わけないか」
 文醜には敵を甘く見る、あるいは過小評価する悪癖があった。
 だが、それでも将としての声価にかげりが見られないのは、多少の誤断ならば実力でねじ伏せてしまえる武勇と柔軟さを併有しているからである。
 このときも、その資質は存分に発揮された。
「しゃあない。文醜隊、全員もどって斗詩を助けにいくぞー」
 ぼりぼりと頭をかきながらそう言った文醜は、言葉どおり敵前で部隊を反転させてしまう。敵と刃を交えている最中に背を向ければ後背から追撃を受けるのは必至なのだが、そんなことは少しも気にかけていない無雑作な兵の動かし方であった。


 そして、その一見隙だらけとも思える用兵が曹操軍の混乱を誘う。このとき、文醜と相対していた曹操軍の指揮官は済陰郡太守 劉延であったが、劉延は罠を疑って追撃を控えた。
 文醜の猛襲で混乱している部隊を立て直すための時間も必要であり、それを為さずに無秩序な追撃に移れば更なる反撃を受けるだけだ、という劉延の判断は間違いであったとはいえない。実際、もし追撃に出ていれば、文醜によって痛撃を被っていただろう。
 だが、その劉延の決断によって、顔良隊を攻撃していた曹純の部隊は一転して死地に立たされてしまう。
 取って返してきた文醜が曹純の後背を突くや、それまで防戦につとめていた顔良が一転して攻勢に転じてきたのだ。このあたりの顔良、文醜の無言の連携はさすがというしかなく、虎豹騎はほとんど一瞬で袁紹軍の攻囲下に置かれてしまった。


 曹純としても文醜が取って返す可能性を考慮していなかったわけではない。だが、この混戦では取って返すことも容易ではあるまいし、仮にそうしたところで味方部隊の追撃を受けて相当の被害を受けるはず、と考えていた。あにはからんや、これだけ早く、しかもほとんど無傷で戻ってこようとは。
「――ッ、攻撃中止! 総員、円陣を組めッ」
 状況を悟った曹純は、自らの戦況判断の甘さを罵りつつも、矢継ぎ早に命令を発して危機を凌ごうとした。
 応じて、部下たちが曹純を中心に円陣を組み、前後左右からの攻撃に備えたが、袁紹軍の圧力は弱まることはなく、むしろ曹純が守りを固めたことで更にかさにかかって攻め立ててくる。
 ことについ先ほどまで防戦に徹していた顔良麾下の兵たちは、先刻のお返しとばかりに猛然と槍を突きたて、あるいは弓矢を放って攻撃してくる。その猛攻の前に、虎豹騎の兵はひとり、またひとりと戦場に倒れていった。




「子和さま、このままでは殲滅されるのを待つばかりです! これ以上兵を失う前に、突撃して敵の包囲から脱するべきでは?!」
 側近の大柄な兵士が急いた声で問いかけてくる。赤く酒焼けした顔に、明らかな焦慮を浮かべた様子は虎豹騎の一員として相応しいとは言いかねたが、曹純は無理もないことだと思った。なにしろ、こうしている今この時も、指揮官みずから槍を振るって飛んでくる矢を叩き落さねばならないのである。敵が円陣を突き破ってくるのは時間の問題であった。
「わかっている。だが、まだ早い」
 曹純とて、この状況で守りを固めたところで守りきれるはずがないことは理解している。だが、曹純たちがかろうじて敵の猛攻を支えていられるのは守りに徹していればこそ。ここで円陣を解いてしまえば、突撃陣形を組みなおす前に敵軍に圧し潰されてしまうだろう。


 ほんのわずかでいい。敵軍を揺さぶる一手が欲しい。
 曹純はそう考えており、同時にその一手が自分の手元にないことも理解していた。
「本当に限界に達したときには脱出に移る。そのときは私が敵を防ぎとめて皆を逃がそう。だから、今しばらくは耐えてくれ」
 曹純の言葉に、側近は何故か憤然とした顔つきになった。
「何をおっしゃいますか! しんがりはそれがしがつとめるに決まっております! む、さては先の進言、それがしが命を惜しんでのことと思うておいでか。さにあらず、さにあらず! すべては子和さまの玉の肌に傷をつけぬためでござる、ゆめ誤解なきようにッ」
「そ、そうか、それはなんというか、ありがとう……?」
 なにやらよくわからない言い回しだったが、この側近が自分の身を案じてくれていることだけは間違いない。曹純はそう思い、首を傾げつつも礼を口にする。


 すると、側近は満足したように何度もうなずいてみせた。
「わかっていただければ結構ッ! しかし、このままでは円陣も長くは――ぬ、ぅおっとッ?!」
 慌てた声と共に振るわれた側近の大剣は、曹純に向かって飛来した数本の矢を、測ったような正確さでまとめて叩き落す。
 側近の顔に再び焦慮が浮かんだ。
 いざとなればわが身で曹純をかばうつもりであったが、袁紹軍の鯨波は今にも虎豹騎を飲み込んでしまいそうである。意を決し、再度、曹純に離脱を進言しようと口を開きかけたときだった。
 不意に袁紹軍の一画――曹純たちが突撃してきた方向にいた兵たちが乱れた。別行動をとっていた許緒とその部隊が、曹純の危機に気づいて駆けつけたのだろう。そして、それは曹純が待ち望んでいた一手であった。


 おそらくは最初で最後の脱出の好機を曹純は逃さなかった。
「今だ、みな続けッ!」
 凛とした曹純の声音は不思議なほど澄んだ響きを帯び、激戦を繰り広げる味方の将兵の耳に届けられる。その声に力を得た虎豹騎の兵たちは、袁紹軍に負けない喊声で指揮官の命令に応じた。


 離脱をはかる虎豹騎と、させまいとする袁紹軍の攻防はなおしばらく続いたが、ついに曹純らは袁家の猛将の頚木から脱することに成功する。
 だが、そのための代償は大きく、短くも激しい戦闘の末、虎豹騎は二百を越える犠牲を出してしまう。
 これは虎豹騎総数の二割に届く甚大な損害であり、またこの精鋭部隊が結成されて以来、一度の戦闘で出た被害としても最大のものであった。
 また、精鋭を謳う虎豹騎が手ひどく叩かれた事実は両軍の勢いに影響を与えずには置かず、戦局はこれ以後大きく河北側に傾いた。顔良、文醜らの奮戦により、袁紹軍がついに黄河南岸の地に確固たる足場を築きあげたのは、それからまもなくのことであった。


 このままでは敵本隊の渡河を許してしまう。
 許緒と合流して部隊を立て直した曹純は本陣に使者を出し、敗北を謝した上で曹操本隊の出撃を請うた。今ならば、敵本隊が渡河にかかる前に敵陣地を焼き払うことも可能である、として。
 だが、曹操はこの時点で本隊を動かそうとはしなかった。というより動かせなかった。
 黄河の北岸で悠然と戦況を見守っていた袁紹軍本隊が予期せぬ動きを見せていたからである。






 袁紹軍に郭援という武将がいる。
 東郡太守 鍾遙の甥にあたるこの人物は武勇の人として知られており、荀攸は戦に先立って彼を次のように評した。
『黎陽の敵将の中では、こと武勇においては顔、文の二将に次ぐと考えてよろしいかと存じます。反面、いささか智に欠けるところが見受けられますが、あえて田軍師の指示にそむく驕慢さをあらわしたことはございません。郭援どのが田軍師の作戦計画に従って大軍を指揮統率すれば、わが軍にとって大いなる脅威となりえましょう』


 北岸に待機していた袁紹軍の本隊から、その郭援率いる部隊が黄河上流へと動き始めたのは、顔良、文醜らが南岸の陣地をほぼ築き終えた頃であった。
 黄河を挟んでのこととて正確な兵数は測りようもないが、軍旗の数やたちのぼる砂埃から推測するに最低でも五万、多ければ十万に届くかもしれない、という物見の報告を受け、曹操軍の本陣はにわかに緊張の度合いを高める。
 この分派行動の目的が、別地点からの渡河であることは明白だった。


 百や千ならばともかく、万をはるかに越える大軍が渡河できる場所など白馬津を除けば延津しか存在しない。延津にも守備兵は配置されているが、とてものこと数万の大軍を防ぐことはできないだろう。
 延津からの渡河を許してしまえば、白馬の本隊は退路を塞がれる形になる。あるいは郭援はそのまま許昌を突き、曹操軍の帰るところをなからしめる心算かもしれない。
 そう考えた曹操は夏侯淵に五万の部隊を授け、さらにこれに荀攸を補佐として付け、延津へと向かわせる。
 曹操は黄河への出陣に先立ち、白馬城の守りを鍾遙にゆだね、郭嘉、程昱の両名に補佐を命じている。夏侯惇、曹仁、曹洪、張莫、鮑信ら有力な武将、太守が各地で敵の別働隊と対峙している現在、夏侯淵を延津に遣わしてしまうと曹操の傍に残る将がほとんどいなくなってしまうのだが、河北軍の戦略と尽きない物量に対抗するために他に手段はなかった。


 かくて曹操は、有力な将帥を身辺から離した上で袁紹本隊と戦うことを余儀なくされることになる。




◆◆◆




 冀州魏郡 黎陽


 対岸の曹操軍の報告を受けた田豊は、他者にはそれとわからないほどかすかに眉をひそめた。
「延津へ向かったのは『夏侯』の旗か。確かに人選としてはそれ以外ありえぬが……」
 袁紹軍が西に東に大軍を動かすのは、曹操軍に兵力の分散を強いるため。曹操軍の荀攸、郭嘉などはそう考えていたし、それは正確に袁紹軍の目論見を見抜いていた。
 しかし、それが目論見のすべてではない。田豊の狙いは、兵力と共に敵の主力武将を曹操周辺から遠ざけることにあった。
 そのはかりごとは奏功し、今現在、曹操の周囲に恃むべき武将はいない。特に夏侯家の姉妹を主戦場から引き離すことができたのは、袁紹軍にとってきわめて大きな成果といえる。これで曹操は陣地の奥に引っ込んでいることができなくなり、袁紹軍としては曹操を討ち取ることが容易になった。
 戦況は田豊の策どおりに進んでいるといってよい。
 

 ――が、いささか容易すぎはしないか。そんな疑念が田豊の脳裏に澱のようにわだかまっていた。
 曹操軍の動きはいずれも田豊の想定の内。河北の物量をもって、そうせざるを得なくなるように仕向けておきながら、その事実に不審を感じるなどおかしな話である。田豊はそれを自覚していたが、それでもなお、あの曹孟徳が自分の掌の上でおどっていると考えることは難しかった。
 田豊の視線の先では、陳琳の檄で意気あがる将兵が次々に黄河へと乗り出している。すでに対岸の楔は打ち終えてあるため、渡河は戦前の予測よりも速やかに進むだろう。
 田豊にはそれがわかる。そのため、澱は澱としてわだかまったままに作戦を進めるしかなく――結局、袁紹軍はほぼ予定どおりに黄河の渡河を成功させる。むろん、曹操軍の攻撃は激しく、河北勢も相応の出血を強いられはしたが、それは当初の想定を越えるものではなく、戦況は刻一刻と河北勢の勝利に向かっているように思われた。
 




「え、えーと、聞いているかぎり、何も問題はないと思うんですけど?」
 数日後。
 黄河の南岸に築かれた陣地の一画で、顔良は不思議そうに首をかしげていた。
 はじめに田豊に呼び止められた時は何事かと思ったものの、話の内容は袁紹軍にとって吉事ばかり。顔良は田豊が何を案じているのかがよくわからなかった。
 一方、田豊は深刻な表情を隠さない。
 今回の戦役で最大ともいえる難事であった渡河は数日を経ずして成功した。この事実が意味するものは何なのか。それを考え続けた田豊は、敵の作戦行動の裏面に潜むものを看取するにいたっていた。


 戦況が袁紹軍にとって有利に進んでいくのは、彼我の戦力差をかんがみれば当然のことである。しかし、常の曹操であれば戦いの主導権を奪い返すべく何らかの行動を見せるはず。しかるに、曹操はそういった動きを見せておらず、袁紹軍の大攻勢の前に為す術なく後手後手にまわっているように見える。これは十中八九意図的なものである、と田豊は判断した。
 曹操軍の鈍さが意図的なものであるとすれば、その狙いは何か。
 繰り返すが、戦力において袁紹軍が曹操軍を上回るのは自他ともに認める事実である。曹操軍が一朝にして袁紹軍を上回る戦力をかきあつめるのは不可能であり、この戦力差で曹操が勝利をもぎとろうと欲するのであれば、そのための手段はごくごく限られる。


「そのひとつが戦場で本初さまを討ち取ること。曹丞相の狙いはこれである、とわしは思うのです」
 田豊は顔良よりも一回り以上年上であり、軍部内における影響力も上回る。だが、顔良に話しかける田豊の言葉遣いはしごく丁寧なものであり、一方の顔良も軍師に対する信頼と敬意を隠そうとしない。河北袁家の良心と知恵袋の仲は非常に良好であった。
 それでなくても心配性の顔良が田豊の危惧を一蹴できるはずがない。不安げな面持ちで問い返した。
「麗羽さまを、ですか?」
「はい」
 田豊は自身が抱いた危惧をそのまま告げる。
「戦場にて敵の総大将を討ち取る。これがかなえば、どれだけ兵力に開きがあろうとも勝利を掴むことがかないます。曹丞相が後手にまわっているのは――正確にいえば、そのように見せかけている理由は、わが軍の将兵、ことに大将である本初さまに『すべては作戦どおりに進んでいる』と信じ込ませるためではないか、と思われてならんのです。その上で丞相自身が陣頭に立って退却の気配を示せば、本初さまのこと、誰の制止も耳に入らなくなりましょう」
 常の戦であれば、曹操が本陣からのこのこと出てくれば不審を与えずにはおかないだろう。だが、今、曹操の周囲に有力な武将はいない。そう仕向けたのが袁紹軍である以上、曹操が前線に出てくることをいぶかしむ者はいない。田豊の策が逆手にとられてしまうことになる。



 田豊の危惧を、顔良は完璧に近い視覚的イメージと共に共有することができた。
「麗羽さま、今日までずーっと我慢に我慢を重ねていらっしゃいましたからねー……」
 袁紹が今日にいたるまで、かつて見たこともないほどに辛抱を重ねてきたのは、我が手で曹操を討ち取らんという覇気のあらわれである。
 その好機が到来すれば、つもりにつもった鬱憤は黄河の氾濫に匹敵する勢いで溢れ出すだろう。そうなってしまえば、田豊のいうとおり、袁紹は誰の言葉にも耳を貸さなくなるに違いない。
 田豊はさらに言葉を続けた。
「この地は黄河と濮水に挟まれており、大軍の展開には向かぬ土地でござる。許昌へ進軍すれば、さらに除溝水や官渡水といった支流が縦横にはしり、わが軍の行動を妨げます。時あたかも雨季であれば、堰を築いて水を溜めるも、流れをあわせて水勢を増すも、地の利に通じた敵の思うがまま。それを為す時間は十分にありました。敵軍は戦いつつ退き、退きつつ戦い、本初さまをおびき出して、ある地点に達したところで一斉に襲い掛かってくるものとわしは見ております。そのときに姿を見せるのは張文遠。此度の戦、あの驍将のみ所在が知れぬのはこのためでしょう」


 その言葉を聞いた途端、顔良の脳裏にひとつの光景がよぎった。
 ――おびき出され、突出する袁紹。縦横にはしる水路で寸断される自軍。そして、孤立した袁紹に神速の騎兵隊が躍りかかっていく。翻るは紺碧の張旗……


「た、大変じゃないですか。はやく麗羽さまに注意してさしあげないと!」
 言いかけた顔良だったが、すぐに気づく。今、口を酸っぱくして注意したところで大した意味はない、と。田豊がこうして顔良ひとりに話しかけてきたのも、それを知るためであった。
 顔良は深いため息をはいた。
「……実際に逃げる曹操さんを前にしてしまえば、麗羽さまは注意なんて忘れちゃいますよね」
 田豊は顔良と似た表情でうなずく。
「おそらくは。むろんその時にはわしもお諌めするつもりでおりますが、先に黎陽城にて決戦に際しては黙ってみているようにと言われ、頷いてしまいましたでな。おそらく、本初さまはわしに白馬城攻略を委ね、ご自身で野戦の総指揮をとるおつもりでしょう。それゆえ顔将軍に協力を願いたいのです」


 敵が罠を仕掛けて待ち構えているのなら、先んじてそれを潰してしまえばよい。
 何も難しいことをする必要はない。勢いにあかせて先へ先へと進まず、常に偵騎を出して慎重に進軍するだけでいいのだ。
「特に、敵が退却時に河川、水路を渡った際には細心の注意を払っていただきたい。すでに許昌へ向かう道筋には斥候を出しております。不審があれば、ただちに報告するように申し付けてはいるのですが――」
 情報があっても指揮官がそれを重視するかどうかはまた別の問題である。今日まで我慢に我慢を重ねてきたのは何も袁紹だけではない。
 この時、二人の脳裏をよぎった人影はおそらく同じ人物だったであろう。


「……『細かいことは気にすんなー』っていって、どんどん進んじゃいそうな人もいますしね」
「……さようですな。ともあれ、お頼みいたす、顔将軍。いろいろと申しましたが、戦況がこちらに傾いているのはまぎれもない事実でござる。曹丞相が奇策にはしるのは、正攻法では勝ちを得られぬことを理解しているためですからな。であれば、こちらは一歩一歩、着実に進んでいくだけでよろしい。さすれば勝利はおのずと河北軍のものとなりましょう」
「わかりました、元皓さん。それじゃあ、あたしはそれとなく文ちゃんに伝えてきますね」
 そう言うと、顔良は踵を返した。
 その気ぜわしげな後姿を見送りながら、田豊はあごを撫で、なおも何やら思案している様子だった。



◆◆



 明けて翌日。
「おーっほっほっほッ!」
「……」
 黄河を渡った袁紹は全軍を率いて曹操軍の拠点である白馬城へと進軍を開始する。別働隊を組織し、黎陽に守備兵を割き、さらに渡河でも少なからぬ損害をこうむったため、その兵数は当初のそれから大きく目減りしていたが、それでもなお二十万に届く大軍であった。
「おーっほっほっほッ!」
「…………」
 これに対し、曹操軍の数はおよそ八万。延津に部隊を派遣し、白馬に守備兵を割き、負傷兵を後方に下げた結果、残った兵士たちである。
 両軍を見渡せば戦いの形勢がどちらに傾いているかはおのずと明らかであり、決戦に先立って陣頭に立った袁紹ははじめから得意満面であった。


「おーっほっほっほっほ――って、いいかげんに何か仰いなさいな、華琳さん!」
 いい加減に笑うのに疲れたらしい袁紹が声をとがらせる。すると、曹操は皮肉げな笑みでこれに応じた。
「事ここにいたっては正面から雌雄を決するまで。あなたにいいたいことがあるなら聞くけど、こちらから話すことは何もないわ」
「あらあら、虚勢もほどほどになさった方がよろしいのではなくて。いくらあなたの背が低くても、このきらびやかに輝く私の軍勢が目に入らないはずはないでしょう。百戦百勝、天下無敵、豪華絢爛、黄金伝説な我が軍にかかれば、あなたのちっぽけな軍なんてすぺぺのぺぃ、ですわよ」
「確かに目に痛い華美な軍装ね。もっと他にお金をかけるべきところがあるでしょうに」
「華美、おおいに結構ですわ。華麗に美々しく。河北四州の覇者にして天下の大将軍たるこの袁本初の軍勢に相応しい言葉でしょう。勝ちさえすればそれでよし、見栄えは二の次、などという発想はしょせん二流なんですのよ。勝利にも貴賎はあり、そしてわたくしは常に貴き勝利を求めるのです。雄雄しく、勇ましく、華麗な勝利を。ただ勝利のみを求める華琳さんとわたくしの、それが違いなのですわ。おわかりになりまして?」


 昂然と胸をそらせて断言する袁紹と、無言で屹立し、真っ向から袁紹の視線を受け止める曹操。
 両雄の視線が音をたててぶつかりあったとき、何かが音もなく戦場を駆け抜け、兵士たちの背筋を震わせる。
 沈黙の帳の下、河畔を吹きすさぶ風の音だけがやけに将兵の耳に響いた。


 やがて、先に口を開いたのは曹操の方だった。もっとも、それは袁紹に反論したというよりは半ば独白に近かった。
「あなたを見習いたいと思ったことはただの一度もないけれど、信念を揺るがせにしない生き方だけは見事なものよ、麗羽」
 幾分かの皮肉は混じっていたものの、それはまぎれもなく曹操の本心だった。
 高邁な信念を口にする輩は世に掃いてすてるほどいるが、実際にそれを実践している者は数少ない。信念を貫き通し、なおかつ成功を収めている者となると数えるほどだろう。袁紹は間違いなくその数少ない中のひとりであった。


 その道程において名門袁家の血筋が助けになったのは確かだろう。だが、それだけで河北四州を統べることができるはずもない。曹操が智勇胆略のすべてを傾けて築き上げたものと同等以上のものを、袁紹はおのが生き方を貫くことで手に入れたのだ。曹操としてもなかなか虚心坦懐でいられるものではなかった。
(まあ、そういう相手だと感じとっていればこそ、真名を許しもしたのだけれど、ね)
 そんな内心を、むろん曹操は口には出さない。
 一方、曹操の言葉を聞いた袁紹は口元に手をあて、これまでにまさる大笑を響かせた。
「おーっほっほっほ、わたくしの偉大さを認めるとは華琳さんも大人になりましたわね。前半は負け惜しみ兼悔しまぎれの戯言として聞かなかったことにしてさしあげましょうッ」
「はいはい、どーもありがとーございます」
「……なんだか棒読みですわね」
「それはそうよ、心を込めていっていないもの、当然でしょう」
「なッ?! わたくしの寛大さを足蹴にするなんて、相変わらず失礼な人ですわねッ」


 苛立たしげに髪をかきあげる袁紹。不愉快そうな顔つきから、すぐにも攻撃を命じるかと思われたが、このとき、めずらしく袁紹は自制した。
「ふん! まあいいですわ。さて、華琳さん。我が無敵華麗な軍勢の前にはあなたのちっぽけな軍など鎧袖一触、ただ一戦で長江の彼方まで吹っ飛ばしてごらんにいれますわ。それが嫌なら、今この場でおとなしく降伏なさい。わたくしも鬼ではありません。華琳さんが素直に膝をつくならば、これまでのことは水に流してさしあげてもよくってよ?」
 胸をそらして降伏を勧告する袁紹に対し、曹操は短く応じた。
「お断りよ」
「なッ?!」
「朝廷にそむいたのはあなた。黄河を越えたのもあなた。わたしとあなた、どちらが侵略者であり反逆者であるのかは議論の余地もないこと。膝をついて許しを請うべきはあなたであってわたしではないわ」


 ここで曹操は再び皮肉げに微笑んだ。
「まあ、わたしも鬼ではないわ。あなたが今後はおとなしく朝廷に従うというのなら、昔なじみのよしみで、その罪を多少なりとも軽くしてあげてもいいのだけれど?」
「ど、どうしてわたくしが許しを請わねばならないんですの?!」
「あくまで戦う――そういうことね」
「当然ですわッ!」
「そう。なら話し合いはここでおしまい。互いに言葉で理非を正せなかった上は、力で正しさを証明するのみよ」
「ッ、いいでしょう! その伸びに伸びた鼻っ柱、わたくしが叩き折ってさしあげますわ! あとでほえ面をかくんじゃないですわよッ! 猪々子さん、斗詩さん! やっておしまいなさいッ!!」


 その号令が、血生臭い決戦の始まりを告げる烽火となった。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/04/30 00:52
 後世、『官渡の戦い』は曹操と袁紹――中原に知らぬ者とてない二人の英雄が正面から激突した戦いとして広く知られることになる。
 中原を制する者は天下を制す。
 この戦いの勝者こそが中原を、ひいては中華帝国を制することになるだろう、との認識は当時から当たり前のように存在した。後年になって三国時代が形成されてからも、曹魏が常に他の二国にまさる国力を保持し続けたことを思えば、この戦いを天下分け目と形容することに何ら不思議はないだろう。
 『官渡の戦い』は時代の趨勢を決定付けた大戦であった。


 だが、そういった歴史的重要性が取り沙汰される一方で、用兵学におけるこの戦いの評価は決して高いものではなかった。特に両雄が黄河で実際に矛を交えて以後の展開は、時に凡庸の謗りを受けることさえめずらしくはない。
 それは英雄同士の派手な激突を望んだ、後世の人間たちの無責任な評価――というわけではなかった。単純な事実として、一連の戦いでは曹操軍、袁紹軍ともに「らしからぬ」不手際が随所で見られ、結果として戦いそのものの精彩さを欠くことに繋がっているのである。
 その兆しは、袁紹の号令によって戦いの火蓋が切られた時から存在していた。




 袁紹軍、曹操軍を問わず、兵士たちの戦意は戦闘開始前からすでに沸点近くに達していた。この決戦が天下分け目の大戦であるとの認識は、とくに下級の兵が戦意過多に陥るには十分すぎる要因である。なにしろ、ここで手柄をたてれば一兵卒でも富貴にあずかれる可能性があるのだ。命を捨てて戦うには十分すぎる理由だった。
 中級以上の将兵にしても、ここで際立った武功をあげれば一国を得ることも夢ではない、との思いがある。そのせいだろう、戦端が開かれるや敵軍に喚きかかった両軍兵士の勢いは凄まじく、ともすれば上官の制止さえ振り切ってしまうほどであった。
 前線の武将たちは敵と戦うよりも味方の手綱を握ることに意を用いなければならず、戦場は瞬く間に怒号と叫喚に包まれ、乱戦の様相を呈していった。


 半ば暴走に近い前線部隊の激突は、当然のように曹操、袁紹らの知るところとなった。
 何の策もなしに正面からぶつかりあえば、数に優る側が勝つのは自明の理である。よって、兵数で劣る曹操軍にとって、混戦、乱戦は何よりも避けなければならない戦い方であった。
 曹操としては敵の鋭鋒をいなしつつ、徐々に自分たちに有利な戦況を形成していくつもりであり、そのための作戦も通達していた。曹操が煽るまでもなく、優位に立った袁紹がかさにかかって攻勢に出てくるのは明白であったから、対策はとうに出来ていたのである。
 だが、目算は初手から狂ってしまった。
「何をしているのか?!」
 無様な戦いぶりを見せる自軍を見て、曹操は痛烈な舌打ちを発する。だが、怒りに身をまかせてはいられなかった。このまま乱戦に引きずり込まれてしまえば、ただ一戦で致命傷をこうむってしまう恐れさえあるのだ。曹操は感情を押さえ込むと、すぐさま兵を引き締めにかかった。



 一方、袁紹軍の本陣でも田豊が曹操と同様の動きを見せていた。兵数で優るとはいえ、無秩序な乱戦では味方の損害も大きくなってしまう。仮にこの戦いで勝利を得られたとしても、天下平定の戦いはなお続くのだ。犠牲はやむをえないにしても、それを最小限に食い止める義務が田豊にはあった。
 その義務を等閑にしたつもりはなかったが、と田豊は苦虫を噛み潰す思いでいた。まさか、緒戦から兵たちがここまで狂熱を帯びてしまうとは。総大将の暴走には気をつけていたのだが。


「兵を煽りすぎたか……いや」
 田豊は内心でかぶりを振った。
 陳琳の檄がおおいに兵を高ぶらせたのは事実だが、それだけでこうはならないだろう。原因は違うところに求められる。
「――経験の不足であるか。兵も、わしも」
 河北制圧において、袁紹軍は極力兵を動かさなかった。動かすにしても最小限でとどめていたため、十万以上の兵を動員したことはただの一度もない。訓練こそ幾度も行われていたが、実際に大軍でもって敵と戦った経験はないに等しいのだ。その点でいえば、曹操軍の将兵の方がはるかに大軍での戦いに慣れているだろう。
 慣れない大戦ゆえの気持ちの高ぶりに功名心が結びついた時、どんな事態が起こるのか。田豊は予測してしかるべきであった。


 それが出来なかったということは、つまり田豊自身も完全に平静を保っているとは言いがたい状態なのだろう。この戦で袁家の天下が決まるとの思いが、決して若くない自分の血潮をも滾らせていることを、田豊はようやく自覚した。
「……まったく。監軍どの(沮授)にあわせる顔がない」
 敵の思惑にばかり気をとられ、自軍はおろか自身の状態すら把握しそこなっていたとは軍師にあるまじきことだ。
 田豊は全軍の統制を強化するべく指示を出しながら、みずからの不覚を肝に銘じた。二度と同じ過ちを繰り返さないために。




 はからずも同じ行動をとった曹袁両軍。
 だが、本営の努力も空しく、前線の混乱はなおも静まらなかった。
 命令に従って兵を下げれば、下がっただけ敵が踏み込んでくる。振り上げた剣を止めれば、その隙に敵の剣が振り下ろされる。狂乱と焦熱は将兵のなけなしの理性をとかし、濃密な血の臭いに酔った前線部隊は退くべきタイミングを完全に見失っていた。
 鍛え上げられた精鋭たちが、何の訓練も受けていない黄巾の賊徒のごとく、ただひたすら目の前の敵と殺しあう様は、ある種異様な光景であった。


 この狂熱を静めるために両軍の指揮官たちは手を尽くしたが、下手に自軍の勢いを止めてしまえば、そのまま敵軍の勢いにのまれてしまうとあって、有効な手立ては容易に見つからない。
 そうこうしている間にも戦いはより一層血臭にまみれたものとなり、混戦はより規模を大きくして戦場を包みこみ、狂乱の波濤が兵士たちをさらっていく。
 結局、曹操らがなんとか兵の掌握に成功したのは、日が西に傾き始める時刻になってからのことだった。戦いが始まったのは朝まだきのこと。両軍は実に半日近くの間、血まみれの闘争を続けていたことになる。
 ようやく正気に戻った両軍の兵士が呆然として刀槍を引いた後、戦場に残ったのは数えることもできないほどの死傷者の山。河風と共に広がる血臭の濃さはたとえようもなく、袁紹はあまりの血生臭さに顔色を蒼白にして口元に手をあてる。曹操でさえ平静を保つのに少なからぬ努力が必要だった。




 通常、戦いは日没をもって終わり、決着は翌日に持ち越される。その意味では、このとき、決着をつけるための時間はまだ十分に残されていた。
 だが、さすがにこれ以上戦闘を続ける気力は両軍ともに残っておらず、袁紹軍と曹操軍は相手を警戒しつつも、互いに足並みを揃えて兵を退いた。
 やがて、両軍の指揮官が渋面を押し隠して被害を計算した結果、この日の半日たらずの戦闘で出た被害は袁紹軍は一万、曹操軍は八千に達することが明らかになった。死傷者の数だけ見れば曹操軍の辛勝だが、兵力比を考慮すれば、より痛手をこうむったのは曹操軍である。
 ただ、袁紹軍にしても勝利の実感などあろうはずもない。渡河を成功させながら、無秩序な戦いでこれだけの犠牲を出してしまったのはまったく想定の外であり、今後の戦略に影響を与えずにはおかないだろう。


 初日の戦闘は両軍共に頭を抱える結果で終わった。そして、その結果を悔やみ、あるいは悲嘆している暇がないことも、このふたつの軍は共通していた。双方の指揮官はそれぞれに不満を抱えながらも部隊の再編成に着手し、翌日の再戦に備えて迅速に軍容を立て直していくのだった。





 あけて翌日、戦いはなおも続く。
 統制を強化した両軍は、前日の戦いが嘘であったかのように戦術を駆使した戦いを繰り広げる。
 だが、基本的に仕掛けては見破られ、見破っては仕掛けての繰り返しに終始し、戦況が劇的に変化することはなかった。部隊同士の連携は保たれていたものの、全体として力と力のぶつかり合いという様相は昨日とかわらず、そして、そこに変化がない以上、数にまさる袁紹軍が有利になるのもまた必然。
 ここまでくると袁紹軍の指揮官の中からも、このまま損害を無視して押し切る方が得策なのではないか、との意見も出始めていた。


 袁紹の長所のひとつに立ち直りの早さが挙げられる。
 蒼白だった顔色もすでにいつもとかわらないまでに回復していた。そして、調子を取り戻せば果断速攻をためらう袁紹ではない。
 いまだ秋の遠い暑熱の一日、血臭ははや死臭をはらんで両軍の将兵を苛んでおり、さっさと決着をつけてこの戦場から離れたい、という思いが決断の後押しをしたのも事実であっただろうが、ともあれ、袁紹は決戦の命令を下した。
 田豊も反対はしなかった。
 決戦の時いたらば黙ってみているように、と黎陽城で言われたことを律儀に守っている――というわけではなく、単純に袁紹の決断を是としているのである。昨日今日の戦況を見るかぎり、どうやら力戦は避けられそうもない。であれば、下手に守りをかためて戦いを長引かせるよりは、早期に決着をつけてしまう方が、結果として兵の犠牲は少なくなるだろう、と。


 袁紹の決断を聞いて難しい顔をしたのは、むしろ実戦をつかさどる将軍たちの方だった。
 とはいえ、彼らは決戦そのものを忌避したのではない。昨日と同じ結果になることを心配したのである。
「でも麗羽さま、このまま攻め込んでも昨日とおんなじになるんじゃないですかね?」
「それはちょっと勘弁してほしいですぅ」
 文醜の危惧に、顔良が小声で付け加える。
 昨日の戦いでは二人ともに大きな戦果をあげているが、あたかも蜜に群がる虫のごとくに自分たちに迫ってくる敵兵の姿は、心根の優しい顔良はもちろん、文醜にとっても思い出したくないものであるらしい。


 袁紹が不思議そうに問いかける。
「お二人にとってはめずらしくもない光景でしょうに」
 なまじ武名が知れ渡っているだけに文醜らは戦場で敵兵の的になる。袁紹はそれを指して言ったのだが、二人のうそ寒そうな表情はかわらなかった。
「いやまあ、そうなんですけどね。ただ曹操軍の連中は一味違うというか」
「普通の敵なら、寄ってきても、ある程度戦えば逃げ腰になってくれるんですけど……」
「そうそう、こりゃかなわんってな感じで。けど、曹操軍のやつらは目ぇ血走らせて斬っても斬っても向かってくるんですよ。おまけに倒したら倒したで、俺ごと斬れ、とか叫んでしがみついてくるやつまでいて、面倒なんてもんじゃないです」
「僵尸(ゾンビみたいなもの)を相手にしているみたいなんですよぅ」
 昨日の戦いを思い出した二人は、辟易とした様子で口々に言った。
 それを聞いた袁紹も、昨日の光景と血臭を思い返して頬がひきつったが、ここで同意してはそれこそ士気に差し支える。ぎりぎりのところで踏みとどまった。


「そ、それは確かに気味がわる……って、違いますわ! 天下の袁家に仕える将軍がそんなことで泣き言を言ってどうするんですの?! いつどこで誰を相手にしようとも、常に雄雄しく、勇ましく、華麗に戦うことこそ我が軍の誉れ――と華琳さんに大見得をきったというのに、その華琳さんとの戦いで、我が軍の先頭に立つ二人が怯むなど言語道断! しっかりなさい、しっかりッ」
「わっかりましたー……」
「うう、了解です……」




 こうして始まった袁紹軍の大攻勢。
 文醜にせよ、顔良にせよ、ひとたび戦いが始まれば、意識は将としてのそれに切り替わる。この二人を筆頭に辛評、呂曠、呂翔ら袁紹軍の名だたる武将たちが田豊の戦術案に沿って戦場を駆けるとき、生じる圧力は昨日の暴走の比ではない。
 これにはさしもの曹操軍も容易に抗することはできず、戦線の各処で劣勢を余儀なくされた。
 分どころか秒単位で頻々とおとずれる苦戦の報告。曹操は的確な指示でこれに対処し、陣のほころびを適宜繕っていく。受動的な用兵は一見凡庸に映るが、早さと正確さにおいて比類ない指示の連続で戦線を保ち続けた曹操の指揮は、凡庸の対極に位置していたであろう。ここから二刻以上も袁紹軍の攻勢を耐え凌いでのけたのは曹操軍なればこそであった。


 彼我の戦力差を鑑みれば、曹操の統率力とそれに応えた河南勢の奮戦ぶりは瞠目に値する。
 だが、その粘り強い抗戦も勝敗を覆すには至らなかった。
 日がはっきりと西に傾く時刻、やむことのない袁紹軍の攻勢に対し、ついに曹操は退却を決断する。
 昨日は互いに傷が深く、両軍は同時に兵を退いたのだが、今日の袁紹軍に兵を退く理由はない。曹操が白馬城にたてこもってしまえば、これを陥落させることは困難を極める。この機を逃すべきではなかった。


 曹操討つべし。
 袁紹軍の将兵は開戦に先立つ陳琳の檄を口々に唱えながら、なお戦意を失っていない曹操軍にとどめをさすべく猛追を仕掛けるのだった。




◆◆◆




 夜。
 数十里の後退の末、かろうじて敵の追撃を払った曹操軍の兵士は疲れきった身体を地面に横たえていた。
 盛んに焚かれたかがり火の傍らでは、運悪く不寝番にあたってしまった兵たちが身体を引きずるようにして警戒にあたっている。夜襲を警戒する彼らの目つきは厳しかったが、その顔にはやはりぬぐいきれない疲労が張り付いていた。


 そして、それは曹操の命令で本陣に集った武将たちも同様であった。付け加えるならば、兵卒と異なり、戦そのものにも責任を持つ彼らの顔には疲労を上回る焦燥がべったりとこびりついていた。
 袁紹軍が容易ならざる相手だということは誰もが理解していたが、昨日今日の戦いを経てみれば、その理解がいかに底浅いものであったかがよくわかる。まさかこれほどの相手とは、との思いが、明日以降の戦況への憂慮と重なって将たちの顔に暗い影をなげかけていたのである。


 いまだ曹操は姿を見せていないが、諸将の中にはまわりと言葉を交わそうとする者はほとんどいない。無言で口を引き結び、地面に視線を落とすばかりである。
 だが、少数ながらそうではない者たちもいた。
 曹純もそのひとり。昂然と前を見すえて微動だにしない姿は、浮き足立った周囲をしずめる重石のようにも見えた。


 ――実のところ、曹純自身も極度の疲労に心身をわしづかみされており、気を抜けばこの場で倒れてしまいそうだったりする。
 だが、そんな体たらくを晒すわけにはいかなかった。
 曹純は双肩に責任を負っている。ひとつは精鋭を謳われる虎豹騎の長である責任。そしてもうひとつは、曹家の端に連なる者として、この場にいない曹仁、曹洪ら一族にかわって曹操を支える責任。
 倒れている暇などどこにもない――否、倒れることなど許されないのだ。


 内心で己に活をいれ、曹純は改めて周囲を見回した。
 押し黙っているよりは、周囲の人間と言葉を交わしていた方が、より平静を印象づけることができるかもしれない、と考えたのだ。
 すると、すぐにひとりの人物が目に飛び込んできた。
 曹純からやや離れたところに座っているその人物は、巌のごとく頑強な体躯をもった壮年の武人だった。上背こそさほどないが、二の腕は丸太のように太く、そして顔つきは実に怖い――もとい強い(こわい)。顔や腕に縦横に走っている傷跡のせいもあるだろうが、人気のない場所ですれ違えば、思わず警戒してしまいそうな凶相である。
 もっとも、それはあくまで外見だけをみればの話である。周囲の将たちが意気消沈している中で、世はすべて事もなし、とばかりにどっしりと構えている様は歴戦の風格を感じさせ、いかにもタダ者ではないと思わせる。


 許昌では見たことのない顔だが、と曹純が首をかしげると、不意に横合いから声がかけられた。
「兌州は泰山の人、臧覇(ぞうは)、字を宣高とおっしゃるそうで、此度の戦に先立ち、徐州より送られてきた増援の軍を率いていらっしゃいます」
 驚いた曹純がそちらを見やると、いつの間に近づいていたのだろうか、そこには長身の男性がひとり腰を下ろしていた。
 縦に短く、横に太い臧覇とは逆に、この人物は縦に長く、横に細い印象である。上背は明らかに曹純を越えており、おそらく立ち上がれば違いはより顕著にあらわれるだろう。
 顔の美醜を問えば明らかに美に傾くが、繊弱さはまったく感じられない。まっすぐに曹純を見据える視線にはあふれんばかりの理知が詰まり、態度にも仕草にも隙がなかった。この人物に凛と澄んだ声を向けられれば、心にやましさがない者でも自然と背筋を正してしまうだろう。臧覇と半ば重なる意味で、この人物もまたタダ者ではないと思われた。


 と、不意に男性は曹純を見て微笑んだ。なぜか親しみを感じさせる表情で、相手の名を知らない曹純は戸惑う。すると、男性もすぐに曹純の戸惑いを察したのだろう、間をおかずに自分の名前を告げた。
「曹子和将軍でいらっしゃいますね。わたしは兌州山陽の産、満寵、字を伯寧と申します」
 その名を聞き、曹純は思わず目を見張った。この男性の名を曹純は聞き知っていたのだ。


 満寵はこれまで主に豫州の梁国で活動してきた人物である。
 先年、張莫の妹である張超が起こした反乱で曹操が一時的に兌州をおわれた際、満寵は梁の国で挽回のために力を尽くして曹操の信頼を得た。
 以後、満寵は梁の地にあって南の袁術と対峙しながら、一方で東の徐州勢力の動向を見張るという困難な役割を忠実に、かつ堅実にこなし、着実に地位を高めてきたのである。
 もっとも、これだけの功績では、曹操麾下の能吏のひとりであるにとどまり、満伯寧の名が人口に膾炙することはなかっただろう。
 満寵の名が広く知られるようになったのは、領内で不法を働いた曹家の私兵を処断してからであった。




 あるとき、曹洪配下の兵士が、主の権勢を恃んで法を犯したことがあった。
 穏やかな外見の中にも苛烈な一面を持つ満寵は、後難を恐れて怯む周囲をよそに厳然とこの兵士を捕らえ、牢に放り込む。さらに、その兵が主である曹洪を通じて曹操に寛恕を請おうとしていることを知ると、民衆の眼前で法にのっとって兵士を斬り捨てた。
 曹操の裁可が届くまでは刑の執行を引き伸ばすべき、あるいは兵士を許昌に護送して曹操に引き渡すべき、という意見もあったが、満寵は一顧だにしなかった。豫州は袁家の勢力が強い土地であり、罪を犯した曹家の兵を特別扱いした事実が広がれば、統治そのものに悪影響を及ぼしてしまう。罪状自体は明白であり、目撃者も多く、冤罪の可能性は無い以上、処断を遅らせる必要はなかった。
 満寵は兵士を処断すると、曹洪と曹操に経緯を伝える書簡をしたためた。そして、落ち着いた様子で常の業務に戻ったのである。


 むろんというべきか、この一件を知った曹操は満寵を咎めず、それどころか法吏の鑑として賞賛した。曹洪もまた自らの監督不行き届きを満寵に陳謝し、一件は落着する。
 曹純はこの件を実姉である曹仁から伝え聞き、いずれあってみたいものだ、との思いを抱いていたのだが、このような時、このような場所で顔を合わせるのは予測の外だった。
 曹純が自分に対して嫌悪や忌避を抱いていないことを察したのだろう、満寵はもう一度微笑むと言葉を続けた。
「将軍のことは李朔からうかがっていまして、いずれお会いしたいものと思っていたのです」
「李朔から?」
 その名を聞き、曹純の脳裏に赤ら顔の側近の姿が思い浮かぶ。
 聞けば、虎豹騎に加わるずっと以前、李朔は郷里の街でも有名な荒くれ者であったらしい。そこで当時は下級官吏であった満寵となにやらあって、心をいれかえたらしいのだが、詳しいことを満寵は語らなかった。李朔の名誉にかかわることですので、と含み笑いする姿はどこか悪戯っ子のようであった。



 まもなく典韋を連れた曹操が姿を見せたので、二人の話はそこで終わった。
 この時、曹純も満寵も気づいていなかったが、彼らのすぐ後ろでは賊徒退治で名を馳せた呂虔(りょけん)、字を子恪(しかく)という人物が、己が温めている策を披露しようと、曹操が姿をあらわすのをいまや遅しと待ち構えていた。
 付け加えると、臧覇を含めた曹純、満寵、呂虔の四人は後に、曹操軍には希少な男性武将として親交を深め、たびたび酒を酌み交わす仲になるのだが――このとき、その未来を予期できる者はこの場にはいなかった。




◆◆◆




 翌日、袁紹軍は夜が明けるのを待ちかねたかのように曹操軍に殺到する。戦意に満ち溢れた河北兵の猛攻は昨日にまさる勢いであり、今日までの疲労と劣勢で動きの鈍い河南兵はたちまちのうちに防戦一方へと追い込まれていった。
 およそ半刻。
 打ち続く敗勢に抗戦の気力も尽きたか、朝の涼風が吹き終わるのを待つこともかなわずに曹操軍は後退を開始する。袁紹軍としては昨日の追撃戦の再開である。猛り立った河北兵は難敵にとどめをさすべく、全面的な攻勢にうってでた。


 だが、これは曹操軍の誘いの隙であった。
 ――ただ後退するだけでは袁紹軍を罠にはめることは難しい。だが、河北兵は連日の勝勢によって士気を高め、同時に功名心を刺激されてもいるはずである。夜のうちに精鋭を後方に配しておき、明朝、敵と矛を交えた後にゆっくりと兵を退くべきである。さすれば、前日の追撃戦の記憶がさめやらない袁紹軍を罠に引きずり込むことは十分に可能であろう――昨晩の呂虔の建策を諒とした曹操は、発案者である呂虔にくわえ、臧覇、満寵、曹純らを夜のうちに後方の複数個所に配した。そして、追撃に移った袁紹軍に対して一斉に反撃を行ったのである。


 この作戦は奏功し、袁紹軍は痛撃をこうむって敵を追う足を止めた。
 曹操軍にとってはこれまでの劣勢を挽回する好機である。さらに敵軍を攻め立てようとはかったが、その足をしばりつける凶報が後方からやってきた。
 夜のうちに主戦場を迂回した袁紹軍の将 辛評が曹操軍主力部隊と白馬城を結ぶ街道を扼した、というのである。軽騎兵を中心とした部隊は万に届かない数だが、これを討つべく軍を返せば正面の敵本隊に後背を突かれてしまう。かといって、ほうっておけば後方を撹乱されて本隊との戦いに注力できなくなることは明白だった。
 退路を塞がれるという恐怖は、将兵の士気を殺ぐなによりの要因となる。どれだけ訓練を重ねた精兵であったとしても、それはかわらない。その効果は時が経てばたつほどに如実にあらわれてくるだろう。
 曹操が劣勢すら利用して夜のうちに罠を構築している間、袁紹もまた策動していたのである。



 戦闘の大勢が決したのは、あるいはこの時であったかもしれない。
 攻勢へ転じようとした、まさにその瞬間に後方から襟首をつかまれた形になった曹操軍の勢いは目にみえて衰え、それは必然的に袁紹軍の攻勢を促す合図となった。今度の劣勢は見せかけではない。曹操軍の戦線は次々に突き崩され、将の指図に従わずに逃亡する兵が続出しはじめる。これは昨日までの戦いでは見られなかった光景であった。
 白馬城への道が塞がれていることを知る河南兵は、城ではなく南西――許昌の方角へ落ち延びていく。
 指揮する兵士がいなければ、どれだけ優れた武将でも真価を発揮することは不可能である。これ以後、戦いの形勢は逃げる曹操軍と追う袁紹軍という形で固定された。


 白馬から官渡に至る、長い長い退却行の始まりであった。





◆◆◆





「申し上げます! 前方の河川上流に急造の堰と、曹操軍とおぼしき一隊を確認いたしましたッ」
 駆け込んできた伝令が息せき切って報告する。
 きわめて重要であるはずの報告だったが、これを聞いた文醜は心の底からうんざりした声で応じた。
「あいよー、ご苦労さん」
「あ、は? は、はい、恐れ入ります。それで文将軍、ご命令は……?」
「ああっと、どうしようかねぇ。これで何回目だっけか? もういい加減、無視して敵を追いかけたいんだけど、どうよ斗詩?」
 面倒くさげに問いかける文醜に対し、顔良はきっぱりと首を横に振った。
「駄目だよ、文ちゃん。そんなことして、川を渡った後に後ろをふさがれたらどうするの?」
 顔良の危惧は文醜も理解していた。
 だが。
「そうはいうけどさー、このままだと曹操に官渡を越えられちまうぜ。それはそれでまずいんだろ?」
「うーん、そうなんだよねぇ」
 顔良は困ったように嘆息して前方を見る。


 袁紹軍の猛追を受け、曹操軍は許昌に向けて敗走を続けている。それは確かなのだが、曹操軍は敗走の中にも一定の秩序を保ち、度重なる追撃に遭っても全面的な潰走にはいたっていなかった。
 その理由が、未だ折れることなく戦場に翻る曹操の牙門旗であることは誰の目にも明らかであった。曹操を中心とした、およそ一万ほどの部隊は袁紹軍に対して激しい抵抗を繰り広げ、時に逆撃さえ行って味方に追撃の手が及ぶのを払い続けている。このため、曹操軍はかろうじて陣を維持することができていた。


 むろん、顔良たちもこの敵部隊に対して激しい攻撃をくわえ、敵の兵力を殺ぎ続けている。曹操の本隊はいまだ秩序を失っていなかったが、逆にいえばそれ以外の部隊はただひたすら後退するばかり、ということでもある。袁紹軍が挙げた首級は、この数日の追撃戦だけで万をはるかに越えていた。
 だが、それでも敵にとどめを刺すには至らない。その理由の最たるものは抵抗をやめない曹操の本隊なのだが、もうひとつ、たびたび袁紹軍の足を止めるものがある。それが各処で立ちはだかる敵の罠であった。
 過日、顔良がうけた田豊の警告。
 曹操は袁紹軍を分断するため、縦横に走る河川水路をこれでもかとばかりに利用しており、袁紹軍はこの罠を取り払うために何度も進軍を停止させねばならなかった。
 あらかじめ田豊が放っていた斥候が正確な報告をもたらしてくれるので、水計によって実害をこうむることはない。だが、このままでは文醜のいうとおり、曹操に官渡水を越えられてしまう。


 官渡水は黄河から南東に流れる河川である。その水量は黄河に及ばないが、容易に渡河できるほど小さな流れでもない。ここを曹操に渡られてしまうと、追撃が今以上に難しくなる上に、場合によってはそのまま南の許昌へ逃げ込まれてしまうのだ。
 もちろん、曹操を許昌へ追い込むことができれば、それはそれで袁紹軍にとって大きな勝利なのだが、先のことを考えれば、許昌に逃げられる前に曹操を捕捉したい。



「――でも、だからって無理して追撃して窮地に陥ったら意味がないよ、文ちゃん。元皓さんも気をつけるように言ってたし、それにあたしたち、他の兵隊さんの命もあずかってるんだから」
「それを言われるとなあ」
 文醜はしばしの間、天を仰ぐ。
 やがて顔良に向き直った時には、その顔を覆っていた苛立ちは多少薄まっていた。
「ま、ここはおっちゃんと斗詩の顔を立てておくかね。麗羽さまが追いついてくるまで、ここでのんびり大休止でも――」
「なーにを悠長なことをいっているんですの、猪々子さんッ?!」
「うおわあッ?!」


 唐突に言葉を遮られて驚いた文醜は、その声の主が本陣にいるはずの袁紹であることを知り、もう一回驚いた。
「わあ?! れ、麗羽さま、もう追いついてきたんですか?! まだ本陣にいるんだとばっかり……」
「ふふん、猪々子さん、わたくしを誰だと思っているんですの? 機に臨んで変に応じる姿は疾風にして迅雷のごとし。河北の雷公 袁本初とはわたくしのことですわよ」
「……いや、ものすげー初耳なんですけど、その異名」
「……あたしも聞いたことないです」
「何かおっしゃいまして?!」
 くわっと目を見開いて睥睨する袁紹に対し、袁家の二大将軍は同時に首を左右に振ってみせる。それを見て、袁紹は満足げにうなずいた。
「まあ、よろしいでしょう。それでお二人とも、こんなところで何をぐずぐずしているんですの? さっさと追撃にかかるべきではなくて」


「それなんですけど、麗羽さま――」
 顔良が、今しがたの文醜との会話を袁紹に伝える。 
「ふむふむ、一理ありますわね」
「ですよね。なので、麗羽さまは――」
 言葉を続けようとした顔良だったが、袁紹はかぶりを振ってその言葉を遮った。
「けれど、逆に言えば一理しかありませんわ。斗詩さん、こちらが苦しいときは向こうも苦しいのです。ここで追撃の手を緩めれば、あの金髪小娘のこと、すぐに態勢を立て直してしまうでしょう。これまでどおり、追って追って追い続けるのです。そう、それこそ長江の果てまでもッ!」
「で、でも、それだとそのうち敵の罠にかかっちゃうかも……」
「むろん、罠の警戒は怠らずに、ですわよ」
 ここで文醜が口を挟んだ。
「うえー、それは面倒ですよ、麗羽さま」
「今しがた申しましたでしょう、猪々子さん。こちらが苦しいときは敵も苦しいのです。堂々と進軍し、粛々と罠を避ける。単純にして明快なこの行軍こそ、もっとも華琳さんが嫌がることなのですわ。このまま押し続ければ、早晩、敵は追い詰められて奥の手を出さざるをえなくなるでしょう。これを潰せば、文句なしにこちらの勝利! この袁本初が、あのおチビさんの上に立つ器であることを天下万民が知るのですわ、おーっほっほっほッ!」


 口元に手をあてて高らかに笑う袁紹。
 袁紹らしからぬ奥深い言葉に顔良は目を点にして聞き入っていたが、すぐにカラクリを悟った。おそらく前線に出るといって聞かない袁紹に、田豊が今の考えを吹き込んで送り出したのだろう。その上で田豊自身が本陣に残ったのは、曹操を討つ最終的な功績を袁紹の手に帰するためか。顔良はそう判断した。
 と、不意に袁紹が真顔に戻って口を開く。
「とはいえ、華琳さんに官渡を越えられるとまずい、というのはそのとおりですわ。猪々子さん、斗詩さん。お二人とも、ついてらっしゃい。ゆっくり急いで、華琳さんを追い詰めますわよ」
「わっかりましたー」


 弾む声で命じる袁紹に対し、文醜は気楽そうな声で応じる。
 中華帝国の歴史の転換点となるであろう刻が間近に迫っているというのに、袁紹にも文醜にもそんな気負いは微塵も感じられない。
 そんな二人を嘆息まじりに見つめながら、それでも顔良はどこか嬉しげに「了解です」とみずからも口にした。
 困ったところもある主君と僚将だが、それでも顔良は二人と共に走ってきたこれまでの人生を悔いたことなど一度もない。そして、これから先もないだろう。


 ごく自然にそう信じている顔良は知る由もなかった。
 今日という日が、こうして三人が集い、語り、騒ぐことができた最後の機会であったのだ、ということを。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/05/15 22:51

 兌州陳留郡 烏巣


「ちッ、バレとったんかいッ!」
 騎兵部隊を率いて袁紹軍の後背に襲いかかった張遼は、しかし、即座にこちらの奇襲に対応してきた敵の動きを見て激しく舌打ちする。その顔にはめずらしく焦慮に駆られた気配が見え隠れしていた。
 張遼の部隊はつい先日まで官渡水の手前で待機しており、白馬津はもちろん延津の防衛にも加わっていない。ゆえに、まず間違いなく袁紹軍には捕捉されていなかったはずだ。
 にもかかわらず、ほぼ完璧に奇襲を防がれた。
 作戦が漏れていた、とは考えにくい。なにしろ今回の作戦の全容を知るのは曹操のみであり、張遼でさえほとんど知らされていなかったのだから。このため、張遼が官渡水を越える時期や、越えてからの動きを袁紹軍があらかじめ察知することは不可能である。敵の斥候に逐一報告されるようなノロマな行軍もしていない。


 であれば、考えられる可能性はひとつ。袁紹軍の智者が、おそるべき精度で曹操の作戦を看破してのけた、ということしかない。
 そんなことができる者が敵軍にいる、と考えるのは張遼でさえ気が重い。
 だが――
「お、いたいた、あんたが張遼だろ?」
 緊迫した戦況に似つかわしくない軽い声音で、ひとりの敵将が張遼の前に立ちはだかる。馬上で大剣を構える姿は一見無雑作に見えて、その実、意外なまでに隙がない。
 張遼は記憶をたしかめるようにわずかに目を細めて敵将を見やる。やがて何かに思い当たったようで、唇を曲げるようにして返答した。


「いかにもウチが張文遠や。そういうそっちは文醜やな。虎牢関でチラッと見た記憶があるで」
「ん? ああ、四人がかりで呂布に負けたときかあ。いやー、さすが天下の飛将軍、強かった強かった。逃げるだけで精一杯だったぜ」
「ま、腐っても天下無双やしな。恋を相手にして命があっただけ大したもんよ」
「だよな! うんうん、世の中には逃げても恥じゃない相手ってヤツがいるもんだ。麗羽さまはそこんところわかってないからなー」
「袁紹の部下もなんや大変そうやな。ま、あんたが生きてここにいるってことはなんとか説得できたっちゅうことやろ」


 そういって、張遼は飛竜偃月刀を一閃させると、文醜に刃先をつきつける。
「その調子で今日も負けた言い訳、考えときぃや」
 文醜もそれに応じて大剣を構える。
 このとき、生死をかけた戦いを前に、二人の顔に浮かんだ表情はとても良く似ていた。嘲笑とは異なる、清々しささえ感じられる笑み。もっとも、当の二人はそのことを意識の端にすらのぼらせていなかったが。
「負ける言い訳考えたって意味ないぜ、なんせ今日のあたいに負ける予定は入ってないッ!」
「厄介な客ほど前触れなしに来るもんやッ! いっくでェェェッ!」
「なはは、そいつは道理だ! おっしゃこーいッ!」


 激突する鋼と鋼が、焼けるような擦過音をあたりに撒き散らす。打ち交わされる斬撃があまりに激しいためだろう、金属が焦げる嫌な臭いが人馬の鼻を突き、二将の馬が不快げないななきをあげた。
 文醜は左手で手綱を引いて愛馬を御しつつ、右手に持った大剣を大上段に振り上げ、張遼に向けて叩きこむ。『その一撃は山を割る』と称される剛武の一閃である、まともに受け止めれば、自分はともかく馬の足が持たないと判断した張遼は、とっさに偃月刀を寝かせ、柄でたくみに受け流した。
 だが、攻撃の勢いを完全に殺すことはできず、鞍上で体勢を崩してしまう。


 それを見た文醜は続けざまに横凪の一閃を繰り出した。
 上体を真っ二つにする勢いで迫りくる大剣を見て、張遼はとっさに両足で馬体を挟み込むと、思い切り身体をのけぞらせる。
 張遼から拳ひとつ分も離れていない至近の空間を、文醜の大剣がうなりをあげて横切っていった。背筋を凍らせるその音が耳朶から消える前に、張遼ははねるように上体を戻し、その勢いを利用して反撃の一刀を見舞う。
 偃月刀の刃先が文醜の鎧をとらえ、文醜は衝撃によろめいた。
「うわいっと?! おいおい、甲冑着てるヤツの動きじゃないっしょ?! 不倒翁もびっくりだな、あんた」
「なんの、まだまだ序の口やでッ」
 驚く文醜に向けて張遼はさらに偃月刀を振るったが、体勢を立て直した文醜はあっさりとこれを避け、それ以上張遼に付け入る隙を与えない。
 張遼も無理して打ち込むことはせず、偃月刀の柄を握り直して次の攻防に備えた。


 さて、どう斬り込むべきか。そんなことを考えながらも、張遼は頬が緩むのをおさえられなかった。戦況の不利は承知しているが、一個の武人として雄敵と渡り合う快感は抑えようがない。
 そして、それは敵も同様であるらしい。眼前でブンブンと大剣を振り回す文醜の口元には隠し切れない笑みが浮かんでいた。
「うんうん、やっぱ戦ってのはこうじゃないと面白くないぜッ! ほんじゃ、次はこっちからいっくぞォォォ!!」
「おう、こいやァッ!」
 再び繰り返される猛撃の応酬。両者の力量はほぼ互角であり、一騎打ちは拮抗した。
 が、長くは続かなかった。
 切り札である張遼の奇襲を防がれたことで、曹操軍の本隊が戦線を支えきれなくなったからである。その様子を遠望し、さらにみずからの部隊に対しても包囲の鉄環が狭められていくのを感じ取った張遼は、歯噛みしつつも一騎打ちから離脱する。今は雄敵と武を競うよりも、将として兵たちを逃がすことを優先させなければならなかった。


 むろん、文醜はそうはさせじと追いすがる。
 曹操が袁紹軍の追撃に耐えかね、早晩、切り札を投入してくることは袁紹の予測するところであった。これを叩き潰せば、もはや曹操軍に反撃の手段はない。そのためにこそ文醜は主戦場の外に配されたのである。
「ま、どうせ予測したのは元皓のおっちゃんなんだろうけど、空気の読めるあたいは黙っているのであった。でもって、ここでしっかり張遼を討って麗羽さまの策を成功させて、あとで盛大に褒め称えるっと。デキる女はやること多くてタイヘンだー」
 目に真剣な光を浮かべつつも、軽口を言ってしまうのは生来の性格ゆえなのか。ともあれ、文醜は逃げる張遼を追い続けた。


 追う文醜が本気なら、逃げる張遼も真剣である。
 張遼が曹操の本隊と合流するためには南に向かわなければならないのだが、そちらへの道は袁紹軍によってことごとく塞がれていた。そのためだろう、張遼は馬首を東へ向けた。ある程度、追撃部隊を引き離してから南に転じれば良いと考えたのだろうが、もともと張遼の出現を予測していた袁紹軍は文醜の隊に多数の軽騎兵を配しており、神速を謳われる張遼をもってしても追撃の手を払うことは容易ではなかった。
 それは見方をかえれば、文醜が張遼を捕捉することも容易ではなかった、ということでもある。曹袁両軍を代表する二人の武将は、主戦場から遠く離れた場所で命がけの追いかけっこを繰り広げることになった。






 白馬から烏巣にいたる退却行において、曹操軍は敵の追撃によって手痛い損害をこうむりながらも、かろうじて軍組織そのものは維持することができていた。
 だが、烏巣での奇襲失敗とそれに続く敗戦は曹操軍将兵の最後の気力を挫き、ここにいたって退却は全面的な潰走へと転じてしまう。
 戦場のいたるところで曹操軍の陣列は突き崩され、曹操の本陣も顔良の猛攻を受けて瓦解する。このとき、顔良は曹操の姿を指呼の間に捉えたが、典韋の奮戦によってかろうじて危機を回避、わずかな数の親衛隊に守られて戦場を離脱した。


 同じく戦場を離脱することに成功した満寵、臧覇、呂虔らは曹操との合流をはかったが、袁紹軍の呂曠、呂翔らの猛追を受けて果たせず、曹操軍は四分五裂の状態となった。ただひとり、曹純のみはかろうじて曹操との合流に成功するが、すでに虎豹騎も千を数える人員の半数以上が死傷しており、戦況に与える影響は微々たるものでしかなかった。
 勝敗決したり。
 袁紹はみずから追撃部隊の総指揮を執り、曹操を討つべく猛進する。顔良はその傍らにあって、ともすれば突出しそうになる袁紹をなんとかおさえながらも、冷静に兵を配して確実に曹操を追い詰めていった。


 曹操が各処で築いてきた水計のための堰も、先んじて押さえてしまえば脅威にはならない。むしろ道を塞ぐ水路の水が枯れていれば、それだけ追撃も容易となる理屈で、曹操は結果としてみずからの首を差し出すにも似た愚行を為した。策士、策におぼれるとはこのことだ――袁紹軍の将兵は追撃の途次、そう言って周囲と笑いあい、必死に逃げる曹操軍の背に嘲笑を叩きつける。
 それを否定することは、少なくともこの時点での曹操軍には不可能なことであった。
   





◆◆◆





 少し時をさかのぼる。



「羽将軍はこれまで、たくさんの戦場で戦ってきた――いえ、こられたのでしょうね」
 関羽が許昌の屋敷で円らな瞳の少年にそう問われたのは、官軍が解池を奪回してしばらく経ってからのこと。
 この問いに対し、関羽は少しばかり返答に窮してしまう。
 答え自体は『はい』に決まっているのだが、それ以前に相手の質問の意図や今の状況、さらには身分的な問題などなど、指摘しなければならないことが山のようにあって、何から口にするべきか判断しかねたのだ。
 とはいえ、まっすぐに此方を見つめる眼差しを見れば、相手に悪意がないことははっきりしている。
 そのため、関羽はとりあえず質問に答えた後、気になる点を問いただすことにした。


「はい、桃香さまが楼桑村で旗揚げして以来、幽州、青州、徐州と戦いながらめぐってまいりました。ところで、あの、陛下?」
「羽将軍、今の朕――ではない、ぼくは皇帝ではない、です。漢室とはかかわりのない劉家の伯和(はくわ)として接してほしい、です」
「は、はあ」
 しごく真面目な表情で訴えかけてくるのは、後漢帝国第十三代皇帝たる劉協である。
 市井の民にまぎれるべく言葉遣いに注意しているのはわかるのだが、最初の呼び方からしてもうすでにおかしい。市井の民は関羽のことを「羽将軍」などと呼んだりはしない。
 とはいえ、それを指摘することもはばかられた。それは皇帝に対して自分の字(あざな)を呼べと強いるも同様だったからだ。
 かくて関羽は「どうしてこうなった」と内心で頭を抱えながら、皇帝と奇妙な対面の時を過ごすことになったのである。




 このとき、北郷はすでに許昌を離れており、皇帝の突然の訪問に直面したのは関羽だけであった。
 聞けば皇帝がこうして街に出るのは初めてのことではないらしい。
 それを聞いたとき、あの曹操の監視の目をかいくぐるのは容易なことではないはずだが、と関羽は疑問に思ったのだが、劉協が言うにはこの微行は曹操も承知しているという。


 関羽は意外の念にうたれた。曹操が皇帝の微行を認めていることも意外であったが、さらに意外だったのは、皇帝の声に曹操に対する恨みや嫌悪の念が感じられなかったことである。
 現在の朝廷を見るかぎり、万機を掌握しているのは丞相たる曹操であり、劉協が傀儡に過ぎないのは明らかだった。当然、皇帝は曹操のことをよく思ってはいないだろう、と関羽は推察していたのだが。
 とはいえ、まさか丞相を疎んではいないのかなどと問いただせるはずもない。この会話とて、どこで誰が聞いているかわかったものではないのだ。関羽はそう考え、疑問を無理やり押し込めた。
  

 ――もしこのとき、関羽がその問いを口にしていれば、劉協はためらいつつもこう口にしていただろう。
『皇帝の無力は、皇帝自身のみならず、忠臣の生き方にさえ悪しき影響を及ぼしてしまう。丞相はそのことをぼくに教えてくれました』
 曹操に庇護された当時、劉協は関羽の推測どおり曹操に対して深い隔意を抱いていた。曹操は劉協が信頼していた王允を討った相手なのだから、それは当然のことであったろう。
 そんな劉協の心情に変化をもたらしたのが、洛陽において王允が進行させていた陰謀の存在である。
 それを曹操から聞かされたときの衝撃を、劉協は今なお鮮明に覚えていた。
 王允が陰謀家であったとは思わない。漢王朝の、皇帝の無力が王允を陰謀にはしらせたのだ。逆にいえば、皇帝が十分な権威と力をもっていれば、王允が陰謀に手を染めることはなかったに違いない。


 年端もいかない年齢とはいえ、権力の荒波にもまれてきた劉協の聡明さは凡百の廷臣をはるかにしのぐ。皇帝権力を一朝一夕で回復させるのは不可能であり、そんな皇帝が権力者である曹操と反目を続けていては、第二、第三の王允を産んでしまう。
 それを避けるにはどうするか。考えた末に劉協は曹操へのわだかまりを捨てたのである。より正確にいえば、捨てるよう努力してきた。
 ただ、それは口に出して他者の理解や賛同を得る必要のない話である。ゆえに劉協はこの件に関して、誰に対しても余計なことを口にすることはなかった。

 



「解池を取り戻してくれた――くださった羽将軍の功をねぎらいたかった、というのはもちろんなんですけど、その、他にもいろいろと話をきき――ええと、お話をうかがいたくて」
「……あの、陛下、無理をなさらずとも。普段どおりにお話しください」
「い、いえ、何事も経験です、羽将軍。これからのこともありますから、伯和としてのしゃべり方に慣れておかないと」
 そういって気負ったように拳を握る劉協を見て、関羽の顔は自然とほころんだ。思わず「可愛い」と呟いてしまいそうになる。
 が、すぐに無礼に気づき、慌てて咳払いでごまかすと、関羽はとってつけたような問いを口にした。
「曹そ――いえ、丞相閣下がそう何度も宮廷から出ることを許すのですか?」
「きちんとした理由があれば。もちろん護衛はつきますけれど」
 それを聞いて、関羽は皇帝の随伴をしていた武人の姿を思い起こす。楽進と名乗った女性は、関羽の目から見ても相当の力量の持ち主であった。許昌の治安をつかさどる役職にあるというが、なるほど、彼女やその部下がいれば、そこらの曲者では相手にもなるまい。


 もっとも、たとえ危険が少ないにしても、曹操が皇帝に微行を許しているということが関羽には驚きであった。傀儡として担ぎ上げるのなら、その相手は愚かであればあるほど御しやすい、というのが一般的な考えだろう。市中を歩いて宮廷以外の世界に触れれば、いらぬ知恵をつけないとも限らないというのに。


 ただ、曹操にとって御しやすいということは、他者にとっても御しやすいということである。皇帝がそれではいつまでたっても宮廷が落ち着かない。
 それよりも、丞相の力なくして漢王室は成り立たず――皇帝にそう思わせ、皇帝自身の意思で曹操を頼らせた方がずっと良策であろう。そのためには市井を直に知らせることも有用なこと、と曹操は考えているのかもしれない。


(あるいは、これもまたわたしを許昌に引き止めるための策のひとつなのか)
 請われるままに劉協にこれまでのことを話しながら、関羽はそんなことを考える。
 関羽の主君は言うまでもなく劉備ただひとりであるが、漢王朝の臣である以上、劉協に対しても臣下の礼をとる必要がある。それは義務としての忠誠であるが、目を輝かせてこちらの話に聞き入る劉協の人柄に触れれば、義務を越えた感情もわいてしまう。曹操はそれを狙っているのかもしれない。


 むろん、いかに劉協に好感を抱いたとしても、劉備と袂を分かつ意思は関羽にはない。ないのだが――
「羽将軍、また来ても、いいですか。できれば、もっと話をしたいです」
「もちろんです、と申し上げたいのですが、たびたび陛下の御光来を仰ぐのは恐れおおうございます。お呼びいただければ、すぐに宮廷に参じますゆえ」
「それではまわりに廷臣が多くて、聞きたいことも聞けないです。それに、今は『陛下』ではなく『伯和』ですよ」
 ――直ぐな眼差しで自分を見上げてくる少年帝のためと思えば、曹操の下で戦うことにもそれなりの意義を見出せてしまいそうな自分は、やはり単純な性格なのかもしれない。
 趙雲あたりが聞けば、今さらだな、と大声で笑い出しそうなことを考えつつ、関羽は去り行く皇帝の背を見送るのだった。







 そして今。
 望まずして勝敗の鍵をあずけられる形となった関羽は、官渡水のほとりで嘆息まじりに呟いていた。
「どこから企み、どこまで見通しているのか。虚実の駆け引きは戦の常とはいえ、ここまでこんがらがった戦いはそうそうないぞ」
 烏巣で敗れた曹操軍は、すでに軍としての形を維持することもできず、ひたすら南の方角に向けて逃げ続けているという。
 曹操の身辺を守る兵は千に満たず、この小部隊を捉えるために袁紹軍は急追を続けており、結果、陣列は細く長く伸びてしまっているらしい。敵地における行軍にしては無用心であるが、みずから追撃の先頭に立つ袁紹は、ここで追撃速度を落として曹操を取り逃がすことを恐れたのだろう。


 今日まで細心の注意を払って袁紹軍に――否、袁紹個人に勝利の確信を与え続けてきた曹操の策が、いよいよ結実しつつある。


 ただ、ここまでの劣勢をはたして曹操は想定していたのだろうか。その点について関羽はいささか疑問を抱いていた。
 関羽や張遼の配置などを見れば、曹操が意図して現在の戦況をつくりだしたことは明らかである。だが、今の状況では、たとえば関羽がわずかでも行動を遅らせれば、曹操は袁紹に討ち取られてしまう恐れがあった。
 むろん、まがりなりにも曹操の指揮をあおぐ以上、そんな卑劣な手段を講じるつもりは関羽にはない。だが、曹操がそこまで無条件にこちらを信用しているのかと考えれば、答えは否定に傾いた。あの曹孟徳がそこまで甘いとはどうしても思えないのだ。
 となると、劉協と関羽を接近させたのも、こういった事態に備え、少しでも関羽の心を許昌の側に寄せ、造反を防ぐ思惑もあったのかもしれぬ……



 そこまで考えてから、関羽は小さく息を吐き出した。そして、わずかに肩をすくめると、内心の懊悩を振り払うために軽く頬を叩く。
「ここでいくら考えようとも詮無きことだな」
 そう、こんなところで曹操の胸中をさぐり、思考の迷路に迷い込んでも仕方ない。
 劉備の下に帰参するため、徐州での借りを一日でも早く返す。そのために、今は曹操の覇業に力を貸すこともやむなし。その結論がかわることはないのだから。


 ただ、それはそれとして納得しつつ、やはりここの空気は肌にあわないと関羽は痛感していた。許昌にいるかぎり、今回のように事あるごとに曹操の真意を忖度して身を処さねばならず、それは考えるだけで気がめいる。
「陛下には申し訳ないが、やはり都は私のいるべき場所ではないな。今の戦況が曹操の予測を越えるものであるのなら、この一戦で借りを返すこともできるだろう。そうすれば、皆で桃香さまの下に戻れるというものだ」
 出陣前、武運を祈ってくれた少年帝の真摯な眼差しと、遠く離れた義姉の笑顔、さらには今も虎牢関で戦っているであろう朋輩の姿を心に思い浮かべながら、関羽は麾下の部隊に命令を下す。そして、自ら先頭をきって駆け出した。


 河風にたなびく黒髪をそのままに、青竜偃月刀を引っさげて駆け出す関羽の後に五百の兵が続く。その中に、関羽と同様に曹操軍とは異なる兵装を身につけている者たちが見てとれる。淮北、淮南の戦で生き残った劉家軍の兵士たちであった。




◆◆◆




「おーっほっほっ……ぐ、げふんげふん」
「あのー麗羽さま、お疲れなんですから、無理して笑おうとなさらなくても」
「な、何をおっしゃっているのやら。いよいよ華琳さんを追い詰めようという今このときに笑わずして、一体いつ笑えというんですの?!」
「いや、別にいつでもいいと思いますけど」
 よくわからない理屈でくってかかってくる主君に困り顔で返答しつつ、顔良は何度目のことか、袁紹に注意を促した。


「それはともかく、麗羽さま、少し前に出すぎだと思います。危ないのでもうちょっと後ろにさがってもらえません?」
「ふん! 敵のへろへろ矢がこのわたくしに当たるとでもお思いですの? そもそも向こうは逃げるばかりで反撃の素振りも見せないではありませんか」
「それはそうなんですけど、万一ってこともありますから」
「万一などありませんわ。この袁家の宝刀で華琳さんの首をすぱーんと打ち落とす好機、逃してなるものですか。河北四州を統べるこの袁本初は、いついかなるときも退かず、媚びず、省みぬのです、おーっほっほっほっ!」
「退かず媚びずはともかく、省みることはしましょうよ、麗羽さま……」


 どうあっても下がりそうにない袁紹を見て、顔良はどうしたものかと困惑した。
 これが袁紹の暴走だというなら顔良としても強い言葉で諌めることができる。だが、困ったことに、袁紹の判断はこれはこれで間違っていないのだ。むしろ袁紹こそが正しく、あくまで慎重論を唱える顔良の方が味方の勢いを殺いでいるという見方もできる。


 ただ、白馬から烏巣を経て官渡に至るまで、袁紹軍は猛追を続けてきた。顔良は間延びを防ぐべく努めてきたが、ここまでの急追となると、どうしても陣列に乱れが生じてしまう。くわえて、最低限の休息のみで追撃を続けてきたため、将兵の心身に蓄積した疲労も無視できない。
 むろん、休みなく追われ続けてきた曹操軍の疲労はこちら以上だろうから、疲労がただちに戦況に影響を及ぼすことはあるまいが、何かの拍子で敵が勢いを盛り返してしまうと厄介なことになる。張遼の奇襲をしのいだ上はもう伏兵はないと思うが、それでも相手は曹操である。何か隠し球を持っているのではないか、との疑いを顔良は捨て切れていなかった。


 そういったあれやこれやを考えあわせ、やはりあと一歩だからこそ慎重に進むべきだ、と顔良は結論づけているのだが、ここまで来た以上は完全に曹操の息の根を止めてしまいたいという袁紹の思いも理解できた。
 なにしろ、ここで曹操を討ち取ることができれば、今後の河南制圧に要する時間と兵力を大幅に削減することができるのだから――まあ、袁紹がそこまで考えているのかについては、多少の疑問符がつくのだけれど。




 と、顔良がそんなことを考えていると、前方から一騎の兵が土埃を蹴立てて駆け寄ってきた。顔良が先刻放っておいた偵騎のひとりである。
 その偵騎は馬をおりると、膝をつくのももどかしいといった様子で息せき切って袁紹に報告した。
「申し上げます! ここより西方三里の丘向こうに敵将曹操の牙門旗を確認いたしましたッ! 数はおよそ五百!!」
 それは袁紹軍にとって待ちに待った報告であった。袁紹が快哉を叫ぶ。
「捉えましたわッ! 斗詩さん、まさかここまできて慎重論を唱えたりはいたしませんわよね?」
「意地悪なこといわないでくださいよー」
 三里(一里は四百メートル強)ということは、騎兵を使えば目と鼻の先である。さすがの顔良も、この報告を聞いて逡巡したりはしない。
 ただそれでも、万一に備えて自身が先頭を切るよう配慮を忘れないあたりが、顔良の顔良たるゆえんであっただろうか。


「それじゃあ麗羽さま、わたしが先に行きますから、麗羽さまは後からゆっくりついてきてくださいねー。あ、なんだったらちょっと休憩しててもいいですよ、曹操さんはちゃんと連れてきますから」
「ここまできて何をおっしゃるやら。ここはわたくしみずから先頭に立ち――」
「えー? でも、真打は最後に登場しないと格好がつきませんよ?」
「さあ斗詩さん、わたくしのために見事前座をつとめてきてくださいな」
「はーい、了解でーす」


 巧み(?)に袁紹を説得した顔良は、疲労の少ない本陣の騎兵を中心として手早く二千あまりの急襲部隊を組織する。向こうがこちらの接近に気づく前に、迅速に撃破しなくてはならない。
 元々追撃の途中だったこともあり、手配はすぐに終わった。顔良は自分の愛馬に歩み寄りながら、この戦いに間に合わなかった同輩の顔を思い浮かべて頬をかく。
「文ちゃん、間に合わなかったかー。まあ張遼さんが相手ならしょうがないんだけど、いいところ取られたーって後でぼやかれそうだなあ」
 そうして、明らかに疲れが見える自分の馬のたてがみを軽くなで、優しく語りかける。
「もう少しで終わるから、あとちょっと頑張ってね。あとで好物の麦、たっくさん食べさせてあげるから」
 顔良が話しかけると、馬は心得たように蹄で地面をかく。
 顔良はもういちどたてがみを撫でてから鞍にまたがり、急襲部隊に命令を下した。




 『顔』の旗を中心とした一隊は速やかに本陣を離れ、西の方角へ向けて駆けていく。あたり一帯はなだらかな地形が続いており、かなり遠方まで見通しがきいた。偵騎が報告した「西方三里の丘」もすぐに見当をつけることができた。
 顔良が見るかぎり、丘の傾斜はかなり緩やかで、難なく丘上まで駆け上がることができそうだった。駆け上ったら、後は眼下に見えるはずの曹操軍めがけて突撃すれば、この戦いに決着がつく。
 この勝利は袁紹の大陸制覇において最も意義あるものとなるに違いなく、そのことを思えば、何かと制御役に回ることが多い顔良も心が浮き立つのを抑えることができなかった。




 それを油断と責めるのは酷であろう。迂闊となじるのは不当であろう。
 だが、しかし。
 自分たちよりわずかに早く、丘向こうからあらわれた一隊が丘上に達するのを見たとき、自部隊の足を止めてしまった顔良の判断は非難されてしかるべきであった。




 言うまでもなく、これは関羽率いる部隊である。この時、顔良が咄嗟に足を止めてしまった理由のひとつは、関羽の部隊が劉家軍の兵装を身につけていたことにあった。実のところ、その数は百名に満たない程度であったのだが、先頭を駆ける関羽と、その周囲を固める劉家の兵の姿が真っ先に顔良の目を引いたのは、ある意味当然のこと。
 そして、相手の正体がわからなかった顔良は、眼前の部隊を一気に蹴散らす決断を下しかねた。丘から駆け下る側が、駆け上がる側より勢いに優るのは自明の理。くわえて、どこか見覚えのある軍装を見て、もしかしたら袁紹軍に味方する在野の勢力かもしれない、とも考えた。


 もしこのとき、顔良が委細かまわず突撃を続けていれば、その後の中華帝国は異なる歴史を歩んだかもしれない。かりに関羽の部隊が袁紹軍の味方をするべく参じた勢力であったとしても、曹操を討つ好機を邪魔している事実に違いはなく、これを蹴散らしたところで顔良を責める声があがることはなかったであろう。たとえば袁紹がこの場にいれば「おどきなさいッ!」と一喝して押し通っただろうし、文醜であれば「邪魔すんな」と言い捨てて突き進んだに違いない。


 だが、この場にいたのは袁紹ではなく、文醜でもなく、顔良であった。


 時間にすれば、ほんのわずかな逡巡。しかし、その逡巡が河北兵の足を止めたのは事実であり――対照的に関羽にはためらいも戸惑いもなかった。顔良の旗めがけて一気に丘を駆け下る。
 一本の征矢のごとく、一直線に此方に向かって突き進んでくる関羽の姿を遠望した顔良の背に氷塊がすべりおちる。
 その悪寒の正体が判明したのは、敵将の後ろに続く部隊が『関』の軍旗を掲げた瞬間であった。それを見て、顔良は眼前の敵手が誰であるかを悟る。


 解池奪還戦において、関羽が曹操軍の指揮をとった情報は袁紹軍も掴んでいた。だが、その後、曹操が関羽を登用したという情報はなく、あの曹操が中原の覇権をめぐる重要な戦で降将を起用するような博打に打って出るとも思えなかったため、ほとんどの者たちは関羽の存在を忘却していた。
 かりに覚えていた者がいたとしても、まさかこの段階で関羽があらわれるとは予想だにしていなかっただろう。


「漢寿亭侯、関雲長推参! 雑兵は道をあけよ。所望するのは将の首級のみだッ!」
 大喝と共に突入してきた関羽の勢いに、河北兵ははっきりと気圧された。関羽の顔を知らない者はいても、その武名を知らない者はいない。八十二斤の青竜偃月刀を繰り、飛将呂布と互角に渡り合ったという美髪公。
 その偃月刀が、眼前で振るわれている。
 怖じた者には見向きもせず、自らの前に立ちはだかる騎兵のみをねらって次々に鞍上から斬って捨てる様は、武神の名に恥じないものであった。


 今もまた、横合いから突きかかって来た敵兵がいた。関羽はその槍を避けるや、気合一閃、偃月刀を振り下ろす。偃月刀はその切れ味と重量で河北兵の身体を断ち割り、その兵は血と臓物を驟雨のごとく撒き散らしながら地面に倒れていった。地面に転がった兵の屍が、右の肩から左の腰にかけてほとんど両断されているのを見て、周囲の兵士から悲鳴じみた喚声がわきあがる。
 主人を失った馬が悲痛ないななきをあげて駆け去る頃には、関羽の姿はすでにそこにない。馬足をまったく緩めることなく、奥へ奥へと突き進む。関羽の偃月刀が振るわれる都度、河南の大地は河北兵の血を吸いこんでいった。


