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[8823] じゃぷにか闇の日記帳 【A's再構成】【完結】
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/11/19 05:15
まえがき
・A's再構成みたいなものです。

・5/22 チラ裏からとらハ板に移動しました。
・6/18 ザフィーラの名前のつづりを「zafira」から「zafila」に変更しました。
・7/26 完結しました。
・8/17 外伝開始しました。
・11/16 感想欄で指摘を頂き、その一部に対してもっともなことだと納得しましたので、申し訳ありませんが外伝を削除しました。


夜天Nachthimmel
Nachthimmel 1  6/4-9
Nachthimmel 2  6/9
Nachthimmel 3  6/28
Nachthimmel 4  6/29 【残り547ページ】
Nachthimmel 5  7/10 【残り482ページ】
Nachthimmel 6  7/25 【残り390ページ】
Nachthimmel 7  8/10 【残り290ページ】
Nachthimmel 8a  8/15-31 【残り176ページ】
Nachthimmel 8b  9/10-20 【残り35ページ】
Nachthimmel 9  9/21-30 【残り0ページ】

雨雲Regenwolken
Regenwolken‐a
Regenwolken‐b




[8823] Nachthimmel 1
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/05/22 17:24

「あ、とれた……」はやては半ば呆然として呟いた。まさか成功するとは思わなかったのだ。

 彼女の手には、古めかしい装丁の分厚い本。古めかしいとはいっても、傷みや汚れは見あたらない。ただ、市場に流通する大量生産品とは明らかに異なる、威厳みたいなものがあるだけ。普通、年月を重ねることが威厳の獲得につながるので、逆に、威厳のあるものは年月を重ねている、という推測が働いたのだろう。よくある論理誤謬だった。しかし、そんなことは、いまは関係ない。
 車椅子に座ったはやての膝の上には、鎖がある。見つけてから今日まで、ずっと本を縛り付けていたのがそれだった。
 ふと思い立ってぐいぐい引っ張った結果、何故か千切れたのがつい先ほどのこと。はやては自分が怪力に目覚めたのかと戦慄したものだった。ためしに千切れた鎖の両端を持って、恐る恐る引っ張ったところ、びくともしなかったのでほっと一息ついたのは秘密だ。

「えっと……、どないしよう」

 どうするもこうするも、いままで本を縛っていた鎖が解けたのだ、することは決まっていた。
 硬い表紙を開く。
 ごくりとのどが鳴った。
 最初に目に飛び込んできたのは、白紙だった。

「む……」

 もう一枚めくる。
 白紙だった。
 もう一枚めくる。
 白紙だった。
 ぱらぱらマンガでするように、ページを流す。
 白紙だった。

「むぅ……」はやては唸った。「よもや、こないな結末があろうとは」

 こうしてその本は日記帳になった。




 じゃぷにか闇の日記帳
 なまえ:八神はやて がくねん:2年生 学校行ってません





・6月4日 金曜日 晴れ
 さっそく使ってみることにする。
 今日は8才の誕生日。石田先生が夕食に誘ってくれた。おしゃれなレストラン。
 出てきた料理は、ちょっと家ではマネできないと思う。デザートはアイスクリーム。
 値段はわからない。
 めし、うま。

・6月5日 土曜日 晴れ
 朝:パンを焼いて桃のジャム。コンソメスープ。
 昼:スパゲッティをゆでる。インスタントのミートソースがないことに気がついた。おしょう油とバター。
 夜:ご飯、おみそ汁、さわらのホイル焼き、野菜炒め。
 お腹いっぱい、略すとおっぱい。
 寝る。

・6月6日 日曜日 雨
 一日中雨が降っていた。洗濯物は明日にする。
 栞をなくしてしまった。
 メニューを書くだけで満足してしまいそうなので、ご飯について書くのはやめる。
 でも、そうすると書くことがない。
 明日からは「今日は書くことを探した」と書くことになりそう。

・6月7日 月曜日 くもり
 月曜日が来たぞー! とはいっても、私は学校に通っていないので関係ないのであった、まる。
 本を一冊読み終わる。ミステリ。
 ずんばらりんと首を斬られたけれど、きれいに斬られたので被害者はしばらく生きていた、という密室トリック。
 あまり私を怒らせない方がいい。






 定期検診に意味があるなら、日記のネタになるということくらいだろう。脚は一向に良くなる気配がない。わざわざそれを確かめるという意味もあるかもしれない。
 仕方がないという諦めと、良くならないだろうという悲観的な予測が、アブソーバとして働いて心を守るのだ。ローリスク・ローリターンは、弱い生き物が延命するコツだった。それがジリ貧であるとわかっていても、他に手がないのだから仕方がない(、、、、、)
 すっかり諦め癖がついているはやてだった。
 しかし、それでも不安になることはある。ふとした拍子に、強烈な無力感を感じることが、ある。
 それは、たとえば、寝る前に一日を振り返ったとき。今日成したことを思い出し、一年でその三百と六十と五倍のことしか行うことができないのだ、と考えたとき。十年では、そのたった十倍なのだ、と計算したとき。
 そして、自分はなにをするために生きているのか、と考えたとき。
 まるで、じわじわと水を吸うように、ぐずぐずと体の末端から腐り落ちていくように、不安が心を浸食する。
 鉛を飲み込んだかのように胃が重くなり、呼吸が厳しくなる。
 それを、じっと動かず、静かに耐える。
 発作のようなものだ。乗り切れば、この嫌な気分もすっかりと姿を隠すことを、経験から知っている。
 嫌なことを考えないように、頭の中で大声で数を数える。原色でカンバスを塗りつぶすように、数字で思考を上塗りし続ける。これが意外と体力や気力を搾り取る効果があって、心が平常に戻る頃には、はやては雑巾みたいにくたびれていた。いくつまで数えたかすっかり忘れてしまうのもいつものことだった。

「ふぅ……」一仕事やり遂げた職人の顔で、はやては息をついた。

 今日はもう寝よう、日記なんて一日を見直す作業そのものだし、いまは避けたい。夕食を作って食べる元気もない。こうなったのがお風呂上がりでよかった。
 グラス一杯の水道水を飲み干して、はやては自室に戻った。
 車椅子からベッドに乗り移る。
 一度、机の上に置かれている分厚い本を視界に収めてから、部屋の照明を落とす。





 翌朝。
 カーテンの隙間から差す光の帯がまぶしくて、はやては目を覚ました。
 気分は良好。
 頭は軽い。
 元気だ。
 昨日みたいに"発作"があった翌日は、大抵こんな感じだった。あれがガス抜きの役割を果たしているのか、それとも反動で躁になっているのか。どちらにしても、この状態はしばらく続くのが経験則上わかっているので、有効活用したいものである。
 天気がいいし、買い物ついでに散歩でもしてこようか。図書館に行くのもいい。洗濯もしたい。布団も干そう。
 着替えながら今日の予定を立てる。その途中、机が目に入った。
 正確には、机の上の日記帳。
 いま考えれば、中身が白紙だったからとハードカバーの本を日記帳にしてしまうのは、ちょっとアレだ。だからといって、いまさら止める気もないのだが……。
 着替え終えた彼女は、机に向かった。昨日さぼった分をいまの内に書いておこう、と考えたのだ。今日の夜には色々忘れてしまうだろうし、二日分を書くのも面倒かもしれない。

「んー、昨日は石田先生と……」回想しつつ本を開き、最後に書いた部分の次のスペースに目をやる。「うぇ?」そしてはやては奇声を上げた。

 最後に書いたのは、6月7日のものだったはず。なのに、これから書き始める空白の前には、別の文。
 もちろんはやてには、それを書いた覚えなどなかった。そもそも、筆跡からして別人のそれである。

「よ、妖精さん?」

 見知らぬ誰かの文章を、はやては読んだ。





 達人が良い剣で斬れば、斬られた者がしばらくの間生き続けることは、実際にあります。
 数秒くらいですが。

 Signum






 妖精さんは、どうやら6月7日の記述に対して一言いいたかったらしい。

「数秒じゃ密室できへんやろ……」

 部屋に鍵をかけるくらいならできるかもしれないが、はやてが読んだのはそういうレベルのものではなかった。もっとおぞましいなにかだったのだ。
 首のない体がしばらく生きていて、その間に別の部屋に行くとか……。

「あかん、あれは忘れよ」はやては忘れたことにした。「それより、問題は妖精さんやな」

 まさか自分は解離性同一性障害持ちだったのか、それとも家に侵入者がいたのか。どちらも完全に否定しきれないのが恐ろしい。

「どっちもなさそうなんやけどなあ……」

 記憶の欠落や、別人格が行動したらしき痕跡は特に見あたらないし、家は荒らされていない。それに、日記に返事をする別人格や泥棒というのもなんだかなぁ、と思う。
 さてどうしたものかと考えるも、どうしようもない。ちょっと不思議で不気味なことが起きたが、被害はないし、対処らしき対処も、有効そうなものはこれといってない。
 まあ、ちょっと面白そうだし、こちらから更に返信してみよう、と思わなくもなかったのだが。





 Signumさん(?)へ 
 
 お返事ありがとうございます。
 もしかして、Signumさんはそれができるのでしょうか?
 剣をやっているのですか?

 八神はやて






 Signum氏の返事の下にそう書いて、本をぱたんと閉じる。ページとページの隙間に挟まれた空気が押しつぶされ、潰れきってしまう前に外へと逃げ出した。
 できることならこの場に監視カメラを設置したいところだが、生憎とはやてはそのようなものを持ち合わせていない。

「せいっ!」十秒ほど考える素振りを見せた後、彼女は勢いよく本を開いた。

 また文章が増えていた。





 八神はやて様へ

 申し訳ありません、うちのシグナムが出しゃばった真似をいたしました。
 以後慎むよう、皆で言い聞かせますので、どうかお許






「書きかけ?」

 文章は途中で途切れていた。
 どうやら妖精さんは本当にいたらしい。しかも複数だ。
 まず、剣をやっているSignumすなわちシグナムが一人目。そして「皆で言い聞かせる」という表現から、これを書いた人物を含めて他に三人以上は存在すると推測できる。

「それにしても、なんというハリー・ポッ……、いやいや、おらワクワクしてきたぞ」右手は、知らぬ間にペンを取っていた。「えっと、とりあえず人数と名前かな……?」





 名前を知らないあなたへ

 お返事ありがとうござます。書いている途中で邪魔をしてしまったようで、すみませんでした。
 どうかシグナムさんを叱らないであげてください。
 シグナムさんからのメッセージ、嬉しかったです。それに、あなたからのメッセージも。
 私は八神はやてといいます。もしよろしければ、あなたや他の皆さんのお名前も教えてください。

 八神はやて






 こうして奇妙な交換日記が始まった。




[8823] Nachthimmel 2
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/06/18 02:30


 はやてが本を開いたせいで書きかけになってしまった文章の主は、シャマルという名前だった。
 シャマルが言うには、妖精さんはシグナムとシャマルに、更に二人を加えて合計四名。その二人は、それぞれヴィータとザフィーラというそうだ。ザフィーラだけ男性で、残りは女性だという。実はシグナムはイケメン侍だと勝手に思い込んでいたはやてだったが、それは言わないでおくことに決めた。
 あと、なんだか彼ら、魔法使いらしい。騎士と自称するが、それは優れたベルカ式の魔導師に与えられる称号のようなものなのだとか。ベルカ式がどういうものなのかはわからないが、とにかく凄腕ということなのだろう。

「まあ、いまさら魔法くらいで驚いたりはせーへんけど」

 なにせ始まりからして返事をくれる日記帳である。しかも、これが飛ぶ。気づけばクラゲみたいにはやての周りを漂っていたりする。現にいまこの瞬間、キッチンで包丁を握る主の斜め後ろあたりで、見守るようにふわふわしていた。ときどきすり寄ってきたところを指先でつつけば、くすぐったそうに逃げたりもする。はやてはこれに、大いに喜んだ。昔から犬を飼いたいと思っていたのだ。
 この日記帳の名前は、しかし、そんな可愛らしい挙動に反して闇の書という凶悪なものだった。そのアンバランスさもいいかもしれないが、もう少しマトモな名前をつけてあげたくもある。

「うーん、どんな名前がえーのかなー」鼻歌を歌いながらネギを刻む。今日の昼食はインスタントラーメン。お湯が沸くのを待っているところである。「みんなにも食べさせてあげられるなら、もうちょっとえーもの作るんやけどねー」

 一人だと、どうしても手を抜きがちになるのが昼食だった。主戦力は朝の残りやインスタント食品。それに、いまは騎士たちとのやり取りが楽しいので、わずかな時間が惜しい。こうして遅めの昼食を作っているのも、騎士たちに心配されたからだった。
 ミトンを装備して、はやては湯気を立てるドンブリをテーブルまで運ぶ。
 席に着いたら、両手を合わせて頂きます。
 ずるずると麺を啜る音が部屋に響く。この音は、騎士たちには聞こえない。どうやら闇の書の中からは、映像だけしか捉えられないらしい。つい先ほど腹の虫が鳴いたときに、はやてはそのことを知った。

『美味い? vita』闇の書が勝手に開き、そこに文字が連なる。署名から、ヴィータの発言だとわかる。

「うまうま」はやては携帯していたペンを抜き、さらさらと文字を綴る。『ヴィータにも食べさせてあげたいです。 はやて』

 はやてに限っては署名は必要ないのだが、後で見返したとき、皆の名前に自分の名前が混ざって並んでいるのが嬉しいので、きちんと書くようにしていた。

『もうちょっと栄養バランスに気をつけた方がいいとシグナムがいってます。 vita』透明人間が透明のペンで書くように、文章が組み立てられていく。

「なんと……」

『言っていません。 signum』

『ばれた。 vita』

『しかし、バランスに気を遣うべきだというのは事実です。 signum』

 続けざまに書き足されていく文字を目で追って、はやてはくすくす笑う。まだ付き合いは短いが、だいたいの傾向は掴めてきた。
 悪戯さんなヴィータと、彼女を諫める真面目なシグナム、それを見ながらはやてと一緒に微笑むのがシャマルで、寡黙なザフィーラはけれどもしっかりと皆を見ている。
 人付き合いが極端に少ない自分が鋭いとは思えないし、彼らがわかりやすいのだろう。

『今度から気をつけます。 はやて』にっこりと笑って、はやては返事を書いた。





「ふわぁ……」はやては口元を押さえた。あくびを逃がすまいとしたわけではなく、マナーである。

 目に突き刺さる茜色。この色に包まれると、どうしてだろう、あくびが出る。夜が近いことを体が察知するのか、それとも単純に疲れが出やすい時間帯なのか。たぶん前者だ。少なくとも、後者ではない。なぜなら、今日はちっとも疲れるようなことをしなかったにも関わらず、こうしてあくびが出たからだ。

「あ、買い物」疲れていない理由を考え、買い物に行き忘れていたことに気づいた。そして、それが鍵であったかのように、次々と忘れていたことが思い出された。「図書館も洗濯物も……、うわぁ、やってもうた。あああ、私のふかふかの布団が……」

 想像するだけでよだれの垂れそうなお日様の匂いのする布団は、諦めるには大きすぎた。ならば、それを忘れさせた闇の書の魅力はいかほどのものか。
 そう、はやてはこの時間まで闇の書の騎士たちと、ずっとお喋りをしていたのだ。彼女は同年代の小学生と比べて遙かに強い自制心を持つと自認していたが、それは外部から働きかけて諫める母なるものが存在しないというのが理由であって、複数のセーフティネットを張れない代わりに一枚の頑丈で広いものを使うという苦肉の策だった。だから、万が一にも自分というたった一つの関所を突破されれば、当然ながらあとは行くところまで行く。具体的には、朝から晩までチャットに没頭する、などということになる。
 ペンを握り続けたせいで強ばった指をまっすぐに伸ばし、じわりと染み渡るような痛みに顔をしかめながら、はやては手をぶらぶらと振った。

『ごめんなさい。お話しするのが楽しくて、私たち全員がつい時間を忘れてしまいました。 shamal』

『ごめん。手は大丈夫? vita』

「大丈夫、大丈夫。もう、そんなに心配せんでもええのに」はやては握力の篭もらない手で再びペンを取る。『よくあることだから心配しないで。 はやて』

『ちょっと待っていてください。 shamal』

「うん……?」はやては首を傾げた。が、すぐに驚きに目を見開く。「え? うわ、凄い」

 蛍みたいに淡い緑色の光が腕を包むと、魔法みたいに、、、、、、痛みが退いていく。十秒も経たない内に、気怠さの一欠片も残らずすっかり快調。これで明日の朝までペンを持ち続けることができる、ラッキー、と一瞬だけ考えたが、思い直して自重することにした。

「にしても、ほんまに魔法使いやったんやなぁ」彼女は右手を握っては開く動作を数回繰り返す。疑っていたわけではないが、しかし百聞は一見にしかずという言葉を実感できる体験ではあった。『ありがとう、シャマル。 はやて』

『これからは薬箱の代わりに闇の書を持ち歩けばいいよ。 vita』返事はヴィータから来た。

『私は薬箱じゃないです。 shamal』シャマルが反論する。

『なん……だと……? vita』
『なん……だと……? signum』
『なん……だと……? zafila』

 コピペみたいにそっくりな書き込みが、間髪入れずに三つ続いた。
 凄まじい連携だった。
 まるで三連星だった。

『寝ます。 shamal』シャマルは不貞寝した。

「シャマル、可哀想な子」はやては目元を押さえた。

『ちょっとみんなでシャマルに土下座してきます。 vi』

 はやてがそれを読み終わるや否や、扉みたいに本が閉じて動かなくなる。どうやら慌てているようだ。

「いってらっしゃい。あんまり虐めたらあかんでー」はやては三人分の見えない背中に向かって、手をひらひら振る。じゃれ合いだとわかっているので、それほど心配していなかった。「さぁて、私は……、とりあえず夕食、どないしようかなぁ」

 あまり空腹は感じない。しかし、一日三食の習慣はできるだけ維持するようにしている。それが自制心であり人間であるということだ、とはやては信じていた。そして、人間でありたいと思っていた。
 車椅子を操り、彼女はキッチンへと移動する。冷蔵庫の中には、まだ色々と材料が残っていた。頭の中を行き交うレシピの群からいくつかを掬い上げ、更にそこから絞り込む作業に入る。その間、手はがさごそと野菜室をかき回している。

「んー、みんなにも食べさせてあげたいんやけどなぁ」指先がトマトのツルツルとした表面に触れた。「……ケチャップで文字書いたら味わかるかな?」醤油、みりん、果汁や紅茶、様々な食用の液体、半液体あるいは半固体の名が挙がる。「それに、お味噌汁とかコーンポタージュとかも……、あ、サンドウィッチみたいにページにトマトやレタス挟めば……、それとも鍋で他の具と一緒に煮るとか……」

 明らかに、一日中闇の書に向かっていたせいで頭が疲れてバカになっているはやてだった。このままでは、再び闇の書に熱中しかねない。
 シャマルはどうやら、治療する場所を間違えたらしい。けれども、この心地よい疲労を手放さなくてよかったとも、はやては思った。
 素晴らしい本を徹夜で読み通した直後に似た、余韻と興奮とが入り交じって頭の芯が痺れるようなこの感覚は、望んで得られるものでは決してない。むしろ予期せず遭遇するからこそ得られるものかもしれない。できることなら目の前の冷蔵庫に放り込んで、落ち込んだときのために冷凍保存しておきたいが、それは不可能だ。
 なので、いまの内に美味しく頂くことにしよう。





・6月9日 水曜日 快晴
 結局、昨日の日記は書けなかった。その分、今日はたくさんの文字を書いた。それを読み返せば、日記になってしまいそう。
 今日はヴォルケンリッターのみんなと出会った記念すべき日。
 剣の騎士シグナム。
 湖の騎士シャマル。
 鉄槌の騎士ヴィータ。
 盾の守護獣ザフィーラ。
 この四人と、闇の書。
 みんな、これからよろしくお願いします。

 p.s.トマトケチャップは好きですか?






 翌朝はやてが見た返信より抜粋。

 p.s.好き嫌いは特にありません。
 p.s.トマトは美味しいですよね。
 p.s.赤いから好きです。
 p.s.何でも食べます。


 



[8823] Nachthimmel 3
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/06/18 02:31
 
 私の前世はサソリ座の女。
 そして今生の私の正体はサソリ。ザフィーラがオオカミであるように、私はサソリなのです。
 なめてかかると恐ろしい目にあいます。もうこれでもかというぐらい刺しまくります。ザクザクです。
 毒だってあります。これを受ければ地獄みたいな灼熱の中でもがき苦しむことになります。ドクドクです。
 主はやても気をつけてください。

 Signum






 6月28日。月曜日。
 水無月最後の週明けの朝は、驚愕から始まった。

「……シグナムご乱心」はやては思い出す。昨日、誤って闇の書を机から落としてしまったのがいけなかったのだろうか。衝撃で壊れてしまったのかもしれない。頭をぶつけるようなものだ。

 それにしても、シグナムの正体はサソリだったのか。ザフィーラがオオカミだというのは聞いていたが、彼女については初耳だった。この分だと、シャマルやヴィータにも隠された真の姿があるのかもしれない。それぞれウミヘビとハンマーブロスあたりだろう、とはやては睨んだ。
 いやしかしハンマーブロス座なんて星座は存在しなかったような気が……。

「カメつながりでミズガメかな」闇の書が音声を拾わない仕様だからできる発言だった。

 真の正体以外にも、気になるところがある。文章の最後の部分だ。
 はやてはそこをもう一度読んだ。

「気をつけてください? どういう―――」剣で切り落とされたかのように、言葉がぴたりと止まる。

 まさか、これは警告文?
 月のない夜は……、という類の文章なのだろうか?

