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[15219] 反逆のティア (TOA 現実→アビス 原作再構成)
Name: サイレン◆ef72b19c ID:cf411622
Date: 2010/03/21 21:25
前書き

はじめまして、サイレンと申します。
この作品は初めて私が筆を取ったものであり、拙い部分が目立ちます。
何か不備があれば、教えてください。

この作品はテイルズオブジアビスの二次創作となります。
主人公は現実からアビスの世界へと転生しています。
転生先はヒロインのティアとなります。
原作知識を持っています。
ティアのキャラが原作と乖離しています。
一部に仲間厳しめと思われる表現が入ります。
途中から他のテイルズシリーズとクロスします。

独自解釈、設定が含まれます。
原作の改変が見られます。
第一話から原作の核心部分に触れます。
作者は原作をプレイしたことがあるだけで、小説などは読んだことがありません。

原作を知らなくても読めるようにしたいのですが、なにぶん私自身の筆力が……、悲しい限りです。
wikiなどを参考にしていただきたいです。

以上の点に注意してお読みください。感想、批評、指摘など待っています。

1/23
チラシの裏より移動してきました。よろしくお願いします。

3/21
誠に申し訳ありませんが一時休載したいと思います。と言うのも次話を書こうとして致命的な欠陥に気がついたからです。
主人公と原作キャラの会話文書いていてふと、こんな会話するだろうかと疑問に思ってしまいました。そして、そのまま手は止まり納得のいく文章を書けませんでした。
数日、時間をかけて何故その不可欠なシーンに違和感を抱いてしまうのか考え、主人公の設定が甘いせいだという結論に思い至りました。
原作を開始してから主人公ではなくルークを書く方が楽しかったんです。それも、主人公の設定がぶれていたせいだったようです。

第一章は完全オリジナル展開だったので主人公が動かなければ話が進みませんでした。ティアの生まれ、転生者の原作知識持ち。この設定だけで十分です。
けれども第二章からは違います。一話に出てくる人数も増え、キャラが立っていないと会話もしない。そのキャラクターが主人公には欠けています。
本当はそのキャラクターを第一章で確立させるべきだったのに、それを怠っていたせいで主人公は原作知識がどうのとうじうじ悩むだけ。詰まらないお話です。

後書きでも書いたように私は“ティア”という立場に原作知識を持たせて原作を再構成してみたいと思いこの作品を書き始めました。
この時点では主人公の性格は掘り下げる必要がありませんでした。でも、原作が始まったらそれからの話はルークのためのものです。
原作とは違った動きをする“ティア”。その動きを納得させるだけの材料を用意できていなかったことを深く実感しました。
これ以上原作が進むと修正もできなくなりそうなので、一時中断していた改訂作業の方を優先させ、主人公ティアの肉付けをしたいと思います。
第一章の文章拙さも気になっています。完結させるつもりはありますので、この作品が次に上がったときに思い出してやって下さい。

いつも読んで下さっている方々へ。
自己満足から書き始めたこの作品でしたが、多くの人の眼に触れると言うことで自分の意識も高まりました。読者がいる。それだけで励まされています。
また、感想を書いて下さっている方々。
一つ一つ眼を通しています。感想から、ここの描写が足りないんだなとか、そこに注目するんだと多くのことを教えられました。きっとこれから読み返して糧にするでしょう。
皆さま本作を読んで頂きありがとうございました。戻ってくるときは今よりも面白い作品にしたいです。


※改訂≒未完ということもネット上ではよくあるので。
とりあえず完結させる気がなくなったらその旨を明記して、プロットを晒すことだけは約束しておきます。




更新履歴

第一話  1/1投稿 1/2修正
第二話  1/2投稿
第三話  1/2投稿
第四話  1/3投稿
第五話  1/4投稿
第六話  1/5投稿
第七話  1/6投稿
第八話  1/7投稿
第九話  1/8投稿
第十話  1/9投稿
第十一話 1/10投稿
第十二話 1/11投稿
第十三話 1/12投稿
第十四話 1/13投稿
第十五話 1/14投稿 
第十六話 1/15投稿
第十七話 1/16投稿
第十八話 1/17投稿
第十九話 1/18投稿
第二十話 1/19投稿
第二十一話 1/20投稿 
第二十二話 1/21投稿 1/22加筆
第二十三話 1/22投稿
第二十四話 1/23投稿 -チラシの裏から移動
第二十五話 1/24投稿
第二十六話 1/25投稿
第二十七話 1/26投稿
第二十八話 1/27投稿 1/28訂正
第二十九話 1/28投稿
第三十話  1/29投稿
第三十一話 1/30投稿
第三十二話 1/31投稿
番外編一 2/9投稿
番外編二 2/14投稿
番外編三 2/24投稿
閑話一 2/1投稿
閑話二 2/2投稿
閑話三 2/3投稿
第二章 
第一話 3/1投稿
第二話 3/2投稿
第三話 3/3投稿
第四話 3/4投稿
第五話 3/5投稿
第六話 3/6投稿
第七話 3/7投稿
第八話 3/8投稿
第九話 3/9投稿
第十話 3/10投稿
第十一話 3/11投稿
第十二話 3/12投稿
第十三話 3/13投稿
第18.5話 3/14投稿
第十四話 3/15投稿
第十五話 3/16投稿
第十六話 3/17投稿
後書き 1/2,4,6,8,11,14,17,20,22,25,27,30,31,2/3,3/3,6,10,16投稿



[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第一節 無垢なまどろみ
Name: サイレン◆ef72b19c ID:cf411622
Date: 2010/03/14 21:28



 ティアは神託の盾(オラクル)騎士団第二師団付技手の響長である。

 神託の盾騎士団とはダアト、ローレライ教団の保有する軍事組織のことだ。
 騎士と称してはいるが、貴族の二男や三男が騎士道精神に基づいて姫君をお守りする訳ではない。
 団員の大半は平民出身であり、むしろ泥臭いと言っていいだろう。神託の盾騎士団は徹底的な実力主義の世界である。

 ダアトはパダミア大陸を領有しているが、世界の大部分はキムラスカ・ランバルディア王国とマルクト帝国によって二分されている。
 昔のように国を失って宗教自治区であるダアトに腕一本で縋る者はいない。
 自前で軍事力を育てなければならなくなってから、両国に比べて圧倒的に人口が少ないダアトが選べる選択肢は一つしかなかった。

 すなわち、一人一人の兵の質を高めること。

 結果として生来の身分にとらわれない、平民でも強ければ団長に成り上がることができるシステムが完成した。
 腕に自信のある平民はこぞって海を渡り、ダアトにやってくる。今ではダアトの師団長の二つ名が世界に遍く認知されるほどである。
 強ければ、その出身も性別も年齢も問わない。それ故に強ければ、子供であっても階級は上がり隊を率いる立場になる。
 そういった子供は、たいていなにかしら強くならなければならない理由を持っている。

 アリエッタはフェレス島でライガによって育てられた。
 野生の中で人を知らずに5歳まで過ごした彼女は、導師守護役という大任を任されていた。

 シンクは人の手によって作られたレプリカだ。
 オリジナルに強くなれと命じられた彼は、近々第五師団の師団長になる予定である。

 アッシュはヴァンによって誘拐され帰るところがない。
 公爵子息だった彼は、特務師団長として神託の盾騎士団に所属するしか道が無い。


 ティアの生まれはユリアシティという街をドームが覆っている、魔物や盗賊とは縁も所縁もないところである。
 両親は既に亡くなっているが、その代わりに優しい兄と祖父に恵まれている。
 兄はオラクルの主席総長を、祖父はローレライ教団の詠師とユリアシティの市長を務めており金に不自由しているわけでもない。
 彼女が護身以上の力を必要とする要素は何処にもない。ましてや軍属になる必要などないように見える。
 だが、確かにティアは神託の盾騎士団に所属している。そうでなければならない理由を彼女は隠し持っていた。

 今まで誰にも話したことがない秘密。これからも口にすることのない物語。

 此処が地獄で、深淵には怪物が潜んでいることを知っていながら、彼女は口を噤む。
 じっと貝のように口を閉ざし、沈黙を守っている。




 ティアは前世の記憶を持っていた。彼女の前世はただの普通の人だった。
 大学を卒業して会社に入社、今日も残業だと愚痴りながら漫然と日々を過ごしていた。
 珍しく定時に帰宅した日。目を瞑って開くと、赤ちゃんに大変身というわけである。

 あまりにも突然のことでその日は呆然としながら、人形のようにされるがままになっていた。
 次の日も目が覚めてそのままだったので、これは夢だと自分に言い聞かせつつ、赤ちゃんごっこは自分の願望だったりするのだろうかと悩んだ。
 その次の日も相変わらず自分は小さいままだったので、開き直ってだらけきった生活を満喫しようと決めた。
 食べて、寝て、起きてのサイクルを繰り返し、学生以来こんなに不健全な毎日を送ってなかったなあと気楽に考えていた。

 そんなこんなで一週間。

 そろそろ夢が覚めて欲しいと危機感を持ち始めて3日。
 異常事態が通常なのだと改めて、諦めの境地に至るまで3日。

 短いと思うか長いと思うかは意見が分かれるだろう。
 未練たらたらだし、やりのこしたことなんて数え上げれば切りがないが、どうしようもないではないか。
 過去の自分は原因不明だが死んだのだと思い切り、さて、ここで生活していくにはと昼寝をしながら人生設計を立てる。

 彼女がそう考えるのも保身のためである。どう考えても自分は普通の赤ん坊ではない。
 頭脳は大人、身体は赤ちゃん。名探偵よりも状況は悪い。子供のふりして暗躍する彼は、現実にいたら気味が悪いだろう。
 このまま成長したら待っているのは排斥か拒絶か、どちらにしても碌な未来ではない。
 なるべく普通の赤ちゃんを目指し、せいぜいちょっと頭がいいかなとか好奇心旺盛だなと思われるくらいに控えよう。
 そうして要領よく子供時代を過ごし、早く自立しよう。


 目指すは、二十歳過ぎればただの人だ。








 その彼女の目標は果たされることはなかった。

「ティア、あなたのことがこの雑誌で取り上げられていましたよ。さすが12歳にして私の助手を務めるだけはありますね!
 そうだ! ティア。この天才ディスト様の助手ならば、それにふさわしい二つ名が必要です。私が薔薇ですから、……百合はどうでしょうか?」

 ディストは大げさに腕を広げ自分の意見を声高に主張していた。その姿は特徴的である。
 細身のディストに黒は似合うが、そのスーツの差し色は紫。その上に白衣をはおっている。
 一つ一つの質は良いのだが、しかし組み合わせによって全てが台無しになっていた。それが自分に似合っていると思っているのだから救いようがない。
 この黒に紫や赤といった色が大好きな師団長が目下、ティアの上司である。
 この変態、もとい師団の仕事をしたがらない研究オタクのせいでティアは響長に昇格する羽目になった。

 士官学校を卒業した者は、他の者が一兵卒から始めて行くのを尻目に入団一年目から奏長である。
 そしてそれからはそれぞれの強さに応じた速さで階段を昇っていくのだが、ティアは一段目を昇る気はさらさら無かった。
 昇ろうと思っても治癒師に分類されるティアなら根気よく任務を受け、10年計画を立てて挑まなければならない。
 そこまでして神託の盾騎士団で上に昇っても、得るものは無いと判断していた。

 ティアはとある事情により入団する必要があっただけで、そのときはまだ若いからと士官学校に放り込まれた。
 そして、放りこんだ側は入れておきながらも怪我されたら困るからと技手志望として扱われ、戦闘技術は雀の涙である。
 そんなティアが響長に出世したのは奇跡に近い。これも第二師団のディストの部下たちが努力したせいである。

 士官学校を卒業してすぐに配属された第二師団の師団長は、研究に勤しみ仕事を放棄していた。
 生来の研究者であるディストは地下の研究室に籠り日夜奇声を発しており、部下はどうしても師団長でなければならない仕事以外ではその研究室に近寄らなかった。
 そんな部屋に出入りする人間はヴァンやラルゴといった同じ団長格か、彼と同類である研究者の技手ぐらいしかいなかった。
 そして、技手であるティアがその研究室に出入りするのは当然のことである。
 ティアはディストを知識として知っていたので、その奇声も格好もそういった人間だからの一言で片づけていた。
 それよりも彼女はこの天才に用があった。どんなに変でも天才は天才。
 第七音素(セブンスフォニム)を専門とするティアにとって、レプリカ研究の第一人者であるディストとの会話は楽しいものだった。

 ティアが師団長と部下の間の橋渡し役として選ばれたのは、偏に彼女が技手の中で一番常識的に見えたからである。
 ディストの部下たちは魔窟に平然と出入りしている人間の中で、まともそうな彼女に外聞も気にせず泣きついた。
 突然呼び止められ始まった男泣きに絆され、一度ティアが仏心を見せたのが悪かったのだろう。
 あれよあれよと言う間に彼女は任務に連れて行かれ、本人が意図せぬうちに響長になってしまった。それも書類を扱うことができるようになるために。


 全ては師団長だというのに仕事をしたがらない、このディストのせいである。
 私は技手だというのに、何故昇進しているのだろう。ティアは現状に理不尽を覚えた。

 神託の盾騎士団は実力主義である。
 だからこそ昇進することはその力が認められることで決して嫌がるものではない。
 ティアが昇進を苦々しく思っているのは目立ちたくないためであった。
 技手は騎士団に所属してはいるものの、たいてい無官のままだ。その中でティアの響長という位階は異質を放っていた。
 ただでさえその12という年齢で注目を集めていたのに、こうなってはティアの平穏な生活は画餅である。

 確かにティアの目的の一つにこの譜業の天才、ディストに接触するというものがあった。だが、このような事態は予想していなかった。
 時が来るまで第二師団で技手としてお茶を濁すつもりだったが、助手として祭り上げられることで無駄に目を引いてしまっている。
 しかし、同時に助手となったおかげで予想以上の成果を得ているという事実もあり、やや複雑な気分だ。
 そして、なんだかんだ言ってディスト博士の助手であることが嬉しいとも思っているので、何処となく悔しい。
 だから、ついついティアはこの天才ディスト様を弄ってしまう。

「ディストは死神でしょう。死神の助手となると魔女かしら? 魔女のティア。却下よ」
「キイィイイーーッ! 私は死神なんかじゃありませんっ。私はバ・ラ。美しい薔薇のディストです!」
「ふーん、薔薇ねえ。知ってる? 青いバラは不可能を意味するの。マルクト産のディストにお似合いね」
「な、なぁんですってぇーー! ……ッ! ティア。もしかして薔薇が似合う私が羨ましいんですか」

 そうですかというようにディストは一人頷き何かに納得している。
 こんな掛け合いもティアとディストの間では日常茶飯事になった。日に日に彼女はこの死神の扱いに慣れていく。
 何度同じような目に遭っても彼がめげないので、最近ティアは無視することも覚えてきた。
 こんな幼馴染がいたらつい、譜術の的にしてしまうのも分かる。幼いころ付き纏われていたジェイドの気分が今のティアには理解できた。
 ディストが投げ出した雑誌を手にとってめくりながら、ティアはいちいち挙動が大げさなディストを片手間に茶化す。

 『第七音素と障気の関連性 ルーティシア・アウル』

 見開きの右側に概要が、左側に偉そうな肩書を持っている男性のコメントが書かれていた。
 ルーティシア・アウルとはティアの名前の一つである。5年前から研究者としては専らこの名前を利用している。
 障気中和薬を開発した以外に目立った活躍はしていないが、12という年齢が無駄に期待を集めてしまうのだろう。いまでは師匠共々一目置かれる存在になりつつある。
 雑誌の人物紹介欄に並べてある美辞麗句を眺めながらティアは一つため息をついた。




 ティアは転生したという事実を受け入れてからも極々普通の子供として振る舞い、そのまま大人になるつもりだった。
 下手に目立って天才と持て囃されても困るし、気味が悪いと捨てられでもしたら大変である。
 前世よりも少しは良い大学に入って、結婚して、今度は孫に囲まれながら大往生しようと決めていた。
 大学なんて存在しないと気づかされたのはいつだったか。

 新しい世界にはティアの常識は通用しなかった。まさしく彼女は経験値0の赤ん坊だったわけである。
 ただ、前世の知識、記憶というものがあった。それは利点であり欠点でもある。
 まっさらな状態であれば、その世界を当然のものとして受け入れれば良い。だが、中身が成人女性のティアには難しかった。

 赤ん坊の身でもちょっと見て回れば、すぐに異常がわかる。
 空の色は紫色で、ほとばしる静電気が空の上の大地を照らす。
 ティアの住んでいた街は透明のガラスのようなものでドーム状に覆われていた。
 緑もなく、太陽の光も差し込まない暗闇の世界。

 何もかもがおかしかった。
 紫色の空と泥の海、隔離された街。

 ティアは綱渡りをしているような毎日を過ごしていた。
 前の自分は死んだのだと、今の自分はティアであると言い聞かせて何とか自分を納得させようとした。
 しかし、理解していても感情が追いつかない。世の中自分の思う通りに行かないことの方が多い。所変われば品も変わる。当たり前のことだ。
 だが、予備知識もなく放り出された場所は想像を超えていた。畳み掛ける非常識にティアはめげそうになっていた。
 常識というのは特定の集団の中でしか通用しないものだが、世界規模で仲間はずれというのは気が狂いそうであった。
 境界線をわざとぼやかして、理解できないことを知らないこととしてごまかして、――苦しかった。


 そんな瀬戸際にいたティアを救ってくれたのが兄だった。たった一人の家族。

 両親は既に亡くなっている。兄もまだ子供だというのに一人で妹の面倒を見ていた。
 四六時中泣きじゃくるティアを、兄は不満も言わずにあやして抱きしめ、腕の中の赤子のために子守唄を歌う。
 澄み切ったその声は声変わり前にしか出ない、綺麗な空に溶けそうなボーイソプラノだった。
 トントンと背中を叩くその手と、耳から聞こえる心臓のトクトクという音が。何よりその腕の暖かさがティアに居場所を与えた。

 そうして兄の歌を聴きながら眠りにつくのが習慣になった頃には、ティアはこの兄のことが大好きになっていた。
 いや、好きという言葉ではくくれない。いわば、彼は彼女の世界の中心だった。非常識な世界と彼女を結び付ける唯一の絆だった。

 大好きな兄が笑ってくれるのならティアは何でもできた。
 「なまえがかけたよっ」と兄に駆け寄って、「おはながさいていたの」と白い花を差し出して、「おにいちゃん」と舌足らずな口調で話しかける。
 一所懸命、兄に可愛い妹だと思われるように彼女は普通の子供らしく振る舞った。

 彼女は何よりも兄が一番だった。おそらく自分自身よりも。




 自己防衛の一種だと言われても仕方ない過去だが、それでも私は兄が好きだったのだ。今でも大好きだ。
 思えば、このとき私は既に気づいていたのである。手元にはそれを指し示すカードが十分に揃っていたのに、何も知らない無邪気な子供のままでいた。
 ずっと嘘を付き続けた。仮初の世界で、仮面を被り続けていた。このままでいいと、騙されていたいと、私は目を瞑っていた。

 そうして迎えた3歳の誕生日。
 全てを欺いてきたつけを私は支払わされたのである。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二節 無慈悲な現実
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/14 21:37




 1Day,Ifrit,Lorelai Decan ND2005 新暦2005年13月1日(火)


 ティアの3歳の誕生日は盛大に祝われた。
 兄がティアの誕生預言を詠み、そして祝の言葉を言うとお誕生日会の始まりである。

 義祖父のテオドーロは最近文字が読めるようになったからと絵本を。
 託児所のファリアはお人形を。仲よしの友だちはおそろいのリボンを。
 それぞれがティアに祝を告げ、贈り物を渡す。それにティアは笑顔で応じた。
 テーブルにはティアの好物が並んでおり、その料理を食べながら同年代の幼児とティアは話を合わせる。

 随分と子供のふりが上手くなったなとも、幼児化しているのではないかとも思う。
 けれどそれも些細なことに思えてくるから時の力とは偉大なものなんだろう。諦めもあるが。
 此処の一年は地球の約二倍。常に薄暗く季節感の欠片もないせいで、もっと長く感じる。

 早く大人になりたいと三本立てられたロウソクの火を吹き消しながらティアは願った。




 皆が帰った後、ティアは兄に連れられて庭に出ていた。
 白い花が咲く中で、彼は何かを躊躇ってそわそわとしている。

「誕生日おめでとう、ティア。もう3歳になるんだね」
「ティア、はやくおとなになりゅんだから! あっというまにおとなになって、しゅてきなレディーになりゅのよ」

 暗い様子を吹き飛ばそうとティアはおどけて胸を張った。彼はくすりと笑う。
 けれども、その暗い表情は変わらず冴えない。彼は唾を飲み込んで、妹に今まで黙っていたことを教える決意をした。

「あのね、ティア。お兄ちゃんは、外に行くんだ」
「そとに?」

 ティアは意味が分からなかった。理解したくないと思った。兄が居なくなったら自分はどうなってしまうのだろうか。
 確かに此処には慣れてきたが、それも兄がいたからこそである。私は弱い。優しい兄に自分は依存しきっている。
 どうしようもない孤独が襲ってきて、ティアはつい本音を口にしてしまう。

「また一人になるの?」

 ティアの呟きを耳に捉えた彼は苦しそうな顔をして、けれどもその目はティアの期待を裏切っていた。
 そしてティアは一瞬で理解する。兄は止まらない。ここで妹が何を言っても外に出て行くのだろうと。
 ならば、ティアにできることは一つだけである。

「いってらっしゃい、おにいちゃん。ティア、いいこでまってるからね」

 うつむいていた顔をあげて、不意に漏らしてしまった本音を覆い隠すようにティアは晴れやかに笑った。
 彼は強張っていた顔を綻ばせる。そして、右手をそっとティアの掌に乗せた。

「誕生日プレゼントだよ。これは母上の形見だ。ティアは一人じゃない。いつだって母上が傍にいてくれる。
 僕だって、ティアが呼べばすぐに駆けつけるからね」

 綺麗なブローチだった。「ありがとう」と言って両手でそれをティアは握りしめてみせる。
 兄の代わりにもならないけれども、兄を悲しませたくはない。彼女はその一心だった。
 そんな彼女を彼はそっと抱き上げ膝の上に乗せる。白い花に囲まれた空間で、二人はとても仲睦まじい兄妹そのものだった。


 ブローチに夢中なふりをするティアに彼は声を小さく潜めて囁く。

「いいかい、ティア。これは二人だけの秘密だよ?
 もう一つのとっておきのプレゼントだ。ティアは秘密を守れるよね?」
「うんっ! ないしょなんだね?」

 額をくっつくほど近づけながら、付き合ってくすりと忍び笑いを漏らした。なんだ兄も子供なんだなとティアは微笑ましく思った。
 ティアの返事に満足して、彼はおもむろに口を開く。

「あのね、僕とティアには秘密の名前があるんだよ?」
「ほんとに? ひみつのおなまえがあるの?」

 隠された名前だなんて、なんだかお伽話みたいだと思いつつ、ティアは彼の言葉を繰り返した。
 無邪気な妹を装う彼女とは反対に、彼はいたって真剣な顔で誇らしげに話を進める。
 実際、その家名は彼にとって大切なものだった。幸せだった思い出の象徴。今は口にするのも憚られる、偽らなければならない過去。
 それでも妹には伝えておきたかった。たった一人の同じ血を持つ者だからこそ、同じ感情を共有したかった。

「そう。僕の本当の名前はね、ヴァンデスデルカ・ムスト・フェンデ。フェンデの家はユリアの血を継いでいるんだ。
 もちろんティアにもある。ティアの本当の名前は、メシュティアリカ・アウラ・フェンデと言うんだよ」
「……メシュティアリュア?」
「メシュティアリカだよ」

 上手く舌が回らないティアが空で言えるようになるまで練習をする。そしてヴァンは最後に「秘密だよ」と妹に念を押した。
 そのまま二人はベッドに入り、彼女はいつの間にか夢を見ていた。




 翌日、ヴァンは外に出ていった。ティアの誕生日まで残っていたのである。
 上の空のティアをすねていると思った誰かの手に連れられて、ティアはヴァンのお見送りをした。
 ヴァンが光の中に消えた後、慰めの言葉をかける人々を振り切って、ティアは自分の部屋に飛びこんで鍵を閉めた。

 兄がいない、どこか空ろな部屋の大きすぎるベッドでティアは一人膝を抱える。
 何も考えたくなかったが、けれども考えずにはいられなかった。


 秘密の名前。


 頭の中が真っ白になった。最後のピースが当てはまり、目を背けていた現実が押し寄せてくる。
 兄がいなくなってしまうことに感じた不安や孤独も吹き飛んだ。何度確認してもそれは変わらなかった。

 メシュティアリカ・アウラ・フェンデ。――RPG、テイルズオブジアビスのヒロインの名前である。

 一つ認めてしまえば、不思議に思っていたことがするすると解けていく。
 当たり前すぎる習慣の意味も、使い方が分からなかった単語の意味も、その前提であれば理解できる。

 此処はクリフォトと呼ばれる魔界。
 外とは他のドームではなく外殻大地のこと。
 特別扱いされていたのはユリアの子孫だから。
 紫色の障気は猛毒で、此処は監視者の街ユリアシティ。

 これからどうすればいいのか、ティアには分からなかった。


 アビスは唯一自力でクリアしたことのあるRPGである。
 たいていは弟の方が先にクリアして、それを見て途中でどうでもよくなってやめてしまうのが常だった。
 けれどもアビスが発売されたときはちょうど弟の受験と重なり、弟の文句を聞き流しながらなんとか独力でクリアした思い入れのあるゲームだ。

 主人公は7年前に誘拐のショックで記憶喪失になってしまったルーク。
 ルークはキムラスカ・ランバルディア王国の第3王位継承者であり、王女ナタリアの婚約者でもある。
 そんな彼は王命により屋敷から出ることが禁じられており、狭い世界で育ったルークは無知で横柄で我儘、口癖はめんどくせーと無気力だ。
 彼の唯一の趣味が剣術で、その師匠のヴァンを誰よりも慕っていた。
 だが、突然公爵家に侵入し襲いかかってきた刺客、ティアとの間に擬似超振動が起き、ルークは図らずも敵国マルクト帝国に降り立ってしまう。
 そこから始まる冒険は主人公ルークの出生の秘密を暴き、それは世界を救う旅へと繋がっていく。
 何も知らなかった主人公は旅を通じて真の仲間を得て、自らの師匠に立ち向かい、そして最後に命と引き換えに世界を救う。

 剣と魔法のファンタジー世界を舞台に繰り広げられる、典型的な英雄譚と言って良いだろう。
 他のメンバーもそれぞれ敵役と因縁があり、『生まれた意味を知る』そのテーマにふさわしいシナリオだった。
 特徴的なことはテイルズシリーズの中で1番パーティーメンバーの仲が悪いこと。


 そんなゲームのヒロインが“ティア”である。彼女の位置に自分がいる。

 それは、彼女に戸惑い以外何も齎さなかった。
 見知らぬ土地で下手な芝居を打ちながら、何とか折り合いをつけて今日を過ごしていた。
 兄の優しさに縋りながら、どうにかこの世界を受け入れよう努力としていた。

 だが、その世界がゲームだった。

 昔、ただの娯楽として遊んでいた世界。ポリゴンで作られた暇つぶしのための世界。
 ティアは断じて認めたくなかった。此れまでの自分の葛藤や苦悩を薄っぺらい二次元にされたくなかった。

 確かに前世ではシナリオに不満を持っていた。もっと主人公に優しくあっても良いではないかと。
 世の中、理不尽が罷り通っているが、ゲームの中までそんなことを再現して欲しくなかった。
 人間の業の深さを思い知らされ、最後まで救いがなく後味の悪いゲームだった。

 可哀そうなルーク。散々利用されたあげく死んでしまった。
 無慈悲な結末。誰かの幸せは、同時に誰かの悲しみという。

 でも、そんな不満は一時のもの。所詮、ゲーム。真剣に考えることではない。
 画面の中で幾ら悲劇が起こっていようと、現実は何も変わらず進む。二次元を三次元に持ち込むのはナンセンスだ。

 だというのに、二次元が三次元になっているのだろうか。
 いや、三次元から二次元に入り込んでいるのだろうか。
 それとも、平行世界が如何とか言えばいいのだろうか。


 そう疑問を並べながらも、ティアはその先を考えるのを止めた。
 どんな理屈を引っ張ってきても正解かどうか分かる術はない。理由は分からないが、此処が現実であることはティアが一番知っている。
 そして、此処がアビスの世界か、それに準拠した世界であることは今までの経験から推察できた。
 どうすればいいんだろうか。ゲームの通りに進めればいいのだろうか。けれどもそれは、ヴァンの死を意味する。

 その考えに至ったときティアは恐ろしくなった。
 ぎゅっと白い布を握る。綺麗に皺ひとつなかったシーツはティアの手元からよれてしまった。


 兄が死んでしまう。
 それどころかこの手で兄を殺すだなんて――。

 大好きなのだ。

 昨日まで側にいてくれた。
 この狭い街で心の支えだった。
 兄が笑ってくれたらそれだけで幸せになれた。
 大切な、たった一人の家族なのに……。


 けれども、その前世の記憶がもう止められないことをティアに教える。
 既に運命の歯車は回り始めている。ティアが生まれる前、目覚める前に。

 外殻大地に戻った兄は復讐の一歩を踏み出し、ホドの仇を預言の否定という形で取ろうとするだろう。
 とめどなく流れる涙をそのままに、ティアは必死で考える。

 どうすればいいのだろうか。どうしたら兄を救えるのだろう。兄を殺したくない。兄に死んでほしくない。
 けれども、兄の心を変えられるような自信はない。外に行くと言った兄は強い眼をしていた。
 預言に翻弄され、預言のない世界を創ろうとする兄に、何と声をかければいいのか。何と言って説得すればいいのか。

 ティアには言葉が見つからなかった。ゲームでも結局彼は意志を変えなかったのである。
 そして、最期に倒れ伏した兄の姿が思い出された。




 そんな未来は嫌っ!




 ティアは涙を拭って目の前のカレンダーを睨む。今は2005年。預言に詠まれた年は2018年。
 まだ時間はある。

 ゲームで預言に支配された世界が変わったように、シナリオを変えて見せよう。
 絶対に諦めない。例え彼が世界の破壊と再生を企んでいるとしても、私の兄であることに変わりかない。

 ティアは私で、ヴァンは私の兄だ。――たった一人の家族だ。
 家族を守りたいと願って何が悪い。


 何を敵に回してでも、どんな手段を使ってでも兄を救うと3歳になったときティアは決意した。





[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第三節 聖女を讃える街
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/14 21:39




 魔界(クリフォト)。いわゆる瘴気に覆われた見捨てられた世界。
 毒々しい紫色の泥の海の中で、一か所だけ人が暮らす場所がある。それがユリアシティである。

 ヴァンがいなくなった後も、ティアはそこで暮らした。ユリアシティの人々の結束力は強い。身内をとても大事にする。
 ヴァンを守るのだと一人突っ走っていたティアを受け止めたのは彼らだった。彼らがいなければ、ティアはぎりぎりまで自分を追い詰めただろう。
 頑なな子供をそれでも見捨てなかったのは、見捨てられた事実がどれだけ人を傷つけるか知識として知っているからだ。
 ユリアシティの住人の心を理解するには、その成り立ちを知るのが近道である。
 魔界に唯一ある街ということしか知らなかったティアには、その歴史は驚くべきものだった。




 ことはBD2550、記憶粒子(セルパーティクル)が発見されたことから始まる。
 当時世界には6つの国とそれに寄り添うような小さな属国があった。
 各国は記憶粒子が強く吹き出す10か所のフォンスロットを奪い合った。
 これをセフィロト戦争(BD2618~2624)と呼ぶ。

 戦争はそれぞれ一国が一か所セフィロトを所有する形で収まった。
 そんな中、サザンクロス博士はプラネットストームの構想を持ちかける。
 これはセフィロトのラジエイトゲートから吹き出す記憶粒子を譜陣によって制御し、音譜帯を経由してアブソーブゲートへと循環させるという計画だ。
 音譜帯は第一から第六の音素(フォニム)を多量に含んでいる。
 記憶粒子はオールドラントを一周しそれを地上にもたらしてくれるのである。

 各国の協力の下プラネットストームが完成し5年後、サザンクロス博士は第七音素(セブンスフォニム)を発見した。
 これを知り、各国は第七音素の観測に適した極点を巡って争う。これを譜術戦争(フォニック・ウォー)(BD2699~2709)と呼ぶ。
 開戦後、一か月で人類の半数は死亡しケテル国とホド国は滅亡。
 また譜業兵器により大規模な地殻変動が起こり、プラネットストームの機構に異常をきたした。
 同時に地殻が振動し始めたことによって大地は液状化を起こし障気が発生し始める。
 地上はまさに地獄の如く、戦乱は続き人々の嘆きは絶えることがなかった。


 そのとき立ち上がったのがユリア・ジュエである。
 彼女はサザンクロス博士の助手であり、優秀な譜術師(フォニマー)でもあった。そして、未来視という特別な能力を持っていた。
 ユリアは第七音素の意識集合体であるローレライと契約を交わし、故国であるホドを譜歌で復興させる。
 またローレライの鍵でプラネットストームを再構築した。
 それからユリアは惑星預言(プラネットスコア)を詠み、2000年後の未来と瘴気の危険を争い合う国々に訴える。
 各国はひとまず矛を収めた。預言はともかく障気の問題は重大だったからである。

 その後、ユリアは十人の弟子と共にフロート計画を提唱。外殻をセフィロトで持ち上げるという壮大な話だった。
 そんなユリアにイスパニア国とフランク国は危機感を持ち始める。
 二国は7番目の弟子であるフランシス・ダアトを買収しユリアを投獄。
 同時に亡命してきたフランシス・ダアトは援助を受けローレライ教団を設立した。

 両国はホド国をはじめとしたフロート計画に賛同した各国に戦争を仕掛ける。これをフロート戦争(BD2712~2713)と呼ぶ。
 結果、二国は勝利しユリアに処刑宣告を下した。また密かにフロート計画を進め敵対国の人間を地上に置き去りにしたのである。

 一方、フランシス・ダアトは盗んだ六つの譜石の的中率に恐れを抱くようになりユリアを救出した。
 謝罪を受けユリアは許すが、そのままフランシス・ダアトは自殺する。
 ユリアは魔界に取り残された人々を救うために力を尽くし、ユリアシティの前身を作ったのである。




 前世の歴史と照らし合わせるとティアはその裏が読めた。
 プラネットストームは発電所だと思えばいい。それも世界中の電力を賄えるぐらいの。
 障気は放射能ぐらいの危険性があると考えればいいだろう。
 預言はアカシックレコードとでも言えばいいのだろうか。

 そうすると途端に聖女ユリアが胡散臭い人間に見えるからおかしなものである。
 第三次世界大戦を停戦し、放射能問題を解決しようと協議しているときに、停戦の功労者である科学者がのたまったのだ。
 スペースコロニーを人類は作ったとアカシックレコードには記されていますと。
 普通まともな対応はしないだろう。それが真剣に考えられるほど世紀末だった。

 だが国力がまだ十分にある、その時点での戦勝国は不愉快だっただろう。
 フランシス・ダアトを唆し宗教としたのも組織化して管理しやすくするため、政治に口を出しにくくするためだ。
 創世暦時代の国々は技術だけでなく法律や文化も高かった。文民統制や政教分離は当たり前のことだ。
 想定外だったのは手に入れた預言の的中率と障気問題の解決策が見当たらなかったことだろう。
 そして一度は否定したフロート計画を実行することにした。

 おそらく、魔界に敵国の人間を置き去りにしたのは養えるか不明だったからだろう。大地を切り離した余波がどんな形で表れるか分からない。
 情に流されて全滅するか、切り捨てて生き残るか、為政者としては間違ってはいなかった。皆、生き残ろうと必死だった。それだけのことだ。

 だが、取り残された側は納得はできないだろう。この街の名がその証拠である。
 戦争に負け魔界に取り残された人々は寄り添いながら滅びのときを待っていた。
 足元の大地がなくなるのが早いか、それとも障気障害(インテルナルオーガン)にかかるのが早いか。
 どちらにしろ死は目前に迫っていた。救いもなく光閉ざされた世界。彼らの絶望は深かっただろう。

 そこに現れたのが外殻から逃れてきたユリアだった。まさに聖女の如くである。
 外殻から魔界に昇る手段は限られており、両国によって厳しく監視されていた。
 ユリアはそれにも負けず大地を残し、密かにユリアロードを敷いた。この道のおかげで資源の乏しい魔界でも人並みの生活ができる。
 そこで外殻に移住するという選択肢もあったが、それ以上に両国に対する隔意が強かったのだろう。
 人々は完成した街にユリアシティと彼女の名を付け、そこで暮らすようになった。


 魔界は人が住む環境ではない。そんなところに2000年も住み続けている。
 それだけでユリアシティの人々の結束力の強さがわかる。土地柄と言えばいいのだろうか。
 いまだに置き去りにされたという歴史から外殻大地に余り良い感情を持っていない。

 そして、常に障気という脅威にさらされているため、内部では極端に争いごとを回避する。
 ユリアシティの人々の外に対しての感情は複雑だ。光に対する憧憬、忘れ去られたことに対する憤り、繰り返される戦乱に対する呆れ。
 魔界に閉じこもっているユリアシティだけは過去の中に取り残されている。そしてますます内向きのベクトルが働くのだ。

 魔界で暮らしているうちにティアにはそのことが徐々に分かってきた。
 生まれも育ちも魔界であるティアは好意的に受け入れられ、さっさと外殻に出ていったという事実から兄は少し受けが悪い。




 それはともかく、ユリアシティの人々は身内には甘いのである。砂糖をメープルシロップで煮詰めたぐらいに。
 ティアが大人同然の振る舞いをし始めても、彼らは拒絶などしなかった。
 ユリアが子供のころから天才科学者だったということもあり、逆に喜ぶ者もいたぐらいである。
 その反応を見てティアはまだ少しだけ残っていた遠慮という文字を辞書から消し、邁進した。
 まだ体の小さかったティアは成長することが仕事であり、本を読み放題であった。


 ティアは手始めに歴史から入る。そこにはゲームでは述べられていなかったことが綴られていた。
 プレイしていた頃はそういう設定だからで済ませていた部分に納得できる説明がされているのだ。
 自分の記憶と照らし合わせ、ティアにしか分からない規則性を見出すことは宝探しのようである。

 例えば、アビスの街の名前からはカバラのセフィロトの樹、クリフォトの樹が連想されるが、使われていない名前が幾つかある。
 十のセフィラのうち勝利のネツァフ、基盤のイェソド。
 十のクリファのうち愚鈍のエーイーリー、無感動のアディシェス、色欲のツァーカム、不安定のアィーアツブス。

 歴史の中には、これらの名を冠する国名が出てくる。
 フロート計画に賛同した国の一つはエイル国という。
 ザオ遺跡の辺りにはアディスという都市国家があったが、第一次国境戦争でキムラスカに滅ぼされている。


 小さな発見がティアは嬉しかった。そんなことを調べているうちに彼女はふと思った。

 RPG最大の謎。譜術とは何なのだろうか。そもそも音素とは何なのだろうか。
 第七音素を発見したとか言うが音素って目に見えるのだろうか。
 グラフィックで譜術は視認できていたが実際どうなんだろうか。

 いずれ譜歌を習得するつもりだったが、疑問に思ったら止められない。
 しかし、譜術を習おうにも魔界は音素が少ない。外殻大地と障気を遮るドームが壁となり、プラネットストームの恩恵が届かないのである。
 泣く泣く諦めてティアは学術書を手に取った。せめて法則だけでもという考えだった。

 そして、師匠との出会いがティアの将来に大きな影響を与えることになる。
 ティアが師匠と呼ぶのは託児所のお姉さん、ファリアのことである。

 ティアがファリアの正体に気がついたのは彼女の冒険を聞いたときのことだった。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第四節 運命と白い花と
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/14 21:40




 魔界にいる子供は少ない。
 閉ざされた空間で2000年も過ごしていると監視者として地の底でじっとしているのを嫌がる者も出てくる。
 狭苦しいところには戻りたくないとダアトから帰ってこない者もいた。
 子供は青空の下で育てる方がいいとケセドニアへ出て行った者もいた。
 そうでなくても約3000人というユリアシティの人口は緩やかに、しかし確実に減ってきている。

 だから、住民は子供をことさら大事にする。その一環として託児所の存在があった。
 狭いこの街では男も女も何かしらの仕事を任されている。満足に子供の面倒が見れない家庭ではこの助けを借りていた。
 ティアも両親が居らず、義祖父が忙しいということで託児所に預けられていた。


 ファリアはそうしてできた託児所に勤めていた一人である。
 ふわふわの緑の髪は肩まであって、黒縁の眼鏡を掛けている。
 おっとりとした様子でちゃんと子供の言い分を聞いてくれるのでいつも数名に囲まれていた。

 そのときティアは演技を止めた直後で、まだ周りの人は兄がいなくなって無理をしていると思っていたころだった。
 ファリアも「寂しいときは泣いていいんですよ」と自分の話をした。




 ファリアはユリアシティの生まれではない。マルクトのグランコクマで普通に産まれ、普通に育った。
 父は戦争で亡くなっており母子二人で生活していた。魔界出身の母は寝物語に魔界の話をしてくれた。
 そのままであればファリアが魔界に足を踏み入れる予定などなかった。
 母はどうやって行き来できるかなんて口にしなかったし、彼女にとってその話はお伽話のようなものだった。


 事が起きたのはファリアが19歳のとき。
 ファリアは訪れた研究所で見てはいけないものを見てしまい、追われる立場となってしまったのである。
 逃げ込んだ地下の下水道で出会ったのがスタンとルーティ、そしてマリーという三人の冒険者だった。
 そして、母を軍に殺されたファリアはそのままケセドニアに逃れ母の故郷、ユリアシティを頼ることにしたのである。
 その後、国をまたいで紆余曲折ありながらも無事に四人はユリアシティに辿り着いたのだった。

 ファリアはその当時は必死だったことをときに面白おかしく、ときに勇猛果敢な勇者の話のように抑揚をつけながら語った。
 スタンとルーティの掛け合い、ケセドニアで会った流浪の民、夜中に国境を越えようとしたこと、バチカルでの姉弟喧嘩。
 パダミヤ大陸の青い海で泳いだこと、マリーのおいしい料理、ダアトの図書館の本の量、どれもこれも最後は笑顔で締めくくられた。

 ティアが興味津々で聞くのでファリアは長い話をした。
 ティアはその話をじっと聞きながら考え事をしていた。


 テイルズシリーズはどこかでつながっている。

 例えば海賊アイフリード。どの世界にもアイフリードの宝はあった。
 それはどの世界にもアイフリードがいて、海賊になって、大成したということを意味する。

 ファリアは名前こそ少し違うがそういうことだろう。どの世界でも彼らは出会い旅をする。それを運命と人は呼ぶのだ。
 世界が違えばジルクリスト姉弟が憎まれ口を叩き合いながら仲良くやっていることもあるのだろう。
 ファリアの容姿も言われてみればフィリアそっくりである。肩に付くぐらいの浅葱色でふわふわの髪を伸ばして、三つ編みにすればフィリアだ。

 つい髪についてティアが尋ねるとファリアは、「逃亡していたときに切ってしまいましたの」とはにかみながら答えた。
 このことを心に留めながら歴史書をめくればお馴染みの名前が出てくる。

 導師コレット。その導師守護役(フォンマスターガーディアン)ロイド。マルクト帝国公爵ゼロス。
 468年に突如マルクト公国はキムラスカ王国から独立を宣言。
 それから半世紀、両国は緊張関係にあったが時の導師コレットがマルクト帝国のロイド公爵の要請を受けて二国を訪問。
 ローレライ教団の介入によってキムラスカ王国はマルクト帝国の独立を承認。そしてその礼として510年に教団はマルクト帝国領内に自治区を得た。
 教団が世界に広まる足がかりを作った偉大な導師とコレットの名は残されている。

 他にマルクト帝国には譜術に長けたモリスン家という家系がある。
 また、ユリアの子孫の家系図を辿っていけば、フィルミントルラの名があった。

 創世暦時代の書物にはハロルド・ベルセリオスの著書がある。ちなみに喋る剣は作成されていないようだった。
 そのせいかフロート戦争であっさりとフロート計画に積極的だった国々は負けた。
 その軍を率いていたのはリトラー司令で、敵のイスパニア国の王の名前はミクトランである。

 どうやら時代ごとにシリーズが違うようだった。
 ファリアがいることから2000年ごろの今はTODの時代と言えるのだろう。

 このことに気づいてティアはファリアを信用することに決めた。彼女の性格は思い描いていたそのままだった。その強さも。
 四英雄とまで謳われた彼女なら兄を救い、その上世界の危機をどうにかするという自分の望みの助けになるかもしれない。
 ファリアに調合を習い、護身術を習い、まさにファリアはティアの師匠だった。




 その師匠の影響もあり、ティアは5歳にして白衣を纏っていた。

 ティアが研究に走ったのは、RPG的要素と科学的要素がどう折り合いをつけているのかが気になったからである。
 他の人間には音素も一つの要素に過ぎないが、ティアにしてみればまさにファンタジーなのだ。
 基礎から学び、前世で仕舞い込んでいた数学や科学をなんとか引き出しながら真剣に学んだ。
 その習得の速さは教えていたファリアも驚くほどだったが、本人にしてみれば水兵さんの歌を思い出しているのであって特筆すべきことではない。
 それよりも子供の脳が柔らかいということを実感し、子供は天才という言葉に納得していた。

 そのティアの熱意はやがてくる未来、障気に侵されることを見据えてのことである。
 いずれパッセージリングの操作盤を起動させなければならない。それは確定だった。
 だがそのとき障気も取り込んでしまうのである。私だけではなく兄までも。
 調べてみたが根本的な治療法はなく、薬はあるがそれも副作用が酷かった。

 いまある中和薬は六種類の薬草などを混ぜて飲むものだ。それは体内にある障気を吸着して身体の外に出す。だが完璧ではない。
 障気はガン細胞のようなもので、少しでも残っていたら危険なのだ。治ったと思ったあとに、ぶり返すことがある。
 だから、薬を飲み続けるだけでは治療は終わらない。最後に劇薬を服用し障気に侵された部分を壊すのだ。

 つまりは障気障害に罹れば確実に寿命は縮むということである。この世界の平均寿命は約70歳。
 だというのに、この治療では治っても40歳ぐらいまでしか生きられない。ことごとく内臓がやられて早死してしまうのだ。
 発見が遅ければ反比例するように生存率は下がる。本当に忌々しい病である。
 
 悲しいかな外科技術は発達していなかった。医学も宗教の影響を受けずにはいられない。
 ローレライ教団において第七音素は特別なものであり、医療行為は専ら譜術師による治癒を推奨している。
 治癒は基本的に外傷には効きやすいが病気には余り効果がない。
 自ずと内科に分類される分野が伸び、切除するとか成形するといった行為は狂気の沙汰なのだ。

 そもそも麻酔にあたるものがない。麻薬はあるのだが、それは医療用ではなくいわゆるドラッグとして利用されている。
 だから瘴気に侵された患部を摘出するという選択肢はない。薬による治療が現在の最高の医療なのだ。


 それならばと一念発起してティアはファリアを巻き込んで薬の開発に取り掛かった。

 まずは障気を解明することから手をつけた。
 障気が発生してから2000年経っているが、驚くほど研究が進んでいない。
 それは外殻大地を蓋として瘴気を閉じ込め、問題を先送りした弊害である。

 外殻に逃れた側からしてみれば障気の脅威は過ぎ去ったものなのだ。
 そして障気のことを口にすれば自ずと魔界に敗戦国の人間を置き去りにしたという事実が顔を出す。
 罪悪感や国家機密などの障害があり障気という問題は歴史に埋もれ、もはや物語に過ぎない。

 かといってユリアシティの住民にとってみれば、障気は生まれたときから存在するもので、どうにかするという気も起きない対象なのである。
 創世暦時代の人間が必死で努力した結果が隔離なのだから。


 ティアはそれでも諦めるわけにはいかなかった。障気をどうにかできなくても、障気障害にかかった人間をどうにかしたい。
 自分たち兄妹の未来がかかっているのだから真剣である。そうして他の勉強と並行しながら1年がたった。





「ファリア。何がいけないのかしら?」

 ティアは落胆した様子を隠さずファリアに尋ねた。

 初め師匠だからとティアはファリアに対して敬語を使っていたが、見た目幼女から敬語を使われたら気味が悪い。
 ファリアは早々にこれまで通りに話すように要請した。ティアの目覚ましい成長もあって二人の間の会話だけを聞けば同年代の同僚のようである。

「そういわれましても……。そもそも障気障害は不治の病ですから」
「タタル草、フーブラス草、ねこにん草、キノコも試したの。虫の羽根、グリフィンの爪、バジリスクの鱗、聖水まで。……どれも効果がなかった」

 ティアはフラスコをじっと見つめながら大きく息を吐く。
 思いつく限り特別な効果があった気がするものを取り寄せて調べてみた。
 いっそ諦めるべきかとも思う。だが、ここで躓いていては兄を救うなど絵空事になってしまうと思うのだ。

 ファリアは落ち込んでいるティアをどう励まそうかと悩んだ。そもそも障気障害をどうにかしようというのが無茶無謀なのである。
 1年でどうにかできるものではない。そうだというのに隈ができるまで実験に懸かりきりだ。
 6歳児なのに。せめて休息をもっと取るべきである。ファリアはそっとティアに休むように進言した。


 ティアはファリアの言うことも尤もだと思い、一度部屋に戻りシャワーを浴びて庭に出た。
 ティアの部屋からは庭に直通である。これは贔屓にも程があるだろうと一度テオドーロに聞いてみたことがある。
 彼が言うには「ティアの部屋は居住区画から離れたところにあり、憩いが足りないから」だそうだが。
 確かに居住区画には大きな公園があり植物も多い。だがそういうなら部屋を変えてもらった方が早いと思う。
 そういうわけにはいかない理由があるのだろうが、この特別扱いには少し気後れしてしまう。ユリアの子孫というのも疲れるものだ。


 セレニアの白い花が揺れる。一日中薄暗い魔界では夜行性のこの花は咲き放題である。思い思いの時間に花開く。
 ティアはいつかのシーンを思い出し、スロープの縁に腰掛けてユリアの譜歌を歌う。

 第七音素が譜歌に惹かれて一筋の線を残す。
 第七音素の素養があるティアには、それがはっきり見えた。蛍の様である。

 咲き誇る花から光がティアの周りで輪を描く。そっとティアが指を差し出すとじゃれるようにからみついた。
 もっと歌ってとせがむように、音に合わせて光はティアの周りを舞う。いつの間にかティアは光に包まれており、思わず笑みをこぼした。

(きれい。でも、どうしてかしら? 魔界には音素が届かないのに、第七音素がこんなにも……ッ!)

 ティアは歌を口ずさむのをやめて、そっと花に手をかける。
 フォンスロットを開いて意識を向けると花は第七音素を多量に含んでいた。
 それを確認するとティアは手で土を掘り始めた。部屋に戻れば適した道具があるのだがその時間も惜しい気がした。
 一心不乱に掘り返し根から花の先までセレニアを一株手に入れると、そのままティアは研究室に戻った。


「ファリア! これを調べようっ!」
「えっ? ……ティア! なんて恰好をしているんですか!」

 駆けこんできたティアを見たファリアはまず怒鳴った。
 着替えたはずの白いシャツは泥だらけ、顔にも土がついている。手も草の汁がついており、爪の間にも泥が入り込んでいるようだ。
 この調子では廊下も汚しているに違いない。泥遊びをしていたわけではなさそうだが、それでも悪いことをしたなら叱らなければならない。
 ファリアは笑顔でセレニアを受け取るといまにも器具に触ろうとするティアを制して声を張り上げる。

「回れ右! 風呂場まで駆け足です!」

 ティアはきょとんとして、そして自分の格好に気づき慌てて部屋に戻る。
 ファリアはティアの様子に手を頬に当て考え込んでしまった。

 あの調子だとすぐにシャワーを浴びて戻ってきそうである。休んで欲しくて庭に出ることを提案したのに、どうしてこうなってしまうのだろう。
 ああ、でもあんなはしゃいだところを年齢を感じさせる。やはり大人びて見えてもまだ子供だ。
 ティアはどこか必死だ。側にいて痛々しく思うほどに。だからこそ誰かが傍にいなければならないと思う。
 外殻での苦々しい経験からもう研究はしないと決めていたのに、私が研究室に戻ったのはティアがいるからだろう。

 ティアは兄のヴァンがいなくなるまでは普通の女の子だった。
 その血筋から傷一つ付けないと大事にされていたが、彼らはどこにでもいる仲の良い兄妹だった。
 けれどもその兄のヴァンがいなくなってティアは変わった。ただひたすらに本を読み、質問をして、いまでは専門書まで手を出している。
 どうしてと尋ねてもティアは何も言わない。それでいて目をギラギラと光らせているのだ。

 ファリアにはその眼に覚えがあった。鏡の中でファリアは同じものを見たことがある。
 マルクトに追われているとき、眠れず朝を迎えた日は必ず目にした。
 あの時期の自分とティアはどこか似ている。ここまで面倒を見るのはそれ故にだろうか。

 らちもないことを考えてしまった。ファリアは先程まで考えていたことを振り払い、視線をティアが出ていった扉から手元に移す。
 ファリアも馴染みがある魔界で唯一咲く花、セレニア。この花が何か特別なのだろうか。
 そう疑問に思い首を傾げながらファリアは部位ごとにデータをとる準備をした。結果が出る前にティアも戻ってきているだろう。
 どんな結果が出るかファリアはティアと実験するときがいまから楽しみである。試薬を用意し、笑顔で花弁を切り離した。


 セレニアには障気を吸収して第七音素を放出する特性があることが分かった。ユリアシティは魔界にあるせいで外殻よりも障気の濃度が濃い。
 といっても人体に影響が出るレベルではないが、自然は敏感だったということだ。
 調べてみると外殻のセレニアにはそんな特性はない。せいぜいセフィロトの近くに生息していることが関係してくるだろうか。
 魔界を生息地にしているセレニアだけが瘴気を吸収することができた。2000年、隔離された空間で育っていたのだ。
 確かにレムの光も届かない魔界では光合成も満足には行えない。エネルギーを得るために独自の進化を果たしたのだろう。
 この花を調べることで障気障害をどうにかできるかもしれない。ティアは一層、研究に従事した。




 ティアがここまで研究に固執するのは、じっとしていられなかったというのが一番の理由だろう。
 じりじりと差し迫ってくる期限とただ魔界で安穏と過ごしている自分。
 護身術を習ってはいるが魔物相手には敵わない。見たことすらない。人相手など言わずもがなである。
 音素がなければ譜術は使うこともできず、フォンスロットを意識することしかできない。まともにできることは座学だけだったのだ。

 セレニアというブレイクスルーのおかげで、ある程度研究の目途は立った。
 障気障害という問題は時間をかければ解決できるだろう。

 だがそれでも、ティアは憂鬱だった。根本的な解決ではないのだ。ただ一時、身体を蝕む病を退けただけ。
 兄を救い、守るには一個人の力ではどうにもならない。満足に兄を守れるぐらいの力が欲しかった。







[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第五節 時を越えて
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/14 23:11




 なにも出来ていない自分に歯痒さを感じ始めていた頃、ティアは切っ掛けを掴んだ。
 ティア、7歳のときのことである。


 ユリアシティには隠し部屋があるという噂がある。
 2000年の間に改築で埋もれてしまったらしいとか、故意に封印されたものがあるらしいとか実しやかに囁かれていた。
 子供の視点だと大人には分からないものが見える。ティアは偶然その中の幾つかを発見し、隠れ家として利用していた。
 兄の企みや未来のことについて書き記したノートを自分の部屋に置くのは躊躇われた。もちろん暗号、日本語で書いてある。
 ちょこちょこと私物を持ち込み、その隠れ家はティアが一番リラックスできる場所に様変わりした。

 ある日、隠れ家で譜歌の練習をしていたときのことだった。
 第一譜歌を歌い終え、ふと目を開けると、部屋の壁に紋様が浮き上がっていたのである。
 セフィロトの樹を模した図が描かれており、一見すると紫の花のように見えた。
 ティアがおそるおそるそれに触れると、パリンとその紋様は砕け散って、地下への階段が現れた。

 ティアは純粋に驚いた。こんな仕掛けはゲームになかったはずと。
 けれども、迷うはずがない。足元を確かめながら下りていくとそこには広い空間があった。




 パッセージリングのある空間のような幻想的な白と黒の意匠が浮かんでいる。
 つるりとした壁一面に譜線が走り、中央には天井から一条の光が射し込んでいた。反射を利用して光を取りこめる構造になっているのだろう。
 その光を囲むように10の鍵盤の様なキーボードがあり、楽譜を置く部分はパネルのようである。

 建築するときに想定していなければ、この魔界の地下にこれほど広い空間は確保できないはずだ。
 ティアは期待に胸を高鳴らせながら、中央へと足を進める。
 すると中央の空間にノイズが走り、男性の顔のホログラムが映し出された。
 そして、ティアを確認するとその緑の顔は言葉を発した。

「 ・ ・ 封印が解けたのを確認しまシタ ・ ・ ・ スキャン開始 ・ ・
  ・
  ・
  ・ ・ マスターの死亡を確認 ・ ・ ・ R765を適応 ・ ・
  ・ ・ 監視者の権限は解呪者が引き継ぎマス ・ ・ ・ 名前をドウゾ ・ ・ 」

 大小の譜陣が輝き出し、それぞれが右に左にと回転し始めた。
 それは瞬く間に部屋中を埋め尽くして、それを実行しているのはこの不思議な存在だった。
 ティアは呆然とそれを眺め、下手なSFのようだと思った。ハッと気を取り直し尋ねる。

「あなたは何? それにその監視者って?」

 機械的な声がティアの問いかけに答え、反響する。

「 ・ ・ 私はオズ ・ ・ ・ 私は外殻大地のセフィロトの管理と監視を主な業務としてイマス ・ ・
  ・ ・ 監視者とは私に指示を出す者のことデス ・ ・ ・ 名前をドウゾ ・ ・」

 オズ。超古代文明都市トールの大型コンピュータである。
 どうしてこんなところにあるのだろうかとティアは不思議で仕方なかった。
 ある意味ユリアシティも遺跡のような存在だが、それでも奇妙に感じざるを得ない。
 だが、確かに時空間転移までやってのけたオズならば、セフィロトの管理も不可能ではないだろう。
 彼が味方になってくれれば心強い。その期待にティアの胸を高鳴った。

 そして、唾を飲み込み自分の名を音にする。

「私の名は、ティア」

 綺麗な響き。昔の名など忘れた。
 一生名乗ることもない、誰にも呼ばれることのない名は無いも同然である。
 過去への憧憬は尽きないけれども、既に諦めている。
 今の焦燥は、オズとの出会いが変えてくれるだろう。
 未来への不安は絶え間なく続く。

 それでも、ティアは兄を救う道を選んだ。闇の中を一人手探りの状態で今まさに進もうとしていた。
 オズは、ただただ自分の職務を全うする。

「 ・ ・ 監視者として“ティア”を承認 ・ ・ ・ マスター指示を ・ ・」


 ティアはさっそく此処の空間に関する情報を求め、他の部屋のロックを解除させる。
 開いた奥の扉に向かう途中、ティアは何かに躓いた。カランッと音が響いて息をのむ。
 足元を見やると骸骨があった。窪んだ眼窩の穴が何か語りかけてくる。急に部屋の温度が下がった気がした。

 どのくらいの間見つめ合っていたのか、舞い上がった埃にむせてティアは気を持ち直す。
 この人はどのくらい前に亡くなったのだろうか。その疑問を解くためにも調べなければならないと決意する。

 空調もそんなに利いていないせいで室内も埃が積もっていた。長い間誰もこの部屋に入っていないのは確かである。
 ティアは本棚に並ぶ背表紙を見て適当に一冊手に取った。『アルバートの半生』と書いてある。
 どうやらこの部屋の主はホドびいきだったようだ。他にもホドの料理本などがみられる。
 本の内容から推測するに15世紀ごろまでここは使用されていたようだ。

 そこまで調べると、ティアは机の上に並べてあった重要そうな本を掴み部屋を出る。
 長い間姿を消していると心配させてしまう。ティアはそれなりの人間関係を築いていた。




 そうして1カ月かけて通い、この隠された空間についておおよそのことが分かってきた。
 この地下はパッセージリングを監視するためのものである。

 パッセージリングに通じる道はダアト式封呪に、中の操作盤はユリア式封呪に、一斉操作についてはアルバート式封呪によって封印されている。
 簡単にパッセージリングに入れるようにすると、敵国の手によって細工され魔界に落とされるかもしれないという危惧があった。
 それをお互いに恐れたため、昔、堅く封印は施された。

 パッセージリングは、いくら創世暦時代の力を全て注いだものといっても、所詮人工物に過ぎない。
 人の手によって点検され補修される必要がある。そのことを一番理解していたのは科学者だったユリアだった。
 彼女はこの街を作るときにパッセージリングの観測所としての機能を満たすようにした。
 皮肉にも魔界という立地が全てのセフィロトを観測することを容易にしたのである。

 そして、ユリアに助けられた人々はユリアの遺志に従いセフィロトを守るようになった。
 外殻大地の主な大国の動向を見張りセフィロトに手を出していないか調べる。
 そして観測所のデータを解析しパッセージリングに異常がないか調べる。
 これらが監視者の街と呼ばれるようになった所以だろう。今では忘れ去られているが。


 だが時が流れるにつれてただ見守ることに不満を持つものが出てきた。
 彼らは教団に入り込み、魔界のユリアシティをひとつの都市国家として認知させようと企んだ。
 タイミングのいいことに当時世界には火種があった。譜石帯より落下したユリアの譜石である。
 1401年に彼らの期待通り譜石の所有権を巡って第一次国境戦争は勃発した。

 彼らの誤算は余りにも戦争が大規模になりすぎたことだろう。
 彼らは戦争のどさくさに紛れて秘預言(クローズドスコア)に詠まれている戦勝国に取り入り立国する予定だった。
 しかし、機会を計っているうちにキムラスカとマルクトが小国を平らげていき、ユリアシティという小さな都市の出番はなくなったのである。
 勢力が均衡しているときであったら盛大に出迎えられただろうが、大国となってしまった両国を相手に交渉などできるはずもない。
 片手間の内に侵略され略奪されるだけだ。それは彼らの本意ではなかった。
 意気揚々とユリアシティを出ていった彼らは、結局また隠れ住む生活に戻ったのである。


 だが、彼らの行動は一つの問いを投げかけた。いつまで我々はここで監視を続けるのかと。
 大多数は繁栄がもたらされるまでと答えた。疑心に駆られた者たちの問いは続く。

 我々はその繁栄を享受できるのか。
 それまでに預言が道を違えないと言い切れるのか。

 そして、ユリアシティは真っ二つに割れた。
 これまで通り見守ることに徹する人と、預言に背くものを矯正しようとする人に分かれる。
 そのまま預言通りに第二次国境戦争が起こり、その最中に決定的な亀裂が入ったのである。
 それまでこの二派は外殻大地組と魔界組に分かれて均衡を保っていたが、ある秘預言の一文が問題となった。


     ND1503 キムラスカに三度嵐が起こり王は兵を引くだろう


 セフィロトの作用の副産物として天候の局地的な操作がある。
 魔界からセフィロトを通じて周囲の音素に働きかけることで雨を降らせたり、風を起こしたりすることが理論上可能であるとされていた。
 地表から離れているにもかかわらずダアトの火山が活発なのは、セフィロトを通じて音素を管理しているからだ。
 これに目を付けたのが管理派である。彼らは預言の通りに嵐を起こそうとし、監視派はそれを阻止しようとした。
 ここまでが部屋に残されていたフォルサリアリカの日記に書かれていたことだ。


 ここからは推論になるが、おそらく管理派が勝利したのだろう。閉じられたままの封呪がこれを証明している。
 監視派の目を盗んだのか、それとも他のところで彼らを排除したのか、とにかく管理派はオズまで辿りついた。
 そして、コントロールに割り込みキムラスカに嵐を発生させることに成功する。
 それに気づいたサリアは実行犯を殺し、コントロールを取り返した。しかし既にオズは命令を実行していた。
 そこでサリアは範囲をできるだけ小規模に、発生地点を人の少ないところにと命令を追加した。それにより現在のイニスタ湿原ができた。
 そのままサリアは部屋を封印し力尽きた。あとで気づいたが部屋にも階段にも血痕が残っていた。

 記録を漁ってみると同時期にユリアシティで伝染病が発生したとある。死体から病が蔓延したのか、それとも殺した人間を伝染病と偽ったのか。
 そうして多くの研究は失われ、預言が確実に遂行されるように管理する者たちの街となったのだろう。




 ティアは少しだけ迷った。この事実はユリアシティの人々を混乱させてしまう。
 此処にある研究内容だけでも持ち帰りたいが、そうするとその出所が問われる。どの道、此処の話をせざるを得ないだろう。
 さすがに1500年分の研究である。これを解析すれば技術は一歩どころか三歩は確実に進むはずだ。

 そして、この情報もティアの知識の裏付けとなり、大きな助けとなるだろう。
 部屋の中央のセフィロトを示す十個の点のうち一つが黒く塗りつぶされ、二つが橙色に、一際目立つもう一つの赤は静かに点滅していた。
 “耐用年数限界”と古代イスパニア語で書かれている。

 やはり混乱を覚悟してでもこの事実は報せるべきだ。
 ゲームでは主人公たちが飛びまわって何とか外殻大地を降下させたが、ティアはそんなに楽観的ではない。
 保険はいくらかけても構わないし、サポートがあればあんな綱渡りのような真似をしなくてもいい。

 それに一人では限界がある。ティアは仲間が欲しかった。
 地下の私室で見つけた先祖、フォルサリアリカの日記を手に取りティアはテオドーロの部屋を目指した。
 テオドーロの部屋はティアの部屋から一番近いところにある。兄が出ていってから彼も思うところがあったのだろう。
 何も言わずただ見守っている。そういう存在が側にいてくれるだけで人は強くなれるものだ。
 そして、その大切な保護者にティアは難題を持ち込もうとしていた。




「おじいちゃん、今時間あるかしら?」
「ティアか。……いや、大丈夫だ。入りなさい」

 テオドーロは柔和な笑みを浮かべてティアを迎えた。
 ティアは抱きかかえた日記を彼に渡し、読んで欲しいと頼む。これを読めばある程度のことは想像がつくだろう。
 テオドーロはその意味深な態度にいぶかしげな顔をしつつも、その本を受け取った。読み進めるうちに彼の顔は険しくなってくる。
 ティアは静かに席を立ちお茶を用意した。お茶請けはないが、もう夜遅くである。
 ティアがテオドーロのところに戻ると、ちょうど読み終わったところのようだった。

「ティア、これをどこで見つけたのだ?」
「隠し部屋で。名前から直ぐに先祖だってわかったわ。他人の日記を読むのは悪趣味だと思ったけれど、興味があって」

 ティアは、一息ついてカップに口をつける。テオドーロは、じっと黙って考え込んでいた。
 ティアは、ユリアシティの市長であり、また詠師でもあるテオドーロなら自分が推測した以上のことを読んでいるかもしれないと思った。
 結局ティアは知識として外殻大地を知っているだけで実際に見たわけではない。ダアトに関してもテオドーロの方が詳しい。
 だからこそ、ティアはこれを期にテオドーロを味方にしたかった。ティアはおもむろに口を開く。

「日記の内容から本来監視者というのは外殻大地の国家、もしくは組織がセフィロトに手を出さないように見張りをする役割を持っていたと推測できるわ。
 表紙の年代から私たちは約500年その役割を放棄していた、と言えるでしょうね」

 ティアは意識して“私たち”という単語を使った。ちらりとテオドーロの顔を窺う。
 テオドーロは、じっと黙り静観を保っていた。何か反応して欲しいとティアは思い、率直に尋ねる。

「おじいちゃんは、どう思う?」
「……ふむ。市長というものをやっているといろいろなことに詳しくなってしまう。特にこのユリアシティのことならな。
 500年前の疫病。実際にあったかもしれないが、そういった点に関してはこの街は厳しく管理している。何かあったのではないかと考えたこともあったよ」

 閉鎖されたこの街で伝染病など流行ってしまえば最悪である。その予防には細心の注意を払っている。
 しかし、ティアは500年前の真相についてテオドーロの意見を聞きたい訳ではなかった。
 そのティアの視線を理解したからか、テオドーロは一言付け加える。

「こんな理由が出てくるとは思わなかったがな。いやはや、どうしたものか」

 テオドーロは顎をさすりながら手元の日記をペラリとめくった。

「ユリアはこの街にセフィロトの監視を託したと書かれている。その遺志は大事にしたい。
 だが500年。500年もの間、我々は預言に詠まれた未来へと人々を導いてきた。それが私たちの役割だと信じてきた。
 私は市民の意思も大事にしたいと思っている。――複雑なところだな」

 微妙なラインだ。だが、ユリアの遺志を尊重したいという言質は取った。あとはどうにかなるだろう。どうにかしてみせる。
 ティアは、そう気合を入れて勢いよく椅子から立ち上がる。




 ティアは、テオドーロの手を取ってついてきてほしいと歩きだした。寝静まった街に二人の足音だけが響く。
 魔界の昼は薄暗く、夜はさらに暗い。そのせいかユリアシティの住人は時間に正確である。23時を過ぎて出歩くものはいない。
 こっちというティアの案内の声は、静寂に満ちた空間でやけに大きく聞こえた。

 隠し部屋に置いていた私物は、随分と前に他の場所に移していた。
 二人は、大人には少し厳しい隙間をくぐりぬけて、部屋の前に辿りつく。

 階段を降りた先の光景にテオドーロは、思わず叫ぶ。

「これはっ。こんなものが街の地下に眠っていようとは!」

 テオドーロは、驚きと興奮を隠しきれない。オズの側に駆け寄り辺りを見まわしている。
 そんな彼にオズは無反応だった。ティアはテオドーロが落ち着くのを片隅で待つ。
 それに気づいたのか、テオドーロはコホンとひとつ咳払いをして、不思議そうにティアの名を呼びながら振り返る。

「これを見て。おじいちゃん」

 ティアはオズに命じてオールドランドのホログラムを映し、その地図の赤い点を指差した。
 テオドーロはそれに驚きながら説明を求める。

「此処がアクゼリュス。この黒い点がホドだったところ。
 ホドが落ちたせいで周囲に想定以上の負荷がかかっているのよ。――もう限界だわ」

 ティアは背伸びをして手元の画面を操作し、警告画面をテオドーロにも見やすいようにした。
 テオドーロはその文字の意味をようやく理解して息を飲む。嘘だろうと言うように画面を見入っていた。
 ティアは、そこにたたみかけるように告げる。

「このままだと外殻大地はもたないわ。初めにアクゼリュスが、その次はシュレーの丘かしら?
 いまはとても危ういバランスの上に成り立っているの。ちょっとした切っ掛けで全てが崩れ落ちるでしょうね」
「まさかそんな……。それは、本当なのか?」

 テオドーロは、壁を支えにしながら信じたくないというように呟いた。
 ティアは、冷めた目でそんなテオドーロを見ていた。彼も兄を復讐に走らせた一人である。
 ここで自分が全て冗談だと言えば藁にすがるようにその言葉だけを信じるのだろうか。
 そうしてみたい欲求を抑え、ティアは優しげな声でテオドーロに真実を伝える。

「ホドを落としたときから全てが始まってしまったのよ」

 テオドーロは愕然として、項垂れた。床に座り込み何かに慈悲を乞う。

 ホド崩落について詠まれた秘預言でも思い出しているのだろうか。ティアは今更何を、と思った。
 この義理の祖父が嫌いなわけではない。けれどもテオドーロを憎いと思うのは止められなかった。
 預言という一言で全てを肯定した彼の言葉が、兄の憎悪を預言に向かわせたのである。


 ホドを落としたときから兄の復讐は始まった。
 その瞬間に滅亡へのカウントダウンが鳴り響いた。

 外殻大地の崩落か。
 兄の復讐の成就か。
 それとも、繁栄の後の滅亡か。

 本当に道のりは険しい。そのためにも味方が必要なのだ。
 少なくとも外殻大地を降下させるまでは信頼できる人が欲しい。


 ささやくようにティアは言葉を重ねる。

「おじいちゃん、力を貸してくれないかしら?
 外殻大地を守らなければならないの。ユリアの遺志を守るために、――そのために私たちがいるのよね?」


 テオドーロは、その声に縋るように首を縦に振った。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第六節 ささやかな一歩
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/09 21:16



 テオドーロ・グランツにとって、妻と娘夫婦を失ってから迎えた二人の孫は義理とはいえ家族だった。
 兄の方はこの薄暗い魔界に慣れずすぐに外殻に戻ってしまったが、残された妹の方は可愛いものだった。
 けれどもおにいちゃん、おにいちゃんと兄の後ろをついて回っていたティアは、兄がいなくなると急激に大人びていった。
 ティアの血を知っている者はユリアの再来だと騒ぎたてそれを煽る始末。
 テオドーロは口惜しかった。

 いくら家族と言っても自分はヴァンの代わりになれない。
 兄のいなくなった隙間を埋めるように読書に励むティアは痛々しかった。
 そうして早く大人になれば兄が帰ってくると信じているように見えた。


 テオドーロがティアとの関係をどうにかしようと模索しているうちに事は起きた。
 そう、ティアの発見した隠し部屋。ユリアシティの地下の大半を占めた空間には隠された歴史がひっそりと息づいていた。
 日記を読んだときテオドーロはまだ半信半疑だった。だがティアがこの手の冗談を好まないことは分かっていた。
 それに代々市長に受け継がれる書物の中で500年前の辺りが落丁していたのは事実である。

 そしてティアに連れられた部屋で見た情報にテオドーロは我が目を疑った。
 魔界に住みパッセージリングの重要性を理解しているからこそ、安易に否定できなかった。
 けれども認めたくなかった。そんな彼に赤い文字が静かに主張する。


 預言。

 預言には繁栄が詠まれているのだ。
 だから大地が崩落するなどあり得ない。

 そしてテオドーロの脳裏を8年前の光景がよぎる。


    ND2002 栄光を掴む者、自らの生まれた島を滅ぼす
          名をホドと称す



 魔界に居たテオドーロはすぐにその異変に気付いた。
 光が射している。暗闇に閉ざされたこの地に一筋の光が。
 そして見たのは瓦礫の山と母を庇い、気丈にこちらを睨みつけている少年。
 栄光を掴む者。そしてユリアの末裔。

 思わず助けたのは、手負いの獣のように見えたからかもしれない。
 呆然と廃墟を見ていた彼を励まし、その後産まれた妹も籍に入れた。


 預言には大地の崩落は詠まれている。なら構わないではないか。
 しかし、何かあればそれは全ての大地の崩落につながるのか?
 目の前の簡略化された各地のセフィロトを見る。赤い文字が警告している。

 ”耐用年数限界”
 アクゼリュス。―――鉱山の街。


    ND2018 ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう
          そこで若者は力を災いとしキムラスカの武器となって街と共に消滅す
          しかる後にルグニカの大地は戦乱に包まれ、マルクトは領土を失うだろう
          結果キムラスカ・ランバルディアは栄え、それが未曾有の繁栄の第一歩となる



 矛盾ではないか。
 おかしいではないか!
 繁栄が訪れるのではないか!?

 テオドーロの心は荒れていた。それは己の根幹を揺るがした。
 預言は必ず成就されるもの。それを疑うことなどあってはならない。
 少なくともテオドーロはそう信じて生きてきた。

 ローレライ教団の詠師であるテオドーロは敬虔な信者だった。預言は彼をいつも導いてくれた。
 落ち込んだときには励まし、浮かれていたときにはそっと忠告をくれる。預言は人を照らす光であり、繁栄を約束してくれるものだった。


 だというのに!
 積み上げてきたものが崩れようとしている。
 警鐘を鳴らす赤を前にして孫の推測が間違っていると叫べなかった。
 恐ろしかった。足元から奈落に落ちたようだ。

 天の大地が裂け一条の光明が滅亡を告げるのを。
 うず高く積まれた死体の山を。地獄がこの魔界に現れるのを。

 テオドーロは想像してしまった。

 禁忌だった。

 高鳴る心臓の音を耳にしながら埃っぽい床に膝をついた。
 思わずローレライとユリアに祈ろうとしたときに、救いが差し伸べられた。


 耳通りのいい鈴を転がしたような孫の声がテオドーロに届く。


「おじいちゃん、力を貸してくれないかしら?
 外殻大地を守らなければならないの。ユリアの遺志を守るために、―――そのために私たちがいるのよね?」


 そうだ。ユリアの遺志を守るために…。
 ユリアはセフィロトに何か起こったらと危惧してこの空間を残したのだ。
 外殻大地を守れば、それができれば預言も繁栄も守られる。

 何もかも丸く収まるではないか。


 テオドーロはその声に導かれるまま頷いた。―――全てはユリアの名の下に!




 外殻大地の下の街のさらにその地下で、物事は密かに進められていった。
 500年前の争いの影響は現在に色濃く表れている。

 預言は絶対の拘束力を持つので何かをする必要はないと主張し国家とセフィロトの監視を重視したのが監視派である。
 反対に預言が絶対の拘束力を持つとしても万が一に備え率先的に動くべきであると主張したのが管理派である。
 そして秘預言の一文によって対立が激化した。

 管理派の流れを引いているのが大詠師派といえるだろう。
 下手に彼らに魔界の動きを嗅ぎつけられたら、何が引き起こされるかわからない。
 ユリアシティの地下での行いは、いずれ訪れる繁栄を信じていないと捉えられる可能性がある。
 慎重に慎重を重ねてユリアシティの奥に人々は顔を合わせる。

 その事実はテオドーロの信用する僅かな人間にのみ伝えられた。
 研究者はファリアの意見も参考に招集され、嬉々として解析している。ティアも徹夜を敢行しながらその中に交じっている。
 外殻に出ている者たちには地震や障気の発生について注意を払うように告げている。

 ようやく一歩進めたことにティアは満足していた。




 部屋にあったデータを参考にしつつ、ティアたちは外殻の存続を目標として研究に取り組んだ。
 だが外殻は降下させるしかないという結論に至った。
 それはアクゼリュスのパッセージリングの損傷が自己修復を上回っているという事実が判明したからだが、やはり決定打は秘預言だった。
 アクゼリュスはちょっとした刺激で崩落すると正式な報告をしたとき、テオドーロは内密だと言ってから秘預言の内容を明かした。
 2018年にアクゼリュスは消滅する。

 タイムリミットはあと8年。

 そのことにファリアを始めとする研究者たちは困惑していた。
 それはそうだろう。預言が外殻大地の崩落を示唆しているのだから。
 アクゼリュスが落ちてしまえば、それに引きずられる形で最終的に外殻が落ちるのは確定事項だった。
 それにも関わらずその後の繁栄が詠まれているのは明らかな矛盾だった。

 第七譜石に詠まれている滅亡を知っている身としては、この段階で預言を捨ててしまえば良いのにと思うのだが。
 さすがは2000年かけた呪い。彼らは預言と共に大地を存続させる道を選んだ。


 外殻大地を降下できればいいのだが、そんなに簡単にできることではない。
 フロート計画を参考にしようにも上昇させるのと下降させるのは全く違う。そもそも技術力が昔と比べて著しく劣っている。
 大陸を動かす。そんな桁外れの動力をどこから持ってくればいいのか。計画は初っ端から行き詰ってしまった。

 ローレライの同位体が存在するなど思いもよらないだろう。それほど希有なことなのだ。
 諦めが漂い、匙を投げる者が増える。そのままでは困るのでティアはぽつりと疑問を口にした。

「このローレライの力を継ぐ者の力とは一体何かしら?」
「ローレライの力。もしや、超振動か!?」

 ティアの一言を切欠に研究室は騒がしくなる。
 さっきまでの沈痛な面持ちはどこかへ吹き飛んでしまったようだ。
 超振動はローレライの力、つまり神の力なのだ。それを一人の人間の意思で生み出すことができる。
 それは大陸も、世界までも変える力だ。

 計画はルークを要にして立てられていく。そうして出来上がった計画はほぼジェイドが建てたものと同じだ。
 何人もの人間が寄り集まってひねり出したプランを、旅の間に考え出したジェイドは本当に天才だとティアは思った。
 ただ降下の際に魔界からもセフィロトを通して音素に干渉し、自然災害などを防ぐという点を加えるにとどまった。


 だが原作では勢いで突き進んでいたので流されていた点が問題となった。
 ルークはアクゼリュスと共に消滅するのだから、降下作戦時には死亡しているとされるのだ。
 ならば大地を降ろしてからアクゼリュスに行けばいいんじゃないか、と言うかもしれないがそうはいかない。

 パッセージリングにはダアト式、ユリア式、アルバート式の三つの封印がある。
 ダアト式は導師が、ユリア式はユリアの血筋であるヴァンとティアが解けるのだが、アルバート式の解き方が分からないのだ。
 アルバート式封呪があるとパッセージリングの一斉操作ができない。
 大地はつながっているのでとてもじゃないが一つずつ降ろすなんてできない。最悪、崩落の引き金になるだろう。

 だから封呪を壊す。いや、壊れてから降下すると言えばいいのか。
 アルバート式封呪だけはホドとアクゼリュスにしか施されていない。
 ホドが無いいま、アクゼリュスさえ消滅すれば大地を降ろすことができる。

 だがアクゼリュスの消滅はルークの死を意味する。
 もう積んでいるというのに皆諦めない。その心意気は賞賛に値する。


 集まった科学者は主に二つのチームに分かれた。ローレライと障気が降下の際のネックである。
 ユリアの子孫でなるティアは問答無用と前者に入れられた。その研究対象から自然とアウルチームと呼ばれるようになった。
 ファリアは瘴気中和薬を研究していた経験から後者の責任者となった。

 そしてもう一つ。外部の知恵を借りることだ。
 外殻にはジェイドやディストといった天才がいる。
 彼らにこの計画のことを話すわけにはいかないが、助言をもらうことはできる。

 アイン・S・アウルという架空の人物を作り研究成果を彼の物として発表した。
 ついでにオズのデータバンクに収められていた様々な未発表の物も。
 アウル博士は偏屈で人嫌い、研究に関してはすこぶる優秀。この2年足らずの期間での周囲の評価だ。
 彼にはダアトのある友人を通してしか接触することができない。それも書簡のみだ。
 それでも連絡を取ろうとする人が絶えないのだからそれだけ優れているということだろう。


 2年間、することはたくさんあった。
 1500年分の記録があり、また未分析のデータが500年分あるのである。
 それだけでも目眩がしそうなほどの量だった。

 他にも液状化の原因を調査する。
 ユリア式封呪が解けるか確認する。
 アルバート式封呪の解き方を調査する。
 オズか取ったデータを基に現在のパッセージリングの状態を調べる。

 データバンクから過去の研究を参考にしても暇はなかった。
 オズの中にはユリアシティの設計図もあり失われた技術を再現しようという試みもあった。
 もちろん忘れられた部屋も見つかり、その部屋に音機関などがあったら大興奮である。
 そうでなくても埋もれた歴史や驚きの真実があちらこちらに散見した。

 外殻大地を守り預言を守るためという大義名分と、失われた過去の遺産が人を繋ぎ止めた。
 もしも裏切ってダアトに報せてしまえば、これらの情報は手の届かないところに隠されてしまう。
 それぞれの専門分野ごとに人々は活発に動く。そうしてますますアイン・S・アウルは天才博士になっていく。

 そんなアウル博士には、あの六神将のディストからも書簡が届いた。
 組織ぐるみで一人を演じているのだからそう成果が表れなければ困る。
 そうやって少しずつ、だが確実に前に進んでいると全員が手ごたえを感じていた。
 




 そしてある日一通の手紙がダアトからユリアシティに届いた。
 アイン・S・アウル博士宛ての召喚状。―――いわゆる異端審問である。








[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第七節 異端審問
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/06 21:13






 特大の餌を垂らして大物のディストから手紙が来たのは良かった。
 だがついでに釣れたのがダアト、ローレライ教団というのは勘弁してほしいところである。

 つまりティアたちはやり過ぎたわけだ。
 データバンクに収められたままというのは、それだけ難癖付けられそうだったということである。
 教団の禁止事項すれすれのところを選んでいたのだが、評判も時に足枷になってしまう。
 正体不明の教団とは無関係な天才博士など、ダアトから見れば危険極まりないだろう。
 この対応も過剰な気もするが間違ってはいない。間違って欲しかったが。

 外殻降下計画は取りようによっては預言に喧嘩を売っているとも解釈できる。
 頭を下げれば協力してもらえるならいくらでも頭を下げるが、端から期待はしていない。
 預言順守を謳う大詠師派は最も警戒しなければならない相手である。
 計画とアウル博士の正体については明かすわけにも悟られるわけにもいかなかった。




「私がダアトに行くわ」
「ティア、何を仰っていますの?」

 真っ先に名乗りをあげたティアに対してファリアは不思議そうに尋ねた。

「私をアイン・S・アウルの弟子として送り出せばいいわ。博士は私たちが作り上げた幻想よ。実際には存在しない。
 けれども誰かがその存在を立証しなければならない。そうでしょう?」
「「「……」」」
「博士は病気で魔界を出ることができない。だから代わりに弟子が出向くと言えばいいのよ」

 いまダアトの疑いを固めてしまったら、全てが水の泡になってしまう。それだけは回避しなければならないと皆分かっていた。
 ダアトから寄こされた召喚状には導師イオンのサインがあった。拒否することは疑いをさらに深めそのうち教団の兵が派遣されることになる。
 だがのこのこと出て行っても、そこで待っているのは話し合いと言う名の吊し上げである。


「俺が博士として出向けばそんなことをしなくてもいい」

 バティスタがティアを制して前に進み出た。
 確かにバティスタはアウルチームの責任者。科学者としての見識も深い。
 この中で一番博士を装うとすれば彼が適任だろう。

「ダメよ。新婚なのに妻を一人にする気なの?
 第一、あなたはダアトにも知り合いが多いでしょう。弟子としても以前の実績がありすぎるわ」
「なら私が参ります。10年以上この街から出ておりませんし、名も売れてません。
 まだ幼いティアを差し出すなどできませんわ」

 この似た者夫婦は…。ティアは苦笑しながらも嬉しく思った。
 けれどもティアは意志を変えるつもりはなかった。この中で研究から離れても支障がないのがティアなのだ。
 やっていることも皆の実験の手伝いだったり、スケジュール管理だったりと重要なものではない。
 障気中和薬もファリアの助けがあったからこそ完成に漕ぎつけることができた。
 研究者として新米の自分が抜けるのが一番ロスが少ない。

 それに、此処での研究は自分しかできないことじゃない。私は研究者としては二流だ。
 ダアトに行けばもっと他の手も見つかるかもしれない。

「だから新婚は却下よ。これは私でないといけないの」
「ティアである必要などありませんわ!」

 私が名乗り出ると主張するティアにファリアの悲鳴のような声が上がる。

「いや、ティアでなければならないよ。ユリアの子孫であるティアでなければな」

 テオドーロの静かな声がファリアを止めた。
 その言葉の意味をファリア以外の者はすぐに理解した。
 呼び出された先に待っているのは弁の立つ詠師である。それに敵う術を皆は持ち合わせていなかった。
 そして異端と認定されれば禁書指定となり本は回収され、本人は悪くて投獄、良くて監視といったところだ。
 このユリアシティにもその疑いは向くだろう。
 そうなれば計画は大幅に遅れてしまう。間に合わないかもしれない。

 だが、ティアならその血が盾となってくれる。
 聖女の子孫である彼女を捕えるなどできやしない。

「私なら大丈夫よ。むしろ諸手を挙げて出迎えてくれるでしょう」
「ですが…」
「安心しなさい、ファリア。教団に所属すれば私も表立って守ることができる。ヴァンも力になるだろう」

 テオドーロ言葉を聞きファリアは愛弟子と周囲の皆を見比べ、分かりましたわと小声で返事をした。
 それ以外に取れる術はないことを彼女はようやく理解した。

 ファリアの賛同を以てティアが博士の弟子として出向くことが決定した。




 そしてティアは障気中和薬に関する論文を書き、ルーティシア・アウルの名で発表した。
 ルーティシアはティアの響きが入るという理由で付けた。
 本当はファリアと連名で出したかったのだが拒否されてしまった。
 ティアが外殻に行くことを理解はしてもやはり思うところがあるようだった。
 なんとか宥めすかしてようやく彼女の機嫌が直ったころには、準備が整っていた。


 ユリアロードの譜陣の前で皆が見送りに来てくれている。
 6年前、兄を見送ったときを思い出す。
 あれから随分と時が経ち、そして自分も変わった。
 ユリアシティの地下に眠っていたモノを起こしたことでこの人たちと出会えた。

「ティア、外には気をつけるのよ」
「魔物に出会わないようにな」
「いじめられたらこの瓶を投げつけるんですよ」
「手紙を書くからね」
「青い海と空は一見の価値があるぞ」
「お守りだ」
「外では譜術が使い放題だよ!」
「風邪をひかないように」

 皆口々に、話しかけてくる。笑おうと思っているのに涙があふれてきてしまう。
 そんなティアをファリアが抱きしめた。

「いってらっしゃい、ティア。あなたの帰る場所は此処よ」
「その通りだ。ダアトで外を見てくるといい」

 その言葉に強く頷き、ティアはハンカチで涙を拭いて笑う。
 そして譜陣の中に踏み入れテオドーロの隣に立ったティアに皆が手を振る。
 さあ、行こうかとテオドーロが告げると譜陣が青く光り輝く。

「「「いってらっしゃい」」」

 その声に振り返りティアは大きく手を振った。

「いってきます!」




 兄と共にいずれ此処に帰ってくる。

 見捨てられた大地。忘れ去られた街。
 それでも私の故郷だ。

 此処に帰ってくるためにも私は前に進む。
 例えその先が茨に閉ざされており、血が流れるとしても―――。




 ND2012 ダアト・ローレライ教団本部


 呼びだされた先には大詠師と数名の詠師、それに研究者らしき人物がいた。
 テオドーロはユリアシティの関係者だからと臨席も許可されなかった。

 研究者の質問にティアは淡々と答え、教団の教えを否定するつもりはないと説明する。

「では、なぜアウル博士本人が此処にいないのか!? 教団に対して思うところがあるからではないか!」

 唾を飛ばさんばかりの勢いでバーンハルト詠師はティアに問う。

「ご存じのとおり私の師、アウル博士はユリアシティの生まれです。師は生まれつき肺を始めとする器官が弱く年の半分はベッドから離れられません。
 もしも博士をこのユリアシティよりも高度が高い外殻大地に連れてくれば、すぐに体調を崩し死んでしまうでしょう」

 ティアは冷静に用意していた答えを口にした。
 魔界と外殻大地には数千メートルの高度の差があり、訓練をしなければ高山病にかかってしまう。
 これは自明の理である。だからこそティアが論文を発表する時間も稼ぐことができた。

 それからもバーンハルト詠師の詰問は続く。
 果ては教団の教義やユリアの教えに関しての問いが飛び出し険悪な雰囲気になってきた。
 その意地の悪い言葉に対してもティアは満点の返答をする。

 そもそもそのような基本的なことはユリアの子孫であるティアには必須の知識である。
 魔界で詠師も務めるテオドーロに散々叩きこまれた。
 そうして彼の顔が怒りで赤くなり、他の詠師が白けた様子を隠さなくなったころ後ろの扉が騒がしくなった。

 審問中はよほどのことがない限り妨害が入るはずがないのだがどうしたのだろうか。
 そうティアが疑問に思っていると覚えのある声が聞こえてきた。


「私の妹を召喚してどうするつもりですかな」

 その言葉に一気に室内はざわついた。
 ヴァン・グランツの妹と言うことはユリアの子孫ということを意味する。
 聖女の子孫を異端と疑うのは詠師の常識から考えればありえないことだ。

 欠伸を繰り返していた詠師が人のよさそうな顔をしてティアに尋ねる。

「ルーティシア・アウルと言ったね。君はグランツ響将の妹なのかい?」
「はい」
「しかし君はアウルと名乗っていたね?」
「弟子として認められたときこの姓をもらいました。
 この場に私は博士の弟子として召喚されたのですから、アウルと名乗るのが適当だと判断しました」
「ふうん。でも、なぜそのことを今まで話さなかったんだい?」

 とても面白そうに彼はティアに聞く。
 さっきまで声を張り上げていたバーンハルト詠師は黙ったままだ。
 その様子を見て彼は喜色を隠さなかった。大詠師モースの腰巾着をやりこめることができる絶好の機会である。

「私は祖父のグランツ詠師から聞いていると思っていましたので」
「おやおや、私は彼女がユリアの血筋だなんてことはさっきまで知りませんでしたよ」
「わしも初耳ですな。グランツ詠師の同席を拒否したのはどなたでしたかなあ」
「ああ、それなら確かバーンハルト詠師でしたね」
「私もっ、その子供がユリアの子孫だなんて知らなかったっ」
「しかしねえ、此処にグランツ詠師はいらっしゃらないんだよ」
「バーンハルト詠師は聖女を貶めたかったのかのう?」
「私はユリアを汚すつもりなどないっ」
「だが、君は彼女を召喚し先ほどまで執拗に粗を探しておったのう。まあ、もとからないものを見つけることはできん。聖女の末裔じゃ」
「彼女の知識の深さを理解できる良い機会でした。けれども、あなたが彼女を異端であると疑った事実は変わらないんですよ?」

 バーンハルト詠師は知らなかったと大きな声で主張する。
 しかし二人は聞く耳を持っていないようだ。

 導師の代理を務めることもある大詠師の地位は導師を除けば教団の最高位である。
 特にいまは導師イオンに代替わりした直後であり詠師の顔ぶれも変わる可能性が十分にある。
 大詠師モースの足元を狙うものは多い。何かと口をはさむ彼は前導師エベノスと親しくしていた者に煙たがられている。
 彼らとは逆にバーンハルト詠師はそんな大詠師に接近していまの地位を得た。
 そんなモースの腰巾着が引き起こした今回の失態。

 もはやアイン・S・アウル博士のことなど関係なく、室内は教団内の権力争いの場となっていた。
 そんな空気が変わったのを察したのだろう。モースはさっと一つ手を叩き注目を集めた。

「この場はここで解散とする」

 興が削がれたのか皆その場を次々に離れていく。
 バーンハルト詠師の責任はどこか別の場所で問われるのだろう。
 ティアは兄に連れられてその部屋を後にした。


 ティアは誕生日以来会っていなかった兄の顔を見れたことに満足していた。
 にやけながら兄のお叱りを受けて、最終的には呆れられてしまう始末である。
 テオドーロが臨席を拒否されたのは想定外だったが、ティアはそんなに動じていなかった。

 むしろ焦ったのはテオドーロとヴァンである。
 テオドーロはバーンハルト詠師の強硬な態度に出鼻をくじかれた。そしてもう一人の孫を頼ることにしたのである。
 ヴァンは部屋で執務をしていたところを突然テオドーロに邪魔をされ、そしてティアが召喚されていると告げられた。
 慌てて飛び出し、扉の前にいた騎士の制止を押しのけて割り込んだ。
 異端とされたら二度と陽の目を見れなくなる。平静を装っていたものの不安はあった。

 そうして必死に駆けつけたというのに当の本人はこうして笑っているのだ。
 ヴァンはため息をつきたくなった。
 テオドーロも苦笑している。

 そんな二人の気持ちも知らずにティアは兄の顔を見ながら髭を生やしていないことに喜んでいた。
 一人称が僕から私になり、いつ老け顔になってしまうのかと魔界で心配していた。

(出来れば髭を生やさないで欲しいけれども、嫌って言ったら剃ってくれるかしら)

 些末なことをかなり真剣に悩んでいた。




 後日導師の署名の入った通達が届き、ティアはダアトに留まるように命じられた。
 ひいては士官学校に入るようにと入学案内も届けられた。
 つまり博士に対する人質であり、また大事な血筋を外に出すことはないということである。
 ユリアの子孫であるティアはいずれ入団しなければならない。それは避けては通れない道だ。
 予想よりも早かったがそれだけである。


 士官学校。

 ティアには晴天の霹靂だったが、テオドーロとヴァンにとっては妥当だった。
 魔界を出たことがないティアは、魔物を見たことがない。盗賊や泥棒もいない極めて安全なところで過ごしてきた。
 いくらファリアに護身術をならっていてもそれは最低限のものである。
 これを機に、身を守る術を身につければと考えた。

 ティアは入学に当たってグランツという姓とも、アウルという姓も名乗るつもりはないと告げた。
 兄とテオドーロに、家族が教団の上層部に居ることで色眼鏡で見られたくないと説明した。
 兄はユリアの子孫であることを利用して随分と出世が早い。余計な敵を作っている自覚があるためか反対はしなかった。

 教団にしてみれば得体のしれない天才博士の弟子を手元におければそれでいいのであって、またおおっぴらに弟子を捕えていると見なされても困る。
 それに彼らにとっては弟子であるティアよりも、ユリアの子孫であるティアの方が価値があった。
 異端と認定しかけた博士の弟子がユリアの子孫ということは、絶対に公にしたくないことである。

 教団には姓のない人間もそれなりにいる。
 親がおらず騎士団に入るしか食っていけない者や、国での権力闘争に負け逃れてきた者。
 さらにはやんごとなき身分で、争いから遠ざけるために預けられている者。
 姓を名乗らない人間にもこれだけ種類があるのだから、神託の盾騎士団では名前だけしか名乗られなくてもそれに対しては深く追求しない。
 偽名や通称がまかり通っているのだからそれだけ実力勝負の場所だということだ。
 士官学校ではティアとだけ名乗り、ルーティシア・アウルは研究発表用の名前となった。




 ティアは時が来るまでダアトで調べ物をしつつ大人しくしているつもりだった。
 ……少なくとも本人は。









[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第八節 桃色の髪の少女
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/18 20:12


 ND2013 ダアト・近くの森


 士官学生のティアは、暇を見つけてはよく一人になれる近くの森に出入りしていた。
 それは薬草が手に入るということもあったが、歌を聞かれたくないということの方が大きかった。

 ユリアの譜歌は通常の譜歌よりも威力が強い。それはもう譜術並みに。
 そんなものを人に見られたらティアがユリアの子孫であることがばれてしまう。
 見ただけでは分からないが疑いを持たれることも避けたかった。

 街の近くの森には人がおらず、ティアは思う存分歌えた。
 背筋を伸ばし息を大きく吸い込み、音を響かせて空気を震わせる。想いをこめて、遠くに届けるように声を出す。
 全身が楽器であるかのように身体の中から音を生み出す。

 フォンスロットを開くとティアの視界は変わる。歌に合わせて七つの音素が踊る。
 真剣に、丁寧に、心の底から歌うと音素は嬉しそうに集まってくる。外殻に来てから、ティアはそれがはっきりと分かるようになった。

 歌うことが楽しい。

 映画やドラマの主題歌、童謡にユリアの譜歌。なんでも歌う。
 いままでの抑圧されていた分を晴らすかのように森に通った。




 その日、ティアはいつものように第一譜歌のナイトメアを練習していた。
 魔物を眠らせて効果を計っていると、いきなりティアとその魔物の間に何かが飛び込んできた。

「アリエッタのお友達に、何したですか?」

 ティアは突然の出来事にぽかんと口を開け、事態の把握ができていなかった。
 そしてアリエッタの言うお友達が後ろにいる魔物のことだと気づいて青ざめる。
 アリエッタはその小さな体でお友達を守ろうとティアを睨んでいた。

「あ、…ごめんなさい。あなたのお友達だとは思わなかったの。いまは眠っているだけよ」

 ティアは平静を装いながらアリエッタに謝った。アリエッタに向かってこられたら負けるに決まっている。
 アリエッタは一応寝ているという言葉を信用したのか、緊張を解いてお友達の方に駆け寄った。
 ティアはそんなアリエッタを遠目に見ながら内心焦っていた。

 この森に誰もいないことで気づくべきだった。
 此処はアリエッタとそのお友達の塒だ。だからダアトの人は近付かない。
 人の手が入ってなかったからあんなに薬草取り放題だったのである。


 そもそもティアは原作のキャラクターに近づくつもりはなかった。
 特に兄と関わりのある人物は要注意である。
 ダアトには六神将にイオン、モース、トリトハイムにアニスと揃っている。生き残る予定なのはディストとトリトハイムにアニスだけ。
 死ぬと分かっていて、その状況も理由も分かっている。下手に会ってしまうと情が移る。
 顔を会わせて親しくなってしまったら苦言を言わずにはいられないだろう。
 それが無意味だとしても、自分が後悔しないために余計な一言を告げてしまいそうだ。

 それだけで済むならまだいい。
 それで原作が変わってしまったら?
 動いたはずの人が動かず、決定的な何かがずれてしまったら?