 そうして関羽が開けた陣列の穴に、麾下の部隊が喊声と共に突っ込み、さらに傷口を広げていく。
 この場にいる河北兵は本隊に配されるほどの精鋭である。そうそう敵に遅れをとるわけはないのだが、この時ばかりは関羽の部隊に一方的に斬りたてられ、突き崩され、追い立てられた。積み重なった疲労や予期せぬ伏兵に対する驚き等、理由は幾つもあげられるが、結局のところ、機先を制した関羽の勢いに圧倒されたのである。


 この猛攻を前に、顔良はただ呆然としていたわけではない。たとえ相手が音にきこえた関雲長であるとしても、兵数は袁紹軍が数倍するのだ。多少勢いに差があったとしてもすぐに覆滅できるはず。くわえて、後方の袁紹もすぐに援軍を派遣してくれるだろう。
 顔良はそう考え、またそう口にして周囲の兵を励まし、迎撃の指揮を執った。執りつづけた。
 あるいは、相手が関羽でさえなければ、顔良はこの攻撃を防ぎ切ることができたかもしれない。袁紹の援軍が来るまで耐え抜くことができたかもしれない。



 ――しかし。
「そこにいるのは敵将顔良と見受けた」
 関羽の鋭鋒はついに顔良の堅陣を突き破り、両将は至近の距離で対峙する。
 青竜偃月刀が陽光を反射して眩くきらめいた。





◆◆◆




 虎牢関 軍議の間


「函谷関?」
 まったく予期していなかった言葉を聞き、徐晃は思わず眼前の人物の顔を見つめてしまう。
 眼前の人物――官渡の勝報を聞き、皆が沸き立つ中、ただひとり厳しい表情を崩さなかった北郷一刀の顔を。



 曹操軍、官渡にて袁紹軍主力部隊を撃破。
 敵将顔良を討ち取り、反攻を開始せり。


 許昌からの急使によって伝えられたその吉報を受け、北郷が徐晃に下した命令は、函谷関に行くように、というものであった。
 すでに軍議は解散しており、棗祗、鍾会その他の将は北郷の命令に従って関内に散っている。部屋に残っているのは徐晃と司馬懿、司馬孚の姉妹のみであり、この三人を部屋に残したのはおそらく意図的なものだった。
 徐晃の戸惑いまじりの反問に対し、北郷はなおも厳しい顔つきのまま話を続ける。ときおり口元に手をあてて言葉を途切れさせるのは、おそらく頭の中で現在進行形で作戦を組み立てているからなのだろう。


「そうだ。公明は函谷関に行って、弘農勢に官渡の勝利を伝えてくれ。別に曹操軍に味方するようにとか言わなくていい。ただ伝えるだけで、おそらく連中は動く。そして、仲達、叔達」
「はい」
「は、はいッ」
「二人は一度許昌に……いや、それだと間に合わないか。張太守はともかく、荀彧あたりに見つかると面倒だしな。かといって、さすがに独断だとまずいし。ああ、そうだ。さっきの急使に書簡を託すか。そうすれば、かなり途中経過を省略できる――」


 呼びかけておきながら、なにやらぶつぶつと呟きだした北郷を見て、司馬家の三女は不思議そうに声をかけた。
「あ、あの、お兄様?」
「っと、ごめんごめん。そうだな、二人はこれから温に向かってくれ」
 ここで北郷が口にした温とは司馬家の本領、司州河内郡温県のことである。
 徐晃はそれを知り、首をかしげた。函谷関へ行け、という徐晃への命令の意図は弘農勢を引き込むため。それは理解した。
 だが、官渡の勝利を知り、司馬姉妹を温に向かわせる理由についてはまったくわからない。それは自分だけかとちょっと心配した徐晃であったが、幸いというかなんというか、司馬孚も、そして司馬懿さえわずかに怪訝そうな表情を見せていた。


 そんな三人に説明するため――というよりは話の流れにそってのことであろうが、北郷は言葉を重ねた。
「官渡の勝利を知れば、河内郡の曹操軍も一斉に反撃に出る。主力が軒並み黄河を渡った并州勢ではもちこたえられないだろう。もし温が占領されているようなら、奪回は容易だ」
「えっと、お兄様はわたしたちの郷里を案じてくださっているのですか?」
 司馬孚の言葉には隠し切れない戸惑いが含まれていた。并州勢が縦断してきた河内郡で、郷里の温県がどうなったのか、たしかに司馬孚はずっと気にしていた。地図の上で并州勢の拠点である壷関と洛陽をつなげると、温はかなり危険な位置にあるからだ。
 だが、いってみればそれは私事に過ぎない。温が陥落していようと、もちこたえていようと、全体の戦局に及ぼす影響は些少であり、その温を救援するため、司馬孚自身はともかく姉の司馬懿を主戦場から遠ざけてしまえば、それだけ北郷の戦いが苦しくなってしまう。それは良くないことだ、と司馬孚は言外に告げていた。


 そんな司馬孚の胸中を察したのか、北郷は厳しかった表情をわずかにゆるめた。
「一度、歓待してもらった場所だからな、もちろん案じてはいるさ。けど、二人に温にいってもらう理由はそれだけじゃない」
 温は司馬家の本拠であり、つい先ごろまで司馬孚が立派に治めていた土地でもある。司馬家の声望は今回の一件でかなり傷ついてしまっただろうが、宮廷内や豪族同士の関係はともかく、土地の民衆に染みた威徳はそう簡単に消え去るものではない。他の土地にくらべれば人脈も豊富であろう。できれば、それを利用したいのだ、と北郷は言った。


 そして、何のために利用するのかも北郷は口にした。
 北郷の指先が卓の上に据えられる。そこには軍議の際に用いられていた地図が置かれていた。洛陽を中心として、北は河内郡から南は南陽郡まで記された軍用地図である。
 北郷がはじめに指し示したのは、洛陽の東、虎牢関と記された地点。そこから指を上――つまりは北の方角に向けた。虎牢関を離れた指先はすぐに黄河を越え、河内郡に達し、温を通過し、そしてさらに上へと伸びていく。
「あれ?」
「え、え?」
 思わず徐晃が声をあげてしまったのは、北郷の指先が地図からはみだしてしまったからだった。司馬孚のびっくりした声も理由は同じだろう。
 動じなかったのは司馬懿のみ。その目はわずかに底光りして見えた。


 何かに導かれるように、北郷の指は何も記されていない卓の上を進み続ける。
 といっても、それはわずか数秒のこと。ほどなく指をとめた北郷は、淡々とした調子で意地の悪いことを言い出した。
「問題です。俺がいま指をさしているのはどこでしょう? はい、公明」
「え゛」
「制限時間は三秒です。はい、一、二……」
「あ、ちょ、えーとその、つ、机……?」
「――――――すまない、ちょっと調子に乗った」
「謝られた?!」
「その発想はありませんでした」
「感心された?!」
「…………」
「しまいにはそっと視線をはずされたよ?!」


 北郷からは心底申し訳なさそうに謝られ、司馬懿からはぽんと両手を叩いて感心され、司馬孚からは気遣わしげに目をそらされ――とわけがわからず戸惑う徐晃だったが、答えが并州の壷関だと聞かされて自分の勘違いに気がついた。
 要するに卓上の地図が并州まで記載されていなかったので、北郷は地図が続いていれば壷関が記されていたであろう場所を指し示し、ここがどこかわかるか、と気取って問いかけたのだ。
 そうと知って徐晃は首筋まで朱で染めた。自分の答えがいかに間抜けなものであったのかを思えば、羞恥を感じずにいられようか。


「そ、それなら最初からそういってくれれば良いと思うッ」
 思わずバンバンッと力いっぱい卓を叩いてしまう徐晃。北郷は首をすくめて頭を下げた。
「いや、まったくそのとおり。本気ですまんかった」
「本当に申し訳なさそうな感じなのが、逆にすごくイヤだよ、もう!」
 さらに声を高めかけた徐晃であったが、すぐにもっと重要なことに気がつき、開きかけた口を閉ざした。
 もっと重要なこと。この戦況で北郷が壷関という敵拠点を挙げたことの意味。
 それは――


 徐晃だけでなく、司馬姉妹からも問う眼差しを向けられ、北郷は気を取り直したようにゆっくりとうなずき、そして言った。
「壷関を落とす。公明に函谷関に行ってもらうのも、仲達と叔達に温に行ってもらうのも、そのための布石だ」





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/05/20 21:15

 壷関はその名のとおり関、つまり虎牢関や汜水関と同様の軍事拠点であり、州牧である高幹はここを并州攻略の拠点としている。州都である晋陽をおさえている高幹が、晋陽ではなく壷関を拠点としている理由は、ひとえに壷関の地理的重要性に求められた。
 袁紹があらたに本拠地に定めた鄴は太行山脈を西の守りとしている。冀州と并州を分かつこの巨大山脈は険阻な地形で知られ、これを越えるためには南北いずれかに迂回するか、あるいは山間の隘路(狭くて通るのが難しい道)を抜けるしかない。そして、壷関は鄴へと通じる隘路を扼する要衝なのである。


 壷関が健在であるかぎり、曹操軍が太行山脈を越えて鄴へ侵攻することはできない。逆に曹操軍に壷関を落とされてしまえば、袁紹軍は鄴の守備に大兵を割かねばならなくなり、結果、今後の河北軍の作戦行動は著しく制限されることになるだろう。
 だからこそ、壷関の守りはきわめて堅い。五万や六万の兵ではびくともせず、十万以上の兵力を動員すれば、今度は峻険な地形が進軍を阻む。虎牢関や汜水関にまさるとも劣らぬ難攻の関だといえる。




 その壷関を落とす、と俺は言明した。
 つい先刻まで陥落の危機に瀕していた虎牢関で、眼前の張恰の部隊さえ排除していない戦況で発されたその言葉は、客観的に見れば大言というよりも妄言に類するものであったろう。この場にいるのが徐晃たちでなければ、間違いなく一笑に付されていたはずだ。
 だが、今ここで俺を笑う者はいない。そのことにささやかな幸せを感じていると、徐晃が戸惑いがちに問いかけてきた。
「どうして? あと、どうやって?」
「『どうして』の方は必要だから。『どうやって』の方は、官渡の敗戦で大混乱に陥る袁紹軍の隙をついて、だな。今なら落とせる、というより今でないと落とせない」


 その答えはどうやら説明不十分だったようで、徐晃は戸惑いを消さないまま問いを重ねてきた。
「必要っていっても、官軍が官渡で勝ったことが伝われば、洛陽の袁紹軍は退くよね? 一刀の任務は虎牢関を守ることなんだから、このままここで許昌からの援軍を待っているだけで良いとおもうんだけど。それ以上の手柄が必要だっていうんなら、袁紹軍が黄河に達したときに後ろから追い撃てば、たぶん勝てるよ。わたしが函谷関に行くのは、それを確実にするためだと思ってた」
「もちろんそれもある。ただ、河南から袁紹軍を追い払うだけなら、必ずしも弘農勢を引っ張りだす必要はない。曹操軍だけで十分だ。さっきの使者の言葉どおりなら、じきに許昌から援軍が来るしな。俺がほしいのは、その先に攻め込む戦力なんだ」
「その先?」
「ああ」
 うなずく俺の脳裏には、洛陽で出会った張繍の顔がよぎっていた。


「一度は洛陽政権についた弘農勢だ。仰ぐ旗をかえるとなると、それなりの働きを見せないといけないことはわかっているだろ。高幹たちの首級は、そのための格好の手土産になる。黄河の南で討ち取れればそれでよし。討ち取れなければ、その先まで追って追って追いまくるだろうさ」
 問題は高幹たちが洛陽にたてこもった場合だが、実のところ、こっちの方が俺にとって都合が良かったりする。現在の洛陽の富力では高幹の手勢を養いきれないのは明らかなので、河内郡を制して并州からの兵站を断ち切ってしまえば、洛陽にたてこもった袁紹軍は枯死するしかない。屈服させた南陽勢も洛陽城内でおとなしくしているかどうか。さらにいえば、高幹が洛陽にたてこもるということは、それだけ長く并州勢の主力が本拠地を留守にすることにつながり、その意味でもありがたい。


 高幹らが官渡の敗戦を信じず、このまま攻撃を続行してくる可能性もないことはないが、今しがた口にしたとおり許昌からの援軍が来ることは確定しているし、将兵の士気は昼間とは段違いに高まっている。こうなれば、相手が張恰とはいえ簡単に負けはしない。
 そうこうしているうちに官渡の詳報は伝わってくるし、并州からの兵站を断ち切ってしまえば、敵は否応なく敗戦の事実に気づかざるを得なくなる。


 結論としては、高幹が退却するにせよ、篭城するにせよ、あるいは攻撃を続行するにせよ、曹操軍は虎牢関を保つことができる。時間をかければ洛陽も勝手に転がり込んでくるだろう。俺たちにとっても曹操軍にとってもめでたしめでたしであり、徐晃がはじめに口にしたとおり、あえて壷関襲撃を行う必要性はないように見える。
 だが、その場合、俺たちが得られる手柄は虎牢関を守りきったという最低限のものでしかない。
 勝ちを決定付けたのが主戦場で戦った曹操である以上、これは当然のことである。まあ最低限とはいっても、袁紹軍の急襲に耐えきったことでそれなりの評価はあたえられるだろうが、今回ばかりはそれで満足するわけにはいかなかった。


 もともと、今回俺たちが従軍したこと自体が功をもって罪をつぐなうことを前提としたものだった。
 劉家軍の一員として曹操と敵対した俺、白波賊として皇甫嵩を討った徐晃、一族から叛逆者を出した司馬孚と、当の叛逆者である司馬懿。俺がいうのもなんだが、どれだけの功績を積み上げれば足りるのか分かったものではない面子といえよう。
 ゆえに、俺が求めるのは曹操に恩を売れるくらいの巨大な手柄であり、助命の選択肢をうみだす問答無用の武勲だった。そのために、手が届く功績はすべてかっさらう所存である。




 では、何故に壷関なのか。
 俺はなるべく丁寧に自分の意図を説明した。
「官渡で勝った、戦況は一気に官軍に傾いた。これは間違いないが、じゃあこれで袁家が崩壊するかといったらそんなことはない。袁紹が生きているか死んでいるかでだいぶ変わってくるけど、戦いはこれからも続く」
 黎陽に集結していた袁紹軍三十万のうち、黄河を渡ったのは二十万。大軍ではあるが、仮にこの主力部隊が全滅したとしても、各地に配した部隊を集結させれば再戦は難しくない。もちろん、そのためには時間がかかるので、曹操軍が息もつかせず攻撃を続ければ袁紹軍は各個撃破の憂き目に遭うだろう。


 だが、はたして曹操軍にそれだけの余力が残っているのか。曹操軍も白馬から官渡にいたる退却行の過程でかなりの被害を受けたと聞く。反撃の勢いにのって一気に黄河を渡って――などというマネは難しいと考えられるのだ。
 となると、どうなるか。
 互いに甚大な被害をうけた両軍は、再び黄河を挟んでにらみ合いを続けることになる、というのが俺の予測だった。
 実際、黄河を渡った二十万の兵が全滅するとは考えにくく、黎陽に逃げのびた兵士と延津に向かった十万が合流すれば、まだ十分曹操軍と戦えるだけの戦力となる。顔良を失った袁紹が素直に負けを認めて兵を引き払うとは思えないから、この推測はおそらくはずれない。


 そうなってしまうと、戦局の秤は再び国力に優る袁紹軍の側に傾きかねない。曹操としてもこれは避けたいだろう。
 この膠着状態を避けるためには、袁紹ないしその側近に「退却もやむなし」と判断してもらう必要がある。壷関を落とし、本拠地である鄴を揺さぶることは、袁家の君臣にその判断を突きつける一手となるはずであった。
 仮に袁紹が黎陽に滞陣しつづけたとしても、少なからぬ兵を鄴の守備に割かねばならなくなるのは前述したとおり。つけくわえれば、壷関の陥落は并州の他の袁紹軍にも大きな影響を及ぼす。鄴とつながる壷関を落とせば、并州における袁家の影響力は大きく損なわれるから、各地の城主や豪族の中には朝廷に従う者も出てくるはず――と、まあ、ここまでくると、捕らぬ狸の皮算用も甚だしいけれど、そこは気にしない方向で。


 とにかく、壷関を落とすことができれば、朝廷と曹操が得られる利益は計り知れない。
 并州の州牧が麾下の精鋭をひきつれ、河内郡を完全に降す前に勇んで黄河を渡ってくる、などという好機がこれから先めぐってくるはずもない以上、この利益を掴めるのは今この時をおいて他にない。
 仮に袁紹がすでに討ち取られていた場合、後継者のない袁家は間違いなく分裂するから、壷関陥落のご利益は多少薄れるが、それでも鄴の喉下を押さえること、さらに并州制圧の重要な布石となることを考えれば、十分すぎるほどの成果といえる。





 ここで、それまで黙って聞き入っていた司馬懿が得心したように小さくうなずいた。
「私たちを温に遣わす理由は、壷関を落とす手勢を得るため、ですね」
「ああ。俺が預かった兵は虎牢関を守るための兵だからな。洛陽攻め、黄河への追撃、そこまではともかく、黄河を渡って壷関までとなるといろいろ面倒になる」
 具体的にいうと、鍾会が絶対異議を唱えてくるに違いない。自分の手柄のために官兵を私物化し、いらぬ危険にさらそうというのか、と。
 その論法で責め立てられた場合、俺には言い解く術がない。事実、そのとおりだからして。


 ゆえに、高幹たちを河南から追い払った段階で、俺は今率いている曹操軍の指揮を棗祗なり鍾会なりに任せる。このあたりは書簡で張莫に許可を求めておくつもりだが、この時点で虎牢関の危機は去っているわけだから、あとあと問題になることはない――といいなあ、なんて遠い目で考えてみる。ぶっちゃけ、今はそこまで考えている暇はないので後回し。事後承諾万歳。
 で、その後、俺自身は軍監的な立場で弘農勢にくっついていくつもりだった。弘農勢が危険を冒す分には鍾会も文句は言わないはずだし、一方の弘農勢も手柄がほしいのはこちらと同様だから、俺という曹操領内の通行手形を拒否することはないと判断できる。


 そうして弘農勢に高幹らを追撃させる一方、温で司馬姉妹が募った兵力をもって壷関への侵攻を開始する。
 高幹や張恰が壷関に腰を据えていれば成功するはずのない作戦だが、今の壷関は主要な将が(おそらく)おらず、精兵も(たぶん)なく、官渡の詳報も(きっと)伝わっておらず、で混乱しているはずだ。おまけに、まさか曹操軍が長駆して襲ってくるとは夢にも思っていないに違いない。やりようによっては陥落させることは十分に可能であろう。


 あと、これはあえて口にしなかったが、司馬家の兵が中心となって壷関を落とせば、その功績の大部分は司馬家のものとなる。それは家長たる司馬孚のものであり、実際に兵を率いて壷関を落とした司馬懿の武勲は満天下に知れ渡る。そうなれば司馬家の存続、司馬懿の助命について、曹操の決断の秤を一方に傾けることもかなうのではあるまいか。少なくとも、このまま虎牢関でじっとしているより可能性が高まることだけは間違いない。


 もちろん、すべては成功を前提にしての話であり、失敗したら目もあてられないことになる。だが、失敗を恐れてためらった挙句、司馬家は断絶、司馬懿は処刑、徐晃もこれまでの罪を問われて弟妹ともども放逐――などという事態になったら、それこそシャレにならない。司馬懿はともかく、徐晃と司馬孚に関しては現状の功績で十分だと思うが、それも絶対ではないのだ。
 そんなことを考えていると、司馬懿がなおも俺を見つめていることに気づく。
 まだ何か訊きたいことがあるのだろうか。
 俺が促すと、司馬懿はひとつひとつ言葉を選ぶようにして話し始めた。


「私と螢を温に遣わすのは司馬家の手勢を集めるため。そして、司馬家の手勢で壷関を落とすのは、司馬家の力なくして壷関陥落はありえなかったと諸方に知らしめるため。すなわち、北郷さまは司馬家を守るために壷関強襲を決断なされた。この推測は間違っているでしょうか?」
 静かな声は問いかけというより確認であった。俺があえて口にしなかった部分を実にあっさりと見抜いている。
 一瞬、ごまかそうかとも考えたが、司馬懿や、その隣にいる司馬孚の顔を見るかぎり無駄な努力に終わりそうだったので諦めた。
「いや、間違ってない」
 頭をかきつつ返答すると、司馬懿は困ったような顔でそっと息を吐いた。予想どおりの答えだったのだろう。たぶん、俺が壷関を指し示したあたりから察していたものと思われる。




 不意に窓から夜風が吹き込んできた。かすかに聞こえる歓声は、いまだ興奮さめやらない将兵のものだろう。
「――洛陽で」
 その声が、一時、外にそらされた意識を室内に引き戻す。
 視線を戻せば、夜風で乱れた黒髪をそっとおさえながら、司馬懿が真摯な眼差しで俺を見つめていた。
「螢と北郷さまが行動を共にしていると知った時から、うかがいたかったことがあります」
 深みのある黒の瞳が俺を捉える。吸い込まれてしまいそうな、という表現をたまに聞くが、あれはきっとこんな目を指して言うのだろう。
 その眼差しのまま、本当に不思議そうな顔で、
「どうして、あなたはそんなにも優しいのですか?」
 司馬懿はそんな問いを口にした。


「……優しい? 俺が?」
「はい」
 一瞬、聞き間違えたかと思ったが、そうではなかったらしい。司馬懿の隣では、司馬孚が姉と良く似たまなざしで俺を見上げている。申し合わせていたわけでもないだろうが、姉妹が知りたいと思うことは共通していたらしい。
 気を利かせたのか、視界の隅で徐晃が窓辺に歩み寄り、静かに窓を閉めているのが見えた。


 静まり返った室内に、ふたたび司馬懿の声が響く。
「今日まで北郷さまと公明さま、そして螢が積み上げた武勲は、すでに朝廷の疑惑を払うには十分なものとなっているはずです。虎牢が早い段階で陥落していれば、官渡での勝利を掴む前に敵対勢力が都に達していた可能性は高かった。皆様はわずかな手勢で、本軍が戦機を得るために必要不可欠な時を稼いだのです。この一事は曹丞相にきわめて高く評価されるでしょう。そのことはわかっておいでですよね?」
 それは反論する気がおきないほどに、強い確信が込められた言葉だった。
 俺にできたのはぽりぽりと頬をかくことくらいである。
 そんな俺にかまわず、司馬懿はなおも続けた。
「それにも関わらず、北郷さまは壷関襲撃を決断なされた。それは、北郷さまが『司馬家』の中に当然のように私を含めていらっしゃるからだと推察します。私が北郷さまに願ったのは、許昌で刑死するその時までお傍で戦わせてほしい、とただそれだけ。螢と司馬家を守ろうとしてくれた恩義に報いるためにお傍にいたいと願ったのに、その私を守るために北郷さまが戦われるのでは、本末転倒というものではありませんか」



 と、ここで司馬懿は小さく息を吐くと、恥じらうように顔を伏せた。
「……私のために戦ってくださっている、などと自らの口で申し上げるのは顔から火が出る思いなのですが、それ以外に考えようがないので仕方ありません。北郷さまがそのことを口になさらなかったのは、それを口にすれば私が反対すると考えていらしたからなのでしょう」
 司馬懿は伏せていた顔をあげると、一歩だけ、俺へと歩み寄った。
「北郷さまを欺き、洛陽へはしった私には過ぎた配慮です。そして、それだけの配慮をしておきながら、北郷さまはそれを当然のことだと考えているように見受けられます。螢のもとにきてくださったときもそうだったと伺いました。きっと公明さまにもそうなさったのでしょう。何も言わずに誰かのために命をかけ、果たした後に何の報いも望まない。それは優しさだけで為せることではありませんが、優しくなければ決して為せないことです」



 これ以上ないほど真剣な顔でそう言われ、俺は思わず絶句してしまった。たぶん、今、俺の顔は真っ赤だろう。なんですか、その激賞。誰ですか、そのヒーロー。はい、俺ですね――顔から火が出そうなのはこっちだよ?!
 いかん、なんか司馬懿の中で俺の評価が妙な方向に突っ走りつつある気がする。ここは急いで訂正しなくては。
「あ、いや、それはちがうぞ。さすがに俺はそこまでデキたやつじゃない。私利も私欲もあるんだよ」
「自分のためでもある。そう仰るのですね?」
「うむ、そのとーり」


 力強い俺のうなずきを見て、司馬懿は小首を傾げて問いを向けてきた。
「北郷さまは劉家の将。都での立身を望まないあなたが、武勲に固執する理由があるとすれば、それは関将軍らを解き放つためでしょう。ですが、先の解池と今回の戦いにおける美髪公の勲を見れば、もはやその必要はないと思えます。仮にまだ足りないとしても、この虎牢関を河北軍から守りきった北郷さまの武功をあわせれば、朝廷を説き伏せることは可能なはずです。今ここで、壷関を奪うためにあえて危険を冒す必要があるとは思えません」
 俺は開きかけた口を力なく閉ざした。訊ねておきながら答えを先取りし、あまつさえそれを封じてお茶を濁すことさえ許さないとか、司馬家の麒麟児はほんとタチが悪い。一番厄介なのが、これを計算づくではなく素でやっているところである。


「あー、その、だな」
「あるいはこうも考えました。殿方は女性の前で良い格好をしたいものだ、という以前のお言葉どおり、北郷さまは私たちに良いところを見せたいのか、と」
「げふごふげふッ?!」
「か、一刀?!」
「お兄様、大丈夫ですか?!」
 予期せぬ時に予期せぬ言葉を言われて盛大に咳き込んだ俺を見て、それまで黙って聞き入っていた徐晃と司馬孚がびっくりして声をあげた。
 手をあげて二人を制しながら、俺はなんとかかんとか立ち直る。
「うぐぁ……いや、大丈夫、うん、大丈夫だ」
 精神力の半分くらいもっていかれた気がしたが、まだきっと大丈夫に違いない。
 それよりも、喫緊の問題はきょとんとした顔でこっちを見ている司馬懿への対処だ。断言するが、きっと今の言葉がどれだけ俺にダメージを与えたのかを理解していない。早いところ解答しないと、とどめをさされかねん。


「……あーっと、それもないわけではないけれど、だな」
 しかしあれだ。自分で言うのも恥ずかしかったが、他人の口から聞かされると、また違った羞恥をおぼえるな。あの時の俺、よくこんな台詞を真顔で言えたもんだ。
 俺がひそかに内心でもだえていると、司馬懿はそれをどうとったのか、さらに言葉を重ねてきた。
「では、健気な女の子を守るために戦うのは男児の本懐だから、でしょうか? 螢とは違い、私は健気といえるほどの至誠を持ちあわせてはいませんけれど」
 ウボァー






「北郷さま、どうなさいました?」
「…………い、いや、なんでもない、ナンデモナイゾハハハ」
「あの、本当に大丈夫ですか?」
 心配そうに顔をのぞきこんでくる司馬懿は控えめにいっても可愛らしかったが、致命傷を与えたのがその司馬懿であるという不条理をどうしよう。ナチュラルに致死性の呪文を唱えてくるとは、麒麟児恐るべし。


 そういえば、俺が汜水関で司馬孚にいったことはすべて姉たちに伝わっていたんだっけ。
 司馬孚を見ると、申し訳なさそうに頭を下げられた。なにやら両手をもじもじさせているのは、俺がそれを口にしたときの状況を思い出したためだろうか。司馬孚を見ていると、こっちまで赤面してしまいそうになるので、俺は別の人物に話を振ることにした。
「たしか公明も話を聞いてたよな?」
 俺が訊ねると、徐晃が身をすくめるようにして頷く。
「……盗み聞きしたことは深く反省してます」
「素直でよろしい。じゃあ改めて言う必要はないな。基本的にあのときも今も、俺の考えはかわっていないよ。ただ、あの時に言わなかったこともある」


 あらためて他人に言うことではないのだが、聖人君子みたいに思われるのも居心地がわるい。
 俺は三人の顔を順に見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「仲達はさっき、俺を劉家の将と呼んでくれた。それは俺にとって嬉しいことだが、心が痛むことでもあるんだ」
 劉旗を仰ぎ、共に歩んでいた。支えてさえいるつもりだった。実際にはずっと――出会った頃からずっと、支えてもらってばかりだったというのに。ふん、気づくまでどれだけかかってるんだって話である。我が事ながら実に度し難い。関羽に吹っ飛ばされるのもやむなしといえよう。


 もっとも、そんな自嘲が何も生まないことはわかっている。自責の念につぶされている暇もない。そんなことをしていては、ますます置いていかれてしまう。
「許昌での俺の目的は、いま仲達がいったとおり、雲長どのたちを玄徳さまの下に帰参させることだ。もちろん俺も含めてな。その途中で仲達に出会い、叔達にお兄様と呼ばれ、公明に襲われるに至るわけだが」
「…………その節は本当にごめんなさい」
「ごめんごめん、冗談だ。で、その間、俺が君たちのために戦い、なおかつ何一つ報いを望んでいない、というのが仲達の指摘だったわけだが、これははっきり違うといえる」
 断言した後、俺はなんといったものか、と迷いつつ、こめかみのあたりを指先でとんとんと叩いた。俺の心ははっきりと決まっているが、いざそれを口にして説明するとなると、適切な言葉がなかなか見つからない。
 それでも、ひとつひとつ言葉を選びながら、なるべく正確に伝わるように努めた。





「俺は劉家軍を誇りに思っている。思い返すだに恥ずかしい無様をさらしはしたけどね、それでも玄徳さまたちと一緒に歩いてきたことは俺にとって宝物だ」
 玄徳さまがいなければ、俺は今も剣をとってはいなかった。剣をとっていなければ驍将などという虚名がうまれることはなく、たとえ偶然が重なって許昌の街路で司馬懿と行き会う機会があったとしても、他人としてすれ違うだけに終わっただろう。当然、司馬朗の手料理を味わうこともなく、温で司馬孚に会うこともなく、解池で公明に斬りかかられることもなかった。
 俺にとって、玄徳さまが差し出した手をとってから今に至るすべてが一本の線で結ばれていた。


 しかし、ただ玄徳さまの下に帰参するだけでは駄目なのだ。
 ただ玄徳さまの下に戻るだけなら、今すぐ荊州にはしればいい。いつぞや関羽が口にしたように、負傷が癒えた後でそうすることはできた。
 けれども、それでは意味がない。関羽のおかげで助かった俺が、その関羽を許昌に置いてひとり玄徳さまの下に戻る。これを恥知らずと言わずして、何と言えばいいのだろう?
 マイナスにマイナスを掛ければプラスになるが、恥に恥を掛けたところで恥の上塗りになるだけだ。ただでさえ身もだえするほど無様な記憶を持っているというのに、この上、そんなものを積み重ねるつもりはなかった。
 だからといって関羽とともに許昌を脱出するのは、別の意味で恥知らずな話だろう。そもそも関羽は借りを返さずに許昌を出ることを潔しとしないだろうが、それは措くとしても、俺自身、怪我の治療からその後の療養にいたるまで、曹操に色々と助けてもらったことは事実なのだ。向こうとしては徐州の一件の借りを返しただけだと思っているようだが、それは俺が恩を無視して良い理由にはならない。


 劉家の将として、何ひとつ恥じることなく許昌を立ち去り、玄徳さまの下に帰参する。
 許昌での俺の行動を律していたのはこの一事。俺の行動はここに帰結する。
 司馬懿は俺が誰かを助けても報いを望まないといったが、劉家軍にいたからこそ剣をとることができた俺が、戦うことで誰かの力になれたのなら、それは俺が劉家軍で過ごした時が無駄ではなかったことの何よりの証になる。それは俺にとって十分すぎるほど意味があることだった。
 もちろん、結果として得られる武勲も重要だし、司馬懿が言った(というか俺が言った台詞なのだが)格好つけたいだとか、男児の本懐だとか、そっちの満足感も満たされるのは言うまでもない。




 ――と、そんな意味のことを俺は訥々と語っていった。
 何故に訥々となってしまったのかといえば、その間、司馬懿たちがやや眼差しを下げながら、一言一句聞き漏らすまいと聞き入っていたからである。三人とも真剣な表情で、そんな少女たちを前に自分語りとか本気で恥ずかしすぎたのだ。
 ともあれ、ようやっと語り終えた俺が安堵とともに口を閉ざすと、司馬懿が姿勢をかえないまま囁くように言った。
「北郷さまにとって、他者を助けることは手段なのですね。これまで歩んできた道のり、そのすべてに意味を持たせるための。だから、助けた相手に対価を求めることはなさらない」


「ん、まあそのとおりだな。それに、誰かに力を貸したとして、ありがとうって感謝してもらったら、それで十分だろう。それ以上の対価ってなんだ?」
 普通に考えると金銭や貴金属といった謝礼だろうか。まあ助けた相手が、お金が余って仕方ない大富豪とかだったら俺も考えないではないが、能力識見はどうあれ徐晃たちは年下の女の子、その彼女たちを相手に大の男がどんな謝礼を求めろというのか。まあそれ以前に、俺がしてあげられたことなぞほんのわずかしかないので、対価という発想すら浮かばなかったのだが。


 そんなことを考えていると、徐晃がおずおずと手をあげた。
「あの、一刀」
「なんだ、公明?」
「今まで黙ってた――というか忘れてたんだけど、わたしも許昌で同じようなことを訊かれた。わたしを助けた代償に、一刀が何かひどいこと要求してこなかったかって」
「ひどいこと?」
「その人が言うには『男というものは、皆、飢えた獣。皮一枚をはがせば、そこには常に女体をつけねらう眼光が迸る』って」
「またお前か荀文若」
「『真の種馬は目で犯す』とも言ってたよ」
「もう人間じゃないだろそれ。てか種馬ってなんだおい?!」
「わ、わたしがいったんじゃないよッ?!」
 あわあわと首を左右にふる徐晃をなだめつつ、ふと思い出した。
 以前、張角や張宝、張梁と親しくしていた俺をねたんで、一部の元黄巾兵が女たらしだの種馬だのとあることないこと言いふらしていたらしいが(しかも何故かある程度信じられてしまった節がある)許昌でも似たようなことが行われていたとは。
 まさかとは思うが、そのうち定着してしまわないだろうな、この事実無根なあだ名。


 それはともかく、要するに、俺が恩義をたてに『ぐへへ言うことをきくのだーぐへへ』といって襲いかかってこなかったか、と荀彧は徐晃に訊ねたのだろう。いったい何を狙っていたのだか。
 十二歳(司馬孚)と十三歳(司馬懿)の少女がいる部屋で続ける話題ではないので、俺は話をそこで打ち切ったが、まさか司馬懿も似たような意味で訊いてきたのではなかろうな、と心配になった。もしそうだとすると、早急に誤解をといておかなくてはならない。
 そう思って司馬懿を見ると、今の会話を聞いていたのか聞いていなかったのか、なにやら考え込むように顔を伏せている。
 その隣の司馬孚は、こちらは一目でわかるほどに顔が赤かった。どうも今の俺と徐晃の会話の中身をおおよそ理解できたっぽい。司馬家の家長は案外おませさんであったようだ。 
 



 そんなこんなで、俺が恥をかくばかりだったような気がしないでもない説明は終わり、話を壷関の件に戻そうとした時だった。
 部屋の扉が乱暴に叩かれ、緊迫した声が扉越しに投げかけられた。
「申し上げます! 城門の棗将軍から報告です!」
「入ってくれ。何事だ?」
 部屋に飛び込んできた兵士の緊張感に満ちた顔を見て、知らず表情が厳しくなる。浮かれた気配なぞつゆ感じられない。もしや敵の夜襲かという俺の考えは、だが、まったくの逆だった。
「は、城門前に布陣していた袁紹軍の陣が、軍旗や篝火だけ残してもぬけの殻になっております!」


 その報告の意味を理解するために、すこしばかりの時間が必要だった。
 敵将張恰が、夜陰とこちらの騒ぎに乗じて撤退したことはわかる。遠からずそうなるだろう、と予測もしていた。
 だが、それにしてもこの決断は早すぎる。たしかに俺は鍾会に命じて官渡の勝報を敵に大々的に知らせたが、それを頭から鵜呑みにする張恰ではないだろう。まず偽報を疑うのが自然な反応だし、退くにせよ洛陽の高幹からの命令を待つはずだ。
 だが、このタイミングで兵を退いたとなると、洛陽からの指令を待たずに張恰の独断で退却したとしか思えない。


 こちらの突出を誘う罠か。あるいは、後方の洛陽で何かあったのかもしれない。
 いずれにせよ、のんびり話している暇がなくなったことだけは確かであった。




◆◆◆





 司州河南尹 洛陽


 二万の兵を率いて洛陽に帰還した張恰は、その足で洛陽宮に赴いた。洛陽を制した袁紹軍は、ここを拠点として統治を行っている。
「儁乂さまッ」
「高将軍、閣下のご容態は?」
 出迎えにあらわれた高覧に、張恰は短い問いを発する。
 そして、わずかに肩を落とした高覧を見て答えを悟ったのだろう、張恰の怜悧な顔に陰が差した。


 洛陽を制圧した高幹が、降伏した南陽兵の刃に倒れたのはつい昨日のことだった。
 惨殺された何太后の件を調べていた高幹は、宮殿の一角で彼らに囲まれた。もっとも攻め落として間もない都市にいるのだ、高幹も高覧も備えはしていたし、実際、南陽兵は残らず討ち取られている。高幹が負った傷は、襲撃時に刺客の誰かが放ったのであろう飛刀によるかすり傷のみだった。
 だが、これに毒が塗られていたのである。
 倒れた高幹の容態は驚くほどの勢いで悪化し、夜には少量だが血を吐くにいたった。


 張恰はめずらしく、はっきりと苛立ちを表情にあらわした。
「企んだ者は?」
「降伏した南陽の李休どのが、部屋で自らの喉を突いて果てていました」
 張恰が柳眉をひそめたのは、高覧が憎むべき暗殺者に対して「どの」と付けていたからである。しかし、すぐにその言わんとするところを察した。
「……南陽の将も利用された、と?」
「はい。刺客は確かに南陽兵でしたが、地位の低い下級の兵ばかりでした。本当に李休どのが企んだのならば、いま少しまともな兵を使ったでしょう。くわえて、刺客の中に毒刃を秘めていた者はいませんでした」


 高覧の声は静かだった。常の高覧を見知っている者であれば、高幹が毒に倒れたことで、高覧が取り乱したとしても不思議には思わなかっただろう。
 だが、張恰は知っていた。今、眼前で静かな怒りにうち震えている高覧もまた彼女の一面だということを。
「宦官の動きは?」
 古来より後宮は毒だの暗殺だのが横行する魔窟の一面を持っている。後宮の住人たる宦官が毒に通じている、というのは張恰の思い込みとばかりはいえない。
 だが、これには高覧が首を振った。宦官を嫌う高幹は後宮にいた宦官を全員とらえ、一室に監禁しており、彼らが動くことは難しい。もちろん可能性がないわけではないのだが、正直なところ、高覧には犯人探しをしている余裕はなかった。


 高覧は当然のように高幹が毒で倒れたことを公表していない。そんなことをすれば、求めて乱を招くようなものである。必然的に、李休の死も秘していた。下手にその死が伝われば、袁紹軍が処刑したのではないか、と勘違いした南陽兵が動揺してしまうからだ。
 だが、なぜか李休の死は早々に漏れてしまった。そのため、洛陽城内の南陽兵が不穏な動きを見せているのである。



「よりにもよって、このような時に」
 張恰が苛立たしげに床を蹴る。張恰にはめずらしい行動に高覧は驚きを覚えた。そして、肝心のことを聞いていなかったことに気づく。
「儁乂さま、戻ってきていただいたことは心強いのですが、どうして兵まで退かれたのですか?」
 副将に任せられないほど曹操軍の抵抗が激しかったのか、と高覧は考えたのだが、返ってきた張恰の答えに凍りついた。
「――河北本軍が、官渡で曹操軍に敗れたらしい」
「………………はい? え、あの、それは本当なんですか?」
「わからない。虎牢の敵兵が叫びたてていたことです」
 それを聞いたとき、張恰は当然のように偽報であろうと考えた。だが、今の戦況ではありえないほどに曹操軍が沸き立っていたのは事実だった。あの高揚は偽りとは思えない。少なくとも、河南の兵が官渡の勝利を信じているのは間違いないだろう。


 兵士が信じている以上、実際の勝敗がどうあれ、曹操軍の士気はいやおうなく高くなる。それを見た河北兵の動揺も避けられない。官渡の敗戦が事実であれば、并州勢は河南で孤立することが確実だからだ。
 むろん、その程度の動揺、静めることは造作もない。無視して攻撃を続けることもできるが、武将として幾度も戦陣に臨んで来た経験が張恰に警戒を呼びかけた。これはただの偽報ではない、と。
 そこに高幹が倒れた情報が舞い込んできたのである。
 官渡の敗戦が事実であった場合、勝勢に乗った敵は遠からず打って出るだろう。その攻勢に対処するのに副将だけではこころもとない。そう考えた張恰は、全軍を率いて退却することを決断した。
 高幹が倒れた上は、今回の河南遠征そのものを見直す必要も出てくる。その意味でも、今は兵力を一箇所に集中させておくべきであった。





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/05/26 23:23
「姓は楽、名は進、字は文謙。張太守(張莫)の命により、兵一万と共に大将軍の指揮下に入ります。以後、よろしくお願いします」
 顔に数条の傷をはしらせた女将軍は、そう言うとかしこまって膝をついた。沈着な態度、丁寧な言葉遣い、細身でありながら力感にあふれる身体つきはいかにも虎体狼腰という言葉がよく似合う。
 史実において幾度も一番乗りの武功をあげた曹操軍の斬り込み隊長は、この世界においてもその名に相応しい武勇の持ち主であることがうかがえた。


 俺は敬意を込めて楽進に一礼した。
「虎牢関を預かる北郷です。頼もしい援軍を得て心強いかぎり、早速軍議を開きたいのですが――そのまえにひとつ」
 楽進の言葉の中に聞き逃せない一言があった気がする俺である。
「は、なにか?」
「私は虎牢関を預かっているとはいえ、正式に朝廷から将軍位を賜ったわけではありません。その私に大将軍という呼び方は適当ではないですね」
 俺が指摘すると、楽進は驚いたように目を見開いた。
「そ、そうなのですか? 張太守から宇宙大将軍の麾下に入るように、と命令を受けたのですが」
「…………それはおそらく、おふざけになられたのでしょう。この場で忘却なさった方がよろしいかと思います」
 まだ言っとんのかあの人は。
 楽進も楽進である。俺みたいな若造が、武官の最上位である大将軍とかどう考えてもおかしいだろうに。
 あるいは楽進自身、おかしいとは思ったのかもしれないが、張莫のいったことだから、と素直に受け入れたのかもしれない。いかにも純朴で、命令に忠実そうな人だし。


 
 ともあれ、許昌からの援軍が参着した虎牢関はおおいに沸き立っていた。楽進に先立ち、汜水関の衛茲も到着しており、兵数は倍以上に膨れ上がっている。さらに指揮官の充実も頼もしいかぎりといえる。
 なにより大きいのは、援軍の到着によって官渡の勝利が確定づけられたことだ。許昌からの援軍が来たということは、もはや許昌を落とされる危険はないと軍上層が判断したことを意味する。兵士の中には官渡の勝利を疑う者もいなかったわけではないだろうが、楽進の参戦によってその疑いは完全に晴れたとみていいだろう。
 もっとも楽進の部隊は「かなうかぎり早く虎牢関へ」という張莫の命令に従い、かなりの強行軍でここまで来ているので、戦力として計算するためにはまとまった休息が必要な状態だが、幸いというべきか、それに関しては問題ないといえた。虎牢関と洛陽に分かれた曹袁両軍の戦線は、現在、奇妙な膠着状態にあったからである。



 高幹率いる袁紹軍は洛陽から動かなかった。
 その報告を受けたとき、俺は正直なところ驚きを禁じえなかった。あるいはそうなる可能性もあるか、と予測はしていたものの、まさか本当に高幹が洛陽に立てこもるとは思っていなかったのだ。
 今回の洛陽急襲の手並みを見るに、高幹が攻撃的で機動力に長けた用兵家であることは間違いない。それこそ、他に何ひとつ打つ手がない、という戦況でもないかぎり、篭城策は選ばないと読んでいた。篭城したところで援軍が来るはずもなし、兵糧とてありあまっているわけではないだろうに。
 もしかしたら俺が何か見過ごしているのかしら、と気になって徐晃や司馬懿、鍾会、戦歴の長い棗祗や衛茲などにも意見を訊いてみたものの、みな首をひねっていた。彼ら彼女らから見ても、高幹の篭城策は不自然に映ったのだ。
 ――ちなみに、どうしてまだ徐晃と司馬懿が関内に残っているのか、については後述する。



「ならば進んで確かめるのみでしょう。出陣の際はわたしに先鋒をお命じください」
 俺の説明を聞いた楽進は、迷うそぶりも見せずにそう言った。聞いているこっちが気持ちよくなるくらいにさっぱりと。
 確かに虎牢関の中で頭を悩ませていたところで答えが出る問題ではない。智者ならざる俺は、机上で作戦を組み立てていると、どうしても自分が見たいものを見てしまう。言葉をかえると、都合の悪い事柄から目をそむけがちになる。その点について司馬懿から指摘を受けたばかりの俺は、楽進の意見に素直に賛同した。
「道理ですね。この関の兵士は度重なる戦闘で疲弊していますから、いざ戦闘となれば楽どのと麾下の将兵に頼ることになるでしょう。先鋒の希望はかなえてさしあげられると思います」
「光栄です。それと将軍、この身は許昌の西部尉(西門守備隊長)に過ぎません。わたしのことは文謙とお呼びいただいて結構です」





 そんなやりとりを経て、楽進は俺の麾下に収まった。
 実を言うと、先の洛陽攻撃に失敗した身としては(結果として高幹を討ち取れず、袁紹軍の攻勢を止められなかったのだから、軍事作戦としては失敗)官渡の勝利で曹操軍に人的余裕がうまれた今、虎牢関の守将を免じられるのではないか、と心配していた。
 だが、表現はどうあれ、張莫が楽進を俺の下に配したということは、当面のところその心配はしなくていいだろう。これで、この後もある程度自由にやれる。
 とはいっても、楽進への命令は、司馬孚が俺の書簡を張莫に届ける以前に下されたもの。俺の書簡を見た張莫が命令を改める可能性は十二分にあったりするのだが、まあその時はその時である。


「しっかし、考えることとやることが多すぎだなあ」
 他の将と楽進との顔合わせをかねた軍議を終えた後、城主の部屋に戻った俺はひとつ伸びをして、こった肩をもみほぐした。
 援軍としてやってきた兵士たちの宿舎の割り当てや、実戦時における兵力の配分(誰がどれだけの兵を指揮するか)など、早急に決めておかなければならないことは結構ある。顔合わせを兼ねたとはいえ、気楽な軍議ではなかったのだ。
 まあ細々としたことは棗祗、衛茲の二将に任せて問題なかったし、楽進も我を張るタイプの指揮官ではなかったので、軍議自体はスムーズに進んだ。ではどうして肩がこったかといえば、義勇兵あがりの楽進の参戦を面白くおもわない人がいたせいだった。ぶっちゃけ鍾会のことだが。


 鍾会が有能であるのは額縁つき保証書つきの事実だし、洛陽襲撃においてその有能さに大変に助けられたのも確かなのだが、それらを承知した上でなお俺は言わずにはおれなかった。
 実にめんどーな人だな、と。
 とはいえ鍾会の場合、好き嫌いが明確で、しかもそれをはっきりと口にする分、陰にこもる印象がない。ゆえに俺にとっては『面倒くさい人』ではなく『めんどーな人』なのだった。そんな意味のことを司馬懿と徐晃にいったら、そろって首を傾げられた。細かいニュアンスが伝わらず残念である。


 その二人だが、徐晃は現在城門の守備に就いており、司馬懿は楽進と面談中だった。
 司馬懿の姉である司馬朗の許昌での地位は北部尉、つまり西部尉であった楽進とは同僚――というよりも実質的に上役であったらしい。
 聞けば、楽進と他ふたりの僚将(李典、于禁)はいずれも義勇兵あがりであり、民間の事情に通じている一方、官吏としての知識や経験が致命的に不足していた。そのあたりを陰に日向にフォローし、さまざまに世話をしてくれたのが司馬朗であったとのこと。そういった日々の中で司馬懿と顔をあわせることもあったのだろう。
 楽進たちが司馬朗を慕う気持ちは、司馬朗が洛陽政権にはしった後も薄れていないようで、司馬懿と二人きりで話をしたいと望んだ楽進の目に警戒や憎悪の類は見て取れなかった。司馬朗が三人に事情を話していたとは思えない。むしろ下手に巻き込まないために秘めていただろうが、楽進たちは日々の合間合間で何かしら感じるところがあったのかもしれない。




 そんなことを考えながら、俺は窓を開けて外の空気を取り込んだ。
 日はまもなく中天に差し掛かる。陽射しはいまだ強いが、雨季は終わりに向かっているのか、ここ数日雨は降っていない。最後に降ったのは、たしか司馬孚が虎牢関を出る直前だったはずである。
「そろそろ叔達は許昌に着く頃かな」
 百騎あまりの護衛と共に許昌へ向かった司馬孚の姿を思い起こす。
 司馬孚は俺から張莫にあてた書簡を持ってこの関を出たのだが、先ほども述べたとおり、そこに司馬懿は同行していない。司馬懿と司馬孚に温に向かってもらい、そこで手勢を募って壷関へ、というのが当初の俺の計画だったわけだが、実はこれ、かなり大幅に改変した。
 司馬懿から無視できない指摘があったためである。



◆◆



 張恰撤退の報告が届けられた後のこと。
 曹操軍の中では、すぐに逃げた張恰を追撃すべき、との声もあがったのだが、張恰の撤退のタイミングに不自然さを感じていた俺は、罠の可能性をおもんぱかって首を縦に振らなかった。
 その一方で、自身の作戦計画を進める分には問題ないと判断し、徐晃には函谷関に、司馬懿と司馬孚には温に向かってもらおうとしたのだが、
「北郷さま、意見の具申をお許しください」
 そう言って司馬懿が待ったをかけてきたのである。


 司馬懿の意見を要約すれば、このまま俺の作戦を推し進めるのは危険だ、というものであった。
 どういうことかといえば。
「過ぎた功績がかえって身を滅ぼす因となることは古今の歴史が証明しています。虎牢関を死守し、洛陽を奪還し、弘農勢を語らって并州勢を討ち、河内郡を解放して壷関を攻め落とす。そのすべてを成し遂げれば、功績は巨大に過ぎるものとなり、これまでと異なる意味で朝廷の疑念を呼び、廷臣からの嫉視を受けることになりましょう。劉家に属する北郷さまを危険視し、後の禍根を断とうと画策する者もあらわれるかもしれません」
「む」
「そうなれば、北郷さまが円満に許昌を離れることは難しくなります。また、北郷さまと行動をともにした螢や公明さまに対しても、警戒や妬心を向ける者が現れましょう」


「それは、確かにそうかもな」
 周囲の反感と嫉視。特に自分以外に向けられるそれに関して、俺はほとんど考慮していなかった。より正確にいえば、そこまで気にしている余裕がなかった。まずは助命を確実にすることが先決だ、と考えていたからだ。
 しかし、一度功績をたててしまえば、後からそれをなかったことにはできない。である以上、『その後』のことも今の段階から想定しておく必要がある――司馬懿の指摘は実にもっともなものだった。
 司馬懿は自分のことに関しては言及しなかったが、曹操が司馬懿を助命するとすれば、それは司馬懿の才能と功績を認めてのこと。となると、必然的に司馬懿は、そしておそらく司馬孚や徐晃も丞相府で取り立てられることになる。もしそうなれば、彼女らに向かう警戒と嫉妬は一段と根深いものとなってしまうかもしれない。


 この司馬懿の進言を、考えすぎだ、と否定することはできなかった。
 ひとたび罪を犯した者を、再び謀略で陥れることはそう難しいことではない。それは俺でも十分に想像することができた。
「どれだけ積み上げても足りない。けれど、積みすぎてはいけない、か」
「はい、そのとおりです。愚見を申し上げました」
「愚見どころか卓見だ。少なくとも俺にとってはな。しかし、だとすると、どうしたもんか……?」
 他者の嫉妬だの警戒だのに対する対処なぞ、俺のもっとも苦手な分野である。
 自然、口から出た言葉はぼやきに変じてしまったが、そんな俺に対して、司馬懿の反応は端的で的確だった。


「功績を分かつべきです」
「分かつ?」
「はい。過ぎた功績が危険であるならば、それを複数で分け合えば良い。功の独占を避ければ嫉視も散じましょう」
「それは道理だな。しかし、誰と分かち合うんだ?」
「曹丞相」
「む?」
 その名前をまったく予測していなかった俺は、思わず首をかしげた。


 そんな俺を見て、司馬懿は淡々と、けれど真剣に言葉を重ねていく。
「具体的に申し上げれば、許昌の張太守に壷関奪取の作戦を伝え、協力を仰ぐ――いえ、作戦全体を指揮してもらうのです。官渡で勝ったとはいえ、今の段階で張太守が許昌を離れることは難しいでしょうから、実戦の指揮を執る方も丞相府の中からしかるべき人物を選んでもらいます。そして、その方に螢と共に温に向かっていただく」
 先の兌州動乱で妹が曹操に叛いた過去を持つ張莫は、朝廷はもちろん丞相府の中でも難しい立場にあった。曹操個人との強いつながりがあるとはいえ、否、あるからこそ、言動には細心の注意を払わなければならない。張莫が迂闊なことをすれば、反曹操派の人間たちはえたりとばかりに騒ぎ立て、家臣や領民、さらに主君である曹操にも害が及んでしまうからである。


 ……まあ、本人を見てると、あまりそういう鬱屈した感じは受けないのだが、それでも張莫が今回の戦いで進んで洛陽方面に出陣したのは、自身を取り巻くそういった状況に一石を投じるためだったのだろうと推測できる。
 実際、虎牢関を孤軍で落とすという偉業を成し遂げた張莫は、その功績をもって曹操が出陣した後の許昌をあずかるという大役を任されるに至ったわけだが、陳留勢の立場を確固たるものとするためには、もう一つ二つ功績があってもいい。


 その張莫と功績を分かち合え、と司馬懿は言っている。分かち合うというよりは譲ってしまえ、という感じだが。
 細かいニュアンスはともかく、壷関攻略を張莫の手柄に帰せしめることができたなら、俺や司馬家に向けられる警戒や嫉視は霧散するに違いない。なにしろ俺たちは張莫麾下の実働部隊として動いただけなのだから。
 張莫は曹操の親友にして股肱。張莫に譲った手柄は張莫の立場を強化し、ひいては曹操の力をも強化することにつながる。さらに指揮官として選ばれた「丞相府のしかるべき方」の階梯を引き上げることもできるので、丞相府の力も大きくなる。二重の意味で曹操にとって美味しい話であった。


 功績を張莫に譲ることで有形無形の厄介ごとを避け、同時に曹操に対して恩を売る。
 俺ひとりでは到底考え付かなかった案である。
 だが、俺は即答できなかった。
 張莫が俺の提案に同意するか否かについては、たぶん大丈夫だろうと思えたが、問題はその後。仮にすべてが思惑どおりに運んで壷関が落ちたとしても、功績を分かてば、当然のように一人頭の取り分(?)は少なくなる。功績を積みすぎてはいけないが、足らないのは論外だ。司馬懿の助命に届かなくなってしまう。


 だが、そんな俺の心配を聞き、司馬懿はそっと微笑んでかぶりを振った。
「そのときは私の命数がそれまでであった、ということです。申し上げましたとおり、功の独占は後難を避けられません。避けられる難は避けるべきでしょう。またそれ以前に、私たちを温に差し向ける北郷さまの作戦は、いくつか問題があるのです」
「む?」
「北郷さまは虎牢関の守将であり、螢はその下で戦うべく派遣された将です。壷関襲撃のために温で募兵をする権限はありません。命令系統の異なる北郷さまの指図では温の官軍は協力してくれないでしょう」
「むむッ」
「同様に私たちが私兵を集めることを黙認することもしないはずです。古来より主君の許可なき募兵は謀反の前触れ。まして今の司馬家の立場が立場です。曹丞相か、河内郡太守張雅叔(張楊)さまの許可を得てから、という運びになるでしょう。それを無視して兵を集めるようなことをすれば、それこそ官軍が相打つ事態になりかねません。その意味でも、あらかじめ許昌の協力を得ておくことは必要なのです」
「むむむ……言われてみればそのとおりだなッ」
 俺はおもわず膝を打った。
 壷関を落とすことばかりに目を向けていたが、司馬家の私領が温にあるというだけで、温のすべてが司馬家の私領というわけではないのだ。当然、そこには官軍もいるし、周辺には司馬家にあまり好意的ではない領主たちもいるだろう。彼らが司馬懿たちの勝手な募兵を見れば、それこそ反乱を企んでいると判断されかねない。
 これは俺の思慮が足りなかった。


「さらに申し上げれば」
「まだあるのか?!」
 澄ました顔でとどめをさしにきた麒麟児に思わず悲鳴をあげてしまいそうになる。いや、もちろん司馬懿にそんなつもりはないのだろうが、俺の意識としてはそうとしか言いようがない。
 さきほど、俺が自分の内心を語り終えた後で司馬懿はなにやら考え込んでいるように見えた。あれは俺の考えを知ることができたから、次は気づいた作戦の不備をいかに修正するかについて頭を働かせていたのかもしれない。


 しかしまあ、物は考えようである。あの司馬仲達から直接に作戦の不備を指摘されるなど経験したくてもできることではない。今後のこともある、ここは神妙に話を聞くことにしよう。
 覚悟を決める俺に対し、そんなこととは知らない司馬懿は淡々と話を進めていった。言い方をかえると、容赦なく作戦の欠陥を指摘していった。
「北郷さまは河南から并州勢を追い払った後、部隊の指揮権を士季(鍾会)か棗将軍に任せて黄河を越える、と仰っていました。それはつまり、螢の上官が北郷さまから別の人に移る、ということでもあります。そうなった場合、温で募兵をしていること自体が――」
「確実に問題視される、な」
「はい。もっとも、こちらに関しては張太守にあてる書簡の内容を変更することで対処することはできるでしょう。ただ、人と兵を好きなように動かした後で、それを認めるよう求められた張太守がどのように思われるかが気になります」
 司馬懿が虎牢関に来たのは、張莫が許昌に召還された後のこと。以前はともかく、今の張莫を司馬懿は知らないのである。
 俺としては面白がって認めてくれる気がしないでもないが、事後承諾というやりかた自体が上位者に対して礼を欠いているのは明白だ。作戦上、どうしてもそれしかない、というならともかく、俺の狙いが功績の独占だというのは戦況を見据えれば容易にわかる。


 ……うむ、これはさすがに張莫といえど認めないな。というか、物事の良否、事の軽重もわきまえられないやつだったのか、と見捨てられるのがオチだ。仮に俺の命が長らえたとしても、今後は路傍の石のように無視されるに違いない。
 預かった兵を返すだけならともかく、それ以上の行動をとるのならば、どうあれ張莫(ないしは曹操)に許可を得なければならず、そして許可を得るならば書簡による事後承諾などではなく、きちんと俺自身か、もしくは俺が信頼し、かつそれに相応しい立場と地位にいる人間を派遣するべきだった。
 そして、そこまでするのならば、もう功績の独占は不可能であり、他者の警戒や嫉視を避ける意味でも張莫たちを巻き込んでしまった方が良いに決まっている。




 ――改めて自分の作戦を思い浮かべてみると、司馬懿の言うとおり、後方や味方に対する配慮が欠けているのがよくわかる。
 これはひどい。
 立案時間がほとんどなかったことを差し引いても、これはひどい。こんな作戦は、それこそ俺が曹操本人でもないかぎりたててはいけない。
 自分の作戦を実行に移していた場合のことを考え、俺はだらだらと冷や汗を流した。思わず、口から深い溜息がこぼれおちる。


「いや、仲達が傍にいてくれて本当に良かった……ありがとう」
 心からの感謝をこめて司馬懿に頭を下げると、司馬懿もちょっと慌てた様子で俺に頭を下げてきた。
「お、恐れ入ります。ですが、そもそも私が北郷さまに無理を願わなければ、北郷さまが壷関を落とす必要はなかったわけで、その、ですから礼を言われるようなことではありません」
「いやいや、それはそれ、これはこれ。いついかなる時でも感謝の心を忘れてはいけない。というわけで、ありがとうございます」
「それをいうなら私こそ、北郷さまにはどれだけお礼を申し上げても足りません。ありがとうございます」
 なぜか二人してぺこぺこ頭を下げあう俺たち。
 そんな俺たちを、司馬孚と徐晃が笑いをこらえながら見守っていた。





◆◆◆




 司州河南尹 洛陽


「……そうか。官渡の敗戦は事実だったか」
 寝台に横たわり、苦しげに表情を歪めながら、高幹は呟くようにそう口にした。
 そして、上体を起こそうとして果たせず、慌てた高覧に支えられる。どのような効力の毒なのか、負傷して何日経とうとも高幹の身体からは毒の影響が抜け落ちず、不快な痺れと痛みが断続的に襲ってくるのである。
「若さま、ご無理をなさってはいけませんッ」
「覧、それこそ無理をいうな。このまま元才が横になったままでは、全軍が河南の地で果ててしまう。兵たちを連れてきた元才には、兵たちを連れ帰る義務があるのだ」
「そ、それはそうですけど、もう少しこの地で療養なさってもいいはずです。幸い虎牢関の曹操軍は動いていません」
「官渡の勝利が事実である以上、あえて動く必要がないだけだ。文恵(高幹の従弟 高柔の字)の使者は河内郡の戦況についてなんと言っていた?」


 高覧はわずかにためらった。これを正直に告げれば、高幹が病身を押して指揮を執ろうとするのが明白だったからだ。しかし、隠しておけることではないし、隠していいことでもない。
 高覧は諦めて正直に話した。
「并州との連絡は保たれており、補給線も維持できているとのことです。野王の攻囲も継続中で、城内に官渡の件は伝わっていません」
 報告の中身を良いものと悪いものに分けるとしたら、ここまでが良い部類である。
 ですが、と続ける高覧の声は暗い。
「野王と、若さまが落とした河陽をのぞいた西部一帯の官軍には官渡の結果が知れ渡ってしまったようです。文恵さまによれば、これまで并州兵を恐れて城内に閉じこもっていた各地の県城の動きが活発になっており、特に沁水や温といった城は、官軍が打って出る気配さえあるとのこと。また河東郡にも不穏の気配があるとか。このままでは遠からず戦況は抜き差しならないものとなる、州牧閣下の早急の帰還を請う、と報告は結ばれておりました」
 それを聞いた高幹は、唇をまげるようにして皮肉っぽく笑った。
「……ふん。あの口うるさい小僧のことだ、益なき遠征はとっととやめて戻ってくるのです、とでも言っているのだろうな」
「あはは……ええ、たぶん」


 病床にあってもなお男ぶりの良さを保つ高幹とは異なり、従弟の高柔はいかにも子供然とした容姿をしていた。何かと口うるさく、たびたび高幹を諌める為人も手伝って、高幹は高柔のことを「小僧」と呼んで軽んじる素振りを見せることがある。
 その高柔が今回の河南遠征に反対であったことは高覧も良く知っていた。もっとも、高柔は反対を唱えつつも、いざ従兄から後方を任されれば、補給から情報から、一切の疎漏なく務め上げたし、高幹もそんな従弟を信任して後方の全権を委ねたわけで、なにげにこの従兄弟たちは息があっているのだが、それはさておき、官渡の敗戦を知った高柔が何を口走ったかについては大体予測できる高覧だった。


 高幹の口から仕方ないと言いたげな溜息がこぼれた。
「……文恵の説教を聞かねばならないのは業腹だが、致し方ない。ただちに兵を退くぞ、覧」
 高柔は軍事にも適正を示すが、官渡の勝利で勢いに乗った官軍をひとりで食い止めることは不可能だ。そして高柔が敗れれば、洛陽の并州勢は完全に孤立する。退却以外の選択肢は残されていなかった。
 だが、ただで退却してやるつもりは高幹にはなかった。特に、自身に毒刃を用いた相手に対する高幹の恨みは根深い。雄敵と競って戦場に屍を晒すならまだしも、あのような下劣な手段で傷つけられたことは、高幹の自尊心を深く深く傷つけていた。


 もっとも、と高幹は内心で自嘲する。
(あの程度の襲撃をしのげなかった元才の間抜けさが招いた災禍であるし、そもこの様ではろくに動けない。できることは限りがあるが、それでも易々と陰謀を成就させてなるものか。嫌がらせくらいはさせてもらうぞ、李文優)
 暗殺に動いたのは南陽の兵。犯人として利用されたのは降伏した南陽の将。流言で不穏の気配を示しているのは南陽の軍。
 その裏に潜む人物が誰であるのか、高幹にとって考えるまでもないことであった。




◆◆




 高幹の内心を知れば、李儒は鼻で笑って嘲ったであろう。力で敗れた上は策で失地を回復するのは当然のことだ、と。
 洛陽の大火にも意義を見出していたように、李儒は目的のためには手段を選ばない性向があり、それゆえに董君雅(董卓の父)や賈駆にも疎まれたのだが、本人にその自覚はない。
 そして、この時、実際に李儒が耳にしたのは高幹の内心ではなく、高幹がとった策であった。


「南陽兵が帰郷している、だと?!」
 李儒の怒声には激怒と等量の動揺が含まれていたが、ひざまずいた宦官はそこまで察することはできなかった。
 ここは広大な洛陽後宮の一角。并州兵の捕縛の手を免れた李儒は、ごく一部の宦官と共に後宮の深部に隠れ潜んでいたのである。
 報告を行った宦官は、ひざまずいたまま震える声で先を続けた。
「は、はい。高幹めは南陽の兵士に対し、このまま袁紹軍に付き従うか、あるいは南陽に帰郷するかの二択を迫ったらしゅうございます。前者を選んだ者には武具と給金を、後者を選んだ者には南陽までの旅費と食料を渡すと宣告し、それを受けた兵たちがこぞって帰郷を願いでたとか。すでに二千を越える兵が南陽への帰路についたとのことで、宣告が袁家の罠でないと確信した南陽兵は大挙して南門に詰め掛けているそうでございます」
「なんたることかッ! おのれ高幹め、余計なマネをしおってッ」


 李儒の叫びは後宮の厚い壁に遮られ、外には届かない。
 それは陰謀の露見を妨げる防壁であると同時に、南陽軍における李儒の影響力を失わしめる障壁でもあった。どれだけ怒声を発しようと、声をからして命令しようと、兵に届かなければ何の意味もないのである。
 これでは洛陽を袁紹軍の手から取り返しても兵が足らなくなる、と李儒は歯噛みした。
 元々、南陽の軍勢は曹袁との争いに直接のかかわりを持っていない。彼らが洛陽で戦ってきたのは李儒にしたがってのことであり、それですら兵たちの本意ではなかった。
 袁紹軍が帰郷の機会を与え、それが罠ではないと判明したのならば、多くの兵が飛びつくだろう。そして、その数が千や二千にとどまらないことは想像に難くない。


 兵が足らない、どころではない。このまま手をこまねいていては、すべての南陽兵が洛陽を去ってしまう。それは李儒の固有の武力が完全に喪失することを意味した。
「……いや、というより、そのためにこんな布告を発したのか、高幹。これでは袁紹軍が逃げ出しても洛陽を取り戻せぬ。私に渡すよりは曹操めに渡した方がマシだ、とでもいうつもりかッ?! そして、曹操に金や食料をタダで渡すくらいなら、今のうちに南陽兵にくれてやった方がまだマシだというわけか、おのれ、おのれェッ!!」
 静まり返った室内に、李儒の咆哮が木霊する。それはどこか亡者の慟哭にも似て、聞く者の心に冷たい霜を降らせた。


 劉弁の死と洛陽の失陥により、この地における権勢のほとんどを失った李儒は、このごろとみに自制に欠ける言動が増していた。これまで李儒の背を支えていたのは、洛陽の主権を握っているのは己である、という強い自負だった。それが失われたことで、急激に精神の安定が失われつつあるのだろう。
 周囲の宦官たちはおびえた、それでいて計算高さを感じさせる視線を交わしあう。彼らにしても、確固たる忠誠心で李儒に仕えているわけではない。互いに利用し、利用される関係であるに過ぎない彼らは、他に助かる道があるのなら、躊躇なく李儒を見捨てるだろう。
 李儒にはそれがわかる。なぜなら、李儒もまたそう考えているからだった。
「くそ、宛の連中はいつになったら洛陽に着くのだ?! 洛陽に来るようにと命令を出してから何日経つと思っている。彼奴らがもっと早くに着いていれば、こんな事にはならなかったものを。あやつらも裏切ったのか?! おのれ、許さぬ、許さぬぞ、どいつもこいつもッ!」
 それが繰言とわかっていながら、それでも李儒は叫ばずにはいられなかった。



 ――不意に。
「それは誤解というものだ、洛陽王」
 その声は、まるで壁の隙間から這い出してきたかのように唐突に室内に響き渡った。



「な、誰だ?!」
 李儒は驚いて部屋の中を見渡し、そして部屋の隅に立つ人影に気づく。
 この場にいるはずのない、けれど見覚えのあるその姿。思えば、いましがたの呼びかけを口にしたのもあの男だった。
「貴様、于吉…………いや、違う。于吉ではないな。何者だ?」
「名乗る名などない。どこにでもいる名無しの方士だ」
「貴様らのような輩がどこにでもいてたまるものか!」


 李儒は吐き捨てると、忌々しそうに方士をにらみつけた。
「で、何をしにきた、名無し。仲を裏切った私の無様な姿を笑いに来たのか」
 その李儒の言葉を、しかし方士はまるまる無視した。
「宛の者たちは律儀に貴様の命令を守っていたぞ。泣き叫ぶ住民を連れ出し、街に火を放ち、逆らう者は斬り倒して洛陽を目指した。それが事実だ」
「ならば、何故今になっても来ないのだ?!」
「邪魔する者たちが現れたからに決まっておろう。新野の劉玄徳が動いたのよ」


 その名を聞き、李儒は眉をひそめた。
「劉備だと。ばかな。彼奴らの手勢は万に満たぬはず」
「さよう、新野を空にしてもせいぜいが五千というところかな。が、それでも動いた。少数の精鋭のみを率い、宛の民を救うためにな。関羽が欠けているとはいえ、余の将は健在だ。まがりなりにも曹操や袁術と渡り合った者たちを相手にしては、貴様の配下ではいかにも荷が重い。ただ、さすがに数が数だ、一戦で蹴散らすというわけにはいかず、劉備軍もそれなりに苦戦していたようだが、それもほどなく解決した」
 それまでどこをどうさまよっていたのか、虎牢で曹操軍に敗れた西涼軍が劉備側に加勢したのである。


「馬鹿な?! 西涼軍がどうして――」
「西涼軍は劉弁の下に馳せ参じたのであって、貴様に降ったわけではあるまい。まして眼前で泣き叫ぶ民たちを無理やり故郷から連れ去ろうとしている軍勢を見てはな。連中が何を思い、何を決断したかは語るまでもあるまいよ。実際には、西涼軍は山越えの疲労と空腹で、一部の連中をのぞいてはほとんど使い物にならなかったようだが、西涼軍の参戦は南陽軍を絶望せしめるには十分であった。結果、南陽勢は屈服、貴様のもとに向けられた使者は劉家の軍師がはりめぐらした網でことごとく阻まれた。かくて貴様は来るはずもない援軍を心待ちにしながら戦機を逸し続けた、というわけだ。どうだ、得心したか、洛陽王」
 いつか方士は嘲りの色をあらわにして、李儒をなぶるように言葉を紡いでいた。
 あえて劉備軍を称えるような語り口で話していたのは、その方が李儒の精神を痛めつける意味で得策だと考えたからだろう。


 その目的がどこにあるのかは当の方士以外には知る由もない。
 だが、それがなんであれ、この時の李儒は方士の思惑には乗らなかった。
「……で、それをことごとしく私に伝える理由は何なのだ? 何をしにきた、という私の問いに、貴様はまだ答えていない」
「……ほう。まだ冷静さを保つか。今までの貴様なら、あっさり狂乱したと思うが。なるほど、于吉さまがおっしゃったとおり、それなりの覚悟をもって仲から離反したのだな」
 その方士の呟きが終わるか終わらないかのうちに、室内を風が切り裂いた。李儒が抜く手も見せずに方士に斬り付けたのである。


 それを見て、今後はともかく、今この場で力ある者は誰なのかを宦官たちも察したらしい。彼らは奇声をあげて方士を取り囲んだ。宦官のひとりが鞭を使って方士を打ち据えようとするが、方士は嘲笑と共にそれを避ける。
「良いのか、洛陽王。ここで我を遠ざければ、再び手を差し伸べることはないぞ?」
「ほざけ、左道の輩。大方、劉備と西涼勢を引き合わせたのも貴様の差し金だろう。口で何と言おうとも、離反した私を許さぬ貴様らの意思は明瞭だ」
「くかか! まさか毒を用いて敵将を殺めようとした者に左道とののしられるとはな! わが身をかえりみて物をいえ、といってやりたいところじゃが、貴様にそれは通じぬよなあ。なにせ貴様はおのが歪みから目をそむけ、ついには真実忘れ去るに至るほどの迷妄の塊ゆえ。嗚呼、惜しいかな、惜しいかな! 我らに従っておれば、貴様はやがて外史すべてをむしばむ壺毒となりえたろうに!」
「……何を言っているのだ、貴様は?」
「くかかかッ、わかるまい、わかるまい! だが気に入ったぞ、洛陽王。土産にひとつ助言をくれてやろう。于吉さまの命令ではない、わしの意思でな」


 いつか、李儒の眼前で方士は形をかえつつあった。取り澄ました格好も言葉遣いも消えうせて、後に残ったのは、目に滴り落ちるほどの悪意を詰め込んだひとりの老翁。
 老人の乾いた唇が上下に動き、黄色くよごれた前歯がのぞく。そこから吐き出された言葉は、李儒にとって無視できないものだった。
「――北郷一刀」
「ッ?!」
「貴様が恨み、憎み、嫉むあの若造を苦しめる一手を指南してやろう。なに、難しいことではないぞ。貴様はまもなくあの若造に追い詰められる。貴様を助ける者はなく、貴様が逃げる場所はなく、貴様が抗う術はない。なればせめて呪いを残せ。貴様が知るすべてを彼奴に話してやるがよい」
「私のすべて、だと……?」
「そうじゃよ。洛陽での邂逅を語ってやるがよい。彼奴が貴様を見逃したことを思い出させてやるがよい。生き延びた貴様が于吉さまに拾われた事実を伝えてやるがよい。貴様がこれまで罠にかけた者たちのことを言うてやれ。貴様が手にかけてきた者たちのことを教えてやれ。それは北郷一刀が貴様を殺しておけば生まれなかったはずの悲劇なのじゃ」


 老人はそういうと、ぬめりとした舌で乾いた唇をなめた。唇を覆う光沢が奇妙な若々しさを老人の醜貌に与えている。李儒は魅入られたようにその顔を見つめ続けた。
「そして、于吉さまが狙っていたのもまた彼奴であった。彼奴がいたゆえに劉家軍は追い詰められた。彼奴がいたゆえに高家堰は仲軍に囲まれた。すべては彼奴の責なのじゃよ。それを伝えたら、最後にこう云うてやるがよい――」


 ――北郷一刀、劉玄徳の夢を散らしたのは他の誰でもなく貴様自身なのだ、とな……





[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/06/15 10:30
 虎牢関 見張り台


 夜。
 俺は城壁の見張り台に徐晃と並んで立ちながら、かなたに見える炬火を見据えていた。
「静かなること林のごとく、という感じだな」
 その俺の言葉に、徐晃はこくりとうなずく。頭の後ろでひとつに束ねられた亜麻色の髪が揺れ、白いうなじがちらと視界の端に映った。
「うん、気味が悪いくらい整然としてるね。一歩間違えれば取り残されるってわかってるはずなのに……一刀? どうしたの?」
「こほん、い、いや、なんでもない、なんでもないぞ」
「そ、そう?」
 不思議そうな徐晃の視線を避け、俺は慌てて視線を前方に据えなおす。
 戦闘にはあんまり関わりないことなのだが、虎牢関は軍事拠点であり、食料はもちろん水も貴重品である。当然、湯を張って身体の汚れを落とす、などという贅沢なマネはできず、水にぬらした布で身体を拭うくらいのことしかできないはずなのだが、なんで徐晃は髪も肌もこんなに綺麗なんだろうか。
 これは徐晃に限らず、司馬懿や司馬孚なんかも同様で、思い返せば劉家軍の人たちもそうだった。殺伐とした戦いの日々にあって、女性陣のある種の「変わらなさ」は俺にとって七不思議のひとつである。


 緊張感がない、と責められても仕方ないことを考えている俺の隣では、徐晃が真面目に敵陣を見張っている。徐晃はかなり夜目が利くので、夜間の見張りにはうってつけなのだ。
 一方の俺はといえば、当然のようにそんな特技は持っていない。ここから確認できるものといえば、炬火の明かりを映して翻る『袁』と『張』の軍旗くらいのものであった。




 一度は洛陽に退いた張恰の軍勢が、再び虎牢関に押し寄せてきた。
 俺たちがその報告を受けたのはおよそ半日前、まだ日が高い時間帯だった。
 数こそ前回と同じ二万ほどだったが、南陽軍の将兵は確認できず、まず間違いなく袁紹軍単独の襲撃であると思われた。数はともかく、質ははっきりと前回を上回る、ということである。
 ただ、それをいうならば、こちらも許昌と汜水関からの援軍をくわえ、将兵も意気盛ん。あわや陥落寸前まで追い詰められた昨日の劣勢を再現させてやるつもりはなかった。


「……まあ、当の敵さんも再現するつもりはなかったみたいだけど」
 張恰が敷いた陣は整然として付け入る隙がなかったが、同時にこちらに攻め込む意思も見せなかった。実際、敵の陣からは一本の矢も飛んできていない。
 となると、敵の意図は明白だ。河北へ退却する本隊の撤退を援護するつもりなのだろう。
 俺の予想としては、高幹はまず降伏した南陽軍を虎牢関にぶつけ、その間に全軍を渡河させるのではないか、と睨んでいた。うまくいけば袁紹軍は無傷で河北に帰還することができる。
 だが、高幹はその手段をとらなかった。南陽兵では曹操軍を止められないと考えたのか、それとも他にそうできない理由があったのか。


 夜になると気温もだいぶ落ち着いてくる。過ごしやすさで言えば間違いなく昼間より上なのだが、当然ながら闇に遮られて敵軍の動向は掴みづらい。
 先日、張恰にあっさりと撤退を許してしまったのも夜だった。また同じ轍を踏むわけにはいかないと考えた俺は、だからこそ徐晃に不寝番をお願いしたわけだが、もちろん徐晃ひとりにすべておしつけたわけではない。んなことしたら、さすがに徐晃も怒るだろう。不寝番とは人気投票をすれば確実に最下位になるであろう過酷な任務。よって、俺も見張り台に詰め、並んで彼方の袁紹軍の動向を見張っているのである。


「使者の人たち、無事に函谷関に着いてるといいけど……」
 不意に徐晃がそんな呟きを発した。当初は函谷関への使者になるはずだった徐晃は、自分の代わりに選ばれた使者が張恰の偵知に引っかかってしまったのではないか、と案じているらしい。
 俺が徐晃を函谷関へ送ろうとした理由は、まさしくそういった事態を避けるためだったので、徐晃ほど馬術にも武術にも長けていない使者たちが無事であると確言はできなかった。
 それに、仮に張恰に見つからなかったとしても、虎牢関から函谷関へ行くためには、どうあっても敵軍の勢力範囲を通過しなければならない。当然、張恰以外の敵兵に見咎められる可能性も高いわけで、彼らが捕まってしまえば函谷関の動きが期待できなくなる。
 そう考えると、やはり徐晃に行ってもらえばよかったか、と思わなくもない。徐晃自身も特別反対はしていなかったし。
 だが、俺は徐晃を使者の役割から外した。何故かといえば、司馬懿が異を唱えたからである。


 司馬懿が俺に再考を願い出た理由は単純といえば単純なもので、徐晃ほどの武将を使者に用いるのは役不足である、というものだった。
『公明さま以外に人がいないというならばともかく、此度の任は函谷関へ到達すれば成るものです。洛陽を制したばかりの袁紹軍が城外に精緻な網を張っているとも思えませんから、公明さまでなくとも使いの任は果たせましょう。確実を期したいとおっしゃるのであれば、使いを複数出せばよろしいかと思います』
 そう言った後、司馬懿はこう付け加えた。
『河南の戦局が押し迫ってきた今、諸勢力の動きは激しさを増すでしょう。予想できない変事が起こることもありえます。それに備える意味でも、戦力はできるかぎり北郷さまの下に集中させておくべきです』


 言われてみれば、確かに今回の目的は襲撃や占拠ではなく、徐晃でなければ駄目という類のものではない。鄧範はいつ戻るかわからず、このうえ徐晃まで関外に出してしまえば、いざという時に対応の手がまわらなくなるかもしれないという指摘は実にもっともなものだった。
 くわえて、司馬懿の言葉は俺にあることを想起させた。これまでほとんど気にかける余裕がなかった、けれど決して忘却してはならないことを。
 そんな諸々の理由で司馬懿の意見を容れた俺は、徐晃を手元に残し、使者の役目は別の人間に命じることにした。毎度毎度、年下の少女に思慮不足を指摘され(大学生が中学生に注意されるようなもんである)、作戦を変更するというのも情けないかぎりだが、言っていることは正論なので反論のしようがない。いずれ司馬懿にも修正しようのない素晴らしい作戦を立ててみせる、と無駄な決意の炎を燃やす今日この頃である。




 まあ、それはさておき、俺は司馬懿の進言どおり函谷関に複数の急使を出し、なおかつそれぞれ別の道を使うよう指示したので、全員が捕まるということはない――だろう、たぶん。
 あとは官渡の結果を知った弘農勢がどう動くかで、戦況は一気に動き出す。
 弘農勢が函谷関を出て袁紹軍に攻めかかってくれれば、もちろん言うことはない。様子見で兵を出すだけでも、敵の注意をそらせる意味で無駄ではない。もっといってしまえば、最悪、彼らが動かずとも大きな問題はなかった。少なくとも、そのことで官軍全体が瓦解することはない。


 先に俺が立てた作戦で弘農勢の参戦が必須だったのは、俺自身が動かせる(と思っていた)兵が少なかったからだ。司馬懿の進言を容れて計画の主導を許昌に委ねた今、そのあたりはあまり気にする必要がなくなっている。
 張莫が動けば河内郡の諸侯、諸将に指示が飛んでいるはずだから、弘農勢が動かずとも問題ない。張莫が動かなければむろんそれまでのこと、弘農勢が動こうと動くまいと俺の目論見が外れることにかわりはないのである。


 ゆえに、いま俺が気にするべきはただ一つ。
 眼前の張恰の部隊を逃がさないことに尽きる。張恰が出てきたこと、敵陣の様子、さらにしんがりという任務の性質を考えるに、彼方に見える敵が精鋭であることは疑う余地がない。今後のことを考えれば、この部隊に黄河を渡らせるわけにはいかなかった。
「だからといって、下手に追撃すると返り討ちに遭いかねないところが厄介なんだが」
 しんがりといえど数はこちらと同等だし、さきほど徐晃が口にしたように、敵兵も官渡の敗戦を知っているだろうに、動揺している様子がまるでないのだ。
 俺の言葉に徐晃がうなずいた。
「あの落ち着きぶりだからね。手強いよ、間違いなく」
 洛陽で直接張恰と刃を交えた徐晃は、敵将の巨大さが俺よりもはっきりと感じ取れるのだろう。その顔は真剣そのものであった。


 『高』の軍旗がないということは、おそらく高幹は渡河の指揮をとっているのだろう。武勲を得るためにも、できれば高幹が黄河を渡る前に捕捉したかったのだが、張恰率いる軍勢を前にして欲をかけば一敗地に塗れるのは必定である。なので、今は眼前の敵将をいかにして破るかに注力する。
 そして、その作戦はすでに考え済みであった。
「正面からは攻めない。弘農勢が動けば袁紹軍の側背を突こうと動くだろうからそれに乗じて追い討ちする。弘農勢が動かなかったとしても、張恰は遅かれ早かれ黄河を渡るために兵を退かざるを得ないから、そこを追撃。さらに渡河にかかった部隊を後方から痛撃する」
 結果として高幹を取り逃がすことになるが、張恰を討つか捕らえるかできれば高幹の片腕をもぎとったも同然であり、そこまでいかずとも張恰の部隊を撃滅すれば、その後の戦況はかなり楽になる。
 敵の窮地につけこんだ、我ながら見事な作戦であるといえよう。これなら司馬懿だって修正のしようはないに違いない、などと俺はひとり納得して頷いていたのだが、他者の目から見ると、また違った評価になるようだった。