「ひぇぇぇ」はやては震えた。車椅子の上で、上半身を大げさなほど仰け反らせる。

 知らない内になにか恨みでも買ってしまったのか。いや、知らない内などということはない、昨日の闇の書への無体な扱いが気に入らなかったのかもしれない。
 そして、シグナムは凄腕の剣士である。その同胞たるシャマルが闇の書の中から治癒の魔法を使えるぐらいなのだから、シグナムだって剣戟を放てるかもしれない。いやいや、サソリの毒針だった。
 はやてが生まれたばかりの鹿みたいにプルプルしていると、闇の書が浮かび上がった。そして、はやての正面、視線より少し高い位置に浮遊し、厳かにページがめくられていく。紙のこすれる音は、まるで背後から近寄る足音のようだった。

「うひぃぃぃぃ」ガクガクと大きく震えるはやて。

 やがて、十三階段さながらにめくられ続けていた動きが、
 止まる。
 そこには、このように書かれてあった。

『ごめんなさい。全部あたしの仕業です。今シグナムにめちゃくちゃ怒られたところです。反省してます。もう二度としません。許してください。 vita』

「なんやー、もう怒られとったんかぁ」はやてはあっさり演技を止めて、ペンを握る。『最初からわかっていました。私は怒ってないので安心すべし。あと、シグナムにはちゃんと謝って許してもらうこと。 はやて』

『あれ。なんでわかった? vita』

『事前に止められず申し訳ありませんでした。 signum』ヴィータの前に立ち塞がるようにシグナムが割り込む。

『超反省してます。 vita』即座に謝るヴィータ。

『筆跡をまねしきれていなかったし、内容もシグナムらしくなかったからわかりました。 はやて』

『次までに練習しておきます。 vita』

 その書き込みを最後に、沈黙がしばらく続く。無言がうるさいとさえ感じられる、恐ろしい静寂だった。
 外で水に濡れた道路を車が走る音がした。家の前を通って、遠ざかっていく。
 かばうタイミングを逃したはやては、ヴィータが毒針の餌食にならないことをただただ祈るばかり。
 ゆっくりとした呼吸を六度ほど終えたとき、ミミズがのたうち回ったような文字が、塩をかけられたナメクジみたいにゆるりゆるりとページの上を這った。

『二 度 と  し   ま』文章はそこで途切れた。元から途切れていたのではなく、一画一画と書き足されていく途中で途切れたのだ。

 今度こそはやては心の底から震えた。





 はやてを恐怖のどん底に陥れた最後の書き込みがまたも悪戯だったと判明し、哀れヴィータは夜まで姿を現せなくなったそうだが、闇の書の内側でなにが起きたのか、起きているのかは神のみぞ知る。あまり鍛えられていないはやての嗅覚でも、敢えて知ろうとはしない方がいいことを嗅ぎ取れたのだから、さぞかし厳しい状況なのだろう。はやてにできるのは、怒り心頭のシグナムにヴィータの減刑を控えめに求めることだけだった。
 以上のような経緯で、一人が姿を消して残るは三人となったヴォルケンリッターであるが、ザフィーラが発言することはほとんどないので、実質的にシャマルとシグナムの二人がこの日のはやての話し相手だった。しかし、会話はいまいち弾まず、すぐに風船みたいにしぼんでしまう。その度に誰かが空気を入れるのだが、焼け石に水とはこのこと、ついには会話と沈黙との比率が逆転してしまった。
 意識を向ける先が定まらないと、部屋の静けさがやけに耳につく。その静けさの中には、家の外から聞こえるわずかな雨の音が、紅茶に落とした角砂糖のように溶け込んでいた。
 七月も間近で日々の空気が熱を持ち始めたこの時期は、同時にしとしとと雨滴る梅雨の時期でもある。
 今日も朝から雨降り模様。空は鈍色、外は蒸し風呂、車椅子で外出するに向かないことは明らかで、けれどもはやては人間、食料を補給せねば干からびてしまう運命にある。それに、明日はあまり意味があるとは思えない検診に行かなければならなかった。
 憂鬱になるにはうってつけのコンディションである。
 近ごろのシャマルとシグナムはあれやこれやと話しかけてきてくれるし、今朝のヴィータ大暴れも、元気のない様子を心配してのことなのだろう。申し訳なく思う一方で、意識する度に頬が緩むのは仕方がない。仕方がないと言い訳する度にため息がこぼれるのは、これもまた仕方がない。合わせ鏡みたいにどこまでも湿っぽさが連鎖する昼下がりだった。
 こうなると、つけっぱなしのテレビの音もどこか空々しく聞こえるし、蛍光灯の白い光も薄暗く感じられてしまう。あらゆる感覚が、覆い被さった灰色のフィルタ越しにしか働かない。
 はやてがぼんやりと窓の外を眺めていると、部屋に沈殿する陰鬱な空気を打ち払うような乾いた音を、彼女の耳が捉えた。ぱらぱら、ぱさぱさ、と闇の書のページが奏でる少しだけくすぐったい音だ。

『はやてちゃん、ちょっと協力してもらってもいいですか? shamal』

「んぅー?」本が勝手に動く光景にもすっかり慣れた自分を認識しつつ、はやては首を傾げた。

『ヴィータちゃんの悪戯で思いついたんですけど、個人用のポストと宛先を作ろうと思うんです。 shamal』

「ほほう……」なにやら新鮮な響きに、エンジンがアイドリングを始める。

『今日みたいなことを防ぐためというより、個人的なお話ができた方が便利じゃないですか? shamal』

 いまの闇の書は、個人に向けた発言であっても他者の耳に届いてしまう。はやてから騎士へのものでも、騎士からはやてへのものでも、同じだ。例外は、騎士同士ならば日記帳のページを介さず言葉を交わすことができて、しかし、はやてはそれを聞くことができない、ということだけだった。
 現状、特に不満があるというわけではない。けれども、シャマルの提案を敢えて却下する理由も存在しない、むしろ、積極的に受け入れたい種類のものである。人間が利便性を追い求めるのは、もはや猫がネコジャラシに飛びかかるのと同じ次元の習性だといえよう。

「ヴィータにこっそり、シグナムやシャマルの胸のサイズきけるようになるってことやしな」人肌のぬくもりと柔らかさが愛おしいお年頃のはやてだった。

 守護騎士たちは、本来は肉体を持ってこの世界に存在できるはずだった、しかし、非常に残念なことに、その機能は原因不明の不調によって働いていない。彼女は守護騎士たちからそう聞かされていた。だから、シグナムとシャマルがちゃんとおっぱいを持っていることも知っているのだ。
 ちなみに、シグナムとシャマルのが大きいことを知らせてくれたのはヴィータだったが、本人たちも聞いていたため、ヴィータはそのときも酷い目に遭っている。シャマルの案が実現すれば、便利なだけではなく、次からは尊い犠牲が出なくて済むようにもなる。 

『そればかり使うようになるのはダメだけど、あると便利だというのは、私もそう思います。 はやて』

『それじゃあ、できるか試してみますね。ちょっと時間がかかりそうなので、しばらくの間、お返事できなくなります。 shamal』

『シャマルの仕事なので、なにか起きるかもしれませんが。 zafila』唐突にザフィーラが発言する。

「おー、珍しい」ザフィーラが発言すること自体が珍しいのだから、このような話題を振ってくるのは天変地異の前触れやもしれぬ。はやては密かにそんなことを考えた。

『ひどいです。 shamal』わずかに間をおいて、シャマルの書き込みがあった。思わぬ方向からのネタ振りに動揺したのか、文字が乱れている。

『とにかく、無理はしないように。 はやて』

『大丈夫ですよ。では失礼します。 shamal』彼女の文字は、まだ少しだけ崩れていた。





・6月28日 月曜日 雨
 夜になってもシャマルが出かけたまま戻ってこない、もとい闇の書がずっとだんまりのまま。
 シャマルだけではなく、シグナムやザフィーラの反応もない。ヴィータも夜には出てこられるといっていたのに、返事がない。こちらは別の意味でも心配。
 本当にシャマルがドジったのか、それともなにか急なトラブルでもあったのかもしれない。
 とても心配で、思わずお蕎麦を茹ですぎた(時間ではなく量!)。三人分くらいになりました。明日の朝ごはんもお蕎麦になりそう。
 朝になるまでには帰ってきてほしいです。
 できればお返事もほしいです。






 翌朝、闇の書は相変わらず沈黙したままだった。
 はやてはしょんぼりとしながらのびた蕎麦を食べた。
 窓の外では、昨日からの雨がまだ降り続いている。
 今日は診察日、壁のカレンダーがそう告げていた。

 



[8823] Nachthimmel 4
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/06/18 02:32


「はやてちゃん?」

「え……?」いつの間にか下に向いていた視線を、はやては持ち上げる。彼女の主治医が首を傾げてこちらを見ていた。「あ、はい、なんでしょう?」

「なんでしょうって、もう……」石田医師は小さく肩を落とした。それからすぐにいつもの表情に切り替わる。

 それを見たはやては、かっこいいなぁ、と心の中でつぶやいた。
 やはり、できる女はどこか違うのだろうか。
 美人の女医。
 脚のことを抜きにしても、自分ではなれそうもない。将来美人になれる可能性がないという意味ではないし、女ではないから女医にはなれないという意味ではもちろんなく、なにかを目指す意志とか熱意とか呼ばれるものを、はやては持っていないのだ。努力という炎を燃え上がらせるための燃料がない、とでもいうべきか。それとも、燃料はあっても着火するための火種がないのかもしれない。
 なににせよ、爆発的な推進力が生まれないことはたしかだった。

「いま話していたのは、次の診察日について。これはいつも通りで大丈夫?」

「えっと、すいません。はい、大丈夫です」

「怒ってるんじゃなくて、心配してるのよ」柔らかい声と微笑みのセットだった。「前回の診察のときも、その前のときも、上の空というか、心ここにあらずだったでしょう?」

「そうでしたでしょうか?」心当たりがあったので、自然と防御的な受け答えになった。

「なにかあった?」石田医師は優しくきく。

「……あったというか、ないのが問題というか」目を閉じて黙り、はやては喋ることをまとめた。「その……、最近、今月の初め頃に、友達ができたんです。前の診察のときまでは、夜遅くまで喋ってたりで、それで寝不足やったんですけど」

 なるほど、と頷く石田医師。どうやら睡眠不足は見抜かれていたらしい。そして、今日はそうではないということも。

「今日は違う?」

「ちょっと連絡つかんようになってて、それが心配で」

 などというやり取りがあった昼過ぎの診察。診察室から出るや否や、はやてはバッグを開いたが、闇の書はまるで本のように沈黙を守ったままだった。
 昨日からずっと、暇さえあればページをめくってたしかめている。その度に、彼女はがっかりすることになった。
 まだ一日経ったか経たないかという程度なのに、どうしてこれほどもどかしいのか。年がら年中、来もしないメールを求めて携帯電話をポチポチやる人そのものだ、と自分でも思った。おかげで、帰りに寄ったスーパーマーケットで下手な買い物をしてしまったり、レジでお釣りだけ受け取って帰ろうとしたり、タクシーの料金をぴったり支払ったつもりが足りなかったり、日常生活にも影響が出ていた。
 なんという打たれ弱さか。
 自分は持っていない、自分では手に入らない、という事実を受け入れることには慣れていたが、手に入ったものが指の隙間をすり抜けていくかもしれないという経験は、振り返ってみれば、ほとんどしたことがなかった。そのあたりは、脚と同じくすっかり麻痺した感覚だと思っていたから、自分の意外な一面を見つけたようで少しだけおかしかった。もっとも、それが慰めになるかといえば答は否だ。むしろ、彼女の気分はますます沈み込む。このままでは、しばらく浮かび上がってきそうにない。潜水艦みたいなはやての心である。

「ただいま」薄暗い玄関でつぶやいてみる。返事はない。

 屋内の空気は肌に張り付いてくるようだった。雨と汗で肌がわずかに湿り気を帯びており、また外と違って風が吹かないので、なおさらそのように感じる。
 さっそく闇の書を確認するが、変化はない。雨雲と同じくらい湿っぽいため息を漏らしてから、はやてはリビングに向かった。そこでバッグと闇の書、羽織っていた薄桃色のカーディガンを置いて、キッチンに向かう。
 食材と冷蔵庫はパズルだ。あまり出歩きたくないこの時期、たくさんのものを買い込むので、その難易度は高まる。しかし、はやてはあっさりと全てのピースをはめ込み、これであと一週間は戦える、と考えながら額の汗をぬぐった。それから、グラスに注いだ透明な水で、ずっと我慢していた喉の渇きを潤した。
 一息ついたはやては、スカートをぱたぱたと扇ぐ。しかし、座りっぱなしで篭もった熱がなかなか空気中に逃げないので、再びリビングに戻り扇風機のスイッチを入れた。
 彼女は生まれた風を闇の書に当てて、ページが自然にめくれる様子を再現してみた。
 とてもむなしいのでやめた。

「あ゛ー」はやては車椅子の上で上半身を前方に突き出し、扇風機の前で声を出した。「うぼあー、うぼあー、うぼあー」

 もっとむなしくなったのでやめた。

「ちらっ」闇の書を見る。変化はない。

 しばらく、はしたなくもスカートを持ち上げて風を招き入れ、十分に涼んだ後、彼女はリモコンを操作してテレビをつける。時刻は三時をすぎたところ。あまり面白い番組はやっていない。それでも、つけたままにしておく。番組を視聴するためではない。娯楽を求めて行動するなら、最初から自室で本を開いている。だから、これはしんと静まりかえった部屋に一人でいるよりはいくらかましだ、という判断だった。雑踏の音に包まれて安心できる人間がいるのと同じことである。あるいは、ちょうどいま聞こえる、本のページが擦れ合って生まれる紙の音を心地良いと感じるのにも近い。眠気を柔らかい羽根でくすぐられたら、きっとこんな脱力が訪れるに違いない。ぐぅ。

「―――って、闇の書!」タイムスリップのような睡眠から覚めたはやては、目を見開いて、バネ仕掛けに勝る勢いで跳ねた。その勢いで車椅子からドングリのように転がり落ちる。

 スローモーションで近づいてくる床。視界の端に映る窓の外は既に暗い。彼女は手を体の前に差し出そうとする。しかし、動きが鈍い。対照的に速い思考で、間に合わないと理解する。
 だが、お池にはまってさあ大変、ということにはならなかった。全身が何ものかに支えられたのだ。
 なにが自分の体を支えているのか、はやてには見えない。けれども、世界には、見えなくてもわかることがたくさんある。
 魔法だった。
 彼女のすぐ傍に、彼女と同じように闇の書が浮かんでいる。





『きっと天狗のしわざです! shamal』思ったよりも遙かに長い時間がかかった理由である。

『ほんとはシャマルがミスっただけ。 vita』さっそく告げ口するヴィータだった。

『シャマルはご苦労さまでした。それに、助けてくれてありがとう。みんなもお帰りなさい。 はやて』ペンを握る感覚が、はやては嬉しい。「あぁ、よかったぁ……」たった一度の安堵のため息で、色々とたまっていたものが体の外に押し流された。

『心配させてしまってごめんなさい。 shamal』

『ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。 signum』

『ただいま。 vita』

 三連続で言葉が続き、わずかに間が空く。
 はやてはじっと闇の書を見つめた。

『ただ今戻りました。 zafila』空気を読んだか、あるいは無言の圧力に負けたか、ザフィーラが遅れて発言する。

「はい、四人ともおかえりなさい」よくできました、と頷くはやて。『そういえば、ポストはどうなった? はやて』

 その書き込みの後、再び返事が滞る。また具合が悪くなったのかもしれない、とはやてが心配したとき、返事が来た。

『とても言いにくいのですが、失敗してしまいました。本当にすみません。 shamal』

「ちょ……」はやてはむせた。

 実に酷いオチだった。
 が、シャマルの文字がどことなく萎れている気がして、呆れやその他諸々の感情よりも先に同情が生まれた。彼女の性格を考えるに、きっと酷く恐縮していることだろう。
 そんなシャマルとは反対に、はやてはヴォルケンリッターを待ちわびる間に、個人宛メッセージ機能のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていたため、落胆はない。あったとしても、皆の帰還によってもたらされた喜びは、それを消し去って余りあるものだったに違いないのだから、シャマルがはやてのことを思って落ち込むのなら、それは落ち込み損である。

『気にしないで。みんなが帰ってきてくれただけで十分です。 はやて』

 三度目の間が空く。
 五秒ほど、はやては反応を待った。

『なんかシャマルとシグナムが感動してるみたい。 vita』

『ヴィータちゃんも。 shamal』素早くシャマルが指摘する。

『もったいないお言葉です。 signum』

 騎士たちこそが自分にはもったいない、とはやては思ったが、口には出さなかった。
 最近独り言が増えた彼女は、考えを声に出すと固体になって心の底に長く沈殿することを知った。だから、できるだけ嬉しいことだけを声に出そうと決めていた。

「さーて、みんなが戻ってきて元通りになったことやし、私は晩ご飯作ろかな」同じ内容を、闇の書に書き込む。

 はやては皆に見送られながらキッチンに向かった。
 もう遅い時刻なので、手早く作れるメニューをいくつか選んで完成を目指す。昼頃までとはうって変わっての上機嫌だった。包丁とまな板を使い、ノリノリでリズムを刻んでみる。豆腐がペーストになった。
 その晩のご飯はとても美味しかった。
 自分の幸福でメシが美味い!





・6月29日 火曜日 雨
 診察日。石田先生には、新しく友達ができたということにしてみんなのことを少しだけしゃべった。
 図書館で知り合ったという設定。自分で忘れないようにここに書いておく。
 個人宛のメッセージ機能はできなかったけれど、みんなが帰ってきてくれたのでうれしい。シャマルもあまり気にしないでください。

 p.s.ベルカには天狗がいたのですか? 天狗ポリスとかもいたのでしょうか?






 翌朝はやてが見た返信より抜粋。

 p.s.ベルカには存在しなかったように思います。少なくとも私は見たことがありません。
 p.s.もしかしたらいたかもしれません。
 p.s.ここ何十年かは管理局ポリスが張り切っててうっとうしいみたいです。
 p.s.人面犬ならいたかもしれません。




【残り547ページ】
 



[8823] Nachthimmel 5
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/06/18 02:33

 みんなへ

 今日はなんだかすごい夢を見ました。
 夢の中の私は、闇の書片手に秘密結社の幹部になって、正義の魔導探偵をちぎっては投げちぎっては投げ、大暴れしていました。それに、闇の書がきれいな銀髪赤目の女性に変身していました。巨大ロボットもたくさんいたような気がします。
 ちなみに、こんなわけのわからない夢をみんなに説明したかったわけではありません。疑問を思いついたきっかけとして紹介したかっただけです。
 つまり、必要に迫られたのではなくて、ただ興味からの質問だということです。なので、あまり真剣には考えず、はっきりと答えてくれて構いません。
 前置きが長くなりました。
 私がみんなに尋ねたいのは、私にも魔法が使えるのかどうか、ということです。

 はやて






『恐らく不可能かと。 si』

 一撃でござった。

「むーん」はやては口をとがらせる。不満なのではなく、不満を装っている。少しだけ頬が熱い。特に根拠らしい根拠もないまま、自分は魔法を使えるはず、という確信めいたなにかを感じていたので、あっさり否定されたのが恥ずかしかった。

『ちなみにどんなの使いたいの? vi』ヴィータが尋ねた。

『空を自由に飛びたいな。 はやて』はやては答える。

 外では無理だとしても、屋内で空を飛べたら色々と楽になる。彼女が住むのはバリアフリーの住宅だが、それはマイナスをゼロに近づけるためのものである。料理をするときも、トイレや浴室を使うときも、車椅子だとなかなかどうして手間が多いのが現実だった。

『きっとそのうち車イスも魔法もいらなくなると思う。 vi』

 つまり、歩けるようになるということ。しかし、そのあたりについては、ちょっと懐疑的なはやてである。

『そうかな? はやて』首を傾げつつ書く。

『そう。 vi』
『なります。 za』
『良くなります。 si』
『いずれ良くなります。 za』
『きっと治りますよ。 sha』
『治るはずです。 za』

 はやては驚いた。目が丸くなっているだろう。少し遅れて、同じように口も開いていることに気がついたので、ゆっくりと閉じた。
 ときどきこのように、タイムラグなしで騎士たちの書き込みが連なるが、今回は特に速い。ほとんど一瞬だったので、記録が残る日記帳という形式でなければ、発言の順はわからなかったはずだ。現れた全ての文を同時に読もうとした目が混乱して、上下に行ったり来たりを繰り返したほどだった。

「そかそか」はやては膝を撫でた。自分が少し困ったように笑っているのがわかる。「まあ、みんなが口そろえて言うんなら」

 ほんの少しだけ素直になれそうな気がした。
 希望に満ちた自分の将来は信じられなくとも、騎士たちの言葉になら心を寄りかからせることができる。いつの間にか、そういう風になっていた。

「さて……、素直になったところで、そろそろツッコミ入れなあかん時間がやって参りました」はやては華麗なペンさばきで文字をつづる。『みんなありがとう。ザフィーラは落ち着きたまえ^^  はやて』きちんとお礼をしてから突っ込むジェントルなはやてだった。

『自重します。 za』

『魔法が必要なときは、言ってもらえればお手伝いしますよ。 sha』すかさずシャマルが身内の失態をフォローするため話を別方向へと持って行く。

『そのときはよろしく。 はやて』

 そのときは、その日の内に訪れた。
 真昼の図書館である。ここぞとばかりに働く冷房によってもはや屋外とは別の世界になっている館内にて、はやては困っていた。
 本に手が届かない。しばしばあることだった。だから、興味の湧いたタイトルを頭の中にメモしておき、後でまとめて職員に取ってもらうようにしている。しかし、いま彼女は手を伸ばしている。あと少しで届きそう、あと少しが届かない、そんな位置にあるものだったから、どうにか自分の手で取ろうとしていた。
 中指の側面と人差し指の爪が、本の端に触れる。あと数ミリ奥まで届けば、指で挟んで引っ張れそうな状況。
 これ以上は無理だった。
 はやては周囲を見回して、人目がないことを確認してから闇の書を開いた。

『腕が長くなる魔法はない? はやて』

 返事の代わりに、本棚からひとりでに抜け出した本が膝の上に着地した。

「……腕を長くするってなんやねん」しばしの沈黙の後、思わず自分につっこむはやて。「えと、次の本は」シャマルにお礼を書いてから、車椅子を右に向け通路を進もうとしたところで、彼女は見つけた。「あ……」

