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[9982] 恋姫無双外史・桃香伝(無印恋姫SS)
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/01 22:28
 その他SS板でははじめまして。航海長と申します。

 この作品は無印「恋姫無双」の二次創作です。「真・恋姫無双」ではありません。
 
 無印では我等が主人公、ち○こ太守こと北郷君に立場も義妹たちも奪われ、名前すら出てこなかった劉備(桃香)が、もし無印の世界にも生きていたら……という設定です。
 基本無印ですので、桃香以外で「真」で新登場した武将や、普通の三国志に登場して恋姫シリーズに出てこない武将は登場しません。

 以上のことを踏まえたうえで本編にお進みください。楽しんでいただければ幸いです。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第一話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/04 18:05
 何処とも知れない闇に包まれた空間の中……その中央に一人の青年が座っている。眼鏡をかけた理知的な容姿の持ち主だが、その目には誰かをからかわずにはいられない、と言った性格の悪さがちらついている。
 青年は今、水晶球をじっと見つめていた。その水晶球には、広大な世界の只中に落ちていく一人の少年の姿が映し出されている。
「これが、今度の外史の突端ですか……ふむ……おや、帰って来ましたか」
 青年は気配を感じて、水晶球から顔を上げた。彼と同じ白装束を身に纏った、小柄な青年が一人、そこに立っていた。その表情は苦虫を百匹ほどまとめて噛み潰したような、そんな苦渋と怒りに満ちている。眼鏡の青年はその小柄な青年――戻ってきた相方に声をかけた。
「貴方にしては、らしくない失敗をしたものですねぇ、左慈」
 温厚な口調ではあったが、その言葉は相手――左慈の気に障ったらしい。
「黙れ、于吉! くそ、訳のわからん邪魔が入ったせいで、またろくでもない外史が始まりやがった。余計な仕事ばかり増えやがる」
 怒鳴って椅子を蹴り壊す左慈。眼鏡の青年――于吉はそんな相方の振る舞いにも、笑顔を浮かべて言った。
「まぁ、落ち着きなさい左慈。打つ手はあります」
「なんだ?」
 まだ目を吊り上げたままの左慈が近づいてくると、于吉は水晶球を見るように言った。そこに映し出されているのは、先ほどの少年ではなく、みすぼらしい姿をした一人の少女だった。
「なんだ? この女は」
 訝しげな左慈に、于吉は答えた。
「この少女は、本来この外史の突端となるべき存在。君が招き入れてしまった異分子が彼女の役割を奪ってしまったわけですが……おっと、怖い顔をしないでくださいよ」
 失敗をあげつらわれたと思ったか、殺気に満ちた視線を送りつけてくる左慈に、于吉は苦笑で答えて先を続けた。
「この少女には、まだ強い運命の光が見える……彼女を使って、異分子を抹殺するのですよ。そうすれば、この外史はあるべき姿に戻るはずです」
 左慈は面倒くさそうな表情をして言った。
「回りくどいな。直接あの男を抹殺すれば問題ないだろうに」
「それが許されるなら良いんですがね」
 于吉はそう答えた。黙り込む左慈。彼としても一度動き始めた外史への直接的介入が難しい事はわかっている。彼らに許されるのは、外史の住人を教唆し、間接的に目標を達成する事だけだ。その手腕において、左慈は于吉には遠く及ばない。
「まぁ……良いだろう。お前に任せる」
 不機嫌そうに座り込む左慈に、于吉は嬉しそうに言った。
「良いでしょう、任されました。ではまず、私の言う通りに動いてもらえますか? 策を練る為にしばらくはここを動けませんからね、私は」
 それを聞いて、左慈はますます不機嫌そうな表情をする。こういう風に相方を困らせるのが、于吉の密かな楽しみだった。
「では、まずは……」
 于吉が地図を取り出し、左慈の向かう先を決める。そこは――
 
 
恋姫無双外史・桃香伝
 
第一話 桃香、乱世に立つの事
 
 
 都洛陽の北東、河北四州の一つ、幽州。渤海の北岸に沿って東西に細長く広がるこの地は、漢王朝にとっては北限の地である。その中でも西部にある琢郡は、他の州との交通の便が良く、多くの物産が集まる豊かな街だった。
 この日も、多くの商人たちが町で立つ市で一商売しようと、道を急いでいた。多くの手代を引き連れた馬車数台に及ぶ規模の隊商もいれば、背中に背負えるだけの商品を持っただけの零細な行商人もいる。
 その中に、一際目立つ一人の少女がいた。服装は地味で、おそらく商品なのであろうむしろを束にして背負った、何処にでもいそうな行商人の出で立ちではあったが、その容貌は明らかに只者ではなかった。
 長い艶やかな髪は、内に秘めた情熱を表すような赤。それでいて、顔立ちは穏やかで、刺々しさを感じさせるところが無い、柔らかな美貌。眼差しには鍛えられた知性の光が宿っている。
 肢体もまた見事なもので、細身でありながら胸は母性と包容力を示すかのように豊かで、身体の線が出ないような服を来ているにも拘らず、その大きさを隠し切れない。すれ違い、あるいは追い抜く男たちの視線を思わず釘付けにしていた。
 しかし、彼女には男を誘うような雰囲気は全く無く、あくまでも清楚な色香と気品を漂わせている。服装は地味……と言うより貧しいものだったが、育ちは良いのだろう。
 これだけ目立つ少女ともなると、男たちが声をかけてもおかしくないはずだが、何故かそうしようとする男たちはいなかった。その理由を知っている人物は市にいた。少女が市に入っていくと、家財道具を売っている区画の元締めが少女を手招きした。
「やぁ、玄徳ちゃん。場所はとっておいたよ」
「いつもすみません、元締めさん」
 玄徳と呼ばれた少女は桃の花が咲いたような笑顔を見せると、元締めが確保していた二畳ほどの区画に、背負ってきた筵の束を置いた。
「なに、玄徳ちゃんのお父さんには市の者はみんな世話になったからね。ほんのお返しだよ。まぁ、私に出来る事はこれくらいしかないが」
 元締めが言うと、少女は店開きの用意を始めながら答えた。
「いいえ。何時もおかげで助かっています。すみません」
 彼女の家は街から遠く、市で良い場所を取るには夜中に家を出なければならない。だが、元締めが場所取りをしてくれているおかげで、夜明け頃に家を出れば十分市の始まる時間に間に合うのだ。
「なに、気にしなくていいよ。じゃあ、商売頑張ってくれよ」
「はい!」
 元締めの言葉に、少女は笑顔で答え、行き交う人々に手作りのむしろを宣伝し始める。元締めはそっとその場を離れながら、嘆かわしいと言う口調で言った。
「世が世なら県令令嬢のはずの娘さんが、ああしてむしろ売りをしなければならないとはなぁ……本当に世の中は無情だよ」
 元締めが言うように、玄徳少女は元はと言えば先代の県令の娘なのである。まがりなりにも貴族の一員であり、本来ならこうして市場でむしろを売るような身分ではない。しかし、彼女が物心付く前に父は流行り病で無くなり、数年前には母親も心労がたたってこの世を去ってしまった。少女の家は見る影も無く没落し、今は貧民すれすれの生活を余儀なくされている。
 死んだ先代県令が善政を敷いていたこともあり、市の者たちをはじめ、この琢郡の人々は少女の境遇に同情的だったが、本人は余り気にしていなかった。
(気がついたときには、もうこの暮らしだったし……それに、父さんが県令だからって、わたしが県令になれるわけでもないし)
 役人として出世しようと思えば、選挙――地元有力者の推薦を受けなければならない。少女もかつては女性の学舎としては荊州の水鏡女学院と並ぶ屈指の名門、清流女学院で学び、推薦を受けるに相応しい学識を身に付けてはいる。だが、卒業する頃には、選挙を受けるようなお金は手元に残らなかった。
(でも……お父さんの恩義と言って助けてくれる人たちに、恩返しはしたいな……劉家の誇りにかけて)
 例え貧しくても、遠くは帝室に連なる名門――中山靖王劉勝に連なる家の子として、誇りと信義を失ってはならない。少女が母から受けた教えである。
 少女の姓は劉、名は備、字は玄徳。そして、真名……その人間の本質、魂の有り様を示す本当の名前は、桃香と言う。中山靖王劉勝の末裔たる彼女は、この時無位無官の一介の行商人であり、これから己の身に降りかかる運命を、知る由も無かった。
 
 日が西に傾く頃、一日中喧騒に包まれていた市も、今日の終わりを迎えていた。店を出していた商人たちが売上を勘定し、あるいは売れ残りの品を梱包する。思ったより売上が多かったのか、今夜は一杯やろうと陽気に騒いでいる一団がいるかと思えば、不調だったのか溜息と共に立ち去る者もいた。
 桃香はと言えば、今日持ち込んだむしろは完売であった。最近では割と珍しい事である。彼女が手作りするむしろは出来が丁寧で長持ちすると言う事と、美少女が売っていると言う事で評判は悪くないのだが、完売と言うのは滅多にない。
 だから、この日彼女は割と良い気分で、おかずを一品追加できるな、などと考えながら店をたたんだ。元締めに挨拶して場所代を払い、行きつけの酒家で夕飯を買い込んで、彼女は軽い足取りで街を後にした。
「今日はついてたな……二十枚も買ってくれる人がいて。でも、むしろを二十枚も何に使うのかな?」
 消耗品とは言え、むしろを二十枚も一度に買う事は普通はありえない。それが気にはなったが、わざわざ聞くまでも無い事なので、普通に客として応対した。だが、仕事が終わってみるとやっぱり気になる。
「まぁ……気にはなるけど、お客さんが何処に行ったかわからないから、調べようが無いんだけど」
 桃香はそう独り言を言いながら歩く。しばらく街道を進んで、それから脇道にそれて行く。彼女の生まれ故郷であり、今も家がある楼桑村はこの脇道を通って丘をいくつか越えた所にあり、その名の通り桑の木が多く生えている、何処にでもありそうな田舎の村だ。村人はみんな村の周囲で農作業に従事し、あまり外へ行かない。桃香は貴重な例外である。
 当然この脇道を通る人はほとんど無く、今も通行人は桃香一人だったのだが……
(あれ?)
 桃香はふと立ち止まった。今朝街へ行くのに通った時と、何か道の雰囲気が違う。見たところ、朝と何か変わっているようには見えないのだが……しばらく立ち止まって観察しているうちに、桃香はその違和感の正体に気がついた。
(これは……たくさんの人がここを通った跡がある?)
 地面に複数の足跡があり、その数は十や二十では利かない。百……いや、もっとかもしれない。桃香は辺りを見回した。そして、その足跡の主たちがこの道をずっと辿ってきたのではなく、横断している事に気がつく。道の両脇の藪が踏み荒らされたり、木の枝が折れたりしている様子は、森の中をかなりの集団が通過した事を意味している。
(この人たちは……ん? あれは……まさか!?)
 桃香の視線を釘付けにしたのは、木の枝に引っかかった小さな黄色い布の切れ端だった。
「黄巾党……!?」
 桃香は恐ろしい事態が進行していることを悟り、恐怖のあまりそこに立ちすくんだ。
 
 黄巾党……「蒼天已死 黄天當立(蒼天=漢王朝を滅ぼし 黄天の世を作ろう)」と言う主張を掲げて決起したこの集団は、元は太平道という宗教団体の起こした反乱だった。その勢力は今や中国全土に広がり、至る所で官軍と黄巾党の戦いが繰り広げられている……そう言う話は、桃香も聞いたことがあった。実際に討伐のため出陣する官軍を見たこともある。
 だが、日々の生活に追われる中で、桃香はその話をどこか遠いもののように感じていた。もちろん、黄巾党の存在を好ましいものとは思っていない。元は志のある集団だったのかもしれないか、今噂に伝え聞く黄巾党はと言えば、町や村を焼き、財貨を奪い、人々を苦しめるたちの悪い野盗と変わりない集団でしかなかった。
 いくら生活が苦しく、政治が悪いからといって、武力で決起し、自分たちと同じような貧しい庶民を苦しめる黄巾党に正義があるとは、桃香にはとても思えなかった。
 かと言って、黄巾党と積極的に戦おうとも考えてはいなかった。清流女学院では武術も一通り教えており、桃香も剣術は学んでいたが、あまりものになったとは言えなかった。黄巾党との戦いに参加しても、あまり役には立てないだろう。
 そう思って、今まで桃香は何もせず、ただ日々の暮らしを送ってきた。だが、こうして噂でしかなかった脅威が目前に迫った今、桃香はもうそこから目を背けるわけには行かないと悟っていた。
「とにかく……黄巾党が何処へ行ったのか、確かめなきゃ」
 桃香は森の中に踏み込んだ。見たところ、村の方から来たわけではないし、火災の煙等も見えないので、村は無事だろう。今は黄巾党が何処へ行ったかを確認するのが先決だ。しばらく気配を殺して森の中を進んでいくと、前方からざわざわと言う人の話し声が聞こえてきた。
 桃香がさらに慎重にそちらへ近づいていくと、話し声はさらにはっきりし始め、木々の陰に頭に黄色い布を巻いた男たちの姿が見えてきた。間違いなく黄巾党だ。彼らは森の中を流れる川の傍、やや開けた土地に陣を敷き……というか思い思いに野営の準備を始めており、その数は……
(二千人……くらいかしら?)
 桃香はそう見積もった。清流女学院では軍学・兵法の授業もあり、敵軍の人数を大まかに掴む方法も教えられていた。彼らは桃香が見ているとは思ってもみないらしく、大声で会話を交わしていた。
「それにしても、思ったより栄えている街だったぜ! あの男に教えられたとおりだ!!」
 そう叫ぶ男を見て、桃香は気がついた。昼間彼女から二十枚のむしろを買い上げた男だった。
(あの人は……街の様子を見に来ていたと言う事?)
 桃香は男が斥候として街に来ていた事を悟った。その間にも、男は聞かれるままに街の様子を仲間たちに話していた。
「ああ、食い物も水も、もちろん金もたんまりある。それに女もだ。このむしろを売ってた貧乏そうな娘っ子でも、滅多に見ないような可愛い娘で……おっぱいもでかかったぜ」
 それを聞いて、桃香は思わず身を縮める。今のは間違いなく自分の事だ。
「そりゃ大したもんだ。とっとと攻め落として、明日の夜は酒池肉林と行こうぜ」
 男の仲間の黄巾兵が叫び、賛同するように笑い声が上がる。
「おうよ。じゃあ、むしろを配るから旗に仕立てるぞ。ちゃんと“黄”って書けよ」
 そう言いながら、男が桃香から買ったむしろを仲間たちに配っていく。どうやら、この二千人は百人で一隊を構成し、二十の部隊に分かれているようだ。それぞれに買ったむしろに旗印を書き込んでいく。桃香はしばらくその様子を茂みに隠れて観察していたが、やがてそっと後ずさりすると、来た時の倍近い時間をかけて道に戻った。既にすっかり夜になっていて、辺りは真っ暗だ。しかし、桃香は躊躇いなく街に向かって走り始めた。
「はぁ……はぁ……大変……! 大変な事になっちゃう……!!」
 決して武人ではない桃香にとって、歩いても辛い道程を走り切るのは容易な事ではない。心臓が破れそうにバクバクといい、息が切れ、目が霞む。それでも桃香はひたすら走り続けた。街にこの報せを伝えなければならない、と言う義務感ばかりではない。後ろから黄巾党が追ってきそうで、恐ろしかったのだ。
 やがて、街の外壁が見えてきたときには、腰が抜けそうなくらいホッとしたが、それでも彼女は足を緩めることなく、最後の道程を走りきるために、がくがく言う足に鞭を打った。
 
 二千人の黄巾党が街を襲おうとしている……桃香のもたらした報せに、街は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。町長の屋敷では、町の有力者たちが集まって対策会議が開かれ、桃香も参考人として呼ばれたが、対策会議とは名ばかりで、有力者たちが顔を突き合わせて嘆くだけの場と化していた。
「何てことだ、奴らとうとうこの街まで来たのか……!」
 町長が頭を抱える。この街には守備兵がおらず、戦える男たちを集めても、五百人ほどにしかならないと言う。
(攻者三倍の原則は満たされちゃってるか……)
 桃香は考えた。攻める方は守る方の三倍の兵力を必要とする、と言う古来よりの軍学上の原則である。攻めてくるであろう黄巾党の人数は二千。街の戦える男たちの四倍だ。
「官軍に救援を求めることは出来ないんでしょうか?」
 桃香が言うと、比較的しっかりしている市の元締めが答えた。
「もちろん使いは出したが、一番近い官軍の砦まで二日はかかるな。すぐに兵が出ても、やっぱり来るのに二日かかるから……あまり期待しないほうがいいぞ」
「相手は明日攻めて来るでしょうから、三日は耐えないといけないわけですか。いえ……二日ですね」
 元締めの答えに、そう言いながら考えをめぐらす桃香。元締めは首を傾げた。
「なんで二日なんだ? 玄徳ちゃん」
「あ、それは簡単ですよ。この辺りの官軍は、騎兵が主力なんです。騎兵ならここまで一日で……もっと早いかな?」
 笑顔で桃香は答えた。ここ幽州は北に多くの遊牧民族の住む地域と隣接し、州自体良馬の産地でもあるため、騎兵とその運用が発達している。ここに匹敵するのは、遠く西域に近い涼州くらいだろう。
「そうか! それは助かる。何とか二日凌げればいいのか!」
 街一番の大店の主人が、明るさを取り戻した声で言う。
「よし、今から急いで防戦の準備をしよう……戦えない人たちにも手伝ってもらおう」
 元締めが言うと、数人の参加者が頷いた。桃香が言った、二日耐えれば何とかなる、と言う言葉に希望を見出したのだ。冷静に考えればそれほど希望のある話というわけではないのだが、桃香が笑顔で言うと、何となく明るい展望があるような気がしてくるのだ。
(本当は、二日で援軍が来るかどうかなんて、わからないんだけどね……他の所に出払ってるかもしれないし、歩兵しか残ってないかもしれない)
 桃香はそう思っていたが、会議が形を為していないのを見て、何か少しでも希望のある事を言っておかないと、戦う事すらできないと考えたのだ。それはどうやら功を奏したらしい。議論が活発になり、いろいろと案が出てきはじめた。例えば、簡単な武器の作り方。長い棒の先に包丁をつけるだけでも、手軽な槍代わりになる。あるいは火矢を射掛けられた時の対処法。
「町長、問題はないかな?」
 町の住民だけでなく、滞在している旅人の間からも戦える人間を募ろう、と言う案が出てきたところで、大店の主人が、途中から黙ったままの町長に確認を求めた。
「あ、ああ。問題ない。志願してくれた人には、街からも謝礼金を出そう」
 町長は頷くと、桃香の姿を見た。彼女が話し始めた途端に、大の大人たちが集まっても出てこなかった思案が出てくるのを見て、不思議な感覚に囚われる。
「元締め、あの娘は一体?」
 町長が問うと、元締めは驚いたように答えた。
「ん? 知らないのか? 劉玄徳。前の県令の娘さんだよ。俺たちなんかよりずっと学もある」
 そう言って、知っている限りの桃香の事を元締めは話した。
「そうか……」
 町長は頷くと、改めて黄巾党の様子について話している桃香に近づいた。
「劉玄徳どの」
「え? あ、は、はいっ! なんでしょうか?」
 改まって「玄徳どの」などと呼ばれたことがなかったので、桃香は驚いて町長のほうを振り返った。しかし、続けて町長が発したのは、桃香をもっと驚かせる言葉だった。
「玄徳どのは清流女学院で本格的に軍学や兵法を学ばれたとか。どうか、防戦の指揮を執っていただけませぬか?」
「ええっ!? わたしがですか!?」
 目を丸くする桃香に、町長は頭を下げてお願いする。戸惑う桃香に、元締めが背中を押すように言った。
「俺からも頼むよ。俺たちは軍学に関しては全くの素人だ。玄徳ちゃんなら任せられる」
 そこへ、元締めと町長の話を聞いて桃香の出自を知った街の者達が、自分も、私もと桃香に指揮を任せる事に賛同する。戸惑っていた桃香だったが、それを聞いているうちに、逆に覚悟が固まってきた。
「……わかりました。わたしで良ければ」
 桃香は決意を込めて頷いた。事情はどうあれ、もう自分はこの件に足を踏み入れてしまった。それに、この乱世の中、いつまでもそれに背を向けて生きてはいられない。ならば、かつて学んだ事を生かして、この街の人々を守る。
「ありがとう、玄徳どの! よし、皆は玄徳どのの下知に従ってくれ。わしは義勇兵を集める」
「わかった!」
 町長はそう言って屋敷を出て行く。元締めたちは桃香の周りに集まった。
「さて、そう言う事でよろしくな、玄徳ちゃん。俺たちはどうすればいい?」
「そうですね……ちょっとした策は思いつきました。まず……」
 桃香は卓の上に囲炉裏から拾ってきた炭で街の略図を書いた。全体として正方形をした外壁に囲まれた街の東西南北には門があり、それぞれ街道に通じていて、門からの道は街の中央で合流して、市を開く広場になっている。
「まず、この道に……」
 桃香は炭で地図に書き込みをしながら、策の内容と兵の配置を決めていった。
 
 翌日……日が昇る頃、街の門が開かれた。それを確認すると、森の中に潜んでいた二千の黄巾兵たちは、一斉に街めがけて駆け出した。
「騎馬隊は門を抑えろ! 街の連中に扉を閉じさせるな!!」
 全体を率いる隊長が命じ、三百騎ほどの騎兵が、馬蹄の音を轟かせて駆け出した。彼らの接近は見えているはずだが、街の門が閉じられる気配はない。
「ヒャッハー! 街の連中、ビビッて扉を閉じるのも忘れてやがるぜ!!」
「歩兵の連中を待つまでもねぇ、一気に攻め落とすぞ!」
 もはや勝ったも同然、と思った黄巾騎兵たちは門を続々と突破して街の中に踊りこんだ。が、妙な事に気づく。
「ん? 道を歩いてるやつらがいない……がっ!?」
 逃げ惑う住民たちを馬蹄にかけて蹂躙する、嗜虐的な快感を欲していた騎兵たちだったが、次の瞬間、自分たちが蹂躙される目にあった。道に低く渡してあった縄に足を引っ掛け、馬が次々に転倒し、騎兵たちは振り落とされて地面に叩きつけられ、あるいは自らの乗馬の下敷きになり、血反吐を吐いて動かなくなる。後続の騎兵たちは先頭が将棋倒しになった事で、慌ててその場に停止した。
「今です!」
 その様子を見ていた桃香は、借り物の剣を振るって合図を出した。その瞬間、屋根に登っていた住民たちのうち、弓を持っていた者たちが、立て続けに矢を射掛けた。そうでない者達は、石やレンガの欠片を掴むと、力いっぱい騎兵たちに投げつける。
「ぐわあっ!」
「ぎゃあっ!!」
 矢を突き立てられ、あるいは石に骨を砕かれた騎兵たちが、悲鳴を上げて次々と落馬する。さらに家々の隙間の路地に身を潜めていた別の住民たちが、槍や長い棒の先につけた包丁を繰り出し、騎兵たちやその乗馬を手当たり次第に刺した。馬が痛みで暴れ、乗り手を振り落として暴走し、地面に落ちた黄巾兵たちを撥ね飛ばした。
 そうした中で、いくらか馬術に優れた十騎ほどが、倒れた仲間たちを乗り越えて前進しようとするが、広場の手前に先を尖らせた丸太や角材を組み合わせた障害物――馬防柵があるのに気付き、顔を歪めた。
「くそっ! 勘付かれてたか! こいつは罠だ!!」
 数でも実戦経験でも黄巾兵たちに劣る住民たちを指揮するに当たり、桃香が考えた事……それは、少しでも相手との数の差を埋めるため、相手を少しずつ街の中に誘い込み、必殺の罠に嵌めて倒していくことだった。後世キルゾーン戦術と呼ばれる事になる戦法だが、もちろんこの時代にそんな用語はない。
 この戦術の要は、後続の敵に先鋒が陥った状況を出来るだけ悟らせないことにある。敵が馬首を巡らせるのを見て、桃香は叫んだ。
「あの人たちを帰してはダメです! 集中攻撃を!!」
 それを聞いて、弓使いたちが逃げようとする十騎に集中的に矢を浴びせた。一騎、また一騎と矢を受けて落馬する。しかし、辛うじて三騎ほどが桃香の構築した死のあぎとを逃れ、街の外へ駆け出した。
「しまった! 逃げられたか!!」
 元締めが唇をかむ。桃香は首を横に振った。
「大丈夫。逃げられたら逃げられたで、その時の対応も考えてあります。見張りの人に、相手の動きをよく見るように合図してください」
「わかった」
 元締めは腕を廻し、広場にいる住民に合図を送ると、銅鑼が二回鳴らされた。しばらくして、城壁のほうから銅鑼が一回打ち鳴らされるのが聞こえてきた。敵がいったん止まったと言う合図だった。
「……よし、今のうちに敵の武器を回収させてください。次は歩兵が相手になりますから、みんなの配置は手筈通りに」
 桃香が言うと、何時の間にか桃香の副官のような位置を確保していた元締めは応と頷くと、指示を出しにその場を立ち去った。
「これで少しは時間を稼げ……うっ」
 桃香は足元の地面を見て絶句する。馬蹄に踏みにじられて無残な姿になった黄巾騎兵たちの屍が道を埋めており、それから街の住人が武器を取り上げていく。思わず桃香は喉の奥に酸っぱい物がこみ上げてくるのを感じた。それを必死に飲み下す。
(これを、わたしが……うん、目をそらしちゃダメ。自分がした事を自分で受け止めないと)
 涙目になりつつ、桃香は敵とはいえ人を殺す、と言う事の重さをかみ締めていた。
 
 その頃、黄巾兵たちは騎兵がほとんど全滅したことに動揺していた。
「畜生が、田舎町のクセにいっぱしの軍師がいやがるらしいな」
 凶相の小男が舌打ちをする。その背後に長身の男……昨日桃香からむしろを買った男と、小男の五倍くらいありそうな太った男が立った。外見的特徴そのままにチビ、ノッポ、デブと言われるこの三人が、ここへ攻めてきた黄巾のリーダー格だった。
「ど、どうするよ兄貴」
「いきなり三百人も殺されて、怖気づいてる奴が出てるぜ」
 デブ、ノッポがチビに言った。どうやら、チビがこの三人の中では一番の兄貴分らしい。
「わかってらぁな。ち、あの白ずくめはこんな事は一言も言ってなかったんだがな」
 チビは舌打ちする。数日前、黄巾本隊と合流するために移動していた彼らは、謎の白ずくめの道士風の青年から、この街の存在を知らされた。本隊合流時に手土産代わりに略奪品を持っていけば、本隊を率いる太平道の指導者たちの覚えもめでたくなる。そう計算して街攻めを決断したチビだが、思わぬ被害によって、退くに退けない立場に追い込まれていた。
(ここで尻尾を巻いたら、オレの立場が危うくなる……かといって慎重に街攻めをしていたら、官軍が来るかもしれない。ここは……)
 チビは頭の中で計算をやり直して、決断した。適当な荷物の上に立ち、配下の兵たちを叱咤する。
「てめぇら、怖気づくんじゃねぇ! 騎兵の連中がしくじったのは油断があったからだが、もうそれはない! どうせ町の連中は少ないんだ。こっちが数に任せて叩き潰せば済むだけだ。いいか、町の連中なんぞに舐められてたまるか! 奴らを踏み潰して、お宝と酒と女を奪い取るんだ!!」
 ごく単純な力攻め。それがチビの選択。いくらか実戦経験はあるとは言え、やはり正規軍ではない黄巾兵たちにとって、やはりそれが一番わかりやすい。そして、自分たちがまだ有利だと言われることには、黄巾兵たちの恐れを払拭させる効果があった。士気を回復した黄巾兵たちは、叫喚をあげて街の門に殺到した。切迫した様子で連打される城壁上の銅鑼の音に、桃香は武器拾いをしている住民たちに叫んだ。
「敵が来ます! 急いで配置について!!」
 それを聞いて、住民たちが慌てて拾った武器を抱え、路地にもぐりこもうとする。しかし、いくつも抱えている武器の重さのためか動きが鈍い。何人かが逃げることが出来ず、襲ってきた黄巾兵に斬殺される。
「くっ……」
 歯噛みする桃香。一方、元締めは怒りに燃えて命じた。
「野郎、生かして返すな! 撃て!!」
 弓使いたちが慌てて射撃を開始する。しかし、三百騎程だった騎兵たちと違い、既に街に乱入してきた黄巾兵たちは五百人を越えており、混乱を助長させるように、手にした松明を周りの家に投げつけ始めた。粗末な板葺きの家が炎上し、屋根に陣取っていた住民たちが火に巻かれて転げ落ちた。
「消火、急いで! 白兵担当の人は前へ!!」
 桃香が指示を再開する。戦えない女性や老人、子供たちが予め水を満たしておいた木桶を手渡しで運び、燃えている家に浴びせかける。一方、街に来ていた商人たちの用心棒や、従軍経験のある比較的戦場慣れした住民が、剣や槍、手斧を手にして通りを突進し、黄巾兵に襲い掛かった。消火の時間を稼ぐため、敵の放火を阻止するのだ。
 通り一本だけが戦場のため、一度に相対できる人数は二十人ほど。押し寄せる黄巾兵千七百人に対し、迎え撃つ街側は百人ほどだったが、辛うじて侵攻を押しとどめ、逆に家数軒分押し返すことに成功する。その間に小火は何とか消し止められた。
「よし……左右から襲って!」
 火が消えたことで通れるようになった路地から、住民たちが再び槍を繰り出して黄巾兵を突き倒した。さらに屋根伝いに飛び移ってきた弓使いや投石担当が、敵歩兵めがけて矢玉を馳走する。
 しかし、黄巾兵たちも黙ってやられてはいない。弓を射返し、路地に踏み入って住民たちに切りかかる。こうなってくると、数の少ない住民側が不利だ。桃香は剣を振り回した。
「一旦下がって、道を空けて! 衝車用意!!」
 住民たちが桃香の指示を聞きつけ、急いで下がる。かさにかかって追撃しようとした黄巾兵たちだったが、通りの突き当たりに用意されていたものを見て、ぎょっとして立ちすくんだ。先を尖らせた丸太を載せた荷車が数台、横一列に並んでいる。
「よっしゃ行けー!!」
 その荷車を拠出した商人が叫ぶと、荷車の押し手たちが全力でそれを押して走り始めた。本来は城門を破るために使う攻城兵器、衝車。その簡易版だったが、威力は絶大だった。慌てて下がる黄巾兵たちにそれが突入すると、数人がまるで壊れた人形のようなねじくれた姿勢で宙に撥ね飛ばされた。あるいは丸太に串刺しにされ、一撃で絶命する黄巾兵もいる。仲間の無残な姿に、黄巾兵の士気が再び下がった。
 簡易衝車は一区画ほど黄巾を押し込んだ時点で、壊れて動かなくなったが、桃香はそれも有効活用するつもりだった。彼女が合図すると、押し手たちが荷車を横倒しにして、通りに壁を作る。長い槍を持った住民たちがそれを盾にする形で布陣し、黄巾兵を突きまくった。
「この野郎、死ね死ね!」
「俺たちの街は、お前たちなんかには奪わせない!!」
 住民たちの気迫に、黄巾兵たちはたまりかねたように退き始めた。気がつくと、既に時間は夕刻に近づいている。さすがにこれから暗くなると言う時間には戦いは出来ない。
「待って! 追いかけちゃダメです! それより、怪我人の手当てや休息を優先してください」
 退いていく黄巾兵を追撃しようとする者たちもいたが、桃香はそれを押し留め、門を閉めさせた。扉の向こうに黄巾兵たちが去っていくと、疲労困憊している住民たちの間に、自然と歓声が広がっていた。
「やった! 勝った! あいつら逃げていく!!」
「ざまあみろ! おととい来いってんだ!!」
 そう言ってはしゃぐ住民たち。朝からずっと防戦を指揮し、剣を振り回していた桃香は、棒のようになった腕をさすりながら、その場に座り込んだ。
「ふぅ……」
 ため息をつく桃香のところへ、町長と元締めがやってきた。
「やりましたな、玄徳どの! どうにか一日持ちこたえた!」
「やっぱり、玄徳ちゃんは出来る子だったな」
 そうした褒め言葉に、桃香は照れ笑い半分、苦笑半分の笑みを返して、立ち上がった。
「ええ……でも、まだ一日目です。まだ終わっていません。見張りを一晩中立てて、それから死体の片付けとかもしないと」
 まだ休んでいられない。自分にも言い聞かせるように、桃香は指示を再開した。城壁や通りに沿って篝火を焚かせ、夜襲があった場合に備えさせる。敵味方の死体を一箇所に運び、埋葬の準備をする。その中で、既に住民に五十人近い犠牲者が出ていると知って、桃香の胸は痛んだ。
「敵には十倍の損害を与えているんだ。そう気に病む事はない」
 元締めはそう言って桃香の肩を叩いたが、彼女にとっては味方の死はもちろん、黄巾兵たちの死も辛いことだった。許せない悪事を働いてきた連中なのは知っていたし、だから彼らを倒すことは悪い事ではない、と自分に言い聞かせもしたが、戦場の悲惨な現実は、桃香にとってそうした自己正当化を許さないものがあった。
(……もし、政治が全うなものだったら……そもそも黄巾党の蜂起なんて無くて、こんな戦いも無かったかもしれない……この人たちが死ぬことも無かったはず。ただ戦うだけでは、乱世は終わらせられないんじゃないかな……)
 一日で余りにも多くの死を目にして、桃香はこの乱世と、その中で自分が生きる意味を、おぼろげながら考え始めていた。
(続く)


-あとがき-
 と言うことで、桃香の戦いが始まります。同じ頃愛沙、鈴々と邂逅した北郷君も戦いを始めているはずですが、二人の出会いはもうちょっと先になる予定。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第二話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/04 18:07
 桃香は夢を見ていた。
 どこかの戦場で、大軍を相手に戦っている夢だった。味方は少なく、敵の数は百万を号する天下の大軍。だが、桃香は不思議と恐れは感じなかった。
 何故なら、傍に頼れる仲間たちがいるから。美しい黒髪をなびかせ、青龍偃月刀を振るう少女。体は小さいが、一丈八尺の蛇矛を自在に振るい、敵を叩き伏せていく少女。
 心から信頼しあうこの二人が傍にいるなら、例え百万の敵が相手でも恐れるものではない。桃香は剣を抜き、大号令を下す……

 
恋姫無双外史・桃香伝

第二話 桃香、朋友と再会し、初めての臣を得る事


「玄徳ちゃん、玄徳ちゃん」
「ん……」
 肩を揺すぶられ、桃香は目を覚ました。軽く頭を振って眠気を飛ばすと、周囲が薄明るくなっているのがわかった。
「朝ですか……黄巾党の様子は?」
 起こしてくれた元締めに聞くと、彼は渋い表情で答えた。
「相変わらず、街の外だ。さっきからかなりの勢いで炊事をしているのが見えるから、今日はたぶん昨日以上に激しく攻めて来るだろうな」
 桃香は頷くと、寝床にしていた家を出て、城壁へ向かった。すれ違う住民たちは、昨日の桃香の指揮ぶりにすっかり彼女を信頼するようになったらしく、笑顔で手を振ってくる。
 それに桃香も笑顔で答え、道に置かれた障害物や防戦の準備を確認しながら、桃香は城壁の上に登った。一里ほど向こうに黄巾兵が陣を敷いていて、かまどの煙が幾筋も立ち上っている。その数を数え、さらにむしろ旗の数から、桃香は敵の残存兵力を千五百と予測した。
 味方の戦闘員は、昨日一日で三十人ほどが討ち死にし、二十人ほどが戦えないほどの手傷を負っていて、一割近く減っている。五百の敵を討ち取った事を考えれば上出来の部類なのだろうが、桃香は油断できないと思った。
 何と言っても、味方は戦いの素人ばかりだ。兵士のように機敏には動けないし、疲労もたまっている。何か変事が一つあれば、ギリギリで保っている戦線が一気に崩壊しかねない。桃香は元締めのほうを向いた。
「今のうちに、皆さんも食事を。あと一刻以内には、敵が攻めてくると思います。門は何時でも開けられるようにしてください」
 昨日と同様、桃香は通りに敵を引き込んで叩くのを基本戦術として続ける事にした。他の戦術を取りたいのは山々だが、街の人々に他の戦術を覚えさせる時間は無い。それに、仕掛けはまだ尽きたわけではない。今日一日くらいは引き出しが残っている。
「わかった。見張りにも交代で飯を食わせよう。玄徳ちゃんも食べるんだぞ」
「はい」
 桃香は頷いたが、今日一日を乗り切れるだろうか、と考えると、緊張で喉を通りそうも無かった。
(それにしても、なんだか妙な夢を見ていたような……?)
 ふと、桃香はそんな事を思い出した。良く覚えていないのだが、二人の信頼できる誰かと、一緒に戦っていたような気がする。もし、そんな二人が今ここにいれば……と考えて、彼女は苦笑した。夢の話を今考えるなんて、意外と自分はまだ余裕があるのかもしれない、と。桃香はそう思い、食事をするために城壁を降りた。
 
 黄巾党の攻撃が再開されたのは、それから一刻になる少し手前、太陽が完全に姿を現した頃の事だった。黄巾兵たちが再び大地を揺るがすような叫喚を上げ、門に突入してくる。
「ふん、性懲りの無い奴らだ。もう少しひきつけろよ、みんな」
 大店の主人が言う。昨夜のうちに通りには仕掛けを追加してあった。
「うわあっ!?」
 突然、先頭切って突進してきた数人の黄巾兵たちの背が低くなった。通りに腰までの高さの落とし穴を、いくつか掘っておいたのだ。大勢を落とすような大きな穴は作れなかったが、それで十分だ。先頭がいきなり止まった事で突進の勢いが殺され、路上で黄巾兵たちが渋滞する。
「今だ、撃て!!」
 誰かが叫び、弓使いたちと投石役が一斉に攻撃を開始した。団子状態になっている先頭付近の黄巾兵たちが、次々に血飛沫を上げて倒れる。そうした仲間の死体を踏み越え、あるいは落とし穴を飛び越えてさらに進もうとする黄巾兵だったが、今度は何かに躓いたように転倒する。落とし穴をたくさん作る余裕が無かったので、代わりに地面に蓋をした壷を埋めておいたのだ。
 蓋を踏み抜いた拍子に足を痛めたらしい黄巾兵が、駆け寄った住民たちに袋叩きにされて葬り去られる。それを阻止しようとする黄巾兵が、屋根から熱湯を浴びせられて転げまわる。防戦はまずます順調に推移していた。
「よし……これなら今日もやれる……!」
 元締めが拳を握り締めて言う。確かに、今日も住民たちは善戦している。戦い慣れして、昨日より手際がよくなっているのだろう。それは桃香も感じ取っていた。しかし。
(……でも、何かおかしい)
 何か嫌な予感が、桃香の脳裏をかすめていた。黄巾兵たちが自分から罠に填まりに来ているような気がするのだ。この門から広場へ抜ける通りが、必殺の罠だらけであることは、昨日の戦いで知っているはずなのに……と。
 もちろん、桃香は敵がそうする……そうせざるを得ないように、この作戦を組み立てている。向こうも、数日中に官軍が攻めてくることは予想しているはずで、街を素早く占領し、略奪して逃げる事を考えているはずだ。だから、時間をかけて門扉を破る用意をするよりは、既に開いている門に危険を冒してでも突入したほうが、街を速く陥とせる可能性が高い。
 事前に斥候を送り込む程度には頭の回る相手なら、絶対にそう考えるだろうと桃香は予測していたのだ。今の所、その考えは図に辺り、黄巾兵たちは通りで次々と討たれるか、負傷して逃げて行っている。
(順調過ぎるくらい順調だけど、喜んでいいの? 何か見落としがあるような気がする……)
 桃香はその嫌な予感の理由を探ろうと、戦場の様子をじっと見つめる。ようやく落とし穴と壷の埋伏地帯を突破した黄巾兵が、昨日倒した荷車の辺りで、住民たちと戦いを始めていた。黄巾兵たちが荷車を打ち壊そうと、地面に散らばった丸太を拾い、数人がかりで荷車に叩きつけている。
「荷車は、守りきれないと思ったら放棄しても構いません。油は用意してますよね?」
 桃香は傍にいた行商人の一人に尋ねた。
「ああ。何時でも火はつけられる」
 荷車を燃やせば、火が収まるまでは通りを侵攻出来ない。路地を通っていくしかなくなるが、そこはほとんど地の利がある住民側で抑えてある。また、広場の手前には馬防柵も用意してあるし、まだ守りきれるはず。
 それでも、桃香の嫌な予感は去ってくれなかった。何か、どうしても見落としをしていると言う感覚が消えてくれない。もう少し近づいて戦場を見ようと思った時、突然城壁上の銅鑼が、猛烈な勢いで打ち鳴らされ始めた。
「どうしたの!?」
 そんな鳴らし方は事前の取り決めには無かった。驚く桃香に、西門のほうからこけつまろびつ、十歳くらいの男の子が走ってきた。しっかりした子なので、伝令として働いてもらっている、どこかの商家の息子だった。
「大変だぁ! 大変だよ、玄徳お姉ちゃん!!」
「何が起きたの!?」
 その子に駆け寄る桃香。子供は息を切らしながらも、大急ぎで親から教えられたことを話した。
「大変だよ! 西の門の方から、こうきんの連中が攻めてきたんだ!!」
「何ですって!?」
 桃香は愕然とし、そしてさっきから脳裏にこびりついていた不安の正体に気がついた。
(むしろ旗の数と、敵の数が合わない!)
 敵の数だ。残り千五百ほどのはずなのに、開けてある南門へ攻め込んできているのは、千二百ほど。むしろ旗は十五本確認できていたので、敵は千五百だと思い込んでしまっていた。微妙な数の少なさを見落としていたのは、桃香の実戦経験の不足としか言いようが無かった。
 おそらく、三百の別働隊は南門への主力を囮にして回り込んでいたのだろう。桃香は急いで周りを見た。
「西門を急いで固めないと! このままじゃ破られるわ!!」
 準備時間の不足もあって、桃香の仕掛けは南門側にしか用意していない。東西と北の門は、僅かな見張りを除いて無防備だ。桃香は何とか周囲の住民たちを五十人ほど集め、西へ走り出した。その時には、敵が恐らく門扉に丸太を叩きつけている轟音が聞こえ始めていた。
(しまった……何かで門を塞いでしまえばよかったんだ。そうすれば……)
 後悔する桃香だったが、どのみちそれを実行する時間も資材も不足していたから、できる事はなかっただろう。それでも後悔せずにはいられなかったのだ。
 その後悔の念は、西の通りを真ん中まで進んだところで、最高潮に達した。本格的な城や砦のそれに較べれば弱体な門の扉が、ひしゃげて内側に崩れ落ち、そこから次々と黄巾兵が突入してきたのである。
「舐めた真似してくれたなぁ! 素人どもが!!」
「皆殺しにしてやるぁ!!」
 蛮声と共に武器を振りかざし、突撃してくる黄巾兵。おびえる住民たち。桃香も恐ろしかったが、ここで恐怖に負けてはならないと、腰に差していた剣を抜き放ち、生まれて初めてと言う大声で叫んだ。
「ひるんではダメ! わたしたちには、退く場所は無いのよ! ここで退いたら、みんなの家族が……奥さんや子供たち、両親が、そして仲間たちが、生まれた家が、みんな失われてしまうの! そんな事を許せるわけが無い!!」
 決して雄々しくは無いが、気迫のこもった桃香の叫びに、住民たちの怯えの色が払拭された。
「進め、みんな! 大事なものを、自分の手で守り抜くの!! 突撃ぃーーーー!!」
 さらにダメを押すように桃香は叫び、剣を構えて黄巾兵に向けて突進した。
「みんな、玄徳ちゃんの言うとおりだ! あの子だけを戦わせるな!! 俺たちの手でこの街を守り抜くんだ!!」
 誰かが叫び、五十人の住民たちは六倍の黄巾兵に向けて突撃する。その先頭に立っていた桃香は、敵が振り下ろしてきた剣を避けると、逆に相手の肩口に力いっぱい斬りつけた。
「ぎゃあ!」
 その一撃を受けた黄巾兵が、悲鳴を上げて倒れ、後続の仲間に踏み潰された。そいつを踏み潰した黄巾兵は、桃香に向けて槍を繰り出すが、桃香はその穂先を剣で弾き返し、相手の体制を崩したところで胴を払う。ずぶり、と言う嫌な感触とともに、そいつも崩れ落ちた。桃香は決して武勇の人ではないが、それでも一般兵に遅れを取るほど弱くは無い。しかし。
(殺した。わたしの手で……!)
 桃香はその事実に慄く。昨夜、彼女は考えた。本当は、こんな戦いはあってはならないと。敵も味方も、死んで良い人なんて一人もいないはずだと。
 しかし、戦いになってしまえば、そんな事を考える余裕は無かった。考えたとしても実行は出来ない。相手を倒さなければ、自分が死んでしまうのだから。
(ごめんなさい……!)
 桃香はそう心の中で念じながら、剣を振るった。その活躍に刺激され、決して武術を学んだわけでもない住民たちが、黄巾兵を押し留める事に成功する。
 
「くそ、こいつらただの雑魚の癖に……!」
 別働隊を率いていたチビが舌打ちする。街にそれなりに策を立てられる相手がいる以上、なんとかその裏を掻こうと頭を捻り、別働隊を街に雪崩れ込ませる事には成功した。これで住民たちを挟み撃ちにすればあっさりケリがつくはずだったのだが、思ったよりも住民たちがしぶとい。その力の源泉は先頭で戦う桃香にあると見切ったチビは、後ろを振り向いて命じた。
「弓兵! あの女を射殺せ!」
 その命令を受けて、十人ほどの弓兵が矢をつがえると、桃香に狙いを定めた。
「あぶない、玄徳ちゃん!!」
 それに気づいたのは、桃香自身ではなく周りの住民たちだった。彼らが咄嗟に弓兵たちの射線に立ちはだかり、次の瞬間、放たれた矢が彼らの身体を貫いていた。
「ぐふっ!」
「があっ!!」
 首筋や胸を貫かれた住民たちが、血を吐いて倒れこむ。
「みんな……! きゃあっ!?」
 桃香が誰かに突き飛ばされ、倒れた所へさらに第二弾が飛来し、やはり桃香を庇った住民たちを次々に射倒した。桃香が起き上がってみると、さっきまで一緒に戦っていた住民たちは、血を流して地面に倒れこみ、苦痛に呻いていた。
「そんな……みんな、どうして!」
 近くに倒れていた、この街で酒屋をしていると言う男性を抱き上げると、彼は苦しそうに息を吐きながら、しかし笑顔で言った。
「みんな……あんたが好きなんだよ、玄徳ちゃん。この街の人間ではないのに、誰よりも一生懸命戦ったあんたが……」
 桃香の目に涙が溢れた。
「でも、だからって……わたしを庇うなんて……」
 ここはこの人達の街だから、この人達が無事に家に帰るべきなのに。わたしの未熟のせいで、みんなを傷つけてしまった……そう悔やむ桃香に、酒屋の男は血の混じった咳をしながら言った。
「いいから、はやく……みんなと合流して……こいつらを……」
 だが、それは無理だった。既に無傷なのは桃香一人だけで、黄巾兵たちが周りを取り囲んでいた。
「やれやれ、手こずらせてくれたなぁ、お嬢ちゃんよ」
 チビは桃香の喉元に剣を突きつけ、にやりと笑った。
「くっ……」
 桃香は息を呑み、それでもチビを睨み付けた。決して屈しない、と言う意思を込めて。
「ほう、まだそんな目が出来るのか。だが、そんな生意気な態度もこれっきりだ。おい、ノッポ」
 チビが言うと、ノッポが出てきた。一昨日、桃香から二十枚のむしろを買ったあの男だ。
「あなたは、あの時の……」
 桃香が言うと、ノッポはニヤリといやらしい顔つきで笑った。
「へへへ、そうさ。あの時からお前さんを狙っていたんだ」
 そう言うと、ノッポは桃香の顎を掴んで、上を向かせた。もう片方の手で、彼女の胸をわしづかみにする。
「やあっ……!?」
 下劣な男に胸を触られる、その嫌悪感と恐怖に、桃香は身を震わせた。これから自分が何をされるのか、正確に理解が出来た。彼女の顔から闘志と気迫が消え、恐怖に怯える歳相応の少女だけが残った。
「そう怖がるなよ。すぐに極楽に連れて行ってやるから」
 そう言うと、ノッポは桃香の口を手で塞ぎ、その場に押し倒した。くぐもった悲鳴が桃香の口から漏れる。
「よし、ここはおめぇに任せた。野郎ども、残ってる街の連中を皆殺しにするぞ!」
 チビが命じ、黄巾兵たちが応と叫ぶ。桃香は恐怖と屈辱、絶望の中で涙を流した。結局、街を守れなかった。自分自身さえも。彼女は必死に思いつく限りの何かに祈った。
 お願い……助けて……! わたしはまだ何も成し遂げられていない。だから、もう一度、機会をください……!
 そんな祈りも空しく、桃香の着物が引き裂かれた。興奮で顔を赤くしたノッポがそのまま彼女にのしかかろうとした時だった。
 また、何かが引き裂かれるような音がした。同時に無数の悲鳴が湧いた。
「ぎゃああああ!!」
「ひいいいっっ!!」
 その悲鳴の中に、チビの声も混じっていた。ノッポは驚いて顔を上げた。
「なんだ、どうした兄貴……ぐえっ!」
 顔を上げたノッポは、そのまま何かに吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた時には絶命していた。何時の間に近づいてきたのか、騎馬の武者が馬上から槍の一撃をノッポに見舞ったのだ。
「か弱き乙女を陵辱せんとする人面獣心の輩ども、この常山の昇り龍、趙雲子龍の槍が引導代わり。疾く地獄に落ちるがいい」
 武者はそう言うと、槍を振るって血を払った。
「えっ!?」
 桃香は引き裂かれた服を何とか手でまとめ、身体を隠しながら起き上がった。そこにいたのは、百騎を越える官軍の騎兵部隊だった。彼らが馬上から矢を放ち、あるいは槍を振るって、黄巾兵たちを瞬時に殲滅していたのである。素晴らしく統率の取れた部隊だった。
「大丈夫か?」
 桃香を救った、趙雲と名乗る武者が声をかけてきた。鮮烈な印象の蝶の模様をあしらった意匠の白衣を身に纏い、青みがかった銀髪を持つ、凛々しい美女だった。桃香は頭を下げた。
「あ、あの……おかげで助かりました! 貴女は?」
 名を問うと、武者は笑顔で答えた。
「私は常山の生まれにて、姓は趙、名は雲、字は子龍。貴女は安全な場所に行くと良い。この怪我人たちは、私の部下たちで引き受ける」
 そう名乗りを上げると、趙雲は配下の騎兵たちの方を振り返った。
「行くぞ! 悪逆非道の叛徒どもを討ち果たし、庶人たちの暮らしを守るのだ。これ以上犠牲を出してはならん!!」
 おう、と騎兵たちが叫び、馬腹を蹴って駆け出す。ほどなくして、南の通りの方で激しい戦闘の音が響き始めた。安全な場所に行け、と言われた桃香だが、居ても立ってもいられず、手近な所にあった布を上半身に巻きつけると、南の通りの方へ駆け出した。
 そこは、もはや戦場というより一方的な虐殺の場だった。趙雲の一隊だけでなく、数百騎の騎兵たちが縦横無尽に駆け回り、黄巾兵たちを殲滅している。街の外に逃げ出そうとした黄巾兵たちも、待ち伏せていた官軍騎兵の攻撃を受けて、逃げることも降伏する事も出来ずに倒されていった。
 桃香の、そして黄巾兵たちの予想すら超える速度で来援した官軍騎兵が、街を救ったのだった。急転直下の展開に呆然とする桃香のところへ、町長や元締めたちが近づいてきた。
「皆さん、ご無事で……!」
 ようやく笑顔を見せた桃香に、街の住民たちは笑顔で頷くと、わっと彼女の元へ殺到した。
「そうじゃ、助かったんじゃよ、玄徳どの!」
「あんたのおかげだ! 本当にありがとう!!」
 もみくちゃにされる桃香。そこへ、さっきの趙雲が馬を寄せてきた。既に大勢は決したようだ。
「おや、貴女は……安全な所に隠れているように言ったと思うが」
 桃香が何か答えるより早く、周りの住民たちが抗議の声を上げた。
「なんて事を言うんだ、あんた!」
「玄徳ちゃんは、この街のために誰よりも勇敢に戦ったんだぞ! それを隠れてろなんて、酷い侮辱じゃないか!!」
 住民たちの言葉に、趙雲は桃香の顔を見て貴女が? と首を傾げた。その態度にまた住民たちが抗議しようとした時、別の声が聞こえてきた。
「どうしたんだ、子龍。助けに来た街の者と言い争いか?」
 その声は、桃香にとって聞き覚えのある、懐かしい声だった。彼女は声の主の方を向いた。桃香よりも鮮やかな赤い髪を、馬の尻尾のような形に結った少女。一際目立つ白馬にまたがり、銀の鎧で身を固めたその姿は、紛れも無く、彼女の親友だった。
「白蓮ちゃん! やっぱり白蓮ちゃんだ!!」
 桃香がそう叫んで手を振ると、声の主は驚きに目を丸くした。
「桃香!? どうしてお前がここにいるんだ!?」
 それを聞いて、趙雲は声の主に尋ねた。
「伯珪殿、お知り合いですか?」
 白蓮、あるいは伯珪と呼ばれた少女は笑顔で頷いた。
「ああ、私の学寮時代の親友だ」
 白蓮は地面に降り立つと、人ごみを掻き分けて桃香の手を握った。
「久しぶりだな、桃香。盧植先生のところを卒業して以来だから……」
「うん、三年ぶりだね。元気そうで嬉しいよ、白蓮ちゃん」
 懐かしい旧友との再会に、桃香の目は潤んでいた。
「ほう……太守たる公孫伯珪殿の友人、それも真名を預けあう関係とはな。確かに只者ではなかったようだ」
 趙雲は頷いた。そう、桃香が「白蓮ちゃん」と呼ぶ相手は、この幽州の太守、公孫賛。字は伯珪。そして真名は白蓮。
 桃香とは青春時代、共に清流女学院で大いに学び、武術を競い、天下国家を論じ、そして何より……
 かけがえの無い友情を育みあった仲だった。
 
 本陣に定めた町長の家に場所を移し、桃香と白蓮は積もる話をする事にした。
「それにしても、白蓮ちゃんがこの幽州の太守になってたなんて、ぜんぜん知らなかったなぁ……さすが水鏡門下の秀才だね」
 桃香が白蓮の杯に、戦火を免れた酒蔵から貰ってきた酒を注ぐ。
「ありがとう、桃香。まぁ、太守で終わる気はないけどな。もっともっと上を目指すのが、私の目標さ」
 白蓮が答えながら、桃香の杯に酒を注いだ。二人でそれを軽くあわせ、乾杯する。最初の一杯を飲んだ所で、白蓮は桃香に尋ねた。
「それより桃香、お前はどうしてたんだ? お前なら都尉くらいなら余裕で勤まるだろうに、何で街の義勇兵の指揮官なんか」
 桃香は答えた。
「ありがとう……でも、選挙を受けるお金も余裕もなくなっちゃって」
 名門・清流女学院を出ている桃香だが、名門私塾だけあり、授業料も決して安くは無い。父親の死後、桃香に良い教育を受けさせるために母親はかなり無理をしたらしく、桃香の卒業直後に母親が死んだ時には、遺産はもうほとんど残っていなかった。家屋敷も抵当に入っており、彼女は街を離れて楼桑村に戻るしかなかったのである。
 選挙……地元有力者の推薦による任官制度を受けることが出来れば、仕官の道も開けたかもしれないが、それにしても推薦を依頼するためにはかなりのお金を積まなくてはならない。結局、桃香にはむしろ売りをして糊口を凌ぐ以外の道は無かった。
「そうか。苦労してたんだな」
 白蓮は二杯目を乾すと、桃香の顔を見た。
「なぁ、桃香。私のところに仕官する気はないか?」
「えっ!?」
 桃香は白蓮の提案に驚いて顔を上げた。
「太守になったのは良いけど、今私の下に居る人材だけでは州の統治には不足でな。もし桃香が手伝ってくれるんなら、すごく助かるんだ。何と言っても、お前は盧植先生が将来を嘱望していたほどの逸材。私が天下に名を上げるために、どうしても手を借りたいと思っていた一人なんだよ」
 白蓮も清流女学院では万事をそつなくこなす秀才として知られていたが、桃香は武術、馬術以外ではその白蓮を凌駕する才を示し、学園長である盧植も桃香の才能を大いに評価していた。
「ありがとう、白蓮ちゃん……そこまでわたしの事を気にかけてくれていたなんて、嬉しいよ」
 桃香は涙ぐんだ。三年間便りのなかった親友との間に、今も確かな友情がある事を知り、これほど嬉しい事はなかった。
「じゃあ、来てくれるか!?」
 白蓮が勢い良く身を乗り出すと、桃香は頷いた。
「うん、わたしで良ければ。よろしくね、白蓮ちゃん!」
 義勇兵の指揮をしてみて、桃香が痛感したのは、やはりこの乱世を収めるには、力がどうしても必要と言う事だった。桃香の兵法や知恵で、四倍の敵に二日立ち向かうことは出来たが、結局白蓮の援軍がなければ負けていただろう。
 例え少なくとも、しっかり訓練された兵を動かすことが出来る、あるいは政治にかかわり、そもそも黄巾党のような叛徒を出さないような政策を立てる。そう言うことの出来る立場になることが、今の桃香の目指すべき目標であり、白蓮との再会は、その絶好の機会だった。
「そうか! お前ならそう言ってくれると思ってたよ! よろしくな、桃香!!」
 白蓮は桃香の手を取り、しっかりと握り締めた。そして、杯を掲げた。
「そうと決まれば、今夜は飲み明かそう」
 笑顔で言う白蓮に、しかし桃香は首を横に振った。
「うん……でも、ごめん。白蓮ちゃんといっしょに行く前に、しなきゃいけない事があるの」
「え?」
 白蓮は桃香の顔を見た。さっきまでの笑顔は消え、その表情には深い悲しみと憂いがあった。

 翌日、桃香は志願して黄巾兵と戦ってくれた人々の家を、一軒一軒回って挨拶をした。白蓮に言った「しなきゃいけない事」がこれだった。
 生き残り、大した怪我をせずに乗り切った人のところはそれでも良かったが、一生残る大怪我をしたり、死んだ人々も少なくはない。最終的に五百四十人ほどの義勇兵のうち、百人近くがそういう不幸に見舞われた者たちだった。
「申し訳ありません……わたしの力が不足していたばかりに……本当にごめんなさい……!」
 特に、彼女を庇って矢を受け、結局亡くなった酒屋の主人の家を訪ねたときには、桃香は涙が溢れるのを止められなかった。
「いいんだよ、玄徳ちゃん。うちの宿六は、立派な事をして死んだんだ。誰も玄徳ちゃんを責めたりはしてないさ」
 そんな彼女を、死んだ主人の妻は、優しく慰めたからなおさらだった。涙をぽろぽろと流しながら家を出てきた桃香を、白蓮は肩を叩いて出迎えた。
「桃香……気持ちは分かるけど、お前が自分のせいで兵士が死んだなんて言うのは、お前を信じて戦った人達を侮辱する事になるぞ。お前は、私にも出来ないかもしれない事をしたんだ。堂々と胸を張れよ」
 白蓮は本心から言った。戦いに全くの素人の五百人を率いて、四倍の黄巾兵と戦えなどと言われたら、彼女なら何も思いつかないくらい絶望するだろう。そこから逃げもせずに戦い抜いた桃香は、白蓮から見れば立派にやりぬいたと思っていた。
「ありがとう、白蓮ちゃん……でも、わたしは誰も死なせたくなかった。みんなに、生きて今日を迎えてほしかった……それなのに……!」
 桃香はそう言うと、白蓮の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。白蓮はそっと桃香の頭を抱きしめたが、そこへ趙雲がやってきて、ふっと鼻で笑うようにして言った。
「甘い事を。戦とは、どんなに圧倒的な勝利を収めたとしても、必ず犠牲が出るもの。それを恐れては乱世に立ち向かう事などできんぞ」
「おい、子龍……」
 白蓮が咎めるように言う。しかしその趙雲の言葉は、どんな慰めの言葉よりも桃香の涙を止める力があった。彼女は顔を上げ、趙雲の方を向いた。
「わかっています……自分でも理想論を言っているのは。それでも、わたしは出来れば誰も死なせたくありません。味方も、敵も」
 趙雲は形のいい眉をピクリと上げた。
「……敵も?」
「ええ。黄巾党の人達も……ちょっと前までは普通の生活を送っていたはず。あの人達を乱に駆り立てたのは、政治がよくないから……違いますか?」
 白蓮が思わず息を呑む。桃香の言葉は今の漢王朝に対する批判であり、黄巾のそれとは比較にならないとは言え、下手をすれば十分反逆者と言われてもおかしくない、危険な発言だ。
「……思い切った事を言われる。ならばどうする?」
 白蓮とは対照的に、趙雲は平然とした顔で問いかけを続ける。桃香は時々考えを纏める為につまりながらも、答えを返した。
「具体的にどうするかはまだ見えてないけど……わたしは戦いのない世の中を作りたい。誰も悪い政治や反乱、戦争に怯えなくて済むような……」
「桃香、お前……」
 白蓮は親友の言葉に、それだけを言うのがやっとだった。桃香の言っている事は、突き詰めて考えれば……
「ふっ……ははは……あっははははは! これは傑作だ!!」
 一方、趙雲は爆笑し始めた。しかし、その笑いには桃香を揶揄するような気配は、微塵も含まれていなかった。
「玄徳殿……と言ったかな。貴女は、自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
 たっぷり数分爆笑した後、趙雲は桃香に向かってそう言った。
「え……そ、そんなに変な事言いました?」
 趙雲の笑いっぷりに呆気に取られていた桃香がそう答えると、趙雲はまた吹き出しそうになり、必死に笑いをこらえた後、何とか息を整えて言った。
「やれやれ、甘ちゃんかと思っていたが、天然だったか……いいか玄徳殿。貴女が言ったことは、自分で天下を統一する、と言っているようなものだぞ」
「……あ」
 桃香は自分の言った事の大胆さに気付き、思わず絶句した。趙雲はまたひとしきり笑うと、唐突にその場に跪き、桃香に対して礼を取った。
「え? 趙雲さん?」
 突然の行動に戸惑う桃香に、趙雲は言った。言葉遣いも改まったものになっている。
「星、とお呼びください。それが私の真名でありますゆえ……この趙雲子龍、貴女様に槍をお預けします」
 真名と槍を預ける……つまり、桃香を主として臣下の礼を取るという事。桃香はますます戸惑った。
「そんな……わたしはまだ無位無官の身で……趙雲さんみたいな凄い武人の方に仕えてもらうほどの……」
 その桃香の言葉を遮って、趙雲――星は言った。
「そう自分を卑下されることはありますまい。私欲のためでも、我利のためでもなく、世のため人のために天下をも取ろうと言うその心意気。この趙雲子龍、貴女様のような主を探しておりました。重ねて臣下に加えてくださるようお願いいたします」
 その言葉の真摯さに、桃香はしばし目を閉じて星の言葉を反芻し、そしてその手を取った。
「趙雲さん……いえ、星さん。貴女のような武人に見込まれた事、嬉しく思います。わたしは楼桑村の劉備玄徳。真名は桃香。どうか、よろしくお願いします」
 その握り合う手の上に、じっとやり取りを見守っていた白蓮が歩み寄ってきて手を重ね、桃香と星の顔を交互に見た。
「私を置いてけぼりにするなよ、二人とも」
「あっ……ごめんね、白蓮ちゃん」
 ちょっと拗ねたような白蓮の言葉に、桃香はそう謝り、星はにやりと笑った。
「そう言うつもりではなかったのですがな。ともあれ、伯珪殿が桃香様の主君と言うからには、伯珪殿にも我が真名を許さねばなりますまい。これまでは客将という気楽な立場でありましたが、以後正式にお仕えさせていただきます」
「私は桃香のおまけかよ……付き合いは私のほうが長いんだぞ」
 ますます膨れる白蓮。桃香は首を傾げて尋ねた。
「客将? 星さんは白蓮ちゃんの家臣じゃなかったの?」
「実はそうなんだ。私が半年口説いても首を縦に振ってくれなかったのに……まったく、大した奴だよ、お前は」
 白蓮が頷いて、桃香の肩に手を回す。
「ともかく、これからもよろしく頼むぞ!」
「うん、白蓮ちゃん!」
「お任せを」
 白蓮の言葉に、それぞれに頷く桃香と星。こうして、桃香は平穏ながらも孤独な生活に別れを告げ、乱世と言う大海原に漕ぎ出す事になったのだった。
(続く)


―あとがき―
 と言う事で、白蓮と星が仲間に加わりました。白蓮は好きなキャラの一人なので、世間では色々残念な人扱いを受けていますが、この話では活躍していく予定です。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第三話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/06 20:39
 桃香は白蓮から馬を借り、楼桑村に戻ってきていた。白蓮の城に引っ越すため、身の回りの整理をしに帰ってきたのである。貧しい暮らしでそれほど家財があるわけではなかったが、持っていけないものは近所の人々に配り、服や食器などはつづらにまとめて、馬に背負わせる。
 そして、最後に引っ張り出してきたのは、これだけは手放す事無く持っていた、先祖伝来の家宝だった。天井裏に隠しておいた竹筒から、白い絹布の長い包みを取り出して、結び目を解く。その中から出てきたのは、華麗な装飾の施された、一振りの長剣だった。
 靖王伝家。桃香の祖先、中山靖王劉勝から伝わる宝剣である。見た目を重視しているとは言え、その全長は桃香の身長の半分ほどもあり、刀身の幅は掌よりも広い。実戦用としても相当な業物である。
 桃香は靖王伝家をそっと鞘から抜き、軽く二、三度素振りをした。今までも時々手入れのために抜いた事はあったが、その時にはもっとずっしりした重さがあったように思う。今彼女の手にある靖王伝家は、決して軽くはないが、しっかりと手に馴染み、自分の身体の一部になったような気がした。
(乱世に立ち向かう覚悟を考えたら、剣を重いなんて言ってられないものね)
 桃香はそう考えると、靖王伝家を鞘に収め、腰に吊るした。持って行くものはこれで全てだった。最後に村はずれに赴く。そこには彼女の膝丈ほどの、小さな墓石があった。
「お父さん、お母さん……わたし、仕官することになりました。学院で一緒だった白蓮ちゃんが太守様になってて、その下で働ける事になったんです」
 桃香はその下に眠る人々に話しかけた。
「だから、この村を出て行くことになるけど……どんなに忙しくても、年に一度はこうして報告に来ます。二人の娘として……中山靖王家の一員として、恥ずかしくない働きをしますから……どうか見守っていてくださいね」
 そう言って、桃香は目を閉じ、手を合わせた。しばし黙祷を捧げ、立ち上がった桃香は、そっとその場を後にした。
 もはや、後ろを振り返る事はしなかった。
 

恋姫無双外史・桃香伝
 
第三話 桃香、運命の出会いを果たす事
 
 
 桃香が馬に乗って街の門を潜ると、門の見張りが知らせていたのか、町長が出迎えに来てくれた。
「玄徳どの、探しましたぞ」
「え? 何か御用でしたか?」
 町長の言葉に桃香が首を傾げると、町長はまぁこちらへ、と彼女を先導するように歩き出した。桃香は何がなんだかわからないながらも、町長に続いて馬を歩かせた。町長は振り返って桃香に言った。
「聞きましたよ。太守様の所に仕官されるそうですね」
「あ、はい」
 桃香が頷くと、町長は足を止めた。
「実は、そのお祝いと先の戦のお礼を兼ねて、玄徳どのに贈り物がありまして。こちらの店で用意させていただいております」
「贈り物? わたしにですか?」
 桃香はその店を見た。ここも主人が義勇兵として防衛戦に参加していた服飾店である。促されるままに店に入ると、まだ頭に包帯を巻いたままの主人と、市の元締めをはじめとする街の有力者たち、それに何人か始めてみる顔があった。
「やぁ、待ってたよ玄徳ちゃん……おっと、もう仕官するからには、ちゃん付けで呼ぶなんて失礼か」
 元締めの言葉に、桃香は苦笑で答える。
「いいですよ、ちゃんでも。なんだったら皆さんになら真名をあずけても良いくらいです」
 元締めは首を横に振った。
「よしてくれよ、そんな恐れ多い。まぁ、それはともかくとして……玄徳ちゃんのために用意させてもらったものがあるんだ。街のみんなからの気持ち、受け取って欲しい」
 彼はそう言うと、一歩横に引いた。その背後から現れたものを見て、桃香は目を丸くした。
「それは……」
 町長が笑顔で言う。
「街の意匠師と仕立て屋、靴屋、飾り物師が総出で作ったものです。どうか受け取ってください」

 町長の屋敷では、街に残る騎兵と歩兵あわせて二百人ほどの守備隊を残し、部隊の撤収準備が進んでいた。事務の片づけをしていた白蓮は、兵士から桃香が帰ってきたことを聞かされて部屋に来るように伝えたが、実際にやってきた桃香の姿を見て、目を丸くした。
「桃香、どうしたんだ? その格好」
「えへへ……街の人達に貰ったの。似合う?」
 桃香ははにかんだように笑った。擦り切れた街娘のような服装をしていたはずの桃香は、煌びやかな服に身を包んでいた。
 上半身は上等の絹で作られた純白の袖なしの道袍に、金の縁取りが施された緑色の上衣を合わせ、腕には袖口に鳥の羽の模様をあしらった付け袖を通している。下半身は彼女の髪より若干濃い赤色の、短い筒袴。そのままでは足がむき出しになってしまう所だが、淡い桃色の膝上靴下と、同系色の長い乗馬靴を履いているため、扇情的な感じはしない。
 腰に佩いた靖王伝家と合わせ、実に華麗な女性武官の装いであり、桃香の清楚な美貌を引き立てる素晴らしい意匠だった。
「ほう、これは素晴らしい。鄙にも大した職人がいるようですな」
 何時の間に入ってきたのか、星が桃香の姿を上から下まで遠慮なく眺める。
「あの、星さん? あまりそうじろじろ見られると恥ずかしいんだけど……」
 顔を赤く染める桃香に、今度は白蓮が言う。
「いや、本当に良く似合ってるぞ。やっぱり桃香は元がいいからなぁ……そう言う服も似合うよな」
「ふむ。白蓮殿ではこのような服は似合いそうもありませんな」
 星が遠慮なくずけずけとものを言う。たちまち白蓮は不機嫌そうな表情になった。
「お前は少し自重しろ、星」
「いや、はっはっは。決して白蓮殿を貶めるつもりはないのですがな。天下に聞こえし白馬長史、公孫伯珪殿に似合うのは、やはり鎧と旗袍。これぞ武人の装い」
「お? あはは、それほどでも」
 機嫌を直す白蓮。白馬長史と言うのは彼女の異名である。彼女は騎兵の運用・戦術、そして本人の馬術にかけては天下第一級の実力者と認められており、今の幽州太守の地位も、北方の騎馬民族の侵攻を自ら騎兵を率いて迎撃し、見事大破せしめた実績に基づいていたりする。
「ま、今朝までの桃香の服はちょっとボロかったから、任官までに買い替えを薦めておきたかったところだ。ちょうどよかったな」
 上機嫌になった白蓮の言葉に、桃香はうん、と嬉しそうに頷いた。
「よし、そろそろ城へ帰るとしよう。桃香、今朝貸した馬は最初の俸給代わりにお前にやるよ」
「えっ!? いいの?」
 白蓮の太っ腹な言葉に驚く桃香。いくら幽州が良馬の産地とは言え、馬は決して安いものではない。しかし。
「構わないさ。武官に自分の馬は絶対必要だからな。大事に乗ってくれよな」
 白蓮はあっさりと言った。桃香は白蓮に駆け寄り、その頭を抱きしめた。
「ありがとう、白蓮ちゃん!」
「うわっぷ! く、苦しいぞ桃香! お前の胸はそう言う風にされると凶器に……」
 大喜びする桃香と、窒息しそうな白蓮を見ながら、星はフッと笑った。
「桃香様を見ると力を貸したくなる……そんな気にさせられる。ふふっ、今までの放浪の旅で見てきたどんな英傑にも、そう言う雰囲気はなかったな。大したお方だ」
 翌日、桃香は白蓮、星と共に街の住民たちに惜しまれつつ、白蓮の居城へ向けて旅立った。

 幽州中部、遼西郡令支。ここが現在の太守……つまり白蓮の居城である。その一室、居室と執務室を兼ねた部屋の中で、桃香は机に積み上げられた木簡・竹簡の山を相手に苦闘していた。
 一応武官……というか、白蓮からは軍師格と言う形で遇される事になった桃香だが、白蓮率いる幽州軍及び行政府の人材不足は深刻で、桃香も文官としての仕事をしなければならなかったのだ。幸い、白蓮自身と意外なことに星もかなりの事務能力があったので、政務が滞るような事にはなっていないが、そのうち本職の文官を登用する必要があるだろう。
「……うん、こんなものかな」
 桃香は筆を置き、一つ伸びをした。これまでの仕事の結果を纏め終わり、そろそろ白蓮に内容を報告しようかな、と考えたその時、部屋の戸が叩かれた。
「はい、どうぞ」
 桃香が姿勢を正して答えると、兵士が戸を開けて敬礼した。
「玄徳殿、太守様がお呼びです。火急の用件とのことで、すぐに軍議の間にお越しくださいますよう」
「ぱいれ……太守様が? わかりました。すぐに参ります」
 桃香は何かが起きたに違いない、と言う胸騒ぎを覚えつつ、部屋を後にして軍議の間に向かった。
「お、桃香。来てくれたか。まずは座ってくれ」
 軍議の間に入ると、既に白蓮と星、それに何人かの下級武官たちが揃っていた。桃香が最後だったらしい。
「うん、遅れてごめんね」
 ここへ着たばかりの頃、他の面々の手前もあり、桃香は主従としての言葉遣いで白蓮と話そうとしたのだが、当の白蓮に全力で止められてしまい、友として話すようにしていた。正直その方がやりやすくはある。
「火急の用件……って聞いたけど、何が起きたの?」
 着席して開口一番桃香が尋ねると、向かい側に座っていた星がそれに答えた。
「ええ。黄巾党の動きが活発化していることは、桃香様もご存知ですな?」
 桃香は頷いた。もう三ヶ月ほど前になるが、彼女の初陣となった琢県の防衛戦以降、ここ幽州でも黄巾党の動きが活発化していた。もともと黄巾党の旗揚げの地であり、本拠ともいえるのは南隣の冀州であり、幽州にいつ反乱が飛び火してもおかしくなかったのだが、その懸念が現実となってきたのだ。星は報告を続けた。
「幸い、これまでの蜂起は小火のうちに消し止める事に成功してきましたが……どうやらそれが向こうを刺激したようで、黄巾党は本格的に幽州攻略に乗り出したようなのです。地公将軍を称する賊将、張宝が、大部隊を率いて幽州入りを計画している、との情報が入りました」
 その名を聞いて桃香は驚いた。張宝と言えば黄巾党の首魁、天公将軍張角の……
「さよう、弟ですな。黄巾党の軍事における指導者です。さすが桃香様に白蓮殿。きゃつらもその程度の者でなければ、お二人の相手はできぬと判断したようですな」
 星は楽しげに言った。この三ヶ月間、数回起きた黄巾党の蜂起を鎮圧する指揮を執ったのは、桃香なのである。
 彼女は、琢県で捕らえた黄巾兵などから話を聞き、黄巾党に参加している兵士の動機が生活への不満にある事、黄巾党の中でも本当に天下奪取と言う目的に命を賭けているのは、母体である宗教団体、太平道から派遣されている幹部たちだけである事を見切っていた。
 そこで、敵を包囲した上で、兵士たちに指導者、幹部の首を差し出せばお咎めなし、と呼びかけることで、犠牲者を最低限に抑える策を講じ、見事に成功させていた。
「なんで私が桃香の後なんだとか、なんで様じゃなくて殿なんだとか、ツッコミどころは山ほどあるが、それはともかくとして」
 白蓮が言った。
「これは黄巾賊を一気に弱体化させるだけでなく、我々の名を一気に天下に轟かせる絶好の機会だと思う。相手は言わば黄巾の正規軍。それだけ手強い相手だろうが、この幽州太守として、背を向けるわけにはいかん」
「さようですな」
 星が頷いた。
「桃香様、今我が幽州軍はどれだけの兵力を揃えられますか?」
 桃香は星の質問に即答した。
「現状で、騎兵と歩兵が四千ずつ、弓兵が二千の合計一万。募兵をかけてすぐに集まるのは、騎兵が千に、歩兵と弓兵があわせて二千くらいかな。三ヶ月もあれば、どの兵種も今の兵力の倍くらいは揃えられると思うけど……」
 桃香が仕官以降に調べていたのが、幽州の動員可能兵力の見積もりである。州内の各郡県の人口や税収、収穫物の量などから兵士として動員できる戦力を計算するのである。
 さすが良馬の産地だけあって、幽州軍は騎兵の数が多い。これに白蓮の騎兵運用能力が加われば、なかなか面白い戦い方が出来るかもしれない、と桃香は思っていた。
「三ヶ月……は難しいかもしれませんな。黄巾の幽州侵攻軍は既に編成を開始した模様なので、早ければ一ヶ月以内に侵攻があると見て間違いないかと」
 星の言葉に、桃香は気になる点を質した。
「星さん、向こうの兵力については情報はないの?」
 星は首を横に振った。
「それについては何とも。ただ、黄巾党は現在河南地方で官軍との間に大規模な戦闘を展開中で、そちらの兵力を二十万と号しております」
「うーん……そうなると、幽州にはそれほど兵力は割けないかもね。でも、向こうもわたしたちの情報は集めているはずだから……わたしなら、幽州攻めには三万は動員するかな」
 現在の幽州軍が一万。募兵を行っても一万五千だから、最低でもその二倍の兵は必要だろうと、桃香は計算した。
「そうか……よし、各郡県に高札を出して、募兵を行おう。手配してくれ。私は部隊の訓練をする」
 白蓮が下級武官たちにそう指示を出し、さらに星には引き続き黄巾党に対する情報収集の強化を命じた。それを待って、桃香は手を挙げた。
「ちょっと待って。少し気になることがあるの」
「ん? なんだ?」
 白蓮は浮かせかけていた腰を椅子に戻した。桃香は頷いて言葉を続けた。
「黄巾党が本気で幽州侵攻を目指すとすれば、たぶんわたしたちの足を引っ張るために、今まで以上に蜂起に力を入れてくると思うの。兵力は揃えられても、それを活かして戦うのは難しいかもしれないよ」
 仮に幽州軍が侵攻してくる黄巾軍を数で上回っても、向こうはこちらの後方で信者を蜂起させる事で、補給を脅かしたり、無防備な街や村を攻撃したりする事が出来る。それに対処するために兵を割けば、敵本隊との決戦に投入できる兵力が減る。桃香はそう説明した。
「むぅ……確かにな。ではどうするんだ?」
 白蓮が腕を組んで難しい表情になる。
「それはまだ考え中。一応素案は出来てるけど……とりあえず、そう言う可能性は頭に入れておいてね」
 桃香は言った。
「うむ、わかった。桃香は策の練りこみに専念してくれ……頼りにしているぞ? 軍師殿」
 白蓮は信頼を示すように笑顔で頷くと、軍議の解散を命じた。
 
 一週間後、桃香は幽州の地図を前に考え事をしていた。
「候補はこの辺かな……ただ、問題は戦力不足かなぁ」
 桃香は一人ごちる。一週間をかけて、桃香の考えていた張宝軍迎撃のための策は、かなり完成に近づいている。ただ、どうしても足りないものが一つあった。
「戦力が……せめて後五千、手元にあればなぁ」
 今も募兵は続いているが、担当の武官たちの報告によると、予想よりも集まりが悪いらしい。桃香は想像以上に黄巾党の使者たちが州内に潜伏しているのではないか、と考えていた。星にはその辺の情報収集も依頼してある。放浪生活が長かったせいか、彼女は意外なくらい情報には通じていて、単なる武人というだけではない才能を示していた。
 そんな風に星の事を考えていると、まるでそれを読んだように星が桃香の部屋に訪ねてきた。
「桃香様、少しお話が」
「星さん? 開いてるよ。どうぞ」
 桃香の招きに応じて入室した星は、何か良い事があったのか、楽しげな表情を浮かべていた。もっとも、彼女の場合はどんな逆境にあってもそんな表情をしていそうな気もしたが。
「で、お話ってなに?」
 星に茶を出してやりながら桃香が聞くと、星はまずそのお茶を鼻に持って行き、香りを楽しみ、そして飲み干した。
「いやはや、桃香様に茶を淹れていただけるとは、この趙雲子龍、果報者ですな」
 なかなか本題を切り出さないのは、この気まぐれな龍の悪い癖である。が、桃香は怒りもせずに、星への二杯目と自分の分の茶も淹れる。それを見て、星はようやくと真面目な表情になった。
「募兵の集まりが悪い件について情報を収集していたのですが、どうも面白い情報を入手しました」
「面白い情報?」
 湯飲みを置いて桃香が確認すると、星は頷いて先を続けた。
「実は、広陽郡にかなり大きな義勇軍が出来ておりまして、そちらに募兵が吸収されているようなのですよ。何しろ向こうは既に兵力五千にも及んでおりまして」
「……五千?」
 桃香は聞き返した。ちょっと信じられない数だ。義勇兵そのものは珍しくないが、多くて千人、三百~五百人くらいなのが普通で、数十人単位の事も珍しくない。五千と言うのは破格の数字だ。何しろ幽州軍の半分に匹敵するのだから。
「ええ、五千です。私も信じがたいので直接確認してきたのですが……なかなか面白い者たちでした。桃香様より先に出会っていれば、私もあの義勇軍に参加していたかもしれませんな」
 星の答えに、桃香は首を傾げた。
「ん? と言う事は、星さんはその義勇軍の人達に会ってきたの?」
「はい。桃香様、この際彼らにも協力を仰ぐべきかと存じます。将の質も高く、下手な正規軍よりよほど役に立ちますぞ」
 桃香は考え込んだ。足りない五千をぴったり埋めることの出来る兵力……確かに魅力的だ。それに、星の眼力は信頼できる。
「わたしとしては異存はないけど、まずは白蓮ちゃんに許可を取りましょう」
 桃香はそう言ったが、白蓮が許可してくれなければ、許可してもらえるまで説得するつもりだった。
 
 一刻後、義勇軍の扱いについて軍議が開かれ、城にいる主だった武官全員が召集された。白蓮は星の報告を聞くと、ちょっと面白くなさそうな表情で聞いた。
「民が私のところではなく、義勇軍に参加するほうが多いと言うのは、少し納得がいかんが……いったいどんな連中が率いているんだ?」
 それは桃香も興味のあることだった。五千の兵を指揮し、組織として維持していくと言うのは、口で言うほど簡単なことではない。
「は。まずは義勇軍を率いる二将ですが、関雲長、張翼徳と名乗っております。いずれもこの私に劣らぬ武の持ち主にして、将器もかなりのものと見えました」
 桃香は内心へえ、と感心する。星は眼力も確かだが、人の評価が割と辛辣なので、ここまで手放しで相手を褒めるのは珍しい。
「また、軍師としては諸葛孔明なる者がおります。まだ幼いですが、その視野と知識は天下の何処に出しても見劣りしますまい」
 星は説明を続ける。そこで白蓮が口を挟んだ。
「ん、ちょっと待て星。確かに人材豊富な義勇軍のようだが、将の纏まりはどうしているんだ? その三人の上に立つ頭領がいるように思えるが」
 星は頷いた。
「ええ。確かに頭領は別におります。ところで桃香様、白蓮殿。天の御遣いと言う言葉を聞いたことはありませぬか?」
 唐突に星が出した耳慣れない言葉に、桃香は首を横に振った。一方白蓮は知っていたらしい。
「ああ、都にいた頃に噂にはなってたな。この乱世を鎮める為に、天の御遣いがやってくるとか何とか、有名な占い師が予言したって。正直黄巾の連中並みに怪しさ満点だと思うが」
 黄巾党の首領、太平道の教祖張角も、神仙から授かったと言う触れ込みの太平要術と言う書物を持っていることを箔付けに利用している。確かに天の御遣いと言うのもそれに通じる怪しさはある。
 もっとも、勢力拡大と共に腐敗が進み、今ではかつて程民衆の支持を得ていない黄巾党と異なり、天の御使いの噂は今度こそこの世を救ってくれる真の救世主である、と言う期待がされており、都を中心に広範に広まりつつあった。桃香はまだそれを聞いた事はなかったのだが、それはともかくとして星に確認することがあった。
「……あの、星さん。そう言う質問をしてくると言う事は、その義勇軍の頭領って」
 桃香が言うと、星はいかにも、と頷いた。
「その義勇軍を率いているのは、天の御遣いを自称する男で、北郷と名乗っております。何とも器を計りかねる人物ですが、先の三人をしっかりと掌握しており、凡庸の人物ではありません。軍紀もしっかりしており、野盗に成り代わる事もあるまいと思われます」
 星の報告を聞いて、白蓮はしばし考え込んだ。桃香は星に口添えすべく、白蓮に進言した。
「白蓮ちゃん、星さんの見立ては正しいと思うの。とりあえず、その人達に会ってみない?」
 それを聞いた白蓮は腕を組み、うんと頷いた。
「そうだな……桃香と星がそこまで言うなら、ひとまず会って扱いを考えよう。星、使者に立ってくれ。その北郷とやらと配下の将たちをこの城に招きたい」
「御意」
 星は一礼して立ち上がった。すぐにでも広陽郡へ発つつもりらしい。
「いや、今すぐ行けとは行ってないが……って、聞いてないなあいつ」
 白蓮が声をかけたときには、その白衣は扉の向こうに消えかけていた。彼女は苦笑すると桃香に顔を向けた。
「ま、どんな連中かわからんが、使える相手なのを期待しておこう。桃香、歓迎の準備を頼む」
「うん、わかった」
 桃香は頷いて立ち上がった。
 
 星が義勇軍の幹部を連れて戻ってきたのは、一週間後の事だった。義勇軍そのものには城外で駐屯してもらい、幹部四人だけが入城を許される。白蓮と一緒に城門のところで待っていた桃香は、行軍から陣営の組み立てまで、整然として規律が取れ、兵たちの動きもきびきびしている義勇軍の様子に目を見張った。
「白蓮ちゃん、あの人達……」
「ああ。正規軍並みだな」
 白蓮も感心していたらしく、真剣な表情を向けている。その視線の先で、五つの人影がこちらへ向かってくるのが見えた。先頭は見慣れた星の白衣。その後ろに、やはり白い衣装を身に付けた人物が見える。
「あれが、自称天の御遣いか」
 白蓮が言った。その人物の服はここからでもはっきりわかるくらい、鮮やかな光沢を持った不思議な素材で出来ているようだ。なるほど、天の世界の衣服と言われても納得は行く。やがて、星は待っていた二人の前に付くと、すっと膝を折って畏まった。
「太守様、広陽の義勇軍とその幹部の方々を、命によりお連れしました」
 普段は自由人振りを隠さない星も、流石に空気を読んで臣下らしい振る舞いを見せた。白蓮と桃香は頷くと一歩進み出て、義勇軍の幹部……自称天の御遣いと向き合った。
 こうして間近で見ると、偉丈夫と言うにはやや線が細いが、背は高くなかなかの美男子ではある。威厳はあまりないが、穏やかな笑みを浮かべたその表情には、人を惹きつける親しみやすさが湛えられていた。
「良く来てくれた。私は幽州の太守にて、姓は公孫、名は賛。字は伯珪。この動乱の中、義のために勇を振るって立ち上がった志士たちを迎えることができ、真に喜ばしい」
 天の御遣いが頭を下げた。
「俺は北郷一刀。この義勇軍の長をやらせてもらっています。一応……天の御遣い、と言う事になっています」
「ほう?」
 白蓮が面白そうな表情になる。北郷が自分の肩書きを「一応」を付けて呼んだ事に興味を惹かれたらしい。しかし、そのことを問い質す前に、北郷を守るように寄り添っていた長い黒髪の少女が名乗りを上げた。
「私は北郷が第一の矛にして、姓は関、名は羽、字は雲長。以後お見知りおきを」
 続けて、その反対側に立つ小柄な少女が、天真爛漫な笑みを浮かべて名乗った。
「鈴々は張飛なのだ!」
 鈴々と言うのは、たぶん張飛と名乗った少女の真名なのだろう。さらに、三人の影に隠れるように立つ、張飛よりもさらに小柄な少女がおずおずと名乗った。
「こ……こんにちゅわ! わ、私はしょ、諸葛孔明でしゅ」
 噛みまくりだった。北郷が苦笑して彼女の頭を撫でた。
「朱里、落ち着いて」
「へぅ……」
 まるで兄妹のような微笑ましいやり取りに、思わず笑みが漏れる桃香。それを見て取ったのか、関羽が尋ねてきた。
「して、貴殿は? 見たところ太守殿の家臣のようだが」
「あ、失礼しました。わたしの姓は劉、名は備。字は玄徳と申します」
 桃香が名乗った瞬間、北郷の顔色が変わった。
「劉備……玄徳!? 君が!? いたのか……」
 呟くように彼が言うのに、桃香は首を傾げた。
「どこかでお会いしたことがありましたか?」
「え? ああ、いや……そう言う事じゃないんだ。気にしないでくれ」
 そう言う北郷に、関羽が何かを耳打ちし、北郷も耳打ちで答えている。何を話しているのかは聞き取れないが……
(何かを企んでる、と言う雰囲気ではなさそうかな)
 桃香は思う。この義勇軍の面々、どうもお人好しの集団っぽい雰囲気が漂っている。何か悪事を働くようにはとても見えない。やはり、星の見立ては正しかったと言う事だろう。それにしても……
(なんだか、この人達は他人には見えないな)
 自分もお人よしと言われる事があるだけに、桃香は自分と似た雰囲気を持ったこの北郷一行に、親近感を持ち始めていた。
「まぁ、立ち話もなんだから、続きは中でするとしよう」
 白蓮がそう言って締め、一行は城内に入っていった。軍議の間に下級武官たちも含めて参加者が勢ぞろいした所で、北郷が切り出した。
「さて、太守さん。今日俺たちを呼んだという事は、黄巾軍主力の幽州侵攻を迎え撃つために、協力体制を築きたい……という用件で構わないのかな?」
 桃香は驚いた。白蓮も目を丸くして北郷の顔を見ている。
「……知っているのか?」
 白蓮が数秒間息を止めた後で聞くと、北郷は頷いた。
「ああ。俺たちのいる広陽の方が冀州に近いからな。旅人や行商人からの噂として、張宝が攻めてくるという話は聞いてる」
 続けて孔明が言った。
「私たちが独自に情報を収集した所では、張宝軍は六万を号しています」
 六万と言う数字に、下級武官たちが色めき立つ。そこで冷静に桃香は言った。
「じゃあ、実数は三万くらいだね」
 情報戦、あるいは宣伝戦の一環として、自軍の兵数を誇大に見せかけるのは基本である。桃香はそれを指摘したのだ。孔明はにっこり笑って頷いた。
「はい。劉備さんの仰るとおり、実数は三万でしょう。それでも、私たちと幽州軍の皆さんを合わせた兵力の倍です」
「苦しい戦いになるな」
 星がそう言うが、その表情には恐れや不安の色は感じられない。
「だが……負ける恐れはない。ですな? 桃香様」
「うん。二倍なら、策で数の不利をひっくり返せる範囲内だよ。白蓮ちゃん、この前の軍議で素案はできてる、って言った迎撃策、今ここで詰めたいんだけど、良いかな?」
 桃香は白蓮のほうを見た。もちろん白蓮に異存は無い。
「なるほど。桃香も義勇軍は信頼できると判断したわけか。なら私はその判断を信頼するさ。披露してくれ、その策を」
 桃香は白蓮に頭を下げると、下級武官の一人に幽州の地図を持ってこさせ、それを会議卓の上に広げた。
「この×印は?」
 北郷が尋ねる。地図には冀州との州境に沿って、いくつかの×印がつけてあった。それに答えたのは白蓮である。
「砦や、城壁のある街の位置だよ。桃香、これはこの印がつけてあるところを、防衛の拠点にしようと言う事か?」
「上策とは思えんが……」
 関羽が言う。確かに、少数の兵力を州境に沿って薄く広く貼り付けても、あっさり突破されるだけだろう。桃香は首を横に振った。
「もちろん違うよ。これは、わたしの考えた策を実行する候補地。実際に用事があるのは、このどこか一箇所だけだよ」
 そう言うと、孔明が目を輝かせて×印の一つを指差した。
「私が思うに、一番の候補地はここですね」
 それは、彼女たち北郷義勇軍が本拠にしている、広陽郡の南部にある砦だった。桃香はにっこり笑った。この孔明と言う子は、わたしの策を理解している。
「ここに兵を入れて迎え撃つって事か? 使ってる俺たちが言うのもなんだけど、そんなに立派な砦じゃないぞ」
 北郷が言う。すると、孔明が桃香のほうを見て言った。
「違いますよね? 劉備さん。この砦を……」
「うん、そうだよ」
 桃香は頷いた。
「わたしは、この砦を黄巾党にあげちゃうつもりだよ」
(続く)

―あとがき―
 という事で、桃香と北郷君、初めての出会いです。ここから関係がどう変化していくかはお楽しみに。
 それにしても、カタカナ無しで服装の説明するの辛い……北郷君と違って桃香はブラウスとかスカートとか言えませんからねぇ。
 次回は黄巾党との決戦です。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第四話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/09 21:30
 包囲された砦には、一万ほどの黄巾兵たちが立てこもっている。彼らが掲げる牙門旗には、「蒼天已死 黄天當立」の二行に加えて「地」の文字を書いたものもある。黄巾党の最高幹部の一人、地公将軍張宝の旗印だ。
 しかし、この戦いでそれらの牙門旗はボロボロに傷つき、もはや風をはらむ力もなく垂れ下がっている。砦の中に篭っている黄巾兵たちは、もはや生きながらにして死の世界に足を踏み入れたも同然の有様となっており、濃厚な死の匂いが立ち込めていた。
 黄巾党の武門における最高指揮官であり、ここ数年、並み居る官軍を薙ぎ払って中原から河北にかけてを荒らしまわってきた男も、今やその最期の刻を迎えようとしていた。
「桃香様、どうか号令を」
 星が最期の総攻撃を前に、桃香に言った。
「え? そう言うのは星さんが向いてるんじゃ? わたし、そんなに勇ましい事は言えないよ?」
 言葉を持って兵士を鼓舞し、その士気を高揚させる事も将の勤め。しかし、言葉遣いが優しく、また個人的な武勇もさほどではない桃香は、そう言う力強い言葉を発するのは苦手だ。
「構いませぬよ。桃香様の思いの丈を皆に披露すればいいのです。それで結構兵士たちは盛り上がるものですよ」
 星は笑みを浮かべて言った。
「……うん、じゃあやってみる」
 桃香は少し逡巡したものの、覚悟を決めたのか靖王伝家を抜き、天に掲げた。兵士たちをじっと見渡し、声にありたっけの気迫を込めて叫ぶ。
「幽州の兵たちよ! 国を蝕み、故郷を侵した賊徒たちを滅するため……その怒りを剣に込めて、今こそ振り下ろせ!」
 おおう! と言う怒涛のような雄叫びが巻き起こった。続いて星が叫ぶ。
「進め、兵たちよ! 全軍突撃ぃーっ!!」
 桃香の指揮下にある八千の兵士が、大地を踏み鳴らして砦に突入していく。その反対方向からも鬨の声が響き渡る。北郷義勇軍も砦攻めを開始したのだろう。もはや弱りきった張宝軍には、抗う術も逃げる術もありはしない。
「なかなかの気迫でしたぞ、桃香様」
 星の言葉に、桃香ははぁ~、と気の抜けるようなため息を漏らしながら剣を引いた。
「緊張したよぉ。あんなのでよかったの? 星さん」
 もちろん、と星は頷いた。
「見ての通り、兵たちは皆発奮しております。もはや勝利は動きますまい。では、私も功名の一つなり稼いでくるとしましょう。桃香様は吉報をお待ちください」
 そう言い残し、星は槍を引っさげて疾風の如く駆け去っていった。そうだね、と桃香は内心で思う。策は完璧にはまり、もはや黄巾党は袋のネズミ。何時か感じたような、何かを見落としていると言う嫌な予感もない。
 今の桃香にできることは、勝利の確定した戦いで、できるだけ多くの兵たちが無事に生還することを祈るのみだった。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第四話 桃香、策を持って黄巾賊を討ち滅ぼし、幽州の青竜刀は疑念を抱く事


 遡る事三週間前、軍議の席で桃香が言った一言に、場は騒然となった。
「砦を黄巾にくれてやるですと? 何をお考えか、貴殿は!! 朱里、お前もだ!!」
 血の気が多いらしい関羽が激昂して立ち上がり、机をガンと叩く。自分たちの砦を明け渡せ、と言われては穏やかではいられないのだろう。下級武官たちも発言の意図がわからず、桃香に批判的な視線を向けていた。落ち着いて言ったのは白蓮だった。
「桃香、先を続けてくれ」
 桃香もまだ策の全てを明かしたわけではない。白蓮の言葉に頷いて、桃香は口を開いた。
「落ち着いて、関羽さん。話はこれからだよ」
「ああ。まずは話を聞こう、愛紗」
 北郷も関羽に座るよう言う。関羽はまだ赤い顔をしていたが、とりあえず座ることには同意した。
「いいでしょう。だが、下らん事を言ったら、我々は席を蹴らせてもらう」
 そう言って、むすっとした顔で腕組みをする関羽。桃香は話の続きを始めた。
「遠征軍にとって、まず確保したいのは安定した拠点だよ。もし、打ち捨てられた砦や城があれば、どうする?」
「そりゃ、拾いに行くでしょうな」
 桃香の言葉に星が応じる。
「うん。わたしでもそうする。だけど、この砦こそが、相手の動きを封じる罠なの。黄巾党に渡す砦には、一粒の食料も残さない。井戸や水源も、全部埋めて使い物にならなくします。そうすれば……」
 桃香は言いながら、孔明の顔をちらりと見た。
「黄巾軍は、後方から食料と水を運ばせようとしますね」
 孔明は言った。桃香はその動きを示すように、砦に向けて矢印を一本書き、さらに×印をつける。
「義勇軍の皆さんには、まずこの輜重部隊の襲撃をお願いします」
 そうか、と白蓮は手を打った。
「相手を干殺し、飢え殺しにしようというわけか」
 水も食料もなくなれば、どれほど屈強の兵であっても、戦うどころか生きていく事さえできない。たとえ二倍の数でもたやすく駆逐できるだろう。
「もちろんそれも狙いだけど、たぶん相手はどうしようもなくなる前に、周辺の街や村を襲って、食料や水の略奪を考えるはず。その襲撃部隊を……」
 桃香は砦から幾つかの線を引き、それとは別に令支から出た別の線を交差させていく。
「騎兵を使って阻止、撃破する、か。なるほど、それは私の仕事だな」
 白蓮はニヤリと笑った。そこへ、不機嫌そうな表情のままの関羽が発言した。
「で、貴殿は何をするのだ?」
 桃香は砦の周りに丸を描いた。
「わたしは、歩兵と弓兵を率いて、頃合を見計らって砦を包囲します。その時には、皆さんも包囲網に加わってもらうつもりだよ」
 輜重が届かず、襲撃部隊も帰ってこなければ、砦の敵兵は数日で戦闘能力を失うだろう。そこを襲撃し、とどめを刺す。これが桃香の立てた策の全貌だった。
「これなら、二倍の敵が相手でも、こちらの犠牲を最低限に勝ちを収めることができると思います。もう少し細部を詰める必要はあると思いますが」
 孔明が言って、具体的に砦から近隣の町・集落までの進撃路と、騎兵による奇襲に向いた地点を挙げる。この少女の頭には、幽州の地形が全て入っているようだ。
「ふむ……これならやれるかと。白蓮殿、北郷殿、問題はありますか?」
 星が尋ねると、太守と義勇軍の長はそれぞれに首を縦に振った。
「私としては問題ない。そちらは?」
「俺も構わないと思う。まぁ、その二人が考えた策なら心配いらんだろ」
 会議の間中、半ば眠っていたらしい張飛が目を開いた。
「んー? 終わったの?」
 北郷が苦笑しながら張飛の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「少しは頑張って起きてろよ、鈴々」
 その小言よりも、頭を撫でられる心地よさが勝るのか、子猫のようなうにゃー、と言う声を上げる張飛。それを見て白蓮が笑いながら言った。
「軍議の最中に寝てしまうとは、なかなか豪胆な事をする。まぁ、軍議のほうも終わりだ。義勇軍の諸君を歓迎する宴を用意させてある。ぜひ招待を受けてほしい」
「宴!? 食べ物があるの!?」
 さっきまでの眠気を吹き飛ばし、張飛が跳ね起きる。桃香はそんな彼女ににっこり笑って見せた。
「もちろん。好きなだけ食べて行ってね」
 やったー! と喜びの舞いをする張飛。
「玄徳おねえちゃんはいい人なのだ!!」
「……主催は私なんだがな」
 白蓮がボソッと言う。一方、北郷は心配そうな表情で言った。
「大丈夫ですか? そんな事を言ったら、こいつ蔵ごと食べ尽くしますよ」
「あはは、そんなまさか」
 桃香は笑ったが、宴が始まってみると、それが誇張ではなかった事を思い知らされる。
 