 徐晃がぽつりと呟く。
「……それはこすっからいともいうよね?」
「そこは老練といってほしいな」
「むしろ老獪じゃないかな?」
「よし、不満があるなら聞こうではないか、徐公明どの」
「ううん、別に不満なんてないよ」
 わざとらしくソッポを向く徐晃。その顔には言葉とは裏腹に不満げな表情が見え隠れしている。
 その理由を、うっすらとだが、俺は察することができた。
 たぶん、徐晃としては正面から張恰と決着をつけたいのだろう。いつぞやポロ(偽)をやった時もそうだったが、徐晃は穏やかに見えて案外負けず嫌いなので、洛陽で単騎の張恰に阻まれたことを気にしているのかもしれない。


 とはいえ、それを察したからといって、まさか徐晃の感情を満足させるためにあえて勝算の少ない戦いに身を投じるわけにもいかない。張恰と真っ向からぶつかれば、たとえ勝っても被害は無視できないものになるにきまっている。
 徐晃にしても、自分の感情がわがままに類するものだとわかっているから口を噤んでいるのだろう――表情に出したら意味ない気もするが。
 まあ、そこは空気を読む能力に定評がある俺、華麗にスルーすることにした。なお、定評があるといっただけで能力の高下には言及していないので、あしからずご了承いただきたい。


 そんなどーでもいいことを考えていた俺の耳に、徐晃の緊張した声が飛び込んできた。
「一刀ッ」
「すまない、真面目に見張る」
「え? な、なんで謝るの?」
「む?」
 お互いに意図が通じていないことを悟り、顔を見合わせる。城壁上の炬火の明かりを映して琥珀色に染まった徐晃の瞳は、はっきりと困惑をあらわしていた。
「あの、敵陣の方から誰か来るよって言おうとしたんだけど」
「をを。てっきり俺がくだらないことを考えていたことを察して注意されたのかと――って、待て、それはつまり敵襲か?!」
 俺は慌てて城外に視線を戻す。
 だが、闇夜の向こうで敵軍が動いた様子はまったく感じられなかった。敵の炬火の位置は先刻とかわらず、喊声や兵馬の轟きも聞こえない。


 徐晃は眉根を寄せてかぶりを振った。
「襲撃じゃないと思う。遠くてよく見えないんだけど、こっちにくるのは十人くらいかな。なんだか女の人や小さな子供もいるみたいなんだけど」
「それは十分よく見えていると思うが、それはともかく、なんでこの戦況でそんな人たちが来るんだ?」
「だよねえ?」
 妙であることは徐晃もわかっているのか、何度か目を瞬かせ、闇夜をすかしてこちらに近づいてくるという一団を見やっているが、訂正の言葉はついに発されなかった。
 それはつまり、最初の徐晃の観察に間違いがなかったということ。そのことを、俺はほどなくして自分の目で確かめることになる。 





◆◆




 ボロボロの布切れをまとった、見るからに貧しげな姿の人たちは、本人たちの言葉を信じれば洛陽から逃げ出してきた住民であり。
 そして、彼らの口から出た言葉は思いのほか重要なものだった。


「洛陽ががら空き、か」
 俺はわずかに考え込む。
 聞けば彼らは洛陽に住んでいたのだが、洛陽が南陽軍、曹操軍、袁紹軍、三者みつどもえの戦いの巷になったことで身の危険を感じ、数日前に家族と共に洛陽から脱出したのだという。それで庇護を求めて虎牢関まで着の身着のまま歩き続けてきたということだが、当然というべきか、そこで袁紹軍に見つかり、捕まってしまった。
 だが、事情を聞いた張恰は彼らに手出しをせず、そのまま陣を通過させてくれたそうな。
 情けにかられてのことなのか、それともなにがしかの作為があってのことなのか。深読みすれば、脱出してきた人たちが袁紹軍だという可能性もないわけではない。
 まあ、ここまでやせ細った人間が兵であるとは思えないので、この線はたぶんないだろうけれど。徐晃が言ったように女性や子供の姿もあることだし、なんとなくではあるが、そういう謀略は高幹や張恰の性格にそぐわないように思う。
 とりあえず、話を聞くだけ聞いた俺は、逃げてきた彼らに食事を与えるように言いつけてから主だった諸将を呼び集めた。




「つまり、袁紹軍は降伏した南陽兵を解き放った上で洛陽を捨てた、ということかい? おまけに四方の城門をも開け放した?」
 開口一番、いかにも疑わしげな言葉を発したのは鍾会だった。
 俺はこくりとうなずく。
「逃げてきた者たちの話を総合すれば、そういうことになりますね」
「洛陽を捨てたこと自体に驚きはないけど、なんでまたそんな面倒な手間をかけたのやら。こちらに南陽軍をぶつけて、自軍だけさっさと河北に帰ってしまえばよかったものを。まさか、この準備をととのえるために今日まで河南にとどまり続けたわけでもないだろうにね」
 鍾会は難しい顔で考え込む。
 袁紹軍らしからぬ稚拙な動きに戸惑っているのは鍾会だけではない。汜水関からやってきた衛茲は、もともと他者に意見を求められるまでは自分から口を開かない人物だから、無言でいるのはさして不思議ではない。
 しかし、彼だけでなく棗祗や楽進も黙したまま考え込んでいる。敵の意図をはかりかねている様子がありありと伝わってきた。
 ちなみに徐晃は見張りを継続しており、司馬懿は俺のかわりに見張り台に詰めている。


 そのため、必然的に鍾会の相手は俺がしなければならない。
 俺は色々な可能性を検討しつつ口を開いた。
「張恰が通過を許したということは、この情報が私たちに伝わっても問題はないと考えたことになります。単純に考えれば、洛陽占領という餌を投げ出して、追撃に加わる兵を少しでも少なくしようとした、というあたりでしょうか」
「そんなわけないだろう。南陽勢が消えた今、洛陽をめぐって争っているのはぼくたちと袁紹軍だけだ。その袁紹軍が兵を退くのだから、ぼくたちが慌てて洛陽を占領する必要はかけらもない」
 全軍で追撃を行い、その後で洛陽を占領しても何の問題もない。その鍾会の言葉はしごく的を射ていた。
 思わず「ですよねー」といいかけ、慌ててその気安い言葉を飲み込んだ俺は、こほんと咳払いしてから改めて同意の言葉を発しようとした――のだが。


 不意に鍾会は唇に指をおしあてるようにして考えに沈んだ。
「――いや、すまない、北郷どの。そう限った話でもないな。滅びたも同然とはいえ、洛陽は光武帝が都と定めた由緒ある都市。そこを占領する功は小さいものではないし、影響力もないわけではない。それをねらって弘農の連中が西から入城する可能性がある」
「ああ、それは確かに」
 一番乗り、という武功がある。鍾会の言うように都市としての機能をほぼ喪失していたとはいえ、洛陽は漢帝国の都であった場所であり、表面上は官軍の主敵であった洛陽政権の本拠地だ。ここを真っ先に落とした者が称揚されるであろうことは想像に難くない。少しでも功績を欲する弘農勢が、その武功をねらって兵を進める可能性は確かにあるだろう。


 俺はそう考えて鍾会に同意したのだが、鍾会の考えは俺のそれよりさらに一段と深かった。
「それだけではないよ、北郷どの。連中が本気で洛陽を占領する恐れだってある」
「いや、それはさすがにないのでは? この戦況で官軍を相手にしても勝ち目がない。それがわからない弘農勢ではないでしょう」
「弘農の連中が陛下に背いて弘農王に従った事実は消えない。袁紹軍との戦況が五分であれば、官軍に助力することで恩を売るという選択肢もありえたけど、こちらは自力で勝ってしまった。いまさら這いつくばってみせたところで許されないのではないか――連中がそんな風に考えないとどうして断言できる? 弘農王に従った一事を見ても、連中の思慮の浅さは明らかだよ」
「……それは」
 鍾会の指摘に俺は言葉を詰まらせた。


 司馬家の姉妹と異なり、弘農勢を率いる張済や樊稠は弘農王に対して個人的な感情は持っていなかったはずだ。まさか同じ名を戴くから、という理由で加担したわけでもないだろう。
 単純に権力争いの一方に加担したというだけであるのなら、いずれ行きづまることが明白だった洛陽政権に味方した彼らの思慮の浅さは否定できない。
 となると、官渡の勝利で曹操に対して恩を売ることが難しくなった今、降伏してもどうせ許されないと考え、一か八かの賭けに出てくる可能性がないわけではなかった。
 俺は洛陽での張繍とのやりとりをもとに弘農勢の参戦を半ば既定のものとしていたが、張繍は総指揮官でもなんでもないのである。


「だとすると、弘農勢に武功をとられない――もとい余計な野心を持たせないためにも、こちらの手で早期に洛陽を占領しておく必要がありますか」
「わざとらしく言い間違えるね、君は。だが、そのとおりだろう。まあ、ぼくも連中が本気で官軍に矛を向けてくるとは思わない。仮に連中が洛陽を占拠したとしても、それは官軍と講和するための交渉材料としてだろう。こちらが先んじて洛陽を制してしまえば、それ以上のことはできないのではないかな」
 ただ、洛陽を占領するとなると、袁紹軍の思惑どおりに追撃の兵が少なくなることになるからそのあたりは難しいね、と鍾会は付け加えた。




 ふむ、と俺は考え込む。
 どのみち、張恰と矛を交えるのは黄河に達してからのこと。先日までの俺なら迷うことなく自身で洛陽へ向かって占領の功をかっさらい、取って返して追撃軍に加わったことだろう。
 だが、司馬懿から味方に対する配慮の欠如を指摘された身としては、同じ過ちを繰り返すわけにはいかない、という思いがある。功績の独占は極力避けるべきと考えると、俺以外の指揮官も連れて行き、一番乗りの栄誉を分かち合うのが妥当か?
 あるいは、なにかと圭角が目立つ鍾会に全権を委ね、独立行動をとってもらって洛陽占領を任せてもいいかもしれない。そうすれば鍾会と周囲がギスギスすることもない。洛陽奪還の功績を得られれば鍾会本人はもちろん鍾家の名を高めることができるから、鍾会にとっても悪い話ではないだろう。


 援軍の将である楽進には約束どおり先鋒を任せて――いや、しかし、逃げる敵を追撃するだけとはいえ、張恰相手では大戦果は望めない。伏兵でも仕掛けられた日には、損害を被って、かえって失態につながる可能性もなきにしもあらず。そうなると、俺は自分を安全な場所において、丞相府の武将を危険な目に遭わせたことになってしまうわけで、これはあまり好ましくない。
 くわえて、これまで汜水関を守るだけで、武勲をたてる機会さえなかった衛茲にも戦う場を与えないとまずいだろう。性格的にはきわめて温厚な人だが、将としての気概がないはずもない。大体、功績が必要なのは陳留勢も同様なのだ。


 あっちを立てればこっちが立たず。公平というのはなかなかに難しい。その上、張恰ほどの名将を前にして捕らぬ狸の皮算用やってる場合か、という根本的な問題が俺を悩ませる。
(ええい、面倒くさいッ)
 なんで強敵を前にして味方の功績分配とか考えねばならないんだ。命令を聞くだけの立場であれば、こんなこと考える必要もないのに、と頭を抱えたくなる。権限の増大は面倒ごとの増大でもあるらしい。
 これまではあまり気にかけていなかったし、今だとて眼前の勝利を優先するという大義名分の下、面倒ごとを切り捨てることもできるのだが、そのツケが後々高くつくことになるのは明々白々。これまで俺の指揮で特に支障が出なかったのは、補佐する武将たちが出来た人ばかりだったからだ。
 見方をかえれば、こういうのを面倒だと思っている時点で、俺は大軍の指揮官には向かないのだろう。まあどこかの股くぐりさんのように「多々益々弁ず」とか思ったことは一度もないけれど。



「申し上げますッ!」
「この上なんだ!!」
「ひィッ?!」
 やば、更なる厄介ごとかと思わず怒鳴りつけてしまった。報告に来てくれた人に八つ当たりしてどうするよ、俺。若い兵士さん(たぶん俺より年下)、めちゃくちゃ驚いているじゃないか。
「こ、こほん。すまない、申し訳ない」
 俺はそう言って詫びた後、何の報せか問いかけた。
 すると、兵士は驚きを顔に残しながら敵軍が動いた旨を口にした。
「は、ははッ。城門より、袁紹軍に退却の気配ありとのことです!」
 それを聞き、俺は思わず舌打ちする。兵士の肩がびくりと震えたのは、また俺に怒鳴られると思ったからだろうか。
 俺は慌てて表情が和らぐよう努力しながら、低声で呟いた。
「……なるほど、このタイミングで退くか」
 張恰はこちらが洛陽の現況を知った今が退く好機と見たのだろう。やはりというべきか、ただの情で避難民たちを見逃したわけではないようだ。
 まあ、どのみち退却の時日は今日か明日と決めていたのだろうが、それは今はどうでもいい。
 俺は素早く決断した。


「文謙どの」
「は」
「先の約定どおり、追撃の先陣はお任せします。ただ、本格的な攻撃は黄河に達するまで控えてください。それまでは着かず離れず、敵が隙を見せたら誘いだと思って間違いありません」
「承知ッ」
 楽進が力強くうなずくのを見て、俺は次に衛茲に目を向ける。
「衛将軍には私が指揮する予定だった兵をお預けします。主力部隊を率いて文謙どのの後詰を。細部の用兵については一任いたします」
「承りました。必ず信任に応えてみせましょう」
 白皙、と形容したくなる色白の武人は穏やかに一礼する。
 外見はどうあれ、衛茲は張莫麾下の将として戦塵を駆け抜けてきた人物である。その表情からは雄敵を相手にする興奮が確かに感じられた。案外、汜水関で無聊をかこつ日々に辟易していたのかもしれない。


「棗将軍は、当面は虎牢関の守備をお願いします。敵もこの期に及んで許昌へ向かおうとはしないでしょうが、追撃に逸るこちらの後背を突こうとする可能性はありますから」
「うむ、それが可能なだけの兵力が相手にはあるしな。となると、北郷どのと鍾どのは洛陽へ向かわれるおつもりか?」
「はい。とはいっても、連れて行く兵は千人ほどにおさえますし、占領自体は士季どのに任せます。私は洛陽の状況と弘農勢の動静を確かめてから追撃軍に戻るつもりです。士季どの、何か異存は?」
 俺が水を向けると、鍾会は小さく肩をすくめて言った。
「ぼくに関するかぎりは特にないね」
 功績をくれるというならもらっておくさ、とは俺が勝手に読み取った鍾会の内心である。




◆◆◆




 司州河南尹 洛陽


 官軍のものと思われる喊声が宮殿の奥の一室まで響いてきた。
 それを聞いた李儒は無言で部屋を出る。付き従おうとする従者も宦官もすでにおらず、李儒はただひとりで宮殿の中枢に向けて歩を進めた。


 袁紹軍が洛陽を捨て、すでに数日が経過している。当初、高幹の退去を知った李儒は、すぐさま後宮を出て形勢の挽回をはかろうとしたのだが、南陽軍は高幹の手で解体され、兵糧は一粒残らず袁紹軍に持ち去られ、かろうじて残っていたのは府庫の隅に転がっていたわずかな銀塊のみとあっては手の打ちようがなかった。
 それでも宦官のひとりを南に走らせ、立ち去った南陽兵に洛陽への帰還を厳命したのだが、いまだにただの一兵も戻らない。兵たちが命令を無視したのか、使いに出した宦官が逃げ出したのか、いずれにせよ自身の権勢が落ちるところまで落ちたことを李儒は悟らざるを得なかった。


 最も賢明な選択肢は逃亡。
 それは李儒にもわかっていたが、不思議とその気にはなれなかった――いや、格別不思議なことではないかもしれない。誰かにかしずき続けてきた李儒にとって、たとえ一時的なものであれ、洛陽政権で万機を掌握していた快感を忘れられるはずもない。知らなければ、再び誰かに頭を下げて生き延びることもできたろうが、洛陽政権を主宰した記憶が李儒にその選択肢をとらせなかった。




 やがて李儒がたどり着いたのは玉座の間であった。
 ここは宮殿の中で李儒が真っ先に修繕の手をつけた場所である。河北兵の仕業か、あるいは盗人が侵入したのかもしれないが、すでに装飾品はあらかた持ち去られ、壁や柱にもそこかしこに剥がされた跡が残っている。
 本来ならば、ここは皇帝と皇帝に従う百官が居並ぶ場所。だが、今この広大な空間を占めるのは湿った空気と積もった埃であり、ただただ寂莫の感が漂うばかりだった。


 そのただ中を、李儒は黙然と進んで行く。これだけは盗人たちも手が出せなかったのか、李儒の記憶と寸分たがわぬ形で、玉座が前方に据えられていた。南を向き、北面する臣下を見下ろす至高の椅子。
 李儒はゆっくりと階を昇って玉座の前までやってくると、この椅子に座っていた者を悼むように頭を垂れた。
 そして、ゆっくりと口を開く。


「偽りの即位によって玉座をかすめとった不義の弟を討つべく、陛下はこの貴き玉座で即位なさった。されど、悪も盛んなれば時に天に打ち勝つものらしい。正義の君は暴虐の軍によってあえなき最後を遂げられ、臣民はみな逃げ散った。ただひとり、真の忠臣たる私を除いて」
 うたうように言葉を紡いでいく。
 誰ひとり聞く者とてない述懐はなお続いた。
「陛下は逆臣どもに弑逆され、後を継ぐべき御子はない。このままでは漢の国も、陛下の志も無に帰してしまうだろう。臣として、それを是としてよいものか? 否、否、断じて否。漢朝の命数が旦夕に迫ろうと、私は逃げず、留まり、陛下が遺した国と志を継がねばならない。そのためには私が帝位に就かなければならないのだ。なぜならば、国は一日として皇帝不在に耐えられぬゆえ」


 これが李儒が選んだ選択だった。
 李儒は劉弁の死を確認してはいないが、洛陽にいないということは崩御したということだ、と決め付けた。真に皇帝たる者が統治の責任を放棄して逃げ出すはずがない。仮に何者かに連れ出されたとしても、皇帝は今ごろ自らの無力を恥じて死を選んでいるであろう。選んでいるべきだ――否、選ばなければならない。
 だから、皇帝はすでに死んでいる。自分の即位が避けられない所以である――李儒はそう考えていた。


「帝位に就くは我が本意にあらず。社稷の臣こそ我が理想。されど、いたしかたない。これすべて漢のためなり。悪盛んなる時も、それにあらがった偉大なる主従がいたことを史書は千載に伝えるであろう」
 そう言うと、李儒は袖を翻して玉座に座した。
 五本爪の竜が描かれた衣をまとい、傲然と階下を見下ろす。どうして李儒に合う帝衣が用意されていたのかを知る者は、李儒以外にはいなかった。


 従う者も、祝う者もない虚ろな玉座を得た李儒の目には、存在しない百官が映っていたのかもしれない。その口元は、まるで廷臣から万雷の万歳を受けているかのように心地よさそうに緩んでいた。
 ――そして。
「……来たか」
 しばし後、李儒の口からそんな呟きがこぼれおちた。



◆◆◆



 少し時をさかのぼる。


「……これはひどいな」
 馬上、開け放たれた城門をくぐり抜けて洛陽に入った俺は、眼前に広がる街並みを見て思わずそんな言葉を口走っていた。
 俺は洛陽という都市と無縁ではない。反董卓連合の折には、玄徳さまたちと共にここの城門をくぐっているし、大火で街が炎上した後も劉家軍はしばらく洛陽に留まっていたので、荒廃した街並みを見るのもはじめてではない。
 つい先日も袁紹軍と戦うためにこの街並みを駆け抜けたばかりである。


 だが、大火からはすでに年単位で時が経過しており、先日の襲撃も夜間のことだった。
 日の光に照らされた現在の洛陽の街は、もはや廃都というより廃墟だった。曹操があえてこの都市を勢力下におかずにいた理由がよくわかる。これを復興させるには、人と物と金がいくらあっても足りないだろう。
 司馬懿によれば、宮殿やその周辺は少しは復興の手が入っているそうだが、このあたりはまったく手付かずであった。ここまで手をつけるだけの余裕が洛陽政権にはなかったのだろう――
 と、そこまで考え、俺は慌ててかぶりを振った。
「しまった。今はそんなことを気にしている場合じゃなかったな」
 その声に素早く反応したのは鍾会である。
「まったくそのとおりだよ。で、ぼくは占領をはじめてしまっていいのかな? 占領といったって、千人ばかりでは城壁の上に旗をたてて城門を守るくらいしか出来そうもないけれど」
「お願いします、士季どの。私は宮殿を押さえて、その後で城内に残っている住民を慰撫しますので」
「そのために仲達を連れてきた、と言いたいんだね。あいかわらず君は……いや、今はいい。小細工が過ぎて、足元が留守にならないよう気をつけたまえ」
「ご忠告、痛み入ります」


 そんなやりとりの後、鍾会は兵を連れて俺の傍から離れていった。残ったのは俺と司馬懿と徐晃、そして司馬家の私兵が百人ばかり。他の司馬兵は虎牢関で治療中のけが人をのぞき、司馬孚の護衛として許昌に同道している。張莫が壷関襲撃を決断したのなら、今頃は温に向かっていることだろう。
 日数的に考えれば、張莫がどういう決断を下したのかは間もなくはっきりするだろうが、それは今ここで案じても仕方ないことである。




 城門から洛陽宮まで、俺たちを妨害するものは一切なかった。
 敵兵の姿は影も形もなく、矢石がどこかから降ってくるということもない。時折、物陰から視線や人の気配を感じることはあったが、ただそれだけだ。気配の主が姿を見せることはなかった。
 そして――
「宮殿の門も開きっぱなしか。本当に空っぽなんだな」
 過日、激戦を繰り広げた場所をあっさりと通過しながら、俺は肩の力を抜いた。無防備に見せて実は、なんていう展開も予測していただけに、本当に無防備だとわかって安堵と脱力を同時に感じる。念のため、周辺も確認させたが、やはり敵兵の姿は皆無。袁紹軍が洛陽を放棄したことは、もう疑うべくもなかった。


「まあいいか。それならそれでかえって助かる。仲達」
「はい、北郷さま」
 仲達が馬を寄せてくる。
 鍾会が察していたように、俺が司馬懿を連れてきたのは洛陽の人心を安定させるためだった。司馬懿が洛陽政権の下で街の治安をつかさどっていたことは、本人の口から聞いている。
 外からの度重なる襲撃で動揺している住民も、司馬懿の健在を知れば安堵するだろう。司馬懿が官軍に従っているとわかれば、のちのち曹操軍が入城してきても騒ぎを起こしたり逃げ出したりせずにいてくれるのではないか、とも考えた。
 たとえ曹操が今後も洛陽の統治に関わるつもりがなかったとしても、今この戦況で洛陽を空白地帯にしてはおけない。そのことは鍾会とのやりとりでしっかりと認識している。最低限の治安は維持しておかねばならなかった。


 その旨は司馬懿にも伝えてあるし、司馬懿も最善を尽くすと言ってくれた。ただし、完全に納得してくれたわけではない。特に俺自身が宮殿を制圧することについては首をかしげていた。
「河北兵が宮殿の奥深くに潜んでいることはまずないでしょう。物資や貴重品が残されているとも考えにくいです。確認は必要ですが、北郷さまがみずから赴かれることはないと思います」
「うん、まったくそのとおりなんだが、ちょっと確かめたいことがあってな。そんなに手間も時間もかからない。公明と、あと十人ばかり兵を連れて行くから、仲達は残り――」
 残りの兵を指揮して、住民たちとの話し合いを、と続けようとした俺だったが、じっとこちらを見つめる司馬懿の視線を受け、少し内容を訂正することにした。別に司馬懿の視線に抗いがたい圧力を感じた、とかではない。たぶん、そのまま命令しても司馬懿は反論せず従ってくれただろう。


 ただ、それはそれとして――
「公明と仲達、あと九人ばかり兵を連れて行く。残りはここで待機して、変事に備えてもらおう」 
「はい、かしこまりました、北郷さま」
 そういって頭を下げる司馬懿の顔がどことなく嬉しげであったのは、たぶん俺の気のせいではなかっただろう。





 往時ならば踏み入るどころか近づくことさえ許されなかった洛陽宮に、先夜に引き続いて再び足を踏み入れた俺は、司馬懿に先導されて玉座の間を目指した。
 確たる理由があって玉座の間に向かったわけではない。何かあるならそこだろう、と思っただけだ。
 そして、もうすぐ到着、という時に俺は徐晃に話しかけた。
「公明」
「なに?」
「この前、仲達も言っていたんだが、河南の戦局は大詰めだ。黄河の北はともかく、南――洛陽をめぐる争乱はもうすぐ終わる」
「う、うん?」
 徐晃が怪訝そうに首をかしげる。突然何を言い出すのか、と言いたげだった。俺はかまわず先を続ける。
「今回の戦いが始まる前、汜水関で話し合ったときのこと、覚えてるか?」
「汜水関で? ええと……」
 眉を寄せて考えこんだ徐晃だったが、すぐに思い当たったのだろう。思わず、という感じで目を見開いた。
 問う眼差しを向けてきた徐晃に、俺は小さくうなずいてみせる。


「ここまで来て誰の姿も見ないってことは、宮殿の中も無人なんだろう。となると、かたまって動くのも効率が悪い。公明は何人か連れて、別の場所――そうだな、府庫でも見てきてくれ。金目の物は残ってないだろうし、記録の類もないとは思うけど、どっちもあればもうけものだ」
「――うん、わかった。気をつけてね、一刀」
「そっちもな」
 うなずきあった俺たちはここで二手に分かれた。


 そうして、司馬懿ほか数名の兵と玉座の間に向かった俺は、そこで皇帝しか着ることを許されない袞竜の袍をまとった人物と対面することになる。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/06/15 10:30
 洛陽宮殿 玉座の間


 帝衣をまとい、玉座に座した白面の人物の顔を見た瞬間、司馬懿の眉が急角度につりあがった。
 司馬懿は玉座に座っている人物を知っていた。南陽郡太守にして、弘農王劉弁の下で実質的に洛陽政権をつかさどっていた李儒、字を文優。
 その李儒が、着てはいけないものを着て、座ってはいけない場所に座っている。
 咄嗟に叱声を発しかけた司馬懿は、しかし、寸前であやうく思いとどまった。この場でそれを口にするべきは自分ではない、と考えて。
 沈着な司馬懿にとって、怒声をこらえるために意思を振り絞るなど滅多にないことだったが、この時の司馬懿は疑いなく心身を怒気で染めていた。こらえることが出来たのは本当に偶然に過ぎない。

 
 司馬懿が李儒を知るように、李儒もまた司馬懿を知る。李儒にしてみれば、司馬懿もまた自身の権勢を突き崩した敵のひとりであろう。
 だがこのとき、李儒は司馬懿にちらと視線を向けただけで、その視線はすぐに別の人物に据えられた。
 そして、李儒はその人物――北郷一刀に向けて、嘲弄じみた言葉を発する。
「久しいな、北郷一刀。この地で再び貴様と相まみえることになろうとは思わなかったぞ」


(え?)
 その言葉に、司馬懿は内心で驚き、そっと北郷の横顔をうかがう。北郷と李儒が知り合いであった、という話は聞いたことがない。
 だが、この李儒の言葉は当の北郷にとっても意外なものであったらしい。応じた声は明らかに怪訝な響きを帯びていた。
「……その顔、その態度。察するに、南陽太守の李儒か? お前に旧知のように呼ばれる覚えは――」
 覚えはない、と続けようとしたであろう北郷の言葉は、李儒の激昂によって遮られた。
「貴様ごときに名を呼ばれる筋合いはないッ! 分際をわきまえよ、下郎ッ!!」
 甲高い声は金属を引っかく音にも似て、聞く者の耳朶を責め立てる。北郷は思わずという感じで眉根を寄せて口を閉ざした。
 それを見て、相手が自分の威に怯んだとでも思ったのか、李儒は寸前までの激昂が嘘のように、静かな面持ちで満足げにうなずいた。


 一介の廷臣が帝衣をまとい、玉座に座る。治める国はなく、従う臣民もいない、蜃気楼の椅子に執着する姿勢と、今垣間見せた感情の落差。李儒の心の均衡がすでに崩れていることを司馬懿は悟った。
 だが、この偽帝と称することもためらわれる迷妄の人物が、完全に狂ってしまったと断じることは司馬懿にはできなかった。荒廃した都の無人の宮殿で、なお傲然とこちらを見下ろす人物の顔に明確な悪意があったからだ。
 悪意は相手あってこそのもの、李儒はいまだ誰かを憎むだけの理性を保っていることになる。
 では、その悪意が向けられた人物は誰なのか。それは李儒の態度がはっきりと示している。司馬懿たちが玉座の間に足を踏み入れてから、李儒が相手にしているのは北郷だけなのだから。




 司馬懿は嫌な予感を覚えた。
 この状況で李儒に何が出来るのかはわからない。今の李儒に伏兵や刺客を潜ませる余力があるとは思えないし、李儒自身が襲い掛かるには北郷との距離が開いている。階をのぼった先にある玉座からでは、何をしても届くまい、
 ゆえに李儒にできることなど何もないと思えるが、為人に問題があるとはいえ李儒が水準以上の能力を持っていることは疑いない。李儒が何かを企んでいるのなら、それは未然に防ぐべきであった。
「北郷さま、ご命令を」
 李儒を捕らえよ、あるいは斬れという命令であっても、司馬懿は即座に従うつもりだった。兵の力を借りるまでもなく、それは司馬懿ひとりで為しえるだろう。


 だが、北郷が返答するよりも早く、李儒が再び口を開いた。
「我が名を呼んだ無礼は許しがたい。だが、一度だけは許してやろう。なにしろ、お前は私――いや、朕の命を救ってくれた恩人ゆえな」
「命を救った?」
 北郷の声は先にもまして色濃い戸惑いに染まっている。
 その反応を見て、李儒の口元がはっきりと歪んだ。なまじ秀麗な外見をしているだけに、悪感情が表に出た李儒の顔は、見る者の心に寒風を呼び込む。
 くつくつとこちらをあざ笑う声は清爽の対極に位置していた。


 それを見て、これ以上ふたりに話を続けさせるとまずい、と司馬懿は直観した。李儒ははっきりとした意図をもって言葉を紡いでいる。その意図が北郷に害をなすことにあるのは明白だった。
「北郷さまッ」
 司馬懿は咄嗟に北郷の袖を握り、無理やり注意をこちらに向けようとする。
 だが、北郷は司馬懿の方を見ようとはしなかった。
 かといって、李儒の言葉に気をとられていたわけでもない。


 その視線は、これまでとは違う色合いで李儒の面上に据えられていた。


 ややあって、北郷の口からしぼりだすような、うめきにも似た声がもれる。
「……………………ああ、もしかして。あの時、洛陽に火を放とうとしていたやつか」
「……思い出したか。いや、朕の名を聞いてすぐに思い至らなかったということは、忘れていたのではなく、本当に知らなかったのだな。あのとき、朕の名は教えてやったはずなのだが」
「そういえば、後ろの方で何かわめきたてていたな。雑音にしか聞こえなかったけど――そうか、お前が……」
 北郷の声が沈痛なものにかわる。
 それに乗じるように、李儒は声に力を込めた。
「そう、朕が李文優だ。北郷一刀、改めて礼を言うぞ。あのとき、貴様に命を救われたがゆえに、朕は今こうしてここにいられる。ここに来るまでたやすい道のりではなかったがな。礼がわりに教えてやろう、あの後、朕に手を差し伸べたのは于吉なる方士だ」
「于吉……?」
「そう、貴様も知っていよう。仲帝袁術の股肱、方士于吉だ。朕は一時的に于吉の下で働き、仲のために多くの功を積み上げた。たとえば、そう、虎牢関で貴様の上役であったという陳留の張莫。彼奴の妹である張超と朝廷の反曹操派を引き合わせたのも朕よ。そして、事破れ、すべてを曹操めに打ち明けようとした張超とその側近を冥土に送ってやったのも朕だ」


 応じる北郷の声は硬かった。
「……兌州の動乱はすべて自分たちが引き起こしたことだ、とでも言いたいのか?」
「そのとおり。むろん信じる信じぬは貴様の随意だが、いかにも信じられぬと言いたげだな。あるいは信じたくない、か? 貴様にしてみれば、自分が見逃した人間があのような大事を引き起こしたなどとは思いたくないであろうからな。だが、この際だ、もう少し朕の話を聞くがよい。聞けば、貴様も信じざるを得なくなるだろうよ――」
 そう言うと、李儒は語り始めた。まるで演説でもしているかのように、滔々と自分が行ってきた所業を口に出していく。


 途中、司馬懿はもう一度北郷の袖を引いた。
 李儒の語る内容は、仲のために行われた謀略と殺人の繰り返しであった。それが事実か否かはわからない。ただ、それを誇らしげに語る李儒の姿が司馬懿の脳裏に警鐘を鳴らす。北郷が黙って聞き入っている意図はわからなかったが、それでもこれ以上続けさせるべきではない、と思えた。
 その司馬懿の意図は北郷に通じていただろう。
 だが、北郷は李儒の独白を止めようとはせず、のみならず、はっきりと首を横に振って、司馬懿が動くことを禁じた。



 そうしている間に、李儒の話は徐州における曹家襲撃から淮南の戦いへと及んだ。
「――朕が于吉の目論見を悟ったのはこの時期であった。その目論見とは何だろうな? いうまでもない、北郷一刀、貴様を殺すことだ。そのために于吉は曹家を襲って許昌と徐州を争わせた。ここで貴様が死ねばそれでよし、かなわず逃げてもかまわぬ、逃げる先は我らが支配する南方しかないゆえな。貴様は悪運強く生き延び、そして我らの思惑どおり南へと逃げてきた。淮南でも貴様はしぶとく仲軍の矛先から逃げまわったが、今度は逃がすわけにはいかぬ。于吉はそのために広陵を嬲り、略奪で荒廃せしめた後、陳羣を逃して貴様を高家堰に封じ込めた。そして、仲の全軍をもって砦を囲んだのだ。これがあの戦いの真相だよ」
 愉しげに語を重ねる于吉は、うつむくばかりの北郷を嘲弄するように、耳障りな笑い声をあげた。
「貴様とて疑問に思わなかったわけではあるまい。どうして、戦略的にも戦術的にも価値の薄い砦が、あのような大軍に取り囲まれたのだろう、と。その疑問も今日こうして解かれたわけだ。かの地で行われた戦いと謀略、これすべて貴様ゆえに起こったことであった。ふふ、いまさら言っても詮無いことだが、貴様がいなければ、淮南の戦いはどのように推移していたのだろうなぁ? 案外、劉備めが勝つ目もあったかもしれぬぞ」
 李儒はそういって、こらえきれぬとばかりに高々と哄笑した。


 この間、北郷はなにひとつ言葉を発さなかった。目を閉じ、俯き、ただ黙って李儒の哄笑に耐えている。北郷の身体は凍りついたように身じろぎひとつせず、袖を握り続ける司馬懿の手には震えひとつ伝わってこなかった。
 対する李儒の舌は滑らかさを増す一方であり、その内容はついに司馬懿自身が関わることにまで及んだ。
「その後のことは語るまでもない、と言いたいところだが、そこな司馬の小娘も無関係ではないゆえ、聞かせてやろう。于吉は寿春で、朕は南陽でそれぞれ力を蓄えた。先帝を許昌からお連れする際も、解池での狂女の騒動も、朕はみずから出向くことはしなかった。もっとも、知恵と金と人は出したがな。朕がみずから赴いていれば、あそこまで無様な結末にはならなかったろうが、ふん、部下に朕と同じだけの能をもてといったところで無益であろう」
 李儒はそこで言葉を切ると、黙ったままの北郷と、その傍にいる司馬懿を睥睨した。
 そして――



「朕は今日、貴様に討たれることになろう。だがそれは、貴様が朕に勝ったのではない。朕が天に負けたのだ――そう言いたいところだが、しかし認めようではないか、北郷一刀。朕は貴様に、北郷一刀に敗れたのだ、と」



 その言葉に込められた感情がどれほど陰惨であったのか。司馬懿をして背に氷塊を感じるほどのそれは、いうなれば極彩色の悪意であった。
 言葉の上では素直に負けを認めている。だが、ここまでの話の運びを見れば、ここで李儒が北郷に敗北を認めるはずがない。何を言わんとしているのか。どんな悪意を吐き出そうとしているのか。
 もし、先ほど北郷がはっきりと首を横に振っていなければ、司馬懿はここで握っている裾を離し、玉座への階を駆け上がって李儒を斬り捨てていただろう。北郷のためを思ってというより、司馬懿自身が負の感情を奔出させる李儒の言動に耐えかねていた。
 李儒を指して壺毒と称した方士の言動を、もちろん司馬懿は知る由もない。だが、知れば無言のうちにその言葉の正しさを認めただろう。今の李儒は人の形をした毒そのものだった。



「道半ばで果てるは無念のきわみだが、しかし、相手が貴様ではさすがの朕も諦めるしかない。姿形こそ平々凡々たる貴様だが、その実相は覚悟を知らず、己を知らず、それゆえに戦乱と流血を招きよせる無知の猛悪よ。貴様が中華に撒き散らした災禍は、古の四凶をすらしのぐだろう。四凶をしのぐ貴様に、どうして人の身で打ち勝つことができようか。貴様のせいで果ててきた無数の屍の上に、朕の身体も積み重なる、ただそれだけのことだ」
 だが、と続ける李儒の目には、隠し切れない愉悦の色があった。
「それでも朕はまだ恵まれた方なのかもしれぬ。何故なら、朕は最初から最後まで貴様の敵であったのだから。敵に敗れるは道理。ゆえに、朕は諦めることができる。ゆえに、真に哀れなるは朕にあらず」


 そう言って天を仰いだ李儒は、両手で顔を覆い、甲高い叫び声をあげた。
「そう、真に哀れなるは朕にあらず! 真に哀れなるは劉玄徳! 彼奴は敵ではなく、味方に敗れたのだから! 己が内に元凶あるを知らず、元凶と笑い、元凶と泣き、元凶と共に戦場を駆けたのだから! ああ、どうしてそれで災いを避けることができようか。しかして彼奴はいまだその事実を知らずにいる。ああ、なんたる悲劇、おお、なんたる無様! これを知ったときの彼奴の無念と苦痛、察するに余りある。偉大なる高祖よ、果敢なる光武帝よ、どうして御身らの末裔にこのような無残な結末を用意したもうた? 雄敵と競い、敗れて夢果てるならばいざしらず、獅子身中の虫に夢を貪り食われるとは、死んでも死にきれまい!」


 真実、劉備を悼むように痛哭した李儒は、顔を覆っていた手をどけると、玉座から立ち上がって、階下の北郷を指差した。
 その表情に名前をつけるならば、嗜虐、が一番相応しかっただろう。
 そして、李儒はとどめの言葉を放つ。まるで歓喜するように、両の眼を陶酔で染めながら。
「そうだ、北郷一刀! 貴様がいたゆえに劉家軍は追い詰められた! 貴様がいたゆえに高家堰は仲軍に囲まれた! すべては貴様の責なのだッ! 貴様が――他の誰でもない、貴様が劉玄徳の夢を散らしたのだッ!!」








 李儒の言葉が途切れると、周囲はシンと静まり返った。
 玉座の間を包んだ静寂は容易に破られそうになく、その静寂をもたらした李儒は満足げに息を吐き出した。そして再び玉座に腰を下ろした李儒は、ここでようやく陶酔から覚め、苦悶しているであろう北郷の姿を堪能しようと眼差しをそちらに向ける。
 ――そして、気がついた。
「…………なに?」
 視線の先で、いつの間にか北郷が俯くのをやめていることを。
 予期せぬ事実を知って凍り付き、あるいは自らが犯した罪業に苦悶しているはずの北郷が、特段、何の感慨も面に出さずに李儒を見上げていることを。


 そんなはずはない、と李儒は思った。今、李儒が口にした事実は北郷にとってはじめて知ることばかりのはず。自分のせいで主君や仲間が崩壊したのだ。北郷のような甘い若造がそれを教えられて苦痛を覚えないはずがない。あの老いた方士が口にしたことを、李儒は確かにそのとおりだと思った。だからこそ、こうして激語を叩きつけてやったのだ。
 にも関わらず、北郷はこうしている今も平然と李儒を見据えている。もう言うことはないのか、と言わんばかりに。内心の驚愕を押し隠しているにしては、その立ち姿はあまりにも自然だと李儒には思えた。
 事実、李儒の視線の先で、ゆっくりと開いた口から発された北郷の言葉には、一片の動揺も含まれていなかった。


「――言いたいことは終わったか、李儒、ではない、李文優どの?」
「……この身は皇帝ぞ。陛下と呼べ」
「それは断る。俺はお前を皇帝だなんてチリほども認めていないからな」
 でもまあ、色々と教えてくれたことには感謝しよう。
 北郷はそう言ってにやりと笑った。


 その声、その態度、その表情。余裕さえ感じさせるそれらすべてが李儒にとって想像の外にあった。 


 李儒は憎々しげに口を開く。
「……主君に仇なす疫病神が。ここで朕を斬ったところで、貴様の罪業、万分の一も償うことはできないのだぞ。むろん、これまで朕が手にかけてきた者たちへの償いにもならぬ。貴様が――」
「俺がお前を殺していれば死なずに済んだ人たちにどうやって詫びるつもりだ、か? 今も言ったけど、色々と教えてくれたことには感謝している。けど、同じことを繰り返すのは勘弁してほしいな。お前の言葉は、ただ聞いているだけで心がけずられる。俺はともかく、仲達や他のみんなには毒だ」
 あっさりと応じると、北郷はゆっくりと階をのぼりはじめた。後ろに続こうとした司馬懿や兵士を片手で制し、ただひとりで。


 それを見て李儒はわずかに腰をあげかけたが、すぐにそんな自分を恥じるように座りなおし、北郷の虚勢を暴くべく舌を回転させた。
「他人事のように言っているが、貴様にとっても毒であろう? 仲が貴様を狙っている事実を知れば、今後、貴様の傍に近づく者はいなくなる。ここで朕を斬って口を塞いだところで、そこの小娘どもの口まで塞ぐことはできまい。それとも、ここにいる者たちすべてを葬って、恥ずかしげもなく劉備めの下に帰参するつもりか? 今度は新野を炎で染めるつもりか?」
「いや、そんなことをするつもりはないな。そもそも、お前を殺すつもりもないし」
 一歩一歩、足元を確かめるようにして李儒に近づきながら、北郷はそんな言葉を吐く。
 李儒の両眼に紫電がはしった。
 助かるかもしれない、という安堵ではない。北郷の言動が理解できず、苛立ちが臨界に達しつつあるのだ。


「…………なるほど、一軍の将となった今なお、できれば自分の手は汚したくない、というわけか。だが、そんな悠長なことを言っていられる身分ではあるまいが。朕を生かすということは、それだけ貴様の秘密を知る人間が増えるということなのだぞ。それが嫌ならば、朕をここで殺せ」
「それをすれば、かえって俺は疑われる。自分に都合の悪いことを知っている人間を消したのではないかってな。俺の秘密とやらは、許昌の刑吏に存分にしゃべってくれ。その後で、お前の処分は曹丞相が決めるだろうさ。それがどうなろうと、俺にはどうでもいいことだ」
 玉座への階といったところで、百も二百も段があるわけではない。
 北郷はすでに李儒の眼前に立っていた。
 対して李儒は玉座にかけたまま動こうとしない。というより、動けなかった。北郷の言動が、本当に理解できなかったのだ。



 李儒はここで死ぬつもりだった。
 生きて再起をはかる気になれない以上、残された道は死して名を残すだけ。
 北郷に呪いを残し、逆上した北郷に玉座の上で斬り殺される。王朝の歴史に自分がなんと記されるかは想像するしかないが、どんな形であれ、史書に名が残れば。自分の行動が歴史に明記されれば、いつか自分の志を理解する者は現れる。李儒は本気でそう信じていた。
 そうあってこそ、自分の生に意味がうまれる。李文優の名は不滅のものとなるのだ、と。



 だというのに、北郷は李儒を殺そうとしない。腰に剣こそ佩いているが、李儒を間合いに捉えた今なお抜こうとする素振りさえ見せぬ。
「……何を考えている、北郷一刀。本当に朕を生かしておくつもりなのか?」
「だからそう言っているだろうが。まあ、その前に、だ」
 不意に北郷の手が李儒に向けて伸びる。何気ない動作だったが、李儒はまったく反応できなかった。
「ぐッ?!」
 胸倉を掴み挙げられ、強制的に立ち上がらされた。と、思う間もなく、玉座とは別の方向に突き飛ばされた李儒は、たまらず床にしりもちをついた。


 わけがわからず北郷の顔を見上げる李儒にかぶせるように、上から声が降ってきた。
「ここはお前が座っていい場所じゃない。分際をわきまえるのはお前だ」
 李儒が激怒したのは、その内容というよりも、その声に含まれた感情に我慢がならなかったからだった。より正確にいえば、ろくに感情が含まれていないことが許せなかった。
 怒りも憎しみもなく、かといって嘲り、冷笑しているわけでもない。無理をして感情を押し殺しているのではなく、その感情の大半を占めるのは義務感だった。
 言うべきことだから言った。それ以上でも以下でもない声音。


 ここにきてようやく李儒は悟る。
 北郷が、自分をろくに相手にしていないのだ、という事実を。


「…………ッ!!」
 懐から取り出されたのは小刀。
 過日、高幹を傷つけた暗器であり、かつて北郷がまったく反応できなかった武器。
 しかし。
「大火の時のことを思い出させたら、これだって思い出すだろ」
 いつの間に抜き放ったのか、北郷は直近から放たれた小刀をあっさりと剣で弾き返していた。どこか澄んだ音を響かせて彼方に飛んでいく小刀を、李儒は呆けたように見送る。
 その李儒に向けて、北郷は斬撃を繰り出した。
 ただし、狙いは李儒の命ではなく。
「これはお前が着ていいものじゃない」
 李儒が着ている袞竜の袍。中華広しといえど、ただ皇帝しか着ることを許されない衣が、ななめにばっさりと切り裂かれる。   


「ひ……な……」
「そら、いくぞ」
 言うや、北郷は剣をしまうと、ガッと李儒の襟首を引っつかみ、引きずるようにして階を下りはじめる。
 その乱暴な扱いには、好き放題に罵られていたことへの意趣返しの意図が見て取れないわけではなかったが、当の李儒はまったく気づいていなかった。
「ぐ、が?! 貴様、離せ、離さぬかッ」
「ああ、黙れ黙れ。もう終わるよ。ほい、到着っと」
 北郷は駆け寄ってきた司馬懿らの前に李儒を放り出した。
「仲の南陽太守にして、洛陽政権の事実上の宰相の身柄だ。丁重に扱って差し上げろ」
「……かしこまりました。自裁を防ぐためにも、くつわをかませておきましょう」
 司馬懿が言うと、北郷は軽く肩をすくめた。
「自分で自分を裁く度量があるなら、こんなことにはならなかっただろ。他人をいくら傷つけても心は痛まないが、自分が傷つくのは我慢できない。そんなやつに自裁の心配はないよ。まあ、こいつの罵声はもう聞きたくないから、くつわをかませておくのは賛成だ。連れて行け」
 最後の一言は兵士たちに向けたものである。


 兵士たちが命令に従い、乱暴に李儒を引っ立てていく。
 その間、李儒は何度か声を張り上げていたが、その声はすでに北郷の意識の外にあるようで、まったくといっていいほど反応を見せなかった。
 北郷は残った司馬懿にも申し訳なさそうに声をかける。
「仲達もついていってくれるか? 自裁の心配はなくても、逃げ出す恐れはあるからな。許昌の刑吏に引き渡すまで用心しないといけない」
「はい、ご命令のままにいたしますけれど……あの、北郷さま」
 憂いを込めた眼差しで司馬懿の内心を悟ったのだろう。北郷はふてぶてしい笑みを浮かべた。いささかならず、わざとらしいものだったけれど。
「気遣い感謝する。けど大丈夫だ。あんな罵詈雑言で傷つくほどやわじゃないよ」


 だから、心配しないでいい。
 そう口にした北郷の言葉をどう受け止めたのか、司馬懿は一度だけしっかりとうなずくと、踵を返して兵士たちの後を追って玉座の間を出て行った。






◆◆◆






 司馬懿が去り、玉座の間にひとり残った俺は、鞘に納めた剣の柄頭をもてあそびながら、部屋の四隅にわだかまる闇に届くよう、強めの声をあげた。
「そろそろ出て来い、方士。どうせ隠れているんだろう?」
 一瞬の静寂。
 だが、変化はすぐにおとずれた。まるで四方から同時に発されたような、奇妙にこもった声が玉座の間に響き渡ったのだ。


『…………ほう、ほう。気づいておったか。それともあてずっぽうか?』


「当たれば格好がつくし、外れてもここにいるのは俺だけだ。別に恥ずかしくもない。なら、言ってみなければ損だろうさ」
「くかかか! しかりしかり。ずいぶんと図太くなったではないか、この塵屑(ゴミくず)のごとき外史をつくりし元凶の子よ」
 そう言って姿を現したのは、ぞっとするほどに暗い目を持ったひとりの老人であった。
 装束の色こそ解池の方士と同じ白色だったが、雰囲気はずいぶんと異なる。
 俺は観察の視線を走らせつつ、老人に相対した。


「外史、か。解池の方士も同じ言葉を口にしていた。やはり同類か」
「いかにもそうじゃよ、北郷一刀。わしの名は韓世雄。ぬしらが解池で討った甘始の師よ。見知りおくがよい」
「お前たちみたいな胡乱な連中を見知りおきたくはないんだけどな。で、そのお師匠さまが何の用だ? 弟子の敵討ちにしてはまわりくどい気がするが」
「さて、今しがたわしを呼んだのはぬしであったと思うがの。用向きを言うのはそちらからが筋ではないか?」
「ちょっかいを出してきたのはそちらが先だ」


 俺が鋭く断言すると、老人は愉快そうに嗤った。
「くかか、そのとおりじゃな。よかろう――と、言いたいところじゃが、実はわしの用向きはもう終わっているんじゃよ」
「つまり、李儒は貴様の傀儡だった、というわけか」
「くかかか! 本当に察しが良いのう。そのとおりじゃ。ぬしがあやつに何も言い返さなんだを訝しんでおったのじゃが、なるほど、あやつを傀儡と見抜いておったなら、傀儡に反論するのはバカらしかろう」
「別に傀儡であるかどうかは関係ないさ。見たいものだけ見る。聞きたいものだけ聞く。言いたいことだけ言う。他人の意見に耳は貸さず、けれど他人には自分の意見を押し付けたがる。わめきたてるのは他人の注意を惹きたいからで、大声を出すのはそうしないと誰も聞いてくれないからだ。あの手の輩には、無視と無関心が一番きく」
「道理じゃな、うむ、道理じゃな! ぜひそれをあやつに云うてほしかったのう。どんな反応を見せたことか、この老いぼれの枯れた心にも興味の火がついてしまうわ――――が、それはそれとして」


 ここで老人の口元に嫌らしい笑みが浮かんだ。
「ぬしは、あやつに一番効果的であろう反応を選んだ。それはつまり、あやつの言葉に少なからず動揺したということじゃろう?」
 その言葉に俺は特に肯定も否定もしなかったが、俺の沈黙を見て老人は肯定ととったらしい。笑みが大きくなり、唇の隙間から汚れた歯がのぞいた。
「一応、つけくわえておいてやろう。あやつが云うたことは、多少おおげさなところはあったが、おおむね事実じゃよ。我ら方士は貴様の抹殺を目論み、于吉さまの指示の下、方術と李儒のごとき傀儡どもを駆使して中華に動乱を巻き起こした。結果、ぬしと、ぬしの周囲にいた者たちは乱流にまきこまれた木の葉のごとくかき乱され、ある者は死に、ある者は離れ、ぬし自身は流れ流れて敵の都にやってきて、敵のために戦わざるを得なくなったというわけじゃ。もしも中華にぬしなくば、ここ数年でおきた動乱の半分は未然に防がれたのではないかな? くかか、四凶に優る猛悪は言い過ぎじゃが、疫病神はそのとおりというべきか。ぬしの周りにいた者たちは、ぬしの存在ゆえに戦火に巻き込まれたのじゃからして――」





 いつ果てるとも知れない老人のおしゃべりを聞き流しつつ、俺は深々と溜息を吐いた。
 それを聞きとがめたのだろう。あるいは長広舌を遮られたことが気に障ったのか。老人の顔にわずかに険があらわれる。
「しょせん、ぬしも李儒とかわらぬか。耳に痛い言葉は聞く耳もたぬ、というわけじゃな」
「李儒にも言ったが、繰り返しは勘弁してもらいたい。同じ内容を、言葉をかえて言っているだけだろう。しかも、その内容で俺を責めているつもりになっていることが度し難いというか何というか……」
 俺はうんざりしつつも、納得してうなずいた。
「なるほどね。傀儡が愚かだったわけじゃない。傀儡子が愚かだったから、操られた傀儡も愚かにならざるを得なかった、というわけか。李儒の言葉じゃないが、李儒ひとりなら勝ちの目もあったかもしれないな」


 老人の声が、すっと低くなった。
「……どういう意味じゃ、それは?」
「言ったとおりの意味だよ、方士。まさかとは思うけど、今の口上で俺が本気で傷つくとか思ってたのか? だとしたら、実におめでたい。お前の頭の中には、脳のかわりに膿でも詰まってるんだろうさ。ああ、もしかしたら、それが方術を扱う資格だったりするのか?」
 俺の暴言に対して返答はなかった。言葉にしては。


 感情の温度を一瞬で氷点下にまで下げた老人は、装っていた馴れ馴れしさをかなぐり捨て、憎々しげな表情で顔を覆った。その眼差しは思わず怖気がはしるほどに冷たかったが、正直なところ、俺としてはこちらの方がやりやすい。表面上のものであれ、老人の姿をした人に親しげにされると、どうしたってじいちゃんを思い出してしまうからだ。
 ある意味、眼前の方士は俺の弱点をついていたわけだが、当然というか、当人は気づいていないようだった。
「過去の罪業など知ったことか、というのであればさすがじゃな。あるいは、外史の者たちがどうなろうと、いずれ帰る自分には関係ないということかの」
「意味ありげに外史外史言わなくていいぞ。どうせ詳しい説明をするつもりなんてないんだろうし。それとも――案外、お前もそこまで詳しいわけじゃないのかな?」
 この時ばかりは、俺は真剣に老人の表情をうかがった。
 そして、俺の視線の先で、老人の表情はまったくうごかなかった。


 ――そう。戯言を、とあざ笑うことさえしなかったのだ。


 瞬間、俺の口元に浮かんだ笑みをどのように解釈したのか、老いた方士のしわ深い顔には、ぬめるような粘着質の害意がはりついていた。
「……北郷一刀よ。あまり調子に乗るでない。わしがぬしを肉体的に傷つけることができぬと思うておるのなら、その勘違いは高うつく」
「精神的に傷つけることができていない、とようやく自覚したわけだな」
「………………ぬしが李儒を殺さなんだゆえに、あやつは多くの策謀を手がけ、多くの者を破滅へと追いやったのじゃぞ。ぬしがあやつを殺しておれば、そのすべてがなかったはずなのじゃ」
 俺は相手の論旨を鼻で笑った。
「そうだな。『李儒に』殺される人間は、確かにいなかっただろう。死者が生者を殺せるわけもない。ただな、仮に俺があの時に李儒を殺していたとして、俺の命が狙いだったというお前たち方士の策謀は、すべて行われなかったのか? 違うだろう。李儒がいなければ、お前たちは李儒以外の誰かをつかって同じ策謀を行い、同じ人たちを破滅に追いやったはずだ。ついさっき、自分で言っていたじゃないか。李儒のごとき傀儡『ども』を駆使して、と」


 押し黙る方士を前に、俺は肩をすくめて言葉を続けた。
「まあ、実はお前たちの計画がことごとく李儒なしでは実行できない――つまり、李儒がいなければ為しえない程度の底の浅い計画だった、というならその限りではないんだけどね。問おうか、韓世雄とやら。お前たちは、いや、お前は、李儒なくば策謀ひとつ実行できない無能者なのか? 否というのであれば、俺が李儒を殺そうと殺すまいと結果はかわらなかったということだ。応というのであれば、そうだな、俺はあの時に李儒を殺せなかった自分の覚悟の無さを、もう一度心から悔いるとしよう。高家堰で味わった痛苦、さすがに二度耐える自信はない。俺は自分の罪を償うべく、黄河に飛び込むかもしれないぞ。お前たちにとってはめでたしめでたしな結末になるだろう」


 思いっきり嫌みったらしく言ってみる。
 眼前の老人が、自らの口で自分を無能などと言えるはずがないことを承知してのことで、性格が悪いといわれても仕方ない。
 我ながら程度が低い意趣返しであるが、だからこそ李儒や方士のような人間には効果的だったのだろう。
 次に老人の口から出た言葉には、煮えたぎるような憎悪が宿っていた。


「……………………つまり、ぬしは認めるわけじゃな。李儒の存在の有無に関わらず、すべての策謀は行われたのだ、と。その策謀の狙いは自分であり、すなわち貴様がこの地に至ってから起きた中華の動乱の半ばは貴様を因として起きたものなのだ、と。劉家軍が潰えたは、すべて己が責なのだ、とッ!」
「あほらしい。そんなわけあるか」
 俺はまたも相手の主張を鼻で笑うと、ついでに一蹴するべく言葉を重ねた。


「ひとつ例を挙げようか。俺はお目にかかる機会はついになかったけど、張太守の妹君。兌州動乱の首謀者で、お前たちが罠にかけたと主張するこの方の死は、お前らの論理によれば俺の責任ということになる。さて、今回の戦いが終わって許昌に帰った俺は、張太守に土下座して詫びる。妹君は私の命を狙う方士どもの策謀に巻き込まれ、謀反を起こして果てられたのです。妹君の死はすべて私の責任であり、どうか存分に処断していただきたい、と。さて、これを聞いた張太守は俺になんと言うだろう? お前にわかるか、韓世雄」
「………………」
 俺の問いに対し、方士は沈黙をもって応じた。
 答えがわからないというよりは、聞くだけ聞いてやるからさっさと先を続けろ、という感じだった。
 ただし、微小だが、俺がこんなことを言い出したことを戸惑っている気配もある。


「激怒されるだろうよ。私の妹を侮辱するな、とな」
「…………なに?」
「私の妹は自分の意志で起ったのだ。良否の評価は各人が下すこと、それに異議を唱えるつもりは毛頭ないが、妹の決起が他人に、それも方士などというわけのわからぬ輩に唆された末のものだ、などと口にすることは許さん――そういって、想像するだけで震え上がるほどの怒りを叩きつけてこられるだろうさ」
 それは兌州動乱における俺の考えでもあった。
 張超がどうして曹操に叛いたのか、その理由を知る立場に俺はいない。これから先も知ることはないだろう。
 それでも、張超が謀反の責任を他者と分かつとは思えなかった。方士の助力があったことが事実だとしても、その助力の有無で謀反に踏み切ることを決めたとも思えない。
 張超には成し遂げたい何かがあった。そして、言葉を尽くしてもそれがかなわないと知った。だからこそ起ったのだ。方士の存在なぞ関係ない。
 はじめの一歩を踏み出すとき、悩みもためらいもしただろうが、それでも踏み出した自分の行動の責任は自分でとる方だろう。なにしろあの張莫の妹さんなのだから。



「――くかか、見てきたようなことをぬかすのう。ぬしは張超の顔を見たこともなければ、声を聞いたこともないではないか。あほらしいというなら、今のぬしの言葉こそあほらしい。己を守るために、知らぬ人物を都合の良いよう脚色しているだけではないか」
「そうだな。では許昌に着いたら直接張太守にきいてみるか。俺の考えはあほらしいかどうか」
 俺が平然と流すと、方士は悪相を歪めて舌打ちした。
 そんな相手に対し、俺は矢継ぎ早に言葉を叩きつけていく。
「まだ、俺が何を言いたいのかわかっていないみたいだな。今の兌州動乱に限った話じゃない。曹家襲撃の件もそうだ。あの時、俺が討ち取った賊将どもは元々忠良な武人であり、それを方術で無理やりねじまげられてあの挙に及んだのか? 違うだろう。仲がしたことも同様だ。袁術には帝位につく野望がまったくなかったのか? 淮南侵攻の野心はまったくなかったのか? 清浄無垢な袁術を、お前たちがたぶらかして事に及んだだけなのか? 違うだろう。袁術にも、その配下にも、最初から野望も野心もあった。お前たちはそれに乗じただけだ」


 解池で楊奉は言っていた。
『私以外の誰かに――まして方士なんかに「私」を決めさせたことなんてないのだから』
 きっと、あれがすべての答え。
 もちろん、誰もが楊奉と同じ考えを抱えているわけではない。
 だが、楊奉は薄明に踏み込みながら、それでも方士に己を譲り渡さなかった。方術にもあらがってみせた。
 であれば、それが夢であれ、野心であれ、欲望であれ、自分の望みを抱いている人たちが、方士や方術なんぞに簡単に自分を譲り渡すはずがない。
 方士にできるのは、望みを抱いて起った人たちの行動を自らの利益に繋げること。そして、事が終わった後、あたかもすべては自分の仕業であったかのように吹聴すること、それくらいだろう。
 つまるところ――


「俺がここに来る前も、来た後も、お前たち方士が起こした乱などただの一つもありはしない! 口先だけの方士ども、したり顔の黒幕面は大概にしろッ!」
 大喝一声、俺はひとたびしまった腰の剣を再び抜き放つ。
 それを見ても、方士は逃げようとはしなかった。ただし、余裕をもって俺と対峙しているわけではない。満面を朱に染めた方士の顔を見れば、それは誰の目にも明らかだった。 


「おのれ、小僧が好き放題ぬかしおって! 貴様がどれだけ己をかばおうと、貴様の存在が劉備めの志を砕いたことにかわりはないのじゃぞ、それはどう言い繕う術もあるまいが!」
「それこそ妄言だよ、韓世雄」
「なんじゃと?!」
「貴様らは俺の命を狙い、仲を動かし、結局のところ何が出来たというんだ? 劉家軍を追い詰めておきながら討ち果たせず。高家堰を大軍で取り囲んでおいて落とし得ず。俺の命を奪おうとして奪い得なかった。なにより、これだけははっきり言っておくがな、玄徳さまは生きて、今なお戦っていらっしゃるんだ。俺も雲長どのも、きっと子義たちだって今いる場所で懸命に戦っている。いつ、どこで、誰の夢が散った? 誰の志が砕けた? 劉家軍が潰えたとか、どの口でぬかすか、えせ方士がッ!!」






 俺の激語をまともに受け、方士が憤激のあまり怪鳥のような叫びをあげた。
 その姿を見ながら、俺は高ぶる心の片隅で、もう少し挑発が必要か、とひとりごちる。
「まあ、お前たちの言うことにも理がないわけじゃない」
 俺が方士にたたきつけた言葉はことごとく本心だが、細部を見れば俺の決断と存在ゆえに害をこうむった人たちは確かにいただろう。俺が李儒を斬っていれば、李儒の代わりとなる人物が代わりを務めた。それは確かだが、その人物が李儒ほど才知に長けていたかはわからない。李儒でなければ出来なかった策謀も、一つや二つはあったかもしれない。
 他の策謀についても同様のことがいえる。俺がおらず、方士が動かなくても兌州の動乱は起きたし、仲は建国されたし、おそらく曹家襲撃も行われた。だが、そこで犠牲になった人、巻き込まれた人の数は、もしかしたら今よりも少なかったかもしれない。
 いつか、許昌で荀攸から高家堰の戦いの原因は俺ではないかと問われた。俺はあの時、笑って否定したが、まさか本当に荀攸の言うとおりだったとは。


 ただ、そういった痛苦をわざわざ相手に示してやる必要はない。
 それに、だ。
「そもそもだ。俺にしてみれば、正体不明の連中が、よくわからん理由で襲い掛かってきているだけなんだよ。巻き込まれた人には申しわけないと思うが、どうして当の加害者どもに『お前が元凶だ』なんて罵られなきゃならないんだ? 被害を受けた人たちに言われるならともかく、お前や李儒に責められる筋合いはまったくない」
 俺が裁かれるべきだとしても、裁くべきは李儒でも方士でもない。それだけは確かだろう。


 これには反論の術がなかったのか、方士が押し黙る。
 俺が李儒や方士の口上にほとんど動じなかった理由はここにもある。言っていることに衝撃を受けたのは事実だが、連中から「恥じろ、悔いろ、詫びろ」と責められて恐れ入る理由なぞどこにもない。
 それを承知していながら、それでもここまで連中の相手をしていたのは、俺の知らない何かを得られるのではないか、という期待があったからだ。なにしろ、俺はどうしてこの世界に来たのかさえまだ知らずにいる。
 解池で楊奉に示唆されたそれを知るために、わざわざこうして洛陽までやってきた。
 そして、実際に収穫はあった。望んだものではなかったし、正直なところ重苦しくてたまらないが、それでも知らないよりはずっと良い。これで、次にやるべきこともはっきりした。




(……そろそろいいか)
 策謀家の李儒に続いて、方士の韓世雄。どちらかひとりでも、相手にすれば憂鬱になりそうな輩を、二人連続で相手してきた。正直なところ、俺もそろそろ限界が近づいている。主に精神的な面で。
 俺は意を決し、これまで秘めていた切り札を出すことにした。
「ついでにもう一つ、たぶんお前が気づいていないことを教えてやる。お前、自分がどれだけ致命的な一手を打ったのか、わかっていないだろう?」


「な、なんじゃと?」
「お前たちの狙いは俺の命だという。けれど、お前たちは一度として直接俺を殺そうとはしなかった。つまり、方士は自分の手で人を殺めることはできないと証明してくれたわけだ。同様に、方術は人間を望まない方向に動かすことができない。それが出来るなら、お前たちは俺の療養中に許昌を襲わせただろう。あの時、仲を動かせなったことが、はっきりと方術の限界を示している。お前が方士としての目的を明言してくれたおかげで、これだけ重要なことがわかった。おまけに――」
 俺はその場で、ほんの少しだけ腰を落とす。
「あの淮南の戦いは俺を殺すために仕組まれたものだという。全力で劉家軍を潰し、俺を殺そうとしたその結果、どうなったのか。さっきも言った。お前たちは何一つとして為しえなかった。たしかに、俺たちの歩みは一時止められたけど、逆にいえば、お前たちの全力は、俺たちを一時止める程度のものだとわかったわけだ」
 したり顔でこちらを責め立てているつもりで、その実、やっていることは内情の暴露に他ならない。黙っていれば、いまだ脅威の対象として通用していただろうに、軽い口が重い事実を伝えてくれた。
 俺が眼前の方士を嘲弄したのは理由のないことではない。


「于吉とやらが、どうしてこれまで動かなかったのか、少しは考えなかったのか? 今、俺に対して直接動けば、自分たちの限界を暴露することになるとわかっていたんだろうよ。お前はご丁寧にそれをしてくれた。そして、お前の愚行を于吉は止められなかった。つまり、それどころではないという事態が、今、寿春で起きているんだろう? 察するところ、話は呂布の叛乱だけじゃなさそうだな。結論、仲を討つのに今以上の好機なし!」
「な…………」
「お前はわざわざそれを俺に、ひいては許昌に教えてくれたわけだ。李儒という、これ以上ない証人つきでな。俺を精神的に追い詰めるつもりの一手が、実は自分たちを窮地に追い込む一手だと気づいたか? これを致命的と言わずしてなんという? 正直、お前らの相手をしている最中、笑いをこらえるのは大変だったぞ」
 まあ、最後は嘘なんだけど。
 それでも挑発としては有効だったようで、老いた方士の顔は朱から蒼へ、そしてまた朱へと目まぐるしくうつりかわっていく。


「き、きさま……ッ」
「あははははッ! 色々と親切に教えてくれてどうもありがとう、韓世雄どの! さあ、聞くべきことはすべて聞いた。そろそろこの茶番の幕を下ろそうか!」
 斬りかかる準備はすでに整えていた。おどりかかった俺の動きに、方士は咄嗟に反応できない。
 踏み込みと斬撃も十分に及第点に達しており、狙いどおり、俺の剣は方士の白装束を袈裟懸けに切り裂いた。


 ――だが。
「なめるで、ないわァッ」
 それこそ人間にはありえない怪鳥のような動きで、方士の身体が後方に跳んだ。
 俺は刀身を見たが、そこには何の痕跡も見当たらない。
「若造が、調子に乗りおって。貴様程度――否、相手が呂布や関羽であっても、わしらを斬ることなぞできはせぬわいッ。覚えておれ、いずれ必ず思い知らせて――」


 ――ぐしゃり、と何かやわらかいものが砕かれ、割かれる音がした。

 
 方士の口から続く言葉は発されない。
 脳天から大斧で真っ二つに切り裂かれた人物が喋れるはずもないのだが。


 聞きなれた声が耳に飛び込んできた。
「――『聞くべきことはすべて聞いた』。これが合図と思ったから出てきたんだけど、殺しちゃって大丈夫だった?」
 方士の後ろで血まみれの斧を抱え持った徐晃が、首をかしげながら確認してくる。よく考えてみるとシュールな光景である。もちろんそんなことは口にできないが。
 俺は剣を持っていない方の手で親指をたてた。意味はわからずとも意図は通じたようで、徐晃がほっと息を吐き出している。
「ああ、完璧だ。あと、あれだけの言葉で俺の意図を察してくれてありがとうな。どこに方士がいるかわかったもんじゃなくて、ぎりぎりで、なおかつああいう形で言うしかなかったんだ」
「そっちも今も勘違いだったらどうしようってドキドキしたんだけど、合ってて良かったよ」


 そんな会話をかわしながら、俺は切り裂かれた方士の屍に歩み寄る。
 俺を守るように(方士を知っている身としては、本当に死んだのか確信が持てないのだろう)傍らに駆け寄ってきた徐晃の表情が曇ったのは、内実はどうあれ、老人の外見をした者を斬ってしまったためだろうか。
 後で死体は油をかけて焼き尽くすつもりだが、それは俺が自分でやった方がよさそうだ。
 そんなことを考えながら、俺は動かない方士に語りかける。手向け、というほど粋なものではなかった。


「貴様らにわしらを斬ることはできない。ただし不意を討たれなければ――だろう? 弟子がどうやって死んだのかくらいは調べておくべきだったな」




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第七章 官渡大戦(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:7a1194b1
Date: 2013/06/15 14:17
 司州河南尹 洛陽


 洛陽宮で李儒を捕らえ、方士を退けた後、俺たちは城内を掌握するべく行動を開始した。
 具体的にいうと、街の住民に対して積極的に敵対行動をとらないようにとお願いしてまわった。
 情けないというなかれ。
 荒廃と混乱は当然のように人心に影響し、洛陽にはガラの悪い連中がそれこそいたるところにたむろしている。中には洛陽政権に加わっていた兵も少なからずいるだろう。
 彼らが許昌の朝廷に好感情を持っているはずもなく、官軍が支配者面で指図をした日にはまず間違いなく過激な反抗に出てくる。そんな事態は避けなければならなかった。


 かといって、あまり下手に出れば侮られてしまう。そのさじ加減が難しいと考えていたのだが、結論から言ってしまうと、俺の目論見はおもいがけずあっさりと達成された。
 司馬懿が八面六臂の活躍をしてくれたのだ。
 洛陽には確かに荒くれ者が多かったのだが、その彼らも司馬懿の前だと借りてきた猫のようにおとなしくなってしまい、それどころか、各種作業に積極的に協力してくれる者もいる有様で、北部尉を務めていた頃の司馬懿がどれだけ人々に慕われていたのかがよくわかった。
 ――まあ中には司馬懿の顔を見て、本気でおびえている様子の者もいたので、一概に慕われているというわけでもなさそうだったりするのだが。


 取り締まりや刑罰が厳しかったりしたのだろうか。そう思って司馬懿に訊ねてみたが、特にそういったことはしていないとのこと。というわけで原因は不明――と思っていたら、元司馬懿配下の吏のひとりがこっそり教えてくれた。
 なんでも洛陽で北部尉を務めていたころの司馬懿は、司馬懿自身が言明したように特別に厳しい罰則を用いたわけではなかったが、一方で格別に規則を緩めたということもなく、重罪に値する無法者たちには容赦なく相応の罰を与え、報復を目論む者たちの計画はことごとく未然に潰してしまったという。
 そんなことが繰り返されれば、取り締まられる側の者たちも否応なく司馬懿の実力を思い知る。無法者たちが若すぎる北部尉に恐れを抱くようになるまで、そう時間はかからなかったそうな。



 なるほど、それであの態度か、と俺は深く納得した。
 こちらとしても洛陽の住民に対して金銭や食料を差し出せとか、兵として戦えなどと強いるつもりはない。戦況が落ち着くまで大人しくしていてくれれば十分であり、後のことは朝廷なり曹操なりが何らかの手を打つだろう。
 そんなわけで、ヘタすると数日がかりになると考えていた面倒ごとは、司馬懿のおかげもあってあっさりと片がついた。それでも諸々あって半日近くかかったが、これなら鍾会に後を任せ、明日にでも洛陽を出ることができる。


 虎牢関から――より正確にいえば許昌の張莫から使者がやってきたのは、俺がそんなことを考えていたときであった。



◆◆



 夜半。
 仮の宿舎とした簡素な建物――往時は宮殿を守る衛兵が使用していたと思われる――を出た俺は、運悪く不寝番にあたってしまった兵たちに差し入れを届けてから、中庭へと足を運んだ。
 中庭といっても手入れされた庭園が広がっているわけではなく、だだっ広いだけが取り得の更地で、おそらく訓練や朝会などに用いられていたのだろう。
 その分、周囲に視界を遮るものはなく、盗み聞きを気にせずに済むのも取り得に含めていいかもしれない。


 その中庭の中ほどに、夜空と同色の旗がたてられている。
 翩翻とひるがえるこの無地の黒旗、実は許昌の張莫から俺へと送られてきたものであった。
「――張太守が動いてくれたのはありがたいんだが、これはどうしたもんか」
 司馬孚を通じて提案した俺の作戦を諒とした張莫が、その返答と一緒に送ってよこした褒賞を見上げながら、俺は困惑を隠せずにいた。


 これがただの旗ならば、別に困惑する必要もない。ありがとうございます、と受け取ればよかった。先に張莫の下で西涼軍と戦った後、俺の功績を称揚した張莫が軍旗を与えようと言ってくれたことは覚えていたからだ。まあ、俺はあのやりとりはただの冗談として、もうほとんど忘れかけていたのだけれど。
 ともあれ、繰り返すが、これがただの旗ならば問題はないのである。
 しかし、あの張莫が普通の物を送ってくるはずがない。一見したところ、ただ黒一色の味気ない旗とみえるこれ、出すところに出せば一財産を築ける代物であった。なにしろ絹だから。総絹地だから。イッツオールシルク。
 一口に絹といってもピンからキリまであるが、この旗と一緒にやってきた旗作りの職人さんいわく「文句のつけようもない最高級品」とのことで、その価値がどれほどのものかは語るまでもない。これを戦場に持っていった日には、自分より旗の安否を気遣ってしまいそうだった。


「……まあ『宇宙』とかデカデカと記されていないのは幸いだった」
 安堵の息を吐く。
 張莫の書簡によると、あの方、本気で俺に例の称号を与えようと曹操に願い出たらしい。幸い、曹操が一蹴したことでその話は流れたらしいのだが、それを読んだ瞬間、丞相グッジョブ、と思わず口走ってしまった俺はきっと悪くない。
 それはさておき、望み叶わず失意の張莫は、さすがに曹操の許可を得ずに軍旗に将軍名を記すわけにもいかず「お前の好きなようにつくるがいい」と職人さんとセットで旗を送ってきたという次第である。


 そんな理由で政情不安な洛陽に派遣された職人さんこそいい迷惑だと俺は呆れたのだが、聞けば危険手当込みで張莫から結構な額をもらっているらしく、当の本人はほくほく顔だった。「どのような難しい模様でもかまいませぬぞ。それがしの手技に不可能はありませぬ!」とのことで、実にたくましいというか頼もしいというか。
 命令した側とされた側が問題視していないのなら、俺が文句をいうのもおかしな話――なのだろう、たぶん。


 ともあれ、いつまでも職人さんを洛陽にとどめておくわけにもいかないから、早めにどんな旗をつくるのか考えないといけない。褒美の品を売り払うわけにはいかず、しまいこむ府庫もない以上、素直に軍旗として用いるしかないのである。
 まあ変に目立つ必要もないので、普通に『北郷』とするか、あるいは実家の『北郷十字』でいいだろうと考えている。
 




 すでに時刻は深更、ほとんどの人が疲れ果てて眠っている中、俺が中庭で旗を見上げている理由は二つある。ひとつは張莫からの書簡に記されていたことについて、改めて考えをめぐらせるためだった。
 張莫によれば、すでに司馬孚は温に向かっており、それに李典、于禁の二将が同道しているらしい。河内郡の張楊にも協力を願う使者を差し向けてくれたとのことなので、張莫はほぼ全面的に俺の作戦案を受け容れてくれたと思っていいだろう。
 そう考えると、拳を握る力もおのずと強くなる。これで袁紹軍に返り討ちにあった日には張莫にあわせる顔がない。弘農勢の動向は未だ不明だが、予定どおり明日にも早速、楽進、衛茲らの追撃部隊に合流し、張恰を叩かねばなるまい。高幹、高覧にくわえて張恰まで逃がしてしまえば、その分、河北での戦いが厳しいものになるのは自明の理である。


 そしてもう一つ。張恰と決着をつける前に、ここ洛陽でやっておかなければならないことがある。
 それは方士から聞いた真実を踏まえ、徐晃と話し合うことだった。方士の狙いが俺にあったと知った以上、これはどうしてもやっておかなければならない。
『俺が裁かれるべきだとしても、裁くべきは方士でも李儒でもない』
 方士と対峙した時、俺はそう断じたが、では、裁くべき者とは誰なのか。それはあの争乱で母親を失った徐晃に他ならない――


「一刀、お待たせ」
「うおうッ?!」
 考え事に没頭していた俺は、いきなり背後から聞こえてきた声に驚き、思わずその場から飛びのいてしまった。
 慌てて振り返ると、今まさに考えに出てきた当人が驚いたような顔で目をぱちくりとさせている。
「ご、ごめん、一刀。驚かせちゃったかな」
「や、こっちこそすまん。考えに集中してて、まったく気づいていなかった」
 俺が正直に応じると、徐晃は眉を曇らせた。
「む、それは危ないよ。一刀を狙っている人たちがいるってわかったんだから、普段からちゃんと警戒しておかないと。今、わたし、別に足音をひそめたりしていなかったんだからね?」
 腰に両手をあてて注意してくる徐晃を見て、俺は言葉もなく頬をかくしかなかった。



 言うまでもないが、玉座の間に隠れ潜んで機をうかがっていた徐晃は、あの方士と俺のやりとりをすべて聞いている。俺と徐晃がこれまでどおりの関係を保てるかどうかは徐晃の気持ちひとつにかかっていた。
 俺もこれで少しは徐晃の為人をわかったつもりでいるので、徐晃がすべての恨みを俺にぶつけてくるとはさすがに思っていない。実際、あの後、俺に対する徐晃の態度にとくに変化はなかったし。
 だが、人間、理屈ではわかっていても感情が納得しない、ということはままあるものだ。徐晃の性格からすると、たとえ俺にわだかまりを持っているとしても、無理にそれを押し殺している可能性は十分に考えられる。その無理が徐晃に良い影響を与えるはずもない以上、確認は早いに越したことはない。
 結果として、この場で徐晃と袂を分かつことになるかもしれないが、それでも方士の言葉を気にしないフリをして表面上の友好を保つよりはずっとマシだろう。



 ――まあ、目の前で俺の身を案じてくれている徐晃を見ると、自分の心配がものすごい的外れなものなのではないか、と思われてならないのだが。



 反応の薄い俺を訝しそうに見ていた徐晃が、気を取り直したように口を開いた。
「それで一刀、わたしに話っていうのはなに?」
「ああ、実はだな――」
 いまさら口ごもるような薄弱な意志で徐晃を呼び出したわけではない。
 俺は単刀直入に本題を切り出そうと口を開いた。より正確にいうと、開こうとした。
 ところが。
「――まさかと思うけど、方士の言葉で母さんのことに責任を感じた挙句、俺を恨んでいないかとか訊いたりしないよね?」


 問題です。この状況に相応しい言葉を次の三つの中から選びなさい。
 ①機先を制される
 ②出鼻をくじかれる
 ③気勢をそがれる
 正解 どれでも可


 などという思考が脳裏をよぎってしまうほど、俺は思いっきり動揺した。
「……………………いや、その、ですね。あ、あれ?」
 正直なところ、徐晃にここまで精確に内心を読まれるとは想像だにしていなかった俺は、言いつくろうことさえできずに硬直するしかなかった。
 そんな俺の反応を見て、自分が図星を指したことを察したのだろう、徐晃は深い深い溜息を吐くのだった。



「なんでわかったんだろうって思ってる?」
「……ああ、思ってる」
「人目のない時間に、盗み聞きのしようもない場所に呼び出されれば、いくらわたしでも察しはつくよ。あんなことを聞いたすぐ後ならなおさら。それがなくても、一刀のことだから、顔には出さないでもこっそり気にしているんじゃないかなって心配はしてたんだけど……」
 そういうと、徐晃はどこか恨みがましい目で俺の顔を見つめた。
「あの方士の言葉を聞いて、わたしが一刀のことを恨んでいるかもって思ったんだ?」
「う、む。その可能性もなきにしもあらずではないかなと思ったことは否定できないような気がしないでも――」
「思ったんだ?」
「…………はい。あ、いや、ほら、俺にとってもけっこう衝撃的な事実だったから、公明にとっても色々と思うことがあったんじゃなかろうかと心配で、それでそのあたりを訊いてみないといけないなと思ったわけだが」


 徐晃の答えは簡潔だった。
「それってわざわざ訊かなきゃいけないことなのかな?」
 その顔は、なんというか、いじけていた。そんなに信用してくれていないとは思わなかった、と。
 俺、素で慌てる。
「い、いや、待つんだ、待とう、待ちなさい、待つべきだ。確認、そう、あくまでも確認だから! 公明が方士の言葉を聞いて、俺を恨んでいるに違いないと考えていたわけじゃないから!」
「でも、ちょっとはそうかもしれないって考えてたから、確認しなきゃって思ったんでしょ……?」
「ぐッ?! いやほら、人間、なんでも理屈で動くわけじゃないし。理屈では納得できても、感情では納得できないということも多々あるわけで! 今後に禍根を残さないためにも、公明にわだかまりがあればそれを解いておきたいと思ったんだッ」
 いや、たしかに話がこじれてしまうと、ここで徐晃と袂を分かつことになるかもしれない、とは考えたが。しかし、それはあくまで予測されうる最悪の事態を想定しただけであり、きっとそうなるに違いないとはまったく思っていなかった。



 ――しばし後、とうとう語彙が尽きた俺は、ぜいはあと荒い息をはきながら口を閉ざした。
 それを見て、それまで俺の釈明(?)を黙って聞いていた徐晃は、こころもち厳しい顔を俺に向けてくる。
「一刀。それじゃあ、今から言うのが一刀が確認したかったわたしの気持ち。ちゃんと聞いててね」
「お、う?」
 そういう徐晃の顔には、寸前までのいじけた様子はどこにも見当たらなかった。真摯な眼差しで、軟らかく言葉を紡ぎはじめる。



「母さんは誰にも自分を譲り渡したりしなかった。母さんの生き方は母さん自身が決めたこと。方士なんか関係ない。だから、一刀が責任を感じる必要なんてどこにもないんだよ」
 そう語る徐晃の言葉は淡々としていて、にも関わらず、こちらを思いやる気持ちがはっきりと伝わってくる。
 声もなく立ち尽くす俺に向かって、徐晃は小さく微笑んだ。
「わたしが――徐公明があなたに抱いている気持ちは感謝だけ。方士の言葉を聞く前も、聞いた後も、それはかわらない。恨みなんてこれっぽっちもありはしないから、だから、わたしがほんの少しでもあなたを恨んでるかも、とか考えないで。お願いだから。それは、その……すごく寂しい」