 先ほど本を取ろうとしていたときの背後、つまり現在は右手側にある本棚、その歯の欠けたくしみたいに本のない隙間から、こちらを見る瞳。
 そこには驚きの色しかない。
 もちろん、相手が見るはやての顔にも原色の驚きしかないだろう。こんなに驚いたのは随分と久しぶりだった。もしかしたら、自分では気づかなかったが、体全体で跳ねたかもしれない。
 魔法を見られたのは明らかだった。
 どうする?
 自問するが、答が出ない。
 答より先に、言葉が出た。

「ノ、ノー、いまのは魔法やなくて……、えっと、そう、最新の科学技術! イギリスの諜報組織のボスにして英国紳士なグレアムおじさんがプレゼントしてくれた、超空間重力装置HGS搭載のスパイ用の秘密道具! 魔法とかじゃないんよ! インディアン嘘つかへんアル!」

 徹頭徹尾メチャクチャだったが、幸いにも目撃者の少女は頷いてくれた。それはもうカクカクと、関節の壊れた人形みたいに。
 だが、この瞬間だけの幸運に頼るわけにはいかない。
 いざ口封じへ。
 はやては珍しく、積極的に他者へと働きかけようと決めたのだった。





 月村すずか。
 それが、彼女の名前だった。
 年齢ははやてと同じ。私立聖祥大学付属小学校に通う二年生。
 聖祥といえば、白くて可愛らしい制服を見かけたことがある。今日のすずかはそれを着ていなかったが、きっとよく似合うはずだ。綺麗な黒髪との組み合わせは、とても映えるだろう。頭の中で彼女を着せ替え人形みたいにして、はやてはそう結論した。

「うん、これでメールも電話もできるね」そう言って、すずかは微笑んだ。

 普段から連絡を取れるよう、アドレスの交換を提案したのはすずかだった。別れ際に彼女が言いだすまで、はやては思いつきもしなかった。というより、図書館で出会った同好の士とのお喋りが楽しくて、遠くのことがすっかり見えなくなっていた。だから、すずかが申し出たことで、はやては喜ぶと共にほっとしたものだった。この場だけで終わりにならなくて良かった、この場だけで終わっていたなら後悔していただろう、と。
 また、すずかは目撃したものについてはなにも尋ねなかった。近づかない方が安全と判断したのか、気を遣って見なかったことにしてくれたのか。ほんの三十分ほどの会話を通して、はやては後者だと確信した。同年代と比べれば子供らしくないと自分を評価しているはやてだったが、すずかは子供らしくないのではない、大人っぽいという言葉が相応しい。斜に構えたところが全く存在せず、綺麗にしなる枝みたいな印象。他人に優しくするのがとても上手な人。

「それじゃあ、またね」すずかが手を振る。

 またね。素敵な響きだ。

「ん、またー」手を振り返す。

 それからはやては数冊の本を見繕い、カウンターで貸し出しの手続きを行ってから帰路についた。
 道中、燦々と降り注ぐ太陽光に日傘で対抗したものの、暑いものは暑い。汗で濡れたシャツが背中に張り付いているのが気持ち悪かった。屋外での唯一の安らぎは、瑞々しい葉をつけた木の影に入ったときだけである。そこに風が吹けば、ひんやりとした感触がたまらなく心地良かった。しかし、実際にそのような場面に出くわすことはほとんどなく、したがって、家にたどり着く頃にははやてはすっかり干からびてしまっていた。まだ七月前半だというのに、これから先が思いやられるというものだ。
 そんな彼女が劇的に復活したのは、ポストにの中に見つけた一通の封筒が原因だった。
 赤と青のラインが縁を彩るそれは、エアメールと聞いて最初に思い浮かべる人も多いであろう典型的なものだ。そして、はやてにとっては更にもう一つの意味を持つ封筒でもある。
 そもそも手紙というものを受け取ることがほとんどない彼女であるが、この封筒だけは例外で、これを使って定期的に手紙を送ってくれる人がたった一人だけ、いる。だから、手紙そのものにも、そしてこの封筒にしても、最初に連想するのはその人のことだった。
 既に亡い両親の友人にして、財産管理などの煩わしさをはやてから遠ざけてくれている恩人。
 グレアムおじさんことギル・グレアムがその人である。
 逸る気持ちを抑え、はやてはまず着替えた。そして、乾いた衣服の肌触りを感じながら、机に向かった。
 引き出しから少しおしゃれな銀色のペーパーナイフを取り出す。
 それを使って封筒を開き、丁寧な手つきで便箋を取り出す。
 白くまぶしい二枚の便箋に、綺麗な文字が綴られている。もちろん日本語だ。グレアムおじさんは実に多才なのである。
 内容は、はやての身体を気遣う言葉、近況を尋ねる言葉、その他諸々。いつも通りといえばいつも通りだったが、それでも嬉しい。
 新しい友人ができたり、グレアムおじさんからの手紙が届いたり、今日はとても運のいい日だ。そんなことを考えながら、はやてはもう一度手紙を読み返すことにした。





・7月10日 土曜日 晴れ
 すずかちゃんと知り合い友達になった。
 グレアムおじさんから手紙が届いた。
 いいことが重なって嬉しいけれども、少しだけ怖い。貯金を切りくずすというか、借金ができたというか。いいことがあった分、いつか悪いことがありそう。
 それはともかく、これを書き終えたら、メールをして、手紙の返事を書こうと思う。
 本当はすずかちゃんとグレアムおじさんに、ヴォルケンリッターのみんなを紹介してあげたいのですが、できないのが残念です。紹介したいという私が、まだみんなの姿を見たことがないというのもおかしな話ですが……。
 というわけで、今さらですが、もしよければみんながどんな姿をしているのか教えてください。

 はやて






 翌朝はやてが見た返信より抜粋。

『シグナムはなんか剣とか持っててポニーテールでつり目です。あと背が高くておっぱいも大きいおっぱい魔神です。 Vita』
『ヴィータちゃんは小さくて可愛いけれど、とても頼りになりますよ。でもシグナムには弱いみたいです。 Shamal』
『ザフィーラは狼です。 Signum』
『シャマルは最年長で一番の美人です。 zafila』


「ほんまかいな……」読み終えたはやては呟いた。見えないところで何があったのかを考えながら。



【残り482ページ】







~・~・~・~・~・~・~・

・超空間重力装置(Hyperspace Gravity System)
 どこかのインディアンの部族が開発した重力制御装置。というはやての脳内設定。彼女自身、思いついてから三秒くらいで忘れたそうな。
 



[8823] Nachthimmel 6
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/06/13 16:52
 
 毎日が日曜日な八神家の主であるから、日曜日の朝だけ素早く目が覚めるという経験をしたことがなかった。元より朝に弱いというわけでもない。毎朝がフラットである。
 そんな彼女が、どうしたことか、この日、朝早くに勢いよく上半身を持ち上げて目覚めた。

「初・体・験!」わーい、と両手を挙げてはしゃぐ異常なテンションのはやて。枕元の時計に目を向ける。「あらー、まだ四時半やった」

 カーテン越しにもわかる、白み始めた空。
 部屋の空気は既に暑い。薄い生地のパジャマを着ていても、うっすらと汗をかいている。窓は開いているが、せっかくの網戸も風がなくては威力が半減だった。
 くぁ、とあくびを一つしてから、はやては目尻の涙をぬぐう。
 眠気はすっかりと退散していた。二度寝をする気分ではない。昨晩眠りに就いた時刻が早かったので、睡眠不足の心配もない。

「んー……、シャワーでも浴びよかな」

 朝からというのは彼女には珍しかったが、今日は積極的になる条件がいくらか揃っている。
 着替えの服に涼しげなものを選び出し、つま先を扉へと向ける、より先に机に近づいた。
 眠ったように動かない闇の書をそっと開き、最新の書き込みをチェックする。昨日の日付は7月24日。日記の最後に騎士たちへの質問を添えたので、目にするのは彼らからの返答だろう。

「ありゃ」という予想は当たらず、はやてが見たのは自分の文字だけだった。「そっか、いつもはみんな、早起きして返事書いてくれてたんかなぁ」

 今日は自分の方が早起きだったので、こうなったのだろう。そう考えて、はやては先ほどと同じように静かに本を閉じた。そのとき、動物の背中をそうするように闇の書の表紙を撫でる。手に馴染んだ感触は、それだけで一種の安堵をもたらしてくれた。スポーツ選手には、勝負に臨む前にいつも同じ動作を見せる人がいるが、あれは意識を変容させるための儀式なのだと聞く。闇の書に触れるのも同じことだ、と彼女は自身を分析した。ただし、緊張と弛緩、方向はまったくの逆であるが。
 ぬるま湯のシャワーを浴び、浴室を出る直前に温度を下げた水に切り替えれば、身も心も引き締まった。更衣室では、すぐに乾いたタオルで全身をぬぐう。そして、清潔な衣服を身につけ、ドライヤーで髪を乾かす。
 こうして爽やかな朝を手に入れることに成功したはやては、有り余る時間を使って朝食を強化しようと思いつき、さっそくキッチンを目指す。到着するまでの道のりで、だいたいの方針は決定していた。
 冷蔵庫から食材を発掘して、目録の制作を待つ宝物のように並べる。完成したときに元の形が残るのは、鮭の切り身と豆腐だけ。それらを飾ったり、あるいは極めて小さく細かく細くなるのが他の材料だ。

「ふふふ、この根菜め、観念しー」朝っぱらからゴボウを握りしめて妖しく笑うはやてである。

 彼女はまず、鉛筆をナイフで削るみたいにして、愛しのゴボウを斜めに切って切って切った。それをボウルに満たした水に放り込み、次にニンジンの皮をむいて薄切りにし、続いて赤唐辛子を刻む。ゴボウのアクが抜けるまで、十分と少し待たなければならないので、その間に別の材料をやっつけることにする。
 大根と少量のショウガを頑張って摺り下ろす。次いで水気を切った豆腐を適当なサイズに切り分け、片栗粉をまぶしてから、転がしながら油で焼く。全面が焼き上がったところで火を止め、豆腐の油を切れば、再びゴボウとの戦いに戻らなければならない時間だった。
 ごま油を敷いたフライパンを強火にかけ、ちょっと待ってから水切りしたゴボウをそこに加える。そして、水攻めを耐え抜き強気だったゴボウがついに根を上げ始めたところでニンジンを追加し、更に痛め、もとい炒めた。とどめに調味料、すなわち酒と砂糖と醤油と赤唐辛子を適量追加し、汁気が飛ぶまでどんどん炒め合わせる。

「わーい、でけたー」

 完成したきんぴらごぼうを僻地に追いやるや否や、はやては鮭の切り身を魚焼きグリルに突っ込む。そして、ジュウジュウと焼ける音を聞きながら、餡作りに取りかかった。先に作っておいた大根とショウガおろしは、ここで使った。
 ややとろみの弱い餡ができあがり、それをカリッと焼けた豆腐にかけてから刻んだネギの緑色を散らせば、揚げ出し豆腐のできあがりだった。最初は冷や奴にするべきか迷ったが、昨晩の味噌汁を冷蔵庫で冷やしていたので、ちょっと手間をかけて別の方角へと進んでみたのだ。
 最後に、鮭が焼き上がるのを待ちつつ卵焼きを作り、朝ご飯は完成した。
 はやては見事に多面作戦を勝ち抜いたのだった。

「ヒャッハー! 炊飯器セットしてなかったー!」

 誰が言ったか、戦いは始まる前に勝敗が決している。
 真に至言である。





 この朝、遠足の日を迎えた小学生が如き早起きをはやてにもたらしたのは、一つの約束だった。
 知り合ってから二週間ほどが経ち、ついにすずかが八神家に遊びに来ることになったのだ。
 元気がほとばしってやまずにいたはやては、ご飯が炊けるまでの時間でもう一品、すなわち手作りドレッシングのサラダが増えた朝食を食べ終え、そわそわしながら自室に戻った。より正確にいえば、そわそわしたまま自室に戻った。いつもより少しだけ手の込んだ食事を前にしているときから、ずっとソワソワモジモジしていたのだ。
 ちなみに、目覚めた瞬間からの奇妙なテンションは、炊飯器の失敗で跡形もなく消え去っていた。あのままでいたら、すずかを歓迎するためにトゲトゲを装備し、ついでにモヒカンになっていたかもしれない。いまとなっては思い出したくもない黒歴史である。炊飯器をセットし忘れた昨晩の自分が偉大すぎて、なおさら酷さが際立つというものだ。
 部屋に戻って最初にしたのは、時計を見ることだった。
 まだまだ約束の時間までは長い。
 することもなく過ごす時間は長いが、楽しみを待ちわびる時間もまた長いものである。ただし、前者はじれったい退屈に、後者はくすぐったいもどかしさに満ちている。
 視線を時計から引きはがし、机の上に。この時になって彼女は初めて気がついた。いつもの起床の時間を大きく過ぎているのに、闇の書が眠ったままだ。

「今日はみんなお寝坊さんやなぁ」はやてはのほほんとして言った。

 しかし、数時間後に同じ言葉は口にはできなかった。
 まるで眠り姫のように、闇の書はぴくりとも動かない。
 ページをたしかめてみるが、騎士たちの新しい書き込みは見あたらない。
 以前そっくりな状況になったことがあるから、その時ほどは動揺が大きくない。けれども、今回は予兆がなかった。シャマルが再び個人用のポストを作ろうと試みるなら、一声かけるぐらいはするはずだ。
 そのとき、はやてはふと思いついた。仕事を一晩で終わらせ驚かせようとしたところ、見事にドツボにはまったシャマルの図。

「ありそう……」

 今の内に、しょんぼりなシャマルにかける言葉を考えておかねばなるまい。
 まるで保護者みたいなことを考えている自分がおかしくて、はやては小さく笑った。
 いつの間にか、変なところで心が強くなったようだ。きっとヴォルケンリッターのおかげだろう。新しく得たその前向きな部分が発揮されるのが、専ら闇の書の騎士たちに対してであるあたり、彼らは自給自足しているといえなくもない。
 では、自分は自給自足できているだろうか。はやては考える。自分は騎士たちに、良い影響を与えることはできただろうか。
 ちょっと自信がなかった。
 皆は楽しそうにしているが、それは最初からだ。
 いや、違う。すぐに思い直す。最初の最初だけは、彼らは畏まっていた。
 最初の数ページほどを、互いの距離を測るために使った。たったそれだけで、打ち解けることができた。
 よく覚えている。
 目を閉じれば、すぐに思い出せる。
 でも、閉じなくても、思い出せる。
 そのための日記だった。
 闇の書はタイムマシン。表紙を開けば、いつでもタイムスリップできる。

「あはは」最初のページを開いたはやては、すぐに声を出して笑った。「そやそや、このときのヴィータ、まだぎごちない丁寧語やった」

 皆の発言を追いながら、しばし記憶のさざなみに身を任せる。
 密度の濃い年代記は、しかし、これでも鍵でしかなかった。この鍵によって、心の奥底にある宝箱が開かれるのだ。
 そこに仕舞われているのは、あらゆる感情の余韻。
 ときどき取り出して、味をたしかめてみる。苦いものもあれば、甘いものもある。時間が経つことによって、味が変わってしまうものも少なくない。冷蔵庫ではなく宝箱なのだから、当然のことだった。もちろん、美味しくなることもあれば、味わえなくなることもあった。
 ゆりかごみたいに安らかで、冒険みたいに手に汗握る時間は、あっという間に過ぎていく。
 はやてを現実に引き戻したのは、メールの着信を知らせるメロディだった。そのとき、最初から読み進めた日記は6月28日まで進んでいた。奇しくもそれは、以前に闇の書が不具合を起こした日付であった。そして、その翌日にはきちんと元通りになったことをはやては思い出す。それが不安を追い払う力になった。
 自分でもわかるほど、心は良い状態だった。
 携帯電話のディスプレイを見る。
 メールは、二時過ぎ頃にお邪魔してもいいですか、という内容。当然、すずかからのメッセージ。

「いつでもお待ちしています……と」めるめるめると打鍵して、最後に送信ボタンを一つ。





 日記を読み返すのと、すずかと共に過ごすのと、果たしてどちらの方が時間の流れが速かっただろう。
 時計の中に住む妖精さんの存在を疑わずにはいられない一日だった。
 すずかは先ほど、黒塗りの大きな車に乗り込んで帰っていった。彼女が来たときは玄関で出迎えたはやてだったから、見送るときに初めて目にしたそれには大変驚いた。言葉や仕草の一つ一つに、オリーブオイルのように丁寧に塗り込まれて体の一部となった上品さが感じられたため、いい家のお嬢さんなのだろうとは思っていたが、まさか友人宅に遊びに来るだけであの自動車が出動してしまう程とは。
 そんな驚きも、既に太陽と共に地平の彼方に沈み込み、いまは静穏の空気が夜を満たしている。
 そうなって初めて聞こえてくるのは虫の声。そして風の音。
 不意に気配を感じて振り向くと、闇の書がすぐ傍にふわりと浮いていた。

「わっ!」はやては驚いた。「もう、びっくりやぁ……」胸をなで下ろす。それから闇の書を手招きして、背表紙を撫でた。「おーきにな。待っててくれたんやろ?」

 たぶん、闇の書はずっと前に目覚めていたのだ。出てくるタイミングを見計らっていたのだろう。
 理由は、すずか。
 初めて出会ったときに目撃されたとはいっても、魔法なんて人に告白できる類の秘密ではない。すずかに隠し事をするのは気が進まないが、これは秘密にしておくべきだとはやての大部分が告げている。つまり、常識的な判断だった。
 しかし、常識的で正しい判断でも、納得しがたいことは多い。
 いつか友人たちを紹介してくれると言ったすずかに対して申し訳ないと思うと同時に、はやての胸には幽かな対抗心めいたものが生まれていた。もっとも、それは嫉妬と呼ぶには健全すぎるものだったが。

「ほんまにみんなのこと紹介できるようになればえーんやけどなぁ」

 さておき、いまは紹介よりもおかえりの挨拶だ。
 予想通りにしょんぼりしたシャマルの文字に苦笑しつつ、はやてはストックしておいた慰めの言葉を取り出すことにした。





・7月25日 日曜日 晴れ
 今日はすずかちゃんが遊びに来てくれた。
 小学校がもうすぐ夏休みになるので、時間が取れるようになるとか。なので、近いうちに友達を紹介してくれるそうです。
 すずかちゃんの学校では、夏休みの宿題がもう出たと言っていた。一方、毎日が夏休みの私にはテストも宿題もないのであった。
 最近あんまり勉強していないし、ちょっとがんばらないといけないかも。
 個人用のポストについては、またまた残念なことになったけれども、シャマルやみんなががんばってくれたことはちゃんと伝わってきました。
 ありがとう。それに、おつかれさまでした。
 おかえりなさい。




【残り390ページ】
 



[8823] Nachthimmel 7
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/07/26 05:27
・8月10日 火曜日 快晴
 今日は特別な日。とても素敵なことが起きた。






 浮遊感がはやての目を強制的に覚ました。直後、彼女の体はひっくり返ったピザみたいに床に着陸する。

「むぎゅ」

 交通事故に遭ったカエルもかくやという見事な潰れっぷりを披露したはやては、何が起きたのかわからなかった。
 なにか、夢を見ていた気がする。
 夏野菜カレーを食べる夢だと思ったが、すぐにそれは昨日の夕食の記憶だと気がつく。
 それでは、本当に見ていた夢はどんなものだったのか。
 思い出そうと頑張るが、無理だった。漸近線みたいにもどかしい感覚だけが頭の中に充満するだけで、求めるものは手に入らない。そもそも、なぜ思い出そうとしているのかもわからない。
 不快なモヤモヤを残したまま諦める頃には、ひんやりと冷たかった床に体温が移っていた。その生暖かさで、はやては自身が床に這いつくばっていることを認識した。
 網戸とガラス窓とカーテンで濾過された日光が、部屋を薄明るく照らしている。どうやら朝らしい。
 頭にかかった霧もだんだんと晴れてきた。

「ベッドから落ちるなんて初めてやわ……」はやては床に張り付いたまま呟いた。

 幸いにしてベッドはそれほど高くない。頑張れば上り直すこともできそうだ。
 両手を床について、オットセイみたいな体勢を作る。
 背中を反らせることによって頭を高く持ち上げ、あごをベッドの端に引っかけるようにして乗せる。
 床から手を離し、すかさずベッドの上、頭の両横に置く。
 腕に力を込めて、体を持ち上げる。
 上半身で乗り上げた後は、腕と胴体を上手く使って這い上がる。
 こうして一仕事終えたはやては、しかし、息一つつく暇もなく硬直した。

「……えっと」首を傾げる。「誰?」

 視線の先には、枕を抱きかかえて寝る幼女。あどけない寝顔が、はやてとそう変わらない年齢であることを告げている。

「んん……」幼女が寝返りを打つ。「はやてぇ……」

「え? ヴィータ?」眠りの甘みがブレンドされた声で名前を呼ばれた瞬間、それが誰であるかをはやては直感した。

 直後、ごろりんと寝返りをうったヴィータの小さい体に押されて、はやてはまたもやベッドから転げ落ちた。

「むぎゅ」

 再びオットセイになった彼女は、めげずに、でもちょっと涙目でベッドをよじ登った。そして、すっかり目が覚めてしまったので、三十分ほどじっくりとヴィータの寝顔を観察してから、はっとする。
 急いで闇の書を開く。
 しかし、昨日の日記に対する騎士たちからの返事は、ヴィータのことには特に触れていなかった。なので、本人から説明があるのだろうと推測し、再び寝顔を眺めることにした。
 更に三十分経ったが、飽きは一向に来る気配がない。
 このままヴィータが起きるまで眺め続けるのも楽しいだろう。けれども、ここではやてはもっといいことを思いついてしまったので、後ろ髪引かれつつも部屋を後にすることになった。
 向かう先はキッチンである。
 火を扱うそこは冷房をつけてなお暑かったが、それを上回る情熱で以て、はやては立派な料理を作り上げた。それもこれもヴィータを喜ばせたい一心によるものだ。料理は愛情などというが、初めて他人のために料理を作ったはやてには、その言葉が酷く納得いくものに思われた。

「あーん、もうあかん、脳がフットーしてしまいそーや」はやてはくねくねした。

 自分でも危ないと思うほど、心が躍っていた。これが最高にハイってやつなのだろう。いまならその辺を走っているロードローラーだって持ち上げられそうだ。
 キッチンとダイニングルームを行ったり来たりして、ちょうど全ての皿をテーブルに並べ終わったときのことだった。
 廊下を走る大きな音を、彼女の耳が捉えた。
 ドラムみたいに激しい足音はどんどん近づいてくる。