 ティアは最後の最後で盤ごとひっくり返すつもりだ。
 兄の決意は固い。中途半端なところで止めても地下にもぐって再起を図ろうとするだろう。
 ならば好きにさせて、兄が手札を晒し勝負を仕掛けようとしたところで全てを横からかっさらう。
 そうすれば兄はもう為す術がない。一人では力が足りないからこそ六神将を集めたのだ。


 だから、そのときまでは最低限を除いて関わるつもりはなかった。
 こんなイレギュラーは予想していなかった。


 アリエッタはそのままどこかに行くと思いきや、ティアの側に寄ってくる。

「……アリエッタのお友達、嫌わないの?」
「えっ? いや別に。私は襲われなければ気にしないから。その点ではお友達に悪いことをしてしまったわ」
「…いいです……。敵意があったら、何かする前に噛みつく、です……」
「此処はあなたたちの場所なのよね? もう来ないようにするわ。邪魔をするつもりはないから」

 土の上に放り出していた学校の鞄を取って森の外に向かう。早く此処から立ち去りたかった。
 しかしそんなティアの背にアリエッタの声が届く。

「…あのっ、お友達が、あなたの歌が好きって。……アリエッタも、もっと聴いてみたい、です……」

(えっ!?)

 ティアの予想では、アリエッタのお友達を傷つけるなんて、あなたなんか大っ嫌いなんだからあ~! であったのに、アリエッタの好意的な反応に少し戸惑ってしまう。
 そしてその背後にいるライガの視線を感じてティアは押し黙った。
 そのライガの様子は、お嬢の言うことが聞けないなんてことはないだろうな? という感じであった。
 期待するように見つめてくるアリエッタの後ろには、獰猛な瞳を光らせたライガがこれ見よがしに近くの木で爪を研いでいる。
 それは鋭く、振り下ろされればティアは一瞬のうちに切り裂かれてしまうだろう。
 アリエッタのお友達だから安全だと分かってはいるが、すぐに後ろを向いて逃げ出したかった。
 そんなティアの心中を察したのか、ライガはにやりと牙までも見せつけてきた。

 選択肢は一つしかない。それを悟ってしまった。
 ティアは複雑な心境を封印して、アリエッタに了承の意を告げた。

 こうしてやむにやまれずティアとアリエッタとの秘密の交流が始まった。




 外殻大地に来てからというもの、ティアは日常生活に含まれる預言に辟易していた。
 魔界ではティアは研究三昧の日々だったのでそこまで意識していなかったが、此処に来て預言が生活に密着している状態に直面した。
 精神年齢が違うということだけでも学校生活は苦痛だというのに、同期の二言目に出てくる預言の存在がティアには息苦しかった。

 実際のところティアは詠師の推薦と言うこともあって目を引き、技手志望と言うこともあって遠巻きにされていた。
 技手になるような人間はたいてい20歳は過ぎており、士官学校に来ても特別カリキュラムをこなしてさっさと師団に属するのが普通である。
 そうでなくても技手になれるほどの教育を受けれるということは、それだけ裕福ということを意味しており悪目立ちした。
 ティアの方から声をかければそうはならなかったかもしれないが、ティアは同期の友人と遊ぶよりも図書館で本を一冊読むほうが有意義だと考えていた。

 ティアに残された時間は少なかった。
 あと5年。ティアにとっては短すぎる。
 兄を護るためには法や慣習なども味方につけなければならない。誰かに聞くなどもっての外だ。
 魔界でしなかったことをこの思いがけず出来た時間を使って済ませるつもりだった。
 友人を作って遊ぶのは全てが終わってからでいい。

 そういうわけで、ティアと同期の会話のタネと言えば天気の話や預言の話など無難な物に限られていた。




 アリエッタはライガの下で育ったので、預言を生活の中に取り入れるようなことはしていない。
 だからティアにとって、アリエッタのゆっくりとした喋りを聞きながら流れる時間は心地よいものだった。
 きっかけは脅迫されるというものだったが、何回か会ううちに大事な友人となった。
 恐ろしげだったライガさんも頼めば毛繕いをさせてくれたし、泉で洗いたての毛を譜術で乾かしてからモフモフするのは最高である。
 猫好きのティアは思う存分抱きつく。一度頼みこんであの肉球を触らせてもらったが、野山を駆け回っているから固かった。


 二人の交流は約束などはせずに会えたら会うという不定期な形で進んだ。
 ティアが士官学校を卒業して第二師団に配属されてからもその関係は続いた。
 アリエッタが居ないときは譜歌の練習を、アリエッタが居たら譜術を練習してFOF技を発生させた。




 譜術は体内のフォンスロットを開いて音素を吸収し、譜を唱えることで様々な現象を引き起こすものだ。
 どのくらいの音素を吸収できるか、どのくらいの譜を制御できるか、それらが譜術師の強さの指標である。

 第七音素は先天的な素養に左右されるが、他の音素もある程度持って生まれた資質がものを言う。
 まず、地水火風の音素がある。そしてその上位に光と闇がある。光に火と風が属し、闇に水と地が属する。
 人は四属性のどれかに適性がある。適性がなければその音素を吸収することができない。
 例えば地に適性があり極めたとしたら、闇と地は上級譜術、水は中級譜術、火は初級譜術、風と光は扱えない。
 つまり卓越した譜術師は四属性を操ることができる。

 では第七音素は、となると複雑になる。
 第七音素の素養がある者の適性は地水火風の全てとも言える。絶妙なバランスの上に成り立っているのだ。
 全ての属性に適性があるといっても中級譜術までしか扱えない。決定打に欠けるのである。
 それにどれか一つの属性に偏ってしまうと、第七音素の適性はなくなってしまう。
 それ故に第七音素の適性があるとされれば、軍や教団に属して教えを請うのが普通である。

 第七音素を扱うのは難しい。まず第七音素譜術師は地水火風の音素を捉え集めるという基礎から磨く。
 そしてコツを掴んできたころには、中級譜術も時間をかければ発動できるようになる。そうなれば第七音素を扱うことも容易くなってくる。
 そこから希少な第七音素譜術師は治癒師(ヒーラー)預言師(スコアラー)へとなっていく。

 だがティアはそうはいかなかった。
 6歳の時から第七音素を研究して、植物に含まれる微量な音素まで認識した。それもプラネットストームの恩恵を大地に阻まれている魔界で。
 基礎をすっ飛ばして第七音素を扱っていたティアは、逆に地水火風の音素が非常に扱いずらかった。
 もとからユリアの血を引いているため第七音素の適性は高い。だからこそ魔界でも重宝したのだが、全ては後の祭り。
 第七音素しか扱えない一芸特化型の譜術師となっていた。

 攻撃手段としては譜力の塊をぶつけるエナジーブラストのみ。
 あとは大っぴらに使えない譜歌だけである。

 外殻に来てからどんなに努力しても、ティアは音素を捉えて集めるという初級譜術までしか扱えなかった。
 普通はそこから集めた音素に働き掛けて凍らせたり、地割れを起こしたりするのだが。
 ティアの保有する譜力から考えると中級譜術も発動できるはずなのに、出来ない。
 変な癖がついてしまったティアは回路が上手く作れず発動してもそれは便利譜術である。

 土に働き掛けるとスコップ要らず、水に働き掛けると一滴の水が、風に働き掛けるとそよ風が、火に働き掛けるとマッチの代わりになる。
 サバイバルにはもってこいである。ティアは虚しくなった。

 魔界にいたころから譜術には憧れていたのだ。
 まさにファンタジーの醍醐味。自然現象を操るなど夢のようだと。夢は儚かった。
 天光満つる処我はありって30過ぎの良い年した大人だって唱えている。
 呪文を口にするのは恥ずかしいが、でも反面やってみたいという気持ちもあった。
 出来ないと知ったとき、ティアはかなり落ち込んだ。

 開き直って回復専門なんだと思い切ったのはアリエッタのブラッディハウリングを見たときである。
 音素を認識することはできるので、その凄さがティアにはっきりと伝わった。
 四方八方から音素がアリエッタに吸い込まれ、その集まった音素量はティアの3倍以上である。
 その音素を惜しげもなくアリエッタは一点に放出した。
 大量の音素が現れたことでその空間が軋み、重低音が唸り声をあげる。
 そしてぽっかりと地面に穴が開いた。自分には真似できないとティアは思った。

 方向性を決めてしまえば結果が出るのも早い。ティアは歩く救急箱として重宝された。
 アリエッタが見つけた巣から落ちたグリフィンの雛を癒して懐かれたり、歌っている間に怪我をした魔物が集まるようになったりした。
 彼らを練習台にしてティアは回復譜術だけは満足に扱えるようになったのである。

 そしてアリエッタがいるときは、タイミングを合わせてFOF変化を引き起こす練習をした。
 ティアが水の音素を集め、アリエッタが闇の譜術を構築する。
 そうして上手く発動するとメイルシュトロームになり範囲が広がり威力が大きくなる。
 それは爽快感のあるもので、それで十分ではないかとティアは自分に言い聞かせた。




 アリエッタにとってティアは3人目の人間のお友達だった。

 1人目が総長。
 2人目がイオン様。
 3人目がティア。

 他の人間は魔物のお友達がいるアリエッタを恐れて近づかなかった。そしてアリエッタも容易く人の輪に入ろうとはしなかった。
 魔物の中で育ったアリエッタは人一倍気配に敏感だ。ピリピリと警戒されるところに進んで交じろうとは思わなかった。
 だからイオンの側に居れないときは、近くの森によく来てお友達と会っていた。

 森に一人の人間が出入りするようになったことにアリエッタはすぐに気がついた。
 だがお友達に攻撃するわけでもなくただ草を取ったり、唄を歌っていたので何もしなかった。
 その歌をもっと聞いてみたいとは思ったが、自分が現れたら歌ってくれなくなるとも考えた。


 その人間がいつものように歌っていたところを眺めていたアリエッタは、彼女がお友達に向かって何かしたことにすぐ気がついた。
 側に人間がいるのに無防備に寝るなんてことはありえないからだ。
 その子の下へと走りながらアリエッタは疑問に思う。

 なぜ、あの人間はお友達に攻撃しないのだろう?
 それにあの子は簡単に眠らされるような子じゃないのに、どうやって?

 駆け寄った先でアリエッタは驚いた。
 その人間はアリエッタのお友達のことをお友達と呼んだ。
 これまでこの森に入った人間はアリエッタがお友達を護ると不思議そうな顔をして、あるときは口汚く罵ってきた。
 混乱しながらも敵意がないことを確認して警戒を解く。

 お友達の様子を見てみると本当にただ眠っているだけだった。
 そして帰ろうとする人間をとっさに呼びとめたのは彼らをお友達と呼んでくれたからだろう。
 どこかで嗅いだ事がある匂いが大丈夫だと教えてくれたからかもしれない。

 何にせよ、アリエッタとティアの遭遇は次の機会を生み出した。


 アリエッタはお友達の様子を森に見に来ていたが、ティアに会うという目的も追加された。
 ティアはたどたどしいアリエッタの話を楽しそうに聞いてくれる。
 そしてアリエッタのなんてことない問いに答えてくれる。

 ティアの歌声を側で聴いてアリエッタには分かった。ティアは総長の妹だと。
 アリエッタがまだ小さかった頃、いつだったか同じくらいの年の妹がいると教えてくれたことがある。
 そのことをアリエッタはあるときイオンに話した。
 すると彼は面白そうに笑って、それまでは渋っていたアリエッタの森通いを快く許可するようになった。
 アリエッタはその反応に軽く疑問を覚えながらも、ティアに会う機会が増えたことを喜んだ。


 アリエッタはティアにイオンのことを良く話した。

 イオン様が本を読んでくれた。
 イオン様が贈り物をくれた。
 イオン様のために強くなる。
 イオン様の側にいたい。
 イオン様と一緒に……。


 ティアがアリエッタの話を笑顔で頷きながら聞き、アリエッタがティアの歌をうとうとしながら聴く。
 そんな日々がこれからもずっと続くものだとアリエッタは信じていた。








[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第九節 ともだち
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/08 21:45






 アリエッタは必死に森の中を走っていた。小枝が頬をかすりうっすらと赤い線が一筋残る。
 それでも彼女はその足を止めるつもりはなかった。

 最近イオン様の様子がおかしい。
 これまでだったらアリエッタを連れていくところを他の人を呼ぶようになった。
 それだけならまだいい。アリエッタが我慢すればいいだけの話だ。
 けれども、久しぶりに日の光の下で見たイオン様の顔色は化粧でもごまかせないほど酷いものだった。

 心配して何かと世話を焼こうとするアリエッタをイオンは一言で退出させた。
 うなだれたままアリエッタはそれから考えてティアを頼ることにした。

(元気になれば、イオン様は元に戻ってくれる)

 ティアはよく森で薬草を取っている。
 アリエッタも知っている草からよく分からないものまで、嬉しそうに鞄に入れていく。
 ティアの作る薬は凄いものだってディストが前に話していた。
 ティアなら、あのイオン様を治せる薬を作れるかもしれない。

 一縷の望みをかけてアリエッタはティアの下へと走る。




 そしてアリエッタはいつもの場所へ着いた。
 森の開けたところ、泉のほとりでいつもと同じようにティアは歌っていた。
 それは何の変哲もない日常の風景で、普段だったら此処でアリエッタは聞いて! と駆け寄っただろう。

 アリエッタは走ってきた勢いのままティアに詰め寄った。
 異変を感じ取ったティアは怪訝そうな顔をしながらアリエッタの言葉を聞く。

「イオン様が、イオン様が、……おかしいの。
 ティアは、薬を作れるのよね? イオン様に元気になってほしいの。イオン様を治して!」

 アリエッタは普段のおっとりとした様子とはかけ離れた剣幕でティアに縋りついていた。
 ぎゅっとティアのスカートを握りしめ、真っ直ぐと見上げてくる。

 ティアはアリエッタの視線に耐えきれず目をそらして、ごめんなさいと謝罪の言葉だけを告げた。


 ディストの言う凄い薬とは障気中和薬のことである。
 だがそれは障気に侵された人には著しい効果があるが、他の病に効くことはない。
 それどころか体内の音素のバランスを崩してしまい、さらに病状を悪化させてしまう危険性がある。
 それの他にティアが作れる薬と言えば、それはそこらへんの薬屋でも買えるものだ。

 ティアは導師イオンを助ける術を持ち合わせていない。

 そのことが分かるとアリエッタはそんなっとその場に崩れ落ちた。
 本能でイオンの死の気配を嗅ぎ取っていたのか、アリエッタは愕然としている。

 ティアはただその様子を黙って見ていた。




 ティアはそのとき逃げた。
 イオンを助ける手立てがないからとアリエッタにきちんと向き合わなかった。
 本当はイオンを助けるつもりなどないのだ。オリジナルイオンの死なくしては物語は始まらないのだから。


 ティアはイオンの死因を知らないが、イオンの死が間近であることは薄々勘付いていた。
 第三師団に破竹の勢いで昇進している仮面の少年がいると数ヶ月前から噂になっていた。

 もうレプリカ作成は最終段階に至っている。
 医者ではないが科学者として分かることはある。
 レプリカ七体分のデータを採取されて健康体であるはずがない。
 そして、そのデータ分の欠損を埋める方法はまだ無いのだから、いずれ死ぬことは明白なのだ。

 イオンの死は避けようがないのだ。
 そう理解していたものの、アリエッタの嘆きを見ると揺らいでしまう。

 私は何もしないのか。
 アリエッタを友人だと、思っていたんじゃないのか。
 イオンを救うことはできなくても、何かできるんじゃないか。


 ティアが何もしなければ、イオンは死にレプリカがオリジナルに成り代わり、アリエッタはそれを知らされずに導師守護役を降ろされる。
 代わって就任したアニスを羨み、母親であるライガの女王を殺したルークを憎む。そして最後にはアニスと決闘をして、アリエッタは死ぬ。

 アリエッタの未来の死は今からでも回避できるかもしれない。
 彼女がイオンの死を認めれるようにすれば、どうにかなるかもしれない。
 彼女が兄の命令に従っていたのは、兄が彼女とイオンを出会わせたからだ。
 イオンの死に兄が関与しているとしたら彼女は兄に従わなくなるだろう。

 でも、そうなったアリエッタを兄は放置しておくだろうか。

 アリエッタの顔が脳裏をよぎる。
 私が何もしなかったらアリエッタは泣くのだろう。
 アリエッタはいつもレプリカイオンに訊いていた。なんで? どうしてっ!? と。

 私は完璧じゃない。全員救うなんて傲慢なこと言えやしない。私の世界は兄だ。
 けれども、アリエッタの悲痛な顔を見たくない。アリエッタに泣いて欲しくない。

 悩みぬいてティアは一つの賭けに出た。どこまでも自分は卑怯だと思った。




 導師はダアトで最大の関心を引いている。その彼の一挙一動は常に話題になる。
 アリエッタが導師守護役を解任されたという噂は一日で教団中に広まった。
 ティアは昼ごろそれを耳にするとディストに休むと伝え、森の泉のほとりでただ待っていた。
 今日、導師イオンは亡くなるはずだ。

 アリエッタが此処に来たらすぐにイオンに会いに行くようにと告げよう。
 来なかったら、…私はアリエッタに真実を教えない。

 そう決めて水面を眺めていた。
 カサッと音がして振り返るとそこにはチュンチュンがいた。
 気が抜けて枝の上を歩くチュンチュンを見ていると、その鳥は急に飛び去った。

 ティアの後ろにはライガくんに連れられたアリエッタが居た。


 アリエッタは予想通り泣いていた。
 ライガくんが慰めようと舌で嘗めても、尻尾で撫でても泣きやまなかった。
 ティアはただアリエッタを抱きしめていた。日はもう傾き始め少し肌寒くなっていた。
 涙が涸れたアリエッタを落ち着かせて、ティアは話を聞く。

「…イオン様が、…イオン様が、アリエッタのこと、…きらいだって……」
「イオン様がアリエッタのことを嫌いって本当に言ったのかしら?」
「……だって、アリエッタ、導師守護役じゃ…なくなっちゃった……」
「イオン様に直接会ってそう言われたの?」
「…けど、…イオンさまの………めいれいだって……」

 アリエッタの声はどんどん小さくなっていく。
 口にすることで、それが現実になることを恐れているように声はしぼんでいく。
 ティアはアリエッタを抱え直して提案した。

「アリエッタ。もう一度イオン様に会ってごらん」
「…でも、……」
「何も聞かないでいたらきっと後悔する。アリエッタが納得できるまでイオン様に質問した方がいいわ。
 どうして導師守護役から降ろしたのか。なんで傍に居たらいけないのか。
 イオン様は気難しいお方みたいだからすんなりとは話されないでしょうけど、諦めちゃだめよ?」
「いおんさま、おしえてくれるかなぁ……?」

 不安そうにアリエッタはつぶやく。
 その目は擦りすぎて赤くなっている。

「泣く前にイオン様のところに行っておいで。泣きたくなったら私の部屋に来ればいいわ。今日は一日起きているから」

 しぶるアリエッタを立たせてライガくんに先導を頼む。
 足取り重く一人と一匹は森の奥の近道の方へと消えていった。
 その影が見えなくなるまでティアは見送り部屋に戻った。

 夕日は既に沈んでおり辺りは薄暗くなっていた。




 その日の夜遅く、アリエッタは初めてティアの部屋を訪ねた。
 何も言わないアリエッタとティアは一つの毛布にくるまって夜を明かした。


 泣きわめいてくれた方が良かった。
 泣き叫んで当たり散らされた方がどれだけましだったか。
 ただ、ただはらはらと零れ落ちる涙をそのままに、アリエッタは静かに悲しみを表していた。
 泣き疲れて寝てしまったアリエッタの横顔を見ながらティアは思う。

 イオンはもう息を引き取ったはずだ。
 つくづく自分は下種だと感じる。予定通り人が死んで安心するだなんて。

 アリエッタはイオンから何を聞いたのだろう。
 彼女は救われたのだろうか。彼女の未来は変わるのだろうか。


 ティアが兄を救うと決めたとき、彼女の世界には兄しかいなかった。
 彼女がいて、彼がいて、世界があった。


 結局のところ、ティアは自分の要である兄がいなくなるのが怖かったのである。
 わけもわからず身体は小さくなっており、周囲は昔したことのあるゲームの世界。
 拠りどころにしていた兄が復讐に身を委ねるラスボスであるだなんて冗談にも程がある。

 しかしそれでもティアには兄以外の身の置き場がなかった。
 他に自分の存在を保証してくれる人間はいなかった。
 だから、兄を救うとすぐに決心できたのだ。

 そしてシナリオを変えると腐心し続けている間にたくさんの人と関わった。
 暖かく見守ってくれる義祖父のテオドーロ。
 護身術と科学の師匠であるファリア。
 共に立案した魔界の仲間たち。
 魔物とお友達なアリエッタ。
 上司である変態ディスト。


 ティアの世界には、兄以外の人がいる。
 世界の中心に兄がいるのは変わりないが、もう二人だけの寂しい世界ではない。


 アリエッタが泉に現れたとき、ティアは心の底で安堵していた。
 ああ、これでアリエッタが死なないで済むかもしれないと。

「ありがとう、アリエッタ」

 ティアは眠るアリエッタへ感謝をそっと口にした。
 言わずにはいられなかった。

(ありがとう、私のことを頼ってくれて。ようやく認めることができたよ)


 ティアはこれまでシナリオを変えないように気をつけていた。それは知っている未来ではなくなるのが怖かったからだ。
 その知識があったおかげで不可思議なこの事態を客観的に受け止めていた。自分を見失わずにいられた。

 そしてその前世の知識のおかげで兄を救えたら、自分を肯定することができると思った。
 生まれた意味を、自分が転生したという現象の理由が欲しかった。
 生きていていいのだと、自分という存在を認めて欲しかった。

 だから兄さえ救えれば、他はどうでもいいと見向きもしなかった。


 けれども、アリエッタのようにティアを見ている人がいる。
 やっとティアはこの世界を、此処で生きていることを認識できた。
 シナリオが壊れて、ティアとあちら側を繋ぐものが無くなっても、もう怖くはない。
 ティアはそっとアリエッタの髪を撫でた。

 大丈夫。私は此処に存在している。生きている。

 此処が虚構の世界だったとしても、私の願いは変わらない。
 独善と罵られようと、偽善と指差されようと私は私の道を往く。

 兄に生きて欲しい。


 これからが正念場だ。
 オリジナルイオンが死んで、イオンとシンク、アニスが登場してくる。
 兄の目的も計画も私がちょっと動いてどうにかなるものではない。

 今日、私はアリエッタの運命に手を出した。
 そうして少しずつ歯車を変えていくのだ。未来はまだ決まってなどいない。
 救うとは断言できない。だが切っ掛けぐらいは作りたい。彼女と私は友達なのだから。
 アリエッタが未来で生きる道を選べるようにその地ならしを私はしよう。

 握りしめた拳をほどいてティアは大事な友人の手にそっと触れた。その手は暖かかった。









[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十節 死神と助手
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/09 21:46




 ピピッとタイマーの音が鳴った。
 ティアは手元の雑誌をどかして、火にかけている鍋を見る。綺麗に煮詰まっているようだ。
 そのまま火を弱火にして一度かき混ぜてからまたタイマーをセットする。今度は30分である。
 この雑誌をちょうど読み終えるころに透明になり完成するだろう。

「慣れた手付きですね。それがあの薬になるわけですか」
「あとは煮詰めるだけだからね。そんなにつきっきりでなくてもいい」
「そんなことを言えるのは開発者であるあなたぐらいですよ」

 確かにそうかもしれないが、そう安々と他の人間に作られてもティアは面白くない。
 ファリアと一緒にティアはこの薬を作るためにかれこれ3年以上もの月日を費やしたのだから。

「作り慣れたからね」
「障気中和薬を作り慣れるとは、…魔界とは言いえて妙ですね」
「確かにね。あそこは地獄のような雰囲気を醸し出している。
 しかしそんなところでも故郷は故郷だ。ときにあの紫色の空と煌めく雷鳴を懐かしく思ってしまうよ」

 ディストがいつの間にか淹れた紅茶に口をつける。
 美味しい。マルクト産のすっきりとした後味が心を落ち着かせる。こういう小技が効くから憎めない。
 ティアは心中で一人呟いた。そして話題となった故郷のことを少し思い出す。


 急に黙り込んだティアに気をつかったのか、ディストはティアの読んでいた途中の雑誌を取りぱらぱらと流し読みをしていた。
 いつもならさっさと自分の研究に没頭するはずなのに妙である。かまをかけてみようか。

「ディスト。私に言うべきことがあるわよね」
「な、なんのことでしょう。私は何も知りません。シンクにティアを取られそうだなんて、知らないんですからねっ!」
「新しい第五師団に私が?」

 沈黙を返すディストに、ティアはオリジナルイオンの死によって加速していく事態を感じとった。




 ヴァン・グランツ謡将は今は亡き導師(フォンマスター) イオンの助力もあって若輩ながらも主席総長という大任に就いている。
 先の導師エベノスが死亡し、幼いイオンが就任するという混乱が予想される情勢下で、神託の盾(オラクル) 騎士団が隙を見せるわけにはいかないと師団長も兼任していた。
 しかしそれから時が過ぎ、導師の引き継ぎも滞りなく済みヴァンが師団長のままでいるわけにはいかなくなった。

 第一師団をラルゴ、第二師団をディスト、第三師団をヴァン、そして第四師団をカンタビレが率いていた。各師団には約6000人いた。
 師団長の中でラルゴとディストはヴァンに協力的だが、カンタビレはヴァンと距離を置いている。
 空いた師団長のポストに敵対する人物が送り込まれたくなかったのだろう。
 ヴァンは導師イオンの後ろ盾を活用し強引な手でそれを阻止した。

 第三師団を四つに解体することにしたのだ。

 第三師団約20名、師団長はアリエッタ。
 第四師団約2000名、師団長はリグレット。総長付副官も兼任する。
 第五師団約2000名、師団長はシンク。参報総長も兼任する。
 第六師団約8000名、師団長はカンタビレ。


 カンタビレは三つに割り振った残りを全部押し付けられている。
 おそらくその中身は兄に反発する連中や、出世欲しかなく使えない奴等なんだろう。えげつないやり方だ。
 そして今まで一つの師団で形になっていたものを無理やり分けようとしているのだ。
 様々な齟齬が生じている。その影響をもろに受けるのが絶対数が少ない師団付の技手なのである。

 ティアも技手の一人だが、もともと技手という人種は神託の盾騎士団に所属したがらない。
 たいていはローレライ教団のお膝元で研究員として研究三昧の日々を過ごしたいからだ。
 師団に所属している技手になるということは、軍属であるということでもある。
 定期的に訓練を受けなければならないし、戦地に行く可能性もあるし、命令を拒否することもできない。
 研究者は命令されるのが基本的に嫌いだし、運動も率先してする方ではない。

 しかし騎士団側としてもクモの巣が生えていそうな地下で開発された、頭でっかちの発明品をよこされるのは遠慮したいもの。
 その間を取り持つ役目を望まれているのが師団付技手だ。世の中には訓練を白衣で受けるような人間もいるにはいる。
 その分、研究者の間での競争率は低く費用は工面しやすい。

 なんだかんだいって技手が多いのはディストの下だ。やはり理解ある尊敬できる上司の下がいい。
 ディストは師団長だが、根っからの研究者でもある。技手としてはこれ以上の職場はない。
 第二師団の技手は教団の研究員に羨まれるということもあったぐらいだ。


 そして第三師団の機能を二分割するに当たり、技手が足りなくなり一番多い第二師団から送り出すというのだろう。
 第五師団の師団長はまだ12歳とされている。いくら戦闘に長けていても人生経験が浅い。曲者ぞろいの技手の中で私はまともな方だ。
 自分ならば年が近く、第二師団に配属されていた期間も2年と短い。新しい師団に馴染むのも早いだろう。

(これはもう確定だわ)

 ティアはその人選についての考察をして、その事情を把握した。
 もとから技手の数が多かった第二師団である。覚悟はしていた。ディストの下は居心地がよかったがこれまでか。
 この美味しい紅茶もこれから飲む機会が少なくなると思うと惜しくなる。
 ちびりちびりといつも以上にゆっくりとティアはディストの淹れた紅茶を飲む。

「ディスト。第五師団に行ってもここに顔を出していいかしら?」
「えっ…。ええ、構いませんよ。あなたが来たいと言うなら好きにしなさいっ」

 ふいっと後ろを向いてしまったが、その銀髪からちらりとのぞく耳は赤く染まっていた。
 これだからディストをからかうのは止められない。いつまでたっても反応は初々しく素直である。
 ディストが背を向けているのをいいことに、ティアはにやけた顔のまま温くなった紅茶を飲み乾した。




 ディストはティアが去った後、空になったカップを片づけていた。
 泡を水で洗い流す。布巾で拭いて棚に戻し、ふとこれからお茶を淹れることも少なくなるのだろうかと寂しく感じた。
 いつも私の助手と連呼しているが、ティアは本当にディストが認める優秀な助手なのだ。他の技手が比べ物にならないぐらいの。


 研究者という人種は自分の研究が一番である。
 この教団に多くの研究員が所属するのも資金を潤沢に用意してくれるからだ。
 ローレライ教団の教義に触れない限り、自由に研究できる。

 ディストもその点では他の研究者と変わらない。
 マルクト帝国から亡命した自分が満足できる研究場所はダアトしか思い浮かばなかった。

 ディストは生粋の研究者である。
 自分の作品に名前を付け、邪魔をされるのを嫌がって研究室は地下の奥まったところを選んだ。
 そして穴倉組だとか、白衣組だとかひとくくりにされるほど揃いも揃って研究者は自分勝手で個人主義である。


 けれどもティアは違った。
 第二師団に配属されて彼女はディストの研究をすんなりと手伝う。
 アウル博士の弟子であり、既に9歳のときに論文を発表しているという経歴とはとうてい結び付かなかった。

 その筋で話題の突如現れた天才博士。
 苦手な分野が無いとされる万能の人。
 そんな人物の秘蔵の弟子。それがティアだ。

 小さなころから譜業のことしか考えていなかった自分のように実験のことしか頭にない類の子供だと思っていた。
 しかし実際に会うと、明日は3番のデータをとりますね、と自分から雑用をかってでる始末。
 その余りにも堂に入った助手っぷりにディストは困惑した。
 もしや自分の研究内容を盗もうとしているのかと危惧してみてもそんなそぶりは見せない。
 部下に聞いてみると他の技手の研究も手伝っているようだった。

 本人に研究はと訊いてみると、皆にはモニターになってもらっているんですと返ってくる。
 そして良かったらどうぞと一枚のビスケットを手渡された。

 『携帯糧食の改善』
 ティアの研究内容である。より安くさらにおいしくがテーマ。

 ディストは頭を抱えたくなった。

 画期的な障気中和薬の発明者。
 ディストも参考にしたことがある第七音素(セブンスフォニム) の研究者。
 あのアウル博士に師事した小さな天才。

 そんな彼女が着手しているのがまずいビスケットの味を良くすることだなんてふざけている。
 ディストは状況が理解できずティアを呼び出し質問することにした。
 何故他の技手の手伝いをしているのか。何故こんな研究をするのか。


「私が最年少で新参者ですから、皆さんのお手伝いをするのは当然だと思います。
 携帯糧食は士官学校の訓練のときに食べて美味しくないと思ったからです」


 ディストにはティアの言う理屈が理解できなかった。

 それはそうだろう。ティアは極めて日本人らしく常識的にふるまったのだ。
 すなわち年長者を敬い、和を尊び、組織のために自分の出来ることをする。
 魔界ではティアはフリーに近かった。
 だから自由に目的のために学習し、訓練し、研究した。

 だがいまは神託の盾騎士団に属している。
 もちろん、兄を守ることが一番なのでその障害になるのならばティアは排除も躊躇わないだろう。
 けれどもそれ以外のところでティアは迷惑になるようなことをするつもりはなかった。
 それにいまは必要以上に目立つことは避けるに限る。助手であれば新しい研究を発表しなくてもいいだろう。
 ティアは魔界のこともあり第二師団で時が来るまでひっそりと待つつもりだった。


 ティアの思惑は前提から間違っていた。
 神託の盾騎士団は実力主義である。それは技手にも当てはまる。
 論文が雑誌に掲載されたり、画期的な発見をしている者の発言力は強い。
 その点ティアはディストの次の次ぐらいの立場があった。助手に甘んじるなど考えられないことだったのだ。

 技手たちには士官学校から新人が来ると聞いたときは下っ端をこき使えるな、程度の認識だった。
 けれどもその慣れた手つきを見て経歴を聞き唖然とした。おおいに慌てふためき終にディストにまで相談したのである。
 それを耳に入れて、ティアの様子を見てディストは唐突に理解した。

 ティアはいま研究者ではないのだ。

「あなたはどんな研究がしたいんですか?」
「う~ん。一番作りたいものはもう出来ましたしね…。あっ、栄養ドリンクなんてどうでしょうか」

 ティアは可愛らしく微笑んで上司を見上げてくる。
 どうですかねえと返事をしながらディストは残念に思った。
 優秀であるというのに本人にそれを活かすつもりがなければ宝の持ち腐れだ。
 ティアはいま研究したいものが何もないのだろう。

 障気中和薬。
 彼女のデビューを飾った薬。
 ティアはその為だけに勉強し、それを開発したからには研究するために必死になることはない。
 誰かの手伝いを率先して受けるのも彼女にこだわりがないからだ。
 障気と第七音素に関しては未だに注目をしているようだが。

(そういえばティアは博士に対する人質として、此処に囲われていたんでしたっけ)

 平然としているからディストは忘れていた。
 アウル博士はこの研究者らしくない点を理解していたんだろう。
 そうでなければダアトにせっつかれたからといって手放すはずがない。

 そして同時にその兄、ヴァンの顔を思い浮かべる。
 1年前、いつも偉そうな大事なスポンサーはティアが召喚されたとき柄になく焦っていた。
 ヴァンがあそこまで動揺したのを今までディストは見たことがなかった。
 そのときは結び付かなかったが、ヴァンの妹だと師団に押しつけられたとき理解した。
 ちらりと横で数値を記録しているティアを見る。

(シスコンのヴァンが悔しがる顔を見るのもいいかもしれません)

 ディストはティアを助手として率先的に使うことを決めた。




 そして、思いのほかティアの手際がよく部下の技手共々骨抜きにされたのは予定外だった。
 それだけティアのサポートは完璧だった。

「助手は慣れていますからね」

 笑顔でそう言ってスケジュール管理までこなす。
 ディストの話についていけるだけの知識があり、嫌いな師団の雑務もしてくれる。階級を上げたのもそのせいだった。
 そのうち敬語を付けずに話すようになり、議論を交わすこともしばしば。
 まさにディストのためにあつらえたような助手だった。
 手放そうなどと考えたこともなかった。


 それなのに、である。ヴァンが命令だとティアを新しい師団付技手に指名してきた。
 もしもあそこでティアが渋ったらディストは全力で抵抗するつもりだった。だがティアはすぐに了承してしまった。
 肩すかしをくらった気分だったがディストは不機嫌ではなかった。

 ティアが大人しく此処にいるのはアウル博士の弟子だからであり、また兄が傍にいるからだろう。
 それ以外にティアを動かすことができるものはない。

 それをディストは2年かけて理解した。
 そんなティアが自分から此処に来たいと言った。それで十分である。

 ティアならシンクの師団でも自分のペースでやっていけるはずだ。
 切れかかっていた紅茶の茶葉を補充しなければいけないな、とディストは考えた。







[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十一節 創られた命
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/14 20:54

「本日付で第五師団に配属されることになりました、師団付技手のティア謡長です。よろしくお願いします」
「そう」

 第五師団に配属が決定して第二師団を離れるまでの間に、ティアは響長から一階級昇進した。
 ディストの部下たちがティアとのお別れを惜しんであちこちと引き回したのである。ディストもそれに便乗し騒ぎは大きくなるばかり。
 そのせいでランクが上がり、分不相応な地位にティアはいたたまれなかった。
 『白衣の天使』という自分には似つかわしくない呼称のことまで知ってしまい、ティアには散々な出来事だった。

 共に任務をしているうちに、ディストと部下の間の仲が縮まったことだけは僥倖だったと言える。
 第二師団の最大の懸念が解消できそうで、ティアは心残りもなく彼らに別れを告げた。
 そしてティアは長らく袖を通していなかった軍服を身につけ、この第五師団の執務室を訪れていた。

 しかし新しい上司であるシンクは一つ返事をしただけで、そのまま沈黙が続く。
 仮面でその表情は分からないが、どう取り繕っても歓迎されている様子ではなかった。
 シンとした雰囲気に耐え切れなくなり、ティアは用件だけを述べる。

「着任早々ですが師団長の定期健診を行いたいと思います。
 明日の夕方なら空いているそうですね。そのときにまた伺いますので。それでは失礼します」

 言うべきことを伝えてティアはさっさと退出した。
 本当はもっと友好的に接するつもりだったのに、どうしてこうなったんだろうと思わずティアは首をかしげる。

(まあ、いいか)

 シンクが何を考えているのかはこの際どうでもいい。
 それよりも問題なのはティアが定期健診をするということである。手元にある兄からの命令書を見る。
 それにはディストが作製したシンクに関する資料も付いていた。

 シンクがレプリカであることをティアに隠すつもりがないということである。
 そもそも技手が定期健診という時点でおかしい。兄は私に何をさせたいのだろうか。

 健診をするといってもたいして時間を取らない。レプリカであることを考えたら、ディストが行う方が自然な流れである。
 作成段階で知りたい情報は取りつくしたとしても、レプリカの成長というデータには興味があるはずだ。
 失敗作といってもそれは導師としての能力が無いというだけで、むしろイオンよりもシンクの方が体力面では優れている。

 やはりこれはディストではなく兄が動いたんだろう。
 身内だから? いや、そんなに甘い人じゃない。むしろ遠ざけられている。
 その証拠にルークのオリジナルであるアッシュにはまだ会ったこともない。
 ちらりと見かけることはあるがそれだけだ。

 私が技手であるということもこの場合余り意味がないだろう。ユリアの子孫だからというのも関係ない。
 いま妹である自分にレプリカの存在を明かす理由が分からない。ティアはじっと書類を見つめていた。


 ティアの専門は第七音素と言ってもいい。レプリカ作成では役に立つ。
 ルーティシア・アウルは書簡という形でディストに意見を求められたこともある。あとで正体がばれて話はうやむやになったが。
 レプリカイオンを作る際に関与させる様子が見当たらなかったので、てっきりレプリカの存在は隠すつもりなのだとティアは思っていた。
 しかし此処に来てシンクの健康診断をしろとは、どういうつもりなのだろうか。

 人体レプリカを作って何をするつもりなのって質問すると仲間に勧誘されるとか?
 いや回りくどすぎる。仲間にするならもっと前に機会はあった。いまさらこれはない。

 こんな非人道的なことするだなんてって嫌われたかったとか?
 だがティアも研究者の端くれ。薬を完成させるためには臨床実験も必要である。障気中和薬だからその有様はひどいものだった。
 魔界の障気をラットに吸わせてその経過観察をする。興味深い個体は解剖する。しばらく肉が食べられなくなったが慣れた。
 最終的には人でも試した。障気に侵された内臓は紫色をしていて、とても毒々しかったことを覚えている。

 それとも、魔界でいろいろしていることに気づいて探りを入れようとしたとか?
 ありうる。辛抱強い兄が好みそうな手だ。
 同じ秘密を共有することで仲間意識を高めてこちらが情報を漏らすのを待つ。
 だが魔界出身で技手の人間は他にもいる。必ずしも自分である必要はないはずだ。


 兄の考えがわからない。ポジティブに考えてみよう。
 シンクがレプリカであると知っていることを隠さなくていいようになった。…微妙である。
 ディストとレプリカの話ができるようになった。…以前から技術的な話はしている。
 兄のレプリカ計画の末端に加わった。…なお悪い。

(もういいわ。兄の狙いは不明よ)

 ティアはこの健康診断の真意について考えることを止めた。
 兄が何を企んでいようとティアがすることは変わらない。

 兄の計画をぶっ壊すことだ。




 次の日、ティアはシンクの部屋の前に立っていた。
 昨日のシンクの態度を考えると気が重い。深呼吸して部屋に入る。

「失礼します。師団長、健診に参りました」
「必要ないよ。僕の体調はディストが診ることになっている」
「そのディスト響士から引き継ぎを受けています」

 仮面で顔を隠していても不機嫌なのはその雰囲気でわかる。肘をついて空いた右手で本を読んだまま、ちらりともこちらを見ない。
 私はただシンクの診察をして兄の命令を済ませたいだけなんだが。

 シンクは引き継ぎを受けたと聞いたときにティアに向けて凄まじい闘気、いや殺気を全身から出した。
 それにティアは怯みながらも此処で引きさがったら、ずっとシンクになめられるのだろうと考えた。
 そうなると何が何でもシンクの検診は乗り越えなければならない関門に見えてくる。

 ここで力で対抗するなんていう選択肢はない。私は肉体派ではない。そうなると、口で負かすという手段しかない。
 ティアは気を落ちつかせてから、シンクに動かしようのない事実をまず突き付けた。

「師団長はレプリカです。検診を受けなくてはなりません」
「…ッ! だから何だっていうのさ!」

 レプリカという単語にシンクは声を荒げ、その手に持っていた本を投げ出す。もっとクールに流されるかと思いきや、こう素直に反応されるとは意外である。
 まずは少し揺さぶりをかけてみようとティアはジャブを仕掛けたつもりだった。


 シンクはまだ生まれて半年ほどであり、知識はあっても経験が足りていなかった。冷静な判断も、いまはまだ片鱗を見せるだけである。
 相手の言葉を受け流すということも、レプリカという彼の根幹にかかわる話題になると難しかった。
 シンクは溜めこんでいたものを吐き出すかのように、ティアに話し掛ける。

「検査だなんて、ただ実験がしたいだけだろう。人の形をしたモノなら何でもしていいって、モノに感情なんてないって思ってるんだろ?」

 椅子からすっと立ち上がったシンクは一瞬のうちにティアの襟をつかみ壁に押し付けた。
 ドンという音が二人きりの室内に響き渡り、ティアの抱えていた書類は床に落ちた。
 ティアは抵抗もできないうちに背中を壁に打ち付けられ、そこから振動と共に痛みが全身を駆け巡る。

 背中がじくじくと痛い。
 首元も圧迫され、息が苦しい。

 ティアは思わず眉をひそめ、そしてシンクを睨みつけようとする。顔をあげると仮面が目に入った。
 鳥の嘴を模した悪趣味な仮面である。いったい誰が選んだのだろうか。

「何? 実験体が抵抗して驚いたの?」

 シンクは左手を離さないまま、壁に右手をつきティアの顔を下から覗き込むようにして言う。
 仮面からちらりと見えたシンクの口元は嘲笑を浮かべていた。
 ティアが自由な右手でシンクの左腕を掴み、気道を確保しようとすると少し力が緩められる。

「なんか言ったらどう? 無様な研究員さん」

 ティアはけほっとむせながらも、その隙を見逃さなかった。
 白衣を掴んでいるシンクの手を支点に身体を入れ替える。足元でカランと何かが落ちた音がした。
 シンクは一瞬のことに驚いていた。抵抗されるとは思わなかったのだろう。

 そのままシンクの両腕を掴み抵抗を封じる。
 両手をそれぞれ壁に繋ぎとめて、圧し掛かるようにしてシンクが動けないようにする。

 荒治療は得意じゃないんだが。最近向いてないことばかりしているような気がして嫌になってくる。
 そして自分とシンクの姿を想像して、誰も訪ねてこなければいいなといまさらなことをティアは心配した。

 そのシンクの素顔を見て、彼の何も映っていない眼を見て、ティアは冷静さを失った。
 何もかもを諦めている。それはそこに存在するだけの世界のバグのようだ。
 その有様に以前の自分を重ねてしまい、そして無気力な彼に対して反発心が生まれる。

 そんな生き方は認められない。無為に時の流れを甘受するなんてできない。
 シンクのように私がただ流されていたら、兄は死ぬ。

 未来は掴み取るものだ。運命は手繰り寄せるものだ。
 決して諾々と呑み込むものじゃない。不都合な現実は打ち砕けばいい。

 ティアは目の前の人形が不愉快だった。理性を感情が凌駕する。
 だからティアは率直に彼に告げた。

「シンク。あなたはレプリカよ。どう足掻いても人にはなれない。けれども、生きているわ。
 ほら、あなたの腕は暖かい。あなたはちゃんと此処に存在している」

 抵抗がないのをいいことにティアは言葉を重ねた。
 シンクの目は虚空を彷徨っている。仮面がないせいか随分と幼く見えた。
 そんな彼の手に指を絡め、耳元に顔を近づけティアはささやく。

「生きているのならそれでいいじゃない。―――生きろ、シンク。
 私のような人間を利用してでも、その心臓が動く限り諦めるな」

 それはティアが自分自身に言い聞かせている言葉だった。

 絶対に諦めない。兄と共に生きる。
 何を利用してでも、それが兄自身の憎悪であっても利用してやる。

 そのときティアは獰猛な獣のような嗤い声を出していた。


 はっとシンクは気を取り直すとティアの腕を振り払い、壁から離れ窓際に寄る。
 窓から差し込む夕日が無垢なシンクの横顔を照らし、その光の筋がやけに綺麗だとティアは思った。

 距離を取ったシンクは信じられないというようにティアを見ていた。
 ティアは襟元を直し白衣の皺を伸ばして、シンクの答えを待つ。

「あんた、…いったいなんなのさ。僕に生きろだって?」
「生きたくないのかしら?」

 おかしなことを言ったかしらという様子でティアは問い返す。
 自嘲気味にシンクは自分のことを説明する。

「僕はレプリカだ」
「そうね」
「不安定な人形さ」
「ふうん」
「欠陥品の失敗作さ」
「そうなの」

 シンクの並べ立てる理由をティアはさらりと流す。
 そんな些末なことがどうかしたの、とでもいうようなティアの様子にシンクは混乱する。

「生きていられるわけないじゃないかっ」
「なら、なぜ死なないの? できないわけじゃないでしょう。あなたが本当に死にたいと思っているなら実行できるはずよ」

 ティアは空っぽと嘯くシンクの矛盾に牙を立て、抉り、傷を白日に晒す。
 その手を緩めることもせず、さらにシンクを追い詰める。

「あなたは此処で自分の居場所を手に入れた。自分の名前も手に入れた。何故? 死に逝く者には必要ないものだわ」

 ティアの真っ当な疑問にシンクはすぐに答えられなかった。
 雲がレムを隠し、部屋の中まで暗くなる。


 そして部屋に光が戻るまで肌寒い沈黙は続き、ぽつりと漏れたシンクの呟きがその静寂を破った。

「……くない。死にたくないさ! だけど、僕はレプリカなんだっ!」

 それはシンクの心からの叫び声だった。
 ティアはシンクの発言を聞いて身体の緊張を解く。

「死にたくないなら、生きる努力をしなくちゃいけないわよね?」

 にやりと笑い、これ見よがしに定期健診の命令書を拾い上げた。
 シンクは肩で息をしながら、自分の言葉とティアの反応に驚いているようである。

「今日はもう時間がないから、明日にしましょう。検査を受ける気があるなら研究室に来て頂戴」

 部屋に一人シンクを残して、ティアは身をひるがえし退室した。


 研究室に戻ったティアはソファに身を埋めながら、自分のしたことを顧みる。
 そして後悔がどっと押し寄せてきた。

 執務室を訪ねる前は、当たり障りなく接しようと決めていたのに自分は何を仕出かしたのだろう。
 随分と大言壮語を口にした気がする。それに彼は上司なのだ。喧嘩を売ったも同然である。
 これで明日シンクが研究室に来たらどうなるか。一瞬のうちに切り刻まれる自分が簡単に想像できた。

 果たして明日シンクが来た方が良いのか悪いのか。
 しばらくティアは悩んでいた。




 シンクはティアが立ち去った後も光を浴びながら呆然としていた。
 ティアは嵐のようだった。シンクの心に土足で入り込み、荒らして、踏み躙って、そして放り出した。

 シンクはティアのことを以前から知っていた。
 ヴァンと死神がときどき口にしていたから覚えていた。

 ヴァン曰く、私の可愛い妹、天使のような妹、私の希望の光。
 死神曰く、博士の弟子、将来有望な技手、私にふさわしい助手。

 あのヴァンの妹なんて想像できなかったし、死神に気に入られてるオリジナルなんてろくな奴じゃない。
 会ってもいないのにシンクの中の印象値はマイナスだった。

 挨拶のときティアが予想と違い普通でシンクは驚いていた。
 神託の盾騎士団によくいる女戦士か、奇声を発する生物を小さくしたような人間を想像していたからだ。
 そしてシンクが仮面越しに観察している間にティアは部屋を出て行ってしまった。
 再び現れた彼女の白衣は作られた場所のことを、忌々しい記憶をシンクに想起させた。


 シリンダーの中でうっすらと目を開けるとその向こうには白い連中がいた。
 満ちている液体のせいで音はくぐもって聞こえる。刷り込まれた知識がシンクにその意味を理解させた。

「2番目の様子はどうかい?」
「あれはもう駄目だよ。数日中に乖離するね」
「そりゃ残念だ。一応記録しておくかね」
「それよりも4番だ。欠損が見つかった。2番みたいに壊れる前に詳しく調べないと」
「そうだねえ。博士に解剖の許可でも取ろうか」
「そうしよう。3番は刷り込みに失敗してしまったし、どうする?」
「導師がまた破棄したがるかもなあ。とっておくか」
「しかし、こうも同じ顔が並ぶと気味が悪いよ」

 それから数日後、シンクの目の前で4番は解剖された。
 白い連中はそれに蟻のようにたかり、何か好物でも見つけたように笑顔を浮かべていた。
 同じ存在がただのモノとして処理されていくのを、シンクは目を逸らすこともできずただ見ていた。

 シンクがはじめて覚えた感情は嫌悪。そしてその次は諦めだった。
 自分が失敗作だったら、あのように捨てられるのだろう。そして自分に抵抗できる術はない。
 それ以前に自分が生きようと死のうと代わりが存在するのだから、意味はない。
 ならばそのときまで、ただ自分は存在するだけだ。

 それはシンクが火山から這い上がって、ヴァンに拾われてからも変わらなかった。
 魔物を殺し、ならず者を殺し、出世して師団長に就任してからも微動だにしなかった。

 シンクはオリジナルの代わりとして作られた。そしてその代わりも果たせない欠陥品である。
 導師の条件の一つ、ダアト式譜術の素養がシンクにはなかった。刷り込みは成功したものの、そのせいでシンクは処分とされた。

 一番目はイオンの手で壊され、
 二番目はすぐに乖離した。
 三番目は刷り込みに失敗し、
 四番目は欠損が見つかった。
 五番目は導師になれず、
 六番目は髪と眼の色が違った。
 そして、七番目がイオンになった。

 そしてオリジナルの命で残りのレプリカは全て、教団の地下のザッレホ火山に捨てられた。シンクは何の因果か予定外に生き残っってしまった。
 レプリカなのに、代役も果たせず生き長らえてしまった自分に価値などない。
 ただの死に損ないの、死んでも音素に還るだけの模造品だ。こんなモノを希望と呼ぶだなんてヴァンも馬鹿げている。


 目に映った白に反射的に嫌悪を覚え、初対面に近いティアを罵倒し力に訴えた。
 そんな自分に対して彼女は生きろと言った。

 何を馬鹿なことを。無理に決まってるじゃないか。
 僕はレプリカなんだ。そんなことを白衣を纏ってるあんたに言われたくない。

 けれども彼女の言葉はシンクの心を揺さぶる。
 居場所。確かに僕は師団長になったけれども、これはヴァンが命じたからだ。
 名前。ただ耳に残った音だったから、たいした意味もない記号だ。
 自殺。いずれ消えるのだから、そんな面倒なこと遠慮する。

 僕は模造品で、オリジナルの代わりにもなれない欠陥品なんだ。だからオリジナルの言うがままに危険な任務に対しても躊躇わなかった。
 こんな自分がいる意味などないと思っていたから。いつ消えてもいいと思っていたから。

 だけどあいつは生きる努力をしろと言った。僕の身の上を承知の上で、あんなことを口にするだなんて。
 あいつは”シンク”を見ていた。不意に漏れた言葉が蘇る。

 僕は、死にたくない。

 この世に未練も執着もないと思っていたのに、随分と前になくなったはずの欲望が表層に現れる。
 レプリカでも生きれるのだろうか。生を望んでも良いのだろうか。

 一人だけでも僕に生きろと言うオリジナルがいるなら、生きるのも悪くないかもしれない。

 開け放った窓から新しい風が吹き込んでくる。
 そしてシンクの口からふっと笑いがこぼれた。

 あのティアという女。何が小さな可愛い天使だ。あれはどう見ても世界を救う存在なんかじゃない。
 まるで人の心を手玉にとって取引を持ちかける悪魔のようじゃないか。

(まあ、僕には天使よりも悪魔がお似合いだろうさ)

 ひとしきり笑うとシンクは憑き物が落ちたような表情で、窓の向こうを見遣った。
 世界が色鮮やかに見えた。




 次の日、シンクはティアの研究室を訪れた。
 上司であるシンクに対してティアは上辺を取り繕わなかった。開き直ったとも言う。
 シンクとティアの強さは比べるまでもない。昨日、散々無礼を働いたのだ。いまさらである。
 それでシンクに嫌われても構わない。

 そしてシンクはそれに対して何も言わなかった。
 この女に興味があった。それならば素の方が面白いに違いない。
 それからシンクはティアの研究室をちょくちょく訪れるようになった。


 日の光が射し込まない、薄暗い地下の一室。
 シンクが技手の研究室に通っているという噂を耳にして、キィイイーーーという甲高い音を発した人物が一人いた。








[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十二節 死神との取り引き
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/12 00:06



 ティアは久しぶりにディストの元へと階段を下りていた。
 新しい研究室に慣れるまで、落ち着くまでとずるずると伸びて二か月も経ってしまった。
 アリエッタとも最近会っていない。第三師団は少人数だからだろう、上手く纏まっているらしい。

 しばらく見ていないせいか、何の変哲もない研究室の扉が懐かしく感じる。
 そしてティアはゆっくりと扉を開いた。


 突然訪ねてきたティアに対して文句を言いながらも、ディストは紅茶を淹れている。
 ティア専用の黒い陶質のカップと自分用の薔薇柄のティーカップを取り出して、ディストは話を聞く体勢になった。

「それで、いったい私に何の用です? シンクのところに行ってからまったく音沙汰のないあなたが、突然私の研究室に来るだなんて」

 二カ月ぶりだというのにティアは変わりない。その様子にディストは安心し、少し怒っていた。
 それも最近耳にした噂のせいである。ティアの研究室にシンクが定期的に訪れているらしい。
 そして部下から詳しい話を聞きディストは悔しかった。シンクはティアの淹れたお茶を飲み、ときに口論までする仲らしい。

 私がティアに敬語を外させるのに、どれだけ時間がかかったか。
 しかもティアが淹れたお茶を飲んでいるだなんて! 私なんて自分で淹れるばっかりです。

 ティアがいなくなってから何か物足りなかった。部下たちも些細なミスを繰り返し、良いことがない。
 ディストはその日も復讐日記にシンクについて書き殴った。


 ティアはそんなディストの機微は把握できていなかった。
 だが長くディストの側で助手を務めていた経験から、彼が本気で怒っているわけではないことは分かっていた。
 その証拠にこうしてティアの要望に応えてくれている。漂ってくる香りはティアが気に入っている銘柄だ。
 頼まないとディストのお茶は飲めなかったので、これだけで歓迎してくれていることは読み取れる。

 要するに二か月も放っておかれてディストは拗ねているのだ。
 本当はもうちょっと早くここを訪ねたかったのだが、いまさらそんなことを言っても意味はない。

 そして本題に入るためにティアは脇に抱えていたファイルをディストに渡した。
 こうやってお互いの意見を聞くことはしばしばある。疑いもなくディストは手に取り表紙を開いた。
 一枚めくるごとにその速度は速くなり何かを確認しているようだ。

 ティアはしばらくぶりのディストの紅茶を飲む。やっぱり美味しい。
 椅子に座り直し、足を組む。ディストは挟んでおいた紙を手に取っていた。

「シンクはレプリカとして非常に安定しているといっていいわ。劣化している点はダアト式譜術の素養だけ。それに目を瞑ればイオン様にそっくりだわ。
 そんな完成度の高いレプリカを作るのに、いったいどれだけの時間と金がかかるのか。疑問に思ったから調べてみたのよ」

 一度言葉を区切りディストの様子を伺う。
 ディストはその手にあるファイルの意味を悟り、日に焼けていない白い顔をこわばらせていた。


 手渡されたファイルにはシンクのデータにオリジナルの成長記録。
 それにフォミニンの年度別の在庫量とアッシュの空白だらけの履歴が差し込まれている。
 ティアは4年前に作られたレプリカルークの件まで嗅ぎつけているのだ。

 ディストは丁寧に情報を取捨選択した。ティアがフォミニンの量を調べようと思い至ってしまうほどの過失など、心当たりがなかった。 
 ヴァンにシンクがレプリカであることは伝えるが、それ以外のことは一切ティアに教えるつもりではないと念を押されている。
 いまのレプリカイオンのことも伏せて、シンクは危険なところに出向くときのための導師の身代わりだと説明していた。
 
「ディスト。あなたが私に接触してきたことは二回あるわ。一度目は魔界にいたルーティシア・アウルに。二度目は士官学校にいたティアに。
 どちらも第七音素についての話だったわよね。―――レプリカ研究にも応用できる」

 確かにディストはティアに連絡したことに関しては、身に覚えがあった。

 障気中和薬に関する論文が発表され、アウル博士の弟子ということで何気なくそれを読んでいたディストはある一文が目に止まった。
 『障気障害に第七音素の素養を持つ者はかかりやすく、第七音素と障気は似たところがあると考えられる』
 この新しいアプローチの仕方によって第七音素のことが分かるかもしれないと、一度著者に連絡を取ったことがある。
 その後アウル博士が異端認定されかかったという話を聞いて、接触しないようにしたが。

 そしてティアが士官学校を卒業するとき、学校側からディストに書類が回ってきた。
 技手志望の者などめったにいない。専門分野が第七音素とのこともあり興味本位で論文を手に取った。
 堅実でときどきはっとさせられる箇所がある。さらさらと赤で疑問点を書きいれ、それを期に何度か書簡のやり取りをした。

 人数的に第三か第四ですかねと考えていたディストを無視して、ヴァンがティアを第二師団に押し込んだ。
 そこで初めてティアがルーティシア・アウルだと知り、ヴァンの妹であると言われたのである。
 あなたの娘の間違いじゃありませんかと言いたかったが、ディストはそのとき懸命にも口を噤んだ。

 だがたったそれだけの情報で、レプリカルークに辿りつけるはずがない。
 じっと考え込むディストに対して、ティアは答えが分かりきっている疑問を口にする。

「おかしいと思ったわ。最初の接触は4年前。小さかった導師を研究していたにしてはシンクは成長しすぎている。
 彼はせいぜいここ一年以内に作られている。そんなときアッシュの噂を思い出したの。アッシュはキムラスカの王族でしょう?」
「どうしてそう思ったんですか?」
「赤い髪をあんなに露出させて気づかないはずがないじゃない。巷では彼はファブレ公爵がどこぞの女に手を出して産まれた庶子と言われているわ。
 妹を蔑ろにしたと王に恨まれるわけにいかないから、ダアトに放り込んだって話だけど。もう一つ公爵家について密かにささやかれている噂があるわ」


 もちろん、ティアは最初からアッシュとルークの関係について知っていた。シンクの件はただのきっかけに過ぎない。
 言いがかりに近いが、これが真実なのだから一層性質が悪い。だがそんな無理を通してでも、これを機に欲しい物がある。
 魔界の連中もそれを手にしたら狂喜乱舞するだろう。そのときのことを想像してティアはつい笑顔になってしまった。
 くすりと笑みをもらしながらティアは公爵家に関する噂を口にする。

「ファブレ公爵家の嫡子は、誘拐されてから幼児退行してしまったらしい。
 どこに出しても恥ずかしくなかったご子息は、お可哀そうに歩くこともお忘れになってしまったようだって。
 人の口には戸を立てられないものよ。ましてやそれが将軍も務めている公爵の汚点ともなれば、まことしやかに陰で話されるもの。
 記憶喪失で歩き方も忘れるだなんて、おかしいにも程があるわ。けれどもレプリカと考えれば話は違ってくる。
 アッシュが現れたのは3年前。失踪したときに入れ替わったとすれば? 話は綺麗にまとまる。
 4年前の一件で公爵家にレプリカを、ダアトにオリジナルを隠す。まあ、どこまでダアトとキムラスカの上部が関与しているかは興味ないわ」

 実際のところ、兄が独断で誘拐しレプリカをルークに仕立て上げ、アッシュが誕生したのである。
 現在アッシュは特務師団長として汚れ役を任されている。本来は日向を歩いていた王族だというのに酷い話である。

 とはいえ黙認している私も同じ穴のムジナだ。誰も知らないとしても私だけは私の罪を知っている。
 我欲のためにルークとアッシュの歪な関係が作られるのを眺めている。レプリカイオンに関しても同様である。
 私は天国に行けそうもない。もっとも天国と地獄の存在など空想に過ぎないが。
 ティアのこぼれた笑みは苦みを含んだものになる。それを飲み込むように紅茶を一口、喉に流し込んだ。

「あなたの言うとおりアッシュはルークですよ。それで、あなたはどうしたいんです? 私を、あなたの兄を非難するつもりですか?」

 平静を装いながら、心の中でディストはヴァンを罵っていた。
 全てはあの自信家のせいである。まったくどこか詰めが甘い。
 キムラスカ王族の特徴を持つオリジナルを入団させたりするから、こんなことになるのだ。

 此処で兄という単語を出したのも、ヴァンに対する嫌がらせのつもりである。
 ことがばれたらヴァンは全てをディストに押し付けて、自分は知らぬ存ぜぬを貫くつもりだろう。
 ディストがルークに関与していないと言っても、証拠をでっちあげて告発するぐらいしてみせる。
 思う存分研究できるこの環境には満足していたが、だからといってキムラスカの国家反逆者になるつもりはなかった。
 ディストは動揺した心を悟られないように、キッとティアを眼鏡の奥から睨んだ。


 兄という単語を出して私に何も言わせないつもりだろうか。ティアはディストの切ったカードに少し感心した。
 確かにティアが兄に弱いのは知っている者は知っていることだ。兄が関わっていることを知らなければ私は躊躇したはずである。
 けれども、そんな兄の非道な振る舞いなど、とうの昔に知っていることだ。いまさら私は揺らぎはしない。
 ティアは足を組み直し、不敵な笑みを見せる。

「別に? 私が欲しいのはアッシュのデータよ。ローレライの同位体なんて、おいしい情報を見逃すわけないでしょう? 私はルーティシア・アウルよ」

 アイン・S・アウルは万能の人と呼ばれているが、特にある年代に関しては他の追随を許さない。
 第七音素、ローレライ、障気、創世暦時代の音機関、建築物。ざっとキーワードを上げてみれば、聡い者はすぐにある人物の名を連想するだろう。
 そんな博士の弟子であるティアの当然の要求に、ディストは面食らったような顔をした。

(ディストが一番分かっているはずなのにね。私と兄は紛れもなく兄妹なのよ。目的のためには、神だって運命だって利用するわ)

 沈黙が二人の間を流れる。


「はあ。…ヴァンには内密でお願いしますよ」

 ディストはさっさと抵抗を諦め、ため息を深くついて、ディストは鍵つきの引き出しからファイルの束を取り出した。
 この様子ではただ研究者としての探究心が働いただけだろう。計画のことまで嗅ぎ取ったわけではないようだ。
 教団の秘預言にでも関わると思っているのだろう。データさえ渡せばこれ以上首を突っ込んでこないはずだ。
 
 どこでティアがルークがローレライの同位体であるという情報を手に入れたのか。
 その疑問をディストは深く追求しなかった。4年前の件に関与した研究者が漏らした可能性がある。
 それにティアはヴァンの妹。魔界出身で詠師の祖父を持つ。教団の秘預言のことを知っていてもおかしくないと思った。


 全部で10センチはあるだろうか。ティアの目にはそれが宝の山に見えた。
 これが地上のローレライの情報。テーブルの上にあったものをどかしてさっさと読む体勢に移った。

 ディストは疲れたように額に手を当てて自分がいれた紅茶をしみじみと飲んでいる。
 こうなったら梃子でも動かないと知っているディストは、早々にティアを追い出すのを諦め無視することにしたようだった。

 でも、ディスト。私の用事はまだ終わってないんだ。
 ティアはこの機会を逃すつもりはなかった。




 オリジナルルークのデータを眺め、そしてレプリカの記述を見つける。

「ディスト、完全同位体に成功したの?」
「ええ、偶然ですけどね。まさに完璧な存在ですよ」
「あのアッシュにそっくりなのよね? この屑がっ! ってうるさいのが二人いるのはちょっとなあ」
「いえ、ヴァンの話によるとレプリカの方は素直なようで、怒鳴ったりはしない性格だと思いますが?」

(かかったわ)

 ティアはにやりと上がる口角を書類で隠し話を続ける。

「えっ? 完全同位体なのよね? 性格が違うってことはないんじゃないかしら。完璧ってそういうことでしょう。
 ああ、レプリカでは中身まで模倣できないということね。レプリカ情報は身体データのみで、いわゆる魂までは写し取れない。
 このアッシュとルークもいわば完璧な双子であるだけで、同じ人間じゃないのね」
「…っ! いいえ。それはオリジナルから抜きとれたデータが少なかったからです。それにそのころはまだ刷り込みも出来ていませんでした。
 いまならもっと完璧なレプリカができるはずですっ!」

 しらじらしくティアはオリジナルとレプリカの相違点を口にする。
 ディストは身を乗り出して、技術の違いを指摘した。その様子はとても必死である。

「確かにデータ量が多ければ、よりオリジナルに近いレプリカができる可能性が高いけど、所詮それは可能性よ。
 完全同位体であるという事実の前に、採取したデータの量は問題じゃない。刷り込みにしたって限度があるわ。
 完璧にするならば、オリジナルが体験したことの全てを、レプリカにも体験させなければならない。
 けれどもそんなことは不可能なのよ。そんな情報はどこにもないのだから」

 ティアは遠まわしにネビリムを蘇らせることなど不可能だと、ディストに告げる。
 あのジェイドもオリジナルとレプリカは別物だと断言しているのだ。
 レプリカのネビリムは、ディストたちのネビリム先生ではないのである。

「人は忘れる生き物なの。はじめて歩いたとき、はじめて泣いたとき、はじめて海を見たとき。
 そんな記念すべき体験はすべて時の中に埋もれ、鮮やかだった感情は磨滅されて、ただ哀しいとか嬉しいという言葉にひとくくりにされてしまう。
 仮にそれらを情報化できたとしても、同じ事象に対して同じ反応を返すとは限らない。
 猫が嫌いな人間もいれば好きな人間もいる。夕日を哀しいと思うか美しいと思うかはその人次第だわ」

 ティアの反論に対してディストは無言だった。身体の前で手を結び、じっと下を見ている。
 そんなディストに対してティアは追い打ちをかける。

「そもそも、レプリカと人間は違う存在だわ。それはどこまでいっても変わらない事実よ。
 シンクは自分がレプリカであることを自覚している。彼にとってレプリカである自分というのが根幹にあることは、ディストも知っているはずだわ。
 逆にこのルークのようにレプリカであることを知らなくても、白紙の時間は気にするでしょう。万が一、乖離する髪の毛や爪を見てしまったら?
 人間だと思っていたのにレプリカだと知ったとき、そのレプリカの人格は影響を受けずにいられるかしらね」
「ティア!」

 ディストは思わず大声をあげてティアの言葉をさえぎった。
 それ以上は聞きたくない。ディストの心は悲鳴を上げていた。

 レプリカでオリジナルを生き返らせることができないなら、私は約束が守れなくなってしまう。
 私と、ネビリム先生と、ジェイドの三人がそろえばあの楽しかった日々が蘇るはずなんです。
 必ずこの手で、ネビリム先生を生き返らせるんです。

「天才であるディストが、私が指摘した点に気づかないはずがない。レプリカがオリジナルになることは不可能なのよ」
「今の技術では不可能でも、私は諦めませんっ。 私はネビリム先生とジェイドと過ごしたあのときを取り戻すんです!」

 ディストは俯いていた顔をあげ、はっきりと自分の願いを口にした。
 そのディストの目の強さにティアは共感を覚えてしまった。

 ティアはディストのことを年は離れているが大切な友人と思っている。
 だからこの不毛な研究を止めて欲しかった。ディストの思い描いている綺麗な過去は彼の記憶の中にしか存在しない。

 そう指摘しても止まらないと理解していたから、オリジナルとレプリカは違う存在であると告げた。
 ネビリムのレプリカ情報が何処にも無いことを知っているが、その根拠は言えない。
 だからどうやっても技術的にネビリムを生き返らせることは不可能だと知らしめれば、どうにかなると考えていた。

 甘い目論見だった。予想とは裏腹にディストは諦めなかった。ティアではディストを改心させることはできない。
 それを察してティアは喉から出かかった次のセリフを言わないことにした。

 完全同位体間で起こるコンタミネーション現象でも、その人格は保障されないと。
 それは両者が生きている間にのみ起こる現象であると。

 それを言っててしまえばディストが壊れてしまうかもしれない。
 もしもあなたが兄を救おうとしても無駄と指摘され、その理由を納得できてしまったら自分は抜け殻のようになるだろう。
 ティアがいま此処で毅然としていられるのは、兄を救える可能性が0ではないからだ。

「ごめんなさい。…ディストは、その人が大切なのね」

 つい謝罪の言葉が出てしまう。それだけのことをティアはディストに対してしてしまった。
 これ以上は余計なおせっかいである。ティアは厚いルークのファイルを抱えて立ち上がり、湿っぽい地下を後にした。


 残されたディストは独り空のカップを見つめながら、優しい過去に思いを馳せていた。








[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十三節 仮面のストーカー
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/13 20:47




 ティアは一人研究室にいた。
 手元のオリジナルルークのデータを魔界に送らなければならない。そっと一番上の紙をめくり目を通す。
 そこにはどこから手に入れたのか、ルークに対して行われた実験の数々も事細かに書かれていた。

 定期的に行われている診断の他に、どういった状況で超振動が発生するか検証されている。
 年を追う毎にその内容は酷くなっていく。まだ幼いルークには超振動を扱いきれなかったのだろうに。
 だがベルケンドの彼らは待たなかった。預言の年、2018年までしか調べることができない。
 彼が王族であることも、子供であることも、貴重な同位体を前にしては関係なかったのだろう。
 ルークに薬物を投与し、耐性がつくとさらに強力なものを。
 さらには痛みに対する反射で超振動を引き出す方法を見つけたと報告されている。

 あまりにもむごい。これが自分と同じ研究者がしたことだと思うと…。
 そしてこれは、私が故意に見過ごしていたものの正体なのだ。別に彼をどうにかできたとは思っていない。
 だが、彼の過去を容認しているのは事実である。その情報をこうして利用しようとしているのだから。
 ルークに対する残酷な仕打ちに目を逸らしたくなった。けれども、それは許されない。

 次のページをめくる。そこに私が求めていた情報があった。
 『3.14159 26535 89793 23846 26433 83279 50288 ………………………』

 数学的な美。人は円周率や黄金率などに神の存在を見出す。
 複雑な法則が単純な公式に表せること、グラフの模様が美しいこと、それは世界を創った神の御業であると。
 ローレライは、それを体現しているようなものだ。彼の音素振動数は円周率と同じ。永遠にその数字は続く。
 音素振動数は、指紋や声紋と同じように一人一人異なる。同じ振動数のものはないとされていた。
 だが、現実には存在している。ローレライの力を継ぐ者。オリジナルルーク。その完全同位体であるレプリカルーク。
 同時期に三体も見られるなど、何かの意思が働いているかのようである。

 ローレライの同位体。その存在と力の分析。
 このデータがあれば、魔界でより正確なシミュレーションができるだろう。

 2000年前。大地を切り離したことでどんな影響が出たのか。その詳細は伝わっていない。それはもう伝説なのだ。
 全ては始祖ユリアを讃えるための装置と化している。そこから事実を抜き出して検証する。気の遠くなるような作業だ。
 当時のイスパニア国やフランク国の資料は余りにも少ない。まるで故意に誰かが処分したように。
 誰もこのような事態になるとは考えていなかったのだろう。

 神も伝説もこうなってしまえばただのデータである。だがこれは神をも恐れぬ所業なのだ。
 それでも誰かがやらなければならない。偶然を、奇跡を頼ることなど私はできない。
 もしも事が露見しダアトに追われることになっても、ファリアたちなら大丈夫と信じている。
 昔、ファリアに言われた言葉をティアは思い出す。


 なまじ彼女がフィリアに似すぎていてバティスタを連れてくるから、私は彼女に過度の期待を寄せていた。
 しかし実際は違うのである。四英雄と呼ばれた彼らは、彼らでしかない。
 あの世界の危機を救うという旅を通して、自ずと彼らは英雄に相応しい人物に成長したのだ。
 だというのに、私は彼女に英雄の影を見出そうとした。それは目の前の彼女を否定する最低な行いだった。

 そのことに気づいたとき、ティアはふと漏らしてしまった。私が皆を巻き込まなければ、良かったかもしれないと。
 彼女はフィリアではなくファリアだ。安全など保障されていない。もしものときをティアは危惧した。
 それを偶然耳にしたファリアは、ティアを微笑みながら諭した。

「私は私の意思でこの研究を進めていますわ。確かにティアが切っ掛けでした。
 けれどもそこから先、私たちはそれぞれの考えで此処に居るんです。二度とそんなこと言わないで下さいね」

 笑顔があんなに怖いものだと、ティアが知ったのはあのときだった。
 二度と師匠を怒らせないと心の中で誓い、そして彼らを信用すると決意したのである。

 ファリアはいま魔界での研究の陣頭指揮を執っている。魔界は順調だろうか。


 そうティアは考えながら、ディストにしてしまったことを故意に思い出さないようにしていた。
 アリエッタとシンクを少し変えることができたからといって、自分を過信しすぎてしまった。
 シンクは過去がなく空っぽだったから、ティアの感情に任せた言葉が届いたのである。
 ディストには約束というものを抱えている。そしてそれは彼にとって重荷ではなく、大切な思い出なのだ。
 それにティアは安易に手を出そうとしたのである。彼の気持ちを軽く見たティアの過失だ。

 ティアの後悔は拭えない。ルークのこともあり、心に澱が溜まっていく。
 ディストが並々ならぬ感情でレプリカ作成に取り掛かっていたことは、知っていただろうに。
 ディストはネビリムのために今も研究を続けているのだろう。
 だが、彼女のレプリカ情報がどこにもないと知っている分、その姿は憐れに見えてくる。
 完璧なレプリカが出来ても、ディストの望む人のレプリカはもう生まれないのだ。

 しばらくティアはディストの顔がまともに見れそうもなかった。




 今日もシンクはティアの研究室に来ていた。
 もう定位置となったソファに我が物顔で座っている。

 ティアの研究室はそれなりに広い。此処は地下だから、部屋の壁はほぼ本棚に埋め尽くされている。
 中央にある音機関がドンッと場所をとっており、それにあわせて細々とした器具や机が配置されている。
 本棚とその半分くらいの高さの書類棚で造られた道を行けば、間仕切りで作られたちょっとした応接室のような空間がある。
 応接室と言うよりは、ほぼティアの私室となっている。専用のマグも持ち込まれ、1週間に三回はシンクが訪ねている。

 ティアは面倒なので部下その1にコーヒーを淹れさせる。その1はどんくさいのでインスタントが無難である。

「あ、手抜きじゃないか。師団長の僕にこんなもの出していいと思ってるの?」

 前触れもなく現れ客でもないのに、シンクはドリップしたコーヒーかティアの淹れた紅茶を所望した。
 ティアは疲れたときにはコーヒーを、落ち着きたいときには紅茶を飲む。
 そこまで飲み物にこだわりはなかったが、こういった態度を取られるとインスタントコーヒーがとてもまずいものに思えてくる。
 それでも此処で席を立つのは何か負けたような気がするので、シンクのセリフを聞かなかったことにした。

 だいたいコーヒーを淹れるのが上手いのは部下その2だが、その2のことシンクは心底嫌っている。
 その2が視界に入るだけで、シンクは嫌そうに顔をしかめ冷淡な態度を取る。
 そんな反応がまたその2を喜ばせていると気がついてはいても、抑えきれないようだった。


「それよりも今度はどんな騒ぎが起きたの? ディストが譜業を暴走させたの? それとも練兵所の壁が壊れたとか?
 もしくは食堂の新メニューでも出たのかしら。ほら言ってみて。聞いてあげるわ」

 本当に聞くだけだが。
 シンクの愚痴をきいているだけで、随分と神託の盾騎士団の珍事にティアは詳しくなった気がする。
 ティアもコーヒーを飲み、適当な菓子をつまむ。

「あんた、僕をいったい何だと思っているのさ」
「えっ。苦労人かしら?」

 シンクはティアの認識に対して文句を言いたかった。
 だが参報総長としてやっていることは、策を練るというよりは尻拭いの方が多いと思ったので反論を飲み込んだ。

「毎日、御苦労さま。これは試作品の胃薬よ。それで何があったの?」

 ティアは笑顔でテーブルの上に瓶を出しながら、シンクがいらだっていることに気がついていた。
 そこでティアはシンクに話してみるように促す。面白いからである。

「はぁ。オラクルでそんなに変なことが日常的に起きたら、大変じゃないか。…最近、妙なのに後をつけられていてね。気味が悪いのさ」

 シンクは苛立ち紛れに髪をかき上げる。ちなみに研究室ではシンクは仮面を外している。
 ティアは仮面とお茶などしたくなかった。部下たちはシンクの顔を見ても何も言わない。
 口外するような面々ではないのだが、浮世離れしている彼らは導師の顔を知らないという可能性も考えられる。
 ティアは怖くて彼らにその詳細を訊けないでいた。

 しかしシンクのストーカーか。
 ただシンクを好きでしているのなら良いか、誉められたことじゃないが。
 イオンに似ているって気づいていたら、ちょっと問題かもしれない。
 やはりシンクの持ち込む話は尋常ではないとティアは思った。

「捕まえようとしたら逃げられるし、何をするわけでもなくただじっと見てくるだけ。正直お手上げだよ」

 烈風の異名を持つシンクに捕まえられないというのはすごい。
 まだ見てるだけというのはストーカーは初犯だろうか。
 物がなくなったりしてなさそうである。盗聴などは技術的に無理だろう。
 シンク曰く、手抜きコーヒーをティアはこくりと飲む。

「いったい何がしたいんだ、あのピンク」

 ん? ピンク? いや、…まさか。
 ティアは続きを聞きたいような聞きたくないような、幾許かの不安を覚えた。

「人形を抱いたまま黙り込んで、僕が近付けば魔物が壁になってその間にさっさと逃げるんだ。まったく僕を馬鹿にするのも、いい加減にして欲しいよね」

 ああ、アリエッタ以外考えられないわ。ティアは頭を抱えたくなった。
 アリエッタはいったい何をしているのだろうか。イオンと似ているシンクと話したいというなら分かるが、全力で逃げているようだ。
 先ほどからシンクは愚痴りモード全開で、そのうち殴りこみに行きそうな勢いである。勘弁して欲しい。
 ティアは嫌な予感が当たってしまったことにうんざりしながら、シンクを説得するためにコーヒーを机の上に置いた。

「遠くから見てきて、うっとうしいったらありゃしない。これは―――」
「えっと、シンク。そのね、その彼女ちょっと心当たりあるから、待ってくれないかしら」
「知り合い?」

 シンクにとってピンクは切り刻みたい対象だったが、ティアの知り合いならそうするわけにはいかないかとシンクは少し残念に思った。
 そしてこの天使の面の皮を被った悪魔とピンクとの間に、どんな関係があるのか非常に興味があった。
 妖獣のアリエッタ。六神将の一人。あのオリジナルのお気に入りだった元導師守護役。

 そのシンクの探るような視線を感じ取り、ティアはシンクを睨み返した。
 ここで目をそらすわけにはいかない。アリエッタのことを見捨てるなんて。
 ティアは邪魔をするなというようなシンクに精一杯抗った。

「ええ。友人よ。よく森にいるから会いに行ってみるわ。だから力技で説得するのは、その後にしてくれない?」

 シンクの眼力に負けないように、ティアは視線を逸らさない。
 ティアは年上の威厳をかけてシンクに挑んでいた。そしてシンクの方が先にさっと視線をずらす。

 ふっ、勝ったわ。
 ティアはしょうもない勝利を噛みしめていた。

「三日。三日しか待たないからね」

 いつの間にか仮面を装着し、シンクは出ていってしまった。大人げなかっただろうか。
 そしてティアは冗談で出した胃薬の瓶が、なくなっていることに気がついた。

(シンク、まだ若いのに…)

 ティアは振り回されてばかりのシンクを不憫に思った。
 今度来たときは笑顔で迎えて、カモミールティーでも淹れてあげよう。










[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十四節 そよ風に希う
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/13 21:17





 ダアト近辺の森。
 此処の森では薬草がたくさん自生しているので、ティアは学生の時から世話になってる。
 しゃがんで必要な部分だけを摘み取り、籠に入れる。根っこが必要なものは周りをスコップで丁寧に掘る。
 採りすぎないように気をつけながら、徐々に籠は重くなっていく。汗をかいて、ティアはレムの光が一段と眩しく感じた。

 研究室に籠っていることの多いティアは、基本的に本部から外には出ない。
 魔界暮らしが長かったせいもあって、日の光が恋しくなることもそこまでない。
 かといって外が嫌いというわけではないのだが、最近はいろいろあって暇がなかった。

 一通り採取も終えて、ティアは泉の側の適当な木の幹にもたれかかった。
 アリエッタに最初に会ったのも此処だった。イオンが亡くなった日のように、ティアは泉を眺める。

 あのあとアリエッタは泣き腫らした目のまま、母親に会いに大陸を越えて森に行った。
 次に会ったときは、アリエッタはもう第三師団の師団長に内定していた。
 率いる人数が少ないとはいえ彼女には荷が重いんじゃないかと心配したが、それは杞憂に終わった。
 第三師団の団員は皆、アリエッタの人と形を理解しているようである。
 魔物と会話できるアリエッタを軸として、空からの偵察や伝令を主な仕事としている。

 イオンの死によって、アリエッタの世界が広がったのは皮肉なものだ。
 それが良いことか悪いことかは分からないが、アリエッタが幸せになれればいいと思う。

 泉に映る自分の顔を見る。茶色の髪に青い瞳。するりと一筋の髪が垂れて、水面に波紋を作った。
 親しくなった人を見捨てることはできないと気づいてから、随分と積極的になったと思う。
 シンクを誑かして、ディストを言いくるめようとして…。
 残りの六神将と言えばラルゴ、リグレット、アッシュ。難敵ばかりである。


 六神将はそれぞれ預言に関係する悲惨な過去があり、その意志は固い。そのことは分かっている。
 だが、生まれ変わってから此方の時間で10年。ティアの記憶はもうあやふやである。
 アリエッタやディストに関しては印象が強かったから、どうにかなった。シンクの件は結果的に上手くいっただけだ。
 ラルゴとナタリアの関係は分かるが、過去に既に起きてしまったことを変えることはできない。
 リグレットに関しては、兄に心酔していたということしか覚えていない。
 アッシュの誘拐については確認したが、遠ざけられているので接触することもできないだろう。

 それに会って何を言えばいいのか。彼らに反旗を翻させる方法が思いつかない。
 いや、その前に接触する必要があるのだろうか。確かに彼らは私の前に立ち塞がる壁だ。無い方がいい。
 しかし、だからこそ兄は行動を起こしたのだ。六神将の強さを知っていたから、あんなにも大胆な行動ができたのだ。
 その駒が根こそぎなくなったら、兄がどう動くかなんて未知数である。私にも対処できなくなってしまう。
 魔界の仲間を危険にさらす訳にはいかない。現状維持が一番ということだろう。
 そうティアは、いまの段階での結論を出した。


「ぐるぅ」

 ティアの横には、いつの間にかライガさんが居た。考え込んでいてたティアはその気配に全く気付かなかった。
 アリエッタの側には二匹が交代で付いている。いつぞやの迫力満点な貫録ある方をライガさん、もう一匹のやんちゃな雰囲気の方をライガくんと呼んで区別している。

 アリエッタが来れない代わりにライガさんが来たようだ。ライガさんはついて来いとでも言うように、尻尾を振ってティアを待っている。
 ティアは素直に、その後に着いていった。


 その先には、シンクを見張っているアリエッタが居た。
 ちょうどアリエッタが座っている木の枝から、一人自主練しているシンクの姿が見えるようである。

 ティアには豆粒ほどの影しか確認できず、木が風に煽られているのを見てシンクだと判断したが、アリエッタの視力ならもっと見えるのだろう。
 本当に、一体アリエッタはどうしたというのだろう。イオンの面影をシンクに見ているのだろうか。
 思わずライガさんに目で問いかけても、知るかというようにライガさんは横になって前足に顎をのせて待ちの体勢である。
 そんなに長い間アリエッタは此処にいるのだろうかとティアは不安になる。
 しかしシンクのあの苛立ち様を考えるともう限界だろう。ティアは意を決してアリエッタに話しかけた。

「アリエッタ? 話があるの」

 アリエッタは聞こえているはずなのに、見向きもしない。
 ティアは二カ月ぶりに会うアリエッタのつれない態度に少し落ち込んだ。
 もう一度、声をかける。

「あの、シンクのことで―――」

 シンクの名を出すと、アリエッタは木の枝から飛び降りてきた。
 アリエッタはシンクに並々ならぬ関心があるようである。それがストーカーに発展するのは頂けないが。

「久しぶりね、アリエッタ。最近会わないから心配したのよ」
「…ティア、シンクのこと、話して……」

 挨拶もせず、シンクについての話を督促するアリエッタにティアは悲しくなった。
 自分とアリエッタの仲はその程度のものだったのだろうか。所詮、女友達は彼氏には敵わないのだろうか。

 そしてティアはアリエッタに訊き返す。

「私に聞くよりもシンクに会った方が早いんじゃないのかしら?」
「……アリエッタ、シンクに会っちゃ、だめ…」

 ティアはアリエッタの様子に違和感を抱いた。
 アリエッタは、シンクに会いたいのだが誰かにそれを禁止されているようである。

「どうしてアリエッタはシンクに会えないの?」

 そのティアの問いにアリエッタはあの日のことを思い出す。




   *******




 アリエッタはライガの鼻に頼ってイオンの元へと森を進んでいた。月明かりだけが、その道を照らす。

 アリエッタがそこに辿り着いたときには、もう月は真上に差し掛かろうとしていた。
 少しだけ開いていた窓の隙間から覗きこみ、その奥にイオンの姿を確認して思わず彼の名を呼んだ。

「イオン様!」

 その声にぼんやりとしていたイオンは驚き、その視線はアリエッタを捉える。
 月を背に彼女は泣き腫らした目から、さらに涙を流しそうだった。

 イオンはそれを確認して、心の中でため息をついた。アリエッタは今にも泣きそうである。
 アリエッタに泣いて欲しくなかったから、イオンは彼女を遠ざけた。
 彼女はイオンが別人であると気づいてしまいそうだったから、イオンは彼女を導師守護役から解任した。

 そんなイオンの気遣いを無視して、アリエッタはこの小屋に往き着いた。
 アリエッタは静かに窓枠から降り、一歩ベッドに横たわるイオンに近づく。

「……イオン様。なんで、こんなとこにいる、ですか?……」

 そのアリエッタの問いにイオンは曖昧な微笑みを返した。
 そしてそんなイオンに、アリエッタは恐々と問いかける。

「イオン様。アリエッタのこと、嫌いになった、ですか? ……なんで? どうして、傍にいちゃだめ、ですか?」

 アリエッタはイオンから少し距離を置いて、じっとイオンを見つめる。
 その真摯な瞳に負けて、イオンは小さく「ごめんね」とだけ答えた。

 開け放たれた窓から風が入り込む。アリエッタは急に寒気を感じた。

 小屋の中には、濃厚な甘い死の気配が満ちている。風がアリエッタにその香りを届けた。
 その主はイオンである。イオンの呟きの意味を悟り、耐えきれずアリエッタはその枕元に駆け寄った。
 泣いていたらイオン様に嫌われると思って堪えていた涙も、ぼろぼろと零れ落ちその頬を濡らす。

 泣いて欲しくなかったのに…。そう思い、イオンはアリエッタに「笑って」と頼んだ。

「そんなこと…」

 出来ないとアリエッタは首を横に振る。イオン様はお友達に捕われた魔物のように横たわり、その死を甘受している。
 イオン様が死んでしまう。それはもう二度と話せないこと、会えないことを意味している。

 その死の匂いを嗅ぎ取っていても、どうしてもイオンの死を彼女は認めることができなかった。


 そのアリエッタの強硬な態度にイオンは、ほの暗い愉悦を感じていた。生きることは諦めれたけれども、彼女は手放せない。
 彼女はただのイオンの象徴である。僕だけのアリエッタでいて欲しい。だから今朝、彼女を導師守護役から解任した。
 僕が死んでしまったら、アリエッタはどうするのだろうか。
 ディストのように、僕の影をあの人形に求めるのだろうか。

 それは嫌だ。

「僕の身代わりには、近づいて欲しくないかな」
「……いおんさま? …そんなのいや、です……」

 イオンの死を前提とした発言に、意味は分からずともアリエッタは拒絶し、生きて欲しいと懇願する。
 ベッドサイドの時計の針を確認し、イオンはそっと別れを伝える。その短針は真上を指そうとしていた。

「アリエッタ。此処に居たことを誰にも話してはいけないよ。もういくんだ」

 イオンはアリエッタに自分の死を見せたくなかった。朝になったら教団の者がイオンの死を確認しに来るだろう。
 そのときまでアリエッタが此処にいたら、彼女がどうなるか分からない。

「いやですっ! いおんさまを、ひとりになんてっ」

 しかし、アリエッタはイオンの願いを聞き入れない。
 嬉しいと思うが、彼女には生きて欲しい。だから、彼は傍にいると縋る彼女を突き放す。
 イオンはすっと息を吸い込むと毅然とした声で、アリエッタに告げた。

「導師として、導師守護役に命じます。いきなさい、アリエッタ」

 死を前にして体力もそれほど残ってないはずだというのに、その声は威厳に満ちていた。
 それは遍く世界に認知されているローレライ教団の導師に相応しい態度だった。その声を聞けば、諾としか答えられない。
 その言葉に込められたイオンの意を感じ取り、アリエッタは立ち上がって頷く。アリエッタは導師イオンの守護役である。

「………はい……」

 アリエッタは涙を堪えながら、イオンに向かって導師に対する最高礼をする。
 それにイオンは微笑みを返して、彼女の心を受け取った。


 二人は、誰もが羨むような理想の主従の関係を体現していた。
 そんな関係にも、いつか終わりが訪れる。共にそのときを迎える二人もいれば、一方が残されることもある。
 従者はライガの背に乗って、森の向こうへと消えていく。その姿を主は小屋から見送った。


 イオンは独り森の奥深くの小屋の中で、その時を待っていた。
 最期に思いがけないことがあったが、彼としては概ね満足していた。

 後は彼が撒いた種が芽吹くのを待つだけである。その成果が見れないことを、イオンは少し残念に思った。
 だが、それを彼が見ることはどうしてもできない。彼の死を期に全ては加速していくのだから。
 イオンは自分の死までも計算に入れていた。計算外だったのは彼女のことである。喜ばしいことだったが。

 アリエッタ。君は僕の心の澱みきったものを拭い去ってくれた。
 歴史に縛られ、預言が幅を利かせるダアトで、君だけが清らかだった。
 聖都とは名ばかりの魑魅魍魎が巣食う魔都で、君だけが輝いて見えた。

 どんなに君の存在に救われたのか、君は知らないだろう。
 どれほど君を頼りにしていたか、見せないようにしていた。僕はすぐに死ぬから。
 けれども君が会いになんて来るから、言わないでおこうと思っていたことを告げてしまった。
 地獄まで僕が抱えて逝こうと決めていたのに。

 僕が付けたその名にふさわしく、そよ風のように現れて、余韻だけを残して去っていった。
 願わくば、これから彼女が彼女の歌を謳えるように…。

 そうイオンは何かに願い、そっと目を閉じた。

 月だけが彼の最期を見ていた。




   *******




 木々が風に揺られてざわめく音がする。比較的大きな木の横に二人は並んで立っていた。その視線の先には、体術の特訓をしているシンクの姿がある。
 アリエッタは少し口ごもりながら、イオンの願いを口にした。

「……イオン様、代わりの”イオン”に近付いて欲しくないって。……代わりのイオン様は、導師です。……アリエッタ、傍にいられない。
 ……けど、シンクから、イオン様の匂いがした。でも、イオン様じゃない。……代わりじゃないけど、イオン様……」

 アリエッタの話したことを、ティアは分かりやすく頭の中で纏めてみた。
 あの日、オリジナルイオンはアリエッタに導師となるレプリカイオンに近づいて欲しくないと告げた。アリエッタはその願いに従い、近づかなかった。
 しかし、アリエッタはシンクからイオン様の匂いがすることに気づく。そこからアリエッタはシンクに興味を持った。
 だがオリジナルイオンのお願い事を思い出し、導師ではないイオンに近づかず遠くから観察している。

 とりあえずオリジナルイオンの独占欲の強さにティアは驚いた。こうもあからさまにされると唖然としてしまう。
 そしてその事実に欠片も気づいていないアリエッタは、じっとシンクのいる方向を見ている。
 最近アリエッタに会わなかったのも、シンクがティアの研究室に出入りしてたからである。
 成長期に入ったティアの身長はアリエッタよりも高くなった。隣のアリエッタの頭を撫でながら、ティアは自分の見解を述べる。

「アリエッタ。たぶんイオン様が言いたかったのは、物理的に近づくなってことじゃないと思うよ」
「ぶつりてき?」
「ええ。イオン様は自分の代わりと自分を同じだと思われたくなかったの」
「??? …イオン様は、イオン様……」

 不思議そうな顔をしてアリエッタは、答えを求めて左側のティアを見上げる。
 ティアは今日初めてアリエッタと目が合った気がした。

「今の導師は、アリエッタのイオン様かしら?」
「………ううん…」

 少し間が空いてアリエッタは否定した。
 もう今の導師の傍らにはアニスが居る。

「じゃあ、あそこのイオン様の匂いがするシンクが、アリエッタのイオン様?」
「シンクはイオン様じゃないっ! ………イオン様はもっと、優しいもん……」

 アリエッタは大きく首を振って、違うと答えた。
 ぽつりとイオンのことを語るアリエッタにティアは優しく声をかける。

「アリエッタのイオン様は唯一人。そこさえ間違えなければ、シンクと会って話してもいいと思うわ」

 ティアの言葉を聞いて、アリエッタ遠くのシンクをじっと見る。その瞳には憧憬と困惑とが混じっていた。
 やはり姿形が似ていると、重ねてしまう部分があるのだろう。それは仕方のないことだ。重ねられる方は堪ったもんじゃないだろうが。


 そして少し逡巡した後、アリエッタは踵を返してシンクに背を向けた。
 欠伸をしていたライガさんものそりと起き上がり、アリエッタに続く。

「アリエッタ。アリエッタの好きなお菓子、研究室に用意してるからね」

 ティアはアリエッタを呼び止め、研究室に誘う。すると彼女は振り返って、小さく頷いた。










[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十五節 研究室の日常
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/14 21:16





 アリエッタは湯呑を手に取りその緑色の液体を飲む。

「……っ!……」

 そして舌を火傷してしまったのか、涙目になって恨めしそうに緑茶を見た。最近のお気に入りのお茶である。
 アリエッタにとって甘味と言えば果物だった。だから初めてお菓子を食べたとき、彼女はびっくりした。これは何だろうと。
 いつもイオンと休憩するときに食べ、そのうちアリエッタは甘いものが大好きになった。

 ティアの用意したこの黒いお菓子は甘い。舌の上に甘味が残る。
 そんなとき、このお茶を飲む。なんとも言えない苦味が良い。相性は抜群である。
 羊羹を一口サイズに切り分けて食べる。そしてその甘味を感じつつ湯呑に口をつける。
 苦味が先の甘味を打ち消して、さらに次の羊羹に手が伸びる。
 黒胡麻を使っているらしい。茶色のも良いが、これは甘味がしつこくない。これはこれで美味しい。
 一つ頷いて楊枝を置き、湯呑を両手で持つ。息を吹きかけて、飲む。ちょっと熱いぐらいが最高である。
 アリエッタは喉元をすぎる熱さをやり過ごし、ほっと一息ついた。

 その様子をティアは微笑ましそうに見ていた。
 アリエッタの好む食事は意外と渋い。緑茶もそうだが、せんべいも気に入っている。固い食感が気に入ったようだった。
 ティアの部屋にはアリエッタ用の食べ物がある。それはマルクトから取り寄せたものである。


 ユリアシティの食事は補給の問題もあって、レパートリーは少なく単調だった。
 それでもティアが我慢できたのは、ユリアシティがホドと縁が深かったからだろう。
 ミソや昆布も存在しており、ライスはもちろん、うどんもそばもある。保存食としての側面もあるそれらは、ユリアシティでも食べられた。
 新年を迎えるときなどはお餅やお吸い物が食卓に並ぶ。テオドーロが言うには、ホドが落ちる前はもっと簡単に手に入ったそうだ。
 いまでは技を受け継いでいる者が少なく、高値で売り買いされるようになったらしい。コンブやミソ、トウフは高級食材である。