「……あの子、食べている量のほうが身体の大きさよりも絶対に多いと思うんだが」
 白蓮がそう言って呆れながら、厨房に料理の追加を命じている。桃香も張飛の食べっぷりを呆れたような、感心したような表情で見ていると、横に立った人物がいた。北郷だった。
「あ、北郷さん……楽しんでますか?」
 桃香が聞くと、北郷はぽりぽりと頭を掻いた。
「あ、ああ。まぁね……意地汚い所を見せて申し訳ない」
 その謝罪の声を掻き消すように、張飛が「おかわり!」と叫びながら、どんぶりを給仕に差し出す。それを見て二人で苦笑したところで、北郷が言った。
「ところで、劉備さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はい、なんですか?」
 桃香は北郷の顔を見上げた。その表情には真剣なものが張り付いていて、桃香は思わず見とれてしまった。そんな彼女の様子に気付いた風もなく、北郷は言った。
「劉備さんは、この世の中をどう思っている? 黄巾の乱が起きたり、南のほうでは日照りや飢饉で、たくさんの人が苦しんでいるのに、都では役人や高官たちが賄賂を取って贅沢な暮らしをしていて、苦しんでいる人々の事を気にも留めない。そう聞いている」
 北郷の問いかけは、率直で真剣なものだった。だから、桃香も真摯に答えた。
「確かに、この国には悪い人達もいます。でも、現状をどうにかしようって頑張っている人達も、大勢います。白蓮ちゃんに星さん。それに、北郷さんもそうでしょう?」
「え? 俺も?」
 自分を指差す北郷に、桃香は笑顔で頷いた。
「ええ。だから、わたしはこの世に絶望したり、黄巾の人達みたいに、何もかも壊して一からやり直そうとか、自棄っぱちな事を言いたくはありません。精一杯、自分のできることをがんばってやって、世の中を立て直したい。そうすれば、きっとみんなが幸せに生きていける世の中が来ると思っています」
「そうか……」
 北郷は桃香の答えを聞いて少し考え込み、口を開いた。
「劉備さん、俺は天の御遣いなんて言われてるけど、本当は平凡な一学生に過ぎないんだ。今は愛紗や鈴々、朱里に助けられているから良いけど、あの凄い子達を従えるほど、たいそうな人間じゃない。本当なら、みんなを率いるのにふさわしいのは……」
 そこまで北郷が言った所で、桃香は人差し指でその口を塞いだ。
「!?」
 驚く北郷に、桃香は言った。
「わたしも、自分に自信がない人間だから、時々弱気になるんです。その気持ちは分かります。でも、上に立つ人が自分を卑下することは、信じて着いて来てくれる下の人達を侮辱することになるんだって、白蓮ちゃんは教えてくれました」
 そして、北郷ににっこりと笑いかける。
「北郷さんも、仲間の人達を凄いと思うんだったら、その凄い仲間たちに支えられている自分も凄いんだって、自信を持ちましょう」
 北郷は何を言えば良いかわからないように口をパクパクさせていたが、ふうっと一息ついて、持っていた杯を飲み干した。
「……ありがとう、劉備さん」
 北郷は酔いだけではない赤い顔で言った。
「きっと……俺たちは同じ目標に向かって歩いてると思う……だから、お互いに頑張ろう」
「はい、北郷さん」
 桃香が言うと、北郷は首を横に振った。
「一刀……みんなにはそう呼ばれてるんで、そう呼んでもらった方が俺としてはありがたいかな」
「一刀さん……ですか?」
 桃香はそこで勘違いをした。一刀は現代日本人なので、真名という習慣は無い。しかし、桃香は一刀というのが真名だと思ってしまったのだ。だから彼女は当然の事として、自分の真名を告げた。
「じゃあ、わたしの事も桃香、って呼んで下さい」
「え……? それは君の真名じゃないのか?」
 一刀は戸惑った表情をした。一方、桃香は平然としたものだった。
「ええ。でも一刀さんだったら、わたしが真名を預けるに相応しいお方だと思いますから」
 桃香はそう言って、自分も杯を干した。
「そっか……ありがとう、桃香さん。これからもよろしくな」
「ええ、頑張って次の戦いを勝ちましょうね、一刀さん」
 二人は新たな酒で杯を満たし、乾杯する。その間には和やかな空気が漂っていた。
 
 一方、そんな空気とは無縁の人間もいた。関羽――愛紗である。彼女は広間の隅で皿をつついていた孔明――朱里を呼び止めた。
「朱里、ちょっと話がある。付き合ってもらえるか?」
「? いいですよ」
 朱里は宴の席とは思えない、緊迫感を漂わせる愛紗の様子に首を傾げつつ、広間を出て回廊の一角までついていった。
「お話って何ですか? 愛紗さん」
 朱里が言うと、愛紗は険しい顔で言った。
「これはご主人様には言えない事だが……私はあの官軍の軍師が信用できない」
 関羽が劉備に不信を表明する――一刀が知ったら腰を抜かしそうな驚天動地の出来事だったが、朱里はそこまでは驚かない。ただ、同じ軍師であり、一つの策を共に練り上げた間柄だけに、朱里は桃香に好意を抱いていた。だから尋ねた。
「何故ですか? 劉備さんは良い人だと思いますが」
「……そう見えるだけかも知れん。あの軍師が練った策は、確かに良くできている。しかし、そのために我々は本拠地を失うことになるのだぞ。戦の後、砦が使い物になると思うか?」
 朱里は目を細めた。
「劉備さんが、私たちを弱体化させることも狙って、あの策を立てたかもしれない。そう仰るんですか?」
 その指摘に愛紗は頷いた。
「それだけじゃない。私たちに与えられた任務は、輜重の攻撃だ。重要性がわからないわけじゃないが、功績としてはそう高く評価されるものではない。砦の陥落と黄巾主力の殲滅といった大功は、官軍の手に落ちることになる」
 愛紗は拳を握り締めた。
「官軍は、私たちに功績を立てさせないように、つまらない任務を割り振っている……そう思えないか? 我々は官軍の半分にも匹敵する勢力だ。目障りに思われているんじゃないのか?」
 それは悪意に捉え過ぎではないだろうか、と朱里は思った。自分たちが本拠としている砦を、最好適地として勧めたのは朱里なのだ。それに、作戦の原案を立てている段階では、桃香は北郷義勇軍の存在を知らなかったようだし、策をめぐらして陥れるような真似をする理由があるとは思えない。
 そもそも、所属は違っても義勇軍の兵士たちは幽州の民。見たところ、太守の公孫賛にしても桃香にしても、意味も無く自分たちが導くべき民を傷つける事を良しとするような人間には見えなかった。
「確かに、そう見えなくもありませんが……確証はありますか?」
 朱里が言うと、一瞬愛紗は言葉に詰まった。実の所自覚はないが、愛紗が桃香を警戒しているのは、一刀が彼女の名を聞いた時の反応故だった。その時、彼女は一刀に尋ねた。
「ご主人様、知っている名前ですか?」
「ああ……俺の国に伝わっている話では、後にこの国を三分する大国の主になっている人物だよ」
 それが一刀の答えだった。王となるほどの人物なら、只者ではないはずだ。愛紗はそう思っている。あの朗らかな笑顔も、王の才能を隠す仮面かもしれない、とも。だが、愛紗が桃香を信じられない理由は、それだけではない。
「……もちろん、証拠はない。ただ、ご主人様はあの性格で、人を信じやすいからな。私たちの方で、最悪の事態に備えておきたいんだ。だから、それとなくあの劉備と言う軍師の動向には気をつけてくれ」
「……わかりました。そう言うことなら」
 最終的に、愛紗が必ずしも確証が無いと言ったことで、朱里は納得した。確かに最悪の事態に備えるのは、軍師の自分の仕事ではある。
「頼んだぞ。じゃあ、少しは宴を楽しむか」
 愛紗も言いたい事を言って少し気が軽くなったのかそう言ったので、二人は広間に戻ろうとした。しかし。
「……!」
「あ……」
 愛紗と朱里は足を止め、その光景に見入った。敬愛する主君である一刀が、桃香と並んでにこやかに語り合っているところを。桃香が華やかな美少女であるだけに、その二人はまるで似合いの恋人同士のように見えた。
「ご主人様……」
 胸が苦しくなる朱里。桃香は胸も大きいし、男の人が惹かれるのもわかるけど……と思った所で、ぎりり、と言う音がして彼女はその音の方向を見た。愛紗が歯を噛み鳴らし、殺気に満ちた目で桃香を睨んでいた。
「認めない……認めるものか……!」
 その口からは、朱里には意味の分からない、しかし強烈な憎悪と怒りに満ちた言葉が漏れていた。
(愛紗さん……?)
 朱里は呆然とした様子で、隣に立つ少女の顔を見つめていた。

 宴も終わり、一刀たちは城内に部屋を用意すると言う白蓮の言葉を固辞し、陣地へ戻る事にした。一刀と歩調を合わせながら、愛紗は言った。
「ご主人様」
「ん? なんだ、愛紗?」
 一刀は愛紗のほうを向いた。
「……私は、二君に仕えるつつもりはありません。私の主君はご主人様、ただお一人です」
 愛紗はじっと一刀の顔を見て、きっぱりとそう言った。一刀は頭を掻いた。
「その事か……わかってる。昼間の事は、一時の気の迷いさ……俺は愛紗、鈴々、朱里の気持ちを裏切ったりはしない。みんなが俺に期待してくれている限り、みんなと一緒に居続けるよ」
 昼間、桃香と初めて顔を合わせた一刀は、愛紗に桃香の事を聞かれた後、こう続けたのだ。
「俺の国に伝わっている話では、後にこの国を三分する大国の主になっている人物だよ……そして、関羽、張飛、諸葛孔明の三人の主君でもあった」
 それは、あくまでも一刀が知る歴史の物語であり、今この世界を生きる愛紗たちには関係のない話である。だが、自分と同じ名の人物が、一刀ではなく違う人物に仕えていた、と言う話は、実直な武人である愛紗にとって、聞き過ごすことのできない話題だった。
 まして、主君は続けてこう言ったのだ。
「何もできない俺より、もう仕官していて地位も確かな劉備さんに仕えるほうが、良いのかもしれない」
 その時にはあまりの衝撃に言葉も出なかった。そして、主君にそんな事を言わせた劉備を許せないと思った。
 だが、やはり主君は……一刀は、愛紗たちの気持ちをわかってくれた。一緒に戦い続けるといってくれた。愛紗は笑顔を浮かべ、一刀の手を取った。
「私が……私たちがご主人様の事を疑うなど、有り得ません。ですから……もう二度とあんなことは言わないでくださいね」
「ああ。約束するよ」
 一刀は言った。そう、こんな自分をまっすぐに信じてくれるこの少女……大事な仲間たちと別れる事など、絶対に考えられない。そんな事はしてはいけないと、あの人が教えてくれたのだから。
 愛紗は一刀が自分たちと居続ける、と言う選択をしたのが、桃香の影響だとは知らない。自分と主人の間に入り込む邪魔な存在だとしか思っていなかった。そんな一方的な敵意が、今は味方である桃香と一刀たちの間にどんな運命をもたらすのか、この時点で知る者は誰もいなかった。
 
 翌日から、幽州軍・北郷義勇軍の同盟は、張宝軍に対する情報収集を強化しつつ、迎撃の準備を整えた。そして一週間後、張宝軍は州境を越えて幽州への侵攻を開始した。その数は、予測通り三万。
 これに対し、同盟軍は予定に基づいて行動した。北郷義勇軍は砦を放棄し、進撃してくる張宝軍の後方に回り込んだ。予め「放棄されているが、まだ十分に使える砦がある」と言う桃香が流した噂を聞いていた張宝軍は、そのまま砦に入った。
「幸先がいいわ。よし、幽州に既に潜入している道士たちに指示を出せ。我らに呼応して決起するように、とな」
 張宝はにやりと笑った。長年中原から河北にかけてを転戦し、官軍を打ち倒してきただけあって、その言動には自信がみなぎっていた。直ちに伝令が各地へ派遣されたが、しかしこのほとんどは幽州軍の探索の網にかかっていた。
「一人逃さず捕らえてください。できれば、潜入している道士を聞き出して捕まえます」
 桃香は配下の騎兵にそう命じていた。伝令狩りを命じられた騎兵たちはこの期待に良く応え、伝令のほとんどを捉えるか、殺す事に成功する。彼らの持っていた手紙から、道士たちの潜伏場所と名前が突き止められると、白蓮は直ちに兵を派遣して、黄巾党の隠れ拠点を急襲、制圧した。これにより、後方で蜂起が起きて兵力を拘束される、と言う心配はほぼ払拭された。
 一方、砦に入った張宝軍は、深刻な物資不足に悩まされ始めていた。砦の井戸は巧妙に壊されていて、何処に水脈があるかもわからない状態にされていたため、張宝は輜重に大量の水を運ぶよう命じていた。
 しかし、輜重部隊は北郷義勇軍によって片端から捕捉、殲滅され、砦には一粒の麦も、一滴の水も届かない。張宝は命じた。
「輜重の到着と、決起した同胞たちとの合流を待ってはおれん。近隣の町に兵を派遣する。食料と水を徴収してくるのだ」
 張宝は伝令が戻ってこないのを不審に思ってはいたが、官軍が現れないのは、決起した同胞たちとの戦いに忙殺されているからだろうと考え、今の所幽州攻撃は順調に推移していると思っていた。さっそく周辺の町や村に対し、千~二千前後の略奪部隊が派遣されたが、これらは全て白蓮直率の騎兵四千に補足される事となった。
「公孫の勇士たちよ、今こそ賊徒どもを殲滅し、帝の御心と民の暮らしを安んじるのだ!!」
 白蓮はそう叫ぶと、先頭切って突撃。機動力、数、どちらも勝る白蓮隊は略奪部隊を徹底的に叩きのめし、幽州の大地は黄巾兵の屍で埋まった。
 桃香は砦の近くで待機しつつ、略奪部隊の残党が砦に入ろうとするのや、砦から後方へ使者が出るのを全て捕殺し、砦に残る部隊から目も耳も奪った。
 こうして、侵攻から二週間も経つ頃には、砦に残った黄巾兵たちは、極度の飢餓と乾きに苦しめられ、その戦闘力を失いつつあった。馬を殺して肉や血をすする事でそれをいくらか癒そうとした者もいたが、それを取り合って仲間内で殺し合いが起きる事態となり、まさに砦内部は餓鬼道地獄と化した。
「……なかなか惨たらしい有様になっているようですな」
 遠見に偵察した星の報告に、桃香は顔をゆがめた。貧しい暮らしをしてきた彼女は、飢えがどんなに苦しいものか知っている。それでも、この策は続けられねばならなかった。
「酷いことをしてるのはわかってるよ……でも、ここまでやらないと、狂信と言う毒に溺れた人達は、そこから這い上がろうとはしないものなの」
 桃香はそう答えた。これまで黄巾党の蜂起に対処してきた経験から言っても、追い詰めても追い詰めても狂信から逃れられない者たちは、かなりの割合で存在したのだ。星は主君の気持ちを慮り、黙って頷いた。
(敵であっても苦しめたくない、と言うお方がこういう戦いをするのは辛いでしょうな……)
 砦の中から馬すらなくなった所で、桃香はついに兵を動かした。北郷義勇軍にも連絡を取り、幽州軍の歩兵、弓兵が合わせて八千。北郷義勇軍が五千。計一万三千の兵が砦の四周を包囲するように布陣する。
(これで降伏してくれれば、無駄な死人を出さなくて済むのだけど……)
 桃香はそう思ったが、黄巾軍は討って出る事を選んだ。狂信と生きながら餓鬼道に落とされた恨みを力として、砦内の二万の兵が突撃してきた。
 同盟軍はこれを迎撃し、容赦なく矢を浴びせ、槍で突き倒したが、やせ衰えた兵たちが、もはや生ける亡者と化しているのか、傷の痛みすら感じていないかのように突撃してくる様は、少なからぬ兵たちを動揺させた。
「……何と言う惨い……こんな結果を、本当に貴女は理解していたのか! 劉玄徳!!」
 関羽は到底戦いとは呼べない、ほとんど一方的殺戮に近い凄惨な有様に、桃香への反感をますます強くしたが、もちろん桃香はこんな展開を望んでいたわけではない。敵を砦内に押し戻した後、張宝の首と引き換えに降った者を助命する、と言う降伏勧告文を結びつけた矢を打ち込ませた。
 しかし、一日待っても返答は無かった。
「桃香様、もはや言葉を尽くす段階は終わったものと存じます」
 星はそう言って決断を促し、ついに桃香の総攻撃の号令が下されることとなったのであった。
 
 砦内部は既に炎に包まれつつあった。追い詰められたものの、流石に黄巾党の大幹部の一人、張宝の直属兵だけあって、彼らは降伏も逃亡も選ばなかった。完全に太平道の狂信者となった兵たちは、死兵となって幽州軍や義勇軍の将兵たちに少なからぬ被害を与えつつあった。しかし、所詮弱りきった彼らに、敗北を覆すほどの力はなかった。
「張宝を探せ! 幹部たちを探し出し、討ち果たすのだ!」
 関羽の叫びが聞こえてくる。それに応えるように、義勇軍の兵士たちは砦の本丸部分へ殺到していく。死兵たちがその怒涛のような攻撃に飲み込まれるのを見て、星の傍にいた下級武官の一人が唸った。
「義勇兵とは思えない、凄まじい戦いぶりですな」
「うむ。それだけ、将たちの薫陶が行き届いているのであろう。惜しいな……官軍に入れば、百万の大軍をも采配できる器だろうが」
 星は答えた。しかし、関羽や張飛は官軍に受け入れられることはあるまい、とも思う。むしろ、彼女たちが官軍を受け入れないと言うべきか。
(今の官軍は、もはや形骸だ。上に阿諛追従し、賄賂を贈って出世を願う輩ばかりが重用され、真の武人が出世できる環境にない)
 星は思う。この幽州軍も、官軍とは言いながら実質的には白蓮の私兵。中原や江東で黄巾討伐に大功を上げている曹操や孫権といった勢力の軍も、形の上では官軍だが、彼らが独自に育成し、練成してきた私兵だ。おそらく、今後はそうした有力な兵を持つことができた地方軍閥による勢力争いが激化することになるだろう、と星は読んでいた。
(この戦いが終われば、黄巾の乱はほぼ終息するだろう……桃香様の夢を実現させるには、ここで大きな功績を挙げ、幽州軍に名軍師劉備玄徳あり、と喧伝せねばならん。済まんが、手柄は譲らんぞ。義勇軍の者たちよ)
 星はそう考えて駆け出す。義勇軍が突入している砦の本丸、その反対側に向けてだ。愛紗の懸念はある意味正しかった。桃香自身は、あまりあくどい事を考える性格ではない。しかし、配下の星は主君のため、武人としての情を超えた判断で行動できる人物だった。
 果たして、そこには彼女の狙い通りの光景があった。火に包まれる本丸、その裏口から数名の黄巾党が脱出してくる。そのうちの一人は一際華麗な軍装に身を固め、いかにも上級武官という姿をしていた。飢えと乾きに苛まれていたはずの砦内で、その男だけは血色も良く衰弱した様子がなかった。おそらく、優先的に食事も飲み物も得ていたのだろう。星の目に怒りの炎が燃え上がった。
「そこにいるのは、地公将軍張宝殿とお見受けする!」
 星が呼びかけると、男ははっとした様に彼女のほうを向いた。
「我は幽州の将、趙雲子龍! 貴公も武人なれば、いざ尋常に勝負いたせ!!」
 男は辺りを見回したが、星を倒さねばこの場を逃れられないと判断したか、持っていた槍を構えた。
「いかにも、我こそは地公将軍張宝。下郎、貴様ごときに太平の道を妨げさせはせんぞ!」
 ほう、と星は微笑む。張宝の構えには隙がなく、かなりの使い手らしい風格を漂わせている。ただ後ろでふんぞり返っているだけの人物ではないらしい。彼女も槍を構え直し、穂先をぴたりと張宝の喉元に向ける。互いの部下たちも武器を構え、命令あれば何時でも戦える姿勢をとった。
 緊迫した空気が場に張り詰め、それが敗れたのは、砦の上に掲げてあった旗竿に火が回った直後だった。両者の中間に、「蒼天已死 黄天當立」の旗が燃えながら落ちてきて、互いの視線を遮ったその瞬間、星と張宝は地を蹴った。両者が繰り出した槍が旗の布地を貫いて伸び、しかし捉えたのは相手の影のみ。四散する旗を蹴散らすように、星と張宝は第二撃を放つ。槍と槍が激突し、飛び散った閃光が炎より明るく周囲を照らした。
 さらに、互いの部下たちも激しく切り結び、将と将の一騎打ちに介入する者が無いよう防ぐ。その中で星と張宝はさらに数合、巧みな技量を駆使して打ち合い、一旦間合いを取って離れた。その時、星は笑みを浮かべて言った。
「ふっ……張宝、敗れたり!」
「なに!?」
 星の言葉に、張宝が怒りの表情を見せる。
「戯言を抜かすか、下郎!」
 張宝が怒りに任せて旋回させた槍を、星は紙一重で見切ってかわし、その答えを裂帛の気合に載せて、槍とともに繰り出した。
「ならば、何故己の旗印を砕いた? 己が矜持も守れずして、将たり得ると思うか!!」
 その槍は張宝の鎧を砕くように貫き、心臓を引き裂いて背中に抜けた。
「が……ふぅっ……!!」
 張宝は口から血を吐くと、崩れ落ちるようにその場に倒れこんでいく。その時には、下級武官たちも一人も欠ける事無く、張宝の側近たちを全て討ち取っていた。星は槍を天に掲げ、勝利を宣言した。
「黄巾三兄弟が一人、地公将軍張宝殿、この常山の昇り龍、趙雲子龍が討ち取った!!」
 戦いを見守っていた幽州兵たちが怒涛のような勝どきを上げる。それは、幽州における黄巾の乱が終わったことを告げる合図だった。
(続く)

―あとがき―
 黄巾の乱編、これにて終了。次回から対董卓連合軍編に入っていきます。
 何人かの読者様から指摘がありましたが、この話の桃香は原作に較べるとチートにならない程度にスペックアップが施されています。原点である三国志演義をイメージとして劉備らしさを出してみました。というか、原作桃香がアホの子過ぎるので……一刀君に勉強を教わっているようではダメでしょう。まぁ、アレはアレでかわいいんですけどね。
 



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第五話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/16 18:24
「地公将軍張宝は、幽州で公孫賛軍によって討ち死に……と。これが黄巾の乱の決定的な転換点でしたね」
 相変わらず真っ暗な部屋の中で、于吉が水晶球を覗き込みながら言う。
「末弟の人公将軍張梁は、華北で曹操軍との戦いに敗れ討ち死に。首領の張角は、冀州に侵攻した袁紹軍によって、死亡が確認されました。病死だったそうですね」
「そんな事は知っている。正史とさして変わらない展開になっただけだろう」
 相変わらずの不機嫌そうな表情と声で左慈が言う。
「そうですね。その、正史と変わらない、と言う点が重要なのですよ」
 于吉は殺気すら含んでいそうな左慈の言葉をあっさり受け流した。
「すこし運命をいじり、あの劉備と言う少女を動かす事で、幽州の戦いは違った展開を見せました。もし我々の介入がなければ、君が招き入れたあの北郷と言う少年が、幽州の戦いを制していたでしょう。そうなれば、彼が太守に推挙される事すら有り得ました」
 そう于吉が言うと、左慈は鼻で笑った。
「あの男が……? 馬鹿馬鹿しい。在り得るか、そんな事」
「ま、信じないのは自由ですが。いずれにせよ、幽州鎮圧の大功は、彼の手から逃れました。乱も終わった今、彼の元に集っていた義勇軍も、解散を余儀なくされるでしょう」
 それを聞いて、左慈は獲物を追い詰めた獣のような笑みを浮かべた。
「ほう……つまり、奴の周りには仲間の三人しかいなくなると言う事か。なら、大き目の盗賊団か、黄巾残党でもけしかけてやれば、簡単に殺せそうだな」
 何しろ、一刀の集めた義勇軍は五千。これほどの規模となると、官軍の正規軍をぶつけなければ、そう簡単には潰せない。しかし、四人だけなら料理のしようはいくらでもあるというものだ。
「ふむ、お前の狙いはこれか。褒めてやる。お前もたまには役に立つのだな」
 左慈が言うと、于吉は何故か視線を逸らし、ぼそりと答えた。
「いえ……それが、いささか計算外の事が起こりましてね」
「なに?」
 訝しむ左慈に、于吉はその「計算外」について話した。左慈は再び……いや、さっき以上に不機嫌になり、于吉を汚物でも見るような目で見た。
「前言撤回。やはり貴様は使えぬ屑だ」
「ふ、そう言われても仕方がありません。もっと罵って下さってかまいませんよ」
「お断りだ」


恋姫無双外史・桃香伝

第五話 桃香官位を得て、新天地へ赴く事


 白蓮の居城、令支の一室では、桃香と白蓮、星がささやかな祝宴をしていた。
「白蓮ちゃん、出世おめでとう」
「二州の太守とは、素晴らしい出世ですな」
 桃香と星の祝福の言葉に、白蓮は照れ笑いを浮かべながら礼を言った。
「ありがとう、二人とも。そしておめでとう。二人とも官位を得られたとは、めでたいじゃないか」
 その白蓮の言葉に、今度は桃香と星が感謝の言葉を返した。
 幽州の黄巾党をほぼ完全に鎮圧し、しかも大幹部の一人である張宝を討ち取ったこの三人に対する朝廷の評価は高く、まず白蓮には、前任者が黄巾の乱で討ち死にして空位になっていた并州太守の地位が、現在の幽州太守との兼任で与えられた。
 そして、白蓮の元で活躍した桃香と星は、正式に武官の官位が与えられた。桃香は校尉、星は都尉で、おおむね前者が州単位、後者が郡単位の軍事を司る職掌になる。
「……とは言え、今となってはそう有難い物でも無いですね。私なら最高級メンマ一年分でも貰っていた方が、有り難かったかもしれません」
 星の容赦無い評価に、桃香が思わず苦笑する。
「星さん……まぁ、確かに現状追認みたいなものだしね」
 彼女の言うとおり、二人とも官位が無い頃から同等以上の仕事を白蓮の下でしていたわけで、俸給も実は国庫ではなく、白蓮の懐から出ていたりする。正式な官位を貰った今も、それは変わらない。
「まったく、王朝の形骸化は酷いもんだ。官位くらいしか褒美が与えられないって言うんだから……」
 白蓮が言う。彼女の貰った并州太守の地位は桃香たちのような形式だけのものではなく、一応ちゃんと効果はある。ただ、ただでさえ人材不足で幽州の統治にも苦労していると言うのに、もう一つ……それも太守が殺されるほどに混乱した土地を任されると言うのは、白蓮にとってはあまり得のある褒美とはいえなかった。
 この祝宴がささやかなのは、無駄遣いができないからというのもあるが、実際あまり祝う事でもないな、とこの三人が自覚していたためでもあった。
「さて、実際の所并州はどうするおつもりで? 太守を任された以上は、実効統治しなければ問題になりますが」
 星が問題提起をする。
「そうだなぁ……官位的には、一応桃香には太守の代行ができるだけのものはある。桃香に行ってもらうしかないな。本当は傍にいてもらって相談に乗ってほしいんだが」
 白蓮が答える。指名された桃香は笑顔で頷いた。
「白蓮ちゃんのお願いとなれば、行くしかないね」
 言われるまでも無く、桃香は自分が代官として并州に行くしかないと考えていた。白蓮は頭を下げた。
「すまん桃香。頼まれてくれるか?」
「もちろんだよ、白蓮ちゃん」
 桃香が改めて答えると、星が手を挙げた。
「では、私はどうしましょうか? 桃香様についていくのが、臣下の務めではありますが」
 桃香が答えるより早く、白蓮が言った。
「ああ、星は桃香を助けてやってくれ。幽州はまだ安定しているから、私だけでもどうにかなる」
 桃香としては、星には白蓮を助けてくれるようにお願いするつもりだったから、白蓮が自分に星をつけてくれたのは、ありがたい反面心配でもあった。
「大丈夫? 白蓮ちゃん」
 そう聞くと、白蓮は苦笑を浮かべた。
「おいおい、そんなに信用無いのか? 私は……構わんから星と一緒に行けよ」
 星は頷いた。
「うむ、白蓮殿も清流女学院の俊英。下級の武官・文官たちもいますゆえ、幽州は安泰でしょう」
 こうまで言われては、桃香としても頷くしかない。星によろしくね、と言った後で、ため息をふうとついた。
「こうなると、本当に人手が足りないなぁ……一刀さんたちが幽州に残ってくれれば、凄く助かったのに」
 その独り言のような桃香の言葉を聞いて、白蓮と星は顔を見合わせ、にんまりと笑った。
「何だ桃香、お前、あの北郷をそう言う風に呼ぶ仲だったのか?」
「これは驚きました。桃香様が北郷殿とそんなに親しくなっていたとは」
 それを聞いて、桃香は真っ赤になって手をぶんぶんと振った。
「え、ええ!? そ、そんなんじゃないよ。確かに一刀さんとは真名を許しあったけど……」
 一刀とは、平和でみんなが笑顔で暮らせる世界を作りたい、と言う志を共有し、お互いに尊敬の念を抱きあっている友人、とは思ってはいるが……すると、白蓮と星の笑みが大きくなった。
「ん? 何でそんなに慌てるんだ? いい友達なんだろう?」
「それとも、友達以上の感情でもおありですかな?」
 ここで、桃香は二人にからかわれた事に気づき、恥ずかしさに加えて怒りで顔を赤くした。
「……もうっ、白蓮ちゃんと星さんの意地悪っ!」
 そう言ってぷいっと顔を横に向ける。その先には窓があり、城の外が見えた。遥か遠くまで続く大平原。その下を、一刀たちは旅をしているのだろうか。
(……失敗したなぁ……こんな事なら、一刀さんの官位を推挙するんじゃなかったかも)
 
 桃香たちが官位を得たように、黄巾の乱以降、朝廷は功労者たちに次々に官位を与えた。その中に一刀もいたのである。
 義勇軍は正規軍に較べると扱いも軽く、せいぜい指導者が最低限の報酬を受け取ったに過ぎないが、北郷義勇軍は数も多く、張宝軍打倒に果たした役割も大きかったため、桃香は一刀に正式な官位が与えられるように運動した。また、義勇軍に参加した人々もそれに賛同した。
 これが実って、一刀にも官位が与えられる事になったのだ。于吉は一刀の功績を下げ、無位無官にするために桃香が出世するよう謀ったのに、その桃香が一刀の官位を推薦したわけで、左慈がキレるのも無理は無い。
 しかし、一刀の官位は桃香の予想外のものだった。
「当陽県の県令……? 荊州の?」
 一刀が官位を得た事を話に来た時、任地を聞いて桃香は驚いた。彼を推挙したのが幽州の人々だけに、幽州のどこかを任地として与えられると思ったのだが、行き先は遥か南の荊州だったのである。
「俺も驚いた。俺が住む事になるのは新野城になるらしいんだが、まさかもう行く事になるとは思わなかったからなぁ」
「え?」
 一刀の良くわからない言葉に、桃香は首を傾げたが、一刀はなんでもない、と手を振った。彼は元いた世界で得た記憶から、劉備が新野城の城主になる事は知っていた。自分が「本来劉備が果たすべき役割」を担っていることは感じていたので、いずれ新野に行く事は想定していたが、それはもっと後になると思っていた。
 もっとも、本物の劉備がいたり、本来新野城で出会うべき諸葛亮に既に出会っているくらいだから、その程度のズレは許容範囲内かもしれない。
「でも、そうなるとこれからが大変かもしれませんね」
 桃香は言った。荊州は大陸の中央部に位置するため、黄巾の乱では州の全域が激戦地となった。土地は荒れ果て、家を失った流民も多く発生しており、黄巾の残党も数多く出没している、と桃香は聞いている。
「ああ。でも、何とかやってみるよ。俺には信頼できる仲間もいるし」
 そう話しても、一刀は笑って答えた。そして、翌日にはこれまで生死を共にした義勇軍を解散し、自分は三人の仲間だけを連れて旅立って行ったのである。
 それでも、彼を慕って行動を共にしようと追いかけて行った義勇兵が二百人ほどいたらしいから、その人望は大したものだと桃香は思う。
(まぁ、一刀さんならきっと、何処に行っても立派にやっていけるよね。幽州に残ってほしいと言うのは、わたしのわがままだし……)
 わがままで、彼の官位を推挙しなければ良かった、と考えた自分を、桃香は恥じた。視線を仲間たちに戻し、口を開く。
「ともかく……数日中には、并州に行こうと思うの。今もっている仕事は、誰に引き継いだらいいかな?」
 桃香が仕事の話に戻ったので、白蓮はそうだな、と手を顎に当ててしばし考え込み、何人かの武官・文官の名を上げた。星も歩兵部隊の訓練内容を白蓮に引継ぎ、三人は実務の話を詰めていった。
 
 その頃、一刀たちは幽州を離れ、冀州に入って南下していた。最初は一刀、愛紗、鈴々、朱里の四人だけだった一行も、後から追いかけてきた義勇兵の合流で、二百人を越える集団になっている。
 最初、一刀は彼らに家に帰るように言ったが、誰も聞き入れなかった。義勇兵たちは貧しい家の次男坊や三男坊、あるいは戦火で家や家族を失い、北郷義勇軍を新たな家族と定めた者たちだった。
「天の御遣い様……俺たちはあんたについていきます!」
 そう言って同行を懇願する義勇兵たちに、一刀は黙って頷くしかなかった。それに、冀州があまりに荒れているため、二百人もの兵士が同行している事は身の安全という面から言っても有難い。何しろ、冀州は少し前までは黄巾党の本拠地だった場所なのだ。
「それにしても酷い有様だな」
 馬を進めながら、愛紗が呆れたように言う。国を相手に戦争をするため、冀州を統治した黄巾党は兵士になれる年代の者たちを尽く強制的に徴募し、作物も兵糧とするために徹底して収奪した。そのうえ、先日袁紹軍が侵攻し、黄巾軍に対しては降伏を許さず殲滅する態度で臨んだため、戦火によって街も村も壊滅的な状態に陥った。
 逃げ散った黄巾党の残党は、あちこちで盗賊団を結成し、暴れまわっていると言う。その中には百人単位のものも少なからずあり、義勇兵たちが同行していなければ一刀たちも襲撃されていただろう。
「袁紹さんは、褒美として冀州と青州の二州を領土として貰うそうですが、ちゃんと再建できるんでしょうか……」
 朱里も行けども行けども続く戦火の跡に、顔をしかめている。
「これから行く荊州も、情勢は似たようなものらしい。それでまず冀州の様子を見て参考にしようと思ったんだが、想像以上に酷いな。みんなも、こういう状況の土地をどう建て直すか、色々考えてくれ」
 一刀が言うと、鈴々が手を挙げた。
「うん、わかったのだお兄ちゃん。とりあえず、悪い奴らを懲らしめるのは鈴々にお任せなのだ」
 難しい事を考えるのは苦手な鈴々だが、彼女なりにこの惨状の光景から思う所は、色々あったらしい。一刀は頼もしい義妹の頭を撫でた。
「うん、頼りにしてるぞ、鈴々」
 にゃー、と喜ぶ鈴々と一刀を見ながら、愛紗は微笑んでいた。
(さすがご主人様。これから行く土地の情勢を掴み、行く途中にも学ぶ姿勢を見せておられる。さすが天の御遣い……)
 一刀の視野の広さに愛紗は感服していた。それに引き換え、と愛紗は今度は厳しい表情で背後――去ってきたばかりの幽州の方角を見る。
(劉備玄徳……私達を追い出して安心しているかもしれないが、そうはさせるものか)
 数日前、一刀が官位を得たと知った時、愛紗たちは素直に喜んだ。しかし、推挙した人物が桃香と知ると、愛紗は一転して「これは何かの罠では?」と警戒を抱いた。
「とう……劉備さんが、俺の官位を推薦してくれたらしいんだ」
 笑顔で語る一刀を見ると、余計にそう思う。幽州から一刀たちを追い出すためにやった事ではないかと疑われてならないのだ。
 念のため、朱里に相談してみると、彼女はこう答えた。
「劉備さんの真意はわかりませんが、私達には本拠地を得て勢力を拡大する好機です。ここは受けておくべきでしょう」
 確かに、一刀が桃香から離れる事自体は悪い事ではない。そう愛紗は考え直したのだが、それでも桃香に対する悪感情は消えなかった。荊州の状況がかなり悪いと知ったからである。
(だが、私は負けない。必ずご主人様を守り立て、どのような土地でも治めてみせる)
 愛紗はそう決意し、行く手に待ち受ける試練に対し、静かに闘志を燃やすのだった。
 
 しかし、一刀たちよりも早く荒廃した土地の再建と言う難問に直面したのは、桃香のほうだった。
 後任者への引き継ぎを終え、并州の州代として幽州を出発した桃香と星は、白蓮から与えられた二千の兵を率いて太原城に入城していたが、城下の荒廃は予想以上だった。
 太守の討ち死にによって無政府状態に陥った并州では、黄巾党とは別に盗賊が跳梁跋扈し、治安が極度に悪化。そのため農作業ができず畑が放置され、今年の税収は絶望的な有様だった。
「まずは、治安対策から手をつけるべきですな……桃香様、私に兵を一千ほど預けていただければ、盗賊どもを狩り尽くしてご覧に入れますが」
 最初の会議で星がそう言うと、桃香は首を横に振った。
「治安対策が大事なのは同感かな。でも、盗賊や黄巾の残党を全部殲滅するつもりは、わたしには無いよ」
「と、申しますと?」
 首を傾げる星に、桃香は答えた。
「あの人達は悪い事をしてるけど、同時に一番働き盛りでもあるから、できるだけ帰順してもらって、元の農家や庶人に戻ってもらうつもり。だから、今なら投降すれば罪を問わないし、開いている農地を与えると呼びかけて欲しいの」
 それを聞いて、星は眉をひそめた。
「言いたい事はわかりますが……しかし、それではあまりにも甘すぎませんか?」
 桃香はそれを聞いて苦笑気味の表情を浮かべた。
「うん……やっぱりそう言われると思った。でも、ここまで荒れ果てた土地を元に戻そうと思ったら、人手はいくらあっても足りないから。だから、お願い」
 星はやはり苦笑した。命令ではなく「お願い」と言うのは、いかにもこのお方らしいと。臣下としてはこれは従わざるを得ない。甘さから来る隙は、自分が補えば良いのだ。星は言った。
「では、お願いされましょう。ですが、一つ条件を付けさせてもらってもよろしいですか?」
「条件?」
 桃香が聞き返す。星は頷いて、一言口にした。
「漢書尹翁帰伝」
 桃香はそれを聞いて、一瞬訳がわからない、と言う表情をしたが、すぐに俯いて考え込んだ。星は桃香がこの言葉の意味を理解しているとわかり、言葉を続けた。
「桃香様の志は尊いもので、私もそれを尊重したいとは思っておりますが、誰も彼も許していては、今度は庶人たちの怒りを買いましょう。ここは……」
 桃香は顔を上げ、頷いた。
「うん……ごめんね、星さん。だから、はっきりと命令します」
 結局、全ての人を満足させる政策など存在しない。とりようもない。だから、桃香はどこかで線引きをしなくてはならない、という星の意見を受け入れた。そして、その責任を自分で取るために命令した。
「情報を集めた上、特に手口の悪質な盗賊団を選び、徹底的に殲滅してください。降伏は認めません。どれを相手にするかは、星さんに一任します」
 星の言った「漢書尹翁帰伝」は三百年近く前に書かれた本で、漢代の名臣だった尹翁帰の言行録である。その中に「以一警百、吏民皆服、恐惧改行自新」と言う一文があり、「一人を殺して百人に警告すれば、皆が恐れて改心し、付き従う」と言う意味である。星は大多数の盗賊を助ける代わりに、どれか一つは滅ぼす事を桃香に求めたのだった。
「承知しました」
 星は敬礼し、そして今度は頭を下げた。
「差し出がましい事を申し上げ、真に不敬の極み。どうかお許しください」
 桃香は首を横に振った。
「ううん。星さんの言うことは正しいよ。これからも、わたしが甘さゆえに間違った事を言ったら、何時でも叱ってね」
「いえ……私こそ、武人の癖ですぐに力による解決ばかりを志向します。私が暴走しそうな時は、何時でも手綱をお引きください」
 星はさらに頭を下げ、この寛容な主君に対する忠誠を新たにしたのだった。一方、桃香も星を見直していた。武人にしては教養のあるほうだと思ってはいたが、すらすらと尹翁帰伝の一節が出てくるとは思わなかったのである。
 
 その後、星は幾つかの村を襲撃し、住民を皆殺しにするか、奴隷として売り飛ばしていた黄巾残党の盗賊団を一千の兵を率いて討伐し、徹底的に殲滅した。盗賊たちは降伏も許されず、全員首を刎ねられて、街道沿いにその首級が晒された。
 この一件で、并州の盗賊たちは震え上がり、その後に桃香が布告した「投降すれば罪一等を減じて死罪を免ずる」と言う触れに従い、次々に降伏した。中には降伏を選ばず徹底抗戦や逃亡を図った者もいたが、星はそうした者たちも決して見逃さず、全て殲滅した。
 桃香は投降してきた盗賊たちの罪状を調べ、悪質な者は百杖の刑や収監に処したが、大半の盗賊たちは約束どおり罪を免じ、働き口を紹介した。この処置が噂となって広がるにつれ、降伏する者はさらに増え、一ヶ月ほどで并州から盗賊の類は一掃されたのである。

 治安が回復してくると、次の課題は復興資金の捻出だった。桃香が領内を見て回っている限りでは、来年からは田畑も復興して税収が見込めそうだが、今年はとても税を取れそうに無い。
「白蓮殿に借りるしかありませんか」
 星が言う。并州は白蓮の領地なので、普通に考えれば白蓮が身銭を切って復興資金を出さねばならない。しかし。
「それは無理だよ。わたし、動員兵数を調べる時に幽州の税収や今の財政状況を全部見たけど、并州の分までお金を出す余裕、とても無かったもの」
 桃香が腕組みをし、鼻と上唇の間に筆を挟んだ、行儀の悪い格好で言う。なかなか妙案が思い浮かばず、自分がそんな格好をしているのにも気付いていないようだった。
「張宝軍迎撃の支度で、ずいぶん物入りでしたからなぁ……やむを得ません。こうなったら、宝物を売って資金を得ましょう」
 星がそんな事を言い出したので、桃香は驚いて彼女の顔を見た。
「星さん、そんな凄い宝物を持ってるの?」
 そう言ってから、桃香は気付いた。星の宝物といえば、彼女の愛用する直刀槍「龍牙」だ。螺旋を描くように絡み合い、先端部は口を開いた龍の顎のように伸びる二本の直刀を穂先とする、天下の名槍である。
「星さん、それはダメだよ! 星さんの魂じゃない!!」
 もし自分が靖王伝家を手放さなければならないとしたら、と思うと、星の覚悟の程がわかる。彼女に自分の分身と言うべき槍を手放すような事をさせてはいけないと、桃香は必死に頭を回転させた。そして。
「……そうだ!」
 桃香は一つだけ、お金を調達できそうな手段を思いついた。がたんと椅子を鳴らして立ち上がる。星が早まった事をする前に、お金をどうにかしなくてはならない。
「星さん、わたしは金策のためにしばらく留守にします。その間、政務お願いします! だから、絶対に宝物を売るなんてしちゃダメだよ!? わたしは、星さんの魂も守りたいんだから……!!」
 そう言って、答えも聞かずに飛び出していく桃香。あまりの事に引き止めることも忘れていた星だったが、しばらくしてその顔に感激の色が浮かんだ。
「桃香様……私の事をそこまで気にかけて下さるとは……もったいないお言葉……! ですが、おかげで秘蔵のメンマを手放さずに済みます」
 そう言って身を震わせる星。しかし、桃香がその言葉を聞いていたら、あまりの事にずっこけたかもしれなかった。
 
 感動に打ち震える星はさておき、飛び出していった桃香が向かった先は、都洛陽だった。并州は洛陽がある司隷(司州)の北にあり、それほど遠くではない。桃香は任官の祝いに白蓮に貰った愛馬、的蘆に乗って街道を南へ向かった。これも、治安が回復されていたおかげである。
 一週間ほど旅を続け、桃香は洛陽に入った。さすがに都だけあって洛陽の町は大いに繁栄していた。国中から物品が集まり、活発な商活動が行われている。
「さすがに都だなぁ……董卓さんは良い政治をしてるみたいね」
 桃香は感心した。
 董卓は現在、この洛陽の支配者とでもいうべき人物である。元は涼州の出らしいが、そこから黄巾党軍を討伐しつつ、洛陽に入城。その後も洛陽を守り続けてきた。それらの功績を持って、現在は相国という最高位の官位を得ている。
 配下に多くの有能な武将を抱え、中でも神算鬼謀の軍師、賈駆文和と飛将とも称される三国無双の武人、呂布奉先の二名が有名だ。特に呂布はその武並ぶもの無く、黄巾討伐では一人で五万の兵を蹴散らした、などという伝説も残っている。
 桃香の目的は、そんな董卓の治世下で発展している洛陽の大商人から、お金を借りることだった。できれば借金はしたくないが、とりあえず一年間凌げれば、来年からはちゃんと税収を得ることができ、五年くらいでお金を返す目処も立っている。そう言う資料も持ってきている。
 そんな思惑を持って、桃香は洛陽の大商人の門を叩いたのだが……なかなか世の中そう甘くは無かった。
「そうは言っても、なかなかそれだけの大金を用立てるのは難しいですなぁ」
「こんな御時世です。いつ、戦で返す当てが無くなるかわかりませんでな」
 大商人たちはそう言って、桃香への融資を断った。十軒ほどに断られたところで、そろそろ日が西に傾いてきた。
「うーん……簡単にはうんって言って貰えないとは思ってたけど、予想以上に厳しいなぁ……」
 桃香は困った顔で洛陽の街中を歩いていた。このままでは并州に帰れない。星に大見得を切って来たからには、なんとしても借金を引き受けてもらって帰らなくてはならないのだが、大商人たちは首を縦に振ってはくれなかった。
(それにしても、気になるな……何時戦になるかわからない、ってあの人達は……もう乱も終わったのに)
 またすぐに戦争があると、商人たちは睨んでいるのだろうか。その辺をもうちょっと調べてみるべきかもしれない、と桃香は考えた。あるいはそれを防ぐ事で、借金を引き受けて貰える道筋がつくかもしれない。
 そんな事を思いつつ、とりあえず今日の宿を探そうと桃香が辺りを見回したときだった。
(……あれ?)
 路地の影で、何やら人影が幾つかうごめいているのが見える。気になってそっと近づいてみると、それは一人の少女を何人かの柄の悪そうな男たちが取り囲んでいる様子だった。
「あっ……あの……」
 少女は怯えた様子で、男たちを見ている。こうして見ると、実に可憐な美少女だ。緩やかに波打つ青銀色の髪の毛が印象的で、年齢は桃香より三つか四つは下だろう。
「いいじゃねぇか。ちょっと付き合ってくれれば、それで良いって言ってるだろ?」
「そうそう。俺たちは優しいんだぜ?」
 それに引き換え、男たちは下卑た感じで、いかにも街のチンピラという風情だ。どう見ても義は少女にある。桃香は声をかけた。
「待ちなさい、貴方たち」
「あ?」
 男たちが一斉に桃香のほうを見る。少女も桃香を見て、助けが来たと悟ったのか、小走りに桃香のほうへ駆け寄ってくると、背後に隠れた。
「大の大人が、こんな小さな子をいじめて、恥ずかしくないの!?」
 少女が桃香の服の裾を掴む、その小さな手が震えているのを感じとり、桃香は怒りを込めて男たちを睨んだ。しかし、彼らはもう一人カモが来たと思ったのか、ニヤニヤと笑いながら近づいてきた。
「お? なんだなんだ、もう一人可愛い姉ちゃんが来たじゃねぇか」
「姉ちゃんが、その娘の代わりに俺たちに付き合ってくれんのか?」
「俺たちとしては、その娘も一緒なら言う事無いんだがなぁ?」
 あからさまに桃香をナメきった態度である。
「どっちもお断りします。さぁ、行きましょう?」
 桃香はそう言うと、少女を庇うようにして歩き始めた。その、お前たちなんて目にも入ってない、と言うような桃香の態度に、たちまちチンピラたちは沸騰した。
「おい姉ちゃん、話は済んでねぇぞ!」
 一人が桃香に掴みかかろうとするが、彼女は軽く横に避けると、男の足を払った。受身も取れずにそいつは顔面を地面に強打して気絶した。
「ああっ!? 兄貴!?」
「このアマ! ちょっとおっぱいがでかいからって優しくしてりゃ付け上がりやがって!!」
 男たちが激昂して殺到する。しかし、いくら武官としては並みの腕しかない桃香とは言え、チンピラよりは圧倒的に強い。剣も抜かず武術だけで三人をノしてしまうなど、容易い事だった。数分後、ボコボコにされた男たちは、身体を引きずるようにして逃げていった。
「畜生、覚えてろ!!」
 と、小物丸出しの捨て台詞を残すことは忘れなかったが。桃香はやれやれとため息をつくと、少女のほうを向いた。
「もう大丈夫よ」
「は、はい! ありがとうございます!!」
 少女は笑顔を見せ、桃香に何度も頭を下げた。するとその時。
「月! 大丈夫!?」
 別の少女の声がした。桃香がそっちを見ると、眼鏡をかけた、緑の髪を長い三つあみに結った少女が立っていた。彼女は桃香を睨みつけ、びしっと指差して怒鳴った。
「ちょっとあんた! ボクの月に何をしたの!?」
「え?」
 戸惑う桃香。すると、さっき助けた少女が慌てたように声を上げた。
「ち、違うの詠ちゃん! この人はわたしを助けてくれたの!」
「は?」
 三つあみの少女が首を傾げる。どうやら彼女が詠で、桃香が助けた少女が月と言うらしい。月から説明を受けた詠は、怒りを収めて桃香に頭を下げた。
「ごめん、早とちりしちゃったみたいで」
「ううん、気にしてないよ」
 桃香は笑顔で頷いたが、その時には詠は月にお説教を始めていた。
「もう、何度も言ってるでしょ、月。勝手に外に出ちゃダメだって!!」
「ごめんね、詠ちゃん……わたし、どうしても街の様子が見てみたくて……それで……」
 話を聞いてる限りでは、どうやら月はかなりの箱入り娘なのだろう。それで、外に出てみたかったらしい。詠は身分は違うが、良い友達同士というところか。桃香がそんな風に二人の関係を察していると、また別の人物がやってきた。青い髪の、精悍な感じの女性だ。
「どうした? 見つかったのか?」
 女性が詠に声をかけた。詠は頷いて、桃香のほうを見た。
「ええ、見つかったわよ。この人に助けてもらったんだって」
 詠の説明を聞いて、女性は桃香に頭を下げた。
「そうか。本当は私の仕事なのだが……主を救っていただき、真に感謝する。さぞ名のある方とお見受けするが?」
「え? とんでもない! 当然の事をしたまでですよ。わたしはそんなに偉い人じゃありません」
 桃香は女性の大仰な感謝の言葉に、手をぶんぶん振って否定した。一応一州の代表で、最近は幽州の名軍師として名が売れてきている桃香だが、今は一応お忍び旅でしかも借金の申し込みが目的。あまり威張れた目的ではない。
「そうか……それでも感謝する。さ、みんな心配しているようだ。早く帰ろう」
 女性が言い、月と詠も頷いた。
「それじゃ、本当にありがとう」
 詠がそう言って踵を返そうとするが、その前に月は額につけていた小さな宝石飾りを外すと、桃香に差し出した。
「あの……これ、助けていただいたお礼です。もし何か困ったことがあったら、それを見せればこの街では多少の事は通ると思います……本当にありがとうございました!」
「え? ちょっと、こんな高価そうなもの……」
 桃香は押し付けられた宝石飾りを返すように、月に手を差し出したが、その時にはもう彼女は最後に来た女性の操る馬上だった。そのまま、手を振って駆け去っていく。
「……なんだか悪いなぁ……」
 桃香は頭をかいたが、とりあえず宝石飾りを預かっておく事にした。いずれまた会う機会もあるだろう。それに、月が言った事も気になる。
「多少の事は通る……借金でも大丈夫なのかな?」
 桃香は首を傾げた。だが、月の言った事は本当だった。翌日、もう一度最初に会った大商人に宝石飾りを見せると、彼は目を丸くして驚き、ついで愛想のいい顔になった。
「これは……ははは、お客さんも人が悪い。最初にこれを見せてくだされば、いくらでもお金は御用立てしましたものを」
 そう言って、商人は借金を引き受けてくれたのである。それも一番の低利で。桃香はありがたいと思いながら、もう一度宝石飾りを見た。
(あの子……何者なんだろう? よっぽど良い家の娘なのかな?)
 借金の手形を受け取りながら、桃香は束の間邂逅した少女の事を思うのだった。
 
 その謎が解けるのは、それから数ヵ月後。
 再び動乱の始まった時を待たねばならない。
(続く)


―あとがき―
 桃香、出世の巻。ついでに董卓軍のキャラ達も初登場しました。うーむ、連合軍結成まで話が進まなかった……
 次回は今度こそ連合軍結成と言うことで、主要キャラの大半が集まる予定です。華琳とか蓮華とか麗羽とか。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第六話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/21 18:12
 洛陽の商人からの融資を受けたおかげで、并州の再建は順調に進んでいた。桃香は無主になっている土地へ移住すれば、そこを自分の物にできて、かつ最初の三年間は税を安くする、と言う政策を立て、人集めにも成功していた。おかげで黄巾の乱時に他の州へ逃げていた難民たちも戻ってきた。
 また街道を整備して、幽州から洛陽への流通経路を構築した。商人たちが并州を通るようにすれば、自然と街道沿いにお金が落ちて賑やかになる。桃香はかつて学んだ事や洛陽での見聞を活かして、并州をもっと豊かな土地にするつもりだった。
 しかし、政務に専念していられたのは、半年ほどだった。ある日の事。政務室にいた桃香の元に、星が書状を持って入ってきた。
「桃香様、一大事ですぞ」
「星さん? どうしたの、一体」
 訝る桃香に、星は書状を手渡した。
「白蓮ちゃんからだ。なになに……」
 読み進めるうちに、桃香の顔が険しくなってきた。それは、袁紹が反董卓連合軍の結成を呼びかけ、既に呼応する諸侯が出始めている事、そして自分たちはこれに対処するため、どうすべきか協議したいと言う内容の文面だった。
 全国を戦火に包んだ黄巾の乱から、僅か八ヶ月あまり。再び動乱の炎は燃え上がろうとしていた。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第六話 桃香、白蓮に時節を説き、諸侯は中原へと兵を進める事


 幽州・并州の境にある小さな砦で、桃香たちと白蓮は半年振りに再会を果たした。
「桃香、元気そうだな。ずいぶん立派に仕事してくれてるって、みんなの評判だぞ」
 笑顔で言う白蓮に、桃香も笑顔で答える。
「そんな事ないよ。毎日陳情が来て、すっごく大変なんだから」
 そうやって三人は近況報告を兼ねてしばし雑談に興じたが、やがて白蓮は真面目な顔になると、袁紹からの書状を机上に置いて言った。
「さて、そろそろ本題に入ろう。まずはその書状を読んでくれ」
 桃香は頷いて、その書状を開いた。
「えーっと……告。董卓は洛陽を制し、朝廷を蔑ろにして政治を私し、その暴政はなはだしく、民の嘆きは天を覆い、民の涙は地に満ちるものである。このような悪行は到底許すべからざるところであり、我は天に代わり暴君董卓を誅すべく、ここに決起した。義心ある諸侯よ、我が旗の下に集われたし……」
「なかなかの名調子ですな」
 桃香の朗読を聴いて、星が皮肉ったように言う。
「さて、お前たちはこの書状についてどう思う?」
 白蓮が言った。桃香がまずあっさり答えた。
「嘘だらけの内容だね」
「いやまったく」
 星も相槌を打つ。白蓮は思わず苦笑した。
「まぁ、洛陽から融資を受けている身としてはそうだろうな」
 半年前、桃香は自ら洛陽に赴いており、董卓の政治が悪いものではない事を、自分の目で確認している。そんな彼女にしてみれば、袁紹の檄文など笑止の限りと言うべき内容でしかない。
「で、どうする? 連合への参加は止めておくか?」
 続けて白蓮が言った。桃香は少し考え込み、しかし首を横に振った。
「ううん。ここは参加するべきだと思う」
 意外な桃香の言葉に、白蓮と星は少し驚いた表情で彼女の顔を見た。
「……理由は何だ? 桃香」
 白蓮が促すと、桃香はさっきの書状を手でぽんぽんと叩いて答えた。
「これが嘘っぱちの内容だって事は、書いた袁紹さんもわかってるはず。それでもこんな大義名分を持ち出したからには、袁紹さんは本気で董卓さんと戦うつもりなんでしょう。だとすれば、この戦いが終わった後の次の敵は……」
「連合に参加しなかった勢力、と言うわけですな」
 星が言うと、桃香はその通り、と答えて続けた。
「袁紹さん自身が天下を取るつもりかどうかはわからないけど、その辺を見極めるためにも、連合には参加したほうが良いというのが、理由の第一かな」
「ん? 第二以下の理由があるのか?」
 白蓮はさらに説明を続けるよう促した。桃香は頷いた。
「このまま状況を手をこまねいて見ていたら、もしかしたら洛陽が戦場になって、たくさんの人々が困るかもしれない。だから、連合に参加する事で、そう言う最悪の事態になった場合に備えたい、と言うのが二つ目。并州の復興は洛陽頼みのところも多いしね」
 融資の件もそうだが、河北各地から洛陽に入る通商路の経済効果が無くなったら、并州の復興は大いに遅れるし、場合によっては多くの難民が押し寄せる事になるかもしれない。并州のためにも、そして桃香個人の心情としても、洛陽が戦火に巻き込まれることは避けたかった。
 何しろ、洛陽には個人的な知り合いもできている。月と詠、名も知らぬ彼女たちの護衛の武人。たった一度の出会いだったが、忘れられない思い出だった。あの三人が焼けた都で途方にくれたり、戦火に巻き込まれて怪我をしたり、と言う光景は見たくない。
「はは、桃香らしいな」
 白蓮は笑った。二番目の理由のほうが、桃香の中で主たる理由になっている事を、白蓮は悟っていた。
「まぁ、私も参加した方が良いかなとは思う。本初の奴、放っておくと無理無体な事ばかりしそうだし」
 本初と言うのは袁紹の字の事。白蓮は名家同士の付き合いで袁紹とは顔見知りであり、真名は預けていないが、互いに字で呼び合う程度の仲ではあった。当然性格もある程度知っている。
「ああ、そう言えば白蓮ちゃんは袁紹さんとは知り合いなんだっけ。どういう人なの?」
 桃香が聞くと、白蓮はちょっと疲れたような表情を浮かべた。
「まぁ……根っから悪い奴ではないんだがな。とにかく自分が一番でなきゃ気が済まない奴さ。今度董卓と戦う気になったのも、ぽっと出で相国なんて地位を貰い、洛陽を支配している事への嫉妬だろ」
「嫉妬って……そんな理由で戦争を起こすの!?」
 桃香は呆れと怒りの混じった声を上げた。白蓮は手を振った。
「いやまぁ、そう単純な話でもないけどな。董卓に取って代わって、洛陽を支配する事で利を得ようと言う気ももちろんあるだろ。ただなぁ、ちょっと気にかかる事があるんだよな」
 桃香は首を傾げた。
「気にかかること?」
「ああ。本初はさっきも言ったように、自分が一番って言う考え方をする奴だ。ただ、そう考えるだけの実力はある。財力も兵力も、今の諸侯じゃピカイチだしな。そんなあいつが、連合を呼びかけたってのが気になる。どっちかと言うと、本初は自分だけで董卓を倒せるだろうって考えるし、それを実行に移せる奴だ」
 袁家はかつて三公……司徒、司空、太尉と言う高官を何度も輩出した名族で、その権威は皇族に次ぐものがある。むしろ朝廷が弱体化した今、その権威と実力は最大級と言ってもいいだろう。先の黄巾の乱でも、十万に及ぶ兵力を動員した事がある。
「十万ですか。それは凄まじいですな」
 星が言う。彼女が今指揮できる兵力は、五千程度に過ぎない。その二十倍もの兵力を動員できる袁紹の強大さを考えているようだった。
「それが、今回は連合呼びかけ。それも、ある程度親交のある私はわかるとしても、お互い嫌いあっている曹操や、大して親交があるとも思えない孫権にまで声をかけているのが不思議なんだ。自分が主導権を取れなくなるのは、いくらあいつでもわかると思うんだが」
 曹操はやはり名家の出で、黄巾の乱では張三兄弟の末弟、張梁を討ち取る功績を挙げている。兵力、財力では袁家にやや劣るが、曹操自身が人材を愛する事もあり、綺羅星のごとき勇将・智謀の士がその配下に集っていると言われており、袁紹に対抗しうる数少ない有力諸侯だ。
 確かに、曹操が参加すれば袁紹が好き勝手できる余地は減るだろう。白蓮が不審に思うのも無理は無かった。桃香は少し考え込み、ある可能性に思い当たった。
(洛陽に、全ての諸侯が集まると言う「状況」を作りたい人がいるのかな……?)
 例えば、そう言う状況を作っておいて、空になっている諸侯たちの本領を奪取する……などだ。しかし、桃香はすぐにこの考えを捨てた。
(袁紹さんを焚きつけても、こんな状況を作れるとは限らない。策としては運に頼りすぎかな。わたしの考えすぎかも)
 ただ単に、袁紹が自分の権威を天下に示すために、諸侯たちを招集した。そう考えるほうが、まだ理にかなっている。どのみち連合への不参加と言う選択肢がありえない以上、後は状況に合わせて行動するしかないだろう。
「ともかく、後は行って確かめるしかないな。桃香、并州からは兵をどれだけ出せる?」
 白蓮も同じ事を思ったらしく、ここは行動の時だと判断したようだ。桃香はこの質問は予期していたので、すぐに答えを出した。
「騎兵三千、歩兵五千、弓兵二千。都合一万。何時でも出陣可能だよ」
 これは現在并州で動員できる兵力のほぼ全力である。星は尋ねた。
「桃香様、南に備えて守備隊を残す必要はありませんか?」
 并州のすぐ南は、董卓の勢力圏だ。仮に并州をがら空きにしてそこを董卓軍に蹂躙されたら、目も当てられない事になるだろう。しかし桃香は首を横に振った。
「必要ないよ。連合軍結成の動きは、董卓さんも察知してるはず。まずは兵力を盟主である袁紹さんへの対策にまわすと思う」
 加えて、洛陽から并州を攻めるには、黄河を渡る必要があるし、たかだか一万の并州軍への対策として、董卓が洛陽の兵力を割くとも思えない。この戦い、董卓は洛陽さえ守りきれれば勝ちなのだ。
 また、単独でも五万は率いてくるだろう袁紹や曹操に対し、あまりに兵が少ないのでは発言力を失う。無理をしてでも多くの兵を連れて行く必要があった。
「そう言うことでしたら、異存はございません。白蓮殿の兵は?」
 星は桃香の説明に納得して、今度は白蓮の方を見る。
「騎兵五千、歩兵八千、弓兵二千。合計で一万五千だな。合わせると二万五千の兵力になる……だが、袁紹と曹操はこの倍は連れてくるだろうな」
 人口と経済規模から言えば、白蓮の領地ではこの倍以上の兵を動員できるはずだが、今はまだその体制が整っていない。ともかく、出陣した後は可能な限り兵力の損失を抑え、多くの兵を連れて帰れるように策を練らなくてはならないだろう。
(たぶん、やってくる諸侯は、みんな同じことを考えるだろうなぁ……足並みの揃わない連合で、わたし達は董卓さんに勝てるのかな……?)
 そう考えると、桃香は先行きに不安を感じるのだった。
 
 不安はあっても、将としてはそれを見せる事無く、兵を統率しなくてはならない。桃香は出兵の準備を進め、一週間後に并州軍一万を連れて太原を出立。途中で白蓮の幽州軍と合流して南下。諸侯連合軍の集結地に指定されている陳留に二週間ほどで到着した。
「これはまた……」
「凄い眺めだねぇ……」
「絶景ですな」
 陳留についた桃香たちは、口々にそう感嘆の声を上げた。陳留市街の城壁の外には、各諸侯軍の張った天幕が所狭しと立ち並び、無数の軍旗、牙門旗が翻っている。ざっと見て桃香は総兵力を二十万と推測した。
 実際、ここに集まっていたのはまず袁紹軍と曹操軍が各五万、江東の勇、孫権軍と、西涼の盟主、馬騰軍がそれぞれ三万。桃香たち公孫賛軍が二万五千。そして……
「あ、一刀さんたちも来てたんだ」
 桃香は陣地の外れに翻る「十」の牙門旗を見て言った。北郷軍は一万五千ほど。これで総計は二十万となる。
「北郷軍はずいぶん多いな。あいつ県令だろう? 二千くらいしか兵を動かせないと思うが……」
 白蓮が言う。この国の地方行政区画は、県<郡<州という順番で大きくなる。二州で二万五千の公孫賛軍と比較して、県令の率いる軍が一万五千と言うのは、異常なまでに多い。
「この数ヶ月の間に、なにやら勢力を拡大する機会があったのかもしれませんな。いずれにせよ、軍議の席に出れば何かわかるでしょう」
 星が言った時、陳留の城門のほうから、一騎の武官が馬で駆けてくるのが見えた。金の飾りがつけられた、華麗な鎧に身を固めている。
「あの軍装は、本初の所の奴だな……お、顔良将軍じゃないか」
 白蓮が言うと、星がほう、と関心を示した。
「顔良将軍と言えば、袁家の二枚看板の一ですな。勇将にして良将、袁家の軍を背負って立つ逸材と聞いております。一度会ってみたかった」
 桃香は顔良の事をよく知らなかったが、星が関心を示すからには、それだけの人材なのだろう。やがて、顔良は三人の前で立ち止まった。一見武人らしからぬ穏やかな顔立ちの少女だったが、その立ち居振る舞いには隙が無かった。
「公孫賛さま、長の行軍お疲れ様でした。姫の命により、お迎えに上がりました」
 耳に心地よい、涼やかな声で顔良が言う。
「ああ、そっちこそお疲れ様、顔良。久しぶりだな。元気でやっていたか?」
 白蓮が笑顔で言う。よその所の武将とは言え、顔良には親しみを持っているらしい。
「はい、おかげさまで……これから城内で軍議を開きますので、公孫賛さまもお越しください」
 白蓮は頷くと桃香たちを見た。
「桃香は私と一緒に軍議に出てくれ。星は陣地の造営を指揮していてくれ」
「うん、わかった」
「承知しました」
 二人はそれぞれに返事をし、星は兵士たちのほうへ走っていく。桃香は白蓮と顔を見合わせた。
「じゃ、行こうか白蓮ちゃん」
 いよいよ、連合軍を構成する諸侯たちと対面するのだ。いずれ劣らぬ英傑ぞろい。一体どんな人々なのか、怖くもあり、楽しみでもある。二人は顔良につれられて城門を潜り、市街地中心部の政庁へ向かった。

「失礼します。公孫賛さまをお連れしました」
 政庁内の一室、その戸を叩いて顔良が言った。
「お入りなさい」
 中から返事が聞こえ、顔良は戸を開けると、手のひら全体で中に入るよう桃香と白蓮に促した。
「失礼する。遅くなった」
 白蓮がそう言って堂々と中に入り、桃香も後に続こうと部屋の中を見て、その雰囲気に息をのんだ。
 そこには、今のこの国を代表する有力諸侯たちが、ずらりと顔を揃えていた。特に戸に向かって正面に座る少女の威厳は、群を抜いていた。
 体格自体は小柄で、容姿も決して威圧的なものではなく、むしろ可愛いとさえ言える。どこか猫科の生き物を思わせるしなやかな雰囲気を漂わせているが、そうした愛らしさを遥かに凌駕して発せられる、凄まじいまでの存在感。これは只者ではない、猫ではなく獅子のような人だと桃香は思った。
「……私の顔に、何かついているかしら?」
 少女が口を開いた。その途端、桃香を圧倒していた覇気は綺麗に消え去り、桃香は慌てて頭を下げた。
「い、いえ。失礼しました。そういうわけじゃないんです」
 桃香はそう不作法を謝罪すると、白蓮の横に座った。改めて座の面々を見渡すと、上座に座っていた、豪奢な金色の髪の女性が口を開いた。
「ようこそおいでくださいましたわ、伯珪さん」
「ああ、元気そうだな。本初」
 そのやり取りから、桃香は彼女が袁紹だとわかった。なるほど、さすがに名族袁家の当主だけあって、ちょっとした動作の一つにも気品がある。続けて、桃香を圧倒したあの少女が会釈した。
「はじめまして、公孫賛殿。曹孟徳よ。名高い幽州の白馬長史に出会えて光栄の至りだわ」
 なるほど、この人が曹操か、と桃香は思った。袁紹に対抗できる唯一の大諸侯。確かに尋常の人間がもてる覇気ではない。すると、横に座っている猫耳のような形の頭巾をかぶった軍師らしき少女が、曹操の知恵袋と名高い荀彧か。
 白蓮が曹操に挨拶し終えると、その向かいにいた褐色の肌を持つ少女が頭を下げた。
「江東から来た、孫権だ。よろしく頼む。こちらは私の副将の甘寧だ」
 曹操が獅子なら、この孫権は江東にも数多く生息すると言う虎だろうか。曹操、袁紹が笑顔を浮かべているのに対し、この主従は硬い表情を崩しておらず、寄らば切れそうな抜き身の刃物の凄みを感じさせた。
 続いて手を挙げたのが、白蓮同様馬の尾のような髪形をした快活そうな少女だった。
「西涼の馬騰の名代として来た、馬超だ! 幽州の白馬、アンタには一番会ってみたかったんだ。よろしくな!」
 幽州と並んで名馬の産地として名高く、五胡をはじめとする剽悍な西方の異民族たちと常に対峙する涼州。そこを治める馬一族の次代を担う人材でも、この馬超は「錦馬超」「白銀姫」と名高い英傑だ。しかし、腹に一物も二物もありそうな他の諸侯と違い、彼女は裏表の無い親しみやすさを感じさせる。白蓮も同じ騎手、騎兵使いとして馬一族を意識しているだけに、こちらも気軽に挨拶をしていた。
 そして、最後の一人が口を開いた。
「当陽県令、北荊州五郡郡代の北郷一刀。まぁ、俺は挨拶の必要は無いかな」
 八ヶ月前に別れて以来、久々に会う一刀と、ついてきたのであろう孔明が会釈してくる。桃香が微笑んで彼に会釈を返すと、袁紹が言った。
「ところで、伯珪さん? 貴女が連れてきたのは誰なんですの?」
 自分は挨拶を忘れていた事に気づき、桃香は頭を下げた。
「すみません。ぱいれ……公孫賛様にお仕えしております、劉玄徳と申します。軽輩の身ではありますが、以後お見知りおきを」
「玄徳は私の下で軍師をしてもらってるんで、軍議と聞いて連れてきた」
 白蓮が情報を補うと、曹操は興味深そうな表情になり、それに気付いた荀彧がキッと桃香を睨んできた。何故睨まれるのかわからないので、桃香はその視線を無視した。
「さて、これで皆さんお揃いですわね。この度はわたくしの呼び掛けに賛同し、集まって頂き感謝いたしますわ」
 袁紹が立ち上がって優雅に一礼すると、最初の議題を切り出した。
「さて、まずは連合軍の総大将を決めたいと思うのですけど……」
 すると曹操があっさりと言った。
「貴女で良いんじゃないの、袁紹。そもそも連合の呼びかけ人は貴女なんだから」
 袁紹は機嫌が良さそうな、しかし目は笑っていない表情で答えた。
「あら、良いんですの? 曹操さん。あなたも盟主に相応しい人物だと思ってましてよ?」
 お互い見つめあい、含み笑いをする曹操と袁紹。よほど仲が悪いらしい。袁紹としては総大将になりたいのは山々だが、曹操からの推挙が気に食わないと言う事だろう。桃香は白蓮の肩をつついた。
「白蓮ちゃん……」
「ああ、わかってる。こんな事で無駄な時間を食いたくない」
 白蓮は桃香の危惧を理解していたのだろう。とんとんと机を叩き、睨みあう二人の注意を向けさせた上で言った。
「私も総大将は本初で良いと思うぞ」
 特に理由は言わなかったが、袁紹はちょっと耳が痛くなりそうな高笑いを決めた後、ふんぞり返って答えた。
「まぁ、伯珪さんもわたくしを推挙すると言うのであれば、総大将になって差し上げてもよろしくてよ。皆さんもそれで構いませんこと?」
 孫権、馬超、一刀は面倒くさそうな表情で答えた。
「異存は無い」
「ああ、任せた」
「好きにしてくれ」
 三人とも、拙い所に来てしまった、と言う表情がありありと浮かんでいるが、袁紹は全員から賛同された事で満足したのだろう。再び高笑いの後、宣言した。
「それでは、今回の同盟の盟主にして総大将は、このわたくし袁本初が務めさせていただきますわ」
 やる気無さげな拍手が湧き、孫権がまず口を開いた。
「して、総大将殿。進撃にあたり、敵の布陣、総勢等を踏まえ、作戦を立てたいのだが」
 実にもっともな発言だったが、袁紹は鼻で笑った。
「作戦? そんなもの必要ありませんわ」
「……は?」
 質問した孫権、それに桃香、白蓮、荀彧、一刀、孔明が異口同音にそんな声を発する。袁紹は浴びせられる「お前は何を言ってるんだ」と言う視線を跳ね返し……というより最初から感じていないのか、堂々と胸を張った。そう言うところは確かに大物らしいが……口にしたのは大物と言う問題では済まない暴論だった。
「わたくしたち連合軍は、正義の軍。その旗の征くところ、誰もがひれ伏し、悪の董卓軍もたちまち意気が挫けると言うものですわ。まして、総大将はこの高貴なる袁家の当主たるわたくしなのですから。おーっほっほっほっほ!!」
 すると、馬超がバンと机を叩いた。一瞬抗議するのか? と期待を持った一同だったが、馬超の目はきらきらと輝き、袁紹の言葉に大いに乗り気になっているようだった。
「いいね! 正義の軍に歯向かう者なし!! カッコいいじゃないか!! あたしは大いに気に入った!!」
(だ、ダメだこの人たち……はやく何とかしないと)
 桃香は頭を抱えたくなった。一方、横では白蓮が腕を組み、なにやら首を捻っていた。すると、曹操が笑顔を浮かべて言った。
「袁紹、作戦については了解したわ。ところで、進軍順くらいは決めておかない? 私は殿を希望したいのだけど」
 言いながら、曹操は何故か桃香の方を見て、目配せしてきた。
(……? 曹操さん、何かわたしに用が……?)
 曹操が意味も無く目配せをするとも思えない。少し考えて、桃香は曹操の狙いに気付いた。
 袁紹は実質的に作戦を立てていない。立てる気も無い。逆に考えれば、それぞれの諸侯が自分に都合が良いように、指揮下の軍を動かしても構わないと解釈できる。見れば、孫権は微かに眉を動かし、孔明は一刀に耳打ちをしていた。二人とも、曹操の微妙な態度から桃香と同じ結論に達したのだろう。
 曹操の狙いはわからないが、おそらく殿と言う位置が、彼女にとって都合のいい位置なのだろう。では、自分たち公孫賛軍にとって、一番目的に適した位置はどこか?
 桃香たちにとって、一番の目的は敵味方双方、そして洛陽の庶人たちの被害を最小限に抑える事である。そのために都合の良い位置は……
「わたし達は二陣目で行軍したいと思います。白蓮ちゃん、構わない?」
 桃香は言った。二陣目の位置なら、敵と真っ先に激突する事になる先鋒の状況を良く見た上で、行動を決める余地がある。場合によっては苦戦する先鋒の救援も可能だろうし、どうしようもない場合に撤退する余裕もある。
 また、連戦の場合は次の先鋒は自分たちで、洛陽攻めあたりに主導権をとる順番が回ってくる可能性が高い。そう考えての提案だ。
「お前がそれでいいなら、私には文句は無いぞ」
 白蓮はあっさり頷いた。桃香は白蓮に礼を言い、ついで曹操に笑顔で会釈した。彼女がどういうつもりで桃香に考える手がかりをくれたのかは不明だが、ここは好意にたいする礼をしておくべきだろう。
「では、伯珪さんは二陣目……ですわね。他の方々はどうするんですの?」
 袁紹が言うと、馬超が手を挙げた。
「いよっし! それなら先鋒はあたしが貰う!!」
 やる気満々だ。先鋒は被害が大きくなる位置なので、こういう状況では避けたいところだが、馬超は自分の武を見せ付ける機会を欲しているのだろう。
 しかし、馬超率いる涼州軍の性質から考えると、もう少し違う戦い方をしてほしいところである。桃香はそう言おうと口を開きかけたが、孫権が先に言った。
「馬超殿、申し訳ないが先鋒は我らに譲ってもらえないか?」
 馬超は意志の強さを示すような太い眉を吊り上げた。
「なんだって? 先に名乗りをあげたのはあたしだぞ? 何で先鋒を譲らなきゃいけないんだ」
 孫権が説明するより早く、孔明が口を開いた。
「馬超さんたちは騎兵中心ですから、先頭切ってぶつかるよりも、機動性を活かした遊撃軍として、ここぞと言う時に戦場に突入してもらうほうが、実力を発揮できると思います。言ってみれば、戦いの趨勢を決める決戦部隊ですね」
「そう言うことだ。その方が貴公としてもその武を発揮しやすかろう。第三陣あたりが最適の布陣だな」
 孫権が言い添える。決戦部隊、と言う響きが気に入ったのか、馬超は笑顔を浮かべた。
「そう言うことなら、その遊撃部隊をあたしが引き受けよう」
 桃香はホッとした。孫権と孔明が言った事は、彼女の考えた事と全く同じだった。
「では、先鋒は孫権さん、第三陣は馬超さん、ということで良いですわね?」
 袁紹が確認すると、曹操が手を挙げた。
「孫権だけで大丈夫かしら? 孫呉の武威を疑うわけではないけど、董卓軍は汜水関と虎牢関に合わせて七万近い兵を入れているという情報があるわよ」
 汜水関、虎牢関は洛陽の東を守る一大拠点だ。洛陽へ続く、切り立った断崖の間の道を塞ぐように建てられた二重の関所で、人の背丈の十倍近い垂直の城壁が聳え立つ要害である。 
「あの二つの関に七万か。厳しい戦いになるな。しかし、七万とは多いな……洛陽の人口は多いし、経済的にも七万くらいの兵は余裕で養えるだろうが……董卓はそこまで力をつけているのか」
 白蓮が言うと、孔明が真剣な表情で言った。
「それなのですが、董卓軍は二十万の兵を整えたとの情報があります」
「二十万!?」
 室内がざわめく。二十万と言えば、連合軍とほぼ同じ戦力だ。
「話半分としても、十万……汜水関、虎牢関、洛陽を戦場と想定して、三~四万の兵が篭る拠点に対して連続で攻城戦を仕掛ける事になります。孫権軍だけでは厳しいですね」
 荀彧が言って甘寧に睨まれ、場に緊迫した空気が流れるが、その時一刀が手を挙げた。
「じゃあ、俺たちが孫権さんと並んで先鋒を務めよう。それならどうだ?」
「一刀さん?」
 桃香は大丈夫か、と言う心配の気持ちを込めて一刀を見る。一刀たちの軍は諸侯連合の中では最小だ。孫権軍と協力するとは言え、先鋒で消耗すれば立ち直るのが大変だろう。すると、一刀は心配ない、と言うように桃香に笑って見せた。
「孫権はどうなの?」
 曹操が言うと、孫権は一刀のほうをじっと見て頷いた。
「よろしく頼む」
「ああ、こちらこそ」
 一刀も挨拶を返したところで、袁紹がまとめに入った。
「では、先鋒は孫権さんと北郷さん、第二陣は伯珪さん、第三陣は馬超さん、第四陣はわたくし、第五陣……殿は曹操さん、と言うことでよろしいですわね?」
 一同は頷いた。本当は桃香としては文句が無いわけではない。最有力の二人の諸侯が後陣と言うのは不公平だ。どっちかに先陣を切ってもらうべきだとは思う。特に袁紹には。しかし、力関係から言ってもなかなかそれは言い出しづらい。可能な限り戦力を温存したままで、この戦役を乗り切るしかないだろう。
「では、明日当たり出撃としましょうか。後は董卓軍の出方を見て決めましょう」
「わたくしの台詞を取らないでくださいます!?」
 曹操が結論を口に出すと、袁紹がそう言って曹操を睨んだが、曹操は冷笑で答えた。孫権主従は我関せず、とばかりにさっさと部屋を出て行き、馬超は張り切った様子でそれに続いた。桃香は一刀を呼び止めた。
「一刀さん」
「ああ、桃香さん。なんです?」
 孔明と共に部屋を出て行こうとした一刀が振り返った。すると、白蓮が言った。
「桃香、私は先に戻ってるぞ」
「朱里、軍議の内容を愛紗たちに伝えてくれ。俺はちょっと劉備さんと話してから戻るから」
 一刀も孔明に言った。孔明は一瞬躊躇ったが、では、と言って白蓮に続いて部屋を出て行った。
「で、何の用で……って、少し場所を変えますか」
 一刀は桃香に話しかけようとして、背後で起きている袁紹と曹操の言い争い(と言うより、袁紹が一方的に絡んでいる)に目をやった。こう煩くては、落ち着いて話もできない。
「そうですね」
 桃香は頷いて、二人は少し離れた政庁の回廊に移動した。まず話を切り出したのは桃香だった。
「一刀さん、先鋒を受けて大丈夫なんですか? あの兵力、かなり無理してかき集めたと思うんですけど……」
 一県令に過ぎない一刀が一万五千の兵を何故持っているのか、と言う疑問を桃香はぶつけた。
「ん? まぁ、確かに大変は大変だけど……実はあれ、周りの県や郡の兵たちの指揮権を預かってきたんだ」
「え?」
 一刀の答えに戸惑う桃香。すると、一刀は荊州の思わぬ実情について話し始めた。それは、桃香にもにわかに信じがたい内容だった。
「州の太守や、知事たちが着任していない? それは本当なんですか、一刀さん」
 桃香が聞き返すと、一刀は頷いた。
「ああ。どういうわけか誰も来ていないらしい。それで、俺のところに周りの県や郡の住民代表が来て、保護を求めてきたんで、本来の太守や知事が来るまで、俺たちが暫定的に荊州北部の五郡の政治を預かることになったんだが……半年経っても誰も来ないんだ。これは中央で何かあったに違いない、って言う話になった時に、袁紹さんの檄文が来てね。状況を確かめる機会だと思って、参戦を決めたんだ」
 荊州は黄巾の乱で大打撃を受けたため、乱以前の太守や県令、郡知事はほとんど交代させられた。一刀が県令に任命されたのも、人事異動が大規模だったためだが、いくら状況が厳しいとは言え、新任者が現地に入らないのはどう考えてもおかしい。怠業の廉で斬首、流刑に処せられてもおかしくない。
「それで、一刀さんは現状をどう思っているんですか?」
 桃香は聞いた。さっきの軍議の様子から見ても、一刀たちは董卓軍の情報をかなり集めているようだ。ひょっとしたら、桃香の知らない事を知っているかもしれないと期待したのだが。
「正直わからない。董卓が政治を牛耳っているとしても……牛耳っているからこそ、任地に逃げ出したいと思う人は多いだろうし。こればかりは洛陽に行かないとわからないと思う」
 それで、一刀たちは敵に一番近い先陣に身を置いて、真っ先に情報を集めたいと考えていたのだと言う。
「なるほど……わかりました。もし何かあったら、何時でも相談してください。わたしたちもできるだけの事はします」
「うん、ありがとう。よろしく頼むよ」
 桃香の言葉に、一刀は笑顔で頷いた。桃香は胸が高鳴るのを感じた。
(一刀さん、凄く厳しい状況なのに頑張ってるんだな……わたしも負けないように頑張らなくちゃ)
 一刀への敬意と共に、決意もまた新たにする桃香だった。
 
 
―あとがき―
 主要君主がとうとう勢ぞろい。各軍の武将とかでまだ出て無いキャラもいますが、反董卓連合軍戦の途中にはできるだけ出す予定です。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第七話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/24 18:50
 汜水関の城壁の上で、彼女は東を睨んでいた。遥か地平線のほうから黄色い土煙が吹き上がり、風に乗って吹き付けてくる。膨大な軍勢が……公称五十万、実数は恐らく二十万だが、それでも彼女が指揮する軍勢の七倍に及ぶ大群が迫ってくる。兵士たちが踏み鳴らす足音が、地響きとなって伝わってくるようだ。
 それでも、彼女の表情には恐怖は感じられない。圧倒的な敵を相手に、いかに己の武を発揮するか。その一念のみがある。とは言え、彼女にも心配事が無いわけではない。自分が戦い、命を懸けることに恐れは無いが、主と仰いだ少女の身柄は……
 そう考えていた時、城壁の上に彼女と肩を並べて戦う、もう一人の将が現れた。一瞬男が目のやり場に困りそうな服装の、長身の女性だ。豊かな胸に晒しを巻いただけの上半身に外套を羽織った、一見無防備とも言えるその姿は、神速とも言われる用兵を実現するため、乗馬にできるだけ負担をかけないための軽装だ。
「おう、帰ったで、華雄」
「ああ、張遼か。どうだった? 洛陽の様子は」
 二人は言葉を交わす。待っていたのは汜水関の副将、華雄。洛陽から来たのは主将の張遼。いずれ劣らぬ武勇の持ち主であり、董卓軍の誇る名将たちであった。
「ああ、あかんかった。賈駆っちには会えたけど、城には入れず仕舞いや。あの怪しい白覆面どもが隙間無く見張っとる」
 張遼が忌々しげに言う。
「そうか……無事だと良いのだが。で、賈駆からは何か指示は?」
 華雄が尋ねると、張遼は首を横に振った。
「変わらず、何とかここで敵を食い止めてくれ、の一本槍や。まぁ、他にやりようもないけどな」
 華雄は一度背後の洛陽の方へ顔を向け、続いて再び東に視線を戻す。土煙は着実にこちらへ近づいていた。
「おうおう、仰山おるなぁ。こらウチらも年貢の納め時かも知れんで」
 張遼が言う。しかし、その顔は……
「状況の割りに楽しそうだな、張遼」
 華雄が言う。彼女の言うとおり、張遼はこれから楽しい事が起こりそうな、子供のような表情を浮かべていた。
「ま、武人の本能っちゅうヤツやろ。この際、ウダウダ悩んどっても埒が明かん。ウチらが本領を発揮すれば、ここで連合軍を追い返すのも夢や無い」
 華雄はそれを聞いてフッと笑った。
「同感だな。主のために我等ができることは、これしかないのだから」
 迫り来る強大な敵を相手に、二人の武人は己の中の昂ぶりを静かに、しかし熱く燃え立たせていた。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第七話 桃香、策をもって関に挑み、武人たちは競演を見せる事


 汜水関の手前十五里のところで、全軍は一時停止した。平原はここまでで、ここから先は洛陽を囲むように広がる山地、その中の狭い谷間が続いている。微かに汜水関の威容がここからも見えた。
「あれが汜水関……」
 桃香は馬上からそれを仰ぎ見る。城壁の上に何旒もの牙門旗が翻っているのは見えるが、ここからでは誰が篭っているのかはわからない。そう思った時、騎兵が一騎、桃香たちのほうへ駆け寄ってきた。
「伝令! 伝令! 孫権殿、北郷殿より連絡です。汜水関の牙門旗は『華』及び『張』の二種類!」
 それを聞いて、白蓮と星が同時に違う相手の名を呼んだ。
「張遼か!」
「華雄か!」
 桃香は並んで立つ二人を交互に見た。
「知ってるの? 白蓮ちゃん、星さん」
 そう質問を投げかけると、まず答えたのは白蓮だった。
「神速の張遼。私が騎兵使いとして意識している二人の将のうちの一人さ。武人としても大した腕で、飛龍偃月刀の達人だそうだ」
 続いて星が言う。
「華雄は董卓軍きっての猛将で、猪突気味なところはあるものの、その突撃の破壊力は凄まじいと聞いております。兵に慕われることでも名高いとか」
「なるほど、強敵ってことだね」
 桃香が言うと、白蓮は少し心配そうに先鋒の二軍を見た。
「張遼と華雄の組み合わせでは、恐らく北郷も孫権も苦戦は免れないだろうな。桃香、今のうちに先鋒が苦戦している時の対策を立てておいてくれ」
「うん、わかった」
 白蓮の命令に桃香が頷いた時、前方で鬨の声が上がり始めた。同時に孫権軍が汜水関に向けて動き始める。
「もう仕掛けるの!? 早すぎる!!」
 桃香は驚いた。まずは布陣して陣営を築いてから攻めかかると思ったのに、孫権軍は逸り過ぎている。
 
 孫権軍の突出はもちろん汜水関からも見えていた。
「あれは江東の虎やな。ええ気合やけど、ちと空回りしすぎちゃうか?」
 張遼が言うと、華雄がそれこそ虎のような凄みのある笑みを浮かべた。
「なら、戦というものを少し教えてやるべきか」
 張遼もにやりと笑う。
「出るんか?」
「ああ。篭りっ放しでは味方の士気も保てんからな。まずは一戦、相手の鼻っ柱を殴りつけておく事だ」
 華雄は胸壁に立てかけておいた愛用の武器、金剛爆斧を取り上げると、副官に命じた。
「華雄隊、出撃するぞ! 江東の虎退治だ!!」
 おおう、と汜水関の兵士たちがどよめく。華雄は引き出されてきた愛馬にまたがると、金剛爆斧を振るった。
「開門!」

 華雄隊の出撃は孫権軍からも見えていた。
「蓮華様、敵が出撃して来ました! 牙門旗は華の一文字、華雄です!」
 甘寧が馬を寄せてきて報告する。孫権は頷くと腰の宝剣、南海覇王を抜き放ち、号令をかけた。
「孫呉の勇者たちよ、今こそ功名を挙げる時ぞ!! 天下に我等が武の誉れを知らしめるのだ!!」
 周囲の兵士たちが怒涛のような鬨の声を上げる。それを聞きながら、孫権は思った。
(姉様なら、この戦いを楽しんで行えるのだろうな)
 彼女の姉、江東の小覇王と呼ばれた英傑だった孫策は、孫呉の名の下に天下を統一すると言う壮大な夢を描き、その夢の下に江東の民を団結させた。自由を尊ぶ気風の強い彼らだが、孫策のためなら命を投げ出しても惜しくないほどの強い忠誠心を抱いていた。
 しかし、その孫策は数年前に僅かな油断から重い戦傷を負い、それが元で亡くなった。姉の圧倒的なまでの強さを知っていた孫権にとって、それはまさに晴天の霹靂と言うしかない出来事だった。
(あれ以来……姉様の夢は、私が引き継ぐことになった。でも、私には姉様ほどの器はない……)
 孫権にとって、孫策は憧れの人であると同時に、あまりにも高い、超えるべき目標だった。誰もが孫権に孫策の夢を継ぎ、孫呉による天下統一を達成する事を望む。だが、孫権は江東は江東で一つの地域として、豊かに生きて行ければそれでいい、と考えていた。天下統一など、孫権にとっては重荷でしかない。しかし。
(器はないが……それでも皆が望むなら、私は皆のために天下を取ろう。その為にも、私はここで孫呉の武威を示さねばならない……!)
 孫権はそう決意していた。連合に参加したのもそのためだ。ここで孫呉の力を天下に見せつけ、同時に自分がその王たる器である事を示さねばならない。もはや最前列の敵兵の表情すら見えてきたその時、孫権は叫んだ。
「私は姉様を越える……! 邪魔をするな!!」
 その叫びが聞こえたわけではないが、華雄は相手の気迫を感じ取り、それに呼応するように己の武をよりいっそう昂ぶらせていた。強敵に対し、自分の力を限界以上に引き出す。これこそ、強き武人に求められる資質である。
「良き敵のようだ……だが、青いな」
 そう言うと、華雄は馬腹を蹴った。選りすぐりの駿馬がよりいっそうの加速を見せ、華雄は軍の先頭に躍り出る。彼女の荒ぶる武が、続く兵士たちに伝染していく。
「さらに駆けよ! 我らの主に勝利を捧げるぞ!!」
 華雄の叫びと同時に、董卓軍は歩兵すらがまるで騎兵の如く加速し、人鉄の津波となって孫権軍に激突した。
「な……!?」
 孫権にとっては目を疑うような光景が展開された。華雄隊の加速により、ほんの一瞬、号令をかける機会が遅れる。その隙を狙って突撃してきた華雄隊は、思う様槍を、矛を孫権軍に叩きつける。血しぶきと悲鳴、怒号が湧き、孫権軍の先陣が波の直撃を受けた砂の城の様に崩れ立った。
 とりわけ凄まじいのは華雄だ。彼女の金剛爆斧が右に左に閃くたび、兵士たちの命が枯れ草のように刈り取られていく。隊長格の士官が槍を持って立ち向かうが、数合ともたずに馬上から叩き落され、その光景が孫権軍の士気を萎えさせ、華雄隊の士気を高めた。
「何と言う奴……まともに指揮など取っていないのに、兵士を自在に進退させている!」
 孫権は唸った。指揮官がその武を見せ付けることで、配下の兵士たちも感化され、力を高めているのだ。亡き姉、孫策にもそういう傾向はあったが、それをより極端にしたような用兵だった。
「華雄を討たねば、そうでなくとも動きを止めねば……」
 孫権が言うと、横にいた甘寧が馬腹を蹴った。
「思春!?」
 呼びかける主に、甘寧は「勝利を」とだけ答えると、兵士たちの間を縫って華雄の前に立った。
「我が名は甘興覇! 華雄よ、我が挑戦を受けるか!!」
 幅広の曲刀、鈴音を鞘から抜いて突きつける甘寧に、華雄は獰猛な笑みをもって答えた。
「孫権の懐刀、甘寧か! 相手にとって不足なし。華雄、推して参る!」
 その叫びと共に、華雄は馬を走らせ、その勢いも乗せて金剛爆斧を叩きつける。甘寧は鈴音を斜めに構え、強烈な一撃を受け流した。二つの武器が火花を散らしてすれ違い、甘寧は相手から受け取った力を刃に乗せ、頸断の一刀を華雄に送り返した。しかし、華雄は足の動きだけで愛馬を後退させ、その必殺の一撃を回避する。
「やるな! さすがは甘寧。その武、噂に違わぬようだ!!」
 華雄が賞賛の言葉と共に攻撃を送り込み、甘寧は無言で回避する。もともと口数の多い方ではないし、孫権以外の人間に褒められた所で、別に嬉しくもない。
 こうして、二人は壮絶な一騎打ちを繰り広げた。甘寧は華雄をそう簡単には討ち取れないと判断し、とにかく一騎討ちに専念させて指揮を取らせないことを心がける。そうすれば、孫権の用兵で華雄隊を押し戻せると踏んだのだが……
「くっ、奴らの勢いが止まらん!!」
 孫権は必死に押し寄せる華雄隊への手当てを続けていたが、華雄が甘寧に対して優勢に戦いを進めていることが華雄隊の兵を昂ぶらせ、勢いが止まる事無く孫権軍を削り続けている。理を越えた敵の動きに、いかんとも対処しがたく、歯噛みする孫権の所へ、一人の兵が走ってきた。
「伝令! 伝令! 北郷殿より伝令です! ここはひとまず退いて仕切りなおしを図るが上策との事!」
「退けだと!?」
 一瞬頭に血が上った孫権だったが、自軍の兵が斬り倒されて挙げる断末魔の悲鳴に、その血を沈静化させる。
「わかった……引き鉦を鳴らせ! 銅鑼を打て!! 退くぞ!!」
 孫権は命じた。間もなく鉦と銅鑼が撤退の合図を知らせ、それは一騎打ちを続ける甘寧の耳にも入った。
「ち……華雄よ、その首預けておくぞ!」
 振り下ろされる華雄の一撃を避け、甘寧は馬首を巡らせた。同時に華雄の耳にも、汜水関から響く自軍の引き鉦の音が聞こえてきた。
「ふ……まぁ良いだろう。敵もこれで多少は警戒するだろうしな」
 辺りを見回し、倒れているのが自軍より孫権軍の兵士が圧倒的に多いことに満足の笑みを浮かべ、華雄は命じた。
「我らも引く。今日の宴はここまでよ!」
 緒戦の勝利に、華雄隊の兵士たちは勝ち鬨を上げると、一斉に汜水関へ向けて退き始め、後には両軍の屍だけが残った。
 
 孫権軍が戻ってくると同時に日が暮れた。夜襲を警戒して篝火が煌々と焚かれる中、袁紹軍の陣地中央に設えられた大天幕で軍議が開かれた。
「孫権さん、無様な戦いをしたものですわね」
 袁紹の厳しい言葉に、孫権は一瞬顔を強張らせ、そして項垂れた。
「返す言葉もない……」
 まだ集計は済んでいないが、孫権軍の死傷者の数は推定で千近くに達しており、生還した兵士たちもかなり士気が下がっていて、苦戦の程が伺われた。一方、この勝利で汜水関に篭る董卓軍の士気は大いに高まっているだろう。
(これでは、周瑜に何を言われるかわからない……)
 孫権の表情は暗い。周瑜は亡き姉孫策の側近にして親友であり、孫策亡き後は天下統一を最終目標とする拡大派の筆頭である。彼女を抑える政治力を得るためにも、この遠征で戦果を得る事を望んでいた孫権にとって、緒戦でのこの失敗は、あまりにも痛い政治的失態だった。
「まぁ、孫権さんはよろしいですわ。あの生意気な関の敵軍を破るためにどのような策を立てるべきか、皆さんの意見を聞こうと思うんですの」
 袁紹が打ちひしがれている孫権を無視して言うと、曹操がさらっとツッコミを入れた。
「あら、賊軍相手に策は不要だったんじゃないの? 袁紹」
「おだまりなさい、曹操さん! 揚げ足を取られるのは不愉快ですわ!!」
 袁紹は目を吊り上げて激怒する。軍議に来ていた桃香と白蓮はため息をついた。
「そんな揉めてる場合じゃないだろう。曹操も自重しろ。孫権、良い気分じゃないと思うが、敵の様子について詳しく教えてくれ」
 白蓮が議題を進めるよう促す。そこで、孫権は華雄隊との戦いについて詳細を語り始めた。聞き終えた所で、孔明が言った。
「なるほど、華雄さんの武勇によって成り立つ部隊ですか……華雄さんを止めるだけでは、部隊全体の勢いは止められませんね。華雄さんを何とかして討つ必要があります」
 確かに、華雄さえ討ってしまえば、部隊そのものが瓦解するだろう。しかし、江東きっての勇将である甘寧でさえ手こずったほどの相手となると、討つのもそう簡単ではない。それにもう一つ問題がある。
「しかし、華雄が今回出戦したのは、孫権軍が他の軍と連携を取らず突出したため。今後は関に篭っての防衛戦に専念するでしょうから……」
 荀彧が言う。そう、相手の出鼻をくじく事で味方の士気を高揚させる、と言う董卓軍の狙いは達成されているのだ。明日も華雄が出てくるという可能性はほとんどないだろう。
「関を攻めるしかないってことか……ヤッバイな。あたし攻城戦苦手なんだよ」
 馬超がうんざりした感じで言う。彼女の指揮する涼州軍は、全軍の三分の二、二万が騎兵と言う編成だ。騎兵はどう考えても城攻め向きの兵種ではない。
「ここは正攻法しかありませんね。大軍に戦術無しと言います。全軍を幾つかの部隊に分け、波状攻撃を仕掛けましょう」
 桃香は言った。流石にこの状況を簡単に打開する策は思いつかない。それなら、数の力に物を言わせ、相手を少しずつ削っていくしかない。
 すると、孔明が手を挙げた。
「待ってください。その作戦ですけど、少し変えれば、上手く相手を引きずり出して勝てるかもしれません」
 曹操が顔を上げた。
「何か思いついたのかしら?」
「はい。まずは、劉備さんの言うとおりに……そこで、機を見計らって仕掛けを入れます」
 孔明の説明を聞いて、桃香は流石と感心した。やはり本職の軍師は発想が違う。曹操は荀彧にも尋ねた。
「やれそうかしら? 桂花」
「問題ないかと。私も似たような事を考えていました」
 荀彧の答えを聞いて、曹操は袁紹に言った。
「と言う事だけど、問題ないかしら?」
 そこで白蓮も言い添えた。曹操への反感で良い作戦を否定されてはかなわない。
「本初、これは良い手だと私も思う」
 すると、袁紹は以外にも素直に頷いたが、さらに意外だったのは作戦へのもっともな疑念を提示した所だった。
「構いませんけど、決定的な役割を果たすのは誰がするんですの? それが決まらないと何とも言えないでしょう」
 それには一刀が答えた。
「策を出したのはうちの朱里だ。なら、それもうちで引き受けるさ」
 袁紹は怪訝そうな視線を一刀に向けた。
「貴方が? 兵の数は少ないですけど、大丈夫なんですの?」
「ああ、やれる。うちには華雄に負けない武人が二人もいるからな」
 一刀は自信ありげな笑みを浮かべた。
 
 軍議が終わり、自分の陣地に引き上げる途中で、白蓮が桃香に話しかけてきた。
「一時はどうなるかと思ったが、何とか事態を打開できそうだな」
 桃香は頷く。孔明が立てた作戦は、上手く行けば確実に汜水関を陥落させる事ができるはずだ。
「そうだね。それにしても、やっぱり孔明ちゃんは凄いな。あの子に較べると、わたしなんて軍師の真似事でしかないなぁって思っちゃう」
 桃香には正攻法しか思いつかなかった。すると、白蓮が桃香の肩を叩いた。
「そんな事ないさ。桃香がああ言ったから、孔明も作戦を思いつけたんだろう。お前はもうちょっと自分の仕事を自慢してもいいぞ」
「……ありがとう、白蓮ちゃん」
 桃香は笑顔で親友の顔を見た。すると、白蓮の顔が引き締まったものになった。
「汜水関の事はあれで良いとして、ちょっと気になる事があるんだ」
「……どうしたの?」
 桃香が聞くと、白蓮は袁紹のことさ、と答えてから話を続けた。
「本初はワガママで身勝手だけど、根は悪いやつじゃない。なのに、今日の軍議での孫権に対する言葉……あれはきつ過ぎる。あんな底意地の悪い事を言う奴じゃないはずなんだが」
 それに、と白蓮はさらに言葉を続ける。
「初めての軍議の時も、作戦が無いなんて言っただろ? あれもおかしい。本初はあそこまでバカじゃない。バカはバカだけど、それだけに定石と言うか、手順にはこだわる奴だ。あんな粗雑な事を言うはずがない」
 確かに、名家の後継者として帝王学を学んだであろう人物が、あんなお粗末な事を言うのは不自然だ。桃香は初めてその事を疑問に思った。
「どうも妙な事が多いよな、この遠征……桃香、ちょっと気をつけて周りを見ておいてくれ。戦いの指揮は私と星でやるから」
 白蓮の言葉に、桃香は固い顔で頷いた。