「はやて!」叫び声が部屋に飛び込んできた。それを見たはやては、ボウリング玉を連想する。

「おはよーさんやー。えっと、ヴィータでええんかな?」

「あ……、うん」

「そか」はやては微笑む。「ほんならヴィータ、まず朝ご飯に……、と、その前に着替えなあかんな」黒い粗末な服から視線を外し、天井に向けて数秒の思案。それでコーディネートは完成した。「うん、サイズも同じくらいやし、いまは私の服で我慢したってな。ほら、そうと決まればもっかい部屋に戻るでー」

 あまりに普通なはやての様子につられてか、ヴィータは素直に頷き返す。
 はやては、つい先ほどまでの気の昂ぶりが嘘のように落ち着いていた。目覚めたヴィータを前にした途端、自分でもどうしてなのかわからないが、そうなったのだ。
 しかし、熱から醒めたわけではない。
 真夏のギラギラ輝く太陽から、春の柔らかい日ざしに変わったようなもの。言い換えるなら、自身を満たそうとする一種の攻撃的なところがなくなって、逆に、色々なものを上げたいと思うようになった。求める交換の方向こそ劇的に変化したが、交換したい、関わりを持ちたいという根本の部分は何一つ変わっていない。
 要するに、幸せだということだ。





「メシウマ!」
「デカウマ!」
「ヘクトウマ!」
「キロウマ!」
「メガウマ!」
「ギガウマ!」
「テラウマ!」
「ペタウマ!」
「エクサウマ!」
「ゼタウマ!」
「ヨタウマ!」





「こやつ、やりおるわ。全て平らげおった」はやては弟子の秘められし力に戦慄を禁じ得ない老師の口調で呟いた。

「もうお腹いっぱい」あれだけの料理をどこに格納したのか、小さいままのヴィータが言った。「ごちそうさま、はやて」

「はい、おそまつさま。お茶飲む?」

「うん、ありがと」

 尋ねるよりも早く、はやては急須から熱い緑茶を注ぎ始めていた。その様子を、ヴィータがじっと見つめている。
 湯気を立てるマグカップ。ふわりと広がる香り。冷房の効いた真夏の室内と組み合わせれば、なかなかの贅沢品である。

「熱いから気をつけてなー」

 ヴィータはマグカップを小さな手で受け取って、口元に運び、ゆっくりと傾ける。ちびちびと熱いお茶を啜る姿は、両手で大事そうにカップを抱える仕草や、その小柄な体格と相まって、小動物のように見える。今度はその様子をはやてが眺める番だった。
 視線にエネルギーが宿るなら、間違いなく華奢な体を貫通していただろう。そして、それほど熱心に見つめられれば、見られる側が気づくのも当然のことだった。

「……なに?」

「なんでもー」はやては自分がニコニコとしているのがわかった。一歩間違えれば頬が落ちてしまうかもしれない、と思う。

「あそう……」困惑顔のヴィータは、視線をマグカップの水面に戻した。が、一分も経たない内に耐えられなくなって、再びこちらを向く。その視線が、先ほどと同じ質問をしていた。

「なんでもないよー、気にせんとってー」

「…………うん」ヴィータはますます困った顔になる。それが可愛らしくて、はやてはますます喜んだ。

 同じようなやり取りが、お茶が冷めるまで続いた。
 頑張って息を吹きかけた甲斐あってぬるくなったそれを一気に飲み干し、ヴィータははやての方を見る。
 目が合う。
 唐突に、ヴィータは自分の顔を両手で挟むようにして叩いた。パン、と乾いた音が鳴る。

「ど、どないしたん?」はやてはびっくりして尋ねる。

「気合い入れただけ」ヴィータが答えた。彼女の真剣な瞳が、はやてをまっすぐ見る。「ごめん、はやて」

「え?」

「最初から……」しかし、言葉はすぐに失速し、目がわずかに揺れる。それでも、はやてから逸れることはなかった。やがて口が開く。「……本当は、あたしだけは、最初から出てこられたんだ。それに、闇の書があっても、やっぱり広い家に一人でいるのは寂しいって知ってた。でも、出てくるつもりはなかった。だから、ごめん」

 はやては返事をせずに、しばらく黙っていた。
 怒っているのではない。ただヴィータの発言を分析し、考察していただけだ。そちらの回路が熱を上げるほど回転しているせいで、感情にまでリソースを回す余裕がなかった。
 耳で聞き取った言葉を、頭の中で繰り返し再生して、精密機械のようにスキャンする。そんなイメージを抱いたときには、既に答にたどり着いていた。

「出てこられるんはヴィータだけ?」

 はやての予想通り、ヴィータは頷く。

「そんなら仕方ない。ヴィータも優しいから……」はやては微笑む。「シグナムかシャマルか、それともザフィーラ……、んー、みんな言いそうやけど、でも、そう……、最後に背中押したんはシャマルかな」

「うん。自分たちのことは気にしなくていいから、はやての傍にいてあげてほしいって」

「そう言われても、気にならんはずないもんなあ。それに、みんなの方こそ闇の書の中で寂しかったんとちゃうか?」手を伸ばして、はやてはヴィータの頬に触れた。「みんなに謝らなあかんのは私の方や。ヴィータを取ってしまってごめんな、って」

「ううん」ヴィータは首を振る。「あたしたちは、はやてがいたらそれだけでよかったから。でもさ、シャマルは寂しがり屋だから……、だから、はやてがたくさん話しかけてあげてよ」

「そうなん?」はやては尋ねる。いまいちイメージに合わなかった。「シャマル、寂しがり屋?」

「え? あ、いや、あたしが言ったってことは」ヴィータはここまでの態度と一転、大慌て。大げさに見えるが、真面目な表情と同じく、こちらも地なのだろう。

 はやては不意に、梅雨明けの空を思い出した。雨降りばかりだった空が、青く晴れ渡った日のこと。
 もう一ヶ月以上も前だ。

「あはは、安心しー。言わへんよ」

 今日の空も、雲一つ見あたらない。
 綺麗に晴れている。





・8月10日 火曜日 快晴
 今日は特別な日。とても素敵なことが起きた。
 ついにヴィータと一緒にご飯を食べることができました。
 ヴィータは美味しいと言ってくれた。安心です。
 そして、シグナム、シャマル、ザフィーラの三人に謝らなければいけないことがあります。
 みんなからヴィータを取ってしまってごめんなさい。
 みんなは闇の書の中に三人きりで寂しくはないですか?
 これからは、みんなでもっとたくさんお話しましょう。






 翌朝はやてが見た返信より抜粋。

『我々は闇の書から出ることはできずとも、主はやての姿を見ることができます。それだけで寂しさを感じることはありません。あまり心配しないでください。 Signum』
『ヴィータちゃんをよろしくお願いしますね。きっと楽しい生活になりますよ。 Shamal』
『我等のことは気になさらず、主はやてはご自身の生活を第一にお考えください。もしそれでもと仰るなら、ヴィータにかかる手間で帳消しにして頂ければ。 Zafila』




【残り290ページ】

 



[8823] Nachthimmel 8a
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/06/21 10:24
・8月15日 日曜日 くもり


「朝ごはん! 朝ごはん!」

「メシ! メシ!」

 二人は一緒に朝食を作っていた。
 八神家の主としては、自分の料理をヴィータが美味しそうに食べてくれるのが嬉しいのだが、しかし、実際にこうやって二人でキッチンに立つと、これがなかなかどうして悪くない。それらのことを抜きにしても、そもそもヴィータがやってみたいと言ったことを退けるはやてではなかった。

「あ、ヴィータ、乾燥ワカメいきなり入れたらあかんよー」はやては昔を思い出す。「私が初めてお味噌汁作ったときなんか、乾燥ワカメが大反乱起こしてえらいことに……」

「へー」

「なんやろ、あれはワカメと油揚げと豆腐の味噌煮やったんかなぁ。しかも、捨てるのはもったいないから別のお鍋に分けて作り直したら、炊き出しみたいな量になって大変やったわー」

 失敗談を聞いたヴィータは、しかし、穏やかに笑った。おかしな話を聞いたというよりは、心温まる物語を聞いたという風だった。
 予期しなかった反応に小さく首を傾げながらも、はやては包丁を握った手を止めず、気持ちの良いリズムを刻む。

「あ、お味噌溶かしたら沸騰させんように気をつけてなー」

 作業しながらもアドバイスする余裕がある自分に、はやては少しだけ感心した。ヴィータに語ったように、料理を始めたばかりの頃は何をするにもそれ一つに集中してなお力が足りなかったが、それがいまや、淀みのない手際で複数のメニューを同時並行的に作り上げることさえ可能である。ある日突然に料理の才能に目覚めるなどという経験はした覚えがないので、少しずつ上達してきたはずなのだが、その変化を意識したことはなかった。
 闇の書が日記帳として機能し始めてからというもの、明らかに、新しい自分を見つけることが増えている。
 果たして、いままで自分を見ようともしなかったのか、それとも現在進行形でどんどん新しくなっているのか。どちらにしても、闇の書が優れた鏡であることは確かである。覗き込みたいと思わせる力が、ある。
 覗き込んだから新たな自分を見つけたのか、それとも覗き込んだ自分を見たから変わろうとしたのか。これは些細な問題だった。
 大切なのは、鏡に映る自分を見たいと思う意志、そして実際に覗き込んだということ。つまり、自ら他者と関わろうとすること。そうすることで見えてくる自分自身の存在を意識すること。
 映し出される自分の姿を見たいという欲求、それこそが、人が他者を見る理由である。否定するにしても肯定するにしても、嫌うにしても好きになるにしても、まずは対象を見なければ始まらない。

「なんか超賢者モードになっとるなぁ……」はやては呟く。

「うん? はやて、何か言った?」ヴィータは親の敵のように監視していた鍋の水面から視線をはがしてきく。

「すずかちゃんの家に行くのお昼過ぎの約束やし、お昼ご飯はちょっと早めにしよかなー、って」

「まだ朝ご飯もできてないじゃん」

「むむ、いま呆れたやろ? 料理人なめたらあかんでー。朝作っとるときに昼のことまで考えるんが料理人、夜のことまで考えるんがよく訓練された料理人や!」

「あ、はやて」

「うん?」

「そっちの鍋、ふいてる」

「わわ、火止めて!」





「ねえ、ほんとに一緒に行っていいの?」

「ええに決まっとるやろ。すずかちゃんも是非にー、て言ってくれとるんやし、ヴィータが遠慮する理由なんかあらへんよ。それに、ヴィータ一人置いてけぼりにするくらいなら、私も行きたくない」

「それはダメ。……うん、わかった。だったら行くけど」

「あ……、それともヴィータ、もしかして嫌やった? 無理強いしてまで一緒に」

「ううん、そんなことないよ。はやての友達に会えるのは楽しみだし。それに、向こうが二人も紹介してくれるんなら、はやても紹介するのがいた方がやりやすいんじゃない?」

「あー、たしかに。すずかちゃん軍団に飲み込まれるんやなくて、むしろ飲み込むぐらいの勢いでいった方が面白いかもなー。うん、これはますますヴィータの力が必要やね」

 ということがあって、はやてはヴィータと共にすずかの家を訪れていた。招待してくれた上に迎えの車まで寄こしてくれたので、はやては恐縮したものだった。しかし、ハンドルを握る美人のメイドさん(メイドさん!)と話をしている内に緊張も解けた。一方、ヴィータは走る車の窓からの外を眺めたり、話に乗ってきたりと最初から自然体でいた。そんな彼女ですらも驚いたのが、月村家の屋敷だった。とにかく大きい。しかも、大きいものに特有の大雑把な雰囲気がかけらも感じられない。細かい上品さを気が遠くなるほどたくさん積み上げたら巨大になった、という印象である。はやての家もバリアフリー環境の整った、平均的ではないお金がかけられた住宅ではあったが、それでもこの並外れた屋敷と比べれば、ダイヤの前のトパーズだった。

「すげー」

 ヴィータの呟きに、はやては心の底から同意した。
 二人は驚きの残響が消えない内に屋敷の中へと通されて、そこですずかとその友達二人に出会うことになる。

「えっと……、月村すずか、アリサ・バニングス」皆が自己紹介を終え、ヴィータは聞いたばかりのものを復唱する。「それに、高町―――」

「ええ!?」なのはが大きな声を上げる。「ナッパじゃなくてなのはだよー」

「なのはちゃん?」
「なのは?」

 すずかとアリサは同時に尋ねた。声には出さないものの、はやても首を傾げた。皆の視線はなのはに集まっている。

「急にどうしたのよ?」皆を代表してアリサがきいた。「大声上げたりして」

「どうしたのって……」なのはがアリサの顔を、次にすずか、はやてを順に見る。そして、最後にヴィータを見た。「ヴィータちゃんが私の名前を間違えて」

「まだ何も言ってねーです」半ば棒読みで喋るヴィータ。

「だからナッパじゃないってばー!」

「ちょっと、なのは? ホントに大丈夫?」

「え? あれ……?」なのははもう一度ヴィータの顔を見た。

「まだ何も言ってねーです」再びヴィータ。

「ほら! 今度こそナッパって……!」なのはは親友二人に向く。

 すずかとアリサは首を振った。
 なのはがついに泣きそうな顔ではやてを見たが、はやても首を傾げること以外はできなかった。

「夏休みに入ってから毎日塾だったから……」すずかが優しく労るように言う。

「ち、違うよ」いつの間にか友人たちが宇宙人と入れ替わっていたことに気づいたかのように、なのはは一歩後退した。「昨日はちゃんと早く寝たもん!」

 なのはは こんらんしている!
 幻聴少女ナルコティックnarcoticなのは、始まります!

 そんなことが、あった。





・8月31日 火曜日 雨


 八月の最終日である。
 夏休みの終わりということで、恐らく日本の各所で阿鼻叫喚の光景が繰り広げられているであろうこの日、はやてはいつも通りに過ごしていた。学校に通っていない彼女には、宿題もテストもないのだ。
 だからといって勉強していないわけではない。むしろ学校に通っている同世代の小学生たちと比べても、十分に進んでいる。真面目にコツコツと努力できるなら、自学自習は効果が高い。学習ということに限って言えば、はやてに問題などなかった。それでも、最近になって彼女の中には、学校への羨望がわずかながらに生まれてきていた。できたばかりの友人たちが、皆揃って同じ学校の同じクラスに所属することを知っていたからだった。すずか、アリサ、なのはの三人は塾に通っており、そこで学校よりも難しいことを学んでいるという。従って、学校は勉学の場としてよりも、友人と同じカリキュラムを受ける場としての意味を持っているのだろう。それがはやてにとっては魅力的に感じられた。

「まあ、でも、学校通えたとしても、今度はこうやってヴィータをむにむにする時間が減ってしまうもんなぁ」はやてはソファの隣に座ったヴィータの頬をむにむにした。とても気持ちが良い感触だった。

「むー」ヴィータはこちらを見ようともせず、曖昧な抵抗を示す。朝ご飯を食べてからいままで、三時間ほどずっとテレビにしがみついているのだ。

 はやてはペンを取り、闇の書を手招きした。

 ふらふらと漂いながら近寄ってきたそれを開き、ページにペンを走らせる。『どうにかこのかわいい生き物を振り向かせたいです。 はやて』

『耳をガブっと。 sha』ほとんど即答だった。しかも簡潔かつわかりやすい。きっと、むにむにする光景を見ながら予め考えていたのだろう。

「なんと……」はやてはヴォルケンリッター参謀の知略の深遠さに恐れおののいた。『さっそくやってみます。 はやて』書き終えるとにんまり笑って、そっと顔を近づける。「これでどや! ガブー!」

「ホアアアアアアアアアアアアアアアア!!」これはテレビの中の怪人の悲鳴。

「うわぁ!?」ヴィータの叫び声はこちら。彼女は機敏な動きでソファから転がり下り、重心低く身構えた。しかし、すぐにはやての姿を確認して構えを解く。「な、なに……?」

「あまりにも構ってくれへんので拗ねてみました。もうヴィータがおらなダメな身体やから、しばらく放っておかれた後にこうして構ってもらえると……」はやては両腕で自分の体を抱きしめる。「くやしいっ……けどっ……反応しちゃう……ビクビク」

「…………」ヴィータはもの凄く微妙な顔になる。

「あん、怒らんとって。ごめんな、邪魔するために邪魔したんやないんよ」

「や、ぜんぜん怒ってないけど……」

 はやてが手招きすると、ヴィータは元の位置に座り直した。

「というのも、これ見とる途中に、ヴィータにききたいこと思いついたんよ」

 はやてはテレビを指した。その指の延長線を、ヴィータも目で追う。
 画面の中では、追い詰められた怪人が巨大化していた。原色を身に纏うヒーローたちは、それに対抗するためにロボットに乗り込んでいる。
 ロボットと怪人は、税金の結晶ともいえる都市インフラをゴミのように踏み潰し、幾度か攻防を繰り返した。そして、ついに正義の巨大ロボットが必殺技に訴えようとした。

「そう、ききたいんはまさにコレや」

「どれ?」既にヴィータの意識はテレビに戻っていた。声に芯が入っていないのがわかる。

「ヴィータは何か必殺技とかあらへんの?」

 テレビに映っているヒーローたちの、子供だましながらも見事な戦いっぷりを見て、はやてはヴィータの正体を思い出したのだった。
 ヴィータは魔法使い、しかも戦闘に秀でるが故に騎士と呼ばれる存在である。必殺技の一つや二つを期待されても仕方がない肩書きといえよう。
 ワクテカしながら返事を待つはやてに、ヴィータは至極あっさりと答えた。

「あるよ」

「え、ほんまに?」自分できいておきながら、はやてはびっくりする。

「うん、ほんと」

「へぇー、へぇー、へぇー」興味津々で尋ねるはやて。「どんなの? どんなの?」

「ぶん殴る」

「……へ? ぶん殴る?」

「あとアイゼン百倍くらいにでっかくして叩きつぶしたり」

「ちょ、それ相手は大丈夫なん?」

「え?」

「え?」

 テレビの中で、悪の怪人がとどめを刺されて爆散した。
 後にはなにも残らなかった。

「ふぅ、汚ない花火だ」ヴィータは憂鬱そうにため息をついた。「あ、ごめん、はやて、なんの話だっけ? なんかアイゼンがどうとか」

「……ううん、ちゃうんよ」怖いのでなにも聞かなかったことにした。「必殺技とかはなにもきいてないんよ。お昼は何にするかアンケートとっただけなんよ」

「あれ? そうだっけ……」

「そそ。なに食べたい?」

「じゃあカツオの叩きとつぶし豆とか」

「ひぃ!?」

 そんなことが、あった。



【残り176ページ】
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[8823] Nachthimmel 8b
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/07/26 05:28



・9月10日 金曜日 くもり→晴れ

『ようやくヴィータがなのはちゃんとも仲良くなってきてうれしいです。 はやて』
『実は繊細なんですよ。最初は人見知りしても、一度打ち解ければ大丈夫です。 sha』
『すずかちゃんやアリサちゃんとはすぐに仲良くなったけど、なのはちゃんとは時間がかかったみたい。 はやて』
『なんだかなのはちゃんの方が怖がっているように見えましたけど。 sha』
『前にも言った、ヴィータとしゃべるときに限って聞こえてきた幻聴のせいみたいです。それも最近はなくなって二人は仲良し。 はやて』
『幻聴ですか。 si』
『ヴィータが何も言ってないのに声が聞こえたり、ヴィータがしゃべってることとは違うことが聞こえてきたり。 はやて』
『ヴィータちゃんが話をしているときだけ? sha』
『いままではそんなことはなかったみたい。なにか心当たりはある? はやて』
『いえ、特にありません。ごめんなさい。 sha』
『私もありません。お力になれず申し訳ありません。 si』
『二人が謝ることじゃないよ。それに、いまは仲良くできてるから大丈夫。 はやて』
『そうですか。よかった。 sha』
『ヴィータの方はケーキやクッキーと仲良くしているようにも見えますが。 si』
『仲良しのお菓子たちをバリバリむさぼる、すっかり翠屋の常連さんなヴィータなのであった。 はやて』
『何にせよ、結果として仲良くできているのであれば、それはそれで良いことです。 si』
『なかよしさんすぎてダブル嫉妬! いまもケーキ買いに行ってます。 はやて』
『きっとはやてちゃんとすずかちゃんの仲良しに対抗してるのだと思いますよ。 sha』
『照れるぜ。 はやて』
『はやてちゃんに素敵なお友達ができて安心です。 sha』
『あのときのシャマルの魔法には感謝感謝。 はやて』
『あれは迂闊すぎでしょう。 si』
『いまでは反省してます。 sha』
『結果よければ。 はやて』
『すべてよし。 sha』
『誰が反省していると? si』
『見事な釣り師ぶりです。 za』
『ありがとう。そう言ってくれるのはザフィーラだけです。 はやて』
『シャマルはどうせ本音でしょう。反省が足りていないようです。 sha』
『ぐすん。 sha』
『感謝してるよー。 はやて』
『元気になりました! sha』
『反省(ry si』
『ぐすん。 sha』





 はやてがキッチンでちょっと早めに夕食の準備をしていると、玄関の方からヴィータの声が聞こえた。

「はやて、ただいまー」

「ヴィーたんインしたお」

「なにか言ったー?」

「まだ外暑かったー?」

「空が綺麗だったよ。葡萄酒色っていうのかな。きっと明日も晴れだ」

 ずれた返事と共に、キッチンに入ってくるヴィータ。その手にぶら下がっているのは紙箱だった。白い地に、側面をぐるりと一周リボンで巻いたようなラインが入ったデザイン。そして『翠』の一字。

「おかえり。今日はどんなの?」はやては尋ねる。

「イチジクのタルトレットとマンゴーのムースケーキ」ヴィータは戦利品みたいに翠屋のケーキ箱を掲げた。「冷蔵庫にしまっとくね」

「奥の方にしまいすぎて、冬眠明けのリスみたいにならんように気をつけてなー」

 つい最近、買ってきたケーキの存在をすっかり忘れてお喋りに興じるということがあった。食べ忘れたケーキは翌朝美味しくいただいた。寝る前に食べるよりはいくらか健康的だったが、食べる量が増えてきているという事実の前にはあまりにも脆い健康志向である。