 ティアたちが食べている羊羹も、伝手がなければ手に入らない。
 実は地下の部屋の中に昔のレシピがあった。それを発見した歴史学者は喜び勇んで研究し、終には白衣を脱ぎ棄てエプロンを身に付け料理人に転職。
 もちろん引き留めようとしたが、彼は娘を魔界に残してまで修行に出ると主張した。彼の名はリョウ・リニン・ワンダー。
 絶対に一流のシェフになるとティアは確信し、そして説得することを諦めた。代わりにケセドニアのマリーの宿を紹介して見送った。

 それを切っ掛けにして、日持ちするものをときどき届けてくれるようになったのである。いまはケテルブルクのホテルで料理の腕を磨いているそうだ。
 彼もこんなに美味しそうに食べられたら本望だろう。

「アリエッタは緑茶が気に入ったみたいね」
「……苦い感じが、好き…」

 アリエッタは率直に答える。お世辞などを言わない彼女の言葉はいつも真っ直ぐである。
 その空になっていた湯呑に、ティアはおかわりを注いだ。

「そういえば、師団の方はどうなの? 書類とかは?」
「………皆、お友達に話しかけてくれるの…」

 アリエッタは少し困惑した顔をしてティアの問いに答える。今までなかったことにアリエッタは少し戸惑いがあったようだ。
 それでもその口調は嬉しそうにティアの耳には聞こえた。

「……細かいことはピーチが…」
「ああ、副官の彼女ね。…良かったわ。少し心配してたのよ」

 悪い噂を聞かなかったから大丈夫だとは思っていたが、やはり本人の口から聞いた方がいい。第三師団の師団長は名実共にアリエッタで、纏まっているようだ。
 そう安心すると、今度は師団長がこんなところにいて良いのかとティアは不安になってきた。

「団長職が忙しかったら、無理して此処に来なくてもいいんだからね?」
「アリエッタは止めないもん」

 アリエッタはティアの研究室に定期的に通うことを止めるつもりはなかった。それもティアのためである。
 ティアは体調管理がまるでなってない。実験に懸かりっきりになると私室に帰らず、ソファで寝ている。
 食事だって碌なものを食べていない。朝だけはしっかり食べるようだが、昼は試作品の携帯糧食、夜は食べないときもあるそうだ。
 ティアが研究室で倒れたと聞いても、アリエッタはやっぱりと納得するだろう。
 そんなことにならないように、年上のお姉さんとしてアリエッタはティアを見張っている。

 こうしてアリエッタが訪ねるとティアは休憩を取って軽く何かを口にする。
 この点だけはシンクと意見があった。彼とはまだ顔を合わせづらいが、彼女の体調のためなら仕方が無い。
 副官を通して連絡を取り合い、しっかりとチェックしている。
 まずは、この黒胡麻羊羹をティアにも食べさせよう。そうアリエッタは意気込み楊枝を手に取った。


 二人が談笑しながら、お菓子を食べさせ合う姿は姉妹のようである。どちらが姉でどちらが妹なのか。それは意見が分かれるところであった。




 第五師団に所属してから半年以上の時が過ぎた。
 その間に研究室の中はどんどん物が増え、本棚の整理をしなければならなくなってしまった。
 本はいつの間にか増えて、床から塔のように積まれている。逆に本棚はところどころ隙間があった。
 高いところの本を取って、そしてまた戻すのは非効率的ではないか。どうせまた読むのだから手元にあった方がいいに決まっている。
 そうティアが言ったら、部下その1に微笑ましそうに見下ろされた。長身の彼は余裕で一番上の段に手が届く。

 ティアはむくれながらも下の段の本を調べることにした。そしてその場にいたシンクも巻き込む。
 文句を言いながらもシンクは適当な本を手に取った。タイトルを目にして思わず声をあげる。

「この本、禁書じゃないか! こんなものどっから拾ってきたのさ」
「えっ? ああ、こっちに引っ越してきたときに混ざってしまったんでしょうね」

 持っていただけで大事になる禁書に対して落ち着き払っているティアにシンクは呆れた。
 ティアは積み上がっている本の背表紙を読み上げながら何かを探している。

「ダアトのお膝元で禁書を普通に本棚に並べている奴なんて君ぐらいだよ。…魔界の人間っていうのは皆どっか壊れてるんじゃないか」
「2000年も引きこもってるから外から見れば異質でしょうね。でも、住みやすいところよ」

 無機質な壁も、密閉された空間も、ティアには懐かしいものである。自動で開閉する扉などの創世暦時代の名残があり、それは風呂やトイレまで反映されていた。
 衛生状態に関しては、神経質といっていいほど気を使っている。そういった点をティアは住みやすいと感じた。少なくとも外殻よりは馴染み深いだろう。

 そしてユリアシティは学問にも最適な場所である。ファリアは本を手にとっては、嬉しい悲鳴を上げていた。
 2000年間、戦争もなく蔵書はダアトの図書館にも劣らない。娯楽が少ないということもあるのだろう。教団の禁書もしれっと本棚に並んでいる。
 魔界は外殻大地では存在しないとされているのだから、その本も存在しないらしい。思わずティアは納得しかけてしまった。

 ユリアシティとダアトの間には、ちょっとした温度差がある。
 ダアトをユリアの預言に詠まれた繁栄を導く者たちの集団だとすれば、ユリアシティはユリアの遺志を守る者たちの集団だ。
 重視する点が微妙にずれている。それが禁書の扱い方のように現れてしまう。教団が預言を冒涜するものだと言っても関係ない。
 魔界では科学者であるユリアも尊重するので、科学的発見は新しい進歩と考えられている。

 そもそもローレライ教団は、ユリアを一度裏切って処刑目前まで追い込んだ人間が設立したところだ。
 そして外殻にある分イスパニア国やフランク国などの大国の影響も十分に受けている。その信条に違いが出てしまうのも、歴史からみれば必然だろう。
 教団がアラミス涌水洞のあるパダミア大陸にあるのも、偶然でしかない。むしろそれを期に両者の仲が深まり、現在のような関係が構築されたと言える。


「あんたみたいなのが育つ街だ。まともじゃないだろうさ」
「それはどういう意味かしら、シンク」
「そのままの意味さ。あんた自覚なかったの?」

 シンクの身も蓋もない言い草に反論したいものの、まともじゃない記憶のあるティアは言葉に詰まってしまった。
 黙ってしまったティアを面白そうにシンクは眺める。

「へえ、自覚はあったんだ。それにしてはあんた無防備だよね」
「えっ?」
「まったく呑気だね。先が思いやられるよ」

 シンクは中途半端なティアにため息をついた。禁書をさらっと置いている辺りを無防備だと言っているのである。
 そうでなくてもユリアの子孫で、あのヴァンの妹という重要人物なのに。これをフォローするのも師団長の仕事なんだろうかと少し頭が痛くなった。
 ティアのことであのピンクとも連絡を取る羽目になっている。オリジナルのお気に入りとなんて仲良くしたくないが、仕方が無い。

 面倒だがそれでも交流を止めようとシンクは思わなかった。ティアがいれば無彩色な日々が鮮やかなものになる。
 避けて通れない騒動もスパイスの一つだ。当分暇には成らなさそうだと、シンクは影でほくそ笑んだ。


 もっともティアにとってはシンクが平穏な日常を破る人間なのだから、どっちもどっちである。





 ティアの元を訪れるのはシンクとアリエッタだが、一番ティアと一緒にいる時間が長いのは部下たちだろう。
 まだ12歳のティアが室長という立場になったのは、様々な人間の思惑が絡み合ってのことである。
 ヴァンは下手な上司の下に付けたくないと思い、ディストはアウル博士以外と助手を共有するつもりはなかった。
 それにユリアの子孫を手放したくない上層部が乗っかり、ティアは室長のポストに収まったのである。

 ティアには部下が3人いる。12歳の下に就いても文句も言わない。それも彼らが他に居場所が無いからである。
 技手の絶対数が少ないため他の師団から引っ張ってきたが、全員わけ有り物件ばかり。有り体にいえば追い出された者たちの集まりである。

 部下その1は柴犬。茶髪ののっぽさん。とにかく素直で真面目で明るい。だがどこか抜けている。悪気がない分性質が悪い。
 部下その2はチワワ。女顔のふわふわの金髪。大きな瞳。シンクのような人間をからかうのが大好き。口は禍の元である。
 部下その3はドーベルマン。黒髪で痩せ形。それに寡黙で研究中毒。よれよれの白衣でいつも暗雲を漂わせている。

 少々問題があるのだが、成果を出しているので隔離という措置が取られた。ティアは、ディストよりもマシであると考えている。
 せっかく室長になったのでティアは前から温めていた研究を進めた。結構ティアの研究室は騒がしく忙しい。ティアがこき使っているからである。

「もぅ~、なんでこんな実験を僕がしなくちゃいけないの!?」
「必要としている人が居るからじゃないかな?」
「……室長…」
「ええー! 室長ぉ、これ室長のせいなんですかぁ~?」

 その3のつぶやきを聞きとって、その2がきゃんきゃんと吠える。
 ティアは聞く耳を持たない。いま研究しているのは栄養剤である。栄養ドリンクはティアが完成させた。これもできておかしくない。
 できれば保湿クリームとか美肌パックとかを優先したいところを、万人が必要としそうな栄養剤に妥協しているのである。

 このオールドラントでは第七音素の汎用性が高すぎて、この手の商品はグミ程度でお茶を濁している。
 美容や健康に金をかける余裕があるのは貴族と一握りの金持ちに限られている。そしてそういった連中は、ことごとくお抱えの第七音素譜術師がいる。
 第七音素の癒しで手間暇いらずである。その気持ちはティアにも良くわかる。

 だがこの手の商品は貴族を相手にしないと売れないのである。売れないということは作られないという意味であり、いつまでもこの分野の開発が進まない。
 あの地球にいたころの肌の感触を取り戻したい。まだ若いがいずれ年を取ってしまうのだ。そうでなくても此処は一段とレムに近いのである。紫外線が心配だ。
 譜術での治癒では補えないものがある。それは年上の肌を見れば一発で分かる。

 シミ、ソバカス、シワ!
 強敵である。

 なら、私が研究するしかないじゃないか。ティアは外殻大地に来たときに決意した。
 幸い、私には瘴気中和薬を作るときに得た薬草の知識がある。ディストのもとでは忙しかったから出来なかったが、此処では私が室長である。

「なんとか言って下さいよぅ~」
「えっと、室長が栄養剤をご利用になるんですか?」
「…コホン。いずれ商品として売りに出すつもりよ」
「はあー? こんなの売れるわけないじゃないですかぁ」
「これはちょっと、人を選ぶんじゃないですかね」
「……まずい…」

 不評のようだが、ティアは気にしなかった。オベロン社にはもう話を通してある。今年中に栄養ドリンクが商品棚に並ぶ予定である。
 商品名も既に決まっている。あれしかないだろう。
 栄養剤が完成したら次は日焼け止めクリームを作りたいと思い、ティアは一層研究に没頭した。


 惑星オールドラントは今日もそれなりに平和である。








[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十六節 13歳の誕生日
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/16 16:50



 1Day,Ifrit,Lorelai Decan ND2015 新暦2015年13月1日(火)


 ティアは13歳になった。
 いつもティアの誕生日は兄の祝の言葉から始まる。兄が外殻に出ていってしまってからも、誕生日だけは特別だった。
 朝、この日だけは兄が起こしに来てくれる。わざわざ休暇をとってまで魔界に来てティアに「おめでとう」と伝えに来てくれていた。
 それは魔界に一人置き去りにされていたティアにとって、とても嬉しいことだった。
 だからわざと誕生日の日は、ティアは寝坊することにしている。そうすると兄が優しく声をかけてくれるのだ。


 朝日が射し込み、鳥が盛んに鳴き始めたころ、ヴァンはティアの部屋を訪ねていた。
 案の定、ティアは寝ている。毛布にくるまって背を向けていた。

「ティア。ティア、起きなさい」

 その兄の声を聞きながらもティアは寝たふりを続ける。もっとその声を聞きたい。
 布団の温もりと兄の声は大切な思い出に繋がっている。それだけで幸せな気分だ。
 そう思うとティアは笑顔になってしまう。

 それを目に留めるとヴァンはくすりと笑いながら、ティアを起こす言葉を口にする。

「ほら、起きているのだろう? 起きないとティアの為に作らせたこの贈り物も、何処かにいってしまうだろうな。ああ、オラクルには女性も多いから――」
「起きる! 兄さん! もう、起きたからっ」

 ティアはその内容に飛び起き布団をはねのけ、パジャマ姿のままヴァンを見上げた。長い髪には少し寝癖がついている。
 そしてその毎年変わらない様子を認め、ヴァンは微笑みかけた。

「おはよう、ティア。それに、おめでとう。お前が生まれてきてくれたことに感謝しているよ」
「兄さん、おはよう。いつもありがとう。兄さんの言葉が一番嬉しいわ」

 兄の言葉でティアは幸せな気分になり、笑顔を返す。
 朝日に包まれながら、二人は何かの儀式のように言葉を交わしていた。

 いや、ティアにとってはこの誕生日は大切な日だった。
 兄におめでとうと言われることで、生まれてきて良かったのだと思い直す。それを確認できる大事な日だった。
 着替えるからと兄を追い出して、ティアは改めて兄の言葉を反芻する。
 『お前が生まれてきてくれことに感謝するよ』
 ティアは、ほっと一安心した。私はまだ兄の妹である。誕生日は大切な、特別な日だった。


 ヴァンは一年ごとにティアの姿を確認し、その妹の成長を喜ばしいと思っていた。
 ティアがいなければ、魔界でヴァンはあそこまで努力できなかっただろう。
 母はティアを産み、ヴァンに託すとすぐに息を引き取ってしまった。
 魔界に一人取り残されていたら、ヴァンは預言への復讐心だけで動いていたはずである。
 ヴァンの人間らしい部分は、妹であるティアのおかげで形を保っていた。

 時々、本当に時々ではあるが、ヴァンは想像する。もしもホドが滅びていなかったらと。
 父も母も健在で、ヴァンは次期フェンデ家当主としてガイラルディア様に仕え、ティアも軍服ではなくドレスで着飾る。
 そしてあの島で健やかに暮らし、細々とその血を後世に残すのである。その場合、ヴァンは島の豪族を娶るのだろう。
 ティアは島から出ることなく大事に育てられ、一人の女性として幸せを手に入れる。

 ユリアの家系は女系である。
 開祖がユリアであるからか、それとも第七音素譜術師に女性に多いからか、理由は定かではない。
 もしかしたら男性のY因子が何かを阻害しているのかもしれない。とにかく女の方が大事にされていた。
 ホドの島には、幾つかのユリアの血を引く有力な女系の豪族が続いていた。そこから代々フェンデ家は嫁を貰う。
 ユリアの女系の子孫と男系の子孫の血が混じるフェンデを軸として、その関係は連綿と続いてきた。
 男系優位な社会だからこそ、その繋がりは隠されてきたのである。

 フェンデ家はまがりなりにも貴族に連なる家。戦争にも参加しなければならない。
 ましてや『ガルディオスの剣』とまで呼ばれるならばなおさらである。ガルディオス家のために戦場で散ることもあった。
 そんなことが想定される地位を失えない者に与えはしない。

 フェンデ家はユリアの墓と次代ガルディオス家当主を守る。
 そしてガルディオス家はユリアの末裔が暮らすホドの島を守る。その当主をナイマッハ家が守る。

 幾重にも守りを固めて2000年。ユリアの血は現在まで伝えられてきた。
 だが13年前に二人の父も戦場で死に、母も後を追い、僅かなりとも血の繋がりがあった親類もホドの滅亡で塵となった。
 ユリアの直系はいまや二人のみ。そしてティアは確実に血を残せる唯一の存在であった。

 尤もヴァンはユリアとホドの関係について、ティアには全く教えていない。必ず子を成せと強要するつもりもなかった。
 ホドはユリアの血を守る堅牢な砦であった。過去形である。もうその役目を果たせない。ならば、それに纏わる話など知らずとも良いと考えていた。
 それに古い時代はヴァンがこれから一掃するのである。過去のしがらみなど余計なものだ。
 ただヴァンはそれまでティアが生きてくれれば、幸せになってくれれば、十分だと思っていた。


 ティアはシンプルな服装を選んで、扉を開けた。目に飛び込んできたのは大きな包みである。
 ティアの視線を追い、ヴァンは苦笑しながらその正体を告げる。

「これはラルゴからだ。毎年、あいつも飽きないな」

 包みを解くと中からは、白地に黒ぶち模様のぬいぐるみが出てきた。

「これは、牛かしら?」
「そのようだな。まったく、去年は兎、一昨年は猫。少しは考えればいいものを」

 ヴァンは少し呆れ気味にラルゴの贈り物を見た。ラルゴはティアが神託の盾に入団した年から贈り物を渡している。
 それはディストの下に居るティアを気遣ってからなのか、それとも上司の家族への心遣いなのか、ティアはその真意を知らない。

「いいの。結構楽しみにしてるのよ。来年は何だろうって」
「それならいいが。部屋が狭くならないか?」
「いざとなったらユリアシティに送るから」

 ティアはそのぬいぐるみを丁寧に持ち上げる。
 おそらくこれらの贈り物は、本当はナタリアに与えたかったものなのだろう。
 そう思うと無禄に扱うことができない。実の娘は真実を知らず城の上にいるのだから。

 大事そうに二頭身のぬいぐるみを抱きしめるティアを見て、ヴァンはその贈り主と出会ったときを思い出す。
 あのとき彼は胸の内に燻る不満と怒りの矛先を求めているようだった。




   *******




 ザンッ!

 仲間を殺されて此方に向かってくるサイボアを鎌で薙ぎ払った。一匹、また一匹と塵へ帰す。
 大の男でも持ち上げることが難しそうなその大鎌を彼は平然と振り回した。
 このサイボアは砂漠ではありふれた魔物である。遠心力を利用し、その柔らかい肉をぶった切る。
 彼がそれを十数回繰り返したころには、辺りの魔物の影はなくなっていた。

 バダック・オークランド。彼は砂漠の商隊の護衛を生業としていた。腕は確かで引く手数多である。
 「お疲れさん」と雇用主はバダックを労った。そしてもう少し続けないかと続きそうな声をかわしながら、バダックは早くバチカルに戻りたいと思った。

 妻のシルビアは今、子供を身籠っている。身体が丈夫ではないのでバチカルで母親と一緒に暮らしているのだ。
 寂しい思いをさせていると思うが、それも今回まで。この仕事を終えたらバダックは護衛から手を引き、バチカルで仕事に就く予定だ。
 酒場の護衛ぐらいなら満足に果たせる。貯蓄もあるので何か店を開いてもいいかもしれない。
 まあ、それも子供が無事生まれてからの話だ。バダックはこれからの光に満ちた未来を思い描いていた。
 親子三人で笑顔あふれる家庭を。

 しかしそのささやかな、ありふれた未来は暗闇に閉ざされてしまった。

 仕事を終えたバダックを待っていたのは、無言で横たわる変わり果てた妻の姿だった。
 義母が言うにはシルビアは死産だったそうだ。子の死を受け止められず、憔悴し空事を言うようになり終には……。
 バチカルの港から海に落ちたらしい。事故と処理された。
 身体の弱い女性だった。だからなるべく近くに居れるようにとバダックが決心した矢先のことである。

 それからバダックは荒れた。
 ごろつき相手に喧嘩を売り、物足りなくなると故意に隙の多いふりをして盗賊を退治する。
 それでも満たされなかった。バダックが本当に殴りたいのは自分自身だったのだから。
 自分が子供を望んだから、シルビアは死産だったことにショックを受けたのだろう。
 自分がもう少し早くバチカルに戻っていたら、彼女が冷たい冬の海に落ちることもなかったのではないだろうか。


 バダックは度が強いだけの、おいしくもなんともない酒をグラスに注ぎ一気に煽ろうとした。
 そのとき、彼の家を誰かが訪れた。

「貴殿がバダック殿かな。随分と荒れているようだ」
「出ていけ。お前に用はない」

 誰の言葉も聞きたくない。下手な慰めも、忘れろという言葉も聞き飽きた。
 バダックは愚かだと知りながらも、ここで足踏みをしているしか選択肢が無かったのである。
 一向に去る気配が無い男にバダックはもう一度去れと言おうとした。
 だがそれよりも早く紡ぎだされた彼の言葉に、バダックは頭が真っ白になった。

「知りたくないのかね。何故バダック殿の妻が死んだのか。何処に娘がいるのか」

 荒唐無稽な話だと思いながらも、バダックは彼が喋るのを止めなかった。
 少しだけ興味があった。妻の死を知り、死産だった娘が生きているという与太話を自信満々に語るこの男に。

 だが、話が進むにつれてバダックは彼の言葉を真剣に考え始めた。心当たりが有りすぎる。
 預言に詠まれたからこの子を産むと断言した妻。
 バダックに何故かうしろめたそうだった義母。
 最近、産まれたという金髪の王の娘。

 そして、その全てが預言の名の元に仕組まれていたらしい。

 「少し考えさせて欲しい」と言って男を追い出し、バダックは激情に身を任せバチカルの城を訪れた。
 考えるまでもない。此処に、娘がいるのだ。産まれて母の腕に抱かれることもなく、連れ去られた娘が。
 死んでなどいなかったのだ。その喜びと怒りがバダックの足を進ませる。

 しかし、王城の守りは固い。門のところでバダックは阻まれた。
 鍛え上げていた身体も最近の不摂生が祟って思うように動かない。
 せめて声だけでもと、呼べばその門が開くのではないかと、バダックは娘の名を叫ぶ。

「メリルゥゥゥウウウッ!」

 騎士は、拘束されながらも誰かの名を必死で叫ぶバダックを嘲笑った。
 大方振られてしまった城の侍女でも呼んでいるのだろう。手に持つ槍で罪人を打ち据えて、声を張り上げる。

「王城に侵入しようとするなど笑止千万。此処に居られる方を何方と心得ているのだ。栄えあるキムラスカ・ランバルディア王国の王であるぞ!」

 その一言にバダックの心は急激に冷めていく。そう、娘は王の娘なのだ。
 自分では与えられないほど満たされた生活を送っているだろう。
 絹の産着を着せられ、お付きの侍女がいる。服も食べ物も困ることなどないだろう。
 同じ片親といえども、その差は歴然である。今まで何もしなかった父親がのこのこと顔を出して何になるのだ。
 最悪、王族を騙ったとして親子共々処刑されることも考えられる。

 急に大人しくなった罪人にキムラスカの威光を思い知ったのだろうと解釈し、彼らはバダックを街の外に放り出す。
 追放処分を受けたバダックはバチカルを後にした。そしてその足でダアトに向かう。

 娘は城で不自由ない生活が送れるはずである。生きているのならば、幸せになれるのならば、それでいい。
 父親らしいことを自分はできない。こんな自分と親子であっても良いことなど何もない。

 預言のことを知ってしまった今、燻り続けていた火種は風に煽られこの身まで焦がそうとしている。
 妻に死を強要させた預言が、娘を奪った預言が憎かった。そしてそれを実行したキムラスカ王国が。
 だからあの得体のしれないヴァンを頼る。

 バダックはラルゴになり、その復讐の黒い炎を燃やす一匹の獅子となった。




   *******




 ティアは牛っぽいぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながら考える。

 もしも預言が詠まれなかったら、バダックは家族三人仲良く暮らしていたはずである。
 護衛を辞めてバチカルの城下で働き、娘にお父さんの後の風呂は嫌なんて言われて、こっそりショックを受けるのだろう。
 娘の誕生日には大きなぬいぐるみを贈って、きっと娘が20歳になってもぬいぐるみを贈るのだ。
 そして金髪の美人な奥さんはそれを見て笑い、娘も複雑な顔をしながら受け取るのだろう。

 そうあり得なかった未来を思い浮かべると、なおさらこの人形は大事にしなければとティアは思う。
 子供が動物のきぐるみを着たような可愛いデザイン。ラルゴにお礼を伝えて欲しいと兄にティアは頼んだ。

 ヴァンはそれをすぐに了承し、そして自分の懐から贈り物の箱を取り出す。
 修復に時間がかかり予定よりもかなり時間が懸かってしまったが、それに見合う機能を持っている。
 小さな箱にかけられた青いリボンを解き、中を見てティアは驚いた。

「これ、響律符(キャパシティコア) よね?」

 響律符は譜石に符を彫り込んだもので、刻まれた譜の内容に応じて身体能力が向上したり、譜術の威力を高める効果を得られるものだ。
 そして同時に装飾品としても価値が高く、凝った作りのものや機能の優れたものは婚約指輪のように扱われている。
 そして兄が見繕ったものは一目で貴重なものだと分かる作りをしていた。嬉しいのだが、それを身につけるのは少し躊躇われる。
 「こんな高価なもの貰っていいの」と慌てふためいているティアを宥めて、ヴァンは箱からそれを手に取る。

「ほら、後ろを向きなさい」

 兄に促されてティアはその言葉に従った。ヴァンはティアの細い首に鎖を架ける。
 ティアは振り向きながら、そっと髪の下に手を通し払う。茶髪が朝日に映え、その胸元でキラリとそれが光った。

「兄さん。……どう?」
「ああ、良く似合っているよ」

 『フォルノーレ』を身につけ、おずおずと尋ねてきたティアをヴァンは眩しそうに目を細める。
 その兄の返事にティアは満面の笑顔を向けた。

「ありがとう兄さん。これ大事にするわ」

 兄が贈ってくれたものは、母の形見のブローチに貴重な本など大切なものばかりである。
 兄が与えてくれたものは、温かい腕と優しい歌声と十分なほどの愛情である。

 私は兄に恩返しをすることができるのだろうか。
 私は兄を救うことができるのだろうか。

 湧き上がる不安を抑えて、ティアは兄と共に在れるこの時間を満喫しようとまずは兄を朝食に誘った。









[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十七節 遅すぎた後悔の行方
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/16 21:16





 昨年のケセドニア北部の戦いから、またマルクトとキムラスカの間がきな臭くなってきた。
 二年前に即位したピオニー・ウパラ・マルクト9世は、軟化政策を掲げているものの実態が伴っていない。
 6000人と団員が多い第一師団と第二師団は、それぞれマルクトとキムラスカへと演習の相手をして来たばかりである。
 年末から打ち合わせが多く師団長も相手国へと出向かなければならなかったので、ディストを説得するのが大変だった。
 両国ともダアトとの交流という名目だったが、その本音は見え透いている。戦争が待ち遠しいのだろう。

 リグレットは苦々しい思いを呑み込んで、第三師団の食堂へと向かう。師団が分割された後も建物の関係上、食堂は共用である。
 この時間帯なら大抵の団員は食事をしに来る。それが白衣組と呼ばれる技手であってもその例に漏れないはずだ。
 長期任務から帰ってきたラルゴとヴァンの会話で彼女の名が出てきた。ヴァンの妹。
 第五師団の技手は数が少ないので白衣を着ていれば一目でわかるだろう。――見つけた。


 ティアはアリエッタに懇願されたこともあり、久しぶりに食堂を訪れていた。メニューを眺めて、少し悩んでから食券を購入する。
 長い列に並んで待つ。此れがあるから、食堂は避けていた。じりじりと前に進みやっと順番が回ってくる。
 出来たての食事は暖かい。セットで付いてくるコンソメスープからは湯気が経ち、ほんのりと野菜の良い匂いがする。
 野菜の旨味が溶け込んでいるスープを想像して、お腹が空いているのだとティアは実感した。
 お昼過ぎの休憩時間。混雑しないようにと休憩はずらしてあるそうだが、それでも人が多い。運よく通路側の空いた席を見つけたティアは素早く座った。

 そしてスープを堪能して、メインのオムライスを端の方からスプーンで切り崩す。なんとなく、ケチャップの模様は消したくない。
 癖のない鶏肉と濃厚なトマトの味が口の中で広がる。タマネギの甘味がさらに深みを持たせていた。
 とろっとろの半熟も好きだが、このオムライスのようにしっかりと中身を包み込んでいる卵も好ましい。甲乙つけ難いとはこのことである。
 瑞々しいサラダのレタスを噛むと、シャキッと音が鳴る。身体の中の不純物を浄化してくれそうだ。
 こんなに美味しい料理がセットで680ガルドとは、ダアトの料理人は末恐ろしいとティアは水を飲みながら思う。
 スープが少し温くなり、オムライスが残り3口ほどになったころ、ティアは名を呼ばれた。

「ティアというのはお前か?」
 
 ティアは怪訝そうな顔をしながら手を止めて、此方を見下ろす兄の副官を見上げる。
 リグレットの声は嫌に響いた。食堂の注意が二人に向けられ、ひそひそと彼女たちの名を囁く者もいる。
 ティアは食事に夢中で気づいていなかったが、誰かを探すように席の合間を歩いていた第四師団長兼主席総長付副官の姿は人目を引いていた。

 そこでやっとティアは注目を浴びていることに気づき、眉を顰める。
 こんな人が多いところで、リグレットのような立場に居る者が一技官を探すだなんて真似は止めて欲しい。
 教団の仕事についてなら普通に呼び出すだろう。まったくの私事というわけだ。
 私とリグレットの間にあるプライベートな関係と言えば、兄のことしかない。
 どこで私が妹だと知ったか知らないが、もう少し隠されている意味について考えてほしかったものである。
 ただでさえいきなり総長の副官に任じられて愛人と噂されているのに、保身という言葉はリグレットの辞書にはないのだろうか。

 ティアは無言で席を立つ。久々に美味しい食事にありつけたと思ったらこの始末である。
 3口分のオムライスを残して、ティアはリグレットを研究室に案内した。




「それで、主席総長の副官が私に何の用でしょうか?」

 飲み物も出さずにティアは話を促した。

「お前はあのヴァンの妹なのだろう? 興味があったのだ」
「そのことは特定の人物にしか知らされていない教団の機密です。余り触れ回るような真似はしないでくれませんか」
「それはすまなかったな。妹がいると言うことを知って、いてもたってもいられなくてな」
「そうですか」

 口では謝っているが、リグレットの態度は謝罪している人間のものではなかった。それを感じ取ったティアはおざなりに対応する。
 リグレットはいつもシンクが座っているソファに腰掛け、興味深げにティアを観察していた。
 その不躾な視線は不愉快極まりない。そう思い黙り込んだティアにリグレットは質問する。

「お前は自分の兄についてどう思っているのだ?」
「兄は私の大切な家族です」
「そういう当たり障りのないことじゃなくてだな――」
「ですから、私は兄のことが大切で、何よりも大事で、大好きなんです」
「…………」

 にっこりと最大級の笑顔を付けてティアは言い放った。
 ティアから兄に対しての悪口は引きだすことはできない。
 なんせこれから世界を壊す予定の人物だと知っていてもティアは兄を愛している。
 臆面もなくティアが兄を好きだと告げるとリグレットは憎々しげな顔をした。

 それは目の前にいる私にではなく、私の兄に向けられているのだろう。いったい彼女は何をしに来たんだろうか。
 ティアはこの礼儀知らずな兄の副官の目的が分からなかった。
 確かに言えるのは不快な気分にさせられている、ということだけである。

「あなたは私から何を聞きたいんでしょうか?」

 さっさと帰って欲しくて、早く本題を済ませようとティアは思った。


 そんなティアの気持ちを無視してリグレットは両手を目の前で結び語りだした。
 この兄を大好きだと言い切るヴァンの妹がどんな反応を見せるのかリグレットは知りたかった。

「……私にも大切な弟がいた。自慢の弟だった。両親が流行病で死に、親代わりの姉として弟の成長は何よりも嬉しかった。
 大きくなって二人で神託の盾騎士団に入り、弟はヴァンの下に配属された。マルセルはヴァンのことを慕っていた、いや、崇拝していたと言った方がいいだろう。
 マルセルは会うたびに『ヴァンさんが、ヴァンさんが』と話してくれた。それを聞いて私は安心していたんだ。こんなに弟が慕っているなら優秀な人なんだろうと」

 一つ息を吐き、込みあがってくる激情を抑えようとリグレットは試みた。
 本当に弟はヴァンのことを信頼していた。キラキラと目を輝かせて会えば二言目には尊敬するヴァン師団長のことを話していた。
 だから、弟の死ことを考えると悔やんでも悔やみきれない。そして後悔はヴァンに対する怒りへと変わる。

「私は愚かだった。ヴァンは弟が慕うに値するような人間ではなかった。
 先の戦いで、ヴァンの率いた隊にいたマルセルは死んだ。ヴァンは私と、私の弟の信頼を裏切ったのだ!」

 リグレットは預言に関する恨み辛みは省いて、ただヴァンだけを口汚く罵った。
 ヴァンがマルセルを誑かして戦地に連れて行かなければ、弟は死ななかったはずである。

「そうですか。それはお悔やみ申し上げます」

 ティアは言葉少なに返答した。ただの一技官である私から言えることはそれしかない。
 その冷淡とも言える反応がリグレットの癇に障った。ティアに対する敵意でその目を光らせ喚く。

「お前の兄が、私の弟を、マルセルを殺したのだ! それをお悔やみ申し上げますだとっ!?」

 ぎらついた目に憎悪の火を灯しリグレットは腰を浮かし、いまにも掴みかからんばかりである。
 目の前にいるのが白衣を纏った華奢な13歳の小娘でなければ、既に殴っていただろう。なけなしの理性でリグレットは手を握りしめ、じっと耐えた。
 そんな頭に血が昇っているリグレットに冷え切った氷のようなティアの声がかけられる。


「お言葉ですけれども、戦場に絶対という言葉はなどありません。それはあなたもあなたの弟も承知していたはずでしょう。
 戦争での死の責任をその場の指揮官にだけ問うなど、おかしなことを仰らないで下さい」

 突き詰めてしまえば、戦争とは外交の一つの手段に過ぎない。二つ以上の国が存在する以上、その間には何らかの関係が生じる。
 そして対等な関係を装ってはいても水面下では熾烈な争いがあるのだ。それが武力という形で表面化したのが戦争なのである。

 尤もキムラスカとマルクトの間には良好な関係など微塵もない。
 長い歴史の中で幾度となく戦い、もはや積年の恨みは募るばかりである。
 友好的か敵対的かというよりは好戦的か厭戦的かという交渉の余地もないような間柄である。
 それでも世界を二分しているこの状況では、何らかの妥協点を見出さなければ発展の余地はない。

 だというのに戦争だ、殲滅だと馬鹿の一つ覚えのように叫ぶ。これも預言の弊害だろうか。人の常かもしれない。
 だが、だからといって国政の指導者がその責任から逃れて良いというわけではない。開戦したのならばその犠牲の責任を持つべきである。

 それが神託の盾騎士団の犠牲ならばダアトの導師が負うべきものだ。二国の戦争に介入し、余計な戦死者を出した。
 預言に詠まれていたとしても、その死が意味あるものだとしても、それは変わらない。もちろん兄に責任が全然無いとは言えない。
 けれども、全て兄が悪いと罵るリグレットの態度をティアは許せなかった。


 ティアの理屈を前にリグレットは押し黙った。
 軍人である以上命令されれば拒否することはできない。それは弟にも、そしてヴァンにも言えることなのだ。

 結局のところリグレットの行動は他者から見れば滑稽なことに過ぎない。
 弟の死が受け入れられず、あたりに喚き散らしてヒステリーを起こしているようなもの。
 つまり古参の兵に言わせれば覚悟が足りなかったと表現されるようなことである。

 ティアの言葉を受けて、リグレットは握りしめていた拳の力を抜いた。

「すまない。弟の話をして、つい……」

 リグレットも理性では分かっている。
 自分がやっていることで弟が帰ってくるわけでもなく、ただ行き場のない感情を一纏めにしてヴァンにぶつけているだけだと。
 だが感情が追いつかない。何故マルセルが死ななければならなかったのかと心は荒れ狂うばかりである。

 秘預言に全滅すると詠まれていたということを知ってからは、リグレットはローレライに祈ることもなくなった。
 教団もオラクルも弟の死に加担していたのかとリグレットは絶望した。
 そして自暴自棄になりヴァンを問い質した。いや、マルセルの仇を討ちに行った。
 リグレットにはもう何も残っていなかったのだから、そこで殺されても良かった。

 殺されるものだと思っていたのに何故か私はまだ此処にいる。
 主席総長であり詠師でもあるヴァンの前で預言を否定した。謡将なら一太刀で切り殺せるはずである。
 リグレットはヴァンの行動がまったく理解できなかった。理解できないから理解したいと思った。
 弟が慕っていた彼を見ていれば弟の気持ちが分かるだろうか。私を副官に任命し未だに生かしている理由も。

 そしてヴァンの大事な妹の存在を知り、リグレットは居てもたってもいられず押し掛けた。
 リグレットは深呼吸をして気を取り直した。ソファに座りなおし、ティアにゆっくりと問いかける。

「ヴァンはお前にとって、良い兄なんだろうな。……お前の兄の話を、私にしてくれないか?」


 その様子にティアは疑問に思う。兄にリグレットは並々ならぬ関心があるらしい。
 だがどちらかというと負の感情を持っているようだ。これが何故あの兄を閣下などという忠実な副官になるのか。
 首を傾げながらも、ティアは仕方なく兄の話をする。リグレットは十分な話を聞くまで此処に居座りそうだった。
 魔界での思い出を語る。離れ離れになっていたときのことも口にする。

 兄が子守唄を歌ってくれたこと。その声がとても澄み切っていること。
 兄が絵本を読んでくれたこと。そして兄が博識であること。
 兄の稽古を見学したときのこと。兄は剣技も優れていること。
 兄が筆まめであること。兄がとても心配性であること。
 兄が誕生日を必ず祝ってくれること。兄に送った贈り物のこと。

 ほかにもたくさん喋った。喋りすぎて途中でティアは水を飲まなければならなかった。
 話終えたとき、ティアは恍惚とした表情を浮かべていた。

 リグレットはティアの話に相槌を打ちながら、必死でヴァンという人物を理解しようと努めた。
 そしてティアの話が終わるとリグレットは礼を言い、足早に研究室を去った。




 何だったんだろうか。私とリグレットの兄弟自慢とか? いろいろと違う気がした。
 疲れ切ったティアはとりあえず紅茶を淹れる。こんなとき、ディストの淹れた紅茶が恋しくなってしまう。

 
 こちらから接触しなければリグレットと会話する事などないとティアは思っていた。
 どれくらい私はシナリオに介入できているのだろうか。
 介入できても全てが予定調和として意味のないものになり下がってしまうかもしれない。
 不安になると切りが無くなってしまう。喉を潤すためだけの紅茶を飲む。

 ルークの力を借りて外殻を降下させれば、話し合いの時間ができる。
 その場で兄の罪を減刑して貰おう。それでも公職追放は免れないだろう。けれど、兄が生きていてさえくれればそれでいい。
 邪魔をするなと怒鳴られても、お前がいなければと嫌われても、傍にいれなくても青い空の下で元気でいてくれるなら十分だ。

 減刑が叶わず処刑が決まったら、逃亡して二人でナム孤島にでも身を寄せようか。
 確かあそこにはフェレス島の出身者を中心として居場所のない者が身を集まっていたはずだ。

 しかし兄が救えた場合、和平が本当に成立するのかが心配である。
 原作では兄が再度彼らの前に立ち塞がったから世界が一つに纏まった。
 だが、私が兄を救ったらまた戦争が始まってしまうのではないだろうか。
 第七譜石の滅亡は導師が命を懸けてまで詠む事態にならなければ明かされない。
 外殻の崩落という危機が去れば、キムラスカが戦争を仕掛けそうである。

 ティアは深いため息をつき、可能性を探るために思考に耽った。
 2018年が来るまでに、どの程度の予防線を張れるのか。未だ問題は山積みである。







[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十八節 天使と悪魔
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/17 21:30





 シンクは机の上の書類が一通りなくなったので、いつものようにティアのところで休憩しようと席を立った。
 するとその様子を見ていた副官のトリートはにこやかに笑いながらシンクの背に一言、投げかけた。

「いってらっしゃいませ。余り居座って天使殿を困らせてはいけませんよ?」


 トリートは第五師団長付副官である。
 師団長であるシンクが参報総長も兼任しているので、その負担を減らすために副官の任についている。
 シンクが師団長になる前に何度か任務を共にしたこともあり、トリートは再編後三日で彼の性格をほぼ掴んだ。
 その仮面のせいで表情は分からないが、その気配は素直に感情を表している。
 トリートはシンクが書類の多さに辟易してきたころ、絶妙のタイミングで団員の訓練を頼む。
 舞い込む苦情に口元がひくついてきたときに、魔物退治や盗賊退治の任務を差し出す。
 気配りが自然とできるため、気難しいところのあるシンクとトリートの仲はおおむね良好だった。

 そのトリートがシンクの変化に気づいたのは早かった。
 第五師団が発足してから七日目の朝、出勤してくるとシンクは既に執務室にいた。
 これまでは時間ちょうどに来ていたのに珍しいことだとそのときは思った。
 シンクの書きあげた書類を処理し整理する。いつも通りのことだ。普段より早目に終わりシンクはさっさと執務室を出て行った。

 その次の日、トリートが扉を開けるとそこには既にシンクがいた。
 早起きが続いたのだろうかと思いつつも挨拶をして通常業務を行う。
 その日も朝の分だけ早い時間に仕事は終わった。シンクは振り返りもせずに何処かへ行ってしまった。

 その次の日、シンクはちょっと不機嫌な様子で時間ぎりぎりに表れた。
 早起きが三日は続かなかったのかなと思い、またこれまでと変わらない毎日に戻る。

 だが、そのころからシンクは随分と変わった。
 ときどきフラッといなくなり、帰ってきたときのシンクはいつもより感情豊かだった。
 何処に行ってるのだろうかとトリートは不思議で仕方なかった。

 そして耳に入る噂。
 師団長が技手の研究室に出入りしているらしい。トリートには一つ心当たりがあった。
 あるときふと思いついて執務室を出ようとしていたシンクを呼び止める。
 技手宛ての書類を渡し「ついでにお願いしますね」とトリートが言うと少しの間が空いた後、彼は了承した。
 そして宛名を見てふっとシンクの雰囲気が柔らかくなった。
 どんな人なんだろう。トリートはこのシンクの心を動かしたティアという人間が気になった。


 副官繋がりで第二師団の副官であるミックスに尋ねてみたときの反応は予想外だった。
 ミックスはその彼女に心酔していたのである。彼はトリートの両腕を掴み、如何に彼女が素晴らしいか語る。
 そして「彼女は我々の天使なんだっ!」という言葉から始まった話は終いには彼女のいない第二師団の現状に至る。
 「師団長は以前のように仕事をしなくなり……」とトリートは愚痴を聞かされる羽目になった。
 第二師団のディスト師団長の落ち込み方は悲惨なようで、苦労しているようである。トリートはその日の会計は自分が持とうと思った。

 彼女は士官学校を卒業してすぐに個人主義者の技手を虜にし、ディスト師団長にも一目置かれていたそうだ。
 それを見て駄目元で頼みこむと彼女は天使の微笑みで引き受けてくれて、率先して書類などを手伝ってくれたらしい。
 お礼に任務を一緒に受けると彼女はその手で「お疲れ様です」と言いながら癒してくれたそうで、その話をミックスは何度も繰り返す。

 他にも、第二師団のマスコット。
 グランツ謡将が第五師団に推薦した優秀な技手。
 あの椅子に座れる死神ディストのお気に入り。
 士官学校出身で成績は普通、ただし科学は抜群。
 妖獣のアリエッタのライガに触れる。
 死者蘇生もできる癒しの白衣の天使。

 あのディスト師団長の手綱を握れる人なら、うちの師団長が難なく攻略されてしまってもおかしくない。
 むしろ彼女に会いに行くようになってからシンクは良い方に変化した。副官として喜ばしいことである。
 彼女にはいつか礼を言いたいなと思いつつ、彼女に愛想尽かされてしまったらどうなってしまうんだろうかと心配した。

 だからこそトリートは忠告したのだが、彼のこの気遣いはシンクに通じなかったようだ。
 シンクはトリートに馬鹿にしたような嘲笑を残して、さっさと執務室から出て行った。




 天使。

 普段聞き慣れない単語を聞いて、シンクは一瞬トリートが何を言っているのか分からなかった。
 甘いものの食べすぎで脳味噌に花畑でも出来てしまったんじゃないかと一瞬本気で彼の頭を心配した。
 彼は大の甘党で3時にはおやつを食べ、彼の机の中には飴玉やクッキーが常備されている。
 そして彼の言っている天使があのティアのことだと気づき、その余りの認識にあほらしくなって返事もせずに部屋を出て来た。

 『白衣の天使』、ティアの第二師団での呼び名の一つである。
 これはその名の通り類稀な癒し手であることを意味している。

 だがもう一つ、白衣は技手の象徴でもある。

 ティアは連れ回してくれたお礼にと彼らにお手製の栄養ドリンクや回復薬を差し出した。
 つまりティアは屈強な第二師団の面々を実験体に選んだ訳である。もちろん、日頃の鬱憤を晴らすためだ。
 試作品だったそれらは効力重視で味など考慮されてなどおらず、彼らは口にした瞬間、昇天した。
 彼らが気を失っているうちに外傷は治り、それは天使の仕業と言ってもいいかもしれない。
 傷の痛みが無くなり被験者が目を覚ますと、満面の笑顔でティアはその経過観察をしていた。
 傍目に見ると献身的な人間に見えるだろう。だが、舌の上に残っている味が現実を教えてくれる。

 『白衣の天使』、その白衣という単語には素晴らしい癒し手だが彼女はあの技手である、という虚しい現実が込められている。

 ディストからその話を聞いて、ティアの試作品を食べたことがあったシンクは笑えなかった。
 そのときシンクはオリジナルに会った気がした。それを知らない人間は額面通りに受け取っているみたいだが。
 やっぱり悪魔が一番似合うんじゃないかとシンクは研究室に向かいながら考えていた。




 見慣れた廊下を通ってシンクは扉を開く。

「あ、師団長だあ。師団長ぉ、その仮面ってやっぱり趣味なの?」
「…………」
「答えてくれたら、良いこと教えてあげようと思ったのになあ~」
「黙れ」

 シンクは扉を開けた瞬間声をかけてきた金髪に頭が痛くなった。
 こいつは初めて自分が此処を訪ねたときからこうだった。甘ったるい声を出しながらシンクに近寄ってくる。手酷くあしらっても懲りない。
 こういったところが上司に嫌われたんだろう。この研究室の連中は個性が強すぎて困る
 シンクの後ろで「後悔しても、僕は知らないんだからね~」と続く言葉を無視して応接室に入った。


 シンクは部屋に入ってからもずっと不機嫌だった。金髪の言う通り後悔していた。
 それもこれもこの空間にピンク、妖獣のアリエッタがいるからである。
 ただ無言でティアの淹れた紅茶を飲んだ。シンクの周囲にはブリザードが吹雪いている。

(まったく、なんで此処にこいつがいるのさ)

 シンクは七番目とアリエッタには関わらないように過ごしてきた。
 ティアの件で連絡を取ってはいるものの、極力副官を寄こすようにしている。
 オリジナルのお気に入りだった元導師守護役。死ぬときに解任させるほどの執着を見せた相手。
 オリジナルと深い関係がある者には近づきたくなかった。

 もしもイオンに似ているなどと言われたら……。
 失敗作であるシンクにとってこれほど残酷な言葉はない。同じではない部分があったからこそ彼は捨てられたのだから。
 かといって似ていないという言葉ほど嘘くさいものはないだろう。

 シンクがイオンのレプリカであるという事実はどうしたって覆らない。
 だからこそ導師イオンと直接顔を会わせたことが無いティアの研究室にシンクは通う。
 レプリカ技術のことを理解しているティアにとって、シンクはシンクでしかない。

 いつまでも黙っているわけにもいかずシンクは口を開いた。

「あんた、なんでこの部屋にいるのさ。森に帰りなよ」
「……アリエッタ、ティアに呼ばれたんだもん。シンクこそ、邪魔……」


 アリエッタはシンクが来たことに驚いていたものの、すぐにシンクの言葉に反論した。
 アリエッタにとってシンクは落ち着かない存在だった。イオンと同じ顔で、イオンと違う行動をする。
 彼に会うと自分の大切な思い出が踏み躙られているような気分になる。
 イオンはアリエッタにだけは優しかった。アリエッタにだけは親しげに話しかけてくれた。
 なのに目の前の彼はアリエッタに敵意を見せて、イオンは絶対に言わなかったことを口にするのである。

 二人の間には一瞬の沈黙が流れ、視線が絡み合う。お互い深呼吸してから次の台詞を喋る。

「此処は第五師団の場所だよ。余所者は出ていけって言ってるんだ」
「……ここは、ティアの研究室……」
「そのティアの上司は僕さ。チビは帰ってライガに泣きつけばいいんだ」
「アリエッタ、チビじゃないもん!」
「はっ。僕より小さいじゃないか。それをチビと言わないで、何と言うのさ」
「む~。……シンク、年下のくせに生意気……」
「なんだって!?」
「何度でも言うもん! 生意気なシンクッ!」

 二人の口論はますますヒートアップしていき、此処が研究室の隣でなければすぐに喧嘩になっただろう。
 シンクの舌は軽快にまわり、アリエッタの口調もいつもより激しいものである。


 ティアは一部始終を眺めながら困惑していた。
 二人が密かに連絡を取り合っているらしいと聞いてティアは安堵していたのである。
 アリエッタはアリエッタなりに導師イオンの死を乗り越えようとしているのだろうと。
 シンクもストーカーをされなくなったのでアリエッタを受け入れたのだろうと。
 二人の間で何らかの解決が成され、仲良くなったんだろうなと思っていた。

 ティアを仲間はずれにしているのは、何か理由があるのだろう。
 そう思って少し待ってみた。落ち着いたら話してくれるだろうと。
 けれども全く彼らからはその素振りが見られなかった。少しティアは寂しかった。
 二人に理由を話す気が無いならと、この偶然に頼った再会を仕組んでみたのだが。

 何故、仲が良いはずの彼らが言い争っているかティアには理解できなかった。
 此処が薬品や高価な譜業のある場所でなければ奥義を繰り出していそうな雰囲気である。
 何か間違ってしまったのだろうか。余計なことをしてしまったのだろうか。
 そう考えている間にも二人の間には亀裂が入っていく。一通りの悪口を言い合った次は睨み合いのようである。

 そういえば、最近ライガに会ってない。
 研究室を持ってからはライガの毛とか心配だから外に居てもらったんだが。
 無性に会いたくなってきた。モフモフしたい。確か今日は晴れのはず。

 ティアは目の前の現実から目を逸らしたくなってライガに逃げた。


「森に行こう!」
「はっ?」「えっ?」

 突然宣言をしたティアに二人は驚いてティアを見る。困惑気味の二人を半ば引きずってティアはアリエッタの森を訪れた。
 ティアはライガくんを呼んで手早く水洗い、乾燥を終える。ライガくんは為されるがままになってくれる。

 木陰の下でお日様の匂いに包まれながらティアはライガの背に抱きつき、その毛皮を堪能する。
 滑らかな毛皮に手を滑らせた。少し獣臭いが我慢するほどっではない。手触りを満喫しながら、こんな日が続けばいいのになとティアは思う。
 喉の下に手を入れて掻いてあげると「ぐるるぅ」と満足げに唸る。そしてその頭を手に押し付けてきて「もっと」とねだってくるのだ。
 胴体にもたれかかりながら耳の裏にティアはそっと手を伸ばした。


 そんなティアをシンクは呆れた様子で見ていた。いきなり森とか言い出して、いったい何なのだろうか。
 休憩をしに来たはずのシンクはちっとも心休まった気がしなかった。

「なにあれ。あんな人間だった?」

 シンクは白衣が汚れるのにも構わずへにゃりとしているティアを見て、ついアリエッタに尋ねた。
 そんなことも知らないのといった様子でアリエッタはシンクに説明する。

「ティアは、ときどき、すとれすでダメになるとライガ分を摂取するのっ」
「はあ? ほんと、おかしな奴」

 シンクの問いに答えるとアリエッタはティアの下に駆け寄っていく。
 言いたいことを言い合ったおかげなのか、少しだけ彼らの仲は進展したようである。




 シンクはライガに頬ずりをしているティアを見ながら苦笑する。天使や悪魔に例えられているが、ティアは無害そうに見える。
 僕たち六神将と親しくしているが、それだけである。計画には関わっていない。
 ヴァンの妹であり、死神の助手であり、ピンクの友人であり、ラルゴから贈り物を貰う仲であるのに、である。
 リグレットの突然の変心にも関わっているそうだ。今までの非協力的な態度は何処に行ったのか、忠実な副官になっている。
 これほどの関係があるのに、まだヴァンは妹だけは巻き込むつもりが無いらしい。
 アッシュに対してティアに接触しないようにと良い含めていた。アッシュは興味なさそうだったが。
 世界を破壊しようとしている人間でも身内は可愛いのだろう。矛盾している。

 風が吹いて、赤や黄色の花を揺らす。新緑の緑が青い空を背にして色鮮やかに映える。
 日向で立ち止まっていると汗をかいてしまいそうだが、爽やかな空気と時折吹く風が清々しく感じる。
 外も悪くないかなとシンクは思った。


 シンクがヴァンに従って計画に参加しているのは、ダアトに留まりたいからである。
 皮肉にもティアの「生きる努力をしろ」という言葉が彼を真の六神将に仕立て上げた。
 レプリカについて最先端であるのは紛れもなくダアト、ヴァンの掌の上のディストの傍である。

 第七音素は引き合う性質を持っている。今もシンクの体からは少しずつ第七音素が漏れているはずだ。
 風船が一時は浮かんでも最後には萎んで床に転がってしまうように、レプリカは死ぬ。
 シンクはイオンの予備として作られ、5番目ということもあり、かなり丁寧に作られている。
 それでも平均寿命が70歳であるこのオルードラントで、せいぜい20歳まで生きられたら幸いだろう。

 彼は11歳のオリジナルのデータを元に作られている。子供から大人へと人間は成長していく。
 そのデータに従いレプリカの体も成長する。だが、その変化にシンクが耐えられるかどうかは未知数だった。
 成長期を乗り越えても、いや、だからこそ年々減っていく音素がシンクにかける負担は大きくなる。
 いずれ結合が緩くなり、指先から透けて音符帯に還るのだろう。レプリカの逃れられない宿命である。

 シンクは暇ができた時間は死神の下に赴き、自分の体のことについて調べている。
 はっきり言って分の悪い賭けである。だが、ただ時の流れを傍観していたころよりもずっと充実していた。
 気の持ちようだけで一日が変わる。それを理解できたことにシンクは満足していた。

 一つティアのことでシンクには引っかかっている記憶がある。
 あのとき「生きろ」と告げたティアの気迫はヴァンに感じたものと同じだった。
 兄妹だからと言ってしまえばそこで終わりだが……。

 ヴァンには預言の無い世界を作るという野望がある。だが、彼女の望みとはなんだろう。
 何度も会っているが、世界の再生を企むヴァンに匹敵するような願望はないように見える。
 一見、研究馬鹿の不摂生な技手らしい人間である。ただの無力な治癒師である。
 けれどもあのときの記憶がシンクから薄れることはない。彼女には兄に匹敵する、強い思いを持っているはずなのだ。


 ティアはライガに身を任せてアリエッタと話していた。シンクの視線に気づいて手招きをしている。
 やれやれと足を進めながらもシンクの心は此処にあらずであった。

 彼女は何を願っているのだろうか。

 シンクの胸中にはその疑問が渦巻いていた。







[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第十九節 死神の告白
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/18 22:41




「あなたは倒れていたんですよ」

 目を覚ましたティアにディストは声をかけた。
 これといった外傷は見当たらなかったのでディストはティアをソファに寝かせておいた。
 第五師団の悪い噂は聞かなかったので、ディストはそこまで心配していなかった。だが、実際にはティアは倒れている。
 倒れるまで仕事をしているのだろうか。ディストはあとでシンクを問い質すことにした。

「……ディ、スト?」
「身体の方は大丈夫ですか?」

 不思議そうに見上げてくるティアにディストは問いかけた。
 ティアは身を起して少し身体を動かしてみる。

「痛むところはないわ。一応ヒールでもしておこうかしら」

 ディストは向かいの椅子に腰かけ、変わりないティアの様子に喜んでいいのか少し悩んだ。
 良いところも、悪いところも全く変わっていない。特定のこと以外には基本的に無頓着。
 視野が狭いというよりは、それ以外は目に入れるつもりが無い人間だった。それを何処か危ういとディストは感じていた。
 ティアは自分にヒールをかけて首を回す。バキッと音が鳴った以外はおかしなところはないようである。

「ディストが私を訪ねてくるなんて、どうかしたの?」

 尤もな質問をティアはディストにした。目を覚ますと疎遠になっていた元上司がいたのである。
 彼が訪ねてくる予定などなかった。あの暇な時間があれば研究をしているようなディストが研究室から出て訪ねて来ている。
 それだけでティアにとっては大事だった。

 ティアの問いにディストは左手で眼鏡をかけ直し苦笑する。

「どうかした。確かに私はどうかしたんでしょうね。あれから私はずっと考えていたんですよ。
 私がネビリム先生を生き返らせてまで取り戻したいものは、なんなのだろうかと。私はずっとあの輝かしい日々を取り戻したかったのだと考えていました」

 ディストは静かに組んだ足の上で指を動かしながら、過去を回想する。
 唐突に話し出したディストの言葉の続きをティアは待つ。ティアはソファに座り直し、話を聞く姿勢になった。

「……私がネビリム先生にこだわったのは、ジェイドが彼女にこだわっていたからです」

 ディストは幼少のころを思い浮かべる。あの頃の自分の世界はとても狭かった。
 両親は私に見向きもせず、いつまでもどこまでも白い雪のように私は真っ白で空虚だと感じていた。
 そこまで雪に似ているなら、いっそのこと溶けて消えるところまで真似できればと一日中窓の外を眺めた。
 そんな暇を持て余していたときに出会ったのが譜業で、そんな私に近づいてきたのはジェイドだけだった。

「ケテルブルクにいた頃、私たち二人は共同で発明していました。ジェイドが発案し、私がそれを譜業という形にする。
 まさに理想の関係でした。……けれども、ジェイドの興味は譜業だけには留まらず、譜術にも手を出し始めた。
 私に興味を持ってくれたのはジェイドだけでした。それも私が譜業の天才だったからです。ジェイドが私を必要としなくなったらと思うと、怖かった。
 だからネビリム先生にジェイドが興味を持ったとき、私は終に恐れていたときが来たのだと、いつも以上にジェイドの後をついて回りました。そして――」

 ディストはちょっと口を噤んだ。やはり、少し躊躇ってしまう。
 脳裏をあの日の光景がよぎる。白すぎる雪と、その雪を染める真っ赤な鮮血。
 今思えば動揺していたジェイドと泣きじゃくることしかできなかった自分がいた。愚かで無力だった。

 ティアはただじっとディストの声に耳を傾けていた。
 それに後押しされて、ディストはもう変えることのできない過去の過ちを懺悔する。

「あの日、ジェイドが第七音素を暴走させてしまったとき、ネビリム先生を瀕死に追いやって、結果的に殺してしまったとき、私はすかさず約束しました。
 必ずレプリカ技術でネビリム先生を生き返らせようと。ジェイドが私を必要とするように、楔を打ち込んだのですよ。
 当時のジェイドのネビリム先生に対する執着は、私が言うのも何ですが、凄まじかったですからね。
 そう言えばジェイドは私を手放さない。私は必死でした。ジェイドだけが私を必要としてくれると思っていましたから」

 ディストは自嘲するように笑った。そしてふと疑問に思う。
 ジェイドが研究を止めると言ったのは、ネビリム先生を諦めたからなのだろうか。
 本当は私のこの歪んだ依存心に気づいたからではないだろうか。

 本当に自分勝手な過去に嫌気がさしてくる。今となっては、どちらでも構わない。
 ジェイドと私の道はもう重なってなどいない。重なったと思っていた過去も錯覚だったのかもしれない。
 ディストは今までむきになっていた自分が滑稽に見えてきた。


 過去のことを過去として語るディストの変化に気づいたティアは、そっと問いかける。

「今は昔と違うのね?」
「ええ。あの雪に閉ざされた街で、私の譜業を理解してくれる人はジェイドだけでした。
 けれども、此処には多くの技手がいます。私の素晴らしさを皆、理解しているのです!」

 ディストは胸を張って答える。それは自称、薔薇のディストの姿であった。

 サフィールが昔ジェイドに固執していたのは、彼だけが自分を理解したからである。
 譜業を弄っていたサフィールは、どうやったら窓の外で無邪気に遊んでいる子供たちと友達になれるか分からなかった。
 羨ましそうに窓の外を眺めて、譜業相手に独り言を呟く。そんなサフィールを外に連れ出してくれたのが彼だった。

 それから彼はサフィールにとって絶対の存在となる。彼が興味を持ってくれた譜業にも俄然、熱が入る。
 譜業はサフィールにとっての唯一のコミュニケーション手段だった。
 それが彼に通じなくなりかけたとき、サフィールは考えた。もっと凄い譜業を作ればいいんだと。
 そしてジェイドが居なくなった後も、さらに譜業に入れ込んだ。それしか方法を知らなかったのである。

 一度、ティアに冷や水を浴びせられ、ディストは自分を見つめ直した。
 すると周囲にはディストと会話できる人間がたくさんいたのである。彼らはディストに認められたいと話しかけてくる。
 ディストは嬉しかった。ジェイドには劣るが、多くのトモダチが出来たのだから。

「しつこいので仕方なく相手をしてあげたんですよっ。私は天才ですからね!
 私は素晴らしい譜業を発明するのです。そしてあの陰険ジェイドにぎゃふんと言わせて見せるんですっ!」

 拳を握りしめ、ディストは誰にともなく宣言した。
 そして、「なに。私と私の部下がいれば、すぐにジェイドも根を上げますよ」と自信満々に語る。
 ティアはそれを見てもうディストは大丈夫なんだなと一安心した。

「ディストは馬鹿ね」
「なっ。私は天才ですっ!」
「ええ、天才よ。けれどもどこか抜けているわ。あの人たちがディストのことを尊敬しているのは、新参者の私でもすぐに分かったのよ。
 本当に気づいていないみたいだから教えてあげるけど、彼らは尊敬するディスト博士を悪く言った人に手酷い仕返しをしているの」

 クスクスと思い出し笑いをしながら、ティアは第二師団の技手の秘密を暴露した。

 例えば、「第二師団の師団長が弱いくせに師団長でいられるのは金を積んでいるからだ!」と言った者は一か月姿を見かけなかった。
 なぜか研究室の毒物の試作品が一つ減っていた。

 例えば、「本当なら俺が師団長のはずなのにコネで奪いやがったんだよ!」と叫んだ者は二カ月後に退団した。
 なぜか被験者が必要な研究の進みが早かった。

 ディストは初めて耳にした話に、顔を赤くするべきなのか青くするべきなのか迷った。
 その反応にティアは満足して、改めてディストに質問する。

「それで、わざわざそれだけのために此処まで?」
「……コホン。そうですね。誰かに話すことで自分なりのけじめをつけたかったんでしょう。あとは、あなたに共同研究の申し出をしに来ました」

 ディストは照れ隠しに咳払いをするとティアに提案した。
 ティアが続きを促すと、ディストは姿勢を正してティアに向き合う。

「あなたの第七音素に関する知識をレプリカに活かせないかと思いましてね。レプリカは本来の寿命の前に乖離する可能性が高い。
 レプリカは私が作りだしたモノです。私の作品は常に完璧なものでなければなりません。……それに最後まで責任を取りたいのです」

 研究室に出入りしているシンクのことを考えると如何にかできないかとディストは思う。
 責任を取ると宣言したディストの表情はとても真摯であった。

「それは嬉しい申し出ね。師匠にも連絡を取ってみるわ」

 ティアはディストの提案に一も二もなく同意した。
 そしてディストは思いがけない人の登場に身を乗り出す。

「師匠って、まさかアウル博士ですか!?」

 アイン・S・アウル博士。
 彗星のごとく現れた万能の人。

 ジェイド以来のここまでディストの興味を引きだした人間はいなかった。
 彼の論文は思いがけない発想があり、ディストは感心していた。
 昔のデータを集めるだけでも大変だろうに、その上多くの分野にそれらを反映している。
 そしてその研究成果を惜しげもなく発表し、的確な意見を述べる。簡単に出来ることではない。
 その博士との共同研究。ディストは興奮せずにはいられなかった。




 ティアにとってディストの提案は渡りに船だった。

 ルークとイオンとシンク。
 世に出ているレプリカはこの三人だが揃いもそろって世界の重要人物ばかりである。
 次期王位継承者、現導師、少し劣るが参報総長にして師団長。突然目の前で消えてしまいましたとなっては大問題である。
 その後釜を狙ってまた混乱が起きるだろう。それは避けなければならない。

 とくにキムラスカは危険だ。あそこは後継者が少ない。
 赤い髪と緑の眼を持つ者が王になるのが原則となっている。


 キムラスカ・ランバルディア王国は、元はキムラスカ王国とランバルディア王国という二つの国だった。
 510年にマルクト帝国はローレライ教団の後ろ盾を得たが、それから6年の間に北半球全域を領土にする。
 キムラスカ王国の属国は、あるいは抵抗もせずに降伏し、あるいは率先的に反旗を翻した。
 6年の間に地図は塗り変えられ、見る見るうちにかつての公国は帝国の名にふさわしい巨大国家に成り上がっていた。

 当時のキムラスカは属国からの貢納金で自国の栄華を極めていた。
 しかしその足元である属国が削り取られていく。国の体力は減っているのだが、一度知った贅沢は容易に止められやしない。
 そして権威というものは無形であるが故に、誇示しなければならないものだと彼らは考えていた。
 だが、そう遠くないうちに財政が破綻し、最強を誇っている軍も維持できなくなってしまうのは明白であった。
 かといってマルクトに媚びることなどあり得やしない。そしてランバルディア王国の手を取ったのである。

 ランバルディア王国は、現在のベルケンド辺り一帯を治めていた王国である。
 キムラスカよりは歴史は浅いものの、大きな港もあり海運から発展した。長じて情報や金融も扱うようになる。
 キムラスカとは間に一つ属国があり、それまでは適度に距離を保ちながら儲けていれば良かった。

 だが激動の6年の間にそういう訳には行かなくなった。そしてついに隣の属国が軍備を増強し始めたのである。
 マルクトの支援を受けているその矛が向かう先はどちらか分からなかった。
 独立を目指してなら真っ先にキムラスカを攻めるだろう。しかし、国力差を考えるとランバルディアの方が落としやすい。
 いち早く情報を察知したランバルディアはキムラスカと連絡を取った。

 そして、その国の準備が整う前にキムラスカとランバルディアは同時に侵攻し攻め落とした。
 国境を接するようになった両国はこれを機会に関係を深める。このままではマルクトの勢いに呑み込まれてしまう。
 同じ脅威を前にして、接近せずには居られなかった。ローレライ教団の信者は両国でも増加の一方である。
 世界の半分を平らげ、ゼロス公爵などマルクトを支える層は厚い。これからもこの状態が長く続くことは自明の理であった。

 そしてマルクトに対抗する手段として両国の合併が行われる。
 キムラスカ側はその最強と謳われた軍事力を、ランバルディア側はその財力と情報収集力を差し出す。
 ランバルディアの国力の方が低いことを加味して、キムラスカの首都バチカルでその結婚式は挙げられた。
 518年、キムラスカ王にランバルディアのアレンデ姫が嫁ぐという形で内外にその事実は発表される。
 これが、現在のキムラスカ・ランバルディア王国の誕生である。

 傍から見れば、ランバルディア王国の屈服とも取れるだろう。
 だが、交渉力に長けたランバルディア側は一つの条件を付けた。ランバルディア王家の血が何よりも優先されるようにと。
 王が幾ら側室を貰い男子を産ませたとしても、それらの子供の継承権が低くなるようにしたのである。

 『いにしえより、ランバルディア王系に誕生する正当な後継者は、赤い髪と緑の瞳を併せ持つ者だけである。
  その証を以って、ランバルディア王家の一族と認め、これを王位継承の最優先事項とする』

 この文章で、ランバルディア王国はキムラスカ王国を乗っ取ったとも言えるだろう。
 赤い髪と緑の眼を持つアレンデ王妃はその後二人の男児を出産。長男は赤い髪と碧の眼、二男は赤い髪と緑の眼であった。
 その後二男が王位を継ぎ、長男は臣籍に下り公爵家を興した。現在のファブレ公爵家の前身である。

 1500年続いた伝統は容易く覆らない。赤い髪と緑の眼は何よりも優先される。
 そして王位継承の条件を満たしているのはクリムゾン公爵、シュザンヌ公爵妃それにルークとアッシュだ。
 年齢的にルークとアッシュが次代であるが、あのアッシュが素直に国に帰るかは分からない。
 かといってレプリカであるルークが王となっても問題になるだろう。


 次期王の問題は全てが終わった後、いま悩むことではない。ティアは思考を切り替える。
 いまルークとして公爵家にいるのはレプリカなのだ。そこが肝心である。繁栄を約束する者が消えたら一大事だ。
 キムラスカはそう遠くないうちにアッシュに辿り着き、降下どころではなくなってしまう。
 それ故にティアはアウル博士の名を出してまで、レプリカの乖離を回避しようとしていた。

 だがディストはさっきまでのシリアスな雰囲気は何処にいったのか、まだ見ぬアイン・S・アウルに意識を飛ばしている。
 その浮かれようを見て、実態を知ったときのディストの反応がティアは思い遣られた。

 もしかしたら、自分はディストに嫌われてしまうかもしれない。そのときの彼ことを思うと少し罪悪感を持ってしまう。
 だが、ディストの心変りは嬉しいものである。雨降って地固まる、というわけではないが少し肩の荷が軽くなった気がする。
 ネビリムに拘らなくなったディストになら、研究者としてもっと深いところまで意見を聞くことができるだろう。


 魔界では以前送ったアッシュのデータでシミュレーションをしている。
 レプリカの存在についてはバティスタとファリア、そしてテオドーロにしか告げていない。
 テオドーロには以前これ以上首を突っ込まないようにと釘を刺されてしまった。

 バティスタにはレプリカの場合でもシュミレーションしてもらっている。
 あと2年。このまま順調に行けばどうにかなるかもしれない。


 その直後、ティアのもとに一通の手紙が届いた。
 『オズの件で、至急、魔界に来て欲しい』

 地の底で何かが起こっている。ティアは嫌な予感がしてならなかった。








[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十節 遺されたメッセージ
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/20 19:46




 事件は一冊の古びた本に挟まれていた一枚の設計図が発見されたことから始まった。
 それは創世暦時代に書かれたプラネットストームの概略図だった。
 惑星の外側に円環が描かれている。長方形の紙の隅には小さく細々と説明書きが記載されていた。
 ファリアはその中で知らない単語を見つけ、何気なくオズに意味を尋ねたのである。
 すると『資格者ではないためその情報は開示できません』と返事が返ってきた。

 ファリアはいぶかしげに眉をひそめ、おかしいと思った。
 マスターの代理者たるファリアに見られない情報などないはずである。
 ティアが魔界を離れたため、テオドーロとバティスタ、そしてファリアの三人が代理の権限を有していた。
 二人が試してみてもはじかれてしまい、仕方なく有資格者の一覧を出させた。
 その欄にはティアの名だけが載っており、相談した結果ティアを呼び出すことにした。

 『最低流通音素量』

 そこまで厳重にされるべき単語だとは思えなかった。
 だが、ティアにしか見られない情報というものがどうしても気になったのである。




 ティアは突然の呼び出しに驚きながらも、レムの日を丸一日空けた。
 朝靄が立ち込める中グリフィンを駆る。ティアの足なら休憩も挟んで半日はかかる道のりを一足飛びに飛び越えた。
 グリフィンの背でじっとしているのもつらいが、今日中に行き来するとなるとそう言っていられない。
 ようやくアラミス涌水洞の泉に降り立ち、ユリアロードに足を踏み入れたころには10時を回っていた。
 ぐるりと複雑な侵入者除けの廊下を通って、地下へ辿り着いたのは11時になるころだった。

 軽装の上に白衣を着て現れたティアを皆歓迎した。挨拶もおざなりに本題に入る。
 それもティアが此処にいれるのは2時ぐらいまでだと分かっていたからだ。
 それを過ぎると外は暗くなり、ダアトまで一人で帰るには危険である。
 グリフィンも夜は飛びたがらない。幾らティアに懐いているからと言って無理をさせられない。


 ティアは説明を聞いて頷き、部屋の中央でオズに命じる。

「オズ。最低流通音素量についての情報を開示して」
「・ ・了解しまシタ、マスター・ ・ ・マスターの生体情報の確認が必要デス・ ・ ・身体の一部を提供してクダサイ・ ・」
「髪でいいかしら?」
「・ ・可能デス・ ・」

 ティアは躊躇いもせずに横髪を一房掴むとハサミで切り、オズの示したトレイに置いた。
 その厳重さに皆の期待が生まれる。

「・ ・確認中・ ・」
「有資格者の基準って何なの?」

 ティアだけに資格がある。その基準が気になった。
 マスター代理のパスで閲覧できないとは穏やかではない。

「・ ・旋律を紡ぐ者、解呪者であるマスターにはその資格がありマス・ ・」
「解呪者。初めて会った日に言っていたわね」

 ユリア式封呪を解ける者が、資格者ということだろう。
 ティアは懐かしそうな顔をして、オズの仕事が終わるのを待っていた。

 旋律を紡ぐ者。つまりユリアの血を色濃く継ぐ者のことである。
 しかしヴァンではオズは反応しなかっただろう。その事実をティアは知らない。
 封印を解けるのはこの世で唯一人、ティアだけであった。
 ヴァンが教えなかった。本来ならティアは何も知らないはずだった。
 中血半端に知っていたからこそ、ティアは前に進めたのである。

 ティアはただオズを信じていた。機械は人を裏切らない。
 裏切られたと思ったときは自分が何かを間違えたときである。
 だから冷静にティアはオズと向き合っていた。

「・ ・照合終了・ ・ ・003のデータを解凍シマス・ ・」

 そうして画面に表示されたデータに皆は詰め寄った。
 プラネットストームの構造、その稼働条件、環境データ、緊急停止装置、音素分布。
 そして最後に一枚、年度ごとの障気量が付け加えられていた。情報に目を通せば何を意味しているかすぐに分かる。

 最低音素流通量を下回ったときプラネットストームは振動し、記憶粒子に影響を与える可能性がある。
 そして障気量と年表を照らし合わせると、障気はこの振動によって発生したと考えられる。

「オズッ! 現在の流通音素量を出してくれ!」

 部屋にいた一人が大声を出す。
 映し出されたデータは記されている数値を上回っていた。レッドゾーンに入っていないのを見て、ほっと一息つく。
 だが他の音素と比べて第七音素だけは異様に少なかった。
 落ち着いた皆は開示されたデータを詳しく調べようとした。


 そのとき、ティアがオズに声をかける。

「オズ。さっき003のデータと言ったわよね? じゃあ、001と002は何処にあるの?」
「・ ・条件がそろわない限り開いてはならないと命令されてイマス・ ・」

 オズは淡々とティアの問いに答え、その返事にティアは首を傾げる。
 プラネットストームの詳細な情報に気を取られていた者も、オズに向き直った。

「条件とは何かしら?」
「・ ・ND2000を過ぎているコト、ユリアの血を継ぐ者がいるコト、特定の質問をするコトデス・ ・」

 その条件にティアは眉をひそめる。
 それではまるで此処で足掻く者がいなければ滅びてしまえと言わんばかりである。
 ホドの滅亡時にユリアの血が絶えてしまったら、此処に気づかなかったら、質問をしなかったら……。
 幾つものIFをティアは想像できた。その場合はずっとオズは沈黙しているのだろうか。
 何故そんな条件を付けたのか理解できなかった。

「誰がそんなことを?」
「・ ・マザー、私の設計者デス・ ・」

 マザー。それはユリア・ジュエのことである。
 そのことに気がつくとティアは舌打ちをしたい気分になった。
 このデータを隠して何がしたいのだろうか。高みから見下ろされているようで不愉快である。
 けれども後の二つの情報はそれほどまでしなければならないものだ。
 必ず中身を確認しなければならない。ティアはオズに指示を出す。

「これまで私たちがした質問の一覧表をカテゴリ別に作って。意義が同じものは省いてね」

 特定の単語に反応するようになっているのなら、どうにかなるだろう。
 オズは7年分のデータをまとめるのに1時間ほどかかると答えた。


 ティアは待っている間に食事を済ませ、皆と一緒に003のデータを解析に入る。

 創世暦時代の技術の集大成。プラネットストームの完璧な設計図。そしてそれに関する資料。
 確かに貴重なものだ。障気の原因がプラネットストームの振動だということを裏付ける資料もある。
 だがそれは7年前も分かっていたことである。創世暦時代なら当たり前だったのではないだろうか。
 此処までして隠さなければならないものだとは、ティアは思えなかった。

 そして一時間経ち、一覧表を見てうわっと嫌な顔をしながら、皆で載っていない単語を探す。
 7年の中で専門用語も含めるとかなりのことを検索している。それだけこの部屋にいたということだが、骨の折れる作業だ。
 中からそれらしい単語を見つけるのは一苦労で、その苦労をオズは配慮してくれなかった。


 一通り唱え終わりうんざりし始めた頃、ティアはふと思いつき、ぽつりと漏らす。

「預言。――預言とは何なのかしら?」

 その声はやけに地下の空間に響き渡り、周囲は静まり返った。
 そして、オズは答える。

「・ ・キーワードを確認しまシタ・ ・ ・ ・001のデータを解凍シマス・ ・」

 その単語に反応したオズに皆驚愕し、沈黙が空間を支配する。
 作業していた手を止めて、不安げにオズを見上げた。

 預言とは何か。――預言とはユリアが詠んだ未来で、人を繁栄へ導くもの。

 答えなんて決まり切っているはずなのに改めて問うことなのだろうか。
 そしてなぜそんな常識を後生大事に隠しているのか。


 パッと中央に示されたデータは嫌でも目に入った。
 それは秘預言である。ローレライ教団が秘匿する歴史の道標。
 だがそれよりも皆が注視したのは冒頭の二行。


    この惑星オールドラントが大いなる樹から伸びた一つの枝であるのならば、私はその一番太い枝を詠みとったに過ぎない。
    これは無数にある枝葉のうちの一つ。最も叶いやすい記憶である。
                                                                     ユリア・ジュエ



 ティアは唇を噛み締め、じっと耐えていた。
 ともすればユリアを罵る言葉を漏らしてしまいそうである。

 絶対の預言を謳っておきながら今更何を言っているのだろうか。
 預言は可能性の一つ。そんなことは言われなくても知っている。
 何故、2000年も経って聖女であるお前が預言を否定するのか。

 全ての運命を決定づけた存在が語る言葉をティアは呪った。
 これでは2000年間、預言を信じて生きていた人々は道化ではないか。
 この聖女に皆踊らされて、狂ったように預言を求める。それを彼女は知っていながら止めなかった。

 預言の名の下に繰り返される戦争を。それがどんなに悲惨なのか。
 預言という名目で振り上げられる暴力を。それがどんなに無情なのか。
 預言を巡っての論争で引き起こされる混乱を。それがどんなに残酷なのか。


 聖女ユリアよ!
 お前は預言が何に人を導いているのか知っていたのだろう。
 山のような惑星預言を残したお前は全てを理解していたはずだ。
 そうでなければ第七譜石をホドに隠した理由がなくなってしまう。

 始祖ユリアよ!
 お前は故郷であるホドの滅亡を知っていたのだろう。
 何故、ホドに第七譜石を隠したのだ。何故、真実を地核に眠らせたのだ。
 それでいて何故、此処に来て預言からの脱却をお前が示唆するのだ!?


 ティアはユリアが憎いと思った。そして預言も忌々しく感じた。

 預言が此処まで頼りにされるようになったのは、キムラスカがローレライ教団にパダミヤ大陸を与えてからである。
 キムラスカとマルクト。両国の後ろ盾を得てから、預言が幅を利かせるようになった。
 だから預言が悪いわけではない。むしろ人間社会の方に原因があるのだろうと考えていた。
 そしてユリアも後世になって祀り上げられただけなのだろうと思っていた。

 人々は皆預言の通りに生活している。だが、毎日預言が詠める人物など限られている。
 庶民は一年に一回詠む程度。初詣のおみくじのようなものである。
 ダアトならばその機会も多くなるが、それでもティアはそれを気にしない技術を身に付けた。
 
 預言はティアにとっては異国の習慣のようなものである。初めは戸惑うだろうが、徐々に慣れるもの。
 イスラム世界に行き、故意に肌をさらす女性はいない。海外に行けば、車は右側を通る。
 そしてその歴史や成り立ちを知っていれば、納得できなくても我慢はできるだろう。
 そんな常識がいずれ破壊されることを知っていたので、尚更ティアは寛容であろうと務めてきた。

 
 兄もこんな気分だったのだろうか。ふつふつと湧きあがるものがある。
 ティアは平静を装いながらオズに静かに問いかける。

「第七譜石の内容を教えてくれないかしら?」

 その声に周囲で混乱していた幾人かが、ハッと顔をあげたのをティアは目にした。
 耳障りなユリアに祈りをあげる声が少しだけ小さくなった。

 第七譜石。
 ユリアが繁栄を詠んだという未発見の譜石。永遠に見つからないだろう。
 そして余りにも短い文章がティアの眼に入った。オズは無機質な声で読み上げる。


         やがてそれが、オールドラントの死滅を招くことになる。

   ND2019 キムラスカ・ランバルディアの陣営は、ルグニカ平野を北上するだろう。
         軍は近隣の村を蹂躙し要塞の都市を囲む。
         やがて半月を要してこれを陥落したキムラスカ軍は、玉座を最後の皇帝の血で汚し、高々と勝利の雄叫びをあげるだろう。

   ND2020 要塞の町はうずたかく死体が積まれ、死臭と疫病に包まれる。
         ここで発生する病は新たな毒を生み、人々はことごとく死に至るだろう。
         これこそがマルクトの最後なり。
         以後数十年に渡り栄光に包まれるキムラスカであるが、マルクトの病は勢いを増し、やがて、一人の男によって国内に持ち込まれるであろう。

         かくしてオールドラントは障気によって破壊され、塵と化すであろう。
         これがオールドラントの最期である。



 記憶と違わない内容にティアは笑いたくなった。一人だったなら、間違いなく声を上げていただろう。
 腹の底から込み上げてくる感情がある。純粋な怒りと嘲りだった。
 憎々しい元凶。忌々しい預言。愚かな全てを知った気になっていた自分。

 舞台に立つ支配者気取りの指揮者をティアは心の中で嘲笑う。
 ティアだけは知っていた。預言の通りに進まない未来があることを。
 

 不協和音が鳴り響き、未来は軋み始める。
 その音を捉えた者は誰もいない。だが、確かに誰かが何かをずらしたのであった。








[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十一節 天を仰ぐ者たち
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/20 21:09




 そのユリア・ジュエという名を目にして、ファリアは目眩を感じた。
 よろりと傾いた彼女の身体をバティスタが支える。その手の指は震えていた。
 それを見てファリアは少し安心する。恐る恐る顔を上げ、続きに目を通した。

 預言は確実に起こる未来のことのはずである。

 そこには2000年の歴史が綴られていた。とうの昔に起きた出来事。
 預言を歴史は実直に辿っている。それに少し気を持ち直した。

 そして、そのモニターの前でティアは沈黙している。
 他の仲間が動揺し、ユリアの名を呟きローレライに祈りを捧げている中で異質だった。

 ファリアはティアが預言もローレライも何とも思っていないことに気づいていた。
 ティアは徹底的な現実主義者だった。神の奇跡にありがたみなど感じない。
 むしろその奇跡と呼ばれる事象を解析し、拝む人間を観察していた。

 普通、障気をどうにかしようなど考えつかないものである。
 ローレライの力を利用しようなど思いつきもしない。

 その発想力に対して科学者として羨ましいと思うと同時に、恐ろしいとも感じていた。
 ファリアはティアの子供らしい一面を見つけては、内心安堵さえしていた。
 ティアがユリアの子孫でなければ、とっくの昔に投獄されていただろう。

 手を伸ばせば届くというのに、ファリアにはティアがとても遠く感じた。
 預言の存在に疑問を持つなんて、その考えは異端すぎる。以前から感じていた違和感が明確な形となってきた。

 ティアはいったい何を考えているのか。ティアは預言に疑問を持っていたのだろうか。
 私たちは預言を守るために外殻大地を降下しようとしてきたのに……。
 その想いは、一緒ではなかったのだろうか。

 ファリアは疑惑の眼差しでティアを見つめていた。
 そんなファリアの様子を気にも留めず、ティアはオズに問いかける。

「第七譜石の内容を教えてくれないかしら?」

 そこには、繁栄が詠まれているはずだった。
 ユリアが約束した、私たちの楽園。私たちが守ろうとしているもの。


 オズの読みあげる単調な声が消え、静寂が辺りに立ち込める。

 その未来は血と死臭と怨嗟にまみれている。
 約束された繁栄は滅亡を前にしての最後の宴なのだ。
 死に逝く者への餞。滅びの目前にしてのささやかな慈悲。

 部屋は静かだった。
 誰かの息遣いが耳障りである。

 ファリアは夫の手を強く握り、その手が暖かいことに絶望した。
 これは夢ではない。虚構ではないのだ。

 やがて来る繁栄と滅亡。

 何を信じればいいのか。
 何をすればいいのか。

 未来は、私たちの手をひいて導いてくれた預言は何なのか。
 約束された繁栄は仮初のものなのか。
 困惑と不安と混乱と……。

 だが、否定したくとも目の前の文字は変わらず、救いは見当たらなかった。


「嘘よっ! こんなの嘘に決まってるわっ! ティア。あなたはユリアの子孫でしょう? 嘘だって、預言は繁栄を導くものだって、そう言ってよっ!」

 甲高い声が響く。だがその言葉は皆の気持ちを代弁していた。
 若い女性が膝をついて年下の少女に縋りついている。その姿は聖女に慈悲を求めているようだ。
 ティアが聖女ならばその細い肩を抱き「大丈夫ですよ」とでも囁くのだろう。
 けれどもティアが与えたのは残酷な真実だった。無言で首を横に振るティアに皆、最後の希望が断たれたのを知る。

 ティアは腕を掴み離さない彼女の手を取り、「もう時間だわ」と言い荷物を纏めた。
 余りにも予想外の事態に皆、戸惑っているというのに彼女だけは一人冷静に見える。
 オズにこれらのデータの一切の持ち出し禁止を告げ、祖父に落ち着いた者が報せるようにと言い残して出て行った。

 誰もその背に声をかけることができず、誰かの嗚咽がティアを見送る。
 ティアが去った後も余りのことに皆、呆然としておりバティスタが休憩を告げるまで立ち竦んだままであった。




 ティアが外殻にとんぼ返りをした後、オズのデータ、秘預言を前に三人は顔を合わせた。
 テオドーロは秘預言の内容に驚きはしたものの、うろたえたりはしなかった。
 その反応の薄さに二人が疑問に思ったのを察すると、テオドーロはオズを見上げながら懐かしそうに目を細める。

「ティアが此処に私を連れてきたのは7年前のことだった。そのとき私は預言通りにいかなかった世界を想像してしまったのだよ。
 それから崩落の可能性を目の前にして、預言とは何なのか考えずにはいられなかった」

 誰にともなくテオドーロは心情を吐露するように言葉を紡ぐ。
 それにバティスタとファリアは耳を傾けていた。心の整理をしたかった。

「500年前の混乱でこの街は多くのものを失った。監視者の役割、オズの存在。そして、このユリアの遺言も。
 忘れ去られた扉を開いたのがティアだったのは、ユリアの導きだったのかもしれないな」

 テオドーロは過去に思いを馳せる。そして、ユリアの願いを推し量ろうとした。
 1503年の第二次国境戦争は、ユリアの預言の真偽を巡って起こった。そう伝えられているだけで詳細は不明である。
 だが、当時の混乱は、この事実を知ったものが引き起こしたのかもしれない。
 滅亡の未来を回避する聖なる焔の光という手段が見つからなければ、あるいは私たちも戦争を望んでいたかもしれない。
 多くの人が500年前に亡くなった。その爪痕は深い。私たちは住んでいる街のことすら理解できなくなっている。

 隠されていたはずのユリアの血筋は露呈し、今は二人を残すのみである。
 もしも彼らがホドの滅亡と共にしていたら封呪を解ける者が居らず、ただ最期を受け入れるしかなかっただろう。
 何も知らずに繁栄を謳歌していたかもしれない。それが永遠に続くものだと信じて。

 テオドーロはあれから7年という月日の中で少しずつ考えを改めていった。
 外殻の崩落という危機を目の前にして何もしないという選択肢はなかった。
 その方法が外殻大地の降下という途方のない話であったとしても、ローレライに縋ってでもある。
 大詠師派を警戒し、教団に対して秘密裏に動いていることに対してテオドーロは引け目を感じていた。

 預言に詠まれていない行動をして、預言の通りの未来を目指す。
 それでも必要なのだと言い聞かせながら指示を出した。だが、考えずにはいられなかった。

(もしも、私たちが何もしなかったら?)