 翌日から、連合軍は本格的な攻城戦を開始した。諸侯の軍が一日三交代で関を攻め、矢を射掛け、あるいは石を投げつける。衝車も用意され、門に先を尖らせた巨木が叩きつけられた。
 一方、汜水関の篭城軍も二日目以降は野戦を避け、城壁の上から矢と石を落とし、敵の撃退に務めた。最初の三日くらいは、防衛戦も順調に進んだ。名だたる曹操軍も、城壁に手をかけることなく退いていくのを見て、歓声が上がったほどだ。
 しかし、これが五日目に入る頃になると、次第に篭城軍の士気が低下してきた。理由は疲労である。交代で戦うため、一日か二日は休養と負傷者の治療に専念できる連合軍と異なり、篭城軍の兵士は連日戦わなければならないのだ。食事の暇も無く、疲れがたまり、動きも命令に対する反応も鈍くなる。また、負傷者の治療も思うに任せない。
「ち……むこうの大将連中、案外冷静やな。初日に面子を潰された孫権なんて、確実に隙を見せると思うたんやけど」
 張遼が見回りをしながら舌打ちをする。敵が後退した後、関のあちこちにその場で倒れこんだり、座り込んだりしている兵士たちがいるのが見えた。
「このままでは、いずれ守りきれなくなるな……張遼、今のうちに虎牢関の守備部隊と交代できないだろうか?」
 華雄の提案に、張遼は聞き返した。
「呂布を呼ぶんか?」
 頷く華雄。彼女ですら絶対に敵わない、と認める董卓軍最強の武人、呂布。今はこの汜水関の背後にある虎牢関に三万の兵を持って詰めている。
「呂布に来てもらって、その間に我々は虎牢関まで後退し、部隊を再編する。場合によっては洛陽の守備部隊を呼び寄せても良い。とにかく、このままではまずい。兵士たちが限界を迎えるのもそう遠くないぞ」
 ううむ、と張遼は考え込んだ。華雄の言う事は良くわかるが、呂布は董卓軍の切り札だ。そう簡単に切るわけにはいかない。
「……わかった。ウチは賛成や。せやけど、ウチらの独断で関の守備部隊を交代はできへん。賈駆っちに許可を取るから、伝令を出す」
 張遼は言った。華雄も仕方ない、と言うように頷く。
「伝令が行って帰ってくるまで、二日ほどか……何とかそれまで保たせるとしよう」
 そう言った華雄だったが、翌日、一気に戦局は動く事になる。
 午前中の攻撃を担当していた公孫賛軍が後退を開始し、入れ替わりに北郷軍が前進してくる。華雄は兵士に弓の用意をさせながら舌打ちをした。
「まったく、食事の暇も無い……む?」
 華雄の視線は、前進してくる北郷軍の後方に吸い寄せられた。後退していく公孫賛軍と、今日三番目の攻撃を担当する孫権軍が、どういうわけか揉み合っているように見える。同士討ち、と言うわけではないのだろうが、後退の手順に混乱でもあったのかもしれない。
 一方、北郷軍はそんな騒ぎに気付く様子もなく進んでくる。その数は一万五千程度。一方、華雄隊はこれまでの戦いで若干被害を出しているとは言え、二万七千を数える。
 これは絶好の機会だと華雄は直感した。他の部隊との連携が取れない少数の北郷軍なら、野戦で叩き潰せる。それに成功すれば、汜水関を守りきる事も可能だろう。華雄は咄嗟に決断した。
「華雄隊全軍に告げる! 出陣だ!! 鉦を叩け! 銅鑼も鳴らせ!!」
 その時、張遼は関内の物資の残りを調べていた。食料は十分だが、矢がだいぶ不足してきている。これは洛陽から運ばせなくては、と考えながら竹簡を置いた時、突如出撃の合図となる鉦や銅鑼が打ち鳴らされ始めた。
「な、何が起きたんや!?」
 慌てて立ち上がった張遼の所に、泡を食った様子で副官格の武官が駆け込んできた。
「張遼将軍、一大事です! 華雄将軍が独断で出撃を!!」
「何やて!? 何で止めへんかったんや!!」
 張遼は怒鳴りつけたが、すぐにこの武官では華雄を止められはしないだろうな、と思い直した。とにかく、自分が行って止めねばなるまい。しかし、門のところに駆けつけた張遼が目にしたのは、今まさに華雄隊の最後尾が門を駆け抜けていくところだった。
「くっ……なんで華雄は出撃なんか決めたんや!」
 そう言いながら、張遼は城壁に駆け上がった。戦場のほうを見回すと、華雄隊と今まさにぶつかろうとしている北郷隊の後方で、公孫賛軍と孫権軍が混乱しているように見える。しかし……
「あかん、華雄の奴ハメられよった。何時もなら見抜けたやろうに……くっ、どないする?」
 張遼が迷ったのは一瞬だった。同僚を見捨てるわけにも行くまい。張遼は関全体に聞こえるような大声で叫んだ。
「張遼隊、出るで! 神速の足で華雄を助けるんや!!」

 その頃、華雄隊は北郷軍と激突していた。華雄の突撃のたびに、北郷軍の兵士たちが木っ端のように吹き飛ばされていく。
「手応えが無いぞ、雑魚共! この華雄と渡り合えるほどの剛の者はいないのか!!」
 十数人目の兵士を葬った時、本郷軍の兵がさっと割れて、長い黒髪をなびかせる美貌の将が現れた。
「そこまでだ、華雄! お前の相手はこの北郷が一の家臣、関雲長が務めよう!!」
 華雄は金剛爆斧を振るって血を払うと、関羽に向き直った。
「知らぬ名だな。貴様ごときが私を止められると思うのか?」
 そう言いながらも、華雄は感じ取っていた。この相手は強い、と。
「ならば、貴様を討って名を挙げるまで。行くぞ!!」
 関羽が突進しながら青龍偃月刀を叩きつける。華雄は咄嗟に金剛爆斧の柄でその一撃を食い止めたが、両手に凄まじいまでの痺れが残った。
「なに……! やるな、貴様!!」
 その痺れを無理に無視し、華雄は金剛爆斧を振り下ろす。巧みに馬を操り、回避する関羽。彼女は青龍偃月刀を両手で持つと、頭上で高速旋回させた。
「受けてみろ……! 今日の私は機嫌が悪い!!」
 それは、この戦いの被害のせいだったが、遠因は桃香にある。連合全軍が合流した日の軍議で、一刀の帰りが遅かったのは桃香と話していたからだとか、今日の作戦を思いついたのは桃香のおかげだとか、朱里が話していたからである。
 朱里は「本当に、劉備さんは決して悪人ではないと思いますが……」と言っていたが、愛紗は信じていない。桃香に侮られないようにするには、とにかく北郷軍の名声を上げ、桃香や彼女が属する公孫賛軍などより、そして袁紹や曹操と比較しても、天の御遣いたる一刀を擁する荊州軍こそが、この世を正す正義の軍であると示さねばならない。
「くらえ、華雄!」
 決意と憤懣を込めて、愛紗は青龍偃月刀を振り下ろした。
 
 一方、張遼隊は関を出たところで、前を公孫賛軍に塞がれていた。
「ちいっ、やっぱり擬態かい!」
 この戦いが始まってから、何度目になるかわからない舌打ちをする張遼。そう、公孫賛軍と孫権軍がぶつかり合って動けなくなっているように見えたのは、言うまでも無く見せかけであり、華雄隊が釣れた直後から、今度はその退路を断つように動いていたのだ。
 しかし、完全に華雄隊の背後に回り込めたのは、見たところ一万ほどの騎兵だけのようだ。張遼自身の手勢は二万近い。まだ華雄を救う機会は去っていないと張遼は思った。
「敵は小勢や! 一気に蹴散らすで!!」
 張遼は味方を鼓舞するように叫び、突撃の号令を出す。しかし、相手はただの騎兵ではなかった。
「来たな、張遼。あいにく私はお前を討とうとか、まともに組んで戦おう、とかは思っていない。華雄隊が崩れるまで、しばらく踊ってもらうぞ」
 騎兵を自ら率いる白蓮が言うと、今日は桃香ではなく白蓮に付いて来た星が、凄みのある笑みを浮かべた。
「もっとも、討てるようであれば、この趙子龍がその首をいただくつもりだがな」
 白蓮が苦笑する。
「ま、無理に討ちには行くなよ? 今回の相手はあくまでも華雄だからな……よし、全軍私に続け!!」
 頃合を見計らい、白蓮は剣を抜くと、それを振り下ろして合図をした。直ちに公孫賛軍の騎兵隊が駆け出し、張遼隊との間に一定の距離を置きつつ、馬上から弓矢や投槍を浴びせて攻撃する。それは張遼隊に少なからぬ打撃を与えた。
「くっ、邪魔するなや!」
 張遼はその神速と言われる用兵術で公孫賛軍に迫るが、そこは白蓮も騎兵使いとして天下に名高い将だ。巧みに騎兵隊を進退させ、張遼の猛攻をいなし続ける。これがもし、張遼が普通の精神状態だったなら、白蓮の牽制を突破しえたかもしれないが、焦りと本人も自覚していなかった疲労が、張遼の判断力を鈍らせていた。何度目かの突撃が空振りに終わったとき、華雄隊と北郷軍が激突している方向から、わあっという歓声と悲鳴の入り混じったどよめきが聞こえてきた。
「しまった、華雄……!」
 張遼は手遅れになった事を悟らざるを得なかった。しかし、失敗による精神的衝撃から、一瞬で立ち直って見せたあたりは、流石に彼女も天下に聞こえた名将だった。
「この戦、ウチらの負けや! 全軍撤退! 汜水関も放棄や! 虎牢関まで退く!!」
 そう命じると、張遼は全速で撤退にかかった。
「追いますか?」
 尋ねる星に、白蓮は首を横に振った。
「やめとこう。手負いの獣は手強いぞ。それより、華雄隊を掃討する。全軍反転!」
 撤退していく張遼隊を追って、孫権隊が動き出しているのを白蓮は見ていた。復讐心に燃える連中のほうが、そんな仕事には相応しいだろう。馬首を巡らせた白蓮たちは、前方の華雄隊最後部に突っ込んでいった。
 
 わずかに時間は遡り、関羽と華雄の一騎打ちは、関羽が華雄を圧倒する展開になっていた。自分の金剛爆斧よりも重い青龍偃月刀を、息も乱さず流星のように繰り出してくる関羽の前に、華雄は防ぐのが精一杯の状況だった。
(馬鹿な、こんな武人が名を知られることも無く、この天下にはいたのか。私を越えるのは呂布一人だと思っていたのに……!)
 華雄は目の前の現実が信じられなかった。関羽ばかりではない。北郷軍の先頭に現れた、張飛と言うらしい別の武将も、凄まじい武を発揮して華雄隊をなぎ倒している。その小さな体から繰り出される蛇矛が閃くたび、華雄が手塩にかけて育て上げ、鍛えぬいた精鋭たちが、まるで人形のように吹き飛ばされていく。その雄姿に北郷軍の兵士が奮い立ち、華雄隊の兵士たちを次々に屠って行く。
 それは、華雄と全く同じような戦い方で、しかも彼女を上回っていた。己の武に絶対の自信と誇りを抱いていた華雄にとって、信じられない悪夢のような戦いだった。
(だが……負けられない。負けるものか。私を信じてついてきてくれた兵たちのため、私を拾い一端の将にしてくださった主のため、信頼を裏切ってしまった僚友のため、そして何より我が武のために……!!)
 華雄はそう自分を奮い立たせ、裂帛の気合を込めて金剛爆斧を関羽に叩き付けた。
「私は、こんな所で負けられないのだ! どけぇーっ!!」
 しかし、現実は非情だった。
「それは、こっちも同じこと! これで決めてやるぞ、華雄!!」
 関羽の青龍偃月刀が、華雄の全力を超える速度で閃く。その一撃は華雄の手から金剛爆斧を弾き飛ばし、速度と威力をほとんど衰えさせる事なく、華雄の身体に吸い込まれた。
 その瞬間、華雄は宙を舞っていた。馬上から吹き飛ばされ、天地がめまぐるしく逆転する。
(私は……負けた……のか?)
 そう思うと同時に、激痛が押し寄せ、華雄の視界は急速に暗くなっていった。最後に彼女の視界に映ったのは、崩れたち敗走していく彼女の兵士たちの姿だった。
(……済まない……)
 そう詫びると同時に、華雄の意識は完全に闇に吸い込まれていった。
「汜水関の守将、華雄殿を北郷が一の家臣、関雲長が討ち取ったり!!」
 愛紗の勝ち鬨が、激しかった汜水関の戦いの終わりを告げる合図だった。
(続く)


―あとがき―

 今回は華雄と霞(張遼)の二人が激しく目立ちました。好きなんですよ、この二人。
 次回は呂布初登場。今回以上に武人たちが乱舞します。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第八話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/07/29 20:26
 陥落させた汜水関に一日とどまり、部隊の再編を完了した連合軍は、今度は袁紹軍を先頭に虎牢関へ向けて進軍していた。
「あの袁紹が、良く先陣を引き受けましたな」
 星が言う。彼女は白蓮のところへ来る以前は曹操や袁紹のところに短期間滞在していた事もあるが、曹操については器量は認めつつも、陣営に漂うあまりの百合っぽさに辟易して、彼女の下を去った。袁紹については……
「人に認められるために努力する、と言う発想が全く欠けたお方でしたな。自分が偉いのは当たり前。自分が他人に褒められるのも当たり前。そう言う感じでした」
 星はそう言って、袁紹が先陣に立つと聞いた時に驚愕したのだった。すると、星よりは袁紹との付き合いが長い白蓮が言った。
「星の見立ては当たっているが、だからこその先陣志願さ。呂布と真っ向からやりあうのはみんな警戒するからな。天下の飛将、人中の呂布相手に、自分が勝つのは当たり前、なんて自信満々で挑めるのは、本初しかいないだろ」
 その言葉を聞いて、星はなるほど、と大いに頷いた。そこで桃香は尋ねた。
「その呂布さんだけど……そんなに強いの? 袁紹さんのところにも顔良さん、文醜さんって凄い武人がいるでしょう? あの二人でも勝てないと思う?」
 白蓮は首を傾げた。
「さてな……袁紹と文醜には用兵の才はあまり無いから、顔良が全軍の指揮に専念せざるをえんだろう。そうすると文醜一人で呂布とやりあうことになる。まぁ無理だな」
 星も同意した。
「呂布と一軍でやりあうには、呂布に武人を二人、できれば三人当てて、それとは別に全軍を指揮する指揮官が要りますな。そんなことが可能なのは、連合軍では曹操だけでしょう。それに、汜水関から脱出した張遼も未だ健在です。これに備えるとなると……」
 桃香は考え込んだ。
「そうすると、華雄さんと張遼さんの二人だった汜水関より、虎牢関のほうが強敵って事なんだ。凄い人なんだな、呂布さん……」
 ただ、構図としてはそれほど汜水関戦と変わらない。関に篭る敵をいかに効率良く倒していくか、それが鍵となる。
(一度、孔明ちゃんと……できれば荀彧さんとも相談してみたいな)
 いまいち連携の取れていない連合軍だが、何とか曹操軍をも協力体制に引き入れて、全力で戦わなくては、この難関は突破できないだろう。そう思った桃香だが、しかし彼女のそうした思いは、次の瞬間敵軍の思わぬ行動に全てが御破算になる。
「伝令! 伝令!」
 突然、前方から騎兵が一騎、泡を食った様子で駆けてきた。
「どうした、落ち着け。報告は正確にしろ」
 白蓮が言うと、騎兵はそれどころではありません! と前置きして、恐るべき報告をした。
「呂布隊が袁紹軍を強襲しました! 袁紹軍は敵の猛攻に総崩れとなり、敗走中です!!」
「……え?」
 思わず間抜けな声を上げる桃香。虎牢関までは、まだ半日くらいあるはずなのに……?
 その時、前方からわああ、という叫び声が聞こえてきた。それは、追われる者があげる絶望の叫び声だった。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第八話 桃香、飛将と相対し、無双の武は暴風となって吹き荒れる事


 時間はやや遡り、場所は連合軍の先陣……すなわち、袁紹軍の本陣である。
「おーっほっほっほ! 全軍の先陣を切って兵を進める。これこそまさに、盟主にして名族たるわたくしに相応しい、華麗なる立ち位置ですわ。おーっほっほっほっほ!!」
 袁紹の高笑いが響き渡る。彼女は馬には乗っておらず、八人の屈強の男たちが担ぐ、豪奢な椅子のついた輿に乗っている。別に乗馬ができないわけではないのだが、輿を使うのは身分が高く、財産もある者の特権だ。
 そこへ顔良が馬を寄せて来た。能天気そうな袁紹と異なり、彼女の顔色はあまり優れない。
「姫、虎牢関までもう少しです。今のうちに後曲にお下がりください」
 顔良が言うと、袁紹は不思議そうな顔をして言った。
「あら、それでは顔良さんと文醜さんが、董卓軍を倒すところが見られないじゃありませんの」
 すると、顔良とは反対方向にいた、髪の短いやや少年っぽい雰囲気の武官の少女が、主以上の能天気さをたたえた笑顔で言った。
「お、さすが姫! あたいたちの活躍をばっちり見ていてくださいよ!」
 顔良は苦笑のような、呆れ顔のような、複雑な表情を浮かべて言った。
「もう、文ちゃんったら……相手はあの飛将・呂布よ? そんな簡単に倒せる相手じゃないんだから、万が一の事を考えておかないと」
 この文ちゃんと言われた武官が、顔良と並んで「袁家の二枚看板」と称される猛将、文醜である。武芸と戦術指揮、双方に長けた顔良に対し、文醜は華雄や張飛と同じく、個人の武勇に長けた将だ。愛用の斬山刀は騎兵を馬ごと叩き斬るほどの巨大な武器で、剣というよりは鉄塊と言ったほうが良さそうな代物なのだが、彼女はそれを自在に振り回す。
「んっだよー、斗詩は心配性すぎなんだよ。あたいたちにかかれば、呂布なんてちょちょいのちょいだろ」
 顔良の慎重さに不満を唱える文醜。もっとも、真名で呼ぶくらいだから、本気で不満に思っているわけではない。ただ単に、文醜は楽観的かつ自分の実力に自信を持っているので、本気で呂布を倒せると信じているのだ。
「そうですわよ、顔良さん。貴女たちなら、呂布くらいは一ひねりと信じていますわよ」
 袁紹も言うと、顔良はありがとうございます、と答えたものの、そんな風に楽観的にはなれなかった。
(呂布隊は、董卓軍の切り札……虎牢関も、汜水関より強固な要塞と聞いています。私達でも、そう簡単に抜けるかどうか……)
 虎牢間は汜水関よりも洛陽に近い分、頑強に作ってある。城壁の高さは百尺(三十メートル)もあり、剃刀の刃も入らないほど緊密に組まれた石垣だ。攻城用の井楼や衝車は豊富に用意してあるが、それでもかなりの犠牲が出るのは避けられないだろう。
 一度、攻撃開始前に軍議を開き、他の軍の軍師に相談すべきかもしれない。北郷軍の諸葛孔明や、公孫賛軍の劉玄徳なら、何か良い知恵を思いつくかもしれない。顔良は奇しくも桃香と同じような事を考えていたのだった。
 そして、伝令がその思いを断ち切ったのも同じだった。
「斥候より伝令です! 敵軍は二手に別れ、関の手前に呂布軍が布陣! 野戦を挑む構えを見せています!!」
「なんですって?」
 顔良は驚いた。汜水関戦で野戦になったのは、孫権軍が他の連合軍との連携を欠き、しかも華雄隊がほぼ同数の戦力を持っていたからだ。情報では呂布隊は兵力三万。兵力五万を数え、しかも孤立しているわけでもない袁紹軍相手に野戦と言う選択肢があるとは思えない。なぜ、そんな布陣なのか。
「とりあえず、他の各軍に状況を伝えます。伝令を……」
 顔良は指示しながら、自分の目でも相手を確認しようと、陣の前のほうへ出ようとした。しかし、そこへ第二の伝令が走りこんできた。
「伝令! 敵が突撃して来ました!!」
「え?」
 有り得ない報告に、顔良は一瞬頭が白くなった。ここで敵が突撃? 戦理的に有り得ない。
 
 袁紹軍にとって不幸な事に、相手は戦理や戦における常識など、まるで通用しない存在だった。大地を揺るがせて突撃する呂布隊、その先頭に立つ褐色の肌の少女は、小さいが不思議と良く通る声で命じた。
「……突撃」
 その瞬間、呂布隊の全将兵が沸き立つように士気を爆発させる。彼女こそが呂布。飛将、あるいは人中の呂布と称される、当代最強の武人だった。その表情はこれから戦場に飛び込もうと言うのに、一筋ほどの気負いも見られない。
 呂布は先頭に立って突撃しながら、未だ本陣からの命令が来ず、迎撃態勢を整えられないでいる袁紹軍の隊列を見た。無防備な状況で、何処に斬り込んでも大打撃を与えられるだろう。しかし、彼女の目はその隊列の中でも特に「弱い」部分を見抜いていた。隊と隊の隙間の部分だ。呂布はそこへ突入した。
「うわあああぁぁぁぁっっ!」
 次の瞬間、袁紹軍の兵士たちが十数人、爆発でも起きたように吹き飛ばされた。呂布が片手で振るった方天画戟をまともに食らったのである。吹き飛んだ兵士たちが弾丸のように周囲の別の兵士たちをなぎ倒し、戦列が大混乱に陥ったところで、呂布隊の兵士たちが怒涛のように突入する。袁紹軍の兵士たちはまるで人形のように一方的に蹂躙され、戦列は見る間に崩壊して行った。
 前方で大混乱が起きていることは、顔良にもすぐにわかった。彼女は一瞬の放心から目覚めると、すぐに親友を呼んだ。
「文ちゃん!」
「おう、任せとけ! 呂布の首はあたしが取ってやる!」
 文醜は斬山刀を振り回すと、馬腹を蹴って駆け出した。唖然としたのは顔良である。
「え、文ちゃん違う! お願いしたかったのは中陣の掌握で……もう、文ちゃんったら人の話聞いてよー!」
 行ってしまった親友に届かぬ抗議の声をぶつけると、仕方なく顔良は袁紹のほうを向いた。
「姫、私は中陣を組織して呂布隊を迎え撃ちます! 姫は今のうちに後退を!」
 既に、顔良の手には獲物の大金槌、金光鉄槌が握られている。彼女は袁紹の返事も聞かずに中陣めがけて走り出した。その間にも、呂布隊は袁紹軍を思う様切り裂き、既に最前列を壊滅状態に陥れていた。
「本陣……向こう」
 あたりの敵をほとんど駆逐した所で、呂布は後方に翻る袁家の牙門旗を見据えた。そっちに駆け出そうとしたとき、袁紹軍の兵たちの間から、猛然と駆け寄ってくる人影が見えた。
「おらおらおらー! 文醜様のお通りだい! 呂布、その首あたしが貰ったー!!」
 全速力で走る馬の上で、文醜は斬山刀を構えると、渾身の力を込めて振るった。並みの相手なら鎧ごと叩き潰して肉塊に変えるであろう、必殺の一撃。しかし。
「……邪魔」
「んなっ!?」
 呂布が無造作に突き出した方天画戟が、文醜の斬山刀を……彼女の全速突撃を、あっさりと止めていた。しかも片手で。
「こっ、こいつ……」
 化け物か? と文醜は言いたかったのだが、それを言うより早く、呂布が一旦引いた方天画戟が、電光の速度で彼女の胸を直撃していた。
「だあああぁぁぁぁっっ!?」
 袁紹軍特有の、華麗な金の装飾が施された鎧が一撃で粉砕され、文醜は馬上から叩き落された。全身を地面に強打し、息が詰まる。
「かはっ……! ぐ、ううっ!?」
 起き上がろうとした文醜だったが、胸に激痛が走り、息をするのも難しい。さしもの強気な彼女も、自分が一瞬で敗北に追い込まれたことを悟るには十分だった。
(あ~あ、ちっくしょー……かっこ悪ぃなぁ、あたし。ごめんよ斗詩。あたし、お前を嫁に貰ってやれないよ……)
 目を閉じ、とどめの一撃を覚悟する文醜だったが、何時までたってもそれが来ないのを怪訝に思い、目を開けた。
「……え?」
 そこには呂布はいなかった。それどころか、呂布隊でさえ、倒れた彼女に目もくれず、既に中陣に攻めかかっていた。文醜は唖然とし、続いて怒りの形相で、膝をついて立ち上がった。
「んなろー……! 舐めやがって……ごほっげほっぐほっ!!」
 しかし、胸の激痛に耐えかね、すぐに蹲ってしまう。言う事を聞かないふがいない身体を呪いながら、文醜は搾り出すように言った。
「斗詩……姫……逃げろ。逃げてくれ……! あたいらに止められる奴じゃない……!!」
 しかし、その声が聞こえたとしても、顔良は逃げるわけには行かなかった。目の前の味方がたちまちのうちに崩壊していくのを見て、怖気づき逃げ腰になっている中陣の兵士たちの間に馬を乗り入れ、大声で叫ぶ。
「しっかりして、みんな! 私たちは天下に名だたる袁家の強者! その誇りを思い出して、敵に立ち向かうのよ!!」
 人望のある顔良の叱咤に、兵士たちはやる気を取り戻す。ここはよし、と思った顔良だったが、文醜の姿が見えないのは気にかかった。
(文ちゃん、どうしたの……? まさかもう……ううん、そんな事ない! 文ちゃんに限って……! それに、ここで私が怯んだら、皆が踏みとどまれなくなる……!!)
 自分の弱気の虫を追い払い、顔良は采配を振るった。
「左翼、右翼は前進! 中軍はやや後退! 相手は勢いに乗っているから、まともに受けてはダメ!!」
 顔良が選んだのは、鶴翼の陣である。相手の勢いをまともに受けるのではなく、柔らかく受け止めると共に包囲し、全方向からの攻撃で殲滅する陣形だ。勢いに乗って攻めてくる相手に対するには最適の陣形だが、このときは相手が悪すぎた。
「……ウソ!? 早過ぎる!! 包囲が間に合わない!!」
 驚愕する顔良。袁紹軍の兵士たちも決して弱兵ではなく、この時も顔良の采配どおりに動いていたが、鶴翼が完成するより早く、まっしぐらに突入してきた呂布隊が、顔良のいる中軍に全力を叩きつけてきた。中軍が持ちこたえたのはほんの一瞬で、後は見る間にその戦列は切り崩されていった。
 そして、顔良は呂布が自分に向けてまっすぐ駆けて来るのを見た。立ちはだかる兵士たちが、まるで地滑りに巻き込まれた木々のように薙ぎ倒されるのを見て、背筋に冷たいものを感じる。個人の武勇では自分を越える文醜にあれが止められなかったのに、自分でどうにかなるものなのか。
 しかし、背後には守るべき主君がいる。顔良は金光鉄槌を掲げると、名乗りをあげた。
「袁家が将、顔良推参! 呂布将軍、覚悟ーっ!」
 顔良は真っ向から呂布に立ち向かった。負けられない。逃げられない。ここで呂布を倒せなかったら、袁紹軍はもうこの戦いで何の役割も果たせない!
 そうした気迫を込めて、顔良の一撃が横殴りに呂布を襲う。しかし、次の瞬間眼前から呂布の姿が掻き消えた。
「!?」
 戸惑う顔良の視界に影が落ちる。上!? と思って見上げると、そこに呂布がいた。馬を跳躍させ、顔良の上を跳び越したのだ。信じられない馬術の冴えだったが、驚いた事に、その姿勢から呂布の手が一閃した。次の瞬間、顔良は背中に方天画戟の一撃をまともに受けていた。
「きゃあああっっ!!」
 空中からの、それもすれ違いざまの一撃だったにも拘らず、その打撃は信じ難い重さをもって顔良を吹き飛ばした。呂布が着地すると同時に、顔良の身体も地面に落ちる。不幸中の幸いで顔良は文醜よりも重厚な鎧を身に付けていたため、一撃で戦闘不能に陥る事はなかったが、何とか立ち上がろうとする彼女にまだ余力があると見て、呂布隊の兵が殺到してくる。
「ああっ、将軍!」
「顔良将軍をお守りしろ!!」
 袁紹軍の兵たちは、敬愛する将軍が一撃で敗れた事に動揺していたが、顔良がまだ大丈夫と知って、安堵すると共にその身を守ろうと、呂布隊の兵に立ち向かう。短いが激しい戦いが行われ、ここでようやく袁紹軍は呂布隊に一矢を報いた。顔良を狙った兵士たちを尽く討ち果たしたのだ。
「将軍! 顔良将軍! ご無事ですか!!」
 身を案じる兵士たちに、ようやく立ち上がって金光鉄槌を拾い上げた顔良は、まだ背中に走る痛みに息を乱されながらも、はっきりと答えた。
「私は……大丈夫! それよりも、馬を! 私の馬を!! 姫様を助けに行きます!!」
 呂布は既に本陣に切り込んでいるらしく、袁家の牙門旗が激しく揺れ動いている。それでもまだ間に合う、と思った顔良だったが、馬が引かれてきたその直後、牙門旗が倒れるのが目に飛び込んできた。それはつまり、本陣が蹂躙されたという事。
「姫……麗羽さまーっ!?」
 顔良は絶叫した。

 袁紹軍本陣は押し寄せる呂布隊に対して、ある程度は抵抗を見せた。彼らは袁紹の親衛隊であり、兵士個人の武勇も袁紹軍では最強である。そのため、二度は呂布隊の攻撃を弾き返した。
 しかし、顔良を倒した呂布本人が来ると、もう持ちこたえられなかった。親衛隊の強者と言えど、呂布の前では一般兵と同じ程度の存在でしかなく、一方的に蹴散らされた。そして、呂布は袁紹のほうへ突進してきた。
「な、何と言う事……! 誰も防ぐ者はいないのですかっ! 顔良さん! 文醜さん!!」
 袁紹は叫んだが、もちろん二人が既に呂布に蹴散らされた事など知りようもない。輿を担ぐ男たちは自主的に袁紹を乗せたまま逃げ出したが、馬の速さに勝てるはずも無く、追いついた呂布は無言で方天画戟を一閃させた。
「きゃああああぁぁぁぁっっ!!」
 輿が粉々に砕け、その破片と担ぎ手たち、そして袁紹自身も吹き飛ばされ、天高く舞い上がった。さらにその勢いで本陣の牙門旗もへし折られ、誇り高い「袁」の一字が地に塗れ踏みにじられていく。先陣、中軍、本陣と全てを蹂躙され、五万を数えた袁紹軍は壊滅状態に陥った。
 しかし、まだ呂布は戦うつもりだった。追い詰められ、逃亡していく袁紹軍の兵たち。そんな雑魚には興味は無いが、彼らが逃げる方向には、連合軍の他の部隊が進軍しているはずだ。
「全軍集結……前進する」
 呂布はそう言うと、方天画戟を振るってさらに進撃を続行した。
 
 一方、依然として第二陣を構成する公孫賛軍では、白蓮が頭を抱えていた。
「ったく、本初のやつ……面倒ばかりかけてくれる。桃香、どうする?」
 桃香は少し考え、策を出した。
「そうだね……まず、後方の味方部隊に伝令を出そう。それもできれば涼州軍。一番早く駆けつけてくれそうだから」
 すぐに星が近くの武官を呼びとめ、伝令を命じる。さらに桃香は続けた。
「本隊は二手に分かれて、道の両脇に隠れて待機。このままだと、袁紹軍の兵隊さんたちが逃げてくるのに巻き込まれて、戦うどころじゃなくなるから。本当は助けてあげたいけど……」
 局地的な味方の敗走に巻き込まれ、無事な部隊までが崩壊する、と言うのは、古来大軍が敗れる際に一番多い形である。桃香はそれを恐れたのだ。白蓮は頷いてすばやく命令を下した。
「よし、星、お前は歩兵部隊を率いて左へ行け。私は騎兵部隊を率いて右手に隠れる。桃香、私と一緒に来てくれ。お前が攻撃の機会を見計らってくれ」
「うん、わかった」
 桃香は頷いた。二手に分かれた公孫賛軍が、左右から呂布隊を攻撃して足止めをはかり、駆けつけてくる味方と共に包囲殲滅する。それが咄嗟に桃香の立てた策だが、白蓮はちゃんとそれを理解してくれていた。
「よし、時間が無いぞ。今すぐかかれ!!」
「はっ! 歩兵部隊全員、私に続け!!」
 白蓮の号令と共に、公孫賛軍は整然と道の左右に広がる山腹に移動した。やがて、算を乱した、という形容詞が相応しい惨状で、袁紹軍の兵士たちが逃げてくる。みんな逃げるために槍や剣を手放しており、あれでは助かってももう戦力化は難しいだろう。
「袁紹軍はもうダメだな……本初のやつ、無事だと良いんだが」
 白蓮が気の毒そうな表情で言う。どちらかと言えば迷惑をかけられる事の多い仲とは言え、友人は友人。やはり安否は心配だ。
「うん……わたしも一緒に無事を祈ってあげるから、呂布さんを追い払ってから探しに行こう」
 桃香はそう言って白蓮を慰めた。やがて、その呂布の姿が見えた。数百騎ほどの騎兵の先頭に立ち、無人の野を行くように進んでいく。
「あれが呂布か……」
 白蓮が言った。
「華雄さんも凄かったけど、呂布さんはそれ以上だね……見ただけでぞくっとした」
 桃香はそう応じた。呂布には、遠目にも人を畏怖させる何かがあった。曹操の覇王の気とは違う……武神の威厳とでも言うべきものかもしれない。確かに呂布は常人とはかけ離れた武威の持ち主だった。
 やがて、先行する呂布を追うように、本隊と思われる二万ほどの兵が進んでくるのが見えた。追撃戦にありがちなことに、その陣形は必ずしも整っていない。逃げる袁紹軍を追ううちに、隊列が長く伸びてしまったのだ。
「……よし、いま! 合図を!!」
 その隊列の真ん中辺りが眼下を過ぎたところで、桃香は命じた。銅鑼が鳴り響き、反対側の山では星が命じていた。
「弓兵隊、今だ! 天を覆って矢を射かけよ! 十本撃った後で全軍突撃だ!!」
 弓兵部隊が立ち上がり、呂布隊めがけて猛然と矢を打ち込む。上方から降り注ぐ矢に、呂布隊の兵士たちが次々に倒れるが、そこは彼らも鍛えられた精鋭であり、咄嗟に盾を頭上にかざして矢を防いだ。
「今だ、全騎突撃!」
 そこを狙い、白蓮が剣を振り下ろして命じる。矢の降り注ぐのとは反対の方向から、精鋭幽州騎兵一万騎が猛然と駆け下り、矢に気を取られていた呂布隊の横腹に突っ込んだ。そこへ、星の歩兵隊も矢を打つのをやめて突貫する。さっきまで袁紹軍を狩り立てていた呂布隊は、今度は一転して自分たちが狩られる立場となった。
「よし、押して押しまくれ! 敵は浮き足立っているぞ!!」
 白蓮が自ら剣を振るって敵を倒しつつ叫ぶ。兵数には大差が無いが、奇襲を受けた上に一気に優位をひっくり返された呂布隊は、完全に狼狽していた。
(これなら……勝てるかも?)
 桃香も剣を振るって配下の部隊を進退させつつ、勝てそうな手応えを感じていた。しかし、そう確信するのはまだ早かった事に、彼女はすぐ気付かされた。
 突如、雷が落ちたような轟音と共に、味方の一角が吹き飛んだ。妙にゆっくりとした速度で飛んで行く味方の兵を見て、桃香はまさかと思いながらその「爆心地」の方を見た。
「り……呂布だー!!」
 誰かの恐慌の叫び。再び轟音と共に兵士たちが吹き飛ばされ、その血煙の向こうから、ゆったりとした歩みで呂布が現れる。ここまで戦場を駆け、誰よりも多くの敵を屠って来ただろうに、その身体には返り血一つ付いておらず、その表情には興奮も愉悦も感じられない。ただそこに戦場があったから来た……そう言わんばかりの気負いの無さだった。
(……この人が呂布)
 遠目で見たときよりも鮮烈な恐怖に、桃香の身体は凍りついた。呂布は「人中」とも称され、人の中で最強と呼ばれるが、そんな評価すら彼女には甘いことを、桃香は知った。
 呂布は人中ではない……人外の存在だ。地上に顕現した武神の化身。そうとしか言いようが無い。そして、自分たちが従う武神の到来に、呂布隊の兵士たちが再び士気を取り戻し、公孫賛軍と互角に……いや、むしろ押し気味に戦い始める。
「一人だけで戦場の空気を変えた……!」
「呂布さん……恐ろしい人……!」
 あまりの事に半ば唖然とする桃香と白蓮だったが、そんな感想を言っているどころではなくなった。二人が指揮官と見定めたのか、呂布が向かってきたのである。
「うわっ! こっちくんな!!」
 白蓮は水準以上の武術を修めているとは言え、呂布相手にはあまりにも実力が隔絶している事は自覚していた。桃香も言わずもがなである。それでも、二人には「逃げる」と言う選択肢は無い。ここで逃げたら、自軍が崩壊するからだ。
「桃香、あいつは私が何とかする! お前は部隊の指揮を頼む!」
「う、うん!!」
 白蓮の決死の覚悟を込めた言葉に頷く桃香だったが、呂布はそれを許すほど甘くは無かった。方天画戟が一閃し、白蓮の剣が粉々に砕け散った。同時に白蓮自身も吹き飛ばされた。
「ぱいれ……きゃっ!?」
 桃香は咄嗟に靖王伝家を顔の前にかざした。それが白蓮を一撃で退けてなお威力を残していた方天画戟を受け止めた。
「え? うそ……!!」
 やった本人も信じられなかったが、桃香は呂布の一撃を受ける事に成功していた。白蓮の犠牲により、威力が若干低下していたこと。僅かながら呂布が疲労していたこと。そして、靖王伝家と言う名刀を持っていたことが、桃香を呂布の犠牲者名簿に名を連ねる事から救ったのだ。
 しかし、それは奇跡のような出来事であり、呂布は軽く眉を動かしたものの、すぐに方天画戟を引いて、改めて桃香を討とうと振りかざした。桃香は自分が絶望的な状況に変わりない事はわかっていたが、それでも目をそらさず呂布に剣を向けた。
 その時だった。
「桃香様ぁーっ!!」
 混戦を掻き分けるようにして、星がその場に現れた。
「星さん!!」
 桃香が叫ぶと、呂布は星の方を向いた。そして、方天画戟を両手で構え、星に向ける。彼女が強敵だと悟ったようだ。
「私が来たからには、もう安心です、桃香様。呂布、もう貴様の好きにはさせぬぞ。常山の昇り竜、趙子龍が相手だ!!」
 星も龍牙を構え、射抜くような目で呂布を睨んだ。
「恋は呂布……」
 呂布はごく短く名乗りを上げた。恋、というのが彼女の真名であるらしい。天下の飛将と呼ばれる豪将には似合わぬ可愛らしい真名ではあったが、そんな事を気にする者は、この場にはいなかった。
 まず仕掛けたのは、星だった。
「はあっ!」
 気合と共に龍牙が繰り出され、呂布の顔に僅かに焦りが浮かんだ。方天画戟が龍牙を受け止め、火花が散る。しかし、穂先は後僅かのところで呂布の胸を貫く位置まで伸びていた。
 呂布も反撃する。方天画戟が旋回し、竜巻のように星に襲い掛かるが、彼女は馬を巧みに操り、その一撃を回避すると、再び突きを放つ。それも何度も。呂布は方天画戟を引き戻し、その突きを防いで見せるが、心なしか顔に余裕が無い。
「速い……」
 星の攻撃速度を賞賛するように、呂布は言った。一方、星も笑みを浮かべている。
「今の連続突きをかわしたのは、師匠以来初めてだな。さすが呂布」
 主を襲った相手への怒りより、武人として強敵と技を競う愉悦が上回ってきたようだ。そして、二人の戦いは、まだ互いにお手並み拝見、と言った段階でしかなかった。
「では、本気で行くぞ」
「……来る」
 星の言葉に呂布が頷き、そして二人は凄まじい本気の打ち合いに移行した。
 その頃、桃香は地面に落ちた白蓮を助けていた。白蓮の首を狙って殺到する敵兵を、味方と共に蹴散らし、何とか救出に成功する。幸い、白蓮は打ち身だけで致命的な傷は負っていなかった。
「大丈夫!? 白蓮ちゃん!!」
 肩を抱き上げる桃香に、白蓮は自重の笑みを浮かべて答えた。
「ああ、大丈夫。何とかするなんて、ムチャな事を言ったもんだよ……」
 そして、まだ握ったままの折れた剣を捨てようとして、それが上手くできないほどの腕の痺れに顔をしかめた。
「まだ手が動かない……くそ、一撃受けただけなのに……済まない桃香。全軍の指揮を代行してくれ。私はまだちょっと動けない」
「うん、わかった。療兵さん、白蓮ちゃんをお願い!」
 桃香は駆けつけた療兵に白蓮を任せ、指揮に戻ろうとしたが、その時には戦いが止んでいる事に気がついた。兵士たちは一様に一点を見つめていた。
 それは、星と呂布の激しい一騎打ちだった。二人の戦いぶりはまさに対照的だった。
 星の身上は、技と速さだ。流星雨のように、腕が倍の数にも見えるほどの速度で突きを放ち、あるいは見せ掛けの攻撃で相手の目をそらした上で、彗星のような本命を叩きつける。真名の通り、その身に星雲を宿したかのような戦いぶりだった。
 一方、呂布の身上は純粋な力。方天画戟が一閃するたびに、その攻撃は竜巻のように、暴風のように相手に襲い掛かる。星はその攻撃の全てを避けているが、これは受ければ到底その威力を止めきれないからだ。
 星が天を輝かすか、呂布の嵐がそれを覆い尽くすか。誰もが固唾をのんで見守る一戦は、しかし強制的に終了を余儀なくされた。突如、山間に馬蹄の響きが轟き渡ったのである。桃香がその方向を見ると、「馬」の牙門旗を翻した騎兵の大軍が、凄まじい勢いで迫ってくるのが見えた。
「涼州軍! 良かった……助かった!!」
 桃香は心から安堵した。いかに精鋭・呂布隊とは言え、新手の二万もの騎兵には抵抗し得まい。それに、先頭に立つ馬超は、ここからではっきりわかるくらいに逸り立っていた。
「涼州の錦馬超、見参! 呂布、どこだああぁぁっっ!! あたしと勝負しろぉーっ!!」
 そんな叫び声まで聞こえてくる。呂布は星の一撃を後方に跳んで回避すると、そのまま距離をとりながら言った。
「今日はここまで……全軍後退」
 その声に、見守っていた呂布隊の兵士たちが、整然と後退し始める。星は言った。
「逃げるか? 呂布」
 武人なら見過ごせない挑発だったが、呂布はあっさり頷いた。
「無理に戦いはしない……それにお腹すいた。今日は帰る」
「……は?」
 あまりな理由に、物事に動じないはずの星さえ、目が点になる。その間に、呂布は自ら殿になって、撤退していく部下たちを援護しながら去って行った。涼州軍が追い立てるが、その度に呂布に跳ね返され、一騎打ちを挑んだ馬超も、結局勝負がつかず撤退を許してしまった。というのも、道にまだ袁紹軍の敗残兵たちがいたからで、呂布隊は問答無用で彼らを蹴散らしていったが、連合軍側はそうもいかず、彼らを保護しなくてはならなかったからである。
 夕暮れと共に、連合軍は追撃を打ち切った。しかし、その被害は甚大だった。袁紹軍はほぼ壊滅。次に呂布軍の鋭鋒を受け止めた公孫賛軍も、追撃した涼州軍も、決して無視できない打撃をこうむっている。一方、呂布隊に与えた損害は判然としないが、連合軍より圧倒的に少ないのは間違いない。
 飛将呂布。その名は伊達でも飾りでもないと、天下に知らしめた一戦だった。
 
 夜遅くになって、ようやく呂布隊と交戦した各軍の損害がまとまり、曹操が軍議を開催した。本来は総大将である袁紹にしか軍議を開く権限はないのだが……
「袁紹さま、それに文醜将軍は重傷を負って安静が必要ですので、私が代理を勤めさせていただきます」
 袁紹軍幹部の中で、唯一軽傷で済んだ顔良が言う。そう、袁紹も乗っていた輿を叩き壊され、地面に叩きつけられたものの、命に別状はなかった。しかし……
「そう。で、顔良将軍、袁紹軍はどれほど動けるのかしら?」
 上座に座る曹操に、顔良は気落ちした表情で答えた。
「現状、戦闘に耐える兵力は一万を切っています」
 座にざわめきが満ちる。たった一戦で、袁紹軍は戦力の八割を失ったのだ。袁紹にその気があっても、もはや総大将の責務を果たせる状況にないのは明らかだ。顔良は続けた。
「無傷の人数はもう少しいますが、敗走中に武器を捨ててしまった兵が大半で、新たに武具を支給しなければ戦力になりません。また、離散して本隊に合流できず、山の中をさまよっているか、完全に逃亡した兵が一万以上います。申し訳ありませんが、我が軍はもうこれ以上の戦いには耐えられません。後方支援に回りたいと思いますが、いかがでしょうか?」
 曹操は頷いた。
「私としては構わないわ。ただ、顔良将軍? そんな重要な事を貴女が決めていいのかしら?」
 顔良は目を伏せた。今の提案は、全て彼女の独断である。
「……姫様は私が説き伏せます」
 そこで、白蓮も言った。
「いざとなったら、本初の説得には協力するよ。それより、代わりの総大将を決めなきゃならんだろうな。曹操、お前しかいないと思うんだが」
 一同の視線が曹操に集中する。残る連合軍の中では、今や兵力、人材共に最強の軍勢を率いる曹操が、全体の指揮を取るのは当然の事と皆が思っている。何しろ、曹操軍はここまでほとんど被害を出す事無く、兵力を温存しているのだ。
「……まぁ良いでしょう。総大将の任、引き受けるわ。ただし」
 曹操は立ち上がり、一同を見渡した。
「可能な限り損害を少なくする為にも、あなた達には私の采配に従ってもらうわよ。それが引き受ける条件。飲めるかしら?」
 場に沈黙が落ちる。曹操の実力は認めていても、まるで家臣の如く従えと言われれば、やはり戸惑いと反感が先に立つ。勢力の差はあれ、身分的にはここにいる諸侯たちはほぼ同格なのだ。たとえ、おそらく曹操の統一指揮を認めるのが最善の手とわかっていても、簡単には頷けない。
 だから、その沈黙を破ったのは、唯一身分が低いその人物だった。
「俺は構わないよ。曹操さんの指示に従う」
 一刀だった。曹操は彼を見てほう、とどこか感心したような表情を浮かべた。桃香は横の白蓮の顔を見た。その目配せを理解したのか、白蓮も手を挙げる。
「構わない。私も曹操の指揮に従う」
 続いて孫権も頷いた。
「よかろう。名高い曹魏のお手並み、見せてもらう」
 顔良はもうお任せします、と言う表情だったので、最後に馬超が手を挙げた。
「わかった。あたしたちも従うよ。何をすれば良いんだ?」
 曹操は満足そうに頷くと、横に座っていた荀彧に発言させた。
「それでは、虎牢関攻略について、策を述べさせていただきます。まず……」
 説明が続くにつれて、一同の間に驚きの表情が広がっていった。
(続く)

―あとがき―
 今回は激しく呂布無双の話。イケニエになった麗羽様ご一行は気の毒でしたが、私はこの三人は結構好きです。特に斗詩。そのうちちゃんと活躍シーンを与えてあげたいものです。
 次回は虎牢関攻略です。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第九話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/08/02 22:31
 軍議が終わり、桃香は白蓮と一緒に曹操の大天幕を出た。
「それにしても、曹操は大胆な事を考える。こりゃ、孫権も北郷も説得が大変だぞ」
 白蓮の言葉に、桃香は頷いた。
「わたしたちも、星さんを説得しなきゃいけないけど……ねぇ、白蓮ちゃん」
「ん?」
 彼女のほうを向いた白蓮に、桃香は言った。
「ちょっと、散歩して帰るね。少し考え事をしたい気分なの」
 白蓮は首をかしげ、まぁいいか、と答えた。
「わかった。あまり遅くならないようにな」
 白蓮が歩いていく自分の陣地とは反対方向に、桃香は歩いていく。それにしても、とさっきの軍議の事を考えながら。
(曹操さんは凄い人だよね……確かに、呂布さんを止めるにはあの手しかない。でも、わたしだと思いついても実行はできないな)
 周囲を見れば、曹操軍をはじめとする連合軍の陣地があるが、曹操軍の規律の正しさは群を抜いている。他の多くの諸侯軍のように、領民を徴募して訓練を施しているのは同じなはずだが、動きがまるで違う。計ったように等間隔に歩哨が立ち並び、全員が任務に精励しているのがその姿勢一つ見ただけでも良くわかる。
(どういう訓練をしたら、こんな軍隊になるのかな……他の軍はこんな感じじゃないし。兵士をこういう風に鍛えられるところが、曹操さんの凄さなのかな)
 こうして連合軍に参加してみてわかった事だが、同じ中華の民といっても、やってきた地方によって兵士たちの気質はずいぶん違うものだ。つまり民の気質もまた違うと言う事なのだろう。
 桃香も率いている河北の民は、長く寒い冬と、決して豊かとはいえない土地で鍛えられ、粘り強い気質を持っている。戦いでも腰を据えた打ち合いが得意だ。
 孫権の率いる江東の民は、それとは対照的だ。南国の太陽の下で育った彼らは、戦いではその太陽の熱のような猛烈な攻勢を得意とする反面、押され気味になると途端に崩れ始める弱さがある。
 馬超の涼州軍は、騎兵が強いと言う点では幽州の民と共通点があるが、気質としてはもっと自由で、個々の武力は高い反面、集団としての行動に弱さがあるように思える。そういえば董卓軍も主力は涼州兵だが、華雄隊の崩壊の仕方を見ると、やっぱり気質は同じようなものらしい。
 曹操軍、袁紹軍、北郷軍は中原出身で、経済的にも資源的にも、比較的豊かな土地から集められた兵を主力にしている。そう言う土地の人間は兵士に向いてないと言われるが、袁紹軍はともかく曹操軍はとても弱兵には見えないし、北郷軍も少数ながら華雄隊相手に力戦を見せた。上に立つ者の資質によって変わるのが、中原兵の特質かもしれなかった。
 そんな事を考えているうちに、桃香は陣の端まで来ていた。そろそろ引き返して戻ろうかと思った時、誰かが背後から近づいて来ている気配を桃香は感じ取った。
(……誰?)
 陣地内で敵はいないはずだが、念のため靖王伝家の柄に手をかけて、桃香は振り向いた。そこにいたのは……
「……曹操さん?」
「あら、劉備じゃない」
 そこにいたのは、さっきまで軍議の席にいた曹操だった。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第九話 桃香、覇者と語らい、己の器を見つめる事


「いい夜ね。ちょっと一緒していいかしら?」
「え? は、はい。わたしは構いませんけど」
 笑顔で話しかけてきた曹操に、桃香は剣から手を離し、曹操が横に並ぶに任せた。桃香と較べると頭半分ほど背が低く、肉体的にも成熟していない、小柄な少女なのだが、その存在感は桃香にとっては息が詰まるほどのものだった。
「……こうして見ると、実に壮観ね。そう思わない?」
 曹操は陣地のほうを向いて言った。袁紹軍のかなりが脱落したとは言え、未だ連合軍は十五万に迫る兵力を擁しており、陣の篝火は谷間を埋め尽くすように広がっている。
「そうですね。これだけの諸侯や兵隊さんを、一つ所に集める……大変な事だと思います。それを成し遂げるのは、並みの人ではできないでしょうね」
 桃香は答えた。兵站の事を考えても、大変な大事業であると言うしかない。
「それは袁紹の事を言っているのかしら?」
 曹操は聞いてきた。
「ええ……そう言えば、曹操さんは袁紹さんとは結構長い付き合いと聞いていますけど、どんな方なんですか?」
 以前、白蓮に袁紹の事が気にかかると言われたのを思い出し、桃香は尋ねた。
「そうね。いわゆる幼馴染み、と言うのかしら。二人きりなら真名で呼び合う間柄だしね……まぁ、どう言う人かと言われれば、あの通りよ。見栄っ張りで、そのくせ自分で働くのは嫌う怠け者」
 辛口極まりない人物評に、桃香は思わず反論していた。
「そんな言い方はないんじゃありませんか? 袁紹さんは十分凄い人じゃないですか」
 それを聞いて、曹操は凄みのある笑みを浮かべる。
「袁紹が凄い? ふふっ、劉備。貴女は頭はいいのに、人を見る目はないのね。英雄とはどういうものか知らないのだから。諸侯に優れた武人、軍師が幾人いようとも、真の英雄は二人しかいないわ」
「え?」
 桃香は首を傾げた。曹操の言い分に対する反発はあったが、彼女が認める「真の英雄」とは誰なのか、と言うことが気になったのだ。すると、曹操は桃香に質問してきた。
「劉備、貴女はそれが誰だかわかる?」
 正直、桃香にはわからなかった。ただ、人を見る目が無いとまで言われて、正直にわからないと答えるのもシャクだ。少し考え、一人名前を挙げてみる。
「孫権さん?」
 袁紹は曹操の口ぶりからして明らかに違うので、袁紹に次ぐ兵力を有する彼女の名を挙げてみた。すると、曹操は首を横に振った。
「違うわ。孫権は自分の領地すらまとめ切れていない。そんな人間に英雄たる資格はないわ」
 一刀両断だった。じゃあ、と桃香は次の名を挙げた。
「馬超さん?」
 毎回先陣を要求し、戦意に溢れ「白銀姫」「錦馬超」という数々の勇名を持つ彼女なら、と思った桃香だったが、曹操の答えはやはり否であった。
「馬超は武人としてはなかなかだけど、所詮匹夫に過ぎない。英雄の器とは言えないわね」
 これまた一刀両断だった。
「……では、ぱいれ……公孫賛様」
 自分の主君の名を挙げてみる。白蓮も勇名を持ち、内政家としてもその手腕は秀でている。曹操は笑顔を浮かべた。
「悪くはないわね。でも公孫賛は英雄と言うには小粒すぎるわ。才能も、人柄もね」
「酷いことを言いますね、人の主君に……じゃあ、曹操さんの言う真の英雄って、誰なんですか?」
 桃香がちょっとムッとしながら言うと、曹操は桃香にとっては意外な答えを言った。
「一人は、この私よ」
 絶句する桃香。流石にこれは予想外だった。自分で自分を真の英雄だと言うとは……しかし、言われて見ればそうかもしれない、とも思う。曹操については知勇兼備の名将であり、黄巾の乱では多くの武勲を挙げた実績も持っている。
「……では、もう一人は?」
 桃香は聞いた。流石にそれはわからなかった。そして、その答えはさらに意外なものだった。
「わからない……? ふふっ、やはり見る目が無いのね。それは、貴女自身よ。劉備」
「……え?」
 桃香は、一瞬何を言われたのかわからなかった。ここで自分? それは有り得ない。桃香は思わず聞き返していた。
「何かの間違いでは? わたしは英雄なんて柄じゃありません」
 そもそも、自分は曹操が英雄ではないと評した白蓮配下の一武将に過ぎないし、実力も中途半端だと思っている。武人としては星などには絶対敵わないし、一応の職分である軍師としても、孔明や荀彧の方が発想、知識ともにずっと上だ。そう言うと、曹操はますます笑みを大きくした。
「劉備、貴女は英雄の器を持つのに、英雄を知らないのね。英雄とは必ずしも勇者であり、知者である必要はないのよ。漢の高祖がその証拠」
 漢の高祖……桃香にとっても遠祖に当たる、漢王朝の始祖、劉邦の事である。確かに歴史上の英雄だが、劉邦本人は若い頃は無頼の徒に混じっていたような人間で、決して勇者でも知者でもなかったと言う。
「……じゃあ、何が英雄の条件なんでしょうか」
 桃香がそう聞くと、曹操は首を横に振った。
「それは、簡単には教えられないわね。でも、どうしてもと言うなら、一つ私のお願いを聞いてくれれば、教えてあげても良いわよ」
 桃香は首を傾げた。
「お願い……ですか? 一体どんな?」
 曹操ほどの人間がする「お願い」とは何だろうか。その興味もあって、とりあえず聞いてみた桃香に、曹操はこの日一番とんでもない事を言い出した。
「劉備、貴女が私の物になってくれれば、教えてあげても良いわよ」
「……へ?」
 桃香は一瞬自分の目が点になったと思った。
「あの、それは一体……わたしに、曹操さんに仕えろと言うんですか?」
「違うわよ」
 桃香の聞き返しを、曹操はあっさり否定した。
「それなら仕えろと言うわ。私の物になると言うことは、私の愛人になれと言うことよ」
「あ、愛人!?」
 桃香は後ずさりした。そういえば、星は言っていたはず。曹操の陣営は百合百合しいと……つまり、曹操は同性が好きと言う性癖の持ち主だと。
「じ、冗談ですよね?」
 桃香が一抹の希望を込めて聞くと、曹操は桃香よりも幼いはずの容貌に、桃香には決して出来ない艶を浮かべて言った。
「本気よ。貴女のように可愛い娘は、皆私のもの。それが天命と言うものなのよ」
 言いながら、曹操は舌なめずりをする。赤い舌がちろりと唇を舐める、その仕草を見たとき、桃香は踵を返して全力でその場を逃げ出していた。
「お、お断りしまーす!!」
 今なら白蓮や張遼の用兵よりも速いのではないか、と言う速度で去っていく桃香を見送りながら、曹操は言った。
「ふふっ……少し脅かし過ぎたかしら? でも、私は本気よ、劉備。何時か貴女も私の手で摘んであげる。もし、それまでに貴女が英雄の相に目覚めていれば、さぞかし手折り甲斐のある花になるでしょうね」

 息を切らして陣地に戻ってきた桃香を、白蓮は怪訝な目で見た。
「桃香……何かあったのか?」
「散歩中に曹操さんに会っちゃって……あの人、心臓に悪いよ」
 誤魔化す余裕もなく、桃香は素直にそう答えていた。
「曹操に? 何か話でもしたのか?」
 そこで、桃香は曹操の英雄論の話を白蓮にしてみた。曹操の白蓮への評価と、自分が曹操から英雄だと言われた事は話さなかったが、曹操にとっての英雄の条件とは何か、白蓮ならわかるかもしれない、と思ったのである。
「そう言う辛口の評価は、曹操らしいな」
 話を聞き終えて、白蓮は笑った。
「で、白蓮ちゃんはわかる? 英雄の条件が」
 白蓮は少し考え、首を横に振った。
「……いや、私にもわからないな。ま、案外そのくらい大口を叩ける人間が、英雄だって言いたいのかもしれない。高祖も若い頃は法螺吹きだったそうじゃないか」
「そっか……」
 桃香は納得した振りをしたが、法螺吹きと言うのは自分には当てはまらない条件だ。結局、英雄の条件が何なのかは、わからないままである。
「それより、明日は決戦だ。星も作戦には賛同してくれたし、明日で虎牢関を抜いて、呂布との戦いを終わらせるぞ。早く寝よう」
「うん、そうだね」
 白蓮の言葉に頷く桃香。そう、今大事なのはこの戦いを終わらせること。曹操の謎かけに答えを出すのは、それからでも良い。
(でも……)
 床に就きながら、桃香は曹操との会話を思い返していた。
(曹操さんの言う事が本気なら、何時かあの人は……その時、わたしはあの人を止めるべきなのかな)
 それは、謎かけよりも重い宿題のように思えた。
 
 一夜が明けて、虎牢関の城壁の上では、張遼が朝の見回りをしていた。
「おう、ご苦労さん。今日も気張りや」
 そんな声をかけて回る張遼だが、兵士たちは「おう!」と力強く返事を返してきて、その士気が何時になく高い事を感じ取る。まぁ当然だろう。昨日の呂布の大戦果は、董卓軍全軍に伝わっており、さすが武神の化身よと兵士たちは一気に高揚した気分になっていた。
(まったく、大した娘やで、呂布……今はあんただけが頼りや)
 張遼も武人であり、他人を頼むのは矜持に悖るという思いもあったが、自分には一戦で五万の敵を壊滅させる、と言う芸当はできそうもない以上、呂布の援護に専念するのが最善手だと、自分の役目を心得ていた。
 その呂布は虎牢関の中には入らず、一里ほど前方の隘路を扼する形で布陣している。いわば汜水関、虎牢関にならぶ「第三の関」とでも言うべき存在となっていた。しかも、この関は自ら動いて敵を殲滅するのだ。
 頼もしげに呂布隊の陣を見ていた張遼だったが、ここから敵陣までの間に置かれた見張り台から紫色の狼煙が上がり始めるのを見て、表情を引き締めた。
「敵さん、動き出しよったな……あの煙の色は、曹操軍かい」
 見張り台には、事前に敵がどの軍かで色を変えるように命じてある。紫は曹操軍を示す色だ。手強いのが来たな、と張遼は考える。曹操軍は勇猛果敢で有名な三人の武将を抱えていた。確か……
 
「さーて、いっちょ呂布の強さを見てやるかぁ!」
 虎牢関に進む軍勢の先頭でそう叫んだのは、曹操軍の猛将、許緒。一見少女と言うよりも子供、と言う外見だが、その背中に担がれた巨大な鎖鉄球が、彼女の只者でなさを示している。こう見えても曹操の親衛隊長、とでも言うべき地位にいるのが彼女なのだ。もっとも、今日は曹操の傍ではなく、呂布と戦うと言う任務を与えられ、大いに張り切っている。
「うむ、相手は手強い。油断するなよ、季衣。秋蘭、よく見ておいてくれよ」
 そんな許緒を真名で呼ぶのは、長い黒髪の長身の女性。背負っているのは複雑な形状の刃を持ち、北斗七星の模様を刻んだ大剣だ。彼女こそ夏候惇。曹操の一の忠臣にして魏武の大剣と称される、曹操軍最強の将である。
「わかっている、姉者。季衣の背中は私が守る」
 短髪の、冷静そうな女性が頷く。彼女は夏候惇の妹で、名は夏候淵。弓を得意とし、常に戦場全体を見回して最適の戦術を選ぶ知将として名高い。これに軍師荀彧を加えた四人が、曹操軍の四天王と言うべき存在だった。
「そう言う春蘭様もお気をつけくださいね。張遼も名将として名高い人ですし、武人としても凄いって聞いてますよ」
 許緒が言うと、夏候惇は美しい顔に凄みのある笑みを浮かべた。
「なぁに、魏武の大剣の名に懸けて、張遼などに負けはせんよ」
 そう言った時、前方から伝令が駆けてきた。
「報告します! 呂布隊は前方五里の位置に布陣。張遼隊は虎牢関にあり、総数は五万と見えました!」
 夏候惇は頷いて伝令を労うと、許緒、夏候淵の方を見た。
「いよいよだな。まずはお前たちの腕にかかっている。頼むぞ」
「はーい」
「承知」
 それぞれに返事をして、許緒、夏候淵が率いる部隊は夏候惇隊と分かれて前進した。そして、さらに後続の部隊が彼女を追い抜き、先行する許緒・夏候淵隊と合流していく。
「……やれやれ。つまらんな。華琳様の御言い付けとは言え、呂布と戦えんとは。張遼が歯応えのある者だと良いのだが」
 夏候惇が独り言のようにそう言うと、横からそれに応じる声があった。
「それは問題ないさ。確かに強いよ、張遼は。やりあった私が言うんだから間違いない」
 それを聞いて、夏候惇は声の主の方を見た。
「それが正しい事を祈ろう……む、始まるようだな」
 前方で鉦と銅鑼の音が響き始め、夏候惇はそっちに注目した。前進するこちらの部隊の前方に、地響きを立てて呂布隊が迫りつつあった。

 呂布はこの日も先陣を切って馬を突撃させていた。敵陣に「曹」の牙門旗が掲げられている事や、その数がどれくらいか、と言うような事に、彼女は頓着しない。敵が攻めてきているのも「ただの面倒なこと」としか呂布は解釈していなかった。
 自分は戦うことができ、それで目の前の面倒な事を排除できる。排除できれば、美味しいご飯を食べながらのんびりと暮らせる日々に戻れる。呂布にとって、戦とはその程度のものだった。昨日の一戦で袁紹軍の将が討ち取られなかったのも、軍功という事に拘らない呂布の性格のおかげではあった。
 だから、許緒が出てきた時も、呂布は別に何の感慨も抱かなかった。
「来たな、呂布。ボクが相手だ!」
 そう叫びながら、許緒は必殺の武器、大鉄球の「岩打武反魔」を呂布めがけて叩きつける。文字通り岩をも砕き、魔性の者すら破壊すると言う恐るべき武器だったが、呂布にとっては恐れるほどのものではない。方天画戟が一閃するや、岩打武反魔は天高く跳ね飛ばされていた。
「……!」
 だが、呂布は少し眉をひそめる。片手で防ぐには、少し重い一撃だった。鎖を引いて岩打武反魔を手元に引き戻す許緒を見ながら、呂布は方天画戟を両手で構えると、許緒に向けて繰り出そうとした。
「……!」
 しかし、一瞬の予感が呂布を救った。方天画戟を引いて、彼女自身も後ろに下がった瞬間、それまで呂布がいた空間を、三本の光の線が切り裂いたのである。
「……お前たち、昨日の……」
 呂布が言った相手は、星と馬超、それに顔良だった。いま少しで呂布の身体を捕らえ損ねた武器を引いて、星が言った。
「今日こそ決着をつけてくれよう、呂布よ」
「一対一じゃないのが残念だけど、勝たなきゃ意味がないからな。恨みに思ってくれるなよ」
 馬超も「銀閃」と言う名の愛用の十文字槍を構えなおして言う。
「姫と文ちゃんのお返し、させてもらいます」
 顔良は金光鉄槌ではなく、袁紹から借りてきた宝剣を構えて言う。彼女は本来こういう軽い武器の方が得意で、金光鉄槌を使っているのは文醜に「そのほうが強そうだから」と言われたからに過ぎない。
 さらにもう一人、少し気乗りしなさそうな表情ながらも表れたのは、関羽だった。
「武神相手に、わが武の丈をぶつけたかったが……仕方あるまい」
 連合軍を構成する各諸侯軍の中でも、最強クラスの武将たち選抜し、呂布一人にぶつける……これが曹操の策だった。いや、策とは呼べないかもしれない。数は何にも勝る力である……という常識を持ち出したに過ぎないのだから。
 もちろん、この策は武人たちには不評で、特に関羽などは「ふざけるな!」と叫んで拒否しようとしたが、結局一刀の説得でここへ来ていた。喜んでやってきたのは、昨日の復讐に燃える顔良くらいだろう。
 こうして全員が揃った所で、弓に矢をつがえ呂布の喉元を正確に狙っている夏候淵が言った。
「降伏しろ、呂布。いくらお前でも、許緒、関羽、馬超、趙雲、顔良、そして私を相手に勝てるとは思うまい?」
 しかし、この数千の軍でも泣いて逃げ出しそうな六人を前にしても、呂布はいささかも動じた様子はなく、首を傾げた。
「……あいつは?」
「あいつ?」
 馬超が聞き返すと、呂布はそれが誰だか口にした。
「公孫賛軍の……赤毛の女。あいつ、恋の攻撃を止めた。只者じゃない」
 驚いたのは星を除く五人だった。
「何だと!?」
「あの暢気そうなお姉ちゃんが?」
「劉備の事か? やるなぁ」
「驚きましたね……」
 夏候淵、許緒、馬超、顔良が口々に言う中、関羽だけは顔色を変えていた。
(あの劉備が、呂布の攻撃を止めるほどの腕だと……!? 侮れん……あの態度も、自分を隠すための擬態だと言うのか……!!)
 関羽の中で、桃香に対して脅威に思う気持ちが、ますます大きくなっていく。一方苦笑したのは星だ。
(あの時か……偶然の産物だとは思うが、ここは一つ、桃香様の宣伝に使わせてもらうか)
 そう考えると、星は言った。
「と……劉備様は、お前如きを相手にするほど暇ではないそうだ」
 誤解を解くどころか、ますます煽るような発言。桃香がここにいたら泣いて訂正をお願いした所だろうが、いないのではどうしようもない。
「さて、始めるか……まずは私から参る!」
 星は愛馬の馬腹を蹴った。
「あ、抜け駆けするな!」
 そう言いながら、馬超が続き、続いて顔良と関羽が呂布に襲い掛かる。武神と、武神に限りなく近づかんとする六人の武人たちの、壮絶な戦いが始まった。
 
 一方、その様子は虎牢関の張遼にも見えていた。
「呂布一人に、六人がかり? なんちゅう外道な事を考えよるんや」
 張遼も武人だけに、強敵との戦いは一対一と思っている。それが礼儀というものだ。いくら呂布が強いとは言っても、一対六はあまりにも武人としての有り様に反している。
「騎兵隊、出撃準備や! 呂布を助けんで!!」
 叫びながら、張遼は(汜水関の時とおんなじやな……)と自嘲の笑みを浮かべていた。結局、圧倒的な敵の大軍を相手にするのに、野戦でどうにかできると考えたのが間違いだったのだ。
 こうなったら、少なくとも呂布だけでも助けなければならない。呂布の武威がある限り、篭城戦に持ち込んでももう少し持ちこたえられる。洛陽周辺で新たに徴兵した兵士の訓練を終えて、投入する見込みも立つ。そうやって長期戦に持ち込めば、連合軍もいずれ撤退を余儀なくされるだろう。
 そう思って、一万の騎兵を率いて関を出撃した張遼だったが、呂布隊のいる戦場のほうから、「公」の牙門旗を掲げた軍勢――やはり騎兵中心が走ってくるのが見えた。
「ちいっ! また公孫賛かいな!」
 舌打ちする張遼。神速と言われる自分の用兵に着いて来れるだけの騎兵運用能力を持ち、華雄の時も救援を阻止してくれた、今一番出会いたくない相手だ。
「強行突破……いや、それやったらあいつらが関に取り付くだけやな。よし!」
 張遼は公孫賛軍をこの場で蹴散らすと決意した。華雄も呂布も、その武で敵の大軍を翻弄したのだ。同じ事が自分にできないはずはない。それに、公孫賛は用兵は上手いが武術はさほどでもないと聞いている。一騎打ちに持ち込めば勝算はある。
「全軍突撃! 敵本陣をぶっ潰すんや!!」
 張遼の号令に、配下の騎兵たちが応と叫ぶ。愛用の飛龍偃月刀を振りかざした。
「神速の張文遠、見参や! 公孫賛、勝負せえ!!」
 そう叫びながら、敵騎兵を右に左に薙ぎ倒す張遼。しかし、彼女の前に現れたのは、公孫賛ではなかった。
「お前の相手は、この夏侯惇がしてやろう、張遼」
 不敵な笑みを浮かべ、大剣・七星餓狼を構えた強敵の出現に、張遼は目をむいた。
「夏候惇? 曹操の武将が何でこないな所に……いや、呂布相手に連合軍の武将が六人がかり、っちゅう時点で、こういう事は予測しておくべきやったな」
 そう言いながら、張遼は実に思い切った真似をするものだと思っていた。連合軍とは言え、普段は決して友好的な勢力が集まっているわけでもなく、連携行動を取るほどの関係はない。それなのに、今回の戦いでは敢えて各軍が精鋭を出して合同部隊を編成してきた。これほどの難題をやってのけたのが誰だったのか、張遼は始めて連合軍の将たちに興味を持った。
「おもろいなぁ。あんたんとこの大将連中は……あんたを倒して、その面拝みに行ったるわ」
 張遼が言うと、夏候惇は剣をまっすぐ張遼に突きつけた。
「安心しろ。どのみちお前は華琳様に会うことになる。首としてだがな!」
「よう言うた! やってみせぇや!!」
 張遼が飛龍偃月刀をふるって夏候惇に襲い掛かる。その必殺の一撃を、夏候惇は「く」の字の形をした七星餓狼の刃で受け止め、捻りを入れる。刀身が飛龍偃月刀に絡み、へし折ろうとするが、張遼はそうはさせじと飛龍偃月刀を引き、今度は突きを入れた。夏候惇は今度はそれを斜めに立てた刀身で滑らせ、逆に飛龍偃月刀の軌跡を辿るようにして、張遼の首を刎ねようとする。しかし、張遼は飛龍偃月刀を旋回させ、石突で夏候惇の頭を狙う。
「くっ!」
「なっ!」
 そのままでは相打ちになるところだったが、両者は武器を引き、距離をとった。互いに眼前まで迫った死を跳ね除けたところで、張遼は笑った。
「くくく……やりよるなぁ、あんた。つまらん戦やったけど、あんたみたいなのと戦えるなんて、初めて楽しいと思わせてもらったで」
「ふ、それはこちらも同じこと。だが、あまり楽しんでばかりもいられん。関を落とし、華琳様に武功第一の座を捧げねばならんのだからな」
 夏候惇も笑みを浮かべ、相手の強さを讃えた後、再び両者は激突した。
 
 もう一つの戦いも、激烈を極めていた。呂布に対し、剣を武器とする顔良が接近戦を挑み、連続した突きを放ち、斬り込む。その背後から、長物を持つ星、馬超、関羽が攻撃を加え、呂布が距離をとって仕切りなおそうとすれば、夏候淵の矢と許緒の岩打武反魔が飛んで来て、それを許さない。
 しかし、呂布の顔に焦りはなく、むしろ六人のほうが圧倒されているような気分だった。
「くっ、何故当たらん!?」
「こやつ、本当に人間か!!」
 関羽と夏候淵が同時に叫ぶ。呂布は防戦一方に見えても、僅かな連携の隙があると、即座に即死級の攻撃を送り込んで来るのだ。息も抜けない。
「勝とうと思わんほうが良いかも知れないな。足止めさえしておけば、兵は倒せるし関は落ちる」
 冷静に評する星。彼女の言うとおり、周囲では連合軍合同部隊のの指揮を任された甘寧と張飛が、呂布を救おうと押し寄せる呂布隊の兵を蹴散らしていた。前方では、張遼を夏候惇が止めている間に、公孫賛と桃香が周囲の敵を掃討していた。
 さらに三の矢も用意してある。最大の障害である呂布をここで釘付けにしておけば、この戦いは勝ちなのだ。
「ええ、だから……ここからはどこへも行かせませんよ、呂布!」
 顔良が呼応して剣を振るう。
「足止めだけなんてつまんなーい」
 許緒もそう言いながら、決して手抜きはしない本気の一撃を叩き込む。
「ま、勝ってしまう分には一向に構わないだろ。そらそらそらーっ!」
 馬超がそう前向きに考え、連続して突きを放つ。そうした攻撃を呂布は全ていなしていたが、ずっと無表情だったのが、やがて微妙な変化が現れてきた。そして。
 
ぐううううううううぅぅぅぅぅぅぅ…………

 奇妙な音があたりに響き渡った。
「え?」
「何だ今の?」
 思わず手を止める連合軍の六人。その真ん中で呂布は自分の腹をさすり、そして踵を返した。
「あっ!? 逃げるか!!」
 咄嗟の事で、夏候淵の放った牽制の矢も、呂布はまるで背中に目がついてるように、後ろも見ずに叩き落すと、一目散に関に向かって逃げていく。
「ちっ、逃がすな!!」
 馬超が叫んで馬を走らせ、六人は後を追って走り出した。この呂布の撤退を切っ掛けに、呂布隊の兵たちも一挙に崩れ、敗走に移る。戦いは転機を迎えようとしていた。
 
 さらに、転機は夏候惇と張遼の戦いにも生じていた。二人の戦いは全くの互角だったが、周囲では張遼隊の兵が、白蓮と桃香の指揮によって圧倒され、崩壊しつつあった。しかし、張遼にとってもはや戦の勝敗は度外視すべきものとなっていた。
(この戦、ウチらの負けや。でも、こうなったらもう関係あらへん。ウチはウチの武を完遂する。それだけや)
 将として取り立ててくれた董卓や、信頼して送り出してくれた賈駆には悪いが、もともと勝てるはずのない戦いだったのだ。あとは二人が無事に生き延びてくれる事を祈るだけである。
 そうした覚悟を決めた張遼の戦いぶりは、刃を交える夏候惇にも感じ入るものがあった。これほどの武人を倒してしまうのは惜しいな、と言う気持ちが夏候惇の心に生じる。だが、手は抜けない。
「これで決めてやるぞ、張遼!」
 そう叫ぶと、夏候惇は七星餓狼を張遼の飛龍偃月刀に叩き付けた。凄まじい金属音を発して、張遼は武器ごと馬上から地面に叩き落された。
「くあっ!」
 全身を貫く痛みに、張遼は息がつまった。鎧を着けない軽装ゆえに、その打撃は鍛え抜かれた身体をもってしても吸収し切れなかった。それでも諦めず、立ち上がろうとした張遼だったが、それより早く、頭上から七星餓狼が落ちてくるのが見えた。
(あかんか……まぁ、これだけの相手に武を競い合って敗れたんや。本望やろ)
 張遼は目を閉じ、死が訪れるのを迎え入れようとした。が、次の瞬間夏候惇があげる苦悶の叫びが、張遼の耳を貫いた。
「ぐわあっ!」
 同時に、彼女が馬から転げ落ちる音がする。張遼は何事かと目を開け、その凄絶な光景に絶句した。
 夏候惇の左目を、どこからともなく飛来した矢が貫いていた。あまりの事に、周囲の兵たちも静まり返り、膝をついて顔面を手で覆っている夏候惇に視線を送っている。
「夏候惇!?」
「夏候惇さん!!」
 指揮を取っていた桃香と白蓮も、変事の中心に駆けつけ、夏候惇の無残な様子に驚く。すると、驚いた事に夏候惇はすっくと立ち上がると同時に、左目に突き刺さった矢を引き抜いたのだ。
 左の眼球ごと。
「ひっ……!」
 息をのむ桃香。常人なら狂死するか悶死するほどの激痛の中で、夏候惇はその矢を高々と天に掲げた。
「天よ、地よ、そして全ての人よ! 我が声を聞け!!」
 重傷者とは思えない、凄まじい大声だった。兵たちが見守る中、夏候惇は宣言を続けた。
「我が精は父から、我が血は母からいただいたもの! そしてこの身体と魂は、我が主曹孟徳さまの物! 断りなく捨てる事は許されぬ!!」
 そして、夏候惇は矢を口元に持っていくと、自らの眼球を噛み取った。
「我が左眼は、永久に我とともにあり!!」
 そのまま、噛み取った眼球を飲み下す夏候惇。その壮絶な姿に誰もが動けない中、彼女だけが落ちていた七星餓狼を拾い上げ、にやりと笑った。
「さぁ、続きと行こうか、張遼」
「なっ……無茶だ!」
 叫ぶ白蓮に、顔の左半分を血で染めながら、夏候惇は言い返した。
「何が無茶だ! この程度の傷で、敵に背中を向けられるか!!」
 言葉は気丈だったが、手が微かに震えているのを、張遼は見て取った。出血もひどく、このままでは命に関わる。張遼は決意した。こんな素晴らしい武人を殺したくはない。
「もうええて、夏候惇。ウチの負けや」
 張遼はそう言うと、飛龍偃月刀を手放した。しかし、収まらないのは夏候惇だ。
「何を……貴様、私を哀れんで勝ちを譲るか!?」
 激怒する夏候惇に、興奮すんな、血が余計に出るやろ、と言うと、張遼は自らの胸を覆うサラシの一部を破り取り、夏候惇に近づいた。そして、その左眼をサラシで覆って止血処置を始めた。
「そんなんちゃう。ウチはあんたの武に、それに主君に対する忠義に惚れたんや。だからウチはあんたに降る。役者不足かも知れへんけど、あんたの左眼の代わりになったる……そういうこっちゃ」
 それを聞くと、夏候惇はそうか、と頷き、七星餓狼を背中に戻した。同時に張遼の処置が終わった。
「これでええやろ……ん? 夏候惇?」
 張遼は声をかけ、そして気付いた。夏候惇は、立ったまま気絶していた。痛みが限界を超えたのだろう。彼女は苦笑すると、桃香と白蓮のほうを向いた。
「ちゅーわけで、ウチは曹操軍に降参や。あんたら、証人になってくれへんか?」
 黙って成り行きを見守っていた白蓮が頷いた。
「わかった。引き受けよう」
 張遼がおおきに、と礼を言ったその直後、関のほうからどっと喚声が上がった。一同が見ると、関に掲げられていた董卓軍の旗が蹴り落とされ、代わりに曹操の牙門旗が掲げられていた。第三の矢……曹操直卒の軍が、虎牢関を占領した瞬間だった。
「終わった……わたし達の勝ち……みたいだね」
 桃香は言ったが、彼女の頭では思いつかなかった関攻略作戦を編み出し、見事なまでに成功させた曹操の手腕、そしてここ数日で見せ付けられた武人たちの競演を前に、何故か勝利したと言う感覚が湧いて来ないのを感じた。
(これだけ凄い人達の中で……本当にわたしは英雄だと言うの?)
 桃香はずっとその事を考え続けるのだった。
(続く)
 
―あとがき―
 虎牢関攻防戦、決着です。恋が強すぎる気がしますが、この辺は真のイメージが混ざっているのかもしれません。
 それと、華琳に桃香を狙わせることにしました。性格は水と油ですが、真と違って百合キャラが強調されている無印華琳なら、絶対桃香は陥としに行くでしょう(笑)
 あと、原作と違って霞は愛紗ではなく春蘭に惚れて着いて行く事になりました。好きなキャラだけに桃香の仲間にしたかったんですが、そこは少し遠回りと言う事で(え)。
 上手く行けば次回で反董卓連合軍編決着です。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/08/06 16:25
 洛陽への文字通り最後の関門となっていた要衝、虎牢関は陥落した。守将だった張遼は曹操軍に投降。一番の難敵だった呂布には逃亡を許したが、部隊再編中に洛陽方面に放っていた斥候は、意外な報告を持ち帰ってきた。
「え? 呂布さんは洛陽には戻っていないの?」
 桃香の確認に、斥候の隊長は頷いた。
「は。確認しましたが、どうやら洛陽ではなく、西方の函谷関方面に逃亡した模様です」
 それを聞いて星が言う。
「もともと、呂布は董卓の譜代の臣、と言うわけではないそうですからな。負けが見えた戦いに付き合うほどの忠誠は持っていなかった、と言う事かもしれません」
 桃香はなるほど、と頷いて、斥候に休息を命じて下がらせると、白蓮の方を向いた。
「呂布さんがいないなら、洛陽……董卓軍には、もう野戦の指揮が出来る武官はいないはず。今なら洛陽へ行くのはそう難しくないはずだよ」
 董卓軍で名の知られた武将は、華雄、張遼、呂布の三人。既に全員がこの戦からは脱落した事になる。白蓮は頷いた。
「ああ。董卓はどんな人間かは知らないが、野戦における武勲は聞いた事がないからな。篭城を選ぶだろう」
「問題は……」
 星が桃香の顔を見た。
「うん……このまま、攻城戦になってしまったら、洛陽の人たちが受ける被害も大きくなっちゃうと思う。それを防ぐ為にも、もう少し情報がほしいところだけど」
 桃香の懸念はそれだった。董卓が自棄になって徹底抗戦を選んだり、あるいは焦土作戦を行ったりしないか。それが心配だったのだ。戦前に訪れた洛陽の繁栄を見ても、董卓がそのような手段を選ぶ可能性は低いだろうが、追い詰められた人間と言うのは、往々にして何をしでかすかわからない部分がある。
「そうだな。よし、今回は先陣を志願しよう。真っ先に洛陽に着けば、ここからじゃわからない事も見えてくるかもしれない。それで良いな、桃香」
 白蓮の提案に、桃香は首を縦に振った。こうして翌朝、公孫賛軍はそれまでの第二陣から先陣に繰り上がり、洛陽を目指す事になる。
 洛陽解放の切り札となるべき手段を見出したのは、その決断のおかげかもしれなかった。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第十話 桃香、洛陽へと潜入し、戦の元凶を見出す事


 虎牢関から洛陽までは、約三日の道程である。流石に大消費地であり、一大経済拠点でもある国都の近郊だけに、街道沿いには幾つかの衛星都市(この時代にそう言う言葉は無いが)が点在している。
 洛陽へ進軍する桃香たちが、この日の宿にしたのも、そうした街のひとつだった。もちろん全兵士を収容するほどの建物は無いが、負傷者を屋根の下に泊まらせたり、物資の買い付けにも都合がいい。街の近くに陣を敷いた桃香たちは、町長に挨拶すべく街へ赴いた。
 町長は門の所に出て、桃香たちを待っていた。まず、白蓮が代表して挨拶をする。
「歓迎いたみいる。知っていると思うが、我々は奸臣董卓の暴政から洛陽を解放すべく決起した連合軍の一翼だ。兵士たちの狼藉は許さぬゆえ、水や食料の調達にご協力いただきたい」
 白蓮も「奸臣董卓の暴政」などと言う事は信じていないが、一応宣伝文句としては進軍先で使用している。
「は、さ、さようで……もちろん、協力させていただきます」
 その町長だが、妙に目が泳いでいるのが桃香には気になった。確かに二万を越える完全武装の兵士が街の周りにいるのは、敵対的でなくても緊張するだろうが、この町長はあまりにも緊張しすぎだった。
 星も、そこは不審に思ったらしい。何気なく声をかける。
「して、町長殿。我が軍の負傷兵治療のために、宿をお借りしたいのだが……」
 その言葉に、町長はますます激しく動揺した。
「は、はっ!? そ、それはまず……いえ、薬などは提供させていただきますが、今は空き室が無く……」
 あからさまに怪しい態度だった。桃香は思いついたことがあって聞いてみた。
「町長さん、何か心配事でもありますか? 例えば……誰かを匿っているとか?」
 この質問は、覿面に効果があった。
「か、匿ってなど! あの連中が勝手に居座っ……あ!」
 町長は口を閉じたが、後の祭りだった。桃香は確認するように、ことさらゆっくりと聞いた。
「やっぱり、この街にいるんですね? 董卓軍の兵士たちが」
 すると、町長はその場にがばっと平伏した。
「お、お許しを! 決して我々の本意ではありません!」
 この町長も董卓の領民であり、董卓軍の兵士を庇う事自体は責められる事ではない。しかし、連合軍がこうして洛陽に迫り、董卓軍の命運も旦夕に迫った今、連合軍の心象を損ねるのはあまりにも拙いと判断したのだろう。桃香もそれはわかっていたので、町長を責める気はなかった。
「顔を上げてください。出来れば、その人達に降伏を勧告したいので、詳しい事を教えていただけますか?」
 桃香は柔らかい口調と笑顔で言った。町長は安心したのか、状況を説明し始めた。
 その董卓軍兵士の一団が来たのは、二日前の事だという。みんなボロボロの格好で、いかにも敗残兵と言う感じだったが、比較的統率は取れていて、町の人間に乱暴を振るうと言うこともなかった。
 ただ、その中で本来の指揮官らしい女性はかなりの重傷を負っており、この街に名医がいるという噂を聞いてやって来た所だと言う。実際その医者は診察の結果、命に別状はないが、数週間は安静という診断を下した。
 現在も、宿の一室でその女性は休んでおり、部下の兵士たちもその宿に泊まっている。人数は全部で二十人ほど。そして、今朝連合軍が近づいていると言う噂が流れると、彼らは絶対に自分たちがこの街にいることを明かすな、と町長に釘を刺しに来た。断れば何をされるかわからない、と言う剣呑な雰囲気だったので、仕方なくその要求を聞いた。

 町長の説明は、要約するとそのような内容だった。話を聞き終えると白蓮は言った。
「良くわかったな、桃香、星」
 星はいやいや、と首を横に振った。
「私は、少々不審に思っただけで、桃香様ほどの読みはありませんでした。桃香様こそ、何故董卓軍の残党がいると?」
 桃香も苦笑混じりに答えた。
「わたしも、確信があったわけじゃないけど、宿に入られるのは困る、って感じだったから、誰か見られたくない人がいるのかなって」
 それを聞いて、ちょっとがっくりする町長。ともかく、桃香は白蓮と星にやりたい事を説明した。
「その、怪我人が誰かはわからないけど、聞いた感じでは董卓軍の上級の武官みたいだから、話を聞いてみたいと思うの。上手く行けば、洛陽の情報も手に入るかもしれないし」
 洛陽がどうなっているのか、今の連合軍が一番知りたい情報である。特に兵力は重要だ。二つの関を抜く間に八万の兵力を撃破しているが、残り兵力がどのくらいなのか、未だ確定情報はないのである。
「わかった。五十人ほど兵をつけよう。星、桃香の護衛を頼む」
 白蓮はその武官を降伏させて情報を聞き出す、という桃香の計画を承認した。
「ありがとう、白蓮ちゃん」
「では、早速参りましょうか」
 桃香は礼を言い、星は槍を担いで立ち上がる。しばらくして、本陣に戻った白蓮が兵を派遣してきたので、二人は彼らを指揮して、問題の宿屋に向かった。近付くと、宿の入り口に立っていた男――鎧は着ていないが、明らかに兵士とわかる――が、驚いたように宿の中に駆け込むのが見えた。恐らく見張りだろう。桃香は兵たちに宿を囲ませると、一歩進み出て言った。
「わたしは、連合軍に属する公孫賛軍の参謀、劉備玄徳と申します。名は存じませんが、董卓軍でも名のある方が滞在されているとお見受けします。決して危害を加える気はありません。どうか、話を聞かせてくださるようお願いします」
 包囲している側とは思えない低姿勢で桃香は言った。一方、凄みを利かせる役は星が担った。
「危害を加えないことは、天帝の名に賭けて約束するが、もし抵抗するようなら、容赦なく殲滅させてもらう。賢明な判断を期待する」
 しばらく宿からは何の返事も帰ってこなかったが、しばらくして、先ほどの見張りの男が出てきて言った。
「将軍はお会いになるといっている。ただし劉備殿お一人だそうだ」
 星は警戒の表情を浮かべた。もし桃香が中に入って、人質にでもされたら手の打ちようがなくなる。
「桃香様。私も一緒に」
 星なら、二十人の兵士くらいは軽く蹴散らす自信がある。桃香が見張りの兵士を見ると、彼は一瞬迷ったようだったが、すぐに頷いた。
「わかった。ただし、部屋の中で将軍と会うときには二人きりでお願いする」
 星は部屋の外で待て、という事らしい。それでも桃香を一人で行かせるよりは安心なので、星は了承した。
「では参りましょうか、桃香様」
「うん」
 見張りの案内で、二人は宿の中に入った。緊迫した空気の中を、二階の奥の部屋に向かう。その間、桃香は相手が誰だろうと考えていた。董卓軍の将軍といえば、呂布、張遼、華雄だが、呂布は逃亡、張遼は投降、華雄は討ち取られており、もう将軍と呼ばれる人物はいないはずなのだ。
 それも会えばはっきりするかと思い、桃香は会見に向けて意識を切り替えた。その時ちょうど、見張りはその部屋の前に着いた。
「こちらだ。将軍は決して軽くない傷を負われている。どうか乱暴はしないでほしい」
 見張りの心配そうな言葉に、桃香は笑顔で頷くと、戸を開けた。
「失礼します」
 中に入ると、窓際の寝台の上で、長身の女性が横になっているのが見えた。頭や腹部が包帯で覆われ、見るからに痛々しい姿だ。しかし、その顔を見て、桃香は驚きに目を見開いた。見覚えのある相手だったのだ。
「貴女は……!」
 桃香が言うと、その相手は顔を桃香のほうに向け、弱々しく笑った。
「やはり貴女だったか。声に聞き覚えがあったので、もしやと思ったが……そちらに掛けられよ」
 女性は寝台の横の椅子を指差した。桃香は頷いてそこに座ると、頭を下げた。
「改めまして、ご挨拶させていただきます。劉備玄徳です」
 女性は頷いて、名を名乗った。
「華雄だ」
 桃香を二度目の大きな驚きが襲った。
「貴女が華雄さん……! 驚きました。生きておられたのもそうですが」
「あの時は、お互いに名乗らなかったからな、仕方が無い」
 華雄が微笑む。そう、彼女は八ヶ月前、洛陽で桃香が少女を助けた時に、その少女を迎えに来た武人だったのだ。
「幸い、私は身体が丈夫でな。何とか致命傷は免れたのだ。洛陽に戻って戦いたかったが、ここまで来て身体が動かなくなってしまった……情け無い事だ」
 そう言って、華雄は痛みに顔をしかめた。桃香は華雄をいたわるように、その手を握った。
「無理に話さないでください。こんな酷い傷で……」
 良く見ると、華雄の傷は常人なら即死しているであろう重さだった。あの関羽の一撃を受けたのだから無理もないだろうが。しかし、華雄は首を横に振った。
「今は、無理をしなければならない時だ……劉備殿、貴女なら信じられると……そう見込んでお願いがある。どうか、我が主董卓を……救っていただきたい。この華雄、伏してお願い申し上げる」
「董卓さんを?」
 桃香は首を傾げる。もちろん、彼女は「董卓の暴政」が無いことを知っているし、悪くもないのに政治に翻弄され、袋叩きにあった董卓には同情している。しかし、華雄の「助けてほしい」には、助命嘆願とは違った物を感じた。
「華雄さん、董卓さんに何かあったんですか? 詳しい事情を教えてもらえますか?」
 桃香が聞くと、華雄は事情を語り始めた。それは、桃香を華雄の生存や正体以上に驚かせるものだった。
「あの、月ちゃんが董卓さん!?」
 かつて桃香が助けた洛陽の少女、月。彼女こそ、華雄の主にして洛陽を治める董卓だと言うのだ。あんな儚げな少女が太守と言うのにも驚きだが、人の世の縁の不思議さにも驚かされる。
「それで……華雄さんたちは、董卓さんを守るために戦ったんですね?」
 驚きを宥めつつ、桃香が確認すると、華雄は無言で頷いた。彼女の話した事情と言うのはこうだ。
 二ヶ月ほど前、突然洛陽の政庁は、白装束に白覆面と言う謎の集団に占拠された。何時も誰よりも早く登庁し、政務に励んでいた董卓は、なす術なくその集団によって拘束され、政庁に監禁されている。
 華雄、張遼、呂布、それに董卓の大親友にして軍師である賈駆は、何とか董卓を救出しようとしたが、謎の白装束の集団は董卓の命を盾に脅迫してきた。彼女の命が惜しければ、連合軍に対して徹底抗戦するよう命じてきたのだ。切歯扼腕しつつ、華雄たちは白装束の集団の命令を受け入れざるを得なかった。
「その白装束の集団と言うのは、一体……?」
 桃香の質問に、華雄は首を横に振った。
「わからん……ただ、連中は我々と連合軍を戦わせることで、何らかの目的を果たそうと言う狙いがあるようだった。それが何なのかは、私にもわからん……賈駆だけは、何か聞いていたようだが」
 ちなみに、賈駆が月を庇って桃香を睨んだ、あの詠と言う気丈な少女だと知ったときには、桃香はまたしても驚いたのだが、ともかく華雄の話は想像よりも遥かに重大な情報を含んでいた。彼女の話が本当なら、そもそもこの戦いは最初から何の意味もない、無益なものだったという事になる。その白装束の集団のために、敵味方合わせて十万以上の兵士が傷つき、あるいは戦場に斃れた。
「許せない……なんて酷い人たちなの……!」
 桃香にとって、白装束の集団の正体が何であれ、それは絶対に許せない敵として心に刻まれた。同時に、白装束の集団のために辛い目にあっているであろう、董卓と賈駆をどうしても助けなくてはならない、と心に誓った。
「わかったわ、華雄さん。董卓さんと賈駆さんの事は、わたしに任せてください。だから、貴女はここでゆっくり休んで、傷を癒して」
 桃香の言葉に真摯さを感じ取ったのか、華雄は笑みを浮かべて頷くと、目を閉じた。一瞬不吉な予感を浮かべた桃香だったが、どうやら疲れて眠ってしまっただけらしい。桃香は華雄を起こさないようにそっと立ち上がり、部屋を出た。
「桃香様?」
 待っていた星に、桃香はしっと指を口の前に立て、部屋の中を指さした。星は華雄が眠っているのに気付くと、無言で頷いた。
「華雄さんには、我が軍からも薬を届けさせます。ゆっくり養生するように伝えてください」
 桃香が見張りに言うと、彼は驚きの表情を見せ、続いて深々と頭を下げた。
 
 本陣に戻り、桃香は白蓮に華雄の話について報告した。聞き終えた白蓮は桃香に確認した。
「話はわかったが、華雄が嘘をついているという可能性はないか?」
 桃香は首を横に振った。
「華雄さんの目は、嘘をついていない目だったよ。間違いなく本当だと思う」
 それを聞いて、白蓮は少し目を閉じ、それからおもむろに言った。
「実は、その白装束の集団とやらに、心当たりが無いわけじゃない」
「本当に? 白蓮ちゃん」
 桃香が聞き返すと、白蓮はああ、と頷いて話を続けた。
「黄巾の乱だが、あの時幽州で暴れていた連中の中に、白装束の道士風の男に、決起を教唆されたと言う証言をした捕虜がいたんだ。桃香、お前が守ったあの街を襲った連中がそうだ」
「え、あの時の?」
 桃香が聞き返すと、白蓮はさらに説明を続けた。
「そうだ。私も、それは黄巾党の……太平道の道士だと思って、その時は気にも留めなかったんだが、後で調べてみると、そいつの服装は明らかに太平道とは関係のないものだった」
「その者たちが、何か邪な目的をもって、戦乱を煽っていると言うことですか」
 星が言うと、桃香は真剣な表情で答えた。
「どんな目的かはわからないけど、何であれ戦争を煽るなんて事が許されるわけが無いよ。そんな人達に、これ以上世の中を好き勝手させるわけにはいかないわ」
「同感だな」
 白蓮が応じた。
「そいつらのために、我が軍も三千人近い死傷者を出したんだ……みんな本当は死ななくてもいい何て事がわかって、黙っていられるかよ」
「ふむ。そうですな。我らの武も、そんな怪しげな連中の謀略の上で踊らされているとあっては、寝覚めが悪い」
 星も静かに怒りを込めた口調で言った。
「で、これからどうするんだ? 桃香。董卓を救うと言っても、敵味方に分かれている今は、連絡を取るのも難しいだろう?」
 白蓮の質問に、桃香は既に答えを用意していた。
「とりあえず、それは華雄さんたちに協力してもらうつもり。わたしにも、身の証を立てる方法はあるし」
 桃香は洛陽に行って以来、肌身離さず持ち歩いていた物の感触を、服の上から探った。
 