「ドライアイスどうしよう」ヴィータが尋ねる。

「そのままでええんちゃう? ケーキ冷たくしよ」

「了解」言いつつちょっと残念そうなヴィータは、水の中にドライアイスを放り込みたかったのだ。

 かく言うはやても、あれを眺めるは好きだった。白くまったりとした泡がブクブクと現れ、水面に出た途端に煙となってすぐに消える。ちょっと不思議で、どこか人を虜にする力がある光景。ケーキを食べて用済みになったら、水を溜めた桶に入れて、二人でじっくりと観察しよう。

「そや、ドライアイスと言えば……」不意に思い出し、はやては包丁を止めた。「昔、缶の紅茶で炭酸入ったのがあったって聞いたんよ。そんで自分で作ってみよう思って、炭酸水買ってきてポットに入れたら」

「ああ、ただのお湯になったんだ」ヴィータは吹き出す。「そっか、そういうこと」

「差し湯みたいに使わなあかんのな」はやてもつられて笑う。

「結局、飲めなかったの?」

「冬やったしなぁ。アイスティ作る気にもならへんかったし、それ以来きれいサッパリ忘れとったから」

「いまからちょっとそこのコンビニまで走ってこようか?」

「いや、明日も覚えとったらでえーよ。もうご飯できるし、氷もたくさん作っとかなな。それに今日は冷えたデザートがあるから、温かい紅茶でも」

「うん、それじゃあ覚えとく」ヴィータが車椅子の背後からはやての手元を覗き込んだ。味噌汁を差して言う。「これ、もう持って行っていい?」

「あ、よろしくー」

 それから三十分も経たないうちに、空は墨色に染まった。
 またたく星々は、暗幕に開いた小さな穴だ。
 そこから誰かが覗いているのかもしれないので、はやては家のカーテンをすべて閉めた。
 何もない幸せな一日がまた終わる。

 そんなことが、あった。





・9月20日 月曜日 雨

 敬老の日というものは海外にはない。輸入された祝日ではなく、国産なのである。
 日本では、毎年9月の第三月曜日に、多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し長寿を祝う、そのような祝日があるのだ、という説明を添えてはやてはペンを贈った。宛先は当然グレアムおじさんである。あまり高いものは買えなかったが、喜んでもらえればいいな、と思う。

「んー、それにしても、いま思えばグレアムおじさんってどんなお仕事されとるんやろか」

 社会につくしてきた、などといっても、その具体的な内容はちっとも知らなかった。だというのにもっともらしく贈り物などしてしまって、少し不誠実ではないだろうか。彼女はちょっとだけ心配になる。

「え? 紳士って仕事じゃないの?」ソファに座ったヴィータがきく。

「どんな仕事やねん」はやてはつっこんだ。

「えっと……、ほら、紳士らしくする仕事。家の中でも朝から晩まで三つ揃いのスーツ着て、革靴はいて、立派な帽子かぶって、銀縁の眼鏡かけて、ステッキ持って、パイプくわえてるような」

「似合いそうなのが怖い」

「この世界だと、文化を残すとかいう名目で保護されたりしないの?」

「ヴィータの生まれたところやと、そういうことあったん?」

「ん、どうだろ。ベルカはもうないし、古すぎてあたしもあんまり覚えてないから。でも、そもそも文化を保護するなんて余裕がなかったような気もするけど」

「余裕がなかった?」はやては上半身を少しだけ前に傾け、隣に座ったヴィータの顔を覗き込むようにして見た。

「ずっと戦乱の時代が続いてて、その戦乱が終わる前に土地が死んだって聞いてる」ヴィータは肩を竦める。「いまになってようやく、古代ベルカ文化とかの継承で焦ってる団体があるみたいだから、闇の書も持って行かれないように気をつけないと」

「え、持って行かれるん?」はやては驚いた。

「まあ、持ってることがバレたら。この国で例えれば、実は超文明を築いてた邪馬台国の遺品が、現役で動く対消滅エンジンでござった、とかそーゆーレベル。で、政府やら自称邪馬台国の子孫やらが、それを奪いにやって来る」

「さようでござるか」

 対消滅エンジンがなんなのかはわからないが、超技術っぽいということはわかった。というか邪馬台国とか詳しいな、とはやては関心する。
 魔法使いは数字に強いらしく、算数の勉強では抜群の教師っぷりを発揮するヴィータだったが、この世界、この国独自の人文系科目にはとんと弱いはずだった。もしかすると、知らないところでこっそり勉強したのかもしれない。あなどれぬオナゴである。

「まあ、別にベルカは古代の伝説の都市とかじゃないし、高い技術を持ってたことも広く知られてるんだけど。邪馬台国よりムー帝国とかの方が近いかも」ヴィータはソファの背もたれに大きく体重を預けた。その様子は、小さな体が巨大なプリンに沈み込むみたいに見えた。「でも、大丈夫。世界は広いし、闇の書を奪われるなんてことには、きっとならない。あたしたちはずっとはやてのすぐ傍にいるんだ」そうあって欲しいと祈るような、そうありたいと誓うような、不思議な響きが彼女の声に溶け込んでいた。

「そか。ヴィータがそういうんなら一安心やな」

「うん。奪いに来るやつがいるなら、あたしが叩き返す」その言葉に呼応するように、ヴィータの胸元のペンダントがきらりと光った。

「いきなり戦ったりしたらあかんよ。まずは話し合わな」

「あたしたちの場合、話し合いは叩きつぶしてからっていうのが基本なんだけど」

「プリン怪人とかが闇の書奪いに来たらどうするん? 叩いたら潰れてまうよ」

「え? プリン……、怪人?」目を丸くしてこちらを見るヴィータ。聞き間違えかと思ったのだろう。

「そういえば、なんやったっけ。ほら、あれ、ピカチュ、やなくて、……カッチュー?」はやては突然話題を切り替えた。「ベルカの騎士が怪人と戦うときに着る言うとった服」

「怪人とは戦わないけど、うん、でもそれであってる。騎士甲冑」

「そう、それや。その騎士カッチューのデザインは、代々闇の書の主が決めるって」

 ヴィータは頷く。
 魔法について色々と聞いていたときのことだ。闇の書と共に世界を旅してきたヴィータたちは、その時々の主から、身に纏う甲冑を賜るのだという。その話を聞いたときから、はやてはこっそりと作業を進めていた。はやてを最後の闇の書の主に決めた、という話も聞かされていたので、気合いが入るというものだ。

「実はみんなの分のデザインが、ついこの間、完成しましたー!」はやてはバンザーイと両手を挙げた。「というわけで、ちょっと取ってくるんで待っててなー」

「一緒に行くよ」ヴィータが見た目にそぐわぬ力を発揮して、はやての体を抱える。そして、まったく軸がぶれることもなく車椅子の上まで運ぶ。

「ありがとなー」

「みんなの分って、シグナムやザフィーラのも?」車椅子を押しながら、背後から尋ねてくるヴィータ。

「そやで。って、こら、シャマル仲間はずれにしたらあかんよ」

「あ、うん、いや、いまの場合は逆というか」ヴィータは口ごもる。

「んー? 逆?」

「ううん、なんでもない」ヴィータは首を振る。それから身を乗り出すようにして、自分の顔をはやての顔の横あたりに運ぶ。頬ずりできそうな距離。「ねえねえ、それより騎士甲冑、どんなの?」

「ふふふ、聞いて驚き。なんとウサギの全身着ぐるみ」

「うぇッ!?」

「にするんは可哀想やと思ったんで、みんなおそろいで色違いの全身タイツにパステルカラーのガスマスク」

「うわー!?」

「という第二案を棄却しまして、決定稿の第三案です。これは実際にデザイン見てもらわな伝わらん程度には普通やねー」

 あからさまにため息をつくヴィータ。安堵と呆れ、ブレンドの比率はわからないが、それははやてにとって美味しそうに見えるものだった。





 そんなことがあった、その日の夜。
 はやてはいつものように日記を書いていた。一日を振り返る作業が楽しくなかった日など、この日記をつけ始めてからというもの、ほとんどないといってよい。今日が楽しいから明日も楽しいはずだ、などという思考の道筋を手に入れたのはつい最近のことなのに、まるで手に馴染んだ道具を使うかのように、無理なく明日の幸せを予想できた。
 最後の一文字を書き、自分の名前で締めくくった。ちょうどそのページを綺麗に使い切ったので、明日は次のページの頭から書き始めることができる。些細な気持ちよさだが、これが有ると無いとでは大違いだ。まずペンの滑りが違う。すると、その一日の勢いも違ってくる。微細な差は、時間を経て大きく成長する。扇形の中心角、半径、それに円周の関係にも似ている。同じ開き方をしていても、半径の大きい扇ほど、端から端までの長さも大きい。一方、中心角が大きい扇もまた、円周が長くなる。こちらの比喩は、闇の書との出会いに相当する。はやての人生における、最も大きな転換点の一つといえよう。出会ったから、いまは扇の左端にいる。出会わなければ、右端にいただろう。どちらが良いかはわからない。しかし、いまが良いということはわかる。
 はやては、積み重ねてきた時間を見た。闇の書の使用済みのページ。いつの間にか半分を超え、更にその半分も消費し、更に半分、更に……。
 ヴィータが現れてからは、ページの消費が少し早くなった。ヴィータとの会話分が減り、代わりにヴィータが他の騎士たちとの会話をするのに、闇の書を介す必要が出たからだった。合計すると、わずかに以前よりもペースが上がっていた。
 そしていま、
 残すところは、一枚一枚数えても苦にはならないほどだ。
 たぶん、予感はあったのだろう。
 だから、
 このときふとこぼれ出た問いかけは、しかし、後のはやてが過去を振り返ったとき、これ以上に勇気を振り絞った経験はないと断言せざるを得ないものだった。

「なあヴィータ、闇の書の残りのページ、使い切ったらどうなるん?」



【残り35ページ】
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[8823] Nachthimmel 9
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/07/06 20:26

 ざあ、と風が吹き抜けていった。顔に体にぶつかるそれを感じながら、はやては目を細める。

「ええ風やなー」

「うん、そうだね」ヴィータの声が、背後から聞こえる。「もう秋だ。朝は寒いぐらいだったし」

 鮮烈な茜の空。逆光で輪郭しか見えない影絵の町並み。
 それも、じきに終わる。
 天球の頂上に生まれた紫色が、夕焼けを地平の彼方に押し込めようと頑張っている。あと十分もすれば、形勢は逆転するだろう。
 九月も終わろうとしているというのに、夏の暑さが未だに残る近ごろである。しかし、今日は少し涼しかった。なので、はやてはヴィータと共に夕方の散歩に出た。
 たどり着いたのは臨海公園の片隅だった。今朝早くに目が覚めたヴィータが、ふらりと散歩に出たときに見つけたという場所だった。二人はそこでキラキラと輝く海を眺め、潮風を全身で感じて、その帰りに買い物を済ませた。
 いまはたくさんの袋をぶらさげて、目の焼けそうな夕日を浴びながら我が家を目指している。
 なにも特別なことはない一日だった。
 これから特別なことが起きたりもしない。
 家に着いたら急いで夕食を作り、二人でそれを食べて、食器を洗い、お風呂に入り、その後はテレビを見るのか本を読むのか、どちらにしてもあまり夜更かししないようにしなければいけない。そして、二人で一緒のベッドに入る前に日記をつける。
 誕生日から使い続けて、もうすぐ四ヶ月といったところ。
 毎日欠かさず続けてきた日課が、明日には終わる。
 長かったような気もするし、短かったような気もする。
 明日の朝には、恐らく2ページほどしか残っていない。これまでの経験から、お昼になる前に使い終わるはず。
 それでおしまい。
 ヴィータは消えてしまう。騎士たちと言葉を交わすことはできなくなる。
 でも、それだけだ。
 皆は変わらず傍にいてくれる。はやてはそう信じている。騎士たちもそう信じている。だから、なにも変わらない。
 ただし、もう二度と日記を書くことはない。はやてに変化があるとすれば、そのくらいだろう。





「なあヴィータ、闇の書の残りのページ、使い切ったらどうなるん?」

 尋ねた後に、しまった、と思う心が確かにあった。それだけ自然にこぼれ落ちた言葉だった。そして、よい結果にならないという予感もあった。だから、いままで見ないふりをして、一度も尋ねなかったのだ。
 はやては背後のベッドを振り返らずに、しばらく待った。自分の鼓動が聞こえそうな静寂だった。
 ヴィータの声は返ってこない。
 もしかしたら、もう寝てしまったのかもしれない。そんな可能性が浮かび、彼女はほっとした。
 これで、いまの質問をなかったことにできる。
 闇の書を閉じたら、ヴィータを起こしてしまわないようそっとベッドに滑り込めばいい。それでまた新しい一日が始まるはずだ。
 ペンを置き、

「はやて」

 ああ、やっぱり駄目だったか。
 はやては静かに諦めた。

「うん、聞いとるよ」

「ごめん。本当は最初に……、出てきたときに、話すつもりだったんだけど、無理だった」ヴィータの声はくぐもっている。枕に顔をうずめているのだろう。「他のみんなのことが気になって外に出られなかったとき、シャマルが言ったんだ。だったら代わりに、使い切ったときのことをはやてに話す役目も持っていけばいいって。だから、あたしは外に出てこられた。でも、いままで言えなかった」

 そして、彼女は話した。
 はやての脚が悪いのは、闇の書が原因だと。
 はやてが闇の書を使い切れば、闇の書はただの本に戻るのだと。
 そうなれば、守護騎士たちは消え、はやての脚はじきに動くようになるのだと。

「なんで今まで黙って……!」感情の昂ぶりがそのまま言葉になって口から出た。しかし、すぐに途切れる。「……ごめんな、ヴィータ」

 敢えて言葉にしてこなかった、予想の中でも最も悪いものが、現実になってしまった。
 視線を落とし、そこにある膝を撫でる。
 こんな脚なんてどうでもよかった。
 それよりも、そんなことよりも、ページを使い切ったら家族みんなが消えてしまうということの方が、遙かに恐ろしい。ヴィータを泣き止ませてあげられないことの方が、遙かに苦しい。
 みんながいてくれるなら、一生歩けないままでもよかった。ヴィータが泣き止んでくれるなら、こんなものは切り落としてもよかった。
 でも、それは叶わないのだろう。
 いまヴィータが声を押し殺して泣いているということは、いままでずっと苦しんできたということだ。守護騎士たちが、いままでずっとどうにかしようと頑張ってきて、それでも無理だったから、ヴィータが泣いているのだ。
 そして、それを知らずにずっと一人で幸せに浸ってきた八神はやてがここにいる。
 何よりも腹立たしいのは、心の一部が既に諦めていることだ。
 諦めたは、はやての中でも最も臆病な自分だった。同時に、常にはやての心を守ってきた自分でもある。良くない未来を予測したとき、その自分がはやて全体に対して支配的となる。そして、上手に物事を諦める彼女を、はやては遠くの対岸から眺めるのだ。
 最悪を避けるシステムから、最悪を受け止めた上で被害を減らすシステムへの切り替えは、速やかに行われた。はやてはそれを、ふわふわとした気分で眺めていた。
 ぼんやりとしたままベッドに入る。
 ヴィータの体温を抱きしめて、眠りへと沈んだ。





 それからの生活は、夢みたいに何事もなく進んだ。
 朝起きて、いつものように二人と一冊とで過ごし、日記を書いてから眠る。
 いつまでも続くことを疑わぬかのように、はやては振る舞っていた。
 それでも、
 書の中から話しかけてくる騎士たちへの返事は簡素になり、ページの消費は明らかに遅くなった。それは、皆との別れを覚悟してしまった自分への、ささやかな抵抗だったのかもしれない。
 見苦しく泣き喚いてでも、少しでも長く一緒にいたい。
 足掻いた結果がなにも変わらず、それどころか、別れがもっと辛くなったとしてもいい。
 そんな思いが、確かにあった。
 それは、時間が経てば経つほど強くなっていく。
 ついにはやての手がペンを握らなくなったのは、残りが9ページになった9月26日のことだった。騎士たちも、はやてが答えられないと知ると、無理にページを埋めようとはせず、闇の書に文字が書かれることなく一日が過ぎた。
 翌日、翌々日と続いたその停滞を破ったのは、ヴィータだった。

「ねえ、はやて」暗闇の中、隣に寝ているヴィータが囁くように言った。声の聞こえてくる様子や動く気配から、こちらを向かず、真っ暗な天井を見ているとわかる。同様に、はやても見えない天井を見つめていることを、ヴィータは察しているはずだった。

 彼女は、はやてが諦めてからというもの、ずっとなにかを言いたそうにしていた。恐らく、違和感があったのだ。なにごともなく過ごすはやてがあまりにもいつも通りだったため、逆におかしいと感じたのかもしれない。それが、いまになってようやく正常を取り戻したことを確信したから、こうして切り出してきた。日記を書く手が止まってから今日までのタイムラグは、ヴィータにも迷いがあったのだろう。

「あのさ、これはシグナムが言ってたことなんだけど」

「うん」

「闇の書が完成しても、あたしたちは消えるんじゃない。ただはやての命に溶けるだけなんだ」

「……溶ける?」

「そう。溶ける。姿は見えなくなるし、声も聞こえなくなる。言葉も交わせなくなる。でも、ずっと傍にいるんだってシグナムが言ってた。あたしもそう思ってるし、たぶん、他のみんなもそう思ってる。だから、なにも怖いことなんてない」

 はやては歯を食いしばる。

「空に溶けるように眠ることと比べたら、きっと、はやてが話しかけてくれないことの方がずっと怖い。だからさ……、なにも心配することなんてないから、いまはちゃんと話しかけてあげて欲しい」

 とても優しい声に、はやては言葉を返せなかった。ヴィータはそれを気にする素振りもなく言う。

「それだけ。寝るの邪魔してごめん。おやすみ、はやて」

 はやてはようやく泣くことが出来た。





 そして、
 はやては最後の言葉を書き込んだ。

『シグナムも、シャマルも、ザフィーラも、いままでありがとう。 はやて』

『主はやての幸せを願うこの感情を知れただけで、生まれてきた意味がありました。どうかお幸せに。 Signum』
『もしも主はやてが幸せであるのならば、守護獣としてこれ以上はありません。 Zafila』
『はやてちゃんの幸せが私達の幸せです。 Shamal』

 先を争うように、立て続けに現れるメッセージ。それで、最後のページが全て埋まった。
 はやては困ったような、呆れたような、悲しいような、それでいてどこか嬉しいような、複雑な気持ちになった。

「最後まで私のことばっかり……」

「それは仕方ないよ」ヴィータが言う。「みんな、自分が生まれてきたのははやてに会うためだって思ってたから。もちろん、あたしも」

「うん……、私もみんなに会うために生まれてきたんやと思う」

「はやては幸せになるために生まれてきたんだよ」即座に切り返すヴィータ。

「せやから、みんなに会えたんやね」はやても素早く返す。「幸せになるために生まれてきたんは、みんなもおんなじやで」

「うん。だからはやてに会えた。それではやてが幸せになれたなら、みんなも幸せだった」

「むー、なんという永久機関」

「どっちかと言うと、卵と鶏みたいな気がするけど」

「今日のお昼は親子丼にするー」

「あ、いいな」涎の垂れそうなヴィータ。

「お昼、食べていく?」はやては尋ねる。

「ううん、やめとく」ヴィータは首を振る。「食べた直後に実体具現化を解除したら、酷いことになりそうだし。……やったことないけど」

「そか。残念、残念」

 しばらく沈黙があった。

「それじゃあ、そろそろ」ヴィータが微笑む。「いままでありがとう、はやて」

「ん……、ヴィータも」

 ヴィータは闇の書に手を伸ばし、触れる。そして、目を瞑った。はやてはそれを、忘れてしまわないように、目に焼き付けておくために、じっと見つめる。
 十秒、二十秒と時間が流れる。
 一分ほど経ったとき、そこにまだ、ヴィータはいた。

「えっと……」ヴィータが目を開いて、ちょっと形容しづらい表情で言った。「……なんか、みんなに置いていかれたみたい」

「おいィ?」

 親子丼が、二人前必要になった。



【残り0ページ】
【闇の書は機能を停止しました】

"Nachthimmel"→"Regenwolken"
 



[8823] Regenwolken‐a
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/07/26 05:28
 

 ページをさかのぼる。




『シグナムも、シャマルも、ザフィーラも、いままでありがとう。 はやて』

 書き込まれたその言葉を読んで、シャマルは微笑んだ。まるで、ちょっとした手助けに対するお礼みたいだ。今生の別れを思わせる悲壮さは、どこにもない。
 それでいいと思う。
 なにも悲しむことはない。雲は姿を変えるが、それでも、空の下にあることはいつだって変わらないのだから。
 先に消えたシグナムとザフィーラも、きっと同じことを思っていたはずだ。

『主はやての幸せを願うこの感情を知れただけで、生まれてきた意味がありました。どうかお幸せに。 Signum』
『もしも主はやてが幸せであるならば、守護獣としてこれ以上はありません。 Zafila』
『はやてちゃんの幸せが私達の幸せです。 Shamal』

 準備しておいた皆の言葉を一斉に書き込んだ。これで、もう二度とはやてと言葉を交わすことは出来なくなった。
 しかし、それを悲しむ必要はない。悲しむ暇もない。
 急がなければ、ヴィータが戻ってきてしまう。それでは今までの努力の半分が台無しになる。そう考えれば、如何にシャマルとて精密で迅速な作業をこなさないわけにはいかなかった。
 幸いにして、外の二人はまだしばらく話し続けそうな雰囲気に見える。しかし、手を緩めれば未練が生まれてしまうだろう。それは、嫌だ。

「これで……、よし」終わったのは、ヴィータの切り離しだった。「ヴィータちゃん。はやてちゃんをよろしくね」シャマルは小さく呟く。

 ほとんどの作業は、以前から完了していた。今日の、別れの直前まで引き延ばしたのは、本人に気づかれては意味がなくなるヴィータの切り離し作業と、これから行う最後の仕事のみ。
 最初から三人で決めていたことだ。
 全て、計画の通り。
 長かったのか、短かったのか。
 苦しかったのか、楽しかったのか。
 それも、これでおしまい。