 外殻降下計画の試案ができたときには、既にテオドーロは預言に疑問を持っていた。
 少なくとも絶対的な預言という考えは打ち壊されていた。矛盾は時間が進めば進むほど明確になってくる。

 聖なる焔の光を巡る矛盾。
 予期される崩落と立ち塞がる預言。

 それはテオドーロに選択を迫る。預言と繁栄と崩落と滅亡と……。

 それはテオドーロにとって過去の自分を引き裂くようなことだった。しかしだからと言って考えるのを放棄するわけにはいかない。
 ずっと悩んでいたからこそ彼はユリアからのメッセージを読んでも、滅亡と言う未来を詠まれても然程動じなかった。
 そうなのかと何処か納得した部分もあった。そして足を踏み出すことにした。

 テオドーロは頭上のユリアの名を見上げ微笑む。聖女は今でも私たちを見守ってくれている。

「私は人の世が滅亡を迎えると知って安穏としていられない。私は市長として市民を守らなければならない。詠師として人々に救いを与えなければならない。
 預言は絶対ではない。ユリアの言葉をいま一番理解できるのは私たちだ。未来は、繁栄か滅亡かは私たちの心次第だ」

 テオドーロは、はっきりと預言からの脱却を此処に宣言した。


 テオドーロの力強い言葉にバティスタは深い感銘を受けていた。

 バティスタ・ディエゴは幼い時分に親を亡くし、幾分かひねくれて魔界で育った。
 子供を大事にしているとはいえ狭い社会である。彼は早々に手に職をつけ外殻へ出ていった。
 そして教団で研究員として細々と生活し、ようやく認められてきたころ同僚に研究成果を盗まれた。
 勢い殴り込みに行くと、10年来の友人は馬鹿にしたような笑みを浮かべて言い放つ。

「誕生日に詠まれたんだ。あなたの願いが叶う。友が力を貸してくれるでしょうって。お前は俺のトモダチだろ?」

 へらへらと笑って彼は腫れあがった頬をさすり、唾を吐く。醜悪だった。バティスタは何も言わず友人だった人間の部屋を後にする。
 雨が降りしきる帰り道、濡れ鼠の物乞いの孤児が目に止まった。ここは聖都だというのに、貧しいものはいつまでも貧しい。

 あの子にはどんな預言が詠まれているのだろうか。幸せを詠まれているのだろうか。
 預言に詠まれたからとあいつは俺を裏切った。預言に死ぬと詠まれたらその通りに死ぬのだろうか。
 もちろん預言で死に関する物事を詠むことは禁止されている。だが実際詠まれたらどうするのだろうか。
 一度芽生えた疑問はなかなか消えなかった。

 バティスタは負け犬のように故郷に戻り、やさぐれていたところをファリアが研究に誘った。
 外殻が崩落する。それは科学的根拠からいえば、預言以上に確実な未来だった。
 気落ちしている暇はないとバティスタは奮戦した。いつのまにかチーフとなり、妻と結婚し娘ができた。

 一児の親として、科学者として、人として外殻の崩落は避けなければならない。
 外殻が崩落すれば多くの人間が死んでしまう。預言が一可能性に過ぎないのなら、俺たちがしていることにも意味がある。
 オズに遺されていたユリアの言葉はバティスタの背を押した。
 

「外殻の崩落も、その後の滅亡も、俺たちの動き次第で防げるということですね?」
「ああ、もちろんだ。ユリアも回避できると言っている」
「大地が崩れたらたくさんの人が死ぬ。俺はそれを止めたいです」

 バティスタはテオドーロに賛同の意を表した。


 意気投合する二人にファリアは疎外感を抱く。
 ローレライ教団の熱心な信者である彼女は、二人のように簡単に割り切れなかった。

 何故、そんなに簡単に信仰を変えられるのだろうか。
 あの言葉の信憑性も疑わしいのに、どうしてそう思い切れるのだろうか。

 ファリアは預言を捨てることなど考えたこともなかった。預言を守るために今まで外殻降下計画に協力していたのである。
 ティアも目の前の二人も、ファリアには理解できなかった。二人ならティアの考えも分かるのだろうか。そう思いファリアは尋ねてみる。

「ティアは、……ティアは何を考えているのでしょうか?」
「あの子はユリアの遺志を守りたいのだよ」

 そのファリアの問いにテオドーロは少し驚き、そして悲しそうな顔をして答えた。
 その市長の表情にバティスタは疑問を持つ。

「何か問題でもあるんですか?」
「あの子はいつも一人だ。誰かの理解を得ようとしない」

 ファリアはテオドーロの言葉に心の中で頷いた。思い出せばいつもそう。
 ティアは障気中和薬を作ると言い張り、だが一方で頑なに理由を言わなかった。
 アウル博士の弟子になると告げたときも同じである。ティアの秘密主義は今に始まったことではない。


 ファリアが不安になるのも仕方がないだろう。そう思いながらも孫のことがテオドーロは心配になる。
 ティアがいなければ全ては始まらなかった。それ故にどれだけの重荷を背負っているのか。
 幼いころから大人顔負けの態度で研究をして、その後は計画のために奔走している。
 人身御供のように外殻に一人赴き、そこでもディスト博士と接触し様々な情報を手に入れている。
 それ以上にユリアの子孫であるティアがこの計画に賛同的であるという事実が、関係者の心の支えになっている。
 テオドーロでさえ軸がぶれないティアの姿勢に励まされたことがある。

 テオドーロはため息をついてうつむいた。
 バティスタはその弱気なテオドーロの姿に意外だと思い、励まそうと声をかける。

「彼女の一番の理解者である市長がいるじゃないですか」

 彼の一番という言葉にテオドーロは苦笑した。そういえば彼はヴァンと入れ替わるようにして帰ってきたか。

「ティアの一番はいつだって兄のヴァンだよ。私はせいぜい二番目だ。
 しかし、ティアが家族の次に心を開いた君がそう感じているのか。あの子はもう少し人に頼るということを覚えた方が良いのだろうな」

 同時にテオドーロは動揺している仲間を落ち着かせるために、ティアが欠かせないだろうと考える。
 頼ってもらいたいと思った矢先に此れである。どれだけ負担をかければいいのか。
 ティアは子供でいられなかったのだろう。そうさせた自分が不甲斐ないと思った。


 一方ファリアはティアの考えも二人の考えも分からず、ますます内に閉じこもった。
 ファリアと彼らとの間には、育った環境の違いがあった。ユリアシティの人間はユリアに対する畏敬の念が強い。
 彼らの信仰はローレライと預言に対するものというよりは、聖女ユリアに対するものである。
 それ故にユリア・ジュエのメッセージの影響力は大きかった。聖女が可能性と告げたのならば、預言を捨てるのもやぶさかではない。

 だがファリアは外殻生まれ、19歳まで外殻で育った。
 教団の教えを守り、ローレライを神として信仰していたのである。聖女の言葉では預言に対する絶対的な信頼は拭えなかった。
 さらに言えば、ファリアはユリアシティに住んでいても監視者としての義務感は持ち合わせていなかった。
 その違いはこんな事態にならなければ発覚しないものだったが、それを魔界に生まれた二人は認識できなかったのである。

 ファリアは預言とは何なのかと一人悩むことになった。








[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十二節 死神とレンズ
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/22 20:56


 ローレライ教団本部と神託の盾(オラクル)騎士団は夜だというのに騒がしかった。
 篝火が焚かれ、煌々と聖堂は照らされている。その火は暖かそうである。
 秋の気配が去り、冬が訪れようとしていた。パダミヤ大陸は火山のおかげで比較的過ごしやすいが、それでも夜は寒い。
 山からゴウッと風が吹き降りてくる。炎が揺れ動き、影はそれに合わせて踊った。今にも消えそうである。
 油に灯してあるので、そう安々と火は消えないはずだが唸る風の音は絶えない。
 警戒中の騎士は首を竦め、そしてハッと思いなおすと背筋を伸ばして目を光らせた。

 昼間の事件のせいである。
 第四師団長にして、主席総長付副官であるリグレット暗殺未遂事件。
 白昼堂々と、本部にて改革派の凶刃はリグレットに襲いかかった。女なら一矢報いることができると思ったのだろう。
 仮にも魔弾の異名を持つ彼女はすぐさま懐から銃を抜き打ち、相手は負傷。即座に警護の者に捕えられたそうだ。
 幸い死傷者がいなかったものの、昼間の凶行にダアトは浮足立っていた。

 何処から漏れたのか、麓の街にも噂は広まり住民は不安がる。
 改革派の強硬な手段に抗議する者もいた。最近の改革派は街で破壊活動も行っている。
 対象は教団の上層部に限られているが、時が経てば無差別に攻撃してくるかもしれない。
 真昼のように明るい聖都は、その影で蠢く闇に脅えていた。


 そんな中、ティアは待ちに待った魔界からの返信を片手に地下に向かう。
 魔界に顔を出してから半月。魔界との連絡は嫌なくらい義務的なものに徹している。
 目指すは、上の喧騒と一線を画したディストの研究室。カツンと足音が鳴り響く。
 ティアはディストの現状から彼の考えを読み取る。

 ネビリム復活を諦めた彼は何を優先するのだろうか。ダアトでの研究生活か。それとも金の貴公子か。
 ジェイドはディストと離別してからは軍人の方に懸かりきっているようだ。ここ数年、彼の名での研究発表はされていない。
 国に追われる立場の今なら自重していると思うが、皇帝が幼馴染みならば何らかの取引がされることも考えられる。

 だが、いくらディストの気が変わっても既にレプリカ計画は始動しており、止められる段階ではない。
 もしもディストが兄に対してしぶるような態度をとれば、あの兄のことだ、すぐに待遇が変わるだろう。
 実際のところ、難解なレプリカイオンが作られた以上、もうディストである必要性はない。それこそ量産型レプリカはスピノザ程度でも出来るだろう。
 ディストは相変わらず第二師団長であり研究室に籠っている。ディストは表面上兄に協力的な振る舞いをしているということである。
 しかし目的が変わったディストにとって、兄もモースもスポンサー以上の価値はない。世界を敵にするのも、国家犯罪者になるのも御免だろう。

 ディストはこれからどうするつもりだろうか。
 敵には渡したくない人材である。前に餌を撒いておいたが、確実なものにしたい。
 もうひとつ首輪をつけよう。ディストが欲しいものは分かっている。

 ティアはニヤリとあくどい笑みを浮かべ、ディストの元を訪れた。




「それでね、師匠に頼んで紹介状を書いてもらったのよ」
「どういうことです? 私とアウル博士と助手のあなたで十分じゃないですか」
「これを見て欲しいの。オベロン社は結構な技術を持っていると私は思うわ」

 不満げなディストにティアはパンフレットを渡す。

 ファリアの話を踏まえて、ティアは外殻に来てからバチカルのジルクリスト一家を調べていたのである。
 ヒューゴはやはり優秀な考古学者らしく古代の文明を調べ、音素を結晶化する音機関を復活させていた。
 しかしこの世界にはソーディアンは存在せず、ミクトランの助けがない分ヒューゴの発明にはかなりの時間がかかった。
 技術的な面は、シャイン・レンブラントが主に担当したようである。

 なんとか再現した結晶をレンズと名付け、その後レンズを動力として家電用品などを普及させようとした。
 しかしながらレンズの質は安定せず、また属性ごとにレンズも六種類あるため量を確保するのが難しかった。
 不安定な第七音素の結晶化には成功しておらず、また時間が経つと音素に戻ってしまうという致命的な欠点がある。
 結局、レンズ動力の音機関は貴族が話のタネに購入するようなものになった。
 現在は日用品や食料品などをメインに薄利多売で利益をあげており、バチカルに本店を置きケセドニアにも進出している。


 夜遅く寒い中を歩いてきたティアを慮ってか、紅茶には少しブランデーが加えられていた。ティアは何となく胸のあたりが暖かくなった気がした。
 ディストはティアが差し出したパンフレットをめくり、概要を掴んだ「なるほど」と頷く。
 音素結晶化技術でレプリカを如何にかできるのではないかとティアは提案しているのだ。

「レプリカの乖離は身体を構成する第七音素(セブンスフォニム)が、年が経つうちに目減りし、外の第七音素と引かれ合いバランスを崩してしまうことによって引き起こされるもの。
 供給する方法があれば、問題は解消される」
「そういうこと。オベロン社では第七音素の結晶化には成功しなかったみたいだけど、ディストなら可能じゃないかしら。レプリカ技術と結晶化技術は似ているでしょう?」
「まあ、詳しい資料を見てみなければ断言できませんけれどね。しかしこのオベロン社がそう簡単に資料を出してくれますか?」
「師匠は若社長と知己だし、医療関係は儲かるから断られることはないと思うわ」

 ティアは半ば確信を持って答えた。
 第七音素の結晶化に成功すれば不慮の事故や病気で亡くなる人がぐっと減る。
 譜術は訓練した限られた人しか扱えないものだが、音素を結晶化してしまえばその力は誰にでも扱えるものになる。
 とくに第七音素譜術師は数が少なくて問題となっている。あのルーティなら拒否することはないだろう。
 それに結晶化技術はヒューゴの肝煎りで世に出したものだったが、余り売れず専門的な技術が必要な赤字部門である。
 交渉の余地は十分にあるだろう。

 この技術をもとにケセドニアに新しい会社を設立。
 譜術師を雇って長期的にレンズを安定供給できるようにする。供給先はオベロン社だ。

 もちろん社員は魔界出身者である。
 外殻大地の降下が成功すれば、ユリアシティも歴史の表舞台に立たなければならない。
 魔界には一度も外殻に来たことがない人間だっている。今の内に受け皿を用意しとくべきだろう。
 外殻の降下をダアトに黙って決行したことで、教団との関係が悪化する可能性もある。
 テオドーロにも連絡を取って準備してもらっている。ディストの協力があればなおいい。

「私はこの結晶化技術をオベロン社から買いとりたいと思っているの。
 せっかく栄養ドリンクや障気中和薬を提供してオベロン社といい関係を築きあげたのよ。売却してもらった方が後の禍根が少ないはずだわ」

 ティアは未だパンフレットを眺めているディストに告げた。
 そのティアの大袈裟な表現にディストは疑問に思う。協力を申し出れば良いだけの話である。
 自分やアウル博士の名を出せば、何も買わなくても十分ではないのだろうか。


 ティアはそんなディストにファリアに送ってもらったディストに資料を渡す。
 最初に発見されたプラネットストームの概略図。それに003の障気発生のメカニズムを添えた。
 概略図の方は、完璧な設計図が魔界あるためこちらに持ってきても構わなかった。
 音素の結晶化技術の可能性は未知数である。

「これは創世暦時代のプラネットストームの構想ですかっ!?
 ……流通音素量が、…………記憶粒子(セルパーティクル)の……振動……なるほど! そして、……障気が発生? ――あなたどういうつもりですか!」

 ディストは資料の内容を理解すると声を荒げる。手に持った資料を皺ができてしまうほど握りしめていた。
 プラネットストームはセフィロトから吹き出す記憶粒子を譜陣によって制御し、音譜帯の豊富な音素を地上に齎す半永久機関である。
 その機構はプラネットストームを巡る音素が一定の数値を下回らない限り安全である。下回れば障気が発生してしまう。
 ティアは音素結晶化技術を提案し、同時にその危険性を示唆していた。レンズのせいで障気が発生する可能性もあると。

「いまの譜業兵器が一回の戦争で消費する音素量は創世暦時代の譜術戦争(フォニック・ウォー)には及ばないけれど、それでも影響はあるわ。
 戦争の直後には自然災害が多い。これは各地のセフィロトが音素のバランスをとろうとするからよ。結晶化技術が進めば必ず兵器にも転用される。これは時間の問題だわ」

 いったん言葉を区切る。ティアの頭をよぎるのは集積レンズ砲の威力だ。
 巨大レンズというものは存在しないがそれに似たようなものは作り出すことができるだろう。人では扱えない力も譜業で分担すればコントロールできる。
 ラディスロウを撃ち抜くように地核やプラネットストームも破壊できるはずだ。実際に譜術戦争では地核を傷つけている。
 過去にできたことが今は不可能でも、遠い未来にできないと断言できるはずがない。

 レンズは乾電池のようなものである。時が経てば劣化し音素に還る。だが、技術が発展すればその時間は伸びる。
 複雑な構造をしている人のレプリカでさえ年単位で維持できている。無機物であればもっと長い間結晶化できるだろう。
 その発展を待たずとも、同時に多くのレンズを使用する方法を見つければ当然その威力は強くなる。
 回路の繋げ方や、譜陣の技術などを応用すれば今でも十分兵器として扱える。

 ディストはこちらを睨みつけたままだ。宥めるようにティアは説明する。

「そうなる前にこちらがその技術を買い取り、開発のペースを握りレンズの流通量を管理したいの。
 プラネットストームを止めなければならない事態に陥ってしまうのは避けたいわ。障気の危険性は両国にとっては対岸の火事よ。
 障気が発生する危険があるので音素を膨大に消費する兵器を作らないで下さいと忠告しても無駄でしょう」

 彼らにとって障気とは天災のようなものである。その危険性を語っても、実際に見せない限りは聞き入れてはもらえないだろう。
 かといって、ユリアシティに人を招くのは今の段階では出来ない。これは予防措置でしかない。やらないよりはマシといったものである。
 ディストはレプリカ問題を解決できるし、オベロン社は画期的な新商品を手に入れ、また世界の危機を防ぐことができる。

 セフィロトを通じての音素の管理は魔界という立地でしかできないことだ。しかし外殻が降下すると精度が落ちてしまう。
 だからせめて第七音素だけでも把握したい。譜術戦争の二の舞など起こさせやしない。


「あなたは、……恐ろしいことを考えますね」

 ディストは深いため息をつきたかった。それを堪えて眉間を右手で押さえる。
 ティアの考えていることが読めた。読めてしまったからこそ言わずにはいられなかった。

 この技術を独占することで二国を管理するつもりなのだ。普及してしまえば、お湯を沸かすことから敵を撃つことまでレンズが必要になるだろう。
 供給量を加減することでパワーバランスを取ることができる。問題は流通しているレンズをどこまで把握できるかということだが、この様子では何か策があるのだろう。
 もっとも、そこまで発展するかどうかは未知数であるが、少なくとも需要が無いということは無いだろう。
 譜術の素養が低い者は何処にでも存在する。また、適性のない属性のレンズはあれば重宝するはずだ。

 それに、思い出すのはカール三世の治世の下で自分が関わった実験の数々である。
 戦争は技術の発展を生み出す。ディストもその恩恵を受けたことがある。だからこそ、この研究結果が国の手に渡ってしまったときのことを簡単に想像できた。
 科学者はその研究にのめり込み暴走するときが往々にしてある。国家の名の下に引き起こされるそれは悲惨なものだ。
 そうなってしまえば戦争に必ず利用される。ティアの言葉を否定することはできなかった。レプリカ技術さえそうだったのだから。

 そして、プラネットストームの運用に支障をきたすと説明してもおそらく聞き入れられないだろう。
 国家は手にした力を手放したりなどしない。その結果、障気が発生し世界が滅亡する可能性があるのだから、このティアの提案を拒むことはできない。
 この技術を応用すればレプリカの体を維持させることができる。それは確信だった。このプラネットストームの状態を知らされてしまえば、頷くしかないだろう。
 しかし、研究者としてやりきれない思いが残る。ディストは屈辱にも似た感情をどうにか処理しようと試み、その視線はティアを射ぬいた。


「どうかしたの?」

 ティアはそのディストの青臭い感情もさらりと流し、その反応に満足した。
 アウル博士という餌にレプリカの補完。ついでに世界を壊さないためならばディストもマルクトを頼りはしないだろう。
 まったく一石二鳥とはこのことである。

 ディストは柳に風といった様子に呆れて、早々に自分の研究意欲に忠実になることにする。

「そういえば、どこからこんな代物を? 創世暦時代の資料なんてよく今まで残っていましたね」
「ユリアシティは古い街だから。区画整理で埋まってしまった部屋があるのよ。これは最近発見された部屋に残っていたものらしいわ」

 ティアは、嘘は言わなかった。そして、ユリアシティでのことを思い出し苦々しい気分になった。
 心の整理が出来ず、逃げるように外殻に戻ってきた。私よりも皆の方が混乱していただろうに……。

 そんなティアを差し置いて、ディストはまじまじと挿絵を見る。感心して感嘆の言葉を漏らす。

「ふむ。やはり創世暦時代の音機関は素晴らしいですねっ! ……しかし、あのサザンクロス博士が障気問題の危険性を放置していたのでしょうか?」
「如何かしら。何か想定外のイレギュラーが起こってしまったのかもね」

 ディストの言葉に気を取り直したティアは適当に相槌を打った。
 そのおざなりな返事にディストは具体例を求めてくる。そう聞かれて、ティアは返答に困った。
 私は天才じゃない。此処とは違う技術の発展の仕方を知っているだけの二流の科学者だ。
 ディストは当然の要求をしている様子である。どうも居心地が悪い。

「まずは整理してみましょう。そもそも最低流通音素量が記載されているということは、その最低ラインを割ることはないと理論上は考えられていた。
 また、博士はそれを下回ってしまったときプラネットストームを止める手段を考えていたはずだわ」

 ティアは時間稼ぎとして、分かっている事項をつらつらと述べてみた。
 プラネットストームが振動し始めたら何かが起こると分かっていて予防しないはずがない。
 003のデータには緊急停止装置の説明もされていた。

「確かに。プラネットストームが振動し始めた原因は譜術兵器が地殻に影響を及ぼしてしまったためです。この時点では音素量は問題ではありません」
「その後、ユリアがローレライと契約してプラネットストームを再構築。そして障気が発生し、フロート計画が提案されたというわけね」

 ディストもティアに賛同し、プラネットストームの振動の原因が戦争にあったことを指摘した。
 その譜術兵器で壊れたプラネットストームをユリアはローレライの鍵で譜陣を書き直したのである。
 しかし、その甲斐もなく地核は振動し大地は液状化し始め、障気は溢れて来た。

 ティアの障気が発生したという台詞にディストは反応し、その指は忙しなく机を叩いていた。
 ティアの持参した資料を見つめ、疑問を口にする。

「そこがおかしいんですよ。ユリアが再構築したのに何故、障気が発生してるんです?」
「それは、プラネットストームが振動していたから、――つまり音素量が最低ラインを割ってしまった」
「どうしてです? 各国が争い合った譜術戦争でもビクともしなかったんですよ。何か、想定外の何かが起こったはずです」

 ディストは心底疑問に思っているようだった。
 そう言われてみるとティアも疑問に思えてくる。サザンクロス博士が想定できなかったこととは何だろうか。
 完成してから譜術兵器に傷つけられるまでは問題が無かった。再構築されたなら問題は解消されたはずである。

(その間にはローレライとの契約ぐらいしか……ッ!)

 ティアはふとあることを思いついた。
 そして、謎が解けていく。何故、003のデータが厳重に秘匿されていたのか。
 ティアは確信を持ってディストに告げる。

「ローレライとの契約がイレギュラーだったのよ」
「……なんですって?」

 意味が分からないとディストが聞き直した。確かに神様なんてものが此処に出てこられても困るだろう。
 そう思いつつもティアはこれまで気がつかなかった自分を盛大に罵った。

「意識集合体は多数の音素が想像を超えた密度で集まった存在よ。ローレライはユリアと契約したときに意識集合体として顕現したんでしょうね。
 そのせいでプラネットストームを巡る記憶粒子の量が減ってしまったの」

 記憶粒子はいわば原子核である。その周りに一から六の音素が結合して第七音素ができる。
 つまり記憶粒子の量は、第七音素の量でもある。第七音素が増えたら、記憶粒子は減る。単純な引き算である。
 結果的にユリアのせいで障気が発生したと言えるのだから、必死で隠そうとするはずである。
 ディストはティアの説明に唸り、そして同意を示す。

「今もローレライは意識集合体として地核にいるのでしょう。確かに意識集合体が顕現し続けることなど想定しません。第七音素の量が他の音素より少ない理由がこんなものだとは」
「でも、どうしてローレライは地核にいるのかしら?」
「それは、癒してるんじゃないですか? 第七音素の効果は癒し。兵器によって傷ついてしまった地殻をどうにかしなければ問題は解決しませんからね」

 ちょっとした疑問の答えをディストに指摘され、ティアは大地の液状化の原因が分かってしまった。犯人はローレライである。
 第七音素は引かれ合う性質がある。そして大地の底には意識集合体が居る。第七音素は地核に引き寄せられ、それをローレライは癒しに利用する。
 そして記憶粒子はプラネットストームを介して地上に戻る。ローレライにとっては呼吸をしているようなものだろう。
 だが、それが微細な振動となり大地は固まらないのである。

 こうなってくるとローレライを必ず地核から解放しなければならないようにティアは思えてきた。
 しかし、ローレライの解放はルークの存在と引き換えである。できれば避けたいことだったが。
 ルークとアッシュの同調フォンスロットを開けず、無理をしなければ成長しきっているルークは大丈夫だろうと考えていた。
 だが、大地の降下に加えてローレライの解放となると、レプリカの身体が保てるか分からない。
 大譜歌の補助も、アッシュの存在もどこまで通用するか。相手が神となると最悪を覚悟しなければならないだろう。

 いくらルークが主人公だからといって、ティアは彼の居ない世界などいらないとは言わない。
 これからティアがルークを結果的に助けたとしても、それはレプリカであることを知っておきながら教えなかったという罪悪感だ。
 それと、ルークが居なくなったらいろいろと困るという利害の一致でしかないだろう。
 ティアは能天気に最後死んでしまう彼が可哀そうだからと言って、なにくれと世話を焼くつもりはなかった。

 そう思いつつもティアは考えてしまう。私が”ティア”じゃなかったら彼を救おうとするのだろうか。
 兄と出会っていない私。それでも預言がある限り私は此処が地獄だと気づくだろう。そしてバチカルか、グランコクマか、ダアトかで誰かに接触しようとするはずだ。
 もしかしたら預言の通りに滅亡するかもしれないと、擬似超振動が起きないかもしれないと、疑心暗鬼に駆られて結局何かしようとする。
 そのときは、ルークをどうにかしようと動くのだろうか。……いや、しないはずだ。
 二次元に対する好意は、現実になれば変わる。この世界で私は生きているのだ。
 ルークが消えないように注意しても、おそらく2019年を迎えたら笑顔で別れを告げるだろう。

 なんだ。悩む必要はなかった。ティアは肩の荷が軽くなった気がした。
 真剣に考えた自分が馬鹿らしく思えて、くつくつとティアは堪え切れずに笑う。
 急に愉快そうに笑い出したティアをディストは怪訝な目で見る。

「何かおかしなことでもあったんですか?」

 不思議そうに訊ねるディストにティアは満足気に答える。憑物が落ちた様子であった。

「何処に居たって私は私だと思っただけよ」

 そう答えながらもティアは笑う。兄と出会わなくても、私は自分勝手である。
 ディストはそんなティアを凝視する。そんなディストの反応がティアは面白く感じた。
 ティアの笑い声は当分止まりそうになかった。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十三節 14歳の誕生日
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/22 21:42




 誕生日の朝、一番に祝の言葉をくれたのは兄だった。毎年変わらないその事実にティアは嬉しくなる。
 外殻大地の人々は基本的に早寝早起きだ。レムが昇ると同時に起き、沈むころには食卓に付き九時ごろには街は真っ暗である。
 地下が本部である神託の盾騎士団では夜更かしをする人間もいるが、余り多くはいない。
 ティアも実験の都合で遅くまで起きていることもあるが、たいていはその日の内に終わらせる。
 だから、朝ティアの部屋を訪れた兄が一番なのだ。来年も、再来年も兄が祝ってくれればそれが何よりも代えがたいプレゼントだ。
 毎年のようにティアの誕生預言を詠み、贈り物をくれる。だが、ゆっくり話す暇もなく兄は忙しいらしくすぐに去ってしまった。
 ラルゴからは、緑のぬいぐるみを貰った。毎年、良く見つけてくるものである。アリエッタとシンクからは去年と同じものを貰っている。
 それらを私室に仕舞い、ティアはいつものように白衣に袖を通し研究室に向かった。歩きながら、二日後のことを考える。


 オベロン社は、端的にいえば生鮮食品を主に取り扱っているスーパーマーケットである。
 レンズを扱っている、時代の最先端をいく世界的一流企業のイメージは儚かった。
 フロート戦争で勝利しているミクトランは居らず、ヒューゴ・ジルクリストはただの優秀な考古学者に過ぎない。
 それでも忠実な執事レンブラントの補佐があって、解読した創世暦時代の文献から結晶化技術を再現した。
 そしてヒューゴは小さな会社を立てたのだが、その音機関は余り売れなかった。
 顧客は趣味人の貴族に限られた。売値が高く、維持費がかかり、動力も限定されている。それでいて既存のものと性能は余り変わらない。
 動力のレンズを細々と売ることで会社は持っていた。そんなころにエミリオが産まれ、妻クリスが倒れた。

 それを契機にして会社は180度方針転換した。音機関を売ることからレンズを売ることに積極的になる。
 譜紋でレンズの出力を制御して、属性を利用した懐炉や氷嚢を販売したのである。これが成功してそのまま日用品を取り扱うようになった。
 そしてルーティが社長になって薄利多売が基本戦略となる。ヒューゴ時代の日用品から薬、雑貨、野菜、魚、肉と増えていく。
 会社は順調に利益を伸ばし、最近ではケセドニアにも支店を出し始めている。
 
 問題は取り残されたレンズ部門だ。
 音機関を作るためには専門家が、そして音素を結晶化するためには譜術師も必要である。
 レンズ部門は懐炉と氷嚢の製造マシーンとなっている。研究費なんて雀の涙ほどしかもらえてないのだろう。
 類似品も出回るようになっており、年々赤字は増えているようだ。

 しかし、赤字部門だからといって取りつぶすわけにもいかない。創業者はコレのために会社を設立したのである。
 その熱意を知っているはずのルーティが儲からないからと言って潰す真似はしない……はずだ。いろいろとしがらみがあるのだろう。

 だからこそ、つけいる隙がある。詳しいことはテオドーロが取り仕切っている。ファリアの伝手を頼って、何度か書簡のやり取りをしているらしい。
 ティアは今回魔界から十数年ぶりに外殻に出てくる責任者をバチカルまでエスコートしなければならない。
 その際は、ティアはアウル博士とディスト博士の助手として臨席する。
 女社長ルーティ。1ガルドでさえ値切ってきそうである。正直会いたいような会いたくないような複雑な気分だ。





「ふふ。驚くでしょうか」

 その日、女はダアトを久しぶりに訪れた。楽しげな様子で女は進む。そして大通りの奥にある聖堂に辿り着き、近く騎士に話しかける。
 その返答に満足するとさらにその奥に足を進めた。女の首の許可証がシャランと存在感を示す。
 甲冑や制服の者たちの中で女は異質だった。からみつく視線にものともせず女は目的地に向かう。

 目当ての名を見つけ目を細めてコンコンとノックする。

 返事はない。一つ首を傾げもう一度ノックする。
 すると今度は返事があった。

「はーい、どなたですか?」
「こんにちは」
「こんにちは?」
「ティアはいらっしゃいますか?」
「へっ? あ、ええ。室長ならいますけど」

 ドアの前でしどろもどろに答える部下その1の前で女は微笑をたたえていた。
 そうしているうちにガタリッと研究室の奥で物音がする。ティアが慌てて扉に走り寄る。
 聞き覚えのある声がした気がしたのだ。

「……ッ! ファリア!?」
「あら、そんなに急いでどうしたんですか。ティア」
「どうしたんですかって、こっちが聞きたいわ!」

 その1を押しのけてティアはファリアに掴みかからんばかりの勢いだ。
 対するファリアはその穏やかな雰囲気を保ったままである。部下たちはこの突然の出来事に手をとめていた。

「もちろん、ティアのお誕生日をお祝いにですわ」

 あっけらかんと言い放ったファリアの一言で研究室は騒がしくなった。

「えー! 室長お誕生日なんですか!? なんで教えてくれなかったんです?」
「室長はあ、何歳になったんですかあ?」
「ティアは14歳になったんですよ」
「ああ! じゃあお祝いしなきゃいけないじゃないですか!」
「……贈り物……」
「うわあ、僕久しぶりだなあ~」
「まあ、私も手伝いますわ」
「じゃあ、まずこの机の上を片付けて――」

 4人が動き回り、狭い応接室が様変わりしていく。ティアは完全に4人に置いていかれていた。

 オルードラントでは16歳から結婚ができるようになり、20歳で成人が祝われる。だが、それまで親の庇護下に居るかというとそうでもない。
 7歳までは、子供は子供として扱われない。まだ医療技術がそこまで発展していないため子供の死亡率は高い。
 7歳までは神の子とみなされ、それをすぎたら本格的に家業を仕込まれるのである。奉公や出稼ぎに出るのもその年を過ぎてからと不文律になっている。
 そして、家業を継ぐとか、結婚、仕官などといった一定の地位を築くと自ずと大人として見られる。
 もちろん20歳で成人という考えはあるのだが、それはどちらかというと貴族など余裕のある階級のほうが重視している。
 ティアは、この20という数字は創世暦時代の慣習の名残ではないかと考えている。

 そうこうしているうちにお湯が沸き、飲み物が振る舞われていく。「故郷から持ってきたんですわ」とファリアがケーキを取り出しロウソクを立てた。
 そして部下たちがその場で適当な物を贈り物としてティアに渡す。
 その1は、積み上げられていたお菓子。未開封。
 その2は、書きやすいわねとコメントしたボールペン。
 その3は、完成品の毒薬。お手製。

 その中でHappy Birthdayの歌が響き、ティアは炎を吹き消した。
 気持ちは嬉しいのだが、複雑な気分である。ティアは苦笑してお茶を濁した。




 一通り騒いだ後は、すぐに解散した。ティアは奥の部屋でファリアに紅茶を淹れ一息つく。
 ファリアは物珍しそうに辺りを眺めている。

「で、ファリア。いったい此処に何の用で?」
「あら、ティアのお誕生日を祝いに来たのも立派な用事の一つですわ」
「……それ以外を聞いているのよ」

 ティアは調子を崩され、全てはファリアのペースである。不貞腐れるティアにファリアはふふっと笑みをこぼす。
 あれから何の音沙汰もなく手紙が来たと思えば、データを送って欲しいだのオベロン社がどうのとファリアは結構怒っていた。
 そして強引ともいえる方法で外殻に来る権利をもぎ取ったのである。

「旧友に会いに行くんですわ。私が新会社の責任者です」
「えっ? ……ファリアがケセドニアに?」

 唐突な話にティアは驚いた。確かに3日後が会談の日である。
 ティアは外殻に何年も来ていないという責任者を案内することになっていた。それはファリアのことだったのだ。

「ええ、そうですわ。何か問題でも?」
「家族はどうするのよ。娘もまだ小さいじゃない」
「夫ともよく話し合いました。その上での結論です」

 落ち着いた様子で紅茶をファリアは飲む。ファリアはこうと決めたら動かないところがある。
 彼女が此処に来ている以上覆せないものだと諦めた。両手を投げ出して降参の意を伝える。

「分かったわ。バチカルまで案内すればいいのね」
「ええ。よろしくお願いしますわ」

 ティアの了承にファリアは笑顔で礼を言った。
 10年以上前の旅が唯一の渡航経験である。それも逃亡中であり、船旅を楽しむことも、観光することもできなかった。
 バチカルにも滞在したことはあるが、そのときも匿われていたので不案内である。


 連絡事項を伝え終わると会話が途切れてしまった。
 双方ともに蟠りがある。ティアは後ろめたさがあり、ファリアは戸惑いがあった。

 あれからファリアはずっと考え続けた。だが、結論は出ず惰性で動いている。
 35年間、預言を信じていた。ローレライに祈り、預言の通りに生きていれば繁栄が訪れ救われると思っていた。
 その考えは今でも変わらない。預言はいつも未来へと導いてくれた。
 軍に追われているときも、魔界の暗さに怯えていたときも、神に祈れば道は自ずと見えてきた。
 預言の先にあるのが滅亡と言われても、いまいち実感が湧かなかった。ファリアにとって預言は光なのだから。

 ファリアはこれまでティアの考えを無理して聞き出そうとはしなかった。
 彼女がそう聞かれることを嫌がっていることに気づいていたからである。
 それに、知らなくても何も困らないと思っていた。しかし、今は知りたい。彼女が何を考え、何をするのか。
 
 それから結論を出しても遅くないとファリアは思ったのである。

「あれから考えたの。002のキーワードは何だろうって」

 ファリアの藁にも縋る気持ちを通り越し、ティアはディストとの会話をファリアに語って聞かせた。
 ティアにしてみれば、沈黙に耐えきれなくなったための苦肉の策である。ファリアの考えを聞かせて欲しいという思いもあった。
 サザンクロス博士の想定外、イレギュラーな出来事――ユリアとローレライの契約。

「003がプラネットストームと障気の発生、001がユリアの言葉と秘預言なら、間に来るのはローレライ関連だと思うの」
「そうですか」

 ファリアの反応の薄さにティアは疑問に思った。
 もしや外殻の気圧のせいかと思い、気分でも悪いのかと尋ねようとした。
 だが、その前にファリアから真剣な声が発せられる。

「ティアは、預言は何だと思いますか?」

 ファリアは真面目な表情でティアに問いかけた。率直な問いにティアは一瞬押し黙る。

 いつかは通る道だと思っていた。ティアの望みと魔界の仲間たちの望みは違うのである。
 外殻大地の降下という手段は同じであるが、それから導き出す目的が異なっている。
 ティアは滅亡を回避するために預言からの脱却を目指し、反対に彼らは預言を守ろうとしてきたのである。
 第七譜石の内容を知らなければ、彼らの行動も当たり前だろう。だが、幸か不幸か知ってしまった。
 彼らは自分たちの行いに疑問を持ってしまったのである。

 ティアは彼らと袂を別つとしたら外殻大地の降下が終わった後になるだろうと予想していた。
 魔界からパッセージリングを監視しているので兄が弄ればすぐに分かる。戦場になる予定のルグニカ平野が落ちるのは阻止できるだろう。
 その後の戦争を止めようとする自分は、その預言を信じるテオドーロの元を離れるのだろうと。

 しかし、第七譜石の内容を皆が知るところとなってしまった。
 彼らがどれほどの衝撃を受けたのか、ティアには推し量ることしかできない。
 世界がひっくり返ったような感覚。自らの根幹が揺さぶられるような出来事。
 11年前のことを思い出す。あのような思いをさせてしまったかと思うと後悔が襲ってくる。

 だが、同時に皆の眼が覚めた良い機会ではないかともティアは考え始めていた。
 モースのようにユリアを妄信するあまり、暴走するものはめったにいない。
 冷静になって考えてみるとユリアの遺した言葉はティアの考えと一致していた。
 ユリアの遺志に従うように振る舞えば、最後まで彼らと共にいられるかもしれない。
 幼いころから一緒にいた仲間である。ティアは別れが辛いと感じるほど長い時を共にしていた。

 だから、此れを期に本当に預言からの脱却を共に目指せないかと期待した。ティアはその可能性に縋った。
 ファリアの問いにティアは一縷の望みをかけて答える。

「預言は、あの冒頭に書かれていた言葉の通り、最も可能性の高い未来だと思うわ。詠まれていない行動をすれば、自ずと未来は開けるはずよ」

 ファリアは予想していた答えと同じであると思った。
 そして、決定的な質問を口にする。

「ティアは、預言を否定するのですか?」
「そもそも預言とは2000年前、障気に絶望していた者たちが縋った希望よ。2000年後も人類は生きている。我々は此処で滅亡するわけではないって。
 預言は決して人を滅亡に導くためのものなんかじゃないわ。せっかくその可能性をユリアが教えてくれているの」

 ティアはファリアに向き合い、預言を利用すると告げた。それがユリアの望みであるはずだと語る。
 ファリアはティアの言葉にゆるゆると首を横に振り、やはりティアの考え方は異質だと思った。
 預言を利用するなどという不遜なことは、ファリアには考えられない。
 それでも、ティアの言葉はファリアにとって切っ掛けになった。預言は人に希望を与えるものという言葉にはファリアは賛同できた。
 ファリアにとって預言は光である。未来を照らす、暖かな光。決して死と暗闇を呼び寄せるものではない。
 ファリアは夫の言葉を思い出した。

『大地が崩れたらたくさんの人が死ぬ。俺はそれを止めたい』

 ティアの言っていることも同じことだろう。私も人が死ぬのを見過ごすことは出来ない。
 信仰は人を救うもの。預言は人を導くもの。そういうことなのだろう。
 ファリアは俯いていた顔をあげて、ティアに向かって微笑んだ。

「私も、ティアと一緒に人を救いたいですわ」

 その笑顔に釣られてティアも頬が綻ぶ。

 ティアはファリアの言葉に込められた思いと自分の思いがどこか食い違っていることに気づいていた。
 だが、それでいいと思った。皆の願いが全て叶うわけではない。ティアにとってファリアの願いは通過点にあたる。
 なら、そこまでは一緒に手を取り合っていいのではないだろうか。
 そのときまでは隣に、それからも出来るなら近くにいれたら良いと願った。




 そう二人が笑い合っているとき、第四譜石の丘に辿り着いた者がいた。
 七番目の者は疲労困憊した様子で道端に座り込み、そこから見える聖都を呆然と眺めていた。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十四節 光の王都
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/23 21:17





「どうかしたのかい、お嬢さん。ああっ、傷だらけじゃないか。パメラ! パメラ!」
「なにかしらオリバー。あら? あらあら、ダメよ。女の子がこんな風じゃ」
「えっ? あの、あたしはっ」

 ダアトに着き、これからどうしようかと途方に暮れていたところを一組の夫婦に声かけられた。
 戸惑っているうちに気の良い夫妻の家に連れて行かれ、そのまま食事まで頂いてしまった。
 外殻の人がこんなに優しいだなんて、思ってもいなかった。

 だからだろうか、彼女の眼から一筋の涙がツーっと伝い落ちる。
 監視されているかもしれないと怯えながら生活していた故郷を後にして、暗い洞窟を這って進みやっと辿り着いた聖都。
 安堵と、それから不透明な未来に対しての不安が押し寄せてくる。
 婦人の胸に抱きつき年甲斐もなく泣く。声を押し殺しもせず、心中のやるせなさを涙で流そうとした。

 そんな彼女の泣き言を婦人は優しい声で聞いてくれる。まるで母のようである。
 ますます涙は溢れ「モース様に会わなくちゃいけないのに」と愚痴を漏らしてしまう。
 すると、彼女の頭上から思いがけない言葉が飛び出る。

「あら、モース様に用事が? オリバー。あなた確か明日お会いするって」
「ああ、大丈夫だ。私が伝えておこう」

 驚きで、涙も引っ込んでしまった。そしてじっと夫婦の会話に耳を傾ける。
 この夫婦はモース様に伝手があるのだろうか。本当にそんな都合の良いことがあるのだろうか。
 いや、この親切な人を信じよう。もうあたしには手段を選んでいる暇なんてないのだから。
 彼女はおずおずと伝言を頼み、ぺこりと頭を下げる。

「じゃあ、同郷の者が会いたがっていると伝えてもらえませんか。あたしセティ・ハニエルと言います」
「そう、セティちゃんって言うのね」

 食事まで御馳走になって、いまさら自己紹介をしたというのに二人はにこやかである。
 つられてセティも笑う。それを見て「あら、笑顔の方が可愛いわね」と呑気なものだった。
 そのままセティは一晩世話になることになった。それどころか、モース様に会うまで泊まればいいと言われた。
 「ありがとうございます」とセティは心からの感謝を夫妻に告げる。
 そして、こんな風に恵まれているのはユリアが私を見守っているからに違いないと思った。





 光の王都、バチカル。

 下から見上げると上空の城は霞んで見える。街の構造は端的に貴族主義であるキムラスカを表していた。
 上に行けば行くほど街の並びは整然としており、道端にゴミ一つないほど綺麗である。
 反対に下層は光も十分に差し込まず、混沌としておりスラムができていた。
 光の王都と呼ばれているが、光射すところに影はあり、という言葉を体現している。光に惹かれるように人は集まり、あぶれた者は下層に堕ちていく。
 貴族が踏ん反り返っているそんな中で、下々に手を差し伸べるナタリア王女の慈悲深い行動は好意的に捉えられていた。
 
 キムラスカ・ランバルディア王国の首都を二人は一日かけて観光した。
 ティアにとっては思いがけない再会を果たした次の日、船で移動。そのまま城下が見下ろせる眺めの良い宿に泊まった。
 ティアはオラクルに入団したことで、ダアトから出ることも事前に連絡しておけば許されるようになった。
 それでも任務以外で遠出したことは無く、始めて見るものが多かった。女二人、ぶらつくだけでも楽しいものである。

 バチカルのエレベーターは港と街を繋いでいる。また上層と下層を行き来する手段でもある。
 上層のエレベーターには警護のために騎士がついているようだった。
 それはともかく、エレベーターの機能は同じでも外観は箱というよりは籠である。
 ぐらぐら揺れて柵も腰ぐらいまで、少し身を乗り出せば真下が見える。ティアは公共の交通機関に恐怖した。

 闘技場で実際に戦っているところを観戦。
 歴代チャンピョンには、マイティ・コングマンの名があった。
 引退までチャンピョンで在り続けたようである。

 午後はぶらりとウインドウショッピング。
 誕生日プレゼントだといってファリアがティアに一着見繕う。黒のマーメイドラインのドレス。
 魔界の皆の融資があったらしい。あの宿もテオドーロが手配したそうだ。

 それを知ったときティアは戸惑い、そして赤面しそうになった。つまり、今回のバチカル出張はティアへの豪華なプレゼントでもあるのだ。
 確かに、14歳の小娘を連れていく必要などない。技術的なことはもっと話が進んでからでも良い。
 例えティアが有名な二人の博士の助手だとしても、所詮助手。本人ではない。
 テオドーロとファリアたちにティアは、はめられたのである。魔界でにやついているテオドーロの顔が思い浮かぶ。
 ティアはため息をついて会談では喋らないようにしようと考え、それからこの休暇を楽しむことにした。
 

 そして、4日。身支度を整えてオベロン社を訪ねる。大通りから一本入った道の右手にその建物はあった。
 案内された先には長い黒髪をまとめて結いあげ、シンプルな濃紺のロングドレスを着た女性がいた。いわゆる出来る女である。
 しかし、そのイメージも一瞬で崩れ落ちる。

「ファリア!?」
「お久しぶりですわ。ルーティさん」
「あんたが来るなんて聞いてないわよっ」
「言っていませんでしたから」

 通された部屋で書類を睨んでいた仕事モードのルーティ社長は見る影もない。
 それだけファリアとの意図せぬ再会は驚きだったのだろう。
 そんなルーティを尻目にファリアは「あら、どうかしましたか」と余裕である。
 天然なのかそれとも腹黒なのか、10年以上の付き合いのあるティアでも分からなかった。

 オベロン社以外にティアたちがまともに取引できる相手は少ない。
 外殻で魔界の存在を知る者は限られている。教団の詠師以上の者に魔界出身者。
 例外はおそらく彼らぐらいだろう。ルーティは若いころの冒険のおかげで魔界の存在を知っている。
 過去の足跡が見当たらない、しかし大金を持っている連中とまともな取引をしようと思えるだろうか。
 ダアトを通さなければ、ティアたちは後ろ暗いところがあると思われてもおかしくない。
 
 そんな事情を抱えるティアたちとオベロン社の話し合いは、ルーティがファリアを歓迎してからはトントン拍子で進んでいた。
 ルーティが社長になって社員の数も増え、幹部も入れ替わりがあったようだ。金食い虫のレンズ部門を抱えておくよりは、ということである。
 売却先も社長の知己であるファリアがいる。ファリアがケセドニアの責任者なのは、それを考えてのことだろうか。
 ティアは予想以上の反応に満足し、ファリアは腹黒であるという方に心の中で一票入れた。

 「それで、会社の方で反対されている方などはいらっしゃらないのですか?」

 何気なく尋ねたファリアの一言にルーティはちょっと苦笑した。
 軋轢は何処にでもある。ましてや、ルーティは社長に就任してからまだ数年しか経っていない。
 ティアとファリアは顔を見合わせて、そしてファリアが口火を切った。

「できれば私の方からも説得させてほしいですわ。話し合えば分かりあえるはずです」
「う~ん、その気持ちは嬉しいんだけど。まずはこっちでなんとかしてみるから」
「そうですか。余計なことを言ってしまいましたわね。その方がよろしければこちらに移っていただくこともあるでしょう」

 あとは細かい部分をすり合わせて行くだけである。それは今日ここで行わなければならないことではない。
 ルーティはほっと一息つくとファリアとティアを屋敷に招待した。




 ヒューゴ・ジルクリストは騎士階級に属しており、貴族の端くれである。
 といっても三男の彼は親から継ぐものもたいしてなく、本に埋もれた貧乏な生活を送るのだろうと予想していた。
 だが、何の因果か三人いる兄弟の中でヒューゴが今は一番貴族らしい生活を送っている。


 ジルクリスト家の屋敷は中流階級の者が住んでいる場所の奥、静かな一角にあった。
 なんでも会社が一段落ついたときにクリスの静養も兼ねて屋敷を購入したそうだ。
 元の身分はそこまで高くないヒューゴが此処の家を購入できるということは、やはり金は力なのだろう。
 階級意識が高いキムラスカでは、高位の者はそれにふさわしい振る舞いをしなければならない。
 長い歴史ある家だと必ず一人や二人必要以上に羽目を外す者が居り、その煽りを子孫が受けるのである。
 抵当に入れた屋敷を手放さなければならなくなった貴族がいたのだろう。ティアは如何にも貴族らしい邸宅に少し気後れしていた。

 食事は無駄に豪華ではなく普通の家庭料理で、だがそれでも歓迎しているという気持ちが伝わってくるものだった。
 扉から正面にヒューゴ、右側奥からクリス、スタン、カイル。左側にルーティ、ファリア、ティアである。
 ところどころ違う。記憶では金髪のはずのスタンやカイルが茶髪だったり、ルーティがロングだったりしている。
 その微妙な差異に気づく度に複雑な気分になる。混同するなと訴えかけられている気がして、ティアは余り顔を見られなかった。
 だいたいはスタンやルーティが昔の話をして、ファリアが補足し、それに皆相槌を打つといった様子だった。
 ヒューゴ夫妻は楽しそうに聞き役に回っている。一人息子であるカイルは主夫と化している父の若かりし頃の話に食いついていた。


 スタンが席をはずしている間に、カイルが父親について評する。

「いつも家でごろごろしている父さんが強いだなんて信じられないや」
「スタンさんとルーティさんは強かったですよ」
「エミリオ叔父さんぐらい? 俺、将来は強くなって叔父さんみたいに将軍になるんだ!」

 カイルはエミリオ叔父さんの凄さをファリアに語った。そんな彼にファリアは「私も彼にお世話になりましたわ」と頷く。

 エミリオ・マグナス。旧姓ジルクリストは仕官してすぐに持ち前の優秀さで順調に出世していた。
 14年前にファリアの身柄の安全を情報と引き換えに守ることを約束し、本人はそれを手柄にしてさらに昇進した。
 その後、武門で有名なマグナス子爵家令嬢と結婚。史上最年少で将軍となっている。

 ティアは頭の中でカイルの話を整理して、英雄ではなく将軍に憧れているのかと思った。
 カイルは「今度はいつ叔父さんに会えるの」とルーティに尋ねている。姉弟仲も悪くないようである。ティアはそっと笑みを漏らした。
 喋ってばかりのカイルにルーティは母親らしく、好き嫌いしないように告げる。

「カイル。そんなに強くなりたいなら、まずピーマンぐらい食べられるようになりなさい」
「え~、苦いもん。なんでピーマンなんか出すんだよ。やっぱり父さんは嫌いだ」
「えっ、これスタンさんが料理されたのですか?」
「何もしないのは嫌だって言って今では家事のエキスパートよ。ほら、カイル。ロニだったら一口よ」
「う~、こんなのを食べれるロニは凄いや」

 知らない名にファリアが不思議そうな顔をして、ティアもその名に反応した。
 それを察したルーティは野菜炒めを突いているカイルを叱りつつ説明する。

「ロニは院を卒業した子よ。面倒見がいいからカイルが懐いているの」
「そういえばルーティさんは孤児院を世話していましたね」
「良い子たちばかりよ」

 オベロン社はいくつか孤児院を経営している。ロニはそのうちの一つに住んでいた。今は社員寮にいる。
 ルーティは若いころ貴族相手に商売をして媚びている家に反抗し、バチカルの下層に住む孤児たちの面倒を見ていた。
 そして金を稼ぐために傭兵の真似事を始め、そのときマリーと出会った。実はマリーはヒューゴが雇っていたらしい。
 そんなことにも気付かず、ルーティは奔放に旅をした。その間、弟のエミリオは家のために仕官までしていたにも関わらず、である。
 ジルクリスト家の立場は低く、自分が軍で活躍すれば家の商売がもっと楽になるとエミリオは考えていた。

 旅の間に、ルーティはいろんな街を訪れた。そして何処にでも孤児は存在した。彼らをどうにかするには独力では限界がある。
 そのことを悟ったルーティはバチカルに戻り、家族と和解。会社を継ぐ決意をした。
 個人の力ではどうにもならないこともある。そして、お金をただ施すだけでは根本的な解決にはならない。
 だからルーティは会社を通して安価な雑貨の組み立てを彼らに依頼したり、勉強の機会を作ったりした。
 そうして設立した孤児院から卒業して、入社したのがロニである。ロニは会社で良い働きをしている。
 「社長のおかげです」と彼に言われたとき、会社を継いで良かったとルーティは思った。

 そんなことを思い出していたルーティに、そういえばとファリアが城下で聞いた話をする。

「ナタリア殿下は慈悲深い方だとか。ルーティさんはお会いしたことなどは?」
「う~ん、まあ、ね。孤児院を訪問して子供たちにお菓子を配っていたわ」
「まあ、本当にお優しい方なんですね」

 ファリアの一言にルーティの眉間に皺が寄った。
 そして、皿の上の野菜にグサリとフォークを突き刺しながらルーティは不満を述べる。

「上からお恵みを施す方は満足でしょうけど、それじゃあ何の解決にもならないわ。そんなことも分かってない人間が多すぎるのよっ」
「ルーティ」

 声を荒げるルーティをヒューゴが客の前だろうと嗜めた。
 ルーティは返事の代わりにグラスの中のワインを一気に飲み、空の器をテーブルに置いた。

「分かっているわよ。殿下はまだ若いから、未来に期待しとくわ」
「何もしないよりは良いことだと思いますわ。身寄りのない子供たちにとって殿下は希望でしょう」

 ファリアのフォローに対して、ルーティは「そうね」と短く答えた。
 下層で明日の食事の保証もない生活を送っているものが居るということを知っている貴族がどれだけいるか。
 知ってはいても自らそこに足を運ぶものがどれだけいるか。
 あのお姫様がもう少し年を取って、物事の裏を読めるようになればもしかしたらとルーティは期待することにした。

 そんな雰囲気の中に、席をはずしていたスタンが皿を持ってきた。

「まあまあ、これでも食べて落ち着いて。俺の自信作だぜ」

 ライスには茶色のルゥがかかっており、一見するとカレーのようである。
 しかし、そのルゥから覗く白い立方体と香る中華風のスパイスが違うと訴えてくる。
 スタンの声にルーティはスプーンを片手に恐る恐る口にして、驚く。

「あれっ? おいしい」
「だろっ! いやーリリスに教えてもらったんだよ。コツがあるんだ」

 ルーティの反応を見て、皆は食事を再開する。
 スタンはその間にも、鍋の火加減がどうの、スパイスを入れるタイミングがどうのと語っていた。

「う、うまいっ!」

 息子にも好評のようである。

「スタンさん。これはカレーですか?」
「いや、これはマーボカレーと言う」

 ファリアの問いにスタンは胸を張って答えた。
 ティアは予想外の料理に、これが本場の味かと頷きながら食べていた。


 食事が終わるとカイルはもう寝る時間だと寝室にルーティが連れて行く。
 クリスもそれに倣う。倒れてから持ち直したが体調が崩れやすいそうだ。
 スタンとファリアは悩み多き夫婦生活についての愚痴を語りだしている。
 余ったティアはヒューゴに誘われて書斎についていった。

 バチカルの夜は長い。そしてダアトの夜も長かった。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十五節 七番目の裏切り
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/24 21:06



 
 ローレライ教団本部の地下で、セティはモースを待っていた。
 彼は大詠師という七人いる詠師の纏め役であり、また魔界出身者である。
 同郷の者の言葉を信じてくれるだろうとセティは信じていた。彼もまた敬虔な信者なのだから。
 預言を順守しているタトリン夫妻のおかげでセティは此処まで来られた。

「困っている人がいたら助けるものでしょう」

 そのタトリン夫妻の言葉にセティは救われたのである。彼らの言う通り、預言は繁栄をもたらす救いなのだ。
 決して滅びなどではない。セティはオズの語ったことを全く信じていなかった。

 暗い部屋の中で、唯一の光源であるロウソクの灯りが風に煽られて揺らぐ。
 それにあわせてセティの影も不気味に伸びて、それが一層セティを不安にさせる。
 セティは強く自分の手を握りしめた。全てはセティに懸かっているのである。
 セティが此処に居るのはテオドーロの計画を告発するためだった。


 セティは若輩ながらも研究者として認められ、外殻降下計画に関わっていた。
 年が近いからというよりは、セティが接近したことを切っ掛けに、セティとティアは仲が良くなった。
 ユリアの血をひく聖女の末裔。科学者としての輝かしい功績。大人顔負けの知謀。時には自己犠牲も厭わない行動。
 まさにティアはセティの思い描いていた聖女ユリアそのものであった。

 セティは現代に舞い降りたユリアの再来に近づこうと努力した。
 その成果が出たとき、本当に嬉しかった。年相応の一面を見たときは庇護欲が湧きあがり、皮肉気な発言には一層憧れが増した。
 何処か浮世離れしているところも、まさに聖女らしいと好意的に捉えていた。
 前代未聞である計画についても、彼女が賛同しているのなら正しいことだと賛同した。
 ティアは聖女なのだから、預言を守ろうとしているのだ。世界を救ったユリアの血を継ぐ者なのだから当然である。
 その計画を担っている自分はなんて幸せなのだろうと思っていた。

 しかし、セティの幻想は砕かれた。

 あの滅亡の預言をティアは否定しなかった。
 追い縋るセティを置いてティアは去っていった。
 セティは混乱し、困惑し、悲嘆にくれた。


 なんで? どうして?

 ティアは聖女でしょう?
 預言を守るのでしょう?
 世界を救うのでしょう?

 ティアが聖女らしくない行動をするはずないわ。
 もしかして、ティアは否定したくとも出来なかったんじゃないかしら。
 ティアは優しいから、誰かに騙されちゃったの。
 あのオズの記録も全て嘘なんでしょう。だから何も言わなかったのね。

 オズのマスターはティアだもの。全て仕組めるわ。
 きっとあの市長がティアを唆したのね。
 ティアは家族思いだから、逆らえなかったんでしょう。

 そうよ、そうに決まってる。
 ティアがあたしを裏切るはずないもの。
 だってティアはあたしの聖女なんだからっ!

 あんなに大詠師派を警戒しているんだもの。市長は改革派なんだわ。
 預言にない行動を起こそうとしているのよ。
 世界を混乱させて、何がしたいのかしら。いえ、どうせ碌でもないことに決まってる。

 ああ、そんな恐ろしいことに関わっていただなんて。
 誰かに教えなくちゃ。あたししか気付いてないんだもの。

 あたしがティアを正してあげなくちゃ。
 ティアは聖女なんだから、すぐに目を覚ましてくれるはずよ。


 セティは砕け散った幻想の欠片を掻き集め、理想の聖女を描き出す。
 そして出来上がったのは彼女だけの聖女。彼女の心の中にしか存在しない。
 セティの言葉に頷き、セティに微笑みかけ、セティを待っていてくれる。
 その聖女を取り戻すためにセティは立ち上がった。

 そしてセティは機会を伺い、ファリアがダアトに赴くときを狙った。
 セティ一人ではアラミス涌水洞を突破することはできない。魔物がうろつく迷路のような洞窟。
 ファリアが露払いした後なら、どうにかなるだろう。そうセティは安易に考えていた。
 途中までは上手く行ったがファリアの背を見失ってしまい、そこからは悲惨だった。暗い洞窟を這って進み、魔物を避けて通る。
 ホーリィボトルがなければどうなったか分からない。なんとか洞窟を抜け、第四譜石のところに辿り着いたときはぼろぼろだった。

 それでも、あたししか気付いていないの。なけなしの勇気を振り絞り、セティは此処まで来ることができた。
 静かな部屋で一人、セティは大詠師モースを待ち望んでいた。


「お前がオリバーの言っていた者か? 預言に詠まれていなければ、こうして会うこともなかった。ローレライと聖女ユリアに感謝するんだな」

 バタンと扉を開け、その身体を揺らしながらモースはどっかりとセティの前に座った。
 モースは会ってやっているという態度を隠さずにセティを一瞥し、さっさと話せと促す。
 その様子に落胆と憤りを感じながらもセティは耐えた。
 セティが頼れるのはこの同郷の大詠師しかいなかった。それに話を聞けば態度を変えるだろうと思った。

 セティは一から順に喋った。
 ユリアシティのテオドーロ市長が改革派であること。その市長が進める恐ろしい計画。
 そして話がアクゼリュスに至り、外殻大地が崩落するとセティ告げたとき、モースは激怒した。

「大人しく聞いておれば、よくもそんなふざけたことをでっちあげられるなっ!」

 モースはその巨体に似合わない速さで手を振り上げた。
 そして容赦なく目の前の預言を軽んじた小娘にその手を振り下ろす。

 パアンッ!

 セティの頬を叩いた音が地下に鳴り響いた。
 その衝撃でセティは倒れ、床に手をつく。じんじんと頬が痛む。
 セティは呆然としていた。何が起こったのか、分からなかった。

 そんなセティをモースは蔑むような目で見下ろす。

「第七譜石には繁栄が詠まれている。大地が崩落することなどない。そんな預言は詠まれておらんのだからな。
 嘘をつくにしても、もっとましなものにしろ。おおかたお前が改革派の手先だろう。
 私とユリアシティの関係を悪化させようとでも企んでいたのか? 魔界のことに気づいたのは誉めてやるが、無駄だったな」

 そう言い捨てるとモースは人を呼んで、部屋を出る。
 セティはモースの言う意味をようやく理解して、彼を引き留めようとしたがその手は虚空を掴んだ。
 「信じて下さいっ!」と叫ぶセティを何処からか現れた騎士が引きずり、セティは牢に囚われてしまった。




 同日、同夜。
 聖都の南東、海を越えた先、光の王都にて。

 書斎には黒檀の重厚な机が奥にあり、ティアの眼から見ても貴重と言える本がずらりと並んでいた。
 ヒューゴは持ち込んだ酒を手にしてティアを相手に話し始める。

「カイルと同じ年と聞いていたが、しっかりしているね。あの子はもう少し、落ち着きというものを覚えた方がいい」

 言っている内容は厳しいが、表情は孫が可愛くて仕方がないといった様子であった。
 食事のときからも分かっていたが、ジルクリスト一家の仲は良いのだろう。
 ティアが手持ち無沙汰にしていると、ヒューゴは黒い革張りのソファに座るように勧め自分も向かいの椅子に座る。

「君は第七音素を専門としているようだね。博士たちはこの技術を使って何をしたいのかな?」

 ヒューゴは率直にティアたちの真意を尋ねた。
 ティアは冷えたオレンジジュースをテーブルに置いて、ヒューゴに問い返す。

「やはり、ご自分の研究を売買することに抵抗がありますか?」
「今の社長はルーティだ。その判断に私が何かするということはない。だが、あの技術を世に出した者として責任を果たさなければならない」
「私は、私たちは第七音素の結晶化を目標としています。癒しに特化している第七音素のレンズができれば、様々な可能性が広がるでしょう」
「ああ。……だが、それだけではないだろう?」

 確かにただそれだけを願うならば、部門ごと購入する必要などない。協力を申し出れば良いのである。
 ヒューゴはじっとティアを見つめ、言い逃れは許さないといった様子であった。
 口を出すつもりはないと言っていたが、下手なことをいえば資料を破棄することすら辞さないだろう。
 ティアは何かを決意するかのように瞼を閉じ、そしてヒューゴに真摯な態度で語る。

「時間が、ないんです」

 切り出したティアの言葉の続きをヒューゴは待つ。
 カランとグラスの中の氷の音が響いた。

「生まれつき身体に欠陥があって、あの子が成長期に入ったらもう猶予はないと専門家に言われました」

 ティアは、嘘は言わなかった。ただ肝心なことを口にしなかった。
 その子供が生まれて2歳であるとか、レプリカであるとか、専門家はディストであるとか。

 実際、成長期に入るとレプリカの身体は一気に不安定になる。最悪の場合、乖離してしまう。
 おそらくルークが無事に育ったのはローレライの完全同位体であるからだろう。無意識のうちに周囲の第七音素を取りこんでいるはずだ。
 だが他のレプリカはルークのような真似は出来ない。何らかの形で意識的に摂取しなければ、そう遠くないうちに消えてしまう。
 危険なのはダアト式譜術を使うイオンである。ローレライの解放を行うルークも同じことが言える。
 シンクはそういう意味では一番長生きできる可能性があるが、本人の気性から考えると自分から危険に首を突っ込みそうである。

 何にせよ第七音素のレンズに手を加えれば、レプリカの身体を維持できる。これはディストとティアの共通見解であった。
 あとは、時間との勝負だ。彼らが乖離するのが先か、研究が間に合い、欠損を補完することが出来るか。
 しかし、レプリカの話を此処でヒューゴに話す訳にはいかなかった。ティアは俯いていた顔をあげて、ヒューゴに問いかける。

「時間が許せば、あなたの信頼を得てから技術を学ぼうとしました。ルーティさんから私たちの故郷について何か聞かれましたか?」
「いや、あの娘はただ信頼できる人間とだけ私に言ったよ」

 ヒューゴはティアの質問にさらりと答えた。本当に魔界の話は聞いていないようである。
 ティアはほっと安堵して、声を潜めながら告げる。

「私たちの故郷は、隠れ里のようなものです。人の出入りが厳しいところで、ひっそりと暮らしていました。
 しかし、時の流れには逆らえず、櫛の歯が抜けるように人は減っていき、……長である祖父は決断しました」

 一呼吸置いてティアはヒューゴの様子を見た。目で続きを促され、続きの話を騙る。

「里を開くと。具体的には外に開かれた場所を設けて、緩やかに同化していこうと。
 そのとき祖父にこの技術について進言したのです。幸い研究者や譜術師は里に多かったので受け入れられました」

 ティアの話を聞いて、ヒューゴはグラスに手を伸ばす。
 それを見てティアも喉の渇きを覚えジュースを飲んだ。氷が溶けてきっており、味が薄く感じた。

「なるほど、確かに筋は通ってるね。レンズ部門売却を娘に切りだされたときは面食らったよ。
 あの技術はそんなに注目されなかったからね。高名な博士の名まで出されてレンブラントは驚いていた」

 ヒューゴはレンブラントという名に反応したティアに対して「ああ、彼は私の執事なんだ」と丁寧に説明した。
 ティアは覚えのある名に反応しただけだったが、ヒューゴはいいように勘違いしてくれたようである。

「レンブラントはいま古巣に顔を出して皆を説得している。アウル博士やディスト博士との共同研究だと張り切っているよ。
 疑り深いのは私の悪い癖でね。無駄に構えてしまった。……その、子供の病気は治癒師でも治せないのかい?」

 少し歯切れが悪そうにヒューゴはティアに尋ねた。
 手に持ったグラスを見つめて首を横に振り、ティアは嘯く。

「私自身が第七音素譜術師ですから、真っ先に試しました。治癒師の回復は外傷には良く効きますが、内器官には余り効果がありません。
 ですから後はこの技術に頼るしかないんです」
「そうか。悪いことを聞いてしまったね」


 それから気を取り直すようにティアに障りのない程度でいいからと隠れ里のことについて尋ねてきた。
 ヒューゴは考古学者である。興味を持つのは当然だろう。ティアは内心焦りながらも当たり障りないことを答える。
 それでもヒューゴの追及や推測は止まることを知らず、ティアが困り果てているところにルーティが現れた。

 そしてルーティは立て板に水を流すような勢いで父親を問い質す。
 ヒューゴは娘が怒りだしたら自分が折れるしかないと理解していたので、早々に謝りその矛が収まるように尽くした。

「父さん! こんな夜遅くまで子供を付き合わせて。カイルはもうベッドで夢を見ている時間よ!」
「ああ、分かってるよルーティ。彼女たちは明日帰ってしまうからつい――」
「ついじゃないわよっ! お酒まで飲んで、子供相手に何してるのっ!」
「悪かったよ。ああっ、もうこんな時間か」
「ええ、もう11時過ぎているのよ。まったく、ティアちゃんもこんな酒飲みの相手なんかしなくて良かったのよ」
「えっ。その……」
「さあ、もう寝ましょうね。客間は二階なのよ」

 ルーティの勢いにのまれティアは口を挟むことが全くできなかった。
 ティアはルーティに背を押されながら振り返り、「おやすみなさい」とヒューゴに告げる。
 ヒューゴは苦笑しながら「こんな時間まで突き合わせて悪かったね」と言い、もう寝るようにと促した。

 そうして、ジルクリスト家での一夜は更けていった。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十六節 偽りの聖女
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/25 21:23



 ガンガンガンガンガンッ!

 金物を打ち合う音が響き渡る。
 ティアはその騒音に目を覚まし、見慣れない部屋を見てバチカルに居ることを思い出した。

「起きなさ~いっ!」

 ルーティの大声がティアのところまで届く。ティアが着替え終わり、朝食のテーブルに着く頃までその音は鳴り止まなかった。
 ファリアは懐かしそうに「『死者の目覚め』に耐性がついたのでしょうか」と微笑んでいる。
 やっと起きて来た寝癖がついたままの親子に「おはよう」と爽やかに声をかける辺り、ヒューゴ夫妻も只者ではなかった。
 朝食を終えると一晩世話になったことに礼を言う。彼らは律儀にもバチカル港まで見送りに来てくれた。
 再会を約束したファリアに彼らは大きく手を振って「またな!」と別れを惜しんでいた。




 定期船でダアト港に着き、ファリアを涌水洞のところまで送ってダアトに帰ろうとすると、ティアは腕を掴まれた。
 ファリアはティアをそのまま魔界に連行する。ティアの仕事があるという反論も「休みは多めに伝えております」と言い封じた。
 ティアがユリアの子孫として扱われることを嫌っているのを知ってはいたが、構っていられなかった。
 あの日から皆、何処か気もそぞろになり良い雰囲気ではない。普段の落ち着きを取り戻して欲しいとファリアは願っていた。

 ユリアロードを使用した先で待っていたのはテオドーロとバティスタだった。
 待ち構えられていたことにファリアは驚き、テオドーロに弁解しようとする。それを制してテオドーロは場所を変えた。
 地下に行くと思いきやテオドーロの執務室に案内され、そこで二人はセティの失踪を知った。いや、正確には裏切りだった。
 セティがモースに接触した後の足取りが追えないらしい。最悪の事態である。


 テオドーロはセティの裏切りにユリアの軌跡を想起した。ユリアは七番目の弟子、ダアトに裏切られたのである。
 テオドーロは以前バティスタにヴァンが一番と答えてから、ティアが親しくしているのは誰だろうと数えてみた。
 ヴァン、自分、ファリア、バティスタと数えていき、七番目の者がセティだった。
 同年代の者と喋る姿は余り見られなかったので、テオドーロは彼女の存在を喜んでいた。
 誰かが密告する可能性は以前から十分あった。だが、因りによって彼女だとは思いもしなかった。

「歴史は繰り返されたのだ。セティは裏切り者である」
「そんなっ! 嘘ですわっ。彼女が此処から出られる訳ありませんっ」
「ホーリィボトルを使えば問題ではない」
「信じたくないのは分かるが、そういうことだ」

 ティアはそんな三人のやりとりを何処か上の空で聞いていた。
 混乱した頭を冷やしたい。モースに話が漏れれば自然と兄にも話が伝わってしまうだろう。
 あのときのミスが此処まで響いてくるだなんて。思わず眉を顰める。
 縋りついてきたセティを残して外殻に舞い戻った。声をかけるべきだったのだろうか。

 ファリアの相手をバティスタに任せ、テオドーロはティアに向き合った。
 テオドーロはこれまでティアを一科学者として扱うように心掛けてきた。
 少なくともテオドーロの方からその血筋を率先的に利用することは、してこなかった。
 ユリアの子孫であるという事実は余りにも重い。2000年の歴史と信仰は容易くティアの人格を飲み込むだろう。
 その願いに潰された孫は見たくなかった。失いたくなかった。

 だが、テオドーロは事此処に至って、その禁じ手を使うことにした。

「ティア。彼らに声をかけてくれないか?」

 ティアはそのすまなさそうな声色から、その意味を悟る。
 神話を思い起こさせることで、残ったものを纏め上げなければならない。
 それしか方法は無いのである。ティアは静かに頷き了承の意を示す。
 快諾を得られたというのにテオドーロは悲しげな顔をしていた。それを認めティアは明るい声をかける。

「大丈夫よ。そんなに心配しないで、おじいちゃん」

 その言葉にテオドーロは一層自分が矮小であると感じた。不甲斐なさを噛み締め、ティアの背を見つめながら拳を握りしめる。
 小さな背中である。小さな肩であった。ティアは振り返らずに先頭を歩いていた。


 ティアが三人を連れて地下へと赴くと、気まずい別れをしたにも関わらず皆変わらず出迎える。
 いや、歓迎されていた。作業中だというのに手を止めて大袈裟に挨拶をする。
 そして口々にセティの裏切りを罵った。ユリアの遺志を蔑ろにするとは間違っていると。外殻を見捨てるとは酷いことであると。
 そう言い合いながら彼らはティアの反応を伺っていた。

 彼らが何を待っているかティアには、はっきりと分かった。彼らは肯定してほしいのである。
 信仰心の一欠片もない自分が彼らの聖女を演じることに躊躇いはある。だが、何でも利用すると誓ったではないか。ならばと、良心に蓋をした。
 茶番と分かっていながら、いや、だからこそティアは穏やかに声をかけ、それらしく振る舞おうと心掛ける。

 ティアは聖女の仮面を被った。

「誰かが裏切る可能性は予想できたものだったはずです。彼女の知っていることは極一部に過ぎません。私たちは、私たちが出来ることをやりましょう。
 ユリアは私たちの未来が一つではないと教えてくれました。それはこのまま何もしなければ外殻が崩落してしまうことを意味しています」

 そのティアの言葉に浮足立っていた彼らは冷静になった。
 改めて現実を認識させられる。もちろん異端者として騎士が差し向けられることに対する恐怖はある。
 だが、何もしなければ第七譜石よりも早く滅亡が訪れるのだ。

「同時に、私たちがそれを防げるということも。第七譜石に詠まれた滅亡も回避することができるでしょう。ユリアが2000年先の私たちに伝えたかったことは、そういうことでしょう」

 ティアはその一言で彼らに免罪符を与えた。
 これからすることは人類を滅亡から救う行為なのだと。
 聖女ユリアはあなたたちのその行為を容認すると。

「私たちが切り開いた先にはきっと新しい道が生まれるでしょう。私はその先で、私たちが自分たちの手で繁栄を築けると信じています」

 そして、ティアの一人一人に向ける視線に彼らは喜んだ。
 それは芽生えた預言に対する疑惑を凌駕して、彼ら監視者の使命感を刺激する。
 ユリアの遺志を守れるのは私たちだけであるという優越感が内部の結束を高めた。


 聖女ユリアの幻想は偉大である。
 強い思いは大きな力を持つ。その力をティアが扱い切れるかどうかは、まだ分からなかった。


 そして、せっかく魔界に来たのだからとティアは002の解凍を済ませた。
 そこには大譜歌とローレライとの契約内容が書かれていた。

 大譜歌は、ただ歌えば契約できるのではなく第七音素との親和性が高くなければならないらしい。
 その点でいえば大譜歌を歌えるのはヴァンとティアだけになる。ローレライは高音を好むので、ティアの方が適していると言える。
 ティアはローレライを取り込んだ場合の兄の姿を思い浮かべた。障気に侵されたような片腕はその代償だったのだろう。

 ユリアとローレライの契約内容は二つ。

 プラネットストームを再構築すること。
 障気を無くすこと。
 
 対価としてユリアはその感情を差し出したと書かれていた。失ったものは驚きと怒り。
 それを知り、ティアは少しユリアに対する見方が変わった。

 何かに驚くことも、怒ることもない人生とはどんなものだろうか。
 きっと新鮮さが足りない、味気ないものではないだろうか。
 どんな事態にも動じず、全てを許容する聖女。それはそんな感情を失ったからであるならば……。

 ティアはそっと目を伏せ、2000年前の聖女の実体を想像した。




 ヴァンは教団の地下に赴き一人の女を探していた。
 モースから「改革派の下っ端だが、魔界の人間らしいからお前が処理しろ」と押し付けられた女である。
 その態度に呆れはしたが興味深い言葉を残して行った。女は「大地が崩落する」と言ったそうだ。
 モースは憤慨していたが、ヴァンは何処でそんなことをと疑問に思ったのである。

 牢に閉じ込められていた女を連れ出して、ダアトの隠し部屋の一つで話させる。
 こちらが優しくするとすぐに喋り出した。女はセティと言うらしい。

 涙ながらに訴えるセティの話をヴァンはとても愉快そうに聞いていた。
 そしてセティが話終えると、ヴァンは狂ったように笑った。笑い声は暗い地下の一室で反響し、不気味であった。

「クククッ、クハハハハハッ!」

 その変貌にセティは思わずひっと悲鳴をあげ、あとずさる。
 ヴァンはそんな彼女の様子には全く構わなかった。それだけ面白い話だった。
 魔界が何かこそこそしていると思っていたが、こんな愉快なことだとは思わなかった。

「さすがは聖女の名を冠する街。地下にそんなものを隠してあったとはな。
 しかし、ティアが……。魔界で大人しくしていれば良かったものを。……いや、これが宿命なのかもしれんな」

 思いがけない事実を前にして、ヴァンは喜びを感じていた。
 自分以外にも預言に立ち向かうものがいるということが嬉しかった。
 そして自分の妹であるティアも関与しているという事実に心震えた。


 そしてヴァンはディストを呼び出す。リグレットは改革派の取り纏めに忙しい。これ以上の問題は抱えきれないだろう。
 現れたディストは不満をあらわに、ヴァンに突っかかった。

「いったいなんの用ですか、ヴァン! もう私が必要になるようなことなどないでしょう?」
「ククッ。ティアが関わっているとしてもか?」
「何を言っているんです? ティアを遠ざけているのはあなたじゃないですか」
「セティが教えてくれたのだ。魔界の地下で進行中の謀をな。改革派の我が祖父は、ティアを使って外殻大地の降下を企んでいるそうだ」

 ヴァンはちらりと部屋の隅で小さくなっているセティを一瞥し、ディストに向き直った。
 その表情は自分が口にしていることがおかしくてしょうがないといった様子である。
 実際、ヴァンの見たところテオドーロは根っからの預言至上主義者だった。同時に、ティアは誰かのいいなりになるような妹ではなかった。
 それでもセティの言葉を否定しないのは、その計画についてもっと聞き出したいからに過ぎない。

「はっ? なんですって?」
「詳しくはそこのセティに聞くといい。私はこれからやらねばならんことがあるのでな。
 セティはこの部屋から出すな。モースに目をつけられている。お前は祖父の計画の詳細について纏めて報告すればいい」

 ヴァンは全てをディストに任せると部屋を出て行ってしまった。
 取り残されたディストとセティは気まずい雰囲気で顔を見合わせる。


 セティはディストにもヴァンにした説明を繰り返す。

「テオドーロ市長は恐ろしい人なんです。ティアは祖父に対する思慕の念を利用されているんですっ!」

 ディストはこの女性の話を聞きながらおかしいとすぐに思った。
 テオドーロが改革派という話は聞いたことがない。
 それにティアは家族のことを大事にしているが、だからと言って良いように利用されるような性格はしていない。
 女性の言うティアとディストの知っているティアは随分と違うようである。

「ティアは私を選んでくれて、私を研究に誘ってくれたんです。一緒に外殻を降下させて預言を守ろうって。ティアは聖女なんですっ。
 それなのに市長はそんなティアに嘘をつかせてるんです。全部市長が悪いんです!」

 ディストはこの女性の言うティアのことは他の人間のことだと考えるようにした。
 聖女という言葉ほどティアに似つかわしくない言葉はない。どちらかというと魔女の方が相応しいのではないだろうか。
 あのときの狂ったように笑っていたティアはディストの目から見ても異様だった。

 そう考えている間にも、女性はいかにティアが清楚で高潔で知的で聖女らしいか述べる。
 そして、その義理の祖父であるテオドーロを何かにつけて非難した。
 ディストは極力感情を含ませないようにしてセティに尋ねる。

「それで、その卑劣な市長は外殻をどうやって降下させようとしているんです?」
「ローレライの力を使って降下させるって。あたしはアインチームだったから詳しくは知りません」
「アインチームとは何ですか?」
「障気の解析をして障気を無くすことを研究しているんです。降下の際の圧力で障気はディバイディングラインに吸着して地殻と外殻の間に閉じ込められます。
 けれどそれは問題の解決にはならないからと、ティアが提案したんです」

 また聖女ティアの話になりそうなところをディストは遮った。

「ではローレライの力を利用する方のチームは何を?」
「アウルチームはローレライの力を解明して、その力を借りる方法を。第七音素に関して調べていたみたいです」
「ところで、アイン・S・アウル博士との関係は?」
「博士はあたしたちが作り上げた架空の人物です」


 セティの話す内容に驚きながらも続きを促す。
 そうして得られた情報は、確かにヴァンが笑いたくなるのも仕方がないものばかりだった。

 テオドーロ市長が改革派であること。
 孫のティアを騙して手駒としていること。
 外殻を降下させようとしていること。
 アイン、アウルという研究チームがあること。
 アウル博士が架空の存在であること。
 オズというコンピュータが地下にあること。
 それのマスターがティアであること。
 001と003の情報、しかしそれは嘘だったこと。

 うんざりするような聖女の話を聞き終えて、ディストは頭の中で整理する。
 セティの明らかな妄想を除くと得られる情報は限られたものになる。

 テオドーロ市長が何らかの企みをしていること。
 それにティアも少なからず関与していること。
 アクゼリュス崩落を引き金として外殻大地の崩落が起こること。
 それを防ぐために降下を計画していること。
 その準備段階でローレライと障気の研究をしていること。
 その成果をアイン・S・アウルの名で発表していること。
 オズという名の巨大な記録に特化した譜業があること。
 それの使用者がティアに限定されているということ。
 001データに秘預言らしきものが記されていたこと。
 003データにプラネットストームの設計図が記されていたこと。
 その情報の真偽は定かではないこと。

 これが事実ならば、ティアはいつから計画を立てていたのだろうか。
 オズを発見したのが7年前らしいので、そんなころからこんな計画を企てていたのか。
 だからあんなにも第七音素に興味を持ち、やけに古い音機関に詳しかった。
 あのプラネットストームの概略も、意見を聞いてみたかったということだろう。

 そうやってティアはディストから情報を引き出していたのだ。欺かれていたことに対してディストは一瞬怒りが湧いた。
 だが自分がしていることもそう変わりないではないかと思い、その気持ちはすぐに失せた。

 ヴァンの計画を知りレプリカイオンを作り、他にも多様な譜業を作っている。
 それが何に使われるかを知っていて、ディストはそれに加担した。
 ティアはレプリカイオンとレプリカルークの存在を知っているが、それが何の為だかは知らない。
 シンクは危険なところに赴くときの導師の替え玉と説明している。レプリカルークの件も教団の機密だと思っているはずだ。
 モースの命令でヴァンが指揮を取っているとでも考えているだろう。

 しかし実際は違う。全てはヴァンの計画によるものだ。
 シンクどころかイオンまでレプリカだとは思いもしないだろう。預言の詠まれないレプリカを作り、世界を変える。
 そんなヴァンの企みは、レプリカを研究できるならばディストは如何でもよかった。過去形である。
 

 私は、ダアトで悠々自適に研究生活をしたいだけなんですが。
 ついでにレプリカをどうにかして、あとはタルロウを改良して、それから――。
 さて、どうしましょうかね……。

 ディストは前途多難であることを自覚した。とりあえず聞いた話を簡単に書き出す。
 そしてセティからもっと技術的なことを聞きださなければならないと思い、一つため息をついた。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十七節 波紋
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/26 21:22




 セティの裏切りが発覚してから、ユリアシティは警戒態勢に移行した。
 といってもそれは関係者の極一部であり、具体的にいえば25名である。
 あのとき秘預言をティアと共に聞いた研究者15名。そして、テオドーロが報せるべきと判断した10名である。

 街の金の管理をする者。
 人と物の出入りを管理する者。
 綺麗な水の管理をする者。
 歴史ある本を管理する者。
 そして、市長の片腕である秘書。

 テオドーロと共に街の管理を行い、また人格も信頼できるとされた者たちには伝えられた。
 さらにテオドーロよりも年配の者たちの数人にも声をかけたのである。

 下手に此方から動いても疑いを認めるだけだ。じっと堪えて相手の様子を伺った。
 今、外殻に居る者には街に帰って来ないように報せ、街の中の者にもそれとなく訓練を促す。
 もしもの場合は、街を捨てて外殻に逃れなければならない。
 そのときのために、体力をつける必要がある。今更な気もするが何もしないよりはましである。
 オズも万が一の場合は、ただの譜業のふりをするように設定する。
 バタバタと慌ただしく準備をしながらユリアシティはダアトの動向を伺っていた。

 ティアは予定通り、ダアトに帰った。此処でティアが失踪した方が疑いを招くと考えたからである。
 ティアなら、捕えられても殺されることはない。殺された方がましな扱いを受ける可能性は十分にあるが。
 いつ大詠師派が自分を捕まえに来るのかとティアは戦々恐々しながら日々を過ごす。
 普段通りを装いながらも銃を懐に携帯して、極力出歩かないようにしていた。


 だが、それも年が明けるまでであった。
 テオドーロから連絡が入り、大詠師派はセティの情報を嘘だと切り捨てたと教えられた。
 兄についてそれとなく訊いてみると、普段と変わらないらしい。
 ティアはホッと溜息をつき、白衣に忍ばせていた銃を引き出しに戻した。

 最悪、ダアトとユリアシティの関係の断絶に至っただろう。補給を抑えられたらお終いである。
 知らぬ存ぜぬを貫き通したとしても、アイン・S・アウル博士という前例がある以上誰かが矢面に立たなければならなかった。
 その場合、テオドーロが名乗り出る予定となっていた。そうならなくて良かったと安心した。




 ティアは一人、地下に向かう。すれ違う顔馴染みに挨拶をしながら、これから敵地に向かう気分である。
 この先にディストの研究室である。ティアは兄を一番警戒していた。セティのせいでどれだけの情報が兄に漏れたのかティアは考える。

 何事も最悪を想定しておくべきと言う。現実はその斜め上を行くのだから。
 さいわい大詠師派から魔界に対しての動きはなかった。
 だがモースにセティが接触したのならば、兄にも情報が流れていると考えるべきだろう。そしてその兄からディストへ。
 セティは私とは違って一流の科学者だ。生きていれば、より詳しい情報を集めようとすれば、必ずディストが関わってくるはずだ。
 女ということでリグレットの可能性もあるが、ディストが知らされていないはずはない。

 セティが生きて協力的だとすると、どのくらいの情報が漏れるだろうか。
 彼女は古参の方に入るが、若いということもあって科学者としてしか計画には関与していなかった。
 それでも外殻降下計画、関与している科学者、アウル博士の正体、オズの存在、001の秘預言の概略。
 アインチームでファリアの助手の様な事をしていたので、003のプラネットストームの中身はほぼ伝えられただろう。
 何よりもこちらが2018年に動くということを知られたのが痛い。

 裏切りが呼び水となってお流れになった物事は一体どれだけ歴史上あるのだろうか。
 こちらがそのときまで隠れている予定だったのを崩されてしまった。ここから立て直すのは至難の業である。
 ディストの情報とセティの情報がそろえば計画は白日の下に晒されてしまう。
 とりあえず、ディストにどこまで漏れているか確認しなければならない。

 私は兄の後ろ暗い計画のことなど知ってはいないのだ。モースと兄、兄とディストを結ぶ太いラインなど知らない。
 だから普段通り、セティが裏切っていてもディストを訪ねる。ティアはそう自分に言い聞かせた。

「ディスト。朗報よ。オベロン社との話が纏まったみたいで、ディスト博士にってデータが届けられたの」


 そう言いながらティアは音素結晶化技術の詳細をディストに渡した。その様子は以前とまったく変わりない。
 ディストは構えていた自分がおかしいように錯覚しそうになった。

 けれども、この目の前の少女はただの少女ではないのだ。
 部屋に入ってきたティアは自分の助手だったころと同じように正面の椅子に座る。
 サイズの合っていない椅子に少し眉をひそめて座り直すところも変わっていない。

 ディストはティアを成長の早い、要領の良い研究者だと思っていた。
 関係者は揃いも揃って豪華だが、ティア自体はそこまでではないと。
 ティアの発想は素晴らしい。ふと口にする言葉がディストにインスピレーションを与えてくれる。
 惜しむらくは本人がそれを扱いきれていないところである。
 それも年月を経るとともに磨かれ一流の科学者になれるだろうと、その将来には期待していた。

 そう、将来は。いまのティアはただの助手に過ぎない。
 少なくともディストはそう考えていた。

 だが、真実は違かった。

 外殻降下計画の骨格の部分にはティアの助言があったそうだ。おそらく当時は8歳といったところだろう。
 ダアトに疑われたときも単身乗り込み、潜伏するどころか六神将と親しくするとは正気の沙汰ではない。

 六神将は主席総長の部下であり、その主席総長は大詠師派と見られている。
 つまり大詠師派の意向を受けて真っ先に動くのが六神将の率いる部隊なのである。モースは頭が固いかなりの保守派である。
 魔界で大地が崩落するときに備えて動いていると知られれば、同郷であっても容赦しないだろう。

 ディストは、普段と変わらない冷静な彼女を見た。

「どうかした? もしかして話を聞いてなかったの?
 これが第七音素を結晶化しようとしたときのデータ。無くさないでよ。前みたいに紅茶を溢されたら困るんだから」

 ティアは以前のディストの失敗を持ち出して注意した。
 ムッとしながら「あのときはデータを復旧するのに三日もかかって大変だったのよ」と告げる。
 「そうでしたっけ」と言いながら、ディストは眩しいものを見たかのように目を細めた。

 セティの話を聞き、ディストは自分の快適な研究生活のために如何にかしなければならないと思った。だが、事はそう上手くいかない。
 ディストはネビリムを復活させるためにモースとヴァンを天秤にかけていた。その過去がディストの足を引っ張るのである。

 モースはともかくヴァンはまずい。彼はレプリカを使って人間とレプリカを入れ替えるつもりだ。
 彼の下に居れば、ディストの輝かしい発明などなくなってしまう。それは十分に分かっている。
 しかしヴァンは謡将であり、詠師でもある。その上の導師は権力など持たず傀儡に過ぎない。
 かといってモースも頼るには余りにも心許ない存在であった。そもそも信頼などできない。

 魔界という選択肢は初めからなかった。
 魔界は余りにも脆弱な組織である。誰にも認知されていないからこそ、安全に計画を進めることができていた。
 モースは今回見逃したが、ディストが魔界に行ったとなるとさすがに疑問に思うだろう。
 ヴァンも計画を知り過ぎている自分を見逃すはずが無い。自らが火種になるつもりはなかった。

 ディストはマルクト帝国からダアトに亡命してきた身である。ダアトを捨てるとなるとキムラスカになる。
 元マルクト人の、ダアトから亡命してきた研究者を彼らが信用するだろうか。
 第七譜石には滅亡が詠まれていると告げても、頻繁に出入りしているモースとヴァンに引き渡されるのが目に見えている。

 マルクト帝国はまた別の意味で頼ることができない。
 未だにレプリカ研究を続けている自分をジェイドは嫌悪するだろう。レプリカ研究を止めろと言われるはずである。
 しかし、シンクを知ってしまった自分はそんなことできない。彼は私の作品であり、仲間でもある。
 それに、幼馴染みのピオニーは皇帝という地位に就いている。かつて亡命した自分を受け入れるために彼はどれだけの労力を払うのか。
 そしてディスト自身も何かを差し出さなければ、亡命を無かったことになどできない。
 皇帝の死が詠まれている秘預言。確かに価値があるだろう。だが、あの議会がそれだけで黙るはずが無い。もっと形あるものを求めるだろう。
 例えば、音素結晶化技術。プラネットストームの状態を知ってしまった以上、安易にそれを漏らすのは憚られる。

 八方塞であった。ディストはただヴァンの下で研究するしか道が無かった。


 ティアはふと思い出したように、ディストに尋ねる。

「そういえばプラネットストームの概略図、ディストが持っているわよね?」
「えっ……。ああ、あれですか。此処にはないですけれど、必要になったんですか?」

 あれはいまセティのところにある。プラネットストームの完璧な設計図とは興味深い。
 いま彼女にその詳細を書き出してもらっているところだ。

「いや、ただ見当たらないなってこの前探したのよ。そういえば貸していたかしらって部屋中探した後思い出したの。ただ確認したかっただけ」

 ティアはそう言いながらもセティの生存を確認した。
 この研究馬鹿の譜業オタクがあんな貴重なものを此処から持ち出すなんて普通はあり得ない。
 十中八九、このダアトのどこかにいるセティに渡したのだろう。

 ディストは外殻降下計画よりも、自分の探究心を優先している。研究第一ということだろう。
 彼が兄の計画に積極的であるという最悪は避けられるようだ。そしてその次に困るのが、彼がマルクトを頼ることである。
 分が悪い賭けのような手は好まないが、それに縋るしかない。譜業に目が無い彼を引き留めるには譜業しかないだろう。
 そしてティアはおもむろにポケットから小さな譜業を取りだす。

「この譜業、修理できないかしら? 古いものっていうのはわかるんだけど、譜業については門外漢だから」

 そう言って渡された譜業をディストは受け取り一通り見てみる。かなり古い機構が見られるが、修理できるだろう。
 ディストはとりあえず、今は動かずに様子見をすることに決めていた。

「ふむ。面白そうな造りをしていますね。いいでしょう。このディスト様に任せなさい! すぐに完璧に元通りにして差し上げますよ!」
「ありがとう。助かるわ」

 ティアはお礼を口にすると何か躊躇うような間を置いて、そっと喋り始める。

「実は、創世暦時代の譜業が見つかったらしいのよ。例によって隠し部屋から。だけど魔界の人は頭でっかちばかりで、手先が器用じゃないの。
 ディストがそれをどうにかできるなら、他のも見て欲しいのよ。駄目かしら?」
「創世暦時代の譜業ですかっ!」

 ディストはティアの言葉に飛びついた。そんなディストの様子を見てティアは苦笑を隠せない。
 彼の心境はティアには手に取るように分かった。まだ見ぬ過去の素晴らしい譜業のことを考えているのだろう。
 ネビリムへの執着が無くなったディストは一層研究にはまっているようだ。

「その様子じゃあ答えは聞くまでもないわね。結晶化技術といいディストを頼ってばかりだわ。私にできることは何かない?」
「ふむ。なら一度私を魔界に連れて行ってくれませんかね」
「……ディストを魔界に?」
「ええ。魔界から外殻に持ち運べるのはせいぜい人が抱えることができるものまででしょう? 私が赴けば、もっと大型の譜業を見ることができます。
 ああっ、創世暦時代の完璧な譜業! それに瘴気を寄せ付けないユリアの作った街! まさにこの薔薇のディストの興味に値するモノですよっ!!」

 ティアはその意気ごみに引いた。久しぶりに見るディストの興奮状態は目に余るものがある。
 距離を取ってから改めて感じるディストの異常性。こうはなれないなとティアは一種の諦めと共に科学者としての敗北感を持った。
 兄の計画を如何にかしたい一心で研究に身を置いたが、長年やっていればそれなりの自負心がある。二流と自覚していても、それは変わらない。

 そして、研究のためにそれだけの熱意が持てる彼を少しだけ羨ましいと感じた。
 ティアには兄を救うという目的がある。だからこそディストのようにはなれない。
 そのことは理解しているが、それでもひたむきになれるディストを眩しいとティアは思った。
 だからこそ、ティアはこのディストの手助けをついしてしまう。

「ユリアシティは閉鎖的な街だから。う~ん、いろいろと手続きは面倒だが如何にかなるかしら? 確かディストは律師だったわよね」
「ええ、いつだったか報酬としてあげてもらいましたよ。私はもう此処でしか研究ができませんからね」
「一年は待たなければならないでしょうね。これでも早い方なの。その間は小さいので我慢してくれない?」
「構いませんよ。むしろ小さい方が洗練した技術が用いられている事の方が多いですからね」
「確かにそうね。一定の技術と理解がなければ小さくすることは不可能だわ」

 そこから二人の話は技術の発展の仕方、時代の変遷といったものになり昔と同じ光景が広げられる。
 そうして表面上はいつもと変わらず二人は笑い合っていた。


 しかし、それもティアがあることを思い出すまでである。譜業の話からティアの脳裏にはある記憶が蘇った。
 ティアは怒りから声が震えそうになるのを抑える。

「ディスト。……あれ、あなたの仕業よね」

 ティアが魔界からダアトに戻り、私室に帰って目に入ったものは見る影もない猫と兎と牛の姿であった。
 猫はアナログ時計を両腕に抱えており、兎は何故か白衣を着ていた。
 牛は胴体の綿が無くなっており、腹には手術痕のようなファスナーがあった。
 ラルゴの気持ちを考えて大事に扱っていたのに、このディストに弄られたのである。
 箱の中の亀は無事だったが、ティアはかなり怒っていた。それに気づかずディストは譜業について説明する。

「ああ、私の改造を見たんですねっ! 素晴らしいでしょう。あの譜業はですね――」

 ディストはティアの誕生日に何を贈ろうかと迷い、アニスのことを思い出したのである。
 ティアと仲違いをしていた間、ディストはジェイドのことで悩み食堂でもうじうじとしていた。当然、周囲は距離を置いた。
 導師守護役になったばかりのアニスは死神と知らずに席が空いているのか尋ね、それを切っ掛けにして二人は話すようになったのである。
 アニスが同僚に苛められていたところを見たディストは、アニスの両親から贈られたお気に入りの人形を改造してあげたのだった。
 そのときアニスは喜んで、ディストに礼を言った。だから、ディストはティアも喜んでくれるだろうと思って改造したのである。

 ディストはティアも嬉しがっていると思いながら、人形の機能について説明する。

 牛のぬいぐるみには多くの荷物が入る。ティアの音素に反応して小さくなり、持ち運びしやすくなるのだ。
 今はまだ、抱きかかえられる人形分ぐらいの容量しかないが、目標はその3倍である。
 兎のぬいぐるみはティアの健康管理を行ってくれる。シンクから倒れたティアの事情を聞いたディストは必要だと思ったのだ。
 音素と体調は連動している。記録を取り続ければ、倒れる前に休みを取らせることができるようになる。
 猫のぬいぐるみは目覚まし時計である。ヴァンがティアは良く寝坊をすると言っていたので作ってみた。
 お腹には再生装置が埋め込まれており、毎朝定時に快適な朝を迎えられる。

「それで、猫にはいろんな音が録音できますから。もちろん私の美しい声を録音しても――。……ティア?」

 じっと黙って説明を聞いていたティアは、ディストの一言を聞き逃さなかった。
 怒りも忘れ、ティアはうっとりと何かを想像しながら呟く。

「兄さんの声で目覚める朝。……素敵……」


 後日、休日を一日時計の前で過ごしたティアの姿があったという。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十八節 穏やかな日々
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/28 20:24


 アリエッタはペタンと地面に座りながら、導師イオンのことを考えていた。
 ちらりと向かい側でティアの横に居るシンクの顔を見る。彼はイオン様にそっくりだが、イオン様じゃない。
 アリエッタの視線に気づき「なに?」と不機嫌そうに尋ねてくる。やっぱりイオン様じゃない。
 それに安堵してアリエッタは頭を振った。手元の人形を弄りながら、イオンのことを思い出す。


 それは偶然のことだった。
 アリエッタが師団長の用事で総長の部屋に入ったとき、そこには導師イオンが居たのである。彼はその場にいない総長を待っていた。
 イオン様なら呼び出すのにと思いながらアリエッタは恭しく頭を下げ、出直そうとした。そんなアリエッタをイオンは引き留め、微笑みながら声をかける。

「久しぶりですね、アリエッタ。元気にしていましたか?」

 その吹けば飛びそうな笑顔はアリエッタには見慣れないもので、違和感がある。
 アリエッタは困惑を顔に出さないようにしながら「……はい……」と頷いた。

 此処が森だったらすぐに距離を取れるのに、どうして此処は森じゃないのだろうか。
 何故、彼は此処に出向いているのだろうか。そういえば、守護役は何処に居るのだろうか。
 どうして、彼はそんな苦しそうな顔をしながら自分に話しかけるのだろうか。

 アリエッタはイオン様の間では交わさなかったような会話をイオンとする。
 他人行儀な何処か余所余所しい、お互いの距離を測るようなものだった。
 アリエッタが彼を導師として扱う度にイオンの表情は冴えなくなる。

 そうして会話のタネが尽きたころに、ようやく総長は現れた。アリエッタはホッとして、外で待つ旨を伝える。
 その背をじっと見つめるイオンの視線には、全く気づかなかった。気付く余裕などなかった。
 後でアリエッタは総長に「導師と距離を置くように」と告げられた。アリエッタはそれを盾にして、イオンから徹底的に逃げている。

 イオン様と同じ顔で、イオン様と同じように話す。だが、それは親しさからではない。
 シンクは決してイオン様のような真似をしない。シンクはシンクらしく振る舞っている。
 それが以前は目に付いたが、最近はそれが好ましいものにアリエッタは感じてきた。
 あのイオンは、イオン様のふりをしようとしている。アリエッタに声をかけるのもその為だろう。
 アリエッタのイオン様ではないと知っている彼女からしてみれば、イオンの態度は喜ばしいものではなかった。

 それに、アリエッタと話している間、彼はちっとも楽しそうではなかった。
 無理をしていようで、それをさせているのは自分で、そんな真似を彼にさせたくないと思った。
 イオン様の顔が悲しそうに歪むのは見たくない。そうアリエッタは思った。

 だから、アリエッタは導師イオンと接触しないように副官であるピーチに頼んだのである。
 それが功を奏したのか、あれからアリエッタは導師の姿を見ていない。彼の顔を歪ませることなく、悲痛な顔を見ることもない。
 彼にはアニスがついている。自分はもう導師守護役ではないのだから。そう思い、アリエッタはぽつりと一言漏らす。

「……アニス、導師イオンをきちんと守ってるかなぁ……」
「あの守銭奴具合なら、ガルドを積まれたら導師を差し出すかもね」

 シンクはアリエッタの呟きに答えた。アリエッタは思いがけない返答に驚き顔を上げる。
 ティアは彼女を詳しく知っているような様子に疑問を持った。
 シンクはイオンを避けていたはずである。それなのに何故、アニスが守銭奴などと詳しいのだろうか。

「シンク。アニスに会ったことがあるの?」

 その質問にシンクは少し歯切れが悪そうに「まあね」とだけ言った。
 答え難そうなシンクを見て、もしやと思いティアは訊いてみた。好奇心に負けたとも言う。

「もしかして、『きゃわぁ~ん、シンク様ぁ☆』とか言われたのかしら?」

 ティアは裏声を使ってアニスっぽい声を出してみると二人はぎょっとしてティアの顔を見つめる。ティアの声真似は結構アニスに似ていた。

「……ああ。凄まじかったよ」

 シンクはうんざりとした様子を隠さない。


 導師と接触するのを最低限にしているシンクは、必然的にその側に控えるアニスとまともに顔を会わせてことがなかった。
 だから突然廊下で導師守護役に声をかけられたときシンクは驚いた。一瞬、似ているとでも思われたのかと警戒したがすぐに解く。
 彼女は師団長であるシンクをただ見かけただけのようだった。そして纏わりつく彼女を「邪魔」の一言でいなし、その場を立ち去ろうとする。
 相手をするつもりはなかった。下手に近づいて悟られたら面倒である。そう考えあしらったシンクの背に、一言守護役は捨て台詞を吐く。

「せっかくこんな美少女が声をかけてあげたっていうのに……。もしかしてオバサンにしか興味がないとか?
 師団長なら金持ちだと思ったけど、やっぱ、仮面は無いわー。絶対あの下の顔はブサイクね」

 彼女は「どこかに金持ちで地位もあって、それでいて老い先短い人いないかなー」と言いながら反対側に歩いていった。
 廊下を曲がった先にいたシンクはうっかり聞いてしまった。聞かなきゃよかったと後悔した。
 シンクは女性の強かさと金の魔力を知った。できればもっと違う形で知りたかったものである。
 そして、そんな人間を守護役として傍に置いている七番目に感心した。


 その一件を思い出し、ついシンクは口を出してしまったのである。

「僕は、そのアニスって奴が金持ちに飛び付いている姿しか思い浮かばないんだけど」

 ティアとアリエッタは顔を見合わせ、何も言えなかった。誰も否定できないところが、虚しいとティアは思った。
 一応、導師守護役は30名の女性しか選ばれない名誉ある仕事なのだが。そしてティアは少し疑問に思う。
 シンクにお金が全てであるところ一発で見破られるとは、いったい彼女はなにをしたのだろうか。
 それに、アリエッタはいいのだろうか。レプリカとはいえ今のイオンを守ろうとは思わないのだろうか。

「アリエッタは、……このままでいいの?」

 言葉が足りなかったティアの疑問にアリエッタははっきりと応じた。

「アリエッタが護る導師はイオン様だけ。……アリエッタのイオン様は今の導師じゃないもん……」

 そこだけは明確に断言したアリエッタを見て、ティアはアリエッタが混同していないことを理解した。
 アリエッタのイオン様は亡き導師イオンであり、もういない。彼女は元導師守護役であり、今は第三師団長である。

「そう。今のアリエッタは師団長だものね」

 いつだったか見かけた第三師団の訓練を思い浮かべる。
 グリフィンに乗り、先頭で隊を率いていたアリエッタは凛々しかった。
 ライガは群れで暮らす魔物である。隊長という仕事も案外アリエッタに適しているのかもしれないと思った。

 なんとなくほんわかした雰囲気にシンクが水を差す。

「あのオリジナルのどこがいいんだかね」

 アリエッタのイオン様が大好きという様子にシンクは皮肉気に呟いた。
 そのシンクの一言にアリエッタは不満を隠さない。その反応を見てもシンクには撤回する気はなかった。
 シンクの知るオリジナルは冷淡で、高飛車で、傲慢なとにかく嫌な奴だった。その彼を一心に慕うアリエッタを理解できなかったし、したくもなかった。

 ティアは少し険悪な様子になった二人に焦った。そしてシンクの迂闊な発言をどうにかできたらと思う。
 だが、いまさらであった。此処はティアの研究室ではなく、アリエッタの庭である。
 ティアはシンクを生贄として捧げた。


「ちょっと! なんなのさ、一体っ」
「ふんっ。シンクなんて怪我しちゃえばいいんだもんっ」

 後ろで寝そべっていたライガさんが、アリエッタの怒気に反応しシンクに砂をかけた。
 二匹のライガはアリエッタの感情に敏感だ。妹分のアリエッタを大切にしている。言葉が通じないティアでも分かるほどに。
 ティアはライガとアリエッタを怒らせることなく過ごしてきた自分に拍手をしたかった。


 シンクはライガさんの爪をすんでのところでかわしている。
 しかし、ライガさんは余裕のようだ。じゃれるようにシンクにからんでは距離をとる。
 完璧にライガさんはシンクで遊んでいた。挑発するように尻尾を振り、毛繕いのポーズを取っている。

 それに触発されてシンクは風の音素を集め始めた。そして、シンクは低い声で「叩き潰せ」と風に命じる。
 横殴りの風の塊が、詠唱中も動かずにじっとしていたライガさんに襲いかかろうとした。
 それを確認する前にシンクは距離を詰めようとする。風で撹乱し一撃をいれるつもりなのだろう。

 だが、風が届く直前にライガさんの横に土の壁が立ち塞がる。
 その壁に防がれて風は四散してしまった。表面を揺らしただけでライガさんは無傷である。
 シンクはチッと舌打ちすると狙いをずらし、その拳で壁を打ち砕く。大きな塊がライガさんに降り注ぎ、土煙が視界を遮る。

 ライガさんはその巨体を素早く動かし、破片を避けた。そしてちらっとシンクを見る。
 言語化するなら、「烈風などと粋がってこの程度か。我にとってはそよ風にすぎんわっ!」という感じであった。
 対するシンクはますます闘争心に火がついたようで、壁を殴って少し血が滲んだ拳をぺろりと一嘗めしライガさんを睨んでいる。
 一人と一匹の攻防はまだ序盤と言ったところであった。