 
 適当な理由をつけて行軍を遅らせ、桃香たち公孫賛軍は三日後に洛陽を望む位置に布陣した。各諸侯軍も洛陽をぐるりと包囲する位置に続々と布陣を開始するが、全ての用意が整い、攻城戦を開始するまでは、もう少し時間があった。
 布陣した日の夜、桃香と星は陣を出て、そっと洛陽の城壁に近付いて行った。城壁の回りは黄河から引き込んだ運河を兼ねる堀で囲まれ、攻めるのは容易ではない。ただ、既に曹操軍の一部が堀と黄河をつなぐ水路の埋め立てにかかっており、成功すれば数日のうちに堀は干上がるだろう。
 しかし、今はまだ水は満々と湛えられており、それが桃香たちが洛陽に潜入して、董卓たちと連絡をつける好機だった。やがて、月が中天に達し、約束の刻限が来た頃、堀の水を揺らして、一艘の小船が近付いてきた。
「中天の月は」
 小船から小さな声が聞こえてきた。桃香は応じた。
「嘆きを詠ずる」
 取り決めておいた合言葉である。すると、小船はそっと岸辺に着け、桃香が三日前に会った、華雄の副官格だった見張りの男が降りてきた。桃香は彼に董卓、賈駆宛の書簡と、身の証としてあの時董卓から受け取った額飾りを渡し、洛陽に先行してもらっていたのである。
「お待たせしました、劉備殿、趙雲殿。お乗りください」
 桃香たちは招きに応じて小船に乗り込み、見張りの男はそっと船を漕ぎ出した。城壁に開いた、洛陽の市街へ通じる水路の入り口を潜り、市内へ入る。街は夜と言う事を考えてもひっそりと静まり返り、まるで無人の街のようだった。
 その静かな街の中を船は進み、やがて小さな船着場に着いた。そこから歩いてすぐの小さな屋敷の中で、その人物は桃香たちを待っていた。
「お久しぶりね……劉備さん」
 出迎えた眼鏡の少女に、桃香は笑顔で答えた。
「ええ。あの時は名乗らなくてごめんね、賈駆さん」
 賈駆文和。董卓軍の軍師として、名は広く知られているのが、真名を詠と言うこの少女である。見たところ、曹操軍の荀彧よりは若いが、北郷軍の孔明よりはやや年上だろう。眼鏡の奥の吊り気味の目には、深い知性の輝きが宿っていた。
「お初にお目にかかる。劉備様の臣で、趙雲子龍と申す。名軍師として名高い賈文和殿にお会いできて光栄の至り」
 星も挨拶をすると、詠はフッと笑った。
「連合軍相手に連戦連敗のボクが名軍師? 嫌味にしか聞こえないわよ。ま、挨拶はこの程度にして、本題に入りましょう。時間が無いもの」
 そう言うと、詠は桃香と星を奥の部屋に案内した。この館は彼女が家として使っているものらしい。卓に全員が座ったところで、詠が口を開いた。
「書簡は読んだわ。あなた達が本当に月を助けるのに協力してくれるなら、ボクとしても文句は無いわ。でも、本当に良いの? ボクたちを助けても、あなた達に利益があるとは思えないんだけど」
 全諸侯共通の敵とされた董卓とその部下たちを助けるなど、どう考えても「自分たちを攻めてください」という大義名分を敵に与えるようなもので、確かに利益はない。しかし、桃香ははっきりと頷いていた。
「うん、構わない。董卓さんには、あの額飾りのおかげで融資が受けられた恩があるし……それに、白装束の集団こそ、本当の意味で敵だと思うから」
「我が主は、困っている人間を見捨てられぬ奇特なお方なのだ。だから、理だの利だのと言うことは気にせずとも良い。助けたいから助けたい、と言うだけなのさ」
 星が言い添えると、桃香は頬を膨らませた。
「星さん、褒められている気がしないんだけど?」
「それは心外な。これ以上ないほど褒めていますとも」
 その主従の会話を聞いていた詠が、それまで硬かった表情をふっと緩める。彼女も月とは単なる主従を越えた、友としての関係を持っている。それと同じ空気を、彼女は桃香と星に見出したのだった。同時に、この二人なら信用できると確信する。
「わかった、ボクは貴女を信じるわ、劉備さん」
 桃香は笑顔で手を差し出した。
「うん、よろしくね。賈駆さん」
 桃香と詠はしっかり握手し、謎の白装束の集団を排除し、月を助け出す事を誓い合った。
「さて、賈駆殿は彼奴らの目的について、何か知っていることは無いか?」
 握手が済んだ所で星が切り出すと、賈駆は頷いた。
「ええ。連中の目的は、連合軍に属するある人物の抹殺よ」
「ある人物?」
 桃香が聞き返すと、詠は頷いて、その人物の名を口にした。
「北郷一刀……ボクはこの軍に集中攻撃をかけて、その首を獲るよう、白装束の集団に要求されたわ」
「一刀さんを……!?」
 桃香は意外な成り行きに首を傾げる。なぜ、諸侯の中でも最小の勢力である北郷軍を、こんな大仕掛けをしてまで狙う必要があるのだろう。第一、呂布や華雄、張遼といった名将さえ寄せ付けずに、洛陽を占拠して君主を人質に取るほどの実行力がある勢力なら、一刀を自らの手で殺すなど、簡単な事ではないのだろうか?
 桃香がそう疑問を口にすると、詠も頷いた。
「ボクも言ってやったわよ、自分でやりなさいよって……連中の答えはこうよ。それが出来るなら苦労はしない」
「……訳がわからんな。何か、北郷殿に手を出せぬ理由でもあるのか?」
 星も首を捻る。
「さてね。いずれにせよ、不可能な要求だわ。ボクたちと連合軍の戦力差では、北郷軍を集中攻撃している間に、ボクたちのほうが全滅してしまうもの」
 呂布だけは生き残りそうだけど、と詠が付け加えると、桃香と星は顔を見合わせて苦笑いをした。確かに、あの武神が戦場で斃れる姿など想像もつかない。
「それで、今はなんて言われているの? 今となっては、一刀さんを斃すなんてますます難しいと思うけど……」
 桃香が聞くと、詠は難しい顔で頷いた。
「北郷軍をどうにかしろとは、もう言われて無いわ。あと五日、時間を稼げ……それが連中の要求よ。それが出来れば、ボクに月を返してくれて、その後は好きにして良いって」
「五日間? 時間を稼げ? それって……」
 桃香は嫌な予感を覚えた。こうまでして一刀抹殺を謀っている集団の言う事だ。絶対に何か裏があるとしか思えない。
「うん。たぶん、連中はその五日間で、何かを仕掛けるつもりね。例えば……入城した北郷軍を、この街ごと焼き払うとか」
 詠は言った。それは桃香の最悪の予想とも合致していた。
「しかし……この街には何十万と言う庶人たちが……いや、それほどの相手か。何万と言う兵士を死なせる戦乱を起こす事に躊躇せぬ者たちなら、それも有りうる」
 星が少し青い顔で言う。豪胆な彼女でさえ、白装束の集団の非道さには怖れが来るようだった。
「そうなると、相手が素直に董卓さんを返してくれるとは思えないね。いざとなったらあっさり約束を反故にしかねない」
 桃香はそう言って考え込んだ。どうにかして、敵の手から月の身柄を奪還せねばならない。彼女が向こうに握られている限り、詠には自由に行動すると言う選択肢が与えられないのだ。すると、星が言った。
「桃香様、董卓の身柄を取り返すのは、私にお任せ願えませんか?」
「え、星さんが?」
 桃香が聞くと、星は自身ありげな表情で頷いた。
「私なら、その白装束の集団に顔も割れておりませんし、隠行の術も心得ております。敵に見つかる事無く、董卓殿の身柄を奪還してご覧に入れましょう」
「隠行の術って、何でそんなものを」
 詠が言う。確かに武人というよりは隠密や偵探が覚えているべき技だが……
「まぁ、色々修行したのでな」
 星が答える。何と言うか、何でもありな人だなぁ、と桃香は思ったが、もし星が本当に董卓を助けてくれるなら、物凄く助かる。
「……とりあえず信用するわ。それじゃ、劉備さん、手順を決めましょう」
 詠はそう言って、深く追求するのを避けることにしたらしい。
「わたしたちは明日から、第一陣として洛陽攻めをする予定だから……」
 桃香が言うと、詠は撃てば響くように応じた。
「じゃあ、公孫賛軍に対しては、本気で応戦しないように命じておくわ。その間に、趙雲さんが月を助けてくれれば、ボクたちはその場で降伏する」
 すると、桃香は首を横に振った。
「ううん。それじゃダメだよ。戦わないのは良いとしても、できたら門を開けてわたしたちを中に入れてほしいの」
「え? なんで?」
 詠が首を傾げると、桃香は政庁のある方向を見た。
「できれば、白装束の集団を捕まえて、目的とかを聞き出したいと言うのが一つ……それと、董卓さんを死んだ事にするためだよ。踏み込んだ時には自害してたとか、他の諸侯の人達に言い訳が出来るようにしておくの」
 そのために、政庁に他の諸侯軍に先んじて踏み込む事が必要だ。政庁さえ押さえておけば、後はいくらでも言い訳は利くのである。
「ああ、なるほど……わかったわ。死んだ事になれば、もう月は追及されないものね」
 詠は納得した。そして立ち上がる。
「そろそろ夜が明けるわ。劉備さんは陣に送らせる。趙雲さんは、後で政庁の近くまで案内させるわ」
「うん、わかった」
「よろしく頼む」
 三人はしっかり手を握り合い、敵味方の立場を超えた共同作戦を成功させようと誓った。
 
 翌朝、星は詠の部下に案内されて、政庁の近くにある空き家に待機していた。見ると、確かに白装束の怪しげな男たちが門のところで見張りをしていた。
(そこそこの使い手のようだな)
 星は男たちが微動だにせず立っているのを見て、そう思った。彼らがどういう集団なのかは未だに知りようもないが、その様子一つとっても、己の意思を殺して目的のために手段を選ばない、と言う集団の体質が見て取れる。連合軍の中では、曹操軍が比較的近い雰囲気を持っていると言えるかもしれなかった。
 見ていると、城門のほうからわあっという叫びと、戦いの音が響いてきた。どうやら、予定通り公孫賛軍が先陣を切って城門攻撃を開始したらしい。
 公孫賛軍に対しては、詠は攻撃を手控えると言っていたし、桃香も本気では攻めないだろうから、今のうちにさっさと目的を果たし、これ以上の犠牲者が出るのを防ぐべきだろう。しかし、困った事に敵の見張りはそんな大騒ぎが起きているにも拘らず、全くそちらへ意識を逸らした様子が見えなかった。
「まるでからくり人形のような連中だな……さて、そうすると正面突破は避けるか」
 最初は相手の気が逸れた所で、一気に接近して倒し、中に入るつもりだったのだが、星は作戦を変更することにした。空き家の屋根に上ると、周囲の家の屋根を伝って走り、門から少し離れた所へ移動する。そこからそっと政庁の方を見ると、政庁の庭部分が見えた。幸い、その辺りは見張りがいる気配はない。
「……よし」
 星は息を吸い込み、気を溜めると、一気に屋根を蹴って跳躍した。街並みと政庁の間にある道を飛び越え、政庁の塀に着地すると、そこからさらに跳躍。庭の木に飛び移り、枝のたわみを利用して、最後の跳躍を行った。飛び移った先は、政庁の屋根の部分だ。着地と同時に伏せて地上から見えないようにすると、辺りの気配を探る。
(……よし、気づかれていないようだな。中に潜入するとしよう)
 星は屋根板を剥がし、天井裏にもぐりこんだ。懐から詠に書いてもらった政庁の見取り図を取り出し、現在位置を確認する。詠の推測によれば、恐らく董卓が監禁されているのは、執務室かその隣の休憩室。もしそこにもいなければ地下牢だが、白装束の集団の詠と交渉した相手は、丁重な扱いだけは約束してくれていたと言う。
(……まずは執務室に行くとしよう)
 見取り図を頭に叩き込み、星は薄暗い天井裏を気配を殺して進んだ。じりじりと進むことしばし。ようやく執務室の上と思われる場所にたどり着いた星は、天井の羽目板をそっとずらし、隙間から下を覗き込んだ。執務室の机に、淡い紫色の髪の少女がひじを突いて、じっと考え事をしている。憂いを浮かべたその顔には生気がなく、監禁されて以来の心労をうかがわせた。
(あれか。なるほど、桃香様には聞いていたが随分と可憐な少女だな。あんな娘が地位の上では天下人に一番近い董卓とは、信じられん)
 星は董卓の印象をそうまとめつつ、室内を確認した。誰も他にはいない。気配を探るが、それも他には感じられない。恐らく見張りは室外なのだろう。星は羽目板の隙間から、ある物を床に落とした。ぱさり、と言う音に董卓が顔を上げ、それに気付く。
「……これは……詠ちゃんの……?」
 董卓がそれを拾い上げる。星が賈駆から預かってきた、彼女の服の飾り布の部分だった。董卓は辺りを見回し、上を見上げて、驚きの表情を浮かべた。そこに羽目板の隙間から顔をのぞかせている星がいたからだ。星はひらりと室内に飛び降りると、悲鳴を上げかけた董卓の口を押さえ、そっと囁いた。
「お静かに。私は味方です。賈駆殿から依頼を受け、お助けに参上しました……董仲穎殿ですね?」
 董卓が頷いたのを見て、星は手を離すと、跪いて貴人への礼を取った。
「ご無礼をいたしました。私は公孫賛軍の将にて、趙雲子龍と申します。我が主の命と賈駆殿の願いに従い、こうして参上いたしました」
 董卓は外見に相応しく、か細い声で答えた。
「公孫賛軍……? 連合軍の方なのですか? それがどうして詠ちゃんと……?」
「詳しくは後で話しますが、我が主はこの戦の事情を知り、貴女様をお助けすることをお決めになりました。既に賈駆殿とも交渉は済んでおり、貴女様を助けることが出来れば、戦を終える手筈になっております」
 星はそう言うと、董卓の手を取った。
「しっかり掴まっていてください。これよりここを脱出します」
「……はい」
 董卓が頷いたその時、突然部屋の戸が開いた。そこから白装束の男たちが部屋の中になだれ込んでくる。その数、十人ほど。
「な、馬鹿な! 私に何の気配も感じさせなかったと言うのか!?」
 驚く星に、白装束の集団を掻き分けて、やや装束の意匠が違うものを着た男が進み出てきた。どうやら、これが一団の首領格らしい。
「ネズミめ、どこから入り込んできた?」
 首領の言葉に、星は獰猛な笑みを浮かべて見せた。
「ネズミ? 見る目の無い奴だ。私はこう見えても竜を名乗っているのだがな」
「減らず口を。取り押さえろ! 殺しても構わん!!」
 首領が命じるや、白装束たちが一斉に星と董卓を取り押さえようと殺到する。しかし。
「甘い!」
 星は龍牙を取り出した。思わず突っ込む首領。
「どこに隠してた、そんなモン!?」
「ふ、龍牙は我が身と一体!! 食らえ! 星雲神妙撃!!」
 答えになっていない答えを返しつつ、星は必殺の一撃を放った。白装束集団が全員吹き飛ばされ、床に転がり、あるいは壁に叩きつけられる。だが、星は何とも言えない違和感を覚えていた。
(なんだ、今の感覚は……人間を撃った時の感触じゃなかった)
 槍から伝わってきた奇妙な感触に星がそう思ったとき、彼女をさらに驚かせる事が起きた。並みの人間なら容易く戦闘不能になるであろう星雲神妙撃を受けた白装束たちが、まるで何の痛痒も感じていないように、次々と立ち上がったのだ。
「は、そやつらはお前ごときにどうにかできる存在ではないわ。かかれぃ!!」
 首領の命に、白装束たちが再び星に向かってくる。どういう事かはわからないが、確かに戦って事態を打開できる状況ではないようだ。星は咄嗟に董卓の小さな身体を抱え込んだ。
「きゃっ!」
 驚く董卓に、星は目を閉じているよう言うと、答えも聞かずに吶喊した。ただし、白装束たちではなく、その反対……部屋の窓のほうに。
「ぬっ!?」
 驚く首領を後目に、星は窓の格子を突き破ると、庭に飛び出した。方向を確認し、門のある方向へ向けて走る。逃がさないとばかりに白装束たちが追ってくるが、その人数がたちまち増えていく。詠は五十人ほどと言っていたが、百人はいそうだ。
「情報と言うのも当てにならんな」
 星は言いながら走り続け、門の見えるところに迫った。しかし。
「……ぬうっ!?」
 そこには、百人を越える白装束たちが待ち受けていた。振り向けば、やはり百人の白装束。しかも、前方の連中は弓を持っている。流石にこれは予想外と言う段階を遥かに超えていた。
「もう逃げられんぞ、曲者め」
 さっきの首領が迫ってくる。星はどっちが曲者だ、と内心毒づきつつ、辺りを見回すが、逃げ場はありそうも無い。
「ふっ……これはドジったかな。申し訳ない、董卓殿。何とか貴女だけでも助けたいが……」
 星が言うと、董卓はふるふると首を横に振った。
「そんな……あなたこそ、わたしを置いて行ってください。足手纏いがいなくなれば、逃げられるでしょう?」
 心底から星の身を案じている様子の董卓に、星は笑顔で答えた。
「良い方ですな、董卓殿は。そんな事は出来ませんよ。我が主と賈駆殿に、貴女を助けると約束したのですから」
 星は絶対に董卓を守る、という決意を込めて龍牙を構えなおす。こうなったら、身を捨てでも血路を啓く……そう思ったとき、野太い声が聞こえた。
「あらぁん、諦めるには早いわよぉん?」
「な……」
 何者だ、と星が言おうとした時、突然横の壁がまるでこちら側に凹んだように、大きく膨れ上がり……次の瞬間弾けるように破砕した。降り注ぐ瓦礫とあたりを覆う土煙の向こうから、巨大な影がぬっと現れる。
「お前は!?」
 星が言うと、その巨大な影はにやりと笑って答えた。
「私の名はぁ、旅の踊り子貂蝉。良い男と健気な女の子の味方よぉん」
「……踊り子?」
 星は疑問形で言った。貂蝉と名乗ったのは、全身鋼鉄を練り上げて作ったような鍛えられた筋肉で覆われ、身に付けているものといえば桃色の腰巻一枚、という奇怪な姿の大男だったからだ。
「そうよぉん。さぁ、早く行きなさぁい。ここは私が引き受けるわぁ」
「む……そうか。わかった、恩に着るぞ!」
 星は頷くと、董卓の手を取った。貂蝉の正体はわからないが、少なくとも嘘をついている目には見えなかったからだ。塀に開いた穴を潜って外に出ると、背後から貂蝉の雄叫びが聞こえた。
「ぶるあああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 続けて、大爆発のような轟音。何が起きたのか見てみたい気もしたが、今は董卓を連れて行くのが先決。星は董卓を背負い、洛陽の大通りを疾走した。そして、城門に近付くと大声で叫んだ。
「賈駆殿! 約束は守りましたぞ!!」

 その時、桃香はやや焦っていた。攻撃開始から半日。賈駆との間で八百長が成立していたため、事故で怪我をした以外には負傷者は出ていなかったが、攻めあぐねていると見た他の軍から、交代しろとせっつかれていたのである。
「星さん……上手く行ってるの?」
 星の事を全面的に信じてはいたが、こう遅いと不安がこみ上げてくる。しかしその時、城壁の上に詠が立つのが見えた。彼女はぐるぐると腕を廻し、大声で叫ぶ。
「城門を強化するのよ!」
 それは、成功時の合図だった。ぱっと明るい顔になった桃香は、控えていた攻城兵器隊に叫んだ。
「衝車用意! みんな、道を開けて!! 門が開いたら、政庁を抑えるの!!」
 彼女の号令に従って、衝車が前に出る。そして、一気に門に向けて突進すると、激突前に門が中から開かれた。遠目には城門の突破に成功したように見えるだろう。
「突撃ー!」
 靖王伝家を振りかざし、桃香は叫ぶ。雄叫びを上げて洛陽になだれ込む兵士たち。何時の間にか、その流れに董卓軍も合流していた。桃香がその後に続くと、董卓を連れた星が現れた。
「お疲れ様、星さん! 本当にありがとう!!」
 満面の笑顔で言う桃香に、星はなんのなんの、といいながら頭を下げる。そして、城門から駆け下りてきた詠が、董卓に抱きついた。
「月! 大丈夫!? あいつらに酷い事されてない!?」
 半泣きで言う詠に、董卓はようやくの笑顔で答えた。
「うん……わたしは大丈夫。心配かけてごめんね、詠ちゃん」
 その声が途中から涙交じりになり、二人の少女は抱き合ったまま泣き始めた。それを見て、桃香は少しもらい泣きした。
「でも、良かった。本当に……これで、この戦争も終わるわ」
 まだ戦後処理など、面倒な事は残っているだろうが、とにかく人が死ぬ事は一旦終わった。桃香はようやく、この戦いが始まって以来、初めて本当に笑える気持ちになったのだった。
(続く)


―あとがき―
 という事で、反董卓連合軍戦編、戦いの方は終わりました。戦後処理とか、各登場人物の変化を入れたもう一話を挟んで、新しい話に突入して行こうと思います。
 貂蝉初登場の他、再登場した人も何人かいます。特に「良かった、生きていた!」という人もいますが、彼女たちがどうなるかは次回で。まぁ、たぶん皆さんの予想通りだと思います。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十一話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/08/10 18:01
 後に「董卓の乱」と呼ばれる事になる一連の戦乱は、公孫賛軍の洛陽突入成功と、覚悟を決めた董卓の自裁による死で終わった、とされている。ただし、董卓の死体はついに発見される事はなかった。と言うのも……
 
 すっかり焼けてしまった建物の跡で、桃香はまだ漂う焦げ臭さに顔をしかめつつ、小さな人形を拾い上げた。陶器でできた兵士の姿を模したもので、後世の人間が見れば、秦の始皇帝がその陵墓にともに葬らせた兵馬俑を連想するかもしれない。
 ただ、この兵士人形は桃香の手のひらに乗るほど小さく、その表面には鋭い刃物で引っかいたような、細かい傷があった。桃香はそれを星に渡した。
「間違いない? 星さん」
「はい、これは間違いなく私が付けた傷です」
 星は頷いた。星雲神妙撃を放ち、白装束たちを吹き飛ばした時、星は明らかに相手が人間でないような妙な感覚を覚えたが、後で考えてみると、あれは陶器を殴りつけたときの感触だった。
「これが、あの白装束の雑兵たちの正体……桃香様、敵は妖術使いのようですね」
「でしょうね……こんな焼け跡、見たことが無いもの」
 星の言葉に頷く桃香。彼女たちが立っているのは、董卓……月が監禁されていた、洛陽の政庁だった。公孫賛軍が突入した直後、政庁はいきなり凄まじい火柱を上げて炎上したのである。
 いや、それを炎上と言っていいのか……炎は一瞬で消え、周囲への延焼もなかったが、建物は焼け棒杭すら残らないほど、綺麗に燃え尽きていた。ただ、その灰だけの焼け跡の中に、この兵士人形が幾つか残っていた。
「これで、証拠は何も残らなかったか……」
 桃香は言う。白装束の集団は再び手の届かない場所へ消えてしまったのだ。
 しかし、一つだけ良い事もあった。これで、死体がなくても董卓の死を納得させられる。今は本陣で詠と一緒に休んでいる月だが、彼女たちに自由な生活が戻ってくる日も近いだろう。
 そう思った時、白蓮が門を潜ってやってきた。この時間は他の諸侯と会談を持っていたはずだが……
「白蓮ちゃん? どうしたの? 会談は?」
 桃香が聞くと、白蓮はそれには答えずに言った。その顔は妙に沈み、顔色も青い。
「桃香、星。ここにいたか。ちょっと来てくれ」
「本当にどうしたの? 顔色、悪いよ?
 白蓮の様子に不審に思った桃香が聞き返すと、白蓮は宮殿の方を指差した。政庁とは別に、皇帝が暮らしているはずの建物。
「何と言って良いかわからないんだが……ともかく来てくれ」
 桃香は宮殿を見る。一体何が起きたのかはわからないが、白蓮の様子は尋常ではない。この世でもっとも贅を尽くしたはずの建物に、何故か不吉なものが感じられるような気がした。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第十一話 桃香、世界の謎に触れ、勇将知将を幕下に迎える事


 建物の中はがらんどうだった。
「え……なに、これ?」
 桃香は思わず呟いていた。星も唖然とした様子だ。
「私たちが入った時には、既にこうだったのよ」
 曹操が言う。その横で、ようやく歩けるようになった袁紹も、不気味そうな表情をしていた。彼女たちは董卓を打倒した事を皇帝に伝え、拝謁するために来たのだが、そこは奇妙な空間と化していた。
「これは……どういう事ですの? 誰もいない……何もない」
 袁紹が言うとおり、宮殿の中は無人で、調度の類も一切置かれていなかった。そればかりか、部屋を区切る壁すらないのだ。床もむき出しの土で、桃香たちが来るまで誰もそこを踏んだ様子が無かった。
「まるで、映画のセットだな」
 一刀が辺りを見回して言う。
「それ、どういう意味だ?」
 馬超に聞かれ、一刀は答えた。
「俺の国の言葉で、見せ掛けだけ、っていう意味さ。しかし、本当にどうなってるんだ? 皇帝とか、その家臣とかがいるはずじゃないのか?」
 一刀の言うとおり、宮殿は皇帝の住まいであり、朝廷に仕える多くの高官、官吏たちが働く職場でもある。しかし、ここは全ての建物がこうした張りぼて同然であり、無人の状態だった。
「霞、貴女は何か知らないの?」
 曹操が同伴してきた張遼に尋ねた。彼女は首を横に振った。
「ウチも知らんわ。ウチだけやない。董卓軍の誰も、宮殿には入ったことが無いで。董卓ちゃ……様が相国の地位を貰った時も、宮殿から使いが来て伝えて行っただけやし」
 それを聞いて、袁紹が首を傾げた。
「そう言えば、わたくしも宮殿に入った事はありませんわね。上洛しても、我が袁家の屋敷に寝泊りするだけでしたし……」
「私もだ」
 孫権が言う。その表情は不愉快そうだ。不可解な謎が存在し、それを自分で解く事ができないのが面白くないのだろう。不愉快と言うよりは恐怖に近い感情だったが、桃香もその気持ちは理解できた。そして、孫権は言葉を続けた。
「ただ、何にせよ……これではまるで……」
 そこで、彼女は口を二、三度動かし、そして首を振ってその先を言おうとはしなかった。桃香も、白蓮も、星も、馬超も、袁紹も、その先にどんな言葉が続くのかはわかっていた。だが、恐ろしくてとても言えなかった。
 だから、言ったのは恐れを知らぬ人間だった。
「朝廷など存在しなかった。皇帝などいなかった。そう言う事ね」
 場に重苦しい緊張が立ち込める。恐るべき事実をあっさりと口にした曹操に、他の面々は息をするのも忘れたように立ち尽くしていた。無理もない。
 朝廷と言う機構、皇帝と言う権威があるから、国は成り立つ。それがこの世界に生きる人間の常識だ。
「そんな。わたしたちは、官位を貰った時に朝廷の使いに会っているのに……あれは……あの人たちは何だったというんですか?」
 桃香が青ざめた顔で言うと、曹操はさぁ? と肩をすくめ、続けた。
「あれが何だったのか、私にもわからないわ。ただ、現実を見るのみよ。ないものはない……ただ、それだけの事」
 重ねて、曹操は言った。朝廷と言う、この国を治めてきたものは、もはや存在しないのだと。権威が無い世の中とは、力が全ての下克上、弱肉強食がまかり通る乱世。その事を誰もが知っていた。ただ一人……一刀だけが、何でも無い事の様な表情で立っていた。ただ単に、彼はその恐ろしさをまだ理解していないだけだったのだが。
「……曹操さん、どこへ行くんだ?」
 いち早くその場を立ち去ろうと踵を返した曹操に一刀が質問できたのも、そのためだった。曹操はほう、と初めて一刀の事を少し好意的な視線で見ると、きっぱりと宣言した。
「国許へ帰るわ。董卓を打倒した以上、連合軍と言う枠組みは最早意義を失った。もうここにいる意味はないでしょう?」
 言い残して、曹操は宮殿を出て行った。続いたのは孫権である。
「私も帰るとしよう。曹操の言うとおりだ」
 続いて馬超も回れ右する。
「なんだかわかんないけど、帰ったほうが良いみたいだな」
 元々、彼女は父の名代である。難しい判断は父に任せたいのだろう。
「私たちも帰るか……本初、お前はどうするんだ?」
 白蓮が言うと、袁紹は顔を上げた。
「皆さん……帰ってしまうんですの?」
 どこか空ろな表情で言う袁紹。この宮殿での出来事が、よほどに衝撃的だったのだろうか。
「ああ。正直気味が悪いしな……あまり本拠を開ける訳にも行かない」
 白蓮が答えると、袁紹はしばらく考え込み、そしてやはり疲れたような声で言った。
「わたくしは、しばらくここに……洛陽に残りますわ」
「……大丈夫か?」
 白蓮が気遣うように言う。袁紹軍は虎牢関での大打撃で、一時は戦力が一万を切るほどの損害を受けたが、その後敗残兵を回収し、武器を新たに供与する事で、二万強までは兵力を回復している。しかし、文醜はまだ任務に復帰できないし、洛陽の治安を維持するのはかなり困難な状況のはずだ。
「大丈夫ですわ……わたくしの事は気にしないでくださいまし」
 袁紹はそう言って首を横に振る。白蓮はそうか、と言うと、後は黙って歩き始めた。桃香、星も後に続く。さらに一刀も続いて宮殿を出た。
「袁紹さん、なんだか凄く落ち込んでるように見えたけど……大丈夫かな?」
 桃香が言うと、白蓮がそうだなぁ、と答えた。
「本初の奴は、漢王朝の名家に生まれたことが一番の誇りだったからな……その漢王朝が幻のようなものだったと知って、動転してるんだろう。私だって頭がおかしくなりそうだ」
 それは桃香も同じだ。彼女は血筋としては傍流もいいところではあるが、漢王朝に連なる家の生まれと言うことになっている。もし漢王朝が存在しないのだとしたら、自分は一体何者なのだろうか?
 その時、少し離れて歩いていた一刀が言った。
「そんなに、気にするようなことかな? 漢王朝が幻でも、桃香さんも、公孫賛さんも、趙雲さんも……それに俺の仲間たちも、みんな幻なんかじゃない。確かにこうやって生きているじゃないか」
「北郷殿、それはそうかもしれんが、簡単に割り切れるようなものでもあるまい」
 星が言うと、一刀は苦笑混じりに答えた。
「いや……そうだな。俺にも気持ちは分からないでもないよ。何しろ、俺も自分が生きていた国、自分が生きていた時代から、はるか遠く離れたこの世界に、突然やってきたんだ。今まで自分が生きていた世界と切り離されたような不安感は、俺にも経験がある」
 桃香ははっとした。そう言えば、彼は「天の御遣い」なのだった。今桃香たちが感じている以上の困惑を乗り越えてきた人物なのだ。
「でも、俺はこうして生きている。例え違う世界へやってきても。それは幻なんかじゃない」
 桃香は一刀の言葉を飲み込み、しばらく考え……そして答えた。
「一刀さんの言う事はわかります。でも、一刀さんと同じように、わたし達も考える時間が必要だと思うんです。袁紹さんも」
 現実を受け入れ、この先どうするかを考える。それは簡単なようで、とても難しいことだ。一刀も頷いた。
「そうだね……実の所、俺もまだ完全に割り切っているとは言えない。何故この世界に来たのかもわからない。ただ、今は求められる事を精一杯していくしかないって、そう思ってるだけなんだ」
 一刀の役割……天の御遣いを演じ続けること。そこで、桃香は思った。この洛陽で起きた事件は、一刀を抹殺する事が最終目的だった。それはやはり、一刀の身の上に関係する事なのだろう。もしかしたら、一刀がこの世界に来た理由にも関係のある事かもしれない。
「……その事で、ちょっとお話があります。一刀さん」
「え?」
 真面目な顔つきになった桃香に、一刀は何か重大な話がある事を悟り、こちらも真剣な表情になった。
「実は……」
 桃香は董卓の正体と、彼女がまだ生きている事を除いて、今掴んでいる事実を一刀に話した。謎の白装束の集団の事。董卓はその傀儡でしかなかった事。彼らが妖術を操ること。そして、一刀の命を狙い、様々な謀略を巡らせているらしい事。すると、一刀は眉をひそめ「もしかして……」と言った。
「何か、心当たりでもあるのか?」
 白蓮が聞くと、一刀はああ、と頷いた。
「俺がこの世界へ来た時に、鏡を盗んでいる変な男と揉めたんだよ。もしかしたら、そいつも一味なのかもしれない。くそ、何だってんだ……?」
 桃香は首を横に振った。
「それはわからないんだけど……わたしも狙われたらしい形跡があるし。ともかく、身の安全には注意してくださいね。関羽さんや張飛さんもいるし、あまり心配はないと思うけど」
 一刀は頷いた。
「ああ。桃香さんも気をつけて。話が本当なら、何をするかわからない連中だからね」
「うむ、桃香様は私が守ろう」
 星が言うと、一刀はなら安心だ、と笑い、そして手を挙げた。
「じゃあ、俺はこれで……またいずれ会えるといいな」
 それは、桃香、星、白蓮ともに同じ気持ちだった。一癖も二癖もある諸侯たちの中で、安心して話ができるのは、この一刀くらいだ。
「ええ。気をつけて」
「またな、北郷」
「ご武運を」
 互いに手を振り合い、四人は別れた。一刀の姿が角の向こうへ見えなくなると、桃香は言った。
「じゃあ、私たちも帰ろう。この後世の中を、どう渡って行くか決めるために」
 そう、あまりのんびりはしていられない。既に曹操や孫権は、この世界を……王朝亡く、権威不在の下克上の世界を、どう渡っていくのか決めたようだ。桃香たちも動かねばならない。これから先は、生きて行くこと、生き延びようとする事が全て戦いだ。
 その前に、既に敗者となった者たちの処遇を決める必要がある。桃香たちは本陣へ向かった。
 
 本陣の、月と詠に貸した天幕に桃香たちが入ると、食事をしていた二人は顔を上げ、笑顔で会釈した。
「お疲れ様です、皆さん」
 月が言う。詠と一緒に囲んでいる卓の上に、食欲をそそる良い匂いを発する料理が並べられていた。
「あら、良い匂い……どうしたんですか? その料理」
 桃香が聞くと、月はちょっと照れたような表情で答えた。
「わたしが作ったんです。ちょっと竈をお借りして」
 白蓮がやはり匂いをかいで感心する。
「ほう、たいしたもんだ」
「これは店で出しても通用しそうですな」
 星も応じると、月はますます照れた表情になり、詠が我が事のように胸を張った。
「月の料理の腕は相当なものよ。ボクたちも、良く振舞ってもらったっけ……恋のやつが物凄く食べたりしてさ……」
 その顔が途中から懐かしそうな、あるいは悲しそうなものになったのは、かつて呂布、張遼、華雄も揃っていた頃の食事風景を思い出したからかもしれない。もう二度と帰る事はないだろう風景だ。
「あっ、良かったら皆さんも召し上がりますか? 少し余っちゃいましたから」
 月が雰囲気を変えようと、明るい表情を作って言う。桃香たちは顔を見合わせ、そして笑顔で頷いた。
「うん、喜んで」
「ご相伴に預かろう」
「では、戴こうか」
 少し詰めてもらって席を作り、五人はちょっと遅めの昼食をしながら、話を始めた。
「董卓が亡くなった、と言う話は、他の諸侯たちに納得してもらえた。お前たちが追っ手を受ける可能性は、もうあるまいよ」
 白蓮がチンジャオロースをつまみながら言うと、二人はホッとしたような表情になった。
「董卓殿がいた政庁は燃えてしまったしな。あれでは遺体が見つからないのも当然と言うことで……そういえば、あの貂蝉と言う踊り子は、一体どうなったのだろうな」
 メンマを肴に酒をちびりと飲んだ星が言うと、月も心配そうな表情になった。
「二人を助けてくれた人の事?」
 桃香が聞くと、星は頷き、そして笑顔を作った。
「まぁ、見るからに只者ではありませなんだゆえ、生きているとは思いますが。再開した暁には礼を言いたいものです」
「星が只者ではないと太鼓判を押すとは、相当な強者のようだな」
 白蓮が言うと、星は何故か口ごもった。
「あー……まぁ、そうですな。強者なのは間違いなく……」
 貂蝉の姿を知らない桃香は、何故星が言いにくそうにしているのかわからなかったが、とりあえずそれは本題ではないので置いておいて、月の方を見た。
「それで、董卓さん。貴女はもう誰にも追われる事はない自由の身。これからどうするの? 故郷に帰るなら、旅費ぐらいは出すけど……」
 桃香の言葉に、月は詠と顔を見合わせ、そしてきっぱりと答えた。
「その事なんですが、差し支えなければ、詠ちゃんをこちらの軍で雇っていただけないでしょうか?」

 意外な答えに桃香たちは驚いた。
「え? どういう事だ?」
 白蓮が言うと、月は微笑んで頷いた。
「はい……わたしは何もお役に立てないと思いますけど、詠ちゃんは凄い軍師ですから。わたしなんかが相国になれたのも、ほとんどが詠ちゃんの知恵ですし」
 もともと、涼州の片田舎の小さな勢力だった月は、黄巾の乱で苦しむ人々を救いたいと思い、挙兵を決意した。ただ、軍学も何もわからない彼女は、幼馴染みの詠にそれを相談したのである。以来、詠は智嚢を絞って多くの策を立案し、黄巾党を撃破し、洛陽入城を果たし、月を位人身を極めるところまで導いたのである。確かにその能力は軍師として傑出したものだ。もし仕官してくれるなら、とても魅力的だが……
「それじゃ、月はどうするのよ!?」
 血相を変えたのは詠だった。詰め寄る親友に、月は寂しそうな笑顔で答える。
「わたしは……何もできないもの。庶人になって、身の丈にあった暮らしが出来れば、それで良いよ」
「ダメよ!」
 詠は叫んだ。
「ボクは月以外の人に仕える気はないわよ! 劉備さんたちには月を助けてもらった恩もあるし、良い人だとは思ってるけど、ボクが忠誠を誓って支えるべき人は、月。月しかいないのよ!!」
 その君主冥利に尽きるような、詠の熱い忠義の言葉に、月は諭すように言った。
「それこそダメだよ、詠ちゃん。詠ちゃんの智謀は、わたしなんかには勿体なかったんだよ。だから、その力をわたしのために埋もれさせるなんて、絶対にダメ。劉備さんの下でなら、詠ちゃんは思い切り腕を振るえる」
「そんなの、関係ないって言ってるじゃない!」
 詠はどうしてわかってくれないのか、と言うように叫ぶ。
「ボクは智謀を振るうこと自体を楽しんでるわけじゃないよ……それで月の夢がかなって、月が喜んでくれるから……だからボクはいくらでも知恵を絞れた。月が天下から身を引くなら、ボクもそうする。ボクの望みは、月と一緒にいることなんだから……」
 そのやり取りを聞いていた桃香は、ああ、本当にこの二人は仲良しなんだなぁ、と思った。二人を引き離すなんて、とてもできそうもない。だから、桃香は白蓮に目配せした。白蓮も同じ事を考えていたらしく、咳払いを一つして、二人の注意をひきつけた。
「あー、聞いていて思ったんだが……そう言うことなら、二人揃ってうちに仕官する、と言うことでどうだ?」
「「えっ!?」」
 白蓮の言葉に、月と詠が揃って疑問の声を上げた。
「そうですな、それが一番でしょう」
 星も頷くと、月が顔を赤くして、あたふたとした態度で答えた。
「で、でもっ……わたしなんか、何のお役にも立てないですよ?」
 それには桃香が答えた。
「そんな事ないよ。董卓さんは、自分で街に出て人の暮らしを見て回ろうとしてたよね。それは、人々の事を決して忘れない、って言う意思の表れだよ。そう言う気持ちを忘れずに持ち続ける人には、良い政治をする才能があるんだよ」
 それに続くように白蓮が言う。
「だから、董卓。私は貴女を行政官として迎えたい。これだけの料理の才能があるんだ。食材の管理はお手の物だろうから、平時は兵糧の管理、戦時は補給の統括。そう言う仕事を任せたいと思っている」
 桃香と白蓮の賛辞に、月は真っ赤になっていた。どちらかと言うと自省的で、自分の能力に自信が無い性質の彼女は、こうして褒められることに慣れていないのだろう。
「賈駆さんはどう? 董卓さんが仕官するなら、一緒に仕官することに異存はないかな?」
 桃香は詠にも尋ねた。詠はしばらく考え、首を縦に振る。
「そう言うことなら……ボクとしては文句は無いわよ」
「で、でも」
 月がまだ何か言おうとした時、天幕の外から声が聞こえた。
「願ってもない話ではありませんか」
「えっ? 華雄さん?」
 桃香が声をかけると、入り口から華雄の長身がスッと入ってきた。まだ包帯は取れないようだが、数日前に較べると確実に顔色がよくなっていた。
「洛陽が落ちたと聞いて、董卓様たちがどうなったか、居ても立ってもいられず、こうして参った次第です」
 そう言うと、華雄は身を屈め、董卓と目線の高さを合わせた。そして、年上の女性らしく、優しい声で語りかけた。
 
「董卓様。董卓様は、私を登用されたときの事を、覚えておられますか?」
「華雄さんを?」
 聞き返す月に、華雄は笑顔で頷く。
「はい。あの時董卓様は、世に平穏をもたらしたいと、そう仰られましたね。武にしか能がなく、その武を振るう理由を見出せなかった私にとって、あなたの言葉は天啓のようでした」
 華雄の顔に懐かしさが浮かぶと、月も思い出したのか、微笑を浮かべた。
「そう言えば、そんな事を言いましたね……自分の器も弁えず、恥ずかしい話です」
「そんな事はありませんよ」
 華雄は首を横に振った。
「志を持つことは、恥ずかしい事ではありません。私は呂布と出会い、関羽に敗れ、張飛に采配でも破れ、己の武の矮小さを思い知らされましたが、それでも武を極めたいという志は捨てておりません。むしろ、今まで以上にその志に邁進する所存」
 そう言って、華雄は言葉をさらに続ける。
「董卓様も、敗れたからといって志を捨てる事はありません。志を同じくする相手に助力する、という形でも、それは果たせるのです。そして、劉備様は間違いなく、あなた様と志を同じくされるお方です」
「華雄さん……」
 月は華雄の言葉に目を潤ませ、唇を震わせていたが、やがて笑顔を浮かべた。
「ありがとう、華雄さん。華雄さんのおかげで、わたしは胸の痞えが降りたような気持ちです」
 そう言うと、月は桃香たちのほうを見た。
「わたしは無力でした。知恵は詠ちゃんに、武は華雄さんたちに任せきりで……だから、こうして負けた今、わたしはもう天下に関わる資格は無いんだって思ってました。でも、それは逃げだったんですね」
 月はそう言って笑った。迷いの無い、澄んだ笑顔だった。
「天下に平穏をもたらしたい。そう願った時の気持ちを、わたしは思い出せました。皆さんが同じ目的のために進むのであれば、末席でかまいませんので、わたしも仲間に加えてくださるようお願いします」
 桃香たちは顔を見合わせ、そして笑顔で月に手を差し出した。
「うん。歓迎するよ」
「これから頼むぞ」
「よろしくな」
 三人の手に、月のちいさな手が重ねられる。その上に、詠が手を置く。
「月が行くなら、ボクもお付き合いさせてもらうわ」
 五人の手が重なった所で、月が言った。
「ところで、世間ではわたしは死んだことになっているそうですが」
「あ、そう言えばそうだったね……」
 桃香が言うと、月は笑顔を浮かべた。
「そこで、わたしは名を変えようと思います。新しい自分に……真っ白な自分に生まれ変わったという気持ちを込めて、董白と名乗ろうと思います」
 それを聞いて、桃香は笑顔で頷いた。
「董白……うん、良いんじゃないかな。良く似合う名前だと思うよ」
 月はにこりと笑うと、正式に臣下としての礼を取った。
「という訳で、董白。真名は月と申します。そうお呼びください」
 え、と華雄が妙な声を漏らすが、それに気付いた様子もなく、詠が頭を下げる。
「ボクは賈駆文和。真名は詠。月ともどもよろしくね」
 まず桃香が満面の笑みを浮かべて答えた。
「うん。わたしは劉備玄徳。真名は桃香だよ。そう呼んでね」
「私は趙雲子龍。真名は星だ」
「で、最後に私が公孫賛伯珪。真名は白蓮。一応、この軍の頭首を務めている。よろしく頼むぞ」
 そう自己紹介が済んだところで、華雄が言った。
「……あの、もし良ければ、私も幕下に加えて頂けまいか?」
 何故か困った表情を浮かべる華雄に、白蓮が答える。
「それはもちろん歓迎するが……なんでそんな表情なんだ?」
 聞かれて、華雄は答えた。
「その……皆の真名を聞いてしまった以上、私も名乗らねばならないのだろうか、と」
 星は首を傾げた。
「まぁ、それが道理だろうな。何か不都合でもあるのか?」
 すると、月が言った。
「そういえば、華雄さんの真名は、わたしたちも聞いてないんですよね」
「うん。ボクたちが真名を名乗ろうとしたら、良いって止められたし」
 それは不思議だと思う桃香。主君と家臣の関係を結ぶにあたり、真名を預けあうのは。家臣にとっては主君からの絶対の信頼を、主君にとっては家臣からの絶対の忠誠を、それぞれ意味する名誉ある儀式である。これを拒否するのは、その後の君臣の関係において、あまり良い事とは言えない。
 さっきのやり取りを見ても、月と華雄が互いに信頼と尊敬を持っているのは間違いなく、真名を預けていないのは不自然にさえ思える。桃香は尋ねた。
「何か、事情でもあるんですか? 華雄さん」
 すると、華雄は観念したように首を振り、そして答えた。
「その……私の真名は、実は美葉と申しまして」
 名乗る華雄の顔は、真っ赤になっていた。
「美葉?」
 星が首を傾げると、華雄は赤い顔のまま答えた。
「ああ……やっぱりそう言う微妙な反応だよな……私みたいのが、美葉なんて可愛い真名……」
 すると、桃香が言った。
「ステキな真名じゃないですか」
 え? と顔を上げる華雄に、白蓮や月も口々に言う。
「何か変か?」
「そんな事無いと思いますけど……」
「うむ、悪くない」
「良いんじゃないの?」
 それを聞いて、華雄の目に涙が溢れる。子供の頃から男勝りで背も高かった彼女は、女性らしい真名の事でからかわれた過去があるのだ。だから、真名を名乗らず、自分の有り様に本当に相応しい名前は、華雄の方だと思い、そちらだけを名乗って真名は封印してきた。
 それでも、真名自体を憎んだり嫌ったりしたわけではない。どちらかというと、真名に似合わない成長をしてきた自分への劣等感のようなものが、華雄にはあったのだ。だから、真名が変ではない、と言われたことは、華雄にとっては涙が出るほど嬉しいことだった。
 華雄はその場に跪き、最初に真名を素敵だと言ってくれた桃香に深々と頭を下げていた。
「ありがとうございます……この華雄、劉備様に真名をお預けします。美葉を存分に貴女様の刃としてお使いください」
「うん、よろしくね。美葉さん」
 桃香は笑顔で頷いた。それを聞いて、星が凄みのある笑みを浮かべた。
「ほう。良き競争相手が出来たようだ……しかし、桃香様の一番槍の座は譲らんぞ」
 美葉が顔を上げ、星と視線を交わして笑みを浮かべる。その横で、白蓮は何か考え事をしていた。一方月と詠は美葉を立たせ、手を重ねてまた同じ陣営に属せた事を喜び合っていた。
 
 こうして「董卓の乱」は完全に終結を迎え、連合軍に属していた諸侯は、続々と本拠地へ戻っていった。公孫賛軍にとっては三千を超える死傷者を出す苦しい戦いだったが、洛陽を陥落させた武名と、月、詠、美葉と得がたい人材を三名も迎えられたことは、何よりの収穫だったと言えよう。
 董卓軍では、他に張遼が曹操軍に降り、その配下となった他、呂布が手勢を引き連れて逃亡。行方知れずのままである。月などは心配していたが、半年も経つうちに、呂布の行方など問題にならない事態が進行し始めた。
 対董卓戦の傷を癒した諸侯が、いよいよ活動を開始したのである。
 
 令支城の軍議の間には、緊迫した空気が漂っていた。各地に派遣している間者や偵探が収集してきた情報を、正式に軍師に就任した詠がまとめた結果が、全員に配られている。
「それじゃ、始めてくれ」
 白蓮が言うと、詠が最初の木簡を取り上げた。
「各地の諸侯……具体的には、曹操、孫権、それに北郷の各軍が行動を開始したわ」
「かず……北郷さんも?」
 ちょっと意外の感にとらわれて桃香は聞き返した。軍師の座を詠に譲った後、桃香は全軍を統括する大将軍の地位を与えられ、ここ半年間で再建・強化されてきた公孫賛軍、約五万を統括する立場についていた。
「ええ。と言っても、侵略ではないみたいね。南荊州の長沙郡の太守、黄忠が益州の軍に攻められたのを救援して、そのまま南荊州の大半を統治下においたみたい。これで、北郷軍は荊州のほぼ全域を支配したことになるわ」
 黄忠の名を聞いて、星が反応した。
「ほう、黄忠殿といえば、弓神曲張にも比肩すると言われる弓の達人ですな。長沙におられたのですか」
「去年までは、冀州の楽成城を治めていたんだが、冀州を袁紹が治めることになって、長沙に転封されたんだ。良い人で、私も幽州に来たばかりの頃は、よく相談したもんだよ」
 白蓮が答える。桃香は北郷軍に関する報告で気になったことを尋ねた。
「益州の軍が攻めてきた、と言うことだけど、益州は今どうなっているの?」
「簡単に言うと、内乱状態ね。有力な諸侯がいくて、酷い所では山賊崩れみたいなのが、太守でございと名乗っている所もあるそうよ。遠からず、北郷軍が侵攻・制圧するでしょうね」
 詠は澱みなく答えた。桃香は詠に軍師になってもらってよかったと、心の底から思う。荊州や益州と言った遠方の様子を掌握する情報収集能力は、桃香にはない。
「北郷軍はわかった。他の二軍はどうなんだ?」
 白蓮が聞くと、詠は頷いて曹操軍から報告を始めた。
「今回、一番派手に動いているのは曹操ね。涼州へ侵攻を開始したわ」
「涼州!? そんな……」
 月が表情を曇らせる。彼女も生まれは涼州だ。故郷が戦乱に巻き込まれると聞けば、平静ではいられない。しかし、同じ涼州の出の詠は、感情に流されることなく報告を続けた。
「馬騰は十万と号する大軍を集めて迎え撃つつもりらしいけど……たぶん勝てないわね」
「同感だ。涼州兵は攻めには向くが、守りに弱い」
 涼州兵でもある董卓軍を率いた美葉が、自分の経験に照らして、詠の分析に賛同を示した。異論が無いと見た詠は、孫権軍に関する情報に内容を切り替える。
「孫権軍は、江東全域の支配権を確立すべく、南征を始めたとの情報が入ってるわね。江東南部には、先々代の孫堅の代から、孫家に従わない土豪や江賊が根を張っているけど、それを一掃すれば孫家の権力は安定するでしょ」
 桃香は先の戦乱の事を思い出し、背筋に寒いものが走るのを感じた。連合軍の中でも大きな功績を挙げた有力な軍が、今後勢力を拡大し、ますます強大化していく……漢王朝と言う幻想亡き後の乱世を勝ち抜くため、彼らは休む事無く動き出したのだ。
「他には特に目立った情報は無し。しばらく洛陽に滞在していた袁紹が、本拠に戻った……ってくらいね」
 詠が報告を終えると、桃香は白蓮の方を向いた。
「今後、曹操さん、孫権さん、一刀さんは大きく勢力を拡大すると思う。わたし達としても、何らかの対策を練る必要があると思うよ」
 桃香の言葉を聞いて、白蓮は頷き、目を閉じて腕組みをした。頭首が考えをまとめるのを、一同がじっと見守る。やがて、白蓮は少し緊張した面持ちで目を開いた。口が息を吸い込むように、二、三度パクパクと動き、そして白蓮は話を切り出そうとした。
「そうだな。少し前から考えていたんだが――」
 しかし、白蓮の言葉は戸を激しく叩く音で遮られた。美葉が目を吊り上げて言う。
「何事だ! 軍議の最中だぞ!!」
 重要な会議を邪魔するなど、どれほど叱責されても済まない行為である。しかし、返ってきたのはそれをわかった上での、極めて緊迫した声だった。
「承知しております! 一大事です!!」
「わかった、入れ」
 白蓮が答えると、一人の文官が血相を変えて飛び込んできた。そして、彼は一同に恐るべき事態を告げたのだった。
「袁紹が、皇帝の地位に就いたと宣言! 我々にも臣従を命じてきました!!」
「なん……だと……?」
 友人の暴挙と言うべき行為に、白蓮の顔色が紙のように白くなる。驚いたのは桃香も同じだった。
「こ、皇帝に……って……袁紹さん、何を考えているの……!?」
 半年前、宮殿で別れた時の袁紹を思い出し、一体何が起きたのか、桃香は訳がわからなかった。唯一つわかる事は……
 再びの戦雲が、早くも自分たちも巻き込もうとしている。それだけだった。
(続く)


―あとがき―
 と言うことで、月、詠、美葉(華雄)が仲間に加わりました。華雄の真名はもちろんオリジナル。本来「華雄」と言うのは誤植で、正しくは「葉雄」と言う名前らしいので、「葉」のつく真名にしようと思い、それも出来るだけ可愛らしい、ギャップのあるものを、と考えた結果がこうなりました。
 戸惑うかもしれませんが、美葉とあったら「ああ、華雄の事だな」と脳内変換してお読みください。活躍させられると良いなぁ。
 月の新しい名乗り「董白」は、史実における董卓の孫娘の名前。某カードゲームでは美少女武将として登場するので、ご存知の方も多いはず。なお、この名前変更は特に伏線があるわけではなく、ネタです。文中では今後も「月」と書くので、美葉よりは戸惑いは無いと思います。
 次回より、対袁紹戦開始です。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十二話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/08/18 18:21

 ドカドカという荒々しい足音と共にやってきた左慈を見て、于吉は微笑んだ。
「どうかしましたか? 落ち着いてください、左慈」
「これが落ち着いていられるか!」
 左慈は怒鳴った。
「董卓を巡る戦いで、北郷の奴を殺すんじゃなかったのか!! それなのに、あいつはまだ生きていて、勢力まで拡大してるじゃないか!!」
 于吉は左慈がますますキレそうな、余裕のある口調で答えた。
「なんだ、その事ですか。いささか邪魔が入りましてね。ですから、その反省を元に、もう少し状況を単純化した上で、新たな罠をはっている所です」
「新たな罠だと? あの娘の事か」
 左慈は聞いた。于吉は頷いて、傍らの将棋盤の上に置かれた駒を取り上げると、別の駒と対峙するように置く。
「その通り。間もなく、彼女は抵抗の象徴に祭り上げられるでしょう。そうすれば、もう彼女に枷はありません。北郷軍を必ず打ち倒すことでしょう」
 しかし、于吉の言葉は、左慈には大して感銘を与えなかったようだった。
「北郷の軍も決して弱くはないぞ。勝ってしまったらどうする?」
 于吉は左慈の冷たい言葉にも、眼鏡を押し上げ嬉しそうな笑みを浮かべて言う。
「それならそれで構いません。勝っても傷は深いはず。その弱体化した北郷を、二人の覇者が見逃すはずはありませんからね」
 于吉は、駒を二つとって、置き直す。最初に移動させた駒と対峙する駒、それを囲むような配置だ。
「曹操と孫権か……確かにな」
 左慈は言った。まだ完全に納得できないようではあったが。そこへ今度は于吉が質問を投げる。
「北郷は良いでしょう。それより、例の物は彼女の手に渡る様にしてくれましたか?」
 左慈は頷いた。
「あのバカ女の所だったな。あれも良く踊ってくれたが……もう不要の駒か」
「そう言う事ですね。この世界には“袁術”がいませんから、彼女に代わりになって消えてもらいます」
 そう言うと、于吉はまた駒を一つ摘み上げる。よく見ると、それは将棋の駒ではない。各勢力の牙門旗の模様を書き込んだものだった。于吉は知的な容姿に似合わぬ、肉食獣のような笑みを浮かべると、手にしたばかりの「袁」の駒を握り潰した。
「これで、正史にあわせた修正が一つ済みました」
 用済みと言う言葉を裏付けるように、于吉は駒の破片を投げ捨てる。しかし、その破片の一部がどこからともなく吹いてきた風に流され、盤の上に残った。
「む、これは……?」
 于吉はその破片の並びの意味を読み取り、顔をしかめた。
「……彼と言うべきか彼女と言うべきか……また、私たちの邪魔をしますか。左慈。アレの相手は頼みましたよ」
 于吉が言うと、左慈は嫌そうな顔をした。
「そう言うことばかり俺に押し付けるかよ……まぁいい。この際、きっちりとヤツを殺しておく機会かも知れんな」
 言って姿を消す左慈。運命を弄ぶ者の手のひらの上で、歴史は加速されようとしていた。


恋姫無双外史・桃香伝

第十二話 桃香、偽帝と対峙し、群雄は覇権のために起つ事


 袁紹の皇帝即位宣言、と言う衝撃的な知らせは、軍議の間の桃香たちを静まり返らせていた。そうした中、袁紹からの手紙を渡された白蓮は、じっとそれに目を通していたが、やがてため息をついて手紙を机の上に投げ出した。
「白蓮ちゃん、なんて書いてあったの?」
 桃香が聞くと、白蓮は手紙の一節を指さした。
「本初は、洛陽で伝国の玉璽を手に入れた、と言ってる。それが、自分に皇帝になれと言う天の声なんだと」
「伝国の玉璽……あの、皇帝しか使えないと言う?」
 月が言うと、白蓮はそうだと頷いた。
 伝国の玉璽とは、秦の始皇帝が作らせ、代々の皇帝が用いてきたと言う、皇帝専用の印鑑である。まさに皇帝を象徴する宝物であり、それを手にする者こそが皇帝である、と言う証の品だった。
「その証拠に、この手紙には確かに玉璽が捺してある」
 桃香たちは袁紹の署名の後に捺してある印を見た。それは、確かにかつて桃香の元に届けられた校尉に任じると言う辞令に捺してあったのと、同じものである。
「……こんなの、いくらでも偽造が利くと思うけど?」
 詠が言うと、桃香は首を横に振った。
「そうかもしれない。でも、証明する方法は、実際に袁紹さんの持っている玉璽を見ないと、何とも言えないよね」
「見てわかるのか? 私たちは本物を見た事はないんだぞ。そもそも……本物なんてあるのか?」
 がらんどうの宮殿の光景を思い出して白蓮が言うと、桃香は頷いた。
「わかる方法があるの。ここでは言えないけど……」
 それは、彼女の家……靖王家をはじめ、漢王朝の縁戚筋には必ず口伝で伝えられている事で、玉璽は取っ手である龍の細工物の、角の部分が折れているのである。かつてある反逆者が玉璽を渡す事を要求して来た事に対し、激怒した時の皇帝が反逆者に玉璽を投げつけ、角を折ったと言う。
 この事は巷間に伝わっていないため、仮に玉璽を偽造するものが居ても、その角によって発覚すると言われている。だが、詠がきっぱりと言った。
「玉璽の真偽、なんて問題じゃないわよ。袁紹の皇帝位を認めるか認めないか。ボクたちにとっての問題はそれだけじゃない」
 漢王朝に実体がなく、すでにそれを群雄のほとんどが知っている今、皇帝を誰が名乗っても反逆ではない。大義名分など必要ないのだ。
「そう言う意味では、袁紹はむしろ今の情勢を正確に理解している、と言えるかもね。でも、少なくともボクは袁紹が皇帝なんて認めない」
 詠には連合軍を結成し、何の罪もない自分たちを悪人に貶めた挙句、攻め滅ぼした袁紹への恨みはもちろんある。だが、彼女が袁紹を認めないと言うのは、ただの怨恨のためではない。
「袁紹には皇帝たる器量はない。もしあるのなら、連合軍が洛陽を制し、漢王朝が消えた時点で、皇帝になってしまうことも出来たはずよ」
 それを聞いて、白蓮は苦笑した。
「手厳しいな。あの時、自分が皇帝になる、と言い出せる人間はいなかったんだ。曹操でさえやらなかった」
 仮に実行していたら、その場で他の諸侯に袋叩きにされて滅ぼされていただろう。
「ま、もっとも、本初に皇帝の座は似合わない、と言うのは同感だな」
 白蓮は組んだ手に顔を乗せ、昔を懐かしむような表情をする。
「本初は……誇りが強すぎる。名家である事を誇るあまり、自分がそれに相応しい人間であろうとする努力が足りない。名家の血は当然の如く、自分にそれに相応しい能力を与えてくれると、そう信じているんだ」
 まだ白蓮と袁紹が幼かったころ、馬術や武芸、学問に励む白蓮に、袁紹は聞いて来た事がある。なぜ、名家の人間がそんな事をするのか? と。公孫家の跡取りに相応しい人物になりたいからだ、と答えても、袁紹はその意味を理解できないようだった。けっして、根っからの無能でも馬鹿でもないのに、と白蓮は悲しそうな表情をする。
「本初が皇帝などと名乗っても、今度はあいつが連合軍による袋叩きの対象になるだけだろうさ。そして、あいつにそれを食い止める器量はない」
 白蓮が言う。しかし、桃香はある事に気付いた。
「うん……でも、袁紹さんは、ある意味今しかない、と言う時期に皇帝を宣言したと思うよ」
 白蓮、月、美葉がどう言う事だと聞きたげに桃香を見ると、詠がその理由を話し始めた。
「そうね。曹操、孫権、北郷と、有力諸侯が一斉に自分たちの戦をはじめた今、袁紹軍は彼らの邪魔を受ける事はないわ。むしろ今危険なのはボクたちよ」
「そうか、袁紹は我々を敵と定めたと言うわけか」
 星が頷く。今袁紹の周りでどことも戦っていないのは、公孫賛軍だけだ。そして、公孫賛軍は袁紹に攻められたとしても、どこにも援軍を求められない。
「しかし……袁紹としては、空き巣狙いで曹操や孫権の領土を攻めるほうが、簡単なのではないか?」
 美葉が言う。今なら確かに曹操も孫権も隙を見せているように思える。しかし、それは詠が否定した。
「曹操も孫権も、背後をがら空きにして袁紹に隙を見せるほど馬鹿じゃないわ。袁紹との勢力の境目には、それぞれ有力な武将が入って守りを固めてる」
「それに、袁紹さんは皇帝を名乗った以上、空き巣狙いなんてみっともない事は出来ないんじゃないかな。正々堂々とわたしたちを攻めてくると思うよ」
 桃香も言い添えると、美葉は納得した。そこで白蓮が言った。
「ともかく、本初の奴も……仮に本初がその気でも、顔良あたりなら、皇帝を名乗った所で、素直に従う奴なんて一人もいないって予測は付くさ。確実に、私たちと戦う準備はしているはずだ」
「問題は、どう戦うかだ」
 星が言う。
「袁紹は虎牢関で大きな損害を受けたが、それでも十万から十二万の兵力を動員できるはずだ。一方、わが軍は……」
 星が月をちらりと見ると、彼女は兵站総監としての役割で把握している数字を答えた。
「今のところ……私たちが持っている兵隊さんは、五万くらいです……兵糧は、半年分は備蓄できてます」
「半分かぁ……また、苦しい戦いになりそうだね」
 桃香が天を仰ぐ。
「とすると、やっぱり相手を懐に引きずり込んで、兵糧を断ってから攻撃する、って言う戦法でいくしかないかな」
 すると、詠が質問してきた。
「桃香さん、それは張宝軍を殲滅した時の戦法よね?」
 桃香が頷くと、詠は首を横に振った。
「柳の下に二匹目のドジョウはいない。それが戦策の常識よ。ボクも含め、たいてい軍師をする人なら、桃香さんのその戦法は研究しているし、それを破る方法も考えついてるわ。ボクでも十種類くらいはね。顔良もたぶん思いついているわよ」
 あう、と桃香は項垂れる。確かに同じ戦法に頼ろうというのは芸が無さ過ぎる。すると詠が言った。
「ん、でも自信持って良いわよ、桃香さん。みんなが研究するって事は、それだけ優れた策である、って証拠だからね」
 あとは、その成功例を基本に、どれだけ応用を利かせるか、と言うのが腕の見せ所だと詠は言い、一例を挙げた。
「例えば、基本は敵を城に追い込んでおいて封じ込めるわけだけど、谷間や湿地帯のような大軍の運用しにくい場所でも良いし、川を渡らせておいて、背後を閉鎖するというのもありね。ただ、今回はこの作戦は使えない。理由はこうよ」
 詠は右手を上げ、地図上の曹操領と孫権領を叩いた。
「今回は確実に、しかも速攻で勝つ必要があるわ。長期戦化させて、ボクたちと袁紹の双方ともに疲弊するのは、この辺の連中に漁夫の利を狙ってくれと言っているのも同然よ。できれば一戦で袁紹軍を殲滅するのが理想ね」
 詠の挙げた理想は、恐ろしく困難なものだった。星が苦笑しながら言う。
「言いたい事はわかるが、それは無茶だろう」
 ところが、詠は自信ありげにニンマリと笑って見せた。
「無茶じゃない……って言ったら、どうする?」
 全員の視線が詠に集中した。
「やれるのか?」
 白蓮が聞くと、詠ははっきりと頷き、その策について語り始めた。そのあまりに大胆な内容に、思わず桃香は唖然とする。自分では絶対に思いつかないような策戦だ。
(すごい……これが本当の軍師。わたしはどうしても考え方が守りに傾いてしまうから、こういう発想は出来ないなぁ……)
 攻勢作戦についても策を立てられる詠と言う軍師を得たことは、公孫賛軍にとって幸いな事だっただろう。すると、桃香の感嘆の視線に気付いたのか、詠は照れたように顔を赤くして言った。
「この作戦は、時間との勝負になるわ。急いで準備して。少なくとも三日以内には始められるようにしないと」
「よし、わかった。全員、詠の策に従って行動開始だ。皆、頼んだぞ」
 白蓮が決断し、全員が立ち上がる。これから数日は、寝る間もないほど忙しくなるだろう。しかし、ふと桃香は袁紹即位の報せが届く前、白蓮が今後の大方針について話そうとしていたことを思い出した。今、それを聞いておいたほうが良いのではないか、と考える。その大方針に合うように対袁紹戦を終わらせる事も重要だからだ。
「そうだ、白蓮ちゃん、ちょっと聞きたい事があるんだけど……」
 桃香は白蓮を呼び止め、その事を話した。他の面子も、白蓮が何を言いたかったのかには興味があるらしく、足を止めて二人の様子を見る。すると白蓮は首を横に振った。
「いや、それはこの戦いが終わってから話すよ。他はいざ知らず、本初の奴を止めるのは、一応は友人である私の仕事だろうと思うからな」
「……そう?」
 桃香は首を傾げたが、白蓮がそう言うならと、この話はとりあえず頭の片隅に追いやっておく事にした。
 
 袁紹軍の本拠、業。冀州の中心都市でもあるこの街には、今や十万を越える兵士が集結しつつあった。その城壁の上で、顔良は下級武官が持ってきた書類を受け取っていた。
「顔良将軍、兵糧の輸送状況の書類です。ご確認をお願いします」
「はい、お疲れ様」
 顔良の労いの言葉に、書類を持ってきた武官が、嬉しそうな笑顔を浮かべる。相手に安らぎを感じさせる、柔らかな美貌と澄んだ声の顔良は、他の武官や兵士たちからは密かに「癒し系」と呼ばれ、高い人気を誇る。袁紹ではなく、顔良のために命を賭けて戦うと主張する者も珍しくない。
 そうやって他人にやる気を起こさせる能力に長けた顔良だが、今の彼女には笑顔と言うものが見られなかった。
(兵数は十分……心配した反乱の兆候も見られない。でも、この戦いに大儀があると言えるのかしら?)
 彼女を気鬱にさせているのは、言うまでもなく主君である袁紹のこのところの言動だ。洛陽陥落前に呂布にもう少しで討ち取られそうになったことで、戦場恐怖症にかかりかけていた袁紹だったが、冀州へ戻ってきて以来、その言動は以前と同じく自信に満ち溢れたものとなっている。
 いや、あれは自信と言うよりは過信の域だろうと顔良は思った。その元凶は……
(やっぱり、あれだよね)
 顔良は、袁紹が「あれ」を持ち帰ってきた日の事を思い出した。
 
 その日、洛陽市街の警備を終えて帰ってきた顔良を、袁紹は呼び止めた。
「顔良さん、これを御覧なさいな」
「え? なんですか? 姫」
 顔良が、目の前に差し出された袁紹の手のひらに乗った、黒い小箱を見る。装飾品を入れておくのにちょうど良さそうな大きさだが……
「ん? 姫、まさかあたいの斗詩に結婚指輪でも送ろうってんじゃ……いくら姫でもそれだけは許さないぜ?」
 そこに、数日前からようやく傷が癒えて復帰を果たした文醜がやってきて、話をややこしくする。すると、袁紹は怪訝そうな顔になった。
「なんで、わたくしが顔良さんに指輪を送らなきゃいけないんですの? 中身はこれですわよ」
 袁紹が苦労知らずのお嬢様らしい、白魚のような指で小箱を開ける。途端に、眩しい光が顔良と文醜の目を打った。
「きゃっ……なんですか、これ?」
「おー、なんか知らないけどすっげぇ綺麗なモンじゃないですか」
 二人の目が慣れてくると、その光源は、半透明の淡い碧色の素材で出来た、美しい小さな彫像だった。ほぼ正方形の台座の上に、精緻な龍の彫刻が載っている。文醜は無遠慮にそれを手に取った。
「おおー……これはすっげぇなー……」
 普段はこうしたものにあまり興味を示さない文醜が、魅入られたようにそれを見つめる。が、横から袁紹がそれを取り返した。
「文醜さん! そう気安く触るものではありませんわよ!!」
「えー、姫のケチー」
 怒る袁紹と口を尖らせる文醜。この二人には珍しくないやり取りであり、何時もならそれを笑って見ている顔良だったが、その時の彼女は全身を訳のわからない衝動に駆られて震えていた。
「お? どーした、斗詩」
 異常に気付いて声をかけてくる文醜。それを無視して、顔良は主に聞いた。
「姫……それは、それはまさか……?」
 袁紹は頷いた。
「そう、顔良さんは気付いたようですわね。それこそ伝国の玉璽ですわ」
「そんなものを、一体どこで……」
 それに本物なのか、と顔良は聞こうと思ったが、少なくともこの精緻な出来と、先ほどの光はただ事ではない。玉璽は皇帝の象徴だけに、奇跡のような出来事を起こすとさえ言われている。もちろん、それは袁紹も知っているから、この玉璽は本物だと確信していた。
「街を巡回中に、庶民が偶然見つけたものだといって、わたくしに献上して来たのですわ」
 袁紹はそう言って、玉璽を箱にしまうと、顔良に笑顔を向けた。その瞬間、顔良は嫌な予感をひしひしと感じる。袁紹がこの笑顔を見せたときは、たいてい何か面倒なことを思いついた時であり、その後始末は顔良が一手に引き受ける羽目になるのだ。
 そして、この時もその嫌な予感に外れはなかった。いや、予感以上に悪かった。
「顔良さん、登極式の準備をなさいな」
「……はいっ?」
 顔良は聞き返していた。登極式とは、皇帝になるための儀式である。袁紹は笑顔のまま続ける。
「ですから、わたくしの登極式ですわよ。こうして玉璽がわたくしのもとにやってきたと言うのは、わたくしに皇帝になれ、と言う天の声に違いありませんわ」
「ちょ、ちょっと待ってください、袁紹さま!」
 顔良は慌てた。今の時勢で登極式をするなど、今度は自分たちを対象として連合軍が組まれると言う事態を招くのに等しい。曹操など、喜び勇んで同盟を組織し、全力で洛陽に攻めてくるだろう。そう言った情勢分析を顔良は懸命に袁紹に語ったが、主はなかなか理解してくれようとしなかった。
「どうして、新皇帝たるわたくしに、皆さんが逆らうんですの?」
 危機感の欠片もない口調で言う袁紹に、文醜が同調する。
「そうだぜ、斗詩ぃ。皇帝って一番偉いんだろ?」
 脱力感を覚えつつ、顔良は主をどう説得するべきか頭を巡らし、そして一つの策を思いつく。
「……わかりました。登極式の準備はしましょう。ただ、こう言う事は吉凶を正確に見定めることが大事です。国一番の占い師に頼んで、もっとも登極式に適した日と場所を選ばせましょう」
 それを聞いて、袁紹は露骨に嫌そうな顔をする。
「そんな面倒な事をしなければいけないんですの?」
「もちろんです!」
 顔良はそう言って、様々な故実を引いて、吉凶を占うことの大事さを説き、どうにか袁紹にそれを認めさせたのだった。袁紹から全てを任せる、と言う言質を取り付けた顔良は、登極式を行うのに最良の時期は何時か、と言う事を考えはじめた。
(……他の群雄の人たちが動き始めた時。とりわけ、曹操さんの動きを一番注目すべきね)
 皇帝になるにしろならないにしろ、袁紹にとって最大の宿敵となるのは、やはり曹操だ。王朝と言うある意味枷となる存在がなくなった今、曹操は間違いなく自分の覇道を突き進みはじめるだろう。
 顔良は自分が曹操なら、どの方向へ向けて勢力を拡大するか、と考えてみる。中原の徐州、豫州、宛州を抑えている曹操は、海のある東以外、西南北のいずれの方向にも侵攻出来る立場にある。
 まず、北は自分たち袁紹軍の勢力圏……まず、こっちは選ばないだろう。今曹操と袁紹の勢力はほぼ互角であり、戦えば無傷では済まない。
 南の楊州……孫権軍はどうか。これもない。孫権軍は頭首である孫権と、軍師であり大宰相である周瑜の間に対立があると言うが、敵に対しては団結するはず。簡単に潰せる様な勢力ではない。
 西は、最近北郷軍によってまとまりつつある荊州。これはかなり可能性が高い侵攻先だ。北郷軍は完全に荊州を抑えきっておらず、今なら攻めやすい。荊州を完全に制されたら、かなり倒しにくい勢力に変化するだろう。
 西にはもう一つ、涼州の馬騰軍も存在する。これも狙い目の一つだろうか。馬騰は一代の英傑だが、連合軍には娘の馬超を名代として派遣してきたように、最近は健康に不安があり、全盛期の実力を発揮できない。
 となると、恐らく曹操軍は西進し、荊州か涼州を制圧する道を選ぶだろう。
(曹操さんが動いた時。これ以外に、麗羽さまが皇帝を名乗る時期はないわ)
 顔良はそう確信した。袁紹を登極させた上で、曹操以外の勢力を取り込み、最終的には彼女を打倒して、天下統一を目指す。これが最良の戦略だろう。
「問題は、他の群雄の人たちが袁紹さまの皇帝登極を認めてくれるか……よね。一応、大義名分としての玉璽はあるけど……」
 そう口に出してみて、顔良はその難しさを思った。唯一、袁紹の数少ない友人である、公孫賛だけは認めてくれるかもしれない。でも、他の群雄は無視しそうな気がする。顔良はいかに敬愛する主君とは言え、袁紹の器量が世間でどう評価されているかは知っていた。
 ただ、それは虎牢関でまともに呂布に対抗できず、軍を壊滅させられてしまった自分にも責任のあることだ、と顔良は思っていた。だから、自分にできる事は、皇帝になって天下統一を目指すと決意した主君を、どこまでも支えることしかないと彼女は決意していたのである。
 
 あれから半年。都の占い師に予め言い含めておくことで、「曹操が動いた時が登極式の好機」と解釈しうる卦を出してもらった顔良は、軍を再建しつつ、その好機を待ち続けていたのだ。
「長かった……姫様に何度せっつかれたことか」
 その忍従の日々を思い出し、ため息をついた顔良だったが、ともかく群雄たちは動き出し、いよいよ待ち望んだ機会がやってきた。袁家に仕える文武百官を集め、登極式を済ませた袁紹が有頂天になる中、顔良は次なる戦略を模索していた。まず、皇帝即位を知らせる書状は、各地の群雄諸侯に送りつけてある。
 そして、袁紹が無視された時、まず「討伐」すべき相手は、公孫賛だろうと顔良は思っていた。と言うより、他に選択肢が無い。袁紹の勢力圏が隣接しているのは曹操と孫権、公孫賛の三勢力で、その中で最弱なのは公孫賛である。
「公孫賛さまなら、兵力自体は私たちの半分も集められるかどうか。できれば、抵抗せずに袁紹さまに従って欲しいけど。問題は……」
 我ながら酷い事を言ってるな、と思いつつ、顔良は公孫賛軍に警戒すべき点があるとすれば、人材の層の厚さだと考えた。まず公孫賛自身が「白馬長史」の異名をとる名将だし、彼女の片腕と言うべき劉備と趙雲も、自分たちを一蹴した呂布と互角に戦った強者だ。
 さらに、最近では旧董卓軍の華雄と賈駆が加わっている。特に賈駆など、できれば袁紹軍で迎えたかったほどの逸材である。世間では董卓の片腕として暴政を行った一人などと言われて、嫌われている面もあるが、曹操もやはり元董卓軍の張遼を召し抱えて、平然としている。能力さえ提供してくれるのなら、過去を気にするつもりは無い。
 もっとも、悪人でも何でもない董卓を極悪人と宣伝し、連合を組ませたのは袁紹の元で顔良も加担した事なので、賈駆を招聘できる可能性は、殆ど無かっただろうが。
 ともかく、向こうに名軍師として知られる賈駆がいる事は、顔良にとっては懸念材料の一つだ。彼女の手腕を封殺するには、袁紹軍の優位――兵力の多さを活かし、敵を野戦に引きずりこんで殲滅するのが一番だろう。
 それ以前に、公孫賛軍に抗戦を断念させるため、顔良は登極式に合わせ、全軍を業に集結させていた。総兵力、実に十二万五千。曹操領や孫権領への備えに置いている、州境の守備部隊を入れれば、全兵力は十八万を越える。この大軍を持って、公孫賛を威圧するのだ。
 これで抵抗を断念し、降ってくれるなら良し。あくまでも抵抗するなら、容赦なく討ち滅ぼし、河北四州を手中に収めることで、曹操を凌駕する大勢力を築く。
(公孫賛さま、ごめんなさい……乱世の習いと思って許してください)
 顔良は集まって来た大軍を見ながら、心中で公孫賛に詫びた。彼女は個人的には公孫賛に好意を持っているし、尊敬もしている。だが、それは袁紹に対する忠義の念に勝るようなものではなかった。
「麗羽さまも、私も、乱世に向けて一歩を踏み出してしまった。もうこの先には、勝ち続ける修羅の道しかない……迷っちゃだめ、私。麗羽さまの望みをかなえるのが、私の役目なのだから」
 顔良がそう自分に言い聞かせた時、彼女は北の方から街道を突っ走ってくる一騎に気がついた。伝令を示す黄色い旗を掲げたその騎乗士は、何かに憑かれたような速度で城に近付いてくる。顔良は何か妙な胸騒ぎを感じた。
「私は伝令の報告を受けてきます。後をよろしくお願いします」
 近くにいた武官にそう声をかけ、顔良は急いで城壁を駆け下りた。ちょうど、さっき見た伝令が城門を潜り抜けて、馬を止めようとしている所だった。
「何かあったんですか?」
 顔良の声に、伝令は馬から飛び降りると、その場に跪いて報告した。
「一大事です! 易京城が……!」
 その報告を受けた顔良の顔は、見る間に青ざめて行った。
 
 冀州北部、幽州との境近くにその城はあった。かつて北方から侵攻する異民族を迎撃するための拠点として建設された、天下有数の大城塞、易京城。百万の兵に包囲されても持ちこたえる、とさえ言われた堅城である。今回の袁紹軍による対公孫賛威圧作戦においては、拠点として使われる予定になっていた。
 しかし、今その城壁には、公孫の牙門旗が無数に翻っていた。
「本当に簡単に陥とせちゃったね……」
 城壁の上に立っていた桃香が言うと、星が応じた。
「劣勢の我々が攻めてくるはずが無い……そう油断しきっていたようですからね。敵の心理を完璧に読みきるとは、さすがは詠と言うべきですか」
 袁紹の皇帝即位宣言に対し、それを認めず徹底抗戦する、と決した白蓮に詠が提示した作戦の第一弾が、この易京城の奪取だった。本隊が来る前で、二千ほどの僅かな守備隊しかいなかった易京城は、桃香率いる三万五千の軍勢の前に、あっさりとその主を変えていた。
「桃香様、捕虜の収容は終わりました。尋問した所では、伝令は業に向けて出たと言うことです」
 そこへ美葉がやってきて報告する。本来、こちらの行動を秘匿すると言う軍事行動の原則から言えば、伝令が逃れてしまったことは、歓迎すべきことではない。しかし。
「うん、詠ちゃんの立てた予定通りだね。あとはここで袁紹さんが来るのを待つだけだね」
 桃香は今のところ計算通りに事態が展開していることに、安堵の表情を浮かべていた。この城を手に入れることが、最大の障害だったのだが、それを達成した事で策は最大限の効力を発揮できる。
「まぁ、それが問題ではありますがね。偵探の報告によれば、袁紹軍は二十万を号する大軍。実数は十二万程度と言うことですが、わが軍の四倍近い」
 星が言うと、桃香は頷いた。
「そうだね。気を抜いてる場合じゃなかったわ。罠の口が閉じるまで、ここで粘らなきゃ」
「まぁ、それほど心配は要りますまい。私はともかく、詠は連合軍との戦いを通じて、大軍にどう対処するか、と言う策を色々考えたはずです。詠の策なら心配は要りませんよ」
 美葉の言葉に、桃香と星が頷く。河北四州の覇権をかけた戦いは、こうして公孫賛軍の先制点で始まった。
 
 その頃、遠く離れた益州でも、新たな戦いが始まっていた。
 かつて春秋・戦国の時代に蜀の国があった益州は、険しい山地の中に長江とその支流に面した肥沃な盆地が点在する土地で、それ故に昔から盆地ごとに軍閥が乱立しやすい宿命を背負った土地だった。
 黄巾の乱以降の社会混乱の中、益州は再び乱れ、分裂し、各郡の太守や、それに取って代わった地方豪族、さらには黄巾の残党なども流入し、事実上の内乱状態に陥っている。その一部は益州内部だけでなく、荊州にまで侵攻しており、特に南荊州は激しい略奪をうけ、街や村が焼かれるなど、酷い有様になっている。
 その蜀へ通じる、険しい山岳地帯の中の桟道を、北郷軍の十文字の牙門旗を掲げた軍が進んでいく。一刀は荊州の民からの訴えを受け、荊州全域の保護と、混乱の元凶である益州の平定を目指して兵を挙げたのだった。
 これにより、一刀はそれまでの北荊州五郡に加えて、中~南部荊州の八郡を支配下に置き、事実上の荊州太守となった。動かせる兵も五万近くまで増えている。現在は先陣に二万の兵を与え、三万の本隊と共に進軍していた。
 その先陣が向った前方から一筋の煙が上がるのを見て、一刀は言った。
「どうやら、愛紗と朱里は首尾よく城を落としたみたいだ」
 それを聞いて、一刀の横で馬を進める一人の女性が、たおやかな笑みを浮かべて言う。
「愛紗ちゃんたちなら、容易くやってのけるはずですわ。もっと信じておあげなさい、ご主人様」
 彼女の名は黄忠。真名は紫苑。つい先日、北郷軍に加入したばかりの、長沙の太守である。先の董卓の乱では中立を保ち、南荊州の保護に努めたが、一人ではいかんともしがたく、北郷軍の傘下に収まる事を決断した。
 弓の達人で優れた武人であると同時に、太守らしく内政にも優れた手腕を発揮しており、一刀の仕事の負担を大いに軽減してくれるありがたい人物である。また、大人の女性らしい気配りもできて、年下でも軍では先達になる愛紗や鈴々を立てることを忘れない。
「紫苑の言うとおりなのだ。お兄ちゃんは心配性すぎるのだ」
 鈴々も紫苑に続いて言う。彼女から見ると、紫苑はお姉さんと言うよりは少し若いが母親と言う感じに思えるらしく、よく懐いている。
「わかってるよ、鈴々、紫苑。でも、心配は心配だよ」
 一刀は答える。愛紗の力量を信頼していないわけではないが、最近彼女の様子がおかしいのが気にかかるのだ。
(妙に桃香さんを気にしてるんだよな……)
 もともと、愛紗はあまり桃香に好意を抱いていないようだったが、公孫賛軍に華雄と賈駆が登用されたと聞いて以来、ますますその傾向に拍車がかかっている。討ち取ったと思っていた華雄が生きていたのも気に食わないようだが、賈駆の存在はもっと気に入らないらしい。
「暴君の側近を取り立てるとは……やはり、劉備も同類か」
 と言っていたと、朱里から聞いている。その辺の誤解を解いてやらなければならないと思ってはいるのだが、どう話を切り出したものか、一刀はいまだに考えあぐねていた。
(ま、桃香さんなら敵になる事はないだろうし、そのうち誤解を解く好機があるだろう)
 一刀はそう考え、今は結論を急がないことにした。まずは城を落とした愛紗を褒めるべきだろう。そう思った時、前方から伝令が走ってくるのが見えた。
「大変です、殿!」
「どうしたのだー?」
 一刀の代わりに鈴々が聞くと、伝令は思いも寄らない、そして重大極まりない情報をもたらした。
「ここから二十里ほど前方を、敵増援と思われる一軍が、こちらに近付いてきます! その牙門旗は……呂の一字!」
「な……呂布だってのか!?」
 驚愕する一刀。虎牢関離脱後、行方不明になっていた飛将が、再び世に出てきたと言うのか。一刀は本陣に控えていた二人を見た。
「前衛だけじゃ食い止められない。鈴々、紫苑!」
「わかったのだ!」
「御意です!!」
 駆け出す鈴々と紫苑。一刀もまた、この世界に来た時に較べればずいぶんと上達した馬術で、先陣に向けて走り出す。彼の益州平定は、初手から大きな障害にぶつかろうとしていた。
 また同じ頃、北の涼州や、東の楊州でも、戦乱の幕が開いていた。
 新たな中華の乱世は、ここに本格的な幕開けを迎えたのである。
(続く)

―あとがき―
 作中に業という街が出てきますが、正しくは「業におおざと」と書きます。その字が無いので、代わりに業一文字にしてありますので、ご了承ください。
 さて、麗羽さん戦開始です。メインテーマは顔良の苦労話になっていますが。
 最後に一刀の様子も出てきますが、今後は桃香以外の勢力がどうなっているのかも、出来るだけ情報を入れていく予定です。次回は易京城攻防戦を中心に、華琳や蓮華、未だ出番が無い冥琳なども出す予定。お楽しみに。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十三話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/08/25 23:00
 中華の西の果て、涼州。幽州を上回るほどの騎馬の民が住む、大草原の国である。この地に侵攻した曹操軍は総兵力十五万を数え、着々とこの地を支配下におさめつつあった。
 涼州の英傑、馬騰は十万に及ぶ騎兵を集め、正面から曹操に会戦を挑むのではなく、騎馬の機動力を活かし、本隊に食料を届ける輜重部隊を徹底的に叩くことで、曹操軍を追い返そうと謀った。仮に他の軍ならそれで追い返せたかもしれなかったが、こと曹操軍に対しては、その作戦は通用しなかった。
「大将、今日も襲撃部隊、ぶっ潰しといたで。これで今まで二万は仕留めたかな」
 今日の進軍を打ち切り、陣営を貼った曹操の所に、一日中精鋭の騎兵隊を率いて走り回っていた張遼が帰ってきた。神速と言われる彼女は騎兵運用に関しては涼州兵にも引けを取らず、戦術はより洗練されていた。よって、涼州の大地は、張遼の狩場と化していたのである。
「そう、ご苦労様、霞」
 曹操は満足げに頷く。一日中馬上にあって、ややむくみの出た脚を、軍師の荀彧が舌を這わせて癒している。張遼がそれを見ているのに気付くと、曹操はクスリと笑った。
「霞、望むなら貴女にも同じ事をさせてあげるわよ?」
「ああ、それはいらんわ。ウチは将としては大将に忠誠を誓ったけど、愛人になる気はないさかいに」
 張遼が首を横に振る。表情にしろ声の調子にしろ、「ついていけない」と言うのが良くわかる。その無礼とも言える態度に、曹操の足を舐めていた荀彧がキッと張遼を睨みつけるが、曹操は静かな、しかし迫力を込めた声で言った。
「控えなさい、桂花。霞にはそう言う物言いを許すことを条件に、私に仕えてもらっているのよ」
 それを聞いて、荀彧が怯えたように身体を震わせ、奉仕を再開する。曹操は満足したように微笑むと、言葉を続けた。
「貴女が私に靡いてくれないのは残念だけど、将としての働きにはこの上なく満足しているわ。いずれ、馬騰も正面切っての決戦しか、事態を打開する術が無いと思うはず。そうなった時も、貴女の騎兵運用能力、存分に振るってもらうわよ」
「ま、そっちは任せてもらいますわ。馬騰、馬超がウチの手に合う相手やとええんやけど」
 張遼が頷くと、曹操は笑顔で頷き、下がるよう命じかけて、ふと思い出したように言った。
「そういえば、公孫賛も袁紹相手に戦をはじめたそうよ」
「ほほう」
 張遼が足を止め、興味津々と言った表情で振り向いた。
「詳しい戦況はまだわかっていないけどね」
 曹操が言うと、張遼はそれは残念、と言って、続けた。
「ま、公孫賛の勝ちですやろ」
「あら、私と同じ事を言うのね」
 曹操は張遼の言葉に、ますます笑みを大きくした。世間の大半が圧倒的兵力を擁する袁紹軍の絶対優位を確信する中で、公孫賛軍の勝利と予測していたのは、当人たち以外では、この二人だけかもしれなかった。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第十三話 桃香、易京城に拠り、偽帝軍を釣り上げる事


 易京城の中庭で、二人の武人が対峙していた。星と美葉だ。彼女たちを取り巻くように、それぞれの配下の将兵たちが見守っている。
「……では、参る」
 金剛爆斧を構えた美葉が真剣な表情で言うと、星は微笑を浮かべて答えた。
「お手柔らかに」
 次の瞬間、全力で間合いを詰めた美葉が、金剛爆斧を横殴りに叩き付けた。星が龍牙を斜めに構え、金剛爆斧を滑らせるようにしてその一撃をかわすが、威力を完全に殺しきれず、身体が僅かに横へ流れる。
「いいぞ、華雄将軍!」
「負けんでくださいよ、趙雲将軍!!」
 将兵たちが、それぞれの主将を声を限りに応援する。元董卓軍、つまり旧敵である美葉だが、公孫賛軍とは直接戦ったことが無い、と言う事や、本人の資質もあって、既に指揮下の将兵たちの心を掴んでいた。
「もらったぁっ!」
 星の姿勢が崩れたのを見て。美葉が追撃を放つ。しかし。
「ふ、甘いな」
 星は敢えてその威力をこらえようとせず、むしろ受け入れることで、まるで蝶の如く宙を舞い、距離を置いて着地する。
「なに……」
 自分の力を利用された事に気付いて、思わず絶句する美葉に、星はニヤリと笑ってみせる。
「では、今度は私から行くぞ……はあっ!」
 一瞬で距離を詰めた星が、流星のような連続した突きを放つ。
「くっ……!」
 美葉は必死にそれを捌くが、全てを防ぐのはとても無理な話だ。たちまち、彼女の肌に赤い命中痕がいくつも付けられる。
「ならば……いやあーっ!」
 このままではジリ貧になると判断した美葉は、思い切って流星の中に飛び込むと、金剛爆斧を星の首めがけて……
「そこまでっ!」
 審判をしていた桃香が手を挙げると、二人の武人はぴたりと動きを止めた。兵士たちがどう判定されるのか、と見守る中、桃香は勝敗を宣言した。
「勝者、趙雲将軍」
 兵士たちの嘆き、あるいは喜びの声が交差する。見れば美葉の首への一撃が星に届く前に、星の一撃が美葉の胸の部分に痕を付けていた。実戦なら致命傷と判断されるだろう。美葉はがっかりした表情で肩を落とした。
「また、負けか……」
 その肩を叩いて、星が慰めの言葉を言った。
「いや、今日のはなかなか際どかった。腕を上げたな、美葉」
 二人はこうして模擬戦をするのが日課になっていた。主に、美葉の腕を磨くのが目的である。もちろん、星にとっても全く戦い方の違う武人を相手に修練を積むことが出来るのはありがたい。
「ふぅ……腕を上げた、か。そう言われるとは情けない。月の下にいた頃は、呂布を除けば私こそ天下無双と思っていたのに、上には上がいるものだ」
 美葉が武器に付けていた、赤い墨を含ませた綿を外すと、星も同じ事をしながら答えた。
「情けなく思う事はない。私は美葉にとっては、模擬戦では相性が悪いほうだろうからな」
 そこへ、汗と身体に付いた墨を拭くために、水を含ませた布を持って桃香がやってきた。
「はい、お疲れ様、星さん、美葉さん。やっぱり、一流の武人同士の戦いは見てて凄い迫力だよね。私にはぜんぜん参考にならないなぁ」
 桃香に礼を言って布を取りながら、美葉が言う。
「しかし、桃香様も呂布の一撃を止めるほどの腕だと聞いておりますが?」
 桃香は首を横に振った。
「とんでもない。あんなの偶然だよ」
 美葉は微笑んで答えた。
「ですよね」
「う、思い切り納得された……それはそれで傷つくなぁ」
 しょぼんとなる桃香に、美葉がいやいや、と言葉を続ける。
「偶然でも、あの武神の一撃を止めたこと自体、桃香様も神に愛されている証拠かもしれませんよ」
「そ、そう言われると今度は照れるような……」
 顔を赤くする桃香に、美葉が尋ねる。
「ところで桃香様、参考にならないとは仰せですが、私と星の模擬戦を見ていて、何か助言などあればお聞かせ願えませんか? 力量の差は如何ともし難いとは言え、こうも負けっぱなしでは腹が煮えます」
 今のところ、模擬戦の対戦成績は美葉の全敗なのである。それでも腐らない、武に対する真摯さが彼女のいいところではあるかな、と思いつつ、桃香は答えた。
「そうだね……わたしは二人に較べると全然武術には詳しくないから、話半分に聞いて欲しいんだけど……美葉さんは、戦い方は結構呂布さんに似てると思う。力重視と言うのかな?」
 美葉は頷いた。
「そうですね。私も呂布も、技よりは力を重んじます」
 武器の金剛爆斧も「振り回して叩き斬る」と言う戦法に特化したものだ。
「星さんは力では美葉さんに及ばないけど、その代わり攻撃の速度と技を重視してるよね? その星さんが、呂布さんと戦う時は、絶対に呂布さんの攻撃を受けようとせず、全部避けていたの。あれは、受けたら力負けするからだよね?」
 桃香が星にそう確認すると、彼女はええ、と首を縦に振った。
「呂布の攻撃を受けた日には、私の力では受け流せずに吹き飛ばされてしまいます。美葉の力くらいなら、何とか受け流せますが……」
 そこまで言われれば、美葉も二人の言うことを理解する。
「力をさらに鍛えぬけ……そう言うことですか?」
 美葉が言うと、桃香はうんと頷いた。
「要は、得意な事、長所を伸ばせば良いと思うよ。わたしは同じ軍師でも、詠ちゃんみたいな攻撃的な作戦を立てるのは苦手だけど、守りは得意だもの」
「何でも万能にこなしたい、なんて贅沢は言わず、我々凡人は一芸で勝負しようと言うことだな」
 星がまとめると、美葉は頷いた。
「わかりました。ご教示感謝します」
 こうして模擬戦とその感想戦が終わったところで、星が言った。
「しかし、このようにのんびりと模擬戦などしていて大丈夫なのですかな? 敵はこちらに向ってきているはずですが」
「それは大丈夫。袁紹さんの軍は十万以上の大軍だから、そうそう早くは動けないはず。来るとして、後二日はかかるかな」
 桃香はそう答える。実際、敵の予想進路上には多数の偵探・物見を出しているが、彼らの報告はいずれも袁紹軍来襲まではあと二日ほど掛かる、と言う予測を裏付けるものだ。詠や桃香が一番恐れていたのは、顔良あたりが五万ほど先行隊を引き抜いて急進してくる事だったが、慎重な性格の顔良は、そうした分進合撃作戦は取らず、全力で易京城に当たるつもりらしい。
(そこが付け目ではあるんだけどね……顔良さん、あと二日、短気を起こさないでね)
 桃香は心中で敵将に祈った。
 
 その桃香の祈りが通じたわけでもないだろうが、袁紹軍は二日後、易京城を望む位置まで進出してきた。城を遠望して、顔良は改めてこの城を敵の手に渡したことの痛恨を思った。
(失敗しました……せめて一万でも、先にこの城に兵力を入れておくべきでした……)
 登極式を盛大なものにするため、業に可能な限り多くの兵を集めたのが、見事に仇になった。袁紹に叱られるのを覚悟で、先発隊を出しておくべきだったと後悔するが、後の祭りである。しかし、顔良ほどの将にさえ、思わずそんな益体もない後悔を抱かせるのが、易京という城なのであった。
 易京城は幽州のさらに北に暮らす、烏丸などの騎馬民族が襲来した際の、河北の守りの要として建設された。城郭は小高い丘の上にあり、門はもちろん城壁に取り付くには、斜面を登らなくてはならない。兵の突進の勢いは鈍り、衝車や井楼などの攻城兵器も、その威力を激減させる。
 また、斜面には岩や木などの遮蔽物はなく、攻め手は城壁から降り注ぐであろう矢の雨を受けながら、そこを登ると言う苦行を強いられる。いざ攻城戦となれば、その斜面はさながら冥界へ通じる黄泉津比良坂の如き存在となるだろう。
 城壁にも特徴があり、普通の城は政庁や領主の館などがある内城部分を囲む一重、その外側の市街地や兵舎を囲む二重の、二枚の城壁を持つものだが、易京城ではさらに外側にもう一枚の城壁があり、三重構造を成している。
 最外周の城壁と、中間の城壁では門の設置箇所も異なっており、最外周の門を突破しても、中間の門に向うまでに、両側に聳える城壁の間を半里ほども走らねばならない。その間、攻め手は両側の城壁からの集中攻撃を受ける事になる。
 強攻だけではなく、兵糧攻めなどの長期戦にも強い。内城部分には巨大な兵糧倉があり、戦乱の到来前には十万の兵士が五年は食い繋げる程の兵糧を貯蔵していた。今回は公孫賛軍は半年分の兵糧を念のために持ち込んでいるが、元からの貯蔵分とあわせれば、軽く一年は持ちこたえるほどの兵糧があった。また、城内には無数の井戸があり、水の手を断つ事も難しい。
 まさにこの城こそは、当代の築城技術と城砦防衛戦術の粋が集められた、中華最強の大城塞であった。相手の数倍の兵力を持っているとは言え、顔良には易々とこの城を落とせる気が全くしなかった。
「斗詩、唸ってるばかりじゃ城は落ちないぜ? どうするんだ?」
 文醜が馬を並べて言う。普段は突撃で相手を粉砕すれば、それだけで勝てるという信条を揺るがさない彼女も、流石に無敵の大城塞、易京の事はよく知っており、顔良の知恵に頼る必要があると考えていた。
「流石に、私もそう簡単に良い知恵は思いつかないよ。文ちゃんも何か考えてくれないかな?」
 顔良は答えた。文醜は細かい策を練ることなど出来ないが、自分とは違った見方をする人間の意見も重要だと彼女は考えていた。しかし。
「斗詩にわかんないもんが、あたいにわかるはずないだろ?」
 文醜はあっさりと考える事を放棄していた。顔良はだよねぇ、とため息と共に答え、情報整理担当の武官を呼んで尋ねた。
「城に篭っている公孫賛軍の詳細はわかりましたか?」
 桃香がしているように、顔良も偵探、細作を派遣して敵情を探らせている。その元締めでもある担当武官は、既に質問を予期していたのかすらすらと答えた。
「はい、敵将は劉備。配下に趙雲と華雄の二名を従えている模様です。兵数は城が陥落した際に脱出した者たちの証言を元に推測した所では、三万ないし三万五千と思われます」
 顔良はご苦労様、と答え、考えを巡らす。公孫賛軍の総戦力は五万程度と思われるが、その六割から七割の兵力を、ここへ投入してきたことになる。しかも指揮官が公孫賛の片腕とも言われる劉備。手強いことは疑いない。
「劉備ってーと、あのおっぱいの大きいぽわぽわっとしたお姉ちゃんか。出来るやつなのか?」
 文醜のとんでもない質問に、顔良は思わず苦笑する。
「もう、文ちゃんったら、なんて覚え方してるのよ……劉備さんは間違いなく凄い人よ。あの人が世に出てきたのも、今みたいに四倍の敵を迎え撃って撃退したからよ」
 すると、そこへ袁紹がやってきた。配下の二人が何も動きを見せないことに、不満を持っているようだ。
「何をしてるんですの? 顔良さん、文醜さん。見れば、お誂え向きに門が開いてるじゃありませんの」
 そんなのんきなことを言う。確かに易京城の最外周城壁の門は開かれたままになっていた。
「ダメですよ! それが相手の手なんですから!!」
 桃香が敢えて城壁の門を開き、相手を城内に構築された必殺の罠に誘い込んで殲滅する、と言う戦術を用いた事は、詠が言ったとおりこの頃には広く知られるようになっていた。
「でもさ、相手の手の内がわかってるなら、斗詩ならそれを破る方法も思いついてるんじゃないのか?」
「……うん、まぁね」
 顔良は曖昧に頷いた。そう。一応桃香の策を破る方法は、顔良も思いついてはいる。ただし、それは「桃香のかつての策が、何の改良もされていない場合」である。
 劉備玄徳の名を世に知らしめたこの策も、実は当時においても完全な成功を収めてはおらず、黄巾党の頭領に破られている。必殺の陣がある門以外を破られると、この策は破綻するのだ。顔良もそれは知っている。
 しかし、易京城はもともとこの必殺の陣を城の構造自体に組み込んだ城砦であり、どの門から踏み込んでもそれは同じだ。劉備にとっては自分の庭のようなものだろうと思うと、顔良はますます頭が痛くなった。少なくとも、正攻法で攻めて勝てる相手ではない。
「顔良さん? どうするんですの?」
 顔良が考え込んでしまったため、答えが貰えずに不満な袁紹が、急かすように言う。すると、顔良は顔を上げた。
「陛下、お願いがあります」
 登極式以後、顔良は袁紹を「陛下」と呼ぶようにしていた。
「……なんですの?」
 急にお願いをされて首を傾げる袁紹に、顔良は言った。
「各地の鉱山から、腕利きの人足を集めてください。その人達に穴を掘らせて、城の城壁を崩します」
 正攻法では勝てないと判断した顔良の、思いついた策がそれだった。彼女も城の攻略に時間をかけ過ぎ、被害を多く出して曹操に付け込まれるのは避けたい。この際城が使えなくなっても構わないから、坑道戦術で城を根本から破壊してしまうのが最良の手だった。
「おお、すげえぜ斗詩! 豪快で面白そうな策じゃん!!」
 手を叩いて賞賛する文醜に、顔良はちょっと照れくさそうに笑みを浮かべつつも、袁紹に確認した。
「どうでしょうか?」
「良くわかりませんけど、それで城が陥ちるなら、一向に構いませんわ。その後で伯珪さんの泣き顔が見たいですわね。おーっほっほっほっほ!」
 承認を与えると同時に高笑いする袁紹。白蓮があっさり自分に降らず、刃向かったことがよほど許せないらしい、と顔良は思い、そして気づいた。
(そういえば、公孫賛さまはどこに……?)
 城の主将は劉備。兵力は三万~三万五千。最大で二万の兵力を、公孫賛軍はまだ残している。恐らくそれを率いているのは公孫賛本人だろう。その兵力は、一体どこにいるのか?
 その疑問に気付いた瞬間、顔良は戦慄した。公孫賛軍の策が読めたのだ。おそらく、公孫賛軍は自分たちが望む戦場に袁紹軍を引っ張り出した上で、公孫賛自ら率いる騎兵部隊を切り札として投入し、一気に勝負をつけるつもりだ。その切り札が狙うのは、間違いなく袁紹の首だ。顔良はまだ高笑いを続ける主君に言った。
「陛下、ちょっとお話が」
「なんですの?」
 高笑いを止めた袁紹に、顔良は自分が読んだ公孫賛軍の狙いを話し、袁紹にどこかの城に入って待機するよう求めた。恐らく公孫賛の直率する兵力は、ほとんどが騎兵だ。城攻めには向いておらず、袁紹が城に入っていれば、そうそう簡単に討たれる心配はないだろう。もちろん、最低でも二万の護衛も付ける。しかし。
「お断りですわ。皇帝たるわたくしが伯珪さんごときを恐れて城に篭るなど、できるわけがありません」
 袁紹はきっぱりとそう言った。顔良は落胆はしなかった。
(やっぱり、そう言いますよね)
 元からの名門の気位の高さと、皇帝としての誇り。それが今の袁紹の行動を縛っている。だから、顔良は次善の策を打つ事にした。
「では、公孫賛を捜索するため、大物見を複数出します。絶対にどこかこの近くに潜んでいるはず」
 そう言うと、袁紹はそれには同意した。顔良はすぐに気の利いた優秀な武官を集め、それぞれ千程度の騎兵を預けて命じた。
「公孫賛軍の目標は、陛下を討つことです。そのため、城内の兵力と城外に潜んでいる公孫賛本隊を一気に本陣に殺到させるつもりでしょう。ですから、外にいる公孫賛本隊を探し当てれば、敵の策を破綻させられます。皆さんは本隊を探してください。そして見つけたら、交戦せずまっしぐらにこっちへ戻ってくるようお願いします」
 説明しながら、顔良はさらに敵の狙いを絞っていた。おそらく、わざわざ袁紹領に侵攻してまで易京城を取り、そこを決戦場に選んだのは、公孫賛の領内でこの策に適した強固な城が無いことと、領土を戦場にするのを嫌がったからだろう。
 その判断は間違っていたことを教えてやる。易京は袁紹領。地の利はこちらにあるのだ。いくら公孫賛でも、こちらの目からは逃れられない。
(申し訳ありませんが、勝たせていただきますよ。公孫賛さま)
 命じる顔良の顔は決意に燃え、受ける武官たちも必勝の信念に燃えていた。
 