「ごめんなさい、闇の書。あなたには何も知らせてこなかったから、いきなりだけど……」シャマルは意識を集中した。

 伏せていた全てのプログラムが起動する。そのほとんどは、シグナムやザフィーラだったものだ。面影すら残っていないそれは、シャマルが作り上げた。そして、彼女自身も、じきにその一部となるだろう。
 最後に残った意識が、分解され始める。その感覚は、意外と悪くはなかった。
 安らかな眠りにつくような心地良さ。静かな夜空に溶けて消える想像。
 ほんの一瞬、大好きな人と共に生きる夢を見た。その記憶は、一瞬後には消え去った。

「長年の準備、守護騎士三人分の命、そして何より、はやてちゃんへの思い。これだけぶつけられたら、今の闇の書では、耐えられない。…………はず」

 最後に不吉な言葉を残して、シャマルの意識は消えた。すぐに、予め決められていた形へと、自動で作り替えられる。
 完成と同時に、それは闇の書の中枢に雪崩のように襲いかかって―――――




 ページをさかのぼる。




 ヴィータは臨海公園で、海を背に立っていた。人を待っているのだ。
 既に空は白んでいた。早朝の冷たい空気は、湿り気を帯びている。遠くの波と耳元の風以外、音はない。目が誰かを捉えることもない。開けた場所ではあるし、呼び出したのはこちらだったが、しかし、ヴィータは警戒を怠らずにいた。
 しばらく経ったとき、彼女の五感に代わって人の存在を察知したのは、長年の相棒だった。
 アームドデバイスが示す方向を見る。
 五十メートルほど離れた位置、海を見渡せるこの広場の入り口に、一人の男がいた。彼は、最初からこちらの存在を捕捉していたのだろう、足を止めることなく近づいて来る。歩調はゆっくりとしており、実に落ち着き払た様子だった。ヴィータも、彼に向かって歩き出す。その際、意識して歩調を緩めた。互いを比較したとき、自分の回転が速すぎるのが悔しかったのではない。相手の姿を観察する時間が欲しかったのだ。
 ベージュのズボンに、白い長袖のシャツ。ネクタイはしておらず、一番上のボタンだけを外している。男は、まるで老紳士の早朝の散歩といった風な、至って普通の服装である。何かを偽装している気配はないし、武器を隠し持っているわけでもなさそうだった。
 五メートルほどの距離を置いて、二人はほとんど同時に立ち止った。これだけ離れていても、ヴィータが相手の顔をまっすぐ見るには、大きく見上げなければならなかった。これは何もヴィータの身長だけが問題なのではなく、相手の身長が平均よりも高いという点も原因の一つであった。
 先に口を開いたのは男だった。

「警戒する必要はない」彼は丁寧な発音で言う。「この場所には私しか来ていないし、誰かが監視しているということもない。使い魔にも、私がここにいることは知らせていない。そして、君はベルカの騎士だ」

 つまり、一対一のこの状況においては、ヴィータの方が強い立場であるとのアピールらしかった。
 本当かよ、と思う。どちらかといえば、誰にも知らせていないことに対してではなく、一対一でヴィータが有利になるということに対しての疑念だった。
 一対一ならベルカの騎士に負けはない。そうは言うが、ベルカの騎士同士の殺し合いが頻繁に起きた時代もあった。そんな時代もあったから、負けはない、あったとしてもせいぜい一生に一度くらいだ、というブラックジョークが生まれもした。
 今、ヴィータが相対するのはベルカの騎士ではない。
 しかし、
 もしかすると、一生に一度の機会が今かもしれなかった。

「あんたがグレアムおじさん、、、、、、、、?」ヴィータは厳しい目つきのまま尋ねた。

「ああ、ギル・グレアム本人だよ」彼はゆっくり頷いてから、同じ速度で周囲を見回す仕草。「どこか、場所を移した方がいいのではないかね」

「こっち」ヴィータが歩き出すと、グレアムの足音がついてくる。すぐに追いつかれた。

 二人は並んで歩いた。無言は、遊歩道に入るまで続いた。

「別に、世間話をするために呼んだわけじゃない」今度はヴィータが先に声を出した。「そっちがどういう計画を立ててるのか、それを聞くために呼び出したんだ」

「ふむ……。私が管理局の人間であるということは」

「でも、個人で動いてる」

「そう、闇の書の所在も、私が闇の書の所在を特定していることも、使い魔を除いてまだ私以外に知る者はいない。管理局が知れば、十年前と同じことが起きる可能性は極めて高い」

「十年前……?」ヴィータは横を向き、グレアムの顔を見上げる。

「私の計画は、現行の管理局法では認められないものだった。しかし、被害は確実に減る。だから、全ての情報を秘匿したままでいる」グレアムはヴィータをまっすぐ見る。「君は私を呼び出すとき、リーゼにこう告げたそうだね。闇の書はもうすぐ機能を停止する、と。それには、転生機能も働かなくなる、という意味も含まれるのかね?」

 リーゼ。監視の目を設置した彼の使い魔のことだろう。

「いま、そのための準備を進めてる」ヴィータは頷く。「転生機能も、防御プログラムも、蒐集機能も、管制人格も、それに、守護騎士プログラムも、全部まとめて消滅させる。消えるのは闇の書の中身だけで、はやてにも、他の誰にも迷惑はかからない」

「そうか……」グレアムは、深く息をついた。「その具体的な方法を話すことは?」

「それは、そっちが先だ」ヴィータは間を置かず言い返す。

「こちらの方法は、伝えることは出来ない」グレアムの反応も早かった。「君にその気がなくとも、万が一にでも闇の書に知られることとなれば、対策を取られる可能性がある。恐らく、君たちの計画も、闇の書の中枢に知られることがないよう徹底的に秘密裏に進められているはずだ。しかし、絶対などということは、絶対に存在しない。そのとき、君がこちらの計画を知っていれば、共倒れになる可能性もある。理想を言えば、こちらの存在そのものを知られなければよかったのだが……、その点に関しては、君たちの能力が秀でていたということか」

 彼の言うとおり、ヴィータたちは闇の書の管制人格に気取られないように細心の注意を払っていた。管制人格は闇の書とほとんど同一の存在であるから、守護騎士たちの反逆の意を彼女が知れば、彼女の望む望まざるに関わらず、防御プログラムかそれに準ずる機能が働いてしまう危険があったのだ。

 具体的な対策としては、日記でのやり取りの情報を、管制人格やエラーをチェックするためのシステム全般から完全に遮断することが挙げられる。しかし、そうすると今度は、異常を隠すための遮断そのものが異常として検出される。そこで、現在、はやてと守護騎士とのやり取りで発生するページの消費を、蒐集を行ったページとして扱われるよう偽装することで、監視の目を誤魔化すという方法が取られていた。闇の書は全頁の蒐集完了と同時に狂ったロストロギアとして起動するが、その際、システムが切り替わる隙を狙えるという点でも、あらゆる監視を誤魔化す方法より、一部を誤魔化す現在の偽装の方が都合が良い。また、これに似た偽装は、守護騎士と闇の書との間でも行われている。

 ……というのがシャマルの説明だった。これでもかなり省略され、誤解を覚悟した上での説明らしかったが、正直なところヴィータにはこれでギリギリわかったつもりになれる、というラインである。一緒に聞いていたシグナムなどは、ふむふむとしたり顔で頷いていたものだったが、あれも本当に理解できていたのかは怪しい。ザフィーラは、聞いていたのかいなかったのか、理解できていたのかいなかったのか、よくわからない。難しい作業はシャマルに丸投げなヴォルケンリッターだった。

「こっちの方法も、伝えたところで、たぶん意味なんてない。内側から腹を食い破る、なんて言われても、そんな情報役に立つはずがない」違うか、と視線で尋ね、彼が頷くのを見届けてからヴィータは続ける。「お互いに知るべきなのは、仕掛けるタイミングだけだ」

 グレアムはもう一度頷いてから言う。「その通りだ。そして、想定する被害は、そちらの案の方が小さい。つまり、私の案がセーフティネットとして働く順序で実行できれば、それが最善だということになる」

「あたしたちは、闇の書が起動しようとする瞬間を狙うことになってる。明日の昼には、全部終わる」

「ならば大丈夫だ。こちらは、起動直後の数分の硬直を突くつもりでいる」彼は目を細める。「できれば、私たちが動かずに済めばいいのだが」

「もし本当にそう思うなら……」これはお願いなんだけど、と前置きしてからヴィータ。「上手くいったとき、ただの本になった闇の書を、それにはやてを、そっとしておいてあげて欲しい」

「約束しよう」グレアムおじさん、、、、、、、、が言った。

 二人は再び沈黙を引き連れて歩いた。遠くから見れば、外国人の祖父と孫が歩いているように見えるかもしれない。しかし、開いた距離や纏う雰囲気を感じ取れる距離まで近寄れば、そうでないことは一目瞭然だ。
 公園の出口にたどり着いたとき、グレアムが立ち止まった。ヴィータは数歩進んだところで止まり、片足を引いて浅く振り返る。

「まさか、守護騎士たちが自らを破壊するために動くとは、思いもしなかった」彼の視線はヴィータの頭上を通り越し、遠くを見ているようだった。

「ハンマーを持ってる奴には目に映るもの全てが釘に見えるっていうけど」嫌な比喩だ、とヴィータは思う。「別にあんたが自分の計画に固執してたわけじゃないと思う。ただ、あたしたちの動きが例外だっただけで」

 実際、彼女たちがこのような動きをするのは、生まれて初めてだった。予想しえることではない。

「……世の中、思った通りには、なかなかならないものだな」

「全部思った通りにしたかったら、ベッドの中で夢でも見てればいい。生きてる意味なんてないよ」

「その通りだ。だから、この歳まで、夢を見る間も惜しんで努力してきたつもりだったが……」グレアムおじさんがヴィータを見て微笑んだ。「ありがとう。君たちのおかげで、思いの外、良い結果になりそうだ」

「……別にあんたのためじゃねーです」

 まさか、自分が生きる意味の有る無しを語る日が来ようとは。
 多少の驚きを抱きながら、ヴィータは帰路についた。
 その日の夕方、彼女は再び同じ公園に来ることになる。今度ははやてと一緒だ。

「ええ風やなー」

「うん、そうだね。もう秋だ。朝は寒いぐらいだったし」

 闇の書の完成を翌日に控えたある日のことだった。




 ページをさかのぼる。




「んー、それにしても、いま思えばグレアムおじさんってどんなお仕事されとるんやろか」不意にはやてが言った。

 グレアムおじさん。今のところ、守護騎士たちの警戒リストに堂々の一位として君臨する怪しすぎる御仁のことだ。恐らく、この家に対する古くからの監視の黒幕でもある。そんな危険人物であっても、はやての恩人であり、また、深く信頼するおじさんでもあるので、その素性についてあからさまに問いただすわけにはいかないのが現状だった。

「え? 紳士って仕事じゃないの?」ヴィータはトンチンカンな質問をしてみる。

 当然のようにはやてがツッコミを入れた。
 それから、話している当人も首を傾げるようなおかしな会話が続き、カッチューもとい甲冑の話題になった。

「そう、それや」はやては人差し指を立てる。「その騎士カッチューのデザインは、代々闇の書の主が決めるって」

 ヴィータは頷く。
 騎士甲冑とは、戦闘時に身を守るため全身を覆う防御フィールドのことだ。ヴォルケンリッターが身につけるそれは、代々の主から賜ることになっている。そのことを、以前、告げていた。
 残念ながら、それを着て戦いに赴く予定はないが、重要なのはそこではない。ヴィータが嬉しかったのは、はやてが自分たちのためにデザインしてくれたというその一点が重要だったからだ。

「実はみんなの分のデザインが、ついこの間、完成しましたー!」はやてはニコニコ笑いながら両手を挙げた。「というわけで、ちょっと取ってくるんで待っててなー」

「一緒に行くよ」ヴィータははやての体を抱え、車椅子の上まで運んだ。

「ありがとなー」

 はやてがしっかりと姿勢を作ったことを確認してから、ヴィータは車椅子を押した。

「みんなの分って、シグナムやザフィーラのも?」

「そやで。って、こら、シャマル仲間はずれにしたらあかんよ」

「あ、うん、いや、いまの場合は逆というか」

 仲間はずれなのは、シグナムとザフィーラの方だった。しかし、騎士甲冑を着る機会が絶対にないということは、ヴィータ以外の三人に共通して言えることでもある。仲間はずれはヴィータ以外の三人であるとも言い換えられる。

「んー? 逆?」はやてが小首を傾げる。

「ううん、なんでもない」ヴィータは首を振った。それから上半身を前傾させ、はやての横顔を後ろから覗き込む。あと少し近づけば、頬同士が触れる。「ねえねえ、それよりあたしの騎士甲冑、どんなの?」

「ふふふ、聞いて驚き。なんとウサギの全身着ぐるみ」

「うぇッ!?」

「―――にするんは可哀想思ったんで、みんなおそろいで色違いの全身タイツにパステルカラーのガスマスク」

「うわー!?」

「という第二案を棄却しまして、決定稿の第三案です。これは実際にデザイン見てもらわな伝わらん程度には普通やねー」

 ヴィータはため息をついた。
 直後、なんだか楽しくなってきたので、素直に笑った。
 はやても笑った。




 ページをさかのぼる。




『ようやくヴィータがなのはちゃんとも仲良くなってきてうれしいです。 はやて』

『実は繊細なんですよ。最初は人見知りしても、一度打ち解ければ大丈夫です。 sha』

 そのようにデザインされたから、と言ってしまえば身も蓋もないが、ヴォルケンリッターの中で一番感受性が豊かなのはヴィータだ。表に出る態度こそ捻くれた風を装うことがあるものの、入力に関しては一番素直だ、というのがシャマルの認識だった。そのシャマルは、自分が世界を見るときにどうしても挟んでしまうフィルターの存在を自覚していた。それは一種の自衛でもあるし、参謀として振る舞うときに大いに役立つ武器でもある。

『すずかちゃんやアリサちゃんとはすぐに仲良くなったけど、なのはちゃんとは時間がかかったみたい。 はやて』

『なんだかなのはちゃんの方が怖がっているように見えましたけど。 sha』

『前にも言った、ヴィータとしゃべるときに限って聞こえてきた幻聴のせいみたいです。それも最近はなくなって二人は仲良し。 はやて』

『幻聴ですか。 si』シグナムの筆跡と署名で、シャマルが尋ねる。

『ヴィータが何も言ってないのに声が聞こえたり、ヴィータがしゃべってることとは違うことが聞こえてきたり。 はやて』

『ヴィータちゃんが話をしているときだけ? sha』筆跡と署名を戻す。

『いままではそんなことはなかったみたい。なにか心当たりはある? はやて』

『いえ、特にありません。ごめんなさい。 sha』

『私もありません。お力になれず申し訳ありません。 si』シグナムの筆跡と署名で、同意する。

 本当は、念話という可能性があった。しかし、それは伏せておく。ヴィータにも何か考えがあるのだろう。

『二人が謝ることじゃないよ。それに、いまは仲良くできてるから大丈夫。 はやて』

『そうですか。よかった。 sha』自分の筆跡と署名。

『ヴィータの方はケーキやクッキーと仲良くしているようにも見えますが。 si』筆跡と署名を変える。

『仲良しのお菓子たちをバリバリむさぼる、すっかり翠屋の常連さんなヴィータなのであった。 はやて』

『何にせよ、結果として仲良くできているのであれば、それはそれで良いことです。 si』筆跡と署名だけでなく、シグナムが言いそうなことを考えなければならない。

『なかよしさんすぎてダブル嫉妬! いまもケーキ買いに行ってます。 はやて』

『きっとはやてちゃんとすずかちゃんの仲良しに対抗してるのだと思いますよ。 sha』これを書いている間にも、複数の思考を走らせている。

『照れるぜ。 はやて』

『はやてちゃんに素敵なお友達ができて安心です。 sha』これは本心。

『あのときのシャマルの魔法には感謝感謝。 はやて』

『あれは迂闊すぎでしょう。 si』シグナムならこう言うはず。

『いまでは反省してます。 sha』シャマル自身、あれは迂闊だと思っていた。

『結果よければ。 はやて』

『すべてよし。 sha』思わず反応してしまう。このあたりは、最も変化した部分だと思う。

『誰が反省していると? si』ヴィータを叱るシグナムをイメージする。

『見事な釣り師ぶりです。 za』ザフィーラの筆跡、署名。なんだか性格がおかしい気がした。しかしスルー。

『ありがとう。そう言ってくれるのはザフィーラだけです。 はやて』

『シャマルはどうせ本音でしょう。反省が足りていないようです。 sha』

「あ―――」瞬間、血の気が引く音が聞こえた気がした。

 一人三役するようになってから、いつかやるとは思っていたが、ついに出た痛恨のミスだった。間違えたのは署名のみ。筆跡まで自分のものを使っていたら、間違いなくばれていた。
 動揺を押し殺し、急いで次の言葉を書く。ここで止まれば、それだけ先の文に注目されてしまうだろう。それは、ミスが発覚する確率が高くなるということだ。

『ぐすん。 sha』

『感謝してるよー。 はやて』はやては普通に言葉を続ける。表情にも、特になにかに気づいた様子は見られなかった。

『元気になりました! sha』ほっと息をついて、シャマルは書く。

『反省(ry si』今度は間違えなかった。

『ぐすん。 sha』

 心の中で、はやてとシグナムとザフィーラにごめんなさいと謝る。




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「えっと……、月村すずか、アリサ・バニングス」皆が自己紹介を終え、ヴィータは聞いたばかりのものを復唱する。「それに、高町―――」肉声から念話に切り替える。《ナッパ》

「ええ!?」なのはが大きな声を上げる。「ナッパじゃなくてなのはだよー」

 やっぱりか。ヴィータは誰にも聞こえないように舌打ちした。
 この高町なのはという少女は魔力資質持ちらしい。この世界では極めて珍しい存在なのに、はやてに引き続きこんなところにもまた一人。どうなってるんだ、と愚痴りたくなる。しかし、それ以上の懸念を抱えていたので我慢して、しばらく静かに様子を見ることにした。

「なのはちゃん?」すずかが尋ねる。

「なのは?」アリサも同時に声を出した。

 はやても首を傾げている。

「急にどうしたのよ?」アリサが言った。「大声上げたりして」

「どうしたのって……」なのはがアリサの顔を、次にすずか、はやてを順に見る。そして、最後にこちらを見た。「ヴィータちゃんが私の名前を間違えて」

「まだ何も言ってねーです」半ば棒読みで喋るヴィータ。その声に重ねて、先ほどと同じくなのは個人に向けて念話を送る。《高町ナッパ》

「だからナッパじゃないってばー!」

「ちょっと、なのは? ホントに大丈夫?」

「え? あれ……?」なのははもう一度、不思議そうな顔でこちらを顔を見た。

「まだ何も言ってねーです」再びヴィータは同じことを試す。《ナッパ》

「ほら! 今度こそナッパって……!」なのはは二人に向く。

 彼女の親友たちは首を振った。
 なのはがついに泣きそうな顔ではやてを見たが、はやても相変わらず首を傾げること以外はできない。変な子を見る目ではなく、むしろ心配そうな目だった。

「夏休みに入ってから毎日塾だったから……」すずかが柔らかい口調で言う。

「ち、違うよ」なのはは一歩後退した。視線は変わらず、二人の親友たちの間を行き来していた。「昨日はちゃんと早く寝たもん!」

 その混乱は本物だった。少なくとも、ヴィータの目にはそう映った。
 どうやらハズレだったらしい。
 グレアムおじさんとつながりのある何者か、最悪、監視兼戦闘要員の一人だと睨んでいたのだが、そうではないと見ていいだろう。これが演技ならとんでもない大物か、あるいは脳が湧いているレベルだが。
 とにかく、これ以上つつく必要はないと判断して、ヴィータは騎士からはやての家族にモードを切り替えた。

「えっと、なのは……、でいいの? 大丈夫?」ヴィータは白々しくも心配してみる。

「あ! よかったぁ……」なのはは安堵の息をこぼす。「今度はちゃんと聞こえたよ。うん、なのはでいいよ。私もヴィータちゃんって呼んでいい?」

 哀れななのはだった。




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 日記を書き終えたはやてが眠りにつき、シャマルとヴィータはその様子を闇の書の中から眺めていた。
 穏やかな寝顔だ。
 はやての表情はどんどん良くなってきている。そこから計算すると、それほど遠くないマイナス時間後の未来に、無表情を通り越して酷いものになると予測できる。しかし、それは変化の速度がずっと一定であるという前提に基づく話であって、実際のところは、変化が激しくなったのは、闇の書が日記として活用され始めてからのことに思える。
 たぶん、自惚れではない。なぜなら、日記での交流が始まってからというもの、守護騎士たちも日々大きな変化を経験し、実感として得ているからだ。それに、そもそも自分たちがはやての状態を見誤ることはあり得ない。そのような誇らしい自負がシャマルの胸の内にはあった。

「どうかした?」ヴィータが言った。

「え?」なんのことかわからなかった。

「笑ってる」ヴィータがシャマルの顔を指さす。

 シャマルは自分の顔に触れてみる。どうやら笑っているようだった。

「でも、それを言うならヴィータちゃんも」

「それは、笑ってることに気がつかないシャマルが面白かったから」

「うそ。ヴィータちゃんも最初から笑ってたわ」

「シャマルの方こそ」

「だから、ヴィータちゃんも」

「笑ってないってば」

「笑ってまーしーたー」

 シャマルはやれ笑え、それ笑え、とばかりにヴィータの頬をつまんでむにむにする。ヴィータはむきゅーと抵抗するも逃げ切れない。
 もちろん、二人とも最初から笑っていた。
 原因はわかっている。はやてだ。彼女の様子を眺めれば、自然と笑みがこぼれるのが常だった。

「あー、もう……」ぐったりと疲れた様子のヴィータ。

 仮想空間内でも、激しくじゃれ合えば疲労の感覚が生まれる。しかし、このところ、活動量に見合わない疲れを感じるようになってきている。恐らく、何らかの不具合が発生しているのだ。けれども、それを直すには、時間も資源も足りていない。二人は、あと少しの辛抱だから、と自分に言い聞かせて耐えることにしていた。
 しばらく息を整えて、落ち着いたところでシャマルは言った。