 もうじゃれあいというよりは、戦闘訓練と言った方がいい。
 仮にも六神将であるシンク相手にライガさんは互角どころか余裕を持っている。
 ティアは万感の意をこめて感想を言う。

「ライガさん。強いわ」
「……あの子はメスだから……。総長にも勝ったこと、あるの……」

 キラキラとアリエッタはシンクを押しているライガさんを見つめている。
 兄に勝ったことがあるとは、侮りがたい。絶対戦わないようにしよう。
 ティアは心の底から思った。そうしているうちにも風が唸り、砂煙が舞う。


 距離を取ってその様子を眺めながら、ティアは未来のことを思う。
 ディストが地下に引きこもり、部下たちが任務に奔走した成果として第七音素の結晶化は一部成功している。
 他の音素に比べるとまだ効率は悪いが、一応の形は出来た。
 あとは無駄を省いていくという時間だけがかかる根気のいる作業だ。ディストならやってくれるだろう。

 レンズになったのなら、そこからはティアの出番である。
 レプリカに対する作用、副作用を調べなければならない。レプリカは第七音素に対しては繊細な存在だ。
 外からヒールをかけても構わないことは分かっているが、体内に第七音素を取り込むことがどう影響するかは未知数である。

 ピヨピヨなどの魔物を使ってまず実験。チーグルは聖獣ということを考慮して対象から外した。
 結果としては、第七音素の素養がなくても大量に摂取しなければ悪影響はないようだ。
 肝心の乖離を防げているかどうかはまだ分からない。比較実験の結果待ちである。
 それでも体力を回復するぐらいの効果はあるようで、シンクには説明して少しだけ摂取してもらっている。
 おそらく他のレプリカにも理由を付けて口にするようにしているだろう。

 また同時に既存の薬草や採取できるものに混ぜ、治癒効果を発揮できるように実験をしている。
 まったく未知の分野だがやりがいはある。まずはグミなどから手を出して反応をみている。上手く行けば内臓などを癒し、外科医いらずになるかもしれない。
 目処が立てば公開して研究が進むようにしたいが、レンズの供給体制が整っていない今はいろいろと問題がある。

 レプリカのすり減る第七音素を補充できれば、ルークはローレライを開放しても乖離しないかもしれない。
 しかし、断言はできなかった。そのときでなければどうなるか不明である。きちんとしたデータが手元になければ推測もできない。
 ローレライがどれほどの存在なのか、測りきれないのだからやってみなければ分からない。
 だが、これで確実にイオンは救えるだろう。目的とは違うが、それでも違うシナリオが描けることにティアは嬉しく思う。


 いつかイオンとシンクと、それからモースに囚われているフローリアンが三人並ぶ日は来るのだろうか。
 フローリアンがはしゃぎ、イオンがそれを嗜め、シンクがそれを見守っているような光景。
 アリエッタとアニスが仲良くしているような未来は実現するのだろうか。

 叶うのならば、そんな幸せな日々を兄と共に送りたいとティアは思った。







[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第二十九節 恋風が吹き荒ぶ
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/28 21:31




 少女は恋をしている。
 彼女の名はミカン。神託の盾騎士団第五師団所属の響長である。


 彼女が彼を意識し始めたのは1年以上前、ミカンが神託の盾騎士団に所属してから2年近く経った頃のことであった。
 ミカンはもう新人と呼ばれることはなく、ちゃんと先輩にも名前で呼ばれるようになっていた。
 任務も幾つか任されるようになり、実戦も経験した。鍛錬所で頭でっかちと怒鳴られるのもなくなった。

 だが、ミカンの表情は冴えなかった。ミカンは譜術師である。しかし、どうも最近伸び悩み始めてきたのだ。
 最初のころは良かった。ミカンは火の音素と相性が良かったのでそこから伸ばし、二つ三つと手札を増やしてきた。
 けれども、中級譜術を覚えようとしても上手くいかないのである。
 いつもアドバイスを貰っている先輩に聞いても、「出来ると思うんだけどねえ」と言われてしまってはどうしようもない。
 「焦らないでいいんだよ」と励まされても、ミカンは焦らずにはいられなかった。

 神託の盾騎士団は実力主義。
 譜術師の実力は適性のある属性の数、扱える譜術の数、それに術に込められる譜力の量。

 ミカンは幸い火と風の適性がいあったが、二つ扱える人間なんてざらにいる。中級の術で立ち止まっているわけにはいかないのだ。
 込める譜力の量を多くするのは、卓越した技術がないと難しい。まずは手数を増やさないと。
 そう思って一カ月、鍛錬所で一度も成功したことがない譜術に挑戦して、いつものようにミカンは失敗して落ち込んでいた。

 あたしは譜術師に向いてないのだろうか。
 杖一本でやっていくつもりだったが、剣や弓でも覚えた方が良いかもしれない。
 どんどん沈んでいく思考に嵌ってしまいそうだったとき、彼の言葉が耳に届く。

「音素は、ねじ伏せるものなんだよ」

 はっと顔をあげて横を見るとそこにはもう誰もおらず、ミカンは視線を鍛錬所の中心に移す。
 そこには、主席総長兼第三師団長であるグランツ謡将と戦い始めた小柄な仮面をつけた少年の姿があった。

 謡将が迎え撃つ構えをとり、少年は迷わずその懐に飛び込んでいった。
 謡将の体躯から振り下ろされる剣に恐れも見せず、少年はするりと交わし拳を振り上げる。
 そのまま胴に拳が入ると思いきや、謡将は微塵の焦りも見せず、予想していたというようにその剣でガードして見せる。
 最初の一撃を防がれた少年は身軽さを活かして身をよじって、脇の下に蹴りを入れた。
 防具がないところを狙われた謡将が少しバランスを崩した隙に、少年は距離を取る。

「……すごい……」

 その一瞬の攻防にミカンの目は釘付けだった。あの謡将と模擬戦とはいえ戦うだなんて。
 そもそも謡将が鍛錬所に現れるなんて最近ではめったにない。彼は何者なのだろう。

 そんなミカンの問いに答えるように彼について周囲の者は噂している。
 中央で始まった二人の戦いに皆は武器を降ろして見物のようだ。
 端の壁に寄り思い思いの姿勢をしている。中では賭けをしている者もいるようだ。

「今回も謡将の勝ちに決まってる」
「いやあ、分からないぞ。俺はそろそろシンクなら一本とれるんじゃないかと思うぜ」
「あいつ、また昇格したんだっけ?」
「ああ、もう謡手だ。なんでもあのイニスタ平原のボスを相手して追っ払ったらしい」
「まじかよ。まだ入団して半年も経ってないじゃないか。どんな無茶すればそんなに強くなれるんだよ」
「武器が特別ってわけでもないみたいだからなあ。実力だろ」

 がははと笑い合いながら彼らの話は武器の話題に移っていた。

 ミカンは耳に入れた噂を心の中で反芻する。
 シンク謡手って言うんだ。半年で何度も出世するなんて私なんかとは随分と違うんだな。

 神託の盾騎士団の階級は厳格である。
 実力主義だからこそ、明確な基準を設けていなければ諍いの元になってしまう。
 任務のレベルはA~Fのランクに分かれている。それと階級は連動している。
 階級は任務の達成度によって上げられる。同じEランクでも奏長であれば、まだ駆け出し。響長であればある程度信頼できる。

 Fランクの任務を何度達成してもランクが上がるわけではない。ただEランクに挑戦する機会が与えられるだけだ。
 失敗すると半年は挑戦できない。そうして少しずつランクを上げて階級も上がっていく。
 Eランクで響長・奏長クラス。Dランクで謡長・響手クラスとなる。
 Aランクともなれば、ただ戦うのが強いだけでは認められない。隊を率いて全体を見通す力も必要になってくる。

 謡手なら、Bランクの任務を達成したはずだ。ミカンはまだFランクを数件こなしただけである。
 その違いに実力の差を感じ取り、ミカンはぎゅっと杖を握りしめる。
 そんなミカンを余所に鍛錬所はシンクとヴァンの模擬戦に盛り上がっていた。

「おおっ。今のは惜しかったんじゃないか? 謡将とシンクの模擬戦も長くなってきたな」
「それだけレベルが吊り合ってきたってことだろ?」

 ミカンは下を向き始めた顔をあげて中央を見る。上級者の戦いを見ることも鍛錬の一部だ。


 シンクの衣服はところどころ破けており、無傷の仮面が異様だった。
 対する謡将は息も乱していない。余裕といった様子で、シンクに声をかける。

「どうした、シンク。これで終わりか?」
「……まだ、僕は戦える」

 肩で息をしていたシンクは呼吸を整えて、汗を拭い謡将に立ち向かう。
 謡将はその返答に嬉しそうに剣を構えた。

「そうか。その意気だぞ、シンク」

 臨戦態勢の謡将に対してシンクは動かない。
 睨み合いになるのかと思ったとき、ミカンはシンクの周囲に第二音素が集まっていることに気がついた。
 この地下にある空間で風の音素をここまで集めるなんて。その難しさはミカンも身を持って知っていた。

 シンクはそのまま第二音素を使って譜術を謡将の足元に繰り出す。

「僕に逆らうんじゃないよ。タービュランスッ!」

 譜陣が浮き出て、そこから無数の風が謡将に襲いかかった。
 さすがにこれほどの術が来るとは思っていなかったのか、謡将も顔をしかめる。
 シンクは譜術を放ったと同時に距離を詰め、謡将の後ろに回り込んでいた。
 盾を用いない謡将は右にかわし回避を試みるが、それもシンクに読まれていたようだ。
 シンクの右の掌は謡将の背中を捉え、続けて左も打ち込まれる。衝撃を受けて謡将は前方に吹き飛んだ。


「あいつ、やりやがった」
「賭けは俺の勝ちだな」
「いやっ、まだ謡将は負けていない!」

 一気に沸き立つ周囲の喧騒はもうミカンの耳に入っていなかった。
 ミカンはさっきの音素の動きを思い出そうと必死である。
 あのとき彼は少ない第二音素を操って見せた。あんな風にできれば、もっと強くなれるはず。

「……音素を従わせる」

 誰にともなくミカンは呟いた。




 それからミカンはみるみるうちに上達し中級譜術を扱えるようになり、Eランク認定の任務も達成し晴れて響長になった。
 先輩にも驚かれるほどでミカンは鼻高々だった。それも全て彼の一言のおかげである。お礼の一つでも言いたい。
 ミカンはシンクの姿を目で追うようになっていた。年下だと知ってもそれは変わらなかった。彼の強さは本物である。
 一度火がついた憧れはなかなか消えないもの。その憧れが恋に変わるのも自然な成り行きだった。

 そんなミカンの変化に周囲は気づいていた。いま飛ぶ鳥を落とす勢いのあるシンクに憧れるのも分かる。
 強い者に対する感情は誰でも抱いたことのあるものだ。そして、それが年の近い男女の間では恋になることもあるだろう。
 ましてや偶然とはいえアドバイスを貰ったことになる。ミカンが惚れるのも頷ける。
 年嵩の者たちはそんなミカンを見守っていた。その思いが報われるかどうかは分からないが、ミカンは強くなっている。
 引っ込み思案だった彼女が積極的に動くようになったのは良い変化である。このまま上に来ればいいと思っていた。

 もっともシンクはそんな師団の雰囲気など知らなかった。
 シンクはヴァンに命じられた通り、強くなれば良い。レプリカである自分はオリジナルの言うことを聞いておけば良い。
 そう当時は思っており周囲の者と雑談をすることもなく、ただ黙々と鍛錬を続けていた。


 第三師団でのシンクとヴァンの模擬戦の数が二桁になったころ、ミカンとその団員たちを驚愕させる発表があった。
 グランツ謡将が師団長でなくなる。前々から分かっていたことだ。そこまで思うことはない。
 それよりも皆を驚かせたのは、次の師団長がリグレットとシンクの二人であるということだ。
 最近、小隊規模の人数が妖獣のアリエッタと任務を重ねていたのは知っていた。
 だから、導師守護役を解任されたアリエッタが新しい師団長の副官になるのではないかと噂されていた。
 そこを敢えて師団の再編に繰り出すなど、誰も予想していなかった。その事態に何か上層部の思惑があるのだろうと影で囁く。

 そんな中、周囲とは別の意味でミカンは不安だった。いままでは同じ師団にいたからこそ彼を垣間見ることもできていた。
 だが、第5師団に配属されなかったらどうなるのだろうか。師団ごとに使用する鍛錬所は違うし、使う時間も分けられている。
 もう彼の姿を見ることも出来なくなってしまうかもしれない。ただでさえ彼は響士となり手の届かない存在なのに。
 シンクさんと一緒の師団に配属されますようにと、ミカンは必死でローレライと聖女ユリアに祈る。


 そして、ローレライに祈りが通じたのかミカンは第五師団に配属されたのである。
 ミカンは喜んでシンクさんと仲良くなろうとした。書類を届けたり、言付けを伝えたりと執務室に頻繁に出入りする。
 ミカンの気持ちを知っている者は、からかいながらも「これよろしく」と用事を作ってくれた。
 ミカンは精一杯努力していた。副官のトリートさんに顔と名前を覚えられるほどに。
 そんなミカンの耳にある噂が入った。
 
 師団長が技手の研究室に通っているらしい。

 シンクの行動に注意していたミカンは、ときどき彼が執務室を空にしていることを知っていた。
 そして、その噂の技手が女だと知りミカンは愕然とした。周囲に女っ気が無いと思っていたからこそミカンは余裕でいられた。
 妖獣のアリエッタがシンクさんをつけ回していたときも、彼が嫌がっていたのが分かっていたから安心していた。
 だが、師団長と参報総長を兼任しているいつも忙しそうなシンクさんが自ら足を運ぶ女性が居るなんて。
 一通り落ち込んだミカンは、まだ恋人と決まったわけじゃないんだからと立ち上がった。

 まずはその敵を知らなければと聞き回る。調べると意外にも情報はすんなりと集まった。
 士官学校の成績は、技手志望で戦闘技術Cと最低。
 第二師団からヴァン総長の要請で第五師団に移動。
 14歳と技手の最年少でマスコット扱い。
 第二師団での通称は白衣の天使。

 その内容にミカンは憤る。なによ、このティアとかいう女。どこのお嬢様だか知らないけど、オラクルはそこまで甘くないのよ!
 それにあの胸は何!? と自分のささやかなものと見比べ、怒り心頭である。

 ミカンはティアをどこかの貴族の娘だと思った。過去を調べようとしても出てこない。孤児にしては、彼女の人脈は豪華すぎる。
 第七音素の素養を持つ人間はダアトでは好待遇で迎えられる。貴族の婚姻などでも、第七音素の素養は美点として取り上げられるのだ。
 ダアトで修業し教団のお墨付きとなればなお良い。彼女もそういった類の連中で、オラクルには腰掛け気分なのだろう。
 そう考え、ミカンはティアに対して敵意を持った。

 実際のところ、そういった手合いは基本的にダアトの麓の街の高級な宿に留まり、指導がある日は教会に通うという形式を取る。
 オラクルに放り込むなんてことはしない。傷がついたら一大事である。

 しかし、ミカンの想像は止まらない。
 ティアの謡長という階級が異彩を放っていた。戦闘技術がCである人間がそんな訳ないと思った。

 オラクルはそこまで甘くない。月末に上のランクへの査定任務がある。一度落ちたら半年は受けられない。
 そのときの気合の入りようはすごい。大事な用事を頼むなら月末指定が良いという話があるぐらいである。
 必ず挑戦者の2ランク上のものが見ることになっており、不正は許されない。
 仮に金や権力を使ってもすぐにわかる。弱いからだ。せいぜいDランクまでだ。

 その点、この女は謡長。Dランクである。
 14歳という年齢からみても、何かがなければ普通そこまで上のはずがない。その経歴は怪しかった。
 第二師団では任務を受けていたのに第五師団に来てからは一度も受けていない。まるで嘘を暴かれたくないかのようだ。

 実際ティアの任務にはディストの部下が側に付き、安全な場所から回復や補助を行っていたのだから疑われても仕方ない。
 だがティアは技手なのである。階級などおまけのようなもの。その本分は研究室にあるのだ。
 しかし、恋は人を盲目にする。ミカンは師団付技手という部分には目にくれず、この女の本性を暴いてやると決意した。


 そして、絶好の機会が巡ってきた。
 トリートさんに任務の命令書を技手の研究室に届けてほしいとミカンは頼まれたのである。
 いけないと思いつつも、人気のない場所でミカンは命令書を盗み見た。
 ちらりと目に入った任務の内容は、あの女とシンクさんが魔物退治に行くというもの。
 苛立ちの余り破きそうになったが、ふと思い直す。そして任務の日時を確認する。一週間後である。
 ミカンはしれっと技手の研究室の前のボックスにそっとその命令書を混ぜた。

 以前、彼女の部下のお人好しそうな一人から聞いた話を思い出す。
 曰く、室長は研究者として尊敬できる人だ。
 室長はいつも任務を他の人間に回す。
 室長は皮肉屋だが、私室には人形を置いている。

 ミカンが注目したのは二番目である。指名された彼女は必ず任務に来なければならない。
 彼女が本当に強いなら、そんな姑息な真似をしなくてもいいはずである。シンクさんもこの女の実態を知れば幻滅するに違いない。
 ミカンは同じ任務を命令された同僚に頼みこんで譲ってもらい、このエセ軍人を叩きだしてやると息巻いていた。




 ティアは手元の命令書を見て、深くため息をついた。部下たちに視線をやると三人とも目を逸らす。

「この前は俺が行きました」
「僕たち三人はもう済ませんたんですからねえ」
「……嫌だ……」

 師団付技手は、頭にカビが生えそうな連中が実用性のない物が作られるのを阻止するために存在する。
 そのためには戦闘参加も必須である。技手なんてはっきり言って足手まといにならないぐらいの強さしかない。
 だから、危険が予想されるような任務には絶対連れて行かれない。たいていは魔物退治だ。
 人間は何だかんだ言って小賢しいので、素直な魔物を駆除するのにお供させていただく。

 ティアは、はっきり言って戦闘が苦手だ。回復が専門であり、安全なところから杖を振るのが関の山である。
 技手を任務に呼ばれても、今まで全部部下を寄こしていた。敢えて血を見たくなかった。
 しかし、こう名指しでこられると逃げられない。部下と同じ会話を繰り返すこと6日。もう当日である。
 諦めて命令書をしまい、ティアは椅子から立ち上がった。


 ランク:E 場所:エンゲーブ周辺 依頼主:エンゲーブ村長 
 内容:魔物退治。収穫期の作物を魔物から守って欲しい。

 Mission start!







[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第三十節 せせらぎを聞きながら
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/29 21:53





 ティアは研究室を漁る。それぞれグミを5個ずつ。オレンジグミだけは多めに。
 それから瓶とボムと薬を数種類。のど飴も忘れずに。あとは栄養ドリンクに試作品の携帯糧食。

 私室に戻って装備を確認する。手入れだけはきちんとしていた。
 教団支給の服の下に着込み、ブーツを履く。きゅっと紐を結えトントンと感触を確かめる。少しきついぐらいで良い。
 普段はそのままにしている長い髪を結い上げ、色鮮やかな緑のリボンで纏める。そして、アクセサリを身に付けていく。

 それから、ティアは引き出しを開けてディストに作ってもらった武器を手に取った。
 黒光りするそれは銃である。女性が持つには少し大きなサイズだが、彫り込まれている優美な紋様がそれを補っていた。

 譜術の一つに譜紋術というものがある。
 譜術は己の譜力を音素帯の音素とぶつけて望みの現象を引き出すものである。行程は三つ。
 自分のフォンスロットを開き、体内の音素を感じる。次に、音譜帯の音素を捉えてぶつける。それから、引き出した音素でイメージを実現させる。
 ファイアーボールならば、まず自分の中の第五音素を感じ取り、音譜帯の第五音素を捕まえて引き寄せる。そして狙ったポイントで爆発する炎を思い描けば良い。

 譜紋術では音譜帯の音素を使わずに、周囲に漂う音素を利用する。
 また、譜術ではイメージをより正確に伝えるために呪文を唱えるが、譜紋術では紋様でイメージを伝える。
 足りない音素を譜石などで補うこともあり、常夜灯やゴーレムのように用いられている。
 パーッセージリングの空間に描かれている紋様や、ユリアロードの空間転移の紋様は最上級のものである。
 創世暦時代のような効果を齎すものは描けないが、それでも譜業のように研究されている。

 ティアは風の紋様を銃身に描き、空気圧で銃弾を押し出せるように設計した。反動もできるだけ抑えている。
 そして、銃弾も特殊なものである。一つ一つティアの自作だ。十枚レンズを重ね、軽くコーティングする。それの表面に釘のようなもので慎重に傷をつけ紋様を描く。
 ずれてしまったらコーティングからやり直しだ。そしてその傷に特殊な音素を込めた液体を染み込ませるのである。
 一つの銃弾を作るのに数時間かかる。二か月、休日を使って作成した銃弾の数は12。属性ごとに三つある。

 これで、素晴らしい効果が得られるかというとそうでもない。
 水属性のレンズ十枚で大鍋分の氷を作れる程度。新米譜術師であってもアイシクルレインで氷の柱を二、三本は作れるのだからたかが知れている。
 これは、歪な成長の仕方をしたティア専用の譜銃であった。攻撃手段が無い治癒師であるティア以外には需要が無い道具だ。
 飛び道具があれば牽制になり、呪文を唱える必要もないので接近戦でも扱える。そのうち護身用に改良できるかもしれないが、それはまだ先のことだ。


 その譜銃を懐にしまい、ティアは用意したアイテムを牛のぬいぐるみのお腹に詰めていく。
 ファスナーを絞めてぬいぐるみの頭を撫でるとポンッと小さくなった。
 ついでに兎のぬいぐるみも撫で、数秒経つと兎が答える。『データ採取完了~!』
 そして兎の耳がピコピコ動き、眼が青く輝いた。大丈夫なようである。
 この兎の眼が赤く光ったら、恐ろしいことになるらしい。ティアは一安心して、集合場所に向かった。




「目的地はエンゲーブ、依頼は魔物退治だ。いつも通り蹴散らすだけさ」

 シンクはそう言うとさっさと船に乗った。団員もそれに倣う。ティアもそそくさとその後をついて行った。久しぶりの雰囲気である。
 技手がいると邪魔だろう。極力うろちょろしないように心掛けようとティアは思った。
 そう考えているとふと視線を感じてティアは辺りを見回す。見かけない人間はやはり気になるのだろうか。


 そうこうしているうちに陸に着いた。ダアト港から真西がエンゲーブとなる。
 河口近くに接岸し、後は徒歩で進む。長閑な田園風景が広がってくるともうエンゲーブであった。
 黄金色の麦の穂が頭を垂れている。風が走る姿が目に見えた。自然の匂いを感じてティアは深呼吸をする。
 石を除いただけの道の向こうには果樹園があった。遠目から見ても赤や橙色の果実が見える。
 季節は秋。実りの秋である。森も恵みが多いはずだが、人里に下りてくるのだろうかとティアは疑問に思った。

 村に入るとシンクは依頼の詳細を聞くために隊を離れた。
 団員は夕食まで自由らしい。ティアはなんとなく隊を離れて村に流れている小川に沿って歩く。
 散策をしながら、オラクルは本当に自由に世界を巡れるとティアは感心していた。
 第二師団での魔物退治は、キムラスカ王国側のケセドニア付近だった。これは定期的にオラクルが請け負っている。

 各師団は独自の裁量権を持っていて結構自由がきく。隊ごとに特徴も分かれている。
 師団長を見ればその団の性格が分かると言われるほどだ。

 第一師団は、動かざること山の如し。護衛などが主な任務だ。
 第二師団は、マイペースな人と苦労性に別れる。
 第三師団は、アリエッタのためにある隊だ。別名アリエッタを護り隊。
 第四師団は、裏をかいての奇襲が得意。
 第五師団は、少数を活かしての速攻が上手い。
 第六師団は、大所帯で独立性が強い。
 特務師団は、影のあるところがあり詳細は不明だ。

 各師団ごとに特性を活かせる任務を回される。はっきり言って暇はない。
 
 神託の盾騎士団の任務は魔物退治、盗賊退治、商隊の護衛、貴人の護衛、宅配が主だ。
 基本的に軍事組織というのは金食い虫だ。そして教団の守銭奴は考えたのである。
 その軍事力を売りに出せばいい。聖都ダアトを攻める国家などいないからできる行動だ。
 そして神の尖兵を名乗るからこそ他国で堂々と振る舞える。

 国家の軍隊が動くほどのことではないときに呼ばれるのが神託の盾騎士団だ。
 もしくは、軍隊を動かせないとき。国境付近で軍隊を動かせば相手国を無駄に刺激してしまう。
 また、国際手配をする場合も神託の盾騎士団に依頼する。両国に跨って活動できるのは、神託の盾騎士団の兵だけである。
 こうやって独自の資金源を持っていることが神託の盾騎士団の立場をより一層強固にした。
 その分、教団側からの資金提供が最低限になり随時魔物退治をする羽目になっている。

 師団の防具を買い替えたいと思ったら東に行って宅配をし、
 師団の武器を新調したいと思ったら西に行って魔物退治をし、
 師団の建物を修理したいと思ったら北に行って盗賊退治をし、
 師団の団員のボーナスを払いたいと思ったら南に行って護衛をしなければならない。


 兄が神託の盾騎士団から離れたとき団員の半分がついて行った理由がティアは分かった気がした。
 これらの依頼を国から引き受けそして渡り合っているのは主席総長である。この立場なら着服もし放題だ。
 そしてティアはあることに気づき、足を止めた。返金しなければならない。
 国家予算の十分の一を一つの譜業のために出せるぐらいの資金。必要経費として落とせるものは落としても、無理がある。
 ディストも巻き込んで発明するしかない。どうせ金がかかっているのはディストの研究費だ。元を取って何が悪い。
 これだから破滅願望のある兄を持つと苦労するのである。ティアは目を背けたい事実に肩を落とした。

 エンゲーブは長閑だ。馴らしてある小道を離れて小川に沿って歩く。この先にチーグルの森があるのだろうか。
 てくてくと上流に向かって歩いていくと、辺りの民家もなくなっていた。気づいてはいたが川沿いに戻れば迷わないだろうとそのまま進む。
 人がいないのでなんとなくティアは唄を口ずさんだ。こんな自然いっぱいの場所ならばと、それらしい歌にする。
 暗い気分を振り払うように、明るい曲調をものだ。曲に合わせて曲がり道をどんどん進む。
 曲が二番になるころには、ティアは散歩をしている気分になっていた。そこに突然シンクの声が降りかかる。

「何が元気なのさ。まったく、いないと思ったらこんなとこで歌ってるだなんて」

 ティアはいつになく不機嫌な様子のシンクに身構えた。
 そういえば辺りは既に暗くなり始めている。御立腹なのも当然であった。
 シンクは呆れながら、ふとティアに訊ねる。

「あんた、あんな唄も歌えたんだね」
「えっ。……うん、まあね」

 ティアは自分の選曲を悔やんだ。何処の歌かと尋ねられても答えられない。
 傍目にもティアが焦っているのは分かった。シンクはため息を堪えて他の質問をする。

「で、なんでこんなとこにいるのさ?」
「えーっと、……川があったからかしら?」

 チーグルのことを考えたから、なんて答えられる訳が無い。
 自分でも下手だと思う言い訳をして、ティアは他の理由はなかったのかと内心落ち込んだ。

 二人の間を木枯らしが吹き、ティアは寒気を覚えた。シンクは今度は盛大にため息をつく。

「はあ。……あんた馬鹿だろ」

 そしてシンクはエンゲーブに何かあっただろうかと考えを巡らす。
 近場のセフィロトはシュレーの丘だが方角が違う。敢えて言うならチーグルだがそんなに大層なものではない。
 聖獣とは名ばかりのただの弱い魔物である。それとも何か秘めた力でも持っているのだろうか。

 シンクはヴァンから魔界が何か企んでいることを聞いていた。ティアが此処まで隠そうとするのもそれに関連することだろうと思ったのである。
 そして、ヴァンからは魔界の件に関しては手を出すなとも言われていた。
 そのことを思い出し、シンクはティアの不自然な態度に気づいていながらも見逃すことにした。

「そろそろ夕飯の時間さ。あんたにちゃんとした食事を食べさせないとうるさいのがいるんだよ」

 そう言うとシンクはさっさと歩きだした。
 ティアは話が逸れたことに安堵してシンクの背を追い、迎えに来てくれたことに対して礼を言う。

「ありがとう、シンク。探すの大変だったでしょう?」
「別に。呑気な声が聴こえたからね。……あんたは、なんでこれまで任務に同行しなかったのさ?」

 シンクはこれまで疑問に思っていたことを訊ねた。謡長という階級も飾りではないはずだ。
 第二師団にいるときは技手にしては結構任務に参加していたようである。
 その問いにティアはちょっと気まずそうに答える。

「私は、弱いから」
「はっ?」

 シンクは予想外の返答に問い返した。その反応にティアは苦笑いをする。

 ティアは力とは無縁の生活を送ってきていた。
 前世の感覚からいえば50年近くもである。ユリアシティには魔物はいない。盗賊もいない。
 初めて魔物を見たのは外殻に来た9歳のとき。それまでは安全に暮らしていた。シンクには想像もつかないだろう。
 解剖を経験したことで血の色や匂いには耐性ができたが、それでも始めて魔物を殺したときのことは今でも覚えている。
 何度目かの任務で同じ部隊の人が襲ってきた盗賊を殺したときは、ティアは一人呆然としていた。
 何とか彼らの治癒を済ませ安全な街の中に入ったとき、ティアは気を失うように眠った。

 夢の中で名も知らぬ誰かが殺され、ティアに助けを求める。血だらけの腕でティアに縋り「癒してくれ」と訴えた。
 怖くなり治癒をかけると、彼は立ち上がりティアの知り合いを殺して行くのである。そして今度は知り合いがティアに願うのだった。

 魘されていたところをディストに起こされ、それからティアは後方待機を厳命されるようになった。
 治癒師だから前に出ることはめったにないのだが、部下を一人付けられるようになったのである。ティアは異論を唱えることはできなかった。
 後方に回されて安心したのは事実だったし、「あなたの血筋を絶やす訳にはいかないのです」と言われてしまえば何も言えない。
 謡長という立場は箔付けのようなものであるとティアは考えている。

 自分が回復しか出来ないのは分かりきっていることだ。上手く攻撃譜術を扱えない代わりに自分は第七音素の扱いに長けている。
 それに、それを補うために譜銃を用意したのである。ティアはそっと懐を触った。

 この世界は人の命の価値が低い。街の外での殺人は相手が盗賊の場合、私怨が立証されない限り正当防衛が適用される。
 ティアはまだ人を殺したことはなかった。だが、間接的になら、ある。
 任務でティアが癒した人間は、人を相手にしたこともあった。何処からが殺人なのか。何処まで許されるのか。
 それは考え方の違いで随分と変わる。ティアは少なくとも自分は手を汚したことのない人間だが、綺麗と言える訳でもないと思っていた。
 そして、自分が人を殺した場合どう思うか考えてはいたものの答えは出ていなかった。


「ディストは過保護だったもの。任務に来ても足手纏いよ」

 シンクはティアの弱気な発言に眉をしかめた。本当に弱いのならあの死神が連れていくとは思わない。
 だというのにティアは下を向いている。強気な普段の様子は何処かに行ったようだった。違和感がある。

「まあ、あんたは回復専門だから変に張りきらなくても良いんじゃないの」

 シンクは慰めになるような、ならないような言葉を告げた。
 弱いくせに自信を持っている人間の方が困る。そう言う奴に限って面倒なことを引き起こすのである。
 ならば、自分の本分を理解している人間の方が頼りになる。シンクはそう感気ていた。

 シンクの言葉に少しだけティアは心が軽くなった。それから、たわいない話をしながら村への道を二人は並んで歩く。
 村の家々からは煙が立ち上り、夕餉の時間である。今日は英気を養って、明日が本番だ。


 仲良く談笑しながら帰ってきた二人に、ミカンは焦燥感を募らせていた。







[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第三十一節 罪作りな果実
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/30 22:00





 魔物との戦闘は混迷を極めていた。

 ミカンは杖で魔物を牽制する。立ち止まって術を唱える暇もない。
 如何してこうなったのかな。ミカンは心の中で問いかける。だが、それに答えてくれる者はいない。
 前衛と後衛が入り乱れ、襲いかかる魔物の群れを振り払うのがミカンの精一杯だった。




 エンゲーブ周辺の魔物は人里近くということもあり、基本的に弱い。
 サイノックスという猪のような魔物やプチプリといった植物の魔物が多く、村の自警団でも追い払えるものだ。

 収穫期に当たり、魔物に人を割く余裕が無いのだろうとシンクは考えていた。
 だからこそ新人を3人連れ、技手であるティアも参加させたのである。15人のうち4人が使えなくても余裕だと思っていた。
 村を束ねているローズ夫人に話を聞き、芳香を漂わせる最高級のリンゴを見てもそこまで危機感を持っていなかった。
 これのせいで魔物が引き寄せられるなんて冗談だろうと、シンクは話半分で聞いていたのである。


 その昨日の自分に忠告したかった。ありえないなんてことはない。
 初めゾンビが2体現れたときの違和感を切り捨てるべきではなかった。
 フーブラス川からのはぐれだと思い、新人たちに戦わせた。重装備の者が魔物の足を止め、軽装の者が魔物を牽制する。
 弱い魔物ならこの時点で倒れるのだが、ゾンビ程度になると譜術師の出番だ。二人の剣士が時間を稼いでいる間に発動した譜術が敵を仕留めた。
 教科書通りの戦い方である。だが、基本は大事だ。そのときは、一撃で伸せてしまうサイノックスではなくて良かったとも考えていた。

 だが、ゾンビに続いて現れたチュンチュンの隣にバットが飛んでいたのである。
 そして周囲に浮遊するポルターガイストを見て、シンクは異常を察知した。
 レムの光が射す昼間、これらの魔物は動かずじっとしているはずだ。
 それなのに現れ、あろうことか生息地が異なる魔物と連携を取っている。

 シンクは自分の判断が間違ったと悟った。奥に見える魔物の強さはエンゲーブの魔物の比ではない。
 足手纏いが居る状態で、全員が無事でいられる確証を持てなかった。

 そうシンクが後悔している間にも、空からはビーワーカーが飛来し味方を撹乱する。
 いつの間にか魔物は20匹以上に膨れ上がり囲まれていた。倒した魔物の血の匂いに引き寄せられ雑魚も寄ってきそうである。
 普段なら気にならないが、こうなると邪魔くさいだろう。出来ることなら早目に片付けたい。
 しかし団員は予想外の事態に浮足立ち、毒を受けた者もいるようだった。長期戦が予想された。

「負傷した者を後ろへ。僕が時間を稼ぐ」

 シンクは後方から声をかけ、前線に飛び出した。使い慣れた風の音素を集め、密集している魔物を吹き飛ばす。
 羽を痛めた魔物は速やかに剣士が止めを刺した。シンクは一番手ごわそうなイワーントに狙いを定め、引きつける。
 こいつが他の団員に手を出せばただでは済まない。出来れば撃破したいが、まずは此処からこいつを引き離すことだ。


 後方で待機していたティアは、シンクと入れ替わるように下がってきた新人3人に回復をかける。
 思いがけない攻撃を受け取り乱していた彼らは、怪我が治っていくのを見て落ち着いてきた。それを見て取りティアは彼らに声をかける。

「私の護衛をしてくれないかしら? 私は治癒師だから如何しても隙が出来てしまうの」

 彼らは新人といえども神託の盾騎士団の団員である。基本は習っている。それにこういう場合は、何か仕事を与えた方が上手くいくものだ。
 「そっちの譜術師の横にいるようにするから、訓練通りで良いのよ」とティアが続けると、「いけます」と頼もしい返事が返ってきた。

 新人の研修代わりの任務だったせいか前衛と後衛のバランスが悪い。
 譜術師は新人の彼とオレンジ色の髪の女の子しかいないようである。決定打に欠けるかもしれない。
 ティアは不安に思いながらも新人を急かして、譜術師と合流する。そして後方に下がった。
 マーキングを味方に適用するために、譜術師は後方にいなければならない。
 視界の範囲内でしか、敵と味方を区別できないのだ。特に敵と味方が入り乱れる今回のような戦闘では大切な点である。

 ざっと見回して毒を受けている者が居るのを確認すると、ティアは静かにフォンスロットを開き第七音素を感じ取る。
 健康な状態をイメージしながら音素を練る。深呼吸をしてぐっと漏れそうな音素を押し留めた。
 そして譜銃を取り出し三発の緑の銃弾を込め、味方の中心と思われる場所に一発撃ち込む。
 銃弾が地面に接触すると風の音素が解放され、譜紋のイメージに従い何もない空間を切り刻んでいる。
 余裕があれば別に風の音素を集めるのだが、混乱している状態の今は、治癒は早い方が良い。
 まだ足りないと、ティアは続いて二発目も同じ場所に放つ。二発分の風の音素で濃厚な風の場が出来た。
 ティアは唱え終えていた譜術を解き放つ。

「風よ。勇敢なる者には安らぎの息吹を、仇なす者には無慈悲なる刃を与えん。フェアリーサークル!」

 ティアの声に応えて第七音素が、中央の円陣から風に乗って癒しを届ける。
 通常の二倍以上の譜力を込めた円陣は全員の足元に拡がった。その緑の輝きは蝕んでいた毒も拭い去る。
 そして、ティアの譜力にじゃれつく風は上空を飛び交う魔物に狙いを定めた。発生したカマイタチは空を飛ぶ魔物の羽根を傷つける。

 痛みが取れたことで冷静になったのだろう。味方の動きが見違えて見えた。
 それを肌で感じるとティアは一息ついて次の術を紡ぐ。譜術師が少ないのなら、術の数と質で補うしかない。

「スペル・エンハンス」

 術の構築を容易くしてくれる術である。中級譜術を扱っている彼女ならかけられたこともあるだろう。
 この手の補助はかけられた経験が無いと上手く扱えない。特に術の切れかけのときに乗り物に酔ったような状態に陥る場合がある。
 慣れていなければ、ただでさえ少ない譜術師が減ってしまう。新人の彼は経験が無いそうだ。仕方が無いのでもう一つは自分にかける。
 ティアはちまちまと音素を集めては譜術の威力を上げ、目に着いたものに回復をした。


 シンクは緑の円陣が浮き出てから、流れが此方に引き戻されたのを感じ取った。
 ちらりと振り返ると一塊の譜術師たちが目に入る。たいてい譜術師が流れを支配するが、治癒師が中心になるとは思わなかった。
 ディストが連れ回した成果がこんな形で現れるとは不思議なものだとシンクは思う。
 その成長具合や、その精神構造は何処か歪で不安定だ。それがどうも気にかかる。本人が自覚していない分、性質が悪い。
 知れば知るほどそれが異常だと分かってくる。そう考えながらもシンクは風の音素を上空に集め始めた。
 すると見計らったように魔物の足元に地の音素が轟く。ティアだ。それにシンクはふっと笑い、譜術を繰り出す。

「大地に帰りな。風よ、押し潰せっ! グラビティ!」

 ぐしゃりと地面に抱き止められた魔物にシンクは見向きもせず、次の獲物を視界に入れた。
 足元のオタプーを蹴り上げ、地面に殴りつける。無意識のうちに拳に風を纏っていた。
 その凶悪な一撃を受けたオタプーはシンクの連打を続けざまにくらい音素に還る。


 ミカンは隣で補助をするティアに感心していた。彼女は腕を怪我した者にすかさず治癒を施し、手が空けば新人たちにバリアーを張っている。
 そして何と言っても特筆すべきなのがその初級譜術の使い方である。自分ともう一人の彼が唱え終わる頃にパッと音素が集まる。
 的確な彼女の補助とシンクさんの奮戦のおかげで、魔物は徐々にその数を減らしていった。
 初め20体以上いた魔物はもう1桁である。彼女、全然弱くないじゃない。
 そんなことを考えていたミカンは「タービュランス!」と譜術を放った後、ちらりと横の彼女を見る。
 魔物よりもティアに気を取られていたミカンは忍び寄る気配に気づかなかった。
 
「後ろっ!」

 その声にミカンは咄嗟に反応できず、そのままティアに腕を引かれその勢いで二人とも倒れた。
 ちょっと前までミカンが居たところをサイノックスが突進してくる。土煙を立て、魔物は止まり振り返った。

 サイノックスは後ろ足で土を蹴り、力を溜めているっ!

 血の匂いに惹かれて魔物が集まっているようだった。新人二人は健闘しているものの、魔物の数が多い。援護は頼めそうになかった。
 ティアは弾込めをしたままの譜銃を思い出し、膝をついたまま構えて眉間を狙い撃つ。その弾丸は少し逸れて魔物の左肩に当たった。
 その風で抉れた部分に畳み掛けるようにティアはボムを投げつける。しかし魔物は怯まない。

 ミカンは慌てて立ち上がって杖を握り、途絶えた呪文をもう一度唱え始めた。時間との勝負だ。
 爛れた肉をものともせず、魔物は再度突進してきた。だが、傷のせいか精彩が無い。
 ミカンの火の譜術が寸でのところで間に合い、炎が魔物を襲う。傍にいたカンカンも巻き込んで魔物は息絶えた。

 ほっと二人は顔を見合わせ、ミカンはそっとティアに手を差し出す。
 彼女が助けてくれたことに変わりはない。自分が情けないと思ったことを彼女にぶつけても意味が無い。
 彼女はその地位に見合った強さを持っている。卑怯者ではなかった。

 ミカンの複雑な心境を知らないティアはその手をしっかりと掴み立ち上がった。

「もうひと頑張りね」
「うん。風の音素を集めてくれる?」

 補助を頼むミカンにティアは「任せて」と請け負う。

 ミカンはオレンジグミを一つ口に放り込み、ありったけの譜力を込めて火の音素を取り込んだ。
 想像するのは燃え盛る炎。熱く恐ろしい、天を焦がすような地獄の魔炎。

 3人がかりで相手をしているシャーントの足元に緑の円陣が浮かぶ。
 それは準備が出来たことの報せであった。ミカンは敵を睨み、高らかにその終わりを告げる。

「灼熱の炎よ。風と共に、彼の敵を焼き尽くせ。エクスプロードッ!」

 その魔物を中心に大爆発が起こり、周囲の敵を巻き込んだ。
 その衝撃で体制を崩した魔物を屠ると辺りから魔物の影は無くなった。




 村から少し離れた場所で、こんな戦いをするとは誰も思っていなかっただろう。
 作物を刈り取った後の、だだっ広い畑に皆は座り込む。それでも円陣を組んでいるところが警戒している証拠だ。
 ティアはグミを口にしながら一人一人ファーストエイドをかけて回る。戦闘が終わってからも忙しいのが治癒師である。

 戦闘を終えた後の昂揚感か、それとも背を預け合ったからか、皆親しげに話しかけてくる。
 ティアもにこやかに返事をしながら、たいした怪我もない人には栄養ドリンクを渡した。
 第二師団の人も喜んでくれた一品である。改良を加え効果もさらに増えたはずだ。

 ティアは12人の怪我の具合を診て、あとは誰だろうと辺りを探す。
 シンクはローズ夫人のところに報告に行っているから、あと一人はと思っていると譜術師の彼女が目に止まった。

「あの、私が腕を引っ張ったとき怪我しちゃったでしょう? 治癒をかけさせてくれないかしら?」

 物思いにふけっていたところに声をかけられて、ミカンは驚きながらも治癒を受ける。
 ミカンは中級譜術が扱えるようになって満足していた。でも、初級譜術であんな風に戦えるなんて。
 治癒師だから、士官学校の成績が低いからと見下していた自分が馬鹿みたいだ。
 そして、良い気になっていた自分が情けなくなり、進歩していない自分が悔しいと思った。
 ミカンは足元に手を当てているティアに何気なく訊ねる。彼女は如何思うのだろうか。

「ねえ。二属性しか扱えない、中級譜術までしか扱えない譜術師を如何思う?」
「羨ましいわ。だって、私第七音素しか満足に扱えないんだもの。ときどき、他の属性が扱えたらって思うときがあるわ」

 ティアは正直に答えた。障気中和薬を作るのは自分の念願だった。完成して本当に良かったと思う。
 だが、それとこれとは別の話である。まともに他の音素を扱えないと知ったときは随分と落ち込んだものだった。

「そうなの?」

 ミカンは予想外の答えに問い返した。そういえば彼女は初級譜術しか扱っていなかった。
 それは二人、譜術師がいたから補助に徹していた訳ではなく、補助しか出来なかったからのようだ。

「嘘言って如何するのよ。だから頑張って初級譜術を磨いたの。自分の手助けであの豪快な技が生まれたと思うと少しすっきりするわ」
「そっか。……私、頑張る。頑張って上級譜術を習得するよ!」

 訓練すれば自分も初級譜術ぐらいなら地属性だって扱えるはず。初級でも使い方次第だ。
 それに、まだ上級譜術を身に付けていない。まだまだ私は強くなれる。
 ミカンは意気込んだ。そして、それを気付かせてくれたティアに「ありがとうっ」と礼を言う。

 ティアは治癒をしたことに対する礼だろうと思い、「どういたしまして」と返した。

 ミカンはその返答に余裕を感じ取り、宣戦布告することにした。シンクさんに関しては譲るつもりはない。
 痛みの消えた足で仁王立ちをして、目の前のライバルを指差し宣言する。

「負けないんだからねっ」

 ティアは何のことだろうと首を傾げる。その反応にミカンは少し自分の姿が恥ずかしく感じた。
 頬が赤くなってくるのが分かる。ミカンは慌てて後ろを向き、「喉が渇いたな~」と言いながら水場に急いで向かった。

 取り残されたティアは何か勝負事でもあるのだろうかと考える。
 しかし、いくら考えても思いつかない。仕方が無いので今度会ったときに訊こうとティアは決めた。
 旅の間、足を引っ張るつもりはない。ずっと研究室にいたせいで少し鈍った気もする。
 それに今回は譜銃が活かせたから良かったものの、私は基本的に魔物に出会ったら逃げ回ることしかできない。
 譜銃の扱いに慣れて、一発を無駄にしないようにしなければならない。ティアは定期的に鍛錬所に通うことにした。


 シンクは苦労した割に少ない報酬にため息を一つついた。これでは師団の宿舎の改修はまだ先のことだ。
 苛立ち紛れに貰ったリンゴを齧る。甘酸っぱい味がした。





[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第三十二節 15歳の誕生日
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/01/31 21:44



 1Day,Ifrit,Lorelai Decan ND2017 新暦2017年13月1日(火)


 ティアは毛布にくるまり、瞼を閉じていた。じっと兄を待つ。
 ヴァンは毎年のように寝ているティアを見て笑みをこぼした。いつものように呼び掛ける。

「起きなさい、ティア。もう朝だ」

 揺り起そうとヴァンはティアに近づき、そっとその肩に手をかけようとした。

「おはようっ。兄さん!」

 ティアは毛布ごと兄に抱きつく。兄を驚かせてみたかった。

「ティ、ティアッ!?」

 慌ててヴァンはティアを抱きしめる。その狼狽した様子にティアは企みが成功したことを知った。
 ふふっと笑うティアを見て、ヴァンは「こらっ」と叱る。しかし、その声音は楽しげである。
 魔界での動きを知ってから何となく会うのを避けていたが、ティアは普段と変わりない。
 その事実がヴァンは嬉しかった。

 着替えを済ませたティアを呼び寄せ預言を詠む。預言を信じていない二人にとって、たいした意味もない行為である。
 だが、ヴァンにとって此れはティアの誕生を祝うために必要な儀式であった。
 ヴァンはティアの手を取り、目を瞑るように言う。そして音素を意識して、ヴァンはティアの一年を考える。
 「涙する者よ。傍にいる者を忘れないように」と忠告をして、ヴァンはティアの幸せを願った。

「ティア。誕生日おめでとう。お前の幸せを願っているよ」
「ありがとう、兄さん。来年もこうして兄さんが祝ってくれたら、私は幸せよ」

 その言葉にヴァンは苦笑する。両親がいない分を自分が埋めようと努力したが、此処まで愛されるとは予想外であった。
 本当に自分は幸せ者だとヴァンは思う。ホドを滅ぼした自分がこんな感情を持ち合わせて良いのかと考えることもあるが、この妹からの言葉は素直に受け入れられた。
 それはやはりティアだからだろう。大事な妹である。そして、ヴァンは護り刀を取りだした。

 自分が失敗していなくなった場合、そのとき犯罪者の自分がティアの兄だという事実はティアにとって害にしかならない。
 ユリアの血を鑑みれば、殺されることはないだろう。だが、ユリアの子孫というものは良くも悪くも人を引き付ける。
 その苦労を妹にもかけたいとは思わなかった。幸いティアはダアトでグランツの姓を名乗っていない。
 ならばグランツを捨てて、メシュティアリカ・アウラ・フェンデとしてマルクト貴族になることも可能だ。その血を証明する物があれば。
 自分にはもうその気はないが、死後の妹の安全を考えればマルクト帝国という国に属するのも選択肢にあっていいはずだ。

「こういったものは装飾品と見られるから何処にでも持ち歩ける。切れ味は抜群だ。それに、此処に家紋が入っている。フェンデの証を渡していなかったと思ってな」


 その刀は刃渡りが20センチ程しかなかった。黒漆の鞘に銀の蔦が絡んでいる。その蔦の葉の裏にフェンデの家紋があった。
 その印を見ながらも、ティアは貴族という言葉にいまいち実感が持てなかった。

 目覚めたときから侍女に傅かれて育てば違ったかもしれないが、自分は魔界で普通に育てられた。
 育ち方は普通ではなかったが、周囲は特別扱いを控えていた。フェンデ家の誇りと言われても困ってしまう。
 その家族は兄以外既に鬼籍に入り、その故郷は影も形もない。
 そもそも貴族などという存在に自分が連なっているとは、如何しても思えないのだ。
 兄の家族であるということと、フェンデ家の者であるということは違う。

 その考えをティアは胸の奥にしまい、その護り刀を受け取る。刀は意外と重たかった。
 その装飾をしげしげと眺め、その柄に手をかけそっと鞘から引き抜く。曇りのないその刃は日本刀のようである。
 なんとなく郷愁に駆られ、ティアはその輝きをじっと見つめる。

 その様子にヴァンは「気に入ったようで何よりだ」と声をかけた。
 ハッとティアは鞘に戻し贈り物の礼を言う。

「兄さん。毎年、ありがとう」

 ヴァンは「手放すんじゃないぞ」と注意してティアの部屋を出ようとした。
 年末のこの時期は何かと会議があり忙しい。イオンが傀儡である以上全てを判断するのはモースとヴァンであった。

 ふとヴァンは何かを思い出したかのように立ち止り、振り返ってティアに尋ねる。

「ティア。お前はこの世界が好きか?」
「……好きよ。一瞬ごとに世界は生まれ変わっているの。毎日が新鮮だわ」

 それに、兄さんと大切な仲間が生きている世界だもの。
 その一言を飲み込んでティアは明るい声でヴァンの問いに答えた。
 ヴァンはティアの返事に「そうか」とだけ呟いて背を向け、廊下の奥の暗がりに消えていく。

 ティアは兄の背を見つめながら来年のことを思っていた。
 年が明けたら、運命が廻り始める。そのとき私たち兄妹は如何しているのだろうか。
 聖なる焔の光を巡って、世界の存続の仕方を巡って私たちは争うのだろうか。
 私は兄の命を救うことができるのだろうか。兄の罪を共に背負えるだろうか。

 先の見えない未来にティアは不安を感じる。だが、それが当り前なのだ。
 誰も未来のことなど知らない。その向こうで地獄が口を開けて待っていたとしても、脆弱な人はただ一歩足を進めるのである。




 それからも入れ替わり立ち替わり、皆が私室や研究室に顔を出す。
 その祝いの言葉のどれもがティアは嬉しかった。


 ミカンとは任務で仲良くなってから、一昨日の休日に「少し早いけど、おめでとう」とランチとケーキを奢ってくれた。
 路地を曲がったところにあるカフェで他愛無い話をしながら3時間。
 結局勝負の件についてははぐらかされたままだが、あれから二人は鍛錬所で共に訓練をする仲である。
 譜術師として気をつけるべきことや、位置取りの仕方など強くなることに余念はなかった。

 3人の部下からは「室長の嫌いな作業をしておきました」と言われた。
 実はティアの苦手なものは節足動物である。しかし、ある試薬のために如何しても蜘蛛を解体しなければならなかった。
 その言葉にティアは心から礼を言う。必要がなければ触りたくなかった。ただでさえ苦手な昆虫。しかも30センチ以上の大きさで、生きたままが必須の条件だった。
 そして、ちょこんと研究室の机の上に、ティアの好きなお菓子が置いてあった。実験の合間に食べても大丈夫なグミである。
 このささやかな贈り物が嬉しかった。

 ラルゴからはやはりぬいぐるみを貰った。今年はきぐるみではなく動物である。
 猫のような狸のような毛の長い動物。だが、その手触りは最高である。モフモフだ。
 
 ディストには事前に「あの子たちを改造してあげますよっ」と言われたので丁重に辞退した。
 何がされるか分かったものではない。この点に関しては信用できない。いじけたディストからは特製のマントを頂いた。
 第三師団から依頼された物の雛型らしい。改良品はもう支給されている。この前、グリフィンで空を飛ぶとき寒いといったのを覚えていたのだろう。
 銃弾を入れておく内ポケットも付いており、ティアが使うことを想定して改造されているようだ。

 アリエッタからは例年通り貴重な薬草、魔物の部位の詰め合わせ。今年はルグニカ紅テングダケもあり豪華である。
 魔物は通常音素に還るのだが、時々身体の一部を残すことがある。それは音素が濃い部分であり、たいていは特殊な効果を生み出す元になる。
 バジリスクのうろこはストーンボトルの原料に、冬虫夏草は銃弾の譜紋の触媒になるのだ。
 アリエッタからの贈り物は研究に私用にと重宝している。

 リグレットからはカードが一枚。
 『閣下との兄妹仲を見せられて、マルセルが本当に望むことはなんだろうかと考えた。
 少なくともマルセルは私と閣下が殺し合うことなど願っていないだろう。私は閣下についていくことにした。それがマルセルの望みだと思うから。
 妹であるティアにも迷惑をかけた。せめてもの詫びに受け取って欲しい』

 白いハンカチが添えられており、ティアは思いがけない結果に唖然とした。まさか自分の話のせいであのリグレットが誕生するとは。
 少しだけ悩んでから今更のことだと思い切り、他の人間が副官になった方が困るだろうと考えることにした。

 シンクからは休暇を貰った。去年長々と有給を取れたのは彼のおかげである。
 職権乱用とも言えるが、その恩恵を受けている身としては何も言えない。今回もこの贈り物を使ってバチカルに行くつもりなのだ。
 だが同じ師団長のディストとアリエッタに何か言われたのか、今年は少し趣向を凝らしたようだ。花も貰った。
 白いセレニアの花。外殻ではめったに見られない。魔界が懐かしくなる。

 魔界の皆からは日持ちのするケーキと手紙が届いた。
 ファリアからの贈り物も一緒だ。小さな鉢植えである。ケセドニアサボテンというらしい。
 『ティアは外でも緑と縁遠い生活をしていそうで心配です』と書かれていた。
 他に仲間からの手紙には、『来年は青空の下でお祝いだ!』と計画の成功を願う文章があった。


 それぞれの贈り物にそれぞれの思いが込められている。それを感じてティアは嬉しかった。
 そして、計画を知る者からの贈り物は例年よりも豪華なものが多かった。それが悲しい。別れを覚悟してのことのようである。
 ティアは何も気付いていないふりをして受け取ることしかできなかった。あるいは、相手もそれを承知の上だったかもしれない。

 2018年がもう少しで始まる。それがティアは怖かった。そのときのために此処まで走ってきたのだが、躊躇してしまう自分が嫌になる。
 こんなに大事な人が増えるなんて思わなかった。失うことが怖い。その始まりを告げるのが自分となるのが怖い。




 その日、猫の爪のような月が窓から見える夜。

 ティアはそっと兄から貰った懐刀を抜く。月の光に当たりキラリとその刃が存在感を示した。
 後ろで軽く結んだ髪を左手で掴み、肩のあたりにその刃を当てる。プツリと手応えが伝わってきた。
 ティアは一瞬の躊躇いを振り切るように一気に引き抜く。

 短くなった横髪がティアの頬にかかった。首筋で寒気を感じて、ティアは肩を竦める。切った髪の分だけ頭が軽くなり、身軽になった気がした。
 左手に持った髪を火にくべる。炎は一瞬歓迎するかのように踊り、その舌で髪を飲み込んでいく。

 その消えていく髪はティアの未練と後悔だ。変えることのできない現実を受け入れ、余計なことを考えないようにする。
 世界は自分を中心にして回っているわけではない。自分は人より少しだけ知っていることが多いだけだ。
 それで世界が思うように動くなら、ユリアが昔追われる羽目にはならなかっただろう。

 本当は何もしない方が良かったのではないだろうか。
 ”ティア”のままの方が良かったのではないだろうか。
 オズを世に出して良かったのだろうか。
 魔界を巻き込まない方が良かったのではないだろうか。
 六神将の彼らと親しくしない方が良かったのではないのではないだろうか。
 兄の計画の方が正しいのではないだろうか。
 戦争を回避しても滅びてしまうのではないだろうか。

 そんなどうしようもない可能性をティアはもう考えないようにした。全ては動き始めている。目に見えない水面下で計画は進行中だ。
 此処で悩んでも意味はない。そんな自分とさよならだ。そして、これは願掛けと決意でもある。必ず、望む未来を手に入れる。

 その髪が燃え尽きて灰になるまで、ティアは炎を見守っていた。


 始まりの歌が聞こえるまであと、1カ月と23日。
 運命の扉が開くのはもうすぐである。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 番外編 Happy new year!
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/01 22:12




 年が明けた。2013年という新しい年を迎えた。
 魔界では初日の出を見ることもできない。それでも新年を祝うことはできる。
 日の光の射さない地下で祝宴は開かれていた。男も女も、老いも若きも入り乱れ賑やかであった。

 魔界の住人は約3000人。全員が探せば上司と部下だとか、叔父と甥だとか、恋人や友人とかいう何らかの関係がある。
 隠れ住んでいるため、たいてい魔界出身者同士で結婚する。そのため皆何処かしらで血が繋がっていた。
 地縁と血縁という結びつきを宗教という精神的支柱が補強する。そうして一つの共同体が作られていた。
 そうでなければ外殻と比べて狭く暗い魔界など2000年の間に、忘れ去られた廃墟になっていただろう。

 そんな魔界では、行事は盛大に祝われる。ユリアの生誕祭や感謝祭、新年の祝いもそのうちの一つである。
 外界と隔絶され刺激の少ない街であるため適度にガス抜きをするという目的もあるが、それとは別に祭自体なかなか評判は良かった。
 祭に合わせて一時的に外殻から帰省する者もおり、宴は入れ替わり立ち替わり人が現れ、普段静かな街は一転騒がしい面を見せる。

 その雰囲気にファリアは当初戸惑ったものの、10年以上経てば慣れるものだ。ファリアもその中に交じり楽しんでいる。
 少々排他的なところのある魔界では外から来たファリアに対して厳しい視線を向ける者もいたが、それも夫に嫁ぐことで形を潜めた。
 ファリア自身も身の置き所ができたとことで、やっと魔界にいる自分を肯定できるようになった。
 逃げた末に辿りついた場所としてではなく、自分は好きで此処に居るのだと。

 魔界に来て初めは新しい環境に慣れることに忙しく、また忙しいことで何も考えないようにしていた。
 赤ん坊や小さな子供の世話をしているとその間は気が紛れた。過去と向き合うことから逃げていた。
 そのうちヴァンが魔界から出て、いつの間にかティアの様子が変わった。急激に大人になっていくティアの手助けをした。
 親がいないティアに同情していたというのも嘘ではない。だが、それ以上にティアという異分子の側は居心地がよかった。

 経緯は違うものの肉親が傍にいない者同士、外から訪れた者同士、共感できる部分があった。
 ユリアの子孫という点に拘らなかったのも良かったのだろう。ティアも何かと自分を頼りにしていた。
 そして、ティアは外殻に居た頃の科学者であった自分を呼び醒ました。それを切っ掛けにファリアは自分が変わったことを自覚している。

 彼女に出会っていなかったら、関わらなかったらどんな今を過ごしていたのだろうか。
 科学を捨てたままの自分。魔界から空を見上げ何も知らずに生きていただろう。少なくとも今ほど充実はしていないはずだ。
 ティアのあの発見から時の流れは速かった。500年分の積み上がったデータを処理して、解析して、昔の忘れ去られた先人たちの成果を理解して、発表する日々。
 体は休む暇もないが、それでも心は満ち足りている。魔界に来て良かったと思う。



 
 娯楽の少ない魔界では祝い事などの噂はすぐに広まる。はにかみながらも応じるファリアは魔界に馴染んでいた。
 そして、上手くあしらった彼女はざっと会場を見回し挨拶をしていない人がいないか思い浮かべる。
 母の縁者は最初に済ませ、夫の縁者にもさっき顔を合わせた。そもそも二人とも魔界の者にしては親戚付き合いが浅い方である。
 ファリアの母の兄は既に亡くなっており、伯父の子供が一番近い親戚になるがお互い存在も知らなかったのである。何処となくぎこちない関係を築いている。
 バティスタの両親も彼が小さな頃に亡くなっており、遠縁の者が親代わりだったがそれもなおざりだった。愛想笑いで済ます程度の親しさである。

 本当に何から何まで似たもの夫婦だとファリアは思う。だからこそ家族は大事にしたい。
 そっとファリアは目立たないお腹を撫でた。此処に新しい命がある。
 実感は湧かない。だが、それは事実なのだ。
 ほんのちょっとの不安と、それを覆い隠さんばかりの希望。

 ティアが魔界を発ってすぐその事実は発覚した。おかげでファリアたちは寂しさを感じる暇もなく新年を迎えている。
 今頃ティアは士官学校入学の準備をしているだろう。久しぶりに兄と迎える新年を満喫しているかもしれない。
 頬に手を当てファリアはその様子を思い浮かべた。仲の良い二人の兄妹は、きっと外でも変わりないに違いない。


「ファリアちゃん。こっちに来て座ったらどうかしら? 立ちっぱなしは身体に悪いでしょう」

 おっとりとした聞きなれた声にファリアは振り向き、予想通りの顔に笑顔になる。
 魔界に来てから何かとファリアの世話を率先して引き受けてくれたモニーである。
 頼る者がいないファリアを受け入れ様々なことを教えてくれた。ファリアにとって祖母のような存在だった。

 皺くちゃの顔をさらに歪めて彼女は笑う。その人の良い穏やかな笑顔がファリアは大好きである。
 勧められるままに席につき、にこやかに新年の挨拶を告げ日頃の礼を述べた。
 彼女は「ファリアちゃんが幸せになって良かったわ」と応じ、次々と料理を目の前の皿に盛る。
 「食べ切れるでしょうか」と思案するファリアに「二人分、ちゃんと食べなくちゃね」と告げた。

 そう言われては仕方ない。ファリアは箸を手に取った。
 程なくして、モニーの隣にいたアイルツはしみじみと出汁巻き卵を眺めながら呟く。

「しかし、ティアちゃんが居ないとこの席も寂しいねえ」

 出汁巻き卵はティアの好物の一つである。白身魚のホイル蒸し、柚子味噌風味。
 きんぴらごぼうにホウレン草のお浸し。昆布巻きに白菜の漬物。
 海老のすり身のあんかけ。鳥のささみの梅肉添え。五目御飯に小ぶりのおにぎり。

 よく見ればティアの好きな料理ばかりである。そう言えばティアはこの席に入り浸っていたなとファリアは思い出した。
 老人の舌にティアの舌が合うのか、それとも彼らがティアの好物を揃えているのか。ファリアはどちらなのか迷った。
 正解はどちらでも良いだろう。卵が先か、鶏が先か論ずるのは不毛である。

 ティアは和食に飢えていたことも、年をとった彼らと親しくしていたことも事実である。
 鰹節や昆布から丁寧に出汁をとった料理はこういった宴席でしか出ず、ティアがとても楽しみにしていた。
 また、義祖父は市長という立場であったためティアは既に引退した身である彼らに半ば預けられていた。

 普段から「お話聞かせて?」とおねだりをして、老人の長話にも相槌を打って耳を傾けるティアは人気だった。
 大人びていると言っても老境に入る者からしてみれば精一杯背伸びしているように見えて微笑ましく思えた。
 ティアにしても、自分より確実に年上である彼らには素直に甘えることが出来た存在だった。

 ティアは彼らから外のことや歴史を学んだ。ファリアが師匠であるが専ら科学に特化しており、ダアトのことに関しては門外漢であった。
 魔界と言う隔離された場所から眺めた外殻での争いは客観的事実に沿って記されていた。
 秘預言がある分、神の視点で改竄の余地もない。宗教的な視点を除けば良い教科書であった。
 そして、ティアは狂信的な人は避けていたので、後にそうして親しくなった彼らは地下に眠っていた事実を明かされた。
 酸いも甘いも知っている、分別のある彼らはうろたえることもせずただその現実を受け止めていた。


 彼らだからこそティアは懐き、彼らもティアを可愛がったのだろう。
 ティアは年の離れた彼らの席にすんなりと違和感なく溶け込んでいたなと、かつての光景をファリアは思い出した。
 「このシジミの味噌汁も好きなんだよね」とまるでそこにティアが居るかのように彼らは話す。
 そして、そういえばと話は此処にいない者から新しく訪れる者に移った。暖かな目でファリアのお腹を見つめ問いかける。

「名前はもう決めたのかしら?」

 親戚の者が付けることもあるが、二人にはそんな存在はいない。
 話し合って男の子が生まれたらバティスタが、女の子が生まれたらファリアが名づけると決めた。

「はい。女の子なら降り注ぐ光(エルレイン) と」

 箸を止め答えるファリアの告げたその名の意味を彼らは読み取る。
 ファリアはいずれ訪れる未来に対する願いを込めているのだ。

 光。

 生命の源。欠くことのできない始まり。魔界に足りないもの。
 薄暗く、闇に包まれた世界。魔界と名付けたのは昔の誰かだろうが、随分と自嘲的な名だ。
 だが、セフィロトの恩恵を受ける外殻に比べてこの地下は余りにも貧相である。
 風も吹かない、生命のない捨てられた土地。紫色のたなびく障気、紫電のプラズマが走る永遠の闇夜。
 何故、我々がこんなところで暮らさなければならないのかと一度は問うたことがあった。

 しかし、そんな日陰者として過ごした日々が報われるかもしれない。

「そうなったら、いろんな花を見てみたいねえ」

 ぽつりと漏らされたモニーの言葉は本音である。彼女は生まれてから70年、魔界を出たことがなかった。
 青い空も海も、白い雲も見たことがない。彼女の知るそれらは全て紫である。
 緑溢れる森も、流れる川も、絵画か想像の中にしか存在しない。花と言えばセレニアの花。真っ白な花しか知らない。
 赤やオレンジの花は綺麗なのだろうか。それとも可愛いのだろうか。
 甘い香りがするのだろうか。もしかしたらオレンジ色の花からは酸っぱい匂いがするかもしれない。
 風が通り、波打つ花畑を見てみたい。光を浴びて咲き誇る花はどんなに輝いて見えるだろうか。

 そんな未来の訪れを彼女は楽しみにしていた。




 モニーの瞳の奥底にある憧憬を目にして、ファリアは船の上から見下ろした青い海を思い出していた。
 船に乗ったことは二度しかない。グランコクマからケセドニアまでと、バチカルからダアトまでの船旅である。
 前者は母の死と突然国に追われたことで混乱して景色を見る暇もなかった。少し余裕が出来たのは二度目のときだった。
 いや、あのときは海を眺めることしかすることがなかった。3カ月側にいた3人と別れ、独りだった。

 まだ城下の警備隊長に過ぎなかったリオンと取引をしてファリアは身の安全を保証してもらい、バチカルで一息ついた。
 それがいけなかったのだろう。母を思い出した。女手一つで一人娘を育て上げた母。日を追うごとに込み上げてくるモノがあった。
 いつの間にか祖国を離れ、思い出溢れる家から遥か遠いバチカルに居る。心細かった。
 スタンもルーティもマリーも大切な旅の仲間である。短い間だったが何度か生死を共にして、心から信頼していた。
 でも、それとこれは違う。家族に、母に代わる者はいない。母の死を受け入れても、弔いもできなかったことを悔やんだ。

 毒々しい赤い血に倒れ、息を引き取った母はどうなったのだろうか。軍の者に処理されたのか、それとも近所の者が発見したのか。
 どちらにしても二度と会えないことは確かである。偽造工作は済んでも当分マルクトに近づかない方が良いと忠告された。
 小規模な戦いを度々繰り返している最中のことである。言われなくても帰るつもりはなかった。
 帰っても、「おかえり」と出迎えてくれる人はもういない。

 ジルクリスト一家は賑やかだった。穏やかで、少し厳しいところのある父親。笑顔が綺麗な、少し天然なところがある母親。
 気が強くて、それでいて優しいところある不器用な姉。姉にそっくりで心配性な、それでいて素直じゃない弟。
 彼らが良い人過ぎたからこそ、仲が良過ぎたからこそファリアは一層孤独を感じた。


 そして、突発的に置き手紙を残して一人船に飛び乗った。家族というものが恋しかった。だから、母の故郷であるユリアシティを目指した。
 誰にも声をかけなかったのは、彼らが家族と居る時間を奪いたくなかったからだ。もう彼らには十分世話になっていた。
 あのとき船から見た海の景色は今でも覚えている。雲一つない青空で、水平線の先では空と海が交じり合っていた。
 カモメが風を受けて空高く飛ぶ穏やかな空から、ときおり思い出したかのように風が吹き、水面にその足跡を残していく。麦穂が揺れているようだった。
 刻一刻と表情を変える景色をただ眺め、やがて沈んでいく夕陽が青を赤に染め変えていく様に見惚れた。

 その翌日、手紙に気がついた3人に追いつかれ、散々怒られたことも今では良い思い出だ。
 彼らが居たおかげでこの街に辿り着き、新しい家族を得ることができた。


 魔界の紫色も染め変えることができるのだろうか。赤と青が混ざった紫。なんとなく人を不安にさせる、落ち着かない色。
 空と海が真っ青で、大地の緑に光が降り注ぐような、四季折々の花が花開くような未来になれば良い。全てが塗り変わってしまえば良い。
 この子のためにも外殻を降下させよう。それが成功すれば、魔界は魔界でなくなり預言に導かれた繁栄がこの街にも訪れるだろう。
 そうなれば、この子は幸せに暮らせるはずだ。自分の中で眠っている、まだ見ぬ我が子の将来を想像する。
 そして、その存在に励まされ預言を守ろうとファリアは改めて決意した。


 ファリアは心の底からそんな神の保証する未来を信じていた。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 番外編 Happy valentine!
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/02/14 22:23




「ティア。その、閣下の好みを教えて欲しいのだが……」

 突然ティアの私室を訪れたリグレットは長い沈黙の後に切り出した。
 そして、ティアはすぐに彼女が何を知りたがっているか察する。それを兄に渡したいのだろう。
 まじまじと見つめてくるティアの視線を受けてリグレットはいたたまれなく感じた。やはり聞くべきではなかっただろうかと思う。
 だが、妹である彼女に訊ねるのが一番早いと思ったのも確かである。それに既にこうして部屋に通されている。今更な話だった。

「兄さんの、好きなチョコが知りたいんですよね?」

 リグレットが詳細を話そうとする前に、ティアは笑顔になって了承した。
 先ほどの探るような様子から一転して、ティアはリグレットに椅子を薦め何処からかレシピを持ってくる。

 その間に彼女が何を思ったのかリグレットには分からなかった。だが、教えてくれるということは合格と言うことなのだろうか。
 そこまで考えて、リグレットは自分がいったい何を考えているのかと思い直す。
 私はマルセルのような人間を、預言に翻弄される人間を零にしたい。その為に閣下に従っているのだ。
 決して色恋沙汰からではない。此れは日頃のお礼の気持ちである。そう自分に言い聞かせる。
 そして、リグレットは手元の文字に集中して内容を頭の中に入れようとする。

 『材料A:卵二個、グラニュー糖75g、はちみつ25g 材料B:ココア大1+1/2……』

 その真剣な顔を見てティアは微笑ましそうな顔をしていたのだが、リグレットは気付かない。
 ティアはそんなリグレットに兄の好みについて詳しく説明する。

「兄さんは、基本的にお菓子は嫌いじゃないんですが、甘すぎる砂糖の塊みたいなものは苦手なんです。
 だからチョコレートを贈るよりはチョコレートケーキのほうが良いです。ブランデーの量は多めの方が良いでしょう」

 そう言いながらティアはリグレットの視線の先にあるレシピのブランデーの部分に赤線を引いた。
 そして、「一晩寝かした方が味に深みが出ます。13日に作れば良いですね」とティアはアドバイスを続ける。
 そのティアの態度にリグレットは恥ずかしさを覚えた。何も疾しいところなどないのに何故だろうか。

「そのレシピ、良かったらどうぞ。私はもう覚えていますから」
「ありがとう、ティア。その……」

 リグレットは、別に閣下と私はそういう関係ではないのだと弁解しようとした。

「分かっていますから。頑張ってくださいね」

 だが、リグレットの言葉はティアの満面の笑みによって封じられてしまう。
 そのままリグレットは送り出され、釈然としない彼女を残しティアの部屋の扉はパタンと閉じられる。
 廊下に一人、リグレットは立ちつくし手元のレシピを眺めた。何やら盛大な誤解を招いているようである。
 そう思いながらも、閣下は喜んでくれるだろうかと手渡したときのことを想像する。
 そして、リグレットは心なしか早足で店へと買い物に向かった。




 14day,Rem,Shylph Decan

 2月14日は、甘い匂いが漂う日曜日。聖バレンタインデーである。
 『St. Valentine's Day』と書かれるように、元は聖ウァレンティヌスの記念日だった。

 彼は七世紀の人物である。当時もキムラスカ王国とマルクト帝国の仲は悪かった。
 キムラスカにとっては、軒下と餌を与えてやっていた飼い犬が鎖を引き千切り逃げたような気分だったのだ。
 飼い犬に手を噛まれたどころか、腕を持って行かれたのである。屈辱の記憶はそう簡単に薄れない。
 一方マルクト帝国にしてみれば、長年の忍耐の末に得た自由である。それを安々と手放す気はない。
 同時に培われた反骨精神はかつての主に牙をむく。抑えられていた怒りと憎しみの矛先はキムラスカであった。

 憎しみは憎しみを呼び、さらなる戦禍を呼び込む。キムラスカ・ランバルディア王国とマルクト帝国が真正面からぶつかり合えば如何なるか。
 一度戦争に発展すれば、それはすぐに拡大しさらなる戦禍を招くだろう。それを乗り切れる体力はどちらも持ち合わせていなかった。
 両者がそれを暗黙の了解としていた。そんな戦争に対する倦怠感に満ちた時期に、ある鉱山の街で起こった出来事である。


 アクゼリュスの街の家々から赤い旗が自己主張をしている。キムラスカの赤だ。
 だが、家の中には青の旗が眠っている。それは青色の染料が手に入りやすいとかいう問題ではなかった。
 無力な民衆の自衛策の一つである。街は何度も戦争に巻き込まれ、戦場になった。占領され、解放され、また占領される。
 どちらが正しいとか、間違っているとかいう話は何の意味もないことを、幾度となく繰り返された小競り合いから住民は学んでいた。
 圧制からの解放と謳おうと、無法者に対する正義を名乗ろうと、彼らが求めるのはこの街が生み出す良質な地下資源である。
 街の住民は蝙蝠のように時に赤を、あるいは青を掲げ乗り切ってきた。無駄な抵抗はせずに、ただ粛々とその運命を受け入れる。

 玉虫色の反応を示す街の住民は、その出身も様々である。鉱山の仕事はきつく、人手は常に不足がちだ。
 だからこそ住民は隣人の過去には触れない。いかにすねに傷を持つ人物であろうと街の中に争いごとを持ちこまない限り受け入れた。
 そんないろんな人が何処からか集まってくる街に一人の司祭、ヴァレンティヌスが紛れ込んでもそれは変わらぬ街の一コマだった。
 彼は街の人々に教えを説き、預言が保証する未来を語った。宗教に救いを見出す者もいれば、「そんな先のことは知らないよ」と斜に構えて嘲笑う者もいた。
 ともあれ、叩きだされることもなく少しずつだが彼は街に溶け込んでいった。その矢先のことである。

 時のキムラスカ国王、クラウディウス2世はこれ以上の離反やスパイを恐れキムラスカ人とマルクト人の婚姻を禁止した。
 戦争が起こらない分、水面下で小さな嫌がらせからもう少しで内乱という謀まで企まれていた。それを回避する苦肉の策である。

 アクゼリュスは様々な人間で溢れている。過去ではなく現在の彼や彼女しか問題にならない。
 ヴァレンティヌスは王命を知りつつも預言に詠まれた、キムラスカの彼とマルクトの彼女の結婚を秘密裏に祝福した。
 すぐにヴァレンティヌスはキムラスカの兵に捕えられ、彼は処刑された。処刑の日は2月14日であった。

 当時、キムラスカは預言の有用性に気づいておらずマルクト帝国の独立を後押ししたローレライ教団を苦々しく思っていた。
 そのためヴァレンティヌスの処刑の件は速やかに執り行われ、亡骸は街の外に打ち捨てられた。

 この一件から教団は布教の仕方を模索するようになる。そして後年、ヴァレンティヌスは預言を守った聖人として讃えられるようになった。
 彼が祀られるようになったのは1000年を過ぎてからのことであり、その祭日が恋人同士の日となったのは最近のことである。
 そして、贈る対象がお世話になった人と拡大解釈され、贈る物もチョコをとされたのは此処十数年のことだろう。
 今ではバレンタインデーの単語が一人歩きしている。2月14日はそんな血生臭い過去を持っていたはずの日だった。




 そんな歴史を知りつつも、それはそれ、これはこれとティアもお菓子作りに参加していた。
 ティアは事前に作っていたブラウニーをラッピングして部屋を出る。休日なので執務室ではなく私室をまず訪ねた。

「お人形のお礼としてはささやかですけど、どうぞ」

 ティアはお礼を述べながらラルゴに手渡す。ラルゴはそれを受け取り「ありがとう」と言った。
 彼はその小さな袋を見つめながら、「兄妹で世話になっていますから」と礼を述べて他の者のところに菓子を渡しに行ったティアのことを考える。

 ラルゴはティアが士官学校に通っていた頃から見知っている。その彼女の成長と遠く離れた海の向こうの娘の成長を重ねていた。
 ヴァンが言うにはティアは年々母親に似てきているらしい。メリルもきっとシルビアに似ているのだろう。彼女の金髪は太陽の光を浴びて煌めいていた。

 ヴァンは父親似らしいが、ヴァンとティアの目元辺りは兄妹であることを思わせると考えたこともある。
 だが、もっと似ていたところがあったらしい。ラルゴは自分の眼が節穴だったと思った。
 あの少女の頃から預言を乗り越えようとしていたという。あの兄にしてこの妹ありと唸ったものである。

 ラルゴは一つその贈り物を手に取り食べてみた。茶色の生地からチョコだと思い込んでいたが、コーヒーの味がする。
 まさに彼女そのものだ。その見た目と生まれに騙され誰も疑わなかった。食べてみるまで分からない。その匂いに気付けただけ良かったのだろう。
 美味いなと思い、もう一つと手が伸びる。その苦味を噛み締め、ラルゴは不敵な笑みを浮かべた。


 ティアは薄暗い地下を歩き、ノックもせずに扉を開ける。部屋の主はデータを眺めていた。
 聞いたところによると、寝る間も惜しんで研究をする上司に副官の堪忍袋の緒が終に切れたらしい。

 副官のミックスはディストを譜業から強制的に引き離したのである。具体的には譜業を人質に取ると言った方法で。
 右手にタルロウを、左手に紅茶を掲げ持った彼は上司であるディストを脅した。

「この二つが混じり合えば如何なるんでしょうか。俺も実験したくなってきました」

 乾いた笑いを発するミックスにディストは屈せざるを得なかった。それから日曜は譜業に触らない、データ整理の日になっている。
 譜業に触らないだけで、結局地下に閉じこもっているのは変わらない。

「全く、別に譜業が悪い訳でもないのに大袈裟なんですよっ」
「そうよね。研究から手が離せなくて一食抜いたぐらいで大騒ぎする必要はないのよ」

 そんなディストの愚痴を聞きながらティアも頷く。同病相憐れむ姿である。
 ティアの台詞にディストは「ですよねっ!」と強く共感した。健康診断用にウサギを改造した過去は忘れたようだ。
 ティアは同じ思いをする仲間にお菓子を渡す。急に甘いものを渡してきたティアにディストは首を傾げた。
 そして、ティアの「今日はバレンタインよ」の一言に今日が何日かを思い出す。

「いつもお世話になっているからね。そのお礼に」

 ディストは「ありがとうございます」と言い、その手元のお菓子を見つめる。そういえば何かを贈ったり贈られたりするのは久しぶりである。
 止まっていた時計が廻り始めているのをディストは実感した。


 ティアはもう一人の師団長の部屋を訪れる。部屋の中は物が少なく良く言えばシンプル、悪く言えば無味乾燥としている。
 甘いものと見て顔を顰めたシンクに「大人向けに作っているから大丈夫だと思うわ」と告げた。

 そのお菓子にシンクは既知感を覚える。昨日、仕事を終えたあとの帰り道で団員に呼び止められお菓子を渡された。
 「何も言わず受け取って下さいっ!」と言われたのでとりあえず受け取ったのだが、あれは何だったのだろうか。
 シンクは心底不思議そうにお菓子を見つめながらぽつりと漏らす。

「お菓子を贈るのが流行っているのか?」

 人生経験が2年でありながら、見た目が12歳というアンバランスなところだ。それはレプリカ全てに言える苦労だろう。
 シンクはバレンタインデーの事を知らなかった。俗事の知識は導師に必要なく、本人もこれまで興味を持っていなかった。
 聖ヴァレンティヌスの処刑についての知識はあってもその事とお菓子は結び付かない。
 そのシンクの様子にティアはくすりと笑い、そしてお菓子の意味について丁寧に説明する。

「本来は聖ヴァレンティヌスを祀る日だったけれども、今では恋人同士が贈り物を渡す日という意味合いが強いかしら。告白の手段にもなっているわ。
 最近では普段お世話になっている人にお礼の気持ちを表す日とされているかも。甘党のトリートさんは大喜びでしょうね」

 ティアは「基本的にはチョコレートを贈るようになっているの」と持参したブラウニーを一つ差し出す。
 それをシンクは受け取り一口食べた。濃厚なチョコの後にコーヒーの味がする。美味しいが、何か飲みたくなってくる。
 そういえば、副官のあいつは最近チョコレート菓子をよく食べていた。そういうことかとやっとシンクは理解した。
 そして、あの子は上司である自分にお礼をしたかったんだなとシンクは解釈した。

 シンクがそう考えている間にティアはコーヒーを用意していた。
 シンクはきちんと淹れたものが飲みたかったが仕方ないかとインスタントのそれを受け取る。
 そして、ティアはシンクから最近の珍事について聞きだし時間を潰した。

 ミカンにしてみれば勇気を出しての告白だったのだが、これは告白以前の問題であった。
 一つだけ救いがあるとすれば、そのチョコも後でちゃんとシンクの口に入ったということだろうか。ミカンの恋は前途多難である。




 それからティアは本命、兄のところへと向かった。少々の不安を抱えながらティアはその部屋をノックする。
 扉を開けてからティアが喜んだか、がっかりしたかは秘密である。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 番外編 Happy birthday!
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/02/10 11:46




 ティアはダアトの図書館に来ていた。ダアトの図書館の蔵書は多い。童話から学術書まで幅広く収められている。
 今回、ティアはケーキのレシピを探しに訪れていた。誕生日を祝われているが、彼らの誕生日を祝ったことはなかった。


 フェレス島から避難した者は散り散りになっており連絡がつかない。
 ダアトの力でもアリエッタの身元は分からないままだ。アリエッタの誕生日は不明のままである。
 だが、ライガクイーンの記憶によると島が沈み始めた頃は、アリエッタはまだ赤ん坊で歩くことも出来なかったらしい。
 そのことを考えるとまだ生後6カ月から10か月といったところだろう。
 2002年5月41日がホド戦争の開戦した日である。その日、ホドが崩落し始め、その余波を受けてフェレス島も沈み始めた。
 逆算するとアリエッタは2001年9月から13月に産まれたということになる。

 シンクも誕生日など知らない。いや、正確には気にしていなかった。
 シンクの誕生日についてティアはディストに尋ねたことがある。ディストは少し口籠り、言い難そうに告げる。

「シンクの誕生日というものはどの時点を指し示すのでしょうね。肉体が作られた日なのか。それとも刷り込みを施された日なのか。
 もしくは自我を持った日か。はたまた生きることを決意した日か。私にはこれと言う日を提示することができません」

 物憂げにディストはファイルを眺めた。それは実際にレンズから作った薬を投与したレプリカの記録である。
 余り思わしくない結果だ。ディストの眼の下には隈が出来ていた。日夜、実験をしているからだろう。
 疲れきっているはずなのにディストはティアに向き直ってアドバイスをする。

 あなたはシンクの誕生日が知りたいのではなく、シンクの誕生を祝いたいのでしょう? なら、いつだって良いと思いますよ」

 確かにシンクは誕生日がいつだろうと拘らないだろうし、むしろ記念日などと言う発想などしなさそうである。
 ティアはアリエッタとシンクの誕生日を纏めて祝うことにした。つまり重要なのは祝う心なのである。


 そして、ティアは予行演習にケーキを焼こうかと思ったのだが料理本が手元になかったのだ。
 そこで本を返しにいくついでにレシピを探していたのだが、図書館でティアは珍しい人間を見つけた。アリエッタである。
 日向でアリエッタは大きな図鑑を膝の上に広げてじっと見ている。意外な組み合わせだ。そう思い近づいて小さな声をかける。

「何を読んでいるの?」
「……虫の絵を見ているの……」

 突然、ティアに声をかけられたというのにアリエッタは驚かなかった。どうやらアリエッタはティアよりも先に相手の存在に気づいていたようである。
 アリエッタは見開き一杯に描かれている蝶に見入っていた。本物のようで今にも翅を動かして飛びそうである。
 その絵の精密さにアリエッタは心から感激していた。

 人間はこういうところが凄い。人の強さはその個体の多さと複雑さだ。
 身体は弱くても、群れているからこそ弱いままでいられる。強くならずに他のことをすることができる。
 ティアもそういった強さを持っている。自分には何が如何凄いのか良く分からないが、それがさらに人間と言う種を強化していることは分かる。
 この本の著者も凄い。森で暮らしていたとき、自分はこんなことなど考えたこともない。彼はどんな世界を見ているのだろうか。

 蝶の絵の下にはつらつらと分類や生息地、活動時期などが簡単に記載されていた。
 ふとアリエッタはイオン様の言葉を思い出す。慣れない文字に苦労していた頃のことである。
 イオン様は「ゆっくりで良い」と、絵本をたどたどしく音読していたアリエッタを励ましてくれた。

「いやいや勉強しても身に着かないからね。興味あるものから学べばいいと思うよ」

 そして、今になってアリエッタはイオン様の言った意味が分かる。アリエッタはこの虫のことを忘れないだろう。
 森のことをもっと知りたい。森の中でどんな生き物がどのように暮らしているか。詳しいことが分かれば家族に教えよう。
 これは人でもある自分にしかできないことだ。きっと弟や妹も興味深げに話を聞いてくれるだろう。

 ティアは大きく描かれた昆虫の節くれだった足を眼に入れてしまった。その絵から視線を逸らしながらアリエッタの話を聞く。
 だから、その帯に書かれた名前が目に入らなかった。


 【著者紹介】
 バルック・ソングラム。1965年生まれ。
 幼少のころから昆虫に魅せられ、そのまま昆虫博士になる。
 「心を開けば虫は分かってくれる」「虫になった気持ちで虫と触れ合おう」が座右の銘。
 主な功績は新種、セレブレイトの発見。昆虫の麻痺、石化耐性に関しての論文。
 なお、本人はサーカスの一座『漆黒の夢』の熱狂的なファン。

 オベロン社が著しい成長を遂げなかった影響であった。バルック・ソングラムはオベロン社に入社せず、ヒューゴとも出会っていない。
 もちろん、自分のような人間を作りたくないと思っている。だが、選んだ手段は力ではなかった。

 バルックはキムラスカの生まれだがマルクトの血も引いている。両親は恋愛結婚の末ケセドニアに落ち着いたが、結局バルックが5歳になる前に別れてしまった。
 理由は何処にでも転がっているありきたりなものだ。一言でいえば相性が合わなかったということである。
 そのころはまだケセドニアは出来たばかりの頃で混沌としていた。今では名実共にケセドニアの顔役であるアスターもまだ若かった為、行き届かないところがあった。
 バルックはハーフということで遠巻きにされ、砂の中に住む蠍やオアシスにいる蜂が友だちだった。それがバルックと昆虫たちの出会いである。

 大人になっても昆虫に対する情熱は冷めなかった。魔物退治などで食い繋ぎながら彼らのことを学び、彼らの言葉に耳を傾ける。
 その集大成がアリエッタの持っている図鑑であった。一角の人物となり、バルックは昆虫生活を極めている。
 その傍ら漆黒の夢の一ファン、漆黒の翼の一団員として活動しているのである。


 丁寧描写された虫の産毛と光沢のある装甲に目眩を感じた。生理的に受け付けない。
 ティアは、そそくさとアリエッタに別れを告げ図書館を後にした。レシピのことを思い出したのは大分後のことだった。

 そして、ティアはふとある人物を思い出す。いつもアリエッタが食べているお菓子は彼が作ったものだ。
 アリエッタは甘いものも辛いものも両方いけるが、シンクは甘いものが苦手だったはずだ。二人が満足できるケーキなど思い浮かばない。
 本職に尋ねる方が早いだろう。さっそくティアはシェフに手紙を書くことにした。
 彼は今キムラスカの田舎で素晴らしい料理人に出会い、指導を受けているらしい。行商人も一か月に二度ぐらいしか訪れない辺境のようだ。
 彼は何処まで修行をしに行っているのだろうか。返事が来る頃までに贈り物を選んでおこうと思いながらティアは手紙に封をした。




 彼から返事でレシピを手に入れたティアは、材料を注文する。兄に二人の休暇を尋ねて日程を合わせた。
 そうして準備が整ってから、ティアは二人を整理したディストの研究室に招待したのである。二人は待ち構えていたティアとディストに戸惑う。
 そして『お誕生日おめでとう!』と書かれたケーキを見て、図らずも二人は隣の相手が誕生日なのだろうなと同じことを思った。
 その二人の心境を察知したティアがすぐに訂正する。

「一応、二人の誕生日のつもりなの」

 誕生日を祝ってもらったお返しだというティアの説明に、渋々と席に着いたシンクは不満を露わに言い捨てる。

「こんなことに何の意味があるんだよ」

 シンクは生まれた日に思い入れなど持っていない。余計なお世話である。
 無駄な時間だというシンクの態度に、ディストが苦笑しながら誕生日の意味について補足する。

「シンク。誕生日を祝うということは、あなたが生まれてきたことに感謝しますということですよ」
「はっ。あんたが僕に感謝してるって?」

 冗談だろうとでも言うようにシンクは嘲笑した。それは仮面でも隠せない。もとより彼に隠すつもりはなかった。
 ディストは自分の此れまでを行状を思い浮かべ、シンクのこの反応も仕方がないかと考えつつ、自分の気持ちを口にする。

「ええ、感謝していますよ。あなたのおかげで私はオリジナルとレプリカの違いを理解できました。
 ティアに指摘され、あなたという実例を目にして、漸く私はネビリム先生を諦めることができましたからね」

 素直にディストから礼を言われ、シンクは言葉に詰まってしまった。何と返せばいいのか迷ってシンクは「別に」とだけ答える。
 そんなシンクをディストは温かい眼差しで見守っていた。ディストは製作者としてシンクに対して親のような気持ちを持っている。
 本人の前でそんなことを言えば切り刻まれるのは目に見えているので言葉にしたことはないが、こうやって誕生日を祝うぐらいならとディストは張りきっていた。

「ディスト。紅茶をお願いできるかしら?」

 ティアは仕切り直しにとディストに紅茶を淹れてくれないかと頼んだ。そしてケーキを切り分け皿に盛る。
 甘いものを好まないシンクのために甘さ控えめの抹茶のスポンジ。間には生クリームと餡子が挟んであり、どら焼きに近い。
 全体的にはアリエッタの好きな和菓子っぽさがある。だが、生クリームを使っている分、紅茶とも相性は悪くないはずだ。
 科学の源泉、錬金術は台所から生まれたとも言われている。レシピを手に入れられればティアやディストは美味しいものを作れる。
 懐中時計で十分に茶葉を蒸らしたことを確認したディストは、慣れた手つきでポットからお茶をそれぞれのカップに注いだ。

 香り立つ紅茶の芳香と甘そうなケーキが気分を変える。アリエッタはさっそくフォークを手にして一口食べた。
 ほろ苦いスポンジの間の餡子が美味しい。フォークで少し前よりも大きめに切る。大きく口を開けてそれを味わった。
 粒あんが甘さに深みを持たせている。そして抹茶の味が飽きさせない。もう一切れと手を伸ばして止める。
 アリエッタは紅茶を飲むことにした。急ぎ過ぎた気がする。まだ、ケーキは残っているのだ。たっぷりとミルクを垂らしたミルクティーにアリエッタは手をかけた。
 その様子をティアはじっと見ていた。作った本人としては美味しそうに食べられるのが一番嬉しい。


 そしてたわいない話をして、落ち着いたところで贈り物を渡すことにした。
 
 ティアが贈り物として真っ先に思いついたのが服だった。アリエッタもシンクも着られれば良いという考えの持ち主で、会うときは9割9分制服である。
 これを機に二人に制服以外の服を着て欲しいものである。手始めに動きやすそうな服からとティアは考えた。

 さらに言えば、ティアはプレゼント選びに関してはディストを全く信用していない。そこでいっそのこと連名で贈ろうと思い至ったのである。
 アリエッタの服はリグレットと一緒に、シンクの服はディストと選びに行った。
 以前はイオンが選んでいたらしいが、あれから2年。アリエッタの身長も伸びている。そろそろ買い替えのときである。リグレットも実は気になっていたらしい。
 シンクの服はディスト共に選びに行った。リグレットに紹介してもらったお店だが、ティアはディストが手に取ったものを選別するので大忙しであった。
 紫はシンクには早いと説得して漸くまともに選べるようになったが、それまでが大変だった。

 それらの贈り物を二人に渡し、なるべく休暇には私服を着るようにと告げる。
 シンクはしぶしぶと「師団長が休まなければ、部下が休めないでしょう」との一言に頷いた。
 仕事をそっちのけにしているディストが言って良い台詞ではないが、その理屈にシンクは納得する。

 そして一際大きな箱は、やはりラルゴからのモノである。お店で何を贈ろうか悩み、結局人形を手にとってしまうところが目に浮かぶ。
 アリエッタにはイオンが贈った兎の白バージョン。メッセージカードには『クロウサギのお友達だ。仲良くしてやってくれ』と書かれていた。
 アリエッタはそれを取り出し二匹ともぎゅっと抱きしめる。

 シンクがその箱を開くと、中で戦隊モノのヒーローたちが決めポーズを取っていた。巷で流行りの彼らである。
 シンクはすぐに箱の蓋を閉めた。それ故にメッセージカードの存在には気付きもしなかった。
 「何のお人形だった?」というティアの質問をはぐらかしながら、表情を隠せる仮面があって良かったとシンクは心の底から思う。
 後でラルゴにどんなお礼をしようかと、シンクは冷めた紅茶を飲みながら真剣に考え込んでいた。







[15219] ―間奏― 希求者のカデンツァ 儚い息子の愛し方
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/02/01 21:07



    ND2000 ローレライの力を継ぐ者、キムラスカに誕生す。
        其は王家に連なる赤い髪の男児なり。名を聖なる焔の光と称す。
        彼はキムラスカ・ランバルディアを新たな繁栄に導くだろう。





 クリムゾン・ヘアツォーク・フォン・ファブレには一人、息子がいる。
 愛する妻、シュザンヌとの間に産まれた赤い髪に緑の眼を持つ正真正銘の王族に連なる男子である。

 生来身体が弱いシュザンヌに第二子を期待することはできない。
 跡取り息子を授かったことを喜び、妻子を大切にするべきである。そう人格者なら彼に助言するだろう。
 そして、彼と妻と息子は幸せに暮らしましたと結ばれればどんなに幸せだろうか。

 クリムゾンはどうしても息子を愛することができなかった。

 それは、産着に包まれた子の髪の色を見たときから。
 いや、シュザンヌが子を授かったと聞いたときから。
 教団の者が預言を詠み、内容を知ったときから。




    ND2018 ローレライの力を継ぐ若者、人々を引き連れ鉱山の街へと向かう。
        そこで若者は力を災いとしキムラスカの武器となって街と共に消滅す。
        しかる後にルグニカの大地は戦乱に包まれ、マルクトは領土を失うだろう。
        結果キムラスカ・ランバルディアは栄え、それが未曾有の繁栄の第一歩となる。





 いずれ死ぬと分かっていてどうして愛せようか。
 我が子の死は覆されることのない、覆してはならない繁栄の礎なのだから。

 クリムゾンは陛下に対して、「息子が役立てて幸いです」と静かに告げる。
 陛下が実はナタリア殿下ではなくて良かったと考えていることを知っていても、それ以外の言葉は口にしなかった。


 クリムゾンが感情を押し殺し政務に励み、戦場で友と戦っているうちに時間は経つ。
 そうしているうちに息子は大きくなっていった。

 どこに出しても恥ずかしくない、むしろ自慢したくなるような立派な王族の子である。
 クリムゾンはそれを見て、キシッと何処か奥底で音がした気がした。
 まだ自分の腰ぐらいの背の高さだというのに、公私を弁えることを知っている。
 王城で年上のナタリア殿下は走り回っているというのに。聡明な息子が誇らしい。

 そして、クリムゾンはますます我が子から目を逸らした。
 息子は王国の繁栄のために消えると預言に詠まれているのだ。
 息子が私の跡を継ぎ、公爵になることは無い。貴族らしい作法は必要ないのである。


 クリムゾンが愛人に逃げ、王城に籠っているうちに時間は矢のように過ぎる。
 そうしているうちに息子は大きくなっていった。

 久しぶりに妻と語らう。その視線の先にはナタリア殿下と息子がいた。
 「あの子は殿下と仲が良いのですよ。夫婦になってもあのままでしょうね」と妻が笑う。
 クリムゾンはそれを聞いて、キシリと何かが悲鳴をあげた気がした。
 結婚した二人が並び立ち、その間に孫でもいるならばどんなに嬉しいだろう。そんな未来は存在しないのに想像してしまう。