 ひたと俺を見つめて訴えてくる徐晃の顔を、俺は一言もなく見つめ返すことしかできなかった。最後の部分はややゴニョゴニョとしていたが、聞きおとすほど俺と徐晃の距離は離れていない。
 ややあって、俺は慌てて頷いたが、やはり言葉はでなかった。なにか謝罪の言葉を言わなければと思うのだが、どんな言葉も今の徐晃を前にしては軽すぎる。
 徐晃の言葉に込められた信頼が嬉しくもあり、こんな言葉を言わせてしまった自分の不覚悟が申し訳なくもある。そして、あまりにもまっすぐな信頼と感謝の念を向けられたことがめちゃくちゃ気恥ずかしくもあった。
 錯綜する感情に翻弄されて悶えていると、徐晃はさらに言葉を重ねてきた。
「それとね。この際だから言っておくんだけど」
「あ、ああ、なんだ?!」
 この状況から脱する話題ならなんでもかまわん、と飛びつく俺。
 だが、その内容は俺を更なる混乱に陥れるものだった。


「母さんと別れたあの日、あなたが握ってくれた手の暖かさをわたしは今も覚えてる。きっと、死ぬときまで忘れない。一生かけてもこの恩を返そうって、あの時に決めたんだ。だから、この戦いが終わった後も、わたしは一刀についていくよ」


「――う、ええッ?! いや、ちょっと待て、それは……」
 さすがにこれは、はいそうですか、とうなずくわけにはいかない。
 慌てて口を開きかけた俺に向け、徐晃はすっと指を伸ばした。
 その指先が、俺の唇を塞ぐ。
「むぐ?!」
「この戦いが終わって、許昌を離れられるようになったら、一刀はひとりで寿春にいくつもりでしょう? 色々なことに決着をつけるために」
「……ぬ」


 ――今日の徐晃は本当に鋭かった。それとも、俺がわかりやすいだけなんだろうか。
 実際、俺はこのまま劉家軍に戻るわけにはいかないと考えている。今の玄徳さまの力はまだ弱く、伝え聞く荊州の内情を考慮すれば、内外に敵も多いことだろう。
 そんなところに俺が戻れば、方士たちがまたぞろ動き出す可能性が高い。俺を狙う人間ではなく、玄徳さまを狙う人間を使嗾するという形で。
 また、韓世雄が名前を出した于吉が一連の事態の黒幕であるのなら、方術ではなく権力をもって他者にそれを強いることも考えられる。許昌を襲うことに反対する仲の廷臣は多いだろうが、標的が新野になればその限りではあるまい。


 その事態を避けるためには、どうあれ于吉と相対しなければならない。黒幕である于吉を除かなければ、俺はこれから先、ずっと方士や仲の影を警戒しなくてはならず、それはどう考えてもうっとうしい。ついでにいえば腹立たしい。なんで理由もわからず襲われて、しかもこの先ずっと逃げ隠れしなければならんのか。
 追い詰められれば、ネズミだって猫に噛み付くものだ。連中の目論見を知った今、俺が受身でいなけれならない理由はどこにもなかった。


 相手は一国を牛耳る権力者、ひとりで挑んで何とかできるとは思っていないが、それでも方士が俺に固執する理由は探っておきたかった。そこから打開策が見つかるかもしれないし、そこまでいかずとも、現在の仲の情勢を我が目で確かめることには意義がある。
 于吉が俺を狙うために劉家軍を敵とする者たちを動かすというのなら、于吉を狙う俺は仲を敵とする者たちを動かせばいい。俺にとっては幸いなことに、現在の仲はかなり内部でゴタゴタが起きている様子だった。仲を倒すという共通の利害を持つ者と協力するのであれば、何の問題もない。



 徐晃が今後も俺についてくるというのなら、否応なしにこの争いに巻き込んでしまう。恩返しの一語で付き合うには危険が大きすぎた。徐晃だって仲や方士に対して思うところはあるだろうが、守らなければならない弟妹たちがいる身で、危険きわまりない敵地に乗り込むのは無謀に過ぎる。
 ――と、徐晃の指先から逃れた俺は、そんな風に事を分けて話してみたのだが、当の徐晃はあっさりとこう仰せになりました。
「それは一刀が決めることじゃないよね?」
「ぐむ……」
 それを言われると返す言葉がないのですが。


 押し黙る俺を見て、徐晃は悲しげにうつむく。
「もちろん、一刀がどうしてもわたしについてきてほしくないっていうなら、無理やりついていくことはできないんだけど……」
「いや、そんなことは断じて思わないどころか、むしろ公明がいてくれればありがたいくらいなんだが、しかしだな――」
「よかった、じゃあ何の問題もないね!」
 都合のいいところで俺の言葉をさえぎり、にっこりと微笑んで結論づける徐晃。今泣いた烏がもう笑ったどころではない。この切り替えの早さ、どう見ても作為的。徐晃なりの照れ隠しなのかなと思いつつも、俺は言わずにいられなかった。


「……おかしい。いつのまに公明はこんな性格になったんだ? 相手を正論で追い込んでから搦め手でしとめるような性悪――もとい周到な子ではなかったのに……ッ」
 一生懸命に丁寧語を駆使して俺と話していた草原の少女はどこに消えたのか。俺がそう嘆くと、徐晃は腕組みして考え込んだ後、うん、とひとつ頷き、真剣な表情で言った。
「人間、朱に交われば赤くなるものなんだね」
「つまり張太守のせいということですねわかります」
「ちが――あれ、あんまり違わない? でも、半分以上は一刀のせいだと思うッ」
「……ですよねー」
 身から出た錆の味が苦すぎて、ほろりと涙がこぼれそうになる俺だった。



◆◆



 その後、俺たちは特にこれといった話はしなかった。
 徐晃が俺にわだかまりを抱いていないことがわかった今、そのほかのことについてはすぐ結論を出す必要はない。すべてはこの戦いが終わってからのこと、まずはこの戦いを無事に切り抜けることを最優先で考えるべきであろう。
 これを専門用語で先送りというのだが、実際問題として、曹操が今回の件を聞いた後でどういう判断を下すのかがわからない今、あまり先のことまで考えても仕方ないのは確かだった。


 徐晃も同じようなことを考えているのか、俺に確たる返答を求めることはしなかった。
 ただ、言うべきことがなかったわけではないようで、そろそろ部屋に戻ろうかと考え始めた俺の耳に、徐晃の静かな声がすべりこんできた。
「一刀、最後にひとつだけいいかな?」
「いいけど、まだ何かあるのか……?」
「そ、そんなに切ない顔をされると困るんだけど、うん、ひとつだけ。といっても、わたしのことじゃないんだけどね」
「ぬ?」
 俺が首をかしげると、徐晃は先にも劣らない真剣な表情でこの場にいない少女の名を挙げた。


「仲達さんのこと。口には出さなくても一刀のことをすごく心配してるよ。気づいてる?」
「ああ、もちろん」
 李儒の呪いじみた言動を目の当たりにした司馬懿が、俺を心配してくれていることにはとうに気づいていた。
 言葉にして、あるいは態度にあらわして、ということは特にないのだが、司馬懿の言動の端々に気遣いを感じるのだ。洛陽の住民との折衝も、俺が手を出す隙がない勢いで片付けてくれたし。
 徐晃と違い、俺と方士のやりとりを知らない司馬懿にしてみれば、洛陽宮での出来事は要領を得ないことも多々あったろう。李儒の言動も看過できるものではなかったはずだ。
 それでも、司馬懿はただの一度も俺に事情の説明を求めようとしなかった。それが俺の心情を思いやってのことなのは明らかである。


 俺の返事に、徐晃はほっと安堵の息を吐いたようだった。
「そっか、気づいているならわたしが口を出すことじゃないね。ただ、いちおう釘をさしておくけど、さっきみたいに自分が恨まれているかもっていう考えは捨てておかないと駄目だよ!」
 徐晃の指先が勢いよく俺の鼻先に突きつけられる。
 方士の狙いが俺にあった以上、俺は連中の行動と無関係ではいられない。それは間違いのないことだ。
 ただ、それを知ったすべての人間が俺を恨み、あるいは憎むわけではない。徐晃はそう教えてくれているのだろう。


 大げさな動作はやはり照れ隠しなのか、それとも照れ隠しに見せかけた本心の発露なのか。
 いずれにせよ、徐晃の言動が俺の中に溜まっていた重苦しいものを払ってくれたのは確かであった。
 俺は心からの感謝を込めて徐晃に言う。
「肝に銘じる。それと、ありがとうな、公明」
「どういたしまし――って、え? 一刀、わたし別にお礼を言われるようなことは言ってないよ?」
 注意しているだけなのに、と不思議そうな顔をする徐晃に対し、俺はもう一度繰り返す。
「それでも、ありがとう」
「あ、うん。どういたしまして……?」
 明らかに戸惑いながらも律儀に応じる徐晃を見て、俺は思わず笑ってしまった。
 たぶん、今日はじめての、心の底からの笑いだった。
 


 
 
◆◆





 明けて翌朝。
 東の空がわずかに明るむ頃に目を覚ました俺が中庭に出ると、そこには黒旗の傍でたたずむ司馬懿の姿があった。
 なにか考え事でもしているのか、身じろぎひとつせずに旗を見上げている。曙光はいまだ洛陽城内を照らすにはいたらず、黒髪黒衣の司馬懿の姿は、ともすれば黎明の暗がりに溶けてしまいそうに映る。
 俺はつい足を止めて、その姿に見入ってしまった。
 儚げな姿に見とれたというのもあるのだが、今の司馬懿はそれこそどこか妖精じみていて、夜の精が朝露と共に姿を消す瞬間を見るような、そんな奇妙な心地にさせられてしまったのだ――うん、我ながら何いってんだかよくわからないが、ともかくどこか幻想的な感じを受けたのである。


 と、こちらの気配に気がついたのか、司馬懿が俺の方を向いた。
 声をかけるでもなく立ち止まっている俺を不思議そうに見ている。そんな司馬懿を見た瞬間、今の今まで俺を捉えていた奇妙な感覚は霧散した。
「おはようございます、北郷さま」
「ああ、おはよう。早いな、仲達」
 戸惑いを振り払って司馬懿に返答した俺は、そのまま司馬懿のところまで歩み寄ると、並んで旗を見上げた。
 旗の向こうに広がる空は、いまだ夜の勢力が大半を占めている。どうも本気でかなり早起きしてしまったらしい。ただ、寝不足という感覚はまったくない。昨日は色々とあって精神的にもけっこうきつかったのだが、心身の調子はきわめて良好だった。やはり最後に徐晃と話し、気持ちよく床に入れたのが大きかったのだろう。
 ――扉の外で不寝番をすると言い張る徐晃の説得は大変だったけど。




 そんなことを考えていると、司馬懿がいつもと変わらない声音で問いを向けてきた。
「北郷さま、軍旗はどのようになさるおつもりなのですか?」
「今のところ、無難に姓か家紋をいれようと思ってる」
 それを聞いた司馬懿は怪訝そうに俺を見る。
「姓はわかりますが、かもん、とは何でしょうか?」
 ああ、家紋って言っても通じないのか。俺は足で地面に十字紋を書いてみせた。丸の中に十字を書くだけなので簡単簡単。


「俺の国では、その家独自の紋様みたいなものがあってね。それを家紋っていうんだが、これがうちの『北郷十字』。これを黒で縫い取ってもらおうかと考え中だ」
「なるほど、家独自の紋様、ですか――しかし、北郷さま、これでは見た者に北郷さまの旗ということが伝わらないのではありませんか? それに、黒地に黒の縫い取りでは、あまり用を為さないように思います」
 司馬懿の疑問はしごくもっともである。
 この世界で北郷十字を知るのは俺だけだし、黒旗に黒の縫い取りでは、遠くからではただの黒い旗としか映らないだろう。つまり俺が脳内デザインした旗は、軍旗としての役割がまったく果たせていないのである。


 だが、それでかまわない、と俺は考えていた。
 たとえば真紅の呂旗が敵を脅かし、味方を勇気付けるのは、その旗を掲げる呂布個人の武名があってこそ。今の俺が立派な軍旗を掲げても、あんまり意味はないだろう。派手なのは軍旗ばかり、見掛け倒しの凡将よ、と敵に嗤われるのがオチである。
 俺個人の武名があがれば、簡素な黒旗それ自体が俺の存在を示すものとして周囲に認識されるようになる。
 それに、正直に白状すると、やっぱり自分だけの軍旗というのは男心をくすぐるものがあるので、俺の趣味としてシンプルかつ個性的なものが望ましかったりするのだ。
 無地というのもそれはそれでシンプルでいいが、せっかく洛陽まで来てくれた職人さんに無駄足を踏ませるのも申し訳ない。姓をいれてしまうと、個性的の部分がいまいちになる。
 というわけで、俺の心の秤は家紋の方に傾きつつあった。黒地に黒の十字紋、あれぞ北郷十字なり、と敵に認識されるだけの武将になってみせる、という遠大な目標込みで。




 俺の説明を聞いた司馬懿は、なるほど、とうなずいた後、こんなことを言い出した。
「五行説において北は玄にして黒。北郷さまの軍旗として、黒ほど相応しい色はないのかもしれません」
 司馬懿に言われて思いだす。そういえば東の青竜、南の朱雀、西の白虎とならんで北を守る神獣は玄武だった。
 仲と戦うのならば、白衣白甲の告死兵とも必ずぶつかることになる。対抗して、こちらも黒衣黒甲の玄武兵なるものを組織してみようか――うん、間違いなく名前負けですね。はい却下却下。
 というか、俺は一軍を組織して戦う能力も資金も人脈もない上に、淮南に赴く際にはこの黒旗さえ置いていかないとまずいのだ。俺ひとりではこんなかさばるものを持っていけないし、仮に徐晃がついてきてくれるとしても、こんな高価な代物を持ち運びながら目立たず潜入とかできるわけがない――


 と、そこまで考えたとき、俺は不意に気がついた。
 実は今って司馬懿と話をする絶好の機会ではなかろうか、と。


 時間といい、場所といい、今ならば人目もないし、盗み聞きをされる恐れもない。
 正直なところ、司馬懿にすべてを話すことが最善なのかどうか、その点について迷いはあるのだが、だからといって黙したまま別れの時を迎えるのは最悪である。
 俺は意を決して口を開いた。


『あの』


 何故か声が重なった。
 見れば、司馬懿も口を開きかけた状態で、驚いたようにこちらを見上げている。
「む、すまない。どうかしたか?」
「こちらこそ申し訳ありません。何かご用でしたでしょうか?」
「用というか、うん、今のうちに話しておきたいことがあってな。長くなるかもしれないから、仲達の用件から先に聞くぞ」
「私の話も手短に済ませるのは難しいのです。他聞をはばかることも申し上げねばなりませんので、今がよい機会と思いました」


 どうやらふたりして同じようなことを考えていたらしい。
 となると、内容についても似通っているのではないか、と推測するのはさして的外れなことではあるまい。
 もしそうであれば、ここは俺から切り出すべきだろう。そう考えた俺は、ゆっくりと口を開いた。
「俺の話は昨日の洛陽宮の件だ。仲達には詳しいことを話しておこうと思ってな」
 それを聞いた司馬懿は身体ごと俺に向き直り、こくりとうなずいて聞く姿勢をとるのだった。





◆◆





「――そういうことだったのですか」
 北郷の話を聞き終えた司馬懿は、呟くようにそう言った。
 長くなる、という言葉どおり、司馬懿の頭上で空がゆっくりと白みはじめている。
 だが、司馬懿の目に空の変化は映っていなかった。司馬懿の意識は、いま聞いた事実にのみ向けられていたからである。


 ただ、その考えるところは北郷の予測とはかなり異なっている。
 司馬懿は方士の存在と目的についてはほとんど関心を払っていなかった。司馬懿にしてみれば、自分は巻き込まれた側ではなく、巻き込んだ側である。ある意味、方士と等しいとさえいえるのに、どうして北郷のことを責めることができるのか。
 方士とは何なのか、どうして北郷を狙うのかについて気にならないわけではないが、それは今かんがえても仕方ないこととして、司馬懿はばっさりと思考から切り落としていた。


 司馬懿の関心は方士にはなく、方士の目的を知って北郷が何を考えたのか、その一点にあった。
 先日、北郷が話してくれた戦う理由が思い出される。
 洛陽宮で李儒が口にした数々の雑言を、北郷はほとんど気にかけずに受け流していたように見えたが、それでも気にしなかったはずがない。
 李儒と方士を退けた後、北郷が何を考えたのかはこれまでの言動を見れば容易に察せられたし、その推測が正しいことは今しがたの北郷の様子からも明らかである。


 みずからに責ありとする北郷の考えが間違いである、と断じるつもりは司馬懿にはない。だが、それがすべてであると思ってほしくはなかった。
 くしくも先夜の徐晃と同じ結論にいたった司馬懿は、まっすぐに北郷の目を見据えて口を開く。
「お訊ねしたいことがあります」
「なんだ?」
「どうして北郷さまは、もうひとつの可能性について目を瞑っていらっしゃるのでしょうか?」
「ぬ?」
 司馬懿の問いに、北郷は戸惑ったように目を瞬かせた。


「もうひとつ?」
「はい。方士の目的が北郷さまにあり、その策謀が北郷さまのお命を狙ったものであるということは理解しました。北郷さまは仰いました。自分の存在ゆえに死なずともよい人が死んだかもしれない、と。それはひとつの可能性だと私には思えます。その可能性を否定するためには二つのことを明らかにせねばなりません」


 北郷がこの地に来なかった場合、乱が起きたのか否か。
 起きたとすれば、その際の死者はどれほどであったのか。


「ですが、現に北郷さまがこの地におられる以上、この二つは知りようがないことです。ゆえに北郷さまが口にされた可能性を否定することは誰にもできません。ですが――」
 ここで、司馬懿ははっきりと語気を強めた。本人が意識してのことではなかったが。
「それならば、もう一つ――すなわち北郷さまがこの地にいらっしゃったゆえに、本来なら死んでいたはずの人が救われた、という可能性を否定することも誰にもできないはずです」
 常になく力強く言い切る司馬懿に対し、北郷は顔にかすかな困惑を浮かべたまま答えようとはしなかった。


 どうしてその可能性に目を瞑るのかをお訊ねしたい、とはじめに口にした司馬懿であったが、実のところ、訊ねるまでもなく理由はわかっていた。自分が思い至る程度のことに、北郷が気づかなかったとは思えない。ただ、あまりに北郷にとって都合の良い解釈であったから、あえて考えないようにしていたのだろう。
 己を厳しく律することは疑いなく北郷の美点である、と司馬懿は思う。ゆえに、その考えを改めるように、というつもりはない。
 ただ、自分の考えをここで北郷に伝えておきたかった。恩ある人のことを思って考えた理屈ではない。司馬懿自身が心からそうだと信じていることを、である。



「北郷さま、方士の目的は北郷さまのお命だと仰いましたね?」
「ああ。少なくとも韓世雄はそう言っていたぞ」
 いまさらとも思える司馬懿の問いに、北郷は戸惑いながら答えた。
 司馬懿は小さくうなずいて言葉を続ける。
「では、なぜ方士は北郷さまのお命をつけ狙うのでしょうか? 言葉をかえれば、北郷さまを除いた後、方士たちは何をするつもりなのでしょう?」
「それは……正直わからない、な」
「はい。私にもわかりません。きっと、それを知るのは方士たちのみなのだと思います。ですが、内容はわからずとも、それが中華にとって善きことなのか、悪しきことなのか、それくらいは推測することができるのです」


 司馬懿はそう言うと、洛陽宮の奥深くで甲高い叫びをあげていた李儒の姿を思い起こした。
「――北郷さまを討つ。ただそのためだけに李儒のごとき者を使い立てし、策謀のかぎりをつくして混乱を招く者たちの目論見が、天下の万民に益するものであろうはずがありません。彼らの目的に理があるとしても、その理は彼らだけのもの。そのことは火を見るより明らかではないでしょうか? 北郷さまの存在が彼らの目的にとってどのような意味を持つのかはわかりませんが、彼らが本気で北郷さまを討とうとしている以上、北郷さまを除かぬかぎりその目的を果たすことは不可能なのでしょう。それはつまり、北郷さまがこの地にいらっしゃったがゆえに、中華に害を為す方士の目論見が阻まれたということです。そして、北郷さまが生きてこの地におられるかぎり、彼らの目的が果たされることは決してないということです」


 確証など何もない。推測に推測を重ねただけのもろい断定。
 にも関わらず、どうしてその言葉に力が宿るのか。


「北郷さま。あなたがこの地にいらしゃったゆえに、すべては良き方向に向かったのです。中華に汚泥をなげかける方士の目論見は阻まれ、起こるはずだった惨劇は防がれ、落ちるはずだった城は落ちず、本来なら戦乱の中で散っていたであろうたくさんの命が救われた。北郷さまは良い人で、あなたの存在は善きものです。そのことは誰にも否定させません。これを否定し、北郷さまを中華より逐わんと欲する者がいるのなら、私は、私のすべてで叩き潰します」


 答えは簡単だった。
 それを口にした者が、心の底からそう信じていたからである。






 北郷が司馬懿から顔をそむけるように空を見上げたのは、気恥ずかしさに耐えかねたからだろう。くわしく観察するまでもなく、頬も首筋も真っ赤であった。
「…………まったく。俺のまわりにいる子は、俺を買いかぶりすぎだろう」
「それは違います。北郷さまがご自分を過小に評価しておいでなのです」
 きっぱりと断定する司馬懿に、北郷は降参をつげるように両手を軽くあげてみせた。
 そして、おそらくは話をそらすためだろう、やや急いた口調で確認の言葉を口にする。
「そういえば、最初に司馬懿が言っていた他聞をはばかることっていうのは、今の件だったのか?」
「そう、ですね。そう考えていただいて結構です。その他にもうひとつ、先ほどの軍旗の件で提案したいことがありました」
「提案?」
 司馬懿の言葉に、北郷が不思議そうに首をかしげる。


「はい。さきほどうかがった北郷十字の紋、この――」
 と、司馬懿はその場にしゃがむと、足元に描かれていた北郷十字の丸の部分を指差した。
「ここの部分、鳥の羽根に見立ててはいかがかと思いまして。こうすることで家紋として用をなさなくなってしまうというのであれば、お忘れください」
「いや、そのあたりは別にかまわないぞ。親父から正式に家を継いだわけでもなし、勝手に家紋をつかう方がむしろ問題かもしれない。ふむ。『丸に十字』ならぬ『羽根に十字』か。ただの丸よりはそっちの方が雅だな。黒地に羽根だから、つまり黒い鳥か?」
「はい。さきほど、北は玄にして黒と申し上げました。黒い鳥はすなわち玄鳥を指します」
「玄鳥……ええと、燕のことだっけか?」
 不安そうに答える北郷を見て、司馬懿は静かにうなずいた。


 ほっと安堵の息をはく北郷に向け、司馬懿は進言の理由を説明する。
「中華帝国において玄鳥は縁起の良い鳥です。穀物を食さず、穀物を害する虫のみを食することから、民にも大切にされてまいりました。その在り方は、北郷さまや、伝え聞く劉玄徳さまの志と等しいのではないか、と愚考した次第です」
 それを聞いた北郷はおおいに感銘を受けた様子で、何度もうなずいた。
 今しがたの気恥ずかしさをごまかす意図がなかったわけではないだろうが、司馬懿の提案に本心から感心しているのも事実であったのだろう。


 その証拠に――
「なるほど! 民を害さず、民を害するものを除く軍隊か! 燕っていうところも身分相応というか、身の丈にあった感じですごく良い。よし決定、それでいこう!」
 即決だった。
 提案した司馬懿の方が戸惑ってしまうほどに、北郷はいたくこの案が気に入ったらしい。北郷十字ならぬ玄鳥十字だな、などとはしゃぐ北郷の反応に、はじめこそ戸惑いを隠せなかった司馬懿だが、軍旗という武将として重要なものに関して自分の進言が容れられたわけだから、嬉しくないはずがない。その顔はいつか自然にほころんでいた。




 ただこの時、司馬懿は自身の考えのすべてを口にしたわけではなかった。
 北郷も司馬懿の進言の後半に気をとられ、前半部分はあまり気に留めなかったらしい。
 司馬懿は言った。中華帝国において玄鳥は縁起の良い鳥だ、と。
 その理由は古く殷(商)王朝以前にまでさかのぼる。殷王朝の遠祖 契(せつ)の母親である簡狄(かんてき)は、あるとき水浴に行き、そこで玄鳥が卵を産み落とすのを見て、その卵を飲んだところ、妊娠して契を産んだという。
 契は後に聖王 禹の治水事業を援け、その功績で商の地に封じられる。この契の子孫に天乙(てんいつ)がおり、彼の諡号を湯という。
 すなわち、暴虐の夏王 桀を討ち、諸侯に推挙されて王朝を開いた殷の湯王である。


 戦国時代を終結させた秦にも玄鳥の伝説は存在する。
 秦の始祖 女脩が機織しているとき、玄鳥の卵を飲んでうまれたのが子の大業である、というものだ。
 視点をかえて伝説の最古にまでさかのぼれば、黄帝が蚩尤との決戦で苦戦した際、西王母の秘策をもって駆けつけた九天玄女は、人の顔をもった玄鳥であったともいわれている。
 いずれも真偽を確かめる術はなく、またその必要もない。
 世が乱れたとき、天より瑞祥を運んでくる鳥。玄鳥にはそういった側面がある。司馬懿が重要視したのはその点であった。


 ――中華に生きる人々を守護する者にして、瑞祥を運ぶ者
 ――其は遙か東の地より来たりし天の御遣いなり


 司馬懿は北郷の黒旗にそんな願いをかけたのである。
 北郷の負担にならないようにこっそりと、けれど誰にも譲れない確信を込めて。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/01/31 22:57

 司州河南尹 孟津


 孟津は河内郡と河南尹を結ぶ黄河の渡しである。先ごろ、袁紹軍の高幹が五万の大軍を引き連れて渡河をはかったのもこの場所だった。
 洛陽を出た俺は少数の兵を率いてその孟津へとやってきていた。
 袁紹軍と戦うため――ではない。中原をめぐる曹袁両家の激闘は、今、ある理由によって中断を余儀なくされていた。 


 黄河の南岸に到着した俺は、鞍上から地面に降り立つと、足元にいた一匹の昆虫を掴みあげる。
 四角い頭部から伸びた二本の触角、大きな両眼、頑強な大顎、そして強靭な後脚。見まがいようもない、それはバッタであった。
 この地では飛蝗(ひこう)と呼ばれるこの虫は、日本でいうところのイナゴではなく、トノサマバッタの類である。体長は俺が知っているイナゴの二倍から三倍というところか。身体は全体的に黒光りしており、ある種の甲虫を思わせる。


 つかまえていた飛蝗から手を離す。
 すると、飛蝗は河岸に着地するや、すぐにあたりに生えた草を一心不乱に食べはじめた。人間に捕まえられたばかりだというのに、逃げ出す気配など露みせない。その姿は何故だか見る者の背筋を冷たくするものがあった。


 これが一匹だけであれば、その悪寒はただの気のせいで片付けることができただろう。食い意地のはった虫もいるんだな、と笑うことさえ出来たかもしれない。
 しかし、俺の視界に映る飛蝗は一匹だけではなかった。あちらに十、こちらに二十と散らばっており、ざっと足し合わせただけでも総数は百をはるかに越えている。
 それだけの数の飛蝗が、何かにとり憑かれたかのようにただひたすら草木を貪り喰っているのだ。
 気味が悪い、などというものではなかった。正直、いますぐ回れ右して、この場から立ち去ってしまいたい。
 そうしないと、あたりの草を食べ尽くした虫たちが、次は俺や馬に襲い掛かってくるのではないか。そんなことがあるはずはないとわかっていても、虫たちの旺盛すぎる食欲を見ていると、そんなおぞましい空想が自然と脳裏をよぎってしまうのである。






 蝗害、という言葉をはじめて知ったのは、俺がまだ小学生になるかならないかの頃だった。教えてくれたのは両親である。
 どうしてそういう流れになったのかというと、うちの両親、特に母親の方が大のバッタ嫌いで、俺が持ち帰ったトノサマバッタ(その日の虫採りの成果だった)を見て大騒ぎになってしまったのだ。
 別に怒られたりはしなかったが、滅多なことで動じない母親が顔面を蒼白にして「バッタとはこれこのように人に害を為す悪魔の化身である」と力説しはじめたものだから、小さかった俺はびっくりしながらもただただ聞き入るしかなかった。正座で。
 この時、話の流れから蝗害という災厄があることを教えられたのである――余談だが、我が家では某変身ヒーローがテレビに映るたびにチャンネルが強制的に切り替えられる。



 それはさておき、中華帝国において蝗害は旱魃、洪水と並ぶ天災として恐れられており、これをしずめるのが皇帝たる者の責務のひとつとされた。
 こういう言い方は不謹慎だが、ゲームなどでは蝗害はけっこうおなじみだろう。夏や秋に発生し、兵糧を食い荒らした挙句、人口、民忠(民衆の忠誠度)を激減させるこの災害は、疫病と並んで多くのプレイヤーを嘆かせたはずだ。たいがいセットで飢饉がついてくるし。
 俺はこれを喰らうたびに「ふざけんなー!」と叫んで『システム』→『ロード』のコンボを炸裂させていた。
 丁寧に時間をかけて国力をあげていたのに、何の前触れもなく襲ってくる蝗害ですべてを台無しにされるなんて理不尽極まりない。そんな理不尽をどうして素直に受容しなければならんのか! というのが、この反則行為を正当化する俺の理屈であった。


 だが。
 いうまでもないが、これはゲームだからこそできる蝗害回避手段である。
 現実で蝗害に遭遇してしまえば、なんとかしてこれに対処するしかない。たとえ、それがどれほど理不尽なものであったとしても。



◆◆



 俺が飛蝗襲来の第一報を聞いたのは、退却する袁紹軍、なかんずくしんがりを務めていた敵将の張恰を討つべく兵を動かしていた最中のことである。
 もうすこし正確にいうと、李儒を捕らえ、方士を退けた俺が、徐晃、司馬懿と共に先行している楽進、棗祗らの軍勢に合流するべく洛陽を出ようとした、まさにその時、許昌の張莫が遣わした急使が駆け込んできたのだ。
 張莫からの使者といえば、つい先日、黒絹の大旗をもってやってきたことが思い出されるが、今回のそれは重要性と緊急性において先日の使者とは比較にならなかった。


 張莫からの報せは、おおよそ次のようなものだった。
 飛蝗の大発生が確認されたのは黄河上流部。位置的にいうと、河東郡と西河郡が接するあたり。このあたりは先ごろの戦乱で主戦場となった場所であり、河東郡の人々が飛蝗の大発生に気づくのが遅れた一因はここに求められるだろう。
 飛蝗発生の報せは真っ先に河東郡の太守である王邑(おうゆう)のもとに届けられ、王邑から許昌の張莫へ、そして張莫から曹操へと順次伝えられていった。
 曹操と袁紹は飛蝗の発生を知るや、すべての作戦行動を中止し、停戦への話し合いを始めたという。
 飛蝗の大群は黄河の流れに沿うように東へと移動を続けている。このまま進めば、その先にあるのは袁紹領である冀州と曹操領である兌州。この二つの州は、曹操にとっても袁紹にとっても決して手放すことのできない治世の要である。ゆえに、早急に蝗害の対策をとらなければならない。
 後から聞いた話では、双方とも無駄に意地を張ることはなく、先の戦いの遺恨を口にすることもなく、停戦はまるであらかじめ定められていたかのごとく速やかにまとまったそうだ。



 そういった情勢を伝えた上で、張莫(曹操)は俺に次の命令をくだした。
 袁紹軍は北帰するにまかせよ。追撃はこれを全面的に禁じる、と。


 それを聞いたとき、徐晃は首をひねって疑問を呈した。
「停戦したんだから、追撃をしないっていうのは当たり前だよね?」
 言わでものことではないか、と不思議に感じたらしい。
 俺は頬をかいて徐晃の問いに応じた。
「釘を刺してきたんだろ、たぶん」
「釘?」
「停戦のせいで壷関の襲撃が中止になっただろう? 張太守のことだ、俺が功績を漁ろうとしていたことには気づいているだろう。ここで功績欲しさに突出したりするなよって言いたいんじゃないかな」
 おそらく曹操の命令は前半だけで、後半にわざわざ追撃禁止なんて付け足したのは張莫ではなかろうか、と俺は邪推した。


 俺の説明を聞き、徐晃は納得したようにうなずいた。
 うなずいて、もう一度首をひねった。
「つまり、今のところは何もするなってことだよね、この命令は?」
「そうだな。それがどうかしたか?」
 俺が問うと、徐晃は何事か考えながら疑問を口にする。
「その、蝗害が起きたときって色々やらないといけないことがあると思うんだけど……」
 そういう徐晃の顔はどこか青ざめて見えた。
 聞けば、徐晃が母である楊奉と共に草原にいた頃、蝗害が匈奴の地を襲ったことがあったという。多くの家畜が死に絶え、餓死者も出る事態になったそうだ。徐晃の顔色が悪く見えたのは、その時のことを思い出したからなのだろう。


「たしかに荒政の準備は急がないとまずいだろうな」
 俺は眉間にしわを寄せてそう言った。
 荒政。漢字で書くと、虎よりも猛しという苛政と同義と思われてしまいそうだが、実際は蝗害(飢饉)対策の諸政策を指す。
 飢民に食料をほどこす、税を軽減ないし免除する、農民に次の年にまく農作物の種(飛蝗は種まで食べ尽くしてしまうので)を貸し出す等、その内容は多岐にわたる。これを怠ると、蝗害はたちまち飢饉に結びつき、飢饉は大量の流民を生み、大量の流民はそれまでの社会体制を崩壊させて、ついには大規模な叛乱からの国家転覆へとつながってしまう。 蝗に『皇』の字があてられているのは、蝗害の対処が皇帝の命運を左右するからだ、という説もあるそうな。


 その真偽はさておき、中華帝国の歴史上、王朝の倒壊の陰に蝗害の影響があった例は少なくない。
 一方で、荒政を実施した王朝が致命的な事態に陥った例はほとんど見られない。
 時に、蝗害は天災ではなく人災であるといわれることがあるが、それはこういった側面を指しているのだろう。


 俺がそう言うと、徐晃は目を丸くした。
「それなのに、わたしたちは何もしなくていいの?」
 俺はその疑問に正直に答えた。
「何もしないというか、何もできない。荒政のための資金も情報も権限も、ついでにいえば能力も、俺にはないからな」
 いざ荒政を実施するとなれば、洛陽周辺の人口の把握からはじめなければならない。戦いを避けて山野に逃げ隠れしている人たちを呼び戻す必要もある。ほうっておけば、飢えた民衆は流民と化して他の地方を襲ってしまうからだ。
 なので、まずはそういった人々が飢えないように官庫を開いて食料をほどこしたり、蝗害の被害が出ていない地方から食料を買い求めたりしないといけないわけだが、そのいずれも一武将の判断で行えることではない。


 仮に俺が独断で食料を集めたとしても、問題はまだ残っている。これから先、俺たちがずっと民衆に食料をあたえ続けることはできないので、人々が官の援助なしでも生活できる態勢をつくりあげる必要がある。
 洛陽周辺の耕地面積を調べ、必要分の種や農具をそろえる。農耕用の牛馬も必要だ。状況によっては耕地を広げるための治水作業も行わねばなるまい。租税の減免も考慮する必要がある。
 それ以外にも、河内郡をはじめ他州から流民が流入してくる恐れもあるから、そちらに対する備えも怠ってはならない。


 ――うん、どう考えても一武将が実行できるこっちゃないですね。強大な権限と、政治、軍事、経済にまたがる総合的な能力を併せ持った者が、潤沢な資金、食料、兵力を駆使して初めて成功するかどうか、といったところだろう。
 今回の戦いで急遽虎牢関の守将に任命された俺には、明らかに手に余る。もちろん、そんなことは張莫も重々承知しているはずだ。張莫が俺に蝗害に対する指示をしなかったのは、する必要がなかったからであろう。
「停戦が決まった以上、いつまでも俺を守将にしておく必要はないからな。たぶん、じきに新しい責任者が来て、俺たちは許昌に召還されると思うぞ」
 俺がそう結論づけると、徐晃はようやく納得できたのか、こくこくと二度うなずいた。


 その後、俺は楽進たちに停戦命令を伝えるために洛陽を出たのだが、このとき、予定を変更して徐晃と司馬懿、さらに俺が率いてきた兵の大半を洛陽に残すことにした。飛蝗の発生を知って混乱するであろう洛陽市街をおさえるためである。
 正直、停戦を伝えるだけなら急使を派遣するだけでもよかったのだが、先行している諸将がすなおに停戦命令に応じてくれるかどうかが少しばかり不安だった。それに、自分の目で蝗害というものを見てみたくもあった。


 十ばかりの騎兵と共に洛陽を出た俺は、先行していた楽進らの部隊に合流すると、袁紹軍が黄河を渡るのを見届け、さらに遠く河内郡の空を飛んでいる飛蝗の大群を息を殺して見送った。
 幸いにも、とは間違ってもいえないが、飛蝗の進路はかわっていない。飛蝗の群れが洛陽方面に飛来することはまずないと思われたが、群れからはぐれた個体の一部が黄河を越えて河南の大地に到達していた。俺が河岸で見つけたのは、そういった飛蝗の小集団である。




 俺はあらためて周囲に散らばる飛蝗の数を概算した。
 大体二百匹くらいだろうと判断できたところで、何度目かの溜息が口からこぼれ落ちた。
「しかし、群れからはぐれた『一部』でこれか。別の場所にも飛んできているだろうし、黄河を越えてきたのは千や二千じゃすまないだろうな」
 先に述べたように、俺は小さい頃に両親から蝗害について話を聞いたことがあった。その後も自分で調べたりしたので、相変異等の蝗害発生のメカニズムや対策について、ある程度は把握している。
 だから、ひとたび大量発生した飛蝗が容易に退治できないことも知っていた。
 蝗害の対策は基本的に事前の予防(いかに発生させないか)と事後の荒政(蝗害後の飢饉に対する備え)である。大発生してしまった飛蝗を人の手で根絶する術はない。飛蝗がすべての草木を食い尽くして飢え死にするのを待つか、あるいはただひたすら冬の訪れを願うか。いずれにせよ人為でどうこうできるものではなかった。


 つけくわえると、蝗害を引き起こした群れが死滅すればそれですべて解決するかというと、決してそんなことはない。
 大量に発生した飛蝗は大量の卵を産むのである。だから、群れが全滅しても、また翌年、卵からかえった飛蝗によって二度、三度と蝗害が発生する恐れがあった。
 その意味では、たとえ全体からみればわずかな数であるとはいえ、黄河を越えてきた飛蝗を放置しておくことはできない。この程度の数であれば、人数をつぎこめば対処することができるので、今の俺の権限でもなんとかなる。


「一匹ずつ潰して歩くのは効率悪いよな。一箇所に集めて火を放つか、穴でも掘って埋めてしまうか……いや、穴に埋めると、そのまま卵を産むやつも出てくるか。ここはやっぱり火だな」
 ひとりごちながら対策をまとめていく。
 土中の卵については、これはもうどうしようもない。掘り返して煙や火であぶればなんとかなるかもしれないが、効果があるかどうかもわからない対策のために、このあたりの土を残らず掘り返すわけにもいかない。


「できれば元の群れを片付けるアイデアも欲しいんだけどなあ。仲達は何も口にしなかったけど、温のことを気にしていないはずはないし……」
 司馬懿の郷里である温県は河内郡にあり、飛蝗の進路とまともにぶつかっている。おそらく、今回の蝗害では尋常でない被害が発生するだろう。飛蝗発生の報を聞いた際、司馬懿の顔は目に見えて青ざめていた。
 それでも不安ひとつもらすことなく俺の命令に従ってくれた少女のため、何かできることがあれば、と思うのだが――


「夜に巨大な火を焚いて誘い込む……ううむ、無理だよなあ」
 思い出すのは、雲ひとつないはずの青空を、墨よりもなお黒く塗りつぶして進む何百万、何千万という飛蝗の大群である。あれを一夜で燃やし尽くすには、いったいどれだけの燃料が必要になるのか想像もつかない。かりに薪やら油やらをかき集めることが出来たとしても、今度はそれを燃やす広い土地が必要になってくる。
「そうなると、延焼の危険も出てくるよな。いくつかに分散して仕掛ける? そんな大掛かりな準備をしている時間も余裕もあるわけないか…………やっぱり冬を待つしかないのかな」
 かわりばえしない結論を得た俺は、思わず天を仰ぐ。
 その視界を一匹の飛蝗が羽音と共に横切っていった。
 



◆◆




 二日後。
 ローカストスレイヤー(バッタ殺戮者)の称号を得た俺が洛陽に戻ると、徐晃と司馬懿がほっとした様子で出迎えてくれた。
 そして、その場にはもうひとり、俺の見知った顔があった。
 灰褐色の髪を短く切りそろえた少女。俺は驚いて、その少女に声をかけた。
「士則(鄧範の字)、戻ってたのか」
 すると、鄧範は無愛想な顔で小さくうなずいた。
「ああ、驍将どのが孟津へ向かった日の夜にな」
「入れ違いか。それにしても、ずいぶんと早く戻ったな?」


 鄧範が弘農王劉弁、司馬朗、馬岱らと共に虎牢関を出てから、まださほど時は経っていない。場合によっては涼州まで行くことになるから、鄧範の帰りはずいぶん先になるだろうと俺は考えていた。
 その鄧範の姿が眼前にある。一瞬、何か不測の事態が起きたのか、という不安が胸裏をよぎった。なにしろ、鄧範が護衛しているのは死んだことになっている今上帝の兄上である。大陸広しといえど、この一行ほど怪しげな旅人は存在しないと断言できる。必然的に厄介事に巻き込まれる可能性は高いと判断せざるをえないのである。


 しかしながら、良からぬことが起きたのであれば、司馬懿と徐晃がこんなに平静でいるとは思えない。俺の前に立つ鄧範も、先の洛陽戦で張恰から受けた傷を除けば、とくに目立った負傷はなさそうだ。
 虎牢関を出た鄧範たちに予期せぬ出来事があったのだとしても、それは不運よりも幸運に属するものであると思われた。たとえば偶然にも西涼軍と出会い、涼州まで護衛をする必要がなくなった、とか。




 期待まじりの俺の楽観は、しかし、当の鄧範によってあっさり否定された。
「さすがにそんな都合の良いことは起きてないぞ」
「それは残念。しかし、ならどうしてこんな早く戻ってこられたんだ?」
 俺の疑問に対する鄧範の答えは次のようなものであった。


 涼州に向かった一行は、俺の要望もあって洛陽を大きく南に迂回する形で進んでいた。
 そして、ようやく袁紹軍の勢力範囲を抜けたと思った矢先、山道で野盗に襲われている一団を発見したのだという。
 その一団は複数の馬車を所有しており、それぞれ大きな荷を積んでいた。盗賊たちにとっては格好の獲物と映ったのだろう、護衛の兵士の倍近い数で襲撃を仕掛け――それを鄧範たちが見つけたのである。


 目立つ行為は厳禁であるとはいえ、まさか見殺しにするわけにもいかない。鄧範自身は怪我で思うように戦えないが、兵士たちは鄧範がみずから選んだ司馬家の精鋭である。おまけに、同行している西涼軍の武将 馬岱は怪我ひとつなく元気いっぱい。そこいらの賊徒がかなうはずもなく、野盗たちはたちまち蹴散らされた。
 そして――


「襲われていた一団は、なんというか、風変わりな者たちでな。こちらに害があるわけではないのだが……」
 めずらしく鄧範が視線をさまよわせた。なんと説明したものか悩んでいるらしい。
 やがて、鄧範は何かを諦めたような顔で説明を続けた。
「彼らは五斗米道の者だと名乗った。益州漢中郡に居を構える道教集団だそうだ。聞けば、この五斗米道、いま巴蜀(四川)の地を治めている劉某という益州牧と争っているらしくてな。五斗米道の方は争いをやめようと呼びかけているらしいが、州牧の側が聞く耳をもたぬという。そこで朝廷に使者を派遣して貢物を差し出し、五斗米道による漢中の支配を認めてもらおうと考えた。朝廷が支配権を認められれば、州牧の侵攻を止められると踏んだのだろう」


 漢中を発った五斗米道の一団は益州側の妨害や野盗の襲撃をかわしながら南陽郡までたどり着いた。
 だが、間の悪いことに南陽郡は李儒が引き起こした暴挙でかつてない混乱の只中にあった。当然、治安も悪く、それまでとは比べ物にならない頻度で幾度も盗賊に襲われた。護衛の兵もひとり倒れ、ふたり倒れ、かわりに雇い入れた兵にも裏切られて逃げるに逃げられず、ついにここまでか、と覚悟したところで鄧範たちが助けに入った、というのが事のあらましであった。



 俺は思わず胸をなでおろした。
「間一髪だったわけか」
「どうやらそうらしい。そうと聞いてはさすがに放っておくわけにはいかないのでな。やむをえず護衛の兵を二分して、オレがこうして案内してきたわけだ。馬どのには、オレが知るかぎりのことを記した地図を渡しておいた。オレがいなくとも道に迷うことはないはずだ。西に進んで函谷関を通るにせよ、いちど南陽郡に入ってから武関を通るにせよ、な」
「あとは馬将軍たちの判断次第というわけだな。了解した」
 俺が鄧範の労をねぎらうと、鄧範は無愛想にうなずいた。そして、すぐに表情を引き締めると、真剣な顔で俺に告げた。
「飛蝗の発生については仲達さまからうかがった。オレに出来ることがあれば、怪我のことなど気にせずに命令をくれ」
「それはありがたい。その時はよろしく頼む」


 俺がにやりと笑うと、なぜか反応したのは鄧範ではなく徐晃だった。
「ああ……はじめはぎこちなかったはずの悪い笑顔が、どんどんさまになってきてる気がする……」
「そこ、今なにか言ったか!?」
「や、別に何もいってないよッ!」
「信用ならん。隣にいた仲達を証人として喚問しよう」
「証人喚問!?」
「証人にお訊ねします。被疑者は上役に対する誹謗を口にしてはいませんでしたか?」
 俺の問いに、司馬懿はきっぱりと首を左右に振った。
「証人として被疑者の無罪を証言いたします」
「……ふむ、気のせいだったか」
「納得しちゃうの!?」
 驚愕する徐晃。その隣では、司馬懿がさらに言葉を重ねていた。
「悪い笑顔が様になっている。これは上役を誹謗しているのではなく、心配しているのだと思います。公明どのは、このままだと北郷さまが悪い人になってしまう、と案じていらっしゃるのでしょう」
「……証人の証言により、真意はともかくとして発言の有無は明らかになったわけだが、被疑者は何か申し述べることがあるか?」
「……ごめんなさい、失言でした」
「よろしい。思うのはかまわないが、口にするのはつつしむように。あと証人の協力に感謝します」
「恐れ入ります」



 かくて簡易裁判は無事に閉廷した。
 傍らで聞いていた鄧範が面食らった顔で呟く。
「少し離れていただけなんだが……驍将どのたちはずいぶんと打ち解けたのだな?」
「そうか? 前からこんな感じだったと思うけど、まあそれはともかく、件の五斗米道とやらの話、当人たちからも聞いておいた方がよさそうだな。今は時間を無駄にできない。できることから早めに片付けていこう」
「これほど説得力に欠ける言葉もめずらしい。今しがた、やくたいもない口論をしていたのはどこの誰だ?」
「はっはっは、ところで向こうの長の名前は何ていうんだ?」
「……今までのように笑ってごまかすのではなく、笑って受け流し、さらりと話を本筋に戻すとは。公明、たしかにだんだんとタチが悪くなってきているぞ、この将軍どのは」
「や、やっぱりそうだよね? わたしの気のせいじゃないよね?」
「公明どの、ここで士則に同意すると、また裁判が開かれてしまいますよ?」
「――ッ」
 司馬懿が小声で注意すると、徐晃は慌てて両手で口を塞いだ。実にわかりやすいリアクションである。


 突っ込もうと思えば突っ込めたが、さすがにこれ以上ふざけているとまずいだろう。俺はそう思って、徐晃の言動を見てみぬフリをした。
 状況が切迫している今だからこそ、軽く談笑して緊張をほぐすことは必要だ。しかし、それも過ぎれば集中力を欠くことにつながってしまう。このあたりのバランスをとるのはなかなかに難しいことだった。




◆◆◆




 鄧範に連れられて部屋に入ってきた五斗米道の代表者は、すらりとした長身と理知的な眼差しに特徴がある優しげな青年だった。
 立ち居振る舞いは穏やかでありながら隙がなく、一見しただけでなかなかの人物であると見て取れる。さきほど鄧範は五斗米道の人々に好ましからぬ癖があるような物言いをしていたが、少なくとも俺は眼前の青年から悪い印象は受けなかった――彼が口を開くまでの、ごく短い時間だけであったが。


 青年は俺と向き合うと、人好きのする笑みを浮かべながらうやうやしく頭を垂れた。
 そして。
「北郷将軍閣下にはお初におめにかかります。それがし、ゴットヴェイドォォォッ!!」
「!?」
「にて祭酒の地位を賜っております閻圃(えんほ)と申します。お見知りおきくださいませ」


「……こ、これはご丁寧にどうも?」
 いきなり吼えた青年――閻圃を前にして、俺は思わず逃げ腰になってしまった。司馬懿は目を丸くし、徐晃にいたっては斧に手をかけている。鄧範はそんな俺たちの様子を苦笑して眺めていた。
 え、なに今の? 交渉を有利に運ぶための威嚇とか、そういう類の行動ですか?
 俺の動揺に気づいているのかいないのか、閻圃はそのまま言葉を続けた。
「そちらの鄧さまからお聞き及びかと存じますが、それがしは我が主であるゴットヴェイドォォォッ!!」
「ッ!?」
「を統べる張公祺(張魯)の命令により許昌に参る途次でございました。賊徒どもに襲われ、今はこれまでと覚悟いたしたところ、鄧さまにお救いいただいた次第でございます。鄧さま並びに北郷閣下には幾重にも御礼を申し上げます」
「は、はあ、どういたしまして?」
 どうしても語尾に疑問符がついてしまう。
 これが年端もいかない子供がやることであれば、こちらを驚かすためにふざけているのだなと判断するところだが、いかにも有能そうな閻圃がやるとどう反応してよいのかさっぱりわからない。


 てか、冷静に考えてみると、閻圃って張魯の軍師的な立ち位置にいた文官だよな。鄧範の話を聞いたかぎり、五斗米道にとって今回の朝廷への使いは、教団の今後を占う上で非常に重要な役目であるはずだ。その代表を任されているのだから、閻圃が切れ者であることは疑問の余地がない。
 その切れ者が何故にいちいち会話の途中で自分の教団の名前を叫ぶのだ? わけわからんぞ。



「驍将どの」
 混乱する俺にそっと囁きかけてきたのは鄧範だった。おそらく、鄧範は俺よりも先に、いま俺が味わっている驚愕と戸惑いを経験したのだろう。その声は先達の重みと諦観をともなっていた。
「何を考えているかは大体わかるが、深く考えるだけ無駄だ。この者たちはこうなのだ、と割り切った方がいい。なにせ、この閻祭酒だけでなく、末端の信徒たちまで皆同じことをいうからな」
「……マジですか」
「マジだ。言っただろう。こちらに害があるわけではないが、風変わりな者たちだ、と」
「その言葉でこの状況を予測しろっていうのは無茶じゃないかな」
 あと害はあると思う。間違いなく。
 そう思いつつ、俺はさきほどの鄧範の言動を思い起こした。なるほど、さっき俺たちに五斗米道の奇行を詳しく説明しなかったのは、自分で体験しないとわからないと思ったからか。
 まあ、単にどう説明すればいいのか分からなかっただけかもしれないが、いずれにせよ鄧範が口にした対処法は剴切だった。細かいことは気にしないことにしよう、うん。
 以後、「ゴットヴェイドォォォ」は「五斗米道」と記すのでご了承ください。




 しばし後。
 閻圃は俺の請いに応じて、現在の五斗米道をとりまく情勢を語り始めた。
「もともと、我らの教えは益州で広まったものなのです。それがしをはじめとして鬼卒(信徒)、祭酒(鬼卒を統率する役職)の多くは益州の産。劉州牧(劉焉)の入蜀にも協力いたしました。当初の関係は決して悪いものではなかったのですが……」
 五斗米道が漢中郡に勢力を張るようになったのも、もとはといえば劉焉の要請に応じてこの地の郡太守を討ったからであった。
 劉焉は朝廷に命じられた益州牧であるが、益州には朝廷の意に従わない豪族も多く存在する。漢中郡の太守もそういった人物であり、劉焉はこれらの敵対勢力を討つために五斗米道を利用したのである。


 もちろん、五斗米道側も州牧である劉焉を味方につけて教団勢力を広げようとしたわけで、どちらが悪いという話ではない。
 利用し、利用される関係。それはつまり、どちらかが相手に利用価値を認めなくなった時点で破綻する関係である。
 益州での権力を固めていくにつれて、劉焉が五斗米道を目障りに思うようになっていったのは自然の成り行きであったろう。


 悪化の一途を辿っていた両者の関係が完全に破綻したのは、教団指導者である張衡(張魯の父)が亡くなった時のこと。
 あとに残されたのは美貌で知られる張衡の妻と、まだ十歳になるやならずの娘 張魯のみ。これでもう恐れるものはないと判断したのか、劉焉は二人を成都に軟禁すると、五斗米道の本拠地である漢中郡に兵を向けた。


 閻圃は厳しい顔つきで、当時の劉焉の心理を推測する。
「おそらく劉州牧は、長が不在である以上、教団の抵抗は大したものにならないと判断したのでしょう。子飼いの東州兵を温存し、各地の豪族を主体とした軍勢を派遣してきたのです。我々祭酒は力をあわせてこれを撃退し、さらに成都に捕らわれていた師君(張魯のこと)と母君を救い出すことに成功しました」
 閻圃は誇らしげにそう言った。が、すぐにその顔色は暗いものになる。
 たしかに五斗米道は危機を乗り越えた。しかし、そのために払った犠牲は決して少なくなかった。
 教団の有力者が幾人も戦死し、後継者である張魯はまだ幼い。張魯の母は優れた道術の使い手であり、信徒たちの信望も厚かったが、夫の死とその後の軟禁生活で弱った心身は、成都から漢中までの強行軍に耐えられなかった。
 漢中に帰り着くや、その日のうちに倒れてしまったそうだ。


 幸いなことに命に別状はなかったが、それ以来、張魯の母は一ヶ月の半分を病床で過ごすようになってしまった。これではとても指導者の重責に耐えられない。
 おりしも漢中は旱魃にみまわれ、多くの信徒たちが飢えに苦しむ事態となった。
 仰ぐべき長はおらず、敵の侵攻はやまない。そこに飢餓の恐怖が加わり、教団は深刻な危機に直面した。
 このままでは五斗米道は漢中の地に溶けてしまう。閻圃は他の祭酒たちと額をつきあわせて相談を重ねたが、事態を打開できる良案は出てこない。
 万事休すかと思われた、その時だった。



「師君は仰ったのです。わたしがみんなを守ります、と」
 幼い身体に気高き魂を宿した(閻圃談)五斗米道の新たな長は、続いてこう言った。
『お米がないなら、お米をつくればいいのですッ!』
 円らな瞳に毅然たる決意を湛えた(閻圃談)張魯はみずから鍬を手に取って、荒れ果てた大地に敢然と立ち向かった。
 そして、ともすれば沈みがちになる信徒たちを励ますため、大きな声で歌をうたいはじめたそうな。



「歌、ですか?」
 俺は目頭を押さえながら閻圃に訊ねた。
 五斗米道を襲った悲運と、幼い身でそれを跳ね返そうとした少女の物語を聞いて、どうして無感動でいられようか。見れば、司馬懿や徐晃、鄧範も目を潤ませている。
 そんな俺たちを見て当時のことを思い出したのだろう、閻圃はそっと涙を拭いながらこう言った。
「はい。大人でさえ辛い農作業をこなしながら、師君は可憐な声でお歌いになられました。今日の五斗米道を築き上げた、奇跡の歌でございます」
 そういうと、閻圃は胸の前で両手を組み合わせ、心を込めて歌い始めた。決して上手くはない、しかし、聞く者の心にいつまでも残るような、そんな歌を……



「おコメ、おコメ、おコメ~♪ おコメ~をたべ~ると~♪」
「ちょっと待てい」
 俺は慌てて閻圃を止めた。
 なんかこれ以上聞くとまずい気がする。なんとなくだが。
 だが、完璧に歌に入り込んでしまった祭酒さんの耳には俺の声が届いていないらしい。それどころか、だんだんとノッてきたらしく、リズムにあわせて上体を左右に揺らしはじめましたよ、この人。


 ――結局、閻圃は張魯がつくったというその歌を最後まで歌いきってしまった。最後には拳をつきあげて「へいッ!」というおまけ付きである。
 俺は湧き出る冷や汗を拭いながら、話をそらしにかかった。
「な、なるほど、良い歌で――」
「おコメ、おコメ、おコメ~♪ おコメ~をつく~ると~♪」
「二番だとッ!?」


 俺が驚愕の声をあげると、さすがにそれには気づいたのか、閻圃が怪訝そうに歌を止めた。
「どうかなさいましたか、閣下?」
「や、二番まであるとは思っていなかったので……もしや三番もあったりするのですか?」
 震える声でたずねると、こともなげにうなずかれた。
「この米穀編の歌詞は四番までございます」
「な、なるほど……四番が最後なんですね?」
「米穀編の他には耕作編、収穫編、治水編、料理編等があり、全九編。そのいずれにも四番までの歌詞がついておりますので、すべてあわせれば三十六番まで、ということになりますね」
「文字どおり桁が違った!?」


 一番だけで勘弁していただきました。 

  

◆◆



 その後、俺は気を取り直して閻圃に問いを重ねた。別に漢中や蜀の情勢など今の俺には関係ないことなのだが、後々役に立つかもしれない。この先、玄徳さまの益州入りが起こらないとも限らないし。それに、さきほど閻圃が口にしていた道術のことも気にかかる。もしかして、方士と何か関わりがあるのかもしれない。


 そう考えた俺は道術について閻圃にいろいろと訊ねてみた。
 閻圃は快く応じてくれたのだが、その最中、不意に妙なことをたずねてきた。楊松という人物に心当たりはないですか、と。
「楊松、ですか?」
「はい。楊松、字を喬才(きょうさい)。以前、それがしと共に五斗米道祭酒の地位にあった者なのですが、閣下はこの名に聞き覚えはございませんか?」
「いや、初耳ですね」
 正確には元の世界で聞いたことはあったが、閻圃が訊ねているのはそういうことではないだろう。
 俺が知る楊松はワイロ大好き人間だったが、さて、この世界の楊松はいかなる人物なのか。閻圃の表情を見るかぎり、どうやら誉められた人間ではなさそうだが。


「今しがた申し上げましたように、我らの道術は氣を操るもの。特に鍼を用いた医療においては中華に並ぶ者なしと自負しております。たとえば、ご存知でしょうか、名医として名高い華元化(華佗)どのは我らの同志でございます。元化どのは我々祭酒の上に立つ治頭大祭酒でいらっしゃる」
 それを聞いて俺は驚いた。なんと、この世界の華佗は鍼灸師なのか。麻沸散はどうした。
 聞けば、祭酒の地位を得るためには華佗のように道術(医術、鍼灸術)を磨くか、閻圃のように教団運営での実績をあげる必要があるらしい。一口に祭酒といっても、各人の才能は様々であるようだ。実際、閻圃は道術の才能がないらしく、まったくといっていいほど扱えないのだとか。



 閻圃は憂鬱そうな顔で話を続けた。
「楊松は元化どのの好敵手――少なくとも当人はそう考えていたようです。喬才という字(あざな)は楊松がみずからつけたもので、己が才の高みを誇るもの。自分の字をどうつけようと、それは当人の自由なのですが、問題は楊松の為人でした。楊松は己が才を育てるのに、他者の称賛と羨望を必要としたのです」
 楊松に才能がなかったわけではない、と閻圃はいう。実際、祭酒の地位を授かったのだから、道術の才能はあったのだろう。
 だが、楊松が他者の称賛を受けることはほとんどなかった。人々が褒め称えたのは、能力、人格ともに楊松を上回る華佗の方であった。


「それが面白くなかったのでしょう。楊松の素行は日に日に悪くなっていき、ついには五斗米道の教えに背いて、先代さまに祭酒の地位を剥奪されるに至りました。先代さまは楊松に反省を促すためにあえて厳しい措置をとったのですが、楊松はこれを恨み、その日のうちに姿を消してしまったのです」
 氣を操る道術は、習得すれば多くの人々を助けることができる。
 その一方で、これを悪用すれば、人々に与える害はそこらの賊徒の比ではない。特に楊松は道術の腕前によって祭酒の地位を得たほどの人物である。日ごろから危険な言動が多かったこともあり、五斗米道はただちに追っ手を放って楊松を追った。あくまで楊松が逃げようとするのであれば斬っても良い、という命令を与えて。


 その結果がどうなったかは訊ねるまでもなかった。そこで楊松が斬られていたのであれば、今こうして閻圃がその名を出す必要はない。
「結局、逃げられてしまったわけですね?」
「お恥ずかしいかぎりです」
 閻圃は恥じ入るようにうつむいた。
「その後、先代さまが亡くなられたため、教団も楊松ひとりのために人手を割くことができなくなり、放置しておくしかありませんでした。ところが、一年ほど前のことです。淮南の同志から、彼の地で楊松の姿を見かけたという報告が届きました。それを聞いた元化どのが淮南に向かわれたのですが……残念なことに、いまだ彼奴を見つけることはできずにおります」
 と、ここで閻圃は思わぬ言葉を口にする。
「そんな折でした。今度は南陽郡で楊松の姿を見たという者があらわれたのです。実を申せば、それがしに与えられた任務は二つあります。ひとつは朝廷に漢中の支配権を認めてもらうこと、そしてもうひとつは楊松を見つけ出し、これを捕らえることです」


 そういう閻圃の表情は見るからに強張っていた。
 おそらく、いま俺に言ったのは事実の表面だけなのだろう。閻圃は楊松が五斗米道の教えに背いたと言ったが、実際に何をしたのかについては一言も触れなかった。
 考えてみれば、治頭大祭酒とやらである華佗が、教団が危機にある中、たったひとりの逃亡者のために漢中から淮南にまで出向いた、というのもおかしな話である。 他のことはともかく、楊松に関しては閻圃の言葉を鵜呑みにしない方がよさそうであった。


(まあ、出会って間もない人間に、一から十まですべての事情を説明しなければいけない理由なんてないけどな)
 俺は内心で肩をすくめた。
 洛陽で姿を見かけたというのだったら何かしら手を打つ必要があるが、発見された場所が南陽であるのなら俺にできることは何もない。
 仮に閻圃がこの件で助力を求めてきたとしても断ろう。そう決めた俺は、閻圃に礼をいって下がらせると、頭を蝗害対策へと切り替えた。
 おそらく、じき許昌から召還の使者がやって来るが、それまでに片付けておきたいことは幾つもある。
 司馬懿たちと相談を重ね、部屋を出る頃には、俺の頭の中からはや楊松のことは消えうせていた。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(二)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/02/08 21:18

 荊州南陽郡 宛


 その部屋は一言でいって最低だった。
 窓がなく、採光や風通しを良くする工夫も為されていないため、室内の空気は常に重く淀んでおり、床や壁面は湿り気を帯びたカビでびっしりと覆われている。部屋の隅に置かれた寝台の布は黄色とも黒ともつかない色に染まり、その反対側には絶えず不快な臭気を放つ小さな穴が掘られていた。その周囲からはカサカサと何かが蠢く音も聞こえてくる。
 外の景色を見ることができないため、天候はおろか時間の経過を知る術もない。くわえて、部屋の出入り口は頑丈な鉄格子で塞がれており、その向こうから昼夜を問わず監視の目が注がれているのだ。気の弱い者であれば一晩を過ごすことさえ耐えられないだろう。


 最低の環境であるのも道理、その部屋は一般的に地下牢と呼ばれる場所であったから。
 南陽郡の首府たる宛城。その地下深くにつくられた牢には、今、一人の少女が投獄されている。
 その少女の名は蒋欽(しょうきん)、字を公亦(こうえき)といった。



◆◆



「…………んゅ?」
 寝台で寝入っていた蒋欽の目がゆっくりと開かれる。その眉根が不快げに寄せられているのは、自分の身体を包み込むじめっとした布の感触のせいだろう。
 しばしの間、寝ぼけ眼で室内を見渡していた蒋欽だったが、まもなくその瞳は急速に焦点を結んでいった。
「ああ、そうでした……」
 自らが置かれた状況を思い出し、蒋欽は小さくため息を吐く。
 すると、その動きにあわせて、じゃらり、という耳障りな金属音が室内に響いた。蒋欽の首にはめられた鉄環から伸びた鎖の音である。その鎖は壁面に据えられた金具に結び付けられており、ただでさえ狭く汚らしい地下牢の中で、さらに蒋欽の動きを束縛していた。



「……これから、どうしたものでしょうか」
 鎖につながれたまま、狭い牢の中央を円を描くように歩く。足が萎えてしまわないようにするためで、ここに閉じ込められて以来の蒋欽の日課だった。
 そうやって牢内を歩き回りながら、これからどうするべきかを模索する。傍から見れば滑稽であったかもしれないが、当の蒋欽は真剣そのものだった。もっとも、どれだけ真剣に考えようとも、今の状況を打開する良案が浮かんでくることはなかったが。



 そも、どうして蒋欽が牢にいれられることになったのか。
 蒋欽は仲帝国の臣下であり、袁術が皇帝を称する以前からその配下として様々な役目を命じられ、それらを忠実にこなしてきた。
 その功績が認められ、武官のひとりとして南陽太守である李儒の下に配されたのは、淮南征服戦が終わった後のことである。


 袁術からその命令を受けたとき、蒋欽の胸裏には単純な喜びと、単純ならざる戸惑いが併存していた。
 孫家が粛清される以前、蒋欽は袁術に対しても、その配下である李儒に対しても素直に尊敬の念を抱いていたのだが、その後に寿春城で起きた粛清劇が蒋欽の小さな胸に大きな疑念を残す。孫家一行と直接言葉を交わした蒋欽は、あの孫堅たちが陰謀を企んでいたとはとうてい信じられなかったのである。
 その後に行われた淮南侵攻戦では、蒋欽は使者として徐州に赴いていたので直接戦闘に参加することはなかった。しかし、仲軍が広陵をはじめとした多くの場所でたくさんの血を流したことは知っていた。その中に兵士ではない者たちが多く含まれていたことも。


 そういった幾つかの出来事を経て、蒋欽は仲帝国に対し、これまでのように無垢な忠誠心を抱くことはできなくなっていた。
 ただ、それでも貧困に喘いでいたわが身や家族を救ってくれた恩は忘れようがない。
 だからこそ、仲に対して不穏な言動を繰り返す李儒にたびたび諫言をおこない、結果として地下牢に投獄される身となってしまったのである。




 李儒としては、ひとまず蒋欽を牢屋に入れて反抗の気力を削ぎ落とすつもりであった。 蒋欽のような少女が不潔きわまりない地下牢で何日も過ごせるはずがない。牢で心を折った後、自分に仕えるならばそれでよし。あくまで従わないというのであれば、その時はあらためて処刑してしまえばいい、と考えたのである。


 李儒の計算違いは、貧家でうまれ育った蒋欽が不潔さに対する強い耐性を持っていたことであった。
 蒋欽の髪は角度によっては蒼く見えるほど艶やかで、その瞳は空の色を映したような碧眼である。目鼻立ちもととのっており、外見だけみれば良家の子女といっても十分に通用する。
 しかしてその実態はといえば、黒光りする油虫程度ならば顔色ひとつ変えずに踏み潰せる女の子であった。異臭なぞ否応なしに慣れてしまうものだし、凍える恐怖に比べれば汚い布でもあるだけマシ。そんな風に考える少女が地下牢に入れられた程度で心を折られるはずもない。


 おそらくもう少しこの状況が続いていれば、李儒は蒋欽の処刑に踏み切っていただろう。
 だが、李儒はみずからの策謀を成就させるために多忙を極めており、蒋欽ひとりにかかずらっていることはできなかった。
 そうこうしているうちに洛陽起義は実行に移され、李儒は宛の放棄と住民の強制移住を命じるに至る。


 これにより宛の内部は凄まじい混乱に包まれた。
 その話を牢番から聞いたとき、蒋欽は内心で覚悟を決めざるを得なかった。李儒が蒋欽を洛陽へ連行する手間をかけるとは思われない。おそらく、もう一度自分に協力するかを確認し、否といえばその場で斬られるだろう、と。
 結論からいえば、この蒋欽の予測の前半はあたり、後半は外れた。洛陽へ連行する手間をかけないという部分はそのとおりだったが、李儒はあらためて蒋欽に協力を求めることをせず、牢屋に閉じ込めたまま放置したのである。


 罪人とはいえ、それまでは最低限の水や食べ物は与えられていた。しかし、宛を放棄してしまえば、それを行う者たちがいなくなる。そうなれば、鎖につながれた罪人を待ち受けるのは餓死しかない。
 自分に従わない者がどれほど惨たらしい死をとげようと知ったことではない。そう考えた李儒は、そのことを指示する時間さえ惜しみ、蒋欽に関しては具体的な指示を出さなかった。
 これより少し後、袁紹軍が参戦してきた際、李儒は蒋欽を投獄したことをわずかに悔やむことになるのだが、この時期の李儒は洛陽政権の宰相として得意の絶頂にあり、蒋欽のことは反抗的な小娘程度にしか見ていなかった。だからこそ、あえてその死を命じることもしなかったのである。放っておけば勝手に死ぬだろう、それが李儒の考えだった。




◆◆




 不意に、カタン、という乾いた音が牢内に響いた。
 蒋欽がそちらを見ると、牢番が鉄格子の隙間から椀に入った水と粥を置いている。
「……あ、ありがとうございます」
 蒋欽が礼を言うと、ボロをまとった牢番は面倒そうにうなずき、片足を引きずるようにして鉄格子から離れる。そして、みずからも貪るように粥を食べ始めた。片方しかない目で蒋欽をじっと見据えながら。


 通常、牢番を勤める者の多くは社会的身分が低い者たちであった。それは奴隷であったり、罪を犯して罰された者であったり、病気や戦で身体に障害を負った者であったりしたが、蒋欽を見張る牢番がどれにあたるのかは判然としない。口数が少なく、蒋欽が何かを訊ねても返事がかえってくることはほとんどないのである。牢番という職務を考えれば、それは当然のことなのだろうが。


 それでも、この牢番が頑迷なほど職務に忠実であることはよくわかる。
 なにしろ、宛の放棄が実行された今なお「新しい命令が来ていない」という理由で、毎日のように蒋欽に食事を持ってきてくれるのだから。
 この行動が蒋欽に対するある種の下心でないことは明白だった。牢番はこれまでどおり食事を差し入れはするものの、蒋欽の首の枷を外したり、牢から出そうとはしなかったからである。
 あくまで当初の命令どおりに動く牢番の姿を形容するには「頑迷」よりも「盲目的」という表現の方が相応しいかもしれない。


 あくまで命令に従う。そして命令以外のことは決してしない。
 こうしておけば、仮に李儒が復権したとしても罰されることはない。蒋欽の味方が救出にあらわれたとしても、命令に従っただけの牢番を害することはないだろう。まったく別の第三者があらわれたところで、あえて無害無価値な牢番を傷つける必要はない。
 誰に賞されることもないが、誰に敵視されることもない。それがこの牢番の処世術なのだろうと思われた。




 宛が放棄された当初、当然のように城も略奪の対象になった。むしろ真っ先に荒らされたのが宛城である。
 その対象はなにも金目の物だけではなく、何らかの理由で城に残っていた官吏の多くは、怒り狂う暴徒の手によって文字通り八つ裂きにされた。女官の場合、男性よりもわずかに長生きできたが、死んだ方がマシという状況を味わわされた挙句、やはり死なねばならなかった。


 このとき、蒋欽が彼らの目に触れていれば無事では済まなかっただろう。
 蒋欽が無事だったのは、皮肉なことに地下牢に閉じ込められていたためである。せっかく略奪に来たというのに、好き好んで薄汚い地下牢をのぞく者なぞいるはずがない。
 しかし、人が来ないということは、牢を出る機会がないということでもあった。
 結果、蒋欽は住む者がいなくなった城の地下牢で、枷に繋がれたまま、陰気な牢番に見張られて過ごすことを余儀なくされる。


 ただ、この無口無感動な牢番も、蒋欽のような年端もいかない少女が長く牢に閉じ込められていることに対して思うところはあるようで、稀にではあるが外の様子を話してくれることがあった。
 それによれば、今、宛の治安は最悪といえる状況であるらしい。
 李儒によって強制的に移住させられた住民の多くはなんらかの財産を持った者たちであり、それ以外の人間は半ば放置された。そういった者たちの中で、頼るあてがある者は他州に流れたが、そうではない者たちは宛に留まり、焼け落ちた家々を漁って、少しでも金目の物を得ようと目を血走らせているという。
 火事で焼け落ちた家から溶けた銀でも見つかった日には、それをめぐって当たり前のように人が死んだ。少ない食料をめぐる流血沙汰は、もはや日常茶飯事の様相を呈しているらしい。
 そんな中、少ないながらも自分と蒋欽の食料を確保してくる牢番の存在は、蒋欽にとって枷であると同時に命を繋ぐか細い糸でもあった。



 
 牢番が持ってきてくれた粥は、わずかな穀物とわずかな野菜、そして何のものとも知れないかたい獣肉が一片入っているだけで、粥というよりは煮汁というべきかもしれない。 だが、現在の情勢を考えれば食べる物があるだけ幸運といえる。寝台に腰掛けた蒋欽は、かみ締めるように粥を味わいながら、これから先のことを考える。
 蒋欽がこの牢を出るには牢番の協力が不可欠だが、牢番にそのつもりはない。お礼は必ずするからと解放を求めても、牢番はまったく聞く耳をもってくれなかった。


 となると、考えられるのは力ずくで何とかすることだが、この牢番は食料を差し入れる際、常に蒋欽の位置を確認している。つまり、蒋欽が反抗に出ることを警戒しているのだ。であれば、万一のことを考慮して鍵は別の場所にしまってあるに違いない。
 そう考えた蒋欽は、それとなく牢番の動きに目を光らせつつ、無抵抗の日々を過ごしてきた。
 ある意味で漫然とした日々であったが、蒋欽の中には一つの予測がある。
 宛は南陽郡の中心であり、南陽郡は一州に匹敵する人口を抱える天下の要地。この地を失って袁術が黙っているはずがない。遠からず奪還の軍を催すはずであり、仲軍が城を取り戻せば幽閉の日々も終わりを告げるだろう、という予測である。


(問題があるとすれば……)
 蒋欽は内心で呟く。
 それは袁術以外の群雄にとっても南陽が垂涎の地である、という事実だった。許昌の曹操や襄陽の劉表が兵を動かす可能性は非常に高い。李儒があえて南陽郡を捨てたのも、この地を諸侯の争奪の的とすることで、洛陽にいる自身の安全を保とうと考えたからだろう。
 曹操なり劉表なりが宛を奪ったとき、仲の配下である自分がどう処されるかは容易に想像できる。そうなればなったで潔く斬られるつもりではあるが、郷里の母に何の恩返しもできないことが心残り――




 と、蒋欽がそんなことを考えた時だった。
「……誰か大物でも閉じ込められていないものか、とわざわざ足を運んでみれば」
 甲高い、それでいて奇妙に冷めた声が地下牢に響く。
 声がした方に目を向けた蒋欽は、姿を現した少年を見て、思わず唖然としてしまった。
 おそらくは絹地と思われる服にはふんだんに金の刺繍がほどこされ、腰に差している剣は鞘も柄も金細工で覆われている。頭にかぶった額冠も、両耳につけた細工物も、とにかく身につけているものすべてが金、金、金一色。この少年、日の光の下で見たならば、さぞ光り輝いて見えたことだろう。


 そんな蒋欽の内心を知る由もなく――というより、蒋欽が何を考えているのかなどまったく一顧だにせず、金色の少年は一方的な感情を叩きつけてきた。
「いるのは痩せた小娘ひとりだけ。とんだ無駄足だ」
 少年は不快そうに蒋欽を睨みつける。ほとんど言いがかりに等しい物言いであったが、少年の仄暗い眼差しからは蒋欽に向けた本気の憎悪が伝わってきた。
 少年の容貌は秀麗といってよかったが、なまじ非の打ち所がないだけに、憎悪に歪んだ顔は他者のそれよりも一層醜悪に見えた。



 少年の眼光をまともに浴びた蒋欽の背を氷塊がすべり落ちていく。
 相手の表情に気圧された、というのもある。だが、それ以上に蒋欽を怯えさせたものがあった。
 自分の意思で地下に足を運んだはずなのに、求めていたものがないからとて、そこにいた他者に本気の憎しみを抱けるその心。その歪な為人が蒋欽は恐ろしかったのである。
 しかも、常ならば知らず、今の蒋欽は枷につながれ、獄に投じられている身である。牢番には蒋欽を守る責務はない。つまり、今このとき、蒋欽の生殺与奪の権を握っているのは眼前の少年なのだ。その認識が蒋欽の全身を急激に冷やしていった。



 と、ここでようやく、蒋欽は少年がひとりではないことに気がついた。
 少年の背後には白い仮面で顔を覆った人物が三人従っている。それを見た蒋欽の口から、思わずという感じで驚きの声がこぼれでた。
「告死兵……?」
 すると、それを耳ざとく聞き取った少年が目を細める。
「それを知っているということは、ただの罪人ではないな。仲の臣か。さもなくば仲に敵対していたヤツか。試みに問う。名はなんという、小娘?」


 一瞬、蒋欽は答えるべきかどうか悩んだ。
 告死兵を連れているとはいえ、目の前の相手が味方だとは到底思えなかったからだ。
 だが、ここで黙っていても相手の機嫌を損じるだけで意味はないと判断し、素直に自分の名前を告げた。
「私は蒋欽、字は公亦。仲国の臣下として、ここ南陽郡で働いていました」
「蒋公亦……知らないな。もとより李儒の配下に知った名前などひとりもいないが」


 そういって、少年は蒋欽から興味を失ったように何事か考えはじめる。
 蒋欽はそんな相手を注意深く観察した。
(呂布将軍が淮南戦の不始末で任を解かれ、長を失った告死兵は陛下の直属になっていたはずです。新しい指揮官が就任したとは聞いていない。ということは、この人は陛下から勅命を受けて告死兵を預かっている、ということなのでしょうか?)
 さきほどこの少年は「誰か大物でも閉じ込められていないものかと思って足を運んだ」といった。その言葉は、李儒の虜囚となった者たちを救出しにきた、という意味に受け取れる。それが袁術からの勅命であるのなら告死兵を連れていることもうなずけた。


 しかし、蒋欽の言葉を聞いても眉ひとつ動かさなかったところを見るに、この可能性は低いといわざるをえない。
 いったい少年は何をしに宛にやってきたのか。
 蒋欽がその疑問をおぼえたのとほぼ同時に、少年の口が再び開かれた。
「――まあいい。小娘でなければ試せないこともある。銅銭一枚でも、無手で帰るよりはマシだ」


 少年がそういうや、背後に控えていた告死兵の一人が動いた。
 といっても、別に牢番から鍵を奪ったわけでもなければ、剣で錠を叩き斬ったわけでもない。
 その告死兵は無言で牢の前に歩み寄った。
 蒋欽を閉じ込めている鉄格子のつくりは非常に単純で、鉄の棒が縦に等間隔で据えつけられているだけである。他には出入り用の小さな扉があるほか、食事などを牢の中に入れるための四角い隙間が設けられているが、この隙間は蒋欽の頭も通らないくらい小さいため、ここを利用して外に出ることはできない。当然、外から中に入る手段にもならない。


 告死兵はその隙間にも、扉にさえまったく関心を見せなかった。
 縦に並んだ鉄棒を右手で一本、左手で一本、それぞれ握り締め、一気に両腕に力を込めたのである。
 目に見えて膨れ上がる告死兵の腕の筋肉を見て、蒋欽はまさかと思った。
 だが、次の瞬間、そのまさかは現実のものとなる。
 鉄が軋む異音が地下牢に響き渡り、鉄格子は告死兵の膂力によってあっさりと――ありえないくらいにあっさりと捻じ曲げられたのだ。
 蒋欽はもとより、それまで蒋欽と少年のやり取りに我関せずを貫いていた牢番さえ驚きを隠せず、片方しかない目を見開いていた。


 二本の鉄棒が捻じ曲げられたことで、鉄格子には小柄な蒋欽であればなんとか通り抜けることができる隙間がうまれる。
 だが、怪異はそれだけでは終わらなかった。
 鉄格子を捻じ曲げた兵は、ついでとばかりにさらに力をこめる。
 その膂力に最初に耐えられなくなったのは、鉄格子それ自体ではなく、床と天井で鉄格子を支えていた留め金だった。
 上下の留め金がほぼ同時に悲鳴のような音をたててはじけとび、支えを失った二本の鉄格子は、告死兵によって苦もなく取り外されてしまう。
 あとに出来たのは、蒋欽どころか大のおとなでも楽に通れるであろう大きな隙間であった。
 



 蒋欽の目が張り裂けんばかりに見開かれる。
「そ……んな」
 自分の目で見たことが信じられなかった。
 確かに告死兵は仲軍でも随一とうたわれる精鋭だが、今、目の前で繰り広げられた光景は精鋭だの力自慢だので説明できる範囲を大きく逸脱していた。
 やったのが筋骨隆々の大男であれば、まだ納得できないこともない。しかし、その告死兵はよくいって中肉中背というところで、とてものこと、ここまでの怪力の持ち主には見えなかった。


 世の中には、彼の飛将軍 呂布のように、少女の姿で常軌を逸した力を持つ者も存在する。眼前の告死兵がそうした一人である可能性は否定できないが、それにしても……
「その程度で何を驚いている。いっておくが、こちらの二人の力はそいつを越えるぞ」
 少年はそう言って、後ろにひかえている二人の告死兵を指し示す。
 その二人も決して大柄な体躯ではない。もはや一言も発することができず、口をぱくぱくと開閉させる蒋欽を見て、少年は心地よさそうに笑った。どうやら驚愕する蒋欽の顔を見て、優越感を心地よく刺激されたらしい。



◆◆



「このオレ、楊喬才の秘術をもってすれば雑作もないことだ。といっても、愚鈍な者は往々にして我が目で見ないかぎりは信じられぬという。キサマも同様だろう?」
 だから、実際に見せてやろう。
 少年――楊松はそう言うと、それまで目もくれていなかった牢番に歩み寄った。
 不穏な気配を感じたのだろう、牢番は怯えたように後ずさるが、その身体はたちまち告死兵に取り押さえられてしまう。


 楊松は、無理やりひざまずかされた牢番の顔を薄笑いと共にのぞきこむ。
「片目がふさがり、今みたかぎりは片足も損なっているな。喜べ、今日はオマエにとっての黄道吉日だ。このオレがその足を治し、その目に光を取り戻す機会をくれてやろう」
 そういうと、楊松は懐から一本の鍼を取り出した。当然というべきか、その鍼も金色である。
 それを見て牢番がくぐもった悲鳴をあげる。蒋欽も制止の声をあげた。これから何が起こるかはわからなかったが、ロクでもないことであることは間違いない。二人ともそう思ったのだ。


 だが、これも当然というべきか、楊松は二人の制止など聞く耳もたなかった。
「心配無用。キサマは木偶のように黙って膝をついていろ。小娘、よく見ておけよ。古臭い五斗米道より離れ、やがては真に人体の秘を解き明かすに至る我が秘術をな!」
 言うや、楊松は何かに祈りを捧げるように高々と鍼をかざす。
「偉大なる神農大帝よ、その御力を我が鍼に宿したまえ……」
 静かな声が地下牢の中に響きわたる。蒋欽の耳には静かなだけではなく、ある種の真摯な響きさえ伴っているように聞こえた。
 不思議なことに、蒋欽の視界の中で楊松が持つ金色の鍼が輝きを放ち始める。驚いて目を瞬かせたが、その輝きは衰えるどころか、ますます強くなっていく。