 易京城の城壁に登って状況を観察していた桃香は、袁紹軍の大軍が城の周りをぎっしりと埋めつくし、完璧な包囲網を築くのを見ていた。さすがに顔良の用兵には隙が無い。袁紹の本陣の回りも、そこだけで三万以上の兵士により固められている。
「む、桃香様。あれを」
 星が指差す方向を桃香は見た。千単位の騎兵集団が、いくつも各地に散っていくのが見える。その数は十以上
「大物見かな? さすが顔良さん。詠ちゃんの狙いを見抜いたみたいね」
「そのようで」
 桃香の言葉に頷く星。そう、公孫賛軍の狙いは、顔良が看破したとおり袁紹一人を討つことだ。しかし、見抜かれた側の桃香たちに焦りはなかった。
「さてと、星さん、美葉さん。どれくらい時間があれば、袁紹さんをやっつけられると思う?」
 桃香が質問すると、まず美葉が答えた。
「まぁ、半日でしょうか」
「そんなものだろうな」
 星も同意する。しかし、その見方を別の人物が否定した。
「二人とものんきね。二刻もあれば十分でしょう?」
 三人はその声の主を見た。知的な顔に不敵な笑みを浮かべた彼女に、桃香が頷く。
「……そうだね。じゃあ?」
「二刻後に始めるわよ」
 彼女……詠はニヤリと凄みのある笑みを浮かべて見せた。
 
 城の包囲が完了し、顔良は一息ついていた。四方の陣からの報告によれば、東西南北全ての門が開けてあるらしい。やはり、劉備は開門の計(と顔良は呼ぶことにした)を改良し、どの門から突入しても必殺の陣に相手を引き込めるようにしたのだろう、と考える。
「その手には乗りませんよ、劉備さん。私は貴女のその計を、根こそぎ壊すことで勝利を得ます」
 顔良は城壁の上になびく劉の将旗を見ながら呟く。これで、万が一城内の敵が突出してきても、包囲部隊で食い止める手はずも整った。あとは鉱夫たちが到着次第、坑道戦術を仕掛ければ、恐らく一月ほどで決着が付くはずだ。その上で軍の一部を公孫賛領に進出させて併合し、残りは曹操や孫権に備える。上手く行けば、まだ遠征にかかずらっている彼らの背後を襲う事も出来るかもしれない。
 易京城を取られた、と聞いた時には戦略の狂いに頭を抱えた顔良だったが、ここに来てこれはこれでよかったかもしれない、と思い始めていた。
「さて、陛下に報告を……あれ?」
 本陣へ帰ろうとして、顔良は立ち止まった。城門のところに動きが見える。
「……なっ!?」
 顔良は絶句した。そこにいたのは、ここから見えるだけでも数百騎に及ぶ騎兵の群れだった。その騎兵集団が、怒涛のような勢いで城から平地へ通じる坂道を駆け下ってくる。数百騎どころか、数千騎以上いるだろう。その先頭に、公孫の旗が高々と翻る。
「こ……公孫賛さまの騎兵部隊……!? どうしてここに!!」
 顔良は叫んだ。あまりにも唐突な敵主力の登場に頭が混乱する。それでも顔良は何とか対応策を取ろうとはした。
「くっ……誰か、伝令を! 包囲陣の各隊を本陣への救援に回すよう伝えて……ダメ、間に合わない!!」
 騎兵の多くを公孫賛本隊の捜索に回した今、ここにいるのは歩兵がほとんどだ。公孫賛軍騎兵の本陣突入を阻止することの出来る、足の速い部隊はいない。顔良は自分がとんでもない予測の間違いをした事を、はっきりと悟っていた。
  
 騎兵たちの先頭に立って突撃しながら、白蓮は相手の動きを観察していた。一万を越える敵が突進しているのに、袁紹軍は目立った動きを見せない。心理的な奇襲攻撃を仕掛けるのに成功したようだ。
「相手はまだ混乱しているな。今のうちに本陣を叩く! 全軍突撃!!」
 白蓮は剣を抜いて号令をかけた。騎兵たちが応と叫び、突撃速度を速める。公孫賛軍は二列に縦陣を構成する、いわゆる衝扼の陣形で袁紹軍本陣に突入した。
「さすが詠。名軍師賈文和の名は伊達ではないな」
 白蓮は言う。なまじ伝令が帰ったために、顔良は「易京城には劉備隊しかいない」と思い込んでいたが、実は白蓮は城の陥落後、時間を置いて入城し、袁紹軍来襲を待ち構えていたのである。
 顔良が「公孫賛軍は袁紹一人を狙っている」と予測したことは正しい。そのための決戦部隊が、白蓮自ら率いる騎兵隊だと考えた事も、やはり正しい。詠は顔良にそのくらいの能力はあると考えていた。
 だから、詠は「顔良が絶対に探さない場所」として、易京城を利用したのである。桃香の名声を使い、城に顔良の意識を近づけないよう誘導したのだ。桃香の初陣の話を知っていれば、誰もが城の中に入ることを躊躇する。だが、門が開けてあったのは、城の中に入って欲しいからではない。
 逆に、城に近づいてほしくなかったから。そして、白蓮たちが迅速に出陣できるようにしておくためだった。
 その計略は見事に図に当たり、城の中に待機していた白蓮は、一気に袁紹本陣に斬り込む事に成功していた。呂布に折られた後、誂え直した剣を右に左に振り下ろし、敵兵を切り立てる。騎兵たちも躍動し、袁家の兵を薙ぎ払っていく。不意を討たれた袁紹軍は、水面に石を投げ込んだように動揺が広がり、崩れたっていた。
 しかし、例外も存在する。突然、数人の公孫賛軍の兵士が、天に打ち上げられるように吹き飛ばされた。
「おらおらおら、どけーっ! 公孫賛、相手はあたいがしてやる!!」
 文醜だった。斬山刀を豪快に振り回し、当たるを幸い相手を吹き飛ばしていく。だが、彼女の前に立ちはだかった者がいた。
「おっと、お前の相手は、この華雄がしてやろう」
 美葉だった。文醜は斬山刀を構え、不敵な笑みを浮かべた。
「なんだよ、汜水関でやられてた奴じゃんか。そんなのがあたいに勝てると思ってんのか?」
「あいにく、お前にやられたわけではないんだがな、私は」
 文醜の挑発的な言葉を聞き流し、美葉は改めて名乗りを上げる。
「我が名は華雄。一度は敗れ地獄を見たこの身を、再び世に出してくれた人々の大恩に報いるため、文醜、貴様を討つ!」
「おもしれぇ。あたいをやれるもんならやってみろ!」
 文醜は怒号と共に斬山刀を水平に叩き付けた。美葉はその一撃を受け、逆に金剛爆斧を文醜の脳天に振り下ろす。辛うじて引き戻された斬山刀がそれを弾き、火花が互いの顔を照らした。
「やるな」
「そちらこそ!」
 互いの健闘を讃え、二人の猛将は余人を交えることを許さない、壮絶な一騎打ちに移行した。
 
 美葉と文醜が戦っている頃、顔良は大混乱に陥っている本陣を立て直そうとしていた。
「みんな、落ち着いて! 敵は少ないから、腰を据えて戦えば私たちの勝ちです!!」
 包囲陣のうち、本陣以外の部隊が遊兵化しているとは言え、本陣だけでも三万以上と、突撃してきた公孫賛軍の倍の兵力を持つ。落ち着いて戦えば半分の敵など軽く押し返せるはずなのだ。
 顔良の必死の呼びかけで、やや混乱が収まってくる。このまま反撃だと彼女が思った時、強烈な殺気が迫って来て、顔良は咄嗟に金光鉄槌をその方向にかざした。その瞬間、激しい衝撃が鉄槌に走った。
「ふむ、かわされたか」
 感心するような口調の声が、顔良の耳に届く。改めて金光鉄槌を構え直し、彼女は声の主を睨んだ。
「趙雲さん……でしたね?」
 顔良を貫き損ねた槍を引き戻しながら、星が頷く。
「いかにも。袁紹軍随一の良将と名高い顔良将軍。一度お手合わせ願いたいと思っていた」
 槍を構え直し、星は続ける。
「貴女はお付き合いしてる場合じゃないと言いたいだろうが、態勢を立て直されては面倒なのでな。嫌でも付き合ってもらおう!」
 言うや否や、星の手から電光の速度で突きが飛ぶ。それを金光鉄槌の槌部分で跳ね返し、顔良は答えた。
「なら、あなたを少しでも早く倒し、陛下の元に駆けつけるまでです!」
 言うと同時に顔良は金光鉄槌を捨て、腰の剣に手をかける。星はそれが呂布相手にも見せた、彼女の本気だと知っていた。
「!」
 星はその場を飛びのいた。顔良が剣に手をかけたと見えた次の瞬間、超高速の抜き打ちを放ってきたのである。なびいた星の服の一部が切り裂かれ、破片がはらはらと宙を舞う。
「惜しかったな。では、改めて参る!」
 その技に驚きつつも、星は顔良に劣らぬ速度で突きを放つ。翻った顔良の剣がそれを弾き返し、竜巻のような連続した斬撃が閃く。美葉と文醜のそれとは異なる、技と速度を重視する達人同士の、これもまた余人の追随を許さぬ凄まじい一騎打ちの始まりであった。
 
 その頃、混乱に陥った本陣の中で、袁紹を守る親衛隊の陣だけは、まだ統制を保っていた。しかし、袁紹は事態を把握できず、いらいらとした表情を浮かべていた。
「一体何が起きているんですの!? 顔良さん、文醜さん、二人ともどこですの!? 誰か説明なさい!!」
 そう叫ぶ袁紹に、しかし親衛隊の誰も答えられない。彼ら自身事態を把握していなかったし、顔良、文醜ほど袁紹と話すことに慣れてもいなかった。
 そして、すぐに彼らはそれどころではなくなった。ついに、白蓮が他の兵士たちを突破し、親衛隊に向けて突撃してきたのである。
「我が名は公孫賛! お前たち、道を開けろ!! 私が用があるのは本初だけだ!!」
 怒鳴る白蓮に、親衛隊の隊長は槍を振るって答える。
「敵将だ! 討ち取って名を挙げよ! 我らの陛下に下郎を近づけさせるな!!」
 親衛隊に選ばれるだけあり、彼らの忠誠は揺るがなかった。親衛隊は一斉に抜刀し、白蓮に殺到する。
「仕方ないな……突撃だ! 袁紹への道をこじ開けるぞ!!」
 白蓮も配下の騎兵たちに命じ、突撃を再開する。ここまで白蓮についてきた兵は二千ほど。あとは途中で敵との交戦に入っている。一方親衛隊も同数の二千。一見互角の戦いに見えた。
 しかし、親衛隊が持ちこたえたのは、ほんの僅かな間だった。彼らの多くは、対董卓連合戦後に登用された新人だったのだ。前任者たちは、多くが虎牢関での呂布との戦いで戦死するか、負傷して引退を余儀なくされていたのである。
 一方、白蓮についてきた二千は、黄巾の乱以降軍の中核として激戦を生き抜いてきた精鋭である。数は互角でも実戦経験と技量には大きな差があった。ほんの数分の戦いで、袁紹の親衛隊は尽く討ち果たされていた。
「本初、久しぶりだな」
 たった一人になった袁紹に、白蓮は抜き身の剣を下げたまま近付いていった。
「は、伯珪さん……何故ですの? 何故、皇帝たるわたくしに逆らうんですの!? そんな増上慢が許されると思っているのですか!? 剣を収め、下馬してひれ伏しなさい!!」
 袁紹は叫ぶ。虚勢と言うのではなく、本気で自分の権威が相手に通用すると、そう思い込んでいるかのようだ。白蓮はため息をつき、首を横に振った。
「もう止せ、本初……お前に黄龍の直垂は似合わんよ。悪いようにはせん。降れ!」
 黄龍の直垂とは、皇帝にのみ許される衣装の事である。白蓮はそう言うことで、袁紹の権威を根本的に否定したのだ。それを聞いた袁紹の顔が、憤怒で赤くなった。
「お黙りなさい! 伯珪さん!! このわたくしに対する暴言……許せません!! わたくし自ら成敗して差し上げます!!」
 そう叫ぶと、袁紹は腰の宝剣を引き抜き、白蓮に切りかかってくる。しかし、その手つき、体捌きはどう見ても心もとない。姫様育ちの彼女には、自ら人を斬った事はおろか、まともに剣の修練をした経験もなかった。
「この……お馬鹿!」
 言う事を聞かない、現状を認識できない駄々っ子への怒りを込めて、白蓮は剣を振るった。
「きゃああああぁぁぁっっ!!」
 決して本気ではなかったが、袁紹には十分な一撃だった。宝剣が手から弾き飛ばされ、袁紹は馬上から叩き落された。その拍子に、彼女の懐から何かが転げ落ちるのを、白蓮は見た。
「……捕らえろ!」
 白蓮は周囲の兵に命じた。数人の兵が気を失ったらしい袁紹に近付き、丁寧に拘束する。一方、白蓮は袁紹が落としたものを拾い上げた。黒い、手のひらに載るほどの小箱だった。
「これは、もしかして……」
 白蓮は小箱を開けた。とたんに眩しい光が彼女の目を撃ったような気がした。
「これは……やっぱり伝国の玉璽……!」
 白蓮は感に堪えないという口調で言った。美しく、眩いその宝は確かに人の心を奪う何かがある。白蓮は手にとって良く見てみようと思ったが、気を取り直して蓋を閉じると、懐にしまった。
「これをどうするか決めるのは、私じゃないからな」
 そう言うと、白蓮は馬にまたがり、剣を天にかざして叫んだ。
「偽帝袁紹、召し取ったり! 袁紹軍の者たちよ、お前たちの主君は捕らえたぞ。直ちに武器を捨て、我らに降れ!!」
 同時に兵士が「免」の一字が書かれた旗を掲げる。降れば死を免じる、と言う意味を持つ、降伏勧告の旗だ。それを見て、急速に士気が萎えたのか、袁紹軍の抵抗が収まっていく。その中に、星、美葉と一騎打ちをしていた顔良、文醜もいた。
「さて、どうする?」
 美葉が問いかけると、文醜はため息をついて剣から手を離した。
「あー、はいはい。わかったよ。あたいたちの負けだ」
 一方、顔良は星に問われるまでもなく、剣を取り落とし、がくりと項垂れた。
「陛下……姫様。申し訳ありません。私が至らないばかりに……!」
 そんな打ちひしがれた様子の顔良の肩を、星は軽く叩いて慰め、白蓮に合流すべく共に歩き出した。
 ここに、袁紹の「在位」は、登極から僅か一月たらずで終焉を告げたのである。
(続く)

―あとがき―
 麗羽との戦い、ここでひとまず決着。次回は戦後処理と共に、話としても一つの転機になると思われます。
 なお、今回一刀たちがどうなったのか、入れる間がありませんでしたが、次回では蓮華たちの動向も含めて触れていくつもりです。そろそろ拠点パートも一度書いてみたいですね。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十四話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/09/27 01:05
 北郷軍と益州諸侯連合軍の戦いは、北郷軍のやや優勢のうちに進んでいた。しかし、本来なら実力的には北郷軍の圧勝で終わるべき戦いが半ば一進一退の状況に陥っているのは……
「それじゃ朱里、今までの状況を説明してくれ」
 軍議の席上、まず一刀が孔明に発言を促した。
「はい、今のところ私たちは益州の北三分の一ほどを制圧し、じわじわと兵を進めてはいます。ですが……」
「また、呂布の奴にしてやられたか」
 関羽が言う。侵攻初頭で、北郷軍は城を落としながら、その直後に攻めてきた呂布によってそれを奪い返されていた。関羽、張飛、黄忠の三人がかりで迎え撃ったにもかかわらず、呂布の勢いを食い止めることが出来なかったのだ。
 以後、北郷軍は数度にわたり益州に攻め込んだが、その度に呂布に撃退されていた。そこで、孔明は作戦を変更。事前に呂布がいない箇所を狙って進撃し、呂布が出現すれば直ちに後退して戦わず、別の箇所から攻める、と言う方針を徹底させた。
 それが功を奏して、北郷軍は益州にようやく楔を打ち込むことに成功したのだが、そのために費やした時間は二ヶ月近くにもなっていた。これは益州制圧に予定していた時間にほぼ等しい。
「呂布はどうして鈴々たちの邪魔をするのだ? 虎牢関での事をまだ恨んでいるのか?」
 張飛が言う。それは北郷軍幹部たちの誰もが思っていたことだった。呂布は董卓軍参加以前の来歴がわかっていないが、容貌などから西の異民族の出ではないかと思われていて、益州出身ではないとされている。その彼女が、益州を守るためにここまで北郷軍と戦う理由はないはずなのである。
「その事なんですが、呂布さんはどうやら、益州の諸侯連合に雇われた様な立場らしいんです」
 孔明が報告した。
「どういう事かしら?」
 首を傾げる黄忠に、孔明が報告を続ける。
「呂布さんは司隷を出た後、放浪して益州の辺境のほうの、捨てられていた小城を本拠にしていたそうです。でも、そこは兵隊さんを養うには何もかも足りない場所で……何と言っても、三万近い兵隊さんを連れていましたからね。それで、兵隊さんを食べさせるために、諸侯連合が補給を受け持つ、と言う条件で招聘に応じたそうです」
「なるほど、そう言うことか」
 一刀は頷いた。要するに、今の呂布は傭兵のような立場にあるわけだと理解する。
「朱里、それなら呂布をこっちで雇い返す事は出来ないか?」
「え?」
 孔明が目を丸くした。一刀は畳み掛けるように言った。
「呂布が主義主張で動いてるんじゃないなら、むしろ話は簡単じゃないか。諸侯連合以上の条件を提示して、俺たちの味方になってもらえばいい。何なら、一郡くらい任せても良いとかね。そう言って交渉してみてくれないか?」
 朱里は一刀の言葉を反芻し、頭の中で計算する。そして。
「可能……だと思います。条件次第ですが、向こう以上のものは出せると思います」
 答える孔明の目に、一刀に対する賛嘆の色が浮かんでいるのは、「その発想は無かった」と言う事なのだろう。一方、反対意見を唱える者もいた。関羽である。
「大丈夫でしょうか? 一度は敵対した私たちに、呂布がおとなしく従うでしょうか」
「愛紗の心配はもっともだな」
 一刀は頷いたが、続けて関羽に、そして他の仲間たちに言い聞かせるように言った。
「でも、かつての敵だからこそ、仲間にする必要があると思う。敵だったから永遠に信用しない。一度敵になったらずっと敵。そんな事じゃ、いつまでたっても乱世は終わらないよ。この世の中を平和にしたい、と言う俺たちの願いを叶える為にも、俺は呂布を仲間に迎え入れたいんだ」
 一刀の言葉に、関羽は感激したような、上気した表情を見せていた。
「ご主人様……私が間違っていました。ご主人様の志、大事にしたいと思います」
「そう言うことなら、私も呂布を仲間に引き入れようとする事には、異存はありませんよ」
 関羽に続いて黄忠も言い、張飛と孔明も笑顔で頷いていた。一刀は天を見上げ、例え敵でもむやみに滅ぼしたり、迫害すべきではないと言う事を実践している、尊敬すべき人に心の中で呼びかける。
(桃香さん、桃香さんなら俺と同じ事を考えるはずだ……袁紹と戦いになったそうだけど、桃香さんはどう相手を裁く?)
 答えはもちろん返ってこない。しかし、まさに桃香はその答えを実践しようとしている所だった。
 
 
 恋姫無双外史・桃香伝
 
 第十四話 桃香、志を語り、思いを一字に込める事
 
 
 多くの袁紹軍兵士にとって、この戦いは「負けた」と言う実感の無いものだった。城を囲み、後はゆっくり相手を滅ぼすだけ、と言う構えになった途端、いきなり本陣が攻め崩され、主君たちが虜囚になった。まるで詐欺にでもあったような気分だった。
 今、易京城の中では、敵の首脳陣と、捕らえられた主君たちの会談が行われている。それによって自分たちの運命が決まると言うのが、袁紹軍兵士たちには、酷く理不尽なものに思えるのだった。
 
 その会談は易京城の内城部分、軍議の間で開かれていた。袁紹軍側は、総大将の袁紹がまだ意識を回復せず、文醜と顔良の二枚看板が出席していた。
 もうどうにでもなれ、と開き直っているのか、それとも状況を理解していないのか、いたってのんきな表情の文醜に対し、顔良は緊張しきった顔付きをしていた。
「顔良、そう固くなるな」
 白蓮が見かねて声をかけるが、顔良はふるふると首を横に振っただけで、何も答えなかった。緊張だけでなく、この敗戦の責任を一身に背負った気持ちでもあるらしい。白蓮は軽くため息をつくと、言葉を続けた。
「本初の奴は、軽い怪我だけで命に別状はない。手当ても済んでいるし、もう少ししたら目を覚ますはずだ。話はそれからになるから、とにかく茶でも飲んで落ち着け」
 実際、全員の目の前に茶が差し出される。
「あの……粗茶ですけど……」
 そう言ってぎこちなく笑みを浮かべるのは、月だった。すると、文醜が遠慮なく湯飲みを手に取った。
「お、ありがとな……うん、なかなか美味い茶じゃん」
 虜囚の身とは思えない図太さに、桃香と白蓮は思わず苦笑する。一方、茶を淹れる腕前を褒められた月はほんのり頬を赤らめ、ありがとうございます、と礼儀正しく頭を下げる。その様は兵站担当官と言う重職にある身とは思えない。思わず詠が注意した。
「月、月がそこまでする事無いわよ。そう言うのは侍女に任せればいいの」
「……でも、わたしはやっぱり、こういうのが性にあってるから」
 答える月。もし領主の家に生まれていなければ、案外侍女になったほうが、月の性格的には幸せだったかもしれない。が、行政官や兵站担当としての彼女も、決して無能ではなく、むしろ有能でさえあった。人間何が向いていて、どんな仕事に就くのが幸せかを判断するのは難しいものである。
 そう言う意味では、本初も国を代表する名家の一つに生まれたことが、本当に幸せだったかどうかはわからんなぁ、と白蓮が思った時、部屋の戸を叩いて星が入ってきた。
「失礼します。袁紹殿が目を覚まされたので、連れて参りました」
 彼女の後ろから、美葉に支えられた袁紹が入ってくる。馬から落ちた時に捻ったのか、足を引きずるようにしていた。それを見て、慌てて立ち上がった顔良と文醜が、美葉に代わって袁紹を支える。腕を取りながら、顔良は涙を浮かべて袁紹に謝罪した。
「申し訳ありません、麗羽さま……私の力不足のために……」
 すると、袁紹は優しい笑顔を浮かべ、首を横に振った。
「良いんですのよ、顔良さん。もう済んだことですわ」
 そう言って、二人に支えられるように席に付いた袁紹は、真剣な表情を作ると、白蓮に頭を下げた。
「伯珪さん、わたくしの負けですわ。わたくしの首はあなたに差し上げます。ですから、顔良さんと文醜さんの罪は問わないでやってくださいまし」
 その言葉を聞いて、のんきな文醜でさえ真剣な表情になり、顔良と共に袁紹の腕にすがるようにして、主君の顔を見た。
「そんな、姫。あたいたちは……」
「麗羽さま、そんな事を言わないでください」
 今は袁家の二枚看板として知られる二人だが、実は袁家譜代の臣というわけではない。かつて河北の各地を荒らしまわっていた馬賊の出身であり、その腕を見込んだ袁紹が、自ら招聘して二人を臣下に迎えた、と言う事情がある。それだけに、二人が自分たちを引き上げてくれた袁紹に寄せる忠誠に曇りは無かった。それに応える様に袁紹は言った。
「いいえ。これは主君として……高貴なる身に生まれたわたくしの義務です。いかがですか? 伯珪さん」
 言葉の後半は白蓮に向けられたものである。問われた白蓮は、何かくすぐったげな表情で、頬を掻いた。
「うーん……本初、お前がそうしおらしくしてると、何か調子狂うんだが」
「伯珪さん、わたくしは真剣に話しているのですわよ?」
 白蓮の言葉に、元々吊り気味の目をさらに吊り上げて怒る袁紹。それを聞いて、白蓮はともかく真剣な表情を作った。この旧友が、これまで挫折を知らなかった彼女が、対呂布戦やこの敗北と言った、ここ数ヶ月の間に立て続けに起きた逆境によって、何かしらの成長を見せたらしい、という事がわかったからである。
「すまん、本初。ここからは真面目に話そう」
 白蓮はそう言って場の空気を引き締めると、袁紹に向かって言った。
「お前の処置を決める前に、ちょっと確認したいことがある。お前が手に入れた玉璽は、これだよな?」
 白蓮は懐から玉璽の入った小箱を取り出すと、蓋を開けて机の上に置いた。その場にいた全員の目に、きらきらとした玉璽の光が差し込み、何人かが眩しげな表情を作る。桃香もその一人だった。
(これが、伝国の玉璽? 確かに綺麗だけど、でも……)
 何となく不吉な光だ、と彼女が考えた時、白蓮が話しかけてきた。
「桃香、これが本物かどうか見てくれ」
「え? あ、うん」
 桃香は考え事を打ち切って小箱を引き寄せると、玉璽を指でつまんで取り上げた。
「!?」
 その瞬間、桃香は硬直した。玉璽が指に張り付いたような感触と共に、そこから煌く光とは全く異なる、ドス黒い何かが身体の中に流れ込み、桃香の脳裏にまで達した。それは、耳ではなく彼女の心に、魂に、直接囁きかけてきた。
 
 支配せよ。全てを支配せよ。この世はお前のもの。思うが侭に支配せよ。逆らう者を駆逐し、お前の……
 
「やあっ!!」
 桃香は気力を振り絞り、玉璽を投げ捨てた。床に叩きつけられた玉璽は粉々に砕け、破片があたりに飛び散った。
「と、桃香!?」
「桃香様!!」
 白蓮、星がずるずると椅子から滑り落ちそうになる桃香を慌てて支えた。桃香は首をふるふると振り、なんとか気力を立て直す。
「だ、大丈夫……」
 桃香は姿勢を正し、乱れた息を整えると、唖然としていた袁紹に話しかけた。
「袁紹さん……あなたも、あなたもあの声を聞いたんですか?」
「え?」
 戸惑う袁紹に、桃香は今起きたことを話した。袁紹はそれを聞いて、はっとしたような表情になった。
「そう言う声をはっきりと聞いた覚えはありませんわ……ただ、玉璽を手にした瞬間、この世の全てを見通したような、爽快な気持ちになりましたわね。わたくしこそこの国の支配者。その思いが一杯に溢れて、他の事が考えられなくなった……」
 それを聞いて、文醜が言う。
「そういえば、あたいもちょっとだけ玉璽をつまんだ事があるけど、なんかすごく気が大きくなったような気がして、姫様にも遠慮する気分にならなかったな。ほんのちょっとだけど」
 桃香は二人の証言を聞いて頷いた。
「そう、ですか……今の玉璽が本物か偽物か、いずれにせよ、あれはこの世にあってはならない物だと思います。あれは……手にした人を権力欲におぼれさせて破滅させる、呪いの品です」
 床の上で無数の破片になっている玉璽は、もう先ほどまでの光を放ってはいなかった。
「本初も操られたと言うことか。恐ろしい話だな」
 白蓮が言うと、袁紹は項垂れた。
「不覚ですわ……そんなものに容易くつけ込まれるなんて」
「私も補佐する身として、異常に気づくべきでした……」
 顔良がやはり顔を伏せ、無念の表情を隠す。慰めるように白蓮は口を開いた。
「まぁ、玉璽が呪いの品なんて、普通は予想しないだろう。そう気を落とすんじゃない」
 そうは言われても、やはり袁紹と顔良は落ち込んだままで、文醜も流石に空気を読んだか、二人に合わせてじっと黙っていた。白蓮はふうとため息を一つつくと、意外な事を言った。
「さて、じゃあお前たちの処遇についてだが……少なくとも、私はお前たちを処断する気はない」
 え、と他の全員が声を上げ、白蓮に注目した。真っ先に声を上げたのは袁紹である。
「伯珪さん、いくらあなたがお人よしと言っても、限度があるんじゃありませんの?」
 続いて詠が発言する。
「そうよ。敵の指導者を処断しないなんて、どうかしてるわ」
 月みたいに本来は過失が無い場合でさえ、形式的には死んだことにして、別人を名乗らねばならなかったのである。袁紹を放免と言う訳にはとてもいかないだろう。すると、白蓮は事も無げに言った。
「別にかまわんだろ。私としては、本初を罰するより、ただ止めたかったと言うのが本音なのさ。皇帝になって突っ走っていったとしても、そう長く持ちこたえられず、曹操か孫権あたりに滅ぼされていただろうからな」
 それに、と言って白蓮は言葉を続ける。
「このご時勢、皇帝を僭称するくらいでは罪にならないし、本初はこっちの領土を侵してもいない。むしろ、私たちが侵略をしている側だ」
「……おお、そう言えば」
 星がポンと手を打つ。そう言われてしまうと、袁紹領へ侵攻しての決戦を主導した詠としては、何も言えない。彼女が黙った所で、白蓮はさらに言葉を続けた。
「それと、私は本初を止めるのを、最後の仕事にしようと思ったんだ。桃香」
「え?」
 白蓮が最後の仕事、などと言い出し、その意味を理解する間もなく名を呼ばれた桃香は、白蓮にさらに思わぬ事を言われた。意外どころか、青天の霹靂としか言い様が無い衝撃的な言葉だった。
「私は、幽州と并州の太守の地位を、お前に譲りたい」
「……はあっ!?」
 桃香は驚きに目を丸くした。他の武将たちや袁紹一行も、白蓮の突然の言葉に驚いている。
「じょ、冗談でしょ? 白蓮ちゃん。何で今そんな話をするの?」
 あたふたと言う桃香に、白蓮は首を横に振った。
「生憎、私は本気だ。この事はうちの家臣たちにも既に言って、説得も済ませてある」
 そう言う親友の目に本気の光を見て、桃香は尋ねた。
「本気……なんだね? でも、どうして?」
 理由を聞かなければ、とても受けられる話ではない。その事はもちろん白蓮も理解している。そこで彼女は答え始めた。
「桃香、虎牢関攻めの前に、曹操に言われたことを覚えているか?」
「え? 確か……英雄とはどういう事か、だったよね」
 白蓮の質問に答える桃香。あの時の事はいろんな意味で忘れ難い。
「そう。曹操は多くの群雄の中で自分と桃香だけが英雄だと言って、英雄の資格をお前に問うた。お前は私にその話を聞いて、その時私はわからないって答えたけど、実は曹操の答えに、私はその時気付いていたんだ」
「えっ、知ってたの? 白蓮ちゃん」
 桃香が聞くと、白蓮は頷いてその答えを口にした。
「英雄の資格、あるいは条件……それは、多くの人をひきつける器量、魅力だ」
「魅力……?」
 桃香が自分を指差して言うと、白蓮は笑顔で答えた。
「そうだ。星にしても、月たちにしても、私ではなく、桃香。お前を慕って集まってきたようなものじゃないか。お前には自覚が無いかもしれないが、確かにお前は英雄と呼ばれるだけの魅力を備えているんだよ」
 桃香は首を傾げた。
「でも、それだったら……」
 白蓮は桃香の疑問を理解して答えた。
「まぁ、曹操の奴は少し基準が厳しすぎるな。私が言ったような意味なら、本初も、孫権も、馬騰も、それに北郷も英雄の素質はある。確かに、お前と曹操は群を抜いていると思うが」
「わたくしもですの?」
 袁紹が言う。白蓮は頷いて、顔良と文醜の顔を見た。二人は笑顔を返し、主君の方を見る。それに袁紹は照れくさそうに顔を赤らめることで答えた。

 一方、桃香にはわからなかった。自分に、本当にそんな魅力があるのかどうか。そんな戸惑う彼女に、白蓮はさらに説得のための言葉を重ねた。
「それに、私が桃香を君主に推す理由はもう一つある。それは、桃香に王者の相がある事だ」
「王者……? ひょっとして、孟子の?」
 詠の質問に、白蓮はその通り、と頷いた。
「今この世の中で力を持っているのは、曹操にしても孫権にしても、覇道を行く連中だ。あの覇者たちに対して、桃香は王道を持って凌駕する可能性がある。私はそう踏んでいるのさ」
 孟子は桃香たちの生きる今の時代より、五百年を遡った時代の思想家だ。彼は武力によって天下を治めるものを覇者、仁徳を持って天下を治めるものを王者とし、後者を前者に勝る、理想の存在であるとした。当時はあまりに急進的な思想として排斥され、社会に影響を与えることは出来なかったが。
「……ま、連中と同じ事をやってても勝てない、と言う理由もあるけどな」
 そう言って、白蓮は星、美葉、月、詠の顔を順番に見た。
「どうだろう。私ではなく、桃香を主として仕える気はないか? 星は聞くまでもないか」
 星が苦笑して頷く。
「ま、私はもともと桃香様の臣を自認しておりますゆえ」
 続いて月が言う。
「桃香さんの志のお手伝いが出来るのであれば、ぜひ」
 詠も何時もの何処か怒ったような表情で答えた。
「ボクは桃香さんには月を助けてもらった恩があるからね。それを返す為にも全力で補佐するだけよ」
 最後に美葉が頭を下げた。
「申し訳ありません。決して、白蓮様を軽んじる気はなかったのですが」
 白蓮は気にするな、と笑ってから桃香を見た。
「どうだ? 私に、お前に賭けさせてくれないか?」
 桃香はそれには即答せず、質問した。
「つまり……白蓮ちゃんがしたい事は、禅譲……なんだね?」
「ああ、そう言うことだ」
 白蓮は頷いた。禅譲とは、地位を血縁に拠らず有徳の人物に譲る事であり、王位継承の理想形とされる。これに対し、覇道を行く者が武力で王位に就く事は、簒奪と呼ばれている。
「なるほど、桃香さんに地位を禅譲する事で、桃香さんこそ有徳の人材であり、この世を治めるに相応しい王者であると喧伝する……それによって、曹操や孫権に対する反対勢力を結集する……と」
 詠が言った。その顔には、白蓮の策に対する感嘆の色が伺えた。
「白蓮さんが、そこまで政治的にものを考えられる人とは思わなかったわ」
「おいおい、酷いな。これでも一応太守経験者なんだぞ」
 白蓮は苦笑したが、すぐに表情を引き締め、桃香に改めて問いかけた。
「受けてくれるか? 桃香」
「一つだけ、聞いてもいい? 白蓮ちゃん……ううん。みんな」
 桃香は一同を見渡して言った。
「なんでしょうか? 桃香様」
 星が代表して答えると、桃香は一同が思いも寄らない事を言った。
「わたしは、天下の全てを治めようとは思わない。それでも構わない?」
 最初、全員が桃香の言葉の意味を理解できずに沈黙を余儀なくされた。代表して聞いたのは、考えることが苦手で、即答えを欲しかった袁紹である。
「どういう事ですの?」
 仲間からの質問ではなかったが、桃香は答えた。
「わたしは連合軍に参加してて、この国には本当にいろんな人たちが住んでいると実感したの。それで、その人達を、たった一人の人間が統べる事自体に、無理があるんじゃないかって……そう思うようになったの」
 例えば、出身地によっても兵士たちの気質は全く違っていた。常に草原を駆け回る、自由な涼州の民。情熱的で享楽的な江東の民。寒い地方に暮らし、我慢強い河北の民。誇り高く、規律正しさを好む中原の民……
 そんな多くの人々が暮らすこの世の中を、たった一つの朝廷、たった一人の皇帝が支配する。その事自体が無理を孕んでいる。その無理が歪みとなり、国を内部から腐らせる。そう。たった一つの国とするには、この天下はあまりにも広すぎる……桃香はそう考えていた。
「だから、敢えてわたしは天下統一を志しません。それぞれの地方がそれぞれ一つの国になって、自分たちに合ったやり方で栄えて行ければ良いと思うの」
 桃香はそう言って、まずは言葉を切った。そして、みんなを見回す。それぞれに、桃香の言葉の意味を考えていたらしい一同だったが、やがてまず、月が手を挙げた。
「とても……とても素晴らしい考えだと思います。でも、もしそうした国の中に、他の国を征服して天下統一を目指そうと言う所が現れたら、どうするんですか?」
「そうしたら、他の国が全て同盟して、その国の野望を押さえ込む。そう言う約束を作れば良いと思うよ」
 桃香は答えた。
「この世界に国が一つしかなくて、皇帝も一人しかいないとしたら、その皇帝のする事には誰も注意が出来なくて、皇帝がどんなにワガママを言っても、それを糾す事ができないでしょう? でも、国がたくさんあったら、どこかの国が悪事を働いても、他の国がそれを糾す事が出来る。逆に、どこかの国で困ったことが起きたら、他の国が助けることが出来るかもしれない。人に友達が必要なように、国にも友達が必要。わたしが言いたい事は、そう言うことなの」
 そこで、桃香は白蓮と袁紹を交互に見た。
「袁紹さんを、白蓮ちゃんが止めたようにね」
 その言葉に、白蓮は苦笑いを浮かべ、袁紹は肩をすくめて言った。
「……こう言っては何ですけど、劉備さん。貴女の言ってることは、とても甘い理想だと思いますわ。孫権さんはともかく、曹操さんはそんなことに耳を貸す方ではなくてよ?」
「わかってます。自分の甘さは。でも、理想を追うのを止めたら、誰も先には進めないと思いませんか? 理想なんて甘い戯言だと斬って捨てていたら、何時までも世の中は良くなりません」
 桃香はそう答え、袁紹の顔をまっすぐに見つめた。その眼光の強さに、袁紹は少したじろぐ。それでも、彼女は名家の誇りにかけて、その眼光を跳ね返すように、桃香を見つめ返した。彼女が何か大事な事を言おうとしている。それがわかったからだ。
「わたしは……少し前まで、何も出来ない無力な人間でした。お金も力もなく、その日暮らしの毎日を送っていました」
 桃香が語り始める。それを袁紹は黙って聞いていた。
「そんなわたしが、黄巾の乱に遭って、何とか生き残ることができたのは、たくさんの人達に助けられたからです。そして、この国を良くしたいという志を持つことが出来た時、星さんや白蓮ちゃんが助けてくれました」
 星と白蓮が笑顔を見せる。
「今はそこに、月ちゃんに詠ちゃん、美葉さんが加わっています。わたしだけでは何もできなくても、みんながいれば、大きな事が出来ます。曹操さんの野望を止めることだって出来るかもしれない。ううん。きっとできる」
 桃香は月、詠、美葉の顔を見ながら話し、そしてまた袁紹に視線を向けた。
「袁紹さん、袁紹さんたちにも、わたしは仲間に加わって欲しいと思います。一緒にこの世のために戦って欲しい。わたしたちの国の友邦として。お願いです。一緒に戦ってくれませんか?」
 桃香は言った。勝者が敗者にするとは思えない、それは懇願だった。袁紹は黙って桃香の言葉を聞いていたが、ふっと笑顔を見せた。
「劉備さん、わたくしは、貴女とは逆の存在ですわね」
 え? と首を傾げる桃香に、袁紹は言った。
「わたくしは名家に生まれ、何一つ不自由なく育てられました。お金もあったし、力もありました。でも、わたくしには志と言うものがありませんでしたわ」
 袁紹は遠い目をした。
「わたくしにあったのは、欲だけ。出世して栄耀栄華を極めたい。ただそれだけでしたの。だから、簡単に玉璽の呪いに捕われてしまったのでしょうね。貴女は玉璽を投げ捨てる強さを持っていたのに」
「袁紹さん……」
 桃香が自嘲する袁紹に心配そうに声をかけると、彼女は改めて桃香を見て答えた。
「そんなわたくしでも、貴女と志を一つにできるかしら?」
 桃香はその言葉を聞いて、満面の笑顔を浮かべると、袁紹の手を握った。
「もちろんだよ、袁紹さん」
「麗羽ですわ」
 袁紹は言った。
「それがわたくしの真名。貴女に預けます。そうお呼びくださいまし」
「うん、わたしは桃香。そう呼んでね」
 二人が手を握り合った所で、白蓮が言った。
「ところで桃香、国の名前はどうする?」
「え?」
 振り向いた桃香に、白蓮はさらに言葉を続けた。
「ほら、曹操は魏を名乗ってるし、孫権は呉だろ? そう言う国名も今後は必要だと思うんだ」
「そうですな。桃香様は劉姓で、王朝の血縁者。失われた“漢”の国号を継ぐのも良いと思いますが」
 星もそう言うと、桃香は首を横に振った。
「もう、わたしは“漢”にこだわる必要はないと思うの。でも、字の響きだけは継承させてもらおうかな」
 桃香は言いながら、自分の理想の国を想像する。星と美葉が鍛錬をして、月はお茶を淹れたり、お菓子を作ったり。詠が子供たちに勉強を教え、自分はそれを見て、幸せになりたい。
 よろこびに満ちた、誰もが笑顔で過ごせる国。そう、自分の国に相応しい名前は……
「“歓”。わたしの国の名前は、歓だよ」
 歓……その響きに秘められた希望を、展望を、皆が想像した。麗羽は笑顔で言った。
「いい国号ですわ。では、わたくしの国は“仲”を名乗りましょう。桃香さん、貴女と、貴女の国の仲間であること。その証として」
 再び桃香と麗羽が手を握り合い、その上に白蓮の手が重なる。そして、星が、斗詩が、月が、美葉が、詠が、猪々子が。
 敵対から一転して、友好国へ。乱世に臨む新たな枠組みとして、歓仲二国同盟が成立した瞬間だった。
 
 江東南部では、呉軍による反孫家諸侯の討伐戦が続いていた。既に反孫家側勢力は半分以上が討滅されていたが、幾つかの諸侯は粘り強い抗戦を続けている。
 陣頭指揮を取る孫権の元に、留守を任せていた周瑜が訪れたのは、そうした抵抗中の城を攻撃している最中の事だった。
「周瑜、留守居役を任せたお前が何故ここまで来た?」
 出迎えた孫権が、警戒を滲ませた表情で言う。先代孫策の代からの功臣で、ある意味孫権以上に実力、見識を評価されているこの大宰相は、孫権にとっては部下である以上に政敵という側面が強かった。
「私一人では、いささか判断しかねる事態が発生しましたゆえ」
 周瑜はそう答えると、その内容について報告した。
「曹操と馬騰の戦、公孫賛と袁紹の戦、北郷軍の益州侵攻……いずれも、どうやらほぼ決着が付いたようです」
「……何だと?」
 孫権は他の勢力の戦が終わったと聞かされ、周瑜を反感の篭った目で見つめた。まだ決着をつけられない自分を笑いに来たように思えたのだ。しかし、周瑜は特に感情を表さず、淡々と報告を続ける。
「曹操は決戦に出てきた馬騰軍を壊滅させ、涼州を手中に収めました。馬一族では馬超だけが逃亡に成功したとの噂もありますが……もはや、反抗の力は残っておりますまい」
 そうだろうな、と孫権も思う。曹操と馬超は連合軍で顔を見知っているが、馬超が曹操を凌駕しているのは、個人的な武勇くらいだろう。
「ここに近いところでは、北郷軍が益州諸侯連合に与していた呂布を寝返らせることに成功。これで、諸侯側の抗戦の意思がほぼ挫けました。既に北郷軍は掃討戦に移っており、成都入城も近いでしょう」
「……それは大したものだ」
 孫権も思わず口にしていた。北郷軍は連合軍時には兵力が少なかったが、その後荊州を掌握して名将黄忠を傘下に迎え、今また呂布と益州を手に入れたとすれば、その勢力拡大は曹操以上に目覚しいものがあると言える。
「いささか、警戒する必要があるかもしれませんね~」
 話を聞いていた陸遜が言うと、周瑜はうむ、と答え、そして最後の戦線について報告した。
「しかし、公孫賛軍も北郷軍に負けない驚くべき勝利を収めました」
「何だと、勝ったのか!? 公孫賛軍が」
 孫権は驚く。圧倒的な兵数の差を、一体どう覆したのだろうか。
「詳細は不明ですが、袁紹は捕虜となり、公孫賛軍に城下の盟を誓わされたようですな。しかし、もっと驚くべき報せがあります」
「なんだ、それは?」
 孫権が聞くと、周瑜は白蓮から桃香への禅譲の話をした。
「公孫賛領は劉備の治める事となり、国号として歓を名乗ったと天下に布告しました。同時に、劉備は現状で各諸侯が戦乱を収め、会談による紛争の解決を訴えております」
「ほう……」
 孫権は劉備の提案に興味深いものを感じた。彼女は内心覇道に邁進することへの懐疑を抱いているためだが、それを察したのか、周瑜が言った。
「おそらく、曹操は相手にしないでしょう。ですが、この構想はわが孫呉が天下を制するための足がかりになる、と私は見ております」
「……どう言う事だ?」
 訝る孫権に、周瑜は説明を続けた。この劉備の構想は、確実に曹操には一顧だにされない。そこへ孫呉が乗る雰囲気を見せれば、同盟締結への足がかりにする事は簡単だろう。まず呉と歓で同盟を結び、続けてその勢力を背景に北郷軍とも同盟を結ぶ。袁紹が対董卓大同盟を結んだように、対曹操大同盟を結び、呉がその主導権を握るのだ。
「我が孫呉の天下統一にとって、最大の障害は曹魏……これを潰すため、劉備たちを最大限に利用いたします。そのための同盟交渉を、私にお任せいただけますか?」
 孫権は僅かに顔をしかめる。劉備たちを利用し使い潰そうと言う周瑜の計画に、嫌悪を覚える。
 だが、それを差し引いても、劉備の提案と同盟の成立は魅力的だ。曹操に対する勝率は大幅に上がるし、それに上手く立ち回れば、同盟を周瑜が進める天下制覇への防壁に出来るかもしれない。
(ふ……私も、冥琳の事は責められんか。同盟に対して、私の個人的な構想を実現するための道具と考えているのだから)
 孫権は微かに自嘲の笑みを浮かべ、一瞬でそれを消して、周瑜に言った。
「委細任せる。見事同盟をまとめて見せよ」
「ははっ」
 周瑜は深々と頭を下げ、主君の意を受けた。しかし、誰にも見えぬその顔は、冷たい笑みを浮かべていた。
(続く)


―あとがき―
 対袁紹戦、政治的にも決着です。同時に桃香の身の上も大きく変わりました。桃香と白蓮の関係がどうなっていくのか、と気にしていた方も多いようですが、こんな感じです。いかがでしたでしょうか?
 なお、次回は拠点パートっぽい話にしたいと思っています。初登場のキャラも何人か出る予定。あと、麗羽はあくまで他国君主扱いなので、拠点パートには出ません(爆)。桃香と馬首を並べて戦場に向かうことがあれば、また出てくるでしょうけど。
 



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十五話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/09/27 01:04
 于吉が何時もの部屋に戻ってくると、そこには左慈が待っていた。本来なら于吉にとっては嬉しい状況ではあるが、今日の彼は少し疲れていた。
「左慈、御用ですか? お叱りなら先ほど上の方々にたっぷり頂戴してきた所なので、少し勘弁して欲しい所なのですが」
 現在監視中の外史が正史と大幅にずれてきたことで、于吉は彼の属する組織から査問を受けたのだ。今はまだ大丈夫だろうが、あまり失態が続けば、彼らの存在自体が消される可能性も否定できない。死を恐れるわけではないが、外史の人間に裏をかかれっぱなしで終わる屈辱だけは避けたかった。
 しかし、そんな精神的に疲れている于吉に、左慈は容赦の無い言葉を投げつけてきた。
「上の人間が苛つくのも当然だろうな。もはや正史の原形すら留めていない世界になってしまった。お前の介入策がことごとく裏目に出たせいだ」
「ふぅ、手厳しいですね。言い返せませんが」
 于吉が苦笑交じりに答える。すると、左慈は意外にも于吉を擁護するような発言をした。
「とは言え、根本は俺たちが直接外史に介入できれば問題ないのに、上が妙な行動規制を押し付けてくる事だな。この世界の人間にも考える頭はある。それも、正史では歴史上で十指に入るような天才たちだ。お前が読み負けることがあっても仕方があるまい」
「慰めてもらってるのか、責められてるのか、わかりませんね」
 于吉は苦笑を持って左慈に答えると、何時もの椅子に腰を下ろし、水晶球を通して外史の監視に入る。
「……今回は少し様子を見るとしましょう。勢力の収斂が進み、一時的に安定期が来ています。それが崩れ始めたときが、再度動く機会でしょう」
 しばらく様子を見ていた于吉が言うと、左慈はつまらなそうな表情で答えた。
「そうか。なら、少し身体を休めておくとするか。機会が来たらすぐに呼べよ」
「承知しました」
 歴史の陰で暗躍する者も、休息の時はある。外史の主役たちもまた、しばしの穏やかな時を過ごしていた。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝

第十六話 桃香、初めての外交に臨み、対曹操大同盟成立する事


 政庁の謁見室で、桃香はやや緊張した面持ちで相手が来るのを待っていた。
 謁見を行うこと自体は、桃香は初めてではない。白蓮から領土を譲られ、国号を「歓」として王になってからは、毎日行っているし、并州の州代として赴任した時も、謁見に近い陳情の受付などはしていた。
 しかし、今日の相手は今までとはやや格が違う。何しろ、初めて公式に迎える「外国」の使節なのだ。
 
 即位後、桃香は各地の群雄諸侯に、戦闘の即時停止と、紛争を話し合いによって解決するための列国円卓会議の設立と言う提案を、書簡として送っている。現在の所、明確に賛同の態度を示しているのは、友邦である仲一国であり、孫呉、曹魏、北郷軍からは返事が来ていない。
 北郷軍は遠いからまだ使者の往復が済んでいないのだろうとわかるが、孫呉、曹魏の沈黙は不気味だった。それが、数日前に孫呉からこの件も含め、正式に使者を送って返答すると共に、孫呉側からの提案も持ってくる、と言う書簡が届けられたのである。
「孫権さんは、賛同してくれる……と言う事なのかな?」
 書簡について開いた会議の席上、まず桃香がそう切り出すと、君主から身を引いて大将軍の座に着いた白蓮が答えた。
「あまり楽観しないほうがいいと思うがな。曹操に比べればおとなしいとは言え、孫権も覇道を行く者だ」
 続いて詠も自分の考えを述べる。
「向こう側の提案も持ってくる、と言う所が気になるわね。おそらく、孫呉としては桃香さんの提案に乗る気はあまりない。でも、同盟か友好関係は結んでおきたい。そんな所じゃないかしらね」
 白蓮と詠の言葉に、桃香はちょっとしょんぼりした表情になる。
「そっかぁ……やっぱり、そう簡単に話を聞いて貰える事なんて無いよね」
 桃香とて、自分が甘い理想を語っている事はわかっている。それでも、その甘い理想を実現する事を、彼女は心に誓って戦おうと決意したのだ。この程度で挫けているわけには行かない。
「それなら、近いうちに直接孫権さんと話しをする機会を持ちたいな。使者さんにそう頼んでみよう」
 明るさを取り戻し、桃香が言うと詠が頷いた。
「まぁ、相手の国主と直接話をするのは悪くないわね。そこで主張を通せるかどうかは桃香さん次第だけど……どんな結果であれ、ボクたちは全力で桃香さんを補佐するだけよ。やってみなさい」
「応援してますね、桃香さん」
 月も笑顔で言う。
「ありがとう、二人とも……」
 桃香は感動の面持ちで詠と月に礼を言った。主従らしさはあまり感じられないが、君主と家臣というよりは、みんなが一つの目的のために頑張る仲間たちだと思っている、桃香らしい会議ではあった。
 
 そんな数日前の事を思い出し、ともかく使者と一生懸命話してみるだけだ、と桃香が気合を入れ直したとき、呼び出しの声がかかった。
「使者の方がお見えになりました!」
 担当の文官の声に、桃香は姿勢を正して答えた。
「お通ししてください」
 下級文官にも丁寧語を使うところが桃香らしいが、ともかく謁見室の扉が開き、使者がゆったりとした足取りで謁見室に入ってくると、跪いて貴人に対する拝謁の礼を取った。
「呉が使者にて、魯粛と申します。歓王劉玄徳様におかれましては、ご機嫌麗しく。拝謁の栄誉を賜りましたこと感謝いたします」
 そう言ったのは、白に近い長い銀髪を三つ編みにした、桃香よりやや年上かと思われる女性だった。呉の人々は健康的に日焼けした褐色の肌を持つ者が多いが、この魯粛と名乗った使者は、肌の色も髪に負けない白さ……というよりは青さすら感じさせた。
「ようこそ、遠路はるばるお越しくださいました。歓王劉備です。どうか楽にしてください」
 桃香が答えると、魯粛はではお言葉に甘えまして、と姿勢を正し、少し咳き込んだ。あまり身体が丈夫な人ではないらしい。桃香は衛兵に命じて椅子を運ばせた。
「これは、お心遣いありがとうございます」
 魯粛は口に当てた布をそっと懐にしまいこみ、桃香に礼を言うと、運ばれてきた椅子に腰掛けた。
「こほん……さて、本題を申し上げます。この度、歓王様のご提案に対し、わが主孫権はいたく感銘を受けた様子にございます」
「本当ですか!?」
 桃香が嬉しそうな声を上げると、魯粛は頷いて先を続けた。
「真にございます。されど、我が江東の地におきましても、度重なる我が主の呼びかけにもかかわらず、我利に固執する小人は多く、孫呉の大儀を解せぬ賊が跋扈する有様。また、外に目を向ければ、歓王様のお志を鼻にもかけぬ大賊がございますれば、ご提案を受けるは時期尚早。孫権はそう申しております」
「曹操さんの事を言っているのですか?」
 桃香は聞いた。魯粛は微かに笑みを浮かべる。
「他に誰がございましょう」
 桃香はすぐには答えず、魯粛の言葉の意味を考える。孫呉にとっても、やはり一番警戒すべき相手は、今や五州を領する曹操であるらしい。となれば、孫呉の求めるものは……
「孫権さんは、同盟を求めているのでしょうか? わたしたち歓に」
 桃香が聞くと、魯粛は今度ははっきりとした笑顔を浮かべ、頷いた。
「はい。歓王様のご提案は、曹操の覇道とは相容れぬもの。ならば、曹操を打ち破らねば、それは実現しますまい。しかし、かの奸雄の力は強大です。我等が手を携え、これに当たらねば勝利を拾うことは出来ません」
 再び考え込む桃香。正直な所、曹操からはまだ返事が得られていないわけだから、それを待ちたいとは思う。返事を聞く前から、曹操は受け入れないと決め付けて、彼女を包囲するように同盟を結ぶ事は、逆にそれこそ曹操を桃香の思いから遠ざける事になりはしないだろうか?
「……興味深い申し出です。みんなに相談してお返事したいと思いますが、よろしいでしょうか?」
 桃香はとりあえず、自分一人で考えて性急に答えを出す事を避けた。もちろん、魯粛には異存はない。
「承知しました。何日でもお待ちいたします」
 頭を下げ、謁見室を退出していく。桃香はため息一つつくと、軍議の間に全幹部を招集するよう命じた。
 
 半刻後、城外で演習をしていた星と美葉も帰還し、全員が軍議の間に揃った所で、桃香は魯粛との会談について話をした。まず意見を述べたのは詠である。
「呉は相当曹操を意識してるわね。まぁ、現時点で最強の諸侯なんだから、当たり前だけど。ボクも曹操の事は最優先で調べさせてるしね」
 今、詠が配下に置いている間者や偵探の半分は、曹操の領土に潜入させている。そこから上がってくる情報を総合する限り、曹操はこちらの親書を受け取っているのに、黙殺している可能性が高い。
「涼州を支配下に置いてまだそれほど経っていないのに、もう曹操は次の軍事行動の準備をしてる様子よ。まだ、どこを標的にしているのかは不明だけどね。ともかく、曹操が桃香さんの構想に乗る気がないのは明らかだと思う」
 それを聞いて、桃香は肩を落とした。それならまだ明確に拒絶されるほうがマシだ。
「それで、呉の提案は、要するに対曹操大同盟を作ろうと言うことなのだろうか?」
 星が聞くと、詠はそうね、と首を振った。
「それも、呉の主導でね。同盟を組むと言いつつ、実際にはボクたちを配下として扱いたいのが本音なんじゃないの?」
「なんと、舐められたものだな」
 美葉が憤りの表情を見せる。しかし、詠はあくまでも冷静だった。
「現実的に見れば、今のボクたち歓よりも、呉の方が国力は勝っているわよ。向こうが優位に立ちたいのは当然ね。仲を計算に入れても、ようやく呉と互角くらいだから」
「麗羽のヤツ、大同盟からこの方無茶苦茶浪費が続いて、内政が火の車だったらしいからな」
 白蓮が溜息をついた。少し前まで曹操と互角の力を持っていたはずの麗羽だが、その実先祖代々の蓄えを派手に使い潰していた、と言うのが実情だったらしい。易京の戦いが終わった後、十万を越えた軍隊を解体し、半分以下の総兵力三万五千に再編していた。
 時々使者としてやってくる猪々子は、斗詩が構ってくれないとむくれていたが、肝心の相手は待ったなしの財政再建に追われている最中。見かねた桃香が文官を派遣して手助けしたくらいだ。
「仲の財政再建が落ち着いて、軍隊を動かせるようになるまで、一年近くかかると思います。ここで呉の皆さんと同盟できるのは、悪い事ではないとは思います」
 実際にその派遣文官団の指揮を任された月が、仲の内情を報告した。こうして全員の報告を聞くと、桃香は同盟を結ぶのもやむなし、と言う方向に流れが動いているのを感じた。
(……と言うより、そう流れを見切って、使者を送ってきたんだろうね。孫権さんはもちろん、評判が正しければ、周瑜さんもそれくらい出来る人だもの)
 かつて同盟軍の軍議で見た孫権と、会った事はないが、当代の政治家、軍師としては超一流の手腕を持つと評判の呉の大宰相の事を、桃香は思った。
 思えば、例え自分の考える天下分立の計……複数の国が並び立つ事による均衡の上での平和と、それを維持するための円卓会議も、自分がそうした有能な人々に隙を見せる事無く、言葉で堂々と渡り合って行けるようにならなければ成立しないのだ。今更難しいと嘆いても始まらない。まずは、呉が曹操のように自分の考えを無視せず、そこに自分たちの思惑があってでも興味を示す姿勢を見せてくれただけでも、ありがたいと思うべきだろう。
「……とりあえず、同盟の話は受ける事にしよう。明日、もう一度魯粛さんを呼んでそう伝えます」
 桃香は決断を下す。自分個人としては、曹操が話を聞いてくれると信じたいが、仲間から国外の有力者まで、全員が曹操を「警戒すべき相手」と看做しているのだ。それも、自分以上の知力を持つ相手ばかり。
 さすがに、この状況で自説に固執できるほど、桃香は自分の分析に自信を持ってはいない。まして、曹操が話を聞いてくれるだろう、と言うのは分析ではなく願望だ。
(この同盟が、少しでも曹操さんに耳を傾けさせる材料になれば良いけど)
 桃香はそう願わずにはいられなかった。
 
 
 翌日、再び謁見室で桃香は魯粛と向かい合っていた。昨日と変わらず、どこか不健康そうな様子の魯粛。だが、昨日と違うのは、彼女が大きなつづらを持参したことだった。その気になれば月や詠のような小柄な少女くらいは入りそうな大きさである。
「魯粛さん……それは何ですか?」
 丁寧に飾り布で封印されたつづらに、桃香が訝しげな視線を向けると、魯粛は頭を垂れて答えた。
「怪しい物がはいっているわけではありません。もし同盟成立となれば、これを我が孫呉よりの、友誼の証として歓王様に献上するように、と我が主より仰せつかっておりますゆえ、お持ちした次第です」
「そうですか……」
 桃香はもう一度つづらに目を向けた。中身が気になることは気になるのだが、そう言うことならすぐに正体は判明するだろう。
「では、友誼の証、頂戴することになりそうですね」
 桃香が言うと、魯粛は笑顔を見せた。
「おお、では……」
 桃香は頷いた。
「はい。孫権殿からのご提案である、我が国歓と貴国呉の同盟。確かに承知しました。共に手を取り合い、天下泰平のために邁進して行きましょう、と、そうお伝えください」
 魯粛はほっとしたような表情で、桃香に頭を下げた。
「助かりました。この同盟が承知してもらえなければ、私は国に帰ってから周瑜殿に鞭打ちでも食らいかねないところでしたからね」
「え?」
 桃香は魯粛の言葉に首を傾げた。冗談かと思ったが、魯粛の表情にそれらしい雰囲気は無い。本気で周瑜に鞭打ちされると思っているのだろうか? 少なくとも、周瑜は本気で魯粛にそう言う脅しをかけたらしい。
(周瑜さん……ずいぶん凄いことを言うんだなぁ……それとも……そのくらい、本気で私たちとの同盟に、今後の方針を賭けている……と言うこと?)
 考え込む桃香。その時、魯粛が立ち上がった。
「では、献上の品をご覧になってください。我が主と周瑜殿の誠意は、これを見れば明らかになるでしょう」
 そう言うと、魯粛はつづらを封印していた飾り布を解いた。次の瞬間、桃香は驚きに目を見張った。
「……え?」
 思わず目を点にし、口を開ける桃香の目の前に現れた、つづらの中の品。それは、一人の少女だった。
(何て綺麗な娘なんだろう……)
 その少女は同姓相手の趣味はない、と思っている桃香でさえ、思わず目を奪われるほどの美少女だった。桃香に似た色合いの赤い髪の毛を両把頭にまとめ、飾り布でくくっている。その髪の毛の下には、どこか子犬を思わせる、黒目がちな大きな目が、やや不安げな色を湛えて桃香を見据えていた。
 年の頃は、月や詠と同じか、やや下と思われ、体付きも「女性」と言うよりは「少女」と言った感じで、あまり発達はしていない。しかし、脚がほとんど隠れないほど裾の短い旗袍をまとったその姿は、桃香にもない色気をほのかに感じさせるものだった。
「あ、あの……その娘は?」
 しばし少女に見とれていた桃香が、ようやく気を取り直して聞くと、魯粛は少女のほうを向いて言った。
「さぁ、ご挨拶なさい」
「は、はい……」
 少女は一歩踏み出すと、礼を取って自らの名を名乗った。
「大喬と申します……歓王さまにおかれましては、末永く……」
「ま、待って。ちょっと待ってください」
 桃香は大喬の言葉を途中で遮り、魯粛を見た。
「魯粛さん、これはどういう事ですか? わたしでも『江東の二喬』の名前は知っていますよ。彼女たちがどういう人かも」
 江東の二喬――江東の有力諸侯の一人、喬公の双子の娘で、姉の大喬、妹の小喬と共にその美しさ、愛らしさは天下第一品であると世に知られた二人の少女である。呉の先代、孫策が望んで大喬を恋人とし、義姉妹の契りを結んでいた周瑜は小喬を恋人としたが……
「孫策さん亡き後、周瑜さんが大喬ちゃんも引き取った、と聞いています。かつての孫呉の主だった方の伴侶を、わたしが引き取るなんて……そんな事は出来ませんよ。だいいち、人質みたいじゃないですか。わたしは人質なんて貰わなくても、孫呉が裏切るなんて思いませんよ」
 桃香はそう強い口調で言った。仮にこのまま大喬の身柄を受け取ってしまえば、歓からも人質を出さなくてはならなくなる。そんな事は桃香はしたくなかった。しかし、魯粛は落ち着いて答えた。
「これは、周瑜殿のたっての願いでもあるのですよ、歓王様。大喬は確かに孫策様の伴侶でした。それが、ほんの僅かな間を共に過ごしただけで、孫策様は逝ってしまわれました。ですから、周瑜殿は機会があれば、孫策様に負けない伴侶を、大喬のために見つけてやりたいと、そう願っておられたのです」
 話としては筋が通っているが、それでも桃香は大喬の身柄を受け取ることには否定的だった。
「そう言われても……わたしは女の子と愛し合うと言う趣味はないですし……それに、大喬ちゃんの意思はどうなんですか?」
 かつての英雄、江東の小覇王孫策。個人的にはもちろん知らないが、さぞかし優れた人物だったのだろうと想像はつく。それだけの人物に見初められた大喬にとって、自分など物足りないだけの存在ではないだろうか? 桃香はそう思ったのだが、大喬はその子犬のような視線で桃香をじっと見ながら言った。
「私は良き話だと……そう思っています。歓王様が女性と睦みあう趣味がないのでしたら、身の回りのお世話やお話し相手でも、何でも務めさせていただきます。こう見えても、お料理は得意なんです……!」
 その真摯な口調と表情に、桃香は思わずぐらりと心が揺らぐのを感じた。その言葉や表情に嘘偽りは感じられない。本気で桃香の傍にいたいと思っているようなのだ。
 なぜ、大喬が今日はじめて会う自分に、そこまで真剣な思いを向けてくれるのか、桃香にはわからなかった。しかし、そこまで真剣な表情の年下の少女を突き放すようなことは、桃香にはできそうもなかった。
「……わかりました。大喬ちゃんはしばらくうちで預かります」
 桃香はそう答えざるを得なかった。人質などいらないが、逆に身柄をつき返すことも、周瑜に対して不審を突きつける事になるかもしれないし、魯粛への鞭打ち宣言同様、大喬にも何か言い含められている事があるのかもしれない。その辺りを見極めたかった。
「そうですか。どうか末永く幸せにしてやってください」
 桃香の返事を聞いて、魯粛はほっとしたような笑顔を浮かべた。そこへ、桃香は今度は歓王としての希望を伝えた。
「それでは魯粛さん、孫権さんと周瑜さんにお伝え願えますか? 近いうちに、わたしは呉に直接参って、お二人とお話をしたいと思っています、と」
「え? 歓王様自ら、我が国に……?」
 魯粛は流石に戸惑ったような表情を見せた。この乱世に、一国の王が友邦とは言えけっして完全に信頼できない他国を訪問するなど、前代未聞の出来事である。そこで、桃香は重ねて言った。
「お二人と話をして、天下の未来について語り合いたい……とかねてから思っていました。ぜひお招きください、とわたしがお願いしていたと、そう伝えてください。お願いします」
「……は、承知しました」
 魯粛は頷いた。どうせ判断するのは自分ではない。それなら要望を伝えるくらいは構わないだろう、と考えたのである。その返事を聞いて、桃香はにっこりと笑った。
「良かった。それでは、魯粛さんを歓迎するために宴席を用意しています。ぜひ、色々とお話を聞かせてください。孫呉のことや、孫呉の皆さんの事を」
 そう言って立ち上がった桃香が、魯粛と大喬を手招きする。魯粛は笑顔で答えながら、どうにか使命は果たしたな、と内心で安堵していた。そして、別の国へ赴いた僚友の事を考えた。
(私は上手く行ったが……延珠、お前はどうだ?)
 魯粛の視線は西の方に向けられていた。
 
 
 その魯粛の視線が向った遥かな先、荊州北部、新野城。長らく北郷軍の本拠だったこの城だが、現在は引越しの準備で城中が大童になっていた。一刀が益州を攻略し、本拠をその中心地である成都に移すことを決定したからである。
 そんな多忙の中、一刀は時間を割いて城を訪れた孫呉の使者と会っていた。
「つまり、呉は俺たちと同盟を結びたい、と言う事なんですね?」
「うん、そう言う事になるね」
 用件を確認する一刀に、使者としてやってきた女性は実に親しげと言うか、隔意が無いと言うか、使者らしからぬ軽い態度で答えた。長い黒髪を、頭の左右に分けて赤い飾り布でくくり、武官の装束も裾をフリフリのひだ飾りで装っている。一刀よりは幾つか年上のようだが、かなりの少女趣味だ。
(しっかし、この人が呉の宿将、黄蓋とは……この世界に来て一番驚いたことかもしれないなぁ)
 話しながらそんな事を考える一刀。そう、彼の元にやってきたのは、呉において甘寧と肩を並べる勇将、黄蓋だった。しかし、武官らしからぬ柔和な美貌と、聞く者を和ませる喋り方と声のおかげで、全くと言っていいほど黄蓋というイメージが浮かばない。
「まぁ、俺としては特に同盟を結ぶことに異存はないけど」
「ないけど……なに?」
 黄蓋が不思議そうに首を傾げる。一刀は慌てて手を振り、答え直した。
「あ、いや。なんでもないんだ。孫呉との同盟、確かに承知したよ。孫権さんによろしく」
「うん、よろしくね、北郷さん」
 黄蓋が満面の笑みと共に頷いた。その可愛らしい笑顔に思わず見とれ、それから慌てて首を振って邪念を追い出す。こんな所を仲間たちに見られたら、何と言って責められるかわからない。黄蓋の事に考えを巡らすのを止めて、一刀は答えた。
 個人的には、一刀に曹操に対する悪意はない。連合軍ではさんざんブ男と呼ばれた嫌な思い出はあるが、その程度で彼女を不倶戴天の敵だと思うほど、彼は心の狭い人間ではなかった。
 ただ、相手が曹操だと言うことで、今後確実に戦うべき相手になるだろう、と一刀は予測していた。曹操と言えば他の君主たちに妥協する事無く、覇道を貫いた人物である。戦いたくはないが、戦わざるを得なくなるだろう。
 演義でも、蜀と呉が手を結んで、ようやく侵攻を食い止めた相手だ。そして今、自分は益州を手にしたことで、蜀の領土をほぼ領有した事になる。曹操が戦いを挑んできたとしても、おかしくない相手だ。
(むしろ、こっちから呉に同盟を申し出るべき局面だった。向こうから言い出してきてくれたのは、助かる反面後が怖いな)
 一刀はそう考える。彼はこの世界で自分が本来劉備が果たすべき役目を背負っていると考えていたから、呉と同盟し曹操に対抗できる道が開けたことは素直に喜ぶべきだろう。
 しかし、最終的には蜀と呉の同盟は決裂している。呉は魏と結んで荊州を奪い、その時関羽が戦死している。呉と言えど無条件には信用できない。
(……やっぱり、最終的には信用できるのは桃香さんだけだろうな。領地が遠くて、間が魏と呉の領土で隔てられているのが辛いな……)
 一刀は思った。桃香からの書簡――天下分立の計は、現代社会を知っている一刀には納得のいくものだったし、朱里も懐中温めていた「天下三分の計」を先取りする構想だとして、高く評価していた。
 目指すゴールがほぼ同じ所なのは、桃香しかいない。改めて桃香に正式に返事を出すと共に、自分たちも国としての体裁を整えなくては、と考えをさらに深める一刀だったが、そんな彼を黄蓋の声が現実に引き戻した。
「ねぇ、ちょっと、聞いてるの? もうカズくんってば」
「へ? か、カズくん?」
 我に返る一刀を、黄蓋が怖いと言うより可愛いとしか言い様がない膨れっ面で睨んでいた。
「人の話はちゃんと聞かないとダメでしょ? いくらお姉さんが優しいと言っても、無視されたら怒っちゃうんだから」
 そう言って、口でぷんぷん、と怒りの擬音を出す黄蓋に内心苦笑しながら、一刀は頭を下げた。
「いや、ごめんなさい。で……」
 カズくんって呼び方は何? と聞こうとした一刀だったが、黄蓋が用意した大きなつづらに、思わず目が行った。
「何、それ?」
 身を乗り出す一刀に、黄蓋はじゃじゃーん、とやっぱり擬音を口にしながら、飾り布の結び目を解いた。
「うん、周瑜さんに、カズくんが同盟を承知したら、渡すようにって言われてきたの。はい、出ておいで~」
 つづらのふたが開く。そこから出てきた人物に、一刀は目を奪われた。つづらの中から出てきたのは、一人の少女……白い旗袍をまとい、赤い髪の毛を両把頭にまとめて飾り布でくくっているその装いは、一刀は知らぬ事だが、桃香の元にやってきた大喬と全く同じものだった。
 ただし、目は猫を思わせる挑戦的な光を湛え、一刀を値踏みするように見つめている。やがて彼女はニヤリと笑って言った。
「へぇ……あなたが天の御遣いさん? 思ったより良い男じゃない」
 一国の主に対して、なかなかに失礼な物言いではあった。
「……君は?」
 一刀は尋ねた。少女は薄い胸を張って答えた。
「あたしは小喬。天下に名高い二喬が一人……そう言えば知ってるかしら? 今日からお世話になるわよ」
 彼女こそ、桃香のところへ来た大喬の双子の妹であり、周瑜の伴侶であるはずの小喬だった。当然の事ながら一刀はぶっ飛びそうになるくらい驚いた。
「小喬……だって!?」
 蜀と呉が同盟を結ぶ際、孔明が呉に行って同盟成立を訴える大論陣を張った際、周瑜を同盟締結に傾ける材料として孔明が利用したのが、この二喬だった。曹操が二喬を手に入れて傍に侍らせたい、と日頃から言っていた事を孔明に教えられた周瑜は、激怒して曹操を討つ事を誓ったと言う、そのエピソードを一刀はもちろん知っていた。
 それだけ周瑜が大事にしていたはずの小喬が、自分の所へ送られてきた……これは一刀には驚愕以外の何者でもなかったのである。
(周瑜はこの同盟にそこまで本気と言う事か……?)
 一刀はそう考えた。真剣な表情になる彼を見て、黄蓋は首を傾げた。
(うーん……冥琳の言う通りになったのかな……? カズくんいい人っぽいから、あんまり苛めて欲しくないんだけどなぁ。それに大喬ちゃんも小喬ちゃんも……)
 彼女が北郷軍への使者を命じられた時、二喬を差し出すと言う周瑜の宣言に、多くの重臣たちが驚愕した。特に大喬は先代の伴侶だったこともあって、反対意見が大半だった。
 結局、周瑜が反対意見を押し切って二喬を歓と本郷軍への人質代わりにする事が決まったのだが、黄蓋は周瑜が何かに焦っているような気がして、嫌な予感がしていた。
(確かに、カズくんは同盟の本気さを受け取ったみたいだけど、冥琳、本当にこれで良いの?)


 こうして、当事者たちもどこか不安を感じつつ、対曹操大同盟は成立した。とは言え、正式に文書を取り交わしたわけではなく、口約束の段階ではあったし、同盟軍が一斉に曹操を攻撃するための具体的な計画も立ってはいない。その辺の大戦略に関しては、各国の軍師である詠、朱里、斗詩、周瑜が書簡で意見を交換しており、桃香は政務に専念していた。
「桃香さま、お茶をお持ちしましたよ」
「ん、ありがとう。大喬ちゃん」
 この日も、午前に住民代表との謁見を終えた桃香が午後から政務をしていると、大喬がお茶を淹れて執務室へ持ってきた。
「……うん、美味しい。お茶淹れるのが上手なんだね、大喬ちゃん」
 一口すすって桃香が褒めると、大喬は嬉しそうな顔をした。
「はい、月ちゃんにコツを教えてもらいました」
 大喬はこんな風に、桃香の身の回りの世話をする専任の侍女としての仕事を任されている。今までは月が行政官の仕事の傍ら、お茶や間食の用意もしていたのだが、大喬がそれを引き継いだ事で、月は仕事に専念できるようになった。歳が近く性格が似ているせいか、この二人はここ数日で急速に友情を深め合っており、大喬自身の人のよさもあって、城内の人々も彼女を受け入れていた。桃香も真名を呼ぶことを許している。
「そうなんだ。良かった……大喬ちゃんに友達が出来て」
 ホッとする桃香。と言うのも、詠や星からは、決して大喬に油断しないように、と釘を刺されていたからである。
「彼女を傍に置く、と言う桃香さんの決定を覆す気はないけど、彼女が呉の間者かもしれない、と言う可能性は頭に入れておいてよね」
 と詠が指摘すれば、星も
「間者ではなく、刺客かもしれませんな。桃香様が呉の敵になるようなら殺せ、と言う命令を受けているとか。まぁ、あまり可能性はないですが、他国人を傍に置くという事は、そう言う注意を常に心がける事ですぞ」
 と、冗談半分、脅し半分のように諫言してきたものだった。
 そのせいで、桃香は他の人たちも同じように考えて、大喬に疑惑の目を向けないか心配だったのだが、幸いそう言う事は無かった。おかげで、大喬も数日で硬さが取れて、年頃の少女らしい快活さを取り戻してきている。
「はい。皆さん、良い人たちばかりで……私、この国に来られて良かったです」
 大喬がはにかんだような笑顔を見せる。同性愛の趣味はない、と思っていた桃香でさえ、この笑顔を見ると頭を撫でたり、抱きしめたくなったりする。亡き孫策が彼女を伴侶として大事にしていた気持ちが、少し分かったような気がした。
「それでは、また後で来ますね」
 お盆を抱いて一礼する大喬に、桃香は言った。
「あ、今日はもうすぐ終わるから、大丈夫だよ。あとは久しぶりにお風呂に入って、今晩はゆっくりするつもり」
 大量の水と薪を使う風呂は、この時代大変な贅沢である。毎日入れるものではなく、君主でさえ三日から四日に一度のお楽しみ、と言うのが実情だった。
「お風呂……ですか?」
「うん、大喬ちゃんも一緒に入る?」
 桃香が何気なく言うと、大喬は顔を赤らめ、もじもじとした仕草を見せた。
「? 恥ずかしがる事ないよ、女の子同士なんだし」
 まるで異性相手のような恥じらいを見せる大喬が可愛いなぁ、と思いつつ、桃香はさらに誘った。すると、大喬はこくんと頷き、蚊の鳴く様な細い声で
「じゃあ、ご一緒します……」
 と答えた。桃香は笑顔で残る茶を飲み干すと、残る竹簡に目を通しながら、大喬に言った。
「じゃ、ちょっと待っててね。急いで仕事片付けちゃうから」
 仕事に集中する桃香を、大喬はじっと見つめていた。その表情には、何かを決意した、思いつめたものが張り付いていた。
 
 
 湯浴み着に着替えた桃香は浴場の戸を開けた。ふわっとした湯気が過酷な仕事で潤いを失っていた肌に湿り気を与え、その感覚に彼女は満足感を覚えた。
「うん、いい湯みたいだね。大喬ちゃんもおいで」
 桃香が振り返って声を掛けると、やはり湯浴み着に着替えた大喬が、まだもじもじとした態度で頷いた。桃香は笑顔でついてくるよう促すと、浴槽に手を入れて温度を確かめ、それから掛け湯をした。濡れた湯浴み着の布地が桃香の同世代の女性としては豊かな肢体に貼り付き、肌が微かに透けて見える。もしここに男性がいたら、その悩殺的な姿は簡単に彼の理性を奪い去っていただろう。
「う……」
 大喬が桃香の姿を見て、そんな妙な声を漏らす。下腹部を押さえるように手を組み、浴場の入り口で立ち尽くす彼女に、桃香は聞いた。
「どうしたの? いいお湯だよ?」
 すると、大喬は俯いて答えた。
「その……桃香さま、胸が大きくて羨ましいなぁって……」
 桃香は微笑んだ。
「心配ないよ。大喬ちゃんはまだまだ成長期だもの。きっと、これからいくらでも胸くらい大きくなるよ。さ、一緒に入ろ?」
 そう言って、桃香は浴槽に身を沈めると、大喬を手招きした。彼女は俯いたままちょこちょことした歩き方で浴槽に近付くと、失礼します、と言って湯に漬かった。しかし、その動きも仕草も妙にぎこちない。ここ数日で随分と打ち解けたと思っていたのに、またそう言う態度に戻ってしまった大喬が、桃香には心配だった。
「大喬ちゃん」
 声を掛けると、大喬はお湯の中でぴくっと震えた。やっぱり何かあるな、と思いながら桃香は言葉を続けた。
「何か心配事か、悩み事でもあるの? わたしで良ければ、話してくれないかな?」
 そう優しく声を掛ける。大喬はなかなか答えようとしないが、桃香は焦る事無く、じっと答えを待っていた。しかし、その答えは、予想外の形でやってきた。
「と……桃香さまっ!」
「え? きゃっ!?」
 いきなり、大喬が桃香に抱きついてきたのである。桃香の豊かな胸にむしゃぶりつくようにして、大喬が顔をこすりつけてくる。
「ちょ……だ、大喬ちゃん? あ、やんっ……」
 最初、桃香は大喬がふざけているのかと思った。しかし、大喬は何かに追われているような、切羽詰った表情をして、的確に桃香の「弱い所」を責めてくる。
「え……あ……やだっ……そんなとこっ……」
 強制的に与えられる快感に身悶えしながらも、桃香はいきなりの大喬の行動にその理由を探そうとして、ある事に気がついた。
 もみ合ううちに、二人ともはだけてしまった湯浴み着。おかげで見えてしまった大喬の股間に、女性の身体には在るはずのない「モノ」がついている。
(え……?)
 桃香は混乱した。今まで実際に見た経験はないが、女学院では男女の違いについてももちろん学んでいる。
(男の人の……え? でも、ええっ!?)
 混乱のために大喬が与えてくる快感を忘れる事ができたのは、桃香にとっては幸いな事だっただろう。しかし、相手の様子の変化に気付いた様子もなく、大喬は必死の表情で言った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、桃香さま……! 私、こうするしか……!」
 そう言いながら、大喬は自分の「武器」を桃香の中に押し入らせようと腰を動かす。咄嗟に、桃香は手刀を作ると、それで大喬の首筋を一撃した。
「ごめん、大喬ちゃん!」
「はうっ!?」
 手刀を受けた大喬が、意識を失い昏倒する。乱れた湯浴み着をかき寄せて立ち上がりながら、桃香は浴槽の縁にもたれかかるようにして気を失っている大喬の姿を見た。
「うーん……さて、どうしようかなぁ」
 しばらく考え、桃香は大喬の身体を抱き起こした。
 
 
「……う」
 寝台の上で、身じろぎしながら大喬が目を覚ました。
「……ここは……」
 まだ意識がはっきりしないらしい大喬に、桃香は声を掛けた。
「気がついた? ごめんね。そんなに強く叩いたつもりはなかったんだけど」
「桃香さま……あっ!」
 大喬はどうやら意識が完全に覚醒すると共に、自分のしたことを思い出したらしい。顔面蒼白になり、ガクガクと震えながら桃香を見た。
「み、見たんですね? 私の身体……」
「うん。話に聞いたことはあるけど……本当にいたんだね、そう言う身体の人……」
 桃香は答えた。大喬に服を着せる時、彼女の身体に女の子の部分と男の子の部分と、両方が付いていることは確かめていた。いわゆる「ふたなり」と言う存在だ。
「あ、あの……桃香さま……」
 おずおずと口を開く大喬に、桃香は笑顔で言った。
「あ、大丈夫。他の人には何も言ってないよ。大喬ちゃんの身体の事も、お風呂での事も」
 すると、大喬は唖然としたような表情を浮かべ、そして聞いてきた。
「どうして……ですか?」
「理由があるんでしょう?」
 桃香は聞き返した。
「わたしは、大喬ちゃんが意味も理由もなく、あんな事をする子だとは思ってないもの」
 それを聞いて、大喬は項垂れ……しばらくして、絞り出すような声で言った。
「……冥琳さまのご指示なんです……できれば、桃香さまを篭絡してしまえ、って」
「……そうなんだ」
 桃香は頷いた。結局、詠と星は正しかった。大喬はただの人質ではなく、桃香を意のままに操るために送り込まれたのだ。ただ、大喬にはそれが荷が重過ぎる任務だったという事だろう。
(でも、ちょっと危なかったかも……気持ち良かったし。あのままだったら……)
 桃香はそんな事を考えて、ぶるぶると首を振って怖い想像を振り払った。一方、大喬は布団をぎゅっと握り締め、桃香に謝った。
「ごめんなさい……桃香さま……桃香さまも、この国の人達も、みんな良い人なのに……私、裏切ってしまって……軽蔑しますよね、こんな身体の……」
 桃香は大喬の傍に座って、その頭を抱きしめ、自虐的な言葉を断ち切った。
「あっ……」
 戸惑いの声を上げる大喬に、桃香は優しい声で言った。
「わたしは気にしないよ。それは、それだけ大喬ちゃんが周瑜さんや呉の国が好きという事で……わたしが、この歓の国や白蓮ちゃんたち仲間のみんなが好きなように……その気持ちが良くわかるの。だから、自分を責める様なことを言っちゃダメ。大喬ちゃんはたった一人で、自分にできることをしようと頑張ったんだから」
「桃香さま……うっ……ぐすん……うわあああぁぁぁん!!」
 緊張の糸が切れたのか、大声で泣き出す大喬。その頭を優しく撫でながら、しかし桃香は怒りの気持ちが湧くのを抑えられなかった。
(周瑜さん……あなたが呉のために戦う気持ちは分かります。でも、こういうやり方は認められません)
 戦う相手は曹操だけではない。今は味方の周瑜とも、何時か決着をつけなくてはならないと、桃香は誓っていた。
(続く)


―あとがき―
 今回は呉のキャラが一杯出ました。魯粛と黄蓋はオリキャラではなく、「真恋姫」発売以前に刊行された無印恋姫のノベル「紫電一閃! 華蝶仮面」に登場したキャラで、真名は魯粛が「咲夜」、黄蓋が「延珠」。外見は魯粛が弱音ハクそのまんま、黄蓋が初音ミクそのまんまな感じです。真のお姉様黄蓋(祭)も良いですが、延珠もなかなか可愛いキャラで好きです。
 あとは、まさかの桃香×大喬カップリング……になるのかな? 
 今後はもう一回くらい日常の話を書いてから、新たな展開に進んで行こうと思いますが、少し更新ペースは遅くなると思います。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十六話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:88514eac
Date: 2009/11/24 22:26

 桃香の元に、待望の書簡が届いたのは、対曹操大同盟成立から半月後の事だった。それを読み終えた桃香は、安堵の表情でそれを机の上に置いた。
「その様子だと、良い返事だったみたいだな」
 白蓮に聞かれ、桃香は頷いた。
「うん。呉からは、わたしの訪問を歓迎するって」
 先日来た使者の魯粛に、桃香は呉への訪問と孫権との会談を申し込んでいる。その返事が孫権からあり、桃香の提案を歓迎する、との内容だった。
「孫呉からはその内容として、北郷殿の返書はどうだったのですかな?」
 星が聞くと、桃香はやはり笑顔で二つ目の書簡に手を置いた。
「一刀さんも、天下分立の計と、円卓会議の創設には賛成だって」
 これで、仲以外にも賛同する勢力が出来た事になり、現在大陸に存在する五つの勢力……歓、仲、魏、呉、北郷のうち、三つが桃香の考えに同調してくれたことになる。呉も条件付賛同だから、あとは曹操だけだ。
「良かったですね、桃香さん」
 争いを好まないことでは、ある意味桃香以上かもしれない月が笑顔で言った。それを見て、逆に桃香は気を引き締める。
「それでも、まだ皆にこの考えが浸透したわけじゃないから、まだまだこれからだけどね」
 桃香は言う。そう、まだ道は半ば……それよりもなお遠いかもしれない。曹操はそれほどまでに強い。
 それに、大同盟も成立したとは言え、まだ体制が整っているとは言いがたい。歓はそれなりに何時でも動ける体制が整っているが、仲は国の再建を急いでいる最中だし、呉は江東南部制圧戦の後始末がまだ済んでいない。北郷軍は、本拠を益州に移す作業の真っ最中だ。
「そういえば、一刀さんも成都に引越しが済んだら、自分の国を建てるつもりみたい」
 桃香が言うと、詠が顎に手を当てた。
「ふうん……あの辺の古い国名を取るとしたら、蜀とかになるのかしら?」
 かつて、秦の始皇帝による統一よりもさらに古い時代、益州の地にあった国の名前だ。実は魏と呉と言うのも春秋戦国時代の古い国の名前であり、それと区別するために曹魏、孫呉と呼ばれたりする。
「そこまではわからないけど、一刀さんのことだから、また違う名前を考えるかも」
 桃香はそう言いながら、はるか西の空に目をやる。唯一本当に信頼できる盟友だと思えるあの青年が、今何をしているのだろうと考えながら。
 
 
恋姫無双外史・桃香伝
 
第十六話 桃香、呉へ赴き、時代の転機に立ち会う事
 

「はい、あ~んして」
「え? あ、あ~ん?」
 一刀に寄り添う小喬が、彼の口に箸でつまんだ桃饅頭を運ぶ。それを戸惑いつつも食べる一刀に、小喬は満面の笑顔で聞いた。
「美味しい?」
「あ、ああ……美味しい……けど」
 一刀は答えるが、その顔には笑みが無く、むしろ恐怖が張り付いていた。それもそのはず、彼の周囲では北郷軍の誇る名将たちが、思い思いの表情で二人に視線を送っていた。
 鈴々もお兄ちゃんに「あーん」したいなぁ、と思っている張飛……これはまだ良い。
 問題は、頬を膨らませ、半分涙目になっている孔明。
 そして、握り締めた箸が、ギリギリと音を立てて、細かく磨り潰されつつある関羽。これが何より一番怖い。今は箸だから良いが、もしあれが自分の首に伸びてきたら、一瞬で一刀の命は握り潰されてしまうだろう。
「あら、愛紗ちゃん。恋ちゃんがお饅頭食べてるわよ」
 その時、黄忠が関羽に声をかけた。振り向いた関羽の視線の先では、呂布が周囲に漂う微妙な雰囲気などガン無視して、無心に饅頭を頬張っている。その天下無双の猛将とは思えない小動物的愛らしさに、関羽の顔が「ほわわ~ん」と言う擬音を発するかのように緩んだ。
(な、ナイス紫苑)
 一刀は心の中で黄忠に感謝した。彼女も一刀には君主としても男性としても好意を抱いてくれているようだが、やはり大人の女性の余裕と言うものなのか、関羽のように嫉妬をむき出しにしたりはしないし、むしろその辺の反応を和らげるように振舞ってくれる。そこが助かる所だ。
 一刀の内心に気付いたのか、どういたしまして、と言うようにやわらかな笑みを見せる黄忠。しかしその時、彼女の気遣いをぶち壊すように、小喬が一刀の首に抱きつくようにして言った。
「もう、一刀様ったら。正妻の私だけを見てよぉ」
 その言葉を聞いて、部屋に暗い空気が膨れ上がる。呂布を見て和んでいたはずの関羽が燃えるような殺気を向けてきていた。同時に、孔明が半泣きどころか、完全に涙目になって一刀の方を見ていた。箸で目の前の豚の角煮をぐさぐさと突き刺しまくっているのが、地味に怖い。
「正妻って……そ、それはない。ないから!」
 一刀は慌てて言う。内心では、何故小喬がこの二人のプレッシャーに耐えられるのかと激しく疑問に思っていた。
(マジでカンベンしてくれ……俺の胃がストレスでマッハになりそうなんだが)
 心なしか痛み始めた腹を押さえながら、一刀は小喬が来た日の事を思い出していた。
 
 
 黄蓋との会談を終えて、その結果を告げるために軍議の間に顔を出した一刀は、もちろん小喬を連れていた。
「ご主人様、その子は?」
 関羽が聞いてくる。一刀は用意していた答えを言おうとした。
「ああ、彼女は――」
 一刀は小喬の事を、同盟を保証する為の呉からの人質だと思っていた。こんな小さい子が、愛する人々の元を離れ、遠い異郷に過酷な運命を背負ってやって来る。そんな彼女に、少しでも寂しい思いや不自由をさせたくない。だから、一刀は仲間たちに頼もうとしていた。
 仲良くしてやって欲しい、と。
 しかし、一刀の言葉を遮るように、小喬が不敵な笑みを浮かべ、一歩踏み出して言った。
「私は小喬。天の御遣い様の正妻ってとこかな」
「……は?」
 一刀は小喬の爆弾発言に思わず呆けていた。今なんて言った? この娘は。
「どうしたの? あ・な・た♪」
 追い討ちをかけるように言う小喬。そして、ゴゴゴゴゴゴゴ、と言う擬音が聞こえてきそうな勢いで迫り来る関羽と孔明。
「どういう事ですか? ご主人様」
「説明していただけますよね?」
 生命の危険を感じ、一刀はぶんぶんと首を振って言った。
「違う! 俺は何もしていない!! 彼女はその……同盟の見届け人みたいなもんだ!!」
 流石に本人の前で「人質」と言う言葉を使うのは躊躇われた一刀だった。その後、事情を了解してもらえるまで必死に説明し、一刀はこの世界に来て以来最大級の生命の危機を、どうにか乗り切る事が出来たのである。
 
 
……いや、乗り切ってなどいない。その危機は現在進行形で続行中である。今も首にかじりついている小喬の余裕の笑顔と反対に、一刀の顔は蒼白だった。いくら一刀が正妻説を否定しても、小喬がこの調子で何時もくっついてくるので、説得力がまるで無い。
(何とかしないと、そのうち命が危なくなる……俺だけでなく、小喬も。何とかしないと……)
 考え込む一刀。重要なのは彼の生命の事だけではない。関羽と孔明が、小喬の事を気にしすぎてか、二人の事務仕事が滞っている。そのため、新野城から成都に引っ越す計画は、かなりの遅延を見せていた。そろそろ予定では成都に移動しなければならない時期だが、まだ引越しの荷造りさえ完全に終わっていない。
 長江に面していて交通の便が良く、経済の中心地でもある成都への遷都は、今後の北郷軍の戦略方針上、非常に重要な事業だ。これ以上遅れさせるわけには行かない。
(とはいえ、どうすればこの状況を解決できるんだ?)
 そう、一刀にわからないのはそれだった。小喬にベタベタくっつかないでくれ、と言うのが一番手っ取り早いのだが、それではあまりに不人情だろう。彼女を人質としてやってきた可哀想な女の子、と思っている一刀には、それは取れない手段だった。
(紫苑に相談してみるか……?)
 結局、一刀は一番頼れそうな人に相談するのが最善と判断した。この問題で一番冷静に物事を判断できそうなのは、やはり黄忠しかいないだろう。
「あのさ、紫苑……」
 一刀が黄忠を呼びかけたとき、突然慌しい足音が廊下の方から聞こえ、兵士の一人が駆け込んできた。
「とっ、殿、一大事! 一大事にございます!!」
 慌てふためいた様子の兵士に、愛紗が一喝する。
「何事か! 落ち着いて報告せよ!!」
「は、はっ!」
 兵士は何度か深呼吸して気分を落ち着かせると、「一大事」の内容を報告した。それは、その場にいた全員を狼狽と混乱の縁に叩き込むのに十分だった。


 遠い新野城が混乱している頃、桃香は一艘の船で南へ向っていた。同盟国である仲と孫呉が国境を接する徐州南部から楊州北部にかけては、長江流域に属する無数の河川や湖が点在し、陸を行くより船を使うほうが早い。
 水郷ならではの風光明媚な眺めも多く、桃香は生まれてはじめての船旅を楽しんでいた。
「いかがですの? わが家の誇る船の乗り心地は」
 船べりに腰掛けて風景を楽しむ桃香に、声をかけてきた人物がいた。
「あ、麗羽さん。とても快適ですよ。こんなステキな船を貸してくださってありがとうございます」
 桃香が言うと、船の主――麗羽はにっこりと微笑んだ。
「喜んでもらえて、私としても嬉しいですわ」
 桃香が呉を訪問するに当たって領内通行の許可を求める手紙を麗羽に送ったところ、麗羽は二つ返事で了承しただけでなく、船を貸すことまでしてくれたのだ。
 それも、袁家が所有する豪華な遊行用の船「麗龍」である。龍を模した装飾を施した船体の上に、煌びやかな楼閣を載せた大型船で、城にいるのと変わらない居住性を誇る。正直、最初に見たときに桃香は袁家の底力を見た思いがした。
「この『麗龍』は、お父様が生きていた頃、幼い私を連れてあちこちを回った思い出の船ですの。台所が苦しいのは承知ですが、手放す気になれなかったのですわ」
 麗羽はそう言って、桃香と向かい合わせになるように椅子を用意した。楼閣の外周は回廊状になっていて、こうしてゆっくり景色を楽しむための椅子だけでなく、机も用意してある。
 至れり尽くせりの船旅だが、意外だったのは「麗龍」を貸す代わりに、麗羽も呉に同行する、と言う事だった。
「楽しいですけど……今、仲の再建も大変な時期ですよね? 来ちゃって大丈夫なんですか?」
 問いかける桃香に、麗羽は苦笑いを浮かべて答えた。
「問題ないですわ。その辺は、斗詩さんに任せたほうが上手く行きますし」
 軍隊の再編だけでなく、国政の総攬まで麗羽に丸投げされてしまった斗詩が、さぞかし困りきった顔をしているだろうと想像すると、桃香は同情と共におかしさが湧いてくるのを感じていた。これで反乱を起こされたりしないのだから、麗羽の人徳も相当なものだと思う。
「……それに、私も孫権さんには用事がありますから」
 ところが、その麗羽は急に真面目な表情になって言った。よほど大事な用事があるらしい。
「まぁ、そう言うことでしたら……」
 桃香は麗羽の様子に首を傾げつつも答えた。考えてみると、麗羽が来てくれるのはそれなりに心強い。呉に行けば、孫権だけでなく周瑜とも対談をせねばならないだろうから、味方がいるというのはそれだけでだいぶ気分が楽になる。特に理由をしつこく聞く事もないか、と桃香は思った。
「桃香さま、袁紹さま。お茶をお持ちしました」
 そこへ、お茶道具一式とお湯を持った大喬がやってくる。彼女も今回の呉訪問には同行していた。桃香としては、あまり彼女を周瑜に会う可能性の高い旅に連れて来たくは無かったのだが、大喬自身がどうしても着いていくと強く希望したのだ。
「あら、気が利きますわね」
「ありがとう、大喬ちゃん」
 雑談中の二人は礼を言って、大喬が淹れてくれたお茶の香りを楽しむ。それは麗羽も十分満足させるものだったらしく、彼女は大喬に笑いかけた。
「とても良い香りですわ。貴女、お名前は? うちの侍女でも、これほどのお茶を淹れる者はなかなかいませんわよ」
「は、はい。大喬と申します。褒めてくださってありがとうございます」
 頭を下げる大喬。しかし、顔を上げた彼女の視線は、お茶を楽しむ麗羽に向けられている。それに気付いた麗羽は、怪訝そうな視線を大喬に向けた。
「どうかしましたの?」
「い、いえ。何でもありません。失礼しました」
 大喬は慌てて視線を逸らす。しかし、麗羽は少し考えて、大喬の反応の理由に思い当たった。
「私の噂はいろいろ聞いているのでしょう?」
 思わずびくっとする大喬。勢力を接する仮想敵国だけあって、呉では袁家の評判は決して良くない。大喬も麗羽については高慢で嫌な人間だという噂を良く聞かされていた。しかし、麗羽は怒る事無く、優しい声で言った。
「私に悪い噂が流れるのは、当然の事ですわ。少なくとも、今までは。これからは、呉の皆さんにも袁本初は大した人だと、そう言われたいものですわね」
 大喬も笑顔を見せる。どうやら、今の麗羽は好きになれそうな人のようだ。
「桃香様、麗羽殿、長江が見えて参りましたぞ」
 今度は、護衛として付いて来た星がやってきた。揺れる船の上でも、その足捌きは不動の大地を踏みしめているのと変わらない安定振りだ。
「もう長江? すると、建業ももうすぐかな?」
 桃香が立ち上がると、麗羽もそれに続いて船べりから身を乗り出した。いま「麗龍」が進んでいるのは、長江北岸の湖から長江へ続いている、名も無い支流の一つだ。支流といっても幅一里に及ぶかなり大きな川なのだが、遠くに見え始めた広大な水面――長江は、桃香の想像を絶する大河だった。
「うわぁ……あれは海じゃないの?」
 思わず感嘆の声を漏らす桃香。彼女は黄河はよく知っており、長江も似たようなものだと思っていたが、実際には二つの川の様相は全く違っていた。
 川幅が圧倒的に違う。もちろん、黄河も二十里から三十五里ほどの幅はあり、十分大河の名に値するが、ここ長江は下流域ではその川幅が百里を超えるところもある。対岸が霞んで見えないほどだ。
 そして、何より違うのはその広大な水面を行き交う、数多くの船だ。大半は漁船だろうが、商船らしい大型船も多い。黄河にここまで船が多いところは無い。俗に「南船北馬」と言われるが、その言葉を体現するような眺めだった。
「ここで驚いていたら、建業に着いた時にはもっとびっくりしちゃいますよ」
 大喬が言う。孫呉の都、建業はまた水の都でもあり、長江流域では最大の港町だ。そこに訪れる船の数は、一日数百艘にもなるという。数百艘の船なんて、桃香には見当もつかない光景だ。
 そんな会話をしていると、見張り台から報告の声が聞こえてきた。
「前方、十里に孫呉の軍船! 魯の旗を掲げています!!」
 それを聞いて、桃香はすぐに事情を察した。きっと魯粛が迎えに来たに違いない。
「麗羽さん、たぶん呉からのお迎えです」
「ええ、そちらにいらした魯粛という人でしたわね」
 麗羽も頷く。やがて、船上から迎えの軍船が見えるようになってきた。
「うわぁ……」
 桃香はまた感嘆の声をあげた。それは今乗っている袁家の船よりもさらに二回りは巨大な、まさに水上要塞と言うべき巨艦だった。三層の楼閣を持ち、その窓からは対艦戦闘用の大型の弩が辺りを睨み、船体からは片舷あたり五十本の櫂が突き出して、規則正しく水を掻いている。それにより、船はその巨体に見合わぬほどの速度で接近してきた。
 また、その両脇には楼閣を持たない、小型の俊敏そうな軍船が十隻ほど護衛についてきていた。速度も運動性能も全く違う船の組み合わせなのに、その隊列には一糸の乱れも無い。
「あれが、孫呉の誇る水軍……驚いたものですな」
 物には動じない星も、この光景には興味と共に驚きを隠せないようだった。やがて軍船は袁家の船から半里ほどを置いて静止し、小船が水面に降ろされると、ゆっくり近付いてきた。