 そして、クリムゾンはぼんやりと我が子を眺めた。
 ナタリア殿下と婚約しても結婚することはないのだ。いま仲良くしている分、殿下を悲しませるだけ。二人の将来は闇に閉ざされている。
 二人の間に交わされた秘密の約束もいずれは思い出になる。その隣に息子の姿はない。


 クリムゾンが影から息子を見て、束の間の幸せを噛み締めているうちに時は流れる。
 そうしているうちに息子は大きくなっていった。

 中庭で指南役を相手にひるまず果敢に立ち向かっている。
 「ルーク。それでは隙だらけだ。そう、それで良いっ!」グランツ謡士は的確に息子を導いていた。
 二人は笑顔で親しげである。まるで兄弟のようだ。いや、親子のようだった。
 クリムゾンはそれを見て、ギシリと何かが存在感を主張した気がした。
 ああ、あのように息子と笑いあえたら、親として振る舞えたら良いだろうに。
 だが一つ誉めたら際限なく止まらない。そして死なせたくないと言ってしまうかもしれない。

 月に一度、父子はベルケンドに赴く。息子のローレライの同位体としての力を調べるためである。
 その扉の先でどのようなことが行われているか知っていても、クリムゾンは止めることができなかった。
 息子は2018年に死ぬのである。限られた間しか第七音素について調査できない。
 ホドの滅亡は第七音素が関わっている。マルクトはその兵器の開発に成功しているのだろう。
 早く同じ物を手に入れなければ負けてしまう。キムラスカの将来のために息子は犠牲にならなければならない。

 他の者に任せず、自分が連れてくることがクリムゾンにできる精一杯だった。
 帰路にて、息子の死んだ魚のような眼を見てもクリムゾンは何もしない。
 その手で頭を撫でることも、小さな手を引くことも、労いの言葉もかけない。

 何をしても言い訳に過ぎないと思ったからである。
 クリムゾンの握りしめた拳は解かれることなく、手のひらに痛々しい爪痕を残した。


 そんな彼の心の危うい均衡は呆気なく崩された。
 ルーク・フォン・ファブレの誘拐。


 その報せはすぐに公爵家から王城に知らされ、クリムゾンも知るところとなった。
 上層部の混乱は陛下の一言で収まったものの彼は複雑だった。

「秘預言ではルークが17のとき、鉱山の街に赴くとある。そのときまでルークが死ぬことなどない。ルークは生きておる。はやく我が甥を探すのだ!」

 その王の言葉は事実である。一片の染みもない、動かし難い真実だった。
 平静を装い、刻一刻ともたらされる情報に内心一喜一憂しながらクリムゾンは息子の帰りを待つ。

 今まで何度思ったことだろう。

 息子が聖なる焔の光でなければと。
 せめて燃えるような赤い髪でなければと。
 もしくは女子として生まれてくればあるいはと。

 そうであれば、彼は我が子を抱きしめ、撫でて、誉めそやしただろう。
 妻と子と三人でお茶を飲み、今日のことを語らい、明日のことを喋っただろう。

 だが、我が子が聖なる焔の光なのだ。繁栄のための尊い生贄の子羊なのである。
 憐れと思うことはあっても、救おうとは思ってはならない。
 ルークの17年は、ただそのときが来るまでの猶予期間に過ぎない。
 その間いくら愛しても、自分は時が来れば掌を返したように別れを告げるのである。

 いま、こうしていなくなった息子を待ち望んでいるのは何故だろうか。

 繁栄を約束する手形を手元に置いておくためだろうか。
 王族が浚われたままでは威信に関わるからだろうか。
 公爵家で臥せっている妻の不安をはらうためだろうか。

 それとも、どこかで泣いている我が子を心配しているからだろうか。


 クリムゾンはルークを愛している。ただ、それを誰かに見せるのは躊躇われた。
 けれども息子の安否が分からずその想いも薄れる。押し寄せてくるのは後悔ばかりである。

 あのとき、盛大に誉めて頭を撫でてやれば。
 あのとき、駆け寄ってきた息子を抱き上げれば。
 あのとき、妻の誘いを断らず三人で食事をすれば。
 あのとき、息子の相手をして剣の稽古をつけてやれば。

 躊躇わずに「愛している」と「大切な家族である」と言えば良かったのだ。
 限りある時の中で、その分短くとも濃い時を共に過ごせば良かったのだ。


 失ってから初めて人は大事なことに気づくものである。
 クリムゾンは握りしめた拳をそっと隠し、伝令の言葉に耳を傾ける。

「コーラル城にて、ヴァン奏将がルーク殿下を発見! 此方に向かっているようですっ!」

 そして彼は城から単身飛び出し、バチカルの表玄関まで駆ける。その主に白光騎士団の者が後に続いた。
 その向こうには小さな黒い点が見える。見慣れたキムラスカの赤がはためいていた。
 あの下に息子がいる。無事でよかったという安心と、その姿をこの目で見なければとクリムゾンの心は逸る。

 黒い点は輪郭を現し始め、奏将の腕に抱かれた赤い髪がちらりと覗いた。
 その腕からクリムゾンは息子を取り戻し、ほっと一息つく。帰ってきた息子を周囲の目も気にせず彼は抱きしめた。
 何も知らないかのように眠る我が子の寝顔はあどけないものである。
 それを見てクリムゾンは口元を歪め、意図せず一筋の涙が彼の頬を濡らした。


 その感動的な親子の再会をヴァンは満足そうに見下ろしていた。




 シュザンヌは事あるごとにルークを可哀そうな子と呼ぶ。心からルークを不憫だと思っていた。
 可愛い我が子を、如何にかしてルークを守りたいとシュザンヌは願っている。


 可哀そうな子。

 大人の都合に振り回されて子供らしく遊ぶこともできない。
 もしも下の弟や妹がいたら、こうはならなかったかもしれない。しかしそれは望めないのだ。
 赤い髪と緑の眼をしている者はルークしかいなかった。その期待に応えようと人一倍努力している。
 父は公務で忙しく、母はこのように病気がちで満足に面倒を見られない。

 それでも一人毅然と立っている。ナタリア殿下の相手も務め、王城でも恥ずかしくない振る舞いをしているらしい。
 王城は決して煌びやかなところではない。キムラスカは王族の権威が強い分、息子に声をかける者は多いだろう。
 腹の底の欲望を押し隠しながら、口から出る言葉は美辞麗句ばかり。そこで育ったシュザンヌは良く知っていた。
 自分は王妹であり、いずれ降嫁すると分かっていたため近寄ってくるのは年頃の男性が多かった。

 だがルークの場合はそれ以上だろう。ナタリア殿下との婚約が発表されても、側室でも良いからという声が絶えない。
 王家の特徴を持たない彼女は辛い立場に立たされている。そんな彼女を支えているのはルークだった。
 本当に立派である。そしてますますシュザンヌはルークを憐れに思う。
 王族とはいえ、あの年でそこまで成長しなければならなかったのである。


 可哀そうな子。

 マルクトに浚われてルークは記憶を失ってしまった。言葉まで忘れてしまったようだ。
 10歳の子供が何をしたというのだろう。この子が王族だから。ただそれだけの理由で痛めつけられた。
 帰ってきたルークはあどけない瞳でシュザンヌを見上げる。その瞳は無垢な輝きを持っていた。
 ルークは何もかもを捨てたのだ。王城での汚い経験も、恋慕う殿下も。
 頼りない両親さえ何もかも一緒くたに思い出したくない過去として封じた。

 シュザンヌは後悔した。だが、何を如何すればいいのか分からなかった。
 分かるのは、全てが初めからやり直しだということぐらいである。ルークは赤ん坊のようだった。
 ルークが小さかったころ、子を産んだ後のシュザンヌは体調が思わしくなく余り世話ができなかった。
 そのとき出来なかったことを、母らしいことを幼いルークにする。夫も巻き込んでシュザンヌは家族らしく振る舞おうとした。
 そうすれば、以前のように暗い眼をすることもなくなるのではないかと思ったのである。


 可哀そうな子。

 そう言えば夫の眼は揺らぐ。時折訪れるダアトからの指南役も何か心当たりがあるようだ。
 それがただ記憶を失っていることを示すのではないことぐらいはシュザンヌにも察せる。何かあるのだ。
 シュザンヌは全く知らされていなかった。詳細を知らないからこそ気付いていないふりをして訴える。
 それが無力なシュザンヌのささやかな抵抗であった。

 ルークはまだ子供です。記憶すら失ったのです。
 こんなに可哀そうな子にまた何かするのですか。
 もう十分ではありませんか。

 これ以上、ルークに何を期待するというのですか。
 これ以上、ルークに何を差し出せというのですか。

 その想いをこめてシュザンヌは秘密を知るであろう夫と指南役に伝えている。

「ルークは可哀そうな子です」

 もう何も奪わないで下さいと彼女は今日も静かに請願する。




 ルークが公爵家に帰ってきてからクリムゾンは戸惑っていた。帰ってきたルークは余りにも以前と違う。
 あの堂々とした振る舞いも、貴族としての教養も、家族の思い出も、何もかもを失っていた。
 まるで赤ん坊のような我が子を見てクリムゾンは複雑だった。

 自慢の息子の変わりように落胆したのは事実である。
 殿下にふさわしいように、公爵子息として恥ずかしくないようにとルークは人一倍努力していた。
 それらを失っているとなるとやるせない気持ちになる。そうなるまでの思いをルークはしたのかと何処かにいるその犯人を殺したくなった。
 一時は秘密裏に殺されもう会えないかと、もしくは見せしめのように捨てられるのではないかと不安だった。
 だがかすり傷一つなく、その赤い髪も緑の眼もちゃんとある。指も爪もそろっていた。

 敵がなにをしたかったのか分からなかった。けれども依然敵がいることは確かである。
 それがマルクトかダアトか、はたまたキムラスカか、疑えば切りがない。
 まずは無事を喜ぶべきである。そう、クリムゾンは喜んだ。ルークの記憶がないならば一からやり直せると。
 「あなたは誰なの」という目で見上げてきたルークと対面したとき思ったのだ。

 自分は誉められた親ではなかった。公人と私人の分別もなくただ幼い我が子から逃げていた。
 一時は愛人も作り、親子の会話も夫婦の会話も最低限だった。
 シュザンヌが夫を待っていたのは、ほかに行くところがなかったから。
 ルークが父親の影を指南役の彼に求めたのは当然の帰結だろう。

 だがまっさらなルークとなら過去の蟠りもなく親子になれる。
 ルークの記憶が無くなって好都合ではないか。その感情にクリムゾンは戸惑っていた。

 そう迷いながらも彼は城から帰ると妻にルークの様子を聞く。
 そして立ち上がったとか、二歩歩いたとか我が子の成長を耳にしてルークの顔を見て誉めるのである。
 時間が許すときは中庭で一緒に遊ぶ。それを日影でシュザンヌは眺めながら、頃合いになると休憩を呼びかけた。
 ルークはきゃっきゃと笑いながら駆け寄り母の手から飲み物を貰う。

 その光景をもう彼は遠くから眺めるのではなくその中に交じっていた。
 何処から見ても彼ら3人は理想の家族を描いていた。

 クリムゾンはそれに満足していた。これまでの空白を埋めるように家に帰るようにする。
 持ち帰れる仕事は公爵家で処理するようにして、せめて朝食ぐらいは共に取るようにした。
 限りある時間である。あと7年、出来るだけ傍にいたかった。だから陛下から「ルークを公爵家から出してはならぬ」という命令に従った。
 身体の弱いシュザンヌは出かけることが少ない。ルークが傍にいれば慰めになるだろう。
 それに城の者は変わり果てたルークに優しくはない。クリムゾンの耳にも眉を顰めてしまうような言葉が入ってくる。
 あの純粋な子供に王城の闇を見せたくない。公爵家の中ならば誹謗中傷から守れるはずだ。


 クリムゾンが違和感を持ったのは、ルークが剣に興味を持ち始めたころである。
 素振りをさせてみると軸がぶれる。まるっきり初心者だ。記憶を失う前は太刀筋も鋭くさすが我が子と思ったものだった。
 その影も形もない。おかしい。クリムゾンは疑問を持ってしまった。
 こういったことは身体が覚えているはずである。そう思い後ろから打ち込んでみるとルークは全く反応しなかった。
 「何するんだよ、父上!」と怒るルークをなだめながら芽生えた疑いを放っておけない。一度疑い始めると違いが目に付いてくる。

 ルークはもっと筋肉があった。
 ルークは言葉を崩さなかった。
 ルークの髪色はもっと紅かった。
 ルークの記憶は……。

 わだかまる不安を解消するためにクリムゾンはベルケンドから技師を呼び寄せる。
 音素振動数が同じ者はいない。ルークの数値を調べると以前のものと同じだった。
 その結果に一安心してローレライの同位体を調べたいと訴える者を帰らせる。
 疑惑が晴れたことにクリムゾンは嬉しく思った。

 あの自分に笑顔を向けてくれるルークが息子ではないとしたら悲しい。
 クリムゾンは不器用ながらもルークを可愛がった。ルークもそれに応えてくれる。
 あのやり取りが偽りだとしたら自分は道化ではないか。だが、ルークはルークだった。
 クリムゾンは湧きあがった疑いに蓋をする。


 そしてそれから3年もの月日が経った。

 ルークはもう16歳になった。あと2年もない。
 クリムゾンは息子の成長に喜び、そして時の流れの速さに胸の内で泣く。

 そんなクリムゾンの下に一つの噂が届いた。曰く、ダアトに赤い髪に緑の眼の師団長がいるらしい。
 それを耳にした彼は半信半疑で部下に調査を命じる。そして、上がってきた報告にクリムゾンは歓喜した。
 彼はルークと同じ年である。2000年に生まれた王族に連なる赤い髪の男児。
 ルークを犠牲にしなくてもいいかもしれない。そうクリムゾンは希望を持ったのである。

 クリムゾンはその親に感謝した。具体的には庶子を産ませ、そのまま放置していた何代か前の先祖に。
 だがあの時期少しでも王族の血を引く子供は徹底的に調査されていた。
 明るい可能性を前にクリムゾンは慎重になった。更なる情報の収集を執事のラムダスに命じる。

 もう一人の赤毛の男児が誰の子なのか不明だった。まるで突然その彼がダアトに表れたようだった。
 キムラスカ王族の特徴を持ち合わせるには王族の血を濃く引いていなければならない。
 一瞬かの愛人のことを思い浮かべ、時期が合わないとその考えを振り払った。
 あの陛下が誰かを身籠らせたなら自分の耳にも入るはずである。あとは、シュザンヌしかいないではないか。
 クリムゾンは双子の可能性を疑った。そしてすぐにその考えを否定する。
 いくら争いを招く双子が忌み嫌われていようと王家の血を引くものが少ない今、闇に葬る可能性は低い。

 やはり何代か前の王族の血が隔世遺伝で現れたのだろう。
 公爵家の一人息子である可愛いルークと素性の知れぬダアトの特務師団長。
 どちらを取るかは決まっている。


 クリムゾンはそのアッシュという赤い髪の男児をキムラスカの繁栄のために捧げることにした。







[15219] ―間奏― 希求者のカデンツァ 賢帝の実情
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/02/02 21:34





 ピオニーは私室の床に座り込み、可愛いジェイドを抱えながら可愛くない親友のことを考えていた。
 いまごろジェイドは和平の使者という大任を果たすべく準備にとりかかっているはずだ。いつものように抜け出して街に出ても探しには来られないだろう。
 ジェイドという強敵が現れないならばと思いつつピオニーの企みを阻むもう一つの壁、アスランの存在を思い出す。
 そして、芋づる式に今日の会議にいた不愉快な議会の爺共の顔が脳裏をよぎった。

「ぶひっ」

 腕の中のジェイドが抗議の声をあげた。どうやらきつく抱きしめすぎてしまったようだ。
 もぞもぞと脱け出したジェイドはゲルダの方へ行ってしまう。昼寝をするつもりなのだろう。
 手から去ったぬくもりを感じながら、ピオニーは4年前の自分が皇帝になったときのことを思い出していた。




 ピオニーの父、カール五世は戦争をたいそう好んだ。
 国家の利益ために戦争をするというよりは、戦争のために国家があるかのように振る舞っていた。
 当然、彼の下にはそれを支持する人間が集まり、その周りにはおこぼれに与かろうと蟻が集る。
 彼らは皇帝という地位が齎す恩恵に傅き、僅かな良識ある者が帝国を支えた。
 それでも世界の半分を支配する国である。その屋台骨は太く、簡単に傾きはしなかった。
 それが彼らを増長させたのだろう。彼らはこのマルクト帝国が永遠に続くと信じているようだ。
 そんな訳ない。不断の努力によってこの大国は維持されている。

 彼らが零れ落ちた雫を啜っているならピオニーは必要悪と断じただろう。だが、彼らは民の手に渡るべき果実まで手を出していた。
 ピオニーは皇帝として彼らの排除を決意した。しかし、そう簡単にはいかなかった。
 帝国のそこかしこに彼らは根を張っており、皇帝と雖もおいそれと彼らに手を出せない。
 ピオニーはただ重たい冠を被り、置物としてそこにいることを望まれた。一度でも甘い汁を吸うともう苦労などしたくないのだろう。
 代替わりの混乱に乗じて隙を見せた者たちは始末したが、海千山千の老獪な者は焦らせることもできなかった。
 彼らが油断して尻尾を出すのを待つしか選択肢は残されていなかったのである。苦渋の日々が待っていた。
 先帝の影響が強かったのか、それとも元から変わりようがないのか。白々しく彼らはピオニーにも同じものを求めた。

 戦争を。さらなる戦果を。

 皇帝に即位して間もない時期のことだった。彼らの露骨な要求にピオニーは頭に血が上った。
 そして怒鳴りつけようとしたとき、横から口を挟んだアスランの言葉に息をのんだのである。

「いましばらくお待ちください。議員殿。いまだ先の戦争の傷が癒えておりません。それに、次の戦はピオニー陛下の治世を飾る初めての華となるでしょう。
 これからの帝国の繁栄のためにも万全の準備を整え、陛下に完全な勝利を捧げたいのです」

 そうしてアスランは議員を持ち上げ褒めちぎり彼の自尊心を満たす。うやむやのうちに話は流れた。
 アスランが議員を送りに席をはずしている間、ピオニーは皇帝の座にもたれかかりながら自分の不甲斐なさを感じていた。
 結局、ピオニーが殿下から陛下になったからといって、すぐにこの宮中の澱みを払えるわけではないのだ。
 帝国に巣食う狐狸妖怪は人の面の皮をかぶり人語を解す。人を騙すのが得意でその分、善良な人のふりがうまい。
 あそこで戦争などしないと言えば、議会の半分は敵に回りピオニーは今以上にお飾りになり下がるだろう。

 帝国は、いや、帝国議会は戦争無しでは動かない。先帝の時代にこのマルクト帝国はそう作り変えられたのだ。
 戦争を前提に全ては決定されている。それを直すのは長い時間がかかり、またその道のりも容易ではないだろう。
 少しずつ膿を出し、議会が健全に機能するように変える。

 それまでに何回戦争を起こせばいいのだろうか。
 そのたびに何人死んでいくのだろうか。

 ピオニーはこれまでの戦禍を思い起こし憂鬱になる。
 極端にいえば軍人は国家のために人を殺すことが許され、国家のために死ぬことを求められる。戦争で軍人が死ぬのは極々自然なことである。
 だが、その戦争が国益のためではなく特定の人間の欲望のために引き起こされるものならば、その死に何の意味があるのだろう。

「金の亡者め。そんなに戦争が好きならさっさと父の下に逝けばいいものを。そうすれば思う存分死と血に塗れた生活が送れるだろうよ」
「そうですね。カーティス大佐にお願いしてみましょうか。彼なら演習中にさくっと半分ぐらい減らしてくれるかもしれません」

 ピオニーは予期せぬ返事に驚き、声の方に視線をずらす。
 いつの間にかアスランはいつも通り笑みを浮かべて脇に立っていた。

「……そうだな。どうしてもうっとうしくなったら頼んでみるか」

 きっとジェイドはいやそうに眼鏡を押さえながら、「そんなことはあなたの仕事です」なんて言うのだろう。
 その様子をピオニーは想像すると笑えてしまう。

 大きくとられた謁見室の窓から差し込む夕日をピオニーは眩しそうに見つめた。
 玉座に一人腰掛けたまま傍らのアスランに問いかける。

「なあ、アスラン。いずれ俺は戦争を起こすだろう。そして、多くの民を戦場に送りだすだろう。
 俺の守るべき民を。俺が皇帝として在るために。……こんな、守るべき民を殺す皇帝などいらないんじゃないか?」

 それはピオニーの心の中にある大きな矛盾である。
 皇帝になることが決まったときに真っ先に思い浮かんだのは、幼少期を過ごしたケテルブルクだった。
 今はもう手を差し出すことはできないけれども、彼女を守ろうと思ったのだ。人妻となっていようと大切な人だ。
 そして、政務の合間に出会った人々。彼らの笑顔を守るために冷たい玉座に座ってもいいかと思った。
 彼らが居てくれるだけで皇帝のピオニーは支えられている。

 それなのに、報いるどころか戦争を起こすとはなんたることか。
 しかも時間稼ぎのために、である。裏切りにも等しい。

 ピオニーは俯き自分の小さな手を見る。力がない自分が歯痒く、握りしめた掌に力が入った。
 そんなピオニーを宥めるようにアスランは柔らかな口調で声をかける。


「陛下。確かに私たちは戦争を必要とするでしょう。それは避けられないことです。
 ならば私たちにできることはただ一つ。その成果を確実に得ることです。勝利を勝ち取り、それと引き換えにあの者たちの首を取ればいいのです」

 アスランはきっぱりと言い切った。
 彼にとって議会の老害がローレライの下に逝くことはすでに確定された未来である。
 後はそれが早いか遅いかの違いがあるだけだ。そして彼らが死ぬのならばいかなる犠牲をも厭わない。
 自分は陛下を守るために在る。ならば、陛下が陛下であるために為される戦争は忌避すべきものではない。

 アスランにとってピオニーはマルクト帝国を背負うことができる唯一の存在である。
 この腐敗した帝国の澱みを払い、再生することができるのは彼しかいないと考えている。
 幼少期からケテルブルクに軟禁されていたおかげで、議会の連中に接近される機会が無かった。
 他の兄弟ならば、皇帝の座と引き換えに何らかの利益を彼らに与えなければならなかっただろう。
 ピオニーは清廉である。母の身分も低く厄介な外戚もいない。彼だけが生き残ったのは僥倖であった。

 アスランは今一度、彼を守ろうと心に決めた。
 彼が民を守るのならば、自分は陛下の御身だけでなくピオニーの御心も守ろうと。
 ピオニーの心はまだ揺れているようだった。アスランはそんなピオニーにそっと言葉を続ける。

「それでも自分が許せないのならば、死に逝く者に格別の計らいを。そして、手に入れた力を民のために振るわれてください。それが陛下にできることです」
「そうだな」

 ピオニーは自嘲気味に口元を歪め、その言葉を心の中で反芻した。
 そして、アスランを見上げ小さく尋ねる。

「それなら、戦争のその先まで俺についてきてくれるか」
「もちろん。地獄の底までお付き合い致しますよ」

 ピオニーの真剣な声にアスランは穏やかな笑顔を湛えながら迷わず答えた。
 遠くの噴水の音が聞こえる。いまだ暗き闇の蔓延る宮中で、アスランは若き皇帝に永遠の忠誠を誓ったのだった。




 それから4年、アスランはピオニーの剣として影で振るわれ続けた。そして2018年を迎える。

 アスランは今日も執務室を抜け出したピオニーを探していた。
 天気が良いから外で昼寝でもしているかと思ったのだが、アスランの読みは外れたようだ。
 私室でぼんやりとしている姿をようやく見つける。

「陛下。ここにいらっしゃいましたか。……陛下、どうかされましたか?」

 いつもならすぐに逃走しようとするのだが、いったいどうされたのだろうか。アスランは疑問に思った。
 ピオニーは空になった手をそのままに、ぼんやりと虚空を眺めている。そして、扉の前のアスランに気付き泣きそうな顔で告げる。

「アスラン。戦争が始まるぞ」

 何かを諦めたような声である。

 そういえば、今日の午前にカーティス大佐が和平の使者に任命される予定だった。アスランはすぐにピオニーが暗い理由が分かった。
 先ほどの会議で大佐が任命されたのだろう。もう引き返せない。戦争だ。
 キムラスカが戦争の準備をしていることは資金や資材の流れで分かっている。いつ戦争が始まってもおかしくない。

 ジェイド・カーティスという存在はマルクトに有利な条件で開戦を導いてくれるはずだ。彼以上の適任者はいない。
 皇帝の幼馴染みであり懐刀とも呼ばれている人物。彼が使者を務めることは、皇帝が和平を望んでいることを民に示す。
 だが、同時に彼は死霊使いと呼ばれるほどキムラスカの軍人を殺した人間である。ローテルロー橋の戦いから前線で活躍しているので向こうも覚えているはずだ。
 それに大佐の性格ならば、自然体でキムラスカのプライドを踏み躙るだろう。何気ない挨拶が嫌味に聞こえるのだから。
 身分に厳しいキムラスカでは、たかだか佐官が皇帝の名代を名乗り赴いても侮辱されたと門前払いの可能性もある。
 そして彼ならば単身、敵地のキムラスカから帰還することも不可能ではない。

 戦争には大義名分が必要だ。大義なき戦争に人はついてこない。
 ましてやピオニーは先帝とは異なった方針を表明し、その成果を民は賢帝と評しているのだ。
 ここで180度方針転換をしては、これまでの4年間の意味がなくなってしまう。

 マルクト帝国は新しい皇帝の下で新しい関係を求める。皇帝の親友を使者にしてまでも和平を望んだ。
 それにも関わらず、キムラスカ・ランバルディア王国が和平を拒み戦争を選んだことにならなければならない。
 こちらの誠心誠意を込めた親書は無情にも付き返されるのである。それが我々のシナリオだ。

 茶番である。しかしそれが重要なのだ。議会も将官も分かって備えている。
 知らぬは大佐ばかりだが、それでいい。知らないことを誰かに漏らすことはできないのだから。


 ジェイド・カーティスは皇帝の親友にして大佐である。皇帝に対して敬語は使うものの傍若無人な態度はそのままだ。
 権力者におもねることを良しとはしない。そんな敵の多い彼が無事でいられたのは本人の才能もあるが、皇帝がそれを許容していたからである。


 ピオニーは自分を真っ直ぐに見るジェイドを失いたくなかった。皇帝ではないピオニーを見てくれる者はどれだけいるだろうか。
 本当は嗜めるべきだろう。だが、ピオニーは皇帝の臣下よりも皇帝の親友を選んだのである。
 同時に彼の赤い眼が曇ることを恐れた。皇帝としてピオニーは後ろ暗いことにも手を出している。
 それを知られたくなかった。だから、彼はまだ大佐のままでいる。上層部の意向と本人の希望が合致した結果だ。

 ピオニーにとってあのケテルブルクの幼少時代は大切な汚したくない思い出である。
 フランツと名乗ってネビリム先生の私塾に通っていた頃の記憶は掛け替えのないものだ。だが、同じ時を過ごした4人はもうバラバラだ。
 サフィールは亡命してディストとなり、ネフリーとの道も別たれている。そんな中でジェイドだけは傍にいる。
 皇帝は孤独なものだ。それを和らげてくれるのはジェイドという幼馴染であり、アスランという側近であった。
 
 今のジェイドの立場はピオニーが皇帝である所為と言っていいだろう。しかしそれ故にジェイドは和平の使者に選ばれた。
 ピオニーは葛藤の末、何も知らせないことにした。彼は本心からピオニー陛下が和平を望んでいると告げるだろう。
 それを承知の上で、ピオニーはジェイドを和平の使者に任命したのである。

「皇帝の親友か……。因果なものだな」
「別にいいと思いますよ。彼は軍人ですしね。それに、皇帝の親友というのも悪いことばかりではありませんよ」

 アスランはつとめて明るい声を出した。あれからやっと機会が巡ってきたのだ。
 迫りくる騒乱の気配を感じながらアスランは暗い期待をしている。それを笑顔で上手に隠した。

 ピオニーはその声に反応してつい訊ねる。

「皇帝の親友だと何か良いことでもあるのか」
「それはもういろいろと。お店で割引もしてくれるみたいですよ」
「そりゃいいな。よしっ、今度はジェイドに奢ってもらうとするかっ!」

 ピオニーが笑顔になるとそれに応えるように空気が変わる。
 さっきまでの雰囲気はどこにいったのか。どの店にしようか、ネフリーと一緒に入れる店は何処だったかとピオニーは悩んでいた。

 この光のような皇帝を失いたくないとアスランは思う。
 そのためにもまず自分の職務を全うしようと視界の端をよぎった服を掴んだ。

「陛下。ブウサギと戯れるのは後になさってください」
「アスランッ、見逃してくれ。ネフリーが俺を呼んでいるんだっ!」
「そうですか。ならば一緒に参りましょう。執務室にネフリーはいるはずです」

 ピオニーは悲痛な声を出しながら助けを求めた。
 だがその先にいるのはブウサギである。ゲルダはすやすやと夢を見ており、ジェイドはうるさそうに耳を閉じた。







[15219] ―間奏― 希求者のカデンツァ 若き導師の寂寥
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/02/03 21:29




 イオンは2年前に亡くなった導師のレプリカである。
 7番目に作られた彼はオリジナルの代わりに導師を務めている。

 その事実を知る者は少ない。計画の立案者に研究者だけだ。
 大詠師モースと主席総長のヴァン、そして当のオリジナルがひた隠しにしたためである。
 作られてからすぐに成り代われるようにと刷り込みが施された。オリジナルの口癖やちょっとした仕草、導師に必要な知識。
 7番目の彼はその事実を知らない者にとっては、どう見ても導師でありイオンそのものであった。
 彼らはレプリカのイオンに親しげに話しかけてくる。オリジナルにそうしていたように変わらず。

 だからイオンは答えが出ないのに考えてしまう。

 自分と話している人は誰と話しているつもりなのだろうか。
 ローレライ教団の導師か、それともオリジナルか。

 どちらにしてもそれは自分ではない。仮初のものである。自分は偶々他のレプリカよりもオリジナルに近かっただけ。
 そして、オリジナルと親しかった人はイオンの心を掻き乱す。彼らに対してイオンは幾許かの罪悪感と落胆を持っていた。
 所詮彼らは導師イオンに用があるだけで、ただイオンに興味ないのである。その証拠に彼らは自分を疑いもしない。
 そして自分が導師ではなくレプリカだと告白すれば、彼らは手のひらを返すだろう。そんなどうしようもない情報だけは頭の中にある。
 導師の座から見下ろす世界は狭く息苦しい。だが、イオンは導師としての形しか存在を許されていないのである。


 同じレプリカであっても、シンクとイオンの立場は異なっている。
 レプリカとしてオリジナルの代役という役目を果たせない者と、望まれる者。
 一生仮面を被り続けることを強いられるシンクと、導師であることを求められるイオン。

 どちらも普通ではなく苦労も幸福も受け取り方が違う。比べることも馬鹿げているだろう。
 だが、イオンにはシンクが羨ましいと思った。

 その顔は仮面で見えないが、短い緑の髪は光を浴びていた。彼は生き生きとしているように見える。
 第五師団長を元導師守護役が追いかけ回しているという話はイオンの耳にも入った。
 その後何があったか知らないが、彼ら二人は親しくなったらしい。自分はアリエッタに避けられているというのに。
 彼女にイオンではないと否定された気になってしまう。彼女はもしかしたら気付いてしまったのかもしれない。
 自分はイオンらしくないのだろうか。イオンは自分の存在意義について考えると泣きたくなってしまう。

「イオン様。どうかされたんですかあ?」
「ッ! ……いえ、なんでもありません」

 窓の外をぼんやりと眺めていたイオンに軽い口調で導師守護役のアニスは声をかけた。
 いつもは導師らしいのに時々暗い雰囲気を見せる。だからアニスはこの導師を放っておくことができない。
 イオンの視線の先には仮面をつけた少年とライガを連れた少女がいた。

「あっ、師団長たちですね。シンク師団長といえばっ! 聞いて下さいよ、イオン様っ。
 この前彼に声をかけたら無視されたんですよぉ! まったく、こんな美少女に見向きもしないだなんて失礼だと思いません?」

 アニスは自分の満面の笑顔を指差しながら、嘆いて見せた。
 そのアニスの様子にイオンは窓から視線を外して花が綻ぶように笑い、アニスを誉める。

「僕は可愛いと思いますよ」
「ですよねえ~。アニスちゃん何だか元気が出てきました」
「アニスが元気一杯だとエミリが大変そうですね」
「イオン様。それはどーいう意味ですか?」

 アニスが元気過ぎると困ると言わんばかりの発言に、アニスは腰に手を当ててイオンを睨みあげる。
 イオンは「別にたいした意味はないですよ。それともアニスには何か心当たりが?」と切り返した。

 アニスのおふざけで辛気臭い空気は何処かに行き、軽口を叩き合う。
 窓の外の二人はもう遠くに行ってしまった。それにイオンはなんとなく安堵する。

 コンコン。

 扉を叩く音がして入室を告げる声がした。アニスは姿勢を正して応対する。
 部屋に現れたのはアニスより年配の導師守護役、エミリだった。
 ちらりとアニスを見て「モース様があなたをお呼びよ」と伝える。

 それを聞くとアニスはイオンに傍を離れることを告げ、一礼して部屋の外に出る。
 扉の前にいた同僚からアニスは睨まれた。それをアニスは無視して小走りで駆けていった。




 アニス・タトリンと大詠師モースの繋がりは2014年、アニスが士官学校に入ったときからである。
 それまでタトリン家は貧民街で暮らしていた。人が良いアニスの両親は何でも人に与えてしまう。
 アニスが怒っても二人は全然反省をしない。何度も同じ会話を繰り返す。その返事はいつも同じだ。

「でも、彼らは喜んでくれたよ。いつか急用が終えたら返してくれるだろうね」
「アニスちゃん。人を疑ってばかりでは駄目よ。彼らの言葉を信じなくちゃ」

 糠に釘。柳に風。暖簾に腕押しである。彼らの本質は変わらない。
 彼らは根本から善人で、世の中に悪い存在などないと心から信じている。
 彼らの手に掛かれば、悪魔だって戸惑い改心するかもしれない。

 子供に暴力をふるったり、逆に面倒をみなかったりする親に比べたら良い親だろう。
 アニスは両親に愛されていた。誕生日も祝ってくれる。毎年同じ贈り物。可愛くないギザギザとした縫い目の歯が特徴のお人形だが。
 それでも両親の心が込められているのだからアニスは喜んだ。「可愛いお人形をありがとう!」と。

 だが、彼らの美点は過ぎれば害悪である。借金が増え過ぎてどうしようもなくなったとき、モースが声をかけてきた。
 何者にも施しを与える敬虔な信者がいると聞いてやってきたという彼は、アニスの眼から見て胡散臭かった。
 それでも借金で首が回らない。モースの借金を肩代わりするという話に乗るしかなかった。
 呑気な両親を横目にアニスは士官学校に入ることを進められ、頷くしかない。

 貧乏はそれだけで悪だ。世の中何事も金である。

 そして学校を卒業して導師守護役に推薦された。無事選ばれモースに呼び出される。
 そこでスパイをするようにと言われた。拒否できるはずが無い。彼はタトリン家の全てを握っている。
 両親の行いは変わらず借金は増えるばかり。住む場所も仕事もモースのお膝元である。
 逆らったところで逃げる場所もない。アニスはただ命令されるがままにスパイを務めた。
 それを果たせなくなったら如何なるか分からない。だから、アニスは導師守護役を辞めるわけにはいかなかった。

 地獄の沙汰も金次第だ。お金がないっ!

 何故かアニスは導師イオンに気に入られた。そのおかげでスパイは楽にできたが、周囲の苛めは酷くなるばかりだった。
 アリエッタを追い出すようにその後釜に居座ったアニスは、新人ということもあり風当たりが悪かった。
 水をかけられるのは当たり前。人にぶつかることも日常茶飯事。だが、一番堪えたのは物が無くなることだった。
 それでもアニスは一人耐えた。両親に相談することなど出来ない。誰に話すことも出来ずアニスは一人で決めた。
 もしもばれて罪を問われてもこれは私一人の罪だ。お父さんとお母さんは悪くないと。

 金欠。それは心を貧しくする。

 初めアニスは導師イオンを利用するつもりだった。大詠師に対抗できる地位と言えば導師か主席総長である。
 だが、主席総長は大詠師派らしい。あとは導師イオンしか頼れない。
 しかし、実際に会った導師はアニスの予想の斜め上だった。噂ではもっとしっかりしていそうだったのに。
 むしろアニスが励まさなければならなかった。だから、アニスは一人でこの事態をどうにかすることにした。
 導師を頼ることもできない。モースの様子から判断すると導師は傀儡のようだ。
 アニスに状況を変える手は打てなかった。じっと耐えてモースが失脚するのを待つしかない。

 その間、アニスは地道に貯金をして玉の輿を夢見ていた。アニスは導師と両親を天秤にかけて両親を取ったのである。
 導師のことを思うならスパイを辞めれば良い。導師守護役を辞めれば良い。だが、そのいずれもアニスは選ばなかった。
 その罪悪感を晴らすためにアニスは殊更導師を構う。彼がいわゆる友だちを欲しがっていると気づいてからは、それらしく振る舞った。
 このちょっと押しが弱い導師をアニスは好ましく思っている。手のかかる弟のようだ。
 だから、同僚に蔑まれても何をされても気にならない。あの死神からトクナガを改造してもらってからは露骨なことをされなくなった。
 だから大丈夫。まだ元気。ほら笑顔。そう言い聞かせてアニスは導師守護役として導師の傍に侍り、そしてモースに報告をしに行くのである。




 部屋を出ていったアニスの背を見送り、エミリはイオンと向き合った。

 守護役長が空位の今、守護役長代理のエミリはイオンに代わって30名の導師守護役を纏めている。
 本当はすぐに守護役長を選ぶべきなのだが、本物ではないイオンは守護役長を任命する気はなかった。
 それならばイオンが率先的に動くべきなのだが、オリジナルと長い年月を過ごしていた人に顔を合わせるのは気まずい。
 その複雑な導師の気持ちを汲み取ったエミリは詳細を知らずとも導師守護役と導師の間に立ち、そのために多忙を極めている。

「イオン様。アニスを側に置くのを少し控えて貰えませんか? あの子はまだ経験も浅く、見習いに近いのです」

 エミリはイオンにそっと願い出た。

 アニスには確かに人形師としての才能はあるかもしれない。だが導師守護役に必要なのは純粋な戦闘力の強さではないのだ。
 導師はその誕生が預言に詠まれるとすぐに親元から離され、将来教団を背負って立てるように教育される。
 家族のいない導師の母として、姉として、師として導師守護役は共に寄り沿う。
 公私にわたって仕え、その身体だけではなく精神の安寧も守るのが導師守護役の務めである。

 エミリの目から見て、アニスには決定的に足りないものがあった。それがいつかこの何処か危うい導師を傷つけるのではないかと心配してしまう。
 病が癒えてから彼は少し繊細になった気がする。そしてアニスに対する信頼は度を越していた。危ういと思えてしまうほどに。
 アニスが導師を傷つけてからでは遅いのだ。だからこそこうして苦言も口にする。

 イオンは彼女の真摯な瞳から目を逸らし、首を横に振った。

「僕は、アニスがいいんです」

 その頑なな態度にエミリはやはりと思いながら、それでもと提案する。
 一人を贔屓するならば周囲の者が納得できる理由を提示しなければならない。だが、アリエッタの時とは違いアニスでは難しい。
 アニス一人を優遇するこの状況を如何にかしなければ導師を守る壁は中から瓦解してしまうだろう。

「せめて3名、傍に置いてください。御身を蔑にされてはいけません。あなたは尊い導師なのですから」
「分かっています」

 分かっている。エミリの言うとおり僕は導師だ。それが僕の役割だ。
 イオンはエミリの言葉に自分の立場を思い知らされる。そしてただ言われるがままに首を縦に振った。

 目の前のエミリは初めて顔を合わせたとき「快癒なさったようで何よりです。イオン様」と言った。
 笑顔で応じながらもイオンの心は急激に冷めていったのである。

 僕はオリジナルの代わりを果たせているだろうか。
 僕は望まれているイオンで在れているだろうか。

 そういった考えをしているときに必ず声をかけてくれるのがアニスだ。親しげに導師イオンではなくただのイオンと会話をしてくれる。
 アニスはまだ若い。本当はエミリの言うことを取り入れた方がいいのだろう。だが、余り誉められたことではないと分かっていても彼女の名を呼んでしまう。
 アニスはオリジナルを知らない。だから、イオンは構えることなく安心して彼女と話すことができた。

 イオンにとって彼女は特別だった。


 導師守護役の彼女たちが心からイオンのことを大切に思い、守りたいと考えていることは事実である。
 彼女たちは導師であるイオンだけでなくただのイオンも見ていた。だが、彼女たちはその庇護すべき対象が変わったことを知らなかった。
 その変化に気づいても病で心の持ちようが変わったのだろうと考えた。それ故にすれ違う。
 彼女たちは以前のイオンも今のイオンも区別せず等しく受け入れていた。彼女たちは決して導師であるイオンだけを求めていたのではない。
 だがしかし、作られて2年のイオンにはその微妙な差は分からなかったのである。




 そしてイオンは年が明けて半月が少し太り始めた頃、真夜中に赤い眼をした軍人と出会う。

 彼が余りにも真っ直ぐに自分を見るのでイオンは彼の話を聞いた。
 彼が熱心に自分を必要だと語るのでイオンは彼の手を取った。

 たった一人、頼れる守護役を連れて導師は和平のためにダアトを出奔したのである。
 





[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第一節 目覚め
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/03 22:48

 大聖堂の鐘の音が鳴り響き、清涼とした空気を震わせる。一日の始まりはそうして始まる。
 朝である。小鳥のさえずりが窓の外から聞こえ、柔らかな光が部屋に差し込んでいた。
 ティアは年が明けてから夢見が悪くよく眠れなかったが、今日はすっきりと目が覚めた。
 窓辺に立ち、ひんやりと伝わってくる冷たい空気に一瞬怯みながらも一気に開け放つ。
 冬の匂いがする。それに混じってパンの香りも漂ってきた。麓の街からは朝売りの声もしている。
 良い日になりそうである。鼻歌でも歌いたい気分で、ティアは足取り軽く研究室に向かった。

 最近、ティアの睡眠時間は激減している。健康とは言い難い生活をしている自覚はある。身体も何となくだるい。
 ディストに知られたときのことが怖く、青い眼のウサギの人形にも触っていない。きっと警告の示す赤にその眼の色は変わるだろう。
 アリエッタを心配させ怒らせる事を分かっていても、今しなければならないことだった。
 ティアは半年分の仕事を終わらせるために夜遅くまで書類を整理していた。たいした仕事ではないが室長と言う立場がある。
 仮にも室長と言う立場に居る以上、最低限のことはしなければならない。
 決算の時期まで此処に戻ってこられるかもわからないのだ。せめて書類仕事ぐらいは片付けておきたい。

 2018年という年は、ダアトで大人しくしていられる年ではなかった。
 そして、ティアの思惑が成功するにしろ失敗するにしろ、室長ではなくなることは目に見えていた。
 ユリアの子孫ということが公になったら、師団付技手など辞めさせられてしまうだろう。犯罪者として追われることになったら言わずもがなである。
 だからティアは年末の大掃除の続きと言いながら後任の者が困らないようにと整理していた。

 残された時間は余りにも少なかった。


 ティアはいろいろと考えた結果、ルークと擬似超振動を起こすことにした。

 ダアトの一研究員であるティアとキムラスカで監禁されているルークが会う方法が他にあるだろうか。
 魔界でも彼との接触方法について何度も論じられているが、これと言った案は出なかった。
 キムラスカではモースが信用されており、彼の目を掻い潜って会うことはほぼ不可能と言って良い。
 何とかお目通り願うことが可能としても、「世界を救うために協力して下さい」とお願いするわけにはいかない。

 あの旅はルークたちがお互いを信頼とまでいかなくても信用するために必要である。
 相手を信じることに時間が必ず必要という訳ではないが、それでも会ったことも話したこともない人間を信じられる人間は少ない。
 況してや、ティアはルークに「超振動という力を使って外殻大地を降下させて欲しい」と荒唐無稽なお願いするのだ。
 できるのならば導師であるイオンや皇帝の親友であるジェイド、王女であるナタリアを通じて各国の上層部との会談の場も作りたい。
 詠師であるテオドーロの地位では少し弱い。公になっていないユリアの子孫の立場も余り意味がない。

 それに、彼らがそれぞれの境遇を知り、複雑に絡み合った因縁を紐解いていくためにもエンゲーブで彼らは出会うべきだ。
 ジェイドとイオン、ルークの出会いは公人としても私人としても重要なものである。
 皇帝の名代と現導師、第3王位継承者。レプリカの発案者とレプリカという自覚のあるイオン、自覚のないルーク。
 エンゲーブにそれぞれの上層部に近い人間が偶然集まる。しかも全員が真実を知らないままの状態で。

 彼らにはあの出会いと旅が必要だとティアは考えた。もちろんティアは彼らの抱えている秘密をほとんど知っている。
 だが、現時点で完全なる第3者である彼女が知っているということが何の足しになるだろうか。

 例えば、レプリカ発案者であるジェイドに「レプリカの延命に協力して欲しい」と申し出てもすぐに断られるだろう。
 「あの忌まわしい技術を扱ったのですか!?」と罵られるか、「いやです。見たくもありません」と素気無くされるか。
 どちらにしても結果は見えている。ジェイドがレプリカと向き合うようになったのは旅の中でルークと身近で触れ合ったからだ。
 その件について口を出していいのはルークの他にはレプリカであるイオンとシンク、それにディストである。

 ジェイドの改心にはルークが不可欠である。他のメンバーに関しても同じことが言える。
 アッシュもガイもルークに拘りを持っているし、ナタリアとアニスの事情にもルークの微妙な立場なら口を挟むことができる。
 彼らはルークと共に旅をすることで一回り成長して、その結果として世界を救った。ルークも見違えるほど成長した。


 だが、それも親しくなっていればの話である。

 ティアが公爵家に襲撃せず、エンゲーブを訪れなかったらそうはいかない。
 戦力が足りずにイオンは六神将の下で各地のダアト式封呪を解くことを強いられることもあるだろう。
 そうなれば、ジェイドは一人になる。旅券も親書もない和平の使者など国境で門前払いだ。
 当然ルークは何も知らないまま開戦の合図としてアクゼリュスに送り込まれる。
 ティアがその場におらず譜歌がなければ、崩落に巻き込まれ預言の通りだ。

 ジェイドがコーラル城の巨大な譜業を目にしなければ、レプリカかもしれないという疑いは確信に至らない。
 イオンもいない状況でそこまで疑いの芽が育つかどうかも不明だ。
 ガイの途切れた記憶に関しても言及されず、燻り続けている復讐心はそのままになる。
 ティアがいなければルークとジェイドとガイ、それにナタリアはアクゼリュスで死亡となる。
 アッシュがヴァンの計画を掴む頃には、全て手遅れになっているだろう。
 アニスの両親を助けることもできず、彼女はモースに利用され続けることになりイオンは死んでしまうかもしれない。

 極論だが、そんな未来もあるかもしれない。ティアたちが介入しようとしても阻まれる可能性は十分にある。
 開戦を望む人々はあの手この手で和平を妨害しようとするだろう。モースやヴァンが表向きそれを推奨しても、裏では何かを企んでいる。
 それを先に察知するには、ユリアシティの仲間がいても多大な労力を使うだろう。そして、望む結末が得られるとも限らない。

 だから、ティアは敢えてルークの屋敷に乗り込むことを決めた。
 シナリオに頼るのも癪だがアクゼリュスのアルバート式封呪を解くまでは流れに沿った方が都合良い。
 そう思い年が明けてからティアは導師の動向を調べ、タイミングを窺っていた。
 ティアは一連の時系列は覚えているが、それが何時起こったかまでは知らなかった。
 ルークたちとイオンたちがエンゲーブに訪れる時期は同じでなければならない。

 ダアトで導師が出奔して、バチカルの兄に行方不明との報が入った日にルークはティアと旅立つ。
 バチカルに兄がいたことから新年の挨拶回りをしている期間に起こることだとティアは推測した。
 3日から10日までダアト、11日から17日までマルクト、18日から24日までバチカルに滞在する。
 そしてその後2日ほど主席総長としてではなく只の指南役として兄はルークの屋敷を毎年訪れている。
 17日から26日の間に導師が出奔するとそこまで予測した。後はその動きに合わせてダアトを発てば良い。




 研究室に顔を出すと普段通り部下たちが思い思いの研究をしている。いつもと変わりない情景である。
 ティアは前日と同じように挨拶をする。

「おはよう」
「あ、おはようございます。室長、良く眠れましたか?」

 忙しく動かしていた手を止めて、意味ありげに訊ねてきた彼の様子にティアは軽い違和感を覚えた。
 これまで健康を気遣われた記憶は無い。アリエッタたちの心配性は終に彼らにまで感染してしまったのだろうか。
 研究以外のことにたいして気を配らない技手まで巻き込んだとなると今でさえ鬱陶しい状況の未来が思いやられる。
 嫌な予感を否定して欲しいと思いながらティアは探りを入れる。

「ええ、良く眠れたわ。……それがどうかしたの?」
「いや、俺たち心配していたんですよ。室長が起きなかったらどうしようかって」

 その言葉の意味がティアは分からなかった。ティアが寝ていないことを心配するならまだ理解できただろう。
 だが、彼は自分が起きなかったら困ると言った。彼らは自分の何を心配しているのだろうか。
 ティアの怪訝そうな視線に部下その1はうろたえながら言い訳を口にする。

「いや、そのっ……最近室長がお忙しそうだなあと思いまして……」

 しどろもどろな説明になっていない説明も、尻すぼみになる。
 その様子にティアは目を細め、いったい何なのか聞き出そうとした。
 しかし、その前に横からその2は無邪気に口を挟む。

「つい、検証中の眠り薬を室長に使っちゃったんだよねー。おかげで良いデータが取れましたっ!」

 その1をからかうついでにといった感じで、その2はティアを実験体にしたことを暴露した。
 彼は1mgも罪悪感を持っていないようであり、いっそ清々しいほどである。
 その余りにも悪気ない態度にティアは何と言えばいいのか言葉に詰まってしまう。
 その間にもその3は何か身体に違和感はないかとぼそぼそと質問していた。
 現在進行形で頭痛を患いそうと答える訳にもいかず、素直に返答していると聞き捨てならない言葉がティアの耳に入る。

「……安眠香。効き目に個体差有り、要検証……」
「室長は3日も眠っていたんですよ~。お疲れだったんですかぁ?」

 ハッとしてカレンダーを見る。ティアの感覚では今日は19日だったのだが、そうではないようだ。
 ティアの目線に気付いたその1は「ああ、今日は21日です」と気を利かせる。その答えにティアは嫌な予感を覚えた。

「この3日間に何かあった?」

 ティアは声が剣呑な響きになったことに気づいていたがそれどころではなかった。日付を聞いて様子が変わったティアに驚きながらも彼は記憶をたどる。
 この三日、何かあっただろうか。ティアの曖昧な質問にその1は返答を探す。だが、彼が見つける前にもう一人が愚痴と共に答える。

「昨日の朝からなんか騒がしいんですよねえ~。導師がどうのって煩いのなんの」

 その言葉にティアはさーっと自分の顔が青くなるのが分かった。

 予定が狂ってしまった。


 ティアは導師が行方不明であることが公になる前にバチカルに向かうつもりだった。
 導師が失踪してもすぐに他国に協力を願うはずない。まずはなるべく内部で収拾をつけようとする。
 その間に休暇を取りバチカルに向かうつもりだった。グリフィンで国境を越えバチカル近郊に降りたち、そのまま公爵家に侵入。
 兄を襲撃などせず、一人っきりのルークに接触してみる。超振動が起きればそのまま、起きなかったら誘拐するつもりだった。
 もちろん素性は隠して、声もかけずにである。もしも失敗してもその場で捕まらなければいい。
 誰もグリフィンで移動しているとは思いつかないだろう。

 都合良く公爵家から出ることが出来たら、素知らぬ顔をしてルークと初対面の挨拶をする。
 タタル渓谷に偶然薬草を採取に来ていたところ、倒れていた彼を助けた善人ということだ。
 賊の存在は超振動で分解されて再構成されなかったのでしょうの一言で有耶無耶になれば最高である。
 そう上手くはいかないだろうが、公的にルークと会う手段など有していない。これ以上の手は考えつかなかった。


 だが、初めから躓いてしまったようである。予定は未定と言うが困ったことになった。
 ティアは大きな溜息をつき、頭を抱える。その様子に「何か副作用でも?」と部下は焦ったのだが、考え込んでいるティアには届かなかった。

 俗世から隔離された世界で生きている彼らにも分かるほどの騒がしさなら、とてもじゃないが休暇など貰えなさそうだ。
 だから早めに抜け出そうと、そのときにアリエッタに母親のところに行ってみるように忠告しようと考えていたのに。
 全て台無しである。何てことをしてくれたの、と怒鳴りつけたくなるのをグッと我慢する。

 一応、休暇を申し出てみよう。導師捜索に技手が力になれるはずがない。案外、素直に頷いてくれるかもしれないと楽観的に考えてみる。
 来たばかりの研究室を後にして、ティアは足早にシンクの執務室に向かった。





[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第二節 余波
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/03 22:47



 シンクはいつになく不機嫌だった。
 突然導師が行方不明になったことでダアトは上へ下への大騒ぎである。その煽りを受けて忙しくなったのは他でもないシンクである。


 導師がいないことが発覚したのは、まだ朝日が昇る前のことだった。
 巡回中の騎士が導師の私室の隣、導師守護役の控室が空であることに気付いたのである。
 導師守護役が導師の側を離れることなどない。そのことに疑問を持った騎士が導師の部屋を確認するともぬけの殻だったのだ。
 すぐにその報せは上司に報告されたが、そのときはまだそこまで緊迫していなかった。
 朝方、目を覚ましてしまった導師が導師守護役を連れて散歩に出かけているのかもしれない。
 我儘を口にされない方なのだから、そんな日もあって良いだろう。庭を一回りして、お見かけしたら傍にいるように。それぐらいの認識だった。
 だが、半刻経っても、一刻経っても導師の姿は現れなかった。そのときになって、夜半の騒ぎが思い出された。

 その晩、導師が大詠師派に囚われていると麓で騒ぎになり、神託の盾騎士団の者も駆り出されたのである。
 そのせいで何となくダアトの街は浮足立ち、警戒に当たっていた夜勤の者もそちらに気を取られていた。
 思い出すように発生する改革派によるテロ行為のせいで、ちょっとした噂でも広まり信じられてしまうのだろうかと思いながら警護にあたっていた。
 しかし、その騒ぎが仕組まれたものだとしたら? その隙に導師が何者かの手によってかどわかされたのだとしたら?

 その思考に至り漸く本格的に人を動かし、シンクの元にもその報せが入った。だが、すでに事態は手の着けようがなかった。
 導師の行方は依然、不明のままである。事はダアト内部では収まらない。そう判断して公に捜索することにした。
 しかし、初動の遅れは取り戻せず、誘拐犯の痕跡はあっても導師の姿はない。


 そうして一日が経った。シンクは誰にともなく愚痴を吐き捨てる。

「どいつもこいつも面倒ばかり引き起こしやがって。だいたいさ、上の人間がこうも度々ダアトを離れていると示しがつかないんだよ。
 導師が出奔して、ついでに大詠師もおらず、しまいには主席総長までダアトにいないだなんて――」

 ふざけている、とシンクは憤る。そしてその手元の一枚の紙を睨み、彼は盛大に溜息をついた。
 その様子は怒っているというよりは呆れていると言った方が良い。怒りを通り越して笑うしかないといった状況である。
 目の前に元凶がいたら、間違いなくシンクは罵るだろう。口よりも先に手が出るかもしれない。

 それくらいシンクの気分は最低で、機嫌は下降一直線だった。そんなシンクに副官のトリートは平然と声をかける。

「師団長。ティアさんが訪ねてこられましたよ」

 シンクはその言葉に反応してちらりとティアを視界に入れたが、その言葉の続きを止めなかった。

「まったく、どいつもこいつもどうしてこう頭のネジが足りないんだ?
 今、平和だなんてほざくのは現状を理解できていないか馬鹿か、現実を知らない間抜けしかいないというのに」

 トリートは幾ら親密にしているとはいえ一介の技手に機密に近い情報を漏らすことに眉をしかめた。
 そんな副官にも構わずシンクは入口に留まっていたティアを招き寄せ、彼女の意見を聞こうとする。

「導師誘拐。あんたは何処の仕業だと思う?」

 シンクはティアがどんな答えを出すのか興味があった。2018年になってすぐ起こった、この騒動である。
 地の底で預言を覆そうとしているティアがこの事態をどう読むか。これも秘預言に関連しているのか。
 只でさえ押し寄せる報告と馬鹿らしい理由に苛々させられているのである。これくらいの憂さ晴らしは許されるだろう。
 最低限の情報を、導師を狙うだなんて信じられないという響きを含ませてシンクはティアに伝える。

「改革派を唆した者の尻尾は掴めていない。おそらくダアトに導師はもういないだろう。
 マルクトの軍艦を沖合でみたって話もある。導師守護役が一人見当たらないから、すでに殺されているかもしれないね」

 それからシンクは背もたれにその体を預けた。そうすると疲れている自分に気がつく。
 ドリップしたコーヒーが飲みたいなと思いながら天井を見上げた。そして、シンクはじっとティアの返事を待った。

 最近、キムラスカとマルクトの二国間の緊張は高まっている。小競り合いが続き全面戦争は秒読み開始といったところだ。
 国境付近は何かと理由を付けて陸艦がうろついているらしい。どちらも開戦の理由を模索している段階である。
 そんな最中に宗教自治区の長である導師に手を出す馬鹿は普通いない。
 よく言われているように、戦争を始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい。過去にその実績を持つ導師がいなくなれば、行き着く先は泥沼の総力戦である。
 それに導師を害した事実が発覚すれば、中立であるダアトを敵に回すことになる。そしてその信者も。
 それは自国の国民にもそっぽ向かれてしまうことを意味する。この両国の力が均衡している情勢を考えるとあり得ないことなのだが、現に導師はいない。


 ティアはシナリオを知っているからこそジェイドの信条も行動も理解することができた。
 ジェイドは心の底から和平を望み、その手っ取り早い手段として導師という存在を選んだのだろう。
 その選択は間違っていない。前例がある以上、2度目も期待される。口約束ではない、きちんとした和平を望むなら導師の存在は欠かせない。
 けれどもその過程が不味かった。こういったことは、研究のように結果だけを出せば良いというものではないのだ。
 犬猿の仲である両国を取り持つのだから、その過程のちょっとした疵も避けなければならない。薄氷の上を歩くように、慎重に進めなければならなかったのである。

 仰々しい無駄と思えるほどの手順を踏むからこそ、その導師の御幸の価値が上がるのだ。非公式ならば、導師の存在はさして意味をなさない。
 誘拐紛いの方法で得られた導師の仲介にいったいどれだけの重みがあるだろうか。和平に導師が必要なら、きちんと正式に導師に依頼しなければならなかった。
 手間を惜しんで導師と言う手形を手に入れて満足したのだろうが、それは間違っている。
 導師本人が和平に合意していたとしても、ダアトの公式見解は導師誘拐だ。何事も形式が大事である。マルクトからの和平に関する要請は来ていない。

 確かにダアトは導師の下、一つにまとまっている。しかしそれは導師の意思が全てにおいて優先されるというわけではない。
 何のために大詠師を含む7名の詠師がいるのか。愚鈍な導師を政治に参与させないためである。
 導師は預言に従って選ばれる。その者がどれだけ愚かで、冴えない人間だったとしても排除する訳にはいかない。
 もちろん歴史上には強権を持ち一切合財に指示を出した導師もいた。だがそれを許されたのは彼がそれだけの実績を立てていたからだ。

 今の導師イオンは権威を有しているだけで、その地位に見合った権力は持ち合わせていない。
 それでも上手く立ち回れば相応の成果が引き出せるだろう。お飾りに過ぎなくても導師が大詠師よりも下に位置することはないのだから。
 だが、ティアはイオンとジェイドがそんな考えを持っているとは全く思えなかった。
 ならば、そこを上手くフォローするのが詠師であるテオドーロの役割だろう。今後のためにもダアトの立場を強化しなければならない。
 和平の調印を推し進め、その束の間の平和を数十年、欲を言えば百年は維持したい。

 導師イオンの功績は在ればあるほど良い。二国の失態も歓迎する。
 皇帝の親友が仕出かした導師誘拐という事実は十分利用できるだろう。


 ティアはずっと昔の知識と昨今の情勢を頭の中で照らし合わせつつ、シンクの言葉から推測できることを口にする。

「改革派はありえないでしょう。導師がダアトから脱出している段階でおかしいもの。内部ではなく外部でそこまでの事ができる存在は限られているわ。
 キムラスカには大詠師と主席総長が頻繁に出入りしているし、敢えて導師に用があるのかしらね?」

 ダアトの導師を必要とするならばインゴベルト王に近づき過ぎているモースの件についてだろう。
 だが、預言に繁栄が詠まれていると知っているものならば下手にダアトと喧嘩しようとなど考えない。
 知らないはずのことを漏らさないように言葉を選びながら自分の見解を述べる。

「何かキムラスカから要請や要望という名の苦情とかは?」
「ないね。呑気な国さ」

 随分とモースはキムラスカの政治に口を出しているらしい。
 それなのにキムラスカがそれを許しているのは彼が大詠師だからだろうか。それとも繁栄に目が眩んでいるからなのだろうか。
 どちらでも救いようがないなとシンクは大国の内情に呆れる。何処の国も似たり寄ったりなのだろう。

「なら、消去法で残るのはマルクトね。その軍艦に浚われた導師が居たのかしら?
 でも新しい皇帝になって方針を転換したマルクトがどうしてそんな真似を……」

 ティアは真意が分からないわと頭をふる。そこまで彼女の考えを聞き、シンクは満足したような笑顔を見せた。

「ほぼ、正解さ」

 そう言って、手元の紙をティアに渡した。導師守護役であるアニスからの連絡だった。
 導師は和平のためにとマルクトの大佐ジェイド・カーティスに唆されて、タルタロスに乗船しているという内容が記されている。
 シンクはティアを試していたようである。ティアは不愉快だと思いつつ、とりあえず一言突っ込んでおく。

「和平のため?」

 その連絡を貰い、シンクはどっと疲労を感じていたのである。
 導師が誘拐されたと思いこっちは寝る間も惜しんで捜索していたのに、導師本人はのこのこと侵入者についていったというのだ。
 それも和平のためという嘘か本当か容易には信じ難い理由に頷いて、である。呆れるしかなかった。


 マルクトの沖合で見たという軍艦の話を聞いてマルクトにすぐ連絡を取っていた。

「導師の行方について何か心当たりはないか。その軍艦にも導師捜索に協力してもらいたい」
「平和の象徴である導師を誘拐する不届き者がいるとは驚きである。導師の捜索にはこちらも協力しよう。
 しかし、その海域に居た軍艦はいないはずである。見間違いではないだろうか」

 もちろんもっと仰々しい遣り取りだったが要約するとこんな感じである。真実は煙に巻かれてしまった。
 最悪、マルクトという国家ぐるみの陰謀ということも考えられるのだ。少なくとも軍艦を動かせる組織、乃至は人物が黒幕である。
 導師があちらの手にある以上、現段階でマルクトを敵にすることはできない。
 トリトハイム詠師はキムラスカとマルクトに導師捜索の協力を要請した。表向きダアトは未だ導師を発見できていない。
 そう取り繕わなければどうなるか。導師が死んだ場合、彼がレプリカであることも発覚してしまう。
 だというのに肝心の導師が相手に協力的であるという時点で終わっている。その先を考えることをシンクの脳は拒否していた。

「陸艦に導師が乗っていたらキムラスカも攻撃できないだろうさ。それで首都に先制攻撃でも加えるつもりなんじゃないか」

 確かに死霊使いと悪名高いジェイドならやりそうだが、ピオニーは和平を望んでいるはずである。
 それは穿ち過ぎではないだろうか。ティアは苦笑いをしながら、シンクの考えを否定する。

「それはいくらなんでも無理があるんじゃないかしら」
「じゃあ、キムラスカ国王の御前まで行くのが目的なんじゃないの? 死霊使いジェイドなら、コンタミネーションで武器はどこにでも持ち込めるさ」

 シンクは投げやりに答えた。もはやどんな事態が起こってもおかしくないと思う。
 自分の体のことを理解するためにシンクは折を見てディストの元に通っている。その所為でディストの『金の貴公子』に関しても不本意ながら詳しくなってしまった。
 なんにせよシンクはこの和平と言う言葉を端から信用する気はなかった。両国の金の流れや軍の動きは来る戦争を想定している。
 そんな情勢で和平など紙屑同然だ。秘預言にも詠まれているのだ。案外、これを機に開戦ということも考えられる。
 そして、これでもあの七番目は本気で和平を信じているのかとシンクは苛立たしくなった。

 シンクにとってイオンはもう一人の自分である。自分にダアト式譜術の素養があれば彼のようになっていた可能性がある。
 おどおどとオリジナルの顔色を窺いながら導師として振る舞っている七番目。主体性もなく、中途半端にオリジナルを模倣している七番目。
 断じて同じだとは思いたくなかった。シンクの知る限りオリジナルは食えない奴だった。あんなに自信がない人間ではなかった。
 代替品ならば、それらしくもっと傲慢になれば良いのに。それができないならば下手な真似などしなければ良いのに。
 それは弟を心配しているというよりは、同族嫌悪といった方が良いだろう。もう空っぽではないシンクには、レプリカだからとうじうじしている七番目は目障りだった。

 そして、こうして七番目は利用されている。シンクはそのことに眉を顰めながらも参報総長としての仕事をする。
 ダアトは導師イオンをタルタロスから奪還しなければならない。あちらが無断で導師を連れ出しているのは紛れもない事実だ。
 こうして長々と説明したのだからティアには役に立ってもらわなければならない。

「あんた確かアリエッタのオトモダチを融通してもらっていたよね?」

 唐突にシンクはティアに確認してきた。それが今回の話と何か関係するのだろうかと首を傾げながら答える。

「グリフィンと仲が良いけど……」

 シンクはグリフィンと聞いてさらりと爆弾を落とす。

「じゃあ、ティアは伝令になって」
「えっ?」

 思いがけない言葉についティアは訊き返した。ティアは技手である。伝令などこれまでしたことがない。
 シンクは丁寧に現状を説明する。アリエッタの第三師団はいま全員ダアトを出払っている。
 各地の教会へ書簡を運びながら、同時に陸艦の捜索をずっとしている。20名の団員の疲労はピークに達しているだろう。
 かといってこの導師の行方に関する情報を伝えないという訳にはいかなかった。そこに飛び込んできたティアという人間を逃すつもりはない。

「鳩に任せられるような情報じゃない。かといって第三師団の者はもう使えない。でも此処に飛べる人間がいる」

 ティアは断固拒否したかった。バチカルに行かなければならないのだ。ここには休暇をもぎ取りに来たのである。
 「本当に他の者はいないの?」と訊ねてもが、即座に否定されてしまう。

「魔物と仲が良い。そんな酔狂な人間がそこらにいるとでも?」

 そう言われてしまえば、ティアは口を噤むしかない。第三師団の団員は少ないのである。各方面の連絡手段として今は文字通り飛び回っているのだろう。
 導師の失踪と言う一大事が起きているからこそ、技手でしかない自分にまで声がかかっているのだ。そのことを理解して、どうしようと逡巡しているうちにシンクは決定を下す。

「ティアには伝令としてバチカルまで行ってもらう」

 その行き先を耳にしてティアは、「バチカルへ?」と確認した。
 シンクは皮肉気に笑い、「主席総長が公爵家で呑気にお茶しているからさ」とその理由を教える。喋りながらヴァンへの報告書を書きあげた。
 ペンを置き、他に連絡するものはと探そうとするとトリートが横から既に纏めてあったものを差し出す。
 礼を言ってそれらを纏めてくるくると巻き専用の箱に収め、厳重に封をした。それをティアに渡して、シンクは伝令を嫌がっていたティアに軽口を叩く。

「恨むんなら自分の兄を恨むんだね」
「ええ、あとでお礼をしなくちゃいけないわ」

 ティアは公爵家に出入りしている兄に心から感謝した。やはり不法侵入するというのは躊躇いがあった。
 これなら公的に公爵家に入ることができる。そんな浮かれているティアにシンクが釘をさす。
 兄に会えると喜んでいるのだろう。こんなところでブラコンを発揮されても困る。

「あんたは伝令だよ。せいぜい空の上で寒い思いをするがいいさ」
「心配してくれてありがとう、シンク。行ってくるわ」

 予定外のことで、最大の懸念が解決したのでティアはシンクの冷たい言葉にも満面の笑顔で応じる。
 そしてさっと身を翻し、退出した。バチカルに行く準備をしなければならない。パタンと閉じられた執務室の扉の音が廊下にこだました。



「……ッ。心配なんてしてない」

 その声はティアの背に届かなかった。代わりにトリートがにやにやと笑いながら「師団長。仮面がずれていますよ?」と指摘する。
 ハッと手を仮面に移し、それが嘘であることにシンクはすぐに気付いた。

「トリート」

 シンクが冷めきった声音で名を呼んでもトリートは笑顔のままである。

「そんな凍えてしまいそうな声を出さないで下さい。ちょっとしたジョークですよ?」

 そして何気なく付け加えた一言で話を変えてシンクの矛先を背ける。

「しかし、ティアさんはグランツ謡将の妹でしたか。道理で過去の情報が一切ないわけですね」

 人の悪い笑顔のまま、普段通りの穏やかな口調でついシンクが漏らしてしまった事実を確認した。
 トリートはティアのことが話題になってから彼女の情報を集めていた。だが幾ら探っても過去の情報は見つからなかった。
 唯一の痕跡7年前のルーティシア・アウルの名で出した論文のみ。その先はアイン・S・アウルと同じではっきりとしない。
 暗闇の中を探っているようだった。人間生きていれば何かしらの跡が残るはずだ。それがたとえ戸籍のない子供だとしても。
 しかし彼女はあれだけの学があるのにぷっつりと途絶えてしまう。まるで突然ティアという人物が現れたようだった。

 こんなことは以前にも何度かあった。いきなり現れたアルバート剣術の使い手。
 神に見染められたようにトリートに追いつき、そして瞬く間に上へ昇りつめた、ユリアの血をひくヴァン・グランツ謡将。
 それに、その謡将がどこからか連れてきた少年。トリートは目の前の謎の師団長を意味有り気に見つめる。
 いったい彼らにどんな過去があるのか。そして、そんな彼らがごろごろいるダアトという場所はどんなところなのか。
 トリートの興味は尽きなかった。当分退屈はしなさそうである。

「このことは他言無用だよ」

 厳しい口調で告げるシンクにトリートは「分かっていますよ」とだけ返す。
 トリートの興味は何もティアにだけある訳ではない。それに誰かに漏らすなどつまらない。
 情報収集は趣味と実益を兼ねているが、趣味の方に天秤が傾いている。それで身を崩すつもりはなかった。
 それからトリートは目の前に積まれた書類を一枚手にとって、仕事に取り掛かる。この話は此処で終わりだ。


 シンクはつい口が滑ってしまったことを後悔した。そして、頭の中を切り替える。とりあえず今は囚われの導師を助けなければならない。
 トリートに命じて地図を出させる。ダアト周辺の海域と国境の位置を確認し、相手の出方を読もうとシンクは集中し始めた。






[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第三節 彼方へと続く空
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/04 22:42




 ルーク・フォン・ファブレの一日は、いつも変わらない。
 好きな時間に起き、細々と食事を取り、適当にぶらついて、稀に使用人兼親友のガイと話す。
 他の使用人はどこかよそよそしい。身分が違うということは理解しているが、それでも寂しいものは寂しい。
 ルークは普通の会話に飢えていた。ガイと庭師のペールは親しげに話してくれる。
 それなのに執事のラムダスは二人に話しかけるなとうるさい。半ば意地を張るようにルークは二人から離れなかった。

 外に出して欲しい。その希望は叶わないことぐらい身に染みている。
 それでも、願わずにはいられなかった。

 広い屋敷は外に出ることができないルークが快適に過ごせるように整えられている。
 ルークが好きな料理にお菓子。いつでも食べられるように用意されている。
 ルークが好きな昼寝場所。晴れの日、中庭の隅の木陰にはテーブルとイスが出される。
 ルークが好きな剣術の稽古。お抱えの騎士団の団長がお相手である。

 せめて心地よく過ごして欲しいという両親の心遣いだった。
 それが分かるからこそルークは何も言えない。ただ鬱屈した気持ちだけが積もっていく。

 気が向けば庭で剣を振るって、日影で本を読む。お腹が空けば何か摘み、母上の具合が良ければ一緒にお茶をする。
 ルークの義務は何もない。身体の弱い母上も、婚約者のナタリアも公務に出ているのに何故と思う。
 そして、ルークは記憶喪失であるという自分の欠点を実感するのである。公爵子息らしく振る舞えない自分は不合格なのだろう。
 何も期待されていないのだ。ルークは悔しくて本を読んだ。本の中には無限の世界が広がっていると言われたから。
 それは家庭教師が匙を投げたあとの話である。本は屋敷の中しか知らない自分が外を感じられる唯一の手段だった。

 ルークに対して国が望んでいることは、聖なる焔の光として繁栄を約束してくれること。
 つまり、17歳のときに鉱山の街でルークが死ぬことである。

 そんなことは露知らず、ルークは20歳になるときを指を折りながら待っていた。
 王命が解かれたら、いろんなところを見て回りたい。ルークは紀行文や冒険譚を好んで読んだ。
 森の奥には綺麗な翅を持つ蝶がいるらしい。雪の下に埋まっているというトマトの味はどんなものだろう。
 水の都と呼ばれるグランコクマ。山肌に沿って建つ聖都、ダアト。砂漠にある交易の街、ケセドニア。白銀の世界が広がるケテルブルク。
 どんなところか想像しようとしても、絵画のような街並みしか思い浮かばない。実際はどうなのだろう。

 一週間に一度くらいの割合で家族三人そろって夕食を食べる。数少ない家族団欒の日がルークは楽しみだった。
 メイドのお喋りでは、公爵家は貴族にしては家族の仲が良いらしい。父上も母上も大切な家族だ。

 厳格だが優しいところのある父上。家を離れているとき、残している家族を気にかけていることを知っている。
 城で自分が良く言われていないことぐらい分かる。それでも、父上は時間を作って頭を撫でてくれる。
 病弱だが一本芯が通っている母上。ベッドで臥しているとき、身体が弱くなければと後悔していることを知っている。
 弟妹がいなくても自分は平気だ。記憶喪失になっても、母上は変わらず抱きしめてくれる。

 2年前ぐらいから、クリムゾンはルークにちょっとした公爵家の案件について意見を聞くようになった。
 初めは驚いたが、それは事の他ルークにとって嬉しいことだった。それはルークが公爵子息として期待されていることを意味している。
 記憶を失う前の自分という幻影は常にルークの周りに纏わりついていた。それを振り払うことができた気がした。

 それに、どんな形であれ屋敷の外と繋がっていられることは嬉しい。
 ルークを訪ねる客と言えば婚約者であるナタリアか、剣の師匠であるヴァンぐらいである。

 ナタリアは王族である自分を誇りに思っている。常に王族らしくと心掛けている彼女のような真似は、ルークはできない。
 彼女の話は、外に出られないルークにはとても新鮮で楽しい。別れ際の一言さえなければ、もっと訪れを期待するだろう。
 『それでは、次に会うときまでに約束を思い出して下さいませ。ルーク』
 じっとルークの瞳をナタリアは真摯に見つめる。彼女はどうにか以前の自分を今の自分から見出そうとしていた。
 居た堪れなくなり、ルークはつい目を逸らしてしまう。いつも後になってから冷や水を浴びせられた気分になる。
 約束を思い出せない、記憶喪失のままのルークはやっぱり“ルーク”ではないのだろうか。

 ヴァン師匠はそんなことを言わない。以前の自分と比べるようなことを絶対しない。
 家庭教師に記憶を失う前のルーク様ならと言われ続け、落ち込んでいた自分を彼は励ましてくれた。
 『お前がルークだ。それ以外の何者でもないだろう。私がお前をルークだと保証する』
 ルークが一番欲しかった言葉をくれた。それからヴァンはルークの特別な人になった。師匠と呼ぶのもそれからである。
 身体を動かす剣術も好きだが、ヴァン師匠はもっと好きだ。ダアトで忙しいらしいが時間を作って来てくれる。
 毎回その訪問が早く来ないだろうか、その期間が伸びないだろうかとルークは願っていた。


 年が明けて屋敷の中は少し浮足立っており、それを肌で感じていたルークは何となく不機嫌だった。
 屋敷の中で過ごしているルークには時の流れをいまいち実感できない。ざわついた城下の喧騒も隔離された屋敷の中までは届かない。
 少しだけ豪勢な料理と、メイドが口にする新年の挨拶ぐらいしか変化はなかった。浮かれるガイを尻目に、そんなものなんだなと理解する。
 それでもその新年というおかげでヴァン師匠がバチカルを訪れているのなら、良いことなのだろうと漠然とルークは思った。

 しかし、ルークの幸せな時間は長く続かなかった。朝、突然訪れたヴァンは予定より早くダアトに帰る旨を報告しに来た。
 ルークが我儘を言って引き留めても両親に宥められ、師匠にも仕方ないなと苦笑される。
 不貞腐れながら、心の奥底ではそんなもんだよなと思う。ヴァン師匠はこんなところで子供の相手をしているような人じゃないんだ。
 それでも嫌なものは嫌だ。仕方なく大声で文句を口にして、どうしようもない憂さを晴らす。

「なんでヴァン師匠が帰らなくちゃいけないんだよっ!」

 導師の行方不明のせいで師匠の予定が変わってしまった。正直、和平の功労者と言われてもピンとこない。
 屋敷の中しか知らないルークには戦争の悲惨さと言われても具体的な何かが思い浮かばなかった。
 それよりも重要なのはヴァン師匠がバチカルを離れるということである。一日稽古を見てくれると言っても、どうせ夕方には帰ってしまう。
 ルークが中庭から空を見上げると、西から東へと流れる雲の下を一匹の鳥が飛んでいた。
 空を飛べたらダアトにも行けるのになとルークは思わずにいられなかった。




 ティアは海の上を空高くバチカルへとグリフィンで飛んでいた。偏西風に乗って翼は一路、光の王都を目指す。
 グリフィンは力強く羽ばたき随分と前にダアトは小さな点となった。上空は風が強く寒い。
 マントの袷を直し、温もりを逃さないようにする。身を屈めて抵抗を少なくして少しでも早く着くようにした。
 かじかむ手のひらを合わせながら、ティアは後にしたダアトのことを思う。
 今度、あそこを訪れるのはいつだろうか。そのとき自分はどんな立場なのだろうか。


 ティアはシンクから命令を受けた後、すぐに私室に戻り準備に取り掛かった。
 裏地に毛皮を使った保温性の高いマント。予備のマントも小さく畳んで荷物に入れる。
 換金し易い貴金属に、携帯糧食を一週間分。譜銃の銃弾も補充し、念入りに道具を揃えた。
 伝令にしては大げさだが、伝令だけでは済まないかもしれない。そういう事態になって欲しいと望んでいる。
 そして、そのときのためにディストのところにティアは顔を出した。

「おや、ティアじゃありませんか。その格好はどうしました?」

 いつもの白衣ではなく技手としての制服を着ているティアを見て、ディストは訊ねた。
 ティアは肩を竦め、「任務なの」とだけ答えて、すぐに本題に入る。

「前に頼んだ響律符の修理はもう終わったかしら?」
「あの失敗作ですか? 技術の変遷を知るには良いサンプルでしたけど、戦闘には役に立たないと思いますよ」

 ディストはそう辛口の評価をしながらティアがユリアシティから持ち出している響律符を取り出す。
 それは魔界行きを条件にディストが修理したもの内の一つである。ティアもディストの評に同意しながら、大事そうにその響律符をしまう。
 その響律符の価値を知っているディストは、その光景に違和感を覚えずにはいられなかった。

「まあ、普通はそうでしょうね。要は使い方次第ってこと」

 ディストはそれをどう使うのだろうかと興味を持った。ティアはディストから見ても変である。
 何処か達観していて、未来を知っているように思えるときがある。預言では説明がつかない。
 譜業の未来を語るときもそうだが、他にも過去を知っているかのような口調をするときがある。
 兄妹そろって人の予想を超えている。そう思われていることを知れば二人が憤慨するようなことをディストは考えた。
 それとは別にティアに言っておきたいことがあった。ディストは慌ただしく出ていくティアの背に声をかける。

「ティア。ユリアシティの件で話したいことがあります。任務から帰ってきてからで良いので、時間を作ってくれませんか?」

 次にダアトに帰ってくるときは、もう事態が動いているはずだ。ジェイドはもうイオンと共にいる。
 和平の使者キムラスカに接触した時点でティアたちは行動を開始するだろう。ディストと約束をしても守ることができるかどうか。
 ティアには判断がつかなかった。それでもこれっきりの関係になりたくなかった。だからティアは振り返り強く頷いた。


 それから一昼夜かけてバチカルまで飛んできた。
 空の上から変わりない青い海を見下ろす。バチカルはもうすぐだ。

 惑星オールドラントには五つの大陸がある。二つの大きな大陸と、小ぶりな三つの大陸から成る。
 五つのうち比較的小さな方の三つの大陸は行儀良く縦に並んでいた。
 その真ん中の一番小さな大陸がパダミヤ大陸である。その大陸の東側にダアトはあった。
 真北の大陸はマルクト領土である。雪に覆われたケテルブルクという街があり、そこでディストたち四人は幼少のころ過ごした。
 真南には山がちな大陸があり、キムラスカ領土である。そこにはシェリダンという職人の街があり、音機関の最先端だ。
 そして、大きめの二つ大陸はそれぞれカイツールとケセドニアという国境でキムラスカとマルクトに等分されている。

 ダアトとバチカル、そしてグランコクマの三つの都市の港は地図上では綺麗な三角形を描いていた。
 国は違くとも、海を行けばその距離は近い。高速船を使えば障害物もなくすぐに港から港へ、聖都から王都と帝都へ連絡は届く。
 マルクトの関与が見られる今、キムラスカとだけ密に連絡を取れば状況はさらに悪化する可能性があった。
 船の動きは当然、両国に監視されている。それ故にシンクは船ではなくグリフィンという連絡手段を選んだ。

 途中にある島で仮眠を取った以外は、ティアはずっとグリフィンの背に乗っていた。
 近郊の森に降り立ったとき、ティアの身体は疲労で限界に近かった。背伸びをして気休めの回復をかける。
 訓練所に行くように心掛けていてもやはり本職のようにはいかない。
 それからティアはバチカルの教会に顔を出し、ヴァンの現在地を確認して公爵家に向かった。




 ヴァンは中庭でルークに稽古をつけていた。上段から振り下ろしてくるルークの木刀を受け止め、流す。
 すぐに身体の重心がずれる点を注意して、自分がいない間も鍛錬を続けていたことを誉める。
 それからもう一度打ち合わせてみようと促そうとしたとき、公爵家の騎士が現れた。ダアトから伝令が来ているそうだ。
 邪魔されたことにむくれるルークをヴァンは宥めつつ、眉を顰める。
 早朝、鳩から連絡を貰ったというのに、息をつく暇もなく再度現れた伝令。嫌な予感しかしなかった。

 ルークは不満げに愚痴をガイにこぼす。こんなときに来る報せはたいてい良くないものに決まっている。
 父上が約束を破るのも、城からの使者が来たときである。急なダアトからの報せも同じだろう。
 そう思い眉間に皺を寄せたルークをガイはからかい、椅子から立ち上がると中庭の中央に向かう。

「変な顔してるぞ、ルーク。ヴァン謡将の用事もすぐ終わるさ。それまでは俺が相手してやるよ」

 その提案に頷き、ガイと向き合いながらもルークは上の空だった。
 もしかしたらこの報せでヴァン師匠は帰ってしまうかもしれない。夕方まで居てくれると言ったさっきの言葉も撤回されるかもしれない。
 雑念と共に振り下ろされた切っ先はガイを捉えることなく、ルークは木刀に振り回され、それはルークの手から離れていった。


 中庭の隅の方で待っていたヴァンは、伝令の姿に驚きを隠せなかった。何故、ダアトに居るはずのティアがこんなところに居るのか。
 それに、髪を切ったティアはますます母上に似てきた。一瞬、見間違いそうになった。大きくなったものだと感慨深くなる。
 ティアは兄の表情が変わった瞬間を見逃さず、悪戯が成功したような気分になった。

 案内の騎士は距離を取りつつも中庭から離れない。子息と同じ空間に居る外の者を警戒しているからである。
 ティアは視界の端に居るルークを気にしつつも、ヴァンに向き直り上官に対する礼をとる。

「神託の盾騎士団第五師団所属ティア奏長です。参報総長より書類を預かっています」
「了解した」

 平静を装っているヴァンにティアは書類を渡した。
 そして、シンクから預かっている伝言を告げようとする。

「早急な帰還を望むとの伝言も――ッ!」

 突然、ティアはヴァンに左腕を掴まれ抱きしめられた。その唐突な行動にティアは「兄さん?」と小さな声で問いかける。
 その答えを聞く前に何かがが壁にぶつかった音を兄の腕の中でティアは耳にした。兄が助けてくれなければ自分は怪我をしていたかもしれない。

「怪我はないか?」

 ヴァンは心配そうにティアに尋ねた。細い肩である。さっきは大人になったと思ったが、まだまだ子供だ。
 大丈夫という意味を込めてティアは微笑む。地面には一本の木刀が転がっていた。
 ヴァンの視線の先には、呆けた顔をしているルークがいる。そして、木刀の行方に気づいた彼は焦った様子で駆け寄ってきた。

「わりぃ!」

 謝罪を口にしながら地面の木刀を拾い、大丈夫かとルークはティアの肩に手を触れた。


 そして、そのとき周囲の第七音素が歓喜の声を上げる。喜び勇んだ音素は踊り狂い、落ち着かなかった。
 ざわざわとティアを鳥肌が立つのに似たような感覚が襲う。ルークも突然のことに戸惑いを隠せない。
 その間にも第七音素は何処からともなく集まってくる。ルークとティアの間には視認できるほどの第七音素が渦巻いていた。

「いかんっ!」

 いち早くそれが何であるか察知したヴァンがそれに気づき制止の声をかけても、どうしようもなかった。
 ガイはルークに駆け寄ろうとして、ヴァンに押し留められる。ヴァンは主君を護るようにガイをかばい、ペールも騎士も手を出せなかった。
 皆がこの事態の意味が分からず及び腰になっている間に、ローレライは無情にも始まりを告げる。


    ――響け……ローレライの意志よ。届け……開くのだ……――


 光の奔流に耐え切れずヴァンは目を瞑りそうになる。そのとき、二人の悲鳴が聴こえた。

「ティアッ、ルーク!」

 ヴァンは叫んだ。だが、深淵からの呼び声は二人を捉えて離さない。
 ティアは兄の滅多に聞かない焦った声に、大丈夫と応えようとして失敗する。
 代わりにティアの顔には笑顔が浮かんだ。奇跡が起きたのである。そのことに感謝をしながらティアは意識を手放した。


 光が消えた後に、二人の影はなかった。





[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第四節 月明かりの下で
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/04 22:23




 ティアが目覚めたとき、辺りはもう真っ暗だった。辺り一面に白い花が群生していた。セレニアの花である。
 ティアは身を起こし自分の身体に違和感がないことを確かめると、立ち上がり服に付いた土を手で払う。
 そして、辺りを見回しルークの姿を探す。もしも分解されたままだったら洒落にならない。

 すると、少し離れたところに赤い髪が見えた。ルークである。
 一見したところ異常はない。ティアはホッと安堵の溜息をつき、ルークを起こそうと声をかける。

「ルーク様、ルーク様」
「……。ッ! ……ここは?」

 ルークが目を覚ますとそこは異世界だった。屋敷の中ではない。
 嗅ぎ慣れない土の匂いに気付き、困惑しながらもそこから記憶を辿る。

 ヴァン師匠と稽古をしているときに、変な服を着た伝令が来て、邪魔されたことに自分はむかついていた。
 勢いに任せて振るった木刀がその女に当たりそうになって、師匠が庇ったんだよな。
 師匠は初心者みたいな自分の失敗に厳しい視線を向けて、ついそいつに謝った。
 そしたら、ぞわぞわっと身体の奥から何かが込み上げてくるような、引っ張り出されるような感覚がして……。
 それからどうなったのだろうか。

 まだ事態が把握できていないルークにティアは訊ねる。

「ルーク様、大丈夫ですか? 何か気持ちが悪いとか、頭が痛いとかはありませんか?」
「君は……。いや、俺は何も変なところはないけど」

 ルークは戸惑いつつも、知らない場所に一人放り出されたわけではなかったことに安心した。
 彼女が良い印象を持っていない伝令だとしても、誰かが傍に居るということはそれだけで心強い。

「君こそ大丈夫か? 木刀、当たりそうだったし」

 ルークは手に握ったままの木刀を確認して、問い返した。

「私は大丈夫です、ルーク様。私のことはティアと。
 それに、申し訳ありません。私があそこに居たせいでこんな危険に遭わせてしまいました」

 ティアは身分のある相手への応対を心掛けながら少し不審に思う。
 予想なら「お前誰だよ!?」とか「気分は最低だっ」とかいう返事だったのだが、理性的に話し合えばこうなるものだろうか。

「『私のせい』ってどういう意味?」

 ルークはティアの逡巡には気づかず、疑問に思ったことを訊ねた。
 ティアはその質問は尤もだと思い、つい研究者としての習いか長々しい説明をしてしまう。

「はい。今回の現象は擬似超振動による移動だと思われます。擬似超振動は第七音素譜術師が二人揃ってはじめて起きる現象です。
 二人が意識して第七音素をぶつけ合うことによって起こるのですが、これは理論上言われているだけで実際に確認されたことはありませんでした。
 偶然発生する可能性もゼロではありませんが、それでも信じられません。こうして二人無事なことは、まさに奇跡としか言いようがないことです。
 ルーク様は第七音素の素養をお持ちですよね?」

 ルークはその説明に圧倒されつつも、ティアの問いに頷く。
 まるで音機関を前にしたガイの様だ。こういった場合、下手に逆らわない方が良いとルークは知っていた。
 ガイは普段は気配りのできる人間なのだが、専門の雑誌を買って読むほどの音機関マニアである。
 一時期ガイは、ルークを同志にしようと洗脳紛いの講習をした。それは熱中できなかったルークにとって、苦行でしかなかった。

「あぁ、確かヴァン師匠が俺は第七音素の適性があるって。……ティアは、その、随分と詳しいんだな」

 ルークの指摘にティアは、「私は技手なので……」と小さく答える。少し恥ずかしい。
 ティアが黙り込み、二人の間に少し気まずい空気が漂う。


 ルークは気を取り直して息を大きく吸い込むと、勢いよく立ちあがりティアに尋ねる。

「とりあえず、此処がどこだかティアは分かる?」
「此処はおそらくタタル渓谷かシュレーの丘だと思われます。このセレニアの花を見てください。
 この花はセフィロトに近いところに咲く花です。そのセフィロトの中でこのように草が生え、温暖な気候であるのはこの二か所のみです」

 セフィロトのことを知るのは、数少ないのだがそのことは微塵も触れずにティアは場所を特定した。
 ティアは魔界出身者であると同時に技手でもあるのでその出所は何とでも言える。ルークはそうなのかとその知識に関して疑いもしなかった。
 ルークは記憶喪失である自分は物知らずだと思っており、それが決して一般的ではない知識であっても原因は自分にあると考えていた。
 だからこそ、ルークは人に物を聞くことに躊躇いを持っていなかった。

「そう言われても分かんねえよ。此処ってキムラスカ?」
「いえ、どちらもマルクトです。申し訳ありません」

 ティアの暗い表情を見て、ルークは「そうか」とだけ呟く。
 ティアはその冷静さに罪悪感を抱いた。常識的に考えて、キムラスカ王族であるルークにとってマルクトは危険な土地である。
 それなのにティアは私利私欲のためにルークを巻き込んでいるのだ。いたたまれなくなり、反射的にティアはルークに頭を下げる。

「私がバチカルまで必ず護ります。元はと言えば私が――」

 ルークは詫びを述べようとするティアの言葉を遮る。

「ティアがそこまで気負う必要はねえよ」
「しかし、現にいまルーク様は……」

 尚も言い募るティアをルークは問答無用で黙らせた。

「俺は今、とても嬉しいんだ」

 ルークは月を見上げて清々しそうに笑う。自由なのだ。それはルークがずっと願い、諦めていたモノ。
 四角い空ではなく、果てなく広がる空。狭苦しい土地に押し込められていない、生き生きとした緑。
 此処が何処だろうと屋敷の中でないのなら、そこはルークにとって初めての場所である。

 ふわりと風がその赤い髪を撫でる。月明かりを浴びて夜でもよくその赤は映えた。
 ティアの視線に気づき、ルークは向き直る。満月を背に、白い花を踏みしめる彼の立ち姿にティアは既視感を覚えた。

 せつなく、もの悲しくなる。随分と昔の記憶を掘り返して、思い当った。エンディングのルークの姿だ。
 結局あれは誰だったのだろうか。ティアは急に尋ねてみたくなった。「あなたは誰なの?」と。
 ティアの知る“ルーク”は、こんな笑い方をしないと思う。もっと呆れるくらい無邪気で、残酷なくらい無知のはずだった。
 ルークは、それこそ年相応の青年にティアの目には見えた。ルークは朗らかに笑いながら、ティアに心から感謝を口にする。

「ずっと外に出てみたかった。ガイには『本は先人の知恵の結晶なんだ』とか言って強がってたけど、ほんとはすげー外に憧れてた。
 20歳になったら絶対に旅に出てやるって決めてたんだ。まあ、その前にこんな形で外に出られるとは思ってもなかったけどな。
 俺は今、すごく嬉しいんだ。だから不謹慎かもしんねーけど、……ありがとう。ティア」

 ルークの言葉は、とても綺麗で純粋な気持ちの塊だった。それにティアはむず痒い気持ちになる。
 ティアはその想いを受け取れる資格をとうの昔に放棄している。どれだけ取り繕ってもティアがルークを利用するつもりであることは事実なのだ。
 こうしてルークがティアと共に外に居るということで、それは決定的になったのである。
 誰に罵られても毅然と言い返せるつもりだったが、このルークの反応には何も言えなかった。
 自分がとても汚いものだと思い知らされる。分かってはいたが、やはりきついものがある。

 ルークの言葉にティアは微笑みだけを返した。

 ここで罵倒してくれればよかったのに。
 そうであればティアは心の中で彼は七歳児と呪文を呟きながら、保母さんを完璧に勤め上げただろう。
 だが、実際のルークは良い意味でも悪い意味でもティアの予想と異なっていた。


 ルークはじっと自分を見てくるティアの眼差しに照れを覚えた。
 頬を掻いてそれを誤魔化し、ふと思いついた疑問を口にする。

「なあ、街はどこにあるんだ?」
「川沿いにつたっていけば街か村があるでしょう。向こうに海が見えます。迷うことはないでしょう」

 考え込んでいたティアはルークの声で気を取り直し、遠くの光景を指し示した。
 ルークはその指が示す先に視線を移し、感嘆の声を上げる。

「あれが、海。――綺麗だな」

 ティアはその言葉に込められた思いの片鱗から、軟禁されているということの重みを感じ取った。
 ルークの目に、夜の海はどのように写っているのだろうか。遠くに見える海をルークは眩しそうに眺めていた。
 ティアはふと寒さを覚え、用意していたものを思い出し荷物を漁る。そして、小さく畳んでいたマントを取り出した。

「ルーク様、こちらを。夜は冷えますので、風邪を召されては困ります」

 ティアはルークに上等な方を差し出し、自分は予備の物をはおる。
 夜の渓谷は寒く温室育ちのルークには辛いはずなのだが、ルークは渡されたマントを手に渋い顔をしている。
 何か不興を買うような真似をしてしまっただろうかと首を傾げるティアにルークはぽつりと漏らす。

「敬語、止めてくれねえ?」
「ルーク様。私はダアトの一兵卒に過ぎません」

 ティアの否定にルークは顔を歪める。屋敷の使用人と同じ対応である。

「でも、公式の場以外でなら構わないわ」

 付け加えられたティアの言葉にルーク破顔した。




 ルークとティアは静かに川沿いに下って行った。眠っている魔物は起こさなければ、襲ってこない。
 渓谷を抜け一息をついたとき、近くでガサッと何かの音がした。ティアは瞬時に気を引き締める。

「うわっ! あ、あんたたちまさか漆黒の翼か!?」
「漆黒の翼? 違うわ。私たち、道に迷ってしまったの」

 ティアとルークの後ろに誰もいないことを確認にして、水瓶を持った彼は気を抜いた。

「……ああ、二人連れなのか、じゃあ漆黒の翼じゃねえな。漆黒の翼は三人組だもんな」
「おじさんは何でこんなとこにいるんだよ?」

 ルークは率直に訊ねた。彼は「オジサン、か」と小さく呟き、軽く落ち込みながらもその問いに答える。

「俺は辻馬車の御者だよ。この近くで馬車の車輪がいかれちまってね。水瓶が倒れて飲み水がなくなったんでここまで汲みに来たのさ」
「じゃあさ、近くの街まで乗せってってくれねえ? 俺、もう疲れちまって、歩きたくねーんだよ」

 実際、ルークは疲れで限界近かった。身体を動かすと言えば剣術ぐらいだったのである。
 箸より重いものは持ったことないという訳ではないが、箱入りだったのは事実だ。
 歩き慣れていないため足の筋肉は張っており、明日、筋肉痛になるのは確定だった。

「お客さんか。近くと言えばエンゲーブだが、最終的には首都まで行くよ。どこまで乗っていく?」

 夜、こんなところに居るのだ。確実に馬車に乗るだろう。御者は思わぬところで拾った客に、ついているなと思った。
 ティアは訝しげな表情をして黙っていた。ルークに対して抱いていた違和感が膨らんでいく。
 そうとは知らず、ルークはティアを小突いて質問をした。

「確か食材の村だっけ。なあ、村でも鳩ぐらいはいるよな?」
「えっ、ええ。ある程度の街や村には必ずいるはずよ。エンゲーブなら必ずいるわ」

 ティアの返事を聞いて、ルークは「じゃあ、エンゲーブまで」と言う。
 御者は少し残念そうな顔をしてから、「分かった、エンゲーブまでな。二人で6000ガルドだ」と金額を告げる。