 そして。
「万病覆滅ッ!」
 そんな大喝と共に楊松は無雑作に、そして無慈悲に、鍼を牢番の膝へと突き立てた。
 それを見た蒋欽は我に返り、非難の声をあげる。
「なッ、なにをしているんですか、あなたはッ!?」
 鍼治療というものを知らない蒋欽にしてみれば、楊松の行為はただ牢番を傷つけるものにしか見えなかったのである。


 楊松は鍼を引き抜いてから、不快そうにじろりと蒋欽を見据えた。
「黙れ。わめく前に目の前の光景を良く見るがいい。もういいぞ、離せ」
 後半の台詞は牢番を押さえ込んでいた兵たちに向けられたものだった。
 兵たちが命令に従うと、牢番はしりもちをついた。その格好のまま、壁まで後ずさっていく。両足で――不自由だったはずの足をも動かして。
 背中が壁にぶつかった後、ようやくそのことに気づいた牢番は愕然として自らの足に視線を向けた。
 そして、慌てたように膝を曲げ、伸ばし、あるいは足の指を動かすなど、これまでは思うに任せなかった動作を試みてみる。
 そのすべてが成功した。


 何が行われたかを悟って凍りつく蒋欽に向け、楊松は得々と語りはじめた。
「これでわかっただろう。我が秘術をもってすれば、動かない足を動かすなど簡単なこと。間違うことなどありえない。さあ、次は目だ」
 そう言うと、楊松は先ほどと同じように囁き、先ほどと同じように鍼を突き立てた。


 先ほどと違ったのは、鍼を突き立てる場所が膝ではなくこめかみであったこと。
 そしてもうひとつ。鍼を刺された牢番の反応だった。


 牢番の口から濁った絶叫が発される。
 その身体は二度、三度と跳ねるように激しく震え、塞がれた目からは血涙のようなものが滲み出した。無事であるはずの目さえ紅色に染まっていく。
 牢番は髪をかきむしりながら床に身を投げ出した。絶叫が止んだのは、単に息が続かなくなったためだろう。その身体は床に倒れてなお細かい痙攣を繰り返している。どう見ても激痛をこらえているとしか思えなかった。



 蒋欽は息をのみ、楊松は小さく首を傾げた。
「ふむ……目が見えない者に対して視力を奪うツボを突くとこうなるのか。効果が反転すれば面白いと思ったが、なかなかどうしてそんな単純にはいかないか」
 その言葉を聞いた蒋欽がキッと楊松を睨む。
「……待ちなさい。今のはどういう意味ですか?」
「聞いてのとおり、盲目の者に奪明のツボを突いただけだ。まあ、結果はわかりきっていたが、万に一つ、予期せぬ効能があらわれるかもしれない。だから、念のために試してみたのだ」
 ツボ、という言葉の意味は蒋欽にはよくわからなかった。だが、それでも楊松が牢番の身体をつかってよからぬことを試したことだけは疑いない。蒋欽はそう確信し、激昂した。
「試す!? 人の身体をつかって何を試したというのですか、非道なことをッ!」
「非道? ふん、今の世で薬として知られるものと毒として知られるもの、先人たちはその違いをどうやって見分けた? 決まっている、実際に試してみたのだ。わが身で試した者もいれば、他者で試した者もいようが、いずれにせよ試行と錯誤の繰り返しによって詳細を探っていった。オレはそれと同じことをしただけだ」



 楊松は唇を曲げ、さらに続ける。
「言っておくが、先に施した膝の治癒とて多くの者たちの犠牲を経て完成に至った術なのだ。本来ならば万金を支払ってはじめて受けられる治癒術を、ただ一度の試行と引き換えに受けることができた。これは感謝されてしかるべきことではないか?」
 その詭弁を、蒋欽は正面から切って捨てた。
「そういう台詞は、あらかじめ危険があることを説明した上で、当人の諒解を得て行ってから言いなさい。何一つ説明せず、当人が望みもしないことを強制し、挙句に失敗してから感謝されてしかるべしとうそぶく。非道と言わずして、他に何と言えというのですかッ」
「ふん、笑わせるな! どうしてオレが賎民ごときにいちいち行動の許可を求めなければならないんだッ」


 苛立たしげに吐き捨てた後、楊松は今はじめて蒋欽の存在に気がついた、とでもいうようにじっと蒋欽の顔を見据えた。
「蒋公亦といったか。ただの小娘と思ったが、キサマずいぶんと口がまわるな……?」
 舐めるような、ねっとりとした視線が蒋欽の顔から首へ、首から胸元へとゆっくりと下っていく。たちまち蒋欽の全身に鳥肌が立った。
 楊松はぞっとするほど酷薄な表情を浮かべながら、なおも蒋欽を観察し続ける。
「小生意気な娘に言うことを聞かせる術。反抗的な女を意のままに従わせる術……世の中にはそういった下らぬことに大金を払う者が多くてな。五斗米道では暴れる患者をおとなしくさせる場合にのみ使用を許される禁術だが、今のオレにその縛りはない。キサマの身体で試してみるのも一興ではある。痩せこけた小娘にこそ興趣を覚える者もいないわけでは――――ん?」


 と、不意に楊松は口を閉ざした。
 鎖に繋がれた蒋欽の恐怖をあおるように、ことさらゆっくりと紡がれていた言葉が途切れる。かわりに聞こえてきたのは、楊松のものでも、蒋欽のものでもない声。その声は地上と地下を結ぶ階段から聞こえてきた。




◆◆




 それは、こんな声だった。
「おい鈴々、本当にこの下から悲鳴が聞こえてきたのか?」
「だからそういっているのだ! ぐぎゃーって、すっごい痛そうな声だったのだ! 星は鈴々の耳を疑うのか!?」
「疑ってはおらん。疑ってはおらんから不思議なのだ。鈴々も見ただろう。今の宛は街も城も荒れ放題だ。牢番などとうの昔に逃げ去り、罪人がいたとしてもとっくに逃げるか飢えるかしているだろうに、その地下牢から悲鳴が聞こえてくるとはなんとも摩訶不思議なことではないか。ふむ、あるいは罪科なくして牢で殺された者の怨念が生者を呼び込んでいるのだろうか? これは是非とも確かめずばなるまい。ぬかるな、鈴々ッ」
「確かめて、愛紗が戻って来たら話して驚かせようって魂胆が丸見えなのだ。愛紗はお化けが大きらいだからなー。星はひどいやつなのだ」
「なんという邪推。鈴々よ、この趙子竜、真名を許した友の怯え惑う顔を見たいからとて怪談を集めてまわるような悪趣味なことは断じてせんぞ。ましてや、我が目で怪奇現象を目撃し、それをもとにこの手で粋を凝らした怪談をつくりあげてみせようなどという不逞な野心を抱いたことは生まれてこの方一度もない。誤解してくれるな」
「うん、鈴々、ぜったい誤解してないのだ」
「そうか。わかってくれたようで何よりだ――と、そろそろだな。さて、鬼が出るか蛇が出るか」



 明るく澄んだ、おそらくは女性のものと思われる二つの声音。暗く淀んだ地下牢にこれほど似つかわしくない声もめずらしい、と蒋欽は思う。
 内容については本気なのか、ふざけているのかわからなかったが、それでも蒋欽はその明るい声音から、声の主たちの人柄を察せたように思えた。
 だからこそ、歯噛みした。楊松がこの場にやってきた者たちを見逃すとは思えない。告死兵の膂力は今しがた目の当たりにしたばかり。とても常人のかなう相手ではなく、抵抗すれば命が危ういだろう。だからといって大人しく従ったところで、牢番のように邪術の実験台にされるだけだ。


 そう考えた蒋欽は大声で「逃げて」と叫ぼうとした。
 だが、直後に姿を見せた二人の姿を見て、知らずその声を飲み込んでしまう。
 柳眉柳腰の佳人と、幼い顔に何故か呆れたような表情を浮かべた女の子。
 とてものこと告死兵にかないそうもないこの二人連れから、蒋欽は言い様もない迫力を感じ取ったのである。



 それが錯覚でも幻想でもないことは次の瞬間に明らかとなった。
 すなわち、蒋欽が二人を確認したように、蒋欽たちの姿を確認した二人が表情を一変させたのだ。
「――ほう、これはこれは。状況はさっぱりわからぬが、その悪趣味な仮面には見覚えがある」
 佳人の顔に好戦的な表情が浮かび上がり、そして――


 佳人の連れと思われる女の子は、おそらく年齢だけ見れば蒋欽よりもさらに下であろう。
 だが、その女の子が告死兵に向かって一歩を踏み出した瞬間、蒋欽の口からは畏怖にも似た声がこぼれおちた。
 野生の虎にも似た、圧倒的なまでの威圧感。
 蒋欽よりも小さな身体からあふれ出た戦意は、蒋欽のそれとは比べるべくもないほどに巨大であった。自身に向けられたものでないにも関わらず、身体の震えが止まらない。


 女の子の口から吼えるような声が迸った。 
「星、星! こいつら、お兄ちゃんたちをいじめた奴らッ! やっつけるのだッ!!」
「うむ。音に聞こえた仲の精鋭が、捨てられた都市の地下牢で何をしていたのか、これはじっくりと聞かせてもらう必要がありそうだ」
「じゃあ鈴々があの白いのやっつけるのだ! 星はそこの金ピカ!」
 佳人は金ピカ――楊松をちらりと見やると、少しだけ声を低くした。
「……案外、適材適所かもしれんな。わかった、こちらは任せよ。だが鈴々、目的は話を聞き出すことだ。あまりやりすぎるなよ?」
「うがー!」
「聞いておらんか。ま、仕方あるまい」


 
 佳人はそう言うと、あらためて楊松に向き直った。
「さて、そこな少年。我が名は趙雲、字は子竜という。荊州は新野を治める劉玄徳に仕える者だ。そちらの名を聞かせていただけるかな? 名乗る気がないのであれば、以後金ピカどのとお呼びするが」
 それを聞いて楊松は小さく舌打ちした。
「誰が金ピカか。オレは楊喬才。しかし、覚えてもらう必要もなければ、キサマの名前を覚えるつもりもない。ここで死ぬ者の名前など覚えたところで詮無いことだ」
「ふふ、虚勢にしても良くいった。幼いながらに恐れ入った心意気よ」
 趙雲が感心したように言うと、馬鹿にされたと思ったのだろう、楊松が唇を曲げて言い返した。


「劉備など配下を捨石にして荊州まで逃げ延びた臆病者に過ぎない。その臆病者に付き従う無能を相手に、オレが虚勢を張る必要がどこにある? 身の程を知れ、女」
 趙雲は、たとえば関羽のように飛将軍と一騎打ちを繰り広げた等の派手な活躍とは縁がない。先の徐州撤退線でも仲軍と矛を交えることはついになかったため、楊松は、そして蒋欽もだが、趙雲の名前を知らなかった。
 つけくわえれば、趙雲と張飛が告死兵の存在を知っていたのは、他者から話を聞いていたことと、関羽と共に高家堰砦に赴いた際、戦死した告死兵の姿を我が目で目撃していたからである。




 楊松の反応を受け、趙雲はかすかに苦笑した。
「ふむ。我が主への妄言は論外として、この身を無能という指摘は正直耳が痛いな。たしかに徐州でも荊州でもロクな働きができておらん」
 趙雲はそう言うと、わずかに腰を落とした。
 その手に愛槍 龍牙は握られていない。蒋欽らは知る由もないことだが、趙雲と張飛は軍師たちに頼まれて密かに宛に潜入し、内部の情勢を探っている身であった。ゆえに二人とも、人目をひく愛用の槍は持ってきていないのである。


 むろん、服の中に小刀の一本二本は忍ばせているが、それはあくまでいざという時に備えるためのもの。趙雲の勘は、眼前の少年から何か常ならぬものを感じ取っていたが、武芸の腕前自体はそう大したものではない、と見てとった。刃物を出すまでもなく取り押さえることができるだろう。
「というわけで、汚名を返上するべく励むとしよう」
 趙雲がそう口にするのと、楊松が告死兵のひとりにアゴをしゃくるのはほぼ同時だった。
「おい。片付け――なッ!?」
 言葉半ばに楊松は慌ててその場を飛びすさる。
 その眼前を白い物体が音をたてて通り過ぎていった。直後、重いものが叩きつけられる鈍い音と共に壁面が大きく揺らぐ。


「弱っちいのだ!」
 それは掌底ひとつで張飛に壁まで吹き飛ばされた告死兵の身体だった。
 あまりの瞬殺っぷりに蒋欽の目が点になり、楊松の視線が倒れた告死兵と張飛との間をせわしなく往復する。
 その楊松のすぐ傍で、趙雲の声がした。
「そら、よそ見をしていて大丈夫か、喬才とやら」
「ちィッ!?」
 楊松が目を離した一瞬の隙に、趙雲は素早く楊松との距離を詰めていた。


「何をしている、早くこいつを片付けろッ!?」
 楊松の命令、というより悲鳴に促されて、告死兵のひとりがふたりの間に割って入ってくる。
 だが、趙雲はその動きを予測していたようだった。飛び込んできた告死兵の腕を掴みとるや、素早く足を払って相手の体勢を崩し、腕をひねりざま思い切り床に叩きつける。
 そして、そのまま腕をねじり上げた趙雲は、瞬く間に告死兵を取り押さえてしまった。



 ほとんど一瞬で二人の告死兵が無力化されるのを見て、楊松はようやく眼前の二人がタダ者でないことを悟ったらしい。
 素早く後ずさったが、そこには壁があるだけだ。階段に逃げようにも、楊松と階段の間には趙雲と張飛の二人がいる。残った告死兵はただ一人。その告死兵も張飛と相対しており、楊松を助けることはできそうにない。
 趙雲が口を開いた。
「勝負あり、というところかな。念のためにいっておくが、そこの者たちを人質に、などと考えぬ方が身の為だぞ。そんなことをすれば、こちらも話を聞くなどといった悠長なことを言っていられなくなる」
 その涼やかな声が、この場の勝敗を決した。


 決したかに思われた。




◆◆◆




 司州河南尹 洛陽


「ところで士則、ふと思ったんだが」
 ゴットヴェイドォォォ、ではない、五斗米道の閻圃と出会った翌日のことである。
(いかん、ちょっとうつってる)
 そんな戦慄を覚えつつ俺が声をかけると、鄧範は怪訝そうに応じた。
「なんだ、驍将どの?」
「五斗米道の人たちが医術に優れているっていうなら、士則の怪我も診てもらえばいいんじゃないか?」
「……道中、あの者たちからもその申し出は受けたのだがな、オレが断った」
「どうしてまた?」
 首を傾げると、鄧範は小鼻をふくらませながら次のように断言した。


「あの者たちには悪いが、オレは医者などというモノは詐欺師でなければタカリの類だと思っている。そんな輩に自分の身体をあずける気にはなれん」


 あまりといえばあまりな答えを得て、俺はどう返したものか本気で悩まなければならなかった。鄧範の顔を見るかぎり冗談半分という感じではなく、限りなく真剣に言っているっぽいから尚更である。
 もう少し聞いてみると、これまで鄧範が見てきた医者というのは、貧乏人から高い金をむしりとり、効くかどうかもわからない呪い札を家々に貼り付けるか、さもなくばもったいぶった祈祷を繰り返し、それで病が治れば我が手柄、治らなければ病人のせい、と開き直る者ばかりだったそうな。
 そして、病が治らないのは病人のこれまでの悪行のせいであり、これを祓うためにはもっとお札(祈祷)が必要です、といってさらに金銭をせびりとっていくらしい。
 なるほど、そりゃ詐欺師だ。




 後でそれとなく閻圃に聞いてみると、ものすごいげんなりした顔で色々と教えてくれた。
 なんでもこの時代、医者の社会的身分は非常に低く、それこそ詐欺師とさしてかわらない扱いを受けているそうだ。
 その原因は何かといえば、他でもない、医者の質の低さに求められた。


 なにしろ体系的な「医学」というものが未発達なので、一口に医者といっても様々な者たちがいる。
 公的な資格や免許があるわけではないので、極端な話をすると「俺は医者だ」といえばその人はもう医者なのである。しかも、そういった者たちの大半が怪しげな祈祷師とか方士といったヤブ医者ときては医者の質を保てるはずがない。
 なるほど、と俺は内心でうなずいた。
 鄧範が格別ひどい医者ばかり見てきたわけではない。たんに世間にいる医者の大半がひどいのである。これでは鄧範が医者という職業を毛嫌いするのも仕方ないことかもしれない。




 閻圃は深々と溜息を吐いた。
「もちろん、我が教団に限らず、真面目に、真摯に医術に取り組んでいる方々はたくさんいらっしゃいます。そういった方々の努力と献身が、最後の線で医者の信用を保っているのです。しかし、大半の医者はいま申し上げたような者たちばかり。これではなかなかに評判の回復は望めません」
「それは厄介な問題ですね……」


 俺が高家堰戦で負った怪我は宮中の医者が治療してくれたわけだが、これは俺が考えていた以上に運が良いことだったのだ、と今さらながらに思い至る。
 それにこの医者の問題、今回の蝗害とも無縁とは言い切れない。
 これから混乱が拡大していけば、騒ぎの中で負傷する人も増えていくだろう。他にも疫病の発生等、医者が必要になる事態はいくらでも考えられる。そこを妙な者たちにかき混ぜられると、要らぬ混乱が引き起こされる可能性があった。
 そのあたりの対処は曹操や張莫、あるいはその下の丞相府の人間がやるだろうが、俺としても良医とヤブ医者を見分ける手段は持っておきたい。



 俺がそういうと、閻圃は快く応じてくれた。
「それでは我が教団に伝わる医術の歴史をお教えいたしましょう。先にも申し上げましたように、それがし、氣を操る腕はさっぱりですが、こちらの方面はそれなりに修めております。これをご記憶しておいていただければ、今後、医者の良否を見分ける一助となるはずです」
 たとえば、と閻圃は言う。
「『自分はあの名医 華佗の弟子だ』などと称する者が閣下の前にあらわれた場合、これをお訊ねになってみてください。答えられなければ、その者は間違いなく偽物です」
「おお、それは是非ともお聞かせ願いたい!」
 俺は勢いこんでうなずいた。華佗の名を利用しようとする者は確かに多そうだ。まあ五斗米道の場合、教団名を叫ぶか否かで簡単に騙りを判別できそうな気がしないでもないが、それは言わずにおきましょう。




 謹んで閻圃の教えを聞くことにした俺は、徐晃や鄧範、司馬懿といった面々にも声をかけた。
 草原で暮らしていた徐晃や貧しかった鄧範はともかく、司馬懿は医術に関する知識も持っているかなと思ったのだが、黒髪の少女はさして迷う様子もなく俺の誘いに応じた。


 かくて五斗米道祭酒 閻圃先生による医史の授業が始まる。
 ぱちぱちぱち、と拍手する俺たちを前に閻圃はコホンと咳払いして、どこから持ってきたのか、角が尖ったメガネをくいっと持ちあげてみせる。案外ノリが良い人らしい。ま、ノリが良くなければ、あの歌は歌えなかっただろうけれど。



「さて、まずは基本の基本です。我が教団に限らず、中華の民に医術をもたらしたのは神農大帝だと伝えられています」
 いきなり聞き覚えのない名前が出てきました。
「神農大帝?」
「炎帝神農、と申し上げた方がわかりやすいでしょうか。かつて中華を治めた三皇五帝のおひとりにして、医術以外に農耕の技術をもたらしたのもこの御方であるといわれています」
 首を傾げた俺に向かって、閻圃は丁寧にそう説明してくれた。
 炎帝神農ね、たしかに聞き覚えはある名前だ。何をした人か、とか言われるとかなり困るけど。それに三皇五帝って誰だっけ? 伏義(ふっき)、黄帝、尭、舜あたりしか知らないぞ。あたふた。


「当然ながら、氣を操る教団の医術も神農大帝より賜ったものです。我が教団は数千年の長きにわたり、この術を磨き上げてまいりました――」
 内心で冷や汗をかく俺をよそに閻圃の講義は進んでいく。
 人体の仕組みと、それに作用するツボの効能とか、あと神農大帝とはいかなる御方か、というあたりについて。ここは割愛するが、一つだけ例をあげると、神農さまは身体が透き通っていて、毒草を食べると、その毒が身体のどの部位に作用するのかがすぐわかったという。こうやって毒とそうでないものを見分け、人々にそれを教えていった。なんでも神農さまは日に七十回中毒になったそうである。誰か止めてさしあげろ。



 そういった諸々の話の最後は、五斗米道の医術とはどういったものなのか、という具体例で締めくくられた。
「もちろん鍼一本で万病が癒えるわけではありません。というより、基本的に治療で鍼を用いることは少ないのです。我が教団でも、けが人に対しては傷口に薬草を塗る、挫いた足に添え木をあてて固定する等、皆さまが当たり前にやっているであろう手当てと同じことをするだけです。これは病人に対しても同様となります。我々が鍼を用いるのは、特に症状が重い場合に限るのです」
 閻圃はそういってから例を挙げた。
「傷口からの出血が激しいとき、鍼を用いて一時的に筋肉を収縮させ、身体の血の管の流れをせきとめて出血をおさえる。あるいは身体の感覚を鈍らせて痛みを軽減する。さらに患者が傷の痛みに耐えられないような大怪我を負った場合、強制的に意識を失わせることもございます。もっとも、ここまで行くと教団の中でも出来る者は限られて参りますが」


 それを聞いて、俺は納得したようにうなずいた。
「なるほど。そんな効き目がある治療を安易に行えば、皆がそれに慣れてしまいますね。だから滅多なことでは使わないようにしている、ということですか」
「閣下の仰るとおりです。もう少し正直に申し上げますと、祭酒の中でも鍼による治癒術に通じている者は多くないのです。皆が皆、鍼の治療を求めて教団に押し寄せれば、祭酒たちはたちまち過労で倒れてしまうでしょう。その意味でも必要な措置である、と申し上げておきます」
 決して出し惜しみをしているわけではない、ということか。
 俺は閻圃の言葉にうなずいた。まあ正直、ほんとにそんなことできるのか、という疑念はあるのだが、閻圃がここで俺に偽りを言ったところで何の得もない以上、本当のことなのだろう。


 しかし、だとするとずいぶんとまあ便利な技もあったものである。血の流れを止めることができるのであれば、流れを加速させることもできるだろう。併用すれば人間の薄い血管などたちまち破れてしまいそうだ。ほとんど「ひでぶ」「あべし」の世界である。
 そんなことを考えた俺は、なんとはなしに訊いてみた。
「するとあれですか。一時的に身体の力を倍以上に高めたりもできるわけですか? 聞いた話では、人間は本来持っている身体の力を三割ほどしか発揮できずにいるそうですが、特定のツボを押すことでこの限界をとりはらってしまったりとか――」



 俺がそう言った瞬間、それまで穏やかだった閻圃の顔色が一瞬で変わった。
 そして、怖いほど真剣な眼差しで俺を見据えながら、低い声で訊ねてくる。
「…………閣下、そのようなこと、どこでお聞きになったのですか?」
「――さて、どこだったか。しかし、別段おかしなことは言っていないでしょう? 鼠とて追い詰められれば猫を噛むもの。追い詰められた者が普段は出せない力を出すことはままあることです」
「それは、そのとおりかと思います。しかし、人間が本来持っている力の半分も使いこなせていない、などという話はそうそう出回るものではありません。しかも閣下は三割という値まで口になさった。それをいったいどこで――」
 閻圃が血相をかえ、俺に詰め寄ろうと身を乗り出してくる。
 それを制したのは俺ではなく、それまで黙って閻圃と俺の会話に耳を傾けていた司馬懿だった。



「閻祭酒」
 短い、それでいて鋭い制止の声。
 司馬懿の声は、俺への非礼は許さない、と言外に告げていた。



 さらに、声音に負けず劣らず鋭い少女の眼光に射抜かれた閻圃は、慌ててもとの体勢に戻った。まるで冷水を浴びせられたように、その顔からは寸前までの狼狽が消えている。
「も、申し訳ございません。聞き捨てにできないことでしたので、少々逸ってしまったようです。閣下に対して無礼な物言いをしてしまったこと、謝罪いたします」
「教えを請うた身とはいえ北郷さまは一軍の長。物を問うにしても、守るべき礼節があるはずです。以後、お控えください」
「は、はいッ」


 司馬懿の静かな迫力にあてられた閻圃は、湧き出る額の汗を何度も拭っている。付け加えると、俺もだらだらと冷や汗をかいていた。
 いや、別に俺が怒られたわけではないのだが、いつも物静かな子が怒ったりすると、それだけで周りの人間にすごいプレッシャーがかかるのです。徐晃は顔をひきつらせており、もう一人の鄧範は表情こそ動いていなかったが、微妙に腰が引けているのがわかる。
 司馬懿にしてみれば別に怒ったわけではなく、強めに注意を促しただけなのかもしれないが、それでも十分怖い。この子は絶対怒らせたらあかん、と胸に銘記しておく。びびっていたせいか、なぜか関西弁だった。



 ともあれ、閻圃が詫びたことで司馬懿も納得しただろう、と俺は思った。
 だが、予想に反して司馬懿はさらに言葉を重ねた。
「閻祭酒。私からお訊ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「は、はい、ど、ど、どうぞなんなりとッ!?」
 かわいそうに、ビビリまくっておられる。俺はとりなしのために口を開きかけたが、すぐに思いとどまった。
 司馬懿は謝罪した人をさらに追い詰めるような無体なマネをする子ではない。本当に何か訊きたいことがあるのだろう、と思ったからである。


「ありがとうございます。それではお訊ねしますが――」
 そういうと、司馬懿はじっと閻圃の顔を見据えた。
「ただいまの北郷さまの問い、一時的に身体の力を増す施術があるのかという問いですが、閻祭酒のお言葉から判断するに、これは存在するのですね?」
「――は、たしかにございます。もっとも、祭酒の中でも上位の者しか扱えない秘術ですが……」
 一瞬のためらいの後、閻圃は司馬懿の問いにうなずいた。
 閻圃の様子から察するに、おそらくそれは安易に口外して良いことではないのだろう。常であれば閻圃はごまかしていたに違いない。
 しかし、寸前までの自分の態度をかえりみれば、ここで口先だけ否定しても意味がない。五斗米道の祭酒はそう判断したものと思われた。


「神農大帝は医農の神。医術と農業を事とする五斗米道の方がその御名を称えるのは当然のことと心得ます。そして、五斗米道が神農大帝を称える教団なのであれば、その末裔といわれる『蚩尤』の名をご存知ないということはないでしょう」
 司馬懿がその名を口にした瞬間、閻圃の顔色は再び蒼白になった。



◆◆



 蚩尤。読みは「しゆう」。
 もとはれっきとした天界の神様(の子孫)であったというが、黄帝に反乱を起こして敗れた後、時代を下るごとに悪神としてその姿を歪めていった。
 曰く、銅の頭に鉄の額を持ち、鉄と石を食べる。
 曰く、亀足蛇首である。
 曰く、八つの肘、八つの足、双頭を持つ。
 曰く、五つの兵器の発明者である。曰く、人身牛首である、曰く、牛種の長でもある。曰く、凄腕暗殺者の別名であるエトセトラエトセトラ……


 まあ最後の方は冗談であるが、ともかく中国における最初の『反乱者』、それが蚩尤であった。
 人外の能力を備え、非常に忍耐強く、恐れを知らぬほど勇敢であり、同じ姿をした八十一人の兄弟がいた、ともいわれている。
 外見の描写が化け物じみた――というか、化け物そのものであるのに比べると、このあたりは奇妙に人間くさい。


 その蚩尤が炎帝神農の末裔である、と司馬懿はいう。言われてみれば、そんな話を聞いた覚えがないことはない。俺が炎帝神農の名前に聞き覚えがあったのはこれのせいかもしれん。
 ともあれ、司馬懿がいい加減なことを言うはずはないし、司馬懿が知っているのであれば、炎帝神農を称える五斗米道の閻圃が知らないとは思えない。実際、閻圃の反応を見るかぎりは知っていたのだろう。


 問題は、どうして蚩尤の名前を聞いた途端、顔面が蒼白になるほど閻圃が動揺したのか、である。
 もっといえば、先の俺の発言に対して、閻圃があれほど動揺したのは何故なのか。荒唐無稽だと笑い飛ばせば、それで済んだはずなのに。


 そんなことを考える俺の耳に司馬懿の静かな声が滑り込んできた。
「蚩尤の外見に関しては諸説あります。いずれも信じがたい内容のものばかりですが、その反面、蚩尤の性格――性質、というべきなのかもしれませんが、それは私たち人間にくらべてかけ離れているとはいえません。苦境に対する忍耐強さ、恐れを知らぬ勇敢さ、そういったものは人の身でも得ることができるものです。今の閻祭酒のお話を聞いたかぎり、五斗米道の秘術をもってすれば、他者に強制的に植えつけることもかなうのではありませんか?」


 司馬懿の問いかけに閻圃は答えない。
 答えるつもりがないのか、それとも答えられないのか。


「たとえ剣もろくに振ることのできない弱兵であったとしても、常の二倍の力を引き出せばたちまち強兵に変じます。あらかじめ感覚を鈍らせる術を施しておけば、傷の痛みなど意にかけない忍耐強い兵となるでしょう。負傷を恐れる必要のない兵士が戦場で恐れ怯えるはずがありません。それは敵から見れば、恐るべき勇敢さだと映ることでしょう。八十一人の兵にそれらの処置を行い、同じ仮面をかぶらせ、同じ軍装をさせれば、それはもう伝説の蚩尤となんら異なることのない存在です。あなたがた五斗米道は、望めばそんな軍団を作り出すことができる。いつでも」


 淡々とした声音で、恐ろしいことを口にしていく司馬懿。
 その静かな威圧に抗しかねたのか、あるいは司馬懿の言葉の中に黙っていられない部分があったのか、ここで閻圃が叫んだ。
「い、いや、お待ちください! 我々はそのようなことは断じて――」
「はい、あなたがたはおこなってはいないでしょう」
「おこなって――あ、え?」
 閻圃の否定を、司馬懿はあっさりと受け容れる。
 祭酒さんの目が点になった。


「あの、我々を疑っているのではないのですか?」
 閻圃の問いに対して、司馬懿ははっきりとかぶりを振った。
「いま申し上げたことがたやすくできる方々であれば、漢中の地で苦戦するようなことはないでしょう。そもそも士則に救われるような事態にもならなかったはずです」
 それを聞いて、俺と鄧範は同時にぽんと手を打った。
「なるほど」
「道理ですね」
 確かにそんな戦力が用意できるのであれば、賊から逃げる必要はない。
 ついでに、俺はもうひとつ付け加えておいた。
「それに、身体の力を引き出すといったって、力だけ引き出しても肝心の身体が耐えられないのではありませんか?」



 それをきいた閻圃は、わが意を得たり、と言うように力強くうなずいた。
「は、はい、そのとおりです。力を増せば、その分、身体にかかる負担もはねあがります。よほど屈強な身体を持ち、衆に優れた武を修めている方でもないかぎり、骨や筋が耐え切れず、砕き折れてしまいます」
 それはぞっとしないな、と俺が身体を震わせると、閻圃は懸命な顔つきで言った。
「くわえて、これは我が教団の名誉のために断言いたしますが、我らがそれを為さぬのは、それに耐えられる者がいないからではありませぬ! たとえ信徒の中に施術に耐えられる者がおり、そしてその者がそれを望もうとも、鍼の力を争いのために用いることは五斗米道にとって絶対の禁忌。決して私利私欲のために蚩尤を生み出したりはいたしません。ましてや、他者にそれを強いて教団の戦力にするなど、決して、決してありえぬことでございます!」



 その声には悲痛なまでの真摯さが込められており、それを聞いた者は誰もがその言葉を信じたくなるだろうと思われた。少なくとも、進んで疑おうとは思うまい。
 司馬懿もまた閻圃を疑ったわけではないのだろう。ただ、別の角度から見た事実を口にしただけで。
「――それが教団の信念だということは理解します。けれど、その信念をよしとしなかった者もいる。これも事実なのではありませんか?」
 ここで、俺はようやく先日閻圃が口にした名前を思い出した。
 五斗米道の教えに背き、教団を出奔した楊松、字を喬才。そいつのことを語るとき、閻圃の口が奇妙に重かった理由はこれか。


 俺たちの視線が閻圃に集中する。
 疲れ果てた顔をした閻圃は、力なく口を開いた。
「……ここで否定しても意味はありませんね。仰るとおり、喬才は旅人や罪人を用いて、教団の禁忌である蚩尤を生み出そうとしました。その咎により、先代さまに裁かれたのです。喬才の目的は苦境にある教団、なかんずく師君の母君を救うことだったのですが……目的が正しいからとて、あらゆる手段が正当化されるわけではありませんからね……」
 それを聞いた俺たちは、知らず顔を見合わせていた。
 今の話に直接的な脅威があったわけではない。楊松とやらが蚩尤を完成させたと決まったわけではないのだ。仮面をかぶった兵団というと告死兵が思い出されるが、俺がかつて矛を交えた連中は、錬度こそ高かったが、そんな化け物じみた兵ではなかった。
 だから、心配することはない。少なくとも、心配しすぎる必要はない。そのはずなのに、俺の胸中からは嫌な予感が消えなかった。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(三)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/02/18 23:10
 荊州南陽郡 棘陽(きょくよう)


 棘陽は新野の北、宛の南に位置する城市であり、つい先日までは仲の領地であった。
 劉家軍がこの城を落としたのは、宛が焼き払われたという報せが新野に届いてからすぐ後のことである。
 もっとも、陥落させたといっても攻城戦の類は行われていない。棘陽は新野よりも宛に近く、当然のように宛の放棄と、それにともなう大混乱は早期に伝わっていた。これにより、住民はもとより仲軍の将兵までが動揺した結果、棘陽の守将はとうてい城を守りきれぬと判断し、夜陰にまぎれて遁走。城はあっけなく劉家軍の手に落ちたのである。


 その後、劉家軍はこの棘陽を拠点として情報を集め、李儒によって洛陽へ強制連行されようとしていた宛の住民を救出するための作戦を展開する。
 劉家軍五千に対し、南陽軍はおよそ一万五千。正面から戦えば苦戦を余儀なくされる兵力差であったが、洛陽へ向かう南陽軍を追尾する劉家軍には、いつ、どこで戦いを仕掛けるかを自分たちで決められる利点があった。くわえて、南陽軍内部では突然に過ぎる宛の放棄に対する疑念と不安が渦巻いており、これに住民たちの反抗と哀訴が重なって収拾がつかず、端的にいって隙だらけという有様だった。


 ここに徐州での汚名返上を誓う張飛、趙雲をはじめ、陳到、田豫、馬元義ら劉家軍の諸将が襲い掛かったのである。結果は明らかであったといえるだろう。
 劉家軍は思うように作戦行動がとれない南陽軍に対して勝利を重ねていく。ただ、数で上回る南陽軍はそう簡単に潰走することはなかった。南陽軍の将兵も、生き延びるためには洛陽まで行くしかない、と腹をくくって懸命の抵抗を繰り広げる、


 西涼軍の参戦という、両軍にとって予想だにしない事態が発生したのはこの時である。 突然、南陽の山中から西涼の騎馬部隊が姿を現したのである。報告を受けた劉備はもちろんのこと、諸葛亮、鳳統といった軍師たちもさすがに驚きを隠せず、もしやすべては南陽軍の罠であったのか、と肝を冷やした。
 だが、実のところ、驚いたのは西涼軍も同様であり、さらにいえばこの時の西涼軍は南陽軍よりもよほど追い詰められていた。虎牢関を奪われ、南方の山越えで戦場から脱した彼らは、脱出そのものには成功したものの、その途中で糧秣が底を尽き、将兵すべてが空腹を抱えてさ迷い歩いているような状態だったのである。


 そんな西涼軍が、劉家軍と南陽軍との戦場に姿を見せたのは、山中で出会ったひとりの老人から受けた助言によるものであった。
 いわく、南陽軍が宛の住民を連れて洛陽を目指している、と。
 この時点で、西涼軍を率いる馬超は李儒の自立の野心を知らなかった。また、一族の馬岱が人質同然に洛陽に留め置かれているとあって、南陽軍とは敵対しがたい立場にあったのだが――


「罪のない民たちを無理やり引きずって洛陽まで連れて行くゥ!? 何かんがえてるんだよ、あいつらは! 絶対許さんッ」


 馬超はそういって、即座に南陽軍を討つことを決めた。
 姜維から洛陽にいる馬岱に関して問われると、少しの間、難しい顔で考え込んだ後、ぽりぽりと頭をかきながらこう言った。
「蒲公英なら何とかするだろ。ていうか、蒲公英のために、とか言って今南陽軍に味方したら『なにおバカなことしちゃってんのお姉さま!?』とか喚かれるに決まってる」
 それは、ある意味で馬岱を見捨てる、ということであった。


 姜維と鳳徳は顔を見合わせる。が、二人の口からも反対意見は出なかった。
 馬超の台詞が馬岱に対する信頼にもとづいたものであることはわかったし、姜維と鳳徳にしても、泣き叫ぶ民衆を剣と鞭で脅して急きたてる輩に味方などしたくはなかった。心情的に我慢ならないのはもちろんのこと、そんなことをすれば西涼軍の評価も地に落ちてしまう。
 かつて南陽軍と同じことをした同郷の董卓は、一時の栄華と引き換えにすべてを失った。馬超たち西涼軍がその愚行に付き合う必要はない。洛陽政権に参じたとはいえ、そこまで要求される筋合いもなかった。


 むろん、だからといって馬岱を犠牲にしてよいというわけではない。
 ここは素早く南陽軍を打ち破り、しかる後に洛陽へ急行して馬岱を救出するしかない。南陽軍と洛陽の連絡を遮断してしまえば、馬岱に迫害の手が伸びる前に事を終わらせることも可能だろう。
 そのためにも馬超たちは劉家軍と協力する必要があった。繰り返すが、西涼軍の糧秣はとうの昔に底をついており、将兵(と軍馬)の疲労と空腹は限界に近づきつつあった。というか、とっくに限界に達していた。
 馬超たちにしても始終腹の虫が鳴っている状態である。この状態で南陽軍を打ち破ろうと思ったら、友軍の存在は欠かせない。


「向こうも向こうで数が少なくて大変そうだしな。利害の一致ってやつだ。ついでに戦いが終わったら、ちょっと糧秣を融通してもらおう。それとも南陽軍から奪っちまった方がいいかな?」
 この馬超の言葉に姜維はかぶりを振った。
「南陽軍の物資は宛のもの。これを奪えば住民の恨みを買うでしょうし、劉備軍との間に不穏な気配が生じないともかぎりません。翠さまの仰るとおり、力を貸して糧を借りる、という形でよろしいかと思います」
「おっし、じゃあ話は決まりだな。令明もいいか?」
 馬超の確認に鳳徳は黒髯をゆらしてうなずいた。



 かくて南陽軍の命運は決する。
 張飛、趙雲、馬超、姜維、鳳徳という鬼のような面子に挟撃された南陽軍は、それまでかろうじて保っていた指揮系統をズタズタに切り裂かれ、木っ端微塵に粉砕される。これは同時に洛陽にいる李儒の戦略が根底から崩れた瞬間でもあった。
 諸葛亮と鳳統は、西涼軍の姜維と連動して南陽軍の北への逃亡を阻止、洛陽側に情報が漏れないよう注力する。


 これにより、宛に戻ることもならず、洛陽に逃れることもできなくなった南陽軍は四散した。一部は降伏を求めたが、彼らは怒り狂った宛の住民たちの私刑に遭い、劉備たちは敵の追撃よりも先にそちらを取り静めなければならないほどであった。
 その後、勝利を祝う暇もなく、西涼軍は劉家軍から幾ばくの糧秣を譲り受けて洛陽へと去る。劉備たちもまた次の難問――解放した住民たちをどのように処遇するか――に取りかからなければならなかった。





 宛が焼き払われた今、住民をそのまま宛に連れ戻しても混乱が起きるだけである。復興には莫大な資金が必要になるが、新野の一城主である劉備にそんな余剰資金があるはずもない。南陽軍が宛で徴発した分は宛の住民のものであり、劉備が勝手に分配ないし活用するわけにはいかなかった。
 どうしたものか、と劉備は眉根を寄せて考え込む。
 とにかく、宛の住民をいつまでも野天で過ごさせるわけにはいかない。


 暗くて寒くて空腹だと人間はロクなことを考えない。いつか聞いた言葉が脳裏に浮かぶ。
 暗がりができないよう篝火は多めに焚くよう指示を出している。これは住民たちを安心させると同時に、暗がりでの犯罪を防ぐ意味もあった。
 まだ気温は十分に高く、野外で凍える心配はないが、満足に身体もふけない環境が人心を落ち着かせるはずはない。このまま野外での生活が続けば、女の人や子供たちはもちろんのこと、男性だって体調を崩してしまうだろう。
 食事に関しては、南陽軍から奪ったものがあるので、当面の間は宛の住民が飢えることはない。が、それとても最低限の量を確保したにとどまる。艱難辛苦に耐えてきた劉家軍の兵でさえ、食事では何かともめる事が多い。これまで宛という豊かな都市の城壁の中で暮らしてきた人たちが、野外の質素な食事にいつまで我慢できることか。今日明日はともかく、五日、十日と続いていけば不満は溜まる一方であろう。


 彼らを新野に受け容れられれば良いのだが、新野は宛とは比べるべくもない小さな城市、とうてい宛の住民すべてを受け容れる余地はない。
 複数の城市に分散して受け容れるにしても、今の劉備は新野の城主に過ぎず、他の城主たちに命令する権限を持っていなかった。
 劉表に願い出るにしても、劉表の傍近くには蔡瑁がいる。はたして劉備からの要請が届くかどうか。


(さすがに、使者が途中で遮られる、なんてことはないと思うんだけど)
 あれこれと考えながら、劉備はかつて反董卓連合が結成されたときのことを思い出していた。洛陽から焼け出された人たちに何もしてあげられなかった、あの記憶。
 新野をあずかり、五千の兵を束ねる今の劉備の力は、あの頃とは比べ物にならないくらい強くなった。それでも、その力は、何万、何十万という人々を受け容れられるほどに大きくはない。
 そのことを自覚するゆえに、劉備の眉間には深いしわが刻まれる。



 そのしわを拭い去ったのは、劉備に付き従う小柄な軍師のひとりであった。
「玄徳さま、ご心配には及びません。じきに襄陽の蔡瑁さんか、あるいは蔡瑁さんの意を受けた人から使者が来ると思います。宛の人たちのことは、その方々に任せてしまってよろしいかと思います」
 諸葛亮の言葉に、劉備は目を瞬かせた。
「蔡瑁さん? あれ、でも蔡瑁さんは、わたしたちをこき使うつもりだって孔明ちゃんたち言ってなかったっけ?」


 荊州の有力者である蔡瑁が劉備を敵視しているのは周知のこと。
 今回、劉備が兵を動かしたのも襄陽からの指示によるものだった。蔡瑁としては南陽郡を得るために劉家軍の存在を利用し、できれば使い潰してしまいたいところであろう。
 その蔡瑁が今、あえて劉備たちに救いの手を差し伸べるものだろうか、と劉備は不思議に思ったのである。


 その疑問に対して、諸葛亮は次にように答えた。
「はい。おそらく蔡瑁さんたちの作戦としては、まずわたしたちを南陽軍にぶつけ、相手の兵力を削ぐつもりだったと思われます。わたしたちが南陽軍に負けたところで蔡瑁さんたちは痛くもかゆくもありませんし、両軍が相打って疲れ果てたところに兵を出せば、労せずして勝利を得ることもできますから。ところが、玄徳さまは蔡瑁さんの力を借りずに南陽軍を撃破してしまった。今、宛の人たちは南陽軍を恨み、彼らを討った玄徳さまに感謝しています。このままでは宛の住民と財産がまるごと玄徳さまに取り込まれてしまいかねない――蔡瑁さんはそんな不安を覚えているはずです」


 使い潰すつもりで差し向けた劉備に力を蓄えられてはたまらない。おそらく蔡瑁は宛の住民の手当ては自分たちで引き受け、劉備にはこのまま宛を攻略するように命じるだろう。
 荊州の人士には南陽郡出身の者も多く、一族縁者も含めて宛と繋がりを持つ者もたくさんいる。宛の住民に対して蔡瑁が苛烈な措置をとる可能性は皆無といってよい。そんなことをすれば、荊州で築き上げた地盤にみずから鏨の一撃を加えるようなものである。
 ゆえに、宛の人々の行く末は蔡瑁たちに任せてしまって問題なし。諸葛亮は劉備にそう進言したのである。


 そして、この予測はほどなくして現実のものとなる。



◆◆



 こうして棘陽に戻った劉家軍はあらためて宛攻略に向けて動き出した。
 守備していた南陽軍はすでに四散し、城内の住民も大半は荊州軍に保護されている。だが、まだ宛には万をはるかに越える人々が残っていた。
 おそらく、その多くが無頼の徒であったり、貧しいがゆえに南陽軍にうち捨てられた者たちであろう。逃げ散った南陽軍の一部が戻ってきている恐れもある。何の準備もなく城に入れば、そういった者たちが何を企むかわかったものではない。
 張飛と趙雲の両名は、そういった事態を防ぐために宛に潜入して情報を集めていた。そして――


 張飛と趙雲の二人が宛から戻ってきたという報告を受けた劉備は、ほっと胸をなでおろしながら帰ってきたふたりを出迎える。
 統治する者がいなくなった宛の治安がよかろうはずはない。それでも張飛たちであれば大丈夫と信じたからこそ送り出したのだが、やはり心配なものは心配だったのである。
「鈴々ちゃん、星ちゃん、おかえりなさい――って、ふたりともどうしたの!?」


 劉備が素っ頓狂な声をあげたのは張飛たちの顔が黒々と汚れていたからであった。顔だけではない、袖や裾から伸びた手足も、そして服自体も同様の有様である。
 泥なのか、煤なのか、とにかく何かがあったことだけは間違いない。劉備はふたりの怪我を心配したが、幸いなことに返って来た声に苦痛は含まれていなかった。
「お姉ちゃん、ただいまなのだーッ」
「主、ただいま戻りました。見苦しい姿を晒して申し訳ござらんが、ご容赦いただきたい。ちと厄介な怪我人を拾いましてな。一刻を争う症状であると思われたので、急いで戻ってきたのです」
 そのために汚れを落とす暇がなかった、と趙雲は詫びる。


 むろん、劉備はそんなことを咎めるつもりはなかった。不安げに眉を寄せて問いかける。
「やっぱり、宛の中はひどい状況だった?」
「は、おおよそ我らが予測したとおりでありました。くわえて、その混乱に乗じてよからぬものたちが徘徊しておりまして」
「よからぬもの?」
 劉備が不思議そうに首を傾げると、張飛が憤然とした様子でそれに応じた。
「お兄ちゃんたちをいじめた、お面の奴らなのだ!」
「一刀さんたちをいじめたお面の人たちって……まさか!?」
 その条件に該当する者たちに想到した劉備の顔が厳しく引き締められる。


 趙雲はひとつうなずいた。
「さよう、偽帝に仕える告死兵とやらいう者たちです。城の地下牢で彼奴らと鉢合わせ、刃を交えることになったのですが――」
 趙雲はそこまでいって口を閉ざす。めずらしく言葉に迷っている様子だった。眉をしかめて口元に手をあて、そしてその手が汚れていることに気がついて舌打ちしそうな表情になる。


 それを見た劉備は、どうやら単純に告死兵と遭遇したという話ではなさそうだ、と判断し、ふたりに湯で汚れを落としてくるよう言った。
「怪我した人たちは孔明ちゃんたちが診てるんだよね? なら、手当てが終わってから一緒に話を聞いた方が、星ちゃんたちも二度手間にならなくて良いでしょ?」
「お気遣い感謝いたします、主。私も話す内容を整理しておくといたしましょう。なにぶん、実に奇怪な連中でしてな。これをいかにして一大怪奇譚に仕立て上げるか、この趙子竜をもってしても中々に難しいといわざるをえません」
 むむむ、と考え込む趙雲を見て劉備は思った。もしかしたら、それほど深刻な話じゃないのかも、と。


 それが趙雲なりの韜晦であったと劉備が気づいたのは、この少し後、宛の地下で起きた出来事を聞いた時である。





 湯で顔と身体を拭い、服も着替えてさっぱりとした趙雲は、治療から戻ってきたふたりの軍師に問いかける。
「それで、孔明、士元。あの者たちの様子はどうだ?」
 問われた諸葛亮は鳳統と顔を見合わせ、声に困惑を乗せて応じた。
「女の子の方は衰弱していますが、怪我はありませんでした。たぶん、十分な食事と休養を与えれば回復するでしょう。ただ、あの牢番の方は……」
 言葉を途切れさせた諸葛亮を見て、趙雲は短く訊ねた。
「危ういか?」
「脈や呼吸を見るかぎり、危険な状態であることは間違いありません。ただ、私も雛里ちゃんもお医者さんというわけではないので、正直なところ、どれだけ危険で、何をすれば回復するのかがつかめません」
 諸葛亮が言うと、鳳統もこくりとうなずいて続けた。
「それともうひとつ……何をすればあんな、身体を内側から壊したような怪我を負うのかもわかりません。あの怪我、単純に斬られたり、地面に叩きつけられたりして負った傷ではないですよね? いったい宛で何があったんですか?」


 問いかけられた趙雲は張飛と顔を見合わせ、これも表情に困惑をあらわして応じた。
「私と鈴々が地下牢に行ったのは、そちらから悲鳴が聞こえてきたからでな。おそらく、その傷を負った際に牢番が発した悲鳴だったのだろう。だから、具体的にあの者が何をされたのかは見ておらんのだ。そのあたりはあの少女に訊くしかあるまい」
「ええと、あの子は蒋欽、字は公亦っていうのだ」
 張飛の言葉を聞いた鳳統が少しだけ目を細めた。
「蒋公亦……たしか、南陽の李太守の下にいた人ですね」
「らしいな。牢から出したとき、あの少女もそう言っていた。その後、力尽きたように意識を失ってしまったが」


 それまで黙っていた劉備がここで口を開いた。
「その蒋欽って子は牢にいたんだよね。仲に仕えていた人が牢に閉じ込められていたってことは、その子は私たちの敵じゃないってことかな?」
 その疑問に、諸葛亮は首を傾げる。
「どうでしょうか。李太守が仲に対して離反を目論んでいたのはほぼ確実です。その李太守に牢に入れられたとなると、蒋欽という人はあくまで仲に忠誠を誓っていた方である、とも解釈できます」
「あ、それもそうだね。そうすると、その子とも早めにお話しておいた方が良いかな。せっかく牢から出られたと思ったら、今度は敵かもしれない人たちに捕まっちゃったってなったら、落ち着いて養生することもできないもの」


 それを聞いた諸葛亮は微笑んでうなずいた。
「はい。それがよろしいかと思います」
 趙雲も賛同するように軽やかに笑った。
「話を訊くにしても、体調が回復せねばどうしようもありませんからな。それに、あの少女、地下牢が炎に包まれた際、枷に繋がれていたわが身ではなく、牢番の方を助けてほしいと請うた剛の者。仮に仲の忠実な臣下であったとしても、助けるに値する人物でありましょう」
「星のいうとおりなのだ。きっと良い子なのだ」


 張飛が力強く同意するが、ふたりの軍師は少し違うところが気になったらしい。諸葛亮がおそるおそる口を開く。
「……あの趙将軍」
「む、どうした孔明?」
「今、さらりとすごいこと言いませんでした? 地下牢が炎に包まれた、とか」
「言ったな。唯一の出口である階段を塞がれ、火を放たれ、目の前には死を覚悟した告死兵。いやはや死ぬかと思った」
「あのあの、どうやったらその状況からほとんど無傷で生還できるんですか……?」
 友の言葉に鳳統もこくこくとうなずいた。
「絶体絶命って言葉がこれほど相応しい状況もないよね……」


「それはこれから話そう。といっても、どこからどこまで話せば良いのやら、未だにはかりかねているのだがな。正直『あれは悪い夢だった』で終わらせてしまいたいところだ」
 そういって趙雲は宛の地下牢で起きた出来事を話し始めた。
 城を探っている最中、張飛が地下牢からの悲鳴を聞きつけたこと。
 地下牢にいた三人の告死兵とひとりの金ピカのこと。
 そして、告死兵のうち一人を倒し、一人を取り押さえた後のことを……







 ――趙雲が語り終えたとき、室内には奇妙な沈黙がたゆたっていた。
 あるいは「奇妙」ではなく「微妙」と言いかえた方が、場の雰囲気をより適切に表現できるかもしれない。
 諸葛亮がおそるおそる口を開いた。
「ええと、つまり、その告死兵さんたちは痛みを感じない人たちだった、ということですか?」
「そういってよかろう。私が取り押さえた方は自分から腕を折って拘束から抜け出し、鈴々に吹き飛ばされた方も、確実に胸骨の一本二本はへし折れていたはずなのに、平然と立ち上がったからな。常人であれば耐えられるものではない」


 趙雲はそこまでいって、眉をひそめた。
「それだけであれば、さすがは仲の最精鋭、たいした忍耐力だ、という風に片付けることもできるかもしれん。しかし、その後がな……」
「楊松という人の命令で、自らに油をかけて火をつけた……ですか。趙将軍のお言葉でなければ、容易に信じられないところです」
 鳳統が目を閉じたまま呟くように言う。怯えているわけではないのは、その声音が震えていないことからも明らかであった。
 趙雲はうなずく。
「さもあらん。この目で見た私ですら唖然としたからな。主君に忠誠を誓う兵であれば、死ね、という命令に従うこともありえよう。だが、あれはそんな高尚なものではなかった――」




 上半身を火に包んで襲い掛かってくる二人の告死兵。
 これには趙雲も張飛も手を出しかねた。火傷の痛みに苦しみながら半狂乱で襲ってくるだけ、というのであれば対処することはできたであろう。だが、告死兵の動きは先刻までとほとんどかわっていなかったのだ。
 ヘタに素手で相対すれば、こちらが火傷を負ってしまう。もし、しがみつかれでもした日には火傷どころの騒ぎではない。


 趙雲は懐に秘めていた小刀を取り出した。こうなれば喉を掻き切って一撃で絶命させるしかない。
 しかし、当然といえば当然だが、非常に間合いが掴みづらかった。それに、こちらから間合いを詰めれば、それだけ敵に捕まえられる危険が増す。
 趙雲たちにとって幸いだったのは、そうこうしている間に徐々に告死兵の動きが鈍りつつあることだった。火傷の痛みには耐えられても、炎で傷ついた体組織が治癒するわけではない。たとえ痛みを感じないとしても、火に包まれた身体が次第に動きを鈍くしていくのは道理であった。


 もっとも、それはそれで別の問題を内包してもいた。
 時間が経つにつれて、告死兵の身体から飛び火した炎が地下牢に広がりつつあったのである。
 火事における炎と煙の危険はあらためて語るまでもない。それが地下であれば、なおのこと脅威の水位は上がる一方だった。
 おそらく、それもまた楊松の狙いのひとつだったのだろう。趙雲たちの注意が炎兵に向いている間、楊松はさっさと階段まで移動し、ただひとり健在の告死兵に入り口を死守するように命じると、高笑いをあげてその場を去っていった。
『出来損ないとはいえ、我がシユウと共に死ねるのだ。光栄に思え』
 そんな台詞を残して。
 

 その後、趙雲たちは蒋欽の助言によって牢内の布(寝台のじめっとしたやつ)を利用して炎に対処することに成功し、かろうじて地下牢を脱することに成功する。
 蒋欽を縛めていた鎖に関しては、張飛が気合一声、見事に引きちぎっていた。





 あらためて趙雲の話を振り返った諸葛亮は、眉を八の字にして考えに沈んだ。
「――色々とツッコミたいところはありますが、いま気にするべきは楊松の言葉ですね」
「そうだね、朱里ちゃん。『出来損ない』『我が』『共に死ねる』……この言葉からすると、シユウっていうのは告死兵の人たちを指すって考えられるね。そして、それを指揮しているのが楊喬才」
「黄帝と戦った蚩尤のこと、なのかな? 確かにすごく強そうだし、中華帝国に叛逆するって意味では相応しい名前なのかもしれないけど」
「痛みを感じないだけでもおかしいのに、いくら命令とはいえ、何の躊躇もなく自分に火をつけられるなんて……どんなことをしたら、そんな兵士ができるんだろう? しかも出来損ないってことは、楊松にとってまだ先があるってこと」
「……ちょっと想像がつかないけど、でも放って置くわけにもいかないよね。雛里ちゃん、楊松って人の名前、記憶にある?」
「さっきから考えているんだけど、少なくとも報告にあった仲の廷臣にはいなかったはずだよ。新参の人が皇帝の親衛隊を指揮できるわけないから、たぶんかなり仲の中枢に近い人だと思うんだけど、それなら報告から漏れるっていうのは考えにくいし……」
「もしかしたら、仲に直接仕えているんじゃなくて、仲の重臣の誰かに仕えているのかも」
「陪臣ってこと? それなら報告に名前がないことも説明がつくね」
「ただ、もし陪臣だったとすると、特定するのがものすごく大変になりそう」
「仕方ないよ。もし、趙将軍たちが戦ったような人たちが襲撃してきたら、普通の兵隊さんじゃ太刀打ちなんて出来ないし、早めに手をうっておかないと」


 軍師たちは言葉を重ねていくが、その内容はほぼすべてが疑問と推測で構成されていた。
 これは仕方ないことである。なにしろ情報が少なすぎる。それでもできるかぎり疑問点を抽出しておくのは必要なことであり、蒋欽から話を聞く際の助けにもなるだろう。
 黙って話に耳を傾けていた劉備は、そちらの対策は軍師たちに任せることにして、当面の作戦に集中することにした。


「星ちゃん、話を聞いたかぎりだと、わたしたちはなるべく早く宛に入るべきだと思ったんだけど、どうかな?」
「は。ご報告しましたように宛の内部はかなり荒れております。これを治めようとすれば反発は避けられませんが、時間を置いたところで、状況は悪くなりこそすれ良くなることはないでしょう。であれば、確かに主の仰るように、許昌なり寿春なりが動く前に入城してしまうのが得策かと」


 すでに仲は動き出している。
 楊松の動きが軍と連動しているかどうかは定かではないが、警戒しないわけにはいかない。
 そして、その間隙をぬって許昌の騎兵部隊が長躯して南陽郡に侵略してくる、という事態も十分に考えられる以上、ぐずぐずしていては機を逸することになる。
 ただし、と趙雲は続けた。
「仲の――いや、ここは楊松の、というべきですかな。あやつの狙いが判然としておりません。宛に別の手勢が潜んでいるやもしれませぬゆえ、さしあたって私と、そうですな、叔至どの(陳到)の隊が先行して宛をおさえましょう」


 それを聞いた張飛が不服そうに唇を尖らせる。
「えー、鈴々は留守番なのか!?」
「鈴々は主の護衛だ。告死兵だか蚩尤だか知らぬが、彼奴らが直接に主を狙ってくる可能性もないとはいえん」
「そ、それは大変なのだ! お姉ちゃんは鈴々が守ってみせるのだッ」
「うむ、任せた。国譲(田豫)らでは、まだあれらの相手は荷が重かろう」
 趙雲はそう言った。当然というかなんというか、劉備自身の力量は計算の外である。


 実のところ、劉備はこっそりと剣の鍛錬を続けていたりするのだが、残念ながら成果はまったくといっていいほどあらわれていない。正確にいえば、鍛錬の後の筋肉痛が少し軽減した、という事実はあるのだが、これを成果と呼ぶのは劉備といえどためらわれた。
 それに、仮に少しばかり成果が出ていたとしても、張飛と趙雲のふたりを苦戦させた相手と互角にやりあえるはずもない。ちょっと情けないなあと思いつつも、劉備は張飛に頭を下げた。
「お願いね、鈴々ちゃん」
「お願いされたのだ!」
 元気良く応じる張飛を見て、劉備と趙雲はちらと目を見交わし、微笑みあう。
 張飛の言動が微笑ましかったためであるが、もうひとつ、劉家軍の小さな虎将が消沈の時期を乗り越え、本領を発揮しはじめたことを確信したゆえの笑みであった。







◆◆◆






 
 洛陽を出て虎牢関を通り、さらに汜水関を抜けて許昌へと。
 索漠たる河南の大地を駆け抜ける一団の陣頭には、秋風にはためく一本の黒旗が掲げられていた。
 一見すれば黒一色、よくよく見れば十字に鳥羽の紋様が縫われたこの黒旗こそ、後漢末期の争覇戦において誰知らぬ者とてない勇名を博することとなる北郷一刀の『玄鳥十字』であった――


「……と評されるようになればいいなあ、と思う今日この頃である」
 休息の際、俺が愚にもつかないことを呟いていると、隣にいた徐晃が怪訝そうな顔を向けてきた。
「一刀、今なにか言った?」
「ん、ああ、張太守の急な呼び出しは何が理由なのかなって気になってな」
 それを聞いた徐晃は飛雪(徐晃の馬の名前)の首を撫ぜながら、同意するようにうなずいた。
「いきなり急使が来たと思ったら、大至急戻って来い、だもんね。おかげで五斗米道の人たちの案内もできなくなっちゃったし」


 徐晃のいうとおり、張莫からの急な召還のため、俺と徐晃、司馬懿、鄧範は司馬家の私兵と共に許昌へと駆け戻ることになった。
 俺たちが許昌に召還されること自体は予測していたことだったが、そこに「大至急」の文字が加えられていたことは予測の外だった。ただの召還であれば、許昌へ行くという五斗米道の人たちを護衛しながら戻ることも出来たのだが、宮廷への貢物をたずさえた彼らが急ぎの騎行について来られるはずもなく、洛陽で別れることになったのである。


「まあ洛陽から許昌までだったら、そうそう賊も出ないだろう。棗将軍(棗祗)にも頼んできたから、許昌に向かう時は護衛の兵士もつけてくれるだろうし、心配はないさ」
 俺の言葉に徐晃がこくりとうなずくと、それに応じて長い亜麻色の髪が上下に揺れた。
 ちなみに、徐晃の髪型はたいてい頭の後ろで一つに束ねた、いわゆるポニーテールというやつなのだが、今は直ぐに垂らした状態である。
 その髪が陽光に反射してきらきらと輝いて見えるのは、徐晃が髪を洗った直後だからであり、この場に司馬懿と鄧範がいない理由もそれで察していただきたい。
 さきほど、俺が黒旗を見上げて妙なことを考えていたのは、ともすれば勝手に動き出そうとする心身(?)を抑制するためでもあった。



「そういえば」
 不意に徐晃がじっと見つめてきたので、俺は目を瞬かせた。
「ん、なんだ?」
「字(あざな)のこと、ほんとにあれで良かったの?」
「俺としてはまったく問題ないんだけど、なんか変だった?」
「うーん、変だってわけじゃないんだけど……」
 徐晃は困惑したように言葉を詰まらせる。
 あの徐公明がここまで困惑をあらわにする事態とはいったい何なのか。それは今まさに徐晃が口にした字に関することである。
 洛陽で旗職人から黒旗を受け取った際、俺の脳裏にあるアイデアが閃いたのだ。


 そうだ、字をつけよう、と。


 中華帝国において、字は成人の証としてみずからつけるものである。まあそうではないことも多々あるが、それはさておき、俺もこれまで初対面の人に名前を名乗った折、字は何だと訊ねられたことが何度かあった。
 その都度、東夷の人間だから云々と言ってきたわけだが、それもいい加減面倒になってきた。くわえて、洛陽の鍾会にも気になることを言われたのだ。
『君の字が何だろうとぼくにはどうでもいいことだが、まわりにあたえる影響というものもある』と。



 どういうことか、というと。
 中華帝国では、他人の名(諱 いみな)を呼ぶことは、それが主君や親といった目上の人間でないかぎりはとても失礼なことであるとみなされる。
 一方、中華の人間ではない俺にその観念はない。なので、たとえば徐晃が俺を「一刀」と呼ぶことは、俺にとって何の問題もないことである。そして、俺の周囲にいる人たちはたいてい事情を知っているので、徐晃が非礼な行いをしている、と眉を吊り上げることもない。


 だが、事情を知らない他者――たとえば宮廷の人間などから見れば、徐晃は部下の身でありながら、虎牢関の守将である俺の名を呼び捨てるという言語道断な振る舞いをしていると映ってしまう。ひいては、俺という武将は部下の非礼を糾すこともできない無能者だ、と評価されてしまうのである。
 劉家の将として許昌に滞在している以上、他者の評価なぞどうでもいいと切り捨てることはできない。ましてや親しみをもって俺の名を呼んでくれる人たちに無用の悪評をなすりつけることは本意ではない。


 劉家軍では俺が中華の人間ではないことは広く知られていたし、俺を一刀と呼ぶ人は大体が目上の人間だった。だから、これまでそういったことはあまり、というか全然気にしなかったし、注意もされなかったのだが、許昌では事情が異なってくるわけである。
 そういった理由もあって、俺は自分の字をつけることにした。


 その字とはずばり「一刀」である。


 発表した瞬間、徐晃と鄧範からものすごい微妙な視線を向けられた。
 司馬懿は小さく微笑んで拍手してくれたが、たぶん司馬懿は俺が「寿限無寿限無五劫の擦切海砂利水魚」と発表しても同じように微笑んでくれたのではあるまいか。あ、いや、さすがにそれはないかな?
 ともかく、これで俺は「姓は北郷、名は一刀、字も一刀」になったわけだ。
 うむ、実に個性的。



 名と字が同一というのはめずらしいが、歴史上に例がないわけではない。唐の名将 郭子儀や「春眠、暁を覚えず」とうたった孟浩然といった例があるので、別段、礼儀や常識に反した名乗りではないだろう。
 まあ冷静に考えるといずれも後代の人なので、ある意味でさきがけになってしまった気がしないではないが、それはともかく、二十年近く「一刀」と呼ばれてきたのに、ここで別の名を名乗る必要はない。というか、普通に気に入っているのでかえたくない。
 名をかえず、かつ俺の名を呼んでくれる人たちを無礼者にしないためには、名と字を等しくするしかなかったのである。


 

 徐晃がわざわざ俺と二人の時を見計らってこのことを口にしたのは、たぶん俺が字がどうこう言い出したのは自分のせいだ、と考えているからだろう。今のところ、俺の周囲で俺を「一刀」と呼ぶ人は徐晃くらいしかいない。
 その証拠に草原生まれの少女はこんなことを言い出した。
「あの、もし私のせいなら、呼び方かえるよ? 仲達さんみたいに北郷さまとか、士則みたいに驍将どのとか」
「ほう? ということは、これから俺は公明のことを『尊敬おくあたわざる徐将軍』ないし『中原を駆ける白き狼こと徐公明どの』とお呼びすればよろしいわけですな?」
 ちなみにどうして蒼ではなく白き狼なのかというと、徐晃の真名である鵠(こく)が白鳥を意味するからである。


 この返しは予想してなかったのか、徐晃は驚きのあまりひっくり返りそうになっていた。
「私の呼び方がなんかすごいことになってる!?」
「要約すると、細かいことは気にするな、ということだ」
 その一言で俺の意図を察してくれたのか、徐晃はばつが悪そうにうなずいた。
「……う、うん、わかった。気にしないことにする」
「わかってくれてなによりだ、尊敬おくあたわざる白き狼どの」
「わー、気にしないっていったのにッ」


 顔を真っ赤にして両手を振り上げる白狼どのをからかっていると、後方から呆れたような声がかけられた。
「相変わらず仲の良いことだな、ふたりとも」
 そういって姿を見せたのは鄧範で、その後ろには司馬懿の姿もあった。
 鄧範は苦笑気味、司馬懿の方は表情こそあまりかわっていないが、俺たちを見る目はとても暖かい。決して生温いわけではない。
 しかしあれだな、二人とも徐晃と同じく小川の水で軽く旅塵を拭ってきただけのはずなのに、髪や肌の艶が四半刻前とは大違いですよ。


 俺はさりげなく二人から視線をそらしつつ、なるべく平静な声で応じた。
「仲良きことは美しきかな、といってだな」
「なるほど、だから公明をからかっていた、と」
「うむ、そのとおり」
 そんなやりとりを鄧範としていると、横から沈んだ声が聞こえてきた。
「……あの、一刀? たとえ事実だとしても、何のためらいもなしに同意されると少し悲しいんだけど」
「からかうことは美しきかな、といってだな」
「それは絶対に嘘!」
「バカな、なぜばれたッ!?」
「いや、そんな驚愕されても困るんだけど……」
「じゃあ、からかうことは楽しきかな」
「よけいタチが悪いよ!」


 基本、この四人が集まると、俺が徐晃をからかい、鄧範がそれに冷静に突っ込みをいれ、司馬懿が時折笑いをこらえながら見守っている、という形になる。
 この時もそうなった。
 張莫からの大至急の召還命令は俺たちの胸に小さからざる影を落としていたが、最悪の事態にはならないだろう、という確たる予測が俺たちにはある。
 ここでいう最悪の事態とは、たとえば俺たちが弘農王らを密かに逃がしたことがばれて斬首に処される、とかそういう状況である。もしそうなら、俺たちに「大急ぎで許昌へ戻って来い」などという命令は出ない。棗祗か、あるいは楽進、鍾会あたりに「ただちに北郷たちをひっ捕らえろ」と命じて、その上で檻車に放り込んで許昌まで連れてこさせるだろう。


 俺たちにある程度の行動の自由を許したということは、そこまでの事態であるとは考えにくい。だが、状況が状況なだけに吉報であるとも思えない。
 自然、道中の雰囲気は明るいものとはならず、時々、やむをえずに(ここ重要)俺が徐晃をからかって雰囲気を盛り上げたりする場面も出てくるわけである。決して俺が好きこのんで徐晃を弄って遊んでいるわけではない、ということは声を大にして言っておきたい――のだけど。
「俺自身が楽しんでいることは否定できない事実なわけで」
「その言葉で何もかも台無しッ」
 ぽかぽかと俺を叩きながら徐晃が言う。
 まったく反論できなかった。



◆◆



 そんな道中を経てようやく許昌へたどり着いた俺たちは、その足で丞相府へ赴いた。
 曹操はまだ許昌に戻っておらず、俺たちを迎え入れてくれたのは張莫である。そこで俺たちは張莫に今回の召還命令の真意を伝えられた。
 幸いというべきは張莫に俺たちを問罪する意思がなかったことである。ではどうして大至急戻って来いと命じたのかといえば――


「なに、叔達(司馬孚)の話を聞いたところ、北郷将軍は功績が欲しくて欲しくてたまらない、という感じだったのでな。折角いただいた良案も、あの黒い悪魔の襲来で中止になってしまい、私としても心苦しく思っていたのだ。すると、折り良く――とは立場上言えないのだが、今度は南で兵乱の気配が起きた。これはぜひとも北郷閣下にご出馬願わねばと考えた次第なのだよ」
「つまり、蝗害のせいでてんやわんやの時に仲が動きやがった、人手が足りないので功績が欲しそうな北郷をぶつけてやれ。勝てばよし、負けても時間稼ぎくらいにはなるだろうと。そういうことでよろしいですかね?」
「うむ、まさに以心伝心。よくぞ我が意図を読み取ったな、北郷」
 清々しい笑顔でうなずく張莫。今にもサムズアップしかねない調子である、こんちくしょう。


 俺は徐晃に頭を下げた。
「すまない、公明。俺が間違っていた。たとえ事実だとしても、なんのためらいもなしに笑顔で同意されると、確かに悲しくなってくるな、こういうのは」
「わかってくれて嬉しいよ」
 俺と徐晃がしみじみうなずきあっていると、張莫はからからと笑いながら「すまんすまん」と謝ってきた。


「今、北郷がいったことは基本的に私の本心なのだが」
「ええ、わかっていますとも」
「くく、まあ聞け。本心は本心だが、タダでこき使うとは言わん。贖罪の件、私が請合おうではないか」
 そう言うと、張莫はちらりと俺に流し目を送ってきた。
「お前のことだ。唐突に手柄に執着しはじめたのは、そこな麒麟児どのの助命を願うためなのだろう? ついでに公明や叔達たち司馬一族の助命も確実にしておきたい、といったところか」


 そういうと、張莫は指折り人名を口にしはじめた。
「北郷と公明に関しては、いまさら私が口を挟むまでもなく助かる。そもそも、私から見ればお前たちには罪といえるほどの罪はないしな。叔達ら司馬一族に関してはそう簡単にはいかないが、汜水関、虎牢関、さらには洛陽での奮戦を鑑みれば、華琳のことだ、少なくとも族滅などという手段はとるまい。さすがに無罪放免というわけにはいかないだろうが、それは私が適当に取り計らって叔達らに危害が加えられぬようにする。これは我が真名にかけて確約しよう」
 それを聞いた司馬懿と鄧範が目を見張った。
 曹操から首府たる許昌を委ねられた人物が「我が真名にかけて」とまで言ってくれたのだ。はっきりいって、この段階で司馬孚たちの助命は成ったも同然であった。


 俺たちが頭を下げようとすると、張莫は右手を左右にひらひらさせた。
「ああ、別に頭を下げる必要はない。私が叔達の能力と人柄を買っただけのこと、今はまだ未熟だが、あれは長ずれば華琳にとって欠かせない臣となる。おそらく華琳も同じ判断を下すだろう。ゆえに、これに救いの手を差し伸べることに何らためらいはないのだが、直接叛乱に加わった姉たちはそういうわけにはいかん」
 張莫は鋭い眼差しで司馬懿を見据えた。
 司馬懿は怖じるでも媚びるでもなく、まっすぐに張莫を見つめ返す。どういう感情の変化によるものか、張莫の唇の端がかすかにつりあがった


「許昌より弘農王を連れ出した司馬伯達は死んだと聞いた。死人に罪は問えず、ならば生き残った妹の仲達に処罰が下されるは当然のこと。しかしながら、大人しく罪を認めて朝廷に従ったことは評価できる。年齢を考えれば、仲達はただ姉に従っただけであり、死一等を減じることもかなうやもしれん。たかだか十三、四歳の小娘に、洛陽で何ができたはずもないしな?」
 張莫の声にからかうような響きが宿る。
 この陳留の太守さまは、司馬孚から自分が虎牢関を去った後に何が起きたかはおおよそ聞いているはずだ。おそらく鍾会あたりからも報告が届いているだろう。つまり、張莫は司馬懿が洛陽で何をしたのか(それと壷関襲撃に関する献言も)ほぼ掴んでおきながらこの言い草なのである。ああ、なんという性悪。徐晃が悪影響をうけてしまったのも無理からぬことといえる。



「そこで何やら嘆いている宇宙どの、私の言いたいことは察してくれたか?」
「つまり、そういう論法で曹丞相を説得してほしければ、馬車馬のように働いて来い、と」
「素晴らしい、まさしく完璧な解答だ。北郷、本気で私の下に来ないか?」
「自分の部下になれば、好きなように称号をつけられるとか考えていませんか?」
「ぎく」
 わざとらしく言葉に出す張太守のことは決して嫌いではない。嫌いではないんだが、相手をするたびに溜息を吐きたくなる俺の心情も誰か理解してください。


「……その尽きない情熱の根源を教えてほし――いえ、やっぱりいいです」
「もういっそのことお前、字を宇宙大とかにしないか? そうすれば誰はばかることなく宇宙大将軍と呼べるんだが」
「断固としてお断りいたしますッ! というか、字はつい先日つけましたッ」
 間一髪だった。あぶないあぶない。


 俺の字を聞いた張莫は小さく肩をすくめた。間違いなく何か言われるだろうなあと思ったが、そんなことはなく、張莫は何事か考えた末にこういった。
「ふむ、なら私もこれからは一刀と呼ぶか。で、早速だが一刀――いや、今さらだが、というべきかな」
「あ、は、はい、なんでしょうか?」
「お前、関雲長が負傷したことは聞いているか?」


 どくん、と心臓が嫌なはね方をした。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(四)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/02/20 23:27
 豫州潁川郡 許昌


 俺が最後に関羽の消息を聞いたのは、関羽が官渡の戦で顔良を討ち、官軍反撃の嚆矢となった時だった。
 その後、関羽の消息はぷつりと途絶えたわけだが、そのことに俺は特に不審を覚えてはいなかった。顔良を討ち、そのまま袁紹軍の追撃に加わったのだろうと思っただけである。
 もともと頻繁に連絡を取り合っていたわけではない。これは朝廷から無用の疑いをかけられないための配慮でもあったわけだが、それにくわえて、官渡の勝報が届いたのは袁紹軍が洛陽戦線に姿を現した後であり、つまりは激戦の真っ最中だったので、官渡方面のことに注意を向けるような余裕もなかったのだ。


 実はこの間、戦場で負傷した関羽は許昌に帰還しており、屋敷で療養していたのだと張莫から聞かされた俺は、とるものもとりあえず屋敷に急行した。
 そして、そこで包帯で左腕を吊った関羽が、右手一本で八十二斤の青竜刀を振り下ろしている姿を目撃したのである。


「――おかしい。俺が知っている怪我人と違う」
 俺は真顔で呟いた。
 命に関わる怪我ではない、というのは張莫から聞いていた。だが、左腕に負った傷は決して軽いものではない、とも聞いていた。しかも、傷口から悪い風が入ったのか、数日間は病床から起き上がるのも苦労していたという話だったのだが……


「なんかパワーアップしてませんか、雲長どの?」
 なんで病床から復帰して間もない人が片手で青竜刀を振り回しているんだか。
 実はこの人、死の際から復活すると強くなるどこぞの異星人だったりするのだろうか。
 そんな俺の疑問を受けて、関羽は眉をひそめた。
「ぱわあっぷ? いきなり駆け込んできたと思ったら、何をわけのわからぬことを。というか、いつ戻ってきたのだ、一刀?」
「つい先ほどです。丞相府で張太守から雲長どのの負傷を聞いて、急ぎ駆けつけたのですが……」
「む、そうか。心配させたようですまないな。だが、ご覧の通り、体調はほぼ回復している。今は衰えた身体の力を取り戻しているところだ」


 そう口にする関羽の頬をよくよく見れば、別れたときに比べて少しだけこけているように見える。どうやら病床に伏していたのは本当のことらしい。
 無事に回復したのはめでたいかぎりだが、床払いして間もないだろうに、いきなり無茶しすぎではあるまいか。
 だが、俺がそう心配しても青竜刀の動きは止まらなかった。
「戦火が病人や怪我人を避けて通ってくれるのなら、今すこしのんびりしているのだがな。そうではないのだから、備えはしておかねばなるまい。いざ危急の時、ろくに武器も振れぬとあっては武人の名折れだ。それに、借りを返さなければならない相手もいる」




「借り、ですか?」
 それはおそらく関羽を負傷させた相手のことだろう。
 というか、今さらの疑問だが、関羽を負傷させた相手というのは誰なのだろうか。慌てふためいていて、この疑問を完全に放念していた。
 劉家軍の関羽といえば、虎牢関の戦いであの呂布と互角に戦い、徐州では驍将 張遼を退け、并州では匈奴の単于 於夫羅を討ち取った大剛の士である。むろん、これ以外にも美髪公の武勲は枚挙に暇がない。
 俺が関羽の負傷を目の当たりにしたのは張遼との一騎打ちの時くらいで、於夫羅と戦った後でさえピンピンしていた。
 ということは、関羽を負傷させた相手は最低でも於夫羅以上であり、張遼に優るとも劣らない実力の持ち主、ということになる。


 普通に考えるならその相手は顔良だが、報告では顔良は関羽に討ち取られたとのことだった。死んだ相手に「借りを返す」とは言うまい。
 あるいは顔良を失って怒り狂った文醜あたりに襲撃されたのか、と俺は推測した。考えてみれば、顔良戦死の報告はあったが、文醜戦死の報告はなかったし。
 その俺の推測は半ば当たり、半ば外れた。
 関羽は眉をしかめ、忌々しそうにかぶりを振って、俺に疑問にこう答えたのである。
「結論からいうと、誰だかわからんのだ。妙な赤い仮面をかぶっていたせいでな」




 ――関羽の話をまとめると、だいたい次のようになる。
 まず、顔良との一騎打ちは関羽が勝利した。
 この時、関羽は顔良を袈裟懸けに斬り捨てた。討ち取った、と関羽は思ったらしいが、顔良の部隊を斬り散らした後、亡骸を改めてみると、わずかだが息があったそうである。
 とはいえ、斬ったときの手ごたえから関羽が討ち取ったと判断したように、傷は深く、まず助かるまいと思えた。へたに治療を施しても、それはただ苦しみを長引かせるだけにおわる公算が高い。ここでとどめを刺すのもひとつの情けであっただろう。


 だが、見方をかえれば、顔良は常人ならば死んでいる重傷を負ってなお生きながらえている強い生命力の持ち主である、ともいえる。そんな生命力の持ち主であれば、あるいはこの傷からも持ち直すかもしれない。
 持ち直したところで、結局曹操によって首を斬られるだけ、ということも十分に考えられたが、それでも関羽が顔良を自陣に連れ帰ったのは、自身と真っ向からたちあった敵将への敬意ゆえであったのだろう。


 そこで襲撃を受けた。


 襲撃は暁闇に行われた。このとき、関羽は寸前まで襲撃に気づかなかったという。
 いかに激闘の後とはいえ、関羽ほどの武将が敵襲に気づき得なかった理由はふたつ。
 ひとつは襲撃の半刻ほど前から濃い霧が立ち込めたこと。
 もうひとつは、襲撃者がたったひとりだったことである。


 それを聞いたとき、俺は思わず話を遮る形で問いかけていた。
「つまり、雲長どのはたったひとりの襲撃者に部隊を撹乱された上、手傷を負わされた、と?」
 まさか、との思いで発した問いであったが、関羽はうつむきがちにうなずいた。
「一生の不覚だ……はじめは、顔良の身柄を取り戻しにきた袁紹軍が、濃霧をついて襲ってきたのだと思ったのだが」
 周囲を警戒しても敵兵の姿は見えず、なのに死傷者だけは刻一刻と増え続ける。状況を掴めずにいるところに自身の陣幕への切り込みを許してしまった、と関羽はうめくように言った。


 にわかには信じられなかったが、実際に関羽は負傷している。
 そんなことが可能な人物を、俺はひとりしか知らなかった。
「呂布ですか?」
 袁術の下にいる呂布が官渡に姿を現すとは考えにくいが、仮面をつけた兵というと、どうしても仲の告死兵を連想させる。くわえて、他にそんなまねができる人物がいるとも思えなかった。
 だが、関羽はかぶりを振って、その可能性を否定した。
「いや、呂布ではない。虎牢関で戦ったあやつとは背格好が異なっていた。得物も戟ではなく斧、乗っていた馬も赤兎馬ではなかった。それに髪の色も違っていたな」
 顔は仮面で隠せても、体格や髪の色はごまかしようがない。
 呂布は赤毛だったが、篝火に照らされた襲撃者の髪の色は白かったという……





「赤い仮面をつけた白髪の斧使い……」
 俺は眉を寄せて考え込む。
 顔良ではない。ということは文醜なのか。しかし、文醜だとすれば、どうして仮面をつけて、しかもひとりで乗り込んできたのか。顔良を救うのならば、一軍を率いてきた方が良いに決まっているし、仮面で顔を隠す意味もない。
 この疑問は文醜に限った話ではなかった。赤仮面が袁紹軍の誰であるにせよ、単独行動で関羽を襲った理由がわからないのである。


 考え込む俺に関羽は最後の情報を教えてくれた。
「敵の刃を受け止めたとき、青竜刀ごと腕をもっていかれそうになった。あれほどの豪撃を受けたのは虎牢関以来だ。単純な膂力なら呂布に匹敵する相手だろう」
「……飛将軍並みの膂力の持ち主、ですか。そんなのがそこらをうろついているとか考えたくもないですが……雲長どのが手傷を負ったということは、当然、力だけではないですよね」
「ああ、並々ならぬ武技だった。不意をつかれたとはいえ、向こうの狙いが私の命だったとしたら、今こうしてここに立っていられたかどうかわからん」


 関羽に手傷を負わせた敵は、重傷を負っていた顔良を抱えて駆け去ったという。
 この行動からするに、敵の狙いは間違いなく顔良の身柄であった。だが、袁紹軍に顔良が帰還したという話は一向に聞こえてこない。
 関羽は難しい顔で話を続けた。
「もしかしたら、途中で顔良は事切れてしまったのかもしれない。はじめにいったように、私が与えた傷はかなり深かったからな。しかし、最終的に救うことができなかったにしても、自軍の勇将の亡骸を敵軍から取り戻したと喧伝すれば、兵の動揺を多少は静めることができたはずだ。それをしなかったということは、それほど袁紹軍が混乱していたのか、それとも――」
「そもそも、その赤仮面は袁紹軍の人間ではなかったか」