「お久しぶりでございます、歓王陛下。お迎えに上がりました」
 横付けした小船から上がってきた魯粛は、相変わらず病弱そうな白い顔だった。一緒についてきた護衛の兵士たちが浅黒い容貌をしているので、余計に彼女の白さが目立つ。
「お久しぶりです、魯粛さん。建業までの案内をよろしくお願いしますね」
「お任せを」
 桃香の挨拶に答えた魯粛は、顔を上げて麗羽を見た。
「袁紹殿もおいででしたか。歓王陛下が袁家の船を使う事は聞いていましたが……」
 魯粛の言葉に、桃香は軽く眉をひそめる。麗羽は桃香の国、歓と同盟を結ぶ国、仲の王であり、建前上二人の立場は同格だ。実際には歓が仲を凌駕しているとは言っても、そのことに変わりは無い。従って、本来麗羽に対して魯粛は「仲王陛下」と呼ばねばならないのだ。
 それを、あえて「袁紹殿」と言う事は、呉は仲を対等の国とは看做していない事になり、誇り高い麗羽に対しては強烈な侮辱となる。しかし、麗羽は怒りもせず、笑顔を浮かべて頷いた。
「無理を言って、桃香さんに連れてきていただいたのですわ。歓迎の用意が無くとも怒りはしません」
「……そうですか」
 魯粛は麗羽の反応が予想外だったのか、一瞬戸惑った様子を見せたものの、すぐに調子を取り戻して再び一礼した。
「お二人のご来訪を歓迎します。ここから建業まで、わが水軍が帯同いたします」
 どうやら、彼女が自ら水先案内人の役目を買って出たらしい。魯粛の話によれば、これほどの大河である長江と言えど、途中には浅瀬や暗礁があり、慣れぬ者では水難事故の危険があるという。
「では、操船はお任せしますわ。名高い孫呉水軍の実力、とくと見せていただきます」
 麗羽はそう言って、船長に魯粛の指示に従うよう命じた。やがて、魯粛の指揮で「麗龍」は動き出した。迎えに来た十一隻の呉水軍の艦隊が周囲を取り巻き、一見がっちりと護衛しているように見えるが……
「包囲、ですな。これは」
 星が言う。もし、呉水軍が一斉に火矢でも放てば、戦闘艦ではない「麗龍」は一瞬で猛火に包まれ、長江の藻屑と化すだろう。
「孫権さんの発想ではありませんわね、こういうやり方は」
 麗羽が優雅にお茶を飲みながら言う。
「周瑜さん、でしょうね」
 桃香も頷いた。孫権とは対董卓連合軍で会ったきりだが、彼女はこうした策を弄する人間ではない。まして、水先案内人としてこの船には魯粛も乗っているのだ。仮に自分たちを謀殺するとしても、魯粛を平然と巻き添えにするような策は、孫権は認めないだろう。
 もっとも、周瑜とていきなり桃香たちを暗殺したりはしないだろう。こうやって威圧する事で、桃香たちに「同盟の主導者は最強国たる呉だ」と言っているのだ。
 その桃香の観測を裏付けたのは、建業の沖合いに到着した時の事だった。星がほほう、これはこれは、と笑みを交えて言った。
「船が七割に、川面が三割ですな」
 彼女が言うとおり、建業沖の長江には、呉の水軍主力が無数に遊弋していた。あまりにも船の数が多いため、水面が見えるほうが少ない。しかも、緩やかとは言え長江にも流れはあるだろうに、隊列を崩すことも流される事も無く、川面の一点に留まっている。そこへ「麗龍」が近付くと、艦隊はまるで潮が引くようにスッと左右に別れ、建業港への水路が開かれた。
 迎えの十一隻を遥かに上回る規模の、観艦式と言うべき水上の一大式典。しかし、その行動には歓迎よりも桃香たちに対する無言の圧力が込められていた。
「私たちが戦をする相手は、曹操さんだけではないようですね」
 麗羽の言葉に、桃香は頷いた。
「外交もまた、一つの戦ですよ。戦が外交の一部であるように」
 その時、軽い衝撃と共に「麗龍」は建業の桟橋に横付けされた。渡り板が桟橋からおろされ、銅鑼の音が鳴り響く。
「じゃあ、行こうか、みんな」
 桃香は星、大喬、麗羽の顔を見回すと、先頭に立って渡り板を降り始めた。桟橋には呉の兵士たちが矛を持って左右に立ち並び、その奥に孫権と、見知らぬ長身の女性が立っているのが見えた。眼鏡をかけた理知的な容貌の持ち主だが、眼鏡の奥の切れ長の瞳には、怜悧さと共に酷薄そうな光が浮かんでいる。
(この人が……周瑜)
 桃香は相手の正体を悟った。そして、同時に確信する。
 この人の歩む道は、決してわたしのそれと交わることは無いと。
 しかし、今はその確信を口にする時でも、行動に反映させる時でもない。桃香は笑顔で呉の兵士たちの間を歩み、孫権の前に立った。
「お久しぶりです、孫権さん。このたびはお招きいただき、ありがとうございます」
 桃香の挨拶に、それまで無表情だった孫権は、僅かに口元をほころばせ、しかしすぐに表情を引き締めた。
「久しぶりだ、劉備殿。この国の未来について、大いに語り合いたいものだ」
 孫権はそう言いながら、桃香の手を握る。その感触が少しおかしいことに桃香は気付いた。孫権が何かを握らせてきたのだ。
(……これは……貝殻?)
 握らされたものの感触を掴み、桃香は首を傾げた。どうやら、孫権は何かを言いたいらしいが、それはこの場では言えないことなのだろう。桃香はそれを素早く誰にも見られないように筒袴の物入れに落とし込んだ。どうやら桃香の行動はそれで正解だったようで、孫権は彼女にだけわかる程度に小さく頷くと、今度は桃香の連れを見た。
 星に対しては、武人としての敬意を払い、星もそれに答え一礼する。大喬に対しては、懐かしそうな表情を浮かべ、声をかけた。
「大喬……苦労をかけるな。劉備殿は良くしてくれているか?」
「はい……大丈夫です。苦労なんてしていません」
 大喬が答えると、それは良かった、と孫権は言い、ちらりと周瑜を見る。その周瑜は一瞬大喬に視線を向けたものの、すぐに逸らした。もう、語ることはない……そう全身で表現してるかのようで、大喬も何も言おうとはしなかった。
 その間に、孫権は最後の一人……麗羽に顔を向ける。
「……お前は何をしに来たんだ、袁紹」
 硬い声。桃香にはほんの僅かながら歓迎の様子を見せた孫権も、良い印象のない麗羽には厳しい態度で臨んでいた。麗羽は頷くと、桃香に代わって孫権の前に立ち……頭を下げた。
「いつぞやの事を謝りたくて来たのですわ。申し訳ありませんでした、孫権さん」
「……え?」
 麗羽がそんな態度に出るとは予測していなかった孫権は、思わず目をしばたたかせた。麗羽は頭を下げたまま、言葉を続ける。
「連合軍の時ですわ。私は盟主の座に慢心して、貴女を軽んじるような態度を取りましたでしょう。その事を謝罪したいと思っていたのです」
 汜水関で、孫権が美葉相手に一戦交え不本意な結果に終わった時、麗羽はその戦いぶりを無様なものと評し、孫権の面子を潰した。確かに孫権にとっては頭に来る思い出ではあるが、まさか謝罪されるとは思っていなかっただけに、孫権は戸惑ったものの、気を取り直して言った。
「……良い。袁紹が謝ってくれるのなら、私にはこの件を蒸し返すつもりはない。水に流そう」
「感謝しますわ」
 麗羽は頭を上げ、孫権に手を差し出した。孫権が手を握ると、周囲の兵士たちの間にどよめきが走った。
「さすが孫権様……度量の大きな方よ」
 そんな声が聞こえてくる。敵とは言わないまでも、かつて自分に恥をかかせた相手に謝罪させ、かつそれを受け入れたことは、兵士や官吏たちには孫権の器量を認めさせる行動ではあったようだ。
(麗羽さんがしたかったのはこの事だったんだ……良かった)
 思わぬ成り行きに驚いていた桃香も、それが無事に終わったことでホッとしたが、ふとある事に気付く。それは周瑜の態度だ。喜ばしい事のはずなのに、周瑜は今の一件を酷薄な表情を変える事無く見つめていたが、僅かながら歯を噛み締めたように見えたのだ。そう、不愉快な事を噛み潰すように。
(……?)
 何故周瑜がそんな表情をするのか、桃香にはわからなかった。わかったのは、会談に先立って控え室に来た後の事である。桃香は卓の上に孫権に渡された貝殻を置いた。黒い、あまり美しくとは言えない物だった。
「桃香さま、どうしたんですか、その貝殻」
 卓の表面に視線が近い大喬が、貝殻に気付いて声をかけてきた。
「実は、さっき孫権さんがそっと渡してきたものなんだけど……なんだろう、これ?」
 桃香が言うと、星と麗羽も近寄ってきた。まず、種類を当てたのは星である。
「これは、カラスガイですな。この辺りの水辺ではよく取れる貝で、煮付けにすると酒のつまみに良いですぞ」
 まぁメンマには及びませんが、と彼女らしく締める星。しかし、貝殻の正体を知るのに役立つ情報ではなかった。すると、麗羽が言った。
「桃香さん、貝殻をひっくり返して御覧なさい」
「え? こう? ……あ」
 桃香は言われた通りに貝殻をひっくり返してみる。すると、真っ黒な表面とは対照的に、裏側には鮮やかな色彩で絵が描かれてあったのだ。
「やはり、貝合わせでしたのね」
 麗羽が言う。貝合わせと言うのは、描かれている絵を頼りに、組になっている二枚の貝殻を探し当てる遊びだ。このカラスガイを含め、二枚貝の貝殻は決して他の貝とは形が組み合わないことから、「決して別れる事はない」と言う願いを込めた、一種の呪具としての意味合いもある玩具である。
「なるほど。なんで、孫権さんはこんなものを渡してきたんだろう……?」
 桃香は訝りながら、二枚の貝を合わせようとした……が、組み合わない。
「あれ? これ、組じゃないやつなのかな……?」
 桃香はもう一度貝殻をひっくり返して、絵柄を較べて見た。そして、確かに二枚は組ではない事に気がついた。片方には桃香の祖先でもある劉邦――漢の高祖の宿敵、項羽の絵があり、もう片方はその軍師だった范増の絵だ。
「まるで判じ物ですね……どう言う事?」
 桃香は考え込んだ。項羽と范増……君主と軍師。組み合わない貝殻……君主と軍師が組み合わない?
 そこで、桃香は項羽と范増の関係について考える。項羽は范増を「亜父(父に次ぐ者)」と呼んだほどで、二人の関係は最初強固なものだった。しかし、次第に二人の関係は冷却し、范増は項羽を「小僧」と呼んで軽んじるようになる。
 その決定的な対立を招いたのが、項羽が劉邦と対面した「鴻門の会」だ。范増は項羽に劉邦暗殺を何度も薦める。項羽と劉邦は絶対に並び立てない、と判断していたからだ。しかし、項羽はその進言に従う決断が出来ず、やがて劉邦のしかけた離間の計により、この時二人の間に生じた亀裂は、もはや埋める事の出来ないものになっていくのである。
 これを今の状況に当てはめるとしたら? 項羽は孫権、劉邦は桃香。そして范増は周瑜だ。桃香と孫権が会談する事が鴻門の会に当てはまるとすれば……周瑜の狙いは一つ。
 桃香の暗殺。
「どうしたんですの?」
 考え込む桃香の様子に気付いたのか、麗羽が聞いてくる。そこで、桃香は今思いついた自分の推論を語った。横で聞いていた大喬が沈んだ様子を見せる。
「冥琳さまは……やっぱり……」
 今は桃香を慕う彼女だが、元はと言えば、彼女自身桃香を篭絡するための間者として、歓に送り込まれた存在だ。周瑜が桃香を排除しようとしていることは、大喬が一番よく知っている。
「これを伝えたということは、孫権殿は桃香様暗殺に反対している、と言う事でしょうか?」
 一方星は冷静に現状を分析する。
「たぶん……項羽と范増の例になぞらえるなら、孫権さんは周瑜さんと対立している、と言う事だもの」
 桃香は答えた。同時に、孫権は最大の側近と対立する危険を冒してまで、自分を助ける事を決断してくれた事になる。この恩は、何時か返さなくてはならないだろう。ただ、問題は何故そこまで孫権と周瑜が対立しているのか、理由がわからない事だ。本来、君主と軍師は二身同心が理想。対立するなど愚の骨頂だが……
「一度、孫権さんと一対一で話をする必要があるかな……」
 呉の内実を知る為にも、その必要がある。桃香は何とかしてその機会を作ろうと決意した。その時、魯粛がやってきた。
「歓王陛下、仲王陛下、会談の用意が整いました。こちらへお越しを」
 麗羽への呼びかけが変化している事に、全員が気付く。どうやら、麗羽の謝罪は孫呉に受け入れられたようだった。
 
 
 会談の場となったのは、建業城の中でも長江に近い一角だった。城内に水が引き込まれ、中庭にちょっとした湖を作り出している。その湖を望むように建てられた楼閣の最上階に卓と椅子が運び込まれ、そこに孫権、周瑜、甘寧の三人が待っていた。
 一方、桃香の側は桃香、麗羽と星の三人。星と甘寧はあくまでも護衛で、実際に会談を行うのは君主、軍師の四人だ。それも、主客は桃香と孫権だけである。麗羽は周瑜はどうするか知らないが、自分は会談の立会人の立場でいようと考えていた。
「良く参られた。楽にされよ」
 孫権が椅子を指す。桃香と麗羽が頷いてその椅子に腰掛けると、孫権が、続いて周瑜も座った。ただそれだけなのに、周瑜の動きには思わず注目せざるを得ない何かがある。
(さすが、孫呉二代に仕える大宰相……悔しいけど、貫禄では勝てそうもないな)
 そう思う桃香。実際、周瑜は君主の三人よりも幾つか年上であり、武将・軍師としての戦歴、政治家としての経験は圧倒的に三人を凌駕している。その覇気と存在感は、曹操にすら匹敵するかもしれないと思える。
(でも、負けるわけには行かない。この会談には、私の信じる未来がかかってるんだから)
 桃香はそう気合を入れなおし、改めて挨拶した。
「洛陽以来ご無沙汰していました。江東を統一されたそうですね……まずは、おめでとうと言わせてください」
 孫権は一月ほど前に反孫家勢力を一掃し、帰ってきたばかりだ。決して精強ではないが、地縁に支えられた彼らの抵抗は粘り強く、決して楽な戦いではなかった。
「ああ、ありがとう。しかし、まだ劉備殿や曹操と同じ点に立っただけの事。そう褒められたものでもないさ」
 答える孫権だが、その言葉にはやや自嘲が滲む。しかし、その後ろ向きな姿勢も一瞬で、孫権はすぐに孫呉の王であり、未来を見据える指導者としての顔を取り戻していた。
「いや、私が今立っている地点を、劉備殿たちは既に通り過ぎたのかもしれないな。だから、聞かせて欲しい。どんな話を持って来たのか。劉備殿は何を目指しているのか。そこから私が学べる事も多いはずだ」
 桃香は頷いた。
「わかりました。私の想いを……私が描く未来を聞いて、もし孫権さんがそれに賛同してくれるなら、これ以上嬉しい事はありません」
 桃香はそう前置きして、自分の構想――天下分立の計について語り始めた。途中、孫権は何度か質問を挟み、それに桃香は真摯に答えた。
 しかし、桃香にとっては、これは孫権だけでなく、周瑜にも語り聞かせる言葉だった。どうやら自分を良く思ってはいない周瑜は、今の話を聞いてやはり桃香を排除しようとするのか、それとも違う事を考えるのか?
 しかし、その答えを知るのは、少し先になりそうだった。何故なら……
「た、大変です、孫権様!!」
 黄蓋が髪を振り乱して会談の場に駆け込んできたのである。
「何事だ、騒々しい」
 会談に水を注されて、やや不機嫌な表情で言う孫権だったが、次の黄蓋の報告は、彼女だけでなくその場にいた全員を驚かせるのに十分だった。
「曹操が動きました! 五万の軍勢が、合肥周辺に進軍。わが呉領へ侵攻する気配を見せています! それだけでなく、各方面において曹操軍の動きがにわかに活発化し、歓仲や北郷領にも大軍が進んでいると……!!」
「なんだと!?」
 孫権が立ち上がる。楼閣から見下ろせる長江の流れ。その向こう岸に、にわかに戦雲が湧き上がる気配が感じられた。
 それは、天下の趨勢を変える一大決戦の序章だった。
(続く)


―あとがき―
 前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、桃香伝新章です。いや、新章のさらに序章と言った感じでしょうか?
 レベルアップした麗羽さんが別人みたいですが、「真」では猪々子が「根は良い人なんですよー」と言ってたので、桃香にとってはちょっとお姉さん的に横で見守るポジションにしてみたいと思います。
 次回は桃香たちの出番は少なく、北郷軍の話がメイン。しばらく出ていなかったあの人やこの人も再登場の予定。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十七話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:9c40f8d3
Date: 2010/01/01 21:25

 水晶球を覗く于吉の顔に、邪悪な笑みが浮かんだ。
「いよいよ、時代が動き始めましたね。どうやら、我々にとっての好機が到来したようですよ」
 左慈が組んでいた腕を降ろし、不敵な笑みを浮かべる。
「ようやくか。随分待たせてくれたものだ。で、誰を勝たせ、誰を退場させる?」
 左慈の問いに、于吉は答えた。
「これから起こるのは、正史でも最大の見せ場となる戦いです。敗北する運命にあるのは、覇王となるはずの存在」
 左慈はつまらなそうな表情になった。
「なんだ、まだあの男を仕留める機会じゃないというのか? 俺は早くあの男を仕留めて、この馬鹿げた茶番を終わらせたいんだが」
 于吉は喉の奥でくっくっと笑った。
「彼を殺すのは、次の段階ですよ。前座としての覇王の敗北。それが大きければ大きいほど、彼を倒す可能性が高まるのですから」
 標的の敵が弱体化する事が、なぜ標的を殺す事につながるのか、左慈には理解できない。彼はじっとりした視線で、相棒を睨んだ。
「回りくどい策を使うのは、お前の悪い癖だな。それで今回何度しくじったと思っている。少しは反省したらどうなんだ」
 于吉は笑った。
「そうかもしれませんが、これも策士の意地のようなものです。まぁ、貴方に迷惑をかけるつもりはありませんから」
 左慈は呆れたように肩をすくめて見せた。どのみち、直接行動担当の彼には、相方の策が成就するのを期待するしかない。そして、この世界にかかわる以前の于吉は、決して無能な策士などではなかった。多くの策を成功させ、外史の膨張を阻止してきた実績がある。この外史だけが、どうやら他とは異なる様相を持っているらしい。
「気にくわん世界だ」
 呟くように言う左慈。その横で、于吉は覇王が繰り出す策の様子を、笑みを浮かべて観察していた。
「三つの決戦を平行しますか。良いでしょう。その策が大きければ大きいほど、貴女に贄としての価値が高まります」
 水晶球は、川辺の風景を映し出していた。


恋姫無双外史・桃香伝

第十七話 桃香、呉に留まり、北郷は運命の戦いに挑む事


 官渡という地名は、中華全土に無数に存在する。地名というよりは「官営の渡し舟」を意味する一般名詞なので、当然と言えば当然なのだが、やはり代表的な官渡というのも存在する訳で、歓魏国境では黄河を越える中牟の官渡がそうだった。
 普段は中原と河北を行き交う旅人であふれている中牟官渡だが、今日は一般人は一人もおらず、代わりに無数の軍旗が川面を圧するように翻っていた。
「軍師、敵の陣容が判明しました」
 その本陣で、帰還したばかりの斥候が、詠に報告をしていた。夜陰に乗じて黄河を渡り、魏軍陣地を偵察して来るという、危険な任務を達成してきたのだ。
「ごくろうさま。報告して」
 詠が続きを促すと、斥候は細かく敵情を話し始めた。
「敵軍の総勢は約五万。牙門旗は淵の一字。夏侯淵将軍が主将と見られます。近隣の漁民や商人から船を徴発し、あるいは筏を作って渡河の構えを見せております」
 それを聞いて、詠は首を傾げた。
「夏侯淵? 他には? 曹操は来ていないの?」
 その問いに、斥候は自信をもって頷いた。
「はっ。他には夏侯淵配下と見られる下級の武官ばかりであります。曹操軍の名高い将は見られません」
 詠は顔をしかめ、ボソッと呟くように言った。
「気に入らないわね」
「えっ?」
 斥候が顔を曇らせる。詠に偵察の失敗を告げられたのかと思ったのだ。しかし、もちろん詠はそんな事は思っていない。
「ああ、ごめんね。キミの事を言ってるんじゃないの。ごくろうさま。ゆっくり休んでちょうだい」
 詠はそう言って、斥候に報奨金を渡す。彼が明るい顔で退出して行くと、詠は僚友に振り向いた。
「どう思う?」
「夏侯淵と言えば、守りの将だ。ここまで積極的な攻勢作戦の指揮を執る事自体、不自然だな」
 美葉が答えた。中牟官渡に魏軍出現の報を受けて、桃香の留守を預かる白蓮が直ちに出陣させたのが、この詠と美葉の二人が率いる五万の軍勢だった。さらに。
「夏侯淵一人、ってのもおかしいよな。あたいらをナメてるとしか思えねー」
 仲からの援軍として、一万の軍を率いて猪々子が到着していた。これで同盟軍は都合六万。相手が侵攻前に川を越えるという難行を強いられる以上、まず突破を許さない態勢と言える。
 もっとも、それは同盟軍も同じで、逆にこちらから黄河を越えて、魏軍に強襲を仕掛けるには、兵力が不足していた。一般に水上を越えて敵地に上陸を仕掛ける場合、三倍から五倍の兵力を持たねば安全圏とは言えない、と言われる。
「そうね。あまりにもあからさまだわ。魏軍は、本気でボクたちと事を構える気はない。今のところはね」
 詠は頷いた。同盟でも一、二を争う脳筋と陰では言われる美葉と猪々子にさえ理解できるほど、この策はわかりやすい。目の前にいる夏候淵はあくまでも囮であり、本命――どこか別の場所に侵攻している曹操の直率軍からこちらの目をそらさせると共に、その背後を守る存在でもあるのだろう。
「問題は、ボクたちにその囮を軽く撃滅するだけの力がないことね。悔しいけど」
 詠は顎に手を当てて考え込んだ。魏以外の四勢力は同盟を結んでいるため、曹操がどこへ攻めているにしろ、歓は同盟の義務を履行するために参戦しなくてはならない。どこかで苦境に陥っている同盟国を支援するため、目の前の夏候淵軍を撃滅しなければならないのだが……火の出るような猛攻を得意とする姉の夏候惇と異なり、夏候淵は守りの戦を良くする知将。詠の智謀を持ってしても、夏候淵を即座に倒す方法はなかった。
「それではどうするんだ、詠? このままでは相手に主導権を握られっぱなしだ。そう言う立場の弱さは……」
「ええ、わかってるわ。洛陽で散々味わった立場だもの」
 美葉の問いかけを、詠は遮る。
「今のボクたちにできるのは、待つことだけ。必ず流れは変わるわ」
 かつて、まだ董卓軍という独立勢力だった頃、詠はそう期待して連合軍との熾烈な戦いを戦った。しかし、流れは変わらなかった。董卓軍と連合軍の戦力が圧倒的に違っていたからだ。
 しかし今、詠の立場は逆になった。曹操軍は巨大と言えど、一国の勢力に過ぎない。連合軍を相手に全面戦争を戦えば、確実にどこかで必ず綻びを出す。その時こそ、逆襲の機会だ。
(曹操……今の貴女は手を広げるに足る戦力を有しているかもしれない。けど、どこか無理が出来るものよ)
 詠はどこにいるとも知れない曹操に、心の中でそう呼びかける。一時は天下に最も近いところに手をかけた軍師として、それは忠告にも似た一言だった。

 
 先日、曹操軍来襲の衝撃で中断した歓、仲、呉の首脳会談は、この日軍議を兼ねた形で再開すると決定した。出席者も呉の主だった武将が加わる。
(とは言うものの、主題は対魏軍防衛になるだろうな)
 桃香は軍議の間に移動しながら思った。天下分立の計について、孫権から何かしら言質を引き出しておきたかったところだが、状況が状況なのでやむを得ない。
「あら、あれは何かしら?」
 一緒に軍議に出る麗羽が、部屋の前でなにやら悶着が起きているのを見て取った。軍議の間前で、桃香がはじめて見る少女が、黄蓋と何か言い合っていた。
「もうー! 入れてくれても良いでしょ、延珠! シャオだって孫家の一員なんだから!」
「ダメですよ、小蓮さま。ここは軍関係者以外立ち入り禁止です。小蓮さまだって例外はないんですから」
 言い合いの内容を見るに、小蓮と言う少女も、孫家の姫君らしい。確かに、桃色の髪の毛や猫科の動物を思わせる雰囲気は、孫権との共通点を感じさせた。しかし、孫権が豹だとしたら、この少女は猫。それもいたずら好きな子猫だ。
 入るの入れないのと言い合いをする二人の様子は、主家と家臣と言うよりは、少し年の離れた友人同士といった感じで、ついつい声をかけることもできず成り行きに見入ってしまった桃香と麗羽だったが、そこへ廊下の反対側から孫権がやってきた。
「何をしている、シャオ」
「げっ、お姉ちゃん」
 厳しい声で呼びかける孫権に、小蓮が妙な声をあげる。
「何がげっ、だ。大方、軍議に混ぜろとわがままを言っていたんだろう。お前にはまだ早い。早く部屋に戻れ」
「むー」
 膨れっ面で孫権を睨んだ小蓮だったが、姉を説得する見込みの無さは分かっていたのだろう。孫権に思い切りアカンベーして見せた。
「ふーんだ、お姉ちゃんのケチ」
 そのままきびすを返し、背後から追ってくる孫権の「シャオ!」と言う怒鳴り声から逃げるように、桃香たちの方へ向かって来た小蓮は、当然のことながら桃香たちに気づいた。
「誰? あなたたち」
 それに桃香たちが答えるよりも早く、彼女はその正体に気づいたらしく、ポンと手を打った。
「あっ、わかった! お姉さんたちが、お姉ちゃんが招いたよその国の王様ね?」
 桃香は頷いた。
「うん、わたしは歓の劉備玄徳。こちらが」
「仲の袁紹よ。貴女は孫権の妹さんかしら?」
 麗羽が言うと、小蓮は笑顔で一礼した。
「はじめまして。孫家の末子、孫尚香だよ。シャオって呼んでね」
 尚香は屈託なく、自分の真名に由来する愛称を呼ぶ事を二人に許した。とはいえ、じゃあそれで、と言うには桃香も麗羽も立場のしがらみがあった。
「そういう訳にも行きませんわよ、尚香姫。ところで、何をしてたんですの?」
 麗羽が問うと、尚香はそうだ、と何かを思いついた顔で桃香と麗羽を見上げた。
「劉備さんからも、お姉ちゃんを説得してくれないかなぁ。シャオも軍議に出たいの! こんな大事なときに何もできないなんて、王族の一人として不甲斐ないでしょ!?」
 それに桃香たちが答えるより早く、歩みよって来た孫権が尚香の頭にゲンコツをお見舞いした。
「いったーい! 何するのよ、お姉ちゃん!!」
 涙目で抗議する妹に、孫権は呆れのまじった口調で言った。
「何するのよ、ではない、シャオ。普段は遊びほうけて勉学も習い事も真面目にやらないお前が、王族の義務を思い出したことは嬉しいが、それなら今果たすべきは勉学の時間だろう。それもしないで軍議に出せなど、十年早い」
 そう言うと、孫権は黄蓋に尚香を勉強部屋に引きずって行くよう命じた。仕方なく、主君の妹を子猫のようにつまみ上げる黄蓋に、尚香が必死に抵抗する。
「こらー! 何するのよ延珠!! これが主君の妹に対する態度なの!?」
「いえ、その主君の命令ですし……」
 黄蓋が去って行くと、孫権はため息をついて、桃香と麗羽に一礼した。
「申し訳ない。妹の無礼は私から謝罪しよう」
「いえいえ、かわいい妹さんですね」
 桃香は首を横に振って、謝罪の必要が無いと孫権に示した。一見ケンカしているように見えるが、孫権と尚香の間には心許しあった仲ならではの空気があり、桃香には羨ましく感じられた。彼女は一人っ子で、姉も妹もいない。
「生意気盛りでな。早く大人になりたいと思うのはいいが、背伸びばかりされても困る」
 孫権はそう答えると、遠い目をして、言葉を続けた。
「あいつが大人になる頃には、平和が来て、二度と軍議などというものが開催されない時代であれば良い。そうありたいものだ」
 桃香ははっとして孫権の顔を見た。今の何げないつぶやきは、彼女の本心を表しているように思えたのだ。
「孫権さん、あの」 
 桃香が言いかけたその時、周瑜が歩みよって来た。
「そろそろ軍議を始めましょう、我が君。世間話に興じるには、我々には時間がありません」
 どこか桃香たちを揶揄するような響きの周瑜の声に、孫権は顔を見た怒りに紅潮させ、麗羽も不快そうな表情を浮かべる。桃香も一瞬怒りの感情が湧くのを感じたが、それを押さえて周瑜に頷いて見せた。
「それでは、軍議の間に行きましょうか」
 周瑜は余裕のある顔で返す。
「そういたしましょう、歓王陛下。軍師としても名高い貴女の軍略をお聞かせくだされば幸いです」
 褒めているようで、挑発的な言葉。桃香は自分に言い聞かせた。
 これは、周瑜との剣を交えぬ戦い。負ける訳には行かないと。


 尚香を連れて行った黄蓋が戻ったところで、軍議は始まった。
「合肥に集結した敵の詳細について、偵察の結果が入りました。敵主将は張遼。軍勢は五万に及び、船を徴発するなど、長江に押し出してくる様子を見せている、とのことです」
 周瑜が報告する。
「五万ですか。たいした数ではありませんな」
 甘寧が言う。呉の軍勢は総数五十万を号しているが、もちろんそれは魏に対する宣伝で、実数は二十万ほどだろう。それでも、総戦力が合わせて十五万ほどの歓仲同盟軍よりは格段に多いのだが。ちなみに、北郷軍の全兵力は八万ほどである。
「相手はあの張遼だ。生半可な相手ではない。油断はできんぞ」
 孫権が言う。張遼はかつての二関の戦いで汜水、虎牢の両方を戦い、負けはしたものの夏侯惇相手に名勝負を見せ、その名を天下に轟かした。その後魏将としては涼州遠征において抜群の勲功をあげており、攻防に優れた名将として評価されている。
「その名将張遼が、無謀な渡河戦をやるとは思えませんね」
 軽く咳き込みつつ、魯粛が言う。周瑜は頷いた。
「同感だな。もっとも、張遼ならこちらが隙を見せれば、即座に攻め込んでくるほどの積極性はあろう」
 周瑜は言って、黄蓋を見た。
「え? な、何かな?」
 戸惑う黄蓋に、周瑜は命じた。
「延珠、二万五千の兵を預ける。張遼が合肥に留まるよう牽制しろ。奴の渡河を許すな」
「ええっ、わ、私が?」
 いきなり涙目になる黄蓋。周瑜は冷たく眼鏡を光らせて言った。
「嫌なら、それでも構わんぞ。ただし軍律違反で百杖の刑に処するがな」
「ううっ、それは嫌だぁ……わかったよぉ……行って来ますよぉ」
 完全に泣き顔で、もはやこの世の終わりのような暗い口調で言う黄蓋。そのあまりの武官らしくなさに、麗羽が桃香にボソッと言う。
「大丈夫なんですの? あの方。先代の黄蓋さんと言えば、勇猛果敢を地で行くような人と聞いていましたのに」
 黄家は江東に古くから根を張る土豪で、孫家にも長く仕える武官の名門である。十年ほど前に亡くなった先代の黄蓋は弓の名手として名高く、孫家の先々代で孫権の母に当たる孫堅の片腕として、江東に留まらず広く名を馳せた猛将だった。
 当代の黄蓋はその孫娘にあたり、祖母の血を引いているはずだが、猛将らしさを見せるどころか、あれでは庶人の娘と大差がないようにしか思えない。
「さぁ。わたしは江東の方たちには詳しくないので、なんとも言えないけど……でも、ちょっと心配ですね」
 桃香はそう答えた。できれば一緒に行っていろいろ補佐してやりたくなるような、そんな保護欲をかき立てられる黄蓋の有り様ではあるが、立場上桃香にはそんな事はできない。黄蓋が役目をやり遂げると信じるしかなかった。
「さて、合肥はそれで良いとして、問題は」
 売られて行く子牛のような雰囲気を漂わせて黄蓋が去って行くと、周瑜は軍議を再開した。そこで、序列としてはやや下の方にいた軍師らしき女性が手を上げた。
「曹操さんの本当の狙いですね~」
「そういう事だ、穏」
 周瑜が頷く。桃香はその女性について魯粛に尋ねた。
「あの方は?」
「陸遜。我が軍の副軍師で、周瑜殿の愛弟子です。ああ見えて武術もそこそこできる、なかなかの逸材ですぞ」
 桃香は陸遜を見た。ふくよかな体付きと、そこから滲み出るおおらかそうな雰囲気は、桃香自身と通じるところがあるかもしれない。周瑜の弟子とは言え、師とはまるで異なる個性の持ち主のようだ。
「お前はどう思う?」
 その陸遜は、周瑜からさらに問いかけを受け、そうですね~、と眼鏡を直しながら思考に入った。
「曹操さんの立場からすれば、やはり最も優先して倒すべきは私たち呉、と言う事になるでしょうね~。兵力的にも、魏を脅かせるのは呉ぐらいですから~」
 一見他の同盟国を軽んじる発言に聞こえるが、陸遜の声にはそう言う悪意は感じられない。淡々と事実を挙げているだけのようだった。実際、歓仲だけで曹操と戦えと言われても、まず勝つのは無理だろう。
「穏は、曹操の狙いは呉への進撃だと見ているのか?」
 孫権の質問に頷く陸遜。しかし、そうだとしたら気になる事がある。桃香は思った。すると、桃香の懸念と同じ事を周瑜が聞いた。
「では、合肥の張遼の軍勢は何だと見る?」
「張遼さんの行動には、二つの可能性がありますね~。一つは、先発隊として曹操さんの本隊を迎えるための下地作り。もう一つは、本当に囮だという可能性ですね~」
 陸遜はそれに呼応して答えを続けていく。こうして問答形式で思考をめぐらすのが、この二人のやり方なのかもしれない。桃香はそのやり取りを興味深く見ていた。しかし、陸遜の言うことはいまいち良くわからない。張遼軍が囮? 張遼軍は呉への侵攻を目指しているのだから、それが囮と言うのは陸遜が曹操の狙いが呉だと言う主張と矛盾する。
(……ううん。そうでもないか。張遼さんを囮として、別の方向から本隊が侵攻してくる、と言う可能性も考えられるし。でも、そんな簡単な話じゃないような気がする)
 桃香は、陸遜が予想している曹操の動きは、もっと複雑なものであるように思えた。すると、周瑜が彼女の方を向いた。
「いかがですか、歓王陛下。我が副軍師の考えを、どう思われます?」
 突然話を振られて、桃香は一瞬慌てた。しかし、何とか内心の動揺を抑えて、周瑜を見返す。
「そうですね……」
 桃香は慎重に考えを巡らした。ここで、下手なことを言って周瑜に侮られるような失敗をすれば、彼女は自分を与し易いと思うだろう。自分の名誉が損なわれるくらいの事は別に気にしないが、将来周瑜が「愚かな王が率いている歓など、簡単に攻め潰せる」などと考えては困るのだ。
「わたしはこの地方の地理には詳しくありませんが、合肥はこの建業に比較的近い土地と聞いています……間違いありませんか?」
 桃香が確認すると、周瑜と陸遜は頷いた。
「そうですね。この建業より、西に二百里と言った所でしょうか」
「長江に繋がる巣湖と言う大きな湖がありまして~、その北ですね。船でしたら~、一日もあれば行けますね~」
 桃香は礼を言って、しばし考える。そして、やはり張遼軍は囮だろうな、と判断する。仮に曹操軍が呉に匹敵する水軍を持っているのなら、巣湖は水塞(水軍の根拠地)として格好の土地だろう。しかし、曹操軍に水軍の得手はいない。とすれば、合肥は出撃の拠点としては魅力がない。
 ただ、川で繋がった湖の傍という事は、曹操軍にとっては水上戦に長けた呉軍に対して優位に戦える、数少ない拠点と考える事ができるはずだ。川を封鎖すればいいのだから。湖への呉水軍の侵入と、上陸しての合肥包囲さえ阻止できれば、防衛拠点としてはかなりの好条件である。
「でも……水軍に対して守りやすい拠点ということは、曹操さんにもわかるなら、呉の人達にもわかるはず……囮として呉の目を向けさせるには、合肥は良い土地とは言えませんね」
 桃香は独り言のように言った。もし張遼軍に囮としての役目があるとしても、水上戦闘力のない張遼軍など、呉としては僅かな兵を対処に付けるだけでも封殺できるのだ。これでは囮としての価値はないに等しい。
 では、やはり先発隊であり、曹操本軍は合肥から呉への侵攻を目指しているのか……いや、それも無謀すぎる。合肥から長江へ出たとしても、そこは呉の得意とする、大規模水上戦に適した広大な水面だ。曹操軍は川の藻屑となり、潰え去るだろう。
 ならば、張遼軍には囮でも先発でもない、もう一つの役目があるのではないだろうか? それこそが最大の役目なのでは……合肥で張遼が果たせる役目とは……
 次の瞬間、桃香は目を見開いた。張遼が何らかの役目を負って合肥に来たのではなく――
 合肥を押さえる事自体が役目なのだとしたら?
「西です!!」
 桃香は叫んだ。その大声に、居並ぶ将たちが唖然としたような表情を浮かべる。だが、桃香は構わず言葉を続けた。
「曹操軍は、西から来ます!! 一刀さんが……危ない!!」
 その言葉に、周瑜がはっとしたような表情を浮かべる。そして、陸遜に命令を出した。
「穏、急ぎ西方国境……特に荊州の様子を探れ! 急げ!!」
「は、はい~っ!」
 陸遜が胸を揺らし、慌てて駆け出していく。その時、桃香の心眼は一刀のいるであろう、北西の空を見つめていた。
 
 
 時間はやや遡る。荊州北部、新野城は今や灰神楽が立つような騒ぎの真っ最中にあった。
 朝食の席に飛び込んできた報告、それは……
「曹操軍が国境を突破! 先鋒は夏候惇将軍率いると思われる大軍で、その数は十万! 後方に曹操直卒と思われる本軍が続き、合わせて三十万以上の軍勢です!!」
 その報告に、血相を変えて孔明が立ち上がった。
「そんな! 三十万なんて大軍が動いて、何の予兆も……」
 見せないはずがない、と言おうとして、孔明は口ごもった。気付いてしまったのだ。
 三十万の大軍が動く予兆……それは、見えなかったのではなく、自分が見ようとしていなかったのだと言う事に。最近自分が気にしていた事と言えば……
 大事なご主人様――一刀と、彼にまとわりつく新参者、小喬の事ばかりだった事に。
「わ――私のせいです……!」
 孔明は小さな拳で机を叩いた。頭の中を、後悔がぐるぐると渦巻いている。自分のつまらない嫉妬で、もっと大きな敵の動きを見落とした。大事な人々を……ご主人様を危険に晒してしまった。同盟の戦略を瓦解させてしまった。全部、自分のせいで!!
 そんな後悔に押し潰されそうな彼女の肩を、ポンと優しく叩く人がいた。孔明が顔を上げると、そこには一刀の顔があった。彼は優しく微笑んでいた。この、切羽詰った状況の中で。
「ご主人様……?」
 戸惑う孔明に、一刀は言った。
「自分を責めるなよ、朱里。それより、今は曹操の攻撃に対処するのが先決だ。俺たちはどうしたらいい?」
 その言葉が頭に浸透した瞬間、孔明は自分を責め続ける思考の迷路から抜け出した。そうだ、今は後悔している場合ではない。この状況を打開する手を考えなければ。孔明の脳が、高速で回転を始める。
 現在、新野城には三万の兵力しかいない。北郷軍全体の兵力は約八万。しかし、五万はまだ安定しない益州各地に分駐している状況だ。これに対し、侵攻してくる曹操軍は三十万。先鋒の夏候惇軍だけで十万の大軍だ。まともに迎え撃って勝てる相手ではない。だが、孔明はすぐに勝算を見出した。しかし……
「ご主人様、私たちがこの苦境を脱するには、この城を捨てなくてはなりません」
 孔明が言うと、一刀より早く関羽が怒りの表情で言った。
「どういう事だ、朱里! この城には、我々を慕う多くの領民もいるのだぞ! 以前の砦とは違う!!」
 かつて、黄巾賊との戦いで孔明は桃香と共に、敵を空城に誘い込んで逆包囲し、殲滅すると言う策を立てたことがある。関羽はその事を思い起こしていたのだ。しかし、孔明の考えは二匹目のドジョウを狙うような、そんな簡単なものではなかった。
「いいえ、あの策はここでは使えません。すぐ後ろに、曹操さんの主力が続いていますし……私たちの狙うべきは城を迅速に脱出し、戦いやすい地形を選んで、撤退しつつ夏候惇軍に大打撃を与え、追撃を断つ事です」
 孔明はそう説明すると、卓上に地図を広げた。新野城を中心として荊州一帯の地形が記載されている。孔明は成都に向う道筋を指でなぞった。
「ここ……長坂橋。ここなら、大軍を少数で足止めするのにもってこいです」
 孔明の指が止まった長坂橋は、長江の支流が山中を流れる渓谷に掛かる橋で、それほど大きな橋ではないが交通の要衝だ。橋の下は数十丈の目も眩むような断崖絶壁であり、落ちれば命はない。周囲に別の橋はなく、ここが通行不能となれば、下流方向へ相当な迂回を強いられる。
 孔明の言うとおり少数の兵士でも大軍を足止めできるうってつけの地形であり、最後に橋を落としてしまえば、曹操が迂回するにしろ橋を掛け直すにしろ、一刀たちが成都へ脱出するだけの時間を稼ぐには十分だった。
「なるほど……しかし、城の住民は……」
 孔明の考えは理解したものの、民を見捨てることに抵抗を示す関羽。その時一刀が言った。
「曹操も夏候惇も、一代の英雄で武人だ。民衆に酷い真似はしないだろう。その点は彼女たちを信頼しても良いんじゃないかな」
 一瞬、関羽の目に嫉妬の火が燃えあがった。が、すぐにその色は消え、冷静さが戻ってくる。彼女もまた悟っていたのだ。孔明同様、自分も嫉妬で目が曇っていたことを。
「そうですね。そこだけは信頼しても良いでしょう。しかし、民には私たちの撤退を納得してもらわねば……」
 関羽が進言する。天の御遣いであり、仁慈に優れた名君として名が流布し始めている一刀にとって、民を見捨てて撤退するというのは、いかにも外聞が悪く、彼の名誉を傷つける事実になるだろうと心配したのだ。しかし、一刀は明るい笑顔で笑った。
「そこは、俺が街の代表の人達に直接説明するよ。それより、皆に頼みがある」
 一刀は仲間たち全員の顔を見渡した。
「紫苑は成都へ先行してくれ。益州の軍勢を成都に集めて、曹操と戦う用意をしたい」
「御意です」
 黄忠が立ち上がり、真剣な表情で頷くと、身を翻して下命を果たすべく駆け出していく。一刀はそれを見送って続けた。
「朱里は今すぐ呉へ向かってくれ。益州の軍勢を集めても、曹操の攻勢を完全には食い止められない。同盟に基づいて、呉に援軍を依頼するんだ」
「わ、わかりましゅた!」
 緊張のあまり舌をもつれさせつつ、孔明が黄忠の後を追って部屋を出て行く。一刀は今度は張飛に顔を向ける。
「鈴々には一万の兵を預ける。紫苑と一緒に出かけて、途中で長坂橋についたら、そこで陣地を作っておいてくれ。曹操軍が百万で攻めてきても追い返せるようなやつをね」
「応なのだ!」
 張飛が喜び勇んで飛び出していく。次に一刀は呂布を見た。
「恋にも一万。殿を任せるから、できるだけ夏候惇軍の追撃を遅らせてくれ。恋ならできるだろう?」
 呂布は無表情でこくっと頷き、そして続けた。
「勝ってしまっても……いいの?」
 彼女にしか言えない大胆不敵な言葉に、一刀は苦笑を浮かべる。
「ああ、構わないさ! それくらいの勢いでやってくれ。最後に、愛紗!」
「あ、は、はい!」
 なかなか名前を呼ばれず、やや焦れた様子の彼女に、一刀は声をかけた。驚いたように背筋を伸ばす関羽に、一刀は命令した。
「愛紗は俺と一緒に来てくれ。街の人達の説得を手伝って欲しい。それが終わったら、紫苑たちの後を追いかける」
「は、はいっ! お任せください!!」
 関羽の目に喜びの色が宿り、顔が明るくなる。それを見て、一刀は内心ホッと一息ついた。これからはもう少し愛紗にも気を遣ってやらないとなぁ、と決意しながら。長い間一緒に戦ってきた間柄なのだ。そのきっかけをくれた曹操軍に、多少は感謝すべきなのかもしれない。
 だが、それもこの戦いに生き残ってからだ。とりあえず、覚えている三国志知識を参考に、最適と思える布陣は組んだ。あとは、何とか生き延びるのみ。そして、最後に一刀はある意味今回の危機の元凶ともいえる存在に目を向けた。もっとも、一刀自身はあずかり知らぬことではあるが。
「小喬は、俺と愛紗と一緒に行動してくれ」
「え? え、ええ……わかったわよ」
 一刀の言葉に、青ざめた表情で答える小喬。一刀としては、彼女を目の届く範囲に置いているほうが安心できると言う判断だった。小喬の硬い表情を恐怖の現われと思った一刀は、安心させるように笑う。
「大丈夫だ。俺たちは数は少ないけど、みんな一騎当千、万夫不当の英雄ばかり。君の身くらい守って見せるさ」
「う、うん……期待してる」
 小喬はそれでも硬い表情だった。その時、出陣を知らせる銅鑼の音が城内に響き渡り始めた。
「黄忠、張飛、呂布将軍ご出陣!!」
 迅速に出撃準備を整えた三人が、早くも先発したらしい。一刀は伝令にわかったと答えると、ついでにその伝令に命じた。
「あ、悪いけど、街の代表者たちに城へ来る様伝えて回ってくれ。大事な話があるって」
「了解です!」
 伝令が敬礼して走り去っていくと、一刀は顔をぴしゃりと叩いて気合を入れた。
「さあ、これからが正念場だ」
 三国志最大の決戦、その前哨戦ともいえる「長坂の戦い」の幕が、切って落とされようとしていた。
 
(続く)
 

―あとがき―
 長坂の戦い本編まで行くつもりでしたが、予想以上に前置きが長くなったので、いったんここで止めます。
 次回こそ長坂の戦い本編に入ります。後は小ネタも少し入れられたら入れる予定。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十八話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:9c40f8d3
Date: 2010/01/24 00:10


 呂布は一万の兵たちの先頭に立ち、新野城から北上していた。間もなく、彼女の率いる部隊は侵攻してくる魏軍の先鋒とぶつかる事になる。
 報告によれば、相手は先鋒だけで北郷軍の総勢よりも巨大な約十万の兵力を有し、呂布の率いる部隊とは十倍もの差がある。しかし、呂布の表情には恐れも昂ぶりも見られない。この現世に降臨した武神の化身にとって、戦場はいかなる場所であれ彼女にとっての日常であり、そこには余計な感情の変化は無いのだった。例え味方が自分ひとりで、相手が百万の軍勢だったとしても、呂布は何も感じないだろう。ただ己の武を振るう。それだけだ。
 しかし、そんな彼女の平静とした様子は、付き従う兵士たちにとっては、何よりも心強いものだった。彼らには武神の心など理解できない。だが、呂布が何の恐れも見せない事が、兵士たちにとっては何よりも勇気付けられる事なのだった。そう。呂布が恐れを見せないのなら、自分たちにも恐れるものは無いと。
 やがて、道の先に敵軍の姿が見えてきた。そこで、呂布は無表情のまま首を傾げた。
(……聞いてたより……少ない?)
 十万の敵と聞いていたが、今彼女の前に姿を現した魏軍は、おおよそ五万ほどに見えた。付け加えれば、牙門旗も違う。敵先鋒の指揮官は魏きっての猛将、夏候惇のはずだが、今掲げられている牙門旗は「許」の一字。曹操の親衛隊長で夏候惇に次ぐ勇猛さを誇る……
「許仲康、推参! 呂布、いざ尋常に勝負だー!!」
 一度虎牢関で戦った事もある、春巻のような頭の少女が鉄球を振り回しているのが見えた。呂布はそれをしばらく見ていたが、やがて興味なさげに横の副官を見た。彼が早速呂布の意を汲み取り、命令を下す。
「槍隊右翼前へ! 槍柵を組め!! 弓隊右翼、それに続いて一斉射撃し、その後暫時後退!! 各隊左翼はその後退を援護せよ! 騎兵隊は将軍の指示を待て!!」
 全軍を二手に分け、一方がもう一方の後退を援護する事を繰り返す、繰り引きと呼ばれる戦法だ。優勢な敵の進撃を阻止し、味方の被害を抑える定石的戦術である。呂布としては別に許緒の誘いに乗ってもいいが、ご主人様の命令は、あくまでも敵の追撃阻止。好機が見えれば勝ちに行くつもりはあるが、任務を放棄する気はない。
「あー! ずっこいぞ呂布! ボクと勝負しろー!!」
 一斉に放たれた弓の攻撃に晒されながら叫ぶ許緒。それを見ながら、呂布は思った。やはり敵の勢力は話の半分だ。味方斥候の見間違いなら良いが、それにしては誤差が大き過ぎる。それならば……敵の半分は、どこへ消えたのか?
 それについて考えるより早く、体勢を立て直した魏軍の突撃が開始された。呂布は方天画戟を構えた。まずはこの場を切り抜け、任務を達成しなくては。
 呂布の対応は半分は正しく、半分は間違っていた。
 なぜなら――


恋姫無双外史・桃香伝

第十八話 桃香出番なく、北郷軍は長坂に勇戦する事


 新野城北方で呂布隊と魏軍先鋒の激突が開始された頃、北郷軍本隊五千も新野城を出て、成都に向けて南下を開始していた。
「必ず……戻ってくるからな」
 一刀は馬上から背後に小さくなっていく新野城を見て、そう誓った。一年以上の間、本拠地として起居し、住民たちとも親しく交わった思い出の地。一学生に過ぎなかった自分が、太守として一から手探りで統治し、それでも来た頃より大きく発展してきた城が、視界の端に消えていく。
「ご主人様、急ぎましょう」
 関羽が馬を寄せてきて言った。名残惜しさが一刀の足を遅くさせている事に気づき、注意を喚起したのだ。古今無双の武人が指揮しているとはいえ、殿軍は敵の十分の一。いつ突破され、敵が押し寄せてきても不思議ではない。
「ああ、そうだな。ここで負けたら、城の皆に申し訳が立たない」
 一刀は関羽に答えて気合を入れ直すと、馬腹を蹴った。馬が足を速め、それに続いて軍は街道を進んでいく。
 ついさっきまで、一刀は城の住民代表たちと会談を持ち、今の自分に曹操の侵攻を食い止める力がない事、まずは成都へ退き、同盟諸国軍と連携して魏に当たるつもりである事を率直に話した。
そして、頭を下げた。
「一年……いや、半年だけ待ってくれ。俺は必ず、ここへ戻ってきます。曹操をここから追い出します。だから……」
 行かせてほしい、そう願う一刀に、住民代表の老人は優しく言った。
「御遣い様、そう畏まらんでください。貴方様は我々を本当に大事にしてくださった。この一年ほどの貴方様の統治は、素晴らしいものでした」
 後を引き取って、職人たちの代表が言う。
「だから、御遣い様が嘘を言う人かどうかは、あっしらはちゃんと分かっていやす。御遣い様が戻ってくる日を楽しみにしてやすよ」
 商人代表はそれらの言葉に頷くと、一刀に五万貫の銭を渡すと言ってくれた。北郷軍が半年は自活できるだけの大金である。驚く一刀に、どうせ曹操が来れば、矢銭(軍資金)として拠出させられる金、一刀に持っていってもらった方が銭が生きる、と商人の代表は言った。
「この五万貫、お貸しするだけですぞ。必ず返しに来てくだされ。できれば、倍にしてくれるとありがたいですな」
 そう言って鷹揚に笑う商人の代表。一刀は有難いと同時に、申し訳ない気持ちで一杯になった。ある意味、自分はこの人たちを見捨てていくのだ。期待を裏切られたと怒られ、石を持って追われても仕方ないと思っていた。
 それなのに、彼らはこうして一刀を信じ、送り出してくれる。まだ彼に期待してくれている。それを裏切る事だけは、絶対にできないと一刀は思った。
 だから、今は前を向いて行こう。そう思い直す。新野への郷愁に囚われ、敵に追いつかれ負けるようなことがあっては、それこそ送り出してくれた人々への裏切りになるだろう。
 そう思って前を向いた一刀だが、すぐにある事を思い出して、馬の歩みを緩めると、別の馬とその騎手に並んだ。
「大丈夫かい、小喬ちゃん?」
「……大丈夫。足手まといになる気はないわよ」
 騎手……小喬は何とか馬を操りながら言う。しかし、決して技量が高い騎手とは言えない一刀から見ても、彼女の馬の乗りこなしはぎこちない。
「今からでも、馬車に乗り換えた方がいいんじゃないか?」
 一刀は小喬の「大丈夫」を信じずに言う。最初、一刀は彼女のために馬車を用意させたのだが、小喬のほうで拒否したのだ。馬に乗っている方が早く進める、という理由で。しかし、現在本隊の隊列は新野から持ち出した兵糧や、例の五万貫を積んだ荷駄に速度を合わせているため、馬車だからといって極端に遅いわけではない。
「だから大丈夫。心配しないでよ。あなたの正妻になるためなら、馬くらい乗れるようにしなきゃね」
 小喬は重ねて一刀の提案を拒否した。
「……そうか。辛くなったらいつでも言ってくれよ。乗り換えられるようにするから」
 一刀はそう言って、小喬の元を離れた。幸い、今のところぎこちないとは言え、進軍から落伍するほどではない。ペースを守れば大丈夫だろう。
 その後も時々全体に眼を配りつつ、一刀たちは道を進んでいった。今のところ、追撃の気配はない。どうやら恋は上手くやってくれているようだ。流石だ、と思ったその時だった。
「……!!」
 一刀の全身を、何か嫌な予感が走りぬける。この世界に来て、幾度か死線を潜るうちに、いつしか身についた力……戦場独特の「機」を感じ取る力が、一刀に危機を知らせたのだ。ここは危ない、ここには何かがあると。
「これは!」
 同じ感覚を関羽も共有していたらしい。彼女が声を上げると同時に――
 山が、動いた。
「――しまった!」
 一刀は叫んだ。山が動いた、というのは錯覚で、実際には前方の斜面に潜んでいた何者かが、偽装を解いて吶喊を開始したのである。待ち伏せていた軍勢の先頭に翻るのは、鮮やかな「惇」の一字を書いた牙門旗。
「夏候惇だと……!? 何故ここに!!」
 関羽が唸る様に言うその声に答えるように、魏軍が喚声を上げた。


「さすが華琳さまと桂花だ。こうも策が当たるとはな」
 黒の大剣、七星餓狼を抜き放ちつつ、夏候惇は言った。出陣前、彼女は主と軍師より、一つの策を授けられていたのである。
「春蘭、貴女は途中で一隊を率い、新野城の南方に回りこみなさい」
 曹操の言葉に、夏候惇は了解しつつも尋ねた。
「それは了解しましたが……どのような意図が?」
 それに答えたのは荀彧だった。
「新野は大軍に抗するにはあまりにも小さい城よ。あのブ男の軍は、もっと有利に戦える成都を目指して逃げるはず。だから、待ち伏せて殲滅してほしいのよ」
 男嫌いの荀彧の言葉には容赦がなく、北郷軍を徹底的に壊滅させる気満々だった。その苛烈さを抑えるように、曹操が言う。
「まぁ、できれば関羽と呂布の二人は、生かして捕らえておいて欲しいけど」
 軽く言うが、どちらか一人を捕らえるだけでも大変なのに、二人とも捕虜にしろとは、縄一本で山を引きずってくるのに等しい無理難題だ。お戯れを、と夏候惇が言うと、曹操はあら本気よ、と答え、そして言った。
「北郷一刀……彼さえ消してしまえば、敵軍は瓦解する。そうなったら、関羽も呂布も矛を収めざるを得ないでしょう。後は私の出番よ。じっくりと心も身体も蕩かして、私の虜にしてあげる」
 天下無双の武人でもあり、また第一級の美少女でもある二人を手中に収める事を夢想してか、曹操の顔が上気し、何とも言えない色香を覗かせる。最愛の主にそんな顔をさせるほど想われている関羽と呂布への嫉妬心は夏候惇にもあったが、それ以上に彼女は曹操の忠臣たることに誇りを持っていた。主が二人を欲するなら、それに応えるのが臣下の道だ。
「よって、貴様は消えろ! 北郷一刀!!」
 敵本隊の中心に翻る、十文字の軍旗。視線だけでそれよ燃えてしまえ、とばかりに熱を込めて睨みながら、夏候惇は七星餓狼を振り下ろす。
 満を持した五万の魏軍が、狼狽する北郷軍本隊五千を、津波のように飲み込もうとしていた。
 しかし、北郷軍もうろたえてばかりいるわけではなかった。
「ご主人様、私が血路を切り開きます。全力で南へ駆けてください!」
 関羽はそう言うと、一刀の返事も待たずに配下の兵たちに叫んだ。
「聞け、者ども! ここが我らが天道の切所ぞ!! 剣を抜け! 雄叫びを上げよ!! 無道の敵に、我ら天軍の威勢を見せつけよ!! ただひたすらに敵勢を刳り貫き、南への道を開くのだ!!」
 関羽の凛とした叫びに、たちまち兵たちが呼応し、応、という力強い叫びが返ってくる。一刀の人徳を慕い、関羽や張飛と言った名将に訓育されてきた北郷軍の兵士は、この絶体絶命の危機においても、逃げたり離反したり、という者はいなかった。抜刀し、槍を構え、弓が引き絞られる。
「よし、良い気合だ!! それを敵にたたきつけるぞ。我に続けぇっ!!」
 関羽は青龍偃月刀を一振りすると、また自らも裂帛の気合を込めて、十倍の敵に向けて突撃した。関羽隊がその後に続く。巨大な津波に小船が、それでも力強く乗り切ろうとするように進み、ついに両者は激突した。

「なんと……!!」
 夏候惇はその光景に賞賛と畏怖の入り混じった声を上げた。奇襲からの立ち直りの早さ、十倍の敵に躊躇なく立ち向かう勇猛と、それを可能とする統率と忠誠。いずれも董卓軍や馬騰軍にはなかったものだ。これだけの軍を鍛え上げた北郷一刀とその部下たち、確かに只者ではない。
(これは、小勢とはいえ侮れぬ……華琳さまが気にかける理由が良く分かった。関羽や呂布への執着だけではない)
 夏候惇が納得するその前方で、魏の兵士たちが十人ほど、まるで豆を岩に叩きつけた時の様に、四方に飛び散るのが見えた。関羽が青龍偃月刀の一薙ぎで吹き飛ばしたものだ。その局地的な傷に、遮二無二北郷軍が突撃し、僅かな傷を拡大していく。関羽の猛威と武威が兵を怯ませるのを見て、夏候惇は命じた。
「伝令! 両翼の部隊に、敵の脇を回りこみ、後方を襲うよう伝えよ! 関羽は私が引き受ける!!」
 復唱も聞かず、夏候惇は七星餓狼を構え、馬を走らせた。人間大の竜巻のように荒れ狂う関羽に向けて叫ぶ。
「そこまでだ、関羽! 貴様の相手はこの夏候惇がしてやろう!!」
 その声が聞こえたか、関羽が青龍偃月刀を振るって返り血を払い、夏候惇のほうに向き直った。
「盲夏候か。生憎だが、お前を相手にしている暇はない!」
 隻眼ながら勇猛なる事を持って、夏候惇を畏怖し賞賛するその名を関羽は呼んだ。彼女としては褒め言葉のつもりだったのだが、流れ矢で目を失ったことを、己の未熟ゆえの事と感じている夏候惇にとって、それは恥辱の呼び名だった。
「ぬぅ、その名で私を呼ぶな!!」
 怒りを込めて、夏候惇は七星餓狼を関羽の首筋に向けて叩きつける。
「ちっ! 相手せねばならんか!!」
 関羽は舌打ちする。強敵相手の一騎打ちともなれば心躍るのは確かだが、ここで時間を取られるのは不本意だ。今は魏軍を貫き、退路を確保せねばならないのだから。ならば。
「来るが良い。即座に片付けて、道を啓かせてもらうぞ!」
 七星餓狼を受け、その反動で刃を送り返す関羽。
「おお、やれるものならやってみろ!!」
 即座に斬り返す夏候惇。両軍の主君にとって最大の側近であり、共に自軍の武威を代表する二人の武将は、その意地と自負に掛けて凄まじい激突を開始した。

 一方、後方に下がって関羽の突破に続こうとした一刀だが、一騎打ちによって流れが停滞したところで、圧倒的多数の魏軍が両翼から包囲しようと迫ってくるのを見た。
「やっぱりそうなるか」
 思わず呟くように言う一刀。しかし、この場を脱出する事をあきらめる気はない。
「殿、お下がりください。ここは我らが食い止めますゆえ!」
 兵士たちの中から選抜された、屈強の親衛隊が一刀と小喬を守るように前へ出る。一人が十騎に相当すると言われる剛の者ぞろいで、その人数は五百。彼らなら暫くは時間を稼げるだろうが、一刀は彼らの命もまた、諦める対象とは見ていなかった。何とかしてこの場を切り抜ける方法はないか、と頭を回転させる。そして、何か使えるものはないか、と思った時に、それの存在を思い出した。
「あれなら……もったいないが、ええい! 命には代えられないか!!」
 一刀は決断すると、腰の剣を抜いて、馬を後方に走らせた。そこにあるのは、荷駄の山だ。その中に一刀の目当てのものがあった。
「皆すまん、ちょっとどいてくれ!」
 荷駄の兵士に声を掛けて道を空けさせると、一刀は剣を振るった。荷車に荷を固定する縄が断ち切られ、その勢いで平衡を崩した荷物がばらばらと地面に落下する。木箱が衝撃で開き、そこからジャラジャラという音が響き渡った。
「見ろ! 銭の山だ!! 取り放題だぞ、早い者勝ちだ!!」
 叫ぶ一刀。それは、さっき商人たちから献納されたばかりの五万貫だった。
 いきなり自分の軍資金を地面にばら撒いた主君の姿に、思わずあっけにとられる北郷軍の兵士たち。だが、別の反応を示した者たちもいた。言わずと知れた魏軍の兵たちである。
 覇王・曹操の下で「庶人からの略奪は斬首」と決められている厳しい軍律によって鍛えられ、一糸乱れぬ統率を誇る魏軍だが、敵軍のものを奪ってはならない、と言う軍法はない。まして、今目の前にあるのは、五万貫という大金である。一貫あれば一月は悠々と暮らせるだけの額だけに、いかに軍律厳しい魏兵と言えど、眼が眩むなといわれても無理な話であった。
「ぜ、銭だ!!」
「俺のものだ!!」
 戦うよりもまず銭の山に殺到しようとする魏兵たち。一刀はその群れを避けて味方に呼びかける。
「今だ! 奴らが金に殺到しているうちに逃げるぞ!!」
 兵士たちも主君の行動の意味を悟り、その言葉に従って脱出を開始する。親衛隊の兵士たちが魏兵の群れを突き抜け、安全地帯を目指していく。一刀もその中に加わった。
「さすがです、御遣い様!」
 兵士の賞賛に、一刀は頭を掻いた。
「そんなたいした策でもないけどな。もったいないけど、まぁ三倍返し位すれば、皆も許してくれるさ」
 笑い声が湧く。その間に一刀は戦場を観察した。前方では関羽の三千が、夏候惇の本隊一万あまりと乱戦を繰り広げている。関羽は上手く相手の数の優位を殺す戦いをしており、さすがの統率振りだった。一方、後方では一刀を狙いに来たはずの敵兵が、銭を奪い合っている。一刀は親衛隊以下二千を率いて、その隙間を抜けて脱出する事にした。しかし。
「殿、前方から新手の敵! 数は七千!!」
 親衛隊の報告に、一刀は自分たちが抜けようとしていた戦場の隙間を塞ぐように、敵兵が出てきたのを見る。これは、夏候惇が予備として残していた部隊だった。不利な戦域への援軍や、最後のとどめの突撃などに温存される精鋭である。容易な相手ではない。しかし。
「みんな、もうひと踏ん張りだ! あれさえ突破できれば脱出できる!!」
 一刀は士気を鼓舞するために叫んだ。本当は関羽のように格調高い演説の一つもしたいところだが、自分の柄ではない。だから、何時も通りの言葉遣いで叫ぶのだが、将兵たちにとっては、一刀のそんなところが良いと思わせるところだった。これも人徳だろう。
「殿の言うとおりだ! 一騎が十騎に相当すると言われる北郷親衛隊の武の誉れ、今こそ魏の連中に見せ付けるぞ!!」
 親衛隊長の叫びに、応と声が上がる。一刀たちは一塊になって、敵予備隊に突撃していった。
 一刀も無我夢中だった。剣を抜き、押し寄せてくる敵兵に向けて振り下ろす。あるいは突き出されてくる槍や剣を、必死に払いのける。
 元の世界で習っていた剣道と、この世界に来てから関羽に習って鍛えた武術の心得が、一刀を討ち死にの運命から守った。気がつくと、一刀は半分ほどに減った味方に守られて、街道を南下していた。
「た、助かったのか……?」
 まだ呆然とした様子で言う一刀に、親衛隊長が答えた。
「はい、何とか包囲網を突破しました。関羽将軍には伝令を送りましたので、いずれ戦闘を打ち切って合流してくるものと」
 答える彼の顔には血がこびりつき、鎧も何度も切りつけられたのかボロボロになっている。一刀も、まだ持っていた剣の刃を見た。刃こぼれだらけで、まるで鋸のようだ。そのボロボロになった鋼の表面に映る自分の顔は、この僅かな時間にこけ落ちて、まるで病人のようになっている。
 それでも……一刀は生きていた。細かい傷や打撲は無数にあったが、致命傷は受けていない。十倍の敵の待ち伏せと、その後の乱戦と言う修羅場を、彼は何とか生き抜いたのだ。
「は……はは……ははは……生きてる。生きてるよ俺。やったなぁ、みんな」
 一刀が震える笑い声で言うと、生き抜いた兵士たちも、それに答えるように笑顔を見せた。その一人一人に笑顔で答えようとして……一刀は気づいた。
「小喬ちゃんは……?」
 その問いを予期していたのか、親衛隊長が答えた。
「申し訳ありませぬ……乱戦の中で見失いました」
 それを聞いた瞬間、一刀は馬首を返そうとした。しかし、周りの将兵たちがすぐに彼の行動の意味を悟り、押さえ付けにかかった。
「いけません、殿! 今戻るなど死ぬも同然です!!」
 必死に呼びかける親衛隊長に、一刀は半ば狂乱した様な表情と声で叫んだ。
「離してくれ! 行かせてくれ!! 守らなきゃ……助けなきゃいけないんだ!!」
 一刀の脳裏に、小喬の顔がよぎる。酷いトラブルメーカーで、自分の胃や愛紗、朱里との仲も痛めつけてくれた小悪魔のような少女。だが、見捨てられない。見捨てるわけにはいかない。呉との同盟の証だとか言う打算的な理由ではない。
 故郷を離れ、遠い異国に来て、たった一人で祖国を背負い、自分の勤めを果たしている彼女を、一刀は大事に想っていた。愛紗や朱里とも互角に渡り合う強かさを持っているのに、時折見せる淋しげな表情も、気にかかっていた。
 だから、守りたい。あの娘には笑っていてほしい。何より、男として女の子を守るのは、当然の事だから。
 しかし、一刀は自らの意思を貫けなかった。兵の一人が「御免!」と叫ぶと、彼の脾腹を拳で打ちぬいたのである。
「うぐ……」
 一刀の眼から光が消え、愛馬の首にもたれるようにして気を失う。その主君を守って、北郷軍本隊は再び街道を南下していく。
 一刀が気絶した拍子に手から滑り落ちたボロボロの剣だけが、それでも地面に突き刺さり、俺はここから退かないぞ、と言う主の意思を示すかのように立っていた。


 その頃、小喬は一刀たちから十里ほど後方の、街道沿いの廃村にいた。黄巾の乱で荒れ果て打ち捨てられたこうした廃村は、この時代珍しくもない光景の一つである。比較的荒れていない家の中に隠れ、壁にもたれて、小喬は抜けた天井の向こうの空を見上げていた。
「……ドジっちゃったな」
 一人ごちる小喬。投げ出された華奢な手足は擦り傷だらけになり、特に右足は捻挫でもしたのか、青く腫れ上がってズキズキとした痛みを伝えてくる。
 一刀隊と魏軍予備隊の戦いが始まったとき、小喬はそっとその場を離れ、一人逃げ出していた。一刀の想いとは裏腹に、彼女の方には一刀やその仲間たちへの義理も想いもない。危地を脱したら、さっさと呉に戻るつもりだった。
 しかし、途中で馬が荒れた道に足をとられて転倒し、小喬は投げ出され全身を強く打った。馬のほうもどうやら足を折ってしまったらしく、もう動けない状況で、彼女はどうにか這うようにしてここまで来たものの、もう動く気力も体力もなかった。
 実際、この家に潜んでいる間に、どうにか夏候惇との死闘を切り上げ、一刀を追って撤退していく関羽隊の姿も見たが、小喬は声を掛けようとはしなかった。
「こんなところで死んじゃうのかな……でも、それでも良いかな」
 どこか投げ遣りに呟く小喬。さっきまでは呉に戻りたいと言う思いもあったが、戻ってどうなるのか、と言う気持ちもあった。それは、北郷軍に来て以来、彼女の中で燻り続けていた思いだった。
(戻っても、私の居場所はないんだ……結局、冥琳さまは私よりも、雪蓮さまとの思い出を取ったんだもの)
 今は亡き孫策の大望……天下統一。周瑜はそれを受け継ぎ、自らの手で完遂させるために、伴侶のはずだった小喬を、北郷軍に送った。歓国へ行った姉の大喬ともども、人質として相手を呉にひきつけると共に、内紛を煽って呉なしでは存在できない国にさせる、と言う密命のために。
 愛する周瑜のために、小喬は好意など一欠片も抱いていない男に媚を売り、武将たちの間に反目を煽った。たぶん、ある程度は上手く行っただろう。荊州を失った北郷軍は、呉に頼る他なくなるはずだ。しかし、そのために今自分は、こうして見知らぬ異国の片隅で、死んでいこうとしている。それを看取ってくれる人間は誰もいない。
 自分はどうして、こんな所にいるのだろう。どうしてこんな事になったのだろう。周瑜との愛は、一体何だったのだろう。小喬には分からなかった。
「好きな人と……ずっと一緒にいられて、ずっと楽しく暮らしていければ、それで良かったのに。天下なんて、私には必要ないのに……さみしいよ、お姉ちゃん……冥琳さま……」
 小喬は眼に涙を溢れさせ、手で顔を覆った。北郷軍ではずっと強がって見せていた少女は、一人になって初めて、もう彼女には戻ってこない幸せな日々のために泣いた。
 その時だった。
「おい、見ろよ。馬だ。しかも結構良い馬だぜ」
「ばぁか。もう足を折って使い物にならねぇよ。もっといいものを探せよ」
「そうだけどよ、これに乗ってた奴は、まだ近くにいるんじゃないか? 馬なしじゃあ、それほど遠くには行ってないはずだ」
 男たちの大声に、小喬ははっとなって顔を上げた。身体を引きずってそっと壁の隙間に近寄り、外を窺う。そこでは、彼女の乗っていた馬を囲んで、十数人の魏兵たちが話していた。どうやら、残敵掃討をしている最中らしい。
「そうだな。お前たちはこのあたりを探せ。俺たちはこの村を探してみる」
 相談がまとまり、魏兵たちが散らばる。五人ほどが村の中に入ってきて、まずは手近な廃屋の戸を蹴り開けるのが見えた。
(か、隠れなきゃ……!)
 小喬は慌てて辺りを見渡した。死んでも良いとまでさっきは思ったが、死に方くらいは選びたい。残敵掃討中の兵士に捕まれば、どんな目に合わされるか。男嫌いの身としては、そこから先は想像したいとさえ思わなかった。
 しかし、この村が滅びた黄巾の乱時に、既にめぼしい家財はほとんど略奪されつくしており、何も身を隠せるものなど見当たらない。必死に家の中を這い回っていた小喬は、ふとした拍子に痛めている足を壁にぶつけてしまう。
「いっ……!」
 激痛で叫びそうになり、必死に口を抑える小喬。だが、足をぶつけたときの音は、外の魏兵にも完全に聞こえていた。
「おい、今の!」
「この家だ!」
 そんな声が聞こえたかと思うと、戸が蹴り開けられ、外からの光が小喬の姿を照らし出した。彼女から見て逆光の中に立つ魏兵たちが、口々に言う。
「見ろよ、娘っこだぜ」
 一人が言う。足の痛みと怯えで動けない小喬を見下ろすように、彼らは周りを囲んだ。
「まだ小娘だが、結構上玉じゃないか」
 一人が好色そうな笑みを浮かべる。すると、別の一人……気の弱そうな男が言った。
「でも、軍律じゃ庶人から略奪したり、娘を襲ったりしたら斬首って……」
 すると、最初に入ってきた男が、その良識を笑い飛ばすように言った。
「馬鹿野郎。こんな廃村で娘が襲われてるなんて、誰が思うんだよ。事が済んだら殺して埋めちまえば、誰にもわかりゃしねえ」
「そうそう。あの軍律のおかげで、美味しい目にも会えないんだ。こういう機会を逃す手はねぇよ」
 別の一人も賛同するように言う。どうやら、この兵士たちは黄巾崩れか山賊上がりか、いずれにせよ曹操軍兵士の中ではタチの悪い連中であるらしかった。
「そ、そうか。兄貴たちの言うとおりだよな」
 気弱そうな男も頷き、意見の一致を見た男たちは、包囲の輪を狭めた。
「い、いや……来ないで! 来ないでよ!!」
 手を振り回し、小喬は必死に抵抗するが、ただでさえ小柄で華奢で、なおかつ怪我をしている彼女に、兵士たちを追い払う力などあるわけがない。たちまち組み伏せられてしまう。
「やだ……やめてよ! ばかぁっ!!」
 それでも必死に抵抗する小喬に、男は黙って頬を張り飛ばす。
「……!」
 それほど強くはなかったが、それでも理不尽な痛みと恐怖に、小喬の抵抗がやむ。
「へへへ、そうそう。そうやっておとなしくしろよ。そうすれば極楽に行けるぜぇ」
 兵士がそう言った時、背後から凛とした女性の声が聞こえた。
「お前たちがな」
「へ?」
 振り向いた男たちが最後に見たものは、縦横に閃く銀の光だった。ただ一瞬。それだけで、彼らはその命を刈り取られていた。首筋を切り裂かれ、あるいは胸を貫かれ血飛沫を吹き上げて倒れ伏す魏兵たちの向こうに、小喬はその技の主を見た。
 馬の尻尾を思わせる髪型に、意志の強そうな太い眉を持つ美少女。十文字の形をした穂先を持つ長槍を掲げた彼女は、小喬に優しい声で言った。
「もう大丈夫だ。無事か? 酷い事されなかったか?」
 小喬はこくこくと頷いた。
「は、はい! 大丈夫です……あの」
 礼を言おうと小喬は恩人の顔を見上げたが、それより早く、恩人は屋外に向けて声を掛けていた。
「おーい、本当に襲われてる子がいたよ。すっげえ良い耳してんだな、貂蝉」
 それに答えるように入ってきたのは、恩人の三倍はありそうな屈強な肉体を持つ男だった。桃色の腰巻一つ、と言う奇態な出で立ちでさえなければ、気品ある顔立ちにすら見えるのだが……あっけに取られる小喬の前で、恩人とその連れは会話を始める。
「当然よぉん。アタシはこの世の良い男と可愛い女の子の味方ですもの。そのピンチは見逃さないし聞き逃さないわぁ」
 貂蝉と呼ばれた男が、くねくねとした身振りを交えながら言う。
「その割には、あたしに戦わせるのな……まぁ良いけど」
 恩人はちょっと呆れた様に言うと、小喬のほうを向いた。
「で、どうしようか? 家があるなら送っていくぜ?」
 ちょっと蓮っ葉な口調で聞いてくる恩人に、小喬は答えていた。
「私、この辺に住んでるわけじゃないから……その、北郷軍とはぐれちゃって」
 そう言ってから、小喬は自分の発言におやと思った。呉に帰りたい、と思っていたはずなのに、行き先に北郷軍を挙げていたからだ。その自分の心境の変化を分析するよりも早く、恩人の顔が明るくなった。
「お前、北郷軍ゆかりの人間だったのか!? そりゃ渡りに船だ。あたしたちも北郷軍に合流するつもりで旅をしてきたんでね。よし、やっぱり一緒に連れて行ってやるよ」
 そう言うと、恩人は小喬の怪我を手当てして、首をひねる。
「こりゃ、歩くのは無理だな……まぁ、馬に乗せていくけど、お前酔ったりしないよな?」
 小喬が大丈夫、と頷くと、恩人はならしっかり掴まってろ、と言って小喬を背負い、立ち上がった。
「じゃあ行くか。あ、そうだ。お前名前は?」
あ、小喬です……」
 恩人の問いに小喬が答えると、恩人は爽やかな笑みを浮かべて自分も名乗った。
「良い名前だな。あたしは馬超。涼州から来たんだ。こいつは貂蝉。見た目は怪しいけど、悪い奴じゃない」
「まぁ、ひどいわぁん」
 再び身をくねらせて抗議する貂蝉を無視し、小喬は言った。
「馬超……涼州の錦馬超? 白銀姫と言われている?」
 数ヶ月前に曹操に滅ぼされた、涼州の覇者馬一族の一人。それくらいの知識は、小喬にもあった。一方、馬超は自分の名声には無頓着だった。
「そう言われていた事もあるけど、今はただの素浪人さ。北郷軍にあたしの席くらいあるといいんだけど……」
 そう言って、家の外に出た馬超と小喬は、そこでばったり魏兵たちと遭遇した。小喬を襲った連中の仲間だろう。見知らぬ、しかし名のありそうな女武者とその背中の美少女に、魏兵が色めき立つ。
「何だお前は、北郷軍の者か!?」
 手柄首と見た魏兵の隊長が言うと、馬超はニヤリと笑って手にした十文字槍、銀閃を構えた。
「違うけど、そうなる予定さ!」
 再び銀光一閃、隊長が一撃で絶命し吹き飛ばされる。騒然となる魏兵たちに、馬超は宣言した。
「我が故郷を奪いし曹操の手下ども、この錦馬超、一切容赦はしないぜ!!」
 同時に再び繰り出される槍が、包囲網を粉砕する。
「ば、馬超だと!?」
 動揺する魏兵たち。半年前の涼州攻略戦で、魏軍は勝利したものの、馬騰軍の抵抗も激しく、とりわけ馬超の武勇は多くの魏兵たちの命を奪っている。一般兵から見れば、呂布のような武神と大して変わらない、冠絶した武勇の持ち主だ。
「おうよ、この名を恐れるなら道を開けやがれ!」
 恐れに硬直する魏兵たちだったが、馬超を討てばどれほどの恩賞があるだろうという欲が、彼らを動かした。だが、背中から馬超を襲おうとした魏兵は、次の瞬間野太い咆哮と共に繰り出された、貂蝉の豪腕の一発をまともに食らった。
「ぶるぁあああああぁぁぁぁぁ!!」
「ほげぇっ!?」
 同僚数名を巻き込み、昼間の星と化す魏兵。しかし、その騒動を聞きつけたのか、近隣の魏兵たちが続々と集まってくる気配があった。
「翠ちゃん、とりあえず北郷軍に追いつくわよぉん!」
「心得た!」
 馬超は小喬を背負ったまま、軽やかに自分の馬に飛び乗ると、馬腹を蹴った。
「しっかり掴まってろよっ!」
「は、はいっ!」
 馬超の声に答える小喬だが、道を埋め尽くすように魏兵たちが迫ってくるのを見て、心の中で悲鳴を上げた。
(本当に突破できるの、これー!?)
 その悲鳴に何よりも雄弁に答えるように、馬超と貂蝉の裂帛の気合がほとばしった。
「くらえ、必殺、白銀乱舞ーっ!!」
「ぶるぁあああああぁぁぁぁぁ!!」
 馬超の必殺の大技と、生身でありながら馬と同速で疾走……いや、爆走する貂蝉の体当たりが、一瞬で百人ほどの魏兵の群れを吹き飛ばす。
「よし、一気に北郷軍に追いつくぞ!」
 馬超が馬を加速させ、貂蝉もそれに続く。長坂に続く魏兵に満ちた街道を、たった二人が切り裂くように駆け抜けていく。

 その頃、さきほどまで北郷軍本隊と夏候惇隊が死闘を繰り広げた山間の道に、翻る「曹」の牙門旗があった。覇王、曹操が新野城の接収を済ませ、南下してきたのである。しかし、今その進軍は一時停止し、本陣で曹操は夏候惇と向かい合っていた。
「それで……結局、関羽も、北郷も逃がしたわけね」
 曹操の言葉にびくりと身体を震わせる夏候惇と許緒。夏候惇が一刀たちに逃げられたように、許緒も呂布を逃がしていた。兵力では五倍だったが、呂布はその場で一歩も引かずに許緒隊の攻撃を跳ね返し続け、曹操が来るまで粘り抜いたのである。
「も、申し訳ございません……!」
 その場にひれ伏す夏候惇。その身体のあちこちに小さな傷があるのは、関羽に付けられたものだ。軍神とまで呼ばれる相手にこの程度の傷だけで済んだのだから、夏候惇の武威も決して劣るものではないが、指令を果たせなかった咎からは逃げられない。荀彧など、汚らわしいものを見る目つきを夏候惇に向けていた。
 だが、曹操は決して不機嫌ではなかった。くすっと笑うと、仮の玉座から立ち上がる。
「まぁいいわ。武神と軍神を捕らえろなんて、無理難題を言った私にも、多少の責めはあるでしょう。だから……」
 曹操は立てかけてあった愛用の大鎌……絶という銘を持つそれを手に取る。
「ここから先は、私が直接、北郷軍の相手をするわ。わが軍が誇る二人の名将の手をすり抜けたその手並み……とくと見せてもらうわよ」
 ついに動いた覇王。長坂ではじまった曹操と反曹操同盟軍の前哨戦は、また新たな局面を迎えようとしていた。
(続く)


―あとがき―
 おおう、今回は桃香が出てこない……無理もないですが。おかげでタイトルが変な事に。
 その代わり、北郷君が本来の主役らしく頑張ってくれています。それと、馬超、貂蝉も本格的に参戦してきたので、ようやく役者が揃ってきた感じですね。
 次回、長坂の戦い決着篇。桃香の視点にも戻りたいところです。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第十九話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:9c40f8d3
Date: 2010/02/26 00:46

 山間の道に戦気が満ちた。「曹」の一字を記した牙門旗を翻し、覇王の軍勢が進む。
「桂花、この先戦場になりそうな地形は?」
 曹操の問いに、常に傍に控える軍師の荀彧が即座に答えた。
「長坂橋以外ありえないと思います。大軍を食い止める絶好の地形ですから」
「そうね。私でもそうするでしょう」
 曹操は頷く。彼女も長坂橋くらい知っていた。天下の兵要地誌に通じる曹操にとって、知識だけの軍師など必要ない。荀彧もそれは知っており、即座に策を出した。
「力技で長坂を抜くのは至難の業……まして、守将はおそらくまだ姿を見せない燕人張飛……となれば、ここは一隊を送って敵を牽制し、本隊は長江沿流に南下するのが至当かと存じます」
 曹操軍の今回の出兵の目的は、実は北郷軍を壊滅させる事ではない。そうできれば良いという程度のものだ。本来の目的は、何をおいても長江沿流に到達する事にある。今後の主敵である孫呉を打倒するための布石だ。
 曹操は自分を倒すために大同盟が結成された事を知っている。だが、その根幹は同盟最大最強の孫呉にある。幹さえ切り倒せば、枝葉に過ぎない歓仲同盟や北郷軍など、たちまち立ち枯れるだけの存在に過ぎない。
「ふ……そうね。北郷たちには真の大戦略と言うものがどういうものか、しかと見せ付ける。それが覇者というものね」
 曹操は荀彧が目先の敵に捉われず、常に曹操の立てた戦略を注視し、その路線を進む事に全力を挙げている事に満足する。時として気まぐれで戦略外の行動に走る曹操だからこそ、荀彧のような軍師が不可欠なのだ。
「では……」
 荀彧が全軍を本隊と長坂攻撃を担当する別働隊に分けようとした時、伝令が走りこんできた。
「伝令! 前方にて異変が発生しました! 残敵の追撃・掃討中の一隊が壊滅しました!!」
「なんですって? どういう事なの!」
 計算外の事が発生し、たちまち苛立った表情を見せる荀彧に、伝令は答えた。
「生存者の報告によれば、敵はかの錦馬超ほか二名。同行者の正体は不明ですが、北郷軍要人と思われ、小喬と名乗っていたとの事です」
「小喬ですって……?」
 声を上げたのは曹操だった。しまった、と思う荀彧。彼女の敬愛する主君は、事のほか美少女に弱い。呉への出兵の目的の一つとして、本気で「江東の二喬」を手中に収める事を上げているほどだ。
 その「二喬」が同盟のため人質として呉を離れた、と言う報告を受けた時、荀彧はそれを迷わず握り潰し、曹操には報告していない。主君の戦略が崩れる事を恐れた、彼女なりの忠誠心の顕れであったが、その主君は蛇が舌なめずりをするような表情で、腹心を見た。
「桂花、何故ここに小喬がいるのかしら?」
「……私には存じかねます」
 荀彧はそう答えたが、おそらく曹操は事の次第を即座に見抜いただろうな、と思う。甘美な予感が背筋を走りぬけた。それは、心酔する主君の底知れぬ才を目の当たりにする喜びと、おそらくは今夜あたり、隠し事への罰として与えられるであろう、お仕置きの数々への渇望だった。
 だが、その荀彧にして、次の主君の宣言には全力で抵抗をせざるを得ないものだった。
「まぁいいわ。その事は後で問うとして……桂花、長坂橋には私自ら行くわ」


恋姫無双外史・桃香伝

第十九話 桃香、孔明の話に手に汗握り、長坂の戦い決着する事


「お、お待ちください! 華琳様! それは危険です!!」
 叫ぶように止めに入る荀彧。長坂橋に行けば、おそらく待ち構えているのは張飛。取り逃がした呂布や関羽、そして突如復活した馬超もいるかもしれない。曹操は武人としても一流の腕を持ってはいるが、今名を上げた四人は一流を超えた超絶の武人ばかり。いくら曹操でも勝てる見込みは無い。
 しかし、曹操も自分の実力は弁えている。それに、その全員を相手にする気はなかった。
「春蘭、季衣。さっきの失態を償わせる機会を与えるわ。馬超を倒し、小喬を私のところへ連れてきなさい」
「はっ!」
「はいっ!」
 夏候惇、許緒が返礼し、命令を確認した。
「馬超を倒せ、と言うことですが……」
「生け捕りにしろ、じゃ無いんですか?」
 曹操は微笑んだ。
「他の者はいざ知らず、馬超が一族の仇である私に靡く事などありえない。才と美貌には惜しむべきものがあるけど、小喬が手に入るのなら捨てても惜しくないわ」
 先の涼州侵攻で、曹操は馬超の父である馬騰をはじめ、馬一族のほとんどを殲滅した。当然、一族最後の一人である馬超は、曹操に骨の髄からの恨みを抱いている事だろう。捕らえたとて、曹操に頭を下げるくらいなら死を選ぶはずだ。
「承知しました」
 夏候惇は頭を垂れた。その表情に笑みが浮かんでいるのは、生け捕りにしろと言う主君の無茶振りのおかげで、不完全燃焼に終わった関羽との一戦、その鬱憤を晴らす機会を得た愉悦だろう。
「桂花、私は五万の兵を連れて行くわ。残りは任せるから、荊州南部の切り取り、存分にやりなさい」
「……はい」
 気乗りしない様子の荀彧。もちろん主君の命に背く気はないが、お仕置きしてもらえる日が遠ざかった事が、彼女を気落ちさせていた。
「それでは小喬の身柄と馬超の首、貰い受けに行く事にしましょう」
 曹操の不敵な宣言とともに、その背後に金剛力士のように……と言うには質感が足りないが、それに劣らぬ力強さで付き従う夏候惇と許緒。しかし、この時彼女たちはある事を忘れていた。


「でいやあああぁぁぁぁっっ!!」
 裂帛の気合を込めて、馬超の槍が魏兵の群れを薙ぎ払う。しかし。
「ちっくしょう、曹操の奴どんだけ兵を連れてきてんだよ。キリがねぇな」
 馬超が言う。既に十以上の敵の隊列を突破しているが、未だに敵が尽きない。ちなみに、彼女はその答えを知らないが、正解は三十万を超えている。
「ん? 翠ちゃん、新手みたいよぉん」
「なんだと?」
 貂蝉に言われ後ろを振り向いた馬超の目に映ったのは、翻る巨大な「曹」の旗。一瞬、頭に血が上った。
「曹操……ッ!」
 故郷を侵略し、父を初めとする一族郎党を滅ぼした非道の敵。思わず我を忘れて突撃したいと言う衝動に駆られる。
「っ……逃げるぞ、貂蝉」
「了解よぉん」
 しかし、馬超は自重した。十万の涼州騎兵の精鋭でも勝てなかった相手に、一人で勝てるはずが無い。それに、背中に感じる重みが、個人的な復習の念より守らねばならないものを伝えてくれる。
「ちょっと急ぐぞ。気分が悪くなったら言えよ」
「は、はい!」
 馬超は背中の小喬に声を掛け、馬腹を蹴った。槍を左右に繰り出し、足止めを図ろうとする魏兵たちを片端から打ち倒す。しかし、そこへ聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「待て、錦馬超!」
「ボクたちが相手だ!!」
 かつて二関の戦いでは共に呂布と戦った許緒と、直接行動は共にしなかったが、魏軍最強の武人として意識はしていた夏候惇。一人でも厄介な相手が二人、まとめて攻めてきた。
「今日はお前たちを相手にしてるヒマはないんだ。帰れ帰れ!」
 馬超は叫んだが、小喬が軽いとはいえ、二人を乗せている彼女の馬と、魏軍の二将の馬では、疲労度も負担も違った。それでもなかなか追いつかせないのは、馬超の騎手としての技量の凄まじさを物語っている。
 しかし、十里も行くうちに、夏候惇と許緒は馬超と併走する形になっていた。夏候惇が挑発するように言う。
「無駄だ、逃げられはせんぞ馬超。おとなしく縛につけ! そうすれば、見苦しくない最期くらいは迎えさせてやるぞ!」
「お断りだ馬鹿野郎!」
 馬超が罵声を返しながら槍を振るい、夏候惇の大剣を弾き返した。しかし、息つく暇も無く、今度は反対側から飛んできた許緒の大鉄球を、身を沈めて回避する。その状態で、再び振り下ろされてくる夏候惇の剣を弾き、またしても空気を唸らせながら飛んできた大鉄球を避ける。
 そんな一連の回避動作を、馬超は五回、十回とこなして見せた。連携攻撃を全て避けられ、夏候惇と許緒の顔に焦りの色が浮かぶ。
(なんて奴だ!? 人馬一体とはこの事か!)
(ボクたちだって馬は下手じゃないのに!)
 そう、馬超がこれを成し得たのは、馬上での戦いだからだった。物心付く頃から馬と共に暮らし、馬上で生きてきた時間の方が長いと言っても良い馬超にとって、その技量を完全に発揮できる環境だ。夏候惇、許緒とて決して平凡な騎手ではないが、馬超の域には遠く及ばない。どうしても攻撃が甘くなり、それは馬超にとっては回避し防御する余裕を持つに十分だった。
 しかし、攻撃には転じられない。そして、長い放浪生活でたまった疲労は、ここに来て徐々に馬超から精彩を奪っていた。遠からず破綻が来るに違いない。このままじゃまずいと馬超が思った時、前方から聞きなれた雄叫びが聞こえてきた。
「ぶるあああぁぁぁぁぁ!!」
 前方の敵兵が弾け飛ぶ。馬超が遅れている事に気付いた貂蝉が、全力で取って返してきたのだ。そう、曹操たちが忘れていた要素とは、貂蝉の存在である。
「翠ちゃん、今助けるわよぉん!」
「悪い! どっちかだけで良いから引き受けてくれ!!」
 強がる余裕も無く、素直に礼を言う馬超。頷いた貂蝉は手近な夏候惇めがけて突撃した。
「ぶるあああぁぁぁぁぁ!!」
「な、何だ貴様は!?」
 奇怪な姿の男が、これまた奇怪な雄叫びと共に突進してくるのを見て、流石の夏候惇も一瞬混乱した。しかし、とりあえずこいつを討ち取って、もう一度馬超を倒すのに専念すれば良い事だと決め、七星餓狼を振り上げた。
「胡乱な奴輩めが、失せろ!!」
 気合を込めて叫ぶや、相手の脳天に剣を叩きつける。確かに相手を唐竹割りにした、と夏候惇が思ったのは一瞬の幻だった。
「なっ!?」
 夏候惇の顔に驚愕の表情が浮かんだ。なんと、貂蝉は右手のひとさし指と中指で彼女の剣を挟みこんで止めていたのである。しかも、それだけの事なのに、万力に挟みこまれたように剣は微動だにしなかった。
「くっ、貴様放せ!」
 必死に剣を引っ張る夏候惇。すると、貂蝉はにこりと笑った……夏候惇にさえ寒気を覚えさせるほど不気味だったが。
「私は女の子と可愛い男の子の味方なの。だから、貴女を傷つけたりはしないわぁ」
「何を意味の分からない事を……」
 言うのか、と言う夏候惇の言葉の続きは、貂蝉の大喝一声にかき消された。
「喝ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 文字通り魂を消し飛ばすかのような凄まじい咆声に、真っ先に反応したのは夏候惇の愛馬だった。軍馬として厳しく鍛え上げられ、例え虎が目前に出現しても、怯えるどころか逆に戦意を燃やすほどの気性の荒さを持つ、馬と言うよりは猛獣のような性格の持ち主なのだが、それがまるで生まれたての子馬のように身を震わせ、その場にへたり込んでしまったのだ。
「なっ……ど、どうしたのだ、お前! 立て! 立たないか!!」
 夏候惇の叱咤にも、首をいやいやするように振って応じない。馬は知ってしまったのだ。目の前の奇怪な男が、自分では絶対に勝てない……虎や狼のような猛獣よりも恐ろしい何かだと言う事に。
「ま、小半刻もすれば、歩けるようになるわよ。それじゃあねぇん」
 貂蝉はこれまた寒気のするような仕草で片目をつぶって見せると、先に行ってしまった馬超と許緒を追って爆走していく。とても人間の足で追いつけるような速度ではない。余りの屈辱に、夏候惇は剣で手近な岩を粉々に撃砕した。
「なんなんだ。ふざけおって、北郷軍は化け物でも飼っているのか! おのれ……この屈辱は必ず返すぞ!!」

 一方、馬超と一騎打ちの形になった許緒だったが、こちらも酷い目に会っていた。
「ボク一人だって!!」
 夏候惇が謎の化け物に襲われ、後方に消えていくのを見て、逆に戦意を燃やした彼女は、鉄球を凄まじい勢いで回転させると、馬超に投げつけた。
「受けられるもんなら受けてみろ!!」
 その一撃は、馬超が避ければ、彼女の乗馬の首を吹っ飛ばすと言う絶妙の軌道を描いていた。かと言って、槍で弾くのも難しい。馬超は力よりは技に重点を置く武技の使い手で、愛用の十文字槍「銀閃」も細身の軽量な槍である。許緒の大鉄球を受ければ一撃で折れるだろう。
 詰め将棋のような見事な攻撃であり、決して許緒が力任せの豪傑と言うだけではない事を示すものだったが、馬超の武術、馬術はそれを凌駕していた。
「黄鵬、頼むぞ」
 馬超が愛馬の首を叩くと、それに応えて一瞬馬が加速したのである。それまで馬超の身体があったところを、許緒の鉄球が唸りを上げて通過する。
「ええっ!?」
 会心の一撃を回避され、驚愕する許緒。だが、次の瞬間彼女は悲鳴のような声を上げた。
「しまった!!」
 回避された鉄球が鎖の長さの限界に達し、一瞬だが鎖が棒のように伸び切った瞬間を狙い、馬超の槍が一閃する。張力の限界に達したところに横合いから強烈な一撃を食らった鎖は耐え切れずに切断され、鉄球が地面を跳ねるようにして転がっていく。
「それじゃ勝負にならないだろ。今日は守るべき人がいるんでね、勝負はまたに預けておくよ!」
 馬超はそう言い残すと、呆然としている許緒を置いて走り去っていく。しばらくして、夏候惇を退けた貂蝉も許緒を追い抜いて走り去り、ようやく彼女は我に返った。転がった鉄球を拾い上げ、地団太を踏む。
「ううー……! くっそー、どうして呂布といい馬超といい、ボクより強い連中がこの世にはごまんといるんだよー!! 悔しい!! もっと強くならなきゃ!!」
 
「やれやれ、ようやく振り切ったか……大丈夫か? 怖くなかったか?」
 馬を走らせながら問いかける馬超に、小喬は頷いた。
「はい……大丈夫です……」
 その顔は上気し、頬が赤く染まっている。馬超は首を傾げた。
「本当に大丈夫か? なんか具合が悪そうだけど」
「い、いいえ! 本当に大丈夫です」
 小喬は一生懸命否定する。しかし、心臓がドキドキして止まらない。
(守るべき人って……)
 その言葉に深い意味が無いのは、小喬にもわかっている。だが、その言葉に何かの運命を感じずにはいられないのだった。
(私、この人となら……)
 そんな想いをかき消すように、後方から爆走してきた貂蝉が話しかけてきた。
「翠ちゃあん、私のことは心配してくれないのぉん?」
「いや全然。呂布とかが相手でもない限り心配要らんだろ」
 素っ気無く、しかし信頼を込めて答える馬超。そのやりとりを、小喬はうらやましく、そしてどこか懐かしく思った。かつて聞いた事のある、孫策と周瑜のやり取りを思い出す。軽口を叩きながらも、二人は心からの信頼で結ばれていた。
(いつから、呉にはああいう雰囲気がなくなっちゃったのかな……)
 