「ねえ、ヴィータちゃん。はやてちゃんのこと、どう思う?」

「どうって、好きかってこと? それとも調子が良くなってきてるってこと?」

「そう、私達ははやてちゃんのことが大好きだし、はやてちゃんの調子は良くなってきている。でもね、だからこそ、ヴィータちゃん」シャマルは真剣な表情でヴィータを見つめた。「あなたには外に出て、はやてちゃんの傍にいてあげて欲しいの。きっと、それだけではやてちゃんはもっと元気になってくれると思う。わかってるでしょ? 随分元気になってきてはいるけど、やっぱり一人は寂しいと思っていること」

 ヴィータはふて腐れたように黙った。もちろんわかっているという顔だった。それが彼女の優しさだった。
 シャマルはありがとう、と心の中で呟いた。

「大丈夫よ。だって、ヴィータちゃん、闇の書の中にいて寂しかったことはある?」

 ヴィータは首を振る。「でも、それは、みんながいたからじゃん」

「そのみんなは、今ははやてちゃんの中にいるでしょう? 傍にいることは変わらないわ。それに、はやてちゃんが話しかけてくれるんだから、寂しいことなんてない」

「はやてが……」ヴィータは視線を落とす。「あと何ページだっけ」

「300ページあるかないか、だと思う。たぶん、あと二ヶ月ももたないわ。でも、はやてちゃんが日記をつけ始めてから今日までがちょうど二ヶ月ぐらいだから、短いことなんてない。それに、ほら、グレアムおじさんのこともあるし、万が一を考えれば、そろそろヴィータちゃんが具現化しておいた方が対処もしやすいでしょ?」

「うん、それはわかってる、けど」ヴィータの言葉は力なく途切れた。

「それでも私のことが気になるなら……、そうね、闇の書の最後をはやてちゃんに伝える役目をお願いすれば、それで釣り合うかしら? それとも、私のことを気にして、というのが私の自意識過剰で、実は別の理由があって外に出られないなら、聞くけれども」

「ううん……、わかった。それでいい」はやての元に転生してくるまでは決してできなかったであろう複雑な表情でヴィータは言った。「……ありがと」

「はい、どういたしまして。それじゃあ、さっそく準備に取りかからなくちゃ。一応だけど、実体具現化周りのチェック、しといた方がいい?」

「いや、その辺は特に違和感とかないし、自分でテキトーに」

「そう?」

「まあ、ちょっと面倒だけど、それを言ったらシャマルの方が面倒な仕事多いし」

 そのあたりのことは、昔はほとんどが自動で行われていた。それが今では、不随意筋のコントロールまでもを意識して行わなければならないような状態なのである。闇の書のシステムを内から掌握していった結果として、細かい手作業的な仕事が莫大な量になってしまったのは、予想していたこととはいえ辟易するに十分だった。
 それから様々な作業が終えた深夜、ヴィータは静かに闇の書から出て行った。シャマルはそれを笑顔で見送った。お互いに顔を見合わすことはもう二度とないだろうと知りながら。
 悲しくはなかった。
 なぜならば、恐る恐るはやてのベッドに潜り込むヴィータと、穏やかに眠るはやてとを同時に見ることが出来たからだ。
 はやてをすぐ近くからじっと見つめていたヴィータも、やがて寝息を立て始める。
 それを見届けると、シャマルは気持ちを切り替えた。

「さて……、夜が明けるまでにもう一仕事しないと」




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 明日、はやての友人が遊びに来る。その友人は図書館で魔法を目撃した少女でもあったが、あのとき以来、まるで忘れてしまったかのように魔法には触れないのだという。また、ほとんど初めての友人だということも手伝って、はやては月村すずかに夢中であるようにヴォルケンリッターの目には映った。
 はやては明日に備えて早くにベッドに入った。しばらくの間は寝付けずにそわそわと動いていたが、いまは緩やかな呼吸で胸が上下するのみである。
 ヴィータとシグナムは二人並んで寝顔を見守っていた。
 いつの間にか、呼吸のリズムがはやてにつられて酷くゆっくりとしたものになっていたことに気がついて、ヴィータは誤魔化すように咳払いをする。すると、シグナムが首だけ動かして彼女を見る。問うような視線。

「……ほんとに今日にすんの?」ヴィータは更に誤魔化すように、しかし紛れもない本心でもある疑問を投げかけた。

「既にシャマルが準備を始めている。いまさら止めるわけにはいかんだろう」もう何度も話したはずだ、とシグナム。

「わかってるけど……、でも、前のとき、はやてがすごく心配してたの、シグナムも見てたじゃんか」

「前回があったからこそ、だ。似たような状況になれば、似たような原因があったと考えるのが普通だからな。加えて、今回はご友人が心を紛らわせてくれるはずだ」シグナムは口の端をわずかに持ち上げる。「シャマルにはまた汚名を被って貰うことになるが」

「あー、うん、シャマルは……」ヴィータは意図せず遠い目になった。「シャマルだし」

「ああ、シャマルだからな」

 もちろん、仕事を終えたシャマルが近づいてきたことを知った上での発言だった。

「どうせシャマルです……」

「お疲れさま」ヴィータが言う。

「首尾は?」シグナムが尋ねる。

「どうせシャマルの仕事ですから」

「悪かった」シグナムが謝る。「信頼している」

「本当にこれからでいいの?」シャマルがヴィータと同じことを尋ねた。「今なら、まだ」

「いや、構わん。もう準備ができたのならば、今からでも行おう。その方が、作業の時間を多く取れるし、復帰も早くなるだろう」

「作業の時間も、復帰も、私が頑張れば」

 どうにかなる、と続ける前にシグナムが笑いながら言った。

「シャマルの仕事だからな」

 シャマルは目を閉じた。
 数秒そのまま動かず、
 目を開く。
 その時には、もう瞳は揺れていなかった。
 今となっては懐かしくもある、地獄に等しい戦場を駆けた頃と同じ瞳の色。
 彼女は頷く。

「わかった。それなら、すぐに始めましょう」

「ちょっと……」ヴィータが声を上げる。が、続く言葉は出てこない。止める言葉が残っていなかった。

 シグナムがヴィータの頭に手を置いた。「なに、少し形が変わるだけだ。我等は雲だからな。ときに雨にもなるし、川の流れに身を委ねることになるかもしれない」彼女の手がヴィータの頭を撫でる。「だが、見上げればいつでもそこに空がある。違うか?」

 ヴィータは唇を噛んだ。

「主はやてを頼む。それに、シャマルを支えてやってくれ」

「……言われなくても」

「そうか」シグナムはシャマルに向く。「頼む」

 こうしてシグナムは消え、闇の書への大規模な侵攻が行われた。




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『私がみんなに尋ねたいのは、私にも魔法が使えるのかどうか、ということです。 はやて』

 その質問に、守護騎士三人は顔を見合わせる。
 できるだけはやてを魔法に関わらせない。彼女たちはそう決めていた。もっとも、それならば最初から日記に返事をするなという話になるのだが、もう過ぎたこと。みんなでシグナムに説教をして、それでヴィータの中では決着がついていた。

「私が返事を」シグナムが言う。『恐らく不可能かと。 si』

 一瞬の不思議そうな表情の後、はやては瑞々しい唇を尖らせた。頬が少し赤いのはどうしたことだろう。

「直球すぎ」ヴィータが言う。

「曖昧に濁せばいいわけではあるまい」

「それでも、言い方ってものがあんだろ」

「ほう」シグナムが面白そうに言う。「たとえば?」

「え? 具体的には、そうだな、あー、えっと……」ヴィータは唸った。結局思いつかなかったので逃げる。『ちなみにどんなの使いたいの? vi』

『空を自由に飛びたいな。 はやて』

「飛行?」シャマルが首を傾げる。思考より先に飛び出た言葉だったらしく、直後に「あ」と声を上げる。

「脚」ヴィータが言う。

 シグナムが無言で頷く。

『きっとそのうち車イスも魔法もいらなくなると思う。 vi』

『そうかな? はやて』はやては首を傾げる。

 はやてが悲観、というより諦観に基づいた未来予測をしていることを、守護騎士たち全員が知っていた。それも最近は少しずつ良くなってきてきているが、比較の対象が過去のはやてであるならば、誰だって楽観的だ。
 はやてにはまだまだ幸せが足りないとヴィータは常々思っていた。

『そう。 vi』ヴィータが自分の分を書き、ザフィーラの代筆をする。『なります。 za』
『良くなります。 si』シグナムが自分の分を書き、ザフィーラの代筆をする。『いずれ良くなります。 za』
『きっと治りますよ。 sha』シャマルが自分の分を書き、ザフィーラの代筆をする。『治るはずです。 za』

 ほとんど同時の書き込みだった。そして、皆、負担を自分が処理しようとした。チームワークを考えるあまり、チームワークが崩れていた。
 全員がすぐに失敗を悟るも、書き込んで目に触れてしまったものは撤回できない。
 はやては目が丸くしていた。同じように、口も丸く開いている。
 ゆっくり口を閉じ、彼女は目を上下に走らせる。それぞれの書き込みを中途半端に読んでいる印象。
 それから何か独り言を呟くが、ヴィータたちには聞こえない。
 ザフィーラは元々発言が少なかったので、オリジナルの筆跡と比べて偽物を判別するのは難しい。しかし、複数の書き手による偽物同士を比べれば、それぞれ別人によるものだと気がつくかもしれない。
 まずいな、と呟いたのはヴィータだったのかシグナムだったのか。
 再びはやてが何かを口にし、それからペンを走らせる。
 守護騎士たちは、息を止めてそれを見つめた。

『みんなありがとう。ザフィーラは落ち着きたまえ^^  はやて』

 三人揃って、ほっと息をついた。

『自重します。 za』シグナムが書く。

『魔法が必要なときは、言ってもらえればお手伝いしますよ。 sha』すぐにシャマルが続く。

『そのときはよろしく。 はやて』

 そのときはすぐに来た。
 そして、シャマルは当たり前のように大ポカをやらかしたが、そのおかげで友人が出来たはやての鶴の一声でお咎めはなしになった。もっとも、シャマルにとっては、はやての中で自分のイメージがどんどん変な方向に進んでいくことこそが一番の罰だったようだが、それについてはヴィータもシグナムも慰めの言葉を口には出来なかった。




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『私の前世はサソリ座の女。
 そして今生の私の正体はサソリ。ザフィーラがオオカミであるように、私はサソリなのです。
 なめてかかると恐ろしい目にあいます。もうこれでもかというぐらい刺しまくります。ザクザクです。
 毒だってあります。これを受ければ地獄みたいな灼熱の中でもがき苦しむことになります。ドクドクです。
 主はやても気をつけてください。
 Signum』

 シグナムの名を騙ったこの悪戯は、あっさりと見抜かれてしまう。原因は筆跡と内容だった。
 その犯人は、怒れる烈火の将にガミガミと説教されていた。いつもは適当に受け流すヴィータも、しかし、今度ばかりは真面目に聞かざるをえなかった。
 はやてを慰めるためにやったこととはいえ、今になって考えると、確かにこれは拙い。
 問題は、シグナムの名を貶めかけたことではない。他者の名を騙るという可能性が、はやての思考の道筋に組み込まれてしまった、ということだ。
 本人が意識せずとも、一度得た知識は、後の思考に必ず影響する。それはときに理解の助けとなり、あるいは妨げとなる。今回の悪戯は、ヴォルケンリッターが隠し通したいものを明らかにしてしまう道へと連なる恐れがあった。しかも、よりにもよって今日行うことを示唆するような内容。
 これには流石のヴィータも、気がついたときは顔を青くした。
 なので、彼女は反省兼今後への備えとして、皆の筆跡の習得という苦行に素直に励んでいる。
 そこに現れたのがザフィーラだった。

「…………」彼は静かにヴィータを見る。

「……なんか用?」ヴィータが不機嫌に言った。

「何故あのようなことをした?」責める口調ではなく、純粋な質問のようにヴィータには聞こえた。

「なんでって……、気がつかなかっただけだけど」

「そうか」納得したのかしていないのか、口調からはわからない。ということは、話しかけてきたときの声は、ヴィータに気を使って作ったものだったのかもしれない。

 それからしばらく、弟子の修行を監督する師匠のように、ザフィーラが傍にいた。
 その彼は、今日、消えることになっている。
 皆で決めたことだ。
 能力の都合から、実体具現化機能だけを削ったシャマルと、何一つ欠けるところのないヴィータだけが最後まで残ることになっている。
 一方、シグナムとザフィーラは、闇の書に攻撃するためのプログラムを組み上げるために、早い段階で心身を捧げ消滅する。その第一段階が、今晩だった。
 シャマルがその準備を始める直前、つまり今日の明朝、シグナムとザフィーラのどちらが先に消えるかという話になった。
 二人とも、既に実体具現化の機能を削ぎ落とし、また、魔法の一つも使えない状態である。無敵を誇った烈火の将が、鉄壁を誇った盾の守護獣が、いまや一人の少女と会話するためだけの存在に成り下がっていた。どちらが消えたとしても、ヴォルケンリッター全体の能力は、同じだけのわずかな数値しか減らない。
 そのような状況で、シグナムは自身が先に消えるべきだと強く主張した。
 彼女とて、出来る限り長くはやてと共にいたいに違いない。それは、交換日記が始まるきっかけを作ってしまった張本人であることからも、よくわかる。しかし、だからこそ、シグナムは他の皆がはやてと共にいたいと強く願っていることもわかるのだ。
 ヴィータがそう確信する理由は、ヴィータ自身が、他の皆がそう願っていることを理解できるからだった。そして、それはシグナムもシャマルもザフィーラも同じなのだろう。
 そう、
 それは、ザフィーラも同じだった。
 だから、彼も言った。自分こそが先に消えるべきだ、と。

「我等の大方針は定まっているし、参謀シャマルが最後まで残ることも決まっている。加えてお前たち各々が優れた判断力を持つことを、私は知っている。既に将は必要不可欠ではない」

 そう言ったシグナムに、ザフィーラは、

「だとしても、先に消えるべきは私だ。守護騎士が守るべきは、主の御身だけではない。私が先に消えた方が、主はやての御心を守るに易く、また確実だろう」

 このように反論した。
 彼の言葉の意味に最初に気がついたのは、シャマルだった。

「ザフィーラ、あなた……、もしかして……」シャマルは口元を手で覆う。

 若干遅れて、ヴィータも気づく。

「そういやザフィーラ、はやてと全然しゃべんなかったもんな……」ヴィータはそこで言葉を止めた。喋りたかっただろうに、とは続けられなかった。

「そういうことだ。おまえたちも、シグナムを演じるよりは楽だろう」

 口数少なかったのは、性格も後押ししたのだろうが、それでも彼は一番に消滅するつもりで、最初から自身を律していたのだ。
 自分が早くに消滅するための努力。それを支える精神力はいかほどのものだったのか。
 消えること自体は辛くない。むしろ、はやてのためならば喜んで消えられよう。しかし、はやてと別れることが辛くないかといえば、それはまったくの反対である。
 はやてのために生きたいし、はやてのために死にたい。
 その二律背反を、
 生まれた意味を見つけ、死ぬ意味も見つけられた、十分に幸せである、
 そう表現して、ザフィーラは消滅した。
 それから何時間もかけ、闇の書への密かなる侵略を進め、ようやく闇の書の表層、外部とのコンタクト用の機能までを復帰させたとき、そこには心配そうなはやての顔があった。

『シャマルはご苦労さまでした。それに、助けてくれてありがとう。みんなもお帰りなさい。 はやて』

 もう、みんなじゃないんだよ。
 そう告げることも出来ず、ヴィータは返事を書く。
 他の二人も、黙って返事を書いた。

『心配させてしまってごめんなさい。 shamal』

『ご心配をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。 signum』

『ただいま。 vita』

 しばらくの無言。
 シャマルがザフィーラの名で返事を書く。それで、はやてはにっこりと笑ってくれた。
 その笑顔を見て、ヴィータは不意に思い至った。
 もしかしたら、自分は、真相を知って貰いたくてあの悪戯をしたのかもしれない。
 はやてに知られたくないし、はやてに知って貰いたい。
 たぶん、その葛藤こそが……、
 生きているという意味なのだ。
 恐らく、ザフィーラも同じものを抱いたはず。
 彼は、消える前に葛藤を解消できたのだろうか。
 きっと、できたのだろう。
 だから、はやてに何も告げず、静かに消えることができた。
 悪戯の理由を尋ねられたとき、
 綺麗な感情を抱いたまま消えることを決めてしまった彼の代わりに、ただ一言、

「はやてに知って欲しかったのだ」

 と答えてあげられなかったことが、大きな心残りだった。


 



[8823] Regenwolken‐b
Name: 男爵イモ◆16267a69 ID:23e52052
Date: 2009/07/26 06:08
 

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 はじめにあったのは、またか、という苛立ちだけ。
 闇の書と共に転生し、魔力の蒐集を行うためだけの生。主に使役されるために生まれてきた命。
 同じことを、もう幾度繰り返したか知れない。
 古い記憶は輪郭が曖昧で、ただ不愉快な手触りを残すのみとなっている。
 此度の生も、そこに新たなる一段を積み重ねるための苦行にすぎない。
 そう思っていた。





 最初の覚醒は、主の前に現れるときだと決まっている。そのつもりでヴィータは目を開いた。
 しかし、そこに主はいない。
 代わりにいたのは、同様に訝しげな表情の三人。共に旅を続けてきた仲間たちだった。

「どうなっている?」皆を代表して疑問を口にしたのはシグナム。

 もちろん、答えられる者はいなかった。
 この手の、戦闘に関係のない状況判断においては、シャマルが答えられない時点でほとんど詰んでいる。故に、最後の防波堤たる彼女が感じる責任は、それなりに重大なものだったのだろう。視線をせわしなく動かしながらも、ヴィータではどのようなものなのかすら理解できない魔法をいくつも走らせている。
 その間、ヴィータを含めた他の三名は、周囲への警戒を続けていた。
 どれほどの時間が経ったときだろう、シャマルがある一つの成果をたぐり寄せた。
 それは、モニタのように浮かぶ、四角く切り取られた光景だった。
 しばらく、無言でそれを眺める。

「外……?」それが自分の口からこぼれ落ちた言葉であることに、少ししてからヴィータは気がつく。

「闇の書の中、か」続いてザフィーラが呟いた。

 シャマルが頷く。「理由はわからないけれど、ここは闇の書の中だと思う」

「おいおい……」ヴィータは咳き込むように笑った。たぶん、頬が引きつっている。戦闘中、思いもしない大打撃を受けたときに出てくる笑いに似ていた。

「ごめんなさい」

「いや、シャマルに言ったんじゃない」ヴィータは首を振り、それからリーダーを見る。「どうする?」

「何ができる?」シグナムがシャマルに尋ねる。

「まだ、それも……、もう少し調べてみないと……」

「ならば決まりだな。シャマルには負担をかけるが」

「ええ、大丈夫。きっとなんとかしてみせるわ」

 そう言って、シャマルは再び作業に戻った。彼女の表情は真剣そのもの。対照的に、他の三人は若干気が緩んでいた。闇の書の中にいると知り、安全度は高いという判断を下していた。それでも、なにかあれば即座に動くことはできる。即座に動いたところで、闇の書の中で何ができるか、どこまでできるかはわからないが、盾ぐらいにはなれるだろう。
 それからは、特に会話もなく時間が経過した。
 シャマルが最低限の仕事を終えたときには、既に騎士たちの護衛任務は休憩に変わっていた。ヴォルケンリッター全員が、各々の働くべき時というものを弁えているので、不満の声はない。彼女は判明した事実の内、必要なことを説明した。
 といっても、判明した事実はさほど多いものではなかったようだ。よって、ヴィータが受けた説明はほんの少しといっていい。更にその中で、この先もしっかり記憶している可能性のあるものというと、これは一つか二つといったところ。きちんと覚えるというよりは、忘れようもないことにそれは近い。

 一つ目は、ここが闇の書の中であること。そして、映像だけならば外のものを見られること。また、守護騎士たちは実体具現化して外に出ることはできないこと。
 二つ目は、外の光景の中に見つけた小さな赤子が、新しい主であること。

 特に二つ目に対しては、説明を聞いた全員が言葉を失った。
 闇の書は主に相応しい人物を己の意志で選ぶ魔導書であり、その選定の基準には、魔力資質が当然含まれる。それがどの程度のものなのかは、これまでの主の力から、かなり正確な予想が可能である。
 だからこそ、ヴィータたちは絶句したのだ。
 その基準を、あの赤ん坊が満たした?
 たしかに魔力の大きい人間のほとんどは、先天的な力としてそれを所持している。しかし、それにも限度というものがある。魔力量とは、身体の成長具合やその過程での負荷が大きく関係し、加齢に従って増減していくものなのである。
 闇の書の主が普通という範疇に収まらない魔法使いであることは、騎士たちにとってもはや常識的なことではあったが、新たなる主は輪をかけて普通ではないようだ。

「っていうか、それじゃあ、あたしたちはこれからどうなるんだよ……」

 驚愕の潮が引いていくと、新しい疑問が生まれた。
 当然、この先のことである。
 マスターは赤ん坊。仕える騎士はひきこもり。
 冗談でも笑えない。
 奴隷のようにこき使われるのには嫌気がさしていた。だからといって、それを免除するから、代わりに何をするでもなくただ過ごせと言われても、はいそうですかと素直に受け入れるのは難しい。

「わからない」シャマルが弱々しく答える。「でも、たぶん、この子のリンカーコアが成熟すれば闇の書もきちんと目を覚まして、私達も外に呼び出されると思う」

 守護騎士が呼び出されないのは、主のリンカーコアの未成熟が原因。
 ならば何故、自分たちがこんなに早くから意識を持っているのか。これには、シャマルはわからないと答えた。

「もしかしたらだけど……、長い旅の途中で蓄積されてきた異常が、目にわかる形になって表に出たのかもしれない」

「んなことはどーでもいい。それより、リンカーコアが成熟すればって、あと何年かかると思ってるんだよ」

「ヴィータ」シグナムが諫める口調で言う。「シャマルに当たるな」

 ヴィータは舌打ちする。

「ううん、私は……」シャマルは首を振る。

 この日はこれで解散となった。
 それからも、危険らしい危険は見つからなかったので、個々がそれぞれに時間を過ごすことになった。
 といっても、何もない空間である。することは何もない。