 俺の言葉に関羽はうなずいた。
「そういうことだ。もっとも、すべて私の推測だがな。その後の戦況については、お前も大体は聞いているだろう? いや、もしかしたら、それどころではなかったのか? そちらもそちらで、ずいぶんと大変だったらしいな」
「まあ、あれを大変と言わずして何を大変というんだ、というくらいには大変でしたね」
「ふむ、ならば今度はそちらの話を聞かせてもらおうか。戦況もそうだが、飛蝗が発生したと聞いた。そのせいで、このところ街もずいぶん殺気立っているようだ」
「はや影響が出ている、ということですね。承知しました、洛陽でのことをお話しましょう。ですが、その前に――」
「む?」


 怪訝そうな顔をする関羽に、俺は真顔で懇願した。
「さっきから青竜刀の風切り音がびゅんびゅんと唸っていて怖いっす。普通に部屋で話させてください」




◆◆◆




 豫州汝南郡 汝陽


 袁紹、袁術らを輩出した豫州汝南郡の名門 汝南袁氏。
 その祖は古く前漢の時代にまでさかのぼり、以来、数世代に渡って豫州で勢力を培ってきた袁家は、この地できわめて大きな影響力を有している。ことに汝南郡は袁家のお膝元といってよく、本拠地である汝陽を中心とした権力基盤は、たとえ漢帝を擁した丞相 曹操であっても容易に付け入ることのできない頑強さを誇っていた。
 

 もともと汝南郡は中華帝国でも屈指の人口密集地帯であり、その規模はただ一郡をもって一州に匹敵する。こと人口に関していえば、汝南郡に優るのは隣接する南陽郡のみである。
 この時代、人口の多寡はそのまま軍事力、生産力の多寡に直結する。上記の二郡を抱えた袁術――仲帝国が他の勢力よりも強大になっていったのは必然であった。
 もし、袁術が野望を逞しくして南陽郡、汝南郡の二方向から許昌に侵攻したとしたら、曹操は決死の防衛戦を繰り広げなければならなかったであろう。


 もっとも、袁術にその覇気がないことは、本拠地を南陽から寿春に移した段階でわかりきっていたことだった。
 曹操と劉表に挟まれた南陽郡を離れたことはまだしも、曹操と正面きって対峙でき、なおかつ「汝南袁氏の拠点」という利点を有する汝南郡ではなく、遠く揚州の九江郡に都を置いた袁術が曹操との決戦を望むはずがない。
 そのことを読みきっていたからこそ、曹操は平然と徐州や河北に大軍を展開することができたのである。



 ただ、仲の内部にはこのことに切歯扼腕する者も少なからず存在した。
 その急先鋒が仲国虎賁校尉(近衛軍司令官)窄融(さくゆう)、字を無碍(むげ)という人物である。
 窄融は仲の淮南侵攻において、当時江都の県令を務めていた趙昱を殺害して仲に降伏し、そのまま江都の県令に任じられた経歴の持ち主である。
 江都を得た窄融は、曲阿(きょくあ 揚州呉郡)の劉遙との戦いで功績を重ね、淮南戦の失態で降格させられた呂布にかわって虎賁校尉に任じられた。


 その後、窄融は盧江郡太守 劉勲と協力して鄭宝、張多、許乾といった反仲勢力を討伐するなど幾つもの武功をあげた末、汝陽への駐屯を命じられるにいたる。
 このことを聞いた仲の高官たちは声をひそめて語り合った。
 汝陽は曹操領と接する事実上の最前線。この人事、一見すると曹操との戦いを主張してやまない窄融の願いに沿ったものであると映る。だが、実際は好戦的な窄融を疎んじた袁術が体よく彼女を寿春から追い払ったのだろう、と。
 その証拠というべきか、袁術は窄融を汝陽に差し向けたものの、それ以上兵力を送り込むことはせず、新たな命令を下すこともなく、のんびりと蜂蜜水をなめるばかりであった。



 実のところ、仲の朝廷では窄融の前歴や好戦的な性情に懸念を抱く廷臣が少なくなかった。窄融を虎賁校尉に任じる際にも反対意見は幾つもあがっていたのである。
 彼らは窄融が汝陽に赴いた場合、彼の地で叛乱を起こすのではないかと恐れたのだが、大将軍である張勲はその懸念をあっさりと否定した。別に窄融の忠誠心に期待したわけではない。張勲は窄融が叛乱を起こしたところで成功するはずがない、と見切っていただけである。
 なにしろ汝陽をはじめとした汝南郡一帯は汝南袁氏のお膝元、そこで窄融のような寒門の武人が袁術に対して叛乱を起こしたところで、いったい誰が味方につくというのか。叛乱を起こしたその日のうちに鎮圧されるのがオチであろう――それが張勲の考えであり、この言葉は廷臣たちの耳に確かな説得力を持って響いた。


 つけくわえていえば、この時期、仲は合肥と盱眙で起きた叛乱の対処に苦慮しており、一応は味方である窄融をいつまでも警戒しているわけにもいかなかった。
 そのため、廷臣たちの目は自然と汝陽から外れていき――結果、窄融の配転と前後して、ひとりの廷臣が寿春から汝陽へ移動したことはほとんど人々の耳目に触れなかった。
 これは、その人物が正規の官人(武官、文官)ではなかったためでもある。
 彼女は医者であった。それも宮廷付きの医師として皇帝の傍に侍るのではなく、一般の兵士や下級役人、さらには市井の貧しい人々と向き合う型の医者であった。ゆえに彼女は仲の高官の視界に映っておらず、彼女が寿春から汝陽に移動したことを知るのは、それを命じた者を除けば、彼女の患者くらいのものであった。


 その者の姓は張、名は機、字は仲景。
 後に『医聖』として中華帝国の歴史に不滅の名を刻み込む人物である。 



◆◆



 治療を終えて部屋から出た途端、張機の口からは地の底に達してしまいそうな重苦しい吐息がこぼれおちた。
 長時間にわたって極限までの集中を維持していたため、今すぐ床にへたりこんでしまいたいくらい疲れ果てていたのである。、
「はあああぁぁぁ………………助けた私も流石だけど、助かった患者もすごいわよね」
 普通死ぬでしょ、あの傷。
 そんな物騒な言葉を呟きながら、張機は億劫そうに頭の後ろに手を伸ばす。その手が髪留めを外すと、一瞬の間を置いて、それまで団子状に結わえられていた髪が背中を覆うように広がっていった。


 端整ではあるが、表情にとぼしく硬さを感じさせる顔立ち。意志の強さをあらわして常に挑むような光を帯びている瞳。強く引き結ばれた唇とあいまって、張機の容貌はどこか利かん気な少年を思わせる。身体の線を覆う野暮ったい治療衣も、その印象を強める一因になっているかもしれない。
 張機は乱暴な手つきで髪を梳くと、次にその治療衣を脱ぎ捨てる。
 と、そのとき、張機の前方を人影が遮った。
 面倒そうに顔をあげた張機は、そこに予期した顔を見出して、ついと視線をそらせる。


「どうだった?」
 無駄な前置きのない、ただ結果だけを問う声。
 効率的なやり取りは張機も望むところであった。疲れているときに嫌いな相手と話をするなど面倒くさいにもほどがある。
「たぶん、助かるわ」
 相手を見習って短く応じた張機であったが、どうやら相手はその返答では満足できなかったらしい。次の問いは先の問いよりも強い語気で構成されていた。
「たぶん?」
「右の肩から左の腰まで、ただ一刀。即死しててもおかしくない重傷から、確実に回復しますなんて言えないわよ。しかも、傷を負った後、素人の応急手当だけで過ごしたせいで体力もかなり落ちている。正直、なんで生きてるのって状態だった。たぶん助かるってところまで持っていけただけでも奇せ――」
 何事か口にしかけた張機は、そこではたと口を噤み、忌々しそうに床を蹴った。


「……血は止まった。傷は塞いだ。薬も塗った。後は患者の体力次第。他に私たちにできることといったら、傷口から悪い風が入っていないように天に祈ることくらいかしら」
「もうひとつ出来ることがある。急変に備えて、絶えず医者を張り付かせておくことだ。必要ならば一月でも二月でも」
 それを聞いた張機の目が、すっと細くなった。
「――私はあなたの配下になった覚えはないわ。寿春で私を待っている患者がたくさんいるんだけど、虎賁校尉さま?」


 張機から尖った声音を向けられた虎賁校尉――窄融は唇の右端を吊り上げた。 
「たしかにあなたを配下に迎えた記憶はない。だが、あなたの仲での立場を保証したのは私だ。あなたの指示に従い、険阻な山間に生える薬草を定期的に集めているのも私の配下。あなたひとりで、今かかえているすべての患者の面倒をみられると思っているのか?」
「無理でしょうね。誤解のないように言っておくけれど、私としてもあなたに感謝はしているの。だから、呼び出されたらこうやって駆けつけた。あなたの目的がなんであれ、私の目的に資するかぎりはあなたの指示に従うわ。けれど――」


 キッと窄融を睨みすえた張機は、視線に劣らぬ鋭い口調で窄融に要求を叩き付けた。
「あなたの指示が私の目的を妨げるなら、その指示に従う義理はない。ここに留まるのはあと三日。三日したら一度は寿春に帰らせてもらうわよ。またここに戻ってくるとしても、それはあちらでの治療が一区切りついてからのことだわ」
「ふむ……」
 張機の言葉を聞いた窄融が、感情の感じられない眼差しを向けてくる。
 初めて出会ったとき、蛇のようだ、と張機が感じた眼差しだ。その感想は今なお変わっていない。


 しかし、あいにくと張機はその程度で怯むほど繊細な心の持ち主ではなかった。
 真っ向から窄融を睨み返し、強気に言葉を重ねる。
「そもそも、あの趣味の悪い子供はどうしたのよ。あの子がいれば、別に私を呼び出す必要はなかったはずでしょう?」
「喬才は別件で他所に出向いている。それに、アレもあなたと同様、私の配下というわけではなくてな。いつでも行動を掣肘できるわけではない」
「あらそうだったの。それはともかく、今いったことは変更しないわよ。行動を掣肘できないといっても、言うことをきかないわけじゃないんでしょう? なら――」




 張機がそこまで口にした時だった。
 不意に、その場に第三者の声が割って入ってきた。
「無碍さま……」
 おどおどとした声を聞いた張機がそちらを見やれば、見覚えのない少年の姿が見て取れる。
 その少年を見たとき、張機は一瞬女の子と見間違えた。それほどに綺麗な顔立ちをしていたのである。


 窄融が抑揚のない声で問いかけた。
「敬輿(けいよ)。どうした?」
「は、はい、お話中のところ申し訳ございません。于麋(うび)、于茲(うじ)の両将軍が至急無碍さまにお目にかかりたい、とお越しになっているのですが、いかがいたしましょうか?」
「……そうか、すぐに行くゆえ、二人にはしばし待っているように伝えよ」
「かしこまりました。それでは失れ……」
「まて、敬輿。こちらに来い」
「は、はい」


 窄融は近づいてきた少年の腕を掴むと、いきなり抱き寄せるにして胸元に引き寄せた。少年が悲鳴じみた声をあげるが、窄融はおかまいなしに少年のあごを掴み、無理やり張機の方に顔を向けさせる。
「あなたは敬輿と会うのは初めてだったな。この者、曲阿の劉正礼(劉遙)の子で劉基、字を敬輿という。曲阿を落とした折、劉遙の一族は皆殺しにして長江にほうり捨ててやったのだが、こやつだけは見目麗しきゆえに助命した。以後、あなたのもとに使者として差し向ける時も来るかもしれぬ。見知りおいてくれ。敬輿、こちらは張仲景どのだ」
 窄融が促すと、劉基は苦しげな声で応じた。
「……劉敬輿、と申します。仲景さま、ど、どうぞお見知りおきくださいませ」
「……張仲景よ、よろしくね」


 窄融の説明と今しがたの行動を見れば、劉基がどのような境遇にあるのか、張機には容易に推察できた。
 痛ましいと思わなかったといえば嘘になる。
 だが、張機は窄融に対して何も言うつもりはなかった。張機には目的があり、権力者や権力者の一族の悲哀に首を突っ込んでいる暇はない。
 それを宣言するように、張機は窄融と劉基の横を通り過ぎ、自室へと歩み去っていく。


 その懐には未だ完成に程遠い一冊の本が秘められていた。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(五)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/02/20 23:21


 豫州汝南郡 汝陽


「それで、于麋(うび)、于茲(うじ)。何が起きた?」
 自室に戻った窄融は、劉基に酒の用意を命じながら二人の配下に問いかける。
 窄融の前にひざまずいていた于家の姉妹は同時に顔をあげた。
 この姉妹、外見上の差異は髪の色くらいであり、顔の造作も体型もほとんどかわりがない。姉の于麋は黒髪、妹の于茲は灰褐色、いずれも髪を短く切りそろえ、紺色の瞳は酷薄な光を放っている。褐色の肌は江南の人間によくみえる特徴であり、むきだしの手足は鋭く引き締まって、見るからに俊敏そうであった。


 双子と間違われることもめずらしくない二人であるが、外見が似通っている一方で、中身は外見ほど似ていなかった。
 姉は饒舌であり、妹は無口。姉は大胆であり、妹は緻密。姉は戦いを娯楽として楽しみ、妹は戦いを義務として遂行する。
 敵に対する容赦の無さだけは共通していたが、それは彼女らに敗れた者たちにとって何の慰めにもならないだろう。


 窄融に促され、姉の于麋が口を開く。
 前述したように于麋は本来多弁な性質であるが、主の気性は知り尽くしており、こういう時に余計な前置きは口にしない。いきなり結論を告げた。
「海昏(かいこん)が落ちました。孫策の仕業です」
 途端、窄融の口から鋭い舌打ちの音がした。
「それで、海昏を落とした後、連中はどう動いた? 上繚(じょうりょう)の塞(とりで)に向かったか?」
「いえ、海昏を落とした孫策は、そのまま余汗に向かいました。まずは播陽湖一帯を押さえる心積もりかと思われます」
「まだ上繚を落とせるだけの兵は抱えていない、ということか……」


 窄融の呟きを聞いた于茲が小さな声で注意を促す。
「無碍さま。孫策は豫章太守の華欽(かきん)と結びつき、兵を動かす名分を得ました。虎が翼を得て、人肉の味を覚えたのです。遠からず上繚も襲われるでしょう」
「わかっている。華欽だけであればどうとでもなったのだがな。孫家の亡霊め、余計なことをしてくれる」
 室内に再び舌打ちの音が響いた。




 揚州豫章郡は長江の南に位置し、荊州と境を接する要地である。
 豫章郡の太守は華欽、字を子魚といい、若い頃から令名が高い人物だった。性格は潔癖で、財を軽んじ義を嗜み、政治手法は公正無私という得がたい良吏であったが、豫章郡は多数の蛮族が盤踞し、邪教の宗徒が跋扈する難治の地であり、徳行だけで治めるには限度があった。
 この地を平定するにはどうしても武力が要る。だが、朝廷から派遣された太守である華欽には固有の武力がなく、また華欽自身、戦場に出て矛を振るう才略を持ち合わせていなかったため、豫章各地の豪族は華欽の命令を軽んじ、その統制に服そうとしなかった。結果、豫章の混乱は深まるばかりで、紛争解決の目処さえ立たない状況が続いていたのである。


 窄融はこの混乱に目をつけた。
 実のところ、豫章で策動しているという邪教の一部は、窄融が密かに差し向けた仏教集団であった。彼らは混乱に乗じて勢力を拡大し、海昏県などで信者を増やし、上繚という塞を築いて公然と豫章各地を劫略していた。
 むろん、これは袁術の命令ではなく窄融の独断である。目的はいうまでもなく豫章郡を手にいれ、江南における窄融の権力を確固たるものとすることにあった。


 豫章の混乱を見れば、その計画が成功する日は遠くない。
 窄融はそう考えていたのだが、ここで予期せぬ勢力があらわれて窄融の計画書に無粋な墨をなすりつけてきた。
 かつて寿春で袁術に粛清された孫家の残党が、豫章で勢力を広げ始めたのである。
 淮南で壊滅的な打撃を被った孫家の兵力は、当初、一万はおろか一千にも届かなかった。これではとうてい勢力の回復は望めないと思われたが、孫策は何の成算もなしに豫章に進出してきたわけではなかった。
 豫章には播陽湖(はようこ)という中華帝国でも屈指の規模を誇る湖がある。孫策はこの播陽湖を拠点としたのである。


 水戦に長けた孫策軍は播陽湖に軍船を浮かべて兵数の不利を補った。軍船を用いて湖のいたるところに姿をあらわし、一撃離脱の戦法を繰り返して周辺の賊徒を平らげて勢力を蓄えていく。
 勢力の拡大は順調であったが、ただ、このとき孫策はひとつ無視できない問題を抱えていた。
 この時期、孫策には何の地位も名分もなく、豫章で勢力を広げる孫策の立場は、よくいって「強大な賊徒」でしかなかった。あるいは「仲の二番煎じ」であろうか。孫策が力ずくで豫章郡を奪う行為は、漢朝に対する叛逆とみなされても仕方ないものだったのである。


 許昌から豫章にいたる道筋には仲の強大な勢力圏が広がっている。ゆえに朝廷が軍を動かして孫策を討伐する、などという事態は起こりえない。しかし、だからといって名分なき戦いを続けていては孫家の名が廃ってしまう。
 くわえて、名分の有無は兵の集まりや、士気にも関わってくる大事である。早く手を打つに越したことはない。
 そう考えた孫策は、ここで豫章太守の華欽に使者を差し向ける。
 武力はあるが名分のない孫策と、名分はあるが武力のない華欽。
 何者かがあつらえたように互いの存在を必要としていた両者は、こうして結びつくに至ったのである。




 この間、窄融も手をこまねいていたわけではなかった。
 豫章で孫策の存在が確認された際、窄融は豫章と隣接する荊州に使者を差し向けている。使者が向かった先は江夏郡の太守 黄祖の居城。
 黄祖は精強な水軍を有し、長江を遡上して荊州を窺う江東勢力から長きに渡って荊州を守ってきた東の番人である。袁術の麾下にあった孫堅とは幾度も矛を交えており、互いに将を討ち取り、討ち取られて怨恨を重ねている。
 孫策が江東で再起して勢力を拡大すれば、遠からず荊州を襲うのは自明の理。その際、最初に孫策の標的となるのが黄祖であることもまた明白。窄融はそのことを指摘して、孫家再興を座して眺めていていいのか、と黄祖を唆したのである。


 この窄融の使嗾に、黄祖は乗った。
 もっとも、仮に窄融が使嗾しなくても黄祖は動いたであろう。黄祖は決して凡将ではない。孫家の再興が荊州に何をもたらすかは十分に理解していた。また、孫策の麾下には黄祖を裏切った甘寧という武将がおり、黄祖にとって孫策の勢力を潰すことは、自分を裏切った人間に目に物を見せてやる好機でもあった。
 公私いずれの事情も出兵を肯定した以上、これをためらう必要はどこにもない。
 黄祖は自身の水軍を動員して長江に軍船をならべる一方、長沙太守の韓玄に使者を派遣し、陸路からも兵を差し向けるよう願い出た。
 韓玄はこれに応じ、長沙郡攸県(豫章郡と境を接している城市)を守備していた黄忠、劉磐の二将に豫章への出兵を命じる。


 ここに荊州勢による水陸両面からの豫章侵攻が始まった。
 これを聞いた窄融は、ひとまず豫章はこれでよし、と判断する。今の孫策の勢力では荊州勢の侵攻に対応しきれまい。逆に黄祖らに豫章をとられてしまう恐れもあるが、孫策とてそう易々と敗れはすまい。
 精々必死に生き足掻け、と窄融は冷笑する。
 窄融が江北(長江の北)の権力を掌握するまで、豫章は今しばらくの間、混沌に包まれていてもらわねばならないのである。



 ――が、案に相違して孫策はあっさりと海昏県を落としてしまった。
 荊州の奴らは何をやっているのか、と窄融が考えたのは至極当然のことであったろう。
 そして、この疑問に対する于麋の答えを聞いたとき、窄融はめずらしく表情を動かした。常は能面のごとく動かない窄融の右眉が大きく吊り上ったのである。


「……黄祖が討たれた?」
「はい。長江を下っている最中のこと。自身の船に馮則(ふうそく)なる者の侵入を許し、あえなく討ち取られたとのことです」
「知らない名だ。孫家の奇襲か?」
 窄融はそう呟き、すぐに自分で答えを見出してかぶりを振った。
「いや、名分を得たとはいえ、今の孫策に兵を分ける余力はない。すると黄祖の部下が謀反を起こしたか」
「いえ、無碍さま。信じがたいことですが、馮則なる者、単独で黄祖の船に潜入し、名乗りを上げて黄祖を討ち取った、とのことです」 
 于麋の言葉を引き継ぐように、于茲が小さく囁いた。
「……そして、長江に飛び込んで逃げ去った、と」



 それを聞いた窄融は、ことさらゆっくりと確認をとった。
「――つまり、于麋、于茲、おまえたちはこう言うのだな? その馮則とやら、場所によっては対岸すら見えない長江を泳いで黄祖の軍勢に近づき、ひとり警戒厳重な旗艦に乗り込んで大将を討ち取った後、再び長江に潜って姿を消した、と……?」
 それは甘くとろけるような響きを帯びた声だった。問いを向けられた部下二人は蒼白になって額を床にこすりつける。于麋の面上にははっきりと、于茲の面上にはかすかに、恐怖の表情が張り付いていた。
 窄融がこの声を出すのは、極めて機嫌が良いときか、反対に極めて機嫌が悪いときかの二つにひとつ。そして、報告の内容を考えれば、窄融の機嫌が良くなる理由がない。必然的に、いま窄融は激怒しているということになる。おそらく、報告のあまりのありえなさに立腹しているのだろう。



 実のところ、姉妹も主の心情は理解していた。
 于麋にせよ、于茲にせよ、はじめにこの報告を聞いたときはまったく信用しなかったからである。
 広大な長江を泳いで渡るだけでも至難であるに、戦闘態勢にある軍船の列に入り込み、正確に旗艦を探り当て、その最奥にいる黄祖を見つけ出すなど不可能に近い。百歩ゆずってそれが出来たとして、遠方から弓矢で仕留めたというならまだしも(それとて揺れる軍船の上では限りなく不可能に近いが)名乗りをあげて斬りかかり、これを討ち取った後、怒り狂う敵兵の手を逃れ、長江に潜って悠々と逃げ出すなど、とても人の身で可能なこととは思えない。


 江夏水軍の兵は例外なく水練に長じている。襲撃者が長江に飛び込んで逃げようとしたところで、たちまち追いつかれてしまうに違いない。それをすら振り切ったというなら、その馮則とやらはきっと竜の化身か何かだったのだろう。
 むろん、人の世に竜などいるはずがない。ゆえに、この報告は偽りである。于家の姉妹はそう判断した。
 于麋にいたっては「くだらぬ噂を拾ってくるな、無能が」と密偵を斬り捨てようとしたほどである。于茲にとめられて我慢したが。



 しかし、である。
 その後も報告の内容はかわらず、江夏水軍は大混乱の末に豫章から退却してしまった。ここまで来ると、少なくとも黄祖の身に変事があったことだけは疑いない。
 しかも、水軍の退却を知った黄忠、劉磐の二将も長沙に兵を返してしまった。この決断の速さから推して、おそらく二人ははじめから今回の侵攻に否定的だったのだろう。
 そして、この荊州勢の動きを肯定するように、孫策によって海昏県が落とされた。事ここにいたり、どれだけ信じがたくとも報告が事実であることを于麋たちは認めざるを得なかったのである。




 平伏する姉妹の頭上に、愉しげな窄融の声が降って来た。
「……ふふ、ふふふ、面白い。面白い」
 于茲は予想と異なる窄融の反応に、いぶかしげに視線をあげた。
「……無碍さま?」
「馮則。話のとおりだとしたら天性の暗殺者だな――――欲しい」
 それを聞き、于麋の口がわずかにひきつった。
「無碍さま。闇討ちなら俺でも茲でもお役に立てますが」
「手駒はあればあるだけ良い。捨て駒になって消えるか、おまえたちのように有用な駒となって残るかは別として」


 駒扱いされた于麋たちであったが、姉妹の顔に不満はなく、むしろ喜びの色があった。
 おまえたちは他の配下とは違う。窄融のその一言で于家の姉妹は満たされる。
 頭を垂れた于麋たちを冷然と見下ろした窄融は、姉妹にそれぞれ別の命令を与えることにした。
「于麋、おまえはもう一度長江に向かえ。配下と共に馮則を見つけ出し、私の下に連れて来い。富貴を望むなら富貴、漁色を望むなら漁色、私に従うのなら欲しいものを欲しいだけくれてやる」
「御意。拒絶したら殺しますが、よろしいですか?」
「言うにや及ぶ。于茲、おまえは陳に潜入し、我らを引き入れる手はずを整えろ」
「……はい」
「蚩尤が拾ってきた素体はしばらく使い物にならぬ。喬才が戻るのを待って予行演習を行うつもりだったが、ちょうど良い、ここで馮則の力も試す。この意味はわかるな、于麋?」
「は! ただちに出立し、早急に馮則を連れて参りますッ」


 叫ぶように返事をすると、于麋は本当にそのまま立ち上がって部屋を出て行ってしまった。
 その背を見送る于茲の目には、かすかに姉を気遣う色合いが見て取れる。
 窄融はそんな于茲に声をかけた。
「心配か、于茲?」
「……少しだけ。姉さんは張り切れば張り切るほど裏目に出る。戦いの時だけは別ですが」
「ならば告死兵も動かそう。于麋は不要というだろうから密かに。これで安心できるか?」
「……感謝いたします、無碍さま」




◆◆◆

 


 荊州南郡 襄陽


 蔡瑁、字を徳珪。
 蔡家は古くから荊州に割拠していた一族であり、蔡瑁はその当主として今日まで荊州の統治に力を尽くしてきた。特に、劉表が州牧として荊州に入国してから、その忠実な臣として文武両面で主君を支え、彼の統治を安定させた功績は特筆に値する。
 荊州は南陽郡をのぞいて劉表の統治下にあるが、これらの地域が中原の動乱を他所に平和を保てている理由は、劉表の優れた政治手腕のほか、襄陽の蔡瑁や江夏の黄祖といった荊州豪族の力によるところも大きかった。


 蔡瑁の権勢は荊州でも随一といってよい。その権勢は蔡瑁の姉が劉表の後妻に迎え入れられたことで一層強化されたが、しかし、その基となったのは蔡家の力と蔡瑁自身が積み上げた功績である。
 蔡瑁が握っている権勢は、姉の美貌を利して劉表に取り入り、その結果として投げ与えられたものなどでは断じてない。


 その蔡瑁の目には、劉備一党は荊州の安寧を脅かす存在として映っていた。
 徐州においては官軍(曹操)と戦い、淮南においては仲(袁術)と戦う。これを荊州に受け容れるということは、朝廷と仲を二つながら敵にまわしてしまう危険を孕む。
 袁術だけを敵にまわす分には別にかまわない。相手は所詮偽帝であるし、もともと劉表と袁術は犬猿の仲である。劉備一党を北に配し、対袁術の盾とするのも一つの戦略であろう。


 だが、朝廷を、曹操を敵にまわすことは断じて避けなければならない。
 そう考えた蔡瑁は劉表に対して劉備一党を受け容れないように進言し、劉表が「同族を見捨てることはできぬ」として劉備たちを受け容れた後も、事あるごとに排除を進言した。
 幸いというべきか、朝廷は劉備に対する朝敵の扱いは取り下げたが、朝廷を主宰する曹操が劉備に敵意を抱いているのは明らかであり、劉備が荊州にいるかぎり危険は去らぬ。
 それだけではない。
 劉備が身の程を知って大人しくしているならば見逃しようもあったかもしれないが、あろうことか劉備は劉琦に接近しはじめた。それを知ったとき、蔡瑁は劉備の排除を不可避のこととして決断せざるを得なかった。



 病弱ゆえに継承権を放棄したとはいえ、劉琦はれっきとした劉表の長子。そこに劉備という武力集団の長が近づいたとき、何が起こるかは火を見るより明らかである。
 この際、劉備と劉琦の野心の有無は関係ない。ふたりの接近を見た他者がそれをどう見るのか、それこそが問題なのである。
 蔡瑁にとって劉備の行動は平地に乱を起こすものだった。
 野心をもっていようがいまいが関係ない。道義の上では罪にならずとも、政治の上では罪になる行動というものがある。もし劉備がその程度のこともわきまえていないのであれば、なおさら排除しなければならない。そんな人物が武力をもって荊州をうろつくなぞ、蔡瑁にしてみれば悪夢以外の何物でもなかったのである。


 荊州の繁栄は、蔡瑁をはじめとした荊州人の長年にわたる汗血の結晶。権力のなんたるかも知らぬ余所者に踏みにじらせるわけにはいかない。


 しかし、一度は客将として迎え入れた劉備を後から討てば、劉表や蔡瑁の声望がかげってしまう。しかも、淮南戦で最後まで偽帝と戦い抜いた劉備軍の評判は荊州でもそれなりに高まっており、ここで劉備を処断すれば人心の混乱を招くだろう。
 おまけに、どうも劉表自身も劉備を気に入っている節があり、蔡瑁の献言にもうなずいてくれない。もし蔡瑁が武断的な解決をはかれば、劉表との間に隙が生じる恐れもあった。
  

 どうしたものかと頭を抱えた蔡瑁は、荊州の智嚢ともいうべき人物に相談してみることにした。
 解越、字を異度。明晰な頭脳と優れた智略で知られる荊州屈指の賢人である。くわえて、解越は雄偉な身体の持ち主としても知られていた。蔡瑁も武将として身体を鍛えているのだが、解越と向かい合うとどっちが武将なのか分からなくなる。


 その解越が提案したのが劉備を北部国境に送り込む策であった。
 解越は言う。
 確かに劉備の行動は荊州を脅かしかねないものである。だが、それは彼女を襄陽に置いておくから発生する問題であって、国境に配置すれば忠実な番人として荊州の役に立ってくれるだろう。
 劉表からの命令であれば劉備は否とは云うまいし、もしも否と云うようであれば、それこそ野心がある証である。改めて劉表に劉備の危険性を説けばよい。


 解越は蔡瑁ほどに劉備を敵視していなかったが、その行動が荊州の安定を損なうものであることは同意であった。
 ゆえに、劉備と劉琦を物理的に引き離す。
 この解越の策に蔡瑁は幾度もうなずき、ただちに実行に移す。
 結果、劉備は新野の城主として南陽郡に赴くことになった。
 その後、蔡瑁は李儒からの密使を利用して劉備軍の勢力をそぎ落とすべく策動を重ねていたのだが――




「まさか、こうもたやすく数に優る南陽軍を打ち破るとはな」
 襄陽城の執務室で蔡瑁は苛立たしげに呟いた。
 蔡瑁の手にあるのは新野に赴いた張允、文聘らの諸将から届いた報告である。
 蔡瑁と向かい合う席に座っていた解越は感じ入ったように深々とうなずいた。
「聞きしに優る、というべきですな。南陽軍が洛陽に赴くのを優先していたという有利はあったにせよ、それでも倍以上の兵力差を覆すとは凄まじい」
「異度どの、感心している場合ではなかろう。許昌からの報せでは、曹丞相は河北軍と飛蝗の対処で忙しく、南陽には手を出せそうにないという。このままでは劉備めが南陽を制してしまう。それはまずいのだ」
「玄徳どのが丞相閣下とぶつかった際、逆賊としてその背を襲って憂いを断つ、という計略も使えなくなりましたかな?」


 からかうような解越の言葉に蔡瑁はぎくりとした顔をする。
 慌てて表情を押し隠したが、すでに時おそしであった。
 解越は蔡瑁をなだめるように優しい語調で続けた。
「玄徳どのの資力では宛の住民を養うことはできませぬ。ゆえにあの御仁が独力で南陽を制することは不可能。蔡将軍であれば、この程度のことは拙生が口にするまでもなくおわかりになるでしょうに」
「む……だが、宛の財をもってすれば不可能も可能になるやもしれぬ」
「宛は豊かな城市ですが、無限の財があるわけではございません。かねてより李文優が宛の富を洛陽に注ぎ込んでいたのは周知のこと。急遽かき集めた財で救えるのは宛の民の一部のみでしょう」
 すべてを救うには足りず。かといって一部だけを救おうとすれば、そこからあぶれた者たちが不満を抱く。
「玄徳どのがいずれを選んでも、宛の民は玄徳どのへの信を捨てます。信なき者に民は従いませぬ」



 それを聞いた蔡瑁は口に手をあてて考え込む。
「ふむ、とするとこちらはどう動くべきか」
「玄徳どのに使者を出し、宛の住民はこちらで引き受ける旨を伝えればよろしい。襄陽の府庫には金子も糧食も十分に蓄えられています」
「そうすれば民の声望も、荊州の人士の称賛も、劉備に向くことはないか」
「南陽軍を打ち破った武勲以上のものが玄徳どのに積まれることはないと心得ます。その武勲とて、このまま蔡将軍が兵を進めて南陽郡を奪ってしまえば霞んでしまいましょう」


 曹操が動けず、袁術が国内の叛乱で身動きとれない今は絶好の機会。この機に一挙に南陽郡を奪ってしまえ、と解越は云う。
 それが成功すれば、劉備の武勲など気にかける必要さえない、と。 
 この解越の献言に蔡瑁は乗り気になった。
 空になった宛は劉備に任せ、その間に南陽郡の各拠点を制圧してしまえば、蔡瑁の驍名は一気に高まるだろう。


 だが、この計画は実行に移される前に中断される。
 江夏太守 黄祖戦死の報せが届いたためであった。
 

 数十年の長きに渡り、共に劉表を支えてきた僚将の死を知った蔡瑁はしばらく呆然として声も出なかった。
 我に返った蔡瑁は慌てて劉表に報告にあがったが、劉表もまた驚愕のあまり数瞬の自失を余儀なくされた。長年にわたって東部国境を守ってきた重鎮が死んだ。それも病死や戦死ではなく、暗殺されたも同然の最後であったという。この件が荊州に与える影響は計り知れない。


 だが、劉表たちはいつまでも立ち尽くしているわけにはいかなかった。
 黄祖が死亡した今、江夏の守りはきわめて不安定なものになっているはずだ。一刻も早く後任を選定しなければ他勢力の侵入を招く恐れがある。
 また、江夏南部には荊州最大の、というか中華帝国最大の銅鉱山が存在する。江夏の混乱は一地方の混乱というに留まらず、荊州の軍事、経済を崩壊させる引き金になりかねないのである。


 黄祖には黄射という成人した息子がいる。この息子を後継者として黄祖亡き後の江夏の守りを委ねるのが最善であろうか。
 しかし、劉表も蔡瑁もこの人事は迷わざるを得なかった。
 黄祖配下の水軍は「江夏蛮」という江夏周辺の異民族が主力となって編成された部隊である。彼らは黄祖が長であればこそ素直に荊州軍に従っていたが、黄祖の息子である若輩の指揮に従うだろうか。最悪、叛乱を起こすかもしれない。


 新野から張允なり文聘なりを戻して江夏に差し向けるか。
 蔡瑁は真剣にそれを検討した。
 しかし、彼らを戻せば南陽郡を制圧する戦力に不足を来たす。それに黄祖が死んだ今、これさいわいとばかりに蔡瑁の息のかかった人間を送り込めば、黄祖の遺臣や他の廷臣が反発するかもしれない。
 蔡瑁と黄祖の間にはさしたる怨恨はないが、自分が嫉視される立場にあるという自覚は蔡瑁も持っていた。


 黄祖の死は、一歩間違えれば一大事になる危険を孕む事態である。
 だが、と蔡瑁は考えた。
 なにも自分の手で火中の栗を拾う必要はない。この役に相応しい人間が荊州にはいるではないか。
 武威もあり、智略もあり、そして荊州のために尽力する誠心もある、そんな者が。
 蔡瑁は自身の着想に満足し、劉表に向かってゆっくりとその案を口にした。
 

 

◆◆◆




 豫州陳国 長平


 綺麗な黒髪を腰の後ろで一つに束ねたその女性を見た瞬間、俺は咄嗟に駆け出していた。
 俺より五歳ほど年上に見えるその人の顔に見覚えがあったからだが、もう一つの理由は、相手の方も俺に向かって駆け出そうとしているのが見えたからである。
 この人を走らせてはならない。早足もダメ。何故なら、何もないところでも転ぶ人だから。
 陳羣、字を長文という女性はそういう人だということを、俺は良く知っていたのである。


 俺と向き合った陳羣は上体を九十度近く折り曲げて再会の挨拶を口にした。
「北郷どの、お久しぶりでございます」
「お久しぶりです、陳た――げふん、陳県令。ご壮健そうで何よりです」
 思わず以前のように陳太守と呼びそうになり、俺は咳払いしてごまかした。今の陳羣は長平県の県令である。
 陳羣はじっと俺の顔を見つめた後、ほっとしたように胸に手をあてた。
「北郷どのこそ、お元気そうで安堵いたしました。徐州での戦の後、ろくにご挨拶にうかがえず、心苦しく思っていたのです」
 再び頭を下げようとする陳羣を、俺は大慌てでとめた。
「陳県令、そのように何度も頭を下げずとも結構です。徐州の動揺をしずめるべく、各地の県令を歴任しておられたことはうかがっていますから」


 そう、俺や関羽が許昌にいる間、陳羣や孫乾は主に徐州で働いていたのである。聞けば糜芳や曹豹といった旧陶謙軍の将兵も、主に徐州での治安維持を命じられているらしい。
 それを知って俺は安堵の息を吐いた。彼らとは仰ぐ旗がかわってしまったが、それでもかつては同じ陣営で戦った者同士、その無事を聞いて嬉しく思ったのである。
 と、その時だった。
 俺はいきなり背後からどやしつけられた。


「おい北郷! いきなり駆け出して陣列を乱すとは何事だ! この夏侯元譲、軍律を乱す者に容赦はせんぞッ」
「ぬお、申し訳ございません、夏侯将軍。緊急事態だったもので」
「緊急事態? 何がだ? 別に何も起こっていなかったろうが」
「……それは、その、ここでは非常に説明しにくいのですが」
 陳羣がこけるのを未然に防ぐためだった、なんて本人の前で云えるわけがない。


 だが、このはきつかない返答はいたく夏侯惇の機嫌を損ねてしまったらしい。
 曹魏の大剣どのは、その異名の由来となったであろう業物『七星餓狼』を振り回してお怒りあそばされた。
「ええい、わけのわからないことをしたと思ったら、今度はわけのわからないことを言いおって! さてはキサマ、少しばかり手柄をたてたからといってわたしをバカにしているなッ!? 勝負だ、北郷ッ」


 癇癪を起こした子供のような言い草であったが、この人がこれを本気で云う人だということは、ここ数日で――否、最初の一日でしっかりと思い知らされている。放っておけば本当に大剣を振り下ろしてくるだろう。
 俺は大慌てで釈明した。
「俺が将軍に勝てるはずないでしょう!? そもそもバカになんてしてませんよッ」
「……本当か?」
「本当です!」
「本当に本当か?」
「先回りして言いますが、本当の本当による本当のための本当です」
「ならばよしッ」
 我ながらわけのわからない釈明であったが、夏侯惇はすっきりした様子で大剣を収めてくれた。


 やはりこの人を相手にする時はノリと勢いが大切であるらしい。俺は頭の隅にこのことを銘記しつつ、びっくり眼で立ち尽くしている陳羣と陳羣の部下、さらに俺と夏侯惇の後ろで控えていた将兵を眺め渡した。ついでに溜息も吐いた。
 陳羣に恥をかかせまいとする目的は達成された。代わりに俺と夏侯惇が恥をかく羽目になったような気がするが、これはきっと気のせいだろう。
 気のせいだと思いたかった。






 さて、ここで説明しておかねばならないだろう。
 どうして俺が夏侯惇と一緒に陳羣の治める長平県にやってきたのか。
 理由は単純といえば単純で、張莫から命令されたのである。
 正確にいえば、陳羣から派兵の要請を受けた張莫が俺にその役割を振って来た、ということになる。


 陳国は許昌がある豫州潁川郡のすぐ東に位置する。
 ここでいう陳『国』とは『郡』とほぼ同義で、郡は皇帝の直轄地、国は皇帝から皇族に与えられた領地を指す。郡を治める者を太守、国で太守に相当する地位を国相と呼ぶ。
 豫州には他に梁、沛、魯といった国があるが、これは余談。
 陳国の王を劉寵といい、陳の国相を駱俊(らくしゅん)という。この両者は国名と同じ陳という名の城市にいるのだが、陳羣が県令に任じられた長平県はこの陳の西方にあった。
 曹操がいる潁川郡、劉寵がいる陳、そして仲の領土である汝南郡と境を接する重要拠点である。


 この長平県の南方に汝陽という城市があるのだが、最近、そこを中心として仲の兵馬が不穏な動きを見せている、というのが陳羣からもたらされた報告であった。
 仲軍の主力はいまだ寿春から動いてはいないが、汝南にも相当数の仲兵が駐屯している。これが北に動けば厄介なことになるだろう。
 そうなる前に援軍を、というのが陳羣の要請であった。



 むろん、陳羣も現在の情勢は把握している。今、曹操軍に仲軍と戦う余力はない。ヘタにこちらが守備兵を増強すれば、仲もそれに応じて兵を増やしていき、この張り合いは遠からず両軍の激突という結果を招くだろう。あるいは、仲はそれを狙って盛んに兵馬を動かしているのかもしれない。
 それとわかれば誘いに乗るのは愚かなことなのだが、かといって誘いを無視し続ければ、こちらに余力がないことを見抜かれて、やはり仲の侵攻を招くかもしれぬ。
 そこで陳羣が考えたのが――




「屯田の要請、というわけだな。国境に民に扮した兵を配置し、田を耕させる。こうすれば仲としては次の行動に迷うだろう。もし仲が攻めてくるようなら兵としてこれを防ぎ、仲が動かなければそのまま田畑を増やして蝗害に備える。どちらに転んでも我が方の不利にはならん」
「対抗して向こうも屯田してくるかもしれませんよ?」
「そうなったら、どちらが広大な田畑を拓くかで競えば良い。実に健全な争いだ」
 そんな会話を交わした後、俺は張莫の命令にうなずいた。屯田のシステムやノウハウには興味があったし、どこそこの砦を落として来いとか、どこそこの城を死守せよとかいう命令よりはよっぽどマシだ。
 もちろん、俺の脳裏にはつい先日の張莫の言葉があったことは云うまでもない。



 ここまでは特に問題はなかったのだが、出発当日、何故か長平に向かう兵士たちの先頭には見慣れぬ武人の姿があった。
 見慣れてはいないが、見たことはある。さすがに曹操の宿将の顔は忘れられない。
「……で、どういうことですか?」
 俺が訊ねると、張莫はあさっての方向を見やりながら頬をかいた。
「いや、どうも春蘭のやつ、今回の決戦で華琳の役に立てなかったとしょげ返っていたらしくてな。ずっと青州に張り付いていたので無理もないんだが。何か名誉挽回できることがあれば良かったんだろうが、今、華琳は白馬城で麗羽の動向を睨みながら蝗害対策をやっている。秋蘭ならともかく春蘭では何の役にも立てん」


 何気にひどい言い草であった。まあ事実なんだろうけど。
 そんなことを考えながら、俺は張莫に応じた。
「そこに仲の動きが伝わり、ちょうど良いから行って来いと丞相閣下に送り出された、とそんなところでしょうか」
「うむ。本来なら許昌でいざという時に備えるべきなのだが、今の春蘭に待機してろといっても聞くはずがない。華琳からもよろしくしてやってくれと言伝が届いている。それに、これが一番重要な点なのだが、そもそも春蘭が青州に赴くことになったのは、私が汜水関に出張ったせいでな。私としても春蘭の希望をかなえてやりたいのだよ」


 それを聞いて俺は眉をひそめた。面倒ごとを押し付けられたと思ったから――ではない。
「仰りたいことはわかりましたが、こちらとて戦うと決まったわけではないでしょう? むしろ戦わずに終わる可能性の方が高いと思いますが」
「確かにな。だがまあ、お前がいるんだ。何か起こるだろ」
 ……今、さらっとひどいことを言われた気がした。
「それはどういう意味で?」
「いやなに、先の虎牢関でも、たぶん敵は来ないだろうと考えてお前に後を任せたら、待ってましたとばかりに敵が攻め込んできた。今回も同じようなことが起こるかもしれんだろ?」
「いや、それなら俺を出すのはまずくないですかね!?」
「許昌に置いておいたところでまずいのはかわらん。なら、あの白面(李儒のこと)の言葉を確かめる意味でも試してみる価値はある」


 俺は、ああ、なるほど、とうなずいた。至急戻って来いというのは、そういう含みもあったのか。今さらながらに気づいた俺は小さく肩をすくめた。
「仲が動いてから文句を言わないでくださいよ?」
「案ずるな。仮にお前を狙って仲が動いたのなら、それはそう仕向けた私の責任だ。きちんと尻拭いはするさ」
 その張莫の言葉に俺が応じようとした時だった。


「おい貴様、北郷一刀!」


 いきなり背後からどやしつけられ、俺は思わず背筋を伸ばしていた。
「は、はいッ!?」
「先ほどから聞いておれば、貴様、黒華さまに対してなれなれしいにもほどがあるッ! 黒華さまは陳留太守にして華琳さまのご親友であらせられれる! 礼節をわきまえよッ」
「春蘭、れが一個多いぞ」
「は、お任せください、黒華さま! 此度の任の間に、この無礼者の性根、しっかりと叩きなおしてご覧に入れますッ!」
「誰もそんなことはいっていないんだが……まあその、ほどほどにな?」
「ははッ! どうぞ大船に乗った気持ちで、吉報をお待ちくださいますようッ」
 見るからに気合の入りまくった(そして空回りしまくった)夏侯惇を前に、張莫はすこしばかり気遣わしそうに俺を見た。
「一刀も、まあなんだ、しっかりやってくれ。先に言ったことは必ず果たすから」
「……承知いたしました。前途に暗雲が漂っているような気がして仕方ありませんが、精一杯務めさせていただきます」


 俺はそういって張莫に頭を下げた。
 この時点で気づいてはいたのだ。前途に待ち受けるのが暗雲などといった生易しいものではなく、紫電の閃く雷雲であることは。
 だが、世には言霊というものもある。あえて不吉を口にして不幸を招き寄せることもなかろうと、俺はできるだけ楽観的に構えることにしたのである。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(六)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/02/23 19:49
 豫州陳国 長平


 ある時、泣く子も黙る曹魏の大剣 夏侯惇将軍が俺にひとつの問いを向けてきた。
「ところで北郷、ひとつ訊きたいことがあるんだが」
「は、なんでしょうか、夏侯将軍?」
「とんでん、とは一体なんなのだ?」
「お前はいったい何を云ってるんだ?」


 思わず素で「お前」とか口走ってしまった。それくらいびっくりした。
 その途端、左右のわき腹を同時に肘でつつかれる。右は司馬懿で左は徐晃である。
 失言に気づいた俺は慌てて咳払いする。
「ぐおッほん! し、失礼しました。しかし、将軍。屯田とは今まさに将軍が指揮をとっておられる作業のことなのですが」
「むろん、それはわかっている。中々順調に進んでいるな」
「将軍さま自らもっこを担いで作業してますからね。下も張り切らざるを得ないでしょう」


 下の人間の士気をあげるために責任者が現場で汗を流す。手法としては決してめずらしいものではない。ひねくれた見方をすれば責任者の自己満足だろう。
 しかし、たとえそうであっても、河南で知らぬ者とてない夏侯惇将軍がすすんで農作業に精を出している姿を見れば、部下たちは発奮せざるをえない。しかもこの将軍の場合、一日二日だけのポーズというわけではなく、普通に毎日働いているのである。おまけに怪力を利した作業速度が尋常ではない。


 通常、もっこの作業は二人一組で行われる。二人で一本の棒を担ぎ、そこにもっこをぶらさげて土やら石やらを積み、必要な場所に運んでいくわけだが、夏侯惇の場合はちょっと違う。
 まず両肩に一本ずつ棒を担ぐ。そして、二本の棒の両端にそれぞれもっこを下げて運搬作業を行うのだ。他の人夫は二人で一つを運んでいるのに対し、夏侯惇は一人で四つを運ぶ。一人当たりの作業量で考えれば、他の八倍の働きである。
 さらに、夏侯惇はこれをほとんど息も切らせずに繰り返すものだから、まわりの人間はおちおち休憩することもできなかった。


 今回、夏侯惇の下に配されたのはただの農民ではなく、訓練された正規兵である。基礎的な体力はあり、規律を守る心構えも持っている。中には農作業をやらされることに不満を持っていた者もいるかもしれないが、彼らを率いる夏侯惇が進んで鍬を振るい、もっこを担いでいる以上、文句など云えるはずもない。
 上に立つ夏侯惇が他者の数倍働き、下の人間も将軍さまばかりに働かせては名折れとばかりに任務に精励する。そりゃ堤防づくりも開墾作業も順調に進むだろ、というのが俺の本音であった。



 その夏侯惇が「とんでんってなんだ?」と訊いてきたのである。お前呼ばわりしてしまっても仕方ないのではなかろーか。
 こっそりと自己弁護する俺の傍らでは、夏侯惇がなおも首をかしげていた。
「私たちがやっているのはただの畑仕事だろう? 最近では畑仕事をとんでんと云っているのか?」
「ええと、ですね。やっている内容は確かに畑仕事なのですが、それをやる人間が変わると呼び方も変化するのですよ」
 慎重に言葉を選んでみたのだが、夏侯惇は今ひとつピンと来ないようであった。苛立たしげにバンバンと卓を叩く。卓を支える四隅の脚が軋む音が聞こえた。
「意味がわからん! もっとわかりやすく説明しろッ」
「……むう、そうですね、では将軍に馴染みのある軍事でたとえてみましょう。将軍のいらっしゃる城に河北の袁紹が攻めてきたとします」
「敵襲だなッ!?」
「はい。敵襲です。では、この相手が領内の民衆だった場合――」
「きっさまーッ! 華琳さまの統治に不備があるとぬかすのかッ!?」
「たとえばです! た、と、え、ば!」
「華琳さまの領内で民衆が反乱を起こすことなど万に一つもない! あるとしたら、食い詰めた野盗が自棄になって騒ぎを起こすくらいだ!」
「じゃあ、それでいいです!」
「じゃあとはなんだ、じゃあとは! もっと真面目に考えろッ」
「精一杯頭をひねってるんですけどね!?」


 などというやりとりを経て、俺はなんとか夏侯惇に言わんとしていることを伝えた。
 同じ戦いであっても、相手によっては名称が「敵襲」になったり「反乱」になったりする。それと同様、同じ農作業であっても、それを行う人間が農民か兵士かで呼び方がかわるのだ、と。
 ――うん、わかっている。ぶっちゃけ例えとしてはイマイチ、というか、はっきりと間違っている。一口に屯田といっても、兵士が行う軍屯のほかに、農地を失った農民を移住させて行う民屯というのもあるし。
 だが、前提として「夏侯惇にわかりやすく」という条件がついているので、俺にできるのはこれが精一杯であった。


 本音をいえば司馬懿に助け舟を出してもらいたかったのだが(民屯等の知識を俺に教えてくれたのは司馬懿と陳羣)、その司馬懿は先の肘鉄以来つつましく沈黙を保っている。夏侯惇も司馬懿の方には目もくれていない。
 一見、夏侯惇がことさら司馬懿を無視しているように見えるが、さにあらず。単にまだ名前を覚えていないので、話し相手の選択肢に入っていないだけである。徐晃や、今はここにいない鄧範も同様で、どうも夏侯惇は他人の名前を覚えるのが苦手らしい。


 ならばどうして俺の名前を覚えているのかというと、以前、何かの折に曹操が俺を誉めたことがあったらしく、以来、ライバル心を燃やしていたっぽい。
 はじめて言葉を交わしたとき、開口一番『他家の臣の分際で華琳さまに誉めていただけるとはなんてうらやまし――もといけしからん奴だッ』と怒鳴られた時は何事かと思いましたよ、ほんと。




 まあそういった人物だからこそ、司馬懿がここにいることも出来ているわけで、悪いことばかりではない。
 現在、この地で行われている屯田はざっと次のような体制で行われている。


 基本構想 陳長文(陳羣)
 地形計測 鄧士則(鄧範)
 木材伐採 徐公明(徐晃)
 実施計画 司馬仲達(司馬懿)
 現場監督 夏侯元譲(夏侯惇)


 このまま漢中から蜀まで攻め取るぞー、とか云われても違和感ない面子である。
 ただ、それはあくまで俺から見ての話であって、夏侯惇が丞相の権力を笠に着るような人物であれば、陳羣はともかく鄧範と司馬懿、徐晃は役を降ろされていただろう。
 ちなみに俺の役割はと云うと――


 監督補佐 北郷一刀


 となる。別に正式にそう定められたわけではないのだが、いつの間にかそんな感じになっていた。なんかいたるところで補佐役ばっかりやっている気がするのは気のせいだろうか?
 この補佐役、具体的な役割は定められていないが、たとえば今のように夏侯惇からの諮問に応じることも役割のひとつといえるだろう。
 他にも以下のような事をこなしている。





 某月某日


「おい、北郷」
「は、なんでしょうか?」
「今、ふと思ったのだが」
「?」
「私は汚名挽回のためにこの地に来た」
「汚名は挽回するのではなく返上するものです。はい、それで?」
「しかしだな、ここでの任務は農民に扮して国境を守ることにある、とお前は言ったな。よく考えたら、それでは私がいくら頑張っても名誉返上にならないではないかッ!」
「名誉は返上するのではなく挽回――」
「ええい、さっきからチクチクとうるさいわ! それはともかく、ここでいくら頑張っても私は華琳さまに誉めていただけないのではないかッ!? さては貴様が姦計をめぐらして私をこんなところに連れて来たのだなッ」
 ここで「そんなことしてませんよ!?」と悲鳴をあげるのは二流の補佐役である。
 一流はこうさばく。


「このたわけものッ!!」
「――ぬあ!? な、なんだ、なんで私が怒鳴られているんだッ!?」
「確かに、ここでいくら田を耕そうが、もっこを担ごうが、夏侯元譲の武名はあがるまいッ」
「そ、そうだろう! やっぱり貴様が――」
「だがしかし!」
「!?」
「丞相閣下は世に五万といる凡夫どもと同じ眼しか持ち合わせておらぬであろうか!? 否、断じて否! あの御方は世人の目に隠れた、秘めた功績を確実に見抜く慧眼の持ち主であらせられる! 汝、夏侯元譲よ、まさかこのことを否定するのか?」
「ひ、否定などするものか! 華琳さまは万里の果てまで見通す慧眼をお持ちでいらっしゃる! ――む、ということは……」
「そのとおり! その慧眼の主が、どうして自らの一の配下の勲功を見逃すことがあろうか。世の誰が気づかずとも、丞相閣下だけは必ず気づく! 汝にとってはそれで十分であろうッ!?」
「そ、そのとおりだ! 華琳さまに誉めていただけることこそ我が喜び、それ以外の人間にどう思われようと、私の知ったことではない!」
「ならば迷う必要なし! ただ一心不乱に働いて働いて働きぬくことこそ丞相閣下の御意にかなう唯一の道であるッ!!」
「そうだ、そのとおりだ!」


「――というわけで、将軍。午後も頑張りましょう」
「おう、まかせておけ、北郷!」



 他日。



「おい、北郷。次はどこに行くんだ?」
「東の川から水を引く作業ですね」
「終わったぞ、次は?」
「西の平野を耕した際に出てきた邪魔な大岩を捨てにいきます」
「終わったな。よし、次だ!」
「北にいって補給の物資を受け取った後、南にいって仲の領土の偵察です――というか将軍、朝に全部仲達が丁寧に説明してくれたでしょう?」
「うむ、実にわかりやすい説明だった。だが、どれだけわかりやすくても、一度に説明されたら覚えきれるはずなかろうッ。自慢ではないが、私はいつも桂花に『三歩あるけば何でも忘れる鳥頭』だといわれているのだ!」
「……それは本当に自慢でもなんでもないですが、ふむ……」


「おい北郷、なんだこのちっこい紙の束は?」
「『メモ帳』です」
「目も蝶?」
「口も鼻も蝶なんですか? いや、そんな化け物の話はどうでもよくてですね、これは聞いた話を忘れないようにメモして――ではない、書き取っておくためのものです。竹簡や木簡ではかさばりますので、陳県令から紙をいただいて用意してみました。将軍のお役に立てば幸いでございます」
「ほう、私のために殊勝なことだ。誉めてやるぞ、北郷」
「ありがたき幸せ。向後、部下から聞いた話はこちらのメモ帳に記すようになさってください。さすれば、たとえ一度は忘れてしまっても、すぐに思い出すことができるでしょう。武芸に長じた将軍が文事にも通じるようになれば、丞相閣下もさぞお喜びになることと存じます」
「うむ! 華琳さまに喜んでいただくため、頑張らねばなるまい!」


「……おい、北郷。めも帳がどこかにいってしまったのだが」
「こんなこともあろうかと予備を用意しておきました」
「おお、さすがだな!」


「……あの、北郷?」
「む、どうなさいました、将軍?」
「その、めも帳がだな、二つともどこかに……」
「ふ、皆までいわずとも結構です。こんなこともあろうかと! なんとここにあと三つもメモ帳を用意してあります。この際なので全部さしあげましょう」
「おお、これならいくら私でももう忘れん! 礼をいうぞ、北郷!」


「……すまん、北郷」
「まさか五つ全部忘れたんですか!?」
「いや、今日は忘れたのは一つだけだ! 他の四つはちゃんと持ってきている。持ってきているのだが……肝心のめもを書いたのが、忘れたやつだったらしくてな」
「……そうですね。これからはどれか一つのメモ帳に書くのではなく、五つ全部に書くようになさればよいのではないかと」
「ふむ、そうするか」


「……ふえーん、ほんごー」
「さあ、今度はなんだ!?」
「めも帳は五つとも持ってきたし、朝に聞いた話も五つ全部にちゃんと書いた」
「何の問題もないですね」
「しかしだな、昼間は土埃が凄かっただろう? それで身体がじゃりじゃりして気持ち悪かったので、服を着替えたのだ。そうしたら――」
「服と一緒にメモ帳も置いてきてしまった、と」
「……うん」
「ところで将軍、この後の作業予定は何でしたっけ?」
「ん? 県庁にいって県令どのと話し合いをしてから、戻って堤防づくりの仕上げだろう。それが終わったら、堤防の完成と兵たちの精励を賞するために小宴を設けるのだったな」
「そこまで覚えていれば、メモ帳がなくても何も問題はありません」
「おお、そうか!」
(話を聞いた直後に五回も内容を書き記せば、嫌でも頭に残るよな)


 計画どおり!



 他日。



「うおりゃああああッ!!」
「ぬおああああッ!」
 開墾地から少し離れた広場において、夏侯惇と北郷は木剣で激しい斬り合いを演じていた。
 当然というべきか、形勢は夏侯惇が優勢なのだが、北郷も守るだけでなく、時折鋭い反撃を繰り出しては夏侯惇に後退を強いている。
 司馬懿と鄧範、徐晃の三人は、そんな二人の上官の様子を少し離れたところから見守っていた。


「ふむ、さすがは曹家きっての猛将と名高い夏侯元譲どの。得物が木剣であっても、その武威は凄まじい」
 鄧範が感心したようにうなずくと、徐晃もこくりと同意した。
「そうだね。その夏侯将軍とうちあってる一刀もすごいと思うけど。ほとんど怯んでないよ」
「北郷さまは劉旗の下で幾多の戦いを目の当たりにし、淮南での戦い以後は自ら剣をとって仲、匈奴、河北の精鋭と刃を交えてきました。夏侯将軍といえど、木剣で北郷さまを怯ませることは難しいでしょう」
 その司馬懿の言葉を聞いた鄧範は、からかうような視線を徐晃に向ける。
「仲達さまの仰るとおりですね。経歴だけ見れば驍将どのはもはや歴戦の士。聞けば、怒り狂う公明の本気の剛撃も数合は凌いだことがあるとか。それに比すれば、木剣の相手をするなど大したことではないのでしょう」


「そ、それはさておいてさ! なんで休みの日に稽古なんてしてるんだろうね、二人とも!?」
 額に汗を浮かべた徐晃の精一杯のゴマカシに優しく応じたのは司馬懿であった。
「農作業ばかりでは身体がなまる、と夏侯将軍が北郷さまを連行していきました」
「……一刀ってもう指揮官の補佐とかじゃなくて、夏侯将軍のお世話係だよね」
「従卒ともいうな。ところで公明、それは驍将どのの前で云ってやるなよ。けっこう気にしているようだから」
「他の誰にもできない仕事、という意味ではとても大切なお役目なのですけれど」


 と、三人の会話が一段落するのを待っていたように、夏侯惇の木剣が北郷の胴に吸い込まれ、膝をついた北郷がうめき声をあげた。
「ぐおおぉぉぉぉ……」
「ふ、修行が足らんな、北郷一刀!」
「しょ、将軍には加減が足らないと思います……」
「それでうまいこといったつもりか、バカモノ! 訓練に加減を求める者が、どうして戦場で生き残ることができるのだ!?」
「……ぐ、それを云われると何も反論できませんが」
「そうだろう、そうだろう。ではもう一本だ! さっさと立てぃ!」
 そういって人差し指で天を指す夏侯惇。たぶん「立て」というジェスチャーなのだろうが、なんだか北郷がそのまま天に送られてしまいかねない迫力であった。


「……止めなくて大丈夫かな?」
「止められるものなら止めた方が良いだろうが、どうやってあの夏侯将軍を止めるのだ?」
「本当に限界ならば北郷さまがそう仰ると思います。それまではだまってみているべきでしょう」
 さらっと断言する司馬懿を見て、徐晃はそっと隣に声をかけた。
(……ねえ士則、仲達さんって実はすごい厳しい人?)
(……先代さまは厳しい方だったからな。とくに伯達さまと仲達さまはかなり厳格に育てられたと聞く。仲達さまにとってはあれくらい普通のことなのかもしれない)
 司馬懿はなにやらこそこそしている二人を見て、不思議そうに声をかける。
「……あの、二人とも、どうかなさいましたか?」
『いえ、なんでもありません』
 そろってかぶりを振る徐晃と鄧範を見て、司馬懿は小さく首をかしげた。





◆◆◆





 揚州盧江郡 皖(かん)


 盧江郡の西方には潜山という名の山が聳え立っている。別名を天柱山ともいうこの山は、東に揚州を望み、西は荊州と接する枢要の地にあり、荊州の劉表、揚州の袁術、共に目を離すことのできない地域であった。
 もっとも、潜山一帯は険しい地勢が広がっているために大軍を動かすには向いておらず、両国の激突はもっぱら長江ないし荊州北部の南陽郡で行われた。そのため、自然と両国の目はこの地から離れていき、いつかこのあたりは両国にとって緩衝地帯の役割を果たすようになっていた。


 二国の狭間にあって、二国の支配が行き届いていない地域。
 それは言葉をかえれば、賊徒や無頼漢にとって格好の根城になる場所、ということである。
 先に窄融が盧江太守の劉勲と共に討伐した賊将のひとりである張多は、潜山周辺に巣食っていた山賊の頭目であった。
 張多は仲軍によって撃殺され、主だった配下もことごとく刑死の憂き目にあったが、仲軍の討伐の手を逃れた者たちも少なからず存在する。
 そういった者たちは潜山に逃れ、街道を行く旅人や隊商を狙って小規模な襲撃を繰り返した。これまで略奪で蓄えてきた財貨や食料があらかた仲に奪われてしまったため、彼ら自身が生き延びるためにもそうせざるを得なかったのである。


 そういった事情もあり、現在の盧江郡の治安はかなり悪くなっていた。特に潜山がある西部から南西部にかけては、夜間はもちろん昼間に街道を往来するのも注意を要するような状況が続いている。
 これに対し、劉勲は潜山の南に位置する重要都市 皖に仲軍を集めて治安の回復に努めており、この行動は着実な成果をあげていた。が、なにぶんにも盧江郡は広い。仲軍が駐屯する城市から少し離れれば、賊徒は依然猖獗を極めていた。



 その皖の北、潜山の南麓をはしる街道を、ひとりの旅人が足早に歩いていた。
 地味な灰色の外套で身体を覆い、同色の帽子を目深にかぶっているため、年齢はおろか性別さえ定かではない。
 ただ、それでも大体の背丈だけはわかる。男性であればやや小柄、女性であればやや長身、そんな評価を受けるだろう。


 旅人は人目を気にするように、あるいは何かを警戒するように時折周囲を見回している。
 今現在、街道を行くのが危険だということはわかっているが、どうしても行かねばならない用事があり、警戒しつつ旅している――この旅人の様子を見れば、十人が十人、そう考えるに違いない。少なくとも、この旅人を見つけた三人組の山賊はそう考えた。
 腕に自信があればコソコソする必要はない。これだけ警戒するということは、危急の際に対処する術がありません、と白状しているようなものだ。
 貧相な格好から推して金目のものは期待できないが、ああいう貧相な奴ほど大金を隠し持っていたりする。なにより、あれだけ外見を隠すということは女性である可能性が高い。であれば、稼ぎにはならなくても別の楽しみ方がある。


 三人組の山賊は小声でささやきあった。
 より正確にいえば声を発したのは二人だけで、もうひとり、明らかに他の仲間よりも年が若い賊徒は、黙って二人の後ろに従っているだけだったが。
「一日歩き回って獲物が無しじゃあお頭にぶん殴られる。やっちまおうぜ」
「だな。日が落ちる前に片付けよう」
 彼らは斥候であり、隊商などの獲物を見つけたら、それを本隊(といっても十人たらずだが)に知らせる役目を負っていた。
 だが、治安の悪化にともなって街道を往来する人の数は激減しており、今日は朝から獲物らしい獲物が見つかっていない。このままでは叱責を免れない、と案じていたところに一人旅の(おそらくは)女性を見つけたのである。逃がすわけにはいかなかった。




「で、女だったら当然俺が一番な?」
「ここで俺に一番を譲ったら、昨日の賭けの負けは忘れてやってもいいぞ」
「ち、わかったよこんちくしょう!」
 そんな言葉と共に二人は動き出し、少年も慌てて後に続いた。
 途中までは足音を潜めて近づき、ある程度まで近づいたら一気に駆け出して距離を詰める。
 その足音を聞いて慌てたように振り返った旅人は、自分に向けて殺到してくる三人組を見つけた。
 咄嗟に走り出そうとするも、走ったところで逃げ切れないと観念したのだろう、すぐに足を止めてしまった。


 こうして山賊たちは労せずして旅人に追いついた。旅人が警戒するように身を縮める中、一人が反対方向の道を塞いで逃げ道を奪ってしまう。
「さて、これで逃げられないぜ」
「俺たちは天柱山にその人ありといわれた張多さまの配下だ。このあたりを通る旅人には通行料をはらってもらわないといけなくてね」
 こういう時、脅し文句が個性的である必要はない。わかりやすいくらいでちょうどいいのである。そうした方が相手は状況を理解しやすい。


 その証拠に、旅人は小さな声でこう云った。
「……通行料を払えば、通してくれるのデスか?」
 それを聞いた賊たちは顔を見合わせて下卑た笑みを交す。聞き間違いようのない女性の声だったからだ。
「もちろんだ。だが、その前に顔を見せてもらおうか。ついでにその外套もとってくれ。最近はこのあたりも物騒だからな。お前さんが俺らの敵じゃないという保証はない」
 その言葉に旅人はかすかに躊躇したように見えた。
 だが、ここで拒絶しても無理やり剥ぎ取られるだけであることは理解できているのだろう。ひとつ溜息を吐くと、最初に帽子をとった。


 途端、ふわりと広がった髪が賊たちの目を釘付けにする。明るい栗色の髪は見るからに柔らかそうで、あらわになった顔もそこらの村娘では太刀打ちできないほど上玉だ。
 これはもしかすると大当たりであったかもしれない。期せずしてそう考えた三人は、その少女が外套を脱いだ瞬間、その思いを確信にかえた。
 少女の服は動きやすさを追求しているようで、両肩はむき出しになり、形の良い胸部や細く引き締まった腰、すらりと伸びた脚などが一目で見て取れる。それでいて、色を売るような爛れた雰囲気はまったくない。健康的な色気というものがあるならば、この少女はまさしくそれの持ち主であろう。


 ――ただひとつ、腰の左右に差さった双剣だけが異質であった。


 しかし、一人旅をする女の護身道具だと思えば、別段不審がることではない。山賊たちはそう考えたが、とはいえ、これをもって暴れられたら面倒だ。せっかくの上物に傷でもつけたら一大事。
 そう考えたひとりが、ずいっと一歩前に進み出た。
「おい、腰のものを寄越せ。妙なことを考えるなよ?」
「通行料を払えば通してくれるのデスよね? この武器は関係ありません」
「ほう、俺らに逆らうということは、やはりお前、何かよからぬことを企んでいるのだな。これは砦にかえって入念に取り調べる必要がありそうだ」


 それを聞いた少女が小首を傾げた。
 一見、無邪気にも見える仕草。だが、つっと目を細めた少女の雰囲気は、寸前までのものと少しだけ異なっていた。


 しかし、山賊たちはこの変化に気づけない。気づいたところで何が変わることもなかったろうが。
 栗毛の少女は、自分を取り囲む三人組を見回して問いかけた。
「砦、デスか? つまりアナタたちは行きずりの盗賊ではない?」
「ふん? 何を証拠に我らを賊だとぬかす?」
「先に偽帝の軍に蹴散らされた潜山賊の頭目の名前は張多。その配下であるというアナタたちが賊以外の何であるというのデス? まあ討伐された者の配下だと誇らしげに名乗るくらいデスから、おおかた食い詰めた流れ者が適当に騙っているだけだと思っていたのデスけど」


 そう口にする少女の顔に恐怖など微塵もない。
 人影のない街道で三人の男に取り囲まれながら、平然としているその姿に、ようやく賊徒は不審を覚えた。それでもまだどこかで「まさか」という思いがあったのだろう、ひとりがからかうように云った。
「俺たちが行きずりの盗賊でないとしたら、どうするというのだ?」
「それはもちろん決まってます。一人より二人。二人より三人。三人よりたくさん。山賊、盗賊、湖賊、江族、およそ賊と名のつく人たちはたくさん殺した方が良いのデス。大は世の為、人の為、小は私の路銀のために」
 歌うようにそう云うと、少女の桜色の唇に好戦的な笑みが浮かぶ。
 陰惨さのない、それでいて確かに此方を貫いてくる殺意。
 賊たちは少女の言葉よりも、むしろその表情に怖気を覚えて後ずさった。



 だが。
「がッ!?」
「ぎ……!」
 抜く手も見せずに腰の双剣を抜き放った少女は、一瞬後には双剣を前後に投擲していた。
 宙を飛んだ双剣は、それぞれが狙いあやまたずに賊徒の喉笛を刺し貫く。二人の賊徒は喉にささった剣を抱えるようにして、そのままドウと前方に倒れ込む。二度、三度と痙攣した後は、もう呻き声さえ聞こえなかった。



 それはまさしく瞬殺だった。前方はともかく、少女は後方をちらとも見なかったはずなのに、狙いは正確無比といってよい。
 ひとり残された少年は剣こそ抜いたものの、斬りかかることも逃げ出すこともできず、その場に立ち尽くしていた。
 今、少女の手に武器はない。斬りかかるか、逃げ出すか、どちらを選んでも成算は十分にあるはずだったが、何故だか少年は思ったのだ。どちらを選んでも殺される、と。


 少年がかかしのようになっている間、少女は殺した賊徒の身体を仰向けにさせて武器を引き抜き、先の言葉どおり懐を漁って金品を奪っていた。
 それを二度繰り返した後、少女はようやく少年に向き直る。
 賊の服の切れ端で刃についた血を拭った少女は、双剣を鞘におさめながら云った。
「さて、それでは案内してもらいましょうか」
「……あ、案内?」
「さっき云っていた砦への案内デスよ。そのためにアナタを生かしておいたのデス」
「……あ、案内すれば、おれは助けてくれるのか? お、おれは好きで賊になったんじゃない。生きるためには、こうするしかなかったんだッ、殺さないでくれ!」
 今さらのように身体をがくがくと震わせて哀願する少年を見て、少女は思いがけないことを聞いたように目を瞬かせた。
 そして、心底不思議そうに首をかしげながら、こう云った。


「助けるわけないでしょう? 賊の事情なんて知ったことではないデス。ここで死ぬか、案内してから死ぬか。好きな方を選んでください」
 



◆◆




 数日後、少女の姿は皖の城内にあった。
 すでに日は落ちており、城内であっても外出は禁止されている。そのため、少女はおとなしく飯店兼宿屋の一階で、ちびちびとなめるように酒を飲んでいた。
「当面の路銀は確保できましたけど、贅沢できるほどじゃないデスからね。食料だけは山のようにありますが」
 山賊たちが云っていた砦というのは潜山の麓にある村のひとつだった。その村から(この世からも)山賊を追い払った少女は、感謝の証として村人から背負いきれないくらいの大量の食べ物をもらったのである。


 これからどこに向かおうと餓死の心配だけはない。
 だが、少女がどれだけ頭をひねっても、次に行くべき場所は浮かび上がってこなかった。
 少女の身上は複雑だった。為すべきことは忘れていない。しかしながら、それを為してはならない理由も抱えているのである。
 しかも、為すべきことの方は今の自分ではまだ力が足りない、という自覚もある。
 もともと、少女は酒を飲むと盛り上がるのではなく盛り下がるタイプだった。本人にはあまり自覚はなかったが。
 とつおいつ考えていくにつれて段々と侘しくなってきた少女は、手慰みに宿の主人から琴を借り受け、ゆっくりとそれを弾き始めた。



 夢寐に忘れぬ母の顔
 篤き貴き君の恩
 孝を想いて孝ならず
 忠を望んで忠ならず
 天柱山を仰ぎみて
 涙数行こぼれ落つ
 不孝不忠をいかんせん
 


 そんな少女の姿に各処から戸惑ったような、どことなく迷惑そうな視線が寄せられる。
 彼らははじめこそ少女の容姿や琴の腕前に感心していたのだが、なにしろ曲調も内容も心愉しくなるものではない。とてもこの曲を肴に楽しく飲もうという気にはなれなかった。
 場合によっては罵声のひとつも浴びせられたであろうが、飯店でひとり酒を飲みつつ、涙ぐんで琴を弾いている少女の姿はどう見ても普通ではなく、酔客たちも声をかけかねた。
 色々な意味で酔いが冷めてしまった客たちは、改めて酔いなおす気にもなれず、それぞれの部屋に引き上げるために腰をあげる。
 宿の主人は頭を抱えたが、今さら少女を止めても手遅れだろう、と諦めた。それにあの少女からは気前よく多めの宿賃をもらっているので、文句を云うこともできなかったのである。


 と、不意に琴の音が止まったので、主人は少女の卓を振り返った。
 もしかしたら少女が状況に気づいてくれたのかもしれないと思ったからだが、主人の視界に映ったのは少女を取り囲むように立ち並ぶ数人の男たちの姿だった。いや、よく見れば彼らの真ん中に立っているのは髪を短く切った女性であるようだ。
 どちらにせよ、なにやら剣呑な雰囲気が立ち込めてきたことは間違いない。まだ残っていた客たちは、面倒事はゴメンだとばかりに足早に階上に姿を消す。主人はというと、一旦は勇を奮って止めようとしたのだが、男たちに凶悪な眼差しで睨まれてあわてて奥へと引っ込んだ。
 どうか騒ぎになりませんように。そんな儚い願い事を呟きながら。




 当然というべきかどうか、少女と、少女を取り囲む者たちに主人の切なる願いは聞こえていない。仮に聞こえたとしても、双方とも一顧だにしなかっただろう。
 両者の会話は、はじめから刃の気配を漂わせていた。


「率直に訊く。貴様、馮則だな?」
「率直に云いますが、今すぐワタシの前から消えてください。無礼者の相手をする気分ではないのデス」
 互いにゴミでも見るような目つきで相手を睨む。
「もう一度訊く。先に長江にて江夏の黄祖を討ち取った暗殺者は貴様だな?」
「もう一度云いますが、みずから名乗りもせずに相手の名を問う無礼者の相手はしたくないのデス」
 ぶつかりあった双方の視線が火花を発し、両者の間で音をたてて空気が軋む。


 このままでは埒が明かないと見たのか、あるいはこの状況で怯みもしない相手の正体に確信を持ったのか。
 男たちを束ねる詰問者が自らの素性を明かした。
「俺の名は于麋。仲国虎賁校尉 窄無碍さまの一の配下だ。喜べ、馮則。無碍さまは貴様のごとき下賎の者を配下として召抱えてやろうと仰せだ。俺たちと共に来い。そうすれば、富貴を望むなら富貴、漁色を望むなら漁色、欲しいものを欲しいだけくれてやるぞ」


 それを聞いた少女――馮則は目を丸くし、次の瞬間、耐えかねたように大声で笑い出した。
 それを見た于麋の眉間に紫電がはしる。于麋には嫌いなものが幾つもあったが、他者から笑われることは、その中でも一、二を争うほどに嫌いであった。


「貴様、何がおかしい!?」
「ふふ、ふ、何が? それはもう全部、何もかも、デスよ。将軍ですらない、たかが一校尉の分際で『欲しいものを欲しいだけ』とは大きく出たものデス。おまけに、ワタシに仲に仕えよとは……ふふ」
 馮則はそこまで云うと、耐えかねたようになおもくすくすと笑い続けた。そのうち段々と笑いの衝動をこらえきれなくなってきたようで、しまいにはお腹を抱えて笑い始める。


 その姿を于麋は歯軋りせんばかりに睨みつけていたが、不意に表情を改めると、その口から低く、冷たい言葉が発された。
「――では、無碍さまの誘いは断る、と。そう解して良いのだな?」
「あはは、もちろんデス。考慮する必要さえ認めません」
 上体を折った体勢で律儀に返答する馮則を見て、于麋はこくりとうなずいた。
「わかった。無碍さまにはそう伝えよう」
 貴様の首と一緒にな。
 内心でそう付け加えると、于麋は懐から抜き放った懐剣を逆手に構え、馮則めがけてためらいなく振り下ろす。


 腹を抱えて笑い転げていた馮則にはかわしようのない必殺の一撃は、しかし。
「くッ!?」
 素早く上体を起こした馮則によって、あえなく受け止められていた。
 するりと伸びた馮則の左手が于麋の右手首を掴みあげる。体格からは想像もつかない、万力のような圧迫感を覚え、于麋の顔が苦痛で歪んだ。
 相手の手をふりほどこうと後方に下がりかけた于麋に対し、馮則は逆に于麋を自分の側に引き寄せようとする。


 短くも激しい力比べの軍配は馮則の方にあがった。咄嗟に踏ん張ろうとして踏ん張りきれず、于麋はよろめくように馮則に向かって倒れこんでくる。
 座ったままの馮則と、そこに向かって倒れこむ于麋。一瞬、ふたりの顔が口づけせんばかりに近づいた。
 その瞬間、囁くような馮則の声が于麋の耳にすべりこんでくる。


「文台さまの仇デス。死になさい、仲賊」


 その言葉の意味を于麋が理解する寸前、今度は冷たい刃が于麋の下腹部に突き立てられる。刃の冷たさはたちまち激痛の熱へと変じ、于麋の口からは苦痛の声と共に紅色の液体が吐き出された。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(七)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/03/01 21:49
 豫州陳国 長平


 俺たちが屯田を命じられた陳国であるが、実のところ、結構厄介な場所であったりする。
 いや、まあ仲と領域を接してる時点で厄介な場所であるのは誰の目にも明らかなのだが、そういったこととは別に、この地を治めている人物が色々な意味でタダモノではないのだ。


 この人物、名を陳王 劉寵という。
 この陳王殿下、名前と地位からわかるようにれっきとした皇帝の一族なのだが、何故だか弩の扱いに長じていた。それも、十回放てば十回とも的のド真ん中に命中させるほどの腕前である。
 これだけなら一風かわった貴人の手慰みで済んだかもしれないが、劉寵は自分だけではあきたらず、配下の兵にも弩の扱いを徹底して叩き込んだ。もしかしたら自ら指南さえしたかもしれない。
 その結果、どうなったのか。
 多数の弩を備えた陳軍の錬度の高さは黄巾党ら賊徒の軍にまで知れ渡るようになり、賊軍は陳国を避けて通るようになった。嘘みたいなホントの話である。事実、黄巾の乱の時もそれ以後も、この地方には賊徒による被害がまったくといっていいほど出ていなかった。



 さて。
 ここで話が終わっていれば「陳王殿下すげー」と称えれば済むのだが、あいにくと劉寵には別の一面があった。
 才気ある人物にありがちなことだが、劉寵は才気と等量か、あるいはそれ以上の野心も併せ持っていたのである。
 具体的に何をしたかといえば、皇帝になるための儀式を朝廷に無断でしようとしたり、董卓前後の混乱ではみずから輔漢大将軍を名乗って兵を動かしたりと、いっそ清々しいほど直截的に野心をあらわしている。


 武力が野心を生んだのか、野心が武力を育んだのかは定かではないが、みずから輔漢(漢をたすける)を名乗った人物が、今上帝を奉戴する曹操の姿をいつまでも黙って見ていられるはずがない。
 許昌がある潁川郡と陳国は同じ豫州にあり、しかも隣接している。地理的に見ても、曹操と劉寵の為人から見ても、両者の激突は不可避であると思われていた。


 しかし、今日までこの激突は起こっていない。
 これは劉寵の下にいる一人の賢相の働きの賜物であった。
 駱俊(らくしゅん)、字は孝遠。この人物が主君の野心をたくみに押さえ込み、許昌と陳との橋渡しをしたことにより、豫州の戦火は未然に防がれたのである。



◆◆



「駱国相は徳高く、天災もあえてこれを避けると称えられる名相でいらっしゃいます。そして、私を長平の県令に推してくださったのもこの方なのです」
 長平県庁の執務室。
 そこで俺は若干の居心地の悪さを覚えながら、陳羣から現在の陳国の情勢を教えてもらっていた。
 ――念のためにいっておくと、別に陳羣に対して含むところがあるわけではない。いつ陳羣のドジが炸裂するかと警戒しているわけでもない。
 単純に、陳羣の俺に対する態度が丁重すぎて座りが悪いのである。


 あらためて云うまでもないが、俺はすでに虎牢関守将の任を解かれている。元広陵太守、現長平県令の陳羣から下にも置かないもてなしを受ける身分ではない。
 しかしながら、陳羣の俺への態度は親か主君かというくらいに丁重だった。さすがに周りに人がいる時は、県令という立場もあってか、そこまで露骨に畏まったりはしないのだが、今のように二人きりになると、こちらが戸惑うほど礼儀正しく接してくる。
 正直、これでは俺の方が落ち着かない。一度、控えめにその点を指摘してみたのだが――
「北郷さまは私にとって命の恩人であり、一族の恩人。高家堰にて救われた御恩は終生忘れるものではありません。礼をもって接することに何の不都合がありましょうや」
 ときっぱりと断言されてしまいました。



 そんなわけで、俺は微妙にむずがゆい思いを強いられているのだが、陳羣はそんなこととは知らずに話を続ける。
「長平県は潁川郡、汝南郡と接する陳国の要地。ここに私という降人を据えることは、丞相閣下に対して陳側の従順を示すことになります。同時に、陳王殿下に対しては私の父祖の名声を引き、丞相閣下の頚木から私を解放するのだと説いて了承を得たわけです」
 陳羣の祖父は陳寔(ちんしょく)といい、葬儀には三万人の参列者が訪れたという潁川の名士である。
 曹操の麾下にある人物に長平県を任せよ、といっても劉寵はうなずかないだろうが、それが世に知られた陳寔の孫であるならば話はかわってくる。


 世人はこの人事を「劉寵が陳羣を陳国に招いた」ものと見なすだろう。それは陳家の名声を取り込むことにつながる。また、いざという時に陳寔ゆかりの人たちが味方してくれることも期待できるだろう――そんな風に劉寵を説く駱俊の姿が目に見えるようだった。
 これを聞くだけでも、駱俊が朝廷(曹操)と陳(劉寵)の関係に心を砕いているのがよくわかる。
 ちなみに、鄧範が名と字をかえる契機となった『文は世の範たり、行いは士の則たり』という碑文は、この陳寔さんのものだったりする。世の中というのは色々なところで繋がっているものだ。