 長坂橋では、撤退に成功した北郷軍の兵士たちが続々と渓谷を渡っていた。まず北郷本隊、ついで関羽隊。最後に、最も危険な殿を勤めた呂布隊が現れた時には、他の隊の兵士からもどよめきが上がった。相当な難戦だったらしく、出撃時に一万を数えた呂布隊は三千にまで激減していたが、相手が五万だった事を考えれば奇跡のような数字だ。
「ごめん、ご主人様。勝てなかった」
 馬を降りて一刀の元にやってきた呂布は、そう言って頭を下げた。
「いや、流石は恋だな。よくやってくれたよ」
 一刀はそう言うと、呂布の頭をなでた。くすぐったそうに、そして頬を赤らめてそれを受ける呂布。
「私とご主人様の隊が残存二千、恋の隊が三千、鈴々の隊が一万……計一万五千か。これなら、長坂橋で十分曹操軍を迎撃できるぞ」
 関羽も自信を持って言う。
「応なのだ。鈴々に任せるのだ!!」
 ここまで出番の無い張飛が、力強く愛用の蛇矛を地面に突き立てて言う。その時、伝令が本陣に駆け込んできた。
「申し上げます! 橋の向こうに身分ありげな武者が現れ、殿との面談を求めております!」
 それを聞いて、一刀が腰を上げた。
「俺に? 曹操の使者か?」
 確認の質問を発すると、伝令は首を横に振った。
「いえ、そうではないようです。馬超と名乗っておりますが……」
 それを聞いて、関羽が声を上げる。
「馬超? 涼州の錦馬超殿ではないのか? ご主人様」
「ああ、会ってみよう」
 一刀は頷くと関羽を連れて本陣を出た。果たして、橋の向こうにいたのは反董卓連合戦で共に戦った事もあるあの馬超だった。
「馬超殿! 一瞥以来ですな!!」
「おお、関羽か! 久しぶりだ。それに北郷も」
 馬超は笑顔を見せると、馬を飛び降りて駆け寄ってきた。
「よく無事で……涼州の話は聞いているよ。お父さんたちの事は残念だったな」
 一刀の言葉に、馬超は一瞬顔を曇らせた。
「ああ……あたし一人、こうしてここまで逃げて来られたけどな。北郷、お願いがあるんだが、聞いてくれるか?」
 馬超の言葉に首を傾げる一刀。
「お願い? 俺にできる事なら何でもするけど」
 それでも一刀がそう答えると、馬超はその場に跪いて槍を彼に差し出した。
「西涼の馬超孟起、真名は翠。北郷一刀様の一翼に加わりたくまかり越しました。願わくば、我に軍の末席なりと与えてくださるよう、お願い申し上げます」
「ええっ!?」
 一刀は突然の馬超の行動に驚く。配下に加わるばかりか、真名まで預けると言うのだから、その覚悟はただ事ではない。
「仲間になってくれるのは嬉しいけど、でもどうして俺なんだ?」
 一度は共に戦った仲とは言え、それほど親しくした覚えも無い。しかし、馬超の方では北郷軍――と言うより、その一人が示してくれた好意を忘れてはいなかった。
「ご主人様のところの軍師……孔明ちゃんだっけ? あの子があたしたち涼州軍を決戦兵力と評価してくれた、あの嬉しさは忘れられないよ。それに、ご主人様がいい政治をしていると言うのは、涼州でも噂になってたしね」
 早くも北郷軍の流儀で一刀を「ご主人様」と呼ぶことにしたらしい馬超の言葉に、一刀は顔を赤くして照れた。
「そ、そうなんだ……ともかく、そういう事ならうちは君を歓迎するよ。よろしく、馬超……いや、翠」
 一刀がそう言った時、馬超の方から冷たい声が聞こえた。
「何よ、デレっとしちゃって。いやらしいわね」
「え?」
 硬直する一刀。その声には聞き覚えがあった。もう二度と聞けないと覚悟していた声だ。
「あ、そうそう。ここに来る途中で助けたんだけど……ここの関係者だろ?」
 馬超が外套を脱ぐと、その下から現れたのは、もちろん小喬だった。目を吊り上げて一刀を睨んでいる。
「小喬ちゃん……! 良かった。無事だったんだな!?」
 安堵の声を上げる一刀に、小喬は怒りで応じた。
「無事じゃないわよ! 馬から落ちて傷だらけになるし、魏のチンピラみたいな兵士には襲われるし! 馬超さまが助けてくれなかったら、今頃死んでたわよっ!!」
 まくしたてるように言う小喬に目を丸くする関羽と張飛。今まで猫をかぶって一刀に媚びていた小喬しか知らなかったので、彼女の本性を見て唖然としているのだろう。
「そ、そうか。本当に済まなかった。なんと言って詫びたら良いか分からないよ……でも、ともかく良かった。ありがとう、翠。小喬ちゃんを助けてくれて」
「ん? あ、ああ。こんなのお安い御用だよ」
 頷く馬超の手を一刀が握って感謝の意を示そうとしたその瞬間、小喬が動いた。
「馬超さまに触るなー!!」
「げふぁっ!?」
 小喬の飛び蹴りがみぞおちにめり込み、一刀は苦痛の余り身を折った。
「な、何を……」
 息も絶え絶えに抗議する一刀。小喬はそんな彼を冷たく見下ろしつつ、馬超に抱きついた。
「え?」
 戸惑う馬超をよそに、小喬は思い切り舌を出して宣言する。
「馬超さまは私の命の恩人で、大事な人なんだから! 手を出したら殺すわよ!?」
 壮絶な手のひら返しぶりに声も出ない一刀。もちろん思惑あってのこととは言え、一度は正妻だと名乗っていたからには、もう少し労わってほしいと思う。一方、目の前で主君を蹴り倒されたにもかかわらず、関羽は微笑を浮かべて馬超に手を差し出した。
「まぁ、よろしく頼む、馬超どの。改めて名乗るが、我が名は関羽雲長。真名は愛紗。どうかそう呼んでほしい」
「そ、そうか。よろしくな愛紗。あたしのことも翠と呼んでくれ。ところで、ご主人様はいいのか?」
 まだ痛いらしい一刀に張飛が慰めの言葉をかけているのを見ながら馬超が言うが、関羽は平然としていた。
「日ごろの鍛錬が足りぬから、小喬の蹴り程度であの体たらく。もう少し鍛えて差し上げねば」
「ひでぇ……」
 呻く一刀。そう言いながらも、彼には関羽の余裕の理由がわかる気がした。もう小喬は恋敵には成りえないし、馬超もそうだと見たからだろう。
 その時、野太い声が注意を促した。
「じゃれるのもいいけど、お客さんが来たみたいよぉん」
 全員が橋の向こうを注視する。そこに、曹操の大軍勢が迫り来るのが見えた。まだ弓矢が届く距離ではなく、牙門旗の「曹」の字も微かに確認できるだけだが。
「ああ、そうだな……全員、持ち場に着け。迎撃用意だ」
 一刀は立ち上がり、そして馬超に聞いた。
「ところで、これ何」
「これ扱いは酷いわぁん」
 身をくねらせて抗議したのは貂蝉である。さっきからずっといたことはいたのだが、誰もが存在を無視していた……と言うかしたかったのだ。
「まぁ……涼州から脱出したところを救ってもらったんだ。あたしにとっての命の恩人だな。悪い奴じゃないから、存在自体は我慢してやってくれ」
 馬超の言葉に、貂蝉は腰巻から取り出した手巾を噛んでいやいやする。
「翠ちゃんまで酷いわぁん」
「まぁ……詳しい事は後で聞くよ。それより今は曹操だ」
 一刀はできるだけ視界の端に貂蝉を追いやるようにして、曹操軍に意識を向けた。思ったより数が少ないように思える。少なくとも十万はいない。
「五~六万、といった所ですか。もっと多いはずですが」
 彼の内心の疑問を関羽が代弁した。やがて、曹操軍は橋まで一町(約百メートル)の距離を置いて停止した。その先頭から、軍使を示す白い旗を掲げた人物が進み出てくる。それは……
「曹操自ら……」
 馬超が言う。彼女の言うとおり、軍使は曹操その人だった。橋の向こう側の袂まで来た彼女は、その小さな身体から想像もつかない良く通る声で言った。
「北郷一刀、話がしたいわ」
 関羽が言う。
「いけません、ご主人様。誘いに乗っては」
 しかし、一刀は首を横に振る。
「大丈夫。せっかくのご指名だ。話くらい大丈夫だろう。彼女は俺なんかを罠にかける人じゃないよ」
 それに、曹操は丸腰だ。少なくとも、この場で戦う意志はないのだろう。まぁ、向こうが丸腰で自分が完全武装でも、絶対勝てる気はしないんだが、といささか情けない事を考えつつ、一刀は橋の反対側に立った。
「久しぶりだね、曹操さん。洛陽以来かな」
 一刀は言った。憎むべき侵略者であるはずだが、不思議と敵意は抱けない。
「ええ。正直お詫びするわ。あの頃の私は、あなたの力量を見くびっていた。荊州、益州を束ね、私の奇襲からも生き残るなんて、大したものよ」
「それはどうも。だが、俺の手柄じゃないよ。大半は仲間たちの助けあっての事さ」
 曹操の褒め言葉に、頭を掻いて答える一刀に、曹操が笑みを浮かべる。
「謙虚も時には嫌味よ。あなたはそれだけの力量の持ち主を束ねているのだから。まぁ、それはいいわ。本題に入ってもいいかしら?」
「ああ。攻めてきた事を詫びて、退いてくれるという言葉なら嬉しいな」
 一刀が軽口を交えて言うと、曹操はきっぱりと答えた。
「それは無いわ。ただ、それに負けないくらい良い話ではあるつもりよ。北郷一刀。私の配下になりなさい」
 その言葉に、両軍からどよめきの声が漏れる。真っ先に反応したのは、配下になれと言われた一刀本人ではなく、関羽だった。
「曹操よ、ふざけているのか!」
 表情に本気の怒りが貼り付いている。まぁ、攻めて来た挙句に臣下に降る事を要求されれば、それはふざけていると取られても仕方ないだろう。しかし。
「控えなさい関羽。私はあなたの主に話しているのよ」
 曹操が静かな、しかし気迫を込めた声で言う。その覇王の気に、流石の軍神関羽が気圧された。歯噛みして口ごもる関羽をよそに、曹操が問う。
「北郷、答えはいかに?」
 静まり返る両軍。全員の注目を浴びながら、北郷は答えた。
「光栄だね、天下の曹操さんにそこまで見込まれるとは。でも、お断りさせてもらう」
 再びどよめく両軍。北郷軍は主の見せた気概を賞賛し、魏軍は主君の寛大な提案を蹴った身の程知らずに対する怒りのそれだ。
「理由を聞いていいかしら? 私が男の才能を欲するなど、めったに無い光栄なのだけど?」
 曹操は怒りもせず、むしろこうなると分かっていたような笑みを浮かべて質問した。
「簡単な事だよ。俺と曹操さんでは目指す所が違いすぎる」
 一刀もまた、笑みを浮かべて答えた。
「覇者であろうとする曹操さんを、俺は凄いと思う。天下の全てを制しようなんて大それたことは、俺にはとても言えない。そんな俺も含め、覇者の下では生きていけない人もいるのさ。そういう人たちのためにも、俺は君の言う事は聞けない」
 二人の君主はしばし無言でお互いの顔を見つめた。そして、最初にそれを破ったのは曹操だった。
「……ふふっ。良いでしょう。今日のところは、あなたの意地を立ててあげる。でも覚えていて。私は、欲しいものは必ず手に入れる性質なのよ」
「肝に銘じておくよ」
 曹操の言葉に答える一刀。曹操は馬首を返すと、手を天に掲げて命じた。
「撤退! 本隊に合流する!!」
 そこへ、夏候惇が馬を寄せてきた。どうにか馬も立ち直ったらしい。
「華琳様、お戯れが過ぎます。あのような男を欲するなど……」
 曹操は笑った。
「あら、私は本気よ。彼を下せば、関羽や呂布も付いてくるのだから。それに、あの男、なかなかあれで骨があるようね。私の覇気にたじろがなかった」
 曹操は最初一刀をここで叩き潰すつもりだった。だが、気が変わった。孫呉を叩き潰し、自分たちに勝ち目が無いと悟らせた上で、臣下に迎えるのも悪くない。
(北郷一刀……ね。貴方は三人目の英雄になれるかしら)
 まだ橋の上に立ってこちらを見送る彼の姿をちらりと見ながら、曹操は荀彧の本隊に合流すべく長坂橋を去っていった。

「ふぃーっ! 緊張したぁ……」
 一方、曹操の姿が見えなくなったところで、一刀は腰が抜けたようにその場に座り込んだ。
「だ、大丈夫ですか? ご主人様」
 慌てて駆け寄る関羽に手を引いてもらって立ち上がりながら、一刀は言った。
「ああ。でも、本当に凄い人だよ、曹操さんは……改めて、俺たちだけじゃ勝てないと分かったよ。こうなったら、呉との合流と決戦の準備、急がないとな」
 危機はようやく去った。しかし、彼が知る物語と異なり落ちることなく残った長坂橋は、逆に失われた領土への開かずの関門のように、一刀には思えたのだった。
 まだ立ちはだかる曹操が、そこにいるかのように。

「……と言うのが、荊州失陥の顛末です」
 語り終えて、孔明がほっと一息ついて水を飲んだ。
「そう。一刀さんは無事だったのね。良かった……」
 桃香は胸をなでおろした。
 ここは建業城の軍議の間である。桃香が一刀の身に迫り来る脅威――曹操の進撃路を看破した直後、孔明が船によって建業に到着し、彼女の口から桃香は自分の推測の正しさを知る事になったのだった。
 もっとも、もっと早く気付いて警告できれば、一刀が荊集を失う事もなく、曹操の呉侵攻計画を阻止できたかもしれない、と思うと忸怩たるものがある。
「なるほど、曹操は確かに荊州を狙ってきたことになるが……何故わかったのだ? 劉備殿」
 孫権が質問してきた。それに桃香が答えるより早く、先に陸遜が言った。
「狙いは、船乗りの確保ですね~。違いますか、劉備様?」
「いえ、その通りですよ」
 桃香は頷いた。
「張遼将軍が抑えた合肥は、長江に通じる水郷地帯。荊州南部も長江の沿岸です。船や船に通じた人たちが、呉ほどではなくてもたくさんいるでしょう。長江北岸の船乗りさんや船大工さんたちを徴募して、短期間に強力な水軍を整備するのが、曹操さんの狙いだと思います」
 桃香の詳しい説明に、孫権が溜息をつく。
「北郷殿を攻めたのも、我が孫呉を侵すための伏線の余興と言うことか。恐るべき奴だ、曹操は」
 すると、周瑜が呆れたような口調で言った。
「我が君、戦う前から呑まれていては戦いには勝てませんぞ」
「そういうわけではない!」
 孫権が怒りの表情を見せる。桃香は麗羽、孔明と顔を見合わせ、そっと溜息をついた。
「……ですが、曹操もずいぶん安易な事を考えますね。船乗りを集めただけでは、水軍を作るといっても仏像作って魂入れず、のようなもの。水軍の指揮を取れる将がいなければ話になりますまい」
 魯粛が言う。すると、麗羽が意外な事を言った。
「水軍の指揮を取れる将なら、曹操さんのところにも一人はいましてよ」
「え?」
 全員の視線が麗羽に集中した。
「それは誰だ?」
 孫権の質問に、麗羽はもったいぶることなく答えを言った。
「曹操さんその人ですわ」
 曹操は黄巾の乱以前、校尉として各地で治安維持の仕事をしており、黄河流域の賊徒を討伐した経験も豊富だ。黄河は長江には劣るとは言え、大河には違いない。そこで曹操は水上戦の何たるかを学んだという。
「それに、曹操さんは孫子の兵法書を注釈するほどの人。水上戦の基礎程度は諳んじている方でしてよ。侮れば足をすくわれることになりますわ」
 麗羽が語り終えると、周瑜が腕組みをして言った。
「なるほど、それは留意しておきましょう。ですが、黄河での賊退治など畳の上の水練の如きもの。我が孫呉の水軍には及びもつかぬものと、曹操には思い知らせてくれましょうぞ」
 それを聞いて、甘寧のように周瑜とは親しくない将も、その通りだとばかりに頷く。確かに、建業沖で見せたあの水軍の練度を見ても、孫呉水軍の強大さは理解できる。絶対の自信を呉が抱くのも無理は無い。しかし、と桃香は思った。
(その絶対の優位を孫呉が誇る水上戦を、曹操さんはあえて仕掛けようとしている……何か隠された狙いがあるんじゃ?)
 桃香にはどうも嫌な予感がした。そして数日後、その嫌な予感が現実化したような凶報が、建業に届いた。
 合肥において、黄蓋の軍が張遼に完膚なきまでに叩きのめされた、と言う敗報だった。
(続く)


―あとがき―
 遅くなりました。桃香伝第十九話、長坂の戦い完結篇です。あっれぇ、張飛無双を書くはずがどうしてこうなった……まぁ、一刀君のかっこいいところを描写できたのは良かったかなと思います。あと、小喬も新たな伴侶を見つけられた? のかもしれません。
 次回は合肥の戦い。延珠には悪いですが、どう見ても地名からして巨大負けフラグです。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第二十話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:9c40f8d3
Date: 2010/03/03 01:17

 合肥の政庁で、張遼は報告を受けていた。
「漁師、船乗り、船大工の募集は予定の四割かい。もう少し金払いを良くせなあかんかな」
 それを聞いた文官が、疑問の声を上げた。
「しかし将軍、これ以上金を出すと言っては、連中が増長しますぞ。曹操様のためにお役に立てる光栄を解せぬ者どもなど、強制的に募兵すべきでは」
 それを聞いて張遼は首を横に振った。
「あかんて。船乗り言うんは、どこでも頭ごなしに命令されるのを嫌うんや。そんな事してへそを曲げられたら厄介やで」
 海でも川でも、板子一枚下は地獄、という環境で暮らす船乗りたちにとって、大事なのは水上の掟を理解できる仲間たちだ。陸者はたとえ王侯貴族であってもよそ者であり、簡単に従う相手ではない。
「無理にひっぱったらあかんで。ええな?」
 張遼が重ねて念を押すと、文官は不承不承肯いて立ち去った。ため息をつく張遼。
「どうも、この辺に来ると大将の意識がちゃんと伝わってへんやつが多いなぁ。大国に仕えてる、っちゅー誇りはわかるんやけど、それが傲慢になってもうたらアカンて……」
 曹操は部下には厳しい主君だが、民には寛容だ。しかし、こうして魏領の端まで来ると、国の威光を振りかざして、民に苛斂誅求を加える木っ端役人も多い。おかげで張遼も要らない苦労を背負い込む羽目になった。
「まぁ、大将の戦略が本格的に動くんはもうちょい先やし、そう焦ることもないか」
 張遼はそう言って、椅子の背もたれに頭を預けたが、休んでいられた時間は短かった。今度は部下の下級武官が血相を変えて飛び込んできたのである。
「将軍、一大事です!」
「なんや、騒々しい」
 緊張感のない態度で身を起こした張遼だったが、次の報告には表情を引き締めざるを得なかった。
「呉の艦隊が巣湖に侵入しました。水上から合肥をうかがう構えです!」
「来たんか!」
 張遼は立ち上がると、政庁を飛び出て街の南側の城壁に向かった。そちらには合肥にとって水上交通、交易の大動脈である巣湖があり、街の外港も置かれている。階段を駆け上がって胸壁の向こうに目を凝らすと、水平線の辺りに無数の白い帆が見えた。それは風に乗って見る間に近づきながら、どんどん数を増やしていく。
「旗は黄……黄蓋か。呉の宿将やないか。これは楽しみになってきたでぇ……」
 強敵の来襲に、張遼の顔に笑みが浮かんだ。


恋姫無双外史・桃香伝

第二十話 桃香、合肥の悲報を聞き、周瑜に懸念を深める事


 程なくして、呉の水軍は合肥の外港を半円状に包囲する形で布陣を終えた。船はもちろん魚一匹通さない鉄壁の水上包囲網だ。
「魏軍に動きはないかなぁ……?」
 そわそわと旗艦の甲板上を歩き回っているのは、黄蓋だった。見かねて副官格の下級武官が声をかける。
「落ち着いてください、黄蓋将軍。敵はまだ水軍を組織できていない様子。こちらを攻める手段をもってはおりません」
 彼の言うとおりで、合肥外港には軍船の姿はなく、商船か漁船だけだ。もっとも、この時代は軍艦と民間船の区別はあまりなく、商船でも武装を施せば即座に中型の軍艦として使用はできる。
 しかし、外港にある船は、どれも武装されていなかったし、数もさほどではない。仮に向かってきたとしても、黄蓋の指揮する艦隊でも十分対処できる。問題は合肥の城壁そのもので、湖に面した側には対軍船用の大型弩弓や投石器が設置されているため、うかつには近寄れない。
「そ、そうだね。とにかく、張遼将軍がここから長江に攻め入ることさえ止めておけばいいんだから……」
 黄蓋はやや落ち着きを取り戻すと、合肥の街を見つめた。そこには五万という大軍がいるはずだが、水の上を走れない以上、黄蓋にとっての脅威とはなりえない。
(良かったぁ……これなら、冥琳に鞭でぶたれなくて済むかも)
 痛がりで怖がりの彼女にとって、鞭でぶたれる、というのは一番の恐怖だ。鞭でぶたれなくて済むならなんでもする、というくらい怖くて嫌なことだが、戦うのも実は同じくらい嫌いだ。斬られたり矢で射られたりしたら、鞭より痛いのは間違いないから。
(はやく戦争が終わって、のんびり暮らせるようになればいいなぁ……)
 と、黄蓋は本気で思う。ひょっとしたら、今の世の中で一番戦争のない平和な世界を希求しているのは、彼女かもしれなかった。

 そんな黄蓋に対して、戦を希求する武人である張遼は機嫌が斜めになっていた。
「……呉軍は二万五千やて?」
「はい、船の数からすると、その程度かと」
 偵察に出ていた下級武官の報告に、張遼の眉が吊り上がった。
「ウチをナメとんのかい、呉の連中は……こっちは五万連れてきてんねんで」
 張遼が言うと、件の下級武官が応じた。彼は黄河の河賊退治の経験があり、魏では珍しく水上戦の経験が豊富だったため、張遼の参謀につけられてきた人材だ。
「まぁ、わが軍は陸上。相手は水上。呉としては、わが軍が水上に押し出す事さえ回避できれば、それでかまわんのでしょう」
 彼の言うことは常識的だ。しかし、張遼としては、半分の軍勢を抑えに置いておけばそれで足りる、という呉の判断が自分を軽く見たように思えたのである。
「歓仲同盟なんて、秋蘭ちゃんの軍勢に六万を当ててるらしいやないの。それに比べたら、呉の連中は真剣味っちゅうもんが足りとらん。ウチを半分の兵力で抑えられると思ったら大間違いやで」
 張遼の言葉に、参謀が恐る恐る尋ねる。
「あの、将軍……まさか、呉の艦隊と一戦交えよう、というお考えではないでしょうね?」
「そのまさかや。ウチを舐めてくれたお礼はせな気が済まん」
 張遼がきっぱりと言う。もちろん、参謀は止めに入った。その表情は焦りで赤くなっている。
「な、なりませんぞ将軍! 今の体制で呉の艦隊と戦うなど無理です!」
 そもそも、張遼軍の目的は戦うことではない。曹操が荊州を切り取るまで、呉の介入を防ぐために牽制する事と、合肥周辺の船手を集めて、曹操のところに送るのが最大の役目だ。
 もちろん、張遼もそうした自分の役目は理解している。そのうえで、自分を甘く見た連中には目に物見せてやる、という決意を彼女は固めていた。
「まぁ、ウチも馬鹿正直に連中の艦隊とやりあう気はないで。ちょいと耳を貸し」
「はぁ……」
 参謀は張遼に言われるままに耳を貸し、彼女の考えを聞いた。やがて、その顔がぱっと明るくなった。
「なるほど、それならばやれるかもしれませんな」
「そやろ?」
 張遼は良い悪戯を思い付いた子供のような、邪気のない笑みで答えた。もっとも、やろうとしている事は邪気がないどころか、呉軍に大災厄をもたらすものだったが。
「ほんなら……新月まで三日か。それまでに準備を進めるで」
「了解です!」
 参謀は背筋を伸ばして答えた。

 包囲する艦隊と包囲される合肥、双方に表面上動きがないまま、三日が過ぎた。
 新月の夜で、湖面には夜襲を警戒して夜通し焚かれ続ける、双方の篝火の赤い光だけが反射していた。そのため、光の届かないところではいつもよりも濃く闇がわだかまっている。
 その闇の中で、うごめく影があった。湖岸の葦原がざわざわと揺れ動き、そこに何者かが潜んでいることを示していたが、呉軍には気づく者はいなかった。彼らはひたすら合肥の街に意識を集中していたのである。もっとも、それも途切れがちだったが。
「今日で三日か……長いなぁ」
「どうせ、魏の陸者たちがこっちにかかってくるわけないのになぁ」
 見張りたちはあくびをかみ殺しながら、そんな会話をする。自分たちの水上戦の技量に絶対の自信を抱く呉軍の兵士たちにとって、陸の戦しか知らない魏の兵士たちが襲い掛かってくることなど、ありえない事だった。仮に襲い掛かってきても鎧袖一触にできるはずで、彼らは自分たちが敗者の側に回ることなど想像もしていなかった。
 その油断と増長に報いをくれるように、葦原の中からそっと漕ぎ出す一群の小船があった。水を掻くのも最小限に抑え、じわじわと艦隊に近づいていく。
「どうやら、敵さんはまだウチらに気づいていないようやな」
 その先頭の小船の中で、張遼が言った。明るく篝火を焚き続ける艦隊が、少しずつ、だが着実に近づいてくる。
「ここまでは上手く行ってますね。敵は完全に油断しているようです」
 参謀が答える。この三日間、彼と部下の兵士たちは、外港から人の手で運べる程度の小船を少しずつ運び出し、この葦原に隠し置く作業を続けてきた。その数、およそ百隻。一隻には五人が乗り込み、総勢五百という小さな軍勢である。
 この他に、やる気があるか、高い褒賞でやる気を起こした船頭や船乗りたちが二百人、船の後ろに引きずられている別の小船に乗り込んでいた。この七百人が、張遼が呉軍に「目に物見せる」ために用意した戦力である。
「まぁ、これ以上数を増やしたら、気づかれてまうやろ。そろそろ行けるか?」
 張遼は葦原の向こうにかすかに見える岬と、合肥の城壁を交互に見ながら言った。
「ええ。ここからなら。後ろに合図を送りましょう」
 参謀は主将の問いに肯くと、むしろをかぶせて隠しておいた灯火を取り出し、後ろの筏に向けて振り回した。その微かな明かりは、参謀自身の体に遮られて、呉軍には届かない。しかし、後ろの船乗りたちには十分だった。彼らは合図と同時に小船と自分たちの船をつなぐ縄を解き、長い竹ざおを操ってそれを進ませる。
 その方向に、呉の大艦隊があった。やがて彼らは火縄を取り出すと、それを船の中央部にうずたかく積み上げられた荷物めがけて投げつけ、そしてその結果を見るより早く湖面に身を躍らせて行った。

 最初に異変に気がついたのは、艦隊後備の闘艦にいた見張りだった。鼻をひくつかせ、しきりに匂いをかぐ。
「ん、どうした?」
 彼の様子に気づいた同僚が声をかけた。
「いや……なんか風が生臭くなったような気が……」
 それを聞いて、同僚も鼻をうごめかせ、それに気づいた。
「ああ、これ魚油の匂いだな……誰か樽をひっくり返したかな?」
 魚油の樽は灯火の燃料などとして、どの船にも常備されている。その匂いは船内に常に漂っており、船乗りならばおなじみのものだが、今日は妙にその匂いが濃い気がした。
「おい、ちょっと誰か船倉を確認……」
 見張りが言った時、突然視界がまばゆく輝いた。
「!?」
 一瞬目がくらむ。それを何度かしばたたかせ、視力を取り戻してみた先には……湖上に無数の炎の塊があった。それを見て、見張りは恐怖に背筋を凍らせた。それは、水上戦において最も恐ろしい……
「か……火船だぁっ!」
 誰かが叫んだ。火船……焼き討ち船は、船に可燃物を満載し、火をつけたうえで体当たりするという単純なものだが、水上戦において上手く活用された場合、大艦隊にも致命的な打撃を与えうる恐るべき攻撃である。
 そしてこの時、風は艦隊から合肥に向けて吹いており、風上を取った火船は勢いを殺される事無く、次々に呉船に激突した。その舳先に取り付けられた、衝車のように先を尖らせた丸太が船板を突き破って、二隻の船を固着させる。
 たちまち、呉軍艦隊後備の闘艦は炎上を始めた。中には対処が早く火船自体の衝突を回避するか、刺叉を繰り出して火船を遠ざけることに成功した艦もあったが、その横腹に炎上し制御を失った僚艦が激突し、二隻の船はもつれ合うようにして傾斜し、燃え上がっていく。
 呉軍艦隊後備は火の海の中に沈もうとしていた。

 旗艦の一室で眠っていた黄蓋は、外で突然あがった喧騒に、その眠りを破られた。
「んにゅ~……なにぃ? なんの騒ぎなのぉ……?」
 かわいらしく目をこする黄蓋。そこへ、副官が扉を蹴破る勢いで駆け込んできた。
「しょ、将軍! 大変です!! 火事です!!」
「ええっ!?」
 さすがに黄蓋も水軍を率いる武将である。船上での火災がいかに恐ろしいものであるかは知悉しており、即座に眠気を飛ばして立ち上がった。
「どこが燃えているの!?」
 上着だけ羽織って部屋から飛び出した黄蓋だったが、甲板に上がってみて絶句した。後備の艦が既に百隻以上炎上し、風に押されて中陣のほうにまで流されてきている。
「これは、火事じゃなくて敵襲なんじゃあ……」
 誰よりも敵襲を恐れ、それに備えさせていた黄蓋だからこそ、それに気づいた。隣の副官はまだこれを火事だと思っていたのだ。
「え? 敵襲ですって……がっ!?」
 副官は黄蓋に確認しようとして、突然悲鳴を上げるとその場に倒れた。
「ど、どうしたの……ひっ!?」
 黄蓋は倒れた副官を見て、悲鳴を上げて後ずさった。副官の首から、太い矢が生えている。悲鳴を上げたその形のままに開かれた口からはおびただしい血が流れ、既に絶命しているのは明らかだった。
 それをきっかけに、黄蓋の旗艦がある中陣の艦上に、次々に矢が降り注いだ。未だに状況を把握できず、右往左往する呉の兵たちが、次々に矢を浴びて、悲鳴をあげて倒れる。それを収拾できる唯一の人間である黄蓋は、水の入った樽の陰に隠れて、必死で飛来する矢から身を守っていた。
「やだぁ……当たりたくないよぉ……助けて……!」
 彼女の口からは、そんな泣き言ばかりが漏れている。そうこうしているうちに、燃え盛る後備の船が中陣に押し寄せ、火の手が上がった。黄蓋の旗艦にも火が回り、たちまち辺りが地獄の業火に包まれる。
「いや……いやだぁ! もう! 逃げなきゃ!!」
 黄蓋は必死に迫り来る火の手から逃げ出し、躓いて転んでしまう。短い寝巻の上に上着だけ、という格好だった彼女は膝をすりむいてしまい、その痛みに悲鳴を上げた。
「いたぁーい! ひっく……ぐすっ……やだぁ……もう嫌だよぉ……」
 とうとう涙があふれ、視界がぼやける。辺りでは彼女が率いるべき船が次々に燃え上がり、沈んでいく。そして、後備から中陣にかけての異変を悟って駆けつけようとした先鋒の船も、突然火を噴出して漂流し始めた。燃える後備、中陣に押されて、合肥の城壁に備えられた大型弩弓の射程に入ってしまったのだ。
 城壁から次々に火矢が飛び、まだ無事な船にも炎を上げさせていく。その中で、黄蓋は子供のように涙を流し、その場に蹲ったままだった。
「ここが旗艦やな? 黄蓋はどこにおるんや?」
 そんな、泣きじゃくる黄蓋の耳を、聞きなれない訛りのある言葉が打った。顔を上げると、露出度の高い服装をして、手に巨大な偃月刀を持った女性の武官が立っている。見慣れない相手だった。その彼女は床にへたり込んでいる黄蓋に気付くと、下駄をカラコロ鳴らして近寄ってきた。
「ちょっとお嬢さん、黄蓋将軍を見ぃひんかった?」
「黄蓋は……わたしですけど……」
 相手の質問に、呆然としていたためか素直に答える黄蓋。しかし、相手は信じなかった。
「は? 冗談言うたらあかんて。ウチが探してるんは黄蓋将軍やで? 呉の名将の」
「だから、わたしがそうですってば」
 今度はしっかりと自分の意思で答える黄蓋。よく見ると、彼女の羽織っている上衣が高級武官のそれである事に気付いたか、相手の顔に驚きの色が浮かぶ。
「まさか、ほんまに黄蓋なんか?」
 黄蓋が肯くと、相手は一瞬呆然とした表情になり、「なん……やて……?」とつぶやく様に言った。そして、今度は見る間に怒りの表情に変わると、黄蓋の胸倉を掴んで、引きずるように立ち上がらせる。
「いたいっ! ら、乱暴しないで……!」
 恐怖で涙ぐむ黄蓋に、相手は怒りの言葉を投げつける。
「何を腑抜けた事を抜かしとるんや! ウチらとアンタは戦をしとるんやで!? アンタ、それでも武人なんか! 将なんか!!」
 そのまま、舷側の手すりのところまで黄蓋を引きずっていく。突き落とされるのかと恐怖に震える黄蓋だったが、相手はそんな事はしなかった。ただ、目の前で焼け崩れ、沈んでいく呉の艦隊の惨状を見せ付けるようにする。
「見てみい。アンタが不甲斐ないばかりに、艦隊は全滅や。もしまともに指揮を取っていたら、半分……いや、それ以上生きて帰れたかもしれへんのやで。それどころか、今ここで首になっているのはウチやったかもしれん。どうなんや。恥ずかしくないんか!?」
 黄蓋の不手際を責め立て、追求するその女性に、さすがの黄蓋も怒りが湧いてくるのを感じた。あまりにも理不尽すぎる。
「な……なんなんですか! それ! 見たところ曹操軍の人みたいですけど、そもそもあなたたちが攻めてこなかったら、こんな事にはならなかったんじゃないですか! 焼き討ちをしてきて、それでなんでわたしを責めるんですか!?」
 この戦いは少なくとも黄蓋が欲したものではない。それなのに、無理やり戦いの渦中に放り込まれ、痛い目に合わされて、部下は殺されて、挙句の果てにこの罵倒だ。黄蓋にはなぜ自分がこんな目にあわなければならないのか、まったく理解できなかった。だが、相手の答えは単純だった。
「それが乱世っちゅうもんやろ! 戦に出る覚悟が無いような奴が出しゃばるのが悪いんや!」
 相手は黄蓋を甲板に投げ出した。再び全身を強く打って、痛みに涙ぐむ彼女の横に立ち、相手が偃月刀を振り上げる。
「アンタみたいな腑抜けでも、大将首は大将首。貰っていくで」
 そう宣言して、彼女は偃月刀を振り下ろした。黄蓋の首が間違いなく飛んだ、と思わせる神速の斬撃。しかし。
「!?」
 偃月刀の軌跡上から、黄蓋の姿が掻き消える。咄嗟に横に飛んだのだ。そのまま数度転がると、甲板上に落ちていた舫綱の切れ端を拾い上げ、ゆっくり立ち上がる。
「そうだよ。わたしに覚悟なんて無かった。わたしは、お祖母ちゃんみたいな立派な武将になんてなれない」
 黄蓋は舫綱を構える。先端に結び目があって錘になるそれは、ちょうど鞭のような働きをしそうだった。
「今だって、痛くて、辛くて……でも」
 一歩踏み出す。逃げるのではなく、敵に立ち向かうために。
「悔しい。こんな酷い目に合わされて、黙ってなんていられない。もし、あなた達曹操軍が、こんな事を呉のみんなにすると言うなら……」
 次の瞬間、黄蓋の手が霞んだ。いや、そう見えるほどの速度で動いたのだ。
「わたしは戦う!」
「!?」
 偃月刀の彼女は咄嗟に後ろに跳んだ。それまで彼女の頭があった空間を、舫綱の結び目がうなりをあげて通過し、そばにあった帆柱に叩きつけられる。驚くべきことに、その一撃で一抱えはあろうかという帆柱に無数の亀裂が入った。
「嘘やろ!?」
 驚愕する彼女に向けて、黄蓋の攻撃が続けざまに飛んでくる。甲板に穴が穿たれ、手すりの柱が十数本、まとめて叩き折られ、対艦攻撃用の弩弓が砕け散る。それらの犠牲の末に距離を取った偃月刀の女性が、感心したように言った。
「たいした武やないの……それに、ええ顔になったで」
 それに答えるように、黄蓋は再び舫綱を構えた。それにはまったく隙が見られない。
 祖母から武人としての才能を恐ろしいほどに受け継いだのに、性格はまったく武人向きではない、と言うのが黄蓋という少女だった。だが、今彼女は屈辱と失墜と引き換えに、初めて武人として覚醒しようとしていた。彼女は慎重に距離を取りながら言う。
「わたしは孫呉の黄公覆。あなたは?」
「張遼。張文遠や」
 初めて相手の正体を知った黄蓋は、目を細めて相手をにらみつける。
「そう……あなたが張遼さん……!」
 既に大勢は決し、この場で戦えるのは黄蓋だけと言う有様になろうとしていたが、彼女に怯みはなかった。張遼もまた強敵として目覚めた黄蓋相手に、この戦いの勝敗を度外視して挑もうとしていた。
 しかしその時、最初の黄蓋の一撃でひびの入っていた帆柱が、風にあおられて折れ始めた。めきめきと音を立てて、巨大な柱が二人の武人の間を遮るように落ちてくる。
「……!」
「ちぃっ!」
 二人はその場を飛びのいて、帆柱の残骸から逃れた。そこへ、互いの部下の声が聞こえてきた。
「黄蓋将軍! ご無事ですか!?」
「張遼将軍! 敵前衛が反撃に出ました! 潮時です!!」
 張遼は前方を見た。いったんは合肥城壁からの攻撃で大混乱に陥っていた敵前衛が、ようやく体勢を立て直して迫ってきているのが見えた。奇襲を加え、望外の大戦果を挙げた以上、ここで欲をかいては今度は自分が窮地に陥るだろう。
「黄蓋、勝負はお預けやな。ウチは引き上げさせてもらうで!」
 そう言うと、返事も聞かず張遼は船べりから身を躍らせた。参謀が自ら漕いできた小船の上に飛び降り、撤退を命じる。黄蓋は後を追おうかと考えたが、その時崩れた帆柱に火が回り、一気に甲板上が火の海になり始めた。
「あつっ……もう、この船は駄目だね」
 やむなく、黄蓋は反対側の船べりに走り、湖に飛び込んだ。残骸と化して漂流する味方の船を掻き分けて近づいてくる前衛の船に拾われるまでは、まだもう少しかかりそうだった。
 一方、濡れる事も傷を負うこともなく迎えの船に乗り込んだ張遼は、燃える敵艦を隠れ蓑にして、再び湖岸を目指していた。周囲には八十隻ほどの小船が付き従っている。被害は皆無ではなかったが、挙げた戦果を考えれば信じがたいほどの大勝利と言える。
「あまり無茶をなさいますな、将軍」
 参謀の諫言に、張遼は素直に肯いた。
「悪いなぁ。ちぃとばかし血が滾り過ぎたわ。まぁ、これだけ痛めつければ、呉もウチの事は軽く見れんやろ」
 張遼の大勝利により、呉は今回の二万五千以上の戦力を、ここに送り込んでくる必要性を感じるはずだ。それは、その分だけ曹操の本隊との決戦に投入できる戦力が減少する事を意味し、曹操は戦いを優位に進められるようになるだろう。
(ただ……黄蓋か。噂とはちぃとばかし違ったけど、今後は手ごわい相手になりそうやな。無理にでも討ち取っておいたほうが、良かったかも知れへんなぁ)
 決着をつけ損ねた事に未練を残し、張遼の船団は闇の中へ消えた。

 数日後、建業の港は粛然とした空気に包まれていた。黄蓋の艦隊、その残存兵力が帰ってきたのだ。
 艦数は出撃時の三分の一以下に激減し、どの船も、甲板上にまで負傷した兵士を乗せている。最終的に黄蓋軍が蒙った損害は、兵士だけで戦死・行方不明あわせて一万六千。残った九千の兵も、半数近くが負傷している。呉軍の全兵力の一割が、曹操との決戦前に失われたのだ。
 迎えに出た孫権は、あまりの惨状に言葉を失い、尚香も親友である黄蓋の安否を気遣ってか、いつもの元気がない。ただ一人、周瑜だけが冷徹な態度を崩していなかった。
 やがて、臨時に旗艦となっている闘艦から、黄蓋が降りてきた。身の回りのものは全て旗艦と一緒に巣湖に沈んだため、戦のあった夜以来の、あちこち焼け焦げた上衣を羽織っただけの寝巻姿で、痛々しい傷が全身に刻まれている酷い姿だった。やはり出迎えの列に並んでいた桃香は、その姿を見て気の毒に思ったが、一方で黄蓋の様子に出撃前とは違った何かを感じてもいた。
(なんだか、雰囲気が変わったような?)
 やがて、降りてきた黄蓋は、孫権の前で跪くと帰還の言上を述べた。
「臣黄蓋、君の信頼に応える事ができず、真に痛惜の極み。敗戦の責は我が身が一死を持って償うべきなれど、まずは勇戦した兵たちを故郷に連れ帰る事こそ先決と思い、こうして戻ってまいりました。かくなるうえは、いかなる罰をも受ける覚悟です」
 その口調からは数日前の甘えた様子がなく、きびきびとしたものだった。それに対して孫権が答えるより早く、先に口を開いたのは尚香だった。黄蓋のところに駆け寄り、その頭を抱きしめる。
「延珠、延珠っ! こんなに酷い怪我をして……! 痛かったでしょう!?」
 目に大粒の涙を浮かべながら、尚香は姉と宰相の顔を交互に見た。
「お姉ちゃん! 冥琳! 延珠を許してあげてよ!!」
 その訴えに、まず孫権が答えた。
「控えろ、小蓮。お前にそれを決める権利はない」
 続いて周瑜が言う。
「これほどの大敗北……いかなる軍律に照らしても、死罪が妥当です。これを許しては軍規は保たれません」
「そんな!」
 尚香が抗議の声を上げる。それを止めたのは黄蓋だった。
「おやめください、シャオ様。お二人の言っている事が正論です。わたしは、それほどの失敗をしたんですから……あの兵士たちに詫びるにはわたしの首一つでは足りませんが、それしかもうわたしには無いんです」
 尚香は黄蓋が見る方向を見て、言葉を失う。船から降ろされる負傷兵たちの無残な姿が、彼女の目に飛び込んでくる。多くは燃える船上で火傷を負い、その後決して清潔とはいえない湖水に落ちたために、酷く化膿している者もいる。彼らの傷が癒えるのにどれほどの時間がかかるか、そもそも癒える事があるのか、それすら判らないほどだった。それでも生きて帰った者はまだ幸せで、二度と故郷の土を踏めなかった者の方が多いのだ。
 加えて、黄蓋は孫呉のお家芸であるはずの水上戦で大敗北を喫し、孫呉水軍の名誉を地に落としたのである。軍律に照らせば、死罪ですら生ぬるいほどの大失態だろう。絶句する尚香に、孫権が言う。
「どけ、シャオ。黄蓋の失態は許しがたく、本来ならば名誉なき死を与えるところだが、長年我が孫家に仕えた功績も鑑み、せめて私が刑を執行する」
 そう言って、孫権は腰の宝剣、南海覇王をすらりと抜く。その刀身に黄蓋の顔が映った。
「お、お姉ちゃん……」
 姉の厳しい顔に、尚香はそれでも黄蓋を守るようにその身体に覆いかぶさろうとするが、黄蓋はその行為を拒絶した。
「駄目です、シャオ様」
 彼女は尚香の首根っこを掴み、自分の身体から引き剥がした。すかさず周瑜が身柄の拘束を命じ、甘寧が「御無礼」と言いながら尚香を羽交い絞めにする。
「離しなさいよ思春! 延珠、延珠ー!!」
 せめて刑の執行は見せたくないと思ったか、甘寧は尚香を抱えたまま人ごみを掻き分けていく。それを見送って、孫権は黄蓋の横に立った。
「覚悟は良いな?」
 孫権の問いに黄蓋は肯いた。
「蓮華様に処断されるのであれば、この上なき名誉。もはや思い残す事はありません」
 そう言って、彼女は目を閉じ、顔を伏せた。港が静まり返る中、小声で言ったのは孔明だった。
「ど、どうしようもないんでしょうか?」
 それは彼女の優しさだっただろうが、さすがの桃香にも、これを止める事はできないと判っていた。
「……どうしようもできないよ。孫権さんの国の事情だもの」
 桃香は目を伏せた。本当は、彼女だって黄蓋を助けてやりたい。でも、できないのだ。止めに入れば内政干渉になるし、下手をすれば同盟にひびを入れることになりかねない。ただ、黄蓋の魂に安寧あれと祈るのみだ。
 やがて孫権は南海覇王を振り上げ、そしてためらい無く振り下ろし――
「お待ちください、我が君」
 周瑜が処刑を止める言葉を発した。紙一重のところで、南海覇王の刃が止まる。
「……なんだ、冥琳。死罪以外に無いと言ったのはお前だろう」
 孫権が振り返って言うと、周瑜は美貌を冷たい笑いで彩って答えた。
「いかにも。ですが、黄蓋の失態はあまりに重大。死を持って償わせる程度では甘過ぎましょう」
 思わぬ人間の思わぬ助命要求に、場がざわめく。
「では、助命して今後の功績を持って償わせるとでも? それこそ甘過ぎではないか」
 孫権が言うと、周瑜の冷たい笑みはますます温度を下げた。
「まさか。そのような事はしません。ともかく、黄蓋の身柄は私に一任していただけませんか?」
 しばらく孫権は考え込んだが、南海覇王を鞘に収めると、黄蓋に言った。
「良かろう。周瑜にしばらくお前の身を預ける。指示に従え」
「……はい」
 蚊の鳴くような声で答える黄蓋。立ち上がると、周瑜の招きに応じて、彼女についていく。場にホッとした空気が流れた。
「良かった……」
 孔明が胸をなでおろす。しかし、桃香はあまり安心できなかった。周瑜が黄蓋を見る目は、どう見ても使い潰しても惜しくない道具を見る目だった。
(周瑜さん……黄蓋さんをどうするつもりなの?)

 黄蓋が連れて行かれた先は、周瑜の私室だった。二人きりになると、黄蓋は周瑜に尋ねた。
「冥琳……わたしに何をさせたいの?」
 今でこそ周瑜は宰相、黄蓋は一将軍と位階に差はついているが、二人は実はほぼ同年代であり、お互い真名を呼び合う仲でもある。かつて、先代の黄蓋、つまり黄蓋の同名の祖母の下で、主君孫策を助けるために軍略や武術を学んだ仲だった。
「……この戦に勝つこと。ただそれだけよ。そのために延珠……貴女には私の言う事に従って貰うわよ。命を助けた以上、貴女の所有権は私のものなのだから」
(いや、その理屈はおかしい)
 周瑜の一方的な言葉に反発を覚えた黄蓋だったが、口には出せなかった。実際、確実に死罪になるところを助けてもらったのは事実なのだから。
 ただ、経験的にこのあと死ぬより酷い事になりそうだ、と言うのは予測できた。その予測を裏付けるように、周瑜は黄蓋の顔をじっと見つめて言った。
「延珠、この戦いに勝つために、どんな事でもしてくれるかしら?」
 黄蓋は溜息をついて答えた。
「選択肢はないんでしょ?」
「まぁね。あらゆる汚名を被り、汚泥を浴びせられ、地位も名誉も投げ捨てる事になるけど、それでもやってもらうわ」
 周瑜はそう答えて、黄蓋に今後の行動について指示を伝えた。それは、確かにあまりにも過酷な内容であり、黄蓋がこれまでに築いてきたものを、全て壊し尽くすものだった。全てを聞き終えて、黄蓋は言った。
「……冥琳。冥琳は本当に、酷い事を平気でするようになったよね。良心とか優しさとか、そういうものは雪蓮様と一緒に死んじゃったんだね」
 周瑜にとって、誰よりも心酔した主君であり、誰よりも深く愛した親友でもあった、旧主の名を口にする。周瑜は一瞬身体を震わせた後、黄蓋に言った。
「延珠、人が本当に死ぬ時とは、どういう時だと思う?」
「え?」
 周瑜らしからぬ、少し宗教的な質問に戸惑う黄蓋。それを無視して、周瑜は続ける。
「私は、その人の抱いていた理想が、誰からも忘れられた時だと思う。逆に言えば、その理想が生き続ける限り、その人は本当に死んだ事にはならない」
 周瑜は顔を上げた。その目に、狂的なまでに熱い炎を宿して黄蓋を見る。
「だから……私は雪蓮の理想を忘れない。彼女の夢を……天下統一を、絶対に成し遂げてみせる。雪蓮を理想として生かし続ける。誰にも邪魔はさせないわ」
 黄蓋は黙って肩を落とした。自分には絶対に周瑜を止められないと確信したのだ。

 明けて翌日……合肥の敗戦に続く凶報が、呉を揺るがすことになる。
 黄蓋将軍、逐電――
(続く)
 
 
―あとがき―
 今回の主役は延珠と冥琳です。黒冥琳は書いていて楽しいですね。延珠はその分気の毒な事になっていますが。
 気の毒と言えば、再び出番極小だった桃香。主人公なのに……とは言え、次回からはちゃんと主役に復帰する予定です。いよいよ連合軍と魏軍の決戦が近付いてきました。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第二十一話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:e8f94502
Date: 2012/06/02 13:34


 長江の一角、川岸が入り江のごとく入り組んだ地に、魏軍は水塞を築いていた。魏の兵船に先導されて水塞に入った黄蓋は、その造りが十分堅固にして水軍の戦理に適ったものであることを認めざるを得なかった。
(魏の船戦など手遊びのようなもの……そんな侮りはもう無いけど、これは予想以上……相手は手強いよ、冥琳)
 後にしてきた故郷と、そこで采配を振るう親友の姿を頭に思い浮かべ、そして打ち消す。これからの黄蓋には、一瞬でも郷愁にとらわれる事は許されない。
「こちらへどうぞ、黄将軍」
 彼女を案内してきた兵船の長が、そのまま水塞の中心部にある大天幕へ黄蓋を誘導していく。入り口にかけられた幕をくぐり、中に入ったその瞬間、黄蓋は空気が変わったのを感じた。
(……重い。だけど暗くは無い。これが覇王の発する気……)
 黄蓋は頭を上げた。少し先に一段高い台座が設えられ、そこに据えられた玉座に、一人の少女が座している。さして恵まれた体格を持つとはいえない黄蓋から見ても小柄な少女は、しかし天地の始まりにその間にあったという古の巨人、盤古の如き存在感を持っていた。


恋姫無双外史・桃香伝

第二十一話 黄蓋覇王の水塞に至り、桃香は孫権と絆を結ぶの事


「あなたが黄蓋?」
 問いかけの声に、黄蓋は膝を突き、腰を折って貴人への礼を示す。
「はい。初めて御意を得ます、魏王曹孟徳様。江南の黄蓋と申します。かくのごとき見苦しき姿ではありますが、どうかご寛恕を賜りたく」
 張遼に破れ、炎に追われたあの日から、黄蓋は服を着替えていない。敗残者そのもののみすぼらしい姿だった。
「構わないわよ。ふふ……悪くないわね。傷つき汚れていても、貴女の可愛らしさには変わりはないわ」
 曹操が舌なめずりをするような口調で言う。その視線が、服が破れたためにむき出しになっている太腿のあたりを這っているのを、黄蓋は感じた。かすかに寒気を感じるが、それを押し込めて恐縮です、と更に頭を下げる。
「まぁ、いいわ。孫呉の宿将たる貴女が、なぜこんなところへ来たのかしら?」
 黄蓋は気を引き締めた。ここからがいよいよ本題だ。
「この身を曹孟徳様にお預けしたく、まずはまかりこしました。貴女様の天下のため、水火の労をも厭わず働く覚悟ですが、願わくば、軍の末席なりと与えて頂ければ幸いにございます」
 それを聞いても、曹操はすぐには反応を示さなかった。代わりに周囲の将たちが三者三様の反応を示す。夏侯惇は隻眼に汚物を見るような嫌悪に満ちた光を宿らせた。一方、許猪は投降者を主の威徳の賜物と見ているのか、どちらかと言えば好意的な視線だ。
 そして、曹操のすぐ傍に控える軍師、荀彧もまた、好意的な視線ではなかった。もっとも、彼女は曹操が黄蓋を可愛いと称した時から、既に敵意を目に燃やしていたが。
 ここまで二対一で嫌われているか、と黄蓋が思った時、曹操が動いた。軽く視線を向けただけだったが、それによって黄蓋が感じたのは、圧倒的な、それこそ彼女の存在を全否定するかのような、侮蔑に満ちたものだった。
「愚かな事を言うのね、黄蓋。貴女は得意の水上戦で張遼に敗れた。その程度の能力しかない者が、戦場働きで私に奉仕しようと? 恥を知るのね」
 冷たい声が黄蓋の耳を打つ。かつての彼女なら、それだけで震え上がり、恥も外聞も無く許しを乞うていただろう。
 だが、全てを失った今の黄蓋には、恐れるものは何もなかった。自身の死でさえ、今の彼女には恐怖の対象ではない。落ち着いた口調で黄蓋は曹操の言葉に同意した。
「ごもっともな言かと存じます。忠誠を誓う身で己をこう働かせよと申し上げるなど、僭越の極みにございました」
 そう言って、黄蓋は更に頭を下げる。自分にどのような役目を与えるか、全てを曹操に委ねる。その覚悟を示したのだ。その彼女の目の前に、鋭い金属音を立てて転がったものがあった。
「……」
 黄蓋はそれを見つめた。刃渡り一尺弱ほどの、髑髏の模様がついた短剣。覇王の意思は明白だった。
――お前の席など、我が軍には無い。それで己を決するが良い。
 黄蓋は黙って短剣を取り上げ、それを己の首に押し当てた。鋭い痛みが走り、溢れた血が胸元にまで流れるのが感じられる。それら一切を無視し、黄蓋は短剣を首に押し込もうとした。
「待ちなさい」
 その意志を止めたのは、やはり曹操だった。
「見せてもらったわよ、貴女の覚悟を。いいでしょう。我が陣営に貴女の席を用意させましょう」
 それを聞いて、黄蓋は短剣を首から離し、平伏した。
「ありがたき幸せ。黄蓋、全身全霊を持ってご恩に報います。誓いの証として、我が真名をお預けいたします」
 黄蓋が延珠という自分の真名を名乗ると、満足そうに微笑んで曹操は許猪に命じた。
「季衣、延珠を金創医のところへ案内しなさい。延珠、手当てが終わり次第、私のところへ来なさい」
「承知いたしました」
 立ち上がった黄蓋に、許猪がよろしくね、と言いつつ着いてくる事を促す。二人が去るや、早速異を唱えたのは荀彧だった。
「華琳さま、私は反対です。あの者は呉の間者に違いありません。直ちに処断すべきです」
 軍師としてはもっともな進言だろう。だが、その目に浮かぶ感情の最も強いものは、嫉妬だった。曹操は苦笑しつつ自分の軍師に答えた。
「そうかもしれないわね。でも、あの娘に利用価値は十分あるわ」
「それは?」
 夏侯惇が尋ねる。彼女も、黄蓋を受け入れると言う決定自体には反対だったが、主君が決めた以上はその意志を尊重する、と決めている。だが、納得するにはやはり理由は欲しかった。
「黄一族と言えば、江南に古くから根を張る古豪。孫家にも三代に渡って仕える武門の名家よ。例え今の当主が軟弱者だとしても、それが私に付くと表明したなら、動揺する者も多いでしょうね」
 そうでなくとも、今の孫権には指導力不足なところがあり、最近ようやく反孫家勢力を討伐したとは言え、火種は残っている。曹操は黄蓋をその火種を大火に燃え広がせるふいごとして利用するつもりだった。
「それにまぁ、可愛い娘だと言うのも確かだし。将としては物足りなくとも、後宮の花として飾っておく分には不足はないわ」
 それを聞いて、夏侯惇は苦笑と共に主の説明を受け入れ、一歩引いて従う姿勢を示した。荀彧はまだ不満……というより一層嫉妬の炎を熱く燃え上がらせたようだが、それでもこれ以上抗弁すれば主の怒りを買うと言う一線はわきまえていた。黙って頷く荀彧に、曹操は言った。
「そうね。今夜の伽は桂花も一緒に来なさい。自分の手で延珠に上下の分を弁えさせてあげるのね」
 
 
 一方、建業では黄蓋の逐電と言う緊急事態に接し、君主会談の場は荒れ模様になっていた。捜索の結果、黄蓋の船と思われる兵船が、長江上流の魏軍水塞に入ったと言う情報がもたらされたからである。
「冥琳……これは、お前の差し金か?」
 孫権が雷鳴を孕んだかのような剣呑な声で、自国の大宰相に問いかけた。
「苦肉の策に延珠を用いようと言うのか? 答えよ」
 桃香の隣に座っていた麗羽が、不審そうな表情で聞いてきた。
「どういう事ですの? 桃香さん」
「えっとですね……」
 最近懐の深さを身に付けつつあるとは言え、知識の方はそうでもない、この年上の盟友に対して、桃香は小声で説明した。
 苦肉の策――孫子の兵法でも特に知られる「三十六計」のうち、第三十四の計である。自らを、あるいは身内を傷つける事により、そんな事をするはずは無い、と言う人間心理に付け込んで人を欺く策略だ。
 この場合、孫呉は三代に渡って仕えてきた黄一族をあえて切り捨てる事により、曹操の油断を誘っている、と言う事になる。説明を聞いた麗羽は、なるほどと頷き、しかし首を横に振る。
「あの曹操さんに、そのような計略が通じるのでしょうか?」
「正直、私も微妙だと思います」
 桃香は答えた。孫子の兵法はあらゆる軍略の基礎と言える、古典中の古典だ。逆に言えば、最も研究され、それを破る方法が編み出されている書物でもあり、軍師、兵法家を志す人間にとっては、これをそのまま利用するのではなく、いかにして応用、派生を生み出すかが問われている。
 もし、黄蓋の逐電・魏軍への投降が苦肉の策だとすれば、あまりに基本に忠実であり、曹操に見破られないはずが無い。あるいはそれを見越し、裏をかく事を目的として、敢えて基本を遵守したのかもしれないが……
 桃香がそこまで考えたとき、周喩が答えた。
「私の差し金ではありません。正直なところ、あの延珠が良くぞここまで大胆な裏切りに走ったものだと思っております」
 さすがにそれは嘘だろう、と桃香は思った。あの帰還してきた時の黄蓋の様子を見れば、呉を裏切るなど有り得ない選択だ。そんな事をするなら、彼女は自決の道を……
 そこまで考えて、桃香ははっと気づいた。見れば、諸葛亮もやはり何かを悟った表情になっている。そう、黄蓋は絶対に裏切らない。そんな事は周喩も知っているはずだ。にも関わらず、黄蓋が裏切ったと主張するのは何故か。
「……残念ですね。誠実そうな方に見えたのですが」
 桃香は言った。周喩に詰め寄っていた孫権が、はっとした表情で桃香を見る。その顔が見る間に怒りで赤く染まる。それに油を注ぐように諸葛亮が言う。
「この影響は大きいです。戦略の大幅な見直しが必要でしょう」
 その時、孫権は何も言わずに立ち上がると、扉を蹴り破るようにして軍議の間を出て行った。控えていた甘寧が慌てて後を追っていく。大事な戦に破れ、信頼を裏切ったとは言え、忠誠に曇りは無い。黄蓋をそう評し信じているであろう孫権にとって、周喩、桃香、諸葛亮の態度は許しがたいものであったに違いない。
(臣下を想う優しいお方なのですね、孫権さんは)
 桃香はやはり彼女は共に天下を分けて治めるに相応しい相手だと確信すると共に、自分も嫌な事をするようになった、と自嘲した。一方、麗羽はややおろおろしたような表情を見せていた。
「いいんですの? 桃香さん」
 桃香は頷いた。
「はい……麗羽さん、お願いがあるのですが、良いですか?」
「え?」
 戸惑う麗羽に、桃香はそっと耳打ちした。その「お願い」を聞き終えた麗羽は、安心したのか笑顔を見せ、桃香にも勝る豊かな胸を叩いてみせる。
「承知しましたわ。私にお任せくださいまし」
 信頼をこめて桃香が頷き返した時、周喩が言った。
「我が君が落ち着かれたら、改めて会談するとしよう。今日はここまでだな」
 この時ばかりは、桃香も周喩に賛成だった。もっとも、自然に孫権が落ち着くのを待つつもりは、彼女には無かったが。
 
 夜になり、桃香が泊まっている城内の部屋に、麗羽が帰ってきた。その顔に浮かぶ笑みを見て、桃香は彼女がうまくやってくれた事を悟った。
「ありがとうございます、麗羽さん」
「いえ、お安い御用ですわ。ですが、少々気疲れしました。今宵は休ませていただきます」
 桃香の礼にそう答え、麗羽は自分の寝台に向かう。桃香は待機していた星の方を向いて言った。
「では、行きましょうか、星さん」
「は。道は既に調べをつけてあります。少々狭いですが、それはご勘弁を」
 星は答えて不敵に笑ってみせると、龍牙の石突きで天井を軽く突いた。羽目板がずれ、人一人通れそうな隙間ができる。彼女はそれを確認すると、その場で跳躍し、まるで体重が無いかのようにふわりと天井裏に飛び込んだ。隙間を広げ、下で待つ桃香に向けて縄をたらす。その先は小さな輪になっていた。
「しっかりお掴まりください、桃香様」
「うん、わかった」
 桃香は教えられた通り、輪の先につま先を引っ掛け、縄をしっかり持つ。そして、留守番の大喬に微笑んだ。
「じゃあ、行ってきます、大喬ちゃん」
「はい。桃香様もお気をつけて。どうか、蓮華さまをお願いします」
 心配そうな大喬に見送られ、桃香の身体は天井裏に消えていった。
 
 しばらく後、桃香は城内の最も奥まった一室で、その部屋の主と向かい合っていた。即ち――城主の孫権である。
「夜分遅く、失礼します。こうして二人きりで会える機会を作っていただき感謝します」
 頭を下げる桃香に、孫権は硬い声で答えた。
「袁紹があまりに熱心に言うから承知したが、我が臣下を侮辱した貴女に会う気は、本来はなかった。一体何が言いたい」
 まだ怒りが解けないらしい。桃香は素直に謝った。
「申し訳ありません。黄蓋さんを侮辱する気は決してなかったのですが、あの場ではああ言うしかありませんでした」
 孫権が桃香の顔を見る。どういう事だ、と説明を促しているのを感じて、桃香は続けた。
「私は黄蓋さんが真の忠臣であり、呉の国に寄せる忠誠心に偽りが無い事を知っています。孫権さんも、それはご存知なはず。ですが、そうでない方もいる……違いますか」
 孫権ははっとした表情になり、ついで悔しそうに顔を歪めた。
「違わない……私の力不足の故だ」
 今の会話で、孫権も悟ったのだ。黄蓋の投降は偽りだが、そうではない真の裏切者がいる。呉の忠臣のような顔をしていながら、魏に、曹操に己を売りつける機会を図っている者たち。
「彼らはおそらく軍議の内容を知る立場にいます。ですから、周喩さんもあの場ではああ言うしかなかったのでしょう」
 桃香も、それに諸葛亮も彼らの存在に気づいたから、周喩に同調したのだ。
「いえ……むしろ、周喩さんは彼らをも利用して、曹操さんを欺くつもりですね」
「どういう事だ?」
 桃香が推測を口にし、孫権が答えを欲する。そこで、桃香はその続きを説明した。
 おそらく、周喩の言葉は裏切者の手を通じ、曹操にも伝わる。それは黄蓋の投降に真実味を与え、黄蓋の魏軍内での信用を高める事になる。
 さらに思うに、黄蓋の信用度がある程度高くなった時点で、周喩は裏切者の粛清を行うつもりだ。これによって魏に情報が伝わらなくなれば、自然と曹操は黄蓋を情報源として頼るようになるだろう。
「そうか……それでも、延珠にとって酷い事になるのは変わりはない」
 孫権が暗い声で言う。周喩が黄蓋をどう使うか明らかになった以上、孫権は彼女の投降に真実味を与えるため、地位の剥奪をはじめとして、あらゆる名誉を黄蓋から奪わざるを得ないだろう。そして、それは黄蓋の望みでもある。
 だが、桃香は別のことを考えていた。
「いえ、孫権さんはこのまま、黄蓋さんを信じる、裏切るはずがないと言い続けてください」
「え?」
 桃香の言葉に、目を丸くする孫権。
「曹操さんは理の人です。理の人は、往々にして情を軽んじるもの。孫権さんが情に流されていると見れば、そこに油断が生じるかもしれません」
 あの曹操が油断などするとは思えないが、可能性は無ではない。魏と連合軍の間にある圧倒的な戦力の差を埋めるためなら、どんな手でも打たねばならない。そして、孫権にそうしてもらう理由はもう一つ。
 黄蓋を勇気付けるためだ。彼女がただ一人敵陣に入って困難な任務に挑むのは、周喩の指示によるものだ。国では裏切者扱いを受ける事を覚悟で引き受けただろうとは言え、一人でも信じてくれる人がいるなら、黄蓋は挫けることなく任務に当たれるだろう。
「わかった。周喩は怒るかもしれないが、今更だ」
 孫権は笑った。つられて笑う桃香に、孫権は言った。
「劉備殿、私は貴女を信じよう。この困難な戦いを乗り切るために。だから、私の真名を預かって欲しい」
 桃香は思わず涙が出そうになるのを感じた。ついに、孫権との間に、同じ道を歩む同志としての絆を結ぶ事ができたからだ。
「孫権さん……ありがとうございます。では、わたしの真名も、孫権さんにお預けします」
 二人の少女君主は確かな絆を胸に、互いの魂の一部を交換し合う。それは、この戦いが新たな舞台に進んだ事の象徴でもあった。
 
 
 一方、望まぬ形で、望まぬ相手に真名を預けた少女は、そこから千里以上西の天幕の中で、息も絶え絶えになっていた。
「はぁ……はぁ……」
 寝台の上で、白い裸身を露にされた黄蓋は、虚ろな目で天井を見上げていた。先ほどまで曹操と荀彧の二人掛かりで責められ、あらゆる快楽をその身に刻み込まれていたのである。幾度もの絶頂の間に、理性は磨耗し、自分が今どこにいるかもわからないほどに脳が麻痺している。
 黄蓋をそこまで追い込んだ相手――曹操は、余裕の表情で黄蓋を見下ろすと、その耳元にそっと近づいて、甘い声でささやいた。
「可愛い延珠。貴女は連環の計、と言う言葉を知っている?」
「れんかんのけい……」
 頷く黄蓋。この言葉自体は武官、軍師ならば常識の範疇で、苦肉の策同様、孫子の兵法の一つ。第三十五計であり、複数の計略、策戦を連動させる事により、敵を撃破するのを目的としている。しかし、この時曹操が口にしたのは、それとは異なる別の意味があった。
「なんでもね、船団が航行する時に、バラバラにならないように鎖や橋で繋ぎ合わせて、船団自体を水上の城のようにする戦法だと言うのだけど」
 曹操が言うと、しばし間があって、黄蓋が首を横に振った。
「そんなの……ありえません……火攻めにされたらあぶないです……」
 その答えを聞いた曹操は、満足そうに微笑むと、黄蓋の頭を優しく撫でた。
「そう。それが聞きたかったのよ。おやすみ、可愛い延珠」
 労いの言葉と頭を撫でられる心地よさに、うっとりとした表情を浮かべて、延珠は眠りに落ちた。幼児のようにあどけないその寝顔を、打って変わって冷たい視線で見つめながら、曹操は言った。
「孫呉の連中、この私を舐めてくれたものね。そう。そんな戦法があるわけが無い」
「彼らは華琳さまが水上戦の経験も豊富だと言う事を知らなかったのでしょう」
 荀彧も言う。彼女たちは長江北岸に進出し、艦隊の建造を始めたときに、土地の船乗りから先程の「連環の計」について聞いていたのだ。
 船を繋ぎ合わせる事により、安定性が増し、乗員が船酔いで消耗してしまう事がない、と言う利点があるほか、陸戦の要領で水上戦ができるため、調練の期間が短くて済むとも言う。経験豊富な船乗りたちの言う事だけに、もし水上戦を知らない人間しかいなければ、信じて実行してしまったかもしれない策戦だ。
 だが、曹操は素人ではない。もともと船団と言うのはある程度速度も運動性も違う船を組み合わせて編成されるものだ。鎖で繋ぎ合わせたところで、一体になって動けるわけではないし、むしろ危険でさえある。
 長江の流れ自体、岸辺と中央部ではまるで速さが違うし、水深も場所によって違う。もし「連環の計」なるものを実行していれば、最悪一隻が座礁しただけで、全船団が航行不能になる恐れすらあった。また、いざ戦闘となった場合には、一隻が炎上しただけで、繋がれている他の船に延焼したり、撃沈された船が回りを巻き添えにすることも考えられる。
 曹操は即座に連環の計が持つ危険性を看破し、これは孫呉の謀略に違いないと思っていたが、それでも水上戦をお家芸とする彼らには、自分も知らない何らかの知恵があるのかもしれない。そう思って、謀略である事の裏づけを進めていたのだ。
 黄蓋から情報を聞き出したことにより、連環の計などというものは存在しない事が明白になった。曹操はようやく不愉快そうな表情を収め、笑顔を見せた。ただし、それは獲物を引き裂く事を待ちわびる、肉食獣の笑みだったが。
「周喩、孫権。どちらも、こんなくだらない事で私を煩わせた事を、たっぷりと後悔させてやるわ。長江の水底でね」
 そんな曹操を、荀彧は恍惚とした表情で見上げていた。
 数日後、曹魏の艦隊は長江へと乗り出していく。艦隻数一千隻以上。水兵十万人に達する、孫呉水軍を遥かに凌駕する大船団だった。加えて、船団の動きに合わせて、長江北岸を夏侯惇率いる十万、南岸を許猪率いる十万、計二十万の陸兵が進撃する。それは、孫呉の心臓を貫かんとする三叉の槍のようだった。
 だが、連合軍も同時に決戦へ向けて動き出していた。
 
 長江の支流のひとつ、准河。その中流域にある最大の街城にして、仲南部の中心地が准陰である。後に「陰」と言う字が嫌われて改名する事になるのだが、当時はそのように呼ばれていた。
 長江には遠く及ばないが、准河も全長数千里に及ぶ大河であり、長江から中原北部へ向かう重要航路となっていた。街はその中継地として賑わい、人口も五万を超える。仲領のみならず、当時の中華全域の中でも大都会の一つと言える。
 今、この街の人口は一時的に倍に増えつつあった。国主である麗羽の軍勢二万に加え、同盟国である歓の軍勢が約三万。計五万の大軍が、長江流域で予想される魏との決戦に向けて、この街を中間集結地としていたからだ。
 麗羽が呉を訪問中のため、入城した歓軍を出迎えたのは、猪々子だった。彼女も一度は中牟の官渡に出兵して魏軍を牽制していたが、全軍の指揮を執る詠は、敵の目的は陽動であり、渡河侵攻してくる事はない、と判断し、軍の半ばを旋回させて、長江決戦に投入する事を決定したのだ。
「お、歓軍の大将は美葉なのか。てっきり白蓮さまだと思ってた」
 歓軍の先頭に立つ武将を見て、猪々子が駆け寄って声をかけた。美葉はニヤリと笑い、人差し指と中指を立てた拳を突き出してみせる。ここに一刀がいれば、Vサインと呼ぶだろう。
「ああ、白蓮様が大陸最強の騎兵使いが誰か決める絶好の機会だと、自ら出陣を申し出られたんだが……張遼とは私も縁があるからな。こればかりは譲れん」
 そう、彼ら歓仲連合軍の相手は、今も合肥に拠って長江北岸から呉軍を牽制する、張遼の軍勢になる事が予定されている。張遼と言えば「神速」の騎兵使い。同じ騎兵使いとして「白馬長史」の異名をとる白蓮としては、絶対に負けられない相手と言える。
「確か昔の仲間なんだろ?」
 問う猪々子に、美葉は頷いた。
「ああ。一番頼れる戦友だった。だからこそ……一度は正面切って戦ってみたかったんだ」
 美葉と張遼はかつて董卓軍に籍を置き、共に反董卓連合軍を迎え撃った、一番の僚友だった。互いの力量は良く知っており、そして二人とも一度ならずこう思ったものだ。
「いつか、こいつと真っ向からやりあってみたい」
 敵味方を超えた、純粋に強者に対して抱く本能にも、あるいは恋にも似た想い。そこで、美葉と白蓮は石拳打ち(いわゆるジャンケン)をして、どっちが出陣するかを決め、美葉が勝ったと言うわけだ。先ほどのVサインは、それで勝ったという意味である。
「そっかー、あたいにとっては呂布や斗詩みたいなもんか」
 猪々子が言う。
「ほう、呂布はわかるとして、斗詩相手にもそういう気持ちはあるのか」
 美葉は意外の感にとらわれた。
「そりゃそうさ。馬賊やってた頃から、一番の親友で一番の好敵手だったんだぜ。まぁ、戦うなら寝台の上であひんあひん言わせるほうが好みだけどなー。うひひ……」
「……聞かなかった事にしておこう」
 気持ちの悪い笑い声を上げる変態を放置して、美葉は馬を進ませた。
「あ、おーい。待ってくれよ」
 我に返った猪々子が美葉に追いついてくる。
「今回の出兵だけど、あたしらだけでいいのか?」
「何がだ?」
 問い返す美葉に、猪々子が言う。
「いやぁ、こういうのもなんだけど、あたしら頭を使うの苦手じゃんか。軍師に来てもらわなくていいのかなって思って」
 お前ほどではないぞ? と美葉は言いたくなったが、そこはぐっと抑えて、心配ないと答える。
「何しろ、今回は桃香様直々に指揮を執られるのだ。それに、詠は何か考えがあって、本国で全体の状況を見たいと言っていたからな。我々は桃香様の下知を聞き逃さぬようにすれば良い」
「そっか。桃香様には斗詩もしてやられたんもんな。なら安心か」
 猪々子にとっては、一番の知将というのは斗詩の事であるため、それに勝った詠や桃香の実力を疑う気はないらしい。もちろん、美葉もそれは同じだ。しかし。
(とは言え、私や張遼の武も、詠の知も、月様の徳も、数と言う力には押し潰された。この戦い、容易ではない)
 美葉は気を引き締めつつ、馬を進ませていった。


―あとがき―

 めがっさ間が開いてしまい、申し訳ありません。
 ぼちぼち再開して行こうと思います。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第二十二話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:e8f94502
Date: 2012/11/01 05:12


 前方の崖の上から牙門旗が掲げられた。安全を示す合図だった。それを確認し、曹操は艦隊に前進の合図を出した。
「最大の難所だった赤壁を突破……ここを固められたら、苦戦は免れなかったのですが、幸いでした」
 荀彧の言葉に、曹操は笑って答えた。
「そうね。苦戦は必死だった。苦戦するだけ、だけどね」
 つまり、苦戦はするが最終的な勝利は動かない、と言う絶大な自信がその言葉にはこめられていた。もちろん、勝者は呉ではなく、魏である。
 赤壁は確かに難所であり、陸上で言えば洛陽への関門として董卓軍と連合軍が死闘を繰り広げた、汜水・虎牢二関の峡谷に匹敵する存在である。
 しかし、それはあくまでも水軍同士の戦いに限った話である。ここで魏の水軍をとめたとしても、魏は艦隊に乗船している陸兵戦力を揚陸し、長江に沿って東進させれば良い。それを阻む余裕は呉にはない。
 それを止めようと思えば、呉は赤壁の防衛線を解いて本領へ後退しなければならず、ここでの戦いは時間稼ぎにしかならないのだ。魏の持つ大兵力の長所が、地形的要所を抑えることの利点を殺しているのである。それもまた、二関の戦いと同じだった。
「私は、水軍同士の戦いというのは、騎兵の戦いに似ていると思っているわ」
 曹操が言うと、荀彧は首を傾げた。
「騎兵に、ですか?」
「ええ。遮るものが無い、広大な開けた地形での戦いであり、歩兵を凌駕する速度で行われる機動戦という点でね」
 曹操は説明した。荀彧は有能な軍師だが、曹操ほどに水軍に通じているわけではない。
「騎兵を守りに使っても意味が無いように、水軍を守りに使うのもまた無意味。それは水軍の長所を自ら殺すに等しい愚行よ」
 なるほど、と納得する荀彧。そこで早速自らの考えを披露するあたりは、彼女がまた一流の軍師である事の表れだった。
「では、呉はさらに下流で決戦を挑んでくる事を考えているのでしょうね」
 騎兵同士の戦いでは、しばしばより機動性と戦術に優れている少数の側が勝者となる戦例が見られる。魏が長江流域の優秀な船乗りを徴募して水軍を組織したとはいえ、呉水軍の戦術・錬度には勝るべくも無い。呉軍に勝機があるとすれば、水軍の能力を完全に活かせる広大な水域での決戦しかない。それが荀彧の理解だった。
「そうね。だけど、そんな事は私としては百も承知。相手の手にみすみす乗る気はないわ」
 曹操が不敵な笑みを浮かべて軍師に答えた時、艦隊の先鋒方向から、銅鑼と太鼓の音が聞こえてきた。敵襲を告げる合図だった。
「何事か」
 曹操が問うと、すぐに旗奉行が立ち上がり、前方の船に信号を送る。それは信号を受けた船からさらに前方へ逓伝され、やがて答えが返ってきた。
「先鋒旗艦より報告です。前方五里に敵船見ゆ。数は三十ないし五十。呉の警戒部隊と思われます」
 旗奉行の報告に、曹操は満足げに頷く。
「これは使えるわね」
 手旗による信号伝達は、つい最近魏にもたらされた新たな技術だった。それをもたらした相手を可愛がってあげなくては、と曹操は考え、その想像に舌なめずりをする。それは獲物をいたぶる豹のように見えた。夜まで待ちきれない嗜虐への渇望を目の前にぶつけるべく、曹操は命じた。
「先鋒に命じなさい。直ちに前進し、敵を殲滅するように、と」
「承知!」
 主君の命を受けた旗奉行が信号を送ると、やがて先鋒部隊が一斉に船足を上げ、呉の警戒部隊に向けて突撃するのが見えた。その数は五十隻程度。魏水軍の錬度を考えれば、決して対等に戦いうるとは思えない程度の数だ。先鋒部隊は壊滅的な被害を受けるだろう。
 だが、曹操の表情は自信に満ちていた。

 
恋姫無双外史・桃香伝

第二十二話 群雄決戦の地へと進み、桃香は張遼との戦に策を練ること

 
 自信を持っていたのは、呉水軍警戒部隊の将も同じだった。最初こそ巨大な敵水軍の姿に驚愕したものの、先鋒だけが向かってくるのを見て、にやりと笑ってみせる。
「陸者め。その程度の船でわれわれをどうにかできると思ったか」
 自らの水上戦の技量を絶対と恃む呉の将兵にとって、自分と同数ならば、魏の水軍など恐れるものではない。
「奴らを潰してから引き上げるぞ。銅鑼を鳴らせ! 貝を吹け!」
 戦を決意した将の号令に、配下の兵がわっと歓声を上げる。黄蓋の敗北で消沈していた呉兵たちは勝利を渇望しており、それが与えられる絶好の機会に奮い立った。
 だが、次の瞬間警戒隊の将は、驚愕に目を見張った。魏水軍の艦隊はある程度の距離までは詰めて来たものの、そこで船足を落とすと、一枚目の帆を巻き上げた。そこに据えられていたのは……
「霹靂車だと!?」
 霹靂車……後代では一般に「投石器」と呼ばれる、大型の攻城兵器である。梃子の力で一抱えほどもある石を一里にわたって飛ばすもので、大砲の出現以前では最大の威力を誇る遠距離投射兵器であった。実は、この霹靂車を開発したのは魏軍であり、洛陽攻防戦でも少数が用いられているため、呉軍の中にもそれを見知る者はいた。この警戒隊の将もその一人だ。
 しかし、霹靂車は兵士十数人がかりで運用するもので、重量も数万斤に及ぶ。船に乗せるなど考える事すらできない代物だった。だが、それを開発した魏は軍船に乗せるところまで技術を洗練させていたらしい。
「いかん!」
 警戒隊の将は戦慄した。洛陽で霹靂車から放たれた巨石は、頑強な城壁を砕き、家の壁に大穴を空ける威力を持っていた。もしそれが軍船に叩きつけられればどうなるか。
 その答えは、即座に呉軍に見せ付けられる事になる。霹靂車の腕木が唸りをあげて旋回すると、巨石の群れが弧を描いて呉軍艦隊に殺到したのだ。
 放たれた五十の巨石は、九割が外れ弾となり、長江の川面に白い水柱を吹き上げるにとどまった。だが、五発がそれぞれ同数の呉軍艦を捉えていた。
 矢であれば軽く弾き返したであろう分厚い船の外板も、この常識外れの攻撃の前には、濡れた紙も同然の代物だった。鈍い破壊音と共に外板が粉砕され、船内に踊りこんだ巨石は不運な兵士や船員の五体を砕き、甲板をも貫通して、船底に通じる穴を開ける。そこから奔入した川の水が驚倒する兵士たちを飲み込み、船を川底へと引きずりこんでいく。
 外れ弾でも船の至近に落下したものは、船を進退させるための櫓や舵を粉砕し、あるいは激しい衝撃で揺さぶって、その船の動きを封じた。そうして生じた混乱が収まらぬうちに、魏軍から第二弾が放たれる。それは第一弾とは異なり、白い煙の尾を引いて飛来して船体に激突すると、とたんに激しい炎を上げて燃え盛る。
「あ、油だ! 油の壷だ!!」
 その正体を悟って叫んだ将が、次の瞬間至近に落ちた壷が巻き上げた炎の中に巻き込まれ、死の舞を強制されながら川面に落ちた。第一弾で照準を調整したこの第二弾は、十発以上が直撃となり、呉軍艦隊を炎の修羅場へと追い込んでいく。将を失った呉軍は、混乱を収拾する術も無いまま、突撃してきた魏軍衝船の体当たりを受け、舷側に大穴を開けられ、その姿を水面下に没していった。
 一刻が過ぎたとき、辛うじて離脱した少数の小型船を除き、呉軍警戒隊のほとんどの艦が長江の藻屑と消え去っていた。魏軍の損害はほとんど無い。
 無敵呉水軍の神話が、合肥に続いて完全に崩壊した瞬間だった。
  
「お見事な勝利です、華琳様」
 荀彧が言った。その表情には絶頂したかのような恍惚が浮かんでいる。この戦術を構想し実現させた主の才が荀彧を陶酔させていたのだった。
「機動戦で勝てないのなら、相手に苦手な戦……そう、守りの戦を強要すればいい。簡単な事よ」
 曹操は答えた。そう、彼女の発想とは、敵艦、ひいては敵艦隊そのものを城に見立て、これに対して「攻城戦」を仕掛けるというものだった。艦載弩弓や乗艦弓兵に比して射程と威力、そして価格で圧倒する霹靂車を大量に揃えられる魏にしかなし得ない、富者の戦術である。
 しかし、この戦い方であれば、騎兵戦のような複雑な機動戦術を習得する必要は無い。ただひたすら、敵との距離を一定に保ち、巨石と油壺をその頭上から見舞うだけだ。陸兵に水上での振る舞いを教える手間も最小限で済む。
「長江の水面であっても、私の覇道を阻む障壁たりえない。むしろ、私の戦術に長江を従わせる……孫権、それとも周瑜。お前たちにこの覇道を阻む事ができるかしら」
 曹操は満足げな笑みを浮かべたまま、長江の遥か先を見据えていた。
 
 そこから五千里ほど東方に位置する准陰では、桃香と星、それに麗羽が自分たちの軍と合流していた。
「美葉さん、お疲れ様」
 桃香の労いの言葉に、美葉は顔をほころばせて答えた。
「何の。あの張遼と決着を付ける好機にございますれば。気持ちが逸って疲れを覚える暇もありません」
 どうやらかつての同僚と刃を交える事への屈託は無いらしい、と見て桃香は安堵する。
「で、桃香様。あたいたちは魏の連中とどう戦うんだい?」
 麗羽との再会を済ませた猪々子が話に割り込んでくる。こちらも戦いたくてうずうずしているのだろう。
「桃香さんのことですから、策はもう考えていらっしゃるのでしょう?」
 麗羽が信頼をこめた口調で聞いてくる。桃香はうなずくと、星のほうを向いた。
「星さん、あれを」
「承知しました」
 星が服のすそをごそごそと探ると、一巻の巻物を取り出した。それをさっと広げる。
「おや、これは……地図ですな」
 美葉が言うとおり、それは准河下流域を含む、長江流域の詳細な地図だった。これ自体はこの准陰を領有する麗羽も所有しており、目を通した事もある。だから、違和感に気づいたのは彼女が最初だった。
「ですが、私が知っているものとはずいぶんと違いますわね」
 麗羽が持っているこのあたりの地図は、地形の他に道と都市や村落、鉱山の位置、さらにそれらの生産力がざっと記された統治用の地図か、もしくは砦や間道が記載された兵要地誌のどちらかだった。それと比較すると、印象としては星の持っていた地図は軍事地誌に似ている。
 だが、地形が微妙に違う。具体的には水路が非常に細かく記載されているのだ。主要な川の支流、そのさらに支流。あるいは用水路や運河。湖沼や溜池まで網羅していた。
「はい。これは呉の兵要地誌です。わたしたちにとっては水路は障害物ですが、呉にとっては進撃路であり補給路。道路以上に重視すべき情報なんです」
 桃香が説明する。
「なるほど……ですが、こんなものがあると言う事は、呉の間者がわたくしの国を細かく調べている事でもありますね」
 麗羽がちょっと不愉快そうに眉をひそめて言う。それに苦笑したのは猪々子だ。
「いやぁ姫様、それはあたいたちもやってるのでお互い様ですよ」
 実際に間者・偵探を統率して呉の国情を調べているのは斗詩だが、もちろん猪々子も事実としては知っている。
「しかし、これは呉の最重要機密でしょう。良く借りてこられましたな」
 美葉が言うと、桃香と星は顔を見合わせて、苦笑した。その素振りに美葉は事実を悟った。
「まさか……盗んできたのではないでしょうね」
 念のため確認すると、桃香は頷いた。実のところ、孫権はこれを貸し出すのに前向きだったのだが、強硬な反対者がいたのだ。
「まぁ……どうしても周瑜さんが貸してくれないので、こっそりと……」
「だが、割と簡単に手に入ったぞ。呉の警備はなっておらんな」
 犯行を教唆した桃香が申し訳なさそうなのに対し、実行犯である星が胸を張る。美葉はため息をついて肩をすくめた。
「聞かなかったことにしておきましょう……ですが、そこまでしたからには、これが勝利の鍵なのですね?」
 美葉の言葉に桃香は頷く。
「うん。張遼さんと戦うのに、都合のいい戦場があるかどうか、どうしても知りたかったから。おかげで見つかったよ」
 自信に満ちた桃香の言葉に、麗羽、星、美葉、猪々子が地図を覗き込む。桃香の指が押さえた、その一点を見つめた。
「まず……」
 桃香が策の説明を始める。それは、四人に勝利を確信させるに十分なものだった。
 
 准陰から西方に千里、合肥では張遼が幾つかの報告を受け取っていた。今読んでいるのは早馬で届けられたばかりの速報で、曹操の主力部隊があと数日で長江下流域に到達する、というものだった。その過程で呉の警戒艦隊を発見し、その幾つかを壊滅させた事も記されている。
「はぁ、さすがは大将やな。陸の名将が水の上でもそうとは限らんもんやけど、うちの大将はそれに当てはまらんっちゅうことやな」
 張遼はそう一人ごちる。荀彧や夏候姉妹とは異なり、主の曹操に恋慕の情を抱いてはいない彼女だが、その才と覇気にはかつての主である月とはまた違った意味で、純粋な敬意を払っている。
「それ、何気に自分を褒めてますよね」
 横に立っていた副官が言う。そう。少し前にわずか七百の兵で一万五千の大軍を、それも慣れない水上で撃破した張遼も、十分常識を超えた名将と名乗る資格はあるだろう。
「あかんか?」
 微笑む張遼に苦笑する副官。こうした主将の茶目っ気は、部下たちに愛されていた。
「いえ。それとこちらを。我らにとっても重要な報知です」
 副官が差し出したもう一通の報告書を受け取り、目を通した張遼の目が輝いた。
「いよいよ来るか、歓仲連合軍が……それも、華雄のやつが相手かいな」
 かつての旧友の名を張遼は口にした。華雄がそうであるように、張遼も同僚をいずれ思う存分死力を尽くして戦いたい相手だと考えていた。その絶好の機会が、手の届く場所にある。
「報知によれば敵軍は五万。我が軍も五万。まさに天が設えた様な舞台ですな」
 副官が言う。有力な将が張遼一人の魏軍に対し、連合軍は桃香、麗羽を除いても美葉、猪々子の二人の猛将を擁し指揮官の質では優位に立つ。だが、連合軍ゆえに統一された、足並みの揃った戦術を駆使することは難しいだろう。五万を手足のように操れる張遼が、指揮下の部隊の質では優位に立っていた。
 まして、相手に公孫賛と配下の白馬軍が来ていない以上、騎兵戦力では完全に張遼が優位だ。野戦に持ち込めば圧勝する自信すら彼女にはあった。
「問題は、相手がどう出てくるかやな……副官」
「はっ」
 姿勢を正す副官に、張遼は命じた。
「物見、偵探をありったけ出すんや。敵の動きを確実に掴み、騎兵隊が優位に立てる戦場で会敵するで」
「承知いたしました」
 副官がうなずき、命令を出すために退出していく。見送る張遼の目は抑えきれない戦意に滾っているようだった。
 
 そして、西方一万里の彼方でも、一軍が土煙を巻き上げて進撃を続けていた。その陣頭に翻る牙門旗は、丸に十字を描いた北郷軍のものだが、それとは別に真新しいもう一つの牙門旗が誇らしげに掲げられていた。赤地に黒々と記されているのは「天」の一字である。
(個人的には、縁起が悪いと見るべきか。それとも気にしないべきか)
 その牙門旗のもと、白馬を進める一刀の顔には苦笑に近いものが浮かんでいた。そう、これが彼の国号なのだ。つまり「天国」である。
 桃香の「歓」、麗羽の「仲」、曹操の「魏」、孫家の「呉」同様、一刀の国にも国号が必要だと主張したのは、今はまだ呉にとどまっている諸葛亮だった。荊州脱出を果たし、成都に落ち着いてから最初の朝議の際の出来事である。
「ご主人様の志と勢威を世に知らしめるため、私たちの国にも相応しい国号が必要です」
 彼女の言葉に一刀はうなずいた。それは彼も考えていた事だった。いつまでも「北郷軍」では、国ではないただの軍閥のようにしか聞こえない。実質はともかくとして、形を整える事も重要だと、この一年半の領主としての生活で学んだ一刀だった。
「そうだな……俺としては"蜀"が良いと思うんだが」
 一刀が言う。彼が知る正史では、劉備がこの成州の地に築いた国。それ以前の春秋戦国時代でも、四川盆地を拠点とする国が名乗っていた、伝統ある国号である。
「そうですね。私も……」
「いや、私は反対だ」
 賛成です、と言おうとしていた諸葛亮の言葉をさえぎったのは、関羽だった。一同の目が彼女に注がれる。
「なぜ? 私は問題ない案だと思うけど……」
 黄忠が首を傾げる。かつての大国にあやかるのは魏、呉もやっていることだ。しかし、関羽には意識するものがあった。
「普通なら、私も蜀で良いだろうと思う……だが、ご主人様は天の御使い。この世を平穏に導くべく遣わされたお方だ。そのお方の国には、古き国号より、清新なる別の国号が良いと思う」
 関羽は言った。彼女が意識しているのは、言うまでもなくいつか一刀の王道にとって最大の敵となりうるであろう、桃香の存在である。彼女とその盟友麗羽の用いている国号は、それまでなかった新しいものだった。
 ならば、一刀もそれに対抗する、まったく新しい別の国号を当然用いるべき。関羽はそう確信していたのである。
「確かに、それも一理ありますが……愛紗さんは何か案をお持ちなのですか?」
 諸葛亮が問うと、関羽は無論、と頷いた。
「私はご主人様をこの上なく象徴する一字を国号に用いるべきだと思う」
 その時、張飛、黄忠、諸葛亮、呂布、馬超の五人は「種」「珍」などと言う字を思い浮かべたが、もちろん口に出すような真似はしなかった。
「で、いったいそれはなんなのだ? 愛紗」
 張飛が聞くと、愛紗は豊かな胸を張って答えた。
「無論、"天"しかあるまい。ご主人様は天の御使いなのだから」
「え」
 一刀は絶句した。もちろん、彼にとっては天国といえば死後の国だ。善行を為した後に行く世界とは言え、縁起のいい提案とは到底思えない。しかし。
「なるほど……それは良いわね」
「確かに、ご主人様の象徴はその字です」
「鈴々は賛成なのだ」
「かっこいいじゃないか」
「…………」
 仲間たちがさっさと賛成してしまう。彼女たちにはもちろん天国は死後の世界と言う概念はないので仕方がないのだが、到底反対意見を出せる雰囲気ではない。
「そ、そうか……みんながそう言うなら……」
 やや歯切れの悪い口調で言う一刀。こうして彼の国は「天」となったのである。
 
(まぁ、この世の天国と言う言葉もある事だしな……ポジティブに考えるか)
 一刀はそう気持ちを切り替え、横を進む黄忠に声をかける。
「紫苑、敵軍の動きは掴めてるかい?」
 諸葛亮が呉に赴き、その間に魏軍が展開している事もあって帰れない今、一刀は残る仲間たちの間で、もっとも見識があり、冷静かつ客観的な視点を持っている黄忠を軍師格として扱っていた。黄忠自身、かつての南荊州の領主だった事もあって、長江北岸域の事情に通じている。まずまず妥当な人選と言えた。
「どうやら、こちらに対峙している魏の将帥は盲夏候のようですね。赤壁に陣を敷いてこちらを迎撃する態勢のようです」
「あいつか……」
 長阪の戦いで見た夏候惇の姿を思い出し、一刀は唸る。魏武の大剣と称され、天の軍神・関羽とも互角の戦いを見せた相手だ。こちらに綺羅星のごとき名将たちが揃っているとは言え、決して侮れない。それにしても――
「赤壁だって?」
 一刀は聞き覚えのある地名に声を上げる。赤壁の戦いと言えば、彼が知る正史においても三国志の一番の見せ場の一つだろう。当然、魏呉両水軍の決戦場になるべき土地のはずだが、曹操はいないのだろうか? そう疑問に思い、黄忠に尋ねる。
「いえ、曹操はいないようです。既に下流に向かい、呉の支配水域に侵攻しているようですね」
 黄忠の答えに、一刀は首を傾げた。
「赤壁を決戦場にしないつもりなのか? わからんな……」
「私も疑問に思います。赤壁ならば曹操の大艦隊を食い止める絶好の地と思いましたが」
 黄忠も不思議なようだが、この時点ではまだ諸葛亮からの報知は届いていないため、周瑜が赤壁決戦策を放棄した、というより最初から考えに入れていないことは知る由もなかった。
「だけど、朱里はこうした局面も考えに入れて策を置いていったんだろう?」
 一刀が聞くと、黄忠は頷いた。
「ええ。敵は必ず赤壁の地を押さえるはずだから、それを引きずり出して野戦に持ち込む事を推奨していますね」
 黄忠は自らも策を考えるだけでなく、呉へ向かう前に諸葛亮が考えていった数々の策を預かっていた。連合軍が不成立に終わり、天軍単独で交戦する可能性。連合軍成立の場合の策としても、赤壁を含め、数箇所を決戦の候補地と定め、それぞれ天軍が取るべき最良の戦策を細かに記している。それだけの策を僅かな日時で立案した辺りは流石だった。
 その中に、曹操軍が赤壁を突破し、天軍に対する抑えを置いて主力を東進させた場合の策もあった。現状はそれに近い。
「ともかく、もう少し進んで、敵情を完全に掴みましょう。朱里の策を実現するにもそれが必要です」
 それまで主と黄忠の会話を聞いていた関羽が言った。確かに、今はまだ情報が不十分だ。一刀は頷いた。
「そうだな。早く敵を突破して、呉に向かわないと。俺たちが勝っても、桃香――劉備さんや孫権さんが負けたらどうにもならないし、苦戦してたら、俺たちがそれを助ける決め手になるかもしれないしな」
「御意」
 関羽は頷きながら、主の口から桃香の名が出た事に、軽い胸の痛みを覚える。離れて違う国を統治し、いずれ敵になるかもしれない相手なのに、主から信頼を寄せられている事への、抑え切れない嫉妬と共に。
 その痛みが彼女に何をもたらすのか。今それを知るものは誰もいない。
 
 
 夜――僅かに揺れる魏軍旗艦の船尾楼。その一室で、曹操は黄蓋を抱いていた。黄蓋はさっきまで着ていた服を床代わりにして、ぐったりと横たわっている。その衣は、後宮の女たちが着る絹の薄衣だった。曹操が宣言したとおり、黄蓋は軍に席を与えられず、実質的に後宮の一員としてのみ扱われ、こうして毎晩曹操に奉仕させられていた。
「…………」
 黄蓋の顔を照らすように窓からの月明かりが差し込み、その目が快楽の名残で焦点を失っている事を曹操に教えていた。
「ふふ……かわいいわよ、延珠」
 囁きながら、曹操は黄蓋の耳たぶを唇でつまんだ。その度に、脱力しきった身体がぴくぴくと震えるのが、曹操には面白くてたまらない。
「あなた、本当に敏感なのね……」
 曹操は知らない事だが、黄蓋は痛がりで苦痛に耐えられない体質だ。それは、彼女の神経が全てにおいて敏感であることの、一つの表れだった。快楽に対してもそれは例外ではない。ここまで曹操の愛撫に敏感に応える"玩具"は今までいなかっただけに、曹操は黄蓋を後宮に入れたことに大いに満足していた。
「延珠……教えてくれるかしら? 周瑜の真の狙いを?」
 既に相手の理性が飛んでしまっている事を確信し、曹操は甘い声で囁く。素直に答えれば、もっと気持ちよくしてあげる。そう言外に意味を含ませて。
「赤……壁……」
 黄蓋の唇がかすかに動き、その単語を口にする。
「そう……それは聞いたわ。他にはないの?」
 曹操が言いながら、黄蓋の白く滑らかなお腹に指を這わせ、時々へそを刺激する。
「……ありません……」
 黄蓋が答える。このやり取りは、もう十日も行われていた。
「そう。ねぇ、延珠……あなたは、私を裏切らないわよね?」
 曹操はもう一つ確認した。仮に黄蓋が周瑜の策を知らなくとも、獅子身中の虫として動くことはあるかもしれない。だが、黄蓋はやはり首を軽く横に振る。
「わたしは……あなた様を裏切りません。決して……だから……」
「だから?」
 愛撫の手を止めて曹操が聞くと、黄蓋は答えた。
「だから、もっと気持ち良い事してください……! もう我慢できないんです……!!」
 快楽を懇願する彼女の目には、もはや武官としての誇りはなく、完全に心が折れていた。
「いいわよ、素直な子にはご褒美を上げなくてはね」
 曹操の手が、それまでとは全く違う、早い律動を刻み始める。それに応えるように、黄蓋の嬌声が艦尾楼から漏れていった。それを楽しみつつ、曹操の覇王としての頭脳は、違う事を考えていた。
(延珠は赤壁が決戦場だと言う。それが嘘という事はもはやありえない。つまり、周瑜に既に策はない)
 十日もかけて、ようやく曹操はその事を確信していた。ならば、もう彼女を阻む者は何もない。
(呉も……それに歓も仲も。みんな堕としてあげる。私のものにしてあげる。そう、この子のようにね)
 黄蓋が堕ちるたびに、勝利への確信を深めながら、曹操率いる史上最大の艦隊は長江を進んでいった。


―あとがき―
延珠が酷い目に合わされていますが、だいたい華琳のせいです。
次回あたりから長江決戦の話を書いて行きます。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第二十三話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:2fde07cc
Date: 2013/02/26 23:01
 成都を発ってから七日。荊州南部の長江沿岸をひたすら東進していた天軍の足が止まったのは、長江の流れにその雄大な山容を写す、赤い山が視界に現れたときだった。
「あれが赤壁山か……」
 一刀はつぶやくように言う。その山麓において、長江の流れは大きく狭まり、激流が川岸を削って断崖を為している。そう、ついに天軍は赤壁に到達したのだった。だが、足を止めたのは一刀の感慨でもなければ、風光明媚なその光景でもない。
「伝令! 敵、魏軍は総数十万。赤壁の隘路入り口に陣を敷いてわが軍を待ち受けております!」
 物見の報告が伝わってきた。関羽がそれに問いを放つ。
「敵将は何者か?」
「は。惇の一字……盲夏候に間違いございません!」
 これまでも、赤壁に夏候惇が待ち構えていると言う情報は幾つかのルートで入っていたが、それが直接裏付けられた。長阪で戦った関羽が気を昂ぶらせる。
「そうか……今度こそ決着を付けるぞ、夏候惇」
 一方、伝令にご苦労様、と言って労った一刀は、冷静な口調で関羽に言った。
「とは言え、これは見た目以上に厄介だな」
 魏軍は赤壁隘路の入り口、辛うじて野戦の可能な幅百里ほどの平地を選んで布陣していた。だが、陣地の前には馬防柵や逆茂木を配置した上に縦横に空堀が掘ってあり、堅固な野戦陣地を形成している。つまり、野戦と言うよりは城攻めに近い覚悟を強いられる状況だ。
 そのうえ、数は二万ほど魏軍が上回っている。守りを固めた野戦陣地への攻勢となれば、味方に数の優位が欲しいところなのに、状況は逆だ。苦戦難戦は必至の情勢だった。
「どうするんだ、ご主人様?」
 馬超の問いに、一刀は視線を黄忠に向ける。彼女はうなずいて、当面の戦策を示した。
「まずは軽く一当たりして、敵陣の備えを確認しましょう。翠ちゃん、お願いね?」
「お、あたしか。よし、頼まれた」
 馬超が頷く。人選に関羽と張飛がやや不満そうな表情を見せるが、一刀はさすが紫苑だ、と黄忠の人選を内心で褒めた。
 敵陣を調べるための軽い攻勢なのだから、張飛のような猪突型の猛将は不向き。本来は関羽が適任なのだろうが、彼女も夏候惇への対抗心から、引き際を誤る可能性がある。呂布は切り札として温存しておきたい。
 となると、消去法で馬超ということになる。彼女も本来は騎兵らしく攻勢を得意とする猛将型だが、故郷を滅ぼされた曹操との戦いや、その後の放浪生活の中で成長したのか、進退双方に長けた柔軟な戦い方ができるようになった。こうした器用さが要求される戦いでは一番信用できる。
「それじゃ、一万ほど連れて行くよ」
 馬超はそう言うと、近くにいた適当な下級武官たちに声をかけ、騎歩弓の均衡をとった臨時の戦闘部隊を編成していく。
「なかなか兵理にかなった編成を取りますね」
 黄忠が感心すると、関羽が進言した。
「我々も前進して、翠が包囲されないように敵を牽制すべきですね」
 一刀は頷くと、黄忠と関羽に命じた。
「そうだな。牽制については二人に頼むよ」
「御意です」
 二人が頷き、それぞれの部隊にとって返していく。やがて、天軍のおよそ半分ほどが敵陣に向けて前進を開始し、その中から馬超の一万が特に進んで、陣の末端にある柵に取り付き始めた。
 