 ルークはしまったという顔をして、どうしようとティアを窺う。金など持っていない。屋敷の中に居るときはそんなもの必要なかった。
 つい調子に乗って会話を楽しんでいたが、金がなくては何もできない。稽古中に飛ばされたルークは身に着けていたものと木刀以外何も持っていなかった。
 ティアは苦笑いをしながら、落ち込んだ表情をするルークに代わって御者に声をかける。

「少しまけてくれないかしら? 今手持ちが少ないの」
「うーん。二人で5000。これでどうだい」

 御者はこんな場所に弱そうな二人を放っておくのもなんだかなと思い、金額を下げた。

「それなら大丈夫だわ。ありがとうお兄さん」

 ティアは笑顔で礼を言い、お世辞を言った。御者はまんざらでもないようである。
 ティアが二人分のガルドを渡すと御者は「先に馬車に乗っておきな」と告げ、水を汲みに行った。
 二人は言われた通り馬車に乗って席に着く。するとルークは恥ずかしげに言った。

「家に着いたら、払うからなっ」

 ティアは安心させるようにルークに笑いかける。

「旅の間、お金の心配はいらないわ。こう見えて、結構稼いでいるのよ」

 確かにティアの収入は同年代の者と比べて多い。だが、障気中和薬はほぼ原価に近い値段で卸している。
 技手という専門職だからこそ平均より高い給料だが、そもそも稼ぎが良いからと言って、手元にまとまった金があるとは限らない。
 ティアは4年分の貯蓄を事前に貴金属に換金して持ち出している。事前の準備がなければ、母の形見を渡していただろう。
 ルークはティアのお金の心配はしなくて良いという言葉をそのまま受け止めた。元から金の心配をするような生活はしていない。
 その金の出所までは気が回らなかった。ティアはお金の話題から話を逸らすためにルークに問いかける。

「ルーク。本当にエンゲーブに行くの?」
「ああ。ほんとは国境のカイツールかケセドニアにでも行った方がいいんだろうけどさ。でも、こんな機会は二度とないかもしれねーし。
 それに公爵子息じゃない、ただのルークとしてマルクトを見ることができるのは今回だけだろ?」

 ルークは言っているうちに恥ずかしくなり視線を彷徨わせ、「まあ、この旅が少しでも長くなればいいなっていう俺の我儘もあるけど」と付け加えた。
 ティアはそんなルークに励ましの言葉をかける。

「そう。良い経験ができたらいいわね。聞きたいことがあったらいくらでも聞いて頂戴」
「ああ、頼りにしてる。ティア」

 それからすぐに馬車は動き出し、疲れていたルークは直ぐに眠りに就いた。


 有体に言えば、ルークは浮かれていた。初めて外に出て、ティアという旅の連れも居る。
 見たことのないものが溢れ、ルークの興味はそちらに向いていた。道端の雑草でさえルークの好奇心をくすぐる。
 初めはどうなるかと思ったが、まるで用意されているかのように問題は解決されていく。
 ルークの旅は幸先の良いスタートを切っていたので、ルークはその先の暗い影に気付かなかった。

 現在のキムラスカ王国の混乱や疑いの眼差しを向けるティアに全く気を払っていなかったのである。



[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第五節 突きつけられた事実
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/06 21:40

 暗闇の中を辻馬車は真っ直ぐと進む。二人の客を乗せた馬車は昼にはエンゲーブに着くだろう。
 熟睡しているルークの無防備な寝顔を見ながら、ティアは考え込む。
 ルークの性格はティアの想像とかけ離れていた。それに付随して発生した感情をティアは持て余す。

 はっきりと目に見える原作との乖離。それは兄の生存に繋がるかもしれない。そう考えれば喜ばしいことである。
 だが、その変化はティアが意図したものではなかった。考えられる可能性は二つ。

 ティアが過去に行った行動が、巡り巡ってこんな形で返ってきたという可能性。
 もう一つは他の何かの要因で、ルークの性格が変わっているという可能性。

 ティアが生まれて15年と1か月余り。十分に前者の可能性はある。それでも不安は燻っていた。
 ティアはキムラスカ、ひいては公爵家に影響を与えるような何かをした心当たりが全くなかった。
 魔界やダアトならともかく、キムラスカには一度滞在したことがあるだけである。
 人間はそう簡単に変わらない。ティアはそれをよく知っていた。ならば、ルークの変化はそれだけ根が深いものだ。
 ティアは自分が関知していない出来事に背筋が寒くなる。それは自分以外の人間が暗躍しているという証拠だ。

 世界は誰かを中心に動いている訳ではないと理解していても、心のどこかでティアは慢心していた。
 あらすじを知っているということが、ティアの大きな武器だったのである。
 後生大事にとっておいた切り札が錆びて使えなくなっているという現実を目の当たりにしてティアは狼狽した。
 そして逸る心を落ち着かせようと現時点で分かっていることを思い浮かべる。

 ルークは20歳になれば軟禁が解けると思っている。
 ルークはガイと親しくしており、兄を師匠と慕っている。
 ルークは外への憧れを読書と言う形で発散している。

 つまりルークが肝心なことを知らないという点は変わっていない。
 ルークは自分がレプリカであることも、秘預言のことも知らない。

 敢えてルークがティアを欺くような演技しているという可能性を除けばそうなる。
 そして、その可能性はこれまでのルークの様子から低いだろうとティアは考えた。
 それに、ティアたちはじっとキムラスカやマルクトの動向を伺っていたのである。ティアの知る限りでは、これといった変化はなかった。

 マルクトのピオニー陛下は賢帝と呼ばれ、皇帝の懐刀はジェイド・カーティスである。
 アスラン・フリングス少将にグレン・マクガヴァン元帥。ネフリー・オズボーン知事。周囲の親しい人間の来歴にも変化は見られない。
 キムラスカのインゴベルト陛下は預言に傾倒し、モースを重用している。
 クリムゾン公爵にナタリア殿下。ジョゼット・セシル少将。公爵家が王家と対立するといった模様もなかった。


 ティアは大丈夫と自分に言い聞かせようとした。大勢に影響はない。
 ティアは兄を出し抜いて外殻大地を降下させることで兄の行動を封じるつもりだ。
 外殻を降下させるため、ローレライを解放するためにルークの力が必要なのである。
 ルークがどんな性格をしていようとそれが果たせるのなら構わないはずだ。
 ティアがすることはこの旅の間にルークの信頼を得て、来るときに備えることだ。

 ティアはそう考えて動揺を抑え、馬車の振動に身を任せる。目を瞑っても一向に眠気は襲ってこなかった。
 東の空から少しずつ闇が引いていき、うっすらと白み始めてくる。夜明けが近い。荷物から市販の栄養ドリンクを取り出し、一気に胃に流し込む。
 自分で作ったものだが、それでもまずいものはまずい。全てが終わったらおいしい栄養ドリンクでも作ってみよう。
 どうでも良いことをティアは考えてみた。目の前のルークは惰眠を貪っており、彼の起きる気配は全くしなかった。




 しばらくすると、すっかり辺りは明るくなった。馬車はガタゴトと揺れながら橋を渡る。
 どこからか駆動音が聞こえ、辺りに漂っていた朝の気配は一瞬のうちに消し飛んだ。
 その騒音にルークは目を覚まし、いぶかしげに窓の外を見つめる。小さな馬車が疾走している。
 御者は遠くの見世物を楽しんでいたようである。興奮しながら二人に話しかける。

「軍が盗賊を追ってるんだ! ほら、あんたたちと勘違いした漆黒の翼だよ!」

 そうしているうちにも軍から逃げている馬車は、此方に近づきすれ違う。橋を目指しているのだろう。
 その後ろから見上げるほど大きな陸艦も地面を揺らしながら追ってきた。

『そこの辻馬車! 道を空けなさい! 巻き込まれますよ!』

 あわてて御者は手綱を操り、急な指示に馬は嘶く。
 馬車は大きく揺れてルークはとっさに窓の縁を掴み、ティアも背もたれに手をかけた。
 間近で見た白い陸艦に御者は感嘆の声を上げる。

「驚いた! ありゃあマルクト軍の最新型陸上装甲艦タルタロスだよ!」
「はっ? 盗賊相手に軍が何やってるんだ?」

 ルークは獅子が兎をいたぶっているような光景に疑問を持った。

「当たり前さ。何しろキムラスカの奴らが戦争を仕掛けてくるって噂が絶えないんで、この辺りは警備が厳重になってるからな」

 その当然といった御者の様子にルークは、「そっか」と短く答えた。
 漆黒の翼の馬車は爆弾をばら撒きながら橋を渡り、大陸と大陸を繋ぐ唯一の橋は崩れ落ちる。爆音が馬車の中まで届き、ルークはしばらく呆然としていた。
 ティアは寝起きにこれは刺激が強すぎかもしれないと思い、用意しておいた食べ物をルークに渡す。

「おはよう、ルーク。昨日から何も食べていないでしょう?」

 ナッツがたくさん入っているビスケットである。いくら改良したと言っても軍隊の食べ物だ。ルークの舌には合わないかもしれない。
 ルークはぼんやりと、「あぁ、……おはよう」と返事をしたっきり口をつけなかった。

「お昼にはエンゲーブに着くわ。そこでなら暖かい料理が食べられるはずよ」

 そのティアの言葉にもルークは曖昧な返答しかせず、手元のビスケットを眺める。


 軍艦を見て、ルークの気分は急降下した。事此処に至ってルークはやっと自分の現状に危機感を抱いたのである。
 キムラスカとマルクトは長年争って、お互いを敵国と見做している。何度も戦争を繰り返し、数えきれないぐらいの戦死者を出した。
 御者の彼は軍を見て安心したのだろう。自分たちを守ってくれる存在なのだからそれは当然だ。
 だが、それはキムラスカから見れば家族や友人の血祭りにあげた凶器にすぎない。
 戦争という漠然としたもののイメージが急速にルークの中で具体的な形になる。恐ろしかった。今も怖い。

 ルークはキムラスカ王家の血を引く第3王位継承者で、赤い髪と緑の眼をしている。
 そんな形で敵国を歩き回ったらどうなるか。歓迎されるはずがない。敵国の王族なのだ。
 聞く限りでは、新しい皇帝は強硬路線から方針転換したらしい。だが、上の意思が必ず下に通じる訳ではない。
 キムラスカに恨みを持っている人間は、探せば何処にでもいるはずだ。復讐といった負の感情は時に理性を凌駕する。
 殺される可能性がある。ルークは寒気を覚え、マントの端を握りしめた。そしてフードを深く被り直す。

 何で昨日は、あんなに呑気だったのだろうか。本の主人公のように何もかも上手くいく訳がない。
 立ちはだかる困難を乗り越え紡がれる愛と友情。謎を解いた末に手に入れる財宝。
 そんなものはそう安々と転がっていない。此処はマルクトなんだ。そして俺はキムラスカの公爵子息だ。
 ルークは自分の持つ色の重みを痛感する。もしも自分が此処で死んでしまったら、開戦である。

 そうなれば、多くの人間が戦争に駆り出され死んでいくのだろう。のっぺらぼうだった兵士の顔が知り合いの顔に変わっていく。
 彼らを率いるのは赤い髪を無造作に流したままの父だ。白光騎士団の面々も後に続く。
 恐怖から戦場を想像して、必死でその考えを否定する。だが、有り得ないことではないのだ。
 これまで何度も争ってきたのだから、切っ掛けさえあればすぐに停戦は解除されるだろう。


 帰りたい。
 バチカルの屋敷に帰りたい。

 あそこは狭くて息苦しかったけれど、その分安全だった。
 俺、守られてたんだ。そんなことも理解していなかった。


 箱庭はルークを閉じ込めていたが、同時に守っていた。
 自分を害する脅威を自覚していなかったルークは外に出たがっていたが、今は戻りたかった。
 馴染みない土地に見慣れない人。どちらもルークに緊張を強いる。ルークはバチカルの両親を思い浮かべた。


 父上は、心配しているだろうか。こんな迷惑をかけて、今度こそ見放されるかもしれない。
 母上は、倒れていないだろうか。必ず戻るから、心労を重ねて欲しくない。


 ルークは無事、キムラスカに戻らなければと決意する。それは少し遅く、その差は致命的だった。
 つい先程、橋は落とされタタル渓谷からバチカルまでの最短距離は当分利用できなくなった。
 橋を渡る前に引き返したら、ケセドニアを経由してすぐに帰ることができたはずだった。
 ルークはもうひとつの国境、カイツールを通るしか選択肢がない。そっと振り返り途絶えた道を確認した。
 馬車は淡々と走り、立ち昇る煙も小さくなっていく。前に進むしかないのだ。




「ここがエンゲーブだ。気をつけてな」

 御者は慣れたように馬をとめ、「首都に行くならまた利用してくれ」と言い残し宿に向かった。

 エンゲーブは農業を中心とした村である。畑が広がっており、道には収穫したての野菜が積まれている。
 ブウサギを飼育している家もあり雑然としていたが、同時に田舎らしい長閑な時間が流れていた。
 ティアが以前来た時と同じだった。物静かなルークを見て、ティアは先に食事を済ませようと考えた。
 人間、お腹が空いていると碌な事を考えないものである。手頃な店に入り、適当な注文をする。


 ティアとルークは直ぐに運ばれてきた食事を前に舌鼓を打った。

 具沢山のスープからは湯気がたち、冷え切った体を温めてくれるだろう。
 瑞々しい野菜のサラダのレタスは見た目だけでもシャキッとしていた。
 ブウサギのソテーには、こんがりと焼け目がついていて食欲をそそる。
 ほかほかの焼き立てのパンに塗ったバターは目の前でとろりと溶けそうだ。

「いただきます」

 ルークとティアは無言でテーブルの上の料理を食べた。
 ルークは公爵家では食べたことがない味だと思いながら、目立ちたくはないがために黙っていた。
 一方ティアはと言えば、口が悪いルークのイメージからはかけ離れている丁寧な食べ方に見入っていた。

 何と言ってもルークは貴族なのだ。テーブルマナーなど基礎中の基礎である。
 物音一つ立てずにブウサギの肉を切り分け口に運ぶ。パンくずも落とさずに綺麗に食べた。
 ティアは仮にも貴族なのだから当然かと思い、自分も食事をとり始める。


 困ったのは周りの村人だった。昼ごろにやってきた二人組の旅人。
 観光地でもないため外の人間はすぐに分かる。マントを脱ぎもしないことに注目していた。
 後ろ暗いところのある人間かと思いきや、定食屋で完璧なテーブルマナーを見せられたのである。
 下手に関わらない方が良いことだけは分かる。遠巻きに見つつもそっとしておこうという結論に至った。


 ティアは空腹を満たしたルークを村長のローズの家まで案内する。鳩がいるはずだ。
 声をかけて中に入ると、そこには赤目の軍人と緑の髪の少年がいた。






[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第六節 エンゲーブでの遭遇
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/07 22:25



「ですから、イオン様。食糧泥棒はチーグルだと判明したからといって、それに何の意味があるんです?」

 ジェイドはいつものようにやれやれと肩を竦めそうになり、導師の顰蹙を買ってはいけないと我慢する。
 目の前にいるのがピオニーであれば躊躇いもせず、「ご自分の立場をご存知ですか」という一言も付け加えていただろう。
 ピオニーは人を巻き込むのが上手い。ジェイドも傍観者だったのに共犯にされ、否応なしに彼の手伝いをしていることがしばしばある。
 それでも仕方ないかと思うだけなのは、彼が幼馴染みのままだからだ。皇帝になっても、彼の気質は変わらなかった。
 だから、自分は未だに面倒だと思いつつも彼から距離を取ろうとしないのだろうなとジェイドは自己分析をしてみる。

 一方、イオンはジェイドを見上げ、彼の協力を求めていた。村の人々が被害を受けているなら放っておけない。
 被害を与えているのがローレライ教団で聖獣とされているチーグルなら尚更である。
 自分は導師なのだから、誰かを見捨てることなどできない。村人もチーグルも救いたい。
 ダアトを飛び出して一歩踏み出したつもりでいるイオンは使命感に燃えていた。彼は、いわゆる反抗期の子供のようだった。

「チーグルは草食です。村の食べ物を盗むだなんて、きっと何か理由があるはずです」

 儚げな容貌で声を震わせながら訴える様は、思わず助けたくなりそうである。
 だが、ジェイドはその庇護欲をそそるイオンに心動かされはしなかった。冷静にイオンを見下ろす。

 タルタロスを降りてから導師が何かうろうろしていたのは知っていた。狭い軍艦に居たのである。息抜きも必要だ。
 傍に守護役のアニスが就いているなら大丈夫だろうと思っていたのだが、自分が楽観的だったようである。
 貴人とは大人しいものだと、ピオニーのような皇帝は規格外であるという認識を改める必要がありそうだ。
 この、根が素直そうな導師が村の騒動に首を突っ込み、一人で納屋を隅々まで探し、チーグルの毛を見つけるとは思いもしなかった。
 ジェイドは穏やかな声音でイオンを諭そうとする。

「だから、兵を出せとでも仰るのですか? イオン様。私たちは密命を受けて此処にいるのですよ」

 タルタロスは通常400名で動かしているが、今回は情報が漏れることを危惧して半数の200名で動かしている。
 部下たちは疲労しているだろう。それをできるだけ少なくするのが上司である自分の務めだ。森の探索に人を割けば、その分彼らの苦労は増える。
 食糧泥棒という問題は確かに見過ごすことはできないが、何も自分たちが解決しなければならないことではない。
 それに、イオンの話は全て憶測でしかない。近くのセントビナーにでも手紙を書いて、言付けを残すぐらいで十分だろう。

 そもそもジェイドは和平の使者という密命を受けている。エンゲーブに寄ったのも補給と和平の親書を受け取るためである。
 和平の反対派がいることはジェイドも重々承知している。だからこそ漆黒の翼を追いまわすような派手なこともして見せた。
 皇帝の名代であるジェイドと皇帝の親書が揃わなければ、キムラスカに和平を申し出ることは叶わない。妨害が入ることは想定済みである。
 そして、突き詰めれば紙きれでしかない親書と自分を天秤にかけて、ジェイドは自分を囮にすることにした。
 タルタロスという目印に乗り込んでいる皇帝と親しい死霊使い。反対派には申し分ない餌だろう。
 ジェイドが目立てば目立つほどグランコクマからエンゲーブに東回りで送られてくる親書の安全性は高まる。

 エンゲーブで親書を手にして和平の使者を正式に名乗ることができるようになれば、後は時間との勝負である。
 さっさと国境を越え、バチカル入りした方が勝ちだ。その点では漆黒の翼が橋を落としたことで少し困ったことになりそうである。
 エンゲーブからキムラスカに至る道は、西の橋を渡りケセドニアを経由する道とそのまま南下してカイツールを経由する道の二つだ。
 ジェイドはその場で状況を判断して適切な方を選ぶつもりだったが、これで選択肢はなくなってしまった。
 反対派に嗅ぎつけられて何かされる前にカイツールへと急ぐ必要が一段と増した。もたもたしている暇はない。

「チーグルは教団の聖獣なんですっ。ジェイド、僕の話を聞いて下さい」

 イオンは取り合おうとしないジェイドを引き止めた。村長であるローズの家の一角でイオンの要請は続く。
 ジェイドは先程この家を訪れた新しい客の気配に気付いていたものの、扉に背を向けていたのでその姿を見ることはなかった。




 二人が食事を食べていた間にイオンは先んじてローズの家に着いていたのだろう。
 ティアは手紙を書きながらその一部始終を聞いていた。どうしても耳に入ってしまう。ルークのペンは二人が何かを言う度に止まる。
 ティアはルークの信頼を得ることを優先し、彼らに接触することはしなかった。この様子なら、明日チーグルの森に行けば接触できそうである。
 イオンの切々とした声が響く空間は、何処となく居心地が悪い。その中で村のまとめ役であるローズは自然体だった。
 お忍びの若様や軍人を探っても良いことなどありはしない。ローズは見ざる、言わざる、聞かざるを実行して、そつなく対応した。

 ルークは手紙の最後にルーク・フォン・ファブレとサインして、公爵家の家紋の入ったボタンを包んでいく。
 ティアもダアトへの報告書をまとめた。事の経緯と予測と思わぬ導師との接触について書き連ねる。
 インクが乾くのを待ち、小さく畳んで筒に入れると鳩はすぐに飛び立っていった。
 用を済ませるとルークはそそくさとその場を離れようとする。ティアは慌ててその後を着いていった。

 道すがら確認しておいた宿へとルークは一直線に目指す。何か言いたそうなティアを無視して宿に入った。
 宿の人に何も言わず休もうとするルークをティアは押し留め、部屋を取る。


 部屋に入るとルークはドサッとベッドに腰掛け、「あーッ、もうっ!」と頭を掻きむしった。
 ルークは苛々していた。目立ちたくないと思い、質問するのも控えていたのである。
 本当はいろんな物に触ってみたかった。いろんな人に話しかけてみたかった。
 我慢を強いられて、ぐっと耐えて、『心配しないでくれ』と連絡しようとした矢先の出来事である。
 昨日抱いていた些細な感情はストレスで大きくなる。ルークは声高にティアを問い質す。

「何なんだよ、あれっ! 導師は行方不明なんじゃねーかよ!?」

 導師が行方不明になったから、ヴァン師匠はダアトに帰らなければならなくなったのだ。
 行方不明というからてっきり何か賊とかに浚われたのかと思っていた。
 なのに、その導師は素知らぬ顔でマルクトの軍人なんかと一緒にいた。

「あれって、導師イオンだよな?」

 ルークは思わず、ティアに確認した。見間違いで、自分の勘違いであって欲しかった。
 導師の衣装は彼以外着ることが許されない。見る人が見れば直ぐに分かるデザインだ。そして、彼は音叉を模した錫杖も手にしていた。
 導師イオンに他ならない。分かっていても訊ねずにはいられなかった。
 ティアはシンクの素顔も見たことがある。遠目ならともかく、同じ家の中にいて間違う訳がない。首を縦に振り肯定する。

「彼は導師よ」

 ルークは「マジかよ」と呻く。そして、いくつもの疑問が浮かび上がってくる。

 ダアトで行方不明とされている導師が何故、こんな村にいるのか。
 何故、マルクトの軍人と親しくしているのか。
 彼らの言っていた密命とは何なのか。

 納得のいく答えが見つからずルークは唸り、弱音を漏らす。

「意味分かんねーよ。……何が起こってるって言うんだ?」


 ティアは考え込んでいるルークの邪魔はしない方が良いだろうと判断して、荷物の整理をしていた。
 いくら悩んでも、実は導師が誘拐犯と意気投合して脱走したとは考えつかないだろう。
 そして、その導師の行方不明から和平には普通、結びつかない。事実は小説よりも奇なりってこのことかしらとティアは考えた。


 ルークが悩んでいる間に日は沈み、宿の人がノックをして夕飯の時刻を告げた。
 エンゲーブは農業を中心とした村なので食堂などの施設が少ない。この時間に食事を提供する場所となると酒場になる。
 さすがにルークをそこに連れていくのは躊躇われた。宿の人が用意してくれた食事を口にする。
 夕食は素朴な煮込み料理であった。パンにチーズが並び、温野菜が彩りを添えている。
 ルークは宿の人の目があったので、余り話さずに料理を味わっていた。

 食事を終えると、ルークは部屋でティアにちょっとした質問をし始めた。
 村で見た大きな輪が水車なのか。地面に並べてあったのは売り物なのか。
 畑ではどんな風に収穫しているのか。ブウサギは何を食べるのか。
 毎日、家族そろって食事をするのか。小さな子供も働いているのか。

 その中にはティアも分からず、答えられないこともあった。ルークの関心は多岐にわたり、話はあっちこっちに飛ぶ。
 そして、ふとルークはティアに疑問に思っていたことを尋ねた。

「なあ、ティアはあそこで導師を放っておいて良かったのか?」

 ティアはダアトの者だ。制服を着ているし、ヴァン師匠を訪ねてきたのだから違いない。
 ダアトが導師を捜索しているのなら、ティアは導師を保護しなければならなかったのではないだろうか。

「えっ?」

 ティアはいまいちルークの問いかけの意味が分からず聞き返した。

「だから、ティアは行方不明中の導師をどうにかしなくていいのかって聞いてるんだよ!」
「ああ、そういうことね」

 ティアは導師にジェイドが何かするとは思っていなかったのでたいした心配をしていなかった。
 それに加えて、ティアはまだ目の前の思慮深いルークに慣れずにいた。正直、いま怒鳴られて内心ホッとしている。
 長年の先入観というのは拭えないものだ。アッシュの顔を知らなかったら今でも偽者だと疑っていただろう。

「大丈夫よ。きちんと報告書にも書いたから。
 それに、あそこにいた軍人はジェイドと呼ばれていたじゃない? 私では敵わないわ」

 ルークはティアの大丈夫という一言に安心して、また質問を続ける。

「ジェイドって、凄い奴なのか?」

 ティアの告げた名前に首を傾げるルークに苦笑しながら、ティアは答える。

「六つの属性を扱うことができる凄腕の譜術師よ。それに、科学者としても新しい理論を打ち立てた程の稀代の天才。
 どちらにしても私では相手にならないわ」

 ティアがジェイドに優っている点と言えば、第七音素を扱えるというところぐらいだろう。
 それも先天的資質の問題である。ティアは悩ましげな溜息を漏らした。
 ルークはあの場に居た軍人の新たな情報に頭を悩ませる。密命に関係あるのだろうか。
 依然としてルークは目の前の謎を解くことはできずにいた。


 ティアはいつまで経っても休む様子のないルークに呆れた声で話しかける。

「別に何だっていいじゃない。ルークは五体満足でバチカルに帰ることが一番の目的でしょう?」
「そりゃそうだけど、気になって仕方ねえんだよ」

 一向に諦める気配のないルークにティアはしょうがないわねと言うように肩をすくめた。そして、もう寝るようにとルークをベッドに追い立てる。
 明日、近くの森でチーグルを探そうとしているイオンと合流できれば、自ずと答えを知るだろう。
 ダアトに送った手紙には導師は大佐と親密であり、脅迫されている様子は見られなかったとも書いている。

 兄がバチカルに留められている以上、オラクルの采配はリグレットかシンクがとっているはずだ。
 導師の無事が分からない今なら、万が一の時のためにシンクはダアトを離れない。おそらくリグレットが導師奪還の指揮を執るだろう。
 彼女がタルタロスの乗組員の口封じをしようとしたら、何とか説得を試みよう。非はマルクト側にあるとはいえ、皆殺しは穏やかでない。

 そう考えるとティアは、毛布を被ったまま起きているルークに一言告げて部屋の明かりを消す。
 「おやすみ」というティアの声にルークは一拍置いてから、「おやすみ」と返事をした。




 その夜、キムラスカ―マルクト間の連絡は近年稀に見るほど多かった。同様にダアト―マルクト間の連絡も忙しない。
 だが、一番多かったのはダアト―キムラスカ間の連絡だった。鳩と魔物を駆使した遣り取りは絶え間なかった。

 公爵家からルークが消えて、バチカルは騒然となった。第七音素の収束点はマルクトのタタル渓谷。
 そもそも擬似超振動が発生した場合、その原因である第七音素譜術師は分解されたままである。再構成された例はない。
 半ばルークの死を覚悟していた。それでもタタル渓谷は鉱山の街ではないということにクリムゾンは縋っていた。
 インゴベルトは秘預言に詠まれた場所以外でルークが死ぬはずがないと、ルークの生存を確認しようとする。

 その場に居合わせたヴァンは当然ダアトに帰還する訳にもいかず、バチカルに留まることになった。
 そして、ヴァンは導師の救出とルークの身の安全の確保を目的に互いに協力しないかと提案したのである。
 ティアとルークが互いに自己紹介をしていたとき、ダアトとキムラスカは極秘の会談を行った。
 そこでダアトはイオンを、キムラスカはルークをマルクトから救出するために協力することに合意した。

 キムラスカはダアトから導師捜索のための神託の盾騎士団員を受け入れる。
 ダアトはマルクト領内で導師捜索と同時にルークの捜索も行う。

 明くる日、ダアトは正式にキムラスカ、マルクト両国に神託の盾騎士団の受け入れを要請する。
 すぐにキムラスカは受け入れを許可し、マルクトもそれに倣った。


 ダアトは、タルタロスに囚われている導師を取り返さなければならない。
 導師を誘拐し、その引き換えに何らかの取り決めを強請る。それが罷り通るという前例を作ってはいけない。
 そのためには、どうにかしてマルクトに神託の盾騎士団を送り込まなければならなかった。
 マルクトが拒否できない状況を作るためにキムラスカの協力を取り付けた。その代償が秘預言に詠まれている聖なる焔の光の保護なら容易いものである。

 マルクトの『導師捜索に協力する』という回答を拡大解釈して陸艦に乗り込む予定である。
 橋が落とされたという情報も入り、タルタロスの位置はほぼ掴めていた。そこにティアからの連絡が入る。
 ユリアの子孫であるティアも手放したくない存在だった。共に行動しているのならば願ったり叶ったりである。
 エンゲーブに逗留するなら、導師を奪還した後に二人を回収すれば良いだろうと考えた。


 キムラスカは、繁栄を確約してくれるルークを鉱山の街以外で死なせる訳にはいかない。
 敵国から何とかして救う必要がある。だが、マルクトにキムラスカの人員を送ることは開戦を誘発するだろう。
 マルクトとの戦いで勝つことも、その後の繁栄もルークが鉱山の街で消えてからの話である。開戦はまだ早い。
 ダアトの者がルークを探してくれるのならばありがたい。導師捜索中に“偶然”発見して、保護してくれるだろう。
 それとは別にマルクトにもルークの保護を要請しておく。マルクトがルークを保護すれば借りを作る羽目になるが、戦争で勝てば良いのだ。
 もちろんルークが擬似超振動によって亡くなっていたらマルクトの手によってルークは殺されたとして、弔い合戦を始めるつもりである。

 そこにルークから無事の知らせが届く。インゴベルトもクリムゾンも喜んだ。前者はこれで繁栄が訪れると、後者は息子が生きていて良かったと。
 ヴァンは安堵した。そして、ルークとティアが奇跡的に助かりエンゲーブで導師と遭遇したという符号に引っかかりを覚える。
 預言のように、何もかもが仕組まれている気がしてならなかった。


 マルクトは、『平和を望んでいる』という看板を守るためにそれらの要請を断ることができなかった。
 導師を蔑ろにする訳にはいかず、キムラスカが兵の受け入れを許可した以上、拒否すれば疾しいところがあると見做されてしまう。
 また表向きキムラスカに和平を申し出ようとしているのだから、相手国の第3王位継承者を粗略に扱うこともできない。

 何が悪かったかと言えば、タイミングが悪かったとしか言いようがない。
 もしもティアたちがマルクトに降り立ったのが和平の使者を送り出す前ならば、ジェイドは導師を誘拐するような真似などしなかっただろう。
 反対に和平の使者がキムラスカに到着した後のことであれば、ルークを人質にするなり、殺害するなり好きに出来た。
 あるいはジェイドがもっとグランコクマと連絡を密にとっていれば、こうはならなかったかもしれない。

 全てマルクトにとって踏んだり蹴ったりの内容である。だが、それがある意味マルクトを救うことに繋がるのだからおかしなものである。
 ジェイドが暴挙とも言える行動をとらなければ、第七譜石に詠まれている通りに諸々は進み、マルクトは玉座を最後の皇帝の血で濡らすことになる。


 第七音素を観測しているオズに擬似超振動の発生を知らされた彼らは、いち早く二人が生きていることを確認した。
 そして、その二人がティアとレプリカルークと知り、この奇跡はローレライが自分たちの行動を後押ししているからではないかと考えた。
 その間にもユリアの子孫とレプリカルークは、レプリカイオンとレプリカの生みの親にエンゲーブで遭遇することとなる。
 この広いオールドラントで四人が出会うことなどそう無いだろう。2018年はもう始まっている。彼らはそう思ったのである。






[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第七節 導師が一人
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/08 22:11



 鶏が声を張り上げ、静寂を破った。日が昇りきる前からエンゲーブの人々は動き始める。
 その人の気配にティアは瞼を上げた。東の空はまだ仄暗い。ルークが起きるのはもう少し後だろう。
 ティアはベッドの上に座り込んだまま毛布を羽織る。そして、アリエッタの顔を思い浮かべた。

 今日、イオンがチーグルの森に入る。彼と共にいれば、ライガの女王に出会うことになるだろう。
 アリエッタの母親。本来なら女王は交渉のテーブルに着かず、問答無用で戦うことになり、ジェイドにとどめを刺される。
 だが、みすみすアリエッタの母が殺されるのを見過ごすつもりはない。アリエッタは私の友人だ。
 オリジナルイオンを失った悲しみから、なんとか立ち直った彼女を再び悲しませるような真似はしたくない。
 まずはどうにかして女王に話を聞いてもらう。それができれば、アリエッタが復讐に走るようなことにはならないはず。

 そう考えるとティアは支度をし始めた。
 するとその音で目が覚めたのか、ルークは寝惚け眼で首を傾げながらティアの名を呼ぶ。

「……おはよう……、ティア?」

 ルークは見慣れない部屋に一瞬混乱に陥り、周囲を見回し、ティアの顔を見て此処が何処だか思い出した。
 ティアはルークの表情の変化に笑みをこぼし、挨拶をする。

「おはよう、ルーク。もう起きた? 今日はどうする?」

 ルークは瞼をこすりながらティアの問いを聞いた。次第に思考が晴れていく。
 今日、どうするか。どうするも何もルークの目的はキムラスカに帰ることだ。

 ルークがキムラスカまで無事に帰る方法は大雑把に言えば二つある。
 ルークがカイツールまで行く。余計な時間はかからない。その代わり道中の危険性が高まる。
 ルークが何処かで迎えを待つ。時間がかかる。しかし、拠点を確保できればあとは安全である。

 問題は目立つ髪である。それさえどうにかできれば、ティアと二人でもたいした危険はないだろう。
 旅券はルーク自身が身元証明をしているのでそこまで心配していない。路銀や地図など最低限の物は幸いにもティアが持っている。
 エンゲーブからカイツールまで旅することは可能だ。だが、慣れない旅をルークができるかと問われると答えに詰まる。
 あの谷から少し歩いただけで変なところが筋肉痛になっている。歩きなんていうのは最終手段だ。

 とりあえず、昨日の手紙の返事が来るまではこの村で待とうとルークは決めていた。
 遭難したらその場を動かない方が良いって誰かも言っていたし、と心の中で呟く。
 それは雪山で吹雪に遭った人物がなんとか生還したときの台詞なのだが、そこまでルークは覚えていなかった。

「ん~。下手に動くのは危険だから、てきとーにぶらつくかな」
「じゃあ、近くの森にでも行ってみない? 一昨日は夜だったし、ここら辺の魔物は弱いから歩き回っても大丈夫よ」

 ここぞとばかりにティアは提案した。森に行かなければ話が始まらないのである。

「へえ、森かあ。動物とかもいるのかな」

 ルークは村で見た家畜を思い出す。ちょっと匂ったが、触ってみると温かかった。
 森というからには見たことのない昆虫や草木がたくさんありそうである。
 それに、森なら人目がないのでフードを外せるだろう。身を隠すのは案外ストレスになるものである。

「じゃあ、今日は森に行ってみるか」

 ルークはティアに言われるがまま、森に足を踏み入れることになった。


 二人は朝食を宿で取り、お昼のサンドイッチも作ってもらう。ティアは森に行く前に、食料を買おうかどうか悩んだ。
 ルークは考え込んでいるティアを余所に興味津々といった様子で商品を眺めている。
 ティアはそれに気付くと、「リンゴと買って来てくれないかしら?」とルークにおつかいを頼む。
 ルークは「いいのかっ?」と訊ね、ティアが頷くのを見るとぱあっと顔を輝かせて走っていった。

 不安そうに小銭を握りしめながらお店の人に話しかけているルークの様子をティアは横目で窺ってしまう。
 店員の小父さんも分かっているようで、何くれと積極的にルークに話しかけ店先のリンゴを選ばせていた。
 終いには「おまけだよっ!」と威勢の良い声で告げ、二つのはずのリンゴは紙袋に収められ、四つはありそうである。
 ルークは嬉しそうにそれを抱えながら、「こんなに貰っちまったぜ!」とティアに報告した。

 そのまま二人はリンゴを片手に齧りながら森へと向かう。移り気なルークは道から外れることもしばしばだ。それをティアが注意する。
 その光景は二人が森に着くまで繰り返された。いや、森に入っても根本的なところは変わらなかった。
 ルークは目に移るもの全てに興味を一度は持つ。はぐれたくないティアは、ルークの質問に一つ一つ答えることでそれをなんとか阻止した。
 昔取った杵柄で、草木に関してティアは詳しい。「これは根っこが毒になるの」と余計な知識まで披露する。

 そんなティアの説明にルークは素直に頷きながら、「ティアって物知りだなー」と惜しげもなく誉めた。
 森に入ってからルークはマントを外し、赤い髪を晒している。
 それを認めたティアは良い機会だとポケットからシンプルなデザインの飾りを取り出した。

「ルーク。後ろ向いてくれない?」

 ティアは無防備なルークの後ろに立ち、肩のあたりで軽く結わえ、手元の響律符を使う。
 その金の飾りは赤い髪に映え、あつらえたようである。これはルークのためのものだとティアは思った。

「ん? なんだ?」
「ほら、ルークの髪って長いでしょう。森だと木の枝に絡みついたりすることもあると思って」

 ディストに修理してもらったものである。ユリアシティで発見されたこの譜業は創世暦時代の技術で作られている。
 とはいってもそこまで貴重なものではない。10世紀ごろの職人がその頃かろうじて伝わっていた技術をもとに思考錯誤した代物だ。
 だが、これはルークのために作られたものではないかとティアは見つけたときに思った。
 この響律符は、その職人がローレライの鍵のような機能を付けてみようとして失敗したものである。

 ローレライの剣とローレライの宝珠は、一体となることではじめてローレライの鍵として完成すると言われている。
 ローレライの剣は武器であり第七音素を集結させ、ローレライの宝珠は響律符であり第七音素を拡散させる力を持つ。
 この相反する二つの機能を付けてみようとして見事失敗したのが、このルークの髪に収まっている響律符だ。
 集結と拡散という効果を望んだ結果、この譜業は周囲の第七音素を歪めるようになった。簡易的な妨害装置のようなものだ。
 これを身につけている限り、地核のローレライがルークを認識することはないだろう。頭痛に悩まされることもない。


 ルークは、ティアの「似合ってるわ」という誉め言葉に「そ、そうか?」と照れた。何かを誉められるという経験には慣れていない。
 何か外に来てから慣れないことばかりしている気がするとルークは思い、そして、ずっと屋敷に居たからそれも当然だろうと考え直した。
 外は怖い。でも、楽しい。矛盾した思いを抱え、ルークはそれを誤魔化そうと森の奥へと進む。その先でルークはイオンを見つけた。




 導師にしか許されない紋様の入った白いローブに音叉を模した錫杖。
 村長の家で見かけた緑の髪の少年は息を荒く吐きながら、ライガルに抗っていた。
 「ティアッ!」というルークの呼び声に、ティアはすぐさまライガルのような魔物が嫌う音を出して追っ払う。
 耳を伏せて、唸り声をあげ未練を残していたライガルは二人が傍に駆け寄ると去っていった。

 ルークは今にも倒れそうなイオンを支える。
 イオンは蒼白な顔をしながらも律義に礼を口にした。

「ありがとうございます、あの……」
「神託の盾騎士団、第五師団所属師団付技手、ティア奏長であります」

 ティアは導師を前に自分の所属を告げた。
 イオンは、「ああ、あなたが……」と呟く。その声は小さく傍に居たルークにしか聞こえなかった。

 実際のところ、ティアはあの六神将と親しくしている技手ということで注目されていた。そうでなくても白衣で練り歩く姿は人目を引く。
 イオンもアリエッタと親しいということで名前だけは知っていた。
 ただ、イオンは基本出歩かない人間であり、ティアも出不精だったのでこれまで顔を知る機会がなかったのである。

 イオンの視線を受けて、ルークは端的に自己紹介をする。

「俺はルークだ」
「ルーク……。古代イスパニア語で聖なる焔の光という意味ですね。いい名前です」

 イオンは、その名前の意味を口にして微笑んだ。
 度重なる誉め言葉に、ルークはうろたえつつも導師が一人で森を歩いていることに疑問を持つ。

「なあ、イオン。どうして守護役が一人も傍にいないんだ?」

 導師の傍には必ず守護役がいる。それがルークの知る常識だった。だが、思い返せばあの村長の家でも守護役の影はなかった。
 30人いる守護役のうち一人も導師の傍にいないなんてことは、あり得ない。

「アニスはちょっと用事があるみたいで」

 イオンははにかみながら答え、これ以上聞かないでくださいと態度を示した。
 ルークは、「そうなのか」と納得して見せる。だが、違和感は拭えなかった。
 昨日はあのジェイドという軍人と拘束もされずにいたので親しいのだと思っていたが、違うのかもしれない。

「じゃあ、イオン。此処で何してるんだ? 行方不明中って聞いたんだけど」

 ルークは単刀直入に問い質した。いろんな可能性があり過ぎて本人に確認する方が早いと思った。
 導師と守護役は家族の様でもあると聞く。守護役を人質として言うことを聞かせていることもあるだろう。
 一人でいるのは助けを呼びに行く途中だとか。考えすぎかもしれないが。

「ダアトは行方不明と説明しているのですか。此処にいるのは僕の意思ですよ。チーグルの話を聞いてみたいんです」

 イオンは曖昧な表現をした。表情は相変わらず笑顔のままである。
 ルークはそれをどう解釈すればいいのか迷った。これ以上は立ち入って欲しくないということだろうか。

 傍らで聞きに徹していたティアはその食い違いに口を挟まずにはいられなかった。このままではダアトの立場を強化しても、その先から崩されそうである。
 生まれて2年であるということを理解しているが、導師という立場にいる以上、ふらふらされては困るのだ。

「イオン様。ダアトは行方不明としか説明できないのです。街で大詠師派が導師を軟禁していると噂された直後のことですから、それを信じている者もいます。
 大々的に捜索しているのは、導師を解放しろと訴える改革派を納得させるためでもあるのです」

 2年前、オリジナルとレプリカが入れ替わるときに導師は病とした。それからイオンは余り表舞台に立っていない。
 大詠師でも良い行事は彼が行うようになっている。噂が発生する下地はできていた。信憑性があるからこそ広まったのである。
 そこで、導師は和平のために独断で旅立ちましたとは口が裂けても言えない。事実が事実であるだけに行方不明というままなのだ。

「そうなのか?」

 ルークは、ティアの告げる情報に驚いた。
 ティアは神妙な顔で懸念を口にする。

「ええ。改革派はイオン様がいたことで一つに纏まっていたの。そのおかげで教団の要人や施設を狙った破壊活動は収まっていた。
 でも、このままだとどうなるか分からないわ。創造力の豊かな人はどこにでもいるから」
「そんな……、ダアトがそんなことになっているだなんて」

 イオンは思いもよらないダアトの現状に戸惑いを隠せない。
 イオンは和平に協力することが導師の役割だと考えていた。ひいてはダアトのためになると。
 だが、その良かれと思った行動がダアトに混乱を齎している。空回りする感情にイオンは泣きそうな顔になる。

 
 ダアトで導師として振る舞っていたが、モースなどはあからさまにレプリカであるイオンを見下していた。
 初めはイオンも彼らの言う通りに導師らしく行動するだけだった。だが、疑問に思ってしまったのである。
 レプリカとしてそれで良いのかと。レプリカはオリジナルの代用品。オリジナルらしく在らねばならない。
 知れば知るほどオリジナルは自分とかけ離れている。人形のように彼らの言うことを聞くのは何か違うような気がした。

 そして、シンクの存在を知ってその曖昧模糊としたものは明確な形を持った。
 彼はレプリカだ。自分の前に作られた失敗作。なぜ失敗作なのに堂々としていられるのだろう。
 自分の方がオリジナルに近いはずなのに彼を羨ましいと思った。

 しかし、イオンはオリジナルの代用品である以上イオンらしく在る訳にはいかない。そして、せめて導師らしく在りたいと思ったのである。
 だが、イオンはレプリカである自分に引け目を感じていたために自分の価値を低く見る癖があった。
 その齟齬が今回、混乱を大きくしてしまった。モースたちがレプリカを必要としたのはその存在が欠かせなかったからである。
 その人格は二の次だ。健全にダアトを運営していくためには、導師が不在という状況は歓迎できない。
 預言に次の導師が詠まれないという事態を乗り越えるためにレプリカを求めたというのも一つの事実だ。


 イオンは黙り込み、3人の雰囲気は悪くなってしまった。ティアが言い過ぎたと後悔しても遅かった。
 気まずいままとりあえずイオンの言うチーグルを探しながら進む。すると、道の先に大きな木が見えてきた。
 チーグルの住処である。緑の葉をつける木は命を育んでいた。苔むした地表の根からはキノコが生え、花も咲いている。
 その幹のぽっかり空いた洞から小さなチーグルが顔を出していた。



 



[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第八節 聖なるもの
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/09 22:54



 木の洞のなかは適温が保たれている。冬は暖かく、夏は涼しく、弱いチーグルが住むのに最適な場所である。
 入口から奥は目を凝らさなければ見えない。3人が歩き回ってもまだ余裕のある広さの木の中には、多くのチーグルが集まっていた。
 ピンクに水色、そしてクリーム色。チーグルの毛色は淡い色合いである。歩く度にそのツインテールのような耳は揺れ、身体よりも大きい頭のバランスを取っていた。
 小動物の愛らしさを最大限に活かした大きな眼に、庇護欲を掻き立てる鳴き声。計算され尽くしたマスコットだ。

 その姿を見てルークは一言、「うざっ」と漏らす。そして、踏み潰しそうだと心の中で呟いた。
 3人の客が訪れたのを知ってか、奥の暗がりから耳が垂れている薄紫の老チーグルがリングを抱えながら顔を出す。
 そのリングはサザンクロス博士のもとにいたユリアが、実験動物だったチーグルをペットとして可愛がった証だろう。
 きっとオトモダチと喋ってみたいという理由で作ったものが、語り継がれる間に伝説のものへとなったのだろうなとティアは考えた。

『ユリア・ジュエの縁者か?』

 3人以外のしゃがれた声が聴こえた。そのことにルークは、「魔物が喋った」と感嘆の声を上げる。
 その反応にチーグルは誇らしげに答えた。

『ユリアとの契約で与えられたリングの力だ。おまえたちはユリアの縁者か?』

 その声にイオンは当初の目的を思い出す。今は、エンゲーブの食料問題をどうにかするときだ。
 それでも、ダアトのことを考えてしまう。自分がダアトを空にしたことで、大騒ぎになるとは思ってもいなかった。
 導師と言っても名ばかりなのだからと構わないだろうとジェイドについてきたのは間違いだったのだろうか。
 しかし、和平を成立させることができるぐらいの権威があるのは導師だけだ。

 平和になれば、傷つけ合うことも憎み合うこともなくなり皆が幸せになれる。
 戦争という暴力を使ってではなく話し合いで物事は解決するようになれば、もっと良い世界になる。

 そう心の中で唱え、イオンは一歩進み出た。

「はい。僕はローレライ教団の導師イオンと申します。あなたはチーグル族の長とお見受けしましたが」
『いかにも。それで我らに何の用だ』

 イオンは入口に落ちていたエンゲーブの焼印の入ったリンゴを取り出し、老チーグルに質問をする。

「チーグルは草食でしたよね。何故人間の食べ物を盗む必要があるのです?」

 その問いに老チーグルは僅かな沈黙の後、答えた。

「……チーグル族を存続させるためだ。我らの仲間が北の地で火事を起こしてしまった。
 その結果、北の一帯を住み処としていたライガがこの森に移動してきたのだ。我らを餌とするためにな」

 チーグル族は苦渋の決断を迫られ、頷くしかなかった。それでも、食料が間に合わず犠牲になったものもいた。
 追い詰められ仕方なく近くの村に手を出すことを決めたのは1カ月も前のこと。
 人間を敵にすることになると分かっていても、目の前のライガという恐怖には劣る。それもこれまでかもしれない。
 老チーグルはこの人間たちを相手に一か八かの賭けに出ることにした。こうでもしなければ、そう遠からず一族はライガに喰われ消えてしまう。

「では村の食料を奪ったのは仲間がライガに食べられないためなんですね」
『そうだ。定期的に食料を届けぬと、奴らは我らの仲間をさらって喰らう』

 イオンはそのライガの行いに対して、「ひどい」と非難を示した。
 そのチーグルに同情的なイオンに対してルークは、苦笑いをしながら他の見方を提示する。

「そうか? 弱いモンが食われるのは当たり前だろ。ライガからしてみれば家を燃やされたんだ。当然なんじゃないのか?」

 魔物も人も弱肉強食。それは真理だろう。
 だが、知恵があるというのにこれでは余りにも攻撃的すぎる。
 イオンは、ライガの方が行動を改めるべきだと思った。

「確かにそうかも知れませんが本来の食物連鎖の形とは言えません。ライガと交渉しましょう」

 ソーサラーリングを使ってライガと交渉するという案は、意外にも反対されなかった。イオンは安堵の笑みをもらす。
 しかし、「なら、早く行きましょう」と言って木から出ようとしたところをティアに止められてしまった。

「交渉するというなら、何もイオン様が出ていかれなくても構わないはず。イオン様は此処に残って下さいませんか?」

 そのティアの言葉は、モースやヴァンと同じに聴こえた。
 「導師なのだから奥で大人しくしておいて下さい」と彼らは慇懃無礼に告げるのだ。
 硬質な声でイオンははっきりと宣言する。

「僕は、チーグルを見捨てません」

 その抵抗にティアはまた急ぎ過ぎたと思い、改めて丁寧に理由を挙げていく。

「この時期はライガの産卵期です。孵化間近のライガはいつにも増して気性が荒いのです。私一人で守り切れる自信はありません。
 幸いこの樹には魔物が寄りつかないそうです。それに、――」

 ティアは、少し間を空けてゆっくりと続きを口にした。

「この先に居るライガは、アリエッタの家族である可能性があります」

 ハッとイオンは顔を上げる。ティアの眼は嘘を言っていなかった。
 イオンは小さく彼女の名を呟く。久しぶりにその単語を発した気がする。


 イオンにとって、アリエッタの名は鬼門だった。
 イオンはアリエッタが欲しかった。正確に言えば、アリエッタのような存在が欲しかった。
 導師ではなくイオン自身を見てくれる人。オリジナルにとってアリエッタがそうだったことは知っている。
 オリジナルらしく完璧に振る舞うのならば、アリエッタを傍に置くべきだっただろう。
 だが、オリジナルは死の直前に彼女を導師守護役から解任した。イオンから遠ざけた。

 オリジナルに嘲笑われた気分だった。
 お前は所詮、レプリカに過ぎないのだと。幾ら取り繕っても偽物なのだと。

 よっぽどのことがない限り、守護役を離れた者が再び返り咲くことはない。
 アリエッタもそれを望んでいない。イオンの手からは、ほど遠いところに彼女はいる。
 彼女はイオンが“イオン”ではないと気づいている数少ない人間だ。

 だからこそ近づきたいと思う。導師らしく、オリジナルらしく振る舞わずに素の自分でいられるだろう。
 同時に近づきたくないと思う。オリジナルの代わりを果たせないレプリカなんて、価値がないだろう。

 相反する気持ちを処理することができず、イオンはただ遠くからアリエッタを眺めていた。
 それは、イオンがアニスを得てからも変わらなかった。そして、彼女がシンクと親しくなってからも。
 シンクの隣にいる彼女を見る度にツキリと心が痛んだ。それは嫉妬と羨望と憧憬と懇願。
 彼女に認められたい。彼のようになりたい。レプリカの自分を肯定したい。

 だが、イオンが二人に接触する機会なかった。モースやヴァンが妨害していたからだが、それを知ってもイオンは何もできなかった。


 イオンは思わぬところでアリエッタの名を聞きうろたえた。
 そして、自分が排除しようとしている魔物が彼女の家族だと理解して、ティアの言葉を従う。
 下手な真似をして彼女に嫌われたくない。自分はイオンだが、オリジナルではないのだから。

「分かりました。ティアに任せます」

 ティアはイオンが頷いてくれたことに安堵した。


 それからティアは、隣にいるルークに許可を貰おうと訊ねる。

「ルーク。その、少し傍を離れても良いかしら?」

 訊ねておきながらも、既にティアの中では一人でライガの下に行くことは決定しているようだった。

「はあ!? もしかしてお前、一人で行くつもりか? 俺も行くぞっ」

 当然、二人で行くものだと思い込んでいたルークは驚いた。この先に危険な魔物がいるなら一人よりも二人の方が良いはずである。
 見るからに弱そうなイオンを置いていくのは分かるが、自分はヴァン師匠に剣術だって習っていた。
 技手なんてものに就いている女を一人で行かせる訳にはいかない。武器は木刀だが、それでも役に立てるはずだ。

 一人では危険だと訴えるルークの言葉をティアは左から右に流し、反対にルークを説得しようとする。

「それはありがたい申し出だけど、イオン様をお一人にしておきたくないの。ルークなら、安心してイオン様を任せられるわ」

 頼られているということは嬉しい。だが、それはルークの望む頼られ方ではない。
 気を取り直してルークは誰もが納得できる理屈を述べる。

「でも、ライガって危険な魔物なんだろ? お前の方がよっぽど危ないじゃないか」

 その道理にもティアは動じない。そもそも自分が眠りこけていなければこんな事態にもならなかったはずなのだ。
 別に先を知っているからと言って、「全部私が悪いのっ!」と嘆くつもりはない。
 だが、危ない橋を渡るのは自分だけで良いとティアは思った。下手にライガを刺激することを言われても困る。
 戦いになると決まった訳ではないのだ。アリエッタの友人として会いに行くのだから、自分の身の安全だけは確保できている。

「私は交渉に行くのよ。それに、知らない間柄ではないの。なんとかなるはずよ」
「はずって、そんな不確かな――」

 なおも食い下がるルークに焦れて、ティアはきつい言葉を選んで告げる。

「なら、言い方を変えるわ。ライガは私とルークが二人揃ったぐらいで倒せる相手ではないの。
 ルークがいてもいなくても変わらないなら、私はルークの安全を取るわ」

 そして、イオンの耳に入らないぐらいの声で、「ルークは公爵子息でしょう?」と決定的な一言を付け加える。
 そのティアの囁きは的確にルークのつぼを押さえていた。それを言われてしまっては、反論のしようがなかった。

 ルークは必ず五体満足な状態でキムラスカに帰らなければならない。その身が傷つけられることがあってはならない。
 もしもルークが怪我をすれば、その原因となったティアは罰せられるだろう。
 いや、もう既にルークを危険な地に送ったということで罪が確定しているかもしれない。

 ルークは悔しかった。結局、屋敷にいたころと変わらない。何もせずに守られているだけ。
 ティアには世話になっている。スリル満点な旅をする羽目になっているが、その旅の連れがティアで良かったと思っている。
 こんな世間知らずな自分に呆れずいろんなことを教えてくれる。感謝しているのに、自分がしてやれることはないのだ。

「……分かった。俺はここに残るよ。でも、1時間。1時間して戻ってこなかったら俺もそのライガのところに行くからな!」

 一方的にルークは約束を取り付けた。1時間はルークの妥協点である。
 自分の身を案じてくれているのは分かるが、もっと自分を大事にして欲しい。その一心だった。

「ありがとう、ルーク。大丈夫、ちゃんと交渉の手札は揃えていくから」


 老チーグルは話が纏まったのを察して口を開く。彼がチーグル語を話すと水色の小さなチーグルが飛び出てきた。

『この仔供が北の地で火事を起こした我が同胞だ。これを通訳として連れていって欲しい』

 リングを浮き輪のように身につけたチーグルは3人に向かって可愛らしい声で喋る。

『ボクはミュウですの。よろしくお願いするですの』

 その必死な様子にルークは、なんかむかつくなと思った。
 その雰囲気が滲み出ていたのか、ミュウは反射的に懇願するように謝る。

『ごめんなさいですの。ごめんなさいですの』

 甲高い声にルークは思わず眉を顰めた。ティアが連れていく味方だというのに頼りなさそうである。
 ティアは苛立たしげなルークからミュウを取り上げ、老チーグルに挨拶をしてから森の奥へと向かった。






[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第九節 気高き女王
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/10 23:06



 ライガは、強大な一匹の雌を中心として群れで暮らす。群れを維持するため、雌の立場は雄よりも高い。
 雌は群れをまず大きくすることから始め、ある程度個体が増え安定してくると雌の卵を産む。それは普通の卵とは違う。
 繁殖期にライガはたいてい2~4個の卵を産むが、その年は1個しか産まない。分散される力を一つに纏めているとも言われている。

 その卵を産む年、雌は変わった行動をする。個体によりそれは異なるが、偶然それに居合わせた者の証言から推測するに濃い音素を取り込んでいるようだ。
 音素を自然と蓄える性質を持っている自然界のものは多い。例えばバジリスクの鱗は土の音素が体内に溜まったもので、魔物が死んだ後も消えずに残る。
 雌がその卵を身籠っているうちに摂取した音素の属性によって、その個体の持つ属性が決まると思われる。
 その特別な卵から産まれた雌は大きくなるまで母親の下で過ごす。雄と比べると大人になるまで2倍、5~6年かかる。
 ライガはその一生で3~5個、雌の卵を不定期に産む。ライガの雌はそれだけ稀少で強い個体だ。

 ライガは雌を中心とする種族だからか、母性本能がとても強い。アリエッタはそれに助けられたとも言える。
 フェレス島が沈む衝撃で雌の卵が割れ、母親は不安定になった。それを、アリエッタを育てるという行為で紛らわしていたそうだ。
 アリエッタが母親の下を離れたのは5~6歳の頃だが、それは雌なら巣離れをするときである。
 雌は親元を離れるとライガルを何匹か連れて新しい群れを作る。里帰りすることもあり、縄張りを荒らしたりしない限り身内には寛容だ。
 母親であるライガが死ぬ間際、姉妹は戦い合い一番強い雌が次の女王になる。


 そう考えるとアリエッタは次期女王候補とも言えるかもしれない。どちらにしろいつも傍にいるライガさんは雌だ。
 雄であるライガルは、その雌のにおいを持っているティアを無禄に扱うことはできない。女王以外、ティアを攻撃できるものはいなかった。
 それが、自分より強いライガの巣に向かうティアが怯えていない理由だった。

 ティアはミュウを連れて森の奥へと足を踏み入れていた。
 人の手が入っていない森は歩き辛く、獣道を行く。小川を渡り、大木をぐるりと避けた先にライガの巣穴はあった。
 途中、川を渡ったせいでぐっしょりとブーツは濡れている。枯れた木をミュウの炎で倒し橋にするという手もあったが、それも山火事になるのを恐れ止めた。
 役目を果たそうと意気込んでいるミュウには悪かったが、案内と通訳に専念してもらおうとティアは考えた。

 森の動物たちの縄張りを縫うようにティアは進み、運悪く遭遇してしまった魔物は譜歌で眠らせ、なおも抵抗するものには痺れ薬を用いる。
 一人でと言い張ったのは譜歌を歌うところを見られたくなかったためでもある。倒れた魔物を目印の様に残してティアは巣まで辿りつく。
 入口の近くにいるライガルは、ティアの制服から漂うアリエッタと仲間のにおいに戸惑っていた。
 ティアはミュウに通訳をお願いしてそのライガルに話しかける。

「私はアリエッタの友人よ。チーグル族にライガ族との交渉を頼まれたの。クイーンに会わせてもらえないかしら?」

 その言葉にライガルはしばし逡巡した後、巣穴の中へと入っていった。ティアはそのまま入口に留まり、返事を待つ。
 辺りは他のライガルたちの気配で満ちていた。警戒されていることが嫌でも分かる。
 怯えるミュウを両手で抱えながら、ティアは巣の前に佇んでいた。しばらくして、ティアとミュウはその巣穴の中へ入っていった。




 暗い巣穴の奥でクイーンは卵を温めていた。ティアは距離をとって挨拶をする。

「はじめまして、クイーン」
『人の娘よ、去るがいい。娘に免じてその身の安全は保障しよう。だが、我はチーグル族に容赦しない』

 取りつく島もなかった。ライガからしてみれば、チーグルは自分の家と庭先を燃やした張本人。
 そう安々と温情をかける相手ではない。
 ティアはまずは会えただけでも良しとして会話を続けようと試みる。

「私はあなたの娘の友人です。友の母が殺されるのを黙って見過ごすわけにはいきません」

 挑戦的なティアの言葉にクイーンは哂う。尻尾の先がゆらりと動き、不機嫌を表していた。
 立っているだけでも感じていた薄ら寒い空気は凍りついていき、ティアの背筋を一筋の汗が伝い落ちる。

『我が殺されるとな。弱いものはよく吠えるものだ。人間よ、魔物の理に入ってくるでない』

 ティアの精一杯の虚勢を嘲笑いながら、クイーンは女王の貫録を見せつける。
 ティアが此処にいるのを許されているのは偏にアリエッタの友人だからだ。そうでなければ産まれてくる仔の餌になっている。
 魔物は魔物、人は人。その境目にいるアリエッタのことをクイーンは殊の外、気にかけていた。
 それ故に生意気な人の娘を噛み切ることができない。それでも彼女の殺伐とした雰囲気は伝わる。

 ティアはその場を去りたくなる気持ちを抑えて、唾を飲み込み喉の渇きをどうにかしようとした。
 アリエッタが復讐に走らないためにもと腹の底に力を入れ、震える声をなんとか絞り出す。

「私はその魔物に頼まれました。既にチーグル族は人の手を借りることで一族を守っています。一度交わった世界は容易に分かち難いでしょう。
 人の強みはその数です。あなたがいくら一騎当千の力を誇っても、いずれ殺されます」

 クイーンは黙ってティアの言葉を聞いていた。
 しかし、それはティアの言葉に感銘を受けたからというよりは、底辺で抗う者への慈悲に近かった。
 ティアはひたひたと侵食してくる恐怖に逃げ出したくなる。口を閉じると二度と喋れないような気がして、とにかく話す。

「この森の奥に人の手の入らない場所があります。移動は孵化が終えてからで構いません。その間の食べ物はこちらで用意しましょう。
 アリエッタをこちらに呼べば、人との間に無駄な軋轢も生まないはずです。
 チーグル族も北の森が元に戻るまでの間、ライガ族へ定期的に貢物を送りたいと申し出ています」

 言い切ったとき、ティアは崩れ落ちそうだった。それもティアがチーグルの名を出したとき、クイーンの気配ががらりと変わったからである。
 さも愉快というようにクイーンは嗤い、空気を震わせる。その小さな吐息も、風となって衝撃を起こす。

『小賢しいチーグルめ。とうとう誇りまで売りおったか。
 ……よい。既にチーグルは魔物ではない。争うにも値しない。我はそなたの提案を受け入れる。久しぶりに娘に会うのもいいだろう』

 クイーンは足元のミュウをぎろりと睨むと、あとは興味ないというように尻尾を振る。
 最後のアリエッタの訪れを歓迎する部分だけは母親らしい声音だった。
 その言葉に一安心したティアは肩の力を抜いて、深く礼をする。

『ありがとうございます、クイーン。――ライガの一族に繁栄があらんことを』


 クイーンは少々躊躇った後、ティアに話しかけた。

『アリエッタから以前聞いたことがある、人の友ができたと。――娘を頼む。あれは人であり、魔物でもある』

 その台詞には、見守ることしかできない母親の苦悩が込められていた。
 魔物である彼女は、アリエッタの人の部分を理解することは一生ない。それでも母だからこそ、人の部分を否定しない。

「アリエッタは私の大切な友人です」

 ティアは、アリエッタの母親にそう答えてから別れを告げた。
 その背にかかる声はもうなかったが、寒々しい雰囲気はなくなっていた。


 ティアが巣から出た直後、背後からライガの遠吠えが響き渡る。その轟音に一瞬森は騒然として、鳥は飛び立ち、小さな動物は縮こまった。
 木々の葉までもが、さざめき合っているようにティアは感じた。
 しばらくするとライガルは一斉に引いていき、ティアを襲うことはなかった。おそらくクイーンが何かを伝えたのだろう。

 ティアはチーグルの住む木へ戻りながらアリエッタのことを考えていた。
 アリエッタと一緒なら、再び会うのも吝かではない。アリエッタがイオンの死から立ち直れたのは母親の存在が大きかったのだろう。
 会ってみて初めてその偉大さを実感した。ライガの女王は群れで一番強い。その強さは守るものがいるから湧きでてくるのだろう。最強の母親だ。
 ソーサラーリングもあるのだから、それを研究すればミュウを通さなくても魔物と会話することができるようになるかもしれない。

 クイーンと話し終えるとすぐ気絶してしまったミュウを脇に抱えながら、来た道を戻る。
 ティアは1時間以上経っている気がしたが、ルークに鉢合わせはしなかった。時の流れがゆっくりに感じるほどクイーンの前でティアは緊張していた。
 もう少しでチーグルの木というところで、ミュウは意識を取り戻す。

『みゅ? ティアさん、僕、ちゃんと通訳できたんですの?』

 不安げなミュウにティアは笑顔で答える。

「ええ。ミュウのおかげよ。もうライガが襲ってくることはないわ」

 その返事にミュウは、『よかったですの!』と言って飛び回る。
 そのはしゃぎように呆れながらも仕方がないと諦め、上機嫌なミュウの後をティアはついていった。




 何かを堪えるかのように唇を噛み締める。むずむずして落ち着かない。

「あ、……ぅん。…………くしゅんッ!」
「どうしたアリエッタ。空を飛んだせいで、風邪でも引いてしまったのか?」

 リグレットはくしゃみをしたアリエッタを心配した。ダアトからエンゲーブまで無理をさせたのは自分である。
 疲れているところをこれが最後だからと説得して第三師団を引っ張り出した。手早く済ませるには空からの襲撃が一番だ。
 幾ら最新鋭の軍艦といっても創世暦時代のように空を飛ぶ譜業がない今、防空体制などないようなものだ。
 導師を奪還するのに二度目のチャンスはない。一度失敗すれば二度目は警戒されてしまう。
 時間が経てば、マルクトを相手にしなければなくなるだろう。賊の仕業として処理できるのは今のうちだ。

「……分かんない。でも、もう治った。……リグレット。イオン様は無事なの?」

 心からイオンの身を案じているアリエッタに、リグレットはイオンが自ら出ていったことを告げようか迷って教えないことにした。
 アリエッタに協力してもらわなければ、この作戦は成立しない。

「導師を傷つけるものはそういないだろう。早くお助けしよう」
「はっ、導師一人に団長が四人か。家出少年のためにいちいち大袈裟だな。俺は何をすればいいんだ? 殲滅か?」

 必ず導師を助けようとアリエッタを励ますリグレットに、アッシュは悪態をついた。
 そのアッシュをアリエッタは不機嫌そうに睨み、リグレットは余計なことを言うなと叱責する。

「アッシュ! 今回の作戦はあくまでも導師奪還だ。閣下の御命令を違えるなよ」

 第三師団は機動力に優れているが決定打に欠けていた。狭い陸艦に乗り込むということもあり、個人でも強い団長は主戦力である。
 それに、この任務に団長をつぎ込むことでダアトの本気をマルクトに見せつけるという意味もあった。
 様々な要因からリグレットはアッシュを連れてきたが、間違ったかとリグレットは後悔した。


 アッシュが団長を務める特務師団の特務は、どちらかといえば後ろ暗いものだ。預言の通りに事を運ぶため暗躍することもある。
 大詠師直轄の情報部がたいていそれを担っているが、戦力が必要なとき声がかかる。そういった場合、口封じなどを頼まれることが多い。
 もとより乗り気でない任務にぐだぐだと注文をつけられるのだ。アッシュは舌打ちをして「面倒だな」と感想を漏らした。
 ラルゴは、そんなアッシュにいつもと違う何かを感じ取り、「荒れているな、アッシュ」と指摘する。

「別に。……ただむしゃくしゃしていただけだ」

 優し気なラルゴの声に、アッシュはそっぽを向いた。
 その様子にラルゴは笑いを堪えながら、落ち着かないアッシュをからかう。

「嘘を言うな。レプリカが気になるのだろう?」
「クズに興味はない」

 アッシュは即座に否定する。そして、気を悪くしたのか何も言わずに部屋から出ていった。
 二人の遣り取りを見ていたリグレットは、つい感想を述べてしまう。

「ラルゴ。お前はやけにアッシュを構うんだな」
「なに、子供と見れば可愛いものだ」

 ラルゴにかかればアッシュのしかめっ面も可愛くなってしまうようである。
 そして、リグレットはアッシュがラルゴの娘、ナタリアの婚約者だったことを思い出した。
 傷をなめ合っている訳ではないが、お互いキムラスカに思うところがある分、気が合うのだろう。

 そう考えていると、一般兵士が部屋を訪れた。見回りの者が移動しているタルタロスを発見したらしい。
 リグレットは全員に指示を出し、グリフィンの元へと急ぐ。

 導師奪還は、もうすぐである。






[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第十節 彼女を救うのならば
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/12 22:12



 イオンは、木の洞の出口をじっと見つめていた。二人でティアをそこから見送ったのは大分前のことである。
 ルークは、ずっと立ったままのイオンの姿にめんどくせえなと息を吐き、ずかずかと近づく。
 そして、その手を引いて強制的に自分の隣に座らせた。手頃なところにいたピンクのチーグルを鷲掴み、イオンに渡す。
 アニマルセラピーという訳ではないが、少しは効果があるだろう。

 イオンは慌てて、そのみゅうぅ~と困ったような鳴き声を上げる憐れなチーグルを抱きしめた。
 膝の上に乗せるとチーグルはもそもそと自分で居心地の良い場所を選ぶ。それにイオンは堪らず笑みを漏らす。

「かわいいですね」
「そうか? なんかこうイラッとこないか。ちっちゃいし、すっげえ弱そう」

 そう言いながらルークは目の前の黄色のチーグルを弄ろうとした。不穏な気配を感じたそのチーグルは、ポッと火を吐いて隅の方へ逃げる。

「うわっ! 火吐いたぞ、こいつ」

 驚き、悪態をつくルークにイオンは、「弱い者いじめはダメですよ。ルーク殿」と笑いを堪えながら言う。
 イオンの笑いを感じ取りルークはムッとした。「うるせー」と視線をずらす。
 存外素直なルークをイオンは好ましいと感じた。出会って一日も経っていないのにとても親近感がわく。
 それは同じような生活を送っていてからか、それとも同じような立場に立っているからか。
 はたまた同じレプリカということを感じ取っているからか。理由ははっきりとしなかった。
 だが、結果としてイオンは不意に、狭い世界から飛び出して得た知り合いであるルークに心の中の葛藤を漏らしてしまった。

「ルーク殿。これで良かったのでしょうか」

 ルークは、そのイオンの悩みをなんとなく理解した。腐っても公爵子息である。
 初めて父に公爵家に関する判断を任されたときは戸惑い、それ関係の本を読み漁り知恵熱を出してしまった。
 そのとき出した結論が正解だったかは分からない。たぶん、どこにも正しい答えがないことを敢えて訊かれたのではないかと思う。
 間違ってはいないけれども正しくもない。そんな曖昧なものを無理やり区分するのが偉い人なのだろう。
 父上や師匠に手解きされているが、命令一つで他人の一生を左右することには慣れない。自分より年下のイオンが悩むのも仕方ないだろう。

 ティアを一人で行かせたのは、何もイオンだけじゃない。その方が良いと自分も判断した。
 公爵子息として、ついていかなかったのは間違っていない。だが、一人の人間としては、思うところがある。
 それでも、自分が傷つけば多くの人を巻き込んでしまう。あの場にいた白光騎士団の人間やヴァン師匠にだって類が及ぶかもしれない。

 待つことが仕事。それにもどかしさを感じて、つくづく自分は命令するのに向いていないとルークは思った。
 同じような思いを抱えているイオンの心労を少しでも軽くしようと、ルークは務めて軽い口調で助言する。

「良いんじゃないのか。ティアは納得しているぞ。
 イオンがどうしても何かしたいっていうなら、ティアが帰ってきたときに『御苦労さま』って笑顔で精一杯労えばいいんだ」

 礼を言うだけ。その答えにイオンは俯く。

「結局、僕はそれぐらいのことしかできないのですね。……僕は、何もしない方が良かったのかもしれません」

 自分が希望したせいでティアが危険な目に遭っているかもしれないとなると、イオンは不安で不安でしょうがなかった。
 チーグルを救うことは教団のためだ。だが、それで他の誰かが傷つくということをイオンは許容できなかった。
 導師の名の下で執り行われる処分も、導師のためにと遂行されている任務も紙一枚で済まされる。
 導師とはそういうものだと機械的にサインしていた。初めて今回イオンは“自分で”判断を下し、その影響を視認している。

 チーグルを救う、それで良いのか。ライガのことは考えなくて良いのか。
 ティアに任せる、それで良いのか。自分は安全なところにいて良いのか。

 今回の一件は、チーグルが村の食料に手を出さなければ魔物の縄張り争いとして人には知られもしなかっただろう。
 だが、チーグルは人里に下り、幸か不幸かローレライ教団の導師である自分に発見された。聖獣と認知でなければ、チーグルは直ぐに駆除されただろう。
 自分はそのチーグルを救おうとしている。だが、それが本当に正しいことなのか分からない。
 そして、イオンはティアから聞いたダアトの現状を連鎖的に思い出し弱気になる。

 ダアトは今、混乱しているらしい。導師は行方不明と発表され、キムラスカにも連絡が入っているそうだ。
 たった一人のために何もそこまでと思うが、確かに誰にも報せずにダアトを出たのは、軽率だったかもしれない。
 そこまで騒がせて、迷惑をかけて、自分は一体何をしているのだろう。善い行いをしようと思ったのに、結局、場を混乱させているだけ。

 何もせずお人形のままでいれば良かったのではないだろうか。
 レプリカが個性を持とうとしてはいけなかったのではないだろうか。
 自分はオリジナルのレプリカ。それ以上を求めてはいけなかったのではないだろうか。


 イオンは下を向き、ぼんやりと手元のチーグルを眺める。その無垢な愛らしさからもやるせなさを感じた。
 ルークは励まそうとして、逆に落ち込んでしまったイオンに焦った。慌ててフォローを口にする。

「そんな暗い顔するなってっ! ほら、イオンは導師だしさ。笑ってた方が良いと思うぞ?」

 外に出て初めて会った同性の知人。ローレライ教団の最高指導者という地位に就いているにも関わらず覇気がないイオン。
 誰かを構うということは新鮮で、ルークは自分とガイが交わした会話をイオンと自分の間で再現する。まるで弟のようだ。
 せっかく知り合いになったのだからもっと仲良くなりたいし、落ち込んでいて欲しくない。

「……僕は前任者と違いますから。導師と言っても実権は大詠師が握っていますし、導師が僕である必要はないのです」

 ルークのその想いは伝わらず、イオンはますますどんよりと影を背負う。
 前任者とイオンはわざと比較している相手をぼかし、導師らしく在れないことを嘆いた。
 自分は偽者。もしも死んでも、代わりはいる。シンクがいる。その隣にはアリエッタがいるかもしれない。

「でも、俺の知る導師はイオンだけだし? 俺はイオン以外が導師だとなんか嫌だぞ」

 その何気ない発言にイオンは息を飲み、「ルーク殿」とかすれた声で呟く。ルークの知るイオンは自分だけで、その自分が導師であることは当たり前のようだ。
 その余りにも単純な等式にイオンの胸の奥はほんのりと温かくなる。確かに知らない人間からしてみれば、イオンは自分以外考えられないのだろう。
 ダアトの小さな世界にいたイオンにはそんなことも分かっていなかった。レプリカなんて存在は極少数の研究者ぐらいしか知らない。
 あれこれ悩むよりは、導師に相応しい人間になった方が良いのかもしれない。

「ルーク殿。どうすれば、僕はもっと導師らしくなれるのでしょうか?」

 空気が変わったことにホッとしたルークは、導師らしさを問われて困りとりあえずイオンの印象を告げる。

「イオンは何か押しに弱そうだし、もっと強気になればいいんじゃないか?
 こう、『僕に逆らうのですか』って感じで。口うるさい奴に言ったらスカッとすると思うぞ~」

 結構いい加減なルークのアドバイスにイオンは、真剣に耳を傾け感謝する。

「ありがとうございます、ルーク殿」
「その殿って奴止めろよな。なんか、こうむず痒くなってくるんだ」

 ルークが両手を胸の前で交差して、ぞわぞわすることを伝える。
 呼び捨てでいいと言われたことにイオンは一瞬驚いた顔をして、次に破願した。
 「はいっ!」と元気一杯に答え、その一言に嬉しさを込める。

「ルーク。僕、もう少し頑張ってみます」

 噛み締めるようにイオンはルークの名を呼んだ。




 花開くようにイオンは微笑む。先程までの様子とは打って変わっている。
 なんとなく照れ臭くなったルークはわざとらしく声を張り上げ、強引に話を変えた。

「しかし、ティアが心配だな。誰か強い奴がいればすぐに迎えに行けるんだけどなあ」
「では、私と一緒に参りましょう」

 知らない声が返ってきてルークは振り向き様に誰何する。その質問の答えをイオンが先に言った。

「ジェイド!」

 ルークはティアの言っていた軍人だとその青い軍服を見てすぐに分かった。
 薄茶の髪に赤い眼。眼鏡が嫌味なぐらい似合っている。彼の赤い眼はルークを不躾に嘗めまわした。
 ルークはそのとき初めてフードを被っていないことに気付いた。
 森の中だからと安心していた自分に舌打ちをしたい気分である。せめてもの抵抗として眼を合わせないようにする。
 そのルークの反応にジェイドは詮索をあとにして、とイオンに件のティアの行方を訊ねた。
 イオンは、しょんぼりとしながらジェイドの問いに答える。

「……ジェイド。すみません。勝手なことをして。彼女にはライガの下へ交渉しに行っているのです」
「ライガと交渉、ですか。……それにしても、あなたらしくありませんね。悪い事と知っていてこのような振る舞いをなさるのは」
「チーグルは始祖ユリアと共にローレライ教団の礎。彼らの不始末は僕が責任を負わなければと……」

 ジェイドは昨日の昼間チーグルを殊の外気にかけていたことからもしやと思い、此処まで探しに来たのである。
 まさか何者かに浚われたのではないかとも思っていた。ついその発見に安堵して、苦言を呈してしまった。
 そして、普段より悪い顔色に気づき、半ば確信を持ってイオンに問いかける。

「そのために能力を使いましたね? 医者から止められていたでしょう?」

 イオンはジェイドの的を射た指摘に小さく「すみません」と謝罪した。

「しかも民間人を巻き込んだ」

 なおも続きそうなジェイドの追及に、ルークは耐えきれなくなり横から口を挟む。

「おいっ! もういいだろ。ティアの様子を見に行くなら急ぐぞ!」
「おやおや、そんなに付き合っている方が心配ですか?」

 話を中断されたジェイドは、半ば反射的にルークをからかった。
 それにルークは、「なっ! そんな関係じゃねえぞ!」と素直な反応を返す。
 ジェイドは、予想通りルークの若い様子に笑みを浮かべ、人を呼んだ。

「冗談ですよ。アニス! ちょっとよろしいですか」
「はい、大佐♥ お呼びですかあ」

 またもやジェイドと同じように何処からか現れた人間にルークは驚き、そしてイオンやティアと似たような格好をしていることに気づいた。
 ダアトの者である。しかし、アニスと呼ばれた彼女はイオンには見向きもせず、ジェイドから何か頼まれている。

「えと……わかりました。その代わりイオン様をちゃんと見張ってて下さいねっ」

 そう言うとアニスは現れたときと同じようにどこかへと去っていった。
 そして、「それではティアという方のところに行きましょうか」とジェイドが言いかけたとき、ティアが帰ってきた。

「イオン様、ライガとの交渉に成功しました。彼らは準備が整い次第、この森の奥に移住します」
「ご苦労様でした、ティア。これでチーグルも安心できるでしょう」

 ティアの報告にジェイドは眉を顰めた。
 繁殖期の前に人里近くのライガは刈り尽くすのが道理。害獣を敢えて生かす必要はない。

「イオン様、本気ですか? ライガは魔物の中でも人の肉を好む。人里の近くにいるならさっさと殺すのが世のためです」

 今から殺してきますといわんばかりのジェイドを止めようとティアが詳細を説明しようとした。
 だが、その前にイオンが毅然とジェイドに向かって言い放つ。

「この手の被害の対処に関しては最初に発見したものの判断が優先されるはずです。
 チーグルはローレライ教団の聖獣でもあります。この一件はダアトが預かります」

 神託の盾騎士団は魔物退治から護衛まで幅広い依頼を受けている。当然、その任務中に別件で国軍とかち合うこともあり慣習ができている。
 魔物や盗賊の処分については、先に処理した方の判断が優先される。異議がある場合は、その判断材料を提示しなければならない。
 なかなか面倒な作業であり、正当な理由があればその前に引き渡されるのでよっぽどのことがない限り覆されないものだ。

「分かりました。この一件はダアトに任せましょう。時間もありませんし、被害が出ないのならば構いません」

 しぶしぶとジェイドはイオンの言葉を受け入れた。魔物の処分によってイオンの機嫌を損ねる訳にはいかない。
 それよりも此処は恩を売るべきと考えた。

「ジェイド、ありがとうございます。親書が届いたのなら急ぎましょう。
 ルーク。さっきはありがとう。あと少しだけおつきあい下さい」

 イオンはジェイドからかばってくれたルークに礼を言い、別れを惜しんでいた。


 マルクトとの調整について目処が立ったところで、ティアはチーグルの長も交えて結果を報告する。

『話はミュウから聞いた。二千年を経てなお約束を果たしてくれたこと、感謝している。チーグル族は北の森が回復するまでライガに貢物を送ろう』
「チーグルに助力することはユリアの遺言ですから、当然です」

 そう答えるイオンは、何処か自信に満ちていた。
 チーグル族の安全が確約されたことに老チーグルは重々しく頷き、ミュウに向き直る。

『しかし、元はと言えばミュウがライガの住み処を燃やしてしまったことが原因。そこでミュウには償いをしてもらう。
 ミュウを我が一族から追放する。北の森が回復するまでこの森に立ちいることを許さぬ』
「それはあんまりです」

 イオンはその余りにも重い処罰に悲しそうな顔をする。
 ティアも1年間ではないということに驚愕した。そして、すぐにその理由を察する。ミュウのためである。

 ライガが駆除されたならば脅威も去り、1年森を追放することでほとぼりも冷めただろう。
 だが、ティアの提案によって長い間ライガの存在を身近に感じなければならない。定期的な貢納は一族全体に負担をかける。
 その原因であるミュウの将来は容易に想像できる。非難されて酷使されて、精神的にも肉体的にもぼろぼろになるだろう。

『けじめはつけねばならぬ。なに、このソーサラーリングがあれば人の中でも暮らしていける』
「契約の証しを。良いのですか? これはチーグル族にとって大切なものでは?」
『チーグルは恩を忘れぬ。ミュウはそなたらによく仕えるだろう』

 ソーサラーリングを手放せば、チーグルは人の手を借りることができないだろう。
 それがチーグルの魔物としての意地であるようにティアは思えた。誇りを忘れたチーグル。魔物ですらないと言い切ったクイーンの姿が思い浮かぶ。
 また、ソーサラーリングがあれば仔どもであるミュウも人に受け入れられやすいはずだ。せめてもの餞別だろう。

『僕、ダアトで頑張るですのっ!』

 ミュウの張りきった声は虚しく響き渡る。空元気は板についているようだ。一族を離れるというのに悲しいそぶりも見せないミュウに心が痛くなる。
 せめてこれからの旅の間、ミュウを大事にしようとティアは思った。


「それで、イオン様。そちらの二人に紹介してくれませんか。いつまでも警戒されているというのは、いい気分ではありませんので」

 一段落ついたところで、ジェイドが痺れを切らしてイオンに声をかけた。
 イオンは、それに応じて二人の名をジェイドに教える。そして、ぎこちない様子に二人を安心させようとした。

「二人とも大丈夫ですよ。彼はジェイドといってマルクト軍の大佐なんです。僕を此処まで連れてきてくれたのです」

 ジェイドはにこりと微笑み、親しげな様子でルークに話しかける。

「ティアはオラクルだと見て分かりますが、あなたは? お二人が恋人関係ではないというなら、いったいどういう関係なんです?」
「それこそお前に関係ないだろう。もう、いいか?」

 間髪いれずにルークは不機嫌そうに答える。
 赤い髪と緑の眼に心当たりがありそうな軍の人間から早く離れたいという一心だった。

「まあ、そうですね。なら、森の出口までご一緒しましょう。怖い魔物もいるようですし」

 ジェイドは気を悪くした様子もなく応じた。その視線はルークに固定されたままであり、見逃すつもりはないようだ。
 傍らで聞いていたティアは、いちいち皮肉を付け加えるジェイドに疲れて何も言えなかった。




 森の出口では大層なお迎えが待っていた。ずらりと軍人が並び、それだけで威圧感がある。
 ルークは眉を顰め、心の中でジェイドを罵倒した。

「お帰りなさ~い♥」

 アニスのやけに明るい声が、ルークの苛立ちを助長させる。

「ご苦労様でした、アニス。タルタロスは?」
「ちゃんと森の前に来てますよう。大佐が大急ぎでって言うから特急で頑張っちゃいました♥」

 その返答にジェイドは満足そうに頷くと、部下たちに命じる。

「そこの二人を捕えなさい。正体不明の第七音素を放出していたのは、彼らです」

 その命令に驚いたのはイオンであった。

「ジェイド! 二人に乱暴なことは……」
「ご安心下さい。何も殺そうという訳ではありませんから。……二人が暴れなければ」

 暴れるも何も二人は初めから無抵抗だった。ティアは元からそのつもりであり、ルークは兵を見た瞬間から諦めていた。
 はいはいと降参のポーズを取るルークにジェイドは我が子を誉めるように声をかける。

「いい子ですね。――連行せよ」

 その一片の躊躇いもない命令に青い軍服を着た数人が二人をタルタロスへと連れていく。
 ティアとルークは国境を侵した犯罪者として軍に捕らえられてしまったのである。





[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第十一節 歯車はきしむ
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/12 09:06




 タルタロスはマルクト軍の陸上装甲艦である。陸上というが水上も走ることができる最新鋭の、厳密に言えば水陸両用装甲艦だった。
 ギリシャ神話の奈落の名を冠する彼女は優雅にエンゲーブ近郊の森からカイツールへ向けて走る。
 無駄を削り取り風の抵抗を少なくした設計と、その譜術を展開するための譜陣はそれが戦争のための兵器であることを考えさせないほど美しい。いわゆる機能美というものだ。
 白い胴体と帆。紡錘円状の艦から伸びている突端。相手の艦を突き刺すためのデザインさえ何処か洗練としたものを感じさせる。
 甲板など至る所に描かれた譜陣は、攻撃と防御のためのものと分かっていてもなお軍艦に似つかわしくない絵画のようだった。

 通された先はさすがに客船のように豪華ではなかったが、それでも上等な部類に入る部屋なのだろう。
 軍艦であるためその内部は客船のようにはいかない。足元が埋もれるほどの絨毯や身を任せたくなるソファー、煌びやかな家具など一切ない。
 どう誉めても簡素なという形用しかできない部屋である。それでも軍艦ということを鑑みればマシな方なのだ。
 部屋の奥の椅子にルークは腰掛け、その横にティアは立つ。正面にはジェイド、イオン、それにアニスが並んだ。


「第七音素の超振動はキムラスカ・ランバルディア王国王都方面から発生。マルクト帝国領土タタル渓谷付近にて収束しました。
 超振動の発生源があなた方なら不正に国境を越え侵入してきたことになりますね」

 ジェイドは国境侵犯の罪を問う。だが、その正体不明の第七音素の発生源が二人であるという証拠はない。
 それを分かっていてもジェイドは二人を手に入れておきたかった。正確には王族の血を引くルークを。
 当のルークは、ジェイドの言葉に何の反応もしなかった。それをアニスが茶化す。

「無言っ! 大佐、嫌われてますね♥」
「傷つきましたねえ。ま、それはさておき。ルーク。あなたのフルネームは?」

 とうとう問われたかと思い、ルークは腹をくくることにした。嫌な予感というものほど当たってしまう。
 正体がばれているのなら隠す必要もない。できれば相手が信用できるかどうか、すぐさま殺害という思考回路をしていないことぐらいは知りたかった。
 だが、それもこの状況では無理な注文である。ルークは咳払いをして、背筋を伸ばし、父上や師匠の姿を思い描きながら口上を述べる。

「俺はキムラスカ・ランバルディア王国公爵、クリムゾン・ヘアツオーク・フォン・ファブレが一子、ルーク・フォン・ファブレだ。
 その超振動はティアとの間で偶然発生してしまったもので、意図したものじゃない。遭難したようなものだ。拘束は行き過ぎだぞ」
「キムラスカ王室と姻戚関係にあるあのファブレ公爵のご子息……という訳ですか」

 ジェイドは確認するようにルークの名を口ずさみ、考え込んだ。その横でアニスは「公爵♥ 素敵♥」と呟き、その地位と身分が示す資産に反応する。
 15年前のホド戦争に出兵したジェイドは王族の特徴を知っている。戦場で赤い髪を見たら狙い撃てと教えられたのである。
 本物は赤い髪に加えて緑の眼を有していることも、その二つの色を持つ者が少なくなっていることも知っていた。
 軍は、キムラスカ王族が自滅するのと自分たちが彼らを滅ぼすのとどちらが早いかと揶揄している。

 その数少ない王族に関してピオニーの側にいたジェイドは、嫌でも詳しくなった。だが、極端なほどルーク・フォン・ファブレの情報は少ない。
 国王の息女、ナタリア殿下と婚約しており、次期王の可能性があるにも関わらずである。
 殿下は精力的に慰問や寄付などを行っていると聞くのに、その相手はいるのかどうか存在さえ疑われ始めていた。
 そして、生きているとしても公に出せない理由があるのだろうと推測されていた。何か身体に異常があるとか、もしくは白痴だとか。
 だが、蓋を開けてみれば五体満足。吃音が喋れないとかでもなく、いたって正常。血の澱みで疾患があるようには見えなかった。

 本当に本人なのかとジェイドは疑いの目で見てしまう。そうジェイドが考えていた間に、イオンは既に決心していた。

「大佐。彼らに敵意を感じません」
「まあ、そのようですね」

 イオンはジェイドの同意を得て、提案する。

「ここはむしろ協力をお願いしましょう」

 ルークはその話の流れにおやっと内心首を傾げた。きな臭い雰囲気になってきている。色々と何かがおかしい。
 これ以上面倒事はいらないとルークは思った。敵国で身の安全も保障されないまま、何かに首をつっこめるほど呑気ではない。
 たとえ行方不明の導師がマルクトの軍人と一緒に何か画策しているとしても、追及しないから放っておいてくれとルークは祈った。
 その切なる想いを無視して、ジェイドは強引にルークを巻き込む算段を巡らす。

「我々はマルクト帝国皇帝ピオニー九世陛下の勅命によってキムラスカ王国に向かっています」

 ルークがそれ以上口を開くなと願ってもジェイドは、自分の意志を貫いた。
 そして、興味がないふりをしながらも、ルークは皇帝の勅命という単語を聞き逃さなかった。この一連の騒動にマルクトという国家が関わっている。
 一瞬宣戦布告という文字が脳裏をよぎり、イオンの性格を考えるとそれはないだろうと否定する。
 イオンは戦争が起こると知って、あんな風に構えていることはできないだろう。短い付き合いでもそれぐらいは分かる。
 かといって和平という考えには行き着かなかった。どうにも違和感が残るのである。故にルークは、「そうか」とだけ答えた。
 丸っきり信用されていないことを感じ取ったアニスは、何とか好感を得ようと機密を漏らす。

「戦争を止めるために、私たちが動いているんです」

 だからそんな邪険な目をしないで下さいと全身で訴えた。
 そのアニスの行動をジェイドは、「アニス。不用意に喋ってはいけませんね」と嗜める。

「これからあなた方を解放します。軍事機密に関わる場所以外は全て立ち入りを許可しましょう。
 まず私たちを知って下さい。その上で信じられると思えたら力を貸して欲しいのです。戦争を起こさせないために」

 ジェイドはルークへ真摯に願い出た。付け加えた一言を彼は心から信じていた。
 ピオニーが和平を退けられること、マルクトに道理がある状態で開戦することを望んでいるとは知らず、ジェイドは一人和平のために奮戦していた。
 グランコクマからバチカルに着くまで想定されるありとあらゆる妨害を潜り抜け、あるいは排除して此処まで漕ぎつけた。
 親書をバチカルまで届けて欲しいというピオニーの期待にジェイドはきちんと応え、ある意味、応えすぎていた。
 導師を味方につけるなどという離れ業をやってのけるとは、誰も予想していない。天才は常人と感性が異なっている。

「いま詳細は言えませんが、是非とも協力して貰いたいことがあるのです。
 説明してなおご協力してもらえない場合、あなた方を監禁しなければなりません。ことは国家機密です。どうかよろしくお願いします」

 ジェイドは和平の締結という結果をだすためなら手段を選ばなかった。例えば、相手国の王族をちょっと脅すことぐらい何てことない。
 長々と下手に出ても必ず協力してもらえるとは限らないのだから、結果が早く出る脅迫の方が建設的だ、というのがジェイドの考えだった。
 さらに言えば、ジェイドはルークに協力してもらえると確信を持っていた。なんせ此処は陸上装甲艦タルタロス、ジェイドの牙城である。
 貴族の我が身可愛さをジェイドは熟知している。和平という口実をぶら下げておけば食いつくだろうと考えていた。

 結果は分かりきっていると思い、ジェイドはルークの相手を二人に任せる。
 イオンとアニスもルークに協力して欲しいと告げ、それにルークは何とも言えない顔をした。




 さて、どうしようかとルークが一息つくと、アニスが声をかける。

「ルーク様♥ よかったら私がご案内しま~す♥」
「ん? でもお前、イオンの守護役だろ。傍離れるのは駄目なんじゃないか?」

 森の出口に向かう途中、ルークはティアから神託の盾の制服について教えてもらった。
 個人主義な者が多く、強い人間ほど自由に振る舞える。師団長はそれぞれ凝ったデザインの服を着ているらしい。
 ティアの制服は技手のものらしく、滅多に着ないものだそうだ。ピンクの制服は導師守護役である。
 片時も傍を離れない守護役。導師コレットとその守護役ロイドの軌跡を綴った『響きあう物語』が好きだったルークはその関係を美化していた。
 いついかなるときも傍を離れず、何を敵に回しても導師を守る存在。そのアニスはおずおずとルークを見上げお伺いをたてた。

「イオン様なら大丈夫ですよ。タルタロスはすっごい艦なんですから。ルーク様♥ どこに行きたいですか?」

 守護役が言うならそうなのだろう。そう思ったルークはタルタロスに興味を持った。純粋な力の塊に憧れを持つのは男の性である。
 軍艦を見たのは辻馬車ですれ違ったときが初めてだ。中を見られるなど滅多にない。
 それに、落ち着けるところでジェイドの申し出についてじっくり考えたかった。

「艦橋が見てみてーけど、無理だろ? 風にあたりたいかな」
「なら、こっちです♥ ルーク様♥」

 アニスはルークの腕を取り華奢な階段へと向かう。
 ルークはその案内に従い、ぼうっとしているティアにも声をかけた。

「おい、ティアも行くぞ!」
「あ、うん」

 ティアは貴族らしいルークの様子に驚いていた。なかなか傍若無人というイメージは拭えない。その貴族なルークと親しげなルークのギャップに戸惑ってしまう。
 階段を上り、扉を開くとジェイドとイオンがいた。考えることは皆同じようである。真面目な話に気詰まりしていたのだろう。
 イオンはルークの姿を見ると、「とんだことに巻き込んですみません」と謝る。ルークは、「いいよ、別に。狙ってたんじゃないだろ?」と直ぐに許した。


 そして、ルークは未だ導師が行方不明中であるということを考え、まずいかもしれないと思った。
 つまり、マルクトはダアトの承認を得ないまま、もしくは機嫌を損ねたまま導師を連れ回しているのだ。そこまでしてマルクトは平和を望んでいる。
 このままだと自分は強制的にでも手伝わされそうだ。頭が痛くなってくる。ジェイドの言う協力とは何だろうか。
 マルクトは心から平和を望んでいます、なんていう口添え? それとも父上や叔父上への取り次ぎ?
 だが、本当に平和を望んでいるならキムラスカにも繋ぎを取っているだろう。爵位も継いでいない公爵子息の自分は必要ないはずだ。
 そこまで用意ができていないなら、まだ無理な話ということだ。そもそも自分はずっと軟禁されていて、実績も伝手もない。

 そして、ふと気付く。協力してもしなくてもこの陸艦に囚われることには違いないじゃないか。
 監禁されないと言っても部屋からそう安々と出られる訳がない。屋敷にいたときと同じように、通せんぼをされるはずだ。
 協力すると言えば、身分を盾に叔父上まで話を通せと言われるだろう。協力しないと言えば、人質として扱われるだろう。
 どちらも御免だ。ルークは悔し紛れにガシガシと頭を掻く。八方塞である。

 ルークはただ平穏無事にキムラスカに帰りたいだけだ。マルクトとキムラスカだけでなく、ダアトまで巻き込んでいる国家機密に関わるつもりなどなかった。
 エンゲーブで父上か叔父上からの返事を受け取り、その指示通りに何処からかの救助を待つ。それだけのはずだった。
 その予定だったのだが、何の因果かいまルークはマルクトの軍艦に乗っている。面倒になってきて、単純に考えようとルークは深呼吸した。

 公爵子息である自分が取るべき行動はどちらか。
 マルクト帝国皇帝の勅命を受けているジェイドと導師イオンに協力するか否か。




 狭い一室に5人は集まった。そして、ルークの一言に場は沈黙した。

「協力はできない」

 ルークは、神妙な面持ちでそれだけ伝えた。ジェイドは眉を顰め、アニスは首を傾げる。
 何故、協力しないのかといわんばかりである。

「そんなっ! どうしてです、ルーク?」

 イオンは、悲痛な声で訊ねた。まるでルークが裏切ったかのようだった。
 イオンの問いにルークは用意していた理由を述べる。

「俺の手には余るから。導師まで関わっている国家機密に、国政に参加していない一介の公爵子息の出番はないだろ。
 皇帝の親書まで用意してるんだから、当然キムラスカにも話は通してあるんだろう? むしろ俺が関われば、さらに話がややこしくなる」

 身分を重要視する傾向のあるキムラスカで、ルークが率先して彼らを連れてくればファブレ公爵家の顔を立てなければならなくなる。
 実際にマルクトと連絡を取って下準備をしていた者たちは気分を害するだろう。
 そして、公爵が賛成しているかどうかも分からない案件に此処で回答して、子息が先走っては纏まるものも纏まらないかもしれない。
 逆に、こんな偶然に頼らなければならない状況に彼らがいるならば、強引に事を進めるしか選択肢がないのならば、その危うい話に乗るべきではない。
 そんな準備で休戦中の二国の関係が改善するはずがないと、ルークは考えたのである。