 ヴィータが見たところ、どうやら他の三人は諦念を覚えているようだった。使い勝手のいい道具として扱われていた過去となにも変わらない。彼らと違ってただ一人苛立ちを抱えているヴィータにしても、それは昔からのこと。
 結局、機械のように酷使されていたのが、機械のように停止しているだけ。同工異曲もここに極まれりである。
 いや、これならば、あるいは、頭上に遙か彼方まで広がる空を見られただけ、かつての方がいくらか良かったかもしれない。それが戦船と厚い雲に覆われていたとしても、空は空だ。
 連日の戦いに疲れ果てた体に、地下の酷い寝床をあてがわれた時代もあった。そのようなとき、ヴィータは一人で夜空を眺めた。ときおり見える星を眺めてなにを思ったのか、なにか思ったのか、それさえも覚えていない。けれども、空を見たことだけはよく覚えている。
 そのような自由さえ、いまはない。
 代わりに見えるのは、将来自分たちを使うことになるであろう幼い主。まだ言葉も理解できず、自分の足で歩くこともできない、生まれたばかりの弱い命。
 これが育って自分たちを道具のように扱うのだと考えると、酷く情けなくなる。
 けれども、他に見るものがなく、時間を潰すに適したものも存在しないので、ヴィータは一人でそれを見続けた。
 すると、音のない世界ではあっても、色々とわかってくることがあった。赤ん坊の名前や家族構成、それにこの世界には魔法文明が存在しないこと。シャマルが機能を拡張し、家の中のほとんどを見渡せるようになると、更にたくさんのことがわかった。

 時間は流れ、いつの間にか、その子の成長を眺めるのが楽しみになっていた。それには、その子が家族を失い、また脚が悪いことも影響していたのかもしれない。同情なのか、共感なのか、それとも苦しい境遇にあってもどうにか一人で生きているのを応援したかったのか、それは自分ではわからない。けれども、良い感情を持ちながら眺めているのは確かだった。
 女の子の生活は代わり映えのしない静かなものだったが、それは夜空も同じこと。
 闇の書の機能は更に拡張され、空を見ることもできるようになっていたのに、ヴィータは女の子の姿を見続けた。
 そんなある日、一人でいるヴィータを心配したのだろう、シグナムが話しかけてきた。どのような会話から始まったのかはすぐに忘れたが、随分と久しぶりだったような気がした。そして、なぜかシグナムも一緒に少女を見るようになった。
 そうなると、他の二人が加わるのも時間の問題だった。

「うわ、なんだあの量」ヴィータがはやてを指さして笑った。「あれ一人で食うのかよ」

「きっと薄めて調節してる内にああなったのね」シャマルが苦笑しながら言った。

「あれを笑うヴィータは、果たして料理ができたのだったろうか」

 シグナムがからかうと、ザフィーラが静かに首を振る。
 いくつもの鍋を占領するに至った味噌汁だけでなく、なぜかポットの前でしょんぼりしていたり、遠くから届いたらしい手紙を見て喜ぶ姿など、ヴォルケンリッターは様々な姿を見ることになる。その中には、不慮の事故で車椅子から転がり落ちて、元の体勢を取り戻すのに苦労する様子も含まれていた。

「あれ、どうにかしてあげられないかな」ヴィータは言う。「闇の書が完成するまであのままなんて、可哀想だ」

「しかし、私たちではどうしようもあるまい」

「シグナムには聞いてないっての」ヴィータは手を振って追い払う仕草をする。「ねえ、シャマル」

「だから、シャマルに負担をかけるような真似をするなと」

「シグナム、大丈夫だから」シグナムの言葉を遮り、シャマルが言う。「そうね、私もどうにかしてあげたい」

 そうしてシャマルによる調査が始まると、すぐに最悪の事実が明らかになった。
 はやての脚を縛り付けているのが闇の書であり、将来、命までもが脅かされる可能性である。
 悪しき未来を回避するために、更なる調査が進む。しかし、掘り起こされたのは、目的を果たすどころか妨害にしかならないような、醜悪な真実だった。

 闇の書の完成が、すなわち主の死。

 過去に何者かが闇の書のプログラムを改変した痕跡と共に、それが明かされてからは、シャマルは死にもの狂いで対策を考えた。他の騎士たちも、学べることを学び、考えるべきことを考えた。
 その結果が、守護騎士プログラムの改変による闇の書の自滅を目的とした計画であった。





 ヴォルケンリッターの計画は秘密裏に進められた。これは、はやてに対してだけではなく、闇の書の管制人格ならびにあらゆる監視の目に対してでもある。
 更に、それを隠れ蓑に計画を立てる者たちがいた。
 ヴォルケンリッターの内、ヴィータを除く三名である。
 誰の提案によって始まったのかは、彼ら自身、よくわかってはいなかった。なぜなら、闇の書を日記として消費させる計画を立てた直後、ヴィータが一足先にはやての様子を見に戻った瞬間に、その場に残った全員が察したからだ。自分と同じことを考えている、と。
 よって、話し合いは目的を確認する手間を省き、如何にして行うかに終始した。
 本来ならば守護騎士を構成する領域四人分を使用できるところを、三人分で賄わなければいけない。それだけでも大きな余裕が失われる。加えて、決してヴィータ本人に覚られてはならないという制約もあった。特に、如何にしてヴィータの機能だけを完全に保存するか、という問題が難しかったが、これに関しては、シグナムが説得を行った。

「我々の中で唯一代えが効かないのはシャマルだ。だが、間違えるな、我等が生かすべきは、主はやてだ。シャマルは戦闘には向かん。万が一、主はやてを守りながら戦わねばならない時が来たならば、お前が必要になる」
「戦闘するなら、別にシグナムでもいいんじゃねーの。それに、守るならザフィーラでもいいし、逃げるならシャマルでも」
「私では能力が偏りすぎている。それは、ザフィーラとシャマルも同じだ。お前は謂わば、我等ヴォルケンリッターの重心。ミッドチルダ式がベルカ式に勝り、これだけ世に広まった理由を忘れるな」
「だったら、最初から一対一を捨てればいいじゃんか。みんなで少しずつ身を削ってさ。人数が多くて悪いことなんてないだろ」
「烏合の衆が何の役にも立たないことは、それを数えきれぬほど蹴散らしてきた我々が一番よく知っているはずだろう」
「ぐ……」

 ヴィータはこのように論破されて悔しがったが、渋々ながらも受け入れた。
 シャマルが実体具現化を、シグナムとザフィーラが全ての魔法までも失ったとき、一人だけ十全な状態でいることに引け目を感じているようだったが、それは我慢して貰うことにした。はやてのため、という言葉が何にも勝る魔法だった。もちろん乱発は控えたが、便利だったことには違いない。

 壁は大きく高かった。しかし、そのどれもを乗り越えた。
 いままでとなにも変わらない。
 立ち塞がる不安や困難なんて、いつだって鋳つぶし鍛え、勇気と矜持に作り替えてきた。
 それは、最後まで同じだった。

 そして、最後の仕上げ。
 管制人格のように、夢を通じてはやてに接触し、元から脆くしておいた鎖をなんとなく、、、、、引っ張らせた。同様に、全頁白紙の本をなんとなく、、、、、日記として使わせた。
 賽は投げられた。あとは、消え去るときまではやてを眺め続けるはずだった。しかし、それはヴィータに話した偽りの計画。
 ヴィータを残すためには、しなければならないことがある。
 が、やった後に怒られることが決まっているので、誰もやりたくはなかった。

「……騎士らしく、ここはじゃんけんで決めるぞ」シグナムが握った拳を突き出す。

「ええ……、恨みっこなしで」シャマルがキリッと目を細める。

「騎士ではなく守護獣なのだが」ザフィーラは逃げ切れなかった。

 そして、見事に一発で敗れたシグナムが、その任を請け負った。

 達人が良い剣で斬れば、斬られた者がしばらくの間生き続けることは、実際にあります。
 数秒くらいですが。
 Signum







 もう、さかのぼるページはない。





 ヴィータが保有していた記録をサポートに、闇の書にわずかに残った記録をサルベージする作業は、ようやく終わった。そして、はやては全てを知った。
 声が出なかった。
 代わりに、涙が流れている。
 頬が熱く、視界は窓越しの夕焼けに赤くにじんでいる。
 静かな水面にも似た没入感は急速に引き上げ、いまや心は荒れ狂う嵐に翻弄されるかの如く、激しく波立っていた。
 あらゆる感情が混ざり合い、けれども統合されないまま暴れていた。
 声が出ない。
 声の出し方を、はやてはすっかりと忘れてしまっていた。
 泣きながら笑い、また彼女の一部分は怒ってもいた。他にも、様々な箇所で数多の感情が生まれ、好き勝手に振る舞っていた。
 それが収まるまで、はやては動くことなく座っていた。

「ああ……」固まっていた喉が、引きつったような声を上げる。それからはやては咳き込んだ。また涙がにじむ。

 闇の書との別れから今日まで、ヴィータが残ったのは不幸中の幸いだと思っていた。
 何が不幸中の幸いか。
 生まれたときから見守ってくれていた親にも等しい人たちが、苦しみに耐え、その命と引き換えに残してくれた、訪れるべくして訪れた幸いだったのだ。
 それを知らずに、今日まで生きてきた。
 歳を取り、幾度も読み返す内に気がついた日記の違和感の正体は、何と得難い愛であったことか。
 ヴィータは仲間たちに置いていかれたと気づいた瞬間に、全てを理解したのだろう。しかし、きっとあの頃のはやてでは、真実の重みに耐えられなかった。だから、今日まで黙って傍にいてくれた。
 そのヴィータは、サルベージには立ち会わなかった。はやてが、これは自分自身の仕事であると言ったからだ。その時のヴィータは静かに目を瞑り、「そっか」と一言、頷いた。全てを知った後のはやてには、一人でものを考える時間が必要だと思ったのかもしれない。それができるだけの心の強さを手に入れたのだと思ってくれたのかもしれない。
 だから、はやては落ち着いた心で、もう一度泣くことができた。
 今度は声を上げて泣いた。
 それからどれほどの時間、泣き続けたのか。窓の外は、すっかり日が暮れて暗くなっていた。
 昼前に出かけていったヴィータは、まだ帰ってこない。
 はやてはカーテンを閉め、時計を見る。
 今日は、二人で夕食を食べに出る予定だった。予約してある時刻まではまだあるが、移動の時間も考えなければならない。それに、少し二人で話をしたい。
 はやてはヴィータのデバイスに幾度か通信を試みた。しかし、応答がない。
 なにか、嫌な予感がした。





 ヴィータは舌打ちした。どうにも攻めあぐねていた。かといって、逃げられる状況でもない。この場で相手を潰すことが、ヴィータに課せられた使命だった。

「この……ッ!」

 張られた弾幕をシールドで弾き、デバイスで打ち、敵に接近しようと試みる。しかし、それは叶わない。相手は常に移動を続け、決して立ち止まることがない。逃げる猫と追う犬とでは、猫の方が選択肢が多い。猫は自由、犬は不自由。空戦ともなればそれは顕著で、ヴィータは飛んでくる射撃だけでなく、空間に設置された多数の罠にも気を払わなければならなかった。
 敵の実力は非常に高い。個人での戦闘に秀でたベルカの騎士相手に、それも古代ベルカの戦場を生き抜いたヴィータ相手に、一撃も許すことなく戦闘を続行しているのだ。しかも、それだけではなく、あの敵はデバイスを使用せずに精度の高い魔法を乱射している。これは驚愕に値する。

「この、バケモノめ」四方八方から発射される鋭い射撃を回避しながら、ヴィータは毒づいた。大きく身をひねる回避運動に乗せてデバイスを振るう。「これでも―――」遠心力を蓄えたハンマーヘッドが、鉄球を強かに打ち据えた。「喰らえッ!」

 空気を切り裂き飛翔する弾丸は四つ。そのどれもが別種の軌道を描き、半数が敵の視界を離脱、退路を断ちつつ奇襲を狙う。残った二つはそれぞれ違う速度で敵へと迫り、陽動と同時に敵の移動を制限する。更にヴィータ自身、誘導弾の制御を行いながらも一直線に敵へと猛進、敵正面の道を塞ぐ。当然のようにカートリッジはロード済み、見るからに凶悪なラケーテンフォルムが更に加速を促した。
 そのどれもが陽動でありながら本命だった。
 一つでも直撃すれば身体を打ち砕いて有り余る威力を秘めた恐るべき砲弾たちは、赤い尾を引きつつ敵へと肉薄する。
 敵は、全ての射撃を回避する代わりに、愚かにもヴィータと相対することを選んだらしい。猛然と迫るこちらへと進路を取る。それは愚かだが正しい選択だった。ヴィータを避けて射撃を受け止めれば、その一瞬の硬直を確実に突く用意があった。
 目が合う。
 ヴィータは獰猛に笑った。
 覚悟しろ、と。
 敵。
 女。
 双子の使い魔の片割れ。
 リーゼアリア。
 呼び方なんてどうでもいい。ただ、この振りかぶられた鉄槌の餌食となるためだけの存在だった。
 姉だか妹だか知らないが、先ほど叩き潰してやったあいつと同じ道を辿れ。
 鈍く輝く金属の柄がしなり、必殺の一撃を運ぶ。
 ここに来て、グラーフアイゼンが更に火を噴き威力を後押しする。誘導弾の制御を捨て、全力をつぎ込んだ結果である。
 敵は弾いて逸らすシールド系の防御を展開し、攻撃を受け流す体勢に入った。狙ったとおりの展開に、ヴィータの笑みは濃くなる。ラケーテンハンマーの尖った先端部は、一度相手を捉えたら楔のように食い込んで逃がさないための形状でもある。
 もらった。
 奥歯を強く食いしばり、刹那の後に来る衝撃に備える。
 その用意が、ヴィータを救った。
 まるで予期せぬ方向からの、凄まじい強撃。
 吹き飛ばされたと認識してから、遅れて痛みが駆け抜ける。騎士甲冑越しにも関わらずこの威力。平時に貰っていれば、間違いなく上半身と下半身が泣き別れする。避けられる奴がいても、耐えられる奴はいないだろう。
 その正体は、蹴りだった。
 頭が地に足が天に向いたその状態で、ヴィータは見た。
 倒したはずのリーゼロッテが、振り抜いた足をゆるりと戻すその様を。
 ちくしょう。
 倒したとき、ほんのわずかに軽かったのは、やはり気のせいではなかったか。それに、いま確信した。思わず食いついた隙は、作られたものだった。食いついた以上、徹底的に追撃をかけるべきだったのだ。しかし、それも後衛を担当していたリーゼアリアに妨げられた。あの猛烈な射撃の雨に背を晒してまで追撃をかける可能性と、仮に倒しきれなかったとしても、前衛が復帰するまでに後衛を落とす可能性とを秤にかけて、後者を取ったのだ。これも、相手が思ったとおりの展開だったのだろう。だとすれば、リーゼロッテはかなり早い段階で復帰して、息を潜めてタイミングを計っていたということになる。クソ猫め。
 心の中で呪いの言葉を吐きながら、ヴィータは意識を失った。

「ごめん、はやて」





「はやて……ッ!?」

 ヴィータが目を覚ますと、そこは医務室だった。視界の端でにょろにょろ動く尻尾が目に入って、それが目障りで、あまりに目障りなのでそちらを向くと、予想通りニヤニヤ笑うロッテがいた。思わず胸元のグラーフアイゼンに手が伸びるが、ヴィータはそこで大事なことを思い出す。

「い、いま何時! はやてから連絡は!」

 ロッテが告げた時刻は、ちょっと絶望的なものだった。
 ヴィータは真っ青になった。よりにもよって、今日この日の約束に、白いベッドの上でのんきに寝過ごしてしまうとは。

「まあ、ちゃんと事情説明しといたし」猫が言った。「お宅のちっこいのは油断した挙げ句に目を回して気絶してるので、お届けが遅れますがいかがいたしましょ? あー、こんな大事な日に寝こけてる子なんか知らへんので、ゆっくり寝かせといてあげてください。了解いたしました~」

「うああああああ」ヴィータは頭を抱えた。

 まずい。これはまずいぞ。
 何を隠そう、今日ははやての誕生日。誕生日といえば、誕生日であって、つまり誕生日なのである。一年に一度しかない誕生日。八神はやての生まれた日。
 今日は家族二人で、目が飛び出るほどいい店に夕食を食べに行く予定だったのだ。そこで、たぶん、昔のことも話題に出るはずだった。闇の書が日記帳だった、あの幸せな時代の話が。
 それが、見事に台無しになった。
 下手に戦闘でやる気を出したせいだった。もっと適当にやって、適当に負けておけばよかった。

「まあ、そう言いなさんな。連中、それはもう震え上がって、驕り高ぶり全部まとめて木っ端微塵」ぎゅっと握った手を、花火みたいに勢いよく開くロッテ。「明日からは奴隷のようにあくせくと訓練に励むよ、あれは。効果は抜群だったし、次も頼んでいい?」可愛らしく小首を傾げるのが実に憎たらしい。

「うるせー黙れこのバカ猫」ヴィータは着替えながら文句を言う。

 実はあれ、某エリート部隊の新人教育の一環だった。訓練校を良い成績で出たばかりの、何も知らないまっさらな、けれども自信とやる気にだけは満ち溢れた可愛い可愛い坊やたちに、こんな犯罪者もいるかもしれませんからよく見ておいてね、今日のテーマは突撃型のいなし方です、と見学させていた。結果はロッテの言ったとおり。哀れな、しかしきっと長く生き残るであろう新人たち数ダースのできあがりである。
 着替え終わったヴィータは、急いで部屋を出ようとする。その背中に、声がかけられた。
 首だけで振り向くヴィータに向かって、なにかが飛んでくる。
 封筒だった。

「お父様から。二人で楽しんでらっしゃいな」ひらひら手を振るロッテ。もうこちらを向いていない。

 中身は船旅のチケットだった。





 ヴィータは格好いいところを見せようとして大失敗、目をグルグル回してベッドの上で寝ているらしい。ロッテからの報告で、はやてはそれはそれは心配した。しかし、何の異常もなく、至って健康、失神もやがて睡眠に切り替わり、いまはただ寝ているだけだというので、ならばしばらく寝かせておいてくれと頼んで通信を切った。
 それが、もう三時間前。
 嫌な予感はしっかり的中、予約の時刻はいまや過去。しっかりキャンセル済みだ。店の丁寧な対応に、電話越しだというのに思わず頭をペコペコ下げてしまった。
 しかし、ロッテから、代わりとお詫び、それに誕生日プレゼントとして豪華な船旅のチケットをヴィータに持たせると聞いて、はやては喜んだ。送り主がグレアムおじさんであったという点もいい。
 昔からお世話になっていたグレアムおじさんは、管理局の元お偉いさんの一人だった。職業は紳士ではなかったのだ。そのことを知ったのは、闇の書が停止してからしばらくのこと。ヴィータに頼み込んで、魔法について学び始めてからのことだった。
 魔法を学んだのは、専らヴォルケンリッターのためである。
 今日行った、記録のサルベージもその成果の一つ。
 八神はやてという命に溶け込んだみんなが、どのように生き、どのような経験をしたのか。それを知るために、ベルカにまつわる地を訪れもした。その過程で、聖王教会とも接触したし、闇の書事件で家族を失った人とも触れ合った。それを支援してくれたのが、グレアムおじさんだった。
 グレアムおじさんは、元はといえば、闇の書ごとはやてを凍結封印するつもりだったらしい。海鳴での生活を支援してくれていたのも、その一環なのだという。しかし、その前に、ヴォルケンリッターの計画が全てを終わらせ、結果、彼は何もしなかった。だというのに、彼は律儀にもそれについて謝った。はやてが逆に恐縮したぐらいで、もちろん全て許した。本当は、許すも許さないもなかったのだが、許した方が良い結果になりそうだったので、そうしただけの話。ちなみに、グレアムおじさんは、それと同時に管理局を辞職した。
 それからは、グレアムおじさんやその使い魔たちとの親しい付き合いが始まった。最初の頃、ヴィータやリーゼたちがピリピリしていたが、それもやがてなくなって、いまに至る。

「旅行、旅行、フ・ナ・タ・ビ~」はやては自分の脚でステップを刻み、くるくる回る。回っている内に小指を角にぶつけ、しばらく涙目でうずくまり、反省して椅子に座った。

 白いテーブルの上には、古めかしい装丁の分厚い本があった。
 それは、はやての宝物である。
 闇の書。本来は夜天の魔導書という名前の、素晴らしい魔導書だったらしい。
 でも、いまは使い終わった日記帳。
 表紙をそっと撫でる。
 懐かしい手触りがした。
 ふと思い立って窓に近より、カーテンの隙間から外を見る。
 そこには吸い込まれそうな綺麗な夜空。
 星と月が浮かぶ夜天には、雲一つ存在しない。
 けれども、はやては知っている。
 雲は、ただ少しだけ姿を変えているだけなのだ。いつでも、すぐ傍にいる。
 はやてはカーテンを閉め、椅子に戻る。そして、日記帳を手に取った。
 ヴィータが帰ってくるまで、闇の書を読み返そう。

 古い日記帳を開くと、
 そこには、幼い少女が大切な家族に囲まれて幸せそうに笑う光景が広がっていた。



Ende.









~・~・~・~・~・~・~・~・ 
 じゃぷにか闇の日記帳はこれにておしまいです。
 まずは、読んでくださった方、ご感想をくださった方に感謝を。
 暇つぶしにでもなれたならば、これ以上の幸いはありません。
 あとリインフォース好きな方、ごめんなさい。出番なんざありませんでしたが、きっと彼女もはやてが好きだったはず。

 それにしても、最初はチラ裏の一発ネタのつもりだったのに、どうしてこんなことになったのか。
 再構成ということなので、とりあえず初期条件、ヴォルケンリッターの覚醒の時期だけ早めてみたのですが、
 そうして書いていて思ったのは、原作が如何に奇跡的だったか、ということに尽きます。


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