 恋姫無双外史・桃香伝
 
 第二十三話 赤壁三戦・その1 赤壁隘路に天魏相対し、一刀は未来の戦いを呼び寄せる事
 
 
 夕刻。篝火の用意される中、馬超が戻ってきた。右手に下げた銀閃の刃先には血曇が見られず、彼女が十分自重しつつ戦った事をうかがわせた。
「どうだった? 翠ちゃん」
 尋ねる黄忠に、馬超が頭の中でまとめつつ、報告を始める。
「うん……かなり厄介だな。最初の柵がほぼ相手の弓兵の射程距離内なんだ。あれを倒そうとすると、雨のように矢を浴びる羽目になる。突破できないことは無いと思うけど、相当な被害が出そうだ」
 そう言うと、馬超は槍先で地面を引っかいて簡単な図面を書き始める。○++○++○……と言う記号を並べる。
「この○は空堀か。ここは超えられないか?」
 関羽が尋ねる。ちなみに+が柵である。
「腕利きの騎兵なら馬で飛び越えられるかもな。降り立った瞬間に矢を食らってハリネズミになっちまうだろうけど……歩兵は無理だ。並の人間の背丈の倍はありそうな深さだったし」
「埋めるのはダメなのか?」
 馬超の答えに、張飛が尋ねる。馬超はこれにも首を振った。
「埋める作業も矢を食らいながらになるからなぁ……まだ柵を倒すほうが簡単だろうけど、それが狙いだよな」
「敢えて攻めやすそうに見えるところを作っておいて、そこを殺し間にするって事か……」
 一刀が唸る。なんとも攻めにくい陣を作ったものだ。しかも、これは末端に過ぎないのだ。実際の陣は馬超の記号を使えばこう表される。
○++○++○……
++○++○+……
+○++○++……

 空堀と柵が互い違いになるように並べられ、敵の突進力を削ぐ構造なのである。時間をかければ、少しずつこうした構造物を破壊していく事も可能だろうが、今の天軍に無いものは、その時間だった。
「恋、何か意見は無いか?」
 一刀は今まで発言の無い呂布に話を振って見た。体系だった学問としての兵法は修めていない呂布だが、その武人としての研ぎ澄まされた本能から敵陣の弱点を見抜く眼力ならば期待できると思ったのだ。呂布はじっと馬超の図面を見つめ、やがて二箇所に印を付けた。
「ここと……ここ」
 それは、陣の端……山と長江との間の僅かな隙間だった。そこは地形的な問題もあってか、柵も空堀も構築されていない。
「それは流石に難しいわね」
 しかし、黄忠が呂布の指摘を難しいと判断する。確かにそこは陣を破壊する手間は不要だが、その代わり敵の大兵力が待ち構えている。それに、陣を構築できない地形は兵にとって進退しにくい地形でもある。川岸は地盤が軟弱ですばやい動きができないし、山の斜面も然りだ。
「夏候惇は攻めの猛将だと思ってたけど、こういう戦い方もできるんだな。甘く見てたよ」
 一刀が言う。すると、関羽が首を横に振った。
「いえ、奴も我々のように軍師の助言を得ているのでしょう」
 その言葉に、一刀は重要な事を思い出して黄忠の方を見る。
「紫苑、こういう状況を想定した朱里の策はあるのか?」
 その言葉に、全員の視線が黄忠に向けられる。
「ええ……ただ」
 策がある事を肯定しつつも、何故か口ごもる黄忠。一刀は首を傾げつつ聞いた。
「ただ? 何かまずい事でも?」
 黄忠は弓で川面を指差した。
「朱里ちゃんは小船か、筏を使って川から少数精鋭で本陣に奇襲をかける事を想定していました」
「ああ、なるほど……それは難しいな」
 関羽は黄忠の危惧を理解して頷いた。諸葛亮の提案は戦術的には頷けるものだ。だが、ある理由からそれは難しくなっていた。問題は本陣の位置にある。
 魏軍は八万と言う大軍が赤壁隘路を背にして布陣しているため、陣地全体が道に沿うように長く伸び、本陣は今日の主戦場となった柵の位置から十里近く後方にある。その位置では川岸は急斜面となり、また川幅も狭くなっているため流れも速い。奇襲を成立させるには必然的に夜戦が求められるが、夜間にそんな位置へ船を進めるのは自殺行為だろう。
 魏の大軍と戦場の位置が、諸葛亮の策を無力化していたのだ。だが、これは仕方がないとも言える。一刀は三国志演義と言う物語を知っているから、諸葛亮を余人の追随を許さない神算鬼謀の主と言うイメージで見るし、実際この世界の諸葛亮――朱里はそれを裏切らない能力の持ち主である。
 だが、魏の将もそれは同じだ。演義という、蜀の将帥たちに無双をさせるために史実と異なる世界を描いた物語とは違い、彼らはやられ役などではなく、一刀に仕える五人の名将たちに勝るとも劣らぬ、綺羅星の如き人材なのである。今回は、たまたまこの陣を設計したであろう魏の軍師、荀彧の智謀が諸葛亮のそれを上回った。ただそれだけだ。
 それだけの事で、今まさに一刀たちは窮地に立たされているわけだが。
「だけど、奇襲をかけるというアイデアは間違っちゃいないはずだ。ここに今いる俺たちで、アレンジを加えるしかないな」
 一刀が言うと、仲間たちがきょとんとした表情で彼の顔を見ていた。
「ん? どうした、みんな」
 一刀が聞くと、代表して馬超が聞いた。
「いや、その……"あいであ"とか"あれんじ"ってのはどういう意味?」
「あ、そうか……悪い。そうだな。アイデアは発想という意味で、アレンジは……工夫する、かな」
 一刀が答えると、張飛が苦笑いを浮かべた。
「お兄ちゃんは良くこうやって天の国の言葉を会話に混ぜるのだ。意味がわからなくて困るのだ」
 付き合いの長い関羽も頷く。一刀はもう一度謝って、気をつけなきゃな、と考える。いわゆるカタカナ言葉や、日本語にとっての外来単語は、この世界では通用しないのだが、時々その事を忘れてしまう。
(似たような物はあるのに、変な話だよな)
 一刀は思った。例えば、皆の服装がそうだ。一刀の世界の中国っぽい装飾や意匠もあるとは言え、彼女たちの服は日本語でシャツとかブラウス、スカートやスパッツと言えるものばかりで、少なくとも彼の知る古代中国の服装とはかけ離れている。
 しかし、シャツ、スカートと言っても通用しなくて、それはやはり旗抱とか、筒袴と呼ばないとわかってもらえないのである。
 この世界で生きている以上、慣れなくてはならないのだが……と思ったところで、一刀は気づいた。
(いや……元の世界でも、今のこの世界に通用するものはあったじゃないか)
 例えば、彼が太守となってから布いた政策がそうだ。特権的な組合を廃し、市場を自由化する。あるいは、郷挙里選に囚われない柔軟な人材の登用。まだ学生の身で本質的なものを学んだとは言えないにしても、彼が身につけた元の世界の知識にもこの世界に通用し効果を上げたものは確かにあった。
(今も……何かあるんじゃないか? この状況に通じる何かが)
 一刀はそう考えながら、目の前の光景と元の世界で得た知識をすり合わせていく。そして、ある一つの知識が彼の脳裏に浮かび上がってきた。
(いや、あれは史実とは違うんだっけか……でも、今思いつくことはこれくらいだな)
 一刀は一瞬悩んだが、まずは仲間たちにその思い付きについて尋ねてみる。
「……というわけなんだが、やれるか? 翠」
 一刀の問いに、馬超は頭をかきながら答えた。
「そりゃあ難しいなぁ。いや、あたしは問題なくできるけど、あたしについてこれる奴がどれくらいいるか……全軍で百人いるかいないか、ってとこだぞ」
 自信なさげな馬超の答えだったが、一刀の顔が明るくなる。
「でも、できる奴はいるんだよな? よし、十分だ。なら……恋も翠についてやってくれ」
 話を振られた呂布が無言で頷くと、馬超の顔も明るくなった。
「そっか、恋が来てくれるんなら千騎万騎で攻めるのと同じだな。頼りにさせてもらうぜ」
 馬超がいいながら手を差し出すと、呂布はやはり無言でその手をとりながら首を縦に振る。
「では、我々の役割は?」
 関羽の問いに、一刀は力強い表情で答えた。
「作戦が決まるまでは、できるだけ相手の注意をひきつけなきゃいけない。明日は愛紗と鈴々も派手に攻めてくれ。ただ、見た目だけな。相手が混乱したら本気を出すんだ」
「承知しました」
「応なのだ!」
 役目が決まった関羽、張飛が笑顔で拝命する。
「紫苑は、俺のそばにいてくれ。総攻撃をかけるタイミング……じゃない、機会を見切ってほしいんだ」
「御意のままに」
 黄忠が穏やかな笑みと共に頷く。
「よし……早速かかってくれ。決戦は明日だ。明日でこの敵陣を抜く」
 一刀が決意の言葉と共に軍議を締めくくった。突破すると決めた敵陣を見れば、背後の西方から照りつける夕日が山々を赤く染め、地名に相応しい赤壁と呼ぶ他ない光景を作り出している。
(明日は、これが兵士たちの血や炎で赤く染まる事になる……思えば、とんでもない世界に来てしまったな)
 戦争など遠い世界の出来事でしかなかった、平和な元の世界の日常。そこで生まれ育った一刀が、いまや彼我あわせて二十万近い兵士たちの生死を握る存在となりおおせた。彼自身、多くの死を作り出してきた。自らの手で敵兵を斬ったこともある。そして、それを心を平静に保ったまま見つめる事さえできるようになった。
 そんな自分は、数年前の自分から見れば、化け物にも近いのかもしれない。もう元の平凡な学生には戻れないのかもしれない。だが……
(だからこそ……この戦いを終わらせ、この国に平和をもたらさなきゃならないんだ)
 それを一緒に成し遂げる多くの仲間が、今ここにはいる。そして、遠いこの空の向こうにも。
(桃香さん……この戦いが終わったら、また君と話がしたい)
 おそらく自分と同じように苦悩し、それでも前に進んでいるはずの遠い仲間を想いながら、一刀は馬首を返した。
 
 
 そこから少し離れた、魏軍本陣。
「まずは一日無事に済みましたな。この分なら、彼奴らを永遠にでも足止めできるでしょう」
 参謀役の下級武官の言葉に、夏候惇は厳しい表情を浮かべた。
「侮るな。敵も愚か者ではない。何かしらの策は持っているはず。決して油断してはならぬ」
 そう叱責すると、武官は申し訳なさそうに頭を下げた。しかし、その反応は夏候惇の心中に、微かな苛立ちの波を走らせる。
(未だ、華琳様の覇業ならず……それなのに、既にそれが成っていると思う者たちのなんと多いことよ……)
 彼女の主、曹操は確かに今最も天下人に近い立場にあり、その覇業を着々と完成に近づけつつある。そして、それが必ずや成就すると夏候惇は信じている。だが、それは彼女の剣をはじめ、多くの武将たちの弛まぬ努力と戦いによって築かれてきたものだ。気に食わない相手ではあるが、荀彧の智謀もそれに貢献してきたことは、この陣一つをとっても認めざるを得ない。
 そして、何よりも曹操本人の偉大な知性と、万人を従える覇気。そして野望に向かって邁進し続ける鋼鉄の如き意志こそが、ここまでの覇権を打ちたてる原動力だった。にもかかわらず、今やそれを忘れて自分たちが覇者たるは当然、勝利するのも当然、と言う傲慢な意識を持つようになった者たちが増えている。
(こうした者たちが、我らの覇道の綻びにならねば良いのだが……いや、そもそもその綻びを作らぬ事、仮に生じても繕う事。それが私の役目だ……)
 夏侯惇はそう自分に言い聞かせる。最愛の主に天下を捧げるその日まで、自分が休む事はない。それが"魏武の大剣"と称される己に課せられた義務なのだ、と。
 両軍の焚く篝火の明かりは一晩中戦場を照らし続け、赤壁山の山腹までもうっすらと浮かび上がらせるほどだった。そして、運命の日、決戦の日の太陽が魏軍の背後から昇った。天軍がその太陽への道を切り開くか、それとも魏軍が己の背負う正義を太陽のように輝かせるか。この時点では誰もその結末を知る者はなかった。
 
 
「敵、陣全面に進撃してきます!」
 武官の報告に、夏侯惇は馬上でやや腰を浮かせて天軍の方を見た。進撃してくる敵の牙門旗は「羽」「飛」の二つ。天の宿将二人の出陣に、夏侯惇は敵の並々ならぬ意気込みを見て取った。
「関羽、張飛か……全軍、気合を入れてかかれ! 敵は今日を決戦と心得ているぞ!」
 そう叫びながら七星餓狼を抜き放ち、振り下ろすように天軍の戦列を指す。主将の緊張を感じ取り、魏軍の戦列にも戦意が充溢する。この戦意を敵に叩き付けたい。突撃し、敵の戦列を蹂躙したい。そういう猛将らしい衝動が夏侯惇の内心に湧き起こるが、理性を働かせてそれを押さえ込む。
「弓隊、矢を天を覆って降り注がせよ! 槍隊、柵の向こうの敵を突け!」
 彼女の命令に応じ、柵から距離をとった位置に陣取る弓兵がいっせいに矢を打ち上げた。黒い霞にも似た矢の雨が、弧を描いて天軍の上から落ちかかる。
「護兵、盾を掲げよ!」
 すかさず反応したのが関羽だった。柵に近い位置を進撃する天軍の兵士……本来は槍隊のいる位置に配備された兵士たちは、両手に一つずつ持った盾を天に向けて掲げた。この戦いのために、昨日特別に編成した防御最優先の部隊、護兵である。降り注ぐ矢が彼らの掲げた盾に弾かれ、あるいは辛うじて貫通するも、その下にいる兵士たちを傷つけずに止められる。
 その護兵たちの間をかいくぐり、大斧を持った工兵が柵に取り付き、得物をふるってそれを壊し始める。あるいは、土嚢を担いだ兵が空堀にそれを投げ込む。
 もちろん、魏軍はその動きを見逃しはしない。盾の向こう側に駆け寄ってきた槍兵が、工兵めがけて槍を突きこんだ。少なからぬ工兵がそれによって倒されるが、逆に大斧で相手の頭を叩き割る工兵もいた。
(ご主人様にはお叱りを受けるかも知れん。しかし、本気の攻めを見せなくては、夏侯惇は釣れまい。隻眼と言えど、奴が戦場を見渡す目は広いのだから)
 関羽は内心でそう考える。彼女の役目は、あくまでも「決戦部隊」である馬超・呂布の攻撃から魏軍の目を逸らすための陽動。ここまで激しい攻勢を仕掛ける必要は、本来はない。だが、関羽はそれでは駄目だと考えていたのだった。
(私は嫉妬に目がくらみ、ご主人様を、その民を危地に陥れた。その償いをせねばならない。今の私には、自分の感情を最優先させる事は許されない)
 新野城失陥と、それに続く長阪の難戦。それは、小喬への嫉妬で己の目を曇らせ、敵の動きを見誤らせた自分の過ち。そう悟った関羽は、一時的に心を殺し、ひたすら一刀の目標を達成するための部品に徹しようとしていた。それは、一刀の嫌う考え方だろう。それでも、愛すべき主のためならば、敢えてそれを為すことに躊躇はない。
「天の軍神」関羽と、「魏武の大剣」夏侯惇。二人の名将は、期せずして決戦のこの時、己の役割を似たようなものとして意識していたのだ。
 鏡に映したような二人の勝敗を分けるものは、この時夏侯惇が孤独だったのに対し、関羽には仲間がいた事だろう。指揮を執りながらも、関羽は隣の戦域を仕切る張飛に目をむけ、思わず苦笑していた。やはり陽動役の義妹だが、そんな腹芸など苦手な性格のため、結果的に関羽に負けない激しい攻撃を加えている。これなら、十分夏候惇の目をひきつけられるだろう。
 いつしか、太陽が中天に差し掛かり始めたその時、戦いの趨勢は大きく動くことになった。
 
「愛紗と鈴々のやつ、張り切ってんな。あたしらに獲物を残さない気かよ」
 馬超がそう言って苦笑すると、隣で馬を並べる呂布が無表情のままにも同意の頷きを返す。この時、関羽と張飛は独力で第一列の柵と空堀の一部を突破していた。その箇所に魏軍が殺到し、突入してくる天軍を押し返そうと激戦を繰り広げている。夏侯惇の本陣を示す牙門旗も大きく前へ移動し、狙い通りにその意識を陣前面の攻防に集中させていることが理解できた。
「さて、高みの見物もこの辺りにして……行けるか? 恋、お前たち」
 馬超の問いに、やはり無表情で頷く呂布。一方、やや緊張が隠せないのが、馬超が鍛え上げた天軍騎兵の中でも、選りすぐりの精兵七十騎だった。彼らも自分の技量には自信と誇りを持っているが、何しろこれから彼らがやろうとしているのは、前例のない戦いだ。そう、文字通り彼らは高み――赤壁隘路を一望する、赤壁山中腹の急斜面の上にあった。
「なに、ご主人様の来た天の国では、今のあたしたちみたいな事をやって、敵の大軍を打ち破った名将がいると歴史に残ってるんだ。その真似をするだけさ。いくぜ、お前たち!」
 自分に言い聞かせるように叫び、馬超は愛馬を宙に躍らせる。無言で呂布が続き、そして意を決した七十騎がその後に続く。
 一刀が来た世界に伝わる「平家物語」の名シーン、一ノ谷合戦における源義経の「鵯越の逆落とし」。この三国時代から千年以上後代になる戦いで行われるはずの伝説の奇襲作戦が、今ここに先取りされようとしていた。

 一刀もうろ覚えだったように、史実の一ノ谷合戦においては、このような断崖を駆け下りる無謀な奇襲はなかったとされつつある。あくまでも義経は山中の間道から敵の戦列に切り込んだだけだ。もし、本当にここが断崖絶壁なら、いくら一刀でもそんな戦いはさせなかっただろう。
 だが、この赤壁隘路を扼する山の斜面は、大軍が進退できない程度には急ではあったが、完全な断崖絶壁ではなかった。転倒すれば滑落して死ぬか重傷を負うか、と言う程度には急だったが、バランスを保って駆け下りることは不可能ではなかった。そして、その事を馬超、呂布とその配下の精鋭七十騎は証明しつつあった。
 最初にそれに気づいたのは、兵糧置き場を守っていた兵士の一人だった。
「ん?」
 小さな物音に、その兵士は足元を見た。そこには斜面を落ちてきた小石が、道を横切るように転がっていた。
「まさか、落石か?」
 兵士は不安になり斜面を見上げた。もしこんな所で落石に会えば、石に押し潰されるか、跳ね飛ばされて川に落ちるか、いずれにせよ死は免れない。
「……!」
 だが、そこに見えたのは、落石などより遥かに恐るべき死の使いだった。登るのも一苦労な急斜面を、怒涛のように駆け下りてくる一団の騎兵。
「て、敵襲……!」
 警告の叫びを上げようとしたその不運な兵士は、言い終えるより早く突っ込んできた馬に跳ね飛ばされ、悲鳴の尾を引いて川に叩き落された。その衝撃でこちらは逆に制動をかけた騎手……馬超は、呆然としている周囲の魏兵に向けて高らかに宣言する。
「涼州の白銀姫、錦馬超推参! 天道に背く魏の兵ども、あたしの槍を引導代わりにするがいい!」
 言うや否や、手にした銀閃が縦横に閃き、兵糧を守っていた兵たちを瞬時に殲滅した。その時には、後続の呂布と七十騎も、馬超に習うように敵兵に突入し、制動をかけつつ川に叩き落す。それが間に合わずに諸共に川に落ちてしまった不運な兵や、斜面の途中で手綱捌きを誤って滑落死した者もいたが、それでも五十騎以上の騎兵が、前線から離れた陣営最奥部に出現した。
「よし、焼き払え!」
 馬超の命を受け、騎兵のうち手近にいた数人が、懐に忍ばせていた松明に点火すると、兵糧の山に投げ込んだ。気の利いた一人が油壺を見つけ、それを火の中に放り込む。たちまち兵糧置き場は猛火に包まれ始めた。
「よし、恋、ここからは頼りにさせてもらうぜ。敵の後備えを切り崩すぞ!」
「……任せて」
 馬超の言葉に呂布は頷くと、火事に気づいて駆け寄ってこようとした魏兵の中に突入した。その手に握られた方天画戟が一閃するや、魏兵たちは刈り取られる枯れ草のように吹き飛ばされ、川に叩き落され、あるいは山腹の岩場に叩きつけられて動かなくなる。
「相変わらずだなぁ……あのデタラメな強さ。まぁ、味方だと思えば心強いけど……って、あたしの見せ場も残しとけよな、恋!」
 馬超はそう言うと、呂布に続いて敵に突入する。その後に続く五十騎。魏軍の動揺は彼女たちの突撃と、兵糧が燃え落ちる火煙を見た兵士たちから、今まさに激闘の続く前線に向けて、急速に波及していった。

 
 後方に馬超と呂布が現れ、兵糧を焼き払うと共にこちらへ攻め上がっている、と言う報告を夏侯惇が受けたのは、それから間もなくの事だった。
「なんだと……そんな馬鹿な……」
 思わず呆然とする夏侯惇。信じがたい、信じたくない凶報だったが、それが嘘でない事は、陣の後方から上がる猛煙と、切れ切れに聞こえてくる兵たちの悲鳴が告げていた。
「しかし、目の前の敵軍はそれほど減っていない……馬超と呂布に従う兵はそう多くないはずだ。どうやって後ろに回りこんだかはわからないが、抑え切れない……のだろうな。呂布がいるのだからな」
 夏候惇は事態を整理しようとして、その結果この窮地を逃れるのは尋常の手段では無理だと、改めて気づいた。この期に及んでは、手は一つしかない。彼女は参謀に命じた。
「よし……貝を吹け。銅鑼を鳴らせ。総攻めだ!」
「本気で仰っているのですか!?」
 参謀が怯えた声を上げる。同様に、周囲の兵も浮き足立っている。それを引き締めるには、目標を与えるしかない。
「本気だ。既に兵糧は失われた。我らが生きるためには、敵の兵糧を奪うしかない。我らが生存は、前にしかないのだ!」
 そう答えると、夏候惇は剣で天軍を指し、大音声で叫んだ。
「怯むな、魏の勇者たちよ。我らに退却の二文字なし! 敵を打ち破り、この手で己の生を引き寄せるのだ。我に続けえっ!」
 そして、間髪いれず馬腹を蹴る。その声を聞き、姿を見た兵士たちも、ここに至っては彼女に続くのが最も生き延びる可能性が高い道であることを悟っていた。勇気を取り戻した参謀が槍を手に取って叫ぶ。
「何をしている! 夏候将軍に続け! 己の命を救うのは己の腕より他に無いぞ!」
 応! と言う怒涛のような叫びがこだまする。一喝で、夏候惇は崩壊寸前の士気を立て直したのだ。それは間違いなく、彼女が古今どこと比較しても恥じる事のない名将であることの証だった。

 だが、天軍の将たちも、それは同じだった。
「今です、ご主人様。総攻めの合図を」
 黄忠の助言を得て、一刀は手を挙げた。それを合図に、旗奉行が牙門旗を一際高く掲げ、旋回させる。同時に太鼓が力強く連打され、大地を揺るがす響きとなって全軍に伝わった。
「全軍、進めえっ!」
 一刀が叫ぶと同時に手を振り下ろすと、前線の関羽、張飛も朝からの激戦の疲れも忘れ、兵たちに新たな行動を命じた。
「よし、手筈どおりだ。全軍、所定の行動をとるぞ!」
「総員ーっ! 鈴々に続くのだーっ!」
 二人の叫びが、天地を覆うような彼我の鬨の声を貫いて聞こえてくると、黄忠も一刀に一礼した。
「では、後備の指揮を執ってまいります。捷報をお待ちください、ご主人様」
「わかった。任せるよ、紫苑」
 親衛隊に守られた本陣から黄忠が駆け出していく。今の一刀にできることは、勝利を祈ることだけだった。
 
 
 一方、天軍への突撃を開始した夏候惇だったが、すぐに事態の急変に気付いた。
「こ、これは……」
 天軍が、いまだ破壊されていない陣の第二線の馬防柵、逆茂木、空堀を前面に布陣している。
「奴らは、我々の作った陣で、我々を磨り潰す気か……こうなる事を読んでいたと言うのか!」
 自分の作ったものの堅固さは、自分たちが一番良く知っている。それでも、夏候惇には突撃を続けるしかなかった。だが、それは彼女の率いる軍に破局をもたらした。もともと、陣を守ることを前提にしていた魏軍に、「敵陣」を突破する用意などない。攻守所を変えて放たれる矢の豪雨と、柵の向こうから突き出される鉄壁の槍柵の前に、魏軍は屍を積み上げる一方だった。
 やがて、一度は回復した魏軍の士気は、その大殺戮を前についに崩壊する。一人が逃げ出すと、十人、百人がそれに続き、やがてこの時点でも八万近かった魏軍の兵士は、雪崩を打って逃走を始めた。それを見て、天軍は一斉に攻勢に出る。常に魏軍の先鋒として敵を蹂躙してきた「惇」の牙門旗が倒れ、逃げ惑う魏兵と、それを追う天兵に踏み躙られて行った。
 
 夕日が天軍の背後に沈みかける頃、一刀は追撃中止を命じた。夕日に照らされて血のような赤に染まった長江の水面に、逃げる途中隘路から転落した夥しい魏兵の屍が浮き沈みしているのが見える。もしかしたら、その赤は夕日の色ではないのかもしれないと一刀は思った。
「おめでとうございます、ご主人様。我が軍の大勝利です。お見事な策でした」
 将を代表して、黄忠が勝利の祝いを述べる。
「ありがとう。だけど、それを実行したのはみんなの力だよ。翠、恋、良くやってくれた。ありがとう」
 主君からの褒め言葉に、馬超と呂布が微かに顔を赤らめ、嬉しそうな笑顔を浮かべる。
「愛紗、鈴々も見事な戦いだったよ」
 もちろん、一刀は前線で完璧な陽動を演じ、反撃開始後は凄まじい追撃で魏軍を完膚なきまでに叩きのめした二人へのフォローも忘れない。にゃー、と嬉しそうな声をあげる張飛だったが、関羽はやや浮かない顔だった。
「どうした、愛紗」
 一刀が聞くと、関羽は顔を上げた。
「大勝利でしたが、残念ながら夏候惇を討ち取ることは出来ませんでした」
 ここで宿敵と決着を付ける。その決意の元に猛追を見せた関羽だったが、逃げ惑う敵兵の波に飲まれた夏候惇に追いつくことは出来なかったのだ。
「そうか……でも、こうなってはいくらなんでも軍を立て直すのは難しいだろう。夏候惇の脅威は去ったと見ていいさ」
 一刀はそう言って関羽の肩を叩き、明るい声で叫んだ。
「さあ、みんな、勝ち鬨だ!」
 その言葉に関羽も明るさを取り戻し、拳を振り上げて叫んだ。
「はい、ご主人様! 栄、栄、応っ!」
「栄、栄、応!」
 赤壁の峰々に、天軍の勝利の叫びがこだまする。後世「赤壁三戦」の名で呼ばれる連合軍と魏軍の三大決戦の一つが、ここに終わったのだ。
 
 そして、残る二戦が、遠い西方の地でまさにその火蓋を切って落とそうとしていた。


―あとがき―

ついに桃香の出番が完全にない話を作ってしまいました……
でも、次回は桃香主役の回です。彼女にとっての「赤壁」とは何なのか、お楽しみに。



[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第二十四話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:e1105ea2
Date: 2013/09/23 22:45
 長江北岸の仲領に明光と言う地域がある。准河の流れが潤す豊かな穀倉地帯で、秋になれば稲穂が黄金の海を為す。天の光が地上に降りてきたような、その美しい光景から付けられた名だ。
 しかし、今の時期は取り入れの季節を既に過ぎ、田に張られていた水も既に干上がって、大地は固く締まった土に覆われている。それをまさに煙のように蹴立てて進撃するのは、魏の対連合軍戦において陽動兼遊撃の役目を与えられている、張遼率いる五万の軍勢だった。
 騎兵戦を得意とする主将の性格を表すように、軍の半分以上、およそ三万が騎兵で占められ、残り二万の半分が弓兵と槍兵と言う編成だが、特異なのは弓兵の半ばが、騎兵でもあるということだ。この戦いの前に行われた魏の涼州平定戦において、魏に降伏・帰順した涼州騎兵のうち、馬上で弓を射ることの出来る技量を持った者たちを集めて作られた、騎射兵である。
 騎馬の速度を利用し、常に敵に対して優位な距離・地形を選んで射撃を行うことの出来る騎射兵は、神速の機動戦を旨とする張遼にとって、まさに望んでいた存在だった。彼女は彼らを優先的に指揮下に置く事を曹操に望み、許された。今では彼らをすっかり心服させる事に成功している。
「敵はまだ見えんのかいな」
 馬上で一人ごちる張遼。ここ明光は彼女が出撃してきた合肥と、これから対峙する敵――劉備率いる歓仲同盟軍の根拠地、准陰間の道程において、合肥から三分の二ほど進んだ地点だ。いい加減敵にぶつかってもおかしくない。しかし、敵軍を示す進撃の土煙らしきものは、未だ見えない。
(ええかげん出てこんと、准陰についてしまうで)
 張遼がそう思ったとき、前方から数騎の騎兵が駆けてくるのが見えた。斥候として進撃路前面に放っていた小部隊の一つだ。
「報告申し上げます! これより十里先にて歓仲同盟軍を発見いたしました!」
 張遼の元に駆け寄ってきたその騎兵たちは、馬を併走させながら報告する。敵を見つけたことは喜ばしい。しかし。
「十里先? そろそろ土煙が見えても良い距離やないの」
 訝る張遼に、斥候が報告を続ける。
「は。敵は停止しております。おそらく、小休止の途中ではないかと」
「そういう事かいな」
 張遼は頷いた。敵が止まっているのなら、土煙がたたないのも当然だ。そして、その頷きは獲物を見つけた肉食獣の笑みに取って代わる。
「のんびりした進軍やな。ウチの速さを舐められたら困るで」
 小休止中の敵軍を強襲できれば、数が互角でも打ち破るのはたやすかろう。敵もそろそろこちらの接近に気付くだろうが、この速さを持ってすれば、実質的な奇襲をかけるのは容易だ。その成功をさらに確実にするには。
「全軍、全速力! 敵は目の前やで!」
 張遼が神速をさらに超えた速度を要求する。彼女の軍はそれに応えられるように鍛え上げられていた。今なら、公孫賛や馬超の軍勢を凌駕するだけの実力がある。それを発揮すれば、華雄はもちろん、劉備や袁紹の首を取ることも容易い。
 張遼はそう確信していた。

 恋姫無双外史・桃香伝
 
 第二十四話 赤壁三戦・その2 桃香、赤壁を築いて神速に抗し、旧友たちは刃を交える事。
 
 
 騎兵にとって、十里と言う距離は至近距離である。僅かな時間でそれを走破した張遼の目に映ったのは、急いで陣形を整えようとしている同盟軍の姿だった。その整列していく速度に、張遼は敵もまた侮る事のできない精兵である事を見て取る。しかし。
「もう遅いわ!」
 張遼は叫んだ。敵が陣形を整えるより早く、彼女の率いる部隊はその隙間に飛び込み、敵勢を四分五裂に引き裂くことが出来るだろう。だが、次の瞬間、張遼の視界は深紅に染まった。
「な……!?」
 同時に押し寄せてきた熱気に、張遼はあわてて愛馬に制動をかけさせる。しかし、併走していた騎兵の何騎かはそれが間に合わず、突然出現した赤い壁に突入してしまう。聞くに堪えない絶叫と共に彼らはその姿を消し、肉の焼け焦げる臭いが辺りに立ち込めた。
「こ、これは……」
 さすがの張遼も、それを唖然とした表情で見つめる。突如現れた赤壁……それは、農繁期には水を湛えているであろう用水路に流し込んだ油に火をつけたものだった。冬も近いこの時期は既に水が抜かれてあるのだが、同盟軍はそれを利用したらしい。
(ハメられた……同盟軍は油断してたんやない。ウチらをここにおびき寄せたんや……)
 張遼は悟った。火勢からみて、ただ油を流しただけでなく、燃えやすくするための工夫などもしてあるのだろう。こんな周到な罠を、張遼隊の接近に気付いてからの短時間で用意できるはずがない。同盟軍は事前にここを決戦の場と心得、準備を進めていたのだ。遅まきながら、彼女は同盟軍の主将であろう劉備の経歴を思い出していた。守りの戦を得意とし、初陣では四倍の黄巾族を打ち破った実績を持つ、当代一流の軍師の一人でもある事を。
 それを裏付けるように、風を切る音が無数に明光の地に鳴り響き、空が暗くなる。同盟軍弓兵が射撃を開始したのだ。
「あかん! 全軍後退! すぐにこの場を離れるんや!」
 張遼は叫んだが、それが実行に移されるより早く、矢の雨が魏軍先陣に降り注いだ。張遼は得物を振るって矢を弾き飛ばしたが、周囲では多数の兵が矢を受けて次々に転倒した。慌てて後退する魏軍。だが、その頭上から正確に矢が降り注ぐ。
(なんでや。向こうも火の壁でウチらが見えんはずや)
 殿となって矢を跳ね除けながら後退する張遼だったが、その目があるものを捉える。それは、普通野戦の場には引き出されることのないものだった。
「雲悌車か! あれでウチらの動きを見張っとるんやな」
 雲悌車は攻城用の長い梯子に車輪を取り付け、移動を容易にした攻城兵器だ。今同盟軍が使用している雲悌車には、先頭に見張りの兵が乗り、手にした小旗を振っている。あれで魏軍の動きを知らせているのだろう。
「将軍、ここはもう少し退きましょう。あの火の壁を突破できない以上、矢の射程外に出なければ一方的に撃たれるだけです」
「そうやな」
 副官の言葉に頷く張遼。いずれ火は消えるだろう。攻勢を仕掛けるなら、それからでも遅くない。しかし。
(いや……待てよ。相手はあの劉玄徳。守りの戦にかけては天下一品の軍師や。その相手にこちらも守りに入るんは愚の骨頂や)
 張遼はそう思い直した。そもそもの問題として、敵がどれほど油を用意しているのか分からない。火が消えるのを待っていては何時まで待っても歓仲同盟軍の殲滅と言う目標を達成できない。
「やっぱり作戦変更や。どこか火のついてない場所を探すんや。そこから敵陣に突入する!」
 張遼は決断した。歓仲同盟軍はこちらと同じほぼ五万。それだけの軍勢が陣地を敷くにはそれなりの面積が必要で、外周の長さも相当なものになる。おそらく、十里以上は必要になるはずだ。万が一にも水路の火が陣地に燃え広がらないよう距離を取るなら、外周の長さもそれだけ増える。
 その全てに油を満たして火をつけるのは相当に困難な事業となるはずだ。それに、万が一に備えて必ず撤退用に火のつかない場所も用意してあるはず。そこを探して突入すれば良い。
「騎射兵、炎に沿って走りながら撃ちまくるんや! 敵の弓兵を牽制できれば良い! 騎兵主力はウチに続け!」
 張遼は駆け出した。さっそく敵弓兵の射撃が始まるが、それに対して騎射兵が馬を駆けさせながら応射する。相手は陣に篭っていて場所は明らかなのだから、炎で見えなくても問題ない。その反撃で、同盟軍の矢の勢いがやや弱まる。
 
 その間に、張遼は騎兵の先頭に立って、炎の壁と並行にひたすら馬を走らせる。時々飛来する矢が運の悪い騎兵を射落としていくが、張遼の速度と騎射兵の反撃が、歓仲同盟軍の弓兵から先ほどまでの勢いを奪っていた。そして。
「あれや! あそこに突っ込むで!」
 張遼の目がついに炎の壁の切れ目を捉える。そこはおそらく延焼を防ぐために切り払われてはいるが、ちょっとした森があった場所らしく、地面には切り株が多数あるのが見える。油を満たした用水路はその森の手前で終点に達しており、炎の壁もやや低くなっている。
「しかし、連中もそれは承知のようですな」
 副官が言った。彼の言うとおり、同盟軍はその森の跡を炎による防衛陣の弱点と見ていたようで、一万ほどの兵が陣取って守りを固めている。その牙門旗が示す敵将は……
「来やがったな、張遼! この文醜サマが相手だ!」
 牙門旗を改めるまでもなく、先陣に立つのは巨大な斬岩刀を振りかざす猪々子だった。列国の将たちの中でもアホの子ぶりで知られる相手だが、張遼は決して侮っていなかった。単純な武勇では自分を凌駕するかもしれない相手である。
「蹂躙するで!」
 張遼がさっと右手を上げると、それを合図に配下の騎兵たちは全力を超えた全速での突撃に移る。文醜隊の前方には、切り株が点在していて騎兵にとっての障害物になっているが、その程度で足を緩めるほど張遼が鍛えた騎兵たちは甘くはない。
「来るぞ。総員、盾構え! 槍柵組め!」
 猪々子が命じ、一万の兵は半円形の陣を組むと、一斉に盾を構え、その隙間から槍を突き出した。歩兵が騎兵を迎え撃つため、自らの肉体を持って築く城。対騎兵戦の王道を行く迎撃陣形だ。これに真っ向から激突すれば、騎兵たちは自らの勢いを持って槍に全身を貫かれて果てる事になる。しかし。
「跳べ!」
 張遼が叫んだ。次の瞬間、文醜隊の兵たちは驚くべき光景を目の当たりにする。
「き、騎兵が飛んだぁ!?」
 代表して猪々子が驚きの声を上げる。全速の勢いをそのままに、戦闘を行く騎兵たちが一斉に跳躍。人の背の倍近い高さで盾の城壁を越えていく。
「ヤバい! 総員、槍立てろ!」
 瞬時呆然とした猪々子が我に返って命じる。しかし、その命令はいささか遅きに失した。もう少し速ければ、走る速度の代わりに重力加速度が味方となって、張遼隊騎兵たちを串刺しに出来ていただろう。
 だが、現実は非情だった。馬体を合わせれば軽く人の五倍から十倍に達する重さを持つ騎兵が放物線の頂点から落下し、全身を武器として文醜隊の只中に突っ込む。
 たちまち、馬体に跳ね飛ばされ、僚友を巻き込んで地面に叩きつけられる者、馬蹄に踏みにじられ、あるいは頭部を砕かれて血反吐を吐いて動かなくなる兵が続出する。その衝撃から立ち直る暇を与えることなく、張遼は更に苛烈な命を下す。
「薙ぎ払え!」
 騎兵たちがその命に従い、馬上から槍や、あるいは剣をふるって文醜隊の兵士たちを斬り立てた。血飛沫と悲鳴が上がり、少し前まで張遼隊に負けない気概で戦場に立っていた彼らは、大混乱の中に逃げ惑い、為す術なく討ち取られていく。
 更に悪い事に、猪々子の命で槍を立ててしまったため、外周の槍柵が乱れ、後続の騎兵たちの突破を許してしまう。跳躍して陣内に乱入した騎兵は実は数百騎程度だったのだが、これによって陣の内外から挟撃する体制を作った張遼隊は、まるで麦を刈るように無造作に文醜隊の陣形を削り取って行った。
「さて、どう出る?」
 圧倒的優位の中、張遼は敵将文醜の牙門旗を見る。その下にいるはずの彼女はどう出るか。圧倒的劣勢を跳ね返す常道は、将自ら前に出て兵を鼓舞する事だが、その道を選ぶだろうか。
 それとも、と思った時、張遼は相手が違う道を選んだことを……いや、どの道も選べなかったことを知った。旗が揺れ動き、やがてゆっくりと倒れていくのが見え、それをきっかけに仲軍兵たちはより一層混乱と動揺を激しくして、右往左往しながらも張遼から遠ざかる方向へ去っていく。
「……誰か文醜を斃したんか?」
 驚きの表情で言う張遼。
「牙門旗が倒れたと言う事は、斃しはしないまでも敗走には追い込んだと言う事でしょうな」
 副官が答える。牙門旗はただの旗ではない。それを掲げる武将の権威、武威を象徴するものであり、名誉の証だ。それが翻り続ける限り、旗の主が完全に敗北したとは言えない。逆に言えば、それが倒れたと言う事は、敗北であり旗の主の名誉も武威も地に落ちたことを意味している。
 兵士たちもそれは理解しており、牙門旗が倒れたのを見て、完全に戦意を喪失したのだろう。張遼はあまりにあっけない幕切れに拍子抜けしつつも、手を振って逃げる兵士たちに追い討ちをかけている配下の騎兵たちを制止した。
「逃げる相手は追わんでええ! うちらの前にはまだ仰山敵がおるんやで。無駄な力を使うんやない!」
 その声が聞こえたのか、追撃を打ち切った騎兵たちが張遼を中心に集結してくる。さらに、遅れていた歩兵たちも追いついてきた。軍が揃ったところで、張遼はにやりと笑うと炎に囲まれた敵陣の中心部を指差す。
「よっしゃ、次行くで次!」
 そこには、新手の敵軍が進撃してきているのが見えた。その先頭に翻る牙門旗は昇竜の紋様。
「趙子龍か! 相手にとって不足なしやな」
 肉食獣の笑みを浮かべ、張遼が叫ぶ。彼女が知る限り、個人の武勇において同盟軍最強と言えるのは趙雲だ。将としての用兵においては、あるいは公孫賛や顔良が勝るかもしれないが、それでも第一級の実力の持ち主である。
 その声が聞こえたように、趙雲隊が加速して向かってくる。文醜隊を討ち破ったばかりで、まだ隊列の整わない張遼隊に再編の余裕を与えないつもりだろう。だが、張遼に焦りの色はない。
「繰り返してきた調練の成果、甘く見るもんやないで。全軍整列や!」
 彼女の命令が旗や鉦によって迅速に全軍に伝えられ、張遼隊は横一線に並んで進んでくる趙雲隊と向かい合う。先ほどの文醜隊と同じく、趙雲隊も騎兵ではなく歩兵を主力とした部隊だ。しかし、趙雲隊は守りを固めるでもなく、まるで騎兵に対して突撃勝負を挑むように加速して向かってくる。この上なく無謀な挑戦――だが、張遼は一瞬攻撃を躊躇った。その無謀さを、何らかの策かと感じたのである。
 その直感が真であり、また偽でもある事を悟ったのは、相手との距離が半里を切った瞬間だった。この距離では、騎兵は突撃において十分な衝撃力を与えるに足りる速度を得られない。趙雲は張遼の感覚を惑わす事により、騎兵の打撃力を戦わずして減少させたのである。無策の策とでも言うべき、芸術的な戦術機動だった。
 だが、そうと悟ってしまえば、張遼とて翻弄されるばかりの凡将ではない。即座に対応して行く。
「槍兵前へ! 敵の前進を食い止めるんや。騎兵下がれ!」
 槍兵で相手の前進を食い止め、その間に後方へ下げた騎兵が、主戦場を回りこんで横から敵を衝く。張遼はその方針を決めると、全軍に指示を出した。下がる騎兵の間を縫って、前進した槍兵がそれぞれの獲物を構える。
「構え! 打てい!」
 両軍の陣頭で、槍兵を指揮する中級指揮官たちが命じると、それぞれの兵士たちは槍を立て、相手の頭上から重力に任せて振り下ろす。突きを見舞うのが槍本来の使い方だが、兵士たちに支給される槍など、大して作りのいいものではなく、また彼らに相手の鎧を貫くほどの技量はない。集団戦では槍を特大の鈍器として相手を殴り倒すのが常道だった。
 たちまち、兜の上からでも脳を揺さぶる衝撃を叩きつけられ、昏倒する兵士が続出する。彼らはそのまま敵味方に踏みにじられ、全身を砕かれて大地に混ぜ込まれてしまう。そんな死に方をしたくなければ、無心に相手を殴りつけるしかない。
 槍兵同士の打ち合いを見つつ、張遼は後方に下がって騎兵の再編に専念しようとしたが、それを許さない事態が発生する。突然、張遼隊の槍兵の一角が爆発したのである。もちろん、火薬を使ったわけではない。ただ、そうとしか思えない勢いで数名の兵が吹き飛ばされたのである。そんな事ができる人間はそうはいない。
「趙子龍! 自ら陣頭に出て来たんか!」
 張遼が言うと、再び槍兵たちが爆発したように吹き飛ばされる。恐れ慄いたように下がる張遼隊の槍兵陣。戦場にぽっかり空いた、半円形の空間の中に、戦場ではこの上なく目立つ蝶の文様を描いた白衣の麗人が立っていた。彼女――星は挑発するように槍を旋回させ、この喧騒の中良く通る声で呼ばわった。
「我こそは常山の昇り竜、趙子龍なり! 雁門の張文遠……いや、合肥の張文遠よ、我が挑戦を受けるか!」
 雁門は張遼の故郷だ。そこで誰にも負けない武勇を養った彼女は、少女時代に「雁門の勇」と言う異名を与えられた事がある。それに対して、星は張遼がその勇を天下に示した最近の戦場である合肥の名を挙げ、張遼を讃えたのである。
 勇者は勇者を知る。この礼を尽くした挑戦を受けずにいられる武人はいない。そうでなくとも、このまま趙雲の跋扈を許せば、騎兵を持って後方に打ち込むまでの時間は与えられないだろう。張遼は全軍に戦闘停止の命を下すと、愛用の飛龍偃月刀を担いで星の前に進み出た。
「歓迎いたみいる。うちが張文遠や。同盟軍の武の筆頭やというあんたと干戈を交えるは武人の誉れ。その挑戦、確かに受けたで」
 猛虎餓狼も逃げ出しそうな殺気に満ちた笑みを浮かべる張遼に、それを柳に風と受け流して飄々と立つ星。
「有難い。猪々子――文醜将軍の分まで、私が貴方を楽しませると約束しよう……では、参るぞ」
 その星の言葉を引き金に、二人の武人は互いの獲物を構え、愛馬の馬腹を蹴る。いずれ劣らぬ名馬だけに疾風のごとくその脚は速く、たちまち両者の距離が詰まる。
「でいやあっ!」
「はあっ!!」
 気合と共に繰り出された両者の獲物がぶつかり合い、眩い火花が散った。衝撃は空気を震わせ、二人の足元の地面にも細波のような波紋を走らせる。
「大した力だ。腕が震える」
 星が微笑を浮かべて言うと、張遼も笑顔で答えた。
「そっちもやるやないか。穂先が霞んで見えよった」
 用兵としては騎兵による疾風怒濤の攻めを得意とする張遼だが、武術の傾向としてはやや力を重視しつつも、技と速度を両立させた均衡の取れた使い手と言える。一方の星は、速度と技を徹底的に重視している。どちらが総合的に優れているのかは、これからの打ち合いによって決まるはずだ。
 二人は再び愛馬に円を描かせて間合いを計ると、ほぼ同時にそれぞれの得物を繰り出した。そして、今度は言葉を交わさず互いに秘術を尽くしての打ち合いに移行する。
「負けんでくださいよ、張将軍!」
「やっちまえ、趙将軍!」
 互いの将兵も、相手と打ち合うのをやめて、それぞれの主将に声援を送る。その声に後押しされるようにして、二人は数十合の打ち合いを重ねて行った。
 力に勝る張遼が相手の防御を押し切って傷を与えたと思えば、速度に勝る星が防御をかいくぐって一撃を加える。しかし、どちらも完全に相手に致命的な打撃を与えるには至らない。二人の力量はまさに互角だった。しかし、打ち合いが百合に届こうかと言うところで、次第に天秤は傾き始めた。
「どうした、動きが鈍くなってんで!」
 張遼は挑発するように言いつつ、星に向けて飛龍偃月刀を繰り出す。その名の通り、月を描くような大振りの斬撃。星なら見逃すはずのない隙だが、彼女は突き返そうとせず、その一撃を防ぐにとどめる。
「何の、まだまだよ」
 星が応える。その顔には彼女らしい、不敵でその意図を悟らせない笑みが浮かんでいるが、僅かに額に汗が浮いていた。腕を見れば、微かに震えが走っているのも分かる。張遼との長い戦いが、力よりも速度と技を活かし、迅速に相手を葬る事に特化している星の体力を削り取ったのだ。
 一方、張遼はまだまだ余力を残していた。もうしばらくこの調子で戦えば、確実に相手を追い詰めて打ち倒す事ができるだろう。とは言え、いつまでもこの相手に関わって時間を浪費する気もなかった。敵はまだまだ存在し、その中には敵の首魁である劉備、袁紹の二人もいる。決して逃すことなく、捕縛して曹操の元に連れて行かねばならない相手だ。勝負を決めるべく、張遼は愛馬を半身だけ後ろに下がらせると共に飛龍偃月刀を振り上げると、満身の気合をこめて突撃をかけた。
「くっ!?」
 張遼の力に、さらに馬の体重と力、そして速度を乗せた必殺の一撃。星もこの一撃は避ける事も受ける事もできず、受け流そうとした龍牙がたわみ、手の中から弾き飛ばされる。得物を失った彼女に、張遼は返す一撃で必殺の斬撃を叩き込もうとした。
「これでしまいや、趙子龍! その首貰い受けたで!」
 飛龍偃月刀が彗星のように星の首に吸い込まれたと思ったその瞬間、張遼の視界から星の姿が掻き消えた。
「!?」
 驚愕に目を見開く張遼。この瞬間、彼女は星の姿を完全に見失っていた。もし星に反撃の手段があれば、張遼は確実にその命運を絶たれていただろう。
 だが、星に攻撃の手段は無く、結果として張遼は敵手がどこにいるのかを知ることが出来た。
「上!?」
 見上げる先で、白い旗抱の袖を蝶のごとく翻した星が、跳ね飛ばされた龍牙を掴む。張遼の一撃が届く直前に、高く跳躍した星は愛槍を取り戻し、そのまま身を翻して着地する。その飛翔の華麗さは、まさに華から華へ飛ぶ蝶の如き美しさであった。
「いや参った。流石は合肥の張文遠。見事な武の誉れよ。感服仕った。私の負けだ」
 呆気に取られている張遼に、さばさばとした表情で負けを認める星。
「そ、そうか……って、そんなんで納得できるかいな!」
 張遼は目を吊り上げた。彼女としては、全く勝った気がしない。むしろこれからだ。しかし、星は呼び寄せた愛馬にひらりとまたがると、張遼には向かわずに左手を振り上げた。
「武人としては私の負けだが、将としての勝負はこれからよ。全軍突撃!」
 その命を受けて、それまで主将同士の一騎打ちを観戦していた趙雲隊は不意の突撃を張遼隊に仕掛けた。雰囲気的に「主将同士の一騎打ちで勝敗が決まる」と思ってしまっていた張遼隊は対応が遅れ、一瞬で前衛の少なからぬ数が薙ぎ倒される。その光景に、張遼の堪忍袋の尾が切れた。
「おのれ、真っ当に戦うっちゅう事ができんのかい! もう容赦せえへんで!!」
 星のからかう様な言動に完全に激怒した張遼は、怒りのままに趙雲隊の中に踊りこみ、当たるを幸い敵兵を薙ぎ払った。その怒りが張遼隊の将兵にも伝染し、猛烈な反撃を加える。不意打ちで掴んだ一瞬の優位も掻き消え、趙雲隊は陽に当たった春の淡雪が溶けて消えるように消滅した。
 
「ちっ、趙雲は逃がしたか……まぁええわ。あんな卑怯モンの首を取ってもうちの穢れや」
 敵を追い払った張遼は、それでもまだ収まらない怒りの炎を敵本陣に向ける。そこに翻る「劉」「袁」の牙門旗。あれを押し倒し、蹂躙し、ふざけた戦をする二人の君主に虜囚の辱めを味あわせないことには、この怒りは収まりそうもない。
「さぁ、進むで! もう敵君主の陣はすぐそこや!」
 乱れた陣を立て直す暇も惜しみ、張遼は進撃を再開する。大地を揺るがすような怒涛の進撃に、敵本陣から矢が飛ぶが、もはやそれが張遼隊を怯ませる事はない。
「踏み潰せ!」
 陣幕を引き裂き、張遼が本陣に突入する。あまりの勢いに気圧されてか、立ち向かう気概も無くして逃げ惑う敵兵を馬蹄で蹴散らし、張遼は本陣を駆け抜ける。もはや手の届くような近さに劉備と袁紹の牙門旗が見え、張遼は得物を振るって最後の陣幕を切り裂いて突入した。
「魏の張遼、推参や! 偽王劉玄徳、袁本初、覚悟……せい?」
 高らかに上げた張遼の口上が、尻すぼみになって消える。そこへ追いついてきた副官をはじめとする幕僚たちも本陣に入り、驚きと困惑の声を上げた。
「い、いない……誰もいないだと!?」
「馬鹿な、ここは敵本陣ではないのか?」
 彼らが言うように、本陣と思っていた場所はもぬけの殻になっていた。劉備も袁紹もどこに消えたのか、その姿が見えない。そのことを認識した瞬間、張遼は悟った。
「あかん、全軍転進や! これは……」
 自分が今絶体絶命の危地にある事を認識し、脱出を命じるより早く、張遼隊が突入した本陣、その周囲に炎が上がった。張遼は気付かなかったが、そこにも浅く堀が作られており、流し込まれていた油に火が放たれたのである。その火が打ち捨てられた陣幕や柵に燃え移り、張遼隊に迫ってくる。
「しょ、消火だ! 火を消せ!」
 動転した幕僚の誰かが命じ、慌てて兵たちがまだ燃えていない陣幕や柵を外し、火の届かない場所へ持ち去る。しかし、その作業が終わるよりも早く、火の勢いが衰え始めた。どうやら仕込んであった油は大した量ではなかったらしく、燃え尽きるのも早かったのだ。
 だが、それは張遼隊に安堵をもたらすものではなかった。火と煙の消えた向こうに見えてきたのは……
「こ、これは……将軍、我らは囲まれております!」
 副官が叫ぶまでも無く、張遼はそれを認識していた。いつの間にか、彼らがいる「本陣」は同盟軍によってすっかり包囲されていたのである。撃破し、追い散らしたはずの趙雲隊や文醜隊もその包囲網に加わっている。
「誘い込まれたんや、うちらは……この場所に。絶対の死地に」
 張遼は言った。この場所は彼女たちが容易に突入できたように、地形的な障害がない。それを盾に抗戦する事が出来ないのだ。加えて、張遼隊主力は防衛戦闘向きではない騎兵。
 敵の策、その全貌が今こそ理解できた。同盟軍は炎の「赤壁」と言う奇策に拠って張遼隊の「速さ」を迎え撃とうとしていたのではない。そう見せかけて、張遼隊に苦手な「防衛戦」を強要する立場に追い込み、その持ち味を完全に殺す事が目的だったのだ。
「奇策に目を眩まされた……それを見抜けなかったんはうちの驕り。この張遼、最後の最後で抜かったわ……!」
 魏に属してからの彼女は連戦連勝だった。涼州平定戦では天下最優の涼州騎兵をことごとく撃破し、彼らを配下に組み込んだ。合肥では自らも奇策を用い、歴史的といっても良い圧倒的な勝利を収めた。それが知らず知らず自分のうちに敵に対する侮りを育てていた事に、張遼は今気付いた。
 そして、気づいた時は既にそれが致命傷となっていた。しかし。
「まだ終わりやない。全軍、突撃や! 敵の包囲を食い破るで!」
 張遼はまだ戦意を捨ててはいなかった。確かに今は絶体絶命の危地。だが、自分には、自分が育ててきたこの軍には、それすらも食い破り逆転勝利を掴む力がある。そう確信している。そして、それを実現するためには自分の判断が何より重要だ。張遼は敵陣を見渡し、弱点を探る。
(あれやな)
 張遼が目をつけた相手は袁紹の率いる部隊だった。劉備、趙雲、文醜といった名だたる名将・勇将に対し、袁紹は凡愚との評判しかない。それは同盟軍も意識しているのか、袁紹の部隊は数が多めに配置されて厚みのある陣を構成しているが、主将の質を補えるほどではない。
「狙うは袁紹! 続け!!」
 張遼は先頭に立って駆け出す。しかし。
(なんや、お前。何時もより足が遅いやんか! なんでや!!)
 突撃の行き足が上がらない。彼女の神速を支えてきた愛馬が、何故かこの時になって彼女を裏切った。彼女だけでなく、他の騎兵たちも動きが鈍い。全員の馬が何故か突撃をしり込みしている。
(しまった、この熱気か!)
 その理由を張遼は悟った。さっきまで火を吹き上げていた堀には、既に炎自体は消えたとは言え、依然として熱気が立ち込めている。手をかざせば火傷するほどのものだ。そんな所へ行きたがる馬がいるはずがない。
(神速封じ……ここまで徹底して……!)
 張遼が唸った時、敵陣のほうから誰かが近づいてくる事に、彼女は気付いた。熱気で揺らめく視界を通しているため、最初はそれが何者か気付かなかったが、やがて懐かしい姿がそこに現れた。華雄――美葉だった。下馬する事で使者としての立場を示しており、横に馬を引く従者らしき外套を被った人物を従えている。
「久しぶりだな、張遼」
「華雄か……ほんま、久しぶりやな」
 相手の挨拶に答える張遼。かつて二関の戦いで肩を並べて戦った僚友は、熱気の幕を通して敵同士として再会した。
「お前には、二つ詫びねばならんな」
 美葉の言葉に、張遼は首を傾げる。
「詫び?」
「汜水関の時、突出して守りを崩し、結果として敗北を招いた事だ。済まなかった」
 頭を下げる美葉に、張遼は苦笑を浮かべる。
「そんな事かいな。もう済んだ事や。今更蒸し返してもどうにもならへん」
 そんな事を根に持つような陰湿な心根は張遼にはない。軽く流して、先を促す。
「もう一つは何や?」
「降伏を勧告しなければならんことだな」
 美葉は答えた。張遼が沈黙しているので、そのまま先を続ける。
「我が主、劉玄徳様は無駄な犠牲をお望みではない。ここで降れば全員の生命を保証すると仰せだ」
「断れば?」
 張遼が短く質問すると、美葉は無駄な事を聞くな、と前置きして続ける。
「動けないお前たちが死に絶えるまで矢を撃ちこみ続ける事になるな。そんな最期を遂げることはお前も望むまい」
 もちろん、美葉もそんな事は望んでいない。敵同士になったとは言え、憎しみがあるわけではない。張遼がそんな無残な、武人の誉れのかけらもない死を迎えるなど、あってはならない事だ。
「せやな……うちはそんな死に方はごめんや」
 張遼が頷く。では降伏してくれるのか、と美葉が期待を持った瞬間、さっきまで熱気の向こうにいた張遼が突然美葉の目前に現れた。馬上から跳躍して熱気の幕を突破し、襲い掛かってきたのである。馬なら本能で恐れる熱気も、張遼なら突破できる。
「な……」
 驚愕しつつも、武人として培った技量と反射神経で、美葉は咄嗟に張遼の一撃を弾き返す。弾かれつつも着地した張遼は、得物をまっすぐ美葉に向けてきた。
「何のつもりだ、張遼!」
 叫ぶ美葉に、張遼はにやりと笑って答える。
「ここにあんたを釘付けにしてるうちは、向こうも攻めてこんやろ。あとは、熱気が冷めるまで時間を稼げばええ」
 美葉と戦いながら熱気が消えるのを待ち、その後で包囲網突破を図る。張遼はまだ勝負を捨ててはいなかった。それを阻めるのは美葉しかいない。彼女は従者を下がらせ、金剛爆斧をゆっくり構えた。
「そうか……その気概、流石張文遠だな。だが、そうはさせん」
 美葉から吹き付けてくる戦気に、張遼も心地よさを浮かべて飛龍偃月刀を構え直す。美葉ならば、星のように勝利のためなら道化を演じる事もないだろう。
「華雄……やる前に一つ言ってええか?」
「なんだ?」
 張遼の質問に先を促す美葉。すると、張遼は地を蹴ると同時に、続きの言葉を発した。
「前から、あんたとは一度本気で戦ってみたかったんや!」
「そうか、それは光栄だな。私も同じだ!」
 美葉は応じ、上空から猛速で降り注いできた斬撃を打ち払うと、反撃の一打を送り込む。受けた飛龍偃月刀から目を焼くほどの輝きを持った火花が散り、張遼に驚きと共に激しい手の痺れを与える。その衝撃は夏候惇の一撃をも凌駕するものだった。
「腕を上げたようやないか、華雄」
 不敵に笑ってみせる張遼に、美葉も笑顔で答える。
「お前もな。今の一撃を防がれるとは思わなかった」
 その会話を最後に、二人は打ち合いに移行する。張遼は飛龍偃月刀の穂先を手元に引き寄せ、小回りが利くように構えると猛然と斬り込んだ。
(華雄の金剛爆斧は大振りの攻撃のみ。なら、懐に飛び込んだほうが勝機がある!)
 空気そのものを引き裂くような華雄の苛烈な横薙ぎを身を屈めて回避すると、防具がなくがら空きの腹に刃を走らせる。咄嗟に後ろへ飛んで回避した美葉だが、僅かに刃のかすった右脇腹に血が滲んだ。
「む……」
 美葉が顔をしかめる。張遼は自分が優位に立った事を確信した。美葉の得物、金剛爆斧は振り回すのに全身の筋肉を駆使する重量物。特に腰の捻りは横薙ぎの攻撃を放つのに必須の要素だ。そこに傷を与えた以上、美葉の攻撃からは勢いが失われる。
「小癪な……!」
 美葉が振り切った金剛爆斧を返して斬りつけてくるが、予想通り最初の一撃に比べて速度がない。張遼は後ろに飛んでそれを回避すると、再び切り込んでいく。
「くっ……」
 美葉が苦しげな表情で金剛爆斧の柄を立て、飛龍偃月刀を受け止めるが、張遼は素早く刃を横にして突きに移行した。今度は美葉の左脇腹に一筋赤い線が走り、血飛沫が飛んだ。
(貰った!)
 さっきよりも深手を与えた感覚に、張遼は優位ではなく勝利をも確信した。だが、しかし。
(……笑い!?)
 追い込まれているはずの美葉の顔に浮かぶのは、痛みや不利のもたらす苦悶の表情ではなく、笑顔だった。
「勝利を確信した瞬間、調子に乗る。お前の悪癖だな、張遼!」
 次の瞬間、飛龍偃月刀の柄が半ばで粉砕され、強烈な一撃が張遼の腹に叩き込まれた。宙を飛びながら、その美葉の声が衝撃となって自分を吹き飛ばしたように張遼には思えた。もちろん、そうではない。奇妙にゆっくり見える視界の中、張遼は今の一撃が何だったのか悟っていた。
(わ、腕力だけでこの一発やて……?)
 そう、それは腰の捻りを使わず、純粋に腕力だけで繰り出された零距離からの一撃だった。張遼よりも更に素早い動きを身上とする星との稽古、そして長所を伸ばすべきという桃香の助言を元に、美葉が目指す境地。それは――
「技も素早さも捻じ伏せる、力こそ我が真髄なり……!」
 美葉が言うと同時に、張遼は背中から地面に叩きつけられた。
「が、はっ……!」
 肺の空気が衝撃で押し出され、呼吸できなくなった張遼は己の意思とは別に全身を痙攣させ、苦悶にのた打ち回った。目の前が暗くなり、背中と腹に走る激痛が火花となって飛び回る。
「しょ、将軍!」
「張将軍!」
 部下たちの悲痛な叫びさえも遠い。だが、それが辛うじて消えかかった張遼の意識を繋ぎとめてくれた。意思の力を総動員して暴れる身体を押さえ込み、呼吸を再開させる。
「はぁ、はぁ……」
 何とか身体の自由を取り戻し、ごろん、と大の字になる張遼。だが、そこが限界のようだった。身を起こし、戦いを続けるほどの力は残っていなかった。
「ふむ……気を失ってはいないか。流石だな」
 まだ霞む視界に映る、美葉の姿。は、と一息ついて張遼は言った。
「うちの負けや。さっさとトドメを刺しぃな」
 しかし、美葉は苦笑を浮かべると、動かない張遼の身体を担ぎ上げた。
「何のつもりや、華雄」
 問う張遼に美葉は答える。
「汜水関での借りを返しておこうと思ってな。殺しはせんよ。それに我が主がお前に会いたいと思し召しでな」
 そう言うと、美葉が歩いていったのは、さっきの従者のところだった。馬に乗せられるのかと思った張遼だったが、その従者が被っていた外套を取った瞬間、驚きに目を見張った。
 艶やかな赤い髪の下に、優しげな光を湛えた瞳。女性らしく完成された豊かな肢体。それは、張遼が聞いていたある人物そのものだった。
「劉玄徳と申します、張将軍。一刻も早く貴女にお会いしたくて、こうして着いてきてしまいました」
 微笑む桃香に、張遼は首に僅かに戻ってきた力を入れて天を仰いだ。
「は、はは……かなわんなぁ」
 その笑顔は、どこまでも勝負を捨てなかった張遼の戦意をも溶かしてしまっていた。
「参った。完全に参った。ええよ、あんたにだったら降伏してもええ」
 引き攣っている事を自覚できる笑顔で、張遼は答えた。その一言に戦場の名をも超える輝くような笑顔で頷く桃香。それが、赤壁三戦の二、明光の戦いを締めくくる光景となった。
 
 そして、舞台は三戦の最後、長江決戦へと移っていく。


―あとがき―

 またずいぶんと間が空いてしまいました。申し訳ありません。
 赤壁編もあと1回です。できれば今年中には投稿してしまいたいところです。




[9982] 恋姫無双外史・桃香伝 第二十五話
Name: 航海長◆ccf1ea4b ID:7c73a064
Date: 2014/01/05 22:49
 水上と陸上から完全に包囲された城市。やがて、その包囲陣の一角から煙が上がる。太守が開城に同意した事を示す合図だった。
「どうせ開城と決するなら、華琳様が着陣された時点で降ればよいものを。これだから愚図な男は嫌いだわ」
 荀彧が太守を罵倒する。曹操は苦笑を交えて軍師の太守……というより、途中から男全般に対する嫌悪と憎悪のぶちまけ大会に変わった発言を止めさせ、指示を出した。
「それより、兵糧と武器の搬出を急がせなさい。明日には出立するわよ」
「畏まりました」
 流石に荀彧も罵倒をやめて頷く。ちなみに、兵糧と武器を城市から運び出すのは、降った太守を全く信用していないためだ。
 ここ呉の地では、国主である孫家が一頭抜きん出た実力と権威を保持してはいるものの、その他の有力氏族に対して圧倒的優位にあるとは言えない。先代孫策はその天与の武威と魅力によって彼らを心服させ支配下に置いていたが、当代の孫権はそれほどの人望を持てず、対董卓大同盟戦の後には、各地で反乱を起こした有力土豪たちを討伐する事に追われている。
 この城市の太守はさっきまで一応は孫家に従う姿勢を見せていたわけだが、それが表向きのものに過ぎなかったことは、包囲されてから半日も経たずに降伏を「決断」した事でも明らかだ。だが、このように腰の定まらない者たちは、曹操が落ち目になれば即座に呉の「忠臣」に戻り、曹操に牙を剥くだろう。
 それをさせないために、曹操は彼らから兵糧と武器を取り上げたわけであるが、本来はいくら曹操の実力が懸絶しているとは言え、従わせるのが難儀な命令である。武力は彼ら土着の豪族たちの支配力の源だからだ。その命令を通させるのに重要な役割を果たした人物が、連絡艇で旗艦に戻ってきた。
「華琳様、降伏の使者と武器、兵糧の接収の見届け、無事に済みました」
 そう言って跪くのは、黄蓋である。彼女の実家、黄家は長年孫家に仕えてきた一方で、孫家に次ぐ権威を持つ江東の有力氏族でもある。その当主である延珠が曹操との仲介を務めてくれるとあっては、曹操への渡りを探している多くの日和見土豪たちにとって文字通り渡りに船なのである。
 保身を優先して行動するなら、既に黄蓋が呉を裏切り、母国においては無位無官の身になっていることなど問題ではない。むしろ「共犯者」としての共感すらあるほどだ。ここまで来る間、黄蓋の仲介によって開城した城市は、既に十を超えていた。
「ご苦労様。着替えて閨で待っていなさい。後で行くわ」
 曹操が言うと、黄蓋は顔を赤らめ、それを隠すように平伏すると、旗艦の望楼に消えていった。その服装は、今は武官のものに戻っている。得物の鉄鞭も接収した武具の中にあったから、今の彼女はその気になれば武官としての働きも出来る。
 だが、曹操にとってあくまで黄蓋は後宮の花の一つに過ぎない。今夜も交渉を成功させた「ご褒美」としてたっぷり愛してやるつもりだ。
「…………」
 そんな黄蓋を見送る荀彧の視線に嫉妬と殺意の熱が篭っているのを見て、曹操は苦笑と共に嗜める。
「いい加減にしなさい、桂花。明日は可愛がってあげるから」
 荀彧がぱあっと擬音の聞こえてきそうな勢いで笑顔を浮かべる。軍師の機嫌がようやく直ったと見て、曹操は下流の方向を向く。後数日で、艦隊は呉の根拠地、建業に到達する。その孫氏の都が燃え落ち、孫権やその一族に城下の盟を誓わせる事ができると、彼女は疑っていなかった。
 しかし、彼女が放った三本の矢。そのうちの二本が既に折れた事を、曹操はまだ知らない。
 
 恋姫無双外史・桃香伝
 
 第二十五話 赤壁三戦・その3 周瑜水上に赤壁を具現し、長江は紅に染まるの事
 
 
 翌日、全ての準備を終えた曹操の船団は錨を引き上げ、再び長江を下り始めた。しかし、一刻も経たないうちにその動きはいったん止まった。ここ数日途絶えていた孫呉水軍の襲撃が再開されたのだ。
 楼艦(艦上構造物を持つ大型艦)は出てこないが、快速船を持って襲来し、火矢を撃ち込んだり、船団内に切り込んでは櫂や舵を狙って破壊し、素早く引き揚げる。大した損害は出ないのだが、一度襲撃があると応戦した時間の倍は足止めを食らうため、それまで事態を楽観視していた曹操の表情にも、さすがに苛立ちが出てきた。
「周瑜め……こんな露骨な時間稼ぎをしてどうするつもりなのかしら」
 それは通算四度目の襲撃を撃退した後の事だった。独言の形をした主君の問いに、昨夜褥を共にした事で機嫌の良い荀彧が答える。
「おそらく、建業の防備を固めるまでの時間を稼いでいるのでしょう」
 荀彧の見るところ、艦隊戦での勝算が薄くなりつつある孫呉に取れる作戦は限られている。その中で最も確実性が高いのは、最大の城市であり最高の防御力を持つ建業を敢えて攻めさせ、機を見て遊撃兵力として温存していた水軍を繰り出して曹操を挟撃する事。所謂後詰決戦と呼ばれる形の戦いだ。
 後詰決戦は包囲側にとって最も基本的、かつ効果的な戦術であり、攻撃側にとってはこれを防ぐ事が重要課題となるが、曹操はさほどその可能性を重大視していなかった。
「そうでしょうね。でも、私たちはその気になれば陸上戦力のみでも建業を攻略できる。周瑜にはこれが悪あがきでしかない事を思い知らせてやるわ」
 長江南岸を進撃する、許緒率いる陸戦兵力の総数は十万。これに乗船歩兵・弓兵を降ろして合流させた場合、それだけで孫呉の全兵力に匹敵するほどの戦力となる。いや、合肥から今日までの戦闘において受けた被害を考えると、孫呉側の戦力は既に十二~三万程度となり、曹操率いる魏軍本隊の半分程度にまで戦力が目減りしている。
 ここまで広がった戦力差は、もはや小手先の戦術では補えないほどの圧倒的な差となって現れる。後世の英国において「ランチェスターの法則」なるものが考え出されるが、それは戦力は彼我の戦力の二乗に比例する、というもので、これに当てはめると兵力差が二倍の場合、実際の戦力差は四倍に広がる事になる。
 もちろん、この時代の曹操はランチェスターの法則等知らないが、豊富な実戦経験に照らして、実際の兵力差以上に戦闘の結果が一方的になる事は良く知っていた。
(まぁ、呂布のようにそれを覆しうる超常の存在もいるのだけど)
 自らの優勢を確信しつつも、曹操は考える。直接戦っていないとは言え、二関の戦いや長阪の戦いで彼女が見せた武威の凄まじさは良くわかっていた。
 だが、呉さえ降せば、あの北郷もこれ以上の抗戦を考えたりはしないだろう。そうなれば何処かの太守くらいの地位は与えてもいい。もちろん、関羽や呂布はこちらの配下として献上してもらうつもりだ。
 そして、自分と並ぶもう一人の英雄……劉備。公孫賛からの禅譲を受け、国主となったと聞いた時には「やはり」と思ったものだ。彼女がいつまでも器の劣る相手の下風に収まりつづける筈がない。
 だが、自分なら劉備を使いこなせるはずだ。それが叶う瞬間はもう指呼の間に迫っている。この国の全てを手中にするその瞬間が。
 曹操は自分の勝利を疑っていなかった。そして、それはこの覇王が初めて見せた小さな綻びであり、その中から既に幾つかのものが零れ落ちていた。
 
 
 その零れ落ちたもののひとつが、曹操の数百里後方。赤壁を突破した天軍本陣の場にあった。
「朱里、無事でよかった」
 笑顔でそれを出迎える北郷。そう、零れ落ちたものとは、諸葛亮だった。決戦を前に本陣との合流を目指した彼女は、建業と天軍の間に立ちはだかる魏軍の警備網を突破し、無事にこの日主の下へ帰還を果たしていたのだった。
「ええ。これで私もやっと肩の荷が降ります」
 軍師代行として策を預かっていた黄忠も微笑んだ。
「魏軍はちょっと気が緩んでいますね。おかげで何とかなりました」
 諸葛亮が言う。そこで北郷は気になっていたことを聞いた。
「しかし、良く周瑜が朱里の帰りを認めたな」
 彼の知る「三国志」の世界において、周瑜は諸葛亮の才知を危険視し、様々な手段で謀殺を試みている。結果的にそれらの策は全て諸葛亮に破られ、逆に周瑜の天命を縮める結果になったわけだが……
「いえ、周瑜さんは特に私の帰陣に異を唱えませんでした。むしろ、途中まで護衛をつけようとまで言って下さったくらいです。お断りしましたけど」
 諸葛亮がそう言って横を見る。そこに立っていたのは……
「まぁ、私がいるから護衛なんて不要よねぇん」
 桃色の腰巻一つの姿で身をくねらせる奇怪なマッチョマン。貂蝉だった。周瑜による諸葛亮暗殺を危惧した北郷が、迎え兼護衛として密かに彼女(?)を呉に派遣しておいたのである。
「……貂蝉を送ったのは正解だったな」
 北郷は言った。お人よしの北郷だが、流石に周瑜の申し出は護衛を装った刺客だとわかる。が、諸葛亮はそんな主の思いを察したのか、安心させるように言った。
「確かに周瑜さんは同盟国相手でも油断のできない方ですが、今は信頼しても良いと思います。曹操を討つのに私たちの力が必要な事は認めてくれているようですし」
 決戦を前に、いたずらに同盟軍の戦力を削ぐ様な事はしないはず。諸葛亮はそう考えていたのだった。
「そうか。でも、周瑜殿は魏の大軍をどう討つつもりなのだろうな」
 それまで黙って主と軍師の会話を聞いていた関羽が聞いた。それは北郷も気になっていたところである。
「そうだな……絶好の迎撃地点である赤壁を捨てて、そこで相手を迎え撃つのか……」
 独白にも似た主の問いに、しかし諸葛亮は首を横に降った。
「私にもわかりかねます。周瑜さんは情報漏洩を警戒してか、私たちには策を完全に明かそうとしませんでしたので。ただ……」
「ただ?」
 思わせぶりな軍師の言葉の間に、北郷が質問を重ねると、諸葛亮はちょっと自信なさげに答えた。
「周瑜さんは一回だけ策の一端を覗かせたことがあります。"全ては赤壁で決まる"と」
 赤壁、と言う言葉に北郷が反応する。やはりその言葉が全てのキーワードなのか。
「"赤壁"か……やはり火攻めなのかな」
 北郷が言うと、諸葛亮は首を横に振った。
「私もそれは考えましたが……この季節、呉では北西からの風が吹きます。呉軍が西進する魏軍に東から挑む位置にある以上、火攻めは使えません。自分たちに被害が及ぶ事になります」
 それを聞いて北郷は尋ねた。
「朱里、仙術を使って東南の風を吹かせたりはできる?」
 諸葛亮が祈りを捧げると、北西の風が一転して東南の風に変わる。三国志演義では有名な一節であるが、それを聞いた諸葛亮は一瞬ぽかんとした表情になってから答えた。
「いえいえ、そんなの無理ですよ。軍師たるもの、怪力乱神に頼るなんて邪道です」
「デスヨネー」
 北郷は諸葛亮の答えにうなずいた。もともと、演義ですら「実は諸葛亮は東南の風が吹く日がある事を知っていた」と言う合理的解釈がなされるシーンであるし、この諸葛亮が仙術の心得がないことくらいは北郷も承知だった。念のため確認しただけである。
「しかし、そうすると周瑜は何を持って"赤壁"なんて言ったんだろうなぁ」
 北郷にはわからなかった。
 
 
 北郷や諸葛亮にわからないものでも、当事者にならわかるかと言えば、そうでもないのが曹操軍の現状だった。度重なる小規模な襲撃に神経をややささくれ立たせながらも、曹操軍本隊はついに建業に迫りつつあった。
「間もなく夜明けです、華琳様」
 旗艦の望楼に上がってきた主に、荀彧が告げる。まだ夜明け前の長江の水面を渡ってくる風は、向きが北西と言う事もあって冷たい。しかし、艦隊には熱気が立ち込めつつあった。
「そう。いよいよね」
 曹操が答える。衝突回避のために船上で焚かれる篝火が照らす水面は墨のように黒いが、波もなく穏やかで決戦には差し支えなさそうだった。
 今彼女たちがいる場所は、計算上では建業から僅か十里ほど西に遡った辺りの長江中心部。河口部を除くと川幅が最も広く、艦隊決戦を行うのに十分な水面の広がりがあった。
「夜明け前が最も暗いと言うけど、予想以上の暗さね……建業は見えないかしら?」
 曹操が篝火の明かりを遮るように、目の周りを手で覆って東の沖合いを見る。この日は新月で、星明り以外に光源は存在しない。そのためか、闇の中微かに赤い、規則的に並んだ光がその視界に飛び込んできた。建業の城壁上に並べられた篝火だろう。
「思ったより暗いわね」
 曹操が言うと、荀彧が頷いた。
「捕虜から聞き取ったのですが、あまり明かりを増やしすぎると、その光が水面にちらついて逆に見張りに差し支えるのだそうです」
 曹操は頷いた。この分だと、おそらく向こうはこちらの船団の接近を察知しているだろう。
「まぁいいわ。夜戦を挑むつもりはないのだし。夜明けを待って艦隊を進めるわよ。必ず敵水軍は出てくるはず」
 曹操は待機を命じた。ここまで遂に呉の水軍本隊は現れなかった。向こうもこの広い水面を決戦水域に選んだと言う事だろう。必ず建業を出撃し、下流の何処かに潜んでいるはずだ。
「敵水軍の出現に備え、霹靂車船は建業沖に待機。上陸用の衝船に兵たちを乗り移らせる準備をしておきなさい」
 曹操は荀彧に指示を与える。艦隊同士の戦いでは敵艦に激突させ、穴を開けて撃沈に追い込むための衝船だが、その構造上頑丈で、水面に面した城壁への取り付きにも向いている。曹操も黄河流域の戦いで、自ら衝船の舳先に立って河賊の水塞に殴りこんだ経験があった。
「既に手配しております」
 荀彧が打てば響くという表現が相応しい早さで答える。その反応に満足した曹操が笑みを浮かべた時、東の水平線に赤い光が横一線に走った。
「どうやら夜明けのようね」
 曹操は何気なく言い、そして次の瞬間そのおかしさに気付いた。まだ夜明けには早すぎる。
「見張り! あれは何!? 急ぎ確かめなさい!」
 荀彧も不審に思ったらしく、帆柱の上の見張り台に声をかける。普段なら、そこにいる兵士(当然、男)と直接声を交わす事などない彼女だが、流石にこの時は一時的に男嫌いという己の性癖を頭の片隅に追いやっていた。
「……あれは……あれは一体なんだ!?」
 しかし、見張り台から返ってきたのは、そんな荀彧を苛立たせるような要領を得ない言葉だった。
「何なの? 正確に答えなさいよ!」
 怒りに目を吊り上げる荀彧に、曹操は手を上げてその勘気を抑えると、威厳に満ちた、それでいて相手を落ち着かせる穏やかさを込めた声で呼びかけた。
「直答許す。見たままに報告なさい」
 覇王の威厳を持ってすれば、慌てている兵士も落ち着きを取り戻す。普段なら。相手が尋常の存在であれば。だが、この時はそうではなかった。見張りはさっきより狼狽した、礼儀も何もない口調で答えた。
「か……壁だ! 水の壁が来る! その壁が真っ赤に燃えているんだ!」
「……え?」
 曹操はその意味不明な答えに、自ら東の方を見る。そこにあったのは、思ったよりも近くに迫りつつある光の正体。見張りが言うとおりの、赤く燃え盛る巨大な水の壁。
「な……何なの、あれは!?」
 流石の覇王も、未知の異常現象を前に一瞬その思考力を奪われていた。その頭上から、赤い壁がのしかかるようにして雪崩落ちてきた。
 
 
「海嘯」と言う言葉がある。現代では津波の古語として認識されている事が多い単語だが、本来は潮の干満によって生じる波を意味する言葉である。この波は本来さほど大きなものではないが、特定の時期と条件が重なると、波の大きさが極端に増幅される事がある。
 それは、大潮の時期……すなわち、満月または新月の日であること、そして狭く奥行きのある湾や河口など、波が広い水面から狭い水面へ集中する地形である事だ。現代ではアマゾン川で生じる「ポロロッカ」やイギリスのセヴァーン川で生じる「ボア」が有名である。だが、海嘯の語源は現代中国でも銭塘江で生じる同じ現象の名である。
 そしてこの時代、長江もこの「大海嘯」が生じる条件を備えており、巨大な波が時として数百里に渡って下流から上流へ遡る事があった。
「黄河の狭い流れしか知らぬお前が、この長江の魔物を知る事はあるまいな、曹操よ」
 魏軍とは波を挟んで反対側。そこに孫呉水軍の本隊がいた。一度海に出た艦隊は、大海嘯の始まりと共にそれを追うようにして長江を遡上してきたのだ。その旗艦上で、周瑜は愉悦の笑みを浮かべていた。それは波上に乗せられ点火された焼き討ち船の赤い光に照らされ、地獄からやってきた魔物の如き凄愴さだった。
 しかし、その笑みに恐怖する呉の将兵はいない。全員が同じような笑顔を浮かべていたからだ。それは、祖国を踏みにじり屈辱を強いてきた侵略者に対する怒り、恨みを今まさに数倍にして叩き返そうとする復讐者の笑顔。獲物を引き裂き、胃の腑に収めんとする肉食獣の笑みだった。
「我らはこの日を待っていた。長江を大海嘯が遡る日を。曹操よ、これが我が"赤壁の大火炎"。焼け死ぬか溺れ死ぬか、好きな道を選ぶがいい」
 周瑜は言葉を続ける。生還率の低さを承知で何度も小部隊を持って魏軍本隊にぶつけ、あるいは魏軍進撃途上の城市にのらりくらりとした降伏交渉を行うよう命じたのも、全てはこの日この場所に魏軍を誘い込むための布石だった。
 その時、波の向こうから激しい衝突音が響いてきた。ぶつかり合う船と船の木板が軋み、砕け、弾ける轟音。周瑜は手にしていた扇を閉じ、前方を指した。
「全艦突撃せよ!」
 その命令が太鼓、鉦、貝によって伝達されていく。各艦から突き出された櫂が力強く水を漕ぎ、艦を加速させる。
 開戦からひたすら忍従に耐えてきた呉水軍の逆襲が開始された。
 
 
「ぐ……」
 波が船に激突した衝撃で、一瞬気を失っていたらしい。そう思いながら、曹操は身を起こそうとするが、甲板が濡れていて手が滑り、危うく転びそうになる。その自分の失態に一瞬少女らしい羞恥を浮かべた曹操だったが、すぐに今の事象の意味に気が付き、顔色を変えた。
(この高さの甲板が濡れている……!? いったいどれだけの高波が)
 彼女が座乗する旗艦は全艦隊中でも最大の闘艦であり、艦尾楼の高さは喫水線から十丈を越える。押し寄せた大海嘯はその高さを洗い流していったのだ。曹操は周囲を見て、そして絶句した。
 彼女が無敵を信じ、誇った大艦隊は文字通り四分五裂の有様を呈していた。川の流れに押されないよう投錨していたのが仇となり、多くの船がその場から逃げ出す前に海嘯の直撃を受けていた。
 悪い事に、霹靂車を取り付けたために船の重量が増し、重心も上がった闘艦の多くが、この波の一撃で平衡を崩し、横転沈没に至っていた。抜錨に成功した船も、多くはその波の勢いをこらえきれず、逃げるどころか自分自身が破城槌と化し、他の船をなぎ倒した挙句自らも大破して漂流している。
 そこへ、波に乗って押し寄せた焼き討ち船の炎が引火し、大破した船もまだ無事な船も、次々と火の海に沈んでいった。
「呉水軍、周瑜……!」
 炎の光に照らされるように、呉水軍の軍船が姿を現した。太鼓や手旗の指示によって素早く左右に分かれた呉水軍は、そのまま波に痛めつけられ、漂流状態の魏水軍を包囲すると、容赦ない矢の猛射を浴びせかけた。濡れ鼠になり抵抗もおぼつかない魏の兵士たちがたちまちハリネズミのようになり、悲鳴と共に長江の水面に落ちていく。そのまま浮かんでくる事はない。
 さらに、衝船が辛うじて健在な闘艦を狙って体当たりを仕掛け、その船腹に大穴を穿つと、奔入する川の水がたちまちその闘艦の平衡を崩し、横転させた。ここに来るまでに多くの呉の軍船を葬ってきた霹靂車が、ベリベリと言うまさに霹靂のような音を立てて甲板から引き剥がされ、水柱をあげて川面に落ちる。その周囲に漂っていた魏兵たちを巻き添えにして。
 いまやこの水面で展開されているのは決戦ではない。一方的な殺戮であり、逃げ惑う魏兵たちは狩られる無力な獲物に過ぎなかった。
「おのれ……反撃を! 我が艦を中心に集結するよう命じなさい!」
 叫んで振り返った曹操だったが、すぐにその命令が履行できない事に気づく。信号を伝えるべき太鼓奉行も、信号手も、波にさらわれたか振り落とされたか、その姿が見えない。代わりに手すりに引っかかっていたのは……
「桂花!」
 信頼する軍師、荀彧がぐったりとした様子で手すりにもたれかかっている。波にさらわれる事は免れたものの、水の勢いで身体を何処かに強く打ちつけたのだろう。主の呼びかけにも意識が戻る気配はない。青ざめた顔を横切って流れる血が、彼女の特徴的な猫の頭を模したような外套に染みこんで不思議な模様を作っていた。
「桂花! 桂花! しっかりしなさい!」
 荀彧の身体を抱きかかえ、揺すぶって意識を覚醒させようとする曹操。その背後に気配が立った。
「!? ……延珠? 無事だったのね」
 振り返った曹操は、そこに従順な寵姫が立っているのに気付き、安堵した。だが。
「!」
 その寵姫――黄蓋が完全武装していること、そして押し寄せた凍りつくような殺気に気づくのが遅れていたら、曹操の命はなかっただろう。咄嗟に荀彧を抱えて横に飛んだ曹操の耳を、この戦場の喧騒の中でもはっきりわかる凄まじい風切り音が貫き、それまで彼女が立っていた場所の甲板が微塵に粉砕されて飛び散った。
「延珠、あなた……」
 はじめて見る黄蓋の武の威力に唖然とする曹操。黄蓋は鉄鞭を手繰り寄せながら言った。
「大人しく今の一撃で倒されていれば、苦しまずにあの世に行けましたものを」
 そのぞっとするような冷たい口調に、曹操はずっと騙されていた事を悟りつつも、信じられないように聞いた。
「何故……? お前の心は快楽漬けにして壊し、私の為すがままにしたはず。何故正気を保っていられるの?」
 初めて褥を共にして以来、曹操は毎夜毎夜正気を失うまで黄蓋を責め抜き、黄蓋はもはや曹操から与えられる快楽の虜に成り果てていたはずだった。これまでも従順に曹操の命に服してきている。とても擬態とは思えなかったが、黄蓋は冷たい表情を変えないまま、再び鉄鞭を振りかぶった。
「合肥で受けた屈辱……なにより、巣湖に沈んだ兵たちの無念を思えば、あなたの与える快楽など何ほどのもの!」
 黄蓋の血を吐くような言葉と共に迫る、炎の光を反射して輝く赤い蛇のような鉄鞭を必死に回避する曹操。手すりが砕け、甲板が爆ぜ割れ、飛び散る破片が曹操の身体に細かい傷を刻み込む。その間にも、周囲では魏の艦船が指揮するものもないまま、次々に分断され、包囲され、沈められていった。
 やがて、曹操は船尾楼の一角に追い詰められていた。愛用の大鎌「絶」も流されて手元になく、気を失っている荀彧を抱えているという重荷を背負って、ここまで黄蓋の攻撃を回避し得たのは、曹操が武人としても一流といえる証拠ではあったが、それも最早風前の灯だった。
「お覚悟を」
 黄蓋が鉄鞭を軽く振るい、恐怖を刻み込むように風切音を発する。敗北、そして死が避けようもない事がわかったこの時、曹操はふっと微笑んで黄蓋を見た。
「何のおつもりか?」
 狂を発したのか――そう言いたげな黄蓋に、曹操は首を横に振ると、背中に担いでいた荀彧を降ろし、床に横たえた。
「まだ負けたつもりはない。お前を倒す。そのために、一騎打ちを申し込むわ、黄蓋」
 曹操は言うと、懐から髑髏の飾りが付いた懐剣を取り出す。かつて黄蓋に自害を促すために使ったものだ。
「なるほど、荀彧殿は巻き込むなと言いたい訳ですか」
 黄蓋はそう言って、まだ意識を取り戻さない荀彧をちらりと見た。曹操にとっては、この申し出は賭けだった。もし、黄蓋にまだ武人としての何かがあるなら、応えてくれるかもしれない。しかし。
「お断りします。私の武人としての誇りなど、疾うに失われたもの。あなたを殺し、荀彧殿も殺します。私の任務はただそれだけ」
 黄蓋は曹操の願い出を一蹴すると、鉄鞭を走らせた。だが。
「!?」
 空中で火花が散り、鉄鞭が弾かれた。それを成し遂げたものはまだ僅かに残っていた手すりを砕くと、そこから向きを変えて黄蓋の頭部を狙って空中を駆けてくる。後方にトンボを切ってそれを回避し、黄蓋は鉄鞭を構え直して上を見上げた。
「これは岩打武反魔……許緒殿ですか」
 黄蓋の声に応える様に、帆柱の上に立っていた許緒は黄蓋と曹操の間に立ちはだかるように飛び降りてきた。
「華琳様、お逃げください!」
 黄蓋から目を離さず許緒が言う。陸上から建業を包囲するはずだった彼女の登場に、曹操が疑問の声を投げかけた。
「季衣、陸上部隊はどうしたの?」
 その質問に一瞬言葉に詰まった後、許緒は答えた。
「……壊滅しました。華琳様の船団が波に飲まれるのを見て、一気に士気が下がってしまって……」
 そこへ、建業に篭っていた呉の陸兵が陸遜の指揮の元出撃し、猛攻を加えてきたという。目の前で為す術なく崩壊していく本隊を見て、自らの士気も崩壊させていた陸戦部隊は呉軍の猛攻の前に碌な抵抗ができず、一瞬にして壊滅に追い込まれていた。
 許緒も部隊の建て直しができず、せめて曹操だけでも救うべく、何とかここまでやってきたのだった。
「そう……わかったわ」
 曹操は頷くと、一度降ろした荀彧の身体を再び抱き上げ、許緒に命じた。
「季衣、えん……黄蓋は任せるわ。討ち取ったら追ってきなさい」
「わかりました!」
 許緒が答えて大鉄球を振り回し始める。
「逃がしません!」
 構わず曹操に向けて鉄鞭を放つ黄蓋。しかし、それは途中で許緒の岩打武反魔に絡め取られ、その間に曹操の姿は艦尾楼から甲板へ続く階段へと消えていった。
「貴女の相手はボクがします! 絶対に通しませんよ」
 許緒は言うと岩打武反魔の鎖を強く引く。絡み合った鉄鞭がぴんと張り詰め、きしきしと音を立てた。
「あなたは、それほど嫌いではなかったのだけど」
 黄蓋は言った。嫉妬や不信から、降伏後も自分を敵視してきつく当たった夏候惇や荀彧と異なり、許緒だけは黄蓋に優しく何くれと世話を焼いてくれた相手である。夏候惇、荀彧を葬り去るのには何の躊躇いも心の痛みも覚えないであろう黄蓋だったが、許緒だけは見逃してやっても良いと思っていた。
 しかし、敵として立ちはだかるのなら容赦をする気は全くない。
「引かないのなら打ち倒して通るまで。容赦はしません」
 その冷たい殺気に、許緒の背筋に悪寒が走った。同時に危機に気付く。黄蓋は右手一本で自分が両手で引いている力と拮抗している。そして、空いている左手は……
「きゃっ!?」
 強烈な衝撃に許緒は吹き飛ばされ、岩打武反魔と鉄鞭が解れて、どすんと床板にめり込む。腹部に走った激しい痛みをこらえつつ許緒が黄蓋を見ると、彼女は両手に一本ずつ鉄鞭を持っていた。今許緒を打ち据えたのは新しく取り出した左手からの一撃だ。
「黄家奥義、双条鞭。受けられるものなら受けてみなさい」
 黄蓋が両手を霞むような速度で振るうと、まるで流星雨のような勢いで鞭の先端に付いた分銅が許緒に飛んできた。
(そんな。こんなのかわせる訳が……)
 許緒がそこまで考えた時、全身を凄まじい衝撃と痛みが走りぬけ、一瞬にして彼女の意識は消失していた。
 
「季衣!」
 主甲板まで降りたところで、曹操はその光景を目撃していた。彼女を救うために駆けつけてきた許緒。その小さな身体がボロクズのように吹き飛ぶ様を。
 ぐったりと倒れ、もはやピクリとも動かない許緒。その惨劇を現出させた黄蓋が振り向き、主甲板の上に呆然と立つ曹操を見た時、覇王として君臨してきた曹操の心に、初めてひびが入った。
「あ、ああ……」
 曹操の口から、意味を成さない呻きが漏れる。周囲で燃え上がり、沈んでいく自らの艦隊と、それと共に滅び行く魏軍の惨状が、曹操の心に生じたひびを拡大していく。そして。
「う、うわああぁぁぁぁ!!」
 黄蓋が一歩歩き出した次の瞬間、曹操は走り出した。自分に確実な破滅をもたらす死神から逃げるように。己の知らない超常現象によるこの大敗北と、自分なら御せると信じていた黄蓋の「裏切り」。二重の耐え難い衝撃は、覇王と呼ばれそれに相応しい成果を積み重ねてきた彼女を、年頃の無力な少女に戻していた。
 だが、いくら逃げたくとも、ここは大河の上の漂流する船の上に過ぎない。彼女の逃亡を許す面積はあまりに少なく、曹操はたちまち舳先にまで追い詰められていた。そこへ、まるで恐怖心を煽るが如く、ゆっくりと黄蓋が歩いてくる。
「お覚悟を」
 そう言って立ち止まった黄蓋の足元に、双条鞭がとぐろを巻くようにわだかまった。それが次に動くときが、曹操の最後になる。絶望的な思いが曹操の脳裏を支配した時、彼女の耳に呼びかける声が聞こえてきた。
「孟徳様! ご無事でしたか! 本船にお移りください!」
 曹操は言葉の聞こえてきた方向を見た。右舷の方から、小型の兵船が近づいてくるのが見える。その船尾には確かに魏の旗が掲げられていた。
 曹操がその船を見ている間は絶好の隙だった筈だが、黄蓋もこの時点で生き残っている魏の兵船がここへ近づいてくるのは予想外だったらしく、一瞬それに気を取られる。次の瞬間、曹操は荀彧を抱いたまま船の舳先から飛び降りていた。
「しまっ……!」
 黄蓋が痛恨の声を上げながら、双条鞭を振るう。しかし、僅かに曹操の身を捉えるにはいたらなかった。だが、曹操の背に負われていた荀彧の身には巻き付き、その身体を曹操から引き剥がす。
「桂花……っ!」
 軍師に手を伸ばすも届くはずもなく、曹操の身体はそのまま落下して長江の水面に叩きつけられた。荀彧の真名を呼ぶその口に川の水が入り込み、一瞬で呼吸器が埋まる。さしもの覇王も人間の身体が示す反射的な反応には抗えず、その意識は途絶えた。だが、彼女を探してきた兵船から素早く熊手が突き降ろされ、沈もうとする曹操の身を引き揚げる。
「む、これはいかんな……いや、好都合か」
 そう言ったのは兵船を指揮していた、眼鏡を掛けた理知的ながら酷薄な印象の男だった。配下ともども魏兵の鎧を付けてはいるが、もし曹操に意識があり、彼の顔を見ていれば、お前は誰だ? と聞いただろう。そう、彼は魏の武官などではない。
 男はぐったりとした曹操の口に指を突っ込み、彼女が吸い込んだ水を吐かせる。気道が開通し自発的な呼吸を再開した曹操は、意識が戻らないながら激しく咳き込み、身体を痙攣させた。
「これでよし。後は……」
 男は懐から香炉を取り出すと、横たわる曹操の顔の傍に置いた。そこから立ち上る香の煙が、曹操の肺を満たすように吸い込まれていく。それと共に、彼女の体の痙攣が収まり、顔に貼りついた苦痛の表情が消えていった。
「よし、引き揚げる。船を北岸に向けろ」
 未だ魏の残存艦艇が必死の抵抗を繰り広げている上流域の戦場に背を向け、兵船は川面にたなびく火災煙に紛れるようにして姿を消した。
 
 やがて、太陽が顔を出し中天に向かう頃、戦いの決着は完全についた。大海嘯によって陣形を崩壊させられ、緒戦のうちに本陣を無力化された魏の大艦隊は、その実力を発揮する間もなく、その大半が長江の藻屑と化した。それを見せ付けられた建業包囲の陸上部隊も、士気崩壊と陸遜の迎撃によって壊滅し、五十万と号した大軍は春の淡雪のように消えた。
 孫呉水軍旗艦の艦上は明るい雰囲気に包まれていた。この決戦における孫呉水軍の損害は全体の一割にも満たず、まさに圧勝と呼ぶに相応しい大戦果だったのである。
「おめでとうございます!」
 主だった武官が周瑜の前に並び、勝利を祝する言葉を発する。
「これほどの大勝利をもたらすとは、まさに神算鬼謀」
「宰相閣下こそまさに天下一の軍師にござる」
 武官たちの誉めそやす言葉に、満更でもないように笑顔を見せる周瑜。その顔がふと真剣なものになり、正面を見据える。その変化に一瞬戸惑った武官たちが、それでも周瑜の視線の向く先を見ると、そこにいたのは……
「こ、黄蓋将軍……?」
「何故ここに……」
 囁くような声が漏れる。そこにいたのは、大きな布袋を背負った黄蓋だった。
「今更どの面を下げて……」
「罪を償いにでも来たか?」
 武官たちが囁く。彼女はそうした雰囲気を無視するように、堂々と武官たちの間を歩いて周瑜の前に進むと、すっと膝を折って頭を下げた。
「宰相、ただいま任務を終えて戻りました」
「うむ、ご苦労であった」
 周瑜は頷くと、気がかりだった事を尋ねた。
「して、首尾はどうか」
「申し訳なき仕儀にございますが、曹賊めは取り逃がしました。しかし、彼奴が片腕と頼む二将をとらえてございます」
 黄蓋は答えると、背負ってきた布袋を開く。その中から出てきたのは、鉄鞭で縛り上げられた荀彧と許緒の二人だった。どちらもまだ意識を取り戻していない。
「ふむ……曹賊を捕らえられなかったのは残念だが、奴の軍師をこうして捕縛できたのは大きな成果よ」
 周瑜は満足げに頷くと、事情がまだわかっていない武官たちに告げた。
「黄蓋将軍の逐電と魏への投降は偽りのもの。私と将軍が語らって編んだ策によるものだ。将軍には間者のほか、魏を私が望んだ戦場に引きずり出し、できれば曹操を討つ事もその役目に含まれていた」
 おお、と武官たちの感嘆の声が湧く。黄蓋の任務がどれだけ困難なものだったか、彼らにもわかったからだ。さきほどまでの裏切り者を見る視線は消え、彼女を称賛する声が聞こえる中、周瑜は言った。
「この功を持って、黄蓋将軍が合肥で受けた敗北の責を相殺する。加えて偽りの投降に伴って剥奪した地位を回復する。これからも励め、黄蓋将軍」
「ありがたき幸せ」
 失われた地位や名誉を回復する周瑜の言葉に、黄蓋は更に腰を折る角度を深くして答え、武官たちの拍手がそれを祝福する。
 だが、本来周瑜が告げた言葉は、上級官の人事権を掌握する王、すなわち孫権以外発する事のできないものだ。周瑜の紛れもない越権行為。王に対する反逆と取られてもおかしくない行為である。
 だが、それを誰も咎めようとしなかった。周瑜は気にした風もなく武官の一人を呼びとめ、別の指示を出した。
「済まぬが、卿は上流へ向かい、天軍への使者に立て。今ならば魏を簡単に降せるであろう。そう言って魏への侵攻を示唆するのだ」
「承知しました」
 その武官が自分の艦に向かって去っていく。それを見届け、周瑜は言った。
「では諸将よ、まずはいったん建業へと凱旋する。そのうえで、新たな戦いを始めるのだ」
 それを聞いて、武官たちが沸き立つ。誰もが「新たな戦い」について共通の見解を持っていた。
「では、我らも魏に侵攻するのですな?」
 それを確認するように、中級武官の筆頭格に当たる男が周瑜に尋ねた。しかし、彼女は首を横に降った。
「否。我が国の秘密を侵した、曹賊にも匹敵する大賊がいる。まずはそれを成敗せねばならぬ」
 予想外の言葉に、武官たちが顔を見合わせる。その中で唯一気付いたのが黄蓋だった。
「冥琳、あなた、まさか……!」
 黄蓋の言葉に、周瑜は邪悪とさえ形容できる凶獰な笑みを浮かべ、頷いた。
「敵は准陰にあり」
 曹操と言う共通の敵が消えた今、大同盟軍の崩壊が始まったのだ。
 

―あとがき―

 去年中に間に合いませんでした。完結は何とか今年中を目指したいです。
 華琳は今まで無敵・完璧超人ぶりをさんざん描写したので、今回は逆に為すところなく敗れてもらいました。


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