 ともあれ、陳羣の話を聞いた俺は素直に感心した。
「なるほど、巧みな人事ですね」
 ただこの人事、任命された陳羣に相応の器量がないと、かえって両者の関係を悪くすることになりかねないのだが、陳羣にその器量があるか否かは考えるまでもない。
 そのあたりも見抜いた上での人事ならば、確かに駱俊は名相、賢相と呼ぶに相応しい。そして、まず間違いなく見抜いた上での人事であろう。
 今日まで袁術が汝南から北上して来なかったのは、曹操のほかにこういった難敵が存在することを知っていたからなのかもしれない。




 だが、そう考えると最近の袁術の動きは更にきな臭さを増してくる。
「近頃の仲の不穏な動きは、これまで立ちはだかってきた壁を崩す準備が整った――そのことを示す可能性があるわけですね」
 俺の言葉に陳羣がうなずいた。
「私もそれを案じています。このたびの要請はそれに備えるためのもの。幸い、今日まで汝南の仲軍に目立った動きは見られませんが、状況はまだ予断を許しません。北郷さまたちも十分に気をつけてください」
「承知いたしました、夏侯将軍にもお伝えして――」


 と、その時だった。
 執務室の外が何やら慌しくなり、何事かと俺と陳羣が顔を見合わせた途端、ひとりの兵士が飛び込んできた。
 陳都からの急使であるというその兵士の報告によれば、今、陳都に向けて仲軍の一部隊が接近しつつあるという。


 それを聞くや陳羣は卓を叩くようにして立ち上がった。
「仲軍が動いたのですか!?」
 ついに仲が本格的な北上を開始したのか。陳羣は、そして俺もそう考えたのだが、兵士はかぶりを振った。
「いえ、違います。この部隊、兵数はおよそ二百あまりのみにて、後続の部隊も確認できておりません。先触れの使者によれば、兵を率いる張凱陽(ちょうがいよう)なる仲将は、陳王殿下への降伏を望んでいるとのことです」
「降伏……仲将が、今この時期に? それで殿下はどうなさったのです?」
「は。偽りの降伏に違いないゆえ、降伏を拒絶し、ただちに討ちとるべしと主張する者もいたのですが、殿下は『高祖(劉邦)は降伏を望む者を寛大に受け容れることで天下を得たではないか』と、仲将の降伏を受け容れることを決断なさいましたッ」


 これを聞いて、俺と陳羣は再び顔を見合わせた。
 昨今の仲の動きと今回の事態、そこに何の関係もないと考えるのは楽観が過ぎるだろう。
 俺が気に入らないのは、張凱陽という人物がわざわざ劉寵に対して降伏を申し出てきたことだった。
 仲を裏切るということは、仲の恨みを一身に浴びるということでもある。であるならば、降伏する相手は劉寵ではなく曹操を選ぶのが普通ではないか。少なくとも俺なら劉寵に降伏はしない。いつ仲に踏み潰されるかわかったものではないからである。さすがに仲軍は賊と違って陳を避けて通ったりはしないだろう。



 おそらく、劉寵が降伏を受け容れた背景には、仲将が曹操ではなく自分を選んだことへの優越感があったはずだ。ここで降伏をはねつけて「なら曹操に降伏しよう」と考えをかえられてもまずい、という思惑もあったかもしれない。
 いずれにせよ、仲将は劉寵の為人や、許昌と陳との複雑な関係を見抜いた上で行動している節がある。そこがどうしても引っかかった。


 もちろん、俺の考えすぎ、という可能性もある。ぶっちゃけ、仲将の名前からして気に入らないので、俺が先入観を持っているのは否定できない事実なのだ。
 まあ、さすがにこの感情が見当違いなものであるのは承知しているので、口に出して誹謗しようとは思わないが、それを差し引いても、この張凱陽なる人物の行動には不審を抱かざるを得なかった。


    
 使者はさらに報告を続けた。
「この件につきまして、駱国相から陳県令に伝言がございます」
「承ります」
「『此度の件、降伏が真であれ偽りであれ、仲軍は間違いなく動くだろう。その矛先が長平県に向けられることも考えられる。警戒怠りなきように』、以上です」
「確かに承りました。委細承知した、と駱国相にお伝えください」
「は! それではそれがし、これにて失礼いたしますッ」
 そういうと兵士は慌しく礼を施し、急ぎ足で部屋を出て行った。


 俺は使者が去るのを待って、自分も腰をあげた。
 敵が長平に来るとしたら、真っ先に仲軍とぶつかるのは俺たちである。今、あちらには夏侯惇と司馬懿、徐晃、鄧範が揃っているので滅多なことはあるまいが、それでものんびりなぞしていられない。
「それでは陳県令、私もこれで失礼いたします。事の次第を夏侯将軍にお伝えしなければなりません」
「よろしくお願いします。この次の報告次第では、夏侯将軍と北郷さまに長平に入っていただくことになるかもしれません。その旨もあわせてお伝えいただけますか?」
「は!」
 陳羣の言葉に応じ、踵を返した。



 県庁の廊下を足早に進みながら、俺は今しがたの陳羣の言葉を振り返る。
 俺たちが長平に入るということは、それだけ苦しい戦況になるということ。俺と同様、陳羣もこの先の展開に危惧を抱いていることは明らかだった。
 仲の本軍は遠く寿春にあり、多数の弩に守られた陳の防備は鉄壁。民に恨みを買っているということもない。くわえて、近づいている仲軍はわずか二百で、しかもその目的は陳への降伏である。
 汝陽を守るのは袁嗣(えんし)という人物で、名前からもわかるとおり袁術の一族だが、これまでさしたる武勲も治績もない。
 こう並べてみると、俺や陳羣の心配は杞憂のように思われる。


 だが、先ごろから仲軍が陳国をうかがう動きを示しているのは事実である。
 となると、やはり誰かが裏で動いている、と考えるべきだろう。それは袁術なのか、張勲なのか、あるいは――


「于吉、なのか」


 誰の耳にも届かない小さな呟き。
 この名を排除することは、やはり出来なかった。淮南・高家堰のことを考えれば、今回の陳国の騒動はすべて俺をおびき出すための布石である可能性も十分にありえるのだ。
 一方で、実は于吉とか関係なく、別の誰かが何かを企んでいるという可能性もあるわけで、考えれば考えるほど頭がこんがらがってくる。


 俺はガシガシと頭をかいてぼやいた。
「実は張凱陽の降伏は本当だったってのが一番ありがたいんだけどな」
 これだってありえないことではないだろう。
 だが、これがいわゆる「希望的観測」に過ぎないことは、誰に云われるまでもなく、俺自身が一番よくわかっていた。
 


◆◆◆



 豫州陳国 陳城


 窄融の命令に従って陳に潜入していた于茲は、城内で仲軍の降伏の話を聞いてわずかに戸惑った。
 降伏してきた武将が姉の于麋ではなく、張凱陽だったためである。
 当初の窄融の計画では、まず于茲が陳に潜入して内部で準備を進め、しかる後に于麋が降将として陳に入り、そこで姉妹が入れ替わってから事に及ぶ手はずだったのだが、何か不都合が生じたのだろうか。


 城内に入った仲の降兵は陳兵の厳重な監視下に置かれたが、于茲は仲兵に紛れ込んでいとも簡単に内部に潜入した。
 灰褐色の髪を黒く染めた于茲から事情を問いただされた張凱陽は、やや言いにくそうに口を開く。
「それが……窄校尉が仰るには御令姉との連絡が途絶えてしまった、と」
 返って来た答えを聞いて、于茲は息をのむ。もっとも、その表情の変化はごくごく微細なもので、張凱陽からは眉一つ動かしていないようにしか見えなかったが。
「……姉さんが?」
「は。窄校尉の仰った言葉をそのままお伝えします。『告死兵からの連絡も絶えた。何が起きたのかは調べさせているが、陳の計画をこれ以上遅らせることはできない。于麋の役割はお前が、お前の役割は張凱陽が、それぞれ務めよ』とのことです」


 そう云うと、于茲とさしてかわらない年齢の少女は、どこか不安そうな眼差しを于茲に向けた。
 張凱陽は窄融直属の部下であり、于麋のことも于茲のことも知っている。窄融の信頼を得ている姉妹、その一方の代わりを務めよと云われても出来るかどうか。張凱陽の不安はそこにあった。
「窄校尉は詳細についてはあなた様に訊ねよと仰せでした。私は何をすればよろしいのでしょうか?」


 訊ねられた于茲は、何事かを考えこむようにわずかに眉根を寄せる。
 窄融の指示が意味するものを読み取る風であったが、すぐに結論が出たようで、持参してきた荷物を張凱陽の前で広げた。
 それは――
「お酒、ですか?」
「……酒と犀角(さいかく)の杯。これを陳王へ献上する」
「犀角、これが……」
 張凱陽は驚いてその杯を見つめた。


 犀角とは文字通り動物のサイのツノのことである。
 古来より、犀角は解毒の効用があると信じられており、鴆酒(ちんしゅ 要するに毒酒)に対しても高い効果があるとされてきた。毒殺を恐れる貴族や皇帝は争うように犀角の杯を求め、結果、犀角の価値は天井知らずとなっている。庶民や中級以下の官人では目にすることさえ稀であろう。
 その犀角杯を目の当たりにした張凱陽は驚いたが、同時に強い危惧を覚えた。
 鴆酒は古くから貴人の暗殺に用いられてきた手段である。降伏してきたばかりの武将が犀角杯と共に酒を献上する。これが意味するものは何なのか。


 自然、張凱陽の声が低くなった。
「毒酒、ということでしょうか? しかし、陳王ともあろう者がそう簡単に降将からの酒を飲むとは思えませんが」
 すると、それを聞いた于茲は無雑作に酒を犀角杯に注ぎこみ、ためらうことなくこれを飲み干した。
 驚いて声も出ない張凱陽に于茲は静かに告げる。
「……見ての通り」
「毒ではない、と。しかし、ならばどうして?」
「陳王は皇帝を気取っている。降伏を受け容れたのも、高祖のごとき大度を周囲に知らしめるため。信用して降伏を受け容れた相手からの献上品を疑えば、その目論見は水泡に帰す」


 かつて漢の中興を成し遂げた光武帝 劉秀は自軍に数倍する捕虜を得たとき、彼らの只中を軽装で闊歩して降伏した将兵の信頼を得た。
 赤心を推して人の腹中に置く。
 劉寵が張凱陽の献じた酒を飲み干すことは、この故事に通じるものがある――そう使嗾すれば劉寵は飲むだろう。そして、それが毒酒でないことが明らかになれば、降将を信じた劉寵の名はおおいに高まり、その名声をもたらした張凱陽は陳王の信を得ることができる。


 あるいは駱俊あたりが毒酒の可能性を慮って割って入ってくるかもしれない。
 だが、それはそれでかまわない。疑われたら張凱陽が自分で飲んでみせれば良い。そして、こう云うのだ。
『一度は降伏を受け容れておきながら、毒を疑い、難を避けようとする。この身を疑うならば、どうして降伏を受け容れたのか。降伏を受け容れたならば、どうしてこの身を疑ったのか。ああ、光武帝に比して陳王殿下の器のなんと小さなことよ。どうやら私は降る先を間違えたようだ!』



 それを聞いた張凱陽は、はたと手を打った。
「犀角を献じ、鴆毒を疑わせた上で陳王に酒を勧める。陳王がこれを飲めば私はその信を得て自由に行動できる。陳王が飲まねばその名を貶めることができる。どちらに転んでも仲の損にはなりませんねッ」
「……それだけでは足らない。駱俊が制止してきたときは、駱俊の名も陳王と同様に貶める。その時はこう云って」
 于茲は駱俊を貶めるための手順を説明していく。それを聞いた張凱陽は感心してうなずいた。
「かしこまりました。うまくいけば、君臣の中にヒビをいれることもできるわけですね」
「……そう。私はいざという時にあなたを助けるために待機している。本来なら、こういう荒事は姉さんの出番なのだけれど、いないのなら仕方ない。私がやる」


 だから心配する必要はない。
 于茲は言葉にしてそう云ったわけではなかったが、云わんとするところは張凱陽にも伝わった。伝わった、と張凱陽は思った。
「はい。必ずあなた様の代わりに役目を果たしてごらんにいれます」
 そう云う張凱陽に于茲はゆっくりとうなずいてみせた。


 張凱陽が陳王宮に招じ入れられたのは、それから間もなくのことであった。




◆◆




 陳王宮、謁見の間。
 溢れんばかりに酒が注がれた犀角の杯、それを張凱陽が飲み干した途端、周囲からは感嘆とも驚愕ともとれるどよめきが湧き起こった。
 張凱陽は王座に座る劉寵に向かって、そしてその劉寵と自身を隔てるように立ちはだかる駱俊に向かって口を開いた。
「陳王殿下に申し上げます。私めの赤心はかくのごとし。駱国相、私への疑いは晴れたでありましょうか。それともこの酒壺を空にせねば証を立てたことにはなりませんでしょうか? この身は降将、陳王殿下の御意とあらば、自らの献上品を自らで飲み干す無様をこの場で晒すことも厭うものではありません」


 張凱陽がことさらゆっくりとそう云ったのは、自身が献じようとした酒に毒の疑いを挟んできた駱俊に対する嫌味であることは誰の目にも明らかだった。
 劉寵の機嫌は見るからに悪い。
 当初、劉寵は張凱陽が献じた酒を飲むつもりだった。度量の大きさを示す絶好の機会だと思ったのである。
 むろん、危険を考えないわけではなかったが、もし仲が劉寵の毒殺を試みるならば、もっと別の手を考えるだろう。降将に犀角杯を与えて毒酒を献じるような、そんなあからさまなことはするまい、と劉寵は判断した。
 張凱陽が劉寵の娘とほぼ同じ年齢であることも、この判断に多少の影響を与えたかもしれない。


 だが、杯をとろうとした劉寵を駱俊が制止する。
 駱俊はこの時期に降伏してきた仲将を素直に信じることはできなかった。劉寵の自尊心をくすぐるようにして献上された品も同様である。
 献上された酒食はその場で口にするべし、などという決まりはない。毒を疑って突き返せば劉寵の恥になるだろうが、一旦受領して、後で毒味をしてから食する分には何の問題もない。
 駱俊はそういって劉寵を諭そうとしたのだが、それに先んじて張凱陽が動いた。自らこの場で毒味役を務めてみせたのである。


 降将に毒味をさせた後に献上品を口にしても大度を示すことはできない。むしろ、一度は降伏を容れた相手を疑ったことになり、かえって恥をかくだけである。これが劉寵の不機嫌の原因であった。むろんというべきか、その感情は自身を制止した駱俊にも向けられている。
 一方、駱俊は別段引け目を覚えてはいなかった。守るべきは劉寵であって、毒害の危険から主君を遠ざけるのは当然のこと。降伏した相手が献じた酒を飲めば劉寵好みの逸話になるが、一方で、漢室を支える皇族の一員として軽率だという謗りも免れないだろう。相手は漢に背いた仲の人間である。用心してしすぎるということはない。



 そう考えていた駱俊は、張凱陽のあてつけじみた言葉にも眉ひとつ動かさず、冷静に応じた。
「張将軍の赤心、確かに見届け申した。一抹の疑いを差し挟んだこの孝遠の小心をお笑いください。されど、それがしは陳国の相として、殿下を無用の危険に晒すわけにはいき申さぬのです。張将軍にもご理解いただきたく存ずる」
「令名高き駱国相の行いに誤りがあろうはずはなし、承知いたしました。つきましては駱国相、私めの赤心を見届けていただいた今、杯を受けていただくことには何の問題もございませんね?」


 そう云って張凱陽は再び犀角杯に酒を注いだ。
 それを見て、駱俊がかすかに眉を寄せる。しかし、駱俊の口が開かれる寸前、張凱陽は口元に笑みを浮かべながら穏やかに云った。
「天災もこれを避けて通るといわれた天下の名相が、私のごとき小娘に毒味をさせた挙句、杯を拒むような無礼はなさらぬと確信しております」
「それは――」
「孝遠」
 駱俊が何か言いかけたとき、劉寵が不機嫌そうに口を挟んだ。
「張凱陽は昨日までは仲の将であった。しかし、今日よりは陳の将となる。これを快く思わぬ者も多かろう。であれば、まず相たるおぬしがこれを信じる態度を見せるべきではないか」


 駱俊はその言葉にうなずかざるをえなかった。劉寵の本心が「これ以上、恥をかかせるな」という点にあることは明白だったが、言葉自体は間違っていないのである。
 先ほどの張凱陽のためらいのない杯の干し方からして、これが毒酒である可能性はまずない。張凱陽は新たな主君のために趣向を凝らしただけであり、それを無粋に壊した駱俊に意趣返しをしたいだけなのかもしれない。
 駱俊があくまで杯を拒めば、後日に災いの種を残してしまう。ここは素直に杯を干し、張凱陽に詫びるべきだろう。


 そう考えた駱俊は張凱陽が差し出す杯を受け取り、衆人の見守る中、それをゆっくりと干していった。というか、酒が思ったより強かったので、ゆっくりとしか干せなかった。駱俊はあまり酒が強くなかったのである。
 そして、杯の半ばが空になった時だった。



 ビシャリ、と。奇妙に濁った音が謁見の間に響いた。
 その音にわずかに遅れて、駱俊の官服が朱に染まる。
 それは人の口から吐き出された血であったが、吐き出したのは駱俊ではなかった。



「…………え?」



 駱俊の前に立っていた張凱陽は、何が起こったのかわからない、というように自らの口元を手でおさえている。手と口の隙間からは暗赤色の液体がぼたぼたとこぼれ落ちていた。
 と、次の瞬間、張凱陽は激しくえずき始めた。そのたびに吐き出された血が周囲に飛び散り、粘ついた音を立てて宮殿の床を朱色の斑模様に染めていく。
 誰もが、何が起こっているのか把握できなかった。張凱陽でさえ、自分の身に何が起きているのかを理解できていなかった。
 これまで経験したことのない、焼けるような激痛に身体の内部をかき回されながら、張凱陽は思う。于茲みずからが毒味をした酒を、そのまま持ってきたのだ。于茲がこれを飲んでから、誰かがすりかえる暇も、毒を投げ入れる隙もなかったと断言できる。
 それなのに、どうして。


 その疑問は、再び胸奥からわきあがってきた、いいようのない悪寒と灼熱によって粉々に砕け散った。喉をかけあがるそれを押さえ込むことなどできない。たまりかねた張凱陽はもんどりうって床に倒れこみ、その口からはこれまでに数倍する量の血が吐き出される。否、それは血液だけでなく、胃の内容物と、もしかしたら臓腑の一部すら含まれていたかもしれない。




 数瞬の空白は一人の宮女の悲鳴によって破られた。
 その悲鳴に背を押されるように、劉寵を守っていた衛士の一部が慌てて張凱陽に駆け寄っていく。
 しかし、彼らが見たものは、はや痙攣をはじめた張凱陽の姿であった。目は光を失い、口元からは赤黒く変色した舌が垂れおちて、それを伝うように今なお血が少しずつ床にこぼれおちている。
 床を染める血の量は少なくなってきているが、それは症状がおさまったというより、吐き出すだけの血がすでに体内に残っていないからだろう――医療の心得のない衛視たちがそう確信できるくらい、張凱陽の周囲は大量の血液と吐瀉物、そして鼻を突く異臭で覆われていた。決して大柄ではない少女の体内に、これほどの血が流れていることに驚いた者もいたかもしれない。




「鴆毒……か?」
 王座から立ち上がった劉寵がかすれた声で呟いた。
 張凱陽はやはり仲からの刺客であったのか、と。
 そう思った途端、劉寵の顔色は死者のそれに重なった。張凱陽が刺客であり、彼女が持ってきた酒が鴆酒であったのならば、それを飲んだのは張凱陽だけではない。
「孝遠!」
 劉寵が発した呼びかけ。まるでその呼びかけが最期の一押しになったかのように、駱俊の口から赤黒い血が吐き出された。張凱陽の血で染まっていた官服が、今度はまぎれもない駱俊自身の血で染めかえられていく。


 その様は、あたかもこれから先の陳都の命運を示しているかのようであった。




◆◆




 
「――申し上げます。陳王宮を探っていた密偵より報告です。異変の兆しあり! まだ確認はとれていないとのことですが、駱俊が倒れたらしゅうございます」
 それを聞いた于茲は小さくうなずいた。
「……僥倖」
 今日まで陳という車を支えてきた両輪のひとつが欠けた。もはや陳をはばかる理由はない。片輪だけでは車は動かせないのだから。


 今、于茲の手元には于茲と同様に陳に潜入した窄融の手勢が百人ばかりいる。張凱陽に従って降伏した二百の兵もいるが、于茲は彼らを計算に含めなかった。おそらく、今頃は怒り狂った陳兵に皆殺しにされているだろう。
 于茲は素早く決断した。
「……部隊を二つに分ける。一隊は城内に散り、大声で駱俊の死を叫びつつ、手当たり次第に家屋敷に火をつけろ。邪魔する者はことごとく殺せ。だが、女子供には手を出すな」
 むろん、これは慈悲心からではない。賊の襲撃に眉を動かさない豪傑も、女子供の泣き声を聞けば平常心を乱される。混乱を広めるために、泣き喚くしか能のない連中を利用しない手はない、というのが于茲の考えであり、ひいては窄融の考えであった。


「一隊は私と共に城門を開き、無碍さまを迎え入れる」
 その于茲の命令に、配下のひとりが恐る恐る意見を口にした。
「かしこまりました。しかし、大丈夫なのですか? 鴆酒を飲んだとうかがいましたが……」
「……この身は毒の娘。心配は不要」
「毒の娘、ですか?」
「人の形をした鴆と思えば良い」
 それを聞いた配下は顔を蒼白にして背後に下がった。



 元々、鴆毒でいう『鴆』とは毒蛇を常食することで羽や肉に毒性を持つに至った鳥の名前を指す。
 自分はこれの人間版である、と于茲は云った。
 いうまでもなくただのハッタリであったが、そこには真実の欠片も含まれている。
 先刻、張凱陽の前で鴆酒を飲んだとき、于茲は飲んだふりをしたとか、あらかじめ解毒剤を飲んでおいたとか、そういった小細工は用いていない。真実飲み干したのである。その後、張凱陽の前から離れた後、于茲は少なくない量の血を吐いている。


 何故、わざわざそんなことをしたのか。それはもちろん、張凱陽にあれが毒酒ではないと信じさせるためであるが、どうして毒の効きが遅く、また張凱陽と違って効果が致命的にならなかったのかといえば、それは于茲がこれまで何度も張凱陽と同じことをしてきたからであった。張凱陽との違いは、自分でそれを望んでやったか否かしかない。
 結果として、于茲は毒に対してある程度の耐性を得た。むろんまったく効かないわけではなく、毒を飲めば血も吐くし、臓腑も腐りかけている。おそらく、以前は姉と同じく黒かった髪が灰褐色に変化したのは毒の影響だろう。楊松や張機からは、もう長くないと云われていた。


 だが、そういったことは于茲にとって些事でしかない。
 すべては窄融のために。
 この毒の娘の一念が、陳を滅ぼす尖兵となる。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(八)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/03/01 21:42


 明晰夢という言葉がある。
 自分が夢の中にいると自覚しながら見る夢のことだが、張機、字を仲景という少女はその言葉を知らなかった。だが、それでも自分が夢の中にいるのだと自覚することは出来た。
 何故といって、今、張機は死別した夫の傍に座っていたからである。



 ――張機はかつて官界に身を置いていたことがある。官途に就いたのは十七の時であり、同年に上官の勧めで婿をとった。
 張機としてはまだ早いと思っていたのだが、なにしろ父母をはじめとして一族がほとんど総出で乗り気になってしまい、とても謝絶できる雰囲気ではなかったのだ。これで張家も安泰だ、孫はまだか、いや早すぎるだろ、と喜び合う家族親戚連中を相手に「まだちょっと早くない?」とは云い出しにくかった。


 それでも相手が気に入らなければ抵抗したであろうが、上官のお墨付きだけあって、このお相手、家柄も、性格も、容姿も文句のつけようのない好青年だったのである。
 もとより、ゆっくり想いを育んだ末の恋愛結婚など望むべくもない時代だ。それに、そもそも張機は想いを寄せている相手がいるわけでもなかった。いずれ他家より婿をとることは決まっているのだし、今回の縁談を断ったところで、次回の相手が今回以上であるという保証はない。
 結局のところ、早いか遅いかの違いだけなのであれば、ここであえて相手に恥をかかせ、上官の不興をこうむり、一族を落胆させる必要はない。
 張機はそうやって自分を納得させた。



 張家の総力を挙げて仲景の結婚を寿ぐべし。
 張一族は老いも若きも、男も女も皆あつまって、総出で式の準備を進め、張機はそんな面々を見て頭を抱える日々を送る羽目になる。
 まだ式まで一月以上あるというのに、明らかに力の入れ過ぎだった。無駄に気合が入っている、ともいう。今からこの調子では、式当日はいったいどんな大騒ぎになることか。それを思えば、頭も勝手に痛み出そうというものであった。


 ……だが、その心配は不要のものとなる。


 式まであと半月たらずという時、郷里の涅陽(でつよう)県を疫病が襲った。
 原因となったのは何であったのか、今となっては調べようもない。
 高熱と嘔吐、関節部の激しい痛み、症状のひどい者は言葉もまともにしゃべれなくなり、さらにひどい者は意識を失って、ついに戻らなかった。
 すぐさま医者が呼ばれ、大掛かりな祈祷が行われた。その甲斐あってか、一部の者たちの体調は回復した――ように見えたが、数日後、彼らは再び倒れ、より重い症状にみまわれた。


 傷寒(伝染病)だ、と誰かが口にする。
 当時の張機はその真偽を判別することはできなかったが、仮にできたとしても、何の役にも立たなかっただろう。傷寒であれ、それ以外の疫病であれ、これを治す明確な治療法などどこにも存在しなかったからである。




 バタバタと。
 あっけなく、本当にあっけなくたくさんの人が倒れていった。
 父も、母も、張機より幼い弟妹たちも。そして、張機の夫となる人も。
 張機は懸命に看病した。医者を呼んで治癒を祈った。書を読んで治療方法を探した。
 挙句、医者、薬師を名乗る怪しげな者たちから、傷寒に効くという高額な薬を買い求めもした。わらにもすがる思いだったのだ。
 だが、それらすべては無駄に終わった。



 本来ならば盛大な式が行われていたはずだった日。
 張機の視界に映る青年の顔に一月前の面影はなかった。目は落ち窪み、頬は乾いてひび割れ、唇は湿った土のように変色している。手足は骨と皮ばかり。服をめくれば、あばら骨の形をはっきりと確認することができただろう。
 五十歳、否、六十歳の翁だといっても驚く人はいないかもしれない。それほどにやせ衰えていた。


 まだ意識があったのは、幸運だったのか、不運だったのか。
 この日をもって張機の夫となった男性は、泣きはらした目で婚礼衣装をまとう妻の姿を見て、かすかに唇を震わせる。
 夫の意図を悟った張機が耳を寄せると、夫は小さくかすれた声で別離の言葉を囁いた。


 ただ一言。
 すまない、と。



◆◆◆




 揚州九江郡 寿春


「――――ッ」
 夜半。
 寿春城内の一画に設けられた施療院の一室で、張機は声にならない声をあげ、寝台の上ではねおきた。
 一瞬、自分の置かれた状況がわからずに混乱したが、すぐにここが自分の施療院であることに思い至り、暴れる心臓をなだめるように胸に手をあてる。
 すると、その手に奇妙にねばつく汗が絡みついた。夜着が寝汗を吸って重く濡れていたのである。


 張機はひとつ溜息を吐くと、夜着を替えるために寝台を離れた。
 昔の夢を見て、夜半に汗まみれで飛び起きるというのは、張機にとってよくあることだった。最近では、夢を見た記憶がなくても、起きたときに夜着が濡れていることも多い。
 夢を見たことを忘れているのか、それとも、もう身体がそういう風になってしまったのか。それは張機にもわからなかった。




 すでに秋も深まったこの時期、黄河の北では風は冷たく乾き、朝晩の冷え込みも厳しくなってくる。
 だが、寿春をはじめとした淮河の南では、風は水を含んで暖かく、寒さで凍えることはない。
 卓に置いておいた銀製の杯をとると、水がめの水をすくって一息に飲み干す。
 それでようやく人心地がついたのか、張機は額に張り付く髪を払い、湿った夜着を脱ぎ始めた。


「……南陽も河北に比べれば暖かいところだったけど、寿春ほどではないわね。さすがに水浴びはできそうにないけど」
 脱ぎ終えた夜着をたたんだ張機は、眉をしかめて汗で濡れた自分の身体を見下ろした。
 この施療院には風呂場もあるが、あれはあくまで患者のための施設であって、寝汗が気持ち悪いという理由で私的に使うわけにはいかない。
 水にひたした布で身体を拭って満足するしかなかった。



 替えの夜着を羽織った張機は、ふと思い立って窓をあけてみる。
 すると、暖かい夜風が頬を撫ぜるように優しく吹きつけてきた。あたりはすっかり静まり返り、人の気配はほとんど感じられない。これは時間を考えれば当然のことなのだが、この施療院で働く人、あるいは患者の数がここ数日で大きく減少しているのも事実だった。
 これは張機の指示によるもので、しばらく寿春を空けるための準備の一環である。
 先に張機は窄融に対し、半ば無理やり寿春に戻ることを承知させたが、あの時の窄融の言動から推すに、次に汝陽に戻れば当分あの城市から出てくることはできないだろう。


 張機は袁術に臣従しているわけではなく、窄融の禄を食んでいるわけでもない。なので仲や窄融の命令に従う義理はないのだが、この施療院を建てたのは袁術であり、運営費用も仲の国庫から出ている。その環境を用意したのが窄融であり、さらに張機の代わりに薬の材料を捜し求めてくる者たちも窄融の配下であった。
 これらを失えば、張機が診療できる患者の数は大きく減ってしまう。


 張機の治療は徹底して祈祷や呪いを排し、過去の医療知識を尊重しつつ、これに実践を積み重ねて形成されたものである。個々の患者にとって最良の治療は何かを探り、時には独自の方法で治療を試みることもある(むろん患者の許可はとる)。そうして得られた結果を蓄積し、分析し、また次の治療に役立てる。
 張機が常に懐にいれている『傷寒雑病論』と名づけた本は、これまで張機が積み重ねてきた経験と成果の集大成。これを完成させることが生涯を賭した張機の目的であり、そのためにもできるかぎりたくさんの患者を診る必要があるのだった。




 仲と窄融は張機にその環境を用意してくれた。ゆえに、ある程度、彼女らに行動を束縛されるのは仕方ないことだ、と張機は考えている。
 それに――
「あまり逆らってばかりだと、あの姉妹が何をしてくるかわからないしね」
 窄融に付き従う于麋と于茲の姿を思い出し、張機はそっと両肩を抱いた。
 どうしてあの姉妹がああも窄融に心酔しているのか、張機は詳しくは知らない。だが、人を人とも思わぬ姉妹の恐ろしさはよく知っていた。別に知りたくはなかったが、于麋に斬られた者たちや、身体を毒に侵された于茲の治療をしていれば、いやでも思い知らされてしまう。


 姉は他人を殺すことで、妹は自分を殺すことで、窄融の役に立とうとしている。あの二人は張機が窄融に歯向かえば、何のためらいもなく剣を向けてくるだろう。
 実のところ、于麋の方からはすでに幾度か殺気に似たものを向けられていたし、于茲の方からも警告とおぼしき言葉を突きつけられていた。姉妹からすれば、窄融に対する張機の態度は不遜だと映るらしい。
 付け加えれば、一時とはいえ官途に就いていた張機は、仲という国の危うさも、窄融という人物が持つ危険性も認識している。


 今の張機は、地面から突き出た無数の剣刃の上を、細い縄を伝って進んでいるようなものだった。いつ何時、足を滑らせて刃の海に身を躍らせることになるか知れたものではない。
 この状況が身体の変調に繋がっているのかもしれない、と思うこともある。


 だが、たとえそうだとしても、張機に今の立場を投げ出すことは不可能だった。
 張機の胸には夫であった人の最期の言葉が今なお木霊している。
 夫は何も悪いことなどしていない。苦しみぬいた末の理不尽な死を前にして、何の役にも立てなかった張機に恨み言のひとつやふたつ遺したところで何の不思議もなかっただろう。
 それなのに最期の言葉は謝罪だったのだ。あれはたぶん――いや、間違いなく、張機に向けた言葉。これから共に歩むはずだった妻に、共に歩めなくなることへの許しを請う言葉。


 あの言葉と、枯れ木のように倒れていった一族の亡骸が、張機に医の道を進む決心をつけさせたのである。




◆◆




 寿春での診療に一応の区切りをつけた張機は、子供ひとりくらいならば中に入れてしまえそうな大きな荷物を背負って再び汝陽へと向かった。
 荷物の中には薬草その他、治療に必要な道具一式がこれでもかとばかりに詰めこまれている。刀傷や化膿に効く傷をおおめに入れてきたのは、汝陽の重症患者のためであった。
 おかげで荷物はたいそう重たくなっていたが、単身で深山幽谷に踏み入り、何日間も歩き回って薬草を採取することもある張機は、華奢な外見に比してかなりの力持ちである。街道を進む足取りはしっかりとしたもので、一刻やそこら歩き続けたところで息がきれることはない。


 張機に弟子はおらず、また仲に仕えているわけでもないので仲兵の護衛もない。窄融あたりに頼めば人手を割いてくれたかもしれないが、もともと張機は小回りが利く単独行動を好むこともあり、寿春と汝陽の往来も単身でこなしていた。
 大荷物を背負った女性の一人旅など、好んで厄介事を招きよせるようなものだが、厚手の外套をまとい、長い髪を団子状に結った今の張機は、傍から見れば少年のようにしか見えない。
 くわえていえば、張機は自衛の術もそれなりに心得ている。相手が完全武装の兵士であればいかんともしがたいが、追いはぎ程度であれば何とでも対処することができるのだった。




 寿春は揚州九江郡にあり、汝陽は豫州汝南郡に位置する。
 徒歩で向かうとなればそれなりの日数を要するが、淮河をさかのぼればその日数を大幅に短縮することができた。豫州を流れる潁水や汝水といった河川は淮河と繋がっており、河船での往来が可能なのである。
 内陸ではこういった河川で結ばれた水路が陸路以上に大きな役割を果たしている。寿春が淮南でも随一といえる繁栄を誇っているのは、陸路のみならず、水路においても流通の要となっているからであった。


 ただ、物事というのは良い面があれば悪い面もある。物資の集散地であるがゆえの問題というのも存在した。
「繁栄している分、税やら詐欺やら賊やらで大変なのよね」
 張機は溜息まじりに呟いた。
 河川を利用しようとすれば官から税を取り立てられ、荷を運ぼうとすれば船主から法外な賃金を要求され、それらを乗り越えて淮河に乗り出せば賊徒に襲われる。長江には江賊と呼ばれる者たちが頻繁に姿を見せるというが、それは淮河もたいしてかわらない。
 張機が寿春を出るに際し、まず街道に出たのは、寿春近辺の水上の危険を良く知っていたからであった。



 そんなわけで、張機はまず街道に出て寿春を離れ、それから淮河の上に出た。
 ヘタな船主に頼むと水上で賊に豹変したりするが、この点、張機には今日まで施療院で培ってきた人脈があり、信用のおける相手を見つけることは難しくない。
 こうして淮河をさかのぼり、さらに汝水にはいった張機は、汝陽の南方で再び陸の人となり、目的地まであと半日というところまでやってきた。


 日は間もなく暮れようとしている。体力にはまだ余裕があったが、夜通し街道を歩くのはいくら張機といえども御免こうむりたい。
 そんなわけで、張機は通りがかった城市で宿を求めることにした。
 その城市は規模そのものはあまり大きくなかったが、汝陽への中継点として栄えているらしく、大路を歩く人の数は多く、通りは喧騒に満ちている。
 あたりの店からは、食欲をそそる香ばしい匂いと共に、肉や野菜を炒める音が響いてきた。一瞬、立ち止まりかけた張機であったが、意図的に耳と鼻から伝わってくる情報を遮断し、騒ぐ胃袋をなだめてさらに進んだ。


 すると、今度は露店が立ち並ぶ一帯にさしかかった。
 汝水か、あるいはその支流でとれたと思われる魚を串に刺して丸焼きにしたものや、油で揚げたものなどが並んでいる。塩を振っただけの素朴な料理であるが、そのぶん安い。店で出されるものと違い、量も自分の好みで調節できる。
 張機は少しだけ悩む様子を見せたが、やがて内心の懊悩にけりをつけるように力強い足取りで一軒の露店に向かった。



「できれば、あまり騒がしくないところが良いんだけど」
 しばし後。
 買ったばかりの揚げ魚をはむはむと咀嚼しながら、張機は再び大路を歩いていた。
 と、何かに気づいたように張機の足が止まる。すぐ後ろを歩いていた大柄な男性が、迷惑そうに張機の横を通り過ぎていった。
 張機は慌ててその男性に謝ると、道の脇に移動した。
 そこで耳を澄ましてみると、あたりの喧騒の合間を縫うように、流麗な、それでいてどこか物悲しげな旋律が聴こえてくる。忙しげに大路を行き交う人の中にも、張機と同じように足を止めている者がちらほらと見て取れる。おそらく、皆この旋律に耳を傾けているのだろう。


 時折、妓楼などから聞こえてくる嫣然とした音色とは根底から異なる澄んだ音色だった。不思議と郷愁を誘われる旋律に導かれるように、張機は音の聞こえてきた方に足を向ける。
 ほどなくして張機がたどり着いたのは、大通りからやや外れたところにある旅宿であった。店構えは清潔で、一階は飯店も兼ねているらしく、中からは食欲をそそる匂いが漂ってくる。
 いかにも繁盛している風であったが、不思議と騒々しさを感じないのは、先刻からあたりに響いている件の旋律のせいだろう。


 張機はわずかに首をかしげた。はからずも見つけたこの旅宿、希望どおりといえば希望どおりなのだが、店構えと聞こえてくる音色の間で釣り合いがとれていない気がする。普通、こういうところではもっと楽しげな音楽を奏でるものではないのか。


 そんなことを思ったが、あえて別の店を探すほどのことでもないと考えて中に入った。
 入って、やっぱり失敗したかな、と少しだけ後悔する。
 大半の卓が埋まった店の奥の方で、ハッと目を見張る美人が涙を流して琴を弾いており、周囲の客がドン引きしながらその様子を眺めていたのである。表で騒々しさを感じなかったのも、当然といえば当然であった。


 踵を返すべきか否か、数瞬の間、張機は迷う。
 その張機を見て、たぶん内心が手に取るようにわかったのだろう、小太りの店の主人が飛ぶようにやってきた。
「ようこそいらっしゃいましたッ! お客様、お泊りですか、それともお食事で?」
 もみ手をしながら、貴重なお客を逃がしてなるものかとばかりに早口で訊ねてくる主人。
 張機は少しためらった末にうなずいた。
 声を低くして、女性と気取られないように気をつけながら云う。
「お泊りの方。明日の朝までだけど、大丈夫かな?」
「もちろんでございます!」
「ならお願い――ところで、これはなにごと?」
 店内の様子を訊ねると、主人は額の汗を拭きながら、ここに至った状況を教えてくれた。
「はい、その、あちらの女性、お客様と同じようにお泊まりの方なのです。それで、美味しい食事で興が乗ったといって、琴をお弾きくださって……」


 なんでも、はじめは店の雰囲気にあった楽しげな曲を弾いてくれていたらしい。周囲の客も少女の容姿と腕前にやんやと喝采をあげ、その雰囲気に興味をひかれた客が次から次へとやってきて――と良いことづくめだったらしいが、感謝した主人が無料で酒を振舞ったあたりから、何やら雰囲気がおかしくなってしまったそうな。
 徐々に曲調が大人しいものになり、やがて少女は涙ぐみながら物悲しい曲ばかり弾くようになった。おかげで一時の賑わいは消えうせ、酔客たちもすっかり大人しくなってしまった、ということだった。


 張機はその説明を一言でまとめてみせる。
「つまりあの人、泣き上戸だったのね」
「どうやらそのようで……」
 主人はみずからの失策に反省しきりといった様子だった。張機はやや気の毒に思ったものの、冷静に考えれば、旅宿が静かになること自体は張機にとってありがたいことである。
 主人には気の毒だが、これを奇貨としてさっさと休むことにしよう。そう考えた張機は手早く手続きを済ませて部屋に引っこんだ。この際、湯と布を求めたのは旅塵を落とすためであり、同時に明日の朝、汗に濡れているであろう身体を拭くためでもあった。

    



◆◆◆





「……失敗しました。お酒は飲まないようにしようと思っていたのデスが」
 部屋に戻った馮則は寝台に腰掛けると、溜息交じりに頭を抱えた。
 どうも自分はお酒が入ると、昔のことやこれからのことをおもって気鬱になってしまう性質らしい。馮則は(ようやく)そのことを自覚しつつあった。
 まあ自分ひとりが気鬱になるくらいなら別にかまわないと思うが、それを歌やら琴やらで表現してしまうのは悪癖というべきだろう。結果、最も賑やかになるはずの時間帯で客の大半が席を立ってしまい、店の主人から「もう勘弁してください」と涙ながらに頭を下げられてしまった。本当にごめんなさい。
 先にも皖の城市で似たようなことがあり、気をつけていたのだが。


「幸いだったのは、あの時と違って絡んでくる人がいなかったことデスね」
 ただの庶民ならともかく、仲の兵士や官吏あたりが出てくれば、また流血沙汰になっていたかもしれない。それを避けられたのは幸運だった、と馮則は今さらながらに胸をなでおろす。
 騒ぎを起こすのは汝陽に入ってからのこと。皖の時のように関係のない宿の人を巻き込むのは慎まなければなるまい。



 そう自らを戒める馮則の胸に、皖で出会った于麋という仲将の顔が思い浮かぶ。刃のように鋭い笑みを浮かべながら、馮則は呟いた。
「あの仲賊、無碍とやらのところまで行き着けたでしょうか?」
 あの仲将を刺したとき、馮則はまったく手加減しなかった。が、あの時、馮則が持っていたのはいつも胸中に隠している懐剣であり(腹を抱えて笑うフリをして取り出しておいた)、しかも突き刺した部位が下腹部であったため、致命傷を与えたという感覚はなかった。


 とはいえ、浅傷でないのは確実だった。
 あの後、相手の取り巻きを血泥の中にしずめたとき、于麋の姿はどこにもなかった。あの于麋という人物の言動から推して、戦えるようならばその場に留まったはずだ。逃げたということは、それだけ深傷であったということだろう。
 馮則は残党がいないことを確認すると、急いで荷物をまとめて外に出た。夜間の外出は禁止されていたが、のんびりしていては于麋が討捕の役人を引き連れて戻ってくるかもしれない。
 旅宿に迷惑をかけた代償として山賊たちから巻き上げた全額を置いてきたが、店の中で殺人行為(複数)をしでかされた主人にとってはあまり慰めにならなかっただろう。仲の役人が「宿の人間は無関係だった」と判断してくれることを祈るばかりである。



 余人は知らず、馮則にとって夜の城門を越えることは大して難しいことではない。特に淮南の城市は川から城内に水を引いているところが多く、水路を利用すれば城の内外の出入りは比較的容易だった。むろん、泳ぎと潜入が得意な馮則に限っての話であるが。
 今回も水路を伝って皖を出た馮則は、道々で自分に誘いをかけてきた窄無碍という人物の情報を集めた。仲の主要な将帥に関して一応の知識は持っていたが、それは淮南戦以前のものであり、窄融に関しては江都の県令を殺し、自身が県令に成り代わった後のことはくわしく知らなかったからだ。


 この情報収集が思いのほか上手くいった理由は二つある。
 ひとつは窄融の存在が仲帝国の中で大きくなってきており、諸人の注目が集まっていたため。
 もうひとつは、于麋とその配下を殺傷した件について、馮則に追っ手がかかっていなかったためである。
 前者はともかく、後者に関しては馮則も驚いた。于麋を逃がしてしまった以上、必ず追っ手がかかっているものと思い込んでいたのだ。

 
 おかげで身を隠す必要もなく情報を集めることができたのだが、これがどうしてかは馮則にもわからない。あるいは于麋の傷は思った以上に深傷であり、馮則のことを誰かに伝える前に死んでしまったのかもしれないが、今さら皖に戻って確かめるわけにもいかない以上、想像の域を出ないことだった。
 それに、正直なところ、今の馮則には于麋のことなどどうでもよかった。肝心なのは部下ではなく、主君の方。窄融という人物を知るにつけ、この相手は早めに排除しておかないと大変なことになる、との思いを馮則は禁じえなかったのである。



 
 
 ――趙昱を殺して江都の県令となった後、窄融は江都を拠点として長江を南に下り、江南の地で勢力を広めはじめた。
 この時、窄融の標的となったのは劉遙である。
 かつて寿春一帯を支配していた劉遙は、当時袁術の麾下にいた孫堅、孫策らによって寿春をはじめとした江北(長江の北側)の領土すべてを奪われ、江南に逃げ延びた。劉遙は揚州呉郡にある曲阿を拠点として失地回復を目指したが、江北を失った影響は大きく、袁術に伍することはとうてい不可能な状況に陥っていた。
 この劉遙の弱体化に乗じた窄融は、まず重要拠点である秣陵(後の建業)を攻撃する。秣陵を守っていた劉遙軍の武将 張英は奮戦したが、あらかじめ秣陵に潜入していた窄融麾下の武将 薛礼(せつれい)によって内側から城門を開かれてしまう。
 このため、劉遙軍はあえなく敗れ去り、張英と麾下の将兵は窄融によって皆殺しにされた。


 秣陵を落とした窄融は勢いに乗ってさらに東、劉遙の本拠地である曲阿へと進軍する。これに対して劉遙も反撃を試みるが、防御体制の整っていなかった軍は為す術なく敗れ去り、曲阿も窄融の手に落ちた。
 窄融はここでも秣陵同様に情け容赦のない処断を繰り広げる。劉遙本人はもとより、張英と共に劉遙軍を支えた樊能、後漢の太尉 朱儁の子である朱晧、孔融にその才を認められた孫邵、知略家として知られた是儀、さらには滕耽、滕胄姉妹など、およそ劉遙麾下にあって名のある者たちはことごとく窄融によって首を斬られ、亡骸は長江に投げ捨てられた。
 生き残ったのは、劉遙の長子で容姿端麗で知られる劉基のみであった。



 こうして劉遙を滅ぼし、敗残兵を吸収した窄融の武勲と勢力は、もはや県令どころか一郡の太守に匹敵するほどに巨大なものとなった。
 ここにおいて窄融は、自身を揚州丹楊郡の太守に任じるよう袁術に願い出る。丹楊郡は秣陵を含む江南の重要地域であり、精兵の多い土地としても知られている。丹楊を支配すれば、やがて江南全土を制することも夢ではなくなるだろう。また、ここは窄融の故郷でもあり、錦を飾るという意図もあったかもしれない。


 しかし、仲の朝廷が窄融に与えた恩賞は丹楊太守ではなく、呂布の降格後、空位となっていた虎賁校尉(近衛軍司令官)の席であった。
 窄融の急速な強大化に危機感を覚えていたのは、敵よりもむしろ味方――仲の朝廷だったのである。このまま窄融が江南を席巻してしまえばどうなるか。元々、窄融は趙昱を殺して仲に寝返った身であり、信義や忠誠を期待できる人物ではない。
 餓えた狼は遠くに放すより、近くで首輪をはめておくべき。そう考えた袁術は窄融を寿春に呼び戻し、一方で丹楊太守には一族の袁胤を据えて、江南から窄融を引き離した。


 ただ、さすがに袁術といえど、窄融がほとんど独力で制圧した江南の領土をすべて取り上げることはしなかった。あるいは、それをすれば窄融が黙っていないと考えたのか、丹楊太守に任じた袁胤は歴陽(長江北岸にある揚州の治所)に置いて長江を渡らせず、秣陵には窄融の配下である薛礼を、要害である牛渚の砦には同じく窄融の配下である祖郎(そろう)を置くなど、ある程度窄融に配慮した措置をとっている。
 弱気ともとれる対応だが、袁術とすれば窄融と実戦力を切り離すことが肝要であり、江南に残った戦力は後々取り込むなり排除するなりすれば良い、という判断だったのかもしれない。



 こうして仲の朝廷に参じるようになった窄融だったが、ここでも好戦的な性格を存分に発揮して、対曹操戦の実施を主張してやまなかった。
 はじめは受け流していた袁術も、やがてたまりかねたのか、窄融を最前線ともいうべき汝陽に差し向けている。
 そして、そこでも窄融は何やら企んでいるように見受けられるのだ……





 馮則は寝台に寝転がりながら、考えをまとめるように呟いた。
「あの仲賊は自分のことを一の配下だと云い、ワタシのことを暗殺者だと云った。黄祖を討った暗殺者を、腹心を派遣して招き寄せようとする。そこにまっとうな意図があるとはとうてい思えません」
 仮に窄融の招きに応じていたら、自分はどこに差し向けられていたのだろうか。
 普通に考えれば曹操なり、曹操軍の有力者なりのところだろう。しかし、窄融のような人物に対して「普通ならば」という前提をいれた推測がどの程度役に立つのか。
 あるいはまったく逆、仲の朝廷に差し向けられることも十分に考えられた。


「仲の内側で噛み合ってくれるなら、高みの見物をしていれば良い。デスが、今の仲は叛乱が相次いで混乱しています。窄融が汝陽で叛乱を起こし、薛礼とやらが江南で呼応すれば、寿春は北と南に敵を抱えることになる。偽帝に耐えられるものでしょうか?」
 馮則は知らなかったが、これは寿春で張勲が『不可』と断言した作戦であった。汝南袁氏のお膝元が窄融に呼応して仲に叛旗を翻すことは考えられない。江南の部隊にしたところで、全軍が窄融に従っているわけではなく、長江という天然の防壁もある。たとえ窄融が叛乱を起こしたところで何の脅威にもならないだろう。


 ――だが、そこで窄融が手練の暗殺者を用いて仲の朝廷を混乱させることに成功すれば、事態はどう転ぶかわからなくなってくる。


 馮則はなおも言葉を続けた。
「窄融は虎賁校尉。皇帝を守るべき者が皇帝を狙った場合、誰がそれを防ぐのデス? もし偽帝と大将軍が二人ながら除かれれば、仲が一朝に滅んだとしても何の不思議もありません。それは伯符さま(孫策)にとって千載一遇の好機となりえますが、窄融の立ち回り次第では、伯符さまが勢力を広げる前に飲み込まれてしまうかもしれない……」
 馮則の脳裏に、幼かった自分の頭を乱暴になでてくれた孫策の笑顔が思い浮かぶ。その孫策の横には親友である周瑜の姿もあった。もっとも、その姿はずいぶんと昔のものだ。今の二人がどのように成長したのかを馮則は知らない。二人もまた、今の馮則の姿を知らない。


 そこまで考えて、馮則は自嘲するように小さく笑った。
「そもそも、お二方は馮則なんて名前はご存知ないのデスけどね。ともあれ、伯符さまのお傍には公瑾さまがいらっしゃる。公覆さま(黄蓋)もご無事であると聞きますし、あの忌々しい江賊あがりも健在だとか。そうそう滅多なことはないと思いますけど」
 馮則としても悩みどころではあった。
 窄融は危険だが、その窄融を討つことは結果として仲を助けることになりかねず、ひいては孫家の再興を妨げることになってしまうかもしれない。
 かといって、窄融を放置しておいて、手がつけられなくなってしまっては悔いても及ばない。窄融を討つならば、その勢力が大きくなっていない今が好機なのである。


 馮則は悩んだが、しかし、その悩みは長続きしなかった。
 馮則は必要とあらば慎重に行動できるし、熟慮して事にあたることもある。だが、基本的には即断即決即行動の人であった。
「ワタシは破賊の名を戴いた母さまの子。仲賊を前にためらうのは恥というものデスね。もし窄融を討ったことで伯符さまが危機に陥るようなら、その時は黄祖を討ったように、あらためて偽帝を討ちにゆけばよいのデス」
 そう結論づけた馮則は満足して瞼を閉じる。
 ほどなくして、その口からは穏やかな寝息がこぼれはじめた。




 
◆◆





 あけて翌日。
 日の出と共に城門が開かれると、開門を待って三々五々散っていた人々が一斉に動きはじめた。
 その中の一つ、汝陽に向かう隊商の列に馮則の姿はあった。つけくわえれば、馮則の隣にはえらく大きな荷物を背負った医者の姿もある。


 張仲と名乗ったこの人物、髪を結わえた外見といい、大荷物を苦もなく担いでいる膂力といい、一見したところでは年若い青年のように思われた。同行している隊商の人たちもそう見ているようだったが、馮則は相手が女性であることに勘付いていた。
 といっても確たる証拠はないし、そもそも詮索するつもりもない。女性の旅人が性別を伏せようとするのはごく普通のことであろう。


 実際、馮則もそうしている。まあ馮則の場合、張仲という人物とは異なり、あからさまに周囲の目を避ける格好をしているので、かえって目立ってしまっているのだが。おそらく同道している人々の大半は馮則が女性であると察しているだろう。
 馮則がなぜわざわざそんな格好をしているかといえば、こうしておくと面白いように盗賊やら何やらが寄ってくるからであった。女性の姿で街道を一人歩きしていると、勘の良い賊徒はかえって警戒して出てこないのである。



 このことからもわかるように、馮則は基本的にひとりで行動してきたし、汝陽にもひとりで向かうつもりだった。
 その予定がかわったのは、城門が開く少し前のこと。
 馮則たちが開門を待っていたとき、隊商の荷車を引っ張る馬の一頭が突如暴れだしたのである。近くにいた女の子――これが隊商を率いる長の娘だったのだが――が退屈を紛らわせるために馬の尻尾を引っ張って遊んでいたらしい。なにぶん、まだ日は昇っておらず、あたりは暁闇に包まれている。そのため、周囲の大人たちは少女の行動に気づくのが遅れてしまったのだ。


 暴れる馬に蹴られた女の子はたまらず悲鳴をあげた。
 あたりはたちまちのうちに騒然とした雰囲気に包まれる。
 この時、馮則は隊商からやや離れたところにいたが、たいして大きくもない城市の門前である。すぐに騒ぎに気づき、暴れる馬を巧みになだめて落ち着かせることができた。
 不幸中の幸いであったのは、少女の怪我がたいしたものではなかったことだろう。その怪我も、これまた開門を待っていた張仲が治療して、騒ぎは無事に終息する。


 少女の父親は旅宿を引き払う手続きでこの場にはいなかったが、戻ってきて話を聞くや、地面に頭をこすりつける勢いで二人に感謝を示し、謝礼する旨を申し出た。
 二人は同時にかぶりを振って、それには及ばないことを伝えたのだが、長はそれではこちらの気が済まないと云い、ぜひとも何かお礼を、と主張する。
 そうしてああだこうだと話し合う中、互いの目的地が汝陽であることを知った三者は、それならば、と同道することにしたのである。
 汝陽まではさしたる道のりではないが、大人数で行動すれば賊の襲撃を未然に防ぐこともできる。馮則の場合、賊徒の心配などかけらもしていなかったが、大勢の方が汝陽に入りやすいだろう、という計算があった。



「馮さま、張さま。お水ですッ」
「ああ、ありがとうございます」
 先頭の方から息せき切って走ってきた女の子が馮則と張仲に竹筒を差し出す。怪我をしたばかりだというのに元気いっぱいだった。
 張仲も低声で礼を云ったが、女の子に注意することも忘れない。
「どうもありがとう。でも、まだ走りまわってはダメ」
 暴れる馬に蹴られて軽い打撲で済んだのは幸運といってよい。今のところ痛みはないようだし、張仲が見たところ腫れも内出血もなかったので大丈夫だとは思うが、それでもしばらくは安静にしているべきだった。


 張仲に注意された女の子は「わかりました!」と勢いよくうなずくと、父親のところへ走って戻っていく。
 その後姿を見送りながら、馮則はくすりと笑った。
「あれはわかってないデスね」
「そのようです」
 張仲も苦笑しつつうなずいた。



 長からは、馬車の荷台に、という勧めがあったのだが、馮則も張仲もそれには及ばないと謝絶して、徒歩で街道を進んでいる。
 二人とも相手がわけありの身だと察しているので、すすんで言葉を交わそうとはしなかったが、強いて無言を貫くのも味気ない話である。
 なので、ときおり二言三言、言葉を交わしながら馮則たちは汝陽への道を進んでいった。二人に懐いたらしい長の娘がやってくると、会話はさらに賑やかになる。
 そうして、間もなく遠目に汝陽が見えるというところまで来たとき、前方から物々しい出で立ちの騎馬の列がやってきた。



 馮則や張仲、それに旅慣れた隊商の面々の顔に緊張が浮かぶ。
 前方の集団は明らかに兵事を思わせる雰囲気を漂わせていた。武装が統一されているところを見るに賊ではあるまいが、今の世の中、正規軍が賊軍よりも礼儀正しいと信じる者は少数派である。
 長は馬車をわき道に寄せ、近づいてくる一隊がそのまま通り過ぎてくれることを願ったが、この手の願いはかなわないものと相場が決まっている。
 武装した一隊は馮則たちを取り囲むように散開した。


「……父さまのところに戻っていなさい」
 馮則はそう云って少女を父親のもとへ向かわせると、剣呑な空気を振りまく騎兵の数を目で数えた。
(九騎……ワタシが切り抜ける分には問題はないデスけど)
 隊商は二十人を越える大所帯だが、まともに戦える者は五人もいない。それ以前に、隊商の長が正規軍に刃向かうとも思えない。ここで馮則が剣を抜くと、彼らに迷惑がかかってしまう。
 関係のない人たちに迷惑をかけてはいけない、と昨日誓ったばかりである。
 仲賊に従うのは業腹ではあるが、向こうがよほどのことをしてこないかぎりは大人しくしていよう、と馮則は決断する。


 結果として、この決断は正しかった。
 馮則たちを取り囲んだのはたしかに仲の将兵であったが、彼らの目的は不審者の発見、捕縛であって、相手が大人しく従うかぎりは手荒なことをするな、と命じられていたからである。


 これまで汝陽の仲軍がこんな乱暴な振る舞いをしたことはなかった。
 また、こんな状況が続いていたのであれば、前の城市で必ず噂になっていたはずである。
 それがなかったということは、仲軍がこの動きをはじめたのはごくごく最近のことだろう。もっといえば、おそらくは今日からではないか。馮則はそう推測し、その推測は的を射ていた。
 まさしく、仲軍が警戒態勢をしいたのは今日この日からであった。


 汝陽の仲軍による陳都襲撃が実行に移されたのである。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(九)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/03/06 22:27
 豫州陳国 陳都


 物事は築くに難く、崩すに易し。
 使い古された言い回しであるが、よく使われるのはそれだけ真理に即しているからだ、という見解も成り立つだろう。
 陳王 劉寵の武威を背景に、賢相 駱俊が長の年月、精魂を傾けて築き上げてきた陳の都。
 その街並みが炎と略奪の中で崩れ去るまでに要した時間は、わずか三日たらずであった。


 突如として城内を襲った放火と虐殺、父のごとく民に慕われていた駱俊の死、その混乱に乗じて開かれた城門からは、この事あるを予期して汝陽から急進してきた仲の騎兵二千が乱入してきた。
 新たにあらわれたこの騎兵部隊は放火や略奪に狂奔することなく、逃げ惑う陳の人々を無視して城内の一画を目指す。
 彼らが向かったのは劉寵のいる陳王宮――ではなく、城内の兵器工廠だった。工廠では剣や槍、弓矢といった武具の他、陳軍が天下に誇る数千張もの弩が製造、保管されている。仲軍は陳軍が指揮系統を立て直す前にこれを奪取しようと目論んだのである。



 弩は弓よりも習熟が容易な武器といわれるが、その一方で、製作にも維持にも高度な技術と手間を要する兵器でもある。一度失ってしまえば、再び集めるのは容易なことではない。
『かなうならば奪え。かなわぬならば燃やせ』
 仲の騎兵部隊を率いる焦已(しょうい)は窄融からそう厳命されていた。焦已は牛渚砦を任された祖郎の同輩であり、江南侵略にも従軍している。万一命令を果たせなかった場合、窄融からどのような処罰が下されるかは十二分に理解していた。


 この仲軍の速攻に対し、陳軍の動きはあまりにも鈍かった。
 駱俊の死がもたらした影響が大きかったのは云うまでもないが、それでもまだ王である劉寵は健在である。劉寵が群臣を叱咤し、的確な指示を下せば、事態が別の方向に転がった可能性はあった。
 というのも、この時、窄融は当初の予定を変更して自らは汝陽から動かなかった。そのため、わずかではあったが陳軍が付け込める隙も存在したのである。


 だが、計画に従って整然と動く仲軍と異なり、劉寵は事態を把握するのに手間取った。 みずから弩をとって武名をあげ、兵備を厚くすることで戦わずして賊を退けた劉寵の手腕は隠れないものである。その武名は決して名ばかりのものではない。
 だが、危急の際、臨機応変に対処する才は、それとはまた異なる才覚であった。つけくわえれば、賊軍も陳都を避けて通ったということは、劉寵はもとより配下の将兵も実戦経験に乏しかったということ。長江流域で激戦を重ねてきた窄融の軍勢を相手にするには、いささかならず力不足であった。



 劉寵がようやく事態を把握した時には、すでに焦已の兵は工廠に達していた。
 自軍の要ともいえる大量の弩を奪われ、あまつさえそれが自分たちに向けられたとき、陳の兵士たちが何を思ったのかは語るまでもないだろう。
 精強であるはずの陳兵は逃げ惑い、于茲による放火と略奪が引き起こした城内の混乱はとどまるところを知らず、しかもこの時、陳都の外には一万を越える後発の歩兵部隊が迫りつつあった。


 ほんの数刻前まで陳都を包んでいた安寧はどこに消え去ったのか。
 どれだけ信じがたくとも、この城市が落ちようとしていることを劉寵は認めざるを得なかった。


 だが、その認識さえまだ甘い。
 城内に突入した歩兵部隊は、先の焦已の部隊と異なり、はじめから陳都の富を奪うことだけを目的とした略取の暴兵であったから。
 この部隊を率いる郭萌(かくぼう)、曹性の二将に対し、窄融は次のように命じていた。
『奪いたいだけ奪うがいい。陳で奪ったもの、これすべてお前たちのものだ』
 それは略奪の許可であり、奪った金品や財宝、女官たちを後から没収することはないという保証。
 この部隊が城門をくぐったとき、陳都の繁栄は終わりを告げた。




◆◆◆




「なに、もう汝陽に戻るだと?」
 陳都陥落から三日後。
 王宮の一室で于茲と向かい合った郭萌は眉をひそめてそう云った。
 郭萌の周囲には薄物だけをまとった女官が三人かしずいており、いずれの顔にも打擲の痕が見て取れる。怯えと恐れの入り混じった彼女らの顔を見た于茲は、しかし、まったく感情を動かすことなく言葉を続けた。


「……はい。陳都を落とした後、三日をかけてその富を奪いつくし、しかる後に帰還せよ。それが無碍さまのご命令です」
「確かにそうだが、しかしだな、于よ。おぬしもわかっていると思うが、三日ではまだこの城市を絞り尽くすには足りぬ。せめてあと三日、いや五日はかけるべきではないか?」
 そう云うと、郭萌は卑猥な姿で控える女官を見やって目じりを下げる。
 これまで高位栄爵とは縁のなかった郭萌にとって、今の状況は夢のようなもの。今しばらく楽しみたい、という本音があらわであった。



 そんな郭萌の姿を于茲は冷め切った目つきで眺めていたが、さして迷う様子もなくうなずいた。
「……では、私と焦已は先に汝陽へ戻ります。後のことはよろしいように」
 歩兵部隊を率いる郭萌、曹性の二将は、焦已や于茲と異なり窄融直属の部下ではない。汝陽を守る袁嗣の配下であり、麾下の兵も大半が汝南兵である。
 校尉である窄融は彼らの上に位置するが、窄融の部下である于茲に郭萌らを指揮する権限はない。郭萌が残るといったら于茲には為す術がないのだ。
 もっとも、仮に権限を持っていたとしても、郭萌らを翻意させるつもりは于茲にはなかったが。


「おお、わかった! 無碍どのにはよろしく伝えてくれ」
 郭萌は満足そうにうなずく。
 于茲が踵を返して部屋を出ると、ほとんど間を置かずに女官たちの悲鳴が廊下まで響いてきたが、やはり于茲は眉ひとつ動かさず、そのまま王宮を出る。
 そこで于茲を待っていたのは騎兵部隊を率いていた焦已という青年だった。


 紅玉のような目と赤銅色の肌を持ったこの武人、江南の生まれでありながら馬術に長じるという特技を持っており、窄融が騎兵を用いる場合、その指揮官はほぼ必ず焦已が務める。
 口数の少ない人物で、どうして窄融に従っているのかは于茲も知らない。だが、焦已が命令に忠実な武人であるのは疑いようのないことだった。今回の戦いでも命令どおりに兵器工廠を襲い、敵軍の虎の子である弩を奪い、さらに王宮に踏み込んで劉寵を討つという武勲もあげている。


 その後、焦已は混乱する陳兵の排除に専念し、王宮の宝物庫にもまったく手をつけなかった。略奪騒ぎに乗じず、銅銭一枚懐にねじこまなかった青年は、問うような視線を于茲に向け、于茲は小さくうなずくことで無言の問いに応えた。
「……予定どおりです」
「……承知」
 口数の少ない者同士、二人の会話はたいてい二言か三言で済んでしまう。于麋からは「なんでそれで通じるんだよ?」とよく不思議がられる光景だった。
 この後、二人は窄融直属の部隊をまとめて陳都を出る。この部隊は多数の荷駄を抱えていたが、その大半は陳で奪取した刀槍に弓矢、多量の弩であり、後で袁術のもとに送る品々(陳王秘蔵の宝剣や祭器)をのぞけば、金銀珠玉の類はまったく積まれていなかった。




 ――そんな于茲たちを城壁の上から見下ろす視線がある。
「小細工の気配はなし、か。何を企んでいるのか、女狐め」
 陳都の城壁の上、南へと去っていく窄融の手勢を見下ろしながら、曹性は胡乱げに呟いた。
 曹性の後方では、今なお叫喚がおさまりきっていない陳の街並みが広がっている。郭萌が口にしたとおり、陳都を略奪しつくすには三日では足りず、城内にはまだ無事である商人の邸宅や有力者の屋敷がある。仲兵はそういった家々に片っ端から押し入り、哄笑と共に荒らしまわって金品や妻妾を抱えて外に出ると、再び獲物をさがして街並みを徘徊する――という行為を繰り返していた。


 曹性はその騒ぎにさして関心を払わなかった。
 郭萌が王宮で悦楽の時を過ごしているため、陳都の略奪を指揮したのは曹性である。曹性は略奪や放火、強姦は兵士の士気を高めるために有効な手段として認識しており、罪悪感は抱いていない。一方で、当人は上官ほど金品や美女に対する執着がなく、その指揮は冷静で効率的であった。
 そして、だからこそ陳の住民にとっては残酷だった。


 曹性は陳都に達すると、まず四方の城門を守る陳兵を排除し、城門を封鎖した。
 住民の逃げ道を塞いだのである。その上で直属の部隊を率い、抵抗する陳兵の拠点を虱潰しに攻め落とし、もはや陳軍に抵抗する余力なし、と見極めた段階で将兵に略奪を公認した。
 逃げることはできず、守る者もいなくなった陳の住民に出来たのは、ただ震えて慈悲を請うことだけである。むろん、仲兵にそんな慈悲心はなく、暴虐の宴は陳の街並みすべてを呑み込んでいった……




 城壁の上から滅び行く陳都を見下ろしながら、曹性は考えていた。
 この情景を現出せしめたのは自分である。そして、その自分を上から操ったのが窄融である。あの女はいったい何を考えているのか、と。


 元々、曹性は今回の陳都襲撃には否定的であった。より正確にいえば、窄融の指揮下で働くことが不満であった。
 窄融が赴任する以前、汝陽の城主である袁嗣の下で軍権を掌握していたのが郭萌であり、曹性はその下で副将として働いていた。
 二人の地位は窄融に及ばないが、窄融自身、朝廷にもてあまされて前線に飛ばされてきたことは明らかである。相手が卑賤の出であることも手伝って、郭萌らは表面上は窄融を立てながらも、素直に統制に服そうとはしなかった。
 そんな二将を窄融は陳都襲撃に加えたのである。
 それも、危険をともなう潜入や襲撃は自兵で行い、戦い終わった後の最も美味しい部分を丸ごと差し出す、という形で。


 豊かな陳都を思う様に略奪できるとあって郭萌は勇躍したが、曹性は窄融の罠を疑い、郭萌に自重を願った。
 これに対して郭萌は云う。
 陳都を攻略することができれば、仲が北に領土を広げるための有効な一手となりえる。もし窄融たちが失敗して城門が開かれなければ、その時は戦わずに汝陽に帰還すれば良い。失敗の責任は窄融たちにあるのだから、後詰であった郭萌や曹性が罪に問われることはなく、逆に失敗の責任を追及して窄融を排除することもできよう、と。


 これには曹性も反論することはできなかった。
 元々、窄融が汝陽に来たのは曹操をはじめとした河南の勢力と戦うためであり、陳を攻めること自体はその目的にかなうこと。名分は曹性ではなく窄融の上にあり、しかも相手の方が地位が高い。曹性が反対を唱えたところで、決定が覆ることはないであろう。
 それどころか、ヘタに反対を続けると、敵に内通しているのではないかと疑われる可能性もある。
 こうして、曹性は心ならずも窄融の指示で動くことになり、陳都を滅ぼす一翼を担ったのである。




「陳で名を知られているのは王と国相のみ。この二人が同時に消えれば、反撃の恐れはない。長平の県令となった陳羣は奸賊(曹操)の息がかかっているが、肝心の奸賊は黄河に釘付けだ。兵を派遣するにしても時がかかる。その間に陳都の財を絞れるだけ絞りとる――たしかに司馬(仲における郭萌の地位)の仰ることはもっともなのだが、その程度は窄融めも承知しているはずだ。何故、わざわざ肉の最も美味い部分を他人に渡した? こちらを懐柔するつもりなのだとすれば、納得できないことはないが……」
 実際、郭萌は窄融に対する悪感情を大幅に改めている様子がうかがえるし、汝南兵の間
でも窄融の剛腹ぶりは評判が良い。今後、窄融の下で働きたいと思う者は確実に増えるだろう。
 その意味では今回の戦い、窄融にも十分すぎるほどの利があったことになる。ゆえに、それが窄融の目論見であったと結論づけてもかまわないわけだが、曹性は何故だか納得できなかった。


 曹性の脳裏に窄融の容貌が思い浮かぶ。
 常に同じ面をつけているように表情が動かない気色の悪い顔。肌の色は病的なまでに白く、対照的に、腰までまっすぐに伸びた髪は濡れた烏羽のような色艶がある。此方を見据える視線にはいかなる感情も宿っておらず、どこか昆虫じみたものを感じさせた。
 何の根拠もないことだが、曹性は窄融に対してある確信を抱いている。あれは他人を物としかみていない。だからこそ、自分の目的のために他者を犠牲にすることに何の痛痒も感じないのだ、と。


 そんな人物が差し出してきた極上の贈り物を、どうして素直に受け取ることができようか。
 陳の住民に対しては苛烈に、酷薄に振舞った曹性であるが、上官である郭萌や配下の汝南兵に対する責任感は持ち合わせている。このまま陳都での宴に酔っていると、取り返しのつかないことになりかねない。


 曹性は己の部下に対して命じた。
「四方に偵騎を出せ。昨日の倍だ。どんな小さなことでもかまわぬ、異変があったら報告するよう伝えよ」
 曹性は四方――汝陽のある南にも偵察を出した。まさかと思うが、窄融が命令違反を口実に兵を差し向けてくるかもしれない。はじめからそのつもりであったとすれば、略奪品の扱いも納得できる。どうせ最期には自分のものになると思えば、誰でも剛腹になれるだろう。
 まさかそこまではするまいが、それでも念には念を入れておくべきだろう。曹性はそう考えたのである。



 ――成果は半日と経たずに出た。
 日が中天よりやや西に傾いた時刻。
 汝陽方面に偵察に出た騎兵は駆け戻って曹性に報告する。
 南方は常のごとく異常なし、と。
 それを聞いた曹性は小さく苦笑した。自身の小心が可笑しかったのだが、その苦笑はほどなくして別種の驚愕によって凍りつく。


 敵が現れたのは南方ではなく西方からであった。
 ただ、これだけであれば曹性は驚かなかった。陳の国都を襲撃したのだ、国内から援兵がやってくることは想定していた。
 陳都の西には陳羣が治める長平県がある。そこから出撃した部隊ならば、多くても五千を越えることはない。いや、これでさえ多すぎる。精々が二千程度であろう、と曹性は予測した。
 まだ陳都を落として三日たらず。報告を聞いてから即座に兵をかき集めたとしても、二千以上の兵を集めることは難しい――そんな曹性の予測は、だがあっさりと外れてしまう。


 恐慌寸前の表情を浮かべた偵騎が報告してきた敵兵の数は、およそ二万。
 しかも、その先頭に立つのは丞相 曹孟徳の股肱にして、中原に知らぬ者とてない剛毅の武人、猛将 夏侯惇であった。



◆◆



 血相をかえて王宮に駆け込んできた曹性の報告を聞き、郭萌は文字通りひっくり返る。
 目障りな連中が陳都を去り、いよいよ我が世の春を謳歌していた郭萌にとって、その報告は青天の霹靂としか云いようのないものであった。
「に、二万の兵に夏侯惇だと!? その報告を持ってきた兵士、酒に酔って夢でも見ていたのではないのか?」
「第一報の後、すぐに顔を知る兵士に確認に行かせました。敵の軍旗は『陳』に『曹』、そして『夏侯』。先頭に立つのは間違いなく夏侯元譲であるとのことです!」


 郭萌は呻いた。
「バカな! まだ陳を落としてから三日だぞ、早すぎるッ!」
「仰るとおりですが、敵軍はすでに陳都への道半ばに達しております。おそらく、日暮れ前には押し寄せてくるかと」
「ぬぐ、あの奸賊め、縮地の法でも使いおるのか……」
 曹性は益体も無い郭萌の言葉を聞き流し、上官を急きたてる。
「郭司馬、窄融めの手勢が去った今、我が軍は一万たらずしかおりません。どのようにかき集めたかはわかりませんが、相手が二万の大兵を擁している以上、まともに戦うことはかなわぬでしょう。しかしながら、今、早急に陳都を離れれば敵軍の手が届く前に退却することができます」


 この曹性の進言を聞き、郭萌の意識はようやく武将としてのそれに切り替わったらしい。爪を噛みつつ、戦況に思いを及ばせた。
「……待て、そう先走る必要はなかろう。二万といったな、それは確かなことか?」
「物見に慣れた者たちが等しく同じ報告を持ち帰りました。疑う余地はないかと」
「だとしても、すべてが許昌の精鋭と決まったわけではあるまい。あるいは夏侯惇を先頭に立たせることで、配下の兵の未熟をこちらに悟らせまいとしているのかもしれぬ」


 郭萌は財貨への執着が強いが、それは武将としての才覚の欠如を意味しない。
 曹性は郭萌の言葉に大きくうなずいた。実のところ、曹性もそれを疑っていたのである。
「詳細を探らせるため、偵騎の他、民に扮した者たちを複数派遣しております。ですが、いずれもまだ戻っておらず、詳細は定かではありません」
「そうか。しかし、ならば急ぎ退く必要もあるまい。今すこし様子を見てから事を決してもよかろう」
 上官の楽観に、曹性はかぶりを振ることで応じた。
「郭司馬、たとえ二万の兵すべてが辺土の農民だとしても、皆、武器を持っているのです。未だ略奪だ女だと悦楽に浸っている兵士たちが、自軍に倍する敵と戦うことを欲するとお思いか? まして敵将は夏侯元譲です」


 聞き様によっては郭萌への皮肉ともとれる言葉であったが、郭萌は気づかなかった。眉根を寄せたのは曹性に不快を覚えたからではなく、いかにして夏侯惇を撃退するかについて考えたからである。
「城門を閉ざして立てこもるという手もあるだろう。いかに夏侯惇とて、陳の城門は砕けまい」
「今は逃げ惑っている城内の民も、援軍が来たと知れば反抗の意思を抱くでしょう。一万たらずの兵で、外の敵と内の敵を同時に相手取ることはかないませぬ。戦うにしても篭城は下策です」


 曹性の意見は即時退却である。
 だが、戦わねばならないのならば、篭城ではなく打って出るべきだ、と考えていた。
 勝算もある。
 数に開きはあるが、おそらく敵の大半はろくに訓練も受けていない雑兵であろう。陳で略奪した大量の財貨をばらまけば、敵軍の大半は戦わずして無力化する。
 仮に訓練を受けた正規兵がいたとしても、雑兵たちの混乱に巻き込まれてしまえば何もできまい。
 そこを一万の兵をもって襲い掛かれば完勝も夢ではない。 



 だが、郭萌は曹性の策を言下に拒絶した。
「それはできぬ。折角奪った財貨を敵にくれてやってどうするのだ」
「……であれば、やはり早急に退くべきかと。このまま無為に時を費やせば、我らは奪った財貨を抱えたまま、略奪を働いたこの城市に閉じ込められることになります。さすれば、今日の陳の姿は、明日の我らのものとなりましょう」
 曹性は決断を求めたが、郭萌はなおも決心がつかない様子だった。
 曹性が見据える中、郭萌はしばし悩み――結果、出てきた結論は先刻と同じ、結論の先送りであった。
「うむ……よし、とりあえず街に散っている兵どもをまとめよ。奪った財貨はいつでも運び出せるようにしておけ。その後のことは次の報告を待って決することにしよう」
「――承知いたしました。ただちにとりかかります」



 郭萌の部屋を辞した曹性であったが、郭萌の指示を実行に移そうとはしなかった。何故といって、部下に命じてとうにとりかかっていたからである。
 それを口にしなかったのは、あまりに手際が良すぎると要らぬ猜疑を買うかもしれぬ、という用心のためであった。
 曹性は王宮の廊下を歩きながらひとりごちる。
「しかし、どうしたものか。司馬はまだ陳都に未練がある様子。おそらく退却はなさらぬだろう。篭城は下策。しかし、ただ城外で野戦を挑んでも勝てるかどうか」
 虎に指揮されれば、羊の群れとて侮れぬ敵となる。そのことを曹性は良く知っていた。
 だが、それは見方をかえれば此方の利点ともなる。


「……つまり、虎さえ討てば羊の群れは羊のまま、ということだからな」


 そう呟くや、曹性は足早に王宮を出た。そして、部下に命じてあるだけの弩をかき集めさせる。
 弩の大半は于茲らが持ち出していたが、それでも百張あまりの弩が集まった。曹性はそれらが使い物になることを確認すると、信頼できる兵たちに渡して即席の弩兵隊をつくりあげる。
 この頃になると、先に派遣していた偵察の兵もひとり、ふたりと戻り始めた。どうやら敵軍も多数の偵騎を出しているようで、発見されて斬り殺された者も少なくなかったが、それでも曹性の下にはいくつかの貴重な情報が届いていた。


 それらから判断するに、やはり装備の整った精兵と呼べるのは夏侯惇周辺にいる者たちだけで、数としては二千ほどであると思われた。
 曹性は眉を顰める。敵の大半が雑兵であるのは予想どおりだったが、正規兵の数は曹性が考えていたよりもずっと多い。
 陳都が落ちてから三日。夏侯惇が許昌から昼夜兼行で駆けつけたとすれば、これに付いて来られる兵など精々二百、三百であろう、と思っていたのだが。


「たまさか州境にまで出向いていたのか? だとすれば、あまりに都合が良すぎる。それに、雑兵とはいえ、県令ごときがこの短期間で二万もの壮丁をかき集めたというのも信じがたい。もしや窄融め、あらかじめ許昌に情報を流していたのではあるまいな?」
 不可解な状況を前にして、曹性の疑心に暗鬼が宿る。
 実際、そう考えれば窄融の手勢の動きもある程度説明できてしまうのだ。ただ、それをして窄融に何の得があるのか、という点は不明だが。まさか曹操に寝返るつもりなのか――


 と、そこまで考えを進めた曹性は、不意に何かに気づいたように自身の頬を強く叩いた。
「今はそれを考えるのは後回しだ。どの道、この敵を破らねば汝陽に帰ることもままならぬ」
 曹性は得られた情報を整理すると、再び郭萌のもとへと出向き、自身の作戦を説明した。
「間もなく日が落ちます。おそらく、敵は城外に陣を構え、明朝から城攻めを開始するつもりでしょう。遠来の敵が休息をとるのを黙ってみている法はありません」
「夜襲をかけるか。しかし、敵将はあの夏侯惇であろう? 猪突で知られるとはいえ、奸賊の配下には智略に長けた者も多いと聞く。やすやすと成功するとは思えぬが」
「は、そこで一つ細工を仕掛けます」
「細工だと? どのような?」
「先ほど、部下に命じて弩をかき集めました。大半は窄融の部隊が持ち去っていましたが、それでも百張ほどが手に入りましたので、これを用います」
「ふむ……? 兵を伏せて待ち伏せでもするか?」
「それも考えましたが、陳都の西は起伏が少なく、兵を伏せるには適しませぬ。それに千、二千ならともかく、百程度では夏侯元譲には届かぬでしょう」


 郭萌はそれを聞いて首をかしげた。
「では、どうする?」
「この弩を持たせた兵を降兵として敵陣に送り込みます。陳が弩を多く備えていたことは周知の事実。それを持った兵が逃げ出してきたと申し出れば、敵も話くらいは聞くでしょう」
「ほう。なるほど、敵の腹中に毒をしのばせ、その上で夜襲をかけるわけか」
「はい。そして、夜襲に関しては夏侯元譲の本隊ではなく、後方の部隊をこそ狙うべきです。農民どもは夜の戦を知りません。闇の中から我らが大挙して襲い掛かれば混乱に陥るは必定。そして、雑兵たちが逃げ惑えば、正規兵も身動きがとれなくなります。そこを狙えば夏侯元譲を討ちとることもかなうでしょう」
「……ふむ、よかろう。それで行こう。それで、降兵は誰に率いさせる? 決死の役目だ、なまなかな者では務まるまい」
 その郭萌の言葉に、曹性は一瞬も迷うことなく応じた。
「わたしが参ります」
「……良いのか?」
「は。可能であれば夜襲に先立って本陣で騒ぎを起こしますが、相手の警戒が厳であった場合は、あくまで連中に従い、夜襲と同時に蜂起しなければなりません。この駆け引きは余の者には無理でしょう。ですので、夜襲部隊の指揮は郭司馬にお願いしたく思うのですが」
「よかろう。遠路はるばるやってきた夏侯惇めを盛大に出迎えてやるとしようではないか」
 作戦の成功を予感したのか、郭萌が心地よさげに笑い、曹性は黙然と一礼する。
 かくて仲軍はひそやかに動き始めた。




 ――だが、しかし。
 この曹性の企みは初手でつまずいてしまう。
 降伏を求めて敵陣を訪れた曹性の前にあらわれたのは、敵将たる夏侯惇ではなく黒髪の青年であった。
 そして、この青年の命令により、曹性とその部下百人は弩を奪われ、両手を縛り上げられ、罪人同然に地面に引き据えられてしまったのである。



◆◆



「官軍の将に申し上げる! 命がけで敵の手を逃れてきた者たちに対し、この扱いはあまりにも無体ではありませぬかッ! なにゆえこのような仕打ちをなされるのか!?」
 両腕を縛られた曹性は、赫怒して吼えたてた。
 ここは怒らねばならない場面なのである。自分たちが本当に陳の兵であれば、ここで容赦や慈悲を請うたりはしない。相手はそれを確かめるつもりなのかもしれないのだから。


 そう思いつつ、しかし、曹性は胸奥にひやりとしたものを感じずにはいられなかった。
 眼前の青年の眼差しも、周囲を取り囲む将兵の雰囲気も、どこか底冷えした感があり、それが曹性に警戒を促す。
 曹性としても、相手が無警戒で自分たちを招き入れると思っていたわけではない。夏侯惇は粗忽な武将であると聞くが、それでも武装解除くらいは当然行ってくるだろうと予想していた。
 ところが、相手の反応は武装解除どころの騒ぎではなく、これから斬首が行われるかのような気配である。ここで慌てふためくほど曹性の肝は小さくなかったが、どうしてここまではっきりと敵意を向けられるのかがわからない。
 自然、その視線は眼前の青年へと向けられていた。