 それに、ルークはナタリアの口癖を思い出していた。『王族は国民を守るために存在しているのです』という台詞を。
 紛いなりにも赤い髪と緑の眼を持つ公爵子息。身の安全のために彼らに協力するのは何か違う気がした。
 彼らが平和を望んでいるのなら無駄に自分を害しはしないだろう。そこまで考えてルークはジェイドの申し出を撥ね退けた。


 ティアは驚き過ぎて何も言えなかった。
 ルークの性格が変わっていたが、それでも結局なんだかんだ言って協力すると思っていたのである。

 その思い込みは、オールドラントの住人の預言対する盲目的な信頼とどこか似ていた。予定調和のように大半の人間は預言の通りに動く。
 だから組織的に動かなければ大勢は変わらないだろうとティアは勝手に決め付けていた。
 世界は等しく無慈悲だ。ティアは自分の知らぬところで逸れた流れを甘く見ていたのだ。


 穏やかな変化は渦巻く欲望を受け止め形を変えている。その水の如き流れは深く地の底を削り、その炎の如き揺らぎは地の底まで届きそうである。
 その源は他でもないティアだったのだが、本人はそれを知らず、それを知る者は口を噤んでいた。
 数多の人間を巻き込んでいる歯車は、軋んだ音を立てながら何食わぬ顔で回る。生じた歪みが歯車ごと全てを壊すまで、回り続ける。






[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第十二節 導師奪還作戦
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/14 22:30



「ジェイド。彼らは悪い人ではありません。監禁するなんて、ルークの言う通りやり過ぎです」

 イオンはジェイドを非難して二人の解放を訴える。
 ルークが協力を拒否するとジェイドは兵を呼び、二人を捕虜として牢へ連れていかせた。

「これは仕方のない措置なんですよ。彼には保護したことを感謝して欲しいぐらいですね」

 ジェイドは自信がないというだけで和平を切って捨てた貴族のお坊ちゃんの態度に呆れていた。
 別にそんな大層なことを頼むつもりなどなかった。ただ、国境を越えるのに少し役立ってくれれば良かったのである。
 やはり頼りになるのは導師だ。だが、その導師はルークに酷くご執心のようで、先程から何かとうるさかった。
 これもルークのためなのに何故こうも理解してくれないのか。ジェイドは何かを堪えるかのように眼鏡をかけ直す。

 此処はマルクトの軍艦なのだ。此方が隠しても、あの赤い髪と緑の眼ではキムラスカと縁があるといずれ分かるだろう。
 牢は彼を閉じ込める檻だが、同時に堅固な守りにもなる。軍艦で鍵がかかるのは要人用の部屋か牢ぐらいだ。
 部下を信用していない訳ではないが、予防はしておいた方が良い。和平に協力してもらえれば自分が護衛につくこともできたが、今となっては仕方がない。

 ジェイドはため息をつこうとして導師の存在を思い出し、その疲れたという感情ごと飲み込んだ。
 この導師は始終、人の顔色を窺っている。人の感情に聡いと言えば聞こえはいいが、その卑屈とも言える態度にジェイドはどうしても違和感を拭えない。
 ピオニーや軍の将軍など上に立つ者はどうしても隠せない、気迫や威圧と言ったものを持っている。
 ダアトの導師が代替わりしたのは5年以上も前のこと。派閥争いに明け暮れていると聞いていたが、そのせいでこうなってしまっているのなら想像以上に酷い様である。
 
 導師派の勢力は予想よりも下回っているようだ。大詠師派がどんな反応を示すか読めない。イオンが言うには、大詠師モースは戦争を望んでいるらしい。
 聖職者も人間だ。ジェイドは、預言を口実として彼らも戦争が齎す利益を望んでいるのだろうと考えた。
 マルクトのピオニーの政策に反対する好戦的な連中に、ダアトの大詠師派と敵には事欠かない。
 ルークだけではなくティアも牢に入れたのは、彼女が大詠師派かもしれないからだ。敵に密告でもされたら大変である。


 そのような人を疑うという考えはイオンには無いようで、これでは先が思いやられるなとジェイドは肩をすくめる。
 ため息の代わりに眉間の皺が寄った。それを自覚しつつ、ジェイドはなるべく穏やかな声を意識してイオンに話しかける。

「イオン様。少し休まれては? 森の中を歩かれたのでしょう? 慣れない道を行くのは存外に疲れるものですよ」
「もう、イオン様ったら。お疲れになっているんなら、言って下さいよぅ」

 ジェイドの提案にアニスは直ぐに賛同の意を示す。
 イオンは、疲れてはいないが、部屋で落ち着いて考えたいと思った。
 そしてイオンが、「休憩しようと思います」と告げようとしたときのことである。


 警鐘が鳴り響いた。思わず耳を塞いでしまいたくなるような不吉な音だった。
 すぐさまジェイドは部屋の回線を繋ぎ、何事かと訊ねる。

「艦橋! どうした?」

 譜業を通してジェイドの頼もしい部下が報告してきた。

『前方20キロ地点上空にグリフィンの大集団です! 総数は不明! 約十分後に接触します! 師団長、主砲一斉砲撃の許可を願います』
「艦長はキミだ。艦のことは一任する」

 ジェイドの信頼に応えるかのように「了解!」という大きな声が返ってきた。
 その奥からは騒がしい艦橋の様子が漏れている。

『前方20キロに魔物の大群を確認。総員第一戦闘配備につけ! 繰り返す! 総員――』

 ジェイドは戦闘を前に緊迫した雰囲気を纏う。

「イオン様、あなたは此処でじっとしていて下さい」

 戦場になれば敵味方入り乱れることになる。背後を気にしながら戦うのは性に合わない。
 一番狙われる可能性が高いのはイオンだろう。和平の妨害なら導師か、親書か、自分のどれかを押さえれば良い。
 彼さえ無事なら最終的に和平は成る。ジェイドは自分の強さを自負していた。雑兵が幾ら束になってかかってきても負けるつもりはなかった。
 そのことは敵も承知しているだろう。ジェイドは心してかからなければと気合いを入れ直す。

「アニス、頼みがあります。これを持っていて下さい。そう簡単にやられるつもりはありませんが、万が一ということもありますからね」

 ジェイドはエンゲーブで受け取った親書をアニスに渡す。
 三つのうち親書が一番処理し易い。導師を殺す訳にはいかないし、自分は強い。
 ならば、親書は一番持っていなさそうな人物に預ける方が良いだろう。

「えっ? 大佐、これって……」

 手に持ったそれが何なのか察したアニスは、思わずジェイドに確認した。
 ジェイドが片時も離さなかった親書がその手にあった。

「これでも私は結構アニスのことをかっているんですよ?」

 不安そうなアニスをジェイドは誉めた。ジェイドはアニスと出会って短い。信頼できるかどうかなど分からない。
 それでも彼女を信頼しているイオンにかけることにした。随分とイオンはアニスを頼っている。その絆は固いのだろうと。
 アニスはなんだかんだ言ってイオンを守っている。自分がイオンから離れなければ、親書もきちんと返ってくると。

「なら、大佐のお嫁さんに立候補しちゃおうかな♥ 親書はアニスちゃんに任せて下さい!」

 ジェイドの誉め言葉にアニスは軽いノリで本音を告げた。
 大佐ぐらいの金持ちなら、モースから逃げることができるかもしれない。意に沿わないスパイなんてことをしなくても良くなるかもしれない。
 ちょっとやそっと悪口を言われても堪えなさそうだし、モースを敵にしてもこの調子だ。
 トキメキとはかけ離れた打算でアニスはジェイドに媚を売る。これも両親のためだ。お金さえあれば、何でもできるようになるはずだ。


 イオンを置いて二人の会話は弾む。もしもの場合についてジェイドはアニスに指示をしていた。
 蚊帳の外に置かれたイオンは、ミュウをぎゅっと抱きしめ自分の考えを口にする。

「待って下さい、ジェイド。彼らと話をさせて下さい! 彼らはグリフィンを――」

 グリフィンを操っているならアリエッタが来ている可能性がある。ダアトの者なら、自分が望んで此処にいることを話せば帰ってくれるかもしれない。
 世話になったこの艦の人たちとダアトの兵が戦うところなど見たくない。自分は導師である。ならば、自分に出来ることは彼らの誤解を解くことだ。
 イオンは何とか戦闘を回避しようとジェイドに話し合いを提案しようとした。だが、イオンの必死な言葉は遮られ、その真意は伝わらなかった。

「大丈夫です、イオン様! トクナガがいれば、グリフィンだってぎったんぎったんにしてやれますからっ」
「その意気ですよ、アニス。では、しばしお待ち下さい」

 パタンと扉は閉じられ、イオンは一人部屋に残される。無力感が襲ってきた。適当な椅子に座り、イオンは項垂れる。
 ミュウは、膝の上から悲しそうな顔をしているイオンを見上げ、『どうかしたんですの?』と問いかけた。

「何でもないですよ、ミュウ。……一緒に待ちましょうか」

 また待つことしかできないのだろうか。イオンは、心の中でルークに語りかける。


 ルーク。導師なんていう地位にいながら僕は、人を救うことができません。
 僕が待っている間に皆、殺し合うことになるでしょう。全て僕のせいです。
 平和を望んでいるのにどうしてこうなってしまうのでしょうか。こういうときは、どうしたらいいのでしょうか。




 ジェイドとアニスが廊下に出るとぐらりと艦が傾き、頭上から何か重たいものが落ちてきたような音がした。
 ジェイドは、「どうした?」と艦橋に問い合わせた。
 向こうは慌ただしいようである。現状を報せようとする声は無駄に大きかった。

『グリフィンからライガが降下! 艦隊に張り付き攻撃を加えています! 機関部が……うわぁぁ!?』

 何かが彼の言葉を遮った。悲鳴とぐしゃり、どさりという音がそこで何が起こったかをジェイドに教えた。

「艦橋! 応答せよ、艦橋!!」

 無言しか返ってこない。艦橋は敵の手に落ちている。
 ジェイドは、まずくなってきたなと思った。艦橋が奪われたのなら船自体が奪われたも同じ。地の利が活かせなくなる。
 二人が廊下から移動する前に階段から神託の盾騎士団の兵が現れてしまった。その後ろには身の丈ほどの鎌を持った大柄な男が立ちはだかる。
 ジェイドは素早く譜を唱え、彼の周りの空間には鮮やかな譜陣が一瞬浮かび上がった。瞬時にその術は敵を貫き、抵抗する間も与えない。
 その熟練の技にラルゴは、感嘆の意を示す。

「さすがだな。だがここから先は大人しくしてもらおうか。マルクト帝国軍第三師団長、ジェイド・カーティス大佐。いや、死霊使いジェイド」

味方が倒れたというのに、ラルゴが動揺した様子は皆無だった。

「これはこれは。私も随分と有名になったものですね」

 ジェイドも強敵に出会ったことに対する恐れはなかった。敵は大詠師派の六神将。
 マルクトではないのかと安堵して、疑問が浮かび上がる。彼らは真っ直ぐに此処に向かってきている。
 他勢力のダアトが最新鋭の艦の構造を知るはずがない。艦の情報が漏れているかもしれない。
 もしくはそれだけの人数が動員されているか。
 どちらにしろ厄介である。ジェイドは即座に撤退することを決めた。

「戦乱のたびに躯を漁るおまえの噂は、世界に遍く轟いているぞ」

 ラルゴは道を塞ぎ、大鎌を構え好戦的に告げる。

「あなたほどでもありませんよ。神託の盾騎士団六神将『黒獅子ラルゴ』」
「フ……。いずれ手合わせしたいと思っていたが、残念ながら今はイオン様を返してもらうのが先だ」

 心底残念そうに言うと、ラルゴは得物をジェイドに突きつけた。

「イオン様を渡す訳にはいきませんね」

 そう言いながらジェイドは半ばイオンのことを諦めていた。此処まで鮮やかに艦を奪われては、できることなど限られている。
 いまジェイドにできることは一番脆い親書を守ること。そのためにアニスをこの場から逃がすことだ。

「死霊使いジェイド。おまえを自由にすると色々と面倒なのでな」

 レプリカイオンの傍にフォミクリー発案者のジェイド・バルフォア博士にいられては困る。レプリカの存在を知られてはならない。
 それに、レプリカイオンは身体が弱く3人のレプリカの中で一番乖離し易い。何も用意せずダアトを離れればすぐさま体調を崩す。
 ダアト式譜術を使える導師にいま此処でいなくなられる訳にはいかないのだ。

「あなた一人で私を殺せるとでも?」

 ジェイドは隙のないラルゴの挙動を見守る。
 するとラルゴは何かを懐から取り出し、「おまえの譜術を封じればな」と言うとそれを放り投げた。
 箱から出た細い糸のような光線は、ジェイドを取り囲み彼のフォンスロットに干渉し始める。

 その小さな手のひらサイズの箱は、ディストが以前作成した譜術師殺しの譜業だった。
 フォンスロットを介して人は音素を操っている。では、そのフォンスロットを閉じてしまえばどうなるか。

「導師の譜術を封じるために持ってきたが、こんなところで使う羽目になるとはな」

 ラルゴは、膝をついたジェイドを見下ろしながら呟いた。

 フォンスロットは目に見えないが、人体の主要な器官の一つである。その機能を強引に外側から封じているのだ。
 尋常ではない痛みがジェイドを襲う。堪えた呻き声も漏れてしまった。何をされているか理解しても、抵抗のしようがなかった。
 莫大な音素を取り込めるようになっていたフォンスロットは収縮し、ジェイドは譜術師として素人同然になり下がる。
 呼吸するように操れていた音素が手を離れていく。それでもジェイドは諦めなかった。

「まるで誘拐犯か何かの様ですね」

 ふてぶてしい態度のまま、正面から戦おうともしないラルゴを挑発した。
 ラルゴはクッと喉の奥を鳴らし認識の違いを笑う。

「おや、貴殿の方が誘拐犯だと思っていたのだがな」

 そのラルゴの声に応えるかのように艦内に放送が流れる。


『――私は、神託の盾騎士団主席総長付副官リグレットだ。我々は行方不明の導師を保護しにきている。
 栄誉あるマルクト軍兵士に告ぐ。導師誘拐に加担していないのならば、大人しく投降せよ。抵抗すれば、導師誘拐犯と見做す。
 繰り返す! 抵抗すれば、――』


 第三師団に長くいる者は、ジェイドの性格を良く理解していた。
 部下を放置しているように見えて、実はよく部下を見ていること。憎まれ口は親しさの現れであること。そして、結果を追い求めるあまり独断専行を繰り返し、敵が多いことも。
 リグレットの放送の導師誘拐という単語に、ああ、やっぱりと思ったのはそんなジェイドを慕い、フォローしていた者たちだった。
 艦橋を奪われてなお抵抗することは、命を溝に捨てるようなものだ。ならば、五体満足でいた方が良い。
 ジェイドなら、何か起死回生の一手を打つかもしれない。そう思い彼らは投降した。

 信心はときに愛国心を勝る。先輩が投降したのを見て、それに倣ったのは誘拐という一言に対しての衝撃が大きかったからだ。
 神託の盾騎士団が問答無用と襲いかかってくる。そんな有り得ないことが起こるには、それ相応の理由があった。
 導師誘拐に関わっているつもりなどない。濡れ衣なら死ぬのは馬鹿馬鹿しく、本当ならなおさら投降するべきだった。


 その報せを聞いたのは、何も兵士だけではない。ラルゴもジェイドも聞いていた。
 そして、ジェイドはリグレットの声に反応したラルゴの隙を逃さなかった。体内に隠し持っていた槍を取り出し、突き刺す。
 咄嗟に反応したラルゴは、身体をひねり回避しようとした。だが、槍はラルゴのわき腹をかすめ、肉を抉る。

「アニスッ!」

 ジェイドの呼び声にアニスは、「はいっ!」と返事をして飛び出した。
 その狙いを察知してラルゴは、「行かせるか!」と鎌を振るうが、脇の傷で狙いが少々ずれてしまった。

 大鎌を振り切ったラルゴの横をアニスは駆け抜け、階段を昇り外の空気に触れた。至る所にある戦闘の跡に心が痛む。
 アニスは懐の親書を確認して、トクナガをぎゅっと握りしめた。やるべきことは分かっている。落ち合う場所の第一候補はセントビナー。第二候補はカイツール。
 「大丈夫っ!」と唱えてアニスは、甲板から身を乗り出しタルタロスから落下した。重力に従いアニスの身体は下へ下へと落ち、どんどん地面が近くなってくる。
 アニスはトクナガを大きくしてクッションにし、無事に着地した。
 振り返ったタルタロスの上空ではグリフィンが悠々と翼を広げ、甲板にはライガルが我が物顔で居座っていた。
 アニスは未練を振り払うかのよう踵を返し、太陽を仰ぐ。セントビナーは遠かった。




 アッシュは、不機嫌そうに剣を振るう。首元を狙ってしまいそうになり、軌道を修正した。
 肩を傷つけられた兵士は、滑稽なほどのたうちまわった。その叫び声が少しだけアッシュの機嫌を良くする。
 頭の中で響く声を塗り潰してくれる。年々酷くなるその声にアッシュの眉間の皺は深くなる一方だった。

「隊長! こいつらはいかがしますか」

 殺せ、と答えたいが、この任務の指揮を取っているリグレットが後でうるさいだろう。
 面倒だなと思っていると、また馴染みのある感覚が襲ってきた。

「ちっ。……捕らえてどこかの船室にでも閉じ込めておけ!」

 そう言い捨てるとアッシュは適当な部屋に潜りこみ、どさりと倒れるようにベッドに横たわった。
 一般兵士用の固くて狭いベッドである。それでも無いよりはマシだった。必死で頭の中の何か追い出そうとする。


    ――ルーク……我が声に……えよ! ルーク……!――


 うるさい。俺はルークじゃない。
 その名はもう捨てたんだ。聖なる焔の光などやってられるかっ!

 俺は、……燃えカスだ。


 アッシュは、目を瞑り呪文のようにその言葉を繰り返す。そうでもしなければ耐えきれない。
 だが、どんなにアッシュが否定してもその呼び声は途絶えなかった。





[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第十三節 決心
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/14 22:35



 ティアとルークの二人は牢の中で大人しくしていた。
 幸い荷物は取られなかったので、昼食にと宿の人に作ってもらったサンドウィッチを食べる。
 牢の中の二人の会話は弾まない。ただ機械的に食べ物を口に運ぶ。


 ティアは動揺していた。あれだけ介入しておいて今更、ルークの性格が少し変わったぐらいでと言えるだろう。
 だが、彼女にとってディストがネビリムを諦めることとルークが和平の協力を断ることは決して同列におけることではなかった。
 確かに昔、アリエッタにイオンの死に際を看取らせたとき、彼女は不確実な未来を受けとめようとした。覚悟したはずだった。
 結局、彼女がそのときした覚悟は目の前の人物の将来が変わることで、遥か遠くにいるルークの性格のことなど知りもしなかった。
 
 ティアはルークの性格が変わった理由が分からない。それがとても恐ろしく感じる。
 彼女は、彼女なりに肝心な部分に触れないよう気をつけていた。ダアトから出た覚えは任務以外では一度だけ。
 ユリアシティもこれまで通り影に徹しており、ケセドニアの会社もオベロン社としか取引を行っていない。
 バチカルの高いところで軟禁生活を送っているルークに影響を及ぼす。その心当たりはなかった。

 それぐらいでぐだぐだ言うなら初めから何もしなければ良い。だが、それはティアにはできない相談だった。
 六神将を見捨ててヴァンだけ心配することは、ヴァンに生きて欲しいと願ったときからできなくなった。

 ティアは兄を救うことに対して罪悪感を持っている。

 ティアは、確実に世界の危機を乗り越える方法を知っていた。それには犠牲が付き物だが、そこさえ目を瞑ることができれば良い。
 世界のことを考えるならば、何もしてはならなかった。本当にギリギリのところで世界は救われたのである。
 ならば、何か一つでも異なればそれが覆る可能性がある。ティアがしてしまったことは、しようとしていることは、そういうことだ。
 世界の滅亡が回避できないと確定して、ティアがそれを妨害したと知れば大多数の人は彼女を詰るだろう。
 それをおぼろげに理解しているティアは、兄を救うことを諦められない自分を許す機会を探していた。
 彼女は、アリエッタたちを見捨てることができない。物語の半分の比重を占める彼らを救うことは、自分の罪悪感を減らすことに繋がる。
 無論、彼らに対して好意を抱いたからこそ手を差し伸べたことも事実だ。だが、その裏には本人も気付いていないそんな自分本位な理由があった。
 なんにしろティアはヴァンを救おうとすると同時に、死ぬはずだった人を救うことを限界まで諦めないだろう。

 翻って、ルークの変化はそんなティアを叩きのめす。

 彼は物語の主軸である。その彼の性格が変わっているということは、それだけティアの知る未来から現在が離れていることを意味する。
 その原因が自分かどうか、判断はつかなかった。だが、関係ないと断言できない以上、ティアの疑いは晴れない。
 不透明な未来はティアの期待と不安を煽る。そして、万が一の場合を考えると怖くなる。その感情をどうにか小さな箱に押し込めて鍵をかけた。
 ティアはルークの性格の違いから必死で目を背けようとした。共通点を探して安心しようとしていた。

 だが、此処に来て決定的な一打をティアは受ける。
 もう、目を逸らしてはいられなくなった。




 どうしてこうなったのか、理由が分からずこれからどうなるのかとティアは考えた。
 アッシュとルークの出会い方が変わるかもしれない。ジェイドは軍艦を早期に諦めるかもしれない。
 和平の使者にルークがいないのなら、その足取りはもっと遅くなるかもしれない。

 そうなったらその次はどうなるのだろうか、とそこまで考えてティアは大きく息を吐く。
 全て仮定の話でしかない。こうしていろんな可能性を列挙してもその判断材料が揃っていないのだから無意味なのだ。
 膝を抱え、その上に頭を乗せる。横目でティアはルークをじっと観察していた。

 ルークは右腕を枕にして壁にもたれかかり、足を組んだまま空いた手でリンゴを投げている。
 真っ直ぐ上に投げ出されたリンゴは、重力に従いルークの手のひらに戻ってくる。その軌道をティアはぼうっと眺めていた。

「ん? なんだ?」

 ルークはティアの視線に気づき、声をかけた。

「ううん。…………ルークって貴族らしくないわね」

 ティアは、なんでもないのと言おうとして止め、代わりに他の質問をした。
 ルークは、そのティアの問いになんだそんなことか、というように笑みを零す。

「俺は箱入りだから? 貴族らしさなんて知らねーし」

 ルークは自分の境遇を揶揄した。貴族同士の交流などしたことがない。しいて言えばナタリアだが、彼女はその前に王族らしかった。
 勿体ぶった話し方など日常会話で使ってなんていられない。でも、20歳になったらそうしなければならないのだろう。
 めんどくさいなと考え、ルークは軟禁生活に慣れ切っている自分を知る。その屋敷に帰れるのはいつになるか。目処も立っていない。
 まさかマルクト国籍の軍艦がバチカル港に出入りする訳ないし、自分はこれからどうなるんだろうなあと他人事のように考えていた。

「もっと我儘だと思っていたわ」

 ティアは、正直に語った。そういう性格をしていると思い込んでいた。
 ルークは、「そういう奴もいるんじゃねーの」と一般論を述べる。貴族らしくないと言われれば、そうなのかとしか思えない。

「そうよね。……でも、ルークはルークよね?」
「まあ、俺は俺だけど?」

 ルークは、ティアの謎かけのような問いに首を傾げなら答えた。
 ティアは、そういうことでいいじゃないかと割り切ることにする。今更、今更なのだ。
 いま悩んでも意味がない。それよりも現状を受け入れることの方が大事だ。

「なら、改めてよろしく。ルーク」

 ティアは、けじめとして一言告げた。
 それにルークは、何がよろしくなんだと疑問に思ったがとりあえず、「ああ」と応えておいた。
 その返事にティアが満足して、ルークが気を紛らわそうとリンゴを一齧りしたときのことである。

 警報が鳴り響き、急に部屋の外が騒がしくなった。
 何かが起こったのだろうかと二人が顔を見合わせていると、急に艦が揺れる。外の喧騒はますます大きくなった。
 敵に襲われているのだろうか、危ないのではないだろうか、と考えても牢の中ではどうしようもない。
 ルークは浮かした腰を下ろし、リンゴを再び食べ始める。シャクッという音がとても場違いなものに聞こえた。
 ティアはオラクルが来たのだろうかと考えていた。そうしているうちに、リグレットの声が牢の中にも流れる。


『――私は、神託の盾騎士団主席総長付副官リグレットだ。我々は行方不明の導師を保護しにきている。
 栄誉あるマルクト軍兵士に告ぐ。導師誘拐に加担していないのならば、――』


 ルークは、そうかダアトが動いたのかと納得する。イオンが此処にいるのだからそれもあり得るだろうと思った。
 ダアトと交渉するのも一つの手かなと考えつつ、食べ終わったリンゴの芯をその辺に捨てる。

 規則正しい足音が聞こえ、一つ一つ部屋を見回っているようだ。ティアは立ち上がり警戒した。
 タルタロスの乗員は皆殺し。いくらダアトの制服を着ていても安心はできない。
 カチャッと鍵を開ける音がして、その扉が開かれる。現れた兵士は、神託の盾騎士団の者だった。
 その服の意匠から所属している隊が第三師団と分かると、ティアは当然のように告げる。

「私は、第五師団付技手のティア奏長です。師団長にお話ししたいことがあります」

 制圧した軍艦の捕虜に言われ一瞬戸惑った兵士は、「ちょっと待ってて下さい」とだけ言い同僚を呼んだ。
 そして、アリエッタはその付け加えられた報告に驚き、ティアの元を訪れると二人を牢から出す。叫びながら。

「ッ! ティア、なんで此処にいるの。シンクはティアが消えたって心配してたのに」

 アリエッタは大きな目を潤ませている。アリエッタがぎゅっと人形を抱きしめる度に、ティアの罪悪感は掻き立てられた。
 ティアは何と言えばいいのか分からず、「成り行きかしら?」とだけ言う。
 アリエッタは、その説明することを放棄したティアの様子に釈然としなかった。無言で訴える。
 ティアは、その口以上にアリエッタの心情を語っている瞳に怯み、話を変えた。

「あのね、アリエッタに頼みたいことがあるの。後でイオン様も仰るかもしれないけれど」

 アリエッタは、「イオン様も?」と訊き返す。
 ティアは大きく頷き、チーグルの森でのことを話した。

 チーグル族とライガ族の争い。それにダアトが介入したこと。
 ライガ族はチーグルの森のもっと奥、キノコが豊富な森に移り住む予定であること。
 卵が孵化するまでの間、ライガ族の食べ物はダアトが提供すること。

「それで、アリエッタに人と魔物の仲介を頼みたいの」

 駄目かしらと訊ねるティアに、アリエッタは少し迷い、「……大丈夫……」と答える。
 ティアは、自信のなさそうなアリエッタを喜ばそうと彼女が必ず笑顔になる話題をふった。

「アリエッタのお母さんは、とても強いね」
「……ママに会ったの?」

 アリエッタは信じられないといった様子で目を見開いた。そして、傍にいたライガさんに訊ねる。
 ライガさんは、ティアの制服を嗅ぎアリエッタに何か告げた。
 ティアは、近づいてくるライガさんでクイーンのことを思い出す。怯えそうになるのを堪え、アリエッタに母の言葉を伝えた。

「久しぶりにアリエッタに会いたいって」

 その言葉を聞くと、アリエッタは顔を綻ばせる。兎のお人形は相変わらずお気に入りのようだが、それに縋っている訳ではない。
 無邪気に笑うアリエッタ。嬉しそうに母のことを語るアリエッタ。生まれてくる妹のことを話すアリエッタ。

 これで良かったのだと、ティアは心の奥底で呟いた。後悔するのは、結果が出てからでいい。
 それからティアは、バチカルで置き去りにしてしまったグリフィンの事を訊ねる。
 グリフィンは一定の時間、騎手が帰ってこなかったらダアトに戻るように訓練されているが、それでも心配なものは心配だ。
 アリエッタが言うには、きちんと戻っているらしい。ティアはホッと一安心する。
 廊下を三人と一匹で会話をしながら進んでいると二人の兵士に抱えられたジェイドとすれ違った。


 ジェイドはアニスを逃した後、ラルゴをできるだけ引きつけておこうと奮戦した。
 軍艦の廊下という狭い場所では、槍と大鎌では槍に分がある。だが、ろくな譜術を使えない譜術師とわき腹を傷めた大鎌使いではまた違う。
 さらに言うなら、ジェイドは封印術を受けた直後でその違和感を誤魔化しながら槍を振るっていたのである。
 ラルゴはその虚勢がすぐに分かった。一瞬で間合いを詰め、鳩尾に一発。それでジェイドは気を失った。
 そのままジェイドは捕虜として、ティアとルークがいた場所に連れて行かれようとしていた。




 数時間前ルークが協力を求められていた部屋で、今度はイオンが同じ目に遭っていた。

「イオン様、世界を救うためなのです。どうか我々に力を貸してくれませんか?」

 リグレットはイオンに頼みこむ。ラルゴがイオンを保護してから直ぐのことである。
 イオンは、その突然の申し出に驚き理由を訊ねた。

「和平の仲介をする。このこと以上に優先しなければならないことなのですか?」

 リグレットはイオンの凪いだ瞳を目にして疑問を抱いた。
 このレプリカは此処まで我が強かっただろうか。今の彼はいかにも導師らしい。
 彼は偽者。分かってはいるが、仮にも導師であるイオンに対して命令することはリグレットには躊躇われた。

「ユリアシティの調べによるとパッセージリングの耐用年数が限界の様です。何もしなければ、外殻大地が崩落します。
 魔界には障気が蔓延しているので、おそらく人類は滅亡するでしょう。
 我々は密かに外殻降下の機会を伺っていました。イオン様がパダミヤ大陸の外に出た今が、大詠師の眼から逃れセフィロトの封呪を解く絶好のときです」

 リグレットは丁寧に説明をして、ダアト式封呪を解いて欲しいと願い出る。
 イオンは少し考えてから、そのお願いに頷いた。

 それは導師である自分にしかできないことだから。
 それで世界が救われるならと考えた。


 タルタロスはシュレーの丘の側に止まり、イオンはその奥のセフィロトへ向かった。
 帰ってきたイオンは真っ青な顔だったが満足そうな笑顔を浮かべていた。






[15219] 第一楽章 異端者のアリア 第18.5節 副官の務め
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/15 22:13



 ローレライ教団のお膝元、ダアトの夜は首都ほどではないが、そこら辺の街よりは騒がしかった。
 聖職者も憚ることなく酒を嗜む。教典には酒に溺れてはいけないと書かれてあるだけで、飲むなと書かれている訳ではない。節度を持って楽しめばいいのだ。
 騎士団の者が大勢出入りするため、店はいつも繁盛している。暗い街中で、その一角だけが煌々と明かりを灯していた。

 その中の明るく騒がしい場所から少し離れた場所の店内に、彼らはいた。
 村に一人はいそうな青年が似合わない剣を佩いている。彼はローレライ教団第六師団長カンタビレ付副官、グレイその人だった。
 二人連れの彼らは、店の片隅で顔を合わせながら何か話している。
 どちらかというとお上品な部類に入るこの店では、店員も客も彼らの素性を予想できても目立った反応を見せるようなことはなかった。


 グレイはビールを片手に目の前の同僚に意味深に告げる。

「しかし、トリートさんが副官だなんて。今でも信じられませんよ」

 酒の力もあってか、グレイは本心を述べた。
 トリートは強い。ヴァン謡将の後釜、師団長候補の筆頭は彼だった。自分もその候補に入っていたが、それはありえないと分かっていた。
 しかし予想とは異なり第四師団はバラバラになって、グレイは移籍してくる2000人の受け入れに駆けずり回ることになった。驚く暇もなかった。
 新しい師団長は3人。妖獣のアリエッタ、烈風のシンク、それに魔弾のリグレット。トリートの名はなかった。
 おいおい何の茶番だよ、と思わずにはいられなかった。グランツ謡将のお気に入りばかりである。
 確かに彼らも強い。でも、と思ってしまうのは、カンタビレ師団長の影響を受けているからだろうか。

「副官も悪くないです。楽しませてもらっていますよ」

 まずそうに酒を飲むグレイにトリートはいつもの笑顔で答えた。
 実際、楽しんでいる。以前からメキメキと頭角を現してきたシンクに関心はもっていたのだ。
 あの怪しげな仮面といい、やけに彼を構う謡将といい、実に興味深い。何か近づく口実があればなと思っていた矢先の申し出だった。
 本音を言えば、師団長なんて面倒だ。何より六神将なんて持て囃されて注目を浴びるのが嫌だ。下手に目立つと情報収集ができないではないか。

 トリートは情報収集を趣味としている。それを仕事としている訳ではない。誰かに頼まれて何かを探るというのは性に合わなかった。
 それに彼の熱意は自分の興味からしか生まれてこない。トリートは自然と趣味で楽しめる場所を職場とした。
 トリートの琴線に触れるような個性的な人が多く、隠し事がありそうな場所。ダアトは最適だった。
 教団の司祭と少し迷ったが、出世し易い神託の盾騎士団を最終的に選んだ。あからさまな偽名を見ると暴きたくなった。
 その本名を知ろうと頑張り過ぎた過去は少し後悔しているが、おかげで副官に就けたので良しとしよう。

 トリートは、優しげな声でグレイに質問をする。

「最近、そちらはどうなんですか?」
「いつもの地方回りですよ。……いつまでこうしていればいいんですかね」

 グレイは、不安そうに呟いた。
 こうしてトリートと飲むのも久しぶりだ。最近では、自分がカンタビレの代わりとしてダアトに報告に来る度に飲むようになった。
 任務を終えたことを主席総長であるヴァンに報告すると、直ぐにまた同じような任務を与えられる。
 カンタビレがそれだけ邪魔なのだろう。8000人に膨れ上がった兵士を維持するだけで精一杯だ。地方では実入りの良い任務を選ぶ余地もない。
 徐々に騎士団からカンタビレの影響力は排除されていっている。ジリ貧だ。それが分かっていても為す術がない。
 いつまで地方にいるのか。先の見えない未来に団員は不安がっている。カンタビレがそれを今は抑えているが、それもいつまでもつか。
 グレイは手元の酒を呷った。嫌なことは飲んで忘れるに限る。

「カンタビレ師団長は曲がったことが嫌いですから、なんとも。
 ユリアの子孫と名高いグランツ謡将があの若さで主席総長であることが認められないんでしょう」

 当分、ほとぼりが冷めるまで待つしかないでしょう、という意味を込めてトリートは告げた。
 ヴァン・グランツ。詠師の義父を持ち、ユリアの血を継ぐ若者が神託の盾騎士団の頂点にいる。
 これだけ揃えば、その肩書があったからこそその地位に就けたのだと考える者もいるだろう。実際、彼は自分の後ろ盾と血筋を最大限に利用している。
 トリートはその狡猾な手腕に好感を覚えたが、逆に嫌悪感を抱くものもいただろう。カンタビレはその筆頭と言える。

 神託の盾騎士団は、強さを求める。余計な権威や権力を持ちこんだ彼に反発心を抱くのもいるのだ。
 剣士としての実力が伴っているからこそ表立って声を上げていないが、そこそこいることをトリートは把握していた。
 カンタビレは彼の強さを認めている分、卑怯な手を使ったことが許せないのだろう。
 確かにグランツ謡将の強さなら強引な手を使わなくても、そのうちその座の方から転がり込んできたはずだ。
 何か焦っているのだろうか。調べることが一つ増えたなと思いつつトリートは、目の前の焼き魚の骨を取る。
 なんにしろ、ある程度グランツ謡将の足場が固まるまで、彼に敵対的なカンタビレが戻ってくることはない。


「はぁ……。俺、ラルゴさんの副官が良かったです」

 グレイは、大きく溜息をついてから愚痴を零す。いつのまにか酒は度の強いものに変わっていた。
 カンタビレの副官という立場は辛いようである。確かに7人の師団長のうち誰の下が楽かといえば、ラルゴだろうなとトリートも考えた。

 黒獅子ラルゴの前職は、砂漠の傭兵。その場で荒くれどもを纏め上げる才覚と実力がなければならない。
 書類仕事は若干苦手らしいが、一番まともに仕事をしていると言える。
 死神ディストは論外だ。まず、地下から出てきてくれない。彼の過去は、直ぐに探れたのでトリートは真っ先に彼から興味を失った。
 妖獣のアリエッタ。導師の不興を買ったのか、それとも他の理由があるのか。気にはなるが……。
 魔物の世話も漏れなくついてくるとなると面倒だ。団員が20名しかいないというのもつまらない。
 魔弾のリグレット、その後悔もある程度想像がつく。主席総長との間に何かあるらしいが、それを探るのは彼女の副官でなくても良い。
 我が師団長は置いといて、鮮血のアッシュ。彼も気になる部分はあるが、君子危うきに近づかず。
 国家がらみの陰謀には、個人で関わりたくはない。他に興味を持てる対象がいるならまずそっちを優先する。
 残りのカンタビレとなると、絶対お断り。主席総長に嫌われて地方に飛ばされるなんて御免だ。

 そんなことを考えているとはグレイに露とも悟らせず、トリートは彼にラルゴの副官になるために除かなければならない障害を教える。

「しかし、ラルゴさんの副官になるならアップルさんに辞めて頂かなければなりませんね」

 つまみのチーズを手に取り食べる。目の前のグレイは、そろそろ限界のようだ。
 グレイは、今気付いたとでも言うように大声を上げる。

「あぁ、しまったっ! こんなことを言ってたと知られたら、アップルちゃんに殺されるっ」

 各師団長についている副官は、それぞれ納得してその師団長の補佐を務めることが多い。
 特にラルゴの副官、アップルはラルゴに心酔している。恋愛感情というよりは、子供が親を慕っているようだ。アップルは見事に彼の欠点を補っている。
 ラルゴは師団長の中で唯一譜術を使わない。そんな彼をサポートするようにアップルは譜術が巧みだ。書類仕事も彼女が采配を取っているらしい。良いバランスが取れている。
 ミックスだってなんだかんだ言いながらもかいがいしくあの死神の世話をして、仕事をさせることに成功している。
 第三師団のピーチは過保護と言って良いぐらい、アリエッタの側にいる。魔物も怖くないようだ。
 リグレットとパインは元から友人同士。お互いフォローし合っているらしい。

 特務師団はと考えて、トリートは平凡顔の男を思い出す。七人いる副官の中で一番の古株。年齢不詳の彼、特務師団長付副官レンジ。
 副官につく人間も相応の強さが求められる。副官の得意とする武器の種類などは、自然と噂になり耳に入るものだ。だが、彼について自分は名前以外知らない。
 今は師団長が六神将の鮮血のアッシュと言うこともあって一纏めにされているが、それまで特務師団は異色だった。
 師団長個人が目立っている分、話題にならない師団の中身がより一層不気味に思えてくる。何かあるということは分かるが、それ以上は分からない。
 謎が謎を呼ぶと言うが、謎が謎を隠していると言えば良いのだろうか。多分、特務師団には触れない方がいい。

 考え込んでいるトリートにグレイはぽつりと訊ねる。

「トリートさんは、どーなんですか? 彼の副官で良いんですかぁ?」

 グレイは付け合わせのサラダを突きながら絡んできた。一向に皿の上は片付いていない。二人で飲んでいるといつもこうだ。
 グレイが先に酔って、トリートに絡む。それをトリートがいつものようにさらりと流す。

「彼の副官で良かったと思いますよ。ああ見えて結構、感情豊かなんです」

 トリートは内緒ですよというように笑った。それを見てグレイは何も言えなくなる。
 不満を言ってくれればまだいいのに、そんな笑顔でシンクについて語られたら師団長に相応しいのはトリートだと口にする訳にもいかない。
 本当に優しくて、強い人だなとグレイはトリートに対して尊敬の念をさらに深めた。

 他の師団と比べると、本当に第五師団の副官で良かったとトリートは思う。
 他の師団長のように仕事をしないと言う訳でも、できないと言う訳でもない。
 変に頼りにされるのも嫌いだし、近寄り過ぎるのも嫌いだ。その点、彼との距離はつかず離れず、適度である。
 参報総長も兼任しているので自然と情報が集まり易い。師団長個人も興味深いし、その周囲も一癖二癖ある。
 トリートにとって理想の環境である。当分、シンクの傍から離れたいとは思わない。


「ご注文は以上でよろしいでしょうか?」

 その声にトリートは、「ええ」と返事をする。
 頼んでおいたデザートが並んでいる。眠たそうにしているグレイにはブドウのソルベを渡す。

 トリートの前にはいつものクリームブリュレ。甘いものは別腹だ。
 綺麗な焼き色が付いている表面をそっとスプーンで触れると抵抗がある。そこをぐっと進めてスプーンを差し込むとパリッと破れた。
 最初の一口は、いつも楽しい。情報収集と同じだ。
 人は皆、何か取り繕って生きている。その中身が知りたい。お綺麗な表の顔だけじゃなくて、醜悪な裏の顔を見てみたい。
 真相を暴いて見せるのが一番楽しいだろうが、それをすると厄介になりそうなので収集するだけに留めている。
 あの仮面の下に隠されているのは何か。それを考えるだけでぞくぞくしてくる。それを手に入れた瞬間は、きっと楽しいに違いない。

 やっぱりこの生き方はやめられないなとカラメルを味わいながらトリートは微笑んだ。






[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第十四節 風見鶏が指し示す
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/16 23:12


 気を失うように眠りに就いたイオンの枕元で、リグレットとラルゴは声を潜めながら今後について話し合っていた。

「イオン様は和平の仲介を続けると仰っているが、――」

 誘拐紛いの方法で連れ去られたまま一度もダアトに帰らないというのはどうだろうかと、リグレットは眉を顰めた。
 それをラルゴがまあまあと宥める。その脇腹の傷はティアが治癒をしたため、既に塞がっていた。

「なに、構わんだろう。ダアトの外にいた方が封呪も解き易い」

 ダアトの人間の9割は大詠師派である。別に導師を敬っていないという訳ではないが、ダアトでの導師の行動は大詠師に筒抜けと言って良い。
 8つのセフィロトは世界中に点在している。そこを訪れるためにどれだけの時間と細工が必要か。モースの眼を掻い潜れる環境をそう安々と手放すのは損である。
 確かにそうだなとリグレットはラルゴの意見に同意した。

「問題は守護役がいないことだ」

 キムラスカとマルクトの和平の仲介となると立派な導師の公務である。そもそも導師の私的な部分など皆無に近い。
 だが、イオンはアニスしか伴わなかった。そのアニスも何故か現在イオンの側を離れている。
 公務であることを示すためにも、また気兼ねなく傍で護衛できるという意味でも守護役は必要だった。

 しかし、そう上手くいかないものである。
 2年前に第三師団ができてから、そのグリフィンという移動手段は徐々に注目されてきた。訓練をして師団長や副官といった者は嫌でも乗れるようになっている。
 特務師団の者も移動を素早く行うためにグリフィンを重宝している。情報部でも訓練し始めている者がいるらしい。

 だが、導師守護役の中でグリフィンに乗れる者はいない。
 導師が移動するとなると必然的に船や馬車が用意される。導師がグリフィンに乗ることがないのならば、守護役もない。
 導師の側にいるのがその役目だが、導師の元へ急がなければならない事態のことを考えていなかったようである。
 イオンがこの2年の間、ダアトを余り離れず、アニスを重用してきたことにも関係するのだろう。
 端的に言えば、守護役たちは自らを研磨することを放棄していた。そのつけが此処に来て浮き彫りになっている。

 リグレットは、これからダアトに連絡して、守護役が残留組と随行組に分かれ合流するまでかかる時間を考えた。
 本来なら導師守護役は導師直属で他の介入を許さない。だが、2年前モースがアニスを送り込むことができたように少しずつその箍は緩み始めている。
 その崇高な『導師を全てから守る』という精神から実態が離れていっている事実は否めなかった。

 リグレットはつい、大きな溜息を吐き、「最低でも3日はかかるな」と呟く。
 導師を誘拐されたという守護役の汚名を返上するこの機会。そして、久々の守護役らしい仕事。
 イオンの代わりに守護役を纏め上げているエミリは、その調整にかなり苦労するだろう。

 リグレットの懸念を察したラルゴは、代案を上げる。

「なら、アップルを呼べばいい。あいつなら守護役の真似事もできる」

 ラルゴは、自分を支えている副官の名を出した。出来ない訳がないと信頼しきっている様子だ。
 リグレットもアップルならと彼女を守護役の代わりとして呼ぶことに頷く。彼女なら1日で此方に来られるだろう。

「それしかない、か。師団長はそう自由に動き回れないからな」

 もともと師団長が4人も参加しているこの任務自体が異例中の異例なのだ。組織の頂点にいる導師奪還のためだからこそ集まった。
 師団長が抜けた穴は副官が頑張って埋めている。ラルゴもアップルを此方に寄こすなら入れ替わりで戻らなければならない。
 ラルゴの師団は6000人とリグレットの師団の3倍。その苦労も忍ばれるというものだ。
 尤も主席総長の副官も兼任しているリグレットとどちらが大変かというと、どちらも忙しいとしか答えようがない。

「後は、イオン様の体調が気になる。……どこかでディストに診せなければ」

 レプリカは脆い。ディストとティアの研究のおかげである程度安定していたが、あの死霊使いが連れ回してくれたせいでこの有様だ。
 眠っているイオンの顔色は蒼白である。脈拍も頼りない。レプリカに関して詳しくないリグレットではディストに渡された薬を飲ませるぐらいしかできることがなかった。
 ティアに診せようかと思ったが、直ぐにティアの知るレプリカはシンクだけだったことを思い出した。ディストを呼ぶしかないだろう。

 ラルゴは、どこか悔しげなリグレットに「そうだな」と返事をする。

「俺がこれから報告も兼ねてダアトまでひとっ飛びしてこよう」

 そう言いながらリグレットが纏めた報告書を手に取って扉に向かう。
 本当はリグレットが報告するべきだろうが、守護役がいないいま誰かが導師の護衛に就かなければならない。

 アリエッタは、ティアの報告とイオンの命令を受けてエンゲーブへ行った。現地の人からの意見はピーチが、魔物の声はアリエッタが汲み取って仲を取り持つだろう。
 アッシュは、タルタロスに自分のレプリカであるルークがいる以上表立って歩けない。今もどこかの部屋に籠っているはずだ。
 ラルゴは、これからダアトに戻る。副官のアップルを説得できるのは彼しかいないのだから仕方ない。
 他の副官という選択肢はない。ディストやシンクから副官を引き離したら仕事が滞るのが目に見えている。リグレットも師団をパインにずっと任せっきりだ。

 結局、リグレットがアップルの到着まで傍に仕え、飛んできた彼女と入れ替わりダアトに戻るという選択肢しかない。
 アップルはカイツールかケセドニア、つまり守護役たちが導師の元へ移動してくるまで当分導師の傍だろう。
 リグレットはアップルを師団から引き離すことに申し訳ないなと思いつつ、「頼む」と告げた。
 ラルゴはどうってことない、というように後ろ手で手を振った。そして思い出したように振り返り、さりげなく口にする。

「ああ、アッシュも連れて行くぞ。此処にはルークがいるからな」




 イオンは、一晩ぐっすり寝て少し体調が良くなった。寝る前に飲んだ薬が効いたのかもしれない。目覚めてから真っ先にイオンは4人の安否を確認した。
 リグレットからアニスの行方が分からないと言われ不安になるも、遺体は発見されていないとの言葉に希望を見出す。
 そして、いまイオンは残りの3人を待っていた。

 ノックの音に駆け寄りそうになるのを堪えて、「どうぞ」と極力平静を装う。
 ルークとティアは牢から出された後適当な部屋で休めたらしく、どこにも疲れている様子はなかった。

「おはよう、イオン。倒れたって聞いたから心配してたけど、見た限り大丈夫そうだな」

 ルークは無理するんじゃねえぞと声をかける。ティアはイオンを見ると顔を綻ばせ、黙って会釈した。
 二人の様子から本当に心配してくれていたことが伝わってきて、イオンは笑顔になる。
 ルークはイオンの様子を確認すると、「で、これからどうするんだ?」と直ぐに本題に入ろうとした。
 イオンは明確な返事をせず、はぐらかす。

「ちょっと待って下さい。まだ揃っていませんから」

 しばし雑談をしながら待ち人が現れるまでの時間をつぶす。と言っても共通の話題は少なく、お互いあれからどうしていたのかを語りあう。


 そして、現れたのは拘束されたジェイドとその彼を連れたリグレットだった。
 応急処置はされていたが、その有様は悲惨そのものである。イオンは、すぐさまリグレットにお願いする。

「リグレット。ジェイドの拘束を解いてくれませんか? これでは話ができません」

 リグレットはイオンの命令に「しかし彼は、」と躊躇った。
 イオンにとってジェイドが囚われの塔から救いだしてくれた王子のような存在だったとしても、リグレットにとっては疫病神でしかない。

「僕は二国の和平を結ぶためにここにいるのです。それにはジェイドの協力が必要です」

 なおも言葉を重ねるイオンに観念したのか、リグレットはしぶしぶとジェイドの拘束を解く。
 安全を第一に考えるなら解かない方が良い。だが、ジェイドには封印術がかかっている。リグレットはおそらく大丈夫と判断し、万が一の場合を考えて傍に控えた。

 拘束を解かれたジェイドは、居住まいを正すとイオンを問いただす。ジェイドはイオンの真意が分からなかった。

「イオン様、いったいどういうつもりです?
 彼女は六神将ではありませんか。あなたは大詠師派といまさらなれ合うつもりですか?」

 ジェイドは苛立ちを隠しきれない。ジェイドにしてみれば、六神将は突然襲ってきた敵である。その彼らを昨日の今日で傍に置いているイオンは裏切り者に見えた。
 イオンはジェイドの追及に苦笑いをしつつも、彼の言葉を訂正する。

「ジェイド。彼らは大詠師派ではありません」
「どうだか。現に私の部下を殺し、和平の妨害をしているではありませんか」

 ジェイドは部下を殺されたと、牢を出てから此処に来るまで騎士団の者しか見なかったことから判断した。
 それに、自分が襲撃者なら目撃者は皆殺しにしておく。それがセオリーだ。

「私たちは誰も殺してなどいない。重傷者はいるが一命を取り留めている。憶測で物を語らないことだな」

 リグレットは即座にジェイドの推測を否定する。その物言いが刺々しくなってしまうのは仕方がなかった。
 ジェイドが導師を手引きしてくれたおかげでダアトは大混乱。便乗して騒ぎを大きくする者もおり騎士団の者は休む暇もない。
 寒空の下グリフィンに何時間も乗っていなければならなかったのも、今現在積み上がっていく書類の山も、全て彼のせいと言っても過言ではない。

 リグレットの冷たい視線を気にも留めず、ジェイドは、「生きて、いましたか」と噛み締めるように呟いた。
 そして、その部下の生存という吉報を安堵と共に一瞬で処理すると、毅然とリグレットにダアトの所業を突きつける。

「しかし、殺していなければいいとでも? マルクト軍籍の陸艦をダアトが襲ったことに変わりはありませんよ」

 国際問題ですよと、ジェイドは自分の行動を棚に上げて指摘した。
 それをリグレットは馬鹿にするように笑って肯定する。

「そうだな。確かに我々がマルクトの軍を襲えば一大事だろうな。私たちは賊に囚われていた導師をお救いしただけだ」

 その何か含む所のあるリグレットの言葉にジェイドは眉を顰めた。
 リグレットは神妙な顔をして、本当に残念だというようなそぶりをしてみせる。

「悲しいことに、ダアトとマルクトの間で情報の行き違いがあったようです。
 我々より先にマルクトが導師を賊から救出されていたとは思いもしませんでした。勘違いをして申し訳ありません」

 まさに慇懃無礼といった様子で形だけの謝罪をジェイドに対してリグレットはした。
 その真意が分かってジェイドは奥歯を強く噛む。ダアトはこの一件を有耶無耶にするつもりなのだ。不幸な事故として処理するつもりなのだろう。

「導師誘拐という信じられない出来事を前に我々も動転していたようです。
 まさかローレライ教団の最高指導者であるイオン様を浚ったのがマルクト軍であるはずがありません。そんな不届き者はどこにもいませんよね?」

 そこで初めてジェイドはダアトを怒らせたことに気づいた。そして、導師という存在が諸刃の剣であったことにも。
 後悔しても遅く、ジェイドは短くリグレットの念押しに、「ええ」とだけ答えるしかできなかった。
 否と答えれば、導師誘拐という罪はマルクトという国家のものになる。
 それはタルタロス襲撃よりも非道な行いで、もしも事が公になれば罪を問われるのはマルクトの方であることをリグレットの態度からジェイドは察した。

「リグレット、もういいでしょう?」

 見ていられなくなり、イオンは助け船を出す。
 それを受けてリグレットは、「失礼しました。イオン様」と言って引き下がった。


 当初イオンにとって、和平はあの変わりない生活から抜け出すための口実でしかなかった。
 だが、今は違う。イオンは、二国の和平を成立させることを心から望んでいる。
 短い旅の間で人々に平和な時代を齎すことが導師である自分に出来ることだと考えを改めた。
 こうして自分一人が欠けただけで大騒動となったことに責任を感じつつ、一方で自分の存在価値があることに喜びを覚えた。
 自分はレプリカだが正真正銘、導師である。

 イオンは、柔和な笑みを浮かべながらジェイドを呼んだ本当の理由を話す。

「ジェイド。六神将には六神将の考えがあります。そして彼らは和平の締結を望んでいます。
 そのことは僕がこの目で確認しました。――ジェイド、僕を信じてくれませんか」

 イオンはじっとジェイドの瞳を見つめる。
 その揺るぎない視線にジェイドは折れた。元より和平の締結を望むならば頷くしかない。
 ジェイドは苦虫を噛みつぶしたような顔をしながら、「あなたを、信じます」と口にした。

 マルクトが提案したはずの和平はいつの間にか仲介者であるダアトが主導になっている。
 そして、それに気付いていてもジェイドにその流れを取り戻す術もなく、抗議など以ての外であった。

「ありがとうございます」

 イオンはほっと顔を綻ばせ、本当に嬉しそうに礼を述べた。
 一気に部屋の中の雰囲気は緩む。


 話が終わるのを待っていたルークはイオンに尋ねる。

「それで、俺は?」

 その一声にイオンは思い出したようにルークに向き直る。

「僕は、ルークを捕えるつもりはありません。僕と一緒にキムラスカに行きませんか? ルークが傍にいてくれれば心強いんです」

 リグレットはイオンの説明にキムラスカからの依頼を受けていることを付け加える。
 
「無論、断られてもその身の安全はダアトが保証します。既にダアトはキムラスカからルーク様の保護を要請されていますので」

 その一言にルークは安堵の溜息をつき、直ぐに返答する。
 父上や叔父上がそう判断したのなら、それが最善なのだろう。そうルークは考えた。

「そっか。ダアトに頼んだのか。なら、俺はイオンと一緒に帰るよ」

 そのルークの返答にイオンは、「ありがとうございます、ルーク」と嬉しそうに告げる。


 リグレットは室内にいるもう一人、ティアに向けて問いかける。

「ティア。お前はどうするのだ?」

 たとえ一介の技手とその素性を偽っていようとその血まで変わる訳ではない。
 イオンとルークの騒ぎに隠れて噂になってはいないが、上層部にはその安否を確認するようにリグレットは言われている。
 いつまで技手をやらせているのかという声も上がっており、おそらく帰れば何らかの沙汰がある。当然、神託の盾騎士団は退団、最悪の場合、結婚が用意されているだろう。
 無論、そこまでの間にテオドーロやヴァンの介入があるだろうが、そういう可能性もあると言うことだ。

「俺、ティアも一緒がいい」

 ティアが返事をする前にルークは横から口を挟んだ。ティアの血筋を知ってのことではない。
 ただ、このままティアがダアトに帰ればキムラスカから身柄の引き渡しが要求されるだろうと思ったからである。
 余程の理由がない限りその要求は断れない。そうなれば、ティアを待っているのは悲惨な結果だけだ。それを阻止できるのは当事者である自分だけだとルークは考えた。
 実際はヴァンやモースも動いており、今回の一件は過失ということで処理されそうなのだが、そのことをルークは知らなかった。

「ルークとティアは仲がいいんですね」

 即座にティアと離れたくないと告げたルークの姿から仲の良い友人だとイオンは判断した。
 ルークは、「そんなんじゃねえよっ」と過剰に反応してそっぽを向き、良く分かっていないイオンを困らせてしまう。

 リグレットはそんな微笑ましい光景に目を細めながら小さな声で確認する。

「いいのか?」

 ティアはグリフィンに乗れる。直ぐにダアトに帰ろうと思えば帰られる。
 そう訊ねるリグレットにティアは静かに答える。

「屋敷まで送ると約束しましたから」

 ティアはタタル渓谷でした約束を持ち出した。元から傍を離れるつもりはない。
 これから先はティアにとって未知の世界である。その当たり前のことが嬉しく同時に不安だった。
 それでも、自分の手で未来を切り開き、掴み取ろうとティアは思った。




 城壁に囲まれた街、セントビナーにアニスはいた。行き交うダアトとマルクトの伝令に場所を移動することにする。
 六神将は大詠師派だ。きっとモースが彼らを動かしたのだろう。アニスは、全てモースのせいだと思った。そのスパイである自分も同じ穴のムジナだとも。

 モースに報告する度にアニスは落ち込み、両親のためなのだから仕方ないのだと自分に言い聞かせる。そして、また同じことを繰り返す。
 セントビナーでアニスはジェイドに託された親書の内容をモースへ伝えた。こうしてモースの利になる存在だとアピールして、借金がこれ以上増えないように努力する。
 吐き気がする行為だ。それでも止めることはできない。ルークと結婚したときのことを夢見てみる。そうでもしなければやっていられない。
 大佐と合流するときに悟られないようにしなくちゃなあと思いながら、アニスは門をくぐり街の外へ出た。

 一つしかない街の出入り口で、ツインテールの少女と短い金髪の青年はすれ違う。
 マルクトの雰囲気に彼は自然と馴染んでいた。

「無事でいて欲しいんだけどな」

 そう彼は呟くと街の中心にそびえるソイルの木を見上げた。





[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第十五節 笑う道化師
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/17 22:24




 ガイ・セシルはファブレ公爵家の使用人である。
 ルークお坊ちゃんの我儘にも優しく応えて、外に憧れる幼子を甘やかす。

 ガイ・セシルの“ガイ”は本名のガイラルディアから。小さな頃の自分の愛称だった。
 ガイ・セシルの“セシル”は母の姓から。母のように誇り高く、強くありたいと思った。
 キムラスカからマルクトに嫁いできた母は、開戦を前にして内通せよという生国の要請を断った。国よりも父を選んだ自慢の母。

 ガイラルディア・ガラン・ガルディオスは、ホドの領主の一人息子である。
 彼は2002年のホド戦争で一族郎党を全て失った。ファブレ公爵家の白光騎士団によって全員殺されてしまった。
 ガイラルディアがガイとしてファブレ公爵家に仕えている理由はただ一つ、復讐のためだった。


 ガイはルークが屋敷から消えた後、旦那様、つまりクリムゾン公爵に頼まれてルークを探しに屋敷を出た。
 クリムゾンが一介の使用人をマルクトに送り込むことにしたのは、白光騎士団を動かしては開戦の理由にされてしまうと思ったからである。
 白光騎士団はファブレ公爵家の者。それはマルクトの者も分かっている。ちょっとした小競り合いから全面戦争に発展した例はどこにでもある。
 別に、戦争を恐ろしがっている訳ではない。ただ、クリムゾンはルークの無事が確かめられないうちに開戦することを恐れた。公爵としても、父親としても。


 23日。
 ガイは命じられてから直ぐに荷物を纏めてケセドニア行きの最終便に飛び乗った。
 タタル渓谷が第七音素の収束地点ならば、カイツールよりも此方の方が近いと思ったからである。

 ガイは心の底からルークの生存を願う。こんなにも長い間、敵国で耐えてきたのは全てそのときのためなのだ。
 それを横から事故なんかで奪われたら堪ったものではない。

 24日。
 ガイは昼前にケセドニアに着いた。腹ごなしをしながらタタル渓谷近くの街に行く算段を巡らす。
 馬車がいいか、商隊を探すか。馬に乗れるのならそれが一番良いのだが、あいにくガイは馬に乗れなかった。
 キムラスカで馬に乗れるのは貴族だけである。一介の使用人であるガイ・セシルとは縁遠い。
 一方でマルクトでは馬はそこそこ普及している。兵士が乗馬の訓練を受けていることも関係するのだろう。
 もしもルークが馬に興味を持てばガイも便乗して習うことができたかもしれないが、それは仮定の話でしかない。
 ガイはなんとか早目にルークと合流する手段を探していた。その途中で大陸と大陸を繋ぐローテルロー橋が落ちたことを耳にする。
 ケセドニアは商人の街。流通に関する話題はすぐに噂になる。そのときはまだ他人事だった。

 それよりも早く合流したいとガイは思う。街の外での殺人は私怨と立証されない限り罪にならない。
 遠いところ足を運んだ友人を喜色満面で迎えるルークに、真実を突きつけるのはどうだろうか。

 25日。
 状況が変わった。ルークがエンゲーブにいる、という報せをヴァンから受け取った。
 フェンデ家はガルディオス伯爵家によく仕えていた。公爵家で再会してからも、こうして何かと便宜を図ってくれる。
 タタル渓谷からエンゲーブは東、ケセドニアとは正反対の方向である。ガイは地図を見ながら思わず呻ってしまう。
 橋を落とされているのだから陸路は使えない。ガイは昨日話を付けた商人に断りを入れて港へ向かった。

 エンゲーブに一番近い港はカイツールの軍港だ。ケセドニアからカイツールまで荷物は運ばれているが人となると話は違う。
 軍人でもないガイはどうしようかと迷い、結局港の倉庫整理を手伝い、上の人間に口を利いてもらった。
 ファブレ公爵家の使用人だと明かして船に乗せて欲しいと頼みこむ。決め手はファブレ公爵のサインが入った旅券の裏書きだった。
 訳知り顔で話を聞き出そうとしてくる人をあしらいつつ、なんとか船に潜りこんだ。

 本当に手間がかかる。ガイは思わず溜息をついてしまう。
 だが、憎いお坊ちゃんの我儘に付き合って笑顔で遊び相手を務めたことに比べれば楽なものだ。

 26日。
 そうしてガイはカイツールの軍港から国境に向かい、無事国境を越えた。吹く風も土の匂いも何も変わらないが、それでも久しぶりに踏んだ故国の土は感慨深い。
 そして、今、自分がガイ・セシルであることに嫌悪感を抱く。やるせなくなってその“ガイ・セシル”と書かれている旅券を破いてしまった。
 長い間名乗っている名だが愛着はない。むしろ嫌いである。ガイ・セシルは復讐するために生まれた。そんな悲惨な過去などいらなかった。ホドで平和に暮らしていたかった。


 ガイはセントビナーの宿の二階の窓から街の門を見つめていた。あの憎々しい赤い髪を自分が見逃すはずがない。
 国境のカイツールに行くなら、その一歩手前のこの街に寄るはずだ。温室育ちのお坊ちゃんが野宿に耐えられるはずがない。
 頼むから無事でいてくれよと、ガイは滅多に祈らないローレライに祈り、そして、見慣れた赤を見つけた。




 イオンの護衛に抜擢されたアップルが到着するまでセントビナーで待つことになった。
 軍艦と街のどちらが安全かというと軍艦だが、つい先日そこで戦闘があったばかりである。
 マルクト国籍の軍艦を神託の盾騎士団が乗りまわす訳にも行かず、かといってマルクト軍にコントロールを返すのも躊躇われた。
 傍に仕える護衛が少ない状況であるため、ただ高貴なものであるとだけ伝えて密かにセントビナー入りを果たす。
 目端の利くものならすぐそれが誰であるか察するだろう。神託の盾を従えて六神将を供に出来る者。導師イオンその人である。

 ルークの存在は殊更秘された。喧伝して歩くようなものではない。それでも、分かる者には分かる。
 ガイはルークを見つけてから直ぐに窓を離れ扉に向かう。そして、宿の階段を降りようとしたところで遭遇した。

「ルーク様。お探ししましたよ」

 仰々しい護衛を連れているルークをからかうような口調でガイは言った。
 ルークはその聞き覚えのある声に唖然として見上げ、その顔を見て破願する。

「ガイッ! 来てくれたんだな!」
「ご無事で何よりです、ルーク様。こうして再会できたことを嬉しく思います」

 使用人としての言葉使いを改めないガイの様子にルークは痺れを切らす。
 公爵家の一人息子と使用人という枠を越えた関係をルークはガイに望んでいた。

「そんな他人行儀な喋り方は止めろっていっただろ? ここは屋敷じゃないんだ。口うるさいラムダスだっていないんだぜっ!?」

 反射的に出たその声がいつもよりも大きかったのは、馴染みある顔に安心したからかもしれない。
 いくらダアトに保護されたとしても、ティアが気を遣っているとしても、長年親しくしているガイに優る安心感はなかった。
 ルークは護衛も気にせずに友人に駆け寄り旅の間のあれこれを喋り出す。それはルークのガイに対する信頼の表れだった。



 ジェイドは一人セントビナーの軍基地を訪れた。ざっと見たところアニスはいないようである。
 イオンとルークの受け入れを確認する伝令を勘違いしたのかもしれない。なんにしろ親書がなければ始まらないのだ。
 ジェイドが顔を出すと先客が訪れているようだった。
 彼、グレン・マクガヴァンはジェイドの顔を見ると露骨に嫌そうな顔した。反対にその父は大袈裟にジェイドを歓迎する。

「おお! ジェイド坊やか!」

 軍に入ったときから世話になっているが、その呼び方は変わらない。
 もう30を越えているのに止めてくれと言っても、全く直す気配はないようだった。
 ジェイドは諦めてそう呼ばれることにいちいち反応しないようにしている。

「ご無沙汰しています。マクガヴァン元帥」

 なんとなく慣れ親しんだ呼び方で呼ぶ。ちょっとした意趣返しのようなものだ。
 引退してセントビナーに引っ込んだと言っても、屋敷を軍基地として提供して街の代表市民にまでなっている。
 老マクガヴァンと呼ばれているが、ただの老人ではない。

「わしはもう退役したんじゃ。そんな風に呼んでくれるな。
 おまえさんこそ、そろそろ昇進を受け入れたらどうかね。本当ならその若さで大将までなっているだろうに」

 老マクガヴァンは本心からそう述べた。
 昇進の話を蹴らず順調に出世していたら、今回、生贄のように和平の使者に選ばれることもなかっただろう。
 前線で指揮を取りたいとジェイドに大佐に留まっていられても、組織として良いことなど一つもない。
 そろそろ部下に任せると言うことを学んでもいいはずだ。そうなれば、坊やから卒業できるかもしれないというのに。

「どうでしょうか。大佐で十分身に余ると思っています」

 ジェイドも本音で答える。ダアトによるタルタロス襲撃はジェイドの自信を打ちのめしていた。
 幸い部下たちは生きていたが、死亡していた可能性も十分にある。死というものはよく分からないが、避けるべきものらしい。
 昇進すれば預かる部隊の数も増える。死をよく理解できていない自分が他人の命を預かる訳にはいかないだろう。

 そのジェイドの殊勝な返事に老マクガヴァンは渋い顔をした。
 話を邪魔されたグレンは、「それで、いったい何の用だね?」と厳しい口調で尋ねる。
 ジェイドはそれに堪えた様子もなく、導師守護役のアニスから手紙を預かっていないか訊いた。
 検閲したというグレンの言葉も、「構いませんよ」とジェイドはさらりと流し、手渡された手紙の礼を言うと退出する。


 その後ろ姿をグレンは苦々しい表情で見送り、声が届かない距離になると中断していた話を再開した。

「父上! 本当に何もしなくて良いのですか? 彼に任せていてはむしろ戦争になりますっ」

 導師を誘拐したという話に、タルタロスを襲撃されたという話。ローテルロー橋爆破の件にも関わっていると聞く。
 和平の使者のはずなのに行く先々に破壊と争いの爪痕しか残さない。これでは保護しているルーク殿下の扱いも間違えそうだ。
 和平の使者が戦争を齎すなんて冗談では済まされない。国境を越えてキムラスカに彼が行く前に何かするべきではないか。

 声を荒げる息子に、老マクガヴァンは冷静に対応する。

「これで良いのじゃ」
「そんなっ。これではまるで戦争を――」

 グレンはそこまで言いかけて途中で止めた。考えれば考えるほど頷ける。
 和平を結ぼうとしているというのに減らない戦費。開発され続ける最新鋭の武器。続々と増える備蓄食糧。
 先帝の時代と何も変わっていなかった。主戦派が先走っているだけだと、皇帝は平和を望んでいるのだと、そう思っていた。
 だが、何もかもを冷静に受け止めている父の姿を見て、グレンは悟った。悟らざるを得なかった。
 開戦。それが狙いなのだ。和平の使者の変更もないのだろう。マルクトはキムラスカを怒らせたいのだ。
 だから父は彼を引き止めようとしていない。グレンは悔しげに拳を握る。

「こうしなければならんと陛下が判断されたんじゃ」

 老マクガヴァンは我が子を教え諭す。
 納得できない部分があることは分かる。議会の連中を減らすために開戦すると聞いて初め自分も反対した。
 そもそも自分が退役してセントビナーに隠居したのは、先帝と違う方針を取るピオニー陛下の邪魔にならないためだった。
 主戦派が担ぎ出す神輿がいなければ少しは楽になるだろうと。
 それに戦争はもうこりごりだった。運良く生き残って元帥とまで呼ばれるようになったが、そこまでの間に何人の友を失ったか。
 平和の大切さは誰よりも分かっている。身に染みていた。

 だからこそ、ピオニー陛下に老マクガヴァンは説得された。一回の戦争で数十年の平和が得られるのならば、その戦争は必要である。

「平和とは、戦争と戦争の間の小休止でしかない。それでも平和は必要じゃ。長い平和がの。
 今の陛下の地盤では、キムラスカとの間に和平を結べたとしても維持することはできん。陛下は十年先を見ておられる」

 グレンは黙り込んだ。父の言うことは、ある意味正しかった。
 ホド戦争に従軍したことのあるグレンは軍人ながら、いや、軍人だからこそ戦争を理解していた。
 戦争は何もかもを奪い、多くの孤児と未亡人を生み出し、ときに人の心に闇を齎す。
 夫の遺体に縋りついて泣き叫ぶ者が、幼い声で復讐してやると呟く者が生まれない未来のために血を流すと言われたら、何も言えない。




 セントビナーの宿で、ルークは親友に良いことを教えてあげようとする。

「ガイ。俺、分かっちまった。この街はノームが守ってるんだっ」

 キラキラと瞳を輝かせているルークは、声を顰めようとして失敗していた。
 ガイは突然精霊の名前を言いだしたルークについていけず、「はっ?」と聞き返す。
 ルークは興奮冷めやらぬ様子で分かってくれないガイに詰め寄る。
 記憶を失ってからもずっと傍にいてくれた人間だ。ルークは無意識のうちにガイに甘えていた。

「俺、見たんだよ。ちっさくて、なんか髭っていうか髪とかすっげえ長いんだ。でも、喋ってたんだよっ」
「ルーク、落ち着けって」

 その説明でガイはその精霊の正体が分かった。そのノームらしきものは老マクガヴァンである。
 彼は年を取り背が低い。そしてその豊かな白髪を腰の下まで伸ばし、白髭を蓄えている。遠目に見たらそう見えなくもないかもしれない。
 いやいや、あの人はどっからどう見ても人間だろとガイは心の中で自分に突っ込む。
 だが、興奮したルークはガイに構わず話を続けている。ガイは全てを諦めた。

「街の大きな木の上にいたんだよ!」

 老マクガヴァンは街の中心に立っているソイルの木の研究をしている。老後の楽しみのようなものだ。
 セントビナーは花と木の街とも呼ばれている。その名の通り街は植物で溢れており、街とソイルの木は切っても切れない関係がある。
 一度ソイルの木が枯れかけたとき、周辺の草木も枯れかけるという事態になった。ソイルの木の周辺でしか生えない植物もあり、グミもこの街でしか作られない。
 ソイルの木は特別なのだ。老マクガヴァンはその秘密を探るため、ソイルの木に梯子をかけ近くで研究できるようにしている。

 街の見物をしていたときにルークはその姿を見かけ、精霊だと信じてしまったようだ。

「そうかそうか。ルークは精霊に会ったんだな」

 良かったねえとガイは子供の夢を壊さないように相槌を打つ。
 それも何度か繰り返しているとさすがのルークも気づくようだ。

「あっ! ガイ信じてねーだろ」

 深夜、宿の部屋でルークの声は響く。それは本当に友人同士の会話のようだった。






[15219] 第二楽章 愚者のプレリュード 第十六節 清き水の調べ
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/17 22:10




 マルクト帝国の首都、グランコクマは水の都と呼ばれている。
 街のいたる所にある噴水や観光名所ともなっている水道橋と、水との関係は切っても切れないものだ。
 張り巡らされた水路は街の隅々まで行き渡り、平時には憩いを齎し戦時下には強固な防衛線になる。
 グランコクマは大陸の西端の、さらに海に突き出ている位置にあり、その背後は豊かな天然の森、テオルの森が守っている。
 戦時下になると貿易で賑わう港を封鎖し、堅牢な要塞ともなる。そのグランコクマの宮殿は、大量の水をたたえた水路で街と一線を画していた。


 クモの巣のような水路の源、マルクト帝国の中枢、グランコクマの宮殿にシンクはいた。
 ラルゴから報告書を渡されたシンクは、事の顛末の落とし所を探りに来た。ダアトにいては疲れるだけだと悟ったとも言う。
 一段高いところにある玉座には、5年前に即位したピオニーが座っている。
 浅黒い肌に輝く金髪。その見た目に反せず、シンクがお決まりの挨拶をすると快活に笑った。
 ありきたりだが、太陽のようなという形容詞はこういう人間に適用されるのだろうとシンクは思った。
 だが、その皇帝の人と形はシンクの要件に関係ない。かすりはするかもしれないが重要ではなかった。

 シンクは時間の浪費としか思えないような遣り取りをした後、本題に入る。

「導師救出にご協力いただき感謝しています。改めてダアトを代表してマルクトにお礼申し上げます。
 導師も、傷を負いながらも賊から助け出してくれた貴国の軍人に感謝しているとのことです。
 間違えてその導師が救いだされた先を襲撃してしまいました。先走ってしまったことをお許しください。彼らも導師が心配だったのです。
 導師はこのまま和平を仲介すると仰っています。貴国に平和を齎すことが一番の礼になるでしょうと」

 つまりシンクはマルクトに助け船を出していた。
 マルクト軍籍の軍艦が導師を浚ったことも、そこから導師が救出されたことも動かしようのない事実である。
 マルクトの上層部が知らないと言い張ってもその単純な因果関係は覆せない。
 マルクトがダアトの導師を害そうとした。それを公言するだけで、ピオニーに対する国民の信頼は薄れるだろう。
 神託の盾騎士団がタルタロスを襲ったということも、それ以上にセンセーショナルな話題を前にしては霞んでしまう。

 確かに今回のマルクトの遣り口は気に入らない。気に入らないが無駄にダアトとマルクトの関係を悪化させる必要はない。
 所属の曖昧な賊という存在を持ち出し、ワンクッション置く。
 すると一躍マルクト軍は導師を救出した側となり、利用されてしまった被害者のふりをすることができる。
 適当に有名どころの賊を潰してしまえば何とでも言える。シンクは押し付ける相手も見繕っておいた。

「導師イオンはまさに平和の象徴でおられるからな。その導師をお助けできたことは本当に良かった」

 ピオニーは直ぐにその真意を見抜き、その案に乗った。こんなところでダアトとの関係を悪化させる訳にはいかない。
 向こう側が『色々あったけど、これからも仲良くしましょう』と言ってきているのだから、『そうしましょう』と返すのが道理である。
 導師が出てきたことで和平が受理される可能性が見えてきた。和平条約締結は本来の目的とは正反対だが、最悪な状況ではない。
 条約の締結で国民の支持も増える。金食い虫の軍の改革を行う時間ができたと考えれば良いのだ。
 ピオニーの目的は議会のお掃除であって戦争は手段でしかない。まずは軍に巣食っている者を一人、この件で処分する。

「だが、どこにでも不届き者はいるようだ。軍内部からそういった者を出してしまうとは、……俺も残念に思っている。
 必ず見つけ出し相応の処罰を受けさせよう。それまで少し時間を頂きたい」

 ピオニーは厳しい声で軍内部から出してしまった賊の始末をすると伝えた。
 軍艦を自由に動かせる者は少ない。階級が高くて手が出せなかった者を引きずり落とすことができる。
 先の先が読めない馬鹿の中には短絡的に和平に反対し、ジェイドへ妨害を繰り返している者もいる。
 そいつらと一緒くたにして処理するというのも良いだろう。戦争を望むあまり平和の象徴である導師に手を出したと。
 後はどこまで引きずり出せるかである。腕が鳴るなとピオニーは愉悦から口角を上げた。

「ダアトは中立。マルクトのことに口を出すことはありません」

 ピオニーが提示した生贄にシンクは一瞬驚いて眉を顰める。幸い仮面のおかげでそれは見られなかった。
 別にダアトとしては賊の正体が何だろうと構わない。好きにしろと言外に込める。

「そうかそうか。これからもダアトとは良好な関係を築きたいものだからな!」

 ピオニーはその返事に満足し、ついつい言動も大きくなる。
 シンクはそれを少し不愉快に思う。マルクトが馬鹿な真似をしなければこんな事態になっていなかった。
 2年の間で1番忙しい。貸しを作ってやっているというのにと思うと堪らない。
 マルクトに情報を提供するついでに釘を指しておこうと、シンクは一言付け加えた。

「そういえば、例の軍艦にはルーク殿下もおられたとか。ルーク殿下もマルクトの軍艦に保護されて心から感謝されていたそうです」

 保護と言って導師誘拐の事実を隠蔽した直後のことである。その"保護"されたルーク殿下の心情は推して知るべきだろう。
 本当に和平条約締結を目指しているなら、これほど厄介なことはない。戦争を望んでいない限り。
 シンクはそのことを揶揄する。そして、「両国の和平が成ることを心から望んでおります」と言い退出する。
 これに懲りて今後ダアトに迷惑をかけなければ良い。宗教的権威であることに胡坐をかいていると舐められてしまう。
 そして、シンクは久しぶりの外を堪能しようと宮殿を後にした。




「ったく、あの馬鹿はなにやってんだ」

 ピオニーはシンクが扉の向こうに消えると独り言を呟いた。
 ジェイドは誰にも相談せずに突っ走って何かを仕出かす。その過程はアレでも、結果だけは出す。それでいて喜びもしない。
 きっと今、ジェイドは自分の行動が引き起こしたことを理解して後悔しながらも、虚勢を張って皮肉を言っているだろう。
 自分でも分かるのに、当の本人はその自覚がないのだから筋金入りだ。――ネビリム先生が死んだときもそうだった。

 ピオニーが大きな譜力に気がついて駆けつけたときには全て終わっていた。
 純白の雪を真っ赤に染めている恩師に座り込み泣いているサフィール。それに呆然と立ち尽くしているジェイド。
 その眼だけはギラギラと光り、どう見ても慕っていた先生の遺体を前にした光景には相応しくなかった。
 ネビリム先生の死はピオニーの子供時代の終わりを意味していた。仲が良かった4人はばらばらになり、この有様である。

 ジェイドは未だにネビリムの死から立ち直っていない。
 死を理解できないと口にしているが、ピオニーに言わせればジェイドは死を理解することを恐れているのだ。
 あれだけレプリカでネビリム先生を生き返らせることに固執したのも、そうすることで彼女の命を奪ったことを無かったことにしたかったのだろう。
 それを実行できるだけの才覚があったことがジェイドの不幸かもしれない。
 天才でなければ、素養がないにも関わらず無理して第七音素を操ろうともしなかったはずだ。
 自分に無いものを持っていた彼女に彼が執着することも、教えがいのある生徒である彼を彼女が特別扱いすることもなかった。
 二人の関係はどこか歪だった。それにどうにか加わろうとしていたサフィールは、ピオニーより先にそれを察知していたのかもしれない。

 ジェイドは天才であるが故に前代未聞のことをやってのけ、不可能を可能にしてしまう。ジェイドは常にピオニーの斜め上を行く。
 ジェイドを使者に抜擢したのは、彼なら何か予想もつかない解決策を出してくれるかもと、ピオニーが無意識のうちに頼っていたからかもしれない。
 見事にダアトの導師とキムラスカの第三王位継承者を巻き込む事態になっている。


 予想外の展開に嬉しいのやら悲しいのやら、確実に言えることは心労が増えると言うことだけだ。
 ピオニーは、可愛いブウサギたちを抱きしめて癒されたいと心から思い、すぐさま実行に移す。
 そして、私室に戻り束の間の休息を噛み締めていると悪友の声がした。

「よう、ピオニー。相変わらずしけた面してるな」

 あんまりな挨拶である。彼は入口近くで眠っていたゲルダをまたいでピオニーの私室に入ってくる。
 彼は皇帝の私室に入ることができる数少ない人間の一人であった。久しぶりの再会にしては随分な台詞を彼は告げる。

「お前が和平を結ぶって言うから、てっきり嫁さんでももらうのかと思ったぜ」

 ピオニーはその突飛な発想に吹き出す。彼もそれを有り得ないと分かって言っているのだから性質が悪い。
 確かに、婚姻外交というものがあるのだから和平の証しとしてキムラスカから嫁を貰うことも十分にありうる。
 一人娘であるナタリア殿下でなくとも年頃の娘はいる。ピオニーは30を越えているにも関わらずまだ独り身だ。
 皇帝の血筋は彼一人しか生き残っていないため、周囲からは早く結婚をと急かされている。結婚は余りにも具体的な話だった。

 だが、ピオニーが嫁をくれとキムラスカに言うことは有り得なかった。
 ピオニーが初恋の人を今でも想っているという話は、一部の間では有名だった。それ故に結婚しないのだと。
 ピオニーはネフリーのことが忘れられない。まだ若かったピオニーは別れるという選択しかできなかった。
 未だツキリと痛む胸の奥を意図的に無視して、ピオニーは嫁さん発言をそっくりそのまま返す。

「ジョニーが結婚したら、俺もしようかねぇ」

 ジョニーはその返事に顔を顰める。自分が結婚する未来など想像もできない。やぶへびだった。
 お互い顔を見合わせて、その話を終わりにしようとする。苦い思いしか湧いてこない。

 ジョニーは先帝、カール5世の気まぐれで想い人、エレノアを亡くしてしまった。
 そのとき彼女は既に親友、フェイトの恋人だった。ジョニーの想いが叶うことはなかったが、それでも二人が幸せになって欲しいと願っていた。
 だというのにカール五世は恋人同士の二人を引き離し、無理やりエレノアをものにしようとした。彼女は自身の尊厳のため身を投げ亡くなってしまったのである。
 そして、ジョニーは復讐を果たそうとピオニーに接触したのだが、その前にカール五世は亡くなってしまった。
 それからジョニーは結婚もせずにふらふらとしつつ、こうしてピオニーの相談に乗っている。また、ときに重大な情報を仕入れてくる。

「おや、ジョニーさんも終に身を固めるのですか? 陛下とどちらが早く結婚するかと賭けになっていたのですが」

 ピオニーを呼びに来たアスランは断片を耳にして勘違いをした。そして、つい陰で行われている賭けのことを口にしてしまう。
 
「ちょっ、アスランッ! 俺、そんな話し知らないぞっ!」
「賭けの対象である陛下の目の前で、話題にする人間がいる訳ないですよ」

 しまったなと思いながらも、アスランは言い逃れを続ける。特にそのオッズのことは口に出来ない。
 身に覚えのない伯爵令嬢やら男爵未亡人やらと年中噂になっているのだから気にしないと思ったが違うようである。
 口を開かないアスランに業を煮やして、二人は矛先を変える。

「そういうアスランも結婚していないよな。誰か気になる令嬢はいないのか?」

 そこんとこどうなんだとピオニーは聞き出そうとする。強権を使わないあたり、良心的かもしれない。
 アスランは、「仕事が忙しくて、今のところいませんね」と結婚しない男の模範解答を告げた。
 詰まらない答えに不満を隠さない二人を前に、アスランは不意に自分の考えを口にする。

「でも、一生に一度の恋というものをしてみたいものです」

 アスランはまだ見ぬ恋人を思い浮かべながら遠くを見つめた。その視線の先にはキムラスカの首都、バチカルがあった。

「愛はいいもんだ」

 どこからか楽器を取りだしたジョニーは情緒あふれるメロディーを奏で出す。
 それはどこかの国のお姫様と隣の国の王子様が出会い別れる悲恋の物語。
 その調べにある者は手を止め、またある者は耳を傾ける。その音色はジョニーの気が済むまで響き渡っていた。






[15219] 後書き
Name: サイレン◆ef72b19c ID:03b14102
Date: 2010/03/16 23:17
 このスペースで区切りのいいところで後書きを書きたいと思います。
 記事ごとに末尾に書けばいいじゃないかとも思ったんですが、私は全件表示を好む人間で、次の話を読むところで作者のコメントを読み一気に気分が盛り下がったことがありました。
 かといって後書きを書かないというのもなんでして、こういった場を設けさせて頂きました。後書きという名の言い訳にならないように気をつけます。


第一節・第二節
 ありきたりなテンプレを済ませて、目標はラスボスヴァンの救済です。そもそも切っ掛けは仲間厳しめを読みながらティアがまともなものって少ないよなって思ったからです。
 まあ、始まりの引き金を引く非常識な人間がいなければ話にならないので常識人になられると困るという事情もあるでしょう。
 とりあえず書いてみるとなんだか主人公がブラコン過ぎて…、それで某少年と結び付きこのタイトルになりました。
 ただ、主人公は彼のようにチートな頭脳は持っていません。だからこその原作知識、それに二倍の時間でしょう。まだ主人公は魔界にいてもらいます。なんせ子供ですから。

 これから原作の設定を引用したりするのですが、もしかしたら間違っている部分があるかもしれません。
 こちらでも注意しますが、見つけられたらそのときは指摘お願いします。二次創作での設定をそのまま持ち込んでいる場合があるでしょう。よろしくお願いします。

第三節・第四節・第五節
 クロスをはっきりさせました。TODから各キャラクターをTOSからオズを引っ張ってきました。
 そもそもなぜクロスにしたか。私の筆力が足りないからです。初めはオリキャラにしようかとも思ったんですが、性格、口調、こだわりなど説明するのが大変で…。
 科学の先生役の人が欲しかったのでハロルドを入れてみたら、発明でさっさと瘴気も降下作戦もすんなりと終わってこれ誰が主役ですかっていうのが目に見えてしまいました。
 そしてフィリアがいるじゃないかと。そこから彼女がいるなら他の人もいないとねと。おそらく賛否両論あるクロスだろうなあと思いつつこれが一番しっくりいったんでこのまま進みます。
 ただ旧・新どちらの性格にするべきか、というかPS版しかやってないので性格が違うことに戸惑っています。
 あと蛇足ですが彼らの強さについて。第一部終了時の強さ-(ソーディアン+主人公補正)ぐらいです。

第六節・第七節
 オズという反則技。なぜこんな存在を持ってきたか。偏に主人公に暴露話をして欲しくなかったからです。
 「私前世の記憶があって、実はこの世界をゲームとして知っていたの。世界の危機が迫っているのよ。私のことを信じて!」
 黄色い救急車を呼ばれます。受け取り方によってはあなたは二次元の存在なの、調子に乗らないでとなります。それまでの人間関係をリセットです。
 そういうわけでオズがいなければ主人公はず~っと魔界にいます。物語が進みません。だから他の誰かに語ってもらうことにしました。
 そして、監視者の街。いったい何をどう監視してるの? と。人物名鑑もその一環ですが古い建築物だから何かあっても良いんじゃないかなと思ったんです。
 あともう一つ反則技に関連してですが、ローレライの奇跡は使わないと決めています。使うにしても合理的にです。
 ローレライの存在は語らないといけない部分ですので難しい扱いになりますが、奇跡はそう簡単に起きてはくれません。やっと魔界脱出です。これで原作キャラと絡めます。

第八節・第九節 
 アリエッタ編終了です。彼女と友達になることで主人公はアビスの世界を受け入れました。ブラコンなのは変わらないんですが。
 あとは譜術の説明(オリ設定)に、ティアの現在の強さについて。クラスは治癒師となります。
 初めは万能型で、音属性の術とか使えたらなと思っていました。けれども現代産の現役研究者がそこまで強いはずはないと。
 原作知識もあって、なんかいろいろ発見して、さらに主人公が戦闘も回復もできるのは…、ちょっとやり過ぎです。
 
第十節・第十一節・第十二節
 シンク登場、ディスト退場といったところです。持ち上げたら落とさずにはいられないんです。
 あとは技手と師団の説明。技手は造語ではありませんが、アビスには出ていない単語です。研究者という立場が一番真相に近づきやすいです。
 ゲーム的常識にどれだけ現実味と整合性を持たせられるかを一つの課題としています。まあ、ゲームだからの一言で全て説明がつくんですが。
 良く分からない師団編成とか、自由すぎるオラクルとか、大佐なのに和平の使者とか、etc…。もう少し、ダアト研究生活編が続きます。

第十三節・第十四節・第十五節
 アリエッタのイオン様に関してと日常編。アリエッタはレプリカイオンとの距離の取り方を模索中です。
 当初はイオンの回想なんてなかったんです。なのになぜか出てきて、独白までし始めてタイトルを変更するまで至りました。
 研究室での話。毛色が違いますが此処に一纏め。物語を進めたいですが、書かなくてはならないことがあるのでスローペース。
 ダアトとユリアシティの関係は捏造しています。原作ではユリアシティの方が立場が上で、指示を教団を通して預言という形で行っていたそうです。
 ティアは余所者と言われ罪をなすりつけられそうになっています。書き始めてから知りました。変更できる点ではないのでご了承ください。
 キムラスカ=セインガルド、マルクト=アクアヴェイル、ケセドニア=ファンダリア、ダアト=アタモニ神団と設定しています。

第十五節・第十六節・第十七節
 黒獅子と魔弾の過去話。それにシンクの現在の心境です。個人的に親しくなる≠仲間になるということです。
 六神将はそれぞれの理由があってヴァンの下で纏まっていますが、それを切り崩すのは容易ではありません。
 主人公もそこまで積極的ではありません。原作の流れを利用するつもりなので、その前に原作崩壊してしまうと困ります。
 此処から先は完全オリジナル。クロス設定、独自解釈が多分に含まれます。

第十九節・第二十節・第二十一節
 ディスト再登場。そしてユリアの言葉です。創世暦時代の謎解きに入ります。
 雪国組にディストを救ってもらうという手も考えました。でも、ED後の後日談を聞いてがっかり。
 なんと陛下に友人(+譜業の天才)だからという理由で釈放され、贖罪という名目でジェイドと一緒の薔薇色の研究生活を過ごすそうです。
 彼は世界的犯罪者集団の唯一の生き残りなんですが……。ええ、これはゲームです。物語としてはそれも十分有りです。
 ユリアの言葉。本編が始まってから主人公組と魔界組の心情を綴るのは難しいのです。
 主人公は悪意的解釈を、テオドーロには好意的解釈をして貰いました。彼女が聖女なのかどうかは解釈次第です。

第二十二節・第二十三節
 メッセージの影響とオベロン社の登場。
 オベロン社。これはTODとのクロスと決めたときに必ず出さなければと思いました。しかしレンズが無い。レンズが無いオベロン社なんて……。
 そこで、クレメンテの発言を思い出し執事降臨。二人の姉弟はどう動くか考えて、女社長にルーティが就任。詳細は次話で。
 ファリア。第七譜石の内容を知り、信仰との間で揺れ動く人を書きたかったのです。PTメンバーもあっさり「預言? それが何か?」という感じだったので。
 インゴベルト国王は為政者として、父親として悩んでいましたから。かといってモースは狂信者。一番一般市民に近い思考を持っているのは彼女でしょう。

第二十四節・第二十五節・第二十六節
 オベロン社との交渉、及び秘預言を知ったことによる混乱です。
 ジルクリスト一家。ミクトランに関わらなかった場合です。家族が居る分、ルーティの守銭奴具合も少しは低いでしょう。カイルの英雄願望も。
 2Pカラーでお送りしております。名前が変化していないキャラは外見が違うということで。まあ、フィリアしかいないのですが。
 セティ。彼女の裏切りで聖女が誕生しました。道化です。主人公は小さなころから言動などは大人でしたから、こんな狂信者もいるだろうなと。
 002。契約は双方が得るものがあって成り立つもの。もちろん戦って協力してもらったという可能性もあるのですが、本作においては感情を代価としました。

第二十七節・第二十八節
 その後のディスト。おそらく主人公とヴァンの次に真実に近づいている人。けれども動けないのです。
 アリエッタ。原作ではずっとイオンの影を追っていましたが、本作ではそれが逆に避ける元になっています。
 アニスとアリエッタは原作ではイオンを取り合って三角関係のようになっていましたが、本作ではそうでもありません。

第二十九節・第三十節・第三十一節
 シンクに恋する少女、ミカン。それに主人公の任務です。
 一般の団員から見た主人公を描きたくて彼女を出しましたが、嫉妬フィルターがかかってしまいました。視点を変えようかなと検討中。
 自由すぎるオラクルに関しての解釈。セントビナーを封鎖する彼らの暴挙に対するちょっとしたフォロー。
 あとは旅に出る前に主人公を戦闘に出しておきたかったんです。人を殺してしまった場合について語らせておくべきだなと。
 それに主人公の戦闘技術。弱点なども明記しました。譜歌解禁ができたら少しはましになりますが、先のことでしょう。

第三十二節
 主人公の誕生日。主人公と親しくなった人々です。
 ヴァンの贈り物。失敗したときのフォローぐらいは考えているだろうと思って護り刀を。主人公に貴族の自覚は全くありませんが。
 主人公の断髪。ルークに倣って切って貰いました。長い髪を気に入っているのでどうしようか迷いましたが、一番分かりやすい方法だろうと思い短髪に。

第一楽章
 書くべき部分は書き終わりました。原作の知識を持っている主人公がいたらどうなるか。その悩みと変化を書いたつもりです。
 原作ではキムラスカとマルクト、それにダアトという勢力がありましたが本作では第四勢力として魔界を作り上げました。
 少数である分結束力が強く、実はダアトよりも歴史が長い。それを活かして彼らは激動を乗り切れるのか。
 主人公の影響によって立場は変わらないもののディスト、アリエッタ、シンクはその心境が全く違います。彼らはどんな行動を取るのか。
 そして本作ヒロイン、ヴァン。妹に助けられるという情けない姿を晒すのか。それとも? 彼は一体何を考え、何をするのか。

間奏
 主人公の関わっていないキムラスカ、マルクト、ダアトの人々。
 キムラスカ。パパは違和感を持って……。現代でも実の子が事故でクローンと入れ替わっているとか思いつかないです。遺伝子情報も一致してますし。
 可哀そうな子。よくシュザンヌが批判される点。深読みしてみました。王族で病弱なら人の機微には聡いと思います。
 マルクト。実は暗殺が計画されていたりして預言?という感じ。預言との付き合いが長い分、合理的なのかもしれません。
 ジェイドは孤独な権力者に好かれる性格をしているんでしょう。歯に衣を着せず、その人の本質を見て話す。その分、周囲に疎まれますが。
 ダアト。レプリカイオンの葛藤とアニスへの依存。どちらが主導権を握っているかというと断然アニス。その理由を。
 アニス。大人にならなければならなかった子供です。アビスはなんでこんなに子供が大人で、大人が子供なのか。


 ―第二章を書きはじめてから―
 此処まで第一章はゲームでは描かれていない部分だったので自由度も高く結構好き勝手に書いてきました。
 そして、思いついたシーンから文字にしていったのですが、ふと手が止まり、いったい自分は何が書きたいのかと自問自答することに。
 はっきりいって自己満足の代物に過ぎないことは確かです。ルークの救済を第一とせず、仲間厳しめメインでもなく、こだわりのCPがある訳でもない。誰得なお話です。

 そして思い描いているEDから考えるに、どうやら私は“ティア”という異分子を放りこんだ場合の原作再構成をやってみたいようです。
 そこで原作では描かれなかったPTメンバーや六神将の心情を説明できたら、突っ込みどころ満載の行動を何とか説明できたらと思いました。
 それにアビスの世界で生きているデスティニーのキャラを描ければ良いなとも。それをなるべく伝えられるように書いていきます。
 これからの展開はどちらかというと全員救済ハッピーエンドではなく、それこそアビスな感じの終わり方になるでしょう。
 何処に書こうか迷いましたが、とりあえず此処で明言しておきます。

第一節・第二節・第三節
 主人公が原作通りの始め方を選んだのかについての説明。原作沿いにしなかったらいきなりアクゼリュスになってしまいます。
 はっきり言ってそんな短い時間で登場人物の心内描写をそれぞれ事細かになんてできません。必須なイベントもありますし。
 公爵家に侵入しないせずルークに接触する方法。この展開をご都合主義とか補正とか言われても仕方ないと思います。
 ちょこちょこルークの性格に変化が見られますが、その点を主人公は全く把握していません。
 ついでに主人公の影響。国・地域別:ユリアシティ>>>ダアト>キムラスカ>ケセドニア>>マルクト。

第四節・第五節・第六節
 タタル渓谷~エンゲーブ。主人公がルークの性格を把握中。ルークはいろいろと思案中。各勢力は暗躍中。
 それにしても展開が遅い。そして文字は増えている。じれじれしていてさっさと先に進みたいが、それは無理というジレンマ。
 第二章は起承転結でいえば承に当たり表に出てきた変化を主人公に見つけてもらうところですが、はっきりと物語が動くのはバチカルに帰還する当たりでしょう。

第七節・第八節・第九節・第十節
 チーグルの森、イオンの話です。崩落編のケセドニアでモースと遭遇したときイオンは「僕はダアトを離れるべきではなかったかもしれません」ということを言います。
 思わず、「遅いよっ!」と突っ込んでしまいました。もっと早くそれは思うべきでしょうと。それで少しイオンに成長してもらいました。
 ライガとチーグル。原因はミュウなので原作より少し厳しい処分となりました。ライガを生かすならその分、チーグルの負担は増えます。
 ご主人様はいません。落ちてきた岩から助けられたことでミュウはルークを慕うようになりました。それに準ずるイベントは発生していないので名前呼びのままです。

第十一節・第十二節・第十三節・第十四節
 タルタロス編。そもそも賢いルークの生まれは、ジェイドの申し出を断るためでした。ジェイドの提案にNO!といえるぐらいの知力です。
 最近気付きましたが私はレプリカびいきのようです。悲惨な死に方ばかりしていますからね。二次ではせめて……。
 あと、よくアニスの罪としてタルタロスの虐殺に関与したことが挙げられますがちょっと疑問を私は持ちました。
 ダアトで行方不明とされているのだから、その行方を知らせることは組織の一員としては間違っていないんじゃないかなと。
 どの程度の情報を漏らしたのか書かれていませんから断言はできませんが。むしろ罪なのは親書を盗み見たことや、通常業務のスパイ活動でしょう。


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