「敵の手を逃れてきた、か」
 曹性の視界の中で、青年は口元に冷たい微笑を浮かべた。嘲笑、といいかえてもよい。
 その表情のまま、青年は言葉を続けた。
「陳が落ちて三日。逃げるには十分すぎる時間があったはずだが? わざわざ今この時に逃げ出してくる者たちは怪しまざるを得ぬ」
「敵が我らを放って置いたとでもお思いか!? こちらの軍が陳都に迫っているとの報を聞き、奴らは城の守りをかためました。そのため、ようやく逃げ出す隙を見つけ出すことができたのですッ!」
「なるほど。そうして、たまさか近くに保管されていた弩を奪い返した、というわけか。陳兵が弩に習熟していることは周知のこと。捕虜とした陳兵のすぐ近くに、よりによって弩を放置するとは、いや、偽帝の軍勢はずいぶんと間抜けであることよ」


 そう云うや、青年は膝をつき、地面に引き据えられた曹性と目線をあわせた。
「試みに問う。お前は今しがたこう云った。奴らが守りをかためたために、自分たちは逃げ出すことができた、と。城の守りをかためる場合、真っ先に城門の守備が強化されると思うのだが、お前たちはそこをどうやって突破してきたのだ? 百の弩を用いて、偽帝の軍勢を蹴散らしたのだろうか? であれば、奴らは弩だけではなく、矢も大量に残していたことになるわけだが……それは、さすがに間抜けがすぎるのではないか?」
 おまけに、と青年は嬲るように言葉を続ける。
「そうして城門を突破したお前たちに、敵は追っ手のひとつもかけていない。百の陳兵の勇猛と烈気に恐れをなしたのだとすれば、陳の兵士は聞きしにまさる精鋭ぞろいといえる。しかし、そうなると別の疑問が生じるのだ。それほどの精鋭が多数立てこもっていたにも関わらず、どうして陳都は陥落してしまったのだろう、という疑問がな」



 青年の言葉に、曹性は歯軋りしつつ応じた、
「……なるほど。あなたははじめから我らを疑っておいでだ。だから、すべてが疑わしく見えるのでしょう。わたしが何を云ったところで、あなたの耳には届きますまい。何故なら、あなたに聞く気がないからです。お願いする。夏侯元譲将軍に会わせていただきたい。我らの言葉を虚心に聞いていただける方にこそ、我らの本意をお伝えしたい」
「ああ、それは無理だ」
「何故?」
「夏侯将軍はすでに一軍を率いてこの陣を離れておられるからだ」
 曹性は表情をかえたりはしなかった。青年も曹性の表情を確かめようとはしなかった。確かめるまでもない、という青年の心の声を曹性は聞いたように思った。


「先刻、陳都に差し向けていた斥候から報告があってな。夜陰にまぎれて城を出る部隊が確認された。こちらの目をあざむこうとしてか、ご丁寧に西門ではなく南門から城を離れたようだな。大方、南まわりで我が軍の背後に出て、後方部隊に夜襲でも仕掛けようというのだろう」
 あっさりと仲軍の作戦行動を看破した青年は、口角をつりあげて曹性を見た。
「まあ、妥当といえば妥当だな。前方には夏侯将軍率いる官軍の精鋭。後方には急遽集められた農民兵。どちらが弱く、どちらが脆いかは童子の目にも明らかだ。後方の部隊を夜襲の標的にするのは実に理にかなっている」


 だからこそ、読みやすい。
 青年は喉の奥でくっと笑う。
「わざわざ偵騎を見逃してやった甲斐があったというものだ」
「……ッ」
「わかりやすく兵を分け、わかりやすくそれを見せる。実にわかりやすい誘いの手だが、やらないよりはマシだろう? おかげでこうして雑魚が釣れた」


 云うや、青年は立ち上がって右手を振り上げた。
 応じて周囲の兵士が動き、地に引き据えられた降兵全員の首に刃があてられる。
 曹性は血走った目で青年を睨め上げた。
「……何の確証もなく降兵を殺戮するか。無道な! 貴様らには白起、項羽の末路が訪れるぞ!」
「良い言葉だ。戦場の外で血を流した者が口にすると、ひときわ映えるな」


 火を噴くような曹性の眼光と、その曹性を傲然と見下ろす青年の眼差しが真っ向から衝突する。
 青年は右手をあげたままの格好で言葉を続けた。
「とはいえ、戦場でならともかく、戦場の外で白起、項羽の輩と称されるのは御免こうむりたい。よって、一つだけ貴様らに生き残る術をくれてやる――曹性という将がどこにいるか教えろ」
「……なんだと?」
「陳県令が調べた情報では、先ごろまで汝陽の軍権を握っているのは郭萌、曹性の二将ということだった。となれば、陳都襲撃にも加わっているだろう。部署でも役割でもいい。曹性が今どこにいて、何をしているのかを教えた者は命だけは助けてやる」


 その言葉に曹性は戸惑った。
 青年の言葉が穏やかならぬ感情で発されたものであることは明らかである。曹性は青年を知らないが、青年は曹性を知っているらしい。
 この青年、陳都に知己でもいたのだろうか。だが、陳都での恨みを晴らすというなら、郭萌や他の仲兵も仇に含まれるはずだ。ことさら曹性の名だけを出すとは思えない。


 ただ、どうあれ、これは好機であった。
 曹性以上に曹性の情報を知る者などいない。話の持っていきかた次第では、刑死を免れることができる――と曹性が密かに思ったとき、まるでその内心を読み取ったかのように青年は云った。
「そのつもりがある者は今すぐ云え。念のために云っておくが、ひとりずつ首を落として、残った者たちにじっくり問いただす、などというまだるっこしいことをするつもりはない。お前たちが話さないのならば、次に虜囚とした兵に訊ねるまで。そやつらも話さねば、また次だ。そうして、陳を襲ったすべての仲兵の首を落とせば、その中に曹性の首も入っているだろう」


 それが脅しの類ではないことは青年の冷厳な口調が物語っていた。
 このまま黙っていれば、青年は右手を振り下ろし、曹性たちの首が宙を飛ぶだろう。敵を謀ろうとして敵陣を訪れ、見破られて首を落とされる。これほど惨めな死に方はそうあるまい。
 それでも、自分ひとりのことならば自業自得で済む。どうせまともな死に方が出来るとは思っていなかった。
 しかし、自分の無能ゆえに部下を巻き添えにするのは忍びなかった。これが味方の軍事機密を流せ、という話であれば、たとえ部下を道連れにしてでも口を噤むつもりだったが、事が曹性ひとりで済むならば足掻いてみるべきだろう。



 青年の目に紫電がはしり、その右手が振り下ろされる寸前。
 曹性は青年に向かい、溜息まじりに自分の名を告げた。





◆◆◆





 捕虜とした曹性と仲の兵士を後方に送った俺は、陣幕に戻って深い安堵の息を吐いた。
「いや、雑魚とかいって悪かったな。見事に大物が釣れてたわ」
 その声を聞いた徐晃が不思議そうに顔をのぞきこんできた。
「確かに大物なんだろうけど……あの、一刀、なんでそんなにあの曹性って人にこだわってたの? 県令さまから陳都が落ちたって聞いてから――ううん、その中にあの人がいるかもって知ってから、ずっと怖い顔してたよね?」
 徐晃の言葉に同意するように司馬懿もうなずいた。
「公明どのの仰るとおりです。より地位の高い郭萌にはほとんど注意を払わず、曹性にのみ注意を向けているように見受けられました」


 二人の疑問はもっともである。
 しかし、その疑問に答えるのは色々な意味で難しかった。俺個人が曹性に恨みがあったわけではない。例によって例のごとく、俺が曹性の名を知っていたのは、元の世界の知識によるものだった。
(シチュエーションは全然違うが、たしか夏侯惇の目を射抜いたのは曹性だったんだよな)
 よりにもよって俺が夏侯惇と行動を共にしている時に出てこなくてもいいと思うのだが、出てこられた以上は放っておけない。史実でどうだったか怪しいとはいえ、無視することはできなかった。


 敵を城外に誘き出すべく色々と小細工を弄した結果、うまいこと仲兵が釣れたので、この際とばかりに曹性に関する情報を集めようとしたわけだが、まさか当人が降兵に混じっているとは思わなかった。配下を助けるための出任せかとも思ったが、当人や兵の話を聞くかぎり本物の曹性であるらしい。緒戦で捕獲できて本当によかった。
 ちなみに彼らは縄でがんじがらめに縛りあげ、後陣に閉じ込めてある。命だけは助けるといった手前、約束は守らねばならない。
 後の処置? 陳都を奪還したら、生き残った住民に処置を委ねるつもりです。命は助けるといったが、それはあくまでこの戦いに限ってのこと。彼らが陳都でやったことを許す権利は俺にはない。仲の将兵がどうなるかは彼らの行い次第である。



 つけくわえておくと、俺が曹性にこだわったのは単純な親切心というわけではない。
 今の俺たちは屯田民に扮していた兵と、陳羣からあずかった官兵をのぞけば、大半が徴兵されたばかりの農民兵である。
 ここだけの話だが、戦列の中央(つまり外から見えない位置)にはけっこうお年寄りの兵が多い。
 荷駄の後ろに木の枝をくくりつけて土埃をあげ、いかにも大軍が動いているように見せかけたり、夜間の行軍では兵士の両手に松明を持たせたりと、可能なかぎり手を打って、兵が実数よりも多く見えるようにしてきた。


 そんな状況であったから、ここで夏侯惇が負傷してしまうと、兵士が動揺して戦況が一気に仲軍に傾いてしまう可能性がある。
 また、みすみす夏侯惇を負傷させてしまえば、張莫や曹操が俺たちに対してどういう感情を抱くかは容易に想像できる。
 そういった事態を避けるためにも、曹性の排除は俺にとって必要なことだったのである。
 ――だったら奇襲軍の邀撃に夏侯惇を出すな、と云われそうだが、止めてもきいてくれないのだからどうしようもない。まさか「敵に曹性がいた場合、左目を射られるかもしれません。根拠? 勘です」とか云うわけにもいかないし。



 ともあれ、そういったことを明確に説明することが出来なかったため、徐晃や司馬懿に何度も不思議そうな顔をされてしまったわけだ。
 それでもきちんと俺の命令を聞いてくれるあたり、実によくできた子たちだった。ついでに云っておくと、鄧範は傷が癒えきっていない&仲軍が長平県の方からも侵攻してくる可能性があるために屯田地で待機している。


「一刀、夏侯将軍の援護はどうするの? 徴兵した人たちに夜戦は難しいだろうけど、私はいけるよ――必要ない気もするけど」
「私も公明どのと同じく出られますが、やはり公明どのと同様に必要ない気がしております」
「うむ、奇遇だな、二人とも。俺もまったく援護の必要性を感じない」
 援軍といっても、こっちに残っている正規兵は百あまり。残りは全部夏侯惇が連れて行った。
 敵がどの進路を取るかにもよるが、おそらく今ごろはもう敵軍を捕捉しているだろう。今から駆けつけたところで間に合うとは思えない。


 それよりは仲の別働隊を警戒して本陣をかためておくべきだろう。
 陳羣によれば、先ごろから汝陽には皇帝直属の部隊が駐屯しているという。呂布が叛乱を起こした今、飛将軍の脅威に晒される恐れはないが、皇帝直属となれば呂布には及ばずともかなりの精鋭であろう。注意するに越したことはない。
 そうして陣を固めながら、それでも万一に備えて夏侯惇の援護に行けるよう準備を整えていると、ほどなくして夏侯惇から勝利の報告が届けられた。正確に云うと、大勝利である。
 なにせ敵の大将 郭萌を討ち取ったのだから。
 以下は夏侯惇が帰陣してからの会話である。




「北郷、大変だ!」
「ど、どうしました、将軍、血相をかえて!? もしや負傷――はしてないようですね」
「あの程度の相手に負傷などするものか! それより北郷、私たちは敵の罠にはまったのではないか!?」
「どういうことです? 何か不審なことがあったのですか?」
「うむ、あった! 敵の主力があんなに弱いはずがない! 敵将なんて私がちょっと気合をいれて攻めかかっただけで、あっさり部下を見捨てて逃げおったのだぞ! 腹が立ったから後を追って叩っ斬ってやったが、これはきっと弱兵を囮にして本隊を強襲する策に違いないッ」
「……えーと、将軍。一応本陣の防備は固めておきましたが、特に敵が襲ってくるようなことはなかったですよ?」
「おお、命令を出す前に動くとは気が利いているではないか! ――ん? すると、あの弱っちい連中は何だったのだ?」
「単に将軍が強すぎただけだと思われます」




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第八章 飛蝗襲来(十)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/03/06 22:20

 豫州汝南郡 汝陽


 月明かりの下、ふわり、と音もなく城内の敷地に降り立った馮則は、周囲を見渡して小声で呟いた。
「主力部隊が出払っているのデス。城内の守備が手薄なのは当然のこと……けれど、それにしても簡単すぎますね」
 馮則はこれまで人に請われ、あるいは自分の判断で幾人もの権力者を切り捨ててきた。その多くが苛斂誅求を事とする者たちであり、彼らの屋敷や城砦は例外なく厳重な警備が敷かれていた。
 その時に比べれば汝陽城への侵入は非常に楽だった。それこそ目を瞑っても大丈夫なのではないか、と思われるほどに。


 ――誘われている。
 それはすでに確信だった。
 問題はこの誘いが誰に向けられたものなのか、である。城に忍び込もうとする不届き者全般への罠なのか、馮則個人に向けられた罠なのか。
 普通に考えれば前者なのだが、于麋の負傷ないし死亡が窄融に伝わっていれば、後者であることも考えられる。馮則を暗殺者と認識している窄融であれば、于麋を討った馮則が自分も狙ってくるかもしれない、と考えることもありえよう。


 慎重を期すならば、ここは一旦退くべきであった。
 だが、ここで退いたところで状況が好転するわけではない。情報を集めているうちに出撃した兵が戻ってくれば、城の守りは元通り厳重なものとなり、潜入も脱出も思うにまかせなくなる。
「虎穴にいらずんば虎児を得ず、とはこういう時にこそ用いるべき言葉デス」
 罠があるのなら、それを食い破ればいいだけのこと。馮則は腰に差した双剣の柄頭を軽く撫ぜてから、上体を伏せるようにして城へと近づいていった。




◆◆




 汝陽郊外で隊商と共に捕らえられた馮則は、武器を取り上げられた上で衛士の詰所に連行され、仲軍の取調べをうけた。
 馮則としては自分の忍耐力の限界を試される思いであったが、この取調べは思いのほかあっさりと終了し、馮則らは早々に自由の身となることができた。
 どうやら仲軍は付近を通りかかった旅人や隊商を軒並み捕まえているらしく、ひとりひとりを執拗に尋問している余裕がなかったらしい。北へ――陳へと向かうことは厳禁とされたが、それ以外のことについては特に制限をつけられることもなく解放されたのである。


 別れを告げる馮則に対し、長の娘は一緒の旅宿に泊まろうと熱心に誘ってくれたのだが、これから仲に喧嘩を売る身としては誘いに応じることはできなかった。
 張仲にも誘いを断られた女の子がずーんと肩を落として落胆してしまったため、馮則たちはどうしたものかと困惑して顔を見合わせる。
 すると、父親が娘をなだめながら穏やかに云った。
「どうぞお行きください。縁あって旅の道連れとなったのです。またお会いできる日もあるでしょう」
「そうデスね。その時はもうすこしゆっくりお話したいものデス」
 馮則が云うと、張仲もこくりとうなずいた。
「それまで、お互い健やかに過ごせるよう願っています――あなたも元気でね」
 張仲が不器用な笑みを向けると、沈み込んでいた女の子もこくこくと頷き、またあおうねー、と手を振って馮則たちを見送ってくれた。



 こうして三者の道は分かたれ、一日に満たない旅の道連れは解消された。
 馮則はとりあえず汝陽内の地理を把握するため、大路を歩くことにした。 
 戦争が始まったせいだろう、城市の規模に比して人通りはめだって少ない。その上、警戒心をあらわにした警邏の衛士が頻繁に見回りをしており、少しでも怪しいと思った者には居丈高に素性を問いただし、反抗的な素振りを見せようものなら棒で叩き伏せて詰所に連行している。


 馮則はその光景を見て小さく肩をすくめた。
「獄と市は大度をもって治めるべし、とは曹相国のお言葉でしたが」
 前漢建国の功臣の言葉を引いた馮則は、くすりと笑って付け加える。
「そんなことをしているから、ワタシのような曲者を見逃してしまうのデスよ――ああ、あれが汝陽城デスね」
 馮則はなるべく目立たないように汝陽城の周囲をめぐり、城構えや兵の配備、水路の状態などを確かめていった。
 どうやって潜入するかも大事だが、どうやって逃げ出すかはそれ以上に大事なこと。成功しようと失敗しようとお尋ね者になるのは確定しているので、このあたりはしっかりと把握しておかねばならない。


 こうして、日が落ちるまで城市の中を歩き回った馮則は、外出禁止の鼓が鳴らされる頃に適当に宿をとった。この時、断固として酒を避けたのはいうまでもない。
 そうして夜も更けた頃、こっそりと宿を抜け出した馮則は汝陽城へと潜入したのである。



◆◆



 城内は気味が悪いほどに静まり返っていた。見回りの人間さえいないようで、しわぶきひとつ聞こえてこない。
 はじめこそ警戒しながら進んでいた馮則であったが、今はもう堂々と廊下を歩いている。それでも誰何の声が飛んでくることはなかった。


 窄融が城に詰めていることは城市で確認しているが、さすがに城のどのあたりにいるのかまではわからない。しかし、馮則は迷わなかった。
「こういう時に偉い人がいるのは謁見の間と相場が決まっています」
 馮則は確信をこめて云う。
 外れたら外れたで、見張りの兵をひっ捕らえて窄融の居場所を聞き出せばいい。さすがに城門のあたりまでいけば門番のひとりふたりはいるだろう。


 馮則は内部の見取り図を持っているわけではなかったが、謁見の間のおおよその場所は見当がついた。臣下や民衆と謁見する場所を城の隅っこにつくる者はそういないから、城の中心へ中心へと移動していけばそのうち行き当たるだろう。
 この大雑把な方針にそって行動した馮則は、やがて目論みどおり謁見の間とおぼしき大広間にたどり着く。
 当然というかなんというか、やはりここでも見咎められることはなかった。




 百人規模の演習さえ行えそうな広間には幾つも円柱が立ち並んでおり、そこには精緻な竜虎亀鳥の像が彫られていた。おそらく東西南北、四つの方角を守る聖獣たちであろうが、これら聖獣の身体は金箔で覆われ、目には大きな玉がはめこまれている。さらに爪、羽や甲羅といった部位には宝石が散りばめられており、これをはがすだけで一財産になるだろう。それこそ庶民であれば一生食べるのに困らないくらいの額になるはずだ。


 四方の壁には円柱と同じ聖獣が彫られており、これも当然のように金箔で覆われている。
 それだけではない。壁際には名工の手になると思われる彫像が立ち並んでいるのだが、これらの像もまた金銀珠玉で飾り立てられている。
 壁面に据えられた松明の明かりを映し、煌びやかな黄金色に包まれる謁見の間の光景は、仲の繁栄と汝陽の富がどれほど巨大であるかを無言のうちに誇示していた。


 馮則はその光景を見て思わず溜息を吐いたが、それは大広間を照らし出す黄金の輝きに気圧されたからではない。
「悪趣味もここまで極めればいっそ見事デス。威容を見せ付けるために謁見の間を豪奢にすることはひとつの見識なのでしょうが、それにしてもこれは黄金の無駄遣いでしょう。お金の自慢をするのなら、どれだけ多く貯めたかよりも、どれだけ有意義に使えたかで語りたいもの。ワタシはそう思うのデスが――」
 馮則はそう云うと、キッと鋭い視線を前方に向けた。
「仲賊。アナタは違う意見を持っているようデスね?」




 馮則の視線の先、群臣を見下ろす階の上につくられた椅子に座った女性が、静かな声で馮則に応じた。
「誤解をしているようだが、謁見の間をこのようにしつらえたのは私ではない。ここが悪趣味極まる場所であることは諸手をあげて賛同しよう。もっとも、だからといって居心地が悪いとは思っていないがね」
「趣味の悪さを自覚しているとは結構なことデス。この際だからついでに云っておきますが、円柱の陰に潜めた兵と、後ろの扉に隠した兵も今のうちに出しておきなさい。お願いデスから、したり顔で『かかったな!』とか云わないでくださいね? 聞いている方が恥ずかしくなります」
 馮則が指摘すると、階上の女性はくすりとも笑わずにこう云った。


「――だ、そうだぞ、喬才」
 その声と同時に馮則の背後で広間の扉が音高く閉ざされ、円柱の陰から仮面をつけた兵士たちが姿を見せる。
 兵士はいずれも白い仮面をつけていたが、ただひとり、もっとも奥にあった円柱から出てきた人物だけは素顔を晒していた。


 その人物の格好を見た馮則は、思わず素の声を出してしまう。
「これはまた、見事に金ピカな少年デスね」
 馮則の声に、少年――楊松は整った顔立ちを嫌悪で歪めて吐き捨てた。
「ほざくな、刺客風情が」
 そう云った楊松は、そのまま椅子に座した女性にも不機嫌な声を投げつける、
「無碍、お前が蚩尤に相応しい奴だというから協力してみれば、なんだ、この小娘は? こんなやつにオレの秘術を施してやれというのか」
「そのとおり。黄祖を討ち、于麋を刺し、于麋の配下をことごとく切り捨てた上で、仲から逃げるのではなく、かえって汝陽にまで出向いてきた。私をも討ち取ろうとしてのことだろう。ここまで活きの良い者はなかなかいない。くわえていえば――」


 そう云って階上から馮則を見下ろした女性――窄融の視線が凍土のような輝きを放つ。
「于麋の言葉が確かならば、孫家の亡霊どもとも関わりを持っている。お前の秘術が成功しようと失敗しようと、使い道はいくらでもあるということだ。彼奴らの陣営には名の知られた将が多い。首魁も小覇王の異名を持つ者。素体としては申し分あるまい」
「……なるほど。布石、というわけか。そういうことなら、まあいいだろう。ただし、オレも試させてもらうぞ。出来損ないども相手に百数える程度は生き延びてもらわねば、オレの役には立たん」
 楊松はそう云うと、円柱から離れて窄融と馮則の間を遮る位置に立った。窄融を守るようにも見え、また窄融の手出しを封じるようにも見える。



「――それで、もう始めても良いのデスか?」
 二人の会話を黙って聞いていた馮則が、腰に両手をあてて訊ねる。
 いかにも余裕ありげであったが、藤色の瞳に宿る戦意はつい先ほどよりもはるかに強く、濃くなっていた。馮則にとって、今しがたの二人の会話は絶対に聞き捨てにできないことであったのだ。
 ただ、ここで何かを問いかけたところで眼前の二人は答えまい。この手の輩から答えを引き出すために一番良い方法は、身の危険を覚えさせること。
 それを知っている馮則は、腰にあてていた手を双剣の柄へと移動させた。




◆◆




 静から動へ。変化は急激だった。
 窄融と楊松を除けば、敵兵の数は後方の入り口付近に三人、円柱から出てきたのが六人で、計九人。いずれも仮面をつけている。
 告死兵の力は馮則も噂で聞いていたが――


「そこの小娘を殺せ!」
 楊松の一喝が謁見の間に響き渡った瞬間、馮則は力強く床を蹴って前方へ飛び出した。
(飛将軍が九人いるわけではないでしょうッ)
 狙いはもっとも手近にいる兵。
 ほとんど一息で相手との距離を詰めた馮則に対し、敵兵の反応はわずかに遅れた。横なぎに振るわれた長剣の一閃は空を切り、敵の初撃をかいくぐった馮則はそのまま相手の懐に飛び込んで斬撃を浴びせる。


 告死兵はいずれも大柄で屈強な体格をしており、対して馮則は女性にしてはやや上背がある程度。単純な体格差だけを見れば、それこそ大人と子供の戦いであったが、ただの子供が江夏水軍の真っ只中に飛び込んで主将を討ち取れるはずがない。
 振るわれた斬撃は鋭さと重さ、なにより正確さを兼ね備えていた。的確に甲冑の継ぎ目を捉えた攻撃は、重い手ごたえと共に告死兵の腰部を切り裂き、あふれ出た血はたちまち相手の下半身を赤く染めていく。
 深く切り裂かれた傷口から臓物の匂いがあふれ、ツンと鼻をつく異臭があたりに広がった。


 即死するほどの傷ではないが、助かる傷でもない。
 しとめた、と判断した馮則は、しかし、次の瞬間、しとめたはずの相手が傷口をおさえようともせず、再び剣を振りかぶったのを見て目を瞠った。
 咄嗟に床に転げ込むと、一瞬前まで馮則の頭があった空間を斬撃がうなりをあげて通過していく。最期の力を振り絞った一撃――というわけではなかった。その兵士は剣撃が空を斬ったと知るや、即座に床を蹴って馮則に襲い掛かってきたからである。傷口から赤黒い血液と、細長い臓物をぶらさげたままで。


 驚いている暇はなかった。
 この一連のやり取りの間に、他の八人はすでにいつでも馮則に斬りかかれる位置にまでたどり着いていたからだ。
 馮則としては手近の告死兵を討ち、その兵が隠れていた円柱を背にすることで背後からの攻撃に対処するつもりだったのだが、あてがはずれた。
 さすがに九人に囲まれては馮則といえどもいかんともしがたい。正確には九人もいらない。前に二人、後ろに一人。これだけでほぼ勝算はなくなる。他の兵が周囲をかためれば逃げることさえ出来なくなるだろう。


 だから、そうなる前に、身軽さを駆使して相手を引っ掻き回すのが一対多の戦いにおける馮則のやり方だったのだが――
(なんデスか、あれは!?)
 素早く立ち上がって周囲を確認しながらも、馮則は今しがた自分が切りつけた相手を気にせずにはいられなかった。致命傷ではなかったにせよ、あれだけの深傷を負わされれば、普通は激痛で立つこともできないだろうに、相手は臓物をぶら下げたまま事もなげに戦闘を続行している。やや足取りが不確かなところを見るに、傷の影響がまったくないわけではなさそうだが、それにしてもあの傷で悲鳴ひとつ発さずに立っていること自体、常軌を逸していた。


 と、その時。
 またしても馮則が目を疑う事態が起きる。
 なんと、周囲の告死兵全員が、味方になんら配慮することなく一斉に斬りかかってきたのである。
「ウソッ!?」
 思わずそんな言葉を叫びながら、馮則は再度床に身を投げ出した。さすがに今度はかわしきれず、後方にいた兵士の剣を肩口に浴びてしまう。
 肩肉をそぎ落とされる感触と、燃えるような激痛に馮則は奥歯を噛むが、幸い骨に届くほどの傷ではない。戦いに支障はない、と馮則は判断した。


 逆に深傷を負ったのは攻撃してきた告死兵の側であった。広くもない空間に、九人が同時に切り込んだのだ。これで同士討ちが起こらないはずがない。それでも大半の斬撃は甲冑が防いだようだが、一人は顔面から血を流し、一人は首筋を浅く切り裂かれ、もう一人は馮則と同じ肩口を、馮則よりもざっくりと切り裂かれていた。
 味方の大剣が肩あてを弾き飛ばし、直接肩に食い込んでしまったのだろう。斬られた右腕がだらりと垂れさがっているところを見ると、もしかしたら骨か筋が傷ついたのかもしれない。
 これも普通なら激痛で転げまわる重傷であるが、その兵はうめき声ひとつあげずに馮則の方を見ているだけだった。
 この兵士が仮面の下でどのような表情を浮かべているかは想像するしかないが、何故だか馮則は確信できた。おそらく、何の表情も浮かべていないのだろう、と。




 告死兵同士が切りあう様を見た楊松が不快げに舌打ちする。
「ち、バカどもが。斬りかかるときは三人までだ。他の奴は敵を囲め!」
 その声に告死兵たちの動きがわずかに止まる。誰ひとり返事はしなかったが、おそらくそれが諒解の仕草だったのだろう。
 それを見て、馮則は何かを悟ったように思った。
「……なるほど。ワタシが相手をしていたのは、兵士ではなくて傀儡(くぐつ)だったのデスか」
「ふん。見てのとおり、出来の悪い連中だがな。とはいえ、貴様の相手をするには十分すぎる。まだ時間は半分以上残っているぞ。生き延びたければ、必死に足掻いてみせるがいい」


 嘲る楊松に対し、馮則はくすりと微笑んだ。
「初めて知りました」
「なに?」
「悪趣味も極めれば見事になります。しかし、下衆は極めても下衆のままなのデスね。もとより仲賊を生かしておくつもりなどありませんでしたが――」
 そう云って、馮則は周囲を取り囲む告死兵たちを見やった。顔のすべてを覆い隠す白い仮面。その仮面からのぞく双眸が死者のそれのように暗く淀んでみえるのは、馮則の気のせいではなかったようだ。


「――これはもう、殺してあげることが慈悲のようデス」
 静かに云う馮則に対し、楊松はつまらなそうに応じた。
「できもしないことをさえずるな。屠殺される家畜でも、もう少しマシな悲鳴をあげるぞ――やれ!」
 再度の合図。
 それを聞いて告死兵が一斉に動き出す。


 だが、今度もまた先手を取ったのは馮則だった。
 馮則はまだ無傷の告死兵めがけて、いきなり双剣を投げつける。至近距離、しかもほとんど予備動作のない投擲を、告死兵は避けることができなかった。
 深々と咽喉をえぐられた二人の告死兵は巨木が倒れるようにどうと床に倒れこむ。
 これで残るは七人。先に腰斬した兵の動きは明らかに鈍く、味方に腕を斬られた兵は片腕なのですでに戦力外。これを除けば五人。


 代償として馮則は得物である双剣を失ったが、その手にはすでに懐剣が握られている。
 残った五人の告死兵が馮則に迫る。この時、馮則はむしろ自分から彼らの間合いに飛び込んでいった。
 それを見て告死兵はそれぞれの得物を振りかざすが、その動きは奇妙に鈍い。
 楊松は三人で斬りかかれと命じた。だが、その三人をどのように決めればいいのだろう?


「方術だか呪術だか知りませんが――」
 馮則は間合いの短い懐剣で告死兵と渡り合おうとはしなかった。動きの鈍い告死兵の足元にすべりこみ、鉄靴の隙間から冷徹に足の腱を断ち切ってしまう。痛みがあろうとなかろうと、腱を切られてしまえば立ち上がることはできない。
「タネさえわかれば、対処する術はいくらでもあります」
 もんどりうって倒れこむ告死兵の巨体を器用に避けた馮則は、今しがた双剣を投げつけた告死兵のひとりに駆け寄ると、その咽喉から強引に剣を引き抜く。引き抜いた途端、裂かれた傷口から溢れるように血が迸り、馮則の手と剣を紅く濡らした。




◆◆




 ひとり、またひとり、馮則の手によって告死兵が倒れていく。
 それを見て楊松は内心で歯噛みをしていた。


 出来損ないと言明したように、この場にいる告死兵は楊松にとって理想にはほど遠い。
 楊松にとって蚩尤とは『自分に絶対的な服従を誓う』『万夫不当の戦士』である。そのために楊松は研鑽を積んだ秘術を他者に施してきたわけだが、単純に相手に力を与えるだけでも簡単ではない。洛陽で閻圃が北郷に云ったように、ツボをつくことで膂力を増しても身体がついていかず、かえって身体を損ねてしまうのである。


 ただ、これに関して楊松の技術は閻圃の知識より先に進んでいた。五斗米道では禁忌とされたそれを、今日まで幾度となく繰り返してきた。その経験の賜物であろう。
 しかし、ただ兵士を強化するだけでは意味がない。たとえ術を施した兵が大陸最強の兵士になったとしても、それが自分に服従するものでなければ楊松にとって何の価値もないからだ。
 人間、力をつければ自分より劣る者のいうことなど聞く耳もたなくなるものだし、楊松の為人は他者から尊敬を寄せられるものではない。ゆえに楊松は相手の思考を縛る術も並行して施しているのだが、これが思いのほか難物であった。


 この術は暴れる患者をおさえる際に用いるため、五斗米道でも研究されていたものなのだが、云うことを聞かせるといっても限定的な用途でしか使えない。
 極端な話をすれば「前に歩け」と命令された人間は、前方に壁があろうが、池があろうが、あるいは谷があろうが、何も考えずにただただ前に歩き続けるのである。
 絶対的服従といえばそのとおりかもしれないが、これではいくら兵として強化しても何の役にも立たない。


 ただ、このあたりはかなり個人差があり、壁の前で立ち止まれる者もいれば、壁を壊して進もうとする者もいた。
 これらの差異は、術を施される人間の性格や精神力に左右されるものであるらしい、と楊松は結論している。
 この結論は楊松にとって厄介なものであった。いかに研鑽を積み、経験を重ねようと、心や精神などという形のないものを思うとおりに弄ることは難しい。
 だが、それでも楊松は諦めなかった。術の影響下にあって、比較的自立して行動できる者と、そうでない者を並べ、両者の差異を研究した。
 結果、楊松が得た結論は、ある意味で肉体強化の術ととても似ていた。


 身体を鍛え、武を修めた者ほど肉体強化の術の負担に耐えることができる。
 精神束縛の術の場合、強烈な自我と明確な意志の持ち主に対しては効果が薄れ、だからこそ、ある程度自立的に行動できるようになる。
 この境界を見定めることができれば、その人間は楊松に服従しながらも己の意思で行動できるようになる。そういった者たちに肉体強化の術を施せば、それこそが楊松にとって理想となる真の蚩尤の誕生であった。




(もっとも、ただでさえ精神束縛は繊細な術。それにくわえて心だの境界だのを正確に推し量れるはずがない。できあがる大半は、力はあってもろくに自分で動くことのできない出来損ないばかりだった)
 楊松がこういったことを学んだのは、まだ窄融と出会う以前のことである。
 その道は平坦なものではなかった。五斗米道を出奔した楊松に権力の後ろ盾はなく、実験を行うのも面倒な手間が多い。
 そこで楊松が目をつけたのが戦場である。
 負傷している相手ならば抵抗を受けることなく実験できる。失敗してうちすてても咎められることはない。戦場に死体が転がっていることに不審を覚える者など誰もいないのだから。


 こうして各地の戦場を歩き回っていた楊松は、とある戦場でこれ以上ないほどの武人と出会う。
 瀕死であったその武人を治療した楊松は、相手の感謝と信用に乗じて術を施し、これは今に至るまで唯一といっても良い蚩尤の成功例となった。
 後に楊松は「対等の関係」と「蚩尤量産のための全面的な協力」と引き換えに、その蚩尤を窄融に譲渡する。


 実のところ、楊松はこれを少しばかり後悔していた。
 窄融麾下の告死兵、あの呂布に鍛えられた精鋭ならば次なる成功例となるに違いない、そう思ってのことだったが、出来上がるのはいずれも出来損ないばかり。これでは蚩尤を譲った楊松の大損である。
 ここに至って、楊松は――そして窄融も次のように考えたのである。



 蚩尤を増やすためには、名のある将を捕らえる方が近道なのではないか、と。





「――喬才、まだ試すのか? 告死兵とて貴重な戦力。無駄遣いしてもらっては困る」
「黙って見ていろ!」
 楊松はそう云って、残った二人の告死兵に対して炎をまとうように命じる。
 これは楊松が蚩尤の特徴を考慮して考えた戦法であり、先に宛の地下で刃を交えた劉家の将軍たちにも十分に通用した。
 だから今度も、と楊松は考えたのだが。


「だから、云ったでしょう?」
 上半身が炎に包まれた告死兵が躍りかかろうとする、その寸前。
 再び投じられた双剣が二つの仮面を同時に断ち割り、告死兵の額に突き刺さった。彼らは投擲の衝撃に押されるようにそのまま仰向けに倒れこみ、一度大きく痙攣した後、すぐに身動きしなくなった。
「タネがわかれば対処する術はいくらでもあります。何をしてきたところで動じない心構えもできる。狭い室内ならともかく、こんな広間で火をまとって、それで何が出来るというのデスか。ワタシが撃剣の使い手であることは先の一投でわかっていたでしょうに」
「……ぐ」
「少年。アナタは将としては語るに足らず、人としては見るに堪えないデス。本当は今すぐこの場で首を叩き落としてやりたいのデスが……」


 藤色の双眸が帯びる殺意に射抜かれ、楊松は咄嗟に窄融に呼びかける。
「おい、無碍! はやくあいつを――」
「訊きたいことが山ほどあります。しばらくそこで転がっていてください!」
 楊松が言い終えるより早く懐に飛び込んだ馮則は、握り締めた拳で楊松の頬を手加減ぬきで殴り飛ばす。
 たまらず、黄金をまとった身体は宙を飛んだ。そのまま騒々しい音をたてて円柱のひとつに叩きつけられた楊松は、悲鳴をあげることもできずに力なく床に崩れ落ちた。




◆◆




 パチパチパチ、と。
 静まり返った広場に拍手の音が木霊した。
「見事。于麋を手もなくひねっただけのことはある」
「あの無礼者は死を免れたようデスが、そこに転がっているお味方の心配はなしデスか? 手加減しなかったので死んでいるかもしれませんよ」
 窄融はちらと床に倒れた楊松を見やると、小さく唇を歪めた。
「なに、厚遇の元手ははじめの手土産で十分。生きていればそれでよし、死んでいるならそれもよし。私にとってはどちらでもかまわない」


 それを聞いた馮則の目がすっと細くなった。
「あの無礼者も同様、というわけデスか」
「いかにも。私が于麋に命じたのは、早急に馮則を私の前に連れて来い、ということ。于麋がおまえを連れてくればそれでよし。于麋が返り討ちにあっても、それはそれでかまわなかった。そこまで激しい気性の持ち主ならば、于麋の主である私も狙うだろう。結果として、于麋は役目を果たすことになる」
「無礼者を討ったワタシがここに来なかった可能性もありますが?」
「その時は、于麋の後ろにつけていた告死兵がもう一度同じことをした」


 馮則は倒れていた告死兵の額から双剣を抜き放つ。
 告死兵の身体は今なお炎に嘗められており、放っておけば床や柱に火が移ってしまうかもしれない。馮則はそう考えたが、火を消し止めようとはしなかった。そんなことをしている余裕はないし、たとえ余裕があったとしてもする気はない。
 たぶん、この広間は火で清めるのが一番だから。


「……あの無礼者の代わりに憤ってあげる義理もなし、アナタが部下を捨駒にしようとワタシの知ったことではないのデスが。ひとつ訊ねたいことがあります」
「答えよう」
「ワタシが招聘に応じていたら何を命じるつもりだったのデス? 陳王でも殺させるつもりだったのデスか?」
 馮則の問いに、窄融はあっさりとうなずいた。
「そのとおり。陳襲撃は予行としてはちょうどよかったのでな。おまえの力量を試すことができる、と考えた」


 その答えを聞き、馮則は眉をひそめる。
「予行?」
「そう。私の狙いは初めから許昌だ」
「……丞相、デスか」
 仲にとって目の上のコブである曹操を暗殺するために自分を招こうとした。窄融の言葉をそう判断した馮則であったが、窄融はこれを否定する。
「否、私の狙いはあの宦官の孫の主だよ」


 宦官の孫とは曹操のこと。そして、中華帝国において丞相の上に立つ者は一人しかいない。すなわち、皇帝 劉協である。


「……皇帝陛下を弑するなど正気デスか――と問うだけ無駄デスね。アナタたちは自ら皇帝を名乗った叛逆者に仕えているのだから」
「ふふ、天に二日(にじつ)無し、土に二王無し。地上に皇帝は二人もいらぬ。往古よりの、それが理だ」
「その理を知るのなら、討つべきはどう考えても今上帝ではなく偽帝の方でしょうが、まあいいデス。いまさら仲賊に理を説いてもはじまりません。しかし、本当にそんな企みが成功すると思っているのデスか?」


 呆れを隠せない馮則に対し、窄融はこともなげに云った。
「今、宦官の孫は敵軍と飛蝗のために黄河に張り付いている。陳が落ちれば、こちらにも兵を割かねばならない。許昌の守りはきわめて薄くなろう。そこをつけば、不可能ではあるまい」
 すでに袁術は皇帝を称しており、仲から見れば劉協こそが偽帝となる。窄融にしてみれば、これを討つのに何のためらいもいらない。
 ただ「不可能ではない」と「成算がある」はイコールではない。いくら許昌の守りが薄いとはいえ、数人、数十人の手勢で皇宮の守りを破れるはずはない。馮則がいようといまいと、結果はかわらないだろう。


 そして、直接皇帝を狙われれば、許昌の廷臣たちは――なかんずく曹操は絶対に黙ってはいない。たとえどれだけ戦況が不利になるとしても、威信をかけて仲討伐に立ち上がる。
 その際、真っ先に狙われるのは仲の所領である汝南郡であり、中でも最前線に位置するここ汝陽であろう。そして今、汝陽の兵の大半は陳都に差し向けられている。
 窄融の火遊びが、かえって自らを焼くことになるのは、それこそ火を見るより明らかではないか――



 窄融は淡々と云った。
「成功すればそれでよし。失敗すればそれもよし。何もかわらない」
「……どういう意味デス?」
「宦官の孫が汝南に攻めてきたらきたで、一向に構わないということだ。奪われるのは汝南の富、汝南の土。それは私ではなく、汝南袁家の所有物。私は何も失わない」
「アナタは、まさかわざと官軍を仲に引き込むつもりデスか!?」
「云っただろう。成功すればそれでも良い。劉協を失えば、これを守れなかった宦官の孫は苦境に陥る。それは仲の進撃の好機となる。ことさら許昌にくみするつもりはない」


 当然、窄融はその先頭に立って河南の富を略取する。
 反対に、皇帝暗殺が失敗し、怒り狂った許昌の軍勢が攻め込んでくれば、窄融はその前に兵を退く。
 もちろん、ただ退くだけではない。美味しいところをまるまる曹操にくれてやる義理はない。連中が来る前に、汝陽の富を奪えるだけ奪い尽くす。汝南袁家に連なる者たちも殺しつくす。
 汝陽を守る汝南兵は陳都の略奪に狂奔しているため、窄融を邪魔する者はどこにもいない。


 この略奪を官軍の仕業として各地に伝達すれば、汝南郡全体が動揺するだろう。官軍は仲とそれにくみする者に容赦はしないのだ、と。
 そんなところに窄融が援軍を装って訪れれば、各城市の城門は必ず開く。
 窄融の手勢だけでは汝南全土を覆うには足らないが、略奪も強姦も好きなだけ行えるとわかれば、兵などいくらでも集められる。当然、質は期待できないが、武器を持たない汝南の民を殺し、犯し、奪い、焼くだけの仕事に質などいらぬ。
 そうして汝南各地を劫略し尽くした後、寿春に戻って報告するのだ。



 敵軍の略奪、飛蝗のごとし。汝南袁家、壊滅す――と。



「当然、疑う者もいようがな。汝南の富と領土を失えば、袁術の権力基盤は瓦解する。どれだけ疑おうと、膨れ上がった私の軍を罰することはできない。仲をどう料理しようと私の思うがままとなるわけだ」
 淡々と己が野心を語る窄融は、ここで改めて馮則を見た。
「訊きたいことがある、と云ったゆえにここまで語ったが、これだけ語れば十分だろう。今度はこちらが問う。どうだ。今の話を聞いた上で、私に従うつもりはあるか? 于麋に伝えさせたとおり、私に従えば欲しいものを欲しいだけくれてやる」



 しばしの沈黙は、低く冷たい馮則の声で破られた。
「――あの無礼者からアナタの名を聞き、その素性を調べたとき、ワタシは思ったのデス」
「ん?」
「『この窄融という人物、早めに排除しておかないと大変なことになるのでは』と。我ながらみごとな先見の明でした。今、この場に立っている自分を褒め称えたいと思います」
 そう云うと、馮則は双剣の柄を握り締め、階上で自分を見下ろす窄融にありったけの戦意を叩きつける。
 そして、一言一言区切るようにして、自分の意思を明確に宣言した。
「アナタは、今、ここで、絶対に殺します」




 ややあって、窄融が口を開く。
 その声を聞いた馮則は思わず顔をしかめていた。
 今しがたまでの淡々としたものではない。蜜が滴り落ちるような、甘く粘ついた声だったからだ。 
「意外に思うかもしれないが、私は本当におまえのことを気に入っている。黄祖を斬った顛末を聞いた時から。こうして顔をあわせてからは、これまで以上に。そして、誘いを断られた今なお、その気持ちは動いてない。それどころか、ますます欲しいという気持ちが強くなっている」
「しつこい女は嫌われますよ――それで、何が云いたいのデス?」
「殺しはせぬから安心しろ、ということだ」



 窄融がそう云った、その途端。
 黒々とした影が馮則の視界を上から下へ通り抜けた。



 謁見の間の天井から何かが落ちてきたのだ、と馮則が悟ったのは一瞬後のこと。
 はじめ、馮則はその影を猫か何かだと思った。ふわりと床に降り立った身軽さが猫を彷彿とさせたからだが、冷静に考えれば、いくら猫が身軽な動物でもこの高さの天井から落ちて無事で済むはずがない。くわえて、その影は猫のように小さくはなかった。あえて例えるならば虎であったろうが、むろんのこと、虎が天井から落ちてくるわけがない。


 影が降り立ったのは馮則と窄融のちょうど中間。
 ソレがゆらりと立ち上がった時、馮則はようやく相手が人であると気づく。
 馮則の前に立ちはだかった人物は、首元から手の先、足の先まで黒衣で覆われていた。黒の色彩で覆われたこの人物の身体的な特徴は二つ、いや三つある。
 黒衣とは対照的な白い髪。その顔を覆う紅い仮面。その仮面はなぜか右眼付近が欠けており、欠けた箇所からは白い肌とハシバミ色をした右の眼球がのぞいていた。


 手に長大な斧を握った仮面の人物が、音もなく前に進み出る。
 瞬間、背筋に氷塊がすべり落ちるのを感じた馮則は、咄嗟にその場から飛び退った。
 反応は考えうる最速を極めていたが、それでもなお相手の間合いから脱することはできない。空間そのものを両断する勢いで振るわれた戦斧の一撃を見て、かわせないと判断した馮則は左右の双剣で受け止めようとする。
 が、しかし――
「くッ!?」
 信じがたいほど重い剛撃に耐え切れず、馮則の身体は勢いよく円柱に叩きつけられてしまう。
 かは、と馮則の口から固まった呼気が吐き出された。



  
「蚩尤という。呂布をも越える、と云うのが喬才の売り文句であったが、それは怪しい。しかし、関羽とならばまともにやりあえるのは確認済みだ。お前の腕が関羽を越えるものであるのなら、この場を脱することもかなおうが、さて、どうかな」
「……顔が広くて、結構なことデス、ね」
 苦痛をこらえながら言い返す馮則を見て、窄融の口元が愉しげに緩む。
「そうこなくては。遅ればせながら名乗っておこう。我が姓は窄、名は融、字は無碍、真名を螽(しゅう)という」
 馮則の眉が怪訝そうにひそめられる。
「なんデスか、いきなり真名まで口にして……?」
「なに、他人に名を問う前に自分の名を名乗っただけだ。問おう、孫家の亡霊。おまえ、名はなんという? 孫家の将で馮などという姓は聞いたことがない。おおかた偽名なのだろう?」


 馮則はその問いに応じず、口をかたく引き結んだ。
 それを見た窄融はなおも云う。
「こちらが名乗った上は、そちらも名乗ってくれると期待しているのだがな」
「礼儀も礼節も、人と人の間でこそ成り立つものデス。ワタシは虫と名乗り交わすつもりはありません」
 窄融は、くっと楽しげに咽喉の奥で笑った。
「つくづく愉しい反応をしてくれる――蚩尤」


 呼びかけを受けた仮面の人物が窄融を振り仰ぐ。
 その相手に対し、飛蝗と等しい真名を持つ女性は甘い甘い声で命じた。
「殺すことはならぬ。顔を傷つけることもならぬ。それ以外ならば、腕を折ろうが、足を砕こうが、何をしてもかまわん。私に従うというまで、叩きのめせ」


 その命令は無感情に肯諾される。
 それから夜が明けるまで続けられた暴虐を、窄融は城主の椅子に座りながら、愉しげに見物し続けた。
 飽きることなく、いつまでも。




[18153] 三国志外史  ~恋姫†無双~ 第九章 青釭之剣(一)
Name: 月桂◆3cb2ef7e ID:fbb99726
Date: 2014/03/14 23:46

 豫州汝南郡 汝陽


 その日、張機は非常に機嫌が悪かった。
 汝陽に戻るやいなや、腹部を刺された于麋の治療に駆り立てられたのはまだいい。それが終わると、今度は休む間もなく件の重傷患者の処置にとりかからねばならず、寝台に入れたのが朝日が昇る時刻であったのも、まあいいだろう。
 ようやく眠りに落ちたと思ったら、一刻と経たないうちにたたき起こされ、城に侵入したという曲者を治療させられたのも我慢しよう。
 その人物が顔見知りであったことは驚いたが、窄融に事情を問いただしている暇はなかった。全身を滅多打ちされたとおぼしき彼女は、それこそ息も絶え絶えの状態だったからだ。


 張機の機嫌の悪さは、寝不足や疲労ではなく、この患者――馮則と名乗った少女の傷の状態にあった。それこそ顔をのぞいて全身がはれ上がったような状態であるにも関わらず、骨や筋にはほとんど異常が見られなかったのである。
 切り傷や刺し傷もあるが、これも致命的な部位は巧妙に避けている。
(何かを聞き出すために痛めつけたんじゃなくて、痛めつけるために痛めつけたって感じよね)
 当面の処置を終えた張機は、馮則の顔を見ながらそう思った。
 顔に傷はないといっても、負傷の影響が及んでいないわけではない。全身の傷口が発する熱のせいだろう、顔や首筋は不自然に紅潮しており、むくみもひどい。正直、昨日別れた少女と同一人物とは思えない様相だった。


「思っていたより、ずいぶんと早い再会になったわね」
 張機がぼそりと呟くと、それまで寝台の上で身動ぎせずに横たわっていた馮則がゆっくりと目を開ける。
「……お互い、健やかに……というわけには、いきません、でした、ね」
 声はひどくかすれ、今にも宙にとけてしまいそうだったが、張機を見る藤色の瞳は不思議なほどに強い光を放っている。
 張機はそれにはこたえず、水を含んだ布を馮則の唇に軽く押し当てた。今の馮則の状態では、起き上がらせても杯から水を飲むことができないため、こういう形で水分を補給しないといけない。


 口の中が潤ったせいか、次に発された馮則の声は、先のそれより幾分か滑らかだった。
「……お世話をかけます、と云ってもいい、のデスかね……? 実は、仲の拷問係だったり、しますか?」
「私はただの医者よ――今のあなたにとっては治療も拷問も大差ないでしょうけど」
 窄融が馮則を治療させたのは、もう一度痛めつけるためだろう。健康を取り戻すためではなく、拷問を加えても死なないだけの体力をつけさせるための治療。これも張機が不機嫌になっている理由のひとつだった。


 馮則は張機の言葉の意味を理解したようだったが、特に驚いた様子は見せなかった。
「そうデスか。まあ……城に忍び込んで、高官を暗殺しようと、したのデス……手足の腱を斬られ……慰み者にされたところで、文句を云える立場では……ありません」
 それを思えば、全身を痛めつけられる程度はマシな待遇といえるだろう。
 そう呟くと、馮則は大儀そうに息を吐き、そっと目を閉ざした。今の短い会話も相当に苦しいものだったのだろう。


 馮則は眠りについたわけではなかった。というか、この傷では眠ろうにも眠れない。絶え間なく続く痛みと熱、吐き気に苦しみながら、意識を保ち続けるしかない。
 それでも馮則が苦悶をかみ殺して張機と言葉を交わしたのは、慈悲や情けを請うためではもちろんなく、自分がこうなったのは自業自得だと伝えるためであった。
 張機はそのことを察したが、それについては特に何も云わず、馮則の顔に浮かび上がった汗を一見無雑作に、その実、丁寧に拭いとっていった。



◆◆



 部屋の扉が荒々しく開け放たれたのは、それから一刻ほど経ったときだった。
 ちょうど馮則に水を含ませていた張機は、鋭すぎるほどに鋭い眼光で闖入者を睨みすえた。
「重傷者の治療中よ。入室禁止にしていたはずだけど?」
「うるせえ、お前の命令を聞く義務はねえよ」
 そう云って部屋に入ってきたのは于麋だった。
 于麋は窄融に対する時と、それ以外の人間に対する時とでは態度をかえる。おまけに張機のことは目の仇にしている。吐き捨てるような言葉遣いはいつもどおりのことであった。


 ただ、いつもより声に力がなく、顔色も悪い。傷が疼いているのか、左手で下腹部をおさえている。
 それでも于麋がこの部屋を訪れた理由は――
「どきやがれ、野巫(やぶ 田舎医者の意)。そいつの腹を抉って、腸を引きずり出してやるッ」
「はいわかりました、なんて云うはずないでしょう。はやく部屋に戻って横になっていなさい。ただでさえ無茶をしたのに、これ以上身体を酷使すれば本当に死ぬわよ」
「うるせえっつってんだろ! そこをどけッ」
「断るわ。その様子だと、夜にまた熱が出る。私を野巫だと云うなら、別の医者に薬をもらって安静にしていなさい」


 于麋は張機の忠告に応じなかった。もう言葉をしゃべるのも億劫なのか、黙って右手で剣を抜く。
 血走った両眼からは害意が滴り落ちており、張機は相手が本気であることを悟らざるを得なかった。
(多少の護身術なら心得ているけれど……)
 護身はあくまで護身。負傷しているとはいえ、于麋のような武人を取り押さえることは難しい。
 ゆえに、張機は虎の威を借りることにした。


「この患者を治療しろと云ったのは虎賁校尉よ」
 虎賁校尉というのは窄融の官名である。
 それを聞いた途端、于麋の顔にわずかに動揺が走る。知らなかったというより、興奮のあまり失念していた、と張機の目には映った。
 それでも于麋は表情を歪めて云い返してきた。
「無碍さまは、そいつが招聘に応じぬときは殺せと仰った。俺は命令に従っているだけだ」
「城へ侵入した者を私に預けた。その意味を汲み取れない人間を、虎賁校尉はどう思うのかしらね?」


 ギリ、と室内に歯軋りの音が響く。
 剣の切っ先が闖入者の内心の激情を示すように激しく震えたが、それでも窄融の不興を被ることは避けたかったようで、于麋は舌打ちと共に剣を収めた。
「……野巫、そいつを死なせることも、逃がすことも許さねえぞ。もしそんなヘマをしたら、俺がお前の首を掻き切ってやる」
「精々気をつけるわ。気が済んだなら早く出ていきなさい」
 じろりと張機が睨むと、于麋はもう一度音高く舌打ちした後、足音あらく部屋を出て行った。




 于麋の足音が廊下から聞こえなくなった頃、寝台の上から小さな声が発された。
「……やっぱり……お世話をかけます、と云うべきデスね……」
 馮則が黙っていたのは、自分が会話に割り込むと余計に抜き差しならない事態になると判断したからである。
 そのことに気づいていた張機は軽く肩をすくめた。
「気にしないで。よくあることだから」
「……今のが、よくあるというのも……こわいことデス……」
「本当にね」
 そう云いながら、張機は馮則の額に乗せていた手拭いをとった。先ほどかえたばかりなのだが、馮則の発する熱でもう暖かくなってしまっている。
 手拭いを水桶にいれて絞り、再び馮則の額へ。その後、張機は水桶を抱えて部屋を出た。すっかり温くなってしまった水を入れ替えるためであった。





 幸いというべきだろう、それから数日は何事もなく過ぎ去った。
 馮則の状態も大分落ち着きを取り戻しており、顔のむくみもおさまってきている。張機の治療の賜物、というよりは馮則の体力、回復力の為せる業だろう。
 ただ、回復が順調であるということは、それだけ次の拷問が近づいているということで、その点が張機にとっては頭痛の種だった。
 馮則は自業自得だ、という意味のことを云っていたし、実際、城への潜入と暗殺未遂という罪状は斬り殺されて当然のもの。背後関係を聞き出すために拷問を加えるのは、何もおかしいことではない。


 この点、もともと官吏だった張機はかなりシビアだった。
 それでも馮則のことを気にかけてしまうのは、やはり仲という国に対する嫌悪感が拭えないせいだろう。
 張機自身、仲の禄を食んではいないが、協力していることは間違いない。というより「禄を食んでいない」という言い訳を用意している時点で、口では何と云おうとも、心底で割り切れていないことは明白であった。



 と、物思いにふけりながら城内を歩いていた張機の耳に、強く尖った声が突き刺さる。
「仲景!」
 その声を聞いた瞬間、張機はげんなりとした。
「……また厄介なのが」
 相手に聞こえないように小声で呟き、声のした方に向き直る。
 案の定、そこには楊松の姿があった。いつの間にか汝陽に戻っていたらしい。めずらしく仮面の兵士の護衛を連れていないのは、馮則の侵入と関わりがあるのだろうか。


 そんな疑問を覚えた張機は、近づいてくる楊松の顔を見て溜息を吐いた。
 そして、内心で断定する。
(どう見ても、関係あるわね)
 いつもどおり、やたらと黄金で身体を飾った少年の頬は、一目でそれとわかるほどに痛々しく腫れ上がっている。この城内で窄融と対等の口をきく楊松にこんな振る舞いをする者は存在しない。殴ってやりたい、と思っている者はかなり多そうだが。


 そんな張機の内心を知る由もなく、楊松はことさらゆっくり歩み寄ってくると、居丈高に言葉を突きつけてきた。
「仲景、お前、無碍から侵入者の治療を命じられているそうだな。オレと代われッ」
「お断りよ」
「なんだとッ!?」
 楊松が目を剥いた。
 そんな楊松に対し、張機は淡々と応じる。
「虎賁校尉は私にあの患者を治せと云った。あなたに治療を引き継げとは云われていないの」
「そんなことはオレの知ったことじゃない。いいからオレの云うとおりにしろ! オレは無碍と対等の関係を認められているッ」


「何か勘違いしているようだけど――」
 張機は鋭い視線で楊松を睨みつけた。窄融や于麋を前にしても一歩も退かない張機である。その眼光をまともに浴びて、楊松は目に見えて鼻白む。
「あなたと虎賁校尉の関係は、あなたと虎賁校尉の関係でしかない。私があなたに従わなければならない理由はないのよ」
 窄融が自分と楊松を同等に扱えと命じたわけでもない。窄融に従う者たちが楊松に従わねばならない理由はないのである。


 とはいえ、張機は楊松の医術の腕前は素直に認めている。特に鍼灸術に関しては足元にも及ばないと自覚していた。張機も鍼灸術の心得がないわけではないのだが、楊松のそれに比べれば子供だましの域を出ない。
 だから、動機はどうあれ、楊松の目的が馮則の治療にあるのであれば、引継ぎに関しても考慮くらいはするのだが、今の楊松を見れば、その目的が治療以外にあることは明白であった。その理由が姿の見えない告死兵と、腫れ上がった頬にあることも、また。


(たった一人でどれだけ暴れたのよ、あの人は)
 馮則が何のために窄融を殺そうとしたのかは知らないし、窄融が馮則をこれからどうするつもりなのかもわからない。張機にわかるのは、馮則がいま自分の患者であるということだけ。そして、それだけで十分だった。
 于麋や楊松のように、患者に恨みを抱く人間を患者の近くに近づけさせるつもりはない。
 短い旅の道連れとなった縁を重んじてのことではなかった。これが顔も名前も知らない人間であったとしても、張機はまったく同じことをしただろう。



 冷然とした張機の態度に業を煮やしたのか、楊松は顔を険悪に歪め、罵声を発しようとする。
 しかし、楊松が口を開くより一呼吸だけ早く、汝陽城内に騒々しい銅鑼の音が響き渡った。
 これには楊松も驚きを隠せず、寸前までの怒気を引っ込め、怪訝そうな顔で周囲を見回す。
 この銅鑼の音が、陳都襲撃部隊の帰還を知らせるものであると二人が知ったのは、それから間もなくのことであった。



◆◆



 于茲、焦已らが汝陽に運び込んだ剣や槍、弓矢に甲冑、そして何より数千を数える大量の弩は汝陽の仲軍――というより窄融軍の軍備を飛躍的に強化した。
 一方で、郭萌、曹性らの部隊が命令を無視して陳都に留まったこともあわせて伝えられたが、これに対して窄融は皮肉げに口元を歪めただけであった。おそらくは想定した動きだったのだろう。


 ただ、それから遅れること数刻。
 汗血と砂塵にまみれた陳都からの使者がもたらした報告を聞いたとき、窄融の反応は先のそれとはわずかに異なった。右の眉をはねあげたのである。
 陳都が曹操軍によって奪還された、という報せであった。




「――そうか、わずか一戦で我が軍は蹴散らされたか」
 陳都陥落の詳細を聞いた窄融は、そう云って何事か考え込むように目をつぶる。
 使者は無念そうに応じた。
「はッ、郭司馬は敵将 夏侯惇によって討ち取られました。佐の曹さまは敵軍に捕らえられ……生死は定かではございませんが、こちらもおそらく――」
「討たれていよう。しかし、夏侯惇が出てきたか」


 今回の陳都襲撃には幾つかの目的があったが、そのうちのひとつが曹操の出方を確かめるというものだった。
 曹操のことだ。いかに河北のことで手一杯であっても、南に対する備えを怠っているとは思えない。陳国を突けば、そのあたりの備えを確かめることができる。窄融はそう考えたのである。
 この早さで夏侯惇が出てきたということは、おそらく仲との国境付近にあらかじめ部隊を展開していたのだろう。長平県の陳羣は、陳の国相である駱俊が曹操に請うて県令に迎えた人物であり、この陳羣から汝陽の動静が伝わっていたのかもしれない。


 ともあれ、曹操軍が陳都を奪還した上は、あの城市の復興は曹操の手に委ねられたことになる。略奪で荒れた今の陳都をおさえても旨味はないが、かといって偽帝の軍に荒らされた城市と住民を見捨てれば、朝廷と、朝廷を主宰する丞相の名に傷がつく。ゆえに曹操は陳を放り出すことができない。
 これで夏侯惇とその部隊はしばらく陳から離れられなくなった。
 それはつまり、許昌の守りがまたひとつ薄くなったことを意味する。



「――頃合か」
「は?」
 窄融の呟きに使者が怪訝そうに反応するが、それに対して窄融は煩わしげに右手を振った。
「報告、ご苦労。下がれ」
「は、はい、かしこまりました……あの、窄校尉、城主さま(汝陽城主 袁嗣)にもご報告申し上げたいのですが、いずこにおいででしょうか?」
 使者が訝しげに訊ねると、窄融は「不要」と短く応じた。
「城主は郭、曹の二将が汝陽を出て以来、病で伏せっておられる。報告は私からしておこう」
「……は、かしこまりました」
 そう応じた使者の目には、わずかながら疑惑の色がちらついていた。


 先刻から窄融は汝陽城主の席に座っているが、その席は本来袁術から汝陽の城主に任じられた袁嗣のもの。袁嗣が病に倒れ、窄融が代理として汝陽をとりしきっているのだとしても、一校尉が城主の席に座るのは僭越というものではないか。
 使者はそう思ったが、しかし、それを口にしようとはしなかった。窄融の来歴を知る使者は、それを口にすれば身の破滅であることを理屈ではなく直感で理解していたのである。





 それからしばし後。
 窄融は自身の部屋に直属の部下と楊松を集め、開口一番云った。
「劉協を殺す」
 仮にも四百年の間、中華帝国を支配してきた漢帝の名を呼び捨てにし、なおかつこれを殺す、と明言する窄融。
 これに対し、集まった者たちは顔色一つ変えずにうなずいた。正確にいえば、楊松は興味なさげに聞き流しただけであり、もうひとり、劉遙の子である劉基は顔色を蒼白にしていたが、劉基に関しては窄融の部下というより慰み者に近く、窄融はもちろん于麋や于茲、焦已といった他の部下たちも劉基の反応を一顧だにしなかった。


 于麋が勢い込んで進み出る。
「無碍さま、俺が行きますッ」
 先ごろ馮則に不覚をとった于麋は汚名返上を期して名乗りをあげたのだが、これに対して窄融は首を横に振った。
「于麋、今のお前の役割は一刻も早く傷を治すことだ。汝陽に留まれ」
「――しかしッ」
「……姉さん」
 何かを言い返そうとした于麋を、于茲がそっと押さえる。
 それで「窄融の命令に反抗しようとした」事実に思い至った于麋は、狼狽をあらわにして頭を下げた。


 窄融は自身の命令に反駁する部下を好まない。明確な根拠があってのことなら耳を傾けるくらいのことはするが、ただ己の感情にあかせて食ってかかってくる部下を窄融がどのように遇するか、想像するまでもなかった。
「も、申し訳ございません! ご命令どおり、俺は汝陽に残ります」
 その于麋の後頭部を冷然と見下ろしながら、窄融は言葉を続ける。
「汝陽に留まり、于茲、焦已と共に我が兵を束ねよ。指揮はお前に任せる」
「――は、はい! お任せくださいッ」
 叱責を覚悟していたところ、思いがけない大任を与えられ、于麋は声を弾ませた。


 一方、于茲の方はやや顔色を曇らせていた。姉を羨んでのことではなく、窄融の言葉が意味することに気づいたためである。
「……無碍さま、許昌襲撃の指揮をご自身でお執りになるつもりですか?」
 無言でうなずく窄融を見て、于茲は率直に自分の意見を具申した。
「危険です。無碍さまは汝陽に残り、許昌には蚩尤を送り込むだけでよろしいのではないかと愚考します。蚩尤だけでは心もとないと仰せであれば、私が参ります」
 その于茲の言葉を聞いて、于麋は顔をあげた。
 自分に総指揮を任せると口にした窄融の真意にようやく気づき、慌てて妹に同意する。
「茲の云うとおりです! 無碍さまが危険を冒す必要はないでしょうッ」


 窄融は姉妹の進言を右手の一振りで退ける。 
「まがりなりにも一国の都に潜入し、皇帝を殺そうというのだ。滅多にない催し、高みの見物を決め込むのは惜しい。案ずるな、私は撹乱の指揮を執るだけだ。宮中には蚩尤と告死兵を送り込む」
 その窄融の言葉を聞き、それならば、というように于茲は引き下がった。于麋もまた不承不承口を閉ざす。



 次に口を開いたのは楊松だった。
「で、無碍。俺をこの場に呼んだのは告死兵に秘術を施すためか?」
 つまらなそうに口を開いた楊松に対し、于麋と于茲が尖った視線を向ける。
 窄融と対等の口をきく楊松のことを、姉妹は心の底から嫌っていた。窄融自身がそれを認めているので文句は云えないのだが、押し殺した感情はその分楊松への厳しい態度にあらわれる。
 姉妹は楊松から治療(姉は負傷、妹は毒)を受けたこともあるが、これは窄融の命令ゆえであって、命令がなければ楊松に身体を触れさせることなど決してなかっただろう。


 楊松も楊松で于家の姉妹には冷淡に接しており、両者の関係に改善の兆しは一向に見られない。
 窄融はそういったことを見抜いているようだったが、特に口を挟むことはしなかった。
 この時も于麋たちの反応を気にとめず、楊松にかぶりを振ってみせる。
「いや、それは不要だ」
 口に出したことはないが、窄融は自身が譲り受けた蚩尤をのぞき、楊松が生み出す兵士たちに何の魅力も感じていない。自分の判断で動けない兵なぞ何の役にも立たない。呂布の訓練と多くの実戦で鍛え上げられた告死兵を、わざわざ木偶の坊にするつもりはなかった。
 これまで楊松の実験の用に供された告死兵は、窄融の指揮に不満なり不服なりを示したものたちばかりである。


「それよりも喬才、お前は蚩尤が拾ってきた顔良の治療に専念せよ。あれもまた名の知られた勇将、二人目の成功例となる可能性は高い」
「それならば、あの馮則という奴をオレに任せろ。所詮は無名の暗殺者、あれなら顔良と違い、使い潰しても惜しくはあるまい」
「使い潰すか否かは私が決める。お前とて、そろそろ何かしらの成果が欲しいだろう。それとも、殴られた私怨を晴らすために本来の目的を後回しにするか?」


 その言葉に楊松は小さく舌打ちした。
 それを見た于家の姉妹の目が三角になるが、楊松は気にした様子もなく、軽く床を蹴ってうなずく。
「……いいだろう。引き受けた。だが、あれは体力を取り戻すのに時間がかかる。回復を早めようとすれば、それこそ使い潰すことになりかねんぞ」
「楊喬才ともあろう者が、そのような無様な失敗はせぬと信じている」
 楊松はもう一度聞こえよがしに舌打ちすると、もう用は済んだとばかりに窄融たちに背を向ける。そして、そのまま退出の挨拶もなしに部屋を出て行った。




 楊松が部屋を去ると、たまりかねたように于麋が口を開く。
「無碍さま、どうしてあんな奴に対等の関係を許しているんですか? 今の態度、無礼にもほどがありますッ」
「……私も姉さんに同意します。もし、新たな蚩尤を得ることに成功すれば、喬才は無碍さまの命令に従わないようになるでしょう」
 姉妹の進言に窄融はこともなげにうなずいた。
「わかっている」
「ならば、俺に奴を殺すよう命じてくださいッ」
 勢いこんで云う于麋に対し、窄融はわずらわしげにかぶりを振った。
「于麋、于茲。私が評価しているのは喬才の為人ではなく、能力だ。五斗米道の業ともいえるが、いずれにせよ、それを利用するためには常に喬才の自尊心をくすぐってやらねばならない。逆にいえば、それをするだけで奴の持つ能力を活用できる。幼子を玩具であやすようなもの、なにほどの手間か」


「……幼子が振るう刃物で、大人が傷つけられる恐れもあるのではないでしょうか?」
 めずらしく于茲が食い下がった。
 先刻は于麋をとめた于茲であったが、楊松に関しては警戒心を消すことができずにおり、窄融の周囲に楊松がいる状況に警鐘を鳴らさずにはいられなかったのである。
 もし楊松が蚩尤のごとき人外の兵を意のままに生み出せるようになれば、窄融の下にとどまってはいないだろう。それどころか、敵対してくる可能性が高い。
 そうなった時、于茲たちで楊松を止めることはできるのか。
 ――無理だ、と断じざるを得なかった。


「……災いの芽は、それが育つ前に抜いてしまうべきです」
 于茲の真摯な進言を、窄融は無下に退けようとはしなかった。
 だが、受け容れることもなかった。その理由を窄融は口にする。
「案ずるな、于茲。あれの目的は地位や権力ではない。蚩尤量産の目処が立てば、さっさと漢中に帰るだろう。盧氏といったか、五斗米道を率いる張魯の母、それに誉めてもらうためにな」
 于茲は怪訝そうな顔をした。
「……誉めてもらう、ですか? 奪いに行くのではなく?」
「懸想した相手を犯したいのであれば、私のところに来る前にそうしている。蚩尤ひとりでも事足りようし、それに加えて幾らかの出来損ないを用いれば、女の一人二人、簡単に連れ去ることができる」


 だが、楊松はそうせず、更なる蚩尤を求めて窄融の下に来た。
 それは何故なのか。
 窄融は愉しげに云った。
「ふふ、喬才は子供。子供ゆえに潔癖。なればこそ、好いた相手を無理やり奪うことに耐えられぬ。盧氏をかき抱く時、それは力ずくの情欲によるものではなく、想い合った末の抱擁でなければならない――」


 そのためにはどうすれば良いのか。
 簡単だ。自分が盧氏を救えば良い。漢中を脅かす蜀の劉焉の脅威から。
 そうすれば盧氏は自分に深い感謝の念を抱くだろう。


「感謝した相手に親愛の情を抱くは当然のこと。親愛は思慕を育み、思慕は情愛に昇華する。かくて、二人はめでたく結ばれる――その未来を得るために、喬才は蚩尤の術を完成させなくてはならないのだ。蚩尤の術は実現可能なものであり、それは外敵を討ち払うことができる力である。間違っていたのは自分を追放した者たちであって、自分ではない。そのことを誰の目にも明らかな形で示すために、な」



 于麋がおそるおそる、という風に口を開いた。
「あの、無碍さま。仮に喬才のやつが蚩尤を使って劉焉ってのを追っ払ったとしても、その盧って女が喬才に惚れるとは限りませんよね?」
「そうだな。だが、喬才の中では劉焉を追い払うことと盧氏が己に想いを寄せることは等しい。云っただろう、喬才は子供だ、と」
「……そうなってほしい、ではなく。そうなるに違いない――いえ、そうならなくてはならない、と思い込んでいるのですね」


 窄融は于茲の言葉にうなずいた。
「ふふ、危地に陥った姫君を助ける勇士の心境なのだろう」
 于麋があきれ返って云った。
「俺が云うのも何ですが、あれだけ外道なマネをしておいて、よくまあそんな手前勝手なことを考えられるもんですね。普通の女なら、人間をおもちゃにするような奴には死んでも惚れないでしょうに」


 それを聞いた窄融は、たえかねたように咽喉の奥で笑った。
「くく、于麋、何度も云わせるな。喬才は子供だ。子供の子供たる所以は、己しか見えぬこと。他者が自分をどう見るかは考慮の外、喬才は自分が外道だなどと微塵も思っていない。だからこそ、人間を木偶にすることをためらわぬし、その木偶を周囲に侍らせることもできる。まともな神経を持った人間なら、とうに気が狂っているだろう」


 罪の意識がないから、心が痛まない。心が痛まないから、どれだけ非道なことでも行える。
 先夜、馮則に斬り倒された告死兵が蚩尤の出来損ないならば、それを生み出した楊松は人間の出来損ない。
 そんな人間が五斗米道の秘術を持って自分のもとを訪れた。これを幸運と云わずして何を幸運と云うのか。
 窄融はそう云って、結論を口にした。
「それさえ弁えていれば喬才の言動に腹は立つまい。自分の正しさを信じて疑わぬ勇士どのは、適当におだてておけば、その能力を惜しみなく振るってくれるのだ。可愛いと感じるほどだよ。だから、先走った振る舞いに及ぶことは許さぬ。わかったな?」


 その窄融の言葉に、于家の姉妹はそっと目を見交わした。
 今の話を聞いても、楊松に対する二人の感情に変化はない。むしろ、ますます危機感が募ったほどだ。相手が子供であるのなら、いつ何時、利害得失とは関わりのない次元で窄融に牙を向けてくるか知れたものではない。
 だが、ここまではっきりと釘を刺されては、これ以上の抗弁は為しえなかった。
 姉妹は同時に頭を垂れ、窄融に了承した旨を伝える。内心で、楊松を排除する意思をより強く固めながら。




◆◆◆




 豫州陳国 南部国境


 陳都及びその近郊から仲の軍勢を駆逐した官軍は、続いて陳都の治安回復に取り掛かる。
 その一方で、城外に逃げ散った敗残兵の追撃、掃討のために一隊を南部国境に派遣することになった。
 俺がこの任務を引き受けたのは単純に消去法である。略奪で荒れた陳都を静めるためには夏侯惇の存在と武名が不可欠であり、復興の実質的な指揮を執るためには陳羣の能力と名声が欠かせなかった。


 そんなわけで、夏侯惇から五百の兵を預かった俺は早々に陳都を離れ、仲軍の残党を蹴散らしながら南へと向かった――と、このように記すと、あたかも俺が素晴らしい指揮で掃討戦を展開したように思われそうだが、実際に遭遇したのは数十から多くても百程度の集団ばかりであり、しかも戦意は皆無に近かった。指揮官が誰であっても負けることはなかっただろう。
 ともあれ、とりあえず付近の仲軍を掃討し終えたと判断した俺は、陳都にその旨を伝える使者を送った後、そのまま国境付近で野営し、明日以降に備えることにしたのである。




 篝火で煌々と照らされた陣地の周囲を、歩哨が規則正しい足音をたてながら巡回している。
 このあたりは河川が多く、反対に山地は少ない。当然、見晴らしも良いので、夜襲には不向き――と云いたいところだが、水軍を用いてこちらの背後にまわる、という作戦もありえる。備えを怠ることはできなかった。
 すーすーと至近から聞こえてくる寝息を極力意識しないよう務めつつ、俺はさらに今後のことを考える。


 実のところ、先日来、俺は胸奥に一抹の不安を抱えていた。
 事態が簡単に進みすぎる、という不安である。
 用心深いというべきか、それとも疑い深いというべきか、俺は戦いがうまく運んでいると、喜ぶよりも先に疑心が湧いてきてしまう。何かタチの悪い詐術に引っかかっているのではないか。うまく運んでいるのは見せかけで、裏で取り返しのつかない事態が進行しているのではないか、と。


 先に夏侯惇が「敵が弱すぎる」という不審を口にした際、俺は「アンタが強すぎるだけです」と応じた。
 それが間違っていたとは思わないが、もしかしたら、あの時、夏侯惇は敵の戦略を直感的に読み取っていたのかもしれない。
 陳都の奪還が容易だったことも、この疑念に拍車をかけた。
 『囮』が郭萌の部隊のみを指すものではなく、陳都の占領を含む一連の軍事行動そのものを指していたのだとすれば、『囮』に対応する『本隊』は何を意味しているのか。


 俺たちの拓いている屯田地や、陳羣の長平県ではない。陳都を囮にして狙うようなものではないからだ。海老で鯛を釣るならともかく、鯛で海老を釣ってどうする、という話である。
 陳国の中心である陳都が海老になるほどの巨大かつ枢要な城市といえば、思い浮かぶのは許昌くらいしかない。
 甲という城市を急襲してこれを陥落させ、敵が甲の奪還のために兵を出してきたところで本命の乙に襲い掛かる。作戦としてはなんら珍しいものではなく、仲軍がこれを狙っていることは十分に考えられる。考えられるのだが――




(仲軍に許昌を落とすだけの兵力があるとは思えないんだよなあ)
 ここがネックとなっていた。
 この戦いの当初――というのはつまり、洛陽で弘農王が皇帝を称した時のことだが、仲軍は寿春に十万とも二十万ともいわれる大軍を集めている、という話だった。
 おそらく汝南郡の兵も大半はそちらに割かれているだろう。あれから仲国内では立て続けに叛乱が起き、外征どころではなくなったようだが――あるいは元々叛乱を鎮圧するために兵を集めたのかもしれないが、いずれにせよ寿春の軍勢が解散したとは聞かない。


 ということは、今も大半の汝南兵は寿春に駐留しているか、あるいは叛乱軍を鎮圧している最中、ということになる。この状況で許昌を襲撃する兵力を捻出しようとすれば、それこそ汝南の各城市を空っぽにする必要があるだろう。
 そして、そんな動きがあれば許昌の張莫や荀彧の偵知に引っかからないはずがない。
(その報せが来てないってことは、他の城市は動いていないってことになる)
 ただでさえ寿春に大半の兵をとられている上、陳都をめぐる攻防で郭萌、曹性をはじめとした一万近い兵を粉砕された汝南の仲軍に、許昌を攻める余力が残っているとは思えない。
 何度考え直しても、導き出される結論はかわらなかった。




(――つまりは考えすぎか)
 下手の考え休むに似たりとはよく云ったもので「なんとなく」などという理由で不安を突きまわしても、明確な解答や建設的な答えは出てこない。
 これはもう、くすぶる疑念をねじ伏せてさっさと寝てしまった方が良い。それはわかっているのだが、生憎と眠気はさっぱり訪れてくれなかった。
 理由? さっきもちらっと触れたが、今も俺の耳朶をくすぐっている寝息のせいです。


 いま俺がいるのは指揮官用のちょっと豪華な天幕なのだが、この天幕を使っているのは俺ひとりではない。徐晃と司馬懿の二人も一緒だった。当然、さっきから聞こえている寝息は二人のものである。
 正確に云うと、寝ているのは徐晃だけで、司馬懿は起きているのだが、なんにせよ妙齢の美少女ふたりの気配がすぐ近くにあることにかわりはなかった。



 どうしてこういう状況になったのか。
 結論から云うと、俺を守るためであり、同時に二人を守るためでもある。
 もう少し詳しく説明すると、徐晃と司馬懿は俺の護衛としてここにいる。これは仲軍の襲撃のみならず、俺の抹殺を目論んでいる(と思われる)方士に備えるためであった。
 洛陽での李儒や韓世雄の言動から推して、方士が直接俺を狙ってくる可能性はかなり低いと思われたが、戦場に出れば不測の事態などいくらでも起こり得る。ぜひとも傍近くで護衛を――というのが二人の主張であり、俺はためらいながらも、その申し出を受け容れた。


 断っておくが、別に十八才未満お断り的な展開を目論んでのことではない。
 俺の方にも二人を近くに置いておきたい理由があったのだ。
 俺が夏侯惇からあずかったのは訓練を受けた正規兵であり、曹操軍は軍律が厳しいことで知られている。しかし、どれだけ訓練を受けた兵であっても、何百、何千と集まれば不心得な輩の一人や二人や三人や四人いるのが当然と考えるべきだろう。
 これまでは夏侯惇という抑止力が働いていたが、今はその夏侯惇もいない。徐晃や司馬懿に妙なちょっかいをかける者があらわれても何の不思議もないのである。


 まあ、徐晃は云うに及ばず、司馬懿の方も見かけからは想像もできない使い手なので、たとえ不埒な輩が二人に襲いかかったとしても返り討ちに遭うのが関の山だ。そのことは大半の兵が知っているはずだが、戦闘の後ともなれば血の滾りを抑えきれない者も出てくるかもしれない。また、眠っている時や着替えている時などに襲われては、不覚をとってしまうこともありえよう。
 その点、ここであれば、いざという時でも俺が助けに入れるし、そもそも指揮官の天幕に出入りしている少女に手を出そうとする者はそうそういまい。


 ――とまあ、そんな理由で俺は二人の申し出をOKしたのである。繰り返すが、ヨコシマな心はミジンもなかった。
 汜水関からこちら、徐晃とはほとんど常に行動を共にしているし、司馬懿も似たようなもの。二人に異性を感じたこともないわけではないが、天使(理性)と悪魔(欲望)の戦いは天使の全戦全勝である。
 ゆえに、一日か二日、一つ屋根の下(?)で過ごすなど何ほどのことがあろう、と俺はそう考えたのだが……



 うん、正直に白状します。自分の自制心を過大評価してました。ものすごく落ち着きません。
 二人の方も当然のように俺を信じてくれているのだが、かといってまったく普段どおりというわけにもいかないようで、折に触れて気恥ずかしさを見せてくれちゃったりするわけで、つまり何が云いたいかというと、


 もうたまらん!


 ということである。ゴシック文字で強調したい。しないけど。
 しかしながら、ここで年上の男がみっともない姿を晒すわけにもいかない。俺は意地と見栄を総動員して平静を装い、見張りの交代(方士に備えて三人のうち一人は起きておくことになった。俺が不寝番を務める案は多数決によって却下された)まで横になったわけだが――眠気がやってこないのは前述したとおりである。


 俺が徒労と知りつつ胸中の不安を再検証していたのは、こういった事情による。
 今後はあまり自分を過信しないようにしよう。
 そんな、役に立つのか立たないのかよくわからない教訓を胸に刻みこんでいると、ようやく瞼のあたりに眠気のきざしが訪れる。
 何事も起こりませんように、という願いと、何か起きればこの状況も終わるよな、という思いが混在する中、俺の意識はゆっくりと闇に落ちていった。




◆◆




 しばし後。
 それまで正座をしながら周囲に気を配っていた司馬懿は、北郷の寝息が深くなったことに気づいて小さく唇を綻ばせた。


 司馬懿は北郷が起きていることを察していた。眠っている人間と起きている人間では呼吸の仕方が異なるのだ。
 もしかしたら、司馬懿や徐晃に見張り役をさせることをまだ気にしているのか、とも思ったが、気にするなと云っても気にする人であるのは承知している。
 くわえて、何か考え事をしている様子だったので、あえて声はかけずにいたのだが、本音を云えば、今後に備えて早く休んで欲しかった。


 その北郷がようやく寝入ってくれたのだ。
 この眠りは誰にも邪魔させない。
 司馬懿はそっと北郷の顔を見つめた後、再び周囲の警戒に意識を集中させた